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紀元前551年
紀元前551年(きげんぜん551ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元203年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前551年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前551年(きげんぜん551ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元203年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前551年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|570}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|560}} | 10年紀= {{紀元前/年代|550}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|540}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|530}} | 3年前= {{紀元前/年|554}} | 2年前= {{紀元前/年|553}} | 1年前= {{紀元前/年|552}} | 1年後= {{紀元前/年|550}} | 2年後= {{紀元前/年|549}} | 3年後= {{紀元前/年|548}} |}} '''紀元前551年'''(きげんぜん551ねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降の[[古代ローマ]]においては、[[ローマ建国紀元]]203年として知られていた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前551年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚戌]] * [[日本]] ** [[皇紀]]110年 ** [[綏靖天皇]]31年 * [[中国]] ** [[周]] - [[霊王 (周)|霊王]]21年 ** [[魯]] - [[襄公 (魯)|襄公]]22年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[荘公光|荘公]]3年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[平公 (晋)|平公]]7年 ** [[秦]] - [[景公 (秦)|景公]]26年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[康王 (楚)|康王]]9年 ** [[宋 (春秋)|宋]] - [[平公 (宋)|平公]]25年 ** [[衛]] - [[殤公 (衛)|殤公]]8年 ** [[陳 (春秋)|陳]] - [[哀公 (陳)|哀公]]18年 ** [[蔡]] - [[景侯 (蔡)|景侯]]41年 ** [[曹 (春秋)|曹]] - [[武公 (曹)|武公]]4年 ** [[鄭]] - [[簡公 (鄭)|簡公]]15年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (春秋燕)|文公]]4年 ** [[呉 (春秋)|呉]] - [[諸樊]]10年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1783年 * [[ユダヤ暦]] : 3210年 - 3211年 == できごと == === 中国 === * [[鄭]]の[[子産]]が[[晋 (春秋)|晋]]に赴いた。 * 晋の[[欒盈]]が[[楚 (春秋)|楚]]から[[斉 (春秋)|斉]]に移った。 * 晋の[[平公 (晋)|平公]]・斉の[[荘公光|荘公]]・[[魯]]の[[襄公 (魯)|襄公]]・[[宋 (春秋)|宋]]の[[平公 (宋)|平公]]・[[衛]]の[[殤公 (衛)|殤公]]・鄭の[[簡公 (鄭)|簡公]]・[[曹 (春秋)|曹]]の[[武公 (曹)|武公]]・[[邾]]の[[悼公 (チュウ)|悼公]]らが沙随で会合した。 * 楚の[[康王 (楚)|康王]]が令尹の子南(公子追舒)を殺害し、観起を車裂に処した。 * 楚で蔿子馮が令尹に、公子齮が司馬に、[[屈建]]が莫敖に任じられた。 == 誕生 == *[[孔子]]の生年月日を紀元前551年9月28日(新暦換算)とする説がある。[[孔子#出自]]を参照。 == 死去 == * [[公孫黒肱]] - [[鄭]]の卿 == 脚注 == {{Reflist}} {{デフォルトソート:きけんせん551ねん}} [[Category:紀元前551年|*]]
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紀元前479年
紀元前479年(きげんぜん479ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ウィブラヌスとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元275年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前479年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前479年(きげんぜん479ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ウィブラヌスとルティルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元275年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前479年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|490}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|480}} | 10年紀= {{紀元前/年代|470}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|460}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|450}} | 3年前= {{紀元前/年|482}} | 2年前= {{紀元前/年|481}} | 1年前= {{紀元前/年|480}} | 1年後= {{紀元前/年|478}} | 2年後= {{紀元前/年|477}} | 3年後= {{紀元前/年|476}} |}} [[File:Persian invasion.png|thumb|紀元前480年から紀元前479年にかけてのペルシア勢のギリシア侵攻]] '''紀元前479年'''(きげんぜん479ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、「ウィブラヌスとルティルスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]275年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前479年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[壬戌]] * [[日本]] ** [[皇紀]]182年 ** [[懿徳天皇]]32年 * [[中国]] ** [[周]] - [[敬王]]41年 ** [[魯]] - [[哀公 (魯)|哀公]]16年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[平公 (斉)|平公]]2年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[定公 (晋)|定公]]33年 ** [[秦]] - [[悼公 (秦)|悼公]]12年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[恵王 (楚)|恵王]]10年 ** [[宋 (春秋)|宋]] - [[景公 (宋)|景公]]38年 ** [[衛]] - [[荘公蒯聵|荘公]]2年 ** [[陳 (春秋)|陳]] - [[湣公 (陳)|湣公]]23年 ** [[蔡]] - [[成侯 (蔡)|成侯]]12年 ** [[鄭]] - [[声公 (鄭)|声公]]22年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[孝公 (燕)|孝公]]14年 ** [[呉 (春秋)|呉]] - [[夫差]]17年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1855年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 66年 * [[ユダヤ暦]] : 3282年 - 3283年 {{Clear}} == できごと == === ギリシア === * [[テッサリア]]に拠点を置いた[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の指揮官[[マルドニオス]]は、{{仮リンク|アムピロキコ・アルゴス|en|Amphilochian Argos}}と西[[アルカディア]]の支持を取り付けた。マルドニオスは[[アテナイ]]の制圧を図ったが、失敗した。 * マルドニオスは、再度アテナイを攻め、アテナイ市民たちは退却を余儀なくされ、町は破壊された。ペルシア軍に対抗し、アテナイを支援するために、[[スパルタ]]軍が北上した。 * [[8月27日]] ** [[ボイオーティア]]で戦われた[[プラタイアの戦い]]において、スパルタの先王[[レオニダス1世]]の甥である[[パウサニアス (将軍)|パウサニアス]]が率いたギリシア軍は、マルドニオス将軍が率いるペルシア軍の[[古代ギリシア|ギリシア]]侵攻に引導をわたした。アテナイ勢を率いていたのは、故国に戻ってきた[[アリステイデス (将軍)|アリステイデス]]であった。マルドニオスは戦死し、ギリシア側は莫大な戦利品を得た。その後、程なくして[[テーバイ]]が陥落し、パウサニアスはペルシアに協力していたテーバイ人たちを処刑した。 <!--以下の、まるで大海戦が行なわれたかのような記述は内容に疑問がある。「[[ミュカレの戦い]]」を参照。とりあえず訳出した上でコメントアウト。: ** 一方、海上では、[[小アジア]]地方の[[リュディア]]の沖合で戦われた[[ミュカレの戦い]]において、ペルシアの艦隊は、スパルタの[[レオテュキデス (スパルタ王)|レオテュキデス]]、アテナイの[[クサンティッポス]] ([[:en:Xanthippus|Xanthippus]]) に率いられたギリシア艦隊に敗れた。 --> *[[ポティダイア]]を津波が襲った。 === 中国 === * [[衛]]の[[荘公蒯聵|荘公]]が戚から衛に入国した。[[出公 (衛)|出公]]は[[魯]]に亡命した。 * 衛の[[孔カイ|孔悝]]が[[宋 (春秋)|宋]]に亡命した。 * [[楚 (春秋)|楚]]で[[白公勝]]の乱が起こった。白公勝は[[子閭]]を楚王に立てようとしたが、子閭はこれを固辞して殺された。[[沈諸梁]](葉公子高)が反乱を鎮圧し、白公勝は自殺した。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前479年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:紀元前479年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[マルドニオス]] - [[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の[[将軍]]([[8月27日]]に[[プラタイアの戦い]]で戦死) * [[孔子]] - [[春秋時代]]の[[哲学者]]([[紀元前551年]]生) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|479 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=5|年代=400|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん479ねん}} [[Category:紀元前479年|*]]
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電気抵抗
電気抵抗(でんきていこう、レジスタンス、英: electrical resistance)は、電流の流れにくさのことであり、単に抵抗ともいう。電気抵抗の国際単位系 (SI) における単位はオーム(記号:Ω)である。また、その逆数はコンダクタンス(英: electrical conductance)と呼ばれ、電流の流れやすさを表す。コンダクタンスのSIにおける単位はジーメンス(記号: S)である。 超伝導体以外の全ての物質は、電流を流した時に熱が発生し、電気エネルギーの一部が失われる。これは、非常に電気を流しやすい金属であっても例外ではない。導線の電気抵抗は、太いほど小さくなり、長いほど大きくなる。材質の違いも電気抵抗の大きさに影響を与える。一般に、金属は温度が高くなるほどに電気抵抗率が高くなり、半導体は温度が高くなるほどに電気抵抗率が低くなり、電解質はイオン濃度が大きく・イオン移動度が大きくなるほど抵抗値が低くなる(電気伝導を参照)。 物体の電気抵抗 R は、それに印加される電圧 V とそこを流れる電流 I の比で表される。 多くの物質にとって、与えられた温度での電気抵抗 R は一定である。その物質を流れる電流や電位差(電圧)で抵抗値が変化することはない。そのような材料をオーム性材料 (英: Ohmic material) と呼ぶ。オーム性材料でできた物体の一定の抵抗値の定義をオームの法則(英: Ohm's law)と呼ぶ。 (オームの法則に従わない)非線形の伝導体では、電流や電圧の変化にともなってその比が変化する。そのときのI–V曲線を "chordal resistance" あるいは "static resistance" と呼ぶこともある。 金属における電気抵抗は、主に伝導電子とフォノンの相互作用によって生じる。金属の温度上昇によって電気抵抗も上昇するのは、温度上昇によってフォノンが増加するためである。ほかに結晶の格子欠陥も電気抵抗の原因の1つだが、純粋な金属ではその影響は無視できる程度である。 絶縁体や半導体においては、フェルミ準位がバンドギャップ(禁制帯)に存在する(バンド理論参照)ため、価電子帯と伝導帯が近接していない。そのため、価電子にエネルギーを供給し、伝導帯までポテンシャルを引き上げるためには、金属と比較して大きなエネルギーが必要であり、一連の相互作用において、より多くのエネルギーが熱に変換される。 不純物を加えた半導体では、ドーパント(不純物)の原子を増やすことで、伝導帯に自由電子を供給したり、価電子帯に正孔を生じさせることで電荷担体密度が増大していくため、電気抵抗が小さくなっていく。不純物を大量に含ませた半導体は、電気的に金属に近づいていく。高温になると、熱によって励起された電荷担体が支配的になり、ドーパントの量はあまり関係なくなって、温度上昇に伴って指数関数的に電気抵抗が低下していく。 電解液では、電流を担うのは電子や正孔ではなく、イオンである。イオン性液体の電気抵抗率は濃度によって大きく変化する。蒸留水はほぼ不導体だが、塩水は電気伝導性が高い。細胞膜において電流を担うのはイオン化した塩である。細胞膜には特定のイオンを選択的に通す小さな穴(イオンチャネル)があり、それによって細胞膜の電気抵抗が決まる。 比例定数σ、その場所の電界をE、電流密度を j とすると、 となる。σは物質定数でこれを導電率(どうでんりつ)または電気伝導率(でんきでんどうりつ)という。これの逆数⁄σを電気抵抗率(でんきていこうりつ)あるいは単に抵抗率(ていこうりつ)または比抵抗(ひていこう)といい変数の文字として「ρ」を用いることもある。 電気抵抗を低く抑え電気エネルギーのロスを最小限にした金属ワイヤーなどの物体を電気伝導体と呼ぶ。電気抵抗が特定の値になるよう設計された電気エネルギーを消費する電子部品を抵抗器と呼ぶ。電気伝導体は金属など伝導性の高い材質を使っており、特に銅とアルミニウムがよく使われる。抵抗器は様々な材料を使って作られており、消費するエネルギーの量(耐えられる電圧や電流の定格)、抵抗値の精度、価格などによって異なる。 抵抗値は物体の長さが長くなると増大し、断面積が大きくなると低下する。断面積が一様な物体の電気抵抗 R とコンダクタンス G は次のように表される。 ここで、 l {\displaystyle \ell } はその物体の長さ(単位はメートル)、A は断面積(単位は平方メートル)、ρは材質によって決まる電気抵抗率(単位はオーム・メートル (Ω m))である。電気抵抗率はその材料の電流の流れ難さを示す値である。直流の場合、コンダクタンスは電気抵抗の逆数となる。 実際には導体の断面に対して電流密度は一様とは言えないが、導線の電気抵抗については上の式がよい近似となっている。 導線を交流電流が流れる場合、表皮効果によって実効的断面積が小さくなる。また導体が隣接しているところに交流電流が流れると、近接効果によって直流の場合や導体が単独の場合よりも電気抵抗が高くなる。商用電源では巨大な電流が巨大な導体を流れていることから、これらの効果は大きい。 回路に交流電流が流れる場合、それを妨げるのは電気抵抗だけでなく、電流の変化によって生じる電磁場も電流が流れるのを妨げようとする。これをリアクタンスと呼ぶ。リアクタンスと電気抵抗の影響を1つにまとめたのがインピーダンスである。 電気抵抗を測定する装置を絶縁抵抗計と呼ぶ。単純なものでは測定のためのリード線の電気抵抗が無視できなくなるため、低い電気抵抗を正確に測定できない。そのため、より正確に測定するには四端子測定法を用いる。 量子力学によれば、原子内の電子は任意のエネルギー値をとることができないとされる。電子が占めることができる固定のエネルギー準位がいくつかあり、それらの中間の状態をとることはできない。それらエネルギー準位は2つの帯、「価電子帯」と「伝導帯」に分けられ、後者の方が前者よりもエネルギーが高い。伝導帯にある電子は、電場が存在すればその物体内を自由に移動できる。 不導体と半導体では、伝導帯と価電子帯の間に禁制帯という電子が占めることができないエネルギー準位の領域がある。電流を流すには、相対的に大量のエネルギーを与えて電子にこの禁制帯を飛び越えさせる必要がある。そのため、高電圧を印加しても相対的に小さな電流しか流れない。 電流と電圧の関係が線形でない場合、I–V曲線の描く線の傾きをdifferential resistance(微分抵抗)、incremental resistance、slope resistance などと呼ぶ。すなわち、次のようになる。 線形でなければこの値は電流電圧いずれに対しても一定値にならないので、条件となる電圧か電流を指定する必要がある。 この量を「電気抵抗」と呼ぶこともあるが、上掲の定義とこちらの定義が一致するのは理想的な抵抗器などのオーム性材料だけである。例えばダイオードは、電流や電圧の変化によって電気抵抗が変化する電子部品である。また、この量を「交流抵抗(値)」と呼ぶ場合がある。考え方としてはトランジスタ等の交流増幅率と同じで、微小な交流入力信号に一定バイアスを乗せて対象デバイスに電流を流すと、(出力信号の振幅)=(指定バイアス時の交流抵抗)×(入力信号の振幅)となる。上述のリアクタンス等の意味での「交流抵抗」とは意味も趣旨も全く違う。 I–V曲線が直線でない場合、電圧または電流のある範囲では微分抵抗が負となる場合がある。これを「負性抵抗」と呼ぶが、より正確には「負性微分抵抗」(英: negative differential resistance)と呼ぶ。ただしその場合に実際の電流と電圧から電気抵抗を計算してもその値が負になるわけではない。負性抵抗を示す電子部品として、例えばトンネルダイオードがある。 微分抵抗が役立つのは、非線形な電子部品と線形な電源/負荷を小さな間隔で比較する場合のみである。例えば、ツェナーダイオードに様々な値の電流を流したときの電圧安定性の評価で必要となる。 微小信号モデル技法は非線形部品の解析によく使われ、直流の動作点(バイアスポイント)を選択して、その動作点での方程式の線形化を使用する。 常温付近では、主な金属の電気抵抗は温度上昇に比例して増大し、主な半導体の電気抵抗は逆に低下していく。電気抵抗の温度による変化量は、その材質の電気抵抗率の温度係数α を使って、次の式で計算できる。 ここで T は温度、T0 は基準温度(一般に常温)、R0 は T0 における電気抵抗、α は単位温度当たりの電気抵抗の変化率である。α は対象とする物質によって決まる定数である。ただしこの式は近似的なものであって、電気抵抗の変化は物理的には非線形であり、α が温度によって変化する。そのため α にはそれを測定したときの温度を添えるのが一般的で α15 などと表し、その温度周辺でしか使えないことを示す。 低温(デバイ温度未満)では、温度低下に伴ってフォノンによる電子散乱が少なくなるため、T に比例して金属の電気抵抗が低下していく。さらに低温になると、電気抵抗の主要因は電子同士の衝突となり、T に比例して温度低下と共に電気抵抗が低下していく。ある温度まで下がると金属内の不純物が電子散乱の主要因となり、電気抵抗はある値より低下しなくなる。マーティセンの法則(1860年代に Augustus Matthiessen が定式化。下記の式はそれを現代風にしたもの)によれば、それらの異なる振る舞いの総和によって温度と電気抵抗の関係が表されるとしている。 ここで Rimp は不純物によって決まる最低の電気抵抗で、温度によって変化しない。係数 a、b、c は金属の特性によって決まる。この法則を確かめる実験を行ったヘイケ・カメルリング・オネスは1911年、超伝導を発見することになった。 真性半導体は高温になると良導体となる。熱エネルギーによって電子が励起して伝導帯に移り、価電子帯に正孔を残す。そうした電子は自由に動けるようになり、正孔も自由に動くことができる。典型的な真性半導体の電気抵抗は温度上昇に伴って指数関数的に低下する。 不純物半導体の電気抵抗と温度の関係は遥かに複雑である。絶対零度から温度を上げていくと、ドナー原子あるいはアクセプター原子から電荷担体が離れていくため、電気抵抗は急激に低下していく。ほとんどのドナー原子やアクセプター原子が電荷担体を失うと、金属とほぼ同様の状態となるため、温度上昇に伴って若干電気抵抗が上昇しはじめる。さらに温度が上昇するとドナー/アクセプターによる電荷担体はあまり支配的ではなくなり、真性半導体と同様に熱エネルギーで励起された電子とそれによって生じた正孔が電流を担うため、電気抵抗は急激に低下する。 電解液や不導体の電気抵抗は非線形に変化し、材質によってそれぞれ異なる変化を示す。そのため一般的な式を示すことはできない。 導体の電気抵抗は温度によって変化するが、同時に歪みによっても変化する。導体に張力(物体を引き伸ばそうとする応力)をかけると、長さが延びて断面積が小さくなる歪みが生じるため、電気抵抗は高くなる。逆に圧縮すると、電気抵抗は低下する。この現象を応用して歪みを測定する「ひずみゲージ」がある。
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"text": "比例定数σ、その場所の電界をE、電流密度を j とすると、", "title": "導電率と抵抗率" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "となる。σは物質定数でこれを導電率(どうでんりつ)または電気伝導率(でんきでんどうりつ)という。これの逆数⁄σを電気抵抗率(でんきていこうりつ)あるいは単に抵抗率(ていこうりつ)または比抵抗(ひていこう)といい変数の文字として「ρ」を用いることもある。", "title": "導電率と抵抗率" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "電気抵抗を低く抑え電気エネルギーのロスを最小限にした金属ワイヤーなどの物体を電気伝導体と呼ぶ。電気抵抗が特定の値になるよう設計された電気エネルギーを消費する電子部品を抵抗器と呼ぶ。電気伝導体は金属など伝導性の高い材質を使っており、特に銅とアルミニウムがよく使われる。抵抗器は様々な材料を使って作られており、消費するエネルギーの量(耐えられる電圧や電流の定格)、抵抗値の精度、価格などによって異なる。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "抵抗値は物体の長さが長くなると増大し、断面積が大きくなると低下する。断面積が一様な物体の電気抵抗 R とコンダクタンス G は次のように表される。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ここで、 l {\\displaystyle \\ell } はその物体の長さ(単位はメートル)、A は断面積(単位は平方メートル)、ρは材質によって決まる電気抵抗率(単位はオーム・メートル (Ω m))である。電気抵抗率はその材料の電流の流れ難さを示す値である。直流の場合、コンダクタンスは電気抵抗の逆数となる。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "実際には導体の断面に対して電流密度は一様とは言えないが、導線の電気抵抗については上の式がよい近似となっている。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "導線を交流電流が流れる場合、表皮効果によって実効的断面積が小さくなる。また導体が隣接しているところに交流電流が流れると、近接効果によって直流の場合や導体が単独の場合よりも電気抵抗が高くなる。商用電源では巨大な電流が巨大な導体を流れていることから、これらの効果は大きい。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "回路に交流電流が流れる場合、それを妨げるのは電気抵抗だけでなく、電流の変化によって生じる電磁場も電流が流れるのを妨げようとする。これをリアクタンスと呼ぶ。リアクタンスと電気抵抗の影響を1つにまとめたのがインピーダンスである。", "title": "電気伝導体と抵抗器" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "電気抵抗を測定する装置を絶縁抵抗計と呼ぶ。単純なものでは測定のためのリード線の電気抵抗が無視できなくなるため、低い電気抵抗を正確に測定できない。そのため、より正確に測定するには四端子測定法を用いる。", "title": "抵抗値の測定" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "量子力学によれば、原子内の電子は任意のエネルギー値をとることができないとされる。電子が占めることができる固定のエネルギー準位がいくつかあり、それらの中間の状態をとることはできない。それらエネルギー準位は2つの帯、「価電子帯」と「伝導帯」に分けられ、後者の方が前者よりもエネルギーが高い。伝導帯にある電子は、電場が存在すればその物体内を自由に移動できる。", "title": "簡略化したバンド理論" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "不導体と半導体では、伝導帯と価電子帯の間に禁制帯という電子が占めることができないエネルギー準位の領域がある。電流を流すには、相対的に大量のエネルギーを与えて電子にこの禁制帯を飛び越えさせる必要がある。そのため、高電圧を印加しても相対的に小さな電流しか流れない。", "title": "簡略化したバンド理論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "電流と電圧の関係が線形でない場合、I–V曲線の描く線の傾きをdifferential resistance(微分抵抗)、incremental resistance、slope resistance などと呼ぶ。すなわち、次のようになる。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "線形でなければこの値は電流電圧いずれに対しても一定値にならないので、条件となる電圧か電流を指定する必要がある。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この量を「電気抵抗」と呼ぶこともあるが、上掲の定義とこちらの定義が一致するのは理想的な抵抗器などのオーム性材料だけである。例えばダイオードは、電流や電圧の変化によって電気抵抗が変化する電子部品である。また、この量を「交流抵抗(値)」と呼ぶ場合がある。考え方としてはトランジスタ等の交流増幅率と同じで、微小な交流入力信号に一定バイアスを乗せて対象デバイスに電流を流すと、(出力信号の振幅)=(指定バイアス時の交流抵抗)×(入力信号の振幅)となる。上述のリアクタンス等の意味での「交流抵抗」とは意味も趣旨も全く違う。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "I–V曲線が直線でない場合、電圧または電流のある範囲では微分抵抗が負となる場合がある。これを「負性抵抗」と呼ぶが、より正確には「負性微分抵抗」(英: negative differential resistance)と呼ぶ。ただしその場合に実際の電流と電圧から電気抵抗を計算してもその値が負になるわけではない。負性抵抗を示す電子部品として、例えばトンネルダイオードがある。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "微分抵抗が役立つのは、非線形な電子部品と線形な電源/負荷を小さな間隔で比較する場合のみである。例えば、ツェナーダイオードに様々な値の電流を流したときの電圧安定性の評価で必要となる。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "微小信号モデル技法は非線形部品の解析によく使われ、直流の動作点(バイアスポイント)を選択して、その動作点での方程式の線形化を使用する。", "title": "微分抵抗と負性抵抗" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "常温付近では、主な金属の電気抵抗は温度上昇に比例して増大し、主な半導体の電気抵抗は逆に低下していく。電気抵抗の温度による変化量は、その材質の電気抵抗率の温度係数α を使って、次の式で計算できる。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ここで T は温度、T0 は基準温度(一般に常温)、R0 は T0 における電気抵抗、α は単位温度当たりの電気抵抗の変化率である。α は対象とする物質によって決まる定数である。ただしこの式は近似的なものであって、電気抵抗の変化は物理的には非線形であり、α が温度によって変化する。そのため α にはそれを測定したときの温度を添えるのが一般的で α15 などと表し、その温度周辺でしか使えないことを示す。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "低温(デバイ温度未満)では、温度低下に伴ってフォノンによる電子散乱が少なくなるため、T に比例して金属の電気抵抗が低下していく。さらに低温になると、電気抵抗の主要因は電子同士の衝突となり、T に比例して温度低下と共に電気抵抗が低下していく。ある温度まで下がると金属内の不純物が電子散乱の主要因となり、電気抵抗はある値より低下しなくなる。マーティセンの法則(1860年代に Augustus Matthiessen が定式化。下記の式はそれを現代風にしたもの)によれば、それらの異なる振る舞いの総和によって温度と電気抵抗の関係が表されるとしている。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここで Rimp は不純物によって決まる最低の電気抵抗で、温度によって変化しない。係数 a、b、c は金属の特性によって決まる。この法則を確かめる実験を行ったヘイケ・カメルリング・オネスは1911年、超伝導を発見することになった。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "真性半導体は高温になると良導体となる。熱エネルギーによって電子が励起して伝導帯に移り、価電子帯に正孔を残す。そうした電子は自由に動けるようになり、正孔も自由に動くことができる。典型的な真性半導体の電気抵抗は温度上昇に伴って指数関数的に低下する。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "不純物半導体の電気抵抗と温度の関係は遥かに複雑である。絶対零度から温度を上げていくと、ドナー原子あるいはアクセプター原子から電荷担体が離れていくため、電気抵抗は急激に低下していく。ほとんどのドナー原子やアクセプター原子が電荷担体を失うと、金属とほぼ同様の状態となるため、温度上昇に伴って若干電気抵抗が上昇しはじめる。さらに温度が上昇するとドナー/アクセプターによる電荷担体はあまり支配的ではなくなり、真性半導体と同様に熱エネルギーで励起された電子とそれによって生じた正孔が電流を担うため、電気抵抗は急激に低下する。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "電解液や不導体の電気抵抗は非線形に変化し、材質によってそれぞれ異なる変化を示す。そのため一般的な式を示すことはできない。", "title": "電気抵抗の変化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "導体の電気抵抗は温度によって変化するが、同時に歪みによっても変化する。導体に張力(物体を引き伸ばそうとする応力)をかけると、長さが延びて断面積が小さくなる歪みが生じるため、電気抵抗は高くなる。逆に圧縮すると、電気抵抗は低下する。この現象を応用して歪みを測定する「ひずみゲージ」がある。", "title": "電気抵抗の変化" } ]
電気抵抗は、電流の流れにくさのことであり、単に抵抗ともいう。電気抵抗の国際単位系 (SI) における単位はオームである。また、その逆数はコンダクタンスと呼ばれ、電流の流れやすさを表す。コンダクタンスのSIにおける単位はジーメンスである。
{{otheruses|[[電流]]の流れにくさ|電気抵抗を得るための[[電子部品]]|抵抗器}} {{物理学}} {{物理量 | 英語 = electrical resistance | 記号 =''R'' | 次元 =[[質量|M]] [[長さ|L]] {{sup|2}} [[時間|T]] {{sup-|3}} [[電流|I]] {{sup-|2}} | 階 =スカラ | SI =[[オーム|Ω]] }} '''電気抵抗'''(でんきていこう、レジスタンス、{{lang-en-short|electrical resistance}})は、[[電流]]の流れにくさのことであり、単に'''抵抗'''ともいう。電気抵抗の[[国際単位系]] (SI) における[[単位]]は[[オーム]](記号:&Omega;)である。また、その[[逆数]]は[[コンダクタンス]]({{Lang-en-short|electrical conductance}})と呼ばれ、電流の流れやすさを表す。コンダクタンスのSIにおける単位は[[ジーメンス]](記号: S)である。 == 概要 == [[超伝導]]体以外の全ての物質は、電流を流した時に熱が発生し、電気エネルギーの一部が失われる。これは、非常に電気を流しやすい金属であっても例外ではない。導線の電気抵抗は、太いほど小さくなり、長いほど大きくなる。材質の違いも電気抵抗の大きさに影響を与える<ref>[http://www.ias.ac.in/resonance/Sept2003/pdf/Sept2003p41-48.pdf Electrical Conduction and Superconductivity]</ref>。一般に、[[金属]]は温度が高くなるほどに[[電気抵抗率]]が高くなり、[[半導体]]は温度が高くなるほどに電気抵抗率が低くなり、[[電解質]]は[[イオン]]濃度が大きく・イオン移動度が大きくなるほど抵抗値が低くなる([[電気伝導]]を参照)。 物体の電気抵抗 ''R'' は、それに印加される電圧 ''V'' とそこを流れる電流 ''I'' の比で表される。 :<math>R = {V \over I}</math> 多くの物質にとって、与えられた温度での電気抵抗 ''R'' は[[定数|一定]]である。その物質を流れる電流や電位差([[電圧]])で抵抗値が変化することはない。そのような材料をオーム性材料 ({{Lang-en-short|Ohmic material}}) と呼ぶ。オーム性材料でできた物体の一定の抵抗値の定義を'''[[オームの法則]]'''({{Lang-en-short|Ohm's law}})と呼ぶ。 (オームの法則に従わない)非線形の伝導体では、電流や電圧の変化にともなってその比が変化する。そのときの{{Ill|I–V曲線|en|Current–voltage characteristic}}を "{{Lang|en|chordal resistance}}" あるいは "{{Lang|en|static resistance}}" と呼ぶこともある<ref>{{Cite book| title = Engineering System Dynamics | author = Forbes T. Brown | publisher = CRC Press | year = 2006 | isbn = 9780849396489 | page = 43 | url = https://books.google.co.jp/books?id=UzqX4j9VZWcC&pg=PA43&dq=%22chordal+resistance%22&as_brr=3&ei=Z0x0Se2yNZHGlQSpjMyvDg&redir_esc=y&hl=ja }}</ref><ref>{{Cite book| title = Electromagnetic Compatibility Handbook | author = Kenneth L. Kaiser | publisher = CRC Press | year = 2004 | isbn = 9780849320873 | pages = 13–52 | url = https://books.google.co.jp/books?id=nZzOAsroBIEC&pg=PT1031&dq=%22static+resistance%22+%22dynamic+resistance%22+nonlinear&lr=&as_brr=3&ei=Kk50Ser1MJeOkAS9wNTwDg&redir_esc=y&hl=ja#PPT1031,M1 }}</ref>。 == 電気抵抗の原因 == === 金属の場合 === 金属における電気抵抗は、主に伝導電子と[[フォノン]]の相互作用によって生じる。金属の温度上昇によって電気抵抗も上昇するのは、温度上昇によってフォノンが増加するためである<ref>{{Cite web|和書|title=格子振動による散乱|url=https://www.px.tsukuba.ac.jp/~onoda/cmp/node52.html|website=www.px.tsukuba.ac.jp|accessdate=2021-06-28}}</ref>。ほかに[[結晶]]の格子欠陥も電気抵抗の原因の1つだが、純粋な金属ではその影響は無視できる程度である。 === 絶縁体や半導体の場合 === [[絶縁体]]や半導体においては、[[フェルミ準位]]が[[バンドギャップ]](禁制帯)に存在する([[バンド理論]]参照)ため、価電子帯と伝導帯が近接していない。そのため、価電子にエネルギーを供給し、伝導帯までポテンシャルを引き上げるためには、金属と比較して大きなエネルギーが必要であり、一連の相互作用において、より多くのエネルギーが熱に変換される。 不純物を加えた半導体では、[[ドーパント]](不純物)の原子を増やすことで、伝導帯に自由電子を供給したり、価電子帯に[[正孔]]を生じさせることで電荷担体密度が増大していくため、電気抵抗が小さくなっていく。不純物を大量に含ませた半導体は、電気的に金属に近づいていく。高温になると、熱によって励起された電荷担体が支配的になり、ドーパントの量はあまり関係なくなって、温度上昇に伴って指数関数的に電気抵抗が低下していく。 === イオン性液体/電解質の場合 === [[電解液]]では、[[電流]]を担うのは電子や[[正孔]]ではなく、[[イオン]]である。イオン性液体の電気抵抗率は濃度によって大きく変化する。蒸留水はほぼ不導体だが、塩水は電気伝導性が高い。[[細胞膜]]において電流を担うのはイオン化した塩である。細胞膜には特定のイオンを選択的に通す小さな穴([[イオンチャネル]])があり、それによって細胞膜の電気抵抗が決まる。 == 導電率と抵抗率 == 比例定数&sigma;、その場所の電界を'''''E'''''、電流密度を '''''j''''' とすると、 :<math>\boldsymbol{\mathit{j}}=\sigma\boldsymbol{\mathit{E}}</math> となる。&sigma;は[[物理定数|物質定数]]でこれを{{読み仮名_ruby不使用|'''導電率'''|どうでんりつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|conductivity}}</ref>または{{読み仮名_ruby不使用|'''[[電気伝導率]]'''|でんきでんどうりつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|electric conductivity}}</ref>という。これの逆数{{frac|1|&sigma;}}を{{読み仮名_ruby不使用|'''電気抵抗率'''|でんきていこうりつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|electric resistivity}}</ref>あるいは単に{{読み仮名_ruby不使用|'''抵抗率'''|ていこうりつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|resistivity}}</ref>または{{読み仮名_ruby不使用|'''比抵抗'''|ひていこう}}<ref group="注">{{lang-en-short|specific electrical resistance}}</ref>といい変数の文字として「&rho;」を用いることもある。 == 電気伝導体と抵抗器 == [[ファイル:Metal_film_resistor.jpg|thumb|250px|75Ωの[[抵抗器]]]] 電気抵抗を低く抑え電気エネルギーのロスを最小限にした金属ワイヤーなどの物体を[[電気伝導体]]と呼ぶ。電気抵抗が特定の値になるよう設計された電気エネルギーを消費する電子部品を[[抵抗器]]と呼ぶ。電気伝導体は金属など伝導性の高い材質を使っており、特に銅とアルミニウムがよく使われる。抵抗器は様々な材料を使って作られており、消費するエネルギーの量(耐えられる電圧や電流の定格)、抵抗値の精度、価格などによって異なる。 === 直流抵抗 === 抵抗値は物体の長さが長くなると増大し、断面積が大きくなると低下する。断面積が一様な物体の電気抵抗 ''R'' と[[コンダクタンス]] ''G'' は次のように表される。 :<math>R = \rho\frac{\ell}{A} \,</math> :<math>G=\frac{\sigma \, A}{\ell}</math> ここで、<math>\ell</math> はその物体の長さ(単位は[[メートル]])、''A'' は断面積(単位は[[平方メートル]])、&rho;は材質によって決まる[[電気抵抗率]](単位はオーム・メートル (&Omega; m))である。電気抵抗率はその材料の電流の流れ難さを示す値である。[[直流]]の場合、コンダクタンスは電気抵抗の逆数となる。 :<math>G = \frac{1}{R} </math> 実際には導体の断面に対して電流密度は一様とは言えないが、導線の電気抵抗については上の式がよい近似となっている。 === 交流抵抗 === {{See also|インピーダンス}} 導線を[[交流]]電流が流れる場合、[[表皮効果]]によって実効的断面積が小さくなる。また導体が隣接しているところに交流電流が流れると、[[近接効果]]によって直流の場合や導体が単独の場合よりも電気抵抗が高くなる。[[商用電源]]では巨大な電流が巨大な導体を流れていることから、これらの効果は大きい<ref> Fink and Beaty, ''Standard Handbook for Electrical Engineers 11th Edition'', page 17-19 </ref>。 回路に交流電流が流れる場合、それを妨げるのは電気抵抗だけでなく、電流の変化によって生じる電磁場も電流が流れるのを妨げようとする。これを[[リアクタンス]]と呼ぶ。リアクタンスと電気抵抗の影響を1つにまとめたのが[[インピーダンス]]である。 == 抵抗値の測定 == {{Main|絶縁抵抗計}} 電気抵抗を測定する装置を[[絶縁抵抗計]]と呼ぶ。単純なものでは測定のためのリード線の電気抵抗が無視できなくなるため、低い電気抵抗を正確に測定できない。そのため、より正確に測定するには[[四端子測定法]]を用いる。 == 様々な物質の電気抵抗率 == {{Main|電気抵抗率の比較}} {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !物質 !電気抵抗率 (Ω・m) |- |[[金属]] | 10<sup>−8</sup> |- |[[半導体]] | 可変 |- |[[電解液]] | 可変 |- |[[絶縁体]] | 10<sup>16</sup> |- |[[超伝導]]体 | 0 |} == 簡略化したバンド理論 == [[ファイル:BandGap-Comparison-withfermi-J.PNG|thumb|不導体では禁制帯が大きい。]] 量子力学によれば、原子内の電子は任意のエネルギー値をとることができないとされる。電子が占めることができる固定のエネルギー準位がいくつかあり、それらの中間の状態をとることはできない。それらエネルギー準位は2つの帯、「価電子帯」と「伝導帯」に分けられ、後者の方が前者よりもエネルギーが高い。伝導帯にある電子は、電場が存在すればその物体内を自由に移動できる。 不導体と半導体では、伝導帯と価電子帯の間に禁制帯という電子が占めることができないエネルギー準位の領域がある。電流を流すには、相対的に大量のエネルギーを与えて電子にこの禁制帯を飛び越えさせる必要がある。そのため、高電圧を印加しても相対的に小さな電流しか流れない。 == 微分抵抗と負性抵抗 == {{Main|負性抵抗}} 電流と電圧の関係が線形でない場合、{{Ill|I–V曲線|en|Current–voltage characteristic}}の描く線の傾きを{{En|''differential resistance''}}(微分抵抗)、{{Lang|en|''incremental resistance''}}、{{Lang|en|''slope resistance''}} などと呼ぶ。すなわち、次のようになる。 :<math>R = \frac {\mathrm{d}V} {\mathrm{d}I} \,</math> 線形でなければこの値は電流電圧いずれに対しても一定値にならないので、条件となる電圧か電流を指定する必要がある。 この量を「電気抵抗」と呼ぶこともあるが、上掲の定義とこちらの定義が一致するのは理想的な抵抗器などのオーム性材料だけである。例えば[[ダイオード]]は、電流や電圧の変化によって電気抵抗が変化する電子部品である。また、この量を「交流抵抗(値)」と呼ぶ場合がある。考え方としてはトランジスタ等の交流増幅率と同じで、微小な交流入力信号に一定[[バイアス (電子工学)|バイアス]]を乗せて対象デバイスに電流を流すと、(出力信号の振幅)=(指定バイアス時の交流抵抗)×(入力信号の振幅)となる。上述のリアクタンス等の意味での「交流抵抗」とは意味も趣旨も全く違う。 I–V曲線が直線でない場合、電圧または電流のある範囲では微分抵抗が負となる場合がある。これを「[[負性抵抗]]」と呼ぶが、より正確には「負性微分抵抗」({{Lang-en-short|negative differential resistance}})と呼ぶ。ただしその場合に実際の電流と電圧から電気抵抗を計算してもその値が負になるわけではない。負性抵抗を示す電子部品として、例えば[[トンネルダイオード]]がある。 微分抵抗が役立つのは、非線形な電子部品と線形な電源/負荷を小さな間隔で比較する場合のみである。例えば、[[ツェナーダイオード]]に様々な値の電流を流したときの電圧安定性の評価で必要となる。 [[微小信号モデル]]技法は非線形部品の解析によく使われ、直流の動作点([[バイアスポイント]])を選択して、その動作点での方程式の線形化を使用する。 == 電気抵抗の変化 == === 温度による電気抵抗の変化 === 常温付近では、主な金属の電気抵抗は[[温度]]上昇に比例して増大し、主な半導体の電気抵抗は逆に低下していく。電気抵抗の温度による変化量は、その材質の[[電気抵抗率]]の温度係数''α'' を使って、次の式で計算できる。 : <math>R(T) = R_0 [1+\alpha (T - T_0)]\,\!</math> ここで ''T'' は温度、''T''<sub>0</sub> は基準温度(一般に常温)、''R''<sub>0</sub> は ''T''<sub>0</sub> における電気抵抗、''α'' は単位温度当たりの電気抵抗の変化率である。''α'' は対象とする物質によって決まる定数である。ただしこの式は近似的なものであって、電気抵抗の変化は物理的には非線形であり、''α'' が温度によって変化する。そのため ''α'' にはそれを測定したときの温度を添えるのが一般的で ''α''<sub>15</sub> などと表し、その温度周辺でしか使えないことを示す<ref>Ward, MR, ''Electrical Engineering Science'', pp36–40, McGraw-Hill, 1971.</ref>。 低温([[デバイ模型|デバイ温度]]未満)では、温度低下に伴って[[フォノン]]による電子散乱が少なくなるため、''T''<sup>5</sup> に比例して金属の電気抵抗が低下していく。さらに低温になると、電気抵抗の主要因は電子同士の衝突となり、''T''<sup>2</sup> に比例して温度低下と共に電気抵抗が低下していく。ある温度まで下がると金属内の不純物が電子散乱の主要因となり、電気抵抗はある値より低下しなくなる。マーティセンの法則(1860年代に [[:en:Augustus Matthiessen|Augustus Matthiessen]] が定式化。下記の式はそれを現代風にしたもの)によれば<ref>A. Matthiessen, Rep. Brit. Ass. 32, 144 (1862)</ref><ref>A. Matthiessen, Progg. Anallen, 122, 47 (1864)</ref>、それらの異なる振る舞いの総和によって温度と電気抵抗の関係が表されるとしている。 :<math>R = R_\text{imp} + a T^2 + b T^5 + cT \,</math> ここで ''R''<sub>imp</sub> は不純物によって決まる最低の電気抵抗で、温度によって変化しない。係数 ''a''、''b''、''c'' は金属の特性によって決まる。この法則を確かめる実験を行った[[ヘイケ・カメルリング・オネス]]は1911年、[[超伝導]]を発見することになった。 [[真性半導体]]は高温になると良導体となる。熱エネルギーによって電子が励起して[[伝導帯]]に移り、[[価電子帯]]に[[正孔]]を残す。そうした電子は自由に動けるようになり、正孔も自由に動くことができる。典型的な[[真性半導体|真性]][[半導体]]の電気抵抗は温度上昇に伴って[[指数関数的減衰|指数関数的に低下]]する。 :<math>R= R_0 e^{-aT}\,</math> [[不純物半導体]]の電気抵抗と温度の関係は遥かに複雑である。絶対零度から温度を上げていくと、ドナー原子あるいはアクセプター原子から電荷担体が離れていくため、電気抵抗は急激に低下していく。ほとんどのドナー原子やアクセプター原子が電荷担体を失うと、金属とほぼ同様の状態となるため、温度上昇に伴って若干電気抵抗が上昇しはじめる。さらに温度が上昇するとドナー/アクセプターによる電荷担体はあまり支配的ではなくなり、真性半導体と同様に熱エネルギーで励起された電子とそれによって生じた正孔が電流を担うため、電気抵抗は急激に低下する<ref>Seymour J, ''Physical Electronics'', chapter 2, Pitman, 1972</ref>。 電解液や不導体の電気抵抗は非線形に変化し、材質によってそれぞれ異なる変化を示す。そのため一般的な式を示すことはできない。 === 歪みによる電気抵抗の変化 === 導体の電気抵抗は温度によって変化するが、同時に歪みによっても変化する。導体に[[張力]](物体を引き伸ばそうとする[[応力]])をかけると、長さが延びて断面積が小さくなる歪みが生じるため、電気抵抗は高くなる。逆に圧縮すると、電気抵抗は低下する。この現象を応用して歪みを測定する「[[ひずみゲージ]]」がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[電気抵抗率]] - [[電気抵抗率の比較]] * [[電気抵抗の測定]] * [[オームの法則]] * [[電圧降下]] * [[超伝導]] * [[内部抵抗]] * [[抵抗器]] * [[直列回路と並列回路]] * [[磁気抵抗]] * [[接触抵抗]] * [[分圧回路]] * [[シート抵抗]] * [[量子ホール効果]] * [[表皮効果]] * [[近藤効果]] * [[インピーダンス]] ==外部リンク== * [http://www.cvel.clemson.edu/emc/calculators/Resistance_Calculator/index.html Clemson Vehicular Electronics Laboratory: Resistance Calculator] * [http://www.beyondttl.com/calculator-res.php Calculate wire and trace resistance and voltage drop] {{イミタンス}} {{電磁気学}} {{電気電力}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:てんきていこう}} [[Category:物質の性質]] [[Category:電磁気学]] [[Category:電気理論]] [[Category:電気回路]] [[Category:物理量]] [[Category:無線工学]]
2003-09-07T07:56:02Z
2023-12-04T14:31:44Z
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15,547
1517年
1517年(1517 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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{{年代ナビ|1517}} {{year-definition|1517}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永正]]14年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2177年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]12年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3850年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光紹]]2年 *** [[陳㫒]] : [[宣和 (陳昇)|宣和]]2年? * [[仏滅紀元]] : 2059年 - 2060年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 922年 - 923年 * [[ユダヤ暦]] : 5277年 - 5278年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1517|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[5月1日]] - ロンドンにて暴動発生(魔のメイ・デー事件){{要出典|date=2021-03}} * [[10月31日]] - [[マルティン・ルター]]が[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]の聖堂扉に『[[95か条の論題]]』を貼り出す{{Sfn|クリスチャンソン|2018|p=50|ps=「マルティン・ルターの95ヶ条の論題」}}([[宗教改革]]運動の発端){{要出典|date=2021-03}}。 * [[オスマン帝国]]の[[セリム1世]]が[[マムルーク朝]]を滅ぼす。 * [[ポルトガル]]が[[明]]と通商を開く。 == 誕生 == {{see also|Category:1517年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月18日]]([[永正]]14年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[正親町天皇]]、第106代[[天皇]](+ [[1593年]]) == 死去 == {{see also|Category:1517年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[フランチェスコ・フランチャ]]、[[画家]](* [[1450年]]頃) * [[10月31日]] - [[フラ・バルトロメオ]]、画家(* [[1472年]]) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author={{仮リンク|スコット・クリスチャンソン|en|Scott Christianson}} |year=2018 |title=図説 世界を変えた100の文書 |publisher=創元社 |isbn=978-4-422-21530-3 |ref={{Sfnref|クリスチャンソン|2018}}}}<!-- 2018年6月20日第1版第1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1517}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1517ねん}} [[Category:1517年|*]]
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足利将軍一覧
足利将軍一覧(あしかがしょうぐん いちらん) では、室町幕府(足利幕府)の主であった、征夷大将軍に任ぜられたものを扱う。 初期は鎌倉殿と呼ばれ、3代将軍足利義満が室町第に移って以降は室町殿とも呼ばれる。義満は太政大臣・源氏長者に上り、以降の将軍も高い官位と格式を誇った。しかし義満と、子の6代将軍となった足利義教を除いて将軍権力は不安定であり、将軍襲撃や反乱・戦乱等の動揺が絶えなかった。初代将軍足利尊氏と10代将軍足利義材は、将軍職を追われた後に将軍職に復帰している。
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足利将軍一覧 では、室町幕府(足利幕府)の主であった、征夷大将軍に任ぜられたものを扱う。
'''足利将軍一覧'''(あしかがしょうぐん いちらん) では、[[室町幕府|室町幕府(足利幕府)]]の主であった、[[征夷大将軍]]に任ぜられたものを扱う。 == 概要 == 初期は[[鎌倉殿]]と呼ばれ、3代将軍[[足利義満]]が[[室町第]]に移って以降は[[室町殿]]とも呼ばれる。義満は[[太政大臣]]・[[源氏長者]]に上り、以降の将軍も高い官位と格式を誇った。しかし義満と、子の6代将軍となった[[足利義教]]を除いて将軍権力は不安定であり、将軍襲撃や反乱・戦乱等の動揺が絶えなかった。初代将軍[[足利尊氏]]と10代将軍[[足利義稙|足利義材]]は、将軍職を追われた後に将軍職に復帰している。 == 一覧 == * [[氏名]]、[[院号]]、[[墓所]]は[[50音順]]ソート * [[官位]]は位の高い順にソート {| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; text-align:center; font-size:95%; margin:10px 0px;" |-style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" ! style="padding-right:17px" | 代 ! 氏名 ! class="unsortable" | 肖像 ! style="padding-right:17px" | 院号 ! 官位 ! 在職 ! 期間 ! class="unsortable" | 父親 ! style="padding-right:17px" | {{Nowrap|享年}} ! 墓所 |- !{{Display none|0}}1 |<small>あしかが たかうじ</small><br />[[足利尊氏]]<br /><small>(初め高氏)</small> |[[ファイル:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|130px]] |{{Display none|とうしいん/}}[[等持院]] |{{Display none|02-00/}}[[正二位]]<br />[[大納言|権大納言]] |{{Display none|1338-}}[[建武 (日本)|建武]]5年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]] - [[延文]]3年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]<br />([[1338年]][[9月24日]] - [[1358年]][[6月7日]]) |19年 {{Nowrap|8か月}} <ref group="注釈">[[観応の擾乱|正平一統]]後の将軍解任から、[[後光厳天皇]]即位に伴う[[北朝 (日本)|北朝]]の公武官位の復旧までの、数ヵ月の失職期間を含む。</ref> |[[足利貞氏]] |54 |{{Display none|とうしいん/}}[[等持院]] |- !{{Display none|0}}2 |<small>{{Nowrap|あしかが よしあきら}}</small><br />[[足利義詮]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshiakira.jpg|130px]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|ほうきょういん/}}[[宝筐院|寶筐院]] |{{Display none|02-00/}}[[正二位]]<br />[[大納言|権大納言]] |{{Display none|1358-}}[[延文]]3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]] - [[貞治]]6年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]<br />([[1359年]][[1月7日]] - [[1367年]][[12月28日]]) |{{Display none|0}}9年 |足利尊氏 |38 |{{Display none|ほうきよういん/}}[[宝筐院]] |- !{{Display none|0}}3 |<small>あしかが よしみつ</small><br />[[足利義満]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|130px]] |{{Display none|ろくおんいん/}}[[鹿苑院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|1/}}[[太政大臣]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|1368-}}[[応安]]元年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]] - [[応永]]元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]<br />([[1369年]][[2月7日]] - [[1395年]][[1月8日]]) |26年 |足利義詮 |51 |{{Display none|しようこくし/}}[[相国寺]] |- !{{Display none|0}}4 |<small>あしかが よしもち</small><br />[[足利義持]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshimochi.jpg|130px]] |{{Display none|しようしよういん/}}[[勝定院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|3/}}[[内大臣]] |{{Display none|1394-}}[[応永]]元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]] - [[応永]]30年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]<br />{{0}}([[1395年]][[1月8日]] - [[1423年]][[4月28日]]) |28年 {{Nowrap|4か月}} |足利義満 |43 | {{Display none|&#99999;/}}- |- !{{Display none|0}}5 |<small>あしかが よしかず</small><br />[[足利義量]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshikazu Banna-ji.jpg|130px]] |{{Display none|ちようとくいん/}}[[長得院]] |{{Display none|04-02/}}[[正四位|正四位下]]<br />[[参議]][[近衛府|右近衛権中将]] |{{Display none|1423-}}[[応永]]30年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]] - [[応永]]32年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]<br />([[1423年]][[4月28日]] - [[1425年]][[3月17日]]) |{{Display none|0}}1年 {{Nowrap|11か月}} |足利義持 |19 | {{Display none|&#99999;/}}- |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">義量の死後、父の義持が室町殿として政務をとった。[[応永]]35年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]に義持が病没すると、青蓮院門跡であった義円が後継となったが、実際の任官は[[還俗]]・[[元服]]を行った後になる。この間の政務は義円(義宣→義教)と[[管領]][[畠山満家]]によって行われていた。</ref> | | | |[[応永]]32年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]] - [[正長]]2年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]<br />{{0}}([[1425年]][[3月17日]] - [[1429年]][[4月17日]])<br /> |4年 {{Nowrap|1か月}} | | | |- !{{Display none|0}}6 |<small>あしかが よしのり</small><br />[[足利義教]]<br /><small>(初め義宣)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshinori.jpg|130px]] |{{Display none|ふこういん/}}[[普広院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|2/}}[[左大臣]] |{{Display none|1429-}}[[正長]]2年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]] - [[嘉吉]]元年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]<br />([[1429年]][[4月18日]] - [[1441年]][[7月12日]]) |12年 {{Nowrap|3か月}} |足利義満 |48 |{{Display none|しゆうねんし/}}[[十念寺 (京都市)|十念寺]] |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">[[嘉吉の変]]で義教が横死した後、義勝が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている</ref> | | | |[[嘉吉]]元年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]] - [[嘉吉]]2年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]] <br />{{0}}([[1441年]][[7月13日]] - [[1442年]][[12月18日]] )<br /> |1年 {{Nowrap|5か月}} | | | |- !{{Display none|0}}7 |<small>あしかが よしかつ</small><br />[[足利義勝]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshikatsu statue.jpg|130px]] |{{Display none|けいうんいん/}}[[慶雲院]] |{{Display none|04-12/}}[[従四位|従四位下]]<br />{{Nowrap|[[近衛府|左近衛中将]]}} |{{Display none|1442-}}[[嘉吉]]2年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]] - [[嘉吉]]3年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]<br />([[1442年]][[12月19日]] - [[1443年]][[8月16日]]) |{{Display none|00年}} {{Nowrap|8か月}} |足利義教 |10 |{{Display none|あんこくし/}}[[安国寺利生塔|安国寺]] |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">義勝の病死後、義政が後継と定められたが、幼少であったために征夷大将軍任官まで時間を要した。この間の政務は有力守護大名の合議によって行われている</ref> | | | |[[嘉吉]]3年[[7月22日 (旧暦)|7月22日]] - [[文安]]6年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] <br />{{0}}([[1443年]][[8月17日]] - [[1449年]][[5月20日]])<br /> |4年 {{Nowrap|9か月}} | | | |- !{{Display none|0}}8 |<small>あしかが よしまさ</small><br />[[足利義政]]<br /><small>(初め義成)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshimasa detail.jpg|130px]] |{{Display none|ししよういん/}}[[慈照寺|慈照院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|2/}}[[左大臣]] |{{Display none|1449-}}[[文安]]6年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]] - [[文明 (日本)|文明]]5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]<br />([[1449年]][[5月21日]] - [[1474年]][[1月7日]]){{0}} |24年 {{Nowrap|8か月}} |足利義教 |55 |{{Display none|しようこくし/}}[[相国寺]] |- !{{Display none|0}}9 |<small>あしかが よしひさ</small><br />[[足利義尚]]<br><small>(晩年は義煕)</small><br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshihisa Tenryū-ji.jpg|130px]] |{{Display none|しようとくいん/}}[[常徳院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />{{Display none|3/}}[[内大臣]] |{{Display none|1473-}}[[文明 (日本)|文明]]5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]] - [[長享]]3年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]<br />{{0}}([[1474年]][[1月7日]] - [[1489年]][[4月26日]]) |15年 {{Nowrap|4か月}} |足利義政 |25 |{{Display none|しようこくし/}}[[相国寺]] |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">義尚の病死後、義政が「東山殿」としてしばらく政務をとったが、[[延徳]]2年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]に義政が死去すると次期将軍義材の父[[足利義視]]が[[大御所]]として政務をとった</ref> | | | |[[長享]]3年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]] - [[延徳]]2年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]] <br />{{0}}([[1489年]][[4月26日]] - [[1490年]][[7月21日]] )<br /> |1年 {{Nowrap|3か月}} | | | |- !10 |<small>あしかが よしき</small><br />[[足利義稙|足利義材]]<br><small>(のちの義尹→義稙)</small><br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshitane.jpg|130px]] |{{Display none|けいりんいん/}}[[恵林院]] |{{Display none|01-10/}}[[従一位]]<br />[[大納言|権大納言]] |{{Display none|1490-}}[[延徳]]2年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]] - [[明応]]2年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]<br />([[1490年]][[7月22日]] - [[1493年]][[8月11日]]){{0}} |{{Display none|0}}3年 |[[足利義視]] |58{{Display none|-}} |{{Display none|さいこうし/}}[[西光寺 (阿南市)|西光寺]]{{Display none|-}} |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">明応の政変により義材が解官され、義澄が征夷大将軍に任ぜられるまでの期間。この期間は[[細川政元]]による[[京兆専制]]が行われていた。</ref> | | | |[[明応]]2年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]] - [[明応]]3年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]] <br />{{0}}([[1493年]][[8月12日]] - [[1495年]][[1月22日]] )<br /> |1年 {{Nowrap|5か月}} | | | |- !11 |<small>あしかが よしずみ</small><br />[[足利義澄]]<br /><small>(初め義高)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshizumi statue.jpg|130px]] |{{Display none|ほうしゆういん}}[[法住院]] |{{Display none|03-10/}}[[従三位]]<br />[[参議]]{{Display none|2/}} |{{Display none|1494-}}[[明応]]3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]] - [[永正]]5年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br />{{0}}([[1495年]][[1月23日]] - [[1508年]][[5月15日]]) |13年 {{Nowrap|4か月}} |[[足利政知]] |32 | {{Display none|&#99999;/}}- |- !10<br />(再) |<small>あしかが よしたね</small><br />[[足利義稙]]<br /><small>(初め義材→義尹)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshitane.jpg|130px]] |{{Display none|けいりんいん/}}恵林院 |{{Display none|01-10/従一位<br />権大納言}}- |{{Display none|1508-}}[[永正]]5年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]] - [[大永]]元年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]<br />([[1508年]][[7月28日]] - [[1522年]][[1月22日]]){{0}}{{0}} |13年 {{Nowrap|6か月}} |{{Display none|あしかがよしみ/足利義視}}- | {{Display none|58}}- | {{Display none|さいこうし/西光寺}}- |- !12 |<small>あしかが よしはる</small><br />[[足利義晴]]<br />&nbsp; |[[ファイル:Ashikaga Yoshiharu.jpg|130px]] |{{Display none|はんしよういん/}}[[萬松院]] |{{Display none|03-10/}}[[従三位]]<br />[[大納言|権大納言]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|1521-}}[[大永]]元年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]] - [[天文 (元号)|天文]]15年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]<br />([[1522年]][[1月22日]] - [[1547年]][[1月11日]]) |25年 | style="white-space:nowrap;" |足利義澄 |40 | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|よしはるしそうし/}}[[義晴地蔵寺]] |- !13 |<small>あしかが よしてる</small><br />[[足利義輝]]<br /><small>(初め義藤)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshiteru.jpg|130px]] |{{Display none|こうけんいん/}}[[光源院]] |{{Display none|03-10/}}[[従三位]]<br />[[参議]]{{Display none|1/}}[[近衛府|左近衛中将]] |{{Display none|1546-}}[[天文 (元号)|天文]]15年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]] - [[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]<br />{{0}}{{0}}([[1547年]][[1月11日]] - [[1565年]][[6月17日]]) |18年 {{Nowrap|5か月}} |足利義晴 |30 | {{Display none|&#99999;/}}- |- !{{Display none|0}}*<br /> |空位<ref group="注釈">義輝が殺害され、[[三好三人衆]]が擁立した義栄が将軍に任官するまでの期間。この時期京都に足利家の惣領となる人物は存在しなかった。</ref> | | | |[[永禄]]8年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]] - [[永禄]]11年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]] <br />{{0}}([[1565年]][[6月18日]] - [[1568年]][[3月5日]] )<br /> |2年 {{Nowrap|9か月}} | | | |- !14 |<small>あしかが よしひで</small><br />[[足利義栄]]<br /><small>(初め義親)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshihide.jpg|130px]] |{{Display none|こうとくいん/}}[[光徳院]] |{{Display none|05-12/}}[[従五位|従五位下]]<br />[[馬寮|左馬頭]] |{{Display none|1568/02-}}[[永禄]]11年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]] - 同年[[9月 (旧暦)|9月]]末<ref group="注釈">義栄の死去日について諸説あり、次の義昭の将軍宣下時における生死は不明である。</ref>{{0}}{{0}}{{0}}<br />([[1568年]][[3月6日]] - 同年[[10月]]?)  |{{Display none|00年}} {{Nowrap|8か月}} |[[足利義維]] |29 |{{Display none|さいこうし/}}[[西光寺 (阿南市)|西光寺]] |- !15 |<small>あしかが よしあき</small><br />[[足利義昭]]<br /><small>(初め義秋)</small> |[[ファイル:Ashikaga Yoshiaki.jpg|130px]] |{{Display none|れいよういん/}}[[霊陽院]] |{{Display none|03-10/}}[[従三位]]<br />[[大納言|権大納言]] | style="white-space:nowrap;" |{{Display none|1568/10-}}[[永禄]]11年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]] - [[天正]]16年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]<br />{{0}}{{0}}([[1568年]][[11月7日]] - [[1588年]][[2月9日]]<ref group="注釈">一般には元亀4年([[1573年]])の[[織田信長]]による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は[[天正]]16年([[1588年]])に[[豊臣秀吉]]の仲介で[[准后]]に叙せられるまで征夷大将軍に在職していた(『[[公卿補任]]』)。</ref>) |19年 {{Nowrap|3か月}} |足利義晴 |61 | {{Display none|&#99999;/}}- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} == 関連項目 == * [[足利氏]] ** [[足利将軍家]] ** [[足利将軍家御台所]] ** [[源氏]] - [[清和源氏]] * [[鎌倉将軍一覧]] * [[徳川将軍一覧]] {{室町幕府将軍}} {{DEFAULTSORT:あしかかしようくんいちらん}} [[Category:室町幕府の征夷大将軍|*しようくんいちらん]] [[Category:日本史の人物一覧]] [[Category:室町時代の京都]]
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駅弁
駅弁(えきべん)は、鉄道駅で旅客向けに販売されている弁当である。 日本では1885年(明治18年)7月16日に栃木県の宇都宮駅で販売されたおにぎりが初例であるとされるが、異説もある(「起源」参照)。 駅弁の持つ歴史や情緒などが好まれ、「各地の名物」として百貨店等で販売されることもある(元祖有名駅弁と全国うまいもの大会など、後述)。 日本最古の駅弁がどこの駅でいつ発売されたのかについては諸説ある。1885年(明治18年)7月16日に日本鉄道の嘱託を受けた旅館「白木屋」が、この日開業した日本鉄道(現在の東日本旅客鉄道東北本線)宇都宮駅で握り飯2個とたくあんを竹の皮に包んで販売した例が、前述のように最初の事例とされる。そのため、宇都宮説による駅弁発売日である7月16日は「駅弁記念日」となっており、数多くの文献やウェブサイトが駅弁記念日を紹介する際に宇都宮説を紹介している。 起源についてはこの他に以下の説がある。 現在のような折詰に入った駅弁は、1890年(明治23年)に姫路駅でまねき食品が発売したものが最初との説がある。また農文協(社団法人農山漁村文化協会)刊行の『日本の食生活全集 28 聞き書 兵庫の食事』(1991年)にも「元祖・駅弁--姫路の『まねき』」と題する記述があり、そこでは1889年(明治22年)に姫路駅で発売された物を駅弁の元祖とし以下のように述べている。 この弁当の中身は「たいの塩焼き、伊達巻き、焼きかまぼこ、だし巻き卵、大豆こんぶ煮付け、栗きんとん、ごぼう煮つけ、少し甘みをつけて炊いたゆり根、薄味で煮つけたふき、香の物は奈良漬と梅干し、黒ごまをふった白飯」(同書)とされる。 また名古屋駅では、1886年(明治19年)5月1日の駅開業時から服部商店(服部茂三郎)により弁当の立ち売りを開始した。これについて、1930年(昭和5年)の月刊雑誌『旅』の「駅辨の話」で以下のように述べられている。 「最初から」が1886年を意味するならば、姫路駅よりも早いことになる。 第二次世界大戦前、各所に駅弁業者が開業するにつれ、日本軍の部隊が演習や出征等により鉄道で移動する際の車内での食事用にも駅弁が利用されるようになり、その場合、軍の輸送計画に基づき軍部隊から経路上の駅弁業者に発注・手配が行われた(「軍弁」)。輸送計画の秘匿のため発注がなされるのは直前であり、駅弁業者には短時日で大量の弁当調製対応が求められた。難しさを伴ったものの需要は大きく、ある程度定期的に行われる演習による発注は駅弁業者の収益源の一つともなり、駅弁業者はその需要に応えるよう努め、駅弁の進歩・普及の背景ともなった。戦時中は食糧事情の悪化により食材も不足し、軍弁といえども弁当の内容は簡素なものとなっていった。 戦後、自衛隊の部隊の鉄道輸送時にも、移動中の食事には駐屯地給食の手配(「運搬食」)と併せて駅弁も利用されている。 最も一般的な販売形態は、駅構内やホーム上にある駅弁調製業者の売店で店頭に置いて販売している形である。調製業者が経営する駅構内の立ち食いそば・うどん店、キヨスクなど調製業者以外が経営する売店などが扱っている場合もある。 このほかに、駅弁の多く売れる食事時間帯前後や寝台特急列車、イベント列車などの到着時に限り、ホーム上にキャスターつきのカートまたは台を置き、その上に駅弁や茶を陳列して売り子が販売する形態がある。また、かつての駅弁売りの典型的スタイルであった、売り子が帯(たすき)のついたばんじゅうに駅弁や茶を入れ、容器を前方に出す形で首から下げホーム上を歩いて掛け声を発しながら販売する「立ち売り」がある。しかしいずれも減少傾向にあり、2016年5月の時点で駅弁の立ち売りが行われているのは、、折尾駅(福岡県)、人吉駅(熊本県)、吉松駅(鹿児島県)など日本全国で10駅に満たない。長年続いた美濃太田駅(岐阜県)のように、担当者の引退で駅弁ともども終了した例もある。 駅構内のほか、古くから列車(主に優等列車)内の車内販売でも沿線の駅の駅弁が取り扱われている。後述のように、駅弁とされながら業者が駅構内の販売を取りやめて、駅近くの自社店舗等で販売している例もある。 業者によっては電話等で予約し、予約時に乗車する列車と車両を通知すれば当該列車・車両の乗降口まで駅弁を届けて販売するサービスも行なっている。また、そのような予約による販売のみで完全予約制の会席料理と同様の惣菜を重箱に詰めた高価な駅弁も金沢駅などにある。また近年では、インターネット等による駅弁の通信販売を取り扱っている業者もある(低温で配送できるクール宅配便の登場による)。 2020年以降は新型コロナウイルス感染症の蔓延により旅行・出張や催事が減り、駅弁の製造・販売事業者は苦境に陥っている。インターネット通販を新たに始めたり、駅弁販売店の閉鎖やカレー店への業態転換を進めたりする企業もある。その中で2022年には東京都知事・小池百合子の発案で、宿泊療養施設の食事に週1回程度、駅弁や航空会社の機内食を取り入れる。 かつては停車中に立売りの売り子を窓近くへ呼んで窓越しに購入する方法が主流であった。現在は窓が開閉できない鉄道車両が増えたために窓越しの受け渡しが不可となったためこの方式は珍しい。 列車の高速化による停車時間の短縮、目的地への移動時間の短縮、コンビニエンスストアならびにキオスクの廉価な弁当や弁当以外の軽食・パン類との競合、駅構内での飲食店の充実(いわゆる「駅ナカ」)、優等列車での車内販売の縮小・廃止などによって駅構内や車内販売での駅弁の売上は減少する傾向にあり、業者の撤退・廃業も珍しくない。 とりわけ商売環境の厳しい四国では地場業者が日常的に調製しているのは今治駅と高知駅の僅か2駅のみである。岡山の業者が調製し納入している高松駅と松山駅を合わせても4駅のみである。徳島線「藍よしのがわトロッコ」の運転日に下り列車が貞光駅を発車後に車内で買える駅弁も含め、5駅まで減っている。 駅構内で販売される実用的な食事という枠を越え、地域の特産品などを盛り込んだ郷土色溢れる弁当としての発展を目指すという方向性が駅弁の一つの流れとなっている。それらは自動車旅行のためのドライブイン・サービスエリアや、デパートの催事、インターネットなどによる通信販売などへ販路を広げている。また、駅弁業者が駅弁と同一の商品を近隣の空港で空弁(そらべん)として販売する例もある。 この流れで、駅での販売よりも、駅以外の場所での販売が主力になった駅弁もある。代表例として、ドライブイン・サービスエリアでの販売に重点を移したJR東日本信越本線横川駅の「峠の釜めし」、デパートなどでの販売に重点を移したJR北海道函館本線森駅の「いかめし」の例が挙げられる。 デパートやスーパーマーケットなどで全国の有名駅弁を集めて販売するイベント、いわゆる「駅弁大会」は人気が高く、入荷してから短時間に売り切れることが多い。鉄道会社がイベントの客寄せに使う例もある。博多駅のように周辺地域(博多駅の場合は九州内全域)の人気駅弁を取り寄せて販売する売店があり、周囲の駅のイベントの際はその場所まで出張販売する例もある。 この手の駅弁大会の元祖は、1953年(昭和28年)の髙島屋大阪店が嚆矢であったが、全国的に有名にしたのは1966年(昭和41年)に京王百貨店新宿店で開催された「第1回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」であった。全国各地の有名駅弁業者を新宿に集め、その当地でしか食べられない駅弁が一同に集うというこのイベントは、当時としては非常に斬新であり大盛況となった。その後、駅弁大会は京王百貨店新宿店の1月恒例の一大イベントとして定着しており、現在(2021年時点)に至るまで盛り上がりを見せている。駅弁が旅先での一介の食事から、全国的知名度を持つ名物へと認知されるきっかけともなったイベントであった。阪神百貨店でも「阪神の有名駅弁とうまいもんまつり」と題して同様のイベントを開催しており、京王百貨店と阪神百貨店で東西の双璧となっている。 特殊な装置のある弁当の例としては、1988年(昭和63年)に兵庫県神戸市の「淡路屋」が化学メーカーと組んで開発した生石灰と水の反応熱を使用した加熱装置を組み込み、食べる前に紐を引いて加熱する駅弁を売り出した例がある。この加熱装置付き駅弁は淡路屋だけでも現在(2016年5月時点)3種類が発売されている。また駅弁業者のグループを通じて利用を呼びかけた事から、株式会社こばやしが販売している仙台駅の「極撰 炭火焼き牛たん弁当」など、淡路屋以外にも追随した業者がある。 弁当自体を製造原価の安い日本国外で調製し、日本まで冷凍輸送し解凍して販売することで、コンビニ弁当などに対抗することを目指した駅弁が開発されたことがある。JR東日本関連会社の日本レストランエンタプライズ(NRE)(現:JR東日本クロスステーション)が販売した「O-bento」である。発売当初は売上げを伸ばしたものの、BSE問題により牛肉関連弁当が製造、輸入中止に追い込まれたほか、コストカットのため輸入時に高関税が賦課される米ではなく、肉と魚の含有量が20%超で、米飯と副食が分離できない「肉魚調製品」として輸入する手法が、農民連をはじめとした一部の農業者団体により関税逃れだとして告発され、実際には肉と魚の含有率が20%未満だったとして追徴課税されるなど、低価格での販売継続が困難になり売上げが激減。2007年(平成19年)10月までに在庫切れをもって販売を終了した。ただしこの「O-bento」は既存の駅弁とは大きくスタイルの異なる商品であり、一般的な駅弁のイメージに合致するものではなかった。 駅弁調製業者は、大きく2分極化している。 一方に、駅弁専業あるいは駅近隣の旅館、料亭などの内職として作られ続けてきた駅弁がある。それらの調製元は小規模零細の業者がほとんどであり、衰退傾向にある。2010年(平成22年)4月、大都市である大阪駅などで営業していた水了軒が事業停止・破産に追い込まれているほか、2010年(平成22年)12月31日で駅弁の駅売りを終了し、事業停止・破産した博多駅の寿軒、2009年(平成21年)に事業停止した水戸駅の鈴木屋(2010年に廃業)などがこれに該当する。そのほかに、新宿駅の田中屋や立川駅の中村亭のようにJR傘下の会社に吸収合併されたケースもある。 ただ、駅構内からは撤退したものの、その後も駅の外(本店)では弁当店や飲食店として営業を継続しているケースとして、日立駅の海華軒、木更津駅の浜屋、亀山駅のいとう弁当店などがある。 もう一方に、駅弁業者を発端として発展を遂げ、現在ではそれぞれの地域で大手の食品製造企業となっている調製元がある。たとえば千葉駅の万葉軒、高崎駅の高崎弁当、横浜駅の崎陽軒、静岡駅の東海軒、敦賀駅の塩荘、神戸駅の淡路屋、姫路駅のまねき食品、広島駅の広島駅弁当などである。これらの調製元は出自として駅弁を守ってはいるものの、売上げ規模などの実態としては既に第一義に駅弁調製業者というのは不適切であり、地域の中核食品企業(外食産業)とでも呼ぶべき存在になっている。たとえば塩荘は日産25000食の供給能力を持つとしており、広島駅弁当に至ってはイベントの際に日産48000食を供給したという実績を持っているほどである。これらの業者は前述の駅弁から撤退・廃業した業者からレシピを引き継ぐことも多く、近年では駅構内だけではなく、道の駅や高速道路のサービスエリアの弁当や空港の弁当(空弁)、デパートの地下食品フロア(デパ地下)などにも進出しているほか、その地域にあるコンビニエンスストアやスーパーマーケットで販売される弁当などの製造請負、レストラン・飲食店運営まで手掛けている場合がある。 駅弁は、広義には「駅構内で販売される弁当」を意味する。近年、駅構内にコンビニエンスストアが出店して「コンビニ弁当」を販売したり、駅弁業者でない企業がいわゆる「駅ナカ」店舗で弁当を販売する例がある。それらが駅弁に該当するかどうかについては議論がある。旧来の駅弁業者が伝統的な駅弁の他にコンビニ弁当に類似した比較的安価な弁当を販売している場合もあるため、厳密な定義は困難である(先述のように、駅弁業者が出自であっても、その後大規模な食品会社に発展し、その地域のコンビニ弁当やお惣菜商品の調理を一手に引き受けている企業も少なからず存在する)。 狭義の意味では、「駅弁」とは社団法人日本鉄道構内営業中央会(以下「中央会」と略す)に加盟している業者が調製し駅構内で販売しておりなおかつ米飯が入っている弁当のみを指すこともある。 日本国有鉄道(国鉄)時代には白飯と焼き魚、肉料理、フライ、卵焼き、蒲鉾などの一般的な惣菜を使用した、いわゆる幕の内弁当の系列のものを普通弁当と称しそれ以外の弁当を特殊弁当と称して制度上の区分がなされていた。ごはんとおかずというセットになっていないもの、たとえば「押し寿司」などは「特殊弁当」に分類される。さらに国鉄が「米飯がはいっていないものは駅弁ではない」としたために、長万部駅の「そば弁当」や大船駅の「サンドウィッチ」などは国鉄末期まで駅弁として認められなかった。なお、国鉄前身の運輸通信省時代、太平洋戦争下には米飯が排除された時期もある。実際に1943年11月1日からは、節米を目的として主要駅の駅弁が一斉に「芋弁当」(米の代わりに芋を使用)に切り替えられた。 この「中央会加盟業者が調製している」「米を使っている」という条件に該当する弁当は包装紙に共通デザインの「駅弁マーク」と呼ばれる商標を入れ、交通新聞社発行の『JR時刻表』(大型版のみ)欄外に販売駅弁の記載があるのが特徴である。 この「駅弁マーク」を有する弁当のみが「駅弁」であるという定義づけは当の中央会や一部の人々の間で行われているが、この定義は下記のような事情から現実的とは言えない。 かつての国鉄では、駅改札内での弁当の販売は中央会加盟業者に対してしか認めていなかった。しかし国鉄が分割民営化されJRとなって以降、中央会非加盟の業者にも駅構内での販売を認めるようになったことから「駅構内で販売される弁当」と「中央会」とが必ずしも結びつかなくなった。新規業者の参入のほか既存の業者が中央会を脱退した上で引き続き駅構内での販売する例もあり、「中央会に所属」「駅弁マークがついていること」は条件とはできなくなった。これは駅弁は調製から購入・消費までにタイムラグがあるため、食中毒の防止などを目的として調製方法などに様々な厳しい要求があったこととも関係する。製造から4時間以内で売り切らねばならないという規制はO-bentoの登場とともに廃止された。また、元々は私鉄の駅構内で販売される弁当については中央会は(JR駅でも販売している業者を除いて)関係ない。そして、もっぱら私鉄の駅でのみ販売されている駅弁も存在する。 中央会に加盟している業者でも駅構内での販売を取りやめ駅前の自社店舗での販売のみとしながら引き続き駅弁マーク入りの駅弁を販売する例もある一方(その場合、時刻表にも引き続き「弁」マークの表示を記載)、駅前に店舗を構える中央会非加盟の弁当業者が独自の弁当を作り「駅弁」を名乗る例や、中央会加盟業者が他地域の駅構内売店事業者の委託を受けて弁当を製造する例もある。後者の例は観光客誘致の手段として、地方においてよく見られる(後述参照)。但し後者のケースで、中央会非加盟の弁当業者のみが販売している駅の場合は、時刻表での「弁」マークの記載はない。 中央会加盟業者がJRの駅構内で販売している場合でも、横浜駅や鳥栖駅で売られている焼売や大船駅で売られているサンドイッチ弁当のように米飯が入っておらず「駅弁マーク」を付けることができなかったが一般には駅弁と見なされている商品もある。大船軒の「サンドウィッチ」には駅弁マークこそついていないが、包装紙には「SINCE 1898/日本デ最初ノ駅弁サンドウィッチ」と明記されている。また、山陰本線の益田駅のように、時刻表には全く駅弁の表記が無いのに、キヨスクには「益田駅の駅弁」と大きく書かれ、ごく普通にキヨスクで販売されている例もある。 以上のような事情から、駅構内や駅前の弁当業者の店舗で販売される弁当を総合して「駅弁」と呼ぶ場合が多い。デパートで催される駅弁大会に出品されたり旅情報を扱ったテレビ番組で取り上げられたりする「駅弁」もこのような広義の条件に該当する弁当であり、中央会加盟業者が調製する弁当とは限らない。 車内販売のある列車では駅弁のほか、列車内限定で発売される弁当もある。イベント列車などにおいては、そのイベント列車限定で発売される弁当もある。これらも一般的には「駅弁」に含まれるものと解されている。 多くの販売店では、駅弁を食べる際の飲み物として煎茶が販売されている。販売店によっては街の持ち帰り弁当店と同様に即席の味噌汁やスープも販売し、それらに使うお湯を供するケースもある。 明治時代から昭和30年代までは。湯呑兼用の蓋が付いた汽車土瓶と呼ばれる陶器の小瓶入りの茶が駅弁と共に販売されていた。汽車土瓶の期限は、1889年(明治22年)に静岡駅で信楽焼の土瓶にお茶を入れて販売したのが嚆矢と言われている。信楽焼や益子焼、瀬戸焼、常滑焼、会津本郷焼で製造され、表面に駅名や、販売元、金額が書かれていた。 1921年(大正10年)、鉄道省は内容物が見えない事や衛生上の理由により土瓶を禁止したため、大日本麦酒などによるガラス製のガラス茶瓶が登場した。しかし煎茶が丸見えのため尿瓶のように見えて飲む気にならない、窓からのポイ捨てで沿線の住民や保線工がケガする危険があるなどの理由で、ガラス製の茶瓶はわずか数年で製造が中止され、昭和に入ると静岡駅で汽車土瓶の販売が再開された。 汽車土瓶は重量があり破損しやすいため、後にポリ容器入りにとって代わる事となる。しかし2020年代現在も製造している業者があり、小淵沢駅で汽車土瓶入りの煎茶が販売されているほか、復刻の形で駅弁とともに期間限定で販売されることがある。 昭和30年代以降、汽車土瓶に代わって半透明の厚いビニールやポリプロピレンなどで出来たポリ茶瓶が一般的となった。基本的には、黄緑色のプラスチックのスクリューキャップ(ネジ式の蓋。汽車土瓶の蓋同様に湯呑機能も持つ)の付いた小瓶にその場でポットなどからお茶を注いで販売されたが、利便性や機能性の面から複数の種類が登場する事となった。前述の容器に既に淹れたお茶を入れるだけの物や、容器に湯を注いで購入者が飲む際に淹れられるようティーバッグを添えて売られるもの、ティーバッグタイプも紐のついたティーバッグを容器の中へ吊るしたもの、紐無しの物を直接投入するだけのもの、画像にあるような弾力のあるビニールの小瓶にティーバッグ専用のスペースを設けて購買者が瓶の上からティーバッグを揉むことで濃さを調節できるもの、容器に茶漉しを付けて粉茶を直接投入するものなどバラエティに富んでいた。 しかしビニール容器入りの煎茶も1980年代末期以降、販売時にお湯を用意する必要のない缶入りの緑茶や烏龍茶が普及したため、少なくなった。さらに1996年(平成8年)4月に500ミリリットル以下のペットボトル飲料の販売が解禁されたため、2000年代以降ではあまり見られなくなり、駅弁とともに売られるお茶は、ペットボトルや缶入りのお茶にほぼ取って代わられたといえる。(2016年5月)現在でもポリ茶瓶のお茶が販売されているのは、いすみ鉄道いすみ線大原駅(千葉県)、伊東駅(静岡県)など日本全国で10駅に満たないが、ポリ茶瓶も汽車土瓶と同様に復刻の形で販売されることがある。 かつての旧日本領や支配地域(外地)では、現地当局が運営する鉄道(台湾総督府鉄道、朝鮮総督府鉄道、樺太庁鉄道)や南満洲鉄道の各駅で、内地同様に駅弁が販売されていた。 台湾は旧日本領で一番「駅弁文化」を発展させている国であり、日本と異なる独自な文化を持っている。台湾の駅弁は「鐵路便當」と呼ばれ、台湾各地の鉄道駅や列車の車内販売で販売される。日本の冷めた状態が前提で作り置き販売される駅弁当とは異なり、温かいままの状態で店頭販売される。駅弁の内容は、排骨飯便當(油で揚げた骨付きの豚ばら肉を白飯の上に載せたもの)や雞腿便當(骨付き鶏もも肉揚げ)に滷水蛋(中国語版)(台湾風煮卵)、豆腐干、沢庵漬けや高菜を添えたものなど、米飯と肉料理と付け合わせから構成される弁当が一般的である。このような弁当は駅や地方により多少の違いはあるが、どの駅でも大きな差異はなく比較的画一的である。また、台東線の池上駅などでは近年まで駅弁の立ち売りが行われていたほか、2015年7月には台北で国際駅弁祭り(國際鐵道便當節)が開催され、日本や台湾を始めとする6か国11社の駅弁が販売された。2020年8月、日本の事業者として初めて崎陽軒が台北駅にシウマイ弁当を販売する駅弁店を出店した。 韓国でも、駅構内や車内販売で米飯にプルコギを主体とする惣菜を合わせた幕の内弁当のような弁当、その他の米飯と数種の惣菜による幕の内弁当のような弁当、海苔巻きの弁当が販売されているが、日本の駅弁ほどの多様性は無い。しかし近年では日本の駅弁文化に習い、ソウル駅に多数の駅弁販売店が出店し、多様な駅弁が販売されるようになった。また北朝鮮では、首都の平壌駅に駅弁があると北朝鮮鉄道本「将軍様の鉄道」に著されている。 樺太南部(サハリン)では、1945年(昭和20年)まで樺太東線知取駅などで駅弁の販売が行われたほか、残留ロシア人による「ロシアパン」の駅売りも行われていた。これらはソビエト連邦による占領以降は廃止されたが、現在(2016年時点)でも、主要駅の売店ではピロシキやサラダなどの惣菜類が販売されている。 蒙疆自治政府(南モンゴル)や満州国(中国東北地方)では、日本の影響で駅弁業者がいくつか存在したが、中国(北京政府)に帰属されると、後述の「中国」に準じた駅弁事情となっている。また、ミクロネシアではパラオ、北マリアナに鉄道が敷設されるが、鉱山鉄道だったことから駅弁がなく、戦後も鉄道が無いので駅弁は存在しない(パラオには観光用モノレールがある)。 中国では、食堂車営業列車の車内販売で弁当(盒饭)が販売される。メニューは通常は、朝食がマントウと粥、昼食と夕食は米飯や炒麺と肉料理などのおかず数品がセットとなっている。いずれも食堂車で調製され、温かいままの状態で販売される。 モンゴルでは、ウランバートル駅をはじめとする主要駅及び列車内で弁当の販売がある。K3/4次列車など国際列車以外の列車でも、ピロシキや羊肉の入った水餃子などが販売される。 東南アジアの各国でも、鉄道駅構内や車内販売で弁当が販売されている。ベトナムの列車では車内販売は国鉄職員が担当し、食堂車で調製された弁当が温かい状態のままスープとともに販売されるほか、駅のホームでも弁当やバインミーが販売されている。 タイではガパオライス(米飯の上に肉料理と目玉焼きを載せたもの)やパッタイ、タイカレーなど多種多様な弁当が販売されている。これらの弁当は、発泡スチロール製の容器に米飯を入れ、その上におかずを載せたスタイルが一般的であるが、バナナの葉やビニールに料理を包み、一口サイズにして販売されている弁当もある。 マレーシアでもナシゴレンやナシレマッなどの弁当が販売され、紙箱やタッパーなどに入ったもののほか、ナシブンクス(インドネシア語版) (Nasi bungkus) と呼称されるバナナの葉やビニールコーティングされた紙の上に米飯とおかずを盛り、包んだ状態で提供される弁当もある。 ラオスでは中国ラオス高速鉄道が開業したが、連結している食堂車が未開業であるためか、車内で駅弁を販売している。 カンボジアとフィリピンには食堂車がないため、主要駅で駅弁を販売。ミャンマー、インドネシアも食堂車はあるが、駅弁も主要駅で販売。 インドでは、ダッバー (Dabba) という金属製の容器に、カレーと米飯やチャパティなどのパン類を入れた弁当が鉄道駅や列車内で販売される。スリランカでも一部の列車で駅弁を販売。 オーストラリア、ニュージーランドでは特定の長距離列車で販売されている。 エジプトでは寝台列車で弁当がある。 ヨーロッパではイタリア北部・中部やフランスの各地で、肉料理にサラダ、パスタ、パンかサンドウィッチ、小瓶のワインを合わせた食事セットが販売される鉄道駅がある。しかし食事セットはどの駅でも大きな差異はなく、販売される駅も日本の駅弁販売駅ほど多くはない。 なお、2012年4月に運行を開始したイタリアの高速列車イタロ (Italo) では、日本の駅弁を参考にしたイタロ・ボックスが有料で提供されている。そのほかに2016年3月より、パリのリヨン駅でJR東日本及び日本レストランエンタプライズとフランス国鉄の共同企画として、日本の駅弁5種類が販売された。当初は2カ月間限定の企画であったが、好評であったため販売期間が延長された。リヨン駅では、さらに2018年11月にも期間限定ショップが設けられ、駅弁の販売が行われたことがある。 フランスのパリでは、日本留学時にホームステイ先で作ってもらった弁当を参考にして、3軒の駅弁店を経営している女性が存在する。 メキシコではチワワ太平洋鉄道が唯一の存在。鈍行列車では車内で食べられるが、急行列車では不可能。その代わり、急行列車には食堂車がある。ほか、キューバやペルーにもある。 主な駅弁の種類についてはCategory:駅弁の対象記事を参照。 山口県と埼玉県では、地元の業者が全て駅弁販売から撤退した。大阪府では、他県所在の業者に営業譲渡した1種類の駅弁のみが残る。京都府と沖縄県では、2019年時点で地元企業は1事業者のみ。徳島県に至っては駅弁が全滅している。しかし、たとえば徳山駅の「あなごめし」は2010年(平成22年)3月に従来の駅弁業者が撤退したが、同年7月には水産物の通販を行う徳山ふくセンター(中央会非加盟)が別のレシピで販売を開始した。また、松山駅の「醤油めし」(岡山県の三好野本店が製造)や新山口駅の「SL弁当」(広島駅弁当が製造)、博多駅の「かしわめし」(広島駅弁当が設立した「博多寿改良軒」が製造)のように、他県の駅弁事業者が名物駅弁のレシピを受け継いで製造し、鉄道会社の系列会社等に販売を委託して『復活』させる事例もある。沖縄では正規の駅弁は全滅しているが、(園内鉄道がある)名護市の「ナゴパイナップルパーク・アナナスキッチン」のスパイシーソイミートロール、パイナップルタコライス、今帰仁村の「古宇利オーシャンタワー・オーシャンブルー」のピザが購入可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "駅弁(えきべん)は、鉄道駅で旅客向けに販売されている弁当である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本では1885年(明治18年)7月16日に栃木県の宇都宮駅で販売されたおにぎりが初例であるとされるが、異説もある(「起源」参照)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "駅弁の持つ歴史や情緒などが好まれ、「各地の名物」として百貨店等で販売されることもある(元祖有名駅弁と全国うまいもの大会など、後述)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本最古の駅弁がどこの駅でいつ発売されたのかについては諸説ある。1885年(明治18年)7月16日に日本鉄道の嘱託を受けた旅館「白木屋」が、この日開業した日本鉄道(現在の東日本旅客鉄道東北本線)宇都宮駅で握り飯2個とたくあんを竹の皮に包んで販売した例が、前述のように最初の事例とされる。そのため、宇都宮説による駅弁発売日である7月16日は「駅弁記念日」となっており、数多くの文献やウェブサイトが駅弁記念日を紹介する際に宇都宮説を紹介している。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "起源についてはこの他に以下の説がある。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在のような折詰に入った駅弁は、1890年(明治23年)に姫路駅でまねき食品が発売したものが最初との説がある。また農文協(社団法人農山漁村文化協会)刊行の『日本の食生活全集 28 聞き書 兵庫の食事』(1991年)にも「元祖・駅弁--姫路の『まねき』」と題する記述があり、そこでは1889年(明治22年)に姫路駅で発売された物を駅弁の元祖とし以下のように述べている。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この弁当の中身は「たいの塩焼き、伊達巻き、焼きかまぼこ、だし巻き卵、大豆こんぶ煮付け、栗きんとん、ごぼう煮つけ、少し甘みをつけて炊いたゆり根、薄味で煮つけたふき、香の物は奈良漬と梅干し、黒ごまをふった白飯」(同書)とされる。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また名古屋駅では、1886年(明治19年)5月1日の駅開業時から服部商店(服部茂三郎)により弁当の立ち売りを開始した。これについて、1930年(昭和5年)の月刊雑誌『旅』の「駅辨の話」で以下のように述べられている。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「最初から」が1886年を意味するならば、姫路駅よりも早いことになる。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前、各所に駅弁業者が開業するにつれ、日本軍の部隊が演習や出征等により鉄道で移動する際の車内での食事用にも駅弁が利用されるようになり、その場合、軍の輸送計画に基づき軍部隊から経路上の駅弁業者に発注・手配が行われた(「軍弁」)。輸送計画の秘匿のため発注がなされるのは直前であり、駅弁業者には短時日で大量の弁当調製対応が求められた。難しさを伴ったものの需要は大きく、ある程度定期的に行われる演習による発注は駅弁業者の収益源の一つともなり、駅弁業者はその需要に応えるよう努め、駅弁の進歩・普及の背景ともなった。戦時中は食糧事情の悪化により食材も不足し、軍弁といえども弁当の内容は簡素なものとなっていった。", "title": "駅弁と軍弁" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "戦後、自衛隊の部隊の鉄道輸送時にも、移動中の食事には駐屯地給食の手配(「運搬食」)と併せて駅弁も利用されている。", "title": "駅弁と軍弁" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最も一般的な販売形態は、駅構内やホーム上にある駅弁調製業者の売店で店頭に置いて販売している形である。調製業者が経営する駅構内の立ち食いそば・うどん店、キヨスクなど調製業者以外が経営する売店などが扱っている場合もある。", "title": "販売形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このほかに、駅弁の多く売れる食事時間帯前後や寝台特急列車、イベント列車などの到着時に限り、ホーム上にキャスターつきのカートまたは台を置き、その上に駅弁や茶を陳列して売り子が販売する形態がある。また、かつての駅弁売りの典型的スタイルであった、売り子が帯(たすき)のついたばんじゅうに駅弁や茶を入れ、容器を前方に出す形で首から下げホーム上を歩いて掛け声を発しながら販売する「立ち売り」がある。しかしいずれも減少傾向にあり、2016年5月の時点で駅弁の立ち売りが行われているのは、、折尾駅(福岡県)、人吉駅(熊本県)、吉松駅(鹿児島県)など日本全国で10駅に満たない。長年続いた美濃太田駅(岐阜県)のように、担当者の引退で駅弁ともども終了した例もある。", "title": "販売形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "駅構内のほか、古くから列車(主に優等列車)内の車内販売でも沿線の駅の駅弁が取り扱われている。後述のように、駅弁とされながら業者が駅構内の販売を取りやめて、駅近くの自社店舗等で販売している例もある。", "title": "販売形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "業者によっては電話等で予約し、予約時に乗車する列車と車両を通知すれば当該列車・車両の乗降口まで駅弁を届けて販売するサービスも行なっている。また、そのような予約による販売のみで完全予約制の会席料理と同様の惣菜を重箱に詰めた高価な駅弁も金沢駅などにある。また近年では、インターネット等による駅弁の通信販売を取り扱っている業者もある(低温で配送できるクール宅配便の登場による)。", "title": "販売形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2020年以降は新型コロナウイルス感染症の蔓延により旅行・出張や催事が減り、駅弁の製造・販売事業者は苦境に陥っている。インターネット通販を新たに始めたり、駅弁販売店の閉鎖やカレー店への業態転換を進めたりする企業もある。その中で2022年には東京都知事・小池百合子の発案で、宿泊療養施設の食事に週1回程度、駅弁や航空会社の機内食を取り入れる。", "title": "販売形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "かつては停車中に立売りの売り子を窓近くへ呼んで窓越しに購入する方法が主流であった。現在は窓が開閉できない鉄道車両が増えたために窓越しの受け渡しが不可となったためこの方式は珍しい。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "列車の高速化による停車時間の短縮、目的地への移動時間の短縮、コンビニエンスストアならびにキオスクの廉価な弁当や弁当以外の軽食・パン類との競合、駅構内での飲食店の充実(いわゆる「駅ナカ」)、優等列車での車内販売の縮小・廃止などによって駅構内や車内販売での駅弁の売上は減少する傾向にあり、業者の撤退・廃業も珍しくない。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "とりわけ商売環境の厳しい四国では地場業者が日常的に調製しているのは今治駅と高知駅の僅か2駅のみである。岡山の業者が調製し納入している高松駅と松山駅を合わせても4駅のみである。徳島線「藍よしのがわトロッコ」の運転日に下り列車が貞光駅を発車後に車内で買える駅弁も含め、5駅まで減っている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "駅構内で販売される実用的な食事という枠を越え、地域の特産品などを盛り込んだ郷土色溢れる弁当としての発展を目指すという方向性が駅弁の一つの流れとなっている。それらは自動車旅行のためのドライブイン・サービスエリアや、デパートの催事、インターネットなどによる通信販売などへ販路を広げている。また、駅弁業者が駅弁と同一の商品を近隣の空港で空弁(そらべん)として販売する例もある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この流れで、駅での販売よりも、駅以外の場所での販売が主力になった駅弁もある。代表例として、ドライブイン・サービスエリアでの販売に重点を移したJR東日本信越本線横川駅の「峠の釜めし」、デパートなどでの販売に重点を移したJR北海道函館本線森駅の「いかめし」の例が挙げられる。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "デパートやスーパーマーケットなどで全国の有名駅弁を集めて販売するイベント、いわゆる「駅弁大会」は人気が高く、入荷してから短時間に売り切れることが多い。鉄道会社がイベントの客寄せに使う例もある。博多駅のように周辺地域(博多駅の場合は九州内全域)の人気駅弁を取り寄せて販売する売店があり、周囲の駅のイベントの際はその場所まで出張販売する例もある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この手の駅弁大会の元祖は、1953年(昭和28年)の髙島屋大阪店が嚆矢であったが、全国的に有名にしたのは1966年(昭和41年)に京王百貨店新宿店で開催された「第1回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」であった。全国各地の有名駅弁業者を新宿に集め、その当地でしか食べられない駅弁が一同に集うというこのイベントは、当時としては非常に斬新であり大盛況となった。その後、駅弁大会は京王百貨店新宿店の1月恒例の一大イベントとして定着しており、現在(2021年時点)に至るまで盛り上がりを見せている。駅弁が旅先での一介の食事から、全国的知名度を持つ名物へと認知されるきっかけともなったイベントであった。阪神百貨店でも「阪神の有名駅弁とうまいもんまつり」と題して同様のイベントを開催しており、京王百貨店と阪神百貨店で東西の双璧となっている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "特殊な装置のある弁当の例としては、1988年(昭和63年)に兵庫県神戸市の「淡路屋」が化学メーカーと組んで開発した生石灰と水の反応熱を使用した加熱装置を組み込み、食べる前に紐を引いて加熱する駅弁を売り出した例がある。この加熱装置付き駅弁は淡路屋だけでも現在(2016年5月時点)3種類が発売されている。また駅弁業者のグループを通じて利用を呼びかけた事から、株式会社こばやしが販売している仙台駅の「極撰 炭火焼き牛たん弁当」など、淡路屋以外にも追随した業者がある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "弁当自体を製造原価の安い日本国外で調製し、日本まで冷凍輸送し解凍して販売することで、コンビニ弁当などに対抗することを目指した駅弁が開発されたことがある。JR東日本関連会社の日本レストランエンタプライズ(NRE)(現:JR東日本クロスステーション)が販売した「O-bento」である。発売当初は売上げを伸ばしたものの、BSE問題により牛肉関連弁当が製造、輸入中止に追い込まれたほか、コストカットのため輸入時に高関税が賦課される米ではなく、肉と魚の含有量が20%超で、米飯と副食が分離できない「肉魚調製品」として輸入する手法が、農民連をはじめとした一部の農業者団体により関税逃れだとして告発され、実際には肉と魚の含有率が20%未満だったとして追徴課税されるなど、低価格での販売継続が困難になり売上げが激減。2007年(平成19年)10月までに在庫切れをもって販売を終了した。ただしこの「O-bento」は既存の駅弁とは大きくスタイルの異なる商品であり、一般的な駅弁のイメージに合致するものではなかった。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "駅弁調製業者は、大きく2分極化している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方に、駅弁専業あるいは駅近隣の旅館、料亭などの内職として作られ続けてきた駅弁がある。それらの調製元は小規模零細の業者がほとんどであり、衰退傾向にある。2010年(平成22年)4月、大都市である大阪駅などで営業していた水了軒が事業停止・破産に追い込まれているほか、2010年(平成22年)12月31日で駅弁の駅売りを終了し、事業停止・破産した博多駅の寿軒、2009年(平成21年)に事業停止した水戸駅の鈴木屋(2010年に廃業)などがこれに該当する。そのほかに、新宿駅の田中屋や立川駅の中村亭のようにJR傘下の会社に吸収合併されたケースもある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ただ、駅構内からは撤退したものの、その後も駅の外(本店)では弁当店や飲食店として営業を継続しているケースとして、日立駅の海華軒、木更津駅の浜屋、亀山駅のいとう弁当店などがある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "もう一方に、駅弁業者を発端として発展を遂げ、現在ではそれぞれの地域で大手の食品製造企業となっている調製元がある。たとえば千葉駅の万葉軒、高崎駅の高崎弁当、横浜駅の崎陽軒、静岡駅の東海軒、敦賀駅の塩荘、神戸駅の淡路屋、姫路駅のまねき食品、広島駅の広島駅弁当などである。これらの調製元は出自として駅弁を守ってはいるものの、売上げ規模などの実態としては既に第一義に駅弁調製業者というのは不適切であり、地域の中核食品企業(外食産業)とでも呼ぶべき存在になっている。たとえば塩荘は日産25000食の供給能力を持つとしており、広島駅弁当に至ってはイベントの際に日産48000食を供給したという実績を持っているほどである。これらの業者は前述の駅弁から撤退・廃業した業者からレシピを引き継ぐことも多く、近年では駅構内だけではなく、道の駅や高速道路のサービスエリアの弁当や空港の弁当(空弁)、デパートの地下食品フロア(デパ地下)などにも進出しているほか、その地域にあるコンビニエンスストアやスーパーマーケットで販売される弁当などの製造請負、レストラン・飲食店運営まで手掛けている場合がある。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "駅弁は、広義には「駅構内で販売される弁当」を意味する。近年、駅構内にコンビニエンスストアが出店して「コンビニ弁当」を販売したり、駅弁業者でない企業がいわゆる「駅ナカ」店舗で弁当を販売する例がある。それらが駅弁に該当するかどうかについては議論がある。旧来の駅弁業者が伝統的な駅弁の他にコンビニ弁当に類似した比較的安価な弁当を販売している場合もあるため、厳密な定義は困難である(先述のように、駅弁業者が出自であっても、その後大規模な食品会社に発展し、その地域のコンビニ弁当やお惣菜商品の調理を一手に引き受けている企業も少なからず存在する)。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "狭義の意味では、「駅弁」とは社団法人日本鉄道構内営業中央会(以下「中央会」と略す)に加盟している業者が調製し駅構内で販売しておりなおかつ米飯が入っている弁当のみを指すこともある。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道(国鉄)時代には白飯と焼き魚、肉料理、フライ、卵焼き、蒲鉾などの一般的な惣菜を使用した、いわゆる幕の内弁当の系列のものを普通弁当と称しそれ以外の弁当を特殊弁当と称して制度上の区分がなされていた。ごはんとおかずというセットになっていないもの、たとえば「押し寿司」などは「特殊弁当」に分類される。さらに国鉄が「米飯がはいっていないものは駅弁ではない」としたために、長万部駅の「そば弁当」や大船駅の「サンドウィッチ」などは国鉄末期まで駅弁として認められなかった。なお、国鉄前身の運輸通信省時代、太平洋戦争下には米飯が排除された時期もある。実際に1943年11月1日からは、節米を目的として主要駅の駅弁が一斉に「芋弁当」(米の代わりに芋を使用)に切り替えられた。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この「中央会加盟業者が調製している」「米を使っている」という条件に該当する弁当は包装紙に共通デザインの「駅弁マーク」と呼ばれる商標を入れ、交通新聞社発行の『JR時刻表』(大型版のみ)欄外に販売駅弁の記載があるのが特徴である。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この「駅弁マーク」を有する弁当のみが「駅弁」であるという定義づけは当の中央会や一部の人々の間で行われているが、この定義は下記のような事情から現実的とは言えない。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "かつての国鉄では、駅改札内での弁当の販売は中央会加盟業者に対してしか認めていなかった。しかし国鉄が分割民営化されJRとなって以降、中央会非加盟の業者にも駅構内での販売を認めるようになったことから「駅構内で販売される弁当」と「中央会」とが必ずしも結びつかなくなった。新規業者の参入のほか既存の業者が中央会を脱退した上で引き続き駅構内での販売する例もあり、「中央会に所属」「駅弁マークがついていること」は条件とはできなくなった。これは駅弁は調製から購入・消費までにタイムラグがあるため、食中毒の防止などを目的として調製方法などに様々な厳しい要求があったこととも関係する。製造から4時間以内で売り切らねばならないという規制はO-bentoの登場とともに廃止された。また、元々は私鉄の駅構内で販売される弁当については中央会は(JR駅でも販売している業者を除いて)関係ない。そして、もっぱら私鉄の駅でのみ販売されている駅弁も存在する。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "中央会に加盟している業者でも駅構内での販売を取りやめ駅前の自社店舗での販売のみとしながら引き続き駅弁マーク入りの駅弁を販売する例もある一方(その場合、時刻表にも引き続き「弁」マークの表示を記載)、駅前に店舗を構える中央会非加盟の弁当業者が独自の弁当を作り「駅弁」を名乗る例や、中央会加盟業者が他地域の駅構内売店事業者の委託を受けて弁当を製造する例もある。後者の例は観光客誘致の手段として、地方においてよく見られる(後述参照)。但し後者のケースで、中央会非加盟の弁当業者のみが販売している駅の場合は、時刻表での「弁」マークの記載はない。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中央会加盟業者がJRの駅構内で販売している場合でも、横浜駅や鳥栖駅で売られている焼売や大船駅で売られているサンドイッチ弁当のように米飯が入っておらず「駅弁マーク」を付けることができなかったが一般には駅弁と見なされている商品もある。大船軒の「サンドウィッチ」には駅弁マークこそついていないが、包装紙には「SINCE 1898/日本デ最初ノ駅弁サンドウィッチ」と明記されている。また、山陰本線の益田駅のように、時刻表には全く駅弁の表記が無いのに、キヨスクには「益田駅の駅弁」と大きく書かれ、ごく普通にキヨスクで販売されている例もある。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以上のような事情から、駅構内や駅前の弁当業者の店舗で販売される弁当を総合して「駅弁」と呼ぶ場合が多い。デパートで催される駅弁大会に出品されたり旅情報を扱ったテレビ番組で取り上げられたりする「駅弁」もこのような広義の条件に該当する弁当であり、中央会加盟業者が調製する弁当とは限らない。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "車内販売のある列車では駅弁のほか、列車内限定で発売される弁当もある。イベント列車などにおいては、そのイベント列車限定で発売される弁当もある。これらも一般的には「駅弁」に含まれるものと解されている。", "title": "駅弁の定義について" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "多くの販売店では、駅弁を食べる際の飲み物として煎茶が販売されている。販売店によっては街の持ち帰り弁当店と同様に即席の味噌汁やスープも販売し、それらに使うお湯を供するケースもある。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "明治時代から昭和30年代までは。湯呑兼用の蓋が付いた汽車土瓶と呼ばれる陶器の小瓶入りの茶が駅弁と共に販売されていた。汽車土瓶の期限は、1889年(明治22年)に静岡駅で信楽焼の土瓶にお茶を入れて販売したのが嚆矢と言われている。信楽焼や益子焼、瀬戸焼、常滑焼、会津本郷焼で製造され、表面に駅名や、販売元、金額が書かれていた。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)、鉄道省は内容物が見えない事や衛生上の理由により土瓶を禁止したため、大日本麦酒などによるガラス製のガラス茶瓶が登場した。しかし煎茶が丸見えのため尿瓶のように見えて飲む気にならない、窓からのポイ捨てで沿線の住民や保線工がケガする危険があるなどの理由で、ガラス製の茶瓶はわずか数年で製造が中止され、昭和に入ると静岡駅で汽車土瓶の販売が再開された。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "汽車土瓶は重量があり破損しやすいため、後にポリ容器入りにとって代わる事となる。しかし2020年代現在も製造している業者があり、小淵沢駅で汽車土瓶入りの煎茶が販売されているほか、復刻の形で駅弁とともに期間限定で販売されることがある。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "昭和30年代以降、汽車土瓶に代わって半透明の厚いビニールやポリプロピレンなどで出来たポリ茶瓶が一般的となった。基本的には、黄緑色のプラスチックのスクリューキャップ(ネジ式の蓋。汽車土瓶の蓋同様に湯呑機能も持つ)の付いた小瓶にその場でポットなどからお茶を注いで販売されたが、利便性や機能性の面から複数の種類が登場する事となった。前述の容器に既に淹れたお茶を入れるだけの物や、容器に湯を注いで購入者が飲む際に淹れられるようティーバッグを添えて売られるもの、ティーバッグタイプも紐のついたティーバッグを容器の中へ吊るしたもの、紐無しの物を直接投入するだけのもの、画像にあるような弾力のあるビニールの小瓶にティーバッグ専用のスペースを設けて購買者が瓶の上からティーバッグを揉むことで濃さを調節できるもの、容器に茶漉しを付けて粉茶を直接投入するものなどバラエティに富んでいた。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "しかしビニール容器入りの煎茶も1980年代末期以降、販売時にお湯を用意する必要のない缶入りの緑茶や烏龍茶が普及したため、少なくなった。さらに1996年(平成8年)4月に500ミリリットル以下のペットボトル飲料の販売が解禁されたため、2000年代以降ではあまり見られなくなり、駅弁とともに売られるお茶は、ペットボトルや缶入りのお茶にほぼ取って代わられたといえる。(2016年5月)現在でもポリ茶瓶のお茶が販売されているのは、いすみ鉄道いすみ線大原駅(千葉県)、伊東駅(静岡県)など日本全国で10駅に満たないが、ポリ茶瓶も汽車土瓶と同様に復刻の形で販売されることがある。", "title": "駅弁と茶" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "かつての旧日本領や支配地域(外地)では、現地当局が運営する鉄道(台湾総督府鉄道、朝鮮総督府鉄道、樺太庁鉄道)や南満洲鉄道の各駅で、内地同様に駅弁が販売されていた。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "台湾は旧日本領で一番「駅弁文化」を発展させている国であり、日本と異なる独自な文化を持っている。台湾の駅弁は「鐵路便當」と呼ばれ、台湾各地の鉄道駅や列車の車内販売で販売される。日本の冷めた状態が前提で作り置き販売される駅弁当とは異なり、温かいままの状態で店頭販売される。駅弁の内容は、排骨飯便當(油で揚げた骨付きの豚ばら肉を白飯の上に載せたもの)や雞腿便當(骨付き鶏もも肉揚げ)に滷水蛋(中国語版)(台湾風煮卵)、豆腐干、沢庵漬けや高菜を添えたものなど、米飯と肉料理と付け合わせから構成される弁当が一般的である。このような弁当は駅や地方により多少の違いはあるが、どの駅でも大きな差異はなく比較的画一的である。また、台東線の池上駅などでは近年まで駅弁の立ち売りが行われていたほか、2015年7月には台北で国際駅弁祭り(國際鐵道便當節)が開催され、日本や台湾を始めとする6か国11社の駅弁が販売された。2020年8月、日本の事業者として初めて崎陽軒が台北駅にシウマイ弁当を販売する駅弁店を出店した。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "韓国でも、駅構内や車内販売で米飯にプルコギを主体とする惣菜を合わせた幕の内弁当のような弁当、その他の米飯と数種の惣菜による幕の内弁当のような弁当、海苔巻きの弁当が販売されているが、日本の駅弁ほどの多様性は無い。しかし近年では日本の駅弁文化に習い、ソウル駅に多数の駅弁販売店が出店し、多様な駅弁が販売されるようになった。また北朝鮮では、首都の平壌駅に駅弁があると北朝鮮鉄道本「将軍様の鉄道」に著されている。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "樺太南部(サハリン)では、1945年(昭和20年)まで樺太東線知取駅などで駅弁の販売が行われたほか、残留ロシア人による「ロシアパン」の駅売りも行われていた。これらはソビエト連邦による占領以降は廃止されたが、現在(2016年時点)でも、主要駅の売店ではピロシキやサラダなどの惣菜類が販売されている。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "蒙疆自治政府(南モンゴル)や満州国(中国東北地方)では、日本の影響で駅弁業者がいくつか存在したが、中国(北京政府)に帰属されると、後述の「中国」に準じた駅弁事情となっている。また、ミクロネシアではパラオ、北マリアナに鉄道が敷設されるが、鉱山鉄道だったことから駅弁がなく、戦後も鉄道が無いので駅弁は存在しない(パラオには観光用モノレールがある)。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "中国では、食堂車営業列車の車内販売で弁当(盒饭)が販売される。メニューは通常は、朝食がマントウと粥、昼食と夕食は米飯や炒麺と肉料理などのおかず数品がセットとなっている。いずれも食堂車で調製され、温かいままの状態で販売される。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "モンゴルでは、ウランバートル駅をはじめとする主要駅及び列車内で弁当の販売がある。K3/4次列車など国際列車以外の列車でも、ピロシキや羊肉の入った水餃子などが販売される。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "東南アジアの各国でも、鉄道駅構内や車内販売で弁当が販売されている。ベトナムの列車では車内販売は国鉄職員が担当し、食堂車で調製された弁当が温かい状態のままスープとともに販売されるほか、駅のホームでも弁当やバインミーが販売されている。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "タイではガパオライス(米飯の上に肉料理と目玉焼きを載せたもの)やパッタイ、タイカレーなど多種多様な弁当が販売されている。これらの弁当は、発泡スチロール製の容器に米飯を入れ、その上におかずを載せたスタイルが一般的であるが、バナナの葉やビニールに料理を包み、一口サイズにして販売されている弁当もある。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "マレーシアでもナシゴレンやナシレマッなどの弁当が販売され、紙箱やタッパーなどに入ったもののほか、ナシブンクス(インドネシア語版) (Nasi bungkus) と呼称されるバナナの葉やビニールコーティングされた紙の上に米飯とおかずを盛り、包んだ状態で提供される弁当もある。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ラオスでは中国ラオス高速鉄道が開業したが、連結している食堂車が未開業であるためか、車内で駅弁を販売している。 カンボジアとフィリピンには食堂車がないため、主要駅で駅弁を販売。ミャンマー、インドネシアも食堂車はあるが、駅弁も主要駅で販売。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "インドでは、ダッバー (Dabba) という金属製の容器に、カレーと米飯やチャパティなどのパン類を入れた弁当が鉄道駅や列車内で販売される。スリランカでも一部の列車で駅弁を販売。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "オーストラリア、ニュージーランドでは特定の長距離列車で販売されている。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "エジプトでは寝台列車で弁当がある。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではイタリア北部・中部やフランスの各地で、肉料理にサラダ、パスタ、パンかサンドウィッチ、小瓶のワインを合わせた食事セットが販売される鉄道駅がある。しかし食事セットはどの駅でも大きな差異はなく、販売される駅も日本の駅弁販売駅ほど多くはない。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "なお、2012年4月に運行を開始したイタリアの高速列車イタロ (Italo) では、日本の駅弁を参考にしたイタロ・ボックスが有料で提供されている。そのほかに2016年3月より、パリのリヨン駅でJR東日本及び日本レストランエンタプライズとフランス国鉄の共同企画として、日本の駅弁5種類が販売された。当初は2カ月間限定の企画であったが、好評であったため販売期間が延長された。リヨン駅では、さらに2018年11月にも期間限定ショップが設けられ、駅弁の販売が行われたことがある。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "フランスのパリでは、日本留学時にホームステイ先で作ってもらった弁当を参考にして、3軒の駅弁店を経営している女性が存在する。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "メキシコではチワワ太平洋鉄道が唯一の存在。鈍行列車では車内で食べられるが、急行列車では不可能。その代わり、急行列車には食堂車がある。ほか、キューバやペルーにもある。", "title": "日本国外の駅弁" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "主な駅弁の種類についてはCategory:駅弁の対象記事を参照。", "title": "日本各地の駅弁" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "山口県と埼玉県では、地元の業者が全て駅弁販売から撤退した。大阪府では、他県所在の業者に営業譲渡した1種類の駅弁のみが残る。京都府と沖縄県では、2019年時点で地元企業は1事業者のみ。徳島県に至っては駅弁が全滅している。しかし、たとえば徳山駅の「あなごめし」は2010年(平成22年)3月に従来の駅弁業者が撤退したが、同年7月には水産物の通販を行う徳山ふくセンター(中央会非加盟)が別のレシピで販売を開始した。また、松山駅の「醤油めし」(岡山県の三好野本店が製造)や新山口駅の「SL弁当」(広島駅弁当が製造)、博多駅の「かしわめし」(広島駅弁当が設立した「博多寿改良軒」が製造)のように、他県の駅弁事業者が名物駅弁のレシピを受け継いで製造し、鉄道会社の系列会社等に販売を委託して『復活』させる事例もある。沖縄では正規の駅弁は全滅しているが、(園内鉄道がある)名護市の「ナゴパイナップルパーク・アナナスキッチン」のスパイシーソイミートロール、パイナップルタコライス、今帰仁村の「古宇利オーシャンタワー・オーシャンブルー」のピザが購入可能である。", "title": "日本各地の駅弁" } ]
駅弁(えきべん)は、鉄道駅で旅客向けに販売されている弁当である。
{{Otheruses}} [[ファイル:Tōge no Kamameshi.jpg|thumb|right|群馬県・[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]の[[峠の釜めし]]]] [[ファイル:Ikameshi (ekiben) 01.jpg|thumb|right|北海道・[[森駅 (北海道)|森駅]]の[[いかめし]]]] '''駅弁'''(えきべん)は、[[鉄道駅]]で旅客向けに販売されている[[弁当]]である。 == 概説== [[ファイル:3b42202.jpg|thumb|right|[[1902年]](明治35年)の日本における駅弁販売光景]] [[日本]]では[[1885年]]([[明治]]18年)[[7月16日]]に[[栃木県]]の[[宇都宮駅]]で販売された[[おにぎり]]が初例である<ref name = kadokawa>『[[大辞泉]]』[[角川書店]]</ref><ref name = shogaku-kan>『[[日本大百科全書]]』[[小学館]]</ref>とされるが、異説もある(「[[#起源|起源]]」参照)。 駅弁の持つ歴史や情緒などが好まれ、「各地の名物」として[[百貨店]]等で販売されることもある([[元祖有名駅弁と全国うまいもの大会]]など<ref name="東洋経済20210114">さとうようこ:[https://toyokeizai.net/articles/-/403186 京王百貨店「駅弁大会」開催を決断した舞台裏 例年とは異なり、鉄道業界を盛り上げる企画へ] [[東洋経済新報社|東洋経済]]ONLINEオンライン(2021年1月14日)2021年8月9日閲覧</ref>、[[#地方の名物とする試み、イベント商品としての拡販|後述]])。 ==起源== 日本最古の駅弁がどこの駅でいつ発売されたのかについては諸説ある。1885年(明治18年)7月16日に[[日本鉄道]]の嘱託を受けた旅館「[[白木屋]]」が、この日開業した[[日本鉄道]](現在の[[東日本旅客鉄道]][[東北本線]])[[宇都宮駅]]で[[おにぎり|握り飯]]2個と[[沢庵漬け|たくあん]]を[[竹]]の皮に包んで販売した例が、前述のように最初の事例とされる<ref name = kadokawa/><ref name = shogaku-kan/><ref>日本国有鉄道中央会『会員の家業とその沿革』[[1958年]]6月</ref>。そのため、宇都宮説による駅弁発売日である7月16日は'''「駅弁記念日」'''となっており、数多くの文献や[[ウェブサイト]]が駅弁記念日を紹介する際に宇都宮説を紹介している<ref>[http://www.ekiben.or.jp/main/hot_news/2015/03/001813.php おかげさまで駅弁130周年] [[一般社団法人|一社)]]日本鉄道構内営業中央会(2021年8月9日閲覧)</ref>。 起源についてはこの他に以下の説がある。 * [[1877年]](明治10年)頃の[[大阪駅|梅田駅(現・大阪駅)]]説<ref>[[ダイヤモンド社]]『旅窓に学ぶ』[[1934年]][[7月6日]]</ref>。 * 1877年(明治10年)頃の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]説<ref>[https://www.awajiya.co.jp/history/ 淡路屋の歴史](2021年8月9日閲覧)</ref>。 *1880年(明治13年)の[[銭函駅]]説<ref group="注釈">[[西辻甚太郎]]が北海道で初めて立ち売りした(とされる)酒饅頭を起源とするもの。「[[銭函駅#駅弁]]」参照。</ref>。 * [[1883年]](明治16年)7月に[[熊谷駅]]で[[寿司]]と[[パン]]を売り出したのが始まりという説<ref>さきたま出版会『さいたまの鉄道』1999年</ref>。 * [[1883年]](明治16年)の[[上野駅]]説<ref>日本鉄道『改正日本鉄道規則及び諸賃金明細独案内』[[1883年]]12月</ref>。 * [[1884年]](明治17年)の[[敦賀駅]]説<ref>[http://shioso.co.jp/company-history/ 塩荘の歴史] 株式会社 塩荘(2021年8月9日閲覧)</ref> * 1884年(明治17年)に[[高崎駅]]説。これは[[高崎弁当]]が自説として1884年(明治17年)に[[高崎駅]]でおにぎり弁当を発売したと述べているもの<ref>[http://www.takaben.co.jp/history-takaben/index2.html#btn たかべんの歩み] 高崎弁当(2021年8月9日閲覧)</ref>であるが、一般的には高崎弁当の販売開始は[[信越本線|信越線]]開通の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]での駅弁販売開始に続く[[1886年]](明治19年)3月だったと言われている<ref name = shogaku-kan/>。 現在のような[[折箱|折詰]]に入った駅弁は、[[1890年]](明治23年)に[[姫路駅]]で[[まねき食品]]が発売したものが最初との説がある<ref>[http://www.maneki-co.com/makunouchi/ 明治22年発売の「元祖」幕の内駅弁] まねき食品株式会社(2021年8月9日閲覧)</ref>。また農文協(社団法人[[農山漁村文化協会]])刊行の『日本の食生活全集 28 聞き書 兵庫の食事』(1991年)にも「元祖・駅弁--姫路の『まねき』」と題する記述があり、そこでは[[1889年]](明治22年)に姫路駅で発売された物を駅弁の元祖とし以下のように述べている。 {{quotation|…日本初の駅弁は、明治十八年に日本鉄道会社宇都宮駅で売り出されたものというが、これはにぎり飯二個を竹の皮で包んだだけであった。折り箱に入った幕の内風で、その後の駅弁の形をつくり出したのは、この姫路の駅弁が元祖といえる。}} この弁当の中身は「[[鯛|たい]]の塩焼き、[[伊達巻|伊達巻き]]、焼き[[蒲鉾|かまぼこ]]、[[だし巻き卵]]、[[ダイズ|大豆]][[コンブ|こんぶ]]煮付け、[[栗きんとん]]、[[ゴボウ|ごぼう]]煮つけ、少し甘みをつけて炊いた[[ユリ根|ゆり根]]、薄味で煮つけた[[フキ|ふき]]、香の物は[[奈良漬け|奈良漬]]と[[梅干し]]、黒[[ゴマ|ごま]]をふった[[飯|白飯]]」(同書)とされる。 また[[名古屋駅]]では、[[1886年]](明治19年)[[5月1日]]の駅開業時<ref group="注釈">[[徳田耕一]]『名古屋駅物語』(交通新聞社、2016年)48頁によれば[[1888年]](明治21年)とされている。仮に1888年であったとしても、姫路駅より早い。</ref>から服部商店(服部茂三郎)<ref group="注釈">服部商店は[[1922年]](大正11年)10月をもって後継者の問題により引退、翌11月から松浦弥兵衛に引き継いだ。これが2016年時点も弁当を調製・販売している松浦商店のルーツである。</ref>により弁当の立ち売りを開始した。これについて、[[1930年]]([[昭和]]5年)の月刊雑誌『[[旅 (雑誌)|旅]]』の「駅辨の話」で以下のように述べられている<ref>{{Cite book ja-jp|author =林順信||chapter =駅弁物語|others2=大野一英・林鍵治|year=1986年|title=鉄道と街・名古屋駅|publisher=大正出版 |page=102-105}}</ref>。 {{quotation|…名古屋の服部商店では、最初から杉の折箱を用い、レッテルを掛けず、蓋には焼印で「驛辨」と押して、紐をかけずに、[[フジ (植物)|籐]][[つる植物|づる]]でしばって、一折八[[銭#日本|銭]]也で発売した。}} 「最初から」が1886年を意味するならば、姫路駅よりも早いことになる。 == 駅弁と軍弁 == [[第二次世界大戦]]前、各所に駅弁業者が開業するにつれ、[[日本軍]]の部隊が[[演習]]や出征等により鉄道で移動する際の車内での食事用にも駅弁が利用されるようになり、その場合、軍の輸送計画に基づき軍部隊から経路上の駅弁業者に発注・手配が行われた(「軍弁」)<ref name="gunben">伊藤東作『本当にあった[[第101建設隊|陸自鉄道部隊]]』([[光人社]]、2008年、ISBN 978-4-7698-2574-6)pp.41-42</ref><ref group="注釈">軍部隊は、出動時の輸送手段・経路等を平時から予め調査・検討し、鉄道省等との間で軍用列車の手配等に備えた調整等も行っていた(演習での移動はその検証でもあった)。移動中の食事の供給についても、経路上の駅弁業者の供食能力を把握し、輸送計画実施時の発注に備えて調整を行っていた。</ref>。輸送計画の秘匿のため発注がなされるのは直前であり、駅弁業者には短時日で大量の弁当調製対応が求められた。難しさを伴ったものの需要は大きく、ある程度定期的に行われる演習による発注は駅弁業者の収益源の一つともなり、駅弁業者はその需要に応えるよう努め、駅弁の進歩・普及の背景ともなった<ref name="gunben"/>。戦時中は食糧事情の悪化により食材も不足し、軍弁といえども弁当の内容は簡素なものとなっていった。 戦後、[[自衛隊]]の部隊の鉄道輸送時にも、移動中の食事には[[駐屯地]]給食の手配(「運搬食」)と併せて駅弁も利用されている<ref name="gunben"/>。 == 販売形態 == {{出典の明記|section=1|date=2012年9月|ソートキー=鉄}} [[ファイル:Ofuna_ken_ekiben_booth.jpg|thumb|right|日本で一般的な駅弁販売スタンド(神奈川県・[[鎌倉駅]])]] [[ファイル:Station_lunch_selling,Yoshimatsu-sta.,Yusui-town,Japan.jpg|thumb|right|希少になった売り子による駅弁立ち売り(鹿児島県・[[吉松駅]])]] [[画像:崎陽軒 (8968795525).jpg|thumb|right|世界的にも稀な「地下鉄での駅弁販売」(神奈川県・[[あざみ野駅]])]] 最も一般的な販売形態は、駅構内や[[プラットホーム|ホーム]]上にある駅弁調製業者の売店で店頭に置いて販売している形である。調製業者が経営する駅構内の[[立ち食いそば・うどん店]]、[[キヨスク]]など調製業者以外が経営する売店などが扱っている場合もある。 このほかに、駅弁の多く売れる食事時間帯前後や[[ブルートレイン (日本)|寝台特急列車]]、[[臨時列車#イベント列車|イベント列車]]などの到着時に限り、ホーム上に[[キャスター (移動用部品)|キャスター]]つきの[[荷車|カート]]または台を置き、その上に駅弁や[[茶]]を陳列して売り子が販売する形態がある<ref>{{Cite news|url=https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130412/dms1304120711009-n1.htm|title=寝るか起きるか迷う! 寝台特急「あけぼの」の旅|newspaper=ZAKZAK|date=2013-04-12|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/120721/trd12072112010003-n2.htm|title=【鉄道ファン必見】OL鉄子“SLばんえつ物語”号に乗る! 念願かなった七夕の旅|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2012-07-21|accessdate=2016-05-03}}</ref>。また、かつての駅弁売りの典型的スタイルであった、売り子が[[帯]]([[たすき]])のついた[[ばんじゅう]]に駅弁や茶を入れ、容器を前方に出す形で首から下げホーム上を歩いて掛け声を発しながら販売する「立ち売り」がある<ref name=tachiuri>{{Cite news|url=http://www.news-postseven.com/archives/20140513_256277.html|title=なぜ、駅のホームで駅弁を売る「立ち売りさん」はいなくなった 駅弁の歴史を紐解く|newspaper=[[NEWSポストセブン]]|date=2014-05-13|accessdate=2016-05-03}}</ref>。しかしいずれも減少傾向にあり<ref name=tachiuri/>、2016年5月の時点で駅弁の立ち売りが行われているのは、<!-- [[下今市駅]]<ref>{{Cite news|url=http://response.jp/article/2015/08/16/257967.html|title=「東武のSL復活」でヒートアップ!? 下今市で新旧駅弁がガチンコ対決|newspaper=レスポンス([[Response.]]jp)|date=2015-08-16|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>[http://travel.biglobe.ne.jp/ekiben/special03/ 旅の玉手箱「全国駅弁ガイド」北関東・東武日光線の旅 - BIGLOBE旅行]</ref>([[栃木県]])、 2015年夏期で立ち売り終了-->、[[折尾駅]]<ref>[http://tochikuken.co.jp/shop/kks/kks_orio/tachiuri/ 立ち売り紹介]{{リンク切れ|date=2021年8月}}東筑軒</ref>([[福岡県]])、[[人吉駅]]<ref>{{Cite news|url=http://www.kininaru-k.jp/2008/back_doc/09/0904/genki.html|title=連載「くまもと元気モン!」第375号|newspaper=熊本県広報課|date=2008-09-04|accessdate=2016-05-03}}{{リンク切れ|date=2021年8月}}</ref><ref>[https://archives.bs-asahi.co.jp/mirai_isan/lineup/000089/ #89「土地を味わう、立ち売りの駅弁」(熊本県人吉市)][[BS朝日]]「みらい遺産 ~Human×Lands~」2015年12月15日(2021年8月9日閲覧)</ref>([[熊本県]])、[[吉松駅]]<ref>{{Cite news|url=http://www.47news.jp/localnews/hotnews/2015/09/post-20150916215725.html|title=昔ながらの駅弁立ち売り、鹿児島県で唯一 JR吉松駅|newspaper=[[47NEWS]](よんななニュース)|date=2015-09-16|accessdate=2016-05-03}}</ref>([[鹿児島県]])など日本全国で10駅に満たない。長年続いた<ref>{{Cite news|url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1486|title=中部エリアで最後の駅弁立売美濃太田駅弁「松茸の釜飯」 美濃太田駅 向龍館|newspaper=[[WEDGE]] Infinity(ウェッジ)|date=2011-09-13|accessdate=2016-05-03}} {{Cite news|url=http://www.asahi-mullion.com/column/article/station/478|title=コラム/ひとえきがたり/美濃太田駅(岐阜県、JR高山)|newspaper=朝日マリオン・コム|date=2014-03-04|accessdate=2016-05-03}}</ref>[[美濃太田駅]]([[岐阜県]])のように、担当者の引退で駅弁ともども終了した例もある<ref>[https://www2.ctv.co.jp/news/2019/05/29/52641/ "60年間愛された釜飯弁当に幕 駅のホームで売り続けた男性(75)が引退へ 時代の移り変わりで 岐阜・美濃加茂市"]『[[中京テレビ]]』2019年5月28日放送</ref>。 駅構内のほか、古くから列車(主に[[優等列車]])内の[[車内販売]]でも沿線の駅の駅弁が取り扱われている<ref>{{Cite news|url=http://dime.jp/genre/159704/1/|title=ワゴンの中の商品点数は?最も売れる時間帯は?東海道新幹線「車内販売」のヒミツ|newspaper=[[DIME (雑誌)|@DIME アットダイム]]|date=2015-11-16|accessdate=2016-05-03}}</ref>。後述のように、駅弁とされながら業者が駅構内の販売を取りやめて、駅近くの自社店舗等で販売している例もある。 業者によっては[[電話]]等で予約し、予約時に乗車する列車と車両を通知すれば当該列車・車両の乗降口まで駅弁を届けて販売するサービスも行なっている。また、そのような予約による販売のみで完全予約制の[[会席料理]]と同様の[[惣菜]]を[[重箱]]に詰めた高価な駅弁も[[金沢駅]]などにある<ref>{{Cite news|url=https://www.news-postseven.com/archives/20131016_218287.html?DETAIL|title=1個1万円 金沢駅の超豪華駅弁『加賀野立弁当』(要予約)|newspaper=NEWSポストセブン|date=2013-10-16|accessdate=2016-05-03}}</ref>。また{{いつ範囲|近年では|date=2021年10月}}、[[インターネット]]等による駅弁の[[通信販売]]を取り扱っている業者もある(低温で配送できるクール[[宅配便]]の登場による)。 2020年以降は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の蔓延により旅行・出張や催事が減り、駅弁の製造・販売事業者は苦境に陥っている。インターネット通販を新たに始めたり、駅弁販売店の閉鎖やカレー店への業態転換を進めたりする企業もある<ref>「コロナ長期化 駅弁大打撃 生き残り:業態を変更/ 通販強化へ」『[[日本農業新聞]]』2021年2月24日16面</ref>。その中で2022年には[[東京都知事]]・[[小池百合子]]の発案で、宿泊療養施設の食事に週1回程度、駅弁や航空会社の[[機内食]]を取り入れる<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220114/k10013430881000.html 小池知事 “交通機関の運休 東京でも” 感染拡大防止に協力を] - NHK NEWS WEB([[日本放送協会]]) 2022年1月14日 17時07分</ref>。 == 現状 == {{出典の明記|section=1|date=2012年9月|ソートキー=鉄}} === 概要 === かつては停車中に立売りの売り子を窓近くへ呼んで窓越しに購入する方法が主流であった。現在は窓が開閉できない鉄道車両が増えたために窓越しの受け渡しが不可となったためこの方式は珍しい。 [[高速化 (鉄道)|列車の高速化]]による停車時間の短縮、目的地への移動時間の短縮、[[コンビニエンスストア]]ならびにキオスクの廉価な弁当や弁当以外の軽食・パン類との競合、駅構内での[[飲食店]]の充実(いわゆる「[[駅ナカ]]」)、優等列車での車内販売の縮小・廃止などによって駅構内や車内販売での駅弁の売上は減少する傾向にあり<ref>[http://wbslog.seesaa.net/article/426490344.html 駅弁ブームの陰で…“地方の駅弁”が大ピンチ] ワールドビジネスサテライト、2022年4月23日閲覧</ref>、業者の撤退・廃業も珍しくない<ref>{{Cite news|url=http://www.zakzak.co.jp/top/200907/t2009070238_all.html|title=“最北の駅弁屋”惜しむ声…「角舘商会」廃業 |newspaper=ZAKZAK|date=2009-07-02|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH4R3DCCH4RTZNB002.html|title=山口の駅弁会社なくなる 創業1世紀、時代の波に勝てず|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2015-04-27|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/entame/railway/20150430-OYS1T50039.html|title=山口唯一の駅弁撤退「小郡駅弁当」4月末で|newspaper=[[読売新聞]]|date=2015-04-29|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://blog.hokkaido-np.co.jp/tamatetsu/2015/06/post-35.html|title=特急オホーツク 車内販売の思い出|newspaper=[[北海道新聞|どうしん]]鉄道[[ブログ]]|date=2015-06-18|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 とりわけ商売環境の厳しい四国では地場業者が日常的に調製しているのは[[今治駅]]と[[高知駅]]の僅か2駅のみである。岡山の業者が調製し納入している[[高松駅 (香川県)|高松駅]]と[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]を合わせても4駅のみである。[[徳島線]]「藍よしのがわトロッコ」の運転日に下り列車が[[貞光駅]]を発車後に車内で買える駅弁も含め、5駅まで減っている。 === 地方の名物とする試み、イベント商品としての拡販 === 駅構内で販売される実用的な食事という枠を越え、地域の特産品などを盛り込んだ郷土色溢れる弁当としての発展を目指すという方向性が駅弁の一つの流れとなっている。それらは自動車旅行のための[[ドライブイン]]・[[サービスエリア]]や、[[百貨店|デパート]]の催事、インターネットなどによる通信販売などへ販路を広げている。また、駅弁業者が駅弁と同一の商品を近隣の[[空港]]で[[空弁]](そらべん)として販売する例もある。 この流れで、駅での販売よりも、駅以外の場所での販売が主力になった駅弁もある。代表例として、ドライブイン・サービスエリアでの販売に重点を移した[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[信越本線]][[横川駅 (群馬県)|横川駅]]の「[[峠の釜めし]]」、[[デパート]]などでの販売に重点を移した[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[函館本線]][[森駅 (北海道)|森駅]]の「[[いかめし]]」の例が挙げられる。 デパートや[[スーパーマーケット]]などで全国の有名駅弁を集めて販売する[[イベント]]、いわゆる「駅弁大会」は人気が高く、入荷してから短時間に売り切れることが多い。鉄道会社がイベントの客寄せに使う例もある。[[博多駅]]のように周辺地域(博多駅の場合は九州内全域)の人気駅弁を取り寄せて販売する[[売店]]があり、周囲の駅のイベントの際はその場所まで出張販売する例もある。 この手の駅弁大会の元祖は、[[1953年]]([[昭和]]28年)の[[髙島屋]]大阪店が嚆矢<ref>京王百貨店駅弁チーム p15</ref>であったが、全国的に有名にしたのは[[1966年]](昭和41年)に[[京王百貨店]]新宿店で開催された<ref>京王百貨店駅弁チーム p14</ref>「[[元祖有名駅弁と全国うまいもの大会|第1回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会]]」であった。全国各地の有名駅弁業者を新宿に集め、その当地でしか食べられない駅弁が一同に集うというこのイベントは、当時としては非常に斬新であり大盛況となった。その後、駅弁大会は京王百貨店新宿店の1月恒例の一大イベントとして定着しており、現在(2021年時点)<ref name="東洋経済20210114"/>に至るまで盛り上がりを見せている。駅弁が旅先での一介の食事から、全国的知名度を持つ名物へと認知されるきっかけともなったイベントであった。[[阪神百貨店]]でも「阪神の有名駅弁とうまいもんまつり」と題して同様のイベントを開催しており、京王百貨店と阪神百貨店で東西の双璧となっている。 === 新機軸の導入 === [[File:発熱ユニット (5512967989).jpg|thumb|[[米沢駅]]で販売されている[[すき焼き]]弁当。発熱ユニットが付属している。]] 特殊な装置のある弁当の例としては、[[1988年]](昭和63年)に兵庫県[[神戸市]]の「[[淡路屋 (神戸駅)|淡路屋]]」が化学メーカーと組んで開発した[[生石灰]]と水の[[反応熱]]を使用した加熱装置を組み込み、食べる前に紐を引いて加熱する駅弁を売り出した例がある。この加熱装置付き駅弁は淡路屋だけでも現在(2016年5月時点)3種類<ref>[http://www.awajiya.co.jp/prod/prod_ekiben.htm お弁当の淡路屋 駅弁]</ref>が発売されている。また駅弁業者のグループを通じて利用を呼びかけた事から、株式会社[[こばやし (企業)|こばやし]]が販売している[[仙台駅]]の「極撰 炭火焼き[[牛タン|牛たん]]弁当」など、淡路屋以外にも追随した業者がある。 === コストダウンの試み - NREの「O-bento」 === 弁当自体を製造原価の安い日本国外で調製し、日本まで冷凍輸送し解凍して販売することで、コンビニ弁当などに対抗することを目指した駅弁が開発されたことがある。JR東日本関連会社の[[日本レストランエンタプライズ]](NRE)(現:[[JR東日本クロスステーション]])が販売した「O-bento」である。発売当初は売上げを伸ばしたものの、[[BSE問題]]により牛肉関連弁当が製造、輸入中止に追い込まれたほか、コストカットのため輸入時に高関税が賦課される米ではなく、肉と魚の含有量が20%超で、米飯と副食が分離できない「肉魚調製品」として輸入する手法が、[[農民運動全国連合会|農民連]]をはじめとした一部の農業者団体により関税逃れだとして告発され、実際には肉と魚の含有率が20%未満だったとして[[追徴課税]]されるなど<ref>[http://www.nouminren.ne.jp/dat/200705/2007051405.htm 外国産輸入弁当(オーベントー)販売打ち切りに JR東日本の子会社NRE] - 農民運動全国連合会(2007年5月14日)、2022年4月7日閲覧</ref>、低価格での販売継続が困難になり売上げが激減。[[2007年]]([[平成]]19年)10月までに在庫切れをもって販売を終了した。ただしこの「O-bento」は既存の駅弁とは大きくスタイルの異なる商品であり、一般的な駅弁のイメージに合致するものではなかった。 === 駅弁調製業者の現況 === [[File:Futaba Kyubi Center 1966.jpg|thumb|right|250px|かつて[[黒磯駅]]にて「九尾の釜めし」「九尾すし」などの駅弁を販売していた[[フタバ食品|フタバ九尾センター]](1966年)]] 駅弁調製業者は、大きく2分極化している。 一方に、駅弁専業あるいは駅近隣の旅館、料亭などの内職として作られ続けてきた駅弁がある。それらの調製元は小規模零細の業者がほとんどであり、衰退傾向にある。2010年(平成22年)4月、大都市である[[大阪駅]]などで営業していた[[水了軒]]が事業停止・破産に追い込まれている<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201102030028.html|title=水了軒の八角弁当、宅配から復活へ 10年前の味で|newspaper=[[朝日新聞デジタル|asahi.com(朝日新聞社)]]|date=2011-02-03|accessdate=2016-05-03}}</ref>ほか、2010年(平成22年)12月31日で駅弁の駅売りを終了し、事業停止・破産した[[博多駅]]の[[寿軒]]、2009年(平成21年)に事業停止した[[水戸駅]]の鈴木屋(2010年に廃業)などがこれに該当する。そのほかに、[[新宿駅]]の[[日食田中屋|田中屋]]や[[立川駅]]の[[エヌアールイー中村亭|中村亭]]のようにJR傘下の会社に吸収合併されたケースもある<ref>[http://tanakaya-yoyogi.com/ 株式会社田中屋]</ref>。 ただ、駅構内からは撤退したものの、その後も駅の外(本店)では弁当店や飲食店として営業を継続しているケースとして、[[日立駅]]の海華軒、[[木更津駅]]の浜屋<ref>[http://www.5han.co.jp/history/index.html 歴史|バーベキュー弁当の木更津吟米亭「浜屋」]</ref>、[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]のいとう弁当店<ref>[http://kameyama-kanko.com/home/genre/souvenir/b015/index.html 志ぐれ茶漬け弁当] 亀山市観光協会</ref>などがある。 もう一方に、駅弁業者を発端として発展を遂げ、{{いつ範囲|現在では|date=2021年10月}}それぞれの地域で大手の食品製造企業となっている調製元がある。たとえば[[千葉駅]]の[[万葉軒]]、[[高崎駅]]の[[高崎弁当]]、[[横浜駅]]の[[崎陽軒]]、[[静岡駅]]の[[東海軒]]、[[敦賀駅]]の[[塩荘]]、[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]の[[淡路屋 (神戸駅)|淡路屋]]、[[姫路駅]]の[[まねき食品]]、[[広島駅]]の[[広島駅弁当]]などである。これらの調製元は出自として駅弁を守ってはいるものの、売上げ規模などの実態としては既に第一義に駅弁調製業者というのは不適切であり、地域の中核食品企業([[外食産業]])とでも呼ぶべき存在になっている。たとえば塩荘は日産25000食の供給能力を持つ<ref>[http://shioso.co.jp/service/ 事業紹介 株式会社 塩荘]</ref>としており、広島駅弁当に至ってはイベントの際に日産48000食を供給したという実績を持っているほどである<ref>[http://www.ekibento.co.jp/company/ 会社案内 ひろしま駅弁]</ref>。これらの業者は前述の駅弁から撤退・廃業した業者からレシピを引き継ぐことも多く、{{いつ範囲|近年では|date=2021年10月}}駅構内だけではなく、[[道の駅]]や高速道路の[[サービスエリア]]の弁当や空港の弁当([[空弁]])、デパートの地下食品フロア([[デパ地下]])などにも進出しているほか、その地域にある[[コンビニエンスストア]]やスーパーマーケットで販売される弁当などの製造請負、レストラン・飲食店運営まで手掛けている場合がある。 == 駅弁の定義について == {{出典の明記|section=1|date=2012年9月|ソートキー=鉄}} [[ファイル:Shaomai Yokohama kiyoken01.jpg|thumb|right|横浜駅で売られている崎陽軒の特製シウマイ。醤油さしは[[陶器]]。]] 駅弁は、広義には「駅構内で販売される弁当」を意味する。{{いつ範囲|近年|date=2021年10月}}、駅構内にコンビニエンスストアが出店して「コンビニ弁当」を販売したり、駅弁業者でない企業がいわゆる「[[駅ナカ]]」店舗で弁当を販売する例がある。それらが駅弁に該当するかどうかについては議論がある。旧来の駅弁業者が伝統的な駅弁の他にコンビニ弁当に類似した比較的安価な弁当を販売している場合もあるため、厳密な定義は困難である(先述のように、駅弁業者が出自であっても、その後大規模な食品会社に発展し、その地域のコンビニ弁当やお惣菜商品の調理を一手に引き受けている企業も少なからず存在する)。 狭義の意味では、「駅弁」とは'''社団法人日本鉄道構内営業中央会'''(以下「中央会」と略す)に加盟している業者が調製し駅構内で販売しておりなおかつ米飯が入っている弁当のみを指すこともある<ref name=koushiki>{{Cite news|url=http://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/208967.html?p=all|title=何が違う? 駅弁には「公式駅弁」と「非公式駅弁」があるらしい|newspaper=Jタウンネット 東京都|date=2015-07-20|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 [[日本国有鉄道]](国鉄)時代には白飯と焼き魚、肉料理、[[フライ (料理)|フライ]]、[[卵焼き]]、[[蒲鉾]]などの一般的な惣菜を使用した、いわゆる[[幕の内弁当]]の系列のものを'''普通弁当'''と称しそれ以外の弁当を'''特殊弁当'''と称して制度上の区分がなされていた<ref name=koushiki/>。[[飯|ごはん]]と[[おかず]]というセットになっていないもの、たとえば「[[寿司#押し寿司|押し寿司]]」などは「特殊弁当」に分類される。さらに国鉄が「米飯がはいっていないものは駅弁ではない」としたために、[[長万部駅]]の「そば弁当」や[[大船駅]]の「サンドウィッチ」などは国鉄末期まで駅弁として認められなかった<ref group="注釈">[[原ノ町駅]]の「いなり天ざる弁当」や[[出雲市駅]]の「出雲そば弁当」は、寿司を添えていたことで古くから駅弁として認められていた。</ref>。なお、国鉄前身の[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]時代、[[太平洋戦争]]下には米飯が排除された時期もある。実際に[[1943年]][[11月1日]]からは、節米を目的として主要駅の駅弁が一斉に「[[芋]]弁当」(米の代わりに芋を使用)に切り替えられた<ref>富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(1960年4月 富山市史編纂委員会)p.1154</ref>。 この「中央会加盟業者が調製している」「米を使っている」という条件に該当する弁当は包装紙に共通デザインの「駅弁マーク」と呼ばれる[[商標]]を入れ、[[交通新聞社]]発行の『[[JR時刻表]]』(大型版のみ)欄外に販売駅弁の記載があるのが特徴である<ref name=koushiki/>。 この「駅弁マーク」を有する弁当のみが「駅弁」であるという定義づけは当の中央会や一部の人々の間で行われているが、この定義は下記のような事情から現実的とは言えない。 かつての国鉄では、駅改札内での弁当の販売は中央会加盟業者に対してしか認めていなかった。しかし[[国鉄分割民営化|国鉄が分割民営化]]されJRとなって以降、中央会非加盟の業者にも駅構内での販売を認めるようになったことから「駅構内で販売される弁当」と「中央会」とが必ずしも結びつかなくなった。新規業者の参入のほか既存の業者が中央会を脱退した上で引き続き駅構内での販売する例もあり、「中央会に所属」「駅弁マークがついていること」は条件とはできなくなった。これは駅弁は調製から購入・消費までにタイムラグがあるため、[[食中毒]]の防止などを目的として調製方法などに様々な厳しい要求があったこととも関係する。製造から4時間以内で売り切らねばならないという規制はO-bentoの登場とともに廃止された。また、元々は[[私鉄]]の駅構内で販売される弁当については中央会は(JR駅でも販売している業者を除いて)関係ない。そして、もっぱら私鉄の駅でのみ販売されている駅弁も存在する。 中央会に加盟している業者でも駅構内での販売を取りやめ駅前の自社店舗での販売のみとしながら引き続き駅弁マーク入りの駅弁を販売する例もある一方(その場合、時刻表にも引き続き「弁」マークの表示を記載)、駅前に店舗を構える中央会非加盟の弁当業者が独自の弁当を作り「駅弁」を名乗る例や、中央会加盟業者が他地域の駅構内売店事業者の委託を受けて弁当を製造する例もある。後者の例は観光客誘致の手段として、地方においてよく見られる([[#日本各地の駅弁|後述]]参照)。但し後者のケースで、中央会非加盟の弁当業者のみが販売している駅の場合は、時刻表での「弁」マークの記載はない。 中央会加盟業者がJRの駅構内で販売している場合でも、[[横浜駅]]や[[鳥栖駅]]で売られている[[焼売]]や大船駅で売られている[[サンドイッチ]]弁当のように米飯が入っておらず「駅弁マーク」を付けることができなかったが一般には駅弁と見なされている商品もある。[[大船軒]]の「サンドウィッチ」には駅弁マークこそついていないが、包装紙には「SINCE 1898/日本デ最初ノ駅弁サンドウィッチ」と明記されている<ref>[http://www.ofunaken.co.jp/page015.html 押寿しとサンドウ井ッチ 大船軒]</ref>。また、[[山陰本線]]の[[益田駅]]のように、時刻表には全く駅弁の表記が無いのに、[[キヨスク]]には「益田駅の駅弁」と大きく書かれ、ごく普通にキヨスクで販売されている例もある<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20150816/ddl/k32/020/324000c|title=鮎めし弁当:益田の仕出し店、天然アユで弁当開発 淡泊な味が売り/島根|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2015-08-16|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 以上のような事情から、駅構内や駅前の弁当業者の店舗で販売される弁当を総合して「駅弁」と呼ぶ場合が多い。デパートで催される駅弁大会に出品されたり[[旅番組|旅情報を扱ったテレビ番組]]で取り上げられたりする「駅弁」もこのような広義の条件に該当する弁当であり、中央会加盟業者が調製する弁当とは限らない。 車内販売のある列車では駅弁のほか、列車内限定で発売される弁当もある。イベント列車などにおいては、そのイベント列車限定で発売される弁当もある。これらも一般的には「駅弁」に含まれるものと解されている<ref name="biwa">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/airtravel/OSK201009140073.html|title=SL北びわこ乗客25万人へ 米原駅で記念駅弁発売|newspaper=朝日新聞|date=2010-09-15|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 == 駅弁と茶 == {{出典の明記|section=1|date=2012年9月|ソートキー=鉄}} 多くの販売店では、駅弁を食べる際の飲み物として[[煎茶]]が販売されている。販売店によっては街の持ち帰り弁当店と同様に即席の[[味噌汁]]や[[スープ]]も販売し、それらに使う[[湯|お湯]]を供するケースもある。 === 汽車土瓶時代 === [[File:きらがし (16965485647).jpg|thumb|right|[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]で展示される「小さな親切」(手前)と「[[信楽駅|しがらき]]」(奥)と書かれた汽車土瓶。いずれも湯呑が被せてある(2015年)]] [[明治時代]]から[[昭和]]30年代までは。湯呑兼用の蓋が付いた[[汽車土瓶]]と呼ばれる[[陶磁器|陶器]]の小瓶入りの茶が駅弁と共に販売されていた。汽車土瓶の期限は、[[1889年]](明治22年)に[[静岡駅]]で[[信楽焼]]の[[土瓶]]にお茶を入れて販売したのが嚆矢と言われている<ref name="shigaraki46">畑中英二・編『信楽汽車土瓶』別冊淡海文庫16 [[サンライズ出版]] 2007年 ISBN 978-4-88325-155-1 P.46</ref><ref name="norimono">{{cite news|url=https://trafficnews.jp/post/108812 |title=「汽車土瓶」って何? 駅弁とともに限定復刻 実は常に売っている駅も|author=古屋啓子 |date=2023-5-24|publisher=[[メディア・ヴァーグ|乗りものニュース]]|accessdate=2023-10-7}}</ref>。信楽焼や[[益子焼]]、[[瀬戸焼]]、[[常滑焼]]、[[会津本郷焼]]で製造され、表面に駅名や、販売元、金額が書かれていた<ref name="fukushima">{{Cite web|和書|url=https://www.fcp.or.jp/iseki/column/1846|title=調査研究コラム#084 汽車土瓶について|author=吉野滋夫|date=2020-1-14|accessdate=2023-10-7|publisher=福島県文化振興財団遺跡調査部}}</ref><ref name="yamanashi">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/401_500/0434.html|title=遺跡トピックスNo.0434汽車土瓶〔甲府市〕|date=2016-2-25|accessdate=2023-10-7|publisher=山梨県観光文化・スポーツ部埋蔵文化財センター}}</ref>。 [[1921年]]([[大正]]10年)、[[鉄道省]]は内容物が見えない事や衛生上の理由により土瓶を禁止したため、[[大日本麦酒]]などによる[[ガラス]]製のガラス茶瓶が登場した。しかし煎茶が丸見えのため[[尿瓶]]のように見えて飲む気にならない、窓からの[[ポイ捨て]]で沿線の住民や保線工がケガする危険があるなどの理由で、ガラス製の茶瓶はわずか数年で製造が中止され、昭和に入ると静岡駅で汽車土瓶の販売が再開された<ref name="shigaraki46"/>。 汽車土瓶は重量があり破損しやすいため、後にポリ容器入りにとって代わる事となる。しかし[[2020年代]]現在も製造している業者があり、[[小淵沢駅]]で汽車土瓶入りの煎茶が販売されている<ref name="norimono"/><ref>[http://www.jreast.co.jp/Hachioji/ekiben/index.html 駅弁情報] [[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]</ref>ほか、復刻の形で駅弁とともに期間限定で販売されることがある<ref name="norimono"/><ref name="biwa"/>。 === ポリ茶瓶時代 === [[ファイル:Green tea servise01.jpg|thumb|right|2008年に札幌駅で復刻販売された緑茶のポリ茶瓶。容器の蓋が湯飲みになる。]] 昭和30年代以降、汽車土瓶に代わって半透明の厚い[[ビニール]]や[[ポリプロピレン]]などで出来たポリ茶瓶が一般的となった<ref name="yamanashi"/>。基本的には、黄緑色の[[プラスチック]]のスクリューキャップ(ネジ式の蓋。汽車土瓶の蓋同様に湯呑機能も持つ)の付いた小瓶にその場でポットなどからお茶を注いで販売されたが、利便性や機能性の面から複数の種類が登場する事となった。前述の容器に既に淹れたお茶を入れるだけの物や、容器に湯を注いで購入者が飲む際に淹れられるよう[[ティーバッグ]]を添えて売られるもの、ティーバッグタイプも紐のついたティーバッグを容器の中へ吊るしたもの、紐無しの物を直接投入するだけのもの、画像にあるような弾力のあるビニールの小瓶にティーバッグ専用のスペースを設けて購買者が瓶の上からティーバッグを揉むことで濃さを調節できるもの、容器に茶漉しを付けて粉茶を直接投入するものなどバラエティに富んでいた。 === 缶・ペットボトル時代 === しかしビニール容器入りの煎茶も[[1980年代]]末期以降、販売時にお湯を用意する必要のない[[缶]]入りの[[緑茶]]や[[烏龍茶]]が普及したため、少なくなった。さらに[[1996年]](平成8年)4月に500[[リットル|ミリリットル]]以下の[[ペットボトル]]飲料の販売が解禁された<ref name="l経済新語辞典">{{Cite web|和書| url = https://books.google.co.jp/books?id=YiIQAQAAMAAJ&q=%E8%87%AA%E4%B8%BB%E8%A6%8F%E5%88%B6+PET%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB&dq=%E8%87%AA%E4%B8%BB%E8%A6%8F%E5%88%B6+PET%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB&hl=ja&sa=X&ei=FMgZU7vxJZWxoQTukIC4Ag&ved=0CDUQ6AEwAg| title = 経済新語辞典|publisher = 日本経済新聞社|accessdate =2016-05-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://books.google.co.jp/books?id=ZH3EUZkI5isC&pg=PA140&dq=%E8%87%AA%E4%B8%BB%E8%A6%8F%E5%88%B6+PET%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB&hl=ja&sa=X&ei=FMgZU7vxJZWxoQTukIC4Ag&ved=0CDAQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E8%87%AA%E4%B8%BB%E8%A6%8F%E5%88%B6%20PET%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%AB&f=false| title = 文化の力: カルチュラル・マーケティングの方法|author=青木貞茂|publisher=NTT出版|isbn=9784757122178|accessdate=2016-05-03}}</ref>ため、[[2000年代]]以降ではあまり見られなくなり、駅弁とともに売られるお茶は、ペットボトルや缶入りのお茶にほぼ取って代わられたといえる。(2016年5月)現在でもポリ茶瓶のお茶が販売されているのは、[[いすみ鉄道いすみ線]][[大原駅 (千葉県)|大原駅]]<ref>[http://www.isumirail.co.jp/bentou いすみ鉄道のお弁当について] いすみ鉄道株式会社</ref>([[千葉県]])、[[伊東駅]]<ref>[https://ameblo.jp/gionzushi/entry-10716597338.html 昔ながらの茶瓶@伊東駅|伊豆・伊東温泉 名物いなり・弁当・駅弁の祇園社長ブログ]</ref>([[静岡県]])など日本全国で10駅に満たないが、ポリ茶瓶も汽車土瓶と同様に復刻の形で販売されることがある<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASH7B4G0YH7BUUHB008.html|title=JR宇都宮線130周年 駅弁立ち売りや旧型客車を復活|newspaper=朝日新聞|date=2015-07-18|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000004320|title=ここだけ土産売れ筋です 秋葉区・新津鉄道資料館 地元5商店と連携 郷愁誘う「ポリ茶瓶セット」など|newspaper=北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ|date=2015-10-01|accessdate=2016-05-03}}</ref>。 {{節スタブ}} <!--年代や事実の詳細をご存知の方に、詳しくして頂けると嬉しく思います。--> == 日本国外の駅弁 == {{出典の明記|section=1|date=2012年9月|ソートキー=鉄}} {{独自研究|section=1|date=2016年4月}} {{正確性|date=2023年6月|「駅弁」として取り扱う基準が不明(日本の駅弁と歴史的につながりがないものや漢字文化圏以外での「駅弁」に相当する名称がないもの、サンドイッチ類、食堂車で食べられるもの、配膳車両から配られるものを含めてよいのか、など)|section=1}} [[ファイル:TRA Pork Ribs Rice Bento (Taichung) 02.JPG|thumb|[[台中駅]]で販売されている[[台鉄]][[排骨]]弁当]] [[ファイル:Beef and shrimp set meal on G65 (20170307121129).jpg|right|thumb|中国の列車で販売されている弁当]] [[ファイル:Nasi goreng bentō of Malayan Railways.JPG|right|thumb|[[マレー鉄道]]で販売されている[[ナシゴレン弁当]]]] [[ファイル:Dabbawalasmumbai.jpg|right|thumb|インドの[[チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅]]で弁当を列車に積み込む様子]] === 旧日本領 === かつての旧日本領や支配地域([[外地]])では、現地当局が運営する鉄道([[台湾総督府鉄道]]、[[朝鮮総督府鉄道]]、[[樺太庁鉄道]])や[[南満洲鉄道]]の各駅で、内地同様に駅弁が販売されていた<ref>小牟田哲彦『大日本帝国の海外鉄道』([[東京堂出版]]、2015年、ISBN 978-4-490-20911-2)pp.34-35, pp.93-94, pp.187-188, pp.310-314</ref>。 ==== 台湾 ==== [[台湾]]は旧日本領で一番「駅弁文化」を発展させている国であり、日本と異なる独自な文化を持っている。台湾の駅弁は「鐵路便當」と呼ばれ、台湾各地の鉄道駅や列車の車内販売で販売される。日本の冷めた状態が前提で作り置き販売される駅弁当とは異なり、温かいままの状態で店頭販売される<ref>[https://welove.expedia.co.jp/destination/asia/taiwan/12366/ 台湾の懐かしの味!台北駅のできたて駅弁の魅力とは?] エクスペディア、2021年11月27日閲覧</ref>。駅弁の内容は、[[排骨]]飯便當([[ばら肉|油で揚げた骨付きの豚ばら肉]]を白飯の上に載せたもの)や雞腿便當(骨付き鶏もも肉揚げ)に{{仮リンク|滷水蛋|zh|滷水蛋}}(台湾風[[煮卵]])、[[豆腐干]]、[[沢庵漬け]]や[[高菜]]を添えたものなど、米飯と肉料理と付け合わせから構成される弁当が一般的である<ref name="taitetsu">[http://www.railway.gov.tw/tw/shop.aspx?n=6835 台鉄弁当](正体字中国語)</ref><ref>[http://www.taipeinavi.com/special/5057414 台湾の駅弁] 台北ナビ、2021年11月27日閲覧</ref>。このような弁当は駅や地方により多少の違いはあるが、どの駅でも大きな差異はなく比較的画一的である。また、[[台東線]]の[[池上駅 (台東県)|池上駅]]などでは近年まで駅弁の立ち売りが行われていた<ref name="ikegami">{{cite news|url= http://week.ltn.com.tw/Travel/DC1605.html|title=鐵路便當/台東池上便當(正体字中国語)|author=林孟佳、許麗娟|newspaper=[[自由時報]]|date=2014-05-23|accessdate=2016-04-30}}</ref>ほか、[[2015年]]7月には[[台北市|台北]]で国際駅弁祭り({{zh-tw|國際鐵道便當節}})が開催され、日本や台湾を始めとする6か国11社の駅弁が販売された<ref>{{Cite news|url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000054944.html|title=台湾で「第1回駅弁祭り」 日本の「駅弁」が人気|newspaper=[[テレビ朝日|テレ朝]]news|date=2015-07-17|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20150718040006/http://japan.cna.com.tw/news/aeco/201507160003.aspx|title=台湾で駅弁祭り JR東日本も出展、E7系の新幹線弁当など販売へ|publisher=フォーカス台湾|date=2016-07-16|accessdate=2016-05-03}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.chinatimes.com/newspapers/20150301000286-260114 |title=6國鐵道便當 7月大PK|language=cn|author=楊竣傑 |newspaper=[[中国時報]]|date=2015-03-01|accessdate=2016-05-03}}</ref>。2020年8月、日本の事業者として初めて[[崎陽軒]]が台北駅に[[シウマイ弁当]]を販売する駅弁店を出店した。 * [[台鉄弁当]]<ref name=taitetsu/>([[台北駅]]、[[台中駅]]、[[高雄駅]]、[[花蓮駅]]など) * [[奮起湖弁当]]<ref>[http://www.fenchihu-hotel.com.tw/lunchbox.asp 戀戀阿里山-奮起湖大飯店官方網站(正体字中国語)]</ref><ref>[http://www.taipeinavi.com/food/1084/ 奮起湖大飯店(嘉義県)] 台北ナビ、2022年12月30日閲覧</ref>([[奮起湖駅]]) * 福隆弁当<ref>{{cite news|url=http://rocketnews24.com/2013/12/20/397534/ |title=【台湾】日本人も絶賛する美味すぎる台湾駅弁 / 駅じゃなくても駅弁が買えるよ|newspaper=ロケットニュース24|date=2013-12-20|accessdate=2016-04-30}}</ref>([[福隆駅]]) - 2016年11月末を最後にホームでの販売から撤退<ref>{{cite news|url=https://www.youtube.com/watch?v=dguGsqoitoY|title=福隆月台便當 月底停賣|publisher=[[蘋果日報 (台湾)|台湾蘋果日報]]/[[YouTube]]|date=2016-11-24|accessdate=2017-01-21}}</ref>。 * [[池上弁当]]<ref>{{Zh-tw icon}}[http://www.chishang.com.tw/CenterPage_Hi178?y_SketchName=Sketch1-1_Hi178 池上木片便當]</ref><ref name=ikegami/>([[池上駅 (台東県)|池上駅]]) * 関山弁当({{lang-zh-tw|關山便當}})<ref>{{Zh-tw icon}}[https://zh-tw.facebook.com/kspd88/ 關山便當]公式Facebook</ref>([[関山駅 (台東県)|関山駅]]) {{Gallery |ファイル:60元臺鐵排骨便當 (13344634153).jpg|台鉄排骨弁当(豚カツの味噌煮・厚揚げ・[[榨菜]]・ナス・[[茶葉蛋]]) |ファイル:お弁当 (4324351331).jpg|奮起湖弁当の一つ(鶏の太股フライ・赤の海藻・榨菜・茶葉蛋) |ファイル:Fenchihu Station Ekiben07.jpg|奮起湖弁当の一つ(鶏の太股の醬油煮込み・豚肉の醬油煮込み・赤の海藻・タケノコの塩漬け・キャベツのバター炒め・ニンジン) |ファイル:Fulong Station Ekiben 02.jpg|福隆弁当(台湾ソーセージ・角煮・ゆで卵・大根の塩漬け・空心菜の唐辛子炒め・キャベツのバター炒め) |ファイル:悟饕池上飯包 雞腿飯包 20170414.jpg|[[池上弁当]](鶏の太股の醬油煮込み・豆腐の醬油煮込み・榨菜・キャベツのバター炒め・青梗菜の炒め) }} ==== 韓国 ==== [[大韓民国|韓国]]でも、駅構内や車内販売で米飯に[[プルコギ]]を主体とする[[惣菜]]を合わせた[[幕の内弁当]]のような弁当、その他の米飯と数種の惣菜による幕の内弁当のような弁当、[[海苔巻き]]の弁当が販売されているが、日本の駅弁ほどの多様性は無い。しかし近年では日本の駅弁文化に習い、[[ソウル駅]]に多数の駅弁販売店が出店し、多様な駅弁が販売されるようになった<ref>{{cite news |title=【NOW!ソウル】ソウル駅に「駅弁」ブーム!|newspaper=[[中央日報]]|date=2013年9月27日 |url=http://japanese.joins.com/article/573/176573.html?servcode=800&sectcode=850}}</ref>。また[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では、首都の[[平壌駅]]に駅弁があると北朝鮮鉄道本「将軍様の鉄道」に著されている。 ==== 樺太南部(サハリン) ==== [[樺太]]南部([[サハリン州|サハリン]])では、1945年(昭和20年)まで[[樺太東線]][[知取駅]]などで駅弁の販売が行われた<ref>[http://info.keionet.com/ekiben/2006/ekiben03.html 駅弁大会への道 京王百貨店]</ref><ref>京王百貨店駅弁チーム pp142-151</ref>ほか、[[残留ロシア人 (南樺太)|残留ロシア人]]による「[[ロシアパン]]」の駅売りも行われていた<ref>今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行地図帳 満洲樺太』(2009年 新潮社)p34</ref>。これらは[[ソビエト連邦]]による占領以降は廃止されたが、現在(2016年時点)でも、主要駅の売店では[[ピロシキ]]や[[サラダ]]などの惣菜類が販売されている<ref>下川2011 p320</ref>。 ==== 南モンゴル・旧満州・ミクロネシア ==== [[内モンゴル自治政府|蒙疆自治政府]](南モンゴル)や[[満洲国|満州国]](中国東北地方)では、日本の影響で駅弁業者がいくつか存在したが、中国(北京政府)に帰属されると、後述の「中国」に準じた駅弁事情となっている。また、[[ミクロネシア]]では[[パラオ]]、[[北マリアナ諸島|北マリアナ]]に鉄道が敷設されるが、鉱山鉄道だったことから駅弁がなく、戦後も鉄道が無いので駅弁は存在しない(パラオには観光用モノレールがある)。 === その他アジア各国 === ==== 中国・東北アジア ==== [[中華人民共和国|中国]]では、[[食堂車]]営業列車の車内販売で弁当({{lang|zh|盒饭}})が販売される。メニューは通常は、朝食が[[饅頭 (中国)|マントウ]]と[[粥]]、昼食と夕食は米飯や[[炒麺]]と[[:Category:肉料理|肉料理]]などのおかず数品がセットとなっている。いずれも食堂車で調製され、温かいままの状態で販売される<ref>阿部、岡田 p18, p23, p176</ref>。 [[モンゴル国|モンゴル]]では、[[ウランバートル駅]]をはじめとする主要駅及び列車内で弁当の販売がある。[[K3/4次列車]]など[[国際列車]]以外の列車でも、ピロシキや[[羊肉]]の入った[[餃子#中国の餃子|水餃子]]などが販売される<ref>下川2016 p262</ref><ref>下川2016 pp242-244</ref>。 ==== 東南アジア ==== [[東南アジア]]の各国でも、鉄道駅構内や車内販売で弁当が販売されている。[[ベトナム]]の列車では車内販売は国鉄職員が担当し、食堂車で調製された弁当が温かい状態のまま[[スープ]]とともに販売されるほか、駅のホームでも弁当や[[バインミー]]が販売されている<ref>下川2011 pp130-136</ref>。 [[タイ王国|タイ]]ではガパオライス(米飯の上に肉料理と[[目玉焼き]]を載せたもの)や[[パッタイ]]、[[ゲーン|タイカレー]]など多種多様な弁当が販売されている<ref name="thai">下川2011 pp58-72</ref>。これらの弁当は、[[発泡スチロール]]製の容器に米飯を入れ、その上におかずを載せたスタイルが一般的であるが、[[バナナ]]の葉や[[ビニール]]に料理を包み、一口サイズにして販売されている弁当もある<ref name="thai" />。 [[マレーシア]]でも[[ナシゴレン]]や[[ナシレマッ]]などの弁当が販売され、紙箱や[[タッパーウェア|タッパー]]などに入ったもののほか、{{仮リンク|ナシブンクス|id|Nasi bungkus}} (Nasi bungkus) と呼称されるバナナの葉やビニールコーティングされた紙の上に米飯とおかずを盛り、包んだ状態で提供される弁当もある<ref>下川2011 pp89-91</ref>。 {{要出典|範囲=[[ラオス]]では中国ラオス高速鉄道が開業したが、連結している食堂車が未開業であるためか、車内で駅弁を販売している。|date=2023年6月}} {{要出典|範囲=[[カンボジア]]と[[フィリピン]]には食堂車がないため、主要駅で駅弁を販売。|date=2023年6月}}{{要出典|範囲=[[ミャンマー]]、[[インドネシア]]も食堂車はあるが、駅弁も主要駅で販売。|date=2023年6月}} ==== 南アジア ==== {{出典の明記|section=1|date=2023年6月|ソートキー=鉄}} [[インド]]では、[[ダッバーワーラー|ダッバー]] (Dabba) という金属製の容器に、[[カレー]]と米飯や[[チャパティ]]などの[[パン]]類を入れた弁当が鉄道駅や列車内で販売される。[[スリランカ]]でも一部の列車で駅弁を販売。 === オセアニア === [[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]では特定の長距離列車で販売されている。 === アフリカ === {{出典の明記|section=1|date=2023年6月|ソートキー=鉄}} [[エジプト]]では寝台列車で弁当がある。 === ヨーロッパ === [[ヨーロッパ]]では[[イタリア]]北部・中部や[[フランス]]の各地で、肉料理にサラダ、[[パスタ]]、パンかサンドウィッチ、小瓶の[[ワイン]]を合わせた食事セットが販売される鉄道駅がある<ref>京王百貨店駅弁チーム p131</ref>。しかし食事セットはどの駅でも大きな差異はなく、販売される駅も日本の駅弁販売駅ほど多くはない。 なお、2012年4月に運行を開始したイタリアの高速列車[[ヌオーヴォ・トラスポルト・ヴィアッジャトーリ|イタロ]] (Italo) では、日本の駅弁を参考にしたイタロ・ボックスが有料で提供されている<ref>[http://pro.gnavi.co.jp/magazine/article/column_2/c21116/ イタリア発 人気を集めるデリバリー&ケータリング 後編 - 海外トレンドリポート - 1]</ref>。そのほかに2016年3月より、[[パリ]]の[[リヨン駅]]で[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]及び[[日本レストランエンタプライズ]]と[[フランス国鉄]]の共同企画として、日本の駅弁5種類が販売された<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2015/20160204.pdf フランス国鉄 初の日本の駅弁売店の開業時期について]</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20160303/k00/00m/040/045000c|title=初の駅弁売店オープン パリ・リヨン駅|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2015-03-02|accessdate=2016-04-29}}</ref>。当初は2カ月間限定の企画であったが、好評であったため販売期間が延長された<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20160423-a183/|title=JR東日本・NRE、パリの駅弁売店「EKIBEN」好評につき出店期間を26日間延長|newspaper=乗りものニュース|date=2015-04-23|accessdate=2016-05-03}}</ref>。リヨン駅では、さらに2018年11月にも期間限定ショップが設けられ、駅弁の販売が行われたことがある<ref>{{Cite web|和書|date=2019-01-20 |url= https://toyokeizai.net/articles/-/260845|title=日本の駅弁は美食の国フランスで通用したか |publisher=東洋経済オンライン |accessdate=2019-01-20}}</ref>。 フランスの[[パリ]]では、日本[[留学]]時に[[ホームステイ]]先で作ってもらった弁当を参考にして、3軒の駅弁店を経営している女性が存在する<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO33377880V20C18A7CR0000/ パリで駅弁人気 焼き魚・空揚げ…多彩]『日本経済新聞』夕刊2018年7月25日(社会面)2018年7月26日閲覧</ref>。 === 西半球(全アメリカ地域) === {{出典の明記|section=1|date=2023年6月|ソートキー=鉄}} [[メキシコ]]では[[チワワ太平洋鉄道]]が唯一の存在。鈍行列車では車内で食べられるが、急行列車では不可能。その代わり、急行列車には[[食堂車]]がある。ほか、[[キューバ]]や[[ペルー]]にもある。 == 日本各地の駅弁 == 主な駅弁の種類については[[:Category:駅弁]]の対象記事を参照。 [[山口県]]と[[埼玉県]]では、地元の業者が全て駅弁販売から撤退した。[[大阪府]]では、他県所在の業者に営業譲渡した1種類の駅弁のみが残る。[[京都府]]と[[沖縄県]]では、2019年時点で地元企業は1事業者のみ。[[徳島県]]に至っては駅弁が全滅している。しかし、たとえば[[徳山駅]]の「あなごめし」は2010年(平成22年)3月に従来の駅弁業者が撤退したが、同年7月には水産物の通販を行う[[徳山ふくセンター]](中央会非加盟)が別のレシピで販売を開始した<ref>[https://fukufuku.ocnk.net/phone/page/1 徳山駅弁当について] 徳山ふくセンター、2022年12月30日閲覧</ref>。また、[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]の「醤油めし」(岡山県の[[三好野本店]]が製造)<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36875180U8A021C1LA0000/|title=松山の名物駅弁「醤油めし」復活 伝統の味を継承|newspaper=日本経済新聞|date=2018-10-25|accessdate=2020-04-07}}</ref>や[[新山口駅]]の「SL弁当」([[広島駅弁当]]が製造)<ref>{{Cite news|author=蓬田正志|title=駅弁:山口の味消えず 「ふく寿司」「SL弁当」販売継続 広島駅弁当がレシピ継承|newspaper=毎日新聞山口版|date=2015-05-02}}</ref>、[[博多駅]]の「かしわめし」(広島駅弁当が設立した「博多寿改良軒」が製造)<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20190105/k00/00m/040/061000c|title=JR博多駅の駅弁「博多名物かしわめし」が復活|newspaper=毎日新聞|date=2018-01-05|accessdate=2020-04-07}}</ref>のように、他県の駅弁事業者が名物駅弁のレシピを受け継いで製造し、鉄道会社の系列会社等に販売を委託して『復活』させる事例もある。沖縄では正規の駅弁は全滅しているが、(園内鉄道がある)名護市の「ナゴパイナップルパーク・アナナスキッチン」のスパイシーソイミートロール、パイナップルタコライス、今帰仁村の「古宇利オーシャンタワー・オーシャンブルー」のピザが購入可能である。 == エピソード == *[[1970年]](昭和45年)[[3月11日]]の[[衆議院]][[予算委員会]]では、[[日本社会党]]の[[大原亨]]議員([[広島県第1区 (中選挙区)|広島1区]]選出)が駅弁の質の確保について質問を行った。大原は同じ値段でも駅によって中身の格差が大きすぎるとし、東海道本線・山陽本線では[[姫路駅]]の駅弁を最上とする一方、[[大阪駅]]の駅弁を「まずい」と言及している。この答弁の中で、国鉄副総裁は、年に1回、職員が駅弁を買い集めてコンクールを行っていることを明らかにしている<ref>同じ値段でも味は大違い 国会で大まじめに駅弁談義『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月12日朝刊 12版 15面</ref>。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[林順信]]、[[小林しのぶ (ジャーナリスト)|小林しのぶ]]共著『駅弁学講座』[[集英社]][集英社新書] ISBN 4087200523 * [[ありま猛]]、[[きり・きりこ]]作『[[ぶらり駅弁味な旅|道連れ弁当]]』[[リイド社]]SPコミックス * [[櫻井寛]]監修、[[はやせ淳]]画『[[駅弁ひとり旅]]』[[双葉社]]アクションコミックス * 京王百貨店駅弁チーム『駅弁大会』[[光文社新書]](2001年)ISBN 4334031048 * [[下川裕治]]『鈍行列車のアジア旅』[[双葉文庫]](2011年)ISBN 9784575713718 * 阿部真之、岡田健太郎『中国鉄道大全 中国鉄道10万km徹底ガイド』[[旅行人]](2011年)ISBN 9784947702692 * 小牟田哲彦『大日本帝国の海外鉄道』[[東京堂出版]](2015年)ISBN 9784490209112 * 下川裕治『ディープすぎるユーラシア縦断鉄道旅行』 [[中経出版|中経の文庫]](2016年)ISBN 9784046013002 == 関連項目 == <!--* [[:Category:駅弁画像|駅弁の画像]]--><!--左記のカテゴリに属している画像の数:2021年10月時点で0--> * [[食堂車]] * [[空弁]](そらべん) - [[空港]]で売られている弁当 * [[速弁]](はやべん) - [[中日本高速道路]]のサービスエリアで売られている弁当 * [[港弁]](みなとべん) - [[みなとオアシス全国協議会]]が認定して各港で売られている弁当 * [[駅弁大学]] * [[ぶらり駅弁味な旅]] - 全国の駅弁を題材とした漫画作品 * [[駅弁ひとり旅]] - 全国の駅弁を題材とした漫画作品 * [[駅弁特急]] - 全国の駅弁を題材とした漫画エッセー作品 * [[立ち食いそば・うどん店#駅そば|駅そば]] - 駅弁販売業者が経営して折り詰めなど弁当を販売している事がある。 == 外部リンク == {{Commonscat|Ekiben}} * [https://ekbn-g.jp 駅弁ぐるめ] - 日本三大駅弁大会の企画・運営会社のサイト * [https://gurutabi.gnavi.co.jp/i/gs10701/ 全国の駅弁 人気ランキング│観光・旅行ガイド - ぐるたび] - [[ぐるなび]]の旅行グルメサイト ぐるたびの駅弁総合ページ * [https://kfm.sakura.ne.jp/ekiben/index.html 駅弁資料館] * [https://wedge.ismedia.jp/category/ekiben 日本を味わう!駅弁風土記] - ウェブサイト「駅弁資料館」館長の連載コラム * [https://ekiben.gr.jp/ 駅弁図鑑 西日本編] - 西日本地区の駅弁紹介/一般社団法人日本鉄道構内営業中央会西日本地区本部 * [http://www.ekibento.jp/ 駅弁の小箱] - 全国駅弁ガイド・駅弁[[テーマパーク]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えきへん}} [[Category:駅弁|*]] [[Category:弁当]]
2003-09-07T08:31:36Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E5%BC%81
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般若心経
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう、梵: Prajñā-pāramitā-hṛdaya、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は 空の理法をさとることが根本思想とされる大乗仏教の教理が、短いこの一巻の中にすべて納まっているといわれてきた経である。 「色は空、空は色である」との一文は有名であり、大乗仏教の根底である二諦教義が凝縮されている。空の理法とは追究すれば限りがなく、『大般若経』六百巻のような大部の経が成立したが、この短い『般若心経』一巻にすべて納まる大乗仏教の精髄を示すものとして重要視され、常に読誦されてきた。 仏教の全経典の中でも最も短いもののひとつで、日本では「色即是空・空即是色」の名句で親しまれ、古くは聖武天皇の時代から現代まで、複数の宗派における 読誦経典の一つとして広く用いられている。 日本で広く流布している玄奘三蔵訳の正式な経題名は『般若波羅蜜多心経』であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれている。これをさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、サンスクリット典籍の題名は「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」であり、「経」に相当する「sūtra(スートラ)」の字句はない。 日本の仏教の宗派によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏(釈迦)の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺(長安)の『集王聖教序碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている。 現存する最古のサンスクリット本(梵本)は東京国立博物館所蔵(法隆寺献納宝物)の貝葉本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本)であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。(右図)漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。オーストリアのインド学者、ゲオルク・ビューラー(1837-1898) は、「伝承では577年に没したヤシという僧侶の所持した写本で609年請来とする。またインド人の書写による6世紀初半以前のものである」と鑑定していた。古いもののため損傷により判読が難しい箇所が多く、江戸時代の浄厳以来、学界でも多数の判読案が提出されている。この他、日本には東寺所蔵の澄仁本などの複数の梵本があり、敦煌文書の中にも梵本般若心経が存在している。またチベットやネパール等に伝わる写本もあるが、それらはかなり後世のものである。 1992年アメリカのジャン・ナティエ(英語版)(Jan Nattier、当時インディアナ大学准教授)は、玄奘訳『般若心経』の本文が鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』と逐語的に一致することなどに基づき、誰かが羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』から『般若心経』をまとめ、玄奘が「観自在」や「蘊」など特定の術語だけを修正し、それを更にサンスクリット訳したという偽経説を提起した。1994年7月に福井文雅が仏教思想学会10周年記念全国大会で反論を発表した。これに対し、1995年に工藤順之は、ナティエの論旨に与するものではないと断ったうえで、(福井が)一方的に荒唐無稽な妄説として無視するのは公平な態度とは思えないとして、ナティエの学説の骨子を紹介している。また仏教学者でありキリスト教の牧師でもある大和昌平によって1996年に紹介されている。 これに対し福井文雅、原田和宗らにより詳細な反論が日本語によってなされている。 ナティエ論文の日本語訳が工藤順之・吹田隆道により発表されたのは2006年になってからである。 その後、石井公成はナティエ論文の影響が欧米で継続していることに対し、異なった面からの批判を日本語で発表した。 2016年に最古の玄奘訳の版とされる661年に刻まれた石経が北京で発見されたという報道があった。。記事によれば「玄奘は漢文の心経を翻訳したか」という世界の学術界で長年に渡り議論されてきた問題に、新たな参考情報をもたらしたとのことである。 一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされていた。最古の経典目録(経録)東晋の釈道安撰『綜理衆経目録』(梁の僧祐撰『出三蔵記集』にほぼ収む)には、『摩訶般若波羅蜜神咒一巻』及び『般若波羅蜜神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文による儀礼が先に成立していたという説もある。これらは、後世の文献では前者は3世紀中央アジア出身の支謙、後者は鳩摩羅什の訳とされているが、『綜理衆経目録』には訳者不明(失訳)とされており、この二人に帰することは信憑性にとぼしい。前者は現存せず、後者は大蔵経収録の羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』ともされているが、鳩摩羅什の訳経開始が402年であるため、釈道安の没年385年には未訳出である。またそのテキストの主要部は宋・元・明版大蔵経の鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』のテキストと一致するが、宋版大蔵経の刊行は12世紀後半であるため、このテキストが鳩摩羅什訳であるということも疑われている。 西域から645年正月に帰国した玄奘もまた『般若心経』を 終南山翠微宮で649年に翻訳したとされている。 しかし古来テキストの主要部分の一部が玄奘訳『大般若波羅蜜多経』の該当部分ではなく、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)からの抽出文そのものであるため、玄奘訳『般若心経』の成立に関し様々な説が出されている。 また、古くから著名な玄奘訳のテキストとされるものは、672年に建てられた弘福寺(興福寺)の集王聖教序碑中の『雁塔聖教序』の後に付加されているテキストである。赤木隆幸は、玄奘訳『般若心経』は『集王聖教序』の石碑に付刻されたことにより、玄奘の訳出経典を象徴するものとして位置づけられた等と述べている 。 大蔵経のカンギュルに入っている大本のチベット訳と、敦煌文書から知られる小本のチベット訳からの2種が知られている。また、カンギュル入蔵本もタントラ部と般若部のものに分かれており、伝承の過程で細部が異なる。 大蔵経に入蔵したチベット語訳大本・般若心経には大きく分けて2つの系統の写本がある。西のテンパンマ(them spangs ma)系統と東のツェルパ(tshal pa)系統である。西の系統にはさらにシェルカルゾン(shel dkar rdzong)系が存在している。特に東のツェルパ系統はプトン・リンチェンドゥプによる改訂を経ている。 現在までに漢訳、チベット語訳、サンスクリットにおいて、大本、小本の2系統のテキストが残存している。大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したものともいわれている。鳩摩羅什訳および玄奘訳は、小本である。 現在最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。 以下は、代表的な流布テキストである。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得 以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経 また、玄奘訳とされるテキストには版本によって、例えば下記の箇所のように、字句の異同が十数箇所存在する。 なお、以下では教学用語に対する言及をわかりやすくするために注を加えた。 一切智者に敬礼する 観自在菩薩は、深遠なる「智慧の完成」の修行を行じていたとき、五つの要素(五蘊)がある、と見られた。そしてそれらは本性が空であると見抜かれた。 シャーリプトラよ、この世界では、物質とは空性であり、空性とは物質にほかならない。物質と空性は別々のものではなく、空性は物質と別々のものではない。 物質であるもの、それは空性であり、空性であるもの、それは物質である。 感受作用(受)・概念作用(想)・意志作用(行)・認識作用(識)(=五蘊)も同様である。 この世界では、あらゆる現象は空性を特徴とするものであり、生ずることもなく、滅することもない(=不生不滅)。汚れることもなく、汚れを離れることもない。欠けることもなく満ちることもない。 シャーリプトラよ、それゆえに空性にあっては、物質はなく、感受作用、概念作用、意志作用、認識作用はない(=五蘊はない)。 眼耳鼻舌身意の六つの認識器官もなく、色声香味触法の六つの認識対象もない(=十二処はない)。 眼に映る世界はない。さらに心の認識する世界もない(=六根六境六識の十八界はない)。 知識は存在しない、迷いや煩悩もない(=十二因縁の順観はない)。 知識が消滅することはなく、迷いや煩悩の消滅もない(=十二因縁の逆観もない)。 苦・集・滅・道(=四聖諦)はない。 (真理を)知るということもなく、(悟りを)獲得するということもない。 それゆえ、(悟りを)獲得するということがないので、菩薩(たち)の「智慧の完成」を頼りとして、(菩薩は)心を覆うものなく(安住して)過ごしている。 心を覆うものは何もないので、恐れがない。顛倒(した見解)から離れており、(無住処)涅槃に住している。 (過去・現在・未来の)三世の全ての覚者(仏)たちは「智慧の完成」を頼りとして、無上正覚の悟りを得ている。 それゆえに知るべきである。「智慧の完成」は大いなる真言(mantro)であり、大いなる明らかな智慧の真言であり、この上ない真言であり、すべての苦しみを鎮める。 それは、並ぶもののない真言であり、誤つことなきがゆえに真実である。「智慧の完成」において、真言が誦される。 すなわち(tadyathā)、 と。 般若心経の解釈には、(1)空思想をコンパクトにまとめた正統的な般若経典とする立場と、(2)真言をその主要部分と見て、他の部分は真言を引き立てるための従属部分とする密教的解釈の二つの立場がある。 一般に般若心経も空思想を主題とする般若経典の一篇であり、その核心部は「色即是空・空即是色」等を説く散文部にあるという説が常識とされている。 一方、真言の威力と功徳を説くことが般若心経の核心であるという主張もある。末尾の真言(マントラ)を散文部分への付記と見るのではなく、空観を説く前半部分は後半部分への伏線、前提になっていると見なすべきであるということである。 末尾の真言(マントラ)については、その位置づけや意味について、仏教学者の渡辺照宏説、中村元説、宮坂宥洪説など、様々な解釈が示されてきたが、竹中智泰は、『般若心経』の陀羅尼に関する文献学的解釈は下記の4つにつきるのではないかと述べている。 阿理生(ほとりりしょう)は、仏教混交梵語とヴェーダ語文法を混在させた独自の解釈を主張している。ヴェーダ語文法とプラークリット文法を混在させて解釈するのは、両者に近縁性があることがリヒャルト・ピシェルにより指摘されているからだという。 なお、心経の真言は『陀羅尼集経』にみられる「般若大心陀羅尼」の第十六呪と同一である。 日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。 般若心経は、サブカルチャーも含めた現代文化でもモチーフとしてよく使われる。
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"paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、心経の真言は『陀羅尼集経』にみられる「般若大心陀羅尼」の第十六呪と同一である。", "title": "内容と解釈" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本では仏教各派、特に法相宗・天台宗・真言宗・禅宗が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。", "title": "日本における般若心経" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "般若心経は、サブカルチャーも含めた現代文化でもモチーフとしてよく使われる。", "title": "日本の現代社会における受容" } ]
般若波羅蜜多心経は 空の理法をさとることが根本思想とされる大乗仏教の教理が、短いこの一巻の中にすべて納まっているといわれてきた経である。 「色は空、空は色である」との一文は有名であり、大乗仏教の根底である二諦教義が凝縮されている。空の理法とは追究すれば限りがなく、『大般若経』六百巻のような大部の経が成立したが、この短い『般若心経』一巻にすべて納まる大乗仏教の精髄を示すものとして重要視され、常に読誦されてきた。 仏教の全経典の中でも最も短いもののひとつで、日本では「色即是空・空即是色」の名句で親しまれ、古くは聖武天皇の時代から現代まで、複数の宗派における 読誦経典の一つとして広く用いられている。
<!--{{複数の問題 |参照方法=2013年3月 |言葉を濁さない=2013年3月 |独自研究=2016年9月 |出典の明記=2016年9月 |観点=2016年9月}}--> {{Redirect|心経|[[儒教]]の「心経」|真徳秀}} {{Infobox religious text | name = 般若波羅蜜多心経 | subheader = はんにゃはらみったしんぎょう<br>{{lang-sa-short|Prajñā-pāramitā-hṛdaya}} | image = [[File:Hannya shingyo.png|300px]] | caption = 漢訳された経 | religion = [[仏教]] | author = 不明 | language = サンスクリット語 | native_wikisource = 摩訶般若波羅蜜多心經 | orig_lang_code = zh | wikisource1 = <!-- Up to 5 wikisource variables may be specified --> }} '''般若波羅蜜多心経'''(はんにゃはらみったしんぎょう、{{lang-sa-short|Prajñā-pāramitā-hṛdaya}}、プラジュニャーパーラミター・フリダヤ)は [[空 (仏教)|空の理法]]をさとることが根本思想とされる[[大乗仏教]]の教理が、短いこの一巻の中にすべて納まっているといわれてきた[[経 (仏教)|経]]である。 「色は空、空は色である」との一文は有名であり、大乗仏教の根底である[[二諦]]教義が凝縮されている。空の理法とは追究すれば限りがなく、『[[大般若波羅蜜多経|大般若経]]』六百巻のような大部の経が成立したが、この短い『般若心経』一巻にすべて納まる大乗仏教の精髄を示すものとして重要視され、常に読誦されてきた{{Sfn|中村&紀野|1960|p=162}}。 仏教の全経典の中でも最も短いもののひとつで、日本では「色即是空・空即是色」の名句で親しまれ、古くは[[聖武天皇]]の時代から現代まで、複数の宗派における [[読誦]]経典の一つとして広く用いられている{{Sfn|渡辺|2015|p=23}}。 == 名称 == 日本で広く流布している[[玄奘三蔵]]訳の正式な経題名は『'''般若波羅蜜多心経'''』<ref>[[大正新脩大蔵経]]データベース(T0251_.08.0848c04 - c23)</ref>であるが、一般的には『'''般若心経'''』と略称で呼ばれている。これをさらに省略して『'''心経'''』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、[[サンスクリット]]典籍の題名は「{{IAST|Prajñā}}(般若){{IAST|-pāramitā}}(波羅蜜多){{IAST|-hṛdaya}}(心)」であり、「経」に相当する「{{IAST|sūtra}}([[スートラ]])」の字句はない。 日本の仏教の[[宗派]]によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏([[釈迦]])の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の[[接頭辞]]をつけて、『'''仏説摩訶般若波羅蜜多心経'''』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『'''摩訶般若波羅蜜多心経'''』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺([[長安]])の『[[集王聖教序]]碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『'''般若多心経'''』(はんにゃたしんぎょう)と略されている{{efn2|唐代の 7 世紀後半頃から広く用いられた名称。{{Sfn|荒見|2018|pp=1-18}}}}。 == 起源 == {{multiple image|align=right |width=300px |direction=vertical |image1 = Heart Sutra on Palm Leaves 1 (TNM N-8).jpg| |image2 = Heart Sutra on Palm Leaves 2 (TNM N-8).jpg| |caption2= 最古の梵字写本『[https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100625&content_part_id=001&content_pict_id=001 梵本心経および尊勝陀羅尼]』(法隆寺貝葉心経) 第一葉(上)から第二葉(下)の1行目までに般若心経が書写されている。}} 現存する最古の[[サンスクリット]]本(梵本)は[[東京国立博物館]]所蔵([[法隆寺献納宝物]])の[[貝葉]]本(東京国立博物館によれば後グプタ時代・7~8世紀の写本<ref>梵本心経および尊勝陀羅尼 - [https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=100625&content_part_id=001&content_pict_id=001 梵本心経および尊勝陀羅尼] e国宝</ref>)であり、これを法隆寺本(もしくは法隆寺貝葉心経)と称する。(右図)漢訳よりも古い時代の写本は発見されていない。オーストリアのインド学者、[[ゲオルク・ビューラー]](1837-1898) は、「伝承では[[577年]]に没したヤシという僧侶の所持した写本で[[609年]]請来とする。またインド人の書写による6世紀初半以前のものである」と鑑定していた{{Sfn|金岡|2001|p=138}}。古いもののため損傷により判読が難しい箇所が多く、江戸時代の[[浄厳]]以来、学界でも多数の判読案が提出されている。この他、日本には[[東寺]]所蔵の澄仁本<ref group="注">[[最澄]]、[[円仁]]が唐から持ち帰ったものとされるが原本は残存しない。</ref>などの複数の梵本があり、[[敦煌文書]]の中にも梵本般若心経が存在している{{Sfn|金岡|2001|pp=141-147}}。また[[チベット]]や[[ネパール]]等に伝わる写本もあるが、それらはかなり後世のものである{{Sfn|金岡|2001|pp=151-152, 155-156}}。 {{-}} {{Wide image|Falongsibeiye.png|600px|[[法隆寺]]蔵『梵本心経および尊勝陀羅尼』(書き起こし)}} === 中国撰述説 === 1992年アメリカの{{仮リンク|ジャン・ナティエ|en|Jan_Nattier}}({{unicode|Jan Nattier}}、当時インディアナ大学准教授)は、玄奘訳『般若心経』の本文が[[鳩摩羅什]]訳『摩訶般若波羅蜜経』と逐語的に一致することなどに基づき、誰かが羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』から『般若心経』をまとめ、玄奘が「観自在」や「蘊」など特定の術語だけを修正し、それを更にサンスクリット訳したという[[偽経]]説を提起した{{Sfn|Nattier|1992|pp=153-223}}。1994年7月に福井文雅が仏教思想学会10周年記念全国大会で反論を発表した<ref>産経新聞平成6年7月6日「般若心経 インド製か中国製か」</ref>。これに対し、1995年に工藤順之は、ナティエの論旨に与するものではないと断ったうえで、(福井が)一方的に荒唐無稽な妄説として無視するのは公平な態度とは思えないとして、ナティエの学説の骨子を紹介している{{Sfn|工藤|1995|pp=20-21}}。また仏教学者でありキリスト教の牧師でもある[[大和昌平]]によって1996年に紹介されている{{Sfn|大和|1996|pp=6-8}}。 これに対し[[福井文雅]]{{Sfn|福井|1994|p=81}}、原田和宗{{Sfn|原田|2002|pp=17-62}}らにより詳細な反論が日本語によってなされている。 ナティエ論文の日本語訳が工藤順之・吹田隆道により発表されたのは2006年になってからである{{Sfn|工藤&吹田|2006|pp=17-83}}。 その後、[[石井公成]]はナティエ論文の影響が欧米で継続していることに対し、異なった面からの批判を日本語で発表した{{Sfn|石井|2015|pp=499-492}}。 2016年に最古の玄奘訳の版とされる[[661年]]に刻まれた[[石経]]が北京で発見されたという報道があった。<ref>「房山石経『心経』、現存する最古の版に」[http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2016-09/26/content_39373391.htm 「中国網日本語版(チャイナネット)」2016年9月26日]</ref>。記事によれば「玄奘は漢文の心経を翻訳したか」という世界の学術界で長年に渡り議論されてきた問題<ref group="注">ナティエ論文への言及かは定かでない。</ref>に、新たな参考情報をもたらしたとのことである<ref group="注">新規に石経が発見されたということではなく、以前から保管されていた石経を鑑定した結果らしいが、後報、詳報は未見である。</ref>。 == 翻訳書 == === 漢訳 === [[File:Heart Sutra Written in Japanese Kanji and Kana.jpg|thumb|300px|玄奘三蔵訳。ふりがなは宗派によって若干の違いがある。]] 一般的には、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜大明咒經』が現存中最古の漢訳とされていた{{Sfn|金岡|2001|p=158}}。最古の経典目録([[経録]])[[東晋]]の[[釈道安]]撰『綜理衆経目録』([[梁 (南朝)|梁]]の僧祐撰『[[出三蔵記集]]』にほぼ収む)には、『摩訶般若波羅蜜神咒一巻』及び『般若波羅蜜神咒一巻 異本』とあり、経としての般若心経成立以前から、呪文による儀礼が先に成立していたという説もある。これらは、後世の文献では前者は[[3世紀]][[中央アジア]]出身の[[支謙]]、後者は[[鳩摩羅什]]の訳とされているが、『綜理衆経目録』には訳者不明(失訳)とされており、この二人に帰することは信憑性にとぼしい。前者は現存せず、後者は[[大蔵経]]収録の羅什訳『[http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E8%88%AC%E8%8B%A5%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C%E5%A4%A7%E6%98%8E%E5%92%92%E7%B6%93 摩訶般若波羅蜜大明咒經]』ともされているが、鳩摩羅什の訳経開始が[[402年]]であるため、釈道安の没年[[385年]]には未訳出である。またそのテキストの主要部は宋・元・明版大蔵経の鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』のテキストと一致するが、宋版大蔵経の刊行は12世紀後半であるため、このテキストが鳩摩羅什訳であるということも疑われている{{Sfn|渡辺|1990|pp=54-58}}。 西域から[[645年]]正月に帰国した[[玄奘]]もまた『般若心経』を [[終南山]]翠微宮で[[649年]]に翻訳したとされている<ref>開元釈教録 卷第八に「般若波羅蜜多心經一卷見内典録第二出與摩訶般若大明呪經等同本貞觀二十三年五月二十四日於終南山翠微宮譯沙門知仁筆受」とある。(T2154_.55.0555c03-04)</ref>。 しかし古来テキストの主要部分の一部が玄奘訳『[[大般若波羅蜜多経]]』の該当部分ではなく、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経)からの抽出文そのものであるため、玄奘訳『般若心経』の成立に関し様々な説が出されている{{Sfn|原田|2002|pp=17-18}}。 また、古くから著名な玄奘訳のテキストとされるものは、[[672年]]に建てられた弘福寺(興福寺)の[[集王聖教序|集王聖教序碑]]中の『[[褚遂良#雁塔聖教序|雁塔聖教序]]』の後に付加されているテキストである。赤木隆幸<ref>あかぎたかゆき 1970年生 日本高麗浪漫学会理事 </ref>は、玄奘訳『般若心経』は『集王聖教序』の石碑に付刻されたことにより、玄奘の訳出経典を象徴するものとして位置づけられた等と述べている <ref>『玄奘訳「般若心経」の伝来と流布』史觀 172 1-21, 2015 [https://irdb.nii.ac.jp/00835/0002084888 pdf] p.7上段 </ref>。 === 蔵訳(チベット訳) === [[大蔵経]]のカンギュルに入っている大本のチベット訳と、敦煌文書から知られる小本のチベット訳{{Sfn|上山|1965|p=782}}{{efn2|この小本は漢文からの重訳ではなく、ほぼサンスクリット直訳に近い翻訳である。{{Sfn|上山|1965|p=780}}}}からの2種が知られている。また、カンギュル入蔵本もタントラ部と般若部のものに分かれており、伝承の過程で細部が異なる{{Sfn|川崎|2000|pp=455}}。 ==== 写本の系統 ==== [[大蔵経]]に入蔵したチベット語訳大本・般若心経には大きく分けて2つの系統の写本がある。西のテンパンマ({{unicode|them spangs ma}})系統{{efn2|[[河口慧海]]将来本、トク・パレス本がこれに属する{{Sfn|川崎|2000|pp=456-455}}。}}と東のツェルパ({{unicode|tshal pa}})系統{{efn2|リタン・復刻ジャン版、デルゲ版、北京版、チョネ版などがこれに属する{{Sfn|川崎|2000|pp=456-455}}。}}である。西の系統にはさらにシェルカルゾン({{unicode|shel dkar rdzong}})系{{efn2|ラサ版がこれに属する。{{Sfn|川崎|2000|pp=456-455}}}}が存在している{{Sfn|川崎|2000|pp=456-455}}。特に東のツェルパ系統は[[プトゥン|プトン・リンチェンドゥプ]]による改訂を経ている{{Sfn|川崎|2000|pp=456-455}}。 {{節スタブ|section=1|date=2023年6月}} == 内容と解釈 == 現在までに漢訳、チベット語訳、サンスクリットにおいて、大本、小本の2系統のテキストが残存している。大本は小本の前後に序と結びの部分を加筆したもの{{Sfn|金岡|1973|p=149}}ともいわれている。鳩摩羅什訳および玄奘訳は、小本である。 === 代表的なテキスト === 現在最も流布しているのは[[玄奘三蔵]]訳とされる小本系の漢訳であり、『般若心経』といえばこれを指すことが多い。 以下は、代表的な流布テキストである。 {{listen | header = 玄奘三蔵訳の[[読誦]]の音声 | filename = Heart Sutra.oga | title = 僧侶と檀家による読経 | description = 岡山県[[総社市]]、[[華蔵院]]([[臨済宗]]) | format = [[Oga]] }} {{quotation| 仏説摩訶般若波羅蜜多心経<br /> [[観自在菩薩]]行[[波羅蜜|深般若波羅蜜多]]時照見[[五蘊]]皆[[空 (仏教)|空]]度一切苦厄<br> [[舎利子]][[色 (仏教)|色]]不異空空不異色色即是空空即是色[[五蘊|受想行識]]亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無[[処|眼耳鼻舌身意]]、無[[処|色声香味触法]]無[[処|眼界乃至無意識界]]無[[無明]]亦無無明尽乃至無[[十二因縁|老死]]亦無老死尽無[[四諦|苦集滅道]]無智亦無得<br> 以無所得故[[菩薩|菩提薩埵]]依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟[[涅槃]]三世諸仏依般若波羅蜜多故得[[阿耨多羅三藐三菩提]] <br /> 故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪<br /> 即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶<br /> 般若心経 | [[玄奘三蔵]]訳 <small>注:原文テキストは”小林正盛{{efn2|こばやし しょうせい (1876 - 1937年)茨城県古川市出身。明治~昭和前期の真言宗僧侶。}} 編『[{{NDLDC|916687/66}} 真言宗聖典]』, 森江書店, 大正15, p.114”。旧字体を新字体に改める。呪と咒の表記揺れはすべて呪に統一した。また、句読点を除去した。</small>}} また、玄奘訳とされるテキストには版本によって、例えば下記の箇所のように、字句の異同が十数箇所存在する。 *空即是色受想行識亦復如是([[大正蔵]]) *空即是色受想行識<ins>''等''</ins>亦復如是(法隆寺本等法相宗系) *大蔵経所収の玄奘訳・般若波羅蜜多心経には流布本における「遠離<ins>''一切''</ins>顛倒夢想」部分の『一切』の二字がない<ref>T0251_.08.0848c04 - c23</ref>。 === 代表的なサンスクリットテキストの翻訳 === なお、以下では教学用語に対する言及をわかりやすくするために注を加えた<ref>{{Cite journal|和書|title=サンスクリット原文で『般若心経』を読む |author=大崎 正瑠 |journal=総合文化研究 |volume=19 |issue=1-2 |pages=41-59 |date=2013-12|naid=40021301742 |url=https://www.bus.nihon-u.ac.jp/wp-content/themes/nichidai/assets/img/unique/laboratory/kiyo/oosakimasaru.pdf }}</ref>。 {{quotation| 一切智者に{{Ruby|敬礼|きょうらい}}する<br/> [[観音菩薩|観自在菩薩]]は、深遠なる「[[般若波羅蜜|智慧の完成]]」の修行を行じていたとき、五つの要素([[五蘊]])がある、と見られた。そしてそれらは[[本性 (仏教)|本性]]が空であると見抜かれた。<br/> <br/> [[舎利弗|シャーリプトラ]]よ、この世界では、{{Ruby|[[色 (仏教)|物質]]|ルーパ}}とは{{Ruby|[[空 (仏教)|空性]]|シューニャター}}であり、空性とは物質にほかならない。物質と空性は別々のものではなく、空性は物質と別々のものではない。<br> 物質であるもの、それは空性であり、空性であるもの、それは物質である。<br> 感受作用([[受]])・概念作用([[想]])・意志作用([[サンカーラ|行]])・認識作用([[識]])(=[[五蘊]])も同様である。<br> この世界では、あらゆる現象は空性を特徴とするものであり、生ずることもなく、滅することもない(=不生不滅)。汚れることもなく、汚れを離れることもない。欠けることもなく満ちることもない。<br/> <br/> シャーリプトラよ、それゆえに空性にあっては、物質はなく、感受作用、概念作用、意志作用、認識作用はない(=[[五蘊]]はない)。<br/> 眼耳鼻舌身意の[[六根|六つの認識器官]]もなく、色声香味触法の[[六境|六つの認識対象]]もない(=[[処|十二処]]はない)。<br/> 眼に映る世界はない。さらに[[意識 (仏教)|心の認識する]]世界もない(=[[六根]][[六境]][[六識]]の[[十八界]]はない)。<br/> <ins>''知識は存在しない''</ins>{{efn2|「na vidyā」。この句は玄奘訳やチベット語訳にはない。}}、迷いや煩悩もない(=[[十二因縁]]の順観はない)。<br/> <ins>''知識が消滅することはなく''</ins>{{efn2|「na vidyākṣayo」。この句は玄奘訳やチベット語訳にはない。}}、迷いや煩悩の消滅もない(=十二因縁の逆観もない)。<br/> <!-- (老死は「無明・行・識…老死」として十二因縁に含まれ、「迷いや煩悩もない(…)迷いや煩悩の消滅もない」に含まれているため、非表示。) 老死はない、老死が滅することもない(=[[四苦]]はない)。<br/>--> 苦・集・滅・道(=[[四聖諦]])はない。<br/> (真理を)知るということもなく、(悟りを)獲得するということもない。<br/> <br/> それゆえ、(悟りを)獲得するということがないので、菩薩(たち)の「智慧の完成」を頼りとして、(菩薩は)心を覆うものなく(安住して)過ごしている。<br/> 心を覆うものは何もないので、恐れがない。[[顛倒経|顛倒]](した見解)から離れており、(無住処)涅槃に住している。<br> (過去・現在・未来の)三世の全ての覚者(仏)たちは「智慧の完成」を頼りとして、[[正覚|無上正覚]]の悟りを得ている。<br> <br/> それゆえに知るべきである。「智慧の完成」は大いなる真言(mantro)であり、大いなる明らかな智慧の真言であり、この上ない真言であり、すべての苦しみを鎮める。<br> それは、並ぶもののない真言であり、誤つことなきがゆえに真実である。「智慧の完成」において、真言が誦される。<br/> すなわち({{lang|sa|tadyathā}})、 : {{lang|sa|gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!}} : (行った、行った、向こうの岸に行った{{Efn2|[[涅槃]]は、川の流れ([[煩悩#四暴流|四暴流]])に打ち勝って向こう側(彼岸)に渡ることに喩えられた。}}。向こうの岸に完全に至った。悟りよ、幸いあれ!) と。 }} === 心経の諸解釈 === <!--{{要出典範囲|『般若心経』は一般には600巻に及ぶ『[[大般若波羅蜜多経]]』の心髄を収むといわれている|date=2016-09}}が、{{要出典範囲|『大般若波羅蜜多経』(『大般若経』)及び『[[摩訶般若波羅蜜経]]』(『大品般若経』)からの抜粋|date=2016-09}}に{{要出典範囲|『陀羅尼集経』(7世紀頃)に収録されていると言われる『般若大心陀羅尼』を末尾に付加したものである|date=2016-09}}。 [[File:HANNYA SHINGYOU or Heart Sutra in Japan 玄奘訳 般若心経 般若波羅蜜多心經.jpg|thumb|玄奘三蔵訳。ふりがなや字句は宗派によって若干の違いがある。]] --> <!--『般若心経』の「心」とは、[[サンスクリット]]「{{IAST|hṛdaya}}」(フリダヤ、[[心臓]]、重要な物を意味する)の訳語であり、{{要出典範囲|同時に呪(陀羅尼、真言)をも意味する語でもある。|date=2016-09}}そのため、一般的には般若心経は空を説く経典であるとされる一方、これを否定して真言の経典であるともいわれている。{{efn2|弘法大師空海が「般若心経秘鍵」で唱えた説で、宮坂宥洪によれば現代のサンスクリット研究の立場から言っても首肯できる説であるという。宮坂2004{{要ページ番号|date=2017-06}}}}{{要出典範囲|一般に般若経典には、後期の密教化したものは別として、[[マントラ|呪文]]などは含まれていない。|date=2016-9}}{{独自研究範囲|それを考慮すると、『般若心経』は般若経典とは言えず.マントラ教集団の手による[般若波羅蜜神呪](神呪の意であるフリダヤが.心と作意的に訳された)特異なものと言える。|date=2016-09}} また『大般若波羅蜜多経』(大般若経)には、第二分功德品第三十二に「般若波羅蜜多」が大明咒(偉大な呪文)云々であると説かれているが、『般若心経』では、付加された{{要出典範囲|『陀羅尼集経』の陀羅尼への経過部分に|date=2016-09}}「般若波羅蜜多咒」という語句が挿入されている。 --> 般若心経の解釈には、(1)空思想をコンパクトにまとめた正統的な般若経典とする立場と、(2)真言をその主要部分と見て、他の部分は真言を引き立てるための従属部分とする密教的解釈の二つの立場がある。 一般に般若心経も[[空 (仏教)|空]]思想を主題とする般若経典の一篇であり、その核心部は「色即是空・空即是色」等を説く散文部にあるという説が常識とされている。{{efn2|[[立川武蔵]]は2001年の著作『般若心経の新しい読み方』でこの伝統的な空思想で捉える従来の立場を踏襲している{{Sfn|原田|2002|pp=28-19}}。}}{{efn2|原田は、この解釈は「[[法相宗]]の[[基 (僧)|基]]『般若波羅蜜多心経幽賛』に端を発し、[[華厳宗]]の[[澄観]]の手で定着化されたようだ」と見ている{{Sfn|原田|2002|p=61}} 。}} 一方、[[真言]]の威力と功徳を説くことが般若心経の核心であるという主張もある。末尾の真言([[マントラ]])を散文部分への付記と見るのではなく、空観を説く前半部分は後半部分への伏線、前提になっていると見なすべきであるということである。{{efn2|[[佐保田鶴治]]は[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー哲学]]・[[ハタヨーガ]]実践者としての体験から自説を展開している<ref>『般若心経の真実』1982年 人文書院 ISBN 978-4409410073 </ref>。}}{{efn2|[[福井文雅]]は、般若心経の核心部は心呪の効能を説く後半部と真言自体であるとし{{Sfn|福井|1987|pp=24-25}}、般若心経ほどの短い経文の中に空観を前提として般若波羅蜜多(咒)の功徳を併せ説き、それを唱えれば「能く一切の苦を除く」と強調している経典は他に無く、それを般若心経が後世にまで人々を引きつけた理由だと主張している{{Sfn|福井|1987|p=28}}。}}{{efn2| [[宮坂宥洪]]は般若心経は心の在りようを説いたものではなく具体的なマントラ実践の教説であると論を展開している<ref>『般若心経の新世界:インド仏教実践論の基調』1994年 [[人文書院]]ISBN 978-4409410578{{要ページ番号|date=2023年6月}} 、この基調は2004年出版の一般向け書籍『真釈般若心経』ISBN 978-4043760015{{要ページ番号|date=2023年6月}} にも一貫している。</ref>。}} === 真言の諸解釈 === 末尾の真言(マントラ)については、その位置づけや意味について、[[仏教学者]]の[[渡辺照宏]]説、中村元説、宮坂宥洪説など、様々な解釈が示されてきたが、竹中智泰は、『般若心経』の陀羅尼に関する文献学的解釈は下記の4つにつきるのではないかと述べている<ref>竹中智泰(たけなかちたい、1945年生)『般若心経の陀羅尼』「臨済宗の陪羅尼」1982年 [[東方出版]] 所収 p.137-146、(初出 1977年7月「臨済会報」108号)p.143-146 </ref>。 # 「ガテー(gate)」を女性名詞「ガター(gatā)」の単数・呼格と理解し、「ボーディ(bodhi)」もそれと同格に単数・呼格とする解釈。[[中村元 (哲学者)|中村元]]・[[紀野一義]]訳註『般若心経・[[金剛般若経]]』1960年 [[岩波文庫]] ISBN 978-4003330319 p.36-37 。 # 「ガテー」を「ガム(√gam)」の過去分詞「ガタ」の男性・単数・処格に理解し、「ボーディ」を単数・主格とする解釈。<ref>中村元・紀野一義訳 註『般若心経・金剛般若経』p.37 。</ref> # 全般的に[[仏教混淆サンスクリット|仏教混交梵語]]と解して、「ガテー」を「ガム(√gam)」の過去分詞「ガタ」の男性・単数・主格に理解し、「ボーディ」を対格とする解釈。<ref>渡辺照宏『般若心経真言の正解(下)』[[中外日報]]1975年12月3日、神崎照恵『般若心経講話』1971年 [[成田山新勝寺]]p.167 </ref> # 「ガテー」を「道」を意味する女性名詞「ガティ(gati)」の単数・呼格と理解し、「ボーディ」を1と同じく俗語形に基づく女性・単数・呼格とする解釈。<ref>田久保周誉『般若心経解説』1973年 山喜房仏書林 p51,p90-91 </ref> 阿理生(ほとりりしょう)は、[[仏教混淆サンスクリット|仏教混交梵語]]と[[ヴェーダ語]]文法を混在させた独自の解釈を主張している{{Sfn|阿|2008|pp=873-870}}{{efn2|「ガテー」を√gamの過去分詞であり、プラークリット文法により男性・複数・対格で、文脈により「~し始めた」という意味に捉えるべきだとしている。すなわち「行き始めたものたち」(√gamし始めた)である。そしてこれらは船に喩えられているという{{Sfn|阿|2008|pp=871-870}}。しかも、ボーディは√budh(目覚める)ではなく√bhū(存在する)とし、[[ヴェーダ語]]文法により二人称の[[アオリスト]]命令法であり、さらに「[[スヴァーハー]]」の原義をヴェーダ語文法からsu+√vāh+ā、つまり「よく運ぶ」の具格と理解するという新解釈を提示し{{Sfn|阿|2008|pp=872-871}}、全体的に「「行き始めた〔船たち〕を率いてください」という意味だとする{{Sfn|阿|2008|pp=871-870}}。}}。ヴェーダ語文法とプラークリット文法を混在させて解釈するのは、両者に近縁性があることが[[リヒャルト・ピシェル]]により指摘されているからだという{{Sfn|阿|2008|p=870}}{{efn2|阿(ほとり)は同論文で、「ガテー」の解釈を6通り挙げている{{Sfn|阿|2008|p=872}}。}}。 なお、心経の真言は『[[陀羅尼集経]]』にみられる「般若大心陀羅尼」の第十六呪と同一である。<ref>大正新脩大藏經 佛説陀羅尼集經卷第三 大唐天竺三藏阿地瞿多譯 般若波羅蜜多大心經(印有十三呪有九) 般若大心陀羅尼第十六 「般若大心陀羅尼第十六呪曰 '''跢姪他(一)掲帝掲帝(二)波羅掲帝(三)波囉僧掲帝(四)菩提(五)莎訶(六)''' 是大心呪。」( T0901_.18.0807b19 - 21 )。</ref>{{efn2|この経は654年訳出となっているが{{Sfn|佐々木|2003|p=139}}、玄奘の心経訳出(649年)より後である。}} == 日本における般若心経 == === 各宗派 === 日本では仏教各派、特に[[法相宗]]・[[天台宗]]・[[真言宗]]・[[禅宗]]が般若心経を使用し、その宗派独特の解釈を行っている。 * [[法相宗]]は玄奘からの正統宗派であるが、[[基 (僧)|基]]『般若波羅蜜多心経幽賛』にある「経日、照見五蘊等皆空」<ref>T33-535b</ref>の伝統を引いて今日でも「照見五蘊等皆空」に作る版を毎朝読誦している{{Sfn|石井|2015|p=495}}。 * [[真言宗]]では、読誦・観誦の対象としている。日用経典(日々の勤行等通常行事用の経典)であり重要な法会でも用いる(空海の[[般若心経秘鍵]]を参照)。繰り返し読誦する場合は、一巻目は、冒頭の「仏説」から読み始めるが、二巻目以降の読誦では「仏説」を読まず、「摩訶」から読む慣わしとなっている。開祖[[空海]]が般若心経を重視したことで、注釈・解釈を著す僧侶・仏教学者が多く、昭和では高神覚昇(1894 - 1948)『般若心経講義』(角川文庫で再刊)、平成の現在では宮坂宥洪『真釈般若心経』、加藤精一『空海「般若心経秘鍵」』(各角川ソフィア文庫)[[松長有慶]]『空海 般若心経の秘密を読み解く』(春秋社)などの著作が版を重ねている。高神の解釈書は、戦前にNHKラジオ放送で行われ、経典解釈として非常に評価が高く多数重版し、異なる宗派の僧侶や仏教学者からも評価されている。 * [[天台宗]]では、[[最澄]]作とされる般若心経の注釈がある。また[[天台宗|中国天台宗]]の明曠作とされる注釈書も存在する。 * [[浄土宗]]も、根本経典は浄土真宗と同様に『浄土三部経』だが、祈願の時と食作法(食事の時の作法)にのみ唱える。 * [[時宗]]では、神社参拝及び本山での朝の勤行後に、[[熊野大社]]の御霊を祀る神棚に向かい三唱することが必須となっている。日用に用いる場合もある。 * [[臨済宗]]では、日用経典の一つ。名僧で名高い[[一休宗純]]・[[盤珪]]・[[白隠]]が解釈を行っている。般若心経とは自分の心の本来の姿を現した経典であるという説が強い。 * [[曹洞宗]]では、日用経典の一つ。開祖[[道元]]が[[正法眼蔵]]の中で解釈し、かつて[[異端]]の僧とされた天桂伝尊(1648 - 1736年)の「観自在菩薩とは汝自身である」という解釈が著名である。また[[良寛]]・[[種田山頭火]]など般若心経の実践に取り組んだ僧侶も多い。良寛は般若心経の大量の写経を残しており、種田は般若心経を俳句に読み込んでいる。 * [[修験道]]では、修験者([[山伏]]などの[[行者]])が「行」を行う際に唱える。 * [[神道]]でも唱えるところがある。神社(神前)で読誦の際は、冒頭の「仏説」を読まずに、「摩訶」から読む。また、前もって「般若心経は仏教の全経典の中から選りすぐられた経典であり、それを謹んで捧げます」というような内容の「心経奉讃文(しんぎょうほうさんもん)」を読み上げる場合もある。 * 一方で[[浄土真宗]]は『[[浄土三部経]]』を、[[日蓮宗]]・[[法華宗]]は『[[法華経]](妙法蓮華経)』を根本経典とするため、般若心経を唱えない。これは該当宗派の教義上、所依経典以外は用いる必要がなく、唱えることも推奨されない。しかし教養的な観点から学ぶことは問題視されておらず、例えば浄土真宗[[西本願寺]]門主であった[[大谷光瑞]]は、般若心経の講話録を出版している<ref>『大谷光瑞猊下述 般若波羅密多心經講話』 1922年 大乗社 [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1029413 影印] 。</ref>。 == 日本の現代社会における受容 == 般若心経は、サブカルチャーも含めた現代文化でもモチーフとしてよく使われる。 [[File:般若心経 (33130523082).jpg|thumb|150px|般若心経をプリントした[[Tシャツ]]]] * 1970年代のSF漫画『[[ザ・ムーン]]』では、少年たちが般若心経をとなえることで巨大ロボットを動かした。 * 1972年から翌年にかけて放映された『[[愛の戦士レインボーマン]]』では、ヒーローの主人公がレインボーマンに変身する際に、般若心経の一部である「阿耨多羅三藐三菩提」を唱えるという設定が用いられた。 * 漫画家の[[桑田二郎]]は、少年漫画から転向、多くの般若心経に関する本を著した。 * 2002年放送開始のテレビ番組『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]]』のトリビアNo.258「[[カラオケボックス]]で『般若心経』が歌える」で、[[タイトー]]の[[通信カラオケ]]機器に入っている「般若心経」のカラオケビデオにあわせて、[[曹洞宗]]桃源院の僧侶6名が読誦するビデオが放送された。 * 2006年10月27日放送の『[[タモリ倶楽部]]』にて、[[みうらじゅん]]が提唱する『[[アウトドア般若心経]]』完読会を実施。みうらは『般若心経』278文字を、家を出て(これを「[[出家]]」と称す)、経文の文字のある市街の看板等の文字を写真に撮り(これを「写経」と称す)、経文の完成を目指すことを『アウトドア般若心経』と定義した。2007年10月には書籍化もされた。 * 2010年9月には、[[J-POP]]風の伴奏を付け[[ボーカロイド]]・[[初音ミク]]に読誦させた動画『般若心経ポップ』が[[ニコニコ動画]]に投稿され<ref>http://www.nicovideo.jp/watch/sm11982230</ref>、約2日で10万再生、約2週間後には60万再生に達し人気を博した<ref>{{Wayback|title=【ネット番記者】ポップな「般若心経」 - MSN産経ニュース|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/it/100916/its1009160742005-n1.htm|date=20101006002133}}</ref>。その後、派生動画として伴奏が[[バラード]]風のものなどが投稿され、それらを集約した[[コンピレーション・アルバム]]も発売された。また派生動画のひとつ『般若心経[[ロック (音楽)|ロック]]』には、視聴者のコメントと言う形で般若心経の現代日本語訳が投稿されている<ref>http://otakei.otakuma.net/archives/2014021803.html</ref>。 * 2010年10月、[[松島龍戒]]が般若心経とシンセサイザー演奏をクロスオーバーさせた楽曲をYouTube に投稿。2013年1月には般若心経などのお経を音楽でアレンジしたCDを発表。 * 2017年、 群馬県[[太田市]]の郷土料理店「新田乃庄」の般若心経を書いた「[[ほうとう]]」が「食べる般若心経」として話題に<ref>「[https://macaro-ni.jp/41126 食べる般若心経!? 群馬「新田乃庄」のほうとうが謎すぎてネット騒然! 2017年11月28日 更新]」2021年1月4日閲覧</ref>。 * 2018年、[[キッサコ]](薬師寺寛邦の僧侶ボーカルプロジェクト)がアルバム「般若心経」をリリース。 * 2019年のアメリカの映画『[[ゴジラ キング・オブ・モンスターズ]]』の楽曲''Ghidorah Theme'' ([[キングギドラ]]のテーマ。Bear McCreary・作)で、般若心経の読誦の音源を断片化し、再編集して使用。 * 2019年5月、[[椎名林檎]]がアルバム『三毒史』に収録の「鶏と蛇と豚」の冒頭で般若心経の読経を使用。 * 2020年、禅僧・赤坂陽月がYouTubeに「般若心経ビートボックスRemix」を投稿。 * [[入れ墨|タトゥー]]として般若心経を自分の体に彫り込む人もいる(ロックミュージシャンの[[MIYAVI|雅-MIYAVI-]]など)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連文献 == * 高神覚昇『仏教聖典般若心経講義』1934年、[[第一書房 (第1期)| 第一書房]] / 1952年、[[角川文庫]] / 2000年、[[角川ソフィア文庫]] / 2006年、{{青空文庫|000269|1543|新字新仮名|般若心経講義}} * {{Cite book | 和書 | author=[[中村元 (哲学者)|中村元]]・[[紀野一義]] (訳注) | title=般若心経・金剛般若経| series=[[岩波文庫]] |publisher= 岩波書店 | year=1960 |isbn=978-4003330319 | ref={{SfnRef|中村&紀野|1960}} }} * {{Cite book | 和書 | author=[[金岡秀友]] | title=般若心経| series=講談社文庫 |publisher= 講談社 | year=1973 | ref={{SfnRef|金岡|1973}} }} ** {{Cite book | 和書 | author=[[金岡秀友]] | title=般若心経| series=講談社学術文庫 |publisher= 講談社 | year=2001 |isbn=978-4-06-159479-1 | ref={{SfnRef|金岡|2001}} }} * [[福井文雅]] 『般若心経の歴史的研究』1987年、[[春秋社]]、{{ISBN2|4-393-11128-1}} * {{Cite journal | 和書 | author=福井文雅 | title=般若心経の研究史―現今の問題点 | journal= 仏教学 / 仏教思想学会 編 |publisher= 仏教思想学会 |volume= | issue=36 | pages79-99 | doi= | year=1994-12 | ref={{SfnRef|福井|1994}} }} * 福井文雅 『般若心経の総合的研究:歴史・社会・資料』2000年、春秋社、{{ISBN2|4-393-11204-0}} * 福井文雅 『ヨーロッパの東方学と般若心経研究の歴史』2008年、五曜書房、{{ISBN2|978-4-89619-744-0}} * {{Cite journal | 和書 | author=福井文雅 | title=般若心経の核心| journal=東洋の思想と宗教 |publisher= 早稲田大学東洋哲学会 |volume= | issue=4 | pages= 20-28 | url=https://hdl.handle.net/2065/46080 | year=1987 | ref={{SfnRef|福井|1987}} }} * [[立川武蔵]] 『般若心経の新しい読み方』2001年、春秋社、{{ISBN2|4393135032}} * [[涌井和]] 『般若心経を梵語原典で読んでみる -サンスクリット入門-』2002年、[[明日香出版社]]、{{ISBN2|4-7569-0618-4}} * [[山中元]] 『サンスクリット文法入門 -般若心経、観音経、真言を梵字で読む-』2004年、[[国際語学社]]、{{ISBN2|4-87731-217-X}} * [[宮坂宥洪]] 『真釈般若心経』2004年、[[角川ソフィア文庫]]、{{ISBN2|978-4043760015}} * {{Cite journal | 和書 | author=原田和宗「梵文『小本・般若心経』和訳」 |journal=密教文化 |publisher=密教研究会 |year=2002 |issue=209 |doi=10.11168/jeb1947.2002.209_L17 |pages=17-62 |ref={{SfnRef|原田|2002}} }} * [[原田和宗]] 『「般若心経」の成立史論 大乗仏教と密教の交差路』2010年、[[大蔵出版]]、{{ISBN2|9784804305776}} * [[割田剛雄]]『般若心経』2011年、パイインターナショナル、{{ISBN2|978-4756240859}} - わかりやすい経文の自在訳。 * [[佐々木閑]]『NHK「100分de名著」ブックス 般若心経』2014年、[[NHK出版]]、{{ISBN2|978-4140815939}} *{{Cite book ja-jp |author=賀銘・続小玉|editor=王夢楠|editor2=房山石経博物館|others2=房山石経與雲居寺文化研究中心|year=2017|chapter=早期<心経>的版本|title=石経研究 第一輯|volume=1|publisher=北京燕山出版所|isbn=9787540243944|pages=12-28|language=中国語}} * {{Cite journal | 和書 | author=工藤順之 | title=『般若心経』研究の新展開 | journal=東方雑華 — 山口恵照博士喜寿記念 |publisher= 東方学院関西教室編 |volume=7 | issue= | pages= 20-40 | url=https://iriab.soka.ac.jp/content/pdf/kudo/Kudo1995(J)-Tohozakke.pdf | year=1995 | ref={{SfnRef|工藤|1995}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=渡辺章悟 | title=経録からみた『摩訶般若波羅蜜神呪経』と『摩訶般若波羅蜜大明呪経』 | journal= 印度學佛教學研究 |publisher= 日本印度学仏教学会 |volume=39 | issue=1 | pages=54-58 | doi=10.4259/ibk.39.54 | year=1990 | ref={{SfnRef|渡辺|1990}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=渡辺章悟 | title=六国史に見る般若心経の受容と展開 | journal= 東洋思想文化 = Eastern philosophy and culture |publisher= 東洋大学文学部 |volume= |issue=2 | pages=21-36 |url=http://id.nii.ac.jp/1060/00007130/ | year=2015 | ref={{SfnRef|渡辺|2015}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=石井公成 | title=『般若心経』をめぐる諸問題 : ジャン・ナティエ氏の玄奘創作説を疑う | journal= 印度學佛教學研究 |publisher= 日本印度学仏教学会 |volume=64 |issue=1 | pages=499-492 |doi=10.4259/ibk.64.1_499 | year=2015 | ref={{SfnRef|石井|2015}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=阿理生(ほとりりしょう) | title=Prajñāpāramitāhṛdaya(『般若心経』)の問題点――マントラの解読―― | journal= 印度學佛教學研究 |publisher= 日本印度学仏教学会 |volume=56 |issue=2 | pages=875-870 |doi=10.4259/ibk.56.2_875 | year=2008 | ref={{SfnRef|阿|2008}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=荒見泰史 | title=『心経』と「心」「経」 | journal= アジア社会文化研究 |publisher= アジア社会文化研究会 |volume= |issue=19 | pages=1-19 |doi=10.15027/45567 | year=2018 | ref={{SfnRef|荒見|2018}} }} * {{Cite journal | 洋書 | author=Jan Nattier | title=The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text? | journal=Journal of the International Association of Buddhist Studies |publisher=International Association of Buddhist Studies |volume=15 |issue=2 | pages=153-223 |url=https://journals.ub.uni-heidelberg.de/index.php/jiabs/article/viewFile/8800/2707 | year=1992 | ref={{SfnRef|Nattier|1992}} }} ** {{Cite journal | 和書 | author1=ジャン・ナティエ (著) |author2=工藤順之・吹田隆道 (訳) | title=般若心経は中国偽経か?| journal= 財団法人三康文化研究所年報 |publisher=三康文化研究所 |volume= |issue=37 | pages=17-83 |url=https://web.archive.org/web/20160304100823/http://iriab.soka.ac.jp/orc/staff/kudo/Kudo%20Works/Kudo2007(J)-Heart%20Sutra%20(J.Nattier).pdf | year=2006 | ref={{SfnRef|工藤&吹田|2006}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=上山大峻 | title=敦煌出土のチベット訳般若心經| journal= 印度學佛教學研究 |publisher=日本印度学仏教学会 |volume=13 |issue=2| pages= 783-779 |doi=10.4259/ibk.13.783 | year=1965 | ref={{SfnRef|上山|1965}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=佐々木大樹 | title=『陀羅尼集経』の研究 : 特に巻四「十一面観音経」と、巻十「功徳天法」の異訳対照を中心として | journal= 智山学報 |publisher=智山勧学会 |volume=52 |issue= | pages= 139-168 |doi=10.18963/chisangakuho.52.0_139 | year=2003 | ref={{SfnRef|佐々木|2003}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=大和昌平 | title=『般若心経』偽典説 | journal= 共立研究 |publisher=東京基督教大学 |volume=2 |issue=1 | pages= 6-8 |url=https://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/%E5%85%B1%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B62-1.pdf | year=1996 | ref={{SfnRef|大和|1996}} }} * {{Cite journal | 和書 | author=川崎信定 | title=批評と紹介 ジョナサン・A・シルク著『チベット語訳『般若心経』2系統校訂テキスト』 | journal=東洋学報 |publisher=東洋文庫 |volume=82 |issue=3 | pages=456-451 |url=http://id.nii.ac.jp/1629/00005964/ | year=2000 | ref={{SfnRef|川崎|2000}} }} == 関連項目 == <!-- {{wikisource|般若心経(現代語訳)|般若心経(現代語訳)}} これは{{Wikisource|摩訶般若波羅蜜多心経|摩訶般若波羅蜜多心経}}に重複する内容です。--> *[[般若]] *[[般若経]] *[[絵心経]] *[[稲荷心経]] *[[仏教]] *[[大乗仏教]] == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/watch?v=bs4ey5O2aLc 「般若心経『現代語訳』」]、[https://www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw 「『阿含経』で生きる人、『般若心経』で生きる人」] - 般若心経に関する仏教学者[[佐々木閑]]の解説動画 {{仏教典籍}} {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんにやしんきよう}} [[Category:般若経|はんにやしんきよう]]
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キス (魚)
キス(鱚、鼠頭魚)は、スズキ目スズキ亜目キス科(学名:Sillaginidae)に所属する魚類の総称である。 あるいは、シロギス(Sillago japonica、分類によってはSillago sihama)の異称、あるいはシロギスがキスの異称とも定義される。 キス科には、ホシギス・アオギスなど、沿岸の浅い海で暮らす種類を中心に5属約33種が記載されている。キス類の多くは食用に利用されるほか、釣りの対象としても人気が高い。 キス科は、南アフリカから日本、オーストラリアにかけてのインド洋および西部太平洋に分布する。 ほとんどの仲間は海岸付近の砂底で生活するが、一部の種類の稚魚は河口などの汽水域で成長するほか、ごくまれに淡水に進出する種も知られている。 産卵期である夏には沿岸のごく浅い場所まで移動し、砂浜などでも頭を下げて海底を嗅ぎまわるように泳ぐ姿を見ることができる。食性は雑食性で、ゴカイ・スナモグリ・ヨコエビなど海底に生息する底生生物を捕食する。 キス科の仲間は細長い円筒形の体型をもち、口は小さい。吻(口先)はとがり、砂底に潜む獲物を探るために利用される。全長45cm程度にまで成長する種類が多いが、最大では70cmに達することもある。浮き袋は欠くか、あるいは痕跡的で、存在する場合は多数の突起による複雑な構造を示す。 背鰭は2つあり、互いの間隔はごく狭いか、ほとんど近接している。第1背鰭は10–13本の棘条で、第2背鰭は1本の細い棘条と16–27本の軟条で構成される。臀鰭の基底は長く、2棘14-26軟条。椎骨は32–44個で、スズキ目内の30種余りの小グループとしては例外的に変化が大きい。 ほとんどのキス類が食用に利用される。釣りの対象魚としても人気が高く、舟釣りや海岸からの投げ釣りは、誰でも楽しむことができる。かつて東京湾では浅瀬に脚立を立て、その上に腰かけてアオギスを釣る「脚立釣り」が名物であったが、汚染でアオギスが絶滅して以来、見られなくなった。餌はゴカイなど多毛類の生き餌、もしくはソフトプラスチックの疑似餌を使う。 身は脂肪が少なく柔らかい白身で、美味とされる。塩焼きのほか、刺身・天ぷら・フライなどに調理される。 江戸時代の将軍は、毎月1日、15日、28日以外の食事には鱚の塩焼きと漬け焼きの二種類が乗った「鱚両様」を食べることが日課となっていた。 キス科に Kaga(2013)はアトクギス属Sillaginops を新たに設け, さらに従来3属で構成されていたキス科の分類に5属を認めている。本稿では、FishBaseに記載される5属34種についてリストする。 前述のように細長い円筒形の体型から、「痩せぎす」の語源の一つとも考えられている。 語源は諸説ある。
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キス(鱚、鼠頭魚)は、スズキ目スズキ亜目キス科に所属する魚類の総称である。 あるいは、シロギスの異称、あるいはシロギスがキスの異称とも定義される。 キス科には、ホシギス・アオギスなど、沿岸の浅い海で暮らす種類を中心に5属約33種が記載されている。キス類の多くは食用に利用されるほか、釣りの対象としても人気が高い。
{{生物分類表 |名称 =キス科 |省略 = 条鰭綱 |画像 =[[File:Sunday fishing in Tokyo bay.jpg|250px]] |画像キャプション =[[シロギス]] ''Sillago japonica'' |亜綱 = [[新鰭亜綱]] {{Sname||Neopterygii}} |上目 = [[棘鰭上目]] {{Sname||Acanthopterygii}} |目 = [[スズキ目]] {{Sname||Perciformes}} |亜目 = [[スズキ亜目]] {{Sname||Percoidei}} |科 ='''キス科''' {{Sname||Sillaginidae}} |学名 = Sillaginidae {{AUY|Richardson|1846}} |タイプ属 = {{Snamei||Sillago}} |下位分類名 = 属 |下位分類 = *[[アトクギス属]] {{Snamei||Sillaginops}} *[[イトヒキギス属]] {{Snamei||Sillaginopsis}} *[[キス属]] {{Snamei||Sillago}} *[[ダイオウギス属]] {{Snamei||Sillaginodes}} *[[Sillaginopodys属]] {{Snamei||Sillaginopodys}} |生息図 = [[画像:Sillaginidae distribution.png|250px]] |生息図キャプション = 生息域 }} '''キス'''(鱚、鼠頭魚)は、[[スズキ目]][[スズキ亜目]]'''キス科'''([[学名]]:{{Sname|Sillaginidae}})に所属する[[魚類]]の総称である<ref>{{Cite | title=[[広辞苑]] | chapter=キス【鱚】 | version=第4版 | year=1998 | publisher=[[岩波書店]] }}</ref>。 あるいは、[[シロギス]]({{Snamei|Sillago japonica}}、分類によっては{{Snamei|Sillago sihama}})の異称、あるいはシロギスがキスの異称とも定義される<ref>{{Cite Kotobank|word=キス(鱚)|encyclopedia=世界大百科事典 第2版、日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021-12-10}}</ref>。 キス科には、[[ホシギス]]・[[アオギス]]など、[[沿岸]]の浅い海で暮らす種類を中心に5属約33種が記載されている<ref name="Kaga2013">Tatsuya Kaga 『Phylogenetic systematics of the family Sillaginidae (Percomorpha: order Perciformes)』 Zootaxa3642. 2013年 ISBN 978-1-77557-144-5 pp.105</ref>。キス類の多くは食用に利用されるほか、[[釣り]]の対象としても人気が高い。 == 分布 == キス科は、[[南アフリカ]]から日本、[[オーストラリア]]にかけての[[インド洋]]および西部[[太平洋]]に分布する<ref name="Nelson2006">Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Fourth Edition』 Wiley & Sons, Inc. 2006年 ISBN 0-471-25031-7 p.357</ref>。 == 生態 == ほとんどの仲間は海岸付近の砂底で生活するが、一部の種類の[[稚魚]]は河口などの[[汽水域]]で成長するほか、ごくまれに[[淡水]]に進出する[[種 (分類学)|種]]も知られている<ref name="Nelson2006"/>。 産卵期である夏には沿岸のごく浅い場所まで移動し、[[砂浜]]などでも頭を下げて[[海底]]を嗅ぎまわるように泳ぐ姿を見ることができる。[[食性]]は[[雑食性]]で、[[ゴカイ]]・[[スナモグリ]]・[[ヨコエビ]]など海底に生息する[[底生生物]]を捕食する。 == 形態 == キス科の仲間は細長い円筒形の体型をもち、口は小さい<ref name="Kaisuigyo">[[岡村収]]・[[尼岡邦夫]]監修 『日本の海水魚』 [[山と渓谷|山と溪谷社]] 1997年 ISBN 4-635-09027-2 p.307</ref>。[[吻]](口先)はとがり、砂底に潜む獲物を探るために利用される。全長45cm程度にまで成長する種類が多いが、最大では70cmに達することもある<ref name="Nelson2006"/>。[[鰾|浮き袋]]は欠くか、あるいは痕跡的で、存在する場合は多数の突起による複雑な構造を示す<ref name="Nelson2006"/>。 [[背鰭]]は2つあり、互いの間隔はごく狭いか、ほとんど近接している<ref name="Nelson2006"/>。第1背鰭は10–13本の棘条で、第2背鰭は1本の細い棘条と16–27本の軟条で構成される<ref name="Nelson2006"/>。臀鰭の基底は長く、2棘14-26軟条<ref name="FishBase"/>。[[椎骨]]は32–44個で、[[スズキ目]]内の30種余りの小グループとしては例外的に変化が大きい<ref name="Nelson2006"/>。 == 利用 == {{multiple image | align = right | direction = vertical | width = |image1=KISU no TEMPURA or Sillaginidae Sand Borer Tempura 2021.jpg|caption1=天ぷら |image2=Kisu (Sillago) Sushi.jpg|caption2=握り寿司 }} ほとんどのキス類が食用に利用される。[[釣り]]の対象魚としても人気が高く、舟釣りや海岸からの投げ釣りは、誰でも楽しむことができる。かつて東京湾では浅瀬に[[脚立]]を立て、その上に腰かけてアオギスを釣る「脚立釣り」が名物であったが、汚染でアオギスが絶滅して以来、見られなくなった。[[餌]]は[[ゴカイ]]など[[多毛類]]の[[生き餌]]、もしくはソフトプラスチックの疑似餌を使う。 身は脂肪が少なく柔らかい白身で、美味とされる。[[塩焼き]]のほか、[[刺身]]・[[天ぷら]]・[[フライ (料理)|フライ]]などに調理される。 江戸時代の将軍は、毎月1日、15日、28日以外の食事には鱚の塩焼きと漬け焼きの二種類が乗った「鱚両様」を食べることが日課となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://diamond.jp/articles/-/39029 |title=徳川将軍が毎朝食した「鱚《きす》」 脚立釣り発祥のきっかけにも |access-date=2022-11-10 |date=2013-07-19 |website=ダイヤモンド・オンライン |language=ja}}</ref>。 == 分類 == [[ファイル:Sillago parvisquamis 01.JPG|right|thumb|[[アオギス]] {{Snamei||Sillago parvisquamis}}([[江の島水族館]]における飼育個体)。個体数を大幅に減らし、絶滅が危惧される種類<ref name="Kaisuigyo"/>]] [[ファイル:Sillago aeolus.jpg|right|thumb|[[ホシギス]] {{Snamei||Sillago aeolus}}。胸鰭基底部の黒色斑が生時の特徴<ref name="Kaisuigyo"/>]] [[ファイル:Sillago sihama.jpg|right|thumb|[[モトギス]] {{Snamei||Sillago sihama}}。アオギスとよく似た種で、[[インド太平洋]]に幅広く分布する<ref name="Kaisuigyo"/>]] キス科に Kaga(2013)はアトクギス属''Sillaginops'' を新たに設け, さらに従来3属で構成されていたキス科の分類に5属を認めている<ref name="Kaga2013"/>。本稿では、[[FishBase]]に記載される5属34種についてリストする<ref name="FishBase">{{Cite web |title= Sillaginidae|publisher = FishBase| url= http://www.fishbase.org/Summary/FamilySummary.php?Family=Sillaginidae|accessdate=2014年7月20日}}</ref>。 *アトクギス属 {{Snamei||Sillaginops}} **[[アトクギス]] {{Snamei||Sillaginops macrolepis}} *イトヒキギス属 {{Snamei||Sillaginopsis}} **[[イトヒキギス]] {{Snamei||Sillaginopsis panijus}} *[[キス属]] {{Snamei||Sillago}} **[[アオギス]] {{Snamei||Sillago parvisquamis}} **[[シロギス]] {{Snamei||Sillago japonica}} **[[ホシギス]] {{Snamei||Sillago aeolus}} **[[モトギス]] {{Snamei||Sillago sihama}} **{{Snamei||Sillago analis}} **{{Snamei||Sillago arabica}} **{{Snamei||Sillago argentifasciata}} **{{Snamei||Sillago asiatica}} **{{Snamei||Sillago attenuata}} **{{Snamei||Sillago bassensis}} **{{Snamei||Sillago boutani}} **{{Snamei||Sillago burrus}} **{{Snamei||Sillago caudicula}} **{{Snamei||Sillago ciliata}} **{{Snamei||Sillago flindersi}} **{{Snamei||Sillago indica}} **{{Snamei||Sillago ingenuua}} **{{Snamei||Sillago intermedius}} **{{Snamei||Sillago lutea}} **{{Snamei||Sillago maculata}} **{{Snamei||Sillago megacephalus}} **{{Snamei||Sillago microps}} **{{Snamei||Sillago nierstraszi}} **{{Snamei||Sillago robusta}} **{{Snamei||Sillago schomburgkii}} **{{Snamei||Sillago sinica}} **{{Snamei||Sillago soringa}} **{{Snamei||Sillago suezensis}} **{{Snamei||Sillago vincenti}} **{{Snamei||Sillago vittata}} *ダイオウギス属 {{Snamei||Sillaginodes}} **[[ダイオウギス]] {{Snamei||Sillaginodes punctata}} *Sillaginopodys属 {{Snamei||Sillaginopodys}} **{{Snamei||Sillaginopodys chondropus}} == おもな種 == ;[[シロギス]] {{Weight|normal|{{Snamei||Sillago japonica}}}} :全長35cm。[[北海道]]南部以南の日本沿岸から[[東シナ海]]にかけて分布する<ref name="Kaisuigyo"/>。[[体色]]は淡い褐色だが、体側は光を反射して虹色に光る。投げ釣りのもっとも一般的な対象魚である。シロギスのみを対象とした釣り大会も開催される。 ;[[アオギス]] {{Weight|normal|{{Snamei||Sillago parvisquamis}}}} :全長40cm。名のとおり体色に青みが強い。かつては東京湾や伊勢湾にも分布したが、開発や水質汚濁によって産卵に必要な干潟を失い、今日では九州や[[台湾]]など限られた地域に生き残るのみとなっている。遠浅の浜に脚立を立てて釣る方法は、もともとシロギスよりも警戒心の強いアオギスを釣るためのものだった。 ;[[ホシギス]] {{Weight|normal|{{Snamei||Sillago aeolus}}}} :全長25cm。[[奄美大島]]以南に分布する。死ぬと体側に褐色の斑点が浮かび上がる<ref name="Kaisuigyo"/>。 ;[[ダイオウギス]] {{Weight|normal|{{Snamei||Sillaginodes punctata}}}} :最大で全長70cmに達する大型種。オーストラリア近海に分布し、日本には生息しない。全身に褐色の小さなまだら模様がある。 == キスにちなむ語句 == 前述のように細長い円筒形の体型から、「痩せぎす」の語源の一つとも考えられている<ref>{{Cite Kotobank|word=痩せぎす|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2021-12-10}}</ref>。 == 語源 == 語源は諸説ある<ref>{{Cite web|和書|title=キス/鱚/きす |url=https://gogen-yurai.jp/kisu/ |website=語源由来辞典 |date=2007-10-14 |access-date=2023-03-10 |language=ja |last=語源由来辞典}}</ref>。 *日本各地の海岸で普通に見られ比較的簡単に釣ることができるため「岸」が変化した。 *味が淡白なのことから「潔し」が転訛した。 *すぐに群れることから「帰す」に由来する。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Sillaginidae}} {{Wikispecies|Sillaginidae}} *[[何羨録]] *[[魚の一覧]] == 外部リンク == *[http://www.fishbase.org/Summary/FamilySummary.php?Family=Sillaginidae FishBase-キス科](英語) {{DEFAULTSORT:きす}} [[Category:キス科|*]] [[Category:スズキ目]] [[Category:白身魚]] [[Category:釣りの対象魚]] [[Category:寿司種]]
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切手収集
切手収集、切手蒐集(きってしゅうしゅう)とは、趣味の一つであり、狭義の意味と広義の意味に分かれる。 狭義には、未使用・使用済み切手のみを収集すること。 切手は国もしくは地域が公式に発行するものであり、発行の都度記録が残るので、その情報に基いて作られたカタログを頼りに収集できる。イギリス王室によるコレクションや、著名人によるコレクションも知られ、King of Hobbies(趣味の王様)として知られている。収集や分類などに用いる郵趣用品も多く開発されている。 広義には郵便に関する広範囲な事物について収集することを称する。広義については、特に郵趣と称する。 世界最初の切手、イギリスのペニー・ブラックと2ペンス・ブルーが発行された直後からその収集は始まったといわれる。 この翌年、1841年にロンドンの「ザ・タイムズ」紙に、使用済み切手を自分の化粧室の壁紙にしたいが、手持ちの1万6000枚ではとても足りないので提供願いたい、との内容の広告が掲載された。これは切手収集なる行為を確認できる最古の事例とされる。これは切手そのものの稀少性、絵柄などに着目する、今日の一般的な意味での切手収集とは違うが、初期の切手収集はこうしたものであった。その主な担い手は女性たちで、彼女たちは自宅の壁や天井、家具の装飾として貼り付けることを目的に切手を収集した。1842年の「パンチ」誌はそうした女性たちを「ヴィクトリア女王の首集め(世界最初の切手ペニー・ブラックの図柄が、ヴィクトリア女王の首から上の横顔の肖像だったことに因んでの喩え)にかける情熱には、首切りに血道をあげたヘンリー8世もかなわぬ」と揶揄した。 今日的な性格の切手収集が、主に男性たちによってはじめられたのは1850年代に入ってからのこととされる。1860年代に入ると、ロンドン橋に近いバーチン・レーン界隈に老若男女が集まり、盛んに切手を交換し合う光景が見られたが、警察当局はこれを不審視し、監視下においた、といわれている。 このころ切手収集家は「ティンブロマニアック(切手狂い)」と呼ばれていたが、かねてからこの名称を不快に感じていたフランス人収集家ジョルジュ・エルパンは1862年、ギリシャ語の"Philos"と"atelia"をつなぎ合わせた造語"Philately(郵趣)"を考案した。これは日本語に直訳すれば「料金を徴収されないことを好む」という意味になる。切手によって象徴される、料金前納を軸とする近代郵便制度を支持し、そしてそれに使用される金券である切手を愛好、収集するという意味であると考えられる。 日本においては、1957年にグリコが「世界の切手をあなたに」のキャッチフレーズで商品のおまけに国内外の切手を入れたことを端緒として、1950年代後半から1960年代頃にかけて切手ブームが起こった。当時は新しい切手の発売日には郵便局に購入希望者が長蛇の列をなして並ぶ光景が見られた。 現在は多種多様なジャンルをテーマティクとして楽しむ、健全な趣味として定着していると思われる。また「可愛い」グッズとして楽しむ傾向もある。 日本切手の中では、1948年(昭和23年)発行の5円切手「見返り美人」(菱川師宣画)や、1949年(昭和24年)発行の8円切手「月に雁」(歌川広重画)などが価値あるものとして一般に知られている。 このため、記念切手が高価なものの代名詞であるかのように誤解されがちだが、実際には記念切手はその性質から未使用で保存されている場合が多い為、希少性は不発行切手などの一部の切手を除いて高いとはいえない。稀品の多くは発行回数が多いために変種などが生まれる可能性の高い普通切手であることが多い。 日本における主要な切手収集(郵趣)組織としては、財団法人日本郵趣協会がある。 印刷上、あるいは目打、デザイン等の問題のある切手は廃棄されることが原則であるが、問題のある切手を完全に発見・廃棄することは不可能であり、それが出回った場合「エラー切手」として珍重される。有名なものとしてスウェーデンの「3シリング・バンコの黄色」、「喜望峰のウッドブロックの色違い」、日本の「龍五百文逆刷」、アメリカの「逆さのジェニー(英語版)」(米国での俗称"Inverted Jenny"の直訳。日本の収集家からは、額面にちなみ宙返り24セントと呼ばれるのが普通。逆さ刷りの郵便飛行機の図柄)などがあげられる。 消印(郵政ではしょういんと読む)とは、切手が再使用されないように押された印のことを称する。 本来は実用目的であったが、記念印のように、それ自体が記念の目的をもっている消印も存在する。 消印は郵便局名や日付、時間帯などを表記しており、手によって消印される手押印と機械によってなされる機械印に大別される。分類要素には、局名や日付・時間、その表示形式の違いや、消印自体の形状、そしてそれから類推し得る、その切手が貼られていた郵便物の種別、形状など、様々な要素が加味される。消印された切手が貼られたままの郵便物(封筒など)をエンタイアという。他の趣味品であれば、使用済、すなわち消印されたものの価値は、未使用状態のものに比べ著しく損なわれるが、切手の場合逆に価値を向上させ、未使用以上に高額で取引されることも稀ではない。 切手には、手書きで消印したものがあるが、これはペンキャンセルと呼ばれ、一般に敬遠される。また、英連邦諸国のように、切手と収入印紙を同様のものとして発行していた地域では、切手が収入印紙として使用される場合があり、この際の消印はレベニューキャンセルと呼ばれ、やはり郵便使用のものに比べ低く評価される。 切手の基本的な分類を行っている文献として、「カタログ」というものがある。カタログには切手の図版および名称や発行日、デザインについての説明や、目打数に版式やスカシといった、切手についての基礎的なデータに加え、評価が記載されている。評価は、市場での取引の実勢に基き定められる。ただし、これは切手商から購入する際の目安であって、一般的な切手の場合、売却する際は安くなる。また、平均的な状態の切手に対する評価であるので、状態の悪いものは安くなる。 切手のカタログには世界中の切手を扱った「スコット」(米国)や「ギボンズ」(イギリス)、「イベール」(フランス)、「ミッヘル」(ドイツ)などのほか、特定の国や地域のみを扱った国別のカタログ(スイスのツームスタインカタログが最も有名である)、鉄道やチェスなどというテーマ別のカタログが様々な出版社や切手商などから発行されている。アメリカ合衆国郵便公社のように、郵政自らがカタログを作成する場合もある。 日本国内では、「さくら日本切手カタログ」、「日本切手専門カタログ」といった日本および関連地域を扱ったカタログのほか、アメリカやイギリス、ドイツ、中国など、国内においてよく集められている国の外国切手カタログが数種類発行されている。 切手の収集方法にはさまざまなものがあるが、主なものとして下記があげられる。 一部の希少な切手はその重量と価格から、世界で最も高価な物と考えることが可能である。希少性と価格は当然その収集家の数によって変わるため、たとえ世界に一枚しか存在しないと考えられている物でもその価格には大きな隔たりがある。 世界に一枚しかない切手として有名なものには1856年発行の英領ギアナ1セント・マゼンタがある。同切手はあまりに高額なためにカタログ上では値段が付けられない状態となっており、売買される場合には数億円で取引されている。2014年6月17日に行われたオークションにおいて948万ドル(当時のレートで約9億6700万円)で落札された。 日本で発行された切手のなかで最も高額とされるのは、明治初期に発行された竜切手の500文切手のエラーである。(通称:龍五百文逆刷)切手中央の「銭五百文」の文字が逆刷された40枚のうち1枚が現存しており、日本切手のカタログでは3500万円の参考価格が付けられている。2000年頃に切手業者が所有者に1億数千万円で買取を持ちかけたが断られている。 切手収集家が存在するか、しないかによってその価格は大きく変化するため、一時的に大きな値上がりをすることもあるが、ブームが沈静化すると価格は長期的に安定する。投機的な高騰化などについては識者による沈静化などもあり、成功することは少ない。 切手に類似するものとして、広告付き官製はがきである「エコーはがき」や、企業などの広告が入ったメータースタンプを収集している人もいる。前者は販売される地域や枚数が極めて限定されており、後者はメータースタンプを使用している企業からの郵便物を手に入れなければならないため、ある意味で入手が困難なものの一つであろう。 日本における主な郵趣組織として日本郵便文化振興機構、日本郵趣協会、全日本郵趣連合、郵趣振興協会(現行法人の成立順)がある。各組織はそれぞれ特徴を活かし、様々な角度から郵趣を振興している。
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"今日的な性格の切手収集が、主に男性たちによってはじめられたのは1850年代に入ってからのこととされる。1860年代に入ると、ロンドン橋に近いバーチン・レーン界隈に老若男女が集まり、盛んに切手を交換し合う光景が見られたが、警察当局はこれを不審視し、監視下においた、といわれている。 このころ切手収集家は「ティンブロマニアック(切手狂い)」と呼ばれていたが、かねてからこの名称を不快に感じていたフランス人収集家ジョルジュ・エルパンは1862年、ギリシャ語の\"Philos\"と\"atelia\"をつなぎ合わせた造語\"Philately(郵趣)\"を考案した。これは日本語に直訳すれば「料金を徴収されないことを好む」という意味になる。切手によって象徴される、料金前納を軸とする近代郵便制度を支持し、そしてそれに使用される金券である切手を愛好、収集するという意味であると考えられる。", "title": "切手収集の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本においては、1957年にグリコが「世界の切手をあなたに」のキャッチフレーズで商品のおまけに国内外の切手を入れたことを端緒として、1950年代後半から1960年代頃にかけて切手ブームが起こった。当時は新しい切手の発売日には郵便局に購入希望者が長蛇の列をなして並ぶ光景が見られた。 現在は多種多様なジャンルをテーマティクとして楽しむ、健全な趣味として定着していると思われる。また「可愛い」グッズとして楽しむ傾向もある。", "title": "切手収集の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本切手の中では、1948年(昭和23年)発行の5円切手「見返り美人」(菱川師宣画)や、1949年(昭和24年)発行の8円切手「月に雁」(歌川広重画)などが価値あるものとして一般に知られている。 このため、記念切手が高価なものの代名詞であるかのように誤解されがちだが、実際には記念切手はその性質から未使用で保存されている場合が多い為、希少性は不発行切手などの一部の切手を除いて高いとはいえない。稀品の多くは発行回数が多いために変種などが生まれる可能性の高い普通切手であることが多い。", "title": "切手収集の歴史" }, 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切手収集、切手蒐集(きってしゅうしゅう)とは、趣味の一つであり、狭義の意味と広義の意味に分かれる。 狭義には、未使用・使用済み切手のみを収集すること。 切手は国もしくは地域が公式に発行するものであり、発行の都度記録が残るので、その情報に基いて作られたカタログを頼りに収集できる。イギリス王室によるコレクションや、著名人によるコレクションも知られ、King of Hobbies(趣味の王様)として知られている。収集や分類などに用いる郵趣用品も多く開発されている。 広義には郵便に関する広範囲な事物について収集することを称する。広義については、特に郵趣と称する。
{{出典の明記|date=2017年9月}} {{切手}} [[File:Stamp album sleeve.jpg|thumb|300px|right|[[ストックブック]]に保存している状態]] '''切手収集'''、'''切手蒐集'''(きってしゅうしゅう)とは、[[趣味]]の一つであり、狭義の意味と広義の意味に分かれる。 狭義には、未使用・使用済み[[切手]]のみを収集すること。 切手は[[国]]もしくは地域が公式に発行するものであり、発行の都度記録が残るので、その情報に基いて作られたカタログを頼りに収集できる。[[イギリス王室]]による[[コレクション]]や、著名人によるコレクションも知られ、'''King of Hobbies'''(趣味の王様)として知られている。収集や分類などに用いる[[郵趣用品]]も多く開発されている。 広義には[[郵便]]に関する広範囲な事物について収集することを称する。広義については、特に'''[[郵便趣味|郵趣]]'''と称する。 ==切手収集の歴史== [[画像:Penny black.jpg|thumb|100px|right|イギリス、1840年発行、世界最初の切手ペニー・ブラック]] 世界最初の切手、イギリスの[[ペニー・ブラック]]と[[ペニー・ブラック|2ペンス・ブルー]]が発行された直後からその収集は始まったといわれる。 この翌年、[[1841年]]に[[ロンドン]]の「[[ザ・タイムズ]]」紙に、使用済み切手を自分の化粧室の壁紙にしたいが、手持ちの1万6000枚ではとても足りないので提供願いたい、との内容の広告が掲載された<ref>世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ コレクターが追い求める「幻の切手」の数奇な運命 44ページ</ref>。これは切手収集なる行為を確認できる最古の事例とされる。これは切手そのものの稀少性、絵柄などに着目する、今日の一般的な意味での切手収集とは違うが、初期の切手収集はこうしたものであった。その主な担い手は女性たちで、彼女たちは自宅の壁や天井、家具の装飾として貼り付けることを目的に切手を収集した。[[1842年]]の「[[パンチ (雑誌)|パンチ]]」誌はそうした女性たちを「[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の首集め(世界最初の切手ペニー・ブラックの図柄が、ヴィクトリア女王の首から上の横顔の肖像だったことに因んでの喩え)にかける情熱には、首切りに血道をあげた[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]もかなわぬ<ref>同書 44ページ</ref>」と揶揄した。 今日的な性格の切手収集が、主に男性たちによってはじめられたのは1850年代に入ってからのこととされる。1860年代に入ると、[[ロンドン橋]]に近いバーチン・レーン界隈に老若男女が集まり、盛んに切手を交換し合う光景が見られたが、警察当局はこれを不審視し、監視下においた、といわれている。 このころ切手収集家は「ティンブロマニアック(切手狂い)」と呼ばれていたが、かねてからこの名称を不快に感じていたフランス人収集家ジョルジュ・エルパンは[[1862年]]、[[ギリシャ語]]の"Philos"と"atelia"をつなぎ合わせた造語"Philately(郵趣)"を考案した。これは日本語に直訳すれば「料金を徴収されないことを好む」という意味になる。切手によって象徴される、料金前納を軸とする近代郵便制度を支持し、そしてそれに使用される金券である切手を愛好、収集するという意味であると考えられる。 日本においては、[[1957年]]に[[グリコ]]が「世界の切手をあなたに」のキャッチフレーズで商品のおまけに国内外の切手を入れたことを端緒として<ref>「懐かしの切手大全」『[[週刊ポスト]]』2011年9月9日号、p.9</ref>、[[1950年代]]後半から[[1960年代]]頃にかけて切手[[流行|ブーム]]が起こった。当時は新しい切手の発売日には[[郵便局]]に購入希望者が長蛇の列をなして並ぶ光景が見られた。 現在は多種多様なジャンルを[[テーマティク]]として楽しむ、健全な趣味として定着していると思われる。また「可愛い」グッズとして楽しむ傾向もある。 日本切手の中では、[[1948年]](昭和23年)発行の5円切手「[[菱川師宣|見返り美人]]」([[菱川師宣]]画)や、[[1949年]](昭和24年)発行の8円切手「[[月に雁]]」([[歌川広重]]画)などが価値あるものとして一般に知られている。 このため、[[記念切手]]が高価なものの代名詞であるかのように誤解されがちだが、実際には記念切手はその性質から未使用で保存されている場合が多い為、希少性は[[不発行切手]]などの一部の切手を除いて高いとはいえない。稀品の多くは発行回数が多いために変種などが生まれる可能性の高い[[普通切手]]であることが多い。 日本における主要な切手収集(郵趣)組織としては、[[財団法人]][[日本郵趣協会]]がある。 ==エラー切手== {{Main|エラー切手}} [[印刷]]上、あるいは[[目打]]、デザイン等の問題のある切手は廃棄されることが原則であるが、問題のある切手を完全に発見・廃棄することは不可能であり、それが出回った場合「エラー切手」として珍重される。有名なものとして[[スウェーデン]]の「3シリング・バンコの黄色」、「[[喜望峰]]のウッドブロックの色違い」、[[日本]]の「龍五百文逆刷」、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の「{{仮リンク|逆さのジェニー|en|Inverted Jenny}}」(米国での俗称"Inverted Jenny"の直訳。日本の収集家からは、額面にちなみ宙返り24セントと呼ばれるのが普通。逆さ刷りの郵便飛行機の図柄)などがあげられる。 <gallery> File:Gul tre skilling banco.jpg |スウェーデンの3シリング「バンコの黄色」切手。本来この切手は緑色で印刷されているが、印刷ミスによって黄色となった。 File:US Airmail inverted Jenny 24c 1918 issue.jpg|逆さのジェニーの名で知られる、24セント切手。中央の飛行機が反転して印刷されている。 </gallery> ==消印== [[消印]](郵政ではしょういんと読む)とは、切手が再使用されないように押された印のことを称する。 本来は実用目的であったが、[[記念印]]のように、それ自体が記念の目的をもっている消印も存在する。 消印は郵便局名や日付、時間帯などを表記しており、手によって消印される手押印と機械によってなされる機械印に大別される。分類要素には、局名や日付・時間、その表示形式の違いや、消印自体の形状、そしてそれから類推し得る、その切手が貼られていた郵便物の種別、形状など、様々な要素が加味される。消印された切手が貼られたままの郵便物(封筒など)をエンタイアという。他の趣味品であれば、使用済、すなわち消印されたものの価値は、未使用状態のものに比べ著しく損なわれるが、切手の場合逆に価値を向上させ、未使用以上に高額で取引されることも稀ではない。 切手には、手書きで消印したものがあるが、これはペンキャンセルと呼ばれ、一般に敬遠される。また、英連邦諸国のように、切手と収入印紙を同様のものとして発行していた地域では、切手が収入印紙として使用される場合があり、この際の消印はレベニューキャンセルと呼ばれ、やはり郵便使用のものに比べ低く評価される。 ==カタログ== 切手の基本的な分類を行っている文献として、「カタログ」というものがある。カタログには切手の図版および名称や発行日、デザインについての説明や、目打数に版式やスカシといった、切手についての基礎的なデータに加え、評価が記載されている。評価は、市場での取引の実勢に基き定められる。ただし、これは切手商から購入する際の目安であって、一般的な切手の場合、売却する際は安くなる。また、平均的な状態の切手に対する評価であるので、状態の悪いものは安くなる。 切手のカタログには世界中の切手を扱った「[[スコットカタログ|スコット]]」([[アメリカ合衆国|米国]])や「ギボンズ」([[イギリス]])、「イベール」([[フランス]])、「ミッヘル」([[ドイツ]])などのほか、特定の国や地域のみを扱った国別のカタログ(スイスのツームスタインカタログが最も有名である)、[[鉄道]]や[[チェス]]などというテーマ別のカタログが様々な出版社や切手商などから発行されている。[[アメリカ合衆国郵便公社]]のように、郵政自らがカタログを作成する場合もある。 日本国内では、「[[さくら日本切手カタログ]]」、「[[日本切手専門カタログ]]」といった日本および関連地域を扱ったカタログのほか、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[中国]]など、国内においてよく集められている国の外国切手カタログが数種類発行されている。 ==収集方法== 切手の収集方法にはさまざまなものがあるが、主なものとして下記があげられる。 *ゼネラル *:'''ゼネラル'''とは、文字通りテーマを選ばず全般的に集めるものである(英語の'general'のこと)。発行数が多くなった今日、完全に集めることはもちろん不可能であり、それを目的としたものではない。 *国別 *:'''国別'''コレクションは、文字通り、日本だけとか英国だけとか特定の国の切手のみを収集するコレクションである。従来はこの国別のコレクターが多かったが、最近では次に述べるテーマティクコレクションが多数を占めている。現存する国家や地域だけでなく、すでにない国家、地域(デッド・カントリーと称する)から発行された切手は歴史の貴重な証人ともなる。 *[[テーマティク]] *:'''テーマティク'''とは特定の分野に関係する図案をもとにした切手について収集するものであり、そのためのカタログなども発行されている。ただし、それらの[[収集家]]を相手として、使用される可能性のほとんどない切手が発行されていることも考慮せねばならないであろう。切手収集ブームのころはアラブ土侯国とよばれた一群の国家と切手商が手を組み、[[土侯国切手]]と呼ばれる切手が大量に発行された。産業基盤の小さい小国においては現在においても収集家を対象としたさまざまな図柄の切手をシリーズで発行している。これらの切手は発行された土地での使用を目的とせず郵便事情をほとんど無視しており、収集家のためだけに発行されているといってもよい。 *リコンストラクション *:'''リコンストラクション'''コレクションとは、一枚一枚の切手の特徴を元に、その切手がシートのどの位置にあったのかを探り、元のシートを再現する最も高度な専門的知識を要するコレクションである。現在のようにデジタル技術を駆使して1枚の原画をシートに複製して刷版を製造する時代においては、このコレクションは非常に困難を伴うが、ペニー・ブラックなどに代表されるチェックレターの入った切手ではこのコレクションを行う収集家も多い。また、日本や英領のネヴィスで最初に発行された切手においては、シートの全ての切手を手彫りで作成した刷版を使用していたため、同じ切手にも一枚一枚に様々な特徴があり、このコレクションを行う収集家に人気が高い。'''プレーティング'''とも言う。 *その他の収集方法 *:他の収集方法として、年代別・切手発行目的別(航空郵便とか付加金付きなどのカテゴリ別・[[初日カバー]]などのコレクション等がある。特に自分の生年に発行された切手、自分の生年月日の消印が押印された切手を収集するコレクターも多い。 ==切手の価値== ===高価な切手=== [[File:British Guiana 1856 1c magenta stamp.jpg|thumb|right|200px|英領ギアナ1セント・マゼンタ]] 一部の希少な切手はその重量と[[価格]]から、'''世界で最も高価な物'''と考えることが可能である。希少性と価格は当然その収集家の数によって変わるため、たとえ世界に一枚しか存在しないと考えられている物でもその価格には大きな隔たりがある。 世界に一枚しかない切手として有名なものには1856年発行の[[英領ギアナ1セント・マゼンタ]]がある。同切手はあまりに高額なためにカタログ上では値段が付けられない状態となっており、売買される場合には数億円で取引されている。2014年6月17日に行われた[[競売|オークション]]において948万ドル(当時の[[為替レート|レート]]で約9億6700万円)で落札された。 日本で発行された切手のなかで最も高額とされるのは、明治初期に発行された[[竜切手]]の500文切手のエラーである。(通称:龍五百文逆刷)切手中央の「銭五百文」の文字が逆刷された40枚のうち1枚が現存しており、日本切手のカタログでは3500万円の参考価格が付けられている。2000年頃に切手業者が所有者に1億数千万円で買取を持ちかけたが断られている。<ref>{{Cite web|和書|title=逆に印刷されたエラー“竜文切手”1億数千万円でも購入不可|url=https://www.news-postseven.com/archives/20110902_29811.html|website=NEWSポストセブン|accessdate=2020-04-02|language=ja}}</ref> ===一般的な切手=== 切手収集家が存在するか、しないかによってその価格は大きく変化するため、一時的に大きな値上がりをすることもあるが、ブームが沈静化すると価格は長期的に安定する。投機的な高騰化などについては識者による沈静化などもあり、成功することは少ない。 ==切手に類似するもの== 切手に類似するものとして、[[広告]]付き官製[[はがき]]である「[[エコーはがき]]」や、企業などの広告が入った[[メータースタンプ]]を収集している人もいる。前者は販売される地域や枚数が極めて限定されており、後者はメータースタンプを使用している企業からの郵便物を手に入れなければならないため、ある意味で入手が困難なものの一つであろう。 ==切手の関連する作品== *[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]] (映画) : 切手の登場する映画では最も有名なものである。金を隠す方法として、切手が使われている。高価なことで知られている切手が3枚登場する。 *[[ドラえもん]] (マンガ) : 単行本第9巻「王冠コレクション」に切手趣味週間「月に雁」が登場する。TVアニメでも放送された。 *[[ゴルゴ13]] (マンガ) : 単行本第71巻「アクロバティックス」にエラー切手「逆さのジェニー」が登場する。作中での狙撃方法もこの切手に準じたものとなっている。 *[[デカローグ]] (映画) : 第10話「ある希望に関する物語」(監督)[[クシシュトフ・キェシロフスキ]]。平凡なアパート住まいの老人は、世界有数の切手収集家であった。この老人の残した切手を巡って、残された息子達の悲喜劇が始まる。オーストリアの新聞切手など、希少な切手が登場する。 *[[GOSICK]]第五話:世界最初の切手である[[ペニー・ブラック]]が登場する *[[キッテデカ]] (マンガ) : 切手収集が主体の郵便趣味漫画。切手収集家の警察官が郵便絡みなどの事件を解決する。 == 日本における郵趣組織 == 日本における主な郵趣組織として[[日本郵便文化振興機構]]、[[日本郵趣協会]]、[[全日本郵趣連合]]、[[郵趣振興協会]](現行法人の成立順)がある。各組織はそれぞれ特徴を活かし、様々な角度から郵趣を振興している。 * 特定非営利活動法人[[日本郵便文化振興機構]] *: フィラテリーの普及促進、古切手回収を通じ非営利団体を助成する慈善事業、国際切手展への出品支援などを行っている。さらに、東京郵便切手類取引所(TOPHEX)の名称でオークションを運営している。 * 公益財団法人[[日本郵趣協会]] *: 日本最大の郵趣組織であり、郵便切手収集趣味の普及促進、国内切手展の開催、機関誌「郵趣」の発行などを行っている。また、日本関連地域を主としたオークションを行っている。 * 一般社団法人[[全日本郵趣連合]] *: 郵便切手収集趣味の普及促進、[[全日本切手展]]の開催、鑑定サービス、機関誌「全日本郵趣」の発行などを行っている。 * 特定非営利活動法人[[郵趣振興協会]] *: 郵趣の振興を図るため、[[郵政博物館 (日本)|郵政博物館]]との共催による特別コレクション展の開催、雑誌「スタンプクラブ」発行による青少年の育成、ウェブサイトを通じた情報発信などを行っている。 == 出典 == <references /> ==関連項目== *[[退蔵益]] *[[切手]] *[[日本切手]] *[[沖縄切手]] *[[飛信逓送切手]] *[[模擬切手]] *[[アメリカ切手]] *[[消印]] *[[郵趣用品]] *[[切手展]] *[[郵便学]] ==外部リンク== *[https://www.japanpost.jp/ 日本郵政グループ] *[https://www.shop.post.japanpost.jp/shop/pages/kitte_hagakistore.aspx 切手SHOP(日本郵便)] *[http://www.jipp.jp/ 日本郵便文化振興機構] *[http://yushu.or.jp/ 切手パビリオン(日本郵趣協会)] *[http://www.yushu-rengo.jp/ 全日本郵趣連合] *[http://kitte.com/ 郵趣振興協会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きつてしゆうしゆう}} [[Category:郵趣]] [[Category:コレクション]] [[Category:切手]]
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航空母艦
航空母艦(こうくうぼかん、英: aircraft carrier)は、航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦。略称は空母(くうぼ)。 第一次世界大戦で登場し、その当時は飛行機母艦の名称も使われた。艦内に格納庫を有し、飛行甲板より艦載機(艦上機)を発艦または発着させることが可能な、海洋を移動する飛行場にして根拠地である。 航空機の性能が低かったこともあって補助艦艇として扱われていたが、後に航空機の性能が向上して航空主兵論が台頭するとともに、機動部隊の中核となる主力艦としての地位を確立していった。 1921年のワシントン軍縮会議では、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」と空母を定義している。1930年のロンドン海軍軍縮条約で基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった。 アメリカ海軍では、当初、航空母艦(Aircraft carrier)には一括してCVの船体分類記号が付与されていた。その後、第二次世界大戦に伴う需要激増に対応し、特に船団護衛に投入するため、1941年には商船の船体を利用した小型・低速の空母として航空機護衛艦(Aircraft escort vessel)が登場し、AVGの船体分類記号が付与された。1942年8月20日には補助航空母艦(Auxiliary aircraft carrier)と改称し、船体分類記号もACVに変更された。 その後、1943年7月15日に整理が図られた。従来の航空母艦(CV)のうち、満載排水量5万トン以上の艦(ミッドウェイ級)は大型航空母艦(Large aircraft carrier)に類別変更され、CVBの船体分類記号が付与された。一方、巡洋艦の設計を流用して満載排水量2万トン以下の艦(インディペンデンス級・サイパン級)は軽空母(Light aircraft carrier)に類別変更され、CVLの船体分類記号が付与された。またACVについても、他の空母になぞらえて、護衛空母(Escort carrier)と改称し、船体分類記号もCVEに変更された。 1952年には、正規空母(CV・CVB)について、下記のように役割による分類が導入された。また1956年5月29日には、核動力を導入した「エンタープライズ」が就役し、原子力攻撃空母(Nuclear-powered attack aircraft)の類別が新設されて、CVANの船体分類記号が付与された。その後、役割による分類が薄れたことから、1975年には、在来動力艦はCV、核動力艦はCVNと、再び設計のみによる分類へと回帰した。 なおこのように、アメリカ海軍とカナダ海軍で空母を表す船体分類記号としては「CV」が用いられる。1文字目の「C」は"Carrier"とする説もあるが、アメリカ海軍の公式webサイトでは、もともと巡洋艦の種別から派生したことから"Cruiser"の頭文字をとったものとしている。また2文字目の「V」はVesselの頭文字とする説もあるが、世界の艦船ではこれを否定し、艦上機の主翼を模した象形文字としている。ドイツ連邦共和国においては空母はRB、軽空母はRLに類別されている。またポルトガル語圏のブラジル連邦共和国においては空母はNAe、軽空母はNAeLに類別されている。 1952年7月、アメリカ海軍は、CVの一部を対潜戦に投入することを決定し、対潜空母(Anti-submarine warfare support aircraft carrier)の類別が新設されて、CVSの船体分類記号が付与された。また10月には、それ以外のCVとCVBが攻撃型空母に類別変更されて、CVAの船体分類記号が付与された。 しかしその後、ベトナム戦争後の国防予算削減のなかで、対潜戦専従の航空母艦を維持することは困難になっていき、CVA/CVANに艦上哨戒機・哨戒ヘリコプターを搭載して対潜戦を兼務させることになり、CVSの運用は1974年までに終了して、CVA/CVANは汎用化されてCV/CVNと改称した。一方、イギリス海軍のインヴィンシブル級航空母艦もCVSと称されていた。 なお、大戦中よりヘリコプターが発達しており、対潜戦や上陸戦への応用が注目されていた。これは原理的には空母以外の艦船での運用も可能ではあったが、特に初期の機体はかなり大型だったこともあり、できれば空母での運用が望ましかった。このこともあり、1955年には、CVEの一部が船団護衛でヘリコプターを運用するための護衛ヘリコプター空母(CVHE)に類別変更され、また「セティス・ベイ」が水陸両用作戦用の強襲ヘリコプター空母 (CVHA) に改装された。ただしCVHEについては特段の改修が行われたわけではなく、またCVHAについても、後には航空母艦の保有枠を圧迫しないように揚陸艦のカテゴリに移すことになり、ヘリコプター揚陸艦(LPH)という新艦種が創設された。 一方、アメリカ国外でもヘリ空母が登場し始めていたが、その一部は、ヘリコプターだけでなくV/STOL機も搭載するようになった。このように固定翼機の運用能力を獲得したヘリ空母も「軽空母」と称されることもある。 飛行甲板(flight deck)は、航空機運用のために船の甲板を発着陸用の滑走路としたもので、艦の全長にわたって、できるだけ長く、広く確保される。飛行の障害物となるような突出物は極力排除され、日本の空母の場合、探照灯などは全て電動昇降式(隠顕式)として、そのレセスの上には蓋が設けられた。 またこの方針を追求した結果、最初期には、艦橋構造物を廃止して昇降式の小型指揮所にとどめ、煙突も廃止して艦尾排気とした平甲板型も試みられたが、操艦や飛行甲板の指揮などの観点からは不利が指摘された。このことから、後には、小型艦では平甲板型とする一方、大型艦では、煙突や艦橋をまとめて舷側に寄せた上部構造物(アイランド)を設ける島型が常識となった。また小型艦でも、小さい艦橋構造物を飛行甲板の側方に設けるのが普通となった。 なお、1920年代のイギリス海軍の「フューリアス」(大改装後)と準同型艦(グローリアス級)や、大日本帝国海軍の「赤城」と「加賀」は、両国の従来空母と比較しても大型艦であったこともから、複数の飛行甲板を上下に積み重ねる多段式が試みられた。しかしこの方式では、実際には下部飛行甲板での航空機の運用は困難であり、また上部飛行甲板は長さが短くなって小型空母と同程度の性能まで低下してしまうという問題があり、実用性が低かった。アメリカ海軍のレキシントン級空母や、フランス共和国の「ベアルン」は当初から広い一枚甲板を採用しており、後にイギリスや日本も航空機の大型化に伴い一段甲板に統一された。 航空母艦が実用化された直後は、まだ航空機が軽かったため、艦上機自身が飛行甲板上を滑走して得た力と、母艦が風上に突進することで生じる力とをあわせた合成風力だけでも、十分に発艦することができた。その後、第二次世界大戦期になると、航空機の重量が増して、発艦を補助する手段が求められるようになったため、カタパルトが用いられるようになった。 カタパルトは、1915年にアメリカ海軍の装甲巡洋艦「ノースカロライナ」に搭載されたのを皮切りに、まず水上戦闘艦に搭載された水上機の発進のために用いられていたが、1920年代中盤には航空母艦での採用も試みられるようになっており、イギリス海軍では2代目「アーク・ロイヤル」、アメリカ海軍では「レンジャー」より装備されてその実用性を立証した。一方、大日本帝国海軍でも艦発促進装置として開発を進め、空母の多くに後日装備余地を確保していたものの、装備化には至らなかった。 従来のカタパルトは油圧式が主流だったが、出力向上に限度があり、航空機の大型化に対応できるような強力なものは極めて大掛かりで構造複雑なものとなった。この問題に対して、イギリスでは蒸気式カタパルトを開発して「アーク・ロイヤル」で装備化した。またその技術提供を受けたアメリカ海軍でもフォレスタル級より装備化し、既存の艦でも逐次に換装した。また艦上機のジェット化が進むと、その排気による甲板への影響が無視できなくなったことから、カタパルトやスキージャンプなどのスタートポイント直後には、起倒式のスクリーン(ジェット・ブラスト・ディフレクター)が設置されるようになった。 その後、21世紀に入ると、リニアモーターを用いた電磁式カタパルトが開発され、アメリカ海軍ではジェラルド・R・フォード級から装備化された。これは出力的には従来の蒸気式カタパルトと同程度ながら、機体の特性にあわせて加速度を調整できることから機体への荷重を軽減でき、また小型軽量化および整備性の向上も実現された。 なお、初期のカタパルトでは、シャトルと航空機の接続のためにブライドル・ワイヤーと呼ばれる鋼索を使用していた。これは機体の胴体下面などに設置されたフックと、カタパルトのシャトルとをワイヤーロープでつなぎ、機体を引っ張って射出する方式である。このワイヤーは射出と同時に機体から分離するため、当初は発艦ごとの使い捨てだったが、のちには回収して再利用することになった。そのために、カタパルト延長線上の飛行甲板前縁斜め下方に角のように突き出した構造(ホーン)が設けられ、ブライドル・レトリーバーと呼ばれた。しかし後には、艦上機の主脚にカタパルトのシャトルと直接接続できる機構を備えるようになり、ブライドル・ワイヤーが不要となったため、このような新世代機が増えるにつれて、ブライドル・レトリーバーも撤去されていった。 1960年代より、イギリスのホーカー・シドレー ハリアーを端緒として、固定翼機としての垂直離着陸機(VTOL機)が登場しはじめた。これらの機体は、その名の通りに垂直に離着陸することはできるが、特に離陸については、垂直方向に行うよりは、(短距離であっても)滑走したほうが燃料・兵装の搭載量を相当に増やしても離陸させられることから、実際の運用では垂直離陸(VTO)ではなく、短距離離陸(STO)と垂直着陸(VL)を組み合わせたSTOVL方式となることが多い。 そして短距離離陸をするさい、スキージャンプ勾配を駆けあがることで、単純に水平に滑走するよりも高い高度まで機体を押し上げることができ、搭載量を増加させられることが注目されるようになった。イギリス海軍では、当時建造していたインヴィンシブル級にスキージャンプ勾配を設置したほか、既存の「ハーミーズ」にも設置した。また他国でも、ハリアーを運用する軽空母を建造する際にはスキージャンプ勾配を設置することが多かったが、スキージャンプ勾配を設置すると、その部分でヘリコプターが発着できなくなって同時発着数が減少するという欠点もあり、海兵隊のヘリボーン拠点としての性格があるアメリカ海軍の強襲揚陸艦では採用されなかった。 またソ連海軍の「アドミラル・クズネツォフ」では、政治的な理由からカタパルトの設置が実現しなかったため、CTOL機をスキージャンプで発艦させて、着艦時には制動装置で停止させるというSTOBAR方式が開発された。ただしこの方式では、発艦のためにCATOBAR方式よりも長い滑走レーンを必要とするため航空機の運用効率が低くなり、最大離陸重量も制約される。 甲板上に浮かせた状態で数本張られたアレスティング・ワイヤーを、着艦する機体のアレスティング・フックで引っ掛けて、強力なブレーキ力を発生させる。制動機構としては油圧ブランジャー式が一般的だが、古い空母ではスプリング式を用いた例もあった。なおアメリカ海軍のジェラルド・R・フォード級では、水とタービンを用いた制動機構 (Advanced Arresting Gear) の導入も検討されている。 ワイヤーは着艦帯に対して横方向に張られるのが一般的だが、初期の英国空母では縦方向にワイヤーを張っていた。黎明期には多数のワイヤーが張られていたが、アングルド・デッキ化によって着艦復行を行いやすくなったこともあって減少した。アメリカ海軍の場合、アングルド・デッキ化第一号のフォレスタル級では6索型だったが、後に4索型に変更した。またこの4本のうち、最も艦首側のNo.4ワイヤが使われることはめったになく、保守整備の手間を削減するため、ニミッツ級「ロナルド・レーガン」からは3索型となった。 またワイヤーでの制動に失敗し、着艦復行も困難な場合などの非常時に使う、機体全体を受け止めるバリケード(滑走制止装置)もある。 従来、飛行機は艦の中心線に沿って着艦していたが、着艦時に事故を生じた場合、飛行甲板前方にある停止機に衝突する危険があった。特にジェット機の配備が進むと、機の能力向上と比例して、この危険は著しく増大した。イギリス海軍は1948年よりこの問題への研究を開始しており、その解決策として斜め飛行甲板(アングルド・デッキ)が創案された。 これは艦の後部から左舷に向けて着艦帯を斜めに設けるもので、着艦機が艦橋や停止・待機機と衝突する事故は回避でき、最悪の場合でもその1機だけの損失で済むようになった。またエレベーターや駐機スペースは着艦動線から外れた部分に設置されるため、飛行甲板作業も容易となり、カタパルトを増備すれば同時発艦機を増加させることもできる。 まず1952年2月、イギリス海軍のコロッサス級空母「トライアンフ」にアングルド・デッキを模した塗装を施して実験を行ったのち、アメリカ海軍のエセックス級空母「アンティータム」を改装して本格的な運用が開始された。以後に建造された空母のうち、CATOBAR方式やSTOBAR方式のものは全てこの配置を採用しており、また英米両国では既存の空母の改装も実施した。 一方、垂直着艦を行うSTOVL方式の軽空母では、特に必要性がないため、基本的にはアングルド・デッキは採用されない。ソ連海軍のキエフ級航空母艦では、VTOL・STOVL方式ながら飛行甲板を斜めに配置したが、これは艦橋の前部にミサイルや艦砲などの兵装を搭載したためで、発着を重視したアングルド・デッキとは意図が異なる。 第二次大戦当時のアメリカ海軍では、飛行甲板の後方舷側にいる着艦指導指揮官(Landing Signal Officer, LSO)が着色被服や手旗によって着艦機に対し指示を与えていた。これに対し、日本の空母では艦に誘導灯を備えており、パイロット自身がこれを見て機位を保つようにして着艦していた。 その後、艦載機のジェット化に伴って着艦速度が高速化すると、LSOの指示では間に合わず、パイロット自身の判断によって着艦を行う必要が出てきたことから、戦後のイギリス海軍では、ミラー着艦支援装置を開発した。これは誘導灯を元に発展させたようなシステムで、アメリカ海軍では、5個のフレネルレンズを中心としたフレネルレンズ光学着艦装置(FLOLS)を採用している。 また現代の空母では、視界不良時に使用するための計器着陸装置も備えていることが多く、地上の飛行場の着陸誘導管制(ground-controlled approach, GCA)になぞらえて着艦誘導管制 (carrier-controlled approach, CCA) と称される。このような艦の場合、航法用の中距離捜索レーダーのほかに精測進入レーダー (Precision approach radar) を備えている。空母特有のレーダー波を発射することは、相手に空母の存在を知らせてしまうことから、電子戦では不利も指摘されているが、全天候作戦能力の向上の方が優先するとして装備化された。 飛行機の格納庫(Hangar)としては、日本とイギリスでは閉鎖式の2層式(「赤城」と「加賀」では3層式)が用いられていた。この場合、格納庫の高さは、ギリギリで搭載機の発動機換装ができる程度のものとなる。また船体の強度甲板は飛行甲板または上部格納庫甲板に設定されており、格納庫は外板または上部構造物の囲壁内となる。 これに対し、アメリカでは開放式の1層式が主に用いられ、搭載機は主に露天係止とされていた。この場合、船体の強度甲板は格納甲板に設定されており、上甲板上に格納庫と飛行甲板を設定するかたちとなる。ただしNBC防御の観点もあり、アメリカ海軍でも、フォレスタル級以降では飛行甲板が強度甲板として設定されるようになった。 下層にある格納庫甲板から最上甲板である飛行甲板に搭載機を上げるためにはエレベーターが用いられる。従来は艦の中心線上に設置され、前部は帰着機の格納庫収納、後部は格納庫からの搬出に主に用いられた。 しかし中心線上へのエレベーター設置は格納庫面積を圧迫してしまう事になり、格納可能な機数が減少するという問題があった。また特に後部エレベーターでは、着艦した機体がエレベーター上を通過する際に衝撃が加わるという問題もあった。このことから、アメリカ海軍はエセックス級で舷側エレベーターを採用し、フォレスタル級以降では全てのエレベーターを舷側配置に統一した。ただし小型の艦では舷側にエレベーターを設けると悪天候時に海水が格納庫に浸入する恐れがあるため、引き続き、中心線上にエレベーターを設けている。 空母では、艦自身の行動用燃料のほかに、航空燃料として航空用ガソリン (Avgas) を搭載する必要があった。しかしガソリンは引火点が低いこともあって、そのタンクの修理・整備には手間がかかり、またダメージコントロール面でも留意事項が多かった。日本の空母の場合、溶接構造のタンクを船体固有構造と別個に作って艦内に搭載し、その外囲は空所として、後には注水したりコンクリートを流し込んだりして防御を強化した。またタンク自体も、ガソリンガス発生を制限するために海水補填式とされ、燃料が使用されて減少すると自動的に海水が補填されて、常に液面を「満」の状態に保つようにされていた。 その後、艦上機としてジェット機が用いられるようになったが、ジェット燃料はガソリンよりも引火点が高く、安全性の観点では優れていた。これに伴ってレシプロエンジン搭載機の運用が終了すると航空用ガソリンを搭載する必要がなくなり、空母で最大の弱点といわれるガソリンタンクも廃止された。 空母は第二次世界大戦で艦隊の主力艦としての地位を確立し、機動部隊等の中枢として活躍した。大戦後の核兵器、ミサイル、原子力潜水艦等の出現で空母の脆弱性、存在価値が議論されたが、海上作戦の実施には依然として各種航空兵力が必須であり、海洋のどこにでも進出できる機動性、通常戦や核戦争から平時におけるプレゼンスに至る様々な場面に対処できる柔軟性と、空母の防御力強化などによって海軍力の中心的存在の地位を保持している。 空母の攻撃力の大半は空母そのものの性能ではなく、搭載する航空戦力の規模や力量に左右される。攻撃の目的は主に、自国軍の陸上兵力の支援と攻撃してきた勢力の軍事施設などに爆撃する報復攻撃がある。高度な電子頭脳を持ち、自動航行装置で長距離を飛行し、正確に目標に命中する小型高速ジェット機の「トマホーク 巡航ミサイル」の出現によって、空母とその艦載機の戦術は、最初に巡航ミサイルで敵防空施設、対空装備を破壊し、対空脅威のなくなった後、艦載機が命中精度の優れた大威力の高性能爆弾を投下し、敵の重要施設や拠点を破壊する方法に変わった。これは偵察衛星、無人航空機による偵察活動と連携して行われる。 アメリカが運用する空母打撃群の最大の役目は、制海権の獲得と保持にあり、その任務は、経済航路・軍事航路の防護、海兵水陸両用部隊の防護(進出から作戦地域内まで)、国家的関心地域におけるプレゼンスの構築の3点に集約される。空母打撃群内での大型空母の任務は、示威行動、空中・海上・陸地に対する広域の攻撃力にある。 洋上航空兵器を運用する艦船は、気球母艦が始まりである。1849年7月12日、オーストリア海軍は気球母艦から熱気球を発艦させ、爆弾の投下を試みたが、失敗した。南北戦争ではガス気球が使用され、ガス発生装置を備えた艦が建造された。 1910年11月14日、アメリカ合衆国のパイロットユージン・バートン・イーリーがカーチス モデルDに乗り、軽巡洋艦「バーミンガム」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功した。翌1911年1月18日には装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功した。これが世界で最初の「着艦」である。 1912年、フランス海軍が機雷敷設艦の「ラ・フードル」を改装し、水上機8機の収容設備と滑走台を設置し、世界初の水上機母艦を就役させた。 第一次世界大戦前後、「航空母艦」とは水上機母艦のことであり、飛行甲板をもった艦艇もまとめて「飛行機母艦」と称した。水上機はフロートという飛行中には役に立たない重量物がある分、陸上機より性能が劣っていた。そのため、列強海軍で陸上機を運用できる母艦の研究が進められ、日本海軍のように「山城」の主砲の上に滑走路を設けて飛行機を発進させる方法や、イギリス海軍やアメリカ海軍のように滑走台を設ける方法で実験が行われたが、これらは発艦させることはできても着艦させることはできなかった。 1912年1月10日、イギリス海軍は戦艦「アフリカ」に滑走台を装備し、チャールズ・サムソン大尉がショート27での発艦に成功した。同年5月、戦艦「ハイバーニア」に滑走台を増設し、再びサムソン大尉が発艦に成功した。つづいて7月、戦艦「ロンドン」からの発進に成功した。 1913年4月、イギリス海軍はハイフライヤー級防護巡洋艦の「ハーミーズ」の主砲を撤去して水上機母艦に改造し、航空機の運用研究をおこなった。「ハーミーズ」などの経験を踏まえ、イギリス海軍は水上機母艦「アーク・ロイヤル」を建造した。この「アーク・ロイヤル」は設計時から水上機母艦として計画されており、イギリス海軍において最初の「航空母艦」ともいえる。 1914年7月、第一次世界大戦が勃発。イギリス海軍は「アーク・ロイヤル」を含めて多数の水上機母艦を擁しており、実戦投入した。日本海軍では、1914年8月に運送船の若宮丸を改装して特設水上機母艦とした。9月、若宮丸は青島攻略戦に参加。ファルマン水上機を搭載し、偵察行動を行う。 イギリス海軍においては、水上機母艦「ヴィンデックス」に飛行甲板を設置し、1915年11月3日に陸上機(ブリストル スカウト)が発艦に成功した。1916年5月下旬のユトランド沖海戦では、水上機母艦「エンガディン」からショート 184(水上機)が発進し、ドイツ帝国海軍の大洋艦隊を偵察した。 第一次世界大戦開戦後、イギリス海軍は失敗作との評判があったカレイジャス級巡洋戦艦の運用を見直し、3番艦「フューリアス」の前部主砲(18インチ単装砲)を撤去し、飛行甲板を設置した。発艦は可能だったが着艦は事実上不可能で、のちに後部主砲も撤去して飛行甲板を増設した。艦中央部に艦橋と煙突がそびえており着艦は困難を極めたが、それでも第一次世界大戦で実戦投入され、フューリアスから発進した航空機がドイツ帝国軍の飛行船基地を爆撃した。 イギリス海軍は「フューリアス」や巡洋艦改造空母「ヴィンディクティブ」の運用を経て、1918年9月、世界初の全通飛行甲板を採用した「アーガス」を完成させた。この「アーガス」が、世界最初の実用的航空母艦である。ただし第一次世界大戦終結の直前に就役したので、実戦には参加しなかった。アメリカ海軍はイギリスの協力を得て給炭艦を空母に改装し、1922年3月に空母「ラングレー」を完成させた。 戦後の1920年代初頭、日米英海軍は航空母艦と艦載機を開発した。イギリス海軍は、自国で建造中だったチリの未完成戦艦を接収して航空母艦に改造し、空母「イーグル」を完成させた。このイーグルは全通飛行甲板をもち、艦中央部右舷側にアイランド式(島型)の艦橋と煙突をそなえ、現在に続く空母の形状を確立した。 1918年(大正7年)1月15日、「最初から航空母艦として設計された艦艇として世界で最初に起工した空母」として「ハーミーズ」の建造がはじまる。日本海軍はイギリス留学中の藤本喜久雄などを通じて「ハーミーズ」の設計図を入手した。1920年(大正9年)12月16日、日本は「鳳翔」の建造を開始した。「鳳翔」はイギリスとアメリカから部品や艤装を輸入しつつ建造を開始、1921年(大正10年)11月13日に進水、1922年(大正11年)12月27日に完成した。鳳翔は「最初から航空母艦として設計された艦艇において、世界で最初に竣工した空母」になった。 1921年、ワシントン軍縮会議において、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」とされ、そこで締結されたワシントン海軍条約では、戦艦の保有比率が米英に対し日本はその6割と規定されたのと同じく、空母も米英が排水量13万5,000トンで日本は8万1,000トンと6割に当たる量であった。フランスとイタリア王国に到っては6万トンで、英米の半分以下であった。また、各国とも建造中止戦艦もしくは巡洋戦艦を二隻まで空母に改造することが認められた。ワシントン海軍軍縮条約を受けた各国の空母建造状況は、以下の通り。またイタリアは空母保有枠を獲得したが、財政事情によりフランチェスコ・カラッチョロ級戦艦の空母改造を中止した。 海軍軍縮条約で135,000トンの空母保有枠を有したイギリス海軍は、グローリアス級航空母艦と「イーグル」で大部分の枠を使い切った。残り2万トンで1934年に空母「アーク・ロイヤル」の建造が承認され、1935年に建造がはじまった。「アーク・ロイヤル」は優秀な空母だったが防御力に不安があり、同艦の防御力を向上させたイラストリアス級航空母艦の建造が1937年よりはじまった。 1930年、ロンドン海軍条約が締結され、基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった。ワシントン海軍条約では基準排水量1万トン未満は空母の保有排水量の合計に含まれないとされたため、日本は基準排水量8,000トンの水平甲板型の小型空母「龍驤」を建造しようとしたが、ロンドン海軍条約で1万トン未満も空母にカウントされるようになると、設計変更をして飛行機の搭載可能数をできるだけ増加させた。また2計画の「蒼龍」、「飛龍」も当初は巡洋艦としての砲撃能力を持たせようとしていたが、この条約の影響で、島型艦橋を持つ空母として建造されることになった。さらに千鳥型水雷艇が転覆した友鶴事件や暴風雨による船体破損が起こった第四艦隊事件の影響で、武装による復元力低下、船体強度不足など基本性能の見直しがあり、「蒼龍」は基準排水量が増加して約16,000トンとなった。「飛龍」は建造中にロンドン海軍条約の失効が確実となり(1936年に日本脱退)、「蒼龍」より無理のない設計となった。 同時期のアメリカは排水量制限に余裕があり、新型空母5隻を建造しようとしたが満足できる性能にならず空母「レンジャー」1隻で終わった。2万トン級に大型化したヨークタウン級航空母艦2隻(ヨークタウン、エンタープライズ)で排水量制限枠を大幅に消費し、残り枠14,500トンで防御力を妥協した空母「ワスプ」を建造した。 1935年3月16日、ナチス・ドイツはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言をおこない、イギリスは6月18日に英独海軍協定を締結して容認した。ドイツ海軍は38,500トンの空母保有枠を認められた。そこでグラーフ・ツェッペリン級航空母艦2隻の建造を始めたが、1隻(グラーフ・ツェッペリン)が進水したのみで竣工には到らなかった。 英独海軍協定締結時、フランス海軍が保有する空母は「ベアルン」1隻だけで、グラーフ・ツェッペリン級空母は重大な脅威と受け止められた。1938年からジョッフル級航空母艦の建造を開始したが、進水する前に1939年9月の第二次世界大戦開戦を迎えた。 ヨーロッパで建艦競争が再燃する中、日本海軍はワシントン・ロンドンの両海軍条約から脱退して、自由な設計が可能になった。日本海軍は3計画において大和型戦艦2隻と翔鶴型航空母艦2隻の建造に入った。翔鶴型は1942年初頭に完成の予定だったが、アメリカとの情勢が緊迫し、工期を半年以上短縮した。アメリカでは、とりあえずヨークタウン級空母を若干改良した「ホーネット」を建造した。続いて基準排水量2万7,100トン、格納庫甲板65ミリ・機関室上部38ミリ、両舷102ミリの装甲、サイドエレベーター装備のエセックス級空母の建造に着手し、1942年末に竣工する。 第二次世界大戦前、空母とその艦載機に期待されたのは、主戦力と見なされていた戦艦の補助戦力として、艦隊防空や戦艦同士の決戦の間に巡洋艦などと協同し機を見て雷爆撃を加えることだった。 1939年9月、第二次世界大戦が開戦。1940年7月上旬、メルセルケビール海戦でイギリス海軍のH部隊に所属する空母「アーク・ロイヤル」のソードフィッシュ艦上攻撃機がオラン港に停泊中のフランス海軍の戦艦「ダンケルク」を雷撃し、大破着底に追い込んだ(レバー作戦)。7月8日、ダカールに停泊中のフランス戦艦「リシュリュー」を、イギリス海軍の空母「ハーミーズ」から発進したソードフィッシュが雷撃し、スクリューに損害を与えて行動不能とした。同年11月、タラント空襲においてイギリス地中海艦隊に所属していた空母「イラストリアス」の雷撃機がイタリアの戦艦3隻を大破着底させた。 1941年4月、日本は複数の航空戦隊をまとめて第一航空艦隊を編制し、さらに、真珠湾攻撃のため、軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加え、史上初の用兵思想である「機動部隊」を編成した。12月、太平洋戦争の開戦時、日本が真珠湾攻撃でアメリカ艦隊の戦艦の撃沈に成功すると、空母航空戦力の地位は一気に上がった。太平洋艦隊に所属する戦艦多数を行動不能にされたアメリカは、戦艦部隊の防空兵力として行動していた空母を空母部隊にして空母「ホーネット」の日本初空襲(陸軍航空隊のB-25爆撃機を搭載)を始めとした「ヒットアンドラン作戦」で日本の拠点に空襲を開始した。その後、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で日本の機動部隊と交戦し、日本の進攻を阻止した。 日本は戦前のワシントン海軍条約によって空母保有量を制限されていたとき、有事の際に短期間で空母に改造できるように設計された潜水母艦やタンカーを建造していた。それらは太平洋戦争が始まる前後から空母に改造され、潜水母艦「大鯨」は「龍鳳」として、給油艦の「剣埼」と「高崎」は「祥鳳」と「瑞鳳」として就役した。また、水上機母艦の「千歳」「千代田」も有事の際に空母に改造できるように造られていた(千歳、千代田はミッドウェー海戦後に改造が決定する)。 アメリカでは空母化を目的に特務艦艇を設計することはなかったが、太平洋戦争の開戦後、空母兵力の増強が必要になると、基準排水量一万トン以下のクリーブランド級軽巡洋艦の船体を利用して、インディペンデンス級航空母艦9隻を建造している。 1942年4月、セイロン沖海戦で日本がトリンコマリー攻撃中に、イギリス東洋艦隊の空母「ハーミーズ」を撃沈する。5月上旬の珊瑚海海戦で、日本は軽空母「祥鳳」を撃沈され、アメリカは正規空母「レキシントン」及び給油艦1隻と駆逐艦1隻を撃沈された。史上初の機動部隊同士の海戦と言われる。この海戦によって日本の作戦は初めて中止された。6月、ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻と重巡1隻を喪失し、アメリカは空母「ヨークタウン」と駆逐艦1隻を失った。1942年7月、日本はミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継として第三艦隊を編制する。8月には第二次ソロモン海戦が生起、日本は軽空母「龍驤」を失い、アメリカは空母「エンタープライズ」が大破した。さらにアメリカは日本潜水艦の攻撃で空母「ワスプ」を失い、「サラトガ」が大破。稼働空母が「ホーネット」1隻に減少し、第二次ソロモン海戦で大破した「エンタープライズ」を急遽修理して10月下旬の南太平洋海戦に臨んだ。日本側は空母「翔鶴」と軽空母「瑞鳳」が損傷したが、アメリカは「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」が中破、米海軍史上最悪の海軍記念日と言わしめた。この敗戦によってアメリカ太平洋艦隊の稼働正規空母はゼロになったが、日本側も戦力を消耗しており、ガ島周辺の基地航空兵力の劣勢(およそ4:1)もあって戦況を覆すまでには至らなかった。11月中旬の第三次ソロモン海戦では応急修理をおえた「エンタープライズ」が航空支援をおこなって戦艦「比叡」などを撃沈して勝利に貢献し、まもなく「サラトガ」が復帰した。さらに「エンタープライズ」が本格的修理をおこなう間、アメリカはイギリス海軍の空母「ヴィクトリアス」を太平洋に派遣してもらって空母戦力を確保した。 1943年中盤まで両者共に戦力の回復に努めた為に艦隊決戦は行われなかったが、工業力の格差によって戦力差は拡大し、日本の新造空母1隻(改装空母2除く)に対して13隻(空母5、軽空母8、護衛空母除く)に達し、航空兵力は日本の439機に対して896機と倍以上にまで開いた。 1944年3月1日、第二艦隊(巡洋艦を中心とした夜襲部隊)と編合して第一機動艦隊が編制された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実態は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ第一機動艦隊長官と第三艦隊司令長官は小沢治三郎中将が兼任するため、前衛部隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将)を自由に指揮できた。軍隊区分によらず、指揮下の部隊から充当できるようになった。アメリカで本格的な空母機動部隊が編成されたのは1943年の秋に始まる反攻作戦が開始された時期からだった。アメリカ海軍は兵力を艦型別に編成するタイプ編成と臨時に作戦任務部隊を編成するタスク編成を導入し、1943年8月、空母を中心とした艦隊であるタスクフォース38が編成される。 1944年6月、史上最大の空母戦闘であるマリアナ沖海戦で、日本はアウトレンジ戦法を実施し、アメリカは日本の攻撃隊を迎撃。日本は空母三隻を撃沈され、艦載機のほとんどを失った。「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの敗北は、アメリカ海軍がレーダー、無線電話など電子技術を活用した艦艇戦闘中枢CIC活動で、攻撃防御両面で艦載機が空母CICの管制を受けながら戦闘可能だったことも要因であった。11月、レイテ沖海戦では、日本は機動部隊の空母4隻全てを失う。11月15日、日本は第一機動艦隊及び第三艦隊を解体した。1945年9月2日、日本が降伏し、第二次世界大戦は終結。 1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発後に日本海軍が建造を開始した正規空母は、大鳳型1隻、雲龍型6隻となる。本来は5計画でG14型航空母艦を建造予定だったが、改5計画で戦時急造型(雲龍型)を優先したので、改大鳳型航空母艦と共に未起工で終わった。改造艦艇としては、1940年(昭和15年)12月27日に剣埼型潜水母艦を改造した軽空母「瑞鳳」が就役した。1941年(昭和16年)9月5日、新田丸級貨客船を改造した特設航空母艦「春日丸」が完成した。同年12月8日の太平洋戦争開戦後に完成したのは、改造・新造ふくめて雲龍型3隻、瑞鳳型2隻(祥鳳、龍鳳)、千歳型2隻、隼鷹型2隻、「信濃」、「八幡丸(雲鷹)」、「冲鷹」、「海鷹」、「神鷹」であった。 この大戦では商船を改造した空母が使用された。アメリカは輸送船団をドイツ軍のUボートから守るために、貨物船やタンカーの船体を流用した護衛空母が建造された。商船を改造したものは55隻、商船とほぼ同じ設計の船体を使用したものが69隻であった。滑走路が短いため、カタパルトを装備搭載し、本来の船団護衛、対潜攻撃だけではなく、太平洋方面の上陸作戦にも使用された。日本での商船を改造した空母は「鷹」の文字が艦名に使われた7隻や、タンカー改造「しまね丸」があったが建造数も少なく、速力不足を補うカタパルトも開発できなかったので運用する飛行機を制限された。他に日本陸軍の空母的な船舶として「あきつ丸」「熊野丸」「山汐丸」が建造された。 なお戦後は1982年のフォークランド紛争でイギリスとアルゼンチンの空母が出動したが後わずかで対決には至らず、空母戦の実戦例は太平洋戦争での日米間のものだけに留まっている。 大戦後の航空戦力における二大潮流がジェット機の普及と核兵器の導入で、これは艦上機も例外ではなかった。アメリカ海軍では、核戦略の一翼を担いうるように大型の艦上攻撃機を運用可能な大型空母「ユナイテッド・ステーツ」の建造に着手したものの、戦略爆撃機の優位性と大型空母の非効率性を主張する空軍の意向を受けて、まもなく建造中止となった。 しかし1950年に朝鮮戦争が勃発すると、西太平洋に展開していたエセックス級「ヴァリー・フォージ」が急行したのを筆頭に、エセックス級の後期建造艦が交代で戦線に投入されて対地攻撃に活躍し、突発的な紛争の発生に対する即応性と機動力、持続的な作戦能力や優れた対地火力投射能力を実証した。またアメリカ議会でも、「ユナイテッド・ステーツ」の建造中止を巡る「提督たちの反乱」に関連して開かれた公聴会を通じて、艦上機は陸上機に取って代わられるというよりは相補的な存在意義があることが認められており、大型空母の復活を後押しする機運が高まっていた。このことから、1952年度計画からフォレスタル級の建造が開始され、改良型のキティホーク級とあわせて、1963年度までに計8隻が建造された。 また1950年の時点で、アメリカ海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将により、空母を含めた水上艦の原子力推進化の可能性検討が指示されていた。しかし、この時点では非常に高コストであったことから原子力委員会が賛成せず、1958年度計画でやっと初の原子力空母として「エンタープライズ」の建造が実現した。同艦の建造費が予想以上に高騰していたことから、2隻目以降の建造はなかなか実現しなかったが、原子力推進技術の成熟もあって、1967年度よりニミッツ級の建造が開始された。その後、1970年代には、STOVL運用を想定した小型空母である制海艦(SCS)や、ミッドウェイ級と同規模の中型空母 (CVV) も計画されたものの、ニミッツ級は「空母という艦種は同級で完成した」と称されるほど高く評価されており、結局は同級の建造が継続された。 イギリス海軍では、1960年代中盤より空母「アーク・ロイヤル」および「ヴィクトリアス」の後継艦としてCVA-01級の計画を進めていたが、予算上の理由から1966年度国防白書でキャンセルされた。これを受けて、空母を補完するヘリ空母として計画されていた護衛巡洋艦の機能充実が図られることになり、最終的に、垂直離着陸機であるシーハリアー艦上戦闘機の運用に対応したインヴィンシブル級(CVS)として結実して、1980年より就役を開始した。同級とハリアー・シーハリアーは1982年のフォークランド紛争でその価値を証明したこともあり、イタリア・スペイン・インドでもSTOVL運用を行う空母・軽空母が配備された。 フランス海軍は、アメリカやイギリスから入手した軽空母や護衛空母で艦隊航空戦力の整備に着手し、1950年代のインドシナ戦争で実戦投入した。そしてその後継として、50年代中盤に3万トン級の中型空母2隻を計画し、クレマンソー級として1960年代初期より就役させた。 なお大戦期にイギリスが建造したコロッサス級とマジェスティック級の多くは、大戦後に外国に売却されていき、カナダ・オーストラリア・インドなどのイギリス連邦諸国やオランダ・ブラジル・アルゼンチンにおいて順次に再就役した。これらの艦は、蒸気カタパルトとアングルド・デッキの装備などの改装・改設計により最低限のジェット艦上機運用能力を持っていたものの、1950年代に作られた艦上機が旧式化すると後継機が乏しく、1970年代にはほとんど実用的価値を失った。 ソ連海軍では、政治的な理由から空母の保有がなかなか実現せず、まずは水上戦闘艦に艦載ヘリコプターを搭載して運用していたが、その経験から、各艦に分散配備するよりは複数機を集中配備したほうが効率的であると判断され、ヘリ空母の保有が志向されることになった。まずヘリコプター巡洋艦として1123型対潜巡洋艦(モスクワ級)が建造され、1967年より就役したのち、1975年からは、Yak-38艦上攻撃機の運用に対応して全通飛行甲板を備えた1143型航空巡洋艦(キエフ級)が就役を開始した。そしてその経験を踏まえて、1990年には、STOBAR方式によってCTOL機の運用に対応した「アドミラル・クズネツォフ」が就役した。 冷戦終結後、アメリカ軍が想定する戦争の形態が非対称戦争・低強度紛争に移行するのにつれて、空母の存在意義が再検討され、かつてのCVVのような小型化も俎上に載せられることになった。しかし結局はニミッツ級に準じた高性能艦が望ましいとの結論になり、同級の建造が継続されたのち、発展型のジェラルド・R・フォード級に移行した。 一方、アメリカ国外では、4万~6万トン級の中型空母の建造が相次いだ。 イギリス海軍は、インヴィンシブル級の後継として1990年代よりCVF計画に着手しており、一時はCATOBAR化も検討されたものの、結局はインヴィンシブル級と同様にSTOVL方式として建造され、クイーン・エリザベス級として2017年より就役した。 またフランス海軍はフォッシュ級の後継2隻を計画し、まず1隻が「シャルル・ド・ゴール」として建造された。これはアメリカ以外では初の原子力空母だったこともあって戦力化に難渋したが、2001年に就役した。続く2隻目(PA2)については、上記のクイーン・エリザベス級と同系列の設計になる予定だったが、2013年にキャンセルされた。 中国人民解放軍海軍は、ソビエト連邦の崩壊で建造が中断されていたクズネツォフ級2番艦「ヴァリャーグ」の未完成の艦体を購入して自国で完成させ、2012年に「遼寧」として就役させた。またその設計を踏襲した国産空母として「山東」を建造し、こちらも2017年に進水した。これらはいずれも「クズネツォフ」と同様にSTOBAR方式を採用していたが、CATOBAR方式の空母の開発も進めており、2022年には「福建」として進水した。 インド海軍も、キエフ級の準同型艦である「バクー」を「ヴィクラマーディティヤ」として再就役させる際にはSTOBAR方式に対応して改装し、更にSTOBAR方式に対応した国産空母として「ヴィクラント」を建造した。 上記の通り、アメリカ海軍のヘリコプター揚陸艦(LPH)は、もともと強襲ヘリコプター空母(CVHA)として航空母艦のカテゴリにあったものが、その保有枠を圧迫しないように揚陸艦のカテゴリに移されたという経緯があった。LPHはその後、更に大型で上陸用舟艇の運用にも対応するなど機能を強化した強襲揚陸艦(LHA/LHD)に発展したが、これらの艦は、その強力な航空運用機能を活かして、上記の制海艦に近い作戦行動も実施するようになった。 例えば湾岸戦争ではタラワ級が、またイラク戦争ではワスプ級が、それぞれ20機以上のAV-8B攻撃機を搭載して「ハリアー空母」として行動した。湾岸戦争において、ノーマン・シュワルツコフ将軍は「迅速・決定的な勝利に大きく貢献した3つの航空機」の1つにAV-8Bを挙げるほどであった。またこれらの後継となるアメリカ級では更に航空運用機能を充実させて、高性能なF-35Bを搭載しての「ライトニング空母」(CV-L)としての行動も想定して設計されている。 またマルチハザード化およびグローバル化に伴う任務の多様化に対応して、アメリカ国外でも強襲揚陸艦を建造・取得する国が相次いだが、これらの艦も軽空母・ヘリ空母としての運用が想定されていた。更に海上自衛隊も、ヘリコプター搭載護衛艦 (DDH)として建造したいずも型をSTOVL運用に対応できるように改装し、F-35Bを搭載・運用することが決定された。 2018年現在、実践・実用的空母を有する国は8か国で、詳細は下記の通りである。 水上機を搭載し、その行動基地としての役割を持つ軍艦。水上機以外を搭載する航空母艦が登場する前の第一次世界大戦当時、航空母艦とは水上機母艦を指すのが一般的であった。 航空母艦の登場直後より、水上戦闘艦、特に大型である戦艦や重巡洋艦に航空母艦としての機能を付与することが検討されていた。イギリス海軍は、クイーン・エリザベス級戦艦やレナウン級巡洋戦艦の主砲塔の上に滑走台を設置したが、発進は出来ても着艦は不可能だった。ワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母などの保有制限が課されたことで本格的な検討が着手された。 このうち航空戦艦については、日本海軍の「伊勢」、「日向」がこれに改装された。艦尾の主砲2基を撤去して、後甲板上を飛行機格納庫、その上方の甲板を飛行甲板として、彗星22機を搭載してカタパルト2基によって発進させる計画であった。「山城」「扶桑」についても同様の改装が計画されたが実現しなかった。 一方、航空巡洋艦 (Aircraft cruiser) については、当初はアメリカ海軍が熱心に研究しており、ロンドン軍縮条約では、アメリカの働きかけにより、巡洋艦の合計保有量のうち25パーセントには飛行甲板を装着してよいという規定が盛り込まれた。アメリカ海軍では、1935年には飛行甲板巡洋艦 (FL) なる新艦種も制定されたものの、結局は小型に過ぎて実用性に乏しいとして断念された。ただし航空巡洋艦については、航空母艦とは別に、水上機母艦の系譜としての検討も行われており、日本では利根型重巡洋艦および軽巡洋艦「大淀」、またスウェーデン海軍の巡洋艦「ゴトランド」が建造された。 なお戦後のヘリ空母・軽空母は、しばしば巡洋艦としての記号・呼称を付与されている。イギリス海軍のインヴィンシブル級は計画段階では全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC)と称されていたほか、イタリア海軍の軽空母「ジュゼッペ・ガリバルディ」および「カヴール」も巡洋艦を表す「C」の船体分類記号を付与されている。またソ連海軍のキエフ級は航空巡洋艦、「アドミラル・クズネツォフ」は重航空巡洋艦と称される。 またこのほか、日本海軍の伊四百型潜水艦は特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載できたこともあり、潜水空母と俗称されることもある。 大西洋の戦いが激烈さを増すのに伴い、船団護衛での洋上航空戦力の必要に対応して、連合国は護衛空母の建造を進めるのと並行して、商船に航空艤装を設置して航空機の運用に対応したMACシップを配備した。これは船団中の1隻として自らも貨物輸送に従事しつつ、必要に応じて飛行機を発進させて対潜哨戒と攻撃を行うものであり、乗員は固有船員であって、飛行科および砲員のみが海軍軍人であった。 なお日本海軍では護衛空母という名前で分類した。日本陸・海軍でも、タンカーを改正して補助空母として使用できるように艤装した特TL型がある。 また1970年代から1980年代にかけて、アメリカ海軍では、コンテナ船をヘリ空母として使えるよう、20フィート・コンテナを組み合わせて航空艤装を構築できるようにしたアラパホ・システムを開発した。これ自体は試作の域を出なかったが、イギリス海軍は、試作品を借用して試験を行ったのち、民間船を改造した航空支援艦として「アーガス」を取得した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "航空母艦(こうくうぼかん、英: aircraft carrier)は、航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦。略称は空母(くうぼ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦で登場し、その当時は飛行機母艦の名称も使われた。艦内に格納庫を有し、飛行甲板より艦載機(艦上機)を発艦または発着させることが可能な、海洋を移動する飛行場にして根拠地である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "航空機の性能が低かったこともあって補助艦艇として扱われていたが、後に航空機の性能が向上して航空主兵論が台頭するとともに、機動部隊の中核となる主力艦としての地位を確立していった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1921年のワシントン軍縮会議では、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」と空母を定義している。1930年のロンドン海軍軍縮条約で基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アメリカ海軍では、当初、航空母艦(Aircraft carrier)には一括してCVの船体分類記号が付与されていた。その後、第二次世界大戦に伴う需要激増に対応し、特に船団護衛に投入するため、1941年には商船の船体を利用した小型・低速の空母として航空機護衛艦(Aircraft escort vessel)が登場し、AVGの船体分類記号が付与された。1942年8月20日には補助航空母艦(Auxiliary aircraft carrier)と改称し、船体分類記号もACVに変更された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、1943年7月15日に整理が図られた。従来の航空母艦(CV)のうち、満載排水量5万トン以上の艦(ミッドウェイ級)は大型航空母艦(Large aircraft carrier)に類別変更され、CVBの船体分類記号が付与された。一方、巡洋艦の設計を流用して満載排水量2万トン以下の艦(インディペンデンス級・サイパン級)は軽空母(Light aircraft carrier)に類別変更され、CVLの船体分類記号が付与された。またACVについても、他の空母になぞらえて、護衛空母(Escort carrier)と改称し、船体分類記号もCVEに変更された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1952年には、正規空母(CV・CVB)について、下記のように役割による分類が導入された。また1956年5月29日には、核動力を導入した「エンタープライズ」が就役し、原子力攻撃空母(Nuclear-powered attack aircraft)の類別が新設されて、CVANの船体分類記号が付与された。その後、役割による分類が薄れたことから、1975年には、在来動力艦はCV、核動力艦はCVNと、再び設計のみによる分類へと回帰した。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なおこのように、アメリカ海軍とカナダ海軍で空母を表す船体分類記号としては「CV」が用いられる。1文字目の「C」は\"Carrier\"とする説もあるが、アメリカ海軍の公式webサイトでは、もともと巡洋艦の種別から派生したことから\"Cruiser\"の頭文字をとったものとしている。また2文字目の「V」はVesselの頭文字とする説もあるが、世界の艦船ではこれを否定し、艦上機の主翼を模した象形文字としている。ドイツ連邦共和国においては空母はRB、軽空母はRLに類別されている。またポルトガル語圏のブラジル連邦共和国においては空母はNAe、軽空母はNAeLに類別されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1952年7月、アメリカ海軍は、CVの一部を対潜戦に投入することを決定し、対潜空母(Anti-submarine warfare support aircraft carrier)の類別が新設されて、CVSの船体分類記号が付与された。また10月には、それ以外のCVとCVBが攻撃型空母に類別変更されて、CVAの船体分類記号が付与された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしその後、ベトナム戦争後の国防予算削減のなかで、対潜戦専従の航空母艦を維持することは困難になっていき、CVA/CVANに艦上哨戒機・哨戒ヘリコプターを搭載して対潜戦を兼務させることになり、CVSの運用は1974年までに終了して、CVA/CVANは汎用化されてCV/CVNと改称した。一方、イギリス海軍のインヴィンシブル級航空母艦もCVSと称されていた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、大戦中よりヘリコプターが発達しており、対潜戦や上陸戦への応用が注目されていた。これは原理的には空母以外の艦船での運用も可能ではあったが、特に初期の機体はかなり大型だったこともあり、できれば空母での運用が望ましかった。このこともあり、1955年には、CVEの一部が船団護衛でヘリコプターを運用するための護衛ヘリコプター空母(CVHE)に類別変更され、また「セティス・ベイ」が水陸両用作戦用の強襲ヘリコプター空母 (CVHA) に改装された。ただしCVHEについては特段の改修が行われたわけではなく、またCVHAについても、後には航空母艦の保有枠を圧迫しないように揚陸艦のカテゴリに移すことになり、ヘリコプター揚陸艦(LPH)という新艦種が創設された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ国外でもヘリ空母が登場し始めていたが、その一部は、ヘリコプターだけでなくV/STOL機も搭載するようになった。このように固定翼機の運用能力を獲得したヘリ空母も「軽空母」と称されることもある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "飛行甲板(flight deck)は、航空機運用のために船の甲板を発着陸用の滑走路としたもので、艦の全長にわたって、できるだけ長く、広く確保される。飛行の障害物となるような突出物は極力排除され、日本の空母の場合、探照灯などは全て電動昇降式(隠顕式)として、そのレセスの上には蓋が設けられた。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "またこの方針を追求した結果、最初期には、艦橋構造物を廃止して昇降式の小型指揮所にとどめ、煙突も廃止して艦尾排気とした平甲板型も試みられたが、操艦や飛行甲板の指揮などの観点からは不利が指摘された。このことから、後には、小型艦では平甲板型とする一方、大型艦では、煙突や艦橋をまとめて舷側に寄せた上部構造物(アイランド)を設ける島型が常識となった。また小型艦でも、小さい艦橋構造物を飛行甲板の側方に設けるのが普通となった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、1920年代のイギリス海軍の「フューリアス」(大改装後)と準同型艦(グローリアス級)や、大日本帝国海軍の「赤城」と「加賀」は、両国の従来空母と比較しても大型艦であったこともから、複数の飛行甲板を上下に積み重ねる多段式が試みられた。しかしこの方式では、実際には下部飛行甲板での航空機の運用は困難であり、また上部飛行甲板は長さが短くなって小型空母と同程度の性能まで低下してしまうという問題があり、実用性が低かった。アメリカ海軍のレキシントン級空母や、フランス共和国の「ベアルン」は当初から広い一枚甲板を採用しており、後にイギリスや日本も航空機の大型化に伴い一段甲板に統一された。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "航空母艦が実用化された直後は、まだ航空機が軽かったため、艦上機自身が飛行甲板上を滑走して得た力と、母艦が風上に突進することで生じる力とをあわせた合成風力だけでも、十分に発艦することができた。その後、第二次世界大戦期になると、航空機の重量が増して、発艦を補助する手段が求められるようになったため、カタパルトが用いられるようになった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "カタパルトは、1915年にアメリカ海軍の装甲巡洋艦「ノースカロライナ」に搭載されたのを皮切りに、まず水上戦闘艦に搭載された水上機の発進のために用いられていたが、1920年代中盤には航空母艦での採用も試みられるようになっており、イギリス海軍では2代目「アーク・ロイヤル」、アメリカ海軍では「レンジャー」より装備されてその実用性を立証した。一方、大日本帝国海軍でも艦発促進装置として開発を進め、空母の多くに後日装備余地を確保していたものの、装備化には至らなかった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "従来のカタパルトは油圧式が主流だったが、出力向上に限度があり、航空機の大型化に対応できるような強力なものは極めて大掛かりで構造複雑なものとなった。この問題に対して、イギリスでは蒸気式カタパルトを開発して「アーク・ロイヤル」で装備化した。またその技術提供を受けたアメリカ海軍でもフォレスタル級より装備化し、既存の艦でも逐次に換装した。また艦上機のジェット化が進むと、その排気による甲板への影響が無視できなくなったことから、カタパルトやスキージャンプなどのスタートポイント直後には、起倒式のスクリーン(ジェット・ブラスト・ディフレクター)が設置されるようになった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、21世紀に入ると、リニアモーターを用いた電磁式カタパルトが開発され、アメリカ海軍ではジェラルド・R・フォード級から装備化された。これは出力的には従来の蒸気式カタパルトと同程度ながら、機体の特性にあわせて加速度を調整できることから機体への荷重を軽減でき、また小型軽量化および整備性の向上も実現された。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお、初期のカタパルトでは、シャトルと航空機の接続のためにブライドル・ワイヤーと呼ばれる鋼索を使用していた。これは機体の胴体下面などに設置されたフックと、カタパルトのシャトルとをワイヤーロープでつなぎ、機体を引っ張って射出する方式である。このワイヤーは射出と同時に機体から分離するため、当初は発艦ごとの使い捨てだったが、のちには回収して再利用することになった。そのために、カタパルト延長線上の飛行甲板前縁斜め下方に角のように突き出した構造(ホーン)が設けられ、ブライドル・レトリーバーと呼ばれた。しかし後には、艦上機の主脚にカタパルトのシャトルと直接接続できる機構を備えるようになり、ブライドル・ワイヤーが不要となったため、このような新世代機が増えるにつれて、ブライドル・レトリーバーも撤去されていった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1960年代より、イギリスのホーカー・シドレー ハリアーを端緒として、固定翼機としての垂直離着陸機(VTOL機)が登場しはじめた。これらの機体は、その名の通りに垂直に離着陸することはできるが、特に離陸については、垂直方向に行うよりは、(短距離であっても)滑走したほうが燃料・兵装の搭載量を相当に増やしても離陸させられることから、実際の運用では垂直離陸(VTO)ではなく、短距離離陸(STO)と垂直着陸(VL)を組み合わせたSTOVL方式となることが多い。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そして短距離離陸をするさい、スキージャンプ勾配を駆けあがることで、単純に水平に滑走するよりも高い高度まで機体を押し上げることができ、搭載量を増加させられることが注目されるようになった。イギリス海軍では、当時建造していたインヴィンシブル級にスキージャンプ勾配を設置したほか、既存の「ハーミーズ」にも設置した。また他国でも、ハリアーを運用する軽空母を建造する際にはスキージャンプ勾配を設置することが多かったが、スキージャンプ勾配を設置すると、その部分でヘリコプターが発着できなくなって同時発着数が減少するという欠点もあり、海兵隊のヘリボーン拠点としての性格があるアメリカ海軍の強襲揚陸艦では採用されなかった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "またソ連海軍の「アドミラル・クズネツォフ」では、政治的な理由からカタパルトの設置が実現しなかったため、CTOL機をスキージャンプで発艦させて、着艦時には制動装置で停止させるというSTOBAR方式が開発された。ただしこの方式では、発艦のためにCATOBAR方式よりも長い滑走レーンを必要とするため航空機の運用効率が低くなり、最大離陸重量も制約される。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "甲板上に浮かせた状態で数本張られたアレスティング・ワイヤーを、着艦する機体のアレスティング・フックで引っ掛けて、強力なブレーキ力を発生させる。制動機構としては油圧ブランジャー式が一般的だが、古い空母ではスプリング式を用いた例もあった。なおアメリカ海軍のジェラルド・R・フォード級では、水とタービンを用いた制動機構 (Advanced Arresting Gear) の導入も検討されている。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ワイヤーは着艦帯に対して横方向に張られるのが一般的だが、初期の英国空母では縦方向にワイヤーを張っていた。黎明期には多数のワイヤーが張られていたが、アングルド・デッキ化によって着艦復行を行いやすくなったこともあって減少した。アメリカ海軍の場合、アングルド・デッキ化第一号のフォレスタル級では6索型だったが、後に4索型に変更した。またこの4本のうち、最も艦首側のNo.4ワイヤが使われることはめったになく、保守整備の手間を削減するため、ニミッツ級「ロナルド・レーガン」からは3索型となった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "またワイヤーでの制動に失敗し、着艦復行も困難な場合などの非常時に使う、機体全体を受け止めるバリケード(滑走制止装置)もある。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "従来、飛行機は艦の中心線に沿って着艦していたが、着艦時に事故を生じた場合、飛行甲板前方にある停止機に衝突する危険があった。特にジェット機の配備が進むと、機の能力向上と比例して、この危険は著しく増大した。イギリス海軍は1948年よりこの問題への研究を開始しており、その解決策として斜め飛行甲板(アングルド・デッキ)が創案された。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これは艦の後部から左舷に向けて着艦帯を斜めに設けるもので、着艦機が艦橋や停止・待機機と衝突する事故は回避でき、最悪の場合でもその1機だけの損失で済むようになった。またエレベーターや駐機スペースは着艦動線から外れた部分に設置されるため、飛行甲板作業も容易となり、カタパルトを増備すれば同時発艦機を増加させることもできる。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "まず1952年2月、イギリス海軍のコロッサス級空母「トライアンフ」にアングルド・デッキを模した塗装を施して実験を行ったのち、アメリカ海軍のエセックス級空母「アンティータム」を改装して本格的な運用が開始された。以後に建造された空母のうち、CATOBAR方式やSTOBAR方式のものは全てこの配置を採用しており、また英米両国では既存の空母の改装も実施した。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、垂直着艦を行うSTOVL方式の軽空母では、特に必要性がないため、基本的にはアングルド・デッキは採用されない。ソ連海軍のキエフ級航空母艦では、VTOL・STOVL方式ながら飛行甲板を斜めに配置したが、これは艦橋の前部にミサイルや艦砲などの兵装を搭載したためで、発着を重視したアングルド・デッキとは意図が異なる。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第二次大戦当時のアメリカ海軍では、飛行甲板の後方舷側にいる着艦指導指揮官(Landing Signal Officer, LSO)が着色被服や手旗によって着艦機に対し指示を与えていた。これに対し、日本の空母では艦に誘導灯を備えており、パイロット自身がこれを見て機位を保つようにして着艦していた。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後、艦載機のジェット化に伴って着艦速度が高速化すると、LSOの指示では間に合わず、パイロット自身の判断によって着艦を行う必要が出てきたことから、戦後のイギリス海軍では、ミラー着艦支援装置を開発した。これは誘導灯を元に発展させたようなシステムで、アメリカ海軍では、5個のフレネルレンズを中心としたフレネルレンズ光学着艦装置(FLOLS)を採用している。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また現代の空母では、視界不良時に使用するための計器着陸装置も備えていることが多く、地上の飛行場の着陸誘導管制(ground-controlled approach, GCA)になぞらえて着艦誘導管制 (carrier-controlled approach, CCA) と称される。このような艦の場合、航法用の中距離捜索レーダーのほかに精測進入レーダー (Precision approach radar) を備えている。空母特有のレーダー波を発射することは、相手に空母の存在を知らせてしまうことから、電子戦では不利も指摘されているが、全天候作戦能力の向上の方が優先するとして装備化された。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "飛行機の格納庫(Hangar)としては、日本とイギリスでは閉鎖式の2層式(「赤城」と「加賀」では3層式)が用いられていた。この場合、格納庫の高さは、ギリギリで搭載機の発動機換装ができる程度のものとなる。また船体の強度甲板は飛行甲板または上部格納庫甲板に設定されており、格納庫は外板または上部構造物の囲壁内となる。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "これに対し、アメリカでは開放式の1層式が主に用いられ、搭載機は主に露天係止とされていた。この場合、船体の強度甲板は格納甲板に設定されており、上甲板上に格納庫と飛行甲板を設定するかたちとなる。ただしNBC防御の観点もあり、アメリカ海軍でも、フォレスタル級以降では飛行甲板が強度甲板として設定されるようになった。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "下層にある格納庫甲板から最上甲板である飛行甲板に搭載機を上げるためにはエレベーターが用いられる。従来は艦の中心線上に設置され、前部は帰着機の格納庫収納、後部は格納庫からの搬出に主に用いられた。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし中心線上へのエレベーター設置は格納庫面積を圧迫してしまう事になり、格納可能な機数が減少するという問題があった。また特に後部エレベーターでは、着艦した機体がエレベーター上を通過する際に衝撃が加わるという問題もあった。このことから、アメリカ海軍はエセックス級で舷側エレベーターを採用し、フォレスタル級以降では全てのエレベーターを舷側配置に統一した。ただし小型の艦では舷側にエレベーターを設けると悪天候時に海水が格納庫に浸入する恐れがあるため、引き続き、中心線上にエレベーターを設けている。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "空母では、艦自身の行動用燃料のほかに、航空燃料として航空用ガソリン (Avgas) を搭載する必要があった。しかしガソリンは引火点が低いこともあって、そのタンクの修理・整備には手間がかかり、またダメージコントロール面でも留意事項が多かった。日本の空母の場合、溶接構造のタンクを船体固有構造と別個に作って艦内に搭載し、その外囲は空所として、後には注水したりコンクリートを流し込んだりして防御を強化した。またタンク自体も、ガソリンガス発生を制限するために海水補填式とされ、燃料が使用されて減少すると自動的に海水が補填されて、常に液面を「満」の状態に保つようにされていた。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、艦上機としてジェット機が用いられるようになったが、ジェット燃料はガソリンよりも引火点が高く、安全性の観点では優れていた。これに伴ってレシプロエンジン搭載機の運用が終了すると航空用ガソリンを搭載する必要がなくなり、空母で最大の弱点といわれるガソリンタンクも廃止された。", "title": "航空母艦の特殊装置" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "空母は第二次世界大戦で艦隊の主力艦としての地位を確立し、機動部隊等の中枢として活躍した。大戦後の核兵器、ミサイル、原子力潜水艦等の出現で空母の脆弱性、存在価値が議論されたが、海上作戦の実施には依然として各種航空兵力が必須であり、海洋のどこにでも進出できる機動性、通常戦や核戦争から平時におけるプレゼンスに至る様々な場面に対処できる柔軟性と、空母の防御力強化などによって海軍力の中心的存在の地位を保持している。", "title": "運用法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "空母の攻撃力の大半は空母そのものの性能ではなく、搭載する航空戦力の規模や力量に左右される。攻撃の目的は主に、自国軍の陸上兵力の支援と攻撃してきた勢力の軍事施設などに爆撃する報復攻撃がある。高度な電子頭脳を持ち、自動航行装置で長距離を飛行し、正確に目標に命中する小型高速ジェット機の「トマホーク 巡航ミサイル」の出現によって、空母とその艦載機の戦術は、最初に巡航ミサイルで敵防空施設、対空装備を破壊し、対空脅威のなくなった後、艦載機が命中精度の優れた大威力の高性能爆弾を投下し、敵の重要施設や拠点を破壊する方法に変わった。これは偵察衛星、無人航空機による偵察活動と連携して行われる。", "title": "運用法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アメリカが運用する空母打撃群の最大の役目は、制海権の獲得と保持にあり、その任務は、経済航路・軍事航路の防護、海兵水陸両用部隊の防護(進出から作戦地域内まで)、国家的関心地域におけるプレゼンスの構築の3点に集約される。空母打撃群内での大型空母の任務は、示威行動、空中・海上・陸地に対する広域の攻撃力にある。", "title": "運用法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "洋上航空兵器を運用する艦船は、気球母艦が始まりである。1849年7月12日、オーストリア海軍は気球母艦から熱気球を発艦させ、爆弾の投下を試みたが、失敗した。南北戦争ではガス気球が使用され、ガス発生装置を備えた艦が建造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1910年11月14日、アメリカ合衆国のパイロットユージン・バートン・イーリーがカーチス モデルDに乗り、軽巡洋艦「バーミンガム」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功した。翌1911年1月18日には装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功した。これが世界で最初の「着艦」である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1912年、フランス海軍が機雷敷設艦の「ラ・フードル」を改装し、水上機8機の収容設備と滑走台を設置し、世界初の水上機母艦を就役させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦前後、「航空母艦」とは水上機母艦のことであり、飛行甲板をもった艦艇もまとめて「飛行機母艦」と称した。水上機はフロートという飛行中には役に立たない重量物がある分、陸上機より性能が劣っていた。そのため、列強海軍で陸上機を運用できる母艦の研究が進められ、日本海軍のように「山城」の主砲の上に滑走路を設けて飛行機を発進させる方法や、イギリス海軍やアメリカ海軍のように滑走台を設ける方法で実験が行われたが、これらは発艦させることはできても着艦させることはできなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1912年1月10日、イギリス海軍は戦艦「アフリカ」に滑走台を装備し、チャールズ・サムソン大尉がショート27での発艦に成功した。同年5月、戦艦「ハイバーニア」に滑走台を増設し、再びサムソン大尉が発艦に成功した。つづいて7月、戦艦「ロンドン」からの発進に成功した。 1913年4月、イギリス海軍はハイフライヤー級防護巡洋艦の「ハーミーズ」の主砲を撤去して水上機母艦に改造し、航空機の運用研究をおこなった。「ハーミーズ」などの経験を踏まえ、イギリス海軍は水上機母艦「アーク・ロイヤル」を建造した。この「アーク・ロイヤル」は設計時から水上機母艦として計画されており、イギリス海軍において最初の「航空母艦」ともいえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1914年7月、第一次世界大戦が勃発。イギリス海軍は「アーク・ロイヤル」を含めて多数の水上機母艦を擁しており、実戦投入した。日本海軍では、1914年8月に運送船の若宮丸を改装して特設水上機母艦とした。9月、若宮丸は青島攻略戦に参加。ファルマン水上機を搭載し、偵察行動を行う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "イギリス海軍においては、水上機母艦「ヴィンデックス」に飛行甲板を設置し、1915年11月3日に陸上機(ブリストル スカウト)が発艦に成功した。1916年5月下旬のユトランド沖海戦では、水上機母艦「エンガディン」からショート 184(水上機)が発進し、ドイツ帝国海軍の大洋艦隊を偵察した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦開戦後、イギリス海軍は失敗作との評判があったカレイジャス級巡洋戦艦の運用を見直し、3番艦「フューリアス」の前部主砲(18インチ単装砲)を撤去し、飛行甲板を設置した。発艦は可能だったが着艦は事実上不可能で、のちに後部主砲も撤去して飛行甲板を増設した。艦中央部に艦橋と煙突がそびえており着艦は困難を極めたが、それでも第一次世界大戦で実戦投入され、フューリアスから発進した航空機がドイツ帝国軍の飛行船基地を爆撃した。 イギリス海軍は「フューリアス」や巡洋艦改造空母「ヴィンディクティブ」の運用を経て、1918年9月、世界初の全通飛行甲板を採用した「アーガス」を完成させた。この「アーガス」が、世界最初の実用的航空母艦である。ただし第一次世界大戦終結の直前に就役したので、実戦には参加しなかった。アメリカ海軍はイギリスの協力を得て給炭艦を空母に改装し、1922年3月に空母「ラングレー」を完成させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "戦後の1920年代初頭、日米英海軍は航空母艦と艦載機を開発した。イギリス海軍は、自国で建造中だったチリの未完成戦艦を接収して航空母艦に改造し、空母「イーグル」を完成させた。このイーグルは全通飛行甲板をもち、艦中央部右舷側にアイランド式(島型)の艦橋と煙突をそなえ、現在に続く空母の形状を確立した。 1918年(大正7年)1月15日、「最初から航空母艦として設計された艦艇として世界で最初に起工した空母」として「ハーミーズ」の建造がはじまる。日本海軍はイギリス留学中の藤本喜久雄などを通じて「ハーミーズ」の設計図を入手した。1920年(大正9年)12月16日、日本は「鳳翔」の建造を開始した。「鳳翔」はイギリスとアメリカから部品や艤装を輸入しつつ建造を開始、1921年(大正10年)11月13日に進水、1922年(大正11年)12月27日に完成した。鳳翔は「最初から航空母艦として設計された艦艇において、世界で最初に竣工した空母」になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1921年、ワシントン軍縮会議において、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」とされ、そこで締結されたワシントン海軍条約では、戦艦の保有比率が米英に対し日本はその6割と規定されたのと同じく、空母も米英が排水量13万5,000トンで日本は8万1,000トンと6割に当たる量であった。フランスとイタリア王国に到っては6万トンで、英米の半分以下であった。また、各国とも建造中止戦艦もしくは巡洋戦艦を二隻まで空母に改造することが認められた。ワシントン海軍軍縮条約を受けた各国の空母建造状況は、以下の通り。またイタリアは空母保有枠を獲得したが、財政事情によりフランチェスコ・カラッチョロ級戦艦の空母改造を中止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "海軍軍縮条約で135,000トンの空母保有枠を有したイギリス海軍は、グローリアス級航空母艦と「イーグル」で大部分の枠を使い切った。残り2万トンで1934年に空母「アーク・ロイヤル」の建造が承認され、1935年に建造がはじまった。「アーク・ロイヤル」は優秀な空母だったが防御力に不安があり、同艦の防御力を向上させたイラストリアス級航空母艦の建造が1937年よりはじまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1930年、ロンドン海軍条約が締結され、基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった。ワシントン海軍条約では基準排水量1万トン未満は空母の保有排水量の合計に含まれないとされたため、日本は基準排水量8,000トンの水平甲板型の小型空母「龍驤」を建造しようとしたが、ロンドン海軍条約で1万トン未満も空母にカウントされるようになると、設計変更をして飛行機の搭載可能数をできるだけ増加させた。また2計画の「蒼龍」、「飛龍」も当初は巡洋艦としての砲撃能力を持たせようとしていたが、この条約の影響で、島型艦橋を持つ空母として建造されることになった。さらに千鳥型水雷艇が転覆した友鶴事件や暴風雨による船体破損が起こった第四艦隊事件の影響で、武装による復元力低下、船体強度不足など基本性能の見直しがあり、「蒼龍」は基準排水量が増加して約16,000トンとなった。「飛龍」は建造中にロンドン海軍条約の失効が確実となり(1936年に日本脱退)、「蒼龍」より無理のない設計となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "同時期のアメリカは排水量制限に余裕があり、新型空母5隻を建造しようとしたが満足できる性能にならず空母「レンジャー」1隻で終わった。2万トン級に大型化したヨークタウン級航空母艦2隻(ヨークタウン、エンタープライズ)で排水量制限枠を大幅に消費し、残り枠14,500トンで防御力を妥協した空母「ワスプ」を建造した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1935年3月16日、ナチス・ドイツはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備宣言をおこない、イギリスは6月18日に英独海軍協定を締結して容認した。ドイツ海軍は38,500トンの空母保有枠を認められた。そこでグラーフ・ツェッペリン級航空母艦2隻の建造を始めたが、1隻(グラーフ・ツェッペリン)が進水したのみで竣工には到らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "英独海軍協定締結時、フランス海軍が保有する空母は「ベアルン」1隻だけで、グラーフ・ツェッペリン級空母は重大な脅威と受け止められた。1938年からジョッフル級航空母艦の建造を開始したが、進水する前に1939年9月の第二次世界大戦開戦を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ヨーロッパで建艦競争が再燃する中、日本海軍はワシントン・ロンドンの両海軍条約から脱退して、自由な設計が可能になった。日本海軍は3計画において大和型戦艦2隻と翔鶴型航空母艦2隻の建造に入った。翔鶴型は1942年初頭に完成の予定だったが、アメリカとの情勢が緊迫し、工期を半年以上短縮した。アメリカでは、とりあえずヨークタウン級空母を若干改良した「ホーネット」を建造した。続いて基準排水量2万7,100トン、格納庫甲板65ミリ・機関室上部38ミリ、両舷102ミリの装甲、サイドエレベーター装備のエセックス級空母の建造に着手し、1942年末に竣工する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前、空母とその艦載機に期待されたのは、主戦力と見なされていた戦艦の補助戦力として、艦隊防空や戦艦同士の決戦の間に巡洋艦などと協同し機を見て雷爆撃を加えることだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1939年9月、第二次世界大戦が開戦。1940年7月上旬、メルセルケビール海戦でイギリス海軍のH部隊に所属する空母「アーク・ロイヤル」のソードフィッシュ艦上攻撃機がオラン港に停泊中のフランス海軍の戦艦「ダンケルク」を雷撃し、大破着底に追い込んだ(レバー作戦)。7月8日、ダカールに停泊中のフランス戦艦「リシュリュー」を、イギリス海軍の空母「ハーミーズ」から発進したソードフィッシュが雷撃し、スクリューに損害を与えて行動不能とした。同年11月、タラント空襲においてイギリス地中海艦隊に所属していた空母「イラストリアス」の雷撃機がイタリアの戦艦3隻を大破着底させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1941年4月、日本は複数の航空戦隊をまとめて第一航空艦隊を編制し、さらに、真珠湾攻撃のため、軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加え、史上初の用兵思想である「機動部隊」を編成した。12月、太平洋戦争の開戦時、日本が真珠湾攻撃でアメリカ艦隊の戦艦の撃沈に成功すると、空母航空戦力の地位は一気に上がった。太平洋艦隊に所属する戦艦多数を行動不能にされたアメリカは、戦艦部隊の防空兵力として行動していた空母を空母部隊にして空母「ホーネット」の日本初空襲(陸軍航空隊のB-25爆撃機を搭載)を始めとした「ヒットアンドラン作戦」で日本の拠点に空襲を開始した。その後、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で日本の機動部隊と交戦し、日本の進攻を阻止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本は戦前のワシントン海軍条約によって空母保有量を制限されていたとき、有事の際に短期間で空母に改造できるように設計された潜水母艦やタンカーを建造していた。それらは太平洋戦争が始まる前後から空母に改造され、潜水母艦「大鯨」は「龍鳳」として、給油艦の「剣埼」と「高崎」は「祥鳳」と「瑞鳳」として就役した。また、水上機母艦の「千歳」「千代田」も有事の際に空母に改造できるように造られていた(千歳、千代田はミッドウェー海戦後に改造が決定する)。 アメリカでは空母化を目的に特務艦艇を設計することはなかったが、太平洋戦争の開戦後、空母兵力の増強が必要になると、基準排水量一万トン以下のクリーブランド級軽巡洋艦の船体を利用して、インディペンデンス級航空母艦9隻を建造している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1942年4月、セイロン沖海戦で日本がトリンコマリー攻撃中に、イギリス東洋艦隊の空母「ハーミーズ」を撃沈する。5月上旬の珊瑚海海戦で、日本は軽空母「祥鳳」を撃沈され、アメリカは正規空母「レキシントン」及び給油艦1隻と駆逐艦1隻を撃沈された。史上初の機動部隊同士の海戦と言われる。この海戦によって日本の作戦は初めて中止された。6月、ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻と重巡1隻を喪失し、アメリカは空母「ヨークタウン」と駆逐艦1隻を失った。1942年7月、日本はミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継として第三艦隊を編制する。8月には第二次ソロモン海戦が生起、日本は軽空母「龍驤」を失い、アメリカは空母「エンタープライズ」が大破した。さらにアメリカは日本潜水艦の攻撃で空母「ワスプ」を失い、「サラトガ」が大破。稼働空母が「ホーネット」1隻に減少し、第二次ソロモン海戦で大破した「エンタープライズ」を急遽修理して10月下旬の南太平洋海戦に臨んだ。日本側は空母「翔鶴」と軽空母「瑞鳳」が損傷したが、アメリカは「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」が中破、米海軍史上最悪の海軍記念日と言わしめた。この敗戦によってアメリカ太平洋艦隊の稼働正規空母はゼロになったが、日本側も戦力を消耗しており、ガ島周辺の基地航空兵力の劣勢(およそ4:1)もあって戦況を覆すまでには至らなかった。11月中旬の第三次ソロモン海戦では応急修理をおえた「エンタープライズ」が航空支援をおこなって戦艦「比叡」などを撃沈して勝利に貢献し、まもなく「サラトガ」が復帰した。さらに「エンタープライズ」が本格的修理をおこなう間、アメリカはイギリス海軍の空母「ヴィクトリアス」を太平洋に派遣してもらって空母戦力を確保した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1943年中盤まで両者共に戦力の回復に努めた為に艦隊決戦は行われなかったが、工業力の格差によって戦力差は拡大し、日本の新造空母1隻(改装空母2除く)に対して13隻(空母5、軽空母8、護衛空母除く)に達し、航空兵力は日本の439機に対して896機と倍以上にまで開いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1944年3月1日、第二艦隊(巡洋艦を中心とした夜襲部隊)と編合して第一機動艦隊が編制された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実態は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ第一機動艦隊長官と第三艦隊司令長官は小沢治三郎中将が兼任するため、前衛部隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将)を自由に指揮できた。軍隊区分によらず、指揮下の部隊から充当できるようになった。アメリカで本格的な空母機動部隊が編成されたのは1943年の秋に始まる反攻作戦が開始された時期からだった。アメリカ海軍は兵力を艦型別に編成するタイプ編成と臨時に作戦任務部隊を編成するタスク編成を導入し、1943年8月、空母を中心とした艦隊であるタスクフォース38が編成される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1944年6月、史上最大の空母戦闘であるマリアナ沖海戦で、日本はアウトレンジ戦法を実施し、アメリカは日本の攻撃隊を迎撃。日本は空母三隻を撃沈され、艦載機のほとんどを失った。「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの敗北は、アメリカ海軍がレーダー、無線電話など電子技術を活用した艦艇戦闘中枢CIC活動で、攻撃防御両面で艦載機が空母CICの管制を受けながら戦闘可能だったことも要因であった。11月、レイテ沖海戦では、日本は機動部隊の空母4隻全てを失う。11月15日、日本は第一機動艦隊及び第三艦隊を解体した。1945年9月2日、日本が降伏し、第二次世界大戦は終結。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発後に日本海軍が建造を開始した正規空母は、大鳳型1隻、雲龍型6隻となる。本来は5計画でG14型航空母艦を建造予定だったが、改5計画で戦時急造型(雲龍型)を優先したので、改大鳳型航空母艦と共に未起工で終わった。改造艦艇としては、1940年(昭和15年)12月27日に剣埼型潜水母艦を改造した軽空母「瑞鳳」が就役した。1941年(昭和16年)9月5日、新田丸級貨客船を改造した特設航空母艦「春日丸」が完成した。同年12月8日の太平洋戦争開戦後に完成したのは、改造・新造ふくめて雲龍型3隻、瑞鳳型2隻(祥鳳、龍鳳)、千歳型2隻、隼鷹型2隻、「信濃」、「八幡丸(雲鷹)」、「冲鷹」、「海鷹」、「神鷹」であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "この大戦では商船を改造した空母が使用された。アメリカは輸送船団をドイツ軍のUボートから守るために、貨物船やタンカーの船体を流用した護衛空母が建造された。商船を改造したものは55隻、商船とほぼ同じ設計の船体を使用したものが69隻であった。滑走路が短いため、カタパルトを装備搭載し、本来の船団護衛、対潜攻撃だけではなく、太平洋方面の上陸作戦にも使用された。日本での商船を改造した空母は「鷹」の文字が艦名に使われた7隻や、タンカー改造「しまね丸」があったが建造数も少なく、速力不足を補うカタパルトも開発できなかったので運用する飛行機を制限された。他に日本陸軍の空母的な船舶として「あきつ丸」「熊野丸」「山汐丸」が建造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお戦後は1982年のフォークランド紛争でイギリスとアルゼンチンの空母が出動したが後わずかで対決には至らず、空母戦の実戦例は太平洋戦争での日米間のものだけに留まっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "大戦後の航空戦力における二大潮流がジェット機の普及と核兵器の導入で、これは艦上機も例外ではなかった。アメリカ海軍では、核戦略の一翼を担いうるように大型の艦上攻撃機を運用可能な大型空母「ユナイテッド・ステーツ」の建造に着手したものの、戦略爆撃機の優位性と大型空母の非効率性を主張する空軍の意向を受けて、まもなく建造中止となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "しかし1950年に朝鮮戦争が勃発すると、西太平洋に展開していたエセックス級「ヴァリー・フォージ」が急行したのを筆頭に、エセックス級の後期建造艦が交代で戦線に投入されて対地攻撃に活躍し、突発的な紛争の発生に対する即応性と機動力、持続的な作戦能力や優れた対地火力投射能力を実証した。またアメリカ議会でも、「ユナイテッド・ステーツ」の建造中止を巡る「提督たちの反乱」に関連して開かれた公聴会を通じて、艦上機は陸上機に取って代わられるというよりは相補的な存在意義があることが認められており、大型空母の復活を後押しする機運が高まっていた。このことから、1952年度計画からフォレスタル級の建造が開始され、改良型のキティホーク級とあわせて、1963年度までに計8隻が建造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また1950年の時点で、アメリカ海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将により、空母を含めた水上艦の原子力推進化の可能性検討が指示されていた。しかし、この時点では非常に高コストであったことから原子力委員会が賛成せず、1958年度計画でやっと初の原子力空母として「エンタープライズ」の建造が実現した。同艦の建造費が予想以上に高騰していたことから、2隻目以降の建造はなかなか実現しなかったが、原子力推進技術の成熟もあって、1967年度よりニミッツ級の建造が開始された。その後、1970年代には、STOVL運用を想定した小型空母である制海艦(SCS)や、ミッドウェイ級と同規模の中型空母 (CVV) も計画されたものの、ニミッツ級は「空母という艦種は同級で完成した」と称されるほど高く評価されており、結局は同級の建造が継続された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "イギリス海軍では、1960年代中盤より空母「アーク・ロイヤル」および「ヴィクトリアス」の後継艦としてCVA-01級の計画を進めていたが、予算上の理由から1966年度国防白書でキャンセルされた。これを受けて、空母を補完するヘリ空母として計画されていた護衛巡洋艦の機能充実が図られることになり、最終的に、垂直離着陸機であるシーハリアー艦上戦闘機の運用に対応したインヴィンシブル級(CVS)として結実して、1980年より就役を開始した。同級とハリアー・シーハリアーは1982年のフォークランド紛争でその価値を証明したこともあり、イタリア・スペイン・インドでもSTOVL運用を行う空母・軽空母が配備された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "フランス海軍は、アメリカやイギリスから入手した軽空母や護衛空母で艦隊航空戦力の整備に着手し、1950年代のインドシナ戦争で実戦投入した。そしてその後継として、50年代中盤に3万トン級の中型空母2隻を計画し、クレマンソー級として1960年代初期より就役させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお大戦期にイギリスが建造したコロッサス級とマジェスティック級の多くは、大戦後に外国に売却されていき、カナダ・オーストラリア・インドなどのイギリス連邦諸国やオランダ・ブラジル・アルゼンチンにおいて順次に再就役した。これらの艦は、蒸気カタパルトとアングルド・デッキの装備などの改装・改設計により最低限のジェット艦上機運用能力を持っていたものの、1950年代に作られた艦上機が旧式化すると後継機が乏しく、1970年代にはほとんど実用的価値を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ソ連海軍では、政治的な理由から空母の保有がなかなか実現せず、まずは水上戦闘艦に艦載ヘリコプターを搭載して運用していたが、その経験から、各艦に分散配備するよりは複数機を集中配備したほうが効率的であると判断され、ヘリ空母の保有が志向されることになった。まずヘリコプター巡洋艦として1123型対潜巡洋艦(モスクワ級)が建造され、1967年より就役したのち、1975年からは、Yak-38艦上攻撃機の運用に対応して全通飛行甲板を備えた1143型航空巡洋艦(キエフ級)が就役を開始した。そしてその経験を踏まえて、1990年には、STOBAR方式によってCTOL機の運用に対応した「アドミラル・クズネツォフ」が就役した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "冷戦終結後、アメリカ軍が想定する戦争の形態が非対称戦争・低強度紛争に移行するのにつれて、空母の存在意義が再検討され、かつてのCVVのような小型化も俎上に載せられることになった。しかし結局はニミッツ級に準じた高性能艦が望ましいとの結論になり、同級の建造が継続されたのち、発展型のジェラルド・R・フォード級に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ国外では、4万~6万トン級の中型空母の建造が相次いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "イギリス海軍は、インヴィンシブル級の後継として1990年代よりCVF計画に着手しており、一時はCATOBAR化も検討されたものの、結局はインヴィンシブル級と同様にSTOVL方式として建造され、クイーン・エリザベス級として2017年より就役した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "またフランス海軍はフォッシュ級の後継2隻を計画し、まず1隻が「シャルル・ド・ゴール」として建造された。これはアメリカ以外では初の原子力空母だったこともあって戦力化に難渋したが、2001年に就役した。続く2隻目(PA2)については、上記のクイーン・エリザベス級と同系列の設計になる予定だったが、2013年にキャンセルされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "中国人民解放軍海軍は、ソビエト連邦の崩壊で建造が中断されていたクズネツォフ級2番艦「ヴァリャーグ」の未完成の艦体を購入して自国で完成させ、2012年に「遼寧」として就役させた。またその設計を踏襲した国産空母として「山東」を建造し、こちらも2017年に進水した。これらはいずれも「クズネツォフ」と同様にSTOBAR方式を採用していたが、CATOBAR方式の空母の開発も進めており、2022年には「福建」として進水した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "インド海軍も、キエフ級の準同型艦である「バクー」を「ヴィクラマーディティヤ」として再就役させる際にはSTOBAR方式に対応して改装し、更にSTOBAR方式に対応した国産空母として「ヴィクラント」を建造した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "上記の通り、アメリカ海軍のヘリコプター揚陸艦(LPH)は、もともと強襲ヘリコプター空母(CVHA)として航空母艦のカテゴリにあったものが、その保有枠を圧迫しないように揚陸艦のカテゴリに移されたという経緯があった。LPHはその後、更に大型で上陸用舟艇の運用にも対応するなど機能を強化した強襲揚陸艦(LHA/LHD)に発展したが、これらの艦は、その強力な航空運用機能を活かして、上記の制海艦に近い作戦行動も実施するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "例えば湾岸戦争ではタラワ級が、またイラク戦争ではワスプ級が、それぞれ20機以上のAV-8B攻撃機を搭載して「ハリアー空母」として行動した。湾岸戦争において、ノーマン・シュワルツコフ将軍は「迅速・決定的な勝利に大きく貢献した3つの航空機」の1つにAV-8Bを挙げるほどであった。またこれらの後継となるアメリカ級では更に航空運用機能を充実させて、高性能なF-35Bを搭載しての「ライトニング空母」(CV-L)としての行動も想定して設計されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "またマルチハザード化およびグローバル化に伴う任務の多様化に対応して、アメリカ国外でも強襲揚陸艦を建造・取得する国が相次いだが、これらの艦も軽空母・ヘリ空母としての運用が想定されていた。更に海上自衛隊も、ヘリコプター搭載護衛艦 (DDH)として建造したいずも型をSTOVL運用に対応できるように改装し、F-35Bを搭載・運用することが決定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2018年現在、実践・実用的空母を有する国は8か国で、詳細は下記の通りである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "水上機を搭載し、その行動基地としての役割を持つ軍艦。水上機以外を搭載する航空母艦が登場する前の第一次世界大戦当時、航空母艦とは水上機母艦を指すのが一般的であった。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "航空母艦の登場直後より、水上戦闘艦、特に大型である戦艦や重巡洋艦に航空母艦としての機能を付与することが検討されていた。イギリス海軍は、クイーン・エリザベス級戦艦やレナウン級巡洋戦艦の主砲塔の上に滑走台を設置したが、発進は出来ても着艦は不可能だった。ワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母などの保有制限が課されたことで本格的な検討が着手された。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "このうち航空戦艦については、日本海軍の「伊勢」、「日向」がこれに改装された。艦尾の主砲2基を撤去して、後甲板上を飛行機格納庫、その上方の甲板を飛行甲板として、彗星22機を搭載してカタパルト2基によって発進させる計画であった。「山城」「扶桑」についても同様の改装が計画されたが実現しなかった。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一方、航空巡洋艦 (Aircraft cruiser) については、当初はアメリカ海軍が熱心に研究しており、ロンドン軍縮条約では、アメリカの働きかけにより、巡洋艦の合計保有量のうち25パーセントには飛行甲板を装着してよいという規定が盛り込まれた。アメリカ海軍では、1935年には飛行甲板巡洋艦 (FL) なる新艦種も制定されたものの、結局は小型に過ぎて実用性に乏しいとして断念された。ただし航空巡洋艦については、航空母艦とは別に、水上機母艦の系譜としての検討も行われており、日本では利根型重巡洋艦および軽巡洋艦「大淀」、またスウェーデン海軍の巡洋艦「ゴトランド」が建造された。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "なお戦後のヘリ空母・軽空母は、しばしば巡洋艦としての記号・呼称を付与されている。イギリス海軍のインヴィンシブル級は計画段階では全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC)と称されていたほか、イタリア海軍の軽空母「ジュゼッペ・ガリバルディ」および「カヴール」も巡洋艦を表す「C」の船体分類記号を付与されている。またソ連海軍のキエフ級は航空巡洋艦、「アドミラル・クズネツォフ」は重航空巡洋艦と称される。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "またこのほか、日本海軍の伊四百型潜水艦は特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載できたこともあり、潜水空母と俗称されることもある。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "大西洋の戦いが激烈さを増すのに伴い、船団護衛での洋上航空戦力の必要に対応して、連合国は護衛空母の建造を進めるのと並行して、商船に航空艤装を設置して航空機の運用に対応したMACシップを配備した。これは船団中の1隻として自らも貨物輸送に従事しつつ、必要に応じて飛行機を発進させて対潜哨戒と攻撃を行うものであり、乗員は固有船員であって、飛行科および砲員のみが海軍軍人であった。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "なお日本海軍では護衛空母という名前で分類した。日本陸・海軍でも、タンカーを改正して補助空母として使用できるように艤装した特TL型がある。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "また1970年代から1980年代にかけて、アメリカ海軍では、コンテナ船をヘリ空母として使えるよう、20フィート・コンテナを組み合わせて航空艤装を構築できるようにしたアラパホ・システムを開発した。これ自体は試作の域を出なかったが、イギリス海軍は、試作品を借用して試験を行ったのち、民間船を改造した航空支援艦として「アーガス」を取得した。", "title": "空母以外の航空機搭載艦船" } ]
航空母艦は、航空機を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす軍艦。略称は空母(くうぼ)。 第一次世界大戦で登場し、その当時は飛行機母艦の名称も使われた。艦内に格納庫を有し、飛行甲板より艦載機(艦上機)を発艦または発着させることが可能な、海洋を移動する飛行場にして根拠地である。 航空機の性能が低かったこともあって補助艦艇として扱われていたが、後に航空機の性能が向上して航空主兵論が台頭するとともに、機動部隊の中核となる主力艦としての地位を確立していった。
{{Multiple image|direction=vertical|width=300 |image1= HMS Argus 1918.jpg |caption1= [[イギリス海軍]]の「[[アーガス (空母)|アーガス]]」。全通[[飛行甲板]]を採用した最初の飛行機母艦。 |image2= Aerial view of HMS Queen Elizabeth (R08) off Scotland on 28 June 2017 (4516752).jpg |caption2= [[イギリス海軍]]の[[クイーン・エリザベス級航空母艦|クイーン・エリザベス級空母]]。アイランドを2つ設けた最初の航空母艦。 }} '''航空母艦'''(こうくうぼかん、{{lang-en-short|aircraft carrier}})は、[[航空機]]を多数搭載し、海上での航空基地の役割を果たす[[軍艦]]{{Sfn|防衛学会|1980|p=80}}。略称は'''空母'''(くうぼ)。 第一次世界大戦で登場し、その当時は'''飛行機母艦'''の名称も使われた<ref name="ハルメス">{{アジア歴史資料センター|C10100831800|「9年1月1日 任務遂行及び予定報告の件」、大正6年 外国駐在員報告 巻7(防衛省防衛研究所)}} p.2〔 英國飛行機母艦<del>「ハルメス」</del>「ハーミーズ」ニ就テ 〕</ref>{{Efn2|name="報告件p30"|第十三、飛行機母艦「フューリアス」ノ全景<ref>[[#報告書の件]] pp.30-31</ref> 獨國[[大洋艦隊|大海艦隊]]投降当時[[グランドフリート|英國大艦隊]]ハ「[[フューリアス (空母)|フューリアス]]」「[[ヴィンディクティヴ (空母)|ヴィンディクティヴ]]」「[[アーガス (空母)|アーガス]]」「[[ペガサス (水上機母艦)|ペガサス]]」及「[[ナイラナ_(水上機母艦)|ナイラナ]]」ノ五飛行機母艦ヲ有シ此ノ五隻ヲ以テ一航空戰隊ヲ編成シアリタリ本写真ハ其ノ旗艦「フューリアス」ナリ<br/>「フューリアス」ハ前部ニ発艦、後部ニ著艦滑走台ヲ有シ大小合セテ十八隻ノ飛行機ヲ格納スト称セラルル一万九千頓三十二節ノ巡洋艦ナリ 仝艦以上ノ攻撃力ト仝等以上ノ速力ヲ併有スル軍艦ハ世界中英國大艦隊ニ「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」「[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]」ノ[[レナウン級巡洋戦艦|二巡洋戰艦]]ト「[[カレイジャス (空母)|カレッジアス]]」「[[グローリアス (空母)|グロリアス]]」ノ二巡洋艦アルノミ<br/>此ノ種母艦ハ艦隊戰闘ニ必要ナルノミナラス敵國領土内ノ所要ノ物件ニ対シ飛行機襲撃ヲ決行スルニ最適ノモノナリ。之レカ侵撃ヲ防クニハ潜水艇、飛行機及巡洋戰艦ノ併用ヲ俟ツノ外良策ナキカ如シ 研究ヲ要スル大問題ナリ。}}。艦内に格納庫を有し、[[飛行甲板]]より[[艦載機]]([[艦上機]])を発艦または発着させることが可能な、海洋を移動する[[飛行場]]にして根拠地である{{Efn2|軍縮で日本が廢棄を主張する航空母艦 <small>彼女が持つ任務如何</small><ref>{{cite web|url=https://hojishinbun.hoover.org/en/newspapers/mas19320506-01.1.1|title = Maui Shinbun, 1932.05.06|work = Hoji Shinbun Digital Collection | accessdate = 2023-08-05}} p.1</ref>(中略)依つて左に海軍中佐加藤尚雄氏によつて説明された航空母艦に關する話を紹介する<br/> 航空母艦の話<br/> 航空母艦とはどんな任務を持つて居る軍艦か、<ruby><rb>航</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>空</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>母</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>艦</rb><rt>・</rt></ruby>は名前の通り航空機の母艦である。艦内に澤山の飛行機を積み込んで居る<ruby><rb>艦</rb><rt>ふね</rt></ruby>である。然し母親が子供を抱いて居るやうに只飛行機を腹の中に入れて居るだけなら今日のやうに航空母艦がさわがしく論ぜることもなからう。<br/> <ruby><rb>航</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>空</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>母</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>艦</rb><rt>・</rt></ruby>とは前記のやうに澤山の飛行機を搭載して艦隊と一緒に又は單獨に行動し、いざといふ時にその子供の飛行機をどん〱艦から出發させて、或は敵情を偵察させたり或は敵艦の爆撃や雷撃、(魚雷で攻撃すること)をやつたり敵の飛行機を撃ち落させたりするのであつて、海上では空中兵力の根據地となるものである。だから航空母艦の勢力の大小といふことは、やがて海軍の空中武力の大小といふことに非常な關係があるから、[[軍縮会議|軍縮會議]]などでやかましい問題となるのである。繰り返していふ、航空母艦は<ruby><rb>空</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>中</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>武</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>力</rb><rt>・</rt></ruby>の根據地となる艦である。然もそれが非常な速力で遠いところへどしどし行動出來る移動根據地である。<br/>ほんとの航空母艦と水上機母艦<br/>ウソの航空母艦があるわけではないが[[ワシントン会議_(1922年)|ワシントン會議]]や[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン會議]]で航空母艦と定められたものは飛行機の發着が自由に出來る飛行甲板のあるのを航空母艦といふのであつて、そういふ飛行甲板がなくて<ruby><rb>飛</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>行</rb><rt>・</rt></ruby><ruby><rb>機</rb><rt>・</rt></ruby>を積んで居るのは補助航空母艦といでもいふのである。故にほんとの航空母艦では艦上機といつて陸上機と同じやうに車輪を持つた飛行機を用ゐ、それで飛行甲板を陸上飛行場のやうに滑走して出發し又この甲板へ降りて來て止まるのである(以下略)(記事おわり)}}。 航空機の性能が低かったこともあって補助艦艇として扱われていたが、後に航空機の性能が向上して[[航空主兵論]]が台頭するとともに、[[機動部隊]]の中核となる[[主力艦]]としての地位を確立していった。 == 分類 == [[1921年]]の[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン軍縮会議]]では、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」と空母を定義している{{Sfn|柿谷|2010|p=10}}。[[1930年]]の[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン海軍軍縮条約]]で基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=145}}。 === 設計による分類 === [[アメリカ海軍]]では、当初、航空母艦({{Lang|en|Aircraft carrier}})には一括して'''CV'''の[[アメリカ合衆国の船体分類記号|船体分類記号]]が付与されていた。その後、[[第二次世界大戦]]に伴う需要激増に対応し、特に船団護衛に投入するため、1941年には商船の船体を利用した小型・低速の空母として航空機護衛艦({{Lang|en|Aircraft escort vessel}})が登場し、AVGの船体分類記号が付与された。1942年8月20日には補助航空母艦({{Lang|en|Auxiliary aircraft carrier}})と改称し、船体分類記号もACVに変更された{{Sfn|中名生|2014}}。 その後、[[1943年]][[7月15日]]に整理が図られた。従来の航空母艦(CV)のうち、満載排水量5万トン以上の艦{{Sfn|柿谷|2010|p=18}}([[ミッドウェイ級航空母艦|ミッドウェイ級]])は大型航空母艦({{Lang|en|Large aircraft carrier}})に類別変更され、'''CVB'''の船体分類記号が付与された。一方、[[巡洋艦]]の設計を流用して満載排水量2万トン以下の艦{{Sfn|柿谷|2010|p=18}}([[インディペンデンス級航空母艦|インディペンデンス級]]・[[サイパン級航空母艦|サイパン級]])は[[軽空母]]({{Lang|en|Light aircraft carrier}})に類別変更され、'''CVL'''の船体分類記号が付与された。またACVについても、他の空母になぞらえて、[[護衛空母]]({{Lang|en|Escort carrier}})と改称し、船体分類記号も'''CVE'''に変更された{{Sfn|中名生|2014}}。 [[1952年]]には、[[正規空母]](CV・CVB)について、下記のように[[#役割による分類|役割による分類]]が導入された。また[[1956年]][[5月29日]]には、[[原子力船|核動力]]を導入した「[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]」が就役し、[[原子力空母|原子力攻撃空母]]({{Lang|en|Nuclear-powered attack aircraft}})の類別が新設されて、'''CVAN'''の船体分類記号が付与された。その後、役割による分類が薄れたことから、1975年には、在来動力艦はCV、核動力艦はCVNと、再び設計のみによる分類へと回帰した{{Sfn|中名生|2014}}。 なおこのように、アメリカ海軍と[[カナダ海軍]]で空母を表す船体分類記号としては「CV」が用いられる。1文字目の「C」は"Carrier"とする説もあるが{{Sfn|森沢|1998}}、アメリカ海軍の公式webサイトでは、もともと巡洋艦の種別から派生したことから"Cruiser"の頭文字をとったものとしている<ref name=NHHC>{{Cite web|url=https://www.history.navy.mil/research/histories/naval-aviation-history/attack-carriers.html|title=Carrier Designations and Names|author=[[:en:Naval History and Heritage Command|Naval History and Heritage Command]]|accessdate=2020/02/17|date=2017/08/01}}</ref>。また2文字目の「V」はVesselの頭文字とする説もあるが{{Sfn|森沢|1998}}、[[世界の艦船]]ではこれを否定し、[[艦上機]]の主翼を模した[[象形文字]]としている{{Sfn|中名生|2014}}。[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]においては空母はRB、軽空母はRLに類別されている。また[[ルゾフォニア|ポルトガル語圏]]の[[ブラジル|ブラジル連邦共和国]]においては空母はNAe、軽空母はNAeLに類別されている。 === 役割による分類 === 1952年7月、アメリカ海軍は、CVの一部を[[対潜戦]]に投入することを決定し、[[対潜空母]]({{Lang|en|Anti-submarine warfare support aircraft carrier}})の類別が新設されて、'''CVS'''の船体分類記号が付与された。また10月には、それ以外のCVとCVBが[[攻撃型空母]]に類別変更されて、'''CVA'''の船体分類記号が付与された<ref name=NHHC/>。 しかしその後、ベトナム戦争後の国防予算削減のなかで、対潜戦専従の航空母艦を維持することは困難になっていき、CVA/CVANに艦上哨戒機・[[対潜哨戒機#哨戒ヘリコプター|哨戒ヘリコプター]]を搭載して対潜戦を兼務させることになり、CVSの運用は1974年までに終了して、CVA/CVANは汎用化されてCV/CVNと改称した<ref name=NHHC/>。一方、[[イギリス海軍]]の[[インヴィンシブル級航空母艦]]もCVSと称されていた{{Sfn|Gardiner|1996|p=501}}。 なお、大戦中より[[ヘリコプター]]が発達しており、対潜戦や上陸戦への応用が注目されていた。これは原理的には[[#空母以外の航空機搭載艦船|空母以外の艦船]]での運用も可能ではあったが、特に初期の機体はかなり大型だったこともあり、できれば空母での運用が望ましかった{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.7 The Cold War Navy}}。このこともあり、[[1955年]]には、CVEの一部が船団護衛でヘリコプターを運用するための[[ヘリ空母#対潜戦|護衛ヘリコプター空母]](CVHE)に類別変更され、また「[[セティス・ベイ (護衛空母)|セティス・ベイ]]」が[[水陸両用作戦]]用の強襲ヘリコプター空母 (CVHA) に改装された。ただしCVHEについては特段の改修が行われたわけではなく、またCVHAについても、後には航空母艦の保有枠を圧迫しないように[[揚陸艦]]のカテゴリに移すことになり、[[ヘリコプター揚陸艦]](LPH)という新艦種が創設された{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.11 New Carrier Concepts}}。 一方、アメリカ国外でもヘリ空母が登場し始めていたが、その一部は、ヘリコプターだけでなく[[垂直/短距離離着陸機|V/STOL機]]も搭載するようになった。このように固定翼機の運用能力を獲得したヘリ空母も「軽空母」と称されることもある{{Sfn|海人社|1992}}。 == 航空母艦の特殊装置 == === 飛行甲板 === [[ファイル:PANG-schematics.svg|サムネイル|250x250ピクセル|「[[PANG (航空母艦)|PANG]](想像図)」の飛行甲板]] {{main|飛行甲板}} 飛行甲板({{Lang|en|flight deck}})は、航空機運用のために船の[[甲板 (船)|甲板]]を発着陸用の[[滑走路]]としたもので、艦の全長にわたって、できるだけ長く、広く確保される。飛行の障害物となるような突出物は極力排除され、日本の空母の場合、探照灯などは全て電動昇降式(隠顕式)として、そのレセスの上には蓋が設けられた{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。 またこの方針を追求した結果、最初期には、艦橋構造物を廃止して昇降式の小型指揮所にとどめ、煙突も廃止して艦尾排気とした平甲板型も試みられたが、操艦や飛行甲板の指揮などの観点からは不利が指摘された。このことから、後には、小型艦では平甲板型とする一方、大型艦では、煙突や艦橋をまとめて舷側に寄せた上部構造物(アイランド)を設ける島型が常識となった。また小型艦でも、小さい艦橋構造物を飛行甲板の側方に設けるのが普通となった{{Sfn|福井|2008|loc=第二章 両大戦間の航空母艦の発達}}{{Efn2|現在まで左舷側にアイランドを設けたのは日本の「赤城」と「飛龍」のみ。}}。 なお、[[1920年代]]のイギリス海軍の「[[フューリアス (空母)|フューリアス]]」(大改装後)と準同型艦([[グローリアス級航空母艦|グローリアス級]])や、[[大日本帝国海軍]]の「[[赤城 (空母)|赤城]]」と「[[加賀 (空母)|加賀]]」は、両国の従来空母と比較しても大型艦であったこともから、複数の飛行甲板を上下に積み重ねる[[多段式空母|多段式]]が試みられた。しかしこの方式では、実際には下部飛行甲板での航空機の運用は困難であり、また上部飛行甲板は長さが短くなって小型空母と同程度の性能まで低下してしまうという問題があり、実用性が低かった。アメリカ海軍のレキシントン級空母や、フランス共和国の「ベアルン」は当初から広い一枚甲板を採用しており、後にイギリスや日本も航空機の大型化に伴い一段甲板に統一された{{Sfn|福井|2008|loc=第二章 両大戦間の航空母艦の発達}}。 {{-}} === 発艦装置 === ==== カタパルト ==== {{#lsth:飛行甲板|カタパルト}} ==== スキージャンプ ==== {{#lsth:飛行甲板|スキージャンプ}} === 着艦装置 === {{#lsth:飛行甲板|制動装置}} ==== 斜め飛行甲板 ==== [[File:Cvnanim.gif|thumb|500px|left|飛行甲板]] {{#lsth:アングルド・デッキ|概要}} <gallery widths="180px" heights="150px"> File:F18_operation_uss_carl_vinson.ogv|「[[カール・ヴィンソン_(空母)|カール・ヴィンソン]]」に離着艦する[[F/A-18E/F (航空機)|F/A-18E/F]] File:Flickr - Official U.S. Navy Imagery - An F-35B Lightning II makes first vertical landing at sea.ogv|[[F-35_(戦闘機)|F-35B]]の映像(「[[ワスプ (強襲揚陸艦)|ワスプ]]」への着艦) </gallery> ==== 着艦誘導装置 ==== 第二次大戦当時のアメリカ海軍では、飛行甲板の後方舷側にいる着艦指導指揮官({{Lang|en|Landing Signal Officer, LSO}})が着色被服や手旗によって着艦機に対し指示を与えていた{{Sfn|福井|2008|pp=144-150}}。これに対し、日本の空母では艦に誘導灯を備えており、パイロット自身がこれを見て機位を保つようにして着艦していた{{Sfn|立花|1984}}。 その後、艦載機のジェット化に伴って着艦速度が高速化すると、LSOの指示では間に合わず、パイロット自身の判断によって着艦を行う必要が出てきたことから、戦後のイギリス海軍では、[[光学着艦装置#ミラー着艦支援装置|ミラー着艦支援装置]]を開発した{{Sfn|福井|2008|pp=144-150}}。これは誘導灯を元に発展させたようなシステムで、アメリカ海軍では、5個の[[フレネルレンズ]]を中心としたフレネルレンズ光学着艦装置(FLOLS)を採用している{{Sfn|立花|1984}}。 また現代の空母では、視界不良時に使用するための[[計器着陸装置]]も備えていることが多く、地上の飛行場の[[着陸誘導管制]]({{Lang|en|ground-controlled approach, GCA}})になぞらえて着艦誘導管制{{Enlink|Modern United States Navy carrier air_operations#Approach|carrier-controlled approach, CCA}}と称される。このような艦の場合、航法用の中距離捜索レーダーのほかに精測進入レーダー{{Enlink|Precision approach radar}}を備えている。空母特有のレーダー波を発射することは、相手に空母の存在を知らせてしまうことから、[[電子戦]]では不利も指摘されているが、全天候作戦能力の向上の方が優先するとして装備化された{{Sfn|立花|1984}}。 === 格納・補給 === ==== 格納庫 ==== [[File:US_Navy_090529-N-1062H-042_Supply_and_deck_department_Sailors_transfer_cargo_in_the_hangar_bay_of_the_aircraft_carrier_USS_George_Washington_(CVN_73)_during_a_replenishment-at-sea.jpg|thumb|250px|「[[ジョージ・ワシントン_(空母)|ジョージ・ワシントン]]」の格納庫]] 飛行機の[[格納庫]]({{Lang|en|Hangar}})としては、日本とイギリスでは閉鎖式の2層式(「赤城」と「加賀」では3層式)が用いられていた。この場合、格納庫の高さは、ギリギリで搭載機の発動機換装ができる程度のものとなる{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。また船体の強度甲板は飛行甲板または上部格納庫甲板に設定されており、格納庫は外板または上部構造物の囲壁内となる{{Sfn|福井|2008|loc=第七章 米国航空母艦の趨勢}}。 これに対し、アメリカでは開放式の1層式が主に用いられ、搭載機は主に露天係止とされていた{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。この場合、船体の強度甲板は格納甲板に設定されており、上甲板上に格納庫と飛行甲板を設定するかたちとなる。ただし[[CBRNE|NBC]]防御の観点もあり、アメリカ海軍でも、フォレスタル級以降では飛行甲板が強度甲板として設定されるようになった{{Sfn|福井|2008|loc=第七章 米国航空母艦の趨勢}}。 {{-}} ==== エレベーター ==== [[File:Hyuuga_09.JPG|thumb|250px|「[[ひゅうが (護衛艦)|ひゅうが]]」のエレベーター]] 下層にある格納庫甲板から最上甲板である飛行甲板に搭載機を上げるためには[[エレベーター]]が用いられる。従来は艦の中心線上に設置され、前部は帰着機の格納庫収納、後部は格納庫からの搬出に主に用いられた{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。 しかし中心線上へのエレベーター設置は格納庫面積を圧迫してしまう事になり、格納可能な機数が減少するという問題があった。また特に後部エレベーターでは、着艦した機体がエレベーター上を通過する際に衝撃が加わるという問題もあった{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。このことから、アメリカ海軍はエセックス級で舷側エレベーターを採用し、フォレスタル級以降では全てのエレベーターを舷側配置に統一した{{Sfn|大塚|2014|pp=118-131}}。ただし小型の艦では舷側にエレベーターを設けると悪天候時に[[海水]]が格納庫に浸入する恐れがあるため、引き続き、中心線上にエレベーターを設けている{{Sfn|吉原|1997}}。 {{-}} ==== 航空燃料タンク ==== 空母では、艦自身の行動用[[燃料]]のほかに、[[航空燃料]]として[[ガソリン#航空用ガソリン|航空用ガソリン]]{{Enlink|Avgas}}を搭載する必要があった。しかしガソリンは引火点が低いこともあって、そのタンクの修理・整備には手間がかかり、また[[ダメージコントロール]]面でも留意事項が多かった。日本の空母の場合、溶接構造のタンクを船体固有構造と別個に作って艦内に搭載し、その外囲は空所として、後には注水したりコンクリートを流し込んだりして防御を強化した。またタンク自体も、ガソリンガス発生を制限するために海水補填式とされ、燃料が使用されて減少すると自動的に海水が補填されて、常に液面を「満」の状態に保つようにされていた{{Sfn|福井|2008|loc=第八章 航空母艦の特殊装置}}。 その後、艦上機としてジェット機が用いられるようになったが、[[ジェット燃料]]はガソリンよりも引火点が高く、安全性の観点では優れていた。これに伴って[[レシプロエンジン]]搭載機の運用が終了すると航空用ガソリンを搭載する必要がなくなり、空母で最大の弱点といわれるガソリンタンクも廃止された{{Sfn|海人社|2007}}。 == 運用法 == 空母は[[第二次世界大戦]]で艦隊の[[主力艦]]としての地位を確立し、[[機動部隊]]等の中枢として活躍した。大戦後の[[核兵器]]、[[ミサイル]]、[[原子力潜水艦]]等の出現で空母の脆弱性、存在価値が議論されたが、海上作戦の実施には依然として各種航空兵力が必須であり、海洋のどこにでも進出できる機動性、通常戦や核戦争から平時におけるプレゼンスに至る様々な場面に対処できる柔軟性と、空母の防御力強化などによって海軍力の中心的存在の地位を保持している{{Sfn|防衛学会|1980|p=80}}。 空母の攻撃力の大半は空母そのものの性能ではなく、搭載する航空戦力の規模や力量に左右される{{Sfn|河津|2007|p=92}}。攻撃の目的は主に、自国軍の陸上兵力の支援と攻撃してきた勢力の軍事施設などに爆撃する報復攻撃がある{{Sfn|柿谷|2010|p=14}}。高度な電子頭脳を持ち、自動航行装置で長距離を飛行し、正確に目標に命中する小型高速[[ジェット機]]の「[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク 巡航ミサイル]]」の出現によって、空母とその[[艦載機]]の戦術は、最初に巡航ミサイルで敵防空施設、対空装備を破壊し、対空脅威のなくなった後、艦載機が命中精度の優れた大威力の高性能爆弾を投下し、敵の重要施設や拠点を破壊する方法に変わった。これは[[偵察衛星]]、[[無人航空機]]による偵察活動と連携して行われる{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=11}}。 アメリカが運用する空母打撃群の最大の役目は、[[制海権]]の獲得と保持にあり、その任務は、経済航路・軍事航路の防護、[[アメリカ海兵隊|海兵]]水陸両用部隊の防護(進出から作戦地域内まで)、国家的関心地域におけるプレゼンスの構築の3点に集約される{{Sfn|河津|2007|p=196}}。空母打撃群内での大型空母の任務は、示威行動、空中・海上・陸地に対する広域の攻撃力にある{{Sfn|河津|2007|p=95}}。 == 歴史 == === 第二次世界大戦以前 === [[File:La Foudre.jpg|thumb|250px|水上機母艦となった「[[フードル (水上機母艦)|ラ・フードル]]」]] [[File:HMS Hibernia (1905) with aircraft and ramp.jpg|thumb|250px|right|1912年5月、戦艦「ハイバーニア」の滑走台と、発艦を待つショート機。]] {{main|[[:en:History_of_the_aircraft_carrier|航空母艦の歴史]]|[[:en:Timeline_for_aircraft_carrier_service|空母運用のタイムライン]]}} 洋上航空兵器を運用する艦船は、[[気球母艦]]が始まりである。1849年7月12日、[[オーストリア=ハンガリー帝国海軍|オーストリア海軍]]は気球母艦から[[熱気球]]を発艦させ、[[爆弾]]の投下を試みたが、失敗した。[[南北戦争]]では[[ガス気球]]が使用され、ガス発生装置を備えた艦が建造された。 {{main|気球母艦|水上機母艦}} 1910年11月14日、[[アメリカ合衆国]]のパイロット[[ユージン・バートン・イーリー]]が[[カーチス モデルD]]に乗り、[[軽巡洋艦]]「[[バーミングハム (CL-2)|バーミンガム]]」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功した。翌1911年1月18日には[[装甲巡洋艦]]「[[ペンシルベニア (装甲巡洋艦)|ペンシルベニア]]」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功した。これが世界で最初の「着艦」である。 1912年、[[フランス海軍]]が[[機雷敷設艦]]の「[[フードル (水上機母艦)|ラ・フードル]]」を改装し、水上機8機の収容設備と滑走台を設置し、世界初の[[水上機母艦]]を就役させた。 {{main|イギリス海軍航空隊}} [[File:Flt Lt Towler makes the first take-off from a carrier ship the HMS Vindex 1915.jpg|thumb|250px|right|alt=plane taking off|1915年11月3日、ヴィンデックスの飛行甲板と、発進に成功する陸上機。]] 第一次世界大戦前後、「航空母艦」とは水上機母艦のことであり{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=140}}、飛行甲板をもった艦艇もまとめて「飛行機母艦」と称した{{Efn2|name="報告件p30"}}。水上機はフロートという飛行中には役に立たない重量物がある分、陸上機より性能が劣っていた。そのため、列強海軍で陸上機を運用できる母艦の研究が進められ、日本海軍のように「山城」の主砲の上に滑走路を設けて飛行機を発進させる方法や、[[イギリス海軍]]や[[アメリカ海軍]]のように滑走台を設ける方法で実験が行われたが、これらは発艦させることはできても着艦させることはできなかった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=140}}。 1912年1月10日、イギリス海軍は[[キング・エドワード7世級戦艦|戦艦]]「[[:en:HMS_Africa_(1905)|アフリカ]]」に滑走台を装備し、[[チャールズ・サムソン]]大尉が[[:en:Short_S.27|ショート27]]での発艦に成功した。同年5月、戦艦「[[ハイバーニア (戦艦)|ハイバーニア]]」に滑走台を増設し、再びサムソン大尉が発艦に成功した。つづいて7月、[[フォーミダブル級戦艦|戦艦]]「[[:en:HMS_London_(1899)|ロンドン]]」からの発進に成功した。 1913年4月、イギリス海軍は[[ハイフライヤー級防護巡洋艦]]の「[[:en:HMS_Hermes_(1898)|ハーミーズ]]」の主砲を撤去して水上機母艦に改造し、航空機の運用研究をおこなった{{Efn2|この「ハーミーズ」は第一次世界大戦勃発後の1914年10月31日に[[Uボート]]によって撃沈された。艦名は空母「ハーミーズ」に受け継がれた。}}。「ハーミーズ」などの経験を踏まえ、イギリス海軍は水上機母艦「[[アーク・ロイヤル (水上機母艦)|アーク・ロイヤル]]」を建造した。この「アーク・ロイヤル」は設計時から水上機母艦として計画されており、イギリス海軍において最初の「航空母艦」ともいえる<ref>{{cite web | url=http://www.battleships-cruisers.co.uk/ark_royal_1914.htm | title = Ark Royal 1914 | work = Battleships-Cruisers | accessdate = 2023-08-05}}</ref>。 1914年7月、[[第一次世界大戦]]が勃発。イギリス海軍は「アーク・ロイヤル」を含めて多数の水上機母艦を擁しており、実戦投入した。日本海軍では、1914年8月に運送船の[[若宮_(水上機母艦)|若宮丸]]を改装して特設水上機母艦とした。9月、若宮丸は[[青島攻略戦]]に参加。ファルマン水上機を搭載し、偵察行動を行う{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=6}}。 イギリス海軍においては、水上機母艦「[[ヴィンデックス (水上機母艦)|ヴィンデックス]]」に飛行甲板を設置し、1915年11月3日に陸上機([[ブリストル スカウト]])が発艦に成功した。1916年5月下旬の[[ユトランド沖海戦]]では、水上機母艦「[[エンガディン_(水上機母艦)|エンガディン]]」から[[ショート 184]](水上機)が発進し、[[ドイツ帝国海軍]]の[[大洋艦隊]]を偵察した。 [[File:HMS Furious-2.jpg|thumb|250px|right|「フューリアス」(1918年時)]] 第一次世界大戦開戦後、イギリス海軍は失敗作との評判があった[[:en:Courageous-class_battlecruiser|カレイジャス級巡洋戦艦]]の運用を見直し、3番艦「[[フューリアス (空母)|フューリアス]]」の前部主砲([[:en:BL_18-inch_Mk_I_naval_gun|18インチ単装砲]])を撤去し、飛行甲板を設置した<ref>{{アジア歴史資料センター|C10100831600|「8年7月1日 任務遂行及び予定報告の件 英国巡洋艦「グローリアス」に就いて 英国大型軽巡洋艦「フロービシャ」に就いて」、大正6年 外国駐在員報告 巻7(防衛省防衛研究所)}} p.3</ref>。発艦は可能だったが着艦は事実上不可能で、のちに後部主砲も撤去して飛行甲板を増設した。艦中央部に艦橋と煙突がそびえており着艦は困難を極めたが<ref>[[#報告書の件]] pp.32-33〔 第十四、飛行機母艦「フューリアス」ノ後部 〕</ref>、それでも第一次世界大戦で実戦投入され、フューリアスから発進した航空機が[[ドイツ帝国軍]]の[[飛行船]]基地を爆撃した。 イギリス海軍は「フューリアス」や巡洋艦改造空母「[[ヴィンディクティヴ (空母)|ヴィンディクティブ]]」<ref>[[#報告書の件]] pp.38-39〔 第十七、母艦「ヴインデイクティブ」 〕</ref>の運用を経て、1918年9月、世界初の全通飛行甲板を採用した「[[アーガス (空母)|アーガス]]」を完成させた<ref>[[#報告書の件]] pp.36-37〔 第十六、母艦「アーガス」 〕</ref>。この「アーガス」が、世界最初の実用的航空母艦である。ただし第一次世界大戦終結の直前に就役したので、実戦には参加しなかった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=140-141}}。アメリカ海軍はイギリスの協力を得て給炭艦を空母に改装し、1922年3月に空母「[[ラングレー (CV-1)|ラングレー]]」を完成させた。 戦後の1920年代初頭、日米英海軍は航空母艦と艦載機を開発した{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=6}}。イギリス海軍は、自国で建造中だった[[チリ]]の[[アルミランテ・ラトーレ級戦艦|未完成戦艦]]を接収して航空母艦に改造し、空母「[[イーグル (空母・初代)|イーグル]]」を完成させた。このイーグルは全通飛行甲板をもち、艦中央部右舷側にアイランド式(島型)の艦橋と煙突をそなえ、現在に続く空母の形状を確立した。 1918年(大正7年)1月15日、「最初から航空母艦として設計された艦艇として世界で最初に起工した空母」として「[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]」の建造がはじまる。日本海軍はイギリス留学中の[[藤本喜久雄]]などを通じて「ハーミーズ」の設計図を入手した<ref name="ハルメス" />。1920年(大正9年)12月16日、日本は「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」の建造を開始した<ref>{{アジア歴史資料センター|C08050443400|「軍艦鳳翔製造一件(1)」、大正11年 公文備考 巻33 艦船1(防衛省防衛研究所)}} p.29〔 軍艦鳳翔本日(十二月十六日)午後三時三十分渋滞ナク起工セリ 〕</ref>。「鳳翔」はイギリスとアメリカから部品や艤装を輸入しつつ建造を開始、[[1921年]](大正10年)11月13日に進水、[[1922年]](大正11年)12月27日に完成した<ref>{{アジア歴史資料センター|C08050443500|「軍艦鳳翔製造一件(2)」、大正11年 公文備考 巻33 艦船1(防衛省防衛研究所)}} pp.10-11(進水報告)、pp.44-46(竣成報告)</ref>。鳳翔は「最初から航空母艦として設計された艦艇において、世界で最初に竣工した空母」になった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=141}}。 1921年、ワシントン軍縮会議において、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」とされ{{Sfn|柿谷|2010|p=10}}、そこで締結されたワシントン海軍条約では、戦艦の保有比率が米英に対し日本はその6割と規定されたのと同じく、空母も米英が排水量13万5,000トンで日本は8万1,000トンと6割に当たる量であった。フランスとイタリア王国に到っては6万トンで、英米の半分以下であった。また、各国とも建造中止戦艦もしくは巡洋戦艦を二隻まで空母に改造することが認められた{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=142}}。ワシントン海軍軍縮条約を受けた各国の空母建造状況は、以下の通り。またイタリアは空母保有枠を獲得したが、財政事情により[[フランチェスコ・カラッチョロ級戦艦]]の空母改造を中止した。 * {{JPN}} - 「[[赤城 (空母)|赤城]]」、「[[加賀 (空母)|加賀]]」 - 最初は[[天城型巡洋戦艦]]2隻の予定であったが「[[天城 (未成空母)|天城]]」は[[関東大震災]]で破損したため、廃艦予定の[[加賀型戦艦]]「加賀」を空母に改装した<ref>{{アジア歴史資料センター|C04016182200|「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」、公文備考 艦船1 巻64(防衛省防衛研究所)}}</ref>。 * {{USA}} - 「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」、「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」 * {{UK}} - 「フューリアス」、「[[カレイジャス (空母)|カレイジャス]]」、「[[グローリアス (空母)|グローリアス]]」 * {{FRA}} - 「[[ベアルン (空母)|ベアルン]]」 海軍軍縮条約で135,000トンの空母保有枠を有したイギリス海軍は、[[グローリアス級航空母艦]]と「イーグル」で大部分の枠を使い切った。残り2万トンで1934年に空母「[[アーク・ロイヤル (空母・初代)|アーク・ロイヤル]]」の建造が承認され、1935年に建造がはじまった{{Efn2|第一次世界大戦に参加した水上機母艦「アーク・ロイヤル」は新造空母に艦名を譲り、「ペガサス」と改名した(第一次世界大戦に参加した水上機母艦「[[ペガサス (水上機母艦)|ペガサス]]」は既に除籍済み)。}}。「アーク・ロイヤル」は優秀な空母だったが防御力に不安があり、同艦の防御力を向上させた[[イラストリアス級航空母艦]]の建造が1937年よりはじまった。 1930年、ロンドン海軍条約が締結され、基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=145}}。ワシントン海軍条約では基準排水量1万トン未満は空母の保有排水量の合計に含まれないとされたため、日本は基準排水量8,000トンの水平甲板型の小型空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」を建造しようとしたが、ロンドン海軍条約で1万トン未満も空母にカウントされるようになると、設計変更をして飛行機の搭載可能数をできるだけ増加させた{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=145}}。また[[②計画]]の「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」、「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」も当初は巡洋艦としての砲撃能力を持たせようとしていたが、この条約の影響で、島型艦橋を持つ空母として建造されることになった。さらに[[千鳥型水雷艇]]が転覆した[[友鶴事件]]や暴風雨による船体破損が起こった[[第四艦隊事件]]の影響で、武装による復元力低下、船体強度不足など基本性能の見直しがあり、「蒼龍」は基準排水量が増加して約16,000トンとなった{{Efn2|対外的には10,050トンの空母として発表した<ref>{{アジア歴史資料センター|C05110625400|「第5098号 9.11.3 蒼龍」、公文備考 昭和12年 D 外事 巻1(防衛省防衛研究所)}} pp.1-2</ref>。}}。「飛龍」は建造中にロンドン海軍条約の失効が確実となり(1936年に日本脱退)、「蒼龍」より無理のない設計となった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=146}}。 同時期のアメリカは排水量制限に余裕があり{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=147}}、新型空母5隻を建造しようとしたが満足できる性能にならず空母「[[レンジャー (CV-4)|レンジャー]]」1隻で終わった。2万トン級に大型化した[[ヨークタウン級航空母艦]]2隻([[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]])で排水量制限枠を大幅に消費し、残り枠14,500トンで防御力を妥協した空母「[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]」を建造した。 [[1935年]][[3月16日]]、[[ナチス・ドイツ]]は[[ヴェルサイユ条約]]の軍事条項を破棄して[[ドイツ再軍備宣言|再軍備宣言]]をおこない、[[イギリス]]は6月18日に[[英独海軍協定]]を締結して[[宥和政策|容認]]した。[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]は38,500トンの空母保有枠を認められた。そこで[[グラーフ・ツェッペリン級航空母艦]]2隻の建造を始めたが、1隻([[グラーフ・ツェッペリン_(空母)|グラーフ・ツェッペリン]])が進水したのみで竣工には到らなかった。 英独海軍協定締結時、フランス海軍が保有する空母は「[[ベアルン (空母)|ベアルン]]」1隻だけで、グラーフ・ツェッペリン級空母は重大な脅威と受け止められた。1938年から[[ジョッフル級航空母艦]]の建造を開始したが、進水する前に1939年9月の第二次世界大戦開戦を迎えた。 ヨーロッパで建艦競争が再燃する中、日本海軍はワシントン・ロンドンの両海軍条約から脱退して、自由な設計が可能になった。日本海軍は[[③計画]]において[[大和型戦艦]]2隻と[[翔鶴型航空母艦]]2隻の建造に入った。翔鶴型は1942年初頭に完成の予定だったが、アメリカとの情勢が緊迫し、工期を半年以上短縮した{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=147}}。アメリカでは、とりあえずヨークタウン級空母を若干改良した「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」を建造した。続いて基準排水量2万7,100トン、格納庫甲板65ミリ・機関室上部38ミリ、両舷102ミリの装甲、サイドエレベーター装備の[[エセックス級航空母艦|エセックス級空母]]の建造に着手し、1942年末に竣工する{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=147-148}}。 第二次世界大戦前、空母とその艦載機に期待されたのは、主戦力と見なされていた戦艦の補助戦力として、艦隊防空や戦艦同士の決戦の間に巡洋艦などと協同し機を見て雷爆撃を加えることだった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=7-8}}。 {{-}} === 第二次世界大戦 === [[ファイル:USS Essex (CV-9) in MS 32 6-10D camouflage.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|とてつもない建造数に達した[[エセックス級航空母艦|エセックス級]]]] 1939年9月、[[第二次世界大戦]]が開戦。1940年7月上旬、[[メルセルケビール海戦]]でイギリス海軍の[[H部隊]]に所属する空母「アーク・ロイヤル」の[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]][[艦上攻撃機]]が[[オラン|オラン港]]に停泊中の[[フランス海軍]]の戦艦「[[ダンケルク (戦艦)|ダンケルク]]」を雷撃し、大破着底に追い込んだ([[レバー作戦]])。7月8日、[[ダカール]]に停泊中のフランス戦艦「[[リシュリュー (戦艦)|リシュリュー]]」を、イギリス海軍の空母「ハーミーズ」から発進したソードフィッシュが雷撃し、スクリューに損害を与えて行動不能とした。同年11月、[[タラント空襲]]において[[地中海艦隊 (イギリス)|イギリス地中海艦隊]]に所属していた空母「[[イラストリアス_(空母・初代)|イラストリアス]]」の雷撃機がイタリアの戦艦3隻を大破着底させた。 1941年4月、日本は複数の航空戦隊をまとめて[[第一航空艦隊#空母艦隊|第一航空艦隊]]を編制し、さらに、[[真珠湾攻撃]]のため、軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加え、史上初の用兵思想である「[[機動部隊]]」を編成した{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=69}}。12月、[[太平洋戦争]]の開戦時、日本が[[真珠湾攻撃]]でアメリカ艦隊の戦艦の撃沈に成功すると、空母航空戦力の地位は一気に上がった{{Efn2|なお誤解されることが多いが、[[マレー沖海戦]]で[[東洋艦隊 (イギリス)|イギリス東洋艦隊]]を攻撃して戦艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」と「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」を撃沈したのは日本海軍の[[陸上攻撃機]]([[一式陸上攻撃機]]、[[九六式陸上攻撃機]])である。北大西洋や地中海では、ドイツ空軍やイタリア空軍の陸上攻撃機がイギリス戦艦や巡洋戦艦を攻撃しているが、撃沈に到った艦はない。}}。[[太平洋艦隊_(アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]に所属する戦艦多数を行動不能にされたアメリカは{{Efn2|[[大西洋艦隊_(アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]に所属していた[[ニューメキシコ級戦艦]]や[[ノースカロライナ級戦艦]]は健在であった。}}、戦艦部隊の防空兵力として行動していた空母を空母部隊にして空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」の[[ドーリットル空襲|日本初空襲]]([[アメリカ陸軍航空隊|陸軍航空隊]]の[[B-25 (航空機)|B-25爆撃機]]を搭載)を始めとした「ヒットアンドラン作戦」で日本の拠点に空襲を開始した。その後、[[珊瑚海海戦]]、[[ミッドウェー海戦]]で日本の機動部隊と交戦し、日本の進攻を阻止した{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=99}}。 日本は戦前のワシントン海軍条約によって空母保有量を制限されていたとき、有事の際に短期間で空母に改造できるように設計された潜水母艦やタンカーを建造していた。それらは太平洋戦争が始まる前後から空母に改造され、潜水母艦「大鯨」は「[[龍鳳 (空母)|龍鳳]]」として、給油艦の「剣埼」と「高崎」は「祥鳳」と「瑞鳳」として就役した。また、水上機母艦の「千歳」「千代田」も有事の際に空母に改造できるように造られていた{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=148}}(千歳、千代田はミッドウェー海戦後に改造が決定する)。 アメリカでは空母化を目的に特務艦艇を設計することはなかったが、太平洋戦争の開戦後、空母兵力の増強が必要になると、基準排水量一万トン以下の[[クリーブランド級軽巡洋艦]]の船体を利用して、[[インディペンデンス級航空母艦]]9隻を建造している{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=148-149}}。 1942年4月、[[セイロン沖海戦]]で日本がトリンコマリー攻撃中に、イギリス東洋艦隊の空母「ハーミーズ」を撃沈する。5月上旬の[[珊瑚海海戦]]で、日本は軽空母「[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]」を撃沈され、アメリカは正規空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」及び給油艦1隻と駆逐艦1隻を撃沈された。史上初の機動部隊同士の海戦と言われる。この海戦によって日本の作戦は初めて中止された。6月、ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻と重巡1隻を喪失し{{Efn2|空母「[[赤城 (空母)|赤城]]」「[[加賀 (空母)|加賀]]」「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」、重巡「[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]」。}}、アメリカは空母「ヨークタウン」と駆逐艦1隻を失った。1942年7月、日本はミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継として[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]を編制する。8月には[[第二次ソロモン海戦]]が生起、日本は軽空母「[[龍驤 (空母)|龍驤]]」を失い、アメリカは空母「エンタープライズ」が大破した。さらにアメリカは日本潜水艦の攻撃で空母「[[ワスプ (CV-7)|ワスプ]]」を失い、「[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]]」が大破。稼働空母が「ホーネット」1隻に減少し、第二次ソロモン海戦で大破した「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」を急遽修理して10月下旬の[[南太平洋海戦]]に臨んだ。日本側は空母「翔鶴」と軽空母「瑞鳳」が損傷したが、アメリカは「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」が中破、米海軍史上最悪の海軍記念日と言わしめた。この敗戦によってアメリカ太平洋艦隊の稼働正規空母はゼロになったが{{Efn2|大西洋では正規空母「レンジャー」が活動しており、また[[護衛空母]]も何隻か就役している。}}、日本側も戦力を消耗しており、ガ島周辺の基地航空兵力の劣勢(およそ4:1)もあって戦況を覆すまでには至らなかった。11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]では応急修理をおえた「エンタープライズ」が航空支援をおこなって戦艦「[[比叡 (戦艦)|比叡]]」などを撃沈して勝利に貢献し、まもなく「サラトガ」が復帰した。さらに「エンタープライズ」が本格的修理をおこなう間、アメリカはイギリス海軍の空母「[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]」を太平洋に派遣してもらって空母戦力を確保した。 [[File:HMS Victorious USS Saratoga Noumea 1943.jpg|thumb|350px|1943年、太平洋戦線のヴィクトリアスとサラトガ。]] 1943年中盤まで両者共に戦力の回復に努めた為に艦隊決戦は行われなかったが、工業力の格差によって戦力差は拡大し、日本の新造空母1隻(改装空母2除く)に対して13隻(空母5、軽空母8、護衛空母除く)に達し、航空兵力は日本の439機に対して896機と倍以上にまで開いた。 1944年3月1日、[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](巡洋艦を中心とした夜襲部隊)と編合して[[第一機動艦隊]]が編制された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実態は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ第一機動艦隊長官と第三艦隊司令長官は[[小沢治三郎]]中将が兼任するため、前衛部隊(第二艦隊司令長官[[栗田健男]]中将)を自由に指揮できた{{Efn2|1942年8月以降、第二艦隊司令長官[[近藤信竹]]中将と第三艦隊司令長官[[南雲忠一]]中将では、近藤中将が先任のため南雲を指揮する立場にあった。}}。軍隊区分によらず、指揮下の部隊から充当できるようになった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=74}}。アメリカで本格的な空母機動部隊が編成されたのは1943年の秋に始まる反攻作戦が開始された時期からだった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=9}}。アメリカ海軍は兵力を艦型別に編成するタイプ編成と臨時に作戦任務部隊を編成する[[タスク編成]]を導入し{{Sfn|歴史読本編集部|2004|pp=101-102}}、1943年8月、空母を中心とした艦隊であるタスクフォース38が編成される。 1944年6月、史上最大の空母戦闘である[[マリアナ沖海戦]]で、日本は[[アウトレンジ戦法]]を実施し、アメリカは日本の攻撃隊を迎撃。日本は空母三隻を撃沈され、艦載機のほとんどを失った。「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの敗北は、アメリカ海軍がレーダー、無線電話など電子技術を活用した艦艇戦闘中枢CIC活動で、攻撃防御両面で艦載機が空母CICの管制を受けながら戦闘可能だったことも要因であった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=9}}。11月、[[レイテ沖海戦]]では、日本は機動部隊の空母4隻全てを失う。11月15日、日本は第一機動艦隊及び第三艦隊を解体した{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=113}}。1945年9月2日、日本が降伏し、第二次世界大戦は終結。 1939年(昭和14年)9月の第二次世界大戦勃発後に日本海軍が建造を開始した正規空母は、[[大鳳 (空母)|大鳳型]]1隻、[[雲龍型航空母艦|雲龍型]]6隻となる。本来は[[⑤計画]]で[[G14_(空母)|G14型航空母艦]]を建造予定だったが、[[改⑤計画]]で戦時急造型(雲龍型)を優先したので、[[改大鳳型航空母艦]]と共に未起工で終わった。改造艦艇としては、1940年(昭和15年)12月27日に[[剣埼型潜水母艦]]を改造した軽空母「[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]」が就役した。1941年(昭和16年)9月5日、[[新田丸級貨客船]]を改造した特設航空母艦「[[大鷹 (空母)|春日丸]]」が完成した{{Efn2|太平洋戦争開戦後の1942年8月31日、[[軍艦]]籍となり「大鷹」と改名した<ref name="達244">{{アジア歴史資料センター|C12070115300|「8月」、昭和17年1月~12月 達(防衛省防衛研究所)0法令-達-68}} p.39</ref>。艦艇類別等級では[[大鷹型航空母艦]]となる。}}。同年12月8日の太平洋戦争開戦後に完成したのは、改造・新造ふくめて[[雲龍型航空母艦|雲龍型]]3隻、[[瑞鳳型航空母艦|瑞鳳型]]2隻([[祥鳳 (空母)|祥鳳]]、[[龍鳳 (空母)|龍鳳]])、[[千歳型航空母艦|千歳型]]2隻、[[隼鷹型航空母艦|隼鷹型]]2隻、「[[信濃_(空母)|信濃]]」、「[[雲鷹_(空母)|八幡丸(雲鷹)]]」<ref name="達244" />、「[[冲鷹_(空母)|冲鷹]]」、「[[海鷹_(空母)|海鷹]]」、「[[神鷹_(空母)|神鷹]]」であった。 この大戦では商船を改造した空母が使用された。アメリカは輸送船団をドイツ軍の[[Uボート]]から守るために、貨物船やタンカーの船体を流用した[[護衛空母]]が建造された。商船を改造したものは55隻、商船とほぼ同じ設計の船体を使用したものが69隻であった。滑走路が短いため、カタパルトを装備搭載し、本来の船団護衛、対潜攻撃だけではなく、太平洋方面の上陸作戦にも使用された。日本での商船を改造した空母は「鷹」の文字が艦名に使われた7隻や、タンカー改造「[[しまね丸 (タンカー)|しまね丸]]」があったが建造数も少なく、速力不足を補うカタパルトも開発できなかったので運用する飛行機を制限された{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=149}}。他に日本陸軍の空母的な船舶として「[[あきつ丸]]」「[[熊野丸]]」「[[山汐丸]]」が建造された。 ==== 空母戦の一覧 ==== *[[セイロン沖海戦]] - 日本とイギリスの空母が同じ海域で対艦攻撃を行なったが直接の対決は生じなかった。イギリス海軍の空母1隻が沈没。 *[[珊瑚海海戦]] - 史上初の空母戦。日本3隻、アメリカ2隻で1隻ずつを失う。 *[[ミッドウェー海戦]] - 日本は4隻が全滅、アメリカは3隻中1隻の喪失で太平洋戦争の転換点と言われる。 *[[第二次ソロモン海戦]] - 日米3隻ずつ、日本が1隻を喪失。 *[[南太平洋海戦]] - 日本4隻対アメリカ2隻、アメリカが1隻を喪失。 *[[マリアナ沖海戦]] - 日本9隻対アメリカ15隻、史上最大の空母戦。日本は3隻を失い完敗に終わる。 *[[エンガノ岬沖海戦]] - すでに日本海軍には組織的戦闘の能力がなく、4隻が囮として出撃、全滅。 なお戦後は1982年の[[フォークランド紛争]]でイギリスとアルゼンチンの空母が出動したが後わずかで対決には至らず、空母戦の実戦例は太平洋戦争での日米間のものだけに留まっている。 === 冷戦期 === ==== アメリカ海軍 ==== [[File:US Navy 040707-N-0119G-085 USS Enterprise (CVN 65) steams through the waters of the Atlantic Ocean following a port visit to Portsmouth, England.jpg|thumb|250px|世界初の原子力空母「エンタープライズ」]] [[ファイル:USS Harry S. Truman CVN-75.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[アメリカ海軍]]の[[ニミッツ級航空母艦|ニミッツ級空母]]。このクラスは10隻が建造されたが現代の空母の建造数としては圧倒的に多い数値である。]] 大戦後の航空戦力における二大潮流が[[ジェット機]]の普及と[[核兵器]]の導入で、これは艦上機も例外ではなかった{{Sfn|青木|2007}}。アメリカ海軍では、[[核戦略]]の一翼を担いうるように大型の艦上攻撃機を運用可能な大型空母「[[ユナイテッド・ステーツ (空母)|ユナイテッド・ステーツ]]」の建造に着手したものの、[[戦略爆撃機]]の優位性と大型空母の非効率性を主張する[[アメリカ空軍|空軍]]の意向を受けて、まもなく建造中止となった{{Sfn|大塚|2014|pp=193-203}}。 しかし[[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が勃発すると、西太平洋に展開していたエセックス級「[[ヴァリー・フォージ (空母)|ヴァリー・フォージ]]」が急行したのを筆頭に、エセックス級の後期建造艦が交代で戦線に投入されて対地攻撃に活躍し、突発的な紛争の発生に対する即応性と機動力、持続的な作戦能力や優れた対地火力投射能力を実証した{{Sfn|岡部|2007}}。またアメリカ議会でも、「ユナイテッド・ステーツ」の建造中止を巡る[[提督たちの反乱#議会公聴会|「提督たちの反乱」に関連して開かれた公聴会]]を通じて、艦上機は陸上機に取って代わられるというよりは相補的な存在意義があることが認められており、大型空母の復活を後押しする機運が高まっていた{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.3 Atomic Bombs Aboard Ship}}。このことから、[[1952年]]度計画から[[フォレスタル級航空母艦|フォレスタル級]]の建造が開始され、改良型の[[キティホーク級航空母艦|キティホーク級]]とあわせて、[[1963年]]度までに計8隻が建造された{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.12 The Forrestal Class and Its Successors}}。 また1950年の時点で、[[アメリカ海軍作戦部長]][[フォレスト・シャーマン]][[大将]]により、空母を含めた水上艦の原子力推進化の可能性検討が指示されていた。しかし、この時点では非常に高コストであったことから[[アメリカ原子力委員会|原子力委員会]]が賛成せず、[[1958年]]度計画でやっと初の原子力空母として「[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]」の建造が実現した。同艦の建造費が予想以上に高騰していたことから、2隻目以降の建造はなかなか実現しなかったが、原子力推進技術の成熟もあって、[[1967年]]度より[[ニミッツ級航空母艦|ニミッツ級]]の建造が開始された{{Sfn|中名生|1994}}。その後、[[1970年代]]には、STOVL運用を想定した小型空母である[[制海艦]](SCS)や、[[ミッドウェイ級航空母艦|ミッドウェイ級]]と同規模の中型空母{{Enlink|Aircraft Carrier (Medium)|CVV}}も計画されたものの{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.18 Carrier Controversies}}、ニミッツ級は「空母という艦種は同級で完成した」と称されるほど高く評価されており、結局は同級の建造が継続された{{Sfn|大塚|2014|pp=156-169}}。 ==== アメリカ国外 ==== [[ファイル:Soviet Kiev class VSTOL aircraft carrier BAKU.JPEG|サムネイル|250x250ピクセル|[[キエフ級航空母艦|キエフ級]]。後に[[インド海軍]]でも同級が就役することになる。]] [[ファイル:HMS Dragon with Russian Aircraft Carrier 'Admiral Kuzetsov' MOD 45157554.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[アドミラル・クズネツォフ級航空母艦|アドミラル・クズネツォフ級]]。後に[[中国人民解放軍海軍|中国海軍]]でも同級が就役することになる。]]イギリス海軍では、1960年代中盤より空母「[[アーク・ロイヤル (空母・2代)|アーク・ロイヤル]]」および「[[ヴィクトリアス (空母)|ヴィクトリアス]]」の後継艦として[[CVA-01級航空母艦|CVA-01級]]の計画を進めていたが、予算上の理由から[[1966年度国防白書]]でキャンセルされた{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.12 Carrier Proliferation}}。これを受けて、空母を補完する[[ヘリ空母]]として計画されていた護衛巡洋艦の機能充実が図られることになり、最終的に、[[垂直離着陸機]]である[[BAe シーハリアー|シーハリアー]][[艦上戦闘機]]の運用に対応した[[インヴィンシブル級航空母艦|インヴィンシブル級]](CVS)として結実して、[[1980年]]より就役を開始した{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.19 New Directions}}。同級とハリアー・シーハリアーは1982年の[[フォークランド紛争]]でその価値を証明したこともあり、[[イタリア]]・[[スペイン]]・[[インド]]でもSTOVL運用を行う空母・軽空母が配備された{{Sfn|岡部|1997}}。 [[フランス海軍]]は、アメリカやイギリスから入手した軽空母や護衛空母で艦隊航空戦力の整備に着手し、1950年代の[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]で実戦投入した。そしてその後継として、50年代中盤に3万トン級の中型空母2隻を計画し、[[クレマンソー級航空母艦|クレマンソー級]]として1960年代初期より就役させた{{Sfn|岡部|1997}}。 なお大戦期にイギリスが建造した[[コロッサス級航空母艦|コロッサス級]]と[[マジェスティック級航空母艦|マジェスティック級]]の多くは、大戦後に外国に売却されていき、[[カナダ]]・[[オーストラリア]]・[[インド]]などの[[イギリス連邦]]諸国や[[オランダ]]・[[ブラジル]]・[[アルゼンチン]]において順次に再就役した。これらの艦は、蒸気カタパルトとアングルド・デッキの装備などの改装・改設計により最低限のジェット艦上機運用能力を持っていたものの、1950年代に作られた艦上機が旧式化すると後継機が乏しく、1970年代にはほとんど実用的価値を失った{{Sfn|岡部|1997}}{{Efn2|ただしその後も、アメリカ海軍の対潜空母(CVS)と同様にS-2艦上哨戒機やA-4艦上攻撃機、ヘリコプターを搭載して行動を継続した艦もあった{{Sfn|海人社|1997}}。}}。 [[ソ連海軍]]では、政治的な理由から空母の保有がなかなか実現せず、まずは水上戦闘艦に艦載ヘリコプターを搭載して運用していたが、その経験から、各艦に分散配備するよりは複数機を集中配備したほうが効率的であると判断され、ヘリ空母の保有が志向されることになった。まずヘリコプター巡洋艦として[[モスクワ級ヘリコプター巡洋艦|1123型対潜巡洋艦(モスクワ級)]]が建造され、[[1967年]]より就役したのち{{Sfn|Polutov|2017|pp=108-115}}、[[1975年]]からは、[[Yak-38 (航空機)|Yak-38]][[艦上攻撃機]]の運用に対応して全通飛行甲板を備えた[[キエフ級航空母艦|1143型航空巡洋艦(キエフ級)]]が就役を開始した{{Sfn|Polutov|2017|pp=120-137}}。そしてその経験を踏まえて、[[1990年]]には、[[航空機の離着陸方法#STOBAR|STOBAR]]方式によってCTOL機の運用に対応した「[[アドミラル・クズネツォフ (空母)|アドミラル・クズネツォフ]]」が就役した{{Sfn|Polutov|2017|pp=138-143}}。 === 冷戦後 === [[ファイル:Bow view of USS Gerald R. Ford (CVN-78) underway on 8 April 2017.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|[[ジェラルド・R・フォード級航空母艦|ジェラルド・R・フォード級空母]]]] 冷戦終結後、アメリカ軍が想定する戦争の形態が[[非対称戦争]]・[[低強度紛争]]に移行するのにつれて、空母の存在意義が再検討され、かつてのCVVのような小型化も俎上に載せられることになった。しかし結局はニミッツ級に準じた高性能艦が望ましいとの結論になり、同級の建造が継続されたのち、発展型の[[ジェラルド・R・フォード級航空母艦|ジェラルド・R・フォード級]]に移行した{{Sfn|大塚|2014|pp=193-203}}。 ==== 中型空母の建造 ==== [[ファイル:French aircraft carrier Charles de Gaulle (R91) underway on 24 April 2019 (190424-M-BP588-1005).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[フランス海軍]]の「[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]」]] [[ファイル:IAC-1 Vikrant out in the sea during its maiden sea trials (cropped).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[インド海軍]]の「[[ヴィクラント (空母・2代)|ヴィクラント]]」]] 一方、アメリカ国外では、4万~6万トン級の中型空母の建造が相次いだ。 イギリス海軍は、インヴィンシブル級の後継として[[1990年代]]よりCVF計画に着手しており、一時はCATOBAR化も検討されたものの、結局はインヴィンシブル級と同様にSTOVL方式として建造され<ref group=注 name=SRVL />、[[クイーン・エリザベス級航空母艦|クイーン・エリザベス級]]として2017年より就役した{{Sfn|多田|2019}}。 またフランス海軍はフォッシュ級の後継2隻を計画し、まず1隻が「[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]」として建造された{{Sfn|多田|2019}}。これはアメリカ以外では初の原子力空母だったこともあって戦力化に難渋したが、2001年に就役した{{Sfn|多田|2019}}。続く2隻目([[フランス次期空母|PA2]])については、上記のクイーン・エリザベス級と同系列の設計になる予定だったが、2013年にキャンセルされた{{Sfn|多田|2019}}。 [[中国人民解放軍海軍]]は、[[ソビエト連邦の崩壊]]で建造が中断されていた[[アドミラル・クズネツォフ級航空母艦|クズネツォフ級]]2番艦「[[ヴァリャーグ (空母)|ヴァリャーグ]]」の未完成の艦体を購入して自国で完成させ、2012年に「[[遼寧 (空母)|遼寧]]」として就役させた{{Sfn|多田|2019}}。またその設計を踏襲した国産空母として「[[山東 (空母)|山東]]」を建造し、こちらも2017年に進水した{{Sfn|多田|2019}}。これらはいずれも「クズネツォフ」と同様にSTOBAR方式を採用していたが、CATOBAR方式の空母の開発も進めており{{Sfn|多田|2019}}、2022年には「[[福建 (空母)|福建]]」として進水した<ref>{{Cite news|和書|title=中国海軍3隻目の空母「福建」が進水 中国 国営メディア|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220617/k10013676151000.html|date=2022年6月17日|newspaper=[[NHKニュース]]|publisher=[[日本放送協会]]}}</ref>。 [[インド海軍]]も、キエフ級の準同型艦である「[[バクー (空母)|バクー]]」を「[[ヴィクラマーディティヤ (空母)|ヴィクラマーディティヤ]]」として再就役させる際にはSTOBAR方式に対応して改装し{{Sfn|Polutov|2017|pp=120-137}}、更にSTOBAR方式に対応した国産空母として「[[ヴィクラント (空母・2代)|ヴィクラント]]」を建造した{{Sfn|多田|2019}}。 ==== 強襲揚陸艦と軽空母 ==== [[ファイル:F-35B Lighting II landing on USS America (LHA-6) as sailors and marines prepare to arm it with GBU-12 Paveway II laser-guided test bombs (161105-N-VR008-0208).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[アメリカ級強襲揚陸艦]]と[[F-35 (戦闘機)|F-35]]B]] 上記の通り、アメリカ海軍のヘリコプター揚陸艦(LPH)は、もともと強襲ヘリコプター空母(CVHA)として航空母艦のカテゴリにあったものが、その保有枠を圧迫しないように[[揚陸艦]]のカテゴリに移されたという経緯があった{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.11 New Carrier Concepts}}。LPHはその後、更に大型で[[上陸用舟艇]]の運用にも対応するなど機能を強化した[[強襲揚陸艦]](LHA/LHD)に発展したが、これらの艦は、その強力な航空運用機能を活かして、上記の制海艦に近い作戦行動も実施するようになった{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.25 Amphibious Assault}}。 例えば[[湾岸戦争]]では[[タラワ級強襲揚陸艦|タラワ級]]が、また[[イラク戦争]]では[[ワスプ級強襲揚陸艦|ワスプ級]]が、それぞれ20機以上の[[ハリアー II (航空機)|AV-8B]]攻撃機を搭載して「'''ハリアー空母'''」として行動した。湾岸戦争において、[[ノーマン・シュワルツコフ]]将軍は「迅速・決定的な勝利に大きく貢献した3つの航空機」の1つにAV-8Bを挙げるほどであった{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.25 Amphibious Assault}}{{Efn2|他の2種類は[[AH-64 アパッチ|AH-64]][[攻撃ヘリコプター]]と[[F-117 (航空機)|F-117]][[ステルス機|ステルス]][[攻撃機]]であった{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.25 Amphibious Assault}}。}}。またこれらの後継となる[[アメリカ級強襲揚陸艦|アメリカ級]]では更に航空運用機能を充実させて、高性能なF-35Bを搭載しての「'''ライトニング空母'''」(CV-L)としての行動も想定して設計されている{{Sfn|大塚|2018}}。 また[[マルチハザード]]化および[[グローバリゼーション|グローバル化]]に伴う任務の多様化に対応して、アメリカ国外でも強襲揚陸艦を建造・取得する国が相次いだが、これらの艦も軽空母・ヘリ空母としての運用が想定されていた{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.25 Amphibious Assault}}。更に[[海上自衛隊]]も、[[護衛艦#DDH|ヘリコプター搭載護衛艦 (DDH)]]として建造した[[いずも型護衛艦|いずも型]]をSTOVL運用に対応できるように改装し、F-35Bを搭載・運用することが決定された{{Sfn|多田|2019}}。 === 世界の空母保有国=== {{main|航空母艦一覧}} 2018年現在、実践・実用的空母を有する国は8か国で、詳細は下記の通りである。 {| class="wikitable sortable" |+ style="background:#f99;"|世界の空母保有国<br>2018年 資料:英「ジェーン年艦」<ref>「[https://www.janes.com/ Aircraft carrier in the world 2018]」</ref> !順位 !! 国籍 !! 保有数 !! 備考 |- | 1位 || {{USA}} || 11隻 || 1隻建造中、2隻計画中 |- | 2位 || {{PRC}} || 3隻 || 2隻計画中 |- | 3位 || {{UK}} || 2隻 || |- | 3位 || {{ITA}} || 2隻 || |- | 4位 || {{IND}} || 1隻 || 1隻建造中 |- | 5位 || {{FRA}} || 1隻 || |- | 5位 || {{RUS}} || 1隻 || |- | 5位 || {{THA}} || 1隻 || |} == 空母以外の航空機搭載艦船 == === 水上機母艦 === [[画像:Japanese seaplane tender Mizuho 1940.jpg|thumb|300px|[[日本海軍]]の水上機母艦[[瑞穂 (水上機母艦)|瑞穂]]]] {{main|水上機母艦}} 水上機を搭載し、その行動基地としての役割を持つ軍艦。水上機以外を搭載する航空母艦が登場する前の[[第一次世界大戦]]当時、航空母艦とは水上機母艦を指すのが一般的であった{{Sfn|歴史読本編集部|2004|p=140}}。 === 水上戦闘艦 === 航空母艦の登場直後より、水上戦闘艦、特に大型である[[戦艦]]や[[重巡洋艦]]に航空母艦としての機能を付与することが検討されていた。イギリス海軍は、[[クイーン・エリザベス級戦艦]]や[[レナウン級巡洋戦艦]]の主砲塔の上に滑走台を設置したが、発進は出来ても着艦は不可能だった<ref>[[#報告書の件]] pp.6-7〔 第一、軍艦ノ飛行機搭載状況其ノ一 〕</ref>。[[ワシントン海軍軍縮条約]]で戦艦や空母などの保有制限が課されたことで本格的な検討が着手された{{Sfn|福井|2008|loc=第四章 航空戦艦について}}。 このうち[[航空戦艦]]については、日本海軍の「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」、「[[日向 (戦艦)|日向]]」がこれに改装された。艦尾の主砲2基を撤去して、後甲板上を飛行機格納庫、その上方の甲板を飛行甲板として、[[彗星 (航空機)|彗星]]22機を搭載してカタパルト2基によって発進させる計画であった。「山城」「扶桑」についても同様の改装が計画されたが実現しなかった{{Sfn|福井|2008|loc=第四章 航空戦艦について}}。 一方、[[航空戦艦#航空巡洋艦|航空巡洋艦]]{{Enlink|Aircraft cruiser}}については、当初はアメリカ海軍が熱心に研究しており、[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン軍縮条約]]では、アメリカの働きかけにより、巡洋艦の合計保有量のうち25パーセントには飛行甲板を装着してよいという規定が盛り込まれた。アメリカ海軍では、1935年には飛行甲板巡洋艦{{Enlink|Flight deck cruiser|FL}}なる新艦種も制定されたものの、結局は小型に過ぎて実用性に乏しいとして断念された{{Sfn|福井|2008|loc=第四章 航空戦艦について}}。ただし航空巡洋艦については、航空母艦とは別に、水上機母艦の系譜としての検討も行われており、日本では[[利根型重巡洋艦]]および軽巡洋艦「[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]」、またスウェーデン海軍の巡洋艦「[[ゴトランド (巡洋艦)|ゴトランド]]」が建造された{{Sfn|大塚|2012}}。 なお戦後のヘリ空母・軽空母は、しばしば巡洋艦としての記号・呼称を付与されている。イギリス海軍のインヴィンシブル級は計画段階では全通甲板巡洋艦(Through Deck Cruiser, TDC)と称されていたほか{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.19 New Directions}}、イタリア海軍の軽空母「[[ジュゼッペ・ガリバルディ (空母)|ジュゼッペ・ガリバルディ]]」および「[[カヴール (空母)|カヴール]]」も巡洋艦を表す「C」の船体分類記号を付与されている{{Sfn|Wertheim|2013|pp=326-327}}。またソ連海軍のキエフ級は航空巡洋艦{{Sfn|Polutov|2017|pp=120-137}}、「アドミラル・クズネツォフ」は重航空巡洋艦と称される{{Sfn|Polutov|2017|pp=138-143}}。 またこのほか、日本海軍の[[伊四百型潜水艦]]は[[特殊攻撃機]]「[[晴嵐]]」3機を搭載できたこともあり、[[潜水空母]]と俗称されることもある。 === 商船 === [[大西洋の戦い (第二次世界大戦)|大西洋の戦い]]が激烈さを増すのに伴い、船団護衛での洋上航空戦力の必要に対応して、連合国は護衛空母の建造を進めるのと並行して、[[商船]]に航空艤装を設置して航空機の運用に対応した[[MACシップ]]を配備した。これは船団中の1隻として自らも貨物輸送に従事しつつ、必要に応じて飛行機を発進させて対潜哨戒と攻撃を行うものであり、乗員は固有船員であって、飛行科および砲員のみが海軍軍人であった{{Sfn|福井|2008|pp=281-283}}。 なお日本海軍では護衛空母という名前で分類した{{Sfn|柿谷|2010|p=18}}。日本陸・海軍でも、[[タンカー]]を改正して補助空母として使用できるように艤装した[[特TL型]]がある{{Sfn|福井|2008|pp=281-283}}。 また[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて、アメリカ海軍では、[[コンテナ船]]をヘリ空母として使えるよう、[[海上コンテナ|20フィート・コンテナ]]を組み合わせて航空艤装を構築できるようにした[[アラパホ・システム]]を開発した。これ自体は試作の域を出なかったが、イギリス海軍は、試作品を借用して試験を行ったのち、民間船を改造した航空支援艦として「[[アーガス (A135)|アーガス]]」を取得した{{Sfn|Polmar|2008|pp=391-392}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|first=Denis J.|last=Calvert|year=2019|chapter=シーハリアーの開発と運用|title=世界の傑作機 No.191 BAe シーハリアー|publisher=[[文林堂]]|pages=34-53|isbn=978-4893192929|ref=harv}} * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Friedman|first=Norman|last=Friedman|title=U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History|year= 1983|publisher=[[:en:United States Naval Institute|Naval Institute Press]]|isbn=978-0870217395|ref=harv}} * {{Cite book|first=Robert|last=Gardiner|title=[[:en:Conway Publishing|Conway's All the World's Fighting Ships 1947-1995]]|year= 1996|publisher=Naval Institute Press|isbn=978-1557501325|ref=harv}} * {{cite book |last1=Green |first1=Michael |year=2015|title=Aircraft 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{{Citation|和書|last=青木|first=謙知|year=2007|month=10|title=アメリカ艦上機の発達 (特集・アメリカ空母80年の歩み)|journal=世界の艦船|issue=680|pages=94-101|publisher=海人社|naid=40015608398}} * {{Citation|和書|authorlink=梅林宏道|last=梅林|first=宏道|year=2002|title=在日米軍|series=[[岩波新書]]|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4004307839}} * {{Citation|和書|authorlink=江畑謙介|last=江畑|first=謙介|last2=堀|first2=元美|year=1987|title=新・現代の軍艦|publisher=原書房|isbn=978-4562018468}} * {{Citation|和書|last=江畑|first=謙介|year=2002|title=最新・アメリカの軍事力|publisher=講談社|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4061495944}} * {{Citation|和書|last=大塚|first=好古|year=2012|month=04|title=水上戦闘艦と航空機 : 搭載・運用の歩み (特集 航空機搭載水上戦闘艦)|journal=世界の艦船|issue=758|pages=75-81|publisher=海人社|naid=40019207439}} * {{Citation|和書|last=大塚|first=好古|year=2014|month=11|title=アメリカ航空母艦史|journal=世界の艦船|issue=807|pages=1-207|publisher=海人社|naid=40020238934}} * {{Citation|和書|last=大塚|first=好古|year=2018|month=6|title=世界のF-35Bキャリアー (特集 F-35Bキャリアーの時代)|journal=世界の艦船|issue=880|pages=77-87|publisher=海人社|naid=40021563665}} * {{Citation|和書|authorlink=岡部いさく|last=岡部|first=いさく|chapter=航空母艦発達史|year=1997|title=世界の空母ハンドブック|series=世界の艦船別冊|publisher=海人社|ncid=BB09185700|pages=34-41}} * {{Citation|和書|last=岡部|first=いさく|year=2007|month=10|title=アメリカ空母の戦歴 (特集・アメリカ空母80年の歩み)|journal=世界の艦船|issue=680|pages=102-109|publisher=海人社|naid=40015608399}} * {{Citation|和書|last=岡部|first=いさく|year=2016|month=12|title=米新型CVN「フォード」のすべて|journal=世界の艦船|issue=850|pages=92-95|publisher=海人社|naid=40020996922}} * {{Citation|和書|last=岡部|first=いさく|year=2020|month=5|title=空母は今後も海洋の覇者たり得るか?|journal=世界の艦船|issue=923|pages=76-81|publisher=海人社|naid=40022198455}} * {{Citation|和書|editor=海人社|year=1992||month=6||title=現代軽空母のメカニズム (特集 空母のメカニズム)||journal=世界の艦船||issue=451||pages=94-99||publisher=海人社}} * {{Citation|和書|editor=海人社|year=1997|title=世界の空母ハンドブック|series=世界の艦船別冊|ncid=BB09185700}} * {{Citation|和書|editor=海人社|year=2007|month=10|title=アメリカ空母発達史 レキシントンからフォードまで|journal=世界の艦船|issue=680|pages=84-93|publisher=海人社|naid=40015608397}} * {{Citation|和書|last=柿谷|first=哲也|year=2005|title=世界の空母|series=ミリタリー選書|publisher=[[イカロス出版]]|isbn=978-4871497701}} * {{Citation|和書|last=柿谷|first=哲也|year=2010|title=知られざる空母の秘密|series=[[サイエンス・アイ新書]]|publisher=[[SBクリエイティブ]]|isbn=978-4797354676}} * {{Citation|和書|last=河津|first=幸英|year=2007|title=図説 21世紀のアメリカ海軍 新型空母と海上基地|series=ARIADNE MILITARY|publisher=[[三修社]]|isbn=978-4384031768}} * {{Citation|和書|last=小原|first=凡司|year=2019|month=9|title=中国の空母4隻体制は脅威か (特集・世界の空母2019)|journal=世界の艦船|issue=907|pages=110-113|publisher=海人社|naid=40021975703}} * {{Citation|和書|last=多田|first=智彦|year=2019|month=9|title=世界の空母事情 2019 (特集・世界の空母2019)|journal=世界の艦船|issue=907|pages=85-91|publisher=海人社|naid=40021975614}} * {{Citation|和書|last=立花|first=正照|year=1984|month=1|title=現代空母のメカニズムと運用法 (特集・現代の空母)|journal=世界の艦船|issue=331|pages=84-93|publisher=海人社|naid=}} * {{Citation|和書|last=中名生|first=正己|year=2014|month=11|title=米空母の艦種記号|journal=世界の艦船|issue=807|pages=204-205|publisher=海人社|naid=40020238934}} * 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{{Citation|和書|editor=歴史読本編集部|year=2004|title=空母機動部隊―太平洋で激突した日米機動部隊の軌跡|series=別冊[[歴史読本]]永久保存版―戦記シリーズ|publisher=新人物往来社|isbn=978-4404030726}} * [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) **{{Cite book|和書|id=Ref.C10100829700|title=8年3月10日 報告書の件 英国大艦隊の航空施設説明付写真帳1冊提出の件、大正6年 外国駐在員報告 巻6(防衛省防衛研究所)|ref=報告書の件}} == 関連項目 == * [[航空母艦一覧]] * [[:en:Joseph_M._Reeves|ジョゼフ・M・リーヴス]] [[アメリカ海軍]]における空母戦術の提唱者。 * [[水上機母艦]] * [[気球母艦]] : 歴史上初めて航空機を運用した艦船。19世紀後半から20世紀初頭にかけて運用された気球を運用するための艦船。 * [[アクロン (飛行船)|アクロン]]・[[メイコン (飛行船)|メイコン]] : 軍用機の移動基地として建造された飛行船。専用の軍用機をトラピーズと呼ばれる[[空中ブランコ]]で発着させる。第一次世界大戦後、アメリカ海軍が全長240mほどの巨大飛行船として開発したが、悪天候下の事故で失われ、以後は飛行船を航空基地として運用することはなくなった。 {{空母関連項目}} {{艦艇}} {{世界の空母}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうくうほかん}} [[Category:航空母艦|*]]
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装甲車
装甲車(そうこうしゃ、Armored Car、AC)は、装甲を備える自動車である。軍用以外にも警備や暴動鎮圧に使われる警察用の装甲車、消防用の耐火装甲を備えた消防車、現金輸送車など、民間用や文民用の装甲車もある。 欧米圏におけるArmored carとは、軽量の装輪装甲車を指し、特に軍用車について日本における「装甲車」の定義区分とはズレがある(なお韓国や中国でも「装甲車」は装輪と装軌両方を含む)。 日本における軍用の「装甲車」の概念とは、英語ではArmored vehicleが近しいが、独立の分類項目として扱われることは少ない。 大日本帝国陸軍では歩兵科と騎兵科の戦車を巡る対立のため、騎兵科および後身の捜索連隊で運用される豆戦車相当の九二式重装甲車や九七式軽装甲車などの装軌戦闘車両は「戦車」の名称を避けたとされる(騎兵戦車)。その一方、Armored carに属するウーズレーや海軍九三式などは装甲自動車とも呼ばれたが、戦後は装甲車のくくりに埋没し装甲自動車の呼称も廃れた。 自衛隊では60式や73式など、装軌式の装甲兵員輸送車の事を「装甲車」と呼び、装輪の96式は「装輪装甲車」と呼んで区別している(自衛隊用語)。 軍用の装甲車は、戦闘を目的とする装甲戦闘車両と戦闘以外の輸送任務などを目的とする車両に分けられる。一般に、装甲戦闘車両は装甲が厚く搭載する兵器も強力であるが、輸送任務等を主に行なう装甲車は比較的軽装甲で固有の兵器も小火器程度か搭載しないものが多い。 また、軍用の装甲車は、タイヤを備えた装輪装甲車と無限軌道を備えた装軌装甲車の2つに分類される。 兵器としての装甲車は第一次世界大戦以降、各国でさまざまな火器を搭載し装甲によって防護された多様な車両が製作された。 第二次世界大戦中には、路上においては装軌車より高速であるために偵察用として使用された。路外走行性能に優れた半装軌車および装軌車も普及が進み、戦場から戦場へと将兵を運ぶ用途に用いられた。 第二次世界大戦後には、兵員を輸送するための装甲車を装甲兵員輸送車とし、戦場で戦車と共に戦い兵員も輸送する歩兵戦闘車というカテゴリーが生まれた。 一般に装甲兵員輸送車の任務は、兵員に防護を提供しつつ戦場間や後方との間を移動する、いわゆる「戦場のタクシー」と呼ばれるものであった。大口径の火器の脅威に曝される危険性は低く、その装甲も機銃弾や砲弾の破片に耐える程度のもので充分とされていた。しかし、小型軽量の対戦車兵器である肩打ち式の対戦車ミサイルの普及により、歩兵の対戦車戦闘能力は著しく向上した。第四次中東戦争において、エジプト軍の歩兵がソ連製の肩打ち式対戦車火器によってイスラエル国防軍の戦車部隊に有効な損害を与えてその行動を遅滞させたことは、イスラエル軍の基本戦術であるオールタンクドクトリン(戦車至上主義)を揺るがせた。この戦訓によって、対戦車ミサイルによって攻撃を図る敵歩兵を味方戦車に寄せ付けないために歩兵が戦車とともに密接に連携することが求められるようになった。敵の強力な砲火に曝されながら、味方戦車に随伴する歩兵を運搬する任務には、装甲兵員輸送車では不充分であることが認識されるようになってきた。従来の装甲兵員輸送車では、防御力と攻撃力が不足していた。これに応じて、機関砲弾に耐える程度の装甲防御力と、機関砲や対戦車ミサイルによる攻撃力を備えた歩兵戦闘車が登場した。 東西冷戦の終結後、軍事費の支出が抑えられるようになると、装甲車より調達費と維持費が安く、エンジン、タイヤ、サスペンションの技術的な進歩によって、不整地走破能力が向上した装輪装甲車が好んで配備されるようになった。また、戦闘の形態が不正規戦に移行した事で、空輸による緊急展開が可能で舗装路での走行能力が大きく、戦車等に比べて威圧感が少ないなどの扱い易さが歓迎されて、先進各国での取得が増えるようになった。また、アジア・アフリカ・南アメリカの第三世界諸国でも、陸戦装備の国産化手段として戦車よりは技術的障壁が低いことから開発と生産が活発になった。1輪あたりの接地圧を下げて不整地走破能力を高めるため装輪数を増やす傾向があり、世界的には6輪や8輪の装輪装甲車が多い。 装軌式の装甲兵員輸送車から歩兵戦闘車が生まれたように、装輪装甲車も市街地における乗車戦闘などの必要性から重武装化の傾向にある。 装軌式と装輪式の両装甲車では、RWS(Remote Weapon Station/System)と呼ばれる小型無人砲塔の搭載が増えている。これは、車上に設置された小型砲塔の機関銃や自動擲弾発射機、ロケット砲などを、車内からリモコンで操作できるものである。これらの火器に備え付けられた高倍率ズーム付き高解像度カメラや赤外線カメラの映像は車内に表示され、火器の照準としてだけでなく周囲警戒にも役立てられる。 IEDやEFP、対戦車地雷の脅威から車内を防護するためには、V字形の車体底部や、より厚い装甲および衝撃吸収座席等が有効であるが、重量増加や車体の拡大を招き、特に車高が高くなる傾向がある。 装輪装甲車は舗装路を長距離にわたって高速で自走することが可能で、道路上の移動に適している。燃料消費が比較的少なく、故障のリスクや保守の手間が少ない。また、パンクはもとより車輪の幾つかを失っても走行能力の維持が期待できることから地雷に対する抗甚性が高い。一方で、不整地や悪路での運動性能は装軌車両に及ばない。 装軌装甲車は路外の移動に優れており、戦車に追随して多様な戦場を機動できる。しかし燃費が悪く、長距離の自走は乗員や機械類および路面に負担が掛かるため、ゴムパッドが付いた履板を用いたり大型のトラック、トレーラー等の運搬車両(トランスポーター)に載せて移動する。履帯が切れたり起動輪や誘導輪が破損すると走行できなくなるため、地雷等には脆弱である。 装軌装甲車の無限軌道は、前後いずれかの駆動輪(スプロケット)で履帯に動力を伝え、残りの転輪や誘導輪は空転しているのみで転輪をサスペンションで支えるだけで済み、車体は無限軌道の間に低く位置できる。装輪装甲車は基本的に全ての車輪にドライブシャフトとディファレンシャルギアを用意し、大直径の車輪が上下動やステアリングで動く空間をタイヤハウスとして確保する必要がある。 装軌装甲車が無限軌道を採用するのは、路外走破性を得るだけでなく戦闘時の被弾から車内を防護する装甲を比較的厚くすることからくる重量増加に対応するためでもある。これは装輪装甲車が厚い装甲を持たないことを意味しており、装輪式であることは装甲を含めた車体重量に制限をもたらす。 軍用装甲車は、用途や武装、装甲によっていくつかに分類される。以下の分類では装軌式と装輪式はあえて区別しない。 警察用の装甲車は、主に暴動鎮圧や銃犯罪への対処などに投入される。主に市街地で運用されるために装輪車両がほとんどを占めているが、アメリカアリゾナ州のフェニックス及びツーソン市警察SWATがM113装甲兵員輸送車を装備しているように、ごく稀に装軌車両が装備されることがある。文民警察の場合、大砲や対戦車ミサイルなどの重火器を装備することはなく、機関銃を装備することも稀で、主に放水銃などの非致死性兵器を装備している。また、近年は装甲材の発達や極端な威圧感を与えないために、軍用装甲車のような角ばった形状より民間車両のような丸みを帯びた形状の物が好まれる傾向がある。一方で、国家憲兵のような準軍事組織や、治安の悪い地域の警察では、防弾性能を優先させて軍用装甲車と同様に角張った形状の車両、もしくは軍用装甲車そのものか武装を簡略化したものが使われることが多い。 アメリカ合衆国の警察では、特にSWATのために用いられる (SWAT vehicle) 。有力な法執行機関では、レンコ・ベアキャット(英語版)など、法執行用途を想定して開発された装甲車を装備しているが、予算に余裕がない小規模な自治体警察や郡保安官事務所でも、1033プログラムに基づいてアメリカ軍の中古車(ハンヴィーやMRAPなど)の払い下げを受けることができる。ただしこちらは元来が軍用で普段の維持コストが高く、また特にMRAPは大型・大重量で高速を発揮できないなど、法執行用途には不適当な面もあるため、既に払い下げを受けていても、予算の都合さえつけばベアキャットなどへの更新を要望する機関が多い。 武装強盗による輸送車強奪に備えて装甲と防弾ガラス、特殊タイヤを装備した現金輸送車である。現金以外にも、貴金属や宝石類の輸送に使われるケースもある。民間の警備会社などが使用することもあり、機関銃などの武装は有さないのが通例である。また、車両も、あくまで公道を走ることが前提であるため、全幅や全長、車体重量などは、各々の国の法律に沿っていなくてはならない。 要人の移動や警護のために使用される車両で、外見上はごく標準的な高級セダンやリムジン、バスと変わらないが、防弾ガラスや装甲、パンクに耐えうる特殊タイヤを装備している。なお、武装は一切有していない。 例えば日本でもそういった要人用装甲車両を製作しているセキュリコを例に取ると、レクサス・LSやベンツW221をベースに、要人警護に必要な装備を施した「アーマードレクサス」や「アーマードベンツ」などがある。その改造点の例として がある。
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装甲車は、装甲を備える自動車である。軍用以外にも警備や暴動鎮圧に使われる警察用の装甲車、消防用の耐火装甲を備えた消防車、現金輸送車など、民間用や文民用の装甲車もある。
{{otheruses|装甲を施した自動車|装甲を施した鉄道車両|装甲列車}} [[ファイル:Austro-daimler-AFV2.jpg|thumb|250px|黎明期の装甲車、{{仮リンク|オーストリア・ダイムラー装甲車|de|Austro-Daimler Panzerwagen}}(1906年)]] '''装甲車'''(そうこうしゃ、Armored Car、'''AC''')は、[[装甲]]を備える[[自動車]]である。軍用以外にも[[警備]]や[[暴動鎮圧]]に使われる[[警察]]用の装甲車、[[消防]]用の耐火装甲を備えた消防車、[[現金輸送車]]など、民間用や文民用の装甲車もある。 == 定義 == 欧米圏における[[:en:Armored car|Armored car]]とは、軽量の[[装輪装甲車]]を指し、特に軍用車について日本における「装甲車」の定義区分とはズレがある(なお韓国や中国でも「装甲車」は装輪と装軌両方を含む)。 日本における軍用の「装甲車」の概念とは、英語では[[:en:Armored vehicle|Armored vehicle]]が近しい<ref>{{Cite web|url=https://www.britannica.com/technology/armoured-vehicle |title=armoured vehicle |website=britannica.com |access-date=2023-04-26}}</ref>が、独立の分類項目として扱われることは少ない。 [[大日本帝国陸軍]]では[[歩兵]]科と[[騎兵]]科の[[戦車]]を巡る対立のため、騎兵科および後身の[[捜索連隊]]で運用される[[豆戦車]]相当の[[九二式重装甲車]]や[[九七式軽装甲車]]などの装軌戦闘車両は「戦車」の名称を避けたとされる([[騎兵戦車]])。その一方、Armored carに属する[[ウーズレー装甲自動車|ウーズレー]]や[[九三式装甲自動車|海軍九三式]]などは'''装甲自動車'''とも呼ばれたが、戦後は装甲車のくくりに埋没し装甲自動車の呼称も廃れた。 [[自衛隊]]では[[60式装甲車|60式]]や[[73式装甲車|73式]]など、装軌式の[[装甲兵員輸送車]]の事を「装甲車」と呼び<ref>なお、ここから重装化した形態に当たる[[歩兵戦闘車]]は[[89式装甲戦闘車|89式]]'''装甲戦闘車'''としている。</ref>、装輪の[[96式装輪装甲車|96式]]は「装輪装甲車」と呼んで区別している([[自衛隊用語]])。 == 軍用装甲車 == [[ファイル:JGSDF Light Armored vehicle 20070107-02.JPG|thumb|250px|[[陸上自衛隊]]の[[軽装甲機動車]]]] 軍用の装甲車は、[[戦闘]]を目的とする[[装甲戦闘車両]]と戦闘以外の[[輸送]]任務などを目的とする車両に分けられる。一般に、装甲戦闘車両は装甲が厚く搭載する兵器も強力であるが、輸送任務等を主に行なう装甲車は比較的軽装甲で固有の兵器も[[小火器]]程度か搭載しないものが多い。 また、軍用の装甲車は、タイヤを備えた[[装輪装甲車]]と[[無限軌道]]を備えた装軌装甲車の2つに分類される。 {{main|装輪装甲車}} === 歴史 === [[兵器]]としての装甲車は[[第一次世界大戦]]以降、各国でさまざまな火器を搭載し装甲によって防護された多様な車両が製作された。 [[第二次世界大戦]]中には、路上においては装軌車より高速であるために[[偵察]]用として使用された。路外走行性能に優れた半装軌車および装軌車も普及が進み、戦場から戦場へと将兵を運ぶ用途に用いられた。 [[第二次世界大戦後]]には、兵員を輸送するための装甲車を[[装甲兵員輸送車]]とし、戦場で[[戦車]]と共に戦い兵員も輸送する[[歩兵戦闘車]]というカテゴリーが生まれた<ref group="注">装甲兵員輸送車の代表は装軌式の装甲車である[[M113装甲兵員輸送車|M113]]である</ref>。 一般に装甲兵員輸送車の任務は、兵員に防護を提供しつつ戦場間や後方との間を移動する、いわゆる「戦場のタクシー」と呼ばれるものであった。大口径の火器の脅威に曝される危険性は低く、その装甲も機銃弾や[[砲弾]]の破片に耐える程度のもので充分とされていた。しかし、小型軽量の[[対戦車兵器]]である肩打ち式の[[対戦車ミサイル]]の普及により、[[歩兵]]の対戦車戦闘能力は著しく向上した。[[第四次中東戦争]]において、[[エジプト]]軍の歩兵が[[ソビエト連邦|ソ連]]製の肩打ち式対戦車火器{{Efn2|ソ連製対戦車火器とは[[9M14 (ミサイル)|AT-3]]や[[RPG-7]]であった}}によって[[イスラエル国防軍]]の戦車部隊に有効な損害を与えてその行動を遅滞させたことは、イスラエル軍の基本戦術である[[オールタンクドクトリン]](戦車至上主義)を揺るがせた。この戦訓によって、対戦車ミサイルによって攻撃を図る敵歩兵を味方戦車に寄せ付けないために歩兵が戦車とともに密接に連携することが求められるようになった。敵の強力な砲火に曝されながら、味方戦車に随伴する歩兵を運搬する任務には、装甲兵員輸送車では不充分であることが認識されるようになってきた。従来の装甲兵員輸送車では、防御力と攻撃力が不足していた。これに応じて、機関砲弾に耐える程度の装甲防御力と、[[機関砲]]や対戦車ミサイルによる攻撃力を備えた[[歩兵戦闘車]]が登場した。 [[冷戦|東西冷戦]]の終結後、軍事費の支出が抑えられるようになると、装甲車より調達費と維持費が安く、エンジン、タイヤ、サスペンションの技術的な進歩によって、不整地走破能力が向上した[[装輪装甲車]]が好んで配備されるようになった。また、戦闘の形態が不正規戦に移行した事で、空輸による緊急展開が可能で舗装路での走行能力が大きく、戦車等に比べて威圧感が少ないなどの扱い易さが歓迎されて、先進各国での取得が増えるようになった。また、[[アジア]]・[[アフリカ]]・[[南アメリカ]]の[[第三世界]]諸国でも、陸戦装備の国産化手段として戦車よりは技術的障壁が低いことから開発と生産が活発になった。1輪あたりの接地圧を下げて不整地走破能力を高めるため装輪数を増やす傾向があり、世界的には6輪や8輪の装輪装甲車が多い。 [[ファイル:Centauro Tank Iraq.jpg|thumb|250px|left|[[イタリア陸軍]]の[[チェンタウロ戦闘偵察車]]]] 装軌式の装甲兵員輸送車から歩兵戦闘車が生まれたように、装輪装甲車も市街地における乗車戦闘などの必要性から重武装化の傾向にある。 装軌式と装輪式の両装甲車では、[[RWS]](Remote Weapon Station/System)と呼ばれる小型無人[[砲塔]]の搭載が増えている。これは、車上に設置された小型砲塔の[[機関銃]]や[[グレネードランチャー|自動擲弾発射機]]、[[ロケット砲]]などを、車内からリモコンで操作できるものである。これらの火器に備え付けられた高倍率ズーム付き高解像度カメラや[[赤外線]]カメラの映像は車内に表示され、火器の照準としてだけでなく周囲警戒にも役立てられる。<!-- 高機能なRWSは、2軸安定化装置や、画像解析による目標追跡機能を備えている。RWSは、装軌装甲車に多い1名または2名用の砲塔と、装輪装甲車に多い上部ハッチ脇のピントルマウントの機関銃の間を埋める兵器である。(「装甲車」の記述としてはやや過剰に思われる) --> [[即席爆発装置|IED]]や[[自己鍛造弾|EFP]]、[[対戦車地雷]]の脅威から車内を防護するためには、V字形の車体底部や、より厚い装甲および衝撃吸収座席等が有効であるが、重量増加や車体の拡大を招き、特に車高が高くなる傾向がある{{Efn2|[[アメリカ軍]]・[[イギリス軍]]などは[[イラク戦争]]でIEDや地雷を使った待ち伏せ攻撃によって多くの兵士を失ったため、アメリカ軍はこれらに無防備であった[[ハンヴィー]]に代わって大型装輪装甲車[[MRAP]]を配備して対処した}}。 {{-}} === 装輪装甲車と装軌装甲車 === [[File:BMP-2.JPG|250px|thumb|[[フィンランド国防軍]]の装軌歩兵戦闘車[[BMP-2]]。旧[[東側諸国|東側]]の主力歩兵戦闘車である]] [[装輪装甲車]]は舗装路を長距離にわたって高速で自走することが可能で、道路上の移動に適している。燃料消費が比較的少なく、故障のリスクや保守の手間が少ない。また、パンクはもとより車輪の幾つかを失っても走行能力の維持が期待できることから[[地雷]]に対する抗甚性が高い。一方で、不整地や悪路での運動性能は装軌車両に及ばない。 装軌装甲車は路外の移動に優れており、[[戦車]]に追随して多様な戦場を機動できる。しかし燃費が悪く、長距離の自走は乗員や機械類および路面に負担が掛かるため、ゴムパッドが付いた履板を用いたり大型の[[貨物自動車|トラック]]、[[牽引自動車|トレーラー]]等の運搬車両([[戦車運搬車|トランスポーター]])に載せて移動する。履帯が切れたり起動輪や誘導輪が破損すると走行できなくなるため、地雷等には脆弱である。 装軌装甲車の無限軌道は、前後いずれかの駆動輪(スプロケット)で履帯に動力を伝え、残りの転輪や誘導輪は空転しているのみで転輪を[[サスペンション]]で支えるだけで済み、車体は無限軌道の間に低く位置できる。装輪装甲車は基本的に全ての車輪に[[ドライブシャフト]]と[[ディファレンシャルギア]]を用意し、大直径の車輪が上下動や[[ステアリング]]で動く空間をタイヤハウスとして確保する必要がある。<!-- 一般に装軌装甲車は、戦闘を想定して低発見性や低被弾性を考慮した低シルエットの車体外形が設計時の重要要素となるが、装輪装甲車は輸送用途などの搭載容積を求められるものが多く、装甲兵員輸送車のように出来るだけ多くの兵員をヘルメットや小銃、装具バック類や小型ミサイルなどを含めて収容するためには、必然的に車体は大きくなり車高も嵩だかになる。(装軌車両に限らず車体形状は重視される。同量の収容には同量の車内容積が必要) --> 装軌装甲車が無限軌道を採用するのは、路外走破性を得るだけでなく戦闘時の被弾から車内を防護する装甲を比較的厚くすることからくる重量増加に対応するためでもある。これは装輪装甲車が厚い装甲を持たないことを意味しており、装輪式であることは装甲を含めた車体重量に制限をもたらす<ref name = "ハイパー装輪装甲車"/>。 {{-}} === 分類 === 軍用装甲車は、用途や武装、装甲によっていくつかに分類される。以下の分類では装軌式と装輪式はあえて区別しない。 {{main|装輪装甲車|装甲戦闘車両}} ; [[装甲兵員輸送車]] : 1個[[分隊]]の歩兵を搭乗させることが可能であり、武装は機関銃あるいは[[グレネードランチャー|自動擲弾発射機]]のみ。 ; [[歩兵戦闘車]] : 中口径の[[機関砲]]や[[大砲]]を持つ[[砲塔]]を備えるものが多い。[[対戦車ミサイル]]を装備している車両も存在する。歩兵を搭乗させることが可能であるが、装甲兵員輸送車よりも収容人数は少なくなる。戦車に追従して随伴歩兵を保護・支援するという任務の都合上、装軌式が大半を占めているが、装輪式も存在する。[[対戦車兵器]]による攻撃を想定して装甲と車体形状が設計されている。 ; 装甲[[偵察]]車 : 武装は[[機関銃]]や[[グレネードランチャー|擲弾発射機]]程度となる。[[斥候]]として2名ほどの偵察要員の搭乗可能な車両もある。4輪駆動のものが多いが、観測センサーをタワー状に掲げるものは6輪以上になる。[[UAV]]を運用するものもある。 ; [[偵察戦闘車]] : 3~4名程度の乗員のみを乗せて、主武装に機関砲や大砲を装備する。主に敵に小規模な攻撃を行ってあえて反撃させることで、敵の持つ[[兵器]]の数と種類、配置、性能や練度などを調査する[[威力偵察]]や[[火力支援]]を任務とするが、対戦車ミサイルを装備したものは戦車への攻撃も可能である{{Efn2|[[イギリス]]製の[[スコーピオン (戦車)|FV101スコーピオン]]のような無限軌道を装備した装軌式の車両の場合は、[[軽戦車]]や偵察戦闘車に分類されることもある}}。 ; 機動砲型戦闘車両 : [[装輪戦車]]とも呼ばれる、機動砲型戦闘車両{{Efn2|「機動砲」という名称は[[アメリカ陸軍]]の[[ストライカー装甲車]]ファミリーの中のM1128 ストライカーMGS(Mobile Gun System、機動砲システム)に由来しており、ストライカーMGSに似た装輪装甲車の兵器一般を指すための、装甲戦闘車両の新たな兵器分類として機動砲という呼び方がある。2009年現在、この「機動砲」という名称の使われ方には揺らぎがあり、ストライカーの1車種を指す場合と、兵器のカテゴリーを指す場合がある。}}という比較的新たな[[装甲戦闘車両]]は、第2世代の[[主力戦車]]の[[主砲]]級の90~105mm程度の[[戦車砲]]で、その多くは車重の軽い装輪装甲車に合わせて低反動化された砲を砲塔に備えている。従来、装甲車が用いる対戦車兵器としては対戦車ミサイルが主流だったが、戦車以外の陣地や[[狙撃兵]]などの目標に対峙した装甲車は、他に有効な武装を持たないためにこの高価なミサイルをこういった低価値目標にまで使用することになっていた。そこで、より費用対効果を高めるため、汎用性が高く単価の安い砲弾を用いる戦車砲を備えた装輪戦闘車両が生み出された。[[発展途上国]]では高価な戦車の代替品として導入されており、[[先進国]]では[[空輸]]性や威圧感が少ないなどの利点で採用が進んでいる。装甲に重量を割けないことから防御力は低く、旧式戦車が相手であっても砲撃戦はリスクが高い。そのため、戦車に対しては、遠距離から先制発砲後、機動性を生かして離脱することが想定されており、火器管制装置(FCS)は可能な限り高性能の物が導入される傾向がある<ref name = "ハイパー装輪装甲車">「ハイパー装輪装甲車」 (株)ジャパン・ミリタリー・レビュー 2008年11月1日発行</ref>。 ; 偵察装甲車、偵察警戒車(RV) ; 他の軍用装甲車 ; 指揮統制車 ; NBC偵察車 === 軍用装甲車の一覧 === {{main|軍用装甲車一覧}} == 警察用装甲車 == {{Main2|日本の警察用装甲車については「[[特型警備車]]」}} [[警察]]用の装甲車は、主に[[暴動鎮圧]]や銃犯罪への対処などに投入される。主に市街地で運用されるために装輪車両がほとんどを占めているが、アメリカ[[アリゾナ州]]の[[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス]]及び[[ツーソン (アリゾナ州)|ツーソン]]市警察[[SWAT]]が[[M113装甲兵員輸送車]]を装備しているように、ごく稀に装軌車両が装備されることがある。文民警察の場合、[[大砲]]や[[対戦車ミサイル]]などの[[重火器]]を装備することはなく、機関銃を装備することも稀で、主に[[放水銃]]などの[[非致死性兵器]]を装備している。また、近年は装甲材の発達や極端な威圧感を与えないために、軍用装甲車のような角ばった形状より民間車両のような丸みを帯びた形状の物が好まれる傾向がある。一方で、[[国家憲兵]]のような[[準軍事組織]]や、治安の悪い地域の警察では、防弾性能を優先させて軍用装甲車と同様に角張った形状の車両、もしくは軍用装甲車そのものか武装を簡略化したものが使われることが多い。 [[アメリカ合衆国の警察]]では、特に[[SWAT]]のために用いられる{{enlink|SWAT vehicle}}。有力な法執行機関では、{{仮リンク|レンコ・ベアキャット|en|Lenco BearCat}}など、法執行用途を想定して開発された装甲車を装備しているが、予算に余裕がない小規模な[[アメリカ合衆国の警察#自治体警察|自治体警察]]や[[アメリカ合衆国の警察#郡保安官|郡保安官]]事務所でも、[[:en:1033 program|1033プログラム]]に基づいて[[アメリカ軍]]の[[中古車]]([[ハンヴィー]]や[[MRAP]]など)の払い下げを受けることができる。ただしこちらは元来が軍用で普段の維持コストが高く、また特にMRAPは大型・大重量で高速を発揮できないなど、法執行用途には不適当な面もあるため、既に払い下げを受けていても、予算の都合さえつけばベアキャットなどへの更新を要望する機関が多い<ref>{{Cite news|author=Mark Alesia|date=June 9, 2014|url=http://www.usatoday.com/story/news/nation/2014/06/09/police-military-surplus-purchase-debate/10221551/|title=Overkill? Small town buys armored SWAT vehicle|newspaper=[[USAトゥデイ]]|language=英語|accessdate=2017/02/04}}</ref>。 <gallery heights=200px widths=180px> File:SATORY_9_JANVIER_2014_087.jpg|[[機動憲兵隊]]のVBRG装甲車。軍用の[[VAB装甲車]]をベースにしている File:SATORY 9 JANVIER 2014 021 bis.jpg|機動憲兵隊の[[VBC-90]]装甲車。90mm低圧砲を装備している File:Nash Bearcat.jpg|[[ナッシュビル]]市警察のベアキャット装甲車 </gallery> == 装甲現金輸送車 == [[ファイル:Armored-car-Manila.jpg|thumb|250px|装甲[[現金輸送車]]([[フィリピン]]、[[マニラ]])]] 武装[[強盗]]による輸送車強奪に備えて装甲と[[防弾ガラス]]、特殊タイヤを装備した[[現金輸送車]]である。現金以外にも、[[貴金属]]や[[宝石]]類の輸送に使われるケースもある。民間の[[警備会社]]などが使用することもあり、機関銃などの武装は有さないのが通例である。また、車両も、あくまで公道を走ることが前提であるため、全幅や全長、車体重量などは、各々の国の法律に沿っていなくてはならない。 {{-}} == VIP用装甲車両 == [[ファイル:Mercedes s klasse 1 sst2.jpg|thumb|280px|[[ドイツ]][[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]用<br/>装甲[[メルセデス・ベンツ・W220]]]] [[ファイル:GPA02-09 US SecretService press release 2009 Limousine Page 3 Image.jpg|280px|thumb|[[大統領専用車 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国大統領用]]<br/>装甲[[キャデラック・DTS]]リムジン]] [[File:Toyota Century used by Japanese Prime Minister.jpg|thumb|right|280px|[[内閣総理大臣専用車|日本国内閣総理大臣用]]<br/>装甲[[トヨタ・センチュリー]]]] [[要人]]の移動や[[ボディーガード|警護]]のために使用される車両で、外見上はごく標準的な高級[[セダン]]や[[リムジン]]、バスと変わらないが、[[防弾ガラス]]や装甲、パンクに耐えうる特殊タイヤを装備している<ref name="u"/>。なお、武装は一切有していない。 例えば日本でもそういった要人用装甲車両を製作している[[豊和工業#関連会社など|セキュリコ]]を例に取ると、[[レクサス・LS]]や[[メルセデス・ベンツ・W221|ベンツW221]]をベースに、要人警護に必要な装備を施した「アーマードレクサス」や「アーマードベンツ」などがある<ref name="u"/>。その改造点の例として * 防弾ガラス、耐弾ボディー、さらには[[手榴弾]]や[[クレイモア地雷]]程度の爆発物なら至近距離で爆発しても耐えられる耐爆ボディーへの変更。 * タイヤが[[狙撃]]や[[爆発]]などで[[パンク]]しても現場を離脱できる特殊車輪の装備。 * [[燃料タンク]]が被弾しても爆発しないような特殊な構造の軍用燃料タンクへの変更。 がある<ref name="u">[https://kuruma-news.jp/post/186401 ランクルやセンチュリーの防弾車? 国賓や要人の命を守る国産防弾車の実力とは | くるまのニュース]</ref>。 {{main|防弾車}} {{-}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{cite book|和書|title=近代の戦闘車両―開発・設計・性能 |author=リチャード・M.オゴルキィウィッチ |translator=林 磐男 |isbn=9784874721001 |publisher=現代工学社 |date=1983-03 }} * {{cite book|和書|title=ハイパー装輪装甲車 |author=野木恵一 |translator= |isbn= |publisher=ジャパン・ミリタリー・レビュー |date=2008-11-01 }} == 関連項目 == {{Commons|Category:Armoured cars}} * [[軍用車両]] * [[歩兵機動車]] * [[装甲兵員輸送車]] * [[装甲戦闘車両]] * [[装輪装甲車]] * [[装輪装甲車一覧]] {{装甲戦闘車両の分類}} {{Normdaten}} [[Category:装甲車|*]]
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横浜国立大学
横浜国立大学(よこはまこくりつだいがく、英語: Yokohama National University)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区常盤台79番1号に本部を置く、日本の国立大学。前身の横浜師範学校が1876年(明治9年)に創立され、新制大学の横浜国立大学は1949年(昭和24年)に開学した。略称は横浜国大(よこはまこくだい)、横国(よここく)、YNU。 横浜国立大学は、以下に挙げる4つの旧制官立教育機関を母体として、1949年に新制国立大学として発足した。 学内には、横浜国立大学工学部の前身である横浜高等工業学校の初代校長鈴木達治の功績を顕彰した「名教自然碑」が建てられている。 新制大学としての発足以降、学部・大学院の整備・改組が順次行われ、現在は5学部5研究科(連合学校教育学研究科を除く)を擁している。国立大学で経営学部を設置しているのは本大学と神戸大学のみである。日本を代表する大都市の一つである横浜を基盤とし、学部増設に力点を置いた規模拡大路線をとらず、少数精鋭化と大学院教育研究の重点化を進めてきた。近年は文部科学省から地域貢献型大学に指定されており、地域のニーズに応える人材育成・研究を推進すると同時に、国際研究拠点としての環境整備にも力を入れている。 『YNUユニバーシティ・アイデンティティ』(後述)では公式略称を「横浜国大」と「YNU」、呼称として使用できるものとして「横国(よここく)」を定めている。しかし、所在地の横浜市周辺では「国大(こくだい)」という呼称も使われている。これは、同じく横浜市に存在する「横浜市立大学」(市大)との対比から呼ぶようになったものである。 日本の国立大学の中で唯一、大学名に「国立」の文字が入る。 横浜地区では当初、新制国立大学は名称を「横浜大学」とする予定で申請したが、旧制横浜市立経済専門学校および旧制の私立横浜専門学校も新制大学への改組にあたって同じ大学名を申請しており、名称に関しては三者間で協議を行うこととなった。この協議において、各校は「横浜大学」の名を使用しないことで意見の一致を見ることとなり、新制国立大学は「横浜国立大学」の名称を使用することに決定した。また、横浜市立経済専門学校の後身校は「横浜市立大学」、横浜専門学校の後身校は「神奈川大学」の名称を使用することとなった。 2004年の国立大学法人発足に伴い『横浜国立大学憲章』を定めた。憲章における「YNUの基本理念」の前文を抜粋する。 公式サイト内「大学の沿革」などによる。 ※研究院は研究組織、学府は教育組織である。 21世紀COEプログラムとして、2件のプロジェクトが採択された。 グローバルCOEプログラムとして、2件のプロジェクトが採択されている。 2019年11月1日時点、大学に団体届を提出している団体は体育会系サークル43団体、文化系サークル57団体の計100団体あり、それ以外のサークルも数多く存在している。相対的に見て、硬式テニスのサークルの割合が多い。また、横浜市立大学や神奈川大学、フェリス女学院大学などの近隣の大学とのインターカレッジサークルも存在する。 年2回、常盤台キャンパスで大学祭実行委員会によって行われ、5月の終わり頃に開かれるものを「清陵祭」、10月の終わり頃に開かれるものを「常盤祭」と呼ぶ。清陵祭は2日間、常盤祭は3日間開催である。なお、常盤祭ではミス・コンテストおよびミスター・コンテストが行われている。 同窓会活動は学部ごとに分かれて、友松会(教育人間科学部)、富丘会(経済学部・経営学部)、工学部同窓会連合で行われている。 ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地にキャンパスを建てたため、起伏が激しいが、東京ドーム約9個分と広大な面積を誇り、自然豊かなキャンパスである。 横浜ランドマークタワーの18階に開設されたサテライトキャンパス。MBA修得の夜間コースを設置している。 神奈川県藤沢市村岡地区に2023年11月に開設。 2020年5月1日時点、42ヶ国・地域の144大学・機関と大学間協定校を結んでいる。 2020年5月1日時点、33大学36部局と部局間交流協定を締結している。 日本政策金融公庫との女性活躍などについての業務協力協定(2017年9月12日締結)で、39社・機関と各種分野での協定を結んでいる。
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横浜国立大学は、神奈川県横浜市保土ケ谷区常盤台79番1号に本部を置く、日本の国立大学。前身の横浜師範学校が1876年(明治9年)に創立され、新制大学の横浜国立大学は1949年(昭和24年)に開学した。略称は横浜国大(よこはまこくだい)、横国(よここく)、YNU。
{{混同|横浜市立大学}} {{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 横浜国立大学 |ふりがな = よこはまこくりつだいがく |英称 = Yokohama National University |ロゴ = [[File:YNU logo.svg|260px]] ----[[File: YNU Simbol.svg|210px]] |画像 = YNU library.JPG |pxl= 250px |画像説明 = 中央図書館 |大学設置年 = 1949年([[昭和]]24年) |創立年 = 1876年([[明治]]9年) |学校種別 = 国立 |設置者 = 国立大学法人横浜国立大学 |本部所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[保土ケ谷区]][[常盤台 (横浜市)|常盤台]]79番地1号 |緯度度 = 35 |緯度分 = 28 |緯度秒 = 26.4 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 35 |経度秒 = 24 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |キャンパス = 常盤台(横浜市保土ケ谷区)<br />[[みなとみらい]](横浜市[[西区 (横浜市)|西区]])<br />[[田町 (東京都港区)|田町]]サテライト([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])<br />弘明寺(横浜市[[南区 (横浜市)|南区]])<br />新[[湘南]]共創(神奈川県[[藤沢市]]) |学部 = [[横浜国立大学教育学部・大学院教育学研究科|教育学部]]<br />[[横浜国立大学経済学部|経済学部]]<br />[[横浜国立大学経営学部|経営学部]]<br />[[横浜国立大学理工学部|理工学部]]<br />[[横浜国立大学都市科学部・大学院都市イノベーション学府・大学院都市イノベーション研究院|都市科学部]] |研究科 = [[横浜国立大学教育学部・大学院教育学研究科|教育学研究科]]<br />国際社会科学研究院・国際社会科学府<br />工学研究院・理工学府<br />環境情報研究院・環境情報学府<br />[[横浜国立大学都市科学部・大学院都市イノベーション学府・大学院都市イノベーション研究院|都市イノベーション研究院・都市イノベーション学府]]<br />先進実践学環<br />連合学校教育学研究科 |ウェブサイト = {{official URL}} }} '''横浜国立大学'''(よこはまこくりつだいがく、{{Lang-en|Yokohama National University}})は、[[神奈川県]][[横浜市]][[保土ケ谷区]][[常盤台 (横浜市)|常盤台]]79番1号に本部を置く、[[日本]]の[[国立大学]]。前身の[[神奈川師範学校|横浜師範学校]]が[[1876年]]([[明治]]9年)に創立され、[[新制大学]]の横浜国立大学は[[1949年]]([[昭和]]24年)に開学した<ref name=沿革>[https://www.ynu.ac.jp/about/ynu/history/ynu.html 大学の沿革] 横浜国立大学公式サイト(2023年12月10日閲覧)</ref>。略称は'''横浜国大'''(よこはまこくだい)、'''横国'''(よここく)、'''YNU'''。 ==概説== === 大学全体 === 横浜国立大学は、以下に挙げる4つの旧制官立教育機関を母体として、1949年に新制国立大学として発足した。 *[[神奈川師範学校]]:[[1876年]](明治9年)創立の横浜師範学校が前身 *[[神奈川青年師範学校]]:[[1920年]]([[大正]]9年)創立の神奈川県立実業補習学校教員養成所が前身 *横浜工業専門学校:1920年(大正9年)創立の[[横浜高等工業学校]]が前身) *横浜経済専門学校:[[1923年]](大正12年)創立の[[横浜高等商業学校]]が前身 学内には、横浜国立大学工学部の前身である横浜高等工業学校の初代校長[[鈴木達治]]の功績を顕彰した「[[名教自然碑]]」が建てられている<ref>[http://shisetsu.ynu.ac.jp/gakugai/shisetsu/2campus/bunkazai/yuukei/bunkazai_meikyou.html 本学の文化財-名教自然の碑] 横浜国立大学公式サイト(2023年12月10日閲覧)</ref>。<!-- (同窓会連合のページ[http://www.ynu-ds.org/organization.html]では「母校、横浜国立大学の濫觴を尋ねると明治9年に発足した神奈川県横浜師範学校にさかのぼる。」と表現)--> 新制大学としての発足以降、[[学部]]・[[大学院]]の整備・改組が順次行われ、現在は5学部5研究科(連合学校教育学研究科を除く)を擁している。国立大学で[[経営学部]]を設置しているのは本大学と[[神戸大学]]のみである。日本を代表する大都市の一つである横浜を基盤とし、学部増設に力点を置いた規模拡大路線をとらず、少数精鋭化と大学院教育研究の重点化を進めてきた。近年は文部科学省から地域貢献型大学に指定されており、地域のニーズに応える人材育成・研究を推進すると同時に、国際研究拠点としての環境整備にも力を入れている。 === 略称 === 『YNUユニバーシティ・アイデンティティ』(後述)では公式略称を「横浜国大」と「YNU」、呼称として使用できるものとして「横国(よここく)」を定めている。しかし、所在地の横浜市周辺では「国大(こくだい)」<ref group="注">[[横浜市交通局]]『電車運転系統図』(1960年作成)には「国大○学部」「市大○学部」といった記載が見られる。「[[横浜市電#路線]]」の付図参照。</ref>という呼称も使われている。これは、同じく横浜市に存在する「[[横浜市立大学]]」(市大)との対比から呼ぶようになったものである。 === 大学名とその経緯 === 日本の国立大学の中で唯一、大学名に「国立」の文字が入る<ref group="注">[[国立音楽大学]]は[[私立大学]]であり、「国立」の読みは「くにたち」である。</ref>。 横浜地区では当初、新制国立大学は名称を「[[横浜大学]]」とする予定で申請したが、[[横浜市立横浜商業専門学校 (旧制)|旧制横浜市立経済専門学校]]および旧制の[[横浜専門学校 (旧制)|私立横浜専門学校]]も新制大学への改組にあたって同じ大学名を申請しており、名称に関しては三者間で協議を行うこととなった。この協議において、各校は「横浜大学」の名を使用しないことで意見の一致を見ることとなり、新制国立大学は「横浜国立大学」の名称を使用することに決定した。また、横浜市立経済専門学校の後身校は「横浜市立大学」、横浜専門学校の後身校は「[[神奈川大学]]」の名称を使用することとなった。 === 基本理念 === [[2004年]]の[[国立大学法人]]発足に伴い『横浜国立大学憲章』を定めた。憲章における「YNUの基本理念」の前文を抜粋する。 :横浜国立大学は、現実の社会との関わりを重視する「実践性」、新しい試みを意欲的に推進する「先進性」、社会全体に大きく門戸を開く「開放性」、海外との交流を促進する「国際性」を、建学からの歴史の中で培われた精神として掲げ、21世紀における世界の学術研究と教育に重要な地歩を築くべく、努力を重ねることを宣言する<ref>[http://www.ynu.ac.jp/about/ynu/idea/index.html YNUの基本理念(横浜国立大学憲章より)]横浜国立大学公式サイト(2023年12月10日閲覧)</ref>。 == 沿革 == === 年表 === 公式サイト内「大学の沿革」<ref name=沿革/>などによる。 *1876年:横浜師範学校(後の神奈川師範学校)設置。 *[[1920年]]:横浜高等工業学校(後の横浜工業専門学校)設置。 *[[1920年]]:神奈川県立実業補習学校教員養成所(後の神奈川青年師範学校)設置。 *[[1923年]]:横浜高等商業学校(後の横浜経済専門学校)設置。 *1949年:横浜経済専門学校、横浜工業専門学校、神奈川師範学校、神奈川青年師範学校を母体として横浜国立大学が発足。学芸学部、経済学部、工学部を設置。 *[[1963年]]:大学院[[工学研究科]]([[修士課程]])設置。 *[[1966年]]:学芸学部を教育学部に改称。 *[[1967年]]:経済学部を改組し、経済学部と経営学部に分離。 *[[1970年]]:大学改革推進準備会が学部制の廃止を取りまとめる。管理運営面で学生参加の方針を盛り込む<ref>「学部制を全面廃止 改革案まとめる」『朝日新聞』朝刊1970年5月10日14面(朝刊)</ref>。 *[[1972年]]:大学院経済学研究科(修士課程)および経営学研究科(修士課程)設置。 *[[1974年]]:清水ケ丘、[[大岡 (横浜市)|弘明寺]]、[[鎌倉]]などに分散していたキャンパスを統合し、[[程ヶ谷カントリー倶楽部]]<ref group="注">[[赤星四郎]]が創立当時から会員であり、彼は移転先のコース設計も手がけている。</ref>移転跡地に常盤台キャンパスを設置。 *[[1979年]]:工学部の常盤台キャンパス移転完了、大学院教育学研究科(修士課程)設置。 *[[1985年]]:大学院工学研究科に[[博士課程]]を設置。 *[[1990年]]:大学院国際経済法学研究科(博士課程)設置。 *[[1994年]]:大学院国際開発研究科(博士課程後期)設置。 *[[1996年]]:大学院[[連合学校教育学研究科]](博士課程後期。[[東京学芸大学]]、[[埼玉大学]]、[[千葉大学]]と横浜国立大学による連合大学院)を設置。 *[[1997年]]:教育学部を教育人間科学部に改組。 *[[1999年]]:大学院の経済学研究科、経営学研究科、国際経済法学研究科、国際開発研究科を統合し、大学院国際社会科学研究科(博士課程前期・博士課程後期)を設置。 *[[2001年]]:大学院工学研究科を工学研究院・工学府(博士課程前期・博士課程後期)に改組。環境科学研究センターを大学院環境情報研究院・環境情報学府(博士課程前期・博士課程後期)に改組。 *[[2004年]]:[[国立大学法人]]へ移行。大学院国際社会科学研究科に[[法曹]]実務専攻([[法科大学院]])を設置、経済学部経済法学科を廃止。 *[[2007年]]:大学院研究室のサーバー内に決済サービス会社の偽サイトが開設されていたことが発覚。一時的にサーバーを停止し、[[神奈川県警察]]に届け出た<ref>{{Cite news|title=横国大サーバーに偽サイト フィッシング詐欺か|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2007-10-24|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071024/crm0710240021000-n1.htm|access-date=2022-08-22|archive-url=https://web.archive.org/web/20071025081651/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071024/crm0710240021000-n1.htm|archive-date=2007-10-25}}</ref>。 *[[2011年]]:教育人間科学部および工学部を改組し[[理工学部]]を設置。大学院教育学研究科を改組、大学院都市イノベーション研究院・都市イノベーション学府(博士課程前期・博士課程後期)を設置。 *[[2013年]]:国際社会科学研究科を廃止し、国際社会科学研究院・国際社会科学府(博士課程)を設置。 *[[2017年]]:都市科学部を設置。教育人間科学部を改組して教育学部に改称。大学院教育学研究科に高度教職実践専攻([[教職大学院]])を設置。 *[[2018年]]:大学院工学府を改組し[[理工学研究科|理工学府]]を設置。大学院環境情報学府を改組。大学院国際社会科学府法曹実務専攻(法科大学院)の2019年度以降の学生募集を停止。 *[[2021年]]:大学院の国際社会科学府、理工学府、環境情報学府、都市イノベーション学府からなる研究科等連係課程実施基本組織として先進実践学環(修士課程)を開設。 *[[2023年]]:神奈川県[[藤沢市]]村岡地区に「新[[湘南]]共創キャンパス」を11月に開設し、翌12月8日に藤沢市役所と連携協定を締結<ref name=新湘南キャンパス/>。 == 基礎データ == === 所在地 === * 常盤台キャンパス(神奈川県[[横浜市]][[保土ケ谷区]]常盤台79番1号) ** みなとみらいキャンパス(神奈川県横浜市[[西区 (横浜市)|西区]][[みなとみらい]]2丁目2番1号 [[横浜ランドマークタワー]]18階1809室) ** 弘明寺キャンパス(神奈川県横浜市[[南区 (横浜市)|南区]][[大岡 (横浜市)|大岡]]2丁目31番3号) ** 新湘南共創キャンパス(神奈川県藤沢市村岡地区)<ref name=新湘南キャンパス/> ==象徴 == *[[校歌]]・[[学生歌]] **どちらも存在するが、現在入学式等の式典で歌われるのは主に学生歌「みはるかす」である。[[1956年]]に学生によって作詞、作曲された<ref>詳しくは[http://www.ynu.ac.jp/about/ynu/song/student.html 学生歌 - 大学案内 - 横浜国立大学] 楽譜がある。</ref>。 *YNUユニバーシティ・アイデンティティ<ref>[http://www.ynu.ac.jp/about/ynu/symbol/index.html YNUユニバーシティ・アイデンティティ - 大学案内 - 横浜国立大学]</ref> **[[2010年]]に制定された「YNU」ブランドを国際的なものにするための宣言。この宣言を明確化するために「YNU University Identity Systems」が作成された。この中では既存の学章や「YNUシンボルマーク」に加え、「YNUロゴ」「YNUスローガン」「シンボルカラー」が定められている。 *YNUシンボルマーク **[[2007年]]に制定された。青地の円の上に白い[[カモメ]]が書かれており、「青い空を自由に、力強く羽ばたくカモメは、地球の豊かな自然環境を育み、未来に向かって大きく、力強く飛翔する横浜国立大学の姿」を表現している。このマークが描かれた大学のオリジナルグッズも存在する。 *YNUモニュメント **2010年11月24日に設置された記念碑。それまで学内には横浜国立大学全学の象徴と言えるものが存在しておらず、在学生や卒業生、教職員からの心に残る象徴となるものが欲しいとの要望があり メインストリート(第一食堂・小運動場付近)に建てられた<ref>{{Cite web|和書|title=YNUモニュメント設置のお知らせ |url=https://www.ynu.ac.jp/hus/sisetsu/1397/detail.html |website=横浜国立大学(www.ynu.ac.jp) |access-date=2023-04-01}}</ref>。提携校であるダナン大学長の協力によりベトナムで作成され日本に輸送された経緯から、同大学との交流の記念碑的存在でもある。<ref>{{Cite web|和書|title=第1回:横浜国立大学とダナン大学の連携 |url=https://ias.ynu.ac.jp/intadv/1_danang.html |website=ias.ynu.ac.jp |access-date=2023-04-01}}</ref> ==教育及び研究== === 組織 === ==== 学部 ==== *[[教育学部]](2017年度に設置) **学校教育課程<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、講座として、学校教育、臨床心理学、国語・日本語教育、社会科教育、数学教育、理科教育、生活科教育、音楽教育、美術教育、保健体育、技術教育、家政教育、英語教育、特別支援教育を置いている。特別支援教育コースは、出願時に選択することになっており、入学時点からコースが決まっているが、それ以外は、1年の終わりまでにコース、専門領域を決定。ただし、入試方式によっては、コース、あるいは専門領域まであらかじめ決まっていることがある。</ref> ***人間形成コース ****専門領域<ref name=a>{{PDFlink|[http://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/essential/pdf/H29_ippan.pdf 2017年度一般入試学生募集要項]}}</ref>:教育基礎、心理発達、日本語教育 ***教科教育コース ****専門領域<ref name=a/>:国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術、家庭科、英語 ***特別支援教育コース *教育人間科学部(2017年度に募集停止) **学校教育課程 **人間文化課程 *[[横浜国立大学経済学部|経済学部]] **2017年度入学生から ***経済学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、グローバル経済、現代日本経済、金融貿易分析、経済数量分析、法と経済社会を置いている。</ref> ***:3年次に「グローバル経済」分野、「現代日本経済」分野、「金融貿易分析」分野、「経済数量分析」分野、「法と経済社会」分野の中から主専攻と副専攻を選ぶ<ref>{{PDFlink|[http://www.ynu.ac.jp/about/public/publish/guide/pdf/guide2018.pdf 2018年入学生用の大学案内]}}</ref>。 *[[横浜国立大学経営学部|経営学部]] **2017年度入学生から ***経営学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、マネジメント、アカウンティング、マネジメント・サイエンス、グローバルビジネスを置いている。</ref> *[[理工学部]] **2017年度入学生から ***機械・材料・海洋系学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、機械工学、材料工学、海洋空間のシステムデザインを置いている。教育プログラムは、横浜国立大学理工学部規則による。</ref> ****機械工学教育プログラム ****材料工学教育プログラム ****海洋空間のシステムデザイン教育プログラム ***化学・生命系学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、化学、化学応用、バイオを置いている。教育プログラムは、横浜国立大学理工学部規則による。</ref> ****化学教育プログラム ****化学応用教育プログラム ****バイオ教育プログラム ***数物・電子情報系学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、数理科学、物理工学、電子情報システム、情報工学を置いている。教育プログラムは、横浜国立大学理工学部規則による。</ref> ****数理科学教育プログラム ****物理工学教育プログラム ****電子情報システム教育プログラム ****情報工学教育プログラム *[[横浜国立大学都市科学部・大学院都市イノベーション学府・大学院都市イノベーション研究院|都市科学部]](2017年度設置) **都市社会共生学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、都市社会共生を置いている。</ref> **建築学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、建築を置いている。</ref> **都市基盤学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、都市基盤を置いている。</ref> **環境リスク共生学科<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育組織として、環境リスク共生を置いている。</ref> ==== 大学院 ==== ※研究院は研究組織、学府は教育組織である。 *[[教育学研究科]]<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、教育学研究科の専攻に置く組織は、教育人間科学部の課程に置く講座をその基礎となる教育研究組織とする。コース、専門領域、専修の構成は、2015年入学生用の研究科案内による。</ref> **教育実践専攻(修士課程)(教育学研究科を改組して2011年4月に設置) ***教育デザインコース ****専門領域:臨床教育、教育学、心理学、日本語教育、国語、英語、社会、数学、理科、技術、家政、音楽、美術、保健体育 ***特別支援・臨床心理コース **** 特別支援教育専修 **** 臨床心理学専修 **高度教職実践専攻(専門職学位課程([[教職大学院]])、2017年4月に設置) *[[国際社会科学府]]<ref group="注">博士論文研究基礎力考査コース(博士課程前期後期一貫博士コース)を法曹実務専攻以外に設置。修士論文作成に代えて、専門知識の理解を問う専門科目筆記試験と、専門的研究の展開能力に関する口頭試問の2段階による試験を実施する。</ref>(国際社会科学研究科を改組して2013年4月に設置) **経済学専攻<ref group="注">博士課程前期では、「金融プログラム特別コース」を設け、工学府、環境情報学府と共同で授業を行い、経済学・数学・計算機科学を教授するとともに、それらのファイナンス分野への応用能力を育成している。また、後期でも「金融教育プログラム(金融EP)」を設けている。{{PDFlink|[http://www.gsiss.ynu.ac.jp/about/info/pamphlet/pdf/gsiss.pdf 国際社会科府・研究院 パンフレット]}}によると、専攻横断型プログラムとして後期に「国際公共政策教育プログラム」、前期・後期に「英語による教育プログラム」(「経済学専攻国際教育プログラム」)を設けているとされるが、「横浜国立大学大学院国際社会科学府規則」では、専攻横断型プログラムに「英語による教育プログラム」は含まれていない。</ref>(博士課程前期・後期) **経営学専攻<ref group="注">横浜国立大学大学院学則によると、研究領域は、経営学分野、会計学分野、経営システム分野の3領域に区分されている。博士課程後期に経営学専攻が中心となって設置する教育プログラムとして、「グローバル・ビジネスドクターEP」を設けている。社会人が博士号(経営学)を取得するための教育プログラムだが、このEPで開講されている授業は全専攻の学生が受講できる。このほか、国際社会科府・研究院のパンフレットによると、専攻横断型プログラムとして後期に「国際公共政策教育プログラム」「租税法・会計教育プログラム」「英語による教育プログラム」(「日本的経営」)を設けているとされるが、「横浜国立大学大学院国際社会科学府規則」では、専攻横断型プログラムに「英語による教育プログラム」は含まれていない。</ref>(博士課程前期・後期) *** 横浜ビジネススクール<ref group="注">毎年度2種類の演習が設定され、演習ごとに募集。{{PDFlink|[http://www.ynu.ac.jp/exam/graduate/internet/pdf/28keiei_zenkibs.pdf 2016年度 学生募集要項]}}によると、演習A(産業競争力の強化とマネジメント・システム・リデザイン)と演習B(サステナビリティ時代の経営戦略)が設定された。</ref>(経営学専攻社会人専修コース、[[経営大学院]]) ** 国際経済法学専攻<ref group="注">国際社会科府・研究院のパンフレットによると、専攻横断型プログラムとして後期に「国際公共政策教育プログラム」「租税法・会計教育プログラム」「英語による教育プログラム」(「トランスナショナル法政策」)を設けているとされるが、「横浜国立大学大学院国際社会科学府規則」では、専攻横断型プログラムに「英語による教育プログラム」は含まれていない。</ref>(博士課程前期・後期) **法曹実務専攻(専門職学位課程、法科大学院)※2019年度募集停止 *[[国際社会科学研究院]]<ref>部門は、横浜国立大学の教育研究組織に関する規則による。</ref>(国際社会科学研究科を改組して2013年4月に設置) **国際社会科学部門 *[[理工学研究科|理工学府]](博士課程前期・博士課程後期)(工学府を改組して2018年4月に設置) **機械・材料・海洋系工学専攻 ***機械工学分野 ***材料工学分野 ***海洋空間分野 ***航空宇宙工学分野(前期のみ) **化学・生命系理工学専攻 ***化学分野 ***応用化学分野 ***エネルギー化学分野(前期のみ) ***化学応用・バイオ分野 ** 数物・電子情報系理工学専攻 *** 数学分野 *** 物理工学分野 *** 応用物理分野 *** 情報システム分野 *** 電気電子ネットワーク分野 *[[工学府]]<ref group="注">各専攻に、T型工学教育(T-type Engineering Degree、「TED」)プログラムと、Π型工学教育(Pi-type Engineering Degree、「PED」)プログラムを置いている。TEDプログラムは研究室配属により、専門の研究を深め、修士・博士論文により学位審査が行われるが、PEDプログラムの前期では研究室に配属せず、修士論文の代わりに実習・演習・研修を通じたコースワークを履修する。後期では博士論文を課すが、基礎研究に従事する研究者ではなく、「高度なものづくり」を目指す実務家型研究者としての視点から論文審査をするとしている。</ref>(博士課程前期・博士課程後期)(理工学府への改組により2018年度以降募集停止) *[[研究科#研究科に代わる制度|工学研究院]]<ref name="b">{{PDFlink|[http://www.ynu.ac.jp/exam/faculty/essential/pdf/H27_ippan.pdf 2015年入学生用の一般入試学生募集要項]}}</ref> **機能の創生部門<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、連携分野として、応用材料工学、応用材料設計工学がある。</ref> **システムの創生部門<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、連携分野として、統合設計工学、マリタイムフロンティアサイエンスがある。</ref> **知的構造の創生部門<ref group="注">横浜国立大学の教育研究組織に関する規則によると、連携分野として、ネットワークインフラストラクチャー工学、ライフサイエンスがある。</ref> *[[環境情報学部|環境情報学府]](博士課程前期・博士課程後期) **2018年度入学生から ***人工環境専攻 ****安全環境工学プログラム ****環境学プログラム ****社会環境プログラム ***自然環境専攻 ****生態学プログラム ****地球科学プログラム ****環境学術プログラム ***情報環境専攻 ****情報学プログラム ****数理科学プログラム ****情報学術プログラム *[[横浜国立大学理工学部|環境情報研究院]]<ref>部門、分野の構成は、横浜国立大学の教育研究組織に関する規則による。</ref> **自然環境と情報部門 **:分野:環境生態学、環境管理学、分子生命学、環境遺伝子工学、生命適応システム学(連携分野)、実践環境安全学(連携分野) **人工環境と情報部門 **:分野:循環材料学、調和システム学、数理解析学、安全管理学、医用情報学(連携分野) **社会環境と情報部門 **:分野:情報メディア学、技術開発学、環境社会システム学、環境社会工学(連携分野) *[[横浜国立大学都市科学部・大学院都市イノベーション学府・大学院都市イノベーション研究院|都市イノベーション学府]] **建築都市文化専攻(博士課程前期) ***建築都市文化コース ***建築都市デザインコース ***横浜都市文化コース **都市地域社会専攻(博士課程前期) ***都市地域社会コース ***国際基盤学コース **都市イノベーション専攻(博士課程後期) *[[横浜国立大学都市科学部・大学院都市イノベーション学府・大学院都市イノベーション研究院|都市イノベーション研究院]] **都市イノベーション研究部門 *[[先進実践学環]](修士課程) *[[連合学校教育学研究科]](博士課程、[[東京学芸大学]]・[[埼玉大学]]・[[千葉大学]]・横浜国立大学で構成) ==== 附属機関・施設 ==== *学部および大学院附属の教育研究施設 **教育学部 ***附属教育デザインセンター ***附属高度理科教員養成センター **経済学部 ***附属アジア経済社会研究センター ****研究部門 ****統計資料部門 **環境情報研究院 ***附属臨海環境センター(神奈川県[[足柄下郡]][[真鶴町]][[岩 (真鶴町)|岩]]) *高等研究院 **先端科学高等研究院 ***[[台風]]科学技術研究センター<ref>[https://www.kanaloco.jp/news/social/article-697545.html 「台風のメカニズム解明へ 横浜国大に国内初の研究センター」][[神奈川新聞]]カナコロ(2021年10月1日配信)同日閲覧</ref> *附属図書館 *全学機構 **研究推進機構 ***研究戦略推進部門 ****研究企画室 ****大学研究情報分析室 ****研究支援室 ***産学官連携推進部門 ****産学官連携支援室 ****知的財産支援室 **情報戦略推進機構 ***情報戦略推進会議 ***情報基盤センター **国際戦略推進機構 ***企画推進部門 ***基盤教育部門 ***国際教育センター *全学教育研究施設 **マネジメントセンター ***保健管理センター ***情報基盤センター ***機器分析評価センター ***男女共同参画推進センター ***国際教育センター ***高大接続・全学教育推進センター **アカデミックセンター ***未来情報通信医療社会基盤センター ***地域実践教育研究センター ***総合的海洋教育・研究センター ***成長戦略研究センター ***リスク共生社会創造センター *その他<ref group="注">国立大学法人横浜国立大学組織運営規則に記載されていない施設。ただし、運営のための規則は規則集で公開されている。</ref> **教育文化ホール **みなとみらいキャンパス<ref group="注">ビジネススクールの講義・演習、大学が実施する事業などに使用する目的で[[横浜ランドマークタワー]]に設置されたが、横浜国立大学規則集では、教育文化ホールとともに「共同施設」として位置付けられている。</ref> **教育学部野外教育実習施設 **教育学部[[平塚市|平塚]]教場 **教育学研究科教育相談・支援総合センター **経営学部研究資料室 **経営学部情報センター **経営学部研究推進室 **大学会館 **[[峰沢町|峰沢]]国際交流会館 **留学生会館 *附属学校 **[[横浜国立大学教育学部附属横浜小学校]](神奈川県横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]) **[[横浜国立大学教育学部附属鎌倉小学校]](神奈川県[[鎌倉市]]) **[[横浜国立大学教育学部附属横浜中学校]](神奈川県横浜市南区) **[[横浜国立大学教育学部附属鎌倉中学校]](神奈川県鎌倉市) **[[横浜国立大学教育学部附属特別支援学校]](神奈川県横浜市南区) === 研究 === ==== 21世紀COEプログラム ==== [[21世紀COEプログラム]]として、2件のプロジェクトが採択された。 *2002年 *;情報・電気・電子 *:情報通信技術に基づく未来社会基盤創生 *;学際・複合・新領域 *:生物・生態環境リスクマネジメント ==== グローバルCOEプログラム ==== [[グローバルCOEプログラム]]として、2件のプロジェクトが採択されている。 *2007年 *;学際・複合・新領域 *:[[アジア]]視点の国際生態リスクマネジメント *2008年 *;学際・複合・新領域 *:情報通信による[[医工連携|医工融合]][[イノベーション]]創生 == 学生生活 == === クラブ・サークル活動 === 2019年11月1日時点、大学に団体届を提出している団体は体育会系サークル43団体、文化系サークル57団体の計100団体あり、それ以外のサークルも数多く存在している。相対的に見て、硬式テニスのサークルの割合が多い。また、横浜市立大学や[[神奈川大学]]、[[フェリス女学院大学]]などの近隣の大学との[[インターカレッジ]]サークルも存在する。 === 大学祭 === 年2回、常盤台キャンパスで大学祭実行委員会によって行われ、5月の終わり頃に開かれるものを「清陵祭」、10月の終わり頃に開かれるものを「常盤祭」と呼ぶ。清陵祭は2日間、常盤祭は3日間開催である。なお、常盤祭では[[ミス・コンテスト]]およびミスター・コンテストが行われている。 == 大学関係者 == {{See|横浜国立大学の人物一覧}} === 同窓会 === [[同窓会]]活動は学部ごとに分かれて、友松会(教育人間科学部)、富丘会(経済学部・経営学部)、工学部同窓会連合で行われている。 == 施設 == [[画像:Natural Science Reserch BldgⅡ Architecture and Bldg science.JPG|200px|thumb|建設学科建築学棟]] [[画像:YNU LAWSON.JPG|200px|thumb|Sガーデン]] [[画像:YNU South side gate.JPG|200px|thumb|南通用門]] === キャンパス === ==== 常盤台キャンパス(メインキャンパス) ==== *使用学部:全ての学部 *使用研究科:全ての大学院 *使用附属施設:なし *交通アクセス **[[相鉄新横浜線]]・[[相鉄・JR直通線]][[羽沢横浜国大駅]]より徒歩15分。 **[[横浜市営地下鉄ブルーライン]][[三ツ沢上町駅]]より徒歩16分。 **[[相鉄本線]][[和田町駅]]より徒歩20分。 **[[横浜市営バス]]・[[相鉄バス]]・[[神奈川中央交通]]岡沢町バス停より徒歩5分。 **[[横浜駅#路線バス|横浜駅西口バスターミナル]]バス停より、横浜市営バス・相鉄バスがキャンパス内を東西に往復して横浜駅へ戻る循環運転を行っている(平日ダイヤのみ)。 ゴルフ場(程ヶ谷カントリー倶楽部)跡地にキャンパスを建てたため、起伏が激しいが、東京ドーム約9個分と広大な面積を誇り、自然豊かなキャンパスである。 === サテライトキャンパス === ==== みなとみらいキャンパス ==== * 使用学部:なし * 使用研究科:国際社会科学府経営学専攻社会人専修コース(横浜ビジネススクール) * 使用附属施設:なし * 交通アクセス ** [[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[みなとみらい駅]]より徒歩3分。 ** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[根岸線]]・横浜市営地下鉄ブルーライン[[桜木町駅]]より徒歩5分。 [[横浜ランドマークタワー]]の18階に開設されたサテライトキャンパス。[[経営学修士|MBA]]修得の夜間コースを設置している。 ==== 弘明寺キャンパス ==== *使用学部:なし *使用研究科:教育学研究科学校教育臨床専攻夜間大学院 *使用附属施設:教育相談支援総合センター弘明寺相談室 *交通アクセス **横浜市営地下鉄ブルーライン[[弘明寺駅 (横浜市営地下鉄)|弘明寺駅]]より徒歩5分。 **[[京急本線]][[弘明寺駅 (京急)|弘明寺駅]]より徒歩10分。 ==== 新湘南共創キャンパス ==== 神奈川県[[藤沢市]]村岡地区に2023年11月に開設<ref name=新湘南キャンパス>[https://www.ynu.ac.jp/hus/koho/31070/34_31070_1_1_231208020648.pdf 藤沢市と『地域創生・地域活性化に関する連携協定』を締結~村岡地区を起点とした市民参加による地域創生・地域活性化を図ります~]横浜国立大学プレスリリース(2023年12月8日)2023年12月10日閲覧</ref>。 ==== 総合学術高等研究院 共創革新ダイナミクス研究ユニット ==== * 使用学部:なし * 使用研究科:総合学術高等研究院 * 使用附属施設:なし * 交通アクセス ** 相鉄本線[[天王町駅]]より徒歩1分。[[星天qlay]] Dゾーン内。 == 対外関係 == === 他大学との協定 === ;大学間交流協定 2020年5月1日時点、42ヶ国・地域の144大学・機関と大学間協定校を結んでいる。 <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> *アジア **{{IND}} ***インド統計研究所 ***[[インド工科大学]]マドラス校 ***インド工科大学ハイデラバード校 ***[[インド理科大学院]] ***アンナ大学 ***インド工科大学グワハティ校 **{{IDN}} ***ランプン大学 ***[[バンドン工科大学]] ***[[インドネシア大学]] ***[[ガジャ・マダ大学]] ***スラバヤ工科大学 **{{KOR}} ***[[ソウル市立大学校]] ***[[高麗大学校]] ***[[淑明女子大学校]] ***[[嶺南大学校]] ***[[京畿大学校]] ***[[延世大学校]] ***[[済州大学校]] ***[[釜慶大学校]] ***[[昌原大学校]] ***[[東亜大学校]] ***[[仁川大学校]] ***[[世宗大学校]] ***[[ハンバッ大学校]] **{{THA}} ***[[タンマサート大学]] ***[[プリンス・オブ・ソンクラー大学]] ***[[アジア工科大学院]] ***[[モンクット王工科大学トンブリー校|キングモンクート工科大学トンブリ校]] **{{TWN}} ***[[国立高雄大学]] ***[[国立台湾大学]] ***[[国立清華大学]] ***[[国立政治大学]] **{{CHN}} ***[[上海交通大学]] ***[[北京師範大学]] ***[[華東師範大学]] ***山西大学 ***[[天津大学]] ***[[清華大学]] ***[[大連理工大学]] ***[[四川大学]] ***[[対外経済貿易大学]] ***[[北京大学]]、石河子大学 ***[[中山大学]] ***[[北京科技大学]] ***[[山東大学]] ***[[同済大学]] ***[[吉林大学]] ***[[中南大学]] ***[[外交学院]] ***[[北京交通大学]] ***上海健康医学院 ***国家留学基金管理委員会 **{{TUR}} ***[[イスタンブール工科大学]] ***オージイン大学 **{{BGD}} ***[[ダッカ大学]] **{{PHL}} ***[[聖トマス大学 (フィリピン)|聖トマス大学]] ***[[フィリピン大学]] **{{VNM}} ***交通通信大学 ***[[ベトナム国家大学ホーチミン市校工科大学]] ***[[ダナン大学]] ***ベトナム教育訓練省国際教育開発局 ***[[ベトナム国家大学ハノイ校]] ***ベトナム国家大学ハノイ校経済経営大学 ***ハノイ貿易大学 **{{MYS}} ***マレーシアマラッカ技術大学 ***[[マラヤ大学]] ***ウタラ・マレーシア大学 **{{MMR}} ***[[マンダレー大学]] **{{MNG}} ***新モンゴル工科大学 *[[アフリカ]] **{{EGY}} ***[[カイロ大学]] **{{KEN}} ***[[ナイロビ大学]] *[[オセアニア]] **{{AUS}} ***[[オーストラリア国立大学]] ***[[シドニー工科大学]] ***[[マッコーリー大学]] ***[[ウーロンゴン大学]] **{{NZL}} ***[[オタゴ大学]] ***AICクライストチャーチ工科大学 </div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> *[[北アメリカ]] **{{USA}} ***[[サンディエゴ州立大学]] ***[[ジョージア大学]] ***ベラミン大学 ***[[カリフォルニア州立大学]]サクラメント校 ***[[ユタ州立大学]] ***[[サンノゼ州立大学]] ***ウェスタンワシントン大学 ***[[ポートランド州立大学]] **{{CAN}} ***[[サスカチュワン大学]] ***[[モントリオール理工科大学]] ***[[クイーンズ大学 (カナダ)|クイーンズ大学]] ***プリンス・エドワード・アイランド大学 **{{MEX}} ***メキシコ自治工科大学 *[[南アメリカ]] **{{COL}} ***エアフィット大学 ***[[コロンビア国立大学]] **{{NIC}} ***ニカラグア国立自治大学 **{{PRY}} ***アスンシオン国立大学 ***カアグアス国立大学 ***ニホンガッコウ大学 **{{BRA}} ***[[サンパウロ大学]] ***パラナ・カトリカ大学 ***ペルナンブコ連邦大学 ***カンピーナス州立大学 *[[ヨーロッパ]] **{{GBR}} ***[[シェフィールド大学]] ***[[カーディフ大学]] ***[[ノッティンガム・トレント大学]] ***[[サウサンプトン大学]] ***[[エディンバラ大学]] ***[[イースト・アングリア大学]] **{{ITA}} ***[[ピサ大学]] ***[[ヴェネツィア大学]] ***[[ミラノ大学]] ***[[ミラノ工科大学]] ***[[パドヴァ大学]] **{{NLD}} ***[[デルフト工科大学]] **{{KGZ}} ***キルギス・トルコ・マナス大学 ***キルギス国立建設技術大学 ***中央アジア・アメリカ大学 **{{CHE}} ***ベルン大学 **{{ESP}} ***[[グラナダ大学]] ***ア・コルーニャ大学 **{{SVN}} ***[[リュブリャナ大学]] **{{CZE}} ***オストラバ工科大学 ***ズリーン・トマスバタ大学 **{{DEU}} ***[[ザールラント大学]] ***[[オスナブリュック大学]] ***エルフルト大学 ***アウクスブルク応用科学大学 ***[[ドレスデン工科大学]] **{{HUN}} ***セントイシュトヴァーン大学 **{{FIN}} ***オウル大学 **{{FRA}} ***[[エコール・サントラル・パリ]] ***リヨン第3大学 ***パリ東大学クレテイユ校 ***グルノーブル第3大学(スタンダール) ***国立セラミックス工業大学(グランゼコール) ***[[ポワティエ大学]] ***ル・アーブル大学 ***インスティテュート・マインズ・テレコム **{{BEL}} ***リエージュ州大学校 **{{POL}} ***カジミエシュヴィエルキ大学 **{{PRT}} ***[[リスボン大学]] **{{MLT}} ***[[マルタ大学]] **その他 ***[[国際連合開発計画]] </div>{{clear}} ;部局間交流協定 2020年5月1日時点、33大学36部局と部局間交流協定を締結している。 *[[横浜市内大学間学術・教育交流協議会]] *:横浜市内に所在する13大学による協議会。単位互換事業や図書館コンソーシアム事業を実施している。 *[[神奈川県内大学間学術交流協定]](大学院) *:神奈川県内に所在する21大学による、大学院における単位互換協定。 *[[放送大学学園]]と単位互換協定を結んでおり、放送大学で取得した単位を卒業に要する単位として認定することができるなど多様な学習の機会が提供されている<ref>{{PDFlink|[https://www.ouj.ac.jp/hp/nyugaku/tanigokan/pdf/tanigokan_annai.pdf 放送大学 2019年度 単位互換案内]}}</ref>。 === 大学以外との協力関係 === [[日本政策金融公庫]]との女性活躍などについての業務協力協定(2017年9月12日締結)で、39社・機関と各種分野での協定を結んでいる<ref>[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00442770 「女性活躍推進など連携 横浜国大、日本公庫と協定」]『[[日刊工業新聞]]』2018年9月13日(中小企業・地域経済面)2018年5月20日閲覧</ref>。 == 企業からの評価 == === 人事担当者からの評価 === *2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、横浜国立大学は「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書|url= http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf|title=日本の大学数 2021年度は788大学|journal=今月の視点|issue=172|date=2021-04-01|publisher=旺文社 教育情報センター|accessdate=2021-07-18|format=PDF}}</ref>中、第6位<ref name="日経HR" />にランキングされた。 *2022年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「人事が見る大学イメージ調査」<ref name="日経HR2">{{Cite web|和書|title=《日経HR》『人事が見る大学イメージ調査』|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO61304090R30C22A5L72000/|accessdate=2022-06-03 |url-status=live}}</ref>(2022年2月時点の全ての上場企業と一部有力未上場企業の人事担当者を対象に、採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、横浜国立大学は、「全国総合」で第4位、「関東・甲信越」で第1位<ref name="日経HR" />にランキングされた<ref>[[日本経済新聞]]令和4年6月1日朝刊.35面.東京・首都圏経済</ref>。 === 出世力 === *2006年年9月23日発行のビジネス誌『[[週刊ダイヤモンド]]』94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、横浜国立大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中、第19位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。 *『[[週刊エコノミスト]]』2010年8月31日号に掲載された「卒業生数の割に役員・管理職の人数が多い度合い」で、横浜国立大学は、2010年時点で存在する全国の778大学<ref name="reform">[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/jinsei100nen/dai5/siryou1.pdf 日本の人口推移と大学数の推移|大学改革 参考資料 平成30年2月 内閣官房人生100年時代構想推進室 14/17頁]</ref>中、第10位にランキングされた<ref>[https://www.r-agent.com/guide/news/20120105_1_2.html 「有名大学卒ほど出世しやすい」はもはや昔の話?小樽商科、滋賀、大阪市立――地方の意外な実力校|週刊エコノミスト(2010年8月31日号)より]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Wikibooks|横浜国立大対策|横浜国立大入試対策}} * {{Commonscat-inline}} * {{official website}} {{横浜国立大学}} {{横浜国立大学の前身諸機関}} {{横浜市内大学間学術・教育交流協議会}} {{神奈川県内大学間学術交流協定}} {{大学・都市パートナーシップ協議会}} {{日仏共同博士課程日本コンソーシアム}} {{オーシャンイノベーションコンソーシアム}} {{臨床心理士指定大学院}} {{日本教職大学院協会}} {{東アジア教員養成国際コンソーシアム}} {{法科大学院}} {{日本の国立大学}} {{Normdaten}} {{univ-stub}} {{DEFAULTSORT:よこはまこくりつたいかく}} [[Category:横浜国立大学|*]] [[Category:日本の国立大学]] [[Category:神奈川県の大学]] [[Category:学校記事]]
2003-09-07T09:34:55Z
2023-12-24T08:30:08Z
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次亜塩素酸ナトリウム
次亜塩素酸ナトリウム(じあえんそさんナトリウム、英: sodium hypochlorite)は次亜塩素酸のナトリウム塩である。化学式は NaClO で、次亜塩素酸ソーダとも呼ばれる。希釈された水溶液はアンチホルミンとも呼ばれる。水溶液は塩基性を示す。 水酸化ナトリウムの水溶液に塩素を通じて得られる。物質は不安定なため、水溶液として貯蔵、使用される。水溶液は安定で長期保存が可能だが、時間と共に自然分解し酸素を放って塩化ナトリウム水溶液(食塩水)に変化していく。また、不均化も発生する。高濃度の状態ほど分解しやすく、低濃度になると分解しにくくなる。高温や紫外線で分解が加速するため、常温保存では濃度維持が出来ない。 酸化作用、漂白作用、殺菌作用があり、飲料水やプールの水に添加されたり、漂白剤として使用される。 独特の臭気がある。この臭気は俗に「プールの臭い」などと表現される。ただし、プールで利用される次亜塩素酸ナトリウムの濃度はかなり薄く、プールの匂いは実際には次亜塩素酸ナトリウムを構成する塩素と汗や尿の一成分であるアンモニアが化学反応して生成されたクロラミンによるものである。 生成方法としては、上記の反応のほかに、海水を電気分解する方法もある。この方法は主に、海を航行する船舶や臨海にある工場施設において、海水を流す配管に海洋生物が付着するのを防ぐために使われる。2016年(平成28)年度日本国内生産量(12 %換算)は 891,976 t、消費量は 29,622 t である。 上水道やプールの殺菌に使用されている。家庭用に販売されている液体の塩素系漂白剤や、殺菌剤(洗濯用、キッチン用、ほ乳ビンの殺菌用など)などに使用されており、製品によっては少量の界面活性剤(中性洗剤の主成分)やアルカリ剤などが加えられている。また風呂水の殺菌・再利用にも用いられ、業務用が市販されている。 水溶液はアンチホルミンという商品名で食品添加物として使われる。 家庭用漂白剤は一般に、重量比で3 - 8%の次亜塩素酸ナトリウムと、0.01 - 0.05%の水酸化ナトリウム(NaOH)を含む。水酸化ナトリウムの添加は、次亜塩素酸ナトリウムが塩化ナトリウムと塩素酸ナトリウムに分解してしまうのを遅らせるためである。 製紙分野で漂白剤(通称「ハイポ」)として用いられる。 次亜塩素酸ナトリウムには脱染特性があり、金型の汚れ落とし、歯のフッ素症の除去、食器の汚れ落とし(とりわけ茶のタンニンによる汚れ)などに利用されている。洗濯用合成洗剤にも添付されている。 殺菌料としては野菜・果実・鶏卵の消毒にも用いられるが、ゴマに対する使用は禁じられている。 消毒にも使用される。適切な濃度で使用すればノーウォークウイルスを含む多くの細菌やウイルス、芽胞に効果を示すため、医療器具やリネンの消毒に使用されている。殺菌効果は次亜塩素酸と次亜塩素酸イオンの酸化力に依存している。これらが有機物に触れると相手を酸化すると同時に、自身も分解して殺菌効果が急速に減少してゆく。水溶液はアルカリ性であるが強い酸化力を持つため、金属に使用すると錆が発生する。 有効成分は、水溶液中の次亜塩素酸(HClO)及び次亜塩素酸イオン(ClO)である。消毒対象によって異なるが、「次亜塩素酸」は次亜塩素酸イオンに比べて、殺菌力が数倍 - 数十倍と高い傾向にある。水溶液のpHによって二者の存在比が変化し、それに伴って消毒効果も変化する。次亜塩素酸ナトリウムに希塩酸を加えてpH6程度に調整し、殺菌力を増した製品が市販されている。これは弱酸性電解水に近い殺菌力を持つ。後述の通り、強い酸性に傾けるほど塩素ガスが発生して危険であり、保存性も下がる。 上述のように、水道水には殺菌のため次亜塩素酸ナトリウムが微量添加されており、鑑賞魚の飼育にそのまま用いることは出来ない。しかし、水道水を数時間ほど太陽光にさらすことで、次亜塩素酸同様に、次亜塩素酸ナトリウムを不均化・分解することができる。 次亜塩素酸ナトリウムには消臭能力があり、それは脱染特性と密接に関連している。 マウスの経口毒性はLD50 = 5800 mg/kg。接触皮膚炎を起こす。 以下は一般使用上における危険性について記す。 漂白剤や殺菌剤といった次亜塩素酸ナトリウム水溶液を、塩酸などの強酸性物質(トイレ用洗剤など)と混合すると、黄緑色の有毒な塩素ガスが発生する。これにより、浴室で洗剤をまぜたことによる死亡事故も起きており、次亜塩素酸ナトリウムを含有する家庭用製品には『混ぜるな危険』の注意書きがされている。また、塩酸ほどではないものの、食酢やクエン酸、炭酸を大量に加えた場合も同様の反応が起き、塩素が発生することがある。 次亜塩素酸ナトリウムを含んだ錠剤を不織布で包み、首からさげる「空間除菌剤」と称して一部メーカーから販売されていたが、汗などで濡れると、局所的に高濃度の水溶液を生成し化学火傷を起こすため、消費者庁から使用中止の呼びかけが行われた。また、亜塩素酸ナトリウムを原料とした空間除菌剤も販売されており、前述の次亜塩素酸を原料とした空間除菌剤と混同する向きも見られた。消費者庁においてメーカー別の空間除菌剤の安全性を比較した情報提供が行われている。なお、次亜塩素酸ナトリウムの空気への拡散を利用した消毒薬の効果は十分に検証されていない。 除菌を目的として、次亜塩素酸ナトリウム水溶液を空間に噴射するスプレー等も一部メーカーから販売されているが、厚生労働省は、人がいる空間への次亜塩素酸ナトリウム水溶液の噴霧については、眼や皮膚に付着したり吸入したりすると危険であり、噴霧した空間を浮遊する全てのウイルスの感染力を滅失させる保証もないことから、絶対に行ってはいけないと警告している。新型コロナウイルスの流行に伴い、次亜塩素酸ナトリウムを含む漂白剤水溶液を加湿器に入れて噴霧したための事故も起きている。 次亜塩素酸ナトリウム水溶液を吸入した場合には呼吸器への刺激が生じ、急性的な症状として、化学熱傷や失明のおそれがあり、長期曝露、反復曝露は全身毒性の障害のおそれがある。また次亜塩素酸ナトリウムと水酸化ナトリウムを混合した溶液を噴霧した空間で生活していたところ、喉頭肉芽腫を生じたとする報告がある。 次亜塩素酸ナトリウムによる漂白は、遊離塩素による塩素化反応なので、トリハロメタンを始めとする多種多様な有機塩素化合物を生成する。しかし、有機塩素化合物は、高濃度で吸入、経口摂取しなければ問題はないため、十分に換気を行えば、洗濯やまな板除菌等、日常的な用途において健康上の問題は生じない。ただし、洗浄が不十分なことにより、容器に残留した次亜塩素酸ナトリウムが、前述のように酸性系統の薬剤(市販品含む)と反応して塩素ガスを生成したり、エタノール(消毒用を含む)と反応して有害なクロロホルムを生成する事がある。 ホウレンソウを次亜塩素酸ナトリウムで処理した場合のクロロホルムの生成量は微酸性次亜塩素酸水よりも多く、0.07ppmであったとされるが、これはアメリカのスーパーマーケットにおける調査での食品中に含まれていたクロロホルムの平均濃度である0.071ppmと同程度である。
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次亜塩素酸ナトリウムは次亜塩素酸のナトリウム塩である。化学式は NaClO で、次亜塩素酸ソーダとも呼ばれる。希釈された水溶液はアンチホルミンとも呼ばれる。水溶液は塩基性を示す。 水酸化ナトリウムの水溶液に塩素を通じて得られる。物質は不安定なため、水溶液として貯蔵、使用される。水溶液は安定で長期保存が可能だが、時間と共に自然分解し酸素を放って塩化ナトリウム水溶液(食塩水)に変化していく。また、不均化も発生する。高濃度の状態ほど分解しやすく、低濃度になると分解しにくくなる。高温や紫外線で分解が加速するため、常温保存では濃度維持が出来ない。 酸化作用、漂白作用、殺菌作用があり、飲料水やプールの水に添加されたり、漂白剤として使用される。 独特の臭気がある。この臭気は俗に「プールの臭い」などと表現される。ただし、プールで利用される次亜塩素酸ナトリウムの濃度はかなり薄く、プールの匂いは実際には次亜塩素酸ナトリウムを構成する塩素と汗や尿の一成分であるアンモニアが化学反応して生成されたクロラミンによるものである。 生成方法としては、上記の反応のほかに、海水を電気分解する方法もある。この方法は主に、海を航行する船舶や臨海にある工場施設において、海水を流す配管に海洋生物が付着するのを防ぐために使われる。2016年(平成28)年度日本国内生産量は 891,976 t、消費量は 29,622 t である。
{{混同|次亜塩素酸|次亜塩素酸水}} {{Chembox | Name = 次亜塩素酸ナトリウム | ImageFile = Sodium-hypochlorite.png | ImageSize = 200px | ImageName = Sodium hypochlorite | OtherNames = Sodium chlorate(I) | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 7681-52-9 | RTECS = NH3486300 | KEGG = D01711 }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = NaClO | MolarMass = 74.44 g/mol | Appearance = 白色の固体 | Density = 1.07-1.14 g/cm<sup>3</sup> 液体 | Solubility = 29.3 g/100ml, 0℃ | MeltingPt = 18℃ (五水和物)<!-- (starts decomposing to NaCl and NaClO3 at 40 degrees C) --> | BoilingPt = 101℃ (分解) | pKa = | pKb = }} | Section7 = {{Chembox Hazards | MainHazards = 刺激性(-5%)、腐食性(+10%)、酸化剤 | NFPA-H = 2 | NFPA-F = 0 | NFPA-R = 1 | NFPA-O = OX | FlashPt = | EUClass = 腐食性('''C''')<br />環境への危険性 ('''N''') | RPhrases = {{R31}}, {{R34}}, {{R50}} | SPhrases = {{S1/2}}, {{S28}}, {{S45}},<br />{{S50}}, {{S61}} }} | Section8 = {{Chembox Related | OtherAnions = [[塩化ナトリウム]]<br />[[亜塩素酸ナトリウム]]<br />[[塩素酸ナトリウム]]<br />[[過塩素酸ナトリウム]] | OtherCations = [[次亜塩素酸リチウム]]<br />[[次亜塩素酸カルシウム]] }} }} '''次亜塩素酸ナトリウム'''(じあえんそさんナトリウム、{{lang-en-short|sodium hypochlorite}})は[[次亜塩素酸]]の[[ナトリウム塩]]である。[[化学式]]は '''NaClO '''で、次亜塩素酸ソーダとも呼ばれる。[[希釈]]された水溶液はアンチホルミンとも呼ばれる。水溶液は[[塩基性]]を示す。 [[水酸化ナトリウム]]の水溶液に[[塩素]]を通じて得られる。物質は不安定なため、水溶液として貯蔵、使用される。水溶液は安定で長期保存が可能だが、時間と共に自然[[化学分解|分解]]し[[酸素]]を放って[[塩化ナトリウム]]水溶液([[食塩水]])に変化していく。また、[[不均化]]も発生する。高濃度の状態ほど分解しやすく、低濃度になると分解しにくくなる。高温や[[紫外線]]で分解が加速するため、常温保存では濃度維持が出来ない。 : <chem>2NaOH + Cl2 -> NaCl + NaClO + H2O</chem> [[酸化]]作用、[[漂白]]作用、[[殺菌]]作用があり、飲料水や[[プール]]の水に添加されたり、[[漂白剤]]として使用される。 独特の臭気がある。この臭気は俗に「プールの臭い」などと表現される。ただし、プールで利用される次亜塩素酸ナトリウムの濃度はかなり薄く、プールの匂いは実際には次亜塩素酸ナトリウムを構成する塩素と汗や尿の一成分である[[アンモニア]]が化学反応して生成された[[クロラミン]]によるものである。 生成方法としては、上記の反応のほかに、[[海水]]を[[電気分解]]する方法もある。この方法は主に、海を航行する[[船|船舶]]や臨海にある工場施設において、海水を流す配管に海洋生物が付着するのを防ぐために使われる。2016年(平成28)年度日本国内生産量(12 %換算)は 891,976 t、消費量は 29,622 t である<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/gaiyo/resourceData/02_kagaku/nenpo/h2dbb2016k.pdf 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編 平成26年 28頁]</ref>。 == 利用 == [[File:Kitchen bleach.JPG|thumb|right|[[花王ブリーチ]]]] [[上水道]]やプールの[[殺菌]]に使用されている。家庭用に販売されている液体の塩素系[[漂白剤]]や、殺菌剤(洗濯用、キッチン用、ほ乳ビンの殺菌用など)などに使用されており、製品によっては少量の[[界面活性剤]](中性[[洗剤]]の主成分)やアルカリ剤などが加えられている。また[[風呂]]水の殺菌・[[再利用]]にも用いられ、業務用が市販されている。 水溶液はアンチホルミンという商品名で[[食品添加物]]として使われる。 === 漂白 === {{Main|漂白剤}} 家庭用漂白剤は一般に、重量比で3 - 8%の次亜塩素酸ナトリウムと、0.01 - 0.05%の[[水酸化ナトリウム]](NaOH)を含む。水酸化ナトリウムの添加は、次亜塩素酸ナトリウムが塩化ナトリウムと塩素酸ナトリウムに分解してしまうのを遅らせるためである<ref name=Smith1994>Smith WT. (1994). Human and Environmental Safety of Hypochlorite. In: [https://books.google.com/books?id=Pbr2HJ1X_DkC Proceedings of the 3rd World Conference on Detergents: Global Perspectives], pp. 183-5.</ref>。 製紙分野で漂白剤(通称「[[ハイポ]]」<ref>(用例){{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/law/information/pdf/manage_h19fy/manage1.pdf |title=漂白工程の化学物質排出量等管理マニュアル |page=8 |publisher=化学物質排出量等管理マニュアル検討委員会 |website=経済産業省 |accessdate=2019-10-31}}</ref>)として用いられる。 === 脱染 === 次亜塩素酸ナトリウムには脱染特性があり<ref name=aise />、金型の汚れ落とし、[[歯のフッ素症]]の除去<ref>{{cite journal | vauthors = Cárdenas Flores A, Flores Reyes H, Gordillo Moscoso A, Castanedo Cázares JP, Pozos Guillén A | title = Clinical efficacy of 5% sodium hypochlorite for removal of stains caused by dental fluorosis | journal = The Journal of Clinical Pediatric Dentistry | volume = 33 | issue = 3 | pages = 187-91 | year = 2009 | pmid = 19476089 | doi = 10.17796/jcpd.33.3.c6282t1054584157 }}</ref>、食器の汚れ落とし(とりわけ茶の[[タンニン]]による汚れ)などに利用されている。洗濯用[[合成洗剤]]にも添付されている。 === 殺菌消毒 === [[殺菌料]]としては[[野菜]]・[[果実]]・[[鶏卵]]の消毒にも用いられるが、[[ゴマ]]に対する使用は禁じられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00ta0548&dataType=1&pageNo=1 |title=食品、添加物等の規格基準の一部改正について(昭和四六年一一月八日)(環食化第二八七号)(各都道府県知事・各政令市市長あて厚生省環境衛生局長通知) |website=厚生労働省法令等データベースサービス |accessdate= 2020-01-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=78334000&dataType=0&pageNo=104 |title=食品、添加物等の規格基準(厚生省告示)「次亜塩素酸ナトリウム」の項 |page=104 |website=厚生労働省法令等データベースサービス |accessdate=== 反響 ==2022-11-22}}</ref>。 [[消毒]]にも使用される。適切な濃度で使用すれば[[ノーウォークウイルス]]を含む多くの[[細菌]]や[[ウイルス]]、[[芽胞]]に効果を示すため、医療器具や[[リネン]]の消毒に使用されている。殺菌効果は次亜塩素酸と次亜塩素酸イオンの酸化力に依存している。これらが有機物に触れると相手を酸化すると同時に、自身も分解して殺菌効果が急速に減少してゆく。水溶液はアルカリ性であるが強い酸化力を持つため、金属に使用すると錆が発生する。 有効成分は、水溶液中の[[次亜塩素酸]](HClO)及び[[次亜塩素酸イオン]]({{chem|ClO|-}})である。消毒対象によって異なるが、「次亜塩素酸」は次亜塩素酸イオンに比べて、殺菌力が数倍 - 数十倍と高い傾向にある。水溶液のpHによって二者の存在比が変化し、それに伴って消毒効果も変化する。次亜塩素酸ナトリウムに希塩酸を加えてpH6程度に調整し、殺菌力を増した製品が市販されている。これは弱酸性[[電解水]]に近い殺菌力を持つ。後述の通り、強い酸性に傾けるほど塩素ガスが発生して危険であり、保存性も下がる。 上述のように、水道水には殺菌のため次亜塩素酸ナトリウムが微量添加されており、鑑賞魚の飼育にそのまま用いることは出来ない。しかし、水道水を数時間ほど[[太陽光]]にさらすことで、次亜塩素酸同様に、次亜塩素酸ナトリウムを不均化・分解することができる。 === 消臭 === 次亜塩素酸ナトリウムには消臭能力があり、それは脱染特性と密接に関連している<ref name="aise">{{cite web|url= http://aise.eu/www-old/PDF/intr_scientific.pdf|title= Benefits and Safety Aspects of Hypochlorite Formulated in Domestic Products|publisher= AISE - International Association for Soaps, Detergents and Maintenance Products|date= March 1997|quote= This Support Dossier deals with information on the environmental and human safety evaluation of hypochlorite, and on its benefits as a disinfecting, deodorising and stain removing agent.|url-status= dead|archive-url= https://web.archive.org/web/20140330021617/http://aise.eu/www-old/PDF/intr_scientific.pdf|archive-date= 30 March 2014|df= dmy-all |accessdate=2014-03}}</ref>。 == 安全性 == マウスの経口毒性は[[LD50|LD<sub>50</sub>]] = 5800 mg/kg。接触皮膚炎を起こす。<ref>{{Cite web|和書|title=健栄製薬 {{!}} 5.次亜塩素酸ナトリウム(Sodium Hypochlorite)|消毒剤の毒性、副作用、中毒 {{!}} 感染対策・手洗いの消毒用エタノールのトップメーカー|url=https://www.kenei-pharm.com/medical/countermeasure/toxicity/05.php|website=www.kenei-pharm.com|accessdate=2020-07-05|language=ja}}</ref> == 危険性 == 以下は一般使用上における危険性について記す。 === 酸との反応 === [[漂白剤]]や[[殺菌剤]]といった次亜塩素酸ナトリウム水溶液を、[[塩酸]]などの強酸性物質(トイレ用洗剤など)と混合すると、黄緑色の有毒な[[塩素]]ガスが発生する。これにより、浴室で洗剤をまぜたことによる死亡事故も起きており、次亜塩素酸ナトリウムを含有する家庭用製品には『混ぜるな危険』の注意書きがされている。また、塩酸ほどではないものの、[[食酢]]や[[クエン酸]]、[[炭酸]]を大量に加えた場合も同様の反応が起き、塩素が発生することがある。 : <chem>NaClO + 2HCl -> NaCl + H2O + Cl2</chem> === 空間除菌剤としての販売 === 次亜塩素酸ナトリウムを含んだ錠剤を[[不織布]]で包み、首からさげる「[[空間除菌剤]]」と称して一部メーカーから販売されていたが、汗などで濡れると、局所的に高濃度の水溶液を生成し[[化学火傷]]を起こすため、[[消費者庁]]から使用中止の呼びかけが行われた<ref>{{PDFlink|[http://www.caa.go.jp/safety/pdf/130329kouhyou_2.pdf 次亜塩素酸ナトリウムを含むとの表示がある「ウイルスプロテクター」 の自主回収及びその他の携帯型空間除菌剤の使用上の注意事項につい] 消費者庁 平成25年3月29日}}</ref>。また、[[亜塩素酸ナトリウム]]を原料とした空間除菌剤も販売されており、前述の次亜塩素酸を原料とした空間除菌剤と混同する向きも見られた。消費者庁においてメーカー別の空間除菌剤の安全性を比較した情報提供が行われている<ref>[https://www.kokusen.go.jp/test/data/s_test/n-20130430_1.html 独立行政法人国民生活センター 首から下げるタイプの除菌用品の安全性]</ref>。なお、次亜塩素酸ナトリウムの空気への[[拡散]]を利用した消毒薬の効果は十分に検証されていない。 === 水溶液の噴霧による除菌 === <!---本記事と関連性が薄く、参考文献ではWHOは'''次亜塩素酸ナトリウムの水溶液'''への明確な言及はしていないので、コメントアウトしています。 [[世界保健機関]] は、'''次亜塩素酸ナトリウムの水溶液'''を含む'''消毒剤'''を空間に噴霧した際に殺菌効果は得られず、肉体的、精神的に'''有害'''だと報告している< -- これは「次亜塩素酸水」に関するもの!混同しないように。さらに、自己出典。<ref>[https://echotech.co.jp/blog/11787/ 次亜塩素酸水」の空間噴霧について(NITE=製品評価技術基盤機構)] エコーテック株式会社</ref> また、殺菌・除菌の有効性は未確認である。更に塩素により電子機器が故障したとの報告がある<ref>[https://www.gse-nansatsu.com/www/GsewPostSingle.php?fdtGsewPostId=410 観光バス車内除菌・消臭対策について(更新2020.05.29)] GSE南薩観光</ref>。<ref>{{PDFlink|[https://www.meti.go.jp/press/2020/05/20200529005/20200529005-3.pdf 「次亜塩素酸水」の空間噴霧について(ファクトシート) 令和2年5月29日現在] 経済産業省}}のページ2、「WHO「COVID-19 に係る環境表面の洗浄・消毒」(2020年 5月 15日)(仮訳・抜粋) ●消毒剤噴霧等の非接触手法」より。※これは「消毒剤一般の噴霧」に対する警告文であることに注意。</ref>。 ---> 除菌を目的として、次亜塩素酸ナトリウム水溶液を空間に噴射するスプレー等も一部メーカーから販売されているが、[[厚生労働省]]は、人がいる空間への次亜塩素酸ナトリウム水溶液の噴霧については、眼や皮膚に付着したり吸入したりすると危険であり、噴霧した空間を浮遊する全てのウイルスの感染力を滅失させる保証もないことから、絶対に行ってはいけないと警告している<ref>{{Cite web|和書|title=新型コロナウイルスの消毒・除菌方法について(厚生労働省・経済産業省・消費者庁特設ページ) |url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/syoudoku_00001.html |website=www.mhlw.go.jp |access-date=2022-08-16 |language=ja}}</ref>。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの流行]]に伴い、次亜塩素酸ナトリウムを含む漂白剤水溶液を加湿器に入れて噴霧したための事故も起きている{{要出典|date=2023年5月}}。 次亜塩素酸ナトリウム水溶液を吸入した場合には呼吸器への刺激が生じ、急性的な症状として、化学熱傷や[[失明]]のおそれがあり<ref>{{Cite web|和書|title=「空気清浄機に漂白剤入れないで」やけど、失明のおそれ : ライフ : ニュース |url=https://www.yomiuri.co.jp/life/20200518-OYT8T50163/ |website=読売新聞オンライン |date=2020-05-19 |accessdate=2020-06-29 |language=ja}}</ref>、長期曝露、反復曝露は全身毒性の障害のおそれがある<ref>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7681-52-9.html 次亜塩素酸ナトリウム (水溶液)] 職場のあんぜんサイト 厚生労働省</ref>。また次亜塩素酸ナトリウムと[[水酸化ナトリウム]]を混合した溶液を噴霧した空間で生活していたところ、喉頭[[肉芽腫]]を生じたとする報告がある<ref>川井田政弘, 福田宏之, 加納滋 ほか, 「[https://doi.org/10.2468/jbes.38.309 アルカリ性殺菌消毒薬の吸入後に生じた喉頭肉芽腫の1例]」『日本気管食道科学会会報』 38巻 3号 1987年 p.309-313, {{doi|10.2468/jbes.38.309}}。</ref>。 == 有機塩素化合物 == 次亜塩素酸ナトリウムによる漂白は、[[遊離塩素]]による塩素化反応なので、[[トリハロメタン]]を始めとする多種多様な[[有機塩素化合物]]を生成する。しかし、有機塩素化合物は、高濃度で吸入、経口摂取しなければ問題はないため、十分に換気を行えば、洗濯やまな板除菌等、日常的な用途において健康上の問題は生じない。ただし、洗浄が不十分なことにより、容器に残留した次亜塩素酸ナトリウムが、前述のように酸性系統の薬剤(市販品含む)と反応して塩素ガスを生成したり、エタノール(消毒用を含む)と反応して有害なクロロホルムを生成する事がある<ref>日高利夫、桐ヶ谷忠司、上條昌彌 ほか、「[https://doi.org/10.3358/shokueishi.33.267 次亜塩素酸ナトリウム処理野菜における残留塩素の消失とクロロホルムの生成]」『食品衛生学雑誌』 33巻 3号 1992年 p.267-273_1, {{doi|10.3358/shokueishi.33.267}}</ref><ref name="kosei-jiaensosui" />。 === 食品への使用 === [[ホウレンソウ]]を次亜塩素酸ナトリウムで処理した場合のクロロホルムの生成量は[[微酸性電解水|微酸性次亜塩素酸水]]よりも多く<ref name="kosei-jiaensosui">[https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002wy32-att/2r9852000002wybg.pdf 次亜塩素酸水] P.8 厚生労働省</ref>、0.07ppmであったとされる<ref name="kosei-jiaensosui" />が、これはアメリカのスーパーマーケットにおける調査での食品中に含まれていたクロロホルムの平均濃度である0.071ppm<ref>[https://www.env.go.jp/info/iken/h180711a/a-4.pdf クロロホルムに係る健康リスク評価について(案)] P.42 環境省</ref>と同程度である。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} ==関連文献== * {{Cite journal |和書|author=小方芳郎 |author2=木村眞 |title=次亜ハロゲン酸塩による酸化 : 廃水浄化に関連して |date=1979 |publisher=有機合成化学協会 |journal=有機合成化学協会誌 |volume=37 |issue=7 |doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.37.581 |pages=581-594 |ref= }} == 関連項目 == * [[漂白剤]] * [[次亜塩素酸]] * [[さらし粉]] * [[下水処理場]] * [[浄化槽]] * [[消毒薬]] * [[消毒用アルコール]] * [[炭酸ナトリウム過酸化水素化物]] == 外部リンク == * [http://www.cml-office.org/wwatch/alkalli/comment-ph-15 次亜塩素酸ナトリウム液・次亜塩素酸水ミストを吸入してはいけない(2020/05/10)] 山形大学理学部物質生命化学科 天羽研究室 * {{Kotobank}} {{ナトリウムのオキソ酸塩}} {{DEFAULTSORT:しあえんそさんなとりうむ}} [[Category:ナトリウムの化合物]] [[Category:次亜塩素酸塩]] [[Category:漂白剤]] [[Category:殺菌消毒薬]]
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国体
国体(こくたい、國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという。 国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化された。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された。 もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、明治維新の後の過渡期を経て、帝国憲法と教育勅語により定式化された。 「国体」は旧字体で「國體」と書き、「國」という字は一政体の下に属する土地・人民などの意、「體」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である。 国体という語は、古くから漢籍に見え、『管子』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『春秋穀梁伝』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない。その後、漢書に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか後漢書、晋書、旧唐書、宋史、続資治通鑑綱目などに表れる用例も似たような意味である。 日本において国体という語が多用されるのは近世になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は近代のものと異なる。国体の語が日本の古典に現れるのは、延喜式所載の出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命を国体見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである。次いで『大鏡異本陰書』や『古事談』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる。 日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年(1689)序、正徳6年(1717)刊の栗山潜鋒『保建大記』である。この間の元禄11年(1698)の森尚謙『儼塾集』に邦体という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、谷秦山、新井白石、荻生徂徠、松宮観山、高山健貞、賀茂真淵、山岡浚明、林子平、中井竹山、村田春海、平山行蔵、本居宣長、平田篤胤、会沢正志斎、青山延于、佐藤信淵、鶴峯戊申、江川英龍、大槻磐渓、安積艮斎、藤田東湖などがいる。 1853年(嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる。たとえば黒船来航の年の7月、前水戸藩主徳川斉昭が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御国体に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月伊達慶邦が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御国体に御座候」とある。同年8月、孝明天皇が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、国体いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年(1854)11月の賀茂臨時祭、安政5年(1858)4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年(1862)5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その国体に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年(1864)、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、国体あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である。 明治維新後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに詔勅に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年(1868)5月、奥羽士民を告諭するための詔に「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て国体を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし国体を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている。次いで明治2年(1869)2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ国体を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の国体を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、国体なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の軍人勅諭に「かつは我が国体にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある。 以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた。 帝国学士院『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は教育勅語を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に万世一系の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという。 国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である。 古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀の神功皇后の三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである。 神国思想は万世一系の思想につながる。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年(646)に中大兄皇子が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる。 貞観11年(869)12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る伊勢神宮への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の石清水八幡宮への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない。平安貴族の日記である小右記や玉葉に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である保元物語に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、源平盛衰記に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。貞永年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。蒙古襲来の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという。 鎌倉時代の末、虎関師錬は著書『元亨釈書』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという。 南北朝時代、南朝方の公家北畠親房は『神皇正統記』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた。 中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。 近世の初め、天下人の豊臣秀吉や徳川家康は外国宛書簡で神国思想を表明する。 神国思想や自国優越思想、すなわち日本の国体が特異であるという点について、これを学者が詳細に議論するようになったのは徳川幕府が開かれてからである。その理由は、学問が発達し、日本古代の建国の体制が明らかになったことが一般的理由であるが、さらに、儒家がやたらと唐土を尊び日本を卑下する態度に対して反発がおこったこと、また、江戸の幕府が繁栄しているのと対照的に京都の朝廷が衰微していたので感情的に尊王の思潮が湧いたこと等が理由となった。特に京都在住の学者の間にその傾向があった。 藤原惺窩(1561-1619)は日本近世儒学の先駆けとなった。『千代もと草』には次のように記される。天照大神は日本の主であるが、その神宮は茅葺であり、食事は黒米である。家居を飾らず珍しい物を食べずに天下万民を憐れむ。神武天皇以来、この掟を守って道を行ったため、後白河法皇まで代々子孫に天下を伝えて栄えた、と。また、神道については、万民を憐み慈悲を施すことを極意とする点において神道も儒教も同じであるという。 林羅山(1583-1657)は藤原惺窩に学び、日本儒学の棟梁になった。その著『本朝神社考』で、仏教を憎み、神仏習合を排斥した。また韻文で「倭賦」を作って神国日本の霊秀を詠じた。 山鹿素行(1622-1685)は林羅山に学び別に一家を立てた。兵法家として知られるが本人は儒者を自任した。幕府の忌憚に触れ赤穂に配流された。配流中の寛文9年(1669)に『中朝事実』を著した。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた。 熊沢蕃山(1619-1691)は陽明学者として皇国の尊厳を高唱した。著書『集義外書』で「日本は辺土なれども太陽の出たまう国にして人の気質もっとも霊なり」といい、また著書『集義和書』で、仁義礼知信や智仁勇の論が日本にないようにみえるが、日本においては三種の神器を不言の経典となし、これらの諸徳の教えは全てこの神器によって表象されているのだと論じた。蕃山はまた、日本の皇祖は呉の太伯の後裔であるとの説を立てたが、この説は後に批判された。蕃山の著とされる『三輪物語』には「本朝は三界の根源にして神明をもって元祖とす。神明は宇宙の宗廟なり。我が国開闢の初め天地と共に神明あらわれ給えり。故に国を神国といい道を神道という。」「千界の源、万国の本は、我が国なり。」「我が朝の皇統を至尊と仰ぎ奉ることは本よりの義なり。」と記された。 吉川惟足(1616-1690)は吉田神道を受けて吉川流神道一派を立てた。吉田兼倶『神道大意』について講じ、神国日本が万国に秀でているとして、外教を崇める者を非難して「これ日本が万国の根本の国なり」、「神明最初出現の国という心にて神国というぞ」、「我が国に生まれて神の子孫たる人、神国の粟を食みながら、他邦の道をあがめ、わが先祖の道を知らざるは、たとい万巻の書をそらんずるとも一文不通の盲人というべし。もっとも憐哀すべきかな」と述べた。 度会延佳(1615-1690)は伊勢神道の復興し、『陽復記』を著して主に神儒習合というべき神道説を展開した。唐土の易、陰陽、理気の学を日本の神道と合わせた。度会延経は父延佳の度会神道を継いで家業を興したが主に考証に専念したため神道論や国体論を残さなかった。度会延経の門人の喜早清在は『陽復記衍義』を著して、我が国が国常立尊・天照大神に始まり神武天皇の166代の今日に至るまで他姓を交えず神器を伝えたことは世に比類がないと論じた。度会常典も『神国問答』を著して、我が国が神国である所以、他国に優れている所以を論じた。ついで度会常彰は元文2年(1737)12月『神道弁明』を公にし、日本の国体の成立の君先民後、すなわち「彼は民ありて後に主を立て、この国は農民あらざるの前に既に以て主たり」とし、皇統の天壌無窮を論じた。そして延享5年(1748)に著した『日本国風』巻一に「神国」と題して、日本が神国である所以について、大祖・国常立尊より綿々として今上天皇に至るまで伝えてきた皇統が神胤であり、また国民も全て神孫であることによって説明した。さらに神国と称された所以について、和歌や国史や家伝文書等に現れた神国という語、または神国という観念が現れた場合を考証して説明した。「神国妄謂太伯徐福後」の項に、偏った儒者が妄りに、日本を夏康少康の子孫であるとする魏書の説を用い、または秦の徐福の後裔であるという説や、呉の太伯の子孫であるという説を採るのを攻撃し、一つ一つ史実を考証してそれらの説を否定した。 山崎闇斎(1619-1682)は、僧侶をやめて朱子学に入り、さらに神道を修めた。皇国のために万丈の気を吐いたという。闇斎に関しては先哲叢談に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。闇斎の学統には儒学と神道があるが、どちらも国体の尊厳を高唱した点において同じである。 山崎闇斎が創始した垂加神道に関係して、日本が神国たる所以や皇統が神聖なる所以を述べて、国体の尊厳を説く者は少なくない。たとえば高屋近文『神道啓蒙』、大山為起『唯一論』、伴部安崇『神道問答一名和漢問答』、若林強斎『神道大意』一巻、尾張藩主徳川義直『神祇宝典』自序などがある。 浅見絅斎(1652-1712)は、山崎闇斎門下の著名人であり、『靖献遺言』を著し、勤王を鼓吹した。「関東の地を踏まず、諸侯に仕えず」と誓い、「もし時を得ば義兵を挙げて王室をたすくべし」ということで同書を著したという。これをみずから講じた『靖献遺言講義』では、当時の儒者がいたずらに唐土を尊び自国を卑しむのを攻撃し、皇国を尊ぶべき所以を説いた。また、ある人が天皇に拝謁したと聞いて、皇統の無窮を讃して「天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明に拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国の万国に優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客が逆になり、どちらも自国を「中国」と称し、相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた。また湯武放伐(革命思想)について、同門の佐藤直方がこれを是認したのに対し、浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つの目的は君臣父子の大倫より外これ無く候」と論じた。なお、山崎闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎の3人を崎門の三傑という。 水戸黄門徳川光圀(1628-1701)は若いころ伯夷伝を読んで発奮し、修史を志したという。水戸学なるものは光圀の修史のために勃興したものであった。光圀は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。崎門学者は闇斎流の学統を水戸に移植した。水戸学は闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない。近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる。 栗山潜鋒(1671-1706)は、山崎闇斎門下の桑名松雲の門下であり『保建大記』を著した。同書の序に皇統の万世一系を唱えて「天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した。同書の本文では、たとえば次の出来事について論じた。それは平安時代末期のこと、宋の明州の刺史(地方長官)が日本の朝廷に供物を献じたが、その送り状が無礼であった。天皇に宛てて「日本国王に賜う」と書いてあったのである。大外記清原頼業は受け取りを拒むべきだと進言したが、後白河法皇は聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。 ここに出て来る国体という語は近世最初の用例の一つだという。 谷秦山(1663-1718)は闇斎門下の浅見絅斎に学び、別に山崎闇斎の垂加神道をついだ。栗山潜鋒『保建大記』をもって神道を大根とし孔孟を羽翼とした名分上の良書とみなして講釈し、これを門人が記録して『保建大記打聞』と称した。その中で、三種の神器と皇位の関係が不可分であることを論じ、寿永の乱(源平合戦)のとき平家が安徳天皇をつれて西国に落ちたあと後鳥羽天皇が神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年の南北朝正閏問題で重視された神器論に通じるものがある。 三宅観瀾(1674-1718)は闇斎門下の浅見絅斎の門下であり、徳川光圀に招聘され、その国史篇修総裁となった。水戸の国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本の国体の由来を論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器と国家と皇道の関係について詳しく説いた。純粋な古道をもって皇道の本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた。 徳川綱條が養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『大日本史』が成った。大日本史の序文に次のようにある。神武天皇が基礎を始めて二千余年、神孫にして神聖なる歴代天皇が承け継ぎ、姦賊の皇位を狙う心を生まず、神器は日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因をつきつめると、歴代天皇の仁徳恩沢が民心を固結し国基を盤石にすることに由来する、と。また、水戸の彰考館総裁(修史責任者)安積澹泊は自著『列祖成績』に序して尊王の大義を説いた。 西川如見(1648-1724)は蘭学によって地理学を修め、『日本水土考』を著し、日本列島の地理上の優位性や日本の神国たる所以を論じた。蘭学者が西洋を崇め自国を卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者でありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学に影響を及ぼした。西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。 荻生徂徠(1666-1728)に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない。徂徠門下の太宰春台もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した。同門の山県周南もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった。 石田梅岩(1685-1744)は、心学の徒であり、『都鄙問答』において日本の皇統が神孫であって唐土とは尊卑が異なることを論じて「我が朝には大神宮の御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮を宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた。 竹内式部(1712-1768)は宝暦事件の張本人として討幕運動の先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して、天皇を神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神の御末なれば、直に神孫と申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各々品物の才能を尽くして御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国の大義なり」と。 山県大弐(1725-1767)は山崎闇斎門下の三宅尚斎の門下の加々美桜塢の門下(つまり山崎闇斎の曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本の優越と皇統の不可侵を論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した。 平賀源内(1728-1780)は戯作者であるが、儒学者のシナ崇拝に反発して近世後期に流行する自国尊重論を先取りし、戯作『風流志道軒伝』にて次のように説いた。 井戸で育った蛙学者が、めった〔やたら〕に唐贔屓になって、我が生まれた日本を東夷と称し、天照大神は呉太伯に違いないと、附会の説(こじつけ説)を言い散らし、文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、知行の米(給与米)を周の升(古代シナの小さい枡)で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが制札(法律)の多きを見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教えは出来、病ありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本と違って天子が渡り者と同様にて、気に入らねば取り替えて、天下は一人の天下にあらず天下の天下なりと、減らず口を言い散らして、主の天下をひったくる不埒千万なる国ゆえ、聖人出でて教え給う。日本は自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても太平をなす。 中井竹山(1730-1804)は大阪在住の朱子学者であるが、世間の儒学者流が漢土を尊び自国を卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流の態度を非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的で書かれたものである。また、松平定信の諮詢に答えて『草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて、百王不易は四海万国に超越する美事であるが、朝廷が衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養に散財したことが原因であると論じた。 近世も後期になると国体論が盛り上がる。儒学と対立する国学が勃興し、復古思想を根拠にして国粋主義を唱える。水戸学も徳川斉昭を中心に発達し、国体という語も普及する。国学者と儒学者の間で和漢の国体に関する論争が盛んになり、国体について論議するものがあらわれる。 復古国学は、いわゆる迷信に陥った諸派神道説の不純を斥け、純正な古道なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国を尊び自国を卑しむ物門流儒者に対する反発が復古国学の気運を助長した。復古国学は契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤によって大成されたとされるが、契沖と荷田春満は古語の研究に専念し、いわゆる古道の探求は賀茂真淵から始まる。 賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し、古道に関する見識を纏め、シナの国柄が卑しいことを説き、これに比べて日本の優秀な点を示した。その大要で次のようにいう。 賀茂真淵の学統を継ぐ者は数十名おり、村田春海、小山田与清、栗田土満などがいる。その中で出藍は本居宣長である。 本居宣長(1730-1801)のライフワークは古事記の研究である。その結果を大成した『古事記伝』には宣長の国体観・神道観が随所に散見される。これを一つに纏めたものが、明和8年(1771)に著した『直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う。 皇大御国は掛くも可畏き神御祖天照大御神の御生ましまする大御国にして、大御神大御手に天つ璽を捧持して万千秋の秋長に吾皇子の所知めさん国なりと言依さし賜えりしまにまに、天雲の向伏すかぎり、谷蟆の渡るきわみ、皇御孫命の大御食国と定まりて、天下には荒ぶる神もなく、まつろわぬ人もなく、千万御世の御末の御代までの天皇命はしも、大御神の御子とましまして天つ神の御心を大御心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平けく所知看しける大御国になもありければ古えの大御世には道という言挙もさらになかりき 以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神の生まれた国であり、天照大神が天璽を手に持って、万千秋の秋長に我が皇子の所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方から、ヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり、天下に荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇は神の子であって、天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平らかに所知する国であればこそ、古世に道という言葉を挙げることもなかった、と。 本居宣長はこういって日本の国柄の尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと、君主が定まらず邪神が荒ぶるから、人心が悪く習俗が乱れ、国を取れば誰でも直ちに君主となる。上は下に奪われないように構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信の教えなどが生まれるのである。聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである。我が国は古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々は乱れることなく、天下は穏やかに治まって、皇統は長久に伝わってきた。その後、書籍が渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国の古道を神道と名付けた。時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下の政事までもが漢国のようになり、国が乱れるようになった、というのである。本居宣長によれば、天照大神の仰せのとおりに皇孫が天下を所知し皇位が永遠に動かないことこそ、この道が異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという。 また本居宣長は『玉くしげ』を著して、日本が異国に優越する理由を天壌無窮の神勅が実現していることに求め、次のように説いた。 さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らします天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく、天地のあらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって、神代の古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。 夏目甕麿(1773-1822)は本居宣長の門人であり、文化6年(1809)『古野の若菜』を著し、シナの禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ、儒教は人の所行を主とし、仏教や老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性を宗とする点で違いがあると論じた。 本居大平は本居宣長の養子であり、その学問の正統を継いだ。文政10年(1827)に『古学要』を著して、その中で、日本は異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ、次のように述べた。曰く、御国(日本)は万国の祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国は手足であり、人間関係にたとえれば御国は祖先であり異国は族類縁者であり、食い物にたとえれば御国は五穀(主食)で異国は野菜海魚(おかず)の如きものである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足がなければ足らないように、五穀があって野菜海魚がなければ足らないように、異国はみな御国を助け備わりとなるべきものなので、決して憎むべきものではなく相睦ぶべきものである、と。 平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長の没後の門人を自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教を排斥し、古道を鼓吹することに熱狂した。著書は百余部・数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国の尊厳を闡明するとともに、異国を攻撃し異教を排斥するものばかりである。なかでも日本の古道を闡明し国体の尊厳を説いたものは文化6年(1809)に講演した『古道大意』である。 『古道大意』では、まず神国日本が万国に比類なき尊い国であるとして次のように言う。 我が国は天神の殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔な違いで引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国に相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末に違いないでござる。 実に御国の人に限りて、すべてこの天地にありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い、尊く勝れていることは、まずこの御国を神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉めに申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国を開闢なされたるも、みな神世の尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国に御出来なされたることなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国と称すは実に宇宙挙げての公論なること、さらに論なきことなり。 これを思うにも皇国は天地のモトで、もろもろの事物、ことごとく万国に優れておる所以もまた、もろもろの外国のものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござる。 また、日本は小国であるといっても国土の大小は尊卑を分ける基準にならないと論じた。さらに日本が皇統連綿であること、他国に比類ない有り難い国であることと、そうである理由を論じて次のように述べた。 神武天皇は大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈が連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々に比類なき有り難い御国で〔略〕。 天照大御神の殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器を天子の御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国は我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。 さらに西川如見『日本水土考』やケンプル『日本紀行』を引用し、日本の国土の優秀は世界に比類がないと論じ、外国崇拝の蘭学者を批判した。その際に国体という語を次のように用いた。 近頃、はやり初めたるオランダの学問をする輩は、よく外国の様子も知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西の極なる国々を贔屓して、〔...〕万国の絵図などを出して、この通り日本は小国じゃなどというて驚かす。〔...〕こりゃ皆、神国の神国たるを知らず、御国の国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国の世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる。 平田篤胤は別の著書『大道或門』で皇国の尊貴である所以を述べて次のように述べた。 矢野玄道は平田篤胤の門人であり、幕末維新期、特に明治初期に皇学派の中心人物として新政に重きをなした。文久3年(1863)に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本が万世一系にして皇統連綿である所以を説いた。 八田知紀も同派の皇学者であって弘化2年(1845)に公にした『桃岡雑記』において、皇国の教えは自然の道であって、天照大神の神勅以来、君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じ、あわせてシナの国体を批評した。 復古国学派の人々と儒学者の間で、主として内外の国体の比較論に関して論争が惹起された。 幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を強く打ち出した。水戸学者会沢正志斎の著書『新論』が国体観念を浮上させる画期となった。『新論』の構想は、危機克服の指針を求めていた志士たちの心を捉え、水戸藩を超えて日本全国に流布した。このことは国体論を一つの思想として独立させた。 内務省神社局 (1921) によれば、国体論の発達は後期水戸学において絶頂に達した。いわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥に熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断に陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点を高所に置いて、偏せず捕らわれず、徹頭徹尾に批判的な見地に立ち、内に愛国尊王の精神を抱くというものであるという。 水戸学の主要人物は、水戸藩主徳川斉昭を中心として、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖などである。 徳川斉昭は天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識を持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館の趣旨と由来を記した「弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇に地球儀を献上した時の上表文に見ることができる。 「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。「宝祚(皇位)これをもって無窮に、国体これをもって尊厳に、蒼生(人民)これをもって安寧に、蛮夷戎狄(諸外国)これをもって率服(服従)す」。しかしそれでも歴代天皇は満足せず、外国を参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土の堯・舜・夏・殷・周の治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と。 「告志篇」では次のように述べた。そもそも日本は神聖の国であって、天祖(天照大神)天孫(歴代天皇)が皇統を垂れ皇位を建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位の隆盛は天壌とともに窮まり無い。君臣父子の常道から衣食住の日用に至るまで全て天祖の恩賚である。万民が永く飢えや寒さを免れ、天下に皇位を狙う非望の萌しが見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさに盛衰あり治乱あり、戦国後期に至って天下の乱は極まった。東照宮(徳川家康)が三河に起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝を助け諸侯を鎮めた。二百余年の今に至るまで天下が泰平であり、人民が塗炭の苦しみを免れ、生まれながらに太平の恩沢を浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国の尊きゆえんと天祖の恩賚とを忘るべからず」。天朝は天祖の日嗣であり、将軍は東照宮の神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖の血脈を伝え、おのおのは自分の先祖の家系を継承する。この点をよくわきまえ、天祖・東照宮の恩に報いんとするならば先君・先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた。 「弘道館記」も「告志篇」も皇統が神聖であって万世に無窮であり、国体の尊厳であって君臣の名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇を根本義としなければならないと述べた。 「弘道館学則」第1条に曰く、弘道館に出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し、忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業は効果が異ならない、と。また同第2条に曰く、「神道」「聖学」の意味は弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚の無窮と君臣父子の大倫が天地とともにかわらないのは天下の大道、いわゆる「惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫が採用したものであって、これもまた人倫を明にするものである。両者は一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と。 嘉永6年(1853)に徳川斉昭は天皇に地球儀を献上した。その時の上表文に、日本の建国の国是が生々発展にあること、神孫が永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている。上表文に次のようにある。 藤田幽谷は徳川斉昭に仕えて31人目の彰考館総裁(修史責任者)となり、大義名分を高唱した。寛政3年(1791)18歳の時に『正名論』を著し、皇室が政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以を論じ、名分を正し名分を厳密にすることが国体の本領であると説いた。具体的には次のようにいう。曰く、天皇は国事に関与せず、単に国王の待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府は実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政を称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府を弁護するものであって当時の時勢が分かる。 会沢正志斎は藤田幽谷の門弟であり33人目の彰考館総裁となった。識見高邁であり、公平な見地で国学を批判し儒学を考察し、両者の間に一家の国体説を樹立し、水戸学の国体尊厳説を大成し、近世国体論の極地に達したといわれる。数々の著書があり、そのすべてが国体を論じ名分を説くものである。そのうち国体論として最も有名なものが『新論』である。 文政8年(1825)会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主に献上した。現状を厳しく批判したため公刊を許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中下3章を設けた。儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に栗田寛がこれを天朝正学と命名した。会沢正志斎は『新論』で皇国の尊貴、皇恩の宏大、これを奉体する国民の思想が人為でなく自然に生じることを説いた。次のように述べる。 会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本が尊い理由の第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた。 会沢正志斎は著書『下学邇道』の中で日本の地理上の位置、皇位の安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる。 会沢正志斎『閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば、世人は何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実を知らない。これは耳学問の弊害であるから今その実事を論じてみせよう、といって、以下の類いを尊王の義とした。 会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文で解説したものである。皇統の神聖を論じ、国体の尊厳を説き、人倫の大道が元初より具わっていたことを明らかにしたという。弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した。 会沢正志斎『江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して、国体が変わるべきでない所以、および三種の神器と国体との関係を論じ、また「建国の大体を明らかにして天下の人心を一にする事」と題して、祀典(祭祀の儀式)を修めて民の迷信を絶ち、歴代天皇の祀典を興し、諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典に列する等は建国の体に添うことを論じた。 そのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある。以上、会沢正志斎の国体論について内務省神社局 (1921) がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下が正しいこと、三種の神器が尊貴であること、皇国の地位が万国に優越して比類ないことであり、その行論は、一糸の乱れもなく1921年(大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという。 藤田東湖は藤田幽谷の子であり会沢正志斎の門に入った。熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な「回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州の光輝や国体の尊厳を絶唱するものである。藤田東湖はまた『弘道館記述義』を著して弘道館記の意義を述べ、日本の国体において皇室は必ず日神の一系であることを論じて次のように言った。曰く、古くは天皇を生じてスメラミコトという。スメラという言葉は統御をいう。ミコトという言葉は尊称である。おそらく宇内を統御する至尊という意味である。天業を称してアマツヒというのは天日である。ツギは継嗣である。これはおそらく日神の後胤でなければ皇緒を継げないことを言う。天日の継嗣は世々神器を奉じて万姓に君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室を輔翼する。これはおそらく神州の基礎を建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫が創業垂統する所以は威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文を寄せて、日本の建国の体はその根底から西土と異なり、その尊厳は確乎として他国と比較にならないことを述べた。 豊田松岡も会沢正志斎の門に入り、彰考館総裁になった。藤田東湖の著書『弘道館述義』に序文を寄せて、いわゆる神聖大道の一源なるものを説いた。また藩主に献じた「禦虜策」において、日本国の神聖なる所以、神明の尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた。 吉田松陰は幕末の志士として有名である。陽明学に依拠し、その思想系統を山鹿素行に受け、また山崎闇斎流の影響も受けた。吉田松陰の勤王運動はその国体論に由来するといわれる。その国体に関する精神は幕末志士の間で基盤となって明治維新につながった。 吉田松陰は安政3年8月22日に山鹿素行『武教全書』の講義を開始し、その主旨を述べるにあたって皇国の尊厳と士道との関係を論じ、また国々にはそれぞれ特殊の道があり、他国の道を必ずしも日本に用いることができないわけを次のように論じた。 国体というは、神州には神州の体あり、異国は異国の体あり。異国の書を読めば、とにかく異国の事のみ美と思い、我が国をば却って賤しみて、異国を羨むように成り行くこと、学者の通患にて、これ神州の体は異国の体と異なるわけを知らぬゆえなり。ゆえに晦菴の小学にて前にいう士道は大抵知れたれど、これは唐人の作りたる書ゆえ、国体を弁ぜずして遙かに読むときは、同じく異国を羨み我が国体を失うように成り行くことを免れざること、先師深く慮りたまう。これ武教小学を作る所以なり。これをもって国体を考うべし。さて、その士道国体はその切要の事なれば、幼年の時より心掛けさすべきこと、これ学の本意にて志士仁人に成るようにとの教誡なり。(武教小学開講主意) 吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。 吉田松陰は安政の大獄により安政6年(1859)10月27日に刑死するが、その年の春に獄中で「坐獄日録」を記し、皇統の一系と臣道との関係について次のように論じた。 皇統綿々、千万世に伝わりて変易なきこと偶然にあらずして、即ち皇道の基本もまたここにあるなり。天照大神の神器を天孫瓊々杵尊に伝えたまえるや、宝祚之隆、与天壌無窮の御誓あり。されば漢土天竺の臣道はわれ知らず、我が国においては宝祚もとより無窮なれば、臣道もまた無窮なること深く思いを留むべし。 南北朝正閏論は幕末に盛んになった。かつて徳川光圀が南北朝の正閏をただしたとき諸学者の様々な議論を呼んだ。ある者は南朝正統論を唱え、ある者は北朝を擁護し、ある者は南北両朝ともに正統とした。特に幕末に及んで議論が盛り上がった。山県太華は天保10年に『国史纂論』を公にし、その中で南北朝の正閏を論じ、三種の神器の所在によって皇統の正閏が定まり、その間に疑義を許さないのが国体の根本義であると説いた。速水行道は文久元年『皇統正閏論』の序文において天位の唯一無二であることが国体の本然であるとして南朝の正統を論じた。 慶応3年(1867)9月、前土佐藩主山内容堂が大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し至誠をもって万国に接し王政復古の業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉りそうろう」と述べた。当時の政治家は国体を重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字を祐筆福岡孝弟に書かせた。当時事務を所管した福岡孝弟は「国体変換」と言っていた。明治維新の始め、福岡孝弟も起草に関わった五箇条の御誓文は、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、智識を世界に求めることを誓った。 維新の前後においては主に米国と英国を先進国としてその文化を仰いだ。米国は日本を開国させた後、日本を新参の弟子かのように指導した。英国は米国と同言語であり、当時はインドを拠点として盛んに東方に進出している時期であった。日本では米英の政治書や修身書が翻訳され、福沢諭吉が英学を根拠に功利主義を掲げて多くの通俗書を著わし実用学を鼓吹した。 英米の実用功利主義が一世を風靡する一方で、日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもない。そもそも王政復古の原動力は主に復古国学派の勃興によるものであって、明治維新の政治は国体の本領に返るものと称された。平田派国学者で地位を得た者も少なくなかった。たとえば矢野玄道、大国正隆、福羽美静、平田鉄胤、六人部是香などである。国体観念の中核というべき神祇は、明治新政の初めにおいて重んじられた。 新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局に改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教に蠱惑せられず」と唱えた。同年7月太政官の上に神祇官を置いて神祇尊崇を示し、同年10月に宣教使を置き、明治3年1月3日(1870年2月2日)に大教宣布の詔を発し、宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神の大道を宣揚すべき」ことを命じた。これは国体を発揮することにほかならないという。 大教宣布は、祭政一致や国体強化を目指した国民教化政策であったが、宣教使の員数不足や教義の未確立などから終始不振であった。神祇官は明治4年8月に神祇省に降格され、大教宣布は仏教側の反対などもあって挫折する、仏教各宗は連署して、神官と合同して宣教の任に当たりたいと政府に請願する。政府は明治5年3月に神祇省と宣教使を廃止し、教部省を置き、翌4月に神官と僧侶を合併して教導職を置く。教部省は宣教を掌り、教導職は宣教の任に当たる。神官と僧侶が合同して宣教するにあたっては、その教旨の基準を定める必要があるということで三条教憲が定められる。これは矢野玄道『三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道ら皇学派の人々がその議に関わったという。三条教憲の各条は次の通りであり、いずれも国体の趣旨に依拠している。 三条教憲を宣伝するために著された書籍は数多い。いずれも国体の基本と神祇が不可分であることを説いた。これらの書で「道」「皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道の行われる有りさまを指したものであり、多くは神代の状態を意味した。 1873年(明治6年)10月新聞紙条目が発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである。 国体を主題とした書籍として、1874年(明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年(明治8年)に宇喜多小十郎『国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話を敷衍し、神代の状態を述べたものである。 1874年(明治7年)加藤弘之は『国体新論』を発表し、当時日本に流入し始めたフランス流の民権平等説に従って、従来の保守的国体思想に反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越な論調で国学者の国体観を批判した。具体的には以下の通りである。 以上のように論じる『国体新論』について、岩倉具視が7年後に回想したところによると、それは島津久光(保守主義者)が左大臣だった時で大いに議論になったが、その時は誰も頓着しなかったという。また内務省神社局 (1921) によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本の国体を誇りに思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜で過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之は明治14年に同書を撤回し、同一説を二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、天賦人権説に反駁し、キリスト教を攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人のようになったという。 1876年(明治9年)8月、浦田長民が『大道本義』を著す。浦田長民は伊勢神宮の少宮司であり、神宮大麻の全国配布などに功績を残した。『大道本義』では、一種の神道説を展開し、その中で神祖宏業の遺蹟と皇位尊厳との関係について述べた。 1876年(明治9年)9月、元老院に憲法起草を命ず。明治天皇は元老院議長熾仁親王を召し、右大臣岩倉具視の侍立のもと、我が建国の体(国体)に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲(憲法)を起草せよとの勅語を下したのである。元老院では国憲取調委員と国憲取調懸を設けて編纂に努力し、翌月には第一草案を脱稿する。その後再度、稿を改める。 1880年(明治13年)12月、元老院が国憲案を天皇に上進する。この国憲起草は日本で初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋を模倣したのであって、国体を無視した箇条も少なくなかった。伊藤博文はこの草案を見て、これは各国憲法の焼き直しにすぎないのであって我が国体人情に適したものではないと考え、右大臣岩倉具視に書簡を出してこのことを痛論し、天皇の思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした。同月の伊藤博文の奏議に「ただ国会を起してもって君民共治の大局を成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体の変換に係る。実に昿古(空前)の大事、決して急躁をもって為すべきにあらず」とある。 1881年(明治14年)国会開設の勅諭が発さられる。その事情は次のようであった。これより先、開拓使官有物払下げ事件が起こり、さらにそれが国会開設問題に飛び火して、薩長の専横のために国会が開設されないとして薩長藩閥を非難する声が高まった。薩長の参議が国会開設に慎重であるの対し、参議の中で大隈重信が一人だけ国会早期開設の意見書を奉呈していたことが知れ渡り、人々の期待が大隈に集まった。薩長の人々はこれを大隈の陰謀に起因すると考え、10月11日に大隈を除く参議が大臣らとともに開拓使官有物払下中止と大隈追放と国会開設の三事を明治天皇に奏請した。国会開設の奏議は、自由民権運動に対する明治政府首脳部の反動を示すとともに日本憲法の特色を示している点で重要である。特に文中に「憲法の標準は建国の源流に依るはいうを待たず、願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず、広く民議を興し公に衆意を集めるも、しかも我が皇室の大権を墜さず、乾綱を総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意を要する。明治天皇は奏議を受け入れ、翌12日に国会開設の勅諭を発した。 〔前略〕顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略〕 来たる明治23年(1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設を一大標語としてきた民権論者はその気勢をそがれた感じになった。 金子堅太郎の回想によれば、1884年(明治17年)9月に明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯は次のようであったという。憲法起草を命じられた伊藤博文が欧州で憲法調査を終えて帰国した後、この月の閣議で初めて憲法制定について意見を述べ、その時「議会を開けば国体は変換する」と説いた。参議佐佐木高行は「国体の変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤の雄弁と博識に追い捲られ、閣議は伊藤の意見で決まりそうになった。閣議の後、佐佐木は制度取調局の金子堅太郎に国体の字義を尋ねて以下のような書簡を送った。 金子は佐佐木の官邸を訪ねて佐佐木の疑問に答え、さらに意見書をまとめて佐佐木に渡した。金子の意見は次のようであった。 佐佐木は金子の意見をもとに後日の閣議で伊藤に反撃した。伊藤は佐佐木に金子が入れ知恵したことを知り、制度取調局に行って金子に問い質した。「おい金子、君は国会を開いても国体が変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体は変更するものなり。国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道を敷けば山の形が変わる。君が洋服を着れば姿が変わる。西洋の文明を輸入すれば日本の言葉も変われば家も変わる。議会を開けば国体も変わるではないか」と言い、金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております。欧州の学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体は決して変更してはなりませぬ」「閣下は万世一系の天皇が統治せらるる国体を改める御考えですか」等と反駁し、互いに譲らず一時間ほど議論したという。 国体論は帝国憲法と教育勅語により制度と精神の両面で定式化される。帝国憲法は立憲主義を採る一方で、天皇の大権を幅広く定め、日本国民を臣民と位置付ける。教育勅語は臣民の教化をはかり、国体論の経典となる。 1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布される。その際の憲法発布勅語は日本の国体についてその根本を尽くしたといえる。憲法発布勅語にいう。 朕、国家の隆昌と臣民の慶福とをもって中心の欣栄とし、朕が祖宗に承くるの大権により、現在および将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す。おもうに、我が祖、我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼により、我が帝国を肇造し、もって無窮に垂れたり。これ我が神聖なる祖宗の威徳と、ならびに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(とな)い、もってその光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり。朕、我が臣民は、すなわち祖の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、その朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、あいともに和衷協同し、ますます我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、この負担を分つに堪うることを疑わざるなり。 帝国憲法の条文では、大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第1条)、皇位は皇男子孫が継承し(第2条)、天皇は神聖にして侵すべからず(第3条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第4条)と定める。帝国憲法により天皇大権に関することが確定し、これ以後、国体を論じる者は誰でもこの憲法を根拠とする。つまりこの憲法の解釈に託して国体を論じる者が続々と出る。 伊藤博文の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』は次のように説く。 穂積八束が留学から帰国して早々に帝国大学総長から委嘱をうけ帝国憲法発布の翌々日から帝国大学法科大学にて「帝国憲法の法理」を講演する。帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」について「本条の主意は国体を定むるにあり。国体を定むるとは統治権の主体と客体を定むるということなり。本条の明文によれば統御の主体は万世一系の天皇にあり、しかして統御の客体は大日本帝国にあり」、「万世一系とは公法上いわゆる正統(レヂチメート)たることを決したるなり。我が国体にては初代天皇からの皇統が万世一系の正統の君主であるという意なり。他国の憲法においては王朝(ダイナスチノー)すなわち国王の血統を掲ぐるを通例とすれども、我が邦の憲法には別に朝系を掲ぐるの必要なし。すわなち我が国体の正統は万世一系の天皇であるという主義を表出したまでである」と説く。帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」については「君主は即ち国家なり。国家は統御の主体なり。もしこれに向かって権力を適用する者あらば、国家は則ち国家ならず。権力をもって侵すべからずとは国家固有の性質なり。神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなす所の国体なるがゆえなり」と説く。 有賀長雄は帝国憲法の講義において、万世一系という語はおそらく大日本帝国憲法のみであって他国の憲法に存在できないものであり、これこそ日本の国体がシナや西洋の国体と異なることろである、と説く。 憲法発布のころから国粋主義が勢いを増す。明治の水戸学者内藤耻叟は1889年(明治22年)10月に『国体発揮』を著し、我が国の体面で他国に真似できないところは、皇室が土地所有の主・人民の祖先・教化の本・衣食の原であることによると述べる。穂積八束は1890年(明治23年)5月に国家学会雑誌で国家(即天皇)全能主義を主張する。また同月、皇学を称する一派は惟神学会を組織し機関誌『随有天神(かむながら)』を発行する。こうした動きと時を同じくして教育勅語が渙発される。 1890年(明治23年)10月、明治天皇が教育勅語を下す。先に帝国憲法により法理上から国体の根本を示したのにくわえ、さらに教育上から諭すものであり、ここに道徳的な国是を定め、国体に関して不動の解釈を与えた。教育勅語は明治天皇の意思より出たといっても、その一方で国粋主義流行の結果でもある。またその後の国粋主義を涵養する原動力ともなる。勅語に宣わく「朕おもうに、わが皇祖皇宗、国をはじむること宏遠󠄁に、徳をたつること深厚なり。わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆こころを一にして、世世その美をなせるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」という。ここにおいて教育勅語を基礎として国体を論ずることが盛んになり、勅語衍義などの解説書が続々と発表される。 教育勅語渙発と同じ月、加藤弘之が国家学会雑誌に論文「国家と宗教の関係」を発表する。同論文に以下のようにいう(大意)。 神道は仏教や耶蘇(キリスト教)に比べて宗教として最も劣るから、仏教や耶蘇に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。 将来、神道が宗教として耶蘇に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗旨の外に置く必要ある。耶蘇教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは耶蘇の主義に背くことにならないだろう。 以上のように論じる加藤弘之は、その3年前に「徳育方法案」と題して演説し、神仏儒に耶蘇を併せて小学校の徳育科に施すべしと主張していた。加藤弘之が所論を豹変させることはいつものことであるが、これも時勢の変遷を反映したものと見ることができる。後年にいわゆる「加藤の耶蘇いじめ」はここに発端する。 教育勅語を全国の学校に遵奉させることになると、唯一神を信仰するキリスト教徒は天父以外に頭を下げないためこれを喜ばず、キリスト教系の学校において教育勅語の尊重や天皇の御真影への拝礼を拒む者があった。またそれと直接関係なくても、明治国家の教育に反抗し、国体観念と相容れない思想をもつキリスト教徒もいた。1892年(明治25年)10月、井上哲次郎は、キリスト教が教育勅語と国体に背戻するとという意見を語り、翌月その意見を『教育時論』に載せる。これがいわゆる宗教教育衝突問題の発端である。 そしてキリスト教徒が騒ぎ始めると、井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」という一文を書いて二十数種の雑誌で発表し、さらに増補して単行本とし翌年4月に公刊する。同書で以下のように述べる。 これに対してキリスト教徒は全力で争い、仏教家も参戦し、学者も教育家も文筆家も皆この問題に口を挟み、単行本だけでもキリスト教を排斥する側が二十数種、これを弁護する側が十数種、その他に新聞・雑誌・講演にこれを論ずるものは数百種にのぼり、侃々諤々として議論が続く。この議論を総じて見ると、排斥側は井上哲次郎の所論を祖述するものであり、弁護側はこれに答えて、聖書にも忠孝を標榜する語が一つ二つあるとか、宗教の分野は政治教育の類いと全く別分野であり両者が衝突することはないとか、キリスト教は非国家主義であるが反国家主義でないとかと弁じる。排斥側がキリスト教の社会上政治上に害を及ぼした例を挙げると、弁護側は西洋文化の輸入、女子教育の向上、学校外の道徳心の涵養などは主にキリスト教のおかげであると応じる。弁護側が非キリスト教徒を旧弊・頑迷・退歩であると蔑むと、排斥側は、理学が進歩し進化論の発達した今日において迷信にすぎないキリスト教を今さら新思想であるともてはやす信徒こそ最も頑迷であると罵る。最後は論敵の人格攻撃に及び、互いに犬糞的応酬をするに至る。 仏教徒がキリスト教排斥に加担したことも見過ごせない。キリスト教が日本の国体と相容れないのはそれが世界的であって国家的でないからだとすれば仏教も根本義は世界的である点でキリスト教と同じであるが、仏教徒はキリスト教排斥に加担した。キリスト教徒はこの点を指摘し、たとえば大西祝は、世界的であるために我が国体を破壊すると言うならば仏教はもちろん儒教も哲学も理学も詩歌も同じであるのに何故にキリスト教のみを論難するのか、と高調した。仏教徒は聞こえないふりをしてキリスト教攻撃を続け、さらに進んで仏教は国体と深い関係があると論じるに至った。その代表は井上円了である。 井上円了は仏教哲学者であり哲学館(後の東洋大学)を設立した。宗教教育衝突問題以前の1889年(明治22年)9月に『日本政教論』を著して、皇室と仏教が不可分であることを論じた。同書に曰く、仏教は古来皇室と関係深く、また国家鎮護の一助であった。すなわち名実ともに仏教をもって国教に組織したものである。もしこの縁故を廃すれば歴史上の事実を廃することになり「皇室国体の永続を期すること難しかるべし」。歴史上縁起深い寺院を保存し、その宗教を特待しなければならない、と論じた。そこにたまたま宗教教育衝突問題が起こり、井上円了がキリスト教排斥に加担しつつ国体と仏教の関係を説いたものが『日本倫理学案』と『忠孝活論』である。1893年(明治26年)1月著『日本倫理学案』に云う。 同年7月著『忠孝活論』は次のように云う。 井上円了はここで敢えて仏教に言及しないが、その附録に「仏門忠孝一班論」を添え、仏教にも忠孝の原理があると論じ、仏教を国家主義に結びつけている。 1891年(明治24年)2月、カール・ラートゲン講義録『政治学』が翻訳出版され、君主国体という訳語が用いられる。ラートゲンはドイツ人政治学者であり、1882年(明治15年)から1890年(明治22年)まで御雇い教師として帝国大学で政治学を講じていた。阪谷芳郎の聴講ノートに「Forms of State and Government」という章がある。翻訳書では「国体及政体」と訳された。 ラートゲンは「国体及政体」で、理論上・歴史上に国家を分類し、その性質・発達を考究しようとするならば、国体・政体・憲法について、その意義・区別・関係を了解する必要があるとして、次のように講義する。 国体とは国家の形式という意味である。国体を定めるというのは、国家統御の主体と客体を定めるという意味である。 君主国体とは、国家統御の主体を君主として、国家と君主がその本体を同じくし、国家統御の客体を国土と国民より成立するものを称する。 民主国体とは、国家統御の主体を国民全体、すなわち国民の総意として、国家統御の客体を国土国民の各個より成立するものを称する。 政体とは政治の形式という意味である。政体を定めるというのは、主権の作用に形式を与えるという意味である。国家がその主権を作用するにあたり、自己の意思によるものを専制政体と称し、既定の憲法によるものを制限政体と称する。 憲法の意義は二種類あり、一つは材料上・性質上の意義、一つは形式上・効力上の意義である。性質上から定義すれば憲法とは主権の本体と作用、すなわち国体と政体を規定する諸原則の全体である。効力上から定義すれば憲法とは主権者が憲法と称する法令の全体である。 憲法学者の穂積八束は当初、君主国体の概念を憲法学で用いることに否定しており、1892年(明治25年)の講義録で「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称をもってする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」と断じ、翌年も繰り返し同じ趣旨を講する。 時の文部大臣井上毅は、国民教育の基礎として日本古来の国体と明治の政体との要旨を授ける必要があると考えていた。1893年(明治27年)4月、井上毅は山崎哲蔵という人物に初めて連絡をとり食事に誘う。山崎哲蔵はラートゲン『政治学』の翻訳者であり、君主国体という訳語を生み出していた。井上毅は同年夏に穂積八束に指図して小冊子を執筆させ、そのなかで君主国体についても論じさせる。井上毅はその公刊を計画していたが、その点検を終えたところで病死したため公刊の計画は頓挫する。ただ、穂積八束はこの年の講義から、およそ憲法を論ずるにあたっては国体の如何に注目すべきことを講じ、翌年の講義で憲法学上の君主国体説を明確にする。講義に曰く、国体は主権の所在によって区別され、政体は主権を行使する方法によって区別されるのであり、主権が一人に掌理されるものを君主国体と称し、我が帝国の国体は純粋なる君主国体である、と。 日本国内で保守的国粋主義が台頭しつつあるときに、日清戦争で日本が予想外の大勝を挙げ、日本人が自国の実力を認るようになると、日本のナショナリズムが盛り上がりを見せる。従来は国粋保存といっても漠然としたものであったが、日清戦争後は国粋主義の内容が明瞭になる。このため、この時代を自覚時代と呼ぶ者もいる。 日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。 1897年(明治29年)9月、穂積八束が『国民教育 憲法大意』を発行する。これは2年前に穂積八束が井上毅の指図を受けて執筆した小冊子であり、日清戦争中に井上毅が病死したことでお蔵入りになっていたものを、この時改めて出版したのである。その第2章「君主国体」で次のように説く。 穂積八束は翌年6月に『国民教育 愛国心』を著す。日本の国体と先祖教との関係を説き、国家主義の気炎を揚げ、以下のように説く。 こうした国家主義的風潮のなかで雑誌『日本主義』が発刊される。これより先、1897年(明治29年)5月に柴田峡治が稲垣乙丙、加藤弘之、湯本武比古、品川弥次郎ら数十名の賛同を得て大日本教会を組織した。その主義は「教育勅語を大経典とし、これを社会全般に普及し、感化の実績を収めんと欲す」ということにあった。大日本教会は1898年(明治30年)5月に機関誌『日本主義』を発刊し、その主義綱領を「日本主義によりて現今我邦における一切の宗教を排撃す。我が国民の性情に反対し、我が建国の精神に背戻し、我が国家の発展を阻害するゆえなり。しかしてこれに代えるに国家主義をもってするなり」、「君臣一家は我が国体の精華なり。これ我が皇祖皇宗の宏遠なる丕図(企画)に基づくものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。ゆえに国祖および皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を披瀝すべき所、日本主義はこれゆえに国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体せんことを務む」とする。 木村鷹太郎は日本主義のために最も努力した。その意見は1898年(明治31年)3月に公刊した『日本主義国教論』にあらわれている。同書に以下のようにいう。 以上のような思想を木村鷹太郎が『日本主義』誌上に掲げたところ、すこぶる反響が大きかったという。 高山樗牛も雑誌『日本主義』同人であり、木村鷹太郎とともに日本主義のために努力する。高山樗牛はその主張を雑誌『太陽』に続々と発表する。まず『太陽』明治30年6月号に「日本主義を賛す」と題して以下のように主張する。 高山樗牛は続けて「日本主義と哲学」「日本主義に対する世評を慨す」「世界主義と国家主義」「宗教と国家」「基督教徒の妄想」「国家的宗教」「国家至上主義に対する吾人の見解」「国民道徳の危機」等の論文を発表し、日本主義を高唱する。「基督教の逢迎主義」では、キリスト教が国体に迎合しようとするのを笑い、どれほど迎合しても抜本的に改変しない限り日本主義に容れることはできないと説く。また「我国体と新版図」と題して国家主義を論じ、君民一家の国体を次のように主張する。 高山樗牛はまた「国粋保存主義と日本主義」と題して、明治20年後に起った反動的国粋主義と日本主義との違いについて次のように述べる。 湯本武比古も雑誌『日本主義』の同人である。雑誌『日本人』明治31年3月号で発表した論文「日本主義を主張する」は日本主義流行の一面である。曰く、我らは日本主義を主張するといっても敢えてみだりに排外を主張しない。国体の精華すなわち国粋の保存を説くといっても敢えてみだりに自己を過大評価しない。旧来の陋習に恋々とすべきでなく、国家の文明富強を進め皇基を振起すべきため智識を世界に求める。ただし西洋の開化を学ぶのは、開化そのものが目的ではなく建国の精神を発揮するための方便である。我らはこの主意により日本主義を主張し国粋保存を説く。これを従来の偏狭頑固と同一視しないことを望む、と。湯本武比古はさらに「帝国主義」と題して曰く、近ごろ急に帝国主義が台頭したが、その意義には一定の説がない。我が国においては欧州の帝国主義をそのまま用いる必要がない。皇国主義すなわち帝国主義とすれば、憲法発布勅語の旨を奉体すれば間違いない、と。 日本主義は、強烈な反響を呼んだが、次のような多少の反対論もあった。 当時、日本主義の勢力は強烈であった。例外として久米邦武が1899年(明治32年)2月に、国体論なるものは恋旧心から起った迷想であると断言したこともあったが、世間一般に日本主義的理想をもって国体観を発表したものが多い。たとえば同年の加藤弘之「日支両国の国体の異同」、林甕臣『帝国教典』、1900年(明治33年)鳥尾小弥太『人道要論』、1901年(明治34年)小柳一蔵『人道原論』などがある。同年、湯本武比古と石川岩吉の共著『日本倫理史稿』は建国神話を叙述し「この国体は即ち我が国家主義の倫理思想を胚胎し来たるものなり」と述べる。 1904年(明治37年)1月談判破裂して日露戦争始まった。当時としては日本未曾有の大戦争において、愛国の気勢が熾烈を加え、国体を擁護すべき所以が更に盛んに唱道される。たとえば同年6月に日比野寛が教育勅語の解説書として著した『日本臣道論』は、国体に関して次のように論じる。曰く、我ら臣民の忠孝は国体の精華である。国体とは何かというと、国が存在すれば必ず国体を伴い、国家統治の主宰力を掌握する人の数により国体が異なる。我が帝国は君主国体であり、天下の大権は唯一の聖天子が掌握し、万民は皇室を仰いで奉戴する。至忠は我ら臣民の本願であり、至誠は建国の太古より綿々として我が民族が独有するところである。皇室に献身的奉仕をし、忠勇無二であるのは世界史上に異彩を放つ美点である、と。 日露戦争の戦局が進んで日本が陸戦や海戦で連勝すると国民の意気が昂ぶり、戦勝の要因を探って国体の優秀に及ぶことが盛んになる。井上哲次郎は1904年(明治37年)12月付けで雑誌『日本人』に「日本が強大である原因」と題して、戦勝が国体と関係の深いことを説いて、(1)日本民族が皇室を中心として鞏固な統一を成していること、(2)日本民族が比較的純粋であること、(3)日本文明が今なお壮健であること、(4)一種の武士道が発達したこと、これは全く皇室を中心とする歴史的発達に淵源すること、(5)二千数百年の長い歴史を有すること、(6)宗教に冷淡であり迷信が極めて少ないこと、(7)世界文明の粋を集めてまとめあげつつあること、を列挙する。 日本軍が翌年3月に奉天を陥落させ、5月の日本海海戦に完勝すると、7月には加藤弘之が「吾が立憲的族父統治の政体」と題して講演する。曰く、同じ立憲君主国といっても、欧州諸国と我が国とは異なる。なぜならば、欧州諸国の君主は皆尋常の君主であるが、天皇はこれと違って日本民族の族父であるとともに君主でもあるからだ。我が国は建国以来一帝室が連綿と今日まで続き、しかもこれが日本民族の宗家である。多少は他民族も混合したが、今日は全く日本民族の血統に混じって別民族になっていない。このようにが国は建国から今日まで日本民族の族父たる天皇が君位を保つ国であるので、これを立憲的族父統治国(Die Konstitutionelle Patriarchatie)と称するのを最適とする、と。以上のような加藤の所論は、多くの国体論者が国体の尊厳であって強固な理由として第一に挙げる点である。 国体論は不可侵性を強め、20世紀初頭までにほぼ定着する。これに挑戦した北一輝『国体論及び純正社会主義』は発行禁止処分を受ける。 1907年(明治40年)8月、加藤弘之が『吾国体と基督教』を著す。これは、日露戦争当初から非戦を唱えたキリスト教徒に論戦を挑むものであり、かつて1889~1890年(明治22~23年)頃に国家主義者とキリスト教徒の間で行われた論争を再び引き起こしたものだが、主客の地位が逆転したところに時勢の変化がある。同書に次のように論じる(大意)。 以上のようにキリスト教を排撃する加藤弘之に対し、世論は侃々諤々となり、なかでもキリスト教徒は弁難に努めた。 以上のように加藤弘之の『吾国体と基督教』はキリスト教側だけでなく仏教側その他にも反駁された。内務省神社局 (1921) によれば、加藤弘之は国体を擁護するためにキリスト教を攻撃したというよりも、キリスト教を排斥するために国体論を利用した疑いがある。このため、その論を第三者から見ると、国体に権威を加えず、逆に国体に煩累を及ぼした感じがあるという。 1908年(明治41年)佐藤鉄太郎(海軍軍人)が『帝国国防史論』を著す。同書で国体に論及して曰く「世人あるいは御国体を家族的観念の向上となし、これをシナ思想と同一視する者あり。その根底の不確実にして、しかも浅薄なるは吾輩の嗤うところなり。我が国体は決して家族主義の変化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的国体なり」と。 1909年(明治42年)5月、佐々木高行(元参議工部卿、侯爵)が國學院雑誌において「国体の淵源」と題して、国民が権威を認めるところを国体と見るべしと論じる。 日本が日露戦争に勝利したのち国体論が盛り上がる時期にあって、国体の問題に関して国民の思想を刺激する事件がおきる。1910年(明治43年)の大逆事件と1911年(明治44年)南北朝正閏問題である。 幸徳秋水ら無政府主義者が天皇暗殺を準備したとされる大逆事件は、それまで国民が夢想すらしなかった大不祥事といわれ、その突発に人々は愕然として、識者は日本の国体を宣明にしなければならないと思い立ち、国体に関する研究が更に盛り上がりを見せる。井上哲次郎が設立していた東亜協会を中心に国体研究会を設けたのも大逆事件の影響であったといわれる。国体研究会の講演は機関誌『東亜之光』に連載される。 山田孝雄が国体論に手を染めたきっかけは大逆事件であったという。山田孝雄は後に文部省『国体の本義』の起草にも関わる著名な国語学・文法学者である。大逆事件に関する報道が解禁された当日、山田孝雄は「深く心に感ずるところあり」として、即日筆を執り、身体論的国家観にもとづく一書を一週日のうちに完成し、これを『大日本国体概論』と題して出版する。同書に「国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり」という。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であった。時事新報が「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狂」と表現し、井上哲次郎が「破壊思想の源流」と題して「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」と記し、有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」と同様の比喩を用いた。このように<隠喩としての病>は猛威を振るっていた。国家が有機体として想像される時代にあって、山田孝雄はその空気を吸いながら最初の国体論を書いたのだった。 南北朝正閏問題は大逆事件発覚の直後に帝国議会で起こり、国体に関する一大議論を惹起する。南北朝正閏論については、明治時代には大日本史と同じく南朝正統を認めるものが多く、中には南北朝対立説を採るものもあったが特に問題とならずに済んでいた。問題の発端は、国定教科書における南北朝対立に関する編者の所見である。文部省は尋常小学校日本歴史に南北両朝を同等に認め、その教師用参考書に「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらざるなり」と明記していた。これが皇統一系の国体に反するという理由で一部の小学校教師を激昂させ、やがて新聞記者を動かし、1911年(明治44年)1月19日発行の読売新聞で報じられる。これを読んだ早稲田大学教師の松平康國と牧野謙次郎が善後策を講じ、衆議院議員藤澤元造から帝国議会の質問案として提出することを謀る。藤澤元造は2月16日に質問演説に立つことになるが、政府は百方手を尽くして彼を翻意させ議員辞職に追い込む。 ここに世論が興起する。まず水戸市の教育会が運動を起こし、2月18日に同会長菊池謙二郎から文部大臣に建議書を提出する。建議書に「大日本史が南北朝正閏論を唱道せし以来、これに関する国民の倫理思想は一定し、南朝方の将士は当然忠誠の士にして北朝方の将士は佞姦の輩なりと固く信じて疑わざるところなり」、「もし大日本史の正閏論に誤謬ありて、これに準拠せり倫理思想は大害を生ずるものとせば、これを変改するは正当の業なりといども、正閏論は、国体の上より見るも、史実の上より見るも、また教育の上より見るも、錯誤なきのみならず正当の説なり。いやんや明治三十三年十一月十六日大日本史の撰者たる徳川光圀卿に正一位を追贈せられし時、詔をもって光圀が皇統を正閏し人臣を是非せしことを是認して称美し給いしに於いてをや」という。 また2月21日には国民党が大逆事件ならびに南北朝正閏論に関する決議案を衆議院に提出する。この決議案では、大逆事件について「彼がごとき狂豎を出し、もって国体の尊厳を汚涜する」と断じ、さらに国定教科書について「万世一系の皇祚に対し奉り、敢えて濫りに正閏なしとの妄説を容る」ものとして批判する。衆議院では犬養毅が問責演説に立つが、これは秘密会とされる。3月、貴族院では伯爵徳川達孝や男爵高木兼寛が文部大臣に質問を試み、衆議院では国民党代議士村松恒一郎が質問書を提出する。質問書に「政府、既にその非を認めて教科書の改正に着手したる以上、過去一年間忠奸正邪の別を紊り、国民の思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣はなぜ速やかに処決してその責任を明らかにせざるか」と問責する。 この間、大日本国体擁護団なるものが設立され主意書を発表する。3月に国体擁護団は解散し、友声会を結成する。このほか弘道会や丁酉倫理会などがそれぞれ活動し、また新聞雑誌に議論が縦横に出るなどして非常に混乱する。学者も真面目にこの問題を論じるに至り、結局は南朝正統論に決し、責任者である文学博士喜田貞吉を休職処分にし、国定教科書も改訂することになる。5月には史学会より論文集『南北朝正閏論』が出る。6月には文部省が南北朝を吉野朝に改めて教科書を改訂し、問題が決着する。7月には友声会が論文集『正閏断案 国体之擁護』を公刊し、南朝正統を宣揚する。この後も学者たちは、続々と論説を発表し、各種団体を作って南朝正統説を唱える。 南北朝正閏論の主な論者として次の学者を挙げることができる。 国体に関連にさせて南北朝を正閏を論じたものとして例えば以下のものがある。いずれも南朝正統説である。 1911年(明治44年)8月、清水梁山という人物が『日本の国体と日蓮上人』を著す。内務省神社局 (1921) によれば同書は「日蓮の国体論なるものを捻出し、牽強附会、もって我が国体と日蓮宗とを結びつけんとせり。その論ずるところ奇怪、ほとんど説くに足らざるものなれど、かくしてまで我が国体と関連を保たんとするところに、当時の思潮を見るべきなり」という。 同年12月には高楠順次郎が『国民道徳の根底』を著し、日本の国体と先祖崇拝の関係を説く。 1912年(明治45年)、加藤玄智が『我建国思想の本義』を著し、祭政一致の肇国主義が日本の国体であると論じて曰く、日本は祭政一致の国柄であり、建国当初は祭政一致をもって成立した。他にも祭政一致の国は数多いが、どれも国民と神とが一定の契約によって保護・被保護の関係を結ぶものであって、日本のように実際の血縁関係にあるものではない。これが日本の国体が特殊である理由である。そして国民一般は、現在の天皇をその神の延長と見做し、いわゆる現人神と信奉する。これが国体の精華であり、万世に益々国家が栄える理由である、と。 同年、丸山正彦(丸山作楽の養子の国学者)が『大日本は神国也』を著して、日本は神聖が基を開き、神孫が継承し、ついに金甌無欠の国体を成立させたので、その神祇の威徳を崇敬することは国体を擁護する所以であると論じる。 時代が明治から大正へ変わる時において、統治権の主体が天皇であるか国家であるかについて憲法学者の間で論争が起こり、国体に関わる事なので論壇で大問題となる。事の発端は美濃部達吉の『憲法講話』である。 美濃部達吉は、大正改元の1年前の1911年(明治44年)夏、文部省が開催した中等教員講習会において憲法の大意を講話し、その講演筆記に多少の修正増補を加え、翌年3月付けで『憲法講話』と題して公刊する。同書では国体について次のように説く。 帝国大学で美濃部達吉の同僚教授である上杉慎吉は、美濃部の天皇機関説を非難し、この説は天皇が統治権の主体であることを否認するものであり、日本の国体を破壊するものであると指摘する。上杉慎吉は穂積八束の学説を継いで君主国体説に依拠するが、かつては国家法人説・天皇機関説を採っており、1905年(明治38年)の著書『帝国憲法』においてその説を述べていた。同書は1910年(明治43年)4月にも版を重ねていたが、1911年(明治44年)12月付けで公刊した『国民教育 帝国憲法講義』では、君主国体説・国家法人説を維持したまま天皇機関説を放棄する。上杉の新説によれば、機関というのは他人の使用人であり他人の手足である。天皇の意思は最高・独立・絶対的・無制限であり、自己固有の性質によるものである。天皇は国家の機関ではない、という。このように上杉が天皇機関説放棄を明らかにした3か月後に美濃部達吉が『憲法講話』を公刊したのであり、美濃部が同書で「変装的専制政治の主張」と批判したのは上杉の国体論であった。上杉の国体論は、天皇が主権者であることを日本の国体と解するものである。 上杉慎吉は雑誌『太陽』に論文「国体に関する異説」を載せて美濃部達吉に反撃する。上杉によれば、天皇を主権者とする通説に対し美濃部は異説を唱えており、「断じて異説を排斥するの確乎たる自信あり」という。そして上杉は国体について次のように論じる。天皇は統治者であり被治者は臣民である。主権は独り天皇に属し、臣民はこれに服従する。主客の分義は確定して乱れることがない。臣民は統治せず天皇は服従せず。これが国体の解説である。これは穂積八束の説を粗述したものであり、誰もが認めるところでもあるのに、美濃部は独りこれを排斥する。美濃部は天皇を統治権の主体にあらずとし、国家すなわち人民全体の団体を統治権の主体とする。美濃部は我が国を民主国と見なすのである、と。 天皇機関説論争が進行する中、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御する。内務省神社局によれば、日本は国を挙げて悲哀に沈み、慈父を失ったかのように慟哭し、さらに皇室の尊厳に思いを馳せ、ここに皇室を中心とする国体観念に一段の刺激を与えたという。大正時代に入ると、民衆運動が憲政擁護・閥族打破を掲げて桂内閣や山本内閣を倒すために行われる。内務省警保局によれば、この民衆運動は最も顕著なデモクラシー的思想の発露であって、国民思想上の画期として観ることができるという。 明治天皇崩御の前後、井上哲次郎が『国民道徳概論』を著す。これは美濃部達吉『憲法講話』と同様に、前年(明治44年)夏に文部省が開催した中等教員講習会での講義を基にしている。同書では、国体と国民道徳との関係について、日本の国体は万世一系の天皇を基礎として成立し、国法学では主権の所在をもって国体の性質を決めるが、日本の主権は常に皇位にあり、これが憲法制定とともに益々鞏固になったと述べる。また国体と神道との関係について、神道のうち国体に関係あるのは天壌無窮の神勅であり、この神勅が常に日本国民の精神を中心に引き締めると論じる。同書では民主主義が君主国体を調和できることを説いて次のように述べる。 忠君ということに対して、民主というようなことが、段々世に唱道されてきているのであります。中には民本なんという字も使っているが、意味は同じことである。民主主義というようなことは余り大きな声では言わないけれども、何ぞの場合にはそれを言う。しかし民主主義も説きようによっては、君主主義と調和することが出来る。君主というものをチャンと立てて、そうしてこれに対して真心を尽くして仕えるということが人民一般のためになる。すなわち民主主義に合するわけであります。 井上哲次郎は翌年の『東亜之光』2月号でも、民主主義を民本という意味に解釈すれば問題ないとして、次のように述べる。 臣民にヨリ多くの権利を与えるようなことがないというと、いかなる椿事を惹き起こすやも分らぬのであります。民主ということは日本の従来の歴史から見て決して如字的に(文字通りに)了解して言うべきではないのみならず、憲法によってまた然りであるけれども、古来「民は惟れ邦の本なり、本固ければ、邦寧し」というように民本という意味に解釈するのは差し支えない。そうして昔より一層臣民の福利を重んずべきである。これは時勢の変化のためである。 天皇機関説論争でも民主主義は争点の一つになる。人民全体の団体を統治権の主体であるとする説について、上杉慎吉がこの説を民主主義として非難したのに対し、美濃部達吉は、この説を唱える者をすべて民主主義者であるかのように思わせるのは酷い中傷である、と弁じたという。そして上杉は1913年(大正2年)『東亜乃光』5号月に「民主主義と民本主義」を発表し、民本主義と民主主義の用語を厳格に区別して、民本主義は人民のために政治することを意味するが、民主主義は文字通り人民主権論を意味しており君主主義と調和できないと論じる。上杉慎吉によれば、デモクラシーという語は民主(人民主権)の意味にも民本(人民のための政治)の意味にも用いられ、西洋君主国でデモクラシーを称するのは民本の意味であるという。ただし、内務省警保局によれば、西洋でデモクラシーという語が上杉慎吉のいうように単に人民のための政治だけを意味することがあるかどうか不明であり、少なくとも西洋君主国で称するデモクラシーはその意味ではないという。 上杉慎吉からの攻撃に対し美濃部達吉は様々に弁ずる。その中では1913年(大正2年)に『東亜之光』の3月号から5月号にかけて掲載した論文「所謂国体論に就いて」が最も詳しい。美濃部達吉は同論文で以下のように言う(大意)。 このごろ国体論、特に国体擁護ということが盛んに唱えられている。これは実は反立憲思想に他ならない。すなわち憲法が布かれたのに対し、保守的反動思想を抱く一部の人が国体論に名を借りて世を騒がしているのである。国体についての論争ではなく、立憲思想と反立憲思想の争いである。 一つの論点は、統治権の主体についての学理的な問題である。国法学上、国家は統治権を固有する団体であるとし、したがって統治権の主体は国家自身であるとする見解に対し、彼らは我が国体を破壊するものであるといい、我が国体は君主自身が統治権の主体でなければこれを維持できないという。もう一つの論点は実際の政治に関するものである。政党政治や議院内閣政治を我が国体の容れないところであるとし、特に最近の政治の動揺(大正政変)を国体の危機であるとする。実はこれらの問題は国体と関係がない。 我が国は万世一系の天皇これを統治する国体であり、これは動かしてはならない。問題は天皇が国家を統治するという事の解説に係ることであり、少しも国体に触れない。これを触れたとするのは中傷である。 世の国体論者の中には、日本の国家は外国の国家と全く異なるものと考え、日本の国家にのみ特別の見解を採ろうとする者もいるが、甚だしい誤りである。国家の本質の問題は国体論と無関係である。国体は一国特有であり、国家の本質は各国共通である。ゆえに憲法の明文に拘って国家の本質を解しようとするのも誤りである。 君主は統治権の主体であるという考えは、国家を君主の私有物とみなすものであり、我が国体に容れるものでない。君民が一心同体をなし、和衷協同(心を合わせ互いに協力する)、ともに国家の進運を輔翼し、その間に少しも障りがないことが、我が国体である。 大正初期には、国体の主要問題である統治権の問題について議論が沸騰する。これは、天皇機関説論争が国体に関わる事として論壇で大問題となったからである。 1913年(大正2年)3月、朝鮮総督寺内正毅(後の首相)題字、加藤弘之序文、加藤房蔵著作により『国体擁護 日本憲政本論』が公刊される。同書に曰く、憲法の擁護とか責任内閣とか憲政有終の美とかいうのは当世通俗の流行語であって、それはつまるところ政党の意向によって天皇の大政を左右しようとするものであり、明らかに国体の破壊であり、憲法違反である、と。 同年同月、川面凡児が『国体淵源 日本民族宇宙観』を著す。著者は以前から大日本世界教というものを唱え、日本の神道を基本として在来の宗教を総合統一するという全神教なるものを主張していた。同書によると、我が国体は神代より遺伝する宇宙観に淵源し、天御中主尊の旨を奉じて修身・斉家・治国・平天下を理想とする、という。 同年5月、石川岩吉が『国体要義』を著す。著者は国学院大主事と皇典講究所幹事を兼ね、のち昭和に東宮傅育官、宮内省御用掛、国学院大学理事長兼学長に就任する。同書では、国体という語に様々な用法があることを説き、要は、神代の初め、イザナギ・イザナミ両神が国土を修理固成して三貴子(天照大神・ツクヨミ・スサノオ)を得て、天照大神による天孫降臨・天壌無窮の神勅があって、国体の基礎が定まった、と論じる。 同年11月、筧克彦が『国家の研究』を著す。著者は東京帝国大学法学部教授でありながら、古神道に基づく「神ながらの道」に帰依し、教室でかしわ手を打つなど奇矯な言動で知られるが、天皇機関説論争に関しては穂積八束らの天皇主権説を国体に反する権力主義として批判した。『国家の研究』では以下のように説く(大意)。 皇国は、表現人である神聖な自主者・総攬者(天皇)を戴くことを離れずに成立し存在している一心同体である。この意味をもって君臣の分が定まり、古来動揺することがない。これが皇国の国体である。国体とは建国法により定まっている国家の体裁である。 国体は政体と厳格に区別しなくてはならない。政体とは、建国法より下の憲法などによって定まっている国家の体裁であり、これは社会各般の事情に応じて変遷するものである。今日の立憲制度は憲法により定まっている政体である。政体はますます変化発展する必要があり、国体がますます不動強固になるのは必然である。 皇国が精華である理由は、その国体が健全であるからである。なぜ健全であるかというと、国体は随神(かんながら)道、すなわち古神道の大理想・大信仰に基づくからである。 皇国の国体は、各人の真情に存する和魂(にぎたま)を主義として、荒魂(あらたま)を滅却することにある。皇国の国体は現世の秩序を尊重することを精神とする。皇国の国体はこの博大な和魂と、それが現れた仁忠と離れずに存在する本来の一心同体の発揚を旨とする。本来の一心同体を主体とすることをもって皇国の国柄となす。 同年5月に東郷吉太郎が『御国体及其淵源』を著し、君臣一体、忠愛一本の国体を詳説する。 1914年(大正3年)『東亜之光』8月号にFS氏なる人物が「所謂民本主義は無責任的国体」という文を載せる。 1914年(大正3年)夏、第一次世界大戦が勃発する。これは世界未曾有の大乱であり、その惨禍は思想界に動揺をもたらす。思想の動揺は大戦初期から徐々に始まり、大戦末期に近づくにつれて表面化する。特に大戦末期のロシア革命と米国参戦により、過激思想と米国流のデモクラシーが日本に押し寄せる。ある者はこれを利用しようとし、ある者はこれを排除しようとし、思想界は未曽有の混乱を呈する。しかもこの間、自由思想も国民教育の普及と新聞雑誌の勢力増大により徐々に内発的になってゆく。 第一次世界大戦の勃発により欧米においてデモクラシー論が盛んになり、日本もその影響を受けてデモクラシーの論議が増えてゆく。明治末年に民本主義という言葉を造語したといわれる茅原華山は1915年(大正4年)1月『中央公論』誌に「新しき世界 将に生まれんとす」と題し、民衆の政治的・経済的勢力が増大する傾向を紹介する。同年4月『太陽』誌上に織田萬が「戦争とデモクラシーの消長」を説き、千賀鶴太郎が「民主主義と開戦」と題して第一次世界大戦とデモクラシーの関係を述べるなど、デモクラシーの議論が広がっていく。同年10月には鈴木正吾が『新愛国心』を著す。同書に次のように言う。 国体論者は、民本主義の中に日本の国体を害するものがあるかもしれないと恐れ、これに対抗してますます国体を宣明しようとする。ただし従来と異なる新しい国体論が登場したわけではない。当時の主な国体論として、佐藤範雄『世界の大乱と吾帝国』、廣池千九郎『伊勢神宮と国体』、市村光恵『帝国憲法論』、大隈重信『我国体の精髄』、千家尊福『国家の祭祀』、深作安文『国民道徳要義』などがある。 1916年(大正5年)1月、吉野作造が『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題して百頁を超える長大な論文を掲げて民本主義を鼓吹する。吉野作造は民主主義と民本主義を区別する点で上杉慎吉と同じであるが、上杉の民本主義が単なる善政主義に過ぎないのに対して、吉野の民本主義は善政主義に民意権威主義を加え、民意権威主義の要求として参政権拡張と議院中心主義を主張する。吉野の民本主義論は大きな反響を呼び、上杉慎吉、室伏高信、茅原華山、植原悦二郎、大山郁夫など、いわゆる民本主義論者の反対批評を受ける。このほか津村秀松、永井柳太郎、安部磯雄、小山東助などが民本主義を論じる。これらの中では室伏高信の説が異彩を放つ。 1916年(大正5年)7月、内務省神社局長塚本清治が地方官会議の席上で「敬神思想の根本及び国体の関係」を説く。その後『国学院雑誌』に国体に関する論説が数々載る。すなわち、同年11月号に植木直一郎が「国体の基本」と題して、日本の国体が特殊である所以を論じる。翌6年1月号に白鳥庫吉が「国体と儒教」と題して、日本の国体と儒教が異同するところを述べ、同月号に市村瓚次郎が「国体と忠孝」を載せる。河野省三は同年8月号に「我が国体」を載せ、さらに翌月『国民道徳史論』を著し、その第4章に「我が国体」と題して一層具体的に説明する。 1917年(大正6年)春のロシア革命と米国参戦により、デモクラシーの波が日本に押し寄せる。米国ではウィルソン大統領が第一次世界大戦に参戦する理由を「民主主義にとって世界を安全にするために」と演説する。米国が民主主義のために戦うと称したことで日本でも民本主義論がますます盛んになる。また、ロシア革命は世界を震撼させる。日本の新聞雑誌にも革命気分に乗じた記事論説が増える。 同年5月、寺内正毅内閣は内閣訓令第1号を発して曰く、欧州戦役の影響は全世界に波及し、その関係するところは単に政治上経済上にどどまらず思想上風教上にも及び、誠に恐るべきものがある。この時にあたって政務の職司にある者は、すべからく立国の大本に鑑み国体の尊崇すべきを思い、国情の異にする海外の事例に左右されずに帝国憲法の根義に考え、自重して適従するところを誤らず、紀律を守り一意に奉公し至誠を君国に尽くし、それによって国民の模範であるべし、と。また、同月、地方官会議において内閣総理大臣が訓示して曰く、近時言論界の風潮は大変に放漫に流れ、好んで危険過激の言論をもてあそび、卑劣猥雑の記事を掲げて国民の思想を誘惑し、そして国体の本義を誤り皇室の尊厳を汚し純朴な風俗を壊す恐れがある。いやしくも国体を破壊し秩序を紊乱し人心を蠱惑するような記事論説は厳重に防ぐ道を講じなければならない。言論界は外国で勃発した政変(ロシア革命)を引援して我が国体に論及するものがある。地方当局者は適宜善導し安寧秩序を保持すべし、と。 同年9月寺内内閣は臨時教育会議官制を公布する。これより4年前、教育勅語の趣旨を徹底して学制を改革することが十数年来の懸案であったため、貴族院の建議に基づき、文部大臣管下に教育調査会を始めて設けた。教育調査会は調査を進めたが懸案の解決に至らなかった。1917年(大正6年)教育調査会を改め、内閣総理大臣直属に臨時教育会議を設け、組織を改造し調査に周到を期することになる。その官制は3月のロシア革命直前に立案され、翌月閣議決定されたが、その後6か月の時を経て、9月に上諭案を改めて再び閣議決定を取り直し、異例の上諭を付して公布される。その上諭に曰く、朕、中外の情勢に照らし、国家の将来に考え、内閣に委員会を置き、教育に関する制度を審議させ、その振興を図らせる、と。官制公布の翌月、臨時教育会議について寺内総理大臣が演示して曰く、我が帝国は万世一系の天皇を戴き、君臣の分は早くに定まり、国体の精華は万国に卓越する。ここに教育勅語の趣旨が存する。欧州大戦勃発以来、交戦各国は戦火の間に学制の革新を図り自強の策を講じている。我が帝国も教育を一層盛んにして国体の精華を宣揚し堅実の志操を涵養して自強の方策を確立すべし。もし欧米の学制を模倣することばかり急いで知らず知らずに国体の精華を傷つけることがあれば国家の憂患はこれより大きいことはない、と。臨時教育会議の中心人物は総裁平田東助、副総裁久保田譲、貴族院議員小松原英太郎、同一木喜徳郎、同江木千之、そして文部大臣岡田良平である。いずれも元老山県有朋の直参子分である。 1917年(大正6年)10月、内務省警保局長永田秀次郎が私人の資格で「民本主義に対する理解」を発表する。曰く、日本において発達した尊皇愛国の思想は、君民一体、民を本とする(民本)君主主義である。外国のデモクラシーは人民の人民のための人民による政治かもしれないが、これを日本に移し替えれば「民意を暢達せしむる政治」または「万機公論に決する政治」に当たる。前者は我が国建国以来の大精神であり、後者は五箇条の御誓文により我が国で行われている、と。 同月、吉野作造が『大学評論』に「民本主義と国体問題」と題して曰く、民本主義は日本の国体に反しないし、君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない、と。 同年11月から12月にかけて浮田和民は雑誌『太陽』に「欧州動乱と民主政治の新傾向」と題して曰く、一国の政治は君主国体でも共和国体でも当然に民本主義でなければならない。国家は国民全体の国家であって君主は国民のための君主である。民主政治とは必ずしも国体政体に関する憲法上の意義を有するものではない。徐々に選挙権を拡張すれば民主政治であるといえる。今後世界各国は国体政体の如何に関わらず人民多数が政治上の勢力であることは疑いない。将来の民主政治は男女協同になる傾向がある、と。 この間の同年11月(ロシア暦10月)ロシアで十月革命がおき、マルクス主義政権が世界で初めて誕生する。ロシアは、過激思想に導かれて無秩序に陥り、ほとんど阿鼻叫喚の修羅場と化し、その皇室は悲惨な末路を遂げる。日本でロシア革命の関係により発禁処分を受けたものは1917年中に7件あり、そのうち1件は日本の国体を呪い、ロシアに倣うべしと主張するものであった。大阪朝日新聞はロシアの革命と過激派を推奨する記事を頻りに載せる。早稲田大学では学生が騒擾を起こし早稲田革命などの語を用い、まるでロシア革命を真似たかのような観を呈する。 同年12月尾崎行雄が『立憲勤王論』を著して曰く、皇室の尊栄と国民の幸栄により日本は世界無双である。その原因の一つは「君意民心の一致」にある。君意民心の一致のためには議会を設け民心を聴くとともに、声望ある人物を多数党の中から挙げて行政長官に任命する。政党内閣の主張の根拠はここにある、と。以上のように主張する同書は尾崎行雄の年来の主張の結晶であり、尾崎は今こそ適時であると見て同書を発行したといわれる。同書は世間の注目を惹き、後藤武夫らは反対論を著して、尾崎行雄の論は仮面勤王論であり、実は民主主義を鼓吹するものであって我が国体を誤るものであると批判する。 1918年(大正7年)1月、吉野作造が「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題する長大な論文を発表する。吉野作造はこの2年前に民本主義論を提唱してから民主主義論議の中心であったが、この時になって、これまで思想に多少の混乱があり発表の方法も宜しくなかったといって、この論文を『中央公論』誌に掲げたのである。この論文は2年前の論文を確かめるものにすぎないが、要は憲政の本義として参政権拡充主義である民本主義を主張することである。この論文は再び言論界で問題となり、これに対する批評を誘発する。批評の主なものは、北一輝の弟で早稲田大学教授の北昤吉による「吉野博士の民本主義を評す」である。北昤吉の評によると、吉野作造の民本主義論は主権論に触れないようにしていることから、その論は矛盾・曖昧・不徹底・誤謬を含む。主権論を回避すること処女のごとく、参政権拡張主義をもって虎視眈々と天下を志すこと奸雄のごとし、という。 1918年(大正7年)2月、井上哲次郎が『増訂国民道徳概論』を出版する。これは1912年出版の『国民道徳概論』を増補改訂したものである。1912年版と1918年版の間の異同をみることで、この6年間で井上哲次郎の国体論がどう変化したかが分かる。国体に関しては次の箇所が注目される。 1918年(大正7年)3月、浮田和民が『太陽』誌に「国際上の民主主義と日本の国体」と題して、連合国の戦争目的である民主主義というのは国際上の民主主義であると述べ、これが日本の国体に反しない所以を説く。これは国際上の民主主義を実際的に説いた初めての論説である。以下のように言う(大意)。 今後の外交は秘密主義をやめ公開主義でいかなければならない。公開主義の外交はいわゆる民主主義の外交である。 国際上の民主主義というのは、決して各国の内政に干渉し、その国体や政体を変更しようとする主義ではない。英仏の主張は国際上の民族の自由や小国の独立を擁護することを主義とし、これを民主主義と称するのだから、たとえ同盟国中に万世一系の皇室を戴く日本があっても、英仏の主張に少しも矛盾しない。 連合諸国にいわゆる民主主義はドイツ至上主義に反対する立場である。むしろこれを自由主義または民族主義といったほうが穏当で正確であるが、自由主義といっても前代のように消極的なものではなく積極的に人民の意思を成就しようとするものだから民主主義といわなければ世論が満足しない。また民族主義というのは両刃の剣であり、強大民族が弱小民族を強いて屈服させ同化させる意味もあるので、いよいよ国際上に民主主義という語が流行するようになったわけである。 このように民主主義の意味を解すれば、国際上に民主主義の味方であることは決して日本の国体に悪影響を及ぼさない。ましてや民主主義を民本主義と解すれば、それは井上哲次郎の言うように、建国以来の日本の国是である。 浮田和民は翌月にも同誌に「参戦目的と出兵問題」を載せ、日本の参戦目的は国際上の独裁主義を破ることであり、国際上の民主主義のために戦うものにほかならないと説く。この月(1918年4月)は民本主義論が最も賑わった月であり、多くの論者が様々な論説を発表した。その中で例えば稲毛詛風は『雄弁』誌同月号に「外来思想と国民生活」を載せ、民本主義の各種概念と国体の関係を次のように分類する。 1918年(大正7年)6月、『太陽』誌が臨時増刊号「世界の再造」を刊行する。同号は世運に関する各種問題を集めたものであり、その中では美濃部達吉「近代政治の民主的傾向」が民主主義と国体の関係について論及している。曰く、もし民主主義を法律上の意味に解して国民を法律上の最高統治権者とするならば、明らかに日本の国体と両立しない。これに対して、政治上の意味における民主主義は、少しも日本の国体に抵触するものではなく、むしろ更に国体の尊貴を発揮する所以である。この意味における民主主義、すなわち民政主義は明治維新以来の国是であって、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」というのは最も直截簡明に民政主義を表現したものである、と。 1918年(大正7年)8月、白虹事件が起こる。大阪朝日新聞は前年以来ロシアの革命と過激派を称賛する論説を頻りに載せ、またシベリア出兵や米騒動に関して寺内正毅内閣を攻撃していた。8月25日に「日本は今や最後の審判を受くべき時期にあらずや」という記事を載せる。記事中に「白虹日を貫けり」という故事成語を引く。この句は、白虹を武器、日を君主の象徴として、臣下の白刃が君主に危害を加える予兆とされる。同紙は新聞紙法第41条安寧秩序紊乱により起訴され、社長は右翼から暴行を受ける。 1918年(大正7年)9月、非立憲的な寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって崩壊し、立憲政友会の原敬内閣が誕生する。同年11月、内務省警保局が『我国に於けるデモクラシーの思潮』を出版する。同書は表紙に「秘」と記される秘密文書である。同書本文は同局事務官安武直夫の私稿を別冊として付ける形式である。警保局名義の序文に曰く、世界は今やデモクラシーを中心に回転している。我が国でも、これに関して論議しない新聞雑誌はない。ほとんど現代思潮の中心を為し、一般人心もその影響を著しく受ける。しかし論説の内容は様々であって、デモクラシー・民本主義の観念を補足することは容易でない。これらの論議や思潮の傾向を窺うための参考として本書を出版する、と。 寺内内閣倒壊後も審議を続けていた臨時教育会議は、1919年(大正8年)1月に「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」を内閣総理大臣原敬に提出する。また、同月には皇典講究所とその管下の国学院大学が天皇の御沙汰により年々の補助金を賜わることになる。その事情は以下のとおりである。 これより先、臨時教育会議では江木千之委員らがその改革案の趣旨を貫徹させるために国学を振起する必要を感じる。官立大学は国学振起を担う状況にないので、私学の中から探したところ、皇典講究所管下の国学院大学が適切であるということで話がまとまり、その拡張を図ることになる。 1918年(大正7年)5月、皇典講究所総裁竹田宮恒久王が令旨の形式をもって皇典講究所と国学院大学の拡張を命じる。令旨に曰く、世界大乱が民心に及ぼす影響が更に甚だしくなりつつある。この時にあたって皇典講究所と国学院大学は設立の趣旨に則り、国体の本義を明らかにし、道義の精神を徹底させ、教育の規模を拡張し、もって国家の柱石たる人材を養成し、斯道のために大成を期さなくてはならない、と。以後の拡張計画はこの令旨に基づくものとされる。同年7月に皇典講究所国学院大学拡張委員会を設け、政府の臨時教育会議からは小松原英太郎が拡張委員長に、江木千之、早川千吉郎が拡張委員に就く。 同年10月に臨時教育会議では平沼騏一郎・北条時敬・早川千吉郎の3委員が「人心の帰嚮統一に関する建議案」を総会に提出する。提出者は3名とも平沼の主催する無窮会のメンバーである。小松原英太郎と江木千之は賛成者に名を連ねる。江木は実質的な提出者の一人でもあると自称している。 同年12月、皇典講究所の組織を改革して理事会を置き、小松原英太郎、江木千之、早川千吉郎らが理事に就く。小松原は皇典講究所長にも選ばれる。そして皇典講究所・国学院大学は拡張趣意書と拡張計画を発表して募金を呼び掛ける。趣意書に曰く「皇典講究所および国学院大学は、尊厳なる国体を講明し、堅実なる国民精神を発揮し、真摯なる方法によって典故文献を研究するを以って目的とする」。「物質的文明に偏したる弊毒は深く民心に浸潤し、国民道徳の頽廃はあまねく思想界の危機たらんとする」。「これ、本所(皇典講究所)ならびに本学(国学院大学)が、大いに内容を改善し、規模を拡張し、ますます本来の意義を発揮して、もって国民精神を振興せんと欲する所以なり」と。また、拡張計画では、第1期事業の「典故文献の講究」について「我が国が世界無比の国体を有すると同時にその典故文献の講究を要すべきもの枚挙にいとまあらず」、「同時に現代思潮もまた調査研究してこれが善導に資する」といい、「講演」について「動揺せる思潮を善導し、目下の危機を救う唯一の方法は、我が世界無比の国体を闡明し、国民の自覚を促すにあり、よってあまねく講演会を開催し、主義宣伝の捷径たらしめんとす」といい、第2期事業の「国法科設置」に「我が国体と民族とに適合する法律の研究は目下の急務なり」という。 この間、臨時教育会議の「人心の帰嚮統一に関する建議案」は、主査委員会で整理修正され、その題名を「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」と改め、総会で揉めたあげくに別途修正して可決され、1919年(大正8年)1月に原首相へ提出される。建議に曰く、時局各般の影響により我が思想界の変調は予測できず、誠に憂慮に堪えない。時弊を救わんと欲すれば、国民思想の帰嚮を統一し、その適従するところを定める必要がある。そしてその帰嚮するところは、建国以降扶植培養された本邦固有の文化を基礎とし、時世の進展に伴いその発展大成を期することにある、と。そしてその要目は以下のようにいう。 このうち「国体の本義を明徴に」云々の要目は当初案の「敬神崇祖の念を普及せしむる」という項目を改めたものである。その内容は建議附属の理由書に詳しい。理由書に次のようにいう(大意)。 我が国は建国の初めから君臣の義は確乎として定まる。歴代朝廷の仁恵恩沢が深厚であることは天地のように自然である。 海内一家、億兆人民が仲良く皇室を奉戴し、代々蓄積醸成して、ついに一団として情に厚い美俗を成した。これは他国に類例を見ないものであり、国家組織の善美の極致である。 この国体の本義を明徴にし、これを中外に顕彰するには、すべからくその根本精髄を明確詳細に理解させる必要がある。たとえば以下の事実などについて深く留意させるべきである。 この本義を一般国民の徹底し、国体尊崇する念を鞏固確実にすることができれば、断じて思想変調のために大義を誤ること(革命)はない。この本義は海外にも発揮宣揚して世界の道徳文化に貢献しなければならない。 国体尊重の念を鞏固にするには、敬神崇祖(神々を敬い祖先を崇めること)の美風を維持し、一層その普及を図る必要がある。報本反始(祖先の恩に報いるという礼記の言葉)は東洋道徳の優秀な点である。特に敬神崇祖の風習は我が万世不変の国体と密接な関係がある。天祖(天照大神)の遺訓を歴代天皇が奉じて国家に君臨し、皇位の隆盛は天壌無窮である。これは国体の尊厳である所以であり、皇室から臣民に至るまで常に敬神崇祖をもって報本反始の義を大事にするのは当然の事に属する。 敬神崇祖の風習は我が国不滅の習俗である家族制度と密接な関係がある。皇室が神祇を敬い祭祀を重んじ、われら臣民も父祖の霊位を祀る。これこそ我が家族制度における慎終追遠民徳帰厚(父母を丁重に弔い祖先を大切にすれば民の徳も厚くなるという論語の言葉)の所以である。 敬神崇祖の風習を振興する方策としては、神社の荘厳を維持すること、祭祀の本旨を周知すること、神官神職の地位を向上させることが最も必要である。 国体の本義を明徴するに最も必要な事項は皇典研究のために適切な施策を行うことにある。帝国大学その他適切な学校に皇学講明の方針を確立し、建国の由来を明らかにし、国体の根基精髄を理解させるべきである。 これと同じ月(1919年1月)、臨時教育会議委員の小松原英太郎が皇典講究所長の立場で宮内省に出向き天皇の御沙汰書を拝受する。御沙汰書には「今般その所(皇典講究所)国学院大学規模拡張の趣を聞きこしめされ、思し召しをもって第1期分大正8年度(1919年度)以降10年間年々1万円まで御補助として下賜そうろう事」とされる。 1919年(大正8年)2月、加藤玄智が『我が国体と神道』を著し、主に宗教の立場から見た神道・国体と外国のそれとの違いを論じる。同書に次のようにいう(大意)。 余(加藤玄智)の専攻する宗教史・宗教学の方面より、我が国体の成立について新研究を試み、その淵源に溯り、そ大本を闡明しようと思う。 日本において天皇は現人神であり、シナ人のいわゆる天または上帝、ユダヤ人のいわゆるヤーヴェの位置を占める。 万世一系の天皇を奉戴する特種の国体にあっては、天皇の即位式が西洋諸国の君主の戴冠式と全く趣が異なる。それは、神を代理する僧侶から王冠を戴くのではなく、天皇がみずから神霊を祭祀して即位を告祭し、その後に臣民に広く告示する、これが大嘗祭である。大嘗祭と戴冠式との差異を考えると、我が国体の性質が西洋諸国のそれと比べて隔絶していることが分かる。 1920年(大正9年)東京帝国大学文学部に神道講座が新設され、加藤玄智がその助教授に就く。 この間の1919年5月に国体論の論説集『国体論纂』が出る。同年8月に物集高見が『国体新論』を著す。 1922年(大正10年)1月、内務省神社局が『国体論史』を出版する。緒言に次のようにいう(大意)。 近時、思想界の動揺に際して、危険思想の防遏や思想の善導ということが識者の間で盛んに唱道されている。なかでも我が国体の淵源を明らかにし、国体に関する理解を国民に徹底させることは最も緊要かつ有効な方法である。ここに本局(内務省神社局)は、嘱託の清原文学士(清原貞雄)をして、主に徳川時代以降の国体に関する所論を調査・編述させ、あわせて国体観の問題に開係ある諸種の事実を叙述させた。これによって国民思想の指導の参考資料とするものである。 そして巻末で余論と称して、国体論者に釘を刺す意見を次のように主張する(大意)。 我が国のことを何事も嘆美・誇張し、世界無比にして天下に卓絶するものであると説くのは、儀式的な祝辞として述べるにはいいが、我が国体の優秀さを国民に心から納得させるには全く無益であり、外国人から見れば誇大妄想狂にすぎない。 国民を心から納得させるには、科学知識に抵触しない理論の上に立たなければならない。神話は国民の理想・精神として尊重すべきだが、ただ尊重するものでしかない。神話を根拠として国体の尊厳を説くのは危い。神話と矛盾する進化論の知識を注入されている国民はこれを信じないからである。固陋な論者はこれを信じない者を賊子と指弾して攻撃する。そうすれば国民を黙らすのは容易かもしれないが、その心を奪うのは不可能である。 そもそも国体とは「一国が国家として存立する状態なり」と言える。この定義は広すぎるかもしれないが、こう言わなければ国体なる語の内容を言い尽くすことはできない。最狭義に統治権の主体の如何を言うことはもちろん、建国の事情によって定まるとか何とか言うのも、国体という語の内容の一部に過ぎず、我が国体の優秀の理由の一部に過ぎない。 我が国体の優秀とは、上下が仲良く和やかに、うち解け合って一体を成し、しかも整然とした秩序があり、国家として最も強固に存続する状態である。この国体の優秀は我が国の社会の成り立ちに由来する。すなわち、上に国民帰向の中心として有史以前より連綿と継続する皇室があり、下に皇室の支流である国民が皇室を奉戴して、有史以来上下の秩序を替えず、また幸いに外国の侮り(支配)を受ける事もなく、国家が一方向に発展することである。一言でいえば、一つの中心点(皇室)に向かって国民が寄り集まって堅固な国家を成したのである。 ある種の社会主義者の言うように、国内に上下の差別なく一切平等にして、国際間に紛争なく和気あいあいと長閑な世界を作るという理論は空想にすぎない。われらはあくまで国を強固にして、主権に対する絶対服従義務のうちに正当な自由の権利を保持し、国家に対する自己犠牲によって相互の幸福を享有しなければならない。このような国家を形成するには、上に命令者として広く国民を納得させる者の存在することが第一必要条件である。我が皇室は最もこの条件に適合し、しかも今(第1次世界大戦後)の世界において唯一の存在である。 悠久の昔、いわゆる天孫民族の一族が大八島(日本列島)に渡来して夷族を平らげた。神話・伝説によって察すれば、現皇室の祖先が始めからその首長として一族を率いたことは疑いない。宗家の家長を首長と戴く一族は、支族に支族を生じ、徐々に発展して国家を形づくり、都を九州から東に遷して大和を占拠し、ついに今日の大日本帝国の基礎を開いたのである。すなわち我が国は、多くの学者が認めるように一大総合家族というべきものであり、その始めから宗家の家長として全族に臨んだものは、現在の皇室の祖宗である。 全国民が心に不満を抱かずに服従できる首長として、これ以上の者はない。 もし死後の霊魂が不滅であるとすれば、その生前に自分を愛護してくれた父祖が、死んで霊魂になったとしても、その愛護を止めることはないと感じる。また自分が子孫の幸福を切実に願うことから類推しても、父祖の霊魂は必ず自分とその子孫を愛護すると感じる。ここに祖先崇拝の信仰が存在する所以がある。その父祖の霊魂に対する信念は自家の古い祖先に及び、さらに一族共通の祖先に及び、ついに大祖先たる皇祖にも及ぶ。これらを総括したものが、日本の神道の根本である。 ある人は先祖崇拝を報本反始の儀礼に過ぎないという。これは神道を宗教と区別する事を曲解したものであり、神道の内容には儀礼だけでなく信仰もある。もし信仰に欠ける儀礼であれば神道は無力である。国民は祖宗の霊がその子孫や国家人民を保護すると信じるからこそ神道に力がある。祖先の霊の保護の下に一家一族を形成し、さらにこれを総合した宗教、すなわち皇祖皇宗の霊の保護の下に我が国を形づくる。渾然一体の一大有機体であり、そこに万世不動の秩序がある。数千年にわたりこの事に馴らされた国民は、教えなくても父祖を敬愛し、また宗家すなわち皇室を尊奉する。前者を孝といい後者を忠という。学者はこれを忠孝一本と名づける。忠を尽せば孝に適うということである。そうして国家として最も自然的に最も鞏固に存在することが我が国体の特色である。 ある人は、この総合家族制を立国の根本義とすることを批難して、我が帝国が朝鮮・台湾・樺太を加えていることに支障を生ずると論じる。しかし、そはやむを得ないことである。根幹となる大和民族の国家を磐石にすれば、発展とともに段々と附属し来た民族には権威と恩恵をもって臨めばいい。もし新附の民族をも同一範型に容れられる立国根本義を求められないこともないが、総合家族ほど堅固になることは到底ありえない。 天孫降臨の神勅によって我が国体は定まったという人も多いが、それは間違いである。神勅の有無にかかわらず、我が国家の社会的成因が、万世一系の皇位を肯定し、その他を否認するのである。神勅はただその事実を表明したものに過ぎない。神代史は歴史と神話が半々のようなものである。神勅は神話として歴史的事実でないと考える者もいる。しかし、国体論においては神勅が事実であろうが神話であろうが根本問題ではない。神勅が史実であるにせよ、神話すなわち民族的理想の表明であるにせよ、社会的事実は変わらず、国体論は動かない。 帝国憲法も教育勅語も元来存在する事実を顕彰したものであり、これによって国体が定まったわけではない。 統治権の主体について国法学者の間にあれこれ議論がある。一方は統治権の主体を国家とする説(美濃部達吉らの国家主体説)、他方は統治権の主体を天皇とする説(上杉慎吉らの天皇主体説)である。前者(美濃部ら)は国家が国家全体の利益のために存在すると説き、後者(上杉ら)は国家が天皇個人の利益のために存在すると説く。後者(上杉ら)は前者(美濃部ら)の説をもって、天皇の神聖を侵し、国体の尊厳を危くするものであると非難する。しかし、我が国において敢えてこの事を宜明する必要があるのか。規定しなくても国民の大多数は忠魂をもって皇室に尽したいと願い、また歴代天皇は自身を顧みずに国民を憐む。これ我が国体の善美の表れである。しかし冷かな法理によって天皇を神聖視することを強制しようとすること(上杉らの天皇主体説)は、いわゆる贔負の引き倒しであって、皇室に対する国民の忠義の熱情に水をさし、歴代天皇の聖徳を無にするものである。 詳細は「第一次共産党 (日本)」を参照 1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。 11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。 「コミンテルン#日本共産党とコミンテルンテーゼ」も参照 「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。 日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。 日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。 その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。 詳細は「第二次共産党 (日本)」を参照 1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか?』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。 詳細は「日本民主革命論争」および「日本資本主義論争」を参照 当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。 1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く弾圧で約1,000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。 相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。また1930年に水野成夫らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の日本共産党労働者派を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。 1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。 このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。 1932年5月、コミンテルンにて「32年テーゼ」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。 同月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、「スパイM」(飯塚盈延)を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内部でのスパイ狩りが始まり出した。 10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。 さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多数の党員が袴田ら党中央を批判して分派の「多数派」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。 1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。 日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。 その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって弾圧された。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。 1921年(大正10年)5月に日本の共産主義者は上海に渡航して資金を獲得し、その資金をもって帰国して過激な主義運動を開始する。政府はこれを取り締まるため、1922年(大正11年)3月に過激社会運動取締法案を議会に提出する。この法案は、朝憲を紊乱する事項や社会の根本組織を不法に変革する事項について、これを宣伝等した者を罰するものである。これは貴族院で修正のうえ可決されるが、衆議院で審議未了に終わり、廃案になる。日本共産党は同年末にロシアで行われたコミンテルン第4回大会で承認され、ここにコミンテルン日本支部として日本共産党が成立する。通説によるとコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」は「君主制の廃止」を要求しており、この点が翌年3月の石神井臨時党大会で問題視され、綱領草案は審議未了に終わったという。一説には綱領草案に「君主制の廃止」の要求はなく、実際は「完全に民主的な政府」の要求であったとも指摘されている。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災をきっかけに大正デモクラシーは曲がり角を迎える。震災前まで日本国内では大正デモクラシーの民衆運動が高まり、それに反発する右翼が台頭し、現職総理大臣原敬の暗殺や元老山県有朋の死去もあって、天皇制支配体制が揺らいでいた。また国際的にも、ワシントン体制で英米と対立し、中国人や朝鮮人の反日運動を被り、シベリア出兵に失敗するなど、孤立しつつあった。そこに関東大震災が突発する。 政府は大地震の翌2日に戒厳を布き、5日に内閣告諭を発して人々の朝鮮人迫害を戒め、7日治安維持令を発して人心の動揺を抑えるが、この間多数の朝鮮人が自警団らに殺傷される。また亀戸事件で社会主義者10人が警護兵に殺害され、16日には甘粕事件で無政府主義者大杉栄とその家族が憲兵に殺害される。こうした事件に対する批判は少なく、むしろ軍隊と警察は治安維持と被災者救護を通じて民衆の間で威信を高め、内村鑑三や美濃部達吉ですら軍隊と戒厳に謝意を表わす。財界人の間では天譴論というものが唱えられる。天譴論とは、震災を国民への天罰として捉えるもので、それは国民が贅沢に馴れて勝手気ままに危険思想に染まりつつあることに対する天罰なのだという。政府は11月に天皇の名で国民精神作興ニ関スル詔書を出し、軽佻詭激(軽はずみな過激行為)を戒めるが、この詔書に署名した摂政皇太子裕仁親王は翌月虎ノ門事件で暗殺未遂に遭う。犯人難波大助は主義者であったため、主義者に対する嫌悪感が民衆の間に広まる。 関東大震災の6日後に発せられた治安維持令は、生命身体財産に危害を及ぼす犯罪を扇動した者、安寧秩序を紊乱する目的で治安を害する事項を流布した者、人心を惑乱する目的で流言浮説をなした者を処罰するものである。これは緊急勅令であったが、治安維持に相当の効果があるということで同年12月に帝国議会の承諾を得て恒久化する。治安維持令は1925年治安維持法制定時に廃止されるまで効力を持つ。 この間、共産主義その他の急進運動は著しく発展し、ロシア第3インターナショナル(コミンテルン)と通謀して資金提供その他の援助を受け、過激運動を計画し実行しようとする。これに加えて日露間に修好の基本条約が締結されたため、国交が徐々に回復して両国間の往来が頻繁になれば過激運動家が各種の機会を得ることも予想された。日本政府は、従来の法規制は抜け穴が多く罰則も軽いので取り締まりの効果が薄いという理由で治安維持法案を帝国議会に提出する。治安維持法案は第1条に「国体もしくは政体を変革し、または私有財產制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者は、ハ十年以下の懲役または禁錮に処す」「前項の未遂罪はこれを罰す」というものであり、国体とともに政体を挙げていたが、衆議院は政体のことを条文に掲げる必要がないとして「もしくは政体」の文字を削除して法案を可決する。治安維持法公布後に内務省警保局が官報に載せた各条義解によると、国体とその変革というのは次のことを意味する(大意)。 国体とは誰が主権者であるかの問題である。我が帝国は万世一系の天皇に統治される君主国体である。国体は歴史にもとづく国民の確信によって定まるものであり、成典(帝国憲法)によって定まるものではない。成典に国体に関する規定があるのは、ただ主権者がみずから既定の国体を宣言したに過ぎない。憲法第1条に大日本帝国は万世一系の天皇これを統治すると定め、第4条に天皇は国の元首にして統治権の総攬者であることを明らかにした。したがって、天皇以外が統治権の総攬者であることはなく、天皇に統治されない国土はなく、天皇以外が天皇に淵源しないで統治権を分担することはない。 治安維持法第1条にいわゆる国体の変革とは、国民の確信である国体の本質に変更を加えることをいうのである。君主国体を変えて共和国体やソビエト組織にしたり、一切の権力を無視して国家の存在を否認したり、要するに統治権の総攬者である天皇の絶対性を変更する色彩のあるものは国体の変革である。そして暴動を要件としない点で内乱罪の予備や陰謀と異なるのである。 1926年、全日本学生社会科学連合会(学連)に属する学生ら38名が治安維持法違反等の疑いで検挙される。学連事件である。検挙後の5月に検事総長小山松吉が訓示して「学術研究の範囲を超越し、いやしくも国体を変革し、または社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、もしくはその実行に関する協議をなすに至りては、毫も仮籍する所なく、これを糾弾せざるべからず」と指示する。 1925年(大正14年)9月、井上哲次郎が『我が国体と国民道徳』を著す。同書に曰く、我が国体は既に分かり切ったものと思い込んで実はよく知らない者が多く、精神面を度外視して表面だけ考えたり、英国や旧ドイツ帝国や旧ロシア帝国などと同じように考えたり、民主思想と絶対に相容れないものと考えたりする、その誤謬は実に様々である、と述べ、国体は民主思想と矛盾するものではないと語る。井上哲次郎はこれまで万世一系の血統を重視していたが、同書ではポイントを移して王道(仁政)を重視し、民本主義や人道主義が国体に根差すと主張する。これは、大正天皇の病気療養に国体論の不安を見た井上哲次郎が、国体論を再編して国体の正統性について説得的な論拠を提供しようと試みたものと評される。 井上哲次郎の『我が国体と国民道徳』は公刊後1年経った1926年(大正15年)9月ごろから頭山満ら国家主義者に猛烈に批判され、翌年1月に発禁処分を受ける。当時の批判は「彼(井上哲次郎)は全く時代思潮の追随者で、彼自身の見識も意見も有るものではない」、「震災前に出版していた国民道徳概論には国体破壊の恐れある言論はほとんどない」のに、『我が国体と国民道徳』については「なるほどこれは怪しからぬ。かれ井上氏は何時の間にこんな物を書くほどに、それも国民道徳と銘を打って、全国の児童の頭に植えつけるような書物に書くほどに悪化したろうか」というものであった。具体的には、三種の神器のうち鏡と剣は模造品であるなどと記した部分があり、これが不敬であるとされたこと、またそれよりむしろドイツ・オーストリア・ロシアの君主国体が倒れたことについて「このように国体というものがガラリガラリと一変して行くのを引き続いて見た」などという記述が問題視されたことが挙げられる。この不敬事件は、井上哲次郎の国体論再編の試みが伝統的国体論から攻撃を受けて挫折したものと評される。井上哲次郎は公職を辞めざるを得なくなり、以後著述に専念する。 昭和になると、国体論は人々の思想を規制するうえで猛威をふるう。昭和の直前の1925年に制定された治安維持法は国体の変革を目的とした結社を禁止した。その3年後の緊急勅令は国体変革に関する最高刑を死刑に引き上げた。こうした動きの背景には、国体を天皇制として相対化するマルクス主義に対する恐怖と敵意があった。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決で「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」とされた。 昭和の初め、衆議院で初の普通選挙が行われ、その選挙結果に基づき第55回帝国議会が開かれるが、その前後では国体にまつわる様々な問題が惹起される。国民の総意に基づく議会中心主義を掲げる立憲民主党綱領問題、君主制の廃止を謳う日本共産党に対する弾圧、パリ不戦条約の人民ノ名ニ於テ問題などである。 日本初の普通選挙を控えて、1927年6月、立憲民政党が創立される。創立趣意書に「国体の精華にかんがみ一君万民の大義を体し国民の総意によりて責任政治の徹底を期するものである」と述べ、党の政綱に「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を微底せしむべし」と宣言する。時の政権は、同党と対立する立憲政友会の田中義一内閣である。翌年2月に初の普通選挙が行われる際、同内閣の内務大臣鈴木喜三郎は、投票前日に声明書を発表し、立憲民政党の政綱について「議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさおさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない。畢竟かくのごとき思想は主権は一に天皇にありとの大義を紊乱し、帝国憲法の大精神を蹂躙するものであって断じて許すべからざるものである」と批判する。しかしこの声明書は逆に鈴木内相への不信任の雰囲気を強める。新聞には、民政党が国体に反するというなら何ゆえ治安警察法で解散させないのかと指摘され、貴族院からは皇室を政争の具にするものとして非難される。選挙後の帝国議会において、鈴木内相は過度の選挙干渉を責められて辞職に追い込まれる。 この間の1927年7月、コミンテルンが日本の君主制の廃止を謳う「日本問題に関する決議」を採択する。いわゆる27年テーゼである。日本共産党は27年テーゼに基づき活動を始め、翌年2月の衆議院選挙に11名の党員を労働農民党から立候補させて公然と大衆宣伝を行う。選挙運動では、日本共産党の名を入れたビラをまき、共産党のテーゼを大衆に宣伝する。 田中内閣は共産党が国民に影響することを恐れて密かに内偵を進め、3月15日未明、共産党の党員やシンパなどの約1600名を一斉検挙する。三一五事件である。文部大臣水野練太郎は訓令を発し、この事件を「国家のため一大恨事」と断じ、「極端なる偏倚の思想を根絶し懐疑不安の流弊を一掃する」こと、そして「学生生徒をしてこれに感染することなからしめんがため、特に心力を傾注してわが建国の本義を体得せしめ国体観念を明徴ならしめ、もつて堅実なる思想を涵養するに勉むる」ことを指示する。衆議院では、尾崎行雄提出「思想的国難に関する決議」が圧倒多数で採択される。貴族院議員は各派代表が揃って田中首相を訪問し「日本共産党の主義行動は根本的に我が国体を破壊せんとするものの如くなれど、かかる行動に対しては徹底的に弾圧を加うる意思なるや否や」などと問い詰める。各種の教育団体は一様に国体観念の涵養を高唱する。たとえば全国聯合小学校教員会総会は「国体観念の涵養に努め国民精神の振興を図り以て国運の進展に貢献せんことを期す」という宣言を決議する。また教育社会の中央機関を自認する帝国教育会は、全国聯合教育会の決議を受けて、思想問題研究会を設置する。 田中内閣は治安維持法の国体変革罪の最高刑を死刑に引き上げる法案を帝国議会に提出するが、法案を審議する委員会の委員長席を野党に取られて、法案は審議未了で廃案になる。そこで田中内閣は緊急勅令により治安維持法改正を強行する。緊急勅令を出すには緊急性の口実が必要であり、これについては原法相が名古屋の第3師団が山東出兵に出征する際に反戦を働きかけた者がいた事案を示し、「彼らに対し厳重なる警戒を加えるにあらざれば、彼らはますます国体変革を目標としてこの大胆不敵の売国的運動を継続し、我が国の治安を根本的に破壊せんことを努むるの恐れある」と説明する記事を新聞に載せる。治安維持法改正緊急勅令案を審査する枢密院では緊急性について疑義が出され異例なほど紛糾するが、結局多数をもって可決される。枢密院の審査委員会では「危険思想の青年間に流布することの恐るべき次第」「学校教育においては国体観念を明らかにし国民的信念を涵養すること最も必要なり」といったと発言が相次ぎ、その結果として審査報告書に付せられた警告条項に「思想の善導につき当局は学校教育たると社会教育たるとを問わず教育の改善に最も力を致すべき」との要求が掲げられる。枢密顧問官らは特高警察や思想検事の拡充よりも思想善導を優先させたのである。 この間の1928年3月(前述三一五事件と同じ月)、パリで日本政府代表が不戦条約に署名調印する。その第1条に「人民の名において」とあり、野党はこれをそのまま批准すれば国体を変更することになると批判する。 不戦条約は英文と仏文で書かれ、その第1条には英文で"The high contracting parties solemnly declare in the name of their respective people ..."とある。これを和訳すれば「締盟国は各々その人民の名において厳粛に宣言する」となり、当時の外務省もそのように翻訳して国際時報に載せていた。この字句が物議を醸すと政府は急に訳文を隠し、議員が訳文の開示を要求しても、まだ翻訳が出来ていないと答弁する。尾崎行雄は、1929年2月に政府へ提出した質問主意書において、我らは軍国主義に反対するから不戦条約自体には賛成であるし、この問題は天皇大権に関係するから政争の具にしてはならないと言いつつも、次のように指摘する。 我が国と同じく不戦条約に調印したる米、仏、曼〔ドイツ〕、チェコスロバキア、ポーランド等の共和国は申すに及ばす、英、白〔ベルギー〕、伊〔イタリア〕等の君主国といえどもその君主はただ君臨するだけで統治せざる国柄であるから、人民をもって条約締結の主体となすのは当然の次第であるが、ひとり我が国に至りては、天皇は統治権を総攬し(憲法第四条)、また条約締結権を専有したまう(憲法十三条)であるから、人民をもって条約の主体となすことはできない。 しかし不戦条約第一条をかのままにしておいて御批准なされば人民をもって該条約の主体となすことになる。それは憲法第一条、第四条および第十三条に違反し、国体を変更し、条約締結の大権を天皇陛下の御手より人民に移すことになる。ゆえに政府は、まず勅命を請うて憲法を改正せざる限りは、かのまま該条約の御批准を奏請することはできないはずである。 日本政府は同年6月27日に不戦条約の批准を受ける際に異例の「宣言」を発し、不戦条約第1条中の「其ノ各自ノ人民ニ於テ」という字句は帝国憲法の条文からみて日本国に限り適用されないものと了解すると宣言し、この宣言を前提に批准する旨を批准書に書き入れて天皇の批准を受ける。それと同じ日、田中義一首相は張作霖爆殺事件について天皇に奏上し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみで済ますと説明する。これが従来の説明と全く異なることから、天皇は強い口調でその齟齬を詰問し、さらに田中に辞表提出を求める。田中内閣は不戦条約批准問題で苦境に立ち、張作霖爆殺事件の責任問題で昭和天皇に咎められたことで、総辞職に追い込まれる。田中内閣に代わって立憲民政党の浜口内閣が成立し、不戦条約を公布する。その上諭は「右帝国政府の宣言を存して批准し、ここに右帝国政府の宣言とともにこれを公布せしむ」という異例の表記になる。 1929年7月に成立した浜口内閣は「十大政綱」を発表し、国体観念の涵養に留意して国民精神の作興に努めることを宣言する。そして教化総動員運動というものを急遽計画し、9月から12月にかけてこれを全国で実施する。この運動は、各地の教化団体・青年団体・宗教団体・婦人団体を中心として一般国民を巻き込む意図があり、その目的を「国体観念を明徴にし国民精神を作興すること」「経済生活の改善を図り国力を培養すること」の2点に集約し、その根拠を昭和天皇の践祚後勅語と即位礼勅語に求める。この運動は推進者の小橋文相が鉄道疑獄で辞任したことから尻すぼみで終わるが、各地社会教育団体が自発的に運動に参加したことから、一般国民の間に異端排斥の風潮を強める。 文部省は1930年度から学生生徒の思想善導を実施する。その中に特別講義制度があり、これは「我が国特殊の国体、国情、国民性等を明徴に」すること等のため、各校が外部講師に依頼して特別講義を実施するものである。初年度はまず官立高校で始め次年度から範囲を官立専門学校・実業専門学校、高等師範、大学予科に広げる。講師としては鹿子木員信・新渡戸稲造・高田保馬・川合貞一・前田多門・紀平正美の講義が多く、そのほか三上参次・辻善之助・柳田国男・大川周明らも動員される。教養話や時事談もあるが全体としては国体明徴等に関する講話が多い。当初は各校年間10時間程度実施する予定であったが、実際には初年度に4時間あまり、次年度に2時間たらずしか実施できていない。これは、高校ですらストライキや騒擾が頻発する当時にあっては、有名高士の説教自体が学生生徒から攻撃されたからである。 1931年に満州事変が勃発すると一般国民の間で排外熱と好戦熱が高まり、社会民主主義者は戦争協力になだれ込む。学校全体を巻き込むストライキや騒擾は翌年から激減する。文部省学生部は特別講義制度を自賛する。文部省学生部によると、学生らが外来思想に対する追随的・妄信的・無批判的な態度から脱却して、我が国特殊の国体、国情、国民性等に十分な考慮を払い、現実の社会問題、思想問題に対して批判的識見を持ち始めたのは特別講義制度のおかげなのだという。 満州事変後、右翼学生が国家主義を前面に掲げて団体を結成しはじめる。文部省は、右翼学生団体を主義や綱領により大別し、その分類の筆頭に、天皇中心主義を信奉し、皇道精神と日本精神の涵養と発揚に努め、国体観念を明徴させようとするものを挙げている。ほかは、国防を研究するもの、満蒙進出を図るもの、学風の堅実化を図るものである。文部省は右翼学生団体に対して左翼学生運動への対抗者として積極的に支援する。たとえば文部省学生部の帝国議会向け資料には、右翼学生団体について、おおむね研究や修養を主とする穏健なものが多く、中には特に国体観念・国民精神等を明徴にしようとする真面目な団体もあるから、一方において極左思想の激しい今日にあっては、この種の団体に対してその健全な発達を助成すべきものと思われる、と記されている。 1932年(昭和7年)5月、文部省の学生思想問題調査委員会が文部大臣の諮問に答申を出す。同委員会は前年に文部大臣の諮問機関として設けられたものであり、その委員の大多数は、左傾思想(マルクス主義)が国体に反する危険思想であることを共通認識とし、左傾の原因について「我が国体思想の涵養が不充分なりしことが、マルキシズム勢力の原因の一つ」と判断し、具体的な対策として「我が国体・国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くること」を提唱する。これは国民精神文化研究所の創設に結びつく。 学生思想問題調査委員会の中で少数派であった河合栄治郎と蠟山政道は、委員会の答申とは別に自分たちの少数意見を『学生思想問題』として公刊する。同書に次のように言う(大意)。 国体思想それ自体を尊重し、その涵養が重要であることを認めるが、元来国体思想はマルキシズムと全面的に対立するものではない。 国体思想とマルキシズム勢力の原因は全く関係ない。国体思想が涵養されないことでマルキシズムが勢力を持ったわけでもなければ、国体思想が涵養されたからといってマルキシズムの勢力が阻止されるものでもない。 国家主義の不充分であったことはマルキシズム勢力の一因となるとともに、また国家主義が充分であることは逆にマルキシズム勢力の一因ともなる。国家主義とマルキシズムとの関係は決して単純ではないことを注意すべきである。 このような河合・蝋山の意見が委員会の大勢と対立することは明らかである。この委員会の発展形といえる後の思想対策協議委員では、河合や蝋山のような見解はありえないものとなり、それ以降の思想全般のあり方についてもそのような見解を批判し否定する方向が唯一絶対化する。 1932年8月文部省は国民精神文化研究所を設立する。これは学生思想問題調査委員会多数派による答申を受けたものである。高等学府の学者は大方反対者であり、国民精神文化研究所の仕事に直接参加することを拒んだという。所長は東大教授の吉田熊次に決まりかけるが本人に断られ、文部次官が所長事務取扱を兼ねる形で取りつくろう。実際には学生部長伊東延吉と事業部長紀平正美が中心となって運営する。研究部長は当初欠員であり、のち吉田熊次が就く。専任の所長には1934年5月、社会教育局長であった関屋龍吉が就く。当時この人事は左遷と評されたという。 研究部には、歴史科、国文学科、哲学科、教育科、法政科、経済科、思想科が各科が置かれる。研究成果は出版、講演会、講習会などを通じて普及が図られる。出版物として、紀要『国民精神文化研究』をメインに、パンフレット『国民精神文化類輯』、機関誌『国民精神文化研究所々報』などを発行する。初期の『国民精神文化研究』には、河野省三の論文「我が上代の国体観念」のような、国体観念や国民精神の闡明を目的とする論文が数多く掲載される。 研究部以上に重要なのは事業部である。これは学校教員の思想対策と転向学生を扱う。事業部は教員研究科と研究生指導科に分かれる。 教員研究科は師範学校教員の思想再教育を目的とするものである。これは後に中等学校教員も対象にする。研究員募集の通牒には、国体観念と国民精神に関する根本的研究を積まさせて思想上の指導訓育に尽力させる、とある。第1期研究員の修了後の所感は「特に知識的よりも信念的には一層国体観、人生観が深められた」「左右両思想への批判と国体観念、日本精神に対する明確なる信念を得た」などの感想が圧倒的に多い。研究員たちは学校教師として帰任した後、生徒の思想善導の中心となり、また地域の講演会や講習会の講師として引っ張りだこになり、国体観念を熱心に鼓吹していく。 研究生指導科では、思想上の理由で退学した学生生徒の指導矯正を図る。いわゆる転向の促進である。指導方針は「時代思想を批判し、日本精神を闡明ならしむるを主眼とす。まず過去の生活態度に対する反省とマルクス主義の理論的批判に努力せしめ、ついで我が国体・国民精神についての研究をなさしめ、もって日本人としての確固たる生活原理を樹立せしむるよう指導をなす」とされる。入所者に指導矯正を繰りかえし、入所者が我が国体・国民精神の真髄を体得し、日本人としての自覚を強固にして、日本思想界の刷新のため力を尽くし皇国に報いんとする念願を持つに至らしめたという。 国民精神文化研究所の中心人物である伊東延吉は1933年6月に同所の機関誌に「思想問題と国民精神文化研究所」と題して、「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。この真我を把握し、この国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識を示し、欧米流の分析・実証・理論を排して「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」なるものが必要であると主張する。そして、かつて学生思想問題調査委員会で河合と蝋山が示した異見を否定する。 1933年(昭和8年)は思想問題に明け暮れる。前年末の司法官赤化事件に始まり、2月の長野県教員赤化事件、滝川事件、佐野鍋山転向などが勃発し、支配層は思想対策に狂奔する。 1933年3月、日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立を深める。この事態は、満州事変後の非常時意識を急速に高め、思想問題の切迫化と相まって思想対策ブームを創り出す。鳩山一郎文相は訓令を発し、教育教化の関係者に対し、みずから率先して学生生徒を誘導し一般民衆を鼓舞し国民精神を振作して時難の匡救に邁進すべし等と指示し、その具体策として非常時国民運動の実施を求める。文部省は外務省や陸海軍省と協議して国民教育読本『非常時と国民の覚悟』10万部を全国の学校や社会教育団体に配布する。その結語で「国民精神を振作せんが為には之が障碍たる唯物思想の撲滅を期し、国民的信念の涵養に力めなければならぬ」ことを強調する。 思想対策協議委員が政府に設置される。きっかけは帝国議会の思想対策決議である。衆議院で提案理由の説明した山本梯二郎議員は国民教育の確信を強調し、国体観念と道義観念の注入と、危険思想の持主に大斧鉞を加える勇断を政府に要求する。斉藤実内閣は「中正堅実なる思想対策の確立を期するため」思想対策協議委員の設置を閣議決定する。その委員会は内務・司法・陸軍・海軍・文部の各省の勅任官らで構成される。陸軍省は教育振興のため国体観念宣揚などを要求する。 思想対策協議委員は8月に思想対策方針具体案を立案し、閣議決定をみる。それは「積極的に日本精神を闡明しこれを普及徹底せしめ国民精神の作興に努むることをもってその根幹となすも、一面において不穏思想を究明して、その是正を図ること、また緊要なり」といい、具体的には国民精神文化研究所の拡充や各道府県での国民精神文化講習所の新設などを計画する。途中案では、日本精神の聖書経典とも称すべき簡明平易な国民読本を国民精神文化研究所研究部で編纂し広く普及させることが企画される。これは委員会で立ち消えるが、ここに後の『国体の本義』の萌芽があったことは注目される。 滝川事件では京都帝国大学教授滝川幸辰が休職処分になる。この事件は文部省の思想統制の範囲がマルクス主義の枠を越えて、自由主義にまで広がったことを意味する。文部省国民精神文化研究所の伊東延吉が滝川事件について「唯物論とかマルキシズムとか云ふことで問題にしてゐるのではない。その客観主義自体が問題で、あれを進めていくと××否認、××否認になる」(××は原文のまま)と発言したように、文部省は国体否認・国家否認と見なした思想を排除するようになる。文部省は滝川事件を済ませると、その後は一挙に国体に反するとみなした思想や学説を思想統制の対象としていく。 6月に日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が転向を声明する。声明書に日本の君主制(国体)について次のようにいう(大意)。 日本の君主制をロシアのツァーリズム(絶対君主主義)と同視する党の反君主主義が過ちであることを認める。日本の君主制は民族的統一を表現している。君主制に対する大衆の自然的感情をありのままに把握する必要がある。日本の民族的統一は下からの人民的国家権力成立の強い保障である。 この転向声明が左傾学生生徒に与えた影響について文部省は次にようにまとめている(大意)。 英雄的・先覚者的・殉教者的な気分を抱いて共産主義社会とその指導者に憧れていた学生に対し、理論面よりも感情面から衝撃を与え、その転向に影響があったと認められる。〔...〕従来かれらが盲目的に共産主義やソビエト・ロシアを賛美していたのに対し、これを打破し、かれらに反省と再考の機会を与え、またその理論的誤謬を認識させ、進んでその思想の清算を決意させ、また我が国体と国民の特殊性を考察する機会を与えた。 東大学生課によると、左傾学生も佐野と鍋山の転向声明に影響され、転向動機に「国体」「民族性」「特異性」が目立ちはじる。 1934年6月文部省は学生部を昇格し思想局に改組する。思想局は創設の翌月に思想問題に関する資料展覧会を開催し、その目録で「国民全体が深く我が国体の精華と国民精神の本義とを自覚し、いやしくもこれに背反するがごとき思想は一刻一片も存在を許容せざる覚悟を有することが必要である」と訴える。さらに11月に『思想局要項』を刊行し、「根本的対策」として「今日我が国思想問題に対する根本的対策としては我が国独自の国体観念、国民精神の真の体得に努め、我が国固有文化の発揚を図り、これに基く教育学問の振作創造につとめ、外来思想の咀嚼摂取に意を用い、マルキシズム等の謬れる思想の矯正根絶を期し、以って現下の時勢に処し国民のむかう所を明らかならしむる」ことを思想局の第一の役割として自認する。 1934年9月、吉田熊次が国民精神文化研究所の研究部長に就任する。かつて吉田は同所発足時に所長就任を要請されたときはこれを断っていた。吉田は「思いつきや神がかりの国体論」を厳しく批判したという。吉田が研究部長就任にあたり「我が国の思想界・学界は世界のあらゆる主義・主張を包容するがゆえに、これらを融合し整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べたのは、おそらく同所事業部長紀平正美に代表される「思いつきや神がかりの国体論」を牽制したものとみられる。 地方の学校では危険思想を未然に防ぐため思想調査が行われる。極端な事例は鳥取県立倉吉高等女学校が1935年10月に発表した「思想調査案」である。これは国体観念の調査を全学年の課題とし、女子生徒に「皇室の御恩徳について最も感激したこと」「国史を学んで我が国体が最も有難いと感じたこと」「今までに読んだ書物や聞いた御話の中で国体に関し最も関心したこと」「現代の社会で我が国体の有難さを強く感じたこと」「国体に関して疑問があれば述べよ」と試問して思想性向を調査し、各学期に性向調査会を開き、その結果を性向調査簿に記入する。女子生徒が町内の書店で購入した書籍雑誌までも調査する。 1935年(昭和10年)の天皇機関説事件をきっかけに国体明徴運動が盛り上がりをみせる。後年(1940年)、東京地裁検事局の思想特別研究員玉沢光三郎は国体明徴運動の影響を次のように論じる。 天皇機関説排撃に端を発した国体明徴運動は、皇国日本における絶対的生命的な根本問題を取上げた一大精神運動であった。しかも言論絶対主義の下に、あくまで合法的に進められたため、各分野における革新分子は期せずして一致してこの運動に参加し、全国的に波及して一大国民運動にまで進展し、三十年来唱導された学説を一挙に葬り去ったばかりでなく、社会の各部層に深甚な反響を及ぼし、思想・政治・教育・宗教等あらゆる部面に少なからざる影響を与えて時代を著しく推進せしめたと同時に、革新運動の一大躍進を招来し画期的成果を挙げしめた。 国体明徴運動は著しく国民精神を昂揚せしめて、日本精神の自覚内省を促したと同時に、日本文化の優秀性を認識せしめ、更には日本精神に立脚した新日本の建設、新文化の開拓等の風潮を促進せしめた。 田中耕太郎は戦後に「国体明徴運動こそは思想的に日本を破滅へ導いた過激国家主義の先駆であった」と断じる。 天皇機関説事件は、1935年2月18日に貴族院で菊池武夫議員が美濃部達吉を攻撃して始まる。3月の貴族院「政教刷新に関する建議」と衆議院「国体に関する決議」に至るまでの間、政府の議会答弁は、天皇機関説には反対するが議論は学者に任せるという「敬遠主義」に終始する。 3月には文部省が省議で、国体明徴に関して時局対策施設費10万円をもって講演会開催やパンフレツト頒布を行い、学制改革に関して国史・修身・読本の授業方法について考慮すると決定する。 4月に内務省が美濃部の著書5冊の発禁などの行政処分を下すと、文部省は全国の教育関係者に「国体明徴に関する訓令」を発し、いやしくも国体の本義に疑惑を生じさせるような言説は厳に戒め、常に国体の精華の発揚を念頭におくべきことを指示する。この訓令は教育の現場で評判が悪かったという。教育現場では国体明徴について既に「国体観念の涵養」などの表現をもってその実施に努めていたという自負があったからである。文部省はこの程度の訓令で事を済ます気でいたが、国体明徴問題は軍部を巻き込んでヒートアップする。 5月に陸海軍大臣からの要求を受け、文部省は国体明徴に照らして小学校の国語や修身の教科書を修正することを表明する。 6月松田文部大臣は地方長官会議で訓示して「ますます国体の精華を発揚すべきこと」「あまねく我が国体の万邦に比類なき所以を体得せりむるように指導せられんこと」を強調するが、機関説排撃を明言しない。 事態は文部省の楽観的見通しを裏切って機関説排撃の国体明徴運動が勢いを増す。7月に文部省は方針を転換する。文部省は全国の学校長ら350名を対象に5日間の憲法講習会を開く。金子堅太郎「帝国憲法制定の精神」、筧克彦「帝国憲法の根本義」、西晋一郎「日本国体の本義」、牧健二「帝国憲法の歴史的基礎」、大串兎代夫「最近に於ける国家学説」である。この連続講習は、たとえば日本法制史の牧健二が「帝国憲法の成立はどうしてもこれを国史に顧みて研究しないと判らない」「日本の歴史を一貫して国家の規範として現れた光輝ある国体を顧みて理解されなければならない」としつつ、「帝国憲法における国体を明徴ならしめることは、同時に立憲政治をして真にその価値を発揮せしめる所以でもあります」と述べるなど、必ずしも機関説排撃一辺倒であったわけではない。 つづいて文部省は全国学校の法制経済科・修身科の担任教員と学生生徒主事を合計177人招集して協議会を開く。文部大臣がその席上で「一方においては国体の本義に疑惑を生ずるがごとき言説は厳にこれを戒むるとともに、一方においては積極的に我が国体に則りたる憲法学の発展完成に向かって努力すべき」と訓示し、機関説排撃を明言するとともに日本憲法学の確立に論及する。この協議会の議題は、法制経済科や修身科の授業に国体明徴の効果を挙げる方法であり、それはおおよそ次のような結果になる。 ここに全国の思想教育担当者を集めて機関説排撃と国体明徴の徹底について意思統一がなされたことは文部省の教学統制上の画期である。 文部省は各種講習会を多数開催し、国体明徴の徹底を図る。読売新聞はこれを皮肉って「国体明徴の徹底に講習会を盛んに開くそうである。いかに叩き込んだところで消化が出来なければ国民の栄養にはなるまい。文部省あたりの明徴から出直してかかる必要はないか」というコラムを載せる。 1936年度文部省予算の当初案では各帝国大学に国体講座を設置する計画があった。読売新聞の報道によれば、各大学は国体について憲法学の一部として講義しているだけである。国体の本義を講義すべき国法学も大部分は各国の学説を研究する比較憲法学のようである。国体観念を史的に観察する法制史も各教授が特定の時代の専門研究に走りすぎている。文部省はこれらの点を遺憾とし、何としても国体の本義に関するまとまった講座を新設する必要を痛感している、という。しかし、おそらく適任者も見つからないためこの段階では国体講座の開設は見送られる。 1936年2月26日、二二六事件が勃発する。殺害された教育総監渡辺錠太郎は、前年に天皇機関説を擁護した̚ことがあり、このことが殺害理由の一つになったという。 1936年5月貴族院本会議において天皇機関説について質疑が出て、広田弘毅首相は「厳正にこれを取締ってまいりたいと思う」と答弁し、平生釟三郎文相も「天皇は統治権の主体であって統治権は一に天皇に存すという国体の本義に反したる学説の講義もしくは講演は、何処の学校においても絶対に禁止しておるのであります」と答弁する。同月、文部省は「学校教育刷新充実に関する経費」18万4千円の追加予算を議会に提出し認めらる。これは「小学校より大学に至る各階級の学校に使用せる教科書、教授要目、プリント等につき、いやしくも国体明徴に関係を有せるものは総べてこれを再検討し根本的にこれが改訂を行う」ものである。同時に教授要目も急ぎ改訂される。 1936年6月思想局長伊東延吉が専門学務局長を兼任する。翌月、伊東延吉は思想局長名で大学に通牒を発し、日本文化講義、すなわち「日本文化、国体の本義に関する特別講義」の実施を指示する。これに対し東大で反発の声が上がる。9月の評議会の場で、法学部長穂積重遠は、学生は忙しく講座実施は困難である、そんな時間があるなら自然科学の講義を切望すると述べ、また経済学部長河合栄治郎は大学自治に影響が及ぶ懸念を示すなど、反対の意向を表明したのである。東大では通牒通りの実施はできないと文部省に返答する。 1936年9月、日本諸学振興委員会が文部省訓令により設置される。訓令第1条は「国体、日本精神の本義に基き各種の学問の内容および方法を研究・批判し我が国独自の学問、文化の創造、発展に貢献し、ひいて教育の刷新に資するため、日本諸学振興委員会を設く」であり、学会や公開講演会などを開催することとされる。委員長は文部次官が兼ね、専門学務局長兼思想局長の伊東延吉が常任委員となる。 日本諸学振興委員会設置の背景には国民精神文化研究所が研究面において成果を出せず、学界からの評価も低いという事情があった。この点に気づいた文部省は、人文に関する学問の各科にわたって日本精神・国体観念を徹底させ、これを基として研究させる方策に転換し、既に刷新に着手している教育の分野に加えて、学問の分野についてもその刷新を盛んに唱導しはじめる。 日本諸学振興委員会の初回は教育学会である。文部大臣の挨拶によると、学問の統制を教育学から始める意図が込められ、それも個人主義や自由主義に基づく欧米流の教育学を否定し、国体・日本精神の本義に基づくものという枠に嵌められていることが分かる。 1936年11月教学刷新評議会が設置される。これは林陸相(次期首相)が岡田首相に対し国体明徴について特別の機関を設けてもらいたいと注文をつけたように、軍部の圧力によって設置されたものである。評議会を設置する目的は「国体観念、日本精神を根本として現下我が国の学問、教育刷新の方途を議し文政上必要なる方針と主なる事項とを決定し以てその振興を図らん」こととされる。 1937年2月、林銑十郎内閣は発足時に「政綱に関する内閣声明」を発表し、その第1に「国体観念をいよいよ明徴にし、敬神尊皇の大義をますます闡明し、祭政一致の精神を発揚して国運進暢の源流を深からしめんことを期す」と掲げる。 1937年3月、文部省が中等学校や師範学校の教授要目を改正する。これにより、修身は教育勅語の趣旨を奉体して国体の本義を明徴にし国民道徳を会得させることになる。また、公民科は、国体と国憲の本義、特に肇国の精神と憲法発布の由来を知らしめ、もって我が国の統治の根本観念が他国と異る所以を明らかにし、これに基づき立憲政治と地方自治の大要を会得させ、特に遵法奉公の念を涵養することになる。 1937年3月同志社大学が「同志社教育綱領」を制定する。これは教育勅語と詔書を奉戴しキリストに拠る信念の力をもって聖旨(天皇の意思)の実践躬行(自発的実行)を期するというものである。同大学では前々年の神棚事件や前年の国体明徴論文掲載拒否事件などの内紛が起きていた。教育綱領制定後も教育綱領に反すると疑われる教授らの罷免を国体明徴派の4教授が要求する紛争が起きる。専門学務局長兼思想局長伊東延吉は同志社の理事を呼びつけ「政府当局の国体明徴の根本方針に立脚して善処すべき事」の意向を伝え、罷免要求を受けた側の教授らについては「思想清美」できるまで授業を差し止め、罷免要求を行った国体明徴派4教授の処分については絶対不賛成であると明言する。文部省は国体明徴の観点から同志社のキリスト教教育を狙い撃ちにしたといえる。 1937年3月文部省が『国体の本義』を発行する。その4年前の思想対策協議委員の当初案で日本精神の聖書経典ともいえる国民読本を編纂する案があり、また2年前の国体明徴運動時の予算要求では、修身編・国史編・法制編の三部構成の冊子「国体本義」の編纂頒布を盛り込んだことからも分かるように、『国体の本義』編纂は文部省にとって宿願であった。前年4月文部省が編纂委員会を組織し作成に着手することになったと報じられる。その際の思想局長伊東延吉の談話に次のようにいう。 国民全般に国体の本義に関する理解を十分ならしめたいという意味からこの事業を思い立ったのである。それでなるべく平易に了解されるように編纂したいと思っている。国体の本義というと、とにかく古い歴史的な事ばかりのように解せられがちであるが、今度のは歴史的であるとともに社会的にも十分検討して時代認識に立って国体の本義を明かにする方針である。出来上ったら小中学校の教職員および学生生徒、学事関係者に配布するほか、一般国民にも容易く購読の出来るようにしたいと思っている。 編纂委員は14人、吉田熊次・紀平正美・和辻哲郎・井上孚麿・作田荘一・黒板勝美・大塚武松・久松潜一・山田孝雄・飯島忠夫・藤懸静也・宮地直一・河野省三・宇井伯寿が委嘱される。編纂調査嘱託には国民精神文化研究所から山本勝市・大串兎代夫・志田延義が指名され、文部省から7人が指名される。編纂委員は大所高所から注文をつけるだけで、実質的には編纂調査嘱託が執筆し、最終段階で思想局長伊東延吉みずから加筆修正したと推測される。編纂委員の和辻哲郎は「国体概念の根本的規定等において現代のインテリゲンチヤを納得せしめるよう論述し得るか相当重大なる問題」と注文をつける。 文部省は『国体の本義』について自ら解説し「本書の編纂に当つて特に意を用いた点は、現在における国体の明徴は我が国民の間に久しきにわたって浸潤してゐる欧米の思想、文化の醇化を契機とせずしては、その効果を全うし得ないという精神からして、我が国体、国家生活、国民精神文化を説くに際し、努めて欧米のそれらに触れ批判を下した点にある」とする。 緒言で「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義および自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義の侵入となり、最近に至ってはファッシズム等の輸入を見、遂に今日われらの当面するごとき思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至った」。「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は「真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」。「今や個人主義の行き詰りにおいてその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我らの重大なる世界史的使命がある」という。 刊本では冒頭で「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」。「我が国体は宏大深遠であって、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことをおそれる」とする。草稿段階では、本書以外の研究を拘束するものではない旨の記述があったが、これは最終的に削られる。また、草稿段階では多少の理性的客観的姿勢もあったが、刊本では国体の本義の闡明が世界人類のため世界史的使命を持つ等の記述に論理の飛躍が見られ、理性や客観性は消し飛んでいる。 結語では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある」、「西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある」として偏狭な国体論を戒めているのに対し、本文では、西洋近代思想は個人主義に帰結すること、それに由来する主義は自由主義・民主主義から共産主義・無政府主義に至るまで全て日本の国体に容認されないことの説明に最大の力を注いでいる。このような不整合は起草関係者自身も認識しているところであり、不整合のわけは結論が各章から導かれるという順序ではなく、あるべき結論を先に決めてかかったからだという。 文部省は 『国体の本義』の普及徹底を図り、30万部を全国中等学校以下の教員その他教育関係者に配布する。市販版は1年後に20万部を越え、1943年3月には190万部に達する。 『国体の本義』の解説書のなかで最も早く刊行された三浦藤作『国体の本義精解』は短期間に版を重ね1941年1月までに120版に至る。三浦は『国体の本義』を礼賛し「最も広汎な視野の上に、最も正確な資料に基づき、最も厳密な態度を取り、我が国体をあらゆる角度から凝視し、最も普遍妥当性ある国体論を樹立しようとした努力の結晶である」と評価する。 戦後の国立教育研究所は『国体の本義』について「中等学校教育の修身科の教科書の『聖典』になり、また、高等学校、専門学校、軍関係学校の入学試験にとっての必読書ともなって、日本の青少年の人間形成に大きな役割を果たした」と指摘する。しかし『国体の本義』は刊行後直ちに聖典になったわけではない。帝国議会では『国体の本義』に対する批判が沸き起こる。『国体の本義』にある「君民共治でもなく、三権の分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」という一節が批判されたり、『国体の本義』は国体の本義に重大な疑惑を抱かせると反対されたり、『国体の本義』は前の林内閣の産物であるから今の近衛内閣で見直す必要があると指摘されたりする。こうした批判はしばらく続いたようであるが、刊行後まもなく日中戦争が勃発し、国民精神総動員とともに国体明徴が一層強調されるようになると、批判は次第にタブー化し、『国体の本義』は聖典化する。 『国体の本義』編纂を取り仕切った伊東延吉は、『国民の本義』の市販版を出した翌月、専門学務局長兼思想局長から文部次官に昇任する。 1937年4月、情報委員会が「国民教化運動方策」を決定する。曰く「尊厳なる我が国体に対する観念を徹底せしめ、日本精神を昂揚し、帝国を中心とする内外の情勢を認識せしめて国民に向かうところを知らしめ、国民の志気を鼓舞振張し、生活を真摯ならしめるとともに国民一般の教養の向上を図り、もって国運の隆昌に寄与する」。この「国民教化運動方策」を実行に移す矢先の7月、日中戦争が勃発する。 1937年7月、文部省の思想局が廃され、外局として教学局が創設される。教学局官制第1条に「教学局は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づく教学の刷新振興に関する事務を掌る」とされる。これより先、前年10月の教学刷新評議会が答申を出し、教学の刷新振興・監督に関する重要な事項を掌理させるために有力な機関を文部大臣の管理下に(すなわち文部省外局として)設置することを提唱する。局長は文部次官級の人物を充て、これを長官と称する。1937年6月の教学局官制案の理由書に「我が国現下の趨勢に鑑み我が国体の本義に基づく教学の刷新振興を図るは喫緊の要務なり。しかるに現在の思想局の機構をもってしては十分にその機能を発揮すること能わざる」とされる。枢密院の審査委員会では、こんな小規模でなくもっと大規模にしろとか、長官を親任官(大臣級)にしろとか、参与を勅任待遇に格上げしろとかいう要望が出される。これは教学刷新に対する為政者層の強い意思を表している。 教学局は不振に陥る。創設後1年半を過ぎたころから「無為状態」「肥立ちの悪い」「盲腸化」などというような低評価が定着するのである。局内部のある嘱託員は戦後に「教学局は本質的には、教育行政の元締めとして、国の軍国主義化の一翼を担っていたわけであるが、私達は誰も積極的にはそれに力を貸そうとは考えなかった」として「当時の文部省の右翼的雰囲気に対する若者たちのささやかな抵抗」を語っている。教学局不振の原因は「教学局が過去の思想と精神との亡霊に禍されている」といわれる。具体的には文部次官伊東延吉の影響である。当時から「伊東イデオロギーが厭というほど浸潤し、その人的機構もまた伊東の胸一つで、その子飼の人物で固められている」とか、「伊東自身が長官であったら教学局ももう少し活発に働きかけたろうが、いたずらに人ばかり多くて何の仕事も出来てない」とかと批判されている。伊東文部次官は1938年12月に更迭される。 文部省では国体明徴に関して専門学術研究を構想する。1936年に検討が始まり、1937年度予算に東京文理科大学・広島文理科大学・東京帝国大学・京都帝国大学への日本国体論講座の新設が盛り込まれる。当初計画では9月に開講する予定であったが、文部省が大学に押し付けるものであり各大学が自発に設置するものでなかったため、予定より大幅に遅れる。 まず1937年11月に東京文理科大学と広島文理科大学に日本国体論講座が新設される。新設の理由は「我が国民の歴史および精神生活の史的発展における最も顕著なる事象を跡づけるとともに、また我が国の政治・経済・宗教・道徳・教育・学問・芸術その他文化諸相を通じて把握さるる特性を明にして、我が国体が我が国民生活の生々不断なる創造的発展を展示し、常に国民の具体的生活と結合し、自覚ある国民の活動に帰一統合を与うるところの国民存在の範疇たる国体を理論的に把握し学的の基礎づけ」、「一切教学および実践的生活を媒介として国体の具体的発展に産ずるの自覚および覚悟を得しめ」ようとするためとされる。東京文理科大学では「国体論」を全学科で必修科目にするが、広島文理科大学では「国体学教室」を設け、これを専門とする学生を養成することになる。この国体学教室は西晋一郎の国体論を中核として誕生したといわれる。西晋一郎は国民精神文化研究所所員を兼ね、文部省の国体明徴講座の講師の常連でもあった。 翌月、京都帝国大学に日本精神史講座が新設される。講座名称がもともと「日本国体学講座」であったのを「日本精神史講座」に改めたときは、設置理由として「本学(京都帝国大学)文学部においては我が国体の学術的考究に関係する講座として、つとに国史学二講座・国語学二講座あり、我が国体の由来する所を究め我が国民性の特質を明かにするに力を用うること久しといえども、しかもこれら講座において研究する所を綜合統一し国史を貫く固有の精神を歴史的に研究する方面に至っては、なお遺憾の点、少しとせず、これ本講座を設置せんとする所以なり」としていた。これは文部省に修正され、官制改正理由で「本講座は国体に基づく我が国の思想、文化ならび我が国民の精神生活の歴史的性格」を明らかにし「我が国体の世界史的意義および使命を闡明し、東西文化の融合発展に努力すべき国民の自覚および覚悟を固めしめんとするもの」と改められる。国体を強調する点に文部省らしい修辞が見られる。日本精神史講座の担当は、書類上、国史学第一講座の西田直二郎が兼任し、助教授に講師高山岩男を助教授に任命する予定とされる。西田は国民精神文化研究所の所員を兼ねていたが、京都帝国大学の日本精神史講座を休講にすることが多かったといわれる。 そのまた翌月(1938年1月)、東京帝国大学に日本思想史講座が新設されるが、設置にあたって事態が紛糾する。前年11月、日本国体学講座を文学部に設置することが文部省から一方的に通知される。文学部では不満が強い中で評議会で国史講座を第1候補、日本思想史講座を第2候補と決める。しかし総長が文相らと会談して日本思想史講座に決めてしまったことから、評議会で不満が噴出する。文部省による官制改正理由は京都帝国大学のときと同文である。日本思想史講座の教授には国史学第二講座の平泉澄が就く。 1937年12月、東京帝国大学経済学部教授矢内原忠雄が辞職に追い込まれる。これより先、矢内原が『中央公論』9月号に掲載した「国家の理想」が削除処分になり、11月に経済学部長土方成美が矢内原の進退を問題とするが、東大総長が木戸幸一文相と協議して、一旦は矢内原本人の陳謝を条件に事を収めることになる。ところが、文部次官伊東延吉ら文部省幹部がこれに異議を唱え、陳謝では到底収まらない、中央公論以外にも国体精神と全く相容れない文言が数か所ある、議会で質問が出た場合に答弁のしようがない、大学としても事態の紛糾は免れないだろう、矢内原は辞職するしかない、などと言い立てて矢内原を辞職に追い込んだのである。 文部省の外局である教学局は『国体の本義解説叢書』全13冊を1937年12月から1943年3月にかけて刊行する。この叢書は文部省『国体の本義』の思想を拡充するものであり、例えば紀平正美『我が国体における和』(1938年3月刊)には、日中戦争全面化を踏まえて、次のように説く。 天に代つて不義を討つ、忠勇無双の我が兵が、歓呼の声に送られ、すでに父母の国を出で立った時に、もはや私(わたくし)はない。私の父母もなければ、私の家も、私の業務もない。ただ公(おおやけ)の祖先があり、父母があり、家があり、郷里があり、国があり、最後に天皇が存します。かくて心の内は如何に豊かに、いかににぎやかであろうかよ。〔...〕我が神国日本の将卒のみには、天に代っての将卒でなく、直接に自らが神兵である。かかる大和合(だいわごう)の力こそ、常に十数倍の敵に対してよくその守りを失わず、彼の隙に乗じては、攻撃に転じ、更に彼を制圧し、進んで追撃に移る。追撃又追撃、敵に少しの余裕をも与えない。 1938年7月には国民精神文化研究所の思想国防研究部が小冊子『国体の本義に基く政策原理の研究』をまとめる。これは「大御心の奉戴と臣民の精神の徹底とからする国体の把握は、直ちに我が国の具体的な諸問題についての原理的な見解と対策とを与える」という観点から「大学刷新問題」などを論じる。大学を「かつては多くの共産主義者を簇出せしめ、非常時下の現在なお自由主義、人民戦線思想培養の最大の温床」として敵視し、次のような大学改造を急務とする。それは、国体と学問との本質的関係を究明し、反国体的教授を即時に罷免し、諸教授に対し自己の国体観を確立するとともに国体の原理に基づく専門諸学体系を樹立することを要求する、というものである。 1938年8月国民精神文化研究所が人員を5名増やす。前年11月に国体明徴運動への対応として法政科の拡張を求めたが内閣法制局に反対されて停滞していたものを、日中戦争の進展をふまえて思想国防を理由の前面に出して内閣法制局の了解を取り付けたのである。官制改正案の理由書に「支那事変に際し思想国防の緊要性に鑑み、憲法学その他法学・政治学等にわたり我が国体を本として研究を進め思想国防に資せんがため」とされ、法制局も「今回の増員は差し当たり今次事変に因って発生したる思想国防の事務のため特にこれを認める」とする。国民精神文化研究所は調子に乗って思想国防に邁進する。 1938年11月荒木貞夫文相は天皇に上奏して、「長期にわたる戦争情態において最も恐るべきは思想の動揺」であるから、「共産主義等の誤れる思想はこれを徹底的に是正し、万邦無比なる皇国の道より生まれ出づる大中至正の思想に徹底」し、「国体を基とする世界的大国民の錬成」を教育の根本とすると説明する。 文部省は一部の新興宗教をも国体観念から批判する。1938年12月に教学局企画課が作成した文書「思想問題より見たる邪教」は、「邪教が国民の国体観念を紊し(みだし)、社会風教上に流す種々の害毒は著しく、国民精神を総動員すべき非常時にあたり我が教学の本旨に鑑みて、厳しき批判を要する」として、大本教・ひとのみち教団・天理本道などの教団を列挙する。 1939年の初め、文部省が東京帝国大学経済学部教授河合栄治郎の著書をチェックした形跡がある。教学局の嘱託員が、河合の著書『経済学原論』について文部省『国体の本義』に背く思想表現箇所に全て赤線を引くように指示されたのである。はじめこの指示を受けた嘱託員は、この仕事に矛盾を感じ、次第に良心の呵責を受けるようになり、上司に申し出てこの仕事を変えてもらったという。同年1月に河合に対する文官高等分限委員会が開かれる。委員長は平沼騏一郎首相である。事前に委員へ送付された休職理由書には「国家思想を否認し我が国体観念に背反し、いたずらに憲法の改正を私議し国民道徳を破壊せしめんとするがごとき意見を発表し、さらにこれを教授する」とされていた。委員会では河合について「一日も大学に置くことは危険であるから直ちに休職を希望いたします」という意見に全会一致して休職が決定する。 1939年5月各道府県に思想対策研究会を設置することが教学局長官名で通牒される。その趣旨は「今次事変が特に思想戦たる意義を有する点より考え、単に共産主義その他反国家思想を防遏するに止らず、更に積極的に国民各層に国体・日本精神の透徹具現を図り旺盛なる精神力を培養し、もって国民思想の動揺を未然に防止し戦時ならびに戦後の事態に処す」とされる。 1939年4月には学生を大陸に送って勤労させる「興亜青年勤労報国隊」の具体案が決定される。文部省が同年7月に『週報』に載せた「興亜青年勤労報国隊に就いて」は「興亜精神は国体観念と相互に反射し映発して、日本教学はこの新たなる背景と脚光の中に其の具体的な映像を鮮明に次代に浮き上らすべきを信ずる」と述べる。 1940年3月国民精神文化研究所が人員を8名増やす。増員分は「国体に基づく東亜新秩序原理の研究」「日本世界史の編纂」「思想家、評論家、学者の思想調査資料の作製」「国体日本精神より見たる支那事変の世界史的意義の編纂」に当てる計画である。 1940年7月、第2次近衛内閣は成立にあたって「基本国策要綱」を閣議決定する。その「国内態勢の刷新」の第1に「国体の本義に透徹する教学の刷新とあいまち、自我功利の思想を廃し、国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す」とされる。この趣旨には「従来の法文科系中心の自由主義・個人主義教育を革新し、国体に基づく人格教育、実社会に役立つ生きた教育を施すこと」という海軍省の要求が含まれている。 1940年9月、政府の教育審議会が「高等教育ニ関スル件」を答申する。大学については「常に皇国の道に基きて国家思想の涵養、人格の陶冶に力むる」ことを目的とし、その達成のために「国体の本義を体して真摯なる学風を振作し学術を通して皇運を無窮に扶翼し奉るの信念を鞏固ならしむること」等を重視するとされる。同年12月、文部省はこの答申を受けて、大学教授は国体の本義に則り教学一体の精神に徹し学生を薫化啓導し指導的人材を育成すべき旨を訓令する。 1941年7月、教学局が『臣民の道』を刊行する。同書については、『国体の本義』の実践的奉体を意図した姉妹編という評価が通説的である。『臣民の道』は解説書を含めると『国体の本義』を上回る約250万部が刊行されており、一般国民に広く普及される。当初は前年の第2次近衛内閣「基本国策要領」に則り、「真に国体に徹したる翼賛運動と国民道徳」の「実践的指導書」として自我功利の思想を排し国家奉仕を第一義とする国体具現の道徳解説書を刊行して、これを教職員その他の指導階級に必読せしめたく」という企図であり、実践書でなく指導書という位置づけであり、対象読者は一般国民でなく指導層であり、また『国体の本義』の姉妹編という意識もなかった。 編纂途中で対象読者を指導層から一般国民に広げることとなり、刊行計画の発表時には「”国体の本義”姉妹篇に 平易な“臣民の道”」という見出しで報じられ、当局者は談話で、先の『国体の本義』は一般国民の読み物として難しいとの評があったが今度は誰でもわかるように編纂する、と語る。教学局版の刊行後まもなく近衛文麿首相の題字により『註解 臣民の道』が刊行される。解題で『臣民の道』の内容を次のように要約する。 第一章において世界新秩序の建設という今日の課題をとりあげ、世界史の転換をとき、その中から皇国日本に立脚する新秩序の建設をといて皇国の重大なる使命をとき、国防国家体制確立の急務をといている。 第二章はこういう皇国の当面している位置の上にたって、皇国の国体と臣民の道とを解明している。「万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給う」国体と、「臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る」臣民の道と明らかにしているのである。そうして我国においては忠あっての孝であり、忠を大本とする所に臣民の道があるのである。次に国体にもとづき臣民の道を履践した祖先の遺風をば皇国の歴史上の事実から明らかにしている。皇国の歴史は肇国の精神にもとづく国体の顕現の歴史であるとともに臣民の道の履践の歴史でもあるのである。そうして国体をはなれて臣民の道はなく、天皇に絶対随順し奉ることをはなれて日本人の道はない。 第三章はかくの如き臣民の道の実践をば、現実の国民の課題として説いて居る。〔以下略〕 『臣民の道』刊行直後に教学局長官は講話で「まさにこの臣民の道というものこそはこの国体の本当の意味合い、精神というものを我々の生活に具現することであり、我々の生活の中にこそ我が国体の姿というものを生かして行かねばならぬ。生かすではない、それを践み行なう事こそ我々皇国臣民としての道」であると述べる。 『臣民の道』は4年前の『国体の本義』の姉妹篇と位置づけられるものの、その間の時局の進展により両書の性格は大きく異なる。第1に思想統一の程度が異なる。『国体の本義』では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、もって新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」と説いていたが、『臣民の道』では欧米思想を全否定し、「我が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除〔切って捨てること〕」すると断定する。第2に忠と孝との間の関係が変化する。『国体の本義』では忠も孝も同等に扱い、「忠孝一本は我が国体の精華」であり「われら国民はこの宏大にして無窮なる国体の体現のために、いよいよ忠に、いよいよ孝に励まなければならぬ」と説いてたが、これに対し『臣民の道』は忠を孝より優先し、「そもそも我が国においては忠あっての孝であり、忠が大本である」と断言する。こうした違いは編纂をとりまく状況の違いに由来する。『国体の本義』が天皇機関説事件を契機に国体明徴のために編纂されたのに対し、『臣民の道』は日中戦争が長期化する中で新たに大東亜共栄圏の構想のために編纂されたからである。 日本が米英に宣戦した翌月の1942年1月、文部大臣橋田邦彦は「任に教育に在る者は聖旨を奉体して国体の本義、今次征戦の真義に徹し、一路教育報国に邁進すべき」であると述べ、教学局長官藤野恵は「大東亜戦争を戦い抜かんとする今日こそ、我が国民は愈々国体の本義に基づく教学の刷新振興を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本的諸学の樹立に一段の力を致し、新東亜文化の建設者としての資質の涵養発揮に全きを期せねばならない」と論じる。 1942年1月国民錬成所官制を公布する。これは「国民をして自我功利の思想を排し、国体の本義に基づき挺身義勇公に奉ずるの精神に徹し、実践もって皇運扶翼の重責を全うせしむべき」ためのものであり、官制第一条に「国民錬成所は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づき実践躬行もって先達たるべき国民をしてその錬成を為さしむる所とす」とされる。「錬成科目」には「国体ノ本義」という講義があり、それは「惟神の大道に出発し皇国臣民の皇運扶翼の道を明らかにし、この本義に基づく教学の樹立を図るもの」とされる。 戦時下では思想対策の徹底が求めらる。1942年3月、文部大臣橋田邦彦は地方長官会議で次のように訓示する。 国体の本義に徹し肇国の精神を発揚することは我が国民生活の根柢であります。したがってまた我が国民思想はこれに基いて確乎不動となり、思想国防の鉄壁陣を完成することは、敵国が企図するであろうと考えられる思想戦に備うるためにも、また大東亜の新秩序建設のための征戦完遂に向っても、その要、いよいよ切実であります。 1942年3月日本諸学振興委員会が機関誌『日本諸学』を創刊する。教学局長官名義の「発刊の辞」に次のようにいう。 大東亜戦争の目的完遂のためには、ますます国体の本義に基づく教学の刷新を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本諸学の創造発展に更に一段の力を尽さねばならぬのである。しかして世界の耳目を聳動せしめつつある皇軍の赫々たる大戦果が、決して一朝一夕の努力によるものではなく、一に御稜威の下、皇国教育の本義に徹し、日本精神に基づく日頃の実戦さながらの不断の猛訓練と学問の研鑽とが一体となつて発現したものに他ならぬのであり、したがって国体、日本精神の本義に基づく教学の刷新振興が今次征戦の遂行上絶対の要件たるのみならず、更にまた叙上の新東亜文化建設の先達としての資質涵養上欠くべからざることといわねばならぬ。 5月大東亜建設審議会が答申案を可決する。答申の「皇国民の教育錬成方策」には、国体の本義に則り教育勅語を奉体し皇国民としての自覚に徹し、肇国の大精神に基づく大東亜建設の道義的使命を体得させ、大東亜における指導的国民としての資質を錬成し、これを皇国民教育錬成の根本義とする、という。 教学局では言論、出版、集会、結社等臨時取締法に関連して1942年5月の『思想情報』誌に、講演や著述に注意を要する点を列挙し、その冒頭に「国体、思想関係」を掲げて次のものについて注意を喚起する。 6月藤野教学局長官は次のように訓示する。 今日、皇軍の輝しき戦果に応え大東亜建設の歩みに即応して、我が国教学の本来の姿が漸次具現せられて参ったのでありまするが、にもかかわらず、なお一面私どもの楽観を許さざる事柄も皆無ではないのでありまして、国体の本義に相反する思想、我が国教学の本旨にもとるような風潮も巷間決して完全には払拭せられておらぬのであります。したがってこの間隙に乗じて、特に青年学生層を中心として敵国の思想謀略もまた蠢動せんとする気配がなくはないのであります。 ここで「皇軍の輝しき戦果」というが、この月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い守勢に転じる。 1943年1月教学局が『国史概説』上巻を発行する。そのおよそ2年前、対米英開戦前の1941年4月に教学局内に臨時国史概説編纂部が設置され、その調査嘱託には「斯界の権威者」である辻善之助・和辻哲郎・西田直二郎・紀平正美らが名を連ねる。編纂方針は「肇国の由来を明らかにし国体の本義を闡明し国史を一貫する国民精神の真髄を把握せしむること」とされる。刊行書の緒論は「我が国体」という題であり、次の文言から始まる。 大日本帝国は、万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が万古不易の国体である。しかしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ即ち我が国体である。 1943年7月文部省は次官通牒により各道府県の国民精神文化講習所を教学錬成所に改称し、その事業の拡充を指示する。これは国民錬成所を軌道に乗せた文部省が、学制改革に伴い、「我が国教学の本旨に基づき教職にある者を錬成し、国体・日本精神の本義に徹せしむるとともに日本教学の刷新振興に挺身するの気概と実践力とを涵養せしめ、もって師弟同行学行一体の実を挙げしむる」ための措置である。教学錬成所には新たに皇国史観錬成会を設け「中等学校教員をして国体・日本精神の本義を体し、皇国の史観に徹せしめ、もって中等教育の刷新に資せんとする目的」を掲げる。 1943年、日本軍はガダルカナル島やアッツ・キスカ両島から転進(撤退)し、また同年9月には同盟国イタリアが単独降伏する。瀬戸際に立たされた日本は絶対国防圏の設定を発令する。 同年11月、文部省は国民錬成所と国民精神文化研究所を統合し教学錬成所とする。教学錬成所の所長には国民精神文化研究所長伊東延吉が就くが、実質的には国民錬成所が国民精神文化研究所を吸収合併する。国民精神文化研究所は対米英開戦後プレゼンスを低下させてきており、教学錬成所に吸収されるのは既定路線であった。国民精神文化研究所は消滅するにあたって創立以来の十余年を回顧して「個人主義・自由主義を克服し、国体の宣揚、日本精神の闡明のために少なからぬ貢献」をしたことを自負し、機関として消滅することにも満足を示している。 同年12月、政府は「戦時国民思想確立ニ関スル基本方策要綱」を閣議決定する。その「方針」の冒頭に「万邦無比の皇国国体の本義に徹し政教一に聖旨を奉体し深く学問思想文化の根源を匡し愈々忠誠奉公の精神を昂揚振起せしむ」といい、また「要領」の冒頭に「国体の本義の透徹と教学の刷新振興」として次のことを掲げる。 基本方策要綱と同時に閣議決定した文教措置要綱では「国体・日本精神に基く学問、思想の創造発展を図り教学の全面に之を浸透せしめ戦意の昂揚、戦力増強の根本に培うため、教育内容の検討刷新、訓育体制の強化、日本諸学振興委員会の拡充等につき必要なる措置を講ず」とされる。 1944年6月、日本はマリアナ沖海戦で壊滅的に敗北し、マリアナ諸島を失い、絶対国防圏を破られる。戦争指導に当たってきた東条内閣は総辞職する。 教学錬成所は1945年2月までに各種学校の教員等を対象に30回前後の錬成を実施したと推測される。そのうち例えば高等教員の錬成は「国体の本義に基づき、私心を去り、決戦下一死殉国の気魂に培い、行勤労即教育の精神に徹し、もって皇国教学の本旨を体現せしめん」とすることを目的とする。 沖縄失陥後の1945年6月、政府は文部省請議「戦局に対処する本庁行政の簡素強化に関する件」を閣議決定する。これにより文部省の大部分は「国体護持の信念透徹」などの思想指導に集中することになる。 国体論は日本の敗戦の際にも威力を示す。日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、国体の護持をめぐって時間をかけ、それを唯一の条件とすることを自分たちで了解し、ようやく降伏する。 1945年8月、広島・長崎への原爆投下を経てソ連が参戦し、10日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告すると同盟通信に短波の電信で声明させる。その際、国体維持を条件につける。これに対し12日に連合国の回答が届く。その中に「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」とあり、軍部はこれを共和制に導くものとして強硬に反対する。昭和天皇は連合国の回答を容認して、木戸内大臣に次のように語る。 たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらっても、少しも差しつかえない。 また連合国回答に「天皇および日本政府の国家統治の大権は連合国最高司令官の制限下(subject to)に置かれる」とあったことで、軍部が subject to の文言を国体否定とみなして回答文を拒絶する姿勢を示す。このため天皇は14日、改めて御前会議を開き、終戦を決める。その席上、国体護持について次のように説明する。 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があることは一応もっともだか、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。 1945年8月15日玉音放送。 朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。〔...〕宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。 文部省は終戦後しばらく教育上「承詔必謹」「国体護持」の皇道思想を中核とし続ける。その象徴は玉音放送の2日後に公布された国史編修院官制である。国史編修院は『国史概説』に続いて国史を編修する政府組織であり、その官制は終戦の4か月前に閣議に請議されたまま保留されていたが、請議書の「現下の世局に鑑み、歴代天皇の皇謨を仰ぎ奉り、国体の本義に徹し、君臣の名分を正し、臣民忠誠の遺風を顕彰して現代施策の鑑となし、もって国運隆昌の基礎に培う」という目的が、終戦によって逆に強まったと判断されて終戦直後の官制公布をみたのである。 9月、文部省は「新日本建設ノ教育方針」を立案し、「ますます国体の護持に努むる」ことを強調する。その一方で「軍国的思想および施策を払拭」する方針を立てる。そして同月末ごろ作成された「当面の各省緊急施策要綱」は「従来の過激なる国家主義、軍国主義」を排除すべしとし、戦前に文部省が発行した国体関連書の処置について、1941年刊『臣民の道』は絶版するが、1937年刊『国体の本義』は改訂ですまされると判断する。文部省は戦時下の教学錬成から過激国家主義や軍国主義を排除さえすれば、今後も国体の本義を唱えることは許されると考えていたのである。 10月の文部省の省議で高松宮の発言が紹介される。それは、「国体の護持は国民の心にあり」、教育が国体を護持する。デモクラシーには米国式や英国式やソビエト式があるから日本式もあってよい、という趣旨の発言だったという。 10月4日GHQが人権指令を発する。その翌日、米国国務省は「日本の戦後教育政策」を公表して日本政府を糾弾して曰く、日本政府が思想の自由を制限する治安維持法や文部省教学局思想課を廃止せず、国体の擁護ということに戦闘的国家主義哲学の存続が含まれると考えているようでは、神話の狂信的国家主義的解釈や軍国主義の礼賛を排除することはできないだろう、と。 文部省は、10月16日の新教育方針中央講習会で文部次官が「デモクラシー、すなわち、いわゆる民主主義は我が国民が、いわば大家族制の宗家に当らせらるる皇室への奉本反始的赤誠とは、毫も矛盾撞着するものではありません。」「デモクラシーは民意暢達の政治というように意訳した方がよい」と述べるなど、民主主義を民意の暢達の意味に限定し、国体護持のための教育理念の維持に躍起になる。 10月、外務省が「国体および共産主義に関する米国の方針」と題する文書を作成する。その冒頭で、政府首脳や政府当局、なかでも内務省・司法省・文部省などの重大関心は、いわゆる国体護持および共産主義に関する米国の方針に寄せられていると述べ、また、米国の初期対日方針を分析し、それは「日本における現在の神話的、封建的、非合理的迷夢の打破および啓蒙により、民主主義および合理主義の根底たる個人の人格の意識を日本国民に植付けることをもって、日本民主主義化の第一歩となす」ものと判断する。 文部省の教育理念を国体護持から民主主義へ転換し始めるのは、10月から12月にかけて発せられたGHQの一連の教育指令からである。まず10月22日の「日本教育制度に対する管理政策」は「軍国主義的および極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること」を指令し、そのイデオロギーの鼓吹者を罷免し、それに関係する教科書の記述を削除することを指示する。文部省の対応が緩慢であったため、GHQは重ねて同月30日に「教員および教育関係官ノ調査・除外・認可に関する件」を指令する。 文部省はGHQの指令をサボタージュする。その背後には国体護持教育への固執があった。たとえば文部省は11月開会の帝国議会で「国体護持と民主主義との関係如何」と問われた場合に備え、次のような答弁案を用意していた。 民主主義的政治の内容をなしております自由の尊重、人権の擁護、平和の愛好、人民の福祉というようなことは、従来我が皇室におかせられまして不断に御軫念あそばされてまいりましたことであり、この意味におきまして民主主義の理想は我が国体と決して矛盾することはないと考えます。〔...〕なお公民教育の振興により道徳と秩序を尊重する精神を徹底せしめ、また歪曲されない真実に基づいた国史の教育により、さらに従来のような偏狭でない健全な国家意識を涵養することにより国体護持の目的を達することが出来るのではないかと存じます。 12月15日にGHQは神道指令を発し、『国体の本義』や『臣民の道』やその類書を禁止する。文部省は既に『臣民の道』を絶版廃棄を表明していたが、『国体の本義』についてはその改訂に言及しながらも何も措置を取っていなかったことが、GHQによる禁止処分を招いたのである。 また、神道指令では「大東亜戦争」「八紘一宇」という用語の使用も禁止されたが、草案段階ではさらに「国体」の語も禁止される予定であった。すなわち 公文書において「大東亜戦争」「八紘一宇」「国体」なる用語、乃至その他の用語にして日本語としてその意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し得ざるものは、これを使用することを禁止する。しかして、かかる用語の即刻停止を命ずる。 という文案であった。総司令部のバンズ中尉は発表直前の草案を内密に岸本英夫に見せて意見を求めた。教育勅語は国体の語を用いているので、国体の語が禁止されれば教育勅語が即座に廃止されることになる。そうなると教育界が大混乱し、国民にも大きなショックを与えると岸本は懸念した。文部省の幹部は国民を過度に刺激せずに教育勅語を自然消滅させる方策を模索していたところであったので、総司令部の指令によって教育勅語が即座に廃止される事態は絶対に避けるべきであり、そのためには国体の語の禁止してはならないと岸本は考え、バンズにそう伝え、神道指令から国体の語の禁止を取り除くことに成功した。 1946年1月1日の詔書、いわゆる人間宣言に関連して文部省は訓令を発し、この詔書を「今後わが国教育のよってもって則る大本たるべき」とし、「このごとき聖旨を奉戴して、これが徹底を期するは教育にあり」などと言って、国体護持教育に固執する。文部省は教育勅語を擁護しており、たとえば学校教育局長田中耕太郎は訓示で「年頭の詔書〔人間宣言〕も決して教育勅語の権威を否定するものではない」、「従来教育勅語が一般に無視されていたからこそ、今日の無秩序・混乱が生じた」と論じている。 1946年5月21日、文部省が『新教育指針』を刊行する。これは歴史教科書の使用禁止にともなう暫定的措置として教師用参考書を企図してつくられた。GHQからはデモクラシーと連合軍進駐の意義目的を明確にすることを指示された。その最終章では「軍国主義や極端な国家主義はあとかたもなくぬぐい去られ、人間性・人格・個性にふくまれるほんとうの力が、科学的な確かさと哲学的な広さと宗教的な深さとをもってあまねく行われて、平和的文化国家が建設せられ、世界人類は永遠の平和と幸福とを楽しむであろう」と述べており、宗教性を帯びた理念として戦後民主主義の確立と戦前の教学錬成体制の解体とが謳われる。もっとも教学錬成体制が無条件で解体されるわけではない。国体明徴が「軍国主義者および極端な国家主義者」に誤って導かれたことが問題とされており、国体明徴そのものについては次のように肯定的である。 教育においても「国体明徴」とか、「教学刷新」とか、「皇国の道に則る国民錬成」とかがさかんに説かれて、制度も教科書も方法もあらためられ、また教学局や国民精神文化研究所というような機関がつくられたり、「国体の本義」、「臣民の道」、「国史概説」などの書物が出されたりした。これらは、日本国民がいつまでも西洋のまねをすることをやめて、自主的態度をもって、国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所を生かして、特色ある文化を発展させ、世界人類のためにつくそうとするかぎり、正しい運動であった。 これに関連して「極端な国家主義」と「正しい愛国心」を区別については、「軍国主義者および極端な国家主義者」さえ排除すれば、「正しい愛国心」すなわち「国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所」を生かすことは「正しい運動」とされる。ここには文部省自身が「軍国主義者および極端な国家主義者」であったことの自覚や自責を窺えないといわれる。 戦後は民主主義の呼び声とともに国体の神話性が公然と議論される。これにより国体という語は過去の言葉になる。 帝国議会の憲法改正審議において、国体について吉田茂首相は次のように答弁する。 御誓文の精神、それが日本国の国体であります。〔...〕日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。〔...〕日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。 また、金森徳次郎憲法担当国務大臣の次のように答弁する。 日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。〔...〕稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。 1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーにおいて、日本共産党員の松島松太郎は「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードを掲げて不敬罪に問われている(プラカード事件)。尤も、不敬罪適用は不適法であるとされ名誉毀損罪で起訴、日本国憲法公布による大赦で免訴された。 国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」と答弁する。 2000年(平成12年)5月15日、内閣総理大臣森喜朗が「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、その為に我々神政連議員が頑張って来た」と発言し、問題になる。いわゆる神の国発言である。 2004年に、日本共産党は綱領を改定した。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国体(こくたい、國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化された。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、明治維新の後の過渡期を経て、帝国憲法と教育勅語により定式化された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「国体」は旧字体で「國體」と書き、「國」という字は一政体の下に属する土地・人民などの意、「體」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国体という語は、古くから漢籍に見え、『管子』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『春秋穀梁伝』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない。その後、漢書に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか後漢書、晋書、旧唐書、宋史、続資治通鑑綱目などに表れる用例も似たような意味である。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本において国体という語が多用されるのは近世になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は近代のものと異なる。国体の語が日本の古典に現れるのは、延喜式所載の出雲国造神賀詞に「出雲臣等が遠祖天穂比命を国体見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである。次いで『大鏡異本陰書』や『古事談』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年(1689)序、正徳6年(1717)刊の栗山潜鋒『保建大記』である。この間の元禄11年(1698)の森尚謙『儼塾集』に邦体という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、谷秦山、新井白石、荻生徂徠、松宮観山、高山健貞、賀茂真淵、山岡浚明、林子平、中井竹山、村田春海、平山行蔵、本居宣長、平田篤胤、会沢正志斎、青山延于、佐藤信淵、鶴峯戊申、江川英龍、大槻磐渓、安積艮斎、藤田東湖などがいる。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1853年(嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる。たとえば黒船来航の年の7月、前水戸藩主徳川斉昭が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御国体に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月伊達慶邦が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御国体に御座候」とある。同年8月、孝明天皇が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、国体いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年(1854)11月の賀茂臨時祭、安政5年(1858)4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年(1862)5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その国体に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年(1864)、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、国体あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "明治維新後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに詔勅に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年(1868)5月、奥羽士民を告諭するための詔に「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て国体を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし国体を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている。次いで明治2年(1869)2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ国体を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の国体を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、国体なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の国体を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の軍人勅諭に「かつは我が国体にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "帝国学士院『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は教育勅語を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に万世一系の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという。", "title": "国体の語義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が神国であること、皇統が連続して一系であること等である。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において祭政一致により国を治めていたことも神国思想より起る。そのほか日本書紀の神功皇后の三韓征伐の条で、攻め寄せる日本兵を見た新羅王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また大化の改新にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ神祇官を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "神国思想は万世一系の思想につながる。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年(646)に中大兄皇子が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "貞観11年(869)12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る伊勢神宮への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の石清水八幡宮への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない。平安貴族の日記である小右記や玉葉に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である保元物語に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、源平盛衰記に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。貞永年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。蒙古襲来の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "鎌倉時代の末、虎関師錬は著書『元亨釈書』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "南北朝時代、南朝方の公家北畠親房は『神皇正統記』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。", "title": "古代中世の国体観念" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近世の初め、天下人の豊臣秀吉や徳川家康は外国宛書簡で神国思想を表明する。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "神国思想や自国優越思想、すなわち日本の国体が特異であるという点について、これを学者が詳細に議論するようになったのは徳川幕府が開かれてからである。その理由は、学問が発達し、日本古代の建国の体制が明らかになったことが一般的理由であるが、さらに、儒家がやたらと唐土を尊び日本を卑下する態度に対して反発がおこったこと、また、江戸の幕府が繁栄しているのと対照的に京都の朝廷が衰微していたので感情的に尊王の思潮が湧いたこと等が理由となった。特に京都在住の学者の間にその傾向があった。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "藤原惺窩(1561-1619)は日本近世儒学の先駆けとなった。『千代もと草』には次のように記される。天照大神は日本の主であるが、その神宮は茅葺であり、食事は黒米である。家居を飾らず珍しい物を食べずに天下万民を憐れむ。神武天皇以来、この掟を守って道を行ったため、後白河法皇まで代々子孫に天下を伝えて栄えた、と。また、神道については、万民を憐み慈悲を施すことを極意とする点において神道も儒教も同じであるという。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "林羅山(1583-1657)は藤原惺窩に学び、日本儒学の棟梁になった。その著『本朝神社考』で、仏教を憎み、神仏習合を排斥した。また韻文で「倭賦」を作って神国日本の霊秀を詠じた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "山鹿素行(1622-1685)は林羅山に学び別に一家を立てた。兵法家として知られるが本人は儒者を自任した。幕府の忌憚に触れ赤穂に配流された。配流中の寛文9年(1669)に『中朝事実』を著した。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "熊沢蕃山(1619-1691)は陽明学者として皇国の尊厳を高唱した。著書『集義外書』で「日本は辺土なれども太陽の出たまう国にして人の気質もっとも霊なり」といい、また著書『集義和書』で、仁義礼知信や智仁勇の論が日本にないようにみえるが、日本においては三種の神器を不言の経典となし、これらの諸徳の教えは全てこの神器によって表象されているのだと論じた。蕃山はまた、日本の皇祖は呉の太伯の後裔であるとの説を立てたが、この説は後に批判された。蕃山の著とされる『三輪物語』には「本朝は三界の根源にして神明をもって元祖とす。神明は宇宙の宗廟なり。我が国開闢の初め天地と共に神明あらわれ給えり。故に国を神国といい道を神道という。」「千界の源、万国の本は、我が国なり。」「我が朝の皇統を至尊と仰ぎ奉ることは本よりの義なり。」と記された。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "吉川惟足(1616-1690)は吉田神道を受けて吉川流神道一派を立てた。吉田兼倶『神道大意』について講じ、神国日本が万国に秀でているとして、外教を崇める者を非難して「これ日本が万国の根本の国なり」、「神明最初出現の国という心にて神国というぞ」、「我が国に生まれて神の子孫たる人、神国の粟を食みながら、他邦の道をあがめ、わが先祖の道を知らざるは、たとい万巻の書をそらんずるとも一文不通の盲人というべし。もっとも憐哀すべきかな」と述べた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "度会延佳(1615-1690)は伊勢神道の復興し、『陽復記』を著して主に神儒習合というべき神道説を展開した。唐土の易、陰陽、理気の学を日本の神道と合わせた。度会延経は父延佳の度会神道を継いで家業を興したが主に考証に専念したため神道論や国体論を残さなかった。度会延経の門人の喜早清在は『陽復記衍義』を著して、我が国が国常立尊・天照大神に始まり神武天皇の166代の今日に至るまで他姓を交えず神器を伝えたことは世に比類がないと論じた。度会常典も『神国問答』を著して、我が国が神国である所以、他国に優れている所以を論じた。ついで度会常彰は元文2年(1737)12月『神道弁明』を公にし、日本の国体の成立の君先民後、すなわち「彼は民ありて後に主を立て、この国は農民あらざるの前に既に以て主たり」とし、皇統の天壌無窮を論じた。そして延享5年(1748)に著した『日本国風』巻一に「神国」と題して、日本が神国である所以について、大祖・国常立尊より綿々として今上天皇に至るまで伝えてきた皇統が神胤であり、また国民も全て神孫であることによって説明した。さらに神国と称された所以について、和歌や国史や家伝文書等に現れた神国という語、または神国という観念が現れた場合を考証して説明した。「神国妄謂太伯徐福後」の項に、偏った儒者が妄りに、日本を夏康少康の子孫であるとする魏書の説を用い、または秦の徐福の後裔であるという説や、呉の太伯の子孫であるという説を採るのを攻撃し、一つ一つ史実を考証してそれらの説を否定した。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "山崎闇斎(1619-1682)は、僧侶をやめて朱子学に入り、さらに神道を修めた。皇国のために万丈の気を吐いたという。闇斎に関しては先哲叢談に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。闇斎の学統には儒学と神道があるが、どちらも国体の尊厳を高唱した点において同じである。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "山崎闇斎が創始した垂加神道に関係して、日本が神国たる所以や皇統が神聖なる所以を述べて、国体の尊厳を説く者は少なくない。たとえば高屋近文『神道啓蒙』、大山為起『唯一論』、伴部安崇『神道問答一名和漢問答』、若林強斎『神道大意』一巻、尾張藩主徳川義直『神祇宝典』自序などがある。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "浅見絅斎(1652-1712)は、山崎闇斎門下の著名人であり、『靖献遺言』を著し、勤王を鼓吹した。「関東の地を踏まず、諸侯に仕えず」と誓い、「もし時を得ば義兵を挙げて王室をたすくべし」ということで同書を著したという。これをみずから講じた『靖献遺言講義』では、当時の儒者がいたずらに唐土を尊び自国を卑しむのを攻撃し、皇国を尊ぶべき所以を説いた。また、ある人が天皇に拝謁したと聞いて、皇統の無窮を讃して「天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明に拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国の万国に優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客が逆になり、どちらも自国を「中国」と称し、相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた。また湯武放伐(革命思想)について、同門の佐藤直方がこれを是認したのに対し、浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つの目的は君臣父子の大倫より外これ無く候」と論じた。なお、山崎闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎の3人を崎門の三傑という。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "水戸黄門徳川光圀(1628-1701)は若いころ伯夷伝を読んで発奮し、修史を志したという。水戸学なるものは光圀の修史のために勃興したものであった。光圀は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。崎門学者は闇斎流の学統を水戸に移植した。水戸学は闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない。近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "栗山潜鋒(1671-1706)は、山崎闇斎門下の桑名松雲の門下であり『保建大記』を著した。同書の序に皇統の万世一系を唱えて「天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した。同書の本文では、たとえば次の出来事について論じた。それは平安時代末期のこと、宋の明州の刺史(地方長官)が日本の朝廷に供物を献じたが、その送り状が無礼であった。天皇に宛てて「日本国王に賜う」と書いてあったのである。大外記清原頼業は受け取りを拒むべきだと進言したが、後白河法皇は聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ここに出て来る国体という語は近世最初の用例の一つだという。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "谷秦山(1663-1718)は闇斎門下の浅見絅斎に学び、別に山崎闇斎の垂加神道をついだ。栗山潜鋒『保建大記』をもって神道を大根とし孔孟を羽翼とした名分上の良書とみなして講釈し、これを門人が記録して『保建大記打聞』と称した。その中で、三種の神器と皇位の関係が不可分であることを論じ、寿永の乱(源平合戦)のとき平家が安徳天皇をつれて西国に落ちたあと後鳥羽天皇が神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年の南北朝正閏問題で重視された神器論に通じるものがある。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "三宅観瀾(1674-1718)は闇斎門下の浅見絅斎の門下であり、徳川光圀に招聘され、その国史篇修総裁となった。水戸の国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本の国体の由来を論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器と国家と皇道の関係について詳しく説いた。純粋な古道をもって皇道の本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "徳川綱條が養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『大日本史』が成った。大日本史の序文に次のようにある。神武天皇が基礎を始めて二千余年、神孫にして神聖なる歴代天皇が承け継ぎ、姦賊の皇位を狙う心を生まず、神器は日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因をつきつめると、歴代天皇の仁徳恩沢が民心を固結し国基を盤石にすることに由来する、と。また、水戸の彰考館総裁(修史責任者)安積澹泊は自著『列祖成績』に序して尊王の大義を説いた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "西川如見(1648-1724)は蘭学によって地理学を修め、『日本水土考』を著し、日本列島の地理上の優位性や日本の神国たる所以を論じた。蘭学者が西洋を崇め自国を卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者でありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学に影響を及ぼした。西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "荻生徂徠(1666-1728)に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない。徂徠門下の太宰春台もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した。同門の山県周南もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "石田梅岩(1685-1744)は、心学の徒であり、『都鄙問答』において日本の皇統が神孫であって唐土とは尊卑が異なることを論じて「我が朝には大神宮の御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮を宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "竹内式部(1712-1768)は宝暦事件の張本人として討幕運動の先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して、天皇を神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神の御末なれば、直に神孫と申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各々品物の才能を尽くして御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国の大義なり」と。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "山県大弐(1725-1767)は山崎闇斎門下の三宅尚斎の門下の加々美桜塢の門下(つまり山崎闇斎の曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本の優越と皇統の不可侵を論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "平賀源内(1728-1780)は戯作者であるが、儒学者のシナ崇拝に反発して近世後期に流行する自国尊重論を先取りし、戯作『風流志道軒伝』にて次のように説いた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "井戸で育った蛙学者が、めった〔やたら〕に唐贔屓になって、我が生まれた日本を東夷と称し、天照大神は呉太伯に違いないと、附会の説(こじつけ説)を言い散らし、文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、知行の米(給与米)を周の升(古代シナの小さい枡)で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが制札(法律)の多きを見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教えは出来、病ありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本と違って天子が渡り者と同様にて、気に入らねば取り替えて、天下は一人の天下にあらず天下の天下なりと、減らず口を言い散らして、主の天下をひったくる不埒千万なる国ゆえ、聖人出でて教え給う。日本は自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても太平をなす。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "中井竹山(1730-1804)は大阪在住の朱子学者であるが、世間の儒学者流が漢土を尊び自国を卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流の態度を非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的で書かれたものである。また、松平定信の諮詢に答えて『草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて、百王不易は四海万国に超越する美事であるが、朝廷が衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養に散財したことが原因であると論じた。", "title": "近世前期の国体思想" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "近世も後期になると国体論が盛り上がる。儒学と対立する国学が勃興し、復古思想を根拠にして国粋主義を唱える。水戸学も徳川斉昭を中心に発達し、国体という語も普及する。国学者と儒学者の間で和漢の国体に関する論争が盛んになり、国体について論議するものがあらわれる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "復古国学は、いわゆる迷信に陥った諸派神道説の不純を斥け、純正な古道なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国を尊び自国を卑しむ物門流儒者に対する反発が復古国学の気運を助長した。復古国学は契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤によって大成されたとされるが、契沖と荷田春満は古語の研究に専念し、いわゆる古道の探求は賀茂真淵から始まる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し、古道に関する見識を纏め、シナの国柄が卑しいことを説き、これに比べて日本の優秀な点を示した。その大要で次のようにいう。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "賀茂真淵の学統を継ぐ者は数十名おり、村田春海、小山田与清、栗田土満などがいる。その中で出藍は本居宣長である。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "本居宣長(1730-1801)のライフワークは古事記の研究である。その結果を大成した『古事記伝』には宣長の国体観・神道観が随所に散見される。これを一つに纏めたものが、明和8年(1771)に著した『直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "皇大御国は掛くも可畏き神御祖天照大御神の御生ましまする大御国にして、大御神大御手に天つ璽を捧持して万千秋の秋長に吾皇子の所知めさん国なりと言依さし賜えりしまにまに、天雲の向伏すかぎり、谷蟆の渡るきわみ、皇御孫命の大御食国と定まりて、天下には荒ぶる神もなく、まつろわぬ人もなく、千万御世の御末の御代までの天皇命はしも、大御神の御子とましまして天つ神の御心を大御心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平けく所知看しける大御国になもありければ古えの大御世には道という言挙もさらになかりき", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神の生まれた国であり、天照大神が天璽を手に持って、万千秋の秋長に我が皇子の所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方から、ヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり、天下に荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇は神の子であって、天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平らかに所知する国であればこそ、古世に道という言葉を挙げることもなかった、と。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本居宣長はこういって日本の国柄の尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと、君主が定まらず邪神が荒ぶるから、人心が悪く習俗が乱れ、国を取れば誰でも直ちに君主となる。上は下に奪われないように構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信の教えなどが生まれるのである。聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである。我が国は古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々は乱れることなく、天下は穏やかに治まって、皇統は長久に伝わってきた。その後、書籍が渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国の古道を神道と名付けた。時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下の政事までもが漢国のようになり、国が乱れるようになった、というのである。本居宣長によれば、天照大神の仰せのとおりに皇孫が天下を所知し皇位が永遠に動かないことこそ、この道が異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また本居宣長は『玉くしげ』を著して、日本が異国に優越する理由を天壌無窮の神勅が実現していることに求め、次のように説いた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らします天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく、天地のあらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって、神代の古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "夏目甕麿(1773-1822)は本居宣長の門人であり、文化6年(1809)『古野の若菜』を著し、シナの禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ、儒教は人の所行を主とし、仏教や老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性を宗とする点で違いがあると論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "本居大平は本居宣長の養子であり、その学問の正統を継いだ。文政10年(1827)に『古学要』を著して、その中で、日本は異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ、次のように述べた。曰く、御国(日本)は万国の祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国は手足であり、人間関係にたとえれば御国は祖先であり異国は族類縁者であり、食い物にたとえれば御国は五穀(主食)で異国は野菜海魚(おかず)の如きものである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足がなければ足らないように、五穀があって野菜海魚がなければ足らないように、異国はみな御国を助け備わりとなるべきものなので、決して憎むべきものではなく相睦ぶべきものである、と。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "平田篤胤(1776-1843)は、本居宣長の没後の門人を自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教を排斥し、古道を鼓吹することに熱狂した。著書は百余部・数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国の尊厳を闡明するとともに、異国を攻撃し異教を排斥するものばかりである。なかでも日本の古道を闡明し国体の尊厳を説いたものは文化6年(1809)に講演した『古道大意』である。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "『古道大意』では、まず神国日本が万国に比類なき尊い国であるとして次のように言う。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "我が国は天神の殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔な違いで引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国に相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末に違いないでござる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "実に御国の人に限りて、すべてこの天地にありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い、尊く勝れていることは、まずこの御国を神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉めに申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国を開闢なされたるも、みな神世の尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国に御出来なされたることなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国と称すは実に宇宙挙げての公論なること、さらに論なきことなり。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "これを思うにも皇国は天地のモトで、もろもろの事物、ことごとく万国に優れておる所以もまた、もろもろの外国のものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、日本は小国であるといっても国土の大小は尊卑を分ける基準にならないと論じた。さらに日本が皇統連綿であること、他国に比類ない有り難い国であることと、そうである理由を論じて次のように述べた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "神武天皇は大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈が連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々に比類なき有り難い御国で〔略〕。 天照大御神の殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器を天子の御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国は我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "さらに西川如見『日本水土考』やケンプル『日本紀行』を引用し、日本の国土の優秀は世界に比類がないと論じ、外国崇拝の蘭学者を批判した。その際に国体という語を次のように用いた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "近頃、はやり初めたるオランダの学問をする輩は、よく外国の様子も知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西の極なる国々を贔屓して、〔...〕万国の絵図などを出して、この通り日本は小国じゃなどというて驚かす。〔...〕こりゃ皆、神国の神国たるを知らず、御国の国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国の世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "平田篤胤は別の著書『大道或門』で皇国の尊貴である所以を述べて次のように述べた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "矢野玄道は平田篤胤の門人であり、幕末維新期、特に明治初期に皇学派の中心人物として新政に重きをなした。文久3年(1863)に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本が万世一系にして皇統連綿である所以を説いた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "八田知紀も同派の皇学者であって弘化2年(1845)に公にした『桃岡雑記』において、皇国の教えは自然の道であって、天照大神の神勅以来、君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じ、あわせてシナの国体を批評した。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "復古国学派の人々と儒学者の間で、主として内外の国体の比較論に関して論争が惹起された。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "幕末の対外危機をきっかけに、水戸学が日本独自の国柄という意味で国体観念を強く打ち出した。水戸学者会沢正志斎の著書『新論』が国体観念を浮上させる画期となった。『新論』の構想は、危機克服の指針を求めていた志士たちの心を捉え、水戸藩を超えて日本全国に流布した。このことは国体論を一つの思想として独立させた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "内務省神社局 (1921) によれば、国体論の発達は後期水戸学において絶頂に達した。いわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥に熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断に陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点を高所に置いて、偏せず捕らわれず、徹頭徹尾に批判的な見地に立ち、内に愛国尊王の精神を抱くというものであるという。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "水戸学の主要人物は、水戸藩主徳川斉昭を中心として、藤田幽谷、会沢正志斎、藤田東湖などである。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "徳川斉昭は天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識を持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館の趣旨と由来を記した「弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇に地球儀を献上した時の上表文に見ることができる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。「宝祚(皇位)これをもって無窮に、国体これをもって尊厳に、蒼生(人民)これをもって安寧に、蛮夷戎狄(諸外国)これをもって率服(服従)す」。しかしそれでも歴代天皇は満足せず、外国を参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土の堯・舜・夏・殷・周の治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "「告志篇」では次のように述べた。そもそも日本は神聖の国であって、天祖(天照大神)天孫(歴代天皇)が皇統を垂れ皇位を建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位の隆盛は天壌とともに窮まり無い。君臣父子の常道から衣食住の日用に至るまで全て天祖の恩賚である。万民が永く飢えや寒さを免れ、天下に皇位を狙う非望の萌しが見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさに盛衰あり治乱あり、戦国後期に至って天下の乱は極まった。東照宮(徳川家康)が三河に起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝を助け諸侯を鎮めた。二百余年の今に至るまで天下が泰平であり、人民が塗炭の苦しみを免れ、生まれながらに太平の恩沢を浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国の尊きゆえんと天祖の恩賚とを忘るべからず」。天朝は天祖の日嗣であり、将軍は東照宮の神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖の血脈を伝え、おのおのは自分の先祖の家系を継承する。この点をよくわきまえ、天祖・東照宮の恩に報いんとするならば先君・先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "「弘道館記」も「告志篇」も皇統が神聖であって万世に無窮であり、国体の尊厳であって君臣の名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇を根本義としなければならないと述べた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "「弘道館学則」第1条に曰く、弘道館に出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し、忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業は効果が異ならない、と。また同第2条に曰く、「神道」「聖学」の意味は弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚の無窮と君臣父子の大倫が天地とともにかわらないのは天下の大道、いわゆる「惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫が採用したものであって、これもまた人倫を明にするものである。両者は一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "嘉永6年(1853)に徳川斉昭は天皇に地球儀を献上した。その時の上表文に、日本の建国の国是が生々発展にあること、神孫が永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている。上表文に次のようにある。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "藤田幽谷は徳川斉昭に仕えて31人目の彰考館総裁(修史責任者)となり、大義名分を高唱した。寛政3年(1791)18歳の時に『正名論』を著し、皇室が政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以を論じ、名分を正し名分を厳密にすることが国体の本領であると説いた。具体的には次のようにいう。曰く、天皇は国事に関与せず、単に国王の待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府は実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政を称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府を弁護するものであって当時の時勢が分かる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "会沢正志斎は藤田幽谷の門弟であり33人目の彰考館総裁となった。識見高邁であり、公平な見地で国学を批判し儒学を考察し、両者の間に一家の国体説を樹立し、水戸学の国体尊厳説を大成し、近世国体論の極地に達したといわれる。数々の著書があり、そのすべてが国体を論じ名分を説くものである。そのうち国体論として最も有名なものが『新論』である。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "文政8年(1825)会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主に献上した。現状を厳しく批判したため公刊を許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中下3章を設けた。儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に栗田寛がこれを天朝正学と命名した。会沢正志斎は『新論』で皇国の尊貴、皇恩の宏大、これを奉体する国民の思想が人為でなく自然に生じることを説いた。次のように述べる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本が尊い理由の第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "会沢正志斎は著書『下学邇道』の中で日本の地理上の位置、皇位の安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "会沢正志斎『閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば、世人は何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実を知らない。これは耳学問の弊害であるから今その実事を論じてみせよう、といって、以下の類いを尊王の義とした。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文で解説したものである。皇統の神聖を論じ、国体の尊厳を説き、人倫の大道が元初より具わっていたことを明らかにしたという。弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "会沢正志斎『江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して、国体が変わるべきでない所以、および三種の神器と国体との関係を論じ、また「建国の大体を明らかにして天下の人心を一にする事」と題して、祀典(祭祀の儀式)を修めて民の迷信を絶ち、歴代天皇の祀典を興し、諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典に列する等は建国の体に添うことを論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "そのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある。以上、会沢正志斎の国体論について内務省神社局 (1921) がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下が正しいこと、三種の神器が尊貴であること、皇国の地位が万国に優越して比類ないことであり、その行論は、一糸の乱れもなく1921年(大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "藤田東湖は藤田幽谷の子であり会沢正志斎の門に入った。熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な「回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州の光輝や国体の尊厳を絶唱するものである。藤田東湖はまた『弘道館記述義』を著して弘道館記の意義を述べ、日本の国体において皇室は必ず日神の一系であることを論じて次のように言った。曰く、古くは天皇を生じてスメラミコトという。スメラという言葉は統御をいう。ミコトという言葉は尊称である。おそらく宇内を統御する至尊という意味である。天業を称してアマツヒというのは天日である。ツギは継嗣である。これはおそらく日神の後胤でなければ皇緒を継げないことを言う。天日の継嗣は世々神器を奉じて万姓に君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室を輔翼する。これはおそらく神州の基礎を建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫が創業垂統する所以は威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文を寄せて、日本の建国の体はその根底から西土と異なり、その尊厳は確乎として他国と比較にならないことを述べた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "豊田松岡も会沢正志斎の門に入り、彰考館総裁になった。藤田東湖の著書『弘道館述義』に序文を寄せて、いわゆる神聖大道の一源なるものを説いた。また藩主に献じた「禦虜策」において、日本国の神聖なる所以、神明の尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "吉田松陰は幕末の志士として有名である。陽明学に依拠し、その思想系統を山鹿素行に受け、また山崎闇斎流の影響も受けた。吉田松陰の勤王運動はその国体論に由来するといわれる。その国体に関する精神は幕末志士の間で基盤となって明治維新につながった。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "吉田松陰は安政3年8月22日に山鹿素行『武教全書』の講義を開始し、その主旨を述べるにあたって皇国の尊厳と士道との関係を論じ、また国々にはそれぞれ特殊の道があり、他国の道を必ずしも日本に用いることができないわけを次のように論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "国体というは、神州には神州の体あり、異国は異国の体あり。異国の書を読めば、とにかく異国の事のみ美と思い、我が国をば却って賤しみて、異国を羨むように成り行くこと、学者の通患にて、これ神州の体は異国の体と異なるわけを知らぬゆえなり。ゆえに晦菴の小学にて前にいう士道は大抵知れたれど、これは唐人の作りたる書ゆえ、国体を弁ぜずして遙かに読むときは、同じく異国を羨み我が国体を失うように成り行くことを免れざること、先師深く慮りたまう。これ武教小学を作る所以なり。これをもって国体を考うべし。さて、その士道国体はその切要の事なれば、幼年の時より心掛けさすべきこと、これ学の本意にて志士仁人に成るようにとの教誡なり。(武教小学開講主意)", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。 吉田松陰は安政の大獄により安政6年(1859)10月27日に刑死するが、その年の春に獄中で「坐獄日録」を記し、皇統の一系と臣道との関係について次のように論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "皇統綿々、千万世に伝わりて変易なきこと偶然にあらずして、即ち皇道の基本もまたここにあるなり。天照大神の神器を天孫瓊々杵尊に伝えたまえるや、宝祚之隆、与天壌無窮の御誓あり。されば漢土天竺の臣道はわれ知らず、我が国においては宝祚もとより無窮なれば、臣道もまた無窮なること深く思いを留むべし。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "南北朝正閏論は幕末に盛んになった。かつて徳川光圀が南北朝の正閏をただしたとき諸学者の様々な議論を呼んだ。ある者は南朝正統論を唱え、ある者は北朝を擁護し、ある者は南北両朝ともに正統とした。特に幕末に及んで議論が盛り上がった。山県太華は天保10年に『国史纂論』を公にし、その中で南北朝の正閏を論じ、三種の神器の所在によって皇統の正閏が定まり、その間に疑義を許さないのが国体の根本義であると説いた。速水行道は文久元年『皇統正閏論』の序文において天位の唯一無二であることが国体の本然であるとして南朝の正統を論じた。", "title": "近世後期の国体論" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867)9月、前土佐藩主山内容堂が大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し至誠をもって万国に接し王政復古の業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉りそうろう」と述べた。当時の政治家は国体を重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字を祐筆福岡孝弟に書かせた。当時事務を所管した福岡孝弟は「国体変換」と言っていた。明治維新の始め、福岡孝弟も起草に関わった五箇条の御誓文は、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、智識を世界に求めることを誓った。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "維新の前後においては主に米国と英国を先進国としてその文化を仰いだ。米国は日本を開国させた後、日本を新参の弟子かのように指導した。英国は米国と同言語であり、当時はインドを拠点として盛んに東方に進出している時期であった。日本では米英の政治書や修身書が翻訳され、福沢諭吉が英学を根拠に功利主義を掲げて多くの通俗書を著わし実用学を鼓吹した。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "英米の実用功利主義が一世を風靡する一方で、日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもない。そもそも王政復古の原動力は主に復古国学派の勃興によるものであって、明治維新の政治は国体の本領に返るものと称された。平田派国学者で地位を得た者も少なくなかった。たとえば矢野玄道、大国正隆、福羽美静、平田鉄胤、六人部是香などである。国体観念の中核というべき神祇は、明治新政の初めにおいて重んじられた。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局に改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教に蠱惑せられず」と唱えた。同年7月太政官の上に神祇官を置いて神祇尊崇を示し、同年10月に宣教使を置き、明治3年1月3日(1870年2月2日)に大教宣布の詔を発し、宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神の大道を宣揚すべき」ことを命じた。これは国体を発揮することにほかならないという。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "大教宣布は、祭政一致や国体強化を目指した国民教化政策であったが、宣教使の員数不足や教義の未確立などから終始不振であった。神祇官は明治4年8月に神祇省に降格され、大教宣布は仏教側の反対などもあって挫折する、仏教各宗は連署して、神官と合同して宣教の任に当たりたいと政府に請願する。政府は明治5年3月に神祇省と宣教使を廃止し、教部省を置き、翌4月に神官と僧侶を合併して教導職を置く。教部省は宣教を掌り、教導職は宣教の任に当たる。神官と僧侶が合同して宣教するにあたっては、その教旨の基準を定める必要があるということで三条教憲が定められる。これは矢野玄道『三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道ら皇学派の人々がその議に関わったという。三条教憲の各条は次の通りであり、いずれも国体の趣旨に依拠している。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "三条教憲を宣伝するために著された書籍は数多い。いずれも国体の基本と神祇が不可分であることを説いた。これらの書で「道」「皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道の行われる有りさまを指したものであり、多くは神代の状態を意味した。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1873年(明治6年)10月新聞紙条目が発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "国体を主題とした書籍として、1874年(明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年(明治8年)に宇喜多小十郎『国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話を敷衍し、神代の状態を述べたものである。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1874年(明治7年)加藤弘之は『国体新論』を発表し、当時日本に流入し始めたフランス流の民権平等説に従って、従来の保守的国体思想に反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越な論調で国学者の国体観を批判した。具体的には以下の通りである。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "以上のように論じる『国体新論』について、岩倉具視が7年後に回想したところによると、それは島津久光(保守主義者)が左大臣だった時で大いに議論になったが、その時は誰も頓着しなかったという。また内務省神社局 (1921) によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本の国体を誇りに思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜で過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之は明治14年に同書を撤回し、同一説を二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、天賦人権説に反駁し、キリスト教を攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人のようになったという。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1876年(明治9年)8月、浦田長民が『大道本義』を著す。浦田長民は伊勢神宮の少宮司であり、神宮大麻の全国配布などに功績を残した。『大道本義』では、一種の神道説を展開し、その中で神祖宏業の遺蹟と皇位尊厳との関係について述べた。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1876年(明治9年)9月、元老院に憲法起草を命ず。明治天皇は元老院議長熾仁親王を召し、右大臣岩倉具視の侍立のもと、我が建国の体(国体)に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲(憲法)を起草せよとの勅語を下したのである。元老院では国憲取調委員と国憲取調懸を設けて編纂に努力し、翌月には第一草案を脱稿する。その後再度、稿を改める。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1880年(明治13年)12月、元老院が国憲案を天皇に上進する。この国憲起草は日本で初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋を模倣したのであって、国体を無視した箇条も少なくなかった。伊藤博文はこの草案を見て、これは各国憲法の焼き直しにすぎないのであって我が国体人情に適したものではないと考え、右大臣岩倉具視に書簡を出してこのことを痛論し、天皇の思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした。同月の伊藤博文の奏議に「ただ国会を起してもって君民共治の大局を成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体の変換に係る。実に昿古(空前)の大事、決して急躁をもって為すべきにあらず」とある。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1881年(明治14年)国会開設の勅諭が発さられる。その事情は次のようであった。これより先、開拓使官有物払下げ事件が起こり、さらにそれが国会開設問題に飛び火して、薩長の専横のために国会が開設されないとして薩長藩閥を非難する声が高まった。薩長の参議が国会開設に慎重であるの対し、参議の中で大隈重信が一人だけ国会早期開設の意見書を奉呈していたことが知れ渡り、人々の期待が大隈に集まった。薩長の人々はこれを大隈の陰謀に起因すると考え、10月11日に大隈を除く参議が大臣らとともに開拓使官有物払下中止と大隈追放と国会開設の三事を明治天皇に奏請した。国会開設の奏議は、自由民権運動に対する明治政府首脳部の反動を示すとともに日本憲法の特色を示している点で重要である。特に文中に「憲法の標準は建国の源流に依るはいうを待たず、願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず、広く民議を興し公に衆意を集めるも、しかも我が皇室の大権を墜さず、乾綱を総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意を要する。明治天皇は奏議を受け入れ、翌12日に国会開設の勅諭を発した。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "〔前略〕顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略〕", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "来たる明治23年(1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設を一大標語としてきた民権論者はその気勢をそがれた感じになった。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "金子堅太郎の回想によれば、1884年(明治17年)9月に明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯は次のようであったという。憲法起草を命じられた伊藤博文が欧州で憲法調査を終えて帰国した後、この月の閣議で初めて憲法制定について意見を述べ、その時「議会を開けば国体は変換する」と説いた。参議佐佐木高行は「国体の変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤の雄弁と博識に追い捲られ、閣議は伊藤の意見で決まりそうになった。閣議の後、佐佐木は制度取調局の金子堅太郎に国体の字義を尋ねて以下のような書簡を送った。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "金子は佐佐木の官邸を訪ねて佐佐木の疑問に答え、さらに意見書をまとめて佐佐木に渡した。金子の意見は次のようであった。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "佐佐木は金子の意見をもとに後日の閣議で伊藤に反撃した。伊藤は佐佐木に金子が入れ知恵したことを知り、制度取調局に行って金子に問い質した。「おい金子、君は国会を開いても国体が変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体は変更するものなり。国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道を敷けば山の形が変わる。君が洋服を着れば姿が変わる。西洋の文明を輸入すれば日本の言葉も変われば家も変わる。議会を開けば国体も変わるではないか」と言い、金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております。欧州の学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体は決して変更してはなりませぬ」「閣下は万世一系の天皇が統治せらるる国体を改める御考えですか」等と反駁し、互いに譲らず一時間ほど議論したという。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "国体論は帝国憲法と教育勅語により制度と精神の両面で定式化される。帝国憲法は立憲主義を採る一方で、天皇の大権を幅広く定め、日本国民を臣民と位置付ける。教育勅語は臣民の教化をはかり、国体論の経典となる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布される。その際の憲法発布勅語は日本の国体についてその根本を尽くしたといえる。憲法発布勅語にいう。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "朕、国家の隆昌と臣民の慶福とをもって中心の欣栄とし、朕が祖宗に承くるの大権により、現在および将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す。おもうに、我が祖、我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼により、我が帝国を肇造し、もって無窮に垂れたり。これ我が神聖なる祖宗の威徳と、ならびに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(とな)い、もってその光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり。朕、我が臣民は、すなわち祖の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、その朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、あいともに和衷協同し、ますます我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、この負担を分つに堪うることを疑わざるなり。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "帝国憲法の条文では、大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第1条)、皇位は皇男子孫が継承し(第2条)、天皇は神聖にして侵すべからず(第3条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第4条)と定める。帝国憲法により天皇大権に関することが確定し、これ以後、国体を論じる者は誰でもこの憲法を根拠とする。つまりこの憲法の解釈に託して国体を論じる者が続々と出る。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "伊藤博文の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』は次のように説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "穂積八束が留学から帰国して早々に帝国大学総長から委嘱をうけ帝国憲法発布の翌々日から帝国大学法科大学にて「帝国憲法の法理」を講演する。帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」について「本条の主意は国体を定むるにあり。国体を定むるとは統治権の主体と客体を定むるということなり。本条の明文によれば統御の主体は万世一系の天皇にあり、しかして統御の客体は大日本帝国にあり」、「万世一系とは公法上いわゆる正統(レヂチメート)たることを決したるなり。我が国体にては初代天皇からの皇統が万世一系の正統の君主であるという意なり。他国の憲法においては王朝(ダイナスチノー)すなわち国王の血統を掲ぐるを通例とすれども、我が邦の憲法には別に朝系を掲ぐるの必要なし。すわなち我が国体の正統は万世一系の天皇であるという主義を表出したまでである」と説く。帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」については「君主は即ち国家なり。国家は統御の主体なり。もしこれに向かって権力を適用する者あらば、国家は則ち国家ならず。権力をもって侵すべからずとは国家固有の性質なり。神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなす所の国体なるがゆえなり」と説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "有賀長雄は帝国憲法の講義において、万世一系という語はおそらく大日本帝国憲法のみであって他国の憲法に存在できないものであり、これこそ日本の国体がシナや西洋の国体と異なることろである、と説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "憲法発布のころから国粋主義が勢いを増す。明治の水戸学者内藤耻叟は1889年(明治22年)10月に『国体発揮』を著し、我が国の体面で他国に真似できないところは、皇室が土地所有の主・人民の祖先・教化の本・衣食の原であることによると述べる。穂積八束は1890年(明治23年)5月に国家学会雑誌で国家(即天皇)全能主義を主張する。また同月、皇学を称する一派は惟神学会を組織し機関誌『随有天神(かむながら)』を発行する。こうした動きと時を同じくして教育勅語が渙発される。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)10月、明治天皇が教育勅語を下す。先に帝国憲法により法理上から国体の根本を示したのにくわえ、さらに教育上から諭すものであり、ここに道徳的な国是を定め、国体に関して不動の解釈を与えた。教育勅語は明治天皇の意思より出たといっても、その一方で国粋主義流行の結果でもある。またその後の国粋主義を涵養する原動力ともなる。勅語に宣わく「朕おもうに、わが皇祖皇宗、国をはじむること宏遠󠄁に、徳をたつること深厚なり。わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆こころを一にして、世世その美をなせるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」という。ここにおいて教育勅語を基礎として国体を論ずることが盛んになり、勅語衍義などの解説書が続々と発表される。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "教育勅語渙発と同じ月、加藤弘之が国家学会雑誌に論文「国家と宗教の関係」を発表する。同論文に以下のようにいう(大意)。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "神道は仏教や耶蘇(キリスト教)に比べて宗教として最も劣るから、仏教や耶蘇に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。 将来、神道が宗教として耶蘇に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗旨の外に置く必要ある。耶蘇教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは耶蘇の主義に背くことにならないだろう。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "以上のように論じる加藤弘之は、その3年前に「徳育方法案」と題して演説し、神仏儒に耶蘇を併せて小学校の徳育科に施すべしと主張していた。加藤弘之が所論を豹変させることはいつものことであるが、これも時勢の変遷を反映したものと見ることができる。後年にいわゆる「加藤の耶蘇いじめ」はここに発端する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "教育勅語を全国の学校に遵奉させることになると、唯一神を信仰するキリスト教徒は天父以外に頭を下げないためこれを喜ばず、キリスト教系の学校において教育勅語の尊重や天皇の御真影への拝礼を拒む者があった。またそれと直接関係なくても、明治国家の教育に反抗し、国体観念と相容れない思想をもつキリスト教徒もいた。1892年(明治25年)10月、井上哲次郎は、キリスト教が教育勅語と国体に背戻するとという意見を語り、翌月その意見を『教育時論』に載せる。これがいわゆる宗教教育衝突問題の発端である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "そしてキリスト教徒が騒ぎ始めると、井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」という一文を書いて二十数種の雑誌で発表し、さらに増補して単行本とし翌年4月に公刊する。同書で以下のように述べる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "これに対してキリスト教徒は全力で争い、仏教家も参戦し、学者も教育家も文筆家も皆この問題に口を挟み、単行本だけでもキリスト教を排斥する側が二十数種、これを弁護する側が十数種、その他に新聞・雑誌・講演にこれを論ずるものは数百種にのぼり、侃々諤々として議論が続く。この議論を総じて見ると、排斥側は井上哲次郎の所論を祖述するものであり、弁護側はこれに答えて、聖書にも忠孝を標榜する語が一つ二つあるとか、宗教の分野は政治教育の類いと全く別分野であり両者が衝突することはないとか、キリスト教は非国家主義であるが反国家主義でないとかと弁じる。排斥側がキリスト教の社会上政治上に害を及ぼした例を挙げると、弁護側は西洋文化の輸入、女子教育の向上、学校外の道徳心の涵養などは主にキリスト教のおかげであると応じる。弁護側が非キリスト教徒を旧弊・頑迷・退歩であると蔑むと、排斥側は、理学が進歩し進化論の発達した今日において迷信にすぎないキリスト教を今さら新思想であるともてはやす信徒こそ最も頑迷であると罵る。最後は論敵の人格攻撃に及び、互いに犬糞的応酬をするに至る。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "仏教徒がキリスト教排斥に加担したことも見過ごせない。キリスト教が日本の国体と相容れないのはそれが世界的であって国家的でないからだとすれば仏教も根本義は世界的である点でキリスト教と同じであるが、仏教徒はキリスト教排斥に加担した。キリスト教徒はこの点を指摘し、たとえば大西祝は、世界的であるために我が国体を破壊すると言うならば仏教はもちろん儒教も哲学も理学も詩歌も同じであるのに何故にキリスト教のみを論難するのか、と高調した。仏教徒は聞こえないふりをしてキリスト教攻撃を続け、さらに進んで仏教は国体と深い関係があると論じるに至った。その代表は井上円了である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "井上円了は仏教哲学者であり哲学館(後の東洋大学)を設立した。宗教教育衝突問題以前の1889年(明治22年)9月に『日本政教論』を著して、皇室と仏教が不可分であることを論じた。同書に曰く、仏教は古来皇室と関係深く、また国家鎮護の一助であった。すなわち名実ともに仏教をもって国教に組織したものである。もしこの縁故を廃すれば歴史上の事実を廃することになり「皇室国体の永続を期すること難しかるべし」。歴史上縁起深い寺院を保存し、その宗教を特待しなければならない、と論じた。そこにたまたま宗教教育衝突問題が起こり、井上円了がキリスト教排斥に加担しつつ国体と仏教の関係を説いたものが『日本倫理学案』と『忠孝活論』である。1893年(明治26年)1月著『日本倫理学案』に云う。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "同年7月著『忠孝活論』は次のように云う。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "井上円了はここで敢えて仏教に言及しないが、その附録に「仏門忠孝一班論」を添え、仏教にも忠孝の原理があると論じ、仏教を国家主義に結びつけている。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "1891年(明治24年)2月、カール・ラートゲン講義録『政治学』が翻訳出版され、君主国体という訳語が用いられる。ラートゲンはドイツ人政治学者であり、1882年(明治15年)から1890年(明治22年)まで御雇い教師として帝国大学で政治学を講じていた。阪谷芳郎の聴講ノートに「Forms of State and Government」という章がある。翻訳書では「国体及政体」と訳された。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ラートゲンは「国体及政体」で、理論上・歴史上に国家を分類し、その性質・発達を考究しようとするならば、国体・政体・憲法について、その意義・区別・関係を了解する必要があるとして、次のように講義する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "国体とは国家の形式という意味である。国体を定めるというのは、国家統御の主体と客体を定めるという意味である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "君主国体とは、国家統御の主体を君主として、国家と君主がその本体を同じくし、国家統御の客体を国土と国民より成立するものを称する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "民主国体とは、国家統御の主体を国民全体、すなわち国民の総意として、国家統御の客体を国土国民の各個より成立するものを称する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "政体とは政治の形式という意味である。政体を定めるというのは、主権の作用に形式を与えるという意味である。国家がその主権を作用するにあたり、自己の意思によるものを専制政体と称し、既定の憲法によるものを制限政体と称する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "憲法の意義は二種類あり、一つは材料上・性質上の意義、一つは形式上・効力上の意義である。性質上から定義すれば憲法とは主権の本体と作用、すなわち国体と政体を規定する諸原則の全体である。効力上から定義すれば憲法とは主権者が憲法と称する法令の全体である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "憲法学者の穂積八束は当初、君主国体の概念を憲法学で用いることに否定しており、1892年(明治25年)の講義録で「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称をもってする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」と断じ、翌年も繰り返し同じ趣旨を講する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "時の文部大臣井上毅は、国民教育の基礎として日本古来の国体と明治の政体との要旨を授ける必要があると考えていた。1893年(明治27年)4月、井上毅は山崎哲蔵という人物に初めて連絡をとり食事に誘う。山崎哲蔵はラートゲン『政治学』の翻訳者であり、君主国体という訳語を生み出していた。井上毅は同年夏に穂積八束に指図して小冊子を執筆させ、そのなかで君主国体についても論じさせる。井上毅はその公刊を計画していたが、その点検を終えたところで病死したため公刊の計画は頓挫する。ただ、穂積八束はこの年の講義から、およそ憲法を論ずるにあたっては国体の如何に注目すべきことを講じ、翌年の講義で憲法学上の君主国体説を明確にする。講義に曰く、国体は主権の所在によって区別され、政体は主権を行使する方法によって区別されるのであり、主権が一人に掌理されるものを君主国体と称し、我が帝国の国体は純粋なる君主国体である、と。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "日本国内で保守的国粋主義が台頭しつつあるときに、日清戦争で日本が予想外の大勝を挙げ、日本人が自国の実力を認るようになると、日本のナショナリズムが盛り上がりを見せる。従来は国粋保存といっても漠然としたものであったが、日清戦争後は国粋主義の内容が明瞭になる。このため、この時代を自覚時代と呼ぶ者もいる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "1897年(明治29年)9月、穂積八束が『国民教育 憲法大意』を発行する。これは2年前に穂積八束が井上毅の指図を受けて執筆した小冊子であり、日清戦争中に井上毅が病死したことでお蔵入りになっていたものを、この時改めて出版したのである。その第2章「君主国体」で次のように説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "穂積八束は翌年6月に『国民教育 愛国心』を著す。日本の国体と先祖教との関係を説き、国家主義の気炎を揚げ、以下のように説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "こうした国家主義的風潮のなかで雑誌『日本主義』が発刊される。これより先、1897年(明治29年)5月に柴田峡治が稲垣乙丙、加藤弘之、湯本武比古、品川弥次郎ら数十名の賛同を得て大日本教会を組織した。その主義は「教育勅語を大経典とし、これを社会全般に普及し、感化の実績を収めんと欲す」ということにあった。大日本教会は1898年(明治30年)5月に機関誌『日本主義』を発刊し、その主義綱領を「日本主義によりて現今我邦における一切の宗教を排撃す。我が国民の性情に反対し、我が建国の精神に背戻し、我が国家の発展を阻害するゆえなり。しかしてこれに代えるに国家主義をもってするなり」、「君臣一家は我が国体の精華なり。これ我が皇祖皇宗の宏遠なる丕図(企画)に基づくものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。ゆえに国祖および皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を披瀝すべき所、日本主義はこれゆえに国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体せんことを務む」とする。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "木村鷹太郎は日本主義のために最も努力した。その意見は1898年(明治31年)3月に公刊した『日本主義国教論』にあらわれている。同書に以下のようにいう。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "以上のような思想を木村鷹太郎が『日本主義』誌上に掲げたところ、すこぶる反響が大きかったという。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "高山樗牛も雑誌『日本主義』同人であり、木村鷹太郎とともに日本主義のために努力する。高山樗牛はその主張を雑誌『太陽』に続々と発表する。まず『太陽』明治30年6月号に「日本主義を賛す」と題して以下のように主張する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "高山樗牛は続けて「日本主義と哲学」「日本主義に対する世評を慨す」「世界主義と国家主義」「宗教と国家」「基督教徒の妄想」「国家的宗教」「国家至上主義に対する吾人の見解」「国民道徳の危機」等の論文を発表し、日本主義を高唱する。「基督教の逢迎主義」では、キリスト教が国体に迎合しようとするのを笑い、どれほど迎合しても抜本的に改変しない限り日本主義に容れることはできないと説く。また「我国体と新版図」と題して国家主義を論じ、君民一家の国体を次のように主張する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "高山樗牛はまた「国粋保存主義と日本主義」と題して、明治20年後に起った反動的国粋主義と日本主義との違いについて次のように述べる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "湯本武比古も雑誌『日本主義』の同人である。雑誌『日本人』明治31年3月号で発表した論文「日本主義を主張する」は日本主義流行の一面である。曰く、我らは日本主義を主張するといっても敢えてみだりに排外を主張しない。国体の精華すなわち国粋の保存を説くといっても敢えてみだりに自己を過大評価しない。旧来の陋習に恋々とすべきでなく、国家の文明富強を進め皇基を振起すべきため智識を世界に求める。ただし西洋の開化を学ぶのは、開化そのものが目的ではなく建国の精神を発揮するための方便である。我らはこの主意により日本主義を主張し国粋保存を説く。これを従来の偏狭頑固と同一視しないことを望む、と。湯本武比古はさらに「帝国主義」と題して曰く、近ごろ急に帝国主義が台頭したが、その意義には一定の説がない。我が国においては欧州の帝国主義をそのまま用いる必要がない。皇国主義すなわち帝国主義とすれば、憲法発布勅語の旨を奉体すれば間違いない、と。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "日本主義は、強烈な反響を呼んだが、次のような多少の反対論もあった。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "当時、日本主義の勢力は強烈であった。例外として久米邦武が1899年(明治32年)2月に、国体論なるものは恋旧心から起った迷想であると断言したこともあったが、世間一般に日本主義的理想をもって国体観を発表したものが多い。たとえば同年の加藤弘之「日支両国の国体の異同」、林甕臣『帝国教典』、1900年(明治33年)鳥尾小弥太『人道要論』、1901年(明治34年)小柳一蔵『人道原論』などがある。同年、湯本武比古と石川岩吉の共著『日本倫理史稿』は建国神話を叙述し「この国体は即ち我が国家主義の倫理思想を胚胎し来たるものなり」と述べる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "1904年(明治37年)1月談判破裂して日露戦争始まった。当時としては日本未曾有の大戦争において、愛国の気勢が熾烈を加え、国体を擁護すべき所以が更に盛んに唱道される。たとえば同年6月に日比野寛が教育勅語の解説書として著した『日本臣道論』は、国体に関して次のように論じる。曰く、我ら臣民の忠孝は国体の精華である。国体とは何かというと、国が存在すれば必ず国体を伴い、国家統治の主宰力を掌握する人の数により国体が異なる。我が帝国は君主国体であり、天下の大権は唯一の聖天子が掌握し、万民は皇室を仰いで奉戴する。至忠は我ら臣民の本願であり、至誠は建国の太古より綿々として我が民族が独有するところである。皇室に献身的奉仕をし、忠勇無二であるのは世界史上に異彩を放つ美点である、と。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "日露戦争の戦局が進んで日本が陸戦や海戦で連勝すると国民の意気が昂ぶり、戦勝の要因を探って国体の優秀に及ぶことが盛んになる。井上哲次郎は1904年(明治37年)12月付けで雑誌『日本人』に「日本が強大である原因」と題して、戦勝が国体と関係の深いことを説いて、(1)日本民族が皇室を中心として鞏固な統一を成していること、(2)日本民族が比較的純粋であること、(3)日本文明が今なお壮健であること、(4)一種の武士道が発達したこと、これは全く皇室を中心とする歴史的発達に淵源すること、(5)二千数百年の長い歴史を有すること、(6)宗教に冷淡であり迷信が極めて少ないこと、(7)世界文明の粋を集めてまとめあげつつあること、を列挙する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "日本軍が翌年3月に奉天を陥落させ、5月の日本海海戦に完勝すると、7月には加藤弘之が「吾が立憲的族父統治の政体」と題して講演する。曰く、同じ立憲君主国といっても、欧州諸国と我が国とは異なる。なぜならば、欧州諸国の君主は皆尋常の君主であるが、天皇はこれと違って日本民族の族父であるとともに君主でもあるからだ。我が国は建国以来一帝室が連綿と今日まで続き、しかもこれが日本民族の宗家である。多少は他民族も混合したが、今日は全く日本民族の血統に混じって別民族になっていない。このようにが国は建国から今日まで日本民族の族父たる天皇が君位を保つ国であるので、これを立憲的族父統治国(Die Konstitutionelle Patriarchatie)と称するのを最適とする、と。以上のような加藤の所論は、多くの国体論者が国体の尊厳であって強固な理由として第一に挙げる点である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "国体論は不可侵性を強め、20世紀初頭までにほぼ定着する。これに挑戦した北一輝『国体論及び純正社会主義』は発行禁止処分を受ける。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "1907年(明治40年)8月、加藤弘之が『吾国体と基督教』を著す。これは、日露戦争当初から非戦を唱えたキリスト教徒に論戦を挑むものであり、かつて1889~1890年(明治22~23年)頃に国家主義者とキリスト教徒の間で行われた論争を再び引き起こしたものだが、主客の地位が逆転したところに時勢の変化がある。同書に次のように論じる(大意)。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "以上のようにキリスト教を排撃する加藤弘之に対し、世論は侃々諤々となり、なかでもキリスト教徒は弁難に努めた。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "以上のように加藤弘之の『吾国体と基督教』はキリスト教側だけでなく仏教側その他にも反駁された。内務省神社局 (1921) によれば、加藤弘之は国体を擁護するためにキリスト教を攻撃したというよりも、キリスト教を排斥するために国体論を利用した疑いがある。このため、その論を第三者から見ると、国体に権威を加えず、逆に国体に煩累を及ぼした感じがあるという。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "1908年(明治41年)佐藤鉄太郎(海軍軍人)が『帝国国防史論』を著す。同書で国体に論及して曰く「世人あるいは御国体を家族的観念の向上となし、これをシナ思想と同一視する者あり。その根底の不確実にして、しかも浅薄なるは吾輩の嗤うところなり。我が国体は決して家族主義の変化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的国体なり」と。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "1909年(明治42年)5月、佐々木高行(元参議工部卿、侯爵)が國學院雑誌において「国体の淵源」と題して、国民が権威を認めるところを国体と見るべしと論じる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "日本が日露戦争に勝利したのち国体論が盛り上がる時期にあって、国体の問題に関して国民の思想を刺激する事件がおきる。1910年(明治43年)の大逆事件と1911年(明治44年)南北朝正閏問題である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "幸徳秋水ら無政府主義者が天皇暗殺を準備したとされる大逆事件は、それまで国民が夢想すらしなかった大不祥事といわれ、その突発に人々は愕然として、識者は日本の国体を宣明にしなければならないと思い立ち、国体に関する研究が更に盛り上がりを見せる。井上哲次郎が設立していた東亜協会を中心に国体研究会を設けたのも大逆事件の影響であったといわれる。国体研究会の講演は機関誌『東亜之光』に連載される。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "山田孝雄が国体論に手を染めたきっかけは大逆事件であったという。山田孝雄は後に文部省『国体の本義』の起草にも関わる著名な国語学・文法学者である。大逆事件に関する報道が解禁された当日、山田孝雄は「深く心に感ずるところあり」として、即日筆を執り、身体論的国家観にもとづく一書を一週日のうちに完成し、これを『大日本国体概論』と題して出版する。同書に「国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり」という。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であった。時事新報が「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狂」と表現し、井上哲次郎が「破壊思想の源流」と題して「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」と記し、有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」と同様の比喩を用いた。このように<隠喩としての病>は猛威を振るっていた。国家が有機体として想像される時代にあって、山田孝雄はその空気を吸いながら最初の国体論を書いたのだった。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "南北朝正閏問題は大逆事件発覚の直後に帝国議会で起こり、国体に関する一大議論を惹起する。南北朝正閏論については、明治時代には大日本史と同じく南朝正統を認めるものが多く、中には南北朝対立説を採るものもあったが特に問題とならずに済んでいた。問題の発端は、国定教科書における南北朝対立に関する編者の所見である。文部省は尋常小学校日本歴史に南北両朝を同等に認め、その教師用参考書に「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらざるなり」と明記していた。これが皇統一系の国体に反するという理由で一部の小学校教師を激昂させ、やがて新聞記者を動かし、1911年(明治44年)1月19日発行の読売新聞で報じられる。これを読んだ早稲田大学教師の松平康國と牧野謙次郎が善後策を講じ、衆議院議員藤澤元造から帝国議会の質問案として提出することを謀る。藤澤元造は2月16日に質問演説に立つことになるが、政府は百方手を尽くして彼を翻意させ議員辞職に追い込む。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "ここに世論が興起する。まず水戸市の教育会が運動を起こし、2月18日に同会長菊池謙二郎から文部大臣に建議書を提出する。建議書に「大日本史が南北朝正閏論を唱道せし以来、これに関する国民の倫理思想は一定し、南朝方の将士は当然忠誠の士にして北朝方の将士は佞姦の輩なりと固く信じて疑わざるところなり」、「もし大日本史の正閏論に誤謬ありて、これに準拠せり倫理思想は大害を生ずるものとせば、これを変改するは正当の業なりといども、正閏論は、国体の上より見るも、史実の上より見るも、また教育の上より見るも、錯誤なきのみならず正当の説なり。いやんや明治三十三年十一月十六日大日本史の撰者たる徳川光圀卿に正一位を追贈せられし時、詔をもって光圀が皇統を正閏し人臣を是非せしことを是認して称美し給いしに於いてをや」という。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "また2月21日には国民党が大逆事件ならびに南北朝正閏論に関する決議案を衆議院に提出する。この決議案では、大逆事件について「彼がごとき狂豎を出し、もって国体の尊厳を汚涜する」と断じ、さらに国定教科書について「万世一系の皇祚に対し奉り、敢えて濫りに正閏なしとの妄説を容る」ものとして批判する。衆議院では犬養毅が問責演説に立つが、これは秘密会とされる。3月、貴族院では伯爵徳川達孝や男爵高木兼寛が文部大臣に質問を試み、衆議院では国民党代議士村松恒一郎が質問書を提出する。質問書に「政府、既にその非を認めて教科書の改正に着手したる以上、過去一年間忠奸正邪の別を紊り、国民の思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣はなぜ速やかに処決してその責任を明らかにせざるか」と問責する。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "この間、大日本国体擁護団なるものが設立され主意書を発表する。3月に国体擁護団は解散し、友声会を結成する。このほか弘道会や丁酉倫理会などがそれぞれ活動し、また新聞雑誌に議論が縦横に出るなどして非常に混乱する。学者も真面目にこの問題を論じるに至り、結局は南朝正統論に決し、責任者である文学博士喜田貞吉を休職処分にし、国定教科書も改訂することになる。5月には史学会より論文集『南北朝正閏論』が出る。6月には文部省が南北朝を吉野朝に改めて教科書を改訂し、問題が決着する。7月には友声会が論文集『正閏断案 国体之擁護』を公刊し、南朝正統を宣揚する。この後も学者たちは、続々と論説を発表し、各種団体を作って南朝正統説を唱える。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "南北朝正閏論の主な論者として次の学者を挙げることができる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "国体に関連にさせて南北朝を正閏を論じたものとして例えば以下のものがある。いずれも南朝正統説である。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "1911年(明治44年)8月、清水梁山という人物が『日本の国体と日蓮上人』を著す。内務省神社局 (1921) によれば同書は「日蓮の国体論なるものを捻出し、牽強附会、もって我が国体と日蓮宗とを結びつけんとせり。その論ずるところ奇怪、ほとんど説くに足らざるものなれど、かくしてまで我が国体と関連を保たんとするところに、当時の思潮を見るべきなり」という。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "同年12月には高楠順次郎が『国民道徳の根底』を著し、日本の国体と先祖崇拝の関係を説く。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "1912年(明治45年)、加藤玄智が『我建国思想の本義』を著し、祭政一致の肇国主義が日本の国体であると論じて曰く、日本は祭政一致の国柄であり、建国当初は祭政一致をもって成立した。他にも祭政一致の国は数多いが、どれも国民と神とが一定の契約によって保護・被保護の関係を結ぶものであって、日本のように実際の血縁関係にあるものではない。これが日本の国体が特殊である理由である。そして国民一般は、現在の天皇をその神の延長と見做し、いわゆる現人神と信奉する。これが国体の精華であり、万世に益々国家が栄える理由である、と。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "同年、丸山正彦(丸山作楽の養子の国学者)が『大日本は神国也』を著して、日本は神聖が基を開き、神孫が継承し、ついに金甌無欠の国体を成立させたので、その神祇の威徳を崇敬することは国体を擁護する所以であると論じる。", "title": "明治国体論" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "時代が明治から大正へ変わる時において、統治権の主体が天皇であるか国家であるかについて憲法学者の間で論争が起こり、国体に関わる事なので論壇で大問題となる。事の発端は美濃部達吉の『憲法講話』である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "美濃部達吉は、大正改元の1年前の1911年(明治44年)夏、文部省が開催した中等教員講習会において憲法の大意を講話し、その講演筆記に多少の修正増補を加え、翌年3月付けで『憲法講話』と題して公刊する。同書では国体について次のように説く。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "帝国大学で美濃部達吉の同僚教授である上杉慎吉は、美濃部の天皇機関説を非難し、この説は天皇が統治権の主体であることを否認するものであり、日本の国体を破壊するものであると指摘する。上杉慎吉は穂積八束の学説を継いで君主国体説に依拠するが、かつては国家法人説・天皇機関説を採っており、1905年(明治38年)の著書『帝国憲法』においてその説を述べていた。同書は1910年(明治43年)4月にも版を重ねていたが、1911年(明治44年)12月付けで公刊した『国民教育 帝国憲法講義』では、君主国体説・国家法人説を維持したまま天皇機関説を放棄する。上杉の新説によれば、機関というのは他人の使用人であり他人の手足である。天皇の意思は最高・独立・絶対的・無制限であり、自己固有の性質によるものである。天皇は国家の機関ではない、という。このように上杉が天皇機関説放棄を明らかにした3か月後に美濃部達吉が『憲法講話』を公刊したのであり、美濃部が同書で「変装的専制政治の主張」と批判したのは上杉の国体論であった。上杉の国体論は、天皇が主権者であることを日本の国体と解するものである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "上杉慎吉は雑誌『太陽』に論文「国体に関する異説」を載せて美濃部達吉に反撃する。上杉によれば、天皇を主権者とする通説に対し美濃部は異説を唱えており、「断じて異説を排斥するの確乎たる自信あり」という。そして上杉は国体について次のように論じる。天皇は統治者であり被治者は臣民である。主権は独り天皇に属し、臣民はこれに服従する。主客の分義は確定して乱れることがない。臣民は統治せず天皇は服従せず。これが国体の解説である。これは穂積八束の説を粗述したものであり、誰もが認めるところでもあるのに、美濃部は独りこれを排斥する。美濃部は天皇を統治権の主体にあらずとし、国家すなわち人民全体の団体を統治権の主体とする。美濃部は我が国を民主国と見なすのである、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "天皇機関説論争が進行する中、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御する。内務省神社局によれば、日本は国を挙げて悲哀に沈み、慈父を失ったかのように慟哭し、さらに皇室の尊厳に思いを馳せ、ここに皇室を中心とする国体観念に一段の刺激を与えたという。大正時代に入ると、民衆運動が憲政擁護・閥族打破を掲げて桂内閣や山本内閣を倒すために行われる。内務省警保局によれば、この民衆運動は最も顕著なデモクラシー的思想の発露であって、国民思想上の画期として観ることができるという。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "明治天皇崩御の前後、井上哲次郎が『国民道徳概論』を著す。これは美濃部達吉『憲法講話』と同様に、前年(明治44年)夏に文部省が開催した中等教員講習会での講義を基にしている。同書では、国体と国民道徳との関係について、日本の国体は万世一系の天皇を基礎として成立し、国法学では主権の所在をもって国体の性質を決めるが、日本の主権は常に皇位にあり、これが憲法制定とともに益々鞏固になったと述べる。また国体と神道との関係について、神道のうち国体に関係あるのは天壌無窮の神勅であり、この神勅が常に日本国民の精神を中心に引き締めると論じる。同書では民主主義が君主国体を調和できることを説いて次のように述べる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "忠君ということに対して、民主というようなことが、段々世に唱道されてきているのであります。中には民本なんという字も使っているが、意味は同じことである。民主主義というようなことは余り大きな声では言わないけれども、何ぞの場合にはそれを言う。しかし民主主義も説きようによっては、君主主義と調和することが出来る。君主というものをチャンと立てて、そうしてこれに対して真心を尽くして仕えるということが人民一般のためになる。すなわち民主主義に合するわけであります。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "井上哲次郎は翌年の『東亜之光』2月号でも、民主主義を民本という意味に解釈すれば問題ないとして、次のように述べる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "臣民にヨリ多くの権利を与えるようなことがないというと、いかなる椿事を惹き起こすやも分らぬのであります。民主ということは日本の従来の歴史から見て決して如字的に(文字通りに)了解して言うべきではないのみならず、憲法によってまた然りであるけれども、古来「民は惟れ邦の本なり、本固ければ、邦寧し」というように民本という意味に解釈するのは差し支えない。そうして昔より一層臣民の福利を重んずべきである。これは時勢の変化のためである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "天皇機関説論争でも民主主義は争点の一つになる。人民全体の団体を統治権の主体であるとする説について、上杉慎吉がこの説を民主主義として非難したのに対し、美濃部達吉は、この説を唱える者をすべて民主主義者であるかのように思わせるのは酷い中傷である、と弁じたという。そして上杉は1913年(大正2年)『東亜乃光』5号月に「民主主義と民本主義」を発表し、民本主義と民主主義の用語を厳格に区別して、民本主義は人民のために政治することを意味するが、民主主義は文字通り人民主権論を意味しており君主主義と調和できないと論じる。上杉慎吉によれば、デモクラシーという語は民主(人民主権)の意味にも民本(人民のための政治)の意味にも用いられ、西洋君主国でデモクラシーを称するのは民本の意味であるという。ただし、内務省警保局によれば、西洋でデモクラシーという語が上杉慎吉のいうように単に人民のための政治だけを意味することがあるかどうか不明であり、少なくとも西洋君主国で称するデモクラシーはその意味ではないという。 上杉慎吉からの攻撃に対し美濃部達吉は様々に弁ずる。その中では1913年(大正2年)に『東亜之光』の3月号から5月号にかけて掲載した論文「所謂国体論に就いて」が最も詳しい。美濃部達吉は同論文で以下のように言う(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "このごろ国体論、特に国体擁護ということが盛んに唱えられている。これは実は反立憲思想に他ならない。すなわち憲法が布かれたのに対し、保守的反動思想を抱く一部の人が国体論に名を借りて世を騒がしているのである。国体についての論争ではなく、立憲思想と反立憲思想の争いである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "一つの論点は、統治権の主体についての学理的な問題である。国法学上、国家は統治権を固有する団体であるとし、したがって統治権の主体は国家自身であるとする見解に対し、彼らは我が国体を破壊するものであるといい、我が国体は君主自身が統治権の主体でなければこれを維持できないという。もう一つの論点は実際の政治に関するものである。政党政治や議院内閣政治を我が国体の容れないところであるとし、特に最近の政治の動揺(大正政変)を国体の危機であるとする。実はこれらの問題は国体と関係がない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "我が国は万世一系の天皇これを統治する国体であり、これは動かしてはならない。問題は天皇が国家を統治するという事の解説に係ることであり、少しも国体に触れない。これを触れたとするのは中傷である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "世の国体論者の中には、日本の国家は外国の国家と全く異なるものと考え、日本の国家にのみ特別の見解を採ろうとする者もいるが、甚だしい誤りである。国家の本質の問題は国体論と無関係である。国体は一国特有であり、国家の本質は各国共通である。ゆえに憲法の明文に拘って国家の本質を解しようとするのも誤りである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "君主は統治権の主体であるという考えは、国家を君主の私有物とみなすものであり、我が国体に容れるものでない。君民が一心同体をなし、和衷協同(心を合わせ互いに協力する)、ともに国家の進運を輔翼し、その間に少しも障りがないことが、我が国体である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "大正初期には、国体の主要問題である統治権の問題について議論が沸騰する。これは、天皇機関説論争が国体に関わる事として論壇で大問題となったからである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "1913年(大正2年)3月、朝鮮総督寺内正毅(後の首相)題字、加藤弘之序文、加藤房蔵著作により『国体擁護 日本憲政本論』が公刊される。同書に曰く、憲法の擁護とか責任内閣とか憲政有終の美とかいうのは当世通俗の流行語であって、それはつまるところ政党の意向によって天皇の大政を左右しようとするものであり、明らかに国体の破壊であり、憲法違反である、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "同年同月、川面凡児が『国体淵源 日本民族宇宙観』を著す。著者は以前から大日本世界教というものを唱え、日本の神道を基本として在来の宗教を総合統一するという全神教なるものを主張していた。同書によると、我が国体は神代より遺伝する宇宙観に淵源し、天御中主尊の旨を奉じて修身・斉家・治国・平天下を理想とする、という。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "同年5月、石川岩吉が『国体要義』を著す。著者は国学院大主事と皇典講究所幹事を兼ね、のち昭和に東宮傅育官、宮内省御用掛、国学院大学理事長兼学長に就任する。同書では、国体という語に様々な用法があることを説き、要は、神代の初め、イザナギ・イザナミ両神が国土を修理固成して三貴子(天照大神・ツクヨミ・スサノオ)を得て、天照大神による天孫降臨・天壌無窮の神勅があって、国体の基礎が定まった、と論じる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "同年11月、筧克彦が『国家の研究』を著す。著者は東京帝国大学法学部教授でありながら、古神道に基づく「神ながらの道」に帰依し、教室でかしわ手を打つなど奇矯な言動で知られるが、天皇機関説論争に関しては穂積八束らの天皇主権説を国体に反する権力主義として批判した。『国家の研究』では以下のように説く(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "皇国は、表現人である神聖な自主者・総攬者(天皇)を戴くことを離れずに成立し存在している一心同体である。この意味をもって君臣の分が定まり、古来動揺することがない。これが皇国の国体である。国体とは建国法により定まっている国家の体裁である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "国体は政体と厳格に区別しなくてはならない。政体とは、建国法より下の憲法などによって定まっている国家の体裁であり、これは社会各般の事情に応じて変遷するものである。今日の立憲制度は憲法により定まっている政体である。政体はますます変化発展する必要があり、国体がますます不動強固になるのは必然である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "皇国が精華である理由は、その国体が健全であるからである。なぜ健全であるかというと、国体は随神(かんながら)道、すなわち古神道の大理想・大信仰に基づくからである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "皇国の国体は、各人の真情に存する和魂(にぎたま)を主義として、荒魂(あらたま)を滅却することにある。皇国の国体は現世の秩序を尊重することを精神とする。皇国の国体はこの博大な和魂と、それが現れた仁忠と離れずに存在する本来の一心同体の発揚を旨とする。本来の一心同体を主体とすることをもって皇国の国柄となす。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "同年5月に東郷吉太郎が『御国体及其淵源』を著し、君臣一体、忠愛一本の国体を詳説する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "1914年(大正3年)『東亜之光』8月号にFS氏なる人物が「所謂民本主義は無責任的国体」という文を載せる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "1914年(大正3年)夏、第一次世界大戦が勃発する。これは世界未曾有の大乱であり、その惨禍は思想界に動揺をもたらす。思想の動揺は大戦初期から徐々に始まり、大戦末期に近づくにつれて表面化する。特に大戦末期のロシア革命と米国参戦により、過激思想と米国流のデモクラシーが日本に押し寄せる。ある者はこれを利用しようとし、ある者はこれを排除しようとし、思想界は未曽有の混乱を呈する。しかもこの間、自由思想も国民教育の普及と新聞雑誌の勢力増大により徐々に内発的になってゆく。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦の勃発により欧米においてデモクラシー論が盛んになり、日本もその影響を受けてデモクラシーの論議が増えてゆく。明治末年に民本主義という言葉を造語したといわれる茅原華山は1915年(大正4年)1月『中央公論』誌に「新しき世界 将に生まれんとす」と題し、民衆の政治的・経済的勢力が増大する傾向を紹介する。同年4月『太陽』誌上に織田萬が「戦争とデモクラシーの消長」を説き、千賀鶴太郎が「民主主義と開戦」と題して第一次世界大戦とデモクラシーの関係を述べるなど、デモクラシーの議論が広がっていく。同年10月には鈴木正吾が『新愛国心』を著す。同書に次のように言う。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "国体論者は、民本主義の中に日本の国体を害するものがあるかもしれないと恐れ、これに対抗してますます国体を宣明しようとする。ただし従来と異なる新しい国体論が登場したわけではない。当時の主な国体論として、佐藤範雄『世界の大乱と吾帝国』、廣池千九郎『伊勢神宮と国体』、市村光恵『帝国憲法論』、大隈重信『我国体の精髄』、千家尊福『国家の祭祀』、深作安文『国民道徳要義』などがある。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "1916年(大正5年)1月、吉野作造が『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題して百頁を超える長大な論文を掲げて民本主義を鼓吹する。吉野作造は民主主義と民本主義を区別する点で上杉慎吉と同じであるが、上杉の民本主義が単なる善政主義に過ぎないのに対して、吉野の民本主義は善政主義に民意権威主義を加え、民意権威主義の要求として参政権拡張と議院中心主義を主張する。吉野の民本主義論は大きな反響を呼び、上杉慎吉、室伏高信、茅原華山、植原悦二郎、大山郁夫など、いわゆる民本主義論者の反対批評を受ける。このほか津村秀松、永井柳太郎、安部磯雄、小山東助などが民本主義を論じる。これらの中では室伏高信の説が異彩を放つ。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "1916年(大正5年)7月、内務省神社局長塚本清治が地方官会議の席上で「敬神思想の根本及び国体の関係」を説く。その後『国学院雑誌』に国体に関する論説が数々載る。すなわち、同年11月号に植木直一郎が「国体の基本」と題して、日本の国体が特殊である所以を論じる。翌6年1月号に白鳥庫吉が「国体と儒教」と題して、日本の国体と儒教が異同するところを述べ、同月号に市村瓚次郎が「国体と忠孝」を載せる。河野省三は同年8月号に「我が国体」を載せ、さらに翌月『国民道徳史論』を著し、その第4章に「我が国体」と題して一層具体的に説明する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "1917年(大正6年)春のロシア革命と米国参戦により、デモクラシーの波が日本に押し寄せる。米国ではウィルソン大統領が第一次世界大戦に参戦する理由を「民主主義にとって世界を安全にするために」と演説する。米国が民主主義のために戦うと称したことで日本でも民本主義論がますます盛んになる。また、ロシア革命は世界を震撼させる。日本の新聞雑誌にも革命気分に乗じた記事論説が増える。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "同年5月、寺内正毅内閣は内閣訓令第1号を発して曰く、欧州戦役の影響は全世界に波及し、その関係するところは単に政治上経済上にどどまらず思想上風教上にも及び、誠に恐るべきものがある。この時にあたって政務の職司にある者は、すべからく立国の大本に鑑み国体の尊崇すべきを思い、国情の異にする海外の事例に左右されずに帝国憲法の根義に考え、自重して適従するところを誤らず、紀律を守り一意に奉公し至誠を君国に尽くし、それによって国民の模範であるべし、と。また、同月、地方官会議において内閣総理大臣が訓示して曰く、近時言論界の風潮は大変に放漫に流れ、好んで危険過激の言論をもてあそび、卑劣猥雑の記事を掲げて国民の思想を誘惑し、そして国体の本義を誤り皇室の尊厳を汚し純朴な風俗を壊す恐れがある。いやしくも国体を破壊し秩序を紊乱し人心を蠱惑するような記事論説は厳重に防ぐ道を講じなければならない。言論界は外国で勃発した政変(ロシア革命)を引援して我が国体に論及するものがある。地方当局者は適宜善導し安寧秩序を保持すべし、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "同年9月寺内内閣は臨時教育会議官制を公布する。これより4年前、教育勅語の趣旨を徹底して学制を改革することが十数年来の懸案であったため、貴族院の建議に基づき、文部大臣管下に教育調査会を始めて設けた。教育調査会は調査を進めたが懸案の解決に至らなかった。1917年(大正6年)教育調査会を改め、内閣総理大臣直属に臨時教育会議を設け、組織を改造し調査に周到を期することになる。その官制は3月のロシア革命直前に立案され、翌月閣議決定されたが、その後6か月の時を経て、9月に上諭案を改めて再び閣議決定を取り直し、異例の上諭を付して公布される。その上諭に曰く、朕、中外の情勢に照らし、国家の将来に考え、内閣に委員会を置き、教育に関する制度を審議させ、その振興を図らせる、と。官制公布の翌月、臨時教育会議について寺内総理大臣が演示して曰く、我が帝国は万世一系の天皇を戴き、君臣の分は早くに定まり、国体の精華は万国に卓越する。ここに教育勅語の趣旨が存する。欧州大戦勃発以来、交戦各国は戦火の間に学制の革新を図り自強の策を講じている。我が帝国も教育を一層盛んにして国体の精華を宣揚し堅実の志操を涵養して自強の方策を確立すべし。もし欧米の学制を模倣することばかり急いで知らず知らずに国体の精華を傷つけることがあれば国家の憂患はこれより大きいことはない、と。臨時教育会議の中心人物は総裁平田東助、副総裁久保田譲、貴族院議員小松原英太郎、同一木喜徳郎、同江木千之、そして文部大臣岡田良平である。いずれも元老山県有朋の直参子分である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "1917年(大正6年)10月、内務省警保局長永田秀次郎が私人の資格で「民本主義に対する理解」を発表する。曰く、日本において発達した尊皇愛国の思想は、君民一体、民を本とする(民本)君主主義である。外国のデモクラシーは人民の人民のための人民による政治かもしれないが、これを日本に移し替えれば「民意を暢達せしむる政治」または「万機公論に決する政治」に当たる。前者は我が国建国以来の大精神であり、後者は五箇条の御誓文により我が国で行われている、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "同月、吉野作造が『大学評論』に「民本主義と国体問題」と題して曰く、民本主義は日本の国体に反しないし、君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "同年11月から12月にかけて浮田和民は雑誌『太陽』に「欧州動乱と民主政治の新傾向」と題して曰く、一国の政治は君主国体でも共和国体でも当然に民本主義でなければならない。国家は国民全体の国家であって君主は国民のための君主である。民主政治とは必ずしも国体政体に関する憲法上の意義を有するものではない。徐々に選挙権を拡張すれば民主政治であるといえる。今後世界各国は国体政体の如何に関わらず人民多数が政治上の勢力であることは疑いない。将来の民主政治は男女協同になる傾向がある、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "この間の同年11月(ロシア暦10月)ロシアで十月革命がおき、マルクス主義政権が世界で初めて誕生する。ロシアは、過激思想に導かれて無秩序に陥り、ほとんど阿鼻叫喚の修羅場と化し、その皇室は悲惨な末路を遂げる。日本でロシア革命の関係により発禁処分を受けたものは1917年中に7件あり、そのうち1件は日本の国体を呪い、ロシアに倣うべしと主張するものであった。大阪朝日新聞はロシアの革命と過激派を推奨する記事を頻りに載せる。早稲田大学では学生が騒擾を起こし早稲田革命などの語を用い、まるでロシア革命を真似たかのような観を呈する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "同年12月尾崎行雄が『立憲勤王論』を著して曰く、皇室の尊栄と国民の幸栄により日本は世界無双である。その原因の一つは「君意民心の一致」にある。君意民心の一致のためには議会を設け民心を聴くとともに、声望ある人物を多数党の中から挙げて行政長官に任命する。政党内閣の主張の根拠はここにある、と。以上のように主張する同書は尾崎行雄の年来の主張の結晶であり、尾崎は今こそ適時であると見て同書を発行したといわれる。同書は世間の注目を惹き、後藤武夫らは反対論を著して、尾崎行雄の論は仮面勤王論であり、実は民主主義を鼓吹するものであって我が国体を誤るものであると批判する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)1月、吉野作造が「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題する長大な論文を発表する。吉野作造はこの2年前に民本主義論を提唱してから民主主義論議の中心であったが、この時になって、これまで思想に多少の混乱があり発表の方法も宜しくなかったといって、この論文を『中央公論』誌に掲げたのである。この論文は2年前の論文を確かめるものにすぎないが、要は憲政の本義として参政権拡充主義である民本主義を主張することである。この論文は再び言論界で問題となり、これに対する批評を誘発する。批評の主なものは、北一輝の弟で早稲田大学教授の北昤吉による「吉野博士の民本主義を評す」である。北昤吉の評によると、吉野作造の民本主義論は主権論に触れないようにしていることから、その論は矛盾・曖昧・不徹底・誤謬を含む。主権論を回避すること処女のごとく、参政権拡張主義をもって虎視眈々と天下を志すこと奸雄のごとし、という。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)2月、井上哲次郎が『増訂国民道徳概論』を出版する。これは1912年出版の『国民道徳概論』を増補改訂したものである。1912年版と1918年版の間の異同をみることで、この6年間で井上哲次郎の国体論がどう変化したかが分かる。国体に関しては次の箇所が注目される。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)3月、浮田和民が『太陽』誌に「国際上の民主主義と日本の国体」と題して、連合国の戦争目的である民主主義というのは国際上の民主主義であると述べ、これが日本の国体に反しない所以を説く。これは国際上の民主主義を実際的に説いた初めての論説である。以下のように言う(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "今後の外交は秘密主義をやめ公開主義でいかなければならない。公開主義の外交はいわゆる民主主義の外交である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "国際上の民主主義というのは、決して各国の内政に干渉し、その国体や政体を変更しようとする主義ではない。英仏の主張は国際上の民族の自由や小国の独立を擁護することを主義とし、これを民主主義と称するのだから、たとえ同盟国中に万世一系の皇室を戴く日本があっても、英仏の主張に少しも矛盾しない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "連合諸国にいわゆる民主主義はドイツ至上主義に反対する立場である。むしろこれを自由主義または民族主義といったほうが穏当で正確であるが、自由主義といっても前代のように消極的なものではなく積極的に人民の意思を成就しようとするものだから民主主義といわなければ世論が満足しない。また民族主義というのは両刃の剣であり、強大民族が弱小民族を強いて屈服させ同化させる意味もあるので、いよいよ国際上に民主主義という語が流行するようになったわけである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "このように民主主義の意味を解すれば、国際上に民主主義の味方であることは決して日本の国体に悪影響を及ぼさない。ましてや民主主義を民本主義と解すれば、それは井上哲次郎の言うように、建国以来の日本の国是である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "浮田和民は翌月にも同誌に「参戦目的と出兵問題」を載せ、日本の参戦目的は国際上の独裁主義を破ることであり、国際上の民主主義のために戦うものにほかならないと説く。この月(1918年4月)は民本主義論が最も賑わった月であり、多くの論者が様々な論説を発表した。その中で例えば稲毛詛風は『雄弁』誌同月号に「外来思想と国民生活」を載せ、民本主義の各種概念と国体の関係を次のように分類する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)6月、『太陽』誌が臨時増刊号「世界の再造」を刊行する。同号は世運に関する各種問題を集めたものであり、その中では美濃部達吉「近代政治の民主的傾向」が民主主義と国体の関係について論及している。曰く、もし民主主義を法律上の意味に解して国民を法律上の最高統治権者とするならば、明らかに日本の国体と両立しない。これに対して、政治上の意味における民主主義は、少しも日本の国体に抵触するものではなく、むしろ更に国体の尊貴を発揮する所以である。この意味における民主主義、すなわち民政主義は明治維新以来の国是であって、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」というのは最も直截簡明に民政主義を表現したものである、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)8月、白虹事件が起こる。大阪朝日新聞は前年以来ロシアの革命と過激派を称賛する論説を頻りに載せ、またシベリア出兵や米騒動に関して寺内正毅内閣を攻撃していた。8月25日に「日本は今や最後の審判を受くべき時期にあらずや」という記事を載せる。記事中に「白虹日を貫けり」という故事成語を引く。この句は、白虹を武器、日を君主の象徴として、臣下の白刃が君主に危害を加える予兆とされる。同紙は新聞紙法第41条安寧秩序紊乱により起訴され、社長は右翼から暴行を受ける。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)9月、非立憲的な寺内正毅内閣が米騒動の責任をとって崩壊し、立憲政友会の原敬内閣が誕生する。同年11月、内務省警保局が『我国に於けるデモクラシーの思潮』を出版する。同書は表紙に「秘」と記される秘密文書である。同書本文は同局事務官安武直夫の私稿を別冊として付ける形式である。警保局名義の序文に曰く、世界は今やデモクラシーを中心に回転している。我が国でも、これに関して論議しない新聞雑誌はない。ほとんど現代思潮の中心を為し、一般人心もその影響を著しく受ける。しかし論説の内容は様々であって、デモクラシー・民本主義の観念を補足することは容易でない。これらの論議や思潮の傾向を窺うための参考として本書を出版する、と。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "寺内内閣倒壊後も審議を続けていた臨時教育会議は、1919年(大正8年)1月に「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」を内閣総理大臣原敬に提出する。また、同月には皇典講究所とその管下の国学院大学が天皇の御沙汰により年々の補助金を賜わることになる。その事情は以下のとおりである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "これより先、臨時教育会議では江木千之委員らがその改革案の趣旨を貫徹させるために国学を振起する必要を感じる。官立大学は国学振起を担う状況にないので、私学の中から探したところ、皇典講究所管下の国学院大学が適切であるということで話がまとまり、その拡張を図ることになる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)5月、皇典講究所総裁竹田宮恒久王が令旨の形式をもって皇典講究所と国学院大学の拡張を命じる。令旨に曰く、世界大乱が民心に及ぼす影響が更に甚だしくなりつつある。この時にあたって皇典講究所と国学院大学は設立の趣旨に則り、国体の本義を明らかにし、道義の精神を徹底させ、教育の規模を拡張し、もって国家の柱石たる人材を養成し、斯道のために大成を期さなくてはならない、と。以後の拡張計画はこの令旨に基づくものとされる。同年7月に皇典講究所国学院大学拡張委員会を設け、政府の臨時教育会議からは小松原英太郎が拡張委員長に、江木千之、早川千吉郎が拡張委員に就く。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "同年10月に臨時教育会議では平沼騏一郎・北条時敬・早川千吉郎の3委員が「人心の帰嚮統一に関する建議案」を総会に提出する。提出者は3名とも平沼の主催する無窮会のメンバーである。小松原英太郎と江木千之は賛成者に名を連ねる。江木は実質的な提出者の一人でもあると自称している。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "同年12月、皇典講究所の組織を改革して理事会を置き、小松原英太郎、江木千之、早川千吉郎らが理事に就く。小松原は皇典講究所長にも選ばれる。そして皇典講究所・国学院大学は拡張趣意書と拡張計画を発表して募金を呼び掛ける。趣意書に曰く「皇典講究所および国学院大学は、尊厳なる国体を講明し、堅実なる国民精神を発揮し、真摯なる方法によって典故文献を研究するを以って目的とする」。「物質的文明に偏したる弊毒は深く民心に浸潤し、国民道徳の頽廃はあまねく思想界の危機たらんとする」。「これ、本所(皇典講究所)ならびに本学(国学院大学)が、大いに内容を改善し、規模を拡張し、ますます本来の意義を発揮して、もって国民精神を振興せんと欲する所以なり」と。また、拡張計画では、第1期事業の「典故文献の講究」について「我が国が世界無比の国体を有すると同時にその典故文献の講究を要すべきもの枚挙にいとまあらず」、「同時に現代思潮もまた調査研究してこれが善導に資する」といい、「講演」について「動揺せる思潮を善導し、目下の危機を救う唯一の方法は、我が世界無比の国体を闡明し、国民の自覚を促すにあり、よってあまねく講演会を開催し、主義宣伝の捷径たらしめんとす」といい、第2期事業の「国法科設置」に「我が国体と民族とに適合する法律の研究は目下の急務なり」という。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "この間、臨時教育会議の「人心の帰嚮統一に関する建議案」は、主査委員会で整理修正され、その題名を「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」と改め、総会で揉めたあげくに別途修正して可決され、1919年(大正8年)1月に原首相へ提出される。建議に曰く、時局各般の影響により我が思想界の変調は予測できず、誠に憂慮に堪えない。時弊を救わんと欲すれば、国民思想の帰嚮を統一し、その適従するところを定める必要がある。そしてその帰嚮するところは、建国以降扶植培養された本邦固有の文化を基礎とし、時世の進展に伴いその発展大成を期することにある、と。そしてその要目は以下のようにいう。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "このうち「国体の本義を明徴に」云々の要目は当初案の「敬神崇祖の念を普及せしむる」という項目を改めたものである。その内容は建議附属の理由書に詳しい。理由書に次のようにいう(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "我が国は建国の初めから君臣の義は確乎として定まる。歴代朝廷の仁恵恩沢が深厚であることは天地のように自然である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "海内一家、億兆人民が仲良く皇室を奉戴し、代々蓄積醸成して、ついに一団として情に厚い美俗を成した。これは他国に類例を見ないものであり、国家組織の善美の極致である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "この国体の本義を明徴にし、これを中外に顕彰するには、すべからくその根本精髄を明確詳細に理解させる必要がある。たとえば以下の事実などについて深く留意させるべきである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "この本義を一般国民の徹底し、国体尊崇する念を鞏固確実にすることができれば、断じて思想変調のために大義を誤ること(革命)はない。この本義は海外にも発揮宣揚して世界の道徳文化に貢献しなければならない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "国体尊重の念を鞏固にするには、敬神崇祖(神々を敬い祖先を崇めること)の美風を維持し、一層その普及を図る必要がある。報本反始(祖先の恩に報いるという礼記の言葉)は東洋道徳の優秀な点である。特に敬神崇祖の風習は我が万世不変の国体と密接な関係がある。天祖(天照大神)の遺訓を歴代天皇が奉じて国家に君臨し、皇位の隆盛は天壌無窮である。これは国体の尊厳である所以であり、皇室から臣民に至るまで常に敬神崇祖をもって報本反始の義を大事にするのは当然の事に属する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "敬神崇祖の風習は我が国不滅の習俗である家族制度と密接な関係がある。皇室が神祇を敬い祭祀を重んじ、われら臣民も父祖の霊位を祀る。これこそ我が家族制度における慎終追遠民徳帰厚(父母を丁重に弔い祖先を大切にすれば民の徳も厚くなるという論語の言葉)の所以である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "敬神崇祖の風習を振興する方策としては、神社の荘厳を維持すること、祭祀の本旨を周知すること、神官神職の地位を向上させることが最も必要である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "国体の本義を明徴するに最も必要な事項は皇典研究のために適切な施策を行うことにある。帝国大学その他適切な学校に皇学講明の方針を確立し、建国の由来を明らかにし、国体の根基精髄を理解させるべきである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "これと同じ月(1919年1月)、臨時教育会議委員の小松原英太郎が皇典講究所長の立場で宮内省に出向き天皇の御沙汰書を拝受する。御沙汰書には「今般その所(皇典講究所)国学院大学規模拡張の趣を聞きこしめされ、思し召しをもって第1期分大正8年度(1919年度)以降10年間年々1万円まで御補助として下賜そうろう事」とされる。 1919年(大正8年)2月、加藤玄智が『我が国体と神道』を著し、主に宗教の立場から見た神道・国体と外国のそれとの違いを論じる。同書に次のようにいう(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "余(加藤玄智)の専攻する宗教史・宗教学の方面より、我が国体の成立について新研究を試み、その淵源に溯り、そ大本を闡明しようと思う。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "日本において天皇は現人神であり、シナ人のいわゆる天または上帝、ユダヤ人のいわゆるヤーヴェの位置を占める。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "万世一系の天皇を奉戴する特種の国体にあっては、天皇の即位式が西洋諸国の君主の戴冠式と全く趣が異なる。それは、神を代理する僧侶から王冠を戴くのではなく、天皇がみずから神霊を祭祀して即位を告祭し、その後に臣民に広く告示する、これが大嘗祭である。大嘗祭と戴冠式との差異を考えると、我が国体の性質が西洋諸国のそれと比べて隔絶していることが分かる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "1920年(大正9年)東京帝国大学文学部に神道講座が新設され、加藤玄智がその助教授に就く。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "この間の1919年5月に国体論の論説集『国体論纂』が出る。同年8月に物集高見が『国体新論』を著す。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "1922年(大正10年)1月、内務省神社局が『国体論史』を出版する。緒言に次のようにいう(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "近時、思想界の動揺に際して、危険思想の防遏や思想の善導ということが識者の間で盛んに唱道されている。なかでも我が国体の淵源を明らかにし、国体に関する理解を国民に徹底させることは最も緊要かつ有効な方法である。ここに本局(内務省神社局)は、嘱託の清原文学士(清原貞雄)をして、主に徳川時代以降の国体に関する所論を調査・編述させ、あわせて国体観の問題に開係ある諸種の事実を叙述させた。これによって国民思想の指導の参考資料とするものである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "そして巻末で余論と称して、国体論者に釘を刺す意見を次のように主張する(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "我が国のことを何事も嘆美・誇張し、世界無比にして天下に卓絶するものであると説くのは、儀式的な祝辞として述べるにはいいが、我が国体の優秀さを国民に心から納得させるには全く無益であり、外国人から見れば誇大妄想狂にすぎない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "国民を心から納得させるには、科学知識に抵触しない理論の上に立たなければならない。神話は国民の理想・精神として尊重すべきだが、ただ尊重するものでしかない。神話を根拠として国体の尊厳を説くのは危い。神話と矛盾する進化論の知識を注入されている国民はこれを信じないからである。固陋な論者はこれを信じない者を賊子と指弾して攻撃する。そうすれば国民を黙らすのは容易かもしれないが、その心を奪うのは不可能である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "そもそも国体とは「一国が国家として存立する状態なり」と言える。この定義は広すぎるかもしれないが、こう言わなければ国体なる語の内容を言い尽くすことはできない。最狭義に統治権の主体の如何を言うことはもちろん、建国の事情によって定まるとか何とか言うのも、国体という語の内容の一部に過ぎず、我が国体の優秀の理由の一部に過ぎない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "我が国体の優秀とは、上下が仲良く和やかに、うち解け合って一体を成し、しかも整然とした秩序があり、国家として最も強固に存続する状態である。この国体の優秀は我が国の社会の成り立ちに由来する。すなわち、上に国民帰向の中心として有史以前より連綿と継続する皇室があり、下に皇室の支流である国民が皇室を奉戴して、有史以来上下の秩序を替えず、また幸いに外国の侮り(支配)を受ける事もなく、国家が一方向に発展することである。一言でいえば、一つの中心点(皇室)に向かって国民が寄り集まって堅固な国家を成したのである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "ある種の社会主義者の言うように、国内に上下の差別なく一切平等にして、国際間に紛争なく和気あいあいと長閑な世界を作るという理論は空想にすぎない。われらはあくまで国を強固にして、主権に対する絶対服従義務のうちに正当な自由の権利を保持し、国家に対する自己犠牲によって相互の幸福を享有しなければならない。このような国家を形成するには、上に命令者として広く国民を納得させる者の存在することが第一必要条件である。我が皇室は最もこの条件に適合し、しかも今(第1次世界大戦後)の世界において唯一の存在である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "悠久の昔、いわゆる天孫民族の一族が大八島(日本列島)に渡来して夷族を平らげた。神話・伝説によって察すれば、現皇室の祖先が始めからその首長として一族を率いたことは疑いない。宗家の家長を首長と戴く一族は、支族に支族を生じ、徐々に発展して国家を形づくり、都を九州から東に遷して大和を占拠し、ついに今日の大日本帝国の基礎を開いたのである。すなわち我が国は、多くの学者が認めるように一大総合家族というべきものであり、その始めから宗家の家長として全族に臨んだものは、現在の皇室の祖宗である。 全国民が心に不満を抱かずに服従できる首長として、これ以上の者はない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "もし死後の霊魂が不滅であるとすれば、その生前に自分を愛護してくれた父祖が、死んで霊魂になったとしても、その愛護を止めることはないと感じる。また自分が子孫の幸福を切実に願うことから類推しても、父祖の霊魂は必ず自分とその子孫を愛護すると感じる。ここに祖先崇拝の信仰が存在する所以がある。その父祖の霊魂に対する信念は自家の古い祖先に及び、さらに一族共通の祖先に及び、ついに大祖先たる皇祖にも及ぶ。これらを総括したものが、日本の神道の根本である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "ある人は先祖崇拝を報本反始の儀礼に過ぎないという。これは神道を宗教と区別する事を曲解したものであり、神道の内容には儀礼だけでなく信仰もある。もし信仰に欠ける儀礼であれば神道は無力である。国民は祖宗の霊がその子孫や国家人民を保護すると信じるからこそ神道に力がある。祖先の霊の保護の下に一家一族を形成し、さらにこれを総合した宗教、すなわち皇祖皇宗の霊の保護の下に我が国を形づくる。渾然一体の一大有機体であり、そこに万世不動の秩序がある。数千年にわたりこの事に馴らされた国民は、教えなくても父祖を敬愛し、また宗家すなわち皇室を尊奉する。前者を孝といい後者を忠という。学者はこれを忠孝一本と名づける。忠を尽せば孝に適うということである。そうして国家として最も自然的に最も鞏固に存在することが我が国体の特色である。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "ある人は、この総合家族制を立国の根本義とすることを批難して、我が帝国が朝鮮・台湾・樺太を加えていることに支障を生ずると論じる。しかし、そはやむを得ないことである。根幹となる大和民族の国家を磐石にすれば、発展とともに段々と附属し来た民族には権威と恩恵をもって臨めばいい。もし新附の民族をも同一範型に容れられる立国根本義を求められないこともないが、総合家族ほど堅固になることは到底ありえない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "天孫降臨の神勅によって我が国体は定まったという人も多いが、それは間違いである。神勅の有無にかかわらず、我が国家の社会的成因が、万世一系の皇位を肯定し、その他を否認するのである。神勅はただその事実を表明したものに過ぎない。神代史は歴史と神話が半々のようなものである。神勅は神話として歴史的事実でないと考える者もいる。しかし、国体論においては神勅が事実であろうが神話であろうが根本問題ではない。神勅が史実であるにせよ、神話すなわち民族的理想の表明であるにせよ、社会的事実は変わらず、国体論は動かない。 帝国憲法も教育勅語も元来存在する事実を顕彰したものであり、これによって国体が定まったわけではない。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "統治権の主体について国法学者の間にあれこれ議論がある。一方は統治権の主体を国家とする説(美濃部達吉らの国家主体説)、他方は統治権の主体を天皇とする説(上杉慎吉らの天皇主体説)である。前者(美濃部ら)は国家が国家全体の利益のために存在すると説き、後者(上杉ら)は国家が天皇個人の利益のために存在すると説く。後者(上杉ら)は前者(美濃部ら)の説をもって、天皇の神聖を侵し、国体の尊厳を危くするものであると非難する。しかし、我が国において敢えてこの事を宜明する必要があるのか。規定しなくても国民の大多数は忠魂をもって皇室に尽したいと願い、また歴代天皇は自身を顧みずに国民を憐む。これ我が国体の善美の表れである。しかし冷かな法理によって天皇を神聖視することを強制しようとすること(上杉らの天皇主体説)は、いわゆる贔負の引き倒しであって、皇室に対する国民の忠義の熱情に水をさし、歴代天皇の聖徳を無にするものである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "詳細は「第一次共産党 (日本)」を参照", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "「コミンテルン#日本共産党とコミンテルンテーゼ」も参照", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険をふくむ社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの日本軍の完全撤退を求めた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの資本主義国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "詳細は「第二次共産党 (日本)」を参照", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか?』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "詳細は「日本民主革命論争」および「日本資本主義論争」を参照", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く弾圧で約1,000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。また1930年に水野成夫らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の日本共産党労働者派を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "1932年5月、コミンテルンにて「32年テーゼ」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "同月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、「スパイM」(飯塚盈延)を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内部でのスパイ狩りが始まり出した。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多数の党員が袴田ら党中央を批判して分派の「多数派」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって弾圧された。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)5月に日本の共産主義者は上海に渡航して資金を獲得し、その資金をもって帰国して過激な主義運動を開始する。政府はこれを取り締まるため、1922年(大正11年)3月に過激社会運動取締法案を議会に提出する。この法案は、朝憲を紊乱する事項や社会の根本組織を不法に変革する事項について、これを宣伝等した者を罰するものである。これは貴族院で修正のうえ可決されるが、衆議院で審議未了に終わり、廃案になる。日本共産党は同年末にロシアで行われたコミンテルン第4回大会で承認され、ここにコミンテルン日本支部として日本共産党が成立する。通説によるとコミンテルンのブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」は「君主制の廃止」を要求しており、この点が翌年3月の石神井臨時党大会で問題視され、綱領草案は審議未了に終わったという。一説には綱領草案に「君主制の廃止」の要求はなく、実際は「完全に民主的な政府」の要求であったとも指摘されている。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)9月1日の関東大震災をきっかけに大正デモクラシーは曲がり角を迎える。震災前まで日本国内では大正デモクラシーの民衆運動が高まり、それに反発する右翼が台頭し、現職総理大臣原敬の暗殺や元老山県有朋の死去もあって、天皇制支配体制が揺らいでいた。また国際的にも、ワシントン体制で英米と対立し、中国人や朝鮮人の反日運動を被り、シベリア出兵に失敗するなど、孤立しつつあった。そこに関東大震災が突発する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 286, "tag": "p", "text": "政府は大地震の翌2日に戒厳を布き、5日に内閣告諭を発して人々の朝鮮人迫害を戒め、7日治安維持令を発して人心の動揺を抑えるが、この間多数の朝鮮人が自警団らに殺傷される。また亀戸事件で社会主義者10人が警護兵に殺害され、16日には甘粕事件で無政府主義者大杉栄とその家族が憲兵に殺害される。こうした事件に対する批判は少なく、むしろ軍隊と警察は治安維持と被災者救護を通じて民衆の間で威信を高め、内村鑑三や美濃部達吉ですら軍隊と戒厳に謝意を表わす。財界人の間では天譴論というものが唱えられる。天譴論とは、震災を国民への天罰として捉えるもので、それは国民が贅沢に馴れて勝手気ままに危険思想に染まりつつあることに対する天罰なのだという。政府は11月に天皇の名で国民精神作興ニ関スル詔書を出し、軽佻詭激(軽はずみな過激行為)を戒めるが、この詔書に署名した摂政皇太子裕仁親王は翌月虎ノ門事件で暗殺未遂に遭う。犯人難波大助は主義者であったため、主義者に対する嫌悪感が民衆の間に広まる。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 287, "tag": "p", "text": "関東大震災の6日後に発せられた治安維持令は、生命身体財産に危害を及ぼす犯罪を扇動した者、安寧秩序を紊乱する目的で治安を害する事項を流布した者、人心を惑乱する目的で流言浮説をなした者を処罰するものである。これは緊急勅令であったが、治安維持に相当の効果があるということで同年12月に帝国議会の承諾を得て恒久化する。治安維持令は1925年治安維持法制定時に廃止されるまで効力を持つ。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 288, "tag": "p", "text": "この間、共産主義その他の急進運動は著しく発展し、ロシア第3インターナショナル(コミンテルン)と通謀して資金提供その他の援助を受け、過激運動を計画し実行しようとする。これに加えて日露間に修好の基本条約が締結されたため、国交が徐々に回復して両国間の往来が頻繁になれば過激運動家が各種の機会を得ることも予想された。日本政府は、従来の法規制は抜け穴が多く罰則も軽いので取り締まりの効果が薄いという理由で治安維持法案を帝国議会に提出する。治安維持法案は第1条に「国体もしくは政体を変革し、または私有財產制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者は、ハ十年以下の懲役または禁錮に処す」「前項の未遂罪はこれを罰す」というものであり、国体とともに政体を挙げていたが、衆議院は政体のことを条文に掲げる必要がないとして「もしくは政体」の文字を削除して法案を可決する。治安維持法公布後に内務省警保局が官報に載せた各条義解によると、国体とその変革というのは次のことを意味する(大意)。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 289, "tag": "p", "text": "国体とは誰が主権者であるかの問題である。我が帝国は万世一系の天皇に統治される君主国体である。国体は歴史にもとづく国民の確信によって定まるものであり、成典(帝国憲法)によって定まるものではない。成典に国体に関する規定があるのは、ただ主権者がみずから既定の国体を宣言したに過ぎない。憲法第1条に大日本帝国は万世一系の天皇これを統治すると定め、第4条に天皇は国の元首にして統治権の総攬者であることを明らかにした。したがって、天皇以外が統治権の総攬者であることはなく、天皇に統治されない国土はなく、天皇以外が天皇に淵源しないで統治権を分担することはない。 治安維持法第1条にいわゆる国体の変革とは、国民の確信である国体の本質に変更を加えることをいうのである。君主国体を変えて共和国体やソビエト組織にしたり、一切の権力を無視して国家の存在を否認したり、要するに統治権の総攬者である天皇の絶対性を変更する色彩のあるものは国体の変革である。そして暴動を要件としない点で内乱罪の予備や陰謀と異なるのである。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 290, "tag": "p", "text": "1926年、全日本学生社会科学連合会(学連)に属する学生ら38名が治安維持法違反等の疑いで検挙される。学連事件である。検挙後の5月に検事総長小山松吉が訓示して「学術研究の範囲を超越し、いやしくも国体を変革し、または社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、もしくはその実行に関する協議をなすに至りては、毫も仮籍する所なく、これを糾弾せざるべからず」と指示する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 291, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)9月、井上哲次郎が『我が国体と国民道徳』を著す。同書に曰く、我が国体は既に分かり切ったものと思い込んで実はよく知らない者が多く、精神面を度外視して表面だけ考えたり、英国や旧ドイツ帝国や旧ロシア帝国などと同じように考えたり、民主思想と絶対に相容れないものと考えたりする、その誤謬は実に様々である、と述べ、国体は民主思想と矛盾するものではないと語る。井上哲次郎はこれまで万世一系の血統を重視していたが、同書ではポイントを移して王道(仁政)を重視し、民本主義や人道主義が国体に根差すと主張する。これは、大正天皇の病気療養に国体論の不安を見た井上哲次郎が、国体論を再編して国体の正統性について説得的な論拠を提供しようと試みたものと評される。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 292, "tag": "p", "text": "井上哲次郎の『我が国体と国民道徳』は公刊後1年経った1926年(大正15年)9月ごろから頭山満ら国家主義者に猛烈に批判され、翌年1月に発禁処分を受ける。当時の批判は「彼(井上哲次郎)は全く時代思潮の追随者で、彼自身の見識も意見も有るものではない」、「震災前に出版していた国民道徳概論には国体破壊の恐れある言論はほとんどない」のに、『我が国体と国民道徳』については「なるほどこれは怪しからぬ。かれ井上氏は何時の間にこんな物を書くほどに、それも国民道徳と銘を打って、全国の児童の頭に植えつけるような書物に書くほどに悪化したろうか」というものであった。具体的には、三種の神器のうち鏡と剣は模造品であるなどと記した部分があり、これが不敬であるとされたこと、またそれよりむしろドイツ・オーストリア・ロシアの君主国体が倒れたことについて「このように国体というものがガラリガラリと一変して行くのを引き続いて見た」などという記述が問題視されたことが挙げられる。この不敬事件は、井上哲次郎の国体論再編の試みが伝統的国体論から攻撃を受けて挫折したものと評される。井上哲次郎は公職を辞めざるを得なくなり、以後著述に専念する。", "title": "大正デモクラシーと国体論" }, { "paragraph_id": 293, "tag": "p", "text": "昭和になると、国体論は人々の思想を規制するうえで猛威をふるう。昭和の直前の1925年に制定された治安維持法は国体の変革を目的とした結社を禁止した。その3年後の緊急勅令は国体変革に関する最高刑を死刑に引き上げた。こうした動きの背景には、国体を天皇制として相対化するマルクス主義に対する恐怖と敵意があった。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決で「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」とされた。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 294, "tag": "p", "text": "昭和の初め、衆議院で初の普通選挙が行われ、その選挙結果に基づき第55回帝国議会が開かれるが、その前後では国体にまつわる様々な問題が惹起される。国民の総意に基づく議会中心主義を掲げる立憲民主党綱領問題、君主制の廃止を謳う日本共産党に対する弾圧、パリ不戦条約の人民ノ名ニ於テ問題などである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 295, "tag": "p", "text": "日本初の普通選挙を控えて、1927年6月、立憲民政党が創立される。創立趣意書に「国体の精華にかんがみ一君万民の大義を体し国民の総意によりて責任政治の徹底を期するものである」と述べ、党の政綱に「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を微底せしむべし」と宣言する。時の政権は、同党と対立する立憲政友会の田中義一内閣である。翌年2月に初の普通選挙が行われる際、同内閣の内務大臣鈴木喜三郎は、投票前日に声明書を発表し、立憲民政党の政綱について「議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさおさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない。畢竟かくのごとき思想は主権は一に天皇にありとの大義を紊乱し、帝国憲法の大精神を蹂躙するものであって断じて許すべからざるものである」と批判する。しかしこの声明書は逆に鈴木内相への不信任の雰囲気を強める。新聞には、民政党が国体に反するというなら何ゆえ治安警察法で解散させないのかと指摘され、貴族院からは皇室を政争の具にするものとして非難される。選挙後の帝国議会において、鈴木内相は過度の選挙干渉を責められて辞職に追い込まれる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 296, "tag": "p", "text": "この間の1927年7月、コミンテルンが日本の君主制の廃止を謳う「日本問題に関する決議」を採択する。いわゆる27年テーゼである。日本共産党は27年テーゼに基づき活動を始め、翌年2月の衆議院選挙に11名の党員を労働農民党から立候補させて公然と大衆宣伝を行う。選挙運動では、日本共産党の名を入れたビラをまき、共産党のテーゼを大衆に宣伝する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 297, "tag": "p", "text": "田中内閣は共産党が国民に影響することを恐れて密かに内偵を進め、3月15日未明、共産党の党員やシンパなどの約1600名を一斉検挙する。三一五事件である。文部大臣水野練太郎は訓令を発し、この事件を「国家のため一大恨事」と断じ、「極端なる偏倚の思想を根絶し懐疑不安の流弊を一掃する」こと、そして「学生生徒をしてこれに感染することなからしめんがため、特に心力を傾注してわが建国の本義を体得せしめ国体観念を明徴ならしめ、もつて堅実なる思想を涵養するに勉むる」ことを指示する。衆議院では、尾崎行雄提出「思想的国難に関する決議」が圧倒多数で採択される。貴族院議員は各派代表が揃って田中首相を訪問し「日本共産党の主義行動は根本的に我が国体を破壊せんとするものの如くなれど、かかる行動に対しては徹底的に弾圧を加うる意思なるや否や」などと問い詰める。各種の教育団体は一様に国体観念の涵養を高唱する。たとえば全国聯合小学校教員会総会は「国体観念の涵養に努め国民精神の振興を図り以て国運の進展に貢献せんことを期す」という宣言を決議する。また教育社会の中央機関を自認する帝国教育会は、全国聯合教育会の決議を受けて、思想問題研究会を設置する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 298, "tag": "p", "text": "田中内閣は治安維持法の国体変革罪の最高刑を死刑に引き上げる法案を帝国議会に提出するが、法案を審議する委員会の委員長席を野党に取られて、法案は審議未了で廃案になる。そこで田中内閣は緊急勅令により治安維持法改正を強行する。緊急勅令を出すには緊急性の口実が必要であり、これについては原法相が名古屋の第3師団が山東出兵に出征する際に反戦を働きかけた者がいた事案を示し、「彼らに対し厳重なる警戒を加えるにあらざれば、彼らはますます国体変革を目標としてこの大胆不敵の売国的運動を継続し、我が国の治安を根本的に破壊せんことを努むるの恐れある」と説明する記事を新聞に載せる。治安維持法改正緊急勅令案を審査する枢密院では緊急性について疑義が出され異例なほど紛糾するが、結局多数をもって可決される。枢密院の審査委員会では「危険思想の青年間に流布することの恐るべき次第」「学校教育においては国体観念を明らかにし国民的信念を涵養すること最も必要なり」といったと発言が相次ぎ、その結果として審査報告書に付せられた警告条項に「思想の善導につき当局は学校教育たると社会教育たるとを問わず教育の改善に最も力を致すべき」との要求が掲げられる。枢密顧問官らは特高警察や思想検事の拡充よりも思想善導を優先させたのである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 299, "tag": "p", "text": "この間の1928年3月(前述三一五事件と同じ月)、パリで日本政府代表が不戦条約に署名調印する。その第1条に「人民の名において」とあり、野党はこれをそのまま批准すれば国体を変更することになると批判する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 300, "tag": "p", "text": "不戦条約は英文と仏文で書かれ、その第1条には英文で\"The high contracting parties solemnly declare in the name of their respective people ...\"とある。これを和訳すれば「締盟国は各々その人民の名において厳粛に宣言する」となり、当時の外務省もそのように翻訳して国際時報に載せていた。この字句が物議を醸すと政府は急に訳文を隠し、議員が訳文の開示を要求しても、まだ翻訳が出来ていないと答弁する。尾崎行雄は、1929年2月に政府へ提出した質問主意書において、我らは軍国主義に反対するから不戦条約自体には賛成であるし、この問題は天皇大権に関係するから政争の具にしてはならないと言いつつも、次のように指摘する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 301, "tag": "p", "text": "我が国と同じく不戦条約に調印したる米、仏、曼〔ドイツ〕、チェコスロバキア、ポーランド等の共和国は申すに及ばす、英、白〔ベルギー〕、伊〔イタリア〕等の君主国といえどもその君主はただ君臨するだけで統治せざる国柄であるから、人民をもって条約締結の主体となすのは当然の次第であるが、ひとり我が国に至りては、天皇は統治権を総攬し(憲法第四条)、また条約締結権を専有したまう(憲法十三条)であるから、人民をもって条約の主体となすことはできない。 しかし不戦条約第一条をかのままにしておいて御批准なされば人民をもって該条約の主体となすことになる。それは憲法第一条、第四条および第十三条に違反し、国体を変更し、条約締結の大権を天皇陛下の御手より人民に移すことになる。ゆえに政府は、まず勅命を請うて憲法を改正せざる限りは、かのまま該条約の御批准を奏請することはできないはずである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 302, "tag": "p", "text": "日本政府は同年6月27日に不戦条約の批准を受ける際に異例の「宣言」を発し、不戦条約第1条中の「其ノ各自ノ人民ニ於テ」という字句は帝国憲法の条文からみて日本国に限り適用されないものと了解すると宣言し、この宣言を前提に批准する旨を批准書に書き入れて天皇の批准を受ける。それと同じ日、田中義一首相は張作霖爆殺事件について天皇に奏上し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみで済ますと説明する。これが従来の説明と全く異なることから、天皇は強い口調でその齟齬を詰問し、さらに田中に辞表提出を求める。田中内閣は不戦条約批准問題で苦境に立ち、張作霖爆殺事件の責任問題で昭和天皇に咎められたことで、総辞職に追い込まれる。田中内閣に代わって立憲民政党の浜口内閣が成立し、不戦条約を公布する。その上諭は「右帝国政府の宣言を存して批准し、ここに右帝国政府の宣言とともにこれを公布せしむ」という異例の表記になる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 303, "tag": "p", "text": "1929年7月に成立した浜口内閣は「十大政綱」を発表し、国体観念の涵養に留意して国民精神の作興に努めることを宣言する。そして教化総動員運動というものを急遽計画し、9月から12月にかけてこれを全国で実施する。この運動は、各地の教化団体・青年団体・宗教団体・婦人団体を中心として一般国民を巻き込む意図があり、その目的を「国体観念を明徴にし国民精神を作興すること」「経済生活の改善を図り国力を培養すること」の2点に集約し、その根拠を昭和天皇の践祚後勅語と即位礼勅語に求める。この運動は推進者の小橋文相が鉄道疑獄で辞任したことから尻すぼみで終わるが、各地社会教育団体が自発的に運動に参加したことから、一般国民の間に異端排斥の風潮を強める。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 304, "tag": "p", "text": "文部省は1930年度から学生生徒の思想善導を実施する。その中に特別講義制度があり、これは「我が国特殊の国体、国情、国民性等を明徴に」すること等のため、各校が外部講師に依頼して特別講義を実施するものである。初年度はまず官立高校で始め次年度から範囲を官立専門学校・実業専門学校、高等師範、大学予科に広げる。講師としては鹿子木員信・新渡戸稲造・高田保馬・川合貞一・前田多門・紀平正美の講義が多く、そのほか三上参次・辻善之助・柳田国男・大川周明らも動員される。教養話や時事談もあるが全体としては国体明徴等に関する講話が多い。当初は各校年間10時間程度実施する予定であったが、実際には初年度に4時間あまり、次年度に2時間たらずしか実施できていない。これは、高校ですらストライキや騒擾が頻発する当時にあっては、有名高士の説教自体が学生生徒から攻撃されたからである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 305, "tag": "p", "text": "1931年に満州事変が勃発すると一般国民の間で排外熱と好戦熱が高まり、社会民主主義者は戦争協力になだれ込む。学校全体を巻き込むストライキや騒擾は翌年から激減する。文部省学生部は特別講義制度を自賛する。文部省学生部によると、学生らが外来思想に対する追随的・妄信的・無批判的な態度から脱却して、我が国特殊の国体、国情、国民性等に十分な考慮を払い、現実の社会問題、思想問題に対して批判的識見を持ち始めたのは特別講義制度のおかげなのだという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 306, "tag": "p", "text": "満州事変後、右翼学生が国家主義を前面に掲げて団体を結成しはじめる。文部省は、右翼学生団体を主義や綱領により大別し、その分類の筆頭に、天皇中心主義を信奉し、皇道精神と日本精神の涵養と発揚に努め、国体観念を明徴させようとするものを挙げている。ほかは、国防を研究するもの、満蒙進出を図るもの、学風の堅実化を図るものである。文部省は右翼学生団体に対して左翼学生運動への対抗者として積極的に支援する。たとえば文部省学生部の帝国議会向け資料には、右翼学生団体について、おおむね研究や修養を主とする穏健なものが多く、中には特に国体観念・国民精神等を明徴にしようとする真面目な団体もあるから、一方において極左思想の激しい今日にあっては、この種の団体に対してその健全な発達を助成すべきものと思われる、と記されている。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 307, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)5月、文部省の学生思想問題調査委員会が文部大臣の諮問に答申を出す。同委員会は前年に文部大臣の諮問機関として設けられたものであり、その委員の大多数は、左傾思想(マルクス主義)が国体に反する危険思想であることを共通認識とし、左傾の原因について「我が国体思想の涵養が不充分なりしことが、マルキシズム勢力の原因の一つ」と判断し、具体的な対策として「我が国体・国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くること」を提唱する。これは国民精神文化研究所の創設に結びつく。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 308, "tag": "p", "text": "学生思想問題調査委員会の中で少数派であった河合栄治郎と蠟山政道は、委員会の答申とは別に自分たちの少数意見を『学生思想問題』として公刊する。同書に次のように言う(大意)。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 309, "tag": "p", "text": "国体思想それ自体を尊重し、その涵養が重要であることを認めるが、元来国体思想はマルキシズムと全面的に対立するものではない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 310, "tag": "p", "text": "国体思想とマルキシズム勢力の原因は全く関係ない。国体思想が涵養されないことでマルキシズムが勢力を持ったわけでもなければ、国体思想が涵養されたからといってマルキシズムの勢力が阻止されるものでもない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 311, "tag": "p", "text": "国家主義の不充分であったことはマルキシズム勢力の一因となるとともに、また国家主義が充分であることは逆にマルキシズム勢力の一因ともなる。国家主義とマルキシズムとの関係は決して単純ではないことを注意すべきである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 312, "tag": "p", "text": "このような河合・蝋山の意見が委員会の大勢と対立することは明らかである。この委員会の発展形といえる後の思想対策協議委員では、河合や蝋山のような見解はありえないものとなり、それ以降の思想全般のあり方についてもそのような見解を批判し否定する方向が唯一絶対化する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 313, "tag": "p", "text": "1932年8月文部省は国民精神文化研究所を設立する。これは学生思想問題調査委員会多数派による答申を受けたものである。高等学府の学者は大方反対者であり、国民精神文化研究所の仕事に直接参加することを拒んだという。所長は東大教授の吉田熊次に決まりかけるが本人に断られ、文部次官が所長事務取扱を兼ねる形で取りつくろう。実際には学生部長伊東延吉と事業部長紀平正美が中心となって運営する。研究部長は当初欠員であり、のち吉田熊次が就く。専任の所長には1934年5月、社会教育局長であった関屋龍吉が就く。当時この人事は左遷と評されたという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 314, "tag": "p", "text": "研究部には、歴史科、国文学科、哲学科、教育科、法政科、経済科、思想科が各科が置かれる。研究成果は出版、講演会、講習会などを通じて普及が図られる。出版物として、紀要『国民精神文化研究』をメインに、パンフレット『国民精神文化類輯』、機関誌『国民精神文化研究所々報』などを発行する。初期の『国民精神文化研究』には、河野省三の論文「我が上代の国体観念」のような、国体観念や国民精神の闡明を目的とする論文が数多く掲載される。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 315, "tag": "p", "text": "研究部以上に重要なのは事業部である。これは学校教員の思想対策と転向学生を扱う。事業部は教員研究科と研究生指導科に分かれる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 316, "tag": "p", "text": "教員研究科は師範学校教員の思想再教育を目的とするものである。これは後に中等学校教員も対象にする。研究員募集の通牒には、国体観念と国民精神に関する根本的研究を積まさせて思想上の指導訓育に尽力させる、とある。第1期研究員の修了後の所感は「特に知識的よりも信念的には一層国体観、人生観が深められた」「左右両思想への批判と国体観念、日本精神に対する明確なる信念を得た」などの感想が圧倒的に多い。研究員たちは学校教師として帰任した後、生徒の思想善導の中心となり、また地域の講演会や講習会の講師として引っ張りだこになり、国体観念を熱心に鼓吹していく。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 317, "tag": "p", "text": "研究生指導科では、思想上の理由で退学した学生生徒の指導矯正を図る。いわゆる転向の促進である。指導方針は「時代思想を批判し、日本精神を闡明ならしむるを主眼とす。まず過去の生活態度に対する反省とマルクス主義の理論的批判に努力せしめ、ついで我が国体・国民精神についての研究をなさしめ、もって日本人としての確固たる生活原理を樹立せしむるよう指導をなす」とされる。入所者に指導矯正を繰りかえし、入所者が我が国体・国民精神の真髄を体得し、日本人としての自覚を強固にして、日本思想界の刷新のため力を尽くし皇国に報いんとする念願を持つに至らしめたという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 318, "tag": "p", "text": "国民精神文化研究所の中心人物である伊東延吉は1933年6月に同所の機関誌に「思想問題と国民精神文化研究所」と題して、「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。この真我を把握し、この国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識を示し、欧米流の分析・実証・理論を排して「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」なるものが必要であると主張する。そして、かつて学生思想問題調査委員会で河合と蝋山が示した異見を否定する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 319, "tag": "p", "text": "1933年(昭和8年)は思想問題に明け暮れる。前年末の司法官赤化事件に始まり、2月の長野県教員赤化事件、滝川事件、佐野鍋山転向などが勃発し、支配層は思想対策に狂奔する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 320, "tag": "p", "text": "1933年3月、日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立を深める。この事態は、満州事変後の非常時意識を急速に高め、思想問題の切迫化と相まって思想対策ブームを創り出す。鳩山一郎文相は訓令を発し、教育教化の関係者に対し、みずから率先して学生生徒を誘導し一般民衆を鼓舞し国民精神を振作して時難の匡救に邁進すべし等と指示し、その具体策として非常時国民運動の実施を求める。文部省は外務省や陸海軍省と協議して国民教育読本『非常時と国民の覚悟』10万部を全国の学校や社会教育団体に配布する。その結語で「国民精神を振作せんが為には之が障碍たる唯物思想の撲滅を期し、国民的信念の涵養に力めなければならぬ」ことを強調する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 321, "tag": "p", "text": "思想対策協議委員が政府に設置される。きっかけは帝国議会の思想対策決議である。衆議院で提案理由の説明した山本梯二郎議員は国民教育の確信を強調し、国体観念と道義観念の注入と、危険思想の持主に大斧鉞を加える勇断を政府に要求する。斉藤実内閣は「中正堅実なる思想対策の確立を期するため」思想対策協議委員の設置を閣議決定する。その委員会は内務・司法・陸軍・海軍・文部の各省の勅任官らで構成される。陸軍省は教育振興のため国体観念宣揚などを要求する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 322, "tag": "p", "text": "思想対策協議委員は8月に思想対策方針具体案を立案し、閣議決定をみる。それは「積極的に日本精神を闡明しこれを普及徹底せしめ国民精神の作興に努むることをもってその根幹となすも、一面において不穏思想を究明して、その是正を図ること、また緊要なり」といい、具体的には国民精神文化研究所の拡充や各道府県での国民精神文化講習所の新設などを計画する。途中案では、日本精神の聖書経典とも称すべき簡明平易な国民読本を国民精神文化研究所研究部で編纂し広く普及させることが企画される。これは委員会で立ち消えるが、ここに後の『国体の本義』の萌芽があったことは注目される。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 323, "tag": "p", "text": "滝川事件では京都帝国大学教授滝川幸辰が休職処分になる。この事件は文部省の思想統制の範囲がマルクス主義の枠を越えて、自由主義にまで広がったことを意味する。文部省国民精神文化研究所の伊東延吉が滝川事件について「唯物論とかマルキシズムとか云ふことで問題にしてゐるのではない。その客観主義自体が問題で、あれを進めていくと××否認、××否認になる」(××は原文のまま)と発言したように、文部省は国体否認・国家否認と見なした思想を排除するようになる。文部省は滝川事件を済ませると、その後は一挙に国体に反するとみなした思想や学説を思想統制の対象としていく。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 324, "tag": "p", "text": "6月に日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が転向を声明する。声明書に日本の君主制(国体)について次のようにいう(大意)。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 325, "tag": "p", "text": "日本の君主制をロシアのツァーリズム(絶対君主主義)と同視する党の反君主主義が過ちであることを認める。日本の君主制は民族的統一を表現している。君主制に対する大衆の自然的感情をありのままに把握する必要がある。日本の民族的統一は下からの人民的国家権力成立の強い保障である。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 326, "tag": "p", "text": "この転向声明が左傾学生生徒に与えた影響について文部省は次にようにまとめている(大意)。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 327, "tag": "p", "text": "英雄的・先覚者的・殉教者的な気分を抱いて共産主義社会とその指導者に憧れていた学生に対し、理論面よりも感情面から衝撃を与え、その転向に影響があったと認められる。〔...〕従来かれらが盲目的に共産主義やソビエト・ロシアを賛美していたのに対し、これを打破し、かれらに反省と再考の機会を与え、またその理論的誤謬を認識させ、進んでその思想の清算を決意させ、また我が国体と国民の特殊性を考察する機会を与えた。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 328, "tag": "p", "text": "東大学生課によると、左傾学生も佐野と鍋山の転向声明に影響され、転向動機に「国体」「民族性」「特異性」が目立ちはじる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 329, "tag": "p", "text": "1934年6月文部省は学生部を昇格し思想局に改組する。思想局は創設の翌月に思想問題に関する資料展覧会を開催し、その目録で「国民全体が深く我が国体の精華と国民精神の本義とを自覚し、いやしくもこれに背反するがごとき思想は一刻一片も存在を許容せざる覚悟を有することが必要である」と訴える。さらに11月に『思想局要項』を刊行し、「根本的対策」として「今日我が国思想問題に対する根本的対策としては我が国独自の国体観念、国民精神の真の体得に努め、我が国固有文化の発揚を図り、これに基く教育学問の振作創造につとめ、外来思想の咀嚼摂取に意を用い、マルキシズム等の謬れる思想の矯正根絶を期し、以って現下の時勢に処し国民のむかう所を明らかならしむる」ことを思想局の第一の役割として自認する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 330, "tag": "p", "text": "1934年9月、吉田熊次が国民精神文化研究所の研究部長に就任する。かつて吉田は同所発足時に所長就任を要請されたときはこれを断っていた。吉田は「思いつきや神がかりの国体論」を厳しく批判したという。吉田が研究部長就任にあたり「我が国の思想界・学界は世界のあらゆる主義・主張を包容するがゆえに、これらを融合し整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べたのは、おそらく同所事業部長紀平正美に代表される「思いつきや神がかりの国体論」を牽制したものとみられる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 331, "tag": "p", "text": "地方の学校では危険思想を未然に防ぐため思想調査が行われる。極端な事例は鳥取県立倉吉高等女学校が1935年10月に発表した「思想調査案」である。これは国体観念の調査を全学年の課題とし、女子生徒に「皇室の御恩徳について最も感激したこと」「国史を学んで我が国体が最も有難いと感じたこと」「今までに読んだ書物や聞いた御話の中で国体に関し最も関心したこと」「現代の社会で我が国体の有難さを強く感じたこと」「国体に関して疑問があれば述べよ」と試問して思想性向を調査し、各学期に性向調査会を開き、その結果を性向調査簿に記入する。女子生徒が町内の書店で購入した書籍雑誌までも調査する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 332, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)の天皇機関説事件をきっかけに国体明徴運動が盛り上がりをみせる。後年(1940年)、東京地裁検事局の思想特別研究員玉沢光三郎は国体明徴運動の影響を次のように論じる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 333, "tag": "p", "text": "天皇機関説排撃に端を発した国体明徴運動は、皇国日本における絶対的生命的な根本問題を取上げた一大精神運動であった。しかも言論絶対主義の下に、あくまで合法的に進められたため、各分野における革新分子は期せずして一致してこの運動に参加し、全国的に波及して一大国民運動にまで進展し、三十年来唱導された学説を一挙に葬り去ったばかりでなく、社会の各部層に深甚な反響を及ぼし、思想・政治・教育・宗教等あらゆる部面に少なからざる影響を与えて時代を著しく推進せしめたと同時に、革新運動の一大躍進を招来し画期的成果を挙げしめた。 国体明徴運動は著しく国民精神を昂揚せしめて、日本精神の自覚内省を促したと同時に、日本文化の優秀性を認識せしめ、更には日本精神に立脚した新日本の建設、新文化の開拓等の風潮を促進せしめた。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 334, "tag": "p", "text": "田中耕太郎は戦後に「国体明徴運動こそは思想的に日本を破滅へ導いた過激国家主義の先駆であった」と断じる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 335, "tag": "p", "text": "天皇機関説事件は、1935年2月18日に貴族院で菊池武夫議員が美濃部達吉を攻撃して始まる。3月の貴族院「政教刷新に関する建議」と衆議院「国体に関する決議」に至るまでの間、政府の議会答弁は、天皇機関説には反対するが議論は学者に任せるという「敬遠主義」に終始する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 336, "tag": "p", "text": "3月には文部省が省議で、国体明徴に関して時局対策施設費10万円をもって講演会開催やパンフレツト頒布を行い、学制改革に関して国史・修身・読本の授業方法について考慮すると決定する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 337, "tag": "p", "text": "4月に内務省が美濃部の著書5冊の発禁などの行政処分を下すと、文部省は全国の教育関係者に「国体明徴に関する訓令」を発し、いやしくも国体の本義に疑惑を生じさせるような言説は厳に戒め、常に国体の精華の発揚を念頭におくべきことを指示する。この訓令は教育の現場で評判が悪かったという。教育現場では国体明徴について既に「国体観念の涵養」などの表現をもってその実施に努めていたという自負があったからである。文部省はこの程度の訓令で事を済ます気でいたが、国体明徴問題は軍部を巻き込んでヒートアップする。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 338, "tag": "p", "text": "5月に陸海軍大臣からの要求を受け、文部省は国体明徴に照らして小学校の国語や修身の教科書を修正することを表明する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 339, "tag": "p", "text": "6月松田文部大臣は地方長官会議で訓示して「ますます国体の精華を発揚すべきこと」「あまねく我が国体の万邦に比類なき所以を体得せりむるように指導せられんこと」を強調するが、機関説排撃を明言しない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 340, "tag": "p", "text": "事態は文部省の楽観的見通しを裏切って機関説排撃の国体明徴運動が勢いを増す。7月に文部省は方針を転換する。文部省は全国の学校長ら350名を対象に5日間の憲法講習会を開く。金子堅太郎「帝国憲法制定の精神」、筧克彦「帝国憲法の根本義」、西晋一郎「日本国体の本義」、牧健二「帝国憲法の歴史的基礎」、大串兎代夫「最近に於ける国家学説」である。この連続講習は、たとえば日本法制史の牧健二が「帝国憲法の成立はどうしてもこれを国史に顧みて研究しないと判らない」「日本の歴史を一貫して国家の規範として現れた光輝ある国体を顧みて理解されなければならない」としつつ、「帝国憲法における国体を明徴ならしめることは、同時に立憲政治をして真にその価値を発揮せしめる所以でもあります」と述べるなど、必ずしも機関説排撃一辺倒であったわけではない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 341, "tag": "p", "text": "つづいて文部省は全国学校の法制経済科・修身科の担任教員と学生生徒主事を合計177人招集して協議会を開く。文部大臣がその席上で「一方においては国体の本義に疑惑を生ずるがごとき言説は厳にこれを戒むるとともに、一方においては積極的に我が国体に則りたる憲法学の発展完成に向かって努力すべき」と訓示し、機関説排撃を明言するとともに日本憲法学の確立に論及する。この協議会の議題は、法制経済科や修身科の授業に国体明徴の効果を挙げる方法であり、それはおおよそ次のような結果になる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 342, "tag": "p", "text": "ここに全国の思想教育担当者を集めて機関説排撃と国体明徴の徹底について意思統一がなされたことは文部省の教学統制上の画期である。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 343, "tag": "p", "text": "文部省は各種講習会を多数開催し、国体明徴の徹底を図る。読売新聞はこれを皮肉って「国体明徴の徹底に講習会を盛んに開くそうである。いかに叩き込んだところで消化が出来なければ国民の栄養にはなるまい。文部省あたりの明徴から出直してかかる必要はないか」というコラムを載せる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 344, "tag": "p", "text": "1936年度文部省予算の当初案では各帝国大学に国体講座を設置する計画があった。読売新聞の報道によれば、各大学は国体について憲法学の一部として講義しているだけである。国体の本義を講義すべき国法学も大部分は各国の学説を研究する比較憲法学のようである。国体観念を史的に観察する法制史も各教授が特定の時代の専門研究に走りすぎている。文部省はこれらの点を遺憾とし、何としても国体の本義に関するまとまった講座を新設する必要を痛感している、という。しかし、おそらく適任者も見つからないためこの段階では国体講座の開設は見送られる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 345, "tag": "p", "text": "1936年2月26日、二二六事件が勃発する。殺害された教育総監渡辺錠太郎は、前年に天皇機関説を擁護した̚ことがあり、このことが殺害理由の一つになったという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 346, "tag": "p", "text": "1936年5月貴族院本会議において天皇機関説について質疑が出て、広田弘毅首相は「厳正にこれを取締ってまいりたいと思う」と答弁し、平生釟三郎文相も「天皇は統治権の主体であって統治権は一に天皇に存すという国体の本義に反したる学説の講義もしくは講演は、何処の学校においても絶対に禁止しておるのであります」と答弁する。同月、文部省は「学校教育刷新充実に関する経費」18万4千円の追加予算を議会に提出し認めらる。これは「小学校より大学に至る各階級の学校に使用せる教科書、教授要目、プリント等につき、いやしくも国体明徴に関係を有せるものは総べてこれを再検討し根本的にこれが改訂を行う」ものである。同時に教授要目も急ぎ改訂される。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 347, "tag": "p", "text": "1936年6月思想局長伊東延吉が専門学務局長を兼任する。翌月、伊東延吉は思想局長名で大学に通牒を発し、日本文化講義、すなわち「日本文化、国体の本義に関する特別講義」の実施を指示する。これに対し東大で反発の声が上がる。9月の評議会の場で、法学部長穂積重遠は、学生は忙しく講座実施は困難である、そんな時間があるなら自然科学の講義を切望すると述べ、また経済学部長河合栄治郎は大学自治に影響が及ぶ懸念を示すなど、反対の意向を表明したのである。東大では通牒通りの実施はできないと文部省に返答する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 348, "tag": "p", "text": "1936年9月、日本諸学振興委員会が文部省訓令により設置される。訓令第1条は「国体、日本精神の本義に基き各種の学問の内容および方法を研究・批判し我が国独自の学問、文化の創造、発展に貢献し、ひいて教育の刷新に資するため、日本諸学振興委員会を設く」であり、学会や公開講演会などを開催することとされる。委員長は文部次官が兼ね、専門学務局長兼思想局長の伊東延吉が常任委員となる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 349, "tag": "p", "text": "日本諸学振興委員会設置の背景には国民精神文化研究所が研究面において成果を出せず、学界からの評価も低いという事情があった。この点に気づいた文部省は、人文に関する学問の各科にわたって日本精神・国体観念を徹底させ、これを基として研究させる方策に転換し、既に刷新に着手している教育の分野に加えて、学問の分野についてもその刷新を盛んに唱導しはじめる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 350, "tag": "p", "text": "日本諸学振興委員会の初回は教育学会である。文部大臣の挨拶によると、学問の統制を教育学から始める意図が込められ、それも個人主義や自由主義に基づく欧米流の教育学を否定し、国体・日本精神の本義に基づくものという枠に嵌められていることが分かる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 351, "tag": "p", "text": "1936年11月教学刷新評議会が設置される。これは林陸相(次期首相)が岡田首相に対し国体明徴について特別の機関を設けてもらいたいと注文をつけたように、軍部の圧力によって設置されたものである。評議会を設置する目的は「国体観念、日本精神を根本として現下我が国の学問、教育刷新の方途を議し文政上必要なる方針と主なる事項とを決定し以てその振興を図らん」こととされる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 352, "tag": "p", "text": "1937年2月、林銑十郎内閣は発足時に「政綱に関する内閣声明」を発表し、その第1に「国体観念をいよいよ明徴にし、敬神尊皇の大義をますます闡明し、祭政一致の精神を発揚して国運進暢の源流を深からしめんことを期す」と掲げる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 353, "tag": "p", "text": "1937年3月、文部省が中等学校や師範学校の教授要目を改正する。これにより、修身は教育勅語の趣旨を奉体して国体の本義を明徴にし国民道徳を会得させることになる。また、公民科は、国体と国憲の本義、特に肇国の精神と憲法発布の由来を知らしめ、もって我が国の統治の根本観念が他国と異る所以を明らかにし、これに基づき立憲政治と地方自治の大要を会得させ、特に遵法奉公の念を涵養することになる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 354, "tag": "p", "text": "1937年3月同志社大学が「同志社教育綱領」を制定する。これは教育勅語と詔書を奉戴しキリストに拠る信念の力をもって聖旨(天皇の意思)の実践躬行(自発的実行)を期するというものである。同大学では前々年の神棚事件や前年の国体明徴論文掲載拒否事件などの内紛が起きていた。教育綱領制定後も教育綱領に反すると疑われる教授らの罷免を国体明徴派の4教授が要求する紛争が起きる。専門学務局長兼思想局長伊東延吉は同志社の理事を呼びつけ「政府当局の国体明徴の根本方針に立脚して善処すべき事」の意向を伝え、罷免要求を受けた側の教授らについては「思想清美」できるまで授業を差し止め、罷免要求を行った国体明徴派4教授の処分については絶対不賛成であると明言する。文部省は国体明徴の観点から同志社のキリスト教教育を狙い撃ちにしたといえる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 355, "tag": "p", "text": "1937年3月文部省が『国体の本義』を発行する。その4年前の思想対策協議委員の当初案で日本精神の聖書経典ともいえる国民読本を編纂する案があり、また2年前の国体明徴運動時の予算要求では、修身編・国史編・法制編の三部構成の冊子「国体本義」の編纂頒布を盛り込んだことからも分かるように、『国体の本義』編纂は文部省にとって宿願であった。前年4月文部省が編纂委員会を組織し作成に着手することになったと報じられる。その際の思想局長伊東延吉の談話に次のようにいう。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 356, "tag": "p", "text": "国民全般に国体の本義に関する理解を十分ならしめたいという意味からこの事業を思い立ったのである。それでなるべく平易に了解されるように編纂したいと思っている。国体の本義というと、とにかく古い歴史的な事ばかりのように解せられがちであるが、今度のは歴史的であるとともに社会的にも十分検討して時代認識に立って国体の本義を明かにする方針である。出来上ったら小中学校の教職員および学生生徒、学事関係者に配布するほか、一般国民にも容易く購読の出来るようにしたいと思っている。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 357, "tag": "p", "text": "編纂委員は14人、吉田熊次・紀平正美・和辻哲郎・井上孚麿・作田荘一・黒板勝美・大塚武松・久松潜一・山田孝雄・飯島忠夫・藤懸静也・宮地直一・河野省三・宇井伯寿が委嘱される。編纂調査嘱託には国民精神文化研究所から山本勝市・大串兎代夫・志田延義が指名され、文部省から7人が指名される。編纂委員は大所高所から注文をつけるだけで、実質的には編纂調査嘱託が執筆し、最終段階で思想局長伊東延吉みずから加筆修正したと推測される。編纂委員の和辻哲郎は「国体概念の根本的規定等において現代のインテリゲンチヤを納得せしめるよう論述し得るか相当重大なる問題」と注文をつける。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 358, "tag": "p", "text": "文部省は『国体の本義』について自ら解説し「本書の編纂に当つて特に意を用いた点は、現在における国体の明徴は我が国民の間に久しきにわたって浸潤してゐる欧米の思想、文化の醇化を契機とせずしては、その効果を全うし得ないという精神からして、我が国体、国家生活、国民精神文化を説くに際し、努めて欧米のそれらに触れ批判を下した点にある」とする。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 359, "tag": "p", "text": "緒言で「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義および自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義の侵入となり、最近に至ってはファッシズム等の輸入を見、遂に今日われらの当面するごとき思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至った」。「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は「真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」。「今や個人主義の行き詰りにおいてその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我らの重大なる世界史的使命がある」という。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 360, "tag": "p", "text": "刊本では冒頭で「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」。「我が国体は宏大深遠であって、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことをおそれる」とする。草稿段階では、本書以外の研究を拘束するものではない旨の記述があったが、これは最終的に削られる。また、草稿段階では多少の理性的客観的姿勢もあったが、刊本では国体の本義の闡明が世界人類のため世界史的使命を持つ等の記述に論理の飛躍が見られ、理性や客観性は消し飛んでいる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 361, "tag": "p", "text": "結語では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある」、「西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある」として偏狭な国体論を戒めているのに対し、本文では、西洋近代思想は個人主義に帰結すること、それに由来する主義は自由主義・民主主義から共産主義・無政府主義に至るまで全て日本の国体に容認されないことの説明に最大の力を注いでいる。このような不整合は起草関係者自身も認識しているところであり、不整合のわけは結論が各章から導かれるという順序ではなく、あるべき結論を先に決めてかかったからだという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 362, "tag": "p", "text": "文部省は 『国体の本義』の普及徹底を図り、30万部を全国中等学校以下の教員その他教育関係者に配布する。市販版は1年後に20万部を越え、1943年3月には190万部に達する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 363, "tag": "p", "text": "『国体の本義』の解説書のなかで最も早く刊行された三浦藤作『国体の本義精解』は短期間に版を重ね1941年1月までに120版に至る。三浦は『国体の本義』を礼賛し「最も広汎な視野の上に、最も正確な資料に基づき、最も厳密な態度を取り、我が国体をあらゆる角度から凝視し、最も普遍妥当性ある国体論を樹立しようとした努力の結晶である」と評価する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 364, "tag": "p", "text": "戦後の国立教育研究所は『国体の本義』について「中等学校教育の修身科の教科書の『聖典』になり、また、高等学校、専門学校、軍関係学校の入学試験にとっての必読書ともなって、日本の青少年の人間形成に大きな役割を果たした」と指摘する。しかし『国体の本義』は刊行後直ちに聖典になったわけではない。帝国議会では『国体の本義』に対する批判が沸き起こる。『国体の本義』にある「君民共治でもなく、三権の分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」という一節が批判されたり、『国体の本義』は国体の本義に重大な疑惑を抱かせると反対されたり、『国体の本義』は前の林内閣の産物であるから今の近衛内閣で見直す必要があると指摘されたりする。こうした批判はしばらく続いたようであるが、刊行後まもなく日中戦争が勃発し、国民精神総動員とともに国体明徴が一層強調されるようになると、批判は次第にタブー化し、『国体の本義』は聖典化する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 365, "tag": "p", "text": "『国体の本義』編纂を取り仕切った伊東延吉は、『国民の本義』の市販版を出した翌月、専門学務局長兼思想局長から文部次官に昇任する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 366, "tag": "p", "text": "1937年4月、情報委員会が「国民教化運動方策」を決定する。曰く「尊厳なる我が国体に対する観念を徹底せしめ、日本精神を昂揚し、帝国を中心とする内外の情勢を認識せしめて国民に向かうところを知らしめ、国民の志気を鼓舞振張し、生活を真摯ならしめるとともに国民一般の教養の向上を図り、もって国運の隆昌に寄与する」。この「国民教化運動方策」を実行に移す矢先の7月、日中戦争が勃発する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 367, "tag": "p", "text": "1937年7月、文部省の思想局が廃され、外局として教学局が創設される。教学局官制第1条に「教学局は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づく教学の刷新振興に関する事務を掌る」とされる。これより先、前年10月の教学刷新評議会が答申を出し、教学の刷新振興・監督に関する重要な事項を掌理させるために有力な機関を文部大臣の管理下に(すなわち文部省外局として)設置することを提唱する。局長は文部次官級の人物を充て、これを長官と称する。1937年6月の教学局官制案の理由書に「我が国現下の趨勢に鑑み我が国体の本義に基づく教学の刷新振興を図るは喫緊の要務なり。しかるに現在の思想局の機構をもってしては十分にその機能を発揮すること能わざる」とされる。枢密院の審査委員会では、こんな小規模でなくもっと大規模にしろとか、長官を親任官(大臣級)にしろとか、参与を勅任待遇に格上げしろとかいう要望が出される。これは教学刷新に対する為政者層の強い意思を表している。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 368, "tag": "p", "text": "教学局は不振に陥る。創設後1年半を過ぎたころから「無為状態」「肥立ちの悪い」「盲腸化」などというような低評価が定着するのである。局内部のある嘱託員は戦後に「教学局は本質的には、教育行政の元締めとして、国の軍国主義化の一翼を担っていたわけであるが、私達は誰も積極的にはそれに力を貸そうとは考えなかった」として「当時の文部省の右翼的雰囲気に対する若者たちのささやかな抵抗」を語っている。教学局不振の原因は「教学局が過去の思想と精神との亡霊に禍されている」といわれる。具体的には文部次官伊東延吉の影響である。当時から「伊東イデオロギーが厭というほど浸潤し、その人的機構もまた伊東の胸一つで、その子飼の人物で固められている」とか、「伊東自身が長官であったら教学局ももう少し活発に働きかけたろうが、いたずらに人ばかり多くて何の仕事も出来てない」とかと批判されている。伊東文部次官は1938年12月に更迭される。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 369, "tag": "p", "text": "文部省では国体明徴に関して専門学術研究を構想する。1936年に検討が始まり、1937年度予算に東京文理科大学・広島文理科大学・東京帝国大学・京都帝国大学への日本国体論講座の新設が盛り込まれる。当初計画では9月に開講する予定であったが、文部省が大学に押し付けるものであり各大学が自発に設置するものでなかったため、予定より大幅に遅れる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 370, "tag": "p", "text": "まず1937年11月に東京文理科大学と広島文理科大学に日本国体論講座が新設される。新設の理由は「我が国民の歴史および精神生活の史的発展における最も顕著なる事象を跡づけるとともに、また我が国の政治・経済・宗教・道徳・教育・学問・芸術その他文化諸相を通じて把握さるる特性を明にして、我が国体が我が国民生活の生々不断なる創造的発展を展示し、常に国民の具体的生活と結合し、自覚ある国民の活動に帰一統合を与うるところの国民存在の範疇たる国体を理論的に把握し学的の基礎づけ」、「一切教学および実践的生活を媒介として国体の具体的発展に産ずるの自覚および覚悟を得しめ」ようとするためとされる。東京文理科大学では「国体論」を全学科で必修科目にするが、広島文理科大学では「国体学教室」を設け、これを専門とする学生を養成することになる。この国体学教室は西晋一郎の国体論を中核として誕生したといわれる。西晋一郎は国民精神文化研究所所員を兼ね、文部省の国体明徴講座の講師の常連でもあった。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 371, "tag": "p", "text": "翌月、京都帝国大学に日本精神史講座が新設される。講座名称がもともと「日本国体学講座」であったのを「日本精神史講座」に改めたときは、設置理由として「本学(京都帝国大学)文学部においては我が国体の学術的考究に関係する講座として、つとに国史学二講座・国語学二講座あり、我が国体の由来する所を究め我が国民性の特質を明かにするに力を用うること久しといえども、しかもこれら講座において研究する所を綜合統一し国史を貫く固有の精神を歴史的に研究する方面に至っては、なお遺憾の点、少しとせず、これ本講座を設置せんとする所以なり」としていた。これは文部省に修正され、官制改正理由で「本講座は国体に基づく我が国の思想、文化ならび我が国民の精神生活の歴史的性格」を明らかにし「我が国体の世界史的意義および使命を闡明し、東西文化の融合発展に努力すべき国民の自覚および覚悟を固めしめんとするもの」と改められる。国体を強調する点に文部省らしい修辞が見られる。日本精神史講座の担当は、書類上、国史学第一講座の西田直二郎が兼任し、助教授に講師高山岩男を助教授に任命する予定とされる。西田は国民精神文化研究所の所員を兼ねていたが、京都帝国大学の日本精神史講座を休講にすることが多かったといわれる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 372, "tag": "p", "text": "そのまた翌月(1938年1月)、東京帝国大学に日本思想史講座が新設されるが、設置にあたって事態が紛糾する。前年11月、日本国体学講座を文学部に設置することが文部省から一方的に通知される。文学部では不満が強い中で評議会で国史講座を第1候補、日本思想史講座を第2候補と決める。しかし総長が文相らと会談して日本思想史講座に決めてしまったことから、評議会で不満が噴出する。文部省による官制改正理由は京都帝国大学のときと同文である。日本思想史講座の教授には国史学第二講座の平泉澄が就く。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 373, "tag": "p", "text": "1937年12月、東京帝国大学経済学部教授矢内原忠雄が辞職に追い込まれる。これより先、矢内原が『中央公論』9月号に掲載した「国家の理想」が削除処分になり、11月に経済学部長土方成美が矢内原の進退を問題とするが、東大総長が木戸幸一文相と協議して、一旦は矢内原本人の陳謝を条件に事を収めることになる。ところが、文部次官伊東延吉ら文部省幹部がこれに異議を唱え、陳謝では到底収まらない、中央公論以外にも国体精神と全く相容れない文言が数か所ある、議会で質問が出た場合に答弁のしようがない、大学としても事態の紛糾は免れないだろう、矢内原は辞職するしかない、などと言い立てて矢内原を辞職に追い込んだのである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 374, "tag": "p", "text": "文部省の外局である教学局は『国体の本義解説叢書』全13冊を1937年12月から1943年3月にかけて刊行する。この叢書は文部省『国体の本義』の思想を拡充するものであり、例えば紀平正美『我が国体における和』(1938年3月刊)には、日中戦争全面化を踏まえて、次のように説く。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 375, "tag": "p", "text": "天に代つて不義を討つ、忠勇無双の我が兵が、歓呼の声に送られ、すでに父母の国を出で立った時に、もはや私(わたくし)はない。私の父母もなければ、私の家も、私の業務もない。ただ公(おおやけ)の祖先があり、父母があり、家があり、郷里があり、国があり、最後に天皇が存します。かくて心の内は如何に豊かに、いかににぎやかであろうかよ。〔...〕我が神国日本の将卒のみには、天に代っての将卒でなく、直接に自らが神兵である。かかる大和合(だいわごう)の力こそ、常に十数倍の敵に対してよくその守りを失わず、彼の隙に乗じては、攻撃に転じ、更に彼を制圧し、進んで追撃に移る。追撃又追撃、敵に少しの余裕をも与えない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 376, "tag": "p", "text": "1938年7月には国民精神文化研究所の思想国防研究部が小冊子『国体の本義に基く政策原理の研究』をまとめる。これは「大御心の奉戴と臣民の精神の徹底とからする国体の把握は、直ちに我が国の具体的な諸問題についての原理的な見解と対策とを与える」という観点から「大学刷新問題」などを論じる。大学を「かつては多くの共産主義者を簇出せしめ、非常時下の現在なお自由主義、人民戦線思想培養の最大の温床」として敵視し、次のような大学改造を急務とする。それは、国体と学問との本質的関係を究明し、反国体的教授を即時に罷免し、諸教授に対し自己の国体観を確立するとともに国体の原理に基づく専門諸学体系を樹立することを要求する、というものである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 377, "tag": "p", "text": "1938年8月国民精神文化研究所が人員を5名増やす。前年11月に国体明徴運動への対応として法政科の拡張を求めたが内閣法制局に反対されて停滞していたものを、日中戦争の進展をふまえて思想国防を理由の前面に出して内閣法制局の了解を取り付けたのである。官制改正案の理由書に「支那事変に際し思想国防の緊要性に鑑み、憲法学その他法学・政治学等にわたり我が国体を本として研究を進め思想国防に資せんがため」とされ、法制局も「今回の増員は差し当たり今次事変に因って発生したる思想国防の事務のため特にこれを認める」とする。国民精神文化研究所は調子に乗って思想国防に邁進する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 378, "tag": "p", "text": "1938年11月荒木貞夫文相は天皇に上奏して、「長期にわたる戦争情態において最も恐るべきは思想の動揺」であるから、「共産主義等の誤れる思想はこれを徹底的に是正し、万邦無比なる皇国の道より生まれ出づる大中至正の思想に徹底」し、「国体を基とする世界的大国民の錬成」を教育の根本とすると説明する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 379, "tag": "p", "text": "文部省は一部の新興宗教をも国体観念から批判する。1938年12月に教学局企画課が作成した文書「思想問題より見たる邪教」は、「邪教が国民の国体観念を紊し(みだし)、社会風教上に流す種々の害毒は著しく、国民精神を総動員すべき非常時にあたり我が教学の本旨に鑑みて、厳しき批判を要する」として、大本教・ひとのみち教団・天理本道などの教団を列挙する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 380, "tag": "p", "text": "1939年の初め、文部省が東京帝国大学経済学部教授河合栄治郎の著書をチェックした形跡がある。教学局の嘱託員が、河合の著書『経済学原論』について文部省『国体の本義』に背く思想表現箇所に全て赤線を引くように指示されたのである。はじめこの指示を受けた嘱託員は、この仕事に矛盾を感じ、次第に良心の呵責を受けるようになり、上司に申し出てこの仕事を変えてもらったという。同年1月に河合に対する文官高等分限委員会が開かれる。委員長は平沼騏一郎首相である。事前に委員へ送付された休職理由書には「国家思想を否認し我が国体観念に背反し、いたずらに憲法の改正を私議し国民道徳を破壊せしめんとするがごとき意見を発表し、さらにこれを教授する」とされていた。委員会では河合について「一日も大学に置くことは危険であるから直ちに休職を希望いたします」という意見に全会一致して休職が決定する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 381, "tag": "p", "text": "1939年5月各道府県に思想対策研究会を設置することが教学局長官名で通牒される。その趣旨は「今次事変が特に思想戦たる意義を有する点より考え、単に共産主義その他反国家思想を防遏するに止らず、更に積極的に国民各層に国体・日本精神の透徹具現を図り旺盛なる精神力を培養し、もって国民思想の動揺を未然に防止し戦時ならびに戦後の事態に処す」とされる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 382, "tag": "p", "text": "1939年4月には学生を大陸に送って勤労させる「興亜青年勤労報国隊」の具体案が決定される。文部省が同年7月に『週報』に載せた「興亜青年勤労報国隊に就いて」は「興亜精神は国体観念と相互に反射し映発して、日本教学はこの新たなる背景と脚光の中に其の具体的な映像を鮮明に次代に浮き上らすべきを信ずる」と述べる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 383, "tag": "p", "text": "1940年3月国民精神文化研究所が人員を8名増やす。増員分は「国体に基づく東亜新秩序原理の研究」「日本世界史の編纂」「思想家、評論家、学者の思想調査資料の作製」「国体日本精神より見たる支那事変の世界史的意義の編纂」に当てる計画である。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 384, "tag": "p", "text": "1940年7月、第2次近衛内閣は成立にあたって「基本国策要綱」を閣議決定する。その「国内態勢の刷新」の第1に「国体の本義に透徹する教学の刷新とあいまち、自我功利の思想を廃し、国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す」とされる。この趣旨には「従来の法文科系中心の自由主義・個人主義教育を革新し、国体に基づく人格教育、実社会に役立つ生きた教育を施すこと」という海軍省の要求が含まれている。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 385, "tag": "p", "text": "1940年9月、政府の教育審議会が「高等教育ニ関スル件」を答申する。大学については「常に皇国の道に基きて国家思想の涵養、人格の陶冶に力むる」ことを目的とし、その達成のために「国体の本義を体して真摯なる学風を振作し学術を通して皇運を無窮に扶翼し奉るの信念を鞏固ならしむること」等を重視するとされる。同年12月、文部省はこの答申を受けて、大学教授は国体の本義に則り教学一体の精神に徹し学生を薫化啓導し指導的人材を育成すべき旨を訓令する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 386, "tag": "p", "text": "1941年7月、教学局が『臣民の道』を刊行する。同書については、『国体の本義』の実践的奉体を意図した姉妹編という評価が通説的である。『臣民の道』は解説書を含めると『国体の本義』を上回る約250万部が刊行されており、一般国民に広く普及される。当初は前年の第2次近衛内閣「基本国策要領」に則り、「真に国体に徹したる翼賛運動と国民道徳」の「実践的指導書」として自我功利の思想を排し国家奉仕を第一義とする国体具現の道徳解説書を刊行して、これを教職員その他の指導階級に必読せしめたく」という企図であり、実践書でなく指導書という位置づけであり、対象読者は一般国民でなく指導層であり、また『国体の本義』の姉妹編という意識もなかった。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 387, "tag": "p", "text": "編纂途中で対象読者を指導層から一般国民に広げることとなり、刊行計画の発表時には「”国体の本義”姉妹篇に 平易な“臣民の道”」という見出しで報じられ、当局者は談話で、先の『国体の本義』は一般国民の読み物として難しいとの評があったが今度は誰でもわかるように編纂する、と語る。教学局版の刊行後まもなく近衛文麿首相の題字により『註解 臣民の道』が刊行される。解題で『臣民の道』の内容を次のように要約する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 388, "tag": "p", "text": "第一章において世界新秩序の建設という今日の課題をとりあげ、世界史の転換をとき、その中から皇国日本に立脚する新秩序の建設をといて皇国の重大なる使命をとき、国防国家体制確立の急務をといている。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 389, "tag": "p", "text": "第二章はこういう皇国の当面している位置の上にたって、皇国の国体と臣民の道とを解明している。「万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給う」国体と、「臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る」臣民の道と明らかにしているのである。そうして我国においては忠あっての孝であり、忠を大本とする所に臣民の道があるのである。次に国体にもとづき臣民の道を履践した祖先の遺風をば皇国の歴史上の事実から明らかにしている。皇国の歴史は肇国の精神にもとづく国体の顕現の歴史であるとともに臣民の道の履践の歴史でもあるのである。そうして国体をはなれて臣民の道はなく、天皇に絶対随順し奉ることをはなれて日本人の道はない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 390, "tag": "p", "text": "第三章はかくの如き臣民の道の実践をば、現実の国民の課題として説いて居る。〔以下略〕", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 391, "tag": "p", "text": "『臣民の道』刊行直後に教学局長官は講話で「まさにこの臣民の道というものこそはこの国体の本当の意味合い、精神というものを我々の生活に具現することであり、我々の生活の中にこそ我が国体の姿というものを生かして行かねばならぬ。生かすではない、それを践み行なう事こそ我々皇国臣民としての道」であると述べる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 392, "tag": "p", "text": "『臣民の道』は4年前の『国体の本義』の姉妹篇と位置づけられるものの、その間の時局の進展により両書の性格は大きく異なる。第1に思想統一の程度が異なる。『国体の本義』では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、もって新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」と説いていたが、『臣民の道』では欧米思想を全否定し、「我が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除〔切って捨てること〕」すると断定する。第2に忠と孝との間の関係が変化する。『国体の本義』では忠も孝も同等に扱い、「忠孝一本は我が国体の精華」であり「われら国民はこの宏大にして無窮なる国体の体現のために、いよいよ忠に、いよいよ孝に励まなければならぬ」と説いてたが、これに対し『臣民の道』は忠を孝より優先し、「そもそも我が国においては忠あっての孝であり、忠が大本である」と断言する。こうした違いは編纂をとりまく状況の違いに由来する。『国体の本義』が天皇機関説事件を契機に国体明徴のために編纂されたのに対し、『臣民の道』は日中戦争が長期化する中で新たに大東亜共栄圏の構想のために編纂されたからである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 393, "tag": "p", "text": "日本が米英に宣戦した翌月の1942年1月、文部大臣橋田邦彦は「任に教育に在る者は聖旨を奉体して国体の本義、今次征戦の真義に徹し、一路教育報国に邁進すべき」であると述べ、教学局長官藤野恵は「大東亜戦争を戦い抜かんとする今日こそ、我が国民は愈々国体の本義に基づく教学の刷新振興を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本的諸学の樹立に一段の力を致し、新東亜文化の建設者としての資質の涵養発揮に全きを期せねばならない」と論じる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 394, "tag": "p", "text": "1942年1月国民錬成所官制を公布する。これは「国民をして自我功利の思想を排し、国体の本義に基づき挺身義勇公に奉ずるの精神に徹し、実践もって皇運扶翼の重責を全うせしむべき」ためのものであり、官制第一条に「国民錬成所は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づき実践躬行もって先達たるべき国民をしてその錬成を為さしむる所とす」とされる。「錬成科目」には「国体ノ本義」という講義があり、それは「惟神の大道に出発し皇国臣民の皇運扶翼の道を明らかにし、この本義に基づく教学の樹立を図るもの」とされる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 395, "tag": "p", "text": "戦時下では思想対策の徹底が求めらる。1942年3月、文部大臣橋田邦彦は地方長官会議で次のように訓示する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 396, "tag": "p", "text": "国体の本義に徹し肇国の精神を発揚することは我が国民生活の根柢であります。したがってまた我が国民思想はこれに基いて確乎不動となり、思想国防の鉄壁陣を完成することは、敵国が企図するであろうと考えられる思想戦に備うるためにも、また大東亜の新秩序建設のための征戦完遂に向っても、その要、いよいよ切実であります。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 397, "tag": "p", "text": "1942年3月日本諸学振興委員会が機関誌『日本諸学』を創刊する。教学局長官名義の「発刊の辞」に次のようにいう。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 398, "tag": "p", "text": "大東亜戦争の目的完遂のためには、ますます国体の本義に基づく教学の刷新を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本諸学の創造発展に更に一段の力を尽さねばならぬのである。しかして世界の耳目を聳動せしめつつある皇軍の赫々たる大戦果が、決して一朝一夕の努力によるものではなく、一に御稜威の下、皇国教育の本義に徹し、日本精神に基づく日頃の実戦さながらの不断の猛訓練と学問の研鑽とが一体となつて発現したものに他ならぬのであり、したがって国体、日本精神の本義に基づく教学の刷新振興が今次征戦の遂行上絶対の要件たるのみならず、更にまた叙上の新東亜文化建設の先達としての資質涵養上欠くべからざることといわねばならぬ。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 399, "tag": "p", "text": "5月大東亜建設審議会が答申案を可決する。答申の「皇国民の教育錬成方策」には、国体の本義に則り教育勅語を奉体し皇国民としての自覚に徹し、肇国の大精神に基づく大東亜建設の道義的使命を体得させ、大東亜における指導的国民としての資質を錬成し、これを皇国民教育錬成の根本義とする、という。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 400, "tag": "p", "text": "教学局では言論、出版、集会、結社等臨時取締法に関連して1942年5月の『思想情報』誌に、講演や著述に注意を要する点を列挙し、その冒頭に「国体、思想関係」を掲げて次のものについて注意を喚起する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 401, "tag": "p", "text": "6月藤野教学局長官は次のように訓示する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 402, "tag": "p", "text": "今日、皇軍の輝しき戦果に応え大東亜建設の歩みに即応して、我が国教学の本来の姿が漸次具現せられて参ったのでありまするが、にもかかわらず、なお一面私どもの楽観を許さざる事柄も皆無ではないのでありまして、国体の本義に相反する思想、我が国教学の本旨にもとるような風潮も巷間決して完全には払拭せられておらぬのであります。したがってこの間隙に乗じて、特に青年学生層を中心として敵国の思想謀略もまた蠢動せんとする気配がなくはないのであります。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 403, "tag": "p", "text": "ここで「皇軍の輝しき戦果」というが、この月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い守勢に転じる。 1943年1月教学局が『国史概説』上巻を発行する。そのおよそ2年前、対米英開戦前の1941年4月に教学局内に臨時国史概説編纂部が設置され、その調査嘱託には「斯界の権威者」である辻善之助・和辻哲郎・西田直二郎・紀平正美らが名を連ねる。編纂方針は「肇国の由来を明らかにし国体の本義を闡明し国史を一貫する国民精神の真髄を把握せしむること」とされる。刊行書の緒論は「我が国体」という題であり、次の文言から始まる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 404, "tag": "p", "text": "大日本帝国は、万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が万古不易の国体である。しかしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ即ち我が国体である。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 405, "tag": "p", "text": "1943年7月文部省は次官通牒により各道府県の国民精神文化講習所を教学錬成所に改称し、その事業の拡充を指示する。これは国民錬成所を軌道に乗せた文部省が、学制改革に伴い、「我が国教学の本旨に基づき教職にある者を錬成し、国体・日本精神の本義に徹せしむるとともに日本教学の刷新振興に挺身するの気概と実践力とを涵養せしめ、もって師弟同行学行一体の実を挙げしむる」ための措置である。教学錬成所には新たに皇国史観錬成会を設け「中等学校教員をして国体・日本精神の本義を体し、皇国の史観に徹せしめ、もって中等教育の刷新に資せんとする目的」を掲げる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 406, "tag": "p", "text": "1943年、日本軍はガダルカナル島やアッツ・キスカ両島から転進(撤退)し、また同年9月には同盟国イタリアが単独降伏する。瀬戸際に立たされた日本は絶対国防圏の設定を発令する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 407, "tag": "p", "text": "同年11月、文部省は国民錬成所と国民精神文化研究所を統合し教学錬成所とする。教学錬成所の所長には国民精神文化研究所長伊東延吉が就くが、実質的には国民錬成所が国民精神文化研究所を吸収合併する。国民精神文化研究所は対米英開戦後プレゼンスを低下させてきており、教学錬成所に吸収されるのは既定路線であった。国民精神文化研究所は消滅するにあたって創立以来の十余年を回顧して「個人主義・自由主義を克服し、国体の宣揚、日本精神の闡明のために少なからぬ貢献」をしたことを自負し、機関として消滅することにも満足を示している。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 408, "tag": "p", "text": "同年12月、政府は「戦時国民思想確立ニ関スル基本方策要綱」を閣議決定する。その「方針」の冒頭に「万邦無比の皇国国体の本義に徹し政教一に聖旨を奉体し深く学問思想文化の根源を匡し愈々忠誠奉公の精神を昂揚振起せしむ」といい、また「要領」の冒頭に「国体の本義の透徹と教学の刷新振興」として次のことを掲げる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 409, "tag": "p", "text": "基本方策要綱と同時に閣議決定した文教措置要綱では「国体・日本精神に基く学問、思想の創造発展を図り教学の全面に之を浸透せしめ戦意の昂揚、戦力増強の根本に培うため、教育内容の検討刷新、訓育体制の強化、日本諸学振興委員会の拡充等につき必要なる措置を講ず」とされる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 410, "tag": "p", "text": "1944年6月、日本はマリアナ沖海戦で壊滅的に敗北し、マリアナ諸島を失い、絶対国防圏を破られる。戦争指導に当たってきた東条内閣は総辞職する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 411, "tag": "p", "text": "教学錬成所は1945年2月までに各種学校の教員等を対象に30回前後の錬成を実施したと推測される。そのうち例えば高等教員の錬成は「国体の本義に基づき、私心を去り、決戦下一死殉国の気魂に培い、行勤労即教育の精神に徹し、もって皇国教学の本旨を体現せしめん」とすることを目的とする。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 412, "tag": "p", "text": "沖縄失陥後の1945年6月、政府は文部省請議「戦局に対処する本庁行政の簡素強化に関する件」を閣議決定する。これにより文部省の大部分は「国体護持の信念透徹」などの思想指導に集中することになる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 413, "tag": "p", "text": "国体論は日本の敗戦の際にも威力を示す。日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、国体の護持をめぐって時間をかけ、それを唯一の条件とすることを自分たちで了解し、ようやく降伏する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 414, "tag": "p", "text": "1945年8月、広島・長崎への原爆投下を経てソ連が参戦し、10日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告すると同盟通信に短波の電信で声明させる。その際、国体維持を条件につける。これに対し12日に連合国の回答が届く。その中に「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」とあり、軍部はこれを共和制に導くものとして強硬に反対する。昭和天皇は連合国の回答を容認して、木戸内大臣に次のように語る。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 415, "tag": "p", "text": "たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらっても、少しも差しつかえない。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 416, "tag": "p", "text": "また連合国回答に「天皇および日本政府の国家統治の大権は連合国最高司令官の制限下(subject to)に置かれる」とあったことで、軍部が subject to の文言を国体否定とみなして回答文を拒絶する姿勢を示す。このため天皇は14日、改めて御前会議を開き、終戦を決める。その席上、国体護持について次のように説明する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 417, "tag": "p", "text": "国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があることは一応もっともだか、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 418, "tag": "p", "text": "1945年8月15日玉音放送。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 419, "tag": "p", "text": "朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。〔...〕宜しく挙国一家子孫相伝え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓て国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 420, "tag": "p", "text": "文部省は終戦後しばらく教育上「承詔必謹」「国体護持」の皇道思想を中核とし続ける。その象徴は玉音放送の2日後に公布された国史編修院官制である。国史編修院は『国史概説』に続いて国史を編修する政府組織であり、その官制は終戦の4か月前に閣議に請議されたまま保留されていたが、請議書の「現下の世局に鑑み、歴代天皇の皇謨を仰ぎ奉り、国体の本義に徹し、君臣の名分を正し、臣民忠誠の遺風を顕彰して現代施策の鑑となし、もって国運隆昌の基礎に培う」という目的が、終戦によって逆に強まったと判断されて終戦直後の官制公布をみたのである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 421, "tag": "p", "text": "9月、文部省は「新日本建設ノ教育方針」を立案し、「ますます国体の護持に努むる」ことを強調する。その一方で「軍国的思想および施策を払拭」する方針を立てる。そして同月末ごろ作成された「当面の各省緊急施策要綱」は「従来の過激なる国家主義、軍国主義」を排除すべしとし、戦前に文部省が発行した国体関連書の処置について、1941年刊『臣民の道』は絶版するが、1937年刊『国体の本義』は改訂ですまされると判断する。文部省は戦時下の教学錬成から過激国家主義や軍国主義を排除さえすれば、今後も国体の本義を唱えることは許されると考えていたのである。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 422, "tag": "p", "text": "10月の文部省の省議で高松宮の発言が紹介される。それは、「国体の護持は国民の心にあり」、教育が国体を護持する。デモクラシーには米国式や英国式やソビエト式があるから日本式もあってよい、という趣旨の発言だったという。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 423, "tag": "p", "text": "10月4日GHQが人権指令を発する。その翌日、米国国務省は「日本の戦後教育政策」を公表して日本政府を糾弾して曰く、日本政府が思想の自由を制限する治安維持法や文部省教学局思想課を廃止せず、国体の擁護ということに戦闘的国家主義哲学の存続が含まれると考えているようでは、神話の狂信的国家主義的解釈や軍国主義の礼賛を排除することはできないだろう、と。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 424, "tag": "p", "text": "文部省は、10月16日の新教育方針中央講習会で文部次官が「デモクラシー、すなわち、いわゆる民主主義は我が国民が、いわば大家族制の宗家に当らせらるる皇室への奉本反始的赤誠とは、毫も矛盾撞着するものではありません。」「デモクラシーは民意暢達の政治というように意訳した方がよい」と述べるなど、民主主義を民意の暢達の意味に限定し、国体護持のための教育理念の維持に躍起になる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 425, "tag": "p", "text": "10月、外務省が「国体および共産主義に関する米国の方針」と題する文書を作成する。その冒頭で、政府首脳や政府当局、なかでも内務省・司法省・文部省などの重大関心は、いわゆる国体護持および共産主義に関する米国の方針に寄せられていると述べ、また、米国の初期対日方針を分析し、それは「日本における現在の神話的、封建的、非合理的迷夢の打破および啓蒙により、民主主義および合理主義の根底たる個人の人格の意識を日本国民に植付けることをもって、日本民主主義化の第一歩となす」ものと判断する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 426, "tag": "p", "text": "文部省の教育理念を国体護持から民主主義へ転換し始めるのは、10月から12月にかけて発せられたGHQの一連の教育指令からである。まず10月22日の「日本教育制度に対する管理政策」は「軍国主義的および極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること」を指令し、そのイデオロギーの鼓吹者を罷免し、それに関係する教科書の記述を削除することを指示する。文部省の対応が緩慢であったため、GHQは重ねて同月30日に「教員および教育関係官ノ調査・除外・認可に関する件」を指令する。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 427, "tag": "p", "text": "文部省はGHQの指令をサボタージュする。その背後には国体護持教育への固執があった。たとえば文部省は11月開会の帝国議会で「国体護持と民主主義との関係如何」と問われた場合に備え、次のような答弁案を用意していた。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 428, "tag": "p", "text": "民主主義的政治の内容をなしております自由の尊重、人権の擁護、平和の愛好、人民の福祉というようなことは、従来我が皇室におかせられまして不断に御軫念あそばされてまいりましたことであり、この意味におきまして民主主義の理想は我が国体と決して矛盾することはないと考えます。〔...〕なお公民教育の振興により道徳と秩序を尊重する精神を徹底せしめ、また歪曲されない真実に基づいた国史の教育により、さらに従来のような偏狭でない健全な国家意識を涵養することにより国体護持の目的を達することが出来るのではないかと存じます。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 429, "tag": "p", "text": "12月15日にGHQは神道指令を発し、『国体の本義』や『臣民の道』やその類書を禁止する。文部省は既に『臣民の道』を絶版廃棄を表明していたが、『国体の本義』についてはその改訂に言及しながらも何も措置を取っていなかったことが、GHQによる禁止処分を招いたのである。 また、神道指令では「大東亜戦争」「八紘一宇」という用語の使用も禁止されたが、草案段階ではさらに「国体」の語も禁止される予定であった。すなわち", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 430, "tag": "p", "text": "公文書において「大東亜戦争」「八紘一宇」「国体」なる用語、乃至その他の用語にして日本語としてその意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し得ざるものは、これを使用することを禁止する。しかして、かかる用語の即刻停止を命ずる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 431, "tag": "p", "text": "という文案であった。総司令部のバンズ中尉は発表直前の草案を内密に岸本英夫に見せて意見を求めた。教育勅語は国体の語を用いているので、国体の語が禁止されれば教育勅語が即座に廃止されることになる。そうなると教育界が大混乱し、国民にも大きなショックを与えると岸本は懸念した。文部省の幹部は国民を過度に刺激せずに教育勅語を自然消滅させる方策を模索していたところであったので、総司令部の指令によって教育勅語が即座に廃止される事態は絶対に避けるべきであり、そのためには国体の語の禁止してはならないと岸本は考え、バンズにそう伝え、神道指令から国体の語の禁止を取り除くことに成功した。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 432, "tag": "p", "text": "1946年1月1日の詔書、いわゆる人間宣言に関連して文部省は訓令を発し、この詔書を「今後わが国教育のよってもって則る大本たるべき」とし、「このごとき聖旨を奉戴して、これが徹底を期するは教育にあり」などと言って、国体護持教育に固執する。文部省は教育勅語を擁護しており、たとえば学校教育局長田中耕太郎は訓示で「年頭の詔書〔人間宣言〕も決して教育勅語の権威を否定するものではない」、「従来教育勅語が一般に無視されていたからこそ、今日の無秩序・混乱が生じた」と論じている。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 433, "tag": "p", "text": "1946年5月21日、文部省が『新教育指針』を刊行する。これは歴史教科書の使用禁止にともなう暫定的措置として教師用参考書を企図してつくられた。GHQからはデモクラシーと連合軍進駐の意義目的を明確にすることを指示された。その最終章では「軍国主義や極端な国家主義はあとかたもなくぬぐい去られ、人間性・人格・個性にふくまれるほんとうの力が、科学的な確かさと哲学的な広さと宗教的な深さとをもってあまねく行われて、平和的文化国家が建設せられ、世界人類は永遠の平和と幸福とを楽しむであろう」と述べており、宗教性を帯びた理念として戦後民主主義の確立と戦前の教学錬成体制の解体とが謳われる。もっとも教学錬成体制が無条件で解体されるわけではない。国体明徴が「軍国主義者および極端な国家主義者」に誤って導かれたことが問題とされており、国体明徴そのものについては次のように肯定的である。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 434, "tag": "p", "text": "教育においても「国体明徴」とか、「教学刷新」とか、「皇国の道に則る国民錬成」とかがさかんに説かれて、制度も教科書も方法もあらためられ、また教学局や国民精神文化研究所というような機関がつくられたり、「国体の本義」、「臣民の道」、「国史概説」などの書物が出されたりした。これらは、日本国民がいつまでも西洋のまねをすることをやめて、自主的態度をもって、国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所を生かして、特色ある文化を発展させ、世界人類のためにつくそうとするかぎり、正しい運動であった。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 435, "tag": "p", "text": "これに関連して「極端な国家主義」と「正しい愛国心」を区別については、「軍国主義者および極端な国家主義者」さえ排除すれば、「正しい愛国心」すなわち「国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所」を生かすことは「正しい運動」とされる。ここには文部省自身が「軍国主義者および極端な国家主義者」であったことの自覚や自責を窺えないといわれる。", "title": "昭和戦前期の国体論" }, { "paragraph_id": 436, "tag": "p", "text": "戦後は民主主義の呼び声とともに国体の神話性が公然と議論される。これにより国体という語は過去の言葉になる。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 437, "tag": "p", "text": "帝国議会の憲法改正審議において、国体について吉田茂首相は次のように答弁する。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 438, "tag": "p", "text": "御誓文の精神、それが日本国の国体であります。〔...〕日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。〔...〕日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 439, "tag": "p", "text": "また、金森徳次郎憲法担当国務大臣の次のように答弁する。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 440, "tag": "p", "text": "日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。〔...〕稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 441, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーにおいて、日本共産党員の松島松太郎は「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードを掲げて不敬罪に問われている(プラカード事件)。尤も、不敬罪適用は不適法であるとされ名誉毀損罪で起訴、日本国憲法公布による大赦で免訴された。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 442, "tag": "p", "text": "国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」と答弁する。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 443, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)5月15日、内閣総理大臣森喜朗が「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、その為に我々神政連議員が頑張って来た」と発言し、問題になる。いわゆる神の国発言である。", "title": "戦後の国体を巡る議論" }, { "paragraph_id": 444, "tag": "p", "text": "2004年に、日本共産党は綱領を改定した。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。", "title": "戦後の国体を巡る議論" } ]
国体(こくたい、國體)とは、国家の状態、国柄のこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、国体明徴運動後の1938年当時においては、万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという。 国体論は、幕末に水戸学によって打ち立てられ、明治憲法と教育勅語により定式化された。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された。
{{Otheruseslist|日本における政治思想用語|「国体」と略称される日本のスポーツ大会|国民体育大会|世界各国の国家体制一般|政体}} {{混同|link1=国会対策委員会|国対}} '''国体'''(こくたい、{{旧字体|'''國體'''}})とは、国家の状態、国柄のこと。または、国の[[あり方]]、国家の根本体制のこと。あるいは主権の所在によって区別される国家の形態のこと<ref>小学館「デジタル大辞泉」『国体』[https://dictionary.goo.ne.jp/jn/77156/meaning/m0u/%E5%9B%BD%E4%BD%93/]</ref>。国体という語は、必ずしも一定の意味を持たないが、[[国体明徴声明|国体明徴運動]]後の1938年当時においては、[[万世一系]]の[[天皇]]が[[大日本帝国|日本]]に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、[[臣民]]も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味したという<ref name=":0">{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/10 9頁]。</ref>。 '''国体論'''は、[[幕末]]に[[水戸学]]によって打ち立てられ<ref name=":43" />、[[大日本帝国憲法|明治憲法]]と[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]により定式化された<ref name=":44" />。国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された<ref name=":43" />。<!--この段落は出典元の文意に従っています。内容が気に入らないのであれば文意を曲げる前にノートで議論してください。--> == 概要 == もともと国体という語は国家の形態や体面を意味していたが、[[幕末]]の対外危機をきっかけに、[[水戸学]]が日本独自の国柄という意味で国体観念を打ち立てた<ref name=":43">{{harvtxt|鹿野|1999}} 118頁。</ref>。水戸学の構想は日本全国に広まり、国体論が一つの思想として独立した。国体論は、[[明治維新]]の後の過渡期を経て、[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]と[[教育勅語]]により定式化された<ref name=":44">{{harvtxt|鹿野|1999}} 121頁。</ref>。 == 国体の語義 == 「国体」は旧字体で「國體」と書き、「[[wikt:國|國]]」という字は一[[政体]]の下に属する[[土地]]・[[人民]]などの意、「[[wikt:體|體]]」という字は、からだ、てあし、もちまえ、すがた、かたち、かた、きまり、などの意である<ref>KO字源[https://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/zigen/]</ref>。 国体という語は、古くから漢籍に見え、『[[管子]]』君子篇において国家を組織する骨子という意味で用いられ、『[[春秋穀梁伝]]』において国を支える器という意味で用いられたが、これらは本項でいう国体とは関係がない<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/20 1頁]。</ref>。その後、[[漢書]]に国体の語が見え、これは国の性情、または国の体面という意味であり、本項でいう国体にやや近いといえる。このほか[[後漢書]]、[[晋書]]、[[旧唐書]]、[[宋史]]、[[続資治通鑑|続資治通鑑綱目]]などに表れる用例も似たような意味である<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/8 4頁]。</ref>。 日本において国体という語が多用されるのは[[近世]]になってからであるが、古典籍においてもその語は散見される。ただしその用例と意味は[[日本近代史|近代]]のものと異なる<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/6 1頁]。</ref>。国体の語が日本の古典に現れるのは、[[延喜式]]所載の[[出雲国造神賀詞]]に「出雲臣等が遠祖天穂比命を'''国体'''見に遣時に」とあるのが初見であるといわれる<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/6 1-2頁]。かぎ括弧内、万葉仮名を平仮名にかえてある。</ref>。国体は古訓でこれをクニカタと訓じた。また日本書紀の斉明天皇紀に「国体勢」という語句が見え、これをクニノアリカタと訓じた。諸書を対照すると、国体も国体勢も元は地形の意味であったのが転じて国状の意味に用いられたようである<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/7 2頁]。</ref>。次いで『[[大鏡異本陰書]]』や『[[古事談]]』に国体の語が見える。これは万葉集にある国柄の語と同義であって、ともにクニガラと訓じ、国風や国姿などの意味に通じる<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/7 2-3頁]。</ref>。 日本の近世には国体の語がしばしば文書に表れる。そのうち世に知られたもので最古の例は、元禄2年([[1689年|1689]])序、正徳6年([[1717年|1717]])刊の栗山潜鋒『保建大記』である<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/8 4-5頁]。刊行年は同[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/16 21頁]による。</ref>。この間の元禄11年([[1698年|1698]])の[[森尚謙]]『儼塾集』に'''邦体'''という語が見える。その後、国体の意義を論じたものに、[[谷秦山]]、[[新井白石]]、[[荻生徂徠]]、[[松宮観山]]、[[高山健貞]]、[[賀茂真淵]]、[[山岡浚明]]、[[林子平]]、[[中井竹山]]、[[村田春海]]、[[平山行蔵]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]、[[会沢正志斎]]、[[青山延于]]、[[佐藤信淵]]、[[鶴峯戊申]]、[[江川英龍]]、[[大槻磐渓]]、[[安積艮斎]]、[[藤田東湖]]などがいる<ref name=":1">{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/8 5頁]。</ref>。 [[1853年]](嘉永6年)黒船来航以降、国体という語は内治外交上重要なものとして用いられ、詔勅・宣命・その他公文書にも多く見られるようになる<ref name=":1" />。たとえば黒船来航の年の7月、前[[水戸藩]]主[[徳川斉昭]]が幕府に建言した意見十箇条には、夷賊を退治しないばかりか万が一にもその要求を聞き入れるようでは「御'''国体'''に相済み申しまじく」(国体にあいすみません)と記し、同月[[伊達慶邦]]が幕府に提出した書に「本朝は万国に卓絶、神代の昔より皇統連綿」、「和漢古今、稀なる御治盛の御'''国体'''に御座候」とある。同年8月、[[孝明天皇]]が石清水放生会で攘夷を祈る宣命に「四海いよいよ静謐に、'''国体'''いよいよ安穏に、護り幸い給えと恐み恐みも申し給わくと申す」と宣い、そのほか同9月の神宮例幣使、安政元年([[1854年|1854]])11月の賀茂臨時祭、安政5年([[1858年|1858]])4月の賀茂祭、6月の伊勢公卿勅使発遣、および石清水八幡宮・賀茂社臨時奉幣などの宣命に国体の語を用いた。文久2年([[1862年|1862]])5月に幕府へ下した勅で「国政は旧により大概は関東〔幕府〕に委ねる。外夷の事の如きに至りては則ち我が国の一大重事なり。その'''国体'''に係るは、みな朕に問うて後に議を定めよ」と命じ、元治元年([[1864年|1864]])、将軍徳川家茂へ下した宸翰には「嘉永六年癸丑、洋夷猖獗来港し、'''国体'''あやうきこと云うべからず」とある。以上、幕末の公文書に表れた国体の語の例である<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/8 5-7頁]。かぎ括弧内は適当に読み下してある。</ref>。 [[明治維新]]後、国体の語が公文書にあらわることがますます多くなり、とくに[[詔勅]]に国体の語をしばしば用いる。たとえば慶応4年([[1868年|1868]])5月、奥羽士民を告諭するための[[詔]]に「政権一途、人心一定するにあらざれば何を以て'''国体'''を持し紀綱を振わんや」、「その間、かならず大義を明らかにし'''国体'''を弁ずる者あらん」とある。この詔では国体の文字の右にコクタイ、左にミクニブリという振り仮名が付されている<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/9 7頁]。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/43 74-75頁]。</ref>。次いで明治2年([[1869年|1869]])2月に薩長両藩主を徴する勅に「およそ'''国体'''を正し、強暴に備え、公義を立て、民安を慮り」とあり、同年9月の刑律改撰の勅に「我が大八洲の'''国体'''を創立する、邃古は措いて論ぜず、神武以降二千余年、寛恕の政、もって下を率い、忠厚の俗、もって上を奉ず」とあり、同月に服制更改の勅諭に「風俗なるもの移換、もって時の宜しきに随い、'''国体'''なるもの不抜、その勢を制す」「朕、いま断然その服制を更め、その風俗を一新し、祖宗以来、尚武の'''国体'''を立てんと欲す」とあり、明治15年(1882年)1月の[[軍人勅諭]]に「かつは我が'''国体'''にもとり、かつは我が祖宗の御制にそむき奉り」云々とある<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/9 7-8頁]。</ref>。 以上のように、国体のという語は近世以降頻繁に用いられたが、その意味は必ずしも一定したものではなく、多くは国風、国情、国の体面、国の名分、国の基礎、国の特性などの意味に用いられた<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/10 8頁]。</ref>。 [[帝国学士院]]『帝室制度史』第1巻国体総説によれば、1938年当時用いられた国体という語の意義は[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]を基礎としなければならず、この意義における国体は、日本に[[万世一系]]の天皇が君臨し、皇統連綿・天壌無窮に君徳が四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する、日本独自の事実を意味するという<ref name=":0" />。 ==古代中世の国体観念== 国体の語が日本人一般に認識されたのは近代のことであるが、国体の語を用いなくともこれと同一の観念が起こったのはかなり古い。すなわち、日本人が自国を外国と比べて自国の国家成立の特色や国家組織の優秀性などを誇ることが多々あった。その特色または優秀性とされるものは、日本が[[神国]]であること、皇統が連続して一系であること等である<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/21 2-3頁]。</ref>。 古代日本において、我が国は神国なり、という観念が存在したことは、建国に関して神話が遺されていることから分かる。また古代において[[祭政一致]]により国を治めていたことも[[神国思想]]より起る。そのほか[[日本書紀]]の[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]の条で、攻め寄せる日本兵を見た[[新羅]]王が「われ聞く。東に神国ありと。日本と謂う。また聖王ありと。天皇と謂う。必ずその国の神兵ならん」と言ったとされるのも、形は新羅王に言わせているが実は新羅王の口を借りて日本国民の観念を述べているのである。また[[大化の改新]]にあたって何事も唐の制度を取り入れたが、ただ[[神祇官]]を八省の上に置いたのは神国思想に由来するものである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/21 3頁]。</ref>。 神国思想は万世一系の思想につながる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/23 7頁]。</ref>。たとえば、道鏡が皇位を望んだとき、[[和気清麻呂]]が[[宇佐八幡宮]]の神託を受けて帰り、「我が国は開闢以来、君臣定まり、臣をもって君と為すことは未だあらざるなり。天の日嗣は必ず皇嗣を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」と奏したというのが、この万世一系思想の現れである。また大化2年([[646年|646]])に[[天智天皇|中大兄皇子]]が詔に奉答して「天に双日なく、国に二王なし。これ故に天の下に兼ね併せて万民を使うべきは、ただ天皇のみ」と言上したとされるのは、天皇の神聖に対する理解を表明したものといわれる<ref name=":2">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/24 8頁]。</ref>。 貞観11年([[869年|869]])12月14日、新羅の船が襲来した知らせを受けて、その撃退を祈る[[伊勢神宮]]への告文に「日本朝は、いわゆる神明の国なり。神明の助け護り賜わば何の兵寇か近く来るべき」とあり、同29日の[[石清水八幡宮]]への告文にも「我が朝の神国と畏れ憚り来たれる」とあり、神明を信じて疑わない<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/21 3-4頁]。</ref>。平安貴族の日記である[[小右記]]や[[玉葉]]に「我が国は神国なり」との文言がある。軍記物語である[[保元物語]]に「我が国は辺地粟散の界といえども神国たるによりて」とあり、[[源平盛衰記]]に「日本はこれ神国なり。伊弉諾伊弉冉尊の御子孫、国の政を助け給う」とあり、また同書で平重盛が父の清盛を諌めるとき「日本はこれ神国なり。神は非礼を受け給わず」と述べたという。これは創作話であったとしても、物語の著者が重盛に仮託して自分の思想を述べたものである。そのほか諸書や和歌に「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神の御国」などの語が見える。[[貞永]]年間に始めて武家法制が定められると第一に神社を崇敬すべきことを掲げている。[[元寇|蒙古襲来]]の際にも、文永7年正月の蒙古に送る牒文案に「皇土を以て永く神国と号す」とある。蒙古の軍船が嵐で沈んだことについて、日本国民はこれを神明の加護によるものだと信じたという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/22 4-5頁]。</ref>。 [[鎌倉時代]]の末、[[虎関師錬]]は著書『[[元亨釈書]]』において、日本は皇統連綿として万世に替わることがないと論じた<ref name=":2" />。これは日本の国体の依って定まる所を明らかにしたものだという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/25 10頁]。</ref>。 南北朝時代、南朝方の公家[[北畠親房]]は『[[神皇正統記]]』を著し、同書の始めに「大日本は神国なり。天祖、初めて基(もとい)を開き、日神、永く流れを伝え給う。我が国のみこの事あり、異朝にはその類いなし。それゆえ神国というなり」と述べて日本が神国であることを明示し、さらに進んで万世一系の国体を論じて「ただ我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受け給う事よこしまならず。一種姓におきても、おのずから傍らに伝え給いしすら、なお正に返える道ありてぞ保ちましましける」といい、「これ、しかしながら神明の御誓い新たにして余国に異なるべき謂われなり」と結ぶ。神道については「この国は神国なれば神道に違いては一日も日月を戴きまじく謂われなり」と論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/23 6-7頁]。</ref>。 中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの[[権門勢家]]が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に[[元寇]]など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=神国日本|date=2006年|publisher=ちくま新書、筑摩書房|author=佐藤弘夫|ref={{sfnref|佐藤|2006}}|year=|url=}}</ref>。 ==近世前期の国体思想== [[近世]]の初め、[[天下人]]の[[豊臣秀吉]]や[[徳川家康]]は外国宛書簡で神国思想を表明する<ref name=":3" />。 神国思想や自国優越思想、すなわち日本の国体が特異であるという点について、これを学者が詳細に議論するようになったのは[[徳川幕府]]が開かれてからである。その理由は、学問が発達し、日本古代の建国の体制が明らかになったことが一般的理由であるが、さらに、儒家がやたらと唐土を尊び日本を卑下する態度に対して反発がおこったこと、また、江戸の幕府が繁栄しているのと対照的に京都の朝廷が衰微していたので感情的に尊王の思潮が湧いたこと等が理由となった。特に京都在住の学者の間にその傾向があった<ref name=":4">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/25 10-11頁]。</ref>。 === 儒学 === [[藤原惺窩]](1561-1619)は日本近世儒学の先駆けとなった<ref>{{Kotobank|藤原惺窩}}2019年9月閲覧。</ref>。『千代もと草』には次のように記される。天照大神は日本の主であるが、その神宮は茅葺であり、食事は黒米である。家居を飾らず珍しい物を食べずに天下万民を憐れむ。神武天皇以来、この掟を守って道を行ったため、後白河法皇まで代々子孫に天下を伝えて栄えた、と。また、神道については、万民を憐み慈悲を施すことを極意とする点において神道も儒教も同じであるという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/25 11頁]。</ref>。 [[林羅山]](1583-1657)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1-14680 林羅山]」2019年9月閲覧。</ref>は[[藤原惺窩]]に学び、日本儒学の棟梁になった。その著『本朝神社考』で、[[仏教]]を憎み、[[神仏習合]]を排斥した。また韻文で「倭賦」を作って神国日本の霊秀を詠じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/25 11-12頁]。</ref>。 [[山鹿素行]](1622-1685)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C-144029 山鹿素行]」2019年9月閲覧。</ref>は林羅山に学び別に一家を立てた。[[兵法家]]として知られるが本人は儒者を自任した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/26 12頁]。</ref>。幕府の忌憚に触れ[[赤穂藩|赤穂]]に配流された。配流中の寛文9年([[1669年|1669]])に『[[中朝事実]]』を著した<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E4%BA%8B%E5%AE%9F-97395 中朝事実]」2019年9月閲覧。</ref>。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/26 12-14頁]。</ref>。 [[熊沢蕃山]](1619-1691)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C-144029 熊沢蕃山]」2019年9月閲覧。</ref>は[[陽明学|陽明学者]]として皇国の尊厳を高唱した。著書『集義外書』で「日本は辺土なれども太陽の出たまう国にして人の気質もっとも霊なり」といい、また著書『集義和書』で、仁義礼知信や智仁勇の論が日本にないようにみえるが、日本においては三種の神器を不言の経典となし、これらの諸徳の教えは全てこの神器によって表象されているのだと論じた。蕃山はまた、日本の皇祖は呉の[[太伯・虞仲|太伯]]の後裔であるとの説を立てたが、この説は後に批判された。蕃山の著とされる『三輪物語』には「本朝は三界の根源にして神明をもって元祖とす。神明は宇宙の宗廟なり。我が国開闢の初め天地と共に神明あらわれ給えり。故に国を神国といい道を神道という。」「千界の源、万国の本は、我が国なり。」「我が朝の皇統を至尊と仰ぎ奉ることは本よりの義なり。」と記された<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/37 34-36頁]。</ref>。 === 神道流 === [[吉川惟足]](1616-1690)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%83%9F%E8%B6%B3-22133 吉川惟足]」2019年9月閲覧。</ref>は[[吉田神道]]を受けて[[吉川神道|吉川流神道]]一派を立てた。[[吉田兼倶]]『神道大意』について講じ、神国日本が万国に秀でているとして、外教を崇める者を非難して「これ日本が万国の根本の国なり」、「神明最初出現の国という心にて神国というぞ」、「我が国に生まれて神の子孫たる人、神国の粟を食みながら、他邦の道をあがめ、わが先祖の道を知らざるは、たとい万巻の書をそらんずるとも一文不通の盲人というべし。もっとも憐哀すべきかな」と述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/34 29-30頁]。</ref>。 [[出口延佳|度会延佳]](1615-1690)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%BA%A6%E4%BC%9A%E5%BB%B6%E4%BD%B3-154177 度会延佳]」2019年9月閲覧。</ref>は[[伊勢神道]]の復興し、『陽復記』を著して主に神儒習合というべき神道説を展開した。唐土の易、陰陽、理気の学を日本の神道と合わせた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/40 40頁]。</ref>。度会延経は父延佳の度会神道を継いで家業を興したが主に考証に専念したため神道論や国体論を残さなかった。度会延経の門人の[[喜早清在]]は『陽復記衍義』を著して、我が国が国常立尊・天照大神に始まり神武天皇の166代の今日に至るまで他姓を交えず神器を伝えたことは世に比類がないと論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/50 61頁]。</ref>。度会常典も『神国問答』を著して、我が国が神国である所以、他国に優れている所以を論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/50 61-62頁]。</ref>。ついで[[度会常彰]]は元文2年(1737)12月『神道弁明』を公にし、日本の国体の成立の君先民後、すなわち「彼は民ありて後に主を立て、この国は農民あらざるの前に既に以て主たり」とし、皇統の天壌無窮を論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/51 63-64頁]。</ref>。そして延享5年(1748)に著した『日本国風』巻一に「神国」と題して、日本が神国である所以について、大祖・国常立尊より綿々として今上天皇に至るまで伝えてきた皇統が神胤であり、また国民も全て神孫であることによって説明した。さらに神国と称された所以について、和歌や国史や家伝文書等に現れた神国という語、または神国という観念が現れた場合を考証して説明した。「神国妄謂太伯徐福後」の項に、偏った儒者が妄りに、日本を夏康少康の子孫であるとする魏書の説を用い、または秦の徐福の後裔であるという説や、呉の太伯の子孫であるという説を採るのを攻撃し、一つ一つ史実を考証してそれらの説を否定した<ref name=":16">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/52 65頁]。</ref>。 === 崎門流と前期水戸学 === [[山崎闇斎]](1619-1682)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E-21864 山崎闇斎]」2019年9月閲覧。</ref>は、僧侶をやめて朱子学に入り、さらに神道を修めた。皇国のために万丈の気を吐いたという。闇斎に関しては[[先哲叢談]]に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。闇斎の学統には儒学と[[垂加神道|神道]]があるが、どちらも国体の尊厳を高唱した点において同じである<ref name=":7">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/27 15-16頁]。</ref>。 山崎闇斎が創始した[[垂加神道]]に関係して、日本が神国たる所以や皇統が神聖なる所以を述べて、国体の尊厳を説く者は少なくない。たとえば[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E8%BF%91%E6%96%87-1088006 高屋近文]『神道啓蒙』、[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%82%BA%E8%B5%B7-39659 大山為起]『唯一論』、[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%B4%E9%83%A8%E5%AE%89%E5%B4%87-1095255 伴部安崇]『神道問答一名和漢問答』、[https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E6%9E%97%E5%BC%B7%E6%96%8E-153907 若林強斎]『神道大意』一巻、[[尾張藩]]主[[徳川義直]]『神祇宝典』自序などがある<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/33 26-28頁]。</ref>。 [[浅見絅斎]](1652-1712)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E8%A6%8B%E7%B5%85%E6%96%8E-14533 浅見絅斎]」2019年9月閲覧。</ref>は、山崎闇斎門下の著名人であり、『靖献遺言』を著し、勤王を鼓吹した。「関東の地を踏まず、諸侯に仕えず」と誓い、「もし時を得ば義兵を挙げて王室をたすくべし」ということで同書を著したという。これをみずから講じた『靖献遺言講義』では、当時の儒者がいたずらに唐土を尊び自国を卑しむのを攻撃し、皇国を尊ぶべき所以を説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/28 16-17頁]。</ref>。また、ある人が天皇に拝謁したと聞いて、皇統の無窮を讃して「天照大神の御血脈、今に絶えず継がせられ候えば、実に人間の種にてはこれなく候、神明に拝せらるる如く思わるる由、さこそ有るべきことに候、我が国の万国に優れて自讃するに勝れたるは、ただこの事に候」(雑話筆記)いった<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/29 18頁]。</ref>。また『中国弁』という書では、「中国」と「夷狄」という呼称は、唐土から言うのと日本から言うのとでは主客が逆になり、どちらも自国を「中国」と称し、相手を「夷狄」と呼ぶべきであると論じた<ref name=":5">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/30 20-21頁]。</ref>。また[[湯武放伐]](革命思想)について、同門の[[佐藤直方]]がこれを是認したのに対し、浅見絅斎はこれに反対し、「ただ一つの目的は君臣父子の大倫より外これ無く候」と論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/30 20頁]。</ref>。なお、山崎闇斎門下の浅見絅斎、佐藤直方、[[三宅尚斎]]の3人を崎門の三傑という<ref name=":11">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/28 16頁]。</ref>。 [[徳川光圀|水戸黄門徳川光圀]](1628-1701)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80-19100 徳川光圀]」2019年9月閲覧。</ref>は若いころ[[伯夷・叔斉|伯夷伝]]を読んで発奮し、修史を志したという。[[水戸学]]なるものは光圀の修史のために勃興したものであった。光圀は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。崎門学者は闇斎流の学統を水戸に移植した。水戸学は闇斎流の国粋思想に負う所が少なくない<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/38 37-38頁]。</ref>。近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる<ref name=":11" />。 [[栗山潜鋒]](1671-1706)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E6%A0%97%E5%B1%B1%E6%BD%9C%E9%8B%92-57035 栗山潜鋒]」2019年9月閲覧。</ref>は、山崎闇斎門下の桑名松雲の門下であり『保建大記』を著した。同書の序に皇統の万世一系を唱えて「天壌無窮」「百王歴々一姓綿々」と記した。同書の本文では、たとえば次の出来事について論じた<ref name=":5" />。それは平安時代末期のこと、[[宋 (王朝)|宋]]の[[明州]]の刺史(地方長官)が日本の朝廷に供物を献じたが、その送り状が無礼であった<ref name=":8">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/30 20-21頁]。漢文の解釈にあたっては次の文献を参照した。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/755462/85 「保建大記打聞」『国民道徳叢書』所収、国会図書館蔵、125-128頁]。</ref>。天皇に宛てて「日本国王に賜う」と書いてあったのである<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920187/125 藤原兼実『玉葉』国書刊行会、1907年、国会図書館蔵、承安2年9月22日条]。</ref>。大外記[[清原頼業]]は受け取りを拒むべきだと進言したが、[[後白河天皇|後白河法皇]]は聞き入れなかった。この出来事について栗山潜鋒は以下のように論じる。 * 華と夷は入れ替わることがある。華が夷の礼を用いれば夷であり、夷が華に進めば華である。これが古制である。 * 地球は丸いのだから天地の間は何処でも中心である。どの国も中国を自称して構わない。 * 日本は自国を神国と為し、海内を天下と為し、外国を夷とも蕃と為す。[[職員令]]は外人を掌るのを玄蕃と謂い、[[姓氏録]]は秦漢の末裔を諸蕃に収める。[[北畠親房]]は彼が我を東夷と為すのなら我は彼を西蕃と為すのだと言った。 * 近ごろは、文学が庶民に堕ちて公卿に振るわない。古典を憎んで顧みない。元や明を中華と呼び、自分を東夷と称する。万世父母の国を他人のように思い、歴代天皇の立派な制度を蔑ろにしている。 * むかし[[隋]]の主から贈られてきた信書に「[[中華皇帝|皇帝]]が[[倭王|倭皇]]に問う」とあったとき廷臣はその無礼を疑った。ましてや一州の刺史が上書の儀を失ったのである。当然、清原頼業に従い、受け取りを拒むべきであった。信書を受け取り返書を送ったことは国体を内外に示すところではない。以上<ref name=":8" />。 ここに出て来る国体という語は近世最初の用例の一つだという<ref>{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/8 4-5頁]。</ref>。 [[谷秦山]](1663-1718)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/谷秦山-18785 谷秦山]」2019年9月閲覧。</ref>は闇斎門下の浅見絅斎に学び、別に山崎闇斎の垂加神道をついだ。栗山潜鋒『保建大記』をもって神道を大根とし孔孟を羽翼とした名分上の良書とみなして講釈し、これを門人が記録して『保建大記打聞』と称した。その中で、三種の神器と皇位の関係が不可分であることを論じ、[[治承・寿永の乱|寿永の乱]](源平合戦)のとき平家が[[安徳天皇]]をつれて西国に落ちたあと[[後鳥羽天皇]]が神器のないまま即位したことを、あってはならないものとして攻撃した。この論は後の明治末年の[[南北朝正閏論|南北朝正閏問題]]で重視された神器論に通じるものがある<ref name=":6">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/31 22頁]。</ref>。 [[三宅観瀾]](1674-1718)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/三宅観瀾-16770 三宅観瀾]」2019年9月閲覧。</ref>は闇斎門下の浅見絅斎の門下であり、徳川光圀に招聘され、その国史篇修総裁となった。水戸の国体論は観瀾に負うところが大きい。その著『中興鑑言』はもっぱら日本の国体の由来を論じたものであり、そのうち論徳の章において三種の神器と国家と皇道の関係について詳しく説いた。純粋な古道をもって皇道の本領であるとし、仏意も儒意もどちらも斥けた<ref name=":6" />。 [[徳川綱條]]が養父光圀の後を継いで水戸藩主であった時、『[[大日本史]]』が成った。大日本史の序文に次のようにある。神武天皇が基礎を始めて二千余年、神孫にして神聖なる歴代天皇が承け継ぎ、姦賊の皇位を狙う心を生まず、神器は日月とともに永く照らす。ああ何と盛んなことか。その原因をつきつめると、歴代天皇の仁徳恩沢が民心を固結し国基を盤石にすることに由来する、と。また、水戸の[[彰考館]]総裁(修史責任者)[[安積澹泊]]は自著『列祖成績』に序して尊王の大義を説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/39 38頁]。</ref>。 === そのほか近世前期の国体思想 === [[西川如見]](1648-1724)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/西川如見-109399 西川如見]」2019年9月閲覧。</ref>は蘭学によって地理学を修め、『日本水土考』を著し、日本列島の地理上の優位性や日本の神国たる所以を論じた。蘭学者が西洋を崇め自国を卑しむ傾向がある中で、西川如見だけは蘭学者でありながら自国尊重の念を失わなかった。その論は後の平田国学に影響を及ぼした。西川如見は『日本水土考』で次のように述べる。 * 我が国は万国の東の頭にあって朝日が最初に照らす地である。日本という国号は当たっている。 * 日本が神国であることは水土自然の理であろう。日本は清陽中正の水土である。このため神明はここに集まる。 * この国の四季は中正である。万国は広大であるが、我が国のように四季の正しい国は多くない。 * 国土は広くもなく狭くもない。人事風俗民情は均一であって治まりやすい。このため日本の皇統は開闢より現在まで不変である。このことは万国の中でも日本でしかない。これも水土の神妙でなかろうか。 * 日本水土の要害は万国でも最上である。浦安の大城に住み、千矛の武器を備えて、天地無窮である。 * その民は神明の子孫であり、その道は神明の遺訓である。 * 清浄潔白を愛し質素朴実を楽しむのは即ち仁勇の道にして知性が自然と充足する。これは自然の神徳である。貴いではないか。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/40 40-41頁]。</ref>。 [[荻生徂徠]](1666-1728)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/荻生徂徠-17726 荻生徂徠]」2019年9月閲覧。</ref>に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/35 30頁]。</ref>。徂徠門下の[[太宰春台]]もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/35 31-32頁]。</ref>。同門の[[山県周南]]もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/36 33頁]。</ref>。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/37 34頁]。</ref>。 [[石田梅岩]](1685-1744)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/石田梅岩-15257 石田梅岩]」2019年9月閲覧。</ref>は、[[石門心学|心学]]の徒であり、『[[都鄙問答]]』において日本の皇統が神孫であって唐土とは尊卑が異なることを論じて「我が朝には大神宮の御末を継がせたまい御位に立たせ給う。よって天照皇大神宮を宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先祖にてわたらせたまえば、下、万民に至るまで参宮といいて、ことごとく参拝するなり。唐土にはこの例なし」と述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/38 37頁]。</ref>。 [[竹内敬持|竹内式部]](1712-1768)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/竹内式部-18680 竹内式部]」2019年9月閲覧。</ref>は[[宝暦事件]]の張本人として討幕運動の先駆けをなした。『奉公心得書』というものを記して、天皇を神孫とあおぎ君臣の分をまもるべきことを説いて曰く、「代々の帝より今の大君に至るまで、人間の種ならず天照大神の御末なれば、直に神孫と申し奉り」、「この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各々品物の才能を尽くして御用に立て、二心なく奉公し奉ることなり。故にこの君に背く者あれば親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、わが国の大義なり」と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/32 25-26頁]。</ref>。 [[山県大弐]](1725-1767)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/山県大弐-144039 山県大弐]」2019年9月閲覧。</ref>は山崎闇斎門下の三宅尚斎の門下の[https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E7%BE%8E%E5%85%89%E7%AB%A0-43404 加々美桜塢]の門下(つまり山崎闇斎の曾孫弟子)であり、その著『柳子新論』において日本の優越と皇統の不可侵を論じた。のち幕末尊王討幕論の先駆者として山県大弐とともに人口に膾炙した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/32 24-25頁]。</ref>。 [[平賀源内]](1728-1780)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85-14928 平賀源内]」2019年9月閲覧。</ref>は[[戯作者]]であるが、儒学者のシナ崇拝に反発して近世後期に流行する自国尊重論を先取りし、戯作『風流志道軒伝』にて次のように説いた<ref name=":9">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/38 36-37頁]。</ref>。<blockquote>井戸で育った{{Ruby|蛙|かえる}}学者が、めった〔やたら〕に{{Ruby|唐|から}}{{Ruby|贔屓|びいき}}になって、我が生まれた日本を東夷と称し、天照大神は{{Ruby|呉|ご}}{{Ruby|太伯|たいはく}}に違いないと、{{Ruby|附会|ふかい}}の説<small>(こじつけ説)</small>を言い散らし、文武の道を表にかざり、チンプンカンプンの屁をひっても、{{Ruby|知行|ちぎょう}}の米<small>(給与米)</small>を周の升<small>(古代シナの小さい枡)</small>で計り切って渡されなば、その時かえって聖人を恨むべし。誰やらが{{Ruby|制札|せいさつ}}<small>(法律)</small>の多きを見て国の治まらざるを知りたりと云うがごとく、乱れて後に教えは出来、{{Ruby|病|やまい}}ありて後に医薬あり。唐の風俗は、日本と違って天子が渡り者と同様にて、気に入らねば取り替えて、{{Ruby|天下|てんか}}は一人の天下にあらず天下の天下なりと、減らず口を言い散らして、主の天下をひったくる{{Ruby|不埒千万|ふらちせんばん}}なる国ゆえ、聖人出でて教え給う。日本は自然に仁義を守る国ゆえ、聖人出でずしても{{Ruby|太平|たいへい}}をなす。<ref name=":9" /></blockquote>[[中井竹山]](1730-1804)<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/中井竹山-17073 中井竹山]」2019年9月閲覧。</ref>は大阪在住の朱子学者であるが、世間の儒学者流が漢土を尊び自国を卑しめるのを攻撃し、特に荻生徂徠に始まる物門流の態度を非難した。その著『非徴』は荻生徂徠の『論語徴』を攻撃する目的で書かれたものである。また、松平定信の諮詢に答えて『草茅危言』を著し、その第1巻に「王室」の章を設けて、百王不易は四海万国に超越する美事であるが、朝廷が衰微したのは崇神佞仏のため祈祷供養に散財したことが原因であると論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/41 42-43頁]。</ref>。 == 近世後期の国体論 == 近世も後期になると国体論が盛り上がる。儒学と対立する国学が勃興し、復古思想を根拠にして国粋主義を唱える。水戸学も徳川斉昭を中心に発達し、国体という語も普及する。国学者と儒学者の間で和漢の国体に関する論争が盛んになり、国体について論議するものがあらわれる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/40 41頁]。</ref>。 === 復古国学 === 復古国学は、いわゆる迷信に陥った諸派神道説の不純を斥け、純正な[[復古神道|古道]]なるものを解明しようとすることがその原動力であったが、一面において外国を尊び自国を卑しむ物門流儒者に対する反発が復古国学の気運を助長した。復古国学は[[契沖]]、[[荷田春満]]、[[賀茂真淵]]、[[本居宣長]]、[[平田篤胤]]によって大成されたとされるが、契沖と荷田春満は古語の研究に専念し、いわゆる古道の探求は賀茂真淵から始まる<ref name=":10">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/42 45頁]。</ref>。 賀茂真淵(1697-1769)は『国意考』を著し、古道に関する見識を纏め、シナの国柄が卑しいことを説き、これに比べて日本の優秀な点を示した<ref name=":10" />。その大要で次のようにいう。 * シナは良い人に天子の位を譲るというが、殷の末に[[紂]]のような悪王が出たのはどういうわけか。その後も賤しい人が出世して君を殺し帝を自称すれば、世人みな頭を垂れて従い仕える。四方の国を夷などと呼んで卑しめるが、その夷とされる国から出身して[[唐]]の帝となった時は誰もが額づいて従った。 * 我が国は、天地の心のままに治まり、儒のような空虚な小理屈を言わなくても古くから代々栄えた。儒教が渡来してから天武の大乱([[壬申の乱]])がおき、それから奈良の宮([[平城京]])で衣冠や制度が雅になったが、邪心が多くなった。 * およそ荒山荒野に自然に道ができるように、世の中にも自然に神代の道が広がって、自然に国にできた道の栄えは、皇いよいよ栄え益すものを、かえすがえすも儒の道こそ国を乱すのみ。 * 唐国は心悪しき国であるので、深く教えても表面は善き様子であっても結局は大きな悪事をなして世を乱す。 * 我が国は心の素直な国であるので、少ない教えでもよく守る。天地のままに行うことなので教えなくても宜しいのである。 * 仏教の因果応報の教えというのは事実のように思われるかもしれないが、戦国の頃に一人も殺さないものは平民となり、人を少し殺したのは旗本侍となり、やや多く殺したのは大名となり、さらに一層多く殺したのは一国の主となった。これのどこが因果応報か。我が国固有の武勇の心を鈍らせたのは仏教である。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/43 46-48頁]。</ref>。 賀茂真淵の学統を継ぐ者は数十名おり、[[村田春海]]、[[小山田与清]]、[[栗田土満]]などがいる。その中で出藍は本居宣長である<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/44 48頁]。</ref>。 本居宣長(1730-1801)のライフワークは古事記の研究である。その結果を大成した『[[古事記伝]]』には宣長の国体観・神道観が随所に散見される。これを一つに纏めたものが、明和8年([[1771年|1771]])に著した『直日霊』一巻である。同書では国体について次のように言う<ref name=":17">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/44 48-49頁]。</ref>。<blockquote>{{Ruby|皇大御国|すめらおおみくに}}は{{Ruby|掛|かけま}}くも{{Ruby|可畏|かしこ}}き{{Ruby|神御祖|かむみおや}}{{Ruby|天照大御神|あまてらすおおみかみ}}の{{Ruby|御生|おうまれ}}ましまする{{Ruby|大|おお}}{{Ruby|御|み}}{{Ruby|国|くに}}にして、{{Ruby|大御神|おおみかみ}}{{Ruby|大御手|おおみて}}に{{Ruby|天|あま}}つ{{Ruby|璽|しるし}}を{{Ruby|捧持|ささげもち}}して{{Ruby|万千秋|よろずちあき}}の{{Ruby|秋長|あきなが}}に{{Ruby|吾|わが}}{{Ruby|皇子|みこ}}の{{Ruby|所知|しろし}}めさん{{Ruby|国|くに}}なりと{{Ruby|言依|ことよ}}さし{{Ruby|賜|たま}}えりしまにまに、{{Ruby|天雲|あまぐも}}の{{Ruby|向伏|むかぶ}}すかぎり、{{Ruby|谷蟆|たにぐく}}の{{Ruby|渡|さわた}}るきわみ、{{Ruby|皇|すめら}}{{Ruby|御孫|みまごの}}{{Ruby|命|みこと}}の{{Ruby|大|おお}}{{Ruby|御|み}}{{Ruby|食|おす}}{{Ruby|国|くに}}と{{Ruby|定|さだ}}まりて、{{Ruby|天下|あめのした}}には{{Ruby|荒|あら}}ぶる{{Ruby|神|かみ}}もなく、まつろわぬ{{Ruby|人|ひと}}もなく、{{Ruby|千万|ちよろず}}{{Ruby|御世|みよ}}の{{Ruby|御末|みすえ}}の{{Ruby|御代|みよ}}までの{{Ruby|天皇命|すめらみこと}}はしも、{{Ruby|大御神|おおみかみ}}の{{Ruby|御子|みこ}}とましまして{{Ruby|天|あま}}つ{{Ruby|神|かみ}}の{{Ruby|御心|みこころ}}を{{Ruby|大|おお}}{{Ruby|御心|みこころ}}として、{{Ruby|神代|かみよ}}も{{Ruby|今|いま}}も{{Ruby|隔|へだ}}てなく、{{Ruby|神|かむ}}ながら{{Ruby|安国|やすくに}}と{{Ruby|平|たいら}}けく{{Ruby|所知看|しろしみ}}しける{{Ruby|大御国|おおみくに}}になもありければ{{Ruby|古|いにし}}えの{{Ruby|大御世|おおみよ}}には{{Ruby|道|みち}}という{{Ruby|言挙|ことあげ}}もさらになかりき</blockquote>以上の意味は次の通りである。皇国は、神祖天照大神の生まれた国であり、天照大神が天璽を手に持って、万千秋の秋長に我が皇子の所知する国であるよと命じたままに、天雲の棚引く彼方から、ヒキガエルの渡る極地まで、皇孫の食国と定まり、天下に荒神もなく、不服の人もなく、千万世の末代まで天皇は神の子であって、天神の心を心として、神代も今も隔てなく、神ながら安国と平らかに所知する国であればこそ、古世に道という言葉を挙げることもなかった、と<ref name=":17" />。 本居宣長はこういって日本の国柄の尊ぶべきことを説き、これと比べて異国はどうかというと、君主が定まらず邪神が荒ぶるから、人心が悪く習俗が乱れ、国を取れば誰でも直ちに君主となる。上は下に奪われないように構え、下も上の隙をみて奪おうとするから、昔から国は治まりがたい。その治まりがたい国を治めようと努めるから、聖人なるものや仁義礼譲孝悌忠信の教えなどが生まれるのである。聖人の道なるものは、国を治めるために作ったものなのに、かえって国を乱すのである。我が国は古くから、こんな余計な教えがなくとも、下々は乱れることなく、天下は穏やかに治まって、皇統は長久に伝わってきた。その後、書籍が渡来して、漢国のやり方を習うにつけ、それと区別するために皇国の古道を神道と名付けた。時代を経るとますます漢国のやり方を学ぶことが盛んになり、ついに天下の政事までもが漢国のようになり、国が乱れるようになった、というのである。本居宣長によれば、天照大神の仰せのとおりに皇孫が天下を所知し皇位が永遠に動かないことこそ、この道が異国の道より優れて正しく高く貴い証拠であるという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/44 48-50頁]。</ref>。 また本居宣長は『玉くしげ』を著して、日本が異国に優越する理由を天壌無窮の神勅が実現していることに求め、次のように説いた<ref name=":12">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/45 51頁]。</ref>。<blockquote>さてまた本朝の皇統は、すなわちこの世を照らします天照大御神の御末にましまして、かの天壌無窮の神勅のごとく万々歳の末の代までも動させたまうことなく、天地のあらん限り伝わらせたまう御事、まず道の体本なり。この事かくのごとく、かの神勅のしるし有りて現に違わせたまわざるをもって、神代の古伝説の虚偽ならざるを知るべく、異国の及ぶところにあらざることをも知るべし。<ref name=":12" /></blockquote>[[夏目甕麿]](1773-1822)<ref>本居宣長記念館「[http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/natsume.html 夏目甕麿]」2019年9月閲覧。</ref>は本居宣長の門人であり、文化6年([[1809年|1809]])『古野の若菜』を著し、シナの禅譲の道が皇国の道に相容れないことを述べ、儒教は人の所行を主とし、仏教や老子は人の心を旨とし、皇国は人の素性を宗とする点で違いがあると論じた<ref name=":13">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/48 57頁]。</ref>。 [[本居大平]]は本居宣長の養子であり、その学問の正統を継いだ。文政10年([[1827年|1827]])に『古学要』を著して、その中で、日本は異国に対して上位にあり、互いに排斥するものでないと論じ、次のように述べた<ref name=":13" />。曰く、御国(日本)は万国の祖国であり君である。異国は臣である。人身にたとえれば御国は頭で異国は手足であり、人間関係にたとえれば御国は祖先であり異国は族類縁者であり、食い物にたとえれば御国は五穀(主食)で異国は野菜海魚(おかず)の如きものである。そうであるので、先祖がいて族類縁者がいなければ整わないように、頭があっても手足がなければ足らないように、五穀があって野菜海魚がなければ足らないように、異国はみな御国を助け備わりとなるべきものなので、決して憎むべきものではなく相睦ぶべきものである、と<ref name=":15">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/49 58頁]。</ref>。 [[平田篤胤]](1776-1843)は、本居宣長の没後の門人を自称し、その思想をさらに極端にし、内を尊び外を卑しみ、儒教仏教を排斥し、古道を鼓吹することに熱狂した。著書は百余部・数千巻あり、講演したものを含め、すべて皇国の尊厳を闡明するとともに、異国を攻撃し異教を排斥するものばかりである。なかでも日本の古道を闡明し国体の尊厳を説いたものは文化6年([[1809年|1809]])に講演した『古道大意』である。 『古道大意』では、まず神国日本が万国に比類なき尊い国であるとして次のように言う<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/46 52-53頁]。</ref>。<blockquote>我が国は天神の殊なる御恵みによって神の御生まれなされて、よろずの外国等とは天地懸隔な違いで引き比べにならぬ結構な有り難い国で、もっとも神国に相違なく、また我々賤男賤女にいたるまでも神の御末に違いないでござる。 実に御国の人に限りて、すべてこの天地にありとあらゆる万国の人とは、とんと訳が違い、尊く勝れていることは、まずこの御国を神国といい初めたは、もとこの国の人の我れ誉めに申したことではない。まずその濫觴を申さば、万国を開闢なされたるも、みな神世の尊き神々にて、その神たちことごとくこの御国に御出来なされたることなれば、すなわち御国は神の本国なることゆえに、神国と称すは実に宇宙挙げての公論なること、さらに論なきことなり。 これを思うにも皇国は天地のモトで、もろもろの事物、ことごとく万国に優れておる所以もまた、もろもろの外国のものどもの、何もかも皇国に劣るべきことをも、考え知るがよいでござる。</blockquote>また、日本は小国であるといっても国土の大小は尊卑を分ける基準にならないと論じた。さらに日本が皇統連綿であること、他国に比類ない有り難い国であることと、そうである理由を論じて次のように述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/46 53-54頁]。</ref>。<blockquote>神武天皇は大和国橿原宮と申すにおわしまして天の下を御治めあそばし、この天皇様より当今様まで御血脈が連綿と御続きあそばし百二十代と申すまで動きなく御栄えあそばすと申すは実にこの大地にあるとある国々に比類なき有り難い御国で〔略〕。<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/47 54頁]。</ref> 天照大御神の殊に大切と御斎きあそばさるる三種の神器を天子の御璽として御授けあそばし、また御口づから、豊葦原の瑞穂の国は我が子孫の次々に知ろし召し天地とともに無窮なるべき国ぞと御祝言を仰せられたる、その神勅むなしからず。<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/47 55頁]。</ref></blockquote> さらに[[西川如見]]『日本水土考』や[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンプル]]『日本紀行』を引用し、日本の国土の優秀は世界に比類がないと論じ、外国崇拝の蘭学者を批判した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/48 56頁]。</ref>。その際に国体という語を次のように用いた。<blockquote>近頃、はやり初めたるオランダの学問をする輩は、よく外国の様子も知っていながら、その中には心得ちがいをして、またヤミクモに西の極なる国々を贔屓して、〔…〕万国の絵図などを出して、この通り日本は小国じゃなどというて驚かす。〔…〕こりゃ皆、神国の神国たるを知らず、御国の国体にくらいからのことで、まだしもそのおのおのは人の国の世話ばかりをして国体にくらいことは不便ながらもしかたがなけれども、そのおのれが、おぞけ魂を世に広めてあまねく人にまでそう思わせるが憎いでござる。<ref>『古道大意』平田篤胤進、文化七年刊、{{harvtxt|帝国学士院|1938}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/25 38頁]に引用。</ref></blockquote>平田篤胤は別の著書『大道或門』で皇国の尊貴である所以を述べて次のように述べた<ref name=":14">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/48 56-57頁]。</ref>。 * 天皇の血統は天照大神より連綿であって、神代より千万年の今に至るまで天下の大君である。 * 君臣の差別は明白に定まっている。天皇より5世までは王を称することを許されており臣下の列ではない。 * 皇国を神国や君子国と称するのは、皇国の自称ではなく、他国がそう称するのである。 * 天下を治めることをマツリゴトと唱えるのは神国の風儀である。神慮によって世を治め神祭をもって第一とするために、政事という文字をマツリゴトと訓ずるのである。祭事と政事は元々一つである。これが神国と称する所以である。 * 皇国は君臣の道が正しく、天子は開闢以来一世である。大いに賞賛すべきである。天照大神の神勅に、子孫万々世に天地とともに長久に天下を治めよという仰せを万人がよく相守るからである。 * 天照大神の魂は伊勢の内宮にいて、その本体は世界万国を照らす日輪である。皇国はその誕生の本国であって天皇はその子孫であるから、世界万国はことごとく皇国に従うべきである。しかも、皇国は君国であり万国は臣国である証拠は別にあるが、今それを言うのは省略する。以上<ref name=":14" />。 [[矢野玄道]]は平田篤胤の門人であり、幕末維新期、特に明治初期に皇学派の中心人物として新政に重きをなした。[[文久]]3年([[1863年|1863]])に『玉鉾物語』を著して、そのなかの「君臣の道」において、日本が万世一系にして皇統連綿である所以を説いた<ref name=":15" />。 [[八田知紀]]も同派の皇学者であって[[弘化]]2年([[1845年|1845]])に公にした『桃岡雑記』において、皇国の教えは自然の道であって、天照大神の神勅以来、君臣上下の分が定まっていること、また、文武両道一致であることを論じ、これが我が国体の由来する所であると断じ、あわせてシナの国体を批評した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/49 59頁]。</ref>。 復古国学派の人々と儒学者の間で、主として内外の国体の比較論に関して論争が惹起された<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/68 96-97頁]。</ref>。 === 後期水戸学 === 幕末の対外危機をきっかけに、[[水戸学]]が日本独自の国柄という意味で国体観念を強く打ち出した。水戸学者[[会沢正志斎]]の著書『新論』が国体観念を浮上させる画期となった<ref name=":43" />。『新論』の構想は、危機克服の指針を求めていた志士たちの心を捉え、水戸藩を超えて日本全国に流布した。このことは国体論を一つの思想として独立させた<ref name=":44" />。 {{harvtxt|内務省神社局|1921}} によれば、国体論の発達は後期水戸学において絶頂に達した。いわゆる復古国学は、国体尊崇が盛んであったが、儒学排斥に熱心になりすぎて、第三者からみて固陋独断に陥ったところがあった。水戸学にはそういうところがない。その特色は、常に視点を高所に置いて、偏せず捕らわれず、徹頭徹尾に批判的な見地に立ち、内に愛国尊王の精神を抱くというものであるという<ref name=":16" />。 水戸学の主要人物は、水戸藩主[[徳川斉昭]]を中心として、[[藤田幽谷]]、[[会沢正志斎]]、[[藤田東湖]]などである<ref name=":16" />。 [[徳川斉昭]]は天資英邁といわれ、国体に関して自己の見識を持っていた。その見識は、みずから創設した弘道館の趣旨と由来を記した「弘道館記」「弘道館学則」「告志篇」や、天皇に地球儀を献上した時の上表文に見ることができる<ref name=":18">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/53 66頁]。</ref>。 「弘道館記」に曰く、上古に神聖が皇位を立て皇統を垂れ、これによって天地は位置し万物は育成する。それが全宇宙に照臨し宇宙内を統御する所以は、今まで「斯道」に依ってきた。「宝祚<small>(皇位)</small>これをもって無窮に、国体これをもって尊厳に、蒼生<small>(人民)</small>これをもって安寧に、蛮夷戎狄<small>(諸外国)</small>これをもって率服<small>(服従)</small>す」。しかしそれでも歴代天皇は満足せず、外国を参照して善を為すことを楽しんだ。すなわち、西土の[[尭|堯]]・[[舜]]・[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]・[[周]]の治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と<ref name=":18" />。 「告志篇」では次のように述べた。そもそも日本は神聖の国であって、天祖(天照大神)天孫(歴代天皇)が皇統を垂れ皇位を建ててから、その明徳は遠い太陽とともに照臨し、皇位の隆盛は天壌とともに窮まり無い。君臣父子の常道から衣食住の日用に至るまで全て天祖の恩賚である。万民が永く飢えや寒さを免れ、天下に皇位を狙う非望の萌しが見られなかったのは有り難いことである。しかし数千年の久しさに盛衰あり治乱あり、戦国後期に至って天下の乱は極まった。東照宮(徳川家康)が三河に起って風雨に身を晒し艱難辛苦し、天朝を助け諸侯を鎮めた。二百余年の今に至るまで天下が泰平であり、人民が塗炭の苦しみを免れ、生まれながらに太平の恩沢を浴びていることは、これまた有り難いことである。「されば人たるものは、かりそめにも神国の尊きゆえんと天祖の恩賚とを忘るべからず」。天朝は天祖の日嗣であり、将軍は東照宮の神孫であり、不肖ながら我(徳川斉昭)は藩祖の血脈を伝え、おのおのは自分の先祖の家系を継承する。この点をよくわきまえ、天祖・東照宮の恩に報いんとするならば先君・先祖の恩に報いんと心掛けるほかにない、と述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/53 66-67頁]。</ref>。 「弘道館記」も「告志篇」も皇統が神聖であって万世に無窮であり、国体の尊厳であって君臣の名分が明らかであることを示し、これを体現するには先祖尊崇を根本義としなければならないと述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/53 67頁]。</ref>。 「弘道館学則」第1条に曰く、弘道館に出入りする者は弘道館記を熟読しその深意を知るべし、「神道」と「聖学」は一致し、忠孝の本はひとつであり、文武はわかれず、学問事業は効果が異ならない、と。また同第2条に曰く、「神道」「聖学」の意味は弘道館記にあるとおりである。すなわち、宝祚の無窮と君臣父子の大倫が天地とともにかわらないのは天下の大道、いわゆる「惟神」である。そして「唐虞三代の治教」は天孫が採用したものであって、これもまた人倫を明にするものである。両者は一致する。学ぶ者は宜しく「神を敬ひ儒を崇び」、もって「忠孝の大訓を遵奉すべし」と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/54 69頁]、J-TEXT「[http://www.j-texts.com/kinsei/kodo1.html 弘道館学則]」2019年9月閲覧。<br /></ref>。 嘉永6年([[1853年|1853]])に徳川斉昭は天皇に地球儀を献上した<ref name=":22" />。その時の上表文に、日本の建国の国是が生々発展にあること、神孫が永遠不変に統治する尊い国体であることを述べている<ref name=":19">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/54 69頁]。</ref>。上表文に次のようにある。 * 高天原に事始め、遠い皇祖の世々に、天津日嗣の事業として、[[八坂瓊曲玉]]のように巧妙に天下を知らし、[[八咫鏡|白銅鏡]]のように分明に山川海原を観て、遠い国を千尋の栲縄をもって引き寄せ、荒ぶる国を[[天叢雲剣|帯剣]]で平定した跡のように、今「現御神と天下知ろしめす我が天皇の大御代に当たりて」、仁恵は広くあまねく、天益人(天意により増える人民)は手を挙げて楽しみ合った。 * 思うにスサノオ尊は天壁の立つ極地を廻り、オオムナジ・スクナヒコナの二神は兄弟となって天下の国々を経営した。「しかるときは万国も固より我が神州の枝国とぞ云うべかりける」(つまり諸外国は神国日本から枝分かれした国である)。そうならば万国の有りさまを知らなくてはならない。(よって地球儀を献上する)。以上<ref name=":22">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/54 68頁]、</ref>。 [[藤田幽谷]]は徳川斉昭に仕えて31人目の彰考館総裁(修史責任者)となり、大義名分を高唱した。寛政3年([[1791年|1791]])18歳の時に『正名論』を著し、皇室が政事の外に超越して万古不易の尊位を保つ所以を論じ、名分を正し名分を厳密にすることが国体の本領であると説いた<ref name=":19" />。具体的には次のようにいう。曰く、天皇は国事に関与せず、単に国王の待遇を受けるだけであるというのはその実質を指している。しかし天に二日なく地に二王なし。よって幕府は王を称するべきではない。幕府は実質的に天下の政を摂している(代行している)から、名分上も摂政を称すべし、と。こうした藤田幽谷の『正名論』は幕府を弁護するものであって当時の時勢が分かる<ref name=":20">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/56 72頁]。</ref>。 [[会沢正志斎]]は藤田幽谷の門弟であり33人目の彰考館総裁となった<ref name=":20" />。識見高邁であり、公平な見地で国学を批判し儒学を考察し、両者の間に一家の国体説を樹立し、水戸学の国体尊厳説を大成し、近世国体論の極地に達したといわれる<ref name=":18" />。数々の著書があり、そのすべてが国体を論じ名分を説くものである。そのうち国体論として最も有名なものが『新論』である<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/56 72-73頁]。</ref>。 文政8年([[1825年|1825]])会沢正志斎は『新論』を書きあげ水戸藩主に献上した。現状を厳しく批判したため公刊を許されなかったが、秘かに筆写された。『新論』は冒頭に「国体」と題する上中下3章を設けた<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E8%AB%96-82783 新論]」2019年9月閲覧。</ref>。儒学でなく国学でもなく一個として独立した見地に立つ。後に[[栗田寛]]がこれを天朝正学と命名した。会沢正志斎は『新論』で皇国の尊貴、皇恩の宏大、これを奉体する国民の思想が人為でなく自然に生じることを説いた<ref name=":21" />。次のように述べる。 * 神州は太陽の出づる所、元気の始まる所、天日の嗣が代々皇位について永久に変わらない。もとより大地の元首であって万国の綱紀である。まことによろしく天下を照らし皇化を遠近に及ぼす<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054041/201 『大日本思想全集 第17巻』1932年、393頁]。</ref>。 * 第一に「国体」について謂う。これは神聖が忠孝をもって国を建て、そして武をとうとび民の命を重ずるに及ぶ<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054041/202 『大日本思想全集 第17巻』1932年、394-395頁]。</ref>。 * 帝王が四海を保ち長久に治め天下を揺るがさないために頼みとすべきところは、万民を威圧して一世を把持することではない。億兆(人民)心を一にして皆その上に親しんで離れるに忍びないと思うところにこそ誠に頼むべきである<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054041/202 『大日本思想全集 第17巻』1932年、395頁]。</ref>。 * 俗儒は、名分に暗く、明や清を華夏や中国と称して「国体」を汚辱する。あるいは時勢を追って名義を乱し、天皇を寓公(亡命者)のように見なし、上は歴代天皇の徳化を傷つけ、下は幕府の義理を害する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/56 73頁]。</ref>。 * 昔、天祖が始めて国を建て天下を皇孫に伝えるに及び手づから神器を授けて天位を千万世に伝える。天胤の尊厳を犯すべからず。君臣の分が定まる<ref name=":21">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/57 74頁]。</ref>。 * 忠孝が立って天人の大道が明らかに顕われる。忠をもって貴を貴とし、孝をもって親を親とする。億兆は心を一にして、上下は互いに親しむ。これこそが帝王が天下を保つために頼みとすべきところである。そして祖宗が国を建て基を建てる所以の大体である<ref name=":21" />。 会沢正志斎『迪彜篇』に収める国体論は『新論』に次いで広く読まれた。日本が尊い理由の第一は、万国のなかで日本だけが易姓革命がなく皇統連綿として神世から今に至るからであると論じた<ref name=":23">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/57 75-76頁]。</ref>。 * 万国は、それぞれ自国の君主を仰いで天とする。どの国も自国を貴び外国を賤しいとすることは同じわけだから、自国を尊び他国を夷蛮戎狄と呼ぶことはよくある習わしである。しかし万国はどこでも易姓革命というものがある。国が乱れるときは君主を殺害し、あるときは追放し、あるときは禅譲させ、あるいは世嗣の絶えるときは他姓の者に継がせる。その天とするところがたびたび変わるのだから、その天地というのも小天地であり、その君主というのも小朝廷である。 * 万国の中でただ神州(日本)のみは天地開闢してから天日嗣が無窮に伝えて一姓綿々としている。庶民が天と仰ぐ皇統は変わらない。その天とするところが偉大であることは宇内に比類がない。今この万民は、天地の間で無双の尊い国に生まれながら、わが「国体」を知らないでいいわけがない。 * 国の体というのは人の身に五体があるようなものであり、国の体を知らないのは自分の身に五体があるのを知らないのも同然である。 * 三種の神器のようなめでたい例は異域で聞かないことなので、神州の尊いことは宇内に無双であり、日嗣の君こそ宇内の至尊と称すべきである。以上<ref name=":23" />。 会沢正志斎は著書『下学邇道』の中で日本の地理上の位置、皇位の安泰などの点から神国日本の優秀を説いて以下のように述べる<ref name=":24">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/58 76-77頁]。</ref>。 * 一君二民は天地の道である。世界は広く万国は多いけれど至尊が二つであってはならない。東方は神明の舎、太陽の生ずる所、元気の発する所、季節でいえば春であり、万物の始まる所である。そして神州(日本)は大地の首にある。万国の首として四方に君臨すべきである。ゆえに皇統綿々として君臣の分は一定不変である。このことは万国にない。なぜなら天下の至尊は二つとないからである。一君二民の義に誰も疑問を抱かない。 * 神州(日本)は万国の元首である。皇統は二つとない。万民は一君を奉ずる。漢土は神州に次ぐが、その君臣は一定不変でありえず、上古から易姓革命があって、一君はただ万民を養うことができれば成功とされる。その他の夷蛮戎狄はどれも国を始めから作り変える。 * 天地の大道は一君二民の義である。万国の元首は二つとなく、万民一君を奉じる国は二つとなく、天の後胤を絶対に変えてはならず、他国に易姓革命がある。これは天下の道であり、勢いそうならざるをえない。以上<ref name=":24" />。 会沢正志斎『閑聖漫録』に尊王論がある。これによれば、世人は何かと尊王を口にするが王を尊ぶべき理由については漠然として真実を知らない。これは耳学問の弊害であるから今その実事を論じてみせよう、といって、以下の類いを尊王の義とした<ref name=":25">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/58 77-78頁]。</ref>。 * 東照宮(徳川家康)は政教を天下に施すにあたって、諸侯を率いて京都の朝廷に参じ、君臣の義を正した。皇室は戦国のころ窮乏していたが、東照宮は禁裏を拡張修理して皇室領を増やし、秘籍や宝器で散逸したものを元に戻した。 * 威公(水戸家初代[[徳川頼房]])は神道を崇敬した。 * 義公(水戸家二代徳川光圀)は神儒を学んだ。元旦に京都を遙拝し、親王や公卿の礼を正した。大社から村祠まで修理をくわえ由緒をただし正礼をおこなわせ、淫祠をこわして迷信をとりのぞいた。国史を修めては皇統を正閏し、蛮夷内外の名分を厳格にした。礼儀類典を編纂して朝廷に献上した。 * 以上の類いは全て尊王の義である<ref name=":25" />。 会沢正志斎『退食閑話』は弘道館記を和文で解説したものである。皇統の神聖を論じ、国体の尊厳を説き、人倫の大道が元初より具わっていたことを明らかにしたという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/59 78頁]。</ref>。弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧」とあることについて次のように解説した<ref name=":26">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/59 79-80頁]。</ref>。 *[[天照大神]]が[[三種の神器]]を授けてから君臣の義は正しく、[[八咫鏡|宝鏡]]を見るときは我(天照大神)を視るようにせよと命じてから父子の親しみは厚く、忠孝の教えはともに完全である。これによって人心が一定して他に移らず、天皇の位は千万年も変わらない。今日仰ぐところの至尊は即ち天照大神と同体であるので人情風気はおのずと厚く、皇位に野望を抱く者もない。これが宝祚の無窮である理由である<ref name=":26" />。 * 国体の尊厳というのは、海外に多くの国があるけれど天地の間に尊いものは一つしかない道理であるのに、外国において帝王を称する者はたびたび交替する。天朝(日本)の皇統綿々として天壌無窮であることは外国の及ぶところではない。このようなめでたい例についてその基本を考えると、天地の始めから、皇祖の詔勅にある君臣父子の大倫が正しく、人情風気も厚い。このように万国に勝れているので、おのずから国体も尊厳になるのである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/59 80頁]。</ref>。 *蒼生の安寧というのは、古言に惟神(かむながら)と言うように、古くは神聖の教えのままであり君臣父子の大倫が乱れなかったので、外国のような大乱がなかった。しかし、[[公家]]が遊楽にふけて神聖の教えが衰え、君臣父子の道も正しくなくなり[[保元の乱|保元]][[保元の乱|平治の乱]]がおきて朝廷の権威が衰えてから、戦乱が続いた。やがて東照宮(徳川家康)が禍乱を平らげたおかげで民は戦禍を免れて父母妻子を養って安穏に人生を送ることができるようになった。神聖の教えが正しく、君臣父子の大倫も衰えず、天下の乱も平和に戻った。これによって蒼生(人民)も安寧になったのである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} 80-[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/59 81頁]。</ref>。 会沢正志斎『江湖負暄』に「建国の大体、万世といえども変えるべからざる事」と題して、国体が変わるべきでない所以、および三種の神器と国体との関係を論じ<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/59 81頁]。</ref>、また「建国の大体を明らかにして天下の人心を一にする事」と題して、祀典(祭祀の儀式)を修めて民の迷信を絶ち、歴代天皇の祀典を興し、諸国の名祀を再興し、名賢功徳の神も祀典に列する等は建国の体に添うことを論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/61 83頁]。</ref>。 そのほか『正志斎文稿』所収の篇に国体に関する議論がある<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/61 83-86頁]。</ref>。以上、会沢正志斎の国体論について{{harvtxt|内務省神社局|1921}} がまとめたところによれば、その要点は、皇統連綿として上下が正しいこと、三種の神器が尊貴であること、皇国の地位が万国に優越して比類ないことであり、その行論は、一糸の乱れもなく1921年(大正10年)の当時でも加えるべき点は多くないという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/63 86頁]。</ref>。 [[藤田東湖]]は藤田幽谷の子であり会沢正志斎の門に入った。熱烈な尊王愛国の士であり、その有名な「回天詩史」「正気歌」などの詩歌は、神州の光輝や国体の尊厳を絶唱するものである。藤田東湖はまた『[[弘道館記述義]]』を著して弘道館記の意義を述べ、日本の国体において皇室は必ず日神の一系であることを論じて次のように言った<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/63 86-87頁]。</ref>。曰く、古くは天皇を生じてスメラミコトという。スメラという言葉は統御をいう。ミコトという言葉は尊称である。おそらく宇内を統御する至尊という意味である。天業を称してアマツヒというのは天日である。ツギは継嗣である。これはおそらく日神の後胤でなければ皇緒を継げないことを言う。天日の継嗣は世々神器を奉じて万姓に君臨する。群神の後胤も職を世襲して皇室を輔翼する。これはおそらく神州の基礎を建てる発端である。嗚呼(ああ)、天祖天孫が創業垂統する所以は威厳があって偉大である。宝祚の隆の天壌無窮は偶然ではない、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/64 88頁]。</ref>。藤田東湖はまた会沢正志斎箸『迪彜篇』に序文を寄せて、日本の建国の体はその根底から西土と異なり、その尊厳は確乎として他国と比較にならないことを述べた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/64 88-89頁]。</ref>。 [[豊田松岡]]も会沢正志斎の門に入り、彰考館総裁になった。藤田東湖の著書『弘道館述義』に序文を寄せて、いわゆる神聖大道の一源なるものを説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/64 89-90頁]。</ref>。また藩主に献じた「禦虜策」において、日本国の神聖なる所以、神明の尊厳を民に知らせて邪教の入る隙のないようにすべきことを論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/65 90-91頁]。</ref>。 === 吉田松陰 === [[吉田松陰]]は幕末の志士として有名である。[[陽明学]]に依拠し、その思想系統を[[山鹿素行]]に受け、また[[山崎闇斎]]流の影響も受けた。吉田松陰の勤王運動はその国体論に由来するといわれる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/67 94頁]。</ref>。その国体に関する精神は幕末志士の間で基盤となって明治維新につながった<ref name=":28" />。 吉田松陰は安政3年8月22日に山鹿素行『武教全書』の講義を開始し、その主旨を述べるにあたって皇国の尊厳と士道との関係を論じ、また国々にはそれぞれ特殊の道があり、他国の道を必ずしも日本に用いることができないわけを次のように論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/67 95頁]。</ref>。<blockquote>国体というは、神州には神州の体あり、異国は異国の体あり。異国の書を読めば、とにかく異国の事のみ美と思い、我が国をば却って賤しみて、異国を羨むように成り行くこと、学者の通患にて、これ神州の体は異国の体と異なるわけを知らぬゆえなり。ゆえに晦菴の小学にて前にいう士道は大抵知れたれど、これは唐人の作りたる書ゆえ、国体を弁ぜずして遙かに読むときは、同じく異国を羨み我が国体を失うように成り行くことを免れざること、先師深く慮りたまう。これ武教小学を作る所以なり。これをもって国体を考うべし。さて、その士道国体はその切要の事なれば、幼年の時より心掛けさすべきこと、これ学の本意にて志士仁人に成るようにとの教誡なり。(武教小学開講主意)<ref name=":28">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/68 96頁]。</ref></blockquote>吉田松陰は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。 吉田松陰は[[安政の大獄]]により安政6年(1859)10月27日に刑死するが<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0-22146 吉田松陰]」2019年9月閲覧。</ref>、その年の春に獄中で「坐獄日録」を記し<ref>「[http://www.winbell-7.com/roman/mokuroku/win-1/syoin/win0020002.html 照顔録 附坐獄日録(吉田松陰)明治期]」ウィンベル教育研究所、2019年9月。</ref>、皇統の一系と臣道との関係について次のように論じた<ref name=":27">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/67 94-95頁]。</ref>。<blockquote>皇統綿々、千万世に伝わりて変易なきこと偶然にあらずして、即ち皇道の基本もまたここにあるなり。天照大神の神器を天孫瓊々杵尊に伝えたまえるや、宝祚之隆、与天壌無窮の御誓あり。されば漢土天竺の臣道はわれ知らず、我が国においては宝祚もとより無窮なれば、臣道もまた無窮なること深く思いを留むべし。<ref name=":27" /></blockquote> === 幕末の南北正閏論 === 南北朝正閏論は幕末に盛んになった。かつて徳川光圀が南北朝の正閏をただしたとき諸学者の様々な議論を呼んだ。ある者は南朝正統論を唱え、ある者は北朝を擁護し、ある者は南北両朝ともに正統とした。特に幕末に及んで議論が盛り上がった<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/65 91-92頁]。</ref>。[[山県太華]]は天保10年に『国史纂論』を公にし、その中で南北朝の正閏を論じ、三種の神器の所在によって皇統の正閏が定まり、その間に疑義を許さないのが国体の根本義であると説いた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/66 92-93頁]。</ref>。速水行道は文久元年『皇統正閏論』の序文において天位の唯一無二であることが国体の本然であるとして南朝の正統を論じた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/66 93-94頁]。</ref>。 == 明治国体論 == ===帝国憲法以前=== 慶応3年(1867)9月、前[[土佐藩]]主[[山内容堂]]が大政奉還の事を建白して「天下万民と共に皇国数百年の国体を一変し至誠をもって万国に接し王政復古の業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉りそうろう」と述べた。当時の政治家は国体を重要なものと思わず、山内容堂は「国体変換」の文字を祐筆[[福岡孝弟]]に書かせた。当時事務を所管した福岡孝弟は「国体変換」と言っていた<ref>{{harvtxt|金子|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/49 63頁]。</ref>。[[明治維新]]の始め、福岡孝弟も起草に関わった[[五箇条の御誓文]]は、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づき、智識を世界に求めることを誓った<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/81 『法令全書』明治元年64頁]。</ref>。 維新の前後においては主に[[アメリカ合衆国|米国]]と[[イギリス|英国]]を先進国としてその文化を仰いだ。米国は日本を開国させた後、日本を新参の弟子かのように指導した。英国は米国と同言語であり、当時はインドを拠点として盛んに東方に進出している時期であった。日本では米英の政治書や修身書が翻訳され、[[福沢諭吉]]が英学を根拠に功利主義を掲げて多くの通俗書を著わし実用学を鼓吹した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/82 124-125頁]。</ref>。 英米の実用功利主義が一世を風靡する一方で、日本固有文明の精髄とされた国体が全く忘れ去られたわけでもない。そもそも王政復古の原動力は主に復古国学派の勃興によるものであって、明治維新の政治は国体の本領に返るものと称された。平田派国学者で地位を得た者も少なくなかった。たとえば[[矢野玄道]]、[[大国隆正|大国正隆]]、[[福羽美静]]、[[平田鐵胤|平田鉄胤]]、[[六人部是香]]などである。国体観念の中核というべき神祇は、明治新政の初めにおいて重んじられた<ref name=":29">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/82 125頁]。</ref>。 新政府は、太政官七科に神祇科を置き、さらにこれを神祇事務局に改組した。明治2年5月には皇道興隆について天皇から下問する形式により、「祭政一致」「天祖以来固有の皇道復興」「外教に蠱惑せられず」と唱えた<ref name=":30">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/83 126頁]。</ref>。同年7月太政官の上に[[神祇官]]を置いて神祇尊崇を示し<ref name=":29" />、同年10月に[[宣教使]]を置き<ref name=":30" />、明治3年1月3日(1870年2月2日)に[[大教宣布]]の詔を発し<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83-91002 大教宣布]」百科事典マイペディアの解説、2019年9月閲覧。</ref>、宣教使に「よろしく治教を明らかにし、もって惟神の大道を宣揚すべき」ことを命じた<ref name=":31">コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83-91002 大教宣布]」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説、2019年9月閲覧。</ref>。これは国体を発揮することにほかならないという<ref name=":30" />。 大教宣布は、祭政一致や国体強化を目指した国民教化政策であったが<ref name=":32">コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%95%99%E5%AE%A3%E5%B8%83-91002 大教宣布]」デジタル大辞泉の解説、2019年9月閲覧。</ref>、宣教使の員数不足や教義の未確立などから終始不振であった<ref name=":31" />。神祇官は明治4年8月に神祇省に降格され<ref name=":33">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/84 128頁]。</ref>、大教宣布は仏教側の反対などもあって挫折する<ref name=":32" />、仏教各宗は連署して、神官と合同して宣教の任に当たりたいと政府に請願する。政府は明治5年3月に神祇省と宣教使を廃止し、教部省を置き、翌4月に神官と僧侶を合併して教導職を置く。教部省は宣教を掌り、教導職は宣教の任に当たる。神官と僧侶が合同して宣教するにあたっては、その教旨の基準を定める必要があるということで[[三条教憲]]が定められる。これは矢野玄道『三条大意』に基づくもので、おそらく矢野玄道ら皇学派の人々がその議に関わったという<ref name=":33" />。三条教憲の各条は次の通りであり、いずれも国体の趣旨に依拠している<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/84 128-129頁]。</ref>。 # 敬神愛国の旨を体すべき事 # 天理人道を明らかにすべき事 # 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事 三条教憲を宣伝するために著された書籍は数多い。いずれも国体の基本と神祇が不可分であることを説いた。これらの書で「道」「皇道」などの語はおよそ神道という意味に近く、「国体」という語も神道の行われる有りさまを指したものであり、多くは神代の状態を意味した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/84 129頁]。</ref>。 1873年(明治6年)10月[[新聞紙条例|新聞紙条目]]が発布される。その第10条に「国体を誹し国律を議し、および外法を主張宣説して、国法の妨害を生ぜしむるを禁ず」とあるのは官権が民論に対抗したのである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/86 132-133頁]。</ref>。 国体を主題とした書籍として、1874年(明治7年)に田中知邦『建国之体略記』、太田秀敬『国体訓蒙』、1875年(明治8年)に宇喜多小十郎『国体夜話』、石村貞一『国体大意』などがある。いずれも神話を敷衍し、神代の状態を述べたものである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/85 130頁]。</ref>。 1874年(明治7年)[[加藤弘之]]は『国体新論』を発表し、当時日本に流入し始めた[[フランス]]流の民権平等説に従って、従来の保守的国体思想に反対した。福沢諭吉の「天は人の下に人を造らず人の下に人を造らず」云々と同じ思想に基づき、さらに激越な論調で国学者の国体観を批判した<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/85 131-132頁]。</ref>。具体的には以下の通りである。 *従来称する国体は野鄙陋劣である<ref name=":37" />。 **文明開化に至らない国々において、国土は全て君主の私有物であり、人民は全て君主の臣僕であるものと思い、これを国体の正しい姿とすることは、野鄙陋劣の風俗といわざるをえない<ref name=":34" />。 **君主も人民も人であり、決して異類の者ではないのに、その権利に天地懸隔の差別を立てるのは何事か。こんな野鄙陋劣の国体に生まれた人民こそ不幸の極みである<ref name=":34">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/4 2頁]。</ref>。 **人民もまた、こんな浅ましい国体をも決して不正であるとは思わず、君主の臣僕となって一心に奉事する。このため多少の虐政があっても国乱の起ることなく泰平に長く続く国もあるが、もとより不正な国体であるので、決して人民の安寧幸福を得るに至らない<ref name=":34" />。 **日本や漢土などで古来から野鄙陋劣の国体を是認し養成してきたことは実に嘆かわしい。仁徳天皇の「君は民をもって本と為す」と宣う詔勅などは感歎すべきであるが、これによって国体を改正するまでには至らなかった<ref name=":35">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/5 3頁]。</ref>。 ** 本邦において国学者流の輩の論説は厭うべきものが多い。国学者流の輩は、愛国に切実なあまり皇統一系を誇るが、惜しいことに国家君民の真理を知らない。結局、国土人民は全て天皇の私有臣僕であるとして、様々な牽強附会(こじつけ)の妄説を唱え、およそ本邦人民は天皇の勅命であれば何でも甘受するのを真誠の臣道であると説き、これらの姿をもって我が国体と目し、これをもって本邦が万国に卓越する所以であるという。その見は野鄙であり、その説は陋劣であり、実に笑うべきものである<ref name=":36" />。 **本邦が皇統一系であって過去に革命がなく今後も天壌無窮であることは望ましいことだが、そうであっても国土人民を天皇の私有臣僕とするような野鄙陋劣の国体を我が国体とする理は決してない<ref name=":36">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/6 4頁]。</ref>。 *欧州においても、近古の始めまで国土人民を一君主の私有臣僕とした国体であった<ref name=":40" />。 **欧州では、近代に人文知識が開けるにしたがい、旧来の陋劣野鄙な国体は次第に廃滅し、現在の公明正大の国体になった<ref name=":40">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/7 5頁]。</ref>。 **初め英国のみ他の欧州各国に卓越したが、その後その他の国々も英国に倣うようになった<ref name=":38">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/12 10頁]。</ref>。 **[[プロイセン]]王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は、当時各国の国体が天理人性に反し野鄙陋劣であるのを嘆き、公正明大の国体を論説し「われわれ人君は天下を私有し人民を臣僕とする者ではない。国家第一等の高官にすぎない」と言った。フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の「朕は天神が現出した者(現人神)である」という暴言と比較してその公私正邪は言うまでもない<ref name=":39">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/12 10-11頁]。</ref>。 *欧州の開明論をもって国家君臣の真理を概論し、それによって公明正大なる国体を示そう<ref name=":37">{{harvtxt|加藤|1874}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/9 7頁]。</ref>。 **国家君民成立の理は、安寧幸福を求める人の天性にある。 **この理に合う国体はどういうものかというと、国家において人民を主眼と立て、特に人民の安寧幸福を目的と定め、君主と政府はこの目的を遂げるためにこそ存在するということを国家の大主旨とする国体をいう。 **これに対し国土人民を君主の私有臣僕とした従来の国体は天理人性に背反する。 **たとえ万世一系の本邦であっても、天皇と政府はこの理に従って職務を尽くす必要がある。以上<ref name=":38" />。 *国体と政体は異なる。国体は眼目であり、政体は眼目を達する方法である<ref name=":39" />。 **国体は万国ともに理に背くことは許されないが、政体は必ずしも一つである必要がない。 **君主政体でも民主政体でも公正明大の国体を維持育成できればよく、政体の可否はその国の沿革由来と人情風習によって定めればよい。 **欧州各国の多くは立憲君主政体を用い、米州各国の多くは立憲民主政体を用いる。 **君権無限の政体は君主政府の暴政を生じやすい政体であるので良正の政体といえないが、開化未全の国においてはこの政体でもしばらく必要とせざるをえない。しかし、たとえ君権無限の国であってもその国体は理に反することを許されない。以上<ref name=":39" />。 以上のように論じる『国体新論』について、[[岩倉具視]]が7年後に回想したところによると、それは[[島津久光]](保守主義者)が[[左大臣]]だった時で大いに議論になったが、その時は誰も頓着しなかったという<ref>{{harvtxt|遠山|1988}} によると、佐佐木高行日記『保古飛呂比』10、明治14年11月15日条に「岩公曰く、右新論は、島津久光左大臣の時、大に議論有りたれ共、其時は誰れも頓着せざりし也」とある。</ref>。また{{harvtxt|内務省神社局|1921}} によれば、『国体新論』は、それまで一般に日本の国体を誇りに思っていた日本国民にとって青天の霹靂であり、あまりに奇抜で過激であったので世に容れられることはなかった。加藤弘之は[[明治14年の政変|明治14年]]に同書を撤回し、同一説を二度と発表しなくなった。しかも、国会開設論に反対し、[[天賦人権説]]に反駁し、[[キリスト教]]を攻撃するなど、『国体新論』の著者とは全く別人のようになったという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/86 132頁]。</ref>。 [[1876年]]([[明治]]9年)8月、[[浦田長民]]が『大道本義』を著す<ref name=":41">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/86 133頁]。</ref>。浦田長民は伊勢神宮の少宮司であり、[[神宮大麻]]の全国配布などに功績を残した<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%A6%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%B0%91-1058413 浦田長民]」朝日日本歴史人物事典の解説、2019年9月閲覧。</ref>。『大道本義』では、一種の神道説を展開し、その中で神祖宏業の遺蹟と皇位尊厳との関係について述べた<ref name=":41" />。 [[1876年]]([[明治]]9年)9月、[[元老院 (日本)|元老院]]に憲法起草を命ず<ref>''「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781065/182 元老院ヘ憲法起草ヲ命セラルル事]」''皇后宮職『岩倉公実記』下巻、1906年、1375頁。</ref>。明治天皇は元老院議長[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]を召し、右大臣岩倉具視の侍立のもと、我が建国の体(国体)に基づき広く海外各国の成法を斟酌して国憲(憲法)を起草せよとの勅語を下したのである。元老院では国憲取調委員と国憲取調懸を設けて編纂に努力し、翌月には第一草案を脱稿する。その後再度、稿を改める<ref name="名前なし-1">{{harvtxt|渡辺|1939}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079281/39 18-19頁]。</ref>。 [[1880年]](明治13年)12月、元老院が国憲案を天皇に上進する。この国憲起草は日本で初めてのことであり模範とすべきものがなく、全て西洋を模倣したのであって、国体を無視した箇条も少なくなかった。伊藤博文はこの草案を見て、これは各国憲法の焼き直しにすぎないのであって我が国体人情に適したものではないと考え、右大臣岩倉具視に書簡を出してこのことを痛論し、天皇の思し召しをもってこれを未定稿のまま中止させようとした<ref name="名前なし-1"/>。同月の伊藤博文の奏議に「ただ国会を起してもって君民共治の大局を成就する甚だ望むべきことなりといえども、事いやしくも国体の変換に係る。実に昿古(空前)の大事、決して急躁をもって為すべきにあらず」とある<ref>{{harvtxt|金子|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/50 64頁]。</ref>。 [[1881年]](明治14年)[[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]が発さられる。その事情は次のようであった。これより先、[[開拓使官有物払下げ事件]]が起こり、さらにそれが国会開設問題に飛び火して、薩長の専横のために国会が開設されないとして薩長藩閥を非難する声が高まった。薩長の参議が国会開設に慎重であるの対し、参議の中で[[大隈重信]]が一人だけ国会早期開設の意見書を奉呈していたことが知れ渡り、人々の期待が大隈に集まった。薩長の人々はこれを大隈の陰謀に起因すると考え、10月11日に大隈を除く参議が大臣らとともに開拓使官有物払下中止と大隈追放と国会開設の三事を明治天皇に奏請した。国会開設の奏議は、自由民権運動に対する明治政府首脳部の反動を示すとともに日本憲法の特色を示している点で重要である。特に文中に「憲法の標準は建国の源流に依るはいうを待たず、願わくは各国の長を採酌するも、しかも我が国体の美を失わず、広く民議を興し公に衆意を集めるも、しかも我が皇室の大権を墜さず、乾綱を総覧し、もって万世不抜の基を定める事」とあるのは注意を要する。明治天皇は奏議を受け入れ、翌12日に国会開設の勅諭を発した<ref>{{harvtxt|渡辺|1939}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079281/39 22-23頁]。</ref>。 <blockquote>〔前略〕顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖、わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。〔後略〕</blockquote> 来たる明治23年(1890年)を期して国会を開く旨が公布されたので、それまで民撰議会開設を一大標語としてきた民権論者はその気勢をそがれた感じになった<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/90 140頁]。</ref>。 [[金子堅太郎]]の回想によれば、[[1884年]]([[明治]]17年)9月に明治政府内で国体変換について議論が行われ、その経緯は次のようであったという。憲法起草を命じられた[[伊藤博文]]が欧州で憲法調査を終えて帰国した後、この月の閣議で初めて憲法制定について意見を述べ、その時「議会を開けば国体は変換する」と説いた。参議佐佐木高行は「国体の変更には我々は不同意である」と言って反対したが、伊藤の雄弁と博識に追い捲られ、閣議は伊藤の意見で決まりそうになった。閣議の後、佐佐木は制度取調局の金子堅太郎に国体の字義を尋ねて以下のような書簡を送った<ref name=":53" />。 * 国体とは欧米でも唱えるものなのか。いま国体国体と申すのは何何であるのか。 * ある人(伊藤博文)曰く、国体とは、一系の天子が千歳連綿、いわゆる天壌無窮に伝えるのみを意味するのではなく、日本国なり日本人なり言語なり風俗なりを意味するのであると言うのを聞いた。これに小生(佐佐木高行)は甚だ疑惑を生じた。 * 国体の字義は漢語であるので、漢国で何の時から唱えたものか漢学者に聞いてみたが、漢学者のほうが却って心得がないということであった。分けがわからない。 * 欧米に国体に相当する語はないかと思うし、いま国体国体と申すのは近年のことかとも思う。内密に意見を聞きたい。以上<ref name=":53">{{harvtxt|金子|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/50 65-66頁]に引く欠年9月20日金子あて佐佐木高行書簡。原本は宮内公文書館所蔵。</ref>。 金子は佐佐木の官邸を訪ねて佐佐木の疑問に答え、さらに意見書をまとめて佐佐木に渡した。金子の意見は次のようであった。 *国体は時勢とともに変更するという説は、国体と政体とを混同することに起因する。日本で国体と称するものは日本固有の政治的名称である。たとえば水戸の弘道館記に「宝祚以之無窮、国体以之尊厳」というのがそれである。国体は万世一系の皇統が皇位を無窮に継承するという日本特有の政治原則である<ref name=":42">{{harvtxt|金子|1922}} 68-70頁に引く金子堅太郎「意見書」(明治17年9月)とされるもの。</ref>。 *欧米でこれと同一の意義を有するものはない。唯一、英国の[[エドマンド・バーク]]は論説中でフランス革命が「英国の基礎たる政治原則」(ファンダメンタル・ポリチカル・プリンシプル・オフ・イングランド)を破壊すると論じた。この原語こそ日本の国体の意義に近い<ref name=":42" />。英国は君民共治の国柄であり、君民共同して政治をするのが英国の政治の根本、すなわち日本にて国体というものと同じである<ref>{{harvtxt|金子|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/51 67頁]。</ref>。 *欧米の政治学によれば一国の政体は時勢とともに変更することがある。日本においても政体は時勢とともに変更したことがあったが、国体は永久に変更すべきではない<ref name=":42" />。 佐佐木は金子の意見をもとに後日の閣議で伊藤に反撃した。伊藤は佐佐木に金子が入れ知恵したことを知り、制度取調局に行って金子に問い質した。「おい金子、君は国会を開いても国体が変更せぬと言ったそうであるが、それは間違っておる。憲法を布けば国体は変更するものなり。国体というのは英語のナショナル・オルガニゼーションである。鉄道を敷けば山の形が変わる。君が洋服を着れば姿が変わる。西洋の文明を輸入すれば日本の言葉も変われば家も変わる。議会を開けば国体も変わるではないか」と言い、金子は「イヤ、それは閣下のが間違っております。欧州の学者のいう政体は御説のとおり変更するけれども、日本にていう国体は決して変更してはなりませぬ」「閣下は万世一系の天皇が統治せらるる国体を改める御考えですか」等と反駁し、互いに譲らず一時間ほど議論したという<ref>{{harvtxt|金子|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/53 70-72頁]。</ref>。 === 帝国憲法と教育勅語 === 国体論は[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]と[[教育勅語]]により制度と精神の両面で定式化される<ref name=":44" />。帝国憲法は[[立憲主義]]を採る一方で、天皇の大権を幅広く定め、日本国民を臣民と位置付ける。教育勅語は臣民の教化をはかり、国体論の経典となる<ref>{{harvtxt|鹿野|1999}} 122頁。</ref>。 1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布される。その際の憲法発布勅語は日本の国体についてその根本を尽くしたといえる<ref name=":54">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/106 173頁]。</ref>。憲法発布勅語にいう<ref>[[s:大日本帝國憲法#%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%99%BC%E5%B8%83%E5%8B%85%E8%AA%9E|1889年2月11日大日本帝国憲法発布勅語]]。</ref>。<blockquote>朕、国家の隆昌と臣民の慶福とをもって中心の欣栄とし、朕が祖宗に承くるの大権により、現在および将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す。おもうに、我が祖、我が宗は、我が臣民祖先の協力輔翼により、我が帝国を肇造し、もって無窮に垂れたり。これ我が神聖なる祖宗の威徳と、ならびに臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉(とな)い、もってその光輝ある国史の成跡を胎(のこ)したるなり。朕、我が臣民は、すなわち祖の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、その朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、あいともに和衷協同し、ますます我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし、この負担を分つに堪うることを疑わざるなり。</blockquote>帝国憲法の条文では、大日本帝国は万世一系の天皇が統治し(第1条)、皇位は皇男子孫が継承し(第2条)、天皇は神聖にして侵すべからず(第3条)、天皇は国の元首にして統治権を総攬し憲法の条規によりこれを行う(第4条)と定める。帝国憲法により天皇大権に関することが確定し、これ以後、国体を論じる者は誰でもこの憲法を根拠とする<ref name=":54" />。つまりこの憲法の解釈に託して国体を論じる者が続々と出る<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/106 173-174頁]。</ref>。 伊藤博文の私著の形で刊行された半公式注釈書『[[憲法義解]]』は次のように説く。 * 天皇の宝祚(皇位)は祖宗に承けて子孫に伝える。国家統治権の存ずる所である。そして、憲法に天皇大権を掲げて条文に明示するが、これは天皇大権が憲法によって新設されることを意味するのではなく、我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なることを示すのである<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081771/6 『帝国憲法義解』第1章天皇解説]。</ref>。 * 第1条 大日本帝国は万世一系の天皇が統治する。 ** 神祖(神武天皇)が建国して以来、時世に盛衰治乱もあったが、皇統は一系であり皇位は天壌無窮である。本条に立国の大義を掲げ、日本帝国は一系の皇統とともに終始し、古今永遠に唯一無二で恒常不変であることを示し、君民の関係を万世に明らかにする。 ** 統治は皇位にある。大権を統べて国土臣民を治めるのである。古典にいわゆるシラスとは、統治の意味にほかならず、おそらくは、祖宗(歴代天皇)が天職を重んじ、君主の徳は国土臣民を統治することにあって、一人一家が享受する私事でないことを示したものである。これが憲法の根拠であり基礎である。 ** 国土と人民とは国が成立する所の元質であり、一定の領土は一定の邦国を為し、一定の憲法はその間に行われる。一国は一個人のようなものであり、一国の領土は個人の体躯のようなものである。これによって統一完全の版図を成す<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081771/7 『帝国憲法義解』第1条解説]。</ref>。 * 第2条 皇位は皇室典範の定めにより皇男子孫が継承する。 ** 皇位継承の順序については新たに勅定する皇室典範において詳しく定める。これを憲法の条文に掲げずに皇室の家法とするのは、将来の臣民に干渉させないことを示す<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081771/8 『帝国憲法義解』第2条解説]。</ref>。 * 第3条 天皇は神聖にして侵すべからず。 ** 天皇は、その天性として神聖であって臣民どもの上にあり、つつしんで仰ぐべきであって干犯すべきでない。ゆえに君主は法律を尊重しなければならず、法律は君主を問責する力をもたない。 ** 天皇は、単に不敬をもってその身体を侵害してはならないだけでなく、さらに批判や評論の対象外とする<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081771/8 『帝国憲法義解』第3条解説]。</ref>。 * 第4条 天皇は、国の元首にして、統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行う。 ** 統治の大権は天皇が祖宗に承けて子孫に伝える。立法と行政は何事も天皇がその綱領を総て握る。これは例えば人身に手足や骨々があって神経回路の本源が頭脳にあるようなものである。よって大政の統一は、個人の心が一つであるのと同じである<ref name=":55">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081771/8 『帝国憲法義解』第4条解説]。</ref>。 ** 統治権を総攬するというのは主権の体であり、憲法の条規によりこれを行うというのは主権の用である。体があって用がなければ専制に失い、用があって体がなければ散漫に失う<ref name=":55" />。 [[穂積八束]]が留学から帰国して早々に帝国大学総長から委嘱をうけ[[帝国憲法]]発布の翌々日から帝国大学法科大学にて「帝国憲法の法理」を講演する<ref>{{harvtxt|上杉|1913}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952351/99 99頁]。講演筆記は穂積八束「帝国憲法ノ法理」『国家学会雑誌』第3巻第25号(明治22年3月)-第31号(同年9月)所載、{{harvtxt|上杉|1913}} 11-99頁所収。</ref>。帝国憲法第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」について「本条の主意は国体を定むるにあり。国体を定むるとは統治権の主体と客体を定むるということなり。本条の明文によれば統御の主体は万世一系の天皇にあり、しかして統御の客体は大日本帝国にあり」<ref name=":49">{{harvtxt|上杉|1913}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952351/37 19頁]。</ref>、「万世一系とは公法上いわゆる正統(レヂチメート<ref>legitimate(英・羅):語源はラテン語「法で定められた」</ref>)たることを決したるなり。我が国体にては初代天皇からの皇統が万世一系の正統の君主であるという意なり。他国の憲法においては王朝(ダイナスチノー<ref>dynasty(英)語源はギリシャ語「力、支配権」</ref>)すなわち国王の血統を掲ぐるを通例とすれども、我が邦の憲法には別に朝系を掲ぐるの必要なし。すわなち我が国体の正統は万世一系の天皇であるという主義を表出したまでである」と説く<ref>{{harvtxt|上杉|1913}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952351/38 21頁]。</ref>。帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」については「君主は即ち国家なり。国家は統御の主体なり。もしこれに向かって権力を適用する者あらば、国家は則ち国家ならず。権力をもって侵すべからずとは国家固有の性質なり。神聖にして侵すべからずとは、天皇すなわち国家の本体をなす所の国体なるがゆえなり」と説く<ref>{{harvtxt|上杉|1913}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952351/40 24頁]。</ref>。 [[有賀長雄]]は帝国憲法の講義において、万世一系という語はおそらく大日本帝国憲法のみであって他国の憲法に存在できないものであり、これこそ日本の国体がシナや西洋の国体と異なることろである、と説く<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/107 175-176頁]。</ref>。 憲法発布のころから[[国粋主義]]が勢いを増す。明治の水戸学者[[内藤耻叟]]は1889年(明治22年)10月に『国体発揮』を著し、我が国の体面で他国に真似できないところは、皇室が土地所有の主・人民の祖先・教化の本・衣食の原であることによると述べる。穂積八束は1890年(明治23年)5月に国家学会雑誌で国家(即天皇)全能主義を主張する。また同月、皇学を称する一派は惟神学会を組織し機関誌『随有天神(かむながら)』を発行する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/108 176頁]。</ref>。こうした動きと時を同じくして教育勅語が渙発される<ref name=":56">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/109 179頁]。</ref>。 1890年(明治23年)10月、明治天皇が教育勅語を下す。先に帝国憲法により法理上から国体の根本を示したのにくわえ、さらに教育上から諭すものであり、ここに道徳的な国是を定め、国体に関して不動の解釈を与えた。教育勅語は明治天皇の意思より出たといっても、その一方で国粋主義流行の結果でもある。またその後の国粋主義を涵養する原動力ともなる。勅語に宣わく「朕おもうに、わが皇祖皇宗、国をはじむること宏遠󠄁に、徳をたつること深厚なり。わが臣民、よく忠に、よく孝に、億兆こころを一にして、世世その美をなせるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す」という。ここにおいて教育勅語を基礎として国体を論ずることが盛んになり、勅語衍義などの解説書が続々と発表される<ref name=":56" />。 === 宗教教育衝突問題 === 教育勅語渙発と同じ月、加藤弘之が国家学会雑誌に論文「国家と宗教の関係」を発表する。同論文に以下のようにいう(大意)<ref name=":65">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/110 180-181頁]。</ref>。<blockquote>神道は仏教や耶蘇(キリスト教)に比べて宗教として最も劣るから、仏教や耶蘇に圧倒されるのは当然である。神道がこのように圧せられるは日本の国体と大いに関係がある。神道は天皇の祖先や人民の功労者を祭るものだからである。 将来、神道が宗教として耶蘇に圧倒されると、皇室の権威に関係するので事態は容易でない。このため、どこまでも従来のどおり神道を宗旨の外に置く必要ある。耶蘇教徒であっても天皇の先祖である神に拝礼することは耶蘇の主義に背くことにならないだろう。</blockquote>以上のように論じる加藤弘之は、その3年前に「徳育方法案」と題して演説し、神仏儒に耶蘇を併せて小学校の徳育科に施すべしと主張していた。加藤弘之が所論を豹変させることはいつものことであるが、これも時勢の変遷を反映したものと見ることができる。後年にいわゆる「加藤の耶蘇いじめ」はここに発端する<ref name=":65" />。 教育勅語を全国の学校に遵奉させることになると、唯一神を信仰するキリスト教徒は天父以外に頭を下げないためこれを喜ばず、キリスト教系の学校において教育勅語の尊重や天皇の御真影への拝礼を拒む者があった。またそれと直接関係なくても、明治国家の教育に反抗し、国体観念と相容れない思想をもつキリスト教徒もいた。1892年(明治25年)10月、井上哲次郎は、キリスト教が教育勅語と国体に背戻するとという意見を語り、翌月その意見を『教育時論』に載せる。これがいわゆる[[宗教教育衝突問題]]の発端である<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/110 180頁]。</ref>。 そしてキリスト教徒が騒ぎ始めると、井上哲次郎は「教育と宗教の衝突」という一文を書いて二十数種の雑誌で発表し、さらに増補して単行本とし翌年4月に公刊する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/110 181-182頁]。</ref>。同書で以下のように述べる。 * 教育勅語は全く国家主義に立脚する。しかし我が国の耶蘇(キリスト)教徒は教育勅語奉戴に反対し御真影拝礼に反対する。耶蘇教は徹底して非国家的であるから、これも当然の帰結である。 * 耶蘇教は博愛を主旨として家族も他人も区別しない。現世を捨て来世の自己幸福を願う利己的精神であるので父母を重んぜず先祖崇拝も斥ける。神の外は一切平等なので忠君の観念がなく、国家の興亡にも関心がない。このため欧州においても早くもその実力を失ったのである。しかし我が国のキリスト教徒はその事情に無知である。いたずらに我が国体に反することを文明とし、これを信じない者を野蛮ととする。 * 教育勅語は国家主義を標榜し国体の尊厳を保護しようと欲する。これに耶蘇教が一致することはないだろう。仏教が我が国の精神に同化したように耶蘇教も同化するならば、あながち排斥すべきではない。すでに耶蘇教は我が国体に矛盾せず、また忠君の教えを含むと弁護する者がいるが、牽強附会(こじつけ)でしかない。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/110 182-183頁]。</ref>。 これに対してキリスト教徒は全力で争い、仏教家も参戦し、学者も教育家も文筆家も皆この問題に口を挟み、単行本だけでもキリスト教を排斥する側が二十数種、これを弁護する側が十数種、その他に新聞・雑誌・講演にこれを論ずるものは数百種にのぼり、侃々諤々として議論が続く。この議論を総じて見ると、排斥側は井上哲次郎の所論を祖述するものであり、弁護側はこれに答えて、聖書にも忠孝を標榜する語が一つ二つあるとか、宗教の分野は政治教育の類いと全く別分野であり両者が衝突することはないとか、キリスト教は非国家主義であるが反国家主義でないとかと弁じる。排斥側がキリスト教の社会上政治上に害を及ぼした例を挙げると、弁護側は西洋文化の輸入、女子教育の向上、学校外の道徳心の涵養などは主にキリスト教のおかげであると応じる。弁護側が非キリスト教徒を旧弊・頑迷・退歩であると蔑むと、排斥側は、理学が進歩し進化論の発達した今日において迷信にすぎないキリスト教を今さら新思想であるともてはやす信徒こそ最も頑迷であると罵る。最後は論敵の人格攻撃に及び、互いに犬糞的応酬をするに至る<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/110 183-184頁]。</ref>。 * (排斥側)磯部武者五郎「政教時論」に曰く、キリスト教は我が国体、すなわち我が国家の特性に適合しない。我が国体は万世一系の天皇を奉戴するを唯一の元素とする。キリスト教は唯一ゴッドに奉仕し、未だに天皇を奉ずることを宣明しない。我が皇国の国体では民の守るべき徳義は敬神・尊王・愛国の三つである。キリスト教はこれと両立しない。博愛を主義とし敵を愛すべしと主張するキリスト教は日本魂と合わない。当然排斥すべきである、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/111 184-185頁]。</ref>。 * (排斥側)中西午郎「宗教教育衝突断案」に曰く、耶蘇教は、全く非国家主義であるとはいえないものの、我が国体と全く並立できない。我が皇統は天孫であり日本国民は同祖であるという天啓的歴史が国民の脳裡を支配し、忠君愛国の感情は万古を経て不滅である。教育勅語はこの国体に基づいて国民教育の方針を示したものなので耶蘇の教義と合わない。耶蘇教は、君父と他人を差別せず、自国と他国を差別しないので、我が国体と相容れない。儒教・仏教や憲法制度は外国由来であり我が国体と多少衝突したが結局同化した。耶蘇教も同化すれば不可でない、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/112 185-186頁]。</ref>。 *(排斥側)[[杉浦重剛]]「教育弁惑」に曰く、欧州諸国が東洋諸国にキリスト教を扶植しようするのは、名を博愛に借りて実は欲のためである。世界同胞主義の博愛は実行不可能である。日本人の一部がこれを迷信するのは心外である。空想に生まれたゴッドは理学の発達と両立しない。我が国体は皇室を最貴最尊と仰ぐ。キリスト教徒がその教義に忠義の旨もあると弁解するのは牽強(こじつけ)である。そうであるなら何故に御真影や教育勅語の礼拝奉信を拒む信徒を除去しないのか。今後キリスト教が我が邦で隆盛するには、勅語に違背する所を除き、理学に疑われる所を掃わらなければならない、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/113 186頁]。</ref>。 *(弁護側)[[小崎弘道]]「基督教と国家」に曰く、汝の隣人を愛せよというのがキリスト教の綱領である。人を愛する教えなので国を愛するのはもちろん、国君に対し忠節を尽くす事あるのをその教えの主旨とする<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/114 188頁]。</ref>。 *(弁護側)[[植村正久]]「今日の宗教及徳育論」に曰く、人類を囚えて自国の観念に禁錮するのは陋俗な国家主義国粋論者の迷夢でしかない。キリスト教は神を愛する主義を第一に置き、その制限の下に自己を愛し他人を愛する。愛国も同じである。正義の愛をもって国を愛す。君主に対するときもこれと大同小異である。君主を重んずべきは新約聖書に明文を載せている。キリスト教は決して不忠の道を主張するものではない<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/114 188-189頁]。</ref>。 仏教徒がキリスト教排斥に加担したことも見過ごせない。キリスト教が日本の国体と相容れないのはそれが世界的であって国家的でないからだとすれば仏教も根本義は世界的である点でキリスト教と同じであるが、仏教徒はキリスト教排斥に加担した。キリスト教徒はこの点を指摘し、たとえば[[大西祝]]は、世界的であるために我が国体を破壊すると言うならば仏教はもちろん儒教も哲学も理学も詩歌も同じであるのに何故にキリスト教のみを論難するのか、と高調した。仏教徒は聞こえないふりをしてキリスト教攻撃を続け、さらに進んで仏教は国体と深い関係があると論じるに至った。その代表は[[井上円了]]である<ref name=":57">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/114 189頁]。</ref>。 井上円了は仏教哲学者であり哲学館(後の[[東洋大学]])を設立した<ref>コトバンク「[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%86%E4%BA%86-15455 井上円了]」2019年9月閲覧。</ref>。宗教教育衝突問題以前の1889年(明治22年)9月に『日本政教論』を著して、皇室と仏教が不可分であることを論じた<ref name=":57" />。同書に曰く、仏教は古来皇室と関係深く、また国家鎮護の一助であった。すなわち名実ともに仏教をもって国教に組織したものである。もしこの縁故を廃すれば歴史上の事実を廃することになり「皇室国体の永続を期すること難しかるべし」。歴史上縁起深い寺院を保存し、その宗教を特待しなければならない、と論じた。そこにたまたま宗教教育衝突問題が起こり、井上円了がキリスト教排斥に加担しつつ国体と仏教の関係を説いたものが『日本倫理学案』と『忠孝活論』である。1893年(明治26年)1月著『日本倫理学案』に云う<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/115 190頁]。</ref>。 * 国が異なれば国体も異なる。その国の独立を継続する限り特有の国体を維持しなければならない。教育も道徳も国体を基に組織しなければならない。上古から中世まで、我邦教育宗教等は、大抵シナ三韓インドから徐々に入って来たが、自然に国風に一変し、国体を維持することを目的するようになった。今後の方針も、あくまで国体を基礎としなければならない。 * 我邦の国体が万国に卓絶するわけは皇統一系天壌無窮の宝祚を戴くことにある。その原因は次の三か条である。(1)皇室あって後に人民あること、(2)君臣が一つであること。(3)忠孝一致を人倫の大本とすること。 * 人民はみな皇室の臣下であり同時にその末裔でもある。したがって君臣一家、忠孝一致を知るべし。この美風は単に倫理上の一国の精華であるだけでなく、国家の団結を鞏固にして国務を強大化するのに大いに有利である。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/115 191頁]。</ref>。 同年7月著『忠孝活論』は次のように云う。 * 我が国体を論じるには客観・主観の両面から観察しなければならない。 ** 客観上、物界にあって我が国が気候温和・地味豊沃・風景秀美であることは世界に比類ない。また人界にあっては上に一系連綿で一種無類の皇室がある。厳然と永存するものであり、禅譲放伐(革命)により立つものと異なる。 ** 主観上、心界にあっては古来一種の霊が大和魂を成す。精誠な忠孝を発育し、これにより一種神聖な国風を形成した。実に我が国は神国というべきである。 * 皇室は太古純然の気が今日に永続したものであり、すなわち神聖の皇室である。臣民は皇室の分派であって神子皇孫の末裔であり、すなわち神聖の臣民である。そして我が国の忠孝は、臣民の精神界に固有する霊気の発動であり、神聖な皇室から分賦された徳性であるので、この忠孝もまた神聖の忠孝である。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/115 191-192頁]。</ref>。 井上円了はここで敢えて仏教に言及しないが、その附録に「仏門忠孝一班論」を添え、仏教にも忠孝の原理があると論じ、仏教を国家主義に結びつけている<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/116 192頁]。</ref>。 === 君主国体説 === 1891年(明治24年)2月、カール・ラートゲン講義録『政治学』が翻訳出版され<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783295/163 ラートゲン述・山崎哲蔵訳『政治学:一名国家学』明法堂、1893年、奥付]。</ref>、君主国体という訳語が用いられる<ref name=":50">ラートゲン述・山崎哲蔵訳「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783295/44 国体及政体]」『政治学:一名国家学』国家編第2巻第1章、1893年。</ref>。ラートゲンはドイツ人政治学者であり、1882年(明治15年)から1890年(明治22年)まで御雇い教師として帝国大学で政治学を講じていた。[[阪谷芳郎]]の聴講ノートに「Forms of State and Government」という章がある<ref>({{Cite journal|和書|author=瀧井一博 |title=帝国大学体制と御雇い教師カール・ラートゲン ―ドイツ国家学の伝道― |url=https://doi.org/10.14989/48556 |journal=人文學報 |ISSN=0449-0274 |publisher=京都大学人文科学研究所 |year=2001 |volume=84 |page=323 |doi=10.14989/48556 |naid=110000238845}})ラートゲンはドイツ人であるが日本側の要望により英語で講義していた。聴講ノートは英語で書かれている。</ref>。翻訳書では「国体及政体」と訳された<ref name=":50" />。 ラートゲンは「国体及政体」で、理論上・歴史上に国家を分類し、その性質・発達を考究しようとするならば、国体・政体・憲法について、その意義・区別・関係を了解する必要があるとして、次のように講義する<ref name=":50" />。<blockquote>国体とは国家の形式という意味である。国体を定めるというのは、国家統御の主体と客体を定めるという意味である。 君主国体とは、国家統御の主体を君主として、国家と君主がその本体を同じくし、国家統御の客体を国土と国民より成立するものを称する。 民主国体とは、国家統御の主体を国民全体、すなわち国民の総意として、国家統御の客体を国土国民の各個より成立するものを称する。 政体とは政治の形式という意味である。政体を定めるというのは、主権の作用に形式を与えるという意味である。国家がその主権を作用するにあたり、自己の意思によるものを専制政体と称し、既定の憲法によるものを制限政体と称する。 憲法の意義は二種類あり、一つは材料上・性質上の意義、一つは形式上・効力上の意義である。性質上から定義すれば憲法とは主権の本体と作用、すなわち国体と政体を規定する諸原則の全体である。効力上から定義すれば憲法とは主権者が憲法と称する法令の全体である。</blockquote>憲法学者の穂積八束は当初、君主国体の概念を憲法学で用いることに否定しており、1892年(明治25年)の講義録で「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称をもってする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」と断じ<ref>穂積八束述『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789156/7 帝国憲法]』東京法学院第25年度第3年級講義録、1892年 「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称を以てする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」頁</ref>、翌年も繰り返し同じ趣旨を講する<ref>穂積八束述『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789155/17 帝国憲法]』東京法学院26年度2年級講義録。</ref>。 時の[[文部大臣]][[井上毅]]は、国民教育の基礎として日本古来の国体と明治の政体との要旨を授ける必要があると考えていた<ref name=":51">{{harvtxt|穂積|1896}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387838/5 序3-4頁]。</ref>。1893年(明治27年)4月、井上毅は山崎哲蔵という人物に初めて連絡をとり食事に誘う<ref>井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝 史料篇』第5、書簡91山崎哲蔵、〔明治27年〕4月6日、273。 [http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001206667.htm 国会図書館リサーチナビ井上毅伝史料篇第5]も参照。</ref>。山崎哲蔵はラートゲン『政治学』の翻訳者であり、君主国体という訳語を生み出していた<ref name=":50" />。井上毅は同年夏に穂積八束に指図して小冊子を執筆させ<ref name=":51" />、そのなかで君主国体についても論じさせる<ref name=":52">{{harvtxt|穂積|1897}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387838/12 6-9頁]。</ref>。井上毅はその公刊を計画していたが、その点検を終えたところで病死したため公刊の計画は頓挫する<ref name=":51" />。ただ、穂積八束はこの年の講義から、およそ憲法を論ずるにあたっては国体の如何に注目すべきことを講じ<ref>穂積八束述『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789157/18 帝国憲法]』東京法学院27年度2年級講義録。</ref>、翌年の講義で憲法学上の君主国体説を明確にする。講義に曰く、国体は主権の所在によって区別され、政体は主権を行使する方法によって区別されるのであり、主権が一人に掌理されるものを君主国体と称し、我が帝国の国体は純粋なる君主国体である、と<ref>穂積八束述『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789158/10 帝国憲法]』東京法学院28年度2年級講義録。</ref>。 === 日清戦争後の国体論 === 日本国内で保守的国粋主義が台頭しつつあるときに、[[日清戦争]]で日本が予想外の大勝を挙げ、日本人が自国の実力を認るようになると、日本のナショナリズムが盛り上がりを見せる。従来は国粋保存といっても漠然としたものであったが、日清戦争後は国粋主義の内容が明瞭になる。このため、この時代を自覚時代と呼ぶ者もいる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/123 206頁]。</ref>。 [[日清戦争]]の勝利や[[治外法権]]の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める<ref>鈴木正幸『国民国家と天皇制』校倉書房、2000年{{要ページ番号|date=2019年9月}}。 <br /></ref>。 1897年(明治29年)9月、[[穂積八束]]が『<small>国民教育</small> 憲法大意』を発行する。これは2年前に穂積八束が井上毅の指図を受けて執筆した小冊子であり、日清戦争中に井上毅が病死したことでお蔵入りになっていたものを、この時改めて出版したのである<ref name=":51" />。その第2章「君主国体」で次のように説く<ref name=":52" />。 *国体は主権の所在により分かれ、政体は統治権の行動の形式により分かれる。特定の一人がその固有の力により国権を総覧し国を統治するものを君主国体と称する。憲法で国家統治の大則を定め、国会・政府・裁判所の統治機関を設け、立法・行政・司法の権を行うものを立憲政体と称する。我が帝国は君主国体にして立憲政体によるものである。 * 君主は固有の権力によって統治する。憲法の委任によって民衆の代表者として君臨する類いは、君主と称していても純正な君主制ではない。外国の歴史には皇帝を称して主権者でない例が往々にしてある。 * 君主は国権の全般を総攬する。統治権の本体と作用とを併せ持つということである。その一部を欠くものは君主制の本領ではない。憲法により統治の機関に国権の行使を司らせても主権は君主に存する。なぜならば君主国体における憲法は君主の権力によって制定したものだからである。 * 欧州で国体を論じる者は、君主は国権を国会と分つとか、あるいは君主は国権の本体であるが行使権をもたないとかいうことをもって立憲君主制の本領となすことがある。これは立憲君主を世襲の大統領と見なすものであって、純正の君主制ではない。 * 政体は国を統治する形式であるため、時勢に応じて変遷する。政体は憲法によって定まる。 * 我が国体は建国以来変更したことがない。政体の変更はあったが、常に純正な君主国体の模範を内外に示してきた。明治憲法の制定によりその基礎をますます固くした。 * 憲法は改正してよい。国体は変更してはならない。国体の変更は帝国の滅亡である。以上<ref name=":52" />。 穂積八束は翌年6月に『<small>国民教育</small> 愛国心』を著す。日本の国体と先祖教との関係を説き、国家主義の気炎を揚げ、以下のように説く<ref name=":58">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/124 208-209頁]。</ref>。 * 日本固有の国体と国民道徳の基礎は祖先教に淵源する。祖先教とは祖先崇拝の大義をいう。日本民族の固有の体制は血統団体である。固有の国民道徳である忠孝友和信愛は、祖先崇拝の大義を源流とし、血統団体の保持を手本とする。堅固な家国の体制は祖先教に基礎があり、これを千古に建て万世に伝えるのは民族の特質であり国体の精華である。 * 血統はこれを祖先に受け子孫に伝える。その団結は永久である。利害で離合断続するものではない。これを統一するのは祖先の威力である。家にあっては家長が祖先の威力を代表し家族に対し家長権を行い、国にあっては天皇が天祖の威力を代表し国民に対し統治権を行う。 * 父母を敬愛しこれに従順する至情をそのまま父母の父母に及ぼすべし。我らの祖先の祖先は天祖である。天祖は国民の始祖であり皇室は国民の宗家である。父母を拝すべし。ましてや一家の祖先を拝すべし。さらには一国の始祖を拝すべし。 * 人は信仰により行動する。限定された人智は宇宙の真理を知覚できないからである。我らの祖先は不死の霊魂があることを確信し、父母の威霊は幽界にあって子孫を保護すると確信してきた。これが先祖崇拝の大義の淵源であり、敬神が国教である所以である。 * 我らの固有の国体民俗は祖先の祭祀を最も重んじる。先祖崇拝の大義は国民の確信に出る。不朽の国体はこれにより基礎を建て、国民道徳はこれにより深厚である。この民を千古万世に保持するのは、この国体の精華である祖先教の力である。 *国は個人の合衆であるという説は国史の事実に反する。国民は家族制によって分属する。家を合わせて国を成し、家籍を国籍の基礎とする。もし祖先教を打破し家族制を廃止することがあれば、皇室の神聖なる理由を侵犯する恐れがある。 *国は統治権により保護される民族の団体である。天皇は統治権を天祖に受け皇胤に伝える。皇位は天祖の霊位である。天皇が国民を保護するのは天祖に対する任務である。国民が皇位に忠順であるのは天祖の威霊に服従するのである。 *先祖教により構成された血統団体は社会の主力を崇拝する。このため法律の本源であるとともに教義の源泉である。崇拝には理由がある。迷信ではない。 *外国の主権は強大であるために服従され、我が国の主権は神聖であるために敬愛される。以上<ref name=":58" />。 こうした国家主義的風潮のなかで雑誌『[[日本主義 (雑誌)|日本主義]]』が発刊される<ref name=":59" />。これより先、1897年(明治29年)5月に柴田峡治が[[稲垣乙丙]]、[[加藤弘之]]、[[湯本武比古]]、[[品川弥二郎|品川弥次郎]]ら数十名の賛同を得て大日本教会を組織した。その主義は「教育勅語を大経典とし、これを社会全般に普及し、感化の実績を収めんと欲す」ということにあった<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/123 207頁]。</ref>。大日本教会は1898年(明治30年)5月に機関誌『日本主義』を発刊し、その主義綱領を「日本主義によりて現今我邦における一切の宗教を排撃す。我が国民の性情に反対し、我が建国の精神に背戻し、我が国家の発展を阻害するゆえなり。しかしてこれに代えるに国家主義をもってするなり」、「君臣一家は我が国体の精華なり。これ我が皇祖皇宗の宏遠なる丕図(企画)に基づくものにして、万世臣子の永く景仰すべき所なり。ゆえに国祖および皇宗は日本国民の宗家として無上の崇敬を披瀝すべき所、日本主義はこれゆえに国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体せんことを務む」とする<ref name=":59" />。 [[木村鷹太郎]]は日本主義のために最も努力した。その意見は1898年(明治31年)3月に公刊した『日本主義国教論』にあらわれている<ref name=":59">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/125 210-211頁]。</ref>。同書に以下のようにいう。 * 日本主義は保守的国粋主義でなく、卑屈な外国崇拝でもない。日本の自我を守って生物学の原則に従い、外来の文物を我に同化し、自我を養い、自主の実現を期するものである。 * まずは国教を定める。国教とは、国家が目的・主義・理想を定め、国民にその信奉を求め、その教育を努めるものをいう。つまり国民精神の統一である。そして国家が国民の精神を統一しようと思えば、思想・道徳・宗教・嗜好・祭礼節などを統一し、少しでも国家の目的と理想に合わないものは全て禁止する。特に宗教において国家主義の理想を害する[[カトリック教会|ローマカトリック]]や[[ギリシャ正教会|ギリシャ正教]]や[[イエズス会]]などは厳禁する。国家の精神に反する自由は許可しない。 *この意味においての国教は以下のものを基礎条件とする。 **国民性が表れ、国体と和合し、国家的であり、歴史上国体を汚したこともなく、国家的生物原理に適合するもの、 **快活にして心身ともに健康であり、希望進歩の念を持ち、厭世悲哀を誘わないもの、 **教理上も実践上も国体に従い、皇室と密接なる関係を有し、皇室に中心を置き、皇室を至上と崇めるもの、 **精神の高尚優美を貴ぶと同時に、実際を重んじ質実を奨励し実力を養成することを教えるもの、 **国民的国家的であるため祖国を愛し、平和を理想としても尚武の精神を有するもの、 **健全な精神の美術を生み出し、教育的であって科学に反せず、迷信を唱えないもの、 **女子を卑しまず、女子に相当の位置を認めるもの、 **日本を世界の中心と考える、国民的自信、大抱負を有するもの。 *我が国の歴史は全て以上の理想によって発展してきた。 *我らの神とは、我ら国民の祖先とし、国家の至上とし、その徳、その至上権において、我らの理想として崇拝するものである。 以上のような思想を木村鷹太郎が『日本主義』誌上に掲げたところ、すこぶる反響が大きかったという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/125 211-213頁]。</ref>。 [[高山樗牛]]も雑誌『日本主義』同人であり、木村鷹太郎とともに日本主義のために努力する。高山樗牛はその主張を雑誌『太陽』に続々と発表する。まず『太陽』明治30年6月号に「日本主義を賛す」と題して以下のように主張する<ref name=":60">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/126 215-217頁]。</ref>。 * 本邦建国の精神と国民の特性をかんがみ、我らの国家の将来のため、ここに日本主義を賛する。日本主義とは国民の特性にもとづく自主独立の精神によって建国当初の抱負を発揮することを目的とする道徳的原理である。 * 我らは日本主義によって一部の宗教を排撃する。これを国民の性情に反対し、建国の精神に背戻し、国家の発展を阻害するものと見なす。 * 宗教とは現実に到達できない超自然的理想を思慕する信念である。西洋では宗教が文化に大きな影響を及ぼしたが、我が国ではそうでない。仏教も表面上行われたに過ぎない。 * 我が国民の思想は本来現世的である。多少幽界を観想することがあっても現世的思想に比べれば言うに足らない。社会的生活を尊び、国民的団結を重んじ君民一家・忠孝無二の道徳を維持するのは現世的国民として皇祖建国の偉大な企図を大成する運命を担う所以である。 * 宗教は国家の利益と矛盾する。国家は現世に立ち、宗教は来世を尊ぶ。国家は差別を立て、宗教は平等を説く。 * 国家は人類必然の形式である。人は一人で生息できずに家族を成し、家族だけで生活できずに社会を生じ、社会の上に主権を定めてこれを統御する。要点は民衆最大の幸福を企図することにある。この理想は仏教やキリスト教のような宗教と決して相容れない。これが日本主義を立てる理由である。 * 君臣一家は我が国体の精華である。これは皇祖皇宗の宏遠な企図に基づくものであり、万世にわたり臣子が永く仰ぐべきところである。ゆえに、国祖と皇宗は日本国民の宗家として最上の崇敬を受けるべきであり、日本主義は国祖を拝崇して常に建国の抱負を奉体しようと努める。以上<ref name=":60" />。 高山樗牛は続けて「日本主義と哲学」「日本主義に対する世評を慨す」「世界主義と国家主義」「宗教と国家」「基督教徒の妄想」「国家的宗教」「国家至上主義に対する吾人の見解」「国民道徳の危機」等の論文を発表し、日本主義を高唱する。「基督教の逢迎主義」では、キリスト教が国体に迎合しようとするのを笑い、どれほど迎合しても抜本的に改変しない限り日本主義に容れることはできないと説く<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/128 217頁]。</ref>。また「我国体と新版図」と題して国家主義を論じ、君民一家の国体を次のように主張する<ref name=":61">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/128 221-222頁]。</ref>。 * 我が国体が世界に冠絶することは、我ら国民が内外に誇るところである。この天下無双の国体は要するに君臣の特殊な関係に由来する。すなわち、国土は皇祖皇宗の創定したところであり、国民は概ね神孫皇族の末裔であり、皆この域内に生息し、一系の皇族に奉仕してきた。皇室は宗家であり、国民は末族である。建国当初の家長制度は二千五百年を経てその範囲を拡張したが、その本来の精神は変わらない。我が国体の特性はこの君民一家という国民的意識に起源する。 * ある論者は、君民一家の国体について、これを重視すれば新版図の民を包含するのが難しくなると指摘して、これを非難する。この新版図の問題を如何するか。それは権力関係しかない。内に君民一家の鞏固な国体をつくり、その力をもって新版図に臨み、一面に仁恵を施すしかない。以上<ref name=":61" />。 高山樗牛はまた「国粋保存主義と日本主義」と題して、明治20年後に起った反動的国粋主義と日本主義との違いについて次のように述べる<ref name=":62">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/131 222-223頁]。</ref>。 * 国粋保存主義と日本主義は系統が同じだが内容が異なる。日本主義は世界の時局に対処し、国家の独立進歩と国民の安寧幸福を保全するため、適切な国民道徳を立てることにより人心を統一する。 * 縦は過去の歴史に成功や失敗の跡を訪ね、横は世界の大勢に興亡の理を求め、国体・民性を中心に内外の事物に対し精緻な考察を加え、これにより一国の思想を期する。 * 日本主義は、国家の独立と国民の幸福を保全するため、国体の維持と民性の満足を二大制約とする。この二大制約を中核として内外の文物に対し公平な研究を試み、その研究結果により取捨選択を行う。以上<ref name=":62" />。 [[湯本武比古]]も雑誌『日本主義』の同人である。雑誌『日本人』明治31年3月号で発表した論文「日本主義を主張する」は日本主義流行の一面である。曰く、我らは日本主義を主張するといっても敢えてみだりに排外を主張しない。国体の精華すなわち国粋の保存を説くといっても敢えてみだりに自己を過大評価しない。旧来の陋習に恋々とすべきでなく、国家の文明富強を進め皇基を振起すべきため智識を世界に求める。ただし西洋の開化を学ぶのは、開化そのものが目的ではなく建国の精神を発揮するための方便である。我らはこの主意により日本主義を主張し国粋保存を説く。これを従来の偏狭頑固と同一視しないことを望む、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/126 213頁]。</ref>。湯本武比古はさらに「帝国主義」と題して曰く、近ごろ急に帝国主義が台頭したが、その意義には一定の説がない。我が国においては欧州の帝国主義をそのまま用いる必要がない。皇国主義すなわち帝国主義とすれば、憲法発布勅語の旨を奉体すれば間違いない、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/126 214頁]。</ref>。 日本主義は、強烈な反響を呼んだが、次のような多少の反対論もあった<ref name=":63">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/131 223頁]。</ref>。 * [[姉崎正治]]いわく、日本主義はその根拠を歴史研究で証明すべきだが、今のところ外形のみを宣揚して内実を示していない、と。 * [[早稲田文学]]記者いわく、日本主義には、熱誠も無く、理想も無く、人物も無い、と。 * [[中島徳蔵]]いわく、日本主義は未だ理論的根拠がない、と。 * [[釈雲照]]は、日本主義の宗教排斥に対して、仏教の立場から反駁した。 当時、日本主義の勢力は強烈であった。例外として[[久米邦武]]が1899年(明治32年)2月に、国体論なるものは恋旧心から起った迷想であると断言したこともあったが、世間一般に日本主義的理想をもって国体観を発表したものが多い。たとえば同年の加藤弘之「日支両国の国体の異同」、林甕臣『帝国教典』、1900年(明治33年)[[鳥尾小弥太]]『人道要論』、1901年(明治34年)小柳一蔵『人道原論』などがある<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/132 224-228頁]。</ref>。同年、湯本武比古と石川岩吉の共著『日本倫理史稿』は建国神話を叙述し「この国体は即ち我が国家主義の倫理思想を胚胎し来たるものなり」と述べる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/134 229頁]。</ref>。 === 日露戦争と国体論 === 1904年(明治37年)1月談判破裂して[[日露戦争]]始まった。当時としては日本未曾有の大戦争において、愛国の気勢が熾烈を加え、国体を擁護すべき所以が更に盛んに唱道される。たとえば同年6月に[[日比野寛]]が教育勅語の解説書として著した『日本臣道論』は、国体に関して次のように論じる。曰く、我ら臣民の忠孝は国体の精華である。国体とは何かというと、国が存在すれば必ず国体を伴い、国家統治の主宰力を掌握する人の数により国体が異なる。我が帝国は君主国体であり、天下の大権は唯一の聖天子が掌握し、万民は皇室を仰いで奉戴する。至忠は我ら臣民の本願であり、至誠は建国の太古より綿々として我が民族が独有するところである。皇室に献身的奉仕をし、忠勇無二であるのは世界史上に異彩を放つ美点である、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/135 231-233頁]。</ref>。 日露戦争の戦局が進んで日本が陸戦や海戦で連勝すると国民の意気が昂ぶり、戦勝の要因を探って国体の優秀に及ぶことが盛んになる。井上哲次郎は1904年(明治37年)12月付けで雑誌『日本人』に「日本が強大である原因」と題して、戦勝が国体と関係の深いことを説いて、(1)日本民族が皇室を中心として鞏固な統一を成していること、(2)日本民族が比較的純粋であること、(3)日本文明が今なお壮健であること、(4)一種の武士道が発達したこと、これは全く皇室を中心とする歴史的発達に淵源すること、(5)二千数百年の長い歴史を有すること、(6)宗教に冷淡であり迷信が極めて少ないこと、(7)世界文明の粋を集めてまとめあげつつあること、を列挙する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/136 233頁]。</ref>。 日本軍が翌年3月に[[奉天会戦|奉天]]を陥落させ、5月の[[日本海海戦]]に完勝すると、7月には加藤弘之が「吾が立憲的族父統治の政体」と題して講演する。曰く、同じ立憲君主国といっても、欧州諸国と我が国とは異なる。なぜならば、欧州諸国の君主は皆尋常の君主であるが、天皇はこれと違って日本民族の族父であるとともに君主でもあるからだ。我が国は建国以来一帝室が連綿と今日まで続き、しかもこれが日本民族の宗家である。多少は他民族も混合したが、今日は全く日本民族の血統に混じって別民族になっていない。このようにが国は建国から今日まで日本民族の族父たる天皇が君位を保つ国であるので、これを立憲的族父統治国(Die Konstitutionelle Patriarchatie)と称するのを最適とする、と。以上のような加藤の所論は、多くの国体論者が国体の尊厳であって強固な理由として第一に挙げる点である<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/137 234頁]。</ref>。 国体論は不可侵性を強め、20世紀初頭までにほぼ定着する。これに挑戦した[[北一輝]]『国体論及び純正社会主義』は[[発禁|発行禁止処分]]を受ける<ref>{{harvtxt|鹿野|1999}} 125-126頁。</ref>。 1907年(明治40年)8月、加藤弘之が『吾国体と基督教』を著す。これは、日露戦争当初から非戦を唱えたキリスト教徒に論戦を挑むものであり、かつて1889~1890年(明治22~23年)頃に国家主義者とキリスト教徒の間で行われた論争を再び引き起こしたものだが、主客の地位が逆転したところに時勢の変化がある。同書に次のように論じる(大意)。 * 宗教なるものが全て迷信であることは今さら論じるまでもない。 * キリスト教も仏教も世界教であって民族教ではないから国家に害がある。人民が世界教を信じれば国家の支配を受ける以外に世界教の支配も受ける。国家は有機体であるから、その分子である国民は万事を国家のために行動すべきなのに、世界教の信者が国家のために身を犠牲にすることはあり得ない。つまり国家主義と合わない。 * 我が国体は、大父である帝室が万世に統治の大権を掌握して臣民を撫育し、族子である我ら臣民が統治を受けて臣子としての道を尽くすというに過ぎない。これは世界唯一の国体である。皇祖皇祖と大功臣を神として崇拝するのは祖先崇拝である。 * 仏教が輸入されて神より尊い仏を持ち出したので、国体が滅びてしまうと当時の廃仏論者は嘆いた。仏教が隆盛になると国体を汚すことが少なくなかった。天皇が[[三宝]](仏・法・僧)の奴と称したこと、[[本地垂迹|本地垂迹説]]を設けて神を仏の後身としたことなどが顕著な例である。ただ仏教は多少日本に同化した。 * キリスト教は唯一真神なるものを立て、それ以外の崇拝物を全て偶像として排斥する。これが日本の国体と矛盾するのは明らかである。至尊として崇拝すべき天皇の上に唯一真神を戴くなどということは決して国体の許すところではない。以上<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/137 235-237頁]。</ref>。 以上のようにキリスト教を排撃する加藤弘之に対し、世論は侃々諤々となり、なかでもキリスト教徒は弁難に努めた<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/138 237頁]。</ref>。 * [[海老名弾正]]([[プロテスタント]][[牧師]]<ref>百科事典マイペディア「[https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%90%8D%E5%BC%BE%E6%AD%A3-14581 海老名弾正]」コトバンク</ref>)曰く、科学主義を称する加藤氏の説が全く我が国体と一致するとは考えられない。御先祖(皇祖)が神として高千穂に天降りしたという事と進化論は矛盾する。加藤氏は進化論者でありながら人君が下等生物の後裔であることに言及しないが、大いに困惑しているに違いない。神こそは人間以上であるから、神に仕える道と君主に仕える道は全く異なる。君主が神の命令に反するならば、断然君主に背いて神に従うべきである、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/139 238頁]。</ref>。 * [[山路愛山]]([[メソジスト]]派機関紙主筆経験者<ref>朝日日本歴史人物事典「[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E6%84%9B%E5%B1%B1-21893 山路愛山]」コトバンク。</ref>)いわく、古代より儒教・仏教が我が国に入って来て結局は我が国に利益となった。近来のキリスト教も同様の結果になるだろう。国体が生命であるならば、宗教は衣服のようなものであり、身体の成長にしたがって衣服を様々に変えなくてはならない。国の生命さえ盛んであれば外教が輸入されても憂う必要はない。かえって国の利益となるだろう。古来仏教・キリスト教について随分と反対論があっても我が国体が益々盛大になって存在しているのを見ても明らかである、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/139 239頁]。</ref>。 * [[石川喜三郎]]([[ロシア正教会]]神学者<ref>朝日日本歴史人物事典「[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%96%9C%E4%B8%89%E9%83%8E-1053058 石川喜三郎]」コトバンク。</ref>)曰く、加藤氏は我が皇帝の上に唯一真神を置いて尊崇するのは我が国体に有害であると論じるが、およそ尊崇すべきものは世の中に様々であり、必ずしも上下をいうべきものではない。唯一真神は宗教上においてこそ人格的のように説くが、学理的にいえば唯一実在、実体などと称するものであって、このような非人格的なものを尊崇することが国体に有害であるならば、たとえば科学法則を尊崇することも不都合でないのか<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/140 241頁]。</ref>。 * [[小山東助]](キリスト教に傾倒する思想家<ref>朝日日本歴史人物事典「[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%8A%A9-1064130 小山東助]」コトバンク。</ref>)曰く、国家進化論と題し、日露戦争の大勝利によって国体論が健全な発展を失って無謀な国体論と化してしまった。我が国体の進化は外国の開化も採ることに起因したものなので、外国から世界教を輸入しても国体を憂う道理はない、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/141 243頁]。</ref>。 * [[浮田和民]]([[熊本バンド]])曰く、聖書全般を通じて国体に矛盾する論は少しも無い。加藤氏はキリスト教が国体に大害あると主張するが、キリスト教より儒教のほうが有害である。儒教は[[堯]][[舜]]の[[禅譲]](平和的な王朝交替)を理想とするからである。孟子の民主的傾向が最も有害である。古代において我が国体に合わない儒道や仏動が輸入されたのは、つまるところ我が固有文明だけでは間に合わないからである。我が国には古来祖先崇拝があり、中世以来武士道も盛んになったが、これだけでは足りない。今日の日本の国体は族父統治の時代を過ぎ去っている。台湾人もいればアイヌ人もいるし、さらに朝鮮人も満洲人も日本人になるかもしれない。ならば今日に族父統治論を唱えるのは不都合である、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/144 249頁]。</ref>。 * 亀谷聖馨(仏教学者<ref>デジタル版日本人名大辞典+Plus「[https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E8%B0%B7%E8%81%96%E9%A6%A8-1067267 亀谷聖馨]」コトバンク。</ref>)曰く、仏教が輸入されてから皇室は仏教を重んじ、特に聖武天皇は仏教を廃す時は皇統も廃すぞと宣ったように、国体と仏教の関係は重大であった。[[最澄|伝教大師(最澄)]]も王城鎮護を標榜して天台宗を開き、その他にも王法為本を教理とし立正安国を眼目とした。こうして仏教は皇室の信仰を得て国体擁護に尽くした、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/145 251頁]。</ref>。 * [[井上哲次郎]]曰く、加藤氏の国体論はあまりに窮屈である。我が国体は神武天皇の時に定まって以降も徐々に進歩発展してきた。国体の形式は一定不変であるが、その内容は複雑な変化を経た。これにより仏教を同化させたのだから、キリスト教を同化させることも出来るはずだ、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/146 252頁]。</ref>。 以上のように加藤弘之の『吾国体と基督教』はキリスト教側だけでなく仏教側その他にも反駁された。{{harvtxt|内務省神社局|1921}} によれば、加藤弘之は国体を擁護するためにキリスト教を攻撃したというよりも、キリスト教を排斥するために国体論を利用した疑いがある。このため、その論を第三者から見ると、国体に権威を加えず、逆に国体に煩累を及ぼした感じがあるという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/146 252-253頁]。</ref>。 1908年(明治41年)[[佐藤鉄太郎]](海軍軍人<ref>20世紀日本人名事典の解説「[https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%20%E9%89%84%E5%A4%AA%E9%83%8E-1646087 佐藤鉄太郎]」コトバンク。</ref>)が『帝国国防史論』を著す<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843150/206 佐藤鉄太郎『帝国国防史論』国会図書館蔵、奥付]。</ref>。同書で国体に論及して曰く「世人あるいは御国体を家族的観念の向上となし、これをシナ思想と同一視する者あり。その根底の不確実にして、しかも浅薄なるは吾輩の嗤うところなり。我が国体は決して家族主義の変化にあらずして、絶対位を中心として確立したる神来の理想的国体なり」と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/149 258-259頁]。</ref>。 1909年(明治42年)5月、[[佐々木高行]](元参議工部卿、侯爵)が國學院雑誌において「国体の淵源」と題して、国民が権威を認めるところを国体と見るべしと論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/149 259頁]。</ref>。 === 明治末期の国体問題 === 日本が日露戦争に勝利したのち国体論が盛り上がる時期にあって、国体の問題に関して国民の思想を刺激する事件がおきる。1910年(明治43年)の[[大逆事件]]と1911年(明治44年)[[南北朝正閏問題]]である。 [[幸徳秋水]]ら無政府主義者が天皇暗殺を準備したとされる大逆事件は、それまで国民が夢想すらしなかった大不祥事といわれ、その突発に人々は愕然として、識者は日本の国体を宣明にしなければならないと思い立ち、国体に関する研究が更に盛り上がりを見せる。井上哲次郎が設立していた東亜協会を中心に[[国体研究会]]を設けたのも大逆事件の影響であったといわれる。国体研究会の講演は機関誌『東亜之光』に連載される<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/150 261頁]。</ref>。 [[山田孝雄]]が国体論に手を染めたきっかけは大逆事件であったという。山田孝雄は後に文部省『[[国体の本義]]』の起草にも関わる著名な国語学・文法学者である。大逆事件に関する報道が解禁された当日、山田孝雄は「深く心に感ずるところあり」として、即日筆を執り、身体論的国家観にもとづく一書を一週日のうちに完成し、これを『大日本国体概論』と題して出版する<ref>{{harvtxt|西野|2013}} 1-2頁。</ref>。同書に「国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり」という<ref>{{harvtxt|西野|2013}} 3頁。</ref>。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした[[国家有機体説]]であった。[[時事新報]]が「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狂」と表現し、井上哲次郎が「破壊思想の源流」と題して「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」と記し、有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」<ref>「廿世紀の怪物帝国主義」1901年 警醒社書店。</ref>と同様の比喩を用いた。このように<隠喩としての病>は猛威を振るっていた。国家が有機体として想像される時代にあって、山田孝雄はその[[場の空気|空気]]を吸いながら最初の国体論を書いたのだった<ref>{{harvtxt|西野|2013}} 5頁。</ref>。 南北朝正閏問題は大逆事件発覚の直後に[[帝国議会]]で起こり、国体に関する一大議論を惹起する<ref name=":02">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/159 279頁]。</ref>。南北朝正閏論については、明治時代には[[大日本史]]と同じく南朝正統を認めるものが多く、中には南北朝対立説を採るものもあったが特に問題とならずに済んでいた。問題の発端は、[[国定教科書]]における南北朝対立に関する編者の所見である<ref name=":02" />。[[文部省]]は尋常小学校日本歴史に南北両朝を同等に認め、その教師用参考書に「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらざるなり」と明記していた<ref name=":110">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/160 280頁]。</ref>。これが皇統一系の国体に反するという理由で一部の小学校教師を激昂させ、やがて新聞記者を動かし、1911年(明治44年)1月19日発行の読売新聞で報じられる。これを読んだ[[早稲田大学]]教師の[[松平康國]]と[[牧野謙次郎]]が善後策を講じ、衆議院議員[[藤澤元造]]から帝国議会の質問案として提出することを謀る<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/159 279-280頁]。</ref>。藤澤元造は2月16日に質問演説に立つことになるが、政府は百方手を尽くして彼を翻意させ議員辞職に追い込む<ref name=":110" />。 ここに世論が興起する。まず水戸市の教育会が運動を起こし、2月18日に同会長[[菊池謙二郎]]から文部大臣に建議書を提出する<ref name=":110" />。建議書に「大日本史が南北朝正閏論を唱道せし以来、これに関する国民の倫理思想は一定し、南朝方の将士は当然忠誠の士にして北朝方の将士は佞姦の輩なりと固く信じて疑わざるところなり」、「もし大日本史の正閏論に誤謬ありて、これに準拠せり倫理思想は大害を生ずるものとせば、これを変改するは正当の業なりといども、正閏論は、国体の上より見るも、史実の上より見るも、また教育の上より見るも、錯誤なきのみならず正当の説なり。いやんや明治三十三年十一月十六日大日本史の撰者たる徳川光圀卿に正一位を追贈せられし時、詔をもって光圀が皇統を正閏し人臣を是非せしことを是認して称美し給いしに於いてをや」という<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/160 280-281頁]。</ref>。 また2月21日には国民党が大逆事件ならびに南北朝正閏論に関する決議案を衆議院に提出する。この決議案では、大逆事件について「彼がごとき狂豎を出し、もって国体の尊厳を汚涜する」<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/162 285頁]。</ref>と断じ、さらに国定教科書について「万世一系の皇祚に対し奉り、敢えて濫りに正閏なしとの妄説を容る」ものとして批判する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/163 286頁]。</ref>。衆議院では[[犬養毅]]が問責演説に立つが、これは秘密会とされる。3月、貴族院では伯爵[[徳川達孝]]や男爵[[高木兼寛]]が文部大臣に質問を試み、衆議院では国民党代議士[[村松恒一郎]]が質問書を提出する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/165 290-291頁]。</ref>。質問書に「政府、既にその非を認めて教科書の改正に着手したる以上、過去一年間忠奸正邪の別を紊り、国民の思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣はなぜ速やかに処決してその責任を明らかにせざるか」と問責する<ref name="名前なし-2">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/166 292頁]。</ref>。 この間、[[大日本国体擁護団]]なるものが設立され主意書を発表する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/164 289頁]。</ref>。3月に国体擁護団は解散し、友声会を結成する。このほか弘道会や丁酉倫理会などがそれぞれ活動し、また新聞雑誌に議論が縦横に出るなどして非常に混乱する。学者も真面目にこの問題を論じるに至り、結局は南朝正統論に決し、責任者である文学博士[[喜田貞吉]]を休職処分にし、国定教科書も改訂することになる<ref name="名前なし-2"/>。5月には史学会より論文集『南北朝正閏論』が出る。6月には文部省が南北朝を吉野朝に改めて教科書を改訂し、問題が決着する<ref name=":210">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/170 301頁]。</ref>。7月には友声会が論文集『<small>正閏断案</small> 国体之擁護』を公刊し、南朝正統を宣揚する。この後も学者たちは、続々と論説を発表し、各種団体を作って南朝正統説を唱える<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/171 302-303頁]。</ref>。 南北朝正閏論の主な論者として次の学者を挙げることができる。 * 南北朝対立説は、喜田貞吉、[[三上参次]]、[[久米邦武]]など<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/166 293-294頁]。</ref>。 * 北朝正統説は、[[吉田東伍]]、[[浮田和民]]など<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/167 294-295頁]。</ref>。 * 南朝正統説は、[[牧野謙次郎]]、[[松平康國]]、[[穂積八束]]、[[井上哲次郎]]、[https://kotobank.jp/word/%E7%8C%AA%E7%8B%A9%20%E5%8F%88%E8%94%B5-1637805 猪狩史山]、[[笹川臨風]]、[[黒板勝美]]、[[菊池謙二郎]]、[[福本日南]]、[[副島義一]]、[[姉崎正治]]、[[三浦周行]]など<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/168 296頁]-。</ref>。 国体に関連にさせて南北朝を正閏を論じたものとして例えば以下のものがある。いずれも南朝正統説である。 * 万朝報は「南朝北朝正閏論」という記事を三回連載し、この問題は国体に関することが最も深く、もし皇位が二つあるとすれば国体は国体を為さない、などと論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/168 296頁]。</ref>。 * 井上哲次郎は「国体上より南朝の正統なるを論ず」という記事などにおいて次のように論じる。曰く、南北朝問題を解決するには国体の立場から見る必要がある。国体は主権の所在により定まる。日本では主権は常に皇位にあり、この国体は万世不易である。しかし過去において一度だけ変がある。すなわち南北朝時代に皇統が二系あったことである。これは史実であるが、国民道徳の立場からはこれを対立と見てはならない。日本では国民道徳の基礎は永遠不変である。なぜならば、国民道徳は国体より出て、国体の基礎は万世一系の皇統であり、この国体が永久不変である以上は国民道徳の基礎も動揺するわけがないからである<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/168 297-298頁]-。</ref>、と。 *[[姉崎正治]]は『南北朝問題と国体の大義』を著して、歴史家は社会名教上に及ぼす影響を考慮しなければならず、国体の大本が建国とともに定まっている以上、南北朝問題もこれに準拠して解決すべきであることを説く<ref name=":210" />。 * 松平康国は『<small>正閏断案</small> 国体之擁護』所載の論文「史学の趨勢と国体観」において、歴史教育は国体観念の養成に最も重大に関係するから史家は慎重な用意を要すると論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/171 303頁]。</ref>。 1911年(明治44年)8月、清水梁山という人物が『日本の国体と日蓮上人』を著す。{{harvtxt|内務省神社局|1921}} によれば同書は「日蓮の国体論なるものを捻出し、牽強附会、もって我が国体と日蓮宗とを結びつけんとせり。その論ずるところ奇怪、ほとんど説くに足らざるものなれど、かくしてまで我が国体と関連を保たんとするところに、当時の思潮を見るべきなり」という<ref name=":310">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/172 305頁]。</ref>。 同年12月には[[高楠順次郎]]が『国民道徳の根底』を著し、日本の国体と先祖崇拝の関係を説く<ref name=":310" />。 1912年(明治45年)、[[加藤玄智]]が『我建国思想の本義』を著し、祭政一致の肇国主義が日本の国体であると論じて曰く、日本は祭政一致の国柄であり、建国当初は祭政一致をもって成立した。他にも祭政一致の国は数多いが、どれも国民と神とが一定の契約によって保護・被保護の関係を結ぶものであって、日本のように実際の血縁関係にあるものではない。これが日本の国体が特殊である理由である。そして国民一般は、現在の天皇をその神の延長と見做し、いわゆる現人神と信奉する。これが国体の精華であり、万世に益々国家が栄える理由である、と<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/173 307-308頁]。</ref>。 同年、[[丸山正彦]](丸山作楽の養子の国学者<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus「[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E5%BD%A6-1111806 丸山正彦]」コトバンク。</ref>)が『大日本は神国也』を著して、日本は神聖が基を開き、神孫が継承し、ついに金甌無欠の国体を成立させたので、その神祇の威徳を崇敬することは国体を擁護する所以であると論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/174 309-310頁]。</ref>。 == 大正デモクラシーと国体論 == === 天皇機関説論争と初期民本主義 === 時代が明治から大正へ変わる時において、統治権の主体が天皇であるか国家であるかについて憲法学者の間で論争が起こり、国体に関わる事なので論壇で大問題となる。事の発端は美濃部達吉の『憲法講話』である<ref name=":03">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/179 318頁]。</ref>。 美濃部達吉は、大正改元の1年前の1911年(明治44年)夏、文部省が開催した中等教員講習会において憲法の大意を講話し、その講演筆記に多少の修正増補を加え<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/2 序1-3頁]。</ref>、翌年3月付けで『憲法講話』と題して公刊する<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/325 奥付]。</ref>。同書では国体について次のように説く。 * 国体に言を借る変装的専制政治の主張を排斥するとして「専門の学者にして憲法の事を論ずる者の間にすらも、なお言を国体に藉りて、ひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下に、その実は専制政治を行わんとするの主張を聞くこと稀ならず。〔…〕憲法の根本的精神を明らかにし、一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排することは、余の最も勉めたる所なりき」と述べる<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/3 序2頁]。</ref>。 * 君主国と民主国を統治権の主体で区別するのは全く誤りだと論じて「国家それ自身が統治権の主体たるもので、君主国も民主国もこの点においては同様であります。君主国と共和国との区別は、もっぱらこの統治権を行う機関が異なるによって生ずるの区別で、決して統治権の主体の如何によるの区別ではない。これを国体と言っても、または政体と言っても、名前は何らでも宜い訳でありますが、ただ国体という語は、従来一般に国家の成り立ちというほどの広い意味に用いられているのが通常で、教育勅語の中にも『これ我が国体の精華にして』云々という語がありますが、これは決して君主国体とかいうようなことを意味しているのでないことは勿論であります。それであるから国体という語を政体と同じ意味に使うことは、混難を惹き起すおそれがあって、むしろ避けた方が正しいであろうと思います。それはいずれにしても君主国と民主国とは統治権の主体の区別であるとするのは全くの誤りであります」という<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/34 47-48頁]。</ref>。 * 天皇を統治権の主体とする説は国体に反すると論じて「君主が統治権の主体であるとするのは、かえって我が国体に反し、われわれの団体的自覚に反するの結果となるのであります。〔…〕法律上ある権利を有すというのは、その権利がその人の利益のために存していることを言い表わすのであって、〔…〕もし君主が統治権の主体であると解して、すなわち君主が御一身の利益のために統治権を保有したまうものとするならば、統治権は団体共同の目的のために存するものではなく、ただ君主御自身の目的のためにのみ存するものとなって、君主と国民とは全くその目的を異にするものとなり、したがって国家が一の団体であるとする思想と全く相容れないことになるのであります」という<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/44 66頁]。</ref>。 * 大臣の輔弼により政治を行うことが日本の国体であると論じて「すべて国務について、君主は国務大臣の輔弼によらなければ大権を行わせらるることが無いために君主は無責任であるのであります。〔…〕我が古来の政体において、藤原氏の時代、武家政治の時代等は勿論、天皇御親政の時代におきましても、その御親政と言うのは、あえて天皇御自身にすべての政治を御専行あらせらるるというのではなく、常に輔弼の大臣が有って、その輔弼によって政治を行わせられたのである。これが実に我が国体の存する所で、これによって国体の尊厳が維持せらるるのであります」という<ref>{{harvtxt|美濃部|1912}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/59 96頁]。</ref>。 帝国大学で美濃部達吉の同僚教授である上杉慎吉は、美濃部の天皇機関説を非難し、この説は天皇が統治権の主体であることを否認するものであり、日本の国体を破壊するものであると指摘する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/179 318頁]。</ref>。上杉慎吉は穂積八束の学説を継いで君主国体説に依拠するが、かつては国家法人説・天皇機関説を採っており、1905年(明治38年)の著書『帝国憲法』においてその説を述べていた<ref>君主国体説は{{harvtxt|上杉|1905}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789143/78 117頁]に「大日本帝国は唯一の自然人たる天皇を以て統治権の総攬者と為す純粋なる君主国体たり」とあり、国家法人説は同[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/33 26頁]に「国家は一定の土地に固着して統治権力を固有する共同団体であって法律上人格を有するものなり」、天皇機関説は同[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789143/80 120-121頁]に「天皇を国家の機関と見るの学理は、理論上実験上疑いなきところとして予(上杉)が常に主張するところたり」とある。</ref>。同書は1910年(明治43年)4月にも版を重ねていたが<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937357/327 上杉慎吉『帝国憲法』第3版奥付]。</ref>、1911年(明治44年)12月付けで公刊した『国民教育 帝国憲法講義』では、君主国体説・国家法人説を維持したまま天皇機関説を放棄する<ref>{{harvtxt|上杉|1911}}[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789184/67 119頁]「国家は一の共同団体である、君主、――統治権の総攬者はその機関である、こういうようなことを申すのであります、それと私(上杉)の申す所とは全く異なる事を御注意願いたい」。</ref>。上杉の新説によれば、機関というのは他人の使用人であり他人の手足である。天皇の意思は最高・独立・絶対的・無制限であり、自己固有の性質によるものである。天皇は国家の機関ではない、という<ref>{{harvtxt|上杉|1911}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/789184/84 153-154頁]。</ref>。このように上杉が天皇機関説放棄を明らかにした3か月後に美濃部達吉が『憲法講話』を公刊したのであり、美濃部が同書で「変装的専制政治の主張」と批判したのは上杉の国体論であった。上杉の国体論は、天皇が主権者であることを日本の国体と解するものである<ref>{{harvtxt|上杉|1916}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952494/14 19頁]。</ref>。 上杉慎吉は雑誌『太陽』に論文「国体に関する異説」を載せて美濃部達吉に反撃する。上杉によれば、天皇を主権者とする通説に対し美濃部は異説を唱えており、「断じて異説を排斥するの確乎たる自信あり」という<ref>{{harvtxt|上杉|1916}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952494/15 20-21頁]。</ref>。そして上杉は国体について次のように論じる。天皇は統治者であり被治者は臣民である。主権は独り天皇に属し、臣民はこれに服従する。主客の分義は確定して乱れることがない。臣民は統治せず天皇は服従せず。これが国体の解説である。これは穂積八束の説を粗述したものであり、誰もが認めるところでもあるのに、美濃部は独りこれを排斥する。美濃部は天皇を統治権の主体にあらずとし、国家すなわち人民全体の団体を統治権の主体とする。美濃部は我が国を民主国と見なすのである、と<ref name=":111">{{harvtxt|上杉|1916}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952494/17 24-25頁]。</ref>。 天皇機関説論争が進行する中、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御する。内務省神社局によれば、日本は国を挙げて悲哀に沈み、慈父を失ったかのように慟哭し、さらに皇室の尊厳に思いを馳せ、ここに皇室を中心とする国体観念に一段の刺激を与えたという<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/175 311頁]。</ref>。大正時代に入ると、民衆運動が憲政擁護・閥族打破を掲げて[[第3次桂内閣|桂内閣]]や[[第1次山本内閣|山本内閣]]を倒すために行われる。内務省警保局によれば、この民衆運動は最も顕著なデモクラシー的思想の発露であって、国民思想上の画期として観ることができるという<ref name=":510">{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/31 49頁]。</ref>。 明治天皇崩御の前後、井上哲次郎が『国民道徳概論』を著す。これは美濃部達吉『憲法講話』と同様に、前年(明治44年)夏に文部省が開催した中等教員講習会での講義を基にしている<ref name=":67" />。同書では、国体と国民道徳との関係について、日本の国体は万世一系の天皇を基礎として成立し、国法学では主権の所在をもって国体の性質を決めるが、日本の主権は常に皇位にあり、これが憲法制定とともに益々鞏固になったと述べる。また国体と神道との関係について、神道のうち国体に関係あるのは天壌無窮の神勅であり、この神勅が常に日本国民の精神を中心に引き締めると論じる<ref name=":66">{{harvtxt|内務省神社局|1921}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/175 310-311頁]。</ref>。同書では民主主義が君主国体を調和できることを説いて次のように述べる<ref name=":67">{{harvtxt|見城|2008}} 179頁。</ref>。<blockquote>忠君ということに対して、民主というようなことが、段々世に唱道されてきているのであります。中には民本なんという字も使っているが、意味は同じことである。民主主義というようなことは余り大きな声では言わないけれども、何ぞの場合にはそれを言う。しかし民主主義も説きようによっては、君主主義と調和することが出来る。君主というものをチャンと立てて、そうしてこれに対して真心を尽くして仕えるということが人民一般のためになる。すなわち民主主義に合するわけであります。</blockquote>井上哲次郎は翌年の『東亜之光』2月号でも、民主主義を民本という意味に解釈すれば問題ないとして、次のように述べる<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 159頁。</ref>。<blockquote>臣民にヨリ多くの権利を与えるようなことがないというと、いかなる椿事を惹き起こすやも分らぬのであります。民主ということは日本の従来の歴史から見て決して如字的に(文字通りに)了解して言うべきではないのみならず、憲法によってまた然りであるけれども、古来「民は惟れ邦の本なり、本固ければ、邦寧し」というように民本という意味に解釈するのは差し支えない。そうして昔より一層臣民の福利を重んずべきである。これは時勢の変化のためである。</blockquote>天皇機関説論争でも民主主義は争点の一つになる。人民全体の団体を統治権の主体であるとする説について、上杉慎吉がこの説を民主主義として非難したのに対し、美濃部達吉は、この説を唱える者をすべて民主主義者であるかのように思わせるのは酷い中傷である、と弁じたという<ref name=":111" />。そして上杉は1913年(大正2年)『東亜乃光』5号月に「民主主義と民本主義」を発表し<ref>{{harvtxt|上杉|1916}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952494/98 187-197頁]。</ref>、民本主義と民主主義の用語を厳格に区別して、民本主義は人民のために政治することを意味するが、民主主義は文字通り人民主権論を意味しており君主主義と調和できないと論じる。上杉慎吉によれば、デモクラシーという語は民主(人民主権)の意味にも民本(人民のための政治)の意味にも用いられ、西洋君主国でデモクラシーを称するのは民本の意味であるという。ただし、内務省警保局によれば、西洋でデモクラシーという語が上杉慎吉のいうように単に人民のための政治だけを意味することがあるかどうか不明であり、少なくとも西洋君主国で称するデモクラシーはその意味ではないという<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/35 56-57頁]。</ref>。 上杉慎吉からの攻撃に対し美濃部達吉は様々に弁ずる。その中では1913年(大正2年)に『東亜之光』の3月号から5月号にかけて掲載した論文「所謂国体論に就いて」が最も詳しい。美濃部達吉は同論文で以下のように言う(大意)<ref name=":82">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/180 321-323頁]。</ref>。<blockquote>このごろ国体論、特に国体擁護ということが盛んに唱えられている。これは実は反立憲思想に他ならない。すなわち憲法が布かれたのに対し、保守的反動思想を抱く一部の人が国体論に名を借りて世を騒がしているのである。国体についての論争ではなく、立憲思想と反立憲思想の争いである。 一つの論点は、統治権の主体についての学理的な問題である。国法学上、国家は統治権を固有する団体であるとし、したがって統治権の主体は国家自身であるとする見解に対し、彼らは我が国体を破壊するものであるといい、我が国体は君主自身が統治権の主体でなければこれを維持できないという。もう一つの論点は実際の政治に関するものである。政党政治や議院内閣政治を我が国体の容れないところであるとし、特に最近の政治の動揺([[大正政変]])を国体の危機であるとする。実はこれらの問題は国体と関係がない。 我が国は万世一系の天皇これを統治する国体であり、これは動かしてはならない。問題は天皇が国家を統治するという事の解説に係ることであり、少しも国体に触れない。これを触れたとするのは中傷である。 世の国体論者の中には、日本の国家は外国の国家と全く異なるものと考え、日本の国家にのみ特別の見解を採ろうとする者もいるが、甚だしい誤りである。国家の本質の問題は国体論と無関係である。国体は一国特有であり、国家の本質は各国共通である。ゆえに憲法の明文に拘って国家の本質を解しようとするのも誤りである。 君主は統治権の主体であるという考えは、国家を君主の私有物とみなすものであり、我が国体に容れるものでない。君民が一心同体をなし、和衷協同(心を合わせ互いに協力する)、ともに国家の進運を輔翼し、その間に少しも障りがないことが、我が国体である。</blockquote> === 大正初期の国体説 === 大正初期には、国体の主要問題である統治権の問題について議論が沸騰する。これは、天皇機関説論争が国体に関わる事として論壇で大問題となったからである<ref name=":03" />。 1913年(大正2年)3月、[[朝鮮総督府|朝鮮総督]][[寺内正毅]](後の首相)題字、[[加藤弘之]]序文、[[加藤房蔵]]著作により『国体擁護 日本憲政本論』が公刊される<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946725/2 内表紙]および[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946725/165 奥付]。</ref>。同書に曰く、憲法の擁護とか責任内閣とか憲政有終の美とかいうのは当世通俗の流行語であって、それはつまるところ政党の意向によって天皇の大政を左右しようとするものであり、明らかに国体の破壊であり、憲法違反である、と<ref name=":211">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/176 312頁]。</ref>。 同年同月、[[川面凡児]]が『国体淵源 日本民族宇宙観』を著す。著者は以前から大日本世界教というものを唱え、日本の神道を基本として在来の宗教を総合統一するという全神教なるものを主張していた。同書によると、我が国体は神代より遺伝する宇宙観に淵源し、天御中主尊の旨を奉じて修身・斉家・治国・平天下を理想とする、という<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/175 311-312頁]。</ref>。 同年5月、[[石川岩吉]]が『国体要義』を著す<ref name=":211" />。著者は国学院大主事と皇典講究所幹事を兼ね、のち昭和に東宮傅育官、宮内省御用掛、国学院大学理事長兼学長に就任する<ref>デジタル版 日本人名大辞典+Plus「[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B2%A9%E5%90%89-15217 石川岩吉]」コトバンク。</ref>。同書では、国体という語に様々な用法があることを説き、要は、神代の初め、イザナギ・イザナミ両神が国土を修理固成して三貴子(天照大神・ツクヨミ・スサノオ)を得て、天照大神による天孫降臨・天壌無窮の神勅があって、国体の基礎が定まった、と論じる<ref name=":211" />。 同年11月、[[筧克彦]]が『国家の研究』を著す<ref name=":311">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/182 325-326頁]。</ref>。著者は東京帝国大学法学部教授でありながら、古神道に基づく「神ながらの道」に帰依し、教室でかしわ手を打つなど奇矯な言動で知られるが、天皇機関説論争に関しては穂積八束らの天皇主権説を国体に反する権力主義として批判した<ref>世界大百科事典 第2版「[https://kotobank.jp/word/%E7%AD%A7%E5%85%8B%E5%BD%A6-16000 筧克彦]」コトバンク。</ref>。『国家の研究』では以下のように説く(大意)<ref name=":311" />。<blockquote>皇国は、表現人である神聖な自主者・総攬者(天皇)を戴くことを離れずに成立し存在している一心同体である。この意味をもって君臣の分が定まり、古来動揺することがない。これが皇国の国体である。国体とは建国法により定まっている国家の体裁である。 国体は政体と厳格に区別しなくてはならない。政体とは、建国法より下の憲法などによって定まっている国家の体裁であり、これは社会各般の事情に応じて変遷するものである。今日の立憲制度は憲法により定まっている政体である。政体はますます変化発展する必要があり、国体がますます不動強固になるのは必然である。 皇国が精華である理由は、その国体が健全であるからである。なぜ健全であるかというと、国体は随神(かんながら)道、すなわち古神道の大理想・大信仰に基づくからである。 皇国の国体は、各人の真情に存する和魂(にぎたま)を主義として、荒魂(あらたま)を滅却することにある。皇国の国体は現世の秩序を尊重することを精神とする。皇国の国体はこの博大な和魂と、それが現れた仁忠と離れずに存在する本来の一心同体の発揚を旨とする。本来の一心同体を主体とすることをもって皇国の国柄となす。</blockquote>同年5月に東郷吉太郎が『御国体及其淵源』を著し、君臣一体、忠愛一本の国体を詳説する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/184 329頁]。</ref>。 1914年(大正3年)『東亜之光』8月号にFS氏なる人物が「所謂民本主義は無責任的国体」という文を載せる<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/35 57頁]。</ref>。 === 第一次世界大戦と国体 === [[1914年]](大正3年)夏、[[第一次世界大戦]]が勃発する。これは世界未曾有の大乱であり、その惨禍は思想界に動揺をもたらす。思想の動揺は大戦初期から徐々に始まり、大戦末期に近づくにつれて表面化する<ref name=":64">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/187 334-335頁]。</ref>。特に大戦末期のロシア革命と米国参戦により、過激思想と米国流のデモクラシーが日本に押し寄せる。ある者はこれを利用しようとし、ある者はこれを排除しようとし、思想界は未曽有の混乱を呈する。しかもこの間、自由思想も国民教育の普及と新聞雑誌の勢力増大により徐々に内発的になってゆく<ref name=":510" />。 第一次世界大戦の勃発により欧米においてデモクラシー論が盛んになり、日本もその影響を受けてデモクラシーの論議が増えてゆく。明治末年に民本主義という言葉を造語したといわれる[[茅原華山]]は1915年(大正4年)1月『中央公論』誌に「新しき世界 将に生まれんとす」と題し、民衆の政治的・経済的勢力が増大する傾向を紹介する。同年4月『太陽』誌上に[[織田萬]]が「戦争とデモクラシーの消長」を説き、[[千賀鶴太郎]]が「民主主義と開戦」と題して第一次世界大戦とデモクラシーの関係を述べるなど、デモクラシーの議論が広がっていく<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/36 58頁]。</ref>。同年10月には[[鈴木正吾]]が『新愛国心』を著す。同書に次のように言う<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/36 58-61頁]。</ref>。 * 序文で曰く「日本に民本政治を実現せしめんとする努力の足跡である」と。 * 「光栄なる謀反人」という節で曰く「我らは危険思想家・謀反人という言葉を、官僚思想に対する危険思想家、官僚政治に対する謀反人という意味に解釈して、躊躇なく承認する」と。 * 「民本政治へ」という節で曰く「『人民のために人民が作った人民の政府』を実現することによって日本人の真の国民性が出て来る」と。 * 「革命の行進曲」という章で曰く「鐘が鳴る、鐘が鳴る」、「偶像の断末魔」、「日本人の美しい偶像は時々刻々と破壊せられて行く」と。 * 著者らが携わる雑誌『第三帝国』でいうところの第三帝国とは「政治的の意味における民本主義である」「デモクラシーが政治の上に現れた帝国である」といい、「そういう帝国を速やかに建設しなければならぬ」、「偶像を片端から壊していかなければならぬ」と主張する。 国体論者は、民本主義の中に日本の国体を害するものがあるかもしれないと恐れ、これに対抗してますます国体を宣明しようとする。ただし従来と異なる新しい国体論が登場したわけではない<ref name=":64" />。当時の主な国体論として、[[佐藤範雄]]『世界の大乱と吾帝国』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/187 335-336頁]。</ref>、[[廣池千九郎]]『伊勢神宮と国体』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/188 336-337頁]。</ref>、[[市村光恵]]『帝国憲法論』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/188 337-339頁]。</ref>、[[大隈重信]]『我国体の精髄』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/189 339頁]。</ref>、[[千家尊福]]『国家の祭祀』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/190 340頁]。</ref>、[[深作安文]]『国民道徳要義』<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/190 340-342頁]。</ref>などがある。 1916年(大正5年)1月、吉野作造が『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題して百頁を超える長大な論文を掲げて民本主義を鼓吹する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/37 61頁]。</ref>。吉野作造は民主主義と民本主義を区別する点で上杉慎吉と同じであるが、上杉の民本主義が単なる善政主義に過ぎないのに対して、吉野の民本主義は善政主義に民意権威主義を加え、民意権威主義の要求として参政権拡張と議院中心主義を主張する。吉野の民本主義論は大きな反響を呼び、上杉慎吉、[[室伏高信]]、[[茅原華山]]、[[植原悦二郎]]、[[大山郁夫]]など、いわゆる民本主義論者の反対批評を受ける<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/39 64-65頁]。</ref>。このほか[[津村秀松]]、[[永井柳太郎]]、[[安部磯雄]]、[[小山東助]]などが民本主義を論じる。これらの中では[[室伏高信]]の説が異彩を放つ<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/42 71-72頁]。</ref>。 1916年(大正5年)7月、[[内務省 (日本)|内務省]][[神社局]]長[[塚本清治]]が地方官会議の席上で「敬神思想の根本及び国体の関係」を説く<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/191 342-343頁]。</ref>。その後『国学院雑誌』に国体に関する論説が数々載る。すなわち、同年11月号に[[植木直一郎]]が「国体の基本」と題して、日本の国体が特殊である所以を論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/191 343-344頁]。</ref>。翌6年1月号に[[白鳥庫吉]]が「国体と儒教」と題して、日本の国体と儒教が異同するところを述べ<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/193 346頁]。</ref>、同月号に[[市村瓚次郎]]が「国体と忠孝」を載せる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/194 348頁]。</ref>。[[河野省三]]は同年8月号に「我が国体」を載せ<ref name=":92">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/194 348-349頁]。</ref>、さらに翌月『国民道徳史論』を著し、その第4章に「我が国体」と題して一層具体的に説明する<ref name=":102">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/194 349-350頁]。</ref>。 === ロシア革命と米国参戦の影響 === 1917年(大正6年)春のロシア革命と[[アメリカ合衆国|米国]]参戦により、デモクラシーの波が日本に押し寄せる<ref name=":510" />。米国では[[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン大統領]]が第一次世界大戦に参戦する理由を「民主主義にとって世界を安全にするために」と演説する<ref>高原秀介「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007094197 『ウィルソン主義』とウィルソン外交の対話]」京都産業大学論集 社会科学系列、第26号、157-170頁、2009年、159頁。</ref>。米国が民主主義のために戦うと称したことで日本でも民本主義論がますます盛んになる<ref name=":112">{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/43 73頁]。</ref>。また、ロシア革命は世界を震撼させる。日本の新聞雑誌にも革命気分に乗じた記事論説が増える<ref name=":112" />。 同年5月、寺内正毅内閣は内閣訓令第1号を発して曰く、欧州戦役の影響は全世界に波及し、その関係するところは単に政治上経済上にどどまらず思想上風教上にも及び、誠に恐るべきものがある。この時にあたって政務の職司にある者は、すべからく立国の大本に鑑み国体の尊崇すべきを思い、国情の異にする海外の事例に左右されずに帝国憲法の根義に考え、自重して適従するところを誤らず、紀律を守り一意に奉公し至誠を君国に尽くし、それによって国民の模範であるべし、と<ref>官報1917年5月25日[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953556/1 内閣訓令第1号]。</ref>。また、同月、地方官会議において内閣総理大臣が訓示して曰く、近時言論界の風潮は大変に放漫に流れ、好んで危険過激の言論をもてあそび、卑劣猥雑の記事を掲げて国民の思想を誘惑し、そして国体の本義を誤り皇室の尊厳を汚し純朴な風俗を壊す恐れがある。いやしくも国体を破壊し秩序を紊乱し人心を蠱惑するような記事論説は厳重に防ぐ道を講じなければならない。言論界は外国で勃発した政変(ロシア革命)を引援して我が国体に論及するものがある。地方当局者は適宜善導し安寧秩序を保持すべし、と<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953563/8 官報1917年6月2日彙報・官庁事項・内閣総理大臣訓示]。5月28日地方官会議における内閣総理大臣から地方長官への訓示。</ref>。 同年9月寺内内閣は臨時教育会議官制を公布する<ref name=":172">官報1919年9月21日[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2953657/1 勅令第152号臨時教育会議官制]。</ref>。これより4年前、教育勅語の趣旨を徹底して学制を改革することが十数年来の懸案であったため、貴族院の建議に基づき、文部大臣管下に教育調査会を始めて設けた。教育調査会は調査を進めたが懸案の解決に至らなかった<ref name=":182">「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886697/12 臨時教育会議に関する寺内内閣総理大臣演示]」(大正6年10月1日首相官邸に於て)、国会図書館所蔵『臨時教育会議要覧』17-19頁所収。</ref>。1917年(大正6年)教育調査会を改め、内閣総理大臣直属に臨時教育会議を設け、組織を改造し調査に周到を期することになる。その官制は3月のロシア革命直前に立案され、翌月閣議決定されたが、その後6か月の時を経て、9月に上諭案を改めて再び閣議決定を取り直し、異例の上諭を付して公布される<ref>「[https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001751392 臨時教育会議官制ヲ定ム]」『公文類聚』第41編大正6年。</ref>。その上諭に曰く、朕、中外の情勢に照らし、国家の将来に考え、内閣に委員会を置き、教育に関する制度を審議させ、その振興を図らせる、と<ref name=":172" />。官制公布の翌月、臨時教育会議について寺内総理大臣が演示して曰く、我が帝国は万世一系の天皇を戴き、君臣の分は早くに定まり、国体の精華は万国に卓越する。ここに教育勅語の趣旨が存する。欧州大戦勃発以来、交戦各国は戦火の間に学制の革新を図り自強の策を講じている。我が帝国も教育を一層盛んにして国体の精華を宣揚し堅実の志操を涵養して自強の方策を確立すべし。もし欧米の学制を模倣することばかり急いで知らず知らずに国体の精華を傷つけることがあれば国家の憂患はこれより大きいことはない、と<ref name=":182" />。臨時教育会議の中心人物は総裁[[平田東助]]、副総裁[[久保田譲]]、貴族院議員[[小松原英太郎]]、同[[一木喜徳郎]]、同[[江木千之]]、そして文部大臣[[岡田良平]]である<ref>{{harvtxt|江木|1933}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240746/294 下巻565頁]。</ref>。いずれも元老[[山縣有朋|山県有朋]]の直参子分である<ref>岡義武『山県有朋』岩波文庫。</ref>。 1917年(大正6年)10月、[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局長]][[永田秀次郎]]が私人の資格で「民本主義に対する理解」を発表する。曰く、日本において発達した尊皇愛国の思想は、君民一体、民を本とする(民本)君主主義である。外国のデモクラシーは人民の人民のための人民による政治かもしれないが、これを日本に移し替えれば「民意を暢達せしむる政治」または「万機公論に決する政治」に当たる。前者は我が国建国以来の大精神であり、後者は五箇条の御誓文により我が国で行われている、と<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/49 84-85頁]。</ref>。 同月、吉野作造が『大学評論』に「民本主義と国体問題」と題して曰く、民本主義は日本の国体に反しないし、君臨すれども統治せずというような英国流も日本の国体に反しない、と<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/48 82-84頁]。</ref>。 同年11月から12月にかけて浮田和民は雑誌『太陽』に「欧州動乱と民主政治の新傾向」と題して曰く、一国の政治は君主国体でも共和国体でも当然に民本主義でなければならない。国家は国民全体の国家であって君主は国民のための君主である。民主政治とは必ずしも国体政体に関する憲法上の意義を有するものではない。徐々に選挙権を拡張すれば民主政治であるといえる。今後世界各国は国体政体の如何に関わらず人民多数が政治上の勢力であることは疑いない。将来の民主政治は男女協同になる傾向がある、と<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/53 92-96頁]。</ref>。 この間の同年11月(ロシア暦10月)ロシアで[[十月革命]]がおき、[[マルクス主義]]政権が世界で初めて誕生する<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD-76798 十月革命]」コトバンク。</ref>。ロシアは、過激思想に導かれて無秩序に陥り、ほとんど阿鼻叫喚の修羅場と化し、その皇室は悲惨な末路を遂げる<ref name=":622">{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/187 334-335頁]。</ref>。日本でロシア革命の関係により発禁処分を受けたものは1917年中に7件あり、そのうち1件は日本の国体を呪い、ロシアに倣うべしと主張するものであった<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/44 74-76頁]。</ref>。大阪朝日新聞はロシアの革命と過激派を推奨する記事を頻りに載せる。早稲田大学では学生が騒擾を起こし早稲田革命などの語を用い、まるでロシア革命を真似たかのような観を呈する。 同年12月[[尾崎行雄]]が『立憲勤王論』を著して曰く、皇室の尊栄と国民の幸栄により日本は世界無双である。その原因の一つは「君意民心の一致」にある。君意民心の一致のためには議会を設け民心を聴くとともに、声望ある人物を多数党の中から挙げて行政長官に任命する。政党内閣の主張の根拠はここにある、と。以上のように主張する同書は尾崎行雄の年来の主張の結晶であり、尾崎は今こそ適時であると見て同書を発行したといわれる。同書は世間の注目を惹き、[[後藤武夫]]らは反対論を著して、尾崎行雄の論は仮面勤王論であり、実は民主主義を鼓吹するものであって我が国体を誤るものであると批判する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/55 96-97頁]。</ref>。 1918年(大正7年)1月、吉野作造が「民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」と題する長大な論文を発表する。吉野作造はこの2年前に民本主義論を提唱してから民主主義論議の中心であったが、この時になって、これまで思想に多少の混乱があり発表の方法も宜しくなかったといって、この論文を『中央公論』誌に掲げたのである。この論文は2年前の論文を確かめるものにすぎないが、要は憲政の本義として参政権拡充主義である民本主義を主張することである。この論文は再び言論界で問題となり、これに対する批評を誘発する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/56 99-101頁]。</ref>。批評の主なものは、[[北一輝]]の弟で早稲田大学教授の[[北昤吉]]による「吉野博士の民本主義を評す」である。北昤吉の評によると、吉野作造の民本主義論は主権論に触れないようにしていることから、その論は矛盾・曖昧・不徹底・誤謬を含む。主権論を回避すること処女のごとく、参政権拡張主義をもって虎視眈々と天下を志すこと奸雄のごとし、という<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/58 102-103頁]。</ref>。 1918年(大正7年)2月、井上哲次郎が『増訂国民道徳概論』を出版する。これは1912年出版の『国民道徳概論』を増補改訂したものである。1912年版と1918年版の間の異同をみることで、この6年間で井上哲次郎の国体論がどう変化したかが分かる<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 160頁。</ref>。国体に関しては次の箇所が注目される。 * 「第三章 国体と国民道徳」で日本の国体を他国と比較して議論している箇所において、1912年版では「露国などは少し日本と似たところがある。露国は一種特有なる政教一致の国体を成しておる」などと書いて、帝政ロシアの国体と日本の国体の類似性を示唆していたが、1918年版ではロシア革命の勃発を受けたためか、その箇所を全て削除する。その一方で孔子の子孫やローマ法王など代数が長い系譜との比較を増補する。のちの昭和期に日本の国体は隔絶性を高めていくが、第一次世界大戦期においては必ずしも隔絶性を強調しない形で議論されていたことがわかる<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 162-163頁。</ref>。 * 「第四章 神道と国体」で天壌無窮の観念を外国のそれと比較している箇所において、1912年版では外国における唯一の例外として[[秦]]の[[始皇帝]]の例を挙げていたが、1918年版では[[周王朝]]や[[ヘブライ人]]に天壌無窮の観念があった例を追加する。いずれにしても外国における天壌無窮の観念は現実に無窮でなかったので、日本の天壌無窮とは大きく異なると論じる。また神道と国体の関係について、1912年版では神道に真の威力があるとすればそれは国体に関する側であると述べ、神道は宗教として幼稚であると断定していたが、1918年版ではこうした口調をやや弱め、「これまでの神道は幼稚な感があります」、「宗教としては見劣りがする。もっとも今度神道を革新して大に発展せしめたならば、どうなるか分らぬけれども、今までの神道はそう偉いものではない」と書き改める。さらに神道を革新するために、淫祀邪教的な神道はむしろこれを撲滅すべしといって強圧的態度を示す<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 163頁。</ref>。 * 「第十章 忠孝一本と国民道徳」で民主主義・民本主義と君主主義の関係について論じる箇所において、1912年版では民主主義も民本主義も同じものであると理解し、民主主義は君主主義と調和できると断言していたが、1918年版では重要な改変を行い、民本主義は君主主義と調和できるが民主主義は君主主義と両立できないと主張する。井上哲次郎はこの6年間の大正デモクラシーの進展をみて、1912年版の説明では対応できないと考えたのである<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 164頁。</ref>。 1918年(大正7年)3月、浮田和民が『太陽』誌に「国際上の民主主義と日本の国体」と題して、連合国の戦争目的である民主主義というのは国際上の民主主義であると述べ、これが日本の国体に反しない所以を説く。これは国際上の民主主義を実際的に説いた初めての論説である。以下のように言う<ref name=":122">{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/60 107-109頁]。</ref>(大意)。<blockquote>今後の外交は秘密主義をやめ公開主義でいかなければならない。公開主義の外交はいわゆる民主主義の外交である。 国際上の民主主義というのは、決して各国の内政に干渉し、その国体や政体を変更しようとする主義ではない。英仏の主張は国際上の民族の自由や小国の独立を擁護することを主義とし、これを民主主義と称するのだから、たとえ同盟国中に万世一系の皇室を戴く日本があっても、英仏の主張に少しも矛盾しない。 連合諸国にいわゆる民主主義はドイツ至上主義に反対する立場である。むしろこれを自由主義または民族主義といったほうが穏当で正確であるが、自由主義といっても前代のように消極的なものではなく積極的に人民の意思を成就しようとするものだから民主主義といわなければ世論が満足しない。また民族主義というのは両刃の剣であり、強大民族が弱小民族を強いて屈服させ同化させる意味もあるので、いよいよ国際上に民主主義という語が流行するようになったわけである。 このように民主主義の意味を解すれば、国際上に民主主義の味方であることは決して日本の国体に悪影響を及ぼさない。ましてや民主主義を民本主義と解すれば、それは井上哲次郎の言うように、建国以来の日本の国是である。</blockquote>浮田和民は翌月にも同誌に「参戦目的と出兵問題」を載せ、日本の参戦目的は国際上の独裁主義を破ることであり、国際上の民主主義のために戦うものにほかならないと説く。この月(1918年4月)は民本主義論が最も賑わった月であり、多くの論者が様々な論説を発表した<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/61 109頁]。</ref>。その中で例えば[[稲毛詛風]]は『雄弁』誌同月号に「外来思想と国民生活」を載せ、民本主義の各種概念と国体の関係を次のように分類する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/67 121頁]。</ref>。 * 広義の民本主義 ** 人道的人格主義(普遍的人格主義)… 日本では極めて幼稚であったが是非必要なものである。 ** 個人的人格主義(特殊的人格主義)… 排他的になる弊害があるが、権利思想を承けるものであり、日本国民には必要なものである。 * 狭義の民本主義(政治上の民本主義) ** 極端なもの(民主主義) *** 絶対的民主主義 … 全く外来的であり日本の国体に許容されない。 *** 相対的民主主義 … 皇室の存在を認めるものであるが、人民を主権者とし君主を機関視する点において日本の国体に許容されない。 ** 穏当なもの *** 政治の目的に関するもの(一般国民福利)… 日本も古来この主義である。 *** 政治の運用方針に関するもの(国民の意向に従う)… 日本では十分に発達していないが、国体に許容されないものではない。ただし為政者が自発的に採用するものであって、民衆が主権者に強制するものであってはならない。 1918年(大正7年)6月、『太陽』誌が臨時増刊号「世界の再造」を刊行する。同号は世運に関する各種問題を集めたものであり、その中では美濃部達吉「近代政治の民主的傾向」が民主主義と国体の関係について論及している<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/67 129-130頁]。</ref>。曰く、もし民主主義を法律上の意味に解して国民を法律上の最高統治権者とするならば、明らかに日本の国体と両立しない。これに対して、政治上の意味における民主主義は、少しも日本の国体に抵触するものではなく、むしろ更に国体の尊貴を発揮する所以である。この意味における民主主義、すなわち民政主義は明治維新以来の国是であって、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」というのは最も直截簡明に民政主義を表現したものである、と<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/73 133頁]。</ref>。 1918年(大正7年)8月、[[白虹事件]]が起こる<ref name=":142">「[https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6-115008 白虹事件]」コトバンク。</ref>。大阪朝日新聞は前年以来ロシアの革命と過激派を称賛する論説を頻りに載せ、またシベリア出兵や米騒動に関して寺内正毅内閣を攻撃していた<ref name=":142" />。8月25日に「日本は今や最後の審判を受くべき時期にあらずや」という記事を載せる<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/46 78頁]。</ref>。記事中に「白虹日を貫けり」という故事成語を引く<ref name=":142" />。この句は、白虹を武器、日を君主の象徴として、臣下の白刃が君主に危害を加える予兆とされる<ref>「[https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E8%99%B9%E6%97%A5%E3%82%92%E8%B2%AB%E3%81%8F-602524 白虹日を貫く]」コトバンク。</ref>。同紙は新聞紙法第41条安寧秩序紊乱により起訴され、社長は右翼から暴行を受ける<ref name=":142" />。 1918年(大正7年)9月、非立憲的な[[寺内正毅内閣]]が[[米騒動]]の責任をとって崩壊し、[[立憲政友会]]の[[原内閣|原敬内閣]]が誕生する<ref>ブリタニカ国際大百科事典「[https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95-66267 米騒動]」コトバンク。</ref>。同年11月、内務省警保局が『我国に於けるデモクラシーの思潮』を出版する<ref name=":152">{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/3 序文]。</ref>。同書は表紙に「秘」と記される秘密文書である<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/2 表紙]。</ref>。同書本文は同局[[事務官]][[安武直夫]]の私稿を別冊として付ける形式である<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1918}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377/4 中表紙]。</ref>。警保局名義の序文に曰く、世界は今やデモクラシーを中心に回転している。我が国でも、これに関して論議しない新聞雑誌はない。ほとんど現代思潮の中心を為し、一般人心もその影響を著しく受ける。しかし論説の内容は様々であって、デモクラシー・民本主義の観念を補足することは容易でない。これらの論議や思潮の傾向を窺うための参考として本書を出版する、と<ref name=":152" />。 === 臨時教育会議の周辺 === 寺内内閣倒壊後も審議を続けていた臨時教育会議は、1919年(大正8年)1月に「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」を内閣総理大臣原敬に提出する<ref name=":192">「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886697/95 教育ノ効果ヲ完カラスムヘキ一般施設ニ関スル建議]」、『臨時教育会議要覧』国会図書館所蔵、180-182頁所収。</ref>。また、同月には皇典講究所とその管下の国学院大学が天皇の御沙汰により年々の補助金を賜わることになる<ref name=":222">{{harvtxt|皇典講究所|1932}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035528/152 290-291頁]。</ref>。その事情は以下のとおりである。 これより先、臨時教育会議では[[江木千之]]委員らがその改革案の趣旨を貫徹させるために国学を振起する必要を感じる。官立大学は国学振起を担う状況にないので、私学の中から探したところ、[[皇典講究所]]管下の[[国学院大学]]が適切であるということで話がまとまり、その拡張を図ることになる<ref>{{harvtxt|江木|1933}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240746/295 下巻566頁]。</ref>。 1918年(大正7年)5月、皇典講究所総裁[[竹田宮恒久王]]が令旨の形式をもって皇典講究所と国学院大学の拡張を命じる。令旨に曰く、世界大乱が民心に及ぼす影響が更に甚だしくなりつつある。この時にあたって皇典講究所と国学院大学は設立の趣旨に則り、国体の本義を明らかにし、道義の精神を徹底させ、教育の規模を拡張し、もって国家の柱石たる人材を養成し、斯道のために大成を期さなくてはならない、と。以後の拡張計画はこの令旨に基づくものとされる<ref name=":202">{{harvtxt|皇典講究所|1932}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035528/146 279-280頁]。</ref>。同年7月に皇典講究所国学院大学拡張委員会を設け、政府の臨時教育会議からは小松原英太郎が拡張委員長に、江木千之、早川千吉郎が拡張委員に就く<ref name=":212" />。 同年10月に臨時教育会議では[[平沼騏一郎]]・[[北条時敬]]・早川千吉郎の3委員が「人心の帰嚮統一に関する建議案」を総会に提出する<ref name=":68">「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886697/92 人心ノ帰嚮統一ニ関スル建議案]」『臨時教育会議要覧』国会図書館所蔵、175-179頁所収。</ref>。提出者は3名とも平沼の主催する[[無窮会]]のメンバーである<ref>公益財団法人無窮会「[http://www.mukyukai.jp/greeting/history.html 無窮会の沿革~創立の精神と歴史~]」2019年10月閲覧。</ref>。小松原英太郎と江木千之は賛成者に名を連ねる<ref name=":68" />。江木は実質的な提出者の一人でもあると自称している<ref>{{harvtxt|江木|1933}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240746/28 下巻32-33頁]。</ref>。 同年12月、皇典講究所の組織を改革して理事会を置き、小松原英太郎、江木千之、早川千吉郎らが理事に就く。小松原は皇典講究所長にも選ばれる。そして皇典講究所・国学院大学は拡張趣意書と拡張計画を発表して募金を呼び掛ける。趣意書に曰く「皇典講究所および国学院大学は、尊厳なる国体を講明し、堅実なる国民精神を発揮し、真摯なる方法によって典故文献を研究するを以って目的とする」。「物質的文明に偏したる弊毒は深く民心に浸潤し、国民道徳の頽廃はあまねく思想界の危機たらんとする」。「これ、本所(皇典講究所)ならびに本学(国学院大学)が、大いに内容を改善し、規模を拡張し、ますます本来の意義を発揮して、もって国民精神を振興せんと欲する所以なり」と。また、拡張計画では、第1期事業の「典故文献の講究」について「我が国が世界無比の国体を有すると同時にその典故文献の講究を要すべきもの枚挙にいとまあらず」、「同時に現代思潮もまた調査研究してこれが善導に資する」といい、「講演」について「動揺せる思潮を善導し、目下の危機を救う唯一の方法は、我が世界無比の国体を闡明し、国民の自覚を促すにあり、よってあまねく講演会を開催し、主義宣伝の捷径たらしめんとす」といい、第2期事業の「国法科設置」に「我が国体と民族とに適合する法律の研究は目下の急務なり」という<ref name=":212">{{harvtxt|皇典講究所|1932}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1035528/146 284-288頁]。</ref>。 この間、臨時教育会議の「人心の帰嚮統一に関する建議案」は、主査委員会で整理修正され、その題名を「教育の効果を完からしむべき一般施設に関する建議」と改め、総会で揉めたあげくに別途修正して可決され、1919年(大正8年)1月に原首相へ提出される<ref>『臨時教育会議要覧』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886697/94 国会図書館所蔵、179-180頁]。</ref>。建議に曰く、時局各般の影響により我が思想界の変調は予測できず、誠に憂慮に堪えない。時弊を救わんと欲すれば、国民思想の帰嚮を統一し、その適従するところを定める必要がある。そしてその帰嚮するところは、建国以降扶植培養された本邦固有の文化を基礎とし、時世の進展に伴いその発展大成を期することにある、と<ref name=":192" />。そしてその要目は以下のようにいう<ref name=":192" />。 *国体の本義を明徴にして、これを中外に顕彰する。 * わが国固有の醇風美俗を維持し、これに副わない法律制度を改正する。 * 各国文化の長を採るとともに、いたずらにその模倣にとどまらず、独創的精神を振作する。 * 建国の精神の正義大道により世界の大勢に処する。 * 社会の協調を図り、一般国民の生活を安定させる。 このうち「国体の本義を明徴に」云々の要目は当初案の「敬神崇祖の念を普及せしむる」という項目を改めたものである<ref name=":192" />。その内容は建議附属の理由書に詳しい。理由書に次のようにいう<ref>『臨時教育会議要覧』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886697/97 国会図書館所蔵、185-188頁所収]。</ref>(大意)。<blockquote>我が国は建国の初めから君臣の義は確乎として定まる。歴代朝廷の仁恵恩沢が深厚であることは天地のように自然である。 海内一家、億兆人民が仲良く皇室を奉戴し、代々蓄積醸成して、ついに一団として情に厚い美俗を成した。これは他国に類例を見ないものであり、国家組織の善美の極致である。 この国体の本義を明徴にし、これを中外に顕彰するには、すべからくその根本精髄を明確詳細に理解させる必要がある。たとえば以下の事実などについて深く留意させるべきである。 * 建国がひとえに君徳に由来する事実、 * 古来王道を治国の大方針として今日に至る事実、 * 神聖が忠孝をもって国を建て、武をとうとび、民命を重んじた事実、 * 皇室と臣民の関係は自然の結合に成り、義は君臣にして情は父子のごとく、建国より今日まで一日も動揺しない事実、 * われら臣民の先祖が赤誠をもって皇室に仕え、子々孫々その意を継承して今日に至り、もって忠孝一本の良俗を成せる事実、 * 維新の初め、明治天皇が五箇条の御誓文を神明に誓い、皇室みずから進んで立憲政治の発端を啓いた事実、 * 帝国憲法は、皇祖皇宗が臣民祖先の協力輔翼により肇造した帝国の基礎を固め、民生の慶福を増進させるために天皇の決断をもって統治の大法を継承したものである事実。 この本義を一般国民の徹底し、国体尊崇する念を鞏固確実にすることができれば、断じて思想変調のために大義を誤ること(革命)はない。この本義は海外にも発揮宣揚して世界の道徳文化に貢献しなければならない。 国体尊重の念を鞏固にするには、敬神崇祖(神々を敬い祖先を崇めること)の美風を維持し、一層その普及を図る必要がある。報本反始(祖先の恩に報いるという[[礼記]]の言葉)は東洋道徳の優秀な点である。特に敬神崇祖の風習は我が万世不変の国体と密接な関係がある。天祖(天照大神)の遺訓を歴代天皇が奉じて国家に君臨し、皇位の隆盛は天壌無窮である。これは国体の尊厳である所以であり、皇室から臣民に至るまで常に敬神崇祖をもって報本反始の義を大事にするのは当然の事に属する。 敬神崇祖の風習は我が国不滅の習俗である家族制度と密接な関係がある。皇室が神祇を敬い祭祀を重んじ、われら臣民も父祖の霊位を祀る。これこそ我が家族制度における慎終追遠民徳帰厚(父母を丁重に弔い祖先を大切にすれば民の徳も厚くなるという[[論語]]の言葉)の所以である。 敬神崇祖の風習を振興する方策としては、神社の荘厳を維持すること、祭祀の本旨を周知すること、神官神職の地位を向上させることが最も必要である。 国体の本義を明徴するに最も必要な事項は皇典研究のために適切な施策を行うことにある。帝国大学その他適切な学校に皇学講明の方針を確立し、建国の由来を明らかにし、国体の根基精髄を理解させるべきである。</blockquote>これと同じ月(1919年1月)、臨時教育会議委員の小松原英太郎が皇典講究所長の立場で宮内省に出向き天皇の御沙汰書を拝受する。御沙汰書には「今般その所(皇典講究所)国学院大学規模拡張の趣を聞きこしめされ、思し召しをもって第1期分大正8年度(1919年度)以降10年間年々1万円まで御補助として下賜そうろう事」とされる<ref name=":222" />。 1919年(大正8年)2月、加藤玄智が『我が国体と神道』を著し、主に宗教の立場から見た神道・国体と外国のそれとの違いを論じる<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/197 354-357頁]。</ref>。同書に次のようにいう<ref>加藤玄智『我が国体と神道』弘道館、1919年、3頁、13頁、24頁。</ref>(大意)。<blockquote>余(加藤玄智)の専攻する宗教史・宗教学の方面より、我が国体の成立について新研究を試み、その淵源に溯り、そ大本を闡明しようと思う。 日本において天皇は現人神であり、シナ人のいわゆる[[天]]または[[上帝]]、ユダヤ人のいわゆる[[ヤーヴェ]]の位置を占める。 万世一系の天皇を奉戴する特種の国体にあっては、天皇の即位式が西洋諸国の君主の戴冠式と全く趣が異なる。それは、神を代理する僧侶から王冠を戴くのではなく、天皇がみずから神霊を祭祀して即位を告祭し、その後に臣民に広く告示する、これが大嘗祭である。大嘗祭と戴冠式との差異を考えると、我が国体の性質が西洋諸国のそれと比べて隔絶していることが分かる。</blockquote>1920年(大正9年)東京帝国大学文学部に神道講座が新設され、加藤玄智がその助教授に就く<ref>遠藤潤「[https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005421.pdf 文学部神道講座の歴史的変遷]」『東京大学文書館紀要』第13号、1995年。</ref>。 この間の1919年5月に国体論の論説集『国体論纂』が出る<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/197 357-370頁]。</ref>。同年8月に[[物集高見]]が『国体新論』を著す<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/205 370頁]。</ref>。 === 内務省神社局『国体論史』 === 1922年(大正10年)1月、[[内務省 (日本)|内務省]][[神社局]]が『国体論史』を出版する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/210 奥付]。</ref>。緒言に次のようにいう<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/7 緒言(大正9年12月付け内務省神社局名義)2頁目]。</ref>(大意)。<blockquote>近時、思想界の動揺に際して、危険思想の防遏や思想の善導ということが識者の間で盛んに唱道されている。なかでも我が国体の淵源を明らかにし、国体に関する理解を国民に徹底させることは最も緊要かつ有効な方法である。ここに本局(内務省神社局)は、嘱託の清原文学士([[清原貞雄]])をして、主に徳川時代以降の国体に関する所論を調査・編述させ、あわせて国体観の問題に開係ある諸種の事実を叙述させた。これによって国民思想の指導の参考資料とするものである。</blockquote>そして巻末で余論と称して、国体論者に釘を刺す意見を次のように主張する<ref>{{harvtxt|内務省神社局|1922}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/206 372-380頁]。</ref>(大意)。<blockquote>我が国のことを何事も嘆美・誇張し、世界無比にして天下に卓絶するものであると説くのは、儀式的な祝辞として述べるにはいいが、我が国体の優秀さを国民に心から納得させるには全く無益であり、外国人から見れば誇大妄想狂にすぎない。 国民を心から納得させるには、科学知識に抵触しない理論の上に立たなければならない。神話は国民の理想・精神として尊重すべきだが、ただ尊重するものでしかない。神話を根拠として国体の尊厳を説くのは危い。神話と矛盾する進化論の知識を注入されている国民はこれを信じないからである。固陋な論者はこれを信じない者を賊子と指弾して攻撃する。そうすれば国民を黙らすのは容易かもしれないが、その心を奪うのは不可能である。 そもそも国体とは「一国が国家として存立する状態なり」と言える。この定義は広すぎるかもしれないが、こう言わなければ国体なる語の内容を言い尽くすことはできない。最狭義に統治権の主体の如何を言うことはもちろん、建国の事情によって定まるとか何とか言うのも、国体という語の内容の一部に過ぎず、我が国体の優秀の理由の一部に過ぎない。 我が国体の優秀とは、上下が仲良く和やかに、うち解け合って一体を成し、しかも整然とした秩序があり、国家として最も強固に存続する状態である。この国体の優秀は我が国の社会の成り立ちに由来する。すなわち、上に国民帰向の中心として有史以前より連綿と継続する皇室があり、下に皇室の支流である国民が皇室を奉戴して、有史以来上下の秩序を替えず、また幸いに外国の侮り(支配)を受ける事もなく、国家が一方向に発展することである。一言でいえば、一つの中心点(皇室)に向かって国民が寄り集まって堅固な国家を成したのである。 ある種の社会主義者の言うように、国内に上下の差別なく一切平等にして、国際間に紛争なく和気あいあいと長閑な世界を作るという理論は空想にすぎない。われらはあくまで国を強固にして、主権に対する絶対服従義務のうちに正当な自由の権利を保持し、国家に対する自己犠牲によって相互の幸福を享有しなければならない。このような国家を形成するには、上に命令者として広く国民を納得させる者の存在することが第一必要条件である。我が皇室は最もこの条件に適合し、しかも今(第1次世界大戦後)の世界において唯一の存在である。 悠久の昔、いわゆる天孫民族の一族が大八島(日本列島)に渡来して夷族を平らげた。神話・伝説によって察すれば、現皇室の祖先が始めからその首長として一族を率いたことは疑いない。宗家の家長を首長と戴く一族は、支族に支族を生じ、徐々に発展して国家を形づくり、都を九州から東に遷して大和を占拠し、ついに今日の大日本帝国の基礎を開いたのである。すなわち我が国は、多くの学者が認めるように一大総合家族というべきものであり、その始めから宗家の家長として全族に臨んだものは、現在の皇室の祖宗である。 全国民が心に不満を抱かずに服従できる首長として、これ以上の者はない。 もし死後の霊魂が不滅であるとすれば、その生前に自分を愛護してくれた父祖が、死んで霊魂になったとしても、その愛護を止めることはないと感じる。また自分が子孫の幸福を切実に願うことから類推しても、父祖の霊魂は必ず自分とその子孫を愛護すると感じる。ここに祖先崇拝の信仰が存在する所以がある。その父祖の霊魂に対する信念は自家の古い祖先に及び、さらに一族共通の祖先に及び、ついに大祖先たる皇祖にも及ぶ。これらを総括したものが、日本の神道の根本である。 ある人は先祖崇拝を報本反始の儀礼に過ぎないという。これは神道を宗教と区別する事を曲解したものであり、神道の内容には儀礼だけでなく信仰もある。もし信仰に欠ける儀礼であれば神道は無力である。国民は祖宗の霊がその子孫や国家人民を保護すると信じるからこそ神道に力がある。祖先の霊の保護の下に一家一族を形成し、さらにこれを総合した宗教、すなわち皇祖皇宗の霊の保護の下に我が国を形づくる。渾然一体の一大有機体であり、そこに万世不動の秩序がある。数千年にわたりこの事に馴らされた国民は、教えなくても父祖を敬愛し、また宗家すなわち皇室を尊奉する。前者を孝といい後者を忠という。学者はこれを忠孝一本と名づける。忠を尽せば孝に適うということである。そうして国家として最も自然的に最も鞏固に存在することが我が国体の特色である。 ある人は、この総合家族制を立国の根本義とすることを批難して、我が帝国が朝鮮・台湾・樺太を加えていることに支障を生ずると論じる。しかし、そはやむを得ないことである。根幹となる大和民族の国家を磐石にすれば、発展とともに段々と附属し来た民族には権威と恩恵をもって臨めばいい。もし新附の民族をも同一範型に容れられる立国根本義を求められないこともないが、総合家族ほど堅固になることは到底ありえない。 天孫降臨の神勅によって我が国体は定まったという人も多いが、それは間違いである。神勅の有無にかかわらず、我が国家の社会的成因が、万世一系の皇位を肯定し、その他を否認するのである。神勅はただその事実を表明したものに過ぎない。神代史は歴史と神話が半々のようなものである。神勅は神話として歴史的事実でないと考える者もいる。しかし、国体論においては神勅が事実であろうが神話であろうが根本問題ではない。神勅が史実であるにせよ、神話すなわち民族的理想の表明であるにせよ、社会的事実は変わらず、国体論は動かない。 帝国憲法も教育勅語も元来存在する事実を顕彰したものであり、これによって国体が定まったわけではない。 統治権の主体について国法学者の間にあれこれ議論がある。一方は統治権の主体を国家とする説(美濃部達吉らの国家主体説)、他方は統治権の主体を天皇とする説(上杉慎吉らの天皇主体説)である。前者(美濃部ら)は国家が国家全体の利益のために存在すると説き、後者(上杉ら)は国家が天皇個人の利益のために存在すると説く。後者(上杉ら)は前者(美濃部ら)の説をもって、天皇の神聖を侵し、国体の尊厳を危くするものであると非難する。しかし、我が国において敢えてこの事を宜明する必要があるのか。規定しなくても国民の大多数は忠魂をもって皇室に尽したいと願い、また歴代天皇は自身を顧みずに国民を憐む。これ我が国体の善美の表れである。しかし冷かな法理によって天皇を神聖視することを強制しようとすること(上杉らの天皇主体説)は、いわゆる贔負の引き倒しであって、皇室に対する国民の忠義の熱情に水をさし、歴代天皇の聖徳を無にするものである。</blockquote> === 治安維持法制定に至る過程 === ==== 日本共産党の成立 ==== ==== 第一次共産党[編集] ==== 詳細は「[[第一次共産党 (日本)]]」を参照 1922年7月15日、[[堺利彦]]、[[山川均]]、[[近藤栄蔵]]ら8人が、極秘のうちに[[渋谷]]の[[高瀬清]]の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「[[第一次共産党 (日本)|第一次日本共産党]]」と称されている。設立時の幹部には[[野坂参三]]、[[徳田球一]]、[[佐野学]]、[[鍋山貞親]]、[[赤松克麿]]らがいる。[[コミンテルン]]で活動していた[[片山潜]]の援助も結成をうながした。 11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「[[22年テーゼ]](日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。 「[[コミンテルン#日本共産党とコミンテルンテーゼ]]」も参照 「綱領草案」は、[[政治]]面で、君主制の廃止、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の廃止、18歳以上のすべての男女の[[普通選挙]]権、[[集会の自由|団結]]、出版、集会、[[ストライキ]]の自由、当時の[[軍隊]]、[[警察]]、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]、[[秘密警察]]の廃止などを求めていた。[[経済]]面では、8時間労働制の実施、[[失業保険]]をふくむ[[社会保障]]の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と[[小作]]地の耕作農民への引き渡し、[[累進課税|累進]]所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国にたいするあらゆる干渉の中止、[[朝鮮]]、[[中国]]、台湾、樺太からの[[日本軍]]の完全撤退を求めた。 日本共産党は「君主制の廃止」や「[[土地]]の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から[[治安警察法]]などの治安立法により[[非合法]]活動という形を取って行動せざるを得なかった。ほかの[[資本主義]]国では既存の[[社会民主主義]]政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した[[労農派]]などが、合法的な[[社会民主主義]]政党を産みだしていった。 日本共産党は一斉検挙前に中心人物が中国へ亡命したり、主要幹部が起訴されるなどにより、運動が困難となった。堺利彦らは解党を唱え、結果1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは共産主義運動から離れ、労農派政党の結成を目指した。赤松など[[国家社会主義]]等に[[転向]]する者もいた。 その後、1925年には[[普通選挙法]]と[[治安維持法]]が、制定された。 ==== 第二次共産党[編集] ==== 詳細は「[[第二次共産党 (日本)]]」を参照 1926年、かつて解党に反対していた[[荒畑寒村]]が事後処理のために作った委員会([[ビューロー (日本共産党)|ビューロー]])の手で共産党は再結党された([[第二次共産党 (日本)|第二次日本共産党]])。その際の理論的指導者は[[福本和夫]]であり、彼の理論は[[福本イズム]]と呼ばれた。福本イズムは、[[ウラジーミル・レーニン]]の『[[なにをなすべきか?]]』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、[[市川正一 (社会運動家)|市川正一]]、佐野学、徳田球一、[[渡辺政之輔]]らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、[[ファシズム]]と社会民主主義を同列に置く「[[ファシズム#1929年-1945年 ファシズムの国際的な高まりと第二次世界大戦|社会ファシズム]]」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。 詳細は「[[日本民主革命論争]]」および「[[日本資本主義論争]]」を参照 当時の党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、[[労働農民党|労農党]]や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった[[野呂栄太郎]]らの『[[日本資本主義発達史講座]]』などの理論活動や、[[小林多喜二]]、[[宮本百合子]]らの[[プロレタリア文学]]は社会に多大な影響を与えた。 1927年の[[第16回衆議院議員総選挙]]では徳田球一、[[山本懸蔵]]をはじめとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の[[山本宣治]]が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の[[三・一五事件]]で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の[[四・一六事件]]と引き続く弾圧で約1,000人が検挙されて、日本共産党は多数の活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。 相次ぐ弾圧で幹部を失うなかで[[田中清玄]]らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて[[川崎武装メーデー事件]]、[[東京市電]][[労働争議|争議]]における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの暴発事件を起こした。また1930年に[[水野成夫]]らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の[[日本共産党労働者派]]を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。 1931年4月、コミンテルンより「[[31年政治テーゼ草案]]」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を[[社会主義革命]]としていた。 このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した[[満州事変]]に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。 1932年5月、コミンテルンにて「[[32年テーゼ]]」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、[[絶対君主制|絶対主義]]的天皇制を主柱とし、[[寄生地主制|地主的土地所有]]と[[独占資本主義]]という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする[[二段階革命論]]の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的[[スローガン]]を「[[帝国主義]][[戦争]]および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。 同月、全協の活動家であった松原がスパイとして[[私刑|リンチ]]され、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には[[朝鮮人]]活動家の[[尹基協]]がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。[[立花隆]]は、「スパイM」([[飯塚盈延]])を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内部でのスパイ狩りが始まり出した。 10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された([[熱海事件]])。同月、[[赤色ギャング事件]]が発生している。[[松本清張]]は『[[昭和史発掘]]』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、[[特別高等警察|特高警察]]が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内部に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力的事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定したものもいた。 さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した([[共同被告同志に告ぐる書]])。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多数の党員が袴田ら党中央を批判して分派の「[[多数派 (日本共産党)|多数派]]」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった[[袴田里見]]の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。 1936年の[[フランス]]や[[スペイン]]で「[[人民戦線]]」とよばれる[[統一戦線]]政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。 [[日中戦争]]に際しては、戦争反対とともに、出征[[兵士]]の家族の生活保障や[[国防献金]]徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。 その後も、関西には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって弾圧された。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された([[人民戦線事件]])。また、国外に亡命していた野坂は、[[延安]]で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。 1921年(大正10年)5月に日本の共産主義者は上海に渡航して資金を獲得し、その資金をもって帰国して過激な主義運動を開始する。政府はこれを取り締まるため、1922年(大正11年)3月に過激社会運動取締法案を議会に提出する。この法案は、朝憲を紊乱する事項や社会の根本組織を不法に変革する事項について、これを宣伝等した者を罰するものである。これは貴族院で修正のうえ可決されるが、衆議院で審議未了に終わり、廃案になる<ref name=":232">{{harvtxt|内務省警保局|1925}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955968/15 3頁4段目]。</ref>。日本共産党は同年末にロシアで行われた[[コミンテルン]]第4回大会で承認され、ここにコミンテルン日本支部として日本共産党が成立する<ref>日本大百科全書(ニッポニカ)「[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120 日本共産党]」コトバンク。</ref>。通説によるとコミンテルンの[[ニコライ・ブハーリン|ブハーリン]]が起草した「[[22年テーゼ|日本共産党綱領草案]]」は「君主制の廃止」を要求しており、この点が翌年3月の石神井臨時党大会で問題視され、綱領草案は審議未了に終わったという。一説には綱領草案に「君主制の廃止」の要求はなく、実際は「完全に民主的な政府」の要求であったとも指摘されている<ref>黒川伊織「[http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/592-03.pdf 日本共産党『22年綱領草案』問題再考]」『大原社会問題研究所雑誌』No.592、2008年。</ref>。 1923年(大正12年)9月1日の[[関東大震災]]をきっかけに大正デモクラシーは曲がり角を迎える。震災前まで日本国内では大正デモクラシーの民衆運動が高まり、それに反発する右翼が台頭し、現職総理大臣原敬の暗殺や元老山県有朋の死去もあって、天皇制支配体制が揺らいでいた。また国際的にも、ワシントン体制で英米と対立し、中国人や朝鮮人の反日運動を被り、シベリア出兵に失敗するなど、孤立しつつあった。そこに関東大震災が突発する<ref name=":69" />。 ==== 関東大震災 ==== 政府は大地震の翌2日に戒厳を布き、5日に内閣告諭を発して人々の朝鮮人迫害を戒め、7日治安維持令を発して人心の動揺を抑えるが、この間多数の朝鮮人が自警団らに殺傷される。また[[亀戸事件]]で社会主義者10人が警護兵に殺害され、16日には[[甘粕事件]]で[[無政府主義者]][[大杉栄]]とその家族が[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]に殺害される。こうした事件に対する批判は少なく、むしろ軍隊と警察は治安維持と被災者救護を通じて民衆の間で威信を高め、内村鑑三や美濃部達吉ですら軍隊と戒厳に謝意を表わす。財界人の間では天譴論というものが唱えられる。天譴論とは、震災を国民への天罰として捉えるもので、それは国民が贅沢に馴れて勝手気ままに危険思想に染まりつつあることに対する天罰なのだという。政府は11月に天皇の名で[[国民精神作興ニ関スル詔書]]を出し、軽佻詭激(軽はずみな過激行為)を戒めるが、この詔書に署名した[[摂政皇太子]][[裕仁親王]]は翌月[[虎ノ門事件]]で暗殺未遂に遭う。犯人[[難波大助]]は主義者であったため、主義者に対する嫌悪感が民衆の間に広まる<ref name=":69">日本大百科全書(ニッポニカ)「[[関東大震災]]」コトバンク。</ref>。 関東大震災の6日後に発せられた治安維持令は、生命身体財産に危害を及ぼす犯罪を扇動した者、安寧秩序を紊乱する目的で治安を害する事項を流布した者、人心を惑乱する目的で流言浮説をなした者を処罰するものである。これは緊急勅令であったが、治安維持に相当の効果があるということで同年12月に帝国議会の承諾を得て恒久化する。治安維持令は1925年治安維持法制定時に廃止されるまで効力を持つ<ref name=":242">{{harvtxt|内務省警保局|1925}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955968/16 4頁1段目]。</ref>。 ==== 治安維持法制定 ==== この間、共産主義その他の急進運動は著しく発展し、ロシア第3インターナショナル(コミンテルン)と通謀して資金提供その他の援助を受け、過激運動を計画し実行しようとする。これに加えて日露間に修好の基本条約が締結されたため、国交が徐々に回復して両国間の往来が頻繁になれば過激運動家が各種の機会を得ることも予想された。日本政府は、従来の法規制は抜け穴が多く罰則も軽いので取り締まりの効果が薄いという理由で治安維持法案を帝国議会に提出する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1925}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955968/15 3頁1段目]。</ref>。治安維持法案は第1条に「国体もしくは政体を変革し、または私有財產制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者は、ハ十年以下の懲役または禁錮に処す」「前項の未遂罪はこれを罰す」というものであり、国体とともに政体を挙げていたが、衆議院は政体のことを条文に掲げる必要がないとして「もしくは政体」の文字を削除して法案を可決する<ref name=":242" />。治安維持法公布後に内務省警保局が官報に載せた各条義解によると、国体とその変革というのは次のことを意味する<ref>{{harvtxt|内務省警保局|1925}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955968/16 4頁最下段目]。</ref>(大意)。<blockquote>国体とは誰が主権者であるかの問題である。我が帝国は万世一系の天皇に統治される君主国体である。国体は歴史にもとづく国民の確信によって定まるものであり、成典(帝国憲法)によって定まるものではない。成典に国体に関する規定があるのは、ただ主権者がみずから既定の国体を宣言したに過ぎない。憲法第1条に大日本帝国は万世一系の天皇これを統治すると定め、第4条に天皇は国の元首にして統治権の総攬者であることを明らかにした。したがって、天皇以外が統治権の総攬者であることはなく、天皇に統治されない国土はなく、天皇以外が天皇に淵源しないで統治権を分担することはない。 治安維持法第1条にいわゆる国体の変革とは、国民の確信である国体の本質に変更を加えることをいうのである。君主国体を変えて共和国体やソビエト組織にしたり、一切の権力を無視して国家の存在を否認したり、要するに統治権の総攬者である天皇の絶対性を変更する色彩のあるものは国体の変革である。そして暴動を要件としない点で内乱罪の予備や陰謀と異なるのである。</blockquote>1926年、全日本学生社会科学連合会(学連)に属する学生ら38名が治安維持法違反等の疑いで検挙される。[[京都学連事件|学連事件]]である<ref>{{Cite web|和書|title=学連事件(ガクレンジケン)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E5%AD%A6%E9%80%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6-460949|website=コトバンク|accessdate=2019-10-25|last=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=}}</ref>。検挙後の5月に[[検事総長]][[小山松吉]]が訓示して「学術研究の範囲を超越し、いやしくも国体を変革し、または社会組織の根底を破壊せんとする言論をなし、もしくはその実行に関する協議をなすに至りては、毫も仮籍する所なく、これを糾弾せざるべからず」と指示する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 9頁。</ref>。 ==== 井上哲次郎不敬著書事件 ==== 1925年(大正14年)9月、井上哲次郎が『我が国体と国民道徳』を著す。同書に曰く、我が国体は既に分かり切ったものと思い込んで実はよく知らない者が多く、精神面を度外視して表面だけ考えたり、英国や旧ドイツ帝国や旧ロシア帝国などと同じように考えたり、民主思想と絶対に相容れないものと考えたりする、その誤謬は実に様々である、と述べ、国体は民主思想と矛盾するものではないと語る<ref name=":410">{{harvtxt|見城|2008}} 166頁。</ref>。井上哲次郎はこれまで万世一系の血統を重視していたが、同書ではポイントを移して王道(仁政)を重視し、民本主義や人道主義が国体に根差すと主張する<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 167頁。</ref>。これは、大正天皇の病気療養に国体論の不安を見た井上哲次郎が、国体論を再編して国体の正統性について説得的な論拠を提供しようと試みたものと評される<ref name="名前なし-3">{{harvtxt|見城|2008}} 151頁。</ref>。 井上哲次郎の『我が国体と国民道徳』は公刊後1年経った1926年(大正15年)9月ごろから[[頭山満]]ら国家主義者に猛烈に批判され、翌年1月に発禁処分を受ける<ref name=":410" />。当時の批判は「彼(井上哲次郎)は全く時代思潮の追随者で、彼自身の見識も意見も有るものではない」、「震災前に出版していた国民道徳概論には国体破壊の恐れある言論はほとんどない」のに、『我が国体と国民道徳』については「なるほどこれは怪しからぬ。かれ井上氏は何時の間にこんな物を書くほどに、それも国民道徳と銘を打って、全国の児童の頭に植えつけるような書物に書くほどに悪化したろうか」というものであった<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 168頁。</ref>。具体的には、三種の神器のうち鏡と剣は模造品であるなどと記した部分があり、これが不敬であるとされたこと<ref name=":410" />、またそれよりむしろドイツ・オーストリア・ロシアの君主国体が倒れたことについて「このように国体というものがガラリガラリと一変して行くのを引き続いて見た」などという記述が問題視されたことが挙げられる<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 169頁。</ref>。この不敬事件は、井上哲次郎の国体論再編の試みが伝統的国体論から攻撃を受けて挫折したものと評される<ref name="名前なし-3"/>。井上哲次郎は公職を辞めざるを得なくなり、以後著述に専念する<ref>{{harvtxt|見城|2008}} 169頁、注1。</ref>。 == 昭和戦前期の国体論 == [[昭和]]になると、国体論は人々の思想を規制するうえで猛威をふるう。昭和の直前の1925年に制定された[[治安維持法]]は国体の変革を目的とした結社を禁止した。その3年後の緊急勅令は国体変革に関する最高刑を死刑に引き上げた。こうした動きの背景には、国体を天皇制として相対化する[[マルクス主義]]に対する恐怖と敵意があった<ref name=":45" />。治安維持法でいうところの「国体」は[[大審院]]判決で「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」とされた<ref>大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁。</ref>。 === 日本初の普通選挙の前後 === 昭和の初め、衆議院で初の普通選挙が行われ、その選挙結果に基づき第55回帝国議会が開かれるが、その前後では国体にまつわる様々な問題が惹起される。国民の総意に基づく議会中心主義を掲げる立憲民主党綱領問題、君主制の廃止を謳う日本共産党に対する弾圧、パリ不戦条約の人民ノ名ニ於テ問題などである。 ==== 立憲民政党綱領問題 ==== 日本初の普通選挙を控えて、1927年6月、[[立憲民政党]]が創立される。創立趣意書に「国体の精華にかんがみ一君万民の大義を体し国民の総意によりて責任政治の徹底を期するものである」と述べ<ref>{{Cite web|和書|title=「『立憲民政党』と決定」大阪朝日新聞1927年5月15日:神戸大学電子図書館システム|url={{新聞記事文庫|url|0100315397|title=「立憲民政党」と決定 : 創立趣意書も発表さる : 新党準備委員幹事連合会|oldmeta=10123144}}|website=www.lib.kobe-u.ac.jp|accessdate=2019-10-24|publisher=}}</ref>、党の政綱に「国民の総意を帝国議会に反映し、天皇統治の下議会中心政治を微底せしむべし」と宣言する<ref>{{Cite web|和書|title=立憲民政党史. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション、119コマ目|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880047/119|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2019-10-24|language=ja|publisher=}}</ref>。時の政権は、同党と対立する立憲政友会の田中義一内閣である。翌年2月に初の普通選挙が行われる際、同内閣の内務大臣鈴木喜三郎は、投票前日に声明書を発表し、立憲民政党の政綱について「議会中心主義などという思想は民主主義の潮流にさおさした英米流のものであって、我が国体とは相容れない。畢竟かくのごとき思想は主権は一に天皇にありとの大義を紊乱し、帝国憲法の大精神を蹂躙するものであって断じて許すべからざるものである」と批判する。しかしこの声明書は逆に鈴木内相への不信任の雰囲気を強める。新聞には、民政党が国体に反するというなら何ゆえ治安警察法で解散させないのかと指摘され、貴族院からは皇室を政争の具にするものとして非難される。選挙後の帝国議会において、鈴木内相は過度の選挙干渉を責められて辞職に追い込まれる<ref name=":610">{{Cite web|和書|title=第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説 #三つの「国難」決議案|url=http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/28_gikai/55_syugiin/03.html#06|website=www.furuyatetuo.com|accessdate=2019-10-25|publisher=|author=古屋哲夫}}</ref>。 ==== 日本共産党弾圧と治安維持法改正 ==== この間の1927年7月、コミンテルンが日本の君主制の廃止を謳う「日本問題に関する決議」を採択する。いわゆる[[27年テーゼ]]である<ref>{{Cite web|和書|title=二七年テーゼ(にじゅうしちねんてーぜ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E4%B8%83%E5%B9%B4%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC-1573668|website=コトバンク|accessdate=2019-10-25|language=ja|last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。日本共産党は27年テーゼに基づき活動を始め、翌年2月の衆議院選挙に11名の党員を労働農民党から立候補させて公然と大衆宣伝を行う<ref name=":72">{{Cite web|和書|title=三・一五事件(さん・いちごじけん)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6-70318|website=コトバンク|accessdate=2019-10-25|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=}}</ref>。選挙運動では、日本共産党の名を入れたビラをまき、共産党のテーゼを大衆に宣伝する<ref>{{Cite web|和書|title=第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説 #三・一五事件と労働農民党の結社禁止|url=http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/28_gikai/55_syugiin/03.html#04|website=www.furuyatetuo.com|accessdate=2019-10-25|publisher=|author=古屋哲夫}}</ref>。 田中内閣は共産党が国民に影響することを恐れて密かに内偵を進め、3月15日未明、共産党の党員やシンパなどの約1600名を一斉検挙する。[[三・一五事件|三一五事件]]である<ref name=":72" />。文部大臣水野練太郎は訓令を発し、この事件を「国家のため一大恨事」と断じ、「極端なる偏倚の思想を根絶し懐疑不安の流弊を一掃する」こと、そして「学生生徒をしてこれに感染することなからしめんがため、特に心力を傾注してわが建国の本義を体得せしめ国体観念を明徴ならしめ、もつて堅実なる思想を涵養するに勉むる」ことを指示する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 16-17頁。</ref>。衆議院では、尾崎行雄提出「思想的国難に関する決議」が圧倒多数で採択される。貴族院議員は各派代表が揃って田中首相を訪問し「日本共産党の主義行動は根本的に我が国体を破壊せんとするものの如くなれど、かかる行動に対しては徹底的に弾圧を加うる意思なるや否や」などと問い詰める<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 18-19頁。</ref>。各種の教育団体は一様に国体観念の涵養を高唱する。たとえば全国聯合小学校教員会総会は「国体観念の涵養に努め国民精神の振興を図り以て国運の進展に貢献せんことを期す」という宣言を決議する。また教育社会の中央機関を自認する帝国教育会は、全国聯合教育会の決議を受けて、思想問題研究会を設置する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 19頁。</ref>。 田中内閣は治安維持法の国体変革罪の最高刑を死刑に引き上げる法案を帝国議会に提出するが、法案を審議する委員会の委員長席を野党に取られて、法案は審議未了で廃案になる<ref name=":610" />。そこで田中内閣は緊急勅令により治安維持法改正を強行する。緊急勅令を出すには緊急性の口実が必要であり、これについては原法相が名古屋の第3師団が[[山東出兵]]に出征する際に反戦を働きかけた者がいた事案を示し、「彼らに対し厳重なる警戒を加えるにあらざれば、彼らはますます国体変革を目標としてこの大胆不敵の売国的運動を継続し、我が国の治安を根本的に破壊せんことを努むるの恐れある」と説明する記事を新聞に載せる。治安維持法改正緊急勅令案を審査する枢密院では緊急性について疑義が出され異例なほど紛糾するが、結局多数をもって可決される<ref>{{Cite web|title=第五六回帝国議会 衆議院解説 #治安維持法改正問題|url=http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/31_56syugiin.html#tian|website=www.furuyatetuo.com|accessdate=2019-10-25|publisher=|author=古屋哲夫}}</ref>。枢密院の審査委員会では「危険思想の青年間に流布することの恐るべき次第」「学校教育においては国体観念を明らかにし国民的信念を涵養すること最も必要なり」といったと発言が相次ぎ、その結果として審査報告書に付せられた警告条項に「思想の善導につき当局は学校教育たると社会教育たるとを問わず教育の改善に最も力を致すべき」との要求が掲げられる。枢密顧問官らは特高警察や思想検事の拡充よりも思想善導を優先させたのである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 18頁。</ref>。 ==== 人民ノ名ニ於テ問題 ==== この間の1928年3月(前述三一五事件と同じ月)、パリで日本政府代表が[[不戦条約]]に署名調印する<ref name=":83">{{Cite web|和書|title=戦争抛棄ニ関スル条約|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957237/16|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2019-10-25|publisher=|work=官報|date=1929年07月25日}}</ref>。その第1条に「人民の名において」とあり、野党はこれをそのまま批准すれば国体を変更することになると批判する<ref name=":93">{{Cite web|和書|title=衆議院議員尾崎行雄提出不戦条約第一条ノ用語ニ関スル質問ニ対スル外務大臣答弁書|url=https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000000274524|website=国立公文書館デジタルアーカイブ|accessdate=2019-10-25|work=公文雑纂・昭和四年・第二十一巻・帝国議会四・質問・答弁|pages=15コマ目}}</ref>。 不戦条約は英文と仏文で書かれ、その第1条には英文で"The high contracting parties solemnly declare in the name of their respective people ..."とある。これを和訳すれば「締盟国は各々その人民の名において厳粛に宣言する」となり、当時の外務省もそのように翻訳して国際時報に載せていた<ref>同前12コマ目。</ref>。この字句が物議を醸すと政府は急に訳文を隠し、議員が訳文の開示を要求しても、まだ翻訳が出来ていないと答弁する。尾崎行雄は、1929年2月に政府へ提出した質問主意書において、我らは軍国主義に反対するから不戦条約自体には賛成であるし、この問題は天皇大権に関係するから政争の具にしてはならないと言いつつも、次のように指摘する<ref name=":93" />。<blockquote>我が国と同じく不戦条約に調印したる米、仏、曼〔ドイツ〕、チェコスロバキア、ポーランド等の共和国は申すに及ばす、英、白〔ベルギー〕、伊〔イタリア〕等の君主国といえどもその君主はただ君臨するだけで統治せざる国柄であるから、人民をもって条約締結の主体となすのは当然の次第であるが、ひとり我が国に至りては、天皇は統治権を総攬し(憲法第四条)、また条約締結権を専有したまう(憲法十三条)であるから、人民をもって条約の主体となすことはできない。 しかし不戦条約第一条をかのままにしておいて御批准なされば人民をもって該条約の主体となすことになる。それは憲法第一条、第四条および第十三条に違反し、国体を変更し、条約締結の大権を天皇陛下の御手より人民に移すことになる。ゆえに政府は、まず勅命を請うて憲法を改正せざる限りは、かのまま該条約の御批准を奏請することはできないはずである。</blockquote>日本政府は同年6月27日に不戦条約の批准を受ける際に異例の「宣言」を発し、不戦条約第1条中の「其ノ各自ノ人民ニ於テ」という字句は帝国憲法の条文からみて日本国に限り適用されないものと了解すると宣言し、この宣言を前提に批准する旨を批准書に書き入れて天皇の批准を受ける<ref name=":83" />。それと同じ日、田中義一首相は張作霖爆殺事件について天皇に奏上し、犯人不明のまま責任者の行政処分のみで済ますと説明する。これが従来の説明と全く異なることから、天皇は強い口調でその齟齬を詰問し、さらに田中に辞表提出を求める<ref>宮内庁『昭和天皇実録』第16巻99頁。“[https://www.sankei.com/article/20181229-MGIKCPMOCRIWJMHOJ7WDKVH26U/4/ 【昭和天皇の87年】覆された首相の決心 天皇は激怒し、辞表提出を求めた]” 産経ニュース(2018年12月29日)、2019年10月25日閲覧。</ref>。田中内閣は不戦条約批准問題で苦境に立ち、張作霖爆殺事件の責任問題で昭和天皇に咎められたことで、総辞職に追い込まれる<ref>{{Cite web|和書|title=田中義一内閣とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80%E5%86%85%E9%96%A3-850240|website=コトバンク|accessdate=2019-10-25|last=日本大百科全書(ニッポニカ)|publisher=}}</ref>。田中内閣に代わって立憲民政党の[[濱口内閣|浜口内閣]]が成立し、不戦条約を公布する。その上諭は「右帝国政府の宣言を存して批准し、ここに右帝国政府の宣言とともにこれを公布せしむ」という異例の表記になる<ref name=":83" />。 === 民政党内閣の教化運動 === 1929年7月に成立した浜口内閣は「十大政綱」を発表し、国体観念の涵養に留意して国民精神の作興に努めることを宣言する。そして教化総動員運動というものを急遽計画し、9月から12月にかけてこれを全国で実施する。この運動は、各地の教化団体・青年団体・宗教団体・婦人団体を中心として一般国民を巻き込む意図があり、その目的を「国体観念を明徴にし国民精神を作興すること」「経済生活の改善を図り国力を培養すること」の2点に集約し、その根拠を昭和天皇の践祚後勅語と即位礼勅語に求める。この運動は推進者の小橋文相が鉄道疑獄で辞任したことから尻すぼみで終わるが、各地社会教育団体が自発的に運動に参加したことから、一般国民の間に異端排斥の風潮を強める<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 30-31頁。</ref>。 文部省は1930年度から学生生徒の思想善導を実施する。その中に特別講義制度があり、これは「我が国特殊の国体、国情、国民性等を明徴に」すること等のため、各校が外部講師に依頼して特別講義を実施するものである。初年度はまず官立高校で始め次年度から範囲を官立専門学校・実業専門学校、高等師範、大学予科に広げる。講師としては[[鹿子木員信]]・[[新渡戸稲造]]・[[高田保馬]]・[[川合貞一]]・[[前田多門]]・[[紀平正美]]の講義が多く、そのほか[[三上参次]]・[[辻善之助]]・[[柳田國男|柳田国男]]・[[大川周明]]らも動員される。教養話や時事談もあるが全体としては国体明徴等に関する講話が多い。当初は各校年間10時間程度実施する予定であったが、実際には初年度に4時間あまり、次年度に2時間たらずしか実施できていない。これは、高校ですらストライキや騒擾が頻発する当時にあっては、有名高士の説教自体が学生生徒から攻撃されたからである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 41-42頁。</ref>。 === 満洲事変勃発 === 1931年に満州事変が勃発すると一般国民の間で排外熱と好戦熱が高まり、社会民主主義者は戦争協力になだれ込む。学校全体を巻き込むストライキや騒擾は翌年から激減する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 56-57頁。</ref>。文部省学生部は特別講義制度を自賛する。文部省学生部によると、学生らが外来思想に対する追随的・妄信的・無批判的な態度から脱却して、我が国特殊の国体、国情、国民性等に十分な考慮を払い、現実の社会問題、思想問題に対して批判的識見を持ち始めたのは特別講義制度のおかげなのだという<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 60頁。</ref>。 満州事変後、右翼学生が国家主義を前面に掲げて団体を結成しはじめる。文部省は、右翼学生団体を主義や綱領により大別し、その分類の筆頭に、天皇中心主義を信奉し、皇道精神と日本精神の涵養と発揚に努め、国体観念を明徴させようとするものを挙げている。ほかは、国防を研究するもの、満蒙進出を図るもの、学風の堅実化を図るものである。文部省は右翼学生団体に対して左翼学生運動への対抗者として積極的に支援する。たとえば文部省学生部の帝国議会向け資料には、右翼学生団体について、おおむね研究や修養を主とする穏健なものが多く、中には特に国体観念・国民精神等を明徴にしようとする真面目な団体もあるから、一方において極左思想の激しい今日にあっては、この種の団体に対してその健全な発達を助成すべきものと思われる、と記されている<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 64頁。</ref>。 === 学生思想問題調査委員会 === 1932年(昭和7年)5月、文部省の学生思想問題調査委員会が文部大臣の諮問に答申を出す。同委員会は前年に文部大臣の諮問機関として設けられたものであり、その委員の大多数は、左傾思想(マルクス主義)が国体に反する危険思想であることを共通認識とし、左傾の原因について「我が国体思想の涵養が不充分なりしことが、マルキシズム勢力の原因の一つ」と判断し、具体的な対策として「我が国体・国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くること」を提唱する。これは国民精神文化研究所の創設に結びつく<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 38-40頁。</ref>。 学生思想問題調査委員会の中で少数派であった[[河合栄治郎]]と[[蠟山政道]]は、委員会の答申とは別に自分たちの少数意見を『学生思想問題』として公刊する。同書に次のように言う(大意)。<blockquote>国体思想それ自体を尊重し、その涵養が重要であることを認めるが、元来国体思想はマルキシズムと全面的に対立するものではない。 国体思想とマルキシズム勢力の原因は全く関係ない。国体思想が涵養されないことでマルキシズムが勢力を持ったわけでもなければ、国体思想が涵養されたからといってマルキシズムの勢力が阻止されるものでもない。 国家主義の不充分であったことはマルキシズム勢力の一因となるとともに、また国家主義が充分であることは逆にマルキシズム勢力の一因ともなる。国家主義とマルキシズムとの関係は決して単純ではないことを注意すべきである。</blockquote>このような河合・蝋山の意見が委員会の大勢と対立することは明らかである。この委員会の発展形といえる後の思想対策協議委員では、河合や蝋山のような見解はありえないものとなり、それ以降の思想全般のあり方についてもそのような見解を批判し否定する方向が唯一絶対化する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 39-40頁。</ref>。 === 国民精神文化研究所の設立 === 1932年8月文部省は国民精神文化研究所を設立する。これは学生思想問題調査委員会多数派による答申を受けたものである。高等学府の学者は大方反対者であり、国民精神文化研究所の仕事に直接参加することを拒んだという。所長は東大教授の[[吉田熊次]]に決まりかけるが本人に断られ、文部次官が所長事務取扱を兼ねる形で取りつくろう。実際には学生部長[[伊東延吉]]と事業部長[[紀平正美]]が中心となって運営する。研究部長は当初欠員であり、のち吉田熊次が就く。専任の所長には1934年5月、社会教育局長であった[[関屋龍吉]]が就く<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 66頁</ref>。当時この人事は左遷と評されたという<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 88頁。</ref>。 研究部には、歴史科、国文学科、哲学科、教育科、法政科、経済科、思想科が各科が置かれる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 66頁。</ref>。研究成果は出版、講演会、講習会などを通じて普及が図られる。出版物として、紀要『国民精神文化研究』をメインに、パンフレット『国民精神文化類輯』、機関誌『国民精神文化研究所々報』などを発行する。初期の『国民精神文化研究』には、[[河野省三]]の論文「我が上代の国体観念」のような、国体観念や国民精神の闡明を目的とする論文が数多く掲載される<ref name=":04">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 67頁。</ref>。 研究部以上に重要なのは事業部である。これは学校教員の思想対策と転向学生を扱う。事業部は教員研究科と研究生指導科に分かれる<ref name=":04" />。 教員研究科は師範学校教員の思想再教育を目的とするものである。これは後に中等学校教員も対象にする。研究員募集の通牒には、国体観念と国民精神に関する根本的研究を積まさせて思想上の指導訓育に尽力させる、とある。第1期研究員の修了後の所感は「特に知識的よりも信念的には一層国体観、人生観が深められた」「左右両思想への批判と国体観念、日本精神に対する明確なる信念を得た」などの感想が圧倒的に多い。研究員たちは学校教師として帰任した後、生徒の思想善導の中心となり、また地域の講演会や講習会の講師として引っ張りだこになり、国体観念を熱心に鼓吹していく<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 68-69頁。</ref>。 研究生指導科では、思想上の理由で退学した学生生徒の指導矯正を図る。いわゆる転向の促進である。指導方針は「時代思想を批判し、日本精神を闡明ならしむるを主眼とす。まず過去の生活態度に対する反省とマルクス主義の理論的批判に努力せしめ、ついで我が国体・国民精神についての研究をなさしめ、もって日本人としての確固たる生活原理を樹立せしむるよう指導をなす」とされる。入所者に指導矯正を繰りかえし、入所者が我が国体・国民精神の真髄を体得し、日本人としての自覚を強固にして、日本思想界の刷新のため力を尽くし皇国に報いんとする念願を持つに至らしめたという<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 70頁。</ref>。 国民精神文化研究所の中心人物である伊東延吉は1933年6月に同所の機関誌に「思想問題と国民精神文化研究所」と題して、「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。この真我を把握し、この国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識を示し、欧米流の分析・実証・理論を排して「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」なるものが必要であると主張する。そして、かつて学生思想問題調査委員会で河合と蝋山が示した異見を否定する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 67頁。</ref>。 === 1933年思想対策ブーム === 1933年(昭和8年)は思想問題に明け暮れる。前年末の司法官赤化事件に始まり、2月の長野県教員赤化事件、滝川事件、佐野鍋山転向などが勃発し、支配層は思想対策に狂奔する<ref name="名前なし-4">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 83頁。</ref>。 ==== 国際連盟脱退 ==== 1933年3月、日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立を深める。この事態は、満州事変後の非常時意識を急速に高め、思想問題の切迫化と相まって思想対策ブームを創り出す。鳩山一郎文相は訓令を発し、教育教化の関係者に対し、みずから率先して学生生徒を誘導し一般民衆を鼓舞し国民精神を振作して時難の匡救に邁進すべし等と指示し、その具体策として非常時国民運動の実施を求める。文部省は外務省や陸海軍省と協議して国民教育読本『非常時と国民の覚悟』10万部を全国の学校や社会教育団体に配布する。その結語で「国民精神を振作せんが為には之が障碍たる唯物思想の撲滅を期し、国民的信念の涵養に力めなければならぬ」ことを強調する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 85-86頁。</ref>。 ==== 思想対策協議委員 ==== 思想対策協議委員が政府に設置される。きっかけは帝国議会の思想対策決議である。衆議院で提案理由の説明した山本梯二郎議員は国民教育の確信を強調し、国体観念と道義観念の注入と、危険思想の持主に大斧鉞を加える勇断を政府に要求する。斉藤実内閣は「中正堅実なる思想対策の確立を期するため」思想対策協議委員の設置を閣議決定する。その委員会は内務・司法・陸軍・海軍・文部の各省の勅任官らで構成される<ref name="名前なし-4"/>。陸軍省は教育振興のため国体観念宣揚などを要求する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 89頁</ref>。 思想対策協議委員は8月に思想対策方針具体案を立案し、閣議決定をみる。それは「積極的に日本精神を闡明しこれを普及徹底せしめ国民精神の作興に努むることをもってその根幹となすも、一面において不穏思想を究明して、その是正を図ること、また緊要なり」といい、具体的には国民精神文化研究所の拡充や各道府県での国民精神文化講習所の新設などを計画する。途中案では、日本精神の聖書経典とも称すべき簡明平易な国民読本を国民精神文化研究所研究部で編纂し広く普及させることが企画される。これは委員会で立ち消えるが、ここに後の『[[国体の本義]]』の萌芽があったことは注目される<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 84頁。</ref>。 ==== 滝川事件 ==== 滝川事件では京都帝国大学教授滝川幸辰が休職処分になる。この事件は文部省の思想統制の範囲がマルクス主義の枠を越えて、自由主義にまで広がったことを意味する。文部省国民精神文化研究所の伊東延吉が滝川事件について「唯物論とかマルキシズムとか云ふことで問題にしてゐるのではない。その客観主義自体が問題で、あれを進めていくと××否認、××否認になる」(××は原文のまま)と発言したように、文部省は国体否認・国家否認と見なした思想を排除するようになる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 79頁。</ref>。文部省は滝川事件を済ませると、その後は一挙に国体に反するとみなした思想や学説を思想統制の対象としていく<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 81頁。</ref>。 ==== 日本共産党幹部転向声明 ==== 6月に日本共産党幹部の[[佐野学]]と[[鍋山貞親]]が転向を声明する。声明書に日本の君主制(国体)について次のようにいう<ref>{{Cite web|和書|title=佐野、鍋山の両巨頭思想の転向を獄舎から声明す|url={{新聞記事文庫|url|0100286257|title=佐野、鍋山の両巨頭思想の転向を獄舎から声明す : 「従来の指導の誤謬を悟る」 : 左翼運動上に大衝動|oldmeta=10071012}}|website=神戸大学電子図書館システム|accessdate=2019-10-25|publisher=|work=神戸又新日報|date=1933年6月10日}}</ref>(大意)。<blockquote>日本の君主制をロシアのツァーリズム(絶対君主主義)と同視する党の反君主主義が過ちであることを認める。日本の君主制は民族的統一を表現している。君主制に対する大衆の自然的感情をありのままに把握する必要がある。日本の民族的統一は下からの人民的国家権力成立の強い保障である。</blockquote>この転向声明が左傾学生生徒に与えた影響について文部省は次にようにまとめている<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 62頁。</ref>(大意)。<blockquote>英雄的・先覚者的・殉教者的な気分を抱いて共産主義社会とその指導者に憧れていた学生に対し、理論面よりも感情面から衝撃を与え、その転向に影響があったと認められる。〔…〕従来かれらが盲目的に共産主義やソビエト・ロシアを賛美していたのに対し、これを打破し、かれらに反省と再考の機会を与え、またその理論的誤謬を認識させ、進んでその思想の清算を決意させ、また我が国体と国民の特殊性を考察する機会を与えた。</blockquote>東大学生課によると、左傾学生も佐野と鍋山の転向声明に影響され、転向動機に「国体」「民族性」「特異性」が目立ちはじる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 63頁。</ref>。 === 文部省の対応 === 1934年6月文部省は学生部を昇格し[[思想局]]に改組する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 91頁</ref>。思想局は創設の翌月に思想問題に関する資料展覧会を開催し、その目録で「国民全体が深く我が国体の精華と国民精神の本義とを自覚し、いやしくもこれに背反するがごとき思想は一刻一片も存在を許容せざる覚悟を有することが必要である」と訴える<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 94頁。</ref>。さらに11月に『思想局要項』を刊行し、「根本的対策」として「今日我が国思想問題に対する根本的対策としては我が国独自の国体観念、国民精神の真の体得に努め、我が国固有文化の発揚を図り、これに基く教育学問の振作創造につとめ、外来思想の咀嚼摂取に意を用い、マルキシズム等の謬れる思想の矯正根絶を期し、以って現下の時勢に処し国民のむかう所を明らかならしむる」ことを思想局の第一の役割として自認する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 94-95頁。</ref>。 1934年9月、[[吉田熊次]]が国民精神文化研究所の研究部長に就任する。かつて吉田は同所発足時に所長就任を要請されたときはこれを断っていた。吉田は「思いつきや神がかりの国体論」を厳しく批判したという。吉田が研究部長就任にあたり「我が国の思想界・学界は世界のあらゆる主義・主張を包容するがゆえに、これらを融合し整理して、我が国民精神を培養することが特に本研究部の任務でなければならぬ」と述べたのは、おそらく同所事業部長[[紀平正美]]に代表される「思いつきや神がかりの国体論」を牽制したものとみられる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 108頁。</ref>。 地方の学校では危険思想を未然に防ぐため思想調査が行われる。極端な事例は鳥取県立倉吉高等女学校が1935年10月に発表した「思想調査案」である。これは国体観念の調査を全学年の課題とし、女子生徒に「皇室の御恩徳について最も感激したこと」「国史を学んで我が国体が最も有難いと感じたこと」「今までに読んだ書物や聞いた御話の中で国体に関し最も関心したこと」「現代の社会で我が国体の有難さを強く感じたこと」「国体に関して疑問があれば述べよ」と試問して思想性向を調査し、各学期に性向調査会を開き、その結果を性向調査簿に記入する。女子生徒が町内の書店で購入した書籍雑誌までも調査する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 120-121頁。</ref>。 === 天皇機関説事件・国体明徴運動 === 1935年(昭和10年)の天皇機関説事件をきっかけに国体明徴運動が盛り上がりをみせる。後年(1940年)、東京地裁検事局の思想特別研究員玉沢光三郎は国体明徴運動の影響を次のように論じる<ref name="名前なし-5">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 135頁。</ref>。<blockquote>天皇機関説排撃に端を発した国体明徴運動は、皇国日本における絶対的生命的な根本問題を取上げた一大精神運動であった。しかも言論絶対主義の下に、あくまで合法的に進められたため、各分野における革新分子は期せずして一致してこの運動に参加し、全国的に波及して一大国民運動にまで進展し、三十年来唱導された学説を一挙に葬り去ったばかりでなく、社会の各部層に深甚な反響を及ぼし、思想・政治・教育・宗教等あらゆる部面に少なからざる影響を与えて時代を著しく推進せしめたと同時に、革新運動の一大躍進を招来し画期的成果を挙げしめた。 国体明徴運動は著しく国民精神を昂揚せしめて、日本精神の自覚内省を促したと同時に、日本文化の優秀性を認識せしめ、更には日本精神に立脚した新日本の建設、新文化の開拓等の風潮を促進せしめた。</blockquote>[[田中耕太郎]]は戦後に「国体明徴運動こそは思想的に日本を破滅へ導いた過激国家主義の先駆であった」と断じる<ref name=":213">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 348頁。</ref>。 ==== 天皇機関説事件の発端 ==== 天皇機関説事件は、1935年2月18日に貴族院で[[菊池武夫 (陸軍軍人)|菊池武夫]]議員が美濃部達吉を攻撃して始まる。3月の貴族院「政教刷新に関する建議」と衆議院「国体に関する決議」に至るまでの間、政府の議会答弁は、天皇機関説には反対するが議論は学者に任せるという「敬遠主義」に終始する<ref name=":312" />。 ==== 文部省の初期対応 ==== 3月には文部省が省議で、国体明徴に関して時局対策施設費10万円をもって講演会開催やパンフレツト頒布を行い、学制改革に関して国史・修身・読本の授業方法について考慮すると決定する<ref name=":312">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 128頁。</ref>。 4月に内務省が美濃部の著書5冊の発禁などの行政処分を下すと、文部省は全国の教育関係者に「国体明徴に関する訓令」を発し、いやしくも国体の本義に疑惑を生じさせるような言説は厳に戒め、常に国体の精華の発揚を念頭におくべきことを指示する。この訓令は教育の現場で評判が悪かったという。教育現場では国体明徴について既に「国体観念の涵養」などの表現をもってその実施に努めていたという自負があったからである。文部省はこの程度の訓令で事を済ます気でいたが、国体明徴問題は軍部を巻き込んでヒートアップする。 5月に陸海軍大臣からの要求を受け、文部省は国体明徴に照らして小学校の国語や修身の教科書を修正することを表明する<ref name=":312" />。 6月松田文部大臣は地方長官会議で訓示して「ますます国体の精華を発揚すべきこと」「あまねく我が国体の万邦に比類なき所以を体得せりむるように指導せられんこと」を強調するが、機関説排撃を明言しない<ref name=":103" />。 ==== 文部省の方針転換 ==== 事態は文部省の楽観的見通しを裏切って機関説排撃の国体明徴運動が勢いを増す。7月に文部省は方針を転換する。文部省は全国の学校長ら350名を対象に5日間の憲法講習会を開く。[[金子堅太郎]]「帝国憲法制定の精神」、[[筧克彦]]「帝国憲法の根本義」、[[西晋一郎]]「日本国体の本義」、[[牧健二]]「帝国憲法の歴史的基礎」、[[大串兎代夫]]「最近に於ける国家学説」である。この連続講習は、たとえば日本法制史の牧健二が「帝国憲法の成立はどうしてもこれを国史に顧みて研究しないと判らない」「日本の歴史を一貫して国家の規範として現れた光輝ある国体を顧みて理解されなければならない」としつつ、「帝国憲法における国体を明徴ならしめることは、同時に立憲政治をして真にその価値を発揮せしめる所以でもあります」と述べるなど、必ずしも機関説排撃一辺倒であったわけではない<ref name=":103">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 131頁。</ref>。 つづいて文部省は全国学校の法制経済科・修身科の担任教員と学生生徒主事を合計177人招集して協議会を開く。文部大臣がその席上で「一方においては国体の本義に疑惑を生ずるがごとき言説は厳にこれを戒むるとともに、一方においては積極的に我が国体に則りたる憲法学の発展完成に向かって努力すべき」と訓示し、機関説排撃を明言するとともに日本憲法学の確立に論及する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 130頁。</ref>。この協議会の議題は、法制経済科や修身科の授業に国体明徴の効果を挙げる方法であり、それはおおよそ次のような結果になる<ref name=":411">{{harvtxt|萩野|2003-2006}} 頁。</ref>。 * 法制科においては、憲法発布の際の御告文・勅語・上諭を明らかにし、これにもとづき講義する。 * 今後は教師みずから国史を充分に研究して、もって我が国体の真義を体得する。 * 国体の明徴は歴史の正しい認識にもとづくため、文科方面はもちろん、理科方面(進化論など)でも国史の真髄を理解させる。 * 諸外国と比較研究することにより我が国の尊厳性を把握させる。 * 国体の明徴を期するには知育偏重を排して徳育を重視し、理論より実践の指導に努める。 ここに全国の思想教育担当者を集めて機関説排撃と国体明徴の徹底について意思統一がなされたことは文部省の教学統制上の画期である<ref name=":411" />。 文部省は各種講習会を多数開催し、国体明徴の徹底を図る。読売新聞はこれを皮肉って「国体明徴の徹底に講習会を盛んに開くそうである。いかに叩き込んだところで消化が出来なければ国民の栄養にはなるまい。文部省あたりの明徴から出直してかかる必要はないか」というコラムを載せる<ref name=":103" />。 1936年度文部省予算の当初案では各帝国大学に国体講座を設置する計画があった。読売新聞の報道によれば、各大学は国体について憲法学の一部として講義しているだけである。国体の本義を講義すべき国法学も大部分は各国の学説を研究する比較憲法学のようである。国体観念を史的に観察する法制史も各教授が特定の時代の専門研究に走りすぎている。文部省はこれらの点を遺憾とし、何としても国体の本義に関するまとまった講座を新設する必要を痛感している、という。しかし、おそらく適任者も見つからないためこの段階では国体講座の開設は見送られる<ref name="名前なし-6">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 132頁。</ref>。 ==== 二二六事件後 ==== 1936年2月26日、二二六事件が勃発する。殺害された[[教育総監]]渡辺錠太郎は、前年に天皇機関説を擁護した̚ことがあり、このことが殺害理由の一つになったという。 1936年5月貴族院本会議において天皇機関説について質疑が出て、広田弘毅首相は「厳正にこれを取締ってまいりたいと思う」と答弁し、平生釟三郎文相も「天皇は統治権の主体であって統治権は一に天皇に存すという国体の本義に反したる学説の講義もしくは講演は、何処の学校においても絶対に禁止しておるのであります」と答弁する。同月、文部省は「学校教育刷新充実に関する経費」18万4千円の追加予算を議会に提出し認めらる。これは「小学校より大学に至る各階級の学校に使用せる教科書、教授要目、プリント等につき、いやしくも国体明徴に関係を有せるものは総べてこれを再検討し根本的にこれが改訂を行う」ものである。同時に教授要目も急ぎ改訂される<ref name="名前なし-7">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 133頁。</ref>。 1936年6月思想局長伊東延吉が[[専門学務局]]長を兼任する<ref name="名前なし-5"/>。翌月、伊東延吉は思想局長名で大学に通牒を発し、日本文化講義、すなわち「日本文化、国体の本義に関する特別講義」の実施を指示する。これに対し東大で反発の声が上がる。9月の評議会の場で、法学部長[[穂積重遠]]は、学生は忙しく講座実施は困難である、そんな時間があるなら自然科学の講義を切望すると述べ、また経済学部長[[河合栄治郎]]は大学自治に影響が及ぶ懸念を示すなど、反対の意向を表明したのである。東大では通牒通りの実施はできないと文部省に返答する<ref name="名前なし-6"/>。 ==== 日本諸学振興委員会の設置 ==== 1936年9月、日本諸学振興委員会が文部省訓令により設置される。訓令第1条は「国体、日本精神の本義に基き各種の学問の内容および方法を研究・批判し我が国独自の学問、文化の創造、発展に貢献し、ひいて教育の刷新に資するため、日本諸学振興委員会を設く」であり、学会や公開講演会などを開催することとされる。委員長は文部次官が兼ね、専門学務局長兼思想局長の伊東延吉が常任委員となる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 143頁。</ref>。 日本諸学振興委員会設置の背景には国民精神文化研究所が研究面において成果を出せず、学界からの評価も低いという事情があった。この点に気づいた文部省は、人文に関する学問の各科にわたって日本精神・国体観念を徹底させ、これを基として研究させる方策に転換し、既に刷新に着手している教育の分野に加えて、学問の分野についてもその刷新を盛んに唱導しはじめる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 144頁。</ref>。 日本諸学振興委員会の初回は教育学会である。文部大臣の挨拶によると、学問の統制を教育学から始める意図が込められ、それも個人主義や自由主義に基づく欧米流の教育学を否定し、国体・日本精神の本義に基づくものという枠に嵌められていることが分かる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 145頁。</ref>。 ==== 林内閣の祭政一致 ==== 1936年11月教学刷新評議会が設置される。これは林陸相(次期首相)が岡田首相に対し国体明徴について特別の機関を設けてもらいたいと注文をつけたように、軍部の圧力によって設置されたものである。評議会を設置する目的は「国体観念、日本精神を根本として現下我が国の学問、教育刷新の方途を議し文政上必要なる方針と主なる事項とを決定し以てその振興を図らん」こととされる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 135-136頁。</ref>。 1937年2月、林銑十郎内閣は発足時に「政綱に関する内閣声明」を発表し、その第1に「国体観念をいよいよ明徴にし、敬神尊皇の大義をますます闡明し、祭政一致の精神を発揚して国運進暢の源流を深からしめんことを期す」と掲げる<ref name="名前なし-5"/>。 1937年3月、文部省が中等学校や師範学校の教授要目を改正する。これにより、修身は教育勅語の趣旨を奉体して国体の本義を明徴にし国民道徳を会得させることになる。また、公民科は、国体と国憲の本義、特に肇国の精神と憲法発布の由来を知らしめ、もって我が国の統治の根本観念が他国と異る所以を明らかにし、これに基づき立憲政治と地方自治の大要を会得させ、特に遵法奉公の念を涵養することになる<ref name="名前なし-7"/>。 1937年3月同志社大学が「同志社教育綱領」を制定する。これは教育勅語と詔書を奉戴しキリストに拠る信念の力をもって聖旨(天皇の意思)の実践躬行(自発的実行)を期するというものである。同大学では前々年の神棚事件や前年の国体明徴論文掲載拒否事件などの内紛が起きていた。教育綱領制定後も教育綱領に反すると疑われる教授らの罷免を国体明徴派の4教授が要求する紛争が起きる。専門学務局長兼思想局長伊東延吉は同志社の理事を呼びつけ「政府当局の国体明徴の根本方針に立脚して善処すべき事」の意向を伝え、罷免要求を受けた側の教授らについては「思想清美」できるまで授業を差し止め、罷免要求を行った国体明徴派4教授の処分については絶対不賛成であると明言する。文部省は国体明徴の観点から同志社のキリスト教教育を狙い撃ちにしたといえる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 134頁。</ref>。 === 文部省『国体の本義』 === {{Main|国体の本義}} 1937年3月文部省が『[[国体の本義]]』を発行する。その4年前の思想対策協議委員の当初案で日本精神の聖書経典ともいえる国民読本を編纂する案があり、また2年前の国体明徴運動時の予算要求では、修身編・国史編・法制編の三部構成の冊子「国体本義」の編纂頒布を盛り込んだことからも分かるように、『国体の本義』編纂は文部省にとって宿願であった。前年4月文部省が編纂委員会を組織し作成に着手することになったと報じられる。その際の思想局長伊東延吉の談話に次のようにいう。<blockquote>国民全般に国体の本義に関する理解を十分ならしめたいという意味からこの事業を思い立ったのである。それでなるべく平易に了解されるように編纂したいと思っている。国体の本義というと、とにかく古い歴史的な事ばかりのように解せられがちであるが、今度のは歴史的であるとともに社会的にも十分検討して時代認識に立って国体の本義を明かにする方針である。出来上ったら小中学校の教職員および学生生徒、学事関係者に配布するほか、一般国民にも容易く購読の出来るようにしたいと思っている。</blockquote>編纂委員は14人、吉田熊次・紀平正美・[[和辻哲郎]]・[[井上孚麿]]・[[作田荘一]]・[[黒板勝美]]・[[大塚武松]]・[[久松潜一]]・[[山田孝雄]]・[[飯島忠夫]]・[[藤懸静也]]・[[宮地直一]]・[[河野省三]]・[[宇井伯寿]]が委嘱される。編纂調査嘱託には国民精神文化研究所から[[山本勝市]]・[[大串兎代夫]]・[[志田延義]]が指名され、文部省から7人が指名される。編纂委員は大所高所から注文をつけるだけで、実質的には編纂調査嘱託が執筆し、最終段階で思想局長伊東延吉みずから加筆修正したと推測される<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 147-148頁。</ref>。編纂委員の和辻哲郎は「国体概念の根本的規定等において現代のインテリゲンチヤを納得せしめるよう論述し得るか相当重大なる問題」と注文をつける<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 151頁。</ref>。 文部省は『国体の本義』について自ら解説し「本書の編纂に当つて特に意を用いた点は、現在における国体の明徴は我が国民の間に久しきにわたって浸潤してゐる欧米の思想、文化の醇化を契機とせずしては、その効果を全うし得ないという精神からして、我が国体、国家生活、国民精神文化を説くに際し、努めて欧米のそれらに触れ批判を下した点にある」とする<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 150頁。</ref>。 緒言で「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義および自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義の侵入となり、最近に至ってはファッシズム等の輸入を見、遂に今日われらの当面するごとき思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至った」。「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は「真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」。「今や個人主義の行き詰りにおいてその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我らの重大なる世界史的使命がある」という<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 152頁</ref>。 刊本では冒頭で「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」。「我が国体は宏大深遠であって、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことをおそれる」とする。草稿段階では、本書以外の研究を拘束するものではない旨の記述があったが、これは最終的に削られる。また、草稿段階では多少の理性的客観的姿勢もあったが、刊本では国体の本義の闡明が世界人類のため世界史的使命を持つ等の記述に論理の飛躍が見られ、理性や客観性は消し飛んでいる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 153頁。</ref>。 結語では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある」、「西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある」として偏狭な国体論を戒めているのに対し、本文では、西洋近代思想は個人主義に帰結すること、それに由来する主義は自由主義・民主主義から共産主義・無政府主義に至るまで全て日本の国体に容認されないことの説明に最大の力を注いでいる。このような不整合は起草関係者自身も認識しているところであり、不整合のわけは結論が各章から導かれるという順序ではなく、あるべき結論を先に決めてかかったからだという<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 154頁。</ref>。 文部省は 『国体の本義』の普及徹底を図り、30万部を全国中等学校以下の教員その他教育関係者に配布する。市販版は1年後に20万部を越え、1943年3月には190万部に達する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 154-155頁。</ref>。 『国体の本義』の解説書のなかで最も早く刊行された[[三浦藤作]]『国体の本義精解』は短期間に版を重ね1941年1月までに120版に至る。三浦は『国体の本義』を礼賛し「最も広汎な視野の上に、最も正確な資料に基づき、最も厳密な態度を取り、我が国体をあらゆる角度から凝視し、最も普遍妥当性ある国体論を樹立しようとした努力の結晶である」と評価する<ref name="名前なし-8">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 155頁。</ref>。 戦後の国立教育研究所は『国体の本義』について「中等学校教育の修身科の教科書の『聖典』になり、また、高等学校、専門学校、軍関係学校の入学試験にとっての必読書ともなって、日本の青少年の人間形成に大きな役割を果たした」と指摘する。しかし『国体の本義』は刊行後直ちに聖典になったわけではない。帝国議会では『国体の本義』に対する批判が沸き起こる。『国体の本義』にある「君民共治でもなく、三権の分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」という一節が批判されたり、『国体の本義』は国体の本義に重大な疑惑を抱かせると反対されたり、『国体の本義』は前の林内閣の産物であるから今の近衛内閣で見直す必要があると指摘されたりする<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 156頁。</ref>。こうした批判はしばらく続いたようであるが、刊行後まもなく日中戦争が勃発し、国民精神総動員とともに国体明徴が一層強調されるようになると、批判は次第にタブー化し、『国体の本義』は聖典化する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 157頁。</ref>。 『国体の本義』編纂を取り仕切った伊東延吉は、『国民の本義』の市販版を出した翌月、専門学務局長兼思想局長から文部次官に昇任する<ref name="名前なし-5"/>。 === 第一次近衛内閣と日中戦争の勃発 === ==== 国民教化運動 ==== 1937年4月、情報委員会が「国民教化運動方策」を決定する。曰く「尊厳なる我が国体に対する観念を徹底せしめ、日本精神を昂揚し、帝国を中心とする内外の情勢を認識せしめて国民に向かうところを知らしめ、国民の志気を鼓舞振張し、生活を真摯ならしめるとともに国民一般の教養の向上を図り、もって国運の隆昌に寄与する」。この「国民教化運動方策」を実行に移す矢先の7月、日中戦争が勃発する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 176頁。</ref>。 ==== 教学局の創設 ==== 1937年7月、文部省の思想局が廃され、外局として[[教学局]]が創設される。教学局官制第1条に「教学局は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づく教学の刷新振興に関する事務を掌る」とされる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 161頁。</ref>。これより先、前年10月の教学刷新評議会が答申を出し、教学の刷新振興・監督に関する重要な事項を掌理させるために有力な機関を文部大臣の管理下に(すなわち文部省外局として)設置することを提唱する。局長は文部次官級の人物を充て、これを長官と称する。1937年6月の教学局官制案の理由書に「我が国現下の趨勢に鑑み我が国体の本義に基づく教学の刷新振興を図るは喫緊の要務なり。しかるに現在の思想局の機構をもってしては十分にその機能を発揮すること能わざる」とされる。枢密院の審査委員会では、こんな小規模でなくもっと大規模にしろとか、長官を親任官(大臣級)にしろとか、参与を勅任待遇に格上げしろとかいう要望が出される。これは教学刷新に対する為政者層の強い意思を表している<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 160頁。</ref>。 教学局は不振に陥る。創設後1年半を過ぎたころから「無為状態」「肥立ちの悪い」「盲腸化」などというような低評価が定着するのである。局内部のある嘱託員は戦後に「教学局は本質的には、教育行政の元締めとして、国の軍国主義化の一翼を担っていたわけであるが、私達は誰も積極的にはそれに力を貸そうとは考えなかった」として「当時の文部省の右翼的雰囲気に対する若者たちのささやかな抵抗」を語っている。教学局不振の原因は「教学局が過去の思想と精神との亡霊に禍されている」といわれる。具体的には文部次官伊東延吉の影響である。当時から「伊東イデオロギーが厭というほど浸潤し、その人的機構もまた伊東の胸一つで、その子飼の人物で固められている」とか、「伊東自身が長官であったら教学局ももう少し活発に働きかけたろうが、いたずらに人ばかり多くて何の仕事も出来てない」とかと批判されている。伊東文部次官は1938年12月に更迭される<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 164-165頁。</ref>。 ==== 日本国体学講座 ==== 文部省では国体明徴に関して専門学術研究を構想する。1936年に検討が始まり、1937年度予算に東京文理科大学・広島文理科大学・東京帝国大学・京都帝国大学への日本国体論講座の新設が盛り込まれる。当初計画では9月に開講する予定であったが、文部省が大学に押し付けるものであり各大学が自発に設置するものでなかったため、予定より大幅に遅れる<ref name=":511">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 229-230頁。</ref>。 まず1937年11月に東京文理科大学と広島文理科大学に日本国体論講座が新設される。新設の理由は「我が国民の歴史および精神生活の史的発展における最も顕著なる事象を跡づけるとともに、また我が国の政治・経済・宗教・道徳・教育・学問・芸術その他文化諸相を通じて把握さるる特性を明にして、我が国体が我が国民生活の生々不断なる創造的発展を展示し、常に国民の具体的生活と結合し、自覚ある国民の活動に帰一統合を与うるところの国民存在の範疇たる国体を理論的に把握し学的の基礎づけ」、「一切教学および実践的生活を媒介として国体の具体的発展に産ずるの自覚および覚悟を得しめ」ようとするためとされる。東京文理科大学では「国体論」を全学科で必修科目にするが、広島文理科大学では「国体学教室」を設け、これを専門とする学生を養成することになる。この国体学教室は[[西晋一郎]]の国体論を中核として誕生したといわれる。西晋一郎は国民精神文化研究所所員を兼ね、文部省の国体明徴講座の講師の常連でもあった<ref name=":511" />。 翌月、京都帝国大学に日本精神史講座が新設される。講座名称がもともと「日本国体学講座」であったのを「日本精神史講座」に改めたときは、設置理由として「本学(京都帝国大学)文学部においては我が国体の学術的考究に関係する講座として、つとに国史学二講座・国語学二講座あり、我が国体の由来する所を究め我が国民性の特質を明かにするに力を用うること久しといえども、しかもこれら講座において研究する所を綜合統一し国史を貫く固有の精神を歴史的に研究する方面に至っては、なお遺憾の点、少しとせず、これ本講座を設置せんとする所以なり」としていた。これは文部省に修正され、官制改正理由で「本講座は国体に基づく我が国の思想、文化ならび我が国民の精神生活の歴史的性格」を明らかにし「我が国体の世界史的意義および使命を闡明し、東西文化の融合発展に努力すべき国民の自覚および覚悟を固めしめんとするもの」と改められる。国体を強調する点に文部省らしい修辞が見られる。日本精神史講座の担当は、書類上、国史学第一講座の西田直二郎が兼任し、助教授に講師高山岩男を助教授に任命する予定とされる。西田は国民精神文化研究所の所員を兼ねていたが、京都帝国大学の日本精神史講座を休講にすることが多かったといわれる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 230頁。</ref>。 そのまた翌月(1938年1月)、東京帝国大学に日本思想史講座が新設されるが、設置にあたって事態が紛糾する。前年11月、日本国体学講座を文学部に設置することが文部省から一方的に通知される。文学部では不満が強い中で評議会で国史講座を第1候補、日本思想史講座を第2候補と決める。しかし総長が文相らと会談して日本思想史講座に決めてしまったことから、評議会で不満が噴出する。文部省による官制改正理由は京都帝国大学のときと同文である。日本思想史講座の教授には国史学第二講座の[[平泉澄]]が就く<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 230-231頁。</ref>。 ==== 矢内原忠雄の辞職 ==== 1937年12月、東京帝国大学経済学部教授矢内原忠雄が辞職に追い込まれる。これより先、矢内原が『中央公論』9月号に掲載した「国家の理想」が削除処分になり、11月に経済学部長土方成美が矢内原の進退を問題とするが、東大総長が木戸幸一文相と協議して、一旦は矢内原本人の陳謝を条件に事を収めることになる。ところが、文部次官伊東延吉ら文部省幹部がこれに異議を唱え、陳謝では到底収まらない、中央公論以外にも国体精神と全く相容れない文言が数か所ある、議会で質問が出た場合に答弁のしようがない、大学としても事態の紛糾は免れないだろう、矢内原は辞職するしかない、などと言い立てて矢内原を辞職に追い込んだのである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 237頁。</ref>。 ==== 文部行政の展開 ==== 文部省の外局である教学局は『国体の本義解説叢書』全13冊を1937年12月から1943年3月にかけて刊行する。この叢書は文部省『国体の本義』の思想を拡充するものであり、例えば紀平正美『我が国体における和』(1938年3月刊)には、日中戦争全面化を踏まえて、次のように説く<ref name="名前なし-8"/>。<blockquote>天に代つて不義を討つ、忠勇無双の我が兵が、歓呼の声に送られ、すでに父母の国を出で立った時に、もはや私(わたくし)はない。私の父母もなければ、私の家も、私の業務もない。ただ公(おおやけ)の祖先があり、父母があり、家があり、郷里があり、国があり、最後に天皇が存します。かくて心の内は如何に豊かに、いかににぎやかであろうかよ。〔…〕我が神国日本の将卒のみには、天に代っての将卒でなく、直接に自らが神兵である。かかる大和合(だいわごう)の力こそ、常に十数倍の敵に対してよくその守りを失わず、彼の隙に乗じては、攻撃に転じ、更に彼を制圧し、進んで追撃に移る。追撃又追撃、敵に少しの余裕をも与えない。</blockquote>1938年7月には国民精神文化研究所の思想国防研究部が小冊子『国体の本義に基く政策原理の研究』をまとめる。これは「大御心の奉戴と臣民の精神の徹底とからする国体の把握は、直ちに我が国の具体的な諸問題についての原理的な見解と対策とを与える」という観点から「大学刷新問題」などを論じる。大学を「かつては多くの共産主義者を簇出せしめ、非常時下の現在なお自由主義、人民戦線思想培養の最大の温床」として敵視し、次のような大学改造を急務とする。それは、国体と学問との本質的関係を究明し、反国体的教授を即時に罷免し、諸教授に対し自己の国体観を確立するとともに国体の原理に基づく専門諸学体系を樹立することを要求する、というものである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 185頁。</ref>。 1938年8月国民精神文化研究所が人員を5名増やす。前年11月に国体明徴運動への対応として法政科の拡張を求めたが内閣法制局に反対されて停滞していたものを、日中戦争の進展をふまえて思想国防を理由の前面に出して内閣法制局の了解を取り付けたのである。官制改正案の理由書に「支那事変に際し思想国防の緊要性に鑑み、憲法学その他法学・政治学等にわたり我が国体を本として研究を進め思想国防に資せんがため」とされ、法制局も「今回の増員は差し当たり今次事変に因って発生したる思想国防の事務のため特にこれを認める」とする<ref>{{harvtxt|萩野|2003-2006}} 181頁。</ref>。国民精神文化研究所は調子に乗って思想国防に邁進する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 182頁。</ref>。 1938年11月荒木貞夫文相は天皇に上奏して、「長期にわたる戦争情態において最も恐るべきは思想の動揺」であるから、「共産主義等の誤れる思想はこれを徹底的に是正し、万邦無比なる皇国の道より生まれ出づる大中至正の思想に徹底」し、「国体を基とする世界的大国民の錬成」を教育の根本とすると説明する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 209頁。</ref>。 文部省は一部の新興宗教をも国体観念から批判する。1938年12月に教学局企画課が作成した文書「思想問題より見たる邪教」は、「邪教が国民の国体観念を紊し(みだし)、社会風教上に流す種々の害毒は著しく、国民精神を総動員すべき非常時にあたり我が教学の本旨に鑑みて、厳しき批判を要する」として、[[大本教]]・[[ひとのみち教団]]・[[天理本道]]などの教団を列挙する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 217頁。</ref>。 1939年の初め、文部省が東京帝国大学経済学部教授河合栄治郎の著書をチェックした形跡がある。教学局の嘱託員が、河合の著書『経済学原論』について文部省『国体の本義』に背く思想表現箇所に全て赤線を引くように指示されたのである。はじめこの指示を受けた嘱託員は、この仕事に矛盾を感じ、次第に良心の呵責を受けるようになり、上司に申し出てこの仕事を変えてもらったという。同年1月に河合に対する文官高等分限委員会が開かれる。委員長は平沼騏一郎首相である。事前に委員へ送付された休職理由書には「国家思想を否認し我が国体観念に背反し、いたずらに憲法の改正を私議し国民道徳を破壊せしめんとするがごとき意見を発表し、さらにこれを教授する」とされていた。委員会では河合について「一日も大学に置くことは危険であるから直ちに休職を希望いたします」という意見に全会一致して休職が決定する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 239-240頁。</ref>。 1939年5月各道府県に思想対策研究会を設置することが教学局長官名で通牒される。その趣旨は「今次事変が特に思想戦たる意義を有する点より考え、単に共産主義その他反国家思想を防遏するに止らず、更に積極的に国民各層に国体・日本精神の透徹具現を図り旺盛なる精神力を培養し、もって国民思想の動揺を未然に防止し戦時ならびに戦後の事態に処す」とされる。 1939年4月には学生を大陸に送って勤労させる「興亜青年勤労報国隊」の具体案が決定される。文部省が同年7月に『週報』に載せた「興亜青年勤労報国隊に就いて」は「興亜精神は国体観念と相互に反射し映発して、日本教学はこの新たなる背景と脚光の中に其の具体的な映像を鮮明に次代に浮き上らすべきを信ずる」と述べる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 225頁。</ref>。 1940年3月国民精神文化研究所が人員を8名増やす。増員分は「国体に基づく東亜新秩序原理の研究」「日本世界史の編纂」「思想家、評論家、学者の思想調査資料の作製」「国体日本精神より見たる支那事変の世界史的意義の編纂」に当てる計画である。 === 対米開戦への道 === 1940年7月、第2次近衛内閣は成立にあたって「基本国策要綱」を閣議決定する。その「国内態勢の刷新」の第1に「国体の本義に透徹する教学の刷新とあいまち、自我功利の思想を廃し、国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す」とされる。この趣旨には「従来の法文科系中心の自由主義・個人主義教育を革新し、国体に基づく人格教育、実社会に役立つ生きた教育を施すこと」という海軍省の要求が含まれている<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 241-242頁。</ref>。 1940年9月、政府の教育審議会が「高等教育ニ関スル件」を答申する。大学については「常に皇国の道に基きて国家思想の涵養、人格の陶冶に力むる」ことを目的とし、その達成のために「国体の本義を体して真摯なる学風を振作し学術を通して皇運を無窮に扶翼し奉るの信念を鞏固ならしむること」等を重視するとされる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 224頁。</ref>。同年12月、文部省はこの答申を受けて、大学教授は国体の本義に則り教学一体の精神に徹し学生を薫化啓導し指導的人材を育成すべき旨を訓令する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 241頁。</ref>。 ==== 教学局『臣民の道』 ==== 1941年7月、教学局が『臣民の道』を刊行する。同書については、『国体の本義』の実践的奉体を意図した姉妹編という評価が通説的である。『臣民の道』は解説書を含めると『国体の本義』を上回る約250万部が刊行されており、一般国民に広く普及される。当初は前年の第2次近衛内閣「基本国策要領」に則り、「真に国体に徹したる翼賛運動と国民道徳」の「実践的指導書」として自我功利の思想を排し国家奉仕を第一義とする国体具現の道徳解説書を刊行して、これを教職員その他の指導階級に必読せしめたく」という企図であり、実践書でなく指導書という位置づけであり、対象読者は一般国民でなく指導層であり、また『国体の本義』の姉妹編という意識もなかった<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 202-203頁。</ref>。 編纂途中で対象読者を指導層から一般国民に広げることとなり、刊行計画の発表時には「”国体の本義”姉妹篇に 平易な“臣民の道”」という見出しで報じられ、当局者は談話で、先の『国体の本義』は一般国民の読み物として難しいとの評があったが今度は誰でもわかるように編纂する、と語る。教学局版の刊行後まもなく近衛文麿首相の題字により『註解 臣民の道』が刊行される。解題で『臣民の道』の内容を次のように要約する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 205頁。</ref>。<blockquote>第一章において世界新秩序の建設という今日の課題をとりあげ、世界史の転換をとき、その中から皇国日本に立脚する新秩序の建設をといて皇国の重大なる使命をとき、国防国家体制確立の急務をといている。 第二章はこういう皇国の当面している位置の上にたって、皇国の国体と臣民の道とを解明している。「万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給う」国体と、「臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る」臣民の道と明らかにしているのである。そうして我国においては忠あっての孝であり、忠を大本とする所に臣民の道があるのである。次に国体にもとづき臣民の道を履践した祖先の遺風をば皇国の歴史上の事実から明らかにしている。皇国の歴史は肇国の精神にもとづく国体の顕現の歴史であるとともに臣民の道の履践の歴史でもあるのである。そうして国体をはなれて臣民の道はなく、天皇に絶対随順し奉ることをはなれて日本人の道はない。 第三章はかくの如き臣民の道の実践をば、現実の国民の課題として説いて居る。〔以下略〕</blockquote>『臣民の道』刊行直後に教学局長官は講話で「まさにこの臣民の道というものこそはこの国体の本当の意味合い、精神というものを我々の生活に具現することであり、我々の生活の中にこそ我が国体の姿というものを生かして行かねばならぬ。生かすではない、それを践み行なう事こそ我々皇国臣民としての道」であると述べる<ref name=":113">{{harvtxt|萩野|2003-2006}} 206頁。</ref>。 『臣民の道』は4年前の『国体の本義』の姉妹篇と位置づけられるものの、その間の時局の進展により両書の性格は大きく異なる。第1に思想統一の程度が異なる。『国体の本義』では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、もって新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」と説いていたが、『臣民の道』では欧米思想を全否定し、「我が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除〔切って捨てること〕」すると断定する。第2に忠と孝との間の関係が変化する。『国体の本義』では忠も孝も同等に扱い、「忠孝一本は我が国体の精華」であり「われら国民はこの宏大にして無窮なる国体の体現のために、いよいよ忠に、いよいよ孝に励まなければならぬ」と説いてたが、これに対し『臣民の道』は忠を孝より優先し、「そもそも我が国においては忠あっての孝であり、忠が大本である」と断言する。こうした違いは編纂をとりまく状況の違いに由来する。『国体の本義』が天皇機関説事件を契機に国体明徴のために編纂されたのに対し、『臣民の道』は日中戦争が長期化する中で新たに大東亜共栄圏の構想のために編纂されたからである<ref name=":113" />。 === 対米英戦争期 === ==== 開戦当初の思想対策 ==== 日本が米英に宣戦した翌月の1942年1月、文部大臣橋田邦彦は「任に教育に在る者は聖旨を奉体して国体の本義、今次征戦の真義に徹し、一路教育報国に邁進すべき」であると述べ、教学局長官藤野恵は「大東亜戦争を戦い抜かんとする今日こそ、我が国民は愈々国体の本義に基づく教学の刷新振興を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本的諸学の樹立に一段の力を致し、新東亜文化の建設者としての資質の涵養発揮に全きを期せねばならない」と論じる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 274頁。</ref>。 1942年1月国民錬成所官制を公布する。これは「国民をして自我功利の思想を排し、国体の本義に基づき挺身義勇公に奉ずるの精神に徹し、実践もって皇運扶翼の重責を全うせしむべき」ためのものであり、官制第一条に「国民錬成所は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づき実践躬行もって先達たるべき国民をしてその錬成を為さしむる所とす」とされる。「錬成科目」には「国体ノ本義」という講義があり、それは「惟神の大道に出発し皇国臣民の皇運扶翼の道を明らかにし、この本義に基づく教学の樹立を図るもの」とされる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 292-293頁。</ref>。 戦時下では思想対策の徹底が求めらる。1942年3月、文部大臣橋田邦彦は地方長官会議で次のように訓示する<ref name="名前なし-9">{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 278頁。</ref>。<blockquote>国体の本義に徹し肇国の精神を発揚することは我が国民生活の根柢であります。したがってまた我が国民思想はこれに基いて確乎不動となり、思想国防の鉄壁陣を完成することは、敵国が企図するであろうと考えられる思想戦に備うるためにも、また大東亜の新秩序建設のための征戦完遂に向っても、その要、いよいよ切実であります。</blockquote>1942年3月日本諸学振興委員会が機関誌『日本諸学』を創刊する。教学局長官名義の「発刊の辞」に次のようにいう。<blockquote>大東亜戦争の目的完遂のためには、ますます国体の本義に基づく教学の刷新を図り、国体の明徴、教学一体の具現、日本諸学の創造発展に更に一段の力を尽さねばならぬのである。しかして世界の耳目を聳動せしめつつある皇軍の赫々たる大戦果が、決して一朝一夕の努力によるものではなく、一に御稜威の下、皇国教育の本義に徹し、日本精神に基づく日頃の実戦さながらの不断の猛訓練と学問の研鑽とが一体となつて発現したものに他ならぬのであり、したがって国体、日本精神の本義に基づく教学の刷新振興が今次征戦の遂行上絶対の要件たるのみならず、更にまた叙上の新東亜文化建設の先達としての資質涵養上欠くべからざることといわねばならぬ。</blockquote>5月大東亜建設審議会が答申案を可決する。答申の「皇国民の教育錬成方策」には、国体の本義に則り教育勅語を奉体し皇国民としての自覚に徹し、肇国の大精神に基づく大東亜建設の道義的使命を体得させ、大東亜における指導的国民としての資質を錬成し、これを皇国民教育錬成の根本義とする、という<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 276頁。</ref>。 教学局では[[言論、出版、集会、結社等臨時取締法]]に関連して1942年5月の『思想情報』誌に、講演や著述に注意を要する点を列挙し、その冒頭に「国体、思想関係」を掲げて次のものについて注意を喚起する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 282頁。</ref>。 # 天皇および皇族に関し取扱方、表現、用語等において不敬にわたるおそれあるもの # 国体に関する正史の記述を否定し、または皇統譜、正史の伝うる紀年数、神器の伝承等に異説を立つるがごときもの # 我が国の神の観念の紛淆を来たすがごときもの。例えばインドの釈迦、キリスト教の神エホバ等を天照大神に擬し、あるいは天御中主神の取扱に関し天照大神との関係において不当なるもの # 国体変革思想、共産主義、社会主義、無政府主義、反軍、反戦思想は勿論、極端なる自由主義等を鼓吹せるもの 6月藤野教学局長官は次のように訓示する<ref name="名前なし-9"/>。<blockquote>今日、皇軍の輝しき戦果に応え大東亜建設の歩みに即応して、我が国教学の本来の姿が漸次具現せられて参ったのでありまするが、にもかかわらず、なお一面私どもの楽観を許さざる事柄も皆無ではないのでありまして、国体の本義に相反する思想、我が国教学の本旨にもとるような風潮も巷間決して完全には払拭せられておらぬのであります。したがってこの間隙に乗じて、特に青年学生層を中心として敵国の思想謀略もまた蠢動せんとする気配がなくはないのであります。</blockquote>ここで「皇軍の輝しき戦果」というが、この月、日本海軍は[[ミッドウェー海戦]]で主力空母4隻を失い守勢に転じる。 1943年1月教学局が『国史概説』上巻を発行する。そのおよそ2年前、対米英開戦前の1941年4月に教学局内に臨時国史概説編纂部が設置され、その調査嘱託には「斯界の権威者」である辻善之助・和辻哲郎・西田直二郎・紀平正美らが名を連ねる。編纂方針は「肇国の由来を明らかにし国体の本義を闡明し国史を一貫する国民精神の真髄を把握せしむること」とされる。刊行書の緒論は「我が国体」という題であり、次の文言から始まる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 302頁。</ref>。<blockquote>大日本帝国は、万世一系の天皇が皇祖天照大神の神勅のまにまに、永遠にこれを統治あらせられる。これ我が万古不易の国体である。しかしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ即ち我が国体である。</blockquote>1943年7月文部省は次官通牒により各道府県の国民精神文化講習所を教学錬成所に改称し、その事業の拡充を指示する。これは国民錬成所を軌道に乗せた文部省が、学制改革に伴い、「我が国教学の本旨に基づき教職にある者を錬成し、国体・日本精神の本義に徹せしむるとともに日本教学の刷新振興に挺身するの気概と実践力とを涵養せしめ、もって師弟同行学行一体の実を挙げしむる」ための措置である。教学錬成所には新たに皇国史観錬成会を設け「中等学校教員をして国体・日本精神の本義を体し、皇国の史観に徹せしめ、もって中等教育の刷新に資せんとする目的」を掲げる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 294-295頁。</ref>。 ==== 守勢下の戦時国民思想 ==== 1943年、日本軍はガダルカナル島やアッツ・キスカ両島から転進(撤退)し、また同年9月には同盟国イタリアが単独降伏する。瀬戸際に立たされた日本は[[絶対国防圏]]の設定を発令する<ref>{{Cite web|和書|title=絶対国防圏とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%9C%8F-87330|website=コトバンク|accessdate=2019-10-25|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典|publisher=}}</ref>。 同年11月、文部省は国民錬成所と国民精神文化研究所を統合し教学錬成所とする。教学錬成所の所長には国民精神文化研究所長伊東延吉が就くが、実質的には国民錬成所が国民精神文化研究所を吸収合併する。国民精神文化研究所は対米英開戦後プレゼンスを低下させてきており、教学錬成所に吸収されるのは既定路線であった。国民精神文化研究所は消滅するにあたって創立以来の十余年を回顧して「個人主義・自由主義を克服し、国体の宣揚、日本精神の闡明のために少なからぬ貢献」をしたことを自負し、機関として消滅することにも満足を示している<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 326-327頁。</ref>。 同年12月、政府は「戦時国民思想確立ニ関スル基本方策要綱」を閣議決定する。その「方針」の冒頭に「万邦無比の皇国国体の本義に徹し政教一に聖旨を奉体し深く学問思想文化の根源を匡し愈々忠誠奉公の精神を昂揚振起せしむ」といい、また「要領」の冒頭に「国体の本義の透徹と教学の刷新振興」として次のことを掲げる<ref>{{Cite web|和書|title=戦時国民思想確立ニ関スル基本方策要綱 {{!}} 政治・法律・行政 {{!}} 国立国会図書館|url=https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00523.html|website=rnavi.ndl.go.jp|accessdate=2019-10-24}}</ref>。 # 国家万般の施策は尽忠の至誠を最高度に発揚せしむることを第一義とすること # 学者、思想家を動員し皇国の道の闡明を図ること # 学問、思想に於ける由由主義、個人主義または社会主義的思想を払拭し、真の日本精神に基づく諸学の確立徹底を図り、これを教育教化の実際に浸透せしむること # 宗教および宗教活動の醇化昂揚を図ること 基本方策要綱と同時に閣議決定した文教措置要綱では「国体・日本精神に基く学問、思想の創造発展を図り教学の全面に之を浸透せしめ戦意の昂揚、戦力増強の根本に培うため、教育内容の検討刷新、訓育体制の強化、日本諸学振興委員会の拡充等につき必要なる措置を講ず」とされる<ref>{{Cite web|和書|title=戦時国民思想確立ニ関スル文教措置要綱 {{!}} 政治・法律・行政 {{!}} 国立国会図書館|url=https://rnavi.ndl.go.jp/cabinet/bib00524.html|website=rnavi.ndl.go.jp|accessdate=2019-10-24}}</ref>。 1944年6月、日本はマリアナ沖海戦で壊滅的に敗北し、[[マリアナ・パラオ諸島の戦い|マリアナ諸島を失い]]、絶対国防圏を破られる。戦争指導に当たってきた東条内閣は総辞職する。 教学錬成所は1945年2月までに各種学校の教員等を対象に30回前後の錬成を実施したと推測される。そのうち例えば高等教員の錬成は「国体の本義に基づき、私心を去り、決戦下一死殉国の気魂に培い、行勤労即教育の精神に徹し、もって皇国教学の本旨を体現せしめん」とすることを目的とする<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 327頁。</ref>。 沖縄失陥後の1945年6月、政府は文部省請議「戦局に対処する本庁行政の簡素強化に関する件」を閣議決定する。これにより文部省の大部分は「国体護持の信念透徹」などの思想指導に集中することになる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 330頁。</ref>。 === 終戦 === 国体論は日本の敗戦の際にも威力を示す。日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、国体の護持をめぐって時間をかけ、それを唯一の条件とすることを自分たちで了解し、ようやく降伏する<ref name=":482">{{harvtxt|鹿野|1999}} 137頁。</ref>。 ==== 国体ヲ護持シ得テ ==== 1945年8月、[[広島市への原子爆弾投下|広島]]・[[長崎市への原子爆弾投下|長崎]]への原爆投下を経て[[ソ連対日参戦|ソ連が参戦]]し、10日、日本政府は連合国に[[ポツダム宣言]]受諾を通告すると[[同盟通信]]に短波の電信で声明させる。その際、国体維持を条件につける。これに対し12日に連合国の回答が届く。その中に「日本政府の形態は日本国民の自由意志により決められる」とあり、軍部はこれを共和制に導くものとして強硬に反対する。昭和天皇は連合国の回答を容認して、木戸内大臣に次のように語る<ref name=":70">{{Cite book|和書|title=昭和天皇語録|date=|year=2004|publisher=講談社学術文庫|ref=|pages=190-192,196|editor=黒田勝弘・畑好秀}}</ref>。<blockquote>たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めてもらっても、少しも差しつかえない。<ref name=":70" /></blockquote>また連合国回答に「天皇および日本政府の国家統治の大権は連合国最高司令官の制限下(''subject to'')に置かれる」とあったことで、軍部が ''subject to'' の文言を国体否定とみなして回答文を拒絶する姿勢を示す。このため天皇は14日、改めて[[御前会議]]を開き、終戦を決める。その席上、国体護持について次のように説明する<ref name=":70" />。<blockquote>国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があることは一応もっともだか、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える、どうか皆もそう考えて貰いたい。<ref name=":70" /></blockquote> 1945年8月15日[[玉音放送]]。<blockquote>朕は{{Ruby|茲|ここ}}に国体を護持し{{Ruby|得|え}}て、忠良なる{{Ruby|爾|なんじ}}臣民の{{Ruby|赤誠|セキセイ}}に{{Ruby|信倚|シンイ}}し、常に{{Ruby|爾|なんじ}}臣民と{{Ruby|共|とも}}に{{Ruby|在|あ}}り。〔…〕{{Ruby|宜|よろ}}しく挙国一家子孫{{Ruby|相伝|あいつた}}え、{{Ruby|確|かた}}く神州の不滅を信じ、{{Ruby|任|ニン}}{{Ruby|重|おも}}くして{{Ruby|道遠|みちとお}}きを{{Ruby|念|おも}}い、総力を将来の建設に{{Ruby|傾|かたむ}}け、道義を{{Ruby|篤|あつ}}くし、志操を{{Ruby|鞏|つよ}}くし、{{Ruby|誓|ちかっ}}て国体の精華を発揚し、世界の進運に{{Ruby|後|おく}}れざらむことを期すべし。<ref name=":70" /></blockquote> ==== 終戦直後 ==== 文部省は終戦後しばらく教育上「承詔必謹」「国体護持」の皇道思想を中核とし続ける。その象徴は玉音放送の2日後に公布された国史編修院官制である。国史編修院は『国史概説』に続いて国史を編修する政府組織であり、その官制は終戦の4か月前に閣議に請議されたまま保留されていたが、請議書の「現下の世局に鑑み、歴代天皇の皇謨を仰ぎ奉り、国体の本義に徹し、君臣の名分を正し、臣民忠誠の遺風を顕彰して現代施策の鑑となし、もって国運隆昌の基礎に培う」という目的が、終戦によって逆に強まったと判断されて終戦直後の官制公布をみたのである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 336頁。</ref>。 9月、文部省は「新日本建設ノ教育方針」を立案し、「ますます国体の護持に努むる」ことを強調する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 337頁。</ref>。その一方で「軍国的思想および施策を払拭」する方針を立てる。そして同月末ごろ作成された「当面の各省緊急施策要綱」は「従来の過激なる国家主義、軍国主義」を排除すべしとし、戦前に文部省が発行した国体関連書の処置について、1941年刊『臣民の道』は絶版するが、1937年刊『国体の本義』は改訂ですまされると判断する。文部省は戦時下の教学錬成から過激国家主義や軍国主義を排除さえすれば、今後も国体の本義を唱えることは許されると考えていたのである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 340頁。</ref>。 10月の文部省の省議で高松宮の発言が紹介される。それは、「国体の護持は国民の心にあり」、教育が国体を護持する。デモクラシーには米国式や英国式やソビエト式があるから日本式もあってよい、という趣旨の発言だったという<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 338頁。</ref>。 10月4日GHQが人権指令を発する。その翌日、米国国務省は「日本の戦後教育政策」を公表して日本政府を糾弾して曰く、日本政府が思想の自由を制限する治安維持法や文部省教学局思想課を廃止せず、国体の擁護ということに戦闘的国家主義哲学の存続が含まれると考えているようでは、神話の狂信的国家主義的解釈や軍国主義の礼賛を排除することはできないだろう、と<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 341頁。</ref>。 文部省は、10月16日の新教育方針中央講習会で文部次官が「デモクラシー、すなわち、いわゆる民主主義は我が国民が、いわば大家族制の宗家に当らせらるる皇室への奉本反始的赤誠とは、毫も矛盾撞着するものではありません。」「デモクラシーは民意暢達の政治というように意訳した方がよい」と述べるなど、民主主義を民意の暢達の意味に限定し、国体護持のための教育理念の維持に躍起になる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 342頁。</ref>。 10月、外務省が「国体および共産主義に関する米国の方針」と題する文書を作成する。その冒頭で、政府首脳や政府当局、なかでも内務省・司法省・文部省などの重大関心は、いわゆる国体護持および共産主義に関する米国の方針に寄せられていると述べ、また、米国の初期対日方針を分析し、それは「日本における現在の神話的、封建的、非合理的迷夢の打破および啓蒙により、民主主義および合理主義の根底たる個人の人格の意識を日本国民に植付けることをもって、日本民主主義化の第一歩となす」ものと判断する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 339頁。</ref>。 ==== 国体護持教育への固執 ==== 文部省の教育理念を国体護持から民主主義へ転換し始めるのは、10月から12月にかけて発せられたGHQの一連の教育指令からである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 344頁。</ref>。まず10月22日の「日本教育制度に対する管理政策」は「軍国主義的および極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること」を指令し、そのイデオロギーの鼓吹者を罷免し、それに関係する教科書の記述を削除することを指示する。文部省の対応が緩慢であったため、GHQは重ねて同月30日に「教員および教育関係官ノ調査・除外・認可に関する件」を指令する<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 344-345頁。</ref>。 文部省はGHQの指令をサボタージュする。その背後には国体護持教育への固執があった。たとえば文部省は11月開会の帝国議会で「国体護持と民主主義との関係如何」と問われた場合に備え、次のような答弁案を用意していた。<blockquote>民主主義的政治の内容をなしております自由の尊重、人権の擁護、平和の愛好、人民の福祉というようなことは、従来我が皇室におかせられまして不断に御軫念あそばされてまいりましたことであり、この意味におきまして民主主義の理想は我が国体と決して矛盾することはないと考えます。〔…〕なお公民教育の振興により道徳と秩序を尊重する精神を徹底せしめ、また歪曲されない真実に基づいた国史の教育により、さらに従来のような偏狭でない健全な国家意識を涵養することにより国体護持の目的を達することが出来るのではないかと存じます。<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 347頁。</ref></blockquote>12月15日にGHQは[[神道指令]]を発し、『国体の本義』や『臣民の道』やその類書を禁止する。文部省は既に『臣民の道』を絶版廃棄を表明していたが、『国体の本義』についてはその改訂に言及しながらも何も措置を取っていなかったことが、GHQによる禁止処分を招いたのである<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 346頁。</ref>。 また、神道指令では「大東亜戦争」「八紘一宇」という用語の使用も禁止されたが、草案段階ではさらに「国体」の語も禁止される予定であった。すなわち<blockquote>公文書において「大東亜戦争」「八紘一宇」「国体」なる用語、乃至その他の用語にして日本語としてその意味の連想が、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義と切り離し得ざるものは、これを使用することを禁止する。しかして、かかる用語の即刻停止を命ずる。</blockquote>という文案であった。総司令部のバンズ中尉は発表直前の草案を内密に[[岸本英夫]]に見せて意見を求めた。教育勅語は国体の語を用いているので、国体の語が禁止されれば教育勅語が即座に廃止されることになる。そうなると教育界が大混乱し、国民にも大きなショックを与えると岸本は懸念した。文部省の幹部は国民を過度に刺激せずに教育勅語を自然消滅させる方策を模索していたところであったので、総司令部の指令によって教育勅語が即座に廃止される事態は絶対に避けるべきであり、そのためには国体の語の禁止してはならないと岸本は考え、バンズにそう伝え、神道指令から国体の語の禁止を取り除くことに成功した<ref>{{Cite journal|和書||author=奥山倫明|date=2009-03-31|title=岸本英夫の昭和20年|url=https://doi.org/10.15083/00030482|journal=東京大学宗教学年報|publisher=東京大学文学部宗教学研究室|volume=26|pages=19–34|doi=10.15083/00030482}}</ref>。 1946年1月1日の詔書、いわゆる[[人間宣言]]に関連して文部省は訓令を発し、この詔書を「今後わが国教育のよってもって則る大本たるべき」とし、「このごとき聖旨を奉戴して、これが徹底を期するは教育にあり」などと言って、国体護持教育に固執する。文部省は教育勅語を擁護しており、たとえば学校教育局長田中耕太郎は訓示で「年頭の詔書〔人間宣言〕も決して教育勅語の権威を否定するものではない」、「従来教育勅語が一般に無視されていたからこそ、今日の無秩序・混乱が生じた」と論じている<ref name=":213" />。 ==== 文部省『新教育方針』 ==== 1946年5月21日、文部省が『新教育指針』を刊行する。これは歴史教科書の使用禁止にともなう暫定的措置として教師用参考書を企図してつくられた。GHQからはデモクラシーと連合軍進駐の意義目的を明確にすることを指示された。その最終章では「軍国主義や極端な国家主義はあとかたもなくぬぐい去られ、人間性・人格・個性にふくまれるほんとうの力が、科学的な確かさと哲学的な広さと宗教的な深さとをもってあまねく行われて、平和的文化国家が建設せられ、世界人類は永遠の平和と幸福とを楽しむであろう」と述べており、宗教性を帯びた理念として戦後民主主義の確立と戦前の教学錬成体制の解体とが謳われる。もっとも教学錬成体制が無条件で解体されるわけではない。国体明徴が「軍国主義者および極端な国家主義者」に誤って導かれたことが問題とされており、国体明徴そのものについては次のように肯定的である<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 352-353頁。</ref>。<blockquote>教育においても「国体明徴」とか、「教学刷新」とか、「皇国の道に則る国民錬成」とかがさかんに説かれて、制度も教科書も方法もあらためられ、また教学局や国民精神文化研究所というような機関がつくられたり、「国体の本義」、「臣民の道」、「国史概説」などの書物が出されたりした。これらは、日本国民がいつまでも西洋のまねをすることをやめて、自主的態度をもって、国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所を生かして、特色ある文化を発展させ、世界人類のためにつくそうとするかぎり、正しい運動であった。</blockquote>これに関連して「極端な国家主義」と「正しい愛国心」を区別については、「軍国主義者および極端な国家主義者」さえ排除すれば、「正しい愛国心」すなわち「国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所」を生かすことは「正しい運動」とされる。ここには文部省自身が「軍国主義者および極端な国家主義者」であったことの自覚や自責を窺えないといわれる<ref>{{harvtxt|荻野|2003-2006}} 353頁。</ref>。 ==戦後の国体を巡る議論== 戦後は民主主義の呼び声とともに国体の神話性が公然と議論される。これにより国体という語は過去の言葉になる<ref name=":48" />。 帝国議会の[[憲法改正]]審議において、国体について吉田茂首相は次のように答弁する。<blockquote>御誓文の精神、それが日本国の国体であります。〔…〕日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。〔…〕日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります。</blockquote>また、[[金森徳次郎]]憲法担当国務大臣の次のように答弁する。<blockquote>日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。〔…〕稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。<ref>1946年(昭和21年)6月25日衆議院本会議答弁。</ref></blockquote>[[1946年]](昭和21年)[[5月19日]]の[[食糧メーデー]]において、日本共産党員の[[松島松太郎]]は「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」(表面)、「働いても 働いても 何故私達は飢えねばならぬか 天皇ヒロヒト答えて呉れ 日本共産党田中精機細胞」(裏面)のプラカードを掲げて[[不敬罪]]に問われている([[プラカード事件]])。尤も、不敬罪適用は不適法であるとされ名誉毀損罪で起訴、日本国憲法公布による大赦で免訴された。 [[国旗国歌法]]案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌・君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」と答弁する<ref>1999年(平成11年)6月29日衆議院本会議、[[小渕恵三]]首相。</ref>。 [[2000年]](平成12年)[[5月15日]]、内閣総理大臣[[森喜朗]]が「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、その為に我々[[神道政治連盟国会議員懇談会|神政連議員]]が頑張って来た」と発言し、問題になる。いわゆる[[神の国発言]]である。 [[2004年]]に、日本共産党は綱領を改定した。その中では天皇制について「一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」という方針をうちだしている。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|3|refs= <ref name=":45">{{harvtxt|鹿野|1999|pages=132-133}}</ref> <ref name=":48">{{harvtxt|鹿野|1999|page=137}}</ref>。 }} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|title=帝室制度史 第1巻国体総説|date=1938年|publisher=ヘラルド社|author=帝国学士院|ref={{sfnref|帝国学士院|1938}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258871/1}} *{{Cite book|和書|title=国体論史|date=1921年|publisher=内務省神社局|author=内務省神社局|ref={{sfnref|内務省神社局|1921}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914348/}} *{{Cite book|和書|title=国体新論|date=1874年(明治7年12月官許)|publisher=谷山楼|author=加藤弘之|ref={{sfnref|加藤|1874}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759337/2}} *{{Cite book|和書|title=明治天皇の御事蹟と帝国憲法の制定|date=1922年|publisher=東京市社会教育叢書|author=金子堅太郎(講演)|ref={{sfnref|金子|1922}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970005/}} *{{Cite book|和書|title=近代日本思想案内|date=1999年|publisher=岩波書店|author=鹿野政直|ref={{sfnref|鹿野|1999}}|year=|url=|pages=118-138|series=岩波文庫別冊14|chapter=国体論}} *{{Cite book|和書|title=天皇と華族|date=1988年|publisher=日本近代思想大系2|author=遠山茂樹|ref={{sfnref|遠山|1988}}|year=|url=|pages=142-146}} *{{Cite journal|和書|author=渡辺幾治郎|year=1939|title=立憲政治の由来|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1079281/29|journal=日本憲政基礎史料|volume=|page=|publisher=議会政治社編輯部|ref={{sfnref|渡辺|1939}}}} *西野厚志「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120005345878 有機的<国体/国語>論の本義]」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』2013年9月。 *{{Cite book|和書|title=憲法講話|date=1912年(明治45年3月1日発行)|publisher=有斐閣書房|author=美濃部達吉|ref={{sfnref|美濃部|1912}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788938/325}} *{{Cite book|和書|title=我国に於けるデモクラシーの思潮|date=1918年|publisher=内務省警保局|author=内務省警保局(序)、同局事務官安武直夫(私稿)|ref={{sfnref|内務省警保局|1918}}|year=|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906377}} *{{Cite journal|和書|author=内務省警保局|year=1925|title=治安維持法要義|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955968/15|journal=官報|volume=第3820号大正14年5月20日附録雑報|page=|pages=3-6頁|ref={{sfnref|内務省警保局|1925}}}} *{{Cite journal|和書|author=見城悌治|year=2008|title=井上哲次郎による『国民道徳概論』改訂作業とその意味|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/120005925562|journal=千葉大学人文研究|volume=37|page=|pages=151-186頁|ref={{sfnref|見城|2008}}}} *{{Cite book|和書|title=文部省の治安機能:思想統制から『教学錬成』へ|date=2003-2006年|publisher=小樽商科大学|author=荻野富士夫|ref={{sfnref|荻野|2003-2006}}|year=|url=https://hdl.handle.net/10252/917|series=平成15年度~平成18年度科学研究費補助金}} == その他文献情報 ==<!--カテゴリは仮のものです--> ===概説=== *「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」衆議院憲法調査会事務局(平成15年5月)[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf] * {{Cite journal|和書|author=齋藤憲司 |date=2010-11 |title=日本における「議院内閣制」のデザイン (特集 議会開設120年に寄せて) : (日本の議会制度の変遷) |journal=レファレンス |ISSN=00342912 |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |volume=60 |issue=11 |pages=11-30 |naid=40017393125 |doi=10.11501/3050303 |id={{NDLJP|3050301}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000094104-00 |ref=harv}} ===思想史=== * [[子安宣邦]]、「[http://tjeas.ciss.ntnu.edu.tw/drkcajwtpp.html/journals/details/46 朱子学と近代日本の形成-東亜朱子学の同調と異趣]」『台湾東亜文明研究学』第3巻第1期 2006.6 * {{Cite book|和書|author=米原謙|authorlink=米原謙 |title=日本政治思想 |publisher=ミネルヴァ書房 |year=2007 |series=MINERVA政治学叢書 |NCID=BA81519806 |ISBN=9784623048434 |id={{全国書誌番号|21220435}} |CRID=1130000798235894656}}※第3章 明治維新と「国体」の創造 * {{Cite journal|和書|author=[[岡崎正道]] |title=近代日本と国体観念 |url=http://id.nii.ac.jp/1399/00012748/ |journal=人間・文化・社会 |publisher=岩手大学人文社会科学部 |year=1997 |pages=347-366 |naid=120002028710}} ===論考=== * {{Cite journal|和書|author=田中悟 |title=主権論をめぐる「日本的系譜」の可能性について |url=https://doi.org/10.24546/81002363 |journal=国際協力論集 |ISSN=0919-8636 |publisher=神戸大学大学院国際協力研究科 |year=2010 |volume=18 |issue=1 |pages=21-35 |doi=10.24546/81002363 |naid=110007595976 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|author=堀まどか |title=野口米次郎の1920年代後期の指向性 ―雑誌『國本』への寄稿を中心に― |url=http://id.nii.ac.jp/1013/00001540/ |journal=総研大文化科学研究 |ISSN=1883-096X |publisher=総合研究大学院大学文化科学研究科 |year=2008 |volume=4 |pages=83-95}} * {{Cite thesis|和書|author=長谷川亮一 |title=十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策 : いわゆる「皇国史観」の問題を中心として |volume=千葉大学 |series=博士 (文学) 甲第3324号 |year=2007 |naid=500000388450 |url=https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900051856/}} * {{Cite journal|和書|author=中村顕一郎 |date=2005-02 |title=十五年戦争下の朝鮮・台湾における教員「研修」 : 国民精神文化研究所の役割を中心に |url=https://hdl.handle.net/10911/3429 |journal=創価大学大学院紀要 |issue=26 |pages=241-260 |ISSN=03883035}} * {{Cite journal|和書|author=コンペル・ラドミール |title=太平洋戦争における「終戦」の過程 : 沖縄統治の形態と範囲をめぐる軍事と行政の相克 |journal=横浜国際経済法学 |ISSN=0919-9357 |publisher=横浜国際経済法学会 |year=2010 |volume=18 |issue=3 |pages=75-112 |CRID=1050845762916465792 |url=https://hdl.handle.net/10131/7031}} *「司馬遼太郎の夏目漱石観」高橋誠一郎(初出:異文化交流第4号 東海大学外国語教育センター)[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/pdf/takahashiseiichiro.pdf] * {{Cite journal|和書|author=マンフレート・ヘットリング, ティノ・シェルツ, 川喜田敦子 |date=2007-03 |title=過去との断絶と連続:1945年以降のドイツと日本における過去との取り組み |journal=ヨーロッパ研究 |ISSN=13469797 |publisher=東京大学大学院総合文化研究科・教養学部ドイツ・ヨーロッパ研究センター |volume=6 |pages=93-118 |naid=40015422422 |id={{NDLJP|10319545}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I000419425-00}} * {{Cite thesis|和書|author=崔鐘吉 |title=内務官僚の「中正なる国家」構想 : 治安維持法と労働組合法案を中心に |volume=筑波大学 |series=博士 (文学) 甲第3577号 |year=2005 |naid=500000333232 |url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/9104}} * {{Cite journal|和書|author=加藤千香子 |date=1996-11 |title=近代日本の国家と家族に関する一考察 : 大正期・内務官僚の思想に見る |url=https://hdl.handle.net/10131/2586 |journal=横浜国立大学人文紀要. 第一類哲学・社会科学 |ISSN=0513-5621 |publisher=横浜国立大学 |volume=42 |pages=1-18 |naid=110005858470}} == 関連項目 == {{Wiktionary|国体}} * [[皇室]] * [[万世一系]] * [[天皇制]] - [[天皇制ファシズム]] * [[国体論争]] * [[皇国史観]] * [[神国]] * [[国体の本義]] * [[帝室制度史]] * [[大日本帝国]] - [[大日本帝国憲法#特徴|「シラス」国体論と家秩序的国体論]] * [[日本国体学会]] * [[林路一#大日本運動|大日本運動]] * [[継承国|国家の継承と断絶]] === 関連人物 === * [[筧克彦]] - 子息 [[筧泰彦]] * [[今泉定助]] * [[林路一]] * [[平泉澄]] * [[清水澄]] * [[田中智学]] - 子息 [[里見岸雄]] * [[上杉慎吉]] * [[美濃部達吉]] * [[大石義雄]] * [[北一輝]] - [[国体論及び純正社会主義]] * [[葦津珍彦]] * [[丸山真男]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくたい}} [[Category:政治概念]] [[Category:日本の政治思想]] [[Category:天皇制]] [[Category:戦前日本の政治]] [[Category:日本の思想史]] [[Category:日本のナショナリズム]]
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重文
重文(じゅうぶん) 重文(しげふみ)
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重文(じゅうぶん) 重要文化財の略称。 主語と述語が並列的に二つ以上含まれた文のこと。「風が吹き、雨が降る」など。英文法では等位接続詞 によって結合された節(主語と述語の組み合わせを含む語の集合)によって構成される文をいう。 説文解字において、主となる見出し字である小篆の「文」に対して、異体字である古文、籀文の文字。 重文(しげふみ) 日本人によって発見された小惑星のひとつ。⇒重文 (小惑星)。
'''重文'''(じゅうぶん) * [[重要文化財]]の略称。 * 主語と述語が並列的に二つ以上含まれた[[文]]のこと。「風が吹き、雨が降る」など。[[英語|英]][[文法]]では[[接続詞#等位接続詞|等位接続詞]] (and, or, but など) によって結合された[[節 (文法)|節]](主語と述語の組み合わせを含む語の集合)によって構成される文をいう。<!--(cf.[[複文]])--> * [[説文解字]]において、主となる見出し字である[[小篆]]の「文」に対して、[[異体字]]である[[古文]]、[[籀文]]の文字。 '''重文'''(しげふみ) *日本人によって発見された[[小惑星]]のひとつ。⇒[[重文 (小惑星)]]。 {{デフォルトソート:しゆうふん}} {{aimai}}
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夜行列車
夜行列車(やこうれっしゃ)とは、夜間、日付をまたいで運転される列車のことである。略して夜行または、夜汽車と呼ばれることもある。また、夜行列車のうち寝台車を主体とするものは寝台列車と呼ばれる。 多くの夜行列車は、深夜帯には主要駅を除いて旅客扱いを行わないが、深夜発早朝着で運行距離が短い列車では深夜であっても多数の駅で旅客扱いを行うものがある。夜行列車の最大のメリットは、寝ている間に目的地に移動できることにある。近年、夜間運行の場合は同じく就寝中に目的地へ向かえる高速バス、所要時間が短い格安航空会社(LCC)を含む旅客機、新幹線などの高速鉄道といった競合する交通機関が台頭。高コスト・高価格の夜行列車は日本を始め、欧米、アジア、アフリカ、南米、豪など、世界的に減便傾向にある。 日本では2021年時点、定期夜行列車は1日2便を残すのみであるが、深夜を含めて複数の地域を巡る豪華観光列車や、星空や夜景、日の出を楽しんでもらうため深夜から早朝にかけて走る臨時列車が運行されている。 なお、主に日本で大晦日の初詣客のために運転される終夜運転については、ここでは述べない。 日本では、全国の鉄道網が一通り完成した明治時代中期以降に夜行列車が運行されるようになった。当時の長距離列車は昼夜を問わず走らないと目的地に到着しないものであり、必然的に夜行列車となった。当初は座席車のみによる運転であったが、1900年(明治33年)に山陽鉄道(現在の山陽本線などを運営)が日本で初めて寝台車の提供を行った。 大私鉄によって形成されていた鉄道網は1907年(明治40年)にほとんどが国有化され、帝国鉄道庁(のち鉄道院 → 鉄道省 → 運輸通信省鉄道総局 → 運輸省)により様々な夜行列車が運行されるようになった。国有化され官営鉄道となって以降は、軌道や車両の改良により速度の向上が図られた。1912年(明治45/大正元年)から運行された東京駅 - 下関駅間の特別急行列車(列車番号は下りが1列車、上りが2列車)は新橋駅を8時30分に出発し、大阪駅には20時33分、山陽本線内は夜行で走って終点の下関駅には翌朝の9時38分に到着しており、所要時間は25時間8分であった。1・2列車は日本を代表する列車として設定されており、編成は一等展望車1両、一等寝台車1両、二等座席車2両、二等寝台車1両、食堂車と荷物車の7両編成であった。この列車は1930年(昭和5年)に「富士」と命名されさらにスピードアップ、東京駅を13時ちょうどに発車し下関駅到着が翌朝の8時50分、所要時間は19時間50分となったが、やはり山陽本線区間は夜行であった。 第二次世界大戦前の官営鉄道全盛期であった1937年(昭和12年)には、東京駅 - 下関駅間の「富士」と、三等座席車主体の「櫻」の2本の特急のほかに4本の急行が設定されており、うち2往復が東海道本線内を、他の2往復が山陽本線内を夜行運転した。また、東京と関西の間には4本の急行が設定されており、そのうち東京駅 - 神戸駅間の夜行急行「17,18列車」は一・二等専用で別名「名士列車」と呼ばれていた。これら第二次世界大戦前の優等列車は太平洋戦争(大東亜戦争)が激化した1944年(昭和19年)に全廃され、同時に寝台車も運用されなくなった。 終戦後は、1945年(昭和20年)11月20日に東京駅 - 大阪駅間に夜行急行が復活し、1948年(昭和23年)には寝台車の供用が再開された。その後、官営鉄道は1949年(昭和24年)に新たに設立された公共企業体である国鉄に引き継がれ、国鉄により日本の復興とともに夜行列車は順次増強されていった。昭和30年代に国鉄旅客局が行った「旅行に昼行と夜行のどちらを選ぶか」という調査では、乗車時間が7時間半から9時間であれば昼行と夜行の利用が拮抗しているが、9時間以上であれば夜行が好まれると言う結果が得られた。当時の東海道本線に当てはめれば、東京駅 - 大阪駅間は特急列車を利用しない限り夜行列車のほうが好まれる状況であった。また1957年(昭和32年)の国鉄第一次5カ年計画において、「特急列車のうち、昼行は電車またはディーゼルカーを充当し、夜行列車には寝台客車とする」ことが決定した。1956年(昭和31年)に急行と同じ形式の座席車と寝台車を寄せ集めて誕生した夜行特急「あさかぜ」の車両は、1958年(昭和33年)からこの方針に従って製作された20系客車に変更された。 当時は単線非電化の路線が多く、列車の速度も低かった。例えば1956年(昭和31年)11月19日のダイヤ改正では、鹿児島駅行きの急行「さつま」が東京駅を21時45分に出発し、鹿児島駅に到着するのは翌々日の朝5時46分、運転時間は約32時間であった。 これら九州行きの列車も含めて東海道本線には夜行列車が増加し、高度経済成長期の真っただ中かつ東海道新幹線が開通する直前の1963年(昭和38年)から1964年(昭和39年)9月にかけてが夜行列車の本数のピークとなった。1964年(昭和39年)9月当時、東京駅を発車する東海道本線の夜行列車の本数は、当時の時刻表によれば以下の通りであった。 当時、東京駅では19時50分から22時10分にかけて、10分毎に夜行列車が発車した。このほか、東海道本線を昼間走り山陽本線を夜行で行く九州行の客車急行も4往復あった。 京阪神を目的地とした夜行列車は東海道新幹線の営業開始とともに急激に減少し、昼行の直通列車が終了した1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正「ヨンサントオ」では、寝台列車の急行2往復と普通1往復にまで減少した。1972年3月に山陽新幹線が岡山駅まで開業したが、岡山以西の山陽本線を走る夜行列車は特急列車が定期列車19往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車11往復と季節列車6往復という大勢力であった。1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正(ゴーマルサン)の山陽新幹線博多延伸開業時には岡山以西で夜行特急列車が定期列車14往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車のみ4往復に減少している。 1960年代後半(昭和40年代)以降は電化や線路・車両の改良などによる更なる高速化が図られ、長距離列車の運転時間は長くとも28時間程度に抑えられ、車中1泊の行程で運行する列車のみになった。まだこの頃までは移動手段としては鉄道利用が一般的であったため、ブルートレインと呼ばれた寝台列車は高い人気を誇った。 しかし、1970年代後半(昭和50年代)から1980年代にかけて、山陽新幹線博多延伸・東北新幹線・上越新幹線の開業による新幹線網の拡充で移動時間が更に短縮された。さらに、国内航空路線の拡充と航空運賃の自由化により以前と比べ飛行機が利用しやすくなったこと、高速道路網の整備により鉄道より安価な夜行バスが台頭したことなどもあり、夜行列車の利用は低迷するようになった。特に寝台列車は別途で寝台料金が必要なため新幹線より割高な料金設定や、相次ぐ国鉄の運賃値上げ、車両の老朽化・陳腐化もあって次第に敬遠されるようになり、乗車率の伸び悩みで削減や臨時列車化、または廃止が相次いだ。1979年には当時の運輸大臣であった森山欽司が「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」と表明し、議論を呼んだことがあった。 なお、1980年代前半までは主要幹線で夜行普通列車も多く運転されており、寝台車が連結された列車もあり、並行する優等列車を補完する役目を担っていた。 夜行の急行列車・普通列車の重要な使命としては、新聞(特に朝刊)輸送があった。通信手段が未発達だった当時、都心で印刷された新聞は荷物車により輸送され、未明の各駅に降ろされ、直ちに新聞販売店を経て、各家庭に配達された。また郵便物についても郵便車による輸送が行われた。現在この輸送は、トラック・航空貨物に取って代わられた。 このほか、中学校・高校の修学旅行においても夜行列車や寝台列車が利用されるケースが多々あったが、新幹線の延伸・高速化、昼行特急列車の利用に伴う昼間移動への移行、観光バスによるバス移動、1990年代以降に公立学校においても航空機の利用が解禁されたことによる空路利用への転移、海外や沖縄への修学旅行の増加などの理由により、同年代以降は、修学旅行に夜行列車・寝台列車が利用されることはよほどの行程上の事情がない限りなくなっている。同様に、阪神甲子園球場で開催される高校野球全国大会出場校の応援団もかつては「甲子園臨」と呼ばれた専用列車を利用して夜通し駆けつけるケースが多かったが、これらも現状は貸切バスや航空機、新幹線などでの移動に切り替えられている。 国鉄が民営化された1990年代から2000年代にかけて、夜行列車は相次いで廃止され、急速に淘汰されていった。その一方で、「北斗星」や「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」といった本州と北海道とを結んだ寝台列車のように食堂車でのフルコースディナー等のサービス提供を行う列車や、東京駅 - 四国・山陰を結ぶ「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」のように個室寝台を基本として快適性を高めた列車など、乗車自体を鉄道旅行の目的とする列車が人気を博した。しかし、「サンライズ瀬戸・出雲」以外の列車は車両の老朽化、北海道新幹線開業後は青函トンネル利用時の専用複電圧機関車を新造しないこと、更には整備新幹線開業による並行在来線の移管によって運転業務が煩雑になることなどを理由に、臨時列車化ないしは廃止されることが報道された。結局、「トワイライトエクスプレス」は2015年(平成27年)3月12日の札幌駅発をもって廃止、「北斗星」は臨時列車化のち青函トンネルの新幹線対応工事に伴い、同年8月22日の札幌駅発をもって廃止、「カシオペア」も2016年(平成28年)3月20日の札幌駅発をもって廃止となった。 座席車を主体とする急行列車、快速列車においても2016年3月に「はまなす」が廃止されたことで定期列車としては全て廃止された。季節列車においても最後まで残っていた「ムーンライトながら」が2021年1月に廃止が発表されたため、JRグループにおいて寝台料金不要で乗車できる定期・季節運行の夜行列車はサンライズ瀬戸・出雲のノビノビ座席および年1本運転の特急谷川岳山開きのみとなっている。 新幹線のうち地方への整備新幹線の開業により、並行在来線はJRから経営が切り離されて第三セクター鉄道会社へ移管され、夜行列車の廃止が相次いだ。西鹿児島駅まで運行されていた「なは」は、九州新幹線開業に際して転換された肥薩おれんじ鉄道に乗り入れを行わず、熊本駅までに運行短縮し、さらにその4年後には廃止された。上野駅と青森駅を東北本線経由で結んでいた「はくつる」も、東北新幹線の盛岡駅 - 八戸駅間開業時の2002年11月に廃止されている。この際に経営分離されたIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道には「北斗星」「カシオペア」が夜行(準)定期列車として乗り入れていたが、それぞれ2015年、2016年に廃止された。「能登」は、長野新幹線開業時に並行在来線が横川駅 - 軽井沢駅間で第三セクターに移管することなく廃線されたため、上越線経由に変更された。このほか、「トワイライトエクスプレス」は北陸新幹線開業に際して移管される第三セクターに乗り入れることなく廃止された。九州内の周遊列車である「ななつ星 in 九州」は2013年10月の運転開始当初、第三セクターの肥薩おれんじ鉄道線を避けて肥薩線経由での運行となった(後述)。 2010年代に入ると、JR九州が2013年10月15日から、九州を周遊する豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」の運行を開始した。この「ななつ星in九州」は、九州を周遊する観光旅行を豪華寝台列車による移動で楽しむというコンセプトに基づく旅行商品(パッケージツアー)のため時刻表への記載はなく、費用も「運賃 + 料金」ではなく全てがパッケージされた「旅行代金」である。この豪華寝台列車の登場と成功は大きなインパクトを与え、後にJR東日本やJR西日本も同コンセプトの列車・車両(JR東日本は「TRAIN SUITE 四季島」、JR西日本は「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」)を開発、製造することになり、それぞれ2017年より運行を開始した。3列車とも費用は高額ながら人気は高く、希望者多数のため抽選となっている。 2018年現在では東武鉄道と西武鉄道が臨時列車に限り夜行列車を運転している。いずれも首都圏外縁部周辺の観光地へ向けて東京都区部や横浜市内を前夜に出発し、翌日未明に星空を観賞したり、早朝から観光したりできるように設定されている。行き先は、西武鉄道が秩父地方、東武鉄道は日光や尾瀬、会津地方である(発着駅は相互直通運転の他社区間を含む。詳細は東武鉄道夜行列車を参照)。 西武鉄道では1973年までは夜行列車「こぶし」がレッドアロー車両を使用して休前日に限り定期運転されていた。その後、西武鉄道の夜行列車は臨時列車に限り2015年8月に再開した。 なお、東武・西武ともに、夜通し運転せず未明に到着するため、厳密には夜行列車の範疇ではないが、両社の公式ホームページで発表される臨時列車の案内や系列旅行会社による募集広告では「夜行列車」と称している。 そのほか、他の鉄道事業者に乗り入れての夜行運転では、南海電気鉄道南海本線と国鉄紀勢本線を直通する難波駅 - 新宮駅間の客車夜行列車(南海本線内は電車が牽引し、料金不要の特急扱い。和歌山駅以南は天王寺駅発着の夜行普通列車と併結)が、1951年4月6日から1972年3月14日まで運行されていた。 2023年時点、日本で運行されている夜行列車は下表のとおりである。太字は毎日運行される定期列車。 ※「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」「ななつ星 in 九州」はツアー形式の周回列車であり、移動手段としての従来の夜行列車とは性格が異なる。 五十音順。列車愛称のないもの・イベント列車に類するものは除く。一覧中各記号は[特]:特急、[急]:急行、[快]:快速、[普]:普通、[臨]:臨時列車、[団]:団体専用列車。 かつては機関車は夜行列車牽引の主力であったが、電車化や廃止などによって使用される機会は激減している。特に近年では、「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」の廃止などで機関車の稼働率は極端に低くなっている。国鉄分割民営化後に新車を投入した列車は、E26系を用いた「カシオペア」だけで、電車も、285系の「サンライズ出雲・瀬戸」のみとなっている。また、客車の多くは国鉄時代の1970年 - 80年代に製造されたもので老朽化が進んでいる。牽引する機関車についても「カシオペア」や「北斗星」を牽引するJR東日本所有のEF81形電気機関車が2010年夏以降EF510形電気機関車へ置き換えられたものの、他社では昼行客車列車自体の減少・消滅も相まって機関車の新型車両へ置き換えは進んでいない。例えば、「カシオペア」や青森駅 - 札幌駅間の運行となる「はまなす」の場合、青函トンネルを含む青森駅以北の運行を受け持つJR北海道では、旧国鉄から引き継いだDD51形ディーゼル機関車や、青函トンネルを含む津軽海峡線対応仕様として旧国鉄が改修したED79形電気機関車が牽引をしていた。 かつては、気動車列車による運行もあり、旧国鉄時代には昼行列車との運用の兼ね合いで行われた事例もあったものの、定期特急列車の事例はなかった。JR北海道では自社管内運行していた客車夜行列車について、1991年より急行用気動車のキハ400形・キハ480形気動車に、1992年より特急用気動車のキハ183系気動車にそれぞれ1 - 2両14系寝台車を連結して運行していた。これらの列車は2008年までに全て運行を終了している。 ただ2010年代に入り、「ななつ星in九州」「四季島」「瑞風」といったクルーズトレインの投入に伴い、車両の新造が少数ながら行われている。「ななつ星」では専用の77系客車・DF200形ディーゼル機関車が2013年に新造されたほか、「四季島」では「E001形」と呼ばれるハイブリッド車両、「瑞風」では87系寝台気動車が新造された。また新造ではないが、「WEST EXPRESS 銀河」では117系電車を大幅改造して専用の編成を捻出した。 車内設備は、個室寝台の充実や女性専用車連結により、プライバシーへの配慮を図るなど質的改善が図られている。「はまなす」の普通車座席指定席として設定されている「ドリームカー」では、グリーン車に匹敵する設備をグリーン料金を徴収せず普通車扱いで安価に提供するサービスが行われていた。「あかつき」では、車内に座席が3列に並べられた「レガートシート」や、定期運行開始時の「ムーンライト」(のちの「ムーンライトえちご」)のグリーン車のシート部品を流用したシートが設けられていた。他ムーンライト九州には、リクライニング角度が非常に大きいシートなどがあった。 また、横臥できる設備を寝台料金を徴収せずに提供し、普通車扱いで運賃+指定席特急料金(あるいは急行料金+座席券)のみとする例も現れている。この場合、所要時間では飛行機・新幹線・昼行特急列車に及ばないものの、運賃+料金面でほぼ同等であり、唯一夜行路線バスやツアーバスには価格優位性で劣るものの、「鉄道として定時性が高く、夜間の就寝時間(非活動時間)を移動時間として有効活用できる」という点が活かされる。 なお、寝台車が連結される普通(快速)列車もあったが、1985年(昭和60年)までに定期列車としては全廃された。 夜行列車は、深夜 - 未明の一般人の就寝時間をまたいで運転するため、概ね21時台から翌朝の6時台前半まで(列車により異なる)は就寝の妨げにならないよう、車内放送を事故や遅れなど特別な理由がない限り基本的に行わないようにしている。このため、車内放送休止前の放送を「おやすみ放送」、夜が明けて車内放送が再開される時の放送を「おはよう放送」と呼ぶことがある。 新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。しかし新幹線の騒音問題などの理由で定期列車の夜行新幹線は実現しなかった。 異常発生時に遅延し、結果として夜行新幹線となった事例以外に、あらかじめ臨時列車を設定して夜行新幹線を運行した例は過去にいくつかあり、2002 FIFAワールドカップの際に試合終了後の観客輸送を目的とした夜行新幹線が上越新幹線・東海道新幹線で運転された例などがある。2021年に開催された2020年東京オリンピックでは、宮城スタジアムで行われるサッカー競技の試合に合わせ、東北新幹線の仙台駅 - 盛岡駅、仙台駅 - 東京駅間で臨時の夜行新幹線を走らせる予定であったが、新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、宮城では有観客での開催となったものの、感染拡大防止のため、夜行新幹線の運転は中止され幻となった。 2010年代より、第3セクター鉄道路線・地方私鉄で団体夜行列車が企画・運行された例がある。これらの団体夜行列車は比較的短距離の路線を深夜時間帯に往復(路線によっては複数回往復)し、終点駅や途中駅で長時間停車し、車内や停車駅でイベント・物品販売などを行い、早朝に出発駅に戻る形態をとっているものが多い。 津軽鉄道では、2019年から期間限定企画として夜から朝まで全区間を2往復運行する「夜行列車」を開始。日本旅行との共同企画による旅行商品の扱い。DD350形ディーゼル機関車と客車オハ46系、オハフ33系を使用しているため、「昭和の夜汽車」を体感できる。同様の企画はいすみ鉄道、秩父鉄道、えちごトキめき鉄道でも行われている。 また、三陸鉄道でも2019年、山田線の一部(現・リアス線)・宮古 - 釜石駅間の移管により全線開業したのを記念して、7月に夜行列車を運行した。 ヨーロッパでは夜行列車が多く運行されている。多くの国が陸続きにあり国際夜行列車も多い。ほとんどの夜行列車には寝台車と座席車の両方が連結されている。国際夜行列車の場合には、乗車時に車掌がパスポートを回収し、夜中の出入国手続きを旅客に代わって行い、翌朝の国境通過後に返却する。 ヨーロッパの代表的な国際急行列車としてユーロシティがあるが、夜行列車としてはユーロナイト(略称EN)が運行されている。なお、インテルシティやユーロシティなどの鉄道に乗車可能な「ユーレイルグローバルパス」が発行されているが夜行列車の寝台を利用する場合には別途寝台券が必要になる。 飛行機の普及以降、1980年代までは夜行列車の食堂車のサービスは削減される一方であったが、1990年代以降はユーロナイトなど復活の傾向も見られ、ドイツ国内やドイツと周辺各国を結ぶシティナイトライン、オリエント急行などの夜行列車や、フランスとイタリアを結ぶ「テーロ」(Thello)では、食堂車やビュッフェ車の連結が見られる。また食堂車を連結していない列車でも個室寝台車の乗客には朝食が無料で配布される場合が多い。 ヨーロッパの多くの国の国内夜行列車は、廉価な長距離列車として運転されている列車が少なくない。こうした夜行列車はクシェット(Couchette)と呼ばれる簡易寝台車を連結している。クシェットの寝台料金は20ユーロ弱ときわめて安価であり、庶民の気軽な長距離旅行手段として親しまれている。クシェットは、日本で言えば開放式の3段式のB寝台車であり、1区画6名となっているが、一部には2段式4名のものもある。多くの場合は男女同室となるが、「テロ」など一部には女性専用の区画を設けている列車もある。 しかし2000年代以降、高速鉄道網の整備や格安航空会社の台頭等で夜行列車の削減が進んでいる。例えば2013年12月のTGVのバルセロナ乗り入れ開始を機にパリ-マドリッドを結んでいたタルゴ車両を用いた寝台列車「トレンオテル」が廃止されるなど夜行列車サービスの縮小が目立っている。 ロシアは圧倒的に広大な国土である上に、格安航空会社の参入が遅れていることもあり、夜行列車が頻繁に運行され、9297kmを走るシベリア鉄道にモスクワ - ウラジオストクまで超長距離列車の「ロシア号」がある。 またロシアの夜行列車はヨーロッパ、CIS、モンゴル、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国とも直通運転している。 インドや中華人民共和国などの国土が広大な発展途上国では、現在でも鉄道輸送の占めるシェアは大きく、多くの夜行列車が運行されている。国土が広大であるため、3 - 4日間をかけて運行するものも目立つ。中華人民共和国の場合、高速鉄道網の整備や経済成長に伴う空港や高速道路の急速な整備による高速バスや格安航空会社などとの競争もあるものの、経済成長とそれを背景にした出稼ぎの増加で夜行列車の本数は増え続けており、中には高速鉄道用の車両CRH2型に寝台を設置した列車も走っている。なおインドでも格安航空会社との競争が激しくなってきているが、貧富の差が激しいこともあり廉価な夜行列車の需要が大きい。 韓国では、主要幹線に夜行のムグンファ号が運行されている。国土面積の関係で国内移動の際の移動距離が概ね500km以内であり、運転時間が短く終着駅には3時台に到着する為、座席車が主体である。なお、近年まで寝台車を連結した列車が存在したが、昼行列車の高速化に伴って需要が減少したため、一部の特設列車を除いて全廃されている。 中華民国(台湾)では2000年代半ばまでは、西部幹線に夜行列車が1日3往復、東部幹線莒光号でも1日1往復運転されていたが、台湾高速鉄道の開業や普悠瑪号の運転開始等で昼行列車がスピードアップされた為現在では東部幹線に週末のみの運転となっている。 東南アジア各国でも夜行列車が運転されているが、高速道路網の整備が進んでいるタイやマレーシアでは、高速道路を利用する高速バスが便数、所要時間において有利に立っている。南北に国土が長いベトナムでは、現在の東南アジアの定期列車では他に例のない始発駅から終着駅まで2泊3日を要する列車や、同じく途中で国境を越える国際列車としては唯一の夜行列車(ベトナム国内ではMR1/2列車)が存在する。また島国のインドネシアやフィリピンでは、鉄道網が脆弱なこともあり夜行列車のシェアは少ない。さらにこれらの国において近年ではエアアジアやタイガーエア、ノックエアやセブパシフィックなどの格安航空会社との競争にもさらされている。 アフリカは、日本やイギリス、アメリカなどの先進国のように鉄道が発達している国は少ないが、長距離路線を中心に夜行列車の運行がかなり見られる。 南アフリカ共和国では、世界で一番豪華といわれるブルートレイン等多くの夜行列車が運行しているほか、モザンビークへの国際ローカル列車などもある。 その他、ザンビアのカピリムポシとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道(TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)等で夜行列車が運行している。 アメリカ合衆国は、その国土の広さから、長距離列車のほとんどは夜行列車である。かつては大量の夜行列車が運行されていたが、現在では国内の長距離移動の主流が飛行機となってしまったために、その本数を大きく減らしている。 アメリカには複数の鉄道会社が存在するが、定期夜行列車はアムトラック(全米鉄道旅客公社)が運行する。夜行列車は毎日、もしくは週3日運行され、全行程は短く乗りやすい2日(1泊2日)の「コースト・スターライト」号などから長いものでは4日(3泊4日)を要する「サンセット・リミテッド」号までさまざまである。大陸横断鉄道は原則としてシカゴで乗り継ぎとなり、シカゴより西海岸方面が2泊3日、シカゴより東海岸への各線が1泊2日の行程なので、鉄道での大陸横断には最短でも3泊4日が必要となる。 アムトラックは貨物列車を運行する一級鉄道などの私鉄に間借りする形で運行されるため、貨物列車優先に起因する単線区間でのすれ違いや車両到着の遅れからくる時間の運行の乱れが大きく、乗り継ぎには数時間から1日程度の余裕を持つことが旅客に求められる。食事料金は寝台料金に含まれており、乗車区間によって数回の食事が供される。料金は飛行機よりも高く、速度は自家用車よりも遅いため、ビジネス客はほとんどいない。 カナダではアメリカのアムトラックに相当するVIA鉄道が夜行列車を運行している。運行形態はアメリカと似ているが、二大都市圏であるトロントとモントリオールを結ぶ夜行列車ではビジネス客を意識したサービスを提供している。カナダの長距離夜行列車の特徴として、大部分が新車に置き換わったアメリカのアムトラックと異なり、大陸横断路線のカナディアン号などに使われる1954年バッド社製パーク・カーのような、北米の旅客鉄道全盛期に活躍した古い流線形客車が改修されつつも今なお第一線で使用されていることが挙げられる。
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下関駅間の特別急行列車(列車番号は下りが1列車、上りが2列車)は新橋駅を8時30分に出発し、大阪駅には20時33分、山陽本線内は夜行で走って終点の下関駅には翌朝の9時38分に到着しており、所要時間は25時間8分であった。1・2列車は日本を代表する列車として設定されており、編成は一等展望車1両、一等寝台車1両、二等座席車2両、二等寝台車1両、食堂車と荷物車の7両編成であった。この列車は1930年(昭和5年)に「富士」と命名されさらにスピードアップ、東京駅を13時ちょうどに発車し下関駅到着が翌朝の8時50分、所要時間は19時間50分となったが、やはり山陽本線区間は夜行であった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦前の官営鉄道全盛期であった1937年(昭和12年)には、東京駅 - 下関駅間の「富士」と、三等座席車主体の「櫻」の2本の特急のほかに4本の急行が設定されており、うち2往復が東海道本線内を、他の2往復が山陽本線内を夜行運転した。また、東京と関西の間には4本の急行が設定されており、そのうち東京駅 - 神戸駅間の夜行急行「17,18列車」は一・二等専用で別名「名士列車」と呼ばれていた。これら第二次世界大戦前の優等列車は太平洋戦争(大東亜戦争)が激化した1944年(昭和19年)に全廃され、同時に寝台車も運用されなくなった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "終戦後は、1945年(昭和20年)11月20日に東京駅 - 大阪駅間に夜行急行が復活し、1948年(昭和23年)には寝台車の供用が再開された。その後、官営鉄道は1949年(昭和24年)に新たに設立された公共企業体である国鉄に引き継がれ、国鉄により日本の復興とともに夜行列車は順次増強されていった。昭和30年代に国鉄旅客局が行った「旅行に昼行と夜行のどちらを選ぶか」という調査では、乗車時間が7時間半から9時間であれば昼行と夜行の利用が拮抗しているが、9時間以上であれば夜行が好まれると言う結果が得られた。当時の東海道本線に当てはめれば、東京駅 - 大阪駅間は特急列車を利用しない限り夜行列車のほうが好まれる状況であった。また1957年(昭和32年)の国鉄第一次5カ年計画において、「特急列車のうち、昼行は電車またはディーゼルカーを充当し、夜行列車には寝台客車とする」ことが決定した。1956年(昭和31年)に急行と同じ形式の座席車と寝台車を寄せ集めて誕生した夜行特急「あさかぜ」の車両は、1958年(昭和33年)からこの方針に従って製作された20系客車に変更された。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当時は単線非電化の路線が多く、列車の速度も低かった。例えば1956年(昭和31年)11月19日のダイヤ改正では、鹿児島駅行きの急行「さつま」が東京駅を21時45分に出発し、鹿児島駅に到着するのは翌々日の朝5時46分、運転時間は約32時間であった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これら九州行きの列車も含めて東海道本線には夜行列車が増加し、高度経済成長期の真っただ中かつ東海道新幹線が開通する直前の1963年(昭和38年)から1964年(昭和39年)9月にかけてが夜行列車の本数のピークとなった。1964年(昭和39年)9月当時、東京駅を発車する東海道本線の夜行列車の本数は、当時の時刻表によれば以下の通りであった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "当時、東京駅では19時50分から22時10分にかけて、10分毎に夜行列車が発車した。このほか、東海道本線を昼間走り山陽本線を夜行で行く九州行の客車急行も4往復あった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "京阪神を目的地とした夜行列車は東海道新幹線の営業開始とともに急激に減少し、昼行の直通列車が終了した1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正「ヨンサントオ」では、寝台列車の急行2往復と普通1往復にまで減少した。1972年3月に山陽新幹線が岡山駅まで開業したが、岡山以西の山陽本線を走る夜行列車は特急列車が定期列車19往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車11往復と季節列車6往復という大勢力であった。1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正(ゴーマルサン)の山陽新幹線博多延伸開業時には岡山以西で夜行特急列車が定期列車14往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車のみ4往復に減少している。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1960年代後半(昭和40年代)以降は電化や線路・車両の改良などによる更なる高速化が図られ、長距離列車の運転時間は長くとも28時間程度に抑えられ、車中1泊の行程で運行する列車のみになった。まだこの頃までは移動手段としては鉄道利用が一般的であったため、ブルートレインと呼ばれた寝台列車は高い人気を誇った。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "しかし、1970年代後半(昭和50年代)から1980年代にかけて、山陽新幹線博多延伸・東北新幹線・上越新幹線の開業による新幹線網の拡充で移動時間が更に短縮された。さらに、国内航空路線の拡充と航空運賃の自由化により以前と比べ飛行機が利用しやすくなったこと、高速道路網の整備により鉄道より安価な夜行バスが台頭したことなどもあり、夜行列車の利用は低迷するようになった。特に寝台列車は別途で寝台料金が必要なため新幹線より割高な料金設定や、相次ぐ国鉄の運賃値上げ、車両の老朽化・陳腐化もあって次第に敬遠されるようになり、乗車率の伸び悩みで削減や臨時列車化、または廃止が相次いだ。1979年には当時の運輸大臣であった森山欽司が「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」と表明し、議論を呼んだことがあった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、1980年代前半までは主要幹線で夜行普通列車も多く運転されており、寝台車が連結された列車もあり、並行する優等列車を補完する役目を担っていた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "夜行の急行列車・普通列車の重要な使命としては、新聞(特に朝刊)輸送があった。通信手段が未発達だった当時、都心で印刷された新聞は荷物車により輸送され、未明の各駅に降ろされ、直ちに新聞販売店を経て、各家庭に配達された。また郵便物についても郵便車による輸送が行われた。現在この輸送は、トラック・航空貨物に取って代わられた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このほか、中学校・高校の修学旅行においても夜行列車や寝台列車が利用されるケースが多々あったが、新幹線の延伸・高速化、昼行特急列車の利用に伴う昼間移動への移行、観光バスによるバス移動、1990年代以降に公立学校においても航空機の利用が解禁されたことによる空路利用への転移、海外や沖縄への修学旅行の増加などの理由により、同年代以降は、修学旅行に夜行列車・寝台列車が利用されることはよほどの行程上の事情がない限りなくなっている。同様に、阪神甲子園球場で開催される高校野球全国大会出場校の応援団もかつては「甲子園臨」と呼ばれた専用列車を利用して夜通し駆けつけるケースが多かったが、これらも現状は貸切バスや航空機、新幹線などでの移動に切り替えられている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "国鉄が民営化された1990年代から2000年代にかけて、夜行列車は相次いで廃止され、急速に淘汰されていった。その一方で、「北斗星」や「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」といった本州と北海道とを結んだ寝台列車のように食堂車でのフルコースディナー等のサービス提供を行う列車や、東京駅 - 四国・山陰を結ぶ「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」のように個室寝台を基本として快適性を高めた列車など、乗車自体を鉄道旅行の目的とする列車が人気を博した。しかし、「サンライズ瀬戸・出雲」以外の列車は車両の老朽化、北海道新幹線開業後は青函トンネル利用時の専用複電圧機関車を新造しないこと、更には整備新幹線開業による並行在来線の移管によって運転業務が煩雑になることなどを理由に、臨時列車化ないしは廃止されることが報道された。結局、「トワイライトエクスプレス」は2015年(平成27年)3月12日の札幌駅発をもって廃止、「北斗星」は臨時列車化のち青函トンネルの新幹線対応工事に伴い、同年8月22日の札幌駅発をもって廃止、「カシオペア」も2016年(平成28年)3月20日の札幌駅発をもって廃止となった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "座席車を主体とする急行列車、快速列車においても2016年3月に「はまなす」が廃止されたことで定期列車としては全て廃止された。季節列車においても最後まで残っていた「ムーンライトながら」が2021年1月に廃止が発表されたため、JRグループにおいて寝台料金不要で乗車できる定期・季節運行の夜行列車はサンライズ瀬戸・出雲のノビノビ座席および年1本運転の特急谷川岳山開きのみとなっている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新幹線のうち地方への整備新幹線の開業により、並行在来線はJRから経営が切り離されて第三セクター鉄道会社へ移管され、夜行列車の廃止が相次いだ。西鹿児島駅まで運行されていた「なは」は、九州新幹線開業に際して転換された肥薩おれんじ鉄道に乗り入れを行わず、熊本駅までに運行短縮し、さらにその4年後には廃止された。上野駅と青森駅を東北本線経由で結んでいた「はくつる」も、東北新幹線の盛岡駅 - 八戸駅間開業時の2002年11月に廃止されている。この際に経営分離されたIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道には「北斗星」「カシオペア」が夜行(準)定期列車として乗り入れていたが、それぞれ2015年、2016年に廃止された。「能登」は、長野新幹線開業時に並行在来線が横川駅 - 軽井沢駅間で第三セクターに移管することなく廃線されたため、上越線経由に変更された。このほか、「トワイライトエクスプレス」は北陸新幹線開業に際して移管される第三セクターに乗り入れることなく廃止された。九州内の周遊列車である「ななつ星 in 九州」は2013年10月の運転開始当初、第三セクターの肥薩おれんじ鉄道線を避けて肥薩線経由での運行となった(後述)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2010年代に入ると、JR九州が2013年10月15日から、九州を周遊する豪華寝台列車「ななつ星 in 九州」の運行を開始した。この「ななつ星in九州」は、九州を周遊する観光旅行を豪華寝台列車による移動で楽しむというコンセプトに基づく旅行商品(パッケージツアー)のため時刻表への記載はなく、費用も「運賃 + 料金」ではなく全てがパッケージされた「旅行代金」である。この豪華寝台列車の登場と成功は大きなインパクトを与え、後にJR東日本やJR西日本も同コンセプトの列車・車両(JR東日本は「TRAIN SUITE 四季島」、JR西日本は「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」)を開発、製造することになり、それぞれ2017年より運行を開始した。3列車とも費用は高額ながら人気は高く、希望者多数のため抽選となっている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2018年現在では東武鉄道と西武鉄道が臨時列車に限り夜行列車を運転している。いずれも首都圏外縁部周辺の観光地へ向けて東京都区部や横浜市内を前夜に出発し、翌日未明に星空を観賞したり、早朝から観光したりできるように設定されている。行き先は、西武鉄道が秩父地方、東武鉄道は日光や尾瀬、会津地方である(発着駅は相互直通運転の他社区間を含む。詳細は東武鉄道夜行列車を参照)。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "西武鉄道では1973年までは夜行列車「こぶし」がレッドアロー車両を使用して休前日に限り定期運転されていた。その後、西武鉄道の夜行列車は臨時列車に限り2015年8月に再開した。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、東武・西武ともに、夜通し運転せず未明に到着するため、厳密には夜行列車の範疇ではないが、両社の公式ホームページで発表される臨時列車の案内や系列旅行会社による募集広告では「夜行列車」と称している。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そのほか、他の鉄道事業者に乗り入れての夜行運転では、南海電気鉄道南海本線と国鉄紀勢本線を直通する難波駅 - 新宮駅間の客車夜行列車(南海本線内は電車が牽引し、料金不要の特急扱い。和歌山駅以南は天王寺駅発着の夜行普通列車と併結)が、1951年4月6日から1972年3月14日まで運行されていた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2023年時点、日本で運行されている夜行列車は下表のとおりである。太字は毎日運行される定期列車。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "※「TRAIN SUITE 四季島」「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」「ななつ星 in 九州」はツアー形式の周回列車であり、移動手段としての従来の夜行列車とは性格が異なる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "五十音順。列車愛称のないもの・イベント列車に類するものは除く。一覧中各記号は[特]:特急、[急]:急行、[快]:快速、[普]:普通、[臨]:臨時列車、[団]:団体専用列車。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "かつては機関車は夜行列車牽引の主力であったが、電車化や廃止などによって使用される機会は激減している。特に近年では、「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」の廃止などで機関車の稼働率は極端に低くなっている。国鉄分割民営化後に新車を投入した列車は、E26系を用いた「カシオペア」だけで、電車も、285系の「サンライズ出雲・瀬戸」のみとなっている。また、客車の多くは国鉄時代の1970年 - 80年代に製造されたもので老朽化が進んでいる。牽引する機関車についても「カシオペア」や「北斗星」を牽引するJR東日本所有のEF81形電気機関車が2010年夏以降EF510形電気機関車へ置き換えられたものの、他社では昼行客車列車自体の減少・消滅も相まって機関車の新型車両へ置き換えは進んでいない。例えば、「カシオペア」や青森駅 - 札幌駅間の運行となる「はまなす」の場合、青函トンネルを含む青森駅以北の運行を受け持つJR北海道では、旧国鉄から引き継いだDD51形ディーゼル機関車や、青函トンネルを含む津軽海峡線対応仕様として旧国鉄が改修したED79形電気機関車が牽引をしていた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "かつては、気動車列車による運行もあり、旧国鉄時代には昼行列車との運用の兼ね合いで行われた事例もあったものの、定期特急列車の事例はなかった。JR北海道では自社管内運行していた客車夜行列車について、1991年より急行用気動車のキハ400形・キハ480形気動車に、1992年より特急用気動車のキハ183系気動車にそれぞれ1 - 2両14系寝台車を連結して運行していた。これらの列車は2008年までに全て運行を終了している。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ただ2010年代に入り、「ななつ星in九州」「四季島」「瑞風」といったクルーズトレインの投入に伴い、車両の新造が少数ながら行われている。「ななつ星」では専用の77系客車・DF200形ディーゼル機関車が2013年に新造されたほか、「四季島」では「E001形」と呼ばれるハイブリッド車両、「瑞風」では87系寝台気動車が新造された。また新造ではないが、「WEST EXPRESS 銀河」では117系電車を大幅改造して専用の編成を捻出した。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "車内設備は、個室寝台の充実や女性専用車連結により、プライバシーへの配慮を図るなど質的改善が図られている。「はまなす」の普通車座席指定席として設定されている「ドリームカー」では、グリーン車に匹敵する設備をグリーン料金を徴収せず普通車扱いで安価に提供するサービスが行われていた。「あかつき」では、車内に座席が3列に並べられた「レガートシート」や、定期運行開始時の「ムーンライト」(のちの「ムーンライトえちご」)のグリーン車のシート部品を流用したシートが設けられていた。他ムーンライト九州には、リクライニング角度が非常に大きいシートなどがあった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、横臥できる設備を寝台料金を徴収せずに提供し、普通車扱いで運賃+指定席特急料金(あるいは急行料金+座席券)のみとする例も現れている。この場合、所要時間では飛行機・新幹線・昼行特急列車に及ばないものの、運賃+料金面でほぼ同等であり、唯一夜行路線バスやツアーバスには価格優位性で劣るものの、「鉄道として定時性が高く、夜間の就寝時間(非活動時間)を移動時間として有効活用できる」という点が活かされる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、寝台車が連結される普通(快速)列車もあったが、1985年(昭和60年)までに定期列車としては全廃された。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "夜行列車は、深夜 - 未明の一般人の就寝時間をまたいで運転するため、概ね21時台から翌朝の6時台前半まで(列車により異なる)は就寝の妨げにならないよう、車内放送を事故や遅れなど特別な理由がない限り基本的に行わないようにしている。このため、車内放送休止前の放送を「おやすみ放送」、夜が明けて車内放送が再開される時の放送を「おはよう放送」と呼ぶことがある。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "新幹線計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった。しかし新幹線の騒音問題などの理由で定期列車の夜行新幹線は実現しなかった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "異常発生時に遅延し、結果として夜行新幹線となった事例以外に、あらかじめ臨時列車を設定して夜行新幹線を運行した例は過去にいくつかあり、2002 FIFAワールドカップの際に試合終了後の観客輸送を目的とした夜行新幹線が上越新幹線・東海道新幹線で運転された例などがある。2021年に開催された2020年東京オリンピックでは、宮城スタジアムで行われるサッカー競技の試合に合わせ、東北新幹線の仙台駅 - 盛岡駅、仙台駅 - 東京駅間で臨時の夜行新幹線を走らせる予定であったが、新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、宮城では有観客での開催となったものの、感染拡大防止のため、夜行新幹線の運転は中止され幻となった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2010年代より、第3セクター鉄道路線・地方私鉄で団体夜行列車が企画・運行された例がある。これらの団体夜行列車は比較的短距離の路線を深夜時間帯に往復(路線によっては複数回往復)し、終点駅や途中駅で長時間停車し、車内や停車駅でイベント・物品販売などを行い、早朝に出発駅に戻る形態をとっているものが多い。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "津軽鉄道では、2019年から期間限定企画として夜から朝まで全区間を2往復運行する「夜行列車」を開始。日本旅行との共同企画による旅行商品の扱い。DD350形ディーゼル機関車と客車オハ46系、オハフ33系を使用しているため、「昭和の夜汽車」を体感できる。同様の企画はいすみ鉄道、秩父鉄道、えちごトキめき鉄道でも行われている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、三陸鉄道でも2019年、山田線の一部(現・リアス線)・宮古 - 釜石駅間の移管により全線開業したのを記念して、7月に夜行列車を運行した。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは夜行列車が多く運行されている。多くの国が陸続きにあり国際夜行列車も多い。ほとんどの夜行列車には寝台車と座席車の両方が連結されている。国際夜行列車の場合には、乗車時に車掌がパスポートを回収し、夜中の出入国手続きを旅客に代わって行い、翌朝の国境通過後に返却する。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの代表的な国際急行列車としてユーロシティがあるが、夜行列車としてはユーロナイト(略称EN)が運行されている。なお、インテルシティやユーロシティなどの鉄道に乗車可能な「ユーレイルグローバルパス」が発行されているが夜行列車の寝台を利用する場合には別途寝台券が必要になる。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "飛行機の普及以降、1980年代までは夜行列車の食堂車のサービスは削減される一方であったが、1990年代以降はユーロナイトなど復活の傾向も見られ、ドイツ国内やドイツと周辺各国を結ぶシティナイトライン、オリエント急行などの夜行列車や、フランスとイタリアを結ぶ「テーロ」(Thello)では、食堂車やビュッフェ車の連結が見られる。また食堂車を連結していない列車でも個室寝台車の乗客には朝食が無料で配布される場合が多い。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの多くの国の国内夜行列車は、廉価な長距離列車として運転されている列車が少なくない。こうした夜行列車はクシェット(Couchette)と呼ばれる簡易寝台車を連結している。クシェットの寝台料金は20ユーロ弱ときわめて安価であり、庶民の気軽な長距離旅行手段として親しまれている。クシェットは、日本で言えば開放式の3段式のB寝台車であり、1区画6名となっているが、一部には2段式4名のものもある。多くの場合は男女同室となるが、「テロ」など一部には女性専用の区画を設けている列車もある。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "しかし2000年代以降、高速鉄道網の整備や格安航空会社の台頭等で夜行列車の削減が進んでいる。例えば2013年12月のTGVのバルセロナ乗り入れ開始を機にパリ-マドリッドを結んでいたタルゴ車両を用いた寝台列車「トレンオテル」が廃止されるなど夜行列車サービスの縮小が目立っている。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ロシアは圧倒的に広大な国土である上に、格安航空会社の参入が遅れていることもあり、夜行列車が頻繁に運行され、9297kmを走るシベリア鉄道にモスクワ - ウラジオストクまで超長距離列車の「ロシア号」がある。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "またロシアの夜行列車はヨーロッパ、CIS、モンゴル、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国とも直通運転している。", "title": "ヨーロッパの夜行列車" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "インドや中華人民共和国などの国土が広大な発展途上国では、現在でも鉄道輸送の占めるシェアは大きく、多くの夜行列車が運行されている。国土が広大であるため、3 - 4日間をかけて運行するものも目立つ。中華人民共和国の場合、高速鉄道網の整備や経済成長に伴う空港や高速道路の急速な整備による高速バスや格安航空会社などとの競争もあるものの、経済成長とそれを背景にした出稼ぎの増加で夜行列車の本数は増え続けており、中には高速鉄道用の車両CRH2型に寝台を設置した列車も走っている。なおインドでも格安航空会社との競争が激しくなってきているが、貧富の差が激しいこともあり廉価な夜行列車の需要が大きい。", "title": "アジアの夜行列車" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "韓国では、主要幹線に夜行のムグンファ号が運行されている。国土面積の関係で国内移動の際の移動距離が概ね500km以内であり、運転時間が短く終着駅には3時台に到着する為、座席車が主体である。なお、近年まで寝台車を連結した列車が存在したが、昼行列車の高速化に伴って需要が減少したため、一部の特設列車を除いて全廃されている。", "title": "アジアの夜行列車" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中華民国(台湾)では2000年代半ばまでは、西部幹線に夜行列車が1日3往復、東部幹線莒光号でも1日1往復運転されていたが、台湾高速鉄道の開業や普悠瑪号の運転開始等で昼行列車がスピードアップされた為現在では東部幹線に週末のみの運転となっている。", "title": "アジアの夜行列車" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "東南アジア各国でも夜行列車が運転されているが、高速道路網の整備が進んでいるタイやマレーシアでは、高速道路を利用する高速バスが便数、所要時間において有利に立っている。南北に国土が長いベトナムでは、現在の東南アジアの定期列車では他に例のない始発駅から終着駅まで2泊3日を要する列車や、同じく途中で国境を越える国際列車としては唯一の夜行列車(ベトナム国内ではMR1/2列車)が存在する。また島国のインドネシアやフィリピンでは、鉄道網が脆弱なこともあり夜行列車のシェアは少ない。さらにこれらの国において近年ではエアアジアやタイガーエア、ノックエアやセブパシフィックなどの格安航空会社との競争にもさらされている。", "title": "アジアの夜行列車" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アフリカは、日本やイギリス、アメリカなどの先進国のように鉄道が発達している国は少ないが、長距離路線を中心に夜行列車の運行がかなり見られる。", "title": "アフリカの夜行列車" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "南アフリカ共和国では、世界で一番豪華といわれるブルートレイン等多くの夜行列車が運行しているほか、モザンビークへの国際ローカル列車などもある。", "title": "アフリカの夜行列車" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その他、ザンビアのカピリムポシとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道(TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)等で夜行列車が運行している。", "title": "アフリカの夜行列車" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国は、その国土の広さから、長距離列車のほとんどは夜行列車である。かつては大量の夜行列車が運行されていたが、現在では国内の長距離移動の主流が飛行機となってしまったために、その本数を大きく減らしている。", "title": "北米の夜行列車" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アメリカには複数の鉄道会社が存在するが、定期夜行列車はアムトラック(全米鉄道旅客公社)が運行する。夜行列車は毎日、もしくは週3日運行され、全行程は短く乗りやすい2日(1泊2日)の「コースト・スターライト」号などから長いものでは4日(3泊4日)を要する「サンセット・リミテッド」号までさまざまである。大陸横断鉄道は原則としてシカゴで乗り継ぎとなり、シカゴより西海岸方面が2泊3日、シカゴより東海岸への各線が1泊2日の行程なので、鉄道での大陸横断には最短でも3泊4日が必要となる。", "title": "北米の夜行列車" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アムトラックは貨物列車を運行する一級鉄道などの私鉄に間借りする形で運行されるため、貨物列車優先に起因する単線区間でのすれ違いや車両到着の遅れからくる時間の運行の乱れが大きく、乗り継ぎには数時間から1日程度の余裕を持つことが旅客に求められる。食事料金は寝台料金に含まれており、乗車区間によって数回の食事が供される。料金は飛行機よりも高く、速度は自家用車よりも遅いため、ビジネス客はほとんどいない。", "title": "北米の夜行列車" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "カナダではアメリカのアムトラックに相当するVIA鉄道が夜行列車を運行している。運行形態はアメリカと似ているが、二大都市圏であるトロントとモントリオールを結ぶ夜行列車ではビジネス客を意識したサービスを提供している。カナダの長距離夜行列車の特徴として、大部分が新車に置き換わったアメリカのアムトラックと異なり、大陸横断路線のカナディアン号などに使われる1954年バッド社製パーク・カーのような、北米の旅客鉄道全盛期に活躍した古い流線形客車が改修されつつも今なお第一線で使用されていることが挙げられる。", "title": "北米の夜行列車" } ]
夜行列車(やこうれっしゃ)とは、夜間、日付をまたいで運転される列車のことである。略して夜行または、夜汽車と呼ばれることもある。また、夜行列車のうち寝台車を主体とするものは寝台列車と呼ばれる。 多くの夜行列車は、深夜帯には主要駅を除いて旅客扱いを行わないが、深夜発早朝着で運行距離が短い列車では深夜であっても多数の駅で旅客扱いを行うものがある。夜行列車の最大のメリットは、寝ている間に目的地に移動できることにある。近年、夜間運行の場合は同じく就寝中に目的地へ向かえる高速バス、所要時間が短い格安航空会社(LCC)を含む旅客機、新幹線などの高速鉄道といった競合する交通機関が台頭。高コスト・高価格の夜行列車は日本を始め、欧米、アジア、アフリカ、南米、豪など、世界的に減便傾向にある。 日本では2021年時点、定期夜行列車は1日2便を残すのみであるが、深夜を含めて複数の地域を巡る豪華観光列車や、星空や夜景、日の出を楽しんでもらうため深夜から早朝にかけて走る臨時列車が運行されている。 なお、主に日本で大晦日の初詣客のために運転される終夜運転については、ここでは述べない。
{{Otheruses|夜間に運行される列車|同名の長編小説|森村誠一}} [[ファイル:Ml-nagara2.jpg|thumb|300px|[[浜松駅]]に停車中の夜行列車(2007年1月)]] '''夜行列車'''(やこうれっしゃ)とは、夜間、[[真夜中|日付をまたいで]]運転される[[列車]]のことである<ref name="大辞林">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/夜行列車|title=夜行列車|publisher=[[コトバンク]]|author=『[[大辞林]]』第三版|accessdate=2019年5月18日|ref={{SfnRef|kotobank-夜行列車}}}}</ref><ref name="trafficnews">{{Cite news |title=なぜ消えた? 夜行列車が衰退した理由 毎日運転は2本だけ |newspaper=乗りものニュース |date=2018-06-22 |url=https://trafficnews.jp/post/80504 |accessdate=2019-05-18}}</ref>。略して'''夜行'''または、'''夜汽車'''と呼ばれることもある{{R|大辞林}}。また、夜行列車のうち[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を主体とするものは[[寝台列車]]と呼ばれる。 多くの夜行列車は、[[深夜]]帯には主要駅を除いて旅客扱いを行わないが、深夜発[[早朝]]着で運行距離が短い列車では深夜であっても多数の駅で旅客扱いを行うものがある<ref>『これでいいのか 夜行列車』p.143、p.200</ref>。夜行列車の最大のメリットは、寝ている間に目的地に移動できることにある<ref name="読売20211116">【関心アリ!】夜行列車 再び日の目/スピードより のんびり旅情/鉄道会社相次ぎ企画『[[読売新聞]]』朝刊2021年11月16日くらし面</ref>。近年、夜間運行の場合は同じく就寝中に目的地へ向かえる[[高速バス]]、所要時間が短い[[格安航空会社]](LCC)を含む[[旅客機]]、[[新幹線]]などの[[高速鉄道]]といった競合する交通機関が台頭<ref name="読売20211116"/>。高コスト・高価格の夜行列車は[[日本]]を始め、[[欧米]]、[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[南米]]、[[オーストラリア|豪]]など、世界的に減便傾向にある{{R|trafficnews}}。 日本では2021年時点、定期夜行列車は1日2便を残すのみであるが、深夜を含めて複数の地域を巡る[[ジョイフルトレイン|豪華観光列車]]や、星空や[[夜景]]、日の出を楽しんでもらうため深夜から早朝にかけて走る[[臨時列車]]が運行されている<ref name="読売20211116"/>。 なお、主に日本で[[大晦日]]の[[初詣]]客のために運転される[[終夜運転]]については、ここでは述べない。 == 日本 == === 歴史 === ==== 新幹線開業前 ==== 日本では、全国の鉄道網が一通り完成した[[明治|明治時代]]中期以降に夜行列車が運行されるようになった<ref>『これでいいのか 夜行列車』p.20</ref>。当時の長距離列車は'''昼夜を問わず走らないと目的地に到着しない'''ものであり、必然的に夜行列車となった{{Refnest|group="注釈"|例えば[[1889年]](明治22年)に[[東海道本線]]が全通したときの[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]]と[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間の[[直通運転|直通列車]]は、20時間5分を要した<ref>『日本の鉄道史セミナー』p.83</ref>。また、[[1891年]](明治24年)に全通した[[日本鉄道]]の[[上野駅]] - [[青森駅]]間(その後は[[国有化]]され[[東北本線]]となった)の直通列車は20時間45分かかった<ref>「日本の鉄道史セミナー」P57</ref>。}}。当初は[[座席車]]のみによる運転であったが、[[1900年]](明治33年)に[[山陽鉄道]](現在の[[山陽本線]]などを運営)が日本で初めて[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]の提供を行った<ref>『日本の国鉄』p.41</ref>。 大[[私鉄]]によって形成されていた鉄道網は[[1907年]](明治40年)にほとんどが[[鉄道国有法|国有化]]され<ref>『日本の鉄道史セミナー』p.69</ref>、帝国鉄道庁(のち[[鉄道省|鉄道院 → 鉄道省]] → [[運輸通信省 (日本)|運輸通信省鉄道総局]] → [[運輸省]])により様々な夜行列車が運行されるようになった。国有化され官営鉄道となって以降は、[[軌道 (鉄道)|軌道]]や[[鉄道車両|車両]]の改良により速度の向上が図られた。[[1912年]](明治45/[[大正]]元年)から運行された東京駅 - [[下関駅]]間の[[特別急行列車]]([[列車番号]]は下りが1列車、上りが2列車)は新橋駅を8時30分に出発し、[[大阪駅]]には20時33分、山陽本線内は夜行で走って[[終着駅|終点]]の下関駅には翌朝の9時38分に到着しており、所要時間は25時間8分であった。1・2列車は日本を代表する列車として設定されており、編成は[[一等車|一等]][[展望車]]1両、一等寝台車1両、[[二等車|二等]][[座席車]]2両、二等寝台車1両、[[食堂車]]と[[荷物車]]の7両編成であった。この列車は[[1930年]]([[昭和]]5年)に「[[富士 (列車)|富士]]」と命名されさらにスピードアップ、東京駅を13時ちょうどに発車し下関駅到着が翌朝の8時50分、所要時間は19時間50分となったが、やはり山陽本線区間は夜行であった<ref>『国鉄・JR名列車ハンドブック』pp.19-20</ref>。 [[第二次世界大戦]]前の官営鉄道全盛期であった[[1937年]](昭和12年)には、東京駅 - 下関駅間の「富士」と、[[普通車 (鉄道車両)|三等]]座席車主体の「櫻」の2本の特急<ref group="注釈">なお、同時期の特急はこの2本と東京駅 - [[大阪駅]]間の「[[つばめ (列車)|燕]]」と「[[かもめ (列車)|鷗]]」のみでいずれも昼行であった。他に、当時は[[外地]]であった[[朝鮮総督府鉄道]](鮮鉄)[[釜山駅]] - 京城駅(現:[[ソウル駅]])間運行の「あかつき」と、日本の資本・影響下にあった[[南満洲鉄道]](満鉄)の「[[あじあ (列車)|あじあ]]」([[大連駅]] - [[ハルビン駅|哈爾浜駅]]間)が「特別急行列車」という扱いであった([[特別急行列車]]も参照のこと)。</ref>のほかに4本の急行が設定されており、うち2往復が東海道本線内を、他の2往復が山陽本線内を夜行運転した。また、東京と[[関西]]の間には4本の急行が設定されており、そのうち東京駅 - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間の夜行急行「17,18列車」は一・二等専用で別名「[[名士列車]]」と呼ばれていた<ref>『国鉄の戦後が分かる本』上巻 p.36</ref>。これら[[第二次世界大戦]]前の[[優等列車]]は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が激化した[[1944年]](昭和19年)に全廃され、同時に寝台車も[[運用 (鉄道)|運用]]されなくなった。 [[日本の降伏|終戦]]後は、[[1945年]](昭和20年)[[11月20日]]に東京駅 - 大阪駅間に夜行急行が復活し、[[1948年]](昭和23年)には寝台車の供用が再開された<ref>『寝台急行「銀河」物語』p.17</ref>。その後、官営鉄道は[[1949年]](昭和24年)に新たに設立された[[公共企業体]]である[[日本国有鉄道|国鉄]]に引き継がれ、国鉄により[[戦後復興期|日本の復興]]とともに夜行列車は順次増強されていった。昭和30年代に国鉄旅客局が行った「旅行に昼行と夜行のどちらを選ぶか」という調査では、乗車時間が7時間半から9時間であれば昼行と夜行の利用が拮抗しているが、9時間以上であれば夜行が好まれると言う結果が得られた。当時の東海道本線に当てはめれば、東京駅 - 大阪駅間は特急列車を利用しない限り夜行列車のほうが好まれる状況であった<ref>『寝台急行「銀河」物語』p.31</ref>。また[[1957年]](昭和32年)の国鉄第一次5カ年計画において、「特急列車のうち、昼行は[[電車]]または[[気動車|ディーゼルカー]]を充当し、夜行列車には寝台客車とする」ことが決定した。[[1956年]](昭和31年)に[[急行形車両|急行と同じ形式]]の座席車と寝台車を寄せ集めて誕生した夜行特急「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」の車両は、[[1958年]](昭和33年)からこの方針に従って製作された[[国鉄20系客車|20系客車]]に変更された<ref>『戦後日本の鉄道車両』p.94</ref>。 当時は[[単線]][[非電化]]の路線が多く、[[表定速度|列車の速度]]も低かった。例えば[[1956年11月19日国鉄ダイヤ改正|1956年(昭和31年)11月19日のダイヤ改正]]では、[[鹿児島駅]]行きの急行「[[はやぶさ (列車)|さつま]]」が東京駅を21時45分に出発し、鹿児島駅に到着するのは翌々日の朝5時46分、運転時間は約32時間であった<ref>『国鉄・JR名列車ハンドブック』p.71</ref>。 これら[[九州]]行きの列車も含めて東海道本線には夜行列車が増加し、[[高度経済成長期]]の真っただ中かつ[[東海道新幹線]]が開通する直前の[[1963年]](昭和38年)から[[1964年]](昭和39年)9月にかけてが夜行列車の本数のピークとなった。1964年(昭和39年)9月当時、東京駅を発車する東海道本線の夜行列車の本数は、当時の時刻表によれば以下の通りであった<ref>『寝台急行「銀河」物語』pp.81-83</ref>。 * 九州行の20系客車を使用した特急列車 : 4往復 * 「寝台列車」と表示された客車急行 : 大阪・神戸駅行7往復、[[広島駅]]行1往復 * 夜行の電車急行 : 大阪・[[姫路駅]]行3往復、[[大垣駅]]行1往復 * 座席車を主体とする客車急行 : 九州・山陽・[[山陰地方|山陰]]・[[北陸地方|北陸]]等6往復 * 普通列車 : 大阪駅行1往復 当時、東京駅では19時50分から22時10分にかけて、10分毎に夜行列車が発車した。このほか、東海道本線を昼間走り山陽本線を夜行で行く九州行の客車急行も4往復あった<ref>『国鉄の戦後が分かる本』上巻 pp.160-161</ref>。 ==== 新幹線開業後 ==== [[京阪神]]を目的地とした夜行列車は[[東海道新幹線]]の営業開始とともに急激に減少し、昼行の直通列車が終了<ref group="注釈">正確には、九州直通の急行列車であった「[[はやぶさ (列車)|霧島]]」や「[[富士 (列車)|高千穂]]」が東海道本線内は昼行運転、山陽本線内では夜行運転となった。</ref>した[[1968年]](昭和43年)10月のダイヤ改正「[[ヨンサントオ]]」では、寝台列車の急行2往復と普通1往復にまで減少した<ref>『寝台急行「銀河」物語』p.45</ref>。[[1972年]]3月に[[山陽新幹線]]が[[岡山駅]]まで開業したが、岡山以西の山陽本線を走る夜行列車は特急列車が[[定期列車]]19往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車11往復と季節列車6往復という大勢力であった<ref>「国鉄の戦後が分かる本」下巻 P44</ref>。[[1975年3月10日国鉄ダイヤ改正|1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正]](ゴーマルサン)の山陽新幹線[[博多駅|博多]]延伸開業時には岡山以西で夜行特急列車が定期列車14往復と季節列車1往復、急行列車が定期列車のみ4往復に減少している<ref>『国鉄の戦後が分かる本』下巻 p.89</ref>。 [[1960年代]]後半(昭和40年代)以降は[[鉄道の電化|電化]]や線路・車両の改良などによる更なる[[高速化 (鉄道)|高速化]]が図られ、長距離列車の運転時間は長くとも28時間程度に抑えられ、車中1泊の行程で運行する列車のみになった。まだこの頃までは移動手段としては鉄道利用が一般的であったため、[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]と呼ばれた寝台列車は高い人気を誇った。 しかし、[[1970年代]]後半(昭和50年代)から[[1980年代]]にかけて、[[山陽新幹線]]博多延伸・[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]の開業による新幹線網の拡充で移動時間が更に短縮された。さらに、[[航空会社|国内航空路線]]の拡充と[[45/47体制#終焉|航空運賃の自由化]]により以前と比べ飛行機が利用しやすくなったこと、[[高速道路]]網の整備により鉄道より安価な[[高速バス|夜行バス]]が台頭したことなどもあり、夜行列車の利用は低迷するようになった。特に寝台列車は別途で[[寝台券|寝台料金]]が必要なため新幹線より割高な料金設定や、相次ぐ国鉄の運賃値上げ、車両の老朽化・陳腐化もあって次第に敬遠されるようになり、[[定員#混雑率・乗車率|乗車率]]の伸び悩みで削減や[[臨時列車]]化、または廃止が相次いだ<ref name="akebono">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1311/08/news013.html Business Media 誠:杉山淳一の時事日想:夜行列車はなぜ誕生し、衰退したのか]([[2013年]][[11月8日]])</ref>。[[1979年]]には当時の[[運輸大臣]]であった[[森山欽司]]が「国鉄の財政改善のため、非効率な夜行列車は廃止すべき」と表明し、議論を呼んだことがあった<ref name="sanin">参考:[[参議院]]運輸委員会会議録(1979年6月5日)[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108713830X00919790605&current=7]</ref>。 なお、[[1980年代]]前半までは主要[[幹線]]で夜行[[普通列車]]も多く運転されており、[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]が連結された列車もあり、並行する[[優等列車]]を補完する役目を担っていた。 夜行の急行列車・普通列車の重要な使命としては、[[新聞]](特に[[朝刊]])輸送があった。通信手段が未発達だった当時、都心で印刷された新聞は[[荷物車]]により輸送され、未明の各駅に降ろされ、直ちに[[新聞販売店]]を経て、各家庭に配達された<ref>『[[鉄道ジャーナル]]』(編集・発行 鉄道ジャーナル社)、1980年7月号(通巻161号)、24 - 28頁</ref>。また[[郵便物]]についても[[郵便車]]による輸送が行われた。現在この輸送は、[[貨物自動車|トラック]]・航空貨物に取って代わられた。 このほか、[[中学校]]・[[高等学校|高校]]の[[修学旅行]]においても夜行列車や寝台列車が利用されるケースが多々あった<ref group="注釈">事例として、東京駅 - [[明石駅]]駅間を往復する「きぼう」が挙げられる。「[[修学旅行列車]]」も参照。</ref>が、新幹線の延伸・高速化、昼行特急列車の利用に伴う昼間移動への移行、[[観光バス]]によるバス移動、[[1990年代]]以降に公立学校においても[[航空機]]の利用が解禁されたことによる空路利用への転移、海外や[[沖縄県|沖縄]]への修学旅行の増加などの理由により、同年代以降は、修学旅行に夜行列車・寝台列車が利用されることはよほどの行程上の事情がない限りなくなっている。同様に、[[阪神甲子園球場]]で開催される[[高校野球全国大会]]出場校の応援団もかつては「[[団体専用列車#甲子園応援列車|甲子園臨]]」と呼ばれた専用列車を利用して夜通し駆けつけるケースが多かったが、これらも現状は貸切バスや航空機、新幹線などでの移動に切り替えられている。 ==== 衰退 ==== [[国鉄民営化|国鉄が民営化]]された[[1990年代]]から[[2000年代]]にかけて、夜行列車は相次いで廃止され、急速に淘汰されていった。その一方で、「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」や「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」「[[トワイライトエクスプレス]]」といった[[本州]]と[[北海道]]とを結んだ寝台列車のように[[食堂車]]でのフルコースディナー等のサービス提供を行う列車や、東京駅 - [[四国地方|四国]]・山陰を結ぶ「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」のように個室寝台を基本として快適性を高めた列車など、乗車自体を[[鉄道旅行]]の目的とする列車が人気を博した。しかし、「サンライズ瀬戸・出雲」以外の列車は車両の老朽化、[[北海道新幹線]]開業後は[[青函トンネル]]利用時の専用[[複電圧車|複電圧]][[機関車]]を新造しないこと、更には[[整備新幹線]]開業による[[並行在来線]]の移管によって運転業務が煩雑になることなどを理由に、臨時列車化ないしは廃止されることが報道された<ref name="mainichi20131107">[https://web.archive.org/web/20131108004147/http://mainichi.jp/select/news/20131107k0000m040116000c.html ブルートレイン:廃止へ…JR3社、北海道新幹線開業で](2013年11月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) - 『[[毎日新聞]]』2013年11月7日</ref>。結局、「トワイライトエクスプレス」は[[2015年]]([[平成]]27年)[[3月12日]]の[[札幌駅]]発をもって廃止、「北斗星」は臨時列車化のち青函トンネルの新幹線対応工事に伴い、同年[[8月22日]]の札幌駅発をもって廃止、「カシオペア」も[[2016年]](平成28年)[[3月20日]]の札幌駅発をもって廃止となった。 座席車を主体とする急行列車、快速列車においても2016年3月に「[[はまなす (列車)|はまなす]]」が廃止されたことで定期列車としては全て廃止された。季節列車においても最後まで残っていた「[[ムーンライトながら]]」が2021年1月に廃止が発表<ref group="注釈">[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]により2020年春季以降は運行休止となり、運行再開することなく2021年1月に廃止が発表された。</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=春の増発列車のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-01-22|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210122_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-01-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210122051854/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210122_ho01.pdf|archivedate=2021-01-22|page=6}}</ref>されたため、JRグループにおいて寝台料金不要で乗車できる定期・季節運行の夜行列車はサンライズ瀬戸・出雲のノビノビ座席および年1本運転の特急[[谷川岳山開き]]のみとなっている。 ==== 整備新幹線開業の影響 ==== 新幹線のうち地方への[[整備新幹線]]の開業により、[[在来線#並行在来線|並行在来線]]はJRから経営が切り離されて[[第三セクター鉄道]]会社へ移管され、夜行列車の廃止が相次いだ。[[鹿児島中央駅|西鹿児島駅]]まで運行されていた「[[なは (列車)|なは]]」は、[[九州新幹線]]開業に際して転換された[[肥薩おれんじ鉄道]]に乗り入れを行わず、[[熊本駅]]までに運行短縮し、さらにその4年後には廃止された。上野駅と[[青森駅]]を[[東北本線]]経由で結んでいた「はくつる」も、[[東北新幹線]]の[[盛岡駅]] - [[八戸駅]]間開業時の2002年11月に廃止されている。この際に経営分離された[[IGRいわて銀河鉄道]]と[[青い森鉄道]]には「北斗星」「カシオペア」が夜行(準)定期列車として乗り入れていたが、それぞれ2015年、2016年に廃止された<ref group="注釈">「カシオペア」車両を使用して2016年6月より運行されている団体臨時列車は、この両線と[[道南いさりび鉄道]](旧・[[江差線]])を経由する。</ref>。「[[能登 (列車)|能登]]」は、[[長野新幹線]]開業時に並行在来線が[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間で第三セクターに移管することなく[[廃線]]されたため、[[上越線]]経由に変更された。このほか、「トワイライトエクスプレス」は[[北陸新幹線]]開業に際して移管される第三セクターに乗り入れることなく廃止された。[[九州]]内の周遊列車である「[[ななつ星 in 九州]]」は2013年10月の運転開始当初、第三セクターの肥薩おれんじ鉄道線を避けて[[肥薩線]]経由での運行となった<ref group="注釈">2016年4月からは肥薩おれんじ鉄道と合意の上で同線経由での運転を実施している。</ref>(後述)。 ==== 豪華寝台列車の登場 ==== [[2010年代]]に入ると、[[九州旅客鉄道|JR九州]]が[[2013年]][[10月15日]]から、九州を周遊する豪華寝台列車「[[ななつ星 in 九州]]」<ref>[http://mainichi.jp/graph/2013/01/10/20130110k0000e040171000c/001.html 豪華寝台列車:「ななつ星in九州」車両製作場を開設]</ref>の運行を開始した。この「ななつ星in九州」は、九州を周遊する観光旅行を豪華寝台列車による移動で楽しむというコンセプトに基づく旅行商品([[パッケージツアー]])のため[[時刻表]]への記載はなく、費用も「運賃 + 料金」ではなく全てがパッケージされた「旅行代金」である。この豪華寝台列車の登場と成功は大きなインパクトを与え、後に[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]や[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]も同コンセプトの列車・車両(JR東日本は「[[TRAIN SUITE 四季島]]」、JR西日本は「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」)を開発、製造することになり、それぞれ[[2017年]]より運行を開始した。3列車とも費用は高額ながら人気は高く、希望者多数のため抽選となっている。 {{seealso|ジョイフルトレイン}} === 大手私鉄での夜行列車 === 2018年現在では[[東武鉄道]]と[[西武鉄道]]が[[臨時列車]]に限り夜行列車を運転している。いずれも[[首都圏 (日本)|首都圏]]外縁部周辺の観光地へ向けて[[東京都区部]]や[[横浜市]]内を前夜に出発し、翌日未明に星空を観賞したり、早朝から観光したりできるように設定されている。行き先は、西武鉄道が[[秩父地方]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLRSP471927_Z10C18A2000000/ 西武鉄道など、「夜行列車で行く 秩父絶景ツアー」の募集を開始] [[日本経済新聞]]プレスリリース転載サイト(2018年2月19日)2018年12月23日閲覧</ref>、東武鉄道は[[日光市|日光]]や[[尾瀬]]、[[会津地方]]である(発着駅は[[相互直通運転]]の他社区間を含む。詳細は[[東武鉄道夜行列車]]を参照)。 西武鉄道では1973年までは夜行列車「こぶし」が[[レッドアロー]]車両を使用して休前日に限り定期運転されていた。その後、西武鉄道の夜行列車は臨時列車に限り2015年8月に再開した<ref>[http://trafficnews.jp/post/40902/ 西武、夜行列車を運行 私鉄では特にレア] - 乗りものニュース 2015年6月16日発信(2015年12月12日閲覧)</ref>。 なお、東武・西武ともに、夜通し運転せず未明に到着するため、厳密には夜行列車の範疇ではないが、両社の公式ホームページで発表される臨時列車の案内や系列旅行会社による募集広告では「夜行列車」と称している。 そのほか、他の鉄道事業者に乗り入れての夜行運転では、[[南海電気鉄道]][[南海本線]]と[[日本国有鉄道|国鉄]][[紀勢本線]]を直通する[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[新宮駅]]間の[[客車]]夜行列車(南海本線内は電車が牽引し、料金不要の[[特急列車|特急]]扱い。[[和歌山駅]]以南は[[天王寺駅]]発着の夜行普通列車と併結<ref group="注釈">列車自体は新宮駅からさらに運行されて[[名古屋駅]]発着([[1959年]]の紀勢本線全通後)であったが、南海難波駅発着の客車(1両のみ製造された[[南海サハ4801形客車]]又は国鉄の客車)は新宮駅で増解結していた。[[紀勢本線#夜行普通列車]]も参照。</ref>)が、[[1951年]][[4月6日]]から<ref>{{Cite book|和書|author=藤井信夫|date =1996-12-01|title = 車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻|publisher =関西鉄道研究会|page=50}}</ref>[[1972年]][[3月14日]]まで<ref>{{Cite book|和書|author=藤井信夫|date =1996-12-01|title = 車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻|publisher =関西鉄道研究会|page=69}}</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、難波行は[[1961年]][[3月1日]]改正で廃止され<ref name="kjikoku-196104-30-33">{{Cite journal|和書|date =1961-04|journal = 京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表|publisher =日本交通公社関西支社|issue = 64|pages=30 - 33}}</ref>、以後は片道運行。}}運行されていた。 === 運行中の列車 === 2023年時点、日本で運行されている夜行列車は下表のとおりである。'''太字'''は毎日運行される定期列車。 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" |+日本における運行中の夜行列車 !style="min-width:12em"| 列車名 !列車<br>種別 !style="min-width:10em"|運行区間 !style="min-width:6em"|運行事業者 !設備 !備考 |- |'''[[サンライズ瀬戸]]''' |[特] |東京 - 岡山 - 高松<ref group="注釈">かつては多客期に[[高松駅 (香川県)|高松]] - [[松山駅 (愛媛県)|松山]]間を延長運転していたことがあった。現在は、東京発下りの週末の多客期に[[琴平駅|琴平]]まで延長運転されている。</ref> |[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]<br/>[[東海旅客鉄道|JR東海]]<br/>[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]<br/>[[四国旅客鉄道|JR四国]] |[寝][簡] |東京駅 - 岡山駅間は「サンライズ出雲」と併結運転。 |- |'''[[サンライズ出雲]]''' |[特] |東京 - 岡山 - [[出雲市駅|出雲市]] |JR東日本<br/>JR東海<br/>JR西日本 |[寝][簡] |東京駅 - 岡山駅間は「サンライズ瀬戸」と併結運転。多客期には東京 - 出雲市間を単独運転の91・92号が増発される。 |- |[[WEST EXPRESS 銀河]] |[特][臨] |京都・大阪 - 出雲市・[[新宮駅|新宮]]・[[下関駅|下関]]<ref group="注釈">時期により行先が異なる。</ref> |JR西日本 |[簡][座] |運行開始当初は旅行商品に限り販売<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200722_06_WE_ginga.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200927112608/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200722_06_WE_ginga.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「WEST EXPRESS 銀河」の運行開始について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-07-22|accessdate=2021-07-24|archivedate=2020-09-27}}</ref>。[[2023年]](令和5年)2月以降は、切符(特急券・グリーン券)単体の購入も可能<ref>{{Cite press release|和書|title=「WEST EXPRESS 銀河(紀南コース)」のe5489等での発売について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-12-27|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221227_00_press_ginga5489.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221227055459/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221227_00_press_ginga5489.pdf|accessdate=2023-1-10|archivedate=2022-12-27}}</ref><ref group="注釈">但し、通常の列車とは異なり乗降駅の制限あり(詳細は当該記事参照)。</ref>。 |- |[[谷川岳山開き]] |[特][臨] |[[上野駅|上野]] - [[土合駅|土合]] |JR東日本 |[座] |下りのみ(折返し上り同列車は昼行)。夏季に年間1回程度運行。2021年までは快速列車で、2023年現在日本で最後に運転した夜行快速列車。 |- |[[ムーンライト信州#諏訪湖花火大会号|諏訪湖花火大会号]] |[特][臨] |[[新宿駅|新宿]] - [[上諏訪駅|上諏訪]] |JR東日本 |[座] |上りのみ。夏季に年間2回程度運行。2018年まで快速[[ムーンライト信州]]、2019年に快速諏訪湖花火大会号として運転していた列車。2020年から2022年まで3シーズン運休ののち、2023年8月15日に特急列車に格上げの上復活する。 |- |[[奥羽本線]]花火15号 |[普][臨] |[[大曲駅 (秋田県)|大曲]] - [[大館駅|大館]] |JR東日本 |[座] |下りのみ。全国花火競技大会開催「大曲の花火」に合わせ夏季に年間1回運行<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2023/akita/20230705_a01.pdf 「大曲の花火」増発列車のお知らせ] - JR東日本秋田支社(2023年10月12日閲覧)</ref>。 |- |[[紀勢本線]]9258D |[普][臨] |[[熊野市駅|熊野市]] - [[亀山駅 (三重県)|亀山]] |JR東海 |[座] |上りのみ。熊野大花火大会開催に合わせ夏季に年間1回運行<ref>[https://www.kumano-kankou.info/kumano-fireworks/train/ 【8月29日(火)】熊野大花火大会開催に伴う臨時列車の運転について] - 熊野市観光協会(2023年10月12日閲覧)</ref>。 |- |[[カシオペア (列車)#団体専用列車「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」|カシオペア紀行]] |[団][臨] |[[上野駅]]・[[盛岡駅]]・[[青森駅]]・[[長野駅]]発着 |JR東日本<br/><small>[[IGRいわて銀河鉄道]]</small><br/><small>[[青い森鉄道]]</small> |[寝] |ツアー形式の臨時列車として年間数回程度運行。 |- |[[TRAIN SUITE 四季島]] |[団][臨] |上野駅で乗降のみ |JR東日本<br/>[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]<br/><small>IGRいわて銀河鉄道</small><br/><small>青い森鉄道</small><br/><small>[[道南いさりび鉄道]]</small><br/><small>[[しなの鉄道]]</small><br/><small>[[えちごトキめき鉄道]]</small> |[寝] |周遊型豪華寝台列車([[クルーズトレイン]])<sup>※</sup> |- |[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]] |[団][臨] |[[京都駅]]・大阪駅・下関駅発着 |JR西日本 |[寝] |周遊型豪華寝台列車(クルーズトレイン)<sup>※</sup> |- |[[ななつ星 in 九州]] |[団][臨] |[[博多駅]]で乗降のみ |[[九州旅客鉄道|JR九州]]<br/><small>[[肥薩おれんじ鉄道]]</small> |[寝] |周遊型豪華寝台列車(クルーズトレイン)<sup>※</sup> |- |[[東武鉄道夜行列車|尾瀬夜行]] |[特][団][臨] |[[浅草駅|浅草]] - [[会津高原尾瀬口駅|会津高原尾瀬口]] |[[東武鉄道]]<br/><small>[[野岩鉄道]]</small> |[座] |ツアー形式の臨時列車として原則夏季の週末に運行。 |- |[[東武鉄道夜行列車|スノーパル]] |[特][団][臨] |浅草 - 会津高原尾瀬口 |東武鉄道<br/><small>野岩鉄道</small> |[座] |ツアー形式の臨時列車として原則冬季の週末に運行。 |- |[[東武鉄道夜行列車|日光紅葉夜行]] |[特][団][臨] |浅草 - [[東武日光駅|東武日光]] |東武鉄道 |[座] |ツアー形式の臨時列車として原則秋季の週末に運行。 |- |[[ちちぶ (列車)#臨時夜行特急|秩父夜行]] |[特][団][臨] |[[池袋駅|池袋]]<ref group="注釈">[[元町・中華街駅|元町・中華街]]、[[新木場駅|新木場]] 始発で運転することがある。</ref> - [[西武秩父駅|西武秩父]] |[[西武鉄道]]<br/><small>[[東京地下鉄]]</small><br/><small>[[東急電鉄]]</small><br/><small>[[横浜高速鉄道]]</small> |[座] |ツアー形式の臨時列車として年間数回程度運行<ref>[http://trafficnews.jp/post/42587/ 走行77kmの夜行列車 その目的は 西武] - 乗りものニュース 2015年8月26日発信(2016年2月11日閲覧)</ref>。 |- |[[SLパレオエクスプレス|夜行急行 三峰号]] |[急][団][臨] |[[熊谷駅|熊谷]] - [[三峰口駅|三峰口]] |[[秩父鉄道]] |[座] |ツアー形式の臨時列車として年間1 - 数回程度運行<ref name="chichibu1">[https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/210325/ 秩父鉄道&日本旅行共同企画「重連電機・12系客車 夜行急行『三峰51号』熊谷行の旅」] - 秩父鉄道(2021年8月25日閲覧)</ref><ref name="chichibu2"/>。 |- | colspan="6" |表中各記号は[特]:[[特別急行列車|特急]]、[急]:[[急行列車|急行]]、[快]:[[快速列車|快速]]、[普]:[[普通列車|普通]]、[臨]:[[臨時列車]]、[団]:[[団体専用列車]]、[寝]:[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]、[簡]:[[寝台車 (鉄道)#寝台車の簡易利用|簡易寝台]](ノビノビ座席)<ref group="注釈">料金制度上は座席車扱いながら、横臥可能な設備が供される。</ref>、[座]:[[座席車]] |} ※「[[TRAIN SUITE 四季島]]」「[[TWILIGHT EXPRESS 瑞風]]」「[[ななつ星 in 九州]]」はツアー形式の周回列車であり、移動手段としての従来の夜行列車とは性格が異なる。 === 廃止された列車の一覧 === {{See also|ブルートレイン (日本)|ムーンライト (列車)}} 五十音順。列車愛称のないもの・イベント列車に類するものは除く。一覧中各記号は[特]:[[特別急行列車|特急]]、[急]:[[急行列車|急行]]、[快]:[[快速列車|快速]]、[普]:[[普通列車|普通]]、[臨]:[[臨時列車]]、[団]:[[団体専用列車]]。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0"><div class="NavHead">廃止された列車</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * [[あかつき (列車)|あかつき]] [急]・[特] * [[山陽本線優等列車沿革|安芸]] [急]・[特] * [[あさかぜ (列車)|あさかぜ]] [特] * [[山陽本線優等列車沿革|阿蘇]] [急] * [[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|天の川]] [急] * [[ムーンライト信州|アルプス]] [急] * [[サンダーバード (列車)|アルペン]] [急][臨] * [[サンライズ出雲|出雲]] [特] * [[紀勢本線#夜行普通列車|いそつり]] [快][臨] * [[いしづち (列車)#予讃線優等列車沿革|いよ]] [急]<!--1982年まで「うわじま」だったが、上りの最終期。--> * [[いしづち (列車)#予讃線優等列車沿革|うわじま]] [急]<!--定期急行「あしずり」の夜行は未発見。調査中。--> * [[山陽本線優等列車沿革|雲仙]] [急] * [[能登 (列車)|越前]] [急] * [[北斗星 (列車)#臨時列車|エルム]] [特][臨] * [[東北本線優等列車沿革|おいらせ]] [急] * [[あけぼの (列車)|おが]] [急] * [[オホーツク (列車)|オホーツク]] [特] * [[つばめ (列車)|かいもん]] [急] * [[能登 (列車)|加賀]] [急] * [[カシオペア (列車)|カシオペア]] [特][臨] * [[カシオペア (列車)#団体専用列車「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」|カシオペアクルーズ]] [団][臨] * [[まりも (列車)|からまつ]] [普] * [[紀伊 (列車)|紀伊]] [急]・[特] * [[南紀 (列車)#紀勢本線新宮駅以東優等列車沿革|紀州]] [急] * [[ちくま (列車)|きそ]] [急] * [[きたぐに (列車)|きたぐに]] [急] * [[きのくに (列車)|きのくに]] [急]→[快][臨]([[紀勢本線#夜行普通列車|JR化後]]) * [[きりしま (列車)|きりしま]] [急] * [[銀河 (列車)|銀河]] [急] * [[山陽本線優等列車沿革|金星]] [急]・[特] * [[彗星 (列車)|くにさき]] [急] * [[なは (列車)|月光]] [特] * [[玄海]] [急] * [[レッドアロー|こぶし]] [特][臨] * [[山陽本線優等列車沿革|西海]] [急] * [[さくら (列車)|さくら]] [特] * [[桜島 (列車)|桜島]] [急]・[特] * [[だいせん (列車)|山陰]] [普] * [[いそかぜ (列車)#山陰対九州間連絡優等列車沿革|さんべ]] [急] * [[シュプール号]] [急] * [[東北本線優等列車沿革|新星]] [急] * [[彗星 (列車)|彗星]] [急]・[特] * [[すずらん (列車)|すずらん]] [急] * [[南紀 (列車)#紀勢本線新宮駅以東優等列車沿革|スターライト]] [快][臨] * [[オホーツク (列車)|大雪]] [急] * [[だいせん (列車)|だいせん]] [急] * [[きたぐに (列車)|立山]] [急] * [[みよし (列車)#芸備線・木次線優等列車|ちどり]] [急] * [[あけぼの (列車)|鳥海]] [急]・[特] * [[ちくま (列車)|ちくま]] [急] * [[つがる (列車)|津軽]] [急] * [[きたぐに (列車)|つるぎ]] [急]・[特] * [[あけぼの (列車)|出羽]] [急]・[特] * [[つばめ (列車)|ドリームつばめ]] [特] * [[にちりん (列車)|ドリームにちりん]] [特] * [[トワイライトエクスプレス]] [特][臨] * [[トワイライトエクスプレス#『特別な「トワイライトエクスプレス」』|特別な「トワイライトエクスプレス」]] [団][臨] * [[東北本線優等列車沿革|十和田]] [急] * [[かもめ (列車)|ながさき]] [普] * [[なは (列車)|なは]] [特] * [[紀勢本線#夜行普通列車|南紀]] [普] * [[にちりん (列車)|日南]] [急] * [[東武鉄道夜行列車|日光山岳夜行]] [急][臨] * [[ひだ (列車)#高山本線優等列車沿革|のりくら]] [急] * [[東北本線優等列車沿革|はくつる]] [特] * [[東北本線優等列車沿革|八甲田]] [急] * [[はまなす (列車)|はまなす]] [急] * [[紀勢本線#夜行普通列車|はやたま]] [普] * [[はやぶさ (列車)|はやぶさ]] [特] * [[富士 (列車)|富士]] [特] * [[東北本線優等列車沿革|北星]] [急]・[特] * [[北斗星 (列車)|北斗星]] [特] * [[北陸 (列車)|北陸]] [特] * [[まりも (列車)|まりも]] [急] * [[はやぶさ (列車)|みずほ]] [特] * [[はまなす (列車)|ミッドナイト]] [快] * [[くびき野 (列車)#妙高|妙高]] [急] * [[なは (列車)|明星]] [急]・[特] * [[ムーンライト (列車)|ムーンライト号]] ([[ムーンライトながら]])<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210122_ho01.pdf 春の増発列車のお知らせ]}}- 東日本旅客鉄道プレスリリース、2021年1月22日</ref><ref>{{PDFlink|[https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040932.pdf 春の臨時列車の運転計画について]}}- 東海旅客鉄道ニュースリリース、2021年1月22日</ref>[快][臨] * [[東北本線優等列車沿革|ゆうづる]] [特] * [[利尻 (列車)|利尻]] [急]・[特] * [[マリンライナー#宇野線・本四備讃線優等列車沿革|鷲羽]] [急]{{refnest|group="注釈"|[[宇高連絡船]]の深夜便に接続するため、[[新大阪駅]]行きの[[宇野駅]]発は1時台、新大阪駅からの宇野駅着は2時台という時間設定であった<ref>{{Cite journal|和書|date =1978-06|journal = 大時刻表|publisher =弘済出版社|issue = 182|pages=114及び119頁}}</ref>。}} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0"> <div class="NavHead">廃止発表はされていないが、現在運行されていない夜行列車。</div> <div class="NavContent" style="text-align:left"> * [[あけぼの (列車)|あけぼの]] [特][臨](上野 - 青森:[[羽越本線]]・[[奥羽本線]]経由) - 2014年3月14日をもって定期運転終了<ref>[http://www.tetsudo.com/special/201403/?id=101 鉄道コム]</ref>。2015年1月4日を最後に臨時列車としての運行も終了。 * [[サンダーバード (列車)#おわら|おわら]] [特][臨] * [[サンライズゆめ]] [特][臨] * [[日本海 (列車)|日本海]] [特][臨] - 2013年春季以降、運転日設定がなく、JR東日本は存廃検討中としていたが<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130131/wlf13013112510006-n1.htm|title=夜行急行「きたぐに」完全引退 ブルトレ「日本海」は検討中|newspaper=MSN産経west|publisher=産経デジタル|date=2013-01-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130203064118/http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130131/wlf13013112510006-n1.htm|archivedate=2013年2月3日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、2013年夏季以降設定されていない。運行区間のうち、[[直江津駅]] - [[金沢駅]]間は[[北陸新幹線]]開業に伴い2015年3月14日にJRから第三セクター鉄道に移管されている。 * [[能登 (列車)|能登]] [急][臨] - JR東日本の公式見解では運行中止扱いとなっている<ref>[http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/column/fumon/CK2012031702000138.html たかが臨時されど臨時] - 『[[中日新聞]]』 2012年3月17日</ref>。運行区間のうち、直江津駅 - 金沢駅間は2015年3月14日にJRから第三セクター鉄道に移管されている。 * [[ムーンライトえちご]] [快][臨] - 2014年5月23日に発表された夏の増発列車に記載されず<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2014/20140512.pdf 夏の増発列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2014年5月23日</ref>、2014年夏の運行はなく<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20140526-a232/ 「ムーンライトえちご」今夏は運行なし - JR東日本新潟支社、夏の臨時列車] - マイナビニュース、2014年5月26日</ref>、以降の運行の予定もない。 * [[ムーンライト信州]] [快][臨] - 2019年5月17日に発表された夏の増発列車の案内で90号のスジが「諏訪湖花火大会号」に名称変更されたため廃止が確認された<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190511.pdf 夏の増発列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2019年5月17日</ref>。 * [[ムーンライト仙台・ムーンライト東京]] [快][臨] * [[ムーンライト仙台・ムーンライト東京|ムーンライト松島・横浜]] [快][臨] * [[TDR臨#現在運行されている団体列車|舞浜ドリーム号]] [団][臨] - ツアー形式の臨時列車として年間数回程度運行。但し、[[2017年]][[7月21日]]弘前発、折り返し同[[7月23日]]着を最後に運転は行われていない。 * [[TDR臨#現在運行されている団体列車|スターライト舞浜号]] [団][臨] - ツアー形式の臨時列車として年間数回程度運行。但し、[[2019年]][[5月24日]]新潟発、折り返し同[[5月26日]]着を最後に運転は行われていない。 * [[ムーンライト九州]] [快][臨]<ref name="asahi20090622">[http://www.asahi.com/travel/rail/news/OSK200906200182.html?ref=reca さよなら青春の夜行快速 関西発着の「ムーンライト」] - 『朝日新聞』 2009年6月22日</ref> * [[ムーンライト高知]] [快][臨]<ref name="asahi20090622" /> * [[ムーンライト松山]] [快][臨]<ref name="asahi20090622" /> * [[ムーンライト山陽]] [快][臨]<ref name="asahi20090622" /> * [[ムーンライト八重垣]] [快][臨]<ref name="asahi20090622" /> </div></div> === 使用車両 === かつては機関車は夜行列車牽引の主力であったが、電車化や廃止などによって使用される機会は激減している。特に近年では、「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」の廃止などで機関車の稼働率は極端に低くなっている。国鉄分割民営化後に新車を投入した列車は、[[JR東日本E26系客車|E26系]]を用いた「カシオペア」だけで、電車も、[[JR西日本285系電車|285系]]の「サンライズ出雲・瀬戸」のみとなっている。また、客車の多くは[[日本国有鉄道|国鉄]]時代の1970年 - 80年代に製造されたもので老朽化が進んでいる。牽引する機関車についても「カシオペア」や「北斗星」を牽引するJR東日本所有の[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形電気機関車]]が2010年夏以降[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形電気機関車]]へ置き換えられたものの、他社では昼行客車列車自体の減少・消滅も相まって機関車の新型車両へ置き換えは進んでいない。例えば、「カシオペア」や青森駅 - 札幌駅間の運行となる「はまなす」の場合、青函トンネルを含む青森駅以北の運行を受け持つJR北海道では、旧国鉄から引き継いだ[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]や、青函トンネルを含む[[津軽海峡線]]対応仕様として旧国鉄が改修した[[国鉄ED79形電気機関車|ED79形電気機関車]]が牽引をしていた。 かつては、[[気動車]]列車による運行もあり、旧国鉄時代には昼行列車との運用の兼ね合いで行われた事例もあったものの、定期特急列車の事例はなかった。JR北海道では自社管内運行していた客車夜行列車について、[[1991年]]より急行用気動車の[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ400形・キハ480形|キハ400形・キハ480形気動車]]に、[[1992年]]より特急用気動車の[[国鉄キハ183系気動車|キハ183系気動車]]にそれぞれ1 - 2両[[国鉄14系客車#寝台車|14系寝台車]]を連結して運行していた。これらの列車は[[2008年]]までに全て運行を終了している。 ただ2010年代に入り、「ななつ星in九州」「四季島」「瑞風」といったクルーズトレインの投入に伴い、車両の新造が少数ながら行われている。「ななつ星」では専用の77系客車・[[JR貨物DF200形ディーゼル機関車|DF200形ディーゼル機関車]]が2013年に新造されたほか、「四季島」では<!--通称-->「E001形」と呼ばれるハイブリッド車両、「瑞風」では87系寝台気動車が新造された。また新造ではないが、「WEST EXPRESS 銀河」では[[国鉄117系電車|117系電車]]を大幅改造して専用の編成を捻出した。 === 車内設備 === 車内設備は、個室寝台の充実や[[女性専用車両|女性専用車]]<ref group="注釈">寝台特急「あけぼの」の「ゴロンとレディース」や、ムーンライトえちごとムーンライト信州に設定された「レディースカー」など、なお「はまなす」は自由席以外の寝台をふくむすべての席種に女性専用席を設けていた。</ref>連結により、プライバシーへの配慮を図るなど質的改善が図られている。「[[はまなす (列車)|はまなす]]」の普通車[[座席指定席]]として設定されている「[[鉄道車両の座席|ドリームカー]]」では、[[グリーン車]]に匹敵する設備をグリーン料金を徴収せず[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]扱いで安価に提供するサービスが行われていた。「[[あかつき (列車)|あかつき]]」では、車内に座席が3列に並べられた「レガートシート」や、定期運行開始時の「ムーンライト」(のちの「[[ムーンライトえちご]]」)のグリーン車のシート部品を流用したシートが設けられていた。他[[ムーンライト九州]]には、リクライニング角度が非常に大きいシートなどがあった。 また、横臥できる設備を寝台料金を徴収せずに提供し、普通車扱いで運賃+指定席特急料金(あるいは急行料金+座席券)のみとする例も現れている<ref group="注釈">「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」の「ゴロンとシート」や、「サンライズ[[サンライズ瀬戸|瀬戸]]・[[サンライズ出雲|出雲]]」の「ノビノビ座席」、そして「[[はまなす (列車)|はまなす]]」の「のびのびカーペットカー」など。</ref>。この場合、所要時間では飛行機・新幹線・昼行特急列車に及ばないものの、運賃+料金面でほぼ同等であり、唯一夜行路線バスやツアーバスには価格優位性で劣るものの、「鉄道として定時性が高く、夜間の就寝時間(非活動時間)を移動時間として有効活用できる」という点が活かされる。 <gallery widths="180" heights="120"> In car of Type165 japan.jpg|座席車の例 Regart-seat-akatsuki.JPG|特急あかつき「レガートシート」 Twilight express Suite room observation car 200801.jpg|特急トワイライトエクスプレス「A個室スイート」 </gallery> なお、寝台車が連結される普通(快速)列車もあったが、[[1985年]](昭和60年)までに定期列車としては全廃された。 === おやすみ・おはよう放送 === 夜行列車は、深夜 - 未明の一般人の就寝時間をまたいで運転するため、概ね21時台から翌朝の6時台前半まで(列車により異なる)は就寝の妨げにならないよう、[[車内放送]]を事故や遅れなど特別な理由がない限り基本的に行わないようにしている。このため、車内放送休止前の放送を「おやすみ放送」、夜が明けて車内放送が再開される時の放送を「おはよう放送」と呼ぶことがある<ref>[http://ats-s.sakura.ne.jp/dictionary.html 鉄道用語辞典]</ref>。 === 夜行新幹線の検討 === {{See also|新幹線#夜行新幹線計画|終夜運転#日本|section=1|date=2021-08-25}} [[新幹線]]計画段階では夜行新幹線も検討されており、夜間運行の際は片側1線を日によって交互に単線で運用して残りの1線は保守点検作業を行う計画であった<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004886555.shtml 兵庫に4駅集中なぜ?幻の「夜行新幹線」計画](『神戸新聞』 2012年3月15日)</ref>。しかし新幹線の騒音問題などの理由で[[定期列車]]の夜行新幹線は実現しなかった。 異常発生時に遅延し、結果として夜行新幹線となった事例以外に、あらかじめ[[臨時列車]]を設定して夜行新幹線を運行した例は過去にいくつかあり、[[2002 FIFAワールドカップ]]の際に試合終了後の観客輸送を目的とした夜行新幹線が[[上越新幹線]]・[[東海道新幹線]]で運転された例などがある<ref>[https://response.jp/article/2021/07/01/347253.html 表定速度は100km/h以下、東京オリンピック2020の「夜行新幹線」…深夜新幹線は国鉄時代にも例] - Response・2021年7月1日</ref>。[[2021年]]に開催された[[2020年東京オリンピック]]では、[[宮城スタジアム]]で行われるサッカー競技の試合に合わせ、[[東北新幹線]]の[[仙台駅]] - [[盛岡駅]]、仙台駅 - [[東京駅]]間で臨時の夜行新幹線を走らせる予定であったが<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210630_ho04.pdf 東京 2020 オリンピック期間中における臨時列車の運転について] - JR東日本・2021年6月30日</ref>、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の流行に伴い、宮城では有観客での開催となったものの、感染拡大防止のため、夜行新幹線の運転は中止され幻となった<ref>[https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210713_ho01.pdf 東京 2020 オリンピック期間中における臨時列車の運転計画について] - JR東日本・2021年7月13日</ref>。 === ローカル私鉄等の企画夜行列車 === {{See also|急行列車#企画急行列車}} 2010年代より、第3セクター鉄道路線・地方私鉄で団体夜行列車が企画・運行された例がある。これらの団体夜行列車は比較的短距離の路線を深夜時間帯に往復(路線によっては複数回往復)し、終点駅や途中駅で長時間停車し、車内や停車駅でイベント・物品販売などを行い、早朝に出発駅に戻る形態をとっているものが多い。 [[津軽鉄道]]では、2019年から期間限定企画として夜から朝まで全区間を2往復運行する「夜行列車」を開始。[[日本旅行]]との共同企画による旅行商品の扱い。[[津軽鉄道DD350形ディーゼル機関車|DD350形ディーゼル機関車]]と客車[[国鉄スハ43系客車#オハ46形|オハ46系]]、[[国鉄オハ35系客車#オハフ33形(スハフ34720形)|オハフ33系]]を使用しているため、「昭和の夜汽車」を体感できる。同様の企画は[[いすみ鉄道]]<ref>{{Cite web|和書|date=2014-04-10 |url=https://news.mynavi.jp/article/20140410-a428/ |title=いすみ鉄道、国鉄型キハ28形・キハ52形で行く夜行列車の旅を5月中旬に実施 |website=マイナビニュース |publisher=マイナビ |accessdate=2020-03-01}}</ref>、[[秩父鉄道]]<ref name="chichibu1"/><ref name="chichibu2">{{Cite web|和書|date=2019-10-13 |url=https://news.mynavi.jp/article/20191023-908622/ |title=日本旅行と秩父鉄道、12系客車と電気機関車の夜行急行列車ツアー |website=マイナビニュース |publisher=マイナビ |accessdate=2020-03-01 }}</ref>、[[えちごトキめき鉄道]]<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-02 |url=https://response.jp/article/2019/12/02/329396.html |title=新潟県のえちごトキめき鉄道に夜行列車…ボックスシートで全線を乗車 12月28-29日 |website=レスポンス |publisher=イード |accessdate=2020-03-01}}</ref>でも行われている{{Refnest|group="注釈"|津軽鉄道での企画も元いすみ鉄道社長の[[鳥塚亮]](2019年9月にえちごトキめき鉄道社長に就任)の提案によるものである<ref>{{Cite web|和書|author=鳥塚亮 |date=2019-08-07 |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/torizukaakira/20190807-00137347 |title=「2往復すれば朝になる!」 距離わずか20kmの津軽鉄道で一晩かけて運転された夜行列車。 |website=Yahoo!ニュース |publisher=ヤフー |accessdate=2020-03-01}}</ref>。}}。 また、[[三陸鉄道]]でも2019年、[[山田線]]の一部(現・リアス線)・[[宮古駅|宮古]] - [[釜石駅]]間の移管により全線開業したのを記念して、7月に夜行列車を運行した。 == ヨーロッパの夜行列車 == [[File:Map_night_trains_in_europe.png|thumb|right|350px|ヨーロッパの夜行列車路線]] [[ヨーロッパ]]では夜行列車が多く運行されている。多くの国が陸続きにあり国際夜行列車も多い。ほとんどの夜行列車には寝台車と座席車の両方が連結されている。国際夜行列車の場合には、乗車時に[[車掌]]が[[パスポート]]を回収し、夜中の出入国手続きを旅客に代わって行い、翌朝の国境通過後に返却する<ref name="icr">『夜行列車で旅するヨーロッパ』 イカロス出版、2013年4月</ref>。 ヨーロッパの代表的な国際急行列車として[[ユーロシティ]]があるが、夜行列車としては[[ユーロナイト]](略称EN)が運行されている<ref name="EN">『るるぶイタリア'17』147頁。</ref>。なお、インテルシティやユーロシティなどの鉄道に乗車可能な「ユーレイルグローバルパス」が発行されているが夜行列車の寝台を利用する場合には別途寝台券が必要になる<ref name="EN" />。 飛行機の普及以降、1980年代までは夜行列車の食堂車のサービスは削減される一方であったが、1990年代以降はユーロナイトなど復活の傾向も見られ、[[ドイツ]]国内やドイツと周辺各国を結ぶ[[シティナイトライン]]、[[オリエント急行]]などの夜行列車や、[[フランス]]と[[イタリア]]を結ぶ「テーロ」({{interlang|en|Thello}})では、食堂車やビュッフェ車の連結が見られる。また食堂車を連結していない列車でも個室寝台車の乗客には朝食が無料で配布される場合が多い<ref name="icr" />。 ヨーロッパの多くの国の国内夜行列車は、廉価な長距離列車として運転されている列車が少なくない。こうした夜行列車は'''クシェット'''('''Couchette''')と呼ばれる簡易寝台車を連結している。クシェットの寝台料金は20[[ユーロ]]弱ときわめて安価であり、庶民の気軽な長距離旅行手段として親しまれている。クシェットは、日本で言えば開放式の3段式の[[B寝台]]車であり、1区画6名となっているが、一部には2段式4名のものもある。多くの場合は男女同室となるが、「テロ」など一部には女性専用の区画を設けている列車もある<ref>『地球の歩き方 By Train ヨーロッパ鉄道の旅』 [[地球の歩き方]]編集室 ダイヤモンド・ビッグ社 2013年3月</ref>。 しかし[[2000年代]]以降、高速鉄道網の整備や[[格安航空会社]]の台頭等で夜行列車の削減が進んでいる。例えば2013年12月の[[TGV]]の[[バルセロナ]]乗り入れ開始を機に[[パリ]]-[[マドリッド]]を結んでいた[[タルゴ]]車両を用いた寝台列車「[[トレンオテル]]」が廃止されるなど夜行列車サービスの縮小が目立っている<ref group="注釈">その他パリ-[[ミュンヘン]]、[[ウィーン]]、バルセロナ等間に夜行列車が2000年代まで設定されていたが、現在では廃止されている。</ref>。 [[ロシア]]は圧倒的に広大な国土である上に、格安航空会社の参入が遅れていることもあり、夜行列車が頻繁に運行され、9297kmを走る[[シベリア鉄道]]に[[モスクワ]] - [[ウラジオストク]]まで超長距離列車の「[[ロシア号]]」がある。 またロシアの夜行列車はヨーロッパ、[[独立国家共同体|CIS]]、[[モンゴル]]、[[中華人民共和国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]]とも直通運転している{{要出典|date=2020年4月}}。 ===ギャラリー=== <gallery widths="180" heights="120"> CityNightLine bilevel sleeping car in Dresden - 2000.jpg|CNL(シティナイトライン) CNL WLABm.jpg|CNLの朝食サービス EN 482 Donauwörth.jpg|ユーロナイト Liggvagnskupe.jpg|クシェット車 SBB-CFF-FFS_Ae_6-6.jpg|[[スイス連邦鉄道]]の[[スイス国鉄Ae610形電気機関車|Ae 6/6]]機関車に牽引されるオリエント急行 Caledonian Sleeper at Euston.jpg|[[カレドニアン・スリーパー]] Nattaget_Are_Vinter.jpg|[[スウェーデン]]の夜行列車 NSB WLAB2 night train in Trondheim.jpg|[[ノルウェー]]の夜行列車 Rossija train.jpg|ロシア号 </gallery> == アジアの夜行列車 == [[インド]]や[[中華人民共和国]]などの国土が広大な[[発展途上国]]では、現在でも鉄道輸送の占めるシェアは大きく、多くの夜行列車が運行されている。国土が広大であるため、3 - 4日間をかけて運行するものも目立つ。中華人民共和国の場合、[[中華人民共和国の高速鉄道|高速鉄道]]網の整備や経済成長に伴う[[空港]]や[[高速道路]]の急速な整備による[[高速バス]]や[[格安航空会社]]などとの競争もあるものの、経済成長とそれを背景にした[[出稼ぎ]]の増加で夜行列車の本数は増え続けており、中には高速鉄道用の車両[[中国高速鉄道CRH2型電車|CRH2型]]に寝台を設置した列車も走っている<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/67003 中国の夜行列車が高速化時代でも増える理由][[東洋経済新報社|東洋経済]]ONLINE 2015年04月19日 2016年9月16日閲覧</ref>。なおインドでも格安航空会社との競争が激しくなってきているが、貧富の差が激しいこともあり廉価な夜行列車の需要が大きい。 [[大韓民国|韓国]]では、主要幹線に夜行の[[ムグンファ号]]が運行されている。国土面積の関係で国内移動の際の移動距離が概ね500km以内であり、運転時間が短く終着駅には3時台に到着する為、座席車が主体である。なお、近年まで寝台車を連結した列車が存在したが、昼行列車の高速化に伴って需要が減少したため、一部の特設列車を除いて全廃されている。 [[中華民国]]([[台湾]])では2000年代半ばまでは、[[西部幹線]]に夜行列車が1日3往復、[[東部幹線]][[莒光号]]でも1日1往復運転されていたが、[[台湾高速鉄道]]の開業や[[普悠瑪号]]の運転開始等で昼行列車がスピードアップされた為現在では[[東部幹線]]に週末のみの運転となっている<ref>[http://163.29.3.98/FullTimeTable/20160901/西部幹線(基隆→潮州).pdf 主要幹線(對號快車) 定期行駛列車時刻表(9月1日起實施)] 台湾鉄路管理局時刻表(2016年9月17日閲覧) 時刻表の通り2016年9月1日より西部幹線では夜行列車は全廃された。</ref><ref>[http://163.29.3.98/FullTimeTable/20160901/東部幹線(樹林→臺東).pdf 主要幹線(對號快車) 定期行駛列車時刻表(9月1日起實施)] 台湾鉄路管理局時刻表(2016年9月17日閲覧) 東部幹線の時刻表。</ref>。 [[東南アジア]]各国でも夜行列車が運転されているが、高速道路網の整備が進んでいる[[タイ王国|タイ]]や[[マレーシア]]では、高速道路を利用する高速バスが便数、所要時間において有利に立っている。南北に国土が長い[[ベトナム]]では、現在の東南アジアの定期列車では他に例のない<ref group="注釈">[[オリエント急行#アジアとアメリカの観光列車|イースタン&オリエンタル・エクスプレス]]などの観光列車を除く。</ref>始発駅から終着駅まで2泊3日を要する列車や、同じく途中で国境を越える[[国際列車]]としては唯一の{{Refnest|group="注釈"|厳密には、タイの[[フワランポーン駅|バンコク]]とマレーシア側の国境駅の[[パダン・ブサール駅]]を結ぶ夜行列車がタイ - マレーシア国境を越えるが、この列車は国境駅を始発・終着駅としており、出入国審査も列車乗車前(下車後)に行う<ref>イカロス出版『タイのりもの旅』p.46, 47. 2017年10月30日</ref>。また、[[オリエント急行#アジアとアメリカの観光列車|イースタン&オリエンタル・エクスプレス]]などの観光列車は除く。}}夜行列車(ベトナム国内では[[T8701/8702次列車|MR1/2列車]])が存在する。また島国の[[インドネシア]]や[[フィリピン]]では、鉄道網が脆弱なこともあり夜行列車のシェアは少ない。さらにこれらの国において近年では[[エアアジア]]や[[タイガーエア]]、[[ノックエア]]や[[セブパシフィック]]などの格安航空会社との競争にもさらされている。 <gallery widths="180" heights="120"> Railroad_passenger_car_of_China.jpg|中華人民共和国の2階建て寝台客車 KORAIL DL7300.jpg|DL7300牽引のムグンファ号 Breakfast at Rajdhani Express01.jpg|インド国鉄の夜行列車[[ラージダーニー急行]]で提供される朝食。この列車の乗客には食事は無料で提供される。 </gallery> == アフリカの夜行列車 == [[アフリカ]]は、日本やイギリス、アメリカなどの先進国のように鉄道が発達している国は少ないが、長距離路線を中心に夜行列車の運行がかなり見られる。 [[南アフリカ共和国]]では、世界で一番豪華といわれる[[ブルートレイン (南アフリカ)|ブルートレイン]]等多くの夜行列車が運行しているほか、[[モザンビーク]]への国際ローカル列車などもある。 その他、[[ザンビア]]の[[カピリムポシ]]と[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]を結ぶ[[タンザン鉄道]](TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)等で夜行列車が運行している。 <gallery widths="180" heights="120"> The Blue Train.jpg|南アフリカのブルートレイン[[食堂車|ダイニングカー]] </gallery> == 北米の夜行列車 == === アメリカ合衆国 === [[アメリカ合衆国]]は、その国土の広さから、長距離列車のほとんどは夜行列車である。かつては大量の夜行列車が運行されていたが、現在では国内の長距離移動の主流が飛行機となってしまったために、その本数を大きく減らしている。 アメリカには複数の鉄道会社が存在するが、定期夜行列車は[[アムトラック]](全米鉄道旅客公社)が運行する。夜行列車は毎日、もしくは週3日運行され、全行程は短く乗りやすい2日(1泊2日)の「[[コースト・スターライト]]」号<ref>「北米大陸鉄道の旅」P23</ref>などから長いものでは4日(3泊4日)を要する「[[サンセット・リミテッド]]」号までさまざまである<ref name="yume10">「アメリカ鉄道夢紀行」P10</ref>。[[大陸横断鉄道]]は原則として[[シカゴ]]で乗り継ぎとなり、シカゴより[[アメリカ西海岸|西海岸]]方面が2泊3日{{Refnest|group="注釈"|ただし、シカゴより[[セントルイス]]、[[ダラス]]、[[サンアントニオ]]経由で[[ロサンゼルス]]に至る{{仮リンク|テキサス・イーグル|en|Texas Eagle}}号は遠回りで運転区間が長いため3泊4日かかる。}}、シカゴより[[アメリカ東海岸|東海岸]]への各線が1泊2日の行程なので、鉄道での大陸横断には最短でも3泊4日が必要となる<ref name="yume10" />。 アムトラックは[[貨物列車]]を運行する[[一級鉄道]]などの私鉄に間借りする形で運行されるため、貨物列車優先に起因する単線区間でのすれ違いや車両到着の遅れからくる時間の運行の乱れが大きく、乗り継ぎには数時間から1日程度の余裕を持つことが旅客に求められる<ref>『北米大陸鉄道の旅』P165</ref>。食事料金は寝台料金に含まれており、乗車区間によって数回の食事が供される<ref>『北米大陸鉄道の旅』P201</ref>。料金は飛行機よりも高く、速度は自家用車よりも遅いため、ビジネス客はほとんどいない。 <gallery widths="180" heights="120"> Amtrak 146 GE P42DC.jpg|サンセット・リミテッド号 Sw_chief_direction_chicago.PNG|ラウンジ車で寛ぐ旅客([[サウスウェスト・チーフ]]号の[[スーパーライナー (客車)|スーパーライナー客車]]) Amtrak_Dining_Car_(4666685478).jpg|食堂車(左同) Bringing_Up_the_Markers_(4780965324).jpg|後ろから見たコースト・スターライト号の編成(スーパーライナー客車) Viewliner_(14176865853).jpg|1 - 2人用個室「ルーメット」([[ビューライナー|ビューライナー客車]]) Silver_meteor.JPG|レッグレストを備える長距離用座席車([[シルバー・メティオ]]号の[[アムフリート|アムフリート客車]]) </gallery> === カナダ === [[カナダ]]ではアメリカのアムトラックに相当する[[VIA鉄道]]が夜行列車を運行している。運行形態はアメリカと似ているが、二大都市圏である[[トロント]]と[[モントリオール]]を結ぶ夜行列車ではビジネス客を意識したサービスを提供している{{要出典|date=2013年4月}}。カナダの長距離夜行列車の特徴として、大部分が新車に置き換わったアメリカのアムトラックと異なり、大陸横断路線の[[カナディアン (列車)|カナディアン号]]などに使われる1954年[[バッド社]]製[[パーク・カー]]のような、北米の旅客鉄道全盛期に活躍した古い流線形客車が改修されつつも今なお第一線で使用されていることが挙げられる<ref>『北米大陸鉄道の旅』P211</ref>。 <gallery widths="180" heights="120"> Via_Rail_%22The_Canadian%22_Dining_Car.jpg|[[カナディアン (列車)|カナディアン号]]の食堂車 The_Canadian_at_night.jpg|夜のカナディアン号。左側最後尾の車両が展望ドーム車の「[[パーク・カー]]」 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2015年1月17日 (土) 09:56 (UTC)}} * 『これでいいのか、夜行列車』[[寺本光照]]、[[1991年]]、[[中央書院]]、ISBN 4924420522 * 『日本の国鉄』原田勝正、1984年、[[岩波新書]]256 * 『日本の鉄道史セミナー』久保田博、2005年、グランプリ出版、ISBN 4876872716 * 『寝台急行「銀河」物語』三宅俊彦、2008年、JTBパブリッシング、ISBN 978-4533070679 * 『国鉄の戦後が分かる本』上巻・下巻、所澤秀樹、2000年、山海堂、ISBN 978-4381103604 * 『戦後日本の鉄道車両』塚本雅啓、2002年、グランプリ出版、ISBN 4876872325 * 『別冊歴史読本32 国鉄・JR名列車ハンドブック』三宅俊彦・寺元光照、2006年、新人物往来社 * 『北米大陸鉄道の旅』 「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド・ビッグ社、2007年8月10日 改訂第2版第1刷。ISBN 978-4478054307。 * 『アメリカ鉄道夢紀行』[[櫻井寛]]、1999年、東京書籍、ISBN 4487793491 == 関連項目 == * [[日本の列車愛称一覧]] * [[車中泊]] * [[STB (旅行)]](駅寝) * [[寝台列車]] * [[ブルートレイン (日本)]] * [[ユーロナイト]] {{列車沿革}} {{現存する夜行列車}} {{ムーンライト (列車)}} {{DEFAULTSORT:やこうれつしや}} [[Category:夜行列車|*]] [[Category:列車|種やこうれつしや]] [[Category:列車種別|†]]
2003-09-07T10:05:54Z
2023-12-18T14:12:01Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A
15,580
原子力空母
原子力空母(げんしりょくくうぼ、英語: Nuclear-powered aircraft carrier)は、原子力機関により推進される航空母艦。原子力船の一種。 第二次世界大戦後のアメリカ海軍は、核戦略の一翼を担いうるように次世代空母の大型化を志向しており、1948年度計画では超大型空母として「ユナイテッド・ステーツ」の建造が盛り込まれた。またその検討過程の1946年からは航空母艦の原子力推進化も検討されはじめており、1952年度で建造予定だった同型艦では原子力推進化が期待されたものの、「ユナイテッド・ステーツ」の建造自体が1949年に頓挫したこともあって、これは実現しなかった。 その後、1950年8月、海軍作戦部長(CNO)フォレスト・シャーマン大将は艦船局(BuShips)に対し、空母の原子力推進化に関するフィジビリティスタディを指示し、1951年には空母用原子炉の正式な要件定義が作成された。この時点で、海軍は既に潜水艦用原子炉を開発していたものの、まもなく、空母のためには全く異なる設計が必要になることが判明し、予算の見積もりは高騰し始めた。海軍部内では、燃料の搭載余地が多い空母よりは、潜水艦や駆逐艦の原子力推進化のほうが優先するとの意見も強く、アイゼンハワー大統領は国防費削減を重視しており、そして原子力空母計画の後援者だったシャーマン大将は1951年に死去していた。この結果、原子力委員会(AEC)は1953年に空母用原子炉の計画を中止した。 AECによって原子炉の開発計画が中止されたあとでも、海軍部内では、原子力空母に関する検討は継続されていた。1954年5月、艦艇用原子炉の開発を統括していたハイマン・G・リッコーヴァー少将は、攻撃潜水艦から航空母艦まで5種類の舶用原子炉の試作計画を提案して、今回はAECの承認を得ることができた。1955年末までには、空母用試作炉としてA1Wの計画が作成されており、これは1958年より運転を開始した。そしてこれらの原子炉を搭載する原子力空母そのものも、1958年度計画での建造が承認された。これによって建造された世界初の原子力空母が「エンタープライズ」である。 空母の原子力推進化は航続距離の延伸を実現すると同時に、煙突やその排煙が飛行甲板上の気流を阻害して航空機の発着に影響することもなくなった。しかし当時の技術で開発できる原子力機関の性能によって船体のサイズは制約されており、計画段階では小型の船体も検討されたほか、所定の速力を確保するために、当時としては並外れた大出力の舶用原子炉として開発されたA2Wですら8基という多数を搭載する必要があった。 上記の経緯によって「エンタープライズ」の建造は実現したものの、同艦の建造コストが高騰したこともあって、アメリカ海軍としては同艦の運用実績が蓄積されるまでは2隻目以降の原子力空母は建造しない方針とした。1963年度予算で計画されていたキティホーク級4番艦については原子力推進化が検討されたものの、コストの面からこれも断念された。その後、技術進歩によって「エンタープライズ」の原子炉8基式よりも安価な2基式が実現可能となったことや、ベトナム戦争で空母航空団の有用性が改めて意識されたこともあって、ミッドウェイ級3隻の代替艦として新型原子力空母3隻が建造されることになり、1967年度予算よりニミッツ級の建造が開始された。同級は順次に改良を重ねつつ長く建造されたが、2007年度からは大規模に改設計したジェラルド・R・フォード級へと移行した。 ソビエト連邦の最高指導者として長く君臨したヨシフ・スターリンが航空母艦を帝国主義的な兵器として忌避していたほか、核兵器やミサイルの配備が優先されたこと、また同国の造艦技術が発達途上だったこともあって、ソ連海軍では原子力空母を含めて航空母艦の整備計画そのものがなかなか実現しなかった。一方、原子力推進艦船という点では、1950年代後半の627型(ノヴェンバー型)を端緒として原子力潜水艦の大量配備に着手し、1959年には原子力砕氷船「レーニン」も竣工させて、水上艦船への導入にも着手していた。 その後、1960年代後半に軽空母(AVL)が計画された際には、通常動力型と同時に原子力推進型も俎上に載せられており、これが発展した1160型では本格的に原子力推進が採択されたが、いずれも実現しなかった。その後、通常動力型・V/STOL方式の1143型(キエフ級)、更にSTOBAR方式の1143.5型(アドミラル・クズネツォフ)が順次に建造されたのち、発展型としてCATOBAR方式に対応するとともに原子力空母とした1143.7型(ウリヤノフスク級)が計画され、1988年11月に起工されたが、ソビエト連邦の崩壊もあって未成に終わった。 同艦が未成に終わったことで、「アメリカ国外初の原子力空母」の称号は、フランス海軍の「シャルル・ド・ゴール」のものとなった。これはクレマンソー級の後継艦として建造されたもので、1989年に起工された。同海軍は、既に1970年代よりル・ルドゥタブル級によって原子力潜水艦の運用に着手しており、同級の後継艦であるル・トリオンファン級と同一形式の原子炉を用いて「シャルル・ド・ゴール」の原子力推進機関が設計された。ただし冷戦終結後の予算削減の影響もあって建造は遅延し、海上公試で多くのトラブルに見舞われたこともあって、就役は2001年5月となった。 また中国人民解放軍海軍も、2018年より建造している003型に続いて設計を進めている004型では、原子力推進化を検討しているといわれている。 出典:アメリカ合衆国会計検査院1998年 通常動力と原子力の空母のコスト比較
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "原子力空母(げんしりょくくうぼ、英語: Nuclear-powered aircraft carrier)は、原子力機関により推進される航空母艦。原子力船の一種。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後のアメリカ海軍は、核戦略の一翼を担いうるように次世代空母の大型化を志向しており、1948年度計画では超大型空母として「ユナイテッド・ステーツ」の建造が盛り込まれた。またその検討過程の1946年からは航空母艦の原子力推進化も検討されはじめており、1952年度で建造予定だった同型艦では原子力推進化が期待されたものの、「ユナイテッド・ステーツ」の建造自体が1949年に頓挫したこともあって、これは実現しなかった。", "title": "アメリカ海軍の初期の検討" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、1950年8月、海軍作戦部長(CNO)フォレスト・シャーマン大将は艦船局(BuShips)に対し、空母の原子力推進化に関するフィジビリティスタディを指示し、1951年には空母用原子炉の正式な要件定義が作成された。この時点で、海軍は既に潜水艦用原子炉を開発していたものの、まもなく、空母のためには全く異なる設計が必要になることが判明し、予算の見積もりは高騰し始めた。海軍部内では、燃料の搭載余地が多い空母よりは、潜水艦や駆逐艦の原子力推進化のほうが優先するとの意見も強く、アイゼンハワー大統領は国防費削減を重視しており、そして原子力空母計画の後援者だったシャーマン大将は1951年に死去していた。この結果、原子力委員会(AEC)は1953年に空母用原子炉の計画を中止した。", "title": "アメリカ海軍の初期の検討" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "AECによって原子炉の開発計画が中止されたあとでも、海軍部内では、原子力空母に関する検討は継続されていた。1954年5月、艦艇用原子炉の開発を統括していたハイマン・G・リッコーヴァー少将は、攻撃潜水艦から航空母艦まで5種類の舶用原子炉の試作計画を提案して、今回はAECの承認を得ることができた。1955年末までには、空母用試作炉としてA1Wの計画が作成されており、これは1958年より運転を開始した。そしてこれらの原子炉を搭載する原子力空母そのものも、1958年度計画での建造が承認された。これによって建造された世界初の原子力空母が「エンタープライズ」である。", "title": "アメリカ海軍での艦隊配備" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "空母の原子力推進化は航続距離の延伸を実現すると同時に、煙突やその排煙が飛行甲板上の気流を阻害して航空機の発着に影響することもなくなった。しかし当時の技術で開発できる原子力機関の性能によって船体のサイズは制約されており、計画段階では小型の船体も検討されたほか、所定の速力を確保するために、当時としては並外れた大出力の舶用原子炉として開発されたA2Wですら8基という多数を搭載する必要があった。", "title": "アメリカ海軍での艦隊配備" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上記の経緯によって「エンタープライズ」の建造は実現したものの、同艦の建造コストが高騰したこともあって、アメリカ海軍としては同艦の運用実績が蓄積されるまでは2隻目以降の原子力空母は建造しない方針とした。1963年度予算で計画されていたキティホーク級4番艦については原子力推進化が検討されたものの、コストの面からこれも断念された。その後、技術進歩によって「エンタープライズ」の原子炉8基式よりも安価な2基式が実現可能となったことや、ベトナム戦争で空母航空団の有用性が改めて意識されたこともあって、ミッドウェイ級3隻の代替艦として新型原子力空母3隻が建造されることになり、1967年度予算よりニミッツ級の建造が開始された。同級は順次に改良を重ねつつ長く建造されたが、2007年度からは大規模に改設計したジェラルド・R・フォード級へと移行した。", "title": "アメリカ海軍での艦隊配備" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦の最高指導者として長く君臨したヨシフ・スターリンが航空母艦を帝国主義的な兵器として忌避していたほか、核兵器やミサイルの配備が優先されたこと、また同国の造艦技術が発達途上だったこともあって、ソ連海軍では原子力空母を含めて航空母艦の整備計画そのものがなかなか実現しなかった。一方、原子力推進艦船という点では、1950年代後半の627型(ノヴェンバー型)を端緒として原子力潜水艦の大量配備に着手し、1959年には原子力砕氷船「レーニン」も竣工させて、水上艦船への導入にも着手していた。", "title": "アメリカ以外の原子力空母" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後、1960年代後半に軽空母(AVL)が計画された際には、通常動力型と同時に原子力推進型も俎上に載せられており、これが発展した1160型では本格的に原子力推進が採択されたが、いずれも実現しなかった。その後、通常動力型・V/STOL方式の1143型(キエフ級)、更にSTOBAR方式の1143.5型(アドミラル・クズネツォフ)が順次に建造されたのち、発展型としてCATOBAR方式に対応するとともに原子力空母とした1143.7型(ウリヤノフスク級)が計画され、1988年11月に起工されたが、ソビエト連邦の崩壊もあって未成に終わった。", "title": "アメリカ以外の原子力空母" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同艦が未成に終わったことで、「アメリカ国外初の原子力空母」の称号は、フランス海軍の「シャルル・ド・ゴール」のものとなった。これはクレマンソー級の後継艦として建造されたもので、1989年に起工された。同海軍は、既に1970年代よりル・ルドゥタブル級によって原子力潜水艦の運用に着手しており、同級の後継艦であるル・トリオンファン級と同一形式の原子炉を用いて「シャルル・ド・ゴール」の原子力推進機関が設計された。ただし冷戦終結後の予算削減の影響もあって建造は遅延し、海上公試で多くのトラブルに見舞われたこともあって、就役は2001年5月となった。", "title": "アメリカ以外の原子力空母" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また中国人民解放軍海軍も、2018年より建造している003型に続いて設計を進めている004型では、原子力推進化を検討しているといわれている。", "title": "アメリカ以外の原子力空母" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "出典:アメリカ合衆国会計検査院1998年 通常動力と原子力の空母のコスト比較", "title": "比較表" } ]
原子力空母は、原子力機関により推進される航空母艦。原子力船の一種。
{{Redirect|CVN|CVnの略符号を持つ星座|りょうけん座}} {{Multiple image |width=275 |direction=vertical |image1=USS Enterprise FS Charles de Gaulle.jpg |caption1=世界初の原子力空母であるアメリカ海軍の「[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]」(奥)と、アメリカ以外では世界で唯一の原子力空母であるフランス海軍の「[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]」(手前) |image2=US Navy 110129-N-3885H-179 USS George H.W. Bush (CVN 77) is underway in the Atlantic Ocean.jpg |caption2=ニミッツ級の「[[ジョージ・H・W・ブッシュ (空母)|ジョージ・H・W・ブッシュ]]」 }} '''原子力空母'''(げんしりょくくうぼ、{{Lang-en|Nuclear-powered aircraft carrier}})は、[[原子力船|原子力機関]]により推進される[[航空母艦]]<ref name=kotobank>{{Kotobank|原子力航空母艦}}</ref>。[[原子力船]]の一種。 == アメリカ海軍の初期の検討 == [[第二次世界大戦]]後の[[アメリカ海軍]]は、[[核戦略]]の一翼を担いうるように次世代空母の大型化を志向しており、[[1948年]]度計画では[[超大型空母]]として「[[ユナイテッド・ステーツ (空母)|ユナイテッド・ステーツ]]」の建造が盛り込まれた{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.11 The Super-Carrier United States}}。またその検討過程の[[1946年]]からは航空母艦の[[原子力船|原子力推進]]化も検討されはじめており、[[1952年]]度で建造予定だった同型艦では原子力推進化が期待されたものの、「ユナイテッド・ステーツ」の建造自体が[[1949年]]に頓挫したこともあって、これは実現しなかった{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。 その後、[[1950年]]8月、[[アメリカ海軍作戦部長|海軍作戦部長(CNO)]][[フォレスト・シャーマン]][[大将]]は艦船局(BuShips)に対し、空母の原子力推進化に関する[[フィジビリティスタディ]]を指示し、[[1951年]]には空母用原子炉の正式な要件定義が作成された{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。この時点で、海軍は既に[[潜水艦]]用原子炉{{Efn2|後に「[[ノーチラス (原子力潜水艦)|ノーチラス]]」に搭載される[[S2W (原子炉)|S2W]]の原型機にあたる{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。}}を開発していたものの、まもなく、空母のためには全く異なる設計が必要になることが判明し、予算の見積もりは高騰し始めた。海軍部内では、燃料の搭載余地が多い空母よりは、潜水艦や[[駆逐艦]]の原子力推進化のほうが優先するとの意見も強く、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は国防費削減を重視しており、そして原子力空母計画の後援者だったシャーマン大将は1951年に死去していた。この結果、[[アメリカ原子力委員会|原子力委員会(AEC)]]は[[1953年]]に空母用原子炉の計画を中止した{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。 == アメリカ海軍での艦隊配備 == AECによって原子炉の開発計画が中止されたあとでも、海軍部内では、原子力空母に関する検討は継続されていた。[[1954年]]5月、艦艇用原子炉の開発を統括していた[[ハイマン・G・リッコーヴァー]]少将は、攻撃潜水艦から航空母艦まで5種類の舶用原子炉の試作計画を提案して、今回はAECの承認を得ることができた。[[1955年]]末までには、空母用試作炉として[[A1W (原子炉)|A1W]]の計画が作成されており{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}、これは[[1958年]]より運転を開始した{{Sfn|野木|2011}}。そしてこれらの原子炉を搭載する原子力空母そのものも、1958年度計画での建造が承認された。これによって建造された世界初の原子力空母が「[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]」である{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。 空母の原子力推進化は航続距離の延伸を実現すると同時に、煙突やその排煙が[[飛行甲板]]上の気流を阻害して航空機の発着に影響することもなくなった{{Sfn|多田|2011}}。しかし当時の技術で開発できる原子力機関の性能によって船体のサイズは制約されており、計画段階では小型の船体も検討されたほか{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}、所定の速力を確保するために、当時としては並外れた大出力の舶用原子炉として開発された[[A2W (原子炉)|A2W]]ですら8基という多数を搭載する必要があった{{Sfn|野木|2011}}。 上記の経緯によって「エンタープライズ」の建造は実現したものの、同艦の建造コストが高騰したこともあって、アメリカ海軍としては同艦の運用実績が蓄積されるまでは2隻目以降の原子力空母は建造しない方針とした。[[1963年]]度予算で計画されていたキティホーク級[[ジョン・F・ケネディ (空母・初代)|4番艦]]については原子力推進化が検討されたものの、コストの面からこれも断念された{{Sfn|多田|2011}}。その後、技術進歩によって「エンタープライズ」の原子炉8基式よりも安価な2基式が実現可能となったことや、[[ベトナム戦争]]で[[空母航空団]]の有用性が改めて意識されたこともあって、[[ミッドウェイ級航空母艦|ミッドウェイ級]]3隻の代替艦として新型原子力空母3隻が建造されることになり、[[1967年]]度予算より[[ニミッツ級航空母艦|ニミッツ級]]の建造が開始された{{Sfn|Friedman|1983|loc=ch.14 Nuclear Carriers}}。同級は順次に改良を重ねつつ長く建造されたが、[[2007年]]度からは大規模に改設計した[[ジェラルド・R・フォード級航空母艦|ジェラルド・R・フォード級]]へと移行した{{Sfn|Polmar|2008|loc=ch.26 Into the 21st Century}}。 == アメリカ以外の原子力空母 == [[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]として長く君臨した[[ヨシフ・スターリン]]が航空母艦を帝国主義的な兵器として忌避していたほか、核兵器やミサイルの配備が優先されたこと、また同国の造艦技術が発達途上だったこともあって、[[ロシア海軍#ソ連海軍|ソ連海軍]]では原子力空母を含めて航空母艦の整備計画そのものがなかなか実現しなかった{{Sfn|Polutov|2017|pp=98-107}}。一方、原子力推進艦船という点では、[[1950年代]]後半の[[ノヴェンバー型原子力潜水艦|627型(ノヴェンバー型)]]を端緒として[[原子力潜水艦]]の大量配備に着手し、1959年には[[原子力砕氷船]]「[[レーニン (原子力砕氷艦)|レーニン]]」も竣工させて、水上艦船への導入にも着手していた{{Sfn|多田|2011}}。 その後、1960年代後半に軽空母(AVL)が計画された際には、通常動力型と同時に原子力推進型も俎上に載せられており、これが発展した1160型では本格的に原子力推進が採択されたが、いずれも実現しなかった{{Sfn|Polutov|2017|pp=116-119}}。その後、通常動力型・V/STOL方式の[[キエフ級航空母艦|1143型(キエフ級)]]、更にSTOBAR方式の[[アドミラル・クズネツォフ (空母)|1143.5型(アドミラル・クズネツォフ)]]が順次に建造されたのち、発展型として[[CATOBAR]]方式に対応するとともに原子力空母とした[[ウリヤノフスク級原子力空母|1143.7型(ウリヤノフスク級)]]が計画され、1988年11月に起工されたが、[[ソビエト連邦の崩壊]]もあって未成に終わった{{Sfn|多田|2011}}。 同艦が未成に終わったことで、「アメリカ国外初の原子力空母」の称号は、[[フランス海軍]]の「[[シャルル・ド・ゴール (空母)|シャルル・ド・ゴール]]」のものとなった。これは[[クレマンソー級航空母艦|クレマンソー級]]の後継艦として建造されたもので、1989年に起工された。同海軍は、既に[[1970年代]]より[[ル・ルドゥタブル級原子力潜水艦|ル・ルドゥタブル級]]によって原子力潜水艦の運用に着手しており、同級の後継艦である[[ル・トリオンファン級原子力潜水艦|ル・トリオンファン級]]と同一形式の原子炉を用いて「シャルル・ド・ゴール」の原子力推進機関が設計された。ただし冷戦終結後の予算削減の影響もあって建造は遅延し、[[海上公試]]で多くのトラブルに見舞われたこともあって、就役は2001年5月となった{{Sfn|多田|2011}}。 また[[中国人民解放軍海軍]]も、2018年より建造している[[003型航空母艦|003型]]に続いて設計を進めている004型では、原子力推進化を検討しているといわれている{{Sfn|小原|2020}}。 == 比較表 == {| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" |+ <u>通常動力型空母と原子力空母のライフサイクルコスト比較</u><ref group="注">(単位:億円 115円/ドル換算(カッコ内億ドル)) 小数点切り上げは行わない。</ref> |- style="background-color:#c8ffc8;" ! 費用種別 !! 通常動力空母 !! 原子力空母 |- |開発費(Investment cost)<ref group="注">艦の寿命を50年とする。</ref> |align="center" |3,353.4億円<br />(29.16億ドル)<ref group="注">通常型動力空母の燃料には運搬と補給作業の経費も含まれる。</ref> |align="center" |7,407.15億円<br />(64.41億ドル)<ref group="注">原子力空母の開発費には核燃料の価格も含まれる。</ref> |- | -取得費 (Ship acquisition cost) |align="center" |2,357.5 (20.50) |align="center" |4,667.85 (40.59) |- | -中期近代化改修費 (Midlife modernization cost) |align="center" |995.9 (8.66) |align="center" |2,739.3 (23.82) |- |運用・維持費 (Operating and support cost) |align="center" |12,793.75 (111.25) |align="center" |17,114.3 (148.82) |- | -直接運用・維持費 (Direct operating and support cost) |align="center" |12,001.4 (104.36) |align="center" |13,428.55 (116.77) |- | -間接運用・維持費 (Indirect operating and support cost) |align="center" |791.2 (6.88) |align="center" |3,685.75 (32.05) |- |廃棄/処分費 (Inactivation/disposal cost) |align="center" |60.95 (0.53) |align="center" |1,033.85 (8.99) |- | -廃棄/処分費 (Inactivation/disposal cost) |align="center" |60.95 (0.53) |align="center" |1,020.05 (8.87) |- | -使用済み核燃料保管費(Spent nuclear fuel storage cost) |align="center" |なし |align="center" |14.95 (0.13) |- |style="background-color:#c8ffc8;" |[[ライフサイクルコスト]] |style="background-color:#c8ffc8;" align="center" |16,208.1億円(140.94億ドル) |style="background-color:#c8ffc8;" align="center" |25,555.3億円(222.22億ドル) |- |rowspan="2" align="center"|比較 |align="center" |100% |align="center" |157.7% |- |align="center" |63.4% |align="center" |100% |} 出典:アメリカ合衆国会計検査院1998年 通常動力と原子力の空母のコスト比較<ref>{{Cite web|url= http://www.fas.org/man/gao/nsiad98001/es.htm |title= NAVY AIRCRAFT CARRIERS Cost-Effectiveness of Conventionally and Nuclear-Powered Aircraft Carriers|publisher= Federation Of American Scientists |language=en|accessdate= 2019-12-16 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160825144000/http://www.fas.org/man/gao/nsiad98001/es.htm |archivedate= 2016-08-25 }}</ref> {{原子力空母}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Friedman|first=Norman|last=Friedman|title=U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History|year= 1983|publisher=[[:en:United States Naval Institute|Naval Institute Press]]|isbn=978-0870217395|ref=harv}} * {{Cite book|authorlink=:en:Norman Polmar|first=Norman|last=Polmar|year=2008|title=Aircraft Carriers: A History of Carrier Aviation and Its Influence on World Events|publisher=Potomac Books Inc.|volume = Volume II|isbn=978-1597973434|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|first=Andrey V.|last=Polutov|year=2017|month=8|title=ソ連/ロシア空母建造史|journal=[[世界の艦船]]|issue=864|pages=1-159|publisher=[[海人社]]|naid=40021269184|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|last=小原|first=凡司|year=2020|month=8|title=第2列島線を越えて! 中国空母機動部隊の今後 (特集 世界の空母 2020)|issue=929|journal=世界の艦船|publisher=海人社|pages=102-107|naid=40022294406|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|last=多田|first=智彦|year=2011|month=3|title=原子力水上艦 その誕生から今日まで (特集 原子力水上艦建造史)|issue=738|journal=世界の艦船|publisher=海人社|pages=76-83|naid=40018277433|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|authorlink=江藤巌|last=野木|first=恵一|year=2011|month=3|title=水上艦用原子炉の発達とそのメカニズム (特集 原子力水上艦建造史)|journal=世界の艦船|issue=738|pages=84-89|publisher=海人社|naid=40018277434|ref=harv}} == 関連項目 == * [[超大型空母]] * [[空母打撃群]] * [[砲艦外交]] {{空母関連項目}} {{艦艇}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんしりよくくうほ}} [[Category:原子力]] [[Category:原子力空母|*]] [[Category:航空母艦の分類]]
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発光
発光(はっこう)は、光を発すること。 主に、熱放射(黒体放射) (恒星、炎、白熱灯などの光)やルミネセンス(冷光)が知られる。その他、荷電粒子線の制動放射による発光、 チェレンコフ光などがある。 励起状態にある量子系(電子など)が、より低い励起状態や基底状態に遷移することにより光を発する。どのように電子が励起されたかによって分類することができる。
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発光(はっこう)は、光を発すること。 主に、熱放射(黒体放射) (恒星、炎、白熱灯などの光)やルミネセンス(冷光)が知られる。その他、荷電粒子線の制動放射による発光、 チェレンコフ光などがある。
{{Otheruses||電磁波の放出、輻射|放射|光を発生するもの|光源}} {{Redirect|発光体|[[ゆらゆら帝国]]の曲|発光体 (曲)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2013年11月 | 独自研究 = 2013年11月 | 正確性 = 2013年11月 }} '''発光'''(はっこう)は、[[光]]を発すること。 主に、[[熱放射]]([[黒体放射]]) ([[恒星]]、[[炎]]、[[白熱灯]]などの光)や[[ルミネセンス]](冷光)が知られる。その他、荷電粒子線の[[制動放射]]による発光、 [[チェレンコフ放射|チェレンコフ光]]などがある。 == 熱放射(黒体放射) == {{main|[[熱放射]]([[黒体放射]])}} == ルミネセンス == [[励起状態]]にある量子系(電子など)が、より低い励起状態や基底状態に遷移することにより光を発する。どのように電子が励起されたかによって分類することができる。 {{main|ルミネセンス}} === 励起方法による分類 === [[File:Fluorescence rainbow.JPG|thumb|[[UV]]光照射による発光(フォトルミネセンス)]] * [[フォトルミネセンス]](PL) - 光照射による励起での発光。(例:[[蛍光灯]]、[[蛍光色]]) * カソードルミネセンス(CL) - 電子線照射による励起での発光。例:[[ブラウン管]]) * [[エレクトロルミネセンス]](EL) - 電圧による励起での発光。(例:[[LED]]) * ソノルミネセンス(SL) - 音響エネルギーによる発光。 * ケミルミネセンス - [[化学発光]]とも呼ばれる。化学反応によって励起状態をつくり、それが基底状態に遷移するときに発光する。(例:[[ケミカルライト|サイリューム]]) * バイオルミネセンス - [[生物発光]]とも呼ばれる。[[酵素]]を使って発光物質を酸化させるなどの化学反応によって光を発する。この意味では[[生物]]の発光の大部分は化学的発光の範疇に入る([[ルシフェラーゼ]]、[[イクオリン]])。また、生物の発光には[[蛍光]](フォトルミネセンス)に由来する物もあり([[GFP]])、これを含めて発光蛋白質は[[組換えDNA]]作製の際に[[レポーター遺伝子]]として利用されている。 ==== 発光する生物の例 ==== * 深海魚: [[ハダカイワシ]]、[[チョウチンアンコウ]]、[[エソ|エソ類]] * その他の動物: [[ホタル]]、[[ウミホタル]]、[[オワンクラゲ]] * 菌類: [[ツキヨタケ]]、[[ヤコウタケ]] * 原生生物: [[ヤコウチュウ]] === 発光過程メカニズムによる分類 === * [[誘導放出]] * [[自然放出]] <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}--> == 関連文献 == * {{Cite book|和書|author=小林洋志|year=2000|title=発光の物理 (現代人の物理) |publisher=[[朝倉書店]]|id=ISBN 4254136277}} == 関連項目 == * [[ルミネセンス]] * [[レーザー]] * [[蛍光]] * [[燐光]] * [[蓄光]] * [[反射 (物理学)|反射]] * [[量子ドット]] {{Physics-stub}} {{Chem-stub}} {{発光}} {{DEFAULTSORT:はつこう}} [[Category:光]] [[Category:発光|*]] [[Category:光学]] [[Category:物理化学の現象]] [[Category:エネルギー変換]]
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パラグライダー
パラグライダー(英語: paraglider)は、スカイスポーツの一種で、パラグライディング(英: Paragliding)とも。厳密には、このスポーツの総称をパラグライディング、飛行するための機体一式をパラグライダーと区分することもある。国際航空連盟(FAI)のカテゴリーではハンググライダーの一種に分類されている。 パラグライダーの原型はドミーナ・ジャルバートが1964年に考案したパラフォイル(柔軟翼)である。 1966年4月に、登山家の三浦雄一郎が富士山での直滑降を行った際、ブレーキとしてパラシュートを使用した映像が関係者の目にとまりスポーツへの応用が考えられたという。スポーツとしてのパラグライダーは、1978年頃、フランスのスカイダイバーが山の斜面からスクエアーパラシュート(四角いパラシュート)で下りたのが始まりとされる。 日本で普及し始めたのは1986年から。当初は滑空性能が低くスキー場のゲレンデを斜面と並行に滑空を楽しむ程度のもので飛行時間にして約3〜5分程度であった。日本のファルフォーク社が楕円翼を採用して飛躍的に性能向上を計ることに成功してハンググライダーのようなソアリング(上昇気流による長時間フライト)が可能になった。その後、各社とも研究が進み性能の向上は続き、現在では一般のフライヤーでも2〜3時間の在空や地上2000m程度までの上昇ができる。 1988年に、NHK教育テレビで「パラグライダー講座」が放映され一般に知られるようになった。1992年12月28日に日本人パイロット峰岸正弘が南アフリカ共和国クルマン地区において当時としては驚異的な263.18kmの直線飛行に成功し世界記録を樹立した。1995年にはパラグライダー世界選手権が福岡県北九州市の平尾台でおこなわれ日本チームは地の利を生かし5位に入った。 競技者人口が1万人を超えたあたりからスカイスポーツというジャンルが確立されたとみなされ国民体育大会の競技種目に加わった。2008年から新たな取り組みとして、アジアオリンピック評議会、日本オリンピック委員会と連携しオリンピックの正式競技種目に向けての働き掛けが進られている。その一環としてアジアオリンピック評議会が主催する2008年第1回 バリ(インドネシア)アジアビーチ競技大会で競技種目に加えられた。2010年現在、北海道から沖縄まで約100か所のフライトエリアと1万524人(2010年度JHFフライヤー会員登録者正式登録数)の愛好家がいる。 パラグライダーの国際的な統括は、国際航空連盟の機関であるハングライディング及びパラグライディング委員会があたっている。日本では現在、公益社団法人日本ハング・パラグライディング連盟(以下JHF)が統括している。JHFは、かつては一般財団法人日本航空協会内の分科会であった。パラグライダーが日本に紹介された初期段階(1986年)からパラグライダーの発展と普及に寄与するとともに、安全性向上を目的とした指導員の育成、国際統一された適正技能証の発行および第三者賠償保険制度を目的としたJHFフライヤー登録制度などの環境整備が行われた。 日本のパラグライダー団体としてはJHFのほかに、特定非営利活動法人日本パラグライダー協会(以下JPA)という独自に考案した講習制度により活動する団体が存在する。2003年より活動を開始し、会員数は約1,000人程度、JPAエリアで有効なオリジナルライセンスを発行している。国際航空連盟や日本航空協会およびJHFといった団体との関係はない。JPAの詳細はwebページを参照されたい。 JHFとJPAの主な違いは、JHFではパイロット証取得後自由に日本各地のパラグライダーエリアに行く事が出来るが、JPAではスクールの許可が必要な点である。大会については、JHFでは適切な技能証があれば参加できるのに対し、JPAでは技能証とは別にスクールの推薦状が必要となる。 パラグライダーは、国際航空連盟ではクラス3(FAI Sub-class O-3 剛性の一次構造を持たないもの)のハンググライダーに分類されており、装備重量は20kg程度で、人間一人の力で持ち運べる。 パイロットは、ハーネスという装備に座り、左右の操縦索を手で操作して滑空する。パイロットは、まず風に正対して翼を地面に広げ、向い風で翼を真上に上げ、滑空状態にしてから離陸する。機体から6対1から10対1程度の滑空比が斜面の傾斜より浅いため、数メートル程度の助走で離陸する。上昇気流を利用しながら飛行を楽しんで、(多くの場合は)山の麓に用意してある着陸場に着陸する。巡航速度は36km/h程度。20km/hから60km/h程度(対気速度)の速度域で飛ぶことができる。着陸のときは、着陸場近くで高度処理をし、着陸点(ターゲット)へ、向かい風の下、フレアー操作とともに足から降りて着陸する。 飛行には気象条件が大きく影響し、雨のとき、風速6m/s以上の風が吹くとき、離陸場正面からの風が入らないとき、気流が大きく乱れているときなどは離陸しない様指導されている。 日本の航空法では航空機ではないため、国家資格は必要としないが、民間航空規約では航空機とされ、単独飛行に際しては、技術と知識が必要なため、スクールやクラブに入り、飛行技術と航空理論、法規および気象学の教習を受ける必要がある。実際に管理されたフライトエリアにおいてフライトするのには、JHFが発行する技能証(パイロット証)とフライヤー登録(第三者賠償責任保険)が有効でなければフライトすることはできない。おおむね運転免許証と自賠責保険の関係のようなものと理解してよい。また、海外でのフライトを行うには国際航空連盟が発行するIPPI技能証が必要となる。 日本国内では航空法に基づき、ハンググライダーまたはパラグライダーを飛行させる空域によっては、飛行させることが禁止される場合、または飛行させる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。また、小型無人機等飛行禁止法により、国の重要施設等と周辺の上空は飛行を禁止される場合がある。 JHFによると、1994年から5年間の死亡事故は平均で年1~6件。事故の起きるタイミングは多い順に、ランディング、墜落、テイクオフである。負傷部位は、下肢、腰椎がほとんどである。キャリア10年以上の愛好家の事故も増えており、技能に習熟したとしてもリスクは解消されない状況である。 競技人口が少ないため、日本の人口当たりの事故率は他のスポーツと比較して高くないが、競技人口当たりの事故率で考えれば非常に高くなるので注意が必要。また事故が起きた場合も、重篤な受傷になる危険性がある他、結果として送電線の給電を停めさせてしまうなど、社会インフラに重大な影響を発生させる可能性もあるため事前の慎重な検討、準備が必要とされるスポーツである。 パラグライダーは日本の国内法では法律上、航空機とはならず、法規制の対象外となり、国家資格は存在しない。しかし安全を管理し、フリーフライトの権利を維持継続するため、JHFによって国際的基準に基づいたライセンス制度を採用している。黎明期には多数のライセンスが乱立しその指導内容も統一性を欠く物であったが、当時の運輸省(現在の国土交通省)要請を受け財団法人日本航空協会の指導のもと1986年に国際航空連盟 (FAI)に準拠した日本ハング・パラグライディング連盟技能証に一旦集約された。しかし、法的拘束力のないものであったため、営利目的にライセンス発行事業を行う新規参入事業者のがその後も現れ1993年から1994年には、パラグライダースクール協会が2003年以降からは日本パラグライダー協会が協会独自基準によるオリジナルライセンスの発行業務を行っている。 1986年以降の新規参入ライセンス発行事業者: 国際航空連盟が発行するパラグライダーの資格は「国際パイロット技能証」である。各国毎で航空法は異なり、パラグライダーも航空機の一種類と定め国家資格としている国もあれば、日本の様に統括団体を設けて民間の自主ライセンスという形式をとるこにとより間接的な指導監督を行っている国もある。海外でフライトを希望するのであれば、国際航空連盟/国際ハング・パラグライディング委員会が発行する国際パイロット技能証を取得することが望ましいとされる。国際パイロット技能証を取得すると国際航空連盟に加盟する世界100以上の国々でフライトすることが可能となる。なお、日本国で国際パイロット技能証の技能証を発行する権限を移譲されているのは統括団体であるJHFのみである。JHF技能証は国際航空連盟/国際ハング・パラグライディング委員会が定める技能証規程に基づいて発行されるため、JHFへの書類申請のみで国際パイロット技能証を取得することができる。 JHFが発行するパラグライダーの資格。JHFは、このスポーツにおいて唯一国際的に有効な技能証発行機関である。JHFの技能証は国際航空連盟ハンググライディング委員会が定める技能証規程に基づいて検定が行われており、国際的に認められたライセンス証である。したがってJHFの技能証は、国際技能証と呼ばれる「IPPIカード」に書き替えることができる。また、FAIがカテゴリー1(世界選手権、ワールドエアゲームズなど)、カテゴリー2として認定する国際大会に日本代表として参加するためのスポーティングライセンス(一般財団法人日本航空協会が発行する)を得るには、JHF技能証が必須条件となる。実際の教習内容は、国際的に統一されたカリキュラムに沿って指導されており、週1日から2日のペースでパイロット証の習得までにおおむね3年程度かかるのが一般的である。 かつて、大手輸入代理店が中心になって立ち上げた“パラグライダースクール協会” が独自に発行していたパラグライダーの資格。しかし活動を停止しておりこのライセンスでフライト可能なエリアは非常に少なくなっている。 特定非営利活動法人日本パラグライダー協会が独自に発行するパラグライダーの資格。詳細は特定非営利活動法人日本パラグライダー協会ウェブサイトを参照。 JHFはレスキュパラシュートの正しい使用方法、ハーネスへのセッティング方法、リパック方法を普及させるためにレスキューパラシュートに関する技能認定証を発行している。技能検定会の受験資格は、JHFパイロット技能証以上の取得者で、継続的にレスキューパラシュートのリパックを実施し、過去一年以内に20個以上のリパック実績のある者とされ2010年現在で全国に100人以上の認定合格者がいる。 受験審査としてリパック実績ログの提出、試験内容としては実技検定と学科検定の二つが実施される。検定内容は国際航空連盟が定める国際レスキューパラシュートリパック規定を満たす必要がある。 日本の講習制度は、JHFによるものと茨城県のJPAによるスクール体制の2つがある。 フライヤー登録は、JHF発足時、日本航空協会の一分科会であった頃から続く自主規制の一環である。フライヤー登録には保険会社との保険契約が含まれており、すべてのフライヤー会員が保障の対象となるように、第三者賠償責任保険を契約している。 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パラグライダーは、スカイスポーツの一種で、パラグライディングとも。厳密には、このスポーツの総称をパラグライディング、飛行するための機体一式をパラグライダーと区分することもある。国際航空連盟(FAI)のカテゴリーではハンググライダーの一種に分類されている。
{{出典の明記|date=2011年6月}} [[File:An assisted para glider making a descent near Khel Gaon Resithang, Sikkim.jpg|300px|thumb|パラグライダー]] '''パラグライダー'''({{lang-en|paraglider}})は、[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]]の一種で、'''パラグライディング'''({{lang-en-short|Paragliding}})とも。厳密には、このスポーツの総称をパラグライディング、飛行するための機体一式をパラグライダーと区分することもある。[[国際航空連盟]](FAI)のカテゴリーでは[[ハンググライダー]]の一種に分類されている。 ==概要== [[Image:Img20040730_0302_at_neustift.jpg|thumb|パラグライダー]] パラグライダーの原型は[[ドミーナ・ジャルバート]]が1964年に考案した[[パラフォイル]](柔軟翼)である。 1966年4月に、登山家の[[三浦雄一郎]]が[[富士山]]での[[直滑降]]を行った際、ブレーキとして[[パラシュート]]を使用した映像が関係者の目にとまりスポーツへの応用が考えられたという<ref>{{Kotobank|三浦雄一郎|2=知恵蔵2015}}</ref>。スポーツとしてのパラグライダーは、1978年頃、フランスのスカイダイバーが[[山]]の斜面からスクエアーパラシュート(四角いパラシュート)で下りたのが始まりとされる。 ===日本=== 日本で普及し始めたのは1986年から。当初は滑空性能が低くスキー場のゲレンデを斜面と並行に滑空を楽しむ程度のもので飛行時間にして約3〜5分程度であった。日本の[[ファルフォーク]]社が楕円翼を採用して飛躍的に性能向上を計ることに成功してハンググライダーのようなソアリング(上昇気流による長時間フライト)が可能になった。その後、各社とも研究が進み性能の向上は続き、現在では一般のフライヤーでも2〜3時間の在空や地上2000m程度までの上昇ができる。 1988年に、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]で「パラグライダー講座」が放映され一般に知られるようになった。1992年12月28日に日本人パイロット峰岸正弘が南アフリカ共和国クルマン地区において当時としては驚異的な263.18kmの直線飛行に成功し世界記録を樹立した。1995年にはパラグライダー世界選手権が[[福岡県]][[北九州市]]の[[平尾台]]でおこなわれ日本チームは地の利を生かし5位に入った。 競技者人口が1万人を超えたあたりからスカイスポーツというジャンルが確立されたとみなされ国民体育大会の競技種目に加わった。2008年から新たな取り組みとして、[[アジアオリンピック評議会]]、[[日本オリンピック委員会]]と連携しオリンピックの正式競技種目に向けての働き掛けが進られている。その一環として[[アジアオリンピック評議会]]が主催する2008年[[2008年アジアビーチゲームズ|第1回 バリ(インドネシア)アジアビーチ競技大会]]で競技種目に加えられた。2010年現在、北海道から沖縄まで約100か所のフライトエリアと1万524人(2010年度JHFフライヤー会員登録者正式登録数)の愛好家がいる。 パラグライダーの国際的な統括は、[[国際航空連盟]]の機関であるハングライディング及びパラグライディング委員会があたっている。日本では現在、[[公益社団法人]][[日本ハング・パラグライディング連盟]](以下JHF)が統括している。JHFは、かつては[[一般財団法人]][[日本航空協会]]内の分科会であった。パラグライダーが日本に紹介された初期段階(1986年)からパラグライダーの発展と普及に寄与するとともに、安全性向上を目的とした指導員の育成、国際統一された適正技能証の発行および第三者賠償保険制度を目的としたJHFフライヤー登録制度などの環境整備が行われた。 日本のパラグライダー団体としてはJHFのほかに、[[特定非営利活動法人]]日本パラグライダー協会(以下JPA)という独自に考案した講習制度により活動する団体が存在する。2003年より活動を開始し、会員数は約1,000人程度、JPAエリアで有効なオリジナルライセンスを発行している。[[国際航空連盟]]や[[日本航空協会]]およびJHFといった団体との関係はない。JPAの詳細はwebページを参照されたい。 JHFとJPAの主な違いは、JHFではパイロット証取得後自由に日本各地のパラグライダーエリアに行く事が出来るが、JPAではスクールの許可が必要な点である。大会については、JHFでは適切な技能証があれば参加できるのに対し、JPAでは技能証とは別にスクールの推薦状が必要となる。 ==飛行方法== [[File:Parapente - 159.jpg|thumb|テイクオフ]] [[File:2016-09 Paragliding at the Mount Valin 07 (cropped).jpg|thumb|150px|left|装備]] [[File:Gleitschirmflieger qtl1.jpg|thumb|150px|left|装備]] [[File:Parapente.ogv|thumb|テイクオフ]] [[File:Mt-jiou-fight-spot.jpg|thumb|山の斜面に作られたパラグライダーの離陸ポイント]] パラグライダーは、国際航空連盟ではクラス3(FAI Sub-class O-3 剛性の一次構造を持たないもの)のハンググライダーに分類されており、装備重量は20kg程度で、人間一人の力で持ち運べる。 パイロットは、ハーネスという装備に座り、左右の操縦索を手で操作して滑空する。パイロットは、まず風に正対して翼を地面に広げ、向い風で翼を真上に上げ、滑空状態にしてから離陸する。機体から6対1から10対1程度の滑空比が斜面の傾斜より浅いため、数メートル程度の助走で離陸する。[[上昇気流]]を利用しながら飛行を楽しんで、(多くの場合は)山の麓に用意してある着陸場に着陸する。巡航速度は36km/h程度。20km/hから60km/h程度([[対気速度]])の速度域で飛ぶことができる。着陸のときは、着陸場近くで高度処理をし、着陸点(ターゲット)へ、向かい風の下、フレアー操作とともに足から降りて着陸する。 飛行には気象条件が大きく影響し、雨のとき、風速6m/s以上の風が吹くとき、離陸場正面からの風が入らないとき、気流が大きく乱れているときなどは離陸しない様指導されている。 日本の航空法では[[航空機]]ではないため、[[日本の乗り物に関する資格一覧#航空|国家資格]]は必要としないが、民間航空規約では航空機とされ、単独飛行に際しては、技術と知識が必要なため、スクールやクラブに入り、飛行技術と航空理論、法規および気象学の教習を受ける必要がある。実際に管理されたフライトエリアにおいてフライトするのには、JHFが発行する技能証(パイロット証)とフライヤー登録(第三者賠償責任保険)が有効でなければフライトすることはできない。おおむね運転免許証と自賠責保険の関係のようなものと理解してよい。また、海外でのフライトを行うには[[国際航空連盟]]が発行するIPPI技能証が必要となる。 日本国内では[[航空法]]に基づき、ハンググライダーまたはパラグライダーを飛行させる空域によっては、飛行させることが禁止される場合、または飛行させる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。また、[[小型無人機等飛行禁止法]]により、国の重要施設等と周辺の上空は飛行を禁止される場合がある。 {{see also|制限表面}} {{clear|left}} {{-}} ==安全性== {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em" |+<span style="font-size:small;">'''一般災害における事故(負傷)率'''<br>(平成13年度警察白書2000年度統計)</span> |- |道路交通事故||9.1×10<sup>-3</sup> |- |山登り||5.0×10<SUP>-6</SUP> |- |船舶事故||1.4×10<sup>-6</sup> |- |モーターボート||3.5×10<sup>-7</sup> |- style="background-color:yellow;" |パラグライダー||2.0×10<sup>-7</sup> |- |航空機事故||1.8×10<sup>-7</sup> |- |スクーバーダイビング||7.8×10<sup>-8</sup> |- |ハンググライダー||4.7×10<sup>-8</sup> |} JHFによると、1994年から5年間の死亡事故は平均で年1~6件。事故の起きるタイミングは多い順に、ランディング、墜落、テイクオフである。負傷部位は、下肢、腰椎がほとんどである。キャリア10年以上の愛好家の事故も増えており、技能に習熟したとしてもリスクは解消されない状況である。 競技人口が少ないため、日本の人口当たりの事故率は他のスポーツと比較して高くないが、競技人口当たりの事故率で考えれば非常に高くなるので注意が必要。また事故が起きた場合も、重篤な受傷になる危険性がある他、結果として送電線の給電を停めさせてしまうなど、社会インフラに重大な影響を発生させる可能性もあるため事前の慎重な検討、準備が必要とされるスポーツである。 ==資格(日本)== パラグライダーは日本の国内法では法律上、航空機とはならず、法規制の対象外となり、国家資格は存在しない。しかし安全を管理し、フリーフライトの権利を維持継続するため、JHFによって国際的基準に基づいたライセンス制度を採用している。黎明期には多数のライセンスが乱立しその指導内容も統一性を欠く物であったが、当時の運輸省(現在の国土交通省)要請を受け[[財団法人]][[日本航空協会]]の指導のもと1986年に[[国際航空連盟]] (FAI)に準拠した[[日本ハング・パラグライディング連盟]]技能証に一旦集約された。しかし、法的拘束力のないものであったため、営利目的にライセンス発行事業を行う新規参入事業者のがその後も現れ1993年から1994年には、パラグライダースクール協会が2003年以降からは日本パラグライダー協会が協会独自基準によるオリジナルライセンスの発行業務を行っている。 1986年以降の新規参入ライセンス発行事業者: *1992年〜1994年 - パラグライダースクール協会 現在活動停止 *2003年〜 - 日本パラグライダー協会 ===IPPI技能証=== [[国際航空連盟]]が発行するパラグライダーの資格は「国際パイロット技能証」である。各国毎で航空法は異なり、パラグライダーも航空機の一種類と定め国家資格としている国もあれば、日本の様に統括団体を設けて民間の自主ライセンスという形式をとるこにとより間接的な指導監督を行っている国もある。海外でフライトを希望するのであれば、[[国際航空連盟]]/国際ハング・パラグライディング委員会が発行する国際パイロット技能証を取得することが望ましいとされる。国際パイロット技能証を取得すると[[国際航空連盟]]に加盟する世界100以上の国々でフライトすることが可能となる。なお、日本国で国際パイロット技能証の技能証を発行する権限を移譲されているのは統括団体であるJHFのみである。JHF技能証は[[国際航空連盟]]/国際ハング・パラグライディング委員会が定める技能証規程に基づいて発行されるため、JHFへの書類申請のみで国際パイロット技能証を取得することができる。 ===JHF技能証=== JHFが発行するパラグライダーの資格。JHFは、このスポーツにおいて唯一国際的に有効な技能証発行機関である。JHFの技能証は国際航空連盟ハンググライディング委員会が定める技能証規程に基づいて検定が行われており、国際的に認められたライセンス証である。したがってJHFの技能証は、国際技能証と呼ばれる「IPPIカード」に書き替えることができる。また、FAIがカテゴリー1(世界選手権、ワールドエアゲームズなど)、カテゴリー2として認定する国際大会に日本代表として参加するためのスポーティングライセンス([[一般財団法人]][[日本航空協会]]が発行する)を得るには、JHF技能証が必須条件となる。実際の教習内容は、国際的に統一されたカリキュラムに沿って指導されており、週1日から2日のペースでパイロット証の習得までにおおむね3年程度かかるのが一般的である。 ;JHF-練習生A級 :単独にてパラグライダーの機材を扱え、指定された方向に直線飛行が出来る。機材や専門用語などについて簡単な学科検定が課される。 ;JHF-練習生B級 :単独にて左右180度旋回ができ、着陸することができる。ソアリングの練習を始められる。パラグライダーについての基礎的な理解を問う学科検定が課される。 ;JHF-ノービスパイロット証 :NP証。単独にて左右360度旋回ができ、指定地(半径20m以内)に着陸することができる。ピッチング、ローリングをコントロールすることができる。パラグライダーについての理解や気象についての学科試験が課される。 ;JHF-パイロット証 :P証。ソアリングできる飛行技能および、指定されたエリアルールや気象条件に適合する飛行をすることができる。パラグライダーに関連する航空法規、気象、構造を問う学科試験が課される。P証でスクールを卒業。国際技能証(IPPIカード)に書き換えることで、世界中のエリアを飛ぶことが出来る。一部を除くジャパンリーグに出場可能。 ;JHF-タンデム証 :2人乗りのパラグライダーを安全に操縦することができる。 ;JHF-クロスカントリー証 :XC証航空法規に合わせ、クロスカントリー飛行をする能力を有する。クロスカントリー飛行に必要な気象、法規、航空交通などの学科試験が課される。ジャパンリーグに出場可能。 ;JHF-助教員 ;JHF-教員 ===PSA技能証=== かつて、大手輸入代理店が中心になって立ち上げた“パラグライダースクール協会” が独自に発行していたパラグライダーの資格。しかし活動を停止しておりこのライセンスでフライト可能なエリアは非常に少なくなっている。 ===JPA技能証=== [[特定非営利活動法人]]日本パラグライダー協会が独自に発行するパラグライダーの資格。詳細は特定非営利活動法人日本パラグライダー協会ウェブサイトを参照。 ==JHFレスキューパラシュートリパック認定証== JHFはレスキュパラシュートの正しい使用方法、ハーネスへのセッティング方法、リパック方法を普及させるためにレスキューパラシュートに関する技能認定証を発行している。技能検定会の受験資格は、JHFパイロット技能証以上の取得者で、継続的にレスキューパラシュートのリパックを実施し、過去一年以内に20個以上のリパック実績のある者とされ2010年現在で全国に100人以上の認定合格者がいる。 受験審査としてリパック実績ログの提出、試験内容としては実技検定と学科検定の二つが実施される。検定内容は[[国際航空連盟]]が定める国際レスキューパラシュートリパック規定を満たす必要がある。 ==講習制度(日本)== 日本の講習制度は、JHFによるものと茨城県のJPAによるスクール体制の2つがある。 ;[[公益社団法人]][[日本ハング・パラグライディング連盟]]公認スクール :JHFが発行する「JHF教員技能証」を保持しているインストラクターが[[国際航空連盟]]ハンググライディング及びパラグライディング委員会技能証規程に基づいて運営するスクールである。 :*公益社団法人に関する規定により、特定の者に対する利益供与が行えないため、、JHFが直営するスクールは存在しない。 ;特定非営利活動法人日本パラグライダー協会公認スクール :JPAが独自に考案し提唱する講習制度で運営されるスクールである。 ==フライヤー登録== フライヤー登録は、JHF発足時、[[日本航空協会]]の一分科会であった頃から続く自主規制の一環である。フライヤー登録には保険会社との保険契約が含まれており、すべてのフライヤー会員が保障の対象となるように、第三者賠償責任保険を契約している。 管理されたフライトエリアでフライトするにあたって登録は必須条件である。また、JHFフライヤーは、フライヤー登録、技能証、機材の安全性について管理運営する義務を自らに課す。 ==競技== 競技会としては[[国民体育大会]]の競技種目としてや[[日本オリンピック委員会]][[アジアオリンピック評議会]]が主催する国際総合競技大会 / [[アジアビーチ競技大会]]の競技種目として行われるもの、JHFが主催し[[日本航空協会]]公認記録として記録されるジャパンリーグ、スポーツグライダーシリーズ など公式大会。[[国際航空連盟]]主催による世界選手権やアジア選手権など国際大会がある。これら公式大会の大会運営には日本の統括団体であるJHFが当たっている。 その他にフライトエリア主催よる草大会や、JPA主催によりJPA会員のみで行う独自の競技会及びJPAが積極的に協力しているPWCなどがある。 JPA主催競技会やPWCについては、JPAのwebサイトを参照されたい。 ===競技の種類=== ;ターゲット(アキュラシー) :ランディングの精度を競う競技。地上に書かれた同心円状のターゲットの中心を狙う。初心者も参加することができる。 ;パイロン競技 :ある決められた地上の目標を、決められた順番に巡回し、その時間(早くゴールした者に高得点が与えられる。途中リードしたものにも加点される)やゴールできなかったグループには、達成度(達成距離に応じて配点)を競う競技。判定には携帯型GPSやカメラが用いられる。最近ではGPSが主流となってきた。競技をするには高い技能と深い知識が必要なため、主に上級者が行う。クロスカントリー飛行を伴うため、クロスカントリー技能証は必須となる。 ;キャッツクレイドル :あらかじめ決められたパイロンを繋いで、最も長い距離を飛ぶことを競う。上級者向けの競技。 ;ゴールタスク :遠方に設置されたゴールへの到達を競う。上級者向けの競技。 ;セットタイム :あらかじめ決めた飛行時間通り正確に飛行することを競う。初心者も参加可能。 ;デュレーション: :滞空時間を競う競技。山肌を上昇する風や地表で暖められ発生した上昇気流を利用して、できるだけ長く飛ぶ。中級者も参加可能。 ;爆弾落とし :地上に設定されたターゲットに「爆弾」と称する(多くの場合)カラーボールを落とし、その精度を競う競技。ターゲット上空の風を読むことが重要である。 ;アクロバティック :さまざまなトリックを行い、その技と精度を競う競技。日本ではまだ正式な競技として行われてはいないが、世界的にはアクロバット飛行を目指すパイロットは近年急激な増加傾向がみられる。 ===記録=== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! !世界記録<div style="font-size:small">(2005年3月現在FAI公認記録)</div> !日本記録<div style="font-size:small">(2005年3月現在(財)日本航空協会公認記録)</div> |- !直線距離 |'''423.4 km''' *日付:2002年6月21日 *パイロット:William GADD([[カナダ]]) *コース:[[アメリカ合衆国|米]][[テキサス州]]Zapata - South of Ozona *機体:Gin Boomerang Superfly |'''263.18 km''' *日付:1992年12月28日 *パイロット:峰岸正弘([[東京都|東京]]) *コース:[[南アフリカ共和国]]クルマン地区 *使用機体:UP International KATANA FR51 |- !アウトアンドリターン |'''213.8 km''' *日付:2003年6月12日 *パイロット:Primoz SUSA([[スロベニア]]) *コース:Soriska Planina(スロベニア) *機体:Gradient Avax RSE |'''182.48 km''' *日付:1992年12月28日 *パイロット:峰岸正弘(東京) *コース:南アフリカ共和国クルマン地区 *機体:UP International KATANA FR49 |- !獲得高度 |'''4,526 m''' *日付:1993年1月6日 *パイロット:Robbie WHITTALL([[イギリス]]) *コース:Brandvlei(南アフリカ) *機体:Firebird Navajo Proto |'''4,548 m''' *日付:1996年1月1日 *パイロット:峰岸正弘(東京) *コース:南アフリカ共和国クルマン地区 *機体:エアーウェーブ アルトXM |} ===日本人選手の成績=== {|class class=wikitable style="font-size:small" !style="white-space:nowrap"|選手の名前 !style="white-space:nowrap"|性別 !style="white-space:nowrap"|記録 |- |style="white-space:nowrap"|岩崎拓夫 |男性 | *パラグライディング ジャパンリーグ 2017年総合優勝<ref name="jleague">{{Cite web|和書|url=http://pgc.hangpara.jp/index.php/jleague/ranking/2017|title=2017ジャパンリーグランキング|accessdate=2018-12-4}}</ref> *2018年 ジャカルタ アジア大会 クロスカントリー団体男子 金メダル<ref name="gold medal">{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/games/asia/2018/japan/winnerslist/|title=JOC日本選手団メダリスト|accessdate=2018-12-6}}</ref> |- |style="white-space:nowrap"|[[扇澤郁]] |男性 | *パラグライディング ジャパンリーグ 総合優勝(1991年、1992年、1998年、1999年、2000年) *パラグライディング日本選手権 優勝(1994年、2003年) *パラグライディング世界選手権に日本代表として連続出場(1993年、1995年、1997年、1999年、2001年、2003年) *パラグライディングワールドカップ 4位入賞(2007年茨城大会、1995年フランス大会) *2007年 [[レッドブル X-Alps]] 2007 5位入賞 |- |style="white-space:nowrap"|川地正孝 |男性 | *2003年 第8回世界選手権(ポルトガル)第3位 *2004年 第1回アジア選手権(韓国)優勝 |- |style="white-space:nowrap"|辻強 |男性 | *2000年 ワールドカップスペイン 優勝 *2003年 フランス選手権 3位 |- |style="white-space:nowrap"|田中美由喜 |女性 | *1988年 ヨーロッパ選手権(フランス)女子3位 *1991年 世界選手権(フランス)女子2位 *1993年 世界選手権(スイス)女子3位 *1995年 世界選手権(日本)女子2位 *1996年 ワールドカップスペイン・女子1位 *2001年 世界選手権(スペイン)女子3位 |- |style="white-space:nowrap"|神山和子 |女性 | *2000年 ワールドカップブラジル・女子優勝 |- |style="white-space:nowrap"|平木啓子 |女性 | *2004年 第一回アジア選手権・女子3位 *2009年 ワールドカップスーパーファイナル・女子優勝 *2018年 ジャカルタ アジア大会 クロスカントリー団体女子 銀メダル<ref name="silver medal">{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/games/asia/2018/japan/winnerslist/|title=JOC日本選手団メダリスト|accessdate=2018-12-6}}</ref> |- |style="white-space:nowrap"|福岡聖子 |女性 | *2008年 アクロバティック ワールドカップファイナルランキング・男女総合8位、女子1位 |- |style="white-space:nowrap"|山下敦子 |女性 | *2017年 世界選手権(セルビア)女子1位<ref name="PWCA">{{Cite web|url=http://www.pwca.org/node/33662|title=PWCA|accessdate=2018-12-5}}</ref> *2018年 ジャカルタ アジア大会 クロスカントリー団体女子 銀メダル<ref name="silver medal"/> *2018年 パラグライディング ジャパンリーグ女子総合優勝<ref name="japan league">{{Cite web|和書|url=http://pgc.hangpara.jp/index.php/jleague/ranking|title=2018年ジャパンリーグランキング|accessdate=2018-12-6}}</ref> |} ==メーカー== 2021年現在、日本メーカーはない。以前、FALHAWKがパラグライダーの開発・販売を行っていた。また、第一興商が、かつてUPとパラグライダーの販売をしていたこともある。 <!--メーカーの外部リンク集にしない[[WP:EL]]--> *ADVANCE(スイス) *Aerodyne(フランス) *Airwave(オーストリア) *APCO(イスラエル) *AXIS(チェコ) *BGD(オーストリア) *FALHAWK Co Ltd(日本) *Flight Design(ドイツ) *Flow(オーストラリア) *FreeX(ドイツ) *GIN(韓国) *GRADIENT S.R.O.(チェコ) *ICARO(ドイツ) *INDEPENDENCE(ドイツ) *ITV(フランス) *KGS(日本) *NOVA(オーストリア) *OXY WING(現OVAL THREE LTD.) *OZONE(フランス) *RIPPLE(日本) *Sky Paragliders(日本) *Skywalk(ドイツ) *SOL(ブラジル) *Sungliders(韓国) *SWING(ドイツ) *TEAM 5(オーストリア) *UP(ドイツ) *U-Turn(ドイツ) *WIND VALLEY Ltd *Windtech(スペイン) *Wings of Change(ドイツ) *[[第一興商]](関連事業部 スカイレジャー課、閉鎖; 日本) *[[藤倉航装|FUJIKURA(藤倉航装)]](日本) *株式会社カシヤマ(日本) *ケンベック(日本) *小林重力研究所 *ザクト (ZACT) *ジール(日本) *ストームワークス(日本) *たかとり(日本) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== *[[グライダー]] - 固定翼を持った機体に搭乗して飛行する。 *[[パラモーター]] - パラグライダーの装備に加え背中に[[航空用エンジン|エンジン]]とファンを着けて飛行する。モーターパラグライダー、パワードパラグライダーともいう。 *[[パラセーリング]] - 水上でモーターボートに牽引されて飛行する。[[北海道]]では雪上・氷上を[[スノーモビル]]に牽引されて飛行できる場所もある。 *[[カイトサーフィン|カイトボード]] - パラカイトを用いて水上を滑る。 *[[ハンググライダー]] - パイプに丈夫な生地を張った構造の機体に吊り下がって飛行する。ハンググライディングともいう。 *[[ウイングスーツ]] - ムササビのように腕と体や両足の間に幕があるスカイダイビングスーツ *[[スカイスポーツで使われている無線]] ==外部リンク== {{Commons&cat|Paragliding}} *[http://www.fai.org/hang_gliding/ FAI Hang Gliding & Paragliding Commission - CIVL] *[http://www.aero.or.jp/ 一般財団法人日本航空協会] *[http://jhf.hangpara.or.jp/ 公益社団法人日本ハング・パラグライディング連盟] *[http://www.jpa-pg.jp/ 特定非営利活動法人日本パラグライダー協会] *[http://www.para2000.org/ P@r@2000 - パラグライダーデーターベース] {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} [[Category:スカイスポーツ|はらくらいた]] [[Category:グライダー|*]]
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パドルスポーツ
パドルスポーツ(英語: paddling sports)は、パドル(船に固定しない櫂)を用いるスポーツ・レジャーの総称。淡水・海水の別は問わない。
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パドルスポーツは、パドル(船に固定しない櫂)を用いるスポーツ・レジャーの総称。淡水・海水の別は問わない。
{{複数の問題|特筆性=2022年12月21日 (水) 22:39 (UTC)|出典の明記=2022年12月21日 (水) 22:39 (UTC)}} '''パドルスポーツ'''(英語: '''paddling sports''')は、[[パドル]](船に固定しない[[櫂]])を用いる[[スポーツ]]・[[余暇|レジャー]]の総称。[[淡水]]・[[海水]]の別は問わない。 == 種類 == * [[カヌー]] * [[カヤック]] ** [[リバーカヤック]] ** [[シーカヤック]] *** {{仮リンク|サーフカヤック|en|Surf kayaking|redirect=1}} *** {{仮リンク|サーフスキー|en|Surf ski}} *** [[ウェイブスキー]] *** {{仮リンク|フィッシングカヤック|en|Kayak fishing}} * [[ラフティング]] * [[ドラゴンボート]] * [[スタンドアップパドルボード]] * {{仮リンク|パックラフト|en|Packraft}} == 関連項目 == * [[日本セーフティパドリング協会]] {{DEFAULTSORT:はとるすほおつ}} [[Category:カヌー|*はとるすほおつ]] [[Category:カヤック|*はとるすほおつ]] [[Category:ウォータースポーツ]] [[Category:野外活動]] {{sports-stub}}
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ファンタジー作家一覧
ファンタジー作家一覧は、ファンタジー作家の五十音順の一覧である。 中国 韓国 台湾
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ファンタジー作家一覧は、ファンタジー作家の五十音順の一覧である。
'''ファンタジー作家一覧'''は、[[ファンタジー]]作家の五十音順の一覧である。 == 日本 == === あ行 === * [[秋田禎信]] * [[浅倉卓弥]] * [[浅葉なつ]] * [[阿部智里]] * [[天沢退二郎]] * [[庵野ゆき]] * [[井辻朱美]] * [[伊藤英彦]] * [[乾石智子]] * [[井上祐美子]] * [[上橋菜穂子]] * [[榎田ユウリ]] * [[遠藤文子]] * [[円堂豆子]] * [[岡崎弘明]] * [[荻原規子]] * [[小沢章友]] * [[乙一]] * [[小野不由美]] * [[恩田陸]] === か行 === * [[鏡貴也]] * [[加地尚武]] * [[柏葉幸子]] * [[粕谷知世]] * [[風羽洸海]] * [[賀東招二]] * [[壁井ユカコ]] * [[神坂一]] * [[茅田砂胡]] * [[川添愛]] * [[喜多みどり]] * [[北沢慶]] * [[清松みゆき]] * [[金蓮花]] * [[久美沙織]] * [[栗本薫]] * [[久保寺健彦]] * [[香月日輪]] * [[神月摩由璃]] * [[五代ゆう]] * [[小林弘利]] * [[小林めぐみ]] * [[今野緒雪]] === さ行 === * [[雑賀礼史]] * [[斉藤直子]] * [[斉藤洋|斎藤洋]] * [[冴木忍]] * [[榊一郎]] * [[酒見賢一]] * [[佐藤亜紀]] * [[佐藤さくら]] * [[佐藤暁]]([[佐藤さとる]]) * [[沢村凜|沢村凛]] * [[椎野美由貴]] * [[篠崎砂美]] * [[篠月美弥]] * [[篠原悠希]] * [[芝田勝茂]] * [[縞田理理]] * [[志村一矢]] * [[白川紺子]] * [[白鷺あおい]] * [[白洲梓]] * [[須賀しのぶ]] * [[菅浩江]] * [[菅野雪虫]] * [[鈴森琴]] * [[瀬尾七重]] * [[妹尾ゆふ子]] === た行 === * [[高里椎奈]] * [[高瀬美恵]] * [[高田大介]] * [[高殿円]] * [[高畑京一郎]] * [[喬林知]] * [[高千穂遙]] * [[鷹見一幸]] * [[竹河聖]] * [[多崎礼]] * [[立原えりか]] * [[たつみや章]] * [[田中芳樹]] * [[谷瑞恵]] * [[柘植めぐみ]] * [[恒川光太郎]] * [[津守時生]] * [[鴇澤亜妃子]] * [[友野詳]] * [[豊田巧]] === な行 === * [[中村うさぎ]] * [[流星香]] * [[梨木香歩]] * [[鳴海丈]] * [[仁木英之]] * [[西崎憲]] === は行 === * [[花田一三六]] * [[浜たかや]] * [[日向理恵子]] * [[氷室冴子|ひかわ玲子]] * [[広井王子]] * [[廣嶋玲子]] * [[深沢美潮]] * [[古川日出男]] * [[紅玉いづき]] === ま行 === * [[前田珠子]] * [[麻城ゆう]] * [[松原秀行]] * [[松村栄子]] * [[松本祐子 (小説家)|松本祐子]] * [[円山夢久]] * [[三浦真奈美]] * [[三川みり]] * [[水野良]] * [[光原百合]] * [[皆川ゆか]] * [[宮沢賢治]] * [[宮部みゆき]] * [[向山貴彦]] * [[森岡浩之]] * [[森山光太郎]] === や行 === * [[安井健太郎]] * [[大和真也]] * [[山本弘 (作家)|山本弘]] * [[雪乃紗衣]] * [[夢枕獏]] * [[横山充男]] === ら行 === * [[寮美千子]] === わ行 === == アジア == 中国 * [[墨香銅臭]] 韓国 * [[ドラゴンラージャ|イ・ヨンド]] * [[チェ・ジイン]] * [[チョン・ミンヒ]] * [[ハ・ジウン]] 台湾 * [[久遠 (小説家)|久遠]](くおん) == 欧米豪波 == === ア行 === * [[キャサリン・アーデン]] * [[ロバート・アスプリン]] * [[リチャード・アダムス]] * [[キャサリン・アディスン]] * [[ロイド・アリグザンダー]] * [[ピアズ・アンソニイ]] * [[ポール・アンダースン]] * [[ラルフ・イーザウ]] * [[ジャック・ヴァンス]] * [[タッド・ウィリアムズ]] * [[エヴァンジェリン・ウォルトン]] * [[ジーン・ウルフ]] * [[ヴィクトリア・エイヴヤード]] * [[ジョーン・エイキン]] * クリス・エヴァンズ * [[デイヴィッド・エディングス]] * [[スティーヴン・エリクスン]] * [[ミヒャエル・エンデ]] === カ行 === * [[リン・カーター]] * [[キャサリン・カーツ]] * [[オースン・スコット・カード]] * [[アラン・ガーナー]] * [[エレン・カシュナー]] * [[ジェーン・ギャスケル]] * [[ゲイル・キャリガー]] * [[ランドル・ギャレット]] * [[ジョナサン・キャロル]] * [[ルイス・キャロル]] * [[スティーヴン・キング]] * [[スーザン・クーパー]] * [[テリー・グッドカインド]] * [[スザンナ・クラーク]] * [[ケン・グリムウッド]] * [[エドワード・ケアリー]] * [[ジャクリーン・ケアリー]] * [[ガイ・ゲイブリエル・ケイ]] * [[ニール・ゲイマン]] * [[オーエンズ・コルファー]] * [[クリス・コルファー]] === サ行 === * [[ローズマリー・サトクリフ]] * [[アンドレイ・サプコフスキ]] * [[ソフィア・サマター]] * [[R.A.サルバトーレ]] * [[ブランドン・サンダースン]] * [[マイクル・シェイ]] * [[ルーシャス・シェパード]] * [[N・K・ジェミシン]] * [[マージェリー・シャープ]] * [[ルイス・シャイナー]] * [[ダレン・シャン]] * [[パトリック・ジュースキント]] * [[ロバート・ジョーダン]] * [[ダイアナ・ウィン・ジョーンズ]] * [[シャンナ・スウェンドソン]] * [[ジョナサン・ストラウド]] * [[ピーター・ストラウブ]] * [[マリア・V・スナイダー]] * [[ナンシー・スプリンガー]] * [[ウェン・スペンサー]] * [[クラーク・アシュトン・スミス]] * [[ロジャー・ゼラズニイ]] === タ行 === * [[メーガン・ウェイレン・ターナー]] * [[クリス・ダレーシー]] * [[デイヴ・ダンカン]] * [[ロード・ダンセイニ]] * [[ヤンシィー・チュウ]] * [[ピーター・ディキンソン]] * [[ゴードン・R・ディクスン]] * [[L・スプレイグ・ディ=キャンプ]] * [[J・R・R・トールキン]] * [[ステファン・ドナルドソン]] * [[パメラ・トラバース]] === ナ行 === * [[ラリー・ニーヴン]] * [[ガース・ニクス]] * [[キム・ニューマン]] * [[ロバート・ネイサン]] * [[イーディス・ネズビット]] * [[アンドレ・ノートン]] * [[ナオミ・ノヴィク]] === ハ行 === * [[クライヴ・バーカー]] * [[フランシス・ハーディング]] * [[ケヴィン・ハーン]] * [[クリストファー・パオリーニ]] * [[C・S・パキャット]] * [[ジェームス・マシュー・バリー]] * [[ロバート・E・ハワード]] * [[ニール・ハンコック]] * [[アショーカ・バンカー]] * [[バーバラ・ハンブリー]] * [[マーヴィン・ピーク]] * [[ピーター・S・ビーグル]] * [[トレイシー・ヒックマン]] * [[L・M・ビジョルド]] * [[バリー・ヒューガート]] * [[レイモンド・E・フィースト]] * [[キャサリン・フィッシャー]] * [[ジャック・フィニイ]] * [[イーデン・フィルポッツ]] * [[アラン・ディーン・フォスター]] * [[ジム・ブッチャー]] * [[リイ・ブラケット]] * [[テリー・プラチェット]] * [[マリオン・ジマー・ブラッドリー]] * [[ジョン・フラナガン (作家)|ジョン・フラナガン]] * [[クリストファー・プリースト]] * [[アルフ・プリョイセン]] * [[テリー・ブルックス]] * [[フィリップ・プルマン]] * [[オリヴィー・ブレイク]] * [[ジェイムズ・P・ブレイロック]] * [[コルネーリア・フンケ]] * [[エリザベス・ヘイドン]] * [[ミシェル・ペイヴァー]] * [[ハンス・ベンマン]](Hans Bemmann) :「石と笛」 Stein und Flote * [[チャーリー・N・ホームバーグ|チャーリー・N・ホームバーク]] * [[ライマン・フランク・ボーム]] * [[ロビン・ホブ]] * [[T・H・ホワイト]] * [[ワルデマル・ボンゼルス]] * [[マイケル・ボンド]] === マ行 === * [[ダイアナ・マーセラス]] * [[ジョージ・R・R・マーティン]] * [[マーガレット・マーヒー]] * [[パット・マーフィー]] * [[カイ・マイヤー]] * [[R・A・マカヴォイ]] * [[アン・マキャフリイ]] * [[パトリシア・A・マキリップ]] * [[ジョージ・マクドナルド]] * [[ショーニン・マグワイア]] * [[リチャード・マシスン]] * [[ロビン・マッキンリイ]] * [[ソフィー・オドゥワン=マミコニアン]] * [[タムシン・ミュア]] * [[A・A・ミルン]] * [[ヴァルター・メアス]](Walter Moers):キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生 * [[A・メリット]] * [[マイケル・ムアコック]] * [[O・R・メリング]] * [[ウィリアム・モリス]] === ヤ行 === * [[トーベ・ヤンソン]] * [[ジェイン・ヨーレン]] * [[ルーネル・ヨンソン]] === ラ行 === * [[セルマ・ラーゲルレーヴ]] * [[アンソニー・ライアン]] * [[アン・ライス]] * [[パトリシア・ライトソン]] * [[フリッツ・ライバー]] * [[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]] * [[エリック・ヴァン・ラストベーダー]] * [[マーセデス・ラッキー]] * [[タニス・リー]] * リック・リオーダン * [[ランサム・リグズ]] * [[エリザベス・A・リン]] * [[デイヴィッド・リンゼイ]] * [[チャールズ・デ・リント]] * [[アストリッド・リンドグレーン]] * [[C・S・ルイス]] * [[J・K・ローリング]] * [[パトリック・ロスファス]] * [[エミリー・ロッダ]] * [[ヒュー・ロフティング]] * [[アーシュラ・K・ル=グウィン]] === ワ行 === * [[マーガレット・ワイス]] == 関連項目 == [[人名一覧]] - [[小説家]] [[Category:小説家一覧|ふたんたしいさつか]] [[Category:ファンタジー作家|*いちらん]]
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カヌースプリント
カヌースプリント(英語: canoe sprint)は、カヌー競技の種目の一つ。静水(つまり、流れのない河川・池・湖、稀に海の場合も)にコースを設置し、その区間内でのタイムを競う。使用する艇によりカナディアンとカヤック、乗組員数によりシングル・ペア・フォアの区別がある。2009年4月1日に競技名が現在の名称に変更される以前は、フラットウォーターレーシング(Flatwater Racing、略号: FWR)と呼ばれていた。 タイムトライアルであるスラロームやワイルドウォーターとは違い、複数艇(原則として9艇)が一斉にスタートしてその着順を競う。途中で転覆した場合は失格となるが、船首がフィニッシュラインを通過した時点でゴールとなるため、ゴール直後に転覆しても問題ない。 2004年のアテネオリンピックでは、男子がカヤックシングル、カヤックペア、カヤックフォア、カナディアンシングル、カナディアンペアが(カヤックフォアは1000mのみ、その他は500mと1000m)、女子はカヤックのシングル・ペア・フォア(すべて500mのみ)が実施された。 大会などのスタートの合図は以前は、「Start within ten seconds...(10秒以内にスタートしなさい)」という独特のアナウンスだったが、2011年度より「Ready set go」となった。 陸上競技における「On your mark」と「Ready」はほぼ等しく、「Set」のアナウンスがあると選手はパドルを構え、スタートの準備をし、「Go」で一斉に発艇する。 日本では、フラットウォーターレーシングの盛んなヨーロッパ諸国に比べて、大きくて流れのほとんどない河川・池・湖などが少なく、急流が多いうえ、競技人口も少ないため、フラットウォーターレーシングという競技はあまり知られていない。先述したように、大きな河川などがあまりないため、日本で行われる大会では500mもしくは200mのタイムを競うものが一般的である。
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カヌースプリントは、カヌー競技の種目の一つ。静水(つまり、流れのない河川・池・湖、稀に海の場合も)にコースを設置し、その区間内でのタイムを競う。使用する艇によりカナディアンとカヤック、乗組員数によりシングル・ペア・フォアの区別がある。2009年4月1日に競技名が現在の名称に変更される以前は、フラットウォーターレーシングと呼ばれていた。
{{出典の明記|date=2018年1月}} '''カヌースプリント'''({{lang-en|canoe sprint}})は、[[カヌー]]競技の種目の一つ。静水(つまり、流れのない[[川|河川]]・[[池]]・[[湖]]、稀に[[海]]の場合も)にコースを設置し、その区間内でのタイムを競う。使用する艇により[[カナディアンカヌー|カナディアン]]と[[カヤック]]、乗組員数によりシングル・ペア・フォアの区別がある。2009年4月1日に競技名が現在の名称に変更される以前は、'''フラットウォーターレーシング'''(Flatwater Racing、略号: FWR)と呼ばれていた。 == 概要 == タイムトライアルである[[カヌースラローム|スラローム]]や[[ワイルドウォーター]]とは違い、複数艇(原則として9艇)が一斉にスタートしてその着順を競う。途中で転覆した場合は失格となるが、船首がフィニッシュラインを通過した時点でゴールとなるため、ゴール直後に転覆しても問題ない。 [[2004年アテネオリンピック|2004年のアテネオリンピック]]では、男子がカヤックシングル、カヤックペア、カヤックフォア、カナディアンシングル、カナディアンペアが(カヤックフォアは1000mのみ、その他は500mと1000m)、女子はカヤックのシングル・ペア・フォア(すべて500mのみ)が実施された。 大会などのスタートの合図は以前は、'''「Start within ten seconds…(10秒以内にスタートしなさい)」'''という独特のアナウンスだったが、2011年度より'''「Ready set go」'''となった。 [[陸上競技]]における'''「On your mark」'''と'''「Ready」'''はほぼ等しく、'''「Set」'''のアナウンスがあると選手は[[パドル]]を構え、スタートの準備をし、'''「Go」'''で一斉に発艇する。 == 日本におけるフラットウォーターレーシング == 日本では、フラットウォーターレーシングの盛んなヨーロッパ諸国に比べて、大きくて流れのほとんどない河川・池・湖などが少なく、[[急流]]が多いうえ、競技人口も少ないため、フラットウォーターレーシングという競技はあまり知られていない。先述したように、大きな河川などがあまりないため、日本で行われる大会では500mもしくは200mのタイムを競うものが一般的である。 == 外部リンク == * [https://www.canoeicf.com/discipline/canoe-sprint CANOE SPRINT] - [[国際カヌー連盟]] (ICF) による競技紹介ページ{{en icon}} * [https://www.canoe.or.jp/disciplines/sprint/ カヌースプリント] - [[日本カヌー連盟]] (JCF) による競技紹介ページ {{sports-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かぬうすふりんと}} [[Category:カヌー]] [[Category:オリンピック競技]]
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ローズマリー・サトクリフ
ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff、1920年12月14日 - 1992年7月23日)は、イギリスの歴史小説・ファンタジー小説家。20世紀イギリスを代表する児童文学作家、歴史小説家と評される。足に障害があり、生涯を通して病と闘い車椅子で生活した。 1950年にプロ作家としてデビューした。作品は綿密な時代考証に基づいており、若者の成長と友情をテーマにしたものが多い。作品には作者と同じく傷や障害のある人物が多く登場する。代表作は、ローマ帝国支配下にあったブリテン島の歴史を踏まえて書かれた児童向け歴史小説『第九軍団のワシ』(The Eagle of the Ninth、1954年)、『銀の枝』(The Silver Branch、1957年)、『ともしびをかかげて』(The Lantern Bearers、1959年。カーネギー賞受賞)の「ローマン・ブリテン3部作」で、イギリスだけでなく世界中で読まれている。子児童向け歴史小説が多いが、大人向けの作品も書いている。作品には、ケルト神話やギリシア神話を元にしたもの、ケルトの民族やイングランド地方の話などが多い。 2011年には、『第九軍団のワシ』がケヴィン・マクドナルド監督によって映画化された。 イギリスのサリーにある海軍将校の家に生まれた。2歳の時にかかったスティル病という進行性の若年性関節リウマチが元で歩行障害をきたし、通院、手術入院を繰り返しながら、主に車椅子で暮らすようになった。生涯病と闘い、車いすで生活した。幼いころは、病床で母の読む小説や神話をよく聞いていたという。自伝によると、ポター、ミルン、ディケンズ、スティーヴンソン、アンデルセン、ケネス・グレアムなどに影響を受けた。特にラドヤード・キップリング『プークが丘のパック』(1906年)のローマ時代の物語が、『第九軍団のワシ』執筆に繋がっていると述べている。 幼いころから美術の才能があった。個人経営の学校に通ったが、14歳の時に学業を離れ、画家を志して1935年にビドフォード美術学校に進んだ。20代の初めには、軍隊に勤務する青年たちを描いたりする細密画家となった。細密画家であることに苦痛を感じるようになり、より広い世界での自己表現を求めて、手近にある紙に子供向け歴史小説語をつづり始めた。(これについては彼女自身が、自叙伝『思い出の青い丘』の中で、本当は油絵の画家になりたかったが体が不自由なために思い叶わず、細密画家としての技量は優れておりプロにはなったものの、どこかで不満を感じていたのだと説明している) そうして書いた作品は偶然、オックスフォード大学出版局に渡った。送られた原稿そのものは日の目を見なかったが、出版局から来た手紙の誘いに応じてサトクリフは『ロビンフッドの物語』(Chronicles of Robin Hood)を書き、処女作となった『エリザベス女王物語』(The Queen Elizabeth Story)と同じ1950年に出版され、30歳で作家デビューした。サトクリフは、結婚を考えた恋人と破局したことで傷つき、それによりアマチュアからプロの作家に成長できたと考えている。この頃の作品に、『第九軍団のワシ』(1954年)、『ケルトとローマの息子』(Outcast、1955年)などがあり、1959年には、『ともしびをかかげて』(The Lantern Bearers)を書き上げ、同作で優れた児童文学に贈られるカーネギー賞を受賞した。児童文学作家としての地位を確立し、これ以降、英国トップレベルの児童文学の書き手の一人と見なされるようになった。 児童向け歴史小説だけでなく大人向け歴史小説、ギリシア神話の再話もあり、『ベーオウルフ』(Beowulf: Dragonslayer、1961年)、『トリスタンとイズー』( Tristan and Iseult、1971年)などを著した。これらの業績から、大英帝国勲章の名誉大英勲章(OBE)を贈られた。 1985年、1973年に出版した『王のしるし』(The Mark of the Horse Lord)でフェニックス賞を受賞。 1992年に他界、死後に名誉大英勲章(CBE)を授章した。 2010年、1990年に出版した『アネイリンの歌 ケルトの戦の物語』(The Shining Company)で再びフェニックス賞を受賞した。 2011年、『第九軍団のワシ』(Eagle of the Ninth)を原作とする映画『第九軍団のワシ』(The Eagle)が公開された。 数字は全て原著の出版年。分類は英語版ウィキペディアに従った。 ローマン・ブリテンに題材を採った作品群。元々「ローマン・ブリテン3部作」と呼ばれていたが、のちに『辺境のオオカミ』が執筆されたため4部作と総称されることもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ローズマリー・サトクリフ(Rosemary Sutcliff、1920年12月14日 - 1992年7月23日)は、イギリスの歴史小説・ファンタジー小説家。20世紀イギリスを代表する児童文学作家、歴史小説家と評される。足に障害があり、生涯を通して病と闘い車椅子で生活した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1950年にプロ作家としてデビューした。作品は綿密な時代考証に基づいており、若者の成長と友情をテーマにしたものが多い。作品には作者と同じく傷や障害のある人物が多く登場する。代表作は、ローマ帝国支配下にあったブリテン島の歴史を踏まえて書かれた児童向け歴史小説『第九軍団のワシ』(The Eagle of the Ninth、1954年)、『銀の枝』(The Silver Branch、1957年)、『ともしびをかかげて』(The Lantern Bearers、1959年。カーネギー賞受賞)の「ローマン・ブリテン3部作」で、イギリスだけでなく世界中で読まれている。子児童向け歴史小説が多いが、大人向けの作品も書いている。作品には、ケルト神話やギリシア神話を元にしたもの、ケルトの民族やイングランド地方の話などが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2011年には、『第九軍団のワシ』がケヴィン・マクドナルド監督によって映画化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イギリスのサリーにある海軍将校の家に生まれた。2歳の時にかかったスティル病という進行性の若年性関節リウマチが元で歩行障害をきたし、通院、手術入院を繰り返しながら、主に車椅子で暮らすようになった。生涯病と闘い、車いすで生活した。幼いころは、病床で母の読む小説や神話をよく聞いていたという。自伝によると、ポター、ミルン、ディケンズ、スティーヴンソン、アンデルセン、ケネス・グレアムなどに影響を受けた。特にラドヤード・キップリング『プークが丘のパック』(1906年)のローマ時代の物語が、『第九軍団のワシ』執筆に繋がっていると述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "幼いころから美術の才能があった。個人経営の学校に通ったが、14歳の時に学業を離れ、画家を志して1935年にビドフォード美術学校に進んだ。20代の初めには、軍隊に勤務する青年たちを描いたりする細密画家となった。細密画家であることに苦痛を感じるようになり、より広い世界での自己表現を求めて、手近にある紙に子供向け歴史小説語をつづり始めた。(これについては彼女自身が、自叙伝『思い出の青い丘』の中で、本当は油絵の画家になりたかったが体が不自由なために思い叶わず、細密画家としての技量は優れておりプロにはなったものの、どこかで不満を感じていたのだと説明している)", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "そうして書いた作品は偶然、オックスフォード大学出版局に渡った。送られた原稿そのものは日の目を見なかったが、出版局から来た手紙の誘いに応じてサトクリフは『ロビンフッドの物語』(Chronicles of Robin Hood)を書き、処女作となった『エリザベス女王物語』(The Queen Elizabeth Story)と同じ1950年に出版され、30歳で作家デビューした。サトクリフは、結婚を考えた恋人と破局したことで傷つき、それによりアマチュアからプロの作家に成長できたと考えている。この頃の作品に、『第九軍団のワシ』(1954年)、『ケルトとローマの息子』(Outcast、1955年)などがあり、1959年には、『ともしびをかかげて』(The Lantern Bearers)を書き上げ、同作で優れた児童文学に贈られるカーネギー賞を受賞した。児童文学作家としての地位を確立し、これ以降、英国トップレベルの児童文学の書き手の一人と見なされるようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "児童向け歴史小説だけでなく大人向け歴史小説、ギリシア神話の再話もあり、『ベーオウルフ』(Beowulf: Dragonslayer、1961年)、『トリスタンとイズー』( Tristan and Iseult、1971年)などを著した。これらの業績から、大英帝国勲章の名誉大英勲章(OBE)を贈られた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1985年、1973年に出版した『王のしるし』(The Mark of the Horse Lord)でフェニックス賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1992年に他界、死後に名誉大英勲章(CBE)を授章した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2010年、1990年に出版した『アネイリンの歌 ケルトの戦の物語』(The Shining Company)で再びフェニックス賞を受賞した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2011年、『第九軍団のワシ』(Eagle of the Ninth)を原作とする映画『第九軍団のワシ』(The Eagle)が公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "数字は全て原著の出版年。分類は英語版ウィキペディアに従った。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ローマン・ブリテンに題材を採った作品群。元々「ローマン・ブリテン3部作」と呼ばれていたが、のちに『辺境のオオカミ』が執筆されたため4部作と総称されることもある。", "title": "作品リスト" } ]
ローズマリー・サトクリフは、イギリスの歴史小説・ファンタジー小説家。20世紀イギリスを代表する児童文学作家、歴史小説家と評される。足に障害があり、生涯を通して病と闘い車椅子で生活した。 1950年にプロ作家としてデビューした。作品は綿密な時代考証に基づいており、若者の成長と友情をテーマにしたものが多い。作品には作者と同じく傷や障害のある人物が多く登場する。代表作は、ローマ帝国支配下にあったブリテン島の歴史を踏まえて書かれた児童向け歴史小説『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』の「ローマン・ブリテン3部作」で、イギリスだけでなく世界中で読まれている。子児童向け歴史小説が多いが、大人向けの作品も書いている。作品には、ケルト神話やギリシア神話を元にしたもの、ケルトの民族やイングランド地方の話などが多い。 2011年には、『第九軍団のワシ』がケヴィン・マクドナルド監督によって映画化された。
'''ローズマリー・サトクリフ'''(Rosemary Sutcliff、[[1920年]][[12月14日]] - [[1992年]][[7月23日]])は、[[イギリス]]の[[歴史小説]]・[[ファンタジー]][[小説家]]。20世紀イギリスを代表する児童文学作家、歴史小説家と評される<ref name="山本・石川">山本理奈、石川栄作 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007144653 ローズマリー・サトクリフ『トリスタンとイズー』の研究]」 言語文化研究 16, 19-78, 2008-12、徳島大学</ref><ref name="川崎"/>。足に障害があり、生涯を通して病と闘い車椅子で生活した<ref name="浦安">[http://library.city.urayasu.chiba.jp/special/201002/index.html 'ローズマリー・サトクリフの世界] 浦安市図書館</ref>。 1950年にプロ作家としてデビューした。作品は綿密な時代考証に基づいており、若者の成長と友情をテーマにしたものが多い<ref name="小柳"/>。作品には作者と同じく傷や障害のある人物が多く登場する<ref name="川崎">川崎明子 「[http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33548/ ローズマリ・サトクリフの『第九軍団のワシ』における傷と痛み]」 英米文学 (48), 43-64, 2013 駒澤大学文学部英米文学科</ref>。代表作は、ローマ帝国支配下にあった[[ブリテン島]]の歴史を踏まえて書かれた児童向け歴史小説『[[第九軍団のワシ]]』(''The Eagle of the Ninth''、1954年)、『銀の枝』(''The Silver Branch''、1957年)、『ともしびをかかげて』(''The Lantern Bearers''、1959年。[[カーネギー賞]]受賞)の「ローマン・ブリテン3部作」で、イギリスだけでなく世界中で読まれている<ref name="小柳">小柳康子 「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110008916874 ローズマリ・サトクリフの『第九軍団のワシ』と『イーグル』 - 映画は何を伝えなかったか]」 實踐英文學 64, 77-88, 2012-03-05 実践女子大学</ref>。子児童向け歴史小説が多いが、大人向けの作品も書いている。作品には、[[ケルト神話]]や[[ギリシア神話]]を元にしたもの、ケルトの民族やイングランド地方の話などが多い。 2011年には、『第九軍団のワシ』が[[ケヴィン・マクドナルド]]監督によって映画化された<ref name="川崎"/>。 == 経歴 == イギリスの[[サリー (イングランド)|サリー]]にある海軍将校の家に生まれた<ref name="山本・石川"/>。2歳の時にかかった[[スティル病]]という進行性の若年性[[関節リウマチ]]が元で歩行障害をきたし、通院、手術入院を繰り返しながら、主に車椅子で暮らすようになった<ref name="川崎"/>。生涯病と闘い、車いすで生活した。幼いころは、病床で母の読む小説や神話をよく聞いていたという<ref name="川崎"/>。自伝によると、[[ポター]]、[[ミルン]]、[[ディケンズ]]、[[スティーヴンソン]]、[[アンデルセン]]、[[ケネス・グレアム]]などに影響を受けた<ref name="川崎"/>。特に[[ラドヤード・キップリング]]『プークが丘のパック』(1906年)のローマ時代の物語が、『第九軍団のワシ』執筆に繋がっていると述べている<ref name="川崎"/>。 幼いころから美術の才能があった。個人経営の学校に通ったが<ref name="川崎"/>、14歳の時に学業を離れ、画家を志して1935年にビドフォード美術学校に進んだ。20代の初めには、軍隊に勤務する青年たちを描いたりする[[細密画]]家となった<ref name="山本・石川"/>。細密画家であることに苦痛を感じるようになり、より広い世界での自己表現を求めて、手近にある紙に子供向け歴史小説語をつづり始めた。(これについては彼女自身が、自叙伝『思い出の青い丘』の中で、本当は油絵の画家になりたかったが体が不自由なために思い叶わず、細密画家としての技量は優れておりプロにはなったものの、どこかで不満を感じていたのだと説明している) そうして書いた作品は偶然、[[オックスフォード大学出版局]]に渡った。送られた原稿そのものは日の目を見なかったが、出版局から来た手紙の誘いに応じてサトクリフは『ロビンフッドの物語』(''Chronicles of Robin Hood'')を書き、処女作となった『エリザベス女王物語』(''The Queen Elizabeth Story'')と同じ1950年に出版され、30歳で作家デビューした。サトクリフは、結婚を考えた恋人と破局したことで傷つき、それによりアマチュアからプロの作家に成長できたと考えている。この頃の作品に、『[[第九軍団のワシ]]』(1954年)、『ケルトとローマの息子』(''Outcast''、1955年)などがあり、1959年には、『ともしびをかかげて』(''The Lantern Bearers'')を書き上げ、同作で優れた児童文学に贈られる[[カーネギー賞]]を受賞した<ref name="山本・石川"/>。児童文学作家としての地位を確立し、これ以降、英国トップレベルの児童文学の書き手の一人と見なされるようになった。 児童向け歴史小説だけでなく大人向け歴史小説、ギリシア神話の再話もあり、『[[ベーオウルフ]]』(''Beowulf: Dragonslayer''、1961年)、『[[トリスタンとイズー]]』( ''Tristan and Iseult''、1971年)などを著した。これらの業績から、[[大英帝国勲章]]の名誉大英勲章(OBE)を贈られた<ref name="山本・石川"/>。 1985年、1973年に出版した『王のしるし』(''The Mark of the Horse Lord'')で[[フェニックス賞]]を受賞。 1992年に他界、死後に名誉大英勲章(CBE)を授章した<ref name="山本・石川"/>。 2010年、1990年に出版した『アネイリンの歌 ケルトの戦の物語』(''The Shining Company'')で再びフェニックス賞を受賞した。 2011年、『第九軍団のワシ』(''Eagle of the Ninth'')を原作とする映画『[[第九軍団のワシ (映画)|第九軍団のワシ]]』(''The Eagle'')が公開された。 == 作品リスト == 数字は全て原著の出版年。分類は英語版ウィキペディアに従った。 ===ローマン・ブリテン4部作=== ローマン・ブリテンに題材を採った作品群。元々「ローマン・ブリテン3部作」と呼ばれていたが、のちに『辺境のオオカミ』が執筆されたため4部作と総称されることもある。 * 『[[第九軍団のワシ]]』 ''The Eagle of the Ninth''(1954年;Oxford University Press初出, 1972年;[[岩波書店]]上製本 [[猪熊葉子]]訳, 2007年;岩波少年文庫 579) * 『銀の枝』 ''The Silver Branch'' (1957年;Oxford University Press初出, 1994年;岩波書店上製本 猪熊葉子訳, 2007年;岩波少年文庫 580) * 『ともしびをかかげて』 ''The Lantern Bearers'' (1959年;Oxford University Press初出, 1969年;岩波書店上製本 猪熊葉子訳, 2008年;岩波少年文庫 上・下 581-2) * 『辺境のオオカミ』 ''Frontier Wolf'' (1980年, 2002年;岩波書店上製本 猪熊葉子訳) ===アーサー王シリーズ=== * 『アーサー王と円卓の騎士』 ''The Sword and the Circle'' (1979年, 2001年;[[原書房]] 【サトクリフ・オリジナル1】 [[山本史郎]]訳) * 『アーサー王と聖杯の物語』 ''The Light Beyond the Forest'' (1979年, 2001年;原書房 【サトクリフ・オリジナル2】 山本史郎訳) * 『アーサー王最後の戦い』 ''The Road to Camlann'' (1981年, 2001年;原書房 【サトクリフ・オリジナル3】 山本史郎訳) ===その他児童文学=== * 『イルカの家』 ''The Armourer's House'' (1951年,2005年;評論社 乾侑美子訳) * 『ほこりまみれの兄弟』''Brother Dustyfeet '' (1952年,2010年;評論社 乾侑美子訳) * 『ケルトとローマの息子』 ''Outcast'' (1955, 2002年;[[ほるぷ出版]]単行本 灰島かり訳) * 『シールド・リング ヴァイキングの心の砦』 ''The Shield Ring'' (1956年, 2003年;原書房 山本史郎訳) * 『太陽の戦士』 ''Warrior Scarlet'' (1957年;Oxford University Press初出, 1968年;岩波書店上製本 猪熊葉子訳, 2005年 岩波少年文庫 570) *『女王エリザベスと寵臣ウォルター・ローリー』 ''Lady in Waiting'' (1957年, 2007年;原書房 山本史郎訳) * ''The Queen Elizabeth Story'' (1958年) * ''Simon'' (1959) * 『白馬の騎士』''Rider of the White Horse'' (1959年, 2008年;原書房 山本史郎訳) * 『運命の騎士』 ''Knight's Fee'' (1960年,1970年;岩波書店 猪熊葉子訳) illustrated by Charles Keeping * ''Bridge Builders'' (1961年) * 『ベーオウルフ 妖怪と竜と英雄の物語』 ''Beowulf: Dragonslayer'' (1961年, 1990年 沖積舎 [[井辻朱美]]訳, 2002年;原書房 【サトクリフ・オリジナル7】井辻朱美訳) :『[[ベーオウルフ]]』の再話 * 『夜明けの風』 ''Dawn Wind'' (1961年, 2004年;ほるぷ出版単行本 灰島かり訳) * 『炎の戦士クーフリン』 ''The Hound of Ulster'' (1963年, 2003年;ほるぷ出版単行本 灰島かり訳) :アイルランドの神話の英雄[[クー・フーリン]]にまつわる再話 * 『王のしるし』 ''The Mark of the Horse Lord'' (1965年, 1973年;岩波書店上製本 猪熊葉子訳) * 『英雄アルキビアデスの物語 上・下』 ''The Flowers of Adonis'' (1965年, 2005年;原書房 山本史郎訳) * 『族長の娘―ヒースの花冠』 ''The Chief's Daughter'' (1967年) :日本語訳は『三つの冠の物語 ヒース、樫、オリーブ』(2003年;原書房 山本史郎訳)に所収 * 『黄金の騎士フィン・マックール』 ''The High Deeds of Finn Mac Cool'' (1967年, 2003年ほるぷ出版 金原瑞人・久慈美貴共訳) * 『樫の葉の冠』([[オーク#オークリーフ|オークリーフ]]の[[サークレット]]) ''A Circlet of Oak Leaves'' (1968年) :日本語訳は『三つの冠の物語 ヒース、樫、オリーブ』に所収 * ''The Witch's Brat'' (1970年) * 『トリスタンとイズー』 ''Tristan and Iseult'' (1971年,1989年;沖積舎 井辻朱美訳) * ''The Truce of the Games'' (1971年) * 『山羊座の腕輪(ブレスレット)ブリタニアのルシウスの物語』 ''The Capricorn Bracelet'' (1973年, 2003年;原書房 山本史郎訳) * ''The Changeling'' (1974年) * ''We Lived in Drumfyvie'' (1975年) * 『ヴァイキングの誓い』 ''Blood Feud'' (1976年, 2002年ほるぷ出版 金原瑞人・久慈美貴共訳) * 『ケルトの白馬』 ''Sun Horse, Moon Horse'' (1977年, 2000年;ほるぷ出版 灰島かり訳) * ''Shifting Sands'' (1977年) * 『闇の女王にささげる歌』 ''Song for a Dark Queen'' (1978年,2002;評論社 乾侑美子訳) :ケルト神話の女王Boadiccaにまつわる物語の再話 * 『ロビン・フッドの物語』 ''Chronicles of Robin Hood'' (1950年, 2004年;原書房 山本史郎訳) * ''Eagle's Egg'' (1981年) * 『はるかスコットランドの丘を越えて』 ''Bonnie Dundee'' (1983年, 1994年;ほるぷ出版 早川敦子訳) * ''Flame-colored Taffeta'' (1986年) * 『小犬のピピン』 ''A Little Dog Like You'' (1987年, 1995年;岩波書店 猪熊葉子訳) * 『アネイリンの歌 ケルトの戦の物語』 ''The Shining Company'' (1990年, 2002年;小峰書店 本間裕子訳) * 『竜の子ラッキーと音楽師』 ''The Minstrel and the Dragon Pup'' (1993年, 1994年;岩波書店 猪熊葉子訳) * 『トロイアの黒い船団 ギリシア神話の物語・上』 ''Black Ships Before Troy'' (1993年, 2001年;原書房 【サトクリフ・オリジナル4】 山本史郎訳) illustrated by [[アラン・リー|Allan Lee]] :[[イリアス]]の再話 * ''Chess-dream in the Garden'' (1993年) * 『オデュッセウスの冒険 ギリシア神話の物語・下』 ''The Wanderings of Odysseus'' (1995年, 2001年;原書房 【サトクリフ・オリジナル5】 山本史郎訳) illustrated by Allan Lee :[[オデュッセイア]]の再話 * 『剣の歌 ヴァイキングの物語』 ''Sword Song'' (1997年, 2002年;原書房 【サトクリフ・オリジナル6】 山本史郎訳) published posthumously ===ノンフィクション=== * ''Heroes and History'' (1966年) * 『思い出の青い丘-サトクリフ自伝』 ''Blue Remembered Hills'' (1983年; 1985年 岩波書店 猪熊葉子訳) :サトクリフ自身による自叙伝 ===大人向けの小説=== * 『血と砂 愛と死のアラビア』(上下巻) ''Blood and Sand'' (1987年, 2007年;原書房 山本史郎訳) :2008年、[[宝塚歌劇団]][[花組]]で『愛と死のアラビア -高潔なアラブの戦士となったイギリス人-』として舞台化。 * 『落日の剣 真実のアーサー王の物語 上(若き戦士の物語)・下(王の苦悩と悲劇)』 ''Sword at Sunset'' (1963年, 2002年;原書房 山本史郎訳) :大人向けの小説。[[アーサー王]]にまつわる物語であるが、子供向けに書かれた物語とは異なる。『ともしびをかかげて』の後日談に当たる。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.rosemarysutcliff.com/ Rosemary Sutcliff Official Site] - 公式サイト {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20060623003508/http://homepage3.nifty.com/y-luna/S_book2.html 出版順の原書リスト] 星の天幕(インターネットアーカイブ) * {{Wayback|url=http://hollyhall.web.fc2.com/books/sutcliff/works.html |title=邦訳作品リスト |date=20161116231032}} 柊館 * [http://www.misheila.sakura.ne.jp/sutcliff-note.html 年譜] Midori's Room * {{worldcat id|id=lccn-n79-62683}} * {{isfdb name |1532 |Rosemary Sutcliff }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さとくりふ ろおすまりい}} [[Category:20世紀イングランドの小説家]]<!-- 重複ですが「歴史小説家」のカテゴリがないのでその役を果たすため残しておきます --> [[Category:イングランドのファンタジー作家]] [[Category:イングランドの児童文学作家]] [[Category:イギリスの歴史小説家]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:1920年生]] [[Category:1992年没]] [[Category:障害を持つ人物]]
2003-09-07T11:17:54Z
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日南線
日南線(にちなんせん)は、宮崎県宮崎市の南宮崎駅から鹿児島県志布志市の志布志駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。 日南海岸沿いや鰐塚山地を縫って走り、宮崎県南部や鹿児島県東部の市町を結ぶ行楽・地域輸送路線である。 日南線内では南宮崎駅と田吉駅のみICカード「SUGOCA」が利用可能である。一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」は、南宮崎駅 - 田吉駅のみ「宮崎空港線」として、列車位置情報がスマートフォンアプリで配信されている。 全線宮崎支社の管轄、管理駅は宮崎乗務センター南宮崎指令である。 平均通過人員(輸送密度)、旅客運輸収入は以下の通り。 気動車を使用した南宮崎方面 - 青島・油津・志布志方面と、電化区間のみを運行する電車を使用した宮崎空港線直通列車の2つの運転系統に分かれるが、後者でも特急に関しては、宮崎空港線分岐駅の田吉駅に停車しないため、前者の運転系統のみが「日南線の列車」として案内される場合が多い(宮崎空港方面は日南線の区間を含めて「空港線」の路線愛称がある)。ここでは、主に宮崎空港線へ直通しない列車について記す。 ほとんどの列車が、日豊本線宮崎駅発着で南宮崎駅から乗り入れているが、上り列車は南宮崎行きが多い。朝ラッシュ時には日豊本線佐土原駅まで、夕方には佐土原駅から乗り入れる列車があったが、2022年9月23日のダイヤ改正で、南宮崎発着の線内運転となっている。 すべての普通列車で、ワンマン運転を実施しているが、日中の一部の列車には乗車券の発行のために車掌が乗務し特別改札を実施する場合がある。宮崎駅 - 志布志駅間の全区間を走行する列車が運転されているほか、宮崎駅・南宮崎駅 - 青島駅・油津駅・南郷駅間と油津駅 - 志布志駅間の区間列車が運転されている。宮崎駅・南宮崎駅 - 油津駅・南郷駅間は区間列車を含めておむね1 - 2時間に1本程度運転されているが、南郷駅 - 志布志駅間では日中に3 - 4時間ほど運転されない時間帯がある。また、梅雨期・台風シーズンには雨量計が規制値を超えて運転見合わせになることもある。特に2020年以降は3年連続で大雨によって被災している。 宮崎駅 - 志布志駅間には快速「日南マリーン号」が1日1往復設定されている。2017年のダイヤ改正により、下り列車が飫肥駅から各駅停車となったため、快速区間は田吉駅 - 飫肥駅間である。また、下りは宮崎発志布志行き、上りは南郷発宮崎行きであったが、2021年3月13日のダイヤ改正で上下とも宮崎駅 - 志布志駅間の運転になり、2022年9月23日のダイヤ改正で上りが志布志発南宮崎行きとなった。 2009年10月10日から、観光特急列車「海幸山幸」が宮崎駅 - 南郷駅間で運行されている。車両は、廃止された高千穂鉄道より譲渡されたTR-400形をキハ125形400番台へと改造して使用している。田吉駅から先の油津・南郷方面では初の特急列車運転となる。 非電化区間の田吉駅 - 志布志駅間を走行する普通列車には、国鉄時代に製造されたキハ40形・キハ47形が使用されており、キハ125形0番台や、キハ200系などの民営化以降に製造された車両は運用に入ったことがないが、2001年 - 2006年の一時期はキハ31形(鹿児島運転所(現・鹿児島鉄道事業部鹿児島車両センター)、日南鉄道事業部運用)が運用されていた時期もあった。 2016年(平成28年)12月22日よりスマートフォンアプリ「JR九州アプリ」内において、リアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」が運用開始された。日南線の閉塞方式の都合により「南宮崎 - 田吉間」のみ対応し、「宮崎空港線」として配信されている(田吉 - 志布志間の電子符号照査式は列車運行システムJACROS非対応のため)。 南宮崎駅 - 田吉駅間には宮崎空港線と直通する列車が多数運転されており、南宮崎駅から日豊本線の延岡方面まで直通している。日豊本線の特急列車も一部が直通している。特急は南宮崎駅のみ停車し、宮崎空港線分岐駅の田吉駅を通過する。なお田吉駅での青島方面と宮崎空港方面の接続は完全ではない。 北郷 - 志布志間は、当初、志布志線の一部として開業した。このうち、飫肥 - 油津間は宮崎県営鉄道飫肥線という軌間762mmの軽便鉄道として開業した路線を、改正鉄道敷設法の予定線に重なることから1935年(昭和10年)に国有化し、その後志布志線として新線(軌間1067mm)に切り替えたもので、一部は実質的に改軌したものである。 南宮崎 - 北郷間は、1963年(昭和38年)に開業した。これは、宮崎交通が1962年(昭和37年)に廃止した南宮崎 - 内海間の線路跡を利用したもの。この時に、志布志線と繋がり、志布志 - 北郷間を編入して南宮崎 - 志布志間が日南線となり、志布志線は西都城 - 志布志間となった。日南線の終点となった志布志駅は、日南線の他にも、志布志線、大隅線が合流する交通の要衝で、機関区を擁していたが、1987年(昭和62年)には、志布志線、大隅線が特定地方交通線として廃止され、1990年(平成2年)には東方へ移転して1線のみに縮小された。 2008年度分の統計によると、日南線の輸送密度(平均通過数量)は851人/日であり、JR九州の路線のうちでは3番目に少ない(最下位は吉都線、2番目に少ないのは肥薩線)。この数字は、特定地方交通線として廃止された志布志線と大隅線の廃止対象とされた当時の輸送密度の半分程度である。 なお、日南線自身は1968年に赤字83線として選定されたが廃止されなかった。国鉄末期の特定地方交通線(廃止・転換対象路線)選定の際、当初は第3次特定地方交通線に選定される予定とされていたが、1987年(昭和62年)時点で代替輸送道路が未整備だったため、第3次廃止対象特定地方交通線から除外された。 便宜上、直通列車の多い日豊本線宮崎駅からの区間を記載。累計営業キロは南宮崎駅からのもの。
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日南線(にちなんせん)は、宮崎県宮崎市の南宮崎駅から鹿児島県志布志市の志布志駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。 日南海岸沿いや鰐塚山地を縫って走り、宮崎県南部や鹿児島県東部の市町を結ぶ行楽・地域輸送路線である。 日南線内では南宮崎駅と田吉駅のみICカード「SUGOCA」が利用可能である。一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」は、南宮崎駅 - 田吉駅のみ「宮崎空港線」として、列車位置情報がスマートフォンアプリで配信されている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (kyushu).svg|35px|link=九州旅客鉄道]] 日南線 |路線色=#faaf18 |画像=JR Kyushu Kiha 125 Umisachi Yamasachi-Kiha 40 nichinan.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=特急「海幸山幸」のキハ125と日南線色のキハ40<br />(南宮崎駅) |通称=空港線(南宮崎駅 - [[田吉駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[宮崎県]]、[[鹿児島県]] |起点=[[南宮崎駅]] |終点=[[志布志駅]] |駅数=28駅 |電報略号 = シフセ(志布志線時代)<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p24">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=24}}</ref> |輸送実績= |1日利用者数= |開業=[[1935年]][[4月15日]] |全通=[[1963年]][[5月8日]] |所有者=[[九州旅客鉄道]](JR九州) |運営者=九州旅客鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#運行形態|運行形態]]の節を参照 |路線距離=88.9 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=全線[[単線]] |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・60[[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]]<br />(南宮崎 - 田吉間)<br />[[非電化]]<br />(上記以外) |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)<br />(南宮崎 - 田吉間)<br />特殊自動閉塞式(電子符号照査式)<br />(田吉 - 志布志間) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS‐SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]](南宮崎 - 田吉間のみ) |最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed">[https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/fact_sheet/pdf/factsheets2017.pdf FACt SHEETS 2017] - JR九州</ref> |駅間平均長= |路線図= |路線図名= |路線図表示= |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]])}} {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header|停車場・施設・接続路線|#faaf18}} {{BS-table}} {{BS|STR|||[[日豊本線]]}} {{BS|HST|||[[宮崎駅]]}} {{BS|hKRZWae|||[[大淀川]]}} {{BS|BHF|0.0|[[南宮崎駅]]}} {{BS|ABZgr|||日豊本線}} {{BS|BHF|2.0|[[田吉駅]]}} {{BS|SKRZ-Ao|||[[宮崎自動車道]]}} {{BS|ABZgl|||[[宮崎空港線]]}} {{BS|eBHF|2.6|''[[食と緑博覧会駅]]''|-1990}} {{BS|BHF|4.2|[[南方駅 (宮崎県)|南方駅]]}} {{BS|hKRZWae|||清武川}} {{BS|BHF|7.5|[[木花駅]]}} {{BS|BHF|9.0|[[運動公園駅 (宮崎県)|運動公園駅]]}} {{BS|hKRZWae||}} {{BS|BHF|10.2|[[曽山寺駅]]}} {{BS|BHF|11.4|[[子供の国駅]]}} {{BS|BHF|12.7|[[青島駅]]}} {{BS3|exSTR+l|O1=POINTER+4|eABZgr||||''[[宮崎交通線]]''}} {{BS3|exSTRl|eKRZ|exHST+r|||''折生迫駅'' (旧)<ref group="注">日南線と宮崎交通線が同時に存在したことはない。</ref>}} {{BS3||BHF|exSTR|13.8|[[折生迫駅]]|}} {{BS3||STR|exHST|||''白浜駅''}} {{BS3||TUNNEL1|exSTR||青島トンネル|1330m}} {{BS3||STR|exKHSTe|||''内海駅'' (旧)}} {{BS|BHF|17.5|[[内海駅 (宮崎県)|内海駅]]}} {{BS|BHF|19.9|[[小内海駅]]}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|BHF|23.3|[[伊比井駅]]}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|tSTRa||谷之城トンネル|3670m}} {{BS|tSTRe|||}} {{BS|hKRZWae|||[[広渡川]]}} {{BS|BHF|32.5|[[北郷駅]]}} {{BS|eDST||''大藤駅''}} {{BS|BHF|37.1|[[内之田駅]]}} {{BS3||eABZgl|exSTR+r|||}} {{BS3||TUNNEL1|exTUNNEL2||}} {{BS3||hKRZWae|exhKRZWae|||[[酒谷川]]}} {{BS3|exSTR+l|eKRZ|exABZg+r|||}} {{BS3|exBHF|BHF|exSTR|39.8|[[飫肥駅]]|{{BSsplit|飫肥駅(I)→東飫肥駅|→飫肥駅(III)}}}} {{BS3|exKBHFe|STR|exSTR||''飫肥駅''| (II)}} {{BS3||TUNNEL1|exBHF||''星倉駅''}} {{BS3||STR|exBHF||''宮之前駅''}} {{BS3||eABZg+l|exSTRr|||}} {{BS|BHF|43.8|[[日南駅]]}} {{BS|eBHF||''妻手橋駅''}} {{BS3||eABZgl|exKBHFeq||''[[元油津駅]]''}} {{BS|BHF|46.0|[[油津駅]]|}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|BHF|50.3|[[大堂津駅]]}} {{BS|hKRZWae||}} {{BS|BHF|53.0|[[南郷駅]]}} {{BS|BHF|56.1|[[谷之口駅]]}} {{BS|BHF|60.5|[[榎原駅]]}} {{BS|BHF|68.6|[[日向大束駅]]}} {{BS|BHF|71.8|[[日向北方駅]]}} {{BS|BHF|74.4|[[串間駅]]}} {{BS|hKRZWae|||善田川}} {{BS|BHF|77.2|[[福島今町駅]]}} {{BS|BHF|79.6|[[福島高松駅]]}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|TUNNEL1||}} {{BS|BHF|84.5|[[大隅夏井駅]]}} {{BS|hKRZWae||}} {{BS|KBHFxe|88.9|[[志布志駅]]| 1990-}} {{BS|exBHF|89.0|''志布志駅''|(旧) -1990}} {{BS|exABZgr|||''[[志布志線]]''}} {{BS|exSTR|||''[[大隅線]]''}} |} |} '''日南線'''(にちなんせん)は、[[宮崎県]][[宮崎市]]の[[南宮崎駅]]から[[鹿児島県]][[志布志市]]の[[志布志駅]]までを結ぶ[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。 [[日南海岸]]沿いや[[鰐塚山地]]を縫って走り、宮崎県南部や鹿児島県東部の市町を結ぶ行楽・地域輸送路線である。 日南線内では南宮崎駅と[[田吉駅]]のみICカード「[[SUGOCA]]」が利用可能である<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html 利用可能・発売エリア] - 九州旅客鉄道 SUGOCA公式サイト、2015年11月18日閲覧</ref>。一般向けリアルタイム列車位置情報システム「[https://george-doredore.jrkyushu.co.jp/ip/ どれどれ]」は、南宮崎駅 - 田吉駅のみ「宮崎空港線」として、列車位置情報がスマートフォンアプリで配信されている<ref name="jrkyushu20161220">{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/12/20/001doredore.pdf 〜 運行情報のご案内を充実 〜 「JR九州アプリ」で列車位置情報を表示します!]}} - 九州旅客鉄道、2016年12月20日</ref>。 == 路線データ == *管轄(事業種別):九州旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) *路線距離([[営業キロ]]):88.9km *[[軌間]]:1067mm *駅数:28(起終点駅含む) ** 日南線所属駅に限定した場合、起点の南宮崎駅(日豊本線所属<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>)が除外され、27駅となる。 *[[複線]]区間:なし(全線[[単線]]) *[[鉄道の電化|電化]]区間:南宮崎駅 - 田吉駅間([[交流電化|交流]]20,000V・60Hz) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]: **南宮崎 - 田吉間:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式) **田吉 - 志布志間:特殊自動閉塞式(電子符号照査式) *保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS‐SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]](南宮崎 - 田吉間のみ) *最高速度:85km/h<ref name="speed" /> 全線[[九州旅客鉄道宮崎支社|宮崎支社]]の管轄、[[管理駅]]は[[九州旅客鉄道宮崎支社|宮崎乗務センター]]南宮崎指令である。 === 輸送実績 === 平均通過人員([[輸送密度]])、旅客運輸収入は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/rosenbetsu.html|title=交通・営業データ|accessdate=2022-5-21|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" ! rowspan="2" |年度 ! colspan="4" |平均通過人員(人/日) ! rowspan="2" |旅客運輸収入<br>(百万円/年) |- !全区間 !南宮崎 - 田吉 !田吉 - 油津 !油津 - 志布志 |- | style="text-align:left;" |1987年度 |1,423 | colspan="2" |2,129<ref group="*">1987年度時点で田吉駅は未開業(1996年度に開業)のため、南宮崎 - 油津で表記。</ref> |669 |- |- | style="text-align:left;" |2016年度 |779 |3,615 |1,193 |222 |274 |- | style="text-align:left;" |2017年度 |774 |3,726 |1,189 |210 |282 |- | style="text-align:left;" |2018年度 |752 |3,770 |1,160 |193 |282 |- | style="text-align:left;" |2019年度 |741 |3,733 |1,133 |199 |273 |- | style="text-align:left;" |2020年度 |594 |2,163 |934 |171 |166 |} {{Reflist|group="*"}} == 運行形態 == [[気動車]]を使用した南宮崎方面 - 青島・油津・志布志方面と、電化区間のみを運行する[[電車]]を使用した[[宮崎空港線]]直通列車の2つの運転系統に分かれるが、後者でも特急に関しては、宮崎空港線分岐駅の田吉駅に停車しないため、前者の運転系統のみが「日南線の列車」として案内される場合が多い(宮崎空港方面は日南線の区間を含めて「空港線」の路線愛称がある)。ここでは、主に宮崎空港線へ直通しない列車について記す。 ほとんどの列車が、日豊本線[[宮崎駅]]発着で南宮崎駅から乗り入れているが、上り列車は南宮崎行きが多い。朝ラッシュ時には日豊本線[[佐土原駅]]まで、夕方には佐土原駅から乗り入れる列車があったが、2022年9月23日のダイヤ改正で、南宮崎発着の線内運転となっている<ref name="press_miyazaki22" /><ref>『JTB時刻表』2022年3月号、pp.468,469、『JTB時刻表』2022年10月号、pp.468,469</ref>。 すべての[[普通列車]]で、[[ワンマン運転]]を実施しているが、日中の一部の列車には乗車券の発行のために車掌が乗務し特別改札を実施する場合がある。宮崎駅 - 志布志駅間の全区間を走行する列車が運転されているほか、宮崎駅・南宮崎駅 - 青島駅・油津駅・南郷駅間と油津駅 - 志布志駅間の区間列車が運転されている。宮崎駅・南宮崎駅 - 油津駅・南郷駅間は区間列車を含めておむね1 - 2時間に1本程度運転されているが、南郷駅 - 志布志駅間では日中に3 - 4時間ほど運転されない時間帯がある。また、梅雨期・台風シーズンには雨量計が規制値を超えて運転見合わせになることもある。特に2020年以降は3年連続で大雨によって被災している。 宮崎駅 - 志布志駅間には[[快速列車|快速]]「日南マリーン号」が1日1往復設定されている。2017年のダイヤ改正により、下り列車が飫肥駅から各駅停車となったため、快速区間は田吉駅 - 飫肥駅間である。また、下りは宮崎発志布志行き、上りは南郷発宮崎行きであったが<ref>『JTB時刻表』2020年3月号、pp.468,470</ref>、2021年3月13日のダイヤ改正で上下とも宮崎駅 - 志布志駅間の運転になり<ref>『JTB時刻表』2021年3月号、pp.468,470</ref>、2022年9月23日のダイヤ改正で上りが志布志発南宮崎行きとなった<ref name="press_miyazaki22">{{Cite press release|和書|title=【宮崎支社版】 2022年9月23日ダイヤ改正 在来線各線区でダイヤを見直します|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-06-10|url=https://www.jrkyushu.co.jp/railway/dia2022/pdf/press_miyazaki22.pdf|format=PDF|access-date=2022-06-21}}</ref>。 [[2009年]][[10月10日]]から、観光[[特別急行列車|特急列車]]「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」が宮崎駅 - 南郷駅間で運行されている。車両は、廃止された[[高千穂鉄道]]より譲渡された[[高千穂鉄道TR-400形気動車|TR-400形]]を[[JR九州キハ125形気動車|キハ125形400番台]]へと改造して使用している。田吉駅から先の油津・南郷方面では初の特急列車運転となる。 [[非電化]]区間の田吉駅 - 志布志駅間を走行する普通列車には、国鉄時代に製造された[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形・キハ47形]]が使用されており、キハ125形0番台や、[[JR九州キハ200系気動車|キハ200系]]などの民営化以降に製造された車両は運用に入ったことがないが、2001年 - 2006年の一時期は[[国鉄キハ31形気動車|キハ31形]](鹿児島運転所(現・鹿児島鉄道事業部[[鹿児島車両センター]])、日南鉄道事業部運用)が運用されていた時期もあった。 [[2016年]](平成28年)12月22日よりスマートフォンアプリ「JR九州アプリ」内において、リアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」が運用開始された。日南線の閉塞方式の都合により「南宮崎 - 田吉間」のみ対応し、「宮崎空港線」として配信されている(田吉 - 志布志間の電子符号照査式は列車運行システムJACROS非対応のため)。 === 宮崎空港直通 === {{Main|宮崎空港線#運行形態}} 南宮崎駅 - 田吉駅間には宮崎空港線と直通する列車が多数運転されており、南宮崎駅から日豊本線の[[延岡駅|延岡]]方面まで直通している。日豊本線の特急列車も一部が直通している。特急は南宮崎駅のみ停車し、宮崎空港線分岐駅の田吉駅を通過する。なお田吉駅での青島方面と宮崎空港方面の接続は完全ではない。 == 歴史 == 北郷 - 志布志間は、当初、[[志布志線]]の一部として開業した。このうち、飫肥 - 油津間は[[宮崎県営鉄道]]飫肥線という軌間762mmの[[軽便鉄道]]として開業した路線を、改正[[鉄道敷設法]]の予定線に重なることから1935年(昭和10年)に国有化し、その後志布志線として新線(軌間1067mm)に切り替えたもので、一部は実質的に[[改軌]]したものである。 南宮崎 - 北郷間は、1963年(昭和38年)に開業した。これは、[[宮崎交通]]が1962年(昭和37年)に廃止した[[宮崎交通線|南宮崎 - 内海間の線路]]跡を利用したもの。この時に、志布志線と繋がり、志布志 - 北郷間を編入して南宮崎 - 志布志間が日南線となり、志布志線は西都城 - 志布志間となった。日南線の終点となった志布志駅は、日南線の他にも、志布志線、[[大隅線]]が合流する交通の要衝で、機関区を擁していたが、1987年(昭和62年)には、志布志線、大隅線が[[特定地方交通線]]として廃止され、1990年(平成2年)には東方へ移転して1線のみに縮小された。 2008年度分の統計によると、日南線の[[輸送密度]](平均通過数量)は851人/日であり、JR九州の路線のうちでは3番目に少ない(最下位は[[吉都線]]、2番目に少ないのは[[肥薩線]])<ref>[[梅原淳]]「国内鉄道全路線の収支実態」『鉄道完全解明2011』(週刊東洋経済臨時増刊、2011年7月8日)</ref>。この数字は、特定地方交通線として廃止された志布志線と大隅線の廃止対象とされた当時の輸送密度の半分程度である。 なお、日南線自身は1968年に[[赤字83線]]として選定されたが廃止されなかった。国鉄末期の[[特定地方交通線]](廃止・転換対象路線)選定の際、当初は第3次特定地方交通線に選定される予定とされていたが<ref>山際貞史(国鉄本社地方交通線対策室)『地方交通線対策の現段階』、『[[鉄道ピクトリアル]]』1985年7月号(通巻450号)、p.11</ref>、1987年(昭和62年)時点で代替輸送道路が未整備だったため<ref name="rj213">[[鉄道ジャーナル]]1984年11月号NO.213の131ページ</ref>、第3次廃止対象特定地方交通線から除外された。 === 宮崎軽便鉄道→宮崎鉄道→宮崎交通 === *[[1913年]](大正2年)[[10月31日]] 【開業】'''宮崎軽便鉄道''' 赤江(現在の南宮崎) - 内海 【駅新設】赤江、田吉(初代)、南方(初代。簡易停車場)、木花(初代)、青島(初代)、折生迫(初代)、内海(初代) *[[1914年]](大正3年)[[7月15日]] 【簡易停車場→停留場】南方 *[[1915年]](大正4年) **[[3月20日]] 【停留場新設】曽山寺(初代) **[[7月1日]] 【駅名改称】赤江→大淀 *[[1920年]](大正9年)6月26日 【社名変更】宮崎軽便鉄道→'''宮崎鉄道'''<ref>[{{NDLDC|2954679/7}} 「宮崎軽便鉄道株式会社登記事項変更」『官報』1921年2月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *[[1923年]](大正12年)[[10月22日]] 【停留場新設】青島温泉 *[[1939年]](昭和14年)[[3月21日]] 【停留場名改称】青島温泉→子供の国(初代) *[[1942年]](昭和17年) **4月1日 【駅名改称】大淀→南宮崎 **[[4月7日]] 【仮停留場新設】本郷 *[[1943年]](昭和18年)[[8月24日]] 戦時企業統合政策により宮崎鉄道が'''宮崎交通'''となる。 *1943年(昭和18年)[[9月1日]] 【仮停留場廃止】本郷 *[[1949年]](昭和24年)[[1月20日]] 【停留場新設】江佐原 *[[1962年]](昭和37年) **1月 青島 - 内海間が土砂崩れのため休止となる。 **7月1日 【路線廃止】南宮崎 - 内海 【駅廃止】飛行場前、田吉(初代)、南方(初代)、江佐原、木花(初代)、曽山寺(初代)、子供の国(初代)、青島(初代)、折生迫(初代)、白浜、内海(初代) === 宮崎県営鉄道飫肥線・宮崎県営軌道→国有鉄道油津線 === *[[1912年]](明治45年)[[2月10日]] 鉄道免許状下付(油津 - 飫肥間)<ref>[{{NDLDC|2951951/3}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年2月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *1913年(大正2年)[[8月18日]] 【開業】'''宮崎県営鉄道飫肥線''' 飫肥 - 油津(3.9M→6.4km) 【駅新設】油津(初代)、一里松、飫肥(初代)<ref>[{{NDLDC|2952420/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1913年8月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *1914年(大正3年)[[6月21日]] 【停留場新設】星倉<ref>[{{NDLDC|2952751/8}} 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1914年9月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *[[1919年]](大正8年)[[6月3日]] 【駅→停留場】一里松 *[[1929年]](昭和4年)[[3月5日]] 【停留場新設】妻手橋、宮之前 *[[1930年]](昭和5年)[[10月1日]] 【停留場→駅】一里松 *[[1931年]](昭和6年) **[[6月15日]] 【停留場→駅】星倉 **[[9月8日]] 【延伸開業】飫肥(2代) - 東飫肥(0.4km) 【駅新設】飫肥(2代) 【駅名改称】飫肥(初代)→東飫肥<ref>[{{NDLDC|2957890/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年9月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *[[1932年]](昭和7年)[[8月1日]] 【開業】'''宮崎県営軌道''' 星倉 - 大藤(5.3km) 【停留場開業】(貨)殿所、(貨)内之田、(貨)大藤 *[[1935年]](昭和10年)[[7月1日]] 【買収・国有化】'''油津線''' 飫肥 - 油津(6.8km)、星倉 - 大藤(5.3km) *[[1937年]](昭和12年)[[4月5日]] 【駅名改称】油津→元油津 *[[1941年]](昭和16年)[[10月28日]] 【路線廃止】油津線 飫肥 - 元油津(-6.8km)、星倉 - 大藤(-5.3km)。※志布志線延伸開業にともない。元油津付近は、[[改軌]]の上志布志線の貨物支線に流用) 【駅廃止】元油津、妻手橋、一里松、宮之前、星倉、東飫肥、飫肥(2代)、(貨)殿所、(貨)内之田、(貨)大藤 === 志布志線 === *1935年(昭和10年)[[4月15日]] 【延伸開業】志布志 - 榎原(28.5km) 【駅新設】大隅夏井、福島今町、福島仲町、日向北方、日向大束、榎原 *[[1936年]](昭和11年)[[3月1日]] 【延伸開業】榎原 - 大堂津(10.2km) 【駅新設】南郷、大堂津 *1937年(昭和12年)[[4月19日]] 【延伸開業】大堂津 - 油津(4.3km) <ref>記念スタンプ[{{NDLDC|2959567/4}} 「逓信省告示第号」『官報』1937年4月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>【駅新設】油津(2代) *1941年(昭和16年)10月28日 【延伸開業】油津 - 北郷(13.5km)、油津 - 元油津(1.0km。貨物支線。実態は、油津線起点付近の改軌新線) 【駅新設】吾田、飫肥(3代)、内之田、北郷 *1949年(昭和24年) **[[1月15日]] 【駅新設】谷之口 **[[9月15日]] 【仮乗降場新設】福島高松 *[[1950年]](昭和25年)[[1月10日]] 【仮乗降場→駅】福島高松 *[[1952年]](昭和27年)[[1月1日]] 【駅名改称】吾田→日南 *[[1959年]](昭和34年)[[10月1日]] 【駅名改称】福島仲町→串間 *[[1960年]](昭和35年)[[7月25日]] 【貨物支線廃止】油津 - 元油津(-1.0km) === 日南線 === *[[1963年]](昭和38年)[[5月8日]] 【開業】'''日南線''' 南宮崎 - 北郷(+32.5km) (旅客営業のみ) 【編入】志布志線 志布志 - 北郷(+56.5km) (南宮崎 - 志布志間が日南線となる) 【駅新設】田吉(2代)、南方(2代)、木花(2代)、曽山寺(2代)、子供の国(2代)、青島(2代)、内海(2代)、小内海、伊比井 *[[1964年]](昭和39年)[[3月30日]] 【貨物営業開始】 南宮崎 - 北郷(32.5km) *[[1966年]](昭和41年)[[12月1日]] 【駅新設】折生迫 *[[1969年]](昭和44年)[[6月30日]] 沿線一帯に集中豪雨、谷之口 - 榎原間で道床が南郷川に洗い流されて流失<ref>「あっ線路が流れる 主婦急報事故を防ぐ」『朝日新聞』昭和44年(1969年)7月2日朝刊12版、15面</ref> *[[1971年]](昭和46年)[[10月1日]] 【駅廃止】田吉(2代) *[[1975年]](昭和50年)[[1月20日]] [[動力近代化計画|無煙化]]により蒸気機関車運行列車が廃止される<ref>{{Cite news |和書|title=日南、志布志線 19日でSL廃止 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-01-17 |page=2 }}</ref>。 *[[1982年]](昭和57年)[[11月15日]] 【貨物営業廃止】全線<ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第166号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-11-13 }}</ref> *[[1984年]](昭和59年)[[3月18日]] 【臨時乗降場新設】運動公園 *[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] 【承継】九州旅客鉄道(第1種鉄道事業者) 【臨時乗降場→駅】運動公園 *[[1990年]](平成2年) **[[2月20日]] 【改キロ】志布志駅が移転し0.1&nbsp;km短縮 **[[8月8日]] 【臨時駅設置】[[食と緑博覧会駅|食と緑博覧会]](南宮崎・南方間、現田吉駅より南方側、1990年(平成2年)9月17日廃止) *[[1993年]](平成5年)12月 タブレット閉塞式から特殊自動閉塞式に変更<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref> *[[1994年]](平成6年)[[3月1日]] ワンマン運転開始 *[[1996年]](平成8年)[[7月18日]] 宮崎空港線開業 【電化】南宮崎 - 田吉間。【駅新設】田吉(3代) *[[2011年]](平成23年)[[1月26日]]-[[1月28日|28日]] [[霧島山]][[新燃岳]]噴火で、青島 - 志布志間が不通 *[[2015年]](平成27年)[[11月14日]] 南宮崎 - 田吉間で[[ICカード]]「[[SUGOCA]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/__icsFiles/afieldfile/2017/04/11/150917_press.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171013031655/http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/__icsFiles/afieldfile/2017/04/11/150917_press.pdf|format=PDF|language=日本語|title=宮崎エリアでSUGOCAが始まります!|publisher=九州旅客鉄道|date=2015-09-17|accessdate=2021-11-29|archivedate=2017-10-13}}</ref>。 *[[2016年]](平成28年)[[12月22日]] 列車位置情報システム「どれどれ」が運用開始され、当線では南宮崎 - 田吉のみ列車位置情報を配信<ref name="jrkyushu20161220" />。 *[[2017年]](平成29年) **[[3月4日]] 快速「日南マリーン号」の下り列車が谷之口駅・日向北方駅・大隅夏井駅に停車となり、事実上飫肥駅より各駅停車となる。 **10月 南宮崎駅構内を構内連動装置を電子連動装置に更新。日南線の管理駅を南宮崎駅から宮崎乗務センター南宮崎指令に変更。 *[[2020年]](令和2年) **[[7月8日]] [[令和2年7月豪雨]]の影響で線路に土砂が流入。南郷 - 志布志間が不通となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20200708/5050011063.html|title=日南線の復旧 5日程度かかるか|date=2020-07-08|accessdate=2020-07-09|website=NHK NEWS WEB|publisher=日本放送協会}}</ref>。 **[[7月13日]] 南郷 - 志布志間で運転を再開<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://archive.today/C1Rd4|url=https://www.jrkyushu.co.jp/trains/unkou.php|archivedate=2020-07-13|accessdate=2020-07-13|title=運行情報|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[3月13日]] ダイヤ改正で快速「日南マリーン号」の上り列車が志布志発に変更、折生迫駅・内海駅・小内海駅が通過となり、上下列車で停車駅を統一<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/railway/dia/pdf/press_kagoshima_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211003124021/https://www.jrkyushu.co.jp/railway/dia/pdf/press_kagoshima_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=【鹿児島支社版】2021年3月にダイヤを見直します|publisher=九州旅客鉄道鹿児島支社|date=2020-12-18|accessdate=2021-11-29|archivedate=2021-10-03}}</ref>。 ** [[9月16日]] [[令和3年台風第14号|台風14号]]の接近に伴う大雨による[[土砂災害|土砂流入]]により[[小内海駅]]周辺で土砂災害が発生し、青島 - 志布志間で不通となる<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/miyazaki/news/20210919-OYTNT50060/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210921205922/https://www.yomiuri.co.jp/local/miyazaki/news/20210919-OYTNT50060/|title=宮崎土砂崩れ現地調査 台風14号 国交省、復旧見通せず|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021-09-20|accessdate=2021-11-29|archivedate=2021-09-21}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20211009-OYTNT50073/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211017032635/https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20211009-OYTNT50073/|title=土砂崩れで埋まった駅ノート、「心配」SNSの声受け「救出」…絶景で人気、JR日南線・小内海駅|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021-10-09|accessdate=2021-10-17|archivedate=2021-10-17}}</ref>。 ** [[12月11日]] 青島 - 志布志間が運転再開<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/11/26/211126_nichinan_untensaikai.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211126234508/http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2021/11/26/211126_nichinan_untensaikai.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日南線が全線で運転再開します!|publisher=九州旅客鉄道|date=2021-11-26|accessdate=2021-11-29|archivedate=2021-11-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20211211-OYTNT50088/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211211081746/https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20211211-OYTNT50088/|title=JR日南線 全線再開…土砂崩れから3か月ぶり 青島-志布志|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021-12-11|accessdate=2021-12-11|archivedate=2021-12-11}}</ref>。 *[[2022年]](令和4年) **[[4月1日]] 宮崎支社の発足により、当線の管轄を鹿児島支社から同支社へ移管<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/20220401/5060012163.html|title=JR九州が組織強化へ 名称変更し「宮崎支社」発足|date=2022-04-01|website=宮崎 NEWS WEB|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|accessdate=2022-06-18|archivedate=2022年4月1日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220401135722/https://www3.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/20220401/5060012163.html|deadlinkdate=2022年4月}}</ref>。 **[[9月19日]] [[令和4年台風第14号|台風14号]]の接近に伴う大雨により、青島 - 志布志間で不通となる。 **[[9月23日]] 青島 - 南郷間で運行を再開<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20220922-2460779/ JR九州、台風14号の影響は - 日南線志布志駅まで「開通時期未定」] - マイナビニュース、2022年9月22日</ref>。ダイヤ改正に伴い、日豊本線宮崎以北への乗り入れがなくなり、「日南マリーン号」の上りが南宮崎駅止めとなる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/railway/dia2022/pdf/press_miyazaki22.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220614064702/https://www.jrkyushu.co.jp/railway/dia2022/pdf/press_miyazaki22.pdf|format=PDF|language=日本語|title=【宮崎支社版】2022年9月23日ダイヤ改正 在来線各線区でダイヤを見直します|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-18|archivedate=2022-06-10}}</ref>。 *[[2023年]](令和5年) **[[1月21日]] 南郷 - 福島今町間で運行を再開<ref>{{Cite news |title=JR日南線が一部再開 4か月ぶり 南郷―福島今町 |newspaper=読売新聞オンライン |date=2023-01-22 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kagoshima/news/20230121-OYTNT50089/ |access-date=2023-01-24 |publisher=読売新聞社}}</ref>。 **[[3月15日]] 福島今町 - 志布志間で運行を再開し、全線運転再開<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2023/02/22/230222_nichinan_untensaikai_zensen.pdf|archiveurl=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2023/02/22/230222_nichinan_untensaikai_zensen.pdf|format=PDF|language=日本語|title=日南線が全線で運転再開します!|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-02-22|accessdate=2023-05-09|archivedate=2022-02-22}}</ref>。 == 駅一覧 == 便宜上、直通列車の多い日豊本線宮崎駅からの区間を記載。累計営業キロは南宮崎駅からのもの。 * 停車駅 ** 普通…すべての駅に停車 ** 快速「日南マリーン号」…●印の駅に停車、|印の駅は通過 ** 特急「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」…列車記事参照 * 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可、|:列車交換不可 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|路線名}} !style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|電化状況|height=5em}} !style="width:6.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|駅間<br />営業キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|累計<br />営業キロ !style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|快速}} !style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|接続路線 !style="width:1em; border-bottom:3px solid #faaf18;"|{{縦書き|線路}} !colspan="2" style="border-bottom:3px solid #faaf18;"|所在地 |- |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; font-size:75%;"|{{縦書き|日豊本線|height=4.5em}} !rowspan="4" style="background:#fbc; width:1em;"|{{縦書き|交流電化|height=4.5em}} |[[宮崎駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|2.6 |● |[[九州旅客鉄道]]:{{Color|#0095d9|■}}[[日豊本線]]([[延岡駅|延岡]]・[[大分駅|大分]]方面) |◇ |rowspan="28" style=" width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[宮崎県]]|height=6em}} |rowspan="13" style="white-space:nowrap;"|[[宮崎市]] |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[南宮崎駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.6 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2"|● |rowspan="2"|九州旅客鉄道:{{Color|#0095d9|■}}日豊本線([[都城駅|都城]]・[[鹿児島駅|鹿児島]]方面) |rowspan="2"|◇ |-style="height:1em;" |rowspan="28" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|'''日南線'''|height=6em}} |- |[[田吉駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|2.0 |● |九州旅客鉄道:{{Color|#36b558|■}}[[宮崎空港線]]<ref group="*">宮崎空港線の列車はすべて南宮崎駅へ乗り入れる。</ref> |◇ |- !rowspan="26" style="background:#fff; width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|非電化|height=6em}} |[[南方駅 (宮崎県)|南方駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|4.2 || |&nbsp; || |- |[[木花駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|7.5 |● |&nbsp; |◇ |- |[[運動公園駅 (宮崎県)|運動公園駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|9.0 |● |&nbsp; || |- |[[曽山寺駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|10.2 || |&nbsp; || |- |[[子供の国駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|11.4 |● |&nbsp; || |- |[[青島駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|12.7 |● |&nbsp; |◇ |- |[[折生迫駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|13.8 || |&nbsp; || |- |[[内海駅 (宮崎県)|内海駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|17.5 || |&nbsp; || |- |[[小内海駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|19.9 || |&nbsp; || |- |[[伊比井駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|23.3 |● |&nbsp; |◇ |rowspan="10" |[[日南市]] |- |[[北郷駅]] |style="text-align:right;"|9.2 |style="text-align:right;"|32.5 |● |&nbsp; |◇ |- |[[内之田駅]] |style="text-align:right;"|4.6 |style="text-align:right;"|37.1 || |&nbsp; || |- |[[飫肥駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|39.8 |● |&nbsp; |◇ |- |[[日南駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|43.8 |● |&nbsp; || |- |[[油津駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|46.0 |● |&nbsp; |◇ |- |[[大堂津駅]] |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:right;"|50.3 |● |&nbsp; |◇ |- |[[南郷駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|53.0 |● |&nbsp; || |- |[[谷之口駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|56.1 |● |&nbsp; || |- |[[榎原駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|60.5 |● |&nbsp; |◇ |- |[[日向大束駅]] |style="text-align:right;"|8.1 |style="text-align:right;"|68.6 |● |&nbsp; |◇ |rowspan="5"|[[串間市]] |- |[[日向北方駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|71.8 |● |&nbsp; || |- |[[串間駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|74.4 |● |&nbsp; || |- |[[福島今町駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|77.2 |● |&nbsp; |◇ |- |[[福島高松駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|79.6 |● |&nbsp; || |- |[[大隅夏井駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|84.5 |● |&nbsp; || |colspan="2" rowspan="2"|[[鹿児島県]]<br />[[志布志市]] |- |[[志布志駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|88.9 |● |&nbsp; || |} {{Reflist|group="*"}} * [[JR九州サービスサポート]]の[[業務委託駅]] ** 南宮崎駅 * [[簡易委託駅]] ** 飫肥駅、日南駅、油津駅、南郷駅、串間駅 * 上記以外の駅は無人駅である。 === 廃止路線 === * 油津駅 - [[元油津駅]](1.0km。1960年7月25日廃止時点で志布志線の貨物支線) === 過去の接続路線 === * 志布志駅: ** [[大隅線]] - 1987年3月14日廃止 ** [[志布志線]] - 1987年3月28日廃止 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Nichinan Line}} *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[宮崎交通線]] *[[国鉄の特殊狭軌線]] - 飫肥 - 油津間が該当した。旧線名「油津線」。 *[[東九州自動車道]]・[[日南・志布志道路]]:日南線に並行する[[高速自動車国道|高速自動車国道(高速道路)]]。 {{九州旅客鉄道宮崎支社}} {{赤字83線}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にちなん}} [[Category:九州地方の鉄道路線]] [[Category:九州旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:赤字83線]] [[Category:宮崎県営鉄道|路にちなん]] [[Category:宮崎県の交通]] [[Category:鹿児島県の交通]]
2003-09-07T11:30:28Z
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宮崎空港線
宮崎空港線(みやざきくうこうせん)は、宮崎県宮崎市の田吉駅から宮崎空港駅とを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)。日豊本線宮崎駅 - 南宮崎駅間と日南線南宮崎駅 - 田吉駅間を加えた、宮崎駅 - 宮崎空港駅間に「空港線」の愛称が付けられている。 宮崎空港付近を通る日南線から分岐し、宮崎空港旅客ターミナルに直接乗り入れる空港アクセス路線として建設され、JR発足後の1996年に開業した。同時に日南線分岐点付近には田吉駅が再開業し、当路線の起点となる。日南線との共用区間・分岐付近を除いて、踏切が存在しない。 当路線には加算運賃(130円)が適用されている。なお、当路線ではICカード「SUGOCA」の利用が可能である。 また、一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」の利用ができる路線であり、スマートフォンアプリ「JR九州アプリ」で宮崎 - 宮崎空港間のリアルタイム列車位置情報が提供されている。 路線長は1.4 km(営業キロ)と短く、2021年時点で、JR線の中で最短である。なお、当線の開業前は新湊線(当時全長3.6 km、貨物線)、旅客営業を行う路線では桜島線(JRゆめ咲線、当時全長4.0 km)が最短路線であった。 全線宮崎支社の管轄である。 開業以来、線内折り返し列車の設定がされたことはなく、全列車が日南線南宮崎・宮崎駅方面に直通する。普通列車1往復が南宮崎駅発着である以外は日豊本線経由で宮崎駅まで直通しており、すべての特急列車と半数以上の普通列車はさらに同線延岡駅方面に直通している。 南宮崎駅で方向転換が必要となる都城駅・鹿児島中央駅方面への直通運転は行われていない。車両は日豊本線と同じ電車が運用されており、田吉駅以南が非電化である日南線青島駅・油津駅方面で運用される気動車は乗り入れない。 一見して典型的な空港アクセス鉄道ではあるが、後述する過去の経緯から宮崎市街地よりも旭化成の工場が存在する延岡への中距離輸送に重きが置かれており、特急列車の運行が主体である。なお、宮崎市街地へは本数面で路線バスが優位である。 大分駅・延岡駅方面と宮崎地区を結ぶ特急列車は、早朝・深夜に運転される「にちりん」2・6・19・21号、「ひゅうが」3・5・16・18号を除き宮崎空港駅を始発・終着駅としている。宮崎空港駅から延岡駅までは約1時間25分、佐伯駅までは約2時間半、大分駅までは約3時間半である。なお、宮崎空港駅発着の特急は田吉駅には停車しない。 宮崎空港線の開業当時はすべての特急列車が博多駅または小倉駅発着であったが、2021年3月13日現在は博多駅発着の「にちりんシーガイア」1往復および小倉駅発着の「にちりん」1往復を除いて大分駅および延岡駅発着とし、大分駅発着の列車に関しては同駅で博多駅発着の「ソニック」と接続する形を取っている。 2020年10月17日より、周遊型観光特急「36ぷらす3」が運行開始し、土曜日運行分『緑の路』が当線の宮崎空港駅始発となっている。 なお、ここでの本数は宮崎空港駅発着分のみを示しており、「にちりん」「ひゅうが」については宮崎駅・南宮崎駅発着の設定もある。 宮崎駅 - 宮崎空港駅間のみで特急列車に乗車する場合、普通車自由席に乗車券のみで乗車できる特例が設けられている(なお、この区間で指定席やグリーン車に乗車する場合は、指定席券あるいは普通列車用指定席グリーン券が必要であり、これらの券を駅窓口または車内で発売している)。他の区間と跨いで乗車する際は特急料金は特例区間外のみで計算される。この特例は南宮崎駅から日豊本線都城駅方面に直通する特急「きりしま」、田吉駅から日南線日南方面に直通する特急「海幸山幸」(この列車は田吉駅に停車する)、南宮崎駅発着の特急「にちりん」「ひゅうが」に関しても、特例区間内であれば適用される。なお、「36ぷらす3」でも空席があれば「36ぷらす3」用グリーン券を購入することで宮崎駅まで乗車できる。 普通列車も南宮崎駅および宮崎駅、さらに一部の列車は延岡駅まで直通運転するが、前述の通り宮崎駅 - 宮崎空港駅間は乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できるために普通列車独自で本数を確保する必要はなく、絶対的に多く設定されていない。このため青島・油津駅方面との接続に関しては、田吉駅でかなりの時間待たされる場合がある。また、かつては快速列車が運行されていたが、2015年6月20日時点では運行されていない。 なお、日南線・日豊本線内の運行形態についてはそれぞれの項目を参照のこと。 全区間が電化されているため全列車が電車で運用されているが、開業以来運用されていなかった気動車については2006年に臨時列車として特急「はやとの風」用キハ140形が運転された。これは宮崎地区における初めての入線である。 2011年3月12日より、485系に代わって、787系が使用されている。なお787系は開業以来2000年3月10日まで乗り入れており、11年ぶりに入線を果たしている。過去には885系の乗り入れ実績もある。2000年3月11日から2021年3月12日までは783系も乗り入れていた。 延岡市に創業地工場群を持つ旭化成は、本社のある大阪市、東京都区部との間で社員の出張が多いが、宮崎・延岡間は当時、鉄道は空港とつながっておらず、高速道路もなかった。そのため、旭化成は自社ヘリポートを用意し、延岡工場と宮崎空港間を25分で結ぶヘリコプター航路を1989年(平成元年)3月に開設した。この航路は年間1万5千人の社員と、6,000人の訪問者を運ぶ予定であったという。 ところが1990年(平成2年)9月27日、宮崎空港から延岡ヘリポートに向かっていた社内定期便が墜落し、乗員乗客全員が死亡する事故が発生した(阪急航空チャーター機墜落事故)。これによりヘリコプターの運航を断念、日豊本線の「高速化」や空港至近を通る日南線の空港アクセス活用の気運がにわかに高まった。 便宜上、愛称である「空港線」としての起点となる日豊本線宮崎駅からの区間を記載する。累計営業キロは田吉駅からのもの。 平均通過人員(輸送密度)、旅客運輸収入は以下の通り。
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宮崎空港線(みやざきくうこうせん)は、宮崎県宮崎市の田吉駅から宮崎空港駅とを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)。日豊本線宮崎駅 - 南宮崎駅間と日南線南宮崎駅 - 田吉駅間を加えた、宮崎駅 - 宮崎空港駅間に「空港線」の愛称が付けられている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (kyushu).svg|35px|link=九州旅客鉄道]] 宮崎空港線 |路線色=#36b558 |画像=JR Kyushu 787 arrive Miyazaki Airport Station-20200717.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[宮崎空港駅]]に入線する[[JR九州787系電車|787系電車]] |通称=空港線 |国={{JPN}} |所在地=[[宮崎県]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[田吉駅]] |終点=[[宮崎空港駅]] |駅数=2駅 |輸送実績= |1日利用者数= |開業=[[1996年]][[7月18日]] |全通= |所有者=[[九州旅客鉄道]](JR九州) |運営者=九州旅客鉄道 |車両基地= |使用車両=[[#運行車両|運行車両]]を参照 |路線距離=1.4 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=全線[[単線]] |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・60[[ヘルツ (単位)|Hz]],<br />[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=特殊自動閉塞式(軌道回路検知式) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS‐SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]] |最高速度=85 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed">[https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/fact_sheet/pdf/factsheets2017.pdf FACt SHEETS 2017] - JR九州</ref> |駅間平均長= |路線図= |路線図名= |路線図表示= }} {| {{Railway line header|collapse=no}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#36b558}} {{BS-table}} {{BS2||HST|||[[宮崎駅]]|}} {{BS2||HST|||[[南宮崎駅]]|}} {{BS2|STRq|ABZgr|||[[日豊本線]]|}} {{BS2||BHF|0.0|[[田吉駅]]||}} {{BS2||SKRZ-Ao|||[[一ツ葉道路]]|}} {{BS2||hKRZWae|||山内川|}} {{BS2|STRq|ABZgr|||[[日南線]]|}} {{BS2||KBHFe|1.4|[[宮崎空港駅]]||}} {{BS2||FLUG|||[[宮崎空港]]|}} |} |} '''宮崎空港線'''(みやざきくうこうせん)は、[[宮崎県]][[宮崎市]]の[[田吉駅]]から[[宮崎空港駅]]とを結ぶ[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鉄道路線]]([[幹線]])。[[日豊本線]][[宮崎駅]] - [[南宮崎駅]]間と[[日南線]]南宮崎駅 - 田吉駅間を加えた、宮崎駅 - 宮崎空港駅間に「'''空港線'''」の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられている。 == 概要 == [[宮崎空港]]付近を通る日南線から分岐し、宮崎空港[[空港ターミナルビル|旅客ターミナル]]に直接乗り入れる[[空港連絡鉄道|空港アクセス路線]]として建設され、JR発足後の[[1996年]]に開業した。同時に日南線分岐点付近には田吉駅が再開業<ref group="注">田吉駅は1971年に廃止されていた。</ref>し、当路線の起点となる。日南線との共用区間・分岐付近を除いて、[[踏切]]が存在しない。 当路線には[[運賃|加算運賃]](130円)が適用されている<ref>『JTB時刻表』2020年3月号、営業案内25頁</ref>。なお、当路線ではICカード「[[SUGOCA]]」の利用が可能である<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/area/index.html 利用可能・発売エリア] - 九州旅客鉄道 SUGOCA公式サイト、2015年11月18日閲覧</ref>。 また、一般向けリアルタイム列車位置情報システム「どれどれ」の利用ができる路線であり、スマートフォンアプリ「JR九州アプリ」で宮崎 - 宮崎空港間のリアルタイム列車位置情報が提供されている<ref name="jrkyushu20161220">{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2016/12/20/001doredore.pdf 〜 運行情報のご案内を充実 〜 「JR九州アプリ」で列車位置情報を表示します!]}} - 九州旅客鉄道、2016年12月20日</ref>。 路線長は1.4&nbsp;km(営業キロ)と短く、2021年時点で、JR線の中で最短である。なお、当線の開業前は[[新湊線]](当時全長3.6&nbsp;km、[[貨物線]])、旅客営業を行う路線では[[桜島線]](JRゆめ咲線、当時全長4.0&nbsp;km)が最短路線であった。 === 路線データ === [[ファイル:Miyazaki Airport Station2010.jpg|thumb|right|240px|空港旅客ターミナル(画面右)と接続する宮崎空港駅]] * 管轄(事業種別):九州旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):1.4&nbsp;km * [[軌間]]:1067&nbsp;mm * 駅数:2(起点駅含む) ** 宮崎空港線所属駅は宮崎空港駅のみで、田吉駅は日南線所属である。 * [[複線]]区間:なし(全線[[単線]]) * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線([[交流電化|交流]]20,000V・60Hz) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式) * 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS‐SK]]、[[自動列車停止装置#ATS-Dx (DN・DK・DF) 形|ATS-DK]] * 最高速度:85km/h<ref name="speed" /> 全線[[九州旅客鉄道宮崎支社|宮崎支社]]の管轄である。 == 運行形態 == 開業以来、線内折り返し列車の設定がされたことはなく、全列車が日南線南宮崎・宮崎駅方面に直通する。普通列車1往復が南宮崎駅発着である以外は日豊本線経由で宮崎駅まで直通しており、すべての特急列車と半数以上の普通列車はさらに同線[[延岡駅]]方面に直通している。 南宮崎駅で方向転換が必要となる[[都城駅]]・[[鹿児島中央駅]]方面への直通運転は行われていない。車両は日豊本線と同じ[[電車]]が運用されており、田吉駅以南が[[非電化]]である日南線[[青島駅]]・[[油津駅]]方面で運用される[[気動車]]は乗り入れない。 一見して典型的な空港アクセス鉄道ではあるが、[[#歴史|後述]]する過去の経緯から宮崎市街地よりも[[旭化成]]の工場が存在する延岡への中距離輸送に重きが置かれており、特急列車の運行が主体である。なお、宮崎市街地へは本数面で路線バスが優位である。 === 特急 === [[大分駅]]・[[延岡駅]]方面と宮崎地区を結ぶ特急列車は、早朝・深夜に運転される「にちりん」2・6・19・21号、「ひゅうが」3・5・16・18号<ref group="注">「ひゅうが」3号は宮崎駅到着後そのまま鹿児島中央駅行き「きりしま」3号になり、「ひゅうが」5号は宮崎駅到着後すぐ「にちりん」6号で延岡方面に折り返すためで、他は接続する航空便がない時間帯に運転されるため。なお航空便との接続を持たない列車として「にちりん」4・17号が乗り入れているが、これは航空便利用客というよりは空港周辺の利用者の利便性を図るために運転されており、それぞれ上り始発、下り最終となっている。</ref>を除き宮崎空港駅を始発・終着駅としている。宮崎空港駅から延岡駅までは約1時間25分<ref group="注">下り最速は1時間11分、上り最速は1時間20分。多くの列車が途中駅での対向列車との運転停車のために時間が余計にかかるほか、上り特急列車では宮崎空港駅発車時刻を繰り上げ、毎時10分台とするパターンダイヤを2020年3月改正から採用したため、平均所要時間が増加している。これらの列車は従来より始発時刻を繰り上げた分、南宮崎駅あるいは宮崎駅で時間調整のため長時間停車を行う関係で、宮崎駅以北は改正前に比べ変化が少ない。</ref>、佐伯駅までは約2時間半、大分駅までは約3時間半である。なお、宮崎空港駅発着の特急は田吉駅には停車しない<ref group="注">そのため、田吉駅を通過する列車を利用して宮崎空港駅と日南線田吉駅以南の各駅との間を乗車する場合、折返し乗車となる田吉駅・南宮崎駅間のキロ数は運賃計算に含まれない特例が設けられている。</ref>。 宮崎空港線の開業当時はすべての特急列車が[[博多駅]]または[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]発着であったが、2021年3月13日<ref name="JRtimetable202103">交通新聞社『JR時刻表』2021年3月号</ref>現在は博多駅発着の「にちりんシーガイア」1往復および小倉駅発着の「にちりん」1往復を除いて大分駅および延岡駅発着とし、大分駅発着の列車に関しては同駅で博多駅発着の「[[ソニック (列車)|ソニック]]」と接続する形を取っている<ref group="注">2020年11月以降、「にちりん」と接続する「ソニック」の一部に運休が生じているため、大分駅で30分ほど待たされる場合がある。</ref>。 2020年10月17日より、周遊型観光特急「[[36ぷらす3]]」が運行開始し、土曜日運行分『緑の路』が当線の宮崎空港駅始発となっている。 * 「[[にちりん (列車)|にちりん]]」(下り6本・上り5本) ** 宮崎空港駅 - 南宮崎駅 - 宮崎駅 - 日向市駅 - 延岡駅 - 大分駅 - 小倉駅(1往復のみ小倉駅発着) * 「[[にちりん (列車)|にちりんシーガイア]]」(下り1本・上り1本) ** 宮崎空港駅 - 南宮崎駅 - 宮崎駅 - 日向市駅 - 延岡駅 - 大分駅 - 小倉駅 - 博多駅 * 「[[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]」(下り6本・上り7本) ** 宮崎空港駅 - 南宮崎駅 - 宮崎駅 - 日向市駅 - 延岡駅 * 「[[36ぷらす3]]」(土曜日のみ、上り1本) ** 宮崎空港駅 → 宮崎駅 → (延岡駅 → 宗太郎駅 → 重岡駅) → 大分駅 → 別府駅(延岡・宗太郎・重岡の3駅は特別停車で、客扱いはない) なお、ここでの本数は宮崎空港駅発着分のみを示しており、「にちりん」「ひゅうが」については宮崎駅・南宮崎駅発着の設定もある。 ==== 特急料金等不要の特例 ==== 宮崎駅 - 宮崎空港駅間のみで特急列車に乗車する場合、[[普通車 (鉄道車両)|普通車]][[自由席]]に[[乗車券]]のみで乗車できる特例が設けられている(なお、この区間で[[座席指定席|指定席]]や[[グリーン車]]に乗車する場合は、指定席券あるいは普通列車用指定席グリーン券が必要であり、これらの券を駅窓口または車内で発売している)。他の区間と跨いで乗車する際は[[特別急行券|特急料金]]は特例区間外のみで計算される。この特例は南宮崎駅から日豊本線都城駅方面に直通する特急「[[きりしま (列車)|きりしま]]」、田吉駅から日南線[[日南駅|日南]]方面に直通する特急「[[海幸山幸 (列車)|海幸山幸]]」(この列車は田吉駅に停車する)、南宮崎駅発着の特急「にちりん」「ひゅうが」に関しても、特例区間内であれば適用される。なお、「[[36ぷらす3]]」でも空席があれば「36ぷらす3」用グリーン券を購入することで宮崎駅まで乗車できる。 === 普通 === [[ファイル:JR Kyushu 713 series set D901.jpg|thumb|240px|right|サンシャイン 713系電車]] 普通列車も南宮崎駅および宮崎駅、さらに一部の列車は延岡駅まで直通運転するが、前述の通り宮崎駅 - 宮崎空港駅間は乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できるために普通列車独自で本数を確保する必要はなく、絶対的に多く設定されていない。このため青島・油津駅方面との接続に関しては、田吉駅でかなりの時間待たされる場合がある。また、かつては[[快速列車|快速]]列車が運行されていたが、2015年6月20日時点<ref name="JRtimetable201507">交通新聞社『JR時刻表』2015年7月号</ref>では運行されていない。 * 延岡駅発着:下り9本、上り11本 * 高鍋駅発着:1往復 * 日向新富駅着:上り1本 * 宮崎駅発着:下り8本、上り7本 * 南宮崎駅発着:1往復 なお、[[日南線]]・[[日豊本線]]内の運行形態についてはそれぞれの項目を参照のこと。 == 運行車両 == 全区間が電化されているため全列車が[[電車]]で運用されているが、開業以来運用されていなかった気動車については[[2006年]]に臨時列車として特急「[[はやとの風]]」用[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ140形]]が運転された。これは宮崎地区における初めての入線である。 2011年3月12日より、[[国鉄485系電車|485系]]に代わって、[[JR九州787系電車|787系]]が使用されている。なお787系は開業以来2000年3月10日まで乗り入れており、11年ぶりに入線を果たしている。過去には[[JR九州885系電車|885系]]の乗り入れ実績もある。2000年3月11日から2021年3月12日までは[[JR九州783系電車|783系]]も乗り入れていた。 * 特急列車(一部車両は特急車両の送り込みを兼ねて、普通列車として運転される場合がある) ** [[JR九州787系電車|787系]](「36ぷらす3」を含む) * 普通列車 ** [[国鉄713系電車|713系]] ** [[JR九州817系電車|817系]] == 歴史 == [[延岡市]]に創業地[[工場]]群を持つ[[旭化成]]は、本社のある[[大阪市]]、[[東京都区部]]との間で社員の出張が多いが、宮崎・延岡間は当時、鉄道は空港とつながっておらず、[[高速道路]]もなかった。そのため、旭化成は自社[[ヘリポート]]を用意し、延岡工場と宮崎空港間を25分で結ぶ[[ヘリコプター]]航路を[[1989年]]([[平成]]元年)3月に開設した。この航路は年間1万5千人の社員と、6,000人の訪問者を運ぶ予定であったという。 ところが[[1990年]](平成2年)[[9月27日]]、宮崎空港から延岡ヘリポートに向かっていた社内定期便が墜落し、乗員乗客全員が死亡する事故が発生した([[阪急航空チャーター機墜落事故]])。これによりヘリコプターの運航を断念、日豊本線の「[[高速化 (鉄道)|高速化]]」や空港至近を通る日南線の空港アクセス活用の気運がにわかに高まった。 * [[1994年]](平成6年)[[7月28日]]:着工<ref>{{Cite news |title=宮崎空港連絡鉄道が着工 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-08-01 |page=3 }}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[7月18日]]:開業<ref>{{Cite news |title=JR九州 宮崎空港線20周年セレモニー|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通新聞社|date=2016-07-25}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[10月1日]]:[[ワンマン運転]]開始。 * [[2015年]](平成27年)[[11月14日]]:ICカード「SUGOCA」が利用可能になる<ref name="jrkyushu20150917">{{PDFlink|[http://www.jrkyushu.co.jp/top_info/pdf/611/miyazakisugoca.pdf 宮崎エリアでSUGOCAが始まります!]}} - 九州旅客鉄道ニュースリリース 2015年9月17日</ref>。 * [[2016年]](平成28年)12月22日:スマートフォンアプリ「JR九州アプリ」内の列車位置情報システム「どれどれ」運用開始により、リアルタイムで列車位置情報が配信開始<ref name="jrkyushu20161220" />。 * [[2020年]]([[令和]]2年)3月20日 - 4月23日:[[2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響#交通|新型コロナウイルス感染症による利用客減少]]に伴い、減便等を実施<ref name=":9">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2020/03/24/200324tsuikaunkyu_2.pdf|title=新型コロナウイルス感染拡大に伴う追加の運転計画について(3月24日追加)|accessdate=2020-3-20|publisher=九州旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/emergency/__icsFiles/afieldfile/2020/03/16/200316unkyutuika2_2.pdf|title=新型コロナウイルス感染拡大に伴う今後の運転計画について|accessdate=2020-3-16|publisher=九州旅客鉄道}}</ref>。 ** 「にちりん」8・9・13・14・19号を運休。(3月20日 - 4月23日) **「にちりん」3号・「にちりんシーガイア」20・24号の大分 - 宮崎空港間を運休。(3月20日 - 4月23日) **「ひゅうが」7・8号を運休。(4月6日 - 4月23日) **「ひゅうが」5号の宮崎 - 宮崎空港間、8号の宮崎空港 - 南宮崎間を運休。(3月20日 - 4月5日) ** 「にちりんシーガイア」20号に充当する列車の運用ダイヤにあたる、普通列車1本(宮崎→宮崎空港)を運休。(3月20日 - 4月23日) *[[2022年]](令和4年)[[4月1日]]:宮崎支社の発足に伴い、当線の管轄を鹿児島支社から同支社へ移管<ref>[http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/03/23/220323_JRkyushu_jinjiidou.pdf 九州旅客鉄道株式会社人事異動(2022年4月1日付)] - 九州旅客鉄道(2022年3月25日閲覧)</ref>。 == 駅一覧 == 便宜上、愛称である「空港線」としての起点となる日豊本線宮崎駅からの区間を記載する。累計営業キロは田吉駅からのもの。 * 全駅[[宮崎県]][[宮崎市]]内に所在。 * 全駅で[[列車交換]]可能。 * 停車駅 ** 普通…全旅客駅に停車 ** 特急 *** [[にちりん (列車)|にちりん・にちりんシーガイア]]・[[ひゅうが (列車)|ひゅうが]]…田吉駅以外の駅に全列車が停車。下表区間では乗車券のみで普通車自由席に乗車可能。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:1em; border-bottom:3px solid #36b558;"|{{縦書き|路線名}} !style="width:6em; border-bottom:3px solid #36b558;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #36b558;"|駅間<br />営業<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #36b558;"|累計<br />営業<br />キロ !style="border-bottom:3px solid #36b558;"|接続路線 |- |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; font-size:70%;"|{{縦書き|日豊本線|height=4.5em}} |[[宮崎駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|4.6 |[[九州旅客鉄道]]:{{Color|#0095d9|■}}[[日豊本線]]([[高鍋駅|高鍋]]・[[延岡駅|延岡]]・[[大分駅|大分]]方面に直通あり) |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[南宮崎駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.6 |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.0 |rowspan="2"|九州旅客鉄道:{{Color|#0095d9|■}}日豊本線([[都城駅|都城]]・[[鹿児島駅|鹿児島]]方面) |-style="height:1em;" |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; font-size:70%;"|{{縦書き|日南線|height=3.5em}} |- |rowspan="2"|[[田吉駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|2.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2"|九州旅客鉄道:{{Color|#faaf18|■}}[[日南線]]([[油津駅|油津]]・[[志布志駅|志布志]]方面) |-style="height:1em;" |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; font-size:70%;"|{{縦書き|'''宮崎空港線'''|height=5.5em}} |- |[[宮崎空港駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|1.4 |&nbsp; |} == 輸送実績 == 平均通過人員([[輸送密度]])、旅客運輸収入は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/rosenbetsu.html|title=交通・営業データ|accessdate=2017-8-18|publisher=九州旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/senkubetsu.html|title=線区別ご利用状況|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2022-5-22}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" ! rowspan="2" |年度 ! colspan="2" |平均通過人員(人/日) ! rowspan="2" |旅客運輸収入<br>(百万円/年) |- !全区間(田吉 - 宮崎空港) !南宮崎 - 田吉(参考) |- | style="text-align:left;" |1987年度 |- |2,129<ref group="注">田吉駅が1996年度に新設されたため、1987年度は「南宮崎 - 油津」としている。</ref> |- |- | style="text-align:left;" |2016年度 |1,740 |3,615 |83 |- | style="text-align:left;" |2017年度 |1,841 |3,726 |88 |- | style="text-align:left;" |2018年度 |1,918 |3,770 |92 |- | style="text-align:left;" |2019年度 |1,854 |3,733 |93 |- | style="text-align:left;" |2020年度 |627 |2,163 |31 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[空港連絡鉄道]] {{九州旅客鉄道宮崎支社}} {{coord|31|52|22|N|131|26|8|E|region:JP_type:landmark|display=title}} {{DEFAULTSORT:みやさきくうこう}} [[Category:九州地方の鉄道路線]] [[Category:九州旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:宮崎県の交通|みやさきくうこうせん]] [[Category:空港連絡鉄道]]
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鹿児島市交通局
鹿児島市交通局(かごしましこうつうきょく)は、鹿児島県鹿児島市の交通部門。市電(路面電車)と路線バスを運営する。なお鹿児島市営の交通事業として他に桜島フェリーが存在するが、これは鹿児島市船舶局が運営しており交通局とは関係しない。 移譲。 日本最南端の路面電車事業である。年間延べ約1千万人の利用客があり、特に谷山 - 天文館通間、鹿児島中央駅前 - いづろ通間は利用率が高い。2016年度は1億3047万5000円の黒字を計上している。 鹿児島市電の停留所は「電停」と呼ばれ、JRの駅と区別される。各電停には電車接近表示器の表示端末が設置されており、後述の運行管理システムからの出力情報により後方3電停以内にいる電車の位置がわかるようになっている。鹿児島中央駅の地下通路においてはピクトグラムがJR線は列車の前面、市電は電車の側面である。 その他高見馬場、神田(交通局前)、市立病院前、脇田発着、また平日には臨時運行があり、鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅前 - 郡元(南側) - 谷山の直通系統(こちらは土曜も一部運行)、鹿児島駅前発鹿児島中央駅前経由脇田行き、脇田始発の1系統がある。さらに、7月の「かごしま夏祭」、11月の「おはら祭」の時には、高見馬場 - 朝日通間が歩行者天国になる関係で、谷山→騎射場→鹿児島中央駅前→郡元→谷山およびその逆方向の「9」字状運行、朝日通 - 鹿児島駅前の区間系統が臨時運行される(「おはら祭」本祭の11月3日は「9」字状運行のみ)。 鹿児島市は、谷山電停からJR谷山駅までの延伸計画について、2002年度からその可能性を調査していたが、2006年4月、県道の渋滞を招くなどの理由から断念することを表明した。しかし、鹿児島市・鹿児島市議会・地元谷山の住民や商店街・周辺の教育機関などから要望があり、JR谷山駅から慈眼寺駅周辺の線路高架計画に基づき再検討されている。JR指宿枕崎線高架の市電のアンダークロスへの対応については谷山駅の「駅周辺」の項を参照のこと。 なお、他方面(県庁・与次郎・ウォーターフロント地区方面等)への延伸も検討されており、2012年度の鹿児島市の当初予算案にウォーターフロント地区への観光向け路線の調査検討費用が計上され、桜島フェリー乗り場、種子屋久航路の高速船乗り場を通るルートなどが検討されており、鹿児島市により以下の5ルート案が2012年2月20日に示された。 これらの路線について、2015年と2019年に改訂された『鹿児島市LRT整備計画』においては上記の延伸計画についてふれられていなかった。 しかし、平成30年度より路面電車観光路線基本計画策定委員会が設置され、観光目的となる路線延長について検討が再開され、ルート案等の評価が実施されている。 随所に設けたトロリーコンタクターと車両番号読取装置により電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、車両無線も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応、電車接近表示器への出力による利用者への案内を図っている。 元々は自局発注(一部は自局製造)と大都市圏(主に東京と大阪)で廃車となった車両を譲り受けたものが半数ずつという状況であった。他社からの譲り受けは1970年代の700・800形を最後に行われていない。 降灰のために夏季に窓を開放することができない鹿児島という都市の持つ特殊事情のため、災害対策の一環という位置付けで車両の冷房化を他の公共交通機関に先駆ける形で急ピッチで推進した。この結果、1986年には国鉄の鹿児島車両所(現・JR九州鹿児島車両センター)所属車両にも先駆けて、常用車両の完全冷房化を完了している(常用ではない700形は1990年に改造)。 1989年以降は市電の復権とバブル景気の後押しもあり、相次いで新造車を登場させている(2100形 - 2140形)ほか、車体更新により延命が図られた車両も存在する(800形→9500形)。2002年に就役した1000形は日本初の純国産超低床電車である。 2012年12月より、鹿児島市における路面電車の運行開始から100周年を迎えたことを記念して「観光レトロ電車」が導入された。形式番号は100周年を記念することから100形とされた。しかし、2021年12月に乗客数低迷などを理由として2021年末で廃止されることが発表された。その後、同電車は2022年1月4日から通常営業車両として運用されている。 局舎は長らく高麗町に置かれていたが、交通局本局の施設の老朽化対策や施設設備の機能見直しを図り、電車部門を2015年5月にJT鹿児島工場跡地(鹿児島市上荒田町)へ鹿児島市立病院と共に移転した。移転先は跡地のうち南側の約13,000mで、局舎(事務室、乗車券販売所、運行管理室)、変電所、整備工場が新設された。なお、バス部門は2015年10月に新栄町と浜町に分散移転した。 これに伴って「交通局前」バス停および電停は2015年に二中通に変更された。 全区間大人170円・小人80円均一(2014年4月1日改定)。観光電車は大人340円・小人170円。 乗り換え制度があり、臨時便を除けば直通運転がない「谷山〜甲東中学校前(2系統と接続する郡元を除く)」と「加治屋町〜中郡」間を行き来する場合にこの制度が適用される。高見馬場あるいは郡元で1系統と2系統を60分以内に現金払いにて乗り継ぐ場合に乗り換え券が発行され、1回に限り無料で乗り換えできる。ただし、両系統が重複する鹿児島駅前〜高見馬場を乗降に含む場合は乗換券は発行されない。詳しくは各電停の記事を参照のこと。 大人運賃(1971年以降) 2004年11月1日の5町編入以前の鹿児島市内全域に路線を持つ。ただし歴史節で前述したように、桜島町のバス事業を引き継いだことから旧桜島町域にも路線を保有している。鹿児島市内の観光地を巡る路線バス「カゴシマシティビュー」や桜島の西側の観光地を巡る路線バス「サクラジマアイランドビュー」も運行している。かつては、定期観光バスも運行していた。 貸切バス事業も行っている。 鹿児島市営バスでは各運行系統を「1系統」「2系統」などではなく「1番」「2番」と称しており、旧桜島町営バス路線もこの呼び方に統一されている。これに倣い、他社の運行系統も、「1番」「2番」と称している。また、南国交通と相互運転している市営バスの「4番」「26番」の南国交通の運行系統は、それぞれ「市4番」「市26番」と市営バス系統と判るようになっている。 かつては急行バスが一部路線(15番、24番、26番)で設定されていたが、この当時の急行バスは全て廃止されている。 なお、2015年5月現在、20番、24番の2路線で急行バスが復活しており、それぞれ平日朝に2本運行されている(20番:鹿児島中央駅始発→鴨池港行き、24番:緑ヶ丘団地始発→市役所前行き)。 【7】原良線は【26】に吸収され、【26-2】明和線(原良経由)として運行している。 欠番になった【7】を南国交通との相互乗り入れの明和・中央駅西口線として運行開始した。 【4】坂元・西紫原線は、乗客減少と南国交通との相互乗り入れ実施により廃止され、代わりに、元々は【11-2】鴨池・冷水線であった路線を一部変更し、また、終起点も変更して【4】城山・玉里線とし、南国交通との相互乗り入れを始めた。南国交通の路線上にはない『紫原3丁目』方面は【3】玉里団地線に編入する形で、【3】玉里・西紫原線となった。 2011年3月1日付けで、JR九州新幹線全線開業に合わせた路線再編を伴う大規模なダイヤ改正が行われ、【1】伊敷ニュータウン線で鹿児島中央駅発着の【1-2】が、【15】東紫原線で鹿児島中央駅経由の【15-2】が新設、【20】緑ヶ丘・鴨池港線に急行バスが復活した。一方、【35】中央駅西口・玉江循環線が【23】紫原・武町線に統合される形で廃止された。この改正では、【35】の経路を継承した【23】が天神南・広木住宅を経由する市役所前発着の循環路線から、広木農協前始発・西高校前(当時)終着の路線に変更され、経由しなくなった広木住宅・森山団地が市営バスの営業エリアから外れた。 2011年4月25日付けで【25】唐湊線のみダイヤ改正が行われ、「唐湊福祉館前」発着の経路が追加された。 2011年10月18日付けで、桜島周遊バス(サクラジマアイランドビュー)が運行開始。 2013年4月1日付けでダイヤ改正が行われ、【15-2】東紫原線(中央駅経由)及び【18】大学病院線の一部走行区間が変更。従来の「郡元」バス停経由から2012年に開通した「東紫原陸橋」を経由する経路に変更となった。 2015年1月16日付けで、【40】武岡台高校線が分割され、【40-2】が新設された。朝の武岡台高校行きは、緑ヶ丘団地→伊敷脇田、新設された鹿児島中央駅→城西公園前が【40-2】、伊敷ニュータウン西入口→原良小学校前が引き続き【40】、花岡通→武岡台高校が【40】・【40-2】両方での運行となった。一方、夕方の緑ヶ丘団地行きは変更が無く、武岡台高校から永吉・下伊敷・伊敷ニュータウン西入口を経由し緑ヶ丘団地まで引き続き【40】のみの運行となっている。 2015年5月1日付けで、電車施設および鹿児島市立病院の移転に合わせて関連する一部バス停の名称が変更された。また、鹿児島県立鹿児島西高等学校が2012年3月に閉校した現状に合わせ、「西高校前」バス停が「旧西高校前」に改称された(この時点ではダイヤ改正は無く、旅客案内面でのバス停の名称変更とそれに伴う設備改修のみ)。 2015年9月24日付けで、翌月10月1日からのバス施設の移転・供用開始に合わせた大規模なダイヤ改正が実施された。特に、【3】玉里・西紫原線では始発が紫原三丁目から鶴ヶ崎橋に路線延長で変更され、さらに鹿児島中央駅 - 高見馬場が「共研公園前」・「甲東中学校前」経由から「加治屋町」経由に変更されるなど、一部路線で路線の延長や経路変更が行われた。またこの改正では、前記【3】玉里・西紫原線の経由変更によって市営バスの鹿児島中央駅 - 高見馬場のルートがすべて「加治屋町」経由に統一された。【3】玉里・西紫原線は、日中は北営業所前から鹿児島中央駅までと、市役所前から鶴ヶ崎橋までの運行である。朝夕の数便のみ、北営業所前から鶴ヶ崎橋までの運行となっている。 2017年4月1日付けで、「旧西高校前」バス停が、位置を移設のうえ「高齢者福祉センター伊敷」に名称変更となり、「旧西高校前」発着だった路線で行き先等の変更が行われた。なお、「旧西高校前」の位置のバス停は前日の2017年3月31日をもって一時廃止されたが、同年12月15日付けで、新設の「中福良」バス停として復活している。 2017年10月23日付けで、【1】伊敷ニュータウン線、【5】日当平線、【24】伊敷線の3路線で、一部便が鹿児島中央駅への乗り入れを開始した。この3路線では、加治屋町〜千石馬場を含む既存の定期券を所持している場合、暫定的に既存の定期券でも鹿児島中央駅での乗降が認められている。なお、この改正で中央駅に乗り入れるようになった路線のうち【1】伊敷ニュータウン線では、それまで中央駅発着で独立していた【1-2】が独立した路線から降格し、『【1】伊敷ニュータウン線のうち、経路途中の「鹿児島中央駅」を始発・終着とする便(加治屋町 - 市役所前に乗り入れない便)は【1-2】』と案内が改められた。また、改正前後でそれまで中央駅発着便として【1】とは別立てで【1-2】を表記していた公式サイトの路線一覧ページでも、【1-2】の表記が削除された。 2018年1月13日付けで、観光周遊バスのシティビューのうち、昼間に運行される「城山・磯コース」と「ウォーターフロントコース」が統合され、「カゴシマシティビュー」と一本化された。これにより、ザビエル公園前・南洲公園入口・祇園之洲公園前のバス停にはシティビューが停車しなくなり、一部経路や停車順序が変更となった。 2018年10月1日付けで、【27】県庁・与次郎線が一部経路変更となり、4つのバス停が新設された。この経路変更で【27】県庁・与次郎線は「鹿児島中央駅」始発・「与次郎一丁目」終着の路線から、「鹿児島中央駅」→(「与次郎一丁目」)→「鹿児島中央駅」の循環路線に変更された。 26年連続で年間6億円の赤字を抱えているため、2020年4月1日と2021年4月1日の2段階に分けて全39路線のうち鹿児島交通と南国交通に各10路線ずつ移譲する事が決定している(詳細は「路線重複問題」の節を参照)。 2022年4月1日には、【4】玉里・城山線と【8】西玉里団地線の相互直通が行われた。 2023年4月1日にも、【3】玉里団地線と【5】日当平線の相互直通が行われた。 2023年4月1日現在 路線バス カゴシマシティビュー サクラジマアイランドビュー 定期観光バス 1985年10月1日、市電上町線・伊敷線の廃止に伴う市バス路線の大幅な経路変更とダイヤ改正が実施された。以降、市営バスでは旅客の流動状況に応じてダイヤ改正時に経路改定を行い現在に至る。以下は交通局発行の路線図(不定期)を基に路線・系統の変遷を記している。なお、路線図にはダイヤ改正日の記載はなく、“この路線図は平成...年...月...日現在のものです”とおそらく発行日を記載しているため、路線一覧の日付もこの日付とする。 一般路線 市内定期観光バス この時のダイヤ改正での休止区間 停留所の名称変更 一般路線 この時点での休止系統 斜字区間は他の系統を含めてバスの運行がなくなった区間 新設停留所 休止停留所 一般路線 新設停留所 名称変更停留所 一般路線 新設停留所 休止停留所 国産4メーカーの車両が在籍している。かつては西日本車体工業の採用が多かったが、近年は純正車体が中心である。鹿児島市内のバス事業者の中では低床バスやリフトバス・低公害バスの導入には積極的である。 一般路線車は1989年以前は旧標準塗装(肌色と灰色のツートンカラーに白帯、一部茶色)、1990年以降は新標準塗装(空色の濃淡、白色、クリーム色の4色)。一部旧標準塗装から新標準塗装に塗り替えた車両もある。ノンステップバスおよび小型バスは山吹色に青色の斜め帯の塗装。桜島町営バスの引き継ぎ車は引き継ぎ前からの白色と紺色のツートンカラーのままである。1980年代後半に導入されたスケルトン車体の車両のうち、大型車はメーカーにかかわらず前面窓が1枚窓でワイパーがオーバーラップワイパーとなっている独自仕様であったが、ノンステップバスは前面2枚窓でワイパーも標準的なものとなっている。 カゴシマシティビューは中型バスをベースにした特殊構造の専用車を使用する。城山・磯コース用の車両は路面電車風のデザインで、ウォーターフロントコース用の車両は海とイルカをイメージしたデザインである。 サクラジマアイランドビューには専用の小型車(日野・ポンチョ)が使用される。 貸切車は鹿児島市交通局の自局発注車がベージュ色地にオレンジ・茶色・黒の三色の帯、桜島町営バスの引き継ぎ車が引き継ぎ前からの白地に青の桜島の模様を入れた塗装である。貸切バスのほか、定期観光バスにも使用されていた。 鹿児島市内と桜島営業所管内で異なった体系をとっている。鹿児島市内では初乗りが190円で、以後1区間ごとに30円ずつ加算する区間制運賃である。ただし、一部の系統では190円ないし140円(17番線のみ)の均一運賃、または初乗り140円、基準賃率は19円90銭の対キロ区間制運賃である。なお、19円90銭という賃率は日本一安い賃率である。一方、桜島営業所管内では、初乗り120円、基準賃率23円20銭の対キロ区間制運賃である。 2023年10月1日から、全路線の運賃が均一230円に統一された。 カゴシマシティビューは1回の乗車につき190円均一、定期観光バスは2,200円となっている。 鹿児島市営バスと民間事業者のバスが競合する路線のほとんどは、もともと交通局が単独で運行していたところに規制緩和により民間事業者が参入したものであるが、交通局の「民間バスが入ってきたからといって、ダイヤを落とすことができない。サービスを落としたくないし、競争にも負けたくない」という考えから、過剰供給を認識しつつも抜本的な見直しができず、市営バスは年間約5億 - 6億円の赤字が続くこととなった。 この状況を受けて、2018年3月の鹿児島市交通事業経営審議会では、「民間事業者に一部路線を移譲して、人員・車両も含め事業規模を縮小する抜本的な見直しに取り組むべきである」との答申がされた。これを受けて交通局は2019年6月10日、2020年4月と2021年4月の2段階に分けて、市営バスの全39路線のうち20路線を、鹿児島交通と南国交通に10路線ずつ移譲する方針を明らかにした。移譲される路線については原則として3年間便数が維持されるが、その後は民間事業者によって便数が決定されることになる。 アーティストのライブ会場に向かう臨時バスが運行される際、バスの行き先にそのアーティストの曲名と歌詞が表示される細工がされている。これは2013年に開催されたMr.Childrenのツアー時から行われており、遠方からの来場者へのファンサービスの一環とされている。鹿児島アリーナへの増車便を依頼された際に表示するかどうかを確認し、NGが出ない限り実施しているという。 前節でも述べた通り、市電・市バスともに相互利用に対応した交通系ICカードが使えず、それに気づかず使おうとしてしまう観光客も実際にいる(もちろん、使用できない旨の注意書きはある)。九州地方においては特に大きく立ち遅れているばかりか、2018年9月には、桜島フェリーにおいて交通系ICカードの利用が可能になったため、さらに遅れをとっている状況である。近年ではこのことに対するネガティブ・キャンペーンが根強く、市議会議員からは「鹿児島市として恥ずかしい部分」との発言があり、南日本新聞の報道本部長からも苦言を呈するコメントが出ている。 交通局側は、RapiCaの利用を生かしつつ、相互利用対応交通系ICカード(10カード)の片利用に対応する方向で検討を進めているが、現状数億円の赤字を出していることや、運用経費の問題なども重なっており、まったくもって議論が進んでいない状況である。その一方、同じくRapiCaを導入しているJR九州バスは(福岡での導入を挙げたうえで)、鹿児島市の対応次第では交通系ICカードに対応する趣旨の発言をしている。 また逆に、10カードを導入する以上、RapiCaを運用し続ける意味はないとの声も上がっている。これは、RapiCaの利用枚数と鹿児島県の人口で計算した場合、実際には鹿児島県全体の1/5しか利用していないことや、宮崎や大分、北九州で相互利用が対応された際、それぞれ独自のカード(宮交バスカ・大分共通バスカード・ひまわりバスカード)の運用を取りやめ、nimocaに切り替えているためである。 上記の問題が相次いでいる一方で、先に交通系ICカードの利用が可能になった桜島フェリーを皮切りに、交通局の一部営業所にて、RapiCa(定期券も含む)を交通系ICカードを使用して買うことができるなどの対応が2019年8月1日からスタートしている(ただし、仮に片利用対応が行われた際の予定はまだ明らかになっていない)。 なお相互利用とは直接関係ないが、JR東日本とソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズが開発中の、Suicaと各地域の交通系ICカードを1枚のカードにまとめられる2in1カード「地域連携ICカード」への協力と導入が鹿児島市議会「平成31年第1回定例会」で取り上げられたが、反対多数により不採択となった。 その後、交通局ではRapiCaの機器類が老朽化したことに伴い将来の姿を検討し、クレジットカードのタッチ決済の導入を目指す方向であることが明らかになった。2022年11月よりVisaのタッチ決済、2023年4月より順次JCB、Mastercard、銀聯、アメリカン・エキスプレス、ダイナース、ディスカバーのタッチ決済の実証実験を始める予定である。 2002年から「市電・市バスゆ〜ゆ〜フェスタ」を開催。交通局施設を一般に開放し、ペインティングバスの製作やトロッコ車の体験乗車、鉄道模型の展示会なども行われる。ただし、2005年は行われなかったほか、新型コロナウイルスの感染が拡大した2020年以降は実施されていない。
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"鹿児島市は、谷山電停からJR谷山駅までの延伸計画について、2002年度からその可能性を調査していたが、2006年4月、県道の渋滞を招くなどの理由から断念することを表明した。しかし、鹿児島市・鹿児島市議会・地元谷山の住民や商店街・周辺の教育機関などから要望があり、JR谷山駅から慈眼寺駅周辺の線路高架計画に基づき再検討されている。JR指宿枕崎線高架の市電のアンダークロスへの対応については谷山駅の「駅周辺」の項を参照のこと。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、他方面(県庁・与次郎・ウォーターフロント地区方面等)への延伸も検討されており、2012年度の鹿児島市の当初予算案にウォーターフロント地区への観光向け路線の調査検討費用が計上され、桜島フェリー乗り場、種子屋久航路の高速船乗り場を通るルートなどが検討されており、鹿児島市により以下の5ルート案が2012年2月20日に示された。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "これらの路線について、2015年と2019年に改訂された『鹿児島市LRT整備計画』においては上記の延伸計画についてふれられていなかった。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、平成30年度より路面電車観光路線基本計画策定委員会が設置され、観光目的となる路線延長について検討が再開され、ルート案等の評価が実施されている。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "随所に設けたトロリーコンタクターと車両番号読取装置により電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、車両無線も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応、電車接近表示器への出力による利用者への案内を図っている。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"局舎は長らく高麗町に置かれていたが、交通局本局の施設の老朽化対策や施設設備の機能見直しを図り、電車部門を2015年5月にJT鹿児島工場跡地(鹿児島市上荒田町)へ鹿児島市立病院と共に移転した。移転先は跡地のうち南側の約13,000mで、局舎(事務室、乗車券販売所、運行管理室)、変電所、整備工場が新設された。なお、バス部門は2015年10月に新栄町と浜町に分散移転した。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これに伴って「交通局前」バス停および電停は2015年に二中通に変更された。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "全区間大人170円・小人80円均一(2014年4月1日改定)。観光電車は大人340円・小人170円。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "乗り換え制度があり、臨時便を除けば直通運転がない「谷山〜甲東中学校前(2系統と接続する郡元を除く)」と「加治屋町〜中郡」間を行き来する場合にこの制度が適用される。高見馬場あるいは郡元で1系統と2系統を60分以内に現金払いにて乗り継ぐ場合に乗り換え券が発行され、1回に限り無料で乗り換えできる。ただし、両系統が重複する鹿児島駅前〜高見馬場を乗降に含む場合は乗換券は発行されない。詳しくは各電停の記事を参照のこと。", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "大人運賃(1971年以降)", "title": "鹿児島市電" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2004年11月1日の5町編入以前の鹿児島市内全域に路線を持つ。ただし歴史節で前述したように、桜島町のバス事業を引き継いだことから旧桜島町域にも路線を保有している。鹿児島市内の観光地を巡る路線バス「カゴシマシティビュー」や桜島の西側の観光地を巡る路線バス「サクラジマアイランドビュー」も運行している。かつては、定期観光バスも運行していた。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "貸切バス事業も行っている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "鹿児島市営バスでは各運行系統を「1系統」「2系統」などではなく「1番」「2番」と称しており、旧桜島町営バス路線もこの呼び方に統一されている。これに倣い、他社の運行系統も、「1番」「2番」と称している。また、南国交通と相互運転している市営バスの「4番」「26番」の南国交通の運行系統は、それぞれ「市4番」「市26番」と市営バス系統と判るようになっている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "かつては急行バスが一部路線(15番、24番、26番)で設定されていたが、この当時の急行バスは全て廃止されている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、2015年5月現在、20番、24番の2路線で急行バスが復活しており、それぞれ平日朝に2本運行されている(20番:鹿児島中央駅始発→鴨池港行き、24番:緑ヶ丘団地始発→市役所前行き)。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "【7】原良線は【26】に吸収され、【26-2】明和線(原良経由)として運行している。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "欠番になった【7】を南国交通との相互乗り入れの明和・中央駅西口線として運行開始した。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "【4】坂元・西紫原線は、乗客減少と南国交通との相互乗り入れ実施により廃止され、代わりに、元々は【11-2】鴨池・冷水線であった路線を一部変更し、また、終起点も変更して【4】城山・玉里線とし、南国交通との相互乗り入れを始めた。南国交通の路線上にはない『紫原3丁目』方面は【3】玉里団地線に編入する形で、【3】玉里・西紫原線となった。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2011年3月1日付けで、JR九州新幹線全線開業に合わせた路線再編を伴う大規模なダイヤ改正が行われ、【1】伊敷ニュータウン線で鹿児島中央駅発着の【1-2】が、【15】東紫原線で鹿児島中央駅経由の【15-2】が新設、【20】緑ヶ丘・鴨池港線に急行バスが復活した。一方、【35】中央駅西口・玉江循環線が【23】紫原・武町線に統合される形で廃止された。この改正では、【35】の経路を継承した【23】が天神南・広木住宅を経由する市役所前発着の循環路線から、広木農協前始発・西高校前(当時)終着の路線に変更され、経由しなくなった広木住宅・森山団地が市営バスの営業エリアから外れた。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2011年4月25日付けで【25】唐湊線のみダイヤ改正が行われ、「唐湊福祉館前」発着の経路が追加された。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2011年10月18日付けで、桜島周遊バス(サクラジマアイランドビュー)が運行開始。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2013年4月1日付けでダイヤ改正が行われ、【15-2】東紫原線(中央駅経由)及び【18】大学病院線の一部走行区間が変更。従来の「郡元」バス停経由から2012年に開通した「東紫原陸橋」を経由する経路に変更となった。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2015年1月16日付けで、【40】武岡台高校線が分割され、【40-2】が新設された。朝の武岡台高校行きは、緑ヶ丘団地→伊敷脇田、新設された鹿児島中央駅→城西公園前が【40-2】、伊敷ニュータウン西入口→原良小学校前が引き続き【40】、花岡通→武岡台高校が【40】・【40-2】両方での運行となった。一方、夕方の緑ヶ丘団地行きは変更が無く、武岡台高校から永吉・下伊敷・伊敷ニュータウン西入口を経由し緑ヶ丘団地まで引き続き【40】のみの運行となっている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2015年5月1日付けで、電車施設および鹿児島市立病院の移転に合わせて関連する一部バス停の名称が変更された。また、鹿児島県立鹿児島西高等学校が2012年3月に閉校した現状に合わせ、「西高校前」バス停が「旧西高校前」に改称された(この時点ではダイヤ改正は無く、旅客案内面でのバス停の名称変更とそれに伴う設備改修のみ)。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2015年9月24日付けで、翌月10月1日からのバス施設の移転・供用開始に合わせた大規模なダイヤ改正が実施された。特に、【3】玉里・西紫原線では始発が紫原三丁目から鶴ヶ崎橋に路線延長で変更され、さらに鹿児島中央駅 - 高見馬場が「共研公園前」・「甲東中学校前」経由から「加治屋町」経由に変更されるなど、一部路線で路線の延長や経路変更が行われた。またこの改正では、前記【3】玉里・西紫原線の経由変更によって市営バスの鹿児島中央駅 - 高見馬場のルートがすべて「加治屋町」経由に統一された。【3】玉里・西紫原線は、日中は北営業所前から鹿児島中央駅までと、市役所前から鶴ヶ崎橋までの運行である。朝夕の数便のみ、北営業所前から鶴ヶ崎橋までの運行となっている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2017年4月1日付けで、「旧西高校前」バス停が、位置を移設のうえ「高齢者福祉センター伊敷」に名称変更となり、「旧西高校前」発着だった路線で行き先等の変更が行われた。なお、「旧西高校前」の位置のバス停は前日の2017年3月31日をもって一時廃止されたが、同年12月15日付けで、新設の「中福良」バス停として復活している。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2017年10月23日付けで、【1】伊敷ニュータウン線、【5】日当平線、【24】伊敷線の3路線で、一部便が鹿児島中央駅への乗り入れを開始した。この3路線では、加治屋町〜千石馬場を含む既存の定期券を所持している場合、暫定的に既存の定期券でも鹿児島中央駅での乗降が認められている。なお、この改正で中央駅に乗り入れるようになった路線のうち【1】伊敷ニュータウン線では、それまで中央駅発着で独立していた【1-2】が独立した路線から降格し、『【1】伊敷ニュータウン線のうち、経路途中の「鹿児島中央駅」を始発・終着とする便(加治屋町 - 市役所前に乗り入れない便)は【1-2】』と案内が改められた。また、改正前後でそれまで中央駅発着便として【1】とは別立てで【1-2】を表記していた公式サイトの路線一覧ページでも、【1-2】の表記が削除された。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2018年1月13日付けで、観光周遊バスのシティビューのうち、昼間に運行される「城山・磯コース」と「ウォーターフロントコース」が統合され、「カゴシマシティビュー」と一本化された。これにより、ザビエル公園前・南洲公園入口・祇園之洲公園前のバス停にはシティビューが停車しなくなり、一部経路や停車順序が変更となった。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2018年10月1日付けで、【27】県庁・与次郎線が一部経路変更となり、4つのバス停が新設された。この経路変更で【27】県庁・与次郎線は「鹿児島中央駅」始発・「与次郎一丁目」終着の路線から、「鹿児島中央駅」→(「与次郎一丁目」)→「鹿児島中央駅」の循環路線に変更された。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "26年連続で年間6億円の赤字を抱えているため、2020年4月1日と2021年4月1日の2段階に分けて全39路線のうち鹿児島交通と南国交通に各10路線ずつ移譲する事が決定している(詳細は「路線重複問題」の節を参照)。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2022年4月1日には、【4】玉里・城山線と【8】西玉里団地線の相互直通が行われた。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2023年4月1日にも、【3】玉里団地線と【5】日当平線の相互直通が行われた。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2023年4月1日現在", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "路線バス", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "カゴシマシティビュー", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "サクラジマアイランドビュー", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "定期観光バス", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1985年10月1日、市電上町線・伊敷線の廃止に伴う市バス路線の大幅な経路変更とダイヤ改正が実施された。以降、市営バスでは旅客の流動状況に応じてダイヤ改正時に経路改定を行い現在に至る。以下は交通局発行の路線図(不定期)を基に路線・系統の変遷を記している。なお、路線図にはダイヤ改正日の記載はなく、“この路線図は平成...年...月...日現在のものです”とおそらく発行日を記載しているため、路線一覧の日付もこの日付とする。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一般路線", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "市内定期観光バス", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この時のダイヤ改正での休止区間", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "停留所の名称変更", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一般路線", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この時点での休止系統", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "斜字区間は他の系統を含めてバスの運行がなくなった区間", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "新設停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "休止停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "一般路線", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "新設停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "名称変更停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一般路線", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "新設停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "休止停留所", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "国産4メーカーの車両が在籍している。かつては西日本車体工業の採用が多かったが、近年は純正車体が中心である。鹿児島市内のバス事業者の中では低床バスやリフトバス・低公害バスの導入には積極的である。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "一般路線車は1989年以前は旧標準塗装(肌色と灰色のツートンカラーに白帯、一部茶色)、1990年以降は新標準塗装(空色の濃淡、白色、クリーム色の4色)。一部旧標準塗装から新標準塗装に塗り替えた車両もある。ノンステップバスおよび小型バスは山吹色に青色の斜め帯の塗装。桜島町営バスの引き継ぎ車は引き継ぎ前からの白色と紺色のツートンカラーのままである。1980年代後半に導入されたスケルトン車体の車両のうち、大型車はメーカーにかかわらず前面窓が1枚窓でワイパーがオーバーラップワイパーとなっている独自仕様であったが、ノンステップバスは前面2枚窓でワイパーも標準的なものとなっている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "カゴシマシティビューは中型バスをベースにした特殊構造の専用車を使用する。城山・磯コース用の車両は路面電車風のデザインで、ウォーターフロントコース用の車両は海とイルカをイメージしたデザインである。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "サクラジマアイランドビューには専用の小型車(日野・ポンチョ)が使用される。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "貸切車は鹿児島市交通局の自局発注車がベージュ色地にオレンジ・茶色・黒の三色の帯、桜島町営バスの引き継ぎ車が引き継ぎ前からの白地に青の桜島の模様を入れた塗装である。貸切バスのほか、定期観光バスにも使用されていた。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "鹿児島市内と桜島営業所管内で異なった体系をとっている。鹿児島市内では初乗りが190円で、以後1区間ごとに30円ずつ加算する区間制運賃である。ただし、一部の系統では190円ないし140円(17番線のみ)の均一運賃、または初乗り140円、基準賃率は19円90銭の対キロ区間制運賃である。なお、19円90銭という賃率は日本一安い賃率である。一方、桜島営業所管内では、初乗り120円、基準賃率23円20銭の対キロ区間制運賃である。 2023年10月1日から、全路線の運賃が均一230円に統一された。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "カゴシマシティビューは1回の乗車につき190円均一、定期観光バスは2,200円となっている。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "鹿児島市営バスと民間事業者のバスが競合する路線のほとんどは、もともと交通局が単独で運行していたところに規制緩和により民間事業者が参入したものであるが、交通局の「民間バスが入ってきたからといって、ダイヤを落とすことができない。サービスを落としたくないし、競争にも負けたくない」という考えから、過剰供給を認識しつつも抜本的な見直しができず、市営バスは年間約5億 - 6億円の赤字が続くこととなった。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この状況を受けて、2018年3月の鹿児島市交通事業経営審議会では、「民間事業者に一部路線を移譲して、人員・車両も含め事業規模を縮小する抜本的な見直しに取り組むべきである」との答申がされた。これを受けて交通局は2019年6月10日、2020年4月と2021年4月の2段階に分けて、市営バスの全39路線のうち20路線を、鹿児島交通と南国交通に10路線ずつ移譲する方針を明らかにした。移譲される路線については原則として3年間便数が維持されるが、その後は民間事業者によって便数が決定されることになる。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アーティストのライブ会場に向かう臨時バスが運行される際、バスの行き先にそのアーティストの曲名と歌詞が表示される細工がされている。これは2013年に開催されたMr.Childrenのツアー時から行われており、遠方からの来場者へのファンサービスの一環とされている。鹿児島アリーナへの増車便を依頼された際に表示するかどうかを確認し、NGが出ない限り実施しているという。", "title": "鹿児島市営バス" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "前節でも述べた通り、市電・市バスともに相互利用に対応した交通系ICカードが使えず、それに気づかず使おうとしてしまう観光客も実際にいる(もちろん、使用できない旨の注意書きはある)。九州地方においては特に大きく立ち遅れているばかりか、2018年9月には、桜島フェリーにおいて交通系ICカードの利用が可能になったため、さらに遅れをとっている状況である。近年ではこのことに対するネガティブ・キャンペーンが根強く、市議会議員からは「鹿児島市として恥ずかしい部分」との発言があり、南日本新聞の報道本部長からも苦言を呈するコメントが出ている。", "title": "ICカード乗車券の相互利用問題" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "交通局側は、RapiCaの利用を生かしつつ、相互利用対応交通系ICカード(10カード)の片利用に対応する方向で検討を進めているが、現状数億円の赤字を出していることや、運用経費の問題なども重なっており、まったくもって議論が進んでいない状況である。その一方、同じくRapiCaを導入しているJR九州バスは(福岡での導入を挙げたうえで)、鹿児島市の対応次第では交通系ICカードに対応する趣旨の発言をしている。 また逆に、10カードを導入する以上、RapiCaを運用し続ける意味はないとの声も上がっている。これは、RapiCaの利用枚数と鹿児島県の人口で計算した場合、実際には鹿児島県全体の1/5しか利用していないことや、宮崎や大分、北九州で相互利用が対応された際、それぞれ独自のカード(宮交バスカ・大分共通バスカード・ひまわりバスカード)の運用を取りやめ、nimocaに切り替えているためである。", "title": "ICカード乗車券の相互利用問題" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "上記の問題が相次いでいる一方で、先に交通系ICカードの利用が可能になった桜島フェリーを皮切りに、交通局の一部営業所にて、RapiCa(定期券も含む)を交通系ICカードを使用して買うことができるなどの対応が2019年8月1日からスタートしている(ただし、仮に片利用対応が行われた際の予定はまだ明らかになっていない)。", "title": "ICカード乗車券の相互利用問題" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお相互利用とは直接関係ないが、JR東日本とソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズが開発中の、Suicaと各地域の交通系ICカードを1枚のカードにまとめられる2in1カード「地域連携ICカード」への協力と導入が鹿児島市議会「平成31年第1回定例会」で取り上げられたが、反対多数により不採択となった。", "title": "ICカード乗車券の相互利用問題" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その後、交通局ではRapiCaの機器類が老朽化したことに伴い将来の姿を検討し、クレジットカードのタッチ決済の導入を目指す方向であることが明らかになった。2022年11月よりVisaのタッチ決済、2023年4月より順次JCB、Mastercard、銀聯、アメリカン・エキスプレス、ダイナース、ディスカバーのタッチ決済の実証実験を始める予定である。", "title": "ICカード乗車券の相互利用問題" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2002年から「市電・市バスゆ〜ゆ〜フェスタ」を開催。交通局施設を一般に開放し、ペインティングバスの製作やトロッコ車の体験乗車、鉄道模型の展示会なども行われる。ただし、2005年は行われなかったほか、新型コロナウイルスの感染が拡大した2020年以降は実施されていない。", "title": "市電・市バスゆ〜ゆ〜フェスタ" } ]
鹿児島市交通局(かごしましこうつうきょく)は、鹿児島県鹿児島市の交通部門。市電(路面電車)と路線バスを運営する。なお鹿児島市営の交通事業として他に桜島フェリーが存在するが、これは鹿児島市船舶局が運営しており交通局とは関係しない。
{{混同|鹿児島交通}} <!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください--> {{基礎情報 会社 |社名 = 鹿児島市交通局 |英文社名 = Kagoshima City Transportation Bureau |画像 = [[File:Kagoshima City Transportation Bureau.JPG|280px|鹿児島市交通局本局]] |画像説明 = 鹿児島市交通局本局 |種類 = [[地方公営企業]] |略称 = 市電、市バス |国籍 = {{JPN}} |郵便番号 = 890-0055 |本社所在地 = 本局:[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[上荒田町]]37番20号<br />バス事業課:鹿児島県鹿児島市[[新栄町 (鹿児島市)|新栄町]]22番28号 |設立 = [[1928年]](昭和3年)[[7月1日]] |業種 = 陸運業 |事業内容 = 乗合バス、路面電車、貸切バス |資本金 = |売上高 = 4,724,959千円(2005(平成17)年度) |総資産 = |従業員数 = 275名(2018(平成30)年4月1日現在) |外部リンク = http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/ |特記事項 = }} '''鹿児島市交通局'''(かごしましこうつうきょく)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の交通部門。[[市電]]([[路面電車]])と[[路線バス]]を運営する。なお鹿児島市営の交通事業として他に[[桜島フェリー]]が存在するが、これは鹿児島市船舶局が運営しており交通局とは関係しない。 == 歴史 == * [[1912年]]([[大正]]元年)[[12月1日]]: 鹿児島電気軌道が路面電車の運行を開始(日本全国で28番目<ref>[http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/about/ 鹿児島市交通局について] - 鹿児島市交通局、2019年7月5日</ref>)。運行区間は現在の[[鹿児島市電谷山線|谷山線]]([[武之橋停留場|武之橋]] - [[谷山停留場|谷山]])で、木造[[二軸車 (鉄道)|単車]]7両で運行した。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[7月1日]]: 鹿児島市が鹿児島電気軌道を買収し、鹿児島市電気局として発足。路面電車事業を開始する(電車51両、貨車3両、散水車1両)。 * [[1929年]](昭和4年)[[12月28日]]: バス事業を開始。[[1931年]](昭和6年)[[4月8日]]には鹿児島乗合自動車を吸収し、鹿児島市における当時のバス路線の多くを市営とした。 * [[1933年]](昭和8年)[[1月26日]]: 鹿児島市交通課に改組。 * [[1944年]](昭和19年)[[10月24日]]: 鹿児島市交通部に改組。 * [[1945年]](昭和20年) ** 6月17日: [[鹿児島大空襲]]により軌道部門、バス部門に甚大な被害を受ける<ref name=hasi143>水元景文『鹿児島市電が走る街 今昔』JTBパブリッシング、2007年、143頁</ref>。 ** 6月29日: 谷山線復旧。市電運行再開3両で運行<ref name=hasi143/> * [[1947年]](昭和22年)4月1日: 市バス運行再開<ref>『鹿児島市交通局移転記念誌 ありがとう高麗町』鹿児島市交通局、2015年、7頁</ref> * [[1952年]](昭和27年)[[10月1日]]: 鹿児島市交通局に改組。 * [[1985年]](昭和60年)10月1日: [[国道3号]]・[[国道10号]]の[[渋滞]]緩和のため[[鹿児島市電上町線|上町線]]、[[鹿児島市電伊敷線|伊敷線]]を廃止。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[3月27日]]: [[1988年]]から行っていた[[路面電車#路面電車関連用語|センターポール]]化事業竣工(計8.75 km)。 * [[1993年]](平成5年)8月7日:[[平成5年8月豪雨]]により軌道全線運休。これは戦時中以来のことであった<ref>『鹿児島市交通局移転記念誌 ありがとう高麗町』鹿児島市交通局、2015年、15頁</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月1日]]: [[ノンステップバス]]を導入、運行開始。 * [[2002年]](平成14年)[[1月15日]]: 3連接構造の[[超低床電車]][[鹿児島市交通局1000形電車|1000形]]を導入。運用開始。 * [[2004年]](平成16年)[[11月1日]]: 鹿児島市が[[桜島町]]を編入したため、同町が運営していた桜島町営バスの事業を引き継ぎ、[[桜島]]島内にもバス路線を持つようになる。 * [[2005年]](平成17年)4月1日: かごしま共通乗車カード ([[RapiCa]]) を供用。 * [[2006年]](平成18年)[[2月27日]]: [[ハイブリッドカー|ハイブリッドバス]]([[ワンステップバス|超低床]])を導入。運用開始。 * [[2007年]](平成19年) ** [[2月26日]]: [[CNG自動車|CNGバス]](超低床)を導入。運用開始。 ** [[4月26日]]: 輸送力増強のため5連接構造の新型超低床電車[[鹿児島市交通局7000形電車|7000形]]2編成を新たに導入。運用開始。 * [[2012年]](平成24年)12月1日: 開業100周年で観光レトロ電車「かごでん」運用開始。 * [[2015年]](平成27年) ** [[5月1日]]: 局舎・電車関連施設を上荒田町の[[日本たばこ産業|JT]]工場跡の南側へ移転(バス関連施設は移転せず)、同時に一部の電停・バス停の名称も変更。 ** 10月1日: バス関連施設を新栄町と浜町へ分散移転。 * [[2017年]](平成29年)[[3月30日]]: 2連接構造の超低床電車[[鹿児島市交通局7500形電車|7500形]](1次車)を2両運用開始。 * [[2018年]](平成30年)4月1日: 車内での英語放送、及び(公式発表以前からあった)駅ナンバリング表示を正式に導入。 * [[2019年]](平成31年)3月1日: 2連接構造の超低床電車[[鹿児島市交通局7500形電車|7500形]](2次車)を追加で2両運用開始。7500形は合計4両に。 * [[2020年]](令和2年)2月1日 - [[2021年]](令和3年)3月26日: 鹿児島駅前電停建替工事のため、鹿児島駅前 - 桜島桟橋通電停間が運休<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2021/02/a3d8993c3d9e64a7a755dbd6b452f793.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210125121653/http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2021/02/a3d8993c3d9e64a7a755dbd6b452f793.pdf|title=(お知らせ)令和3年3月27日(土)から「鹿児島駅前」電停を供用開始いたします。|archivedate=2021-01-25|accessdate=2021-01-25|publisher=鹿児島市交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref><ref name="pr20191101">{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2019/11/119968756c8df30209e6c4b0c600815f.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201008000643/http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2019/11/119968756c8df30209e6c4b0c600815f.pdf|title=(お知らせ)建替工事のため、下記の期間、「鹿児島駅前」電停の使用を休止し、同期間中は、「桜島桟橋通」電停を終点・始発電停といたします。|archivedate=2020-10-08|accessdate=2020-10-08|publisher=鹿児島市交通局|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年)4月1日 :バス16路線を鹿児島交通、南国交通に移譲。 * [[2021年]](令和3年)4月1日: バス4路線を南国交通に移譲。 移譲。 * [[2023年]](令和5年)10月1日: バス路線の運賃を全線均一230円に統一。 == 鹿児島市電 == [[ファイル:Kagoshima City Tram map ja.png|thumb|250px|鹿児島市電の路線図]] <div style="float:right; text-align: center"> {| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 80%;" |- style="front: #ddd;" !colspan="2"|利用者数推移 |- !年度 !年間乗車人員 |- |2003 |10,188,000 |- |2004 |10,572,000 |- |2005 |10,632,000 |- |2006 |11,295,000 |- |2007 |11,102,000 |- |2008 |10,868,000 |- |2009 |10,397,000 |- |2010 |10,537,000 |- |2011 | |- |2012 |10,287,000 |- |2018 |11,070,000<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/sogokotsu/shisaku/romen/documents/09_kagoshima.pdf|title=鹿児島市の路面電車について|format=PDF|date=2019-11-08|accessdate=2023-08-28}}</ref> |} </div> 日本最南端の[[路面電車]]事業である。年間延べ約1千万人の利用客があり、特に[[谷山停留場|谷山]] - [[天文館通停留場|天文館通]]間、[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前]] - [[いづろ通停留場|いづろ通]]間は利用率が高い。2016年度は1億3047万5000円の黒字を計上している<ref name="neage">[https://response.jp/article/2017/11/20/302735.html 鹿児島市電の定期券値上げへ…運賃改定を申請 2018年1月1日から] - レスポンス、2017年11月20日</ref>。 鹿児島市電の[[鉄道駅|停留所]]は「電停」と呼ばれ、[[九州旅客鉄道|JR]]<!-- 違和感が無いように意図的に九州をつけていません-->の駅と区別される。各電停には電車接近表示器の表示端末が設置されており、後述の[[#運行管理システム|運行管理システム]]からの出力情報により後方3電停以内にいる電車の位置がわかるようになっている。鹿児島中央駅の地下通路においては[[ピクトグラム]]がJR線は列車の前面、市電は電車の側面である。 === 路線・系統 === ==== 現存路線・系統 ==== ; 路線 : 以下の4路線(計13.1 km)から成り立っている。[[軌間]]は(廃止路線も含め)全線1435 mm。 :{| class="wikitable" ! 路線名 ! 起点 ! 終点 ! 全線開業日 ! 備考 |- | [[鹿児島市電第一期線|第一期線]] | [[武之橋停留場|武之橋]] | [[鹿児島駅#鹿児島駅前停留場|鹿児島駅前]] | [[1914年]][[12月20日]] | |- | [[鹿児島市電第二期線|第二期線]] | [[高見馬場停留場|高見馬場]] | [[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前]] | [[1915年]][[12月17日]] | |- | [[鹿児島市電谷山線|谷山線]] | 武之橋 | [[谷山停留場|谷山]] | [[1912年]][[12月1日]] | <ref group="*" name="rosen">[[涙橋停留場|涙橋]] - 谷山は[[専用軌道]]</ref> |- | [[鹿児島市電唐湊線|唐湊線]] | 鹿児島中央駅前 | [[郡元停留場|郡元]] | [[1959年]][[12月20日]] | |- |} :{{Reflist|group="*"}} ; 運行系統 : 以下の2つの系統が運行されている。両系統とも平均5分間隔で運行されており、[[天文館通停留場|天文館通]] - 鹿児島駅前にいたっては1分間隔で運行されている時間帯もある。 :{| class="wikitable" style="font-size:85%" ! colspan="2" style="width:3em;" |ラインカラー ! style="width:3em;" |記号 ! style="width:3em;" |番号 ! 起点 ! 経由地 ! 終点 |- | style="background:blue;"|&nbsp; | style="text-align:center;" |'''青''' | style="text-align:center;" |I | [[鹿児島市電1系統|1系統]] | [[鹿児島駅#鹿児島駅前停留場|鹿児島駅前]] | [[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前]] - [[天文館通停留場|天文館通]] - [[高見馬場停留場|高見馬場]] - [[武之橋停留場|武之橋]] -[[騎射場停留場|騎射場]] - [[郡元停留場|郡元]] - [[南鹿児島駅前停留場|南鹿児島駅前]] - [[脇田停留場|脇田]] | [[谷山停留場|谷山]] |- | style="background:red;"|&nbsp; | style="text-align:center;" |'''赤''' | style="text-align:center;" |N | [[鹿児島市電2系統|2系統]] | 鹿児島駅前 | 市役所前 - 天文館通 - 高見馬場 - [[加治屋町停留場|加治屋町]] - [[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前]] - [[鹿児島市立病院|市立病院前]] - 唐湊 | 郡元 |- |} その他高見馬場、神田(交通局前)、市立病院前、脇田発着、また平日には臨時運行があり、鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅前 - 郡元(南側) - 谷山の直通系統(こちらは土曜も一部運行)、鹿児島駅前発鹿児島中央駅前経由脇田行き、脇田始発の1系統がある。さらに、7月の「かごしま夏祭」、11月の「[[おはら祭]]」の時には、高見馬場 - 朝日通間が歩行者天国になる関係で、谷山→騎射場→鹿児島中央駅前→郡元→谷山およびその逆方向の「9」字状運行、朝日通 - 鹿児島駅前の区間系統が臨時運行される(「おはら祭」本祭の11月3日は「9」字状運行のみ)。 ==== 廃止路線・系統 ==== ; 路線 : 以下の2路線を有していたが、いずれも[[1985年]][[9月30日]]をもって廃止された。 : [[1960年代]]後半以降、伊敷線は[[国道3号|国道3号線]]、上町線は[[国道10号|国道10号線]]の渋滞により廃止を望む声も多かった。上町線は[[1945年]]4月に[[日本本土空襲#1945年4月|日本本土空襲]]により破壊、[[1948年]]に経路を変更して復旧されたが、[[モータリゼーション]]の進行により存続の危機に晒されたためこれらの不採算路線を廃止し存続を図った。 :{| class="wikitable" ! 路線名 ! 起点 ! 終点 ! 全線開業日 ! 備考 |- | [[鹿児島市電上町線|上町線]] | 市役所前 | [[清水町停留場 (鹿児島県)|清水町]] | [[1961年]][[4月1日]] | 1945年4月空襲により休止、1948年[[12月28日]]再開 |- | [[鹿児島市電伊敷線|伊敷線]] | 加治屋町 | [[伊敷町停留場|伊敷町]] | 1961年[[12月16日]] | |} ; 運行系統 : 上記路線の廃止に伴って下記系統が現在の系統に再編された。下記のほか、かつて朝ラッシュ時には、通常利用されない[[連絡線|渡り線]]を利用して環状運転する臨時の系統も存在した(現在でも一部残存)。なお臨時系統での[[のりかえ券|乗換券]]の発行は無かった。 :{| class="wikitable" style="font-size:90%" ! style="width:3em;" |番号 ! 経由地 |- | 1系統 || 現在と同じ |- | 2系統 || 清水町 - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - 西鹿児島駅前(現・鹿児島中央駅前)- 郡元 |- | 3系統 || 鹿児島駅前 - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 伊敷町 |} ==== 計画路線 ==== 鹿児島市は、谷山電停からJR[[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]]までの延伸計画について、[[2002年]]度からその可能性を調査していたが、[[2006年]]4月、[[都道府県道|県道]]の渋滞を招くなどの理由から断念することを表明した。しかし、鹿児島市・鹿児島市議会・地元谷山の住民や商店街・周辺の教育機関などから要望があり、JR谷山駅から慈眼寺駅周辺の線路高架計画に基づき再検討されている。JR指宿枕崎線高架の市電のアンダークロスへの対応については[[谷山駅 (鹿児島県)#駅周辺|谷山駅の「駅周辺」]]の項を参照のこと。 なお、他方面(県庁・与次郎・ウォーターフロント地区方面等)への延伸も検討されており、2012年度の鹿児島市の当初予算案にウォーターフロント地区への観光向け路線の調査検討費用が計上され、桜島フェリー乗り場、種子屋久航路の高速船乗り場を通るルートなどが検討されており<ref>『[[南日本新聞]]』 2012年2月16日付 1面(本港区に路面電車)</ref>、鹿児島市により以下の5ルート案が2012年2月20日に示された<ref>『南日本新聞』 2012年2月21日付 21面(市電新設5ルート案)</ref>。 {{Col-begin}} {{Col-2}} * マイアミ通りA ** いづろ通 - 桜島フェリーターミナル * マイアミ通りB(既存路線利用の周回路線) ** いづろ - 市役所前 * マイアミ通り・鹿児島駅 ** いづろ - 鹿児島駅前 {{Col-2}} * みなと大通りB ** 市役所 - 種子屋久高速船ターミナル * 大門口・みなと大通り(既存路線利用の周回路線) ** いづろ - 大門口 - 市役所前 {{Col-end}} これらの路線について、2015年<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/760c5511b07edd6888f9edb7795dd4ae.pdf|title=鹿児島市LRT整備計画 平成27年版|publisher=鹿児島市|date=2015-01-30|accessdate=2022-10-31}}</ref>と2019年<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2015/12/04f065cc59182c5a611d8c8cddebf55a.pdf|title=鹿児島市LRT整備計画 平成31年版|publisher=鹿児島市|date=2019-03-29|accessdate=2022-10-31}}</ref>に改訂された『鹿児島市LRT整備計画』においては上記の延伸計画についてふれられていなかった。 しかし、平成30年度より路面電車観光路線基本計画策定委員会が設置<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/kotuseisaku/kankourosen_kihonkeiakku/tram_masterplan.html|title=路面電車観光路線基本計画策定委員会(平成30年度~)|publisher=鹿児島市|date=2022-05-09|accessdate=2023-07-04}}</ref>され、観光目的となる路線延長について検討が再開され、ルート案等の評価が実施されている。 === 軌道 === [[ファイル:Kagoshima Street Car Shiyakushomae Station.JPG|thumb|250px|緑化された軌道敷([[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前電停]])]] ; [[路面電車#路面電車関連用語|センターポール]]化事業 : [[1988年]] - [[1992年]]にかけて、[[専用軌道]]である[[涙橋停留場|涙橋]] - [[谷山停留場|谷山]]を除く[[併用軌道]]計8.75 kmで実施された。他の都市に先駆けて行われたこの事業は、[[架線]]に遮られた空の景観を取り戻したばかりでなく、無理な右折車を減少させることにも成功した。これにより定時運行が可能となり、利便性が向上、さらに、新車導入、冷房化達成も重なったため、市電部門を黒字へ転換させた。当初はダイエー鹿児島店(現・[[イオン鹿児島鴨池店]])側 - 涙橋間は専用軌道であったため、工事の予定は無かったが、涙橋の架け替えのため、センターポール化区間に加えられた。 : また高見橋については、県による橋梁工事の際に先行してセンターポール化が行われたため、ポールのデザインが異なっている。 ; 軌道敷緑化整備事業 : [[2004年]]に西鹿児島駅前電停を移転改名し[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前電停]]とした際に、電停内の軌道に芝を植えた事から開始された。電車から発生する熱やオイルなどの影響が軽微という事が確認され、[[2006年]]から本格的に実施されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kagoshima.lg.jp/kensetu/kensetukanri/kouenryokuka/machizukuri/machizukuri/shiden.html|title=鹿児島市電軌道敷緑化整備事業|publisher=鹿児島市|date=2022-01-04|accessdate=2023-07-04}}</ref>。南九州に広く分布する[[シラス (地質)|シラス]]を材料にした保水性と排水性に優れたブロック<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kagoshima-it.go.jp/pdf/shirasu/pdf/shirasu20.pdf|title=シラス産業おこし企業の紹介|accessdate=2019-10-30|publisher=鹿児島県工業技術センター}}</ref>を使って、[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前]] - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]]の軌道敷を[[芝|芝生]]により緑化し、夜間はライトアップをするというものである。[[2007年]]3月、鹿児島中央駅前 - [[高見馬場停留場|高見馬場]]が部分的に完成し、[[4月26日]]に記念式典が行われた。さらに、[[11月3日]]の[[おはら祭]]に間に合わせるべく、10月までに高見馬場 - [[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前]]の緑化が完成。[[2008年]]に入り3月末までに市役所前 - 鹿児島駅前の緑化が完成し、[[5月23日]]に記念式典が行われた。 : 市民に好評で、[[ヒートアイランド]]への対策効果が確認されたことなどから、2008年度は新たに高見馬場 - [[新屋敷停留場|新屋敷]]、鹿児島中央駅前 - [[中洲通停留場|中洲通]]の区間で緑化工事が行われた。2018年時点で専用軌道区間(涙橋 - 谷山)以外の緑化が完了している。緑化軌道のメンテナンスには[[鹿児島市交通局500形電車#近年の動向|500形]]電車を改造した世界初の「[[鹿児島市交通局事業用車輌「芝刈り電車」|芝刈り電車]]」を開発、2010年5月27日終電後から本格稼働を開始した。 === 運行管理システム === 随所に設けた[[トロリーコンタクター]]と車両番号読取装置により電車の位置を検出し、運行を集中的に管理する運行管理システムを導入しており、[[列車無線|車両無線]]も活用して運行間隔の適正化や異常時の迅速な対応、電車接近表示器への出力による利用者への案内を図っている<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』1992年3月臨時増刊号(NO.557)「特集 九州の鉄道」 p.174</ref><ref>水元景文『鹿児島市電が走る街 今昔』JTBパブリッシング、2007年、p.87</ref>。 === 車両 === [[ファイル:KagoshimaLRT7003.jpg|thumb|250px|right|鹿児島市電7000形(ユートラムII)]] [[ファイル:KagoLRT350158.jpg|thumb|250px|right|鹿児島市電600形(標準塗装)]] [[ファイル:KagoLRT050514.jpg|thumb|250px|right|鹿児島市電1000形と2110形]] [[ファイル:Kagoden-101.jpg|thumb|250px|right|鹿児島市電100形(かごでん)]] 元々は自局発注(一部は自局製造)と大都市圏(主に東京と大阪)で廃車となった車両を譲り受けたものが半数ずつという状況であった。他社からの譲り受けは1970年代の700・800形を最後に行われていない。 降灰のために夏季に窓を開放することができない鹿児島という都市の持つ特殊事情のため、災害対策の一環という位置付けで車両の[[冷房]]化を他の公共交通機関に先駆ける形で急ピッチで推進した。この結果、[[1986年]]には国鉄の鹿児島車両所(現・[[九州旅客鉄道|JR九州]][[鹿児島車両センター]])所属車両にも先駆けて、常用車両の完全冷房化を完了している(常用ではない700形は1990年に改造)。 [[1989年]]以降は市電の復権と[[バブル景気]]の後押しもあり、相次いで新造車を登場させている(2100形 - 2140形)ほか、車体更新により延命が図られた車両も存在する(800形→9500形)。[[2002年]]に就役した1000形は日本初の純国産超低床電車である。 2012年12月より、鹿児島市における路面電車の運行開始から100周年を迎えたことを記念して「観光レトロ電車」が導入された<ref name="retro100">{{Cite web|和書|author=|url=http://kagoshima-hiroba.jp/wp/wp-content/uploads/2012/07/201208-089.pdf|title=鹿児島市民のひろば 543号|publisher=[http://kagoshima-hiroba.jp/ 鹿児島市広報デジタルアーカイブ]|language=日本語|accessdate=2013-02-18}}</ref>。形式番号は100周年を記念することから100形とされた<ref name="retro100"/>。しかし、2021年12月に乗客数低迷などを理由として2021年末で廃止されることが発表された<ref name="topics20211217">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/41687/|title=定期観光バス及び観光電車の廃止について|website=鹿児島市交通局|publisher=鹿児島市交通局|date=2021-12-17|accessdate=2023-08-28}}</ref>。その後、同電車は2022年1月4日から通常営業車両として運用されている<ref>{{Cite tweet|number=1477957919157080064|user=kago_city_ko2|title=公式YouTubeチャンネルからのお知らせ|date=2022-01-03|accessdate=2023-08-28}}</ref>。 ==== 現在の車両 ==== * [[鹿児島市交通局500形電車|500形]] 1両(501) * [[鹿児島市交通局600形電車|600形]] 9両(601 - 603, 605, 611 - 615) * [[鹿児島市交通局2100形電車|2100形]] 2両(2101, 2102) * [[鹿児島市交通局2110形電車|2110形]] 3両(2111 - 2113) * [[鹿児島市交通局2110形電車#2120形|2120形]] 2両(2121, 2122) * [[鹿児島市交通局2110形電車#2130形|2130形]] 2両(2131, 2132) * [[鹿児島市交通局2110形電車#2140形|2140形]] 2両(2141, 2143) * [[鹿児島市交通局9500形電車|9500形]] 15両(9501 - 9515)- 800形(元[[大阪市電]][[大阪市交通局2601形電車|2601形]])の車体更新車 * [[鹿児島市交通局9700形電車|9700形]] 2両(9701, 9702) * [[鹿児島市交通局1000形電車|1000形]] 9編成(1011 - 1019)- 愛称: ユートラム、3連接構造 * [[鹿児島市交通局7000形電車|7000形]] 4編成(7001 - 7004)- 愛称: ユートラムII、5連接構造 * [[鹿児島市交通局7500形電車|7500形]] 4編成 (7501 - 7504) - 愛称: ユートラムIII、2連接構造 * [[鹿児島市交通局100形電車 (2代)|100形(2代)]] 1両(101)- 愛称: かごでん(観光レトロ電車) * [[鹿児島市交通局20形電車|20形]] 1両(花3)- [[花電車]]、元500形504<ref name="rp991141">『[[鉄道ピクトリアル]]』2021年10月号(No.991) p.141</ref> * [[鹿児島市交通局事業用車輌「芝刈り電車」|芝刈り電車]] 1両 - 500形改造の事業用車両 ==== 過去の車両 ==== * [[鹿児島市交通局1形電車|1形]] 17両(1 - 17) * [[鹿児島市交通局18形電車|18形]] 18両(18 - 35) * [[鹿児島市交通局50形電車|50形]] 16両(50 - 65) * [[鹿児島市交通局100形電車 (初代)|100形(初代)]] 10両(101 - 110) * [[鹿児島市交通局200形電車|200形]] 6両(201 - 206)- 元大阪市電[[大阪市交通局901形電車|901形]] * [[鹿児島市交通局210形電車|210形]] 4両(211 - 214)- 元大阪市電[[大阪市交通局801形電車|801形]] * [[鹿児島市交通局300形電車|300形]] 10両(301 - 310)- 元[[東京都電車|東京都電]] * [[鹿児島市交通局400形電車|400形]] 16両(401 - 416)- 元東京都電 * [[鹿児島市交通局460形電車|460形]] 2両(461, 462)- 400形の機器流用車 * [[鹿児島市交通局700形電車|700形]] 4編成(701 - 704)- 元大阪市電[[大阪市交通局3001形電車|3001形]] * [[鹿児島市交通局800形電車|800形]] 32両(801 - 832) - 元大阪市電[[大阪市交通局2601形電車|2601形]] ==== 車両数の変遷 ==== {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;" |- !年度 !460形 !500形 !600形 !800形 !700形 !2100形 !2110形 !2120形 !2130形 !2140形 !9500形 !9700形 !1000形 !7000形 !合計(冷房車) |- |- |1982||2||15||16||32||4||||||||||||||||||||69(2) |- |1983||2||15||16||32||4||||||||||||||||||||69(4) |- |1984||2||15||16||32||4||||||||||||||||||||69(9) |- |1985||2||15||16||32||4||||||||||||||||||||69(14) |- |1986||2||13||16||20||4||||||||||||||||||||55(24) |- |1987||2||13||16||15||2||||||||||||||||||||48(46) |- |1988||2||13||16||15||2||||||||||||||||||||48(46) |- |1989||||13||16||15||2||2||||||||||||||||||48(46) |- |1990||||13||16||15||2||2||||||||||||||||||48(48) |- |1991||||13||16||15||2||2||3||||||||||||||||51(51) |- |1992||||13||13||15||2||2||3||2||||||||||||||50(50) |- |1993||||13||13||15||2||2||3||2||2||||||||||||52(52) |- |1994||||13||12||15||||2||3||2||2||2||||||||||51(51) |- |1995||||13||12||13||||2||3||2||2||2||2||||||||51(51) |- |1996||||13||12||10||||2||3||2||2||2||5||||||||51(51) |- |1997||||13||12||7||||2||3||2||2||2||8||||||||51(51) |- |1998||||13||12||4||||2||3||2||2||2||11||2||||||53(53) |- |1999||||13||12||2||||2||3||2||2||2||13||2||||||53(53) |- |2000<br>-2002||||13||11||||||2||3||2||2||2||15||2||||||52(52) |- |2003||||10||11||||||2||3||2||2||2||15||2||3||||52(52) |- |2004||||10||11||||||2||3||2||2||2||15||2||6||||55(55) |- |2005||||8||11||||||2||3||2||2||2||15||2||9||||56(56) |- |2006||||8||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||||55(55) |- |2007||||8||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||2||57(57) |- |2008||||6||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||4||57(57) |- |2009||||6||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||4||57(57) |- |2010||||4||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||4||55(55) |- |2011||||4||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||4||55(55) |- |2012||||4||10||||||2||3||2||2||2||15||2||9||4||55(55) |} *事業用車除く *1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在 *『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール ==== 塗装 ==== ; [[1950年代]] : ほぼすべての車両が青の濃淡の2色塗りであった。50年代後半になると緑の濃淡の2色塗りも登場する。 ; [[1960年代]] : 1950年代からの青の濃淡、緑の濃淡が標準であった。60年代後半になると後々まで標準となる緑と黄色の塗装が登場した。また、[[1967年]]からワンマン化改造が開始されると区別のため改造された車両は白帯が入れられた。 ; [[1970年代]]前半 : ほとんどの車両が緑と黄色の標準塗装であった。ワンマン化時に入れられた白帯がそのままの車両も存在した。 ; 1970年代後半 : ほぼすべての車両が緑と黄色の標準塗装であった。[[1979年]]イメージアップのため試験塗装が登場した。これらは市民からの公募であった。錦江湾のブルーをイメージした青ベースの塗装、南国の太陽をイメージしたオレンジベースの塗装、レンガ色ベースの塗装が存在した。このうちレンガ色ベースの塗装は上半分が朱色がかった桃色・下半分が白色に塗り直され、1980年代まで残存するが、その他の塗装は評判が芳しくなく短期間で消滅した。 ; [[1980年代]]前半 : ほとんどの車両が緑と黄色の標準塗色であった。一部車両にはワンマン化当時ワンマン改造済であることを示す白帯が入っていた。一部の800形については上半分が朱色がかった桃色・下半分が白色に塗装された。広告車両については、2007年現在に見かけるような[[ラッピング車両|全面広告車]]は存在せず、下半分を白色としてその上に広告を塗装したものであったが、これは全面広告車が都市景観上批判を浴びたことを受けて市が広告規制を行ったためである。 ; 1980年代後半 - [[1990年代]]前半 : すべての車両が、クリーム色にオレンジの帯線の入った塗装へ変更された。この塗装は2種類あり、複雑な塗り分けが正式な塗装、単純な塗り分けは腰下広告を入れる際に簡略化した塗装であった。ただし厳密に使い分けされていたわけでなく、広告が入っていなくても単純な塗り分けであったものや、複雑な方の塗り分けでも広告が入っていた例も見られた。2100形からは独自の塗装が登場し、2110形以降の2100系列は2140形以外ほとんどが姉妹都市を記念した塗装になっている。広告車両の車体への塗装範囲については80年代前半と比べ、大きな変化はなかった。 ; 1990年代後半 : 全面広告車が登場した。9500形も独自の小豆色基本の塗装で登場した。[[1998年]]以降に登場した9700形は[[いおワールドかごしま水族館]]の開館を記念した水色の帯の塗装になった。500形へ9500形風の塗装を施した車両もあったが、モノトーンで無機質な感じであるとして広まることはなかった。 ; [[2000年代]] : [[2001年]]より、非広告塗装車はかつての緑と黄色の2色塗りに白帯というスタイルに戻った。しかし緑色部分の色調が1980年代のものより若干明るめである。また、登場以来この塗装になったことのなかった車両(9500形・2100形)にも塗装されている。当初は標準塗色に部分広告を施した車両が存在したが、現存しない。2001年に登場した1000形は黄色ベースの塗装で登場した。[[2007年]]登場の7000形は白色に黄色帯を巻いている。広告塗装車も窓部分にシールを貼るなど形態は多様化している。また1000形は低床車であることを強調するため文字や小さいロゴなどによる部分広告車となっている。 ; [[2010年代]] : 1000形には全面広告車や中間車のみの広告車が登場した。[[2017年]]登場の7500形は黄色に緑帯を巻き前面は黒といった塗装である。600形の602号では2016年より標準塗装の黄色部分がオレンジ色となったことから、さながら国鉄湘南色のようであり運行頻度も多いことからよく目にされる。同様の塗装が614号にも施されている。 === 局舎の移転 === 局舎は長らく[[高麗町]]に置かれていたが、交通局本局の施設の老朽化対策や施設設備の機能見直しを図り、電車部門を2015年5月に[[日本たばこ産業|JT]]鹿児島工場跡地(鹿児島市上荒田町)へ[[鹿児島市立病院]]と共に移転した。移転先は跡地のうち南側の約13,000[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]で、局舎(事務室、乗車券販売所、運行管理室)、変電所、整備工場が新設された。なお、バス部門は2015年10月に新栄町と浜町に分散移転した。 これに伴って「交通局前」バス停および電停は2015年に[[二中通停留場|二中通]]に変更された。 === 運賃 === 全区間大人170円・小人80円均一(2014年4月1日改定)。観光電車は大人340円・小人170円。 乗り換え制度があり、臨時便を除けば直通運転がない「谷山〜甲東中学校前(2系統と接続する[[郡元停留場|郡元]]を除く)」と「加治屋町〜中郡」間を行き来する場合にこの制度が適用される。[[高見馬場停留場|高見馬場]]あるいは郡元で1系統と2系統を60分以内に現金払いにて乗り継ぐ場合に乗り換え券が発行され、1回に限り無料で乗り換えできる。ただし、両系統が重複する鹿児島駅前〜高見馬場を乗降に含む場合は乗換券は発行されない。詳しくは各電停の記事を参照のこと。 ==== 運賃の変遷 ==== 大人運賃(1971年以降) * 1971年(昭和46年)12月21日〜 30円 * 1974年(昭和49年)1月10日〜 40円 * 1975年(昭和50年)3月1日〜 60円 * 1976年(昭和51年)10月1日〜 80円 * 1978年(昭和53年)10月23日〜 100円 * 1980年(昭和55年)10月24日〜 120円 * 1982年(昭和57年)10月23日〜 130円 * 1983年(昭和58年)12月1日〜 140円 * 1985年(昭和60年)4月15日〜 150円 * 1990年(平成2年)6月1日〜 160円 * 2014年(平成26年)4月1日〜 170円 == 鹿児島市営バス == [[2004年]][[11月1日]]の5町編入以前の鹿児島市内全域に路線を持つ。ただし歴史節で前述したように、桜島町のバス事業を引き継いだことから旧桜島町域にも路線を保有している。鹿児島市内の観光地を巡る路線バス「カゴシマシティビュー」や桜島の西側の観光地を巡る路線バス「サクラジマアイランドビュー」も運行している。かつては、[[定期観光バス]]も運行していた{{R|topics20211217}}。 [[貸切バス]]事業も行っている。 === 路線 === 鹿児島市営バスでは各運行系統を「1系統」「2系統」などではなく「1番」「2番」と称しており、旧桜島町営バス路線もこの呼び方に統一されている。これに倣い、他社の運行系統も、「1番」「2番」と称している。また、[[南国交通]]と相互運転している市営バスの「4番」「26番」の南国交通の運行系統は、それぞれ「市4番」「市26番」と市営バス系統と判るようになっている。 かつては急行バスが一部路線(15番、24番、26番)で設定されていたが、この当時の急行バスは全て廃止されている。 なお、2015年5月現在、20番、24番の2路線で急行バスが復活しており、それぞれ平日朝に2本運行されている(20番:鹿児島中央駅始発→鴨池港行き、24番:緑ヶ丘団地始発→市役所前行き)。 【7】原良線は【26】に吸収され、【26-2】明和線(原良経由)として運行している。 欠番になった【7】を南国交通との相互乗り入れの明和・中央駅西口線として運行開始した。 【4】坂元・西紫原線は、乗客減少と南国交通との相互乗り入れ実施により廃止され、代わりに、元々は【11-2】鴨池・冷水線であった路線を一部変更し、また、終起点も変更して【4】城山・玉里線とし、南国交通との相互乗り入れを始めた。南国交通の路線上にはない『紫原3丁目』方面は【3】玉里団地線に編入する形で、【3】玉里・西紫原線となった。 2011年3月1日付けで、JR九州新幹線全線開業に合わせた路線再編を伴う大規模なダイヤ改正が行われ、【1】伊敷ニュータウン線で鹿児島中央駅発着の【1-2】が、【15】東紫原線で鹿児島中央駅経由の【15-2】が新設、【20】緑ヶ丘・鴨池港線に急行バスが復活した。一方、【35】中央駅西口・玉江循環線が【23】紫原・武町線に統合される形で廃止された。この改正では、【35】の経路を継承した【23】が天神南・広木住宅を経由する市役所前発着の循環路線から、広木農協前始発・西高校前(当時)終着の路線に変更され、経由しなくなった広木住宅・森山団地が市営バスの営業エリアから外れた。 2011年4月25日付けで【25】唐湊線のみダイヤ改正が行われ、「唐湊福祉館前」発着の経路が追加された。 2011年10月18日付けで、桜島周遊バス(サクラジマアイランドビュー)が運行開始。 2013年4月1日付けでダイヤ改正が行われ、【15-2】東紫原線(中央駅経由)及び【18】[[鹿児島大学病院|大学病院]]線の一部走行区間が変更。従来の「郡元」バス停経由から2012年に開通した「東紫原陸橋」を経由する経路に変更となった。 2015年1月16日付けで、【40】武岡台高校線が分割され、【40-2】が新設された。朝の武岡台高校行きは、緑ヶ丘団地→伊敷脇田、新設された鹿児島中央駅→城西公園前が【40-2】、伊敷ニュータウン西入口→原良小学校前が引き続き【40】、花岡通→武岡台高校が【40】・【40-2】両方での運行となった。一方、夕方の緑ヶ丘団地行きは変更が無く、武岡台高校から永吉・下伊敷・伊敷ニュータウン西入口を経由し緑ヶ丘団地まで引き続き【40】のみの運行となっている。 2015年5月1日付けで、電車施設および[[鹿児島市立病院]]の移転に合わせて関連する一部バス停の名称が変更された。また、[[鹿児島県立鹿児島西高等学校]]が2012年3月に閉校した現状に合わせ、「西高校前」バス停が「旧西高校前」に改称された(この時点ではダイヤ改正は無く、旅客案内面でのバス停の名称変更とそれに伴う設備改修のみ)。 2015年9月24日付けで、翌月10月1日からのバス施設の移転・供用開始に合わせた大規模なダイヤ改正が実施された。特に、【3】玉里・西紫原線では始発が紫原三丁目から鶴ヶ崎橋に路線延長で変更され、さらに鹿児島中央駅 - 高見馬場が「共研公園前」・「[[鹿児島市立甲東中学校|甲東中学校]]前」経由から「加治屋町」経由に変更されるなど、一部路線で路線の延長や経路変更が行われた。またこの改正では、前記【3】玉里・西紫原線の経由変更によって市営バスの鹿児島中央駅 - 高見馬場のルートがすべて「加治屋町」経由に統一された。【3】玉里・西紫原線は、日中は北営業所前から鹿児島中央駅までと、市役所前から鶴ヶ崎橋までの運行である。朝夕の数便のみ、北営業所前から鶴ヶ崎橋までの運行となっている。 2017年4月1日付けで、「旧西高校前」バス停が、位置を移設のうえ「高齢者福祉センター伊敷」に名称変更となり、「旧西高校前」発着だった路線で行き先等の変更が行われた。なお、「旧西高校前」の位置のバス停は前日の2017年3月31日をもって一時廃止されたが、同年12月15日付けで、新設の「中福良」バス停として復活している。 2017年10月23日付けで、【1】伊敷ニュータウン線、【5】日当平線、【24】伊敷線の3路線で、一部便が鹿児島中央駅への乗り入れを開始した。この3路線では、加治屋町〜千石馬場を含む既存の定期券を所持している場合、暫定的に既存の定期券でも鹿児島中央駅での乗降が認められている。なお、この改正で中央駅に乗り入れるようになった路線のうち【1】伊敷ニュータウン線では、それまで中央駅発着で独立していた【1-2】が独立した路線から降格し、『【1】伊敷ニュータウン線のうち、経路途中の「鹿児島中央駅」を始発・終着とする便(加治屋町 - 市役所前に乗り入れない便)は【1-2】』と案内が改められた。また、改正前後でそれまで中央駅発着便として【1】とは別立てで【1-2】を表記していた公式サイトの路線一覧ページでも、【1-2】の表記が削除された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/timesearch/rosen_list.php?syubetuId=0|title=鹿児島市交通局 バス 路線一覧|accessdate=2018年10月2日|publisher=}}</ref>。 2018年1月13日付けで、観光周遊バスのシティビューのうち、昼間に運行される「城山・磯コース」と「ウォーターフロントコース」が統合され、「カゴシマシティビュー」と一本化された。これにより、ザビエル公園前・南洲公園入口・祇園之洲公園前のバス停にはシティビューが停車しなくなり、一部経路や停車順序が変更となった。 2018年10月1日付けで、【27】県庁・与次郎線が一部経路変更となり、4つのバス停が新設された。この経路変更で【27】県庁・与次郎線は「鹿児島中央駅」始発・「与次郎一丁目」終着の路線から、「鹿児島中央駅」→(「与次郎一丁目」)→「鹿児島中央駅」の循環路線に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/18750/|title=「27番 県庁・与次郎線」 運行経路変更、運行ダイヤ改正のお知らせ|accessdate=2018年10月1日|publisher=}}</ref>。 26年連続で年間6億円の赤字を抱えているため、2020年4月1日と2021年4月1日の2段階に分けて全39路線のうち鹿児島交通と南国交通に各10路線ずつ移譲する事が決定している(詳細は「[[#路線重複問題|路線重複問題]]」の節を参照)。 2022年4月1日には、【4】玉里・城山線と【8】西玉里団地線の相互直通が行われた。 2023年4月1日にも、【3】玉里団地線と【5】日当平線の相互直通が行われた。 2023年4月1日現在 {{節スタブ}} '''路線バス''' <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">2021年4月現在の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|伊敷ニュータウン線||[[鹿児島市役所|'''市役所前''']] - [[天文館]] - [[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]] -([[鹿児島中央駅]])- [[草牟田]] - [[鹿児島県護国神社|護国神社前]] - [[伊敷 (鹿児島市)|伊敷町]] - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - [[伊敷台|伊敷ニュータウン]] - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1-2番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン線([[鹿児島中央駅]] 行き)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷町 - 伊敷ニュータウン - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|玉里団地線||'''鹿児島中央駅''' - 加治屋町 - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局前 - [[玉里団地|玉里団地中央]] - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|★城山・玉里線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 -〈城山トンネル〉- [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - [[玉里町]] - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-2番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北 行き)||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''玉里団地北』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-3番||style="text-align:right;"|●日当平線(城山団地・さつま団地経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - 護国神社前 - [[下伊敷]] - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(市役所前 発着)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - 護国神社前 - [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 - [[鹿児島市立鹿児島女子高等学校|女子高]]前 - 玉里団地中央 - '''玉里団地北''' - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8-2番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(鹿児島中央駅 発着)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷中前 - 女子高前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|▲▼●高麗橋線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - [[鹿児島大学|鹿大正門前]] - [[鹿児島県立甲南高等学校|甲南高校]] - 高麗町 - [[鹿児島県立鹿児島中央高等学校|中央高校前]] - 千石馬場 - 草牟田 - 護国神社前 - [ [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 → 玉江橋 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → [[鹿児島市立玉江小学校|玉江小]]前 → 伊敷中前 ] - 護国神社前 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|▲●鴨池・冷水線||'''鴨池港''' - [[三和町 (鹿児島市)|三和町]] - 鴨池新町 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - '''鹿児島中央駅''' - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''鹿児島駅前''' - 市役所前 - いづろ - 南林寺 - 与次郎ヶ浜 - 鴨池市営プール前 - 真砂入口 - 県庁前 -鴨池新町 - 『'''三和町』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|▼谷山線||[[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - 『[[慈眼寺町|'''慈眼寺団地''']]』 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|●鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 → 与次郎ヶ浜 → 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(往路) '''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 ← 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(復路) |- | rowspan="2" style="white-space:nowrap; text-align:right;" |17番||style="text-align:right;"|▲宇宿線(広木農協前行き)||'''[[脇田停留場|脇田電停]]前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - [ 原田久保 → 八洲団地 → [[向陽 (鹿児島市)|向陽台団地]] → 八洲団地 → 原田久保 ] -『'''広木農協前』''' ※「原田久保」-「向陽台団地」-「原田久保」は往路・復路共に同じ方向に循環運転 |- |▲宇宿線(向陽台折り返し) |'''脇田電停前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - [ 八洲団地 → 向陽台西 → 向陽台団地 → 向陽台公園前 → 八洲団地 ] - 原田久保 -(この間同経路)- 『'''脇田電停』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|▲大学病院線||'''脇田電停前''' - [[鹿児島市立宇宿小学校|宇宿小]]前 - 亀ヶ原 - [ 大学病院前 → '''桜ヶ丘南''' → [[鹿児島市立桜丘西小学校|桜ヶ丘西小]]前 → 桜ヶ丘一丁目 → 桜ヶ丘四丁目 → 桜ヶ丘五丁目 → 大学病院前 ] - 亀ヶ原 -(この間同経路)- '''脇田電停前''' ※「脇田電停前」→桜ヶ丘団地・大学病院→「脇田電停前」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''水族館前''' - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - '''伊敷団地''' - 緑ヶ丘南 -『'''緑ヶ丘団地』'''(鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|■伊敷線(急行)||'''緑ヶ丘団地''' →(この間各バス停に停車)→ 伊敷小前 →(ノンストップ)→ 玉江小前 →(ノンストップ)→ 新上橋 →(この間各バス停に停車)→ '''市役所前''' (市役所前行きのみ運行) 【 伊敷小前 → 新上橋 で急行運転、伊敷小前 → 新上橋 は途中「玉江小前」のみ停車 】※急行便は「鹿児島中央駅」を経由しない |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |24-2番|| style="text-align:right;" |伊敷線(西伊敷4丁目経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 西伊敷小前 - 西伊敷四丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|27番||style="text-align:right;"|▲●県庁・与次郎線||'''鹿児島中央駅''' - 上之園町 - 甲南高校前 - [[荒田 (鹿児島市)|荒田二丁目]] - [[下荒田|下荒田四丁目]] - 与次郎ヶ浜 → '''県庁前''' → 海づり公園前 → [[鹿児島市民文化ホール|市民文化ホール]]北口 → [[与次郎|与次郎一丁目]] → '''厚生連病院前''' → りぼんかん前 → 市民文化ホール北口 → 鴨池運動公園前 →与次郎ヶ浜 -(この間同経路)- '''鹿児島中央駅''' ※「鹿児島中央駅」→「与次郎一丁目」→「鹿児島中央駅」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|28番||style="text-align:right;"|▼伊敷・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 伊敷団地中央 - 西伊敷三丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|29番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - 伊敷ニュータウン -『'''交通局北営業所前』''' '''※平日のみ運行''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|31番||style="text-align:right;"|▼玉里・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 -『'''交通局北営業所前』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|32番||style="text-align:right;"|▲●▼城山・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 -〈城山トンネル〉- 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 →『'''高齢者福祉センター伊敷』'''→ 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''三和町''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|51番||style="text-align:right;"|▲薩摩団地線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 県民交流センター -〈城山トンネル〉- 冷水峠 - 玉里町 - 玉里団地中央 - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 『'''伊敷ニュータウン中央』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-1番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島病院 - 東白浜)||'''桜島病院''' - [[桜島赤水町|薩摩赤水]] - [[桜島フェリー|'''桜島港''']] - [[鹿児島市立桜洲小学校|桜州小学校]] - [[鹿児島市役所#桜島支所|桜島支所]] - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-2番||style="text-align:right;"|桜島線(福祉センター - 東白浜)||'''福祉センター''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-3番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島苑 - 東白浜)||'''桜島苑''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』'''( - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元)''' ※東白浜 - 塩屋ヶ元は一部便のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-1番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 黒神口)||'''東白浜''' - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元''' - 『'''黒神口』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-2番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 古河良港)||'''東白浜''' - 『'''古河良港』''' |} * ★印は、南国交通との相互乗り入れ路線 * ▲印は、一方向循環運転区間がある路線( [ ] 内が循環運転区間) * ▼印は、運行曜日が限られている路線(平日ダイヤ実施日のみ運行される路線) * ●印は、往路と復路で経由地が違う路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * ■印は、経路上に設置されているバス停に停車しない急行路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * '''太字'''は、始発便・終着便が設定されているバス停 *経路欄は、左から右へ、起点→終点方向で記載している(循環路線を除く) *経由欄の『』囲みは、路線の終点バス停を示している </div></div> {{Anchors|カゴシマシティビュー}}'''カゴシマシティビュー''' * カゴシマシティビュー:[[鹿児島中央駅]] → [[維新ふるさと館]]前 →西郷どん大河ドラマ館前 → [[天文館]] → 西郷銅像前 → 薩摩義士碑前 → 西郷洞窟前 → [[城山 (鹿児島市城山町)|城山]] → 西郷洞窟前 → 薩摩義士碑前 → 西郷南洲顕彰館前 → 今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前 → [[仙巌園]]前 → [[異人館]]([[磯海水浴場]])前 → [[石橋記念公園]]前 → [[いおワールドかごしま水族館|かごしま水族館前]] → [[ドルフィンポート]]前 → 天文館 → 鹿児島中央駅<ref name="sakurajima-tabi">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu-city-kagoshima.jp/sakurajima-tabi/|title=気ままに観光|website=鹿児島市交通局|publisher=鹿児島市交通局|accessdate=2023-08-28}}</ref> * カゴシマシティビュー(夜景コース):鹿児島中央駅 → 天文館 → ドルフィンポート → 市役所前 → 城山 → 西郷銅像前 → 天文館 → 鹿児島中央駅 ※主に土曜日など日を限定して運行{{R|sakurajima-tabi}} '''サクラジマアイランドビュー''' * [[桜島港]] → [[道の駅桜島|火の島めぐみ館]] → レインボー桜島 → [[桜島ビジターセンター|ビジターセンター]] → 烏島展望所 → 赤水展望広場 → 赤水湯之平口 → 湯之平展望所 → [[鹿児島市立桜洲小学校|桜洲小学校前]] → 桜島港{{R|sakurajima-tabi}} '''定期観光バス'''<br /> :鹿児島中央駅発着で城山・仙巌園などの鹿児島市中心部の観光地を経由する、かごしま歴史探訪コースと鹿児島中央駅発着で桜島フェリーで桜島へ渡り島内の観光地を経由する、桜島自然遊覧コースがあったが、乗客数低迷などを理由として2021年末に廃止された{{R|topics20211217}}。 === 路線・系統の変遷 === 1985年10月1日、市電上町線・伊敷線の廃止に伴う市バス路線の大幅な経路変更とダイヤ改正が実施された。以降、市営バスでは旅客の流動状況に応じてダイヤ改正時に経路改定を行い現在に至る。以下は交通局発行の路線図(不定期)を基に路線・系統の変遷を記している。なお、路線図にはダイヤ改正日の記載はなく、“この路線図は平成…年…月…日現在のものです”とおそらく発行日を記載しているため、路線一覧の日付もこの日付とする。 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">1985年10月改正時の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> '''一般路線''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|伊敷・清水町線||'''伊敷町''' - 下伊敷 - 護国神社前 - 草牟田 - 加治屋町 - 高見馬場 - [[天文館]] - 朝日通 - 市役所前 - 私学校跡 - 竪馬場 - [[鹿児島市立玉龍高等学校|玉龍高校前]] - '''清水町''' - 春日町 - 竪馬場 - (往路と同じ) - '''伊敷町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|2番||style="text-align:right;"|鼓川・常盤線||'''常盤''' - 西田本通 - 西田橋 - 千石馬場 - 山下小前 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - 小坂通 - - 玉龍高校前 - '''清水町''' - 春日町 - 小坂通 - (往路と同じ) - '''常盤''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|広木・玉里団地線||'''広木農協前''' - 天神ヶ瀬戸 - 田上寺ノ下 - 田上 - 柳田通 - [[鹿児島中央駅|西鹿児島駅前]] - 高麗橋 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|坂元・西紫原線||'''警察学校前''' - 坂元郵便局前 - せばる - 竪馬場 - 県庁前 - 市役所前 - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 高麗橋 - 西鹿児島駅前 - 柳田通 - 天神南 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原3丁目''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北)||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''玉里団地北''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6番||style="text-align:right;"|唐湊・大明ヶ丘線||'''唐湊住宅''' - たばこ産業前 - 西鹿児島駅前 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - 東高校下 - 辻ヶ丘団地 - 実方神社 - (大明ヶ丘中央) - 吉野無線前 - 中別府 - '''上之原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|原良線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 城西公園前 - かけごし - '''原良''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 玉江橋 - 女子校前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|原良団地(西駅)線||'''西鹿児島駅前''' - 西田橋 - 西田本通 - 城西公園前 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|鴨池港(西駅回り)線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 高麗橋 - 甲南高校 - 中郡 - 郡元 - 真砂 - ニュータウン中央 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂 - 鴨池市営プール - 与次郎ヶ浜 - 天保山 - 南林寺 - いづろ - 朝日通 - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|13番||style="text-align:right;"|天保山線||'''市役所前''' - 朝日通 - 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 交通局前 - 甲南高校 - 高麗橋 - 西鹿児島駅 - 西田橋 - 西田本通 - 鶴丸高校 - 城西公園前 - '''原良小前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|谷山線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 新屋敷 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - [[南鹿児島駅]] - 脇田 - 笹貫 - [[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - '''慈眼寺団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15番||style="text-align:right;"|東紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 天保山 - 熱帯植物園 - 文化ホール - 日赤前 - 本町公園前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|17番||style="text-align:right;"|宇宿線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 脇田 - [[脇田停留場|脇田電停]] - 宇宿住宅 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - '''広木農協前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|大学病院線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 高麗橋 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 南鹿児島駅 - 脇田 - [[鹿児島大学病院|大学病院]] - 歯学部病院前 - 桜ヶ丘4丁目 - 桜ヶ丘北口 - '''桜ヶ丘''' - 歯学部病院前 - (往路と同じ) - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|19番||style="text-align:right;"|南紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - 南鹿児島駅 - 日ノ出町 - 紫原3丁目 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|伊敷(西駅)線||'''西鹿児島駅''' - 高見橋 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - '''伊敷団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|21番||style="text-align:right;"|永吉線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 新上橋 - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - '''永吉町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|22番||style="text-align:right;"|葛山線||'''西鹿児島駅''' - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地 - '''葛山''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|23番||style="text-align:right;"|紫原・武町線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 西田橋 - 西田本通 - 武町 - 天神中央 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - 伊敷団地 - 緑ヶ丘南 - '''緑ヶ丘団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|25番||style="text-align:right;"|武岡団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 柳田通 - 田上 - 洗出 - 武岡団地南 - 武岡団地 - '''原良団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|原良団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' |} * 停留所名は1985年当時のものを表記 * '''太字'''は始終着停留所 '''市内定期観光バス''' * コース ** 西鹿児島駅 - 偉人誕生地 - 交通局前 - 熱帯植物園 - 市民文化ホール - 月照墓 - ザビエル記念堂 - 城山 - 磯庭園 - 西鹿児島駅 * 運行回数 ** 2回(午前1、午後1) * 所要時間 ** 2時間50分 * 運賃 ** 大人 1,800円 こども 980円 '''この時のダイヤ改正での休止区間''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!休止区間 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|磯・与次郎線||磯庭園 - 清水町、磯庭園 - 祇園之洲 - 鹿児島駅前、たばこ産業前 - 熱帯植物園 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|実方線||上ノ原 - 牛牧 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||交通局北営業所 - 坂元住宅前 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|中園線||洗出 - 田上上区 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||鶴ヶ崎 - 鴨池小前 - 真砂中央、女子高校裏 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|川添線||実方入口 - 下田橋 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|ほさど桟橋線||朝日通 - 鹿児島新港 - 城南小前、甲突町 - 中央警察署前 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|25番||style="text-align:right;"|城山線||私学校跡 - 城山 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|27番||style="text-align:right;"|動物園線||和田名 - 動物園 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|29番||style="text-align:right;"|谷山2号用地線||笹貫 - 谷山港 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|34番||style="text-align:right;"|原良団地(西駅)線||原良団地入口 - 明和中前 - 原良団地西 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|35番||style="text-align:right;"|桜ヶ丘線||桜ヶ丘4丁目 - 永仮入口 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|36番||style="text-align:right;"|魚見ヶ原線||鶴ヶ崎 - 南中前 - 南小前、桜ヶ丘6丁目 - 魚見ヶ原 |} '''停留所の名称変更''' * 紫原住宅→紫原中央 * 温泉入口→唐湊郵便局 * 実業高校グランド前→工科専門学校前 </div></div> * この時のダイヤ改正は市電上町線・伊敷線廃止に伴う大幅路線改定で、市郊外の区間が大幅に縮小されている。【1】伊敷・清水町線が電車代替路線となっている。なお、当時から発行している1日乗車券は現在とは異なり、乗車日指定(販売所で購入の際、日付印を押してもらう)でバスについては乗車エリアが1区 - 3区までの区間指定制のため、谷山・武岡・伊敷・吉野地区では利用できなかった。電車・バス車内での購入もできなかった。 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">1988年2月当時の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> '''一般路線''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★1番||style="text-align:right;"|伊敷・清水町線||'''伊敷脇田''' - 伊敷町 - 下伊敷 - 護国神社前 - 草牟田 - 加治屋町 - 高見馬場 - [[天文館]] - 朝日通 - 市役所前 - 私学校跡 - 岩崎谷 - 竪馬場 - 玉龍高校 - '''清水町''' - 春日町 - 竪馬場 - (往路と同じ) - '''伊敷脇田''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|2番||style="text-align:right;"|鼓川・常盤線||'''常盤''' - 西田本通 - 西田橋 - 千石馬場 - 山下小前 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - 小坂通 - - 玉龍高校 - '''清水町''' - 春日町 - 小坂通 - (往路と同じ) - '''常盤''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|広木・玉里団地線||'''広木農協前''' - 天神ヶ瀬戸 - 田上寺ノ下 - 田上 - 柳田通 - [[鹿児島中央駅|西鹿児島駅前]] - 高麗橋 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|坂元・西紫原線||'''警察学校前''' - 坂元郵便局前 - せばる - 竪馬場 - 県庁前 - 市役所前 - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 高麗橋 - 西鹿児島駅前 - 柳田通 - 天神南 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原3丁目''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北)||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''玉里団地北''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6番||style="text-align:right;"|唐湊・大明ヶ丘線||'''唐湊住宅''' - たばこ産業前 - 西鹿児島駅前 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - 東高校下 - 辻ヶ丘団地 - 実方神社 - (大明ヶ丘中央) - 吉野無線前 - 中別府 - '''上之原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|原良線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 城西公園前 - かけごし - '''原良''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 玉江橋 - 女子校前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|原良団地(西駅)線||'''西鹿児島駅前''' - 西田橋 - 西田本通 - 城西公園前 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|鴨池港(西駅回り)線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 高麗橋 - 甲南高校 - 中郡 - 郡元 - 真砂 - ニュータウン中央 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|☆11-2番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 私学校跡 - 岩崎谷 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂 - 鴨池市営プール - 与次郎ヶ浜 - 天保山 - 南林寺 - いづろ - 朝日通 - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|13番||style="text-align:right;"|天保山線||'''市役所前''' - 朝日通 - 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 交通局前 - 甲南高校 - 高麗橋 - 西鹿児島駅 - 西田橋 - 西田本通 - 鶴丸高校 - 城西公園前 - '''原良小前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|谷山線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 新屋敷 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - [[南鹿児島駅]] - 脇田 - 笹貫 - [[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - '''慈眼寺団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15番||style="text-align:right;"|東紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 天保山 - 熱帯植物園 - 文化ホール - 日赤前 - 本町公園前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|17番||style="text-align:right;"|宇宿線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 脇田 - [[脇田停留場|脇田電停]] - 宇宿住宅 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - '''広木農協前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|大学病院線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 高麗橋 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 南鹿児島駅 - 脇田 - [[鹿児島大学病院|大学病院]] - 歯学部病院前 - 桜ヶ丘4丁目 - 桜ヶ丘北口 - '''桜ヶ丘''' - 歯学部病院前 - (往路と同じ) - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|19番||style="text-align:right;"|南紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - 南鹿児島駅 - 日ノ出町 - 紫原3丁目 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|伊敷(西駅)線||'''西鹿児島駅''' - 高見橋 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - '''伊敷団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|21番||style="text-align:right;"|永吉線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 新上橋 - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - '''永吉町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|22番||style="text-align:right;"|葛山線||'''西鹿児島駅''' - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地 - '''葛山''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|23番||style="text-align:right;"|紫原・武町線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 西田橋 - 西田本通 - 武町 - 天神中央 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - 伊敷団地 - 緑ヶ丘南 - '''緑ヶ丘団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|●26番||style="text-align:right;"|原良団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' - '''武岡台高校''' |} * 停留所名は1988年当時のものを表記 * '''太字'''は始終着停留所 * ★印は経路変更、☆印は系統新設、●印は路線延長 '''この時点での休止系統''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|25番||style="text-align:right;"|武岡団地線||市役所前 - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 柳田通 - ''田上 - 洗出 - 武岡団地南 - 武岡団地 - 原良団地'' |} ''斜字区間''は他の系統を含めてバスの運行がなくなった区間 '''新設停留所''' * 岩崎谷(【1】伊敷・清水町線、【11-2】鴨池・冷水線) * 武岡台高校(【26】原良団地線) '''休止停留所''' * 武岡団地・武岡小前・武岡団地南・武岡団地入口・洗出・中園・田上小前(【25】武岡団地線) </div></div> * この時点での変更点は次の通り : 【1】伊敷・清水町線 :: 起終点が伊敷町から伊敷脇田に延長、ならびに岩崎谷・長田町経由に変更。これは旧市電上町線の専用軌道跡の一般道路化が完成したための経路変更。これによりほぼ全区間が旧市電の路線跡に沿って運行するようになった。 : 【11】鴨池・冷水線 :: 【11-2】岩崎谷経由の系統を新設、従来からの竪馬場経由と2本立てで運行。 : 【25】武岡団地線 :: 系統を休止、これにより田上 - 原良団地間のバス運行がなくなる。2000年代に、武岡団地・武岡小前は9番線の一部として、武岡団地南・武岡団地入口は7番線の一部として復活する。 : 【26】原良団地線 :: 通学時間帯に武岡台高校へ乗り入れ開始 : ※なお、このころより1日乗車券がスクラッチ式(利用客が購入後に自由に利用日を設定できる)になり、バスについても全線有効、車内での購入も可能になり、現在のシステムが確立された。 : ※停留所名の変更はこの時点ではない。 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">1991年1月当時の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> '''一般路線''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|伊敷・清水町線||'''伊敷脇田''' - 伊敷町 - 下伊敷 - 護国神社前 - 草牟田 - 加治屋町 - 高見馬場 - [[天文館]] - 金生町 - 市役所前 - 私学校跡 - 岩崎谷 - 竪馬場 - 玉龍高校 - '''清水町''' - 春日町 - 竪馬場 - (往路と同じ) - '''伊敷脇田''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|2番||style="text-align:right;"|鼓川・常盤線||'''常盤''' - 西田本通 - 西田橋 - 千石馬場 - 山下小前 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 県庁前 - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - 小坂通 - - 玉龍高校 - '''清水町''' - 春日町 - 小坂通 - (往路と同じ) - '''常盤''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|広木・玉里団地線||'''広木農協前''' - 天神ヶ瀬戸 - 田上寺ノ下 - 田上 - 柳田通 - [[鹿児島中央駅|西鹿児島駅前]] - 高麗橋 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - 交通局北営業所 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|坂元・西紫原線||'''警察学校前''' - 坂元郵便局前 - せばる - 竪馬場 - 県庁前 - 市役所前 - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 高麗橋 - 西鹿児島駅前 - 柳田通 - 天神南 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原3丁目''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|●5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 交通局北営業所 - '''伊敷ニュータウン''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北)||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''玉里団地北''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6番||style="text-align:right;"|唐湊・大明ヶ丘線||'''唐湊住宅''' - たばこ産業前 - 西鹿児島駅前 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - 東高校下 - 辻ヶ丘団地 - 実方神社 - (大明ヶ丘中央) - 吉野無線前 - 中別府 - '''上之原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|原良線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 城西公園前 - かけごし - '''原良''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 玉江橋 - 女子校前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|原良団地(西駅)線||'''西鹿児島駅前''' - 西田橋 - 西田本通 - 城西公園前 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|鴨池港(西駅回り)線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 高麗橋 - 甲南高校 - 中郡 - 郡元 - 真砂 - ニュータウン中央 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11-2番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 私学校跡 - 岩崎谷 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂 - 鴨池市営プール - 与次郎ヶ浜 - 天保山 - 南林寺 - いづろ - 金生町 - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|13番||style="text-align:right;"|天保山線||'''市役所前''' - 金生町 - 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 交通局前 - 甲南高校 - 高麗橋 - 西鹿児島駅 - 西田橋 - 西田本通 - 鶴丸高校 - 城西公園前 - '''原良小前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|谷山線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 新屋敷 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - [[南鹿児島駅]] - 脇田 - 笹貫 - [[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - '''慈眼寺団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15番||style="text-align:right;"|東紫原線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 天保山 - 熱帯植物園 - 文化ホール - 日赤前 - 本町公園前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|17番||style="text-align:right;"|宇宿線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 脇田 - [[脇田停留場|脇田電停]] - 宇宿住宅 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - '''広木農協前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|大学病院線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 高麗橋 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 南鹿児島駅 - 脇田 - [[鹿児島大学病院|大学病院]] - 歯学部病院前 - 桜ヶ丘4丁目 - 桜ヶ丘北口 - '''桜ヶ丘''' - 歯学部病院前 - (往路と同じ) - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|19番||style="text-align:right;"|南紫原線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - 南鹿児島駅 - 日ノ出町 - 紫原3丁目 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|伊敷(西駅)線||'''西鹿児島駅''' - 高見橋 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - '''伊敷団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|21番||style="text-align:right;"|永吉線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 新上橋 - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - '''永吉町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|22番||style="text-align:right;"|葛山線||'''西鹿児島駅''' - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地 - '''葛山''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|23番||style="text-align:right;"|紫原・武町線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 西田橋 - 西田本通 - 武町 - 天神中央 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - 伊敷団地 - 緑ヶ丘南 - '''緑ヶ丘団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|原良団地線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' - '''武岡台高校''' |} * 停留所名は1991年当時のものを表記 * '''太字'''は始終着停留所 * ●印は路線延長 '''新設停留所''' * 伊敷ニュータウン(【5】日当平線) '''名称変更停留所''' * 朝日通り→金生町 </div></div> * この時点では大幅な変更はないが、【5】日当平線の起終点が交通局北営業所から伊敷ニュータウンへ延長、市営バスとしては初の伊敷ニュータウンの乗り入れである。また、このころより朝日通停留所が金生町に名称変更している。 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">1992年7月当時の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> '''一般路線''' {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★1番||style="text-align:right;"|伊敷ニュータウン線||'''交通局北営業所''' - 伊敷ニュータウン - 梅ヶ渕 - 伊敷町 - 下伊敷 - 護国神社前 - 草牟田 - 加治屋町 - 高見馬場 - [[天文館]] - 金生町 - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|2番||style="text-align:right;"|清水・常盤線||'''常盤''' - 西田本通 - 西田橋 - 千石馬場 - 山下小前 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 県庁前 - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - 小坂通 - - 玉龍高校 - '''清水町''' - 春日町 - 小坂通 - (往路と同じ) - '''常盤''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★3番||style="text-align:right;"|玉里団地線||[[鹿児島中央駅|'''西鹿児島駅前''']] - 高麗橋 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|坂元・西紫原線||'''警察学校前''' - 坂元郵便局前 - せばる - 竪馬場 - 県庁前 - 市役所前 - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 高麗橋 - 西鹿児島駅前 - 柳田通 - 天神南 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原3丁目''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北)||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - '''玉里団地北''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★6番||style="text-align:right;"|吉野線||'''西鹿児島駅前''' - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - 東高校下 - 辻ヶ丘団地 - 実方神社 - 吉野無線前 - 中別府 - '''上之原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|原良線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 城西公園前 - かけごし - '''原良''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 玉江橋 - 女子校前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - '''交通局北営業所''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|原良団地(西駅)線||'''西鹿児島駅前''' - 西田橋 - 西田本通 - 城西公園前 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|鴨池港(西駅回り)線||'''市役所前''' - 金生町 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 高麗橋 - 甲南高校 - 中郡 - 郡元 - 真砂 - ニュータウン中央 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11-2番||style="text-align:right;"|鴨池・冷水線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂中央 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - 西鹿児島駅 - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 金生町 - 市役所前 - 私学校跡 - 岩崎谷 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - 女子校前 - '''西高校''' - 玉江小前 - 玉江橋 - 女子校前 - (往路と同じ) - '''三和町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 真砂 - 鴨池市営プール - 与次郎ヶ浜 - 天保山 - 南林寺 - いづろ - 金生町 - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★13番||style="text-align:right;"|天保山線||'''市役所前''' - 金生町 - ほさど(原良方面)・新町(市役所方面) - 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 交通局前 - 甲南高校 - 高麗橋 - 西鹿児島駅 - 西田橋 - 西田本通 - 鶴丸高校 - 城西公園前 - '''原良小前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|谷山線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 新屋敷 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - [[南鹿児島駅]] - 脇田 - 笹貫 - [[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - '''慈眼寺団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15番||style="text-align:right;"|東紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 天保山 - 熱帯植物園 - 文化ホール - 日赤前 - 本町公園前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 - '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|17番||style="text-align:right;"|宇宿線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 脇田 - [[脇田停留場|脇田電停]] - 宇宿住宅 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - '''広木農協前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|大学病院線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - 高麗橋 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 南鹿児島駅 - 脇田 - [[鹿児島大学病院|大学病院]] - 歯学部病院前 - 桜ヶ丘4丁目 - 桜ヶ丘北口 - '''桜ヶ丘''' - 歯学部病院前 - (往路と同じ) - '''市役所前''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|19番||style="text-align:right;"|南紫原線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 交通局前 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - 南鹿児島駅 - 日ノ出町 - 紫原3丁目 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|伊敷(西駅)線||'''西鹿児島駅''' - 高見橋 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - '''伊敷団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|21番||style="text-align:right;"|永吉線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 新上橋 - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - '''永吉町''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|22番||style="text-align:right;"|葛山線||'''西鹿児島駅''' - 加治屋町 - 高見馬場 - 天文館 - 朝日通 - 市役所前 - 県庁前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地 - '''葛山''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|23番||style="text-align:right;"|紫原・武町線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 西田橋 - 西田本通 - 武町 - 天神中央 - 田上寺ノ下 - 天神ヶ瀬戸 - 紫原中央 - '''紫原''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷脇田 - 西伊敷3丁目 - 伊敷団地 - 緑ヶ丘南 - '''緑ヶ丘団地''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|★25番||style="text-align:right;"|唐湊線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 西鹿児島駅 - たばこ産業前 - 唐湊 - '''唐湊住宅''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|原良団地線||'''市役所前''' - 朝日通 - 天文館 - 高見馬場 - 中ノ平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良団地入口 - 原良団地県営住宅 - 明和小前 - '''原良団地''' - '''武岡台高校''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|☆27番||style="text-align:right;"|西駅・与次郎線||'''西鹿児島駅''' - 上之園町 - 甲南高校 - 荒田2丁目 - 与次郎ヶ浜 - 市民文化ホール前 - 海づり公園前 - '''鴨池港''' |} * 停留所名は1992年当時のものを表記 * '''太字'''は始終着停留所 * ★印は改定された系統 ☆印は新設系統 '''新設停留所''' * 伊敷ニュータウン西入口・伊敷ニュータウン中学校・伊敷ニュータウン中央・伊敷ニュータウン東・伊敷ニュータウン東入口(【1】伊敷ニュータウン線) * 荒田2丁目・下荒田4丁目・海づり公園前(【27】西駅・与次郎線) '''休止停留所''' * 田上・田上町入口・武小前(【3】広木・玉里団地線) * 大明ヶ丘中央・大明ヶ丘東・大明ヶ丘西(【6】唐湊・大明ヶ丘線) </div></div> * この時のダイヤ改正では長距離系統の分割や系統新設・区間短縮などやや大きい路線改定が行われている。主な改定点の概要は次のとおりである。 : 【1】伊敷ニュータウン線(旧伊敷・清水町線) :: 起終点を伊敷脇田から伊敷ニュータウンを経由して交通局北営業所に変更、伊敷ニュータウン内へ本格乗り入れが開始された一方、東側は市役所前 - 清水町間を休止した。路線名も伊敷ニュータウン線に変更。 : 【2】清水・常盤線(旧鼓川・常盤線) :: 当系統自身のルート変更は行われていないが、旧伊敷・清水町線の市役所前 - 玉龍高校前 ‐ 清水町間廃止に伴い、路線名を改称。 : 【3】玉里団地線(旧広木・玉里団地線) :: 西鹿児島駅 - 広木農協間を休止、これにより一部停留所が完全休止した。路線名も玉里団地線に改称 : 【5】日当平線 :: 伊敷ニュータウン線新設により起終点を伊敷ニュータウンから再度、交通局北営業所にもどる。 : 【6】吉野線(旧唐湊・大明ヶ丘線) :: 旧唐湊・大明ヶ丘線のうち、西鹿児島駅以東(吉野方面)を系統分割し、吉野線として運行。この時点で大明ヶ丘地区の乗り入れは廃止。 : 【13】天保山線 :: 市役所方面ゆきは新町経由、原良方面はほさど経由で運行。(2000年代には永吉方面に延伸される。) : 【25】唐湊線(旧唐湊・大明ヶ丘線) :: 旧唐湊・大明ヶ丘線のうち、市役所前以西(唐湊方面)を系統分割し、唐湊線として運行。当時欠番となっていた【25】を使用し、25番線が唐湊線として復活する。 : 【27】西駅・与次郎線 :: 系統新設 <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">2018年11月時点の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|伊敷ニュータウン線||[[鹿児島市役所|'''市役所前''']] - [[天文館]] - [[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]] -([[鹿児島中央駅]])- [[草牟田]] - [[鹿児島県護国神社|護国神社前]] - [[伊敷 (鹿児島市)|伊敷町]] - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - [[伊敷台|伊敷ニュータウン]] - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1-2番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン線([[鹿児島中央駅]] 行き)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷町 - 伊敷ニュータウン - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|2番||style="text-align:right;"|▲◆清水・常盤線||[[常盤 (鹿児島市)|'''常盤''']] - [[甲突川五石橋|西田橋]] - 鹿児島中央駅 - 加治屋町 - 天文館 - '''市役所前''' - [[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - [ 小坂通 → [[柳町 (鹿児島市)|柳町]] → '''[[鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校|玉龍高校]]前''' → [[清水町 (鹿児島市)|清水町]] - [[春日町 (鹿児島市)|春日町]] → 小坂通 ] - 鹿児島駅前 - (この間同経路) - '''常盤''' ※「常盤」→「玉龍高校前」→「常盤」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|◇玉里・西紫原線||'''鶴ヶ崎橋''' - 南小前 - 南港 - [[紫原|'''紫原三丁目''']] - 紫原中央 - 天神寺之下 - 天神南 - 柳田通 - '''鹿児島中央駅''' - 加治屋町 - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局前 - [[玉里団地|玉里団地中央]] - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|★城山・玉里線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 -〈城山トンネル〉- [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - [[玉里町]] - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-2番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北 行き)||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''玉里団地北』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-3番||style="text-align:right;"|●日当平線(城山団地・さつま団地経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - 護国神社前 - [[下伊敷]] - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6番||style="text-align:right;"|■◆吉野線(東高校下経由)||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 竪馬場 - [[柳町 (鹿児島市)|柳町]] - たんたど - [[鹿児島県立鹿児島東高等学校|東高校]]下 - 実方神社 - '''[[鹿児島市役所#吉野支所|吉野支所]]前'''<sup>※</sup> - 中別府 - 『'''上之原』''' ※「吉野支所前」は、吉野支所前発着便と上之原行きのみ停車 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6-2番||style="text-align:right;"|◆吉野線(せばる団地経由)||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地中央 - 実方神社 - 『'''吉野支所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|6-3番||style="text-align:right;"|▼◆吉野線(葛山 行き)||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 竪馬場 - 柳町 - たんたど - [[鹿児島県立鹿児島東高等学校|東高校]]下 - [[東坂元|東坂元四丁目]] - 『'''葛山』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|★▲●明和・中央駅西口線||'''鹿児島中央駅西口''' -〈常盤トンネル〉- [[樟南高等学校|樟南高校]]前 - [[武岡|武岡団地南]] - [[明和 (鹿児島市)|明和]] - [ [[鹿児島市立明和小学校|明和小]]前 → 明和北 → 『'''明和県営住宅』''' → 明和小前 ] - 明和 -(往路と同じ)-'''鹿児島中央駅西口''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(市役所前 発着)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - 護国神社前 - [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 - [[鹿児島市立鹿児島女子高等学校|女子高]]前 - 玉里団地中央 - '''玉里団地北''' - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8-2番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(鹿児島中央駅 発着)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷中前 - 女子高前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|▼武岡・[[鹿児島港|鴨池港]]線||'''鴨池港''' - 県庁前 - 中郡 - [[鹿児島大学|鹿大正門前]] - [[鹿児島県立甲南高等学校|甲南高校]] - [[甲突川五石橋|高麗橋]] - '''鹿児島中央駅''' - 西田橋 - [[鹿児島県立鶴丸高等学校|鶴丸高校]] - かけごし - 明和東 - 明和県営住宅 - '''明和''' - 『'''武岡ハイランド』''' ※「明和」→「鴨池港」は毎日運行(土日祝は早朝1便のみ)、「武岡ハイランド」→「明和」・「鴨池港」→「武岡ハイランド」は平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|▲▼●高麗橋線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - [[鹿児島大学|鹿大正門前]] - [[鹿児島県立甲南高等学校|甲南高校]] - 高麗町 - [[鹿児島県立鹿児島中央高等学校|中央高校前]] - 千石馬場 - 草牟田 - 護国神社前 - [ [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 → 玉江橋 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → [[鹿児島市立玉江小学校|玉江小]]前 → 伊敷中前 ] - 護国神社前 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|▲●鴨池・冷水線||'''鴨池港''' - [[三和町 (鹿児島市)|三和町]] - 鴨池新町 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - '''鹿児島中央駅''' - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''鹿児島駅前''' - 市役所前 - いづろ - 南林寺 - 与次郎ヶ浜 - 鴨池市営プール前 - 真砂入口 - 県庁前 -鴨池新町 - 『'''三和町』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|13番||style="text-align:right;"|●◇天保山線||'''市役所前''' - いづろ → ぼさど → 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 二中通 - 甲南高校 - 高麗橋 - 鹿児島中央駅 - 西田橋 - 鶴丸高校 - [[鹿児島アリーナ]] - 永吉 - 『'''ハートピアかごしま』'''(往路) '''市役所前''' - いづろ ← 大門口 ← 松原小前 - 城南小前 - 天保山 - 二中通 - 甲南高校 - 高麗橋 - 鹿児島中央駅 - 西田橋 - 鶴丸高校 - [[鹿児島アリーナ]] - 永吉 - 『'''ハートピアかごしま』'''(復路) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|▼◇谷山線||('''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 新屋敷 - 二中通 - 騎射場 - [[鴨池 (鹿児島市)|鴨池]] - [[郡元 (鹿児島市)|郡元]] - [[南鹿児島駅]] - 脇田 - 笹貫 - )[[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - 『[[慈眼寺町|'''慈眼寺団地''']]』 ※「市役所前」 - 「谷山電停」間は市役所前発着の平日の1往復のみ運行。「谷山電停」-「慈眼寺団地」は毎日運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15番||style="text-align:right;"|▲◇東紫原線||[[いおワールドかごしま水族館|'''水族館前''']] - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 二中通 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - [ '''紫原''' → '''西紫原中学校下''' → 西紫原公園前 → 『[[鹿児島市立西紫原中学校|'''西紫原中学校前''']]』 → '''紫原''' ] - 一本桜 -(この間同経路)- '''市役所前''' - '''水族館前 ''' ※往路の運行は、「紫原」・「西紫原中学校下」・「西紫原中学校前」まで、復路の運行は「西紫原中学校下」・「紫原」から |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15-2番||style="text-align:right;"|◇東紫原線(中央駅経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 鹿児島中央駅 - 都通 - [[鹿児島市立病院|市立病院前]] - 神田 (交通局前) - 中郡陸橋 - 東紫原陸橋 - 一本桜 -『'''紫原』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|15-3番||style="text-align:right;"|◇東紫原線(広木農協前行き)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 二中通 - 騎射場 - 鴨池市営プール - 郡元 - 紫原陸橋 - 一本桜 - 紫原 - 西紫原中学校下 - 鍋ヶ宇都 -『'''広木農協前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|●鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 → 与次郎ヶ浜 → 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(往路) '''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 ← 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(復路) |- | rowspan="2" style="white-space:nowrap; text-align:right;" |17番||style="text-align:right;"|▲宇宿線(広木農協前行き)||'''[[脇田停留場|脇田電停]]前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - [ 原田久保 → 八洲団地 → [[向陽 (鹿児島市)|向陽台団地]] → 八洲団地 → 原田久保 ] -『'''広木農協前』''' ※「原田久保」-「向陽台団地」-「原田久保」は往路・復路共に同じ方向に循環運転 |- |▲宇宿線(向陽台折り返し) |'''脇田電停前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - [ 八洲団地 → 向陽台西 → 向陽台団地 → 向陽台公園前 → 八洲団地 ] - 原田久保 -(この間同経路)- 『'''脇田電停』''' |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |18番|| style="text-align:right;" |▲●◇大学病院線||'''市役所前''' - 金生町 - 高見馬場 - 鹿児島中央駅 - 鹿大正門前 - 東紫原陸橋 - 紫原 - 桜ヶ丘東口 - [ 桜ヶ丘七丁目 → 『'''[[桜ケ丘_(鹿児島市)|桜ヶ丘]]五丁目』''' → 大学病院前 → 桜ヶ丘南 → [[鹿児島市立桜丘西小学校|桜ヶ丘西小]]前 → 桜ヶ丘一丁目 → 桜ヶ丘四丁目 → 桜ヶ丘七丁目 ] - 桜ヶ丘東口 -(往路と同じ)- '''市役所前''' ※便宜上、路線終着地を市役所前行きの起点となる「桜ヶ丘五丁目」と表記しているが、公式ページでは桜ヶ丘団地全体を示す「桜ヶ丘」が終点となっている。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|▲大学病院(シャトル)線||'''脇田電停前''' - [[鹿児島市立宇宿小学校|宇宿小]]前 - 亀ヶ原 - [ 大学病院前 → '''桜ヶ丘南''' → [[鹿児島市立桜丘西小学校|桜ヶ丘西小]]前 → 桜ヶ丘一丁目 → 桜ヶ丘四丁目 → 桜ヶ丘五丁目 → 大学病院前 ] - 亀ヶ原 -(この間同経路)- '''脇田電停前''' ※「脇田電停前」→桜ヶ丘団地・大学病院→「脇田電停前」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|19番||style="text-align:right;"|◇南紫原線||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 二中通 - 騎射場 - 鴨池 - 郡元 - 南鹿児島駅 - [[日之出町 (鹿児島市)|日之出町]] -『'''紫原』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|▼緑ヶ丘・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - [[上之園町]] - '''鹿児島中央駅''' - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷仮屋 - [[西伊敷|伊敷団地]] -『[[緑ケ丘町 (鹿児島市)|'''緑ヶ丘団地''']]』 ※「鹿児島中央駅」-「緑ヶ丘団地」は毎日運行、「鹿児島中央駅」-「鴨池港」は平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|▼■緑ヶ丘・鴨池港線(急行)||'''鹿児島中央駅''' →(ノンストップ)→ 県庁前 → ニュータウン中央 →'''鴨池港''' (鴨池港行きのみ運行) 【 鹿児島中央駅 → 県庁前 で急行運転、記載された停留所のみ停車 】 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|21番||style="text-align:right;"|▲●◆永吉線||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - [ 永吉町 → 『'''[[鹿児島アリーナ]]前』''' → 修学館前 → 永吉町 ] -市役所前 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|22番||style="text-align:right;"|◆葛山線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 柳町 - たんたど - せばる団地 - 辻ヶ丘団地 -『'''葛山』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|23番||style="text-align:right;"|▲●◇紫原・武町線||'''広木農協前''' - 永仮入口 - 紫原 - 天神南 -('''鹿児島中央駅西口'''<sup>※</sup>)- [ 永吉団地入口 → 玉江橋 →『'''高齢者福祉センター伊敷』'''→ 玉江小前 → 永吉団地入口 ] - '''鹿児島中央駅西口 - 広木農協前''' ※広木農協前始発便のみ、鹿児島中央駅西口、西田橋、西田本通を通過 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''水族館前''' - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - '''伊敷団地''' - 緑ヶ丘南 -『'''緑ヶ丘団地』'''(鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|■伊敷線(急行)||'''緑ヶ丘団地''' →(この間各バス停に停車)→ 伊敷小前 →(ノンストップ)→ 玉江小前 →(ノンストップ)→ 新上橋 →(この間各バス停に停車)→ '''市役所前''' (市役所前行きのみ運行) 【 伊敷小前 → 新上橋 で急行運転、伊敷小前 → 新上橋 は途中「玉江小前」のみ停車 】※急行便は「鹿児島中央駅」を経由しない |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |24-2番|| style="text-align:right;" |伊敷線(西伊敷4丁目経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 西伊敷小前 - 西伊敷四丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |25番|| style="text-align:right;" |◇唐湊線||'''[[ドルフィンポート]]''' - '''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 鹿児島中央駅 - 市立病院前 - 神田(交通局前) - 唐湊 - 唐湊郵便局 -『'''唐湊住宅』''' '''ドルフィンポート'''→ '''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 鹿児島中央駅 - 市立病院前 - 神田(交通局前) - 唐湊 - 唐湊二丁目 -『'''唐湊福祉館前』''' ※「唐湊福祉館前」始発便は「水族館前」までの運行。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|★明和線(旭ヶ丘方面)||'''旭ヶ丘ニュータウン中央''' - 雀ヶ宮 - '''鹿児島駅''' - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - '''鹿児島中央駅''' - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - 明和東 - '''明和''' ← 『[[鹿児島県立武岡台高等学校|'''武岡台高校'''<sup>※</sup>]]』 ※「武岡台高校」→「明和」は武岡台高校始発便のみ運行、「鹿児島中央駅」→「明和」は南国交通担当便のみの運行 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|明和線(中央駅経由) 明和線(中之平経由) |'''水族館前''' - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 鹿児島中央駅 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 明和東 - '''明和''' -『'''武岡台高校』''' '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - [[鹿児島市立山下小学校|山下小]]前 - 中之平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 明和東 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26-2番||style="text-align:right;"|明和線(原良経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 鹿児島中央駅 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和東 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26-3番||style="text-align:right;"|明和線(小野4丁目経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和トンネル前 - 明和プラザ - 小野4丁目 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|27番||style="text-align:right;"|▲●県庁・与次郎線||'''鹿児島中央駅''' - 上之園町 - 甲南高校前 - [[荒田 (鹿児島市)|荒田二丁目]] - [[下荒田|下荒田四丁目]] - 与次郎ヶ浜 → '''県庁前''' → 海づり公園前 → [[鹿児島市民文化ホール|市民文化ホール]]北口 → [[与次郎|与次郎一丁目]] → '''厚生連病院前''' → りぼんかん前 → 市民文化ホール北口 → 鴨池運動公園前 →与次郎ヶ浜 -(この間同経路)- '''鹿児島中央駅''' ※「鹿児島中央駅」→「与次郎一丁目」→「鹿児島中央駅」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|28番||style="text-align:right;"|▼伊敷・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 伊敷団地中央 - 西伊敷三丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|29番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - 伊敷ニュータウン -『'''交通局北営業所前』''' '''※平日のみ運行''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|30番||style="text-align:right;"|▼明和・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 山下小前 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和東 -『'''明和'''』 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|31番||style="text-align:right;"|▼玉里・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 -『'''交通局北営業所前』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|32番||style="text-align:right;"|▲●▼城山・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 -〈城山トンネル〉- 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 →『'''高齢者福祉センター伊敷』'''→ 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''三和町''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|33番||style="text-align:right;"|▼◇慈眼寺・与次郎線||'''与次郎一丁目''' - 市民文化ホール前 - KKB前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 鶴ヶ崎 - 脇田 - 笹貫 - 谷山電停 - 谷山駅 - 大御堂 - 慈眼寺公園 -『'''慈眼寺団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|36番||style="text-align:right;"|★■▼◆吉田インター線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前<sup>※</sup> - 鹿児島駅 - 清水町 - 雀ヶ宮 - 新堀 - 吉野無線前 - [[鹿児島市立吉野中学校|吉野中学校]]前 - 上花棚 - 『[[薩摩吉田インターチェンジ|'''吉田インター''']]』 ※市役所前バス停は吉田インター行きのみ停車。また、「天文館」 - 「金生町」間の「いづろ」バス停は往路復路ともに通過となる。 |- | rowspan="2" style="white-space:nowrap; text-align:right;" |40番||style="text-align:right;"|▼◆武岡台高校線(武岡台高校行き)||'''伊敷ニュータウン西入口''' → 伊敷ニュータウン → 交通局北営業所前 → 日当平住宅 → 下伊敷 → 玉江小前 → 永吉 → 鹿児島アリーナ → 花岡通 → かけごし → 明和東 → 明和 → 『'''武岡台高校』''' (武岡台高校行きのみ運行) ※春休み・夏休み・冬休み期間は運休。学校がある期間は平日のみ運行だが、学校行事等による臨時運行あり |- | style="text-align:right;" |▼◆台高校線(緑ヶ丘団地行き)||'''『武岡台高校』''' → (この間上記【40】武岡台高校線 武岡台高校行きと同じ) → 伊敷ニュータウン西入口(梅ヶ渕)<sup>※</sup> → 伊敷脇田 → 伊敷団地中央 → 伊敷団地 → '''緑ヶ丘団地''' (緑ヶ丘団地行きのみ運行) ※「伊敷ニュータウン西入口」は安全上の都合で「梅ヶ渕」バス停に停車 ※春休み・夏休み・冬休み期間は運休。学校がある期間は平日のみ運行だが、学校行事等による臨時運行あり |- |40-2番||▼■◆武岡台高校線(武岡台高校行き)||'''緑ヶ丘団地''' → 伊敷団地 → 伊敷団地中央 → 伊敷脇田 →(ノンストップ)→ 鹿児島中央駅 → 花岡通 → かけごし - 明和東 - 明和 - 『'''武岡台高校』''' (武岡台高校行きのみ運行) 【 伊敷脇田 → 鹿児島中央駅 は途中停留所には停車しない 】 ※春休み・夏休み・冬休み期間は運休。学校がある期間は平日のみ運行だが、学校行事等による臨時運行あり |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |41番|| style="text-align:right;" |◇紫原・武岡台高校線||'''紫原三丁目''' → 紫原四丁目 → 紫原中央 → 紫原中央(KTS前)→ 紫原中学校前 → 紫原七丁目 → 天神ヶ瀬戸 → 前ヶ迫 →(ノンストップ)→ 『'''武岡台高校』'''(武岡台高校行きのみ運行) 【記載された停留所のみ停車】 ※春休み・夏休み・冬休み期間は運休。学校がある期間は平日のみ運行だが、学校行事等による臨時運行あり |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|51番||style="text-align:right;"|▲薩摩団地線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 県民交流センター -〈城山トンネル〉- 冷水峠 - 玉里町 - 玉里団地中央 - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 『'''伊敷ニュータウン中央』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-1番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島病院 - 東白浜)||'''桜島病院''' - [[桜島赤水町|薩摩赤水]] - [[桜島フェリー|'''桜島港''']] - [[鹿児島市立桜洲小学校|桜州小学校]] - [[鹿児島市役所#桜島支所|桜島支所]] - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-2番||style="text-align:right;"|桜島線(福祉センター - 東白浜)||'''福祉センター''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-3番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島苑 - 東白浜)||'''桜島苑''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』'''( - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元)''' ※東白浜 - 塩屋ヶ元は一部便のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-1番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 黒神口)||'''東白浜''' - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元''' - 『'''黒神口』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-2番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 古河良港)||'''東白浜''' - 『'''古河良港』''' |} * ★印は、南国交通との相互乗り入れ路線 *◆印は、2020年4月1日に南国交通に移譲された路線 *◇印は、2020年4月1日に鹿児島交通に移譲された路線 * ▲印は、一方向循環運転区間がある路線( [ ] 内が循環運転区間) * ▼印は、運行曜日が限られている路線(平日ダイヤ実施日のみ運行される路線) * ●印は、往路と復路で経由地が違う路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * ■印は、経路上に設置されているバス停に停車しない急行路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * '''太字'''は、始発便・終着便が設定されているバス停 *経路欄は、左から右へ、起点→終点方向で記載している(循環路線を除く) *経由欄の『』囲みは、路線の終点バス停を示している </div></div> <div class="NavFrame"> <div class="NavHead" style="text-align: left">2020年4月現在の路線一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align: left"> {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap;"|路線番号!!style="white-space:nowrap;"|路線名!!経路 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1番||style="text-align:right;"|伊敷ニュータウン線||[[鹿児島市役所|'''市役所前''']] - [[天文館]] - [[加治屋町 (鹿児島市)|加治屋町]] -([[鹿児島中央駅]])- [[草牟田]] - [[鹿児島県護国神社|護国神社前]] - [[伊敷 (鹿児島市)|伊敷町]] - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - [[伊敷台|伊敷ニュータウン]] - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|1-2番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン線([[鹿児島中央駅]] 行き)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷町 - 伊敷ニュータウン - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|3番||style="text-align:right;"|玉里団地線||'''鹿児島中央駅''' - 加治屋町 - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局前 - [[玉里団地|玉里団地中央]] - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|4番||style="text-align:right;"|★城山・玉里線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 -〈城山トンネル〉- [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - [[玉里町]] - 玉里団地中央 - 玉里団地北口 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5番||style="text-align:right;"|日当平線||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' (鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-2番||style="text-align:right;"|日当平線(玉里団地北 行き)||'''市役所前''' - 天文館 - 加治屋町 - 草牟田 - 護国神社前 - 下伊敷 - 日当平住宅 - 『'''玉里団地北』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|5-3番||style="text-align:right;"|●日当平線(城山団地・さつま団地経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - [[城山 (鹿児島市の町丁)|城山団地中央]] - 護国神社前 - [[下伊敷]] - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 日当平住宅 - 『'''交通局北営業所前』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|7番||style="text-align:right;"|★▲●◆明和・中央駅西口線||'''鹿児島中央駅西口''' -〈常盤トンネル〉- [[樟南高等学校|樟南高校]]前 - [[武岡|武岡団地南]] - [[明和 (鹿児島市)|明和]] - [ [[鹿児島市立明和小学校|明和小]]前 → 明和北 → 『'''明和県営住宅』''' → 明和小前 ] - 明和 -(往路と同じ)-'''鹿児島中央駅西口''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(市役所前 発着)||'''市役所前''' - 天文館 - 草牟田 - 護国神社前 - [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 - [[鹿児島市立鹿児島女子高等学校|女子高]]前 - 玉里団地中央 - '''玉里団地北''' - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|8-2番||style="text-align:right;"|西玉里団地線(鹿児島中央駅 発着)||'''鹿児島中央駅''' - 草牟田 - 護国神社前 - 伊敷中前 - 女子高前 - 玉里団地中央 - 玉里団地北 - 『'''交通局北営業所前』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|9番||style="text-align:right;"|▼◆武岡・[[鹿児島港|鴨池港]]線||'''鴨池港''' - 県庁前 - 中郡 - [[鹿児島大学|鹿大正門前]] - [[鹿児島県立甲南高等学校|甲南高校]] - [[甲突川五石橋|高麗橋]] - '''鹿児島中央駅''' - 西田橋 - [[鹿児島県立鶴丸高等学校|鶴丸高校]] - かけごし - 明和東 - 明和県営住宅 - '''明和''' - 『'''武岡ハイランド』''' ※「明和」→「鴨池港」は毎日運行(土日祝は早朝1便のみ)、「武岡ハイランド」→「明和」・「鴨池港」→「武岡ハイランド」は平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|10番||style="text-align:right;"|▲▼●高麗橋線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - [[鹿児島大学|鹿大正門前]] - [[鹿児島県立甲南高等学校|甲南高校]] - 高麗町 - [[鹿児島県立鹿児島中央高等学校|中央高校前]] - 千石馬場 - 草牟田 - 護国神社前 - [ [[鹿児島市立伊敷中学校|伊敷中]]前 → 玉江橋 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → [[鹿児島市立玉江小学校|玉江小]]前 → 伊敷中前 ] - 護国神社前 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|11番||style="text-align:right;"|▲●鴨池・冷水線||'''鴨池港''' - [[三和町 (鹿児島市)|三和町]] - 鴨池新町 - 郡元 - 鴨池市営プール - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - 上之園町 - '''鹿児島中央駅''' - 天文館 - '''市役所前''' - 竪馬場 - 冷水町 - 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 → 『'''高齢者福祉センター伊敷』''' → 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''鴨池港''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|12番||style="text-align:right;"|海岸線||'''鹿児島駅前''' - 市役所前 - いづろ - 南林寺 - 与次郎ヶ浜 - 鴨池市営プール前 - 真砂入口 - 県庁前 -鴨池新町 - 『'''三和町』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|14番||style="text-align:right;"|▼谷山線||[[谷山停留場|谷山電停]] - [[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]] - 大御堂 - 慈眼寺公園 - 『[[慈眼寺町|'''慈眼寺団地''']]』 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|16番||style="text-align:right;"|●鴨池港・[[鹿児島市民文化ホール|文化ホール]]線||'''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 → 与次郎ヶ浜 → 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(往路) '''水族館前''' - 市役所前 - 天文館 - 鹿児島中央駅 - 二中通 - 天保山 ← 共月亭前 - 与次郎一丁目 - 市民文化ホール前 - [[鹿児島放送|KKB]]前 - 県庁前 - 鴨池新町 - 緑地公園前 -『'''鴨池港』'''(復路) |- | rowspan="2" style="white-space:nowrap; text-align:right;" |17番||style="text-align:right;"|▲宇宿線(広木農協前行き)||'''[[脇田停留場|脇田電停]]前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - [ 原田久保 → 八洲団地 → [[向陽 (鹿児島市)|向陽台団地]] → 八洲団地 → 原田久保 ] -『'''広木農協前』''' ※「原田久保」-「向陽台団地」-「原田久保」は往路・復路共に同じ方向に循環運転 |- |▲宇宿線(向陽台折り返し) |'''脇田電停前''' - 宇宿住宅 - 永仮入口 - 鍋ヶ宇都 - 原田久保 - [ 八洲団地 → 向陽台西 → 向陽台団地 → 向陽台公園前 → 八洲団地 ] - 原田久保 -(この間同経路)- 『'''脇田電停』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|18番||style="text-align:right;"|▲大学病院線||'''脇田電停前''' - [[鹿児島市立宇宿小学校|宇宿小]]前 - 亀ヶ原 - [ 大学病院前 → '''桜ヶ丘南''' → [[鹿児島市立桜丘西小学校|桜ヶ丘西小]]前 → 桜ヶ丘一丁目 → 桜ヶ丘四丁目 → 桜ヶ丘五丁目 → 大学病院前 ] - 亀ヶ原 -(この間同経路)- '''脇田電停前''' ※「脇田電停前」→桜ヶ丘団地・大学病院→「脇田電停前」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|▼緑ヶ丘・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 鹿大正門前 - 甲南高校 - [[上之園町]] - '''鹿児島中央駅''' - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷仮屋 - [[西伊敷|伊敷団地]] -『[[緑ケ丘町 (鹿児島市)|'''緑ヶ丘団地''']]』 ※「鹿児島中央駅」-「緑ヶ丘団地」は毎日運行、「鹿児島中央駅」-「鴨池港」は平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|20番||style="text-align:right;"|▼■緑ヶ丘・鴨池港線(急行)||'''鹿児島中央駅''' →(ノンストップ)→ 県庁前 → ニュータウン中央 →'''鴨池港''' (鴨池港行きのみ運行) 【 鹿児島中央駅 → 県庁前 で急行運転、記載された停留所のみ停車 】 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|伊敷線||'''水族館前''' - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 -(鹿児島中央駅)- 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - '''伊敷団地''' - 緑ヶ丘南 -『'''緑ヶ丘団地』'''(鹿児島中央駅は一部便のみ停車) |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|24番||style="text-align:right;"|■伊敷線(急行)||'''緑ヶ丘団地''' →(この間各バス停に停車)→ 伊敷小前 →(ノンストップ)→ 玉江小前 →(ノンストップ)→ 新上橋 →(この間各バス停に停車)→ '''市役所前''' (市役所前行きのみ運行) 【 伊敷小前 → 新上橋 で急行運転、伊敷小前 → 新上橋 は途中「玉江小前」のみ停車 】※急行便は「鹿児島中央駅」を経由しない |- | style="white-space:nowrap; text-align:right;" |24-2番|| style="text-align:right;" |伊敷線(西伊敷4丁目経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 西伊敷小前 - 西伊敷四丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|★◆明和線(旭ヶ丘方面)||'''旭ヶ丘ニュータウン中央''' - 雀ヶ宮 - '''鹿児島駅''' - 市役所前 - 天文館 - 高見馬場 - '''鹿児島中央駅''' - [[鹿児島高等学校|鹿児島高校]] - かけごし - 明和東 - '''明和''' ← 『[[鹿児島県立武岡台高等学校|'''武岡台高校'''<sup>※</sup>]]』 ※「武岡台高校」→「明和」は武岡台高校始発便のみ運行、「鹿児島中央駅」→「明和」は南国交通担当便のみの運行 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26番||style="text-align:right;"|◆明和線(中央駅経由) ◆明和線(中之平経由) |'''水族館前''' - '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 加治屋町 - 鹿児島中央駅 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 明和東 - '''明和''' -『'''武岡台高校』''' '''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - [[鹿児島市立山下小学校|山下小]]前 - 中之平 - 新上橋 - 鹿児島高校 - かけごし - 明和東 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26-2番||style="text-align:right;"|◆明和線(原良経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 鹿児島中央駅 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和東 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|26-3番||style="text-align:right;"|◆明和線(小野4丁目経由)||'''市役所前''' - 天文館 - 高見馬場 - 山下小前 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和トンネル前 - 明和プラザ - 小野4丁目 -『'''明和』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|27番||style="text-align:right;"|▲●県庁・与次郎線||'''鹿児島中央駅''' - 上之園町 - 甲南高校前 - [[荒田 (鹿児島市)|荒田二丁目]] - [[下荒田|下荒田四丁目]] - 与次郎ヶ浜 → '''県庁前''' → 海づり公園前 → [[鹿児島市民文化ホール|市民文化ホール]]北口 → [[与次郎|与次郎一丁目]] → '''厚生連病院前''' → りぼんかん前 → 市民文化ホール北口 → 鴨池運動公園前 →与次郎ヶ浜 -(この間同経路)- '''鹿児島中央駅''' ※「鹿児島中央駅」→「与次郎一丁目」→「鹿児島中央駅」の循環路線 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|28番||style="text-align:right;"|▼伊敷・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - 伊敷小前 - 伊敷団地中央 - 西伊敷三丁目 -『'''伊敷団地』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|29番||style="text-align:right;"|▼伊敷ニュータウン・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 中草牟田 - 下伊敷 - 伊敷町 - [[鹿児島市立伊敷台中学校|伊敷台中]]前 - 伊敷ニュータウン -『'''交通局北営業所前』''' '''※平日のみ運行''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|30番||style="text-align:right;"|▼◆明和・鴨池港線||'''鴨池港''' - ニュータウン中央 - 県庁前 - 騎射場 - 二中通 - 高見馬場 - 山下小前 - 鹿児島高校 - かけごし - 原良 - 明和東 -『'''明和'''』 ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|31番||style="text-align:right;"|▼玉里・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 - 竪馬場 - せばる - 坂元郵便局 - 玉里団地中央 -『'''交通局北営業所前』''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|32番||style="text-align:right;"|▲●▼城山・三和町線||'''三和町''' - 鴨池新町 - 県庁前 - 与次郎ヶ浜 - 南林寺 - いづろ - 市役所前 -〈城山トンネル〉- 城山団地中央 - 玉里町 - [ 女子高前 →『'''高齢者福祉センター伊敷』'''→ 玉江小前 → 玉江橋 → 女子高前 ] - 玉里町 -(往路と同じ)- '''三和町''' ※平日のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|51番||style="text-align:right;"|▲薩摩団地線||'''鹿児島中央駅''' - 天文館 - 市役所前 - 県民交流センター -〈城山トンネル〉- 冷水峠 - 玉里町 - 玉里団地中央 - [ さつま団地<sup>※</sup> ] - 『'''伊敷ニュータウン中央』''' ※さつま団地内はフリー乗降(バス停以外での乗降)が可能。 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-1番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島病院 - 東白浜)||'''桜島病院''' - [[桜島赤水町|薩摩赤水]] - [[桜島フェリー|'''桜島港''']] - [[鹿児島市立桜洲小学校|桜州小学校]] - [[鹿児島市役所#桜島支所|桜島支所]] - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-2番||style="text-align:right;"|桜島線(福祉センター - 東白浜)||'''福祉センター''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|60-3番||style="text-align:right;"|桜島線(桜島苑 - 東白浜)||'''桜島苑''' - [[桜島フェリー|桜島港]] - 桜州小学校 - 桜島支所 - 温泉センター - 『'''東白浜』'''( - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元)''' ※東白浜 - 塩屋ヶ元は一部便のみ運行 |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-1番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 黒神口)||'''東白浜''' - 高免小学校 - 西宇土 - [[鹿児島市立黒神小学校|黒神小学校]] - '''塩屋ヶ元''' - 『'''黒神口』''' |- |style="white-space:nowrap; text-align:right;"|70-2番||style="text-align:right;"|桜島代替線(東白浜 - 古河良港)||'''東白浜''' - 『'''古河良港』''' |} * ★印は、南国交通との相互乗り入れ路線 * ◆印は、2021年4月1日に南国交通に移譲された路線 * ▲印は、一方向循環運転区間がある路線( [ ] 内が循環運転区間) * ▼印は、運行曜日が限られている路線(平日ダイヤ実施日のみ運行される路線) * ●印は、往路と復路で経由地が違う路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * ■印は、経路上に設置されているバス停に停車しない急行路線(片方向のみにバス停が設置されている場合を除く) * '''太字'''は、始発便・終着便が設定されているバス停 *経路欄は、左から右へ、起点→終点方向で記載している(循環路線を除く) *経由欄の『』囲みは、路線の終点バス停を示している </div></div> === 車両 === 国産4メーカーの車両が在籍している。かつては[[西日本車体工業]]の採用が多かったが、近年は純正車体が中心である。鹿児島市内のバス事業者の中では低床バスやリフトバス・低公害バスの導入には積極的である。 一般路線車は[[1989年]]以前は旧標準塗装(肌色と灰色のツートンカラーに白帯、一部茶色)、[[1990年]]以降は新標準塗装(空色の濃淡、白色、クリーム色の4色)。一部旧標準塗装から新標準塗装に塗り替えた車両もある。[[ノンステップバス]]および小型バスは山吹色に青色の斜め帯の塗装。桜島町営バスの引き継ぎ車は引き継ぎ前からの白色と紺色のツートンカラーのままである。[[1980年代]]後半に導入されたスケルトン車体の車両のうち、大型車はメーカーにかかわらず前面窓が1枚窓でワイパーがオーバーラップワイパーとなっている独自仕様であったが、ノンステップバスは前面2枚窓でワイパーも標準的なものとなっている。 カゴシマシティビューは中型バスをベースにした[[ファンタスティックバス|特殊構造の専用車]]を使用する。城山・磯コース用の車両は路面電車風のデザインで、ウォーターフロントコース用の車両は海とイルカをイメージしたデザインである。 サクラジマアイランドビューには専用の小型車([[日野・ポンチョ]])が使用される。 貸切車は鹿児島市交通局の自局発注車がベージュ色地にオレンジ・茶色・黒の三色の帯、桜島町営バスの引き継ぎ車が引き継ぎ前からの白地に青の桜島の模様を入れた塗装である。貸切バスのほか、定期観光バスにも使用されていた。 <gallery> ファイル:KagoBUS0506251.jpg|ツーステップバス一般路線車。現行塗装。 ファイル:Kagoshima City Transportation Bureau Bus 158.JPG|ツーステップバス一般路線車。1989年頃までの旧塗装。 ファイル:Kagoshimacitybus 621.JPG|ノンステップバスおよび小型バスは写真のような塗装である。写真はハイブリッド車の大型ノンステップバス。 ファイル:Kagoshima City View Bus 679.jpg|「カゴシマシティビュー」(城山・磯コース)の車両。1994年の運行開始時に導入されたもの。 ファイル:Kagoshima City View Bus 2008 1116.jpg|「カゴシマシティビュー」(城山・磯コース)の車両。運行開始より後年に追加導入されたもの。 ファイル:Kagoshima City bus Sakurajima Island View01.jpg|「サクラジマアイランドビュー」用の車両 ファイル:Kagoshima City bus05.jpg|自局発注の貸切車を使用する定期観光バス(かごしま歴史探訪コース)。 ファイル:Kagoshima City bus06.jpg|桜島町から引き継いだ貸切車を使用する定期観光バス(桜島自然遊覧コース)。 </gallery> === 運賃 === 鹿児島市内と桜島営業所管内で異なった体系をとっている。鹿児島市内では初乗りが190円で、以後1区間ごとに30円ずつ加算する[[運賃|区間制運賃]]である。ただし、一部の系統では190円ないし140円(17番線のみ)の[[運賃|均一運賃]]、または初乗り140円、基準賃率は19円90銭の対キロ区間制運賃である。なお、19円90銭という賃率は日本一安い賃率である。一方、桜島営業所管内では、初乗り120円、基準賃率23円20銭の対キロ区間制運賃である。 2023年10月1日から、全路線の運賃が均一230円に統一された。 カゴシマシティビューは1回の乗車につき190円均一、定期観光バスは2,200円となっている。 === 営業所 === * [[鹿児島市営バス新栄営業所|新栄営業所]] * [[鹿児島市営バス浜町営業所|浜町営業所]] * [[鹿児島市営バス北営業所|北営業所]] * [[鹿児島市営バス桜島営業所|桜島営業所]](旧桜島町営バス) === 路線重複問題 === [[ファイル:過剰な台数が集中する鹿児島市の路線バスその2 (金生町にて2017-0731).jpg|サムネイル|過剰な台数が集中する鹿児島市の路線バス。黄色の車体が鹿児島市営バス(金生町にて。2017年7月31日)]] 鹿児島市営バスと民間事業者のバスが競合する路線のほとんどは、もともと交通局が単独で運行していたところに規制緩和により民間事業者が参入したものである<ref name="gijiroku">[http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2012/10/c501edaa546157d97e9657c26c73854f.pdf 平成 29 年度第 5 回鹿児島市交通事業経営審議会(第 4 回諮問協議)] - 鹿児島市交通事業経営審議会</ref>が、交通局の「民間バスが入ってきたからといって、ダイヤを落とすことができない。サービスを落としたくないし、競争にも負けたくない」という考えから、過剰供給を認識しつつも抜本的な見直しができず<ref name="gijiroku" />、市営バスは年間約5億 - 6億円の赤字が続くこととなった<ref name="yomiuri">[https://www.yomiuri.co.jp/local/kagoshima/news/20190610-OYTNT50114/ 市営バス一部を民間移譲 20路線、鹿児島市交通局方針] - 読売新聞</ref>。 この状況を受けて、2018年3月の鹿児島市交通事業経営審議会では、「民間事業者に一部路線を移譲して、人員・車両も含め事業規模を縮小する抜本的な見直しに取り組むべきである」との答申がされた<ref>[http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2012/10/8c73cd5801d4b2f40043738e6ccf2746-2.pdf 「自動車運送事業の抜本的見直し」について] - 鹿児島市交通事業経営審議会</ref>。これを受けて交通局は2019年6月10日、2020年4月と2021年4月の2段階に分けて、市営バスの全39路線のうち20路線を、[[鹿児島交通]]と[[南国交通]]に10路線ずつ移譲する方針を明らかにした<ref name="yomiuri" />。移譲される路線については原則として3年間便数が維持される<ref name="yomiuri" />が、その後は民間事業者によって便数が決定されることになる。 === その他 === {{Vertical_images_list |1=KAGOSHIMA_U-UA440LAN(1).jpg |2= |3=KAGOSHIMA_U-UA440LAN.jpg |4=鹿児島アリーナでのコンサート臨時バスでの例(2014年7月22日) }} アーティストのライブ会場に向かう臨時バスが運行される際、バスの行き先にそのアーティストの曲名と歌詞が表示される細工がされている。これは[[2013年]]に開催された[[Mr.Children]]のツアー時から行われており、遠方からの来場者へのファンサービスの一環とされている。[[鹿児島アリーナ]]への増車便を依頼された際に表示するかどうかを確認し、NGが出ない限り実施しているという<ref>{{Cite news|url=https://news.livedoor.com/article/detail/16602218/|title=B'zのライブ会場行きバスが粋な計らい 行き先が歌詞に |newspaper=ライブドアニュース|publisher=|date=2019-6-11|accessdate=2019-12-25}}</ref>。 == 乗車券・乗車カード == === 乗車券 === ; [[一日乗車券]] : 大人600円、小人300円。スクラッチ式で、市電(含・観光電車)、市営バス(含・カゴシマシティビュー)で使用できる。市営バス一般路線のうち、南国交通との共同運行路線では市営バス担当便のみ利用可能。桜島島内では、市営バス一般路線には使用できるが、周遊バスのサクラジマアイランドビューは利用不可。 ; [[SUNQパス]](全九州版、南部九州版) : 自局で発売していないが、[[2006年]][[10月1日]]より市営バスの一般路線で使用できるようになっている(南国交通も加盟しているため、共同運行路線も全便で利用可能)。 ; [https://www.kagoshima-yokanavi.jp/kotsu/kagoshima/ticket.html CU-TE] : 1日券(大人1,200円、小人600円)、2日券(大人1,800円、小人900円)市電(含・観光電車)、市バス(含・カゴシマシティビュー、サクラジマアイランドビュー)、桜島フェリーで使用できる。2日券は連続する2日間で使用可能。また、市営バス一般路線のうち、南国交通との共同運行路線は市営バス担当便のみ利用可能。 ; [[旅名人の九州満喫きっぷ]] : 自局では発行していないが、2008年4月18日より市電の全線で利用できるようになっている。 === 乗車カード === ; [[RapiCa]](ラピカ) : [[2005年]][[4月1日]]に導入された[[ICカード]]。[[定期乗車券|定期券]]、[[回数乗車券|回数券]]として利用できる。鹿児島市交通局ではICカードへのチャージのことを「積み増し」と呼んでおり、積み増し1,000円につき100円が自動的に合算される。なお、均一運賃で整理券を発行しない市電でも、システム上、乗車時と下車時にそれぞれICカードをタッチする必要がある。なお、ICカード利用時はバス乗車時の整理券取得(非均一運賃路線)と市電乗り換え時の乗換券の取得が不要になる。 : [[Suica]]や[[SUGOCA]]・[[nimoca]]など[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国交通系ICカード]]との互換性は2019年7月現在もない。今後検討すると2017年に発表<ref name="neage" />しているが、[[#ICカード乗車券の相互利用問題|後述]]の通り導入には厳しい状況が続いている。 ; RapiトレCa : [[2006年]]11月1日に販売が開始された鹿児島市交通局オリジナルの[[トレーディングカード]]。1枚でRapiCaに1,000円分の積み増しができる。2015年からはオリジナルデザインのRapiトレCaを作ることができるサービスも行っている。 == ICカード乗車券の相互利用問題 == [[ファイル:ICCard Connection.svg|thumb|right|249px|相互利用関係(クリックで拡大)]] 前節でも述べた通り、市電・市バスともに[[交通系ICカード全国相互利用サービス|相互利用に対応した交通系ICカード]]が使えず、それに気づかず使おうとしてしまう観光客も実際にいる(もちろん、使用できない旨の注意書きはある)。九州地方においては特に大きく立ち遅れている{{efn2|ここでは沖縄を除く。鹿児島以外の九州地方では長崎もこれに当てはまっていたが、従来の[[長崎スマートカード]]から2019年に長崎バス、さいかい交通の2社が[[エヌタスTカード]](nimocaにも2020年に片利用で対応)、2020年に長崎電気軌道や長崎県交通局など6社が[[nimoca]]に切り替えたため、鹿児島だけが取り残されいわゆる「孤立」状態となった。}}ばかりか、2018年9月には、[[桜島フェリー]]において交通系ICカードの利用が可能になったため<ref>{{PDFlink|[https://www.city.kagoshima.lg.jp/sakurajima-ferry/unchin/documents/925cashless.pdf 桜島フェリーでクレジットカード・電子マネーが使えるようになります]}}</ref>{{efn2|ただし、電子マネーでの支払いになるので、[[PiTaPa]]は利用不可。また、船内および桜島港精算所でのチャージにも対応していないので乗船する前にコンビニエンスストアなどで済ましておく必要がある。}}、さらに遅れをとっている状況である。近年ではこのことに対する[[ネガティブ・キャンペーン]]が根強く、市議会議員からは「鹿児島市として恥ずかしい部分」との発言があり<ref name=":0">{{Cite tweet|user=KYT_4chNEWS |number=1062673158690537472 |title=ないごて!?全国交通系ICカードが使えないの |date=2018-11-14 |accessdate=2018-12-12}}</ref>{{efn2|国や市にも対応を求める要望を出しているかはここでは明らかにされていない。}}、南日本新聞の報道本部長からも苦言を呈するコメントが出ている<ref>{{PDFlink|[https://373news.com/_kikaku/dokusya/pdf/181014.pdf 「第52回「読者と報道」委員会」『南日本新聞』2018年10月14日 21面]}}</ref>。 交通局側は、RapiCaの利用を生かしつつ、相互利用対応交通系ICカード(10カード)の片利用に対応する方向で検討を進めているが、現状数億円の赤字を出していることや、運用経費の問題なども重なっており、まったくもって議論が進んでいない状況である<ref name=":0" />。その一方、同じくRapiCaを導入している[[JR九州バス]]は(福岡での導入を挙げたうえで)、鹿児島市の対応次第では交通系ICカードに対応する趣旨の発言をしている<ref name=":0" />。 また逆に、10カードを導入する以上、RapiCaを運用し続ける意味はないとの声も上がっている<ref>{{PDFlink|[http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/23c944101568eabf2836e050fc90c0a4.pdf 第二次鹿児島市交通事業経営健全化計画(素案)に関するパブリックコメント手続の実施結果について]}} - 鹿児島市交通局</ref>。これは、RapiCaの利用枚数と鹿児島県の人口で計算した場合、実際には鹿児島県全体の1/5しか利用していないことや、[[宮崎県|宮崎]]や[[大分県|大分]]、[[北九州市|北九州]]で相互利用が対応された際、それぞれ独自のカード([[宮交バスカ]]・[[大分共通バスカード]]・[[北九州市交通局#ひまわりバスカード|ひまわりバスカード]])の運用を取りやめ、[[nimoca]]に切り替えているためである。 上記の問題が相次いでいる一方で、先に交通系ICカードの利用が可能になった桜島フェリーを皮切りに、交通局の一部営業所にて、RapiCa(定期券も含む)を交通系ICカードを使用して買うことができるなどの対応が2019年8月1日からスタートしている<ref>[http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/21867/ キャッシュレスシステム導入のお知らせ]</ref>(ただし、仮に片利用対応が行われた際の予定はまだ明らかになっていない)。 なお相互利用とは直接関係ないが、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と[[ソニーイメージングプロダクツ&ソリューションズ]]が開発中の、Suicaと各地域の交通系ICカードを1枚のカードにまとめられる2in1カード「地域連携ICカード」<ref>[https://japan.cnet.com/article/35126071/ Suicaと地域独自カードを一体に--JR東日本らが地域連携ICカードを開発] - 朝日インタラクティブ</ref>への協力と導入が鹿児島市議会「平成31年第1回定例会」で取り上げられたが、反対多数により不採択となった<ref>{{PDFlink|[http://www.city.kagoshima.lg.jp/gikai/giji/shigikai/kaigi/documents/hyouketutaido31-1.pdf 議案等に対する各会派等の表決態度(平成31年第1回定例会)]}}</ref><!-- 議題に取り上げられ(否決され)たのはJR東日本などの「地域連携ICカード」であり、他の同様の取り組みを混ぜない。-->。 その後、交通局ではRapiCaの機器類が老朽化したことに伴い将来の姿を検討し、[[クレジットカード]]の[[非接触型決済|タッチ決済]]の導入を目指す方向であることが明らかになった<ref>{{Cite news|和書|title=鹿児島市電 運賃支払いにクレカのタッチ決済 ICカードラピカの機器老朽化 12月から実証実験|newspaper=南日本新聞|date=2022-06-08|url=https://373news.com/_news/storyid/157399/|access-date=2022-10-07|publisher=南日本新聞社}}</ref>。2022年11月より[[Visaのタッチ決済]]、2023年4月より順次[[ジェーシービー|JCB]]、[[マスターカード|Mastercard]]、[[中国銀聯|銀聯]]、[[アメリカン・エキスプレス]]、[[ダイナースクラブ|ダイナース]]、[[ディスカバーカード|ディスカバー]]のタッチ決済の実証実験を始める予定である<ref>{{Cite web|和書|title=「市電運賃クレジットカードタッチ決済導入」実証実験 |url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/56941/ |website=鹿児島市交通局 |date=2022-10-01 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=鹿児島市電でタッチ決済乗車実験 Visa以外の6国際ブランドにも対応 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2210/06/news127.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2022-10-06 |language=ja}}</ref>。 == 市電・市バスゆ〜ゆ〜フェスタ == 2002年から「市電・市バスゆ〜ゆ〜フェスタ」を開催。交通局施設を一般に開放し、ペインティングバスの製作やトロッコ車の体験乗車、[[鉄道模型]]の展示会なども行われる。ただし、2005年は行われなかったほか、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の感染が拡大した2020年以降は実施されていない。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- ! 年 ! 実施日 ! 備考 |- | 2002年 | 8月18日<ref>『鹿児島市交通局移転記念誌 ありがとう高麗町』鹿児島市交通局、2015年、9頁</ref> | rowspan="11" | |- | 2003年 | 8月17日 |- | 2004年 | 8月8日 |- | 2006年 | 10月29日 |- | 2007年 | 10月28日 |- | 2008年 | 10月19日 |- | 2009年 | 11月29日 |- | 2010年 | 10月31日 |- | 2011年 | 10月30日 |- | 2012年 | 12月1日 |- | 2013年 | 10月20日 |- | 2014年 | 10月19日 | 〜ありがとう高麗町〜2014市電・市バスゆーゆーフェスタとして開催。<br />ここまで[[高麗町]]開催。 |- | 2015年 | 10月24日<ref>{{Cite web|和書|publisher=鹿児島市交通局|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/5315/|title=2015 ゆーゆーフェスタ 電車・バス車体広告デザインコンテストの結果発表||accessdate=2015-12-6}}</ref> | 祝!新施設オープン 2015市電・市バスゆーゆーフェスタとして開催。<br />ここから[[上荒田町]]開催。この回のみ各地の[[路面電車]]事業者のグッズ販売も行われた。 |- | 2016年 | 10月16日<ref>{{Cite web|和書|publisher=鹿児島市交通局|url=http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/topics/10369/|title=祝!移転1周年2016市電・市バスゆーゆーフェスタ開催について|鹿児島市交通局|人に環境にやさしい市電・市バス||accessdate=2015-12-6}}</ref> | 祝!移転1周年2016市電・市バスゆーゆーフェスタとして開催。 |- | 2017年 | 10月21日 | rowspan="3" | |- | 2018年 | 10月20日 |- | 2019年 | 10月19日 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『鉄道ピクトリアル No.852 2011年8月臨時増刊号<特集>路面電車』、電気車研究会、2011年 == 外部リンク == {{Commonscat|Kagoshima City Transportation Bureau}} * [http://www.kotsu-city-kagoshima.jp/ 鹿児島市交通局ホームページ] * {{YouTube|channel=UC8NZb0xWfOMNkLN6CsEYvjw|鹿児島市交通局公式チャンネルKagoshima City Transportation Bureau}} * [http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/tramcity.html 鹿児島の市電と街] * {{Facebook|kotsu.city.kagoshima}} {{日本の路面電車}} {{かごしま共通乗車カード}} {{SUNQPASS}} {{旅名人九州満喫きっぷ}} {{DEFAULTSORT:かこしましこうつうきよく}} [[Category:鹿児島市交通局|*]] [[Category:鹿児島県の地方公営企業]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:九州地方の乗合バス事業者]] [[Category:九州地方の貸切バス事業者]] [[Category:鹿児島市の交通]] [[Category:鹿児島市の企業]] [[Category:1928年設立の企業]]
2003-09-07T11:34:49Z
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鹿児島市電第一期線
第一期線(だいいっきせん)は、鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目の武之橋停留場から鹿児島市浜町の鹿児島駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局の軌道路線である。 運行系統上、谷山線及び第二期線・唐湊線と直通運転を行う。また、この路線も含めて鹿児島駅前 - 谷山間、すなわち現行の市電1系統の路線を谷山線(たにやません)と総称することがある。 高見馬場 - 鹿児島駅前間では、1系統と2系統が交互に運行されている。 括弧内は旧名。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第一期線(だいいっきせん)は、鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目の武之橋停留場から鹿児島市浜町の鹿児島駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局の軌道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "運行系統上、谷山線及び第二期線・唐湊線と直通運転を行う。また、この路線も含めて鹿児島駅前 - 谷山間、すなわち現行の市電1系統の路線を谷山線(たにやません)と総称することがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高見馬場 - 鹿児島駅前間では、1系統と2系統が交互に運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "括弧内は旧名。", "title": "停留場一覧" } ]
第一期線(だいいっきせん)は、鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目の武之橋停留場から鹿児島市浜町の鹿児島駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局の軌道路線である。 運行系統上、谷山線及び第二期線・唐湊線と直通運転を行う。また、この路線も含めて鹿児島駅前 - 谷山間、すなわち現行の市電1系統の路線を谷山線(たにやません)と総称することがある。
{{Infobox rail line | box_width = 300px; | other_name = | name = 第一期線 | image = Kagoshima-city Tram Bus.jpg | image_width = 300px | image_alt = 第一期線と天文館付近 | caption = 第一期線と[[天文館]]付近<br>(2022年1月 [[いづろ通停留場]]) | type = | status = | start = 起点:[[武之橋停留場]] | end = 終点:[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]] | stations = 11 | open = {{Start date|1914|07|03|df=y}} | lastextension = 1914年12月20日 | event1label = | event1 = | close = | owner = [[鹿児島市交通局]] | operator = | depot = | stock = [[鹿児島市交通局#車両]]を参照 | linelength_km = 3.0 | linelength = | gauge = {{RailGauge|1435mm|lk=on}} | minradius_m = | linenumber = | el = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = | maxincline = | map = | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{BS-header|停留場・施設・接続路線}} {{BS-table}} {{BS3|uKHSTa|||||[[谷山停留場]]|}} {{BS3|uHST|O1=uKHSTaq|uSTRq|uSTR+r|||[[郡元停留場]]|}} {{BS3|uSTR|O1=POINTERg@fq||uSTR|||[[鹿児島市電谷山線|谷山線]]|}} {{BS3|uSTR||uSTR|O3=POINTERg@fq|||[[鹿児島市電唐湊線|唐湊線]]・[[鹿児島市電第二期線|第二期線]]|}} {{BS3|uBHF||uSTR|0.0|[[武之橋停留場]]||}} {{BS3|uBHF||uSTR|0.5|[[新屋敷停留場]]||}} {{BS3|uBHF||uSTR|0.7|[[甲東中学校前停留場]]||}} {{BS3|ueBHF|uSTRc2|uSTR3|0.8|''山之口町''|-1943|}} {{BS3|uSTR|uSTR+1|uSTRc4|||[[鹿児島市電第二期線|第二期線]]|}} {{BS3|uSTRl|uKBHFeq|O2=uBHF||1.0|[[高見馬場停留場]]||}} {{BS|ueBHF|?|''日置裏門通停留場''|-1943|}} {{BS|uBHF|1.5|[[天文館通停留場]]||}} {{BS|uBHF|1.8|[[いづろ通停留場]]||}} {{BS|ueBHF|?|''金生町停留場''|-1943|}} {{BS|uSTR|||''[[鹿児島市電上町線|上町線]]''→<ref group="*">1945年戦災により休止<br />1948年廃止</ref>|}} {{BS3||uexKHSTaq|O2=uBHF|uexSTRq|2.1|[[朝日通停留場]]||}} {{BS|ueBHF|?|''市庁通停留場''|-?|}} {{BS3||uexKHSTaq|O2=uBHF|uexSTRq|2.4|[[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前停留場]]||}} {{BS|uSTR|||''上町線''→<ref group="*">1948 - 1985年</ref>|}} {{BS|uBHF|2.6|[[水族館口停留場]]||}} {{BS|uBHF|2.8|[[桜島桟橋通停留場]]||}} {{BS3|exSTR+4|uSTR|STR+1|||[[鹿児島本線]]|}} {{BS3|exSTR|ueBHF|STR|?|''和泉屋町停留場''|-1939?|}} {{BS3|exSTR|uKBHFe|STR|3.0|[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]]||}} {{BS3|exSTRl|exSTRq|eABZg+r|||''[[鹿児島港駅]]支線''|}} {{BS3|||BHF|||鹿児島駅|}} {{BS3|||STR|||[[日豊本線]]|}} {{BS-colspan}} <references group="*" /> |} |} '''第一期線'''(だいいっきせん)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[下荒田|下荒田一丁目]]の[[武之橋停留場]]から鹿児島市[[浜町 (鹿児島市)|浜町]]の[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]]までを結ぶ[[鹿児島市交通局]]の[[軌道法|軌道]]路線である。 運行系統上、[[鹿児島市電谷山線|谷山線]]及び[[鹿児島市電第二期線|第二期線]]・[[鹿児島市電唐湊線|唐湊線]]と[[直通運転]]を行う。また、この路線も含めて[[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - [[谷山停留場|谷山]]間、すなわち[[鹿児島市電1系統|現行の市電1系統]]の路線を'''谷山線'''(たにやません)と総称することがある。 == 路線データ == *路線距離([[営業キロ]]):3.0km *[[軌間]]:1435mm *停留場数:11(起終点含む) *複線区間:全線複線 *電化区間:全線電化([[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]) == 運行形態 == 高見馬場 - 鹿児島駅前間では、[[鹿児島市電1系統|1系統]]と[[鹿児島市電2系統|2系統]]が交互に運行されている。 *1系統(谷山 - 武之橋 - 鹿児島駅前) - 第一期線全区間を6分間隔で運行 *2系統(郡元 - 鹿児島中央駅前 - 鹿児島駅前) - 高見馬場 - 鹿児島駅前間を6分間隔で運行 == 歴史 == *[[1914年]](大正3年)[[7月3日]] - 鹿児島電気軌道が[[武之橋停留場|武之橋]] - 山之口馬場(廃止済)間を開業。 *1914年(大正3年)[[7月22日]] - 鹿児島電気軌道 山之口馬場 - [[天文館通停留場|天文館通]]間が開業。 *1914年(大正3年)[[10月3日]] - 鹿児島電気軌道 天文館通 - [[朝日通停留場|朝日通]]間が開業。 *1914年(大正3年)[[10月16日]] - 鹿児島電気軌道 朝日通 - 不断光院(現・[[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前]])間が開業。 *1914年(大正3年)[[12月20日]] - 鹿児島電気軌道 不断光院 - 停車場前(現・[[鹿児島駅|鹿児島駅前]])間が開業し全通。 *[[1928年]](昭和3年)[[7月1日]] - 鹿児島市電気局に移管。 *[[1933年]](昭和8年)[[1月]] - 鹿児島市交通課に改組。 *[[1952年]](昭和27年)[[10月]] - [[鹿児島市交通局]]に改組。 *[[1996年]](平成8年)[[11月6日]] - 県庁移転により県庁前停留場が県庁跡停留場へ改名。 *[[1997年]](平成9年)[[8月]] - 県庁跡停留場が水族館口停留場へ改名。 == 停留場一覧 == 括弧内は旧名。 *[[武之橋停留場]](←武之橋電鉄本社前←武之橋) *[[新屋敷停留場]] *[[甲東中学校前停留場]](←市立病院前 ←樋之口町) *[[高見馬場停留場]] *[[天文館通停留場]] *[[いづろ通停留場]] *[[朝日通停留場]] *[[市役所前停留場 (鹿児島県)|市役所前停留場]](←桟橋通←不断光院) *[[水族館口停留場]](←県庁跡←県庁前←高野山通) *[[桜島桟橋通停留場]](←滑川) *[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]](←停車場前) === 廃止された停車場 === *和泉屋町停留場(1921年以前開業、1939年以降廃止) *市庁通停留場(1921年名山堀駅として開業、1923年改称、廃止年月日不明) *金生町停留場(1932年野菜町通停留場として開業、1935年改称、1943年5月5日廃止) *日置裏門通停留場(開業年月日不明、1921年以前一時期廃止、1929年1月15日復活、1943年5月5日廃止) *山之口町停留場(1913年7月3日山之口馬場停留場として開業、1943年5月5日廃止) == 接続路線 == *武之橋停留場:[[鹿児島市電谷山線]] *高見馬場停留場:[[鹿児島市電第二期線]] *鹿児島駅前停留場:[[鹿児島本線]]・[[日豊本線]]([[鹿児島駅]]) === かつて存在した接続路線 === *市役所前停留場:[[鹿児島市電上町線]] == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] {{鹿児島市電の路線}} {{日本の路面電車}} {{デフォルトソート:かこしましてんたいいつきせん}} [[Category:九州地方の鉄道路線|たいいつきせん]] [[Category:鹿児島市交通局|路たいいつきせん]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:鹿児島県の交通]]
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鹿児島市電第二期線
第二期線(だいにきせん)は、鹿児島県鹿児島市西千石町の高見馬場停留場から鹿児島市中央町の鹿児島中央駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。 この路線も含め、鹿児島駅前 - 郡元間、すなわち現行の市電2系統の路線を唐湊線(とそせん)と総称することがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第二期線(だいにきせん)は、鹿児島県鹿児島市西千石町の高見馬場停留場から鹿児島市中央町の鹿児島中央駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "この路線も含め、鹿児島駅前 - 郡元間、すなわち現行の市電2系統の路線を唐湊線(とそせん)と総称することがある。", "title": null } ]
第二期線(だいにきせん)は、鹿児島県鹿児島市西千石町の高見馬場停留場から鹿児島市中央町の鹿児島中央駅前停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。 この路線も含め、鹿児島駅前 - 郡元間、すなわち現行の市電2系統の路線を唐湊線(とそせん)と総称することがある。
{{Infobox rail line | box_width = 300px; | other_name = | name = 第二期線 | image = Kagoshima Street Car Takamibaba Station 2004.JPG | image_width = 300px | image_alt = | caption = 高見馬場停留場(2004年7月27日) | type = | status = | start = 起点:[[高見馬場停留場]] | end = 終点:[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]] | stations = 4 | open = {{Start date|1915|12|17|df=y}} | event1label = | event1 = | close = | owner = [[鹿児島市交通局]] | operator = | depot = | stock = [[鹿児島市交通局#車両]]を参照 | linelength_km = 1.0 | linelength = | gauge = {{RailGauge|1435mm|lk=on}} | minradius_m = | linenumber = | el = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = | maxincline = | map = | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{BS-header|停留場・施設・接続路線}} {{BS-table}} {{BS|uKHSTa|||[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]]|}} {{BS|uSTR|||[[鹿児島市電第一期線|第一期線]]|}} {{BS3||uSTRl|uKBHFa|O3=uSTRq|0.0|[[高見馬場停留場]]||}} {{BS3|||uSTR|||←''[[鹿児島市電伊敷線|伊敷線]]''|}} {{BS3||uexSTRq|uexKHSTeq|O3=uBHF|0.3|[[加治屋町停留場]]||}} {{BS3|||uhKRZWae||||}} {{BS3|||uBHF|0.7|[[高見橋停留場]]||}} {{BS3||STR+4|uSTR|||[[鹿児島本線]]|}} {{BS3|KBHFeq|BHF|uBHF|1.0|[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]]||}} {{BS3||STR|uSTR|||←[[九州新幹線]]|}} {{BS3||STR|uSTR|O3=POINTERg@fq|||[[鹿児島市電唐湊線|唐湊線]]|}} {{BS3||ABZgr|uSTR|||鹿児島本線|}} {{BS3||STR|uHST|||[[郡元停留場]]|}} {{BS|STR|||[[指宿枕崎線]]|}} {{BS-colspan}} |} |} '''第二期線'''(だいにきせん)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[西千石町]]の[[高見馬場停留場]]から鹿児島市[[中央町 (鹿児島市)|中央町]]の[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]]までを結ぶ[[鹿児島市交通局]]([[鹿児島市電]])の[[軌道法|軌道]]路線である。 この路線も含め、[[鹿児島駅|鹿児島駅前]] - [[郡元停留場|郡元]]間、すなわち[[鹿児島市電2系統|現行の市電2系統]]の路線を'''唐湊線'''(とそせん)と総称することがある。 == 路線データ == *路線距離([[営業キロ]]):1.0&nbsp;km<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成29年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref> *[[軌間]]:1435mm *停留場数:4(起終点含む) *複線区間:全線複線 *電化区間:全線電化([[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]) == 運行形態 == *[[鹿児島市電2系統|2系統]](鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅前 - 郡元) - 第二期線全区間を6分間隔で運行 == 歴史 == *[[1915年]]([[大正]]4年)[[12月17日]] 鹿児島電気軌道が高見馬場 - 武駅前間を開業。 *[[1928年]]([[昭和]]3年) **[[7月1日]] - 鹿児島市電気局に移管。 **[[8月7日]] - 武駅前駅を西鹿児島駅前駅に改称。 *[[1933年]](昭和8年)[[1月26日]] - 鹿児島市交通課に改組。 *[[1944年]](昭和19年)[[10月24日]] - 鹿児島市交通部に改組。 *[[1952年]](昭和27年)[[10月1日]] - [[鹿児島市交通局]]に改組。 *[[2004年]]([[平成]]16年)[[3月13日]] - 西鹿児島駅前停留場を鹿児島中央駅前停留場に改称。 == 停留場一覧 == *[[高見馬場停留場]] *[[加治屋町停留場]] *[[高見橋停留場]] *[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]](←西鹿児島駅前←武駅前) == 接続路線 == *高見馬場停留場:[[鹿児島市電第一期線]] *鹿児島中央駅前停留場:[[鹿児島市電唐湊線]](直通)、[[九州新幹線]]・[[鹿児島本線]]・[[日豊本線]]<ref>正式には小倉駅 - 鹿児島駅間の路線だが列車は鹿児島中央駅に乗り入れる。</ref>・[[指宿枕崎線]]([[鹿児島中央駅]]) === かつて接続していた路線 === *加治屋町停留場:[[鹿児島市電伊敷線]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] {{鹿児島市電の路線}} {{日本の路面電車}} {{デフォルトソート:かこしましてんたいにきせん}} [[Category:九州地方の鉄道路線|たいにきせん]] [[Category:鹿児島市交通局|路たいにきせん]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:鹿児島県の交通]]
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鹿児島市電谷山線
谷山線(たにやません)は、鹿児島県鹿児島市高麗町の武之橋停留場から鹿児島市東谷山二丁目の谷山停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。一部の資料では、第一期線の全区間を含めて谷山線としていることもある。 沿線には、カーフェリー乗り場のある鴨池港や鴨池球場がある。南鹿児島駅前停留場あたりから谷山停留場まで指宿枕崎線と併走する。路線のうち涙橋停留場より谷山停留場の間は専用軌道区間となっている。 なお、市電系統としては、第一期線との直通運転を行っている。 鹿児島で最初に開通した電車の路線は鹿児島電気軌道谷山線であるが、この路線は法規上軽便鉄道として建設された。これは連結運転を考慮したためといわれている。開業時7両の電車(木製単車)が用意され、1913年以降に電動貨車が加わり手小荷物や鮮魚の運搬に使用された。また路線では1915年以降鴨池-谷山間が単線化され捻出した軌条や枕木などを新線建設に転用した。この区間が複線に復活したのは1949年であった。 開業時より武之橋 - 谷山間は全線専用軌道であったが1960年に武之橋附近の路線の東側に新道が建設され中央部に軌道を移設することになった。1959年度より軌道基面降下工事(道床を道路と同平面まで下げる)がすすめられていき、1963年11月に鴨池 - 郡元間も鴨池停留場付近の高架線が併用軌道となり、同停留場は二階建ての駅舎であったが解体された。1964年2月武之橋併用橋完成により新屋敷-郡元間が併用軌道となった。 括弧内は旧名。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "谷山線(たにやません)は、鹿児島県鹿児島市高麗町の武之橋停留場から鹿児島市東谷山二丁目の谷山停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。一部の資料では、第一期線の全区間を含めて谷山線としていることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "沿線には、カーフェリー乗り場のある鴨池港や鴨池球場がある。南鹿児島駅前停留場あたりから谷山停留場まで指宿枕崎線と併走する。路線のうち涙橋停留場より谷山停留場の間は専用軌道区間となっている。", "title": "沿線概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、市電系統としては、第一期線との直通運転を行っている。", "title": "沿線概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "鹿児島で最初に開通した電車の路線は鹿児島電気軌道谷山線であるが、この路線は法規上軽便鉄道として建設された。これは連結運転を考慮したためといわれている。開業時7両の電車(木製単車)が用意され、1913年以降に電動貨車が加わり手小荷物や鮮魚の運搬に使用された。また路線では1915年以降鴨池-谷山間が単線化され捻出した軌条や枕木などを新線建設に転用した。この区間が複線に復活したのは1949年であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "開業時より武之橋 - 谷山間は全線専用軌道であったが1960年に武之橋附近の路線の東側に新道が建設され中央部に軌道を移設することになった。1959年度より軌道基面降下工事(道床を道路と同平面まで下げる)がすすめられていき、1963年11月に鴨池 - 郡元間も鴨池停留場付近の高架線が併用軌道となり、同停留場は二階建ての駅舎であったが解体された。1964年2月武之橋併用橋完成により新屋敷-郡元間が併用軌道となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "括弧内は旧名。", "title": "停留場一覧" } ]
谷山線(たにやません)は、鹿児島県鹿児島市高麗町の武之橋停留場から鹿児島市東谷山二丁目の谷山停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。一部の資料では、第一期線の全区間を含めて谷山線としていることもある。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = 谷山線 |画像 = Kōrimoto (South) Station -April 2010 a.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 郡元停留場から谷山方面を望む |国 = {{JPN}} |所在地 = [[鹿児島市]] |路線網 = [[鹿児島市電]] |起点 = [[武之橋停留場]] |終点 = [[谷山停留場]] |停留所数 = 14箇所 |開業 = 1912年12月1日 |廃止 = |所有者 = [[鹿児島市交通局]] |運営者 = 鹿児島市交通局 |路線距離 = 6.4 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最高速度 = 60 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="datebook">[[#datebook|寺田裕一『データブック 日本の私鉄』(ネコ・パブリッシング、2002年) p.176]]</ref> <!--数値を変える場合は出典も変えてください。認可最高速度は必ずしも運用車両のスペックと同一とは限りません。速度計の実見はダメ。-->(涙橋 - 谷山間) |最小曲線半径 = 160 [[メートル|m]]<ref name="datebook"/> |最大勾配 = 35.0 [[パーミル|‰]]<ref name="datebook"/> |路線図 = }} {{BS-map |title=停留場・施設・接続路線 |title-bg=#eee |title-color=black |map= {{BS|uKHSTa|||[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]]|}} {{BS|uSTR|||[[鹿児島市電第一期線|第一期線]]|}} {{BS|uBHF|0.0|[[武之橋停留場]]||}} {{BS|uBHF|0.3|[[二中通停留場]]||}} {{BS|uBHF|0.7|[[荒田八幡停留場]]||}} {{BS|uBHF|1.2|[[騎射場停留場]]||}} {{BS|uBHF|1.7|[[鴨池停留場]]||}} {{BS|ueBHF|?|''海浜院道停留場''|-1918|}} {{BS|uSTR|||[[鹿児島市電唐湊線|唐湊線]]|}} {{BS3|uSTRq|uKBHFeq|O2=uBHF||2.0|[[郡元停留場]]||}} {{BS3|STR+r|uSTR||||[[指宿枕崎線]]|}} {{BS3|STR|uBHF||2.4|[[涙橋停留場]]||}} {{BS3|BHF|uBHF||2.9|[[南鹿児島駅|南鹿児島駅前停留場]]||}} {{BS3|STR|uBHF||3.6|[[二軒茶屋停留場]]||}} {{BS3|STR|uBHF||4.0|[[宇宿一丁目停留場]]||}} {{BS3|HST|uSTR||||[[宇宿駅]]|}} {{BS3|STR|uBHF||4.3|[[脇田停留場]]||}} {{BS3|STR|uBHF||4.9|[[笹貫停留場]]||}} {{BS3|STR|uBHF||5.7|[[上塩屋停留場]]||}} {{BS3|STR|ueDST||?|(名称不明)|-1948?|}} {{BS3|STR|uKBHFe||6.4|[[谷山停留場]]||}} {{BS3|HST|||||[[谷山駅 (鹿児島県)|谷山駅]]|}} }} '''谷山線'''(たにやません)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[高麗町]]の[[武之橋停留場]]から鹿児島市[[東谷山 (鹿児島市)|東谷山二丁目]]の[[谷山停留場]]までを結ぶ[[鹿児島市交通局]]([[鹿児島市電]])の[[軌道法|軌道]]路線である。一部の資料では、[[鹿児島市電第一期線|第一期線]]の全区間を含めて谷山線としていることもある。 == 沿線概要 == 沿線には、カーフェリー乗り場のある[[鹿児島港|鴨池港]]や[[鹿児島県立鴨池野球場|鴨池球場]]がある。[[南鹿児島駅|南鹿児島駅前停留場]]あたりから[[谷山停留場]]まで[[指宿枕崎線]]と併走する。路線のうち[[涙橋停留場]]より谷山停留場の間は[[専用軌道]]区間となっている。 なお、市電系統としては、[[鹿児島市電第一期線|第一期線]]との[[直通運転]]を行っている。 == 運行形態 == *[[鹿児島市電1系統|1系統]](鹿児島駅前 - 武之橋 - 谷山) - 谷山線全区間を6分間隔で運行 *[[鹿児島市電2系統|2系統]](鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅前 - 郡元) - 郡元停留場構内のみ == 歴史 == 鹿児島で最初に開通した電車の路線は鹿児島電気軌道谷山線であるが、この路線は法規上[[軽便鉄道法|軽便鉄道]]として建設された。これは連結運転を考慮したためといわれている<ref>『鹿児島の路面電車50年』26頁</ref>。開業時7両の電車(木製単車)が用意され、1913年以降に電動貨車が加わり手小荷物や鮮魚の運搬に使用された<ref>魚売り人に対しては乗車料半額、魚50[[斤]]まで5銭の優遇措置をとった。(1918年4月特別取り扱い廃止)『鹿児島の路面電車50年』162-163頁</ref>。また路線では1915年以降鴨池-谷山間が単線化され捻出した軌条や枕木などを新線建設に転用した。この区間が複線に復活したのは1949年であった。 開業時より武之橋 - 谷山間は全線専用軌道であったが1960年に武之橋附近の路線の東側に新道が建設され中央部に軌道を移設することになった。1959年度より軌道基面降下工事(道床を道路と同平面まで下げる)がすすめられていき、1963年11月に鴨池 - 郡元間も鴨池停留場付近の高架線が併用軌道となり、同停留場は二階建ての駅舎であったが解体された。1964年2月武之橋併用橋完成により新屋敷-郡元間が併用軌道となった<ref>『鹿児島市電が走る街今昔』122-123頁</ref>。 *[[1911年]]([[明治]]44年)[[8月3日]] - 軽便鉄道免許状下付(鹿児島<!--官報原文ママ(鹿児島駅ではない)-->-谷山間)<ref>[{{NDLDC|2951795/3}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年8月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *[[1912年]]([[大正]]元年)[[12月1日]] - 鹿児島電気軌道が武之橋 - 谷山間を開業<ref>[{{NDLDC|2952215/5}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1912年12月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 *[[1915年]](大正4年)[[9月15日]] - 単線変更申請が認可(二軒茶屋-谷山間)され着工<ref name="kagosima163" >『鹿児島の路面電車50年』163頁</ref>。 *[[1917年]](大正6年)[[5月16日]] - 単線変更申請認可(鴨池-二軒茶屋間)<ref name="kagosima163" />。 *[[1927年]]([[昭和]]2年)[[1月24日]] - 延長免許申請(谷山より慈眼寺まで約1100m)<ref name="kagosima164" >『鹿児島の路面電車50年』164頁</ref> *[[1928年]](昭和3年)[[7月1日]] - 鹿児島市電気局に移管<ref>5月25日譲渡許可[{{NDLDC|2956885/10}} 「鉄道譲渡」『官報』1928年5月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *1928年(昭和3年)[[12月28日]] - 軽便鉄道から軌道へ変更認可<ref name="kagosima164" /><ref>書類上では1928年12月28日軽便鉄道廃止、1929年1月17日軌道開業としている[{{NDLDC|1022010/8}} 免許失効][{{NDLDC|1022010/95}} 特許、開業]『鉄道統計資料. 昭和3年 第3編 監督』(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> *[[1933年]](昭和8年)[[1月26日]] - 鹿児島市交通課に改組 *[[1944年]](昭和19年)[[10月24日]] - 鹿児島市交通部に改組。 *[[1949年]](昭和24年)[[10月24日]] - 二中通停留場が交通部前停留場に改称。 *[[1952年]](昭和27年)[[10月1日]] - [[鹿児島市交通局]]に改組。交通部前停留場が交通局前停留場に改称。 *[[1945年]](昭和20年)[[6月17日]] - 空襲により運休。29日再開<ref name="kagosima165" >『鹿児島の路面電車50年』165頁</ref>。 *[[1947年]](昭和22年)[[12月20日]] - 複線化工事竣工運行認可(鴨池-二軒茶屋間)<ref name="kagosima165" />。 *[[1948年]](昭和23年)[[2月3日]] - 複線化工事竣工運行認可(二軒茶屋-脇田間)<ref name="kagosima165" />。 *[[1949年]](昭和24年)[[12月29日]] - 複線化工事竣工(脇田-谷山間)谷山線全線複線が復活<ref name="kagosima166" >『鹿児島の路面電車50年』166頁</ref>。 *[[1956年]](昭和31年)[[10月1日]] - 競馬場前停留場が南港入口停留場に改称。 *[[1959年]](昭和34年)[[10月1日]] - 郡元停留場が新川停留場に改称。 *[[1967年]](昭和42年)[[1月1日]] - 新川停留場が涙橋停留場に、南港入口停留場が南鹿児島駅前停留場に改称。 *[[1960年]](昭和35年)[[2月28日]] - 軌道移設(下り武之橋-荒田八幡間)<ref name="kagosima167" >『鹿児島の路面電車50年』167頁</ref>。 *1960年(昭和35年)[[3月1日]] - 軌道移設(上り武之橋-荒田八幡間)<ref name="kagosima167" />。 *[[2015年]]([[平成]]27年)[[5月1日]] - 交通局前停留場が二中通停留場に改称。 *[[2019年]]([[令和]]元年)[[7月3日]] - 大雨の影響で南鹿児島駅付近で崖崩れが発生し、郡元 - 谷山間が運休となる(翌4日の17時より運転再開)。 == 停留場一覧 == 括弧内は旧名。 *[[武之橋停留場]] *[[二中通停留場]](←交通局前←交通部前←二中通) *[[荒田八幡停留場]] *[[騎射場停留場]] *[[鴨池停留場]] *[[郡元停留場]] *[[涙橋停留場]](←新川←郡元) *[[南鹿児島駅|南鹿児島駅前停留場]](←南港入口←競馬場前←牛懸) *[[二軒茶屋停留場]] *[[宇宿一丁目停留場]] *[[脇田停留場]] *[[笹貫停留場]] *[[上塩屋停留場]] *[[谷山停留場]] === かつて存在した停留場 === *海浜院通停留場(1912年12月1日開業、1918年1月13日廃止) *笹貫停留場は官報<ref>[{{NDLDC|2953753/6}} 「軽便鉄道停車場及停留場廃止」『官報』1918年1月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>によれば海浜院道停留場と同日に廃止されており、昭和2年版の鉄道停車場一覧<ref>[{{NDLDC|1025500/234}} 鉄道省編集『鉄道停車場一覧』昭和2年版](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>によるとその後1920年2月9日に復活している。 == 接続路線 == *武之橋停留場:[[鹿児島市電第一期線]](直通) *郡元停留場:[[鹿児島市電唐湊線]] *南鹿児島駅前停留場:[[指宿枕崎線]]([[南鹿児島駅]]) == 脚注および参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} * {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }} *鹿児島市交通局『鹿児島の路面電車50年』、1978年 *水元景文『鹿児島市電が走る街今昔』JTBパブリッシング、2007年 == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] {{鹿児島市電の路線}} {{日本の路面電車}} {{DEFAULTSORT:かこしましてんたにやません}} [[Category:九州地方の鉄道路線|たにやません]] [[Category:鹿児島市交通局|路たにやません]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:鹿児島県の交通]]
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戦闘機
戦闘機(せんとうき、英: fighter aircraft, あるいは単にfighter、独: Jagdflugzeug,略称としてJäger)は、敵対する航空機との空対空戦闘を主任務とする軍用機。現在では空対空戦闘にとどまらず、場合によっては対地攻撃や対艦攻撃、爆撃などの任務を行う場合もある。なお、地上や洋上の目標の攻撃を主任務とするのが攻撃機である。 フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことで思想が生まれ、ドイツによるフォッカー アインデッカーの量産によって、固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場した。時代が進むにつれて技術の発達、戦訓により戦闘機の任務は多様化し、技術的、思想的にも違いが生まれていった。また、高い運動性を持つため、特殊飛行の公演にも利用される。 世界で最も生産された戦闘機はドイツのBf109の約35,000機。ジェット機最多はソビエト連邦のMiG-15の約15,000機(超音速機ではMiG-21の約10,000機)。日本最多生産機は零式艦上戦闘機の約10,000機。 英語では「Fighter」だが、1948年以前のアメリカ陸軍航空軍では「pursuit aircraft (追撃機)」と呼ばれていた。戦闘機の命名方法については軍用機の命名規則を参照。また、兵器を搭載できる航空機全般を指して戦闘機と呼ぶ場合がある が、その意味での戦闘機は軍用機を参照。 第二次世界大戦で夜間戦闘機が登場し、それ以外を昼間戦闘機と区別することもあったが、レーダー計器の発達で全天候戦闘機が登場して定着し、それらの名前も廃れていった。 他の軍用航空機の多くがセミモノコック構造で胴体部が構成され中央翼構造を備えているのに対して、ほとんどの戦闘機は剛性の高い削出/溶接フレーム構造で構成され、外板は内部保護と空力特性向上を担う要素が大きい。一般に1-4名程度の乗務員は狭い操縦室に着座したまま飛行する。 与圧の有無は任務によるが、ジェット戦闘機の場合は破裂を避けるため被弾に備えて与圧をせず、パイロットは酸素マスクを着用する。 戦闘機誕生以来、対空戦闘のための兵装は機関銃・機関砲と相場が決まっていた。第一次世界大戦時には、対気球・飛行船用としてロケット弾を装備した例もある。第二次世界大戦時に再びロケット弾装備が復活し1960年代頃まで使われたが、誘導装置のついたロケット弾、すなわちミサイルに取って代わられる事になる。現代でもロケット弾ポッドを搭載可能な戦闘機は多いが、専ら対地攻撃用である。 「飛行機の歴史」「戦闘機一覧」も参照。 戦争初期、航空機は戦闘力を持たず敵地偵察に使われただけであった。最初期は、お互いに攻撃手段を持たず、敵偵察機に対し、そのまますれ違ったり、お互い手を振って挨拶していることもあった。しかし、航空偵察の効果が上がり始めると、敵偵察機の行動は妨害する必要性が出てきた。最初は持ち合わせていた工具を投げつけたのが始まりとされている。やがて煉瓦や石を投げ合い始め、拳銃や猟銃を使い始めた。操縦士は操縦桿から長時間手を離せないため、火力不足であるが片手で使え狭い操縦席でも取り回しやすい拳銃が多く使われた。また多少高価であってもモンドラゴンM1908のような半自動小銃を採用した例もある。 戦闘機誕生のきっかけは、フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことに始まる。4月1日ドイツのアルバトロス製の航空機が初めて撃墜され、その後半月で4機撃墜し初のエースパイロットが誕生する。当初のエースパイロットの条件は10機以上撃墜であったが、士気高揚のため5機以上撃墜に改められた。 日本では1914年10月、日独戦争下の青島の戦いで日本陸軍の(日本陸海軍初の)実戦飛行部隊たる臨時航空隊が日本初の空中戦を経験する。機関銃を積んだドイツ軍機ルンプラー・タウベが上空を飛び回るため、日本のモーリス・ファルマン機は偵察任務を行えず、そのため臨時航空隊長有川鷹一陸軍工兵中佐がニューポールNG機に地上用機関銃を積んで偵察機の味方を支援、敵を妨害するという、戦闘機的な空中戦が行われた。 1915年6月ドイツがフォッカー アインデッカーを量産し、プロペラ内固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場し、この駆逐機(戦闘機)の独立出現を各国が見習うことになる。 本格的な空中戦闘はこの機体から始まり、それまで単一機で行われていた飛行機作戦から任務が細分化され、偵察→爆撃→空戦と発展して行く過程で専用機種が生まれた。この時代の戦闘機の構造は木製帆布張りが主体であった。エンジンは水冷式と、シリンダーを放射状に配置し、エンジン全体をプロペラと一緒に回転させて冷却する回転式(ロータリー式)の2種類があり、出力は200馬力程度であった。主翼は単葉(主翼が1枚)から三葉(同じく3枚)まで種種とりどりであったが、複葉(同じく2枚)が最も多かった。その後、プロペラ同調装置の発明により機首から機銃を射撃できるようになり、以降戦闘機は機首部に同調装置付きの機銃を装備するという形態が標準となった。 1915年後半になると戦闘機、爆撃機という専用機種が現れた。1916年には戦場上空での制空獲得思想が生まれる。ドイツは戦場制空のため、空中阻塞、駆逐戦法という数層に配置した防御的阻塞幕を構成する方法をとり、戦闘機の発達とともに敵機撃墜、航空優勢を獲得する戦法に発展し、空中アクロバット戦が展開されていった。しかし、航続距離が短かったため、侵攻して攻撃する戦法は未熟だった。 レシプロ戦闘機の形体が完成していくのと並行して、空冷式エンジンは、素材や設計の進歩により冷却効率が向上したこと、ならびに高回転化に伴って重いエンジン自体を振り回すデメリットが目立ってきたことから星型エンジンに変わっていった。水冷式エンジンも改良が進み、両方とも1000馬力程度までパワーアップした。主翼はしばらく複葉機の全盛時代が続いたが、第二次大戦の開戦前には、少数の複葉機(イタリアのCR.42やソ連のI-15bisなど)を除き主翼は単葉になった。また同時期に主脚も固定式から引き込み式になり、飛行時には主翼内や胴体内に格納されることで空気抵抗の低減が図られるようになった。機体構造も木製帆布張りから、鉄骨帆布張りへと移行、更に全金属モノコックへと変わっていった。 第一次世界大戦における戦闘機は格闘戦的技術尊重が伝統となり撃墜数を競ったが、飛行機、武器の性能向上と数の増大で新しい傾向が生まれていった。編隊空中戦闘の思想が現れ、空戦では各個で行動するが、有利な態勢で空戦を開始するための全体大勢の指導や、終末後の集結帰還の指導が重視された。また、後方視界を持ち武装強化された複座戦闘機が現れ、対戦闘機以外の要地防衛、援護、地上攻撃など多様な戦闘機が現れ始めた。各国ともに国を挙げて戦闘機の改良と増産に励み、大半の戦闘機が全金属製・単葉・単座・単発となったが、例外もまだ多かった。 1921年10月9日、設計自体はイギリスの招聘技師によるものであるが日本でも初の国産戦闘機である一〇式艦上戦闘機が完成した。 1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたドゥーエ(イタリア)の「制空」が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ。ドゥーエやミッチェルに代表される制空獲得、政戦略的要地攻撃重視するために戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、列強国は分科比率で爆撃機を重視するようになった。日本陸軍でも1928年3月20日統帥綱領制定で航空は攻勢用法に徹底して地上作戦協力を重視し、戦場空中防空、制空獲得の姿は消えてしまった。そういった動きから爆撃機(攻撃機)の発達で爆撃を戦略上重視し、戦闘機を軽視する戦闘機無用論が台頭する。日本では1936年前後に陸海軍で広く支持され、攻撃機を重視して戦闘機を無用視する主張や戦闘機に急降下爆撃をさせることで攻撃側にも使うという主張があったが、支那事変で戦闘機の価値が認識された。ドイツでも支持されたが、1940年バトル・オブ・ブリテンによって戦闘機の価値を認識した。アメリカでも支持され、1944年にはドイツ奥地への爆撃が中止される甚大な被害を受けて、戦闘機の必要性を認識した。 1937年9月日本海軍の源田実は支那事変で、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させ、制空権を獲得する「制空隊」を初めとする攻撃的、主体的な戦闘機の戦術を考案した。従来の攻撃機主体の戦術思想を一変させた戦闘機中心の画期的な新戦法であり、戦闘機の新たな価値が認識された。これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった。 1938年ドイツ空軍ヴェルナー・メルダースはスペイン内戦で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「ロッテ戦術」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった。 第二次世界大戦初期までは格闘戦が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた。 日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う特攻戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長黒島亀人は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している。1944年10月20日大西瀧治郎中将によって編成された最初の神風特別攻撃隊の機体として零式艦上戦闘機が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。 第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が音速(1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。 1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケルHe178である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。 ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、朝鮮戦争からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。 ソ連の支援を受けた中国人民志願軍はいち早く後退翼のMiG-15を投入した。当時国連軍の主力となったのはF-80 シューティングスターやグロスター ミーティアなどの直線翼戦闘機であり、設計思想ではMiG-15の方が先進的であった。その後、これに対抗してアメリカ軍を中心とする連合軍も後退翼のF-86 セイバーなどを投入した。性能的にはMiG-15とF-86は一長一短であり、上昇力や格闘性能ではMiG-15が勝ったが、レーダーや照準器などの儀装面ではF-86の方が優秀であった。結果としては米空軍パイロットの技量の高さもあって、この後退翼戦闘機同士の戦いではアメリカの圧勝であった。 音速に達する前のジェット戦闘機は「第1世代」と区別される。 各時代区分ごとにその国である程度多数 が生産されたものや、主力や主力候補として開発されたものを、各時代5機以内を目安として以下にあげる。 ドイツ帝国 フランス イギリス アメリカ合衆国 ドイツ国 フランス イギリス 大日本帝国 ソビエト連邦 アメリカ合衆国 ドイツ国 イギリス 大日本帝国 ソビエト連邦 ドイツ国 アメリカ合衆国 イギリス アメリカ合衆国 イギリス ソビエト連邦 中国 アメリカ合衆国 ソビエト連邦 フランス イスラエル 南アフリカ共和国 中国 アメリカ合衆国 イギリス フランス スウェーデン 中国 アメリカ合衆国 ソビエト連邦 イギリス/ ドイツ/ イタリア フランス 中国 中国/ パキスタン インド 台湾 韓国 アメリカ合衆国 ロシア イギリス/ ドイツ/ スペイン/ イタリア フランス スウェーデン 中国 中国/ パキスタン アメリカ合衆国 ロシア 中国
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"戦争初期、航空機は戦闘力を持たず敵地偵察に使われただけであった。最初期は、お互いに攻撃手段を持たず、敵偵察機に対し、そのまますれ違ったり、お互い手を振って挨拶していることもあった。しかし、航空偵察の効果が上がり始めると、敵偵察機の行動は妨害する必要性が出てきた。最初は持ち合わせていた工具を投げつけたのが始まりとされている。やがて煉瓦や石を投げ合い始め、拳銃や猟銃を使い始めた。操縦士は操縦桿から長時間手を離せないため、火力不足であるが片手で使え狭い操縦席でも取り回しやすい拳銃が多く使われた。また多少高価であってもモンドラゴンM1908のような半自動小銃を採用した例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "戦闘機誕生のきっかけは、フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことに始まる。4月1日ドイツのアルバトロス製の航空機が初めて撃墜され、その後半月で4機撃墜し初のエースパイロットが誕生する。当初のエースパイロットの条件は10機以上撃墜であったが、士気高揚のため5機以上撃墜に改められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本では1914年10月、日独戦争下の青島の戦いで日本陸軍の(日本陸海軍初の)実戦飛行部隊たる臨時航空隊が日本初の空中戦を経験する。機関銃を積んだドイツ軍機ルンプラー・タウベが上空を飛び回るため、日本のモーリス・ファルマン機は偵察任務を行えず、そのため臨時航空隊長有川鷹一陸軍工兵中佐がニューポールNG機に地上用機関銃を積んで偵察機の味方を支援、敵を妨害するという、戦闘機的な空中戦が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1915年6月ドイツがフォッカー アインデッカーを量産し、プロペラ内固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場し、この駆逐機(戦闘機)の独立出現を各国が見習うことになる。 本格的な空中戦闘はこの機体から始まり、それまで単一機で行われていた飛行機作戦から任務が細分化され、偵察→爆撃→空戦と発展して行く過程で専用機種が生まれた。この時代の戦闘機の構造は木製帆布張りが主体であった。エンジンは水冷式と、シリンダーを放射状に配置し、エンジン全体をプロペラと一緒に回転させて冷却する回転式(ロータリー式)の2種類があり、出力は200馬力程度であった。主翼は単葉(主翼が1枚)から三葉(同じく3枚)まで種種とりどりであったが、複葉(同じく2枚)が最も多かった。その後、プロペラ同調装置の発明により機首から機銃を射撃できるようになり、以降戦闘機は機首部に同調装置付きの機銃を装備するという形態が標準となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1915年後半になると戦闘機、爆撃機という専用機種が現れた。1916年には戦場上空での制空獲得思想が生まれる。ドイツは戦場制空のため、空中阻塞、駆逐戦法という数層に配置した防御的阻塞幕を構成する方法をとり、戦闘機の発達とともに敵機撃墜、航空優勢を獲得する戦法に発展し、空中アクロバット戦が展開されていった。しかし、航続距離が短かったため、侵攻して攻撃する戦法は未熟だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "レシプロ戦闘機の形体が完成していくのと並行して、空冷式エンジンは、素材や設計の進歩により冷却効率が向上したこと、ならびに高回転化に伴って重いエンジン自体を振り回すデメリットが目立ってきたことから星型エンジンに変わっていった。水冷式エンジンも改良が進み、両方とも1000馬力程度までパワーアップした。主翼はしばらく複葉機の全盛時代が続いたが、第二次大戦の開戦前には、少数の複葉機(イタリアのCR.42やソ連のI-15bisなど)を除き主翼は単葉になった。また同時期に主脚も固定式から引き込み式になり、飛行時には主翼内や胴体内に格納されることで空気抵抗の低減が図られるようになった。機体構造も木製帆布張りから、鉄骨帆布張りへと移行、更に全金属モノコックへと変わっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦における戦闘機は格闘戦的技術尊重が伝統となり撃墜数を競ったが、飛行機、武器の性能向上と数の増大で新しい傾向が生まれていった。編隊空中戦闘の思想が現れ、空戦では各個で行動するが、有利な態勢で空戦を開始するための全体大勢の指導や、終末後の集結帰還の指導が重視された。また、後方視界を持ち武装強化された複座戦闘機が現れ、対戦闘機以外の要地防衛、援護、地上攻撃など多様な戦闘機が現れ始めた。各国ともに国を挙げて戦闘機の改良と増産に励み、大半の戦闘機が全金属製・単葉・単座・単発となったが、例外もまだ多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1921年10月9日、設計自体はイギリスの招聘技師によるものであるが日本でも初の国産戦闘機である一〇式艦上戦闘機が完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたドゥーエ(イタリア)の「制空」が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ。ドゥーエやミッチェルに代表される制空獲得、政戦略的要地攻撃重視するために戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、列強国は分科比率で爆撃機を重視するようになった。日本陸軍でも1928年3月20日統帥綱領制定で航空は攻勢用法に徹底して地上作戦協力を重視し、戦場空中防空、制空獲得の姿は消えてしまった。そういった動きから爆撃機(攻撃機)の発達で爆撃を戦略上重視し、戦闘機を軽視する戦闘機無用論が台頭する。日本では1936年前後に陸海軍で広く支持され、攻撃機を重視して戦闘機を無用視する主張や戦闘機に急降下爆撃をさせることで攻撃側にも使うという主張があったが、支那事変で戦闘機の価値が認識された。ドイツでも支持されたが、1940年バトル・オブ・ブリテンによって戦闘機の価値を認識した。アメリカでも支持され、1944年にはドイツ奥地への爆撃が中止される甚大な被害を受けて、戦闘機の必要性を認識した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1937年9月日本海軍の源田実は支那事変で、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させ、制空権を獲得する「制空隊」を初めとする攻撃的、主体的な戦闘機の戦術を考案した。従来の攻撃機主体の戦術思想を一変させた戦闘機中心の画期的な新戦法であり、戦闘機の新たな価値が認識された。これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1938年ドイツ空軍ヴェルナー・メルダースはスペイン内戦で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「ロッテ戦術」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦初期までは格闘戦が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う特攻戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長黒島亀人は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している。1944年10月20日大西瀧治郎中将によって編成された最初の神風特別攻撃隊の機体として零式艦上戦闘機が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が音速(1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケルHe178である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、朝鮮戦争からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ソ連の支援を受けた中国人民志願軍はいち早く後退翼のMiG-15を投入した。当時国連軍の主力となったのはF-80 シューティングスターやグロスター ミーティアなどの直線翼戦闘機であり、設計思想ではMiG-15の方が先進的であった。その後、これに対抗してアメリカ軍を中心とする連合軍も後退翼のF-86 セイバーなどを投入した。性能的にはMiG-15とF-86は一長一短であり、上昇力や格闘性能ではMiG-15が勝ったが、レーダーや照準器などの儀装面ではF-86の方が優秀であった。結果としては米空軍パイロットの技量の高さもあって、この後退翼戦闘機同士の戦いではアメリカの圧勝であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "音速に達する前のジェット戦闘機は「第1世代」と区別される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "各時代区分ごとにその国である程度多数 が生産されたものや、主力や主力候補として開発されたものを、各時代5機以内を目安として以下にあげる。", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ドイツ帝国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "フランス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イギリス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ドイツ国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "フランス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イギリス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大日本帝国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ドイツ国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イギリス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大日本帝国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ドイツ国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "イギリス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イギリス", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "中国", "title": "主な戦闘機" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": 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戦闘機は、敵対する航空機との空対空戦闘を主任務とする軍用機。現在では空対空戦闘にとどまらず、場合によっては対地攻撃や対艦攻撃、爆撃などの任務を行う場合もある。なお、地上や洋上の目標の攻撃を主任務とするのが攻撃機である。 フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことで思想が生まれ、ドイツによるフォッカー アインデッカーの量産によって、固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場した。時代が進むにつれて技術の発達、戦訓により戦闘機の任務は多様化し、技術的、思想的にも違いが生まれていった。また、高い運動性を持つため、特殊飛行の公演にも利用される。 世界で最も生産された戦闘機はドイツのBf109の約35,000機。ジェット機最多はソビエト連邦のMiG-15の約15,000機(超音速機ではMiG-21の約10,000機)。日本最多生産機は零式艦上戦闘機の約10,000機。 英語では「Fighter」だが、1948年以前のアメリカ陸軍航空軍では「pursuit aircraft (追撃機)」と呼ばれていた。戦闘機の命名方法については軍用機の命名規則を参照。また、兵器を搭載できる航空機全般を指して戦闘機と呼ぶ場合がある が、その意味での戦闘機は軍用機を参照。
{{Multiple image|direction=vertical|width=300 |image1= F-16C Polska 5594.jpg |caption1= [[ポーランド空軍]]の[[F-16 (戦闘機)|F-16C]] |image2= NavalAviationRefueling2018-01.jpg |caption2= ロシア海軍航空隊の[[Su-30 (航空機)|Su-30SM]] }} '''戦闘機'''(せんとうき、{{lang-en-short|fighter aircraft}}, あるいは単にfighter、{{lang-de-short|Jagdflugzeug}},略称としてJäger)は、敵対する[[航空機]]との[[航空戦|空対空戦闘]]を主任務とする[[軍用機]]。 [[フランス空軍]]の[[ローラン・ギャロス]]が1915年に[[モラーヌ・ソルニエ L]]の中心線に固定銃を装備したことで思想が生まれ、[[ドイツ帝国|ドイツ]]による[[フォッカー アインデッカー]]の量産によって、固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場した<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社46頁">河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社46頁</ref>。時代が進むにつれて技術の発達、戦訓により戦闘機の任務は多様化し、技術的、思想的にも違いが生まれていった。また、高い運動性を持つため、特殊飛行の公演にも利用される。 現在の戦闘機には、従来は[[攻撃機]]が担っていた対地攻撃・対艦攻撃・[[爆撃]]をこなせる機種も多い([[マルチロール機]])<ref>[[青木謙知]]『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』[[イカロス出版]]12頁</ref>。 世界で最も生産された戦闘機はドイツの[[メッサーシュミット Bf109|Bf109]]の約35,000機。[[ジェット機]]最多は[[ソビエト連邦]]の[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]の約15,000機([[超音速機]]では[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]の約10,000機)。[[日本]]最多生産機は[[零式艦上戦闘機]]の約10,000機<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社38頁</ref>。 英語では「Fighter」だが、1948年以前の[[アメリカ陸軍航空軍]]では「pursuit aircraft (追撃機)」と呼ばれていた<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社14頁</ref>。また、兵器を搭載できる航空機全般を指して戦闘機と呼ぶ場合がある<ref>青木謙知『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』イカロス出版12頁</ref> が、その意味での戦闘機は[[軍用機]]を参照。 戦闘機の命名方法については[[軍用機の命名規則]]を参照。 == 種類分類 == === 外形区別 === ; 単発機 : 搭載エンジンが1つのもの。そのため、[[プロペラ機|レシプロ機]]は[[プロペラ]]が1組、ジェット機はノズルが1つとなる<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁">河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁</ref>。 ; 双発機 : 搭載エンジンが2つのもの。そのため、レシプロ機はプロペラが2組、ジェット機はノズルが2つとなる<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。ただし、レシプロ機については[[景雲 (航空機)|景雲]]のようにエンジンは双発でありながらプロペラが1組という例や、[[2重反転プロペラ]]を1基のエンジンで駆動する例(すなわちエンジン1つに対してプロペラ2組)も存在する。 === 任務区別 === ; [[制空戦闘機]] : 空戦によって戦闘空域を制圧する任務。格闘性能を重要とする<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。[[F-22 (戦闘機)|F-22]]は制空戦闘機よりさらに強調された[[航空支配戦闘機]]と呼ばれ、航空脅威だけでなく地上脅威にも支配力を及ぼす戦闘機<ref name="ReferenceA">青木謙知『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』11頁</ref>。 ; [[要撃機]](迎撃戦闘機、要撃戦闘機、局地戦闘機、防空戦闘機) : 基地や艦隊の上空の防御を担当する。上昇力、速度を必要とする。地上警戒システムとのリンクも重要<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。制空戦闘機との区別がなくなり投入任務によって呼び名が変わる<ref name="ReferenceA"/>。 ; 護衛戦闘機 : 爆撃機の護衛任務<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。 ; [[戦闘爆撃機]]、戦闘攻撃機、長距離侵攻戦闘機、([[支援戦闘機]]) : 爆弾などを搭載し対地攻撃を行う。武装搭載量が多い<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。戦闘機用の兵装と攻撃機用の兵装の双方を搭載できまた状況に応じて戦闘機としても攻撃機としても活動できるのが戦闘攻撃機。戦闘機に爆弾などを搭載することはできるが、対地攻撃用システムを積んでいないものは、精度は低いものになるので戦闘攻撃機とは言わない(爆装)。戦闘機としても攻撃機としても能力を兼ね備えた多用途機である。戦闘機と爆撃機の能力を兼ね備えた機体が戦闘爆撃機。攻撃機の搭載量が高まった面から見れば戦闘爆撃機と戦闘攻撃機は同じものとなった<ref name="ReferenceB">青木謙知『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』12頁</ref>。 [[支援戦闘機]]は、航空自衛隊での[[攻撃機]]の名称で、任務は対艦攻撃、対地攻撃、近接航空支援と広く、状況に応じて航空脅威の対処にも使用される<ref name="ReferenceC">青木謙知『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』イカロス出版13頁</ref>。 ; 多任務戦闘機([[マルチロール機]]、マルチロールファイター) : 1機種で任務に応じて搭載兵装や装備品を変更することで制空戦闘、各種攻撃任務、偵察などの任務に投入できる戦闘機<ref name="ReferenceC"/>。 === 性能による分類 === :(明確な区分はなく、相対的な区別である<ref>碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫240-247頁</ref>。) ; 軽戦闘機 : 比較的格闘性能が高い。格闘戦が得意<ref name="碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫240-243頁">碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫240-243頁</ref>。運動性が主で敵との空戦が主目的<ref name="戦史叢書95海軍航空概史128頁">戦史叢書95海軍航空概史128頁</ref>。 ; 重戦闘機 : 比較的速度が高い。一撃離脱が得意<ref name="碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫240-243頁"/>。速力、上昇力が主で敵爆撃機などの要撃が主任務<ref name="戦史叢書95海軍航空概史128頁"/>。 === 運用する場所による分類 === ;[[陸上戦闘機]] : 陸上基地で運用する戦闘機。 ; [[水上戦闘機]] : 水上を離着陸する戦闘機。 ; [[艦上戦闘機]] : [[航空母艦|空母]]に搭載する戦闘機。 === ジェット戦闘機の分類 === [[ファイル:WFighter his.png|thumb|400px|世界の戦闘機の図形式年表。]] ; [[第1世代ジェット戦闘機|第1世代]] : [[亜音速]]のジェット戦闘機。[[朝鮮戦争]]で初のジェット機同士の空戦を経験した<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁">河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁</ref>。 ; [[第2世代ジェット戦闘機|第2世代]](1950年代) : [[超音速]]のジェット戦闘機<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。 ; [[第3世代ジェット戦闘機|第3世代]](1960年代) : ミサイル装備を重視して格闘性能を軽視した機銃を持たないジェット戦闘機。ベトナム戦争の空戦で接近戦が頻発し、格闘性能や機銃の大切さを知り誤りに気づくことになった<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。 ; [[第4世代ジェット戦闘機|第4世代]](1970年代) : 東西で作られた格闘性能を重視したジェット戦闘機。大推進力で機敏な機動飛行が可能になった<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。 ; [[第4世代ジェット戦闘機#第4.5世代ジェット戦闘機|第4.5世代]] : 高い機動力を持ち攻撃任務を行うジェット戦闘機<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。 ; [[第5世代ジェット戦闘機|第5世代]] : [[ステルス性]]を持つ先制攻撃を目的にしたジェット戦闘機<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。 ; [[第6世代ジェット戦闘機|第6世代]] : 2020年代後半以降に実用化されると目されている次世代のジェット戦闘機。各国が様々なコンセプトを提唱しているが、2021年現在では国際的に一致した見解は存在しない。 === 使用する天候による分類 === 第二次世界大戦で[[夜間戦闘機]]が登場し、それ以外を昼間戦闘機と区別することもあったが、レーダー計器の発達で全天候戦闘機が登場して定着し、それらの名前も廃れていった<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社10-11頁"/>。 ; 昼間戦闘機 ; 夜間戦闘機 ; 全天候戦闘機 : 夜間でも悪天候でも変わらない能力を発揮できる戦闘機。ジェット機の進化が進みほとんどが全天候戦闘機である。最大の特徴は高性能レーダーとレーダー誘導の空対空ミサイルを装備していることである<ref>青木謙知『ミリタリー選書1現代軍用機入門 (軍用機知識の基礎から応用まで)』イカロス出版11-12頁</ref>。 ; 制限天候戦闘機 : 簡単な火器管制装置と赤外線誘導ミサイルだけを装備する戦闘機を制限天候戦闘機をいう<ref name="ReferenceB"/>。 == 機体性能 == === 諸元 === ; 格闘性能 : 旋回性能、上昇力、操縦性、速度、運動性、視界、加速、火力など総合的な性能<ref>堀越二郎『零戦の遺産』光人社NF文庫71頁</ref>。 ; 速度 : 水平飛行における最高速度。[[レシプロ機]]、亜音速の時代には急降下による加速に機体強度がついていかなかったため、急降下制限速度が設けられていた。超音速の時代には水平飛行も機体強度から制限速度が設けられるので特筆されなくなった。 ; 航続距離 : フェリー距離(外部タンクを含む最大距離)と戦闘行動半径(任務をこなし往復できる距離)がある<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社18頁</ref>。 ; 高高度性能 : 高高度まで上昇できる能力、および高高度で飛行を維持できる能力。 ; 乗員数 : 戦闘機は、基本的に単座。1950年代からレーダー操作、航法を担当する乗員を配した複座が増えてきた<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社24頁</ref>。 === 構造 === {{出典の明記|date=2013年5月}} 他の軍用航空機の多くがセミモノコック構造で胴体部が構成され中央翼構造を備えているのに対して、ほとんどの戦闘機は剛性の高い削出/溶接フレーム構造で構成され、外板は内部保護と空力特性向上を担う要素が大きい。一般に1-4名程度の乗務員は狭い操縦室に着座したまま飛行する。 与圧の有無は任務によるが、ジェット戦闘機の場合は破裂を避けるため被弾に備えて与圧をせず、パイロットは酸素マスクを着用する。 ; 素材 :[[ファイル:Materials of the Dassault Rafale en.svg|サムネイル|328x328ピクセル|[[ラファール (航空機)|ラファール]]に使用される素材と使用箇所]]一般的な[[飛行機]]と同様に、黎明期の木製布張り構造から、1930年代頃から金属製[[モノコック]]構造に進化していった。過渡期には木製モノコックや鋼管布張り、あるいはそれら材料の混合も見られた。たとえば、ジェット戦闘機の[[デ・ハビランド バンパイア]]では木製合板を一部使用している。 :しかしながら、1950年代には全てが全金属製構造になった(例外として[[F-117 (航空機)|F-117]]はレーダー探知を避けるための素材として、一部木を採用)。金属材料としては、軽量で強度に優れる[[アルミニウム合金]]([[ジュラルミン]]系など)が多用された。ただし耐熱性に劣るのが欠点であり、そのため超音速戦闘機では空力加熱対策として、一部あるいは全体にスチールを採用した例も存在する。ただし1950年代頃から同じく耐熱性に優れたチタニウム合金([[チタン]]の[[合金]])が実用化された。スチールより軽量だが同時に高価で工作が難しく、高速飛行時の空力加熱によって特に高温になる機体部位などに使用されていた。 :1970年代頃からは[[繊維強化プラスチック]] (FRP) に代表される[[複合材料]]に代替されつつある。FRPは軽量で強度が大きくステルス性などに優れ、たとえば空力弾性特性に方向性を持たせた[[翼平面形#前進翼|前進翼]]のような、金属材料では不可能な特殊な構造を作り出すこともできる。 ; エンジン :; レシプロエンジン :: [[レシプロエンジン]]は戦闘機専用の特殊な構造のエンジンと言うわけではなく、敢えて言えば小型軽量で大きさの割に大出力のものが戦闘機向けであった。例えばドイツでは、DB600系エンジンを戦闘機用とし、それよりも重量が大きいjumoエンジンを主に爆撃機用として用いた。しかしながら、大出力化につれ必然的に大型化も避けられない傾向にあった。 :: この時代は武装・航続力を重視する要撃戦闘機や護衛戦闘機は、止むを得ず双発となる事が多かったが、必然的により小型軽量な単発機よりも鈍重化は避けられず、またプロペラ同士の干渉を避けるためそれぞれのエンジンを離して配置せざるを得ず、機体のモーメントが大きくなり、格闘戦突入時などでは圧倒的に不利であった。 :; ロケットエンジン :: 第二次大戦末期や戦後には[[メッサーシュミット Me163|Me163]]などの[[ロケットエンジン]]を搭載した戦闘機も存在した。強力な推力が得やすいため強力な加速が得やすい、他のエンジンのように外気を取り込まないために空気抵抗の要因となる[[エアインテーク]]を機体に設ける必要が無い上、空気が薄い・存在しない所(宇宙空間など)でも運用可能(理論上)という利点があるが、安全性に難がある上に航続距離が極端に短いなどの欠点があるため実用機とは言い難く、現在では廃れている。 :: またロケットはエンジン出力が弱かった時代のジェット戦闘機の加速用に使用される場合もあった。また、戦闘機の武装の一つであるミサイルの推進機関はロケットエンジンが主流である。 :; ジェットエンジン :: 出現当初は軸流圧縮式と遠心圧縮式のターボ[[ジェットエンジン]]が存在したが、時代と共に軸流式が主流になっていく。ジェットエンジンはレシプロエンジンより[[スロットル]]の反応が悪く、戦闘機用エンジンとしては大きな欠点となった。また、レシプロエンジンに比して部分負荷運転時の効率が悪い。そのため、それを補うために[[アフターバーナー]]を付加するのが、戦闘機用エンジンとしては必須となった。初期のジェットエンジンは低速特性が悪く、そのために[[ターボプロップエンジン]]が用いられたこともあった。しかしながら、戦闘機用エンジンとして実用化された例は第二次世界大戦後のジェットエンジン黎明期に開発されたイギリスの艦上戦闘機[[ウェストランド ワイバーン]]や、アメリカの[[XP-81]] 等の少数に留まった。 :: やがてターボファンエンジンが実用化され、亜音速旅客機や爆撃機などで採用されていくが、[[超音速]]戦闘機用のものの実用化は更に後の事となる。現代ではターボファンが主流だが、旅客機など亜音速機のターボファンエンジンは、ほとんどの推力をファンで稼ぐプロペラ機に近い物なのに対し、超音速性能が必要とされる戦闘機用エンジンは、バイパス比が低くターボジェットエンジンに近い。 :: だが、ターボジェットに比べより低速向きの特性のジェットエンジンであり、音速突破にはアフターバーナーの使用が必須になった。ただし最近の戦闘機用エンジンは、[[スーパークルーズ|超音速巡航]]を可能にするためにさらにバイパス比が下げられ、また、機動性の向上を狙って推力可変ノズルを装備するものが現れている。 :: レシプロエンジン時代と異なり、運動性が重視される制空戦闘機などにも双発機が多く見られる。 :: ジェットエンジンは、プロペラの干渉が無いためエンジン同士を隣接して搭載でき、また小型エンジン双発の方が大型エンジン単発よりも出力効率が良く、機体を小型にできる傾向にある([[F-5 (戦闘機)|F-5戦闘機]]等はそうした成功例である)。だが、エンジンは機体の部品の中でも高額で、燃費効率は小型エンジン多数使用より大型エンジン少数使用の方が良いため、コスト面や整備性では単発機が有利である。 :: 戦闘機でも大型機と小型機が存在する場合は、小型機を単発に、大型機を双発にしてエンジンの種類を統一すれば、量産効果でコストも下げられる(ちなみに前述F-5戦闘機の場合は、ミサイルや無人標的機と同じエンジンを使い、コストを下げている)。 :: 洋上での作戦が多い[[アメリカ海軍]]や[[航空自衛隊]]などの機体は、安全性に優れる双発機が好まれる傾向にある(片方のエンジンが停止しても、もう片方のエンジンのみで飛行を継続できるため)。 ;翼 {{main|翼平面形}} :; 直線翼 :: レシプロ機時代は、戦闘機を含めて航空機全般の大半は直線翼であった。直線翼は揚抗比が高く機動性の確保には有利であるが、空気抵抗が大きく、また遷音速域では[[音の壁]]にぶつかるなど超音速飛行には向かない形状である。初期のジェット戦闘機にはレシプロ機時代からの継続として当然のように採用されているが、次第に後述する後退翼やデルタ翼など、超音速飛行向きの主翼形状に取って代わられる事になる。 :: ただし[[F-104 (戦闘機)|F-104]]のように翼の幅を縮め、厚さを非常に薄くすることによって、超音速向きの特性にした直線翼も存在する。 :; 後退翼 :: レシプロ機時代は重心をより後方に持っていくための手法であった。最初の実用ジェット戦闘機である[[メッサーシュミット Me262|Me262]]もその目的で後退翼を採用したのであるが、音速付近での翼の[[衝撃波]]の発生を遅らせる事ができる利点が発見され、その後の亜音速・超音速戦闘機に広く採用された。直線翼よりも安定性に優れるのが長所であるが、運動性を重視する戦闘機ではかえって弱点ともなるため、主翼に下反角をつけて安定性を下げる設計が行われる場合も多い。 :: [[F-86 (戦闘機)|F-86]]や[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]など、初期の亜音速ジェット戦闘機の多くがこの形式である。 :; [[可変翼]] :: 低空での機動に有利な直線翼から、超音速飛行に有利な後退翼まで、翼の角度を自由に変えることができる。反面、システムが高価かつ複雑になる。 :: [[MiG-23 (航空機)|MiG-23]]や[[トーネード ADV|トーネード]]、[[F-14 (戦闘機)|F-14]]等がこの形式。[[ファイル:Mikoyan-Gurevich MiG-23 3-view line drawing.gif|サムネイル|249x249ピクセル|代表的な可変翼機である[[MiG-23 (航空機)|MiG-23]]]] :; デルタ翼(三角翼) :: 主翼の前後幅が大きいので主翼自体で安定を保つ設計に適しており、無尾翼形式と併用される事が多い。その場合空気抵抗がその分小さくなり、後退翼よりもさらに高速飛行に適するが、低速域では揚抗比が悪く、機動性の面では不利。また、離陸時の滑走距離が長くなり、着陸時には[[揚力]]確保のため大迎え角を取らなくてはならない(そのため、視界が悪くなる)などの欠点がある。 :: 初期では尾翼つき形式にする事、最近では[[エンテ型|カナード翼]]を装備する事でこれらの欠点の改善を図っている(これをクロースカップルドデルタ(複合デルタ)或いはコウ・デルタと呼ぶ。'''ダブルデルタではない''')が、空気抵抗に関するメリットは失われる。ただし同じ幅・後退角度の後退翼に比べれは、同等の空気抵抗でより翼面積を大きくできる。また構造上翼をより頑丈にでき、同等の強度であれば翼をより軽量化できるという利点はある。 :: 無尾翼形式としては[[F-102 (戦闘機)|F-102]]や[[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ III]]など、尾翼つき形式としては[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]など、カナードつきは[[サーブ 39 グリペン|グリペン]]、[[ユーロファイター タイフーン|タイフーン]]、[[ラファール (航空機)|ラファール]]などに見られる。 :; ダブルデルタ翼(二重三角翼) :: デルタ翼の欠点であった離着陸時の性能などの改善を図るため、翼の後退角に差を付けたもの。戦闘機としては[[サーブ 35 ドラケン]]が唯一の採用例であるが、決して廃れた訳ではなく、後述するLEX (Leading edge extension) へと発展したと解釈される(ダブルデルタ翼の場合はデルタ翼の一種であるが、LEXは直線翼や後退翼と組み合わせることもでき、より範囲が広い用語と解釈できる)。 :; クリップトデルタ翼(切り落とし三角翼) :: デルタ翼の翼端を切り落とした形状。後退角を浅くしながら翼面積を大きくとれるので、低速域での揚抗比が高く、亜音速域での機動性が高い。その代わり普通のデルタ翼ほど前後幅が取れないので無尾翼形式は無く、ほぼ尾翼つき形式が採用されている(ただし戦闘機でなく爆撃機であれば、[[アブロ バルカン]]という無尾翼クリップドデルタ翼採用の例がある)。 :: [[F-15 (戦闘機)|F-15]]や[[F-16 (戦闘機)|F-16]]など。 :; 菱形翼 :: 翼の前縁に後退角が、後縁に前進角がついているもの。空力特性よりもステルス性を優先した設計の新しい形式である。[[F-22 (戦闘機)|F-22]]や[[YF-23 (航空機)|YF-23]]、[[F-35 (戦闘機)|F-35]]などがこの形式。 :; 前進翼 :: 後退翼と同じく、衝撃波の発生時差を付けることができるが、後退翼と違って翼端失速になりにくい。反面翼がねじれやすく、また後退翼とは逆の効果により安定性も悪くなる。しかし、前者は軽くて強度のある新素材の開発により、後者は機体制御コンピュータの発達などによって解決されてきている。また、安定性が悪いという事は急激な機体機動が可能という事を意味するので、機動性を重視する戦闘機にとっては利点とも言える(この観点から生まれたのが[[運動能力向上機]]である)。ただし、ステルス性に難があるという新たな問題が生じたため、この形式の戦闘機は実戦配備されていない。 :: [[X-29 (航空機)|X-29]]や[[Su-47 (航空機)|Su-47]]などがこの形式。 :; 明確に分類できない形式 :: 以上、主翼の分類を述べてきたが、上記の分類に当て嵌めるのが難しい場合もある。[[F-4 (戦闘機)|F-4]]、[[Su-27 (航空機)|Su-27]]の主翼のように、後退翼とクリップトデルタ翼の中間と言える形式のものは数多く存在する。[[イングリッシュ・エレクトリック ライトニング|ライトニング]]の主翼は、後退翼とも言えるし、翼端のみならず後縁内側をも三角形に切りぬいたクリップトデルタ翼とも解釈できる。 :: どの程度以上後退させた場合後退翼であるという明確な定義は存在しないため、[[F-5 (戦闘機)|F-5]]、[[F/A-18 (航空機)|F/A-18]]の主翼は、後退翼とも直線翼とも言いきれない。 ;ストレーキ {{main|ストレーキ}} [[ファイル:FA18 LEX.jpg|thumb|250px|F/A-18のストレーキにより発生する渦流]] : デルタ翼は、低速域での揚抗比が低い、離着陸時に失速し易い、などの欠点があった。これを改善するため、翼の後退角に差を付けたダブルデルタ翼が開発された。[[ストレーキ]]は、このダブルデルタ翼の内翼を発展させたフィンである。特に主翼の前縁部分を延長したものは'''LERX(leading edge root extension/主翼前縁延長''')と呼ばれる。ストレーキは空気の渦流を発生させ、それが主翼や[[水平尾翼]]へ流れる気流にエネルギーを与える事で、[[失速]]や[[舵]]の利きの低下を防ぎ、機体の機動性を大きく向上させている。 : ストレーキを装備した機体は、[[F-16 (戦闘機)|F-16]]、[[F/A-18 (航空機)|F/A-18]]、[[Su-27 (航空機)|Su-27]]など。 :; カナード :: {{main|エンテ型}}主翼の前部に取り付けられた小型の翼で、水平尾翼と同様に機体の[[昇降舵|ピッチ]]制御を行う。水平尾翼と違って主翼と共に揚力を発生させる事により、主翼面積をその分節約する事ができる(水平尾翼の場合は通常マイナスの揚力を発生させるので、主翼はより揚力を発生させる事が求められる)。そもそも世界最初に飛行した機体である[[ライトフライヤー号]]がこの形式であったが、水平尾翼と比べて舵が過敏に反応するため安定性が悪いという事で、その後廃れてしまった。 :: 近年、デルタ翼との組み合わせにより、主翼前部の気流を制御する事で機体の機動性が向上するという利点が発見され(前述のストレーキと同等の効果である)、また機体制御の難しさは[[フライ・バイ・ワイヤ]]によって補う事が可能となり、広く用いられる事となった。なおデルタ翼は無尾翼形式によって主翼のみで安定を保つ設計が可能なため、カナードは揚力を発生しない設計にする場合も多い。 :: しかしごく近年では、ステルス性に難があるという欠点が発見されている。 :; ブレンデッドウィングボディ :: {{seealso|ブレンデッドウィングボディ}}主翼が滑らかに胴体と繋がっており、何処までが主翼で何処からが胴体なのか区別が付きにくい形状の事。特に大迎角を取った際に胴体も主翼の役割を果たし、実質上翼面荷重が小さくなる効果がある。又、ステルス性が向上する利点もある。他に胴体内容積が大きくなり、燃料等をより多く搭載できる利点もある。 :: 戦闘機では[[F-16 (戦闘機)|F-16]]が代表的な例である。これより更に発展した物として、[[リフティング・ボディ]](主翼が存在せず、胴体そのものが揚力を発生し主翼の代わりをする)、[[全翼機]](胴体が存在せず、主翼のみで構成された航空機)といった形式があるが、実用化された戦闘機での採用例は今の所存在しない。 === 兵装 === {{出典の明記|date=2013年5月}} 戦闘機誕生以来、対空戦闘のための兵装は機関銃・機関砲と相場が決まっていた。[[第一次世界大戦]]時には、対気球・飛行船用として[[ロケット弾]]を装備した例もある。[[第二次世界大戦]]時に再びロケット弾装備が復活し[[1960年代]]頃まで使われたが、誘導装置のついたロケット弾、すなわち[[ミサイル]]に取って代わられる事になる。現代でもロケット弾ポッドを搭載可能な戦闘機は多いが、専ら対地攻撃用である。 ;武装 :[[ファイル:Mauser BK-27 LKCV.jpg|サムネイル|249x249ピクセル|[[サーブ 39 グリペン|グリペン]]に搭載されている[[マウザー BK-27|BK-27]]]][[航空機関砲|機関砲]]は、空対空ミサイルの登場により、特に敵戦闘機と交戦する機会の少ない[[要撃機]]などには不要とされ装備されない機体も登場したが、[[ベトナム戦争]]などの教訓からミサイルの命中率がそれほど高くない事が判明したため、再び装備されるようになった。ミサイルの命中率がかなり向上した現代においても、万が一近接格闘戦に突入した場合の保険として必須と認識され固定装備されている。また機内には装備されないが、対地攻撃等の必要時にのみ[[ガンポッド]]として機外搭載される機体もある([[F-35 (戦闘機)|F-35B/C]]等)。 :航空機関砲の砲身数は減少する傾向にあり、アメリカでは6門砲身の[[M61 バルカン]]から4門砲身の[[GAU-12 イコライザー|GAU-22/A]]に移行し、ロシアでは2門砲身の[[GSh-23 (機関砲)|GSh-23]]から1門砲身の[[GSh-30-1 (機関砲)|GSh-30-1]]に移行した。またヨーロッパの[[マウザー BK-27]]、[[30 M 791]]は1門砲身である。 :空対空戦闘用兵装は、前述の機関砲と[[空対空ミサイル]]である。遠距離戦闘時はアクティブ・レーダー・ホーミング (ARH) 及びセミ・アクティブ・レーダー・ホーミング (SARH) 式の長距離用ミサイルが、接近戦では赤外線誘導 (IRH) ミサイル及び機関砲が使われる。[[ファイル:A British Typhoon fighter refuels from a USAF tanker over Iraq Dec. 22, 2015.jpg|サムネイル|249x249ピクセル|ミサイルと爆弾を搭載した[[ユーロファイター タイフーン|タイフーン]]]] ;電子機器 :一般に電子機器類の中枢部は専用の空調機構と耐振動保持機構によって保護されており、配線類も[[光ファイバー|光ファイバーケーブル]]のように難燃耐熱耐ノイズ性の高いものが用いられている。21世紀以降の戦闘機でのデジタル化された搭載電子機器類は、各種機能が共通の演算ハードウェアとその上で動く多様なソフトウェアによって実現されるようになっており、一部の演算部が機能を失っても残りの演算部が直ちに引き継ぎソフトウェアを実行する冗長構成になっている。 ;[[アビオニクス]] :戦闘機の[[アビオニクス]]類は、一般的な航空機が備える[[レーダー]]や[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]航法装置、[[飛行管理装置|FMS]]、[[FADEC]]などの他に、[[射撃統制システム|火器管制装置]]やレーダー警戒装置、[[赤外線捜索追尾システム|IRST]]、ECM装置、[[戦術データ・リンク]]・システムなどが搭載されている。レーダーが敵より高性能で長探知距離・高分解能であれば、敵を先に発見・捕捉して先制攻撃をかける事ができる。また、ミサイルや機関砲の命中率を高めるためには、高性能な火器管制装置が必要である。 ;ECM装置 :敵機のレーダーに探知された時は、レーダー警戒装置などESM装置でいち早く敵のレーダー電波を探知・分析し、同時にECM装置でそれを妨害する必要がある。これらの戦闘は[[電子戦]] (EW) と呼ばれる。 :ECM装置には、[[チャフ]]・[[フレア (兵器)|フレア]]・[[デコイ]]など敵レーダーを欺瞞するものや、敵レーダー能力を低下させる[[ジャミング]](電波妨害)装置などがある。 ;情報共有システム :味方の支援を受けるためには、友軍機や[[早期警戒管制機]] (AWACS) 、地上要撃管制 ([[GCI]]) 等との情報共有が不可欠である。このために、[[戦術データ・リンク]]・システムなどの情報共有系統が必要である。AWACSなどからの支援の有無は航空戦では非常に重要な要素となる。 :21世紀に入ってからは、高価なAWACSと電子的な連係作戦が行える先進的/近代的な空軍による航空作戦が行われている。 == 歴史 == 「[[飛行機の歴史]]」「[[戦闘機一覧]]」も参照。 === 第一次世界大戦 === [[ファイル:Fokker EIII 210-16.jpg|thumb|250px|right|Fokker E.III<br/>(1916年、[[ウィルトシャー]])]] 戦争初期、航空機は戦闘力を持たず敵地偵察に使われただけであった。最初期は、お互いに攻撃手段を持たず、敵[[偵察機]]に対し、そのまますれ違ったり、お互い手を振って挨拶していることもあった<ref name="shikumi42">『徹底図解 戦闘機のしくみ』 新星出版社 2008年10月5日 p.42</ref>。しかし、航空偵察の効果が上がり始めると、敵偵察機の行動は妨害する必要性が出てきた。最初は持ち合わせていた[[工具]]を投げつけたのが始まりとされている。やがて[[煉瓦]]や石を投げ合い始め、拳銃や猟銃を使い始めた<ref name="shikumi42" />。操縦士は操縦桿から長時間手を離せないため、火力不足であるが片手で使え狭い操縦席でも取り回しやすい拳銃が多く使われた。また多少高価であっても[[モンドラゴンM1908]]のような[[半自動小銃]]を採用した例もある。 戦闘機誕生のきっかけは、フランス空軍の[[ローラン・ギャロス]]が1915年に[[モラーヌ・ソルニエ L]]の中心線に固定銃を装備したことに始まる。4月1日ドイツの[[アルバトロス (航空機メーカー)|アルバトロス]]製の航空機が初めて撃墜され、その後半月で4機撃墜し初のエースパイロットが誕生する<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社46頁"/>。当初のエースパイロットの条件は10機以上撃墜であったが、士気高揚のため5機以上撃墜に改められた<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社52頁</ref>。 日本では1914年10月、[[日独戦争]]下の[[青島の戦い]]で[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の(日本陸海軍初の)[[陸軍飛行戦隊|実戦飛行部隊]]たる[[臨時航空隊]]が日本初の空中戦を経験する。機関銃を積んだドイツ軍機[[ルンプラー・タウベ]]が上空を飛び回るため、日本の[[MF.7 (航空機)|モーリス・ファルマン機]]は偵察任務を行えず、そのため臨時航空隊長[[有川鷹一]]陸軍工兵中佐がニューポールNG機に地上用機関銃を積んで偵察機の味方を支援、敵を妨害するという、戦闘機的な空中戦が行われた<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで51-52頁</ref>。 1915年6月ドイツが[[フォッカー アインデッカー]]を量産し、プロペラ内固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場し、この駆逐機(戦闘機)の独立出現を各国が見習うことになる。<ref>河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社46頁、戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで57頁</ref> 本格的な空中戦闘はこの機体から始まり、それまで単一機で行われていた飛行機作戦から任務が細分化され、偵察→爆撃→空戦と発展して行く過程で専用機種が生まれた<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで60頁</ref>。この時代の戦闘機の構造は木製帆布張りが主体であった。エンジンは[[水冷エンジン|水冷式]]と、シリンダーを放射状に配置し、エンジン全体をプロペラと一緒に回転させて冷却する回転式([[ロータリーエンジン (初期航空機)|ロータリー式]])の2種類があり、出力は200馬力程度であった。主翼は[[単葉機|単葉]](主翼が1枚)から三葉(同じく3枚)まで種種とりどりであったが、[[複葉機|複葉]](同じく2枚)が最も多かった。その後、プロペラ同調装置の発明により機首から機銃を射撃できるようになり、以降戦闘機は機首部に同調装置付きの機銃を装備するという形態が標準となった。 1915年後半になると戦闘機、爆撃機という専用機種が現れた。1916年には戦場上空での制空獲得思想が生まれる。ドイツは戦場制空のため、空中阻塞、駆逐戦法という数層に配置した防御的阻塞幕を構成する方法をとり、戦闘機の発達とともに敵機撃墜、航空優勢を獲得する戦法に発展し、空中アクロバット戦が展開されていった。しかし、航続距離が短かったため、侵攻して攻撃する戦法は未熟だった<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで57-59頁</ref>。 レシプロ戦闘機の形体が完成していくのと並行して、空冷式エンジンは、素材や設計の進歩により冷却効率が向上したこと、ならびに高回転化に伴って重いエンジン自体を振り回すデメリットが目立ってきたことから[[星型エンジン]]に変わっていった。水冷式エンジンも改良が進み、両方とも1000馬力程度までパワーアップした。主翼はしばらく複葉機の全盛時代が続いたが、第二次大戦の開戦前には、少数の複葉機([[イタリア]]の[[CR.42 (航空機)|CR.42]]や[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[I-15 (航空機)|I-15bis]]など)を除き主翼は単葉になった。また同時期に[[降着装置|主脚]]も固定式から引き込み式になり、飛行時には主翼内や胴体内に格納されることで空気抵抗の低減が図られるようになった。機体構造も木製帆布張りから、鉄骨帆布張りへと移行、更に全金属[[モノコック]]へと変わっていった。 === 第二次世界大戦 === [[ファイル:P47 Thunderbolt - Chino Airshow 2014 (14230962624).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|P-47]] 第一次世界大戦における戦闘機は格闘戦的技術尊重が伝統となり撃墜数を競ったが、飛行機、武器の性能向上と数の増大で新しい傾向が生まれていった。編隊空中戦闘の思想が現れ、空戦では各個で行動するが、有利な態勢で空戦を開始するための全体大勢の指導や、終末後の集結帰還の指導が重視された。また、後方視界を持ち武装強化された複座戦闘機が現れ、対戦闘機以外の要地防衛、援護、地上攻撃など多様な戦闘機が現れ始めた<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで372-373頁</ref>。各国ともに国を挙げて戦闘機の改良と増産に励み、大半の戦闘機が全金属製・単葉・単座・単発となったが、例外もまだ多かった。 1921年10月9日、設計自体はイギリスの招聘技師によるものであるが日本でも初の国産戦闘機である[[一〇式艦上戦闘機]]が完成した。 {{main|戦闘機無用論}} 1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたドゥーエ(イタリア)の「制空」が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで233頁</ref>。ドゥーエやミッチェルに代表される[[制空]]獲得、政戦略的要地攻撃重視するために戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、[[列強国]]は分科比率で爆撃機を重視するようになった<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで373頁</ref>。日本陸軍でも1928年3月20日統帥綱領制定で航空は攻勢用法に徹底して地上作戦協力を重視し、戦場空中防空、制空獲得の姿は消えてしまった<ref>戦史叢書52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで294-295頁</ref>。そういった動きから[[爆撃機]]([[攻撃機]])の発達で爆撃を戦略上重視し、戦闘機を軽視する[[戦闘機無用論]]が台頭する。日本では1936年前後に陸海軍で広く支持され、攻撃機を重視して戦闘機を無用視する主張や戦闘機に急降下爆撃をさせることで攻撃側にも使うという主張があったが、支那事変で戦闘機の価値が認識された<ref>碇義朗『海軍空技廠 全』光人社103頁、森史郎『零戦の誕生』光人社55-56頁</ref>。[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]でも支持されたが、1940年[[バトル・オブ・ブリテン]]によって戦闘機の価値を認識した<ref>碇義朗『鷹が征く―大空の死闘・源田実VS柴田武雄』光人社 2000年100頁</ref>。アメリカでも支持され、1944年にはドイツ奥地への爆撃が中止される甚大な被害を受けて、戦闘機の必要性を認識した<ref>森史郎『零戦の誕生』光人社 (2002)99頁、零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』425頁</ref>。 1937年9月[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[源田実]]は支那事変で、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させ、制空権を獲得する「制空隊」を初めとする攻撃的、主体的な戦闘機の戦術を考案した。従来の攻撃機主体の戦術思想を一変させた戦闘機中心の画期的な新戦法であり、戦闘機の新たな価値が認識された<ref>堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫182頁、戦史叢書72中国方面海軍作戦(1)昭和十三年四月まで 405-407頁、森史郎『零戦の誕生』光人社109-114頁</ref>。これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった<ref>戦史叢書95海軍航空概史125頁</ref>。 1938年ドイツ空軍[[ヴェルナー・メルダース]]は[[スペイン内戦]]で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「[[ロッテ戦術]]」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった<ref>サミュエル・W・ミッチャム 『ヒットラーと鉄十字の鷲』[[手島尚]]訳、学習研究社〈学研M文庫〉、2008年、初版。ISBN 978-4-05-901219-1、pp.110-111.</ref>。 第二次世界大戦初期までは[[格闘戦]]が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた<ref>碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫243-244頁</ref>。 日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う[[特別攻撃隊|特攻]]戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長[[黒島亀人]]は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期322、326-327頁</ref>。1944年10月20日[[大西瀧治郎]]中将によって編成された最初の[[神風特別攻撃隊]]の機体として[[零式艦上戦闘機]]が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。 === ジェット戦闘機への移行 === [[第二次世界大戦]]は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、[[メッサーシュミット Me262|Me262]]などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が[[音速]](1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。 1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケル[[He 178 (航空機)|He178]]である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。 [[ファイル:MiG-15 Museum Vinnytsia 2016 G1.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|MiG-15]] {{see also|第1世代ジェット戦闘機}} ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、[[朝鮮戦争]]からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。 ソ連の支援を受けた[[中国人民志願軍]]はいち早く後退翼の[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]を投入した。当時[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の主力となったのは[[F-80 (戦闘機)|F-80 シューティングスター]]や[[グロスター ミーティア]]などの直線翼戦闘機であり、設計思想ではMiG-15の方が先進的であった。その後、これに対抗してアメリカ軍を中心とする連合軍も後退翼の[[F-86 (戦闘機)|F-86 セイバー]]などを投入した。性能的にはMiG-15とF-86は一長一短であり、上昇力や格闘性能ではMiG-15が勝ったが、レーダーや照準器などの儀装面ではF-86の方が優秀であった。結果としては米空軍パイロットの技量の高さもあって、この後退翼戦闘機同士の戦いではアメリカの圧勝であった。 音速に達する前のジェット戦闘機は「第1世代」と区別される。 === 超音速戦闘機 === ;第2世代ジェット戦闘機 : {{see also|第2世代ジェット戦闘機}}[[ファイル:Pakistani Chengdu J-7.JPG|サムネイル|250x250ピクセル|J-7]]1940年代まで 有人飛行機で音速を超えて操縦することが可能かどうかは、全く未知の世界であった。第二次大戦の直後から、アメリカはこの問題を実験できる機体の研究を続けていた。この目的のために製作された[[X-1 (航空機)|ベルXS-1]](ロケットエンジンを装備:後にX-1に名称変更)は1947年に有名な[[チャック・イェーガー]]の操縦で音速を突破し、超音速でも機体の操縦が可能であることを証明した。このときは[[B-29 (航空機)|B-29]]の腹下にぶら下げられて離陸し、高度6,100mで母機から切り離されて発進した。 : 一旦 有人機で音速を超えられることがわかれば、後はエンジンの推力と空気力学の問題である。ジェットエンジンは次々に改良され、推力が大きくなった。機体の形状では[[エリアルール]](面積法則)なる理論が提案され、[[F-102 (戦闘機)|F-102デルタダガー]]の音速突破に貢献した。これは、飛行機の断面積変化が少ないように設計すれば高速での抵抗が少ないという理論で、機体に応用した場合主翼取り付け部分の胴体がくびれて細くなる。一方主翼は、後退翼よりもより高速飛行に適したデルタ翼機が多数登場した。こうして[[音の壁]]を突破し、超音速飛行が可能となった戦闘機は「第2世代」のジェット戦闘機に分類される。また、この時期には[[AIM-9|AIM-9サイドワインダー]]などの[[空対空ミサイル]]が登場した。 ;第3世代ジェット戦闘機 : [[ファイル:J-3005.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|F-5]]{{see also|第3世代ジェット戦闘機}}ミサイルの発達により、空戦は遠距離からのミサイルの撃ち合いで終始するという[[ミサイル万能論]]が広がった。高速でより多くのミサイルを搭載可能な戦闘機が最強の戦闘機とされ、近接格闘戦で必要な機動性は軽視されるようになった。そのため少なくない戦闘機が機関砲装備を廃止した。戦闘機の高速化が進み、超高速戦略機の迎撃用に開発された[[MiG-25 (航空機)|MiG-25 "フォックスバット"]]は最高速度が非常に速く、3,000 km/h (およそマッハ 2.83 相当)での飛行を目標に設計されており、中東方面ではマッハ 3.4 の飛行速度が記録された世界史上最速の戦闘機である。 : しかし、当時は空対空ミサイルの性能が低く、ベトナム戦争では接近戦が発生し、その際に機動性の低いアメリカ空軍の最新鋭機[[F-105 (戦闘機)|F-105サンダーチーフ]]などが、旧式な[[MiG-17 (航空機)|MiG-17]]やはるかに安価な[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]に容易く撃墜されるという事態が発生した。この経験から、格闘性能、機関砲の大切さが再認識され、アメリカ機として比較的機動性が高い機体である[[F-4 (戦闘機)|F-4ファントムII]]や[[F-106 (戦闘機)|F-106]]は、当初廃止していた機関砲を後付けで装備し<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>、F-4の活躍でアメリカ軍はなんとかベトナム戦争を凌いだ。 : [[スウェーデン]]の[[SAAB|サーブ]] 社の戦闘機はSTOL性能や即席滑走路からの離陸等を考慮し、第2世代機の[[サーブ 35 ドラケン]]はダブルデルタ翼(後の[[ストレーキ]]の嚆矢)、第3世代機の[[サーブ 37 ビゲン]]はデルタ翼とカナードを組み合わせる、当時としては特異な形態を採用した。この形態は第4世代機では普遍的になる。 ;第4世代ジェット戦闘機 : [[ファイル:Sukhoi su-27 (blue) flying in sky.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|Su-27]]{{main|第4世代ジェット戦闘機}}[[ベトナム戦争]]、[[印パ戦争]]、[[中東戦争]]を経て格闘性能、特に運動性能を重視するようになった<ref>碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫252頁</ref>。1970年代には格闘性能を重視した大推進力で機敏な機動飛行を行うF-14、F-15、F-16、SU-27、MiG-29などの「第4世代」の戦闘機が東西で作られた。またF/A-18のようなマルチロールファイターも作られた<ref name="河野嘉之『図解戦闘機』新紀元社44頁"/>。これ以降は、ただ速いよりも旋回による回避の方が効率がいいという意見が高まり、速度を落としてでも他の性能を確保する傾向になり、例えばF-14、F-15とも最高速度はマッハ2台半ばに留まり、前任機F-4ファントムと変わらないが、旋回半径は半分以下まで小さくなっている<ref>碇義朗『戦闘機入門』光人社NF文庫254頁</ref>。F-16以降は速度性能を切り捨てる傾向に拍車がかかり、F/A-18はマッハ1台に留まっている。 : 超音速戦術機に向いたアフターバーナー付き[[ターボファンエンジン]]が実用化されたため、要求される機動性を実現できる飛行性能を実現できた。操縦席の[[グラスコックピット]]化や[[フライ・バイ・ワイヤ]]の導入など、ハイテク化が進められる。また風防は、ドッグファイトに持ち込まれた場合結局一番役に立つのはパイロットの目であると考えられ、高速飛行には向かないが視界がよい涙滴型キャノピーが使用されるようになった。また運動性の追求のため、[[ストレーキ]](LERX)や[[エンテ型#ジェット戦闘機のカナード|カナード]]、あるいは[[運動能力向上機|CCV設計]]が採用されるようになった。 === マルチロール === ;第4.5世代ジェット戦闘機 : [[ファイル:Sukhoi Su-30SM in flight 2014.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|Su-30]]{{main|第4世代ジェット戦闘機#第4.5世代ジェット戦闘機}}航空機のジェット化が進み、レーダー、電子技術、ミサイルなどの兵装の発達で従来の機種は整理され、特に戦闘機は空戦を専門とするタイプと大量の兵装を装備できる戦闘攻撃機タイプが主流になり、兵装の交換により対空、対地、対艦といった幅広い任務に対応するマルチロール機へと進化していった。攻撃機はマルチロール化した戦闘機に集約されて機種が減少した<ref>おちあい熊一、野木恵一『最新&最強 世界の兵器』学研パブリッシング11頁</ref>。 : 「第4.5世代」のジェット戦闘機は第4世代を凌駕する性能を持つが第5世代には主にステルス性の面で及ばないという意味合いでこう呼ばれる。第4世代機で採用がはじまったストレーキあるいはカナード、CCV設計が普遍的なものとなり、さらに推力偏向ノズルの装備を行った機体もあり、第4世代よりもさらに機動性が向上するよう図られている。[[スーパークルーズ]]能力について言及される事もあるが、前世代機でも意図的ではないがこの能力を持つ機体もあり、またこの能力が実戦に寄与した例は現在の所は無い。 ;第5世代ジェット戦闘機 : [[ファイル:Lockheed Martin F-22A Raptor JSOH.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|F-22]]{{main|第5世代ジェット戦闘機}}[[F-22 (戦闘機)|F-22]]を嚆矢とする、次世代を担う戦闘機である。高度なステルス性能を有する[[ステルス機]]の研究・開発が各国で進められている。これは、相手から探知されなければ生存性が大幅に上昇し、且つ敵に気付かれずに先制攻撃を加えることが可能だからである。言い換えれば各種センサー装備の充実(センサーフュージョン)による先制攻撃性の強化が求められる。またF-22は[[スーパークルーズ]]能力を持つ事から、これも第5世代ジェット戦闘機の必須の能力として一時期言及された事があり、そのため前述の第4.5世代戦闘機でもスーパークルーズ能力について言及される事があったが、続く第5世代機である[[F-35 (戦闘機)|F-35]]にはスーパークルーズ能力は要求されなかった(結果的にその能力は持っているが)。 ;<span id="第6世代ジェット戦闘機"></span>第6世代ジェット戦闘機 : [[ファイル:Tempest DSEI 2019.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|BAE システムズ・テンペスト]]{{main|[[第6世代ジェット戦闘機]]}}第6世代ジェット戦闘機の機体は、そもそも第5世代ジェット戦闘機が未だ開発途上であるため、まだ存在しない。しかしながら、各国が様々な研究を進めている戦闘機が、第6世代ジェット戦闘機を自称する例が見られる。 : [[ボーイング社]]は[[2010年]]に、アメリカ海軍のF/A-18E/Fを代替する第6世代ジェット戦闘機として[[:en:Next Generation Air Dominance|F/A-XX]]を計画している事を発表した。F/A-XXは第5世代機より高いステルス性を持つ無尾翼双発のマルチロール機で、任務により有人運用と無人運用が選択可能であるという。部隊配備は[[2025年]]を予定している。 : [[防衛省]]は[[航空自衛隊]]の[[F-2 (航空機)|F-2]]を代替する第6世代ジェット戦闘機として、[[i3 FIGHTER|i<sup>3</sup> FIGHTER]]を構想中である。i<sup>3</sup> FIGHTERの初飛行は[[2022年]]以降を予定している。 : また、アメリカの[[ベンチャー企業]]STAVATTI社は、F-16C及びF/A-18Cを代替する第6世代ジェット戦闘機として、[[SM-36 (航空機)|SM-36 STALMA]]という軽戦闘機を開発中と発表していたが、2007年以降とされていたプロトタイプのロールアウトも行われておらず、STAVATTI社の公式サイトからもSM-36関連のページが削除されており、現在の開発状況は不明となっている。 ;無人の戦闘機 {{main|UCAV}} : [[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アメリカのアフガニスタン侵攻]]時に、安価な[[無人航空機]]が使用され、たとえ撃ち落とされても人命は失われず費用対効果的にも有効性が認められた。 : 当初の偵察任務のみならず、空対地ミサイルを搭載し、限定的な攻撃任務が可能な機種も登場した。しかしながら、遠隔操縦には常に妨害や通信途絶の可能性があり、また空対空戦闘の自律化、自動化にはまだ多大な困難がある。 : また、アメリカ空軍は初期の[[対空ミサイル]]の開発当初、それらを「無人戦闘機」として扱っており、型式番号にも戦闘機を示す「F」を与えていたが、後に戦闘機とは別物として扱われるようになり、Fナンバーが与えられていたミサイルも順次改名されていった。 == 主な戦闘機 == {{出典の明記|date=2013年5月}} 各時代区分ごとにその国である程度多数<ref>他の戦闘機の生産数と比較した場合。</ref> が生産されたものや、主力や主力候補として開発されたものを、各時代5機以内を目安として以下にあげる。 === 第一次世界大戦期の代表機 === [[File:Brooks Field - Three Curtiss Orenco Ds in formation flight.jpg|thumb|250px|S.XIII]] [[File:GFMalley.jpg|thumb|250px|キャメル]] {{DEU1871}} ; [[フォッカー]] [[フォッカー E.III|E.III]] : プロペラ同調装置付きの固定機銃を装備した世界初の戦闘機であるE.Iの改良型。[[フォッカー アインデッカー|フォッカー社製単葉戦闘機シリーズ]]中最も多く作られた。 ; [[アルバトロス (航空機メーカー)|アルバトロス]] [[アルバトロス D.III|D.III]] : 戦争中期から末期まで運用された主力戦闘機。木製[[モノコック]]の胴体を採用。 ; [[フォッカー]] [[フォッカー Dr.I|Dr.I]] : [[エースパイロット|撃墜王]][[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]][[男爵]](レッドバロン)の乗機として有名。 ; [[アルバトロス (航空機メーカー)|アルバトロス]] [[アルバトロス D.V|D.V]] : D.III型から改良された、戦争末期の主力戦闘機。 ; [[フォッカー]] [[フォッカー D.VII (航空機)|D.VII]] : 終戦直前から戦後にかけて生産された複葉機。第一次世界大戦で[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側に最も恐れられたドイツ軍の主力戦闘機。 {{FRA}} ; [[SPAD (航空機メーカー)|スパッド]] [[S.VII (航空機)|S.VII]] : [[フランス]]の重戦闘機。高速を誇った。 ; [[ニューポール]] [[ニューポール 11|11]] : 大戦中期の軽戦闘機。複葉の下翼が短い一葉半方式を採用、格闘戦に強い。 ; [[SPAD (航空機メーカー)|スパッド]] [[S.XIII (航空機)|S.XIII]] : 大戦後期の主力重戦闘機。日本でも丙式一型戦闘機として運用された。 {{GBR}} ; [[ソッピース|ソップウィス]] [[ソッピース キャメル|キャメル]] : 大戦中期からイギリスの本格的な主力戦闘機となった軽戦闘機。旋回性能が優れていた。 ; [[ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント|王立工場]] [[RAF S.E.5|S.E.5a]] : キャメルとは逆の重戦闘機。キャメルより早く配備され、制空権の回復を果たした。 === 戦間期の代表機 === [[File:Ki-27 1.jpg|thumb|250px|九七式戦闘機]] [[File:Polikarpov I-16 with spanish republican markings.jpg|thumb|250px|I-16]] {{USA}} ; [[ボーイング]] [[F4B (航空機)|P-12]] : [[アメリカ陸軍]]最後の主力複葉戦闘機。[[アメリカ海軍]]でも'''F4B'''の名称で主力艦上戦闘機として運用された。 ; [[ボーイング]] [[P-26 (航空機)|P-26 ピーシューター]] : [[アメリカ陸軍]]初の全金属製単葉機。[[日中戦争]]では[[渡洋爆撃]]を行った[[九六式陸上攻撃機]]の邀撃に活躍。 ; [[カーチス・ライト|カーティス・ライト]] [[P-36 (航空機)|P-36 ホーク]] : 全金属性・低翼単葉かつ引込式主脚・尾輪が採用された、米陸軍初の近代的レシプロ戦闘機。アメリカ以外にも各国へ輸出された。 ; [[ロッキード]] [[P-38 (航空機)|P-38]] : 英国仕様は排気タービン([[過給器]])を外された[[モンキーモデル]]だったのでイギリスに殆どの機体の受け取りを拒否された。この時生産ラインにあった「ライトニング I」140機はP-322のコードが付けられて、代わりに[[アメリカ陸軍]]が引き取ったが、[[パイロット (航空)|パイロット]]からも不評で、米本土での訓練や雑用に使われただけに終わった。 {{DEU1935}} ; [[アラド]] [[Ar 65 (航空機)|Ar 65]] : ドイツ再軍備宣言時のドイツ空軍の主力戦闘機。He 51が配備されると、急速に転換された。 ; [[ハインケル]] [[ハインケルHe51|He 51]] :ドイツ[[再軍備]]と同時に制式採用され、[[ドイツ空軍]]の主力戦闘機となったが、[[スペイン内戦]]では、より近代的な設計のソ連戦闘機I-16に苦戦した。 {{FRA}} ; [[モラーヌ・ソルニエ]] [[MS406 (航空機)|M.S.406]] : 第二次世界大戦直前から初期に[[フランス空軍]]で運用された主力戦闘機。[[メッサーシュミット Bf109|Bf 109]]を上回る性能を示した。のちには[[フィンランド]]でも活躍した。 {{GBR}} ; [[ブリストル飛行機|ブリストル]] [[ブリストル ブルドッグ|ブルドッグ]] : [[1930年代]]のイギリス空軍の主力戦闘機。フィンランドにも輸出され、[[冬戦争]]で活躍した。 ; [[グロスター]] [[グロスター グラディエーター|SS.37 グラディエーター]] : 第二次世界大戦前に採用された主力戦闘機。第二次世界大戦初期にも主にイタリア空軍機と戦い、複葉機ながら健闘した。 {{JPN1889}} ; [[三菱重工業|三菱]] [[九六式艦上戦闘機]] :[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[日中戦争]]での主力戦闘機。艦上のみならず中国大陸でも運用された。堀越技師に後の零式艦上戦闘機よりも会心の作であったと言わしめた。 ; [[中島飛行機|中島]] [[九七式戦闘機]] : 日中戦争や[[ノモンハン事件]]、[[太平洋戦争]]初期に活躍した[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の戦闘機。固定式主脚だが格闘性能に優れていた。 {{SSR}} ; [[ポリカルポフ]] [[I-16 (航空機)|I-16]] : 世界初の全金属製・低翼単葉・引込式主脚の戦闘機。[[機体]]が短く、寸詰まった外見が特徴。中国でも運用され、日中戦争で日本機と戦った。 === 第二次世界大戦期の代表機 === [[File:Bundesarchiv Bild 101I-662-6659-37, Flugzeug Messerschmitt Me 109 Recolored.jpg|thumb|250px|Bf 109]] [[File:Supermarine Spitfire Vb 'AB910 SH-F' (45209564741).jpg|thumb|250px|スピットファイア]] [[ファイル:Yakolev Yak-9U (c-n 1257) (39004376092).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|Yak-9]] {{USA}} ; [[グラマン]] [[F4F (航空機)|F4F ワイルドキャット]] : 大戦初中期のアメリカ海軍の主力艦上戦闘機。日本軍兵士からは、その重装甲ゆえに「グラマン鉄工所」と呼ばれた。 ; [[ヴォート・エアクラフト・インダストリーズ|ヴォート]] [[F4U (航空機)|F4U コルセア]] : 大戦中後期のアメリカ海軍の艦上戦闘機。計3社で多数が生産された大馬力エンジン搭載機で、戦闘爆撃機として活躍した。 ; [[グラマン]] [[F6F (航空機)|F6F ヘルキャット]] : 大戦後期のアメリカ海軍の主力艦上戦闘機。最も多くの日本機を撃墜した戦闘機であり、戦時中の日本では宿敵米国の戦闘機の代名詞「グラマン」として有名であった。 ; [[ベル・エアクラフト|ベル]] [[P-39 (航空機)|P-39]] : 輸出用は排気タービンが外されたため、[[イギリス空軍]]では[[ホーカー ハリケーン]]より性能が劣り実戦で使えるものではないとの理由から、僅かな期間で運用は中止され、未受領の機体も受け取りを拒否された。残った機体は[[ソビエト連邦|ソ連]]への[[レンドリース法|レンドリース]]に回された他、アメリカ陸軍がP-400と名付け引き取ることとなった。 ; [[カーチス・ライト]] [[P-40 (航空機)|P-40 トマホーク/キティホーク/ウォーホーク]] : 大戦初中期のアメリカ陸軍の戦闘機。やや旧式ながら実用性や信頼性、生産性が高く、各国にも多数が供与された。 ; [[リパブリック・アビエーション|リパブリック]] [[P-47 (航空機)|P-47]] : 欧州戦線で[[P-51 (航空機)|P-51マスタング]]と並ぶアメリカ軍の主力戦闘機として活躍し、生産機数1万5千に達した。戦闘機としての能力も優れていたが、大馬力エンジンによる大きなペイロードと機銃8挺の重武装によって[[戦闘爆撃機]]としても活躍した。 ; [[ノースアメリカン]] [[P-51 (航空機)|P-51 マスタング]] : 十分な格闘性能を有しながら、優れた高高度性能と航続力により、[[B-29 (航空機)|B-29]]の護衛にも活躍。[[P-47 (航空機)|P-47 サンダーボルト]]とともに大戦後期の陸軍主力戦闘機となった。第二次大戦最優秀戦闘機と評価が高く、朝鮮戦争でも戦果を上げた。 {{DEU1935}} ; [[メッサーシュミット]] [[メッサーシュミット Bf109|Bf 109]] : 一撃離脱に適した重戦闘機。史上最多の約30,000機が生産され、ドイツ空軍の主力戦闘機として活躍。 ; [[メッサーシュミット]] [[メッサーシュミット Bf110|Bf 110]] : 対戦を通じて夜間戦闘や偵察任務で運用された、双発の重戦闘機。 ; [[フォッケウルフ]] [[フォッケウルフ Fw190|Fw 190 ヴュルガー]] : Bf 109に次ぐドイツ空軍の主力戦闘機であり、20,000機が生産された。初期には空冷エンジンを搭載、機体が頑丈で発展性に余裕があったため戦闘爆撃機型など様々な派生型が生産され、後には液冷エンジン搭載型も生産された。 {{UK}} ; [[ホーカー]] [[ホーカー ハリケーン|ハリケーン]] : 大戦初中期のイギリス空軍の主力戦闘機。大戦前開発の旧式な構造ながら、[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス本土防空戦]]などでは主力戦闘機として爆撃機迎撃に活躍した。 ; [[スーパーマリン]] [[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]] : 高い機動性により大戦を通じてイギリス空軍の主力戦闘機として活躍。連合国側各国でも運用された。 ; [[デ・ハビランド・エアクラフト|デ・ハビランド]] [[デ・ハビランド モスキート|DH.98 モスキート]] : この時代のイギリス機にしては珍しく木製機。爆撃機として開発されたが、高速・大航続力を生かし爆撃機護衛の戦闘機や戦闘爆撃機、写真偵察機としても活躍。 {{JPN1889}} ; [[三菱航空機|三菱]] [[零式艦上戦闘機]] :太平洋戦争を通じて使用された日本海軍の主力艦上戦闘機。航続力と機動性に優れ、日本の航空史上最も生産された。 ; [[中島飛行機|中島]] [[一式戦闘機|一式戦闘機 隼]] : 太平洋戦争初中期の日本陸軍の主力戦闘機。軽戦闘機として重戦闘機の[[二式単座戦闘機|二式戦闘機]]と対に開発された。航続力と機動性に優れていた。 ;[[川崎航空機|川崎]] [[三式戦闘機|三式戦闘機 飛燕]] : 太平洋戦争における数少ない日本軍の[[液冷エンジン]]搭載機。陸軍機の中でも優秀な機体だったが、エンジンの信頼性に悩まされた。のちにエンジンを空冷に換装した[[五式戦闘機]]が運用された。 ;[[中島飛行機|中島]] [[四式戦闘機|四式戦闘機 疾風]] : 太平洋戦争後期の日本陸軍の主力戦闘機。その高性能や戦歴から「日本最優秀戦闘機」とアメリカ軍調査団に評された。 {{SSR}} ; [[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコヴレフ]] [[Yak-1 (航空機)|Yak-1]] : 大戦初期の[[赤色空軍]]の主力戦闘機。ソ連製戦闘機のはしりとなる[[デルタ合板]]を多用した機体。 ; [[S・A・ラヴォーチキン記念科学製造合同|ラヴォーチキン・ゴルブノフ・グトコフ]] [[LaGG-3 (航空機)|LaGG-3]] : 大戦中期の主力戦闘機。胴体構造材にも木材を使用した全木製機で、重いが機動性は高いほうであった。 ; [[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコヴレフ]] [[Yak-7 (航空機)|Yak-7]] : 練習機から発展した、大戦中期の主力戦闘機。 ; [[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコヴレフ]] [[Yak-9 (航空機)|Yak-9]] : Yak-1の発展型。極めて小型軽量であったことから、大戦後期のソ連空軍の主力戦闘機として活躍した。 ; [[S・A・ラヴォーチキン記念科学製造合同|ラヴォーチキン]] [[La-5 (航空機)|La-5]] : LaGG-3を改良した戦闘機。低空における格闘戦で活躍し、独ソ戦における主力戦闘機となった。 ; [[S・A・ラヴォーチキン記念科学製造合同|ラヴォーチキン]] [[La-7 (航空機)|La-7]] : La-5を改良した戦闘機。 === ジェット戦闘機への移行 === {{DEU1935}} [[ファイル:Messerschmitt Me 262 050606-F-1234P-055.jpg|thumb|250px|Me 262]] [[ファイル:P80-1 300.jpg|thumb|250px|P-80(F-80)]] [[ファイル:Gloster Meteor III ExCC.jpg|thumb|250px|ミーティア]] ; [[メッサーシュミット Me262|Me 262 シュヴァルベ/シュトゥルムフォーゲル]] : 史上初の実用ジェット戦闘機。後退翼、前輪式主脚など斬新な技術が目立つ。高速と強力な武装で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の[[戦略爆撃機]]の要撃に活躍し、[[戦闘爆撃機]]としても運用された。しかし、エンジンの耐用時間が短いなど技術的に未成熟の面もあった。 {{USA}} ; [[ベル・エアクラフト|ベル]] [[P-59 (航空機)|P-59 エアラコメット]] : アメリカ初のジェット戦闘機だが、試作のみで終わった。 ; [[ロッキード]] [[F-80 (戦闘機)|P-80/F-80 シューティングスター]] : アメリカ空軍初の実用ジェット戦闘機だが、朝鮮戦争時にはMiG-15相手に苦戦し、アメリカ空軍は後継としてF-86を投入した。 {{UK}} ; [[グロスター・エアクラフト|グロスター]] [[グロスター ミーティア|ミーティア]] : 第二次大戦中に登場した最初期のジェット機。遠心圧縮式のターボジェット・エンジンを装備していた。 ==== 第1世代の代表機 ==== [[ファイル:Mig 17 1 (4686522700).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|MiG-17]] [[ファイル:Shenyang J-5 ‘3020’ (32176226502).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|J-5]] {{main|第1世代ジェット戦闘機}} {{USA}} ; [[リパブリック・アビエーション|リパブリック]] [[F-84 (戦闘機)|P-84/F-84 サンダージェット/サンダーストリーク]] : 朝鮮戦争では主にアメリカ空軍の戦闘爆撃機として活躍。F9Fと同様に後に後退翼型も登場し、サンダーストリークと名付けられた。 ; [[ノースアメリカン]] [[F-86 (戦闘機)|P-86/F-86 セイバー]] : MiG-15に対抗するために開発された、後退翼設計の新鋭機。多種多様な派生型がつくられ、朝鮮戦争で新生アメリカ空軍の主力戦闘機として活躍した。 {{UK}} ; [[ホーカー]] [[ホーカー ハンター|ハンター]] : 登場時、世界は既に超音速機の時代へ移行しつつあったため、戦闘機としてはやや性能不足だったが、低空での機動性の高さや搭載量の多さを買われて[[印パ戦争]]・[[中東戦争]]等で活躍した。 {{SSR}} ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-9 (航空機)|MiG-9]] : ドイツから得た技術を下に開発された。軸流圧縮式ジェットエンジンを搭載。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-15 (航空機)|MiG-15]] : 朝鮮戦争でB-29要撃に活躍。この機体の活躍により、設計局の略称である[[MiG|ミグ]]の名はソ連戦闘機の代名詞となる。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-17 (航空機)|MiG-17]] : 洗練度が不十分だったMiG-15の改良型。 {{CHN}} ;[[瀋陽飛機工業集団|Shenyang]] [[J-5 (航空機)|J-5]] : 中国におけるMiG-17のライセンス生産機。 ==== 第2世代の代表機 ==== [[ファイル:Croatian MiG-21 (cropped).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|MiG-21]] [[ファイル:Shenyang J-6 (cropped).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|J-6]] {{main|第2世代ジェット戦闘機}} {{USA}} ; [[ノースアメリカン]] [[F-100 (戦闘機)|F-100 スーパーセイバー]] : 世界初の実用超音速戦闘機。 ; [[ロッキード]] [[F-104 (戦闘機)|F-104 スターファイター]] : 登場時『最後の有人飛行機』と呼ばれたスマートな機体。航空自衛隊でも採用された。 {{SSR}} ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-19 (航空機)|MiG-19]] : ソ連初の超音速戦闘機。MiG-15、[[MiG-17 (航空機)|MiG-17]]の発展型の後退翼戦闘機で、格闘性能では最高レベルに達していたが、反面武装搭載量や航続距離、エンジン寿命などに弱点があった。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-21 (航空機)|MiG-21]] : デルタ翼と水平尾翼を持つ、生産数10,000機をはるかに超える[[東側諸国|東側陣営]]のベストセラー機。近接戦能力には優れるが、武装搭載量と航続距離に不足があった。冷戦後、各国で改修案が出され海外で運用が続けられている。 : なお、初期量産型のMiG-21Fは第2世代に分類されるが、改良型のMiG-21SM以降は第3世代に分類される。 {{FRA}} ; [[ダッソー]] [[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュ III]] : 三角翼のベストセラー機、F-5と並び各国へ輸出された。 ;[[ダッソー]] [[ミラージュ5 (航空機)|ミラージュ 5]] : [[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュIII E]]をベースとして開発した[[戦闘爆撃機]]。 {{ISR}} ; [[イスラエル・エアロスペース・インダストリーズ|IAI]] [[クフィル (航空機)|クフィル]] : [[ミラージュIII (戦闘機)|ミラージュIII]]をベースに独自改良を行って開発した戦闘機。Kfirとは[[ヘブライ語]]で子ライオンの意。 {{ZAF}} ;アトラス・エアクラフト [[チーター (航空機)|チーター]] : ミラージュIIIの大規模なアップグレードとして、1980年代の国境戦争の最中に開発された。 {{CHN}} ;[[瀋陽飛機工業集団|Shenyang]] [[J-6 (航空機)|J-6]] : 中国におけるMiG-19のライセンス生産機。 ; [[成都飛機工業公司|Chengdu]] [[J-7 (航空機)|J-7]] : 中国におけるMiG-21のライセンス生産機。 ==== 第3世代の代表機 ==== [[ファイル:McDonnell Douglas F-4 Phantom II - Turkish Air Force - 77-0288 (48362650077).jpg|サムネイル|249x249ピクセル|F-4 ファントムII]] [[ファイル:Mirage F1 Cambrai.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ミラージュF1]] {{main|第3世代ジェット戦闘機}} {{USA}} ; [[マクドネル・エアクラフト|マクドネル]] [[F-4 (戦闘機)|F4H/F-4 ファントムII]] : 元はアメリカ海軍[[機動部隊|空母部隊]]の直掩機として開発されたが、高性能によりアメリカはもとより[[西側諸国|西側陣営]]を始め、[[中東]]諸国でも運用された。[[第四次中東戦争]]、[[ベトナム戦争]]、[[湾岸戦争]]などで活躍。 ; [[ノースロップ]] [[F-5 (戦闘機)|F-5 フリーダムファイター/タイガーII]] : 途上国向けの廉価な機体として開発された。E型とF型の愛称は「タイガーII」。 ; {{SSR}} ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-23 (航空機)|MiG-23]] : 可変翼が大きな特徴。性能を向上させた後期型では、機体性能だけなら西側陣営のF-4を凌駕する性能と評価された。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-25 (航空機)|MiG-25]] : アメリカ空軍の[[XB-70 (航空機)|XB-70]]や[[SR-71 (航空機)|SR-71]]等、超高速戦略機の迎撃用に開発された。現在でも世界最速の戦闘機である。 ; [[スホーイ]] [[Su-15 (航空機)|Su-15]] : [[ソ連防空軍]]の主力迎撃戦闘機として活躍。[[1982年]]の[[大韓航空機撃墜事件]]で有名になった。 ; [[スホーイ]] [[Su-17 (航空機)|Su-17]] : [[Su-7 (航空機)|Su-7]]を改良した[[可変翼]]機で、[[戦闘爆撃機]]や前線[[偵察機]]として使用された。 ; [[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコブレフ]] [[Yak-38 (航空機)|Yak-38]] : [[キエフ級航空母艦]]に搭載する[[垂直離着陸機|VTOL機]]として開発された。 {{UK}} ; [[ホーカー・シドレー]] [[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー]] : 西側陣営初の実用VTOL機として登場。[[フォークランド紛争]]などで活躍。 {{FRA}} ; [[ダッソー]] [[ミラージュF1 (戦闘機)|ミラージュ F.1]] : [[STOL|STOL性]]向上のため、ダッソー社の機体にしては珍しく尾翼付き後退翼の形態である。世界中へ約500機余りが輸出されている。 {{SWE}} ; [[SAAB|サーブ]] [[サーブ 37 ビゲン|JA37 ビゲン]] : STOL性能や即席滑走路からの離陸等を考慮し、デルタ翼とカナードを組み合わせるする当時としては特異な形態(第4世代機では普遍的)を採用した。開発に当たっては米国の[[軍事技術]]協力の影響もあって、世界的な評価を得る高性能機となった。 {{CHN}} ;[[瀋陽飛機工業集団|Shenyang]] [[J-8 (航空機)|J-8]] : 中国の[[J-7 (航空機)|J-7]]の拡大発展型。 ==== 第4世代の代表機 ==== [[ファイル:U.S. F-16C Fighting Falcon and Polish Mikoyan-Gurevich MiG-29A over Krzesiny air base, Poland - 20050615.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|F-16とMiG-29]] [[ファイル:Mirage 2000 Peru.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ミラージュ2000]] [[ファイル:2012.7.27 공군 T-50전력화 Rep.of Korea Air Force T-50 (7655222040).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|T-50]] {{main|第4世代ジェット戦闘機}} {{USA}} ; [[グラマン]] [[F-14 (戦闘機)|F-14 トムキャット]] : 可変後退翼が特徴の大型複座艦上戦闘機。空母機動部隊防衛用の直掩機として開発され、強力なレーダーと、長距離空対空ミサイル・[[AIM-54 フェニックス]]を搭載した。 ; [[マクドネル・ダグラス]] [[F-15 (戦闘機)|F-15 イーグル]] : [[航空自衛隊]]も採用した制空戦闘機。機体性能とそれまでの実績から世界一の呼び声高い機体。 ; [[ジェネラル・ダイナミクス]] [[F-16 (戦闘機)|F-16 ファイティング・ファルコン]] : 実用機として初めて[[フライ・バイ・ワイヤ]]を採用するなど、当時の最新技術を盛り込んだ機体。軽量だが高度な戦闘力を有し、世界中でベストセラーとなった。 ; [[マクドネル・ダグラス]] [[F/A-18 (航空機)|F/A-18 ホーネット]] : 現在の[[アメリカ海軍|米海軍]]・[[アメリカ海兵隊|米海兵隊]]の主力戦闘攻撃機。[[YF-17 (戦闘機)|YF-17]]として設計された時は軽量小型だったが、その後の改良により機体がかなり大型化した。 {{SSR}} ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-29 (航空機)|MiG-29]] : 西側諸国ではソ連版F-16と言われフォルムも似ているが、F-16と異なり双発機でありサイズ的にはF/A-18に近い。運動性に優れる。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-31 (航空機)|MiG-31]] : 超音速での迎撃に特化していたMiG-25に再設計を施し、より幅広い任務遂行が可能なように改良した型。エンジンや電子機器、主翼などが改変されている。 ; [[スホーイ]] [[Su-27 (航空機)|Su-27]] : 西側諸国ではソ連版F-15といわれた大型の制空戦闘機。他の戦闘機を圧倒する驚異的な機動性を持つ。発展型として、推力偏向ノズルを搭載した[[Su-30 (航空機)|Su-30MK]]、戦闘爆撃機仕様の[[Su-34 (航空機)|Su-34]]などがある。 ; [[スホーイ]] [[Su-33 (航空機)|Su-33]] : Su-27の空母搭載の艦上戦闘機仕様。空母格納庫での運用を考慮し主翼と水平尾翼が折畳み式になっている。 {{UK}}/{{GER}}/{{ITA}} ; パナヴィア [[トーネード ADV]] : 英独伊3カ国共同で開発した攻撃機の[[トーネード IDS]]を、イギリス空軍が戦闘機タイプに改修した機体。 {{FRA}} ; [[ダッソー]] [[ミラージュ2000 (戦闘機)|ミラージュ2000]] : F-16と並ぶ小型戦闘機。ミラージュシリーズ定番のデルタ翼機。 {{CHN}} ; [[成都飛機工業公司|成都]] [[J-10 (航空機)|J-10A]]<ref name="china4th">https://thediplomat.com/2020/04/flankers-vs-gripens-what-happened-at-the-falcon-strike-2015-exercise/</ref> ; [[瀋陽飛機工業集団|瀋陽]] [[su-27 (航空機)|J-11A]]<ref name="china4th"/> : [[Su-27]]の[[ライセンス生産]]型。 ; [[瀋陽飛機工業集団|瀋陽]] [[J-15 (航空機)|J-15]]<ref>http://en.people.cn/90786/8392418.html</ref> : 中国海軍唯一の[[艦上戦闘機]]<ref>https://nationalinterest.org/blog/buzz/china%E2%80%99s-getting-new-aircraft-carrier-plane-dont-get-too-excited-147651</ref>。 ; [[西安飛機工業公司|西安]] [[JH-7 (航空機)|JH-7]] : 西側諸国からの技術導入を行い、ソ連機のコピーから脱却した、中国独自設計による初のジェット戦闘爆撃機。 {{CHN}}/{{PAK}} ; [[成都飛機工業公司|成都]]/PAC<ref>https://thediplomat.com/2020/01/pakistans-jf-17-block-iii-fighter-jet-makes-maiden-flight/</ref> [[FC-1 (航空機)|JF-17 (FC-1)]] : 中国とパキスタンが共同開発した[[マルチロール機]]。 {{IND}} ; [[ヒンドスタン航空機|HAL]] [[テジャス (航空機)|テジャス]]<ref>https://timesofindia.indiatimes.com/videos/news/defence-minister-rajnath-singh-flies-sortie-on-lca-tejas/videoshow/71196055.cms</ref> {{TWN|ROC|}} ; [[漢翔航空工業|漢翔]] [[F-CK-1 (航空機)|F-CK-1 経国/雄鷹]] : [[台湾]]の国営航空企業である[[漢翔航空工業]](AIDC、Aerospace Industrial Development Corporation)が[[ジェネラル・ダイナミックス]](GD、現[[ロッキード・マーティン]])他数社の技術協力のもとにF-16をベースに開発した戦闘機である。 {{KOR}} ; [[韓国航空宇宙産業|KAI]] [[T-50 (航空機)|T-50]] ==== 第4.5世代の代表機 ==== [[ファイル:Mtnhome-1.jpg|thumb|250px|F-15E]] [[ファイル:Eurofighter EF-2000 Typhoon.jpg|thumb|250px|タイフーン]] [[ファイル:Rafale at Aero India 2017.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|ラファール]] {{main|第4世代ジェット戦闘機#第4.5世代ジェット戦闘機}} {{USA}} ; [[マクドネル・ダグラス]] [[F-15E (航空機)|F-15E ストライクイーグル]] : F-15に大幅な再設計を施し、強力な対地攻撃能力を持たせた戦闘爆撃機。21世紀現在、運用中のマルチロール機の中では最大の爆弾搭載量を誇る。第4.5世代戦闘機の中でも一番早く実用化された。 ; [[ロッキード・マーティン]]<ref>https://www.lockheedmartin.com/en-us/news/features/2016/meet-the-f-16v--the-most-technologically-advanced-4th-generation.html</ref> [[F-16 (戦闘機)|F-16]](後期型)<ref>https://www.airforcemag.com/article/0908issbf/</ref> : 段階的な改良が続けられたことにより後発の4.5世代機に引けを取らない能力を維持し続けている。 ; [[ボーイング]]<ref>https://www.boeing.com/defense/fa-18-super-hornet/index.page</ref> [[F/A-18E/F (航空機)|F/A-18E/F スーパーホーネット]] : F/A-18の全面的な改良型であり、大幅な性能向上が図られている。F/A-18からは大幅な設計変更がなされ、機体は大型化されている。 {{RUS}} ; [[スホーイ]] [[Su-30 (航空機)|Su-30SM]]<ref>https://thediplomat.com/2018/02/russia-to-upgrade-su-30sm-fighter-jets-in-2018/</ref> ; [[スホーイ]] [[Su-34 (航空機)|Su-34]] : Su-27の戦闘爆撃機型。並列複座式のコクピットが特徴。F-15Eと対比させて、俗にストライクフランカーと呼ばれる事もある。 ; [[スホーイ]] [[Su-35 (航空機)|Su-35]] : [[推力偏向ノズル]]の採用により高い機動性を有するSu-27の発展型。導入が予定されている現在のSu-35はSu-35Sとも呼称され、カナード翼のある初代[[Su-35 (航空機・初代)|Su-35]]に対して2代目となる。 ; [[MiG|ミグ]] [[MiG-35 (航空機)|MiG-35]] : 現在開発中のMiG-29から発展したマルチロール機。[[フェーズドアレイレーダー|AESAレーダー]]や推力偏向ノズル、スーパークルーズなど先進技術が多用されており、機動性はF-22ラプターに匹敵すると言われている。ロシアでは当機及びSu-35については第4.5世代(第4+世代)を更に上回る機体として[[第4世代ジェット戦闘機#第4++世代ジェット戦闘機|第4++世代]]の名称を使用している。 {{UK}}/{{GER}}/{{SPA}}/{{ITA}} ; [[ユーロファイター タイフーン]]<ref>https://www.eurofighter.com/the-aircraft</ref> : イギリス・ドイツ・イタリア・スペイン4カ国共同開発の機体。後述のラファールに似た機体で少し大きい。当初共同研究に加わっていたフランスの脱退などの政治的な理由から運用開始時期が当初の1990年代前半から2003年に延期された。 トランシェ(Tranche)と呼ばれる段階的開発が行われている。 {{FRA}} ; [[ダッソー]] [[ラファール (航空機)|ラファール]] : ミラージュ2000後継の双発デルタ翼機。フランスの単独開発故に資金面での問題を抱え、各国へ売り込みを模索するも、各種兵装や後継機等で有利な米国製戦闘機に対し劣勢を強いられている。 {{SWE}} ; [[SAAB|サーブ]] [[サーブ 39 グリペン|JAS39 グリペン]] : JA37と同等以上の戦闘力を持つ多任務戦闘機。重くなり過ぎたJA37の反省から、軽量化が図られている。 ; {{JPN}} ; [[三菱重工業|三菱]] [[F-2 (航空機)|F-2]] : [[F-1 (航空機)|F-1]]の後継機としてF-16C/D block40をベースに改良を行った機体。F-15J近代化改修機相当の空対空戦闘能力への改修も行われる。量産型141機の導入予定だったが、主に緊縮予算の影響により削減され、配備数は94機にとどまった<ref>https://motor-fan.jp/article/10015646</ref>。 {{CHN}} ; [[成都飛機工業公司|成都]] [[J-10 (航空機)|J-10C]]<ref name="china4th"/> : 中国においてSu-27に並ぶ空軍の主力戦闘機。一部は二次元推力偏向ノズル搭載のエンジンを使用している。イスラエルの試作戦闘機「[[ラビ (航空機)|ラビ]]」をベースにしていると推測されている。 ; [[瀋陽飛機工業集団|瀋陽]] [[su-27 (航空機)|J-11D]]<ref>https://nationalinterest.org/blog/buzz/not-dead-yet-will-f-16s-new-radars-let-it-take-out-cruise-missiles-134237</ref> ; [[瀋陽飛機工業集団|瀋陽]] [[J-16 (航空機)|J-16]]<ref name="china4th"/> {{CHN}}/{{PAK}} ; [[成都飛機工業公司|成都]]/PAC [[FC-1 (航空機)|JF-17 Block III]]<ref>https://www.thenews.com.pk/print/767018-paf-launches-serial-production-of-latest-jf-17-thunder-block-iii</ref> ==== 第5世代の代表機 ==== [[ファイル:Joint Strike Fighter make 100th flight (5515244176).jpg|サムネイル|250x250ピクセル|F-35]] [[ファイル:J-20 at Airshow China 2016.jpg|thumb|250px|J-20]] {{main|第5世代ジェット戦闘機}} {{USA}}<!-- F-15SEについてはF/A-18E程度のステルス性の可能性もあり、現時点で第5世代と断定すべきではない。追記:現在WikipediaではF-15SEは4.5世代機に列挙されています。[[第4世代ジェット戦闘機]]を参照。--> ;[[ロッキード・マーティン]]/[[ボーイング]] [[F-22 (戦闘機)|F-22 ラプター]] : 高度なステルス性と機動性を併せ持つ、最初の第5世代機。F-15の後継として開発され、現時点で他国戦闘機に比べ圧倒的な性能を持つが、冷戦終結により[[過剰性能]]で高価過ぎるとの理由から調達数が減少。 ; [[ロッキード・マーティン]] [[F-35 (戦闘機)|F-35 ライトニングII]] : 米英などで予算を共同出資。統合打撃戦闘機(JSF:Joint Strike Fighter)として、[[アメリカ空軍]]・[[アメリカ海軍|海軍]]・[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]で採用された他、多数の国で採用。F-16やF/A-18、ハリアー、[[A-10 (航空機)|A-10]]などの後継として、世界中へ輸出される。 <!-- F-15SEについてはF/A-18E程度のステルス性の可能性もあり、現時点で第5世代と断定すべきではない -->{{RUS}} ; [[スホーイ]] [[Su-57 (航空機)|Su-57]] : 2020年から運用を開始し<ref>https://asiatimes.com/2020/12/russia-nets-a-special-su-57-fighter-jet-for-christmas/</ref>、ロシアで1番目のステルス戦闘機である。機動性を重視した戦闘機である<ref>https://www.businessinsider.jp/post-107213</ref>。 {{CHN}} ; [[成都飛機工業公司|成都]] [[J-20 (戦闘機)|J-20]] : [[中国航空工業集団公司]]に属する[[成都飛機工業公司]]が開発した機体。2017年3月に中国空軍に実戦配備されたと中国メディアが報じた。 ; [[瀋陽飛機工業集団|瀋陽]] [[J-31 (航空機)|J-31]] : 中国航空工業集団公司に属する[[瀋陽飛機工業集団]]が開発中の機体<ref>https://nationalinterest.org/blog/buzz/americas-f-35-vs-chinas-j-31-stealth-fighter-video-breaks-it-all-down-63837</ref>。本機は中国で2番目のステルス戦闘機であり、全長17m程度の中型の双発戦闘機である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 関連項目 == * [[飛行機]] * [[軍用機]] * [[戦闘機一覧]] * [[軍用機のコックピット]] * [[国籍マーク]] * [[翼章]] * [[ノーズアート]] * [[ジョン・ボイド (軍人)|ジョン・ボイド]] * [[エネルギー機動性理論]] * [[軍用機の設計思想]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{軍用機}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せんとうき}} [[Category:戦闘機|*]]
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鹿児島市電唐湊線
唐湊線(とそせん)は、鹿児島県鹿児島市中央町の鹿児島中央駅前停留場から鹿児島市鴨池二丁目の郡元停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。 括弧内は旧名。
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唐湊線(とそせん)は、鹿児島県鹿児島市中央町の鹿児島中央駅前停留場から鹿児島市鴨池二丁目の郡元停留場までを結ぶ鹿児島市交通局(鹿児島市電)の軌道路線である。
{{Infobox rail line | box_width = 300px; | other_name = | name = 唐湊線 | image = Kagoshima prefectural road 24 at Kagoshima-Chuo Station.JPG | image_width = 300px | image_alt = | caption = 鹿児島中央駅前停留場から郡元方面を望む | type = | status = | start = 起点:[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]] | end = 終点:[[郡元停留場]] | stations = 10 | open = {{Start date|1950|10|01|df=y}} | lastextension = 1959年12月20日 | event1label = | event1 = | close = | owner = [[鹿児島市交通局]] | operator = | depot = | stock = [[鹿児島市交通局#車両]]を参照 | linelength_km = 2.7 | linelength = | gauge = {{RailGauge|1435mm|lk=on}} | minradius_m = | linenumber = | el = [[直流電化|直流]]600 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = | maxincline = | map = | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{BS-header|停留場・施設・接続路線}} {{BS-table}} {{BS2||uKHSTa|||[[鹿児島駅|鹿児島駅前停留場]]|}} {{BS2||uSTR|||[[鹿児島市電第二期線|第二期線]]|}} {{BS2|STR+4|uSTR|||[[鹿児島本線]]|}} {{BS4|KBHFeq|BHF|uBHF||0.0|[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]]||}} {{BS2|STR|uSTR|||[[九州新幹線]]|}} {{BS2|STR|uBHF|0.4|[[都通停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|0.6|[[中洲通停留場]]||}} {{BS2|ABZgr|uSTR|||鹿児島本線|}} {{BS2|STR|uBHF|1.0|[[市立病院前停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|1.2|[[神田(交通局前)停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|1.5|[[唐湊停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|1.7|[[工学部前停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|1.9|[[純心学園前停留場]]||}} {{BS2|STR|uBHF|2.2|[[中郡停留場]]||}} {{BS4||STR|uSTR|uSTR+1|||[[鹿児島市電谷山線|谷山線]]|}} {{BS4||STR|uSTRl|uBHF|O4=uKBHFeq|2.7|[[郡元停留場]]||}} {{BS4||STR2|STRc3|uSTR|||谷山線|}} {{BS2|STRc1|STR+4|||[[指宿枕崎線]]|}} |} |} '''唐湊線'''(とそせん)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[中央町 (鹿児島市)|中央町]]の[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]]から鹿児島市[[鴨池 (鹿児島市)|鴨池二丁目]]の[[郡元停留場]]までを結ぶ[[鹿児島市交通局]]([[鹿児島市電]])の[[軌道法|軌道]]路線である。 == 路線データ == *路線距離([[営業キロ]]):2.7&nbsp;km<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成29年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref> *[[軌間]]:1435mm *停留場数:10(起終点含む) *複線区間:全線複線 *電化区間:全線電化([[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]) == 運行形態 == *[[鹿児島市電2系統|2系統]](鹿児島駅前 - 鹿児島中央駅前 - 郡元) - 唐湊線全区間を6分間隔で運行 == 歴史 == *[[1950年]]([[昭和]]25年)[[10月1日]] - 西鹿児島駅前 - 中洲通間が開業。 *[[1952年]](昭和27年)[[6月1日]] - 中洲通 - 唐湊間が開業。 *[[1957年]](昭和32年)[[3月29日]] - 唐湊 - 大学通(現・工学部前)間が開業。唐湊停留場を神田停留場へ改称。 *[[1959年]](昭和34年)[[12月20日]] - 工学部前 - 郡元間が開業し全通。 *[[1985年]](昭和34年)[[4月15日]] - 専売公社前停留場をたばこ産業前停留場に改称。 *[[2004年]]([[平成]]16年)[[3月13日]] - 西鹿児島駅前停留場を鹿児島中央駅前停留場に改称。 *[[2015年]](平成27年)[[5月1日]] - たばこ産業前停留場を市立病院前停留場に、神田停留場を神田(交通局前)停留場に改称。 == 停留場一覧 == 括弧内は旧名。 *[[鹿児島中央駅|鹿児島中央駅前停留場]](←西鹿児島駅前←武駅前) *[[都通停留場]] *[[中洲通停留場]] *[[市立病院前停留場]](←たばこ産業前←専売公社前) *[[神田(交通局前)停留場]](←神田←唐湊) *[[唐湊停留場]] *[[工学部前停留場]](←大学通) *[[純心学園前停留場]] *[[中郡停留場]] *[[郡元停留場]] == 接続路線 == *鹿児島中央駅前停留場:[[鹿児島市電第二期線]](直通)、[[九州新幹線]]・[[鹿児島本線]]・[[日豊本線]]<ref>正式には小倉駅 - 鹿児島駅間の路線だが列車は鹿児島中央駅に乗り入れる。</ref>・[[指宿枕崎線]]([[鹿児島中央駅]]) *郡元停留場:[[鹿児島市電谷山線]] == 脚注および参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} * {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }} == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] {{鹿児島市電の路線}} {{日本の路面電車}} {{デフォルトソート:かこしましてんとそせん}} [[Category:九州地方の鉄道路線|とそせん]] [[Category:鹿児島市交通局|路とそせん]] [[Category:日本の路面電車路線]] [[Category:鹿児島県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%9B%BB%E5%94%90%E6%B9%8A%E7%B7%9A
15,600
仙台市交通局
仙台市交通局(せんだいしこうつうきょく)は、仙台市の地方公営企業の一つで、宮城県仙台市およびその周辺で公共交通機関などを運営している。路線バス事業(仙台市営バス)を行う「自動車部」、地下鉄事業(仙台市地下鉄)を行う「鉄道管理部」「鉄道技術部」に分かれている。 仙台市ガス局・仙台市水道局同様、仙台市役所とは独立した庁舎を持っている。 詳細は各部の項を参照のこと 高速鉄道部・自動車部とも清掃・整備等一部業務を系列の仙台交通株式会社に委託している。 ★印の営業所は宮城交通へ、☆印の出張所はジェイアールバス東北仙台支店にそれぞれ委託している拠点。
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仙台市交通局(せんだいしこうつうきょく)は、仙台市の地方公営企業の一つで、宮城県仙台市およびその周辺で公共交通機関などを運営している。路線バス事業(仙台市営バス)を行う「自動車部」、地下鉄事業(仙台市地下鉄)を行う「鉄道管理部」「鉄道技術部」に分かれている。 仙台市ガス局・仙台市水道局同様、仙台市役所とは独立した庁舎を持っている。
{{基礎情報 会社 | 社名 = 仙台市交通局 | 英文社名 = Transportation Bureau City of Sendai | ロゴ = Transportation Bureau City of Sendai Logo.svg | 画像 = [[ファイル:Sendai City Transportation Bureau cropped.jpg|250px]] | 画像説明 = 仙台市交通局本庁舎(2004年10月12日) | 種類 = [[地方公営企業]] | 市場情報 = <!-- {{上場情報|取引市場|コード|上場日|上場廃止日}} --> | 略称 = [[仙台市地下鉄]]、[[仙台市営バス]] | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 980-0801 | 本社所在地 = [[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]][[木町通]]一丁目4番15号<br />{{ウィキ座標2段度分秒|38|16|9.38|N|140|51|44.84|E|region:JP|name=仙台市交通局}} | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[11月25日]] | 解散 = <!-- [[○○年]][[○○月○○日]] --> | 業種 = 陸運業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 高速鉄道事業、乗合バス事業、貸切バス事業、公有財産貸付事業 | 代表者 = 仙台市交通事業管理者 加藤 俊憲 | 資本金 = | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 営業利益 = | 経常利益 = | 純利益 = | 純資産 = | 総資産 = | 従業員数 = 1,128人 | 支店舗数 = | 決算期 = | 主要株主 = | 主要子会社 = [[仙台交通]] | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.kotsu.city.sendai.jp/ | 特記事項 = }} '''仙台市交通局'''(せんだいしこうつうきょく)は、[[仙台市]]の[[地方公営企業]]の一つで、[[宮城県]]仙台市およびその周辺で[[公共交通機関]]などを運営している。[[路線バス]]事業([[仙台市営バス]])を行う「自動車部」、[[地下鉄]]事業([[仙台市地下鉄]])を行う「鉄道管理部」「鉄道技術部」に分かれている。 [[仙台市ガス局]]・[[仙台市水道局]]同様、[[仙台市役所]]とは独立した庁舎を持っている。 == 沿革 == '''詳細は各部の項を参照のこと''' === 年表 === *[[1926年]]([[大正]]15年)[[11月25日]]、仙台市電気部電車課(当時)が[[仙台市電|市電]]を開業<ref name="History1-3">{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyo/gaiyo/pdf/25nendoban/01-03.pdf 1 沿革 -仙台市交通事業のあゆみ-]}}(仙台市交通局)</ref>。 *[[1942年]]([[昭和]]17年)[[8月21日]]、仙台市街自動車を買収して[[仙台市営バス|市営バス]]営業を開始<ref name="History1-3"/>。 *[[1943年]](昭和18年)[[11月20日]]、定義観光自動車、増東自動車([[増東軌道]]の後身)、根白石自動車運輸、仙山自動車、港組を買収。 *[[1945年]](昭和20年)[[8月19日]]、仙台市交通部に改組。 *[[1952年]](昭和27年)[[10月1日]]、仙台市交通部を仙台市交通事業局に改称。 *[[1955年]](昭和30年)[[9月16日]]、仙台市交通事業局を仙台市交通局に改称<ref name="History1-3"/>。電車部および自動車部を新設<ref name="History1-3"/>。 *[[1976年]](昭和51年)[[3月31日]]、この日限りで市電全線廃止<ref name="History1-3"/><ref>{{Cite book |和書 |author=池田光雅 |year= 1993|title=鉄道総合年表1972-93 |publisher=中央書院 |page=43 |isbn=4-924420-82-4 |quote=3月31日 仙台市電4路線(中略)この日限りで廃止され市電全廃 }}</ref>。 *[[1987年]](昭和62年)[[7月15日]]、[[仙台市地下鉄南北線|地下鉄南北線]] [[八乙女駅|八乙女]] - [[富沢駅|富沢]]間開業<ref name="History1-3"/>。 *[[1991年]]([[平成]]3年)[[4月25日]]、市電保存館開館<ref name="History1-3"/>。 *[[1992年]](平成4年)7月15日、地下鉄南北線八乙女 - [[泉中央駅|泉中央]]間開業<ref name="History1-3"/>。 *[[1998年]](平成10年)[[11月2日]]、公式[[ウェブサイト|サイト]]を公開開始<ref name="History1-3"/>。 *[[2002年]](平成14年)[[3月29日]]、仙台市が[[オムニバスタウン]]に指定。 *[[2006年]](平成18年)4月1日、[[バスロケーションシステム]]導入<ref name="History1-3"/>。白沢出張所の運転・車両管理業務を5年間の期限付きで[[ジェイアールバス東北仙台支店]]に委託<ref name="History1-3"/>。 *[[2007年]](平成19年)、地下鉄東西線工事の開始。地下鉄事業の案内名称を「仙台市地下鉄」に一本化。 *[[2008年]](平成20年)4月1日、[[仙台市交通局岡田出張所|岡田出張所]]の運転・車両管理業務を5年間の期限付きで[[宮城交通]]に委託<ref name="History1-3"/>。 *[[2009年]](平成21年)4月1日、七北田出張所の運転・車両管理業務を5年間の期限付きで[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]に委託<ref name="History1-3"/>。 *[[2010年]](平成22年)4月1日、[[仙台市交通局新寺出張所|新寺出張所]]開設<ref name="History1-3"/>。新寺出張所の運転・車両管理業務を5年間(東仙台営業所を委託する契約のうち、最初の2年間だけ部分的に委託するもの)の期限付きで宮城交通に委託<ref name="History1-3"/>。 *[[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])発生。市営バスは全線で運行を停止し、安全を確認できた路線を順次運行再開<ref name="History1-3"/>。岡田出張所が地震に伴う[[津波]]で被災し、機能停止に陥る<ref name="History1-3"/>。地下鉄は南北線が運行停止、東西線が全工区で工事中断した<ref name="History1-3"/>。 ** [[3月12日]]、市営バスの主要幹線路線において、不定期ダイヤで運行再開<ref name="History1-3"/>。岡田出張所の業務を霞の目営業所に移転して再開<ref name="History1-3"/>。 ** [[3月14日]]、地下鉄南北線を富沢 - [[台原駅|台原]]間において折り返し運転で運行再開し、台原 - 泉中央間をシャトルバスで代行運行<ref name="History1-3"/>。 ** [[3月28日]]、市営バスを休日ダイヤ運行に切り替え<ref name="History1-3"/>。 ** [[4月18日]]、市営バスを通常ダイヤ運行に切り替え<ref name="History1-3"/>。 ** [[4月29日]]、地下鉄南北線を「[[震災復興キッフオフデー]]」に合わせて全線運行再開<ref name="History1-3"/>。 ** [[6月1日]]、震災の影響で2か月遅れて市営バスのダイヤを改正<ref name="History1-3"/>。東仙台営業所の運転・車両管理業務を、新寺出張所の業務委託時開始時から含めた5年間の契約で宮城交通に委託<ref name="History1-3"/>。これに伴い、東仙台営業所配下にある七北田出張所が実沢営業所配下へ、新寺出張所が長町営業所配下へそれぞれ配置換。 ** [[6月20日]]、地下鉄東西線の工事を順次再開<ref name="History1-3"/>。 *[[2012年]](平成24年)4月1日、新寺出張所の運転・車両管理業務を、震災の影響で機能していない岡田出張所の機能と合わせる形で、暫定的に改めて宮城交通に委託<ref name="History1-3"/>。これに伴い、新寺出張所が長町営業所配下より霞の目営業所配下へ配置換(岡田出張所は、霞の目営業所配下)。 *[[2013年]](平成25年)4月1日、[[仙台市交通局霞の目営業所<!--分室-->|霞の目営業所分室]]開設。新寺出張所の運転・車両管理業務を、正式に宮城交通に委託開始。併せて霞の目営業所本所一部について、「霞の目営業所分室」として同一地で独立させたうえで、別途宮城交通に委託。 *[[2014年]](平成26年) ** 12月1日 *** IC[[乗車カード]]「[[icsca]]」を発行開始。 *** [[定期乗車券]]の[[クレジットカード]]決済を開始。[[三菱UFJニコス]]([[Visa|VISA]]および[[MasterCard]]ブランドを含む)および[[七十七カード]]([[JCB]]ブランド{{Efn|[[AMEX]]および[[Diners]]ブランドの決済をこれに含む。}}を含む)との決済契約締結に伴うもの。 ** 12月6日、地下鉄南北線にIC乗車カード「icsca」を導入<ref>{{Cite web|url=http://www.kotsu.city.sendai.jp/iccard/news/dounyu/index.html|title=ICカード乗車券「イクスカ」の利用開始時期が決まりました|website=仙台市交通局|accessdate=2023-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140327053608/http://www.kotsu.city.sendai.jp/iccard/news/dounyu/index.html|archivedate=2014-03-27}}</ref>。 *[[2015年]](平成27年) ** 4月1日、長町営業所の車両整備部門を民間会社に業務委託。 ** 7月29日、地下鉄南北線の[[仙台駅]]構内などに設置される4売店が[[ファミリーマート]]に転換して営業を開始<ref>{{Cite web|title=地下鉄駅構内にファミリーマートがオープンします|date=|accessdate=2015-07-23|publisher=仙台市交通局|url=http://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/news/baiten.html}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201507/20150730_12039.html|title=<ファミマ>地下鉄駅に店舗型売店の出店続々|newspaper=[[河北新報]]|date=2015-07-30|accessdate=2015-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150802055741/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201507/20150730_12039.html|archivedate=2015-08-02}}</ref>。 ** 12月6日、[[仙台市地下鉄東西線|地下鉄東西線]] 荒井 - 八木山動物公園間開業。icscaの地下鉄東西線およびバス利用を開始し、磁気カード(ジョイカード、スキップカード、バスカード)の発売を前日5日で終了。霞の目営業所の運転・車両業務全般を、霞の目営業所分室との委託事業所振替の形で宮城交通に委託。同時に、新寺出張所と霞の目営業所分室を統合。新寺出張所は新寺駐車場に戻る。 *[[2016年]](平成28年) ** 3月26日、「icsca」と「suica」の仙台圏における相互利用サービス開始<ref>{{Cite web|url=http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/12/icscasuica.pdf|format=PDF|title=「icsca」と「Suica」の仙台圏における 相互利用サービスの開始日について|website=仙台市交通局|date=2015-12-21|accessdate=2023-09-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151223225310/http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/12/icscasuica.pdf|archivedate=2015-12-23}}</ref>。 ** 10月31日、磁気カード乗車券(ジョイカード、スキップカード、バスカード)の利用終了。 === 事業変遷 === #{{legend|magenta|[[仙台市営バス]](1942年8月21日 - )}} #{{legend|orange|特急[[仙台空港]]バス「[[エアポート・リムジンバス (仙台市)|エアポート・リムジンバス]]」(貸切:1957年4月 - 、路線バス:1965年12月1日 - 2007年3月17日)}} #{{legend|maroon|仙台市観光シティループバス「[[るーぷる仙台]]」(1999年5月13日 - )}} #{{legend|yellowgreen|仙台市電[[廃止代替バス]]路線「グリーンバス」(1976年3月31日 - 1987年7月14日)}} #{{legend|blue|[[仙台市電]](1926年11月25日 - 1976年3月31日)}} #{{legend|green|[[ファイル:Sendai City Subway Logo.svg|22px|link=仙台市地下鉄]] [[仙台市地下鉄南北線]](1987年7月15日 - 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2007年3月17日廃止 : ;高速鉄道事業 :[[仙台市地下鉄]] :*[[仙台市地下鉄南北線|南北線]] :*[[仙台市地下鉄東西線|東西線]] : ;市電事業 :[[仙台市電]] - 1976年廃止 == 組織機構 == *交通局本庁舎(青葉区木町通1丁目) *高速鉄道部 **[[富沢車両基地]] **[[荒井車両基地]] **勾当台管区駅 **仙台管区駅 **東西線管区駅 *自動車部<!--業務詳細は当該記事を参照--> **[[仙台市交通局長町営業所|長町営業所]] **[[仙台市交通局霞の目営業所|霞の目営業所]]★ **[[仙台市交通局東仙台営業所|東仙台営業所]]★ **[[仙台市交通局実沢営業所|実沢営業所]] ***[[仙台市交通局七北田出張所|七北田出張所]]☆ **[[仙台市交通局川内営業所|川内営業所]] ***[[仙台市交通局白沢出張所|白沢出張所]]☆ 高速鉄道部・自動車部とも清掃・整備等一部業務を系列の[[仙台交通]]株式会社に委託している。 ★印の営業所は[[宮城交通]]へ、☆印の出張所は[[ジェイアールバス東北仙台支店]]にそれぞれ委託している拠点。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sendai City Transportation Bureau}} *[[仙台市営モノレール南西線]] - [[未成線|未成]]となったモノレール計画 *[[宮城交通]] *[[ジェイアールバス東北]] *[[愛子観光バス]] *[[東日本急行]] *[[鉄道むすめの登場人物#WEB]] - 仙台市地下鉄運転士という設定のキャラクター「青葉あさひ」がいる。 == 外部リンク == * [https://www.kotsu.city.sendai.jp/ 仙台市交通局](公式ウェブサイト) * [http://www.dokobasu.kotsu.city.sendai.jp/wgsys/wgp/search.htm どこバス 仙台](バスロケーションシステム) * [http://sendaikotsu.co.jp/ 仙台交通株式会社] {{仙台市交通局}} {{DEFAULTSORT:せんたいしこうつうきよく}} [[Category:仙台市交通局|*]] [[Category:宮城県の地方公営企業]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:東北地方の乗合バス事業者]] [[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]] [[Category:宮城県の交通]] [[Category:仙台市青葉区の企業]] [[Category:1926年設立の企業]]
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仙台市地下鉄南北線
南北線(なんぼくせん)は、宮城県仙台市泉区の泉中央駅から同市太白区の富沢駅を結ぶ仙台市交通局の地下鉄路線。ラインカラーは緑。路線記号は○N。 事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第1号 仙台市高速鉄道南北線。事業延長は15.56km(地下式11.65km)。 1987年の開業当初から全列車が4両編成で、ワンマン運転が行われている。原則自動運転で運行されている。他線と線路が繋がっていない独立した路線であり、直通運転はない。 2015年12月6日に同じ仙台市交通局の東西線が開業するまでは、仙台市及び東北地方唯一の地下鉄だった。また、開業当時の仙台市は地下鉄のある都市としては珍しく政令指定都市ではなかった。 仙台市地下鉄南北線は、仙台市泉区の泉中央副都心にある泉中央駅から、北仙台、仙台市都心部、長町副都心を通って、仙台市太白区の富沢に至る路線である。路線の大部分は地下線だが、両端では高架線あるいは地上線となっている。地形との関係については仙台の地形の項目を参照。 1960年代以降の高度経済成長で仙台市郊外も住宅建設が急増していった。隣接する泉市(現在の仙台市泉区)における宅地開発はより加速度を増しており、増え続ける住宅団地に交通網が追い付かない状況だった。特に県道仙台泉線の渋滞は酷く、自動車だけではなくバスも需要が逼迫しており、これらの緩和には地下鉄が必要との仙台市の審議会の勧告を受けて1981年に着工された。 都心流入のバスを減らすために、一部の駅にバスプールを併設し、バス・地下鉄乗り継ぎを促すバス系統と運賃体系が整備・運用されている。泉中央駅や長町南駅のように地下鉄とバスの乗り継ぎが一般化した駅もある一方で、北仙台駅のように一部の路線を除きバスプールに乗り入れずに都心に直通する例も見られる。 この他、地下鉄のみで都心に通勤・通学する人達の需要に応えた形で、沿線のマンション建設が活発化した。 開業時期は丁度バブル景気期であったため、都心の地価が高騰しており、地下鉄によって泉中央に業務機能が分散して地価上昇を抑える助けとなり、泉中央の都市化が進んだ。 開業前の仙台市による利用者数予測では、開業時点で一日当たり22.5万人、開業20年目の2007年には33万人となる計画だった。実際には、開業初年度は一日平均11万人で、その後は増加傾向で推移したものの、1995年の16.7万人をピークに微減傾向となった。近年は再び増加し、2016年度の一日平均乗車人員は18.7万人(年間約6,818万人)となっている。 全列車が、泉中央駅 - 富沢駅間を通しで運転される。運行間隔は、平日日中と土・休日(早朝と深夜を除く)が8〜10分間隔、平日朝ラッシュ時が3〜4分間隔、平日夕ラッシュ時が5分半間隔となっている。 なお終電は、仙台駅発車時刻が富沢行・泉中央行ともに23:59である。2023年7月1日のダイヤ改正以前は、金曜日と金曜が祝日となる場合の木曜日に限り、その日に運行される東京駅発東北新幹線の臨時列車「やまびこ249号」(仙台駅23:52着)との連絡を目的に、富沢行・泉中央行24:11発の列車が運転されていた。 全駅とも宮城県仙台市に所在。 かつては仙台鉄道が通り、現在は仙台のベッドタウンとなっている富谷市や大和町からは、国道4号等の幹線道路が慢性的渋滞に悩まされるようになったことから泉中央以北への延伸の要望がある。 名取市でも延伸の要望がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南北線(なんぼくせん)は、宮城県仙台市泉区の泉中央駅から同市太白区の富沢駅を結ぶ仙台市交通局の地下鉄路線。ラインカラーは緑。路線記号は○N。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第1号 仙台市高速鉄道南北線。事業延長は15.56km(地下式11.65km)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1987年の開業当初から全列車が4両編成で、ワンマン運転が行われている。原則自動運転で運行されている。他線と線路が繋がっていない独立した路線であり、直通運転はない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2015年12月6日に同じ仙台市交通局の東西線が開業するまでは、仙台市及び東北地方唯一の地下鉄だった。また、開業当時の仙台市は地下鉄のある都市としては珍しく政令指定都市ではなかった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "仙台市地下鉄南北線は、仙台市泉区の泉中央副都心にある泉中央駅から、北仙台、仙台市都心部、長町副都心を通って、仙台市太白区の富沢に至る路線である。路線の大部分は地下線だが、両端では高架線あるいは地上線となっている。地形との関係については仙台の地形の項目を参照。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1960年代以降の高度経済成長で仙台市郊外も住宅建設が急増していった。隣接する泉市(現在の仙台市泉区)における宅地開発はより加速度を増しており、増え続ける住宅団地に交通網が追い付かない状況だった。特に県道仙台泉線の渋滞は酷く、自動車だけではなくバスも需要が逼迫しており、これらの緩和には地下鉄が必要との仙台市の審議会の勧告を受けて1981年に着工された。", "title": "建設の目的と効果" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "都心流入のバスを減らすために、一部の駅にバスプールを併設し、バス・地下鉄乗り継ぎを促すバス系統と運賃体系が整備・運用されている。泉中央駅や長町南駅のように地下鉄とバスの乗り継ぎが一般化した駅もある一方で、北仙台駅のように一部の路線を除きバスプールに乗り入れずに都心に直通する例も見られる。", "title": "建設の目的と効果" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この他、地下鉄のみで都心に通勤・通学する人達の需要に応えた形で、沿線のマンション建設が活発化した。", "title": "建設の目的と効果" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "開業時期は丁度バブル景気期であったため、都心の地価が高騰しており、地下鉄によって泉中央に業務機能が分散して地価上昇を抑える助けとなり、泉中央の都市化が進んだ。", "title": "建設の目的と効果" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "開業前の仙台市による利用者数予測では、開業時点で一日当たり22.5万人、開業20年目の2007年には33万人となる計画だった。実際には、開業初年度は一日平均11万人で、その後は増加傾向で推移したものの、1995年の16.7万人をピークに微減傾向となった。近年は再び増加し、2016年度の一日平均乗車人員は18.7万人(年間約6,818万人)となっている。", "title": "建設の目的と効果" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "全列車が、泉中央駅 - 富沢駅間を通しで運転される。運行間隔は、平日日中と土・休日(早朝と深夜を除く)が8〜10分間隔、平日朝ラッシュ時が3〜4分間隔、平日夕ラッシュ時が5分半間隔となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお終電は、仙台駅発車時刻が富沢行・泉中央行ともに23:59である。2023年7月1日のダイヤ改正以前は、金曜日と金曜が祝日となる場合の木曜日に限り、その日に運行される東京駅発東北新幹線の臨時列車「やまびこ249号」(仙台駅23:52着)との連絡を目的に、富沢行・泉中央行24:11発の列車が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "全駅とも宮城県仙台市に所在。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "かつては仙台鉄道が通り、現在は仙台のベッドタウンとなっている富谷市や大和町からは、国道4号等の幹線道路が慢性的渋滞に悩まされるようになったことから泉中央以北への延伸の要望がある。", "title": "延伸構想" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "名取市でも延伸の要望がある。", "title": "延伸構想" } ]
南北線(なんぼくせん)は、宮城県仙台市泉区の泉中央駅から同市太白区の富沢駅を結ぶ仙台市交通局の地下鉄路線。ラインカラーは緑。路線記号は○N。 事業名称は、仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第1号 仙台市高速鉄道南北線。事業延長は15.56km(地下式11.65km)。 1987年の開業当初から全列車が4両編成で、ワンマン運転が行われている。原則自動運転で運行されている。他線と線路が繋がっていない独立した路線であり、直通運転はない。 2015年12月6日に同じ仙台市交通局の東西線が開業するまでは、仙台市及び東北地方唯一の地下鉄だった。また、開業当時の仙台市は地下鉄のある都市としては珍しく政令指定都市ではなかった。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Sendai City Subway Logo.svg|30px|仙台市地下鉄|link=仙台市地下鉄]] 南北線 |路線色=#317C66 |画像=Sendai Subway 1000 series ①.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[仙台市交通局1000系電車|1000系電車]]<br>(2022年7月3日 [[泉中央駅]] - [[八乙女駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[宮城県]][[仙台市]] |種類=[[地下鉄]] |路線網=[[仙台市地下鉄]] |起点=[[泉中央駅]] |終点=[[富沢駅]] |駅数=17駅 |輸送実績= |1日利用者数= |路線記号=N |開業=[[1987年]][[7月15日]] |最終延伸=[[1992年]][[7月15日]] |所有者=[[仙台市交通局]] |運営者=仙台市交通局 |車両基地=[[富沢車両基地]] |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=14.8 [[キロメートル|km]] |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配=35 [[パーミル|‰]] |最小曲線半径=160 [[メートル|m]] |閉塞方式=車内信号閉塞式 |保安装置=[[自動列車制御装置|ATC]] |最高速度=75 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="judan">『日本縦断! 地下鉄の謎』 - 小佐野カゲトシ</ref> |路線図= |路線図名= |路線図表示=<!--collapsed--> }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#317C66}} {{BS-table}} {{BS3|tKBHFa|||0.0|N01 [[泉中央駅]]||}} {{BS3|htSTRe||||||}} {{BS3|hKRZW|||||[[七北田川]]|}} {{BS3|hBHF|||1.2|N02 [[八乙女駅]]||}} {{BS3|hTUNNEL2||||||}} {{BS3|hKRZWe|||||[[真美沢堤]]|}} {{BS3|BHF|||2.5|N03 [[黒松駅 (宮城県)|黒松駅]]||}} {{BS3|tSTRa||||||}} {{BS3|tBHF|||3.3|N04 [[旭ヶ丘駅 (宮城県)|旭ヶ丘駅]]||}} {{BS3|tBHF|||4.3|N05 [[台原駅]]||}} {{BS3|tKRZW|||||[[梅田川 (宮城県)|梅田川]]|}} {{BS3|tKRZ|BHFq|O2=HUBa||||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[仙山線]]→|}} {{BS3|tBHF|O1=HUBaq|HUBrf||5.4|N06 [[北仙台駅]]||}} {{BS3|tBHF|||6.6|N07 [[北四番丁駅]]||}} {{BS3|tBHF|||7.3|N08 [[勾当台公園駅]]||}} {{BS3|tBHF|||7.9|N09 [[広瀬通駅]]||}} {{BS3|tSTR||STR+l|||JR東:[[東北本線]]・仙山線|}} {{BS7|||tSTR|STR+l|KRZu|O5=HUBrg-L|HUB-Rq|HUBlg-R|||JR東:[[東北新幹線]]|}} {{BS7||tKBHFaq|O2=HUBa|P2=HUBrg-L|tKRZt|O3=HUB-Rq|KRZt|O4=HUB-Rq|KRZt|O5=HUBrf-L|tHSTq|HUB-R|||←JR東:[[仙石線]]→|}} {{BS7||HUB|O2=HUB-L|tSTR|BHF-L|BHF-R||HUB-R|||←[[あおば通駅]] / 仙台駅→|}} {{BS7||tSTRq|O2=HUBlf|P2=HUB-L|tTBHFt|O3=HUBeq|KRZt|O4=HUBrg-R|KRZt|O5=HUB-Lq|tSTRq|O6=HUB-Lq|HUBrf-R|8.5|N10 [[仙台駅]]||}} {{BS5|HUBlf-L|tSTR|O2=HUB-Lq|LSTR|O3=HUBrf-R|LSTR||||←[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]→|}} {{BS3|tBHF|||9.4|N11 [[五橋駅]]||}} {{BS3|tBHF|||10.0|N12 [[愛宕橋駅]]||}} {{BS3|tBHF|||10.9|N13 [[河原町駅 (宮城県)|河原町駅]]||}} {{BS3|tKRZW|||||[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]|}} {{BS3|tBHF|LSTR|LSTR|11.7|N14 [[長町一丁目駅]]||}} {{BS3|tBHF|O1=HUBaq|STR|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|12.4|N15 [[長町駅]]||}} {{BS3|tSTR|STR|STR|||JR東:東北本線・[[常磐線]]|}} {{BS3|tSTR|STR|STRl||| ・[[仙台空港アクセス線]]|}} {{BS3|tBHF|||13.3|N16 [[長町南駅]]||}} {{BS3|htSTRe||||||}} {{BS3|hBHF|||14.8|N17 [[富沢駅]]||}} {{BS3|hKRZWe|||||[[笊川]]|}} {{BS3|KDSTe||||[[富沢車両基地]]||}} |} |} {{座標一覧}} '''南北線'''(なんぼくせん)は、[[宮城県]][[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]]の[[泉中央駅]]から同市[[太白区]]の[[富沢駅]]を結ぶ[[仙台市交通局]]の[[地下鉄]]路線。ラインカラーは緑<ref name="numbering" />。[[路線記号]]は{{駅番号c|#317C66|N}}。 事業名称は、'''仙塩広域都市計画 都市高速鉄道第1号 仙台市高速鉄道南北線'''。事業延長は15.56km(地下式11.65km)<ref>{{XLSlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000167970.xls (2)都市高速鉄道 都市別内訳表 平成22年3月31日現在]}} - [[国土交通省]]</ref>。 [[1987年]]の開業当初から全列車が4両編成で、[[ワンマン運転]]が行われている。原則[[自動列車運転装置|自動運転]]で運行されている{{efn|約50名いる運転士がおのおの1か月に1往復以上の手動運転の訓練を営業中に行なっている。そのため、1日2往復程度が手動運転で運行されている計算になる。}}<ref name="kahoku20170713">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201707/20170713_13054.html <南北線開業30周年>雑学](河北新報 2017年7月13日)</ref>。他線と線路が繋がっていない独立した路線であり、[[直通運転]]はない。 [[2015年]][[12月6日]]に同じ仙台市交通局の[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]が開業するまでは、[[仙台市]]及び[[東北地方]]唯一の地下鉄だった。また、開業当時の仙台市は地下鉄のある都市としては珍しく[[政令指定都市]]ではなかった。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):14.8km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:17駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500V・[[架空電車線方式]]) * 地上区間:泉中央 - 黒松間、長町南 - 富沢間 *1編成の両数:4両 *ホーム最大対応両数:6両 * 経路:{{googleマップ経路図2|1=%E6%B3%89%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%A7%85|2=%E5%AF%8C%E6%B2%A2%E9%A7%85|[email protected],140.8108833,19517m|data=!3m1!1e3!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8981305bfc68f9:0x337850afd7e16ea!2m2!1d140.880805!2d38.323359!1m5!1m1!1s0x5f8a264236fa2105:0x34c2b0a781e1068d!2m2!1d140.870533!2d38.214204!2m2!4e3!5e1!3e3}} * 最高速度:75 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="judan" /> == 沿線風景 == 仙台市地下鉄南北線は、仙台市泉区の[[泉中央副都心]]にある泉中央駅から、[[北仙台]]、[[仙台市都心部]]、[[長町副都心]]を通って、仙台市太白区の富沢に至る路線である。路線の大部分は地下線だが、両端では高架線あるいは地上線となっている。地形との関係については[[仙台の地形]]の項目を参照。 ;泉中央 - 八乙女 - 黒松 :泉中央と八乙女は'''[[泉中央副都心]]'''にある駅である。 :泉中央駅は開業してから5年後の1992年に延伸開業して設けられた駅であり、地下に位置する。駅を出るとすぐに高架区間となり、[[仙台スタジアム]](ユアテックスタジアム仙台)と七北田公園の間を走り抜ける。天候によっては遠くに[[泉ヶ岳]]の姿を望むこともできる。その後、[[七北田川]]を渡り終えると八乙女駅に到着する。この駅は高架駅で、かつての終点だった。 :七北田川の南北両岸は、北から「将監団地がある[[松島丘陵|富谷丘陵]]→泉中央がある七北田川北岸河岸段丘→七北田川→八乙女がある七北田川南岸河岸段丘→黒松がある[[七北田丘陵]]」というように「高・低・高」となるため、地下駅の泉中央を出ると地上に出て、七北田川を橋で渡河してそのまま八乙女が高架駅となり、同じ高さのまま丘陵地中腹にトンネルで入って黒松(くぼ地)で半地下駅となっていく。なお、七北田川北岸の泉中央と南岸の八乙女の両者は、一体的な都市機能を持っている。地下鉄開業前にほとんど開発されていなかったこの地区は、地下鉄の開業で業務・商業地区となり、かつ[[マンション]]が林立する地区へと大きく変化した。 :[[ファイル:MamisawaTsutsumi2005-5.jpg|thumb|none|八乙女駅 - 黒松駅間で真美沢堤を越える]] ;黒松 - 旭ヶ丘 - 台原 - 北仙台 :黒松から台原までは七北田丘陵の住宅地となっている。八乙女駅を出ると短い[[トンネル]]があり、それを抜けると森や沼、小規模な団地の風景を見ることができる。しばらく進むと黒松駅に到着する。この駅は半地下型の駅で、天気が良い日にはホームに薄く光が差し込む。黒松駅から先は地下区間となるが、旭ヶ丘では駅の構造上[[台原森林公園]]を文字通り垣間見ることができる(両駅間の[[トンネル]]の名称は「旭ヶ丘隧道」)。これは旭ヶ丘駅が七北田川の支流によって造られた[[V字谷]]の崖の一部を利用して建設されているためで、駅の西側にV字谷を作った小川と台原森林公園、駅のホーム上から東側が崖上の旭ヶ丘地区となっている。なお、このV字谷を通って仙台川沿いから八乙女駅方面に[[仙台鉄道]]が通っていた。旭ヶ丘駅を出ると完全な地下区間となり、終点の富沢駅付近までひたすら地下を走る。 ;北仙台 - 北四番丁 :北仙台からは平地部分の地下となる。当線における最高速度75[[キロメートル毎時|km/h]]に達する区間<ref name="kahoku20170713"/>。 :[[北仙台|北仙台地区]]は[[仙台城下町]]の北端に当たる。[[奥州街道]](後の[[国道4号]])が通り、仙台鉄道と[[国鉄]]が駅を設置し、仙台鉄道廃止後は[[宮城交通]]の[[バスターミナル]]ともなって仙台の北の交通の要衝だった。現在、北の交通ターミナルの地位は泉中央に譲っている。 :地下鉄開業前からマンションがいくつもあったが、地下鉄の開業で北仙台 - 北四番丁の地区はマンション林立地区に変化した。但し物販は最寄り品が中心で、買回品や専門品の商業の集積はあまりない。 ;北四番丁 - 勾当台公園 - 広瀬通 - 仙台 - 五橋 :この区間は'''[[仙台市都心部]]'''にあたり、駅間距離も短い。「都心駅」とも呼ばれる。 :北四番丁から勾当台公園までの区間は県庁・市役所の北側の業務地区「二日町」となっており、[[公共事業]]関連業種や自治体外郭団体事務所、及び指定金融機関などの集中地区となっている。 :「都心駅」では、[[一番町_(仙台市)|一番町]]・[[中央通り_(仙台市)|中央通り]]・[[仙台駅]]西口や業務地区を縫うように走る。[[歓楽街]]の[[国分町_(仙台市)|国分町]]は勾当台公園駅が最寄り駅である。 :南北線仙台駅のホームは地下3階にある。その他の仙台駅地下構造については[[仙台トンネル]]参照。 ;五橋 - 愛宕橋 - 河原町 - 長町一丁目 :この区間は[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]北岸の川沿い地下を走る。江戸時代から続く老舗の店や職人町がある[[下町]]地区であるが、最近は都心部に近いため、マンション建設も活発化している。 ;長町一丁目 - 長町 - 長町南 :この3駅は'''[[長町副都心]]'''内にある。 :長町一丁目から長町までは[[奥州街道]]の宿場町「長町宿」時代からの商店街の歴史がある。広瀬川左岸の「[[仙台城下町]]」地区に対し、広瀬川右岸の長町宿は[[江戸]]の[[内藤新宿]]のような立場であったため、歓楽街的要素も残る。長町副都心は仙台の南の商業中心であり、現在、大規模開発が進んでいる。 ;長町南 - 富沢 :黒松駅から地下区間が続いていたが、富沢駅に到着する直前に再び高架区間となる。この付近は以前一面の水田地帯で、[[仙台市体育館]]以外は目立ったものがなかったが、現在は新興住宅街が形成されている。なお、[[車両基地]]([[富沢車両基地]])は富沢の南方に位置し、それに隣接して[[仙台市電]]保存館がある。 == 建設の目的と効果 == [[1960年代]]以降の[[高度経済成長]]で仙台市郊外も住宅建設が急増していった。隣接する[[泉市]](現在の仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]])における宅地開発はより加速度を増しており、増え続ける住宅団地に交通網が追い付かない状況だった。特に[[宮城県道22号仙台泉線|県道仙台泉線]]の渋滞は酷く、自動車だけではなく[[バス (交通機関)|バス]]も需要が逼迫しており、これらの緩和には地下鉄が必要との仙台市の審議会の勧告を受けて1981年に着工された。 都心流入のバスを減らすために、一部の駅にバスプールを併設し、バス・地下鉄乗り継ぎを促すバス系統と運賃体系が整備・運用されている。[[泉中央駅]]や[[長町南駅]]のように地下鉄とバスの乗り継ぎが一般化した駅もある一方で、[[北仙台駅]]のように一部の路線を除きバスプールに乗り入れずに都心に直通する例も見られる。 この他、地下鉄のみで都心に通勤・通学する人達の需要に応えた形で、沿線のマンション建設が活発化した。 開業時期は丁度[[バブル景気]]期であったため、都心の地価が高騰しており、地下鉄によって泉中央に業務機能が分散して地価上昇を抑える助けとなり、泉中央の都市化が進んだ。 開業前の仙台市による利用者数予測では、開業時点で一日当たり22.5万人、開業20年目の2007年には33万人となる計画だった。実際には、開業初年度は一日平均11万人で、その後は増加傾向で推移したものの、1995年の16.7万人をピークに微減傾向となった。近年は再び増加し、2016年度の一日平均乗車人員は18.7万人(年間約6,818万人)となっている<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/pdf/28joushajinin.pdf 仙台市地下鉄 駅別乗車人員の推移]</ref>。 == 歴史 == <!-- 運転に影響しない駅の施設のトピックは駅の記事に記述を。--> * [[1980年]](昭和55年)[[5月30日]] - 工事事業免許。 * [[1981年]](昭和56年)[[5月7日]] - 建設工事着工。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[8月4日]] - [[8月5日|5日]] - 台風10号から変化した[[温帯低気圧]]による雨の、仙台市における降り始めからの雨量が402mmに及び、観測開始以来過去最大になった{{efn|それまでの仙台市における連続雨量の最大値は、[[1948年]](昭和23年)9月に[[アイオン台風]]がもたらした351mm。当地における連続雨量402mmは、200年に1度の頻度にあたる豪雨。}}<ref>[https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/kasen/suigai-s61-taihuu10gou.html みやぎ水害記録集(昭和61年8月洪水(台風10号))](宮城県)</ref>([[8.5水害]])。この豪雨により長町駅および長町南駅のホーム階が天井近くまで水没し、使用不能になった機器類の復旧のため開業目標が約3か月延期された<ref name="kahoku20170713"/>。 ** [[9月26日]] - 八乙女駅 - 富沢駅間全線レール締結式<ref name="enkaku"/>。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[1月30日]] - 八乙女駅 - 富沢駅間全線試運転開始<ref name="enkaku"/>。 ** [[7月15日]] - 八乙女駅 - 富沢駅間開業。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[3月1日]] - [[泉市]]が仙台市に編入合併されたため、全線が仙台市内となった。 ** [[7月22日]] - 八乙女駅 - 泉中央駅間延伸の鉄道事業免許<ref name="enkaku"/>。 * [[1989年]](平成元年) ** [[4月1日]] - 仙台市が[[政令指定都市]]に移行。 ** 9月から10月 - 連続[[放火]]事件<ref>[http://www.city.sendai.jp/syoubou/kanri/gaikyou/ 仙台市消防概況(平成20年版)]の統計資料「{{PDFlink|[http://www.city.sendai.jp/syoubou/kanri/gaikyou/pdf/08-1.pdf 沿革]}}」</ref>。 ** [[11月9日]] - 泉中央駅 - 八乙女駅間の工事着手<ref name="enkaku"/><ref>{{Cite news |title=仙台市営地下鉄・八乙女 - 泉中央間 延伸工事に着手 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-11-10 |page=1 }}</ref>。 * [[1992年]](平成4年)7月15日 - 泉中央駅 - 八乙女駅間延伸開業<ref>{{Cite news |title=仙台市営地下鉄 泉中央へ延伸開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-07-17 |page=1 }}</ref>。 * [[1993年]](平成5年)[[8月1日]] - プリペイドカードシステム導入<ref name="enkaku"/>。 * [[2004年]](平成16年)[[3月19日]] - ダイヤ改正実施。新幹線到着時刻の変更に対応し、毎週金曜日の最終便を増発<ref name="enkaku"/>。 * [[2006年]](平成18年)[[12月18日]] - 富沢車両基地 - 富沢間で回送中の列車が[[列車脱線事故|脱線事故]]。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月1日]] - 緊急地震警報システム導入<ref name="enkaku"/>。 ** [[5月26日]] - 運行管理システムを更新。それに伴い駅の発車ベルが[[発車メロディ|発車メロディー]]に変更、放送は富沢方面が女声で泉中央方面が男声となり、電車接近放送を英語でも行う。 * [[2008年]](平成20年)[[12月12日]] - 列車停止位置の変更を完了。 * [[2009年]](平成21年) ** [[2月14日]] - 緊急地震速報の情報提供開始<ref name="enkaku"/>。 ** [[10月17日]] - 富沢駅で[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の運用開始。他の駅も以後順次設置・運用開始。 * [[2010年]](平成22年)[[2月20日]] - 泉中央駅を最後に、全駅で可動式ホーム柵供用開始。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により、全線運休。 ** [[3月14日]] - 旭ヶ丘駅と台原駅との間にある[[渡り線]]{{efn|当線には渡り線が、泉中央駅 - 八乙女駅間、旭ヶ丘駅 - 台原駅間、仙台駅 - 五橋駅間、長町南駅 - 富沢駅間の4か所ある。}}を用いた台原折り返し運行により、台原駅 - 富沢駅間で運転再開<ref name="kahoku20170713"/>。台原駅 - 泉中央駅間は修復工事のため運休、5月までの予定で[[バス代行]]。 ** [[4月29日]] - 泉中央駅 - 台原駅間で運転再開<ref>{{Cite journal|和書|title=仙台市営地下鉄が全線で運転再開 |journal = [[レイルマガジン]] |date =2011年8月号(2011年8月発行) |volume = 28 |issue = 10 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |location = [[東京都]] |page = 142 }}</ref>。[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の技術協力等により工期を短縮、予定より1か月早く「[[震災復興キックオフデー]]」に合わせて全線再開を実現。 * [[2014年]](平成26年)[[12月6日]] - IC[[乗車カード]]「[[icsca]]」導入<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141207_15020.html イクスカ出発進行 仙台市地下鉄で利用始まる] - 河北新報(2014年12月7日)</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[2月4日]] - 駅ナンバリング表示工事開始<ref name="numbering">[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/numbering/index.html 仙台市地下鉄に「駅ナンバリング」を表示します] - 仙台市交通局(2015年2月2日)</ref>。3月上旬に全駅完了。 ** 3月14日 - JR東日本のダイヤ改正時と併せて、ナンバリング供用開始。 ** [[2月28日]] - 駅構内売店が閉店。この後7-8月にファミリーマートにリニューアルオープン。 ** [[7月1日]] - 愛宕橋、河原町、長町一丁目、長町の各駅における駅業務の委託を開始<ref name="enkaku">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.sendai.jp/kigyou/pdf/04nendoban/1.pdf|title=仙台市交通局 事業概要 沿革|format=PDF |publisher= 仙台市交通局|accessdate=2023-02-26}}</ref>。以降、2019年(平成31年)までに黒松、旭ヶ丘、台原、北仙台、北四番丁、五橋の各駅も業務委託化。 ** [[12月6日]] - 東西線開業に伴うダイヤ改正実施。副駅名広告使用開始。東西線開業に伴い車内自動放送更新。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]] - IC乗車カード「[[Suica]]」が利用可能となる。 * [[2017年]](平成29年) ** [[2月14日]] - 各駅列車接近放送更新、泉中央方面発車メロディー変更。 ** [[12月3日]] - ダイヤ改正実施。朝ラッシュ時の運行間隔を短縮、日中時間帯の出車時刻を1分30秒繰り下げ<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/20171203_daiya_kaisei.html 地下鉄南北線ダイヤ改正のお知らせ] - 仙台市交通局</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[10月]] - 各駅ホームの非常列車停止ボタン並びにインターホンの移設工事を完了。 ** [[11月20日]] - 長町南駅ホームの発車標をLCD式に更新。以降他駅でも順次更新工事を実施<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/annaihyouji_koushin.html 列車発時刻表示にかかる案内表示器等の更新工事について] - 仙台市交通局</ref>。 * [[2019年]](平成31年) ** [[3月2日]] - 各駅案内表示器に列車の発車時刻表示を開始<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/news/annaihyouji_kaishi.html 列車発時刻表示開始のお知らせ] - 仙台市交通局</ref>。 * [[2022年]](令和4年)7月11日 - 五橋駅に駐輪場が完成し、南北線全駅の駐輪場整備が完了<ref>{{Cite web|和書|url=https://kahoku.news/articles/20220712khn000035.html |title=地下鉄五橋駅の駐輪場オープン 仙台市、南北線全駅への整備完了|publisher=河北新報 |accessdate=2022-07-12}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[1月10日]] - 泉中央駅の[[副駅名]]を「[[ベガルタ仙台]]・[[仙台スタジアム|ユアスタ前]]」と命名<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20230110-OHT1T51181.html?page=1 |title=本拠最寄り地下鉄「泉中央駅」の副駅名「泉中央 ベガルタ仙台・ユアスタ前」に決定 |access-date=2023-01-11 |publisher=スポーツ報知}}</ref>。 ** [[7月1日]] - ダイヤ改正実施。平日日中と土・休日の運行間隔を従来の7分30秒から最大10分00秒へ変更<ref>[https://www.kotsu.city.sendai.jp/subway/2023timetable_revision.html 7月1日から地下鉄南北線・東西線のダイヤが変わります] - 仙台市交通局</ref>。 {{multiple image | image1 = Not pass under Yaotome Station.JPG | width1 = 250 | image2 = Dainohara Station is crowded.JPG | width2 = 250 | footer = <div style="text-align:left">'''(左)''' 東北地方太平洋沖地震により八乙女駅は損傷を受け、駅舎の真下を通る市道{{efn|仙台市道泉3018号・七北田幹線1号線(最小幅員6.50m、最大幅員44.50m、延長2069.4m)}}(旧[[奥州街道]])が通行禁止となった。<br />'''(右)''' 限定区間での運転再開により終着駅となった台原駅では、朝夕のラッシュ時にバスへの乗り換え客が長い列を作った。</div> | align = left }}{{Clear}} == 運行形態 == 全列車が、泉中央駅 - 富沢駅間を通しで運転される。運行間隔は、平日日中と土・休日(早朝と深夜を除く)が8〜10分間隔、平日朝ラッシュ時が3〜4分間隔、平日夕ラッシュ時が5分半間隔となっている。 なお終電は、仙台駅発車時刻が富沢行・泉中央行ともに23:59である。2023年7月1日のダイヤ改正以前は、金曜日と金曜が祝日となる場合の木曜日に限り、その日に運行される[[東京駅]]発[[東北新幹線]]の臨時列車「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]249号」(仙台駅23:52着)との連絡を目的に<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/tetudo/kansa/17followup/15/H17sendaifollowup.pdf 平成15年度業務監査実施結果報告に関する取り組み状況(平成17年度) 仙台市交通局の取り組み状況]}} - 国土交通省</ref>{{efn|なお通常の東北新幹線の下り最終列車「やまびこ223号」(仙台駅23:47着)には、通常の地下鉄線最終列車が連絡している。}}、富沢行・泉中央行24:11発の列車が運転されていた{{efn|但し、利用者数の減少を事由として、2020年5月1日以降は増発分の最終列車は運休となった。}}。 == 車両 == * [[仙台市交通局1000系電車|1000系]] <gallery heights="166" widths="250"> File:Sendai_subway_1014_20081021.jpg|1000系 </gallery> === 導入予定車両 === * [[仙台市交通局3000系電車|3000系]] - 耐用年数を迎える1000N系の置き換えを目的に、2024年(令和6年)秋より導入開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://kahoku.news/articles/20230518khn000076.html |title= 地下鉄南北線、新型車両11月から走行試験、来秋営業運転へ 仙台市交通局 |access-date=2023-05-19 |website=河北新報オンライン |publisher=河北新報社 |date=2023-05-19}}</ref>。 == 駅一覧 == 全駅とも[[宮城県]][[仙台市]]に所在。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #317C66;" rowspan="2"|駅番号 !style="width:12.5em; border-bottom:solid 3px #317C66;" rowspan="2"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #317C66;" rowspan="2"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #317C66;" rowspan="2"|営業<br />キロ !style="border-bottom:solid 3px #317C66;" rowspan="2"|接続路線 !style="border-bottom:3px solid #317C66; width:1em; line-height:1.1em;" rowspan="2"|{{縦書き|地上/地下}} !colspan="2"|所在地 |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #317C66;" |位置 !style="border-bottom:solid 3px #317C66;" |[[行政区]] |- !N01 |style="background:#9f9;"|[[泉中央駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(ベガルタ仙台・ユアスタ前)</span> |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"| 0.0 |&nbsp; |style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em; line-height:1.1em;"|{{縦書き|地下}} |{{ウィキ座標|38|19|23.4|N|140|52|50.8|E|region:JP|地図|name=泉中央駅}} |rowspan="3" style="width:4em;"|[[泉区 (仙台市)|泉区]] |- !N02 |style="background:#9f9;"|[[八乙女駅]] |style="text-align:right;"| 1.2 |style="text-align:right;"| 1.2 |&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; line-height:1.1em;"|{{縦書き|地上区間}} |{{ウィキ座標|38|18|46.4|N|140|53|2.5|E|region:JP|地図|name=八乙女駅}} |- !N03 |[[黒松駅 (宮城県)|黒松駅]] <br /><span style="font-size:75%;">(平和住宅情報センター本店前)</span> |style="text-align:right;"| 1.3 |style="text-align:right;"| 2.5 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|18|11.4|N|140|53|11|E|region:JP|地図|name=黒松駅}} |- !N04 |style="background:#9f9;"|[[旭ヶ丘駅 (宮城県)|旭ヶ丘駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(日立システムズホール仙台前)</span> |style="text-align:right;"| 0.8 |style="text-align:right;"| 3.3 |&nbsp; |rowspan="13" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em; line-height:4em;"|{{縦書き|地下区間}} |{{ウィキ座標|38|17|44.1|N|140|53|1|E|region:JP|地図|name=旭ヶ丘駅}} |rowspan="8"|[[青葉区 (仙台市)|青葉区]] |- !N05 |style="background:#9f9;"|[[台原駅]] |style="text-align:right;"| 1.0 |style="text-align:right;"| 4.3 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|17|18.6|N|140|52|42.6|E|region:JP|地図|name=台原駅}} |- !N06 |style="background:#9f9;"|[[北仙台駅]] |style="text-align:right;"| 1.1 |style="text-align:right;"| 5.4 |東日本旅客鉄道:{{Color|#72bc4a|■}}[[仙山線]] |{{ウィキ座標|38|16|56.1|N|140|52|6.6|E|region:JP|地図|name=北仙台駅}} |- !N07 |[[北四番丁駅]] |style="text-align:right;"| 1.2 |style="text-align:right;"| 6.6 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|16|19.1|N|140|52|8.6|E|region:JP|地図|name=北四番丁駅}} |- !N08 |[[勾当台公園駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(三井のリハウス 仙台センター前)<br />(県庁 市役所前)</span> |style="text-align:right;"| 0.7 |style="text-align:right;"| 7.3 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|15|58.9|N|140|52|16.8|E|region:JP|地図|name=勾当台公園駅}} |- !N09 |[[広瀬通駅]]<br/><span style="font-size:75%;">(一番町 中央通り)</span> |style="text-align:right;"| 0.6 |style="text-align:right;"| 7.9 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|15|46.4|N|140|52|32.1|E|region:JP|地図|name=広瀬通駅}} |- !N10 |[[仙台駅]] |style="text-align:right;"| 0.6 |style="text-align:right;"| 8.5 |仙台市地下鉄:{{Color|#00B1DD|■}}[[仙台市地下鉄東西線|東西線]] (T07)<br />東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]、{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]・[[仙石東北ライン]]・{{Color|#2a5caa|■}}[[仙台空港アクセス線]]・{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]、{{Color|#72bc4a|■}}仙山線、{{Color|#00aaee|■}}[[仙石線]]([[あおば通駅]]) |{{ウィキ座標|38|15|36.5|N|140|52|47|E|region:JP|地図|name=仙台駅}} |- !N11 |[[五橋駅]] <br /><span style="font-size:75%;">(東北学院大学前)</span> |style="text-align:right;"| 0.9 |style="text-align:right;"| 9.4 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|15|6.7|N|140|52|51.6|E|region:JP|地図|name=五橋駅}} |- !N12 |[[愛宕橋駅]] |style="text-align:right;"| 0.6 |style="text-align:right;"| 10.0 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|14|50.2|N|140|52|55.3|E|region:JP|地図|name=愛宕橋駅}} |rowspan="2"|[[若林区]] |- !N13 |[[河原町駅 (宮城県)|河原町駅]] |style="text-align:right;"| 0.9 |style="text-align:right;"| 10.9 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|14|28|N|140|53|15.7|E|region:JP|地図|name=河原町駅}} |- !N14 |[[長町一丁目駅]]<br/><span style="font-size:75%;">(市立病院前)</span> |style="text-align:right;"| 0.8 |style="text-align:right;"| 11.7 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|14|2.7|N|140|53|14.6|E|region:JP|地図|name=長町一丁目駅}} |rowspan="4"|[[太白区]] |- !N15 |style="background:#9f9;"|[[長町駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(IKEA(イケア)前)</span> |style="text-align:right;"| 0.7 |style="text-align:right;"| 12.4 |東日本旅客鉄道:{{Color|mediumseagreen|■}}東北本線・{{Color|#3333ff|■}}常磐線・{{Color|#2a5caa|■}}仙台空港アクセス線 |{{ウィキ座標|38|13|41.9|N|140|53|5.5|E|region:JP|地図|name=長町駅}} |- !N16 |style="background:#9f9;"|[[長町南駅]] |style="text-align:right;"| 0.9 |style="text-align:right;"| 13.3 |&nbsp; |{{ウィキ座標|38|13|28.6|N|140|52|34.9|E|region:JP|地図|name=長町南駅}} |- !N17 |[[富沢駅]]<br /><span style="font-size:75%;">(カメイアリーナ仙台前)</span> |style="text-align:right;"| 1.5 |style="text-align:right;"| 14.8 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; line-height:1.1em;"|{{縦書き|地上}} |{{ウィキ座標|38|12|51.1|N|140|52|14|E|region:JP|地図|name=富沢駅}} |} * 市交通局は副駅名広告を販売している。2020年4月1日から2025年3月31日までは、以下の駅における駅名標や車内案内放送などで副駅名が併記される{{efn|泉中央駅の広告期間は2023年4月1日から。}}。 :{| class="wikitable" |+ !駅名 !広告主 !表示名 |- |泉中央 |[[ベガルタ仙台 (企業)|株式会社ベガルタ仙台]] |ベガルタ仙台・ユアスタ前 |- |黒松 |株式会社平和住宅情報センター |平和住宅情報センター本店前 |- |旭ヶ丘 |[[日立システムズ|株式会社日立システムズ]] |日立システムズホール仙台前 |- |勾当台公園 |[[三井不動産リアルティ#関連会社|三井不動産リアルティ東北株式会社]] |三井のリハウス 仙台センター前 |- |五橋 |[[学校法人東北学院]] |東北学院大学前 |- |長町 |[[イケア#日本での展開|イケア・ジャパン株式会社]] |IKEA(イケア)前 |} * 各駅ともホームは1番線・富沢方面が赤色、2番線・泉中央方面が青色となっており、各案内表示やホームドアの色も統一されている。また、接近放送・発車放送も1番線が女声、2番線が男声と統一されている。 * 仙石線は地下鉄仙台駅ホーム北端および同駅コンコース北寄りで直結している[[あおば通駅]]での乗り換えが推奨されている。ただしJRの乗車区間によっては[[仙台駅東西地下自由通路]]を介して仙石線仙台駅から乗車する方が割安な場合もある。 * ICカード乗車券「[[icsca]]」が利用可能([[Suica]]など全国相互利用可能カードにも対応)。icscaを利用する場合に限り、南北線全駅と[[仙台市営バス|市バス]](るーぷる仙台、宮城球場シャトルバスを除く)・[[宮城交通]]・[[ミヤコーバス]](高速バスを除く)とを60分以内に乗り継ぐことで、ポイントが付与されるサービスがある。<!-- icsca以外のICカード乗車券及び定期券はポイント付与の対象外。 --> * 上表で背景が緑色({{Color|#9f9|■}})の駅(=泉中央・八乙女・旭ヶ丘・台原・北仙台・長町・長町南)は、開業時から2015年まで「乗継指定駅」とされていた。乗継指定駅とバスの乗継指定停留所{{efn|現在のicsca乗継ポイント制度よりも適用条件が厳しく、乗継指定駅周辺の停留所であっても北仙台停留所のように乗継割引の適用外となる停留所があったり、仙台駅方面は乗継割引の適用外となる例も多く見受けられた。乗継割引適用区間も限定されており、吉岡方面は「湯船沢」バス停、秋保方面は「生出橋」バス停、岩切方面は「台原」バス停、泉中央駅・八乙女駅→虹の丘団地方面は「水の森公園キャンプ場入口」バス停まででそれ以遠は乗継割引適用外であった。}}相互の乗り換えで、利用運賃が40円割引される制度が設定され、[[スキップカード]](地下鉄・バス共通磁気カード)もしくは地下鉄券売機・バス車内で乗継券を購入した場合にのみ適用されていた。現在はスキップカードを含む磁気カード乗車券の販売と利用が終了しているため、この制度は廃止されている。 <!-- * 上の表で色が付いていない地下鉄駅(上記以外の駅)やバス停を利用しても、スキップカードの乗継割引は受けられない。なお、icscaの乗継ポイントは、色の付いてない駅も含め全駅が対象となっている。--> == 延伸構想 == {{see also|富谷市#鉄軌道構想}} かつては[[仙台鉄道]]が通り、現在は仙台の[[ベッドタウン]]となっている[[富谷市]]や[[大和町]]からは、[[国道4号]]等の幹線道路が慢性的渋滞に悩まされるようになったことから泉中央以北への延伸の要望がある<ref>{{Cite news|title=新交通システム「発車」へ宮城・富谷検証|newspaper=河北新報|date=2016-04-10|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201604/20160410_11023.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160414011056/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201604/20160410_11023.html|archivedate=2016-04-14|accessdate=2021-11-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/7a9b232e16c620c792fb2b96c438b7b58f119602|title=仙台市地下鉄の延伸を 宮城・富谷市がPFI方式検討のため調査を開始|publisher=東日本放送|date=2021-11-11|accessdate=2021-11-13}}</ref>。 名取市でも延伸の要望がある<ref name="kahoku2">{{Cite news|title=<地下鉄と市長選>夢の痕跡 ホームに残る|newspaper=河北新報オンラインニュース|date=2017-07-15|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201707/20170715_13022.html|publisher=河北新報社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170715073012/https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201707/20170715_13022.html|archivedate=2017-07-15|accessdate=2021-11-13}}</ref>{{efn|1990年代、南北線の仙台空港延伸構想があった<ref name="kahoku2"/>。}}。 == その他 == {{Main2|乗車券|仙台市地下鉄#乗車券}} * 4両編成の列車が運行されているが、各駅のホーム長や車両番号は6両編成まで対応できるようになっている<ref name="kahoku2"/>。2003年度を目途に一部の4両編成の列車を6両編成に増結する計画があったが見送られ、事実上凍結となっている<ref>{{cite news |title = 6両編成化凍結 仙台市地下鉄南北線 |publisher = 河北新報 |date = 2009-02-19 }}</ref>。 * 仙台市を走るJR線のうち、仙石線とは同じ直流電化であるが、信号等の運転・保安上のシステムが異なり、仙石線以外のJR線とは、電化方式も運転・保安上のシステムも異なる。また[[仙台市地下鉄東西線]]とは、車両の規格が異なる。仮に他路線への直通運転を行う場合には、これらの相違を解決する必要があるが、南北線の計画段階より現在まで、他路線への直通運転構想はない。なお[[架空電車線方式]]による直流電化を採用したのは、何らかの形で仙石線と直通運転を行う構想があったためである<ref>[[全国鉄道事情大研究]]([[川島令三]] 著、[[草思社]] 2017年)p.123</ref>。 * 建設当初からワンマン運転を前提にしていたため、運転士による安全確認を容易にするために、全駅、直線の島式ホームで統一し、車両も、運転席が進行方向に対して右側に設置されている。 * 駅構内では[[背景音楽|BGM]]が流れる。BGMは季節ごとに流れる曲が変わる。ただし、時報代わりに流れる『[[荒城の月]]』は年中使用されている。 * 地上部の[[架線]](電車線)には<ref>『鉄道ピクトリアル』525号(鉄道図書刊行会)</ref>自動饋電区分装置が設けられており、[[エアセクション|パンオーバー]]を防いでいるだけではなく、安定した[[回生ブレーキ]]動作に寄与している。 * 携帯電話サービスについては、全駅及び駅間のトンネル内において、[[NTTドコモ]]・[[au (携帯電話)|au]]・[[ソフトバンク]]の通信・通話が利用可能<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1207/10/news079.html|title=仙台市地下鉄 南北線のトンネル区間で携帯電話が利用可能に|publisher=ITmedia|date=2012-07-10|accessdate=2021-11-13}}</ref>。 * [[富沢駅]] - [[台原駅]]間はJRとの代替輸送([[振替輸送]])対象路線に指定されており、当該区間が運転見合わせとなった場合は、[[東北本線]]([[太子堂駅]] − [[仙台駅]])・[[仙山線]](仙台駅 − [[北仙台駅]])への振替乗車が認められる場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[日本の地下鉄]] * [[仙台市地下鉄]] * [[仙台市地下鉄東西線]] * [[仙台鉄道]] == 外部リンク == * [http://www.kotsu.city.sendai.jp/ 仙台市交通局] * [https://web.archive.org/web/20030823005939/http://www.niigata-cci.or.jp/gyouseikon/020910kouen.htm 財団法人地方自治研究機構理事長 石原信雄の講演録] - 地下鉄南北線の泉中央延伸と、泉市の仙台市編入のバーターについて、政府側当事者としての内情が一部記載されている。(2003年8月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) * 日立製作所『日立評論』 ** 1988年1月号ハイライト「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/01/1988_01_00_light.pdf 新しい鉄道のモデルとして注目される仙台市高速鉄道南北線]}}」(pp.6 - 7) ** 1988年7月号「{{PDFlink|[http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1988/07/1988_07_05.pdf 仙台市営地下鉄の鉄道トータルシステム]}}」 * [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2012年8月号{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/QVPguVCgsjBp.pdf レポート2「仙台市地下鉄南北線における東日本大震災からの復旧への取組み」]}} pp.21 - 26 {{DEFAULTSORT:せんたいしちかてつなんほくせん}} [[Category:日本の地下鉄路線|なんほく]] [[Category:東北地方の鉄道路線|なんほくせん]] [[Category:仙台市地下鉄|路なんほくせん]] [[Category:宮城県の交通|なんほくせん]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E5%8D%97%E5%8C%97%E7%B7%9A
15,603
発電
発電(はつでん、英: electricity generation)とは、運動エネルギーなどを利用して、電気を発生させることをいう。 発電とは、電力以外のエネルギーを電力へ変換することである。発電の種類としては、例えば、水力発電、風力発電、太陽光発電、地熱発電、火力発電、原子力発電などがある。 原理としては、機械エネルギー(運動エネルギー)を電磁誘導を用いて電力に変換するもの(発電機)だけでなく、化学変化のエネルギーを利用したもの(電池)、光起電力効果によるもの(太陽電池によるもの)、ゼーベック効果によるもの(熱電素子によるもの)、圧電素子によるもの、モノとモノをこすることによって生じる静電気を利用するものなどがある。 発電は、発電所で行われているだけでなく、家庭や企業などでもしばしば行われる(自家発電)。また、夜間に前照灯をつけて自転車で走る時は、乾電池式や充電式でなければ、人がペダルを踏む力でダイナモを動かして発電し、電球を点灯することも過去には多く、また、オートバイや自動車で走行する時は、オルタネーターで発電し、電装品等を働かせるために使用している。最近実用化されはじめた燃料電池車では燃料電池で発電し、電動機を動かし走る。 ※ 構想・実験・研究段階であり、実用化に至っていないものもある。 発電機は電磁誘導によって運動エネルギーを電力に変換する装置である。具体的にはコイルに対して磁石を回転させることで電気を発生させる。動力を何から得るかによって以下のように様々な種類がある。 運動以外のエネルギーを電力に変換する発電には以下のようなものがある。 発電機は前述のように電磁誘導により電力を生む。電磁誘導による発電は、磁力線を導体が横切ることによって起こる現象であり、得られる出力は以下のように表される。 e は起電力 (V)、v は速度 (m/s)、B は磁束密度 (Wb/m)、l は横切る導体の長さ (m)、θ は磁力線からの偏角 (rad) である。これは、磁力線を長さ l の導体が速度 v で横切ったときに導体に発生する起電力を求める式である。この式から、電磁誘導によって大きな起電力 e を得るためには、 ことが必要であるとわかる。 電池のうち「化学電池」と呼ばれる種類の電池は電気化学反応により電力を生む。電気化学反応は、2 種以上の活物質の接触によって生じるもので、反応で生じた電極間の電圧を出力として取り出す。この出力は、単純には以下の式のように表される。 e は起電力 (V)、ΔG は反応におけるギブズエネルギー変化、n は反応電子の価数、F はファラデー定数 (C/mol) である。これは、反応に関与する活物質の活量がすべて 1 で平衡状態にあるときの標準電極電位である。 電池のうち「物理電池」、その中でも「光電池(太陽電池)」と呼ばれる種類の電池は光起電力効果により電力を生む。 電池のうち「物理電池」、その中でも「熱電池」と呼ばれる種類の電池はゼーベック効果により電力を生む。ゼーベック効果は、2種以上の物体の接触点の温度差によって生じるもので、反応によって生じた電極間の電圧を出力として取り出す。2 種の物体を用いた場合のこの出力は、単純には以下の式のように表される。 e は起電力 (V)、S A と S B はそれぞれ物体 A, B のゼーベック係数、T 1 と T 2 は 2 つの接点の温度 (K) である。 電源構成とは発電に用いるエネルギー源や発電方法の組み合わせのことである。エネルギーミックスともいう。2015年の全世界の総発電量は24,255TWhであった。これは地球が太陽から 1 年間に受けるエネルギー 1,525,284,000TWh の 0.001 % に相当する。電力源の内訳の66.3%は化石燃料、23.1%は再生可能エネルギー、10.6% は原子力による。化石燃料の大半は石炭と天然ガスであり、石油による発電量は総発電量の4.1%である。再生可能エネルギーは水力が16.0%あり大半を占める。水力以外の再生可能エネルギーは全体の7.1%であり石油を超えている。しかし資源量全体では風力よりも太陽光、太陽熱の方が遥かに大きい(「再生可能エネルギー」項目参照)。また太陽光発電による発電量は総発電量の1%であった。数値はIEA/OECDより これらの燃料の中には電力以外に熱源、動力源として消費されるものもあるがここでは電力源のみを考慮している。 全世界で2015年に火力、原子力、水力、コージェネレーション・プラント、その他の発電所で消費された総エネルギーは石油換算トンで1,737Mtoe。これは全世界の一次エネルギー供給量(TPES)13,647Mtoeの12.7%であった。 生産された電力はグロスで 1,735,579 ktoe 相当の電力 (20,185 TWh) であった。発電効率は 39 %。残りの 61 % の一部 ( 3 %) はコージェネレーションの熱源として利用されたが大半は排出された。また 289,681 ktoe 相当の電力(発電量の 17 %)は発電所での内部消費と送電ロスで消費され、最終的に消費者へは 1,446,285 ktoe 相当の電力 (16,430TWh) が供給された。これは発電およびコージェネレーションに投入されたエネルギーの 33 % であった。Key World Energy Statistics 2017 - IEA 以下の表にリストした 30 ヶ国は人口がトップ 20 位か、国内総生産 (GDP) が 20 位以内の国と、参考にサウジアラビアを含めた。CIA World Factbook 2009より これら 30 ヶ国の合計は対全世界比、人口で 77 %、GDP で 84 %、消費電力で 83 % であり、各指標の 30 ヶ国の平均値は全世界の平均値と近似している。 2020年の主要国の電源構成 以下の表にリストした 30 ヶ国は人口がトップ 20 位か、国内総生産 (GDP) が 20 位以内の国と、参考にサウジアラビアを含めた。CIA World Factbook の値より算出 生物の中には、発電器官を有する種が存在し、他の生物に対する攻撃、物体の探知、コミュニケーション等に電気を利用している。そういった能力を持つ種の殆どは魚類である。
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発電とは、運動エネルギーなどを利用して、電気を発生させることをいう。
[[ファイル:Alternator 1.svg|サムネイル|[[電磁誘導]]を利用した発電の例。磁石を回転させることにより[[磁界]]が変化し、[[電位差]]が発生する。]] '''発電'''(はつでん、{{lang-en-short|electricity generation}})とは、[[運動エネルギー]]などを利用して、[[電気]]を発生させることをいう<ref>{{Cite web|和書|title=発電とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%99%BA%E9%9B%BB-602842|website=コトバンク|accessdate=2021-05-28|language=ja|first=百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典|last=第2版}}</ref>。 == 概説 == 発電とは、電力以外の[[エネルギー]]を[[電力]]へ変換することである。発電の種類としては、例えば、[[水力発電]]、[[風力発電]]、[[太陽光発電]]、[[地熱発電]]、[[火力発電]]、[[原子力発電]]などがある。 原理としては、[[機械エネルギー]]<ref>ブリタニカ国際大百科事典「発電機」に「機械エネルギー」とある。</ref>([[運動エネルギー]])を[[電磁誘導]]を用いて電力に変換するもの([[発電機]])だけでなく、[[化学変化]]のエネルギーを利用したもの([[電池]])、[[光起電力効果]]によるもの([[太陽電池]]によるもの)、[[ゼーベック効果]]によるもの([[熱電素子]]によるもの)、[[圧電素子]]によるもの、モノとモノをこすることによって生じる[[静電気]]を利用するものなどがある。 発電は、[[発電所]]で行われているだけでなく、家庭や企業などでもしばしば行われる([[自家発電]])<ref group="注釈">[[ソーラーパネル]]を備え付けている家屋も増えている。</ref>。また、夜間に[[前照灯]]をつけて[[自転車]]で走る時は、[[乾電池]]式や充電式でなければ、人がペダルを踏む力で[[ダイナモ]]を動かして発電し、[[電球]]を点灯することも過去には多く、また、[[オートバイ]]や[[自動車]]で走行する時は、[[オルタネーター]]で発電し、[[電装]]品等を働かせるために使用している。最近[[実用]]化されはじめた[[燃料電池車]]では[[燃料電池]]で発電し、[[電動機]]を動かし走る。 == 発電の種類 == ※ 構想・実験・研究段階であり、実用化に至っていないものもある。 === 発電機による発電 === [[発電機]]は[[電磁誘導]]によって[[運動エネルギー]]を電力に変換する装置である。具体的には[[コイル]]に対して[[磁石]]を回転させることで電気を発生させる。[[動力]]を何から得るかによって以下のように様々な種類がある。 * [[火力発電]]:[[燃料]]の持つ[[化学エネルギー]]を[[燃焼]]により[[熱]]に変換し、さらに運動エネルギーに変換する発電。熱を得る方法、熱から運動を得る方法によりさらに細分される。 ** [[汽力発電]]:熱により[[水蒸気]]を作り、[[蒸気タービン]]を回す発電。広義には蒸気タービンを用いる発電を総称していう。 ** [[内燃力発電]]:燃料の燃焼による気体([[燃焼ガス]])の膨張により[[内燃機関]]を回す発電。 ** [[コンバインドサイクル発電]]:内燃力発電の[[排熱]]で汽力発電を行う発電。 ** [[廃棄物発電]]:廃棄物をエネルギー源として行う発電。 * [[原子力発電]]:核反応により熱エネルギーを得る発電。運動エネルギーへの変換は、通常は蒸気タービンを用いる。 * [[核融合エネルギー|核融合発電]]:原子核の融合によってエネルギーを得る発電。 * [[水力発電]]:水の[[位置エネルギー]]及び運動エネルギーによる発電。 ** [[揚水発電]]:余剰電力を使って水を汲み上げておき、電力需要の高い時にそれを利用する。 ** [[マイクロ水力発電]]:小規模な水力発電。建設費や運用費が安い。 * [[地熱発電]]:地熱により熱エネルギーを得る発電。 * [[太陽熱発電]]:太陽光の熱エネルギーによる発電。太陽光を直接電気に変える太陽光発電とは別。 * [[風力発電]]:風の運動エネルギーによる発電。 ** 陸上風力発電:タービンを陸上に設置する。 ** [[洋上風力発電]]:タービンを洋上に設置する。 ** [[浮体式洋上風力発電]]:タービンを深度のある洋上に浮かせて設置する。 ** {{仮リンク|凧型風力発電|en|KiteGen}}:凧(カイト)によって高高度の風を利用する。 * [[波力発電]]:波の運動エネルギーによる発電。 * [[海流発電]]:海流の運動エネルギーによる発電。潮流発電ともいう。 * [[潮力発電]]:潮の干満の運動エネルギーによる発電。潮汐発電ともいう。 * [[炉頂圧発電]]:[[高炉]]の高圧ガスでタービンを回す発電。 * [[冷熱発電]]:[[液化天然ガス]] (LNG) の冷熱を利用し、中間熱媒体を液化、循環させる方法と、気化した高圧ガスで直接タービンを動かす方法がある。主に LNG の受け入れ基地などで用いられる。 * [[海洋温度差発電]]:海面の温水と深海の冷水の温度差を利用してタービンを回す発電。 * [[人力発電]]:人間を動力源とする発電。燃料や電池の補給が難しい局面で重宝される。 === 運動以外のエネルギーを電力に変換する発電 === 運動以外のエネルギーを電力に変換する発電には以下のようなものがある。 * [[燃料電池|燃料電池発電]]:[[化学エネルギー]]を電力に変換する発電。[[固体高分子形燃料電池|固体高分子形]]では[[触媒]]用の[[白金]]が非常に高価である一方、耐用年数が7 - 8年程度と寿命は短い。 * [[太陽光発電]]:太陽光を利用して、[[太陽電池]]で電力を得る発電。自然エネルギーなので燃料を購入する必要がない。 ** [[宇宙太陽光発電]]:宇宙空間で太陽光発電を行い、それによって得た電力を地上に送る。現在多くの課題について討論中。 * [[MHD発電]]:[[ファラデーの法則]]に基づき[[プラズマ]]などを用いて発電する。 * [[熱電発電]]:[[温泉水]]と河川水などの温度差を利用して[[熱電変換素子]]により発電する。 ** [[原子力電池|ラジオアイソトープ発電]]:熱源に[[放射性同位体]]を使用。 * [[振動発電]]:[[圧電素子]]と振動板を組み合わせることにより、音や振動のエネルギーを電気エネルギーに変換する発電。 * [[爆薬発電]]:[[爆薬]]の爆発を電気エネルギーに変換する発電。実験用もしくは軍事用。 * [[熱光起電力発電]] == 発電の原理 == === 電磁誘導 === 発電機は前述のように電磁誘導により電力を生む。[[電磁誘導]]による発電は、[[磁力線]]を導体が横切ることによって起こる現象であり、得られる出力は以下のように表される。 :<math>e=-vBl\sin\theta\,</math> ''e'' は[[起電力]] ([[ボルト (単位)|V]])、''v'' は[[速度]] ([[メートル|m]]/[[秒|s]])、''B'' は[[磁束密度]] ([[ウェーバ|Wb]]/m{{sup|2}})、''l'' は横切る導体の長さ (m)、θ は磁力線からの偏角 ([[ラジアン|rad]]) である。これは、磁力線を長さ ''l'' の導体が速度 ''v'' で横切ったときに導体に発生する起電力を求める式である。この式から、[[電磁誘導]]によって大きな起電力 ''e'' を得るためには、 # 磁界を強くする # 速度を上げる # 磁力面積を拡大する ことが必要であるとわかる。 === 電気化学反応 === [[電池]]のうち「[[電池#化学電池|化学電池]]」と呼ばれる種類の電池は電気化学反応により電力を生む。[[電気化学]]反応は、2 種以上の[[活物質]]の接触によって生じるもので、反応で生じた電極間の電圧を出力として取り出す。この出力は、単純には以下の式のように表される。 :<math>e=\frac{-\Delta G}{n{\mathrm F}}</math> ''e'' は[[起電力]] (V)、&Delta;''G'' は反応における[[自由エネルギー#ギブズの自由エネルギー|ギブズエネルギー]]変化、''n'' は反応[[電子]]の[[価数]]、F は[[ファラデー定数]] ([[クーロン|C]]/[[モル|mol]]) である。これは、反応に関与する活物質の[[活量]]がすべて 1 で[[化学平衡|平衡]]状態にあるときの[[標準電極電位]]である。 === 光起電力効果 === 電池のうち「物理電池」、その中でも「光電池([[太陽電池]])」と呼ばれる種類の電池は[[光起電力効果]]により電力を生む。{{節スタブ}} === ゼーベック効果 === 電池のうち「物理電池」、その中でも「熱電池」と呼ばれる種類の電池はゼーベック効果により電力を生む。[[ゼーベック効果]]は、2種以上の物体の接触点の温度差によって生じるもので、反応によって生じた電極間の電圧を出力として取り出す。2 種の物体を用いた場合のこの出力は、単純には以下の式のように表される。 :<math>e = (S_\mathrm{B} - S_\mathrm{A}) \cdot (T_2 - T_1)</math> ''e'' は[[起電力]] (V)、''S'' <sub>A</sub> と ''S'' <sub>B</sub> はそれぞれ物体 A, B の[[ゼーベック係数]]、''T'' <sub>1</sub> と ''T'' <sub>2</sub> は 2 つの接点の温度 ([[ケルビン|K]]) である。 === その他 === *[[原子力電池]]のうち実用化されているものは、[[放射性崩壊]]により発生する熱をゼーベック効果により電気に変換するものなどで、上記を参照のこと。理論上は放射性崩壊によるエネルギーが直接電子を放出させる「熱イオン変換方式」もあるが実用化はされていない。 *[[静電気]]に関連する[[静電誘導]]、[[誘電分極]]、[[焦電効果]]、[[圧電効果]]などもあるが、起電力の保持時間が極端に短いため専ら[[センサ]]や[[スイッチ]]等の[[素子]]として用いられ、発電を目的として用いられることはほとんどない。[[雷]]はその過大な電圧と瞬時性から電力源としての利用は疑問視されている。ただ、比較的低電圧の[[大気電位]]を[[コンデンサ]](キャパシタ)と併せて電力源として利用する[[大気電流発電]]は研究が行われている。 == 各国の電源構成 == {{see also|エネルギーの比較}} 電源構成とは発電に用いるエネルギー源や発電方法の組み合わせのことである。エネルギーミックスともいう<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9B%BB%E6%BA%90%E6%A7%8B%E6%88%90-1726172 |title=電源構成とは |access-date=2022年11月28日 |publisher=コトバンク |work=デジタル大辞泉}}</ref>。2015年の全世界の総発電量は24,255TWhであった。これは地球が太陽から 1 年間に受けるエネルギー 1,525,284,000TWh の 0.001 % に相当する。電力源の内訳の66.3%は[[化石燃料]]、23.1%は[[再生可能エネルギー]]、10.6% は[[原子力]]による。化石燃料の大半は石炭と天然ガスであり、石油による発電量は総発電量の4.1%である。再生可能エネルギーは水力が16.0%あり大半を占める。水力以外の再生可能エネルギーは全体の7.1%であり石油を超えている。しかし資源量全体では風力よりも太陽光、太陽熱の方が遥かに大きい(「再生可能エネルギー」項目参照)。また太陽光発電による発電量は総発電量の1%であった。数値はIEA/OECDより<ref>[http://www.iea.org/stats/prodresult.asp?PRODUCT=Electricity/Heat IEA/OECD] IEA Statistics/Electricity and Heat by country</ref> これらの燃料の中には電力以外に熱源、動力源として消費されるものもあるがここでは電力源のみを考慮している。 [[ファイル:Ene Flow Pow Plt uni.jpg|thumb|発電所のエネルギーフロー]] [[ファイル:Annual electricity net generation in the world ja.svg|thumb|世界の発電量の推移]] 全世界で2015年に火力、原子力、水力、[[コージェネレーション]]・プラント、その他の発電所で消費された総エネルギーは[[石油換算トン]]で1,737Mtoe。これは全世界の[[一次エネルギー]]供給量(TPES)13,647Mtoeの12.7%であった。 生産された電力は[[グロス]]で 1,735,579 ktoe 相当の電力 (20,185 TWh) であった。発電効率は 39 %。残りの 61 % の一部 ( 3 %) はコージェネレーションの熱源として利用されたが大半は排出された。また 289,681 ktoe 相当の電力(発電量の 17 %)は発電所での内部消費と送電ロスで消費され、最終的に消費者へは 1,446,285 ktoe 相当の電力 (16,430TWh) が供給された。これは発電およびコージェネレーションに投入されたエネルギーの 33 % であった。[https://www.iea.org/publications/freepublications/publication/KeyWorld2017.pdf Key World Energy Statistics 2017 - IEA] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- |+ 世界の総電力の電力源 2015年 |- ! - !! 石炭 !! 石油 !! ガス !! 原子力 !! 水力 !! 風力 !太陽光 !再生可能エネルギー全体!! 合計 |- | 電力 (TWh/年) || 9,538 || 990 || 5,543 || 2,571 || 3,978 || 838 |247 |5,534|| 24,176 |- | 割合 || 39.4% || 4.0% || 22.9% || 10.6% || 16.4% || 3.4% |1.0 |22.8|| 100% |} === 2008年の主要国の電源構成 === 以下の表にリストした 30 ヶ国は人口がトップ 20 位か、[[国内総生産]] (GDP) が 20 位以内の国と、参考に[[サウジアラビア]]を含めた。{{small|CIA World Factbook 2009より}} これら 30 ヶ国の合計は対全世界比、人口で 77 %、GDP で 84 %、消費電力で 83 % であり、各指標の 30 ヶ国の平均値は全世界の平均値と近似している。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 電源構成の内訳(TWh/年 2008年度) |- ! rowspan="2" style="background-color: #ddf;" | 国名 ! colspan="5" style="background-color: #dfd;" | 化石燃料 ! rowspan="2" style="background-color: #ddf;" | 原子力 ! rowspan="2" style="background-color: #ddf;" | 順位 ! colspan="8" style="background-color: #dfd;" | 再生可能 ! colspan="5" style="background-color: #ddf;" | バイオマス 他 ! rowspan="2" style="background-color: #dfd;" | 合計 ! rowspan="2" style="background-color: #dfd;" | 順位 |- ! style="background-color: #dfd;" | 石炭 ! style="background-color: #dfd;" | 石油 ! style="background-color: #dfd;" | ガス ! style="background-color: #dfd;" | 小計 ! style="background-color: #dfd;" | 順位 ! style="background-color: #dfd;" | 水力 ! style="background-color: #dfd;" | 地熱 ! style="background-color: #dfd;" | 太陽光 ! style="background-color: #dfd;" | 太陽熱 ! style="background-color: #dfd;" | 風力 ! style="background-color: #dfd;" | 潮汐 ! style="background-color: #dfd;" | 小計 ! style="background-color: #dfd;" | 順位 ! style="background-color: #ddf;" | バイオ<br />マス ! style="background-color: #ddf;" | 廃棄物 ! style="background-color: #ddf;" | その他 ! style="background-color: #ddf;" | 小計 ! style="background-color: #ddf;" | 順位 |- ! '''全世界''' | 8,263 || 1,111 || 4,301 || 13,675 || - || 2,731 || - || 3,288 || 65 || 12 || 0.9 || 219 || 0.5 || 3,584 || - || 198 || 69 || 4 || 271 || - || 20,261 || - |- ! 率 | 41% || 5.5% || 21% || 67% || - || 13% || - || 16% || 0.3% || {{small|0.06%}} || {{small|0.004%}} || 1.1% || {{small|0.003%}} || 18% || - || 1.0% || 0.3% || 0.02% || 1.3% || - || 100% || - |- !{{flag|China}} | '''2,733''' || 23 || 31 || '''2,788''' || 2 || 68 || 8 || '''585''' || - || 0.2 || - || 13 || - || '''598''' || 1 || 2.4 || - || - || 2.4 || 14 || '''3,457''' || 2 |- !{{flag|India}} | 569 || 34 || 82 || 685 || 6 || 15 || 12 || 114 || - || 0.02 || - || 14 || - || 128 || 6 || 2.0 || - || - || 2.0 || 16 || 830 || 5 |- !{{flag|USA}} | '''2,133''' || 58 || '''911''' || '''3,101''' || 1 || '''838''' || 1 || 282 || '''17''' || 1.6 || '''0.88''' || '''56''' || - || '''357''' || 4 || '''50''' || 22 || 0.8 || '''73''' || 1 || '''4,369''' || 1 |- !{{small|{{flag|Indonesia}}}} | 61 || 43 || 25 || 130 || 19 || - || - || 12 || 8.3 || - || - || - || - || 20 || 17 || - || - || - || - || - || 149 || 20 |- !{{flag|Brazil}} | 13 || 18 || 29 || 59 || 23 || 14 || 13 || '''370''' || - || - || - || 0.6 || - || '''370''' || 3 || '''20''' || - || 0.2 || '''20''' || 4 || 463 || 9 |- ! style="white-space:nowrap" |{{flag|Pakistan}} | 0.1 || 32 || 30 || 62 || 22 || 1.6 || 16 || 28 || - || - || - || - || - || 28 || 14 || - || - || - || - || - || 92 || 24 |- !{{small|{{flag|Bangladesh}}}} | 0.6 || 1.7 || 31 || 33 || 27 || - || - || 1.5 || - || - || - || - || - || 1.5 || 29 || - || - || - || - || - || 35 || 27 |- !{{small|{{flag|Nigeria}}}} | - || 3.1 || 12 || 15 || 28 || - || - || 5.7 || - || - || - || - || - || 5.7 || 25 || - || - || - || - || - || 21 || 28 |- !{{flag|Russia}} | 197 || 16 || '''495''' || 708 || 4 || 163 || 4 || 167 || 0.5 || - || - || {{small|0.01}} || - || 167 || 5 || {{small|0.02}} || 2.5 || - || 2.5 || 13 || '''1,040''' || 4 |- !{{flag|Japan}} | 288 || '''139''' || '''283''' || 711 || 3 || 258 || 3 || 83 || 2.8 || '''2.3''' || - || 2.6 || - || 91 || 7 || '''15''' || 7.3 || - || '''22''' || 3 || '''1,082''' || 3 |- !{{flag|Mexico}} | 21 || 49 || 131 || 202 || 13 || 9.8 || 14 || 39 || 7.1 || {{small|0.01}} || - || 0.3 || - || 47 || 12 || 0.8 || - || - || 0.8 || 17 || 259 || 14 |- !{{flag|Philippines}} | 16 || 4.9 || 20 || 40 || 26 || - || - || 9.8 || '''11''' || {{small|0.001}} || - || 0.1 || - || 21 || 16 || - || - || - || - || - || 61 || 26 |- !{{flag|Vietnam}} | 15 || 1.6 || 30 || 47 || 25 || - || - || 26 || - || - || - || - || - || 26 || 15 || - || - || - || - || - || 73 || 25 |- !{{flag|Ethiopia}} | - || 0.5 || - || 0.5 || 29 || - || - || 3.3 || {{small|0.01}} || - || - || - || - || 3.3 || 28 || - || - || - || - || - || 3.8 || 30 |- !{{flag|Egypt}} | - || 26 || 90 || 115 || 20 || - || - || 15 || - || - || - || 0.9 || - || 16 || 20 || - || - || - || - || - || 131 || 22 |- !{{flag|Germany}} | 291 || 9.2 || 88 || 388 || 6 || 148 || 6 || 27 || 0.02 || '''4.4''' || - || '''41''' || - || 72 || 9 || '''20''' || 9.4 || - || '''29''' || 2 || 637 || 7 |- !{{flag|Turkey}} | 58 || 7.5 || 99 || 164 || 16 || - || - || 33 || 0.2 || - || - || 0.85 || - || 34 || 13 || 0.1 || 0.1 || - || 0.2 || 19 || 198 || 19 |- !{{small|{{flag|コンゴ民主共和国}}}} | - || {{small|0.02}} || {{small|0.03}} || {{small|0.05}} || 30 || - || - || 7.5 || - || - || - || - || - || 7.5 || 22 || - || - || - || - || - || 7.5 || 29 |- !{{flag|Iran}} | 0.4 || 36 || 173 || 209 || 11 || - || - || 5.0 || - || - || - || 0.2 || - || 5.2 || 26 || - || - || - || - || - || 215 || 17 |- !{{flag|Thailand}} | 32 || 1.7 || 102 || 135 || 18 || - || - || 7.1 || {{small|0.002}} || {{small|0.003}} || - || - || - || 7.1 || 23 || 4.8 || - || - || 4.8 || 10 || 147 || 21 |- !{{flag|France}} | 27 || 5.8 || 22 || 55 || 24 || '''439''' || 2 || 68 || - || {{small|0.04}} || - || 5.7 || '''0.5''' || 75 || 8 || 2.1 || 3.8 || - || 5.9 || 9 || 575 || 8 |- !{{flag|UK}} | 127 || 6.1 || 177 || 310 || 7 || 52 || 10 || 9.3 || - || {{small|0.02}} || - || 7.1 || - || 16 || 18 || 8.1 || 2.9 || - || 11 || 5 || 389 || 11 |- !{{flag|Italy}} | 49 || 31 || 173 || 253 || 9 || - || - || 47 || 5.5 || 0.2 || - || 4.9 || - || 58 || 11 || 4.4 || 3.3 || 0.9 || 8.6 || 6 || 319 || 12 |- !{{flag|South Korea}} | 192 || 15 || 81 || 288 || 8 || 151 || 5 || 5.6 || - || 0.3 || - || 0.4 || - || 6.3 || 24 || 0.5 || 0.2 || 0.1 || 0.7 || 18 || 446 || 10 |- !{{flag|Spain}} | 50 || 18 || 122 || 190 || 14 || 59 || 9 || 26 || - || '''2.6''' || {{small|0.02}} || '''32''' || - || 61 || 10 || 2.5 || 1.6 || 0.3 || 4.3 || 11 || 314 || 13 |- !{{flag|Canada}} | 112 || 9.8 || 41 || 162 || 17 || 94 || 7 || '''383''' || - || {{small|0.03}} || - || 3.8 || {{small|0.03}} || '''386''' || 2 || 8.3 || 0.2 || - || 8.5 || 7 || 651 || 6 |- !{{small|{{flag|Saudi Arabia}}}} | - || '''116''' || 88 || 204 || 12 || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || - || 204 || 18 |- !{{flag|Taiwan}} | 125 || 14 || 46 || 186 || 15 || 41 || 11 || 7.8 || - || {{small|0.004}} || - || 0.6 || - || 8.4 || 21 || 0.5 || 3.0 || - || 3.5 || 12 || 238 || 16 |- !{{small|{{flag|Australia}}}} | 198 || 2.8 || 39 || 239 || 10 || - || - || 12 || - || 0.2 || {{small|0.004}} || 3.9 || - || 16 || 19 || 2.2 || - || - || 2.2 || 15 || 257 || 15 |- !{{flag|Netherlands}} | 27 || 2.1 || 63 || 92 || 21 || 4.2 || 15 || 0.1 || - || {{small|0.04}} || - || 4.3 || - || 4.4 || 27 || 3.7 || 2.9 || 0.1 || 6.8 || 8 || 108 || 23 |- ! style="background-color: #ddf;" | 国名 ! style="background-color: #dfd;" | 石炭 ! style="background-color: #dfd;" | 石油 ! style="background-color: #dfd;" | ガス ! style="background-color: #dfd;" | 小計 ! style="background-color: #dfd;" | 順位 ! style="background-color: #ddf;" | 原子力 ! style="background-color: #ddf;" | 順位 ! style="background-color: #dfd;" | 水力 ! style="background-color: #dfd;" | 地熱 ! style="background-color: #dfd;" | 太陽光 ! style="background-color: #dfd;" | 太陽熱 ! style="background-color: #dfd;" | 風力 ! style="background-color: #dfd;" | 潮汐 ! style="background-color: #dfd;" | 小計 ! style="background-color: #dfd;" | 順位 ! style="background-color: #ddf;" | バイオ<br />マス ! style="background-color: #ddf;" | 廃棄物 ! style="background-color: #ddf;" | その他 ! style="background-color: #ddf;" | 小計 ! style="background-color: #ddf;" | 順位 ! style="background-color: #dfd;" | 合計 ! style="background-color: #dfd;" | 順位 |- |} '''2020年の主要国の電源構成''' 以下の表にリストした 30 ヶ国は人口がトップ 20 位か、[[国内総生産]] (GDP) が 20 位以内の国と、参考に[[サウジアラビア]]を含めた<ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/electricity-generation-sources/ |title=Field Listing Electricity generation sources |access-date=2022年11月28日 |publisher=アメリカ合衆国中央情報局 (CIA) |website=THE WORLD FACT BOOK}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/electricity |title=Field Listing Electricity |access-date=2022年11月28日 |publisher=アメリカ合衆国中央情報局 (CIA) |website=THE WORLD FACTBOOK}}</ref>。{{small|CIA World Factbook の値より算出}} {| class="wikitable" |+電源構成の内訳(100万kW 2020) ! ! colspan="2" |化石燃料 ! rowspan="2" |原 子 力 ! rowspan="2" |順 位 ! colspan="7" |再生可能 ! rowspan="2" |バイオマス・ 廃棄物 ! rowspan="2" |順 位 ! rowspan="2" |合計 ! rowspan="2" |順位 |- !国 名 !化石燃料 !順 位 !水力 !地熱 !太陽光 !風力 !潮力・ 波力 !小計 !順 位 |- !全世界 |4588.2 | - |779.8 | - |1287.1 |30.3 |249.9 |469.4 |2.4 |2039 | - |181.7 | - |7571.3 | - |- !率 |60.6% | - |10.3% | - |17% |0.4% |3.3% |6.2% |0% | - | - |2.4% | - | - | - |- !{{flag|China}} |1463.8 |1 |106.5 |2 |394.8 | - |77.6 |137.5 | - |609.9 |1 |35.5 |1 |2217.9 |1 |- !{{flag|India}} |326.7 |4 |12.1 |11 |46.3 | - |18.2 |19.9 | - |84.4 |6 |10.0 |6 |432.8 |3 |- !{{flag|USA}} |684.8 |2 |222.9 |1 |80.0 |4.6 |36.6 |94.9 | - |216.1 |2 |19.4 |3 |1143.3 |2 |- !{{small|{{flag|Indonesia}}}} |56.8 |13 | - | - |4.7 |3.9 | - |0.1 | - |8.8 |19 |3.5 |11 |69.1 |19 |- !{{flag|Pakistan}} |22.0 |23 |3.3 |15 |12.7 | - |0.4 |1.1 | - |14.3 |17 |0.3 |22 |39.9 |24 |- !{{flag|Brazil}} |23.0 |22 |4.5 |13 |128.3 | - |3.3 |17.9 | - |149.6 |3 |17.9 |4 |195.0 |7 |- !{{small|{{flag|Nigeria}}}} |9.1 |27 | - | - |2.5 | - |0.02 | - | - |2.6 |28 |0.01 |26 |11.7 |28 |- !{{small|{{flag|Bangladesh}}}} |18.2 |25 | - | - |0.1 | - |0.1 | - | - |0.3 |29 | - | - |18.5 |27 |- !{{flag|Russia}} |164.2 |5 |58.1 |4 |52.8 | - |0.6 | - | - |53.4 |8 |0.8 |20 |276.5 |5 |- !{{flag|Mexico}} |70.7 |10 |3.4 |14 |7.1 |1.4 |4.1 |6.1 | - |18.7 |15 |0.7 |21 |93.4 |15 |- !{{flag|Japan}} |256.2 |4 |16.7 |10 |34.9 |1.0 |30.7 |3.5 | - |70.1 |7 |5.6 |8 |348.7 |4 |- !{{flag|Ethiopia}} | - |30 | - | - |4.7 | - |0.005 |0.2 | - |4.8 |25 |0.01 |25 |4.9 |29 |- !{{flag|Philippines}} |21.6 |24 | - | - |2.2 |3.1 |0.4 |0.3 | - |6.0 |24 |0.3 |23 |27.9 |25 |- !{{flag|Egypt}} |53.1 |15 | - | - |4.6 | - |0.6 |1.5 | - |6.7 |23 |0.1 |24 |59.8 |21 |- !{{flag|Vietnam}} |46.2 |16 | - | - |16.5 | - |1.6 |0.3 | - |18.3 |16 |0.9 |19 |65.3 |20 |- !{{small|{{flag|コンゴ民主共和国}}}} |0.003 |29 | - | - |2.9 | - |0.003 | - | - |2.9 |27 |0.009 |27 |2.9 |30 |- !{{flag|Turkey}} |54.4 |14 | - | - |25.5 |3.3 |3.7 |8.1 |0.4 |41.0 |11 |1.5 |16 |96.8 |14 |- !{{flag|Germany}} |100.5 |6 |27.6 |6 |11.2 | - |22.8 |59.3 |0.5 |93.8 |5 |25.8 |2 |248.3 |6 |- !{{flag|Iran}} |71.5 |9 |1.5 |16 |7.3 | - |0.08 |0.2 | - |7.6 |22 | - | - |80.6 |17 |- !{{flag|Thailand}} |44.3 |17 | - | - |1.4 | - |1.5 |0.9 | - |3.8 |26 |5.1 |9 |53.1 |22 |- !{{flag|UK}} |42.8 |18 |17.2 |9 |2.9 | - |4.9 |28.5 | - |36.3 |12 |17.0 |5 |113.2 |13 |- !{{flag|France}} |11.1 |26 |94.8 |3 |16.2 | - |3.5 |10.1 |0.3 |30.1 |13 |2.8 |13 |138.6 |9 |- !{{flag|Italy}} |67.9 |11 | - | - |21.3 |2.7 |11.2 |8.4 |0.2 |43.7 |10 |9.8 |7 |121.4 |11 |- !{{flag|Canada}} |25.3 |21 |22.5 |8 |93.2 | - |1.0 |8.7 | - |103.0 |4 |2.5 |14 |153.3 |8 |- !{{flag|South Korea}} |88.0 |7 |37.6 |5 |1.8 | - |4.5 |0.8 |1.0 |8.0 |21 |2.3 |15 |135.8 |10 |- !{{small|{{flag|Australia}}}} |62.2 |12 | - | - |5.1 | - |7.1 |6.9 | - |19.1 |14 |1.2 |17 |82.5 |16 |- !{{flag|Spain}} |37.5 |19 |25.4 |7 |15.2 | - |9.4 |25.6 | - |50.2 |9 |3.0 |12 |115.8 |12 |- !{{flag|Netherlands}} |29.6 |20 |1.4 |17 | - | - |3.0 |5.7 | - |8.6 |20 |3.7 |10 |43.4 |23 |- !{{flag|Switzerland}} |0.2 |28 |7.8 |12 |12.9 | - |0.9 |0.05 | - |13.8 |18 |1.1 |18 |22.9 |26 |- !{{small|{{flag|Saudi Arabia}}}} |76.7 |8 | - | - | - | - |0.2 | - | - |0.2 |30 | - | - |76.8 |18 |- !国 名 !化石燃料 !順 位 !原 子 力 !順 位 !水力 !地熱 !太陽光 !風力 !潮力・ 波力 !小計 !順 位 !バイオマス・ 廃棄物 !順 位 !合計 !順位 |} == 発電する生物 == 生物の中には、[[発電器官]]を有する種が存在し、他の生物に対する攻撃、物体の探知、コミュニケーション等に電気を利用している。そういった能力を持つ種の殆どは魚類である<ref>[http://square.umin.ac.jp/wpj/ysuga/ef-world.html#TOP 世界の電気魚] </ref>。 {{See also|電気魚}} ; 強発電魚 : 100V以上の電圧を生む発電魚。 :* [[デンキウナギ]] :* [[デンキナマズ]] :* [[シビレエイ目|シビレエイ]] ; 弱発電魚 : 5V前後の電圧を生む発電魚。 :* [[エレファントノーズフィッシュ]] :* [[ジムナーカス]] :* [[ガンギエイ]] :* [[ナイフフィッシュ]] :* カラポ :* アイゲンマニア :* ブラックゴースト<ref>[http://webaf.biz/2006/12/post_132.html ブラックゴースト・熱帯魚カタログ]</ref> ; 発電菌 :* [[シェワネラ属]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{発電の種類}} {{電気電力}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はつてん}} [[Category:発電|*]] [[Category:電気工学]] [[Category:電気回路]] [[Category:電力流通]]
2003-09-07T12:09:58Z
2023-12-17T01:14:48Z
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[ "Template:節スタブ", "Template:See also", "Template:脚注ヘルプ", "Template:電気電力", "Template:Sup", "Template:Flag", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:Lang-en-short", "Template:仮リンク", "Template:発電の種類", "Template:Small", "Template:Cite web", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E9%9B%BB
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発電所
発電所(はつでんしょ)は発電設備を備え、発電を主目的に行う施設である。 発電所は、電力を作るための発電装置とこれに関連する設備、および電気を消費側に送出す る送電設備、そして運用・管理を行う人的組織から構成される。 電力会社のような企業体が公共の電力供給用の発電を行う施設を指す場合が多いが、一部には製鉄所やショッピングセンターのような自家消費を主目的とする私的な発電施設も発電所である。風力発電塔も発電所であるが、一般には「風力発電の風車」と呼ばれることが多く、発電所とは呼ばれない傾向がある。 発電方法によって発電所の立地も様々である。水の位置エネルギーを使う水力発電だけでなく、火力発電や原子力発電でも大量の冷却水を必要とすることから、河川や海の近くに設けられることが多い。また、電力消費地に近く電力系統にも容易に組み込めることが求められる。居住者や自然の生態系の保護といった周辺環境に対する配慮も欠かせない。極端な奥地では建設資材や設備装置の搬入路も考慮される。 停電など電力供給のトラブルを避けるための信頼性設計として、発電所内の設備は複数を備えて冗長性を持たせ、さらには送電網全体の信頼性を向上させるために、複数の発電所からの電力を並列に電力網に接続し、需要に対して余裕を持って電力が供給される。発電所や送電網の一部に不具合が発生しても供給電圧に影響が出ないよう、予備発電能力と送電線の許容容量を見極めた危機管理体制が採られている。 大規模な発電に使用されているエネルギー源には以下のようなものがある。 3と4は合わせて「再生可能エネルギー」と呼ばれる。「自然エネルギー」という用語は、核分裂反応や燃焼などの化学反応を伴わず、そのまま利用できるものだけを示す場合と、自然界に存在するエネルギーという意味で1から4までのすべてを含む場合がある。1は20世紀末から現在も、近い未来に枯渇することが世界的な問題となっており、4に属する新たな自然エネルギーや2の核分裂エネルギーの安全な利用が21世紀初頭の現在求められており、長期的には4に近い核融合エネルギー技術の開発も模索されている。1の化石燃料によるガスタービン発電を除けば、1と2による発電の多くがボイラーで高温高圧の蒸気を作ってタービンを回す、「汽力発電」である。ガスタービン発電やディーゼル発電は内燃機関であり、「内燃力発電」と呼ばれる。汽力発電の内でも1の化石燃料を燃やすものと、やはり化石燃料を燃やす全ての内燃力発電は、合わせて「火力発電」と呼ばれる。2のウランやウランから生まれるプルトニウムの核分裂時に生じる核エネルギーを使うものは、原子力発電と呼ばれ、化石燃料を燃やすものとは別の汽力発電である。1から4まで含めてほとんどが、放射性物質の核分裂エネルギーまたは太陽の核融合エネルギー由来であり、核エネルギーと無縁なのは天体の公転・自転エネルギーが由来の潮力発電くらいしかない。現在、放射能が問題になるのは原子力発電のみだが、将来的には、たとえ再生可能エネルギーであっても宇宙空間での太陽光発電などでは放射線が問題になる。 4の分類には幾分雑多なものが含まれており、これらはほとんどが太陽と地球との関係の上で生じているエネルギーである。いずれも存在総量は大きいがエネルギー密度が低いため、集めるのに工夫が求められる。4の中でも実用化が進んでいる太陽光発電と風力発電はそれぞれソーラーパネル(太陽電池)と風車という形で、一般にも目にする機会があるが、海洋エネルギーを発電に利用する海流(潮流)発電、潮力(潮汐)発電、波力発電、海洋温度差発電は、波力を航路標識ブイの電力用の発電に利用する程度でまだまだ実験の域を出ないでいる。地熱発電も、日本ではそれほど大規模化が行なえずにいるが、アイスランドでは総電力発電量の15%を地熱発電から得ている。 4に含まれるものとして、動植物から得られる燃料で発電を行うバイオマス(バイオ燃料)発電が20世紀末から研究開発が進められているが、自動車用燃料が一部実用化されてはいるだけで、発電所での本格的な利用は未定である。バイオマス・エネルギーの利用は、地球温暖化防止やカーボンニュートラルに対応するためにも、今後の研究の進展が望まれている。 1から4のすべてが、「一次エネルギー」と呼ばれ、ガソリンや都市ガス、蒸気のように一次エネルギーを使いやすく加工・変化させたものが「二次エネルギー」と呼ばれるものである。 1から4の一次エネルギーの内でも、3と4の再生可能エネルギーは、別名、「循環エネルギー」とも呼ばれ、化石燃料のように1度使用すれば2度と使えない一次エネルギーは「非循環エネルギー」と呼ばれる。 今後、ある程度広がりが期待できる新たな発電システムでも、例えば、太陽光発電では曇りや雨の間は発電量が低下し、風力発電でも発電量は文字通り風次第であるため、安定的な発電や望む時だけ動かす自由は期待できない。日本の原子力発電では、その発電量を定常出力から余り変更しないという運用特性によって、夜間に余剰となる電力で水をダムの上位に汲み上げておき、昼間に落差による水力発電を行う揚水発電が行われている。 1891年(明治24年)に京都市で一般供給用としては日本最初の蹴上発電所が送電を開始した。この蹴上(けあげ)発電所は琵琶湖疏水による水力発電によって、80 kWの直流発電機と1,300灯分の交流発電機より構成されていた。1907年(明治40年)には東京電燈会社が山梨県桂川に駒橋発電所を建設し、15,000 kW (= 15 MW)の発電電力を55 kVで東京に送電した。1914年には、猪苗代水力電気会社が猪苗代第一発電所を建設し、37,500 kW (= 37.5 MW)の発電電力を115 kVで東京に送電した。 その後、1961年ごろまでは、単機で30 - 40万 kW (= 300 - 400 MW)の発電能力を持つ水力発電所が日本の発電の主力を担っていたが、1962年を境に、高度経済成長による旺盛な電力需要に対応するだけの水力発電所の建設適地が限られ、また、建設期間も水力発電所は長期化するために、単機での発電能力が60 - 100万 kw (ギガワット <GW>クラス)の火力発電所が電力消費地である都市周辺に多数が建設されるようになった。 1970年代以降の原子力発電所の本格的な登場によって、従来型の水力発電所ではなく、原子力発電所が生み出す夜間余剰電力を有効利用するための単機能力30万 kW (= 300 MW)級の揚水発電所が日本各地に建設されるようになった。 1995年には電気事業法が改正され、これによって段階的に大口電力需要家向けの電気の供給販売が自由化された。21世紀に入ってからは、風力発電のような再生可能エネルギーに基づく新しい形式の発電電力は、電力会社によって買い取られる制度が限定的ながら導入されている。 1950年代以前は、機械式の制御システムが多く使われていたため運用・保守が非常に煩雑で多くの人手がかかっていた。 1960年代より、電気式の制御システムに置き換えがすすみ保守の省力化が行われた。日本では、この頃から小規模な水力発電の集中制御化・無人化が進んだ。 1990年代より、デジタル制御の進歩により遠隔監視・操作や自動運転されるものが増えている。水力発電に加えて内燃力発電の小規模なものは自動運転による無人化・巡回保守化、中規模の火力発電でも通常運転は自動化され勤務体制が4直3交代制から日勤と仮眠待機の宿直に変更されるようになった。 発電機の電力は送電網に送出するまでに位相を同期させておく必要がある。送電網に接続された後も常時、発電所が送り出す電圧は常に系統電圧に合わせる必要がある。同期発電機の励磁電流を調整することでその役割を担うのが「自動電圧調整装置」(Automatic voltage regulator, AVR)である。 発電設備の始動に外部電源を必要とするものも多く、所内に予備電源を持ち、また他の発電所からの供給を受けられるように電力網が双方向に連結されたりしている。 施設により、通常時は自動制御のみで無人運転されるものもある。例えば、離島や僻地などで利用されるような小さなものでは、発電機と送電設備のみで、運用者は整備の技能を持つ者が適時保守管理している施設もある。 未来の話としては、宇宙で発電してマイクロ波やレーザー光線で送電しようという案(→マイクロ波送電など)も研究されており、この場合は無線で電力を送出する(→宇宙太陽光発電)。 8月6日は太陽熱発電の日である。サンシャイン計画を参照。
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発電所(はつでんしょ)は発電設備を備え、発電を主目的に行う施設である。 発電所は、電力を作るための発電装置とこれに関連する設備、および電気を消費側に送出す る送電設備、そして運用・管理を行う人的組織から構成される。 電力会社のような企業体が公共の電力供給用の発電を行う施設を指す場合が多いが、一部には製鉄所やショッピングセンターのような自家消費を主目的とする私的な発電施設も発電所である。風力発電塔も発電所であるが、一般には「風力発電の風車」と呼ばれることが多く、発電所とは呼ばれない傾向がある。
[[Image:RatcliffePowerPlantBlackAndWhite.jpg|thumb|right|250px|英国の[[ダービーシャー]]にあるRatcliffe Power Plant(2006年3月)]] '''発電所'''(はつでんしょ)は[[発電]]設備を備え、発電を主目的に行う施設である。 発電所は、[[電力]]を作るための発電装置とこれに関連する設備、および電気を消費側に送出する[[送電]]設備、そして運用・管理を行う人的組織から構成される。 [[電力会社]]のような[[企業]]体が[[公共]]の電力供給用の発電を行う施設を指す場合が多いが、一部には[[製鉄所]]や[[ショッピングセンター]]のような[[自家発電|自家消費を主目的とする私的な発電施設]]も発電所である。風力発電塔も発電所であるが、一般には「風力発電の風車」と呼ばれることが多く、発電所とは呼ばれない傾向がある。 == 考慮点 == === 立地 === 発電方法によって発電所の立地も様々である。水の[[位置エネルギー]]を使う[[水力発電]]だけでなく、[[火力発電]]や[[原子力発電]]でも大量の[[冷却]]水を必要とすることから、[[川|河川]]や[[海]]の近くに設けられることが多い。また、電力消費地に近く[[電力系統]]にも容易に組み込めることが求められる。[[住民|居住者]]や[[自然]]の生態系の保護といった周辺[[環境問題|環境に対する配慮]]も欠かせない。極端な奥地では[[建設]][[建材|資材]]や[[設備]][[装置]]の搬入路も考慮される。 === 冗長性 === [[停電]]など電力供給のトラブルを避けるための[[信頼性設計]]として、発電所内の設備は複数を備えて冗長性を持たせ、さらには送電網全体の信頼性を向上させるために、複数の発電所からの電力を並列に電力網に接続し、需要に対して余裕を持って電力が供給される。発電所や送電網の一部に不具合が発生しても供給電圧に影響が出ないよう、予備発電能力と送電線の許容容量を見極めた危機管理体制が採られている。 == エネルギー源 == 大規模な発電に使用されている[[エネルギー]]源には以下のようなものがある。 # [[石油]]・[[石炭]]・[[天然ガス]]などの[[化石燃料]]のエネルギー # [[ウラン]]を源とする[[放射性物質]]の核エネルギー # 河川や[[湖]][[沼]]などの[[降水]]を源とする水の位置エネルギー # 太陽光・風力・潮力・[[地熱]]・[[バイオマス]]、その他のエネルギー 3と4は合わせて「[[再生可能エネルギー]]」と呼ばれる。「自然エネルギー」という用語は、[[核分裂反応]]や[[燃焼]]などの[[化学反応]]を伴わず、そのまま利用できるものだけを示す場合と、自然界に存在するエネルギーという意味で1から4までのすべてを含む場合がある。1は20世紀末から現在も、近い未来に枯渇することが世界的な問題となっており、4に属する新たな自然エネルギーや2の[[核分裂反応|核分裂]]エネルギーの安全な利用が21世紀初頭の現在求められており、長期的には4に近い[[核融合]]エネルギー技術の開発も模索されている。1の化石燃料による[[ガスタービンエンジン|ガスタービン]]発電を除けば、1と2による発電の多くが[[ボイラー]]で高温高圧の蒸気を作って[[タービン]]を回す、「[[汽力発電]]」である。ガスタービン発電や[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]発電は[[内燃機関]]であり、「[[内燃力発電]]」と呼ばれる。汽力発電の内でも1の化石燃料を燃やすものと、やはり化石燃料を燃やす全ての内燃力発電は、合わせて「火力発電」と呼ばれる。2のウランやウランから生まれる[[プルトニウム]]の核分裂時に生じる核エネルギーを使うものは、[[原子力発電]]と呼ばれ、化石燃料を燃やすものとは別の汽力発電である。1から4まで含めてほとんどが、放射性物質の核分裂エネルギーまたは太陽の核融合エネルギー由来であり、核エネルギーと無縁なのは天体の公転・自転エネルギーが由来の潮力発電くらいしかない。現在、放射能が問題になるのは原子力発電のみだが、将来的には、たとえ再生可能エネルギーであっても[[宇宙]]空間での[[太陽光発電]]などでは放射線が問題になる。 4の分類には幾分雑多なものが含まれており、これらはほとんどが太陽と地球との関係の上で生じているエネルギーである。いずれも存在総量は大きいがエネルギー密度が低いため、集めるのに工夫が求められる。4の中でも実用化が進んでいる[[太陽光発電]]と[[風力発電]]はそれぞれソーラーパネル([[太陽電池]])と[[風車]]という形で、一般にも目にする機会があるが、海洋エネルギーを発電に利用する海流(潮流)発電、潮力(潮汐)発電、波力発電、海洋温度差発電は、波力を[[航路標識]]ブイの電力用の発電に利用する程度でまだまだ実験の域を出ないでいる。[[地熱発電]]も、日本ではそれほど大規模化が行なえずにいるが、[[アイスランド]]では総電力発電量の15%を地熱発電から得ている。 4に含まれるものとして、[[動物|動]][[植物]]から得られる燃料で発電を行う[[バイオマス]]([[バイオ燃料]])発電が20世紀末から研究開発が進められているが、[[自動車]]用燃料が一部実用化されてはいるだけで、発電所での本格的な利用は未定である。バイオマス・エネルギーの利用は、[[地球温暖化]]防止や[[カーボンニュートラル]]に対応するためにも、今後の研究の進展が望まれている。 1から4のすべてが、「[[一次エネルギー]]」と呼ばれ、[[ガソリン]]や[[都市ガス]]、[[蒸気]]のように一次エネルギーを使いやすく加工・変化させたものが「二次エネルギー」と呼ばれるものである。 1から4の一次エネルギーの内でも、3と4の再生可能エネルギーは、別名、「循環エネルギー」とも呼ばれ、化石燃料のように1度使用すれば2度と使えない一次エネルギーは「非循環エネルギー」と呼ばれる<ref name = "発電・変電"/>。 === 運転の自由度 === 今後、ある程度広がりが期待できる新たな発電システムでも、例えば、太陽光発電では曇りや雨の間は発電量が低下し、風力発電でも発電量は文字通り風次第であるため、安定的な発電や望む時だけ動かす自由は期待できない。日本の原子力発電では、その発電量を定常出力から余り変更しないという運用特性によって、夜間に余剰となる電力で水をダムの上位に汲み上げておき、昼間に落差による水力発電を行う揚水発電が行われている。 == 歴史 == === 日本 === [[File:Keage Power Station Second Building.JPG|thumb|200px|right|蹴上発電所、京都市左京区]] 1891年(明治24年)に京都市で一般供給用としては日本最初の[[蹴上発電所]]が送電を開始した。この蹴上(けあげ)発電所は[[琵琶湖疏水]]による水力発電によって、80 kWの[[直流]]発電機と1,300灯分の[[交流]]発電機より構成されていた。1907年(明治40年)には東京電燈会社が[[山梨県]]桂川に駒橋発電所を建設し、15,000 kW (= 15 MW)の発電電力を55 kVで東京に送電した。1914年には、[[猪苗代水力電気|猪苗代水力電気会社]]が[[猪苗代第一発電所]]を建設し、37,500 kW (= 37.5 MW)の発電電力を115 kVで東京に送電した。 その後、1961年ごろまでは、単機で30 - 40万 kW (= 300 - 400 MW)の発電能力を持つ水力発電所が日本の発電の主力を担っていたが、1962年を境に、高度経済成長による旺盛な電力需要に対応するだけの水力発電所の建設適地が限られ、また、建設期間も水力発電所は長期化するために、単機での発電能力が60 - 100万 kw ([[ギガ]]ワット <GW>クラス)の火力発電所が電力消費地である都市周辺に多数が建設されるようになった。 1970年代以降の原子力発電所の本格的な登場によって、従来型の水力発電所ではなく、原子力発電所が生み出す夜間余剰電力を有効利用するための単機能力30万 kW (= 300 MW)級の揚水発電所が日本各地に建設されるようになった。 1995年には[[電気事業法]]が改正され、これによって段階的に大口電力需要家向けの電気の供給販売が自由化された。21世紀に入ってからは、風力発電のような再生可能エネルギーに基づく新しい形式の発電電力は、電力会社によって買い取られる制度が限定的ながら導入されている<ref name="発電・変電">道上勉著 電気学界 『発電・変電』 2000年6月30日2版1刷発行 ISBN 4886862233</ref>。 <!-- === 世界 === 今のところ情報がありません。誰か加筆をお願いします。--> == 運用体制の変遷 == [[1950年代]]以前は、機械式の制御システムが多く使われていたため運用・保守が非常に煩雑で多くの人手がかかっていた。 [[1960年代]]より、電気式の制御システムに置き換えがすすみ保守の省力化が行われた。日本では、この頃から小規模な[[水力発電]]の集中制御化・無人化が進んだ。 [[1990年代]]より、[[デジタル制御工学|デジタル制御]]の進歩により遠隔監視・操作や自動運転されるものが増えている。水力発電に加えて[[内燃力発電]]の小規模なものは自動運転による無人化・巡回保守化、中規模の[[火力発電]]でも通常運転は自動化され勤務体制が4直3交代制から日勤と仮眠待機の宿直に変更されるようになった。 <!--基本的に19世紀末から20世紀をとおして地球上の世界各地に建設された発電所では、[[電線]]を直接配線して電力を消費地に向け送出している。--> == 構成 == === 設備 === * 発電設備 * 変電・送電設備:昇圧[[変圧器]]と[[遮断器]]、及び電線などで構成される。 * 通信設備:運転操作・遠隔監視といった関係各所との通信を行う。 * 非常用電源 ** 非常用発電機: 外部電源・主発電機の双方が停止した場合に使用する。 ** 非常用電池 * 保安装置類 * 環境対策装置類 発電機の電力は送電網に送出するまでに[[位相]]を[[同期]]させておく必要がある。送電網に接続された後も常時、発電所が送り出す電圧は常に系統電圧に合わせる必要がある。同期発電機の励磁電流を調整することでその役割を担うのが「自動電圧調整装置」(Automatic voltage regulator, '''AVR''')である<ref>西嶋喜代人、末宏純也著 『電気エネルギー工学概論』 朝倉書店 2008年8月25日初版第1刷発行 ISBN 9784254229080</ref>。 発電設備の始動に外部電源を必要とするものも多く、所内に予備電源を持ち、また他の発電所からの供給を受けられるように電力網が双方向に連結されたりしている。 <!--[[都市]]などに電力を提供する発電所では、外部への電力送出に、[[変電所]]などの施設が併設されているのが一般的で、これは送電に伴う損失を最小限にするために、電圧を上げ電流を下げる機能を持つ。  「一般的」以外の例がどれほどあるか疑問であり、逆に変電所と呼ばれる施設が「一般的」に併設されているという説明は事実に反する疑いがあるため、コメントアウトします。--> === 運転要員 === 施設により、通常時は自動制御のみで無人運転されるものもある。例えば、離島や僻地などで利用されるような小さなものでは、[[発電機]]と送電設備のみで、運用者は整備の技能を持つ者が適時保守管理している施設もある。 == 発電方法 == * [[火力発電]]([[石油]]・[[天然ガス#液化天然ガス|LNG]]・[[石炭]]・混燃) ** [[廃棄物発電]] *** [[バイオマス発電]] * [[原子力発電]] * [[水力発電]] ** [[揚水発電]] * [[風力発電]] * [[地熱発電]] * [[太陽光発電]] * [[太陽熱発電]] * [[波力発電]] * [[潮力発電]] * [[海洋温度差発電]] * [[炉頂圧発電]] * [[冷熱発電]] * [[水素発電]] * [[内燃力発電]] == 補足 == 未来の話としては、[[宇宙]]で発電して[[マイクロ波]]や[[レーザー|レーザー光線]]で送電しようという案(→[[マイクロ波送電]]など)も研究されており、この場合は無線で電力を送出する(→[[宇宙太陽光発電]])。 [[8月6日]]は太陽熱発電の日である。[[サンシャイン計画]]を参照。 == 出典・注記 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[エネルギー資源]] * [[パワーバージ]] * [[バイオエネルギー]] * [[清掃工場]] * [[発電所カード]] * [[ネガワット]] - 負の電力消費であることから「節電所」とも呼ばれる。 ==外部リンク== *[http://発電所.jp/ 発電所.jp - 日本の発電所一覧] *[http://map.ultra-zone.net/japan_power_plant 日本の発電所 - 全画面地図] *[http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/history/ 日本の発電所の歴史] {{電気電力}} {{発電の種類}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつてんしよ}} [[Category:発電]] [[Category:発電所|*]]
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佐藤雅美
佐藤 雅美(さとう まさよし、1941年1月14日 - 2019年7月29日)は日本の作家。兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。直木賞受賞時を含め、1998年途中まで筆名の読みを「さとうまさみ」としていた。 大学卒業後、企業に就職するも新人研修が馬鹿馬鹿しくなって3日で退職。1968年、『ヤングレディ』にフリーライターとして採用されるが女性週刊誌に馴染み難く3ヶ月で退社。『週刊ポスト』創刊に記者として参画。その後『週刊サンケイ』記者、フリーライターを経て、小説家となる。処女作『大君の通貨』で1985年に第4回新田次郎文学賞、『恵比寿屋喜兵衛手控え』で1994年に第110回直木賞。 2019年7月29日死去。78歳没。 緻密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。 デビュー初期には、歴史的な題材を経済面から考証した歴史経済分野の作品を発表していた。この時期の代表作は第4回新田次郎文学賞を受賞した『大君の通貨』。
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佐藤 雅美は日本の作家。兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。直木賞受賞時を含め、1998年途中まで筆名の読みを「さとうまさみ」としていた。
{{Other people|作家|女優|佐藤雅美 (女優)}} {{Infobox 作家 | name = 佐藤 雅美<br />(さとう まさよし) | image = <!--写真、肖像画等のファイル名--> | image_size = <!--画像サイズ--> | caption = <!--画像説明--> | pseudonym = <!--ペンネーム--> | birth_name = <!--出生名--> | birth_date = {{生年月日と年齢|1941|1|14|no}} | birth_place = {{Flagicon|Japan}} [[兵庫県]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1941|1|14|2019|7|29}} | death_place = {{Flagicon|Japan}} [[静岡県]][[伊東市]] | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = 作家 | language = [[日本語]] | nationality = {{JPN}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> | alma_mater = [[早稲田大学]] | period = [[1984年]] - [[2019年]] | genre = [[時代小説]] | subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)--> | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = <!--代表作--> | spouse = <!--配偶者--> | partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> | children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> | influences = <!--影響を受けた作家名--> | influenced = <!--影響を与えた作家名--> | awards = 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name="jiji"/>。78歳没。 == 作風 == 緻密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに[[江戸時代]]の[[町奉行]]や[[岡っ引き]]などの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。 デビュー初期には、歴史的な題材を経済面から考証した歴史経済分野の作品を発表していた。この時期の代表作は第4回[[新田次郎文学賞]]を受賞した『大君の通貨』。 == 著書 == === 発表順小説リスト === {| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |- !#!!題名!!出版社!!出版年!!文庫!!文庫年!!備考 |- |1||大君の通貨―幕末「円ドル」戦争||講談社||1984||文春文庫||2003||第4回新田次郎文学賞受賞 |- |2||薩摩藩経済官僚 回天資金を作った幕末テクノクラート||講談社||1986||講談社文庫<br>人物文庫||1989<br>2001||<br>改題「調所笑左衛門」 |- |3||幕末住友役員会 生き残りに賭けた二人の企業戦略||講談社||1987||講談社文庫<br>人物文庫||1990<br>2003||改題「幕末「住友」参謀―広瀬宰平の経営戦略」<br>改題「幕末「住友」参謀 広瀬宰平」 |- |4||主殿の税 田沼意次の経済改革||講談社||1988||講談社文庫<br>人物文庫||1991<br>2003|| |- |5||江戸の税と通貨 徳川幕府を支えた経済官僚||太陽企画出版||1989||徳間文庫||1994||改題「江戸の経済官僚」 |- |6||影帳―半次捕物控||講談社||1992||講談社文庫||1991||半次捕物帳シリース01 |- |7||恵比寿屋喜兵衛手控え||講談社||1993||講談社文庫||1996||第110回直木賞受賞作 |- |8||物書同心居眠り紋蔵||講談社||1994||講談社文庫||1997||物書同心居眠り紋蔵シリーズ01 |- |9||開国―愚直の宰相堀田正睦||講談社||1995||講談社文庫||1997|| |- |10||泥棒稼業||角川書店||1996|| || || |- |11||八州廻り桑山十兵衛||文藝春秋||1996||文春文庫||1999||八州廻り桑山十兵衛シリーズ01 |- |12||手跡指南 神山慎吾||講談社||1996||講談社文庫||1999|| |- |13||無法者(アウトロー)|| || ||講談社文庫||1996||文庫書き下ろし 飯岡助五郎を描く |- |14||隼小僧異聞||講談社||1997||講談社文庫||1999||物書同心居眠り紋蔵シリーズ02 |- |15||立身出世―官僚川路聖謨の生涯||文藝春秋||1997||文春文庫||2000||改題「官僚川路聖謨の生涯」 |- |16||楼岸夢一定―蜂須賀小六||実業之日本社||1998||講談社文庫||2001|| |- |17||密約||講談社||1998||講談社文庫||2001||物書同心居眠り紋蔵シリーズ03 |- |18||幽斎玄旨||岩波書店||1998||文春文庫||2001|| |- |19||揚羽の蝶||講談社||1998||講談社文庫||2001||半次捕物帳シリース02 上下巻 |- |20||殺された道案内||文藝春秋||1998||文春文庫||2001||八州廻り桑山十兵衛シリーズ02 |- |21||お尋者||講談社||1999||講談社文庫||2002||物書同心居眠り紋蔵シリーズ04 |- |22||縮尻鏡三郎||日本放送出版協会||1999||文春文庫||2002||縮尻鏡三郎シリーズ01 上下巻 |- |23||歴史に学ぶ「執念」の財政改革|| || ||集英社文庫||1999|| |- |24||啓順凶状旅||幻冬舎||2000||講談社文庫||2003||啓順シリーズ01 |- |25||百助嘘八百物語||講談社||2000||講談社文庫||2004|| |- |26||老博奕打ち||講談社||2000||講談社文庫||2004||物書同心居眠り紋蔵シリーズ05 |- |27||槍持ち佐五平の首||実業之日本社||2001||文春文庫||2004|| |- |28||劇盗二代目日本左衛門||文藝春秋||2001||文春文庫||2003||八州廻り桑山十兵衛シリーズ03 |- |29||四両二分の女||講談社||2001||講談社文庫||2005||物書同心居眠り紋蔵シリーズ06 |- |30||命みょうが||講談社||2002||講談社文庫||2005||半次捕物控シリーズ03 |- |31||江戸繁昌記―寺門静軒無聊伝||実業之日本社||2002||講談社文庫||2007|| |- |32||疑惑||講談社||2003||講談社文庫||2006||半次捕物控シリーズ04 |- |33||信長||日本放送出版協会||2003||文春文庫||2006||上下巻 |- |34||吾、器に過ぎたるか||講談社||2003||講談社文庫||2006||改題「お白洲無情」 |- |35||江戸からの恋飛脚||文藝春秋||2003||文春文庫||2006||八州廻り桑山十兵衛シリーズ04 |- |36||啓順地獄旅||講談社||2003||講談社文庫||2006||啓順シリーズ02 |- |37||首を斬られにきたの御番所||文藝春秋||2004||文春文庫||2007||縮尻鏡三郎シリーズ02 |- |38||啓順純情旅||講談社||2004||講談社文庫||2007||啓順シリーズ03 シリーズ最終巻 |- |39||白い息||講談社||2005||講談社文庫||2008||物書同心居眠り紋蔵シリーズ07 |- |40||花輪茂十郎の特技||文藝春秋||2005||文春文庫||2008||八州廻り桑山十兵衛シリーズ05 |- |41||浜町河岸の生き神様||文藝春秋||2005||文春文庫||2007||縮尻鏡三郎シリーズ03 |- |42||青雲遙かに―大内俊助の生涯||講談社||2006||講談社文庫||2009|| |- |43||泣く子と小三郎||講談社||2006||講談社文庫||2009||半次捕物控シリーズ05 |- |44||町医北村宗哲||角川書店||2006||角川文庫||2008||町医北村宗哲シリーズ01 |- |45||六地蔵河原の決闘||文藝春秋||2006||文春文庫||2009||八州廻り桑山十兵衛シリーズ06 |- |46||向井帯刀の発心||講談社||2007||講談社文庫||2008||物書同心居眠り紋蔵シリーズ08 |- |47||覚悟の人―小栗上野介忠順伝||岩波書店||2007||角川文庫||2009 |- |48||捨てる神より拾う鬼||文藝春秋||2007||文春文庫||2010||縮尻鏡三郎シリーズ04 |- |49||髻塚不首尾一件始末||講談社||2007||講談社文庫||2010||半次捕物控シリーズ06 |- |50||十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯||講談社||2007||講談社文庫||2010|| |- |51||やる気のない刺客―町医北村宗哲||角川書店||2008||角川文庫||2010||町医北村宗哲シリーズ02 |- |52||当たるも八卦の墨色占い||文藝春秋||2008||文春文庫||2011||縮尻鏡三郎シリーズ05 |- |53||一心斎不覚の筆禍||講談社||2008||講談社文庫||2011||物書同心居眠り紋蔵シリーズ09 |- |54||将軍たちの金庫番哲||||||新潮文庫||2008|| |- |55||天才絵師と幻の生首||講談社||2008||講談社文庫||2011||半次捕物控シリーズ07 |- |56||千世と与一郎の関ヶ原||講談社||2009||講談社文庫||2012|| |- |57||戦国女人抄おんなのみち||実業之日本社||2009||実業之日本社文庫||2011|| |- |58||たどりそこねた芭蕉の足跡||文藝春秋||2009||文春文庫||2012||八州廻り桑山十兵衛シリーズ07 |- |59||口は禍の門―町医北村宗哲||角川書店||2009||角川文庫||2011||町医北村宗哲シリーズ03 |- |60||魔物が棲む町||講談社||2010||講談社文庫||2013||物書同心居眠り紋蔵シリーズ10 |- |61||老いらくの恋||文藝春秋||2010||文春文庫||2012||縮尻鏡三郎シリーズ06 |- |62||御当家七代お祟り申す||講談社||2010||講談社文庫||2013||半次捕物控シリーズ08 |- |63||男嫌いの姉と妹―町医北村宗哲||角川書店||2010||角川文庫||2012||町医北村宗哲シリーズ04 シリーズ最終巻 |- |64||ちよの負けん気、実の父||講談社||2011||講談社文庫||2014||物書同心居眠り紋蔵シリーズ11 |- |65||私闘なり、敵討ちにあらず||文藝春秋||2011||文春文庫||2014||八州廻り桑山十兵衛シリーズ08 |- 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のち文庫 :*隼小僧異聞 講談社、1997 のち文庫 :*密約 講談社、1998 のち文庫 :*お尋者 講談社、1999 のち文庫 :*老博奕打ち 講談社、2000 のち文庫 :*四両二分の女 講談社、2001 のち文庫 :*白い息 講談社、2005 のち文庫 :*向井帯刀の発心 講談社、2007 のち文庫 :*一心斎不覚の筆禍 講談社、2008 のち文庫 :*魔物が棲む町 講談社、2010 のち文庫 :*ちよの負けん気、実の父 講談社、2011 のち文庫 :*へこたれない人 講談社、2013 のち文庫 :*わけあり師匠事の顛末 講談社、2014 のち文庫 :*御奉行の頭の火照り 講談社、2015 :*敵討ちか主殺しか 講談社、2017 : ;八州廻り桑山十兵衛シリーズ :*八州廻り桑山十兵衛 文藝春秋、1996 のち文庫 :*殺された道案内 文藝春秋、1998 のち文庫 :*劇盗二代目日本左衛門 文藝春秋、2001 のち文庫 :*江戸からの恋飛脚 文藝春秋、2003 のち文庫 :*花輪茂十郎の特技 文藝春秋、2005 のち文庫 :*六地蔵河原の決闘 文藝春秋、2006 のち文庫 :*たどりそこねた芭蕉の足跡 文藝春秋、2009 のち文庫 :*私闘なり、敵討ちにあらず 文藝春秋、2011 のち文庫 :*関所破り定次郎目籠のお練り 文藝春秋、2014 のち文庫 :*怪盗桐山の藤兵衛の正体 文藝春秋、2017 : ;縮尻鏡三郎シリーズ :*縮尻鏡三郎 日本放送出版協会、1999 のち文春文庫 :*首を斬られにきたの御番所 文藝春秋、2004 のち文庫 :*浜町河岸の生き神様 文藝春秋、2005 のち文庫 :*捨てる神より拾う鬼 文藝春秋、2007 のち文庫 :*当たるも八卦の墨色占い 文藝春秋、2008 のち文庫 :*老いらくの恋 文藝春秋、2010 のち文庫 :*夢に見た娑婆 文藝春秋、2012 のち文庫 :*頼みある仲の酒宴かな 文藝春秋 2014 のち文庫 :*美女二万両強奪のからくり 文藝春秋 2016 : ;啓順シリーズ :*啓順凶状旅 幻冬舎、2000 のち講談社文庫 :*啓順地獄旅 講談社、2003 のち文庫 :*啓順純情旅 講談社、2004 のち文庫 【シリーズ最終巻】 : ;町医北村宗哲シリーズ :*町医北村宗哲 角川書店、2006 のち文庫 :*やる気のない刺客―町医北村宗哲 角川書店、2008 のち文庫 :*口は禍の門―町医北村宗哲 角川書店、2009 のち文庫 :*男嫌いの姉と妹―町医北村宗哲 角川書店、2010 のち文庫 【シリーズ最終巻】 === その他 === *『大君の通貨―幕末「円ドル」戦争』講談社、1984 のち文庫、文春文庫 *『薩摩藩経済官僚 回天資金を作った幕末テクノクラート』講談社 1986 のち文庫、「[[調所広郷|調所笑左衛門]]」人物文庫 *『幕末住友役員会 生き残りに賭けた二人の企業戦略』講談社 1987 「幕末「住友」参謀 [[広瀬宰平]]の経営戦略」文庫、人物文庫 *『主殿の税 [[田沼意次]]の経済改革』講談社 1988 のち文庫、「田沼意次」人物文庫 *『江戸の税と通貨 徳川幕府を支えた経済官僚』太陽企画出版 1989 「江戸の経済官僚」徳間文庫、「将軍たちの金庫番」新潮文庫 *『恵比寿屋喜兵衛手控え』講談社 1993 のち文庫 *『開国―愚直の宰相[[堀田正睦]]』講談社、1995 のち文庫 *『無法者(アウトロー)』講談社文庫、1996 ([[飯岡助五郎]]を描く) *『泥棒稼業』[[角川書店]]、1996 *『手跡指南 神山慎吾』講談社、1996 のち文庫 *『立身出世―官僚[[川路聖謨]]の生涯』文藝春秋、1997 のち文庫「官僚川路聖謨の生涯」 *『楼岸夢一定―[[蜂須賀正勝|蜂須賀小六]]』実業之日本社、1998 のち講談社文庫 *『[[細川幽斎|幽斎]]玄旨』岩波書店、1998 のち文春文庫 *『百助嘘八百物語』講談社、2000 のち文庫 *『槍持ち佐五平の首』[[実業之日本社]]、2001 のち文春文庫 *『江戸繁昌記―[[寺門静軒]]無聊伝』実業之日本社、2002 のち講談社文庫 *『信長』日本放送出版協会、2003 のち文春文庫 *『吾、器に過ぎたるか』講談社、2003 のち文庫「お白洲無情」 *『青雲遙かに―[[大内俊助]]の生涯』講談社、2006 のち文庫 *『覚悟の人―[[小栗忠順|小栗上野介忠順]]伝』岩波書店、2007 のち角川文庫 *『十五万両の代償 十一代将軍[[徳川家斉|家斉]]の生涯』講談社、2007 *『千世と与一郎の関ヶ原』講談社、2009 *『戦国女人抄おんなのみち』実業之日本社 2009 *『知の巨人 [[荻生徂徠]]伝』角川書店 2014 のち文庫 *『悪足搔きの跡始末 厄介弥三郎』講談社 2015 *『侍の本分』[[KADOKAWA]] 2016 ([[大久保忠教]]を描く) == 映像化 == * [[物書同心いねむり紋蔵]](1998年4月 - 9月、NHK [[木曜時代劇 (NHK)|金曜時代劇]]、主演:[[舘ひろし]]) * [[しくじり鏡三郎]](1999年4月 - 9月、NHK 金曜時代劇、主演:[[中村雅俊]]) * [[八州廻り桑山十兵衛〜捕物控ぶらり旅]](2007年5月 - 7月、[[テレビ朝日]] [[テレビ朝日火曜時代劇|火曜時代劇]]、主演:[[北大路欣也]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[http://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/11051993-cc59.html 佐藤雅美(第110回 平成5年/1993年下半期受賞) 歴史経済ものから時代小説へ。小説ジャンルを変えてでも、食い扶持を稼がなきゃいけないお父さん。](ブログ『直木賞の全て 余聞と余分』) {{直木賞|第110回}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さとう まさよし}} [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:フリーライター]] [[Category:直木賞受賞者]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:2019年没]]
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くりはら田園鉄道線
くりはら田園鉄道線(くりはらでんえんてつどうせん)は、宮城県登米市の石越駅と同県栗原市の細倉マインパーク前駅まで結んでいた、くりはら田園鉄道の鉄道路線である。 1921年、宮城県北西部にある登米郡石越村(現・登米市)の石越駅から栗原郡沢辺村(現・栗原市)の沢辺駅までの約9kmの区間において、762mm軌間の軽便規格路線(ただし軽便鉄道法ではなく軌道法に準拠)を以って開通した。その後、会社は二度社名を変えつつ、細倉鉱山までの延長(全線:25.7km)、直流電化および1,067mmへの改軌を相次いで実行し、東北随一の近代的な路線へと成長した。しかし、乗客・貨物の減少により1970年から赤字経営に陥り、1988年に細倉鉱山が閉山となると収入の柱であった貨物輸送が廃止され、経営悪化に拍車をかけた。 欠損補助打ち切りを契機として、1993年には三セク化により路線が沿線自治体の手に委ねられることとなり、さらに1995年には設備の老朽化により電化を廃し、社名もくりはら田園鉄道と改めて廃止までの10年余りを運行した。なお、電化廃止により新造した気動車(ディーゼルカー)による運行となったが、架線柱などは存置され、また旧来のタブレットや腕木式信号機などの信号設備が引き続き使用されたため、電化時代の面影を廃線時まで色濃く残していた。しかし、その後も乗客の減少は続き、赤字の大半を補填していた宮城県が2003年に支援打ち切りを表明し、以降も状況が好転しなかったことから、2007年にやむなく廃線となった。 1 - 2時間に1本程度の運転であった。土曜日と休日には朝と夜の2往復が運行されず、代わりに午前中に1往復が運行されていた。全列車が1両単行によるワンマン運転を行っていた。沿線には高校が数校あり、学生が利用するため朝の1往復をKD10の2両編成で運行していたこともある。車両の夜間滞泊は若柳駅と細倉マインパーク前駅で行っていた。 栗原電鉄時代の最盛期には、「栗駒フラワー」「栗駒もみじ」といった日本国有鉄道(国鉄)仙台駅から東北本線を経由して、石越駅から当線に乗り入れて細倉駅まで直通する臨時旅客列車も設定されていた。 1921年(大正10年)、東北本線と接続する登米郡石越村から、栗原郡若柳町、大岡村、沢辺村と経由する各町村1駅ずつの4駅、約9kmの区間で開業した。翌年には岩ヶ崎町まで延長し、全線で約17kmとなった。いずれの駅も迫川およびその支流の三迫川の左岸(北岸)側にあり、戦後の昭和の大合併前後に生まれた石越町・若柳町・金成町(沢辺村は金成村隣接)・栗駒町の各町の中心部隣接あるいは近接していた。以降、これら5駅の間に駅を増やしていくが、戦中の1942年(昭和17年)に三迫川の右岸(南岸)側にある鶯沢村の細倉鉱山方面に路線を延ばした(全線:約26km)。 開業から戦後までは762mmの非電化路線であったが、戦後復興期になると石炭価格の高騰・低質炭の流通から、1950年(昭和25年)に電化を行った。従来に比べ列車最高速度は2倍、運転時分は40%短縮、列車回数は50%増となり、運輸収入は25%増となった。さらにその5年後には石越駅における貨物の積み替えの手間を省くため、東北本線と同じ軌間の1,067mmに改軌して直通を可能にした。 くりはら田園鉄道線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、ほぼ一貫して減少し、回復をみないまま廃線となった。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 くりはら田園鉄道線の営業成績を下表に記す。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で、その他の極値を黄色で表記している。 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 栗原軌道は若柳から一迫村への支線や沢辺から金成への支線、築館から金田への支線、栗駒駅から鶯沢町内への支線の特許を取得していたが、その全てが1924年に失効している。 清算法人に移行したくりはら田園鉄道は、順次関連施設の撤去、取り壊しを進めた。当時は金属価格(特に銅)の価格が高騰しており撤去費用の捻出が可能だったことから、道路交通法に関係する踏切を構成する設備、栗原電鉄時代の名残だった架線および架線柱は廃止から比較的早い段階で撤去された。また、津久毛駅と栗原田町駅周辺にあった津久毛変電所・田町変電所は2009年に解体された。有人駅だった沢辺、栗駒を含む大半の駅も2010年までに解体されている。 線路に関しては多くが存置されており、鉄橋等もバリケードが築かれた程度で撤去は進んでいない。これには栗原電鉄が重金属を輸送していたため、路盤が汚染されていることも影響しているとされる。 廃止となった2007年には、「くりでん自作トロッコ全国交流フォーラム」のほか、11月10 - 11日にかけて栗駒駅を会場に「くりでん体験乗車会」が開かれた。体験乗車会には、かつての営業車両を使用するため、11月8日に若柳 - 栗駒間をDB10形 (DB101) 機関車に牽引されたKD95形 (KD953) 気動車を回送。同月12日に返却回送が行われている。 栗原市は2010年に若柳駅跡に「くりはら田園鉄道公園」を整備し、若柳駅から石越駅側へ約500mの区間を往復運転する動態保存を開始した。原則、毎月第2日曜日を運転日としている。石越駅側の折り返し地点には、動態保存事業に際して新設した「片町裏信号所」がある。行き違い施設はないものの信号扱所があり、若柳駅との間でタブレット閉塞や電話連絡、腕木式信号機の操作を再現している。 2014年4月から列車の運行がない週の日曜日等に同じ区間で4人乗り軌道自転車(宮田工業栗原工場製)による「くりでんレールバイク乗車会」が行なわれている。いずれも運営は、市のほかOB社員や鉄道ファンらで組織する「くりでん保存愛好会」が行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "くりはら田園鉄道線(くりはらでんえんてつどうせん)は、宮城県登米市の石越駅と同県栗原市の細倉マインパーク前駅まで結んでいた、くりはら田園鉄道の鉄道路線である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1921年、宮城県北西部にある登米郡石越村(現・登米市)の石越駅から栗原郡沢辺村(現・栗原市)の沢辺駅までの約9kmの区間において、762mm軌間の軽便規格路線(ただし軽便鉄道法ではなく軌道法に準拠)を以って開通した。その後、会社は二度社名を変えつつ、細倉鉱山までの延長(全線:25.7km)、直流電化および1,067mmへの改軌を相次いで実行し、東北随一の近代的な路線へと成長した。しかし、乗客・貨物の減少により1970年から赤字経営に陥り、1988年に細倉鉱山が閉山となると収入の柱であった貨物輸送が廃止され、経営悪化に拍車をかけた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "欠損補助打ち切りを契機として、1993年には三セク化により路線が沿線自治体の手に委ねられることとなり、さらに1995年には設備の老朽化により電化を廃し、社名もくりはら田園鉄道と改めて廃止までの10年余りを運行した。なお、電化廃止により新造した気動車(ディーゼルカー)による運行となったが、架線柱などは存置され、また旧来のタブレットや腕木式信号機などの信号設備が引き続き使用されたため、電化時代の面影を廃線時まで色濃く残していた。しかし、その後も乗客の減少は続き、赤字の大半を補填していた宮城県が2003年に支援打ち切りを表明し、以降も状況が好転しなかったことから、2007年にやむなく廃線となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1 - 2時間に1本程度の運転であった。土曜日と休日には朝と夜の2往復が運行されず、代わりに午前中に1往復が運行されていた。全列車が1両単行によるワンマン運転を行っていた。沿線には高校が数校あり、学生が利用するため朝の1往復をKD10の2両編成で運行していたこともある。車両の夜間滞泊は若柳駅と細倉マインパーク前駅で行っていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "栗原電鉄時代の最盛期には、「栗駒フラワー」「栗駒もみじ」といった日本国有鉄道(国鉄)仙台駅から東北本線を経由して、石越駅から当線に乗り入れて細倉駅まで直通する臨時旅客列車も設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)、東北本線と接続する登米郡石越村から、栗原郡若柳町、大岡村、沢辺村と経由する各町村1駅ずつの4駅、約9kmの区間で開業した。翌年には岩ヶ崎町まで延長し、全線で約17kmとなった。いずれの駅も迫川およびその支流の三迫川の左岸(北岸)側にあり、戦後の昭和の大合併前後に生まれた石越町・若柳町・金成町(沢辺村は金成村隣接)・栗駒町の各町の中心部隣接あるいは近接していた。以降、これら5駅の間に駅を増やしていくが、戦中の1942年(昭和17年)に三迫川の右岸(南岸)側にある鶯沢村の細倉鉱山方面に路線を延ばした(全線:約26km)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "開業から戦後までは762mmの非電化路線であったが、戦後復興期になると石炭価格の高騰・低質炭の流通から、1950年(昭和25年)に電化を行った。従来に比べ列車最高速度は2倍、運転時分は40%短縮、列車回数は50%増となり、運輸収入は25%増となった。さらにその5年後には石越駅における貨物の積み替えの手間を省くため、東北本線と同じ軌間の1,067mmに改軌して直通を可能にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "くりはら田園鉄道線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、ほぼ一貫して減少し、回復をみないまま廃線となった。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "くりはら田園鉄道線の営業成績を下表に記す。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で、その他の極値を黄色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "栗原軌道は若柳から一迫村への支線や沢辺から金成への支線、築館から金田への支線、栗駒駅から鶯沢町内への支線の特許を取得していたが、その全てが1924年に失効している。", "title": "未成線" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "清算法人に移行したくりはら田園鉄道は、順次関連施設の撤去、取り壊しを進めた。当時は金属価格(特に銅)の価格が高騰しており撤去費用の捻出が可能だったことから、道路交通法に関係する踏切を構成する設備、栗原電鉄時代の名残だった架線および架線柱は廃止から比較的早い段階で撤去された。また、津久毛駅と栗原田町駅周辺にあった津久毛変電所・田町変電所は2009年に解体された。有人駅だった沢辺、栗駒を含む大半の駅も2010年までに解体されている。", "title": "廃線跡の状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "線路に関しては多くが存置されており、鉄橋等もバリケードが築かれた程度で撤去は進んでいない。これには栗原電鉄が重金属を輸送していたため、路盤が汚染されていることも影響しているとされる。", "title": "廃線跡の状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "廃止となった2007年には、「くりでん自作トロッコ全国交流フォーラム」のほか、11月10 - 11日にかけて栗駒駅を会場に「くりでん体験乗車会」が開かれた。体験乗車会には、かつての営業車両を使用するため、11月8日に若柳 - 栗駒間をDB10形 (DB101) 機関車に牽引されたKD95形 (KD953) 気動車を回送。同月12日に返却回送が行われている。", "title": "動態保存" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "栗原市は2010年に若柳駅跡に「くりはら田園鉄道公園」を整備し、若柳駅から石越駅側へ約500mの区間を往復運転する動態保存を開始した。原則、毎月第2日曜日を運転日としている。石越駅側の折り返し地点には、動態保存事業に際して新設した「片町裏信号所」がある。行き違い施設はないものの信号扱所があり、若柳駅との間でタブレット閉塞や電話連絡、腕木式信号機の操作を再現している。 2014年4月から列車の運行がない週の日曜日等に同じ区間で4人乗り軌道自転車(宮田工業栗原工場製)による「くりでんレールバイク乗車会」が行なわれている。いずれも運営は、市のほかOB社員や鉄道ファンらで組織する「くりでん保存愛好会」が行っている。", "title": "動態保存" } ]
くりはら田園鉄道線(くりはらでんえんてつどうせん)は、宮城県登米市の石越駅と同県栗原市の細倉マインパーク前駅まで結んでいた、くりはら田園鉄道の鉄道路線である。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | color = | other_name = | name = くりはら田園鉄道線 | image = KuriharaDenenTetsudo2006-4.jpg | image_width = 300px | image_alt = 細倉マインパーク前駅付近(2006年) | caption = [[細倉マインパーク前駅]]付近(2006年) | type = | status = 廃止 | start = 起点:[[石越駅]] | end = 終点:[[細倉マインパーク前駅]] | stations = 16駅 | open = {{Start date|1921|12|20|df=y}} | event1label = | event1 = | close = {{End date|2007|04|01|df=y}} | owner = [[くりはら田園鉄道]] | operator = | depot = | stock = [[くりはら田園鉄道#車両]]を参照 | linelength_km = 25.7 | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | ogauge = {{RailGauge|762mm|lk=off}}(1955年まで) | minradius_m = | el = 全線[[非電化]]<br />(1950年-1995年は[[直流電化|直流]]750 [[ボルト (単位)|V]] 電化) | speed = | maxincline = | map = [[ファイル:Kuriden.png|300px]] | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#808080}} {{BS-table}} {{BS3||STRq|BHFq|O3=HUBa|||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[東北本線]]→|}} {{BS3|exSTR+l|exKBHFeq|O2=HUBaq|exKBHFa|O3=HUBrf|0.0|[[石越駅]]||}} {{BS3|exBHF||exSTR|1.6|''[[荒町駅]]''||}} {{BS3|exSTR||exBHF||''片町駅''|-1942|}} {{BS3|exSTRl|exABZ+lr|exSTRr|||新線 / 旧線|}} {{BS|exBHF|3.1|''[[若柳駅]]''||}} {{BS|exBHF|4.6|''[[谷地畑駅]]''||}} {{BS|exBHF|5.7|''[[大岡小前駅]]''||}} {{BS|xKRZh|||←JR東:[[東北新幹線]]→||}} {{BS|exBHF|7.2|''[[大岡駅 (宮城県)|大岡駅]]''||}} {{BS|exSKRZ-Au|||[[東北自動車道]]|}} {{BS|exBHF|9.3|''[[沢辺駅]]''||}} {{BS|exBHF|12.8|''[[津久毛駅]]''||}} {{BS|exBHF|14.4|''[[杉橋駅]]''||}} {{BS|exBHF|15.4|''[[鳥矢崎駅]]''||}} {{BS|exBHF|17.1|''[[栗駒駅]]''||}} {{BS|exWBRÜCKE1|||[[三迫川]]}} {{BS|exBHF|17.9|''[[栗原田町駅]]''||}} {{BS3|exBS2c2|exBS2lr|exBS2c3|||旧線 / 新線}} {{BS2|exTUNNEL1|exSTR||''赤坂山トンネル''||}} {{BS3|exBS2c1|exBS2+lr|exBS2c4||||}} {{BS|exBHF|19.1|''[[尾松駅]]''||}} {{BS|exBHF|21.6|''[[鶯沢駅]]''||}} {{BS|exWBRÜCKE1|||[[二迫川]]}} {{BS|exBHF|23.8|''[[鶯沢工業高校前駅]]''||}} {{BS|exTUNNEL1||''秋法トンネル''||}} {{BS|exBHF|25.5|''[[細倉駅]]''|-1990|}} {{BS|exBHF|25.7|''[[細倉マインパーク前駅]]''||}} {{BS|exKDSTe|26.2|''[[細倉鉱山駅]]''|-1988|}} {{BS-colspan}} ---- 廃止年の特記無い限り2007年廃止 |} |} {{座標一覧}} '''くりはら田園鉄道線'''(くりはらでんえんてつどうせん)は、[[宮城県]][[登米市]]の[[石越駅]]と同県[[栗原市]]の[[細倉マインパーク前駅]]まで結んでいた、[[くりはら田園鉄道]]の[[鉄道路線]]である。 == 概要 == [[1921年]]、[[宮城県]]北西部にある[[登米郡]][[石越町|石越村]](現・[[登米市]])の[[石越駅]]から[[栗原郡]][[沢辺村]](現・[[栗原市]])の[[沢辺駅]]までの約9kmの区間において、762mm[[軌間]]の軽便規格路線(ただし[[軽便鉄道法]]ではなく[[軌道法]]に準拠)を以って開通した。その後、会社は二度社名を変えつつ、[[細倉鉱山]]までの延長(全線:25.7km)、[[直流電化]]および1,067mmへの[[改軌]]を相次いで実行し、[[東北地方|東北]]随一の近代的な路線へと成長した。しかし、乗客・貨物の減少により[[1970年]]から赤字経営に陥り、[[1988年]]に細倉鉱山が閉山となると収入の柱であった貨物輸送が廃止され、経営悪化に拍車をかけた。 欠損補助打ち切りを契機として、[[1993年]]には[[第三セクター|三セク]]化により路線が沿線自治体の手に委ねられることとなり、さらに[[1995年]]には設備の老朽化により電化を廃し、社名もくりはら田園鉄道と改めて廃止までの10年余りを運行した。なお、電化廃止により新造した[[気動車]](ディーゼルカー)による運行となったが、架線柱などは存置され、また旧来の[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|タブレット]]や[[腕木式信号機]]などの信号設備が引き続き使用されたため、電化時代の面影を廃線時まで色濃く残していた。しかし、その後も乗客の減少は続き、赤字の大半を補填していた[[宮城県]]が[[2003年]]に支援打ち切りを表明し、以降も状況が好転しなかったことから、[[2007年]]にやむなく廃線となった。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> ファイル:KuriharaDenenTetsudo2005-10b.jpg|[[栗原田町駅]] - [[尾松駅]]間<br />(2005年10月17日) ファイル:Tablet exchange in kurikoma station.jpg|[[栗駒駅]]でのタブレット交換<br />(2007年4月27日) File:KuriharaDenenTetsudoLine.JPG|気動車時代の車窓 架線柱や[[腕木式信号機]]が見える<br />(2004年9月25日) </gallery> === 路線データ (廃止時) === * 路線距離([[営業キロ]]):25.7km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:16駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:なし(全線[[非電化]]) * 認可最高速度:75km/h(くりはら田園鉄道移管後) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]: ** スタフ閉塞式(石越 - 若柳間、栗駒 - 細倉マインパーク前間) ** タブレット閉塞式(若柳 - 栗駒間) == 運行形態 == 1 - 2時間に1本程度の運転であった。[[土曜日]]と[[休日]]には朝と夜の2往復が運行されず、代わりに午前中に1往復が運行されていた。全列車が1両単行による[[ワンマン運転]]を行っていた。沿線には高校が数校あり、学生が利用するため朝の1往復を[[#電化廃止後|KD10]]の2両編成で運行していたこともある。車両の[[夜間滞泊]]は[[若柳駅]]と[[細倉マインパーク前駅]]で行っていた。 栗原電鉄時代の最盛期には、「栗駒フラワー」「栗駒もみじ」といった[[日本国有鉄道]](国鉄)[[仙台駅]]から[[東北本線]]を経由して、石越駅から当線に乗り入れて細倉駅まで直通する臨時旅客列車も設定されていた<ref>今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳 2号 東北』新潮社、2010年、p.57</ref>。 == 歴史 == [[1921年]](大正10年)、[[東北本線]]と接続する[[登米郡]][[石越町|石越村]]から、[[栗原郡]][[若柳町]]、[[大岡村 (宮城県)|大岡村]]、[[沢辺村]]と経由する各町村1駅ずつの4駅、約9kmの区間で開業した。翌年には[[岩ヶ崎町]]まで延長し、全線で約17kmとなった。いずれの駅も[[迫川]]およびその支流の[[三迫川]]の左岸(北岸)側にあり、戦後の[[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|昭和の大合併]]前後に生まれた[[石越町]]・若柳町・[[金成町]](沢辺村は[[金成村]]隣接)・[[栗駒町]]の各町の中心部隣接あるいは近接していた。以降、これら5駅の間に駅を増やしていくが、戦中の[[1942年]](昭和17年)に三迫川の右岸(南岸)側にある[[鶯沢町|鶯沢村]]の[[細倉鉱山]]方面に路線を延ばした(全線:約26km)。 開業から戦後までは762mmの非電化路線であったが、[[戦後復興期]]になると[[石炭]]価格の高騰・低質炭の流通から、[[1950年]](昭和25年)に電化を行った。従来に比べ列車最高速度は2倍、運転時分は40%短縮、列車回数は50%増となり、運輸収入は25%増となった<ref>中川浩一「私鉄高速電車発達史」『鉄道ピクトリアル』No.209、38頁</ref>。さらにその5年後には石越駅における貨物の積み替えの手間を省くため、東北本線と同じ[[軌間]]の1,067mmに改軌して直通を可能にした。 === 年表 === * 1918年(大正7年)6月22日 - 栗原軌道に対し馬車軌道敷設特許状下付([[登米郡]][[石越町|石越村]]-[[栗原郡]][[鴬沢町|鶯澤村]]間、同郡[[若柳町]]-同郡[[一迫町|一迫村]]間、同郡[[築館町]]-同郡[[沢辺村|澤邊村]]間、同郡同村-[[金成村]]間 )<ref>[{{NDLDC|2953881/7}} 「軌道特許状下付」『官報』1918年6月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1921年]]([[大正]]10年)[[12月20日]] - 石越 - 沢辺間 (8.85km) 開業<ref name="kid15">[{{NDLDC|1184221/86}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和15年11月1日現在』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。石越駅、若柳駅、大岡駅、沢辺駅が開業。 * [[1922年]](大正11年)[[12月17日]] - 沢辺 - 岩ヶ崎間 (7.73km) 開業<ref name="kid15"/>。岩ヶ崎駅が開業。 * [[1924年]](大正13年) ** [[1月15日]] - 津久毛駅、杉橋駅が開業。 ** 7月12日 - 軌道特許失効(1918年6月22日免許 栗原郡岩ヶ先町-同郡鶯澤村間、同郡若柳町-同郡一迫村間、同郡築館町-同郡澤邊村間、指定ノ期限マテニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)<ref> [{{NDLDC|2955714/5}} 「軌道特許失効」『官報』1924年7月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 12月2日 - 軌道特許失効(1918年6月22日免許 栗原郡澤邊村-金成村間、指定ノ期限内ニ工事竣功セサルタメ)<ref>[{{NDLDC|2955832/23}} 「軌道特許失効」『官報』1924年12月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1926年]](大正15年)[[10月10日]] - 谷地畑駅が開業。 * [[1930年]]([[昭和]]5年)[[2月13日]] - 鳥矢崎駅が開業。 * [[1940年]](昭和15年)[[10月8日]] - 鉄道免許状下付(栗原郡岩ヶ先町-同郡鶯澤村間)<ref>[{{NDLDC|2960631/11}} 「鉄道免許状下付」『官報』1940年10月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1941年]](昭和16年)[[12月3日]] - 栗原鉄道に社名変更。 * [[1942年]](昭和17年) ** 月日不詳 - 石越 - 若柳間の経路を変更<ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 2号 東北』新潮社、2008年、p.17,34</ref>。 ** [[8月20日]] - [[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更<ref name="shitetsushi-hb">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、pp.33-34</ref><ref>1941年12月3日許可[{{NDLDC|2960985/10}} 「軌道ヲ地方鉄道ニ変更許可」『官報』1941年12月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[12月1日]] - 岩ヶ崎 - 細倉鉱山間 (9.1km) 開業。全線で26.2km。尾松駅、鶯沢駅、細倉駅、細倉鉱山駅が開業<ref>[{{NDLDC|2961277/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1942年12月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)[[9月21日]] - 電気運転開始(直流750V)。 * [[1951年]](昭和26年)[[11月1日]] - 田町駅が開業。 * [[1952年]](昭和27年)[[4月1日]] - 駒場駅が開業。 * [[1953年]](昭和28年)[[5月10日]] - 荒町駅が開業。 * [[1955年]](昭和30年) ** [[9月26日]] - 軌間を762mmから1067mmに変更。 ** [[11月29日]] - 栗原電鉄に社名変更。 * [[1958年]](昭和33年)[[10月31日]] - 田町駅を栗原田町駅に改称。 * [[1963年]](昭和38年)[[7月1日]] - 岩ヶ崎駅を栗駒駅に改称。 * [[1964年]](昭和39年)[[6月1日]] - 会社合併により宮城中央交通の路線となる。 * [[1966年]](昭和41年)[[10月1日]] - 大岡駅の交換設備を撤去。 * [[1969年]](昭和44年)[[2月25日]] - 再度、栗原電鉄に社名変更。 * [[1975年]](昭和50年)11月1日 - 津久毛駅の交換設備を撤去。 * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]] - 鶯沢駅の閉塞取扱いを廃止<ref name="diagram">寺田裕一『ローカル私鉄列車ダイヤ25年 東日本編』、JTB、2004年、p41。ISBN 4-533-05484-6</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[3月29日]] - 細倉 - 細倉鉱山間休止。貨物営業廃止。 ** [[4月30日]] - [[東日本旅客鉄道]]との[[連絡運輸]]廃止。 ** [[5月16日]] - 栗駒 - 細倉間をスタフ閉塞式に変更<ref name=diagram/>。 * [[1988年]](昭和63年) ** 7月1日 - 石越 - 若柳間をスタフ閉塞式に変更<ref name=diagram/>。 ** 11月1日 - 細倉 - 細倉鉱山間(0.7km)廃止<ref name="shitetsushi-hb" />(10月17日または[[10月27日]]とする文献あり)。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月16日]] - 細倉 - 細倉マインパーク前間(0.2km)開業。細倉駅廃止。 * [[1993年]](平成5年)[[12月15日]] - 親会社の[[三菱マテリアル]]が株式を沿線5市町村(当時)に譲渡、[[第三セクター鉄道]]となる。 * [[1995年]](平成7年) ** 4月1日 - くりはら田園鉄道に社名変更。電化廃止。ワンマン運転開始。駒場駅を鶯沢工業高校前駅に改称。 ** [[12月25日]] - 大岡小前駅が開業。 * [[2007年]](平成19年)4月1日 - 鉄道全線廃止。バス輸送(代替バス:[[栗原市民バス]]・くりはら田園線)へ転換。 == 車両 == {{See|くりはら田園鉄道#車両}} == 利用状況 == === 輸送実績 === くりはら田園鉄道線の輸送実績を下表に記す。輸送量は、ほぼ一貫して減少し、回復をみないまま廃線となった。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;" |- ! rowspan="2"|年 度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/日 ! rowspan="2"|貨物輸送量<br />万t ! rowspan="2"|特 記 事 項 |- |通勤定期 |通学定期 |定 期 外 |合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1965年(昭和40年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; | style="background-color: #ffcccc;"|'''183.5''' |&nbsp; |&nbsp; | style="text-align:left;"|旅客輸送実績最高値を記録 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) | style="background-color: #ffcccc;"|12.9 | style="background-color: #ffcccc;"|29.5 | style="background-color: #ffcccc;"|53.3 |'''95.7''' | style="background-color: #ffcccc;"|891 | style="background-color: #ccffcc;"|''16.1'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |11.0 |28.2 |53.0 |'''92.2''' |860 | style="background-color: #ffcccc;"|''17.7'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |9.1 |29.0 |52.0 |'''90.2''' |839 |''13.3'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |7.9 | style="background-color: #ffcccc;"|29.5 |45.3 |'''82.9''' |733 |''9.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |7.0 |25.9 |44.2 |'''77.2''' |680 |''11.1'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |6.1 |23.7 |42.9 |'''72.8''' |617 |''9.3'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |6.0 |22.6 |41.8 |'''70.5''' |580 |''7.7'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |5.3 |20.8 |37.5 |'''63.6''' |522 |''7.3'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |5.4 |19.4 |35.4 |'''60.2''' |502 |''6.7'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |5.0 |18.0 |33.1 |'''56.1''' |450 |''5.1'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |4.5 |18.4 |29.8 |'''52.7''' |413 |''4.6'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |4.6 |14.3 |25.2 |'''44.1''' |369 |''3.0'' | style="text-align:left;"|細倉-細倉鉱山間休止 貨物営業廃止 |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |4.4 |12.5 |23.4 |'''40.3''' |354 | style="background-color: #ccffff;"|''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |3.0 |12.0 |22.6 |'''37.6''' |327 |''0.0'' | style="text-align:left;"|細倉-細倉鉱山間 (0.7km) 廃止 |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |2.2 |12.2 |21.9 |'''36.3''' |317 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |1.9 |11.6 |20.7 |'''34.2''' |320 |''0.0'' | style="text-align:left;"|細倉-細倉マインパーク前間開業 |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |2.4 |13.8 |19.2 |'''35.4''' |348 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |2.0 |14.1 |17.5 |'''33.6''' |356 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |1.5 |14.0 |17.2 |'''32.7''' |360 |''0.0'' | style="text-align:left;"|沿線5市町村による第三セクターとなる |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |1.4 |13.4 |20.0 |'''34.8''' |398 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |1.2 |14.2 |17.0 |'''32.4''' |369 |''0.0'' | style="text-align:left;"|電化廃止 ワンマン運転開始 |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |1.0 |14.6 |15.0 |'''30.6''' |340 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |0.7 |12.9 |14.0 |'''27.6''' |309 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |0.6 |13.6 |13.5 |'''27.7''' |304 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |0.4 |13.3 |12.4 |'''26.1''' |284 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) | style="background-color: #ccffff;"|0.2 |11.6 |12.0 |'''23.8''' |256 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |0.3 |10.3 |11.9 |'''22.5''' |252 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |0.3 |9.9 |11.6 |'''21.8''' |248 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) | style="background-color: #ccffff;"|0.2 |8.5 |12.7 |'''21.4''' |227 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |0.3 |6.6 |11.9 |'''18.8''' |198 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) | style="background-color: #ccffff;"|0.2 | style="background-color: #ccffff;"|5.7 | style="background-color: #ccffff;"|11.4 | style="background-color: #ccffff;"|'''17.3''' | style="background-color: #ccffff;"|178 |''0.0'' |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) | style="background-color: #ccffff;"|0.2 | style="background-color: #ccffff;"|5.7 |28.6 |'''34.5''' |452 |''0.0'' |&nbsp; |} 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 === 営業成績 === くりはら田園鉄道線の営業成績を下表に記す。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で、その他の極値を黄色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;" |- ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円 ! rowspan="2"|貨物運輸<br />収入<br />千円 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円 ! rowspan="2"|営業収益<br />千円 ! rowspan="2"|営業経費<br />千円 ! rowspan="2"|営業損益<br />千円 ! rowspan="2"|営業<br />係数 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) |28,096 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|83,666 | style="background-color: #ccffcc;"|''10,988'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''122,750''' | style="background-color: #ccffcc;"|''119,568'' | style="background-color: #ccffcc;"|1,954 | style="background-color: #ccffcc;"|'''244,272''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |30,648 |←←←← |91,646 |''14,586'' |'''136,880''' | style="background-color: #ffcccc;"|''156,463'' |4,933 | style="background-color: #ffcccc;"|'''298,276''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |32,441 |←←←← |93,242 | style="background-color: #ffcccc;"|''16,411'' |'''142,094''' |''147,859'' |5,493 |'''295,448''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |36,561 |←←←← |97,637 |''15,131'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''149,329''' |''107,326'' |6,747 |'''263,404''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |33,255 |←←←← |94,156 |''10,456'' |'''137,868''' |''131,682'' |7,555 |'''277,106''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |33,301 |←←←← | style="background-color: #ffff99;"|97,757 |''6,267'' |'''137,325''' |''133,945'' |7,405 |'''278,677''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |29,053 |←←←← |93,958 |''4,222'' |'''127,233''' |''125,694'' |7,541 |'''260,469''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |28,074 |←←←← |91,515 |''2,923'' |'''122,512''' |''124,762'' |8,039 |'''255,312''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |26,228 |←←←← |85,695 |''1,656'' |'''113,579''' |''103,796'' |7,529 |'''224,904''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |26,573 |←←←← |91,257 |''379'' |'''118,209''' |''97,953'' |7,693 |'''223,855''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |25,857 |←←←← |85,513 |''6'' |'''111,376''' |''95,448'' |7,476 |'''214,300''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |24,022 |←←←← |82,965 |''11'' |'''106,998''' |''59,253'' |7,929 |'''174,180''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) | style="background-color: #ffcccc;"|5,949 |16,684 |78,471 |''5'' |'''101,109''' | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |8,845 |'''109,954''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |4,663 | style="background-color: #ccffcc;"|15,364 |75,371 |''1'' |'''95,399''' |''0'' |10,441 |'''105,840''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |4,207 |16,907 |70,678 |''1'' |'''91,793''' |''0'' |9,489 |'''101,282''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |3,970 |17,844 |70,945 |''2'' |'''92,761''' |''0'' |10,260 |'''103,021''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |4,748 |24,151 |66,199 |''1'' |'''95,099''' |''0'' |12,588 |'''107,687''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |3,970 |26,467 |62,576 |''1'' |'''93,014''' |''0'' |13,199 |'''106,213''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |3,172 |26,981 |63,896 |''3'' |'''94,052''' |''0'' |14,467 |'''108,519''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |2,714 |25,148 |75,051 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''102,913''' |''0'' |16,207 |'''119,120''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |2,107 |25,951 |65,502 |''1'' |'''93,561''' |''0'' | style="background-color: #ffff99;"|18,558 |'''112,119''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |1,621 |28,013 |54,236 |''1'' |'''83,871''' |''0'' |16,614 |'''100,485''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |1,366 |28,500 |54,674 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''84,540''' |''0'' |14,503 |'''99,043''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |1,063 | style="background-color: #ffcccc;"|30,563 |51,006 |''0'' |'''82,632''' |''0'' |14,871 |'''97,503''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |885 |29,313 |44,865 |''0'' |'''75,063''' |''0'' |12,947 |'''88,011''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |493 |25,828 |41,372 |''0'' |'''67,693''' |''0'' |12,904 |'''80,597''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |851 |23,621 |37,337 |''0'' |'''61,809''' |''0'' |12,947 |'''74,756''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |842 |23,371 |35,646 |''0'' |'''59,859''' |''0'' | style="background-color: #ffff99;"|12,246 |'''72,105''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |690 |18,529 |34,835 |''0'' |'''54,054''' |''0'' |12,480 |'''66,534''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |797 |14,630 |35,931 |''0'' |'''51,358''' |''0'' |13,596 |'''64,954''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |400 | style="background-color: #ccffff;"|13,308 | style="background-color: #ffff99;"|32,751 |''0'' | style="background-color: #ccffff;"|'''46,459''' |''0'' |13,700 | style="background-color: #ccffff;"|'''60,159''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) | style="background-color: #ccffff;"|319 |14,044 | style="background-color: #ffcccc;"|106,309 |''0'' |'''120,672''' |''0'' | style="background-color: #ffcccc;"|29,235 |'''149,907''' |'''181,201''' |'''△31,294''' |120.9 |} 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 == 駅一覧 == * 全駅[[宮城県]]に所在。 * 駅員のいる駅は、[[若柳駅]]・[[沢辺駅]]・[[栗駒駅]]となっていた。ただし3月18日から3月31日の廃止までは石越駅にも駅員が配置されていた。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;font-size: 90%;" |- !rowspan="2"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2"|接続路線 !rowspan="2"|開業年 !colspan="4"|所在地 !rowspan="2"|位置 |- !style="width:2.5em;"|駅間 !style="width:2.5em;"|累計 !colspan="2"|[[1921年]]開業時 ![[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|1950年代]]<br /> - [[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|2005年]] ![[2007年]]<br />廃止時 |- |style="text-align:left;"|[[石越駅]] |<nowiki> -</nowiki> |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:left;"|[[東日本旅客鉄道]]:[[東北本線]] |[[1921年]] |[[登米郡]] |[[石越町|石越村]] |[[石越町]] |[[登米市]] |{{ウィキ座標|38|46|7.77|N|141|9|32.34|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=石越駅}}<!--Googleマップに当記事を不必要にリンクさせない処置--> |- |style="text-align:left;"|[[荒町駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|1.6 |rowspan="15"|&nbsp; |[[1953年]] |rowspan="15"|[[栗原郡]] |rowspan="3"|[[若柳町]] |rowspan="5"|[[若柳町]] |rowspan="15"|[[栗原市]] |{{ウィキ座標|38|46|37.9|N|141|8|53.2|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=荒町駅}} |- |style="text-align:left;"|[[若柳駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|3.1 |1921年 |{{ウィキ座標|38|46|29.1|N|141|7|54.9|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=若柳駅}} |- |style="text-align:left;"|[[谷地畑駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|4.6 |[[1926年]] |{{ウィキ座標|38|46|52.7|N|141|6|58.0|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=谷地畑駅}} |- |style="text-align:left;"|[[大岡小前駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|5.7 |[[1995年]] |rowspan="2"|[[大岡村 (宮城県)|大岡村]] |{{ウィキ座標|38|47|7.3|N|141|6|18.6|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=大岡小前駅}} |- |style="text-align:left;"|[[大岡駅 (宮城県)|大岡駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|7.2 |1921年 |{{ウィキ座標|38|47|23.9|N|141|5|17.7|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=大岡駅}} |- |style="text-align:left;"|[[沢辺駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|9.3 |1921年 |[[沢辺村]] |rowspan="2"|[[金成町]] |{{ウィキ座標|38|47|54.0|N|141|4|3.5|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=沢辺駅}} |- |style="text-align:left;"|[[津久毛駅]] |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:right;"|12.8 |[[1924年]] |[[津久毛村]] |{{ウィキ座標|38|49|6.3|N|141|2|8.6|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=津久毛駅}} |- |style="text-align:left;"|[[杉橋駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|14.4 |1924年 |rowspan="2"|[[鳥矢崎村]] |rowspan="5"|[[栗駒町]] |{{ウィキ座標|38|49|38.8|N|141|1|21.8|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=杉橋駅}} |- |style="text-align:left;"|[[鳥矢崎駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|15.4 |[[1930年]] |{{ウィキ座標|38|49|47.6|N|141|0|39.7|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=鳥矢崎駅}} |- |style="text-align:left;"|[[栗駒駅]]<!--← 岩ヶ崎駅(1922年 - 1963年)--> |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|17.1 |[[1922年]] |[[岩ヶ崎町]] |{{ウィキ座標|38|49|46.6|N|140|59|30.7|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=栗駒駅}} |- |style="text-align:left;"|[[栗原田町駅]]<!--← 田町駅(1951年 - 1958年)--> |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|17.9 |[[1951年]] |鳥矢崎村 |{{ウィキ座標|38|49|29.3|N|140|59|9.7|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=栗原田町駅}} |- |style="text-align:left;"|[[尾松駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|19.1 |[[1942年]] |[[尾松村]] |{{ウィキ座標|38|49|9.7|N|140|58|31.9|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=尾松駅}} |- |style="text-align:left;"|[[鶯沢駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|21.6 |1942年 |rowspan="3"|[[鶯沢町|鶯沢村]] |rowspan="3"|[[鶯沢町]] |{{ウィキ座標|38|48|36.0|N|140|56|56.5|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=鶯沢駅}} |- |style="text-align:left;"|[[鶯沢工業高校前駅]]<!--← 駒場駅(1952年 - 1995年)--> |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|23.8 |1952年 |{{ウィキ座標|38|48|25.6|N|140|55|31.9|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=鶯沢工業高校前駅}} |- |style="text-align:left;"|[[細倉マインパーク前駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|25.7 |1942年 |{{ウィキ座標|38|48|10.9|N|140|54|21.7|E|type:railwaystation_region:JP-04|display=inline|地図|name=細倉マインパーク前駅}} |} == 未成線 == 栗原軌道は若柳から一迫村への支線や沢辺から金成への支線、築館から金田への支線、栗駒駅から鶯沢町内への支線の特許を取得していたが、その全てが1924年に失効している<ref>森口誠之著『鉄道未成線を歩く』JTB、2001年、P.189</ref>。 == 廃線跡の状況 == 清算法人に移行したくりはら田園鉄道は、順次関連施設の撤去、取り壊しを進めた。当時は金属価格(特に銅)の価格が高騰しており撤去費用の捻出が可能だったことから、[[道路交通法]]に関係する[[踏切]]を構成する設備、栗原電鉄時代の名残だった[[架線]]および架線柱は廃止から比較的早い段階で撤去された。また、津久毛駅と栗原田町駅周辺にあった津久毛変電所・田町変電所は[[2009年]]に解体された。有人駅だった沢辺、栗駒を含む大半の駅も[[2010年]]までに解体されている。 線路に関しては多くが存置されており、鉄橋等もバリケードが築かれた程度で撤去は進んでいない。これには栗原電鉄が重金属を輸送していたため、路盤が汚染されていることも影響しているとされる<ref>堀内重人『鉄道・路線廃止と代替バス』、東京堂出版、2010年、205頁。ISBN 978-4-490-20696-8</ref>。 == 動態保存 == 廃止となった[[2007年]]には、「くりでん自作トロッコ全国交流フォーラム」のほか、11月10 - 11日にかけて栗駒駅を会場に「くりでん体験乗車会」が開かれた。体験乗車会には、かつての営業車両を使用するため、11月8日に若柳 - 栗駒間をDB10形 (DB101) 機関車に牽引されたKD95形 (KD953) 気動車を回送。同月12日に返却回送が行われている。 [[ファイル:Kuriden-railbike.JPG|thumb|旧くりはら田園鉄道若柳駅構内で一般乗車用に使われる4人乗り軌道自転車「くりでんレールバイク」。宮田工業栗原工場製。]] 栗原市は2010年に[[若柳駅]]跡に「くりはら田園鉄道公園」を整備し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kuriharacity.jp/index.cfm/12,0,147,html|title=くりはら田園鉄道公園 の紹介 |publisher=栗原市ホームページ|accessdate=2017-05-12}}</ref>、若柳駅から[[石越駅]]側へ約500mの区間を往復運転する[[動態保存]]を開始した。原則、毎月第2日曜日を運転日としている。石越駅側の折り返し地点には、動態保存事業に際して新設した「片町裏信号所」がある。[[列車交換|行き違い施設]]はないものの[[信号扱所]]があり、若柳駅との間でタブレット閉塞や電話連絡、腕木式信号機の操作を再現している。 2014年4月から列車の運行がない週の日曜日等に同じ区間で4人乗り[[軌道自転車]]([[宮田工業]]栗原工場製)による「[[くりでんレールバイク乗車会]]」が行なわれている。いずれも運営は、市のほかOB社員や鉄道ファンらで組織する「くりでん保存愛好会」が行っている。 == くりはら田園鉄道線に関する楽曲 == *「windy train」([[樋口了一]]、いずれも2006年発売のマキシシングル「windy train」、「風の呼び声/windy train」に収録) *「鉄路にさよならを」([[SUPER BELL"Z]]、2007年発売のアルバム「MOTO(e)R MAN [[鉄子の旅]]」に収録) *「風のうた」([[姫神]]、くりはら田園鉄道のイメージ曲で、この曲のみ収録したオリジナルのシングルCD「風のうた くりはら田園鉄道に想いを寄せて」がグッズとして販売されていた。アルバム「マヨヒガ」に収録) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くI 北海道・東北編』、JTBパブリッシング、2007年、p160, 161, 168。ISBN 978-4-533-06847-8 == 関連項目 == * [[日本の廃止鉄道路線一覧]] * [[ミヤコーバス築館営業所]]・[[グリーン観光バス]] - 代替バスを運行。 * [[細倉マインパーク]] * [[細倉鉱山]] * [[岩倉炭鉱]] * [[男はつらいよ 寅次郎心の旅路]] - 栗原電鉄時代の当路線が舞台。 {{デフォルトソート:くりはらてんえんてつとうせん}} [[Category:東北地方の鉄道路線 (廃止)]] [[Category:くりはら田園鉄道|路]] [[Category:宮城県の交通史]] [[Category:鉱山鉄道]]
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スポーツカー
スポーツカー(sports car)とは自動車のカテゴリのひとつであり、実用として移動手段や物を輸送することよりも「スポーツドライビングを楽しむ」ことに重点を置いて設計・開発された自動車のことであり、日常の足としてのみならず、ドライビングを楽しむためにガレージから出す車のことである。 広義には特定のボディ形状に定まっていないが、伝統的にはスポーツタイプの2ドア・2シーター車がスポーツカーとして語られることが多い。ライトウェイトスポーツはその代表格で、主に高速走行時の運動性能に優れている。一方でスポーツカーと呼ぶに足る性能とスタイルを持っていても、運動性よりも快適性や乗り心地重視の設計である場合は「グランドツアラー」、スポーツカーとしての性能が足らずスタイルで雰囲気を演出するに留まる自動車に関しては「スポーティーカー」、「スペシャリティカー」などと呼ばれ区別されることがある。 乗用4ドアセダンやほぼハッチバック中心のコンパクトカーでも、実用性より走行性能を重視していたり、モータースポーツでの仕様を前提としたグレードはスポーツカーに含む場合がある(この場合「スポーツセダン」や「ホットハッチ」とも呼ばれる)。 こうした区別の基準に関して明確な決まりは存在せず、基本的には個人の好みや自動車メーカーの裁量に委ねられていると言える。そしてそれゆえに、自動車ファンの間でのスポーツカーの定義についての議論は絶えることがない。 特に排ガス規制や安全基準の厳格化により開発費が高騰している現代は、多くの売り上げが望めない割に開発費が多くかかる、伝統的な2ドアのスポーツカーを開発するのが難しくなってきている。そのためスポーツカーの定義は広がる傾向にあり、専用チューニングしたミニバンやクロスオーバーSUVなども、自動車メーカーやジャーナリストがスポーツカーと呼称したり、「まるでスポーツカーのようだ」などと形容するケースもある。しかし古い時代の過激なスポーツカーを知る保守的なマニアの中には、上述のような様々な縛りの中で開発されている現代のスポーツカーは物足りず、時代背景と価格設定を考えれば充分スポーツカーたり得そうな性能の2ドアクーペでも「これはスポーティーカーであってスポーツカーではない」と批判する者は跡を絶たない。 より極端に定義を広げた意見になると「軽ボンネットバンはともかく、軽トラックでさえモータースポーツに用いられるのだから、スポーツカーだと思えばなんでもスポーツカーだ」、逆に狭めた意見だと「あらゆる実用性を排して徹底的にタイムを追求したクーペだけしかスポーツカーとは呼ばない」とするものもある。一応「スポーツカーは乗用車の終わるところで始まり、レーシングカーの始まるところで終わる」という一見それらしい格言もあるが、この場合の「乗用車」とはなんなのかに関しては議論の余地がある。 日本独自の規格である軽自動車は、日本の車種別統計では、スポーツカーやミニバンなど全ての軽自動車規格の自動車は「軽自動車」に分類する場合が有り、走行性能を重視したホンダ・S660、スズキ・アルトワークス、同アルトターボRS、ダイハツ・コペン(親会社のトヨタでも販売されるコペンGR SPORTを含む)等はスポーツカーでは無く、軽自動車に分類される場合がある。 オフロードのスポーツドライビング向けに開発されたラダーフレーム構造+四輪駆動の車種は、スポーツカーではなくクロスカントリー車(クロカン)の括りに入る。またSUVの正式名称は「Sport Utility Vehicle」(スポーツ用多目的車)であるが、この場合はハンティングやアウトドアアクティビティなどのスポーツを快適に行うための車であり、スポーツドライビングを行うスポーツカーとは区別されている。 スポーツカーは自動車のカテゴリ中、最も古いものの一つである。1913年のイスパノ・スイザ3.5 L車は、世界で初めてスポーツカーと呼ばれた車とされる。同時期のスポーツカーとして、ブガッティ・タイプ13やボクスホール・プリンスヘンリーがある。 自動車競技の創成期には競技用車両の事を「スポーツカー(sports car)」と呼ぶことがあったが、実際はレース専用車もスポーツカーも明確な区分けがまだなされていない状況にあった。この頃のレーシングモデルのほとんどは屋根がなく、またボディからタイヤが飛び出しているオープンホイールと呼ばれるデザインであったが、後にタイヤをボディと一体のフェンダーでカバーする形式が登場する。オープンホイールタイプのレースカテゴリは「グランプリ」(後のF1)をはじめとして既に確立されており、これらと区別する目的でオープンホイール以外の競技車両を「スポーツカー」と呼び始めた。 当初は、(特に長距離の)自動車競技そのものが公道で行われることが多く、その後各地に専用サーキットが建設されて以降も、競技用車両がサーキットまで一般公道を自走してそのまま競技に参加することが普通に行われていたので、スポーツカーと競技車両の区別は必要なかった(できなかった)。その後、自動車の高性能・高速化により、自動車競技の高度化と一般車を対象とした保安基準の厳格化が進み、競技用車両と一般車の構造の乖離が大きくなって行った。しだいに競技用車両のほうは「レーシングカー(racing car)」「レースカー(race car)」「レーサー(racer)」などと呼んで区別するようになる。競技車両との差が明確になるにつれ、競技車両への応用を前提とした量産車をスポーツカーと称するように変化していったが、さらに時代が下がりレーシングカーの特殊化が進むにつれ、スポーツカーとレーシングカーの共通点は少なくなっていった。 これら経緯からモータースポーツにおけるスポーツカーとはレース用に製造される2座席車両を指し、一般的にスポーツカーとされる公道運用を目的とした2座席乗用車は、モータースポーツにおいてはグランドツーリング(GT)カーとされる。フェラーリ・BBなど多くのフェラーリ乗用車がGTを名乗るのはこのためである。またそれに対し、フェラーリ車でスポーツカーを意味する"S"を名乗る125S、159S、512Sなどはスポーツカーレース用に製造された競技用車である。 ※モータースポーツにおける「スポーツカー」の定義については、「スポーツカー (モータースポーツ)」を参照。 現在は運動性能を重視した車のうち、「スポーツカー」は公道で走ることを主な目的として設計されている車、「レーシングカー」はサーキットで行われる自動車競技で使われる車を指す。 第二次世界大戦後の日本ではオート三輪やトラックといった実用的な車を主に製造していたが、高度経済成長期の1960年代になると消費者にも嗜好性が生まれ始め、ホンダ・S500、トヨタ・2000GT、マツダ・コスモスポーツ、日産・フェアレディZなど、国内の各自動車メーカーから本格的なスポーツカーが登場するようになった。 1970年代に入ると多くのメーカーでスポーツカーの開発・製造が盛んになり、1980年代にはバブル景気の波に乗って多くのスポーツカーが登場し、当時の若者が好んで購入する車となった。 しかし、1990年代に入るとバブル崩壊後の景気の冷え込みや京都議定書などを筆頭にした環境意識の変化によって、趣味性を重視した乗用車は軒並み販売不振に陥った。また、平成12年排出ガス規制の適用によって、これをクリアできずに生産終了となったスポーツカーも多く、厳しい環境に追いやられることとなった。 以来、2020年代の現在に至るまで、日本製スポーツカーの系譜は完全に消滅こそしていないものの、販売面では富裕層向けの高級クーペほどではないにしろ、セダン以上に冷遇されるなど、スポーツカーにとっては不遇の時代を迎えている。 根本的な問題として「若者の車離れ」があるとされている。そのため、以下の内容はスポーツカー特有の問題ではなく、若者の車離れに関する調査で判明した内容と重複する箇所もある。 実際、現代の若年層に当たる人々に未来の車についてのイメージを調査したところ、車内でダンスや雑談をするといった、車をマシンではなくスペースとして考える意見が多く、価値観の変化が窺える結果となった。そのため、販売するメーカー側は、売れない分野にあたるクーペやスポーツカー、セダンの開発は敬遠され、確実かつ安定的に売れるSUVやミニバン、軽自動車、コンパクトカーの開発に集中する傾向となった。「若者の車離れは、自動車メーカーが手頃なスポーツカーを作らないせいだ」という主張がされることがあるが、実際は因果関係が逆で、「スポーツカーを作っても若者が積極的に買わない」という状況であり、購入層別に見ても財力に乏しすぎる若年者より財力に比較的余裕のある高齢者の方がスポーツカーを進んで買っているという車種も少なくない。そのため、若者がスポーツカーよりミニバンや軽自動車を好む様になっただけだというのが正しいともいえる。 2000年代前半にもスポーツカーに属する車は開発されていたものの、かつてほど売り上げに貢献する車種ではなく、ラインナップはごく限られたものになっていった。それに関連して、スポーツセダンやスポーツワゴン、ホットハッチとしてマイナーチェンジや再投入をして、スポーツカー、セダンの存在をアピールした車種もあったが、効果は限定的で売り上げのテコ入れにはつながらなかった。トヨタに至ってはMR-Sの販売台数が年間1000台程度に落ち込んだことから、ラインナップからクーペが消滅する事態に陥った。また新たなクーペ系セダンの登場が少なかったため、市場においてはクーペの激減とFF化の波を背景として、スポーティーカーやファミリーカーの域であるマークII三兄弟やローレル、セフィーロと言ったFRセダンがその素性の良さと流通数の多さからチューニングカーのベースとなるケースが増えた。 だが、声高に叫ばれる若者の車離れやセダンなどのフラッグシップクーペ不在という状況を各メーカーは見逃すことはできず、00年代以降から再びセダン、スポーツカーにテコ入れをするようになった。特にモータースポーツで複数の世界選手権を掛け持ちするトヨタが積極的で、自らもレースに参戦する車好きで知られる豊田章男社長の元にセダン、スポーツカー振興を積極的に行っており、フラッグシップたるLFAを開発した他、2009年(平成21年)にスポーツグレードの「G's」とコンプリートモデルの「GRMN」を立ち上げた。2017年(平成29年)にはスポーツカーブランドの「GR」を立ち上げ、ヴィッツGRMNのようなホットハッチを中心にチューニングカーを多数ラインナップした他、ハイパーカーの開発も示唆している。また2012年(平成24年)には富士重工業との共同開発によるライトウェイトスポーツのトヨタ・86とスバル・BRZを、さらに2019年(令和元年)にはBMWとの協業でGRスープラ、ダイハツ・コペンをGRがチューニングしたコペンGR SPORTも発売し、いずれも他社製造ではあるがラインナップにスポーツカーを増やしつつある。さらに2020年(令和2年)には完全自社製となるGRヤリスも発売し、約10年をかけて1台もセダンを作らないブランドから、最もスポーツカーを作る国内ブランドへと変貌した。また走行性能に不利なミニバンにおいても、ノア、ヴォクシーにGRスポーツが設定されていた。 ホンダも一時はスポーツカーを生産していない期間があったが、2010年代から定期的にスポーツカーを国内市場に投入している。海外専売となっていたシビックのタイプRを国内発売したほか、他社に先駆けてライトウェイトハイブリッドクーペのCR-Zを開発。さらに20代の若者が開発主査を務めた軽クーペのS660、米国ホンダが製造する新型ハイブリッドスポーツのNSXなどを次々に誕生させたが、長期的なコロナ禍やカーボンニュートラルなどの煽りを受け両者共に2022年(令和4年)末までに生産・販売終了となった。 スズキは8代目となるアルトを発売後、追加モデルとしてホットハッチモデル「ターボRS」と「ワークス」を発売し、5代目アルトの生産終了以降途絶えていた軽ホットハッチを復活させた。日産も新型GT-Rを登場させて世界的に高い評価を得た他、フェアレディも存続。さらにオーテックを2017年(平成29年)にチューニングカーブランドとして発展させた。その他マツダはロードスター、スバルはWRX、ダイハツはコペンを存続させている。唯一、三菱はランサーエボリューションを生産終了してこの分野から完全に撤退した。 ハイブリッドのコンパクトカーを専用チューニングしたアクア G'sが年間1万台以上を売り上げたことからも分かる様に、2000年(平成12年)以降のスポーツカーは走行性能だけでは無く低燃費・実用性が求められるようになってきている。そのためGT-R、86/BRZ、NSX、CR-Zのように、クーペでも後部座席付きやハイブリッドシステム搭載車が増えている。2020年(令和2年)頃には、自動車メーカーのブランド力向上の一環としてや、今後の環境規制による電動化により純粋な内燃機関のセダンの製造が困難となることを危惧して2019年(令和元年)のトヨタ・GRスープラや、2020年(令和2年)のトヨタ・GRヤリス、2021年(令和3年)のトヨタ・GR86/スバル・BRZや、スバル・WRX S4、日産・フェアレディZ、2022年(令和4年)のホンダ・シビックTypeR、およびトヨタ・GRカローラなどが登場しており、全体的な販売比率が少ないのは変わっていないものの、以前に比べてスポーツカーの動向は無視できないものになっている。
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"tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の日本ではオート三輪やトラックといった実用的な車を主に製造していたが、高度経済成長期の1960年代になると消費者にも嗜好性が生まれ始め、ホンダ・S500、トヨタ・2000GT、マツダ・コスモスポーツ、日産・フェアレディZなど、国内の各自動車メーカーから本格的なスポーツカーが登場するようになった。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1970年代に入ると多くのメーカーでスポーツカーの開発・製造が盛んになり、1980年代にはバブル景気の波に乗って多くのスポーツカーが登場し、当時の若者が好んで購入する車となった。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、1990年代に入るとバブル崩壊後の景気の冷え込みや京都議定書などを筆頭にした環境意識の変化によって、趣味性を重視した乗用車は軒並み販売不振に陥った。また、平成12年排出ガス規制の適用によって、これをクリアできずに生産終了となったスポーツカーも多く、厳しい環境に追いやられることとなった。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以来、2020年代の現在に至るまで、日本製スポーツカーの系譜は完全に消滅こそしていないものの、販売面では富裕層向けの高級クーペほどではないにしろ、セダン以上に冷遇されるなど、スポーツカーにとっては不遇の時代を迎えている。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "根本的な問題として「若者の車離れ」があるとされている。そのため、以下の内容はスポーツカー特有の問題ではなく、若者の車離れに関する調査で判明した内容と重複する箇所もある。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "実際、現代の若年層に当たる人々に未来の車についてのイメージを調査したところ、車内でダンスや雑談をするといった、車をマシンではなくスペースとして考える意見が多く、価値観の変化が窺える結果となった。そのため、販売するメーカー側は、売れない分野にあたるクーペやスポーツカー、セダンの開発は敬遠され、確実かつ安定的に売れるSUVやミニバン、軽自動車、コンパクトカーの開発に集中する傾向となった。「若者の車離れは、自動車メーカーが手頃なスポーツカーを作らないせいだ」という主張がされることがあるが、実際は因果関係が逆で、「スポーツカーを作っても若者が積極的に買わない」という状況であり、購入層別に見ても財力に乏しすぎる若年者より財力に比較的余裕のある高齢者の方がスポーツカーを進んで買っているという車種も少なくない。そのため、若者がスポーツカーよりミニバンや軽自動車を好む様になっただけだというのが正しいともいえる。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2000年代前半にもスポーツカーに属する車は開発されていたものの、かつてほど売り上げに貢献する車種ではなく、ラインナップはごく限られたものになっていった。それに関連して、スポーツセダンやスポーツワゴン、ホットハッチとしてマイナーチェンジや再投入をして、スポーツカー、セダンの存在をアピールした車種もあったが、効果は限定的で売り上げのテコ入れにはつながらなかった。トヨタに至ってはMR-Sの販売台数が年間1000台程度に落ち込んだことから、ラインナップからクーペが消滅する事態に陥った。また新たなクーペ系セダンの登場が少なかったため、市場においてはクーペの激減とFF化の波を背景として、スポーティーカーやファミリーカーの域であるマークII三兄弟やローレル、セフィーロと言ったFRセダンがその素性の良さと流通数の多さからチューニングカーのベースとなるケースが増えた。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "だが、声高に叫ばれる若者の車離れやセダンなどのフラッグシップクーペ不在という状況を各メーカーは見逃すことはできず、00年代以降から再びセダン、スポーツカーにテコ入れをするようになった。特にモータースポーツで複数の世界選手権を掛け持ちするトヨタが積極的で、自らもレースに参戦する車好きで知られる豊田章男社長の元にセダン、スポーツカー振興を積極的に行っており、フラッグシップたるLFAを開発した他、2009年(平成21年)にスポーツグレードの「G's」とコンプリートモデルの「GRMN」を立ち上げた。2017年(平成29年)にはスポーツカーブランドの「GR」を立ち上げ、ヴィッツGRMNのようなホットハッチを中心にチューニングカーを多数ラインナップした他、ハイパーカーの開発も示唆している。また2012年(平成24年)には富士重工業との共同開発によるライトウェイトスポーツのトヨタ・86とスバル・BRZを、さらに2019年(令和元年)にはBMWとの協業でGRスープラ、ダイハツ・コペンをGRがチューニングしたコペンGR SPORTも発売し、いずれも他社製造ではあるがラインナップにスポーツカーを増やしつつある。さらに2020年(令和2年)には完全自社製となるGRヤリスも発売し、約10年をかけて1台もセダンを作らないブランドから、最もスポーツカーを作る国内ブランドへと変貌した。また走行性能に不利なミニバンにおいても、ノア、ヴォクシーにGRスポーツが設定されていた。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ホンダも一時はスポーツカーを生産していない期間があったが、2010年代から定期的にスポーツカーを国内市場に投入している。海外専売となっていたシビックのタイプRを国内発売したほか、他社に先駆けてライトウェイトハイブリッドクーペのCR-Zを開発。さらに20代の若者が開発主査を務めた軽クーペのS660、米国ホンダが製造する新型ハイブリッドスポーツのNSXなどを次々に誕生させたが、長期的なコロナ禍やカーボンニュートラルなどの煽りを受け両者共に2022年(令和4年)末までに生産・販売終了となった。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スズキは8代目となるアルトを発売後、追加モデルとしてホットハッチモデル「ターボRS」と「ワークス」を発売し、5代目アルトの生産終了以降途絶えていた軽ホットハッチを復活させた。日産も新型GT-Rを登場させて世界的に高い評価を得た他、フェアレディも存続。さらにオーテックを2017年(平成29年)にチューニングカーブランドとして発展させた。その他マツダはロードスター、スバルはWRX、ダイハツはコペンを存続させている。唯一、三菱はランサーエボリューションを生産終了してこの分野から完全に撤退した。", "title": "日本におけるスポーツカー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ハイブリッドのコンパクトカーを専用チューニングしたアクア G'sが年間1万台以上を売り上げたことからも分かる様に、2000年(平成12年)以降のスポーツカーは走行性能だけでは無く低燃費・実用性が求められるようになってきている。そのためGT-R、86/BRZ、NSX、CR-Zのように、クーペでも後部座席付きやハイブリッドシステム搭載車が増えている。2020年(令和2年)頃には、自動車メーカーのブランド力向上の一環としてや、今後の環境規制による電動化により純粋な内燃機関のセダンの製造が困難となることを危惧して2019年(令和元年)のトヨタ・GRスープラや、2020年(令和2年)のトヨタ・GRヤリス、2021年(令和3年)のトヨタ・GR86/スバル・BRZや、スバル・WRX S4、日産・フェアレディZ、2022年(令和4年)のホンダ・シビックTypeR、およびトヨタ・GRカローラなどが登場しており、全体的な販売比率が少ないのは変わっていないものの、以前に比べてスポーツカーの動向は無視できないものになっている。", "title": "日本におけるスポーツカー" } ]
スポーツカーとは自動車のカテゴリのひとつであり、実用として移動手段や物を輸送することよりも「スポーツドライビングを楽しむ」ことに重点を置いて設計・開発された自動車のことであり、日常の足としてのみならず、ドライビングを楽しむためにガレージから出す車のことである。
{{Otheruses|乗用車の一カテゴリー|[[モータースポーツ]]でのスポーツカー|スポーツカー (モータースポーツ)}} {{出典の明記|date=2022年5月}} [[ファイル:Toyota GR86 RZ"10th Anniversary Limited" (3BA-ZN8) front.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|[[トヨタ・GR86]]]] '''スポーツカー'''(''sports car'')とは[[自動車]]の[[カテゴリ]]のひとつであり、実用として移動手段や物を輸送することよりも「スポーツドライビングを楽しむ」ことに重点を置いて[[設計]]・[[開発]]された自動車のことであり、日常の足としてのみならず、ドライビングを楽しむためにガレージから出す車のことである。 == 概要 == 広義には特定のボディ形状に定まっていないが、伝統的にはスポーツタイプの[[クーペ|2ドア]]・2シーター<ref>小さめの補助的な後部座席を備える、「2+2シーター」もここでは含む</ref>車がスポーツカーとして語られることが多い。[[ライトウェイトスポーツ]]はその代表格で、主に高速走行時の運動性能に優れている。一方でスポーツカーと呼ぶに足る性能とスタイルを持っていても、運動性よりも快適性や乗り心地重視の設計である場合は「[[グランドツアラー]]」、スポーツカーとしての性能が足らずスタイルで雰囲気を演出するに留まる自動車に関しては「スポーティーカー」、「[[スペシャルティカー|スペシャリティカー]]」などと呼ばれ区別されることがある。 乗用4ドア[[セダン]]やほぼ[[ハッチバック]]中心の[[コンパクトカー]]でも、実用性より走行性能を重視していたり、モータースポーツでの仕様を前提としたグレードはスポーツカーに含む場合がある(この場合「[[スポーツセダン]]」や「[[ホットハッチ]]」とも呼ばれる)。 こうした区別の基準に関して明確な決まりは存在せず、基本的には個人の好みや自動車メーカーの裁量に委ねられていると言える。そしてそれゆえに、自動車ファンの間でのスポーツカーの定義についての議論は絶えることがない。 特に排ガス規制や安全基準の厳格化により開発費が高騰している現代は、多くの売り上げが望めない割に開発費が多くかかる、伝統的な2ドアのスポーツカーを開発するのが難しくなってきている。そのためスポーツカーの定義は広がる傾向にあり、専用チューニングした[[ミニバン]]や[[クロスオーバーSUV]]なども、自動車メーカーやジャーナリストがスポーツカーと呼称したり、「まるでスポーツカーのようだ」などと形容するケースもある。しかし古い時代の過激なスポーツカーを知る保守的なマニアの中には、上述のような様々な縛りの中で開発されている現代のスポーツカーは物足りず、時代背景と価格設定を考えれば充分スポーツカーたり得そうな性能の2ドア[[クーペ]]でも「これはスポーティーカーであってスポーツカーではない」と批判する者は跡を絶たない。 より極端に定義を広げた意見になると「[[軽ボンネットバン]]はともかく、[[軽トラック]]でさえモータースポーツに用いられるのだから、スポーツカーだと思えばなんでもスポーツカーだ」、逆に狭めた意見だと「あらゆる実用性を排して徹底的にタイムを追求したクーペだけしかスポーツカーとは呼ばない」とするものもある。一応「スポーツカーは乗用車の終わるところで始まり、レーシングカーの始まるところで終わる」という一見それらしい格言もある<ref>[https://kotobank.jp/word/スポーツカー-84862#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説]</ref>が、この場合の「乗用車」とはなんなのかに関しては議論の余地がある。 日本独自の規格である[[軽自動車]]は、日本の車種別統計では、スポーツカーや[[ミニバン]]など全ての軽自動車規格の自動車は「軽自動車」に分類する場合が有り、走行性能を重視した[[ホンダ・S660]]、[[スズキ・アルト|スズキ・アルトワークス]]、同アルトターボRS、[[ダイハツ・コペン]](親会社のトヨタでも販売されるコペンGR SPORTを含む)等はスポーツカーでは無く、軽自動車に分類される場合がある<ref>[http://www.park24.co.jp/news/2015/02/20150209.html パーク24による統計]</ref>。 [[オフロード]]のスポーツドライビング向けに開発された[[ラダーフレーム]]構造+[[四輪駆動]]の車種は、スポーツカーではなく[[クロスカントリー (自動車)|クロスカントリー]]車(クロカン)の括りに入る。また[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]の正式名称は「Sport Utility Vehicle」(スポーツ用多目的車)であるが、この場合はハンティングやアウトドアアクティビティなどのスポーツを快適に行うための車であり、スポーツドライビングを行うスポーツカーとは区別されている。 <gallery> ファイル:Lotus Elise 01.jpg|純粋なスポーツカー [[ロータス・エリーゼ]] ファイル:Renault Clio RS Trophy (38529150055).jpg|[[ホットハッチ]]の[[ルノー・ルーテシア|ルノー・ルーテシア RSトロフィー]] ファイル:Subaru WRX STI Type S (VAB) front.JPG|スポーツセダンの[[スバル・WRX|スバル・WRX STI]] ファイル:Porsche Cayenne-2.jpg|[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]スポーツの[[ポルシェ・カイエン]] ファイル:Nissan SERENA NISMO (DAA-GFC27).jpg|スポーツブランドの[[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル|NISMO]]が[[チューニング]]した[[日産・セレナ|日産・セレナNISMO]] </gallery> ==歴史== スポーツカーは自動車のカテゴリ中、最も古いものの一つである。[[1913年]]の[[イスパノ・スイザ]]3.5 L車は、世界で初めてスポーツカーと呼ばれた車とされる<ref>Automobiles of the World ISBN 0-671-22485-9 P235</ref>。同時期のスポーツカーとして、[[ブガッティ・タイプ13]]や[[ボクスホール]]・プリンスヘンリーがある<ref>[http://gazoo.com/meishakan/meisha/shousai.asp?R_ID=7121 GAZOO.com 1912年 イスパノ・スイザ 15T] 注:GAZOO.comでは、イスパノ=スイザモデル15Tの1912年の「アルフォンソXIII」モデルが世界初のスポーツカーとして解説されている。これは3.5Lとは別物。</ref>。 [[自動車競技]]の創成期には競技用車両の事を「スポーツカー(sports car)」と呼ぶことがあったが、実際はレース専用車もスポーツカーも明確な区分けがまだなされていない状況にあった。この頃のレーシングモデルのほとんどは[[屋根]]がなく、また[[ボディ]]から[[タイヤ]]が飛び出しているオープンホイールと呼ばれる[[カーデザイン|デザイン]]であったが、後にタイヤをボディと一体の[[フェンダー (自動車)|フェンダー]]でカバーする形式が登場する。オープンホイールタイプのレースカテゴリは「[[グランプリ]]」(後の[[フォーミュラ1|F1]])をはじめとして既に確立されており、これらと区別する目的でオープンホイール以外の競技車両を「スポーツカー」と呼び始めた。 当初は、(特に長距離の)自動車競技そのものが[[公道]]で行われることが多く、その後各地に専用[[サーキット]]が建設されて以降も、競技用車両がサーキットまで一般公道を自走してそのまま競技に参加することが普通に行われていたので、スポーツカーと競技車両の区別は必要なかった(できなかった)。その後、自動車の高性能・高速化により、自動車競技の高度化と一般車を対象とした保安基準の厳格化が進み、競技用車両と一般車の構造の乖離が大きくなって行った。しだいに競技用車両のほうは「[[レーシングカー]](racing car)」「レースカー(race car)」「レーサー(racer)」などと呼んで区別するようになる。競技車両との差が明確になるにつれ、競技車両への応用を前提とした量産車をスポーツカーと称するように変化していったが、さらに時代が下がりレーシングカーの特殊化が進むにつれ、スポーツカーとレーシングカーの共通点は少なくなっていった。 これら経緯からモータースポーツにおけるスポーツカーとはレース用に製造される2座席車両を指し、一般的にスポーツカーとされる公道運用を目的とした2座席[[乗用車]]は、モータースポーツにおいてはグランドツーリング(GT)カーとされる。[[フェラーリ・365GT4BB|フェラーリ・BB]]など多くの[[フェラーリ]]乗用車がGTを名乗るのはこのためである。またそれに対し、フェラーリ車でスポーツカーを意味する"S"を名乗る[[フェラーリ・125S|125S]]、[[フェラーリ・159S|159S]]、[[フェラーリ・512|512S]]などは[[スポーツカーレース]]用に製造された競技用車である。<ref group="注">フェラーリ乗用車で"S"を名乗るのはGTBとGTSの関係のように、ベルリネッタ([[クーペ]])の"B" に対するスパイダー([[ロードスター]])の意味で用いられている。</ref> ※モータースポーツにおける「スポーツカー」の定義については、「'''[[スポーツカー (モータースポーツ)]]'''」を参照。 現在は運動性能を重視した車のうち、「スポーツカー」は[[公道]]で走ることを主な目的として設計されている車、「レーシングカー」は[[サーキット]]で行われる自動車競技で使われる車を指す。 <gallery> ファイル:1923 Bugatti Type 13 'Brescia'.jpg|[[ブガッティ・タイプ13]] (1923年) ファイル:Jaguar E-Type 4.2 Coupe green vl.jpg|[[ジャガー]]・Eタイプ4.2 ファイル:Mercedes-Benz 300 SLR 1986-08-16.jpg|[[メルセデス・ベンツ・300SLR]] ファイル:BMW 327, Bj. 1940 (2009-10-13) Seite.jpg|[[BMW・327]] </gallery> == 日本におけるスポーツカー == [[第二次世界大戦]]後の日本では[[オート三輪]]や[[貨物自動車|トラック]]といった実用的な車を主に製造していたが、[[高度経済成長期]]の[[1960年代]]になると消費者にも嗜好性が生まれ始め、[[ホンダ・S500]]、[[トヨタ・2000GT]]、[[マツダ・コスモ|マツダ・コスモスポーツ]]、[[日産・フェアレディZ]]など、国内の各自動車メーカーから本格的なスポーツカーが登場するようになった。 [[1970年代]]に入ると多くのメーカーでスポーツカーの開発・製造が盛んになり、1980年代には[[バブル景気]]の波に乗って多くのスポーツカーが登場し、当時の若者が好んで購入する車となった。 しかし、[[1990年代]]に入ると[[バブル崩壊]]後の景気の冷え込みや[[京都議定書]]などを筆頭にした環境意識の変化によって、趣味性を重視した乗用車は軒並み販売不振に陥った。また、平成12年[[排出ガス規制]]の適用によって、これをクリアできずに生産終了となったスポーツカーも多く、厳しい環境に追いやられることとなった。 以来、[[2020年代]]の現在に至るまで、日本製スポーツカーの系譜は完全に消滅こそしていないものの、販売面では富裕層向けの高級クーペほどではないにしろ、セダン以上に冷遇されるなど、スポーツカーにとっては[[氷河期 (曖昧さ回避)|不遇の時代]]を迎えている。 <gallery> ファイル:Nissan FAIRLADY Z 300ZX 2by2 T-bar roof (GZ32) front.jpg|[[日産・フェアレディZ]] ファイル:Honda NSX Type R in the Honda collection.jpg|[[ホンダ・NSX]] タイプR ファイル:1996 Mitsubishi GTO (12215409734).jpg|[[三菱・GTO]] ファイル:Mazda Rx-7 (3658969704).jpg|[[マツダ・RX-7]] </gallery> ===スポーツカー不遇の背景=== 根本的な問題として「[[若者の車離れ]]」があるとされている。そのため、以下の内容はスポーツカー特有の問題ではなく、若者の車離れに関する調査で判明した内容と重複する箇所もある。 ;金銭的理由 :主なターゲットである若年層の雇用不安定化などが原因で発生した車を購入すること自体の需要の冷え込みも影響した。また、[[運転免許証]]を取得しても、購入費用により断念したり単純に自家用車を持たなかったりする層も増えている。 :仮に購入を決意しても、自動車の本体価格だけを比べても高額化が進んでいる。例えば、毎年進化するイヤーモデル制を採っている[[日産・GT-R]]を例にすれば<ref group="注">計算がややこしくなることや名称が多少変更されているため、出典先Goo-net掲載情報の最低価格で統一する。[https://www.goo-net.com/catalog/NISSAN/GTR/ 日産 GT-R(GTR)カタログ・スペック情報・モデル・グレード比較] 2019年11月15日閲覧。</ref>、 ::2007年(平成19年)12月モデル:約777万円<br />2010年(平成22年)11月モデル:約869万円<br />2013年(平成25年)12月モデル:約905万円<br />2016年(平成28年)7月モデル:約996万円<br />2019年(令和元年)6月モデル:約1063万円 :と今回は3年ごととしたが、価格のみで比較しても、全体で見れば価格は上昇傾向であり、スポーツカーの購入費用の高額化によって買うに買えない状況が増えているのも事実である。 :ただ、これは自動車業界全体の傾向であり、単価が安い車種として扱われている軽自動車や[[コンパクトカー]]も例外ではない。同じスポーツカーで且つ軽自動車の[[ダイハツ・コペン]]を例にすれば<ref>[https://www.goo-net.com/catalog/DAIHATSU/COPEN/ ダイハツ コペン(COPEN)カタログ・スペック情報・モデル・グレード比較] 2019年11月15日閲覧</ref>、 ::2002年(平成14年)6月発売アクティブトップ約149万円<br />2014年(平成26年)6月発売ローブ約181万円 :となっており、比較的安い車種として扱われる軽自動車であっても大幅ではないが価格上昇が起きている状況である。 :仮令ローンなどで購入費用を工面できたとしても、維持費の面から断念することも少なくない。2003年(平成15年)に登場した[[スクラップインセンティブ (自動車)#日本|グリーン化税制]]の影響や[[2004年]](平成16年)あたりから顕著になっている世界的な原油高によるガソリン価格の上昇も要因の一つだが、税金面の負担が大きくなりやすい点<ref group="注">日本の自動車税は排気量が大きければ大きいほど税率が高くなる仕組みとなっている。</ref>、事故率や盗難率の高さから任意保険料の料率が高額に設定されている点、スポーツカー特有の部品を使用していることに伴う整備面の負担が大きい点など、単にスポーツカーを所有した場合の維持費という面からも敬遠されるようになった。 :これに関連して、所有するだけで常に維持費が発生するため、単に移動手段という一点だけに絞れば、軽自動車やコンパクトカーなどの購入費用や維持費の安い車種を選ぶ比率が増加。そのため、相対的にスポーツカーの人気が低下したとも言える。 :更には[[中古車]]に関しても、2010年~20年あたりを境に軒並み相場が高騰している。これは従前[[チューニングカー]]のベース車として使われることの多かった1980年代末期~2000年代初期の車両が[[スクラップインセンティブ (自動車)|エコカー補助金]]や経年劣化などを背景にした[[廃車 (自動車)|廃車による個体数減少]]とアメリカの「25年ルール」に代表される海外輸出の増加に伴う需要増などを背景とした需給バランスの崩壊があり「新車どころか中古車も」、ともすれば[[日産・RB26DETT|第2世代]]の[[日産・スカイラインGT-R|スカイラインGT-R]]のように「新車以上に手出しがしにくい」状況になっている車種すら存在する。 ;消費者の車に対する価値観の変化 :高度経済成長期の時代は日本人の経済力が年々増し、車の性能も年々向上する傾向にあり、座席数や積載能力に非常に乏しいクーペを所有しても「どうせ近い将来買い替えるから、将来の自分の状況次第でまた判断すれば良い」などと考えたり、車に何らかの性能差があったことが多かったため、車の性能を目的として買い替えたりするなど、多くの人にとって車は「短期間で買い換えるもの」という扱いであったのでスポーツカーを保有してもあまり気にされなかった。また、1990年代までは実用性より憧れの存在であるセダンやクーペ、スポーツカーを購入するというステータスも存在していた。<br />一方で[[フォルクスワーゲン・ゴルフ]]や[[ミニ (BMC)|ローバー・ミニ]]、[[ルノー・5]]などに見られる実用性や合理性に優れた[[セダン#2ボックスセダン(ショートファストバックセダン/ノッチレスセダン)|2ボックス型乗用車]]という現代に通じる車種も1980年代には登場していたものの、それらは輸入車であり、カーマニア以外の消費者には評価されずにいた。また、日本車でそう言った概念のある車もなくはなかったが、一代限りで終わるケースも少なくなかった。そのため、この頃は候補はあるが進んで買われる車種ではなかったうえ、当時要求されていた実用性をセダンやクーペでも結果的に満たすことができており、結果的にそちらが買われている車種でもあった。 :ところが、バブル景気の崩壊後は車を所有する人が減少傾向となった。車の購入希望者の判断基準の上位に、子供が生まれたり増えたりしても買い買えずに乗り続けられることや車自体の実用性がくるようになった。また、それに伴い一台当たりを長期間保有することが意識されるようになった。そんななか、軽自動車枠に収めるべく仕立て直し、バブル崩壊後に登場させた[[スズキ・ワゴンR]]によって軽自動車の実用性と[[軽トールワゴン]]の概念が確立された。また、ミニバンのほうも[[三菱・デリカ]]などの[[商用車]]をベースとしたキャブオーバースタイルの[[ワンボックスカー]]のように、後年から見ればミニバンの一種という車種もあったが、1990年(平成2年)の初代[[トヨタ・エスティマ]]をきっかけに消費者が求める実用性のあるミニバンの概念が確立され、市場にミニバンというジャンルが登場することとなった。 :様々な要因が重なり、[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|SUV]]、[[ミニバン]]等や[[ステーションワゴン]]、果ては[[ハッチバック]]由来の2ボックス型乗用車や軽自動車の[[軽トールワゴン]]がそれを機に隆盛し始め、セダンやクーペ以外の選択肢が激増した。その結果として[[スペシャルティカー]]を含むクーペ系乗用車は敬遠されたうえ、統計的に見て、SUV・ミニバン・ハッチバック・[[トールワゴン]]などを求める人の割合が非常に増えた。また、昔に比べ車の性能や衝突安全性能も大幅に向上したというケースは減少したため、車齢の長さの由来による経年劣化やユーザーの趣味・嗜好の変化など以外の理由で買い替える人が減少したことも影響した。 実際、[[Z世代|現代の若年層に当たる人々]]に未来の車についてのイメージを調査したところ、[[ハイトワゴン|車内でダンスや雑談をするといった、車をマシンではなくスペースとして考える]]意見が多く、価値観の変化が窺える結果となった<ref>[https://kakakumag.com/car/?id=3711 自動車ライターがズバッと解説! 3分でわかる自動車最新トレンド 復活傾向のスポーツカーに時代が求めるクルマの姿はない!?]</ref>。そのため、販売するメーカー側は、売れない分野にあたるクーペやスポーツカー、セダンの開発は敬遠され、確実かつ安定的に売れるSUVやミニバン、[[軽自動車]]、[[コンパクトカー]]の開発に集中する傾向となった。「若者の車離れは、自動車メーカーが手頃なスポーツカーを作らないせいだ」という主張がされることがあるが、実際は因果関係が逆で、「'''スポーツカーを作っても若者が積極的に買わない'''」という状況であり、購入層別に見ても'''[[さとり世代|財力に乏しすぎる若年者]]より[[団塊の世代|財力に比較的余裕のある高齢者]]の方がスポーツカーを進んで買っている'''という車種も少なくない。そのため、若者がスポーツカーよりミニバンや軽自動車を好む様になっただけだというのが正しいともいえる。 :他にも所有するにしても、近年日本国内の[[カーシェアリング]]、もしくは任意保険料・メンテナンス料込みの月額利用料で利用可能な自動車[[サブスクリプション]]サービスの基盤が整いつつあるうえ、スポーツカーの登録台数も増えている。現にその登録者が増えていること<ref>[https://www.webcartop.jp/2019/08/416612/ クルマ離れはウソ? 若者を中心に日本人が新車を買わなくなったワケ (1/2ページ)]</ref>から、運転は好きだが所有しないという人数が増えているため、車離れというより、単に個人で車を所有する層が減っているだけという見方もあり、「自動車の登録台数の減少は車離れ」という理解は正しくないという見方もある。 ===21世紀のスポーツカー文化=== 2000年代前半にもスポーツカーに属する車は開発されていたものの、かつてほど売り上げに貢献する車種ではなく、ラインナップはごく限られたものになっていった。それに関連して、[[スポーツセダン]]や[[ステーションワゴン|スポーツワゴン]]、[[ホットハッチ]]としてマイナーチェンジや再投入をして、スポーツカー、セダンの存在をアピールした車種<ref group="注">[[スバル・インプレッサ]]は、2代目まではセダンやクーペが主体であったが、3代目からはハッチバックが主体となったのが一例である</ref>もあったが、効果は限定的で売り上げのテコ入れにはつながらなかった。トヨタに至っては[[MR-S]]の販売台数が年間1000台程度に落ち込んだことから、ラインナップからクーペが消滅する事態に陥った。また新たなクーペ系セダンの登場が少なかったため、市場においてはクーペの激減とFF化の波を背景として、スポーティーカーやファミリーカーの域である[[トヨタ・マークII|マークII]]三兄弟や[[日産・ローレル|ローレル]]、[[日産・セフィーロ|セフィーロ]]と言ったFRセダンがその素性の良さと流通数の多さからチューニングカーのベースとなるケースが増えた。 だが、声高に叫ばれる[[若者の車離れ]]やセダンなどのフラッグシップクーペ不在という状況を各メーカーは見逃すことはできず、00年代以降から再びセダン、スポーツカーにテコ入れをするようになった。特にモータースポーツで複数の世界選手権を掛け持ちする[[トヨタ自動車|トヨタ]]が積極的で、自らもレースに参戦する車好きで知られる[[豊田章男]]社長の元にセダン、スポーツカー振興を積極的に行っており、[[フラッグシップ]]たる[[レクサス・LFA|LFA]]を開発した他、2009年(平成21年)にスポーツグレードの「G's」とコンプリートモデルの「GRMN」を立ち上げた。2017年(平成29年)にはスポーツカーブランドの「GR」を立ち上げ、ヴィッツGRMNのような[[ホットハッチ]]を中心にチューニングカーを多数ラインナップした他、ハイパーカーの開発も示唆している。また2012年(平成24年)には富士重工業との共同開発によるライトウェイトスポーツの[[トヨタ・86]]と[[スバル・BRZ]]を、さらに2019年(令和元年)にはBMWとの協業で[[トヨタ・スープラ|GRスープラ]]、[[ダイハツ・コペン]]をGRがチューニングしたコペンGR SPORTも発売し、いずれも他社製造ではあるがラインナップにスポーツカーを増やしつつある。さらに2020年(令和2年)には完全自社製となる[[GRヤリス]]も発売し、約10年をかけて1台もセダンを作らないブランドから、最もスポーツカーを作る国内ブランドへと変貌した。また走行性能に不利な[[ミニバン]]においても、[[トヨタ・ノア|ノア]]、[[トヨタ・ヴォクシー|ヴォクシー]]にGRスポーツが設定されていた。 [[本田技研工業|ホンダ]]も一時はスポーツカーを生産していない期間があったが、2010年代から定期的にスポーツカーを国内市場に投入している。海外専売となっていた[[ホンダ・シビック|シビック]]の[[ホンダ・シビックタイプR|タイプR]]を国内発売したほか、他社に先駆けてライトウェイトハイブリッドクーペの[[ホンダ・CR-Z|CR-Z]]を開発。さらに20代の若者が開発主査を務めた軽クーペの[[ホンダ・S660|S660]]、[[ホンダ・オブ・アメリカ・マニファクチャリング|米国ホンダ]]が製造する新型ハイブリッドスポーツの[[ホンダ・NSX (2016年)|NSX]]などを次々に誕生させたが、長期的な[[コロナ禍]]や[[カーボンニュートラル]]などの煽りを受け両者共に2022年(令和4年)末までに生産・販売終了となった。 スズキは8代目となる[[スズキ・アルト|アルト]]を発売後、追加モデルとしてホットハッチモデル「ターボRS」と「ワークス」を発売し、5代目アルトの生産終了以降途絶えていた軽ホットハッチを復活させた。[[日産自動車|日産]]も新型[[日産・GT-R|GT-R]]を登場させて世界的に高い評価を得た他、フェアレディも存続。さらに[[オーテックジャパン|オーテック]]を2017年(平成29年)にチューニングカーブランドとして発展させた。その他マツダは[[マツダ・ロードスター|ロードスター]]、スバルは[[スバル・WRX|WRX]]、ダイハツはコペンを存続させている。唯一、[[三菱自動車工業|三菱]]は[[三菱・ランサーエボリューション|ランサーエボリューション]]を生産終了してこの分野から完全に撤退した。 [[ハイブリッドカー|ハイブリッド]]の[[コンパクトカー]]を専用チューニングした[[トヨタ・アクア|アクア G's]]が年間1万台以上を売り上げた<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/77524?page=4 トヨタ「アクア」の人気が全く衰えない理由 発売4年目でも販売トップをひた走る]</ref>ことからも分かる様に、2000年(平成12年)以降のスポーツカーは走行性能だけでは無く低燃費・実用性が求められるようになってきている。そのためGT-R、86/BRZ、NSX、CR-Zのように、クーペでも後部座席付きやハイブリッドシステム搭載車が増えている。2020年(令和2年)頃には、自動車メーカーのブランド力向上の一環としてや、今後の環境規制による電動化により純粋な[[内燃機関]]のセダンの製造が困難となることを危惧して2019年(令和元年)の[[トヨタ・スープラ|トヨタ・GRスープラ]]や、2020年(令和2年)の[[トヨタ・GRヤリス]]、2021年(令和3年)の[[トヨタ・GR86]]/[[スバル・BRZ]]や、[[スバル・WRX|スバル・WRX S4]]、[[日産・フェアレディZ]]、2022年(令和4年)の[[ホンダ・シビックタイプR|ホンダ・シビックTypeR]]、および[[トヨタ・GRカローラ]]などが登場しており、全体的な販売比率が少ないのは変わっていないものの、以前に比べてスポーツカーの動向は無視できないものになっている。 <gallery> ファイル:Nissan GT-R R35 (15923829179).jpg|[[日産・GT-R]] ファイル:The frontview of Lexus RC F prototype.JPG|[[レクサス・RC F]] ファイル:Toyota GR Supra view.jpg|[[トヨタ・スープラ|トヨタ・GRスープラ]] ファイル:Honda CR-Z (4374529227).jpg|[[ホンダ・CR-Z]] ファイル:2016 Mazda MX-5 (ND) Roadster GT 1.5 convertible (25995812902).jpg|[[マツダ・ロードスター]] ファイル:Subaru BRZ 101.JPG|[[スバル・BRZ]] ファイル:Mitsubishi Lancer EVO X.jpg|[[三菱・ランサーエボリューション]] X ファイル:Suzuki SWIFT Sport (CBA-ZC33S-VBRM).jpg|[[スズキ・スイフト]]スポーツ ファイル:Daihatsu COPEN GR SPORT (3BA-LA400K-KBVZ).jpg|[[ダイハツ・コペン]] GR SPORT </gallery> == スポーツカーを専門的に製造するメーカー及びブランド == [[File:Porsche 911 Carrera S (7522427256).jpg|thumb|right|200px|[[ポルシェ・911]]。リアに[[水平対向エンジン]]を搭載するクーペ。]] [[File:Lotus7Series1.jpg|thumb|right|200px|ロータス・セブン]] === 伝統的な2ドアのスポーツカーのみを製造するメーカー及びブランド === *[[TVR]] *[[フェラーリ]] *[[ヴェンチュリー]] *[[マクラーレン・オートモーティブ|マクラーレン]] *[[ブガッティ]](Bugatti) *[[ロータス・カーズ]](Lotus) *[[YES!]] *[[ヴィーズマン]] *[[モーガン (自動車)|モーガン]](Morgan) *[[パガーニ・アウトモビリ]] *[[プロト自動車|プロト]](Proto) *[[ケーニグセグ]] *[[サリーン]](Sallen) *[[デ・トマソ]] *[[ノーブル・オートモーティブ|ノーブル]] *[[ADトラモンターナ]] *[[ラディカル]] *[[ジネッタ]] === 2ドア以外のスポーツカーも製造するメーカー・ブランド === *[[ポルシェ]] *[[ランボルギーニ]] *[[アストンマーティン]] *[[GR (トヨタ自動車)|GR]] *[[スバルテクニカインターナショナル|STI]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 注釈 <references group="注"/> ; 出典 <references /> == 関連項目 == {{commons|Sports car}} *[[レーシングカー]] *[[スーパーカー]] *[[クーペ]] *[[グランツーリスモ]] {{自動車の構成}} {{自動車}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すほおつかあ}} [[Category:スポーツカー|*]]
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宇野内閣
宇野内閣(うのないかく)は、外務大臣、衆議院議員及び自由民主党総裁の宇野宗佑が第75代内閣総理大臣に任命され、1989年(平成元年)6月3日から1989年(平成元年)8月10日まで続いた日本の内閣。 前内閣の政務次官が9名留任した。 リクルート事件の責任を取って竹下登が辞任し、前の竹下改造内閣は退陣した。間近に主要国首脳会議(サミット)を控えて、早急に次期首相・自民党総裁を決めなければならない中、自由民主党の有力者が軒並みリクルート事件に絡んでいたため、身動きがとれなくなっていた。そこで、竹下改造内閣の外務大臣で、リクルート事件と関係も薄い宇野宗佑が、急遽自民党総裁に抜擢されて首相に就任し、組まれたのが宇野内閣である。閣僚には、リクルート事件と関係の薄い者を優先的に登用することで、世論のイメージアップも図られた。同内閣は竹下登前首相の後継指名による事実上の第二次竹下内閣、「竹下院政」、「竹下直系」といわれ、竹下派の小渕恵三と小沢一郎が宇野にはかることなく人事を勝手に決めた。当時の新聞も「党三役人事など竹下派幹部から、こう決まった。と一方的に連絡があっただけだ」と安倍派幹部はこぼし、中曽根派の櫻内義雄会長は「宇野君は婿養子に行ったようなものだ」とまで語っている(1989年6月19日付日経夕刊)。 しかし、就任間もない宇野自身に週刊誌報道による女性問題が発覚してしまう。この「首相の女性問題」に、先の「リクルート事件」、「消費税導入」の3点セット(ただし、当時のNHKは「女性問題」を「農政」(輸入自由化)に差し替えた)により、同年7月に行われた第15回参議院議員通常選挙で、自由民主党は獲得議席数36議席と過半数を割り込み、結党以来の惨敗を喫した。 この責任を取って参議院選挙投票日翌朝に宇野は退陣を表明。翌月には海部俊樹が後継総裁に選出され、宇野内閣は僅か在任期間69日間の短命内閣に終わった。この在任期間69日は第1次岸田内閣、東久邇宮内閣、第3次桂内閣(第1次と2次を合わせれば、今までの歴代内閣では安倍内閣に次ぐ2番目の長期である)、羽田内閣、石橋内閣に次ぐ史上6番目の短命である。また、第3次桂内閣を除いた戦後だと、5番目の短命内閣である。大型国政選挙を経験した内閣としては戦後2番目の短命内閣である。地方選挙ではあるが6月に東京都議会議員選挙も行われ、第2党の日本社会党が肉薄する惨敗となった。 この宇野宗佑内閣時代に起こったトピックスとしては、 が挙げられる。
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宇野内閣(うのないかく)は、外務大臣、衆議院議員及び自由民主党総裁の宇野宗佑が第75代内閣総理大臣に任命され、1989年(平成元年)6月3日から1989年(平成元年)8月10日まで続いた日本の内閣。
{{日本の内閣記事 |内閣名 = 宇野内閣 |ふりがな = うのないかく |代数 = 75 |首相名 = 宇野宗佑 |前職 = [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]、[[衆議院議員]]及び[[自由民主党総裁]] |成立年 = [[1989年]](平成元年) |成立月日 = 6月3日 |終了年 = 1989年(平成元年) |終了月日 = 8月10日 |与党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] |選挙 = [[第15回参議院議員通常選挙]] |名簿 = https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/75.html |画像 = [[ファイル:Sōsuke Uno Cabinet 19890603.jpg|180px]] |画像説明 = }} == 閣僚の顔ぶれ・人事 == === 国務大臣 === * 在職日数69日 {|class=wikitable |- ! 職名 ! colspan="2" | 氏名 ! 所属 ! 特命事項等 ! 備考 |- ! [[内閣総理大臣]] | [[宇野宗佑]] | [[ファイル:Sosuke Uno cropped Sosuke Uno 198906.jpg|60px]] | [[衆議院]]<br/>[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br/>([[政策科学研究所|中曽根派]]) | | [[自由民主党総裁]] |- ! [[法務大臣]] | [[谷川和穂]] | [[ファイル:Kazuo Tanikawa.19830822 (cropped).jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>([[番町政策研究所|河本派]]) | | 再入閣 |- ! [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | [[三塚博]] | [[ファイル:Hiroshi Mitsuzuka.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>([[清和政策研究会|安倍派]]) | |横滑り |- ! [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] | [[村山達雄]] | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>([[宏池会|宮澤派]]) | | 再任 |- ! [[文部大臣]] | [[西岡武夫]] | [[ファイル:Takeo_Nishioka_1988.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(宮澤派) | | 再任 |- ! [[厚生省#歴代大臣|厚生大臣]] | [[小泉純一郎]] | [[ファイル:Junichiro Koizumi 1997.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(安倍派) | | 再任 |- ! [[農林水産大臣]] | [[堀之内久男]] | [[File:Hisao Horinouchi portrait.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(中曽根派) | | 初入閣 |- ! [[経済産業大臣|通商産業大臣]] | [[梶山静六]] | [[ファイル:Seiroku Kajiyama.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>([[平成研究会|竹下派]]) | |再入閣 |- ! [[運輸大臣]] | [[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]] | [[ファイル:Yamamura-shinjiro,katori-city,japan.JPG|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(竹下派) | [[成田国際空港|新東京国際空港]]問題担当 | 再入閣 |- ! [[郵政大臣]] | [[村岡兼造]] | [[ファイル:Kanezō Muraoka.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(竹下派) | | 初入閣 |- ! [[労働省|労働大臣]] | [[堀内光雄]] | [[ファイル:Mitsuo Horiuchi 1997.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(宮澤派) | | 初入閣 |- ! [[建設大臣]] | [[野田毅]] | [[ファイル:Takeshi Noda.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(中曽根派) | [[土地]]対策担当 | 初入閣 |- ! [[自治大臣]]<br/>[[国家公安委員会委員長]] | [[坂野重信]] | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] | 参議院<br/>自由民主党<br/>(竹下派) | | 再任 |- ! [[内閣官房長官]] | [[塩川正十郎]] | [[ファイル:Masajuro Shiokawa 20010426 (cropped).jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(安倍派) | | 再入閣 |- ! [[総務庁#国務大臣総務庁長官|総務庁長官]] | [[池田行彦]] | [[ファイル:Yukihiko Ikeda.png|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(宮澤派) | | 初入閣 |- ! [[北海道開発庁|北海道開発庁長官]]<br />[[沖縄振興局#歴代の沖縄開発庁長官等|沖縄開発庁長官]] | [[井上吉夫]] | [[ファイル:Kichio Inoue.jpg|60px]] | 参議院<br/>自由民主党<br/>([[木曜クラブ|二階堂グループ]]) | | 初入閣 |- ! [[防衛大臣|防衛庁長官]] | [[山崎拓]] | [[ファイル:Taku Yamasaki-Public speaking-20050409.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(中曽根派) | | 初入閣 |- ! [[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]] | [[越智通雄]] | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(安倍派) | | 初入閣 |- ! [[科学技術庁長官]] | [[中村喜四郎]] | [[ファイル:Kishiro Nakamura 1989.jpg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(竹下派) | [[原子力委員会#歴代の原子力委員会委員長|原子力委員会委員長]] | 初入閣 |- ! [[環境大臣|環境庁長官]] | [[山崎竜男]] | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] | 参議院<br/>自由民主党<br/>(宮澤派) | [[地球環境問題]]担当 | 初入閣 |- ! [[国土庁|国土庁長官]] | [[野中英二]] | [[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]] | 衆議院<br/>自由民主党<br/>(竹下派) | [[国際花と緑の博覧会|花と緑の万博]]担当<br/>[[研究]]・[[学園都市]]担当 | 初入閣 |- |} === 内閣官房副長官・内閣法制局長官 === {|class="wikitable" |- ! 職名 ! 氏名 ! 所属 ! 備考 |- ! rowspan="2" | 内閣官房副長官 | [[牧野隆守]] | 衆議院/自由民主党(中曽根派) | |- | [[石原信雄]] | [[自治省]] | |- ! [[内閣法制局|内閣法制局長官]] | [[味村治]] | [[法務省]] | 留任 |- |} === 政務次官 === 前内閣の[[政務次官]]が9名留任した。 {|class="wikitable" |- ! 職名 ! 氏名 ! 所属 ! 備考 |- ! 法務政務次官 | [[添田増太郎]] || [[参議院]]/[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[清和政策研究会|安倍派]]) | 再任 |- ! 外務政務次官 | [[田中直紀]] || [[衆議院]]/自由民主党([[木曜クラブ|二階堂G]]) | |- ! rowspan="2" | [[大蔵政務次官]] | [[吉村真事]] || 参議院/自由民主党(安倍派) | 再任 |- | [[高村正彦]] || 衆議院/自由民主党([[番町政策研究所|河本派]]) | |- ! 文部政務次官 | [[町村信孝]] || 衆議院/自由民主党(安倍派) | |- ! 厚生政務次官 | [[近岡理一郎]] || 衆議院/自由民主党([[平成研究会|竹下派]]) | |- ! rowspan="2" | 農林水産政務次官 | [[水谷力]] || 参議院/自由民主党(竹下派) | 再任 |- | [[中川昭一]] || 衆議院/自由民主党(安倍派) | |- ! rowspan="2" | 通商産業政務次官 | [[出口広光]] || 参議院/自由民主党([[宏池会|宮澤派]]) | 再任 |- | [[甘利明]] || 衆議院/自由民主党([[政策科学研究所|中曽根派]]) | |- ! 運輸政務次官 | [[森田一]] || 衆議院/自由民主党(宮澤派) | |- ! 郵政政務次官 | [[月原茂皓]] || 衆議院/自由民主党(安倍派) | |- ! 労働政務次官 | [[宮島滉]] || 参議院/自由民主党(竹下派) | 再任 |- ! 建設政務次官 | [[木村守男]] || 衆議院/自由民主党(竹下派) | |- ! 自治政務次官 | [[長野祐也]] || 衆議院/自由民主党(中曽根派) | |- ! [[総務庁#総務政務次官|総務政務次官]] | [[若林正俊]] || 衆議院/自由民主党(安倍派) | |- ! 北海道開発政務次官 | [[工藤万砂美]] || 参議院/自由民主党(宮澤派) | 再任 |- ! 防衛政務次官 | [[鈴木宗男]] || 衆議院/自由民主党(無派閥) | |- ! [[経済企画政務次官]] | [[平林鴻三]] || 衆議院/自由民主党(竹下派) | |- ! 科学技術政務次官 | [[吉川芳男]] || 参議院/自由民主党(二階堂G) | 再任 |- ! 環境政務次官 | [[石井一二]] || 参議院/自由民主党(河本派) | 再任 |- ! 沖縄開発政務次官 | [[寺内弘子]] || 参議院/自由民主党(中曽根派) | 再任 |- ! 国土政務次官 | [[自見庄三郎]] || 衆議院/自由民主党(中曽根派) | |- |} == 勢力早見表 == {{節スタブ}} * 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。 * '''太字'''は自民党総裁並びにいわゆる[[自由民主党執行部|自民党三役]]。 * 内閣官房副長官(政務)は政務次官に含む。 {| class="sortable wikitable" style="text-align:center" ! 名称 !! 勢力 !! 国務大臣 !! 政務次官 !! class="unsortable" | その他 |- | {{none|たけした}}[[平成研究会|竹下派]] | || 6 || 5|| align="left" |[[衆議院議長]]、 '''[[自由民主党幹事長|幹事長]]'''、[[自由民主党国会対策委員会|国会対策委員長]] |- | {{none|みやさわ}}[[宏池会|宮澤派]] | || 5 || 3|| align="left" | '''[[自由民主党総務会#総務会長|総務会長]]'''、参議院議員会長 |- | {{none|あへ}}[[清和政策研究会|安倍派]] | || 4 || 6|| align="left" | [[参議院議長]]、'''[[自由民主党政務調査会#政務調査会長|政務調査会長]]''' |- | {{none|なかそね}}[[政策科学研究所|中曽根派]] | || 4 || 5|| align="left" | '''[[自由民主党総裁|総裁]]''' |- | {{none|こうもと}}[[番町政策研究所|河本派]] | || 1 || 2|| align="left" | |- | {{none|にかいとう}}[[木曜クラブ|二階堂G]] | || 1 || 2|| align="left" | |- | {{none|を}}無派閥 | || 0 || 1|| align="left" | |- ! !! !! 21 !! 24 !! |- |} == 内閣の動き == [[リクルート事件]]の責任を取って[[竹下登]]が辞任し、前の[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]は退陣した。間近に[[主要国首脳会議|主要国首脳会議(サミット)]]を控えて、早急に次期[[内閣総理大臣|首相]]・[[自由民主党総裁|自民党総裁]]を決めなければならない中、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の有力者が軒並みリクルート事件に絡んでいたため、身動きがとれなくなっていた。そこで、竹下改造内閣の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]で、リクルート事件と関係も薄い[[宇野宗佑]]が、急遽自民党総裁に抜擢されて首相に就任し、組まれたのが宇野内閣である。閣僚には、リクルート事件と関係の薄い者を優先的に登用することで、世論のイメージアップも図られた。同内閣は竹下登前首相の後継指名による事実上の第二次竹下内閣<ref>[[芹川洋一]]著、平成政権史、日経プレミアシリーズ、2018年、22頁、[[日本経済新聞出版社]]</ref>、「竹下院政」、「竹下直系」といわれ<ref name="平成政権史25-26頁">平成政権史25-26頁</ref>、[[平成研究会|竹下派]]の[[小渕恵三]]と[[小沢一郎]]が宇野にはかることなく人事を勝手に決めた<ref name="平成政権史25-26頁" />。当時の新聞も「党三役人事など竹下派幹部から、こう決まった。と一方的に連絡があっただけだ」と[[清和政策研究会|安倍派]]幹部はこぼし、[[政策科学研究所|中曽根派]]の[[櫻内義雄]]会長は「宇野君は[[婿養子]]に行ったようなものだ」とまで語っている(1989年6月19日付日経夕刊)<ref name="平成政権史25-26頁" />。 しかし、就任間もない宇野自身に週刊誌報道による女性問題が発覚してしまう。この「首相の女性問題」に、先の「リクルート事件」、「[[消費税]]導入」の3点セット(ただし、当時のNHKは「女性問題」を「農政」([[貿易自由化|輸入自由化]])に差し替えた)により、同年7月に行われた[[第15回参議院議員通常選挙]]で、自由民主党は獲得議席数36議席と過半数を割り込み、結党以来の惨敗を喫した。 この責任を取って参議院選挙投票日翌朝に宇野は退陣を表明<ref>{{Cite web|和書|date=2016-6-26 |url=https://www.youtube.com/watch?v=c5HB3r2BKNQ |title=中日ニュース No.1604_2「自民惨敗、宇野首相退陣 -参院選-」(平成元年8月) |publisher=[[中日映画社]] |accessdate=2020-12-8 }}</ref>。翌月には[[海部俊樹]]が後継総裁に選出され、宇野内閣は僅か在任期間69日間の短命内閣に終わった。この在任期間69日は[[第1次岸田内閣]]、[[東久邇宮内閣]]、[[第3次桂内閣]](第1次と2次を合わせれば、今までの歴代内閣では[[安倍内閣]]に次ぐ2番目の長期である)、[[羽田内閣]]、[[石橋内閣]]に次ぐ史上6番目の短命である。また、第3次桂内閣を除いた戦後だと、5番目の短命内閣である。大型国政選挙を経験した内閣としては戦後2番目の短命内閣である。地方選挙ではあるが6月に[[東京都議会議員選挙]]も行われ、第2党の日本社会党が肉薄する惨敗となった。 この宇野宗佑内閣時代に起こった[[トピックス]]としては、 * [[中華人民共和国|中国]]の[[北京市|北京]]での[[六四天安門事件|天安門事件]]の発生([[6月4日]])と竹下内閣で決定されていた第三次対中円借款の凍結([[6月20日]]) * ビルマ連邦が[[ミャンマー]]に国名を変更([[6月18日]]) * [[美空ひばり]]に没後[[国民栄誉賞]]を授与([[7月6日]]) * [[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]][[容疑者]]の[[逮捕]]([[7月23日]]に別件逮捕、その後本件で再逮捕) が挙げられる。 * 宇野が[[政策科学研究所|中曽根派]]であったこと、総辞職した[[竹下内閣]]で外務大臣を務めていたことから、[[日本共産党]]の[[日本の国会議員|国会議員]]から「[[中曽根康弘|中曽根]]亜流[[竹下登|竹下]][[リモコン]]内閣」と評された。 * 辞任会見での「明鏡止水の心境であります」の一節は、当時[[流行語]]になった。 * 宇野内閣から閣僚の親族・妻子を含む資産公開が行われるようになった。これは、リクルート事件に絡み、[[コスモスイニシア|リクルートコスモス]]の未公開株の名義が政治家の妻子又は親族となっていた事例が存在したことが影響している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[秦郁彦]]編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』[[東京大学出版会]]、2001年。 == 関連項目 == *[[1989年の政治]] == 外部リンク == *[https://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/75.html 首相官邸 - 宇野内閣] {{日本国歴代内閣|[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]|宇野内閣|平成元年(1989年)6月3日<br />  - 平成元年(1989年)8月10日|[[第1次海部内閣]]}} {{poli-stub}} {{DEFAULTSORT:うのないかく}} [[Category:平成時代の内閣]] [[Category:1989年の日本の政治]] [[Category:宇野宗佑]] [[Category:小泉純一郎]] [[Category:三塚博]] [[Category:山崎拓]]
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ブルースワット
『ブルースワット』(BLUE SWAT)は、1994年1月30日から1995年1月29日まで、テレビ朝日系列で、毎週日曜8時 - 8時30分(JST)に全51話が放映された東映制作の特撮テレビドラマ、および作品内に登場する組織の名称。 メタルヒーローシリーズの第13作目に当たる本作品は視聴対象年齢を幼児層から小学校高学年に引き上げ、これまでの特撮ヒーロー番組とは一線を画した、スナッチ系の侵略テーマで展開したストーリーなど野心的な作品作りがなされた。 その大きな特徴として挙げられるのがリアル路線の徹底化である。例えば、従来の特撮ヒーローのように自動的に変身するのではなく、強化装甲を直接着用することによる戦闘形態への変身や、各隊員の戦闘形態時のコードネームが存在しないこと、後半登場のハイパーショウを除き、各戦闘形態の能力に個体差がないなどのリアリティを重視した設定が目立っている。 また、初回から防衛組織が主人公たちを残して全滅するなど、前作にも見られた「人間社会から隔離されたヒーローの孤立無援」の要素を一歩推し進めた、序盤のシリアスなストーリーや、銃器の本物らしい描写やリアルな設定などがキャラクター部分が重視され、モデルガン路線で展開されたマーチャンダイジングなどは、主に高年齢層の一部の視聴者に注目された。その一方で、子どもたちの反応は今ひとつだったため、2クール目以降はテコ入れとしてコミカルな場面の挿入や明確な敵集団の組織化など従来の路線方向に大幅な路線変更が行われた。後半に登場したゴールドプラチナムとハイパーショウはその代表格であり、本来のメタルヒーローへ回帰した煌びやかなデザイン・造形となっている。 映像面では、D1-VTRによるビデオ合成ではあるがエイリアンの変身や憑依などにCGが用いられた。 各回の冒頭と終了時、次回予告の冒頭には共通のタイトル用スペースが設けられ、各回の冒頭ではサブタイトル、終了時は「つづく」を意味する「To Be Continued...」のテロップが表示された。当初はサブタイトルも「ゲッタウェイ」など英語をカタカナ表記にしたものでタイトルコールも無かったが、路線変更により序盤1クールのみで改められ、ナレーターの垂木勉が読み上げるパターンとなった。 地球上に暗躍するエイリアンを討つために国連の支援を得て作られた秘密組織・ブルースワット。 この組織が本格活動を開始しようとした矢先、ブルースワット攻撃セクション主任・不破にインヴェード(憑依)したエイリアンによって組織は滅ぼされてしまった。 組織の中で唯一生き残った鳴海 翔(通称:ショウ)、美杉沙羅(通称:サラ)、シグの3人はダミー企業ブルーリサーチを拠点に、民間人の宇佐美星児(通称:セイジ)と麻生すみれ(通称:スミレ)と共にエイリアン軍団・スペースマフィアを相手に、人知れぬロンリーバトルを展開していく。 ブルースワットとは、元々シグが国連に働きかけたことで組織された対エイリアン特殊迎撃チームである。その活動や存在は世間には極秘であり、詳細な創設経緯や組織系統なども劇中では明かされていない。本部は表向きは城南地質学研究所としてカムフラージュされており、建物の奥に本部の施設がある。だが、物語第1話でエイリアンにインヴェードされた不破主任の破壊工作で本部は壊滅。生き残ったショウとサラとシグの3人は研究所放火の犯人扱いされた上、火災の際に死亡したとマスコミに報じられた。 以降3人は、表向きは死んだことを逆手に取って、エイリアンへのゲリラ戦を展開。長きに渡る戦いの最中、セイジとスミレほか少数ながらも協力者たちを得ていき、スペースマフィアを壊滅させた。 だが、彼らの活躍が世間には一切公表されることはなかったため、次作重甲ビーファイターの特別編に登場した際には誰にも知られていなかった。 第23話から突如ブルースワットとエイリアンの戦いに参加するようになった、平和を願う人々の心から生み出された金色に輝く黄金の超時空人の超戦士。 ショウの怒りを感知して、時空の裂け目・ハイパーラプチャーから現れる。グラビオンによる射撃攻撃やテレパシーや物体の修復など様々な超能力を持つ。ショウにシルバニック・ギアとドラムガンナーを授けた。 各話ごとにまちまちだが、時空の壁が持つ「復元力」のために長時間地球に留まることが出来ない。 最終話で地球に落下しそうになった彗星を破壊するためにパルサーポッドごと特攻を決意し、自らの正体を「人々の平和を願う意志の結晶」と語り、皆の願いが集まればまた新しい自分が誕生すると言い残して特攻。彗星とともに消滅した。 以下の項目はブルースワットが対エイリアン特殊迎撃チームとして活動していた時の制式装備・メカを記す。 所属していた組織を壊滅されたブルースワットは、以後あらゆる形で戦力の増強・補強を行ってきた。以下はその一覧。 宇宙のあらゆる星々から落伍者の烙印を押された地球外知的生命体(エイリアン)によって構成された宇宙犯罪組織。その目的は地球の破壊ではなく、征服して土地を奪うことと地球人の隷属化であるため、表立った大規模な破壊行為はせず、隠密な作戦や人体への実験行為が多い。そのため、ブルースワットやその関係者を除く、一般の地球人がエイリアンたちの存在を知ることはほとんどない。 エイリアンたちは、番組の初期には地球人に理解できない独特の言葉を使っており、彼らの正体は一切不明で、スペースマフィアという言葉も当初は地球側から見たエイリアンたちの総称という位置付けであった。しかし、後にスペースマフィアは実在の宇宙犯罪組織であることが判明し、その構成員であるエイリアンたちの正体と目的が明らかになっていく。第14話以降、ブルースワットに対しては日本語で話すようになり、番組の中期以降は仲間同士でも日本語で話すようになった。 アジトは当初設定されていなかったが第21話で設けられた。 本作品ではヒーロー側のスーツが全身プロテクターではないため、従来のアップ・アクションの区別はなくなりそれぞれ1人のスーツアクターが専任で演じた。ショウ役の横山は、軽装になった分アクションはやりやすくなったが、むき出しの部分が痛かったと述べている。 本作品を最後に監督の小西通雄、折田至が引退した他、監督の辻理、蓑輪雅夫、脚本の上原正三、アクション監督の山岡淳二といった、過去のシリーズでも活躍したスタッフがシリーズを離れる一方、本作品より矢島信男に代わって尾上克郎がメタルヒーローシリーズの特撮監督を担当したりと、この時期にはスタッフ間の世代交代が進められることとなった。 劇伴は前作に引き続き、若草恵が担当。シンセサイザーなどが組み込まれたメロディ色の薄いシリアスサウンドは、シリーズの中でも異色である。後半では『世界忍者戦ジライヤ』『特捜ロボ ジャンパーソン』の音楽も多く流用された。 キャラクターデザインは、メタルヒーローシリーズへは『巨獣特捜ジャスピオン』以来の参加となった野口竜が担当。スーツ改造のキャラクターは、企画者104の河野成寛が手掛けた。河野によれば、エイリアンの捉え方が監督・脚本家・プロデューサーがそれぞれ異なったため野口はどうデザインするか苦労していたという。 主題歌はオープニングクレジットでは「主題歌」とのみ表記され、曲名は表記なし。また、2曲ともシングルバージョンとアルバムバージョンが存在する。前者は放送当時のシングル盤とオムニバスしか収録されておらず、それ以降の商品化の際には必ず後者が収録されている。 前述の通り、1クール目と最終回はサブタイトルが全てカタカナ表記。2クール目以降は路線変更により、このフォーマットから外れた形となっている。 以下、特記のない限り発売元はいずれも東映ビデオ。 徳間書店発行の『テレビランド』で爆裂王&是澤重幸が作画を担当。 小学館発行の『別冊コロコロコミック』のほうは1994年4月号 - 12月号にかけて、三鷹公一が作画を担当。別コロ版のほうのレギュラーは、ショウとサラとシグの3人のみ。同作品ではシグが地球人として設定された代わりに、ショウが地球人の女性と異星人の男性のハーフであり、ショウの父は「単身スペースマフィアを追って地球に降り立ち、瀕死状態の地球人にインヴェードした人物」という、テレビシリーズにおけるシグに相当するキャラクターとして位置付けられたが、その設定は最終回で初めて使われ、アメリカ支部の生き残りの男女から知らされるまでショウ自身、自分の出生を知らずにいた。この他、作中に登場したアメリカ支部の装備は日本支部のそれとは異なる。
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12月号にかけて、三鷹公一が作画を担当。別コロ版のほうのレギュラーは、ショウとサラとシグの3人のみ。同作品ではシグが地球人として設定された代わりに、ショウが地球人の女性と異星人の男性のハーフであり、ショウの父は「単身スペースマフィアを追って地球に降り立ち、瀕死状態の地球人にインヴェードした人物」という、テレビシリーズにおけるシグに相当するキャラクターとして位置付けられたが、その設定は最終回で初めて使われ、アメリカ支部の生き残りの男女から知らされるまでショウ自身、自分の出生を知らずにいた。この他、作中に登場したアメリカ支部の装備は日本支部のそれとは異なる。", "title": "他媒体展開" } ]
『ブルースワット』は、1994年1月30日から1995年1月29日まで、テレビ朝日系列で、毎週日曜8時 - 8時30分(JST)に全51話が放映された東映制作の特撮テレビドラマ、および作品内に登場する組織の名称。
{{pp-vandalism|small=t}} {{半保護}} {{Pathnav|メタルヒーローシリーズ|frame=1}} {{出典の明記|date=2014年3月22日 (土) 02:38 (UTC)}} {| class="floatright" style="text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#99ffff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[メタルヒーローシリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''通番''' |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''題名''' |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''放映期間''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''第12作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[特捜ロボ ジャンパーソン|特捜ロボ<br />ジャンパーソン]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[1993年]][[1月]]<br />- [[1994年]][[1月]] |- |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''第13作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''ブルースワット''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1994年1月<br />- [[1995年]][[1月]] |- |style="border:1px solid black; background-color:#99ffff; white-space:nowrap"|'''第14作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[重甲ビーファイター|重甲<br />ビーファイター]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1995年[[2月]]<br />- [[1996年]][[2月]] |} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=ブルースワット |ジャンル=[[特撮]][[テレビドラマ]] |放送時間=日曜 8:00 - 8:30 |放送分=30 |放送期間=[[1994年]][[1月30日]]<br />- [[1995年]][[1月29日]] |放送枠=メタルヒーローシリーズ |放送回数=全51 |放送国={{JPN}} |制作局=[[テレビ朝日]] |放送局=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] |企画= |製作総指揮= |監督=[[辻理]] 他 |演出= |原作=[[八手三郎]] |脚本=[[宮下隼一]] 他 |プロデューサー={{Plainlist| * [[梶淳]](テレビ朝日) * [[堀長文]](東映) }} |出演者={{Plainlist| * [[正木蒼二]] * [[白鳥由夏|白鳥夕香]] * [[土門廣]] * [[田中優樹]] * [[ひがたともこ|干潟智子]] 他 }} |声の出演={{Plainlist| * [[てらそままさき|てらそま昌紀]] * [[小峰裕一]] }} |ナレーター=[[垂木勉]] |音声= {{Plainlist| * [[シネテープ]] * [[モノラル放送|モノラル]] }} |字幕= |データ放送= |音楽=[[若草恵]] |OPテーマ=「TRUE DREAM」<br />歌:[[前田達也]] |EDテーマ=「HELLO THERE!」<br />歌:前田達也 |言語=[[日本語]] |外部リンク= |外部リンク名= |特記事項=「[[メタルヒーローシリーズ]]」 第13作 }} 『'''ブルースワット'''』(BLUE SWAT)は、[[1994年]][[1月30日]]から[[1995年]][[1月29日]]まで、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]]で、毎週日曜8時 - 8時30分([[日本標準時|JST]])に全51話が放映された[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作品内に登場する組織の名称。 == 概要 == [[メタルヒーローシリーズ]]の第13作目に当たる本作品は視聴対象年齢を幼児層から小学校高学年に引き上げ{{R|画報}}、これまでの特撮ヒーロー番組とは一線を画した、スナッチ系の侵略テーマで展開したストーリーなど野心的な作品作りがなされた{{R|特撮全史}}。 その大きな特徴として挙げられるのが'''リアル路線の徹底化'''である{{R|画報|最強154}}。例えば、従来の特撮ヒーローのように自動的に変身するのではなく、強化装甲を直接着用することによる戦闘形態への変身や、各隊員の戦闘形態時のコードネームが存在しないこと、後半登場のハイパーショウを除き、各戦闘形態の能力に個体差がないなどのリアリティを重視した設定が目立っている。 また、初回から防衛組織が主人公たちを残して全滅するなど、前作にも見られた「人間社会から隔離されたヒーローの孤立無援」の要素を一歩推し進めた、序盤のシリアスなストーリーや、銃器の本物らしい描写やリアルな設定などがキャラクター部分が重視され、モデルガン路線{{efn|最初期に製造された「DX 電動ブローバック ディクテイター01」においては、中高生から青年の手の大きさに合わせて制作。バレル下部にカバーを装着するバッテリー(乾電池)で駆動する方式をとり、マガジンへの弾薬(弾丸はなく排莢のみ)装填、トリガー操作でブローバックし、動作毎に薬莢の排莢、ホールドオープンも忠実に再現していた。}}で展開されたマーチャンダイジングなどは、主に高年齢層の一部の視聴者に注目された{{R|特撮全史}}。その一方で、子どもたちの反応は今ひとつだったため{{efn|当時バンダイ社員であった[[野中剛]]は、開発に苦心したメイン商材である「電動ブローバック ディクテイター」よりも廉価版の「ライト&サウンド ディクテイター」の方が販売実績が良かったと証言している{{R|U169110}}。}}、2クール目以降はテコ入れとしてコミカルな場面の挿入や明確な敵集団の組織化など従来の路線方向に大幅な路線変更が行われた{{Refnest|group="出典"|{{R|画報|最強154|特撮全史}}}}。後半に登場した'''ゴールドプラチナム'''と'''ハイパーショウ'''はその代表格であり{{R|最強154|U169110}}、本来のメタルヒーローへ回帰した煌びやかなデザイン・造形となっている。 映像面では、[[D1-VTR]]によるビデオ合成ではあるがエイリアンの変身や憑依などに[[コンピュータグラフィックス|CG]]が用いられた{{R|U169112}}。 各回の冒頭と終了時、次回予告の冒頭には共通のタイトル用スペースが設けられ、各回の冒頭ではサブタイトル、終了時は「つづく」を意味する「To Be Continued…」のテロップが表示された{{efn|最終回は「THE END」。}}。当初はサブタイトルも「ゲッタウェイ」など英語をカタカナ表記にしたものでタイトルコールも無かったが、路線変更により序盤1クールのみで改められ、ナレーターの垂木勉が読み上げるパターンとなった{{efn|読み上げは17話より。}}。 == あらすじ == 地球上に暗躍するエイリアンを討つために国連の支援を得て作られた秘密組織・'''ブルースワット'''。 この組織が本格活動を開始しようとした矢先、ブルースワット攻撃セクション主任・不破に'''インヴェード'''(憑依)したエイリアンによって組織は滅ぼされてしまった。 組織の中で唯一生き残った'''鳴海 翔'''(通称:ショウ)、'''美杉沙羅'''(通称:サラ)、'''シグ'''の3人はダミー企業'''ブルーリサーチ'''を拠点に、民間人の'''宇佐美星児'''(通称:セイジ)と'''麻生すみれ'''(通称:スミレ)と共にエイリアン軍団・スペースマフィアを相手に、人知れぬロンリーバトルを展開していく。 == 登場人物 == === ブルースワットとメインサポーター === ブルースワットとは、元々シグが国連に働きかけたことで組織された対エイリアン特殊迎撃チームである。その活動や存在は世間には極秘であり、詳細な創設経緯や組織系統なども劇中では明かされていない。本部は表向きは城南地質学研究所としてカムフラージュされており、建物の奥に本部の施設がある。だが、物語第1話でエイリアンにインヴェードされた不破主任の破壊工作で本部は壊滅。生き残ったショウとサラとシグの3人は研究所放火の犯人扱いされた上、火災の際に死亡したとマスコミに報じられた。 以降3人は、表向きは死んだことを逆手に取って、エイリアンへのゲリラ戦を展開。長きに渡る戦いの最中、セイジとスミレほか少数ながらも協力者たちを得ていき、スペースマフィアを壊滅させた。 だが、彼らの活躍が世間には一切公表されることはなかったため、次作[[重甲ビーファイター]]の特別編に登場した際には誰にも知られていなかった。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|鳴海 翔|なるみ しょう}} / ショウ|ショウ}} : 隊員NO.153。戦闘時にはメタリックブルーのアーマーを装着する。24歳 身長182.6cm 体重68.6kg<ref>第5話より。</ref>。一人称は「俺」。 : 元[[トライアスロン]]選手で、各地の大会で優勝を繰り返してきた賞金稼ぎとして名を馳せたため、「スポーツ荒らしのプロ」とも呼ばれていた。その実績を買われてブルースワットに入隊。当初は金にがめつい性格でボーナスをせびっていた。組織が壊滅して報酬が得られなくなった途端に次のトライアスロンに出場するために脱退しようとしたが、自転車の修理に立ち寄った先でスペースマフィアの暗躍を偶然目の当たりにして、悪化する事態を放ってはおけず、戦い続けていく。 : 戦闘時もストイックなサラや沈着冷静なシグと対照的に熱血漢で楽観的。シグに「勘ピューター」とチャカされることもあるヤマ勘は割と的中率が高い。反面、他人の意思を汲んだり尊重する思いやりや優しさは誰よりもある。[[インスタントラーメン]]「ヤマちゃんのスペシャル激辛麺」が大好物。蛇と歯医者が嫌い。 : スペースマフィアとの戦いを終えた後、プラチナムの遺志を継ぎ、宇宙に旅立つ。 : ビーファイター特別編ではカブトの招待状と勘違いした果たし状を送りつけられてビーファイターと対決。初対戦のビーファイターを圧倒するもシグに止められて誤解を解いた。基本的に世間に認知されない戦いを続けていたために拓也たちには全く知られていない{{efn|『ビーファイター』へのゲスト出演時もジースタッグ(片桐大作)が「知らない」と発言しており(なお、直後にシグが人知れずに戦っていた事実をビーファイターに語っている)。カブトに遊園地でヒーローショーを開催することを提案された際も「どうせ俺たち有名じゃねえし」と自虐的に言っている。}}。当人たちもそれに甘んじていたが、後期になるとエイリアンの存在を世間に認知してもらおうとする動きが度々見られた。また、以前カブトにインチキ商品を売り付けられたことがあり、少々因縁がある。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|美杉 沙羅|みすぎ さら}} / サラ|サラ}} : 隊員NO.071。戦闘時にはメタリックパープルのアーマーを装着する。22歳<ref>46話より。</ref>。一人称は「私」。 : 勝気でストイック。常に大人のメイクで決めつつ、エレガントなファッションを好む。一方では、自室には大きな[[ぬいぐるみ]]をいくつか置いているという少女的な面も見られる。 : 元[[ロサンゼルス市警察]][[SWAT]]部隊のメンバーで、そのころにインヴェードされていたテロリストとの戦いに遭遇、同僚・ジョンの制止も聞かずに自らの過信から状況を見極めずに飛び込んだ挙げ句にジョンを亡くし、自分以外のチームも全滅したことから「地獄帰りのサラ」と呼ばれるようになった。その後スワットを辞めて放浪していたところをブルースワットに請われる。射撃と格闘術に長けている。 : 第6話では、ディクテイターでシグを誤射させてしまったことがトラウマとなり、銃を握れなくなってしまうが、ショウからの発破とシグのテレパシーから発せられた「ワンチャンス、ワンショット」の言葉でトラウマを克服。 : スペースマフィアとの戦いを終えた後、ショウと共に宇宙に旅立つ。 : ; {{Visible anchor|シグ}} : 隊員NO.011。戦闘時にはガンメタルのアーマーを装着する。5人の中ではリーダー的存在。 : スペースマフィアによって壊滅されたエイリアン特殊部隊・スペースSWATの生き残りにして、緑色の血を持つエイリアンであり、地球年齢で800歳。3年前、スペースマフィアを追って地球に降り立つもインヴェードに罪悪感を抱いていた矢先、交通事故で脳死状態となりながらも息子・ザジの移植手術のために[[コールドスリープ]]中の地球人'''広瀬剛'''の存在を知り、苦渋の末、広瀬にインヴェード。以降、国連に籍を置く形でブルースワットの設立に尽力した{{efn|第20話で判明。なお、広瀬のコールドスリープ開始日は、1984年6月18日。}}。なお、シグの本来の姿は光に包まれていたために全貌は明らかになっていない。口が堅く自身もエイリアンであることはブルーリサーチ開設当初までショウやサラには秘密にしていた。 : 人間以上の聴力を持ち、テレパシーやサイコキネシスに読心術といった超能力も使える。視覚は人間のそれに準ずるため、インヴェードの探知はできない。また、人間として社会知識に乏しい一方、逆にエイリアンの言語翻訳や地球では未知の技術・機械装置から作戦の推測などブルースワットのブレーン役を務める。ブルースワットの中では超能力を駆使し食料を調達するのも彼の役目である。 : 剣術の心得もあるようで、[[日本刀]]でエイリアンと戦うこともあった。 : やや強面な顔つきながら一人称は「私」で基本的に丁寧語で会話し、冷静な性格から暴走するショウを制止することも多かったが、ザジやジスプのことなどになると自身や広瀬の感情が優先して逆に平静さを失うこともあった。ビーファイター客演時も当時と同じように丁寧語でしゃべっておりショウから「相変わらず固いな」と言われている。また、そのころには、髭を生やしていたが、周りからの反応は微妙だった。 : 終盤、ミール獣の歌声やマザーブラバムの攻撃をきっかけに血の色の変化や広瀬剛の肉体から容易に分離できない事態をさらし、梨奈の口から長期のインヴェードによる、彼との完全な同化が起きつつあることを告げられる。そしてジスプを倒した時には完全に同化しており、超能力も消えてしまう。だが同時に彼自身も、ザジを息子として愛するようになり、元のエイリアンに戻ることよりも広瀬剛としてザジと共に生きることを選ぶ{{efn|ただし、広瀬剛が生き返ったのではなく人格はシグのままである。}}。 :; {{読み仮名|広瀬 剛|ひろせ ごう}} :: シグがインヴェードしている肉体の人物。1984年に交通事故で脳死状態となり、ザジへの臓器移植用に(事故当時の医療技術では移植が不可能であり、技術が発達するまで)コールドスリープされていた。生前の広瀬剛はシグの回想シーンでのみ登場する。 : ; {{読み仮名|宇佐美 星児|うさみ せいじ}} / セイジ : コンピューターの知識に精通するメガネが特徴のプログラマーの天才少年で、ブルースワットのサポーターを自称する。1975年7月7日生まれの18-19歳<ref>2話より。</ref>。一人称は「僕」。 : 中泉シンクタンクのエンジニアだったころ、ブルースワットの組織について盗聴・ハッキングなどで把握しており、ブルースワット壊滅後シグたちに連絡を取ったところを中泉シンクタンクの所長にインヴェードしたエイリアンに捕らえられ、ショウたちに助け出され仲間となる。シグ曰く「ブルースワットのサテライト」というポジション。その頭脳を駆使して情報収集・武器・装備の改良・各種薬品や探知機の開発などで活躍する。 : 若干の遊び感覚が抜け切らない態度や、迂闊に戦線に出てブルースワットの足を引っ張ったり、ある化学薬品を精製しながら中和剤を作らず、その薬剤を浴びたショウを危うく爆死させそうになったりと危機感の薄さが目立つが、物語の進行に伴い徐々に成長していく様子を見せた。 : ; {{読み仮名|麻生 すみれ|あそう すみれ}} / スミレ : ブルースワットの3人が設立したブルーリサーチにアルバイトとして雇われた大学生。一人称は「私」。 : 当初は遅刻や何も仕事がないブルーリサーチの事務所で昼寝など、なかなかの怠け者だったが、すぐに事務所を空にするショウたちや事務所に出入りするセイジに疑念を抱いていた。次第に後を付けはじめ、鳥羽の墓前に供えてあったショウと鳥羽の写真から過去を調べるうちに、ショウたち3人が死んだことになっている事実を知るに至り、ブルースワットの活動に強引に参加、仕方なくショウたちに認められてからは仲間として行動する。 : 加入直後は先走りやおっちょこちょいが目立ち、扱い方を知らないミサイルランチャーを逆向きに発射して訓練中のショウたちを危うく殺しかけるという大惨事を招きかけたこともあった。直後にガバナーの端末を触ったことで偶然ながら行方不明になっていた偵察衛星・SS17を発見するという強運を発揮。皆に内緒で後述のブライアンの隊員教育を受ける。ブライアンの教育プログラムはかなり厳しいものだったが、短期間で全ての課題をこなしてしまうなど、学習能力はそこそこ高い。教育プログラムを受けて以降は避難誘導や情報収集などの後方支援に撤するようになり、ショウたちにとって彼女もなくてはならないサポーターとなった。 === ゴールドプラチナム === 第23話から突如ブルースワットとエイリアンの戦いに参加するようになった、平和を願う人々の心から生み出された金色に輝く黄金の超時空人の超戦士{{R|GB65}}。 ショウの怒りを感知して{{efn|第46話ではショウが敵の罠で「大飯食らいでいびきもでかい、掃除も洗濯も大嫌い、走るのは速いが足も臭い」といった悪口を言われた怒りで呼び出されたこともある。}}、時空の裂け目・ハイパーラプチャーから現れる。グラビオンによる射撃攻撃やテレパシーや物体の修復など様々な超能力を持つ。ショウにシルバニック・ギアとドラムガンナーを授けた。 各話ごとにまちまちだが、時空の壁が持つ「復元力」のために長時間地球に留まることが出来ない。 最終話で地球に落下しそうになった彗星を破壊するためにパルサーポッドごと特攻を決意し、自らの正体を「人々の平和を願う意志の結晶」と語り、皆の願いが集まればまた新しい自分が誕生すると言い残して特攻。彗星とともに消滅した。 * 特撮監督の[[尾上克郎]]は、金色の発色が難しく、ラッシュで「黄色だ」と揶揄されたという{{R|U169112}}。 === ブルースワットの関係者 === ; ザジ : シグのインヴェードした広瀬剛の息子。母はフランス人であるためハーフ。10年前の交通事故に巻き込まれ、そのまま意識が回復しておらず、父と同じ病院に入院していた。そこをジスプにインヴェードされ、ムッシュ・ザジを名乗りブルースワットの前に敵として現れた。 : シグたちが手を出せないことをいいことに卑怯な方法で彼らを散々苦しめたが、体調が一変したことでジスプに見限られ、ブルースワットによって救出された。そしてゴールドプラチナムの力で洞窟に避難したが、後にジスプにインヴェードされたシグの手で引きずり出されてしまったことを受けて、ショウたちのアジトで保護されることに。その後意識が回復しかけたことで広瀬剛(シグ)から移植手術を受ける。 : ; {{読み仮名|不破主任|ふわしゅにん}} : ショウたちの直属の上司。 : 第1話でエイリアンにインヴェードされ、司令室内で銃器を乱射、ブルースワットの基地を壊滅させてしまう。ショウたちにも攻撃を加えるが、ギリギリのところで自我を取り戻し、ショウたちに地球の守りを託して自決。医師の友人がおり、ザジの治療に一役買うことになる。 : ; {{読み仮名|鳥羽 勝也|とば かつや}} : アジア極東地区において、ナンバー1の賞金稼ぎと称されるほどのトライアスロン選手であり、ブルースワットに入隊する前のショウのライバル。ショウ曰く「傲慢でエゴイスティック」だが互いに最高のライバルとして認め合っている。 : 帰国して、INUIスポーツ科学アカデミーに招かれるが、そこはエイリアンの隠れ蓑であり、捕らえられてしまう。フリーターの'''山田正一'''として、サラと共に潜入していたショウに救出されるも出国寸前にボナにインヴェードされ、ハードエンジェルと呼ばれるスペースドラッグ{{efn|幻覚剤の一種であり、これを摂取した地球人は、エイリアンが自分と同じ種族だと錯覚するようになる。}}の運び屋として利用される。インヴェードから解放された直後、ボナに立ち向かっていき、ショウを庇って、爆発で致命傷を負いながらも槍投げでボナにダメージを与え、ショウに勝機を与える。ショウの腕の中で息絶えた後、ショウの手で埋葬された。 : ; {{読み仮名|遠藤 敦子|えんどう あつこ}}、{{読み仮名|林 孝|はやし たかし}}、{{読み仮名|河井 大|かわい まさる}} : ブルースワットのサポーターでもある緑町の小学生探偵団。 : 敦子はリーダー格で男勝り、孝はセイジ同様にコンピューターとメカが得意、大は野球少年でボールのコントロールに長けている。 : 恐怖電波発生装置事件において、ブルースワットと知り合い、事件解決に謁見。勝浦海岸に海水浴に来た際、敦子と大はダルの被害に遭ってしまうも浦野が開発した解毒剤のおかげで一命を取り留める。 : 29話では敦子のみが登場している。 : ; {{読み仮名|奥山 梨奈|おくやま りな}} : 新日本遺伝子工学研究所の主任研究員。 : ゲルマに狙われたところをショウに救われ、海外へ旅立つ。その後帰国し、ミール獣の事件を機に研究所に通っていたシグの協力でインヴェード解除ビームの開発に成功。その過程でシグと広瀬剛の肉体が長期間のインヴェードの影響で同化していることも突き止める。 == 装備・戦力 == === ブルースワットの基本戦力とメカニック === 以下の項目はブルースワットが対エイリアン特殊迎撃チームとして活動していた時の制式装備・メカを記す。 ; プロテクトギア : ブルースワット隊員の標準装備である戦闘強化服。隊員服の上から[[ヘルメット]]と胸部プロテクターで構成されている。 : これらは、エイリアンの攻撃から身を守る特殊装甲であり、胸部にはエイリアンの接近を察知するセンサーが備わっている。ヘルメットには外部との通信機能が内蔵、ゴーグル部分は二重構造になっており、開閉できる。後部のゴーグルにはエイリアンのウィークポイント(弱点)を補足するセンサーも備わっており、前部のゴーグルを上げることで機能する。ただし、人間にインヴェードしたエイリアンは探知不可能。 : 軽量で身軽なため非常に動きやすい。反面、強度の攻撃で損傷しやすく、腕部や脚部の装甲が無いので肉体への負傷率がかなり高い。また大打撃的な破損を受けた場合に備えて代替のアーマーも用意されている。 : 第4話でコンバットゲームに潜入した際には、プレイヤーたちからコンバットゲームの衣装と思われた。 : 第34話では、デスキーラ三兄弟が起こした偽ブルースワット事件による検問を回避すべく、セイジとスミレが八百屋の配達車に偽装した車でプロテクトギアを初めとする装備の運搬を行うもケンが強奪。ショウ用はゴク、サラ用はモン、シグ用はケンに着用されてしまうがプラチナムの力で奪還され、ショウたちに装備された。 : プロテクトギアを装備した状態は玩具では「スワット○○(○○の中には装着者の名前が入る)」と呼称された。 : ; BW-01 ディクテイター : ブルースワットの制式[[自動拳銃]]で、セミ/フルオート発射の切り替えが可能なマシンピストル。スペーススワットの制式光線銃・ビームガンをモデルに設計された。 : 装弾数は通常のマガジン使用時は10発でロングマガジン使用時は32発。銃口の下にレーザーポインター、グリップ下部に安全装置のスイッチが搭載されている{{efn|11話でのディクテイターの設計図をガバナーのモニターに表示するシーンでも確認できる。}}。[[チタニウム]]コーティングされた人工[[ルビー]]製9mm[[徹甲弾]]であるアーマーピアシング弾「ハイパーブリット」を発射する。発射時にはディクテイターに搭載された赤と緑の球体型装置「エネルギーコーティングユニット」によって[[弾丸]]にエネルギーコーティングを行う。エネルギーコーティングユニットは使用者の精神状態によって出力が左右され、激昂するなど感情が高ぶる状態で発砲する際にユニットが激しく発光するエフェクトがかかる場合もあった。シングルカラムマガジン仕様のため、グリップはスリムで握りやすいが、その代わり、ロングマガジンは、かなり長い。 : 第11話でセイジの手によって改造され、エネルギーコーティングが赤から金色になり威力が向上。同話においては、大破し改造中だったディクテイターの代わりにサラの同僚・ジョンの形見である[[ベレッタM92|ベレッタM92F]]のマガジンにディクテイターのアーマーピアシング弾を装填し、シグが持つビームガンのエネルギーコーティングユニットを取り付けて使用し、TR-99を倒しながらも銃は反動で大破してしまう。 : 第34話では、デスキーラ三兄弟が起こした偽ブルースワット事件による検問を突破すべく分解して、バイクやヘルメットに隠すことで検問を突破した。 : 『[[重甲ビーファイター]]』の特別編では、舞がサラから借りて使用している。 :* 放送当時、モデルガンの専門誌に掲載された{{Sfn|年代記|2004|pp=88-89|loc=PLEXインタビュー}}。 : ; BW-02 プラグローダー : リボルバー式の対エイリアン用マルチショットライオットガン。[[ショットガン]]というよりどちらかというと[[グレネードランチャー]]に近い。手持ちでの使用だけでなく、インターセプターのカウルにマウントしての使用も可能。冷凍弾・ゴム弾・電撃弾・煙幕弾・曳光弾・炸裂弾・ワイヤーネット弾・ショック弾・麻酔弾といった各種弾丸を発射できる。ブルースワットの3人だけでなく、セイジが使用するケースも多い。 :* 『宇宙船』{{Full|date=2014年3月}}では当初「リボルバーグレネードmk.III」という名称で紹介されていた。 : ; ミサイルランチャー : 二連装式の多目的[[ミサイル]]砲で肩に担いで使う。見た目通りの高火力兵器であり、強敵や複数の敵を一気に屠る必殺武器的扱いであり、それゆえに使用場所は限定された。 : 第6話では、フレイムスローワーで死滅させたトカレフ-18を完全消滅させるためにシグの手で使用。第13話でUFO相手にショウが使用した際は、サラのプラグローダとシグのレーザーライフルとの同時撃ちで撃破している。第17話でスミレが使用した際には、誤って逆向きに使用し、ショウたちを殺しかけるという大惨事を起こしかけた。 : ; レーザーライフル : 赤色のレーザーを発射する携行用[[レーザー砲]]。エイリアンの透明化能力を無力化することも可能。大型重火器ながらも無反動。「WARNING HIGH VOLTAGE」の警告表示があることから、エネルギーはバッテリーによる電力と推測される。劇中ではサラが主に使用。 : ; フレイムスローワー : 三千度級の熱を放つ[[火炎放射器]]。特殊圧縮ボンベで最高600秒の連続放射が可能。劇中ではショウが主に使用し、透明化したエイリアンのあぶり出しを始め、伝染病ウイルスであるトカレフ-18や有害植物であるJ-3000の駆除にも用いた。第20話では、サラがゾドーとリーガ相手にレーザーライフルと同時撃ちしている。 : :{{機動兵器 |名称=ストライカー |全長=3,400{{nbsp}}mm |全幅=1,400{{nbsp}}mm |全高=1,200{{nbsp}}[[ミリメートル|mm]] |車両重量=820{{nbsp}}[[キログラム|kg]] |最高速度=312{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]] }} ; CV-01 ストライカー : ショウが搭乗する小型特殊装甲車。 : 戦略システム内蔵の大容量コンピュータと高性能ガスタービンエンジンを搭載している。車体はチタン合金、タングステン鋼、カーボンファイバー製の3層加圧成型装甲。ボディは超高質繊維強化メタル製のロールバーで覆われ、ウインドウには防弾ガラスを使用。助手席には通常、センサーコンソールと小型武器コンテナが搭載されており、人間を乗せることもある。 : 第27話では、探偵団へのご褒美として、ショウとセイジが作った玩具が登場した。 :* ベース車は[[スズキ・キャラ]]{{Sfn|年代記|2004|pp=88-89|loc=PLEXインタビュー}}。 : :{{機動兵器 |名称=インターセプター |全長=2,056{{nbsp}}mm |全幅=794{{nbsp}}mm |全高=1,280{{nbsp}}mm |排気量=250{{nbsp}}c.c. |最高速度=205{{nbsp}}km/h }} ; CV-02 インターセプター : サラとシグが搭乗する追跡・戦闘用モーターサイクル。第1話では別働任務に着いていたシグの代わりにショウが搭乗していた。 : オートバランサーを搭載し、どのような悪路でも走破することができる。後部のキャリアには小型の武器コンテナを搭載でき、主にNO.2コンテナ(プラグローダ)が搭載されている。 : マシン側の操作で武器コンテナを開くことができ、フロントカウル上部にはプラグローダを固定するマウントがあり、走行しながら発射することが出来る。 : シグ用はバンパーが黄色、サラ用は赤である。 : ; ガバナー : 主にセイジが運転する大型のバンで現場指揮車。車体後部のスペースには各種コンピュータが搭載されておりブルースワット隊員との通信や情報送受信が行える。特に戦略コンピュータは敵の弱点、隠れた敵の居場所などを分析するため戦闘には欠かせない。偵察衛星・SS-17ともアクセスできる。 : 弾薬やフレイムスローワーなどの大型武器が搭載されているだけでなく、プロテクトギアを収納するスペースも設けられている。車体上部のサーチライトからはビームを発射。 : ; {{読み仮名|SS-17|エスエスセブンティーン}} : ブルースワットの偵察衛星。 : 宇宙からの偵察・追跡などに威力を発揮。武器はレーザー砲。電磁波吸収バリアにより、地上からの観測やレーダーなどでは、その姿を察知することはできない。 : メモリ上には、ブルースワット隊員教育用の人間型プログラム・'''ブライアン'''がインストールされており、偶然SS-17にアクセスしたスミレは皆に内緒でブライアンに隊員としての教育を受ける。メインメモリの過負荷によるバリア消失を防ぐため、スミレの手によって、'''マザー・ブルー'''のパスワードを打ち込まれ、ブライアンのプログラムはデリートされた。 : 最終決戦では、クイーンがインヴェードしたガバナーからの指示でブルースワットを攻撃してしまう。 === ブルースワットの追加戦力 === 所属していた組織を壊滅されたブルースワットは、以後あらゆる形で戦力の増強・補強を行ってきた。以下はその一覧。 ; シルバニック・ギア : 第29話から登場。ゴールドプラチナムの力でショウのプロテクトギアが強化された鎧。銀色に輝くディメントロニウム製のリアクティブアーマーであり、ヘルメット・プロテクターとプロテクトギアにはなかった肩アーマー・手甲・脚甲が追加され、全身を覆われるようになった。敵の攻撃を吸収してエネルギーを反射する能力を持つが、一度反射すると、そのパーツが元に戻ってしまうというデメリットもある。ただし、吸収するだけなら元には戻らない。このシルバニック・ギアを纏ったショウは「ハイパーショウ」と呼ばれる。 : 最終話で、特攻を決意したプラチナムが自力で変身出来るように力を与え、最終話と次作『重甲ビーファイター』の特別編で、ショウ単体で変身している。 : ; ブルーストライカー : ストライカーを改修したマシン。第30話での戦闘で破壊されたストライカーをシグのアイデアを応用して、セイジが予め考えていた強化案を加えて改修が行われた。 : チタンジルコニウム合金製の装甲と4門のエネルギー砲'''インパクトキャノン'''を装備。 : モーグと最終決戦でのクイーンにインヴェードされて、ブルースワットを攻撃したこともある。 : ; ドラムガンナー : 第33話から登場。ゴールドプラチナムがハイパーショウに与えた手甲型の光線銃。ショウに貸す前にプラチナムが使用したこともある。左腕に装着した状態で1秒間に40発のエネルギー弾を発射する。強力な分、反動がかなり強く、ショウが初めて使用した際は「なんつーガンだ」と驚いていた。 :; ドラムガンファイヤー :: 第33話から登場。ドラムガンナー後部に逆さにしたディクテイターを合体させた最強銃。そこから反転した状態で使用する。第45話では奥山梨奈の開発したインヴェード解除ビームのユニットを装着、合体エイリアンの分離やシグ(広瀬)に多重インヴェードしたジスプを追い出すのにも使用された。当時の子ども向け雑誌{{Full|date=2020年9月}}の解説ではショウのディクテイターの残弾を薬莢ごとエネルギーに変換して一気に打ち出すものとされている。 :* 玩具版でも劇中同様ディクテイターの玩具(電動ブローバック版・ライト&サウンド版どちらでも可能)と連動し、本体のセンサーがディクテイターの銃口のLEDに反応して発射音が鳴る。なお、ライト&サウンド版と連動させる場合はドラムガンナーの玩具に付属している白色の専用アタッチメントを装着する必要がある。 : ; コンバットナイフ : サラが所有している護身用武器。第32話では、モーグにダメージを与えた。 : ; 日本刀 : シグが使用する。第32話ではモーグにダメージを与えた。第49話ではディクテイターが破損したブルースワットのためにセイジが3人分用意し、ゾドーとリーガを滅多斬りで倒す。 : ; RB-8 : 第32話で使用された液体爆薬。セイジが防衛局科学研究所にハッキングして製作し、ミサイルランチャーで撃ち出す。液体は空気に触れると1時間後に爆発する。中和剤はセイジがサラとシグと共に研究所に潜入した際に完成させた。 : ; インヴェード解除ビーム : 第45話で使用された大型銃。梨奈がシグの協力を経て研究開発したもので、スペースマフィアの多重インヴェード作戦対策に投入。ドラムガンファイヤーの銃身と連結、テストなしのぶっつけ本番ながら合体エイリアンや広瀬にインヴェードしたジスプを分離させることに成功した。 : ; 戦士のナイフ : 第50・51話で使用された短剣。シグ用の物と、移植手術前に信頼の証としてショウとサラに渡したレプリカの計3本がある。この武器でエイリアンを1体倒している。 === ゴールドプラチナムの戦力とメカニック === ; グラビオン : プラチナム専用の次元振動銃。プラチナムの右手に直接出現し、フルパワーでは惑星さえも破壊できるほどの威力を持つ。 :* 玩具では電光衝撃体感銃と冠されて発売され、発光ギミックと同時に振動ギミックが作動し、射撃の反動(リコイルショック)を体感することができる。 : :{{機動兵器 |名称=スターフォートレス |全長=34{{nbsp}}m |全幅=19{{nbsp}}m |全高=13{{nbsp}}[[メートル|m]] |重量=1,250{{nbsp}}[[トン|t]] }} ; スターフォートレス : プラチナムが搭乗する自由に時空間を航行可能な次元移動要塞。第37話から登場。 : 武器は'''ディストーションバスター'''。 : プラチナムは当初、生身のままで地球に降臨していたが、クイーンの地球侵攻作戦に対抗するための新装備として、この乗り物に搭乗してくるようになった。最終決戦後、消滅したプラチナムの遺志を継いだショウとサラが搭乗して、地球を発つ。 :* 特撮監督の尾上は、予算が少ない中でワープなどの描写を要求され苦心した旨を語っている{{R|U169112}}。 : ; パルサーポッド : スターフォートレスに備わっている着陸用のプラチナム専用大気圏突入用小型艇。第37話から登場。 : 最終話で隕石に特攻してプラチナムごと大破した。 :* 尾上は、パルサーポッドは半分透けているためピアノ線が目立ってしまうなど、撮影に苦心した旨を語っている{{R|U169112}}。 == スペースマフィア == 宇宙のあらゆる星々から落伍者の烙印を押された地球外知的生命体(エイリアン)によって構成された宇宙犯罪組織。その目的は地球の破壊ではなく、征服して土地を奪うことと地球人の隷属化であるため{{R|最強152}}、表立った大規模な破壊行為はせず、隠密な作戦や人体への実験行為が多い。そのため、ブルースワットやその関係者を除く、一般の地球人がエイリアンたちの存在を知ることはほとんどない。 エイリアンたちは、番組の初期には地球人に理解できない独特の言葉を使っており{{efn|インヴェードされた人間同士の会話シーンでも、日本語に不気味なSEを被せていた。}}、彼らの正体は一切不明で、スペースマフィアという言葉も当初は地球側から見たエイリアンたちの総称という位置付けであった。しかし、後にスペースマフィアは実在の宇宙犯罪組織であることが判明し、その構成員であるエイリアンたちの正体と目的が明らかになっていく{{R|最強152}}。第14話以降、ブルースワットに対しては日本語で話すようになり、番組の中期以降は仲間同士でも日本語で話すようになった。 アジトは当初設定されていなかったが第21話で設けられた。 ; {{Visible anchor|マドモアゼル・Q / クイーン}} : スペースマフィアの最高権力者。 : エバを監察官として派遣するなど、組織の地球での動向を密かに伺っていたが、一向に停滞していることに業を煮やし、第37話でついに自ら地球に降り立ち組織を統率する。 : 人間態と怪物態の2つの形態を持ち、人間態では左側の顔は若い女性だが髪で隠れている右側の顔は老女となっており、老人態になることも可能。人間だけでなく、武器や乗り物にもインヴェードできる。怪物態の武器は両手から発する光線。 : 癇癪持ちであり、最終作戦前には組織内の戒めとして無能と見做したエイリアンたちの綱紀粛正を決行したこともあったが、そうした部分からジスプの不信を買い、遂にはクーデターを引き起こされるにまで至っている。 : アジトをブルースワットに破壊され最終作戦も粉砕されると、ショウ以外のブルースワットやマシンに次々とインヴェードし、翻弄していくが、スターフォートレスからのエネルギーを受けたハイパーショウのドラムガンファイヤーから発生したブラックホールに飲み込まれた。 : 『重甲ビーファイター』第52話・第53話にて、ジャマールの魔導士ジャグールの力で『[[特捜ロボ ジャンパーソン]]』の宿敵・ビルゴルディと共に復活。打倒ブルースワットに執念を燃やすも最終的に破壊神ジャグールに吸収された。 :* デザインは変身前後とも野口竜が担当{{R|奇211}}。 : ; {{Visible anchor|ジスプ}} : スペースマフィアの地球攻撃部隊指揮官。 : 両手から繰り出す火球を主としている。他のエイリアンと違い、人間にインヴェードした状態で能力を使うことも可能。 : 入院中のザジにインヴェードし、'''ムッシュ・ザジ'''として、部下たちに指令を発していた{{efn|登場当初は日本語が話せず、インヴェードしたザジの体を経由して肉声を発していた。}}が、度重なる部下の敗北から、第19話以降、自ら戦線に立つことにし、インヴェードしているエイリアンにも直接ダメージを与えられる剣(本人曰く、スーパーウェポン)を左胸に携行する。ザジにインヴェードしていることで彼の父である広瀬にインヴェードしているシグを精神的に追いつめた。 : 第30話でザジをブルースワットに奪還された後、暫くは元の姿で行動していたが、第37話において、別の人物にインヴェードして、'''ムッシュ・J'''と名乗り{{efn|ムッシュ・Jの素体となった男性の素性と本名は不明。}}、剣の代わりに槍を使うようになる。 : 第37話でドラムガンファイヤーの攻撃で顔を負傷するが、翌38話で改造手術を受けたことでパワーアップ。筋肉質な体型と液体の入った容器や管が付いた怪物然とした顔となり{{efn|書籍『メタルヒーロー怪人デザイン大鑑 奇怪千蛮』では、名称を'''ジスプ(改造)'''と記述している{{R|奇212}}。}}、それを期に首領のクイーンに対する野心を抱き始めることとなる。終盤では自らが支配者にならんと[[クーデター]]を起こし、Dr.アルドによる改造手術を受け、エイリアンを自らの支配下に置く力を持つ'''服従フェロモン'''を発する能力を身に付ける。これによりクイーンやその部下、そしてシグをも自らの手中に収め、自ら'''キングジスプ'''を名乗り一時はスペースマフィアの頂点に立った。しかしセイジが開発した服従フェロモンを無効化するガスにより失敗、最終的にはブルースワットやプラチナムの猛攻を受けて戦死した。 : ジスプが支配者の立場に異常にこだわるのは、故郷の星で彼が支配され、搾取される身分だったことに一因があり、「支配とは、されるものではなく、するものなのだ」と独白している。 : 『重甲ビーファイター』第52話・第53話では直接登場しないものの破壊神ジャグールに取り込まれた悪の一部として強化前の彼の顔面が出現している。 :* デザインは、改造前後とも野口竜が担当{{R|奇212}}。当初のデザインは、脚本家陣からは宇宙人らしいとして好評であったが、プロデューサーの堀長文が顔がないとカメラが据えられないと意見したことにより、デザインが変更された{{R|奇223}}。 : ; ゾドー : ジスプ直属の部下である幹部エイリアン。ゴアの一個体でもある。本体は第19話から登場。 : 水晶の剣や光線銃を武器としており、ジスプの強化後は槍も使用するようになる。インヴェードした人間態では後述の幹部エイリアンとのコンビで活動していたが、ザジの台頭後はリーガと共に活動する。 : 最終的には、ブルースワットの日本刀による攻撃で戦死。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇212}}。 : ; リーガ : ジスプ直属の部下である幹部エイリアン。こちらも本体は第19話から登場。 : ムチと光線銃を武器としており、ジスプの強化後は槍も使用するようになる。インヴェードした人間態ではヤニミとのコンビで活動していたが、ザジの台頭後はゾドーと共に活動する。 : 最終的にはゾドー同様、ブルースワットの日本刀による攻撃で戦死。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇212}}。 : ; ヤニミ : 女性幹部。本体は第25・26話に登場{{R|奇218}}。 : 光線も放てる鎌が武器。大柄の女性にインヴェードしている間はプロレスを駆使する。第26話では乙姫に扮した。 : 初期ではリーガとのコンビで活動していたが、ゾドーと共に恐怖電波作戦の指揮を執り、電波科学者の内村雅夫を利用し、恐怖電波発生装置を作らせるも内村のミスで電波が発射されたことから、ブルースワットや探偵団に気づかれてしまい、最終的には破壊されてしまう。次に海洋生物学者の浦野五郎を利用し、ダルを使った作戦の指揮を執るもブルースワットに阻止された上、ディクテイターで最期を迎える。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇218}}。頭部はラビの改造{{R|奇223}}。 : ; 幹部エイリアン : 序盤においてゾドー、リーガ、ヤニミと共に暗躍していた。インヴェード態は女性。武器はバズーカ。インヴェードしているエイリアンの正体も明らかにされないままフェードアウトした。 : ; クイーンの従者{{R|奇211}} : それぞれ黒い服と赤い服を纏った2人組の女性。 : 2つ合わせると光線を出す短剣を武器としており、黒い服の従者は右脚、赤い服の従者は左足に携行している。2人の力を合わせて、バリアを張ることも可能。 : 最終決戦で崩壊したアジトと運命を共にした。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇211}}。ボディは同一で頭部と配色が異なる{{R|奇211}}。 : ; 一般エイリアン : 初期はそれぞれがストーリーの中核で作戦を進めていたが、中盤以降はゴア共々戦闘員的な立ち位置で活動する。 : 口が触手状になった青い'''レト'''、口は牙を剥いている赤茶の'''ボナ'''、右腕が通信機になっていて呼吸器をつけたような緑色の'''ケル'''、レトの亜種の'''クイ'''の四種が多数存在している。中期以降は槍を使用。 : これらに加えて作品後半以降はこれまで倒されたエイリアンたちと同種のエイリアンたちも多数登場した。 :* デザインは野口竜が担当{{Refnest|group="出典"|{{R|奇213|奇214|奇215}}}}。ボディは共通で、頭部と配色が異なる{{R|奇210}}。左腕がビーム砲のものは河野成寛がアレンジしている{{R|奇214}}。 :; 合体エイリアン :: 第45話に登場{{R|奇222}}。ゾドーとリーガにインヴェード能力強化活性剤JXを注入された3体の一般エイリアンが合体。分離状態にはあったウィークポイントがなく、ディストーションバスターさえも通じない。インヴェード解除ビーム砲を取り付けたドラムガンファイヤーの攻撃で元の3体に強制分離した。 ::* デザインは河野成寛が担当{{R|奇222}}。 : ; ゴア : 第3話から登場{{R|奇216}}。処刑担当のエイリアン。 : 手が剣になっているタイプと鞭になっているタイプがいる。戦闘力が高いためか、作戦遂行中のエイリアンの護衛役なども務める。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇216}}。 : ; ラビ : 第9話に登場{{R|奇215}}。エイリアン屈指の美女。御曹司の金原良介にインヴェードして理想の花嫁探しをブルーリサーチに依頼、そこで選出された保育士の澄田瞳に転移インヴェードし科学者たちを集め、自身と魔性の美女を大量に増やして地球の男たちを手玉に取っていく「インヴェード美女クローン計画」を遂行する。念動波とレーザー銃が武器。「魔性のウインク」でショウをも手玉に取るが、サラの涙で正気に戻ったばかりか、手を繋いだブルースワット3人の「絆」の前に無効化され、ディクテイターのウィークポイント攻撃で倒された。作中で最初に本体のままで喋ったエイリアン。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇215}}。 : ; ザイバー : 第11話から登場{{R|奇215}}。'''皆殺しのザイバー'''の異名を持つ宇宙テロリスト。 : シグの在籍していたスペーススワット部隊を壊滅させた後、地球に来訪し、TR-99にインヴェードして活動。サラの所属していたスワット部隊も壊滅させた。 : TR-99を倒された後、自身もセイジの手で改造されたディクテイターを手にしたサラとシグに倒される。 : 第22話に登場した別個体は聴力に特化しており、ベージュのコートの男性にインヴェードした。J-3000{{efn|死神のキスとも呼ばれている宇宙植物。雄花はエイリアンに有毒な花粉を放つ。地球に100年に一度だけ咲く、雌花の花粉と棘は逆に地球人にとって有毒であるが、互いに中和作用を持つ。スペースマフィアに故郷を滅ぼされた1人のエイリアンが地球に持ち込み、スペースマフィアの手で致命傷を負った後、シグに後を託して絶命。シグはJ-3000を繁殖させて、スペースマフィアを追い出そうとするが、ショウたちに反対されたことと雌花の毒を知ったことから断念する。}}を排除すべく、ゾドーと共に活動。戦闘では聴力の高さを活かして、ブルースワット相手に優位に立つが、ショウがガバナーから高音で発したロックサウンドが騒音となって、動きが鈍った間にディクテイターで倒された。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇215}}。ボディは一般エイリアンと共通{{R|奇223}}。再登場時は、胴体が既存のアトラクション用スーツを改造したものとなり、頭のディテールも変更している{{R|奇223}}。 : ; ザザンガ : 第21話に登場{{R|奇217}}。スペースマフィアの中でも特に凶暴・凶悪とされるモンスター。 : 超スピードで相手を翻弄し、牙を使った噛み付き攻撃を得意とする。 : ザジが自ら陣頭指揮を執った作戦をブルースワットに阻まれたことから呼び出され、ブルースワットと交戦。ガバナーのシステムでも捕捉できないスピードでブルースワットを翻弄するも松下長之助の熱意が込められた「必勝」のハチマキをしたショウの奮闘からの至近距離射撃で負傷し、全員のディクテイターで倒された。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇217}}。既存スーツの流用だけではもたなくなってきたため、脚本家側からの提案により創作された{{R|奇223}}。 : ; グラガ : 元スペースマフィアの死刑囚。 : 光線銃の使い手で以前は凶暴なエイリアンだったが自身の行いに罪悪感を抱くようになり、戦闘放棄と敵前逃亡を行った。 : UFO透明作戦において、ザジに呼び出され、ゾドーの手で凶暴化する薬を投与された後、協力者の前田真也にインヴェードし、真也の友人のセイジにインヴェードしようとするが、ブルースワットに阻まれ、戦いの最中、薬切れで正気に戻る。その後、薬の副作用で眠り続ける真也を危篤の母・前田千鶴に会わせるために真也に再インヴェードし、千鶴の最期を看取る。役目を終えた後、ブルースワットに加勢するが、ゾドーの配下たちとゾドーの剣からの光線で消滅。銃だけが残った。 : ; マドモアゼル・エバ : 内部監察官。第30話に登場{{R|奇219}}。 : クイーンと同じく、人間型のエイリアンであり、電流も放てる剣を主としつつ、ストライカーを大破させるほどのUFO操縦技術も持つ。クイーンへの忠誠心も強い。 : 地球侵攻作戦の停滞を理由にジスプの粛清のため、地球に現れるが、ザジの身体から抜け出した際のジスプの奇襲で負傷し、火球でトドメを刺される。この一件に対し、クイーンはジスプの決意と覚悟を認め、エバを手にかけたことを不問とした。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇219}}。 : ; ゲドン : 第31話に登場{{R|奇219}}。スペースマフィアに侵略された星の出身のエイリアン。 : 侵略による蹂躙に絶望して、スペースマフィアの一員となり、光線も発する剣を武器に様々な星で暴れまわる。それに伴い、顔つきも凶暴なものに変化するが、元の顔に戻ることも可能。 : アベリオスβ星での活動を経て、地球に赴き、ブルースワットと対決。弱点を持たないと思われたが、どこかの星で感染した宇宙バクテリアにより、右手から石化が始まる。千賀子の夫・俊一にインヴェードした後、千賀子にインヴェードしたハルと共に赴いた宇宙生物研究所で宇宙バクテリアに侵されていることを知った。リーガたちに捕らえられたハルを救うべく、ブルースワットに再度戦いを挑むも事情を知ったブルースワットの協力でハルを救出した後、2人で安住の地に旅立つ。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇219}}。 : ; ハル : 第31話に登場{{R|奇219}}。ゲドンの妻。 : ゲドンと同じ星の出身であるが、心までスペースマフィアの一員にはなっておらず、悪事に加担するゲドンに心を痛める。 : ゲドンを追って、地球に赴き、俊一の妻・千賀子にインヴェードも行う。リーガたちに人質にされてしまうが、ブルースワットの協力を得たゲドンに助け出される。その後、ゲドンの宇宙バクテリアで運命を共にする覚悟を決め、自身の乗ってきたUFOで2人で安住の地に旅立つ。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇219}}。 : ; モーグ : 第32話に登場{{R|奇220}}。百戦錬磨の銀河傭兵。 : マビルード太陽系出身のメカ寄生種族であるため、乗り物や武器にインヴェードできる。弱点は胸部中央。 : クイーンに雇われて、ブルースワットと交戦。自動車やディクテイター、電車、クレーン車、ブルーストライカーにインヴェードしながら、ブルースワットを翻弄した上、ショウにRB-8の液体をかけ、中和剤のある防衛局科学研究所に向かうショウを自動車や自転車、電車を使って、翻弄するもセイジの作戦でRB-8の爆発でダメージを受けてしまい、ショウも助かってしまう。サラのナイフ、シグの日本刀、ハイパーショウのディクテイターの応酬で倒された。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇220}}。ボディはザザンガの改造{{R|奇223}}。 : ; ゲルマ : 剣を主としている。 : 地球人の遺伝子をエイリアンの遺伝子に変えることが出来る'''遺伝子返還促進剤'''の開発のため、梨奈にインヴェードし、1ヵ月の時間を費やすも研究中に起きた事故で梨奈の身体から離れた際、促進剤のデータが梨奈の頭脳のほうに残ってしまう。データ回収のため、梨奈に再インヴェードし、促進剤を完成させるもショウのドラムガンファイヤーで倒された。 : ; ドクターネロン : 第35話に登場{{R|奇221}}。スペースマフィアの死神と呼ばれるマッドサイエンティスト。 : 科学力だけでなく、戦闘能力も高く、爪を主としている。 : ワジワジ星を黒い雨で滅ぼし、地球においては、エナジーF2に自身の毒物を混ぜて、人間同士を殺し合わせる赤い毒ガスに変えた。ワジワジ星の生き残りであるワジワジに致命傷を与えながらもワジワジの最期の攻撃で負傷した後、ハイパーショウのドラムガンファイヤーで倒された。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇221}}。ボディはザザンガの改造{{R|奇223}}。 : ; ギム : 科学者のエイリアン。本来の姿は、はっきりとは描かれなかった。 : 同じ科学者仲間たちと共に人間の科学者たちにインヴェードした状態で活動し、ジスプの命により、タイムマシン・ゼロを開発するも完成後に口封じのために仲間たちを処刑されてしまう。復讐を決意し、ゼロで未来に行き、スペースマフィアの手の内を全て知ろうとするが無理な加速でゼロに負荷がかかったために爆発寸前の状態と化す。ショウの説得でゼロを未来で爆発させることを防ぐべく、地上にいるサラたちに誘導装置を入手してもらうも間に合わず、ショウとインヴェードしていた人間だけでもカプセルで脱出させた後、ゼロを現代で爆発させた。 : ; マザーブラバム : 第41話に登場{{R|奇222}}。昆虫型エイリアン。 : 口から放つ毒針と胸部から放つ無数の幼虫ブラバムを武器としている。幼虫ブラバムは人間の体内に寄生後、その宿主の体内で育ち、成虫と化す。 : Qに呼び出されて活動し、人間を襲う一方、念波を聴くことが出来るシグの排除も担い、毒針でシグに致命傷を与えるがシグからの情報で念波をキャッチするための装置を開発したショウたちに居場所を発見される。戦闘中、毒針から解毒剤を作れることをプラチナムから知らされたハイパーショウに毒針を奪われた後、ドラムガンファイヤーで倒され、解毒剤でシグたちも助かった。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇222}}。 : ; ギルガ : スペースSWAT時代のシグに倒されたエイリアンの兄。 : かつてQから最高権力者の座を奪わんとして失敗し、スペースマフィアを追われたが、その後改心して組織の軍門に戻った経歴を持つ。 : 口から放つ触手を武器としており、それを用いて対象に幻覚を見せるギルガビジョンを放つ。 : 弟の仇であるシグにギルガビジョンを放ち、ショウたちが死んだ幻覚を見せた上、スペースマフィアと戦うレジスタンスの幻覚も見せて、シグを信用させ、ブルースワットが所有しているスペースマフィアのデータの入手を目論む。ギルガビジョンの効果が薄れた影響で困惑するシグがディクテイターで自身の足を撃ち、その痛みで正気に戻ったために計画は失敗。ドラムガンファイヤーで倒された。 : ; パルス : 第44話に登場{{R|奇222}}。電子ケーブル内を移動できるエイリアン。 : 右手から放つ4本の触手を用いて、電子ケーブル内に入りこむ。 : Qに反逆し始めたJの命により、アメリカの核ミサイル発射装置に侵入しようとするがセイジの妨害により、ケーブルから排除され、ブルースワットと交戦。ショウの放ったミサイルランチャーを体内に取り込んだため、それが不発弾となる。逃走中に高中真吾にインヴェードするが真吾の虫歯に苦しみ、その虫歯の痛みのせいで体外に出られなくなってしまった上、遊園地のゲームコーナーを軍事基地と勘違いする騒動を起こすもサラがプラグローダから放った麻酔弾で真吾が気を失ったことで体外に脱出。セイジの手で決戦場に移動する羽目になり、ドラムガンファイヤーで倒された。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇222}}。 : ; マニー : 戦闘記録班に所属。 : 白衣姿にメガネをかけている子供っぽい性格。ブルースワットの戦闘データを分析・開発した'''スペース掃除機'''でドラムガンナーやシルバニックギア、プラチナムのエネルギーを吸収することに成功したが、ジスプの乱暴な待遇に自暴自棄となり、ジスプもブルースワットもろとも倒そうとするがショウとサラの陽動に遭っている間にセイジの操作で吸収したエネルギーを奪還されてしまい、最終的にはジスプに粛清された。 :* 胴体は白衣姿のため、デザインは頭部のみ描かれた{{R|奇223}}。 : ; ジタン、コズマ : エイリアンたちから「凸凹コンビ」と揶揄されるほどのエイリアンコンビ。最終作戦を前にしたクイーンの綱紀粛正の対象にされてしまうも、辛うじて逃亡した所をブルースワットに救出される。しかし一方的に借りを作るのは割りに合わないと、アジトに戻り最終作戦の概要を掴むも、コズマは倒され、花がいっぱいの世界を見せたいというジタンの願いを受けたプラチナムの手引きで宇宙へ旅立って行った、 : ; アルド : 第48話に登場{{R|奇222}}。科学者である老齢のエイリアン。 : クーデターを画策していたジスプに強化改造を施したが、その後に口を封じられた。埋め込まれていた記憶チップがブルースワットに回収され、服従フェロモンの解析に利用されることになる。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇222}}。 === スペースマフィアの協力者および協力宇宙生命体 === ; バブリオ : 第8話に登場{{R|奇217}}。エイリアンの手駒として利用されている宇宙兵士の幼獣。口から光線を放つ。弱点は寒さ。 : 倉橋の会社の嘱託医である杉田医師と看護婦にインヴェードしたボナとレトの調査により、適応者である倉橋の体内に寄生されて育つ。倉橋の命と引き換えに体外に出ようとするが、プラグローダからの冷凍弾で倉橋が凍結されたため、成体になる前に体外に出てくることになり、ディクテイターで倒され、倉橋もシグの超能力で解凍されたことで九死に一生を得た。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇217}}。小型のキャラクターであるため、新規に造形物が作成された{{R|奇223}}。 : ; TR-99 : 第11話に登場{{R|奇215}}。ザイバーがインヴェードしている正体不明の武装テロリストのコードネーム。 : 中年紳士風の仮面を着用しており、銃弾も効かない体質の持ち主。マシンガンを愛用。 : 2年前にアメリカで暗躍していたトップクラスの武装テロリストであり、世界の要人を次々と暗殺していき、サラのいたチームも壊滅させた。ジョンとザイバーの相打ちの巻き添えで一度は死亡するが、サイボーグに改造されて復活。耐久力も高く、強力な妨害電波放射装置も仕込まれており、分離した状態でもザイバーに操られて動く。 : ブルースワットの秘密通信回線を介して、彼らに挑戦状を送り付けて交戦。ディクテイターが通用しないほどのタフさを見せ、サラとシグの爆破攻撃でも致命傷には至らなかったが、ザイバーの手で左胸部内のウィークポイントを修理されているところをサラとシグに見られ、2人の[[ベレッタ]]とビームガンのエネルギーユニットを組み合わせた即興銃の連射で弱点を集中攻撃された末に倒された。 :* デザインは野口竜が担当{{R|奇215}}。スーツは新規造形{{R|奇223}}。 : ; デスキーラ : 宇宙の賞金稼ぎと称される一団。 : 映画監督志望の青年・檜山孝志を利用して、ボナが制作した異星人向け勧誘CMを観て、地球に向かうものの改心した孝志と共にブルースワットが製作・発信した[[プロパガンダ]]映像を見て、地球は侵略する価値がない星と思い、撤退した。 :; ゴク、ドウ、モン :: 第34話に登場{{R|奇220}}。デスキーラ三兄弟。先述のデスキーラ団との関連は不明。銃の扱いにかけては右に出るものはないと言われている。 :: ジスプに雇われ、ブルースワットの偽者に扮し、銀行強盗や幼稚園バスジャックを行った上でブルースワットを呼び出す。これにより、ブルースワットはコンバットギアや運搬するためのガバナーを表立って使えなくなってしまうが、分割したディクテイターを市販のバイクで持ち運ぶ機転に加え、末っ子のモンは幼稚園バス運転手のケンに奪われたディクテイターで致命傷を負った末に戦死してしまうことになった。 :: 残ったゴクとドウはジスプの命により、ケンを仲間に加え、本物のブルースワットの装備も用いて、ブルースワットを苦しめるもプラチナムの力で装備を奪還された後、ドラムガンファイヤーで倒された。 ::* デザインはいずれも河野成寛が担当{{R|奇220}}。 : ; {{読み仮名|鬼塚 剛三|おにつか ごうぞう}} : 鬼塚コンツェルン会長でスペースマフィアと結託した地球人。40歳。 : 表向きはザジを養子に迎え入れるほどの慈善事業家だが、その点でスペースマフィアに狙われる危険性を忠告したショウたちからブルーリサーチの名刺を受け取った途端に本性を露わにし、ブルーリサーチの事務所を放火全焼させるなどの悪行を行ったが、最終的に見捨てられた上、資産背任横領の容疑で警察に逮捕された。 : ; 宇宙生物ダル : 第26話に登場{{R|奇218}}。小型の宇宙生物。 : 宇宙でも最強クラスと称されるほどの猛毒を持っており、48時間以内に解毒剤を打たなければ衰弱死してしまう。 : ヤニミがスカウトした、海洋生物学者の浦野五郎の手で地球に適応できるように改造され、地球人を次々と襲っていくが、ブルースワットに倒される。解毒剤を作るためのデータフロッピーはヤニミの最後の抵抗でヤニミもろとも爆発してしまったが、改心した浦野がアジトに隠していた予備のデータフロッピーを入手し、それを元に解毒剤を作り上げたことで事なきを得る。 :* デザインは河野成寛が担当{{R|奇218}}。造形物は、レインボー造型企画で作成した一つの型を元に大晃商会で量産した{{R|奇223}}。 : ; {{読み仮名|ケン 石神|ケン いしがみ}} : 元グリーンベレー。 : アメリカを放浪している最中にアリゾナで倒れたサラを解放した後、特殊任務で東南アジアで赴くも現地で身体中に弾丸を浴びたことで短命となり除隊。その後、日本のわかば幼稚園のバス運転手をしている最中、園児や保母共々、デスキーラ三兄弟に拉致されてしまう。隙を突いて、反撃を行い、サラと再会。戦場を求め、ブルースワットに加わろうとするも「戦いを終わらせる」ことを優先とするブルースワットに断られるとスペースマフィアに加勢。サラと戦うが過去の傷の後遺症で吐血してしまい、モンの仇討ちに燃えるゴクとドウからも攻撃を受けてしまう。改心後、サラに戦いのない平和な世界を頼み、息を引き取る。 === スペースマフィアの戦力とメカニック === ; UFO : エイリアンが地球に飛来する際に用いられる。形状は多々あるが、レーザーを装備しているものもあり、攻撃用のものやジスプの強化手術の場として使用されたものもある。 ; JX : ジスプが新兵器として用意したインヴェード能力強化活性剤。これによってジスプは広瀬(シグ)に多重インヴェードした。しかしインヴェード解除ビーム砲を取り付けたドラムガンファイヤーの連射に耐え切れず、ジスプは広瀬の体から分離。以降戦力に投入されることはなかった。 == 用語 == ; ブルーリサーチ : エイリアンの奇襲で本部を失い、戸籍上死亡扱いとなった後のショウたちが生活費の工面とエイリアンの調査を兼ねて開業した、よろず相談調査オフィス。住所は[[渋谷区]][[代官山]]9-36-7。TEL03-3227-5748 : 調査の依頼は来るものの、その大半は無報酬(第3、8話)か何らかの理由で報酬がフイになるケース(第9、10話)だった。 : 第23話において、ショウが鬼塚に名刺を渡してしまったのが原因で鬼塚と通じていたエイリアンの奇襲を受けた事務所は全焼し、廃業となった。 : ; インヴェード : スペースマフィアのエイリアンが人間の体内に侵入して憑依すること{{R|GB65}}。インヴェードする際はジェル状で人間の体内(主に口から)に入り込む。 : インヴェードには、シグを含めて基本的に次の特徴がある。 :* インヴェードできるのは生きている人間のみで{{R|GB65}}、死んでいる人間には不可能。[[脳死]]状態の広瀬剛の体を使ったシグや、昏睡状態だったザジを利用したジスプなどから、完全に生命活動が停止していない肉体であればインヴェードが可能で肉体を操れる。また、体の一部が動かない人間にインヴェードをすると動かない体も動くようになる。 :* メカ寄生種族やマドモアゼル・Qは人間だけでなく自動車や武器など非生命体にインヴェードできる。 :* インヴェードされた人間は影がインヴェードしたエイリアンのシルエットになり、流血した際に緑色の血を流す。 :* インヴェードした人間は自在に操ることが可能となる。スペースマフィアに関する極秘情報を知ってしまった人間を自殺に見せかけ、死の寸前に肉体から離脱することで口封じさせる手段を行っている。 : ただし、不破主任のようにインヴェードされた人間が精神力で自我を取り戻すことが可能。また、シグがザジに対して攻撃の手を緩める、インヴェードした人間の妻に贈り物をするなど、インヴェードされた肉体の深層欲求が優先して行動に出てしまう場合があり、完全に支配できるわけではない。 :* インヴェードした肉体の記憶情報を得ることが可能。しかし記憶喪失になると記憶を得ることは不可能。 :* ケルは人間にインヴェードした状態から他のエイリアンに通信する際に右腕のみ本体に変化させる能力を持つ。 :* 分離の際には膨大なエネルギーが放出され、周辺にいる人物が頭痛に見舞われ、皮膚が振動する、窓が割れる、水たまりが沸騰するなどの現象が発生する。 : なお、個々のエイリアン特有の例外はある。 == キャスト == === レギュラー === * ショウ:[[正木蒼二]] * サラ:[[白鳥由夏|白鳥夕香]] * シグ / 広瀬剛:[[土門廣]] * セイジ:[[田中優樹]] * スミレ:[[ひがたともこ|干潟智子]](第2 - 10,12 - 30,32 - 51話) * ザジ:[[佐野茂]](第12 - 30,45,47 - 51話) * ムッシュJ:[[笠原竜司]](第37 - 49話) * マドモアゼル・Q:[[長門美由樹]](第37 - 51話) * ゾドー:[[佐藤信一]](第3 - 5,7,9,14,16,19 - 49話) * リーガ:[[中井信之]](第3,4,6,12,13,15,19 - 49話) * ヤニミ:[[西脇充子|西脇充子→MIZKO]](第3,4,6,10,12,14,25,26話) * スペースマフィア幹部:[[小栗さちこ]](第3 - 5,8,9話) * Qの従者A:[[荻田佳也子]](第37 - 51話) * Qの従者B:[[松葉妙子]](第37 - 51話) ===声の出演=== * ゴールドプラチナム:[[てらそままさき|てらそま昌紀]](第23 - 51話) * ジスプ / ムッシュ・ザジ:[[小峰裕一]](第19 - 49話) * ナレーター{{efn|第20・28話・劇場版以外テロップ表記なし。}}、ジョン(11)、宇宙人(22):[[垂木勉]] === ゲスト === * 不破:[[山口嘉三]](1) * 支店長:[[大谷朗]](1) * 神崎綾香:[[藤枝かな|富田瑤子]](1,2) * 銀行員:[[森みつえ]](1) * 強盗犯:[[高橋利道]]、[[城春樹]](1) * 警備員:[[益田てつ|益田哲夫]]、[[藤田健次郎]](2) * TVレポーター:[[塙理恵|花輪理恵]](2) * 大垣大吾:[[堀田眞三|堀田真三]](3) * 赤沢:[[石田博英 (俳優)|石田博英]](3) * 大垣千晶:[[遠野なぎこ|青木秋美]](3) * トラックの運転手:[[長谷川恒之]](3,4) * 警官:[[軍司眞人|軍司真人]](3,4) * バイクの男性:[[九巻優道]](4) * サバゲーの女性:[[荻田佳也子]](4) * 乾:[[戸井田稔]](5) * 鳥羽勝也:横山一敏(5,12) * リポーター:[[長沢美樹]](5) * 古賀茂:[[米倉真樹]](6) * エリカ:[[白崎貴子]](6) * 玉井照夫:[[佐藤淳 (俳優)|佐藤淳]](7) * 佐野ミチコ:[[高橋礼恵|高橋紀恵]](7) * ウェイトレス風の女:[[大西民恵]](7) * コートの男:[[岡本美登]](7) * 倉橋:[[赤塚真人]](8) * 倉橋ヒロシ:[[石橋剣道]](8) * 杉田医師:[[片岡五郎]](8) * 婦長:[[谷本小代子]](8) * 大藪医師:[[青柳文太郎]](8) * 大藪医院の看護婦:[[松本かおり]](8) * 主婦:[[渡部るみ]](8) * 澄田瞳:[[あらいすみれ]](9) * 金原良介:[[遠藤守哉]](9) * 国立生化学研究所の博士:[[山浦栄]](9) * 女子大生:[[杉山恵美子]]、[[上野はづき]](9) * 須藤浩一:[[志村要]](10) * 荒井武:[[工藤俊作 (俳優)|工藤俊作]](10) * 河崎譲:[[五野上力]](10) * 河崎の部下:[[井上清和]](10) * 貸し倉庫社長:[[高月忠]](10) * 運転手:[[今井靖彦]](10) * ジョン:[[アイデン・ヤマンラール]](11) * ハイカー:[[高田強]]、[[鈴木伸幸]]、[[高木麻紀]](13) * 神田ルミ:[[岡本麻弥]](14) * 柏崎英次:[[和久泰英]](14) * 中央薬科研究所所員:[[松永秀一]](14) * 八百屋:[[須賀良]] (14) * 檜山孝志:[[高橋克明]](15) * 恵理:[[島崎路子]](15) * 女子高生:[[木下真澄]](15) * 原田徹:[[小山力也]](16) * 山下啓一:[[岡野耕作]](16) * 老人:[[岩城力也]](16) * TVレポーター:[[曽我部夫佐子]](16,40) * 刑事:[[町田幸夫]]、[[浜近高徳|濱近高徳]](16) * ホテルマン:[[三田村順一]](16) * 防衛局員:[[寺田英孝]](17) * ブライアン:[[ハントケーシ|半戸敬志]](17) * スミレの友人:[[家吉珠美]]、[[礒春陽]](17) * オペレーター:山浦栄、[[平井一幸]](17) * 本田:[[森田順平]](18) * 川崎:[[岩淵俊宣|堤海人]](18) * 支店長:[[村上幹夫]](18) * 警察署長:[[山中康司]](18) * 妊婦:[[谷村慶子]](18) * マサヒコ:[[手島佑弥]](18) * 警備員:[[松相敏夫]](18) * 銀行員:[[永野百合香]](18) * 主婦:[[松尾晶代]](19, 20) * 松下長之助:[[杉義一]](21) * 長之助の息子夫婦:[[岸本功]]、[[田貴絢子]](21) * 松下ケンタ:[[桑原朋宏]](21) * 老人:[[中島元]](21) * 巡査:[[舘正貴]](21) * ザイバーにインヴェードされた男:[[神威杏次]](22) * チンピラ:[[新堀和男]]、[[竹内康博]](22) * 鬼塚剛三:[[荒木しげる]](23,24) * 傭兵:[[岡元次郎]]、[[西村陽一]]、[[橋本恵子]]、[[大西修]](24) * 遠藤敦子:[[野村佑香]](25,26,29) * 林孝:[[宮野翔太]](25,26) * 河井大:[[深澤光明]](25,26) * 杉川ユキオの母:[[朝倉佐知]](25) * 内村雅夫:岡本美登(25) * 杉川ユキオ:[[斉藤慎也]](25) * ダイスケ:[[内大輔]](25) * 浦野五郎:[[藤敏也]](26) * 敦子たちの保護者:青柳文太郎(26) * 警官:[[朝山恭行]](26) * 籾山新一:[[醍醐貢介]](27) * 籾山ちはる:[[冨田晃代]](27) * 前田真也:[[中村久光]](28) * 前田千鶴:[[来路史圃]](28) * イサム:[[倉貫匡弘]](29) * ノボル:[[長沼哲郎]](29) * 火葬場の男:[[三重街恒二]](29) * TVレポーター:[[小林和香]](30) * 俊一:[[永嶋和明]](31) * 千賀子:[[丸山真歩|佳山まりほ]](31) * 英五郎:[[林秀樹]](31) * 研究所員:[[山本修司]](31) * 奥山梨奈:森みつえ(33,45) * 研究所員:[[有名恵子]](33) * ケン石神:[[嵯峨周平]](34) * 警官:[[加藤久仁郎]]、[[野津尚行]](34) * 幼稚園の先生:荻田佳也子(34) * 片瀬丈正{{efn|クレジットでは片桐教授。}}:[[堀越大史]](35) * ワジワジ:[[岡元次郎]](35) * 運転手:[[五野上力]](35) * 中学生:[[蝦名隆広]](35) * 片瀬の部下:[[石田哲也]](35) * 仲村祐太:[[西谷卓統]](36) * 仲村啓介:[[持地保徳]](36){{efn|視聴者からの一般公募による出演。}} * 仲村麻衣子:[[横川春香]](36){{efn|視聴者からの一般公募による出演。}} * 青年:[[片桐順一郎]](36) * 研究員:[[高原知秀|高原智秀]]、[[小俣賢治]]、高橋英樹、[[河嶋賢治]](36) * 医師:高田強(36) * ギム:[[羽田共持]](37) * 陽平の父:[[野崎海太郎]](39) * 陽平:[[青木海]](39) * ミール獣の声:[[むたあきこ]](39) * Jの部下:竹内康博、大西修(39) * 見城守:[[和田圭市]](40) * 竹下:[[脇田茂]](40) * 先輩記者:[[岩田育人]](40) * 黒服の男:今井靖彦(40) * 白服の男:[[藤田健次郎]](40) * 広瀬を診察した医師:[[新井一典]](41) * 立花協立病院の医師:[[作原利雄]](41) * 坂口レイ:[[藤田美紀]](42) * ティアの信者:[[加瀬竜彦]]、[[貝塚秀人]]、[[若生真紀]](42) * 警官:[[千田孝康]](42) * ギルガビジョンのコマンドー:今井喜美子、岡元次郎、西村陽一、[[中川素州]]、竹内康博(43) * ギルガビジョンの少年:[[佐藤徹平]](43) * 高中真吾:[[朝倉圭矢]](44) * 坂井陽子:[[藤田久美]](44) * サングラスの男:[[宮本幸三]](44) * 発電所員:[[佐藤法義]]、[[小川義雄]](46) * 稲城医師:岸本功(50) * ニュースキャスター:[[大崎聖二]](50) * 看護婦:松尾晶代、[[二階堂美由紀]](50) * 中年男性:[[生田蔵満]](50) === スーツアクター === 本作品ではヒーロー側のスーツが全身プロテクターではないため、従来のアップ・アクションの区別はなくなりそれぞれ1人のスーツアクターが専任で演じた{{R|仮面俳優71|21st14}}。ショウ役の横山は、軽装になった分アクションはやりやすくなったが、むき出しの部分が痛かったと述べている{{R|20th97}}。 * ショウ{{R|仮面俳優81|20th97}}:[[横山一敏]] * シグ{{R|仮面俳優71|21st14}}:[[竹内康博]] * ゴールドプラチナム{{R|仮面俳優81}}、ジスプ{{R|仮面俳優81}}:[[今井靖彦]] * Q怪人態{{Sfn|宇宙船172|2021|p=118|loc=「[対談][[橋本恵子]]×[[野中剛]]」}}:[[橋本恵子]] == スタッフ == 本作品を最後に監督の[[小西通雄]]、[[折田至]]が引退した他、監督の[[辻理]]、[[蓑輪雅夫]]、脚本の[[上原正三]]、アクション監督の[[山岡淳二]]といった、過去のシリーズでも活躍したスタッフがシリーズを離れる一方、本作品より[[矢島信男]]に代わって[[尾上克郎]]がメタルヒーローシリーズの特撮監督を担当したりと{{R|U169112}}、この時期にはスタッフ間の世代交代が進められることとなった。 劇伴は前作に引き続き、[[若草恵]]が担当。[[シンセサイザー]]などが組み込まれたメロディ色の薄いシリアスサウンドは、シリーズの中でも異色である。後半では『世界忍者戦ジライヤ』『特捜ロボ ジャンパーソン』の音楽も多く流用された。 キャラクターデザインは、メタルヒーローシリーズへは『巨獣特捜ジャスピオン』以来の参加となった野口竜が担当{{R|奇210}}。スーツ改造のキャラクターは、企画者104の河野成寛が手掛けた{{R|奇210}}。河野によれば、エイリアンの捉え方が監督・脚本家・プロデューサーがそれぞれ異なったため野口はどうデザインするか苦労していたという{{R|奇223}}。 * プロデューサー:[[梶淳]](テレビ朝日)、[[堀長文]](東映) * 原作:[[八手三郎]] * 連載:[[テレビマガジン]]、[[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]]、[[てれびくん]]、[[別冊コロコロコミック]]、[[テレビランド]] * 脚本:[[宮下隼一]]、[[扇澤延男]]、[[鷺山京子]]、[[曽田博久]]、[[小林靖子]]、浅香晶、中野睦、[[酒井直行]]、[[鈴木やすゆき|鈴木康之]]、[[増田貴彦]]、[[上原正三]]、荒川龍、井上一弘 * 音楽:[[若草恵]] * アクション監督:[[山岡淳二]]、[[新堀和男]]、[[山田一善]]([[ジャパンアクションクラブ]]) * 監督:[[辻理]]、[[小西通雄]]、[[蓑輪雅夫]]、[[三ツ村鐵治]]、[[石田秀範]]、[[折田至]] * 撮影:浄空([[瀬尾脩]])、小泉貴一 * 照明:吉岡伝吉、斉藤久 * 美術:野尻均、安井丸男 * 録音:太田克己、[[岩田廣一|岩田広一]] * 編集:[[菅野順吉]]、飯塚勝、長田直樹 * 選曲:金成謙二 * 効果:[[大泉音映]] * 操演:羽鳥博幸 * 計測:小泉貴一、岡部正治、田中久之、臼木敏博 * 記録:深沢いづみ、國米美子、栗原節子、安藤豊子 * 造型:[[前澤範]] * キャラクターデザイン:[[野口竜]]、河野成寛 * イラスト:薄永俊之、渡辺貞夫、スタジオ・メルファン * 助監督:石田秀範、[[諸田敏]]、[[加藤弘之 (テレビドラマ監督)|加藤弘之]]、谷口昌史、[[鈴村展弘]]、目黒圭一 * 進行主任:東正信、後藤田伸幸 * 製作事務:石垣紘一 * 製作担当:橋本鉄雄 * 装置:東映美術センター、紀和美建 * 美粧:サン・メイク * 衣裳:東京衣裳 * 企画協力:[[企画者104]] * キャラクター製作:[[レインボー造型企画]] * 視覚効果:[[映画工房]] * 現像:[[東映化学工業|東映化学]] * 技術協力:[[東通]] * カースタント:[[タケシレーシング]] * 装飾:[[大晃商会]] * 協力:[[MGC (トイガンメーカー)|MGC]]、コミネオートセンター、[[レイバン]]([[ボシュロム・ジャパン]]) * 衣装協力:ゴールドウィン * 車輌協力:[[スズキ (企業)|スズキ株式会社]] * (株)[[特撮研究所]] ** 操演:[[鈴木昶]] ** 撮影:高橋政千 ** 照明:林方谷 ** 美術:[[佛田洋]] * 特撮監督:[[尾上克郎]] * 制作:[[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[旭通信社|ASATSU]] == 主題歌・挿入歌 == 主題歌はオープニングクレジットでは「主題歌」とのみ表記され、曲名は表記なし。また、2曲ともシングルバージョンとアルバムバージョンが存在する。前者は放送当時のシングル盤とオムニバスしか収録されておらず、それ以降の商品化の際には必ず後者が収録されている。 ; オープニングテーマ「TRUE DREAM」 : 作詞・作曲:[[伊藤薫 (作曲家)|伊藤薫]] / 編曲:[[戸塚修]] / 歌:[[前田達也]] : 特撮ヒーロー番組としては異色の[[バラード]]調の主題歌であると共に{{R|最強154}}、歌詞中にヒーローの名が一切登場しないオープニングテーマでもある。 : 第24話まではシングルバージョンを、第25話以降はアルバムバージョンを使っており、テレビサイズでも前奏の長さの違いが生じている。 : 挿入歌としては第17、51話で歌唱版(シングルバージョン)、第2話でインストゥルメンタル版が使用された。 : ; エンディングテーマ「HELLO THERE!」 : 作詞・作曲:伊藤薫 / 編曲:戸塚修 / 歌:前田達也 :* 挿入歌としては第3、39話でインストゥルメンタル版が使用された。 : ; 挿入歌 :; 「邪悪の巡礼 -GET THE WAR-」 :: 作詞・作曲:伊藤薫 / 編曲:[[若草恵]] / 歌:前田達也 ::* 第48話ではカラオケ版が使用された。 :; 「友情超ファイター」(50話) :: 作詞:伊藤薫 / 作曲:[[渡辺宙明]] / 編曲:若草恵 / 歌:ショウ(正木蒼二)、サラ(白鳥夕香)、シグ(土門廣) ::* 第29話では前後奏、第30話では前奏のみ、第33話ではカラオケ版が使用された。 :; 「THEME OF PLATINUM」(30、31、46、51話) :: 作詞・作曲・歌:伊藤薫 / 編曲:若草恵 ::* 第30話ではカラオケ版と併用された。 :; 「パワーアップ・ブルースワット 〜愛する心があれば〜」(32、35話) :: 作詞:伊藤薫 / 作曲・編曲:[[石川恵樹]] / 歌:前田達也 :; 「兵士達の休息」 :: 作詞:伊藤薫 / 作曲:渡辺宙明 / 編曲:若草恵 / 歌:前田達也 ::* 第28話ではカラオケ版、第51話では前奏のみが使用された。 :; 「出発のサイン」(26、27、31〜33、36、39、40、42、44、46、49、51話) :: 作詞:伊藤薫 / 作曲・編曲:石川恵樹 / 歌:前田達也 ::* 第40話ではインストゥルメンタル版と併用され、第30、48話ではインストゥルメンタル版のみが使用された。 == 放映日程 == 前述の通り、1クール目と最終回はサブタイトルが全てカタカナ表記。2クール目以降は路線変更により、このフォーマットから外れた形となっている。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場エイリアン!!脚本!!監督 |-align="center" |align="right"|1994年{{0}}1月30日 |1||ビギニング!! |align="left"| * レト * ボナ |rowspan="6"|宮下隼一 |rowspan="2"|辻理 |-align="center" |align="right"|2月{{0}}6日 |2||ロンリーバトル |align="left"| * ケル |-align="center" |align="right"|2月13日 |3||インヴェード!! |align="left"| * レト * ボナ |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|2月20日 |4||ゲッタウェイ!! |align="left"| * ゴナ * ボナ |-align="center" |align="right"|2月27日 |5||ザ・ライバル!! |align="left"| * ケル |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|3月{{0}}6日 |6||ワンチャンス!! |align="left"| * レト * ボナ |-align="center" |align="right"|3月13日 |7||スクープ!! |align="left"| * レト * ケル * ボナ |扇澤延男 |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|3月20日 |8||E.Tベイビィ |align="left"| * バブリオ * レト * ボナ |鷺山京子 |-align="center" |align="right"|3月27日 |9||プリティガール |align="left"| * ラビ(声:不明) |曽田博久 |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|4月{{0}}3日 |10||ザ・ミッション |align="left"| * レト * ボナ |小林靖子 |-align="center" |align="right"|4月10日 |11||イエスタディ… |align="left"| * ザイバー(声:[[新井一典]]) * TR-99(声:[[森篤夫]]) |浅香晶 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|4月17日 |12||グッドバイ… |align="left"| * ボナ |rowspan="2"|宮下隼一 |-align="center" |align="right"|4月24日 |13||デス・トラップ |align="left"| * レト * ボナ * ケル |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|5月{{0}}1日 |14||極悪スター誕生 |align="left"| * レト(声:森篤夫) |扇澤延男 |-align="center" |align="right"|5月{{0}}8日 |15||侵略CM大放送 |align="left"| * ボナ(声:[[篠田薫]]) * デスキーラ |曽田博久 |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|5月15日 |16||激突!! 暗殺カー |align="left"| * レト |小林靖子 |-align="center" |align="right"|5月22日 |17||ズッコケ新隊員 |align="left"| * ケル |浅香晶 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|5月29日 |18||強盗犯は{{ruby|英雄|ヒーロー}}!! |align="left"| * レト * ボナ |中野睦 |-align="center" |align="right"|6月{{0}}5日 |19||{{ruby|魔少年|デーモンキッド}}の正体!! |align="left" rowspan="2"| * ジスプ * ゾドー * リーガ |rowspan="2"|宮下隼一 |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|6月12日 |20||シグ衝撃の過去 |-align="center" |align="right"|6月19日 |21||突撃爺ちゃん魂 |align="left"| * ザザンガ(声:[[河合義雄]]) * レト(声:[[依田英助]]) * ボナ(声:[[桑原たけし]]) * ケル(声:新井一典) * クイ(声:[[山中一徳]]) |扇澤延男 |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|6月26日 |22||シグよ さらば!? |align="left"| * ザイバー * ゾドー * リーガ |小林靖子 |-align="center" |align="right"|7月{{0}}3日 |23||超時空の新戦士 |align="left" rowspan="2"| * ジスプ * ゾドー * リーガ |rowspan="2"|宮下隼一 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|7月10日 |24||地球征服0秒前 |-align="center" |align="right"|7月17日 |25||進め凸凹探偵団 |align="left"| * ヤニミ * ゾドー |扇澤延男 |三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|7月24日 |26||真説・浦島太郎 |align="left"| * ヤニミ * ケル(声:桑原たけし) * 宇宙生物ダル |鷺山京子 |小西通雄 |-align="center" |align="right"|7月31日 |27||{{ruby|BS|ブルースワット}}同志討ち!! |align="left"| * ジスプ * ゾドー |宮下隼一 |三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|8月{{0}}7日 |28||あぁ無情母の命 |align="left"| * グラガ(声:新井一典) * ゴア(声:[[阿部渡]]) * ゾドー |酒井直行 |小西通雄 |-align="center" |align="right"|8月14日 |29||夏休み悪霊退治 |align="left"| * グラガ * ゾドー |rowspan="2"|宮下隼一<br />鈴木康之 |rowspan="2"|石田秀範 |-align="center" |align="right"|8月21日 |30||さらば!! {{ruby|魔少年|デーモンキッド}} |align="left"| * エバ(演:[[立石まゆみ]]) * ジスプ * ゾドー |-align="center" |align="right"|8月28日 |31||{{ruby|異星人|エイリアン}}純情す… |align="left"| * ゲドン(声:河合義雄) * ハル(声:[[沢田澄代]]) * リーガ(声:[[西尾徳]]) |扇澤延男 |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|9月{{0}}4日 |32||無残ショウ爆死 |align="left"| * モーグ(声:阿部渡) |浅香晶 |-align="center" |align="right"|9月11日 |33||完成!! {{ruby|最強銃|ドラムガンファイヤー}} |align="left"| * ゲルマ(声:垂木勉) |宮下隼一<br />鈴木康之 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|9月18日 |34||極悪!! にせ{{ruby|BS|ブルースワット}} |align="left"| * デスキーラ3兄弟 ** ゴク(声:依田英助) ** ドウ(声:[[津田英三]]) ** モン(声:新井一典) |増田貴彦 |-align="center" |align="right"|9月25日 |35||銀河{{ruby|狼|ウルフ}}炎の鉄拳 |align="left"| * ネロン(声:[[堀越大史]]) |上原正三 |rowspan="2"|折田至 |-align="center" |align="right"|10月{{0}}2日 |36||脱線僕の(秘)指令 |align="left"| * レト * ボナ * ケル |小林靖子 |-align="center" |align="right"|10月{{0}}9日 |37||{{ruby|女王|クイーン}}の宣戦布告 |align="left"| * ジスプ * ゾドー * リーガ |rowspan="2"|宮下隼一<br />鈴木康之 |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|10月16日 |38||{{ruby|GP|ゴールドプラチナム}}抹殺指令! |align="left"| * クイーン * ジスプ * ゾドー * リーガ * 従者A、B |-align="center" |align="right"|10月23日 |39||宇宙獣命の絶叫 |align="left"| * ジスプ * エイリアン軍団 |浅香晶 |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|10月30日 |40||{{ruby|女王|クイーン}}に罠を張れ |align="left"| * クイーン * エイリアン軍団 |扇澤延男 |-align="center" |align="right"|{{efn|11月6日は[[全日本大学駅伝対校選手権大会|第26回全日本大学駅伝]]中継のため放送休止。}}11月13日 |41||襲来!! 殺人昆虫 |align="left"| * マザーブラバム * ブラバム |中野睦 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|11月20日 |42||救世主は悪魔!! |align="left"| * ティア(クイーン) * エイリアン軍団 * 幻影の怪物たち |鷺山京子 |-align="center" |align="right"|11月27日 |43||{{ruby|BS|ブルースワット}}最期の日 |align="left"| * ギルガ(声:高橋利道) * ジスプ * ゾドー(声:不明) * リーガ(声:不明) * エイリアン軍団 |宮下隼一<br />井上一弘 |rowspan="2"|小西通雄 |-align="center" |align="right"|12月{{0}}4日 |44||虫歯の電脳戦士 |align="left"| * パルス(声:不明) * ゴア(声:高橋利道) |宮下隼一<br />荒川龍 |-align="center" |align="right"|12月11日 |45||狙われた{{ruby|肉体|ボディ}}! |align="left"| * 合体エイリアン * ジスプ * ゾドー * リーガ * エイリアン軍団 |rowspan="2"|浅香晶 |三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|12月18日 |46||{{ruby|GP|ゴールドプラチナム}}戦闘不能! |align="left"| * マニー(声:[[むたあきこ]]) * ジスプ * ゾドー * リーガ(声:高橋利道) * エイリアン軍団 |rowspan="2"|石田秀範 |-align="center" |align="right"|12月25日 |47||暴け!(秘)計画書 |align="left"| * ジタン(声:[[鳥井林太朗|鳥居賞也]]) * コズマ(声:[[関智一]]) * 処刑部隊(声:不明) * ムッシュJ * クイーン * 従者A、B * エイリアンA、B(声:不明) |扇澤延男 |-align="center" |align="right"|1995年{{0}}1月{{0}}8日<br />{{efn|1月1日は各局とも正月特番を放送のため休止。}} |48||反逆!俺が{{ruby|王|キング}}だ |rowspan="2" align="left"| * キング・ジスプ * ゾドー(声:佐藤信一) * リーガ(声:中井信之) * クイーン * エイリアン軍団 * 従者A、B * ドクター・アルド(声:不明) |扇澤延男<br />増田貴彦 |rowspan="2"|三ツ村鐵治 |-align="center" |align="right"|1月15日 |49||決戦!{{ruby|王|キング}}の最期 |扇澤延男 |-align="center" |align="right"|1月22日 |50||大激突 生か死か |rowspan="2" align="left"| * クイーン * エイリアン軍団 * 従者A、B |rowspan="2"|宮下隼一<br />鈴木康之 |rowspan="2"|蓑輪雅夫 |-align="center" |align="right"|1月29日 |51||グッバイ{{ruby|BS|ブルースワット}} |} == 放映ネット局 == {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller" |- !放送対象地域 !放送局 !系列 !備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]] |[[テレビ朝日]] |rowspan="3"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]] |'''制作局''' |- |[[北海道]] |[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]] | |- |[[青森県]] |[[青森朝日放送]] | |- |[[岩手県]] |[[IBC岩手放送|岩手放送]] |[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | |- |[[宮城県]] |[[東日本放送]] |rowspan="6"|テレビ朝日系列 | |- |[[秋田県]] |[[秋田朝日放送]] | |- |[[山形県]] |[[山形テレビ]] | |- |[[福島県]] |[[福島放送]] | |- |[[新潟県]] |[[新潟テレビ21]] | |- |[[長野県]] |[[長野朝日放送]] | |- |[[山梨県]] |[[テレビ山梨]] |TBS系列 | |- |[[静岡県]] |[[静岡朝日テレビ]] |rowspan="2"|テレビ朝日系列 | |- |[[石川県]] |[[北陸朝日放送]] | |- |[[福井県]] |[[福井放送]] |[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]<br />テレビ朝日系列 | |- |[[広域放送|中京広域圏]] |[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]] |rowspan="2"|テレビ朝日系列 | |- |[[広域放送|近畿広域圏]] |[[朝日放送テレビ|朝日放送]] |{{efn|第29話のみ、[[全国高校野球選手権大会中継|高校野球中継]]の影響で未放送。}} |- |[[島根県]]<br />[[鳥取県]] |[[山陰放送]] |TBS系列 | |- |[[広島県]] |[[広島ホームテレビ]] |rowspan="3"|テレビ朝日系列 | |- |[[山口県]] |[[山口朝日放送]] | |- |[[香川県]]<br />[[岡山県]] |[[瀬戸内海放送]] | |- |[[愛媛県]] |[[テレビ愛媛]] |[[フジネットワーク|フジテレビ系列]] | |- |[[高知県]] |[[テレビ高知]] |TBS系列 | |- |[[徳島県]] |[[四国放送]] |日本テレビ系列 | |- |[[福岡県]] |[[九州朝日放送]] |rowspan="5"|テレビ朝日系列 | |- |[[長崎県]] |[[長崎文化放送]] | |- |[[熊本県]] |[[熊本朝日放送]] | |- |[[大分県]] |[[大分朝日放送]] | |- |[[鹿児島県]] |[[鹿児島放送]] | |} == 他媒体展開 == === 映像ソフト化 === 以下、特記のない限り発売元はいずれも[[東映ビデオ]]。 * ビデオ(VHS、セル・レンタル共通)は1995年2月 - 1996年1月に全12巻がリリースされている。前2作は毎月2巻ずつのリリースだったが、本作品からはスーパー戦隊シリーズと同様に、毎月1巻のリリースとなった。 * 劇場版は1994年10月に『劇場版 忍者戦隊カクレンジャー』とのカップリングでレンタルビデオがリリース。同年11月に本作品のみの仕様でセルビデオが[[バンダイ]]よりリリースされている。 * テレビシリーズを再編集したヒーロークラブのビデオが2巻リリースされている。また同じヒーロークラブより、次作『重甲ビーファイター』の第1・2話と本作品の50・51話を編集したヒーロークラブのビデオ「重甲ビーファイター&ブルースワット 新戦士登場!! その名はビーファイター」がリリースされている。ブルースワットからビーファイターへの引き継ぎを兼ねた内容となっており、劇中ナレーションによるとスペースマフィアの侵略が終わった後ジャマールが出現したことになっている。 * [[DVD]]は[[2011年]][[8月5日]] - [[12月11日]]に全5巻がリリースされた。各巻2枚組・10話(5巻のみ11話)収録。 === 他テレビシリーズ === ; 『[[重甲ビーファイター]]』 : 第52・53話にショウ、サラ、シグ、そしてクイーンやエイリアンたちが登場。シグ役の土門は、1995年公開の映画『[[きけ、わだつみの声 Last Friends]]』への出演の際に髭のある役柄を演じており、その名残で客演の際にも髭を生やしたままの状態で登場している。作中でもこの変化について、ショウからツッコまれる一幕が見られた。 === 劇場版 === ; 『ブルースワット キック・オフ! ニュー・ヒーロー』(1994年4月16日公開) : 脚本・構成:宮下隼一 / 演出(構成編集):辻理 : [[東映スーパーヒーローフェア]]の一編として上映された、テレビシリーズ第1・2話の再編集版作品。2007年12月7日に発売された『東映特撮ヒーロー THE MOVIE BOX』と2009年11月21日に発売された「東映特撮ヒーロー THE MOVIE Vol.6」に収録されている。 ; 『東映ヒーロー大集合』(1994年8月6日公開) : 脚本:鷺山京子、監督:渡辺勝也 : 本作品と前作『特捜ロボ ジャンパーソン』、それにスーパー戦隊シリーズをメインとしたイベント用の3D映画。同じく3D映画として制作された『[[スーパー戦隊ワールド (映画)|スーパー戦隊ワールド]]』『[[仮面ライダーワールド]]』と共に、「東映シネファンタジー'94」や全国の遊園地やイベントなどで公開された。わずか5分ながら新作映像が制作され、主人公の正木蒼二・白鳥夕香・土門廣の3人もアフレコで参加している。 : 2003年7月21日発売の「スーパー戦隊 THE MOVIE BOX」および、2004年7月21日発売の「スーパー戦隊 THE MOVIE VOl.4」、「スーパー戦隊 THE MOVIE Blu-ray BOX 1976-1995」(2011年6月21日発売)に収録されている。 === 漫画版 === [[徳間書店]]発行の『[[テレビランド]]』で[[爆裂王]]&[[是澤重幸]]が作画を担当。 [[小学館]]発行の『[[別冊コロコロコミック]]』のほうは[[1994年]]4月号 - 12月号にかけて、[[三鷹公一]]が作画を担当。別コロ版のほうのレギュラーは、ショウとサラとシグの3人のみ。同作品ではシグが地球人として設定された代わりに、ショウが地球人の女性と異星人の男性のハーフであり、ショウの父は「単身スペースマフィアを追って地球に降り立ち、瀕死状態の地球人にインヴェードした人物」という、テレビシリーズにおけるシグに相当するキャラクターとして位置付けられたが、その設定は最終回で初めて使われ、アメリカ支部の生き残りの男女から知らされるまでショウ自身、自分の出生を知らずにいた。この他、作中に登場したアメリカ支部の装備は日本支部のそれとは異なる。 === CS放送・ネット配信 === ; CS放送 * [[東映チャンネル]]…[[2007年]][[10月]] - [[2008年]][[4月]](「GO! GO! ヒーローズ」枠)、[[2014年]][[12月]] - [[2015年]][[6月]]、[[2017年]][[1月]] - [[4月]](いずれも「メタルヒーロータイム」枠) ; ネット配信 * 東映特撮 [[YouTube]] Official…[[2015年]][[11月29日]] - [[2016年]][[5月29日]]、[[2020年]][[2月21日]] - [[8月21日]] * 東映特撮ニコニコおふぃしゃる…[[2023年]][[5月3日]] - === カードゲーム === * [[レンジャーズストライク]] - バンダイより発売されていたトレーディングカードゲーム。2008年発売の「スペシャルメタルエディション」、2009年発売の「ザ・ドラゴンタイガー」にて、本作品の登場キャラクターが参戦している。カード名は隊員コード付きの名前となっているが、サラとシグの隊員コードが逆になっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="画報">{{Cite book |和書 |editor=竹書房/イオン編 |date=1995-11-30 |title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み |publisher=[[竹書房]] |pages=214 |id=C0076 |isbn=4-88475-874-9}}</ref> <ref name="GB65">{{Harvnb|gvsg|2012|p=65|loc=「メタルヒーロー クロニクル」}}</ref> <ref name="最強152">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=152-153|loc=「ブルースワットが立ち向かう悪の組織とは?」}}</ref> <ref name="最強154">{{Harvnb|最強戦士列伝|2014|pp=154-155|loc=「総論『ブルースワット』とは何だったのか? ガンアクションも細かく再現!ブルースワットのリアルな演出」}}</ref> <ref name="仮面俳優71">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=71-80|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 06 [[竹内康博]]」}}</ref> <ref name="仮面俳優81">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=81-90|loc=「第2章 昭和から平成へ仮面の下のイノベーション 07 [[今井靖彦]]」}}</ref> <ref name="奇210">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=210|loc=「ブルースワット」}}</ref> <ref name="奇211">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=211}}</ref> <ref name="奇212">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=212}}</ref> <ref name="奇213">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=213}}</ref> <ref name="奇214">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=214}}</ref> <ref name="奇215">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=215}}</ref> <ref name="奇216">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=216}}</ref> <ref name="奇217">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=217}}</ref> <ref name="奇218">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=218}}</ref> <ref name="奇219">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=219}}</ref> <ref name="奇220">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=220}}</ref> <ref name="奇221">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=221}}</ref> <ref name="奇222">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|p=222}}</ref> <ref name="奇223">{{Harvnb|奇怪千蛮|2017|pp=223-224|loc=取材・執筆 サマンサ五郎(チェーンソー兄弟)「DESIGNER INTERVIEW_11 河野成寛」}}</ref> <ref name="21st14">{{Cite book|和書|date=2017-08-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.14|volume-title=[[烈車戦隊トッキュウジャー]]|series=講談社シリーズMOOK|publisher=[[講談社]]|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[竹内康博]]|isbn=978-4-06-509525-6}}</ref> <ref name="20th97">{{Cite book|和書|date=2018-06-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1997 [[電磁戦隊メガレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[横山一敏]]|isbn=978-4-06-509610-9}}</ref> <ref name="特撮全史">{{Harvnb|特撮全史|2020|p=65|loc=「ブルースワット」}}</ref> <ref name="U169110">{{Harvnb|宇宙船169|2020|pp=110-111|loc=「SUPER MODE OF TOEI METAL SPIRIT 第12回 スーパーゴールドプラチナムとハイパーブルースワット」}}</ref> <ref name="U169112">{{Harvnb|宇宙船169|2020|pp=112-113|loc=「[対談][[尾上克郎]]×[[野中剛]]」}}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date = 2003-04-20|title = [[全怪獣怪人|全怪獣怪人大事典]]|volume = 中巻|publisher = [[英知出版]]|isbn = 4-7542-2017-X|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人 中|2003}}}} * {{Cite book|和書|year=2004|title=宇宙刑事年代記 <small>メタルヒーローシリーズの系譜</small>|series=HYPER MOOK|publisher=[[徳間書店]]|isbn= 4-19-730103-0|ref={{SfnRef|年代記|2004}}}} * {{Cite book|和書|date=2012-01-21|title=『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』公式ガイドブック |publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-110128-5|ref={{SfnRef|gvsg|2012}}}} * {{Cite book|和書|others=[監修][[東映]]|date=2014-11-09|title=メタルヒーロー最強戦士列伝|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4-575-30779-5|ref={{SfnRef|最強戦士列伝|2014}}}} * {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}} * {{Cite book|和書|date=2017-09-30|title=メタルヒーロー怪人デザイン大鑑 奇怪千蛮|publisher=[[ホビージャパン]]|isbn=978-4-7986-1540-0|ref={{SfnRef|奇怪千蛮|2017}}}} * {{Cite book|和書|date = 2020-01-07|title =キャラクター大全 特撮全史 1980〜90年代 ヒーロー大全|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-512925-8|ref = {{SfnRef|特撮全史|2020}}}} * {{Cite journal|和書|date=2020-08-03|journal=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=vol.169|issue=(SUMMER 2020.夏)|publisher=ホビージャパン|isbn=978-4-7986-2243-9|ref={{SfnRef|宇宙船169|2020}}}} * {{Cite journal|和書|date = 2021-04-01|journal=宇宙船|volume=vol.172|issue=(SPRING 2021.春)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2470-9|ref={{SfnRef|宇宙船172|2021}}}} == 外部リンク == * [http://www.toei-video.co.jp/DVD/special/blueswat DVD ブルースワット特集](東映ビデオ内にあるサイト) {{前後番組| 放送局=[[テレビ朝日]]系列| 放送枠=日曜8:00 - 8:30| 前番組=[[特捜ロボ ジャンパーソン]]<br />(1993年1月31日 - 1994年1月23日)| 番組名=ブルースワット<br />(1994年1月30日 - 1995年1月29日)| 次番組=[[重甲ビーファイター]]<br />(1995年2月5日 - 1996年2月25日)}} {{メタルヒーローシリーズ}} {{デフォルトソート:ふるうすわつと}} [[Category:メタルヒーローシリーズ]] [[Category:テレビ朝日のテレビドラマ]] [[Category:1994年のテレビドラマ]] [[Category:宮下隼一脚本のテレビドラマ]] [[Category:扇澤延男脚本のテレビドラマ]] [[Category:鷺山京子脚本のテレビドラマ]] [[Category:曽田博久脚本のテレビドラマ]] [[Category:小林靖子脚本のテレビドラマ]] [[Category:上原正三脚本のテレビドラマ]] [[Category:地球外生命体を題材としたテレビドラマ]] [[Category:パワードスーツ・プロテクターを題材とした作品]] [[Category:寄生生物を題材とした作品]]
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水上機
水上機(すいじょうき)とは、水面上に浮いて滑走が可能な船型の機体構造、あるいは浮舟(フロート)のような艤装を持つことによって、水上にて離着水できるように設計された航空機である。水上機として最初から設計されたものと、通常の航空機が水上機として再設計されたものがある。 日本産業規格(JIS)の規格文書JIS W 0106「航空用語 (航空機一般)」では「フロート水上機」と飛行艇を総称する「水上で発着する飛行機」として定義される。両者は「主にフロートによってその重量を支持する」フロート水上機と、「主に艇体によってその重量を支持する」飛行艇として区別されている。 フロート水上機にはフロート(浮舟)を左右に二つ持つ双フロート型や、機体直下に一つ持つ単フロート型などがある。通常、単フロート型は左右の主翼下に補助フロートを配置して水上安定性を保持している。フロートは「ポンツーン」とも呼ばれる。また機体にフロートがついている様子から日本では「下駄履き機」とも呼ばれる。 機体そのものに通常の陸上機との差異はほとんどないので、降着装置を取り替えるなど簡単な改造のみで陸上機を水上機にすることもできる。実際に様々な機体が水上機に改造され、別機体というよりバリエーションの一つとされている場合も多い。非常に希ではあるが、最初にフロート水上機として設計されたものが着陸脚を装備して陸上機になった例もある。(前者は二式水上戦闘機、後者は強風などが主な例である。) 浮力を機体以外の部分で得る関係上、大型の機体ではフロートの重量や空気抵抗などの不利な点が大きくなり、小型・中型飛行機にほぼ限られる。最大のフロート水上機は、第二次世界大戦中に米軍が太平洋の島々への輸送のため急造したC-47の水上機型だったが、肝心のペイロードのほとんどがフロートにとられるなど、上述のフロート機としての欠点があからさまとなり、成功はしなかった。 地上ではフロート下面を擦らないように車輪の付いた台が必要となるなどハンドリングに手間がかかるため、フロートに移動用の車輪(ビーチングギア)を付けたタイプや、離着陸も可能な車輪を付けた水陸両用機が開発されている。 機体そのものを艇体として浮力を得るため、大型化が可能である。胴体が水面にあるため、小型の機体では主翼とエンジンを機体から持ち上げた独特の配置にならざるを得ない。これによる抗力増加や推力中心と機軸とのずれなどの問題が起こり、小型機であれば悪影響が顕著であるが、大型機の場合だと主翼を高翼化するだけでほぼ解決できるので、その意味においても大型機に向いた形態であるといえる。 サヴォイア・マルケッティ SM.55のように双胴の飛行艇も存在したが、通常は単胴のため、中型以下の機体では左右主翼下の補助フロート、または艇体左右に設置したスポンソンによって水上安定性を確保している。大型の機体では艇体そのものの復元力でも充分となる。大型であれば陸上用の降着装置を別に組み込む余裕があるので、水陸両用機もこの形態が多い。 これまで実用化に成功した水上機のタイプは上記2種以外にはないが、フロート機・飛行艇以外にも数種の水上降着装置が試されている。 飛行機を水上から飛ばすというアイデアは古くからあり、ライト兄弟以前の実験者ヴィルヘルム・クレスが1901年に離水を試みて失敗している。ライト兄弟以降では、1905年のボアザンの水上グライダーの離水実験等を経て、最初に動力飛行で水面から離水したのは、アンリ・ファーブル(Henri Fabre)のイドロ-アエロプラン(Hydro-aéroplane)である。 1910年3月28日、マルセイユの北西に少し離れたところにあるマルティーグのベール湖上において、本機は飛行機として世界最初の湖面からの離水、約800mの水上飛行、着水を成し遂げている。1913年にこの機体はル・カナール(Le Canard )という名に改名したが、その名称にも現れているように、当機の構成は先尾翼形で、前部に1つ後部主翼下に2つのフロートを備え、50馬力のエンジンと推進式プロペラにて380kgの機体を宙に浮かせた。 実用的な水上機としての最初期の物に1911年のカーチス水上機(米海軍名称A-1)がある。カーチス水上機はカーチス陸上機の降着装置を取り替えた物であり、機体下部にフロートを一つ、左右に補助フロートを備えていた。機体構成は、まだライトフライヤーのような帆布張りの翼とステーだけの構造から大きな変化は遂げていない。 カーチスは海軍の装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の傍らにこの機体で着水し、艦上にクレーンで収容され、再度海面におろされた後、離水して基地に帰投するというデモンストレーションを行い、実際にこの機が軍艦で運用可能な事を証明してみせた。その結果この機体は海軍にA-1の名前で正式に採用され、初のアメリカ海軍機となった。 同じ頃、水上グライダーの制作以来水上機と関係の深かったボアザンは、アンリ・ファーブルからフロートを購入し、自分たちが制作した先尾翼機カナール・ボアザンに取り付けた。その機体は1910年にセーヌ川を飛んだ初めての水上機となっただけでなく、1911年にはフランス海軍に買い上げられ、こちらは初のフランス海軍機となっている。フランス海軍はこれらの機体のため、元は修理艦や機雷敷設艦として就役していたフードル(La Foudre)を世界で最初の水上機母艦に改修している。 水上機は、20世紀初頭には大きく2つの分野で注目された。 一つは、大型長距離渡洋機としてである。 その理由としては、大型で重量がかさんでも、水上という無限に近い滑走距離をもってすれば離水できた事、仮に洋上飛行中にトラブルが起きても、水上機ならば着水して最悪の事態は避けられると考えられた事にある。これらは大型機であるという事から、飛行艇にほぼ限られる。またこれには、当時はまだ大型飛行機の着陸の衝撃に耐えられるだけの降着装置が製造できず、機体下部全体に荷重を分散させる飛行艇のみが大型化可能であったことも関係している。 8発のエンジンを持ち、当時としては世界最大だったカプロニCa 60 トランスアエロはこの種の大型旅客飛行艇としては初の物だったが、試験飛行に失敗して損傷、さらに修理する前に火災で焼失してしまい試作1機のみであったために事実上の失敗作となった。12発のエンジンを持ち、建造当時世界最大の航空機だったドルニエ Do Xは、水陸双方を通じてこれを上回る最大離陸(水)重量を持つ飛行機が長らく登場しなかった程大型旅客飛行艇として群を抜く存在であり、デモフライトで当時としては桁外れの人数を乗せて飛び評判を呼びはしたものの問題点も多く、大西洋を往復して見せたにもかかわらず、どこからも注文を得られないままに終わってしまった。しかしそのあとを追って次々に製作されたボーイング314、マーチンM-130、ショート・エンパイア、九七式輸送飛行艇といった大型旅客飛行艇は非常に成功した機体となり、太平洋や大西洋などの世界中の大洋を駆け巡った。 もう一つは、現代の目から見れば意外な事に高速機としてであった。 高揚力装置が未発達だった当時は、大型機の離陸には(後の時代の同程度の翼面荷重の航空機と比べて)長大な滑走距離を必要とした。そのため高速を狙った高翼面荷重の航空機を設計しようにも、おのずと限度があった。前述の様にほぼ無制限の滑走距離をとれる水上でのみ、高翼面荷重の機体の設計が可能だったのである。もちろん飛行艇だろうがフロート機だろうが、機体体積(前面投影面積)は陸上機より大きくなり、重量と空気抵抗の面で不利となる。しかし翼面荷重を高くする(つまり主翼を小さくして空気抵抗を減らす)効果は、フロートなどを持つ不利を補って余りある結果となったのである。 これは水上機の発達を願って設けられたレースであるシュナイダー・トロフィーが各国の国威発揚の場となるにいたってさらに加速した。各国はこのレースのために技術の粋を結集して、盛んに高性能水上機の開発を行ったため、1927年から1939年までの短い間ではあったが、世界最速の乗り物といえば水上機を指した時代があったのである。実際に、イタリアの水上機マッキM.C.72はレシプロ機であったにもかかわらず、1934年に709.21 km/hの記録を残し、その速度は約10年後に飛んだ初期のジェット機よりも高速であった。 だが1930年代において最初の高揚力装置であるフラップが実用化され、また飛行場の滑走路も長大なものが整備されるようになると、陸上機においても従来よりも高翼面荷重の機体の開発が可能になり、高速機分野での水上機の利点は失われた。 なお、マッキM.C.72の記録はレシプロ水上機の速度記録としては現在も破られておらず、高速機としてのレシプロ水上機がもはや新規開発されないであろう事を考えると、これからも破られることは無いと言われている。 第二次世界大戦の始まった頃には、索敵・哨戒用などを目的に、航空母艦以外の軍艦も航空機を搭載していた。当然ながら空母以外の艦は着艦のための甲板が存在せず、当時のヘリコプターはまだ実用的ではなかったため、海面着水運用が可能な水上機を搭載した。離艦についてはカタパルト発進で対応した。空母が艦隊に組み込まれている場合は、空母搭載の偵察機・索敵機などがその任に当たったが、他艦の水上機も引き続き偵察・索敵に使用された。 戦艦・巡洋艦など砲撃をその主目的とする艦の搭載水上機にはそれ以外にも重要な任務があった。砲撃とは初弾命中はまずあり得ない物であり、最初の着弾が目標より遠いか近いかを確認してから初撃より近く(遠く)調整して第2射を撃ち、またその着弾を確認して距離を調整し...という繰り返しである。その着弾観測という任務が艦載水上機に課せられていたのである。しかしこれらの大艦巨砲主義に付随したような運用は、レーダーの発達によって代わられる事となった。また大艦巨砲主義そのものが、航空機の発達によって時代遅れとなった。 非艦載型の大型水上機の哨戒任務は、大戦を通して重要な役割を果たした。これらの機体には前述のショート・エンパイアを軍用に改造したイギリスのショート・サンダーランド飛行艇、アメリカのPBY カタリナ飛行艇、日本の二式大艇などがある。潜水艦を探して洋上を長距離飛行する対潜哨戒機としての役割には、飛行艇は打ってつけだったのである。 第一次世界大戦からしばらくは全盛を誇った水上戦闘機という機種は、このころには既にほとんどが消滅していた。しかしこの絶滅種をあえてこの時代に復活させたのが、第二次大戦の各国軍中、唯一水上戦闘機部隊を運用していた大日本帝国海軍である。日本海軍は、九五式水上偵察機が中国軍のアメリカ製戦闘機を撃墜した戦訓から、水上機による空戦の有効性を感じ取った。そして国際連盟の規定で軍事施設の建設が禁止されている委任統治領である南洋諸島へ進軍する際、飛行場が作れないような小島や、飛行場が整備されるまでの駐留部隊機として水上飛行機が有効であると考えた。(なお、日本の国際連盟脱退と1936年のワシントン軍縮条約の失効後は軍事施設を建設している)、そこで十五試水上戦闘機の開発を川西航空機に命じ、完成までのつなぎとして零戦を水上機に改造した二式水上戦闘機を製作した。 緒戦ではそれなりの活躍をした二式水上戦闘機ではあったが、戦局の推移にともない、日本軍が攻勢から守勢にまわると、活躍の場を失った。十五試水上戦闘機が強風として完成した頃には水上戦闘機の出番はすでに無くなっていた。強風は陸上戦闘機の紫電に設計変更され、後の日本海軍最後の傑作機、紫電改の母体となっている。 アメリカ軍は建設能力に優れていたため、またそれ以外の国はそもそも多数の島嶼を占領するような戦争を経験していないため、水上戦闘機を必要とせず、試作機も作られてはいるが実戦投入はされなかった。 一旦海中に潜れば外界の状況がほとんど判らない潜水艦も、浮上した際に周囲の状況を確認するため、索敵・偵察用の偵察機を搭載する例があった。このアイデアのルーツは古く、早くも1917年に潜水艦搭載専用水上機、ハンザ・ブランデンブルクW-20がドイツで開発されている。その後も航空機搭載潜水艦と潜水艦搭載航空機の組み合わせは様々な国で試され、S-1潜水艦とコックス・クレミンXS-2水上機(アメリカ)、M2潜水艦とパーナル・ペトー水上機(イギリス)、エットーレ・フィエラモスカ潜水艦とマッキM.53やピアッジオP.8(イタリア)、スルクフ潜水艦とMB411水上機(フランス)、伊十五型潜水艦と零式小型水上偵察機(日本)など多くの例がある。これらの航空機に共通するのは、潜水艦の限られたスペースに収容する為に折畳式や分解式である事、隠密性を放棄して浮上した潜水艦を危険にさらす時間を最小限に抑えるため、展開・格納が短時間で可能な事があげられる。 また、特異な例として、この潜水艦に搭載する水上機を偵察機から攻撃機に発展させた例がある。日本では俗に潜水空母とも呼ばれる伊四百型潜水艦は当時世界最大の潜水艦であり、専用に開発された晴嵐という名の水上攻撃機を3機搭載していた。 第二次大戦後、陸上機の信頼性や航続距離の向上・地上設備の完備などから、長距離旅客機、対潜哨戒機などもほとんど陸上機でまかなわれるようになり、レーダーとヘリコプターの発達により艦載偵察機としての使命も終えた事から、水上機は航空機開発の花形ではなくなる。米軍はジェット水上戦闘機「シーダート」の開発を試みたが、実用化はしなかった。 しかしその利点は今なお健在であり、ベリエフを初めとした各メーカーがジェット飛行艇を制作するなど、戦後も多くの優秀な水上機が開発されている。滑走路を必要としない水上機は、飛行場が整備されていない島・地域で今日でも有効な脚として利用されている。 スリランカ航空では観光客を島々へ送迎するエアタクシーとして水上機仕様のDHC-6を利用している。 DARPAでは低コストで生産可能な長距離水上輸送機「リバティー・リフター(Liberty Lifter)」を計画しており、オーロラ・フライト・サイエンシズやジェネラル・アトミックス・エアロノーティカル・システムズが応募している。 セスナ 172など小型機にフロートを追加した水上機が遊覧機として多数利用されている。 自動車部品メーカーのサードが富裕層向けの小型水上スポーツ機の開発を予定している。 せとうちSEAPLANESが2016年から瀬戸内海で観光遊覧飛行への利用を始め、親会社のツネイシホールディングスが遊覧飛行で使用する機体を製造するクエスト・エアクラフトを子会社化している。 沿岸地域の海難救助はホバリングが可能で小回りのきくヘリコプターがその任を引き継いだ。しかし、外洋での救助活動は、航続距離が長く凌波性能の高い飛行艇が今でも役立っている。 新明和工業は救難用の飛行艇US-1、US-2を製造している。海難救助のみならず、飛行場のない離島での急病人移送などにも使われている。 最近注目を集めている飛行艇の用法として、大規模火災の消火がある。山火事などの現場近くの海面・湖面に着水し、機内タンクに取水して再離水、現場上空にて放水するものである。 PBY カタリナなど旧来の飛行艇を改造する例も多いが、ロシアのベリエフBe-200などは最新式の双発ジェット飛行艇であり、消防飛行艇としての能力も高い。 厳密には航空機と呼ぶには異論があろうが、飛行艇から派生したものとして地面効果翼機がある。実用化されたものにソ連のエクラノプランがある。 地面効果(表面効果)を利用すれば、航空機は通常より遙かに効率よく飛行できる。「地面」効果といっても、効果を維持できる高度は低く、実際に地面の起伏に合わせてその高度を維持するのは非常に危険であるため、基本は地面ではなく水面航行となる。そこで通常飛行と地面効果利用の両方が可能な水上機として研究は始まった。 その後、水面を離水しての飛行は不要と考えられ、「船よりも速く、飛行機よりも経済的」な輸送システムとしてエクラノプランの研究は続けられた。結果、ソ連は各種多様な機体を試作しカスピ海で試験運行したが、偵察衛星の画像でこの種の機体の存在を知った当時の西側は、西側の設計思想とのあまりの異質さから「カスピ海の怪物」(「ネス湖の怪物」に掛けた呼称)と呼んだ。 水上機は着水後にエンジンで滑走するのが基本だが、エンジンを止めた状態で帆を張れば帆船ともなるため、一種の機帆船とみなすこともできる。 機械の信頼性が低かった時代にはエンジンの故障で不時着水した際、陸まで移動するための予備動力として取り外し可能なマストと帆が搭載されており、緊急時には帆船となって移動することが想定されていた。 これらの装備はデッドウェイトであるため、エンジンの信頼性が向上すると次第に搭載されなくなった。 ヘリコプターにはフロートを装備し水陸両用とした機体が存在する。大型機・専用機は少なく、ロビンソンR44 クリッパーのような小型機にフロートを取り付けた双フロート型が多いが、S-61/SH-3 シーキングやミル Mi-14 ヘイズのように、胴体下部を艇体構造にしたヘリコプターも存在する。 航空法では緊急着水時にスキッドや機体下部に取り付けたフロートを膨らませることで、機外への脱出や筏の準備する時間を稼ぐ緊急用フロートの装着義務が生じる。あくまで沈没を遅らせるか救助を待つための装備であり長時間の利用には向かず、フロートは使い捨てとなる。軽量な陸上ヘリコプターの一部(エンストロム 480、RotorWay Execなど)にもオプションとして用意されており、気象条件によっては沈没せずに機内で救助を待つことが可能である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水上機(すいじょうき)とは、水面上に浮いて滑走が可能な船型の機体構造、あるいは浮舟(フロート)のような艤装を持つことによって、水上にて離着水できるように設計された航空機である。水上機として最初から設計されたものと、通常の航空機が水上機として再設計されたものがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本産業規格(JIS)の規格文書JIS W 0106「航空用語 (航空機一般)」では「フロート水上機」と飛行艇を総称する「水上で発着する飛行機」として定義される。両者は「主にフロートによってその重量を支持する」フロート水上機と、「主に艇体によってその重量を支持する」飛行艇として区別されている。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "フロート水上機にはフロート(浮舟)を左右に二つ持つ双フロート型や、機体直下に一つ持つ単フロート型などがある。通常、単フロート型は左右の主翼下に補助フロートを配置して水上安定性を保持している。フロートは「ポンツーン」とも呼ばれる。また機体にフロートがついている様子から日本では「下駄履き機」とも呼ばれる。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "機体そのものに通常の陸上機との差異はほとんどないので、降着装置を取り替えるなど簡単な改造のみで陸上機を水上機にすることもできる。実際に様々な機体が水上機に改造され、別機体というよりバリエーションの一つとされている場合も多い。非常に希ではあるが、最初にフロート水上機として設計されたものが着陸脚を装備して陸上機になった例もある。(前者は二式水上戦闘機、後者は強風などが主な例である。)", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "浮力を機体以外の部分で得る関係上、大型の機体ではフロートの重量や空気抵抗などの不利な点が大きくなり、小型・中型飛行機にほぼ限られる。最大のフロート水上機は、第二次世界大戦中に米軍が太平洋の島々への輸送のため急造したC-47の水上機型だったが、肝心のペイロードのほとんどがフロートにとられるなど、上述のフロート機としての欠点があからさまとなり、成功はしなかった。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地上ではフロート下面を擦らないように車輪の付いた台が必要となるなどハンドリングに手間がかかるため、フロートに移動用の車輪(ビーチングギア)を付けたタイプや、離着陸も可能な車輪を付けた水陸両用機が開発されている。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "機体そのものを艇体として浮力を得るため、大型化が可能である。胴体が水面にあるため、小型の機体では主翼とエンジンを機体から持ち上げた独特の配置にならざるを得ない。これによる抗力増加や推力中心と機軸とのずれなどの問題が起こり、小型機であれば悪影響が顕著であるが、大型機の場合だと主翼を高翼化するだけでほぼ解決できるので、その意味においても大型機に向いた形態であるといえる。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "サヴォイア・マルケッティ SM.55のように双胴の飛行艇も存在したが、通常は単胴のため、中型以下の機体では左右主翼下の補助フロート、または艇体左右に設置したスポンソンによって水上安定性を確保している。大型の機体では艇体そのものの復元力でも充分となる。大型であれば陸上用の降着装置を別に組み込む余裕があるので、水陸両用機もこの形態が多い。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これまで実用化に成功した水上機のタイプは上記2種以外にはないが、フロート機・飛行艇以外にも数種の水上降着装置が試されている。", "title": "構造による区分" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "飛行機を水上から飛ばすというアイデアは古くからあり、ライト兄弟以前の実験者ヴィルヘルム・クレスが1901年に離水を試みて失敗している。ライト兄弟以降では、1905年のボアザンの水上グライダーの離水実験等を経て、最初に動力飛行で水面から離水したのは、アンリ・ファーブル(Henri Fabre)のイドロ-アエロプラン(Hydro-aéroplane)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1910年3月28日、マルセイユの北西に少し離れたところにあるマルティーグのベール湖上において、本機は飛行機として世界最初の湖面からの離水、約800mの水上飛行、着水を成し遂げている。1913年にこの機体はル・カナール(Le Canard )という名に改名したが、その名称にも現れているように、当機の構成は先尾翼形で、前部に1つ後部主翼下に2つのフロートを備え、50馬力のエンジンと推進式プロペラにて380kgの機体を宙に浮かせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "実用的な水上機としての最初期の物に1911年のカーチス水上機(米海軍名称A-1)がある。カーチス水上機はカーチス陸上機の降着装置を取り替えた物であり、機体下部にフロートを一つ、左右に補助フロートを備えていた。機体構成は、まだライトフライヤーのような帆布張りの翼とステーだけの構造から大きな変化は遂げていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "カーチスは海軍の装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の傍らにこの機体で着水し、艦上にクレーンで収容され、再度海面におろされた後、離水して基地に帰投するというデモンストレーションを行い、実際にこの機が軍艦で運用可能な事を証明してみせた。その結果この機体は海軍にA-1の名前で正式に採用され、初のアメリカ海軍機となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同じ頃、水上グライダーの制作以来水上機と関係の深かったボアザンは、アンリ・ファーブルからフロートを購入し、自分たちが制作した先尾翼機カナール・ボアザンに取り付けた。その機体は1910年にセーヌ川を飛んだ初めての水上機となっただけでなく、1911年にはフランス海軍に買い上げられ、こちらは初のフランス海軍機となっている。フランス海軍はこれらの機体のため、元は修理艦や機雷敷設艦として就役していたフードル(La Foudre)を世界で最初の水上機母艦に改修している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "水上機は、20世紀初頭には大きく2つの分野で注目された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一つは、大型長距離渡洋機としてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その理由としては、大型で重量がかさんでも、水上という無限に近い滑走距離をもってすれば離水できた事、仮に洋上飛行中にトラブルが起きても、水上機ならば着水して最悪の事態は避けられると考えられた事にある。これらは大型機であるという事から、飛行艇にほぼ限られる。またこれには、当時はまだ大型飛行機の着陸の衝撃に耐えられるだけの降着装置が製造できず、機体下部全体に荷重を分散させる飛行艇のみが大型化可能であったことも関係している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "8発のエンジンを持ち、当時としては世界最大だったカプロニCa 60 トランスアエロはこの種の大型旅客飛行艇としては初の物だったが、試験飛行に失敗して損傷、さらに修理する前に火災で焼失してしまい試作1機のみであったために事実上の失敗作となった。12発のエンジンを持ち、建造当時世界最大の航空機だったドルニエ Do Xは、水陸双方を通じてこれを上回る最大離陸(水)重量を持つ飛行機が長らく登場しなかった程大型旅客飛行艇として群を抜く存在であり、デモフライトで当時としては桁外れの人数を乗せて飛び評判を呼びはしたものの問題点も多く、大西洋を往復して見せたにもかかわらず、どこからも注文を得られないままに終わってしまった。しかしそのあとを追って次々に製作されたボーイング314、マーチンM-130、ショート・エンパイア、九七式輸送飛行艇といった大型旅客飛行艇は非常に成功した機体となり、太平洋や大西洋などの世界中の大洋を駆け巡った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "もう一つは、現代の目から見れば意外な事に高速機としてであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "高揚力装置が未発達だった当時は、大型機の離陸には(後の時代の同程度の翼面荷重の航空機と比べて)長大な滑走距離を必要とした。そのため高速を狙った高翼面荷重の航空機を設計しようにも、おのずと限度があった。前述の様にほぼ無制限の滑走距離をとれる水上でのみ、高翼面荷重の機体の設計が可能だったのである。もちろん飛行艇だろうがフロート機だろうが、機体体積(前面投影面積)は陸上機より大きくなり、重量と空気抵抗の面で不利となる。しかし翼面荷重を高くする(つまり主翼を小さくして空気抵抗を減らす)効果は、フロートなどを持つ不利を補って余りある結果となったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これは水上機の発達を願って設けられたレースであるシュナイダー・トロフィーが各国の国威発揚の場となるにいたってさらに加速した。各国はこのレースのために技術の粋を結集して、盛んに高性能水上機の開発を行ったため、1927年から1939年までの短い間ではあったが、世界最速の乗り物といえば水上機を指した時代があったのである。実際に、イタリアの水上機マッキM.C.72はレシプロ機であったにもかかわらず、1934年に709.21 km/hの記録を残し、その速度は約10年後に飛んだ初期のジェット機よりも高速であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "だが1930年代において最初の高揚力装置であるフラップが実用化され、また飛行場の滑走路も長大なものが整備されるようになると、陸上機においても従来よりも高翼面荷重の機体の開発が可能になり、高速機分野での水上機の利点は失われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、マッキM.C.72の記録はレシプロ水上機の速度記録としては現在も破られておらず、高速機としてのレシプロ水上機がもはや新規開発されないであろう事を考えると、これからも破られることは無いと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦の始まった頃には、索敵・哨戒用などを目的に、航空母艦以外の軍艦も航空機を搭載していた。当然ながら空母以外の艦は着艦のための甲板が存在せず、当時のヘリコプターはまだ実用的ではなかったため、海面着水運用が可能な水上機を搭載した。離艦についてはカタパルト発進で対応した。空母が艦隊に組み込まれている場合は、空母搭載の偵察機・索敵機などがその任に当たったが、他艦の水上機も引き続き偵察・索敵に使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "戦艦・巡洋艦など砲撃をその主目的とする艦の搭載水上機にはそれ以外にも重要な任務があった。砲撃とは初弾命中はまずあり得ない物であり、最初の着弾が目標より遠いか近いかを確認してから初撃より近く(遠く)調整して第2射を撃ち、またその着弾を確認して距離を調整し...という繰り返しである。その着弾観測という任務が艦載水上機に課せられていたのである。しかしこれらの大艦巨砲主義に付随したような運用は、レーダーの発達によって代わられる事となった。また大艦巨砲主義そのものが、航空機の発達によって時代遅れとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "非艦載型の大型水上機の哨戒任務は、大戦を通して重要な役割を果たした。これらの機体には前述のショート・エンパイアを軍用に改造したイギリスのショート・サンダーランド飛行艇、アメリカのPBY カタリナ飛行艇、日本の二式大艇などがある。潜水艦を探して洋上を長距離飛行する対潜哨戒機としての役割には、飛行艇は打ってつけだったのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦からしばらくは全盛を誇った水上戦闘機という機種は、このころには既にほとんどが消滅していた。しかしこの絶滅種をあえてこの時代に復活させたのが、第二次大戦の各国軍中、唯一水上戦闘機部隊を運用していた大日本帝国海軍である。日本海軍は、九五式水上偵察機が中国軍のアメリカ製戦闘機を撃墜した戦訓から、水上機による空戦の有効性を感じ取った。そして国際連盟の規定で軍事施設の建設が禁止されている委任統治領である南洋諸島へ進軍する際、飛行場が作れないような小島や、飛行場が整備されるまでの駐留部隊機として水上飛行機が有効であると考えた。(なお、日本の国際連盟脱退と1936年のワシントン軍縮条約の失効後は軍事施設を建設している)、そこで十五試水上戦闘機の開発を川西航空機に命じ、完成までのつなぎとして零戦を水上機に改造した二式水上戦闘機を製作した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "緒戦ではそれなりの活躍をした二式水上戦闘機ではあったが、戦局の推移にともない、日本軍が攻勢から守勢にまわると、活躍の場を失った。十五試水上戦闘機が強風として完成した頃には水上戦闘機の出番はすでに無くなっていた。強風は陸上戦闘機の紫電に設計変更され、後の日本海軍最後の傑作機、紫電改の母体となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アメリカ軍は建設能力に優れていたため、またそれ以外の国はそもそも多数の島嶼を占領するような戦争を経験していないため、水上戦闘機を必要とせず、試作機も作られてはいるが実戦投入はされなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一旦海中に潜れば外界の状況がほとんど判らない潜水艦も、浮上した際に周囲の状況を確認するため、索敵・偵察用の偵察機を搭載する例があった。このアイデアのルーツは古く、早くも1917年に潜水艦搭載専用水上機、ハンザ・ブランデンブルクW-20がドイツで開発されている。その後も航空機搭載潜水艦と潜水艦搭載航空機の組み合わせは様々な国で試され、S-1潜水艦とコックス・クレミンXS-2水上機(アメリカ)、M2潜水艦とパーナル・ペトー水上機(イギリス)、エットーレ・フィエラモスカ潜水艦とマッキM.53やピアッジオP.8(イタリア)、スルクフ潜水艦とMB411水上機(フランス)、伊十五型潜水艦と零式小型水上偵察機(日本)など多くの例がある。これらの航空機に共通するのは、潜水艦の限られたスペースに収容する為に折畳式や分解式である事、隠密性を放棄して浮上した潜水艦を危険にさらす時間を最小限に抑えるため、展開・格納が短時間で可能な事があげられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、特異な例として、この潜水艦に搭載する水上機を偵察機から攻撃機に発展させた例がある。日本では俗に潜水空母とも呼ばれる伊四百型潜水艦は当時世界最大の潜水艦であり、専用に開発された晴嵐という名の水上攻撃機を3機搭載していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "第二次大戦後、陸上機の信頼性や航続距離の向上・地上設備の完備などから、長距離旅客機、対潜哨戒機などもほとんど陸上機でまかなわれるようになり、レーダーとヘリコプターの発達により艦載偵察機としての使命も終えた事から、水上機は航空機開発の花形ではなくなる。米軍はジェット水上戦闘機「シーダート」の開発を試みたが、実用化はしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしその利点は今なお健在であり、ベリエフを初めとした各メーカーがジェット飛行艇を制作するなど、戦後も多くの優秀な水上機が開発されている。滑走路を必要としない水上機は、飛行場が整備されていない島・地域で今日でも有効な脚として利用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "スリランカ航空では観光客を島々へ送迎するエアタクシーとして水上機仕様のDHC-6を利用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "DARPAでは低コストで生産可能な長距離水上輸送機「リバティー・リフター(Liberty Lifter)」を計画しており、オーロラ・フライト・サイエンシズやジェネラル・アトミックス・エアロノーティカル・システムズが応募している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "セスナ 172など小型機にフロートを追加した水上機が遊覧機として多数利用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "自動車部品メーカーのサードが富裕層向けの小型水上スポーツ機の開発を予定している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "せとうちSEAPLANESが2016年から瀬戸内海で観光遊覧飛行への利用を始め、親会社のツネイシホールディングスが遊覧飛行で使用する機体を製造するクエスト・エアクラフトを子会社化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "沿岸地域の海難救助はホバリングが可能で小回りのきくヘリコプターがその任を引き継いだ。しかし、外洋での救助活動は、航続距離が長く凌波性能の高い飛行艇が今でも役立っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "新明和工業は救難用の飛行艇US-1、US-2を製造している。海難救助のみならず、飛行場のない離島での急病人移送などにも使われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "最近注目を集めている飛行艇の用法として、大規模火災の消火がある。山火事などの現場近くの海面・湖面に着水し、機内タンクに取水して再離水、現場上空にて放水するものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "PBY カタリナなど旧来の飛行艇を改造する例も多いが、ロシアのベリエフBe-200などは最新式の双発ジェット飛行艇であり、消防飛行艇としての能力も高い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "厳密には航空機と呼ぶには異論があろうが、飛行艇から派生したものとして地面効果翼機がある。実用化されたものにソ連のエクラノプランがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "地面効果(表面効果)を利用すれば、航空機は通常より遙かに効率よく飛行できる。「地面」効果といっても、効果を維持できる高度は低く、実際に地面の起伏に合わせてその高度を維持するのは非常に危険であるため、基本は地面ではなく水面航行となる。そこで通常飛行と地面効果利用の両方が可能な水上機として研究は始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その後、水面を離水しての飛行は不要と考えられ、「船よりも速く、飛行機よりも経済的」な輸送システムとしてエクラノプランの研究は続けられた。結果、ソ連は各種多様な機体を試作しカスピ海で試験運行したが、偵察衛星の画像でこの種の機体の存在を知った当時の西側は、西側の設計思想とのあまりの異質さから「カスピ海の怪物」(「ネス湖の怪物」に掛けた呼称)と呼んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "水上機は着水後にエンジンで滑走するのが基本だが、エンジンを止めた状態で帆を張れば帆船ともなるため、一種の機帆船とみなすこともできる。", "title": "船としての利用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "機械の信頼性が低かった時代にはエンジンの故障で不時着水した際、陸まで移動するための予備動力として取り外し可能なマストと帆が搭載されており、緊急時には帆船となって移動することが想定されていた。", "title": "船としての利用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "これらの装備はデッドウェイトであるため、エンジンの信頼性が向上すると次第に搭載されなくなった。", "title": "船としての利用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ヘリコプターにはフロートを装備し水陸両用とした機体が存在する。大型機・専用機は少なく、ロビンソンR44 クリッパーのような小型機にフロートを取り付けた双フロート型が多いが、S-61/SH-3 シーキングやミル Mi-14 ヘイズのように、胴体下部を艇体構造にしたヘリコプターも存在する。", "title": "ヘリコプター" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "航空法では緊急着水時にスキッドや機体下部に取り付けたフロートを膨らませることで、機外への脱出や筏の準備する時間を稼ぐ緊急用フロートの装着義務が生じる。あくまで沈没を遅らせるか救助を待つための装備であり長時間の利用には向かず、フロートは使い捨てとなる。軽量な陸上ヘリコプターの一部(エンストロム 480、RotorWay Execなど)にもオプションとして用意されており、気象条件によっては沈没せずに機内で救助を待つことが可能である。", "title": "ヘリコプター" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "", "title": "ヘリコプター" } ]
水上機(すいじょうき)とは、水面上に浮いて滑走が可能な船型の機体構造、あるいは浮舟(フロート)のような艤装を持つことによって、水上にて離着水できるように設計された航空機である。水上機として最初から設計されたものと、通常の航空機が水上機として再設計されたものがある。
{{脚注の不足|date=2019-5}} [[File:Piper Super Cub 1 1998-07-07.jpg|thumb|right|300px|[[パイパー PA-18|パイパー・スーパーカブ]](双フロート式)]] '''水上機'''(すいじょうき)とは、水面上に浮いて滑走が可能な船型の機体構造、あるいは浮舟([[降着装置|フロート]])のような[[艤装]]を持つことによって、水上にて離着水できるように設計された[[航空機]]である。水上機として最初から設計されたものと、通常の航空機が水上機として再設計されたものがある。 == 構造による区分 == [[日本産業規格]](JIS)の規格文書JIS W 0106「航空用語 (航空機一般)」では「フロート水上機」と[[飛行艇]]を総称する「水上で発着する飛行機」として定義される。両者は「主に[[フロート]]によってその重量を支持する」フロート水上機と、「主に艇体によってその重量を支持する」[[飛行艇]]として区別されている。 === フロート水上機 === [[Image:First Flight Twin Otter Series 400 C-FDHT.jpg|thumb|250px|left|[[デ・ハビランド・カナダ DHC-6|DHC-6-400]]の水陸両用モデル([[バイキング・エア]]による新造機)]] [[File:Hydravion Come 10.JPG|thumb|250px|移動台に乗せられた[[カプロニ]][[:en:Caproni Ca.100|Ca.100]]]] フロート水上機にはフロート(浮舟)を左右に二つ持つ双フロート型や、機体直下に一つ持つ単フロート型などがある。通常、単フロート型は左右の[[主翼]]下に補助フロートを配置して水上安定性を保持している。フロートは「[[ポンツーン]]」とも呼ばれる。また機体にフロートがついている様子から日本では「[[下駄]]履き機」とも呼ばれる。 [[機体]]そのものに通常の陸上機との差異はほとんどないので、[[降着装置]]を取り替えるなど簡単な改造のみで陸上機を水上機にすることもできる。実際に様々な機体が水上機に改造され、別機体というよりバリエーションの一つとされている場合も多い。非常に希ではあるが、最初にフロート水上機として設計されたものが着陸脚を装備して陸上機になった例もある。(このうち日本の例では、前者は[[二式水上戦闘機]]、後者は[[強風 (航空機)|強風]]などが主な例である。) [[浮力]]を機体以外の部分で得る関係上、大型の機体ではフロートの重量や[[空気抵抗]]などの不利な点が大きくなり、小型・中型飛行機にほぼ限られる。最大のフロート水上機は、[[第二次世界大戦]]中に[[アメリカ軍|米軍]]が[[太平洋]]の島々への輸送のため急造した[[C-47 (航空機)|C-47]]の水上機型だったが、肝心の[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]のほとんどがフロートにとられるなど、上述のフロート機としての欠点があからさまとなり、成功はしなかった。 地上ではフロート下面を擦らないように車輪の付いた台が必要となるなどハンドリングに手間がかかるため、フロートに移動用の車輪(ビーチングギア)を付けたタイプや、離着陸も可能な車輪を付けた[[水陸両用機]]が開発されている。 === 飛行艇 === [[File:Canadair CL-215 in Spanish service 4316.jpg|thumb|right|250px|[[カナデア]] CL-215T]] {{main|飛行艇}} 機体そのものを[[船体|艇体]]として浮力を得るため、大型化が可能である。胴体が水面にあるため、小型の機体では主翼と[[エンジン]]を機体から持ち上げた独特の配置にならざるを得ない。これによる[[抗力]]増加や[[推力]]中心と機軸とのずれなどの問題が起こり、小型機であれば悪影響が顕著であるが、大型機の場合だと主翼を[[高翼機|高翼]]化するだけでほぼ解決できるので、その意味においても大型機に向いた形態であるといえる。 [[サヴォイア・マルケッティ S.55|サヴォイア・マルケッティ SM.55]]のように[[双胴機|双胴]]の飛行艇も存在したが、通常は単胴のため、中型以下の機体では左右主翼下の補助フロート、または艇体左右に設置したスポンソンによって水上安定性を確保している。大型の機体では艇体そのものの復元力でも充分となる。大型であれば陸上用の降着装置を別に組み込む余裕があるので、水陸両用機もこの形態が多い。 {{-}} === その他 === これまで実用化に成功した水上機のタイプは上記2種以外にはないが、フロート機・飛行艇以外にも数種の水上降着装置が試されている。 ; ホバークラフト : 水上と同じく陸上も離着陸可能となる水陸両用機の一種として、[[軽飛行機]]の下部にエア[[クッション]]を付けた[[ホバークラフト]]機が試作されたことがある。[[1963年]]から[[ベル・エアクラフト]]は独自にエアクッション機の研究を始め、最終的には[[アメリカ空軍]]や[[カナダ]]政府をも巻きこんだ一大[[プロジェクト]]となった。だが、着陸の際に陸上で[[ブレーキ]]をかけられないという欠点などのため実用化されなかった。 ; 水上スキー : 水上機の[[降着装置]]は、フロート、艇体ともに浮力保持のため大きな体積が求められ、陸上機の着陸脚のように機体に引き込むことは通常できない。そのため水上機の[[超音速機|超音速]][[ジェット機]]化を計画した[[アメリカ海軍]]と[[コンベア]]は、[[プロトタイプ|試作]]水上ジェット戦闘機[[コンベア]]・[[XF2Y-1 (航空機)|シーダート]]に引き込み式の[[水上スキー]]を履かせた。シーダートは水上機として初めて音速を超えたが、計画そのものは失敗した。([[XF2Y-1 (航空機)]]の項参照) : また、引き込み式ではないが、[[シュナイダー・トロフィー・レース|シュナイダー・トロフィー]]レーサーとして計画された[[ピアッジョ P.7]]も水上スキーを搭載した[[レシプロエンジン|レシプロ]]機であった。静止時は胴体を艇体として半分水に浸かって浮いているのはシーダートと同じだが、[[水中翼]]もかねた水上スキーによって主翼と[[プロペラ]]が水面から離れるまでは、機体後部の[[スクリュープロペラ]]によって推力を得ていた。これも抗力低下と速度向上を狙っていたが、シーダート同様に失敗している。 == 歴史 == === 誕生 === [[File:Henri Fabre on Hydroplane 28 March 1910.jpg|250px|right|thumb|世界最初の水上機イドロアエロプラン]] 飛行機を水上から飛ばすというアイデアは古くからあり、[[ライト兄弟]]以前の実験者[[ヴィルヘルム・クレス]]が[[1901年]]に離水を試みて失敗している。ライト兄弟以降では、[[1905年]]の[[ガブリエル・ヴォアザン|ボアザン]]の水上[[グライダー]]の離水[[実験]]等を経て、最初に動力飛行で水面から離水したのは、アンリ・ファーブル([[:en:Henri Fabre|Henri Fabre]])の'''イドロ-アエロプラン'''(''Hydro-aéroplane'')である。 [[1910年]]3月28日、[[マルセイユ]]の北西に少し離れたところにあるマルティーグの[[ベール湖]]上において、本機は飛行機として世界最初の[[水面|湖面]]からの離水、約800mの水上飛行、着水を成し遂げている。[[1913年]]にこの機体は'''[[ファーブル水上機|ル・カナール]]'''(''Le Canard'' )という名に改名したが、その名称にも現れているように、当機の構成は[[エンテ型|先尾翼形]]で、前部に1つ後部主翼下に2つのフロートを備え、50馬力のエンジンと[[推進式 (航空機)|推進式]]プロペラにて380kgの機体を宙に浮かせた。 [[File:Curtiss a-1 pusher 1911.jpg|thumb|left|250px|カーチス水上機A-1]] 実用的な水上機としての最初期の物に[[1911年]]の[[カーチス・ライト|カーチス]]水上機([[アメリカ海軍|米海軍]]名称A-1)がある。カーチス水上機はカーチス陸上機の[[降着装置]]を取り替えた物であり、機体下部にフロートを一つ、左右に補助フロートを備えていた。機体構成は、まだ[[ライトフライヤー]]のような帆布張りの翼とステーだけの構造から大きな変化は遂げていない。 カーチスは海軍の[[装甲巡洋艦]]「[[ペンシルベニア (装甲巡洋艦)|ペンシルベニア]]」の傍らにこの機体で着水し、艦上に[[クレーン]]で収容され、再度海面におろされた後、離水して[[基地]]に帰投するという[[デモンストレーション]]を行い、実際にこの機が[[軍艦]]で運用可能な事を証明してみせた。その結果この機体は海軍にA-1の名前で正式に採用され、初のアメリカ海軍機となった。 [[File:CaudronLaFoudre.jpg|thumb|250px|フードルに搭載しようとされている水上機 (1914)]] 同じ頃、水上グライダーの制作以来水上機と関係の深かった[[ガブリエル・ヴォアザン|ボアザン]]は、アンリ・ファーブルから[[フロート]]を購入し、自分たちが制作した先尾翼機カナール・ボアザンに取り付けた。その機体は[[1910年]]に[[セーヌ川]]を飛んだ初めての水上機となっただけでなく、1911年には[[フランス海軍]]に買い上げられ、こちらは初のフランス海軍機となっている。フランス海軍はこれらの機体のため、元は修理艦や[[機雷敷設艦]]として就役していた'''[[フードル (水上機母艦)|フードル]]'''(La Foudre)を世界で最初の[[水上機母艦]]に改修している。 {{-}} === 戦間期 === 水上機は、[[20世紀]]初頭には大きく2つの分野で注目された。 ==== 大型旅客機 ==== 一つは、大型長距離渡洋機としてである。 その理由としては、大型で重量がかさんでも、水上という無限に近い[[滑走]]距離をもってすれば離水できた事、仮に洋上飛行中に[[航空事故|トラブル]]が起きても、水上機ならば着水して最悪の事態は避けられると考えられた事にある。これらは大型機であるという事から、飛行艇にほぼ限られる。またこれには、当時はまだ大型飛行機の着陸の衝撃に耐えられるだけの降着装置が製造できず、機体下部全体に[[荷重]]を分散させる飛行艇のみが大型化可能であったことも関係している。 8発のエンジンを持ち、当時としては世界最大だったカプロニ[[カプロニ Ca.60|Ca 60 トランスアエロ]]はこの種の大型旅客飛行艇としては初の物だったが、試験飛行に失敗して損傷、さらに修理する前に[[火災]]で焼失してしまい試作1機のみであったために事実上の失敗作となった。12発のエンジンを持ち、建造当時世界最大の航空機だった[[ドルニエ Do X]]は、水陸双方を通じてこれを上回る最大離陸(水)重量を持つ飛行機が長らく登場しなかった程大型旅客飛行艇として群を抜く存在であり、デモフライトで当時としては桁外れの人数を乗せて飛び評判を呼びはしたものの問題点も多く、[[大西洋]]を往復して見せたにもかかわらず、どこからも注文を得られないままに終わってしまった。しかしそのあとを追って次々に製作された[[ボーイング314]]、[[マーチン M130|マーチンM-130]]、[[ショート・エンパイア]]、[[九七式飛行艇|九七式輸送飛行艇]]といった大型旅客飛行艇は非常に成功した機体となり、[[太平洋]]や大西洋などの世界中の大洋を駆け巡った。 ==== 高速機 ==== もう一つは、現代の目から見れば意外な事に高速機としてであった。 [[高揚力装置]]が未発達だった当時は、大型機の離陸には(後の時代の同程度の[[翼面荷重]]の航空機と比べて)長大な[[滑走路|滑走]]距離を必要とした。そのため高速を狙った高翼面荷重の航空機を[[設計]]しようにも、おのずと限度があった。前述の様にほぼ無制限の滑走距離をとれる水上でのみ、高翼面荷重の機体の設計が可能だったのである。もちろん飛行艇だろうがフロート機だろうが、機体体積(前面投影面積)は陸上機より大きくなり、重量と空気抵抗の面で不利となる。しかし翼面荷重を高くする(つまり主翼を小さくして空気抵抗を減らす)効果は、フロートなどを持つ不利を補って余りある結果となったのである。 [[File:Curtiss Racer NASA GPN-2000-001310.jpg|thumb|right|250px|1925年度[[シュナイダー・トロフィー・レース|シュナイダー・トロフィー]]優勝の[[カーチス R3C-2|カーチスR3C-2]]と[[ジミー・ドーリットル|J.ドーリットル中尉]]。映画『[[紅の豚]]』登場のライバル機のモデルはこの機体]] これは水上機の発達を願って設けられたレースである[[シュナイダー・トロフィー・レース|シュナイダー・トロフィー]]が各国の国威発揚の場となるにいたってさらに加速した。各国はこのレースのために技術の粋を結集して、盛んに高性能水上機の開発を行ったため、[[1927年]]から[[1939年]]までの短い間ではあったが、世界最速の乗り物といえば水上機を指した時代があったのである。実際に、[[イタリア]]の水上機[[マッキ M.C.72|マッキM.C.72]]はレシプロ機であったにもかかわらず、[[1934年]]に709.21&nbsp;km/hの記録を残し、その速度は約10年後に飛んだ初期の[[ジェット機]]よりも高速であった。 だが[[1930年代]]において最初の高揚力装置であるフラップが実用化され、また飛行場の滑走路も長大なものが整備されるようになると、陸上機においても従来よりも高翼面荷重の機体の開発が可能になり、高速機分野での水上機の利点は失われた。 なお、マッキM.C.72の記録はレシプロ水上機の速度記録としては現在も破られておらず、高速機としてのレシプロ水上機がもはや新規[[開発]]されないであろう事を考えると、これからも破られることは無いと言われている。 === 第二次世界大戦中 === ==== 艦載機 ==== [[File:USS Missouri recovers its Vought OS2U Kingfisher aircraft.jpg|thumb|right|250px|米海軍[[戦艦]]「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」上の[[OS2U (航空機)|ヴォートOC2Uキングフィッシャー偵察機]]]] [[第二次世界大戦]]の始まった頃には、[[偵察|索敵]]・哨戒用などを目的に、[[航空母艦]]以外の[[軍艦]]も航空機を搭載していた。当然ながら空母以外の艦は着艦のための甲板が存在せず、当時の[[ヘリコプター]]はまだ実用的ではなかったため、海面着水運用が可能な水上機を搭載した。離艦については[[カタパルト]]発進で対応した。空母が[[艦隊]]に組み込まれている場合は、空母搭載の偵察機・索敵機などがその任に当たったが、他艦の水上機も引き続き偵察・索敵に使用された。 [[戦艦]]・[[巡洋艦]]など[[砲撃]]をその主目的とする艦の搭載水上機にはそれ以外にも重要な任務があった。砲撃とは初弾命中はまずあり得ない物であり、最初の着弾が目標より遠いか近いかを確認してから初撃より近く(遠く)調整して第2射を撃ち、またその着弾を確認して距離を調整し…という繰り返しである。その'''[[射弾観測|着弾観測]]'''という任務が艦載水上機に課せられていたのである。しかしこれらの[[大艦巨砲主義]]に付随したような運用は、[[レーダー]]の発達によって代わられる事となった。また大艦巨砲主義そのものが、航空機の発達によって時代遅れとなった。 ==== 救難・哨戒 ==== 非艦載型の大型水上機の哨戒任務は、大戦を通して重要な役割を果たした。これらの機体には前述のショート・エンパイアを軍用に改造したイギリスの[[ショート サンダーランド|ショート・サンダーランド]]飛行艇、アメリカの[[PBY (航空機)|PBY カタリナ]]飛行艇、日本の[[二式飛行艇|二式大艇]]などがある。[[潜水艦]]を探して洋上を長距離飛行する対潜哨戒機としての役割には、飛行艇は打ってつけだったのである。 ==== 水上戦闘機 ==== [[第一次世界大戦]]からしばらくは全盛を誇った[[水上戦闘機]]という機種は、このころには既にほとんどが消滅していた。しかしこの絶滅種をあえてこの時代に復活させたのが、第二次大戦の各国軍中、唯一水上戦闘機部隊を運用していた[[大日本帝国海軍]]である。日本海軍は、[[九五式水上偵察機]]が[[国民革命軍|中国軍]]のアメリカ製戦闘機を撃墜した戦訓から、水上機による[[空中戦|空戦]]の有効性を感じ取った。そして国際連盟の規定で軍事施設の建設が禁止されている委任統治領である[[南洋諸島]]へ進軍する際、[[飛行場]]が作れないような小島や、飛行場が整備されるまでの駐留部隊機として水上飛行機が有効であると考えた。(なお、日本の国際連盟脱退と1936年のワシントン軍縮条約の失効後は軍事施設を建設している)、そこで十五試水上戦闘機の開発を[[川西航空機]]に命じ、完成までのつなぎとして[[零式艦上戦闘機|零戦]]を水上機に改造した[[二式水上戦闘機]]を製作した。 緒戦ではそれなりの活躍をした二式水上戦闘機ではあったが、戦局の推移にともない、日本軍が攻勢から守勢にまわると、活躍の場を失った。十五試水上戦闘機が[[強風 (航空機)|強風]]として完成した頃には水上戦闘機の出番はすでに無くなっていた。強風は陸上戦闘機の紫電に設計変更され、後の日本海軍最後の傑作機、[[紫電改]]の母体となっている。 アメリカ軍は建設能力に優れていたため、またそれ以外の国はそもそも多数の島嶼を占領するような戦争を経験していないため、水上戦闘機を必要とせず、試作機も作られてはいるが実戦投入はされなかった。 ==== 潜水艦搭載機 ==== [[File:Image-British Submarine HMS M2, 3.jpg|250px|right|thumb|英海軍パーナル・ペトー水上機とM2潜水艦]] 一旦海中に潜れば外界の状況がほとんど判らない[[潜水艦]]も、浮上した際に周囲の状況を確認するため、索敵・偵察用の[[偵察機]]を搭載する例があった。このアイデアのルーツは古く、早くも[[1917年]]に潜水艦搭載専用水上機、ハンザ・ブランデンブルクW-20がドイツで開発されている。その後も航空機搭載潜水艦と潜水艦搭載航空機の組み合わせは様々な国で試され、S-1潜水艦とコックス・クレミンXS-2水上機(アメリカ)、M2潜水艦とパーナル・ペトー水上機(イギリス)、エットーレ・フィエラモスカ潜水艦とマッキM.53やピアッジオP.8(イタリア)、[[スルクフ (潜水艦)|スルクフ]]潜水艦とMB411水上機(フランス)、[[伊十五型潜水艦]]と[[零式小型水上偵察機]](日本)など多くの例がある。これらの航空機に共通するのは、潜水艦の限られたスペースに収容する為に折畳式や分解式である事、隠密性を放棄して浮上した潜水艦を危険にさらす時間を最小限に抑えるため、展開・格納が短時間で可能な事があげられる。 また、特異な例として、この潜水艦に搭載する水上機を偵察機から攻撃機に発展させた例がある。日本では俗に潜水空母とも呼ばれる[[伊四百型潜水艦]]は当時世界最大の潜水艦であり、専用に開発された[[晴嵐]]という名の水上攻撃機を3機搭載していた。 {{-}} === 第二次世界大戦後 === [[File:SriLankan Airlines AirTaxi - panoramio.jpg|thumb|250px|[[スリランカ航空]]のDHC-6-100]] 第二次大[[戦後]]、陸上機の信頼性や航続距離の向上・地上設備の完備などから、長距離旅客機、[[対潜哨戒機]]などもほとんど陸上機でまかなわれるようになり、レーダーとヘリコプターの発達により艦載偵察機としての使命も終えた事から、水上機は航空機開発の花形ではなくなる。米軍はジェット水上戦闘機「[[XF2Y-1 (航空機)|シーダート]]」の開発を試みたが、実用化はしなかった。 しかしその利点は今なお健在であり、[[G・M・ベリーエフ記念タガンローク航空科学技術複合体|ベリエフ]]を初めとした各メーカーがジェット飛行艇を制作するなど、戦後も多くの優秀な水上機が開発されている。滑走路を必要としない水上機は、飛行場が整備されていない島・地域で今日でも有効な脚として利用されている。 [[スリランカ航空]]では観光客を島々へ送迎する[[エアタクシー]]として水上機仕様のDHC-6を利用している。 [[DARPA]]では低コストで生産可能な長距離水上輸送機「リバティー・リフター(Liberty Lifter)」を計画しており、[[オーロラ・フライト・サイエンシズ]]や[[ジェネラル・アトミックス・エアロノーティカル・システムズ]]が応募している<ref>{{Cite web|和書|title=エンジン8発! 超巨大飛行艇ボーイング子会社が開発へ 航続距離は1万2000km以上 |url=https://trafficnews.jp/post/124092 |website=乗りものニュース |access-date=2023-02-05 |language=ja}}</ref>。 {{-}} ==== 遊覧 ==== [[セスナ 172]]など小型機にフロートを追加した水上機が遊覧機として多数利用されている。 自動車部品メーカーの[[サード (企業)|サード]]が富裕層向けの小型水上スポーツ機の開発を予定している<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201604/20160406_62005.html ふくしまスカイパーク拠点に軽飛行機開発へ] - [[河北新報]]</ref>。 [[せとうちSEAPLANES]]が2016年から[[瀬戸内海]]で観光遊覧飛行への利用を始め<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO07848370Q6A930C1ML0000/|title=水陸両用機で村上海賊気分 瀬戸内観光の起爆剤に|work=|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2016年10月3日}}</ref>、親会社の[[ツネイシホールディングス]]が遊覧飛行で使用する機体を製造する[[:en:Quest Aircraft|クエスト・エアクラフト]]を子会社化している。 ==== 海難救助機 ==== [[File:PBY Catalina airtanker.jpg|250px|thumb|right|消火デモンストレーション中のカタリナ]] [[沿岸]]地域の[[海難事故|海難]]救助はホバリングが可能で小回りのきく[[ヘリコプター]]がその任を引き継いだ。しかし、外洋での救助活動は、航続距離が長く凌波性能の高い飛行艇が今でも役立っている。 [[新明和工業]]は救難用の飛行艇[[US-1]]、[[US-2 (航空機)|US-2]]を製造している。海難救助のみならず、飛行場のない[[離島]]での急[[病人]][[移送]]などにも使われている。 {{-}} ==== 消防飛行艇 ==== 最近注目を集めている飛行艇の用法として、大規模[[火災]]の[[消火]]がある。[[山火事]]などの現場近くの海面・湖面に着水し、機内[[タンク]]に取水して再離水、現場上空にて放水するものである。 [[PBY (航空機)|PBY カタリナ]]など旧来の飛行艇を[[改造]]する例も多いが、ロシアの[[Be-200 (航空機)|ベリエフBe-200]]などは最新式の双発ジェット飛行艇であり、消防飛行艇としての能力も高い。 ==== 地面効果翼機 ==== 厳密には航空機と呼ぶには異論があろうが、飛行艇から派生したものとして[[地面効果翼機]]がある。実用化されたものに[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[エクラノプラン]]がある。 [[地面効果]](表面効果)を利用すれば、航空機は通常より遙かに効率よく飛行できる。「地面」効果といっても、効果を維持できる高度は低く、実際に地面の起伏に合わせてその高度を維持するのは非常に危険であるため、基本は地面ではなく水面航行となる。そこで通常飛行と地面効果利用の両方が可能な水上機として研究は始まった。 その後、水面を離水しての飛行は不要と考えられ、「船よりも速く、飛行機よりも経済的」な輸送システムとしてエクラノプランの研究は続けられた。結果、ソ連は各種多様な機体を試作し[[カスピ海]]で試験運行したが、偵察衛星の画像でこの種の機体の存在を知った当時の西側は、西側の設計思想とのあまりの異質さから「カスピ海の怪物」(「[[ネッシー|ネス湖の怪物]]」に掛けた呼称)と呼んだ。 == 船としての利用 == [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-12156, Wasserflugzeug mit Segeln.jpg|250px|thumb|帆を張った[[ロールバッハ Ro II]]]] 水上機は着水後にエンジンで滑走するのが基本だが、エンジンを止めた状態で[[帆]]を張れば[[帆船]]ともなるため、一種の[[機帆船]]とみなすこともできる。 機械の信頼性が低かった時代にはエンジンの故障で不時着水した際、陸まで移動するための予備動力として取り外し可能な[[マスト]]と帆が搭載されており、緊急時には帆船となって移動することが想定されていた。 これらの装備はデッドウェイトであるため、エンジンの信頼性が向上すると次第に搭載されなくなった。 {{-}} == ヘリコプター == {{main|水陸両用ヘリコプター}} [[File:Robinson R44 on floats - El Salvador.jpg|250px|right|thumb|[[ロビンソン R44|ロビンソンR44 クリッパー]]]] [[ヘリコプター]]にはフロートを装備し水陸両用とした機体が存在する。大型機・専用機は少なく、[[ロビンソン R44|ロビンソンR44 クリッパー]]のような小型機にフロートを取り付けた双フロート型が多いが、[[シコルスキー S-61|S-61]]/[[SH-3 シーキング]]や[[ミル]] [[Mi-14 (航空機)|Mi-14 ヘイズ]]のように、胴体下部を艇体構造にしたヘリコプターも存在する。 [[航空法]]では緊急着水時にスキッドや機体下部に取り付けたフロートを膨らませることで、機外への脱出や筏の準備する時間を稼ぐ緊急用フロートの装着義務が生じる<ref>{{Cite web|和書|title=<独自>緊急用フロート装備せず 陸自ヘリ事故 |url=https://www.sankei.com/article/20230412-7JCRTZDZM5PPTFXXAXN4JHF7SM/ |website=産経ニュース |date=2023-04-12 |access-date=2023-04-20 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。あくまで沈没を遅らせるか救助を待つための装備であり長時間の利用には向かず、フロートは使い捨てとなる。軽量な陸上ヘリコプターの一部([[エンストロム 480]]、[[:en:RotorWay Exec|RotorWay Exec]]など)にもオプションとして用意されており、気象条件によっては沈没せずに機内で救助を待つことが可能である。{{-}} <!-- == 映像作品に登場した水上機 == {{内容過剰|section=1|date=2021年10月}} ; [[未来少年コナン]] (1978) : アレクサンダー・ケイの「残された人々」を原作とした宮崎駿のTVアニメ。ただし原作とは全く毛色の異なった作品に仕上がっている。 :; ファルコ :: インダストリアが運用する飛行艇。元は海洋観測機だったという設定のため、機首に半球形の観測窓をもち航続距離が長い。たびたび主人公コナンの邪魔をするが、最後はコナンをギガントに送り届けるためギガントの砲座に突入、その後滑空飛行で帰投したのちインダストリアと共に海に沈んだ。本作品に使用される以前の案ではパルスロケットで推進する予定だったことが東京ムービーのファン誌に連載されていたイラスト・エッセイで述べられている。 ; [[ムーの白鯨]] (1980) : [[東京ムービー]]初のオリジナルSF作品と位置付けられるTVアニメ。3万年の時を超えて蘇った[[アトランティス]]と[[ムー大陸|ムー]]の戦いが描かれる。 :; ムーバル :: 主人公たちが搭乗するムーの戦闘飛行艇。大まかには[[ボート]]に[[ドーム]]状の[[コクピット]]が載っている形状。[[古代文明]]のイメージからか、スピード感のないデザインであった。 ; [[死の翼アルバトロス]] (1980) : [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]第145話。 :; アルバトロス :: レストアされた旧式豪華飛行艇と見せかけて実は小型原爆製造プラントであった。オリジナル機体であるが、作中で50年前の巨大豪華旅客飛行艇とされていることや全体的な形状は、(エンジン数・尾翼形状などの点が異なるものの)[[ドルニエ Do X]]と類似している。 ; [[機動戦士Ζガンダム]] (1985) : 『[[機動戦士ガンダム]]』の続編として製作されたTVアニメ。前作から7年後の世界で、非常に複雑な人間模様が繰り広げられた。 :; [[ガルダ (ガンダムシリーズ)|ガルダ級]] :: 全長317m、全幅524mという作品世界では最大の水陸両用飛行艇で、シャトルを発進させる事もできる。その一つ[[ガルダ (ガンダムシリーズ)#アウドムラ|アウドムラ]]が、主人公側の地上組織[[カラバ]]の支援拠点そのものとして使用された。 ; [[紅の豚]] (1992) : それまで全くと言っていいほど無名だった水上機を一躍メジャーにした立役者として[[宮崎駿]]のこの映画がある。 :; [[サボイアS.21試作戦闘飛行艇]] :: 主人公ポルコ・ロッソの乗機。「[[SIAI S.21|サヴォイア S.21]]」という名のシュナイダーレーサー飛行艇は実在し「たった1機だけ作られたがセッティングが過激で危なくて飛べない」という背景はよく似ているものの、複葉機であるなど映画の機体とはかなり異なる。監督の記憶による外形のモデルはむしろ[[マッキ M.33|マッキM.33]]ではないかといわれている。 :; カーチスR3C-0非公然水上戦闘機 :: ポルコのライバルであるドナルド・カーチスの乗機。上記のS.21とは異なり、実在した機体である[[カーチス R3C-2|カーチスR3C-2]]をモデルとしており、同機を非公然に改造した機体という設定である。 ; [[モンタナ・ジョーンズ]] (1994) : [[日本放送協会|NHK]]で放送されたTVアニメ。イタリアとの国際共同制作。2003年の再放送時に『冒険航空会社モンタナ』に改題。 :; ケティ :: 正式名称[[スーパーマリン|スーパーマリンモデル]]GS6。双発の水陸両用飛行艇(架空)。コックピット左右に大きな半球形に近い窓を持ち、見た目はさながら昆虫かトカゲである。曲線を多用した優美なデザイン。両翼端のサブフロートは格納できる。主人公モンタナの操縦テクニックも相まって素晴らしい機動性を発揮するが、資金難から何かとトラブルが絶えない。モデルは[[PBY|PBYカタリナ]]の可能性が高い。 ; [[アビエイター]] (2004) : [[マーティン・スコセッシ]]監督のアメリカ映画『[[アビエイター]]』は実在の大富豪[[ハワード・ヒューズ]]の半生を描いた。 :; [[H-4 (航空機)|ヒューズH-4ハーキュリーズ]] :: ヒューズ社によって作られた輸送飛行艇。全幅だけでいえばアントノフ[[An-225 (航空機)|An-225]]をも上回る巨大機でありながら、機体のほとんどが木製。実際の飛行はたった一回であり、その高度は20mほどであった。これは[[地面効果]]を利用した飛行で、通常飛行にはエンジン出力が足りないという説もある。 ;[[とある飛空士への追憶]](2011) :[[犬村小六]]の同名ライトノベルを原作とするアニメ映画。敵国領土内にあり、戦局の悪化によって陥落が決定的となった占領地から本国へと脱出するため、主人公とヒロインが水上偵察機に乗り込み単機で敵の制空権下を12000kmに渡り突破する極秘作戦を描く。 :;サンタ・クルス ::神聖レヴァーム皇国海軍の保有する最新鋭[[偵察機]]。武装は自衛用の後方機銃のみ。モーターを動力とする[[電動航空機]]であり、エネルギーを消費することなく水を酸素と水素に分解するという設定の架空の触媒が搭載された[[燃料電池]](作中では「水素電池」と呼ばれる)が電源。そのため、着水中に水素を補給することによって無限の航続距離を獲得できる。一度の水素補給での航続距離は3100km。 ::着水用フロートを格納式とすることで最高飛行速度620km/hという高速性能を得ている。胴体中央に双フロート、胴体後部に尾部フロートをそれぞれ格納する。フロートが3つ存在するため、着水状態でも機首が上を向いた「三点姿勢」となる。双フロートは現実に存在する双フロート式水上機のものと比較すると非常に小型であるうえ、前後方向へ伸縮する機構をも備える複雑なものになっている。また、フロートだけではなくランディングギアも備える[[水陸両用機]]である。 ;[[とある飛空士への恋歌]](2014) :犬村小六の同名ライトノベルを原作とするテレビアニメ。上記の「とある飛空士への追憶」と世界観を共有するシリーズ作品だが、互いの存在を知らないほど遠く離れた地域が舞台である。人々の住む大地が[[地球球体説|球体]]なのか[[地球平面説|平面]]なのか、[[天動説]]と[[地動説]]のいずれが正しいのかすら明らかになっていない作中世界において、世界の姿を解き明かすための冒険を描いた物語。 :本作品に登場した水上機は水上滑走を行わず、[[ティルトウィング]]機構(原作では[[ティルトローター]])を用いた垂直離着水を行う。一方、陸上での運用時には必要に応じて滑走も行う。 :;エル・アルコン ::主人公を含めた航空学生達が主に使用する複座練習機。動力源は上記の「サンタ・クルス」と同じく水素電池とモーター。[[ティルトウィング]]式の双発[[垂直離着陸機|VTOL機]]であり、胴体下部の艇体によって水上浮力を得る[[飛行艇]]。固定式ランディングギアを備えた水陸両用機でもある。 :;ラガルディア ::正規軍が使用する複座戦闘機。動力源は水素電池とモーター。エル・アルコンと同じくティルトウィング式の双発VTOL戦闘飛行艇で、引き込み式ランディングギアを備えた水陸両用機。運用者の戦術思想に従い前方固定機銃は装備しておらず、後部座席搭乗員が前方にも向けられる旋回機銃を操作する。 ;[[スクールガールストライカーズ]] :2017年のイベントストーリーに、[[フォッカーDr.I]]を思わせる真っ赤な[[三葉機|三葉]]の水上戦闘機が登場する。ストーリー中には桟橋付近に駐機している様子も見られる他、離水シーンも存在する。 --> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2019-5}} * 中村光男(編) 『別冊航空情報 名機100 増補改訂版』酣燈社 2000 ISBN 4873570557 * 下田信夫 『Nobさんの飛行機グラフィティ1』 光人社 2006 ISBN 4769813031 * 『丸メカニック No.43 雷電/紫電/紫電改』 潮書房 1983 * 西村直紀 『世界の珍飛行機図鑑』 グリーンアロー出版社 1997 ISBN 4766332156 == 関連項目 == {{Commons|Category:Seaplanes}} * [[水上機母艦]] * [[飛行艇]] * [[地面効果翼機]] * [[艦載機]] * [[観測機]] * [[対潜哨戒機|哨戒機]] * [[シュナイダー・トロフィー・レース]] * [[水上機一覧]] {{軍用機}} {{Normdaten}} [[Category:水上機|*すいしようき]]
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東久邇宮稔彦王
東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。 陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。 第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。 内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。1950年(昭和25年)には新興宗教「ひがしくに教」を立ち上げて一時教祖となった。しかし手がけた事業はことごとく失敗した。 歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。 香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。 1887年(明治20年)、久邇宮朝彦親王第九王子として誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もおり親友となる。 宮家の末子として本来ならば成人の後臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女である聡子内親王の婿を確保するための特例として、1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)を卒業。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。 1915年(大正4年)に予定通り聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで、フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。フランス陸軍大学校42期。そして後述するように、この留学時代にフランスの自由な気風に馴染み、画家のクロード・モネや元首相のジョルジュ・クレマンソー、そして第一次世界大戦の英雄として知られたジョゼフ・ジョフル元帥やフィリップ・ペタン元帥と親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。なお東久邇宮は、フランスへの長期に渡る滞在に至った理由について1山縣有朋元帥陸軍大将と上原勇作元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、2滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている。 フランス留学の経験から、欧米と日本をはじめとするアジア諸国の科学技術力の格差やアイデンティティーの違いを感じた東久邇宮は、海軍元帥の永野修身や教育学者の小原國芳、そして哲学者の西田幾多郎らと共に、1日本をはじめとする各国の国家枢要の人材養成、2アジア諸国の科学技術教育の発展と向上、3アジアを背負い世界文化へ貢献する為の拠点の創成などを目指して(詳細は関連項目のウィキソース「興亞工業大學設立趣意書」を参照のこと)1942年(昭和17年)、興亜工業大学(後の千葉工業大学)の創設に尽力している。 大正天皇の容態が思わしくないとの報が遊学中の東久邇宮に入っていたが、息苦しい日本に戻るのを嫌って滞在を続けていた東久邇宮は一向に帰国の素振りを見せず問題となった。日本で留守宅を守っていた妃の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と東久邇宮の従者に手紙を送りつけるほどだった。東久邇宮は権威主義や形式主義を重んじる大正天皇とは馬が合わず、不仲だったともいわれる。結局、東久邇宮の帰国は大正天皇の崩御後となり、フランス滞在は7年間にも及んだ。 帰国後は、近衛歩兵第3連隊長・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。 支那事変(日中戦争)では第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加した。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部という位置にもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。1939年(昭和14年)に陸軍大将に昇進。 1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇に謁見した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム南部)進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇大権によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、イギリス訪問時に感銘を受けた昭和天皇の立憲君主制への拘りは強く、東久邇宮の助言は届かなかったという。 日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。対米戦争回避を主張するリベラル派の皇族である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、日米交渉妥結を志向する近衛文麿・広田弘毅・海軍ら穏健派以外のみならず、強硬派の東条英機も東久邇宮が陸軍の軍人であることから賛成した。しかし木戸幸一内大臣の、皇室に累を及ぼさぬようにという反対によりこの構想は潰れ、東条が首相に抜擢された。 日華の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招き入れ、戦争回避の糸口を模索するも結局は開戦に至った。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。 1941年12月に防衛総司令官へ就任。 1942年(昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。 大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走した。 1945年(昭和20年)4月16日、東京大空襲に遭遇。港区麻布にあった東久邇宮御殿本邸が全焼したが、東京にとどまり敷地の防空壕の近くに一間の仮居を建てて終戦まで暮らした。 もっとも大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える佐々木武雄が率いる「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされるという被害に遭っている。 ポツダム宣言受諾・降伏決定発表の3日後、1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮は内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。このことについて東久邇宮は「この未曾有の危機を突破するため、死力をつくすことは日本国民の一人として、また、つねに優遇を受けてきた皇族として、最高の責任であると考えた」としている。 副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した9月半ばに、後任の外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 23日)、東久邇宮が兼任した。 新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇總理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ。 日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の要求する「日本軍の武装解除」であった。なお、東久邇宮内閣の最重要の課題は「無血進駐」だったが、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から、一発でも発砲されれば連合国軍は「武力進駐に切り替える」と通達されていた。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や戦争による一時占領地に皇族を勅使として派遣し、現地部隊の説得に当たらせている。 また、連合国による占領統治の開始が滞りなく開始されるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。玉音放送が行われて18日後の9月2日には、東京湾沖のミズーリ号上で日本国政府ならびに日本軍統帥部の全権代表 (外務大臣重光葵、参謀総長梅津美治郎)により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。 東久邇宮は、平和運動の第一人者だった賀川豊彦を首相官邸に招き「今や日本の道徳は地に落ち、人心はすさみ、誰もこれを救う力がありません。外国人への敵対心と憎しみを取り除かないとポツダム宣言の発表ができないのです。世界平和を目指して諸外国と日本を結ぶために活動する資格のある者は、あなたをおいて他にないように思われます。そこで人心を新たにするために、内閣に参与制度を作ることにしました。ぜひあなたも参与になってください。そして、どうしたらいいか、意見を聞かせてください」と相談した。 これを受け、賀川は今後の日本の国家的方針について日本基督教団の団員たちに相談すると、教団主事の木俣敏が「早急に国民に呼び掛けて、キリスト教徒もそうでない者も一つになって、過去における生き方、考え方を反省し、懺悔をする運動を起こしたらどうでしょうか」と提案したという、賀川と教団の役員たちはこの意見に賛成を表明し、東久邇宮に総懺悔運動について提案をした。この意見を聞いた東久邇宮は最初、驚いた顔をしたという。 賀川は続けて「そうです。まだ戦争が始まらない頃、ある有名な議員の方が来られて、日本の軍隊は世界最強だと言われました。私はその時、日本があたかも聖書で語られている放蕩息子のような気がしたのです」 「日本ほど恵まれた国はありません。豊かな作物、温順な気候、他国の侵略を受けにくい地形。それなのに、いつの間にか日本は平和に慣れきって、ぜいたくになり、富める者は貧しい者を搾取し、資本家と結びついて一大工業国となりました。しかも軍備を誇り、何の抵抗もしない他国を侵略し、残虐行為を繰り返した」 「私はこの放蕩息子がいつか行き詰まり、破滅しないわけはないと思いました。果たして、日本は敗戦によって打ち砕かれました。今日本がなすべきことは、放蕩息子が本心に立ち返り、父に許しを求めてそのもとに帰ったように、国民が一つとなり、今までの生き方、考え方を反省し、懺悔をして新しく出直す以外にありません」と述べた。 これを聞いた東久邇宮は頷き「ラジオを通してあらゆる人に懺悔を呼び掛けましょう。老いも若きも、男も女も、職業のいかんを問わず、こぞって過去の思い上がりを改め、平和国家に生きる民としての一歩を始めるように」と述べたとされる。 玉音放送が行われて翌々日の1945年(昭和20年)8月17日に開かれた日本人記者団との初の記者会見において、東久邇宮は国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に帝国議会で行われた施政方針演説においても次のように発言した。 このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、政治家や官吏、軍人による「国家政策の誤り」を認めると同時に、戦争を望み煽った「国民の道義的責任」についても言及するものだった。その発言は、日本の戦争責任の所在を曖昧にし、ひいては昭和天皇への問責を回避するための理論だとして国民の間で反発を招く一方で、問題への関心を高めた。 すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを回避するため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関してあくまでも日本による自主的な裁判を開廷することが決定された。 一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判(東京裁判)の準備にとりかかっている。 外務官僚の田尻愛義が、「日本再建のためには、昭和天皇の退位と皇室財産の下げ渡しが必要だ」と主張したのに対し、東久邇宮首相も「そう思う」と賛同した上で「天皇も同じお気持ちだと推察される」との考えを示した。 実際、昭和天皇自身も玉音放送が放送された二週間後に「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところであるが、自分が一人引き受けて、退位でもして、納める訳にはいかないだろうかとのおぼし召しあり」と述べており、国民だけでなく、時の首相をはじめ、高松宮をはじめとする皇族の一部や高級官僚、さらには昭和天皇自身までもが退位論に傾いていた。 しかし、占領政策を進めていたダグラス・マッカーサー率いる連合国軍総司令部は、昭和天皇が戦争犯罪で裁判に付せられれば日本各地で反乱が起きる可能性があり、占領政策がうまくいかないのではないかと危惧していたことに加え、昭和天皇自身が占領政策に全面的に協力する姿勢を示したため、GHQの占領政策が優先され、天皇退位論は立ち消えとなった。 東久邇宮内閣では大戦後の日本の進むべき国家方針について話し合われ「平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化二貢献セムコトヲ欲シ」という国家目標が定められたが、この一文は「首相宮御訂正」と明記されていることから、東久邇宮自らが書き込んだものとされる。 東久邇宮は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら、政治犯釈放は戦後混乱期に喘ぐ中にあって共産主義革命の勃興を憂慮した内務省と司法省の反対により実現しなかった。 内務省は、モーニングコートを着用し直立する「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着用し腰に両手を当ててやや体を傾ける姿勢のダグラス・マッカーサーと並び立っている会見写真の公表を阻止するために、山崎巌内務大臣の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎を逮捕して軍事裁判にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎内相は発禁処分を撤回した。 GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。なお、この時点では共産主義者の釈放は行われていなかった(徳田球一は東久邇宮の総辞職5日後の10月10日に府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄)が、東久邇宮と緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した。なお、当時の新聞は、総辞職の直接の契機が皇室に関する自由論議の問題にあったということに触れている。 1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮は皇室の「敗戦の責任を取るため」として、皇族の身分を離脱する意向であることを表明、賀陽宮恒憲王などがこれに同調した。 1946年(昭和21年)2月に東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任(「昭和天皇の戦争責任論」)を取るため退位する意思があること、これへの賛同者は昭和天皇に「道徳的、精神的な責任」を有すると考えていることをAP通信記者に述べている。東久邇宮は早期から天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の皇位継承者であった皇太子明仁親王への譲位、また未成年であった皇太子が成人するまでの間は、三人いた皇弟の一人・高松宮宣仁親王が摂政を務めるという案)の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。 1946年(昭和21年)5月23日、貴族院皇族議員を辞職。同じ年に公職追放を受けている(1952年解除)。1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族の一人として皇籍を離脱し、以後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。 その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や東久邇家所蔵の骨董品の販売を行ったがいずれも長続きしなかった。その理由は東久邇本人が曲がったことが大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの価格で取り扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると東久邇は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。 1948年(昭和23年)には、尾崎行雄・賀川豊彦・下中弥三郎・湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した。同年10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に津島寿一、渋沢敬三、次田大三郎らとともに証人喚問された。 1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称で、仏教各派をはじめ、キリスト教など世界各地の宗教や宗派の垣根を越えて平和の大切さを広めるためのものであったが、GHQの指導によって「ひがしくに教」となってしまった。この一件について東久邇は「一部の人に、私が不用意で利用されたのはいけなかったが、私は晩年を、この世界平和運動にささげたいと念願しています」と語り、自らにも利用されてしまった責任があるとして自身の軽率な態度について反省したとされる。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。 同年フリーメイソンに入会。1957年(昭和32年)6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山・片山哲とともに三人の首相経験者の連名で時の首相岸信介に退陣を勧告。 1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。1978年(昭和53年)、聡子夫人と死別。 1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。死の間際、うわごとで「ラ・マルセイエーズ La Marseillaise」をフランス語で唄ったという。 死後、従二位に叙され、特例として豊島岡墓地に葬られた。 東久邇は、世界の首相経験者の中での最長寿者であり、ギネスブックに登録されていた。世界の首相経験者で長寿だったのは、最も長寿の方から順にチャウ・セン・コクサル・チュム(1905年 - 2009年。103歳4か月没、第40代カンボジア王国首相)、アントワーヌ・ピネー(1891年 - 1994年。102歳11か月没、フランス第123代閣僚評議会議長)、東久邇宮稔彦王(102歳1か月没)、ウィレム・ドレース(101歳11か月没、1988年死去、オランダ王国首相)、中曽根康弘(101歳6か月没、2019年死去、内閣総理大臣)となる。 東久邇は記録の確かな日本皇族(皇籍離脱した者を含む)の中での最長寿者(102歳48日=37303日)であったが、2014年(平成26年)に遷化した東伏見慈洽(103歳7か月16日=37851日。香淳皇后の弟、東久邇の甥)によって更新された。 東久邇が死去した当時、彼は内閣総理大臣経験者で最古参(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)でもあり、19世紀生まれの首相経験者で最後の存命者であった(1978年の片山哲没後は最年長にもなっていた)。また、元陸海軍大将では最後の存命者でもあった。 数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日 - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。1950年(昭和25年)には新興宗教「ひがしくに教」を立ち上げて一時教祖となった。しかし手がけた事業はことごとく失敗した。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1887年(明治20年)、久邇宮朝彦親王第九王子として誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もおり親友となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "宮家の末子として本来ならば成人の後臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女である聡子内親王の婿を確保するための特例として、1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)を卒業。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1915年(大正4年)に予定通り聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで、フランスに留学した。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ幅広く修学した。フランス陸軍大学校42期。そして後述するように、この留学時代にフランスの自由な気風に馴染み、画家のクロード・モネや元首相のジョルジュ・クレマンソー、そして第一次世界大戦の英雄として知られたジョゼフ・ジョフル元帥やフィリップ・ペタン元帥と親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。なお東久邇宮は、フランスへの長期に渡る滞在に至った理由について1山縣有朋元帥陸軍大将と上原勇作元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、2滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フランス留学の経験から、欧米と日本をはじめとするアジア諸国の科学技術力の格差やアイデンティティーの違いを感じた東久邇宮は、海軍元帥の永野修身や教育学者の小原國芳、そして哲学者の西田幾多郎らと共に、1日本をはじめとする各国の国家枢要の人材養成、2アジア諸国の科学技術教育の発展と向上、3アジアを背負い世界文化へ貢献する為の拠点の創成などを目指して(詳細は関連項目のウィキソース「興亞工業大學設立趣意書」を参照のこと)1942年(昭和17年)、興亜工業大学(後の千葉工業大学)の創設に尽力している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大正天皇の容態が思わしくないとの報が遊学中の東久邇宮に入っていたが、息苦しい日本に戻るのを嫌って滞在を続けていた東久邇宮は一向に帰国の素振りを見せず問題となった。日本で留守宅を守っていた妃の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と東久邇宮の従者に手紙を送りつけるほどだった。東久邇宮は権威主義や形式主義を重んじる大正天皇とは馬が合わず、不仲だったともいわれる。結局、東久邇宮の帰国は大正天皇の崩御後となり、フランス滞在は7年間にも及んだ。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "帰国後は、近衛歩兵第3連隊長・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "支那事変(日中戦争)では第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加した。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部という位置にもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。1939年(昭和14年)に陸軍大将に昇進。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇に謁見した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム南部)進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越える危険を冒してでも天皇大権によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、イギリス訪問時に感銘を受けた昭和天皇の立憲君主制への拘りは強く、東久邇宮の助言は届かなかったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。対米戦争回避を主張するリベラル派の皇族である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、日米交渉妥結を志向する近衛文麿・広田弘毅・海軍ら穏健派以外のみならず、強硬派の東条英機も東久邇宮が陸軍の軍人であることから賛成した。しかし木戸幸一内大臣の、皇室に累を及ぼさぬようにという反対によりこの構想は潰れ、東条が首相に抜擢された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日華の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招き入れ、戦争回避の糸口を模索するも結局は開戦に至った。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1941年12月に防衛総司令官へ就任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)4月16日、東京大空襲に遭遇。港区麻布にあった東久邇宮御殿本邸が全焼したが、東京にとどまり敷地の防空壕の近くに一間の仮居を建てて終戦まで暮らした。 もっとも大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える佐々木武雄が率いる「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされるという被害に遭っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ポツダム宣言受諾・降伏決定発表の3日後、1945年(昭和20年)8月17日、東久邇宮は内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。このことについて東久邇宮は「この未曾有の危機を突破するため、死力をつくすことは日本国民の一人として、また、つねに優遇を受けてきた皇族として、最高の責任であると考えた」としている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した9月半ばに、後任の外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 23日)、東久邇宮が兼任した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇總理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の要求する「日本軍の武装解除」であった。なお、東久邇宮内閣の最重要の課題は「無血進駐」だったが、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から、一発でも発砲されれば連合国軍は「武力進駐に切り替える」と通達されていた。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や戦争による一時占領地に皇族を勅使として派遣し、現地部隊の説得に当たらせている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、連合国による占領統治の開始が滞りなく開始されるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。玉音放送が行われて18日後の9月2日には、東京湾沖のミズーリ号上で日本国政府ならびに日本軍統帥部の全権代表 (外務大臣重光葵、参謀総長梅津美治郎)により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東久邇宮は、平和運動の第一人者だった賀川豊彦を首相官邸に招き「今や日本の道徳は地に落ち、人心はすさみ、誰もこれを救う力がありません。外国人への敵対心と憎しみを取り除かないとポツダム宣言の発表ができないのです。世界平和を目指して諸外国と日本を結ぶために活動する資格のある者は、あなたをおいて他にないように思われます。そこで人心を新たにするために、内閣に参与制度を作ることにしました。ぜひあなたも参与になってください。そして、どうしたらいいか、意見を聞かせてください」と相談した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これを受け、賀川は今後の日本の国家的方針について日本基督教団の団員たちに相談すると、教団主事の木俣敏が「早急に国民に呼び掛けて、キリスト教徒もそうでない者も一つになって、過去における生き方、考え方を反省し、懺悔をする運動を起こしたらどうでしょうか」と提案したという、賀川と教団の役員たちはこの意見に賛成を表明し、東久邇宮に総懺悔運動について提案をした。この意見を聞いた東久邇宮は最初、驚いた顔をしたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "賀川は続けて「そうです。まだ戦争が始まらない頃、ある有名な議員の方が来られて、日本の軍隊は世界最強だと言われました。私はその時、日本があたかも聖書で語られている放蕩息子のような気がしたのです」", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "「日本ほど恵まれた国はありません。豊かな作物、温順な気候、他国の侵略を受けにくい地形。それなのに、いつの間にか日本は平和に慣れきって、ぜいたくになり、富める者は貧しい者を搾取し、資本家と結びついて一大工業国となりました。しかも軍備を誇り、何の抵抗もしない他国を侵略し、残虐行為を繰り返した」", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「私はこの放蕩息子がいつか行き詰まり、破滅しないわけはないと思いました。果たして、日本は敗戦によって打ち砕かれました。今日本がなすべきことは、放蕩息子が本心に立ち返り、父に許しを求めてそのもとに帰ったように、国民が一つとなり、今までの生き方、考え方を反省し、懺悔をして新しく出直す以外にありません」と述べた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これを聞いた東久邇宮は頷き「ラジオを通してあらゆる人に懺悔を呼び掛けましょう。老いも若きも、男も女も、職業のいかんを問わず、こぞって過去の思い上がりを改め、平和国家に生きる民としての一歩を始めるように」と述べたとされる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "玉音放送が行われて翌々日の1945年(昭和20年)8月17日に開かれた日本人記者団との初の記者会見において、東久邇宮は国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に帝国議会で行われた施政方針演説においても次のように発言した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、政治家や官吏、軍人による「国家政策の誤り」を認めると同時に、戦争を望み煽った「国民の道義的責任」についても言及するものだった。その発言は、日本の戦争責任の所在を曖昧にし、ひいては昭和天皇への問責を回避するための理論だとして国民の間で反発を招く一方で、問題への関心を高めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを回避するため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関してあくまでも日本による自主的な裁判を開廷することが決定された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判(東京裁判)の準備にとりかかっている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "外務官僚の田尻愛義が、「日本再建のためには、昭和天皇の退位と皇室財産の下げ渡しが必要だ」と主張したのに対し、東久邇宮首相も「そう思う」と賛同した上で「天皇も同じお気持ちだと推察される」との考えを示した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "実際、昭和天皇自身も玉音放送が放送された二週間後に「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところであるが、自分が一人引き受けて、退位でもして、納める訳にはいかないだろうかとのおぼし召しあり」と述べており、国民だけでなく、時の首相をはじめ、高松宮をはじめとする皇族の一部や高級官僚、さらには昭和天皇自身までもが退位論に傾いていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、占領政策を進めていたダグラス・マッカーサー率いる連合国軍総司令部は、昭和天皇が戦争犯罪で裁判に付せられれば日本各地で反乱が起きる可能性があり、占領政策がうまくいかないのではないかと危惧していたことに加え、昭和天皇自身が占領政策に全面的に協力する姿勢を示したため、GHQの占領政策が優先され、天皇退位論は立ち消えとなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東久邇宮内閣では大戦後の日本の進むべき国家方針について話し合われ「平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化二貢献セムコトヲ欲シ」という国家目標が定められたが、この一文は「首相宮御訂正」と明記されていることから、東久邇宮自らが書き込んだものとされる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東久邇宮は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら、政治犯釈放は戦後混乱期に喘ぐ中にあって共産主義革命の勃興を憂慮した内務省と司法省の反対により実現しなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "内務省は、モーニングコートを着用し直立する「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着用し腰に両手を当ててやや体を傾ける姿勢のダグラス・マッカーサーと並び立っている会見写真の公表を阻止するために、山崎巌内務大臣の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎を逮捕して軍事裁判にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎内相は発禁処分を撤回した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。なお、この時点では共産主義者の釈放は行われていなかった(徳田球一は東久邇宮の総辞職5日後の10月10日に府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄)が、東久邇宮と緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した。なお、当時の新聞は、総辞職の直接の契機が皇室に関する自由論議の問題にあったということに触れている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮は皇室の「敗戦の責任を取るため」として、皇族の身分を離脱する意向であることを表明、賀陽宮恒憲王などがこれに同調した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)2月に東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任(「昭和天皇の戦争責任論」)を取るため退位する意思があること、これへの賛同者は昭和天皇に「道徳的、精神的な責任」を有すると考えていることをAP通信記者に述べている。東久邇宮は早期から天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の皇位継承者であった皇太子明仁親王への譲位、また未成年であった皇太子が成人するまでの間は、三人いた皇弟の一人・高松宮宣仁親王が摂政を務めるという案)の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)5月23日、貴族院皇族議員を辞職。同じ年に公職追放を受けている(1952年解除)。1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族の一人として皇籍を離脱し、以後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や東久邇家所蔵の骨董品の販売を行ったがいずれも長続きしなかった。その理由は東久邇本人が曲がったことが大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの価格で取り扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると東久邇は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)には、尾崎行雄・賀川豊彦・下中弥三郎・湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した。同年10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に津島寿一、渋沢敬三、次田大三郎らとともに証人喚問された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称で、仏教各派をはじめ、キリスト教など世界各地の宗教や宗派の垣根を越えて平和の大切さを広めるためのものであったが、GHQの指導によって「ひがしくに教」となってしまった。この一件について東久邇は「一部の人に、私が不用意で利用されたのはいけなかったが、私は晩年を、この世界平和運動にささげたいと念願しています」と語り、自らにも利用されてしまった責任があるとして自身の軽率な態度について反省したとされる。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "同年フリーメイソンに入会。1957年(昭和32年)6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山・片山哲とともに三人の首相経験者の連名で時の首相岸信介に退陣を勧告。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。1978年(昭和53年)、聡子夫人と死別。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。死の間際、うわごとで「ラ・マルセイエーズ La Marseillaise」をフランス語で唄ったという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "死後、従二位に叙され、特例として豊島岡墓地に葬られた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "東久邇は、世界の首相経験者の中での最長寿者であり、ギネスブックに登録されていた。世界の首相経験者で長寿だったのは、最も長寿の方から順にチャウ・セン・コクサル・チュム(1905年 - 2009年。103歳4か月没、第40代カンボジア王国首相)、アントワーヌ・ピネー(1891年 - 1994年。102歳11か月没、フランス第123代閣僚評議会議長)、東久邇宮稔彦王(102歳1か月没)、ウィレム・ドレース(101歳11か月没、1988年死去、オランダ王国首相)、中曽根康弘(101歳6か月没、2019年死去、内閣総理大臣)となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "東久邇は記録の確かな日本皇族(皇籍離脱した者を含む)の中での最長寿者(102歳48日=37303日)であったが、2014年(平成26年)に遷化した東伏見慈洽(103歳7か月16日=37851日。香淳皇后の弟、東久邇の甥)によって更新された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東久邇が死去した当時、彼は内閣総理大臣経験者で最古参(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)でもあり、19世紀生まれの首相経験者で最後の存命者であった(1978年の片山哲没後は最年長にもなっていた)。また、元陸海軍大将では最後の存命者でもあった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。", "title": "系図" } ]
東久邇宮稔彦王、のち東久邇 稔彦は、日本の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。 陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。 第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施した。しかし、自由化政策を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった。 内閣総理大臣退任後の1946年(昭和21年)に公職追放となり、1947年(昭和22年)に臣籍降下した。1950年(昭和25年)には新興宗教「ひがしくに教」を立ち上げて一時教祖となった。しかし手がけた事業はことごとく失敗した。 歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。千葉工業大学の創設に当たってはその発案者となった人物。 香淳皇后は姪、第125代天皇・明仁(上皇)は従孫に当たる。
{{基礎情報 皇族・貴族 | 人名 = 東久邇宮稔彦王 | 各国語表記 = | 家名・爵位 = [[東久邇宮]] | 画像 = General Prince Higashikuni Naruhiko (cropped).jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 =(『皇室皇族聖鑑 大正篇』にて) | 続柄 = *[[久邇宮朝彦親王]]第9王子 *[[崇光天皇]]男系16世孫 *[[霊元天皇]]女系7世孫 | 称号 = [[File:帝國陸軍の階級―襟章―大将.svg|40px]] [[陸軍大将]]<br />[[従二位]]<br />[[大勲位菊花大綬章]]<br />[[功一級金鵄勲章]] | 宮号 = 東久邇宮 | 全名 = 稔彦(なるひこ) | 身位 = [[王 (皇族)|王]]→(皇籍離脱) | 敬称 = [[殿下]]→(皇籍離脱) | お印 = <!-- 日本の皇族のみ --> | 出生日 = {{生年月日と年齢|1887|12|3|no}} | 生地 = {{JPN1870}}・[[京都府]][[上京区]][[京都御苑]] | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1887|12|3|1990|1|20}} | 没地 = {{JPN1947}}・[[東京都]][[渋谷区]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]、[[日本赤十字社医療センター]] | 埋葬日 = [[1990年]][[1月26日]] | 埋葬地 = {{JPN1947}}・東京都[[文京区]][[大塚 (文京区)|大塚]]、[[豊島岡墓地]] | 配偶者1 = [[東久邇聡子|聡子内親王]] | 子女 = [[盛厚王]]<br />[[師正王]]<br />[[粟田彰常|彰常王]]<br />[[多羅間俊彦|俊彦王]] | 父親 = [[久邇宮朝彦親王]] | 母親 = [[寺尾宇多子]] | 宗教 = [[神道]]⇒ひがしくに教⇒神道 | サイン = HigashikuniN kao.png }} {{政治家 | 人名 = 東久邇宮 稔彦王 | 各国語表記 = ひがしくにのみや なるひこおう | 画像 = HIGASHIKUNI Naruhiko.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 『歴代首相等写真』より | 国略称 = {{JPN}} | 出身校 = [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]<br />[[陸軍大学校]]<br />[[サン・シール陸軍士官学校]]<br />[[エコール・ポリテクニーク]] | 前職 = [[防衛総司令部|防衛総司令官]]<br/>内閣総理大臣<br/>陸軍大臣<br/>貴族院議員 | 親族(政治家) = 久邇宮朝彦親王(父)<br />[[賀陽宮邦憲王]](異母兄)<br />久邇宮邦彦王(異母兄)<br />[[梨本宮守正王]](異母兄)<br />[[多嘉王]](異母兄)<br />[[朝香宮鳩彦王]](異母兄) | 国旗 = JPN | 職名 = 第43代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[東久邇宮内閣]] | 就任日 = [[1945年]][[8月17日]] | 退任日 = 1945年[[10月9日]] | 元首職 = 天皇 | 元首 = [[昭和天皇]] | 国旗2 = JPN | 職名2 = 第32代 [[陸軍大臣]](内閣総理大臣兼任) | 内閣2 = 東久邇宮内閣 | 就任日2 = 1945年8月17日 | 退任日2 = 1945年[[8月23日]] | 国旗3 = JPN | 職名3 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]] | 選挙区3 = [[貴族院 (日本)#皇族議員|皇族議員]] | 就任日3 = [[1907年]][[12月3日]] | 退任日3 = [[1946年]][[5月23日]] }}{{Infobox Royal styles|royal name=王|image=[[File:Japan Kouzoku Flag 16ben.svg|100px]]|color=#FFFFFF|background=#BE0026}} '''東久邇宮稔彦王'''(ひがしくにのみや なるひこおう、[[1887年]]〈[[明治]]20年〉[[12月3日]] - [[1990年]]〈[[平成]]2年〉[[1月20日]])、のち'''東久邇 稔彦'''(ひがしくに なるひこ)は、[[日本]]の[[旧皇族]]、[[政治家]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[東久邇宮]]初代当主。 [[陸軍士官学校 (日本)|陸士]][[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#20期|20期]]・[[陸軍大学校|陸大]][[陸軍大学校卒業生一覧#26期 (大正3年卒)|26期]]。最終[[階級]]は[[陸軍大将]]。[[位階]][[勲等]][[金鵄勲章|功級]]は[[従二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[功一級]]。 [[第二次世界大戦]]後、終戦処理内閣として[[内閣総理大臣]](在職[[1945年]][[8月17日]]-1945年[[10月9日]])に就任<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2962080/6 『官報』号外、昭和20年8月17日]</ref><ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E7%A8%94%E5%BD%A6-119101#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ) 東久邇稔彦 (コトバンク)]</ref>。憲政史上唯一の'''[[皇族]][[内閣 (日本)|内閣]]'''を組閣。 内閣総理大臣として、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対する降伏文書の調印<ref name="sekaidaihyaka">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E7%A8%94%E5%BD%A6-119101#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版 東久邇稔彦 (コトバンク)]</ref><ref name="kokugodaijiten">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E7%A8%94%E5%BD%A6-119101#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典 東久邇稔彦 (コトバンク)]</ref>、[[日本軍|軍]]の解体<ref name="kokugodaijiten"/>と復員<ref name="sekaidaihyaka"/>、行政機構の平時化<ref name="kokugodaijiten"/>、占領軍受け入れ<ref name="kokugodaijiten"/>などを実施した。しかし、自由化政策<ref group="注釈">内相及び内務警察官僚4000名の罷免と[[治安維持法]]の撤廃、[[特別高等警察]]の廃止</ref>を巡る[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]と[[内務省 (日本)|内務省]]による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した<ref group="注釈">東久邇宮首相は、副総理格の緒方竹虎の意見を求めると「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で[[内閣総辞職]]しよう」と述べ、これに首相が同意し、内閣は総辞職した(産経新聞 2002年6月10日掲載)</ref>。在任日数54日間は、長らく[[内閣制度]]史上最短記録であった<ref group="注釈">[[2021年]]([[令和]]3年)に[[第1次岸田内閣]]が38日で総辞職したため、内閣の在任記録はこちらが最短となった(ただし、総辞職後の[[特別会|特別国会]]で、[[岸田文雄]]が再び首相に選出されている)。</ref>。 内閣総理大臣退任後の[[1946年]](昭和21年)に[[公職追放]]となり<ref name="britanicca">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E7%A8%94%E5%BD%A6-119101 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 東久邇稔彦 (コトバンク)]</ref>、[[1947年]](昭和22年)に臣籍降下した<ref name="britanicca"/>。[[1950年]](昭和25年)には新興宗教「{{仮リンク|ひがしくに教 (宗教)|label=ひがしくに教|en|Higashikuni-kyo}}」を立ち上げて一時教祖となった<ref name="britanicca"/><ref name="nipponica"/>。しかし手がけた事業はことごとく失敗した<ref name=":0">{{Cite book|editor=[[鳥海靖]]|title=歴代内閣・首相事典|publisher=吉川弘文館}}</ref>。 歴代内閣総理大臣の中の最長寿者(102歳48日=37303日で死去)。[[千葉工業大学]]の創設に当たってはその発案者となった人物。 [[香淳皇后]]は姪、第125代天皇・[[明仁]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])は従孫に当たる。 == 来歴 == === 生い立ち === 1887年(明治20年)、[[久邇宮朝彦親王]]第九王子として誕生<ref name=":0" />。[[学習院初等科]]の同期生には異母兄の[[朝香宮鳩彦王|鳩彦王]]、[[有栖川宮威仁親王]]第一王子の[[栽仁王]]、[[北白川宮能久親王]]第三王子の[[北白川宮成久王|成久王]]、同第四王子の[[小松輝久|輝久王]]などのほか、[[里見弴]]もおり親友となる。 宮家の末子として本来ならば成人の後[[臣籍降下]]して[[伯爵]]となるところだったが、[[明治天皇]]の第九皇女である[[東久邇聡子|聡子内親王]]の婿を確保するための特例として、[[1906年]](明治39年)に[[東久邇宮]]の宮号を賜り一家を立てた。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]に入り、1908年(明治41年)12月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](20期)を卒業。1914年(大正3年)11月、[[陸軍大学校]](26期)を卒業<ref name=":0" />。 === 留学 === [[1915年]]([[大正]]4年)に予定通り聡子内親王と結婚。[[1920年]](大正9年)から[[1926年]](大正15年)まで、[[フランス第三共和政|フランス]]に留学した。[[サン・シール陸軍士官学校]]で学び、卒業後は[[エコール・ポリテクニーク]]で、政治、外交をはじめ幅広く修学した。[[フランス陸軍大学校]]42期<ref>{{Cite web |title=Promotions l'ESG - de 1 à 107 |url=https://www.ecole-superieure-de-guerre.fr/promotions/list/search/1/107?nom=&prenom=&other=&nationalite=Japon&arme=&valid=Rechercher |website=www.ecole-superieure-de-guerre.fr |access-date=2023-05-26}}</ref>。そして後述するように、この留学時代にフランスの自由な気風に馴染み、画家の[[クロード・モネ]]や元[[フランスの首相|首相]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]、そして[[第一次世界大戦]]の英雄として知られた[[ジョゼフ・ジョフル]][[元帥]]や[[フィリップ・ペタン]]元帥と親交を結んだり、[[自動車]]運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の[[自由主義]]的思想の持ち主として知られるようになる。なお東久邇宮は、フランスへの長期に渡る滞在に至った理由について①[[山縣有朋]]元帥[[陸軍大将]]と[[上原勇作]]元帥陸軍大将ら陸軍上層部から「なるべく永く外国に滞在し、向こうの知名の人と親しくなるように」言明されたこと、②滞在地フランスで、「はじめて自由を味わい、また人間としての個人的自覚を獲得した」ことを挙げている。 フランス留学の経験から、欧米と日本をはじめとする[[アジア]]諸国の科学技術力の格差やアイデンティティーの違いを感じた東久邇宮は、[[大日本帝国海軍|海軍]]元帥の[[永野修身]]や[[教育関係人物一覧|教育学者]]の[[小原國芳]]、そして哲学者の[[西田幾多郎]]らと共に、①日本をはじめとする各国の国家枢要の人材養成、②アジア諸国の科学技術教育の発展と向上、③アジアを背負い世界文化へ貢献する為の拠点の創成などを目指して(詳細は関連項目のウィキソース「興亞工業大學設立趣意書」を参照のこと)1942年(昭和17年)、興亜工業大学(後の[[千葉工業大学]])の創設に尽力している。<!-- なお、同校は[[テクノクラート]]を養成するための理工系高等教育機関として、小原らが唱えていた[[新教育]]を基礎とし、精神教育の面は日本の[[咸宜園]]・[[松下村塾]]などを手本とし、技術教育の面は在学していたエコール・ポリテクニークを手本にして造られたといわれている。--><!-- 投げ込み脱線トリビア/「[[千葉工業大学]]」の記事内容 --> [[大正天皇]]の容態が思わしくないとの報が遊学中の東久邇宮に入っていたが、息苦しい日本に戻るのを嫌って滞在を続けていた東久邇宮は一向に帰国の素振りを見せず問題となった。日本で留守宅を守っていた妃の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と東久邇宮の従者に手紙を送りつけるほどだった。東久邇宮は[[権威主義]]や[[形式主義]]を重んじる大正天皇とは馬が合わず、不仲だったともいわれる。結局、東久邇宮の帰国は大正天皇の崩御後となり、フランス滞在は7年間にも及んだ<ref name=":0" /><ref>『宮家の時代』{{ISBN2|4022502266}}</ref>。 === 軍人生活 === 帰国後は、[[近衛歩兵第3連隊]]長・[[第2師団 (日本軍)|第二師団]]長・[[第4師団 (日本軍)|第四師団]]長・[[陸軍航空本部]]長を歴任した<ref name=":0" />。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。 [[支那事変]]([[日中戦争]])では[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]司令官として[[華北]]に駐留し、[[武漢作戦|武漢攻略作戦]]に参加した<ref name=":0" />。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入には極めて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部という位置にもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。[[1939年]](昭和14年)に[[陸軍大将]]に昇進<ref name=":0" />。 [[1941年]](昭和16年)8月5日、[[昭和天皇]]に謁見した際、天皇は「軍部は[[統帥権]]の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに[[コーチシナ|南部仏印]]([[フランス領インドシナ]]、現在の[[ベトナム]]南部)進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、[[杉山元|杉山]]参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度([[大日本帝国憲法]])では、陛下は[[大元帥]]で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、[[立憲君主制|立憲君主]]の枠を越える危険を冒してでも[[天皇大権]]によって陸軍を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、[[イギリス]]訪問時に感銘を受けた昭和天皇の立憲君主制への拘りは強く、東久邇宮の助言は届かなかったという。 日米開戦直前の[[1941年]](昭和16年)10月、[[第3次近衛内閣]]総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。対米戦争回避を主張するリベラル派の皇族である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、日米交渉妥結を志向する[[近衛文麿]]・[[広田弘毅]]・海軍ら穏健派以外のみならず、強硬派の[[東條英機|東条英機]]も東久邇宮が陸軍の軍人であることから賛成した。しかし[[木戸幸一]][[内大臣府|内大臣]]の、皇室に累を及ぼさぬようにという反対によりこの構想は潰れ、東条が首相に抜擢された。 日華の和平を説き、[[太平洋戦争]]前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招き入れ、戦争回避の糸口を模索するも結局は開戦に至った<ref>『やんちゃ孤独』155頁</ref>。1941年(昭和16年)9月には[[頭山満]]に[[蔣介石|蒋介石]]との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。 1941年12月に[[防衛総司令部|防衛総司令官]]へ就任<ref name=":0" />。 [[1942年]](昭和17年)元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に[[高松宮宣仁親王]]との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情を初めて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。 大戦中は海軍の高松宮と共に大戦終結のために奔走した。 [[1945年]](昭和20年)[[4月16日]]、[[東京大空襲]]に遭遇。[[港区 (東京都)|港区]][[麻布]]にあった東久邇宮御殿本邸が全焼したが、東京にとどまり敷地の[[防空壕]]の近くに一間の仮居を建てて終戦まで暮らした<ref>焼け跡に簡素な生活、東久邇宮(昭和20年8月17日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p698 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 もっとも大戦末期に起きた[[宮城事件]]では、[[鈴木貫太郎]]首相らと同様、断固交戦を唱える[[佐々木武雄]]が率いる「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされるという被害に遭っている。 === 内閣総理大臣 === ==== 就任 ==== [[ファイル:Prince Naruhiko Higashikuni Cabinet 19450817.jpg|300px|thumb|東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣閣僚]] [[ポツダム宣言]]受諾・降伏決定発表の3日後、[[1945年]](昭和20年)[[8月17日]]、東久邇宮は内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。このことについて東久邇宮は「この未曾有の危機を突破するため、死力をつくすことは日本国民の一人として、また、つねに優遇を受けてきた皇族として、最高の責任であると考えた」としている。 [[副総理]]格の[[国務大臣]](無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]には[[重光葵]]、[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]には[[津島寿一]]、[[内閣書記官長]]兼[[情報局|情報局総裁]]には[[緒方竹虎]]が任命された。また[[海軍大臣]]には元首相の[[米内光政]]が留任した。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した9月半ばに、後任の外相として[[吉田茂]]を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた[[下村定]]陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日 - 23日)、東久邇宮が兼任した。 新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇總理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ<ref group="注釈">宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記されていた。</ref>。 ==== 降伏と武装解除 ==== [[ファイル:Surrender of Japan - USS Missouri.jpg|thumb|200px|日本側全権代表団]] 日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の要求する「[[日本軍]]の武装解除」であった。なお、東久邇宮内閣の最重要の課題は「無血進駐」だったが、[[ダグラス・マッカーサー]]率いる[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)から、一発でも発砲されれば連合国軍は「武力進駐に切り替える」と通達されていた<ref>『神奈川県警史』</ref>。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や戦争による一時占領地に皇族を[[勅使]]として派遣し、現地部隊の説得に当たらせている。 また、[[連合国軍占領下の日本|連合国による占領統治]]の開始が滞りなく開始されるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。[[玉音放送]]が行われて18日後の[[9月2日]]には、[[東京湾]]沖の[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ号]]上で日本国政府ならびに日本軍統帥部の全権代表 (外務大臣重光葵、参謀総長[[梅津美治郎]])により[[日本の降伏文書]]に調印がされ([[日本の降伏]])、正式に太平洋戦争([[大東亜戦争]])は終結した。 ==== 賀川豊彦と一億総懺悔運動 ==== 東久邇宮は、平和運動の第一人者だった[[賀川豊彦]]を[[総理大臣官邸|首相官邸]]に招き「今や日本の道徳は地に落ち、人心はすさみ、誰もこれを救う力がありません。外国人への敵対心と憎しみを取り除かないとポツダム宣言の発表ができないのです。世界平和を目指して諸外国と日本を結ぶために活動する資格のある者は、あなたをおいて他にないように思われます。そこで人心を新たにするために、内閣に参与制度を作ることにしました。ぜひあなたも参与になってください。そして、どうしたらいいか、意見を聞かせてください」と相談した。 これを受け、賀川は今後の日本の国家的方針について[[日本基督教団]]の団員たちに相談すると、教団主事の[[木俣敏]]が「早急に国民に呼び掛けて、[[キリスト教徒]]もそうでない者も一つになって、過去における生き方、考え方を反省し、懺悔をする運動を起こしたらどうでしょうか」と提案したという、賀川と教団の役員たちはこの意見に賛成を表明し、東久邇宮に総懺悔運動について提案をした。この意見を聞いた東久邇宮は最初、驚いた顔をしたという。 賀川は続けて「そうです。まだ戦争が始まらない頃、ある有名な議員の方が来られて、日本の軍隊は世界最強だと言われました。私はその時、日本があたかも聖書で語られている放蕩息子のような気がしたのです」 「日本ほど恵まれた国はありません。豊かな作物、温順な気候、他国の侵略を受けにくい地形。それなのに、いつの間にか日本は平和に慣れきって、ぜいたくになり、富める者は貧しい者を搾取し、資本家と結びついて一大工業国となりました。しかも軍備を誇り、何の抵抗もしない他国を侵略し、残虐行為を繰り返した」 「私はこの放蕩息子がいつか行き詰まり、破滅しないわけはないと思いました。果たして、日本は敗戦によって打ち砕かれました。今日本がなすべきことは、放蕩息子が本心に立ち返り、父に許しを求めてそのもとに帰ったように、国民が一つとなり、今までの生き方、考え方を反省し、懺悔をして新しく出直す以外にありません」と述べた。 これを聞いた東久邇宮は頷き「ラジオを通してあらゆる人に懺悔を呼び掛けましょう。老いも若きも、男も女も、職業のいかんを問わず、こぞって過去の思い上がりを改め、平和国家に生きる民としての一歩を始めるように」と述べたとされる<ref>[https://www.christiantoday.co.jp/articles/21355/20160704/kagawa-toyohiko-13.htm 社会的弱者の友として―賀川豊彦の生涯(13)国民総ざんげ運動ー 栗栖ひろみ筆]</ref>。 ==== 一億総懺悔のラジオ放送 ==== 玉音放送が行われて翌々日の[[1945年]](昭和20年)[[8月17日]]に開かれた[[日本人]]記者団との初の記者会見において、東久邇宮は国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に帝国議会で行われた施政方針演説においても次のように発言した。 {{Quotation|事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。'''全国民総懺悔'''することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。(中略)敗戦の因って来る所は固より一にして止まりませぬ、前線も銃後も、'''軍も官も民も総て、国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し'''、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相援け相携えて各々其の本分に最善を竭し、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります}} このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、政治家や官吏、軍人による「国家政策の誤り」を認めると同時に、戦争を望み煽った「'''国民の道義的責任'''」についても言及するものだった。その発言は、日本の[[戦争責任]]の所在を曖昧にし、ひいては[[昭和天皇の戦争責任論|昭和天皇への問責]]を回避するための理論だとして国民の間で反発を招く一方で、問題への関心を高めた。 すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを回避するため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、[[戦争犯罪]]に関してあくまでも日本による自主的な裁判を開廷することが決定された。 一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え<ref>朝日新聞夕刊連載『新聞と戦争』「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。</ref>、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)の準備にとりかかっている。 ==== 昭和天皇の退位について ==== [[外務省|外務]][[官僚]]の[[田尻愛義]]が、「日本再建のためには、昭和天皇の退位と皇室財産の下げ渡しが必要だ」と主張したのに対し、東久邇宮首相も「そう思う」と賛同した上で「天皇も同じお気持ちだと推察される」との考えを示した<ref>『田尻愛義回想録:半生を賭けた中国外交の記録』原書房、1977年</ref>。 実際、昭和天皇自身も[[玉音放送]]が放送された二週間後に「戦争責任者を連合国に引き渡すのは真に苦痛にして忍び難きところであるが、自分が一人引き受けて、退位でもして、納める訳にはいかないだろうかとのおぼし召しあり」と述べており<ref>1966年『木戸日記』木戸幸一著</ref>、国民だけでなく、時の首相をはじめ、高松宮をはじめとする皇族の一部や高級官僚、さらには昭和天皇自身までもが退位論に傾いていた。 しかし、占領政策を進めていた[[ダグラス・マッカーサー]]率いる連合国軍総司令部は、昭和天皇が戦争犯罪で裁判に付せられれば日本各地で反乱が起きる可能性があり、占領政策がうまくいかないのではないかと危惧していたことに加え、昭和天皇自身が占領政策に全面的に協力する姿勢を示したため、GHQの占領政策が優先され、天皇退位論は立ち消えとなった。 ==== 戦後日本の国家方針の策定 ==== [[東久邇宮内閣]]では大戦後の日本の進むべき国家方針について話し合われ「'''平和的新日本ヲ建設シテ人類ノ文化二貢献セムコトヲ欲シ'''」という国家目標が定められたが、この一文は「'''首相宮御訂正'''」と明記されていることから、東久邇宮自らが書き込んだものとされる。 ==== 総辞職 ==== 東久邇宮は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら、政治犯釈放は[[戦後混乱期]]に喘ぐ中にあって[[共産主義革命]]の勃興を憂慮した[[内務省 (日本)|内務省]]と[[司法省 (日本)|司法省]]の反対により実現しなかった。 内務省は、[[モーニングコート]]を着用し直立する「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着用し腰に両手を当ててやや体を傾ける姿勢の[[ダグラス・マッカーサー]]と並び立っている会見写真の公表を阻止するために、[[山崎巌]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施<ref>[[粟屋憲太郎]] 『敗戦直後の政治と社会 第2巻』 [[大月書店]] p.453</ref>し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎を逮捕して[[軍事裁判]]にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎内相は発禁処分を撤回した。 GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、[[治安維持法]]などの[[国体]]及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、[[特別高等警察]]の廃止、内務大臣以下、[[警保局|警保局長]]、[[警視総監]]、道府県警察部長、特高課長などの一斉[[罷免]]を求めた。なお、この時点では[[共産主義|共産主義者]]の釈放は行われていなかった([[徳田球一]]は東久邇宮の総辞職5日後の[[10月10日]]に[[府中刑務所]]を訪れた[[フランス人]][[ジャーナリスト]]の[[ロベール・ギラン]]によって発見され出獄)が、東久邇宮と緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した<ref>今西光男 『占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎』 [[朝日新聞社]] p.84 - 85</ref>。なお、当時の新聞は、総辞職の直接の契機が皇室に関する自由論議の問題にあったということに触れている<ref>幣原喜重郎に組閣の大命(昭和20年10月7日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p239</ref>。 === 首相辞任後 === ==== 皇籍離脱 ==== 1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮は[[皇室]]の「敗戦の責任を取るため」として、[[皇族]]の身分を離脱する意向であることを表明、[[賀陽宮恒憲王]]などがこれに同調した。 1946年(昭和21年)2月に東久邇宮は、「[[宮内庁]]の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任(「[[昭和天皇の戦争責任論]]」)を取るため退位する意思があること、これへの賛同者は昭和天皇に「道徳的、精神的な責任」を有すると考えていることを[[AP通信]]記者に述べている。東久邇宮は早期から天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦争犯罪人裁判における昭和天皇罪状免責を決定していたGHQでは、「退位論」(当時の[[法定推定相続人|皇位継承者]]であった[[明仁|皇太子明仁親王]]への譲位、また未成年であった皇太子が成人するまでの間は、三人いた皇弟の一人・高松宮宣仁親王が[[摂政]]を務めるという案)の進展が[[天皇]]の責任問題につながりかねないとして警戒し、[[日本国政府|日本政府]]および皇室関係者をはじめ宮中と連絡してこれに対応した。 [[1946年]](昭和21年)5月23日、[[貴族院 (日本)|貴族院]]皇族議員を辞職<ref>『官報』第5822号、昭和21年6月13日。</ref>。同じ年に[[公職追放]]を受けている<ref name=":0" /><ref>『朝日新聞』1947年10月17日二面。</ref>(1952年解除<ref>『朝日新聞』1952年4月22日夕刊一面。</ref>)。[[1947年]](昭和22年)[[10月14日]]、稔彦王も11宮家51名の皇族の一人として[[臣籍降下|皇籍を離脱]]し、以後は'''東久邇 稔彦'''(ひがしくに なるひこ)と名乗った。 ==== 臣籍降下後 ==== その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に[[新宿]]西口に[[闇市]]の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も[[喫茶店]]の営業や東久邇家所蔵の[[骨董品]]の販売を行ったがいずれも長続きしなかった。その理由は東久邇本人が曲がったことが大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの価格で取り扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると東久邇は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。 [[1948年]](昭和23年)には、[[尾崎行雄]]・賀川豊彦・[[下中弥三郎]]・[[湯川秀樹]]と共に「世界連邦建設同盟」(現在の[[世界連邦運動]]協会)を創設した。同年10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に[[津島寿一]]、[[渋沢敬三]]、[[次田大三郎]]らとともに[[証人喚問]]された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=100305052X00719481020&current=15 第3回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第7号 昭和23年10月20日]</ref>。 [[1950年]](昭和25年)4月15日に[[禅宗]]系の[[新宗教]]団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が[[宗教団体]]を興すことには問題があるとして[[法務庁|法務府]]から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称で、仏教各派をはじめ、キリスト教など世界各地の宗教や宗派の垣根を越えて平和の大切さを広めるためのものであったが、GHQの指導によって「ひがしくに教」となってしまった。この一件について東久邇は「一部の人に、私が不用意で利用されたのはいけなかったが、私は晩年を、この世界平和運動にささげたいと念願しています」と語り、自らにも利用されてしまった責任があるとして自身の軽率な態度について反省したとされる<ref>[https://kikunomon.news/article/14811#i-6 結局「ひがしくに教」ってなに?]</ref>。また、[[東京都]]からも[[宗教法人]]として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。 同年[[フリーメイソン]]に入会<ref>{{Cite web |author= Professor Andrew Prescott(Kings College, London) |url= http://www.scribd.com/doc/56283187/International-Conference-on-the-History-of-Freemasonry |title= International Conference on the History of Freemasonry 2011 |work= Paper 4a: General MacArthur and the Grand Lodge of Japan(Pauline Chakmakjian, UK.) |publisher= [[Scribd]] |accessdate=2014-10-31}}</ref>。[[1957年]](昭和32年)[[6月]]、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる<ref group="注釈">{{Cite web|和書|url=http://www.freemasonryinjapan.com/J-famous.htm|title=七人の有名な日本人メィーソン|publisher=東京メソニックセンター|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090607101047/http://www.freemasonryinjapan.com/J-famous.htm|archivedate=2009年6月7日|accessdate=2011-03-30|quote=1957年6月、東久邇は東京の友愛ロッジでメイソンになった。|deadlinkdate=2017年10月}}<br />このサイトにおける「メイソン」とは第3階級の「マスターメイソン」を言っている。</ref>。[[1960年]](昭和35年)、[[安保闘争|六十年安保闘争]]をめぐる騒動で、[[石橋湛山]]・[[片山哲]]とともに三人の首相経験者の連名で時の首相[[岸信介]]に退陣を勧告。 [[1964年]](昭和39年)4月29日、[[賞杯|菊紋の銀杯一組]]を賜る。[[1971年]](昭和46年)には[[桟勝正]]<!--(桟勝正は初代理事長)-->が創設した[[日本文化振興会]]の初代総裁になる。[[1978年]](昭和53年)、聡子夫人と死別。 ==== 死去 ==== [[1990年]]([[平成]]2年)[[1月20日]]に102歳で[[死去]]。死の間際、うわごとで「[[ラ・マルセイエーズ]] La Marseillaise」をフランス語で唄ったという。 死後、[[従二位]]に叙され、特例として[[豊島岡墓地]]に葬られた。 ===最長寿者 === 東久邇は、世界の首相経験者の中での最長寿者であり、[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に登録されていた<ref>{{Cite web|和書|title=知的巨人たちの百歳学(143)世界の総理大臣、首相経験者の最長寿者としてギネスブック登録された昭和天皇の叔父の東久邇稔彦(102歳)|url=http://www.maesaka-toshiyuki.com/longlife/12643.html|website=前坂俊之オフィシャルウェブサイト|accessdate=2019-11-29|language=ja|publisher=|author=[[前坂俊之]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191129060053/http://www.maesaka-toshiyuki.com/longlife/12643.html|archivedate=2019-11-29}}</ref>。世界の[[首相]]経験者で長寿だったのは、最も長寿の方から順に[[チャウ・セン・コクサル・チュム]]([[1905年]] - [[2009年]]。103歳4か月没、第40代[[カンボジアの首相|カンボジア王国首相]])、[[アントワーヌ・ピネー]]([[1891年]] - [[1994年]]。102歳11か月没、[[フランス]]第123代[[フランスの首相|閣僚評議会議長]])、東久邇宮稔彦王(102歳1か月没)、[[ウィレム・ドレース]](101歳11か月没、[[1988年]]死去、[[オランダ王国]]首相{{Efn|「オランダ王国首相」は、[[外務省]]公式サイトの「オランダ王国 - 基礎データ」の記載に倣った<ref>{{Cite web|和書|title=オランダ王国(Kingdom of the Netherlands)基礎データ|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/netherlands/data.html#section1|website=外務省|accessdate=2019-11-30|language=ja|publisher=[[外務省]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191130072117/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/netherlands/data.html|archivedate=2019-11-30}}</ref>。}})、[[中曽根康弘]](101歳6か月没、[[2019年]]死去、内閣総理大臣)となる。 東久邇は記録の確かな日本皇族([[皇籍離脱]]した者を含む)の中での最長寿者(102歳48日=37303日)であったが、[[2014年]](平成26年)に[[遷化]]した[[東伏見慈洽]](103歳7か月16日=37851日。[[香淳皇后]]の弟、東久邇の甥)によって更新された。 東久邇が死去した当時、彼は内閣総理大臣経験者で最古参(1953年の阿部信行没後自身が死去するまで)でもあり、19世紀生まれの首相経験者で最後の存命者であった(1978年の片山哲没後は最年長にもなっていた)。また、元陸海軍大将では最後の存命者でもあった。 == 栄典 == * [[ファイル:JPN Kyokujitsu-sho Paulownia BAR.svg|45px]] [[1908年]](明治41年)[[4月23日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第7446号、「叙任及辞令」1908年04月25日。p.591</ref> * [[ファイル:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|45px]] [[1917年]](大正6年)[[10月31日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref>『官報』第1575号、「叙任及辞令」1917年11月01日。p.6</ref> * [[ファイル:First World War Medal (Japan).png|45px]] [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[賞杯|金杯一個]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三年乃至九年戦役従軍記章]]<ref>『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。</ref> * [[ファイル:Capital Rehabilitation Commemorative Medal Ribbon.jpg|45px]] [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#帝都復興記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742</ref> * [[1940年]](昭和15年)[[8月15日]] - [[記念章#紀元二千六百年祝典記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref> * [[ファイル:JPN Kinshi-kunsho 1Class BAR.svg|45px]] [[1942年]](昭和17年)[[4月4日]] - [[功一級金鵄勲章]]<ref>『官報』第4570号、「宮廷録事 勲章親授式」1942年04月07日。p.213</ref> * 1964年(昭和39年)4月29日 - 銀杯一個 * 1990年(平成2年)1月20日 - 従二位 == エピソード == [[ファイル:HIH Prince Higashikuni Naruhiko.jpg|thumb|200px|フランス留学時代の東久邇宮]] [[ファイル:関西大学予科生の教練を視察する東久邇宮(1935年11月).jpg|thumb|[[関西大学]]予科生の教練を視察する東久邇宮(1935年11月)]] * 陸軍士官学校在校中、1期上である[[山中峯太郎]](のちに作家)の影響で、[[レフ・トルストイ]]『[[復活 (小説)|復活]]』([[内田魯庵]]訳)を読んだことが発覚し、物議を醸した。これが明治天皇の耳に達したため一時は臣籍降下まで検討されたが、一方で明治天皇は、稔彦王のこれら変わった立ち振る舞いを、知的好奇心の表れだとして評価していたとされる。 * 陸軍大学校在校中に明治天皇に陪食(食事をともにすること)を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、[[皇太子]]嘉仁親王(後の大正天皇)に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。 * フランス留学前に自動車の運転を覚えていた。そのフランス留学中、同じく留学中だった北白川宮成久王からドライブに誘われたが、「[[ロンドン]]に行く用がある」という理由で断った。代わりに[[朝香宮鳩彦王]]を誘ったが、北白川宮の運転する車はスピードの出し過ぎで立ち木に激突し、北白川宮は即死、朝香宮も重傷を負った。 * パリ留学中は愛人との生活に耽溺し<ref>佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書p.184,2007。</ref>、たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、大正天皇の[[崩御]]と[[大葬]]を契機に、折からロンドンに留学中だった[[小松輝久]]侯爵が[[パリ]]に乗り込んで直談判し<ref>浅見雅男『伏見宮―もう一つの天皇家』講談社p.289,2012。</ref>、ようやく帰国した。帰国した時には皇族の中でも[[自由主義|自由主義者]]として知られるようになっていた。 * [[近衛文麿]]から第二次世界大戦を避け、日米交渉を継続する為、次期首相にと打診を受けた。当時の日本国内は軍の中堅幹部を始め、[[報道機関]]も日本国民も開戦を望む風潮で、この流れに異を唱えたならば逆賊としてテロを加えられるような世の中だったが、宮は「私は殺されてしまうかもしれないが、頑張って半年は持ちこたえて見せよう」とまで述べたという。しかし、木戸幸一内大臣の判断により、この時点では東久邇宮内閣が成立することはなかった。 * フランス留学中に、画家の[[クロード・モネ]]について絵筆をとった。モネに親友の[[ジョルジュ・クレマンソー]]を紹介され親交を深めた。[[フィリップ・ペタン]]元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(''[[オレンジ計画]]も参照'')」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、[[西園寺公望]]以外に誰も耳を傾ける者はいなかった。[[日米交渉]]も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸相の地位にあった東条英機に、稔彦王はクレマンソーのこの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東条は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した<ref>『やんちゃ孤独』101-108頁、159-162頁</ref>。 * フランス留学中に東久邇宮は「自分は画家である」と老婆の手相見に言ったが、手相見は「あなたは日本の首相になる」と言った。東久邇宮は身分を明かして「私は日本の皇族でしかも軍人である。日本では皇族や軍人が政治をやることは禁じられているから、首相にはなれない」と反論したが、「いや、日本に大革命か大動乱が起きる。その時に必ずあなたは首相になる」と言い切った。実際に首相に就任してからこの話を思い出し、「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いも馬鹿にならぬと思った」と、日記に書いた<ref>広岡裕児『皇族』読売新聞社281-282頁</ref>。 * 武装解除の際、[[小園安名]]海軍大佐率いる[[第三〇二海軍航空隊]](神奈川県・厚木飛行場駐留)は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなどの反乱状態に陥った([[厚木航空隊事件]])。8月16日、米内海相の命により[[寺岡謹平]]海軍中将や海軍大佐の高松宮、第三航空艦隊参謀長・[[山澄忠三郎]]海軍大佐などが説得にあたったが、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。東久邇宮内閣は小園大佐を拘束し、[[国立病院機構久里浜医療センター|野比海軍病院]]の精神科へ強制的に収容した。この時のことを宮は「もし、[[アメリカ軍|米軍]]先遣隊が厚木飛行場に進駐した時、わが方がこれを攻撃でもしたら、将来アメリカに行動の自由を許す口実を与えることになる。厚木飛行隊は最も優秀な防空飛行隊で私は同飛行隊将校に同情をしたが大局から見て許すことができなかった。こうして24日夕までに完全にわが飛行機は飛べないことになった。まったく、毎日毎日剣の刃渡りをしている気持ちである」と日記に記している。 * 東久邇宮は第二次世界大戦中の日本について「戦時中、日本は小さなことにこせこせしたが、大きなことにはぬかっていた。全体と部分との混同が、至るところに見られた。部分的には実に立派なものであるが、全体的に総合すると、てんでんばらばらのものばかりで役にはたたなかった」と評価している。 * 連合軍の占領直後には「'''終戦'''」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸相に国民の混乱を防ぎ、時局収拾を円滑にするため「'''終戦'''」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。 * 東久邇宮は国民の意見を国政に反映したいと考え、「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけたという。すると毎日数百通に上る国民からの手紙が舞い込んできたという。 * [[ダグラス・マッカーサー]]元帥に面会した際「アメリカは封建的遺物の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。もし元帥が不適当とみるなら、私は明日にも首相を辞める」 と述べた。これに対し、マッカーサー元帥は「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか、非[[民主主義]]と言うのは、その人の生まれた家柄を言うので、あなたの思想・行動は非民主主義とは思わない」と対応した。 * 第二次世界大戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」とも書き記している。 == 発言 == [[ファイル:TetsudoDai2RentaiSeimon20100606.jpg|thumb|right|270px|[[千葉工業大学|旧・興亜工業大學(現在の千葉工業大学)]]]] {{Quotation|目の前の小さな現象に目を奪われて、遠い目標を見失ってはならない}} == 家族 == * 父:[[久邇宮朝彦親王]] * 母:寺尾宇多子 * 兄弟:[[賀陽宮邦憲王|邦憲王]] - [[久邇宮邦彦王|邦彦王]] - [[梨本宮守正王|守正王]] - [[多嘉王]] - 暢王 - [[朝香宮鳩彦王|鳩彦王]] - '''稔彦王''' * 姉妹:智當宮 - [[東園栄子 (子爵夫人)|栄子女王]] - [[池田安喜子|安喜子女王]] - [[飛呂子女王]] - [[竹内絢子 (子爵夫人)|絢子女王]] - [[仙石素子|素子女王]] - [[懐子女王]] - [[壬生篶子|篶子女王]] - [[織田純子|純子女王]] * 妻:[[東久邇聡子|聰子内親王]] * 子: ** 第一王子:[[盛厚王]](1916年 - 1969年) ** 第二王子:[[師正王]](1917年 - 1923年) - [[関東大震災]]により薨去。 ** 第三王子:[[粟田彰常|彰常王]](1920年 - 2006年) - 1940年10月25日の臣籍降下で、侯爵位を授かり華族となった。 ** 第四王子:[[多羅間俊彦|俊彦王]](1929年 - 2015年) - 1947年、多羅間キヌの養子となりブラジルに移住。 == 系図 == {{旧皇族系図}} {{明治天皇系旧皇族}} == 関連作品 == ;映画 * [[226 (映画)|226]](1989年、演:[[徳田良雄]]) ;テレビドラマ * [[負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜]](2012年、NHK、演:[[今井朋彦]]) == 著作・伝記 == * {{Cite book|和書|author=東久邇宮稔彦|title=私の記録|publisher=東方書房|date=1947-03-25|id={{NDLJP|1041942}}}} **『東久邇宮稔彦王 皇族軍人伝記集成11』[[佐藤元英]]監修・解説、[[ゆまに書房]]、2012 -「東久邇日記」「やんちゃ孤独」の復刻 * {{Cite book|和書|author=東久邇稔彦|title=やんちゃ孤独|series=読売文庫|publisher=[[読売新聞]]社|date=1955-06-25|id={{NDLJP|3036271}}}} * {{Cite book|和書|author=東久邇稔彦|title=一皇族の戦争日記|publisher=日本週報社|date=1957-12-09|id={{NDLJP|2988038}}}} * {{Cite book|author=東久邇稔彦|和書|title=東久邇日記 : 日本激動期の秘録|publisher=[[徳間書店]]|date=1968-03-10|id={{NDLJP|2991775}}}} * [[浅見雅男]]『不思議な宮さまー東久邇宮稔彦王の昭和史』[[文藝春秋]]、2011、[[文春文庫]]、2014 * [[伊藤之雄]]『最も期待された皇族 東久邇宮 虚像と実像』[[千倉書房]]、2021。前半生の伝記 * 伊藤之雄『東久邇宮の太平洋戦争と戦後 陸軍大将・首相の虚実 一九三二~九〇年』[[ミネルヴァ書房]]、2021。後半生の伝記 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 東久邇稔彦『やんちゃ孤独』 * [[長谷川峻]]編著 『終戦内閣 東久邇政権・五十日』行研出版局、1987 * [[外務省]]編 『終戦史録』、解説江藤淳、北洋社(全6巻)、1978 * 外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録』 山手書房新社(上中下)、1990 * [[江藤淳]]編 『占領史録』 [[波多野澄雄]]解題、[[講談社]] 全4巻、1982 ::[[講談社学術文庫]] 全4巻、1989、同文庫新版 全2巻、1995 * 江藤淳編『もう一つの戦後史』講談社 1978 - インタビュー集 * [[佐藤元英]]、[[黒沢文貴]]編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』 ::上・下 &lt;明治百年史叢書&gt; [[原書房]] 2002 * [[林茂]]、[[辻清明 (政治学者)|辻清明]]編 『日本内閣史録 5』 第一法規 1981 * [[鈴木九萬]]一監修 『日本外交史 26 終戦から講和まで』 [[鹿島出版会|鹿島研究所出版会]] 1973 * 『日本占領・外交関係資料集 第1巻』 荒敬編・解題、[[柏書房]] 1991 {{ISBN2|4643980745}} * [[広岡裕児]] 『皇族』 [[読売新聞社]]、1998、[[中公文庫]]、2002 {{ISBN2|4122039606}} * 『宮家の時代』 [[鹿島茂]]編、[[朝日新聞]]社、2006 {{ISBN2|402-2502266}} * 『日本の肖像 第12巻 旧皇族 閑院家 東久邇家 梨本家』 ::[[大久保利謙]]監修、社団法人[[霞会館]]後援、[[毎日新聞]]社、1991 == 関連項目 == {{Commonscat|Prince Higashikuni Naruhiko}} {{Wikisource|興亞工業大學設立趣意書}} * [[第二次世界大戦前の日本の政治家一覧]] * [[連合国軍占領下の日本]] == 外部リンク == * [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/043.html 歴代内閣ホームページ情報:東久邇宮稔彦王 内閣総理大臣(第43代)] * 第88回帝國議会(臨時会)[https://worldjpn.net/documents/texts/pm/19450905.SWJ.html 戦争集結ニ至ル経緯竝ニ施政方針演説](1945年9月5日) * {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/hon-po-mu.html |title=百年の遺産-日本近代外交史|date=20130427091000}} * {{Kotobank|東久邇稔彦}} {{S-start}} {{S-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN1889}} [[内閣総理大臣]] | before = [[鈴木貫太郎]] | years = 第43代:1945年 | after = [[幣原喜重郎]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN1889}} [[陸軍大臣]] | before = [[阿南惟幾]] | years = 第34代:1945年 | after = [[下村定]] }} {{S-mil}} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN1889}} [[防衛総司令部|防衛総司令官]] | before = [[山田乙三]] | years = 第2代:1941年 - 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鈴木貫太郎
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。また江戸時代生まれの最後の内閣総理大臣である。 1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。 1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入校(14期)。1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の上崎辰次郎上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡、金剛を経て、1897年(明治30年)海軍大学校入校、砲術を学んだ後、1898年(明治31年)甲種学生として卒業。 1888年(明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である。 ドイツ駐在中だった1903年(明治36年)9月26日、鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次 に腹をたて退役まで検討した。しかし「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた。 「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令を経て、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。 1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁親王(昭和天皇)の幼少期の教育係を勤めていた足立たかと再婚。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。 1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。 宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという。 1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。 午前5時ごろに安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。鈴木ははじめ一隊に応戦するために納戸に置いていた刀を取りに行ったが、襲撃をうける前に妻のたかが泥棒が入られた時に刀でも持ってこられたら困ると思い片付けていたため鈴木は手ぶらで反乱軍の前に出ていった。はじめ安藤の姿はなく、下士官が「閣下でありますか?」と問うと鈴木が「そうだ、私が鈴木だ。 何事がおこってこんな騒ぎをしているのか、話したらいいじゃないか」と冷静に言ったが下士官たちが答えることはなくそのうち「暇がありませんから撃ちます」と言い鈴木が「じゃあ撃て」と言うと下士官が兵士たちに発砲を命じた。この時兵士たちが発砲した拳銃は、明治二十六年式拳銃であったことが後にたかが証言している。。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが鈴木がまだ息をしていることに気づき最後に一言を言いたいと思い「お待ち下さい!」と大声で叫び、「老人ですからとどめはお止めて下さい。どうしても必要というなら私が致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「とどめは残酷だからよせ、鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進みたかが「何事があってこのようなことになりましたか」と尋ねると、「誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、帰り際に女中部屋の前を通った際「こうして鈴木閣下を殺してしまった以上自分も自決しなければならない」を言っているのを部屋にいた女中が聞いておりその後玄関で待っていた兵士たちが安藤に「いかかでしたか」と聞くと、「完全に目的を達した」といい兵士を引き連れて官邸を引き上げた。この際この玄関での会話を聞いていた警視庁の巡査は警視庁に、鈴木死亡と連絡した。 反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかが止血の処置をとっていると官舎が横であった宮内大臣の湯浅倉平が兵士が去ったのを見計らって駆けつけた。鈴木は湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。湯浅が帰った後、近所に住んでいた日本医科大学学長塩田広重が駆けつけ、たかに「奥さんご安心なさい私がきましたから」と声をかけ部屋の中に入ったが鈴木は大量に出血しており、駆けつけた塩田がその血で転んで血まみれになってしまったという。鈴木は畳の上で撃たれた状態のままで横になっていたため布団を敷きその上にのちに駆けつけた鈴木の主治医とともに移動させた。この時、不用意に動かしてしまった為、鈴木の心臓が停止してしまった。その後、塩田が看護婦を連れてきて、鈴木の血液型を調べO型をいうことがわかったため大急ぎでO型の血液を運び込み輸血を行った。輸血を行うためO型の輸血用の血液を運んできた医師は総理大臣官邸沿いの道を通ってきたため、途中反乱軍に「こっちへ来てはならん。」と止められたが、その止めた反乱軍の兵士が血液を運んできた医師に以前に助けられていたため、医師が事情を話すと「ここでそんなことを言っちゃなりません。私がついて行ってあげますから」と兵士に案内され反乱軍に止められることなく鈴木邸へ着くことができたという。。 塩田とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。 この時体の中に残った弾丸は塩田が鈴木に「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と提案したが、結局鈴木はこの提案を断り、生涯弾丸は体の中に残ったままであった。 安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。 1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語ったと、当時の宮司夫人などにより伝えられている。 1941年(昭和16年)12月8日に日本は対米英開戦して太平洋戦争(大東亜戦争)に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、同月5日に戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。 構成メンバーは6名の総理大臣経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。ローマ帝国の滅亡もしかり、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡またしかりである。だから自分が政治の世界にでるのは、自分の主義や信念のうえからみても困難な事情がある。しかも、私は耳も遠くなっているのでお断りしたい。」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。 東條英機は、日本陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「国内が戦場になろうとしている現在、よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がソッポを向けば、内閣は崩壊するほかはない。」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「この重大な時局、大困難にあたり、いやしくも大命を拝した者に対してソッポをむくとはなにごとか、国土を防衛するのは、いったい、誰の責任であるか。陸海軍ではないか。」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、「卿に組閣を命ずる」と組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「陛下の御言葉は、誠に恐れ多く受け賜りました。ただ、このことは、なにとぞ拝辞のお許しをお願い致したいと存じます。昼間の重臣会議でも、このことはしきりに承りましたが、鈴木は固辞致しました。鈴木は一回の武臣です。これまでに政界とはなんら交渉もなく、又、何らの政治的な意見も持っておりません。鈴木は、軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日までモットーにしてまいりました。陛下の御言葉にそむくのは、大変恐れおおいとは思いますが、なにとぞ、この一事は拝辞のお許しをお願いしたいと願っております。」 「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して昭和天皇はにっこりと笑みを浮かべて、「鈴木がそのように考えるだろうということは、私も想像しておった。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危急の重大な時期にさいして、もう人はいない。頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われる深くうなだれて「とくと考えさせていただきます」とそれ以上は固辞しなかった。 天皇から頼まれて首相に就任するというのは異例のことだった。また、鈴木内閣の組閣が終わった後、鈴木は大宮御所にかつて鈴木を侍従長に推した貞明皇后を訪ねた際、鈴木が組閣の報告をすると、貞明皇太后は鈴木に椅子をすすめ、「今、歳の若い陛下が国運興廃の岐路に立って、日夜、苦悩されている。もともと陛下としてはこの戦争を始めるのは本意ではなかった。それが、今は敗戦につぐ敗戦を以てし、祖宗に受けた日本が累卵の危機にひんしている。鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである。どうか、親代わりになって、陛下の胸中の苦悩を払拭してほしいまた、多数の国民を塗炭の苦しみから救ってほしい」と鈴木に話し、涙を流した。 この話を鈴木は戦後まで語らず、戦後に千葉県の関宿で悠々自適な生活を送っていた鈴木を左近司政三が訪ねた際に秘話として声を詰まらせて、泣きながら鈴木は左近司に話したという。 4月5日の夜、大命を受けて午後11時過ぎに小石川の丸山町の自宅へ帰って来た鈴木は、玄関で、誰に言うともなく「困ったことになった」と呟きながら居間へ入った 翌6日鈴木と朝食を共にした一は「こうなった以上私は農商務省の局長をやめて、お父さんの秘書官として助けようと思います」と自分の意思を告げると鈴木は「そうか、そうしてくれるか」と微笑みながらいった。 鈴木は、どういうふうに組閣をするのか事務的なことはわからず、親友であった岡田啓介にいきなり電話をかけ、「軍需大臣になってほしい」と、頼み込んだ。岡田は自分なんかを軍需大臣に考える様では、どんな内閣を作るのかわからんぞと心配になり、すぐに、組閣本部であった鈴木の自宅へ行った。 組閣本部は電話のかけ方にも慣れていなものしか周囲におらず、すぐに226事件の際に生死を共にした迫水久常を呼び寄せた。この時迫水は大蔵省の局長であったが、岡田が切羽詰まった様子で頼んできたため、直ちに大蔵大臣に電話の件を話し、直ちに駆けつけた。迫水が鈴木邸へ行くと鈴木は岡田と対座しており、机の上には閣僚名簿とかかれた紙が置いてあったがその紙には官名は書いてあったが、具体的な名前が書き込んであったのは、内閣総理大臣に鈴木の名前と、内閣書記官長に迫水の名前のみであった 組閣に際して、書記官長であった迫水は空襲下でも安心して組閣工作が進められる場所として、東條内閣の終わり頃から重臣会議の会場としてしばしば使われてきた日比谷の第一生命相互ビルを組閣本部に白羽の矢を立て、鈴木へ連絡したが、鈴木は「そんなことをする必要はない。今度の組閣はどうしてもこの鈴木家でやりたいと」言った為、鈴木邸を組閣本部にとして、組閣工作を進めた。 組閣の第一歩として陸軍大臣を決めるため、鈴木と長男の一が陸軍省へ訪問するところから始まった。出迎えた杉山元帥に対し、鈴木は侍従長時代、侍従武官であった阿南惟幾を陸軍大臣に指名した。 杉山は直ちに陸軍三長官会議を開き三つの条件付きで、阿南を入閣させることに決めた。 条件として、一、あくまで戦争を完遂すること 二、陸海軍を一体化すること 三、本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。 鈴木はこの三条件をあっさりと呑みこうして陸軍大臣が決まった 次に陸軍が決まったのなら次は海軍と鈴木の胸中に最初からあった米内光政を留任させるという考えを前首相の小磯国昭へ相談した。小磯は「異論はない」と承認したが、当の本人であった、米内は「私は前内閣が発足するとき、小磯大将と共に大命を拝受した身である。その小磯内閣が総辞職した以上、責任の一半は私にもある。他の大臣の留任は致し方がないとしても私は小磯と共に下野するのがよいと考えている。私はまず第一候補として井上成美中将、もし井上中将が受けない場合には長谷川清大将を推したいという腹づもりを持っている。それに私自身、近頃健康もすぐれないので、こんどは閣外に去らせてもらいたい。しかし、閣外にあっても協力だけは惜しまないつもりでいる。」と受ける気配がなかったが、米内の推す井上成美中将と長谷川清大将に意見は二人とも口を揃えて、米内の留任が最も良いと言って、こちらも受ける気がなく、結局、鈴木は結局強引に米内の留任を決めた 大蔵大臣の選考では鈴木の構想どうり勝田主計に白羽の矢をたて、直ちに疎開先であった埼玉県へ遣いを走らせたが、当の勝田は歳を取りすぎて体が動かないという理由で受けようとせず、「どうしても適当な人が見つからない場合は、私の娘婿である廣瀬豊作を起用したらいかがでしょう」と大蔵省の官僚であった広瀬豊作を推薦し、鈴木は親友であった勝田が推薦するならと廣瀬の入閣を決めた 農商大臣に関しては以前から鈴木家と家族ぐるみのつきあいをしていた石黒忠悳の息子である石黒忠篤へ依頼し石黒は快くこれを承諾した。 国務大臣兼情報局総裁は当時日本放送協会会長であった下村宏を鈴木は想定しており、下村は鈴木に呼び出され、国務大臣兼情報局総裁になってほしいと言われたが、即答は差し控え放送会館へ引き返したが、鈴木の側近からの下村は他からの推挙によるものではなく鈴木が持っていた手駒であるという言葉で入閣を決断した こうして4月7日の夜半に新任式を終えて鈴木内閣が発足した。鈴木は非国会議員、江戸時代生まれ という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。満77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は、戦前・戦後を通じて日本最高齢の記録である。 鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。なお日本ニュースでは「」の部分のみが放映された。 鈴木の就任後、まもなく死亡した敵国の首脳であるアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により、 という談話を世界へ発信している。1945年4月23日のTIME誌の記事では、以下のように発言が引用されている。 戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、帝国議会貴族院及び衆議院本会議の演説で、鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)のサンフランシスコ訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。 2日後の衆議院の委員会で、質問に立った小山亮から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として、小山は質問を打ち切り、退席する事態となった(天罰発言事件)。 議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・米内光政(元首相)は、内閣を反逆者扱いする議会に反発して、閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した。抗戦派と目された陸軍大臣・阿南惟幾は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ。 この鈴木の国会演説に関して半藤一利は、「鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて、連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが目的だった」と記している。これに対し保阪正康は、「鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあった」と述べている。 1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された。 この日の重臣会議で、若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。 これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」 という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。 「戦争指導大綱」に従い、国民義勇戦闘隊を創設する義勇兵役法など、本土決戦のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は内閣書記官長の迫水久常とともに、国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは、鉄片を弾丸とする先込め単発銃・竹槍・弓・刺又など、全て江戸時代の代物で、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった。 こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の松谷誠らとともに、ソ連のヨシフ・スターリンに期待していた。 一方でスターリンは、1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトとの会談でヨーロッパ戦線が終わった後に「満州国・千島列島・樺太に侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンに、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。 ポツダム宣言発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した。その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針を取った。 翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」などの論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった。 ところが、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた。 28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた。 鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対する reject(拒否)と解されたことは誤算となった。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。 記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。 ポツダム宣言に対する大日本帝国政府の断固たる態度を見たアメリカが、日本への原子爆弾投下を最終的に決断したとの見方もある。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。 高木惣吉海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。 トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川毅は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている。 一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏などに、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることに変わりはない。 8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。 8月10日未明 から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。 午前2時ごろに鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。 昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され、天皇の聖断を再び仰ぐことになった。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の降伏が決まった。 8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された。正午、昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務を執行している。 1945年9月に郷里・千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に一時滞在したことが、国立公文書館に保管されている動静録により分かっている。 1945年(昭和20年)12月15日に枢密院議長・平沼騏一郎が戦争犯罪容疑で逮捕され、鈴木は枢密院議長に再度就任した。1946年(昭和21年)1月、昭和天皇から御紋付木盃並びに酒肴料を下賜され、加えて特旨を以て宮中杖の携行を許された。6月3日、公職追放令の対象となったため、枢密院副議長・清水澄に議長を譲り辞職し、郷里の関宿町に帰った。 鈴木は、第二次世界大戦(大東亜戦争)後、木戸日記などを熟読して開戦経緯などを調べた形跡が見られ、木戸日記中にはいくつか気になったところに書き込みを加えられている。特に1941年(昭和16年)の9月6日の御前会議の経緯に関する事項では、御前会議の前日、近衛が内奏した国策遂行要領、一.に「戦争準備」を、二.に「外交交渉」を掲げていたが、これに対し「これでは戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける。御前会議で質問したい」という昭和天皇の意見に対し、木戸幸一が「せいぜい統帥部に外交工作の成功に全幅の協力をせよというていどに発言は控えて」と押しとどめされた記述について、欄外に「この点木戸君の考えは禍根なり」「大過誤」と、相当厳しい言葉で書き込みがされている。 また長男鈴木一の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」を信条としていた。敗戦の1年後1946年(昭和21年)のインタビューでは、「われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております」と述べている。 1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したという。関宿町の実相寺に葬られた。遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。 戦後、長男・一より多治速比売神社に東京で鈴木神社創建の話があり、鈴木の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が適しているということで、建立場所について当時の宮司に相談があったという。 死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少ない。 日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している。 枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですので答えられません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。 同じころ、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、校長の井上成美に会い「教育の効果が現れるのは20年先だよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長が鈴木であった。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている。 漢籍に通じ、特に『老子』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長の迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。 幼年に生地を去っているが、多治速比売神社への崇敬の念が深く中佐時代にも参拝したという。海軍中将鈴木貫太郎の名で「敬神崇祖」と書かれた大きな扁額が残されているが、現在は氏子参集殿に掲げられており、同文の扇面が複製され氏子に分けられた。また、大正12年の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月にたか夫人と本復祝の参拝をしている。戦後、鈴木神社創建の話が出た際は多治速比売神社の境内が適していると相談があったという。 「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。同校の卒業生でもある糸井重里は、この遺訓を「よくできたものである」と絶賛している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。また江戸時代生まれの最後の内閣総理大臣である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1877年(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入校(14期)。1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の上崎辰次郎上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡、金剛を経て、1897年(明治30年)海軍大学校入校、砲術を学んだ後、1898年(明治31年)甲種学生として卒業。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1888年(明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ドイツ駐在中だった1903年(明治36年)9月26日、鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次 に腹をたて退役まで検討した。しかし「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令を経て、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁親王(昭和天皇)の幼少期の教育係を勤めていた足立たかと再婚。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "午前5時ごろに安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。鈴木ははじめ一隊に応戦するために納戸に置いていた刀を取りに行ったが、襲撃をうける前に妻のたかが泥棒が入られた時に刀でも持ってこられたら困ると思い片付けていたため鈴木は手ぶらで反乱軍の前に出ていった。はじめ安藤の姿はなく、下士官が「閣下でありますか?」と問うと鈴木が「そうだ、私が鈴木だ。 何事がおこってこんな騒ぎをしているのか、話したらいいじゃないか」と冷静に言ったが下士官たちが答えることはなくそのうち「暇がありませんから撃ちます」と言い鈴木が「じゃあ撃て」と言うと下士官が兵士たちに発砲を命じた。この時兵士たちが発砲した拳銃は、明治二十六年式拳銃であったことが後にたかが証言している。。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが鈴木がまだ息をしていることに気づき最後に一言を言いたいと思い「お待ち下さい!」と大声で叫び、「老人ですからとどめはお止めて下さい。どうしても必要というなら私が致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「とどめは残酷だからよせ、鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した。そしてたかの前に進みたかが「何事があってこのようなことになりましたか」と尋ねると、「誠にお気の毒なことを致しました。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、帰り際に女中部屋の前を通った際「こうして鈴木閣下を殺してしまった以上自分も自決しなければならない」を言っているのを部屋にいた女中が聞いておりその後玄関で待っていた兵士たちが安藤に「いかかでしたか」と聞くと、「完全に目的を達した」といい兵士を引き連れて官邸を引き上げた。この際この玄関での会話を聞いていた警視庁の巡査は警視庁に、鈴木死亡と連絡した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかが止血の処置をとっていると官舎が横であった宮内大臣の湯浅倉平が兵士が去ったのを見計らって駆けつけた。鈴木は湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。湯浅が帰った後、近所に住んでいた日本医科大学学長塩田広重が駆けつけ、たかに「奥さんご安心なさい私がきましたから」と声をかけ部屋の中に入ったが鈴木は大量に出血しており、駆けつけた塩田がその血で転んで血まみれになってしまったという。鈴木は畳の上で撃たれた状態のままで横になっていたため布団を敷きその上にのちに駆けつけた鈴木の主治医とともに移動させた。この時、不用意に動かしてしまった為、鈴木の心臓が停止してしまった。その後、塩田が看護婦を連れてきて、鈴木の血液型を調べO型をいうことがわかったため大急ぎでO型の血液を運び込み輸血を行った。輸血を行うためO型の輸血用の血液を運んできた医師は総理大臣官邸沿いの道を通ってきたため、途中反乱軍に「こっちへ来てはならん。」と止められたが、その止めた反乱軍の兵士が血液を運んできた医師に以前に助けられていたため、医師が事情を話すと「ここでそんなことを言っちゃなりません。私がついて行ってあげますから」と兵士に案内され反乱軍に止められることなく鈴木邸へ着くことができたという。。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "塩田とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返した。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした。 この時体の中に残った弾丸は塩田が鈴木に「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と提案したが、結局鈴木はこの提案を断り、生涯弾丸は体の中に残ったままであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語ったと、当時の宮司夫人などにより伝えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)12月8日に日本は対米英開戦して太平洋戦争(大東亜戦争)に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、同月5日に戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "構成メンバーは6名の総理大臣経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。ローマ帝国の滅亡もしかり、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡またしかりである。だから自分が政治の世界にでるのは、自分の主義や信念のうえからみても困難な事情がある。しかも、私は耳も遠くなっているのでお断りしたい。」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "東條英機は、日本陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「国内が戦場になろうとしている現在、よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がソッポを向けば、内閣は崩壊するほかはない。」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「この重大な時局、大困難にあたり、いやしくも大命を拝した者に対してソッポをむくとはなにごとか、国土を防衛するのは、いったい、誰の責任であるか。陸海軍ではないか。」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、「卿に組閣を命ずる」と組閣の大命を下した。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある。「陛下の御言葉は、誠に恐れ多く受け賜りました。ただ、このことは、なにとぞ拝辞のお許しをお願い致したいと存じます。昼間の重臣会議でも、このことはしきりに承りましたが、鈴木は固辞致しました。鈴木は一回の武臣です。これまでに政界とはなんら交渉もなく、又、何らの政治的な意見も持っておりません。鈴木は、軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日までモットーにしてまいりました。陛下の御言葉にそむくのは、大変恐れおおいとは思いますが、なにとぞ、この一事は拝辞のお許しをお願いしたいと願っております。」 「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して昭和天皇はにっこりと笑みを浮かべて、「鈴木がそのように考えるだろうということは、私も想像しておった。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危急の重大な時期にさいして、もう人はいない。頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われる深くうなだれて「とくと考えさせていただきます」とそれ以上は固辞しなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "天皇から頼まれて首相に就任するというのは異例のことだった。また、鈴木内閣の組閣が終わった後、鈴木は大宮御所にかつて鈴木を侍従長に推した貞明皇后を訪ねた際、鈴木が組閣の報告をすると、貞明皇太后は鈴木に椅子をすすめ、「今、歳の若い陛下が国運興廃の岐路に立って、日夜、苦悩されている。もともと陛下としてはこの戦争を始めるのは本意ではなかった。それが、今は敗戦につぐ敗戦を以てし、祖宗に受けた日本が累卵の危機にひんしている。鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである。どうか、親代わりになって、陛下の胸中の苦悩を払拭してほしいまた、多数の国民を塗炭の苦しみから救ってほしい」と鈴木に話し、涙を流した。 この話を鈴木は戦後まで語らず、戦後に千葉県の関宿で悠々自適な生活を送っていた鈴木を左近司政三が訪ねた際に秘話として声を詰まらせて、泣きながら鈴木は左近司に話したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "4月5日の夜、大命を受けて午後11時過ぎに小石川の丸山町の自宅へ帰って来た鈴木は、玄関で、誰に言うともなく「困ったことになった」と呟きながら居間へ入った 翌6日鈴木と朝食を共にした一は「こうなった以上私は農商務省の局長をやめて、お父さんの秘書官として助けようと思います」と自分の意思を告げると鈴木は「そうか、そうしてくれるか」と微笑みながらいった。 鈴木は、どういうふうに組閣をするのか事務的なことはわからず、親友であった岡田啓介にいきなり電話をかけ、「軍需大臣になってほしい」と、頼み込んだ。岡田は自分なんかを軍需大臣に考える様では、どんな内閣を作るのかわからんぞと心配になり、すぐに、組閣本部であった鈴木の自宅へ行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "組閣本部は電話のかけ方にも慣れていなものしか周囲におらず、すぐに226事件の際に生死を共にした迫水久常を呼び寄せた。この時迫水は大蔵省の局長であったが、岡田が切羽詰まった様子で頼んできたため、直ちに大蔵大臣に電話の件を話し、直ちに駆けつけた。迫水が鈴木邸へ行くと鈴木は岡田と対座しており、机の上には閣僚名簿とかかれた紙が置いてあったがその紙には官名は書いてあったが、具体的な名前が書き込んであったのは、内閣総理大臣に鈴木の名前と、内閣書記官長に迫水の名前のみであった", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "組閣に際して、書記官長であった迫水は空襲下でも安心して組閣工作が進められる場所として、東條内閣の終わり頃から重臣会議の会場としてしばしば使われてきた日比谷の第一生命相互ビルを組閣本部に白羽の矢を立て、鈴木へ連絡したが、鈴木は「そんなことをする必要はない。今度の組閣はどうしてもこの鈴木家でやりたいと」言った為、鈴木邸を組閣本部にとして、組閣工作を進めた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "組閣の第一歩として陸軍大臣を決めるため、鈴木と長男の一が陸軍省へ訪問するところから始まった。出迎えた杉山元帥に対し、鈴木は侍従長時代、侍従武官であった阿南惟幾を陸軍大臣に指名した。 杉山は直ちに陸軍三長官会議を開き三つの条件付きで、阿南を入閣させることに決めた。 条件として、一、あくまで戦争を完遂すること 二、陸海軍を一体化すること 三、本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。 鈴木はこの三条件をあっさりと呑みこうして陸軍大臣が決まった 次に陸軍が決まったのなら次は海軍と鈴木の胸中に最初からあった米内光政を留任させるという考えを前首相の小磯国昭へ相談した。小磯は「異論はない」と承認したが、当の本人であった、米内は「私は前内閣が発足するとき、小磯大将と共に大命を拝受した身である。その小磯内閣が総辞職した以上、責任の一半は私にもある。他の大臣の留任は致し方がないとしても私は小磯と共に下野するのがよいと考えている。私はまず第一候補として井上成美中将、もし井上中将が受けない場合には長谷川清大将を推したいという腹づもりを持っている。それに私自身、近頃健康もすぐれないので、こんどは閣外に去らせてもらいたい。しかし、閣外にあっても協力だけは惜しまないつもりでいる。」と受ける気配がなかったが、米内の推す井上成美中将と長谷川清大将に意見は二人とも口を揃えて、米内の留任が最も良いと言って、こちらも受ける気がなく、結局、鈴木は結局強引に米内の留任を決めた", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大蔵大臣の選考では鈴木の構想どうり勝田主計に白羽の矢をたて、直ちに疎開先であった埼玉県へ遣いを走らせたが、当の勝田は歳を取りすぎて体が動かないという理由で受けようとせず、「どうしても適当な人が見つからない場合は、私の娘婿である廣瀬豊作を起用したらいかがでしょう」と大蔵省の官僚であった広瀬豊作を推薦し、鈴木は親友であった勝田が推薦するならと廣瀬の入閣を決めた", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "農商大臣に関しては以前から鈴木家と家族ぐるみのつきあいをしていた石黒忠悳の息子である石黒忠篤へ依頼し石黒は快くこれを承諾した。 国務大臣兼情報局総裁は当時日本放送協会会長であった下村宏を鈴木は想定しており、下村は鈴木に呼び出され、国務大臣兼情報局総裁になってほしいと言われたが、即答は差し控え放送会館へ引き返したが、鈴木の側近からの下村は他からの推挙によるものではなく鈴木が持っていた手駒であるという言葉で入閣を決断した", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうして4月7日の夜半に新任式を終えて鈴木内閣が発足した。鈴木は非国会議員、江戸時代生まれ という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。満77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は、戦前・戦後を通じて日本最高齢の記録である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した。なお日本ニュースでは「」の部分のみが放映された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "鈴木の就任後、まもなく死亡した敵国の首脳であるアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により、", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "という談話を世界へ発信している。1945年4月23日のTIME誌の記事では、以下のように発言が引用されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、帝国議会貴族院及び衆議院本会議の演説で、鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)のサンフランシスコ訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2日後の衆議院の委員会で、質問に立った小山亮から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として、小山は質問を打ち切り、退席する事態となった(天罰発言事件)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・米内光政(元首相)は、内閣を反逆者扱いする議会に反発して、閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した。抗戦派と目された陸軍大臣・阿南惟幾は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この鈴木の国会演説に関して半藤一利は、「鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて、連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが目的だった」と記している。これに対し保阪正康は、「鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この日の重臣会議で、若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」 という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「戦争指導大綱」に従い、国民義勇戦闘隊を創設する義勇兵役法など、本土決戦のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は内閣書記官長の迫水久常とともに、国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは、鉄片を弾丸とする先込め単発銃・竹槍・弓・刺又など、全て江戸時代の代物で、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の松谷誠らとともに、ソ連のヨシフ・スターリンに期待していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "一方でスターリンは、1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトとの会談でヨーロッパ戦線が終わった後に「満州国・千島列島・樺太に侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンに、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ポツダム宣言発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した。その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針を取った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」などの論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ところが、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対する reject(拒否)と解されたことは誤算となった。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ポツダム宣言に対する大日本帝国政府の断固たる態度を見たアメリカが、日本への原子爆弾投下を最終的に決断したとの見方もある。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "高木惣吉海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川毅は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏などに、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることに変わりはない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦と長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "8月10日未明 から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "午前2時ごろに鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され、天皇の聖断を再び仰ぐことになった。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の降伏が決まった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された。正午、昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務を執行している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1945年9月に郷里・千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に一時滞在したことが、国立公文書館に保管されている動静録により分かっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)12月15日に枢密院議長・平沼騏一郎が戦争犯罪容疑で逮捕され、鈴木は枢密院議長に再度就任した。1946年(昭和21年)1月、昭和天皇から御紋付木盃並びに酒肴料を下賜され、加えて特旨を以て宮中杖の携行を許された。6月3日、公職追放令の対象となったため、枢密院副議長・清水澄に議長を譲り辞職し、郷里の関宿町に帰った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "鈴木は、第二次世界大戦(大東亜戦争)後、木戸日記などを熟読して開戦経緯などを調べた形跡が見られ、木戸日記中にはいくつか気になったところに書き込みを加えられている。特に1941年(昭和16年)の9月6日の御前会議の経緯に関する事項では、御前会議の前日、近衛が内奏した国策遂行要領、一.に「戦争準備」を、二.に「外交交渉」を掲げていたが、これに対し「これでは戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける。御前会議で質問したい」という昭和天皇の意見に対し、木戸幸一が「せいぜい統帥部に外交工作の成功に全幅の協力をせよというていどに発言は控えて」と押しとどめされた記述について、欄外に「この点木戸君の考えは禍根なり」「大過誤」と、相当厳しい言葉で書き込みがされている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また長男鈴木一の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」を信条としていた。敗戦の1年後1946年(昭和21年)のインタビューでは、「われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したという。関宿町の実相寺に葬られた。遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていた。遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "戦後、長男・一より多治速比売神社に東京で鈴木神社創建の話があり、鈴木の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が適しているということで、建立場所について当時の宮司に相談があったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少ない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアのバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した。そのため連合艦隊参謀・秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している。", "title": "海軍軍人として" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎が山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですので答えられません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。", "title": "海軍軍人として" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "同じころ、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、校長の井上成美に会い「教育の効果が現れるのは20年先だよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長が鈴木であった。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている。", "title": "海軍軍人として" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "漢籍に通じ、特に『老子』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長の迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "幼年に生地を去っているが、多治速比売神社への崇敬の念が深く中佐時代にも参拝したという。海軍中将鈴木貫太郎の名で「敬神崇祖」と書かれた大きな扁額が残されているが、現在は氏子参集殿に掲げられており、同文の扇面が複製され氏子に分けられた。また、大正12年の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている。また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月にたか夫人と本復祝の参拝をしている。戦後、鈴木神社創建の話が出た際は多治速比売神社の境内が適していると相談があったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である前橋市立桃井小学校の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。同校の卒業生でもある糸井重里は、この遺訓を「よくできたものである」と絶賛している。", "title": "人物" } ]
鈴木 貫太郎は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。 海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。 枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。また江戸時代生まれの最後の内閣総理大臣である。
{{other people|内閣総理大臣|YouTuber|鈴木貫太郎 (YouTuber)}} {{政治家 | 人名 = 鈴木 貫太郎 | 各国語表記 = すずき かんたろう | 画像 = Kantaro Suzuki suit.jpg | 画像サイズ = 220px | 画像説明 = 内閣総理大臣在任時 | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = [[1868年]][[1月18日]]<br />([[慶応]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) | 出生地 = {{JPN}} [[和泉国]][[大鳥郡]][[久世村 (大阪府)|伏尾新田]]<br />(現・[[大阪府]][[堺市]][[中区 (堺市)|中区]])<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201808/CK2018082902000162.html 敗戦時の首相・鈴木貫太郎の心情に迫る 野田の記念館で企画展] 2018年8月29日.東京新聞、2018年9月2日閲覧{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref> | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1868|1|18|1948|4|17}} | 死没地 = {{JPN}} [[千葉県]][[東葛飾郡]][[関宿町]]<br/>(現・千葉県[[野田市]]関宿町) | 出身校 = [[海軍大学校]]卒業 | 前職 = [[枢密院 (日本)|枢密院]]議長 | 所属政党 = [[大政翼賛会]] | 称号・勲章 = [[File:Imperial Japan-Navy-OF-9-collar.svg|30px]] [[海軍大将]]<br />[[従一位]]<br />[[File:JPN Toka-sho BAR.svg|40px]] [[勲一等旭日桐花大綬章]] <br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日大綬章]] <br />[[File:JPN Kinshi-kunsho blank BAR.svg|40px]] [[金鵄勲章|功三級金鵄勲章]]<br />[[男爵]] | 親族(政治家) = [[鈴木由哲]](父)<br />[[鈴木孝雄]](弟)<br />[[足立基浩]](曽孫)<br />[[足立真理]](曽孫)<br />[[藤江恵輔]](娘婿)<br />[[足立仁]](娘婿)<br />[[小堀桂一郎]](遠戚) | 配偶者 = 鈴木トヨ(先妻)<br />[[鈴木たか]](後妻) | 子女 = [[鈴木一 (農林官僚)|鈴木一]](長男)<br />藤江さかえ(長女)<br />足立ミつ子(次女) | サイン = SuzukiK kao.svg | 国旗 = JPN | 職名 = 第42代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[鈴木貫太郎内閣]] | 就任日 = [[1945年]][[4月7日]] | 退任日 = 1945年[[8月17日]] | 元首職 = 天皇 | 元首 = [[昭和天皇]] | 国旗2 = JPN | 職名2 = 第20・22代 [[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]] | 就任日2 = [[1944年]][[8月10日]] - 1945年[[4月7日]]<hr />1945年[[12月15日]] | 退任日2 = [[1946年]][[6月13日]] | 元首職2 = 天皇 | 元首2 = 昭和天皇 | 国旗3 = JPN | 職名3 = 第62代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]<br />第3代 [[大東亜省|大東亜大臣]] | 内閣3 = 鈴木貫太郎内閣 | 就任日3 = 1945年4月7日 | 退任日3 = 1945年[[4月9日]](総理兼任) | 国旗4 = JPN | 職名4 = 第14代 [[枢密院 (日本)#歴代副議長|枢密院副議長]] | 内閣4 = | 就任日4 = [[1940年]][[6月24日]] | 退任日4 = 1944年8月10日 | 国旗5 = JPN | 職名5 = | 就任日5 = | 退任日5 = | 元首職5 = | 元首5 = | 国旗6 = JPN | その他職歴1 = | 就任日6 = | 退任日6 = }} '''鈴木 貫太郎'''(すずき かんたろう、[[1868年]][[1月18日]]〈[[慶応]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]〉- [[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[4月17日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]、[[政治家]]。最終[[階級]]は[[海軍大将]]。[[栄典]]は[[従一位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[功三級]][[男爵]]。 海軍[[士官]]として[[海軍省|海軍]][[次官]]、[[連合艦隊司令長官]]、[[軍令部|海軍軍令部長]](第8代)などの顕職を歴任した。[[予備役]]編入後に[[侍従]]長に就任。さらに[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]も兼任した。 [[枢密院副議長]](第14代)、[[枢密院 (日本)#歴代議長|枢密院議長]](第20・22代)を務めたあと、[[小磯國昭]]の後任として[[内閣総理大臣]]([[鈴木貫太郎内閣|第42代]])に就任した。一時、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[鈴木貫太郎内閣|第70代]])、[[大東亜大臣]](第3代)も兼任した。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の反対を押し切って[[ポツダム宣言]]を受諾し、[[第二次世界大戦]]を[[日本の降伏|終戦]]へと導いた。また[[江戸時代]]生まれの最後の内閣総理大臣である。 == 生涯 == === 生い立ちから海軍時代 === [[File:Admiral Kantaro Suzuki c1923.png|thumb|198px|left|海軍大将時代の鈴木貫太郎(1923年ごろ)]] [[File:Suzuki Kantaro.jpg|thumb|206px|right|[[軍服 (大日本帝国海軍)|海軍の正装]]に[[勲一等旭日大綬章]]・功三級[[金鵄勲章]]を珮用した鈴木]] [[1868年]][[1月18日]]([[慶応]]3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]])、[[和泉国]][[大鳥郡]][[久世村 (大阪府)|伏尾新田]](現在の[[大阪府]][[堺市]][[中区 (堺市)|中区]]伏尾で、当時は[[下総国|下総]][[関宿藩]]の[[飛地]])に[[関宿藩]]士で[[代官]]の[[鈴木由哲]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.noda.chiba.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/032/092/202106300101.pdf |title=≪“オール野田市”で鈴木貫太郎記念館を再建≫ 野田市鈴木貫太郎記念館 再建基金の創設へ |accessdate=2022-03-05 |publisher=野田市}}</ref>と妻・きよの長男として生まれる。[[1871年]]([[明治]]4年)に本籍地である[[千葉県]][[東葛飾郡]][[関宿町]](現・[[野田市]])に居を移す。 [[1877年]](明治10年)、[[群馬県]][[前橋市]]に転居し、[[前橋市立桃井小学校|厩橋学校]]、[[群馬県立前橋高等学校|前橋中学]]、[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]を経て、[[1884年]](明治17年)に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#14期|14期]])。[[1895年]](明治28年)、[[日清戦争]]に従軍。第三水雷艇隊所属の[[第五号型水雷艇]]第6号艇艇長として[[威海衛の戦い]]に参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の[[上崎辰次郎]]上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、[[海門 (スループ)|海門]]航海長として[[台湾平定]]に参加、次いで[[比叡 (コルベット)|比叡]]、[[金剛 (コルベット)|金剛]]を経て、[[1897年]](明治30年)[[海軍大学校]]入校、砲術を学んだ後、[[1898年]](明治31年)甲種学生として卒業。 [[1888年]](明治21年)に、旧[[会津藩]]士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は[[出羽重遠]]夫人である{{Sfn|半藤一利|2006|p=51}}<ref>星亮一『出羽重遠伝』光人社NF文庫 123-124頁</ref>。 [[ドイツ帝国|ドイツ]]駐在中だった[[1903年]](明治36年)9月26日、鈴木は[[中佐]]に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次<ref group="注">[[財部彪]]、[[竹下勇]]、[[小栗孝三郎]]らが上位となっていた。</ref> に腹をたて退役まで検討した。しかし「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという{{Sfn|三好徹|2003|p=94}}。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、[[アルゼンチン]]の発注で[[イタリア王国|イタリア]]において建造され竣工間近であった[[装甲巡洋艦]]「リバタビア」を急遽購入し{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=34}}、同艦は「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=34}}。 「春日」とその僚艦「[[日進 (装甲巡洋艦)|日進]]」が[[日本]]に近付いた[[1904年]](明治37年)2月、[[日本]]が仕掛ける形で[[日露戦争]]が始まった。[[日本]]に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=37}}、[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]にも参加している{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=41-42}}。その後第五駆逐隊司令を経て{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=43}}、翌[[1905年]](明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=46}}、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=43}}、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「[[クニャージ・スヴォーロフ]]」、同「[[ナヴァリン (戦艦)|ナヴァリン]]」、同「[[シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦)|シソイ・ヴェリキィー]]」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=48-52}}、[[日本海海戦]]の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、[[水雷艇]]射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=54}}。この武勲により、功三級[[金鵄勲章]]を受章する。[[1912年]]([[大正]]元年)、妻とよが33歳で死去。 [[1914年]]([[大正]]3年)、[[海軍省|海軍]][[次官]]となり、[[シーメンス事件]]の事後処理を行う。翌年[[1915年]](大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた[[菊池大麓]]の推薦により、裕仁親王([[昭和天皇]])の幼少期の教育係を勤めていた[[鈴木たか|足立たか]]と再婚。[[1923年]](大正12年)、[[大将|海軍大将]]となり、[[1924年]](大正13年)に[[連合艦隊司令長官]]に、翌年[[軍令部|海軍軍令部長]]に就任。 === 海軍出の侍従長 === [[1929年]]([[昭和]]4年)に[[昭和天皇]]と[[皇太后]]・[[貞明皇后]]の希望で、[[予備役]]となり[[侍従|侍従長]]に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である[[海軍軍令部#歴代軍令部総長|軍令部長]]よりも侍従長が[[宮中席次]]にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。{{Sfn|三好徹|2003|p=94}} 宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、[[1930年]](昭和5年)に、海軍軍令部長・[[加藤寛治]]が[[ロンドン軍縮条約]]に対する政府の回訓案に反対し、単独[[帷幄上奏]]をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=112-113}}。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは[[侍従武官長]]であり、当の[[奈良武次]]が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった<ref>茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』(ちくま新書、2012年)85ページ。</ref>。 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは[[牧野伸顕]]と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=113-114}}。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという<ref>{{Cite journal|author=野口明|author-link=野口明 (教育者)|year=1969|title=宮中生活の思い出|journal=弘道|volume=807|page=|pages=2-6}}</ref>。 === 二・二六事件 === [[1936年]](昭和11年)2月26日に[[二・二六事件]]が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大使[[ジョセフ・グルー]]の招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに[[麹町]]三番町の[[侍従長]]官邸に帰宅した。 午前5時ごろに[[安藤輝三]]陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=138-141}}。鈴木ははじめ一隊に応戦するために納戸に置いていた刀を取りに行ったが、襲撃をうける前に妻のたかが泥棒が入られた時に刀でも持ってこられたら困ると思い片付けていたため鈴木は手ぶらで反乱軍の前に出ていった。はじめ安藤の姿はなく、下士官が「閣下でありますか?」と問うと鈴木が「そうだ、私が鈴木だ。 何事がおこってこんな騒ぎをしているのか、話したらいいじゃないか」と冷静に言ったが下士官たちが答えることはなくそのうち「暇がありませんから撃ちます」と言い鈴木が「じゃあ撃て」と言うと下士官が兵士たちに発砲を命じた。この時兵士たちが発砲した拳銃は、明治[[二十六年式拳銃]]であったことが後にたかが証言している。{{Sfn|NHKアーカイブス天皇のそばにいた男|1965|鈴木たかさん}}。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1965|p=138-141}}。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=138-141}}。安藤が[[軍刀]]を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが鈴木がまだ息をしていることに気づき最後に一言を言いたいと思い「お待ち下さい!」と大声で叫び、「老人ですからとどめはお止めて下さい。どうしても必要というなら私が致します」と気丈に言い放った{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=138-141}}。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「とどめは残酷だからよせ、鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=138-141}}。そしてたかの前に進みたかが「何事があってこのようなことになりましたか」と尋ねると、「誠にお気の毒なことを致しました{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=138-141}}。我々は閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、帰り際に女中部屋の前を通った際「こうして鈴木閣下を殺してしまった以上自分も自決しなければならない」を言っているのを部屋にいた女中が聞いておりその後玄関で待っていた兵士たちが安藤に「いかかでしたか」と聞くと、「完全に目的を達した」といい兵士を引き連れて官邸を引き上げた。この際この玄関での会話を聞いていた警視庁の巡査は警視庁に、鈴木死亡と連絡した。 反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかが止血の処置をとっていると官舎が横であった宮内大臣の[[湯浅倉平]]が兵士が去ったのを見計らって駆けつけた。鈴木は湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った{{Sfn|三好徹|2003|p=94}}{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=141}}。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=141}}。湯浅が帰った後、近所に住んでいた日本医科大学学長[[塩田広重]]が駆けつけ、たかに「奥さんご安心なさい私がきましたから」と声をかけ部屋の中に入ったが鈴木は大量に出血しており、駆けつけた塩田がその血で転んで血まみれになってしまったという。鈴木は畳の上で撃たれた状態のままで横になっていたため布団を敷きその上にのちに駆けつけた鈴木の主治医とともに移動させた。この時、不用意に動かしてしまった為、鈴木の心臓が停止してしまった。その後、塩田が看護婦を連れてきて、鈴木の血液型を調べO型をいうことがわかったため大急ぎでO型の血液を運び込み輸血を行った。輸血を行うためO型の輸血用の血液を運んできた医師は[[総理大臣官邸]]沿いの道を通ってきたため、途中反乱軍に「こっちへ来てはならん。」と止められたが、その止めた反乱軍の兵士が血液を運んできた医師に以前に助けられていたため、医師が事情を話すと「ここでそんなことを言っちゃなりません。私がついて行ってあげますから」と兵士に案内され反乱軍に止められることなく鈴木邸へ着くことができたという。{{Sfn|NHKアーカイブス 天皇のそばにいた男|1965|鈴木たかさん}}。 塩田とたかが血まみれの鈴木を[[タクシー|円タク]]に押し込み[[日本医科大学|日医大飯田町病院]]に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=141-143}}。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ{{refnest|group="注"|たかは瀕死の夫に、霊気術を施していたという{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=142-143}}。}}、奇跡的に息を吹き返した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=141-143}}。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに右に外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=143}}。 この時体の中に残った弾丸は塩田が鈴木に「うるさいようでしたらいつでも取り出してあげますよ」と提案したが、結局鈴木はこの提案を断り、生涯弾丸は体の中に残ったままであった{{Sfn|NHKアーカイブス 天皇のそばにいた男|1965|鈴木たかさん}}。 安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=143}}。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は[[西郷隆盛]]のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=146}}、後に座右の銘にするからと[[書道|書]]を鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=146}}。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=146}}。決起に及び腰であった安藤に対して[[磯部浅一]]は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。 [[1937年]](昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する[[多治速比売神社]]に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語ったと、当時の宮司夫人などにより伝えられている{{Sfn|『堺泉州』13号、「多治速比売神社と鈴木貫太郎」より|2002|p=79-80}}。 === 内閣総理大臣に就任 === [[ファイル:Kantaro_Suzuki_cabinet_-_April_7,_1945.jpg|thumb|[[1945年]][[4月7日]]、[[鈴木貫太郎内閣]]の閣僚らと]] [[1941年]](昭和16年)[[12月8日]]に日本は対米英開戦して[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に参戦したが、戦況が悪化した[[1945年]](昭和20年)4月、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任していた鈴木は、同月5日に戦況悪化の責任をとり辞職した[[小磯國昭]]の後継を決める[[重臣会議]]に出席した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=174}}。 構成メンバーは6名の総理大臣経験者と[[内大臣府|内大臣]]の[[木戸幸一]]、そして枢密院議長の鈴木であった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=174}}。[[若槻禮次郎]]、[[近衛文麿]]、[[岡田啓介]]、[[平沼騏一郎]]らは首相に鈴木を推したが{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=181}}、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。ローマ帝国の滅亡もしかり、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡またしかりである。だから自分が政治の世界にでるのは、自分の主義や信念のうえからみても困難な事情がある。しかも、私は耳も遠くなっているのでお断りしたい。」と答えた{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言|p=48}}{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=182}}。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。 [[東條英機]]は、[[日本陸軍]]が本土防衛の主体であるとの理由で[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]]の[[畑俊六]]を推薦し{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=179-180}}、「国内が戦場になろうとしている現在、よほどご注意にならないと、陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がソッポを向けば、内閣は崩壊するほかはない。」と高圧的な態度で言った{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=180}}。これに対して岡田啓介が「この重大な時局、大困難にあたり、いやしくも大命を拝した者に対してソッポをむくとはなにごとか、国土を防衛するのは、いったい、誰の責任であるか。陸海軍ではないか。」と東條をたしなめ{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言|迫水久常|p=50}}、東條は反論できずに黙ってしまった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=181}}。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=182}}。 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、「卿に組閣を命ずる」と[[組閣の大命]]を下した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=183}}。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の[[藤田尚徳]]の証言がある{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=183}}。「陛下の御言葉は、誠に恐れ多く受け賜りました。ただ、このことは、なにとぞ拝辞のお許しをお願い致したいと存じます。昼間の重臣会議でも、このことはしきりに承りましたが、鈴木は固辞致しました。鈴木は一回の武臣です。これまでに政界とはなんら交渉もなく、又、何らの政治的な意見も持っておりません。鈴木は、軍人が政治に関わらないことを明治天皇に教えられ、今日までモットーにしてまいりました。陛下の御言葉にそむくのは、大変恐れおおいとは思いますが、なにとぞ、この一事は拝辞のお許しをお願いしたいと願っております。」 「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=183-184}}昭和天皇はにっこりと笑みを浮かべて、「鈴木がそのように考えるだろうということは、私も想像しておった。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危急の重大な時期にさいして、もう人はいない。頼むから、どうか、気持ちを曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた{{Sfn|三好徹|2003|p=95}}{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=184}}。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われる深くうなだれて「とくと考えさせていただきます」とそれ以上は固辞しなかった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=184}}。 天皇から頼まれて首相に就任するというのは異例のことだった。また、鈴木内閣の組閣が終わった後、鈴木は大宮御所にかつて鈴木を侍従長に推した[[貞明皇后]]を訪ねた際、鈴木が組閣の報告をすると、貞明皇太后は鈴木に椅子をすすめ、「今、歳の若い陛下が国運興廃の岐路に立って、日夜、苦悩されている。もともと陛下としてはこの戦争を始めるのは本意ではなかった。それが、今は敗戦につぐ敗戦を以てし、祖宗に受けた日本が累卵の危機にひんしている。鈴木は陛下の大御心を最もよく知っているはずである。どうか、親代わりになって、陛下の胸中の苦悩を払拭してほしいまた、多数の国民を塗炭の苦しみから救ってほしい」と鈴木に話し、涙を流した。 この話を鈴木は戦後まで語らず、戦後に千葉県の関宿で悠々自適な生活を送っていた鈴木を[[左近司政三]]が訪ねた際に秘話として声を詰まらせて、泣きながら鈴木は左近司に話したという{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言|迫水久常|p=50}}。 4月5日の夜、大命を受けて午後11時過ぎに小石川の丸山町の自宅へ帰って来た鈴木は、玄関で、誰に言うともなく「困ったことになった」と呟きながら居間へ入った{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}} 翌6日鈴木と朝食を共にした一は「こうなった以上私は農商務省の局長をやめて、お父さんの秘書官として助けようと思います」と自分の意思を告げると鈴木は「そうか、そうしてくれるか」と微笑みながらいった。 鈴木は、どういうふうに組閣をするのか事務的なことはわからず、親友であった岡田啓介にいきなり電話をかけ、「軍需大臣になってほしい」と、頼み込んだ。岡田は自分なんかを軍需大臣に考える様では、どんな内閣を作るのかわからんぞと心配になり、すぐに、組閣本部であった鈴木の自宅へ行った。{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}} 組閣本部は電話のかけ方にも慣れていなものしか周囲におらず、すぐに226事件の際に生死を共にした[[迫水久常]]を呼び寄せた。この時迫水は大蔵省の局長であったが、岡田が切羽詰まった様子で頼んできたため、直ちに大蔵大臣に電話の件を話し、直ちに駆けつけた。迫水が鈴木邸へ行くと鈴木は岡田と対座しており、机の上には閣僚名簿とかかれた紙が置いてあったがその紙には官名は書いてあったが、具体的な名前が書き込んであったのは、内閣総理大臣に鈴木の名前と、内閣書記官長に迫水の名前のみであった{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言|p=48}} 組閣に際して、書記官長であった迫水は空襲下でも安心して組閣工作が進められる場所として、東條内閣の終わり頃から重臣会議の会場としてしばしば使われてきた日比谷の第一生命相互ビルを組閣本部に白羽の矢を立て、鈴木へ連絡したが、鈴木は「そんなことをする必要はない。今度の組閣はどうしてもこの鈴木家でやりたいと」言った為、鈴木邸を組閣本部にとして、組閣工作を進めた{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}}。 組閣の第一歩として陸軍大臣を決めるため、鈴木と長男の一が陸軍省へ訪問するところから始まった。出迎えた杉山元帥に対し、鈴木は侍従長時代、侍従武官であった[[阿南惟幾]]を陸軍大臣に指名した。 杉山は直ちに陸軍三長官会議を開き三つの条件付きで、阿南を入閣させることに決めた。 条件として、一、あくまで戦争を完遂すること 二、陸海軍を一体化すること 三、本土決戦必勝のため、陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること。 鈴木はこの三条件をあっさりと呑みこうして陸軍大臣が決まった{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}} 次に陸軍が決まったのなら次は海軍と鈴木の胸中に最初からあった[[米内光政]]を留任させるという考えを前首相の小磯国昭へ相談した。小磯は「異論はない」と承認したが、当の本人であった、米内は「私は前内閣が発足するとき、小磯大将と共に大命を拝受した身である。その小磯内閣が総辞職した以上、責任の一半は私にもある。他の大臣の留任は致し方がないとしても私は小磯と共に下野するのがよいと考えている。私はまず第一候補として井上成美中将、もし井上中将が受けない場合には長谷川清大将を推したいという腹づもりを持っている。それに私自身、近頃健康もすぐれないので、こんどは閣外に去らせてもらいたい。しかし、閣外にあっても協力だけは惜しまないつもりでいる。」と受ける気配がなかったが、米内の推す井上成美中将と長谷川清大将に意見は二人とも口を揃えて、米内の留任が最も良いと言って、こちらも受ける気がなく、結局、鈴木は結局強引に米内の留任を決めた{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}} 大蔵大臣の選考では鈴木の構想どうり[[勝田主計]]に白羽の矢をたて、直ちに疎開先であった埼玉県へ遣いを走らせたが、当の勝田は歳を取りすぎて体が動かないという理由で受けようとせず、「どうしても適当な人が見つからない場合は、私の娘婿である廣瀬豊作を起用したらいかがでしょう」と大蔵省の官僚であった[[広瀬豊作]]を推薦し、鈴木は親友であった勝田が推薦するならと廣瀬の入閣を決めた{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}} 農商大臣に関しては以前から鈴木家と家族ぐるみのつきあいをしていた[[石黒忠悳]]の息子である[[石黒忠篤]]へ依頼し石黒は快くこれを承諾した。 国務大臣兼情報局総裁は当時日本放送協会会長であった[[下村宏]]を鈴木は想定しており、下村は鈴木に呼び出され、国務大臣兼情報局総裁になってほしいと言われたが、即答は差し控え放送会館へ引き返したが、鈴木の側近からの下村は他からの推挙によるものではなく鈴木が持っていた手駒であるという言葉で入閣を決断した{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言}}  こうして4月7日の夜半に新任式を終えて鈴木内閣が発足した。鈴木は非国会議員<ref group="注">鈴木貫太郎より後の首相の[[東久邇宮稔彦王]]、[[幣原喜重郎]]、[[吉田茂]]は[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員であり、1947年(昭和22年)に[[日本国憲法]]が施行されて以降は内閣総理大臣は国会議員から指名されるとの憲法上の要請により、全て衆議院議員が務めている。</ref>、[[江戸時代]]生まれ<ref group="注">ただし、一般に江戸時代の終わりは[[大政奉還]]とされるが、これは鈴木が生まれる前の[[1867年]]11月15日(慶応3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]])である。一方、明治への改元は[[1868年]]10月23日(慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]])であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、1868年1月25日(慶応4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])が明治の始まりとなり、鈴木の誕生日の一週間後となる。したがって、厳密には「明治改元前に生まれた最後の総理大臣」である。なお、「大政奉還前に生まれた最後の総理大臣」は[[平沼騏一郎]]。</ref> という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。満77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は、戦前・戦後を通じて日本最高齢の記録である<ref group="注">退任時の年齢では[[大隈重信]](満78歳6ヶ月)が最高齢である。</ref>。 鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300378_00000&chapter=001 |title=日本ニュース第250号(公開日:1945年(昭和20年)4月23日)|work=戦争証言アーカイブス|publisher=NHK|accessdate=2014-11-03}}</ref>{{Sfn|大日本帝国最後の四ヶ月終戦内閣懐刀の証言|迫水久常|pp=81,82}}。なお[[日本ニュース]]では「」の部分のみが放映された。 {{quotation|今般、私に大命を拝して、この重責を汚したことにつきましては、あるいは国民諸君の中には、意外とされた方も少なくなかったと存じます。真実、私も{{ruby|齢|よわい}}八十になんなんとする今日まで、一意ご奉仕は申しあげてまいりましたがいまだかつて、政治方面に関与したことは無かったのであります。この点よりすれば、当然お受けする柄ではないのであります。しかしながら、戦局かくのごとく緊迫した「{{ruby|今日|こんにち}}、私に大命が降下致しました以上、私は私の最後の奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信致しまして、謹んで拝受致したのであります。」戦局のしすうについては、実に楽観を許さざるものがあり、しかも皇軍将士の勇戦、生産戦士の健闘にもかかわらず、{{ruby|醜敵|しゅうてき}}が本土に土足をかけてくるような事態にたちいりましたことは、臣子としてまことに申し訳ない次第でありますがこれを挽回するの道は、国民の憤激を結集し、国家の集中して、一億の赤子一丸となって、これにあたるのほかはないのであります。ひるがえって、古今世界の歴史をみましても交戦諸国において、大国必ずしも勝たず、小国必ずしも敗れず。しかも小国の大国に勝つ場合は、それがすべてあくまでもがんばって戦い抜いた場合のみであります。我が帝国が世界の大国米英を敵とするこの戦争でありますから、今日の如き自体は当然おこることであり、あえて驚くにはあたりませぬ。われわれが必死の覚悟を以て、すなわち捨て身であくまで戦い抜いていくならば必ずやそこに勝利の機会を生みまして、敵を徹底的に打倒し得ることを確信するもあります。戦争の{{ruby|要訣|ようけつ}}は、国民があくまで戦い抜くという固い決意のもとに国家の総力を結集するにあります。すなわち、国内においていやしくも諸事対立するものあらば、これを解消し、従来の因縁や行きがかりを捨てて、すべてを戦争遂行の一点に集中しなければなりませぬ。ここにおいて国内戦時態勢のすみやかなる整備をはかりまして、いっさいの国土防衛の諸施策を急速に実行するとともに庶政一新、国民のやむにやまれぬ憂国の情熱を基礎といたしまして、老いも若きも手をとって、直接、戦争のためにはたらくよう、任務遂行の責任を明らかにするとともに、簡素に、強力に、国策を推進してまいりたいと存じます。以上のような立場から、国民総員、清新にして活発、希望満々のうちに奮って戦い抜けるよう、安んじて困難におもむき得られることを目途として、諸々の方策を即急に実行いたしまして、以て新局面を展開し宸襟を安んじたてまつる覚悟であります。わたくしがこの{{ruby|秋|とき}}、この危局に{{ruby|老軀|ろうく}}をひっさげて起ちますことは、自らかえりみて悲壮の感がありますが、大いに若返りまして、心身いっさいをささげて臣節を完うしたいと存じます。わたくしは政治は素人でいっこうわかりませぬが、いっさいをあげて戦争を勝利に導くよう努力いたそうと存じます。国民諸君には、この意を{{ruby|諒|りょう}}とせられ、ご協力あらんことを切に願う次第であります。昭和20年4月7日|内閣総理大臣  鈴木貫太郎}} === 日米関係への姿勢 === 鈴木の就任後、まもなく死亡した敵国の首脳である[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]の訃報を知ると、[[同盟通信社]]の短波放送により、 {{quotation|今日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の[[覇権主義]]に対し今まで以上に強く戦います。|内閣総理大臣 鈴木貫太郎}} という談話を[[世界]]へ発信している{{Sfn|平川祐弘|1993|p=80}}。1945年4月23日の[[タイム (雑誌)|TIME誌]]の記事では、以下のように発言が引用されている。 {{cquote2|{{en|I must admit that Roosevelt's leadership has been very effective and has been responsible for the Americans' advantageous position today. For that reason I can easily understand the great loss his passing means to the American people and my profound sympathy goes to them.}}<br> 翻訳:[[大日本帝国]]としては、ルーズベルト大統領のリーダーシップが優れており、それが現在のアメリカ優勢の戦況をもたらしていることを認めざるを得ません。よって彼の死去はアメリカ人にとって大きな損失であることを理解し、これに哀悼の意を表します。}} 戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、[[帝国議会]][[貴族院 (日本)|貴族院]]及び[[衆議院]]本会議の演説で、鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)の[[サンフランシスコ]]訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。 2日後の衆議院の委員会で、質問に立った[[小山亮]]から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として、小山は質問を打ち切り、退席する事態となった([[天罰発言事件]])。 議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・[[米内光政]](元首相)は、内閣を反逆者扱いする議会に反発して、閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した{{Sfn|保阪正康|2007|p=142-150}}。抗戦派と目された陸軍大臣・[[阿南惟幾]]は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ{{Sfn|保阪正康|2007|p=142-150}}。 この鈴木の国会演説に関して[[半藤一利]]は、「鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の[[無条件降伏]]の主張を変えさせることが目的だった」と記している<ref>半藤一利『聖断―天皇と鈴木貫太郎』文藝春秋、1985年、pp.264 - 265</ref>。これに対し[[保阪正康]]は、「鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあった」と述べている{{Sfn|保阪正康|2007|p=142-150}}。 === 終戦工作 === 1945年(昭和20年)6月6日、[[最高戦争指導会議]]に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=255}}。 この日の重臣会議で、[[若槻禮次郎]]から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した[[東條英機]]は満足してうなずいたが、[[近衛文麿]]は微笑しており若槻が不審に思った。 これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣([[木戸幸一]])に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」<ref>[[志賀直哉]]『鈴木貫太郎』</ref> という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。 「戦争指導大綱」に従い、[[国民義勇隊#国民義勇戦闘隊|国民義勇戦闘隊]]を創設する[[義勇兵役法]]など、[[本土決戦]]のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は[[内閣書記官長]]の[[迫水久常]]とともに、国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは、鉄片を弾丸とする先込め単発銃・竹槍・[[弓 (武器)|弓]]・[[刺又]]など、全て[[江戸時代]]の代物で、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった{{Sfn|保阪正康|2007|p=222}}。 こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議で[[ソビエト連邦|ソ連]]に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=285-286}}。ソ連は[[日ソ中立条約]]の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の[[松谷誠]]らとともに、ソ連の[[ヨシフ・スターリン]]に期待していた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=289}}。 一方でスターリンは、1945年2月の[[ヤルタ会談]]で、ルーズベルトとの会談でヨーロッパ戦線が終わった後に「[[満州国]]・[[千島列島]]・[[樺太]]に侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領[[ハリー・S・トルーマン]]に、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた{{Sfn|暗闘(上)|2011|p=296}}。 [[ポツダム宣言]]発表翌日の[[7月27日]]未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=361-363}}。その結果、外務大臣・[[東郷茂徳]]の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=363}}、政府の公式見解は発表しないという方針を取った{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=364}}。 翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」などの論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=364-365}}。 ところが、継戦派の[[梅津美治郎]]・[[阿南惟幾]]・[[豊田副武]]らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=365-366}}、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=365-366}}{{Sfn|暗闘(上)|2011|p=357}}。 28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明は[[カイロ宣言|カイロ會談]]の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=366-367}}。 鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「{{en|no comment}}(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=367}}、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対する {{en|reject}}(拒否)と解されたことは誤算となった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=367}}。この「黙殺」は[[同盟通信社]]により「{{en|ignore it entirely}}(全面的に無視)」と翻訳され、[[ロイター]]と[[AP通信]]では「{{en|reject}}(拒否)」と報道された。 記者会見に出席した[[同盟通信]]国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている{{Sfn|暗闘(上)|2011|p=358}}。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。 ポツダム宣言に対する大日本帝国政府の断固たる態度を見たアメリカが、[[日本への原子爆弾投下]]を最終的に決断したとの見方もある{{refnest|group="注"|終戦を遅らせ原爆を投下させたので鈴木には戦争責任がある、との社説もある<ref>2006年8月15日付け読売新聞社説</ref>。}}。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=368-369}}。 [[高木惣吉]]海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。 トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない{{Sfn|暗闘(上)|2011|p=341}}。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、[[長谷川毅]]は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている{{Sfn|暗闘(上)|2011|p=325-326}}。 一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、[[内閣情報局]]総裁[[下村宏]]などに、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある<ref>{{Cite book|url= https://books.google.co.jp/books/about/History_of_Contemporary_Japan_1945_1998.html?id=HzHSnX7gIMwC&redir_esc=y |title=History of Contemporary Japan, 1945-1998|date=1998|publisher=Taylor & Francis|editor=Edward R. Beauchamp|accessdate=2014-11-03}}</ref>。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることに変わりはない。 8月6日の[[広島市への原子爆弾投下]]、9日の[[ソ連対日参戦]]と[[長崎市への原子爆弾投下]]、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。 8月10日未明<ref group="注">通説では8月9日深夜に始まったとされていたが、『[[昭和天皇実録]]』において8月10日午前0時3分開始と確認された。[http://mainichi.jp/shimen/news/m20140909ddm010040199000c.html 昭和天皇実録:ポツダム宣言受諾、2・26… 分刻み、克明記録 研究手がかりに] 毎日新聞 2014年9月9日</ref> から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=413-414}}。 午前2時ごろに鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=414}}。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=414}}。 昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=451}}、8月14日に再度御前会議が招集され、天皇の聖断を再び仰ぐことになった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=462-463}}。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の降伏が決まった{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=468}}。 8月15日の早朝、[[佐々木武雄]]陸軍大尉を中心とする[[国粋主義]]者達が総理官邸及び[[小石川]]の私邸を襲撃し([[宮城事件]])、鈴木は警護官に間一髪救い出された<ref>{{Cite journal|和書|title=横浜警備隊長佐々木大尉の反乱|author=半藤一利|url= http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_441/yurin.html |journal=有鄰|number=441|date=2004-08-10|page=1}}</ref>。正午、昭和天皇の朗読による[[玉音放送]]がラジオで放送された。この日の未明、[[阿南惟幾]]が自刃した。同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、[[東久邇宮内閣]]が成立する8月17日まで職務を執行している。 === 首相退任後 === 1945年9月に郷里・[[千葉県]][[東葛飾郡]][[関宿町]](現・野田市)に一時滞在したことが、[[国立公文書館]]に保管されている動静録により分かっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://373news.com/_news/compactnews.php?newsitemid=2020081101002437|title=命狙われ、終戦翌月に郷里千葉へ 鈴木貫太郎首相の動静録で判明|accessdate=2020年11月4日|publisher=南日本新聞}}{{リンク切れ|date=2022年9月}}</ref>。 1945年(昭和20年)12月15日に枢密院議長・平沼騏一郎が[[戦争犯罪]]容疑で[[逮捕]]され、鈴木は枢密院議長に再度就任した。[[1946年]](昭和21年)1月、昭和天皇から御紋付木盃並びに酒肴料を下賜され、加えて特旨を以て[[鳩杖|宮中杖]]の携行を許された{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=544}}。6月3日、[[公職追放令]]の対象となったため、枢密院副議長・[[清水澄]]に議長を譲り辞職し、郷里の関宿町に帰った{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=544}}。 {{要出典範囲|鈴木は、[[第二次世界大戦]]([[大東亜戦争]])後、木戸日記などを熟読して開戦経緯などを調べた形跡が見られ、木戸日記中にはいくつか気になったところに書き込みを加えられている。特に1941年(昭和16年)の9月6日の御前会議の経緯に関する事項では、御前会議の前日、近衛が内奏した国策遂行要領、一.に「戦争準備」を、二.に「外交交渉」を掲げていたが、これに対し「これでは戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける。御前会議で質問したい」という昭和天皇の意見に対し、[[木戸幸一]]が「せいぜい統帥部に外交工作の成功に全幅の協力をせよというていどに発言は控えて」と押しとどめされた記述について、欄外に「この点木戸君の考えは禍根なり」「大過誤」と、相当厳しい言葉で書き込みがされている|date=2023年3月}}。 {{要出典範囲|また長男鈴木一の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、「軍人は政治に関わるべきではない」を信条としていた|date=2023年3月}}。敗戦の1年後1946年(昭和21年)のインタビューでは、「われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001310031_00000&chapter=005|title=日本ニュース戦後編第31号(1946年(昭和21年)8月15日)|accessdate=2014-11-03|work=戦争証言アーカイブス|publisher=NHK}}</ref>。 === 死去 === [[File:Suzuki Kantaro 002.jpg|thumb|180px|墓(千葉県野田市関宿町 実相寺)]] [[1948年]](昭和23年)4月17日、[[肝臓癌]]のため関宿町で[[死去]]<ref>『朝日新聞』 1948年4月18日</ref>、[[享年]]81{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=553}}。死の直前、「永遠の[[平和]]、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したという{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=553}}。関宿町の[[実相寺 (野田市)|実相寺]]に葬られた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=555}}。遺灰の中に[[二・二六事件]]の時に受けた弾丸が混ざっていた。遺品の多くは[[野田市]]の[[鈴木貫太郎記念館]]に展示されている。 戦後、長男・一より[[多治速比売神社]]に東京で鈴木神社創建の話があり、鈴木の生まれ故郷で敬神の念が深かった多治速比売神社の境内が適しているということで、建立場所について当時の[[宮司]]に相談があったという{{Sfn|『堺泉州』13号、「多治速比売神社と鈴木貫太郎」より|2002|p=79-80}}<ref group="注">鈴木貫太郎を御祭神とした鈴木神社創建の実現には至っていない。</ref>。 死後12年を経た[[1960年]](昭和35年)8月15日に、最高位階である従一位を[[贈位]]されている{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=602}}。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少ない。 == 年譜 == * [[1868年]]([[慶応]]3年)[[12月24日 (旧暦)]] - 誕生。※グレゴリオ暦では[[1868年]][[1月18日]] * [[1877年]]([[明治]]10年) - 父の[[群馬県庁]]への就職に伴い前橋市に転居。 * [[1878年]](明治11年) - 第一番小学校厩橋学校(現・[[前橋市立桃井小学校]])卒。 * [[1883年]](明治16年) - 群馬中学(現・[[群馬県立前橋高等学校]])に進むも中退し、[[攻玉社中学校・高等学校|攻玉社]]に学ぶ<ref name=":0">{{Harvnb|秦|2005|p=221|pp=|loc=鈴木貫太郎}} </ref>。 * [[1884年]](明治17年) - 海軍兵学校入校。 * [[1887年]](明治20年)[[7月25日]] - 海軍兵学校卒(14期)。 * [[1888年]](明治21年) - 任[[海軍少尉]]。大沼トヨと結婚。 * [[1892年]](明治25年)[[12月21日]] - 任[[海軍大尉]]。 * [[1895年]](明治28年)- [[日清戦争]]に従軍。 * [[1897年]](明治30年)[[3月30日]] - [[海軍大学校]]砲術学生。 * [[1898年]](明治31年) ** [[4月29日]] - 海軍大学校甲種学生。 ** [[6月28日]] - 任[[海軍少佐]]。 ** [[12月19日]] - 海軍大学校甲種学生卒(1期)。 * [[1901年]](明治34年)[[7月29日]] - [[ドイツ]]駐在(〜1903年(明治36年)[[12月30日]])。 * [[1903年]](明治36年)[[9月26日]] - 任[[海軍中佐]]。 * [[1904年]](明治37年) - [[日露戦争]]に駆逐隊司令として従軍(〜[[1905年]](明治38年))。 * [[1907年]](明治40年)[[9月28日]] - 任[[海軍大佐]]。 * [[1910年]](明治43年)[[7月25日]] - [[海軍水雷学校]]長。 * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[5月24日]] - 任[[海軍少将]]。 ** [[8月10日]] - [[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]司令官。 ** [[12月1日]] - [[海軍省]]人事局長。 * [[1914年]](大正3年)[[4月17日]] - [[事務次官等の一覧#海軍次官|海軍次官]]。 * [[1917年]](大正6年) ** [[6月1日]] - 任[[海軍中将]]。 ** [[9月1日]] - [[練習艦隊]]司令官。 * [[1918年]](大正7年)[[12月1日]] - 海軍兵学校長。 * [[1920年]](大正9年)[[12月1日]] - 第二艦隊司令長官。 * [[1921年]](大正10年)[[12月1日]] - [[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]司令長官。 * [[1922年]](大正11年)[[7月27日]] - [[呉鎮守府]]司令長官。 * [[1923年]](大正12年)[[8月3日]] - 任[[海軍大将]]。 * [[1924年]](大正13年)[[1月27日]] - [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官兼[[連合艦隊司令長官]]。 * [[1925年]](大正14年)[[4月15日]] - [[海軍軍令部#歴代軍令部総長|海軍軍令部長]]。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) ** [[1月22日]] - 予備役編入。[[侍従#歴代侍従長|侍従長]]に就任。 ** [[2月14日]] - [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を兼任。 * [[1936年]](昭和11年)[[2月26日]] - [[二・二六事件]]で襲撃され、重傷を負う。 * [[1940年]](昭和15年)[[6月24日]] - 枢密院副議長に就任。 *[[1944年]](昭和19年)8月10日 - 枢密院議長に就任。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[4月7日]] - [[内閣総理大臣]]就任。 ** [[7月28日]] - [[ポツダム宣言]]について「黙殺」声明<ref>[[毎日新聞]]1945年(昭和20年)7月29日</ref>。 ** [[8月14日]] - ポツダム宣言受諾を御前会議で決定。[[宮城事件]]に遭う。 ** [[8月15日]] - [[玉音放送]]のあと[[内閣総辞職]]。 ** [[12月15日]] - 枢密院議長就任。 * [[1946年]](昭和21年)[[6月3日]] - 枢密院議長を辞職。 * [[1948年]](昭和23年)[[4月17日]] - [[千葉県]][[東葛飾郡]][[関宿町]]で死去(満80歳)。 == 栄典 == ;位階 * [[1891年]](明治24年)[[12月14日]] - [[正八位]]<ref name="貫太郎">{{アジア歴史資料センター|A06051183100|鈴木貫太郎}}</ref><ref>『官報』第2539号「叙任及辞令」1891年12月15日。</ref> * [[1893年]](明治26年)[[1月31日]] - [[従七位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。</ref> * [[1895年]](明治28年)[[11月26日]] - [[正七位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。</ref> * [[1898年]](明治31年)[[9月10日]] - [[従六位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第4562号「叙任及辞令」1898年9月12日。</ref> * [[1903年]](明治36年)[[11月10日]] - [[正六位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第6109号「叙任及辞令」1903年11月11日。</ref> * [[1907年]](明治40年)[[11月30日]] - [[従五位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。</ref> * [[1913年]](大正2年)[[2月10日]] - [[正五位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。</ref> * [[1916年]](大正5年)[[2月21日]] - [[従四位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1065号「叙任及辞令」1916年2月22日。</ref> * [[1920年]](大正9年)[[12月20日]] - [[正四位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第2517号「叙任及辞令」1920年12月21日。</ref> * [[1923年]](大正12年)[[11月12日]] - [[従三位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第3369号「叙任及辞令」1923年11月14日。</ref> * [[1926年]](大正15年)[[12月1日]] - [[正三位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第4289号「叙任及辞令」1926年12月9日。</ref> * [[1931年]](昭和6年)[[12月15日]] - [[従二位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1496号「叙任及辞令」1931年12月23日。</ref> * [[1938年]](昭和13年)[[12月28日]] - [[正二位]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第3677号「叙任及辞令」1939年4月11日。</ref> * [[1960年]](昭和35年)[[8月15日]] - [[従一位]] ;勲章など * [[1895年]](明治28年)[[11月18日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]・[[金鵄勲章|功五級金鵄勲章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。</ref>・[[従軍記章#明治二十七八年従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref name="貫太郎"/> * [[1901年]](明治34年)[[11月30日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。</ref> * [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref> * [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[金鵄勲章|功三級金鵄勲章]]・[[旭日章|勲三等旭日中綬章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。</ref> * [[1915年]](大正4年) ** [[8月28日]] - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第924号「叙任及辞令」1915年8月30日。</ref> ** [[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(大正)]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref> * [[1916年]](大正5年) **[[1月19日]] - [[旭日章|旭日重光章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。</ref> **4月1日 - [[勲一等旭日大綬章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。</ref> * [[1917年]](大正6年)[[11月29日]] - [[賞杯|金杯一個]]<ref name="貫太郎"/> * [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|戦捷記章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三年乃至九年戦役従軍記章]]<ref name="貫太郎"/> * [[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref> * [[1928年]](昭和3年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大礼記念章(昭和)]]<ref name="貫太郎"/> * [[1931年]](昭和6年)[[3月20日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref> * [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]・[[従軍記章#昭和六年乃至九年事変従軍記章|昭和六年乃至九年事変従軍記章]]<ref name="貫太郎"/> * [[1936年]](昭和11年)[[11月20日]] - [[男爵]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第2968号「授爵・叙任及辞令」1936年11月21日。</ref> * [[1937年]](昭和12年)[[1月15日]] - [[賞杯|御紋付銀盃]]<ref name="貫太郎"/> * [[1940年]](昭和15年) ** [[4月29日]] - [[賞杯|銀杯一組]]<ref name="貫太郎"/> ** [[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref> * [[1942年]](昭和17年)[[5月5日]] - [[賞杯|銀杯一組]]<ref name="貫太郎"/> ; 外国勲章佩用允許 * [[1916年]](大正5年)[[6月23日]] - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第1170号「叙任及辞令」1916年6月26日。</ref> * [[1918年]](大正7年)[[8月3日]] - [[イギリス帝国]]:バス第二等勲章<ref name="貫太郎"/> * [[1919年]](大正8年)[[10月25日]] - [[フランス|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章]]グラントフィシエ<ref name="貫太郎"/> * [[1921年]](大正10年)[[3月11日]] - [[イタリア王国]]:サンモーリスエラザル第一等勲章<ref name="貫太郎"/> * [[1934年]](昭和9年) ** [[3月1日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#建国功労章|大満洲国建国功労章]]<ref name="貫太郎"/> ** [[5月9日]] - [[満州国|満州帝国]]:勲一位龍光大綬章<ref name="貫太郎"/> * [[1935年]](昭和10年)[[9月21日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#皇帝訪日紀念章|満州帝国皇帝訪日記念章]]<ref name="貫太郎"/><ref>『官報』第2725号「叙任及辞令」1936年2月4日。</ref> * [[1941年]](昭和16年)[[12月9日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#建国神廟創建紀念章|建国神廟創建記念章]]<ref name="貫太郎"/> == 系譜・親族 == [[File:Kantaro Suzuki in Center Back Row with Parents Siblings.jpg|thumb|両親・兄妹と後列中央が貫太郎]] ; '''鈴木氏''' : 鈴木家に子供が無かったので、貫太郎の父・[[鈴木由哲|由哲]](旧姓:倉持)が倉持家から[[養子]]入り(倉持家は[[足利氏]][[家臣]]の[[家柄]]で[[足利氏|足利家]]管財文書係)。 * [[靖国神社]][[宮司]]を務めた[[鈴木孝雄]][[陸軍大将]]は長弟。[[関東都督府]]外事総長、[[久邇宮]]御用掛の[[鈴木三郎 (拓務官僚)|鈴木三郎]]は次弟(妻のトネは[[木下広次]]の長女)。三弟の永田茂[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中佐]]は軍務での無理がたたり、40歳代前半で死去<ref>別冊[[歴史読本]]57『日本の名家・名門人物系譜総覧』、[[新人物往来社]]、2003年</ref>。 * 妹の敬子は[[彦根藩]]出身の永田廉平海軍大尉に嫁ぐが、永田が黄海海戦で戦死したため、敬子の弟である茂が養子に入った。永田の父である[[永田正備]]は[[桜田門外の変]]の際に主君である[[大老]][[井伊直弼]]の護衛をしており、奮戦空しく殺害されている。 * 先妻のトヨ(旧姓:大沼)とは1912年に死別。 * 後妻はたか(旧姓:足立)。たかは[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]]附属幼稚園(現・[[お茶の水女子大学附属幼稚園]])の[[教諭]]であったが、[[菊池大麓]][[帝国大学#東京|東京帝大]][[教授]]の推薦により、[[1905年]](明治38年)から[[1915年]](大正4年)まで[[皇族|皇孫]]御用掛として、幼少時の迪宮([[昭和天皇]])<ref name="historia">{{Cite web|和書|url=http://datazoo.jp/tv/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A7%98%E8%A9%B1%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/834012 |title=歴史秘話ヒストリア|2015/02/25(水)放送 |work=TVでた蔵 |publisher=ワイヤーアクション |accessdate=2015-02-26}}</ref>、淳宮([[秩父宮雍仁親王|秩父宮]])、光宮([[高松宮宣仁親王|高松宮]])の養育に当たっていた。皇孫御用掛の役目を終えたのち、鈴木と婚姻<ref name="historia" />。鈴木は後に侍従長を務めており、夫妻で天皇を支えた。[[二・二六事件]]の際、鈴木が襲撃されたことをたかが昭和天皇に直接電話をかけて伝えた。昭和天皇は、[[侍従長]]、[[内閣総理大臣|総理]]時代の貫太郎に「たかは、どうしておる」「たかのことは、母のように思っている」と語っている。 * 貫太郎の長男[[鈴木一 (農林官僚)|一(はじめ)]]は、[[農林水産省|農林省]]山林局長、[[侍従]]次長、[[外務省]]出入国管理庁長官などを務めた。長女のさかえは[[藤江恵輔]][[陸軍大将]]と結婚した、次女は[[足立仁]]と結婚した。 *一の長男・鈴木哲太郎(1926/12/17生:通産省審議官<ref name="名前なし-20230316134052">平成新修旧華族家系大成上p773</ref>)には長女・真理絵(1963/3/31生、濱田憲一夫人<ref name="名前なし-20230316134052"/>)と次女・由里(1968/7/9<ref name="名前なし-20230316134052"/>)がいる。 *哲太郎の妹に[[音楽評論家]]の[[鈴木道子 (音楽評論家)|鈴木道子]]がいる<ref>{{Cite web|和書| url = https://gendai.media/articles/-/44603?page=2 | title = 戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第2部】 高橋是清、犬養毅、鈴木貫太郎、栗林忠道…… 戦中戦後の偉人・軍人末裔が語る「あれから70年」 (2/5) | website = 現代ビジネス | publisher = [[講談社]] | date = 2015-08-18 | accessdate = 2019-11-12 }}</ref>。 * 『宰相 鈴木貫太郎』を上梓した[[東京大学]][[名誉教授]]の[[小堀桂一郎]]は遠戚{{refnest|group="注"|小堀は「そもそも、鈴木貫太郎という人に対する直感があったんですね。遠い縁戚に当たっていて、しょっちゅう会うという間柄ではありませんでしたが、人柄にも惹かれていました」と述べている<ref>[[週刊文春]]2010年4月22日号</ref>。}}。 <pre> 由哲━━┳貫太郎━┳ 一 ━━┳哲太郎━┳浜田真理絵━━耀彦━━朱里     ┣孝雄  ┣藤江さかえ┗道子  ┗由利     ┣よし  ┗足立ミつ子━┳元彦━━┳真理     ┣三郎         ┣道彦  ┗基浩     ┣君          ┗洋子     ┣敬子     ┗茂━輦止みやこ </pre> * 次女・ミつ子が夫の[[足立仁]]とともに住んだ[[台北市]][[昭和町 (台北市)|昭和町]]の住居は現在も同地に保存され、レストラン「青田七六」として営業している。 * 曽孫に[[和歌山大学]][[副学長]]で[[経済学部]][[教授]]の[[足立基浩]]、[[テレビ東京]][[ニューヨーク]]特派員の[[足立真理]]がいる。 == 海軍軍人として == 日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[バルチック艦隊]]の残存艦3隻を[[雷撃]]で撃沈した{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=48-52}}。そのため[[連合艦隊]][[参謀]]・[[秋山真之]]から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた{{Sfn|三好徹|2003|p=94}}{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=52}}。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の[[海軍記念日]]に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=579-580}}。会員の一人であった[[荒城二郎]](当時「[[朝霧 (春雨型駆逐艦)|朝霧]]」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している{{Sfn|鈴木貫太郎傳|1960|p=580}}。 枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・[[嶋田繁太郎]]が[[山本五十六]]の戦死([[海軍甲事件]]。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですので答えられません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「'''俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!'''」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役<ref name=":0" />。ただし、帝国海軍士官は[[終身官]]であったので、[[海軍大将]]の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。 同じころ、以前校長を務めた[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を訪ね、校長の[[井上成美]]に会い「教育の効果が現れるのは20年先だよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという<ref name=":1">井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年、p418。</ref>。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「[[宗谷 (防護巡洋艦)|宗谷]]」の艦長が鈴木であった<ref name=":1" />。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は{{Refnest|group="注"|海軍兵学校企画課長は兵学校のナンバースリー、艦隊の先任参謀にあたる<ref>[[阿川弘之]]『井上成美』新潮社(新潮文庫)、1992年、p377。</ref>。}}「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている<ref>[[阿川弘之]]『井上成美』新潮社(新潮文庫)、1992年、p417。</ref>。 == 人間関係 == {{複数の問題|section=1 |出典の明記=2023年2月 |独自研究=2023年2月}} * 海軍の命令で[[学習院]]に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に[[吉田茂]]がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと言ったことを伝えていたと言われている。 * 1945年(昭和20年)8月14日の御前会議終了後、陸相・阿南惟幾は紙に包んだ[[葉巻きたばこ]]の束を手に「終戦についての議論が起こりまして以来、私は陸軍の意見を代表し強硬な意見ばかりいい、助けなければならないはずの総理に対し、いろいろご迷惑をかけてしまいました。ここに慎んで詫びます。ですがこれも国と[[昭和天皇|陛下]]を思ってのことで、他意はございませんことをご理解下さい。この葉巻は前線から届いたものであります。私は嗜みませんので、閣下がお好きと聞き持参致しました」と挨拶にきた。鈴木は「阿南さんのお気持ちは最初からわかっていました。それもこれも、みんな国を思う情熱から出てきたことです。しかし阿南さん、私はこの国と皇室の未来に対し、それほどの悲観はしておりません。我が国は復興し、皇室はきっと護持されます。陛下は常に神をお祭りしていますからね。日本は必ず再建に成功します」と告げた。阿南は静かにうなずいて「私も、そう思います」と言って辞去した。鈴木は迫水久常に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいた。その数時間後、阿南は割腹[[自決]]した。阿南は鈴木の侍従長時代の侍従武官であり、そのときから鈴木の人柄に深く心酔していた。表面的には閣議や最高戦争指導会議で、鈴木と対立する強硬意見を言うことの多かった阿南であるが、鈴木への尊敬の気持ちは少しも変わらず、陸軍部内の倒閣運動を押さえ込むことに見えない形で尽力したりしている。 * 自分の意見と正反対の方向すなわち終戦の方へ流れがすすみはじめたころ、陸士同期の国務大臣・[[安井藤治]]に阿南は「どんな結論になっても自分は鈴木首相に最後まで事を共にする。どう考えても国を救うのはこの内閣と鈴木総理だと思う」と言ったという。{{独自研究範囲|この阿南の鈴木への深い敬意が、潜在的ではあるが、終戦への流れに大きな役割を果たしたといえる|date=2023年2月}}。 == 人物 == 漢籍に通じ、特に『[[老子]]』を終生愛読した。空襲で目ぼしい財産を失ってからも、孫が古書店で買い求めた『老子』を読んだ。内閣書記官長の迫水久常に「大国を治むるは小鮮を烹(に)るが如し」(国の政治というものは小魚を煮るようなもので、決して慌てて動いてはいけない)という『老子』の一節を贈り、終戦工作の要諦を示唆している。 幼年に生地を去っているが、[[多治速比売神社]]への崇敬の念が深く中佐時代にも参拝したという。海軍中将鈴木貫太郎の名で「敬神崇祖」と書かれた大きな扁額が残されているが、現在は氏子参集殿に掲げられており、同文の扇面が複製され氏子に分けられた。また、大正12年の境内摂社稲荷社の本殿改築及玉垣新築に際して、海軍中将鈴木貫太郎の名で奉納した玉垣石が残されている{{Sfn|『堺泉州』13号、「多治速比売神社と鈴木貫太郎」より|2002|p=79-80}}<ref group="注">同年8月に大将に昇進しているため、奉納は稲荷祭の2月の初午までと思われる。</ref>。また、二・二六事件で重症を負った時、多治速比売命が枕元にお立ちになり命を救われたとして、翌年一月にたか夫人と本復祝の参拝をしている。戦後、鈴木神社創建の話が出た際は多治速比売神社の境内が適していると相談があったという。 「正直に 腹を立てずに 撓まず励め」という遺訓は、母校である[[前橋市立桃井小学校]]の基本目標になっており、校歌の歌詞にも採用されている。同校の卒業生でもある[[糸井重里]]は、この遺訓を「よくできたものである」と絶賛している<ref>NHK総合テレビ2013年2月26日放送の『[[ニュースウオッチ9]]』より。</ref>。 == 著書 == * 『鈴木貫太郎自伝』 [[鈴木一 (農林官僚)|鈴木一]]<ref group="注">長男で首相秘書官、戦後は[[宮内庁侍従職|侍従次長]]などを務めた。初刊は桜菊会出版部、1949年</ref> 編、[[時事通信社]]、1968年、新装版1985・1991年。回顧談「[[終戦の表情]]」も収録 ** 新版『鈴木貫太郎自伝』<ref>他に『日本人の自伝 12 鈴木貫太郎 今村均』平凡社、1981年</ref>「人間の記録24」[[日本図書センター]]、1997年。ISBN 4820542656 ** 改訂版『鈴木貫太郎自伝』 [[小堀桂一郎]]解説・校訂、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2013年 == 関連作品 == === 小説 === * 『雪つもりし朝 二・二六の人々』([[2017年]]) - 作 [[植松三十里]]、[[KADOKAWA]]、ISBN 9784041052129<ref>{{Cite web|和書|title=雪つもりし朝 二・二六の人々 |url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321609000390/ |website=KADOKAWAオフィシャルサイト |access-date=2023-02-16 |first=KADOKAWA |last=CORPORATION}}</ref> === 映画 === * 『[[黎明八月十五日]]』(1952年、演:[[青山杉作]])※役名は総理大臣 * 『[[日本敗れず]]』(1954年、[[新東宝]]、演:[[斎藤達雄 (俳優)|斎藤達雄]])※役名は総理 * 『[[叛乱 (映画)|叛乱]]』(1954年、新東宝、演:[[武村新]])※役名は「鈴木侍従長」 * 『[[重臣と青年将校 陸海軍流血史]]』(1958年、新東宝、演:武村新) * 『[[大東亜戦争と国際裁判]]』(1959年、新東宝、演:[[武田正憲]]) * 『[[皇室と戦争とわが民族]]』(1960年、新東宝、演:[[林寛]]) * 『[[八月十五日の動乱]]』(1962年、演:[[宇佐美淳也]]) * 『[[銃殺 (1964年の映画)|銃殺]]』(1964年、[[東映]]、演:[[志摩栄]])※役名は「鈴木侍従長」 * 『[[日本のいちばん長い日#1967年版の映画|日本のいちばん長い日]]』(1967年、[[東宝]]、演:[[笠智衆]]) * 『[[あゝ決戦航空隊]]』(1974年、東映、演:[[村上冬樹]]) * 『[[動乱 (映画)|動乱]]』(1980年、演:[[稲川善一]])※役名は「侍従長」 * 『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』 (1982年、東映、演:[[小山源喜|小山源基]]) * 『[[226 (映画)|226]]』 (1989年、[[松竹]]、演:[[芦田伸介]]) * 『[[太陽 (映画)|太陽]]』(2005年、演:[[守田比呂也]]) * 『[[日本のいちばん長い日#2015年版の映画|日本のいちばん長い日]]』 (2015年、松竹、演:[[山﨑努]]) === テレビドラマ === * [[NHK特集]]『[[日本の戦後]]』第1集 日本分割 知られざる占領計画 (1977年、[[日本放送協会|NHK]]、演:[[嵐寛寿郎]]) * 『[[歴史の涙]]』 (1980年、[[TBSテレビ|TBS]]、演:[[西村晃]]) * 『[[山河燃ゆ]]』(1984年、NHK大河ドラマ、演:[[平野元]]) * 『[[そして戦争が終った]]』 (1985年、TBS、演:[[森繁久彌]]) * 『[[命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳]]』 (1994年、TBS、演:[[小林桂樹]]) * 『[[ヒロシマ 原爆投下までの4か月]]』(1995年、NHK、演:[[松村達雄]]) * 『聖断』 (2005年、[[テレビ東京]]、演:[[松方弘樹]]) * 『[[落日燃ゆ]]』(2009年、テレビ朝日、演:[[東孝]]) * 『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』第3部 (2011年、NHK、演:[[赤井英和]]) * 『[[玉音放送を作った男たち]]』 (2015年、[[NHK BSプレミアム]]、演:[[上田耕一]]) === マンガ === *『[[昭和天皇物語]]』([[2017年]] から[[小学館]]『[[ビッグコミックオリジナル]]』連載、作画 [[能條純一]]:原作 [[半藤一利]]「昭和史」、脚本:[[永福一成]]、監修:志波秀宇) *『[[日本のいちばん長い日#漫画|日本のいちばん長い日]]』([[2021年]] - [[2022年]]、[[文藝春秋|文芸春秋]]『[[文春オンライン|文集オンライン]]』連載、作画 [[星野之宣]]:原作 [[半藤一利]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Citation |和書 |last=秦 |first=郁彦 編著 |authorlink=秦郁彦 |year=2005 |title=日本陸海軍総合事典 |edition=第2 |publisher=東京大学出版会}} * {{Cite book|和書|chapter=鈴木貫太郎|pages=94-95|author=三好徹|title=実録首相列伝―国を担った男達の本懐と蹉跌|series=歴史群像シリーズ(70号)|publisher=学研|year=2003|month=6|isbn=978-4056031515|url= http://hon.gakken.jp/book/1860315100 |ref={{Sfnref|三好徹|2003}} }} * {{Cite book|和書|author=長谷川毅|authorlink=長谷川毅|title=暗闘(上) スターリン、トルーマンと日本降伏|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|year=2011|isbn=978-4-12-205512-4|url= http://www.chuko.co.jp/bunko/2011/07/205512.html |ref={{Sfnref|暗闘(上)|2011}} }} * {{Cite book|和書|title=平和の海と戦いの海-二・二六事件から「人間宣言」まで|author=平川祐弘|authorlink=平川祐弘|year=1993|month=5|publisher=講談社学術文庫|ref={{Sfnref|平川祐弘|1993}} }} ** 初刊版:新潮社、1983年2月/改訂版:勉誠出版「著作集(6)」、2016年12月 * {{Cite book|和書|author=半藤一利|authorlink=半藤一利|title=聖断―天皇と鈴木貫太郎|year=2006|month=8|publisher=PHP研究所|series=PHP文庫|isbn=978-4569666686|url= http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-66668-6 |ref={{Sfnref|半藤一利|2006}} }}<!--ISBN 4-569629-84-9--> **旧版(文藝春秋、1985年8月、文春文庫、1988年8月、PHP研究所、2003年8月) * {{Cite book|和書|author=保阪正康|authorlink=保阪正康|title=本土決戦幻想 コロネット作戦編|publisher=毎日新聞社|series=昭和史の大河を往く|year=2009|isbn=978-4-62-031943-8|url= http://books.mainichi.co.jp/2009/09/post-b7c3.html |ref={{Sfnref|保阪正康|2009}} }} * [[小堀桂一郎]]『宰相鈴木貫太郎』 文藝春秋 1982年、文春文庫 1987年 **増訂版 『鈴木貫太郎-用うるに玄黙より大なるはなし』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉 2016年。ISBN 4623078426 * 小松茂朗『終戦時宰相 鈴木貫太郎―昭和天皇に信頼された海の武人の生涯』(光人社、1995年/光人社文庫、2015年、新版2022年)。ISBN 4-7698-3272-9 * [[花井等]]『終戦宰相 鈴木貫太郎』([[廣池学園]]出版部、1997年)。ISBN 4-892054-10-0 * 立石優『鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将』(PHP文庫、2000年)。ISBN 4-569-57376-2 * {{Wikicite|ref={{SfnRef|鈴木貫太郎傳|1960}}|reference=『鈴木貫太郎傳』 同編纂委員会編、昭和35年(1960年)}} ** 『歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎』(ゆまに書房 2006年)で復刻([[御厨貴]]監修) *「別冊[[歴史読本]]57」 第28巻26号 『日本の名家・名門 人物系譜騒乱』 新人物往来社 2003年 266-267頁 *「堺泉州」13号『鈴木貫太郎伝 泉州伏尾で生まれた終戦時の首相』土師楠嘉(堺泉州出版会 2002年)79-86頁 *木立順一 『日本偉人伝』メディアポート 2014年。 ISBN 978-4865580150。 == 関連項目 == * [[鈴木貫太郎記念館]] * [[日本のいちばん長い日]] * [[日本の降伏]] * [[終戦日記]] * [[終戦の日]] == 外部リンク == {{commonscat|Kantarō Suzuki}} * {{Cite web|和書|url= http://www.city.noda.chiba.jp/shisei/profile/bunkazai/hakubutsukan/1000800.html |title=鈴木貫太郎記念館|publisher=[[野田市]]|accessdate=2015-02-26}} * {{Cite web|和書|url= http://www.city.noda.chiba.jp/shisei/profile/bunkazai/meisho/1000785.html |title=鈴木貫太郎の墓(実相寺)|publisher=野田市|accessdate=2015-02-26}} * [http://www.exkw.bb4u.ne.jp/~tabiari/sekiyado.htm 関宿町-鈴木貫太郎を訪ねて] * [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/suzukikanntarou.html 国立国会図書館 憲政資料室 鈴木貫太郎関係文書] * {{Cite web|url= http://kingendaikeizu.net/sezima.htm |title=瀬島龍三系図|author=西村明爾|work=近現代・系図ワールド|accessdate=2014-11-03}} * {{Cite web|和書|url= http://www2u.biglobe.ne.jp/~akiyama/no101.htm |title=59回目の8月15日を前に|date=2004-08-09|author=秋山久|work=ネットジャーナル「Q」|accessdate=2014-11-03}} * {{Cite web|和書|url= http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog100.html |title=人物探訪:鈴木貫太郎(上)〜聖断を引き出した老宰相〜|date=1999-08-14|author=伊勢雅臣|work=国際派日本人養成講座|accessdate=2014-11-03}} * {{Kotobank}} {{S-start}} {{S-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] | before = [[小磯國昭]] | years = 第42代:1945年4月7日 - 同8月17日 | after = [[東久邇宮稔彦王]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[枢密院 (日本)|枢密院議長]] | before = [[原嘉道]]<br />[[平沼騏一郎]] | years = 第20代:1944年8月10日 - 1945年4月7日<br />第22代:1945年12月15日 - 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江戸川乱歩賞
江戸川乱歩賞(えどがわらんぽしょう、通称:乱歩賞、英称:Edogawa Ranpo Award)は、1954年、江戸川乱歩の寄付を基金として、日本推理作家協会(旧:日本探偵作家クラブ)により、探偵小説を奨励するために制定された文学賞。 第3回以降は、長編小説を公募し、優秀作品に与えられることになった。現在では推理作家への登竜門として知られている。 正賞として江戸川乱歩像が、副賞として1000万円が贈呈される。また、受賞作は講談社から出版される。1992年の第38回からはフジテレビが後援に加わり、受賞作が同局にて単発ドラマ化、あるいは、映画化されるようになった。 正賞として与えられる像は、第48回までは「シャーロック・ホームズ像」であったが、第49回からは「江戸川乱歩像」に変更された。 受賞作は講談社文庫に収録されるが、近年では絶版入手不能となるものも増えてきたため、1989年9月より講談社文庫から江戸川乱歩賞全集が刊行され、受賞作および全選評を収録することとなった。2006年9月時点で18巻までが刊行されている。しかし刊行当初には全受賞作を収録する予定であったが、一部受賞作については著者の了解が得られなかったとして収録されていない作品もある。 2004年4月には、乱歩賞作家が執筆した中篇を集めた単行本『乱歩賞作家 赤の謎』が刊行された。その後、1か月ごとに『白の謎』『黒の謎』『青の謎』の計4冊が刊行された。 受賞者は第2作発表の場も含め、講談社の強いバックアップによって育成されていくという慣行がある。そのため、新人賞としてものちのち活躍していく作家の率が非常に高い。岡嶋二人は受賞後、編集者に「直木賞を受けて消えた作家はいても、乱歩賞を受けて消えた作家はいない」(消えた、の定義にもよるが、実際はゼロではない)と言われたという。 第68回より、江戸川乱歩ゆかりの豊島区とパートナーシップを結び、贈呈式を一般公開する。併せて賞金を500万円に減額することが発表された。 贈呈式の一般公開に踏み切った経緯は、非公開は明確な理由が無く慣例だったことや、「社会派ミステリに限定」「大人向け」「プロフィールで判断される」などの噂が広まったことで、応募のハードルが高いと思われている賞をオープンにしたいという理由である。 過去、落選した作者がその後活躍する例があるのが乱歩賞の特色の一つである。また、後に受賞作よりも高く評価された作品もある。しかしながら公刊されている落選作はほとんど加筆や修正があると明記されており、選考に問題があったか否かは測りがたい。そのうちの主な作者・作品について以下に記す。()内は現行の名義及び題名。
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江戸川乱歩賞は、1954年、江戸川乱歩の寄付を基金として、日本推理作家協会により、探偵小説を奨励するために制定された文学賞。
{{Infobox award | name = 江戸川乱歩賞 | current_awards = | image = | imagesize = | alt = | caption = | description = 広い意味の長編[[推理小説]] | presenter = 江戸川乱歩賞選考委員会(第1回-第6回)<br>日本探偵作家クラブ(第7回-第8回)<br>[[日本推理作家協会]](第9回-現在) | host = | date = | country = {{JPN}} | location = [[帝国ホテル]] | reward = 正賞:[[江戸川乱歩]]像<br>賞金:500万円 | year = 1955年 | year2 = 第69回(2023年) | holder = 三上幸四郎『蒼天の鳥たち』 | website = http://shousetsu-gendai.kodansha.co.jp/special/edogawa.html }} '''江戸川乱歩賞'''(えどがわらんぽしょう、通称:'''乱歩賞'''、[[英語|英称]]:{{en|Edogawa Ranpo Award}})は、[[1954年]]、[[江戸川乱歩]]の寄付を基金として、[[日本推理作家協会]](旧:日本探偵作家クラブ)により、[[推理小説|探偵小説]]を奨励するために制定された[[文学賞]]。 ==概要== 第3回以降は、長編小説を公募し、優秀作品に与えられることになった。現在では[[推理作家]]への[[登龍門|登竜門]]として知られている。 正賞として江戸川乱歩像が、副賞として1000万円が贈呈される。また、受賞作は[[講談社]]から出版される。[[1992年]]の第38回からは[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が後援に加わり、受賞作が同局にて単発ドラマ化、あるいは、映画化されるようになった。 正賞として与えられる像は、第48回までは「[[シャーロック・ホームズ]]像」であったが、第49回からは「江戸川乱歩像」に変更された<ref>当時、日本推理作家協会常任理事を務めていた[[井沢元彦]]が、乱歩の没後長く経つのにホームズ像のままなのはおかしいと、切り替えを提案した。【たからもの】井沢元彦さん 江戸川乱歩賞の像/「推理」に生きた現場感覚(『[[読売新聞]]』朝刊2019年9月23日)による。</ref>。 受賞作は[[講談社文庫]]に収録されるが、近年では絶版入手不能となるものも増えてきたため、1989年9月より講談社文庫から江戸川乱歩賞全集が刊行され、受賞作および全選評を収録することとなった。2006年9月時点で18巻までが刊行されている。しかし刊行当初には全受賞作を収録する予定であったが、一部受賞作については著者の了解が得られなかったとして収録されていない作品もある。 [[2004年]]4月には、乱歩賞作家が執筆した中篇を集めた単行本『乱歩賞作家 赤の謎』が刊行された。その後、1か月ごとに『白の謎』『黒の謎』『青の謎』の計4冊が刊行された。 受賞者は第2作発表の場も含め、講談社の強いバックアップによって育成されていくという慣行がある。そのため、新人賞としてものちのち活躍していく作家の率が非常に高い。[[岡嶋二人]]は受賞後、編集者に「直木賞を受けて消えた作家はいても、乱歩賞を受けて消えた作家はいない」(消えた、の定義にもよるが、実際はゼロではない)と言われたという。 第68回より、江戸川乱歩ゆかりの[[豊島区]]とパートナーシップを結び、贈呈式を一般公開する<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=乱歩ゆかりの街・池袋で、江戸川乱歩賞贈呈式が史上初の一般公開。講談社・書籍編集長に聞く、「開かれた乱歩賞」への道のり|url=https://ddnavi.com/interview/884933/|website=ダ・ヴィンチニュース|accessdate=2021-11-22|language=ja}}</ref>。併せて賞金を500万円に減額することが発表された。 贈呈式の一般公開に踏み切った経緯は、非公開は明確な理由が無く慣例だったことや、「社会派ミステリに限定」「大人向け」「プロフィールで判断される」などの噂が広まったことで、応募のハードルが高いと思われている賞をオープンにしたいという理由である<ref name=":0" />。 == 受賞作一覧 == === 第1回から第10回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | 第1回(1955年度) || || 受賞 || 探偵小説辞典 || [[中島河太郎]] || || |- | 第2回(1956年度) || || 受賞 || [[ハヤカワ・ポケット・ミステリ]]<br />の出版 || [[早川書房]] || || |- | rowspan="3"| 第3回(1957年度) || rowspan="3"| 96編 || 受賞 || [[猫は知っていた]] || [[仁木悦子]] || 1957年12月<ref group="注">大日本雄弁会講談社</ref> || 1975年1月 |- | rowspan="2" | 候補 || 背徳の街<ref group="注">刊行時『疑惑の夜』に改題</ref> || [[飛鳥高]] || 1958年10月 || |- | お天狗様の歌<ref group="注">刊行時『天狗の面』に改題</ref> || [[土屋隆夫]] || 1958年6月<ref group="注">浪速書房</ref> || 1975年8月<ref group="注">[[角川文庫]]</ref> |- | rowspan="4"| 第4回(1958年度) || rowspan="4"| 107編 || 受賞 || [[濡れた心]] || [[多岐川恭]] || 1958年11月 || 1977年3月 |- | rowspan="3" | 候補 || 哀傷日記 || 志保田泰子 || || |- | 黒百合はなぜ咲いた || 朝吹賢司 || || |- | 天に代りて不義を討つ || 佐世保太郎 || || |- | rowspan="4"| 第5回(1959年度) || rowspan="4"| 113編 || 受賞 || 危険な関係 || [[新章文子]] || 1959年10月 || 1978年9月 |- | rowspan="3" | 候補 || 招かざる客<ref group="注">刊行時『招かれざる客』に改題</ref> || [[笹沢左保|笹沢佐保]] || 1960年3月 || 1971年8月<ref group="注">角川文庫</ref> |- | 罠をさがせ || 松尾糸子 || || |- | 当選させたのは誰だ || 大雅寛生 || || |- | rowspan="6"| 第6回(1960年度) || rowspan="6"| || colspan="5"| 受賞作なし |- | rowspan="5" | 候補 || すれ違った死 || 五十嵐静子<ref group="注">[[夏樹静子]]の別名義</ref> || || |- | 北大東島 || 宇治千介 || || |- | 醜聞 || 黒川俊介<ref group="注">[[西村京太郎]]の別名義</ref> || || |- | 白い廃園 || 膳哲之助 || || |- | ハイムダールの誘惑 || 藤井礼子<ref group="注">大貫進の別名義</ref> || || |- | rowspan="5"| 第7回(1961年度) || rowspan="5"| 86編 || 受賞 || 枯草の根 || [[陳舜臣]] || 1961年10月 || 1975年6月 |- | rowspan="4" | 候補 || 紙の墓碑<ref group="注">刊行時『紙の墓標』に改題</ref> || 垂水堅二郎<ref group="注">[[芳野昌之]]の別名義</ref> || 1962年10月<ref group="注">浪速書房</ref> || |- | 紙の爪痕 || 花屋治<ref group="注">[[松村喜雄]]の別名義</ref> || 1962年1月<ref group="注">光風社</ref> || |- | 土のハンター || 松尾糸子 || || |- | 重い影 || 谷達郎 || || |- | rowspan="6"| 第8回(1962年度) || rowspan="6"| 96編 || rowspan="2"| 受賞 || 大いなる幻影 || [[戸川昌子]] || 1962年9月 || 1978年8月 |- | 華やかな死体 || [[佐賀潜]] || 1962年9月 || 1978年10月 |- | rowspan="4" | 候補 || 山の唄 || 内田正 || || |- | 道楽のすすめ || 谷達郎 || || |- | 陽気な容疑者たち || [[天藤真]] || 1963年4月<ref group="注">東都書房</ref> || 1980年8月<ref group="注">角川文庫</ref> |- | [[虚無への供物]] || 塔晶夫<ref group="注">[[中井英夫]]の別名義</ref> || 1964年2月 || 1974年3月 |- | rowspan="3"| 第9回(1963年度) || rowspan="3"| 168編 || 受賞 || 孤独なアスファルト<ref group="注">『孤独のアスファルト』を改題</ref> || [[藤村正太]] || 1963年8月 || 1976年6月 |- | rowspan="2" | 候補 || 愛と血の復活 || [[斎藤栄]] || || |- | 妻よねむれ || 朝倉三郎 || || |- | rowspan="4"| 第10回(1964年度) || rowspan="4"| 158編 || 受賞 || 蟻の木の下で || [[西東登]] || 1964年8月 || 1976年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || 茶木良介の即興的な犯罪 || 加津珊 || || |- | 未亡人の見積書 || [[伏見丘太郎]] || || |- | 夜の審判 || 雄谷鶏一 || || |- |} === 第11回から第20回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="3"| 第11回(1965年度) || rowspan="3"| 174編 || 受賞 || [[天使の傷痕|事件の核心]]<ref group="注">刊行時『天使の傷痕』に改題</ref> || [[西村京太郎]] || 1965年8月 || 1976年5月 |- | rowspan="2" | 候補 || 愛と血の港<ref group="注">刊行時『愛と血の炎』に改題</ref> || [[斎藤栄]] || 1968年5月<ref group="注">[[三一書房]]</ref> || |- | 東海岸への道 || 瀬戸彦三 || || |- | rowspan="5"| 第12回(1966年度) || rowspan="5"| 118編 || 受賞 || 王将に児あり<ref group="注">刊行時『殺人の棋譜』に改題</ref> || [[斎藤栄]] || 1966年8月 || 1975年3月 |- | rowspan="4" | 候補 || 不毛の愛 || 内田正 || || |- | 四つのギター || 大谷一夫<ref group="注">[[大谷羊太郎]]の別名義</ref> || || |- | 雪の扇 || 松尾糸子 || || |- | 接点 || [[石沢英太郎]] || || |- | rowspan="4"| 第13回(1967年度) || rowspan="4"| 136編 || 受賞 || 伯林 一八八八年 || [[海渡英祐]] || 1967年8月 || 1975年6月 |- | rowspan="3" | 候補 || 失われた街<ref group="注">刊行時『大東京午前二時』に改題</ref> || [[草野唯雄]] || 1988年9月<ref group="注">[[光文社文庫]]</ref> || |- | 野望の接点 || 黒木曜之助 || 1967年<ref group="注">三一書房</ref> || 1977年9月<ref group="注">[[春陽堂書店|春陽文庫]]</ref> |- | 美談の報酬 || [[大谷羊太郎]] || 1972年<ref group="注">青樹社</ref> || 1986年1月<ref group="注">[[新潮文庫]]</ref> |- | rowspan="6"| 第14回(1968年度) || rowspan="6"| 102編 || colspan="5"| 受賞作なし |- | rowspan="5" | 候補 || 日本女性史 || 志保田泰子 || || |- | 奴隷船 || 川奈完<ref group="注">川奈寛の別名義</ref> || || |- | 転石止まるを知らず<ref group="注">刊行時『抹殺の意志』に改題</ref> || [[草野唯雄]] || 1969年<ref group="注">三一書房</ref> || 1974年<ref group="注">春陽文庫</ref> |- | 火山脈 || 緒方晶彦 || || |- | 有罪と無罪の間 || 和久一<ref group="注">[[和久峻三]]の別名義</ref> || || |- | rowspan="5"| 第15回(1969年度) || rowspan="5"| 110編 || 受賞 || [[高層の死角]] || [[森村誠一]] || 1969年8月 || 1974年4月 |- | rowspan="4" | 候補 || 鮮血のパプテスマ || [[永井ばく]] <ref group="注">[[永井泰宇]]の別名義</ref> || || |- | 虚妄の残影 || [[大谷羊太郎]] || 1972年5月<ref group="注">[[毎日新聞社]]</ref> || 1981年9月<ref group="注">[[徳間文庫]]</ref> |- | 明かりのない部屋 || 愛里収 || || |- | [[天使が消えていく|天使が消えてゆく]]<ref group="注">刊行時『天使が消えていく』に改題</ref> ||[[夏樹静子]] || 1970年2月 || 1975年6月 |- | rowspan="5"| 第16回(1970年度) || rowspan="5"| 82編 || 受賞 || [[殺意の演奏]]<ref group="注">『あざなえる縄』より改題</ref> || [[大谷羊太郎]] || 1970年8月 || 1975年4月 |- | rowspan="4" | 候補 || ベネトナーシュの矢<ref group="注">刊行時『死を呼ぶクイズ』に改題</ref> || [[幾瀬勝彬]] || 1971年3月<ref group="注">春陽文庫</ref> || |- | 赫の盲点 || 里生香志 || || |- | 私の虚像 || 愛里収 || || |- | 京城の死<ref group="注">刊行時『愛の海峡殺人事件』に改題</ref> || [[山村美紗]] || 1984年9月<ref group="注">光文社文庫</ref> || |- | rowspan="6"| 第17回(1971年度) || rowspan="6"| 112編 || colspan="5"| 受賞作なし |- | rowspan="5" | 候補 || フィルムの葬列 || [[小林久三]] || || |- | テロリストへの挽歌 || [[福田洋 (作家)|福田洋志]] || || |- | 藤大夫谷の毒<ref group="注">刊行時『地図にない谷』に改題</ref> || [[藤本泉]] || 1974年<ref group="注">産報</ref> || 1982年1月<ref group="注">徳間文庫</ref> |- | 幻の罠 || [[金井貴一]] || || |- | そして死が訪れる<ref group="注">刊行時『新人賞殺人事件』に改題</ref> || [[中町信]] || 1973年6月<ref group="注">[[双葉社]]</ref> || 1987年2月<ref group="注">徳間文庫</ref> |- | rowspan="5"| 第18回(1972年度) || rowspan="5"| 136編 || 受賞 || 仮面法廷<ref group="注">『華麗なる影』より改題</ref> || [[和久峻三]]<ref group="注">応募時は「和久一」</ref> || 1972年8月 || 1975年9月 |- | rowspan="4" | 候補 || ジャン・シーズの冒険 || [[皆川博子]] || || |- | 怒りの道 || 井口泰子 || 1973年<ref group="注">春陽堂書店</ref> || |- | 空白の近景<ref group="注">刊行時『殺された女』に改題</ref> || [[中町信]] || 1974年<ref group="注">弘済出版社</ref> || 1987年8月<ref group="注">徳間文庫</ref> |- | 死の立体交差<ref group="注">刊行時『黒の環状線』に改題</ref> || [[山村美紗]] || 1976年12月<ref group="注">[[トクマ・ノベルズ]]</ref> || 1980年8月<ref group="注">文春文庫</ref> |- | rowspan="5"| 第19回(1973年度) || rowspan="5"| 124編 || 受賞 || アルキメデスは手を汚さない || [[小峰元]] || 1973年8月 || 1974年10月 |- | rowspan="4" | 候補 || 『禿鷹城』の惨劇 || [[高柳芳夫]] || 1974年1月 || 1984年6月<ref group="注">新潮文庫</ref> |- | いきものの挽歌 || [[金井貴一]] || || |- | 蒼白の盛装<ref group="注">刊行時『ゼロのある死角』に改題</ref> || 笠原卓 || 1973年11月 || 産報 |- | ゆらぐ海溝<ref group="注">刊行時『マラッカの海に消えた』に改題</ref> || [[山村美紗]] || 1974年1月 || 1978年6月 |- | rowspan="4"| 第20回(1974年度) || rowspan="4"| 110編 || 受賞 || 暗黒告知 || [[小林久三]] || 1974年9月 || 1977年9月 |- | rowspan="3" | 候補 || 金右衛門の死 || 嵯峨崎遊 || || |- | 悪夢の中のあなた || [[木村嘉孝 (作家)|木村嘉孝]] || || |- | 豚走また豚走 || 古賀敦 || || |- |} === 第21回から第30回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="5"| 第21回(1975年度) || rowspan="5"| 138編 || 受賞 || 蝶たちは今… || [[日下圭介]] || 1975年8月 || 1978年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 仕手株殺人事件 || 多賀親 || || |- | 倒錯の報復 || [[井沢元彦]] || || |- | 虹の叛旗 || [[福田洋 (作家)|福田洋志]] || || |- | 蒔く如く穫りとらん || [[恢余子|余志宏]] || 1977年3月 || |- | rowspan="5"| 第22回(1976年度) || rowspan="5"| 162編 || 受賞 || 五十万年の死角 || [[伴野朗]] || 1976年9月 || 1979年10月 |- | rowspan="4" | 候補 || ライン河の舞姫 || [[高柳芳夫]] || 1977年3月 || 1984年1月<ref group="注">新潮文庫</ref> |- | 殉死の設計 || 嵯峨崎遊 || || |- | 魔性の石 || 川奈寛 || || |- | 虎の目は青かった || [[恢余子|余志宏]] || || |- | rowspan="5"| 第23回(1977年度) || rowspan="5"| 168編 || rowspan="2"| 受賞 || 時をきざむ潮 || [[藤本泉]] || 1977年9月 || 1980年9月 |- | 透明な季節 || [[梶龍雄]] || 1977年9月 || 1980年9月 |- | rowspan="3" | 候補 || 推理小説・国定忠治 || 嵯峨崎遊 || || |- | 幽霊要塞<ref group="注">刊行時『まんだら殺人事件』に改題</ref> || 玉塚久純 || 1979年9月<ref group="注">梓書院</ref> || |- | タジ・マハールの再会 || 水島圭三郎 || || |- | rowspan="5"| 第24回(1978年度) || rowspan="5"| 196編 || 受賞 || [[栗本薫 (探偵)|ぼくらの時代]] || [[栗本薫]] || 1978年9月 || 1980年9月 |- | rowspan="4" | 候補 || 盲執の人 || 二瓶寛 || || |- | 狙撃<ref group="注">刊行時『凶弾 瀬戸内シージャック』に改題</ref> || [[福田洋 (作家)|福田洋]] || 1979年2月 || 1982年6月 |- | タリア<ref group="注">刊行時『アムステルダム猟奇殺人事件』に改題</ref> || 樽谷新 || 1995年7月<ref group="注">[[講談社ノベルス]]</ref> || |- | バイキング号の遺産 || 帰山六郎 || || |- | rowspan="5"| 第25回(1979年度) || rowspan="5"| 216編 || 受賞 || プラハからの道化たち || [[高柳芳夫]] || 1979年9月 || 1983年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 波切の怪<ref group="注">刊行時『狼火の岬』に改題</ref> || 久司十三 || 1980年10月 || |- | ショケラ || [[宮田亜佐]]<ref group="注">宮田一誠の別名義</ref> || || |- | 六方晶系の女 || 霜月信二郎 || || |- | 教習所殺人事件<ref group="注">刊行時『自動車教習所殺人事件』に改題</ref> || [[中町信]] || 1980年2月<ref group="注">トクマ・ノベルズ</ref> || 1980年2月<ref group="注">徳間文庫</ref> |- | rowspan="4"| 第26回(1980年度) || rowspan="4"| 198編 || 受賞 || [[猿丸幻視行]] || [[井沢元彦]] || 1980年9月 || 1983年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || [[占星術殺人事件]]<ref group="注">『占星術のマジック』より改題</ref> || [[島田荘司]] || 1981年12月 || 1987年7月 |- | 北溟の鷹 || 関口甫四郎 || 1991年3月<ref group="注">青樹社</ref> || |- | M8以前<ref group="注">刊行時『連続殺人マグニチュード8』に改題</ref> || [[長井彬]] || 1983年1月<ref group="注">講談社ノベルス</ref> || 1990年9月 |- | rowspan="4"| 第27回(1981年度) || rowspan="4"| 142編 || 受賞 || 原子炉の蟹 || [[長井彬]] || 1981年9月 || 1984年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || あした天気にしておくれ || [[岡嶋二人]] || 1983年10月<ref group="注">講談社ノベルス</ref> || 1986年8月 |- | 未来の詩人たちのメッセージ || 高橋孝夫 || || |- | ショパンの告発 || 林芳輝 || 1982年11月<ref group="注">テクノス</ref> || |- | rowspan="6"| 第28回(1982年度) || rowspan="6"| 232編 || rowspan="2"| 受賞 || [[焦茶色のパステル]] || [[岡嶋二人]] || 1982年9月 || 1984年8月 |- | 黄金流砂<ref group="注">『黄金の砂』より改題</ref> || [[中津文彦]] || 1982年9月 || 1984年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 長い愛の手紙 || 須郷英三<ref group="注">高場詩朗の別名義</ref> || || |- | ローウェル城の密室 || 高沢則子<ref group="注">[[小森健太朗]]の別名義</ref> || 1995年9月<ref group="注">[[出版芸術社]]</ref> || 1998年5月<ref group="注">[[ハルキ文庫]]</ref> |- | ミスターXを捜しましょう || 雪吹学 || || |- | ハーメルンの笛を聴け || [[深谷忠記]] || 1989年5月<ref group="注">[[中央公論社]]</ref> || 1995年8月<ref group="注">[[中公文庫]]</ref> |- | rowspan="5"| 第29回(1983年度) || rowspan="5"| 262編 || 受賞 || 写楽殺人事件<ref group="注">応募時は『蝋画の獅子』</ref> || [[高橋克彦]]<ref group="注">霧神顕より改名</ref> || 1983年9月 || 1986年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || トワイライト || [[鳥井加南子]]<ref group="注">取井科南子より改名</ref> || 1985年10月 || |- | 港名コード・531 || 大須賀祥浩 || || |- | 星狩人(コメット・ハンター) || [[矢島誠]] || || |- | 消えた添乗員<ref group="注">応募時は『雪のとばり』</ref> || 有馬秀治<ref group="注">佐田純孝より改名</ref> || || |- | rowspan="4"| 第30回(1984年度) || rowspan="4"| 280編 || 受賞 || 天女の末裔<ref group="注">『天女の末裔 殺人村落調査報告書』より改題</ref> || [[鳥井加南子]]<ref group="注">取井科南子より改名</ref> || 1984年9月 || 1987年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || 黄金艦隊の海 the Caribbean Sea || 大須賀祥浩 || 1985年11月 || |- | [[魔球 (小説)|魔球]] || [[東野圭吾]] || 1988年7月 || 1991年6月 |- | G線上の悪魔 || 邦城紀男 || || |- |} === 第31回から第40回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="5"| 第31回(1985年度) || rowspan="5"| 272編 || rowspan="2"| 受賞 || [[放課後 (東野圭吾)|放課後]] || [[東野圭吾]] || 1985年9月 || 1988年7月 |- | モーツァルトは子守唄を歌わない || [[森雅裕]] || 1985年9月 || 1988年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || 風燈 || 玉塚久純 || || |- | 極秘新薬殺人事件 || 池上敏也 || || |- | 阿片戦争殺人事件 || 大須賀祥浩 || || |- | rowspan="5"| 第32回(1986年度) || rowspan="5"| 320編 || 受賞 || [[花園の迷宮]] || [[山崎洋子]] || 1986年9月 || 1989年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 軍艦旗北へ || 玉塚久純 || || |- | 鳩は死んだ || 池上敏也 || || |- | 大河の殺意 || [[高橋幸春]] || || |- | ブラック・バード || [[石井敏弘]] || || |- | rowspan="5"| 第33回(1987年度) || rowspan="5"| 349編 || 受賞 || 風のターン・ロード<ref group="注">『ターン・ロード』より改題</ref> || [[石井敏弘]] || 1987年9月 || 1990年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 土喰霊(つちくれ) || 三谷海幸 || || |- | 再生バレンブルク || 樽谷新 || || |- | 上海カタストロフ || 柏木智光<ref group="注">桂浩薫より改名</ref> || 1996年7月 || |- | 象が食った完全犯罪 || [[恢余子|余志宏]] || || |- | rowspan="4"| 第34回(1988年度) || rowspan="4"| 369編 || 受賞 || 白色の残像 || [[坂本光一]] <ref group="注">応募時は「太田俊明」</ref> || 1988年9月 || |- | rowspan="3" | 候補 || 倒錯のロンド || [[折原一]]<ref group="注">応募時は「北野凌」</ref> || 1989年7月 || 1992年8月 |- | 衛星作戦の女 || 池上敏也 || || |- | 鬼火列車 || 吉岡道夫 || 1990年7月 || |- | rowspan="4"| 第35回(1989年度) || rowspan="4"| 287編 || 受賞 || 浅草エノケン一座の嵐 || [[長坂秀佳]] || 1989年9月 || 1992年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || クレムリンの道化師 || [[阿部陽一]] || || |- | メビウスの魔魚<ref group="注">『メービウスの魔魚』より改題</ref> || 吉岡道夫 || 1990年2月 || 1994年6月 |- | 泣き顔のクピド<ref group="注">刊行時『天使の墓』に改題</ref> || 花木深 || 1997年3月<ref group="注">[[文藝春秋社]]</ref> || |- | rowspan="5"| 第36回(1990年度) || rowspan="5"| 289編 || rowspan="2"| 受賞 || 剣の道殺人事件 || [[鳥羽亮]] || 1990年9月 || 1993年7月 |- | フェニックスの弔鐘 || [[阿部陽一]] || 1990年9月 || 1993年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || ツール・ド・みちのくが狙われる || 広瀬光朗 || || |- | 200メガバイトを追え! || [[梅原克文]]<ref group="注">梅原克哉の別名義</ref> || || |- | 代償<ref group="注">刊行時『誘拐の果実』に改題</ref> || [[真保裕一]] || 2002年11月<ref group="注">[[集英社]]</ref> || 2005年11月<ref group="注">[[集英社文庫]]</ref> |- | rowspan="5"| 第37回(1991年度) || rowspan="5"| 261編 || rowspan="2"| 受賞 || ナイト・ダンサー || [[鳴海章]] || 1991年9月 || 1994年7月 |- | 連鎖 || [[真保裕一]] || 1991年9月 || 1994年7月 |- | rowspan="3" | 候補 || 地獄のウェーブ || 竹本みやこ || || |- | ロボットは、ためらいなく殺す || [[梅原克文]]<ref group="注">梅原克哉の別名義</ref> || || |- | かぐや姫殺人事件 || 瑞木晶子 || || |- | rowspan="5"| 第38回(1992年度) || rowspan="5"| 279編 || 受賞 || 白く長い廊下<ref group="注">『長い廊下』から改題</ref> || [[川田弥一郎]] || 1992年9月 || 1995年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || ヘルン先生行状記 || 千葉良 || || |- | 村正殺人事件<ref group="注">刊行時『凶刀「村正」殺人事件』に改題</ref> || 松本豊<ref group="注">[[佐竹一彦]]の別名義</ref> || 1993年1月<ref group="注">[[カッパ・ノベルス]]</ref> || 2000年2月<ref group="注">角川文庫</ref> |- | 夏の果て<ref group="注">刊行時『閉ざされた夏』に改題</ref> || [[若竹七海]] || 1993年1月 || 1998年7月 |- | 至福のとき || 森健次郎<ref group="注">藤村耕造の別名義</ref> || || |- | rowspan="6"| 第39回(1993年度) || rowspan="6"| 286編 || 受賞 || 顔に降りかかる雨 || [[桐野夏生]] || 1993年9月 || 1996年7月 |- | rowspan="5" | 候補 || リセット || 桃河和行 || || |- | 零れる闇 || 有明游 || || |- | 河童が人を殺した話 || [[村井さだゆき|村井貞之]] || || |- | 夜間検証 || 森健次郎<ref group="注">藤村耕造の別名義</ref> || 1996年5月<ref group="注">角川書店</ref> || |- | 慟哭の錨<br />関門海峡シージャック事件<ref group="注">刊行時『海峡に死す』に改題</ref> || [[阿部智]] || 1994年6月<ref group="注">講談社ノベルス</ref> || |- | rowspan="5"| 第40回(1994年度) || rowspan="5"| 296編 || 受賞 || 検察捜査<ref group="注">『検察官の証言』より改題</ref> || [[中嶋博行]] || 1994年9月 || 1997年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || AV-BLUES || 霧島皐 || || |- | 神々の砂漠 || 園田幸夫 || || |- | 白き煉獄 || [[三宅彰 (作家)|三宅彰]] || || |- | 川沿いの町<ref group="注">刊行時『暴走』に改題</ref> || 釣巻礼公 || 1997年4月<ref group="注">カッパ・ノベルス</ref> || |- |} === 第41回から第50回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="5"| 第41回(1995年度) || rowspan="5"| 291編 || 受賞 || [[テロリストのパラソル]] || [[藤原伊織]] || 1995年9月 || 1998年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || ヒポクラテスの柩 || ヘンリー川邊 || 2004年6月<ref group="注">[[新風舎]]文庫</ref> || |- | あなたに夢印 || 小林仁美 || || |- | 北緯35度の灼熱 || [[野沢尚]] || || |- | 流石<ref group="注">刊行時『流さるる石のごとく』に改題</ref> || 渡辺牡丹<ref group="注">[[渡辺容子]]の別名義</ref> || 1999年10月<ref group="注">集英社</ref> || 2003年1月 |- | rowspan="5"| 第42回(1996年度) || rowspan="5"| 293編 || 受賞 || [[左手に告げるなかれ]] || [[渡辺容子]] || 1996年9月 || 1999年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 閻魔のいるミートパイ || 桃河和行 || || |- | 魔笛 || [[野沢尚]] || 2002年9月 || 2004年9月 |- | サンキュウ・デール || 山瀬球平<ref group="注">応募時は「樋口徹」</ref> || || |- | ペトロバグ<ref group="注">刊行時『ペトロバクテリアを追え!』に改題</ref> || [[高嶋哲夫]] || 2001年5月<ref group="注">[[宝島社]]</ref> || 2002年5月<ref group="注">[[宝島社文庫]]</ref> |- | rowspan="5"| 第43回(1997年度) || rowspan="5"| 308編 || 受賞 || [[破線のマリス]] || [[野沢尚]] || 1997年9月 || 2000年7月 |- | rowspan="4" | 候補 || 神が殺す || 青井祐<ref group="注">[[池井戸潤]]の別名義</ref> || || |- | [[川の深さは]] || [[福井晴敏]] || 2000年8月 || 2003年8月 |- | トルーマン・レター || [[高嶋哲夫]] || 2001年5月<ref group="注">集英社</ref> || 2004年7月<ref group="注">集英社文庫</ref> |- | 榧と柘植の迷宮<ref group="注">刊行時『柘植の迷宮』に改題</ref> || 釣巻礼公 || 1999年2月<ref group="注">出版芸術社</ref> || |- | rowspan="5"| 第44回(1998年度) || rowspan="5"| 299編 || rowspan="2"| 受賞 || [[果つる底なき]] || [[池井戸潤]] || 1998年9月 || 2001年6月 |- | [[Twelve Y. O.]]<ref group="注">『12〈twelve Y.O〉』から改題</ref> || [[福井晴敏]] || 1998年9月 || 2001年6月 |- | rowspan="3" | 候補 || ビッグタウン || 賀芳文吾 || || |- | カマクラ動乱 || 犬神鳴海 || || |- | 天馬誕生 || [[中野順一|中野順市]] || || |- | rowspan="5"| 第45回(1999年度) || rowspan="5"| 289編 || 受賞 || 八月のマルクス<ref group="注">『マルクスの恋人』から改題</ref> || [[新野剛志]] || 1999年9月 || 2002年6月 |- | rowspan="4" | 候補 || そして、僕はいなくなった。 || [[木村千歌]] || || |- | うじ虫の災厄 || [[首藤瓜於]] || || |- | 落日の使徒 || 奈津慎吾 || || |- | ダブル・トラブル || [[堂場瞬一]] || || |- | rowspan="5"| 第46回(2000年度) || rowspan="5"| 364編 || 受賞 || [[脳男]] || [[首藤瓜於]] || 2000年9月 || 2003年6月 |- | rowspan="4" | 候補 || escape エスケープ || 大司海 || || |- | フェンス || 松浦茂史 || || |- | カーティス・クリークの畔で || [[三浦明博]] || || |- | 鋼の使命 || 宮崎連 || || |- | rowspan="5"| 第47回(2001年度) || rowspan="5"| 325編 || 受賞 || [[13階段]] || [[高野和明]] || 2001年8月 || 2004年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || きみは嘘を詠う || 新井吾土 || || |- | グッバイ、ジャズ・ライン || 瀬戸信也<ref group="注">廣島節也より改名</ref> || 2004年5月<ref group="注">スフィンクス文庫</ref> || |- | 接続 || 匠勇人 || || |- | 機械室 || 白石泉 || || |- | rowspan="5"| 第48回(2002年度) || rowspan="5"| 330編 || 受賞 || [[滅びのモノクローム]]<ref group="注">『亡兆のモノクローム』から改題</ref> || [[三浦明博]] || 2002年8月 || 2005年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 境界 || 永見功平 || || |- | Lost Moment || 佐藤仁 || || |- | ボッサ・ファミリア || 瀬戸信也<ref group="注">廣島節也より改名</ref> || 2004年5月<ref group="注">スフィンクス文庫</ref> || |- | 未還 || 萩原昇 || || |- | rowspan="5"| 第49回(2003年度) || rowspan="5"| 356編 || rowspan="2"| 受賞 || [[マッチメイク (小説)|マッチメイク]] || [[不知火京介]] || 2003年8月 || 2006年8月 |- | [[翳りゆく夏]]<ref group="注">『二十年目の恩讐』から改題</ref> || [[赤井三尋]] || 2003年8月 || 2006年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || Shift || 佐藤仁 || || |- | 犯意 || 櫻木そら || || |- | パドックにて || 税所隆介 || || |- | rowspan="5"| 第50回(2004年度) || rowspan="5"| 308編 || 受賞 || [[カタコンベ (小説)|カタコンベ]] || [[神山裕右]] || 2004年8月 || 2007年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || ばら撒け! || 藤井貴裕 || || |- | 裏金街 || 大久保権八 || 2009年4月<ref group="注">中公文庫</ref> || |- | ゴドルフィンの末裔 || 永橋流介<ref group="注">永橋隆介より改名</ref> || 2009年6月<ref group="注">[[幻冬舎ルネッサンス新社|幻冬舎ルネッサンス]]</ref> || 2009年10月<ref group="注">[[幻冬舎文庫]]</ref> |- | 孤独な巡礼者 || 井川衆行 || || |- |} === 第51回から第60回 === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="5"| 第51回(2005年度) || rowspan="5"| 334編 || 受賞 || [[天使のナイフ]] || [[薬丸岳]] <ref group="注">応募時は「秋葉俊介」</ref> || 2005年8月 || 2008年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 通過人の31 || [[早瀬乱]] || || |- | ダンスフロア || 柳瀬勇介 || || |- | 領事代理の密使 || 光月涼那 || || |- | かしわでヘイルメリー || [[須藤靖貴]] || || |- | rowspan="5"| 第52回(2006年度) || rowspan="5"| 323編 || rowspan="2"| 受賞 || [[東京ダモイ]] || [[鏑木蓮]] || 2006年8月 || 2009年8月 |- | [[三年坂 火の夢]] || [[早瀬乱]] || 2006年8月 || 2009年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || オクタゴンの密室 || 井川衆行 || || |- | メッセージ || 松浦茂史 || || |- | ライダーズ・ハイ || [[横関大]] || || |- | rowspan="5"| 第53回(2007年度) || rowspan="5"| 343編 || 受賞 || 沈底魚 || [[曽根圭介]]<ref group="注">応募時は「駄目狷介」</ref> || 2007年8月 || 2010年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 聖クレーマーの憂鬱 || [[横関大|横席大]] || || |- | 暗き情熱のアレーナ || [[下村敦史|下村淳史]] || || |- | ロスト・ソルジャー || 松浦茂史 || || |- | ゼロ・ゼロ || 及川孝男 || || |- | rowspan="5"| 第54回(2008年度) || rowspan="5"| 331編 || rowspan="2"| 受賞 || 誘拐児 || [[翔田寛]] || 2008年8月 || 2011年8月 |- | 訣別の森<ref group="注">『猛き咆哮の果て』より改題</ref> || [[末浦広海]] || 2008年8月 || 2011年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || 止まり木 || 新城利之 || || |- | ハーネス || [[横関大]] || || |- | 贖罪に鳴る鐘<br />サグラダ・ファミリア || [[下村敦史]] || || |- | rowspan="5"| 第55回(2009年度) || rowspan="5"| 398編 || 受賞 || プリズン・トリック<ref group="注">『三十九条の過失』より改題</ref> || [[遠藤武文]] || 2009年8月 || 2012年1月 |- | rowspan="4" | 候補 || 七年誘拐 || [[伊兼源太郎]] || || |- | 謀略の翼 || 長瀬遼 || || |- | オルドリンの無念 || [[直原冬明]] || || |- | 二度目の満月 || [[伊与原新|伊予原新]] || || |- | rowspan="5"| 第56回(2010年度) || rowspan="5"| 387編 || 受賞 || [[再会 (横関大)|再会]]<ref group="注">『再会のタイムカプセル』より改題</ref> || [[横関大]] || 2010年8月 || 2012年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || ヘブン・ノウズ || [[川瀬七緒]] || || |- | ベタ記事 || [[伊兼源太郎]] || || |- | 警察と戦うという選択 || 藤井貴裕 || || |- | ルカの方舟 || [[伊与原新|伊予原新]] || 2013年6月 || |- | rowspan="5"| 第57回(2011年度) || rowspan="5"| 324編 || rowspan="2"| 受賞 || よろずのことに気をつけよ || [[川瀬七緒]] || 2011年8月 || 2013年8月 |- | 完盗オンサイト<ref group="注">『クライミング ハイ』より改題</ref> || [[玖村まゆみ]] || 2011年8月 || 2013年8月 |- | rowspan="3" | 候補 || 卒業試合 || [[伊兼源太郎]] || || |- | 牙を剥く大地 || [[下村敦史]] || || |- | 放獣区 || 森岡英貴 || || |- | rowspan="5"| 第58回(2012年度) || rowspan="5"| 367編 || 受賞 || カラマーゾフの兄妹<ref group="注">『カラマーゾフの妹』に改題</ref> || [[高野史緒]] || 2012年8月 || 2014年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 宙返りの途中 || 香川伸夫 || || |- | 希望の地は、はるか遠く || [[下村敦史]] || || |- | 焼け跡のジハード || 長瀬遼 || || |- | 南の島の鋼鉄平原 || 一ツ木佑輔 || || |- | rowspan="5"| 第59回(2013年度) || rowspan="5"| 397編 || 受賞 || 襲名犯<ref group="注">『ブージャム狩り』より改題</ref> || [[竹吉優輔]]<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.sankei.com/life/news/130513/lif1305130004-n1.html |title = 江戸川乱歩賞に竹吉優輔さんの「ブージャム狩り」 |publisher = [[産経新聞|産経新聞社]] |date = 2013-05-13 |accessdate = 2017-12-02 }}</ref> || 2013年8月 || 2015年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 運命の箱舟 || 長瀬遼 || || |- | 人外領域 || [[高原英理]] || || |- | 家鴨たちの運動会 || 香川伸夫 || || |- | 番外、ヨーソロー || 牧本圭太 || || |- | rowspan="5"| 第60回(2014年度) || rowspan="5"| 349編 || 受賞 || [[闇に香る嘘]]<ref group="注">『無縁の常闇に嘘は香る』より改題</ref> || [[下村敦史]] || 2014年8月 || 2016年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 極星クラブ || 檎克比朗<ref group="注">呉勝浩の別名義</ref> || || |- | ダンテの教え || 新木利之 || || |- | 国会の迷宮 || 木山穣二 || || |- | 変節の森 || 牧本圭太 || || |- |} === 第61回から === {| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small;" ! 回(年度) !! 応募総数 !! 賞 !! 受賞作 !! 著者 !! 初刊 !! 文庫化 |- | rowspan="5"| 第61回(2015年度) || rowspan="5"| 316編 || 受賞 || 道徳の時間 || [[呉勝浩]]<ref group="注">応募時は「檎克比朗」</ref> || 2015年8月 || 2017年8月 |- | rowspan="4" | 候補 || 強き者よ、汝の名は女なり || [[春畑行成]] || || |- | 反魂 || 和久井清水 || || |- | セイレーンの慟哭 || 一ツ木佑輔 || || |- | 白碑 || 拓見享 || || |- | rowspan="4"| 第62回(2016年度) || rowspan="4"| 338編 || 受賞 || QJKJQ || [[佐藤憲胤|佐藤究]] || 2016年8月 || 2018年9月 |- | rowspan="3" | 候補 || (仮)ヴィラ・アーク 設計主旨<br />VILLA ARC (tentative) || 家原英生 || 2017年3月<ref group="注">書肆侃侃房</ref> || |- | ラリックの天球儀 || 光月涼那 || || |- | キャパの遺言 || 十河進<ref group="注">吉里侑の別名義</ref> || || |- | rowspan="6"| 第63回(2017年度) || rowspan="6"| 326編 || colspan="5"| 受賞作なし<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/article/20170515-TSYISS32XVN5BFDPCF3Q2AATKE/ |title = 江戸川乱歩賞、46年ぶり受賞作なし |publisher = 産経新聞社 |date = 2017-05-15 |accessdate = 2017-12-02 }}</ref> |- | rowspan="5" | 候補 || バイオスフィア3 || 栁沼庸介 || || |- | タンポポの種は蒔いてはいけない || 竹原千尋 || || |- | 夜のトリケラトプス || 山田風太 || || |- | 古傷同志 || 牧本圭太 || || |- | アップルピッキング || 光月涼那 || || |- | rowspan="4"| 第64回(2018年度) || rowspan="4"| 348編 || 受賞 || 到達不能極 || [[斉藤詠一]]<ref group="注">応募時は「齋藤詠月」</ref> || 2018年9月 || 2020年12月 |- | rowspan="3" | 候補 || 魔境の墓堀人 || 碧井行隆 || || |- | あかね町の隣人 || 倉井眉介 || || |- | 狩人たちの原罪 || 寺田剛 || || |- | rowspan="5"| 第65回(2019年度) || rowspan="5"| 354編 || 受賞 || ノワールをまとう女<ref group="注">『NOIRを纏う彼女』から改題</ref> || 神護かずみ || 2019年9月 || 2021年9月 |- | rowspan="4" | 候補 || 日陰蝶 || 小林しゅんすけ || || |- | 消尽屋 || 小林宗矢 || || |- | 歌舞伎町 ON THE RUN || 箕輪尊文 || || |- | シャドウワーク || 佐野広実 || || |- | rowspan="4"| 第66回(2020年度) || rowspan="4"| 387編 || 受賞 || わたしが消える || 佐野広実 || 2020年9月 || 2022年9月 |- | rowspan="3" | 候補 || ブルー オン ブラック || 井上雷雨 || || |- | エスカレーションラダー || 小塚原旬 || || |- | インディゴ・ラッシュ || [[桃ノ雑派]]|| || |- | rowspan="5"| 第67回(2021年度) || rowspan="5"| 386編 || rowspan="2"| 受賞 || 北緯43度のコールドケース<ref group="注">『センパーファイ —常に忠誠を—』から改題</ref> || 伏尾美紀 || 2021年10月 || |- | 老虎残夢 || 桃ノ雑派 || 2021年9月 || |- | rowspan="3" | 候補 || キッドナップ・ショウ || 日野瑛太郎 || || |- | ドロップトキシン || 水谷朔也 || || |- | 夜が明けたら || 箕輪尊文 || || |- | rowspan="5"| 第68回(2022年度)<ref>{{Cite web|和書|url=https://book.asahi.com/article/14623387|title=江戸川乱歩賞に荒木あかねさん|website=好書好日|publisher=朝日新聞社|date=2022-05-17|accessdate=2022-05-22}}</ref> || rowspan="5"| 385編 || rowspan="1"| 受賞 || 此の世の果ての殺人 || [[荒木あかね]]|| 2022年9月 || |- | rowspan="4" | 候補 || 神様の盤上 || 才川真澄 || || |- | 二〇四五年 || 日野瑛太郎 || || |- | 円卓会議に参加せよ || 宮ヶ瀬水 || || |- | あなたの人生の謎解きゲーム || 八木十五 || || |- | rowspan="4"| 第69回(2023年度) || rowspan="4"| 390編 || rowspan="1"| 受賞 || 蒼天の鳥<ref>『蒼天の鳥たち』から改題</ref> || [[三上幸四郎]] || 2023年8月 || |- | rowspan="3"| 候補 || ホルスの左眼 || 竹鶴銀 || || |- | 籠城オンエア || 日野瑛太郎 || || |- | おしこもり || 八木十五 || || |- |} ==選考委員== * 第1回 - [[江戸川乱歩]]、[[荒正人]]、[[大下宇陀児]]、[[長沼弘毅]] * 第2回 * 第3 - 9回 - 江戸川乱歩、荒正人、大下宇陀児、[[木々高太郎]]、長沼弘毅 * 第10回 - 江戸川乱歩、荒正人、大下宇陀児、木々高太郎、長沼弘毅、[[中島河太郎]] * 第11回 - 荒正人、大下宇陀児、木々高太郎、長沼弘毅、中島河太郎 * 第12・13回 - 荒正人、木々高太郎、長沼弘毅、中島河太郎、[[角田喜久雄]]、[[松本清張]] * 第14 - 17回 - 高木彬光、中島河太郎、角田喜久雄、[[仁木悦子]]、[[横溝正史]] * 第18・19回 - 角田喜久雄、中島河太郎、松本清張、[[島田一男]]、[[多岐川恭]]、[[南条範夫]] * 第20回 - 角田喜久雄、中島河太郎、松本清張、多岐川恭、南条範夫、[[佐野洋]] * 第21回 - 南条範夫、佐野洋、島田一男、[[都筑道夫]]、[[三好徹]] * 第22回 - 佐野洋、都筑道夫、三好徹、[[菊村到]]、[[笹沢佐保]] * 第23回 - 佐野洋、菊村到、笹沢佐保、仁木悦子、[[陳舜臣]] * 第24回 - 佐野洋、仁木悦子、陳舜臣、[[権田萬治]]、[[半村良]] * 第25回 - 佐野洋、権田萬治、半村良、[[海渡英祐]]、[[斎藤栄]] * 第26回 - 海渡英祐、斎藤栄、南條範夫、三好徹、[[五木寛之]] * 第27回 - 南條範夫、三好徹、五木寛之、多岐川恭、都筑道夫 * 第28回 - 多岐川恭、都筑道夫、[[生島治郎]]、[[西村京太郎]]、[[山村正夫]] * 第29回 - 生島治郎、西村京太郎、山村正夫、[[大谷羊太郎]]、[[早乙女貢]] * 第30回 - 山村正夫・大谷羊太郎、早乙女貢、[[小林久三]]、[[土屋隆夫]] * 第31回 - 山村正夫、小林久三、土屋隆夫、[[河野典生]]、[[伴野朗]] * 第32回 - 河野典生、中島河太郎、[[赤川次郎]]、[[石川喬司]] * 第33回 - 中島河太郎、赤川次郎、石川喬司、海渡英祐、[[和久峻三]] * 第34回 - 中島河太郎、海渡英祐、和久峻三、[[北方謙三]]、[[日下圭介]] * 第35回 - 中島河太郎、北方謙三、日下圭介、笹沢左保、[[武蔵野次郎]] * 第36回 - 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*第3回(1957年) - [[土屋隆夫]]『お天狗様の歌(天狗の面)』 *第5回(1959年) - [[笹沢左保]]『招かざる客(招かれざる客)』 *第8回(1962年) - [[天藤真]]『陽気な容疑者たち』、塔晶夫([[中井英夫]])『[[虚無への供物]]』 *第15回(1969年) - [[夏樹静子]]『[[天使が消えていく]]』 *第16回(1970年) - [[山村美紗]]『京城の死(愛の海峡殺人事件)』 *第17回(1971年) - [[藤本泉]]『藤太夫谷の毒(地図にない谷)』 *第19回(1973年) - [[山村美紗]]『ゆらぐ海溝(マラッカの海に消えた)』 *第24回(1978年)- 田内康([[内田康夫]])『霜崩の館(死者の木霊)』※一次選考通過 *第25回(1979年) - [[中町信]]『自動車教習所殺人事件』 *第26回(1980年) - [[島田荘司]]『占星術のマジック([[占星術殺人事件]])』 *第27回(1981年) - [[岡嶋二人]]『[[あした天気にしておくれ]]』 *第28回(1982年) - 高沢則子([[小森健太朗]])『ローウェル城の密室』※小森健太朗は応募時16歳 *第30回(1984年) - [[綾辻行人]]『追悼の島―十角館殺人事件―(十角館の殺人)』※一次選考通過 *第34回(1988年) - [[折原一]]『倒錯のロンド』、[[法月綸太郎]]『密閉教室』※一次選考通過 *第43回(1997年) - [[福井晴敏]]『[[川の深さは]]』 *第56回(2010年) - [[伊与原新]]『ルカの方舟』 == 受賞者によるアンソロジー == * 乱歩賞作家 赤の謎([[長坂秀佳]]、[[真保裕一]]、[[川田弥一郎]]、[[新野剛志]]、[[高野和明]]) ISBN 4062121670、文庫版:ISBN 4062753839 * 乱歩賞作家 白の謎([[鳥羽亮]]、[[中嶋博行]]、[[福井晴敏]]、[[首藤瓜於]]) ISBN 4062121689、文庫版:ISBN 4062754371 * 乱歩賞作家 黒の謎([[鳴海章]]、[[桐野夏生]]、[[野沢尚]]、[[三浦明博]]、[[赤井三尋]]) ISBN 4062121697、文庫版:ISBN 4062754630 * 乱歩賞作家 青の謎([[阿部陽一]]、[[藤原伊織]]、[[渡辺容子]]、[[池井戸潤]]、[[不知火京介]]) ISBN 4062121700、文庫版:ISBN 9784062754903 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"|3}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[推理小説の賞]] *[[メフィスト賞]] - 講談社の文芸雑誌『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』から生まれた公募新人賞。ジャンルを限定していないが受賞作はミステリが多く、正賞は「シャーロック・ホームズ像」。第1回から授賞式などのイベントは行っていない。 *[[アメリカ探偵作家クラブ#エドガー賞|エドガー・アラン・ポー賞]] - 通称「エドガー賞」。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞の1つ。長編賞、短編賞などがあり、既発表の優秀作品に対して与えられる。 ;日本の推理作家の名を冠した賞 *[[横溝正史ミステリ大賞]] *[[鮎川哲也賞]] *[[松本清張賞]] *[[山田風太郎賞]] *[[大藪春彦賞]] *[[北区 内田康夫ミステリー文学賞]] *[[島田荘司推理小説賞]] == 外部リンク == * [http://shousetsu-gendai.kodansha.co.jp/special/edogawa.html 江戸川乱歩賞 | 小説現代] - 公式サイト *[https://estar.jp/novels/23192259 江戸川乱歩賞『落選』全集] - 熊川直孝・編。歴代落選作(書籍化作品)の書評 {{江戸川乱歩賞}} {{推理小説の公募新人賞}} {{DEFAULTSORT:えとかわらんほしよう}} [[Category:江戸川乱歩賞|*]] [[Category:日本の公募新人文学賞]] [[Category:日本のミステリの賞]] [[Category:人名を冠した文学賞]] [[Category:江戸川乱歩]] [[Category:講談社]]
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フォボス (衛星)
フォボス (Mars I Phobos) は、火星の第1衛星。もう1つの火星の衛星であるダイモスより大きく、より内側の軌道を回っている。1877年8月18日にアサフ・ホールによって発見された。ギリシア神話の神ポボスにちなんで命名された。 フォボスは太陽系の惑星の衛星の中で最も主星に近く、火星の表面から6,000キロメートル以内の軌道を回っている。 フォボスの軌道は火星の静止軌道より内側にあるため、公転速度は火星の自転速度よりも速い。従って、1日に2回西から上り速いスピードで空を横切り東へ沈む。表面に近いため、火星のどこからでも見えるわけではない。また、火星の自転より速く公転しているので、フォボスは火星の潮汐力のために徐々に火星に引きつけられ(1.8メートル/1,000年)、やがてロッシュ限界に達し破壊される運命にあるとされ、3,000万年から5,000万年後に火星の表面に激突するか、破壊され火星の環となると考えられている。 フォボスには一つの峰 (Ridges) と十数個のクレーターが確認されている。峰はヨハネス・ケプラーに因んでケプラー・ドルスムと名付けられた。クレーターは天文学者、および『ガリヴァー旅行記』の登場人物に因んで名付けられた。 フォボス最大のクレーターは、ホールの妻クロエ・アンジェリン・スティックニー・ホールにちなんで「スティックニー」と命名されている。スティックニーを中心としてフォボスには放射状の溝 (groove) が見られるが、スティックニーを作った天体が衝突した際の衝撃でできたという説や、火星からの潮汐力による破壊で生じたという説がある。 フォボスの自転は、火星からの強大な潮汐力によって公転と同期しており、公転方向側とその逆側で反射スペクトルの差異が認められる。フォボスの後行半球の可視-近赤外反射スペクトルは、先行半球と比較して赤っぽく、後行半球はフォボス赤色部(Phobos Red Unit; PRU)、先行半球はフォボス青色部(Phobos Blue Unit; PBU)と呼ばれている。これらは宇宙風化作用によるスペクトル赤化度の違いを反映している可能性がある。スティックニー・クレーターは先行半球、すなわちフォボス青色部に相当する領域に位置している。 フォボスは、ダイモスとともに、起源について大別して「捕獲説」と「ジャイアントインパクト説」の2つの仮説がある。どちらの仮説も推測やシミュレーションによるものであり、サンプルリターンによる構成物質の分析が待たれている。 捕獲説は、火星の重力に捕獲された小惑星だと考える。実際、フォボスの可視-近赤外反射スペクトルは、フォボス赤色部はD型小惑星、フォボス青色部はT型小惑星のそれと似ている。フォボスがこれらの小惑星タイプに対応する天体であるならば、炭素質の組成を有するかも知れない。また、フォボスが小惑星起源であるならば、その密度の低さは空隙や氷を内部に含む可能性を示唆している。しかしながら、フォボスの軌道離心率、軌道傾斜角がともに小さい軌道を説明するには、捕獲後に軌道エネルギーを散逸させるプロセスが必要である。 整った軌道を説明するために、火星への天体衝突で生じたデブリ円盤内で集積した天体だとする意見もある(月の「ジャイアントインパクト説」参照)。 1971年にアメリカの火星探査機マリナー9号によって初めて鮮明な姿が撮影された。1980年代にソ連はフォボスへの接近及び着陸探査計画を試み、1988年に打ち上げられたソ連の探査機フォボス2号は、翌年火星の周回軌道に入り、フォボスへの接近中に故障したが、その直前にフォボスからごくわずかな気体が安定して噴出していることを発見した。この気体は水蒸気だと考えられている。 2011年に打ち上げられたロシアの探査機フォボス・グルントは、フォボスからのサンプルリターンを計画していたが、地球周回軌道からの離脱に失敗し、大気圏へ突入した。 2015年、日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は火星衛星探査計画(MMX)を発表した。この探査機は両衛星の近接探査と、フォボス構成物質のサンプルリターンを行う予定であり、2024年の打ち上げと2025年の火星圏到着、2029年の地球帰還を想定している。 1950年代から1960年代にかけて、フォボスの奇妙な軌道と密度の低さから「フォボスは中空の人工天体ではないか」という説が唱えられたことがある。 1958年頃、フォボスの公転の永年加速について研究していたソ連の宇宙物理学者、ヨシフ・シクロフスキーは、フォボスが「薄い金属板」構造であると提唱した。これはフォボスが人工的な起源を持つことを示唆するものである。シクロフスキーは火星の上層大気の密度の推定値に基いて、微弱な制動効果でフォボスの永年加速を説明するためには、フォボスが非常に軽くなければならないと推論した。ある計算によれば、直径が16キロメートル、厚さは6センチメートル未満の中空の鉄の球が導かれた。 この仮説はアメリカ合衆国にも伝わり、アイゼンハワー大統領の科学顧問を務めていたジークフリード・シンガーは、天文学雑誌『Astronautics』1960年2月号でシクロフスキー説を支持し、さらに「フォボスの目的は、おそらく火星人が彼らの惑星の周囲で安全に活動できるように、火星の大気中の放射を吸い取ってしまうことだろう」というところまで飛躍させた。また、シクロフスキーと親しかったカール・セーガンやフレッド・ホイルも人工的要素を指摘していた。 しかし後に、こうした考えが生まれる切っ掛けとなった永年加速に関する疑問が提示され、そして1969年までにはこの問題は解決された。初期の研究では、軌道高度が低下する速度を5センチメートル/年という過大な値を使用していたが、後に1.8センチメートル/年まで修正された。現在では、永年加速は当時考慮されていなかった潮汐効果の結果だと考えられている。また、フォボスの密度は1.9 g/cmと測定されており、これは中空の殻であるという説とは矛盾する。 さらに、1970年代にバイキング探査機によって撮影されたフォボスの画像は明らかに天然の天体であり、人工物ではないことを示していた。 以上のように、科学的には否定されたフォボス人工天体説であるが、21世紀においても、オカルト系の書籍・雑誌やインターネットサイトでは度々提起されている。その多くは、火星の人面岩などとともに、異星人の関与を示唆する内容である。上述のソ連の探査機フォボス2号が故障で失跡したことも話題になることが多く、UFOによる撃墜説も唱えられている。
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フォボス は、火星の第1衛星。もう1つの火星の衛星であるダイモスより大きく、より内側の軌道を回っている。1877年8月18日にアサフ・ホールによって発見された。ギリシア神話の神ポボスにちなんで命名された。
{{天体 基本 | 幅 = | 色 = 衛星 | 和名 = フォボス | 英名 = Phobos | 画像ファイル = Phobos colour 2008.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = フォボス<br />(2008年撮影) | 画像背景色 = #000000 | 視等級 = 11.4 ± 0.2<ref name=jpl/> | 仮符号・別名 = '''Mars I''', M 1 | 分類 = [[火星の衛星]] | 軌道の分類 = 周回軌道 }} {{天体 発見 | 色 = 衛星 | 発見日 = [[1877年]][[8月18日]] | 発見者 = [[アサフ・ホール]] | 発見方法 = [[反射望遠鏡]]による観測 }} {{天体 軌道 | 色 = 衛星 | 元期 = | 平均公転半径 = 9,376 [[キロメートル|km]]<ref name=jpl2>[https://ssd.jpl.nasa.gov/sats/elem/ Planetary Satellite Mean Orbital Parameters]</ref> | 平均直径 = | 軌道長半径 = | 離心率 = 0.0151<ref name=jpl2/> | 公転周期 = 7 時間 39.2 分<br />(0.3189 日<ref name=jpl2/>) | 平均軌道速度 = | 軌道傾斜角 = 1.02 [[度 (角度)|度]]<ref name=jpl2/> | 近日点引数 = | 昇交点黄経 = | 主惑星 = [[火星]] }} {{天体 物理 | 色 = 衛星 | 半径 = 11.1±0.15 [[キロメートル|km]]<ref name=jpl>{{cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sats/phys_par/|title=Planetary Satellite Physical Parameters|work=JPL Propulsion Laboratory|accessdate=2015-11-20}}</ref> | 三軸径 = 27.0 × 21.4<br /> × 19.2 km | 表面積 = ~6,100 km<sup>2</sup> | 体積 = | 質量 = 1.26 {{e|16}} [[キログラム|kg]] | 相対対象1 = 火星 | 相対質量1 = 2.0 {{e|-8}} | 平均密度 = 1.872 ± 0.076 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]<ref name=jpl/> | 表面重力 = 0.0084<br />- 0.0019 [[加速度|m/s<sup>2</sup>]] | 脱出速度 = 0.011 km/s | 自転周期 = 7 時間 39.2 分<br />(公転と同期) | スペクトル分類 = | 絶対等級 = | アルベド = 0.071 ± 0.012<ref name=jpl/> | 赤道傾斜角 = 0 度 | 表面温度 = ≈233 [[ケルビン|K]] | 色指数_BV = | 色指数_UB = | 色指数_VI = | 大気圧 = 0[[パスカル (単位)|kPa]] | 大気 = | 外殻 = }} {{天体 終了 | 色 = 衛星 }} '''フォボス'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[国立科学博物館]]|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/data/01satellite.html |accessdate=2019-03-08|title=太陽系内の衛星表}}</ref><ref name="ox">{{Cite book|和書|title = オックスフォード天文学辞典|edition = 初版第1刷|publisher = [[朝倉書店]]|page = 350|isbn = 4-254-15017-2|editor=[[イアン・リドパス]]|translator=[[岡村定矩]]}}</ref> (Mars I Phobos) は、[[火星]]の第1[[衛星]]。もう1つの火星の衛星である[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]より大きく、より内側の軌道を回っている。[[1877年]][[8月18日]]に[[アサフ・ホール]]によって発見された。[[ギリシア神話]]の神[[ポボス]]にちなんで命名された。 == 特徴 == [[ファイル:Phobos et Mars (Celestia).jpeg|thumb|left|CGで描かれたフォボスと火星]] フォボスは[[太陽系]]の[[惑星]]の衛星の中で最も主星に近く、火星の表面から6,000キロメートル以内の軌道を回っている。 フォボスの軌道は火星の静止軌道より内側にあるため、公転速度は火星の自転速度よりも速い。従って、1日に2回西から上り速いスピードで空を横切り東へ沈む。表面に近いため、火星のどこからでも見えるわけではない。また、火星の自転より速く公転しているので、フォボスは火星の[[潮汐力]]のために徐々に火星に引きつけられ(1.8メートル/1,000年)、やがて[[ロッシュ限界]]に達し破壊される運命にあるとされ、3,000万年から5,000万年後に火星の表面に激突するか、破壊され火星の[[環 (天体)|環]]となると考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151120-00010000-nknatiogeo-sctch|title=火星の衛星フォボスが崩壊し始めている (ナショナル ジオグラフィック日本版)|accessdate=2015-11-20|date=2015-11-20|work=Yahoo!ニュース、ナショナルジオグラフィック|archiveurl=https://archive.is/20151120115318/http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151120-00010000-nknatiogeo-sctch|archivedate=2015-11-20|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。{{Clearleft}} == 地形 == {{main|[[:en:Phobos (moon)#Named geological features]]}} [[ファイル:Stickney crater on Phobos.jpg|thumb|left|スティックニー・クレーター]] フォボスには一つの峰 (Ridges) と十数個のクレーターが確認されている。峰は[[ヨハネス・ケプラー]]に因んでケプラー・ドルスムと名付けられた。クレーターは天文学者、および『[[ガリヴァー旅行記]]』の登場人物に因んで名付けられた。 フォボス最大の[[クレーター]]は、ホールの妻クロエ・アンジェリン・スティックニー・ホールにちなんで「[[スティックニー (クレーター)|スティックニー]]」と命名されている。スティックニーを中心としてフォボスには放射状の溝 (groove) が見られるが、スティックニーを作った天体が衝突した際の衝撃でできたという説や、火星からの潮汐力による破壊で生じたという説がある<ref name=":0" />。 {{Clearleft}} == 表面組成の多様性 == フォボスの自転は、火星からの強大な潮汐力によって公転と同期しており、公転方向側とその逆側で反射スペクトルの差異が認められる。フォボスの後行半球の可視-近赤外反射スペクトルは、先行半球と比較して赤っぽく、後行半球はフォボス赤色部(Phobos Red Unit; PRU)、先行半球はフォボス青色部(Phobos Blue Unit; PBU)と呼ばれている。これらは宇宙風化作用によるスペクトル赤化度の違いを反映している可能性がある<ref>Rivkin (2002) "Near-Infrared Spectrophotometry of Phobos and Deimos", Icarus 156; 64-75.</ref>。スティックニー・クレーターは先行半球、すなわちフォボス青色部に相当する領域に位置している。 == 起源 == フォボスは、[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]とともに、起源について大別して「[[捕獲説]]」と「[[ジャイアント・インパクト説|ジャイアントインパクト説]]」の2つの仮説がある。どちらの仮説も推測や[[シミュレーション]]によるものであり、[[サンプルリターン]]による構成物質の分析が待たれている<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2017/039108.html 火星衛星に火星マントル物質の存在を予言 ―JAXA火星衛星サンプルリターン計画での実証に高まる期待―][[東京工業大学]](2017年8月31日)2018年3月31日閲覧。</ref>。 === 捕獲説 === [[捕獲説]]は、火星の重力に捕獲された[[小惑星]]だと考える。実際、フォボスの可視-近赤外反射スペクトルは、フォボス赤色部は[[D型小惑星]]、フォボス青色部は[[T型小惑星]]のそれと似ている<ref name=":0" />。フォボスがこれらの小惑星タイプに対応する天体であるならば、炭素質の組成を有するかも知れない。また、フォボスが小惑星起源であるならば、その密度の低さは空隙や氷を内部に含む可能性を示唆している。しかしながら、フォボスの[[軌道離心率]]、[[軌道傾斜角]]がともに小さい軌道を説明するには、捕獲後に軌道エネルギーを散逸させるプロセスが必要である。 === ジャイアントインパクト説 === 整った軌道を説明するために、火星への天体衝突で生じたデブリ円盤内で集積した天体だとする意見もある(月の「[[ジャイアント・インパクト説|ジャイアントインパクト説]]」参照)<ref name=":0">Rosenblatt, P. (2011), "The origin of Martian moons revisited", Astron. Astrophys. Rev. (2011) 19:44.</ref>。 == 近接探査 == [[ファイル:Phobos by Mariner 9 (71-051A-04A).jpg|thumb|マリナー9号が撮影したフォボス]] [[ファイル:Phobos_Marte.jpg|thumb|フォボスに接近するフォボス2号の想像図]] 1971年にアメリカの火星探査機[[マリナー9号]]によって初めて鮮明な姿が撮影された。1980年代に[[ソビエト連邦|ソ連]]はフォボスへの接近及び着陸探査計画を試み、1988年に打ち上げられた[[ソビエト連邦|ソ連]]の探査機[[フォボス2号]]は、翌年火星の周回軌道に入り、フォボスへの接近中に故障したが、{{要出典|date = 2015年11月|範囲 = その直前にフォボスからごくわずかな気体が安定して噴出していることを発見した。この気体は水蒸気だと考えられている。}} 2011年に打ち上げられた[[ロシア]]の探査機[[フォボス・グルント]]は、フォボスからの[[サンプルリターン]]を計画していたが、地球周回軌道からの離脱に失敗し、[[大気圏再突入|大気圏へ突入した]]。 2015年、日本の[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)は[[火星衛星探査計画]](MMX)を発表した。この探査機は両衛星の近接探査と、フォボス構成物質の[[サンプルリターン]]を行う予定であり、2024年の打ち上げと2025年の火星圏到着、2029年の地球帰還を想定している<ref name="JAXA_MMX">{{Cite web|和書 |url=https://www.isas.jaxa.jp/missions/spacecraft/future/mmx.html |title=火星衛星探査計画(MMX) |publisher=[[宇宙航空研究開発機構]] |accessdate=2019-04-24}}</ref><ref name="cao">{{Cite web|和書|url=https://www8.cao.go.jp/space/comittee/27-kagaku/kagaku-dai21/siryou3-3.pdf|title=第21回宇宙科学・探査小委員会|accessdate=2019-94-24|publisher=[[宇宙航空研究開発機構]]}}</ref>。 == フォボス人工天体説 == 1950年代から1960年代にかけて、フォボスの奇妙な軌道と密度の低さから「フォボスは中空の[[人工天体]]ではないか」という説が唱えられたことがある。 1958年頃、フォボスの公転の[[潮汐加速#潮汐減速|永年加速]]について研究していた[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[宇宙物理学]]者、[[ヨシフ・シクロフスキー]]は、フォボスが「薄い金属板」構造であると提唱した。これはフォボスが人工的な起源を持つことを示唆するものである<ref>Shklovsky, I. S.; ''The Universe, Life, and Mind'', Academy of Sciences USSR, Moscow, 1962</ref>。シクロフスキーは火星の上層大気の密度の推定値に基いて、微弱な制動効果でフォボスの永年加速を説明するためには、フォボスが非常に軽くなければならないと推論した。ある計算によれば、直径が16キロメートル、厚さは6センチメートル未満の中空の鉄の球が導かれた<ref>{{cite journal |author=Öpik, E. J. |authorlink=Ernst Julius Öpik |url=http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?1964IrAJ....6..281. |publisher=Irish Astronomical Journal, Vol. 6 |pages=281-283 |title=Is Phobos Artificial? |date=September 1964 |accessdate=September 12, 2006 }}</ref>。 この仮説は[[アメリカ合衆国]]にも伝わり、[[ドワイト・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]大統領の科学顧問を務めていた[[ジークフリード・シンガー]]は、天文学雑誌『Astronautics』1960年2月号でシクロフスキー説を支持し、さらに「フォボスの目的は、おそらく火星人が彼らの惑星の周囲で安全に活動できるように、火星の大気中の放射を吸い取ってしまう<!-- to sweep up radiation in Mars' atmosphere -->ことだろう」というところまで飛躍させた。<!--数年後の1963年、NASAの応用数学部門のChiefであった[[レイモンド・ウィルソンJr.]]は、フォボスは火星の衛星軌道を回る巨大な基地であるかもしれない、NASA自体もその可能性を検討しているとInstitute of Aerospace Sciencesに発表したとされる{{要出典}}。-->また、シクロフスキーと親しかった[[カール・セーガン]]や[[フレッド・ホイル]]も人工的要素を指摘していた。 しかし後に、こうした考えが生まれる切っ掛けとなった永年加速に関する疑問が提示され<ref>{{cite journal |author=Öpik, E. J. |url=http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?1963IrAJ....6R..40. |publisher=Irish Astronomical Journal, Vol. 6 |pages= p. 40 |date= March 1963, signed September 1962 |title=News and Comments: Phobos, Nature of Acceleration |accessdate=September 12, 2006 }}</ref>、そして1969年までにはこの問題は解決された<ref>{{cite web |author=Singer, S. F. |url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1967mopl.conf..317S?high=4326fb2cf923511&format=&data_type=HTML&db_key=AST |title=On the Origin of the Martian Satellites Phobos and Deimos |publisher=Seventh International Space Science Symposium held 10-18 May 1966 in Vienna, North-Holland Publishing Company |date=1967 |accessdate=2008年8月8日}}</ref>。初期の研究では、軌道高度が低下する速度を5センチメートル/年という過大な値を使用していたが、後に1.8センチメートル/年まで修正された。現在では、永年加速は当時考慮されていなかった[[潮汐力|潮汐効果]]の結果だと考えられている。また、フォボスの密度は1.9 g/cm<sup>3</sup>と測定されており、これは中空の殻であるという説とは矛盾する。 さらに、1970年代に[[バイキング計画|バイキング探査機]]によって撮影されたフォボスの画像は明らかに天然の天体であり、人工物ではないことを示していた。 以上のように、科学的には否定されたフォボス人工天体説であるが、21世紀においても、[[オカルト]]系の書籍・雑誌や[[インターネット]]サイトでは度々提起されている。その多くは、[[火星の人面岩]]などとともに、[[異星人]]の関与を示唆する内容である{{efn|[[並木伸一郎]]『[[ムー (雑誌)|ムー]]的[[都市伝説]]』([[学研ホールディングス]])所収「フォボス人工天体説」など。}}。上述のソ連の探査機フォボス2号が故障で失跡したことも話題になることが多く、UFOによる撃墜説も唱えられている。 == フォボスを扱った作品 == {{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{commons|Phobos}} * [[火星の衛星]] * [[フォボスの太陽面通過]] * [[フォボスの影]] * [[フォボス計画]] * [[カイドゥン隕石]] == 外部リンク == * [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/phobos.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(フォボス)] {{火星}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふおほす}} [[Category:火星の衛星]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:1877年発見の天体]]
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15,620
国家有機体説
国家有機体説(こっかゆうきたいせつ、英: organic state theory, organistic theory of the state、独: Staatsorganismus)とは、国家をひとつの生物(有機体)であるかのようにみなし、その成員である個人は全体の機能を分担するものであるとする国家観。 国や社会を生物に例える学説は古代ギリシアのプラトン、中世のカトリック教会、近世イングランドのトマス・ホッブズなど古代より存在していたが、フランス革命の背景ともなった理性主義的・機械論的な思潮に対する反動で国家有機体説として体系化された。例えば、イギリスの自由主義者が提唱した原子論において、社会は原子的個人の集合であり、政府は必要最小限度の機能に限定すべきとしているが、国家有機体説では国家に内在的目的があり、身分秩序の不平等が個人の機能の差異として説明された。国家有機体説の立場では原子論を私利私欲の追求の承認により統一を乱すものとして批判しているが、田中浩は原子論が公共の利益も同時に目指しており、批判はあたらないと評している。 フランス革命の勃発を受けて、エドマンド・バークが著した『フランス革命の省察』では「国家とは現に生きている人々だけでなく、死者や将来生まれてくる人々との共同体である」(Society is indeed a contract [...] it becomes a participant not only between those who are living, those who are dead, and those who are to be born)とあり、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルも「国家とは、個を含む全体であるとともに、個の独立性をも許容し、高次の統一と調和を実現する有機的統一体である」と論じた。 1848年革命が失敗した後、人民主権論への対抗として国家有機体説が多様化し、ドイツではコンスタンティン・フランツ(ドイツ語版)の「生物有機体説」とヨハン・カスパル・ブルンチュリ(英語版)の「心理学的有機体説」、イギリスではハーバート・スペンサーの社会有機体説が提唱された。ドイツではこれらの学説がオットー・フォン・ビスマルク体制擁護に使われ、日本ではブルンチュリのAllgemeines Staatsrecht(1863年第3版、1868年第4版)が加藤弘之により『国法汎論』(1872年出版)として翻訳され、明治期日本の保守的な国家論の基礎になった。
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国家有機体説とは、国家をひとつの生物(有機体)であるかのようにみなし、その成員である個人は全体の機能を分担するものであるとする国家観。
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15,621
原子論
原子論(げんしろん、英: atomism)とは、自然はそれ以上分割できない最小単位としての原子(げんし、希: τὸ ἄτομον, ἡ ἄτομος、英: atom)から成り立つとする理論・仮説である。唯物論や機械論と重なる。 古代ギリシア哲学においては、パルメニデスより後代のソクラテス以前の哲学者たちによって考え始められた。 紀元前5~4世紀、レウキッポスとデモクリトスの一派が、原子論を創始し大成した。彼らの原子論は、一つの総体として「存在する」自然について考えたパルメニデスの存在論の強い影響下にあり、先行するパルメニデスの存在論への応答として考えられたものであった。 レウキッポスとデモクリトスは、自然を構成する分割不可能な最小単位として「アトム(不可分なもの・原子)」が存在すると考え、また、原子の存在やその運動の説明のため、「ケノン(空なるもの・空虚)」の存在を考えた。そして、生成消滅しない無数の原子と無辺の空虚が真に存在し、空虚における原子の結合分離の運動がさまざまな感覚的対象の存在やその生成変化などを生じさせるとした。 ソクラテスとほぼ同時代のデモクリトスらの原子論は、プラトンのイデア論やアリストテレスの第一哲学と対立しつつ、紀元前4~3世紀のヘレニズム期のナウシパネスやエピクロス、紀元前1世紀の共和制ローマ期のルクレティウスなどに影響を与えて継承される。エピクロスは、原子の運動の機械論的な理解に若干の変更を加え、また、ルクレティウスは、エピクロスの学説を賛美する哲学詩を書いた。 レウキッポス、デモクリトス、エピクロスの著作は散逸したが、ルクレティウスの著作は、1500年近くの時を跨いで、15世紀のルネサンス期の人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニによって再発見された。彼らの原子論(古代原子論)は、ルネサンス期以降のヨーロッパにおいて再び注目されるようになる。 20世紀以降のインド哲学史研究において、六師外道やジャイナ教、ヴァイシェーシカ学派の思想、仏教の「極微」の思想などが、古代ギリシアの原子論に見立てられて便宜的に「原子論」と呼ばれる。 仏教の学派「説一切有部」のアビダルマ論書のうち、中期以降のものに原子説が見られる。 (物質を表す語である)色(ただし無表色を除く)は多くの原子(パラマ・アヌ、極微)が集合して成り立っているとされる(「アヌ」は「微粒子」の意。「パラマ」は「最高の」「極限の」の意)。原子は物質を次第に分割した極限において、もうこれ以上分割できないだけの大きさである。原子は微粒子ではあるが、立体的にそれを包む面を持たない(もし面を持つとすれば、更に分割が可能となり、定義に反くため)。原子を中心に上下左右前後に1個ずつが集まり7個の原子の集合したものが第2の単位のアヌとなる。 原子が他の原子と接触するかしないかの論争があったが、接触しないのが正しいと認められている(接触する場合は、一部で接触するか全部で接触するかのいずれかであるが、全部で接触すれば2つの原子は全く重なりあってしまうこととなり、また一部で接触すれば原子が部分を持つこととなることからもはや分割されえないはずの原子がさらに分割されることとなり、定義に反するため) イスラーム理論神学(kalam)では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。 Jawhar fardというのが、Juz' la yatajazza'u(=もはやそれ以上分割できない部分)とされ、原子に相当する。ただし、存在のもうひとつの単位として「偶有(arad)」があり、原子はつねに偶有と結びついており、偶有と原子は神によって創られた次の瞬間には消滅する、とする。Jawhar fardが結合して、いわゆる物体を構成しており、物体(原子)の変化はすべて神が作る偶有によって説明され、物体相互の関係は否定されている。イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、と説明している。 ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、アシュアリー学派は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、ムゥタズィラ学派は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた。 空間の構造については、それが連続的であるのか、あるいは原子のような最小単位があるのか議論があったが、後者のほうが優勢であった。また、真空については、存在を認める議論と認めない議論の両方があった。 イスラームの原子論の起源については、古代ギリシア起源説、古代インド起源説、独立の発生という説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。 デカルトなどは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定)。 16世紀以降、化学が進歩し、ラボアジェ、ドルトンなどにより物質の構成要素として元素概念が提唱された。かれらの論が近代原子論の源流とされている。 哲学上の原子概念と科学上の原子概念の差異については、「原子」を参照 20世紀初頭になっても、自然科学の科学者の主流派・多数派は、物質に(中間単位としてであれ)構成単位が存在するという説は疑わしいものだと見なしており、一般の人々も含めて、atomという単位が存在するとは思っていなかった。19世紀末の電子発見以前の時点で存在が確認されていた最小の物体は濾過性病原体(後にウイルスと認識される)であった。 例えば、エルンスト・マッハやオストヴァルトなどは、実証主義の立場から、"原子"なるものは観測不可能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、エネルギー論や感性的要素一元論などを主張していた。そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試算したものなどを論文類で発表しはじめたルートヴィッヒ・ボルツマンと激しい論争を繰り広げた。 この論争に関しては、アルベルト・アインシュタインの1905年の論文によるブラウン運動に関する理論の提出、および1909年のジャン・ペランによる実験的検証(アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理論・仮説ではなく何らかの粒子が実在すると認知されることによって一旦決着がついた。ただしマッハは1913年の著書で原子論を批判し、デュエムも1914年の著書で原子論を批判した。二人が没した1916年以降は原子論に反対する科学者はほぼいなくなっていた。ちなみに、この原子の存在証明は、電子発見の後である。 それまで反対派のほうが多かった「何らかの粒子的な単位」の実在が自然科学者一般に認められるようになったことで、それは自然科学分野で理論を構築するために使える便利な概念的道具にもなった。 自然科学において「何らかの粒子的な単位」の実在が認められて概念的道具としても用いられるようになるのと平行して、「分割不可能」という表現のほうは後退してゆくことになった。 原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位が存在する、と自然科学者によってようやく考えられるようになった。それが「atom」と呼ばれるようになっても、原子の存在が実証される以前に電子が発見されていた事から、「原子は「負の電荷を持った電子」と「正の電荷を持った何か」でできている」という議論がなされるようになった。つまり下部構造についての議論が始まっており、それが電子と原子核からなることもほぼ確実視されていた。自然科学において「atom(原子)」という概念が用いられ始めたころには、それは原義の「分割不可能な最小単位」ではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、自然科学の「atom(原子)」は原子概念の原義からふたたび遠のいた。さらにその陽子や中性子も「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった(後に、「クォーク」と呼ばれる)。 現代の自然科学においては、原子という概念は、自然を構成する分割不可能な最小単位を指すのではなく、元素(化学元素)の最小単位を指すのに用いられている。そして、このような原子の内部構造は「subatomic particles」などと呼ばれる。自然科学における「原子」という概念が、(古代原子論以来の)原子概念の原義と矛盾する、内部構造を持つ中間単位に割り当てられたので、その後、分割不可能な最小単位を指すために「素粒子」という概念が新たに造られ用いられている。 このように、かつて自然科学において「原子論」と呼ばれる分野で行われていた研究は、現在では「素粒子論」と呼ばれる分野において行われている。
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"原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位が存在する、と自然科学者によってようやく考えられるようになった。それが「atom」と呼ばれるようになっても、原子の存在が実証される以前に電子が発見されていた事から、「原子は「負の電荷を持った電子」と「正の電荷を持った何か」でできている」という議論がなされるようになった。つまり下部構造についての議論が始まっており、それが電子と原子核からなることもほぼ確実視されていた。自然科学において「atom(原子)」という概念が用いられ始めたころには、それは原義の「分割不可能な最小単位」ではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、自然科学の「atom(原子)」は原子概念の原義からふたたび遠のいた。さらにその陽子や中性子も「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった(後に、「クォーク」と呼ばれる)。", "title": "現代の自然科学における原子概念の変化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現代の自然科学においては、原子という概念は、自然を構成する分割不可能な最小単位を指すのではなく、元素(化学元素)の最小単位を指すのに用いられている。そして、このような原子の内部構造は「subatomic particles」などと呼ばれる。自然科学における「原子」という概念が、(古代原子論以来の)原子概念の原義と矛盾する、内部構造を持つ中間単位に割り当てられたので、その後、分割不可能な最小単位を指すために「素粒子」という概念が新たに造られ用いられている。", "title": "現代の自然科学における原子概念の変化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このように、かつて自然科学において「原子論」と呼ばれる分野で行われていた研究は、現在では「素粒子論」と呼ばれる分野において行われている。", "title": "現代の自然科学における原子概念の変化" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "", "title": "脚注・出典" } ]
原子論とは、自然はそれ以上分割できない最小単位としての原子から成り立つとする理論・仮説である。唯物論や機械論と重なる。
{{Otheruses|主に哲学史上の「原子」|科学上の原子|原子}} {{脚注の不足| date=2017-07-19}} '''原子論'''(げんしろん、[[英語|英]]: atomism)とは、自然はそれ以上分割できない最小単位としての[[原子]](げんし、{{lang-el-short|τὸ ἄτομον, ἡ ἄτομος}}、{{lang-en-short|atom}})から成り立つとする[[理論]]・[[仮説]]である。[[唯物論]]や[[機械論]]と重なる。 {{See also|元素#歴史}} == 古代ギリシアの原子論 == [[ギリシア哲学|古代ギリシア哲学]]においては、[[パルメニデス]]より後代の[[ソクラテス以前の哲学者]]たちによって考え始められた。 紀元前5~4世紀、[[レウキッポス]]と[[デモクリトス]]の一派{{Efn|[[アブデラ学派]]や[[デモクリトス学派]]ともいわれる<ref>DK,68A59, 68B4.</ref>。}}が、原子論を創始し大成した。彼らの原子論は、一つの総体として「[[存在]]する」自然について考えたパルメニデスの[[存在論]]の強い影響下にあり、先行するパルメニデスの存在論への応答として考えられたものであった。 レウキッポスとデモクリトスは、自然を構成する分割不可能な最小単位として「アトム(不可分なもの・原子)」が存在すると考え、また、原子の存在やその運動の説明のため、「ケノン(空なるもの・空虚)」の存在を考えた。そして、生成消滅しない無数の原子と無辺の空虚が真に存在し、空虚における原子の結合分離の運動がさまざまな感覚的対象の存在やその生成変化などを生じさせるとした。 [[ソクラテス]]とほぼ同時代のデモクリトスらの原子論は、[[プラトン]]の[[イデア論]]や[[アリストテレス]]の[[第一哲学]]と対立しつつ、紀元前4~3世紀の[[ヘレニズム]]期の[[ナウシパネス]]や[[エピクロス]]、紀元前1世紀の[[共和制ローマ]]期の[[ルクレティウス]]などに影響を与えて継承される。エピクロスは、原子の運動の機械論的な理解に若干の変更を加え、また、ルクレティウスは、エピクロスの学説を賛美する哲学詩を書いた。 レウキッポス、デモクリトス、エピクロスの著作は散逸したが、ルクレティウスの著作は、1500年近くの時を跨いで、15世紀の[[ルネサンス期]]の[[人文主義者]][[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]によって再発見された<ref>スティーヴン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』、河野純治訳、柏書房、2012年</ref><ref group="注釈">レウキッポス、デモクリトス、エピクロスの学説の概要、またエピクロスの書簡の一部は、3世紀頃の作家[[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『[[ギリシア哲学者列伝]]』などによって後世に伝えられた。また、レウキッポスとデモクリトスについては、20世紀、古典文献学者の[[ヘルマン・ディールス|ディールス]]とクランツが編纂した『[[ソクラテス以前哲学者断片集]]』において関係する資料が整理された。</ref>。彼らの原子論(古代原子論)は、ルネサンス期以降のヨーロッパにおいて再び注目されるようになる。 == 古代インドの原子論 == [[20世紀]]以降の[[インド哲学]]史研究において、[[六師外道]]や[[ジャイナ教]]、[[ヴァイシェーシカ学派]]の思想、[[仏教]]の「極微」の思想などが、古代ギリシアの原子論に見立てられて便宜的に「原子論」と呼ばれる<ref>{{Cite journal|author=山口義久|year=1996|title=インドとギリシアの古代「原子論」 : 比較思想の基本的問題|url=https://hdl.handle.net/10466/8850|journal=人文学論集|volume=14|page=|publisher=大阪府立大学}}</ref>。 === 仏教の「極微」 === 仏教の学派「[[説一切有部]]」の[[アビダルマ]]論書のうち、中期以降のものに原子説が見られる{{sfn|櫻部・上山|p = 101}}。 (物質を表す語である)[[色 (仏教)|色]](ただし[[無表色]]を除く)は多くの原子('''パラマ・アヌ'''、'''極微''')が集合して成り立っているとされる(「アヌ」は「微粒子」の意。「パラマ」は「最高の」「極限の」の意){{sfn|櫻部・上山|p = 99}}。原子は物質を次第に分割した極限において、もうこれ以上分割できないだけの大きさである{{sfn|櫻部・上山|p = 99}}。原子は微粒子ではあるが、立体的にそれを包む面を持たない(もし面を持つとすれば、更に分割が可能となり、定義に反くため){{sfn|櫻部・上山|p = 99~100}}。原子を中心に上下左右前後に1個ずつが集まり7個の原子の集合したものが第2の単位の'''アヌ'''となる{{sfn|櫻部・上山|p = 99~100}}。 原子が他の原子と接触するかしないかの論争があったが、接触しないのが正しいと認められている(接触する場合は、一部で接触するか全部で接触するかのいずれかであるが、全部で接触すれば2つの原子は全く重なりあってしまうこととなり、また一部で接触すれば原子が部分を持つこととなることからもはや分割されえないはずの原子がさらに分割されることとなり、定義に反するため){{sfn|櫻部・上山|p = 100}} == イスラームの原子論 == [[カラーム|イスラーム理論神学(kalam)]]では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。 Jawhar fardというのが、Juz' la yatajazza'u(=もはやそれ以上分割できない部分)とされ、原子に相当する。ただし、存在のもうひとつの単位として「偶有(arad)」があり、原子はつねに偶有と結びついており、偶有と原子は[[神]]によって創られた次の瞬間には消滅する、とする。Jawhar fardが結合して、いわゆる物体を構成しており、物体(原子)の変化はすべて神が作る偶有によって説明され、物体相互の関係は否定されている。イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、と説明している。 ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、[[アシュアリー学派]]は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、[[ムゥタズィラ学派]]は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた<ref>『岩波 哲学・思想事典』、岩波書店、1998年、p.467。</ref>。 空間の構造については、それが連続的であるのか、あるいは原子のような最小単位があるのか議論があったが、後者のほうが優勢であった。また、[[真空]]については、存在を認める議論と認めない議論の両方があった。 イスラームの原子論の起源については、古代ギリシア起源説、古代インド起源説、独立の発生という説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。 == 近世ヨーロッパの原子論 == {{See also|エピクロス主義#ルネサンス以降|ピエール・ガッサンディ|モナド (哲学)}} [[ルネ・デカルト|デカルト]]などは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定){{要出典|date=2020年4月}}。 16世紀以降、[[化学]]が進歩し、[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラボアジェ]]、[[ジョン・ドルトン|ドルトン]]などにより物質の構成要素として[[元素]]概念が提唱された。かれらの論が近代原子論の源流とされている。{{誰2|date=2013年3月}} == 自然科学における原子論 ==    哲学上の原子概念と科学上の原子概念の差異については、「[[原子]]」を参照 20世紀初頭になっても、[[自然科学]]の科学者の主流派・多数派は、物質に(中間単位としてであれ)構成単位が存在するという説は疑わしいものだと見なしており、一般の人々も含めて、atomという単位が存在するとは思っていなかった。19世紀末の[[電子]]発見以前の時点で存在が確認されていた最小の物体は濾過性病原体(後に[[ウイルス]]と認識される)であった。 例えば、[[エルンスト・マッハ]]や[[ヴィルヘルム・オストヴァルト|オストヴァルト]]などは、[[実証主義]]の立場から、"原子"なるものは観測不可能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、[[エネルギー論]]や[[感性的要素一元論]]などを主張していた。そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試算したものなどを論文類で発表しはじめた[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]と激しい論争を繰り広げた{{Efn|1897年の時すでに、ウィーンの帝国科学アカデミーでボルツマンの講演を聴いた後、マッハは「原子が存在するなど、私は信じない」と宣言している<ref>[[カルロ・ロヴェッリ]]『すごい物理学講義』、[[竹内薫]]監訳・栗原俊秀訳、河出書房新社、2019年、P.39。</ref>。}}。 この論争に関しては、[[アルベルト・アインシュタイン]]の1905年の論文による[[ブラウン運動]]に関する理論の提出、および1909年の[[ジャン・ペラン]]による実験的検証(アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理論・仮説ではなく何らかの粒子が実在すると認知されることによって一旦決着がついた{{Efn|アインシュタインは、ブラウン運動に関する理論について「私の主目的は、一定の有限な大きさの原子の存在を確証する事実を発見することであった」と語ったが、ペランは、1913年の著書で「分子または原子の実在性」は強固であり、「原子論は勝利を得た。近ごろまでなお数の多かった反対者もついには征服され、久しい間疑いもなく正当と見られ、また有用でもあった反対論も一つ一つと捨てられるに到った」と宣言した<ref>ジャン・ペラン『原子』、[[玉虫文一|玉蟲文一]]訳、岩波書店、1978年、P.336-337。</ref>。}}。ただしマッハは1913年の著書で原子論を批判し、[[ピエール・デュエム|デュエム]]も1914年の著書で原子論を批判した。二人が没した1916年以降は原子論に反対する科学者はほぼいなくなっていた。ちなみに、この原子の存在証明は、電子発見の後である。 それまで反対派のほうが多かった「何らかの粒子的な単位」の実在が自然科学者一般に認められるようになったことで、それは自然科学分野で理論を構築するために使える便利な概念的道具にもなった。 == 現代の自然科学における原子概念の変化 == 自然科学において「何らかの粒子的な単位」の実在が認められて概念的道具としても用いられるようになるのと平行して、「分割不可能」という表現のほうは後退してゆくことになった。 原子の存在自体がまだ広くは認められていなかった20世紀初頭においても、物質がのっぺりとしておらず何かしらの単位が存在する、と自然科学者によってようやく考えられるようになった。それが「atom」と呼ばれるようになっても、原子の存在が実証される以前に電子が発見されていた事から、「原子は「負の電荷を持った[[電子]]」と「正の電荷を持った何か」でできている」という議論がなされるようになった。つまり下部構造についての議論が始まっており、それが電子と[[原子核]]からなることもほぼ確実視されていた<ref group="注釈">日本では、原子が原子核と電子からなるとする考えを最初に提唱したのは[[長岡半太郎]]であるかのような風聞があるが、既にその3年前の1901年にジャン・ペランが提唱済みである。</ref>。自然科学において「atom(原子)」という概念が用いられ始めたころには、それは原義の「分割不可能な最小単位」ではなくなっていたのである。さらに「原子核の内部構造として「[[陽子]]」と「[[中性子]]」が存在する」と考えられるようになり、自然科学の「atom(原子)」は原子概念の原義からふたたび遠のいた。さらにその陽子や中性子も「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった(後に、「[[クォーク]]」と呼ばれる)。 現代の自然科学においては、原子という概念は、自然を構成する分割不可能な最小単位を指すのではなく、[[元素]](化学元素)の最小単位を指すのに用いられている。そして、このような原子の内部構造は「subatomic particles」などと呼ばれる。自然科学における「原子」という概念が、(古代原子論以来の)原子概念の原義と矛盾する、内部構造を持つ中間単位に割り当てられたので、その後、分割不可能な最小単位を指すために「[[素粒子]]」という概念が新たに造られ用いられている。 このように、かつて自然科学において「原子論」と呼ばれる分野で行われていた研究は、現在では「[[素粒子論]]」と呼ばれる分野において行われている。 == 参考文献 == *『ボルツマンの原子 理論物理学の夜明け』デヴィッド リンドリー:著、[[松浦俊輔]]:訳、[[青土社]]、2003年 *『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』[[スティーヴン・グリーンブラット]]:著、河野純治:訳、[[柏書房]]、2012年 *『原子論の可能性 近現代哲学における古代的思惟の反響』[[田上孝一]]・本郷朝香:共編、金澤修・坂本邦暢・青木滋之・池田真治・木島泰三・小谷英生・武井徹也・白井雅人・東克明:ほか著、[[法政大学出版局]]、2018年 *{{Cite book |和書 |author1=櫻部建|authorlink1=櫻部建|author2=上山春平|authorlink2=上山春平 |year=2006 |title=存在の分析<[[阿毘達磨 |アビダルマ]]>―仏教の思想〈2〉 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川ソフィア文庫]] |isbn=4-04-198502-1 |ref={{SfnRef|櫻部・上山|2006}} }}(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年) == 関連項目 == *[[原子]] *[[存在]] *[[実体]] *[[元素]] *[[デモクリトス]] *[[エピクロス]] *[[カナーダ]] *[[カール・マルクス]] *[[人間疎外|人間疎外(アトム化)]] *[[メレオロジー]] == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 脚注 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == {{SEP|atomism-ancient|Ancient Atomism|古代の原子論}} {{SEP|arabic-islamic-natural|Arabic and Islamic Natural Philosophy and Natural Science|アラブ=イスラムの自然哲学と自然科学|nolink=yes}} {{SEP|atomism-modern|Atomism from the 17th to the 20th Century|近代の原子論|nolink=yes}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{古代ギリシア学派}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんしろん}} [[Category:原子論|*]] [[Category:原子]] [[Category:哲学史]] [[Category:自然哲学]] [[Category:デモクリトス]] [[Category:アリストテレス]] [[Category:物理学の哲学]] <!--[[Category:化学]] [[Category:物理学]] --> [[Category:科学史]] [[Category:化学史]] [[Category:仏教哲学の概念]] {{Philos-stub}}
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総合研究大学院大学
総合研究大学院大学(そうごうけんきゅうだいがくいんだいがく、英語: The Graduate University for Advanced Studies)は、博士課程のみを置く日本の国立大学である。神奈川県三浦郡葉山町に本部を置く。略称は総研大(そうけんだい)。 日本初の博士課程のみの国立大学院大学として1988年10月に開学した。5年一貫制博士課程および5年一貫制博士課程の3年次に編入する博士後期課程(一部については、博士後期課程のみ)を設置している。 教育研究組織は、基盤機関(大学共同利用機関である人間文化研究機構、自然科学研究機構、高エネルギー加速器研究機構、情報・システム研究機構の4つの大学共同利用機関法人に属する18の研究所および国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所を本学では基盤機関と称する)および大学本部(葉山キャンパス)で構成され、 世界最先端の研究拠点を教育の現場として、高い専門性を持った博士人材を育成する。 入学定員は、5年一貫課程58名・後期課程62名の計120名。 総研大は、国立大学法人法に定められているところの国立大学院大学である。国立大学院大学の目的は、時代の先を見据え、専門的かつ視野の広い研究者を育成し、公共の利益に資することとされている。 総研大は「世界最高水準の国際的な大学院大学として学術の理論及び応用を教育研究して、文化の創造と発展に貢献すること」を理念としている。この理念に基づき、「基礎学術分野において国際的に通用する高度の研究的資質を持つ広い視野を備えた研究者の育成」を大学の目的としている。 1980年頃までに岡崎国立共同研究機構(分子科学研究所)を中心に当時の国立大学共同利用機関が独自に大学教育を行う構想が起こった。1982年、国立大学共同利用機関所長懇談会が国立大学共同利用機関における大学院の設置についてを要望し、1986年に総合研究大学院創設準備調査室及び創設準備調査委員会が岡崎国立共同研究機構に設置され具体化が始まる。1988年5月総合研究大学院大学の設置を規定した「国立学校設置法の一部を改正する法律(1988(昭和63)年法律第67号)」公布、施行。1988年10月初の大学院博士後期課程だけの国立大学として創設された。 総合研究大学院大学は、大学共同利用機関が各機関内に大学院組織として先端学術院先端学術専攻を設置することにより教育研究組織が構成されている。 大学共同利用機関の設置する以下の研究拠点もキャンパスとして扱われる。 総合研究大学院大学本部を中心として、各専攻を構成する基盤機関との間で協定を締結し、教員・研究者及び所属学生の受け入れを実施している。総合研究大学院大学では、国立大学法人法の規定により、大学院大学長を中心に各専攻を構成する機関の長が理事として大学理事会に参画している。大学本部における教育研究に関する重要事項は、葉山教授会にて審議される。 日本初の国立大学院大学として創立した当初は全研究科全専攻において博士後期課程のみの設置であったが、2004年度から2006年度にかけて文化科学研究科を除き各研究科とも段階的に5年一貫制博士課程へ移行した。 2023年4月1日、先端学術院を設置し、新たに国立国語研究所及び総合地球環境学研究所を、本学の基盤機関に迎え、すべての大学共同利用機関が基盤機関となる。 同時に、従前の6研究科の全専攻は、先端学術院先端学術専攻(20コース)に移行した。 これにより、学問分野の垣根を超え、基盤機関の多彩な教育リソースを全学でより柔軟に活用できるようになり教育環境の更なる充実が図られることになった。 総合研究大学院大学の研究教育は、従前より、基盤機関を拠点に学問諸分野の高度で先端的な課題を中心に行う「分散型教育研究」と、大学全体として基盤機関の各専門分野を横断した教育研究を行う「総合型教育研究」があった。 研究科体制の下では、 先導科学研究科を除く研究科(文化科学研究科、自然科学研究科、高エネルギー加速器科学研究科、複合科学研究科)は、各専攻が設置されている基盤機関がそれぞれ教育研究を担当(分散型教育研究)し、学生は専攻が設置される基盤機関で研究活動を実施する。 先導科学研究科は、基盤機関及び葉山本部が緊密な連係・協力により共同して教育研究を実施する(総合型教育研究)。 先導科学研究科の学生は、基本的に大学本部がある葉山キャンパスを研究活動の中心とし、研究計画に応じて基盤機関に展開して研究指導等を受けることになっていた。 2023年4月、それまでの教育体制が見直され、全研究科は、先端学術院に改組された。 これは、刻々と変化する学術分野の動向や社会の要請を踏まえ、複合的・融合的な研究課題に取り組む博士人材の育成を目的としている。 基盤機関が有する高度に専門的なリソースを、より分野を超えて柔軟に活用できる体制とするため、先端学術専攻20コースが設置された。 葉山キャンパスには大学本部、総合研究大学院大学付属図書館、統合進化科学研究センターが設置されている。入学式・学位記授与式、学生対象のオリエンテーション、国際シンポジウムや学術研究会及び学術成果発表会などが開催されている。 政府による独立行政法人整理合理化計画に基づき2009年3月末で基盤機関であった独立行政法人メディア教育開発センターが廃止されたため、当該基盤機関設置のメディア社会文化専攻は学生募集停止とし、残存組織とともに放送大学学園へ移管された。移管後は、基盤機関を放送大学ICT活用・遠隔教育センター(2013年度より放送大学教育支援センターに改称)として学生募集停止のまま引き続き存置されていたが、2017年3月31日で放送大学学園における博士後期課程設置を理由として完全に廃止された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "総合研究大学院大学(そうごうけんきゅうだいがくいんだいがく、英語: The Graduate University for Advanced Studies)は、博士課程のみを置く日本の国立大学である。神奈川県三浦郡葉山町に本部を置く。略称は総研大(そうけんだい)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本初の博士課程のみの国立大学院大学として1988年10月に開学した。5年一貫制博士課程および5年一貫制博士課程の3年次に編入する博士後期課程(一部については、博士後期課程のみ)を設置している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "教育研究組織は、基盤機関(大学共同利用機関である人間文化研究機構、自然科学研究機構、高エネルギー加速器研究機構、情報・システム研究機構の4つの大学共同利用機関法人に属する18の研究所および国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所を本学では基盤機関と称する)および大学本部(葉山キャンパス)で構成され、 世界最先端の研究拠点を教育の現場として、高い専門性を持った博士人材を育成する。 入学定員は、5年一貫課程58名・後期課程62名の計120名。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "総研大は、国立大学法人法に定められているところの国立大学院大学である。国立大学院大学の目的は、時代の先を見据え、専門的かつ視野の広い研究者を育成し、公共の利益に資することとされている。", "title": "理念および目的" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "総研大は「世界最高水準の国際的な大学院大学として学術の理論及び応用を教育研究して、文化の創造と発展に貢献すること」を理念としている。この理念に基づき、「基礎学術分野において国際的に通用する高度の研究的資質を持つ広い視野を備えた研究者の育成」を大学の目的としている。", "title": "理念および目的" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1980年頃までに岡崎国立共同研究機構(分子科学研究所)を中心に当時の国立大学共同利用機関が独自に大学教育を行う構想が起こった。1982年、国立大学共同利用機関所長懇談会が国立大学共同利用機関における大学院の設置についてを要望し、1986年に総合研究大学院創設準備調査室及び創設準備調査委員会が岡崎国立共同研究機構に設置され具体化が始まる。1988年5月総合研究大学院大学の設置を規定した「国立学校設置法の一部を改正する法律(1988(昭和63)年法律第67号)」公布、施行。1988年10月初の大学院博士後期課程だけの国立大学として創設された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "総合研究大学院大学は、大学共同利用機関が各機関内に大学院組織として先端学術院先端学術専攻を設置することにより教育研究組織が構成されている。", "title": "教育研究組織・基盤機関(設置キャンパス位置)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大学共同利用機関の設置する以下の研究拠点もキャンパスとして扱われる。", "title": "教育研究組織・基盤機関(設置キャンパス位置)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "総合研究大学院大学本部を中心として、各専攻を構成する基盤機関との間で協定を締結し、教員・研究者及び所属学生の受け入れを実施している。総合研究大学院大学では、国立大学法人法の規定により、大学院大学長を中心に各専攻を構成する機関の長が理事として大学理事会に参画している。大学本部における教育研究に関する重要事項は、葉山教授会にて審議される。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本初の国立大学院大学として創立した当初は全研究科全専攻において博士後期課程のみの設置であったが、2004年度から2006年度にかけて文化科学研究科を除き各研究科とも段階的に5年一貫制博士課程へ移行した。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2023年4月1日、先端学術院を設置し、新たに国立国語研究所及び総合地球環境学研究所を、本学の基盤機関に迎え、すべての大学共同利用機関が基盤機関となる。 同時に、従前の6研究科の全専攻は、先端学術院先端学術専攻(20コース)に移行した。 これにより、学問分野の垣根を超え、基盤機関の多彩な教育リソースを全学でより柔軟に活用できるようになり教育環境の更なる充実が図られることになった。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "総合研究大学院大学の研究教育は、従前より、基盤機関を拠点に学問諸分野の高度で先端的な課題を中心に行う「分散型教育研究」と、大学全体として基盤機関の各専門分野を横断した教育研究を行う「総合型教育研究」があった。 研究科体制の下では、 先導科学研究科を除く研究科(文化科学研究科、自然科学研究科、高エネルギー加速器科学研究科、複合科学研究科)は、各専攻が設置されている基盤機関がそれぞれ教育研究を担当(分散型教育研究)し、学生は専攻が設置される基盤機関で研究活動を実施する。 先導科学研究科は、基盤機関及び葉山本部が緊密な連係・協力により共同して教育研究を実施する(総合型教育研究)。 先導科学研究科の学生は、基本的に大学本部がある葉山キャンパスを研究活動の中心とし、研究計画に応じて基盤機関に展開して研究指導等を受けることになっていた。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2023年4月、それまでの教育体制が見直され、全研究科は、先端学術院に改組された。 これは、刻々と変化する学術分野の動向や社会の要請を踏まえ、複合的・融合的な研究課題に取り組む博士人材の育成を目的としている。 基盤機関が有する高度に専門的なリソースを、より分野を超えて柔軟に活用できる体制とするため、先端学術専攻20コースが設置された。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "葉山キャンパスには大学本部、総合研究大学院大学付属図書館、統合進化科学研究センターが設置されている。入学式・学位記授与式、学生対象のオリエンテーション、国際シンポジウムや学術研究会及び学術成果発表会などが開催されている。", "title": "研究教育の特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "政府による独立行政法人整理合理化計画に基づき2009年3月末で基盤機関であった独立行政法人メディア教育開発センターが廃止されたため、当該基盤機関設置のメディア社会文化専攻は学生募集停止とし、残存組織とともに放送大学学園へ移管された。移管後は、基盤機関を放送大学ICT活用・遠隔教育センター(2013年度より放送大学教育支援センターに改称)として学生募集停止のまま引き続き存置されていたが、2017年3月31日で放送大学学園における博士後期課程設置を理由として完全に廃止された。", "title": "専攻の廃止" } ]
総合研究大学院大学は、博士課程のみを置く日本の国立大学である。神奈川県三浦郡葉山町に本部を置く。略称は総研大(そうけんだい)。
{{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 総合研究大学院大学 |ふりがな = そうごうけんきゅうだいがくいんだいがく |英称 = The Graduate University for Advanced Studies |ロゴ = [[File:Logo sokendai.svg|210px|ブランドマーク]] |画像 = [[File:Sokendai_hayama.jpg|250px]] |画像説明 = 葉山キャンパス 共通棟 |大学設置年 = 1988年 |創立年 = 1988年 |学校種別 = 国立 |設置者 = [[国立大学法人]]総合研究大学院大学 |本部所在地 = {{flag|神奈川県}}[[三浦郡]]<br>[[ファイル:Flag_of_Hayama,_Kanagawa.svg|border|25px]] [[葉山町]][[上山口 (葉山町)|上山口]]1560-35([[湘南国際村]]) |緯度度 = 35 | 緯度分 = 15 |緯度秒 = 39.94 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 36 |経度秒 = 30.13 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |キャンパス = |学部 = なし |研究科 = 先端学術院 |ウェブサイト = {{official URL}} }} '''総合研究大学院大学'''(そうごうけんきゅうだいがくいんだいがく、{{Lang-en|The Graduate University for Advanced Studies}})は、博士課程のみを置く[[日本]]の[[国立大学]]である。[[神奈川県]][[三浦郡]][[葉山町]]に本部を置く。略称は総研大(そうけんだい)。 == 概要 == 日本初の[[博士課程]]のみの国立大学院大学として[[1988年]]10月に開学した。5年一貫制博士課程および5年一貫制博士課程の3年次に編入する博士後期課程(一部については、博士後期課程のみ)を設置している。 教育研究組織は、基盤機関([[大学共同利用機関]]である[[人間文化研究機構]]、[[自然科学研究機構]]、[[高エネルギー加速器研究機構]]、[[情報・システム研究機構]]の4つの[[大学共同利用機関法人]]に属する18の研究所および[[国立研究開発法人]][[宇宙航空研究開発機構]][[宇宙科学研究所]]を本学では基盤機関と称する)および大学本部(葉山キャンパス)で構成され、 世界最先端の研究拠点を教育の現場として、高い専門性を持った博士人材を育成する。 入学定員は、5年一貫課程58名・後期課程62名の計120名<ref>[https://next20.soken.ac.jp/admission 2023年度入学者選抜について Next 20, SOKENDAI]</ref>。 == 理念および目的 == 総研大は、[[国立大学法人法]]に定められているところの国立大学院大学である。国立大学院大学の目的は、時代の先を見据え、専門的かつ視野の広い研究者を育成し、公共の利益に資することとされている。 総研大は「世界最高水準の国際的な大学院大学として学術の理論及び応用を教育研究して、文化の創造と発展に貢献すること」を理念としている<ref name="学則">[http://kitei.soken.ac.jp/doc/gakugai/rule/2.html 総合研究大学院大学学則]</ref>。この理念に基づき、「基礎学術分野において国際的に通用する高度の研究的資質を持つ広い視野を備えた研究者の育成」を大学の目的としている<ref name="学則"/>。 == 沿革== 1980年頃までに岡崎国立共同研究機構(分子科学研究所)を中心に当時の[[大学共同利用機関|国立大学共同利用機関]]が独自に大学教育を行う構想が起こった。1982年、国立大学共同利用機関所長懇談会が国立大学共同利用機関における大学院の設置についてを要望し、1986年に総合研究大学院創設準備調査室及び創設準備調査委員会が岡崎国立共同研究機構に設置され具体化が始まる<ref>[https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000093SAID001 総合研究大学院大学創設資料データベース]</ref>。1988年5月総合研究大学院大学の設置を規定した「国立学校設置法の一部を改正する法律(1988(昭和63)年法律第67号)」公布、施行。1988年10月初の大学院博士後期課程だけの国立大学として創設された。 * [[1988年]]10月 - 総合研究大学院大学が開学(数物科学研究科、生命科学研究科。共に博士後期課程)。キャンパスは各基盤機関所在地に同じ、本部(事務局)は神奈川県[[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]][[長津田町]]4259([[東京工業大学]][[長津田]]キャンパス内)<ref>[http://www.orsj.or.jp/~archive/pdf/bul/Vol.38_04_184.pdf 総合研究大学院大学創設時の大学本部は、東京工業大学の好意により長津田キャンパス内に設置。] 総合研究大学院大学が創設準備を担った[[大学改革支援・学位授与機構|学位授与機構]]も同地に創設。2004年4月より[[日本学生支援機構]]が本部を置く。</ref>。 * [[1989年]]4月 - 文化科学研究科(博士後期課程)設置。3研究科で学生受入開始。 * [[1995年]]2月 - 本部を神奈川県[[三浦郡]][[葉山町]]([[湘南国際村]])に移転。葉山キャンパス開設。 * [[1997年]]4月 - 先導科学研究科(博士後期課程)設置(葉山キャンパス内)。 * [[1999年]]4月 - 先導科学研究科で学生受入開始。 * [[2004年]]4月 - [[国立大学法人法]]により国立大学法人総合研究大学院大学となる。数物科学研究科を物理科学研究科、高エネルギー[[加速器]]科学研究科、複合科学研究科の3研究科(共に博士後期課程)に改組。生命科学研究科に5年一貫制博士課程を併設。 * [[2006年]]4月 - 物理化学研究科、高エネルギー加速器科学研究科、複合科学研究科に5年一貫制博士課程を併設。 * [[2007年]]4月 - 先導科学研究科に5年一貫制博士課程を併設。生命体科学専攻と光科学専攻を生命共生体進化学専攻に改組。 * [[2009年]]1月 - 基盤機関の独立行政法人[[メディア教育開発センター]]廃止により、平成21年度からの文化科学研究科メディア社会文化専攻の学生募集停止を発表<ref>[http://www.soken.ac.jp/news_all/0701.html 国立大学法人 総合研究大学院大学 | 総合研究大学院大学文化科学研究科メディア社会文化専攻の学生募集停止について]</ref>。 * [[2017年]]3月 - 文化科学研究科メディア社会文化専攻を廃止。 * [[2022年]]3月 - 一般社団法人「[[大学共同利用研究教育アライアンス]](IU-REAL)」を、[[大学共同利用機関法人]]4機関([[人間文化研究機構]]、[[自然科学研究機構]]、[[高エネルギー加速器研究機構]]、[[情報・システム研究機構]])とともに設立<ref>[https://www.kek.jp/ja/press/202203151330/ 一般社団法人大学共同利用研究教育アライアンスの設立について] 高エネルギー加速器研究機構プレス発表(2022年3月15日)2022年6月22日閲覧</ref>。 * [[2022年]]4月 - 統合進化科学研究センター設置(葉山キャンパス内)。 * [[2023年]]4月 - 全専攻が先端学術院先端学術専攻(20コース)に移行。 == 教育研究組織・基盤機関(設置キャンパス位置) == 総合研究大学院大学は、大学共同利用機関が各機関内に大学院組織として先端学術院先端学術専攻を設置することにより教育研究組織が構成されている<ref>[https://www.soken.ac.jp/outline/organization/educational_research/ 総合研究大学院大学教育研究組織]</ref>。 * 先端学術院先端学術専攻(20コース) ** [https://www.minpaku.ac.jp/education/university 人類文化研究] - [[大学共同利用機関法人]] [[人間文化研究機構]] [[国立民族学博物館]]([[大阪府]][[吹田市]]) ** [https://www.nichibun.ac.jp/ja/education/ 国際日本研究] - 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[国際日本文化研究センター]]([[京都府]][[京都市]][[西京区]]) ** [https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/education/graduate_school/soukendai/ 日本歴史研究] - 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[国立歴史民俗博物館]]([[千葉県]][[佐倉市]]) ** [https://www.nijl.ac.jp/education/ 日本文学研究] - 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[国文学研究資料館]]([[東京都]][[立川市]]) ** [https://www.ninjal.ac.jp/education/soken/ 日本語言語科学] - 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[国立国語研究所]](東京都立川市) ** [https://www.nii.ac.jp/graduate/ 情報学] - 大学共同利用機関法人 [[情報・システム研究機構]] [[国立情報学研究所]](東京都[[千代田区]]) ** [https://www.ism.ac.jp/senkou/ 統計科学] - 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 [[統計数理研究所]](東京都立川市) ** [http://kek.soken.ac.jp/pn/ 素粒子原子核] - 大学共同利用機関法人 [[高エネルギー加速器研究機構]] [[素粒子原子核研究所]]([[茨城県]][[つくば市]]) ** [https://www2.kek.jp/accl/sokendai/ 加速器科学] - 大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構 [[加速器研究施設]]・[[高エネルギー加速器研究機構|共通基盤研究施設]](茨城県つくば市) ** [https://guas-astronomy.jp 天文科学] - 大学共同利用機関法人 [[自然科学研究機構]] [[国立天文台]](東京都[[三鷹市]]) ** [https://soken.nifs.ac.jp 核融合科学] - 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 [[核融合科学研究所]]([[岐阜県]][[土岐市]]) ** [https://www.isas.jaxa.jp/soukendai/ 宇宙科学] - 国立研究開発法人 宇宙航空研究開発機構 [[宇宙科学研究所]]([[神奈川県]][[相模原市]][[中央区 (相模原市)|中央区]]) ** [https://www.ims.ac.jp/education/ 分子科学] - 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 [[分子科学研究所]]([[愛知県]][[岡崎市]]) ** [https://www2.kek.jp/imss/education/sokendai/ 物質構造科学] - 大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構 [[物質構造科学研究所]](茨城県つくば市) ** [https://www.chikyu.ac.jp/rihn/education/ 総合地球環境学] - 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 [[総合地球環境学研究所]](京都府京都市[[北区 (京都市)|北区]]) ** [https://www.nipr.ac.jp/soken/ 極域科学] - 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 [[国立極地研究所]](東京都立川市) ** [https://www.nibb.ac.jp/univ/ 基礎生物学] - 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 [[基礎生物学研究所]](愛知県岡崎市) ** [https://www.nips.ac.jp/graduate/top.html 生理科学] - 大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 [[生理学研究所]](愛知県岡崎市) ** [https://www.nig.ac.jp/nig/ja/phd-program/main-page-top/main-page 遺伝学] - 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 [[国立遺伝学研究所]]([[静岡県]][[三島市]]) ** [http://www.esb.soken.ac.jp 統合進化科学] - 国立大学法人 総合研究大学院大学 [[統合進化科学研究センター]](神奈川県[[三浦郡]][[葉山町]]) - 大学本部 大学共同利用機関の設置する以下の研究拠点もキャンパスとして扱われる。 * 加速器科学 - 高エネルギー加速器研究機構[[J-PARC |東海キャンパス]](茨城県[[那珂郡]][[東海村]]) * 天文科学 - 国立天文台[[水沢VLBI観測所]]([[岩手県]][[奥州市]]([[水沢市 |旧水沢市]])) * 天文科学 - 国立天文台[[野辺山宇宙電波観測所]]([[長野県]][[南佐久郡]][[南牧村 (長野県) |南牧村]]) * 天文科学 - 国立天文台[[国立天文台ハワイ観測所 |ハワイ観測所]]([[アメリカ合衆国]][[ハワイ州]][[ハワイ島]][[ヒロ (ハワイ州) |ヒロ]]) * 天文科学 - 国立天文台[[アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計 |チリ観測所]]([[チリ]]・[[アタカマ砂漠]]) * 極域科学 - 国立極地研究所[[昭和基地]]([[南極]]・[[東オングル島]]) == 研究教育の特徴 == ===基本構成=== 総合研究大学院大学本部を中心として、各専攻を構成する基盤機関との間で協定を締結し、教員・研究者及び所属学生の受け入れを実施している。総合研究大学院大学では、国立大学法人法の規定により、大学院大学長を中心に各専攻を構成する機関の長が理事として大学理事会に参画している。大学本部における教育研究に関する重要事項は、葉山[[教授会]]にて審議される<ref name="gakusoku">{{PDFlink|[http://www.soken.ac.jp/disclosure/pdf/3-1.pdf 総合研究大学院大学学則(2008年3月14日現在)]}}</ref>。 日本初の国立大学院大学として創立した当初は全研究科全専攻において博士後期課程のみの設置であったが、2004年度から2006年度にかけて文化科学研究科を除き各研究科とも段階的に5年一貫制博士課程へ移行した。 2023年4月1日、先端学術院を設置し、新たに国立国語研究所及び総合地球環境学研究所を、本学の基盤機関に迎え、すべての大学共同利用機関が基盤機関となる<ref name="名前なし-20231105131133">[https://www.soken.ac.jp/features/ 総研大とは]</ref>。 同時に、従前の6研究科の全専攻は、先端学術院先端学術専攻(20コース)に移行した<ref>[https://www.soken.ac.jp/news/7451/ 2023年4月 先端学術院設置 国立大学法人 総合研究大学院大学]</ref>。 これにより、学問分野の垣根を超え、基盤機関の多彩な教育リソースを全学でより柔軟に活用できるようになり教育環境の更なる充実が図られることになった<ref name="名前なし-20231105131133"/>。 === 研究教育の特徴 === 総合研究大学院大学の研究教育は、従前より、基盤機関を拠点に学問諸分野の高度で先端的な課題を中心に行う「分散型教育研究」と、大学全体として基盤機関の各専門分野を横断した教育研究を行う「総合型教育研究」があった。 研究科体制の下では、 先導科学研究科を除く研究科(文化科学研究科、自然科学研究科、高エネルギー加速器科学研究科、複合科学研究科)は、各専攻が設置されている基盤機関がそれぞれ教育研究を担当(分散型教育研究)し、学生は専攻が設置される基盤機関で研究活動を実施する。 先導科学研究科は、基盤機関及び葉山本部が緊密な連係・協力により共同して教育研究を実施する(総合型教育研究)。 先導科学研究科の学生は、基本的に大学本部がある葉山キャンパスを研究活動の中心とし、研究計画に応じて基盤機関に展開して研究指導等を受けることになっていた<ref>[https://www.minpaku.ac.jp/education/university/departments/appeal 総研大の魅力 地域文化学専攻・比較文化学専攻]</ref>。 2023年4月、それまでの教育体制が見直され、全研究科は、先端学術院に改組された。 これは、刻々と変化する学術分野の動向や社会の要請を踏まえ、複合的・融合的な研究課題に取り組む博士人材の育成を目的としている。 基盤機関が有する高度に専門的なリソースを、より分野を超えて柔軟に活用できる体制とするため、先端学術専攻20コースが設置された<ref name="名前なし-20231105131133"/>。 === 葉山キャンパス === 葉山キャンパスには大学本部、総合研究大学院大学付属図書館、統合進化科学研究センターが設置されている。入学式・学位記授与式、学生対象のオリエンテーション、国際シンポジウムや学術研究会及び学術成果発表会などが開催されている。 === キャンパス一覧 === * 葉山(神奈川県) - 総合研究大学院大学 本部 * 吹田(大阪府) - 国立民族学博物館 * 桂坂(京都市西京区) - 国際日本文化研究センター * 上賀茂(京都市北区) - 総合地球環境学研究所 * 土岐(岐阜県) - 核融合科学研究所 * 岡崎(愛知県) - 分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所 * 三島(静岡県) - 国立遺伝学研究所 * 相模原(相模原市中央区) - 宇宙科学研究所 * 立川(東京都) - 国文学研究資料館、国立国語研究所、国立極地研究所 * 三鷹(東京都) - 国立天文台 * 千代田(東京都) - 国立情報学研究所 * 佐倉(千葉県) - 国立歴史民俗博物館 * つくば(茨城県) - 高エネルギー加速器研究機構 * 東海(茨城県) - 高エネルギー加速器研究機構 * 水沢(岩手県) - 国立天文台 * 野辺山(長野県) - 国立天文台 * ハワイ(アメリカ合衆国) - 国立天文台 * アタカマ(チリ共和国) - 国立天文台 * 昭和基地(南極) - 国立極地研究所 == 組織の変遷 == === 1989年4月学生受入開始 === * 数物科学研究科(1988年10月設置、1989年4月学生受入開始) ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 放射光科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 統計科学専攻 - 東京都港区 * 生命科学研究科(1988年10月設置、1989年4月学生受入開始) ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 分子生物機構論専攻 - 愛知県岡崎市 ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 文化科学研究科(1989年4月設置、1989年4月学生受入開始) ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 * 大学本部事務局 - 横浜市緑区 === 1997年4月先導科学研究科設置 === * 数物科学研究科 ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 放射光科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 統計科学専攻 - 東京都港区 ** 天文科学専攻 - 東京都三鷹市(1992年4月設置、1992年4月学生受入開始) ** 核融合科学専攻 - 名古屋市千種区(1992年4月設置、1992年4月学生受入開始) ** 極域科学専攻 - 東京都板橋区(1993年4月設置、1993年4月学生受入開始) * 生命科学研究科 ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 分子生物機構論専攻 - 愛知県岡崎市 ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 文化科学研究科 ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 国際日本研究専攻 - 京都市西京区(1992年4月設置、1992年4月学生受入開始) * 先導科学研究科 - 神奈川県三浦郡葉山町(1997年4月設置、1999年4月学生受入開始) ** 生命体科学専攻 - 全基盤機関による共同設置(1997年4月設置、1999年4月学生受入開始) ** 光科学専攻 - 全基盤機関による共同設置(1998年4月設置、1999年4月学生受入開始) * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町(1995年2月葉山キャンパス開設) === 2003年10月国立大学法人化法公布、施行 === * 数物科学研究科 ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 物質構造科学専攻 - 茨城県つくば市(1998年4月放射光科学専攻名称変更) ** 素粒子原子核専攻 - 茨城県つくば市(1999年4月設置、1999年4月学生受入開始) ** 統計科学専攻 - 東京都港区 ** 天文科学専攻 - 東京都三鷹市 ** 核融合科学専攻 - 岐阜県土岐市(1997年7月移転) ** 極域科学専攻 - 東京都板橋区 ** 情報学専攻 - 東京都千代田区(2002年4月設置、2002年4月学生受入開始) ** 宇宙科学専攻 - 神奈川県相模原市(2003年4月設置、2003年4月学生受入開始) * 生命科学研究科 ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 分子生物機構論専攻 - 愛知県岡崎市 ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 文化科学研究科 ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 国際日本研究専攻 - 京都市西京区 ** 日本歴史研究専攻 - 千葉県佐倉市(1999年4月設置、1999年4月学生受入開始) ** メディア社会文化専攻 - 千葉市若葉区(2001年4月設置、2001年4月学生受入開始) ** 日本文学研究専攻 - 東京都品川区(2003年4月設置、2003年4月学生受入開始) * 先導科学研究科 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 生命体科学専攻 - 全基盤機関による共同設置 ** 光科学専攻 - 全基盤機関による共同設置 * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町 === 2004年4月数物科学研究科改組 === * 文化科学研究科 ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 国際日本研究専攻 - 京都市西京区 ** 日本歴史研究専攻 - 千葉県佐倉市 ** メディア社会文化専攻 - 千葉市若葉区 ** 日本文学研究専攻 - 東京都品川区 * 物理科学研究科 ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 天文科学専攻 - 東京都三鷹市 ** 核融合科学専攻 - 岐阜県土岐市 ** 宇宙科学専攻 - 神奈川県相模原市 * 高エネルギー加速器科学研究科 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 物質構造科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 素粒子原子核専攻 - 茨城県つくば市 * 複合科学研究科 ** 統計科学専攻 - 東京都港区 ** 極域科学専攻 - 東京都板橋区 ** 情報学専攻 - 東京都千代田区 * 生命科学研究科 ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 分子生物機構論専攻 - 愛知県岡崎市 ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 先導科学研究科 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 生命体科学専攻 - 全基盤機関による共同設置 ** 光科学専攻 - 全基盤機関による共同設置 * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 葉山高等研究センター - 神奈川県三浦郡葉山町 === 2007年4月先導科学研究科改組 === * 文化科学研究科 ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 国際日本研究専攻 - 京都市西京区 ** 日本歴史研究専攻 - 千葉県佐倉市 ** メディア社会文化専攻 - 千葉市若葉区 ** 日本文学研究専攻 - 東京都品川区 * 物理科学研究科 ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 天文科学専攻 - 東京都三鷹市 ** 核融合科学専攻 - 岐阜県土岐市 ** 宇宙科学専攻 - 神奈川県相模原市 * 高エネルギー加速器科学研究科 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 物質構造科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 素粒子原子核専攻 - 茨城県つくば市 * 複合科学研究科 ** 統計科学専攻 - 東京都港区 ** 極域科学専攻 - 東京都板橋区 ** 情報学専攻 - 東京都千代田区 * 生命科学研究科 ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 基礎生物学専攻 - 愛知県岡崎市(2005年4月分子生物機構論専攻名称変更) ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 先導科学研究科(生命体科学専攻・光科学専攻を改組) ** 生命共生体進化学専攻 - 神奈川県三浦郡葉山町 * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 葉山高等研究センター - 神奈川県三浦郡葉山町 === 2022年4月統合進化科学研究センター設置 === * 文化科学研究科 ** 地域文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 比較文化学専攻 - 大阪府吹田市 ** 国際日本研究専攻 - 京都市西京区 ** 日本歴史研究専攻 - 千葉県佐倉市 ** メディア社会文化専攻 - 千葉市若葉区(2009年4月学生募集停止、2017年3月専攻廃止) ** 日本文学研究専攻 - 東京都立川市(2008年3月移転) * 物理科学研究科 ** 構造分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 機能分子科学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 天文科学専攻 - 東京都三鷹市 ** 核融合科学専攻 - 岐阜県土岐市 ** 宇宙科学専攻 - 相模原市中央区 * 高エネルギー加速器科学研究科 ** 加速器科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 物質構造科学専攻 - 茨城県つくば市 ** 素粒子原子核専攻 - 茨城県つくば市 * 複合科学研究科 ** 統計科学専攻 - 東京都立川市(2009年10月移転) ** 極域科学専攻 - 東京都立川市(2009年5月移転) ** 情報学専攻 - 東京都千代田区 * 生命科学研究科 ** 遺伝学専攻 - 静岡県三島市 ** 基礎生物学専攻 - 愛知県岡崎市 ** 生理科学専攻 - 愛知県岡崎市 * 先導科学研究科 ** 生命共生体進化学専攻 - 神奈川県三浦郡葉山町 * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 学融合推進センター - 神奈川県三浦郡葉山町(2010年4月葉山高等研究センター名称変更、2018年4月廃止) ** 統合進化科学研究センター - 神奈川県三浦郡葉山町 === 2023年4月先端学術院設置 === * 先端学術院 **先端学術専攻 *** 人類文化研究 - 大阪府吹田市 *** 国際日本研究 - 京都市西京区 *** 日本歴史研究 - 千葉県佐倉市 *** 日本文学研究 - 東京都立川市 *** 日本語言語科学 - 東京都立川市 *** 情報学 - 東京都千代田区 *** 統計科学 - 東京都立川市 *** 素粒子原子核 - 茨城県つくば市 *** 加速器科学 - 茨城県つくば市 *** 天文科学 - 東京都三鷹市 *** 核融合科学 - 岐阜県土岐市 *** 宇宙科学 - 相模原市中央区 *** 分子科学 - 愛知県岡崎市 *** 物質構造科学 - 茨城県つくば市 *** 総合地球環境学 - 京都市北区 *** 極域科学 - 東京都立川市 *** 基礎生物学 - 愛知県岡崎市 *** 生理科学 - 愛知県岡崎市 *** 遺伝学 - 静岡県三島市 *** 統合進化科学 - 神奈川県三浦郡葉山町 * 大学本部事務局 - 神奈川県三浦郡葉山町 ** 統合進化科学研究センター - 神奈川県三浦郡葉山町 == 専攻の廃止 == 政府による独立行政法人整理合理化計画<ref>[https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gyokaku/kettei/071224honbun2.pdf 行政改革推進本部 平成19年12月24日閣議決定 首相官邸]</ref>に基づき2009年3月末で基盤機関であった独立行政法人[[メディア教育開発センター]]が廃止されたため、当該基盤機関設置のメディア社会文化専攻は学生募集停止とし、残存組織とともに[[放送大学学園]]へ移管された。移管後は、基盤機関を[[放送大学]]ICT活用・遠隔教育センター(2013年度より放送大学教育支援センターに改称)として学生募集停止のまま引き続き存置されていたが、2017年3月31日で放送大学学園における博士後期課程設置を理由として完全に廃止された。 == 大学関係者一覧 == {{See|総合研究大学院大学の人物一覧}} === ノーベル賞 === * [[小林誠 (物理学者)|小林誠]] - 高エネルギー加速器科学研究科 名誉教授 (1999年から本学教授、2003年から2006年まで素粒子原子核専攻長) - 2008年物理学賞 * [[大隅良典]] - 生命科学研究科 名誉教授 (1996年から2009年まで本学教授、2008年から2009年まで生命科学研究科長) - 2016年生理学・医学賞 == 所在地 == * 大学本部所在地:{{〒}}240-0193 神奈川県三浦郡葉山町上山口1560-35(湘南国際村) * 各専攻所在地:各専攻コースを設置する基盤機関の所在地と同じ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[大学共同利用機関]] * [[国立大学一覧]] * [[大学院大学]] ** [[北陸先端科学技術大学院大学]] (JAIST) ** [[奈良先端科学技術大学院大学]] (NAIST) ** [[沖縄科学技術大学院大学]] (OIST) ** [[政策研究大学院大学]] (GRIPS) * [[新構想大学]] == 外部リンク == * {{official website}} * [https://soken-anet.soken.ac.jp/ SOKENDAI-Anet](総研大同窓ネットワーク) {{日本の国立大学}} {{大学共同利用機関法人}} {{神奈川県内大学間学術交流協定}} {{ふじのくに地域・大学コンソーシアム}} {{日仏共同博士課程日本コンソーシアム}} {{大学院大学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そうこうけんきゆうたいかくいん}} [[Category:総合研究大学院大学|*]] [[Category:日本の国立大学]] [[Category:神奈川県の大学]] [[Category:学校記事]] [[Category:日本の大学院大学]] [[Category:大学共同利用機関法人]]
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61
61(六十一、ろくじゅういち、むそひと、むそじあまりひとつ)は自然数、また整数において、60の次で62の前の数である。
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61(六十一、ろくじゅういち、むそひと、むそじあまりひとつ)は自然数、また整数において、60の次で62の前の数である。
{{整数|Decomposition=61 ([[素数]])}} '''61'''('''六十一'''、ろくじゅういち、むそひと、むそじあまりひとつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[60]]の次で[[62]]の前の数である。 == 性質 == * 61 は18番目の[[素数]]である。1つ前は[[59]]、次は[[67]] である。 **[[約数]]の和は[[62]] 。 * ([[59]], 61) の組は7番目の[[双子素数]]である。1つ前は([[41]], [[43]])、次は([[71]], [[73]]) である。 *''p'' = 61 のときの 2{{sup|''p''}} &minus; 1 で表される 2{{sup|61}} &minus; 1 = 2305843009213693951 は9番目の[[メルセンヌ数|メルセンヌ素数]]である。1つ前は[[31]]、次は[[89]]。 **[[メルセンヌ]]はこの数が[[合成数]]だと予想していたが、[[1883年]]に{{仮リンク|イヴァン・パヴシン|en|Ivan Mikheevich Pervushin}}によって素数であると示された。 *[[陳素数]]でない2番目の素数である。1つ前は[[43]]、次は[[73]]。 * 5番目の[[素数|オイラー素数]]である。1つ前は[[53]]、次は[[71]]。 * 1 と 6 を使った最小の素数である。次は[[661]]。ただし単独使用を可とするなら1つ前は[[11]]。({{OEIS|A020454}}) ** 61…1 の形の最小の素数である。次は611111。({{OEIS|A093631}}) ** 6…61 の形の最小の素数である。次は[[661]]。({{OEIS|A092571}}) *1318820881{{sup|2}} = 1739288516161616161 *各位の和([[数字和]])が7になる7番目の数である。1つ前は[[52]]、次は[[70]]。 **各位の和が7になる数で[[素数]]になる3番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[151]]。({{OEIS|A062337}}) **各位の和([[数字和]])が ''n'' になる ''n'' 番目の数である。1つ前は[[51]]、次は[[71]]。 * 各位の積が6になる5番目の数である。1つ前は[[32]]、次は[[116]]。({{OEIS|A199988}}) **各位の積が6になる数で2番目の[[素数]]である。1つ前は[[23]]、次は1123。({{OEIS|A107692}}) *{{sfrac|1|61}} = 0.{{underline|016393442622950819672131147540983606557377049180327868852459}}… (下線部は循環節で長さは60) **循環節が ''n'' &minus; 1(全ての余りを巡回する)である8番目の素数である。1つ前は[[59]]、次は[[97]]。 ***前の素数[[59]]もこの仲間であり、双子素数のうち2番目の組み合わせとなる。1つ前は([[17]], [[19]])、次は([[179]], [[181]])。 ****1000以下でこのような双子素数は他に (17, 19), (179, 181), (821, 823) である。({{OEIS|A243096}}) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が60になる最小の数である。次は[[122]]。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の59は2559647034361、次の61は[[733]]。({{OEIS|A003060}}) * 61 = 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる18番目の数である。1つ前は[[58]]、次は[[65]]。({{OEIS|A004431}}) ** ''n'' = 5 のときの ''n''{{sup|2}} + (''n'' + 1){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[41]]、次は[[85]]。({{OEIS|A001844}}) *** ''n''{{sup|2}} + (''n'' + 1){{sup|2}} で表せる4番目の[[素数]]である。1つ前は[[41]]、次は[[113]]。({{OEIS|A027862}}) **6番目の[[中心つき四角数]]である。 ** ''n'' = 2 のときの 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[341]]。({{OEIS|A074615}}) *61 = 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる29番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[65]]。({{OEIS|A025321}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる18番目の数である。1つ前は[[59]]、次は[[65]]。({{OEIS|A025339}}) ** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[307]]。({{OEIS|A074548}}) ** 61 = ({{sfrac|5+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11+1|2}}){{sup|2}} * 61 = 5<sup>3</sup> &minus; 4<sup>3</sup> ** ''n'' = 5 のときの ''n''{{sup|3}} &minus; (''n'' &minus; 1){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[37]]、次は[[91]]。({{OEIS|A003215}}) **連続する[[立方数]]の差で表せる4番目の素数である。1つ前は[[37]]、次は[[127]]。 ** 61 = 5{{sup|2}} + 5 × 4 + 4{{sup|2}} ***1辺5の[[立方体]]を1辺1の[[立方体]]125個を使って作ったとき、同時に見ることができる1辺1の[[立方体]]は最大61個である。 * 61 = 3{{sup|4}} &minus; 3{{sup|3}} + 3{{sup|2}} &minus; 3{{sup|1}} + 3{{sup|0}} ** ''n'' = 3 のときの ''n''{{sup|4}} &minus; ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} &minus; ''n''{{sup|1}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[205]]。({{OEIS|A060884}}) *** ''n''{{sup|4}} &minus; ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} &minus; ''n''{{sup|1}} + 1 の形の2番目の素数である。1つ前は[[11]]、次は[[521]]。({{OEIS|A259257}}) ** 61 = 1 &minus; 3 + 3{{sup|2}} &minus; 3{{sup|3}} + 3{{sup|4}} *** 初項 1、公比 &minus;3 の[[等比数列]]の和とみたとき1つ前は&minus;20、次は&minus;182。({{OEIS|A014983}}) *** 61 = {{sfrac|3{{sup|5}} + 1|3 + 1}} * 61 = 7{{sup|2}} + 5{{sup|2}} &minus; 3{{sup|2}} &minus; 2{{sup|2}} ** ''n'' = 2 のときの 7{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} &minus; 3{{sup|''n''}} &minus; 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[433]]。({{OEIS|A135165}}) * 61 = 4{{sup|3}} &minus; 3 ** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} &minus; ''n'' の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[252]]。({{OEIS|A024037}}) *** 4{{sup|''n''}} &minus; ''n'' の形の2番目の素数である。1つ前は[[3]]、次は[[1019]]。({{OEIS|A224451}}) * 61 = 4{{sup|3}} &minus; 4 + 1 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} &minus; ''n'' + 1 の値とみたとき1つ前は[[25]]、次は[[121]]。({{OEIS|A061600}}) *** ''n''{{sup|3}} &minus; ''n'' + 1 の形の2番目の素数である。1つ前は[[7]]、次は[[211]]。({{OEIS|A100698}}) == その他 61 に関すること == *[[原子番号]] 61 の[[元素]]は[[プロメチウム]] (Pm)。この、陽子の数が61個であるプロメチウムは、地球上では安定して存在できない(なお、43個([[テクネチウム]])と83個([[ビスマス]])以上も、地球上では安定して存在できない)。<!--陽子19個([[カリウム]])、21個([[スカンジウム]])、35個([[臭素]])、39個([[イットリウム]])、45個([[ロジウム]])の原子核には、地球上で安定して存在するものがある。--> *[[中性子]]の数が61個の原子核も、地球上では安定して存在できない(なお、19個、21個、35個、39個、45個、71個、89個、115個、123個、127個以上も、地球上では安定して存在できない)。<!--中性子43個の原子核としては、{{sup|77}}Se が、地球上で安定して存在する。--> *年始から数えて61日目は[[3月2日]]、閏年の場合は[[3月1日]]。 *第61代[[天皇]]は[[朱雀天皇]]である。 *[[日本]]の第61代[[内閣総理大臣]]は[[佐藤栄作|佐藤榮作]]である。 *[[大相撲]]の第61代[[横綱]]は[[北勝海信芳]]である。 *第61代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヨハネス3世 (ローマ教皇)|ヨハネス3世]](在位:[[561年]]~[[574年]][[7月13日]])である。 *第61代[[イギリスの首相]]は[[ウィンストン・チャーチル]]である。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第61番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#中孚|風沢中孚]]。 *[[クルアーン]]における第61番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[戦列 (クルアーン)|戦列]]である。 *[[61式戦車]]は、日本の[[陸上自衛隊]]が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産[[戦車]]である。 *[[国鉄C61形蒸気機関車]]は、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて製造された[[日本国有鉄道]]の急行旅客列車用[[テンダー式蒸気機関車]]である。 *[[はくちょう座61番星]] (61 Cygni) は、[[はくちょう座]]にある[[連星]]系の[[恒星]]である。 *『[[第61魔法分隊]]』は、[[伊都工平]]原作による日本の[[ライトノベル]]。 *[[ロジャー・マリス]]は、[[1961年]]に[[メジャーリーグベースボール]]新記録となる61本塁打を放った。 **また、これを題材した[[2001年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカの映画]]・『{{仮リンク|61*|en|61*}}』がある。 * 日本の国土の大きさは世界において61番目の広さである。([[国の面積順リスト]]) == 関連項目 == {{数字2桁|6| - [[昭和61年]]}} *[[6月1日]] {{自然数}}
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天皇機関説
天皇機関説(てんのうきかんせつ)とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立する。 天皇機関説は、1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。 これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。 1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。 後述するように、天皇機関説においても、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇主権や統治権の総攬者であることは否定されていない。 しかしながら、こういった立憲君主との考え方は大衆には浸透していなかったようで(美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、貴族院での反応には温度差があった)、一連の騒動以後は天皇主権説が台頭し、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『國體の本義』より要約)」と断じた。 「主権」という語は多義的に解釈できるため注意が必要である。 「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが国家主権説である。一方で、「国家意思の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが君主主権説、「国民である」と答えるのが国民主権説である。 したがって、国家主権説は君主主権説とも国民主権説とも両立できる。 美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家意思最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。美濃部は主権概念について統治権の所有者という意味と国家の最高機関の地位としての意味を混同しないようにしなければならないと説いていた(美濃部達吉『憲法講話』)。金森徳次郎によれば美濃部は、天皇の発した勅語であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた。 大日本帝国憲法の解釈は、当初、東京帝国大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥政治家による専制的な支配構造(いわゆる超然内閣)を理論の面から支えた(天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である)。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた。 これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。 日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。 美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。 辛亥革命直後には、穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を同一視し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。 この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。 憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部 が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。また、同時期のドイツでナチスが政権を掌握すると、1933年には、ドイツでユダヤ人の著作などに対する焚書(ナチス・ドイツの焚書)が行われた。この焚書において、天皇機関説に影響を与えたイェリネックの著作も、イェリネックがユダヤ人であることを理由に焼かれた。昭和戦前の日本における、ナチス・ドイツやナチズムへの関心や親近感の高まりも、天皇機関説への敵視に影響を与えた。 1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり」(天皇が統治権執行機関だという思想は、国体の間違った捉え方だ)とし、同年10月15日にはより進めて「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。 昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。 また、昭和62年(1987年)に皇太子明仁親王が記者の質問に答える形で機関説事件前後の天皇ありかたについて言及しており、機関説事件に否定的なニュアンスのコメントをしている。 記者 訪米前の会見で、1930年代から敗戦までは、それ以前、それ以後と比べて天皇のあり方がまったく違うということをおっしゃったようですが、それはどういう意味ですか。 第二次世界大戦後、改正憲法の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した。政府、自由党、社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。
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天皇機関説(てんのうきかんせつ)とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立する。
{{No footnotes|date=2015年11月}} [[Image:Kenpo Teiyo.jpg|thumb|180px|天皇機関説事件で[[発禁]]となった『憲法撮要』]] '''天皇機関説'''(てんのうきかんせつ)とは、[[大日本帝国憲法]]下で確立された[[憲法]]学説で、[[主権|統治権]]は[[法人]]たる[[国家]]にあり、[[天皇]]はその[[機関 (法)#最高機関|最高機関]]として、[[内閣]]をはじめとする他の機関からの[[輔弼]]を得ながら統治権を行使すると説いたものである。[[ドイツ]]の公法学者[[ゲオルク・イェリネック]]に代表される[[国家法人説]]に基づき、憲法学者・[[美濃部達吉]]らが主張した学説で、'''[[天皇主権]]説'''([[穂積八束]]・[[上杉慎吉]]らが主張)などと対立する。 == 概要 == <!--序文--> 天皇機関説は、[[1900年代]]から[[1935年]]頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である<ref>衆議院憲法調査会事務局 [https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf 「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」]、[[2003年]]。</ref>。憲法学者の[[宮沢俊義]]によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。 {{quotation|国家学説のうちに、'''国家法人説'''というものがある。これは、国家を法律上ひとつの'''法人'''だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の'''機関'''だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの'''法人'''であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の'''機関'''だということになる。 これがいわゆる'''天皇機関説'''または単に'''機関説'''である。 (太字は原文傍点)|宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、1970年。}} {{see also|法人 (日本法)#法人の形態と準拠法|地方自治法#第1編 総則(第1条~第4条の2)}} [[1889年]]([[明治]]22年)に公布された[[大日本帝国憲法]]では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。 *[[大日本帝国憲法第1条|第1条]]:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス([[天皇主権]]) *[[大日本帝国憲法第4条|第4条]]:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ([[統治大権]]) <!-- 独自調査風の書き方になっているので書き換える必要があると思われます --> 後述するように、天皇機関説においても、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇主権や統治権の総攬者であることは否定されていない<ref>{{Cite book|和書|title=[[憲法 (芦部信喜)|憲法]]|date=2007年3月9日|publisher=岩波書店|edition=第四版|author=芦部信喜|authorlink=芦部信喜}}</ref>。 しかしながら、こういった立憲君主との考え方は大衆には浸透していなかったようで(美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、[[貴族院 (日本)|貴族院]]での反応には温度差があった)、一連の騒動以後は天皇主権説が台頭し、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『[[國體の本義]]』より要約)」と断じた。 <!-- ? 日本国民の政治感覚のなさが、[[世論]](大衆の意見)が[[輿論]](公的な意見)となり増大され、政府は国体明徴声明を出し、従来主流であった立憲学派および天皇機関説の命脈は絶たれた。--> === 主権概念との関係 === {{see also|主権}} 「[[主権]]」という語は多義的に解釈できるため注意が必要である。 「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが国家主権説である。一方で、「国家意思の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが[[君主主権]]説、「国民である」と答えるのが[[国民主権]]説である。 したがって、国家主権説は君主主権説とも国民主権説とも両立できる。 美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家意思最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。美濃部は主権概念について統治権の所有者という意味と国家の最高機関の地位としての意味を混同しないようにしなければならないと説いていた(美濃部達吉『憲法講話』)。[[金森徳次郎]]によれば美濃部は、天皇の発した[[勅語]]であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた<ref>{{cite wikisource|和書|title=私の履歴書/金森徳次郎|author=|wslanguage=ja|quote=そのうち戸沢(重雄)検事が詔勅の批判をしてもよいかを尋ね、イエスの答を得て『しかし勅語、ことに教育勅語は批判してはいけないという説がありますが、それについてはどう思いますか』と尋ね、それは単なる俗説にすぎませんと美濃部さんは言下に言い切った。}}</ref>。 === 天皇主権説との対立点 === ; 主権の所在 * 天皇機関説 - 統治権は法人としての国家に属し、天皇はそのような国家の最高機関即ち主権者として、国家の最高意思決定権を行使する。 * 天皇主権説 - 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした<ref>1935年(昭和10年)2月25日の貴族院での美濃部の弁明による</ref>。 ; 国務大臣の輔弼 * 天皇機関説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。 * 天皇主権説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。 ; 国務大臣の責任 * 天皇機関説 - 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。 * 天皇主権説 - 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)。議会の意思が介入することがあれば天皇の任命大権を危うくする(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。 == 天皇機関説を主張した主な法学者等 == * [[一木喜徳郎]] - [[男爵]]、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長 * [[美濃部達吉]] - [[貴族院勅選議員]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]] * [[浅井清]] - 貴族院勅選議員、[[慶應義塾大学]]教授 * [[金森徳次郎]] - [[東京帝国大学]]教授、法制局長官、内閣審議会幹事、初代[[国立国会図書館]]長 * [[佐々木惣一]] - 京都帝国大学教授、立命館大学総長 * [[野村淳治]] - 東京帝国大学教授 * [[市村光恵]] - 京都帝国大学教授 * [[渡辺錠太郎]] - [[陸軍大将]] * [[中島重]] - [[関西学院大学|関西学院]]法文学部教授、[[東京大学|帝大]]法科卒、美濃部門下 * [[田畑忍]] - [[同志社大学]]法学部教授、中島重門下、のち[[佐々木惣一|佐々木]]門下 == 歴史 == === 天皇機関説の発展 === 大日本帝国憲法の解釈は、当初、[[東京大学|東京帝国大学]]教授・[[穂積八束]]らによる天皇主権説が支配的で、[[藩閥]]政治家による専制的な支配構造(いわゆる[[超然主義|超然内閣]])を理論の面から支えた(天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である)。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた<ref group="注釈">大日本帝国憲法の公布にあたって、[[明治天皇]]が神前で奏した告文(こうもん)には、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示」し、「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スル」とある。</ref>。 これに対し、東京帝大教授の[[一木喜徳郎]]は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、[[日清戦争]]後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。 [[Image:Tatsukichi Minobe in kimono.jpg|thumb|160px|美濃部達吉]] [[日露戦争]]後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の[[美濃部達吉]]によって、[[議会]]の役割を高める方向で発展された。すなわち、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。 美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる<ref>衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」</ref>。 #国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。 #統治権は、法人たる国家に属する権利である。 #国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。 #統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。 #最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。 [[辛亥革命]]直後には、穂積の弟子である東京帝大の[[上杉慎吉]]と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を同一視し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「[[国務大臣]]の[[輔弼]]なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。 この論争の後、[[京都大学|京都帝国大学]]教授の[[佐々木惣一]]もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。[[民本主義]]と共に、[[議院内閣制]]の慣行・政党政治と[[大正デモクラシー]]を支え、また、美濃部の著書が[[高等文官試験]]受験者の必読書ともなり、[[1920年代]]から[[1930年代]]前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。この時期に[[摂政]]であり天皇であった[[昭和天皇]]は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。 === 天皇機関説事件 === {{main|天皇機関説事件}} [[File:片言隻句を捉へて反逆者とは何事(『東京朝日新聞』 1935年2月26日付夕刊1面).jpg|thumb|220px|[[s:一身上の弁明|一身上の弁明]]を行う美濃部達吉(『東京朝日新聞』 1935年2月26日付夕刊1面)]] 憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と[[憲政の常道]]を支えた。しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部<ref group="注釈">「[[軍人勅諭]]」は憲法より先に作成され下されている。</ref> が台頭すると、[[軍国主義]]が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。1932年(昭和7年)に起きた[[五・一五事件]]で[[犬養毅]]首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。また、同時期の[[ドイツ]]で[[ナチス]]が政権を掌握すると、1933年には、ドイツで[[ユダヤ人]]の著作などに対する[[焚書]]([[ナチス・ドイツの焚書]])が行われた。この焚書において、天皇機関説に影響を与えたイェリネックの著作も、イェリネックが[[ユダヤ人]]であることを理由に焼かれた。昭和戦前の日本における、ナチス・ドイツや[[ナチズム]]への関心や親近感の高まりも、天皇機関説への敵視に影響を与えた。 [[1935年]](昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は[[不敬罪]]の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、[[出版法]]違反として発禁処分となった。当時の[[岡田内閣]]は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が[[国体]]の本義を愆るものなり」(天皇が統治権執行機関だという思想は、国体の間違った捉え方だ)とし、同年10月15日にはより進めて「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする'''[[国体明徴声明]]'''を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。 === 天皇・皇室の見解 === 昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は[[脳髄]]であり、機関という代わりに[[器官]]という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と[[本庄繁]]武官長に話し、[[真崎甚三郎]][[教育総監]]にもその旨を伝えている<ref>『昭和天皇独白録』p.36</ref>。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また[[鈴木貫太郎]]侍従長には次のように話している。 {{quotation|主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ|『西園寺公と政局』}} また、昭和62年(1987年)に皇太子[[明仁親王]]が記者の質問に答える形で機関説事件前後の天皇ありかたについて言及しており、機関説事件に否定的なニュアンスのコメントをしている。 {{quotation| '''記者''' 訪米前の会見で、1930年代から敗戦までは、それ以前、それ以後と比べて天皇のあり方がまったく違うということをおっしゃったようですが、それはどういう意味ですか。<br> '''皇太子''' 天皇機関説とかああいうものでいろんな議論があるわけですが、一つの解釈に決めてしまったわけですね。そのことをいってるわけです。だから、大日本帝国憲法のいろんな解釈ができた時代から、できなくなってしまった時代ということですね。その時にある一つの型にだけ決まってしまった。|昭和62年12月16日、誕生日に際しての記者会見}} === 戦後の天皇機関説 === {{要出典範囲|[[第二次世界大戦]]後、改正憲法の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した|date=2023年6月}}。{{要出典範囲|政府、[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]、[[日本社会党|社会党]]の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった|date=2023年6月}}。しかし、天皇を最高機関とせず[[国民主権]]原理に基づく[[日本国憲法]]が成立するに至り、{{独自研究範囲|天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた|date=2023年6月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == * [[宮沢俊義]]『天皇機関説事件 : 史料は語る』上下、有斐閣、1970年、2003年OD版。 ** 上 ISBN 4-641-90285-2、下 ISBN 4-641-90286-0 * 利根川裕『私論・天皇機関説』学芸書林、1977年。 * 宮本盛太郎『天皇機関説の周辺 増補版 : 三つの天皇機関説と昭和史の証言』有斐閣選書、1980年、ISBN 4-641-08248-0。 * 小山常実『天皇機関説と国民教育』アカデミア出版会、1989年。 * [[植村和秀]]「天皇機関説批判の『論理』 : 『官僚』批判者蓑田胸喜」[[竹内洋]]・[[佐藤卓己]]編『日本主義的教養の時代 : 大学批判の古層』柏書房パルマケイア叢書、2006年、pp.&nbsp;51–89。ISBN 4-7601-2863-8。 * 菅谷幸浩『昭和戦前期の政治と国家像:「挙国一致」を目指して』木鐸社、2019年、第3章。ISBN 978-4-8332-2535-9 初出は「天皇機関説事件展開過程の再検討 ―岡田内閣・宮中の対応を中心に― 」『日本歴史』2007年2月号 No.705、吉川弘文館、ISSN 0386-9164、pp.&nbsp;52–69。 *菅谷幸浩「清水澄と昭和史についての覚書─満洲国皇帝への御進講から日本国憲法制定まで─」(『藝林』第66巻第2号、2017年)pp.&nbsp;172–196。 * [[前坂俊之]]『太平洋戦争と新聞』[[講談社学術文庫]] 2007年 (ISBN 9784061598171) * 三浦裕史編『大日本帝国憲法衍義』信山社出版 *『憲法撮要 Ⅰ 復刻版』桜耶書院、2015年 *『憲法撮要 Ⅱ 復刻版』桜耶書院 2016年 *『憲法撮要 Ⅲ 復刻版』桜耶書院 2016年 == 関連項目 == * [[天皇機関説事件]] * [[国家有機体説]] * [[国防の本義と其強化の提唱]] * [[国体]] * [[君臣共治]] == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20021028152932/http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/minobebennkai.htm 美濃部達吉の「一身上の弁明」全文](2002年10月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) *[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf 明治憲法の制定過程について] - 衆議院憲法調査会・事務局作成資料「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」- PDFファイル、524KB *[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/987258 憲法撮要] - 美濃部達吉著、[[有斐閣]]、[[1923年]]。[[国立国会図書館デジタルコレクション]]。 *[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280004 逐条憲法精義] - 美濃部達吉著、有斐閣、[[1927年]]。国立国会図書館デジタルコレクション。 {{DEFAULTSORT:てんのうきかんせつ}} [[Category:天皇機関説|*]]
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リンゼイ・ダベンポート
リンゼイ・ダベンポート(Lindsay Davenport [líndzi dǽvənpɔ̀ːrt], 1976年6月8日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の女子プロテニス選手。身長189cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会では女子シングルスで1998年全米オープン、1999年ウィンブルドン、2000年全豪オープンの3冠を獲得したが、女子ダブルスでも1996年全仏オープン、1997年全米オープン、1999年ウィンブルドンで3度の優勝がある。WTAツアーでシングルス55勝、ダブルス38勝を挙げた。 2014年国際テニス殿堂入り。 ダベンポートの両親はバレーボール選手で父のウィンク・ダベンポートは1968年メキシコ五輪に出場している。リンゼイは5歳からテニスを始め1992年全米オープンジュニアで単複優勝を果たしている。 1993年2月に16歳でプロ入り。翌1994年、年間最終ランキング上位16名が出場可能な女子テニスツアー年間最終戦、WTAツアー選手権(当時の名称は「バージニア・スリムズ選手権」)に初出場し、いきなりガブリエラ・サバティーニとの決勝戦まで進出した。1996年アトランタ五輪の女子シングルス決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオを 7-6, 6-2 で破り、金メダルを獲得する。 1998年、全米オープンで4大大会女子シングルス初優勝を達成。決勝でマルチナ・ヒンギスを 6-3, 7-5 で破り、1986年全仏オープンのクリス・エバート以来12年ぶりに、アメリカ合衆国出身の女子テニス選手として優勝を飾った。その1ヶ月後、1998年10月12日付で初の世界ランキング1位になる。全米オープン女子シングルスで初優勝した1998年、ダベンポートはナターシャ・ズベレワとペアを組んですべての4大大会女子ダブルス決勝に進出したが、4大会ともヒンギスのペアに敗れて準優勝に終わった。その結果、ヒンギスの1998年度「女子ダブルス年間グランドスラム」が成立した。 1999年ウィンブルドンで、ダベンポートは決勝でシュテフィ・グラフを 6-4, 7-5 のストレートで破って優勝した。この大会ではコリーナ・モラリューとペアを組んだ女子ダブルスでも優勝し、単複2冠を獲得している(グラフは決勝戦の終了後、このウィンブルドン選手権を最後の4大大会出場にすると宣言し、1ヶ月後の8月13日に現役を引退した)。2000年全豪オープン決勝ではマルチナ・ヒンギスを 6-1, 7-5 で破り、ヒンギスの全豪4連覇を阻止した。こうしてダベンポートは4大大会3冠王となったが、同年のウィンブルドンと全米オープンの決勝でビーナス・ウィリアムズに2連敗を喫してしまい、しばらくウィリアムズ姉妹の後塵を拝することになった。 2004年ウィンブルドン準決勝でマリア・シャラポワに敗れた後、一時は引退を示唆する発言をしていた。しかし直後の全米オープン前哨戦の大会(ハードコート)で好成績が続き、世界ランキング1位に返り咲いたため、引退を翻意する。2005年全豪オープンで5年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、セリーナ・ウィリアムズに逆転負けして準優勝に終わる。同年のウィンブルドンでも5年ぶり3度目の決勝に進出するが、今度はビーナス・ウィリアムズに敗れ、またしてもウィリアムズ姉妹に優勝を阻まれた。 2003年4月25日に結婚した夫のジョナサン・リーチは元プロテニス選手で、かつてのダブルスの名選手であったリック・リーチの末弟であり、その後投資銀行勤務のビジネスマンになった人である。ダベンポートは2006年12月に妊娠のため出産休養に入ったが、2007年6月10日に第1子の長男を出産した後、ツアー復帰を宣言した。9月16日、インドネシア・バリ島大会のシングルス決勝でダニエラ・ハンチュコバを破り、復帰第1戦を優勝で飾る。出産からの復帰後、彼女はツアーでシングルス4勝・ダブルス1勝を加え、2008年北京五輪の女子ダブルスにもリーゼル・フーバーとのコンビで出場した。2008年全米オープン3回戦でマリオン・バルトリ(フランス)に敗れた試合を最後に、ツアーから再度遠ざかり2009年6月、彼女は第2子の長女を出産した。 2010年7月にダベンポートはスタンフォード大会のダブルスでリーゼル・フーバーと組んで優勝した。8月のサンディエゴ大会のダブルスに出場したのが最後の公式戦出場になっている。その後ダベンポートは2012年1月に第3子の次女を、2014年1月に第4子の三女を出産した。 4大大会で唯一優勝がない全仏オープンでは、1998年のベスト4が自己最高成績である。 ダベンポートは2014年に国際テニス殿堂入りを果たした。 W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし. ※: 2008年ウィンブルドン2回戦の不戦敗は通算成績に含まない
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リンゼイ・ダベンポートは、アメリカ・カリフォルニア州パロスベルデ出身の女子プロテニス選手。身長189cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 4大大会では女子シングルスで1998年全米オープン、1999年ウィンブルドン、2000年全豪オープンの3冠を獲得したが、女子ダブルスでも1996年全仏オープン、1997年全米オープン、1999年ウィンブルドンで3度の優勝がある。WTAツアーでシングルス55勝、ダブルス38勝を挙げた。 2014年国際テニス殿堂入り。
{{テニス選手 |選手名(日本語)=リンゼイ・ダベンポート |写真=Lindsay Davenport Indian Wells 2006.jpg |写真サイズ=230px |写真のコメント=リンゼイ・ダベンポート |選手名(英語)=Lindsay Davenport |フルネーム(英語名)=Lindsay Ann Davenport |愛称= |国籍={{USA}} |出身地=同・カリフォルニア州パロスベルデ |居住地= |誕生日={{生年月日と年齢|1976|6|8}} |没年日= |身長=189cm |体重=79kg |利き手=右 |バックハンド=両手打ち |殿堂入り=2014年 |デビュー年=1993年 |引退年=2010年 |ツアー通算=93勝 |シングルス=55勝 |ダブルス=38勝 |生涯通算成績=1140勝310敗 |シングルス通算=753勝194敗 |ダブルス通算=387勝116敗 |生涯獲得賞金=$22,166,338 |全豪オープン=優勝(2000) |全仏オープン=ベスト4(1998) |ウィンブルドン=優勝(1999) |全米オープン=優勝(1998) |優勝回数=3(豪1・英1・米1) |全豪オープンダブルス=準優勝(1996-99・2001・05) |全仏オープンダブルス=優勝(1996) |ウィンブルドンダブルス=優勝(1999) |全米オープンダブルス=優勝(1997) |ダブルス優勝回数=3(仏1・英1・米1) |フェドカップ = 優勝(1996・99・2000) |ホップマンカップ = 優勝(2004) |シングルス最高=1位(1998年10月12日) |ダブルス最高=1位(1997年10月20日) | medaltemplates = {{MedalSport|女子 [[テニス]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]}} {{MedalGold|[[1996年アトランタオリンピック|1996 アトランタ]]|シングルス}} }} '''リンゼイ・ダベンポート'''('''Lindsay Davenport''' {{IPA-en|lín''d''zi dǽv''ə''npɔ̀ː''r''t|}}<ref>『リーダーズ英和辞典』 第二版、研究社、1999年 より</ref>, [[1976年]][[6月8日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]][[パロスベルデ]]出身の女子プロ[[テニス]]選手。身長189cm、体重79kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 [[グランドスラム (テニス)|4大大会]]では女子シングルスで[[1998年全米オープン (テニス)|1998年全米オープン]]、[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]、[[2000年全豪オープン]]の3冠を獲得したが、女子ダブルスでも[[1996年全仏オープン]]、[[1997年全米オープン (テニス)|1997年全米オープン]]、[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]で3度の優勝がある。[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルス55勝、ダブルス38勝を挙げた。 2014年[[国際テニス殿堂]]入り。 == 来歴 == ダベンポートの両親は[[バレーボール]]選手で父のウィンク・ダベンポートは1968年[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコ五輪]]に出場している。リンゼイは5歳から[[テニス]]を始め[[1992年全米オープン (テニス)|1992年全米オープン]]ジュニアで単複優勝を果たしている。 [[1993年]]2月に16歳でプロ入り。翌[[1994年]]、年間最終ランキング上位16名が出場可能な女子テニスツアー年間最終戦、[[WTAツアー選手権]](当時の名称は「バージニア・スリムズ選手権」)に初出場し、いきなり[[ガブリエラ・サバティーニ]]との決勝戦まで進出した。[[1996年]][[1996年アトランタオリンピックのテニス競技|アトランタ五輪]]の女子シングルス決勝で[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]を 7-6, 6-2 で破り、金メダルを獲得する。 [[1998年]]、[[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]女子シングルス初優勝を達成。決勝で[[マルチナ・ヒンギス]]を 6-3, 7-5 で破り、[[1986年全仏オープン]]の[[クリス・エバート]]以来12年ぶりに、アメリカ合衆国出身の女子テニス選手として優勝を飾った。その1ヶ月後、1998年10月12日付で初の世界ランキング1位になる。全米オープン女子シングルスで初優勝した1998年、ダベンポートは[[ナターシャ・ズベレワ]]とペアを組んですべての4大大会女子ダブルス決勝に進出したが、4大会ともヒンギスのペアに敗れて準優勝に終わった。その結果、ヒンギスの1998年度「女子ダブルス年間グランドスラム」が成立した。<!--ヒンギスのパートナーは、全豪オープンだけ違う--> [[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]で、ダベンポートは決勝で[[シュテフィ・グラフ]]を 6-4, 7-5 のストレートで破って優勝した。この大会では[[コリーナ・モラリュー]]とペアを組んだ女子ダブルスでも優勝し、単複2冠を獲得している(グラフは決勝戦の終了後、このウィンブルドン選手権を最後の4大大会出場にすると宣言し、1ヶ月後の8月13日に現役を引退した)。[[2000年全豪オープン]]決勝では[[マルチナ・ヒンギス]]を 6-1, 7-5 で破り、ヒンギスの全豪4連覇を阻止した。こうしてダベンポートは4大大会3冠王となったが、同年の[[2000年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[2000年全米オープン (テニス)|全米オープン]]の決勝で[[ビーナス・ウィリアムズ]]に2連敗を喫してしまい、しばらくウィリアムズ姉妹の後塵を拝することになった。 [[2004年ウィンブルドン選手権|2004年ウィンブルドン]]準決勝で[[マリア・シャラポワ]]に敗れた後、一時は引退を示唆する発言をしていた。しかし直後の全米オープン前哨戦の大会(ハードコート)で好成績が続き、世界ランキング1位に返り咲いたため、引退を翻意する。[[2005年全豪オープン]]で5年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、[[セリーナ・ウィリアムズ]]に逆転負けして準優勝に終わる。同年の[[2005年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも5年ぶり3度目の決勝に進出するが、今度は[[ビーナス・ウィリアムズ]]に敗れ、またしてもウィリアムズ姉妹に優勝を阻まれた。 2003年4月25日に結婚した夫のジョナサン・リーチは元プロテニス選手で、かつてのダブルスの名選手であった[[リック・リーチ]]の末弟であり、その後[[投資銀行]]勤務のビジネスマンになった人である。ダベンポートは2006年12月に妊娠のため出産休養に入ったが、2007年6月10日に第1子の長男を出産した後、ツアー復帰を宣言した。9月16日、[[インドネシア]]・[[バリ島]]大会のシングルス決勝で[[ダニエラ・ハンチュコバ]]を破り、復帰第1戦を優勝で飾る。出産からの復帰後、彼女はツアーでシングルス4勝・ダブルス1勝を加え、[[2008年北京オリンピックのテニス競技|2008年北京五輪]]の女子ダブルスにも[[リーゼル・フーバー]]とのコンビで出場した。[[2008年全米オープン (テニス)|2008年全米オープン]]3回戦で[[マリオン・バルトリ]]([[フランス]])に敗れた試合を最後に、ツアーから再度遠ざかり2009年6月、彼女は第2子の長女を出産した。 2010年7月にダベンポートはスタンフォード大会のダブルスで[[リーゼル・フーバー]]と組んで優勝した。8月のサンディエゴ大会のダブルスに出場したのが最後の公式戦出場になっている。その後ダベンポートは2012年1月に第3子の次女を、2014年1月に第4子の三女を出産した。 4大大会で唯一優勝がない[[全仏オープン]]では、[[1998年全仏オープン|1998年]]のベスト4が自己最高成績である。 ダベンポートは2014年に[[国際テニス殿堂]]入りを果たした<ref>{{citenews|url=https://web.archive.org/web/20140331101015/http://www.47news.jp/CN/201403/CN2014030401001437.html|title=ダベンポートさんテニス殿堂入り 四大大会3度優勝|publisher=47NEWS|date=2014年3月4日}}</ref>。 == WTAツアー決勝進出結果 == === シングルス: 94回 (55勝38敗) === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |- !大会グレード |- |bgcolor="#FFFF99"| グランドスラム (3–4) |- |bgcolor="#FF6688"| ツアー選手権 (1–3) |- |bgcolor="gold"| オリンピック (1-0) |- |bgcolor="#ffcccc"| ティア I (11–10) |- |bgcolor="#ccccff"| ティア II (26–20) |- |bgcolor="#CCFFCC"| ティア III (12–1) |- |bgcolor="#66CCFF"| ティア IV & V (1–0) |- |} {{clear}} {| class="sortable wikitable" |- !width="50"|結果 !width="20"|No. !width="125"|決勝日 !width="200"|大会 !width="90"|サーフェス !width="270"|対戦相手 !width="150"|スコア |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 1. | 1993年5月23日 | {{Flagicon|SUI}} [[WTAスイス・オープン|ルツェルン]] | クレー | {{Flagicon|AUS}} [[ニコル・プロビス|ニコル・ブラドケ]] | 6–1, 4–6, 6–2 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 2. | 1994年1月3日 | {{Flagicon|AUS}} [[ダノンハードコート選手権|ブリスベン]] | ハード | {{Flagicon|ARG}} [[フロレンシア・ラバト]] | 6–1, 2–6, 6–3 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 3. | 1994年5月22日 | {{Flagicon|SUI}} [[WTAスイス・オープン|ルツェルン]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | 7–6(3), 6–4 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 1. | 1994年11月14日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{flagicon|ARG}} [[ガブリエラ・サバティーニ]] | 3–6, 2–6, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 2. | 1995年1月15日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|ARG}} [[ガブリエラ・サバティーニ]] | 6–3, 6–4 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 3. | 1995年2月5日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|JPN}} [[クルム伊達公子|伊達公子]] | 1–6, 2–6 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 4. | 1995年5月22日 | {{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール国際|ストラスブール]] | クレー | {{Flagicon|JPN}} [[クルム伊達公子|伊達公子]] | 3–6, 6–1, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 4. | 1996年1月14日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | 6–4, 6–7(7), 3–6 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 5. | 1996年5月20日 | {{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール国際|ストラスブール]] | クレー | {{Flagicon|AUT}} [[バルバラ・パウルス]] | 6–3, 7–6(6) |- bgcolor="gold" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 6. | 1996年7月22日 | {{flagicon|USA}} [[1996年アトランタオリンピックのテニス競技|アトランタ五輪]] | ハード | {{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | 7–6(6), 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 7. | 1996年8月12日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|GER}} [[アンケ・フーバー]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 8. | 1997年2月17日 | {{flagicon|USA}} [[全米国際インドアテニス選手権|オクラホマシティ]] | ハード (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | 6–4, 6–2 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 9. | 1997年3月3日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|ROU}} [[イリナ・スピールリア]] | 6–2, 6–1 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 10. | 1997年4月13日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|FRA}} [[マリー・ピエルス]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 5. | 1997年8月10日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | 7–5, 5–7, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 11. | 1997年8月18日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|アトランタ]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[サンドリーヌ・テスチュ]] | 6–4, 6–1 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 12. | 1997年10月13日 | {{Flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 7–6(3), 7–5 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 13. | 1997年11月3日 | {{flagicon|USA}} [[アメリテック・カップ|シカゴ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–0, 7–5 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 6. | 1997年11月16日 | {{flagicon|USA}} [[アドバンタ選手権|フィラデルフィア]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 5–7, 7–6(7), 6–7(4) |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 14. | 1998年2月2日 | {{flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–3, 6–3 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 7. | 1998年3月15日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 3–6, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 15. | 1998年7月27日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–4, 5–7, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 16. | 1998年8月3日 | {{Flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[マリー・ピエルス]] | 6–3, 6–1 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 17. | 1998年8月10日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 4–6, 6–4, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 18. | 1998年9月12日 | {{Flagicon|USA}} [[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–3, 7–5 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 8. | 1998年10月5日 | {{flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード (室内) | {{Flagicon|FRA}} [[サンドリーヌ・テスチュ]] | 5–7, 3–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 19. | 1998年10月12日 | {{Flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 7–5, 6–3 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 9. | 1998年11月16日 | {{flagicon|USA}} [[アドバンタ選手権|フィラデルフィア]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|GER}} [[シュテフィ・グラフ]] | 6–4, 3–6, 4–6 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 10. | 1998年11月22日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 5–7, 6–4, 4–6, 2–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 20. | 1999年1月11日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–4, 6–3 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 21. | 1999年5月17日 | {{Flagicon|ESP}} [[WTAマドリード・オープン|マドリード]] | クレー | {{Flagicon|ARG}} [[パオラ・スアレス]] | 6–1, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 22. | 1999年7月3日 | {{Flagicon|GBR}} [[1999年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 芝 | {{Flagicon|GER}} [[シュテフィ・グラフ]] | 6–4, 7–5 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 23. | 1999年7月26日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 7–6(1), 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 11. | 1999年8月23日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 2–6, 5–7 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 24. | 1999年9月20日 | {{Flagicon|JPN}} [[トヨタ・プリンセス・カップ|東京]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | 7–5, 7–6(1) |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 25. | 1999年11月8日 | {{flagicon|USA}} [[アドバンタ選手権|フィラデルフィア]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–3, 6–4 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 26. | 1999年11月15日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–4, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 12. | 2000年1月11日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] | 6–7(2), 4–6 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 27. | 2000年1月29日 | {{Flagicon|AUS}} [[2000年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–1, 7–5 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="white"|中止 | | 2000年3月 | {{flagicon|USA}} [[ステート・ファーム・クラシック|スコッツデール]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | N/A |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 28. | 2000年3月6日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 4–6, 6–4, 6–0 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 13. | 2000年4月2日 | {{flagicon|USA}} [[マイアミ・マスターズ|マイアミ]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 3–6, 2–6 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 14. | 2000年7月8日 | {{Flagicon|GBR}} [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 芝 | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 3–6, 6–7(3) |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 15. | 2000年7月24日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–1, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 16. | 2000年8月13日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]] | 6–4, 4–6, 6–7(1) |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 17. | 2000年8月28日 | {{Flagicon|USA}} [[2000年全米オープン (テニス)|全米オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 4–6, 5–7 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 18. | 2000年10月15日 | {{Flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | ハード (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 4–6, 6–4, 5–7 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 29. | 2000年10月16日 | {{flagicon|AUT}} [[ジェネラーリ・レディース・リンツ|リンツ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–4, 3–6, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 30. | 2000年11月6日 | {{flagicon|USA}} [[アドバンタ選手権|フィラデルフィア]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 7–6(7), 6–4 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 19. | 2001年1月8日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 3–6, 6–4, 5–7 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 31. | 2001年2月4日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–7(4), 6–4, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 32. | 2001年2月26日 | {{flagicon|USA}} [[ステート・ファーム・クラシック|スコッツデール]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[メガン・ショーネシー]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 33. | 2001年6月18日 | {{Flagicon|GBR}} [[エイゴン国際|イーストボーン]] | 芝 | {{Flagicon|ESP}} [[マギ・セルナ]] | 6–2, 6–0 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 20. | 2001年7月23日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]] | 4–6, 7–6(5), 1–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 34. | 2001年8月6日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | 6–3, 7–5 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 21. | 2001年8月20日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–7(6), 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 35. | 2001年10月8日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[ジュスティーヌ・エナン]] | 7–5, 6–4 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 36. | 2001年10月15日 | {{flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|FR Yugoslavia}} [[エレナ・ドキッチ]] | 6–3, 6–1 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 37. | 2001年10月22日 | {{flagicon|AUT}} [[ジェネラーリ・レディース・リンツ|リンツ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|FR Yugoslavia}} [[エレナ・ドキッチ]] | 6–4, 6–1 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 22. | 2001年11月4日 | {{Flagicon|GER}} [[WTAツアー選手権|ミュンヘン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]] | 不戦敗 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 23. | 2002年8月11日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[チャンダ・ルビン]] | 7–5, 6–7, 3–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 24. | 2002年8月19日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 5–7, 0–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 25. | 2002年10月6日 | {{flagicon|RUS}} [[クレムリン・カップ|モスクワ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BUL}} [[マグダレナ・マレーバ]] | 7–5, 3–6, 6–7 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 26. | 2002年10月20日 | {{flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[パティ・シュナイダー]] | 7–6(5), 6–7(8), 3–6 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 27. | 2003年1月6日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]] | 4–6, 3–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 38. | 2003年2月2日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | 6–7(6), 6–1, 6–2 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 28. | 2003年3月3日 | {{Flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]] | 4–6, 5–7 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 29. | 2003年4月14日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|RUS}} [[エレーナ・デメンチェワ]] | 6–4, 5–7, 3–6 |- bgcolor="#CCCCFF" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 30. | 2003年8月4日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[キム・クライシュテルス]] | 1–6, 6–3, 1–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 31. | 2003年8月18日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ジェニファー・カプリアティ]] | 2–6, 0–4 途中棄権 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 39. | 2004年2月2日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BUL}} [[マグダレナ・マレーバ]] | 6–4, 6–1 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 32. | 2004年3月8日 | {{Flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[ジュスティーヌ・エナン|ジュスティーヌ・エナン=アーデン]] | 1–6, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 40. | 2004年4月5日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] | 6–4, 6–4 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 33. | 2004年5月22日 | {{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール国際|ストラスブール]] | クレー | {{Flagicon|LUX}} [[クローディーヌ・ショール]] | 6–2, 0–6, 3–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 41. | 2004年7月12日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 7–6(4), 5–7, 7–6(4) |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 42. | 2004年7月19日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]] | 6–1, 6–3 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 43. | 2004年7月26日 | {{flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|RUS}} [[アナスタシア・ミスキナ]] | 6–1, 6–1 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 44. | 2004年8月16日 | {{Flagicon|USA}} [[シンシナティ・マスターズ|シンシナティ]] | ハード | {{Flagicon|RUS}} [[ベラ・ズボナレワ]] | 6–3, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 45. | 2004年10月4日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] | 6–2 途中棄権 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 34. | 2005年1月29日 | {{Flagicon|AUS}} [[2005年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]] | 6–2, 3–6, 0–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 35. | 2005年2月6日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|RUS}} [[マリア・シャラポワ]] | 1–6, 6–3, 6–7(5) |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 46. | 2005年3月5日 | {{Flagicon|UAE}} [[ドバイ・テニス選手権|ドバイ]] | ハード | {{Flagicon|SCG}} [[エレナ・ヤンコビッチ]] | 6–4, 3–6, 6–4 |- bgcolor="#FFCCCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 36. | 2005年3月7日 | {{Flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]] | 4–6, 6–4, 2–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 47. | 2005年4月10日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|ITA}} [[シルビア・ファリナ・エリア]] | 7–5, 7–5 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 37. | 2005年7月9日 | {{Flagicon|GBR}} [[2005年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 芝 | {{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–4, 6–7(4), 7–9 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 48. | 2005年8月22日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] | 6–4, 6–4 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 49. | 2005年9月13日 | {{flagicon|INA}} [[コモンウェルス・バンク・テニス・クラシック|バリ]] | ハード | {{Flagicon|ITA}} [[フランチェスカ・スキアボーネ]] | 6–2, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 50. | 2005年10月3日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] | 6–2, 6–4 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 51. | 2005年10月23日 | {{flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|SUI}} [[パティ・シュナイダー]] | 7–6(5), 6–3 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 38. | 2006年8月26日 | {{Flagicon|USA}} [[パイロット・ペン・テニス|ニューヘイブン]] | ハード | {{Flagicon|BEL}} [[ジュスティーヌ・エナン|ジュスティーヌ・エナン=アーデン]] | 0–6, 0–1 途中棄権 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 52. | 2007年9月16日 | {{flagicon|INA}} [[コモンウェルス・バンク・テニス・クラシック|バリ]] | ハード | {{Flagicon|SVK}} [[ダニエラ・ハンチュコバ]] | 6–4, 3–6, 6–2 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 53. | 2007年11月4日 | {{flagicon|CAN}} [[ベル・チャレンジ|ケベックシティ]] | ハード (室内) | {{Flagicon|UKR}} [[ユリア・バクレンコ]] | 6–4, 6–1 |- bgcolor="#66CCFF" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 54. | 2008年1月5日 | {{Flagicon|NZL}} [[ASBクラシック|オークランド]] | ハード | {{Flagicon|FRA}} [[アラバン・レザイ]] | 6–2, 6–2 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 55. | 2008年3月1日 | {{Flagicon|USA}} [[全米国際インドアテニス選手権|メンフィス]] | ハード (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[オリガ・ゴボツォワ]] | 6–2, 6–1 |} === ダブルス: 61回 (38勝23敗) === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |- !colspan="2"|大会グレード |- !2008年以前!!2009年以後 |- | align="center" colspan="2" bgcolor="#FFFF99"|[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]] (3–10) |- | align="center" colspan="2" bgcolor="#FF6688"|[[WTAファイナルズ]] (3–0) |- | rowspan="2" bgcolor="#ffcccc"|ティア I (9–5) | bgcolor="#f9c9f9"|[[WTAプレミアトーナメント|プレミア・マンダトリー]] (0-0) |- | bgcolor="#d1dd9c"|[[WTAプレミアトーナメント|プレミア5]] (0-0) |- | bgcolor="#ccccff"|ティア II (19–7) | bgcolor="#d7bdee"|[[WTAプレミアトーナメント|プレミア]] (1–0) |- | bgcolor="#CCFFCC"|ティア III (3-1) | rowspan=2 bgcolor="#77d496"|[[WTAインターナショナルトーナメント|インターナショナル]] (0–0) |- | bgcolor="#66CCFF"|ティア IV & V (0–0) |} {| class="sortable wikitable" |- !width=50|結果 !width=20|No. !width=150|決勝日 !width=200|大会 !width=75|サーフェス !width=250|パートナー !width=250|対戦相手 !width=150|スコア |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 1. | 1993年5月23日 | {{Flagicon|SUI}} [[WTAスイス・オープン|ルツェルン]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[マリアン・ワーデル]] | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヘレナ・スコバ]] | 2–6, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 1. | 1994年2月27日 | {{Flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|NED}} [[マノン・ボーラグラフ]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヘレナ・スコバ]] | 6–2, 6–4 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 2. | 1994年6月5日 | {{Flagicon|FRA}} [[1994年全仏オープン|全仏オープン]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|BLR1991}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 2–6, 2–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 2. | 1994年11月6日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|オークランド]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[マルチナ・ナブラチロワ]] | 7-5, 6-4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 3. | 1995年1月15日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|USA}} [[パティ・フェンディック]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | 7–5, 2–6, 6–4 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 3. | 1995年2月5日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|AUS}} [[レネ・スタブス]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|BLR1991}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 0–6, 3–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 4. | 1995年3月5日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]<br/>{{Flagicon|LAT}} [[ラリサ・ネーランド]] | 2–6, 6–4, 6–3 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 5. | 1995年5月28日 | {{Flagicon|FRA}} [[ストラスブール国際|ストラスブール]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|BEL}} [[サビーネ・アペルマンス]]<br/>{{Flagicon|NED}} [[ミリアム・オレマンス]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 6. | 1995年9月23日 | {{Flagicon|JPN}} [[トヨタ・プリンセス・カップ|東京]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|RSA}} [[アマンダ・クッツァー]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[リンダ・ワイルド]] | 6–3, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 7. | 1996年1月14日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|USA}} [[ロリ・マクニール]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヘレナ・スコバ]] | 6–3, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 4. | 1996年1月28日 | {{Flagicon|AUS}} [[1996年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|USA}} [[チャンダ・ルビン]]<br/>{{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | 5–7, 6–2, 4–6 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 8. | 1996年6月9日 | {{Flagicon|FRA}} [[1996年全仏オープン|全仏オープン]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 6–2, 6–1 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 9. | 1996年8月18日 | {{flagicon|USA}} [[LA女子テニス選手権|ロサンゼルス]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|USA}} [[エミー・フレージャー]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[キンバリー・ポー]] | 6–1, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 10. | 1996年11月10日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|オークランド]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|ROU}} [[イリナ・スピールリア]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–1, 6–3 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 11. | 1996年11月24日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | {{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | 6–3, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 5. | 1997年1月6日 | {{Flagicon|AUS}} [[シドニー国際|シドニー]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/> {{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | 3–6, 1–6 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 6. | 1997年1月26日 | {{flagicon|AUS}} [[1997年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 2–6, 2–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 12. | 1997年2月2日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–4, 6–3 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 13. | 1997年3月16日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–3, 6–2 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 7. | 1997年4月6日 | {{flagicon|USA}} [[ファミリー・サークル・カップ|ヒルトン・ヘッド]] | クレー | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[メアリー・ジョー・フェルナンデス]] | 5–7, 6–4, 1–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 14. | 1997年4月13日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|USA}} [[ニコル・アレント]]<br/>{{Flagicon|NED}} [[マノン・ボーラグラフ]] | 6–3, 6–0 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 15. | 1997年5月18日 | {{Flagicon|GER}} [[WTAドイツ・オープン|ベルリン]] | クレー | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 6–2, 3–6, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 16. | 1997年7月27日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | {{Flagicon|ESP}} [[コンチタ・マルティネス]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[パトリシア・タラビーニ]] | 6–1, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 17. | 1997年9月7日 | {{Flagicon|USA}} [[1997年全米オープン (テニス)|全米オープン]] | ハード | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|USA}} [[ジジ・フェルナンデス]]<br/>{{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 6–3, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 8. | 1997年10月12日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード (室内) | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | 6–7(4), 6–3, 6–7(3) |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 9. | 1997年11月3日 | {{flagicon|USA}} [[アメリテック・カップ|シカゴ]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[モニカ・セレシュ]] | {{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 3–6, 2–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 10. | 1997年11月16日 | {{flagicon|USA}} [[アドバンタ選手権|フィラデルフィア]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[レネ・スタブス]] | 3–6, 5–7 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 18. | 1997年11月23日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | {{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]] | 6–7, 6–3, 6–2 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 11. | 1998年2月1日 | {{flagicon|AUS}} [[1998年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|CRO}} [[ミリヤナ・ルチッチ]] | 4–6, 6–2, 3–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 12. | 1998年2月8日 | {{flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|CRO}} [[ミリヤナ・ルチッチ]] | 5–7, 4–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 19. | 1998年3月15日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–4, 2–6, 6–4 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 20. | 1998年5月17日 | {{Flagicon|GER}} [[WTAドイツ・オープン|ベルリン]] | クレー | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–3, 6–0 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 13. | 1998年6月6日 | {{flagicon|FRA}} [[1998年全仏オープン|全仏オープン]] | クレー | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | 1–6, 6–7 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 14. | 1998年7月5日 | {{flagicon|GBR}} [[1998年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 芝 | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | 3–6, 6–3, 6–8 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 21. | 1998年8月2日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|LAT}} [[ラリサ・ネーランド]]<br/>{{Flagicon|UKR}} [[エレナ・タタルコワ]] | 6–4, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 22. | 1998年8月9日 | {{Flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]] | 6–2, 6–1 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 15. | 1998年9月13日 | {{flagicon|USA}} [[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] | 3–6, 3–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 23. | 1998年10月11日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|RUS}} [[アンナ・クルニコワ]]<br/>{{Flagicon|ESP}} [[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]] | 6–4, 6–2 |- bgcolor="#FF6688" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 24. | 1998年11月22日 | {{Flagicon|USA}} [[WTAツアー選手権|ニューヨーク]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|FRA}} [[ナタリー・トージア]]<br/>{{Flagicon|FRA}} [[アレクサンドラ・フセ]] | 6–7, 7–5, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 16. | 1999年1月31日 | {{flagicon|AUS}} [[1999年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]]<br/>{{Flagicon|RUS}} [[アンナ・クルニコワ]] | 5–7, 3–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 25. | 1999年2月7日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | {{Flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]]<br/>{{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 26. | 1999年7月4日 | {{Flagicon|GBR}} [[1999年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 芝 | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|RSA}} [[マリアン・デ・スウォート]]<br/>{{Flagicon|UKR}} [[エレナ・タタルコワ]] | 6–4, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 27. | 1999年8月1日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|RUS}} [[アンナ・クルニコワ]]<br/>{{Flagicon|RUS}} [[エレーナ・リホフツェワ]] | 6–4, 6–4 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 28. | 1999年8月8日 | {{flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]]<br/>{{flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 6–4, 6–1 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 29. | 2000年3月19日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|RUS}} [[アンナ・クルニコワ]]<br/>{{Flagicon|BLR}} [[ナターシャ・ズベレワ]] | 6–2, 6–3 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 17. | 2000年7月31日 | {{Flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|RUS}} [[アンナ・クルニコワ]] | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[レネ・スタブス]] | 6–4, 3–6, 6–7 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 18. | 2001年1月26日 | {{flagicon|AUS}} [[2001年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|USA}} [[セリーナ・ウィリアムズ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] | 2–6, 6–2, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 30. | 2001年10月14日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|BEL}} [[ジュスティーヌ・エナン]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[メガン・ショーネシー]] | 6–4, 6–7, 7–5 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 31. | 2001年10月21日 | {{Flagicon|SUI}} [[チューリッヒ・オープン|チューリッヒ]] | ハード (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|FRA}} [[サンドリーヌ・テスチュ]]<br/>{{Flagicon|ITA}} [[ロベルタ・ビンチ]] | 6–3, 2–6, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 32. | 2002年10月13日 | {{Flagicon|GER}} [[ポルシェ・テニス・グランプリ|フィルダーシュタット]] | ハード (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|ARG}} [[パオラ・スアレス]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[メガン・ショーネシー]] | 6–2, 6–4 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 19. | 2003年2月3日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|RUS}} [[エレーナ・ボビナ]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[レネ・スタブス]] | 3–6, 4–6 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 20. | 2003年3月2日 | {{Flagicon|USA}} [[ステート・ファーム・クラシック|スコッツデール]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]]<br/>{{Flagicon|JPN}} [[杉山愛]] | 1–6, 4–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 33. | 2003年3月15日 | {{flagicon|USA}} [[BNPパリバ・オープン|インディアンウェルズ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]]<br/>{{Flagicon|JPN}} [[杉山愛]] | 3–6, 6–4, 6–1 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 34. | 2003年4月20日 | {{flagicon|USA}} [[ボシュロム選手権|アメリアアイランド]] | クレー | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|ESP}} [[ビルヒニア・ルアノ・パスクアル]]<br/>{{Flagicon|ARG}} [[パオラ・スアレス]] | 7–5, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 35. | 2003年6月21日 | {{Flagicon|GBR}} [[エイゴン国際|イーストボーン]] | 芝 | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|USA}} [[ジェニファー・カプリアティ]]<br/>{{Flagicon|ESP}} [[マギ・セルナ]] | 6–3, 6–2 |- bgcolor="#ccccff" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 21. | 2003年8月3日 | {{Flagicon|USA}} [[南カリフォルニア・オープン|サンディエゴ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|BEL}} [[キム・クライシュテルス]]<br/>{{Flagicon|JPN}} [[杉山愛]] | 4–6, 5–7 |- bgcolor="#FFFF99" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 22. | 2005年1月29日 | {{flagicon|AUS}} [[2005年全豪オープン|全豪オープン]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|RUS}} [[スベトラーナ・クズネツォワ]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[アリシア・モリク]] | 3–6, 4–6 |- bgcolor="#ffcccc" | bgcolor="FFA07A"|準優勝 | 23. | 2005年2月6日 | {{Flagicon|JPN}} [[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント|東京]] | カーペット (室内) | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|SVK}} [[ヤネッテ・フサロバ]]<br/>{{Flagicon|RUS}} [[エレーナ・リホフツェワ]] | 4–6, 3–6 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 36. | 2006年9月17日 | {{Flagicon|INA}} [[コモンウェルス・バンク・テニス・クラシック|バリ]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[コリーナ・モラリュー]] | {{Flagicon|RSA}} [[ナタリー・グランディン]]<br/>{{Flagicon|AUS}} [[トゥルーディ・マスグレーブ]] | 6–3, 6–4 |- bgcolor="#CCFFCC" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 37. | 2008年3月1日 | {{Flagicon|USA}} [[メンフィス・オープン|メンフィス]] | ハード (室内) | {{Flagicon|USA}} [[リサ・レイモンド]] | {{Flagicon|USA}} [[アンジェラ・ヘインズ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[マショーナ・ワシントン]] | 6–3, 6–1 |- bgcolor="#d7bdee" | bgcolor="98FB98"|優勝 | 38. | 2010年8月1日 | {{flagicon|USA}} [[バンク・オブ・ウエスト・クラシック|スタンフォード]] | ハード | {{Flagicon|USA}} [[リーゼル・フーバー]] | {{Flagicon|TPE}} [[詹詠然]]<br/> {{Flagicon|CHN}} [[鄭潔]] | 7–5, 6–7(8), [10–8] |} == 4大大会優勝 == * [[全豪オープン]] 女子シングルス:1勝(2000年) [女子シングルス準優勝1度:2005年/女子ダブルス準優勝6度:1996年-1999年・2001年・2005年] * [[全仏オープン]] 女子ダブルス:1勝(1996年) [女子ダブルス準優勝2度:1994年・1998年] * [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] 女子シングルス:1勝(1999年)/女子ダブルス:1勝(1999年) [女子シングルス準優勝2度:2000年・2005年/女子ダブルス準優勝1度:1998年] * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] 女子シングルス:1勝(1998年)/女子ダブルス:1勝(1997年) [女子シングルス準優勝1度:2000年/女子ダブルス準優勝1度:1998年] {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #CCF;" | [[1998年]] || [[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] || 6-3, 7-5 |-style="background: #CF9;" | [[1999年]] || [[1999年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{Flagicon|GER}} [[シュテフィ・グラフ]] || 6-4, 7-5 |-style="background: #FD5" | [[2000年]] || [[2000年全豪オープン|全豪オープン]] || {{Flagicon|SUI}} [[マルチナ・ヒンギス]] || 6-1, 7-5 |- |} == 4大大会シングルス成績 == {{Performance key}} {| class="wikitable" style="font-size:95%" |- ! 大会 !! 1991 !! 1992 !! 1993 !! 1994 !! 1995 !! 1996 !! 1997 !! 1998 !! 1999 !! 2000 !! 2001 !! 2002 !! 2003 !! 2004 !! 2005 !! 2006 !! 2007 !! 2008 !! 通算成績 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全豪オープン]] |align="center"|A |align="center"|A |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1993年全豪オープン女子シングルス|3R]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[1994年全豪オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[1995年全豪オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1996年全豪オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1997年全豪オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:yellow;"|[[1998年全豪オープン女子シングルス|SF]] |align="center" style="background:yellow;"|[[1999年全豪オープン女子シングルス|SF]] |align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[2000年全豪オープン女子シングルス|W]]''' |align="center" style="background:yellow;"|[[2001年全豪オープン女子シングルス|SF]] |align="center"|A |align="center" style="background:#afeeee;"|[[2003年全豪オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2004年全豪オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[2005年全豪オープン女子シングルス|F]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2006年全豪オープン女子シングルス|QF]] |align="center"|A |align="center" style="background:#afeeee;"|[[2008年全豪オープン女子シングルス|2R]] |align="center" style="background:#EFEFEF;"|56–13 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全仏オープン]] |align="center"|A |align="center" style="background:#f0f8ff;"|LQ |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1993年全仏オープン女子シングルス|1R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1994年全仏オープン女子シングルス|3R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1995年全仏オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[1996年全仏オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1997年全仏オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:yellow;"|[[1998年全仏オープン女子シングルス|SF]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[1999年全仏オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[2000年全仏オープン女子シングルス|1R]] |align="center"|A |align="center"|A |align="center" style="background:#afeeee;"|[[2003年全仏オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[2004年全仏オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2005年全仏オープン女子シングルス|QF]] |align="center"|A |align="center"|A |align="center"|A |align="center" style="background:#EFEFEF;"|31–11 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] |align="center"|A |align="center" 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style="background:#afeeee;"|[[2008年ウィンブルドン選手権女子シングルス|2R]] |align="center" style="background:#EFEFEF;"|49–11 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1991年全米オープン女子シングルス|1R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1992年全米オープン女子シングルス|2R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1993年全米オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1994年全米オープン女子シングルス|3R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1995年全米オープン女子シングルス|2R]] |align="center" style="background:#afeeee;"|[[1996年全米オープン女子シングルス|4R]] |align="center" style="background:yellow;"|[[1997年全米オープン女子シングルス|SF]] |align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1998年全米オープン女子シングルス|W]]''' |align="center" style="background:yellow;"|[[1999年全米オープン女子シングルス|SF]] |align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[2000年全米オープン女子シングルス|F]] |align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2001年全米オープン女子シングルス|QF]] |align="center" 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[[Category:アメリカ合衆国の女子テニス選手]] [[Category:オリンピックテニスアメリカ合衆国代表選手]] [[Category:アメリカ合衆国のオリンピック金メダリスト]] [[Category:1996年アトランタオリンピックテニス出場選手]] [[Category:2000年シドニーオリンピックテニス出場選手]] [[Category:2008年北京オリンピックテニス出場選手]] [[Category:全豪オープン優勝者]] [[Category:ウィンブルドン選手権優勝者]] [[Category:全米オープン (テニス)優勝者]] [[Category:全仏オープン優勝者]] [[Category:テニスのオリンピックメダリスト]] [[Category:国際テニス殿堂入りの人物]] [[Category:ロサンゼルス郡出身の人物]] [[Category:1976年生]] [[Category:存命人物]]
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スタートレック
『スタートレック』(英: Star Trek)は、ジーン・ロッデンベリーの製作したSFテレビドラマシリーズを基にするメディア・フランチャイズ。最初の作品である『宇宙大作戦』が1966年に放映開始以来、8本のテレビドラマ、3本のテレビアニメ、13本の映画が製作されており、各作品によってハードSF、スペースオペラ、コメディー、サスペンス、ヒューマンドラマなどの要素を含み、その内容は多岐にわたる。 フランチャイズ初作の『宇宙大作戦』では、原作者であるジーン・ロッデンベリーが理想とする未来像を描きつつ、現代における様々な社会問題をSFの形で提示した。以降に製作されたシリーズ作品においても、現実社会の複雑化を反映させることで、今日に至るヒットに結びついている。 このフランチャイズの主要な構成は、宇宙船もしくは宇宙ステーションで活動する登場人物(地球人のみならず異星人も含む)が、艦長や司令官の指揮のもとに様々な困難を乗り越えて活躍し、未知の生命体や文明と交流していくというものである。これらの登場人物と、習慣や価値観の異なる異星人や、不可思議な宇宙現象との遭遇等が絡みあい、ドラマが繰り広げられる。 時代は作品ごとに違うが、おおむね22世紀から24世紀の話である。地球人は銀河系内の約4分の1の領域に進出しており、様々な異星人と交流しながら、残りの領域の探索を進めている。地球からは貧困や戦争などが根絶されており、見た目や無知から来る偏見、差別も存在しない、ある意味で理想的な世界と化している。貨幣経済はなくなり、人間は富や欲望ではなく人間性の向上を目指して働いているとされる。 地球は統一政府「地球連合(United Earth)」に統治され、150個ほどの星系とともに惑星連邦(United Federation of Planets)という連邦国家を形成しており、宇宙艦隊を編成して銀河系の探査や学術調査、外交、治安維持等の任務にあてている。惑星連邦の本部はパリにあり、宇宙艦隊の本部はサンフランシスコにある。惑星連邦内では軍事力を伴った紛争がほぼ根絶されたが、他の星間国家との間ではそうはなっていない。クリンゴン帝国やロミュラン帝国、カーデシア連合などの侵略的な星間国家との関係は必ずしも良好ではなく、武力行使を含めた外交の駆け引きが繰り広げられている。『スタートレック:エンタープライズ』では惑星連邦設立以前の時代を描いているが、他の作品に出てくる星間国家や異星人が登場しており、フランチャイズとしての一貫性が保たれている。また、銀河系の一部しか知られていないという設定のため、後の作品では既成の事実や知識となっている未知の異星人や、天文現象と初めて遭遇するパターンも多く使われている。『スタートレック:ディスカバリー』第3-4シーズンでは、地球連合やバルカン星などが脱退し、惑星連邦が瓦解した32世紀の世界が描かれている。 長く作品が製作され続けるフランチャイズでは、これまでの作品を「なかったこと」にして、複雑化した設定を一新することがよくあるが、このフランチャイズではほとんどすべての作品が同じ宇宙を共有している。そのため、これまでに製作されたテレビドラマ・テレビアニメはすべて『宇宙大作戦』から見て過去または未来の出来事である。一方で、作品の根幹としてマルチバースの概念が取り入れられており、物語の主軸として描かれている宇宙とは異なる平行宇宙(いわゆるパラレルワールド)が登場する話もある。映画第11作から映画第13作まではいわゆるリブート作品であり、『宇宙大作戦』とは別の宇宙が舞台となっているが、タイムトラベルの影響で異なる歴史が生じた平行宇宙を舞台にするという設定により、フランチャイズとしての連続性が保たれている(『宇宙大作戦』から始まる宇宙は別に存続しており、これまでの作品の出来事が書き換えられたわけではない)。 このほか、『宇宙大作戦』第33話「イオン嵐の恐怖(英語版)」が初出となる「鏡像宇宙」は、地球が惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成した宇宙である。また、同じ宇宙の中においても、『新スタートレック』第63話「亡霊戦艦エンタープライズ'C'(英語版)」などで描かれているように、タイムトラベルの影響で異なる歴史が生じたタイムラインがいくつも存在している。『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』第37話「宇宙の原型(英語版)」では宇宙に内包されるかたちで別の宇宙が発見されるなど、この作品の宇宙は多元多層の非常に複雑な構成になっている。 登場する異星人にはヒューマノイド型の異星人が多い。これは元々の遺伝子が同じものであったからということが『新スタートレック』で語られている。クリンゴン人を始めいくつかの種族には独自の言語が設定されているが、高性能な宇宙翻訳機があるため、基本的にどの星の人とも英語で会話ができる(フェレンギ人が過去の地球に囚われてしまった話では、翻訳機が頭に埋め込まれていることを示唆する描写がある)。未知の言語であっても普通はコンピューターが短時間で解析し翻訳できるようになるが、一部の特殊な言語を持つ種族に対しては翻訳が不能であるなど例外もある。22世紀ではまだ翻訳機の性能が低く、意思疎通に苦労することも多い。 『スタートレック』はジーン・ロッデンベリーにより創作されている。アメリカ西部開拓を描いたテレビドラマ『幌馬車隊(英語版)』を参考に、宇宙を開拓する物語が初期の構想であった。これは、SFの体をなすことで検閲を逃れ、60年代当時のアメリカにおける社会問題を指摘できると意図したためである。加えてロッデンベリーは『ホーンブロワー』からも影響を受けたと語っている。なお、企画段階の時点では、舞台となる宇宙船の名は「エンタープライズ」ではなく「ヨークタウン」であった。 1964年、ロッデンベリーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに『スタートレック』の企画を持ち込むが却下され、次にCBSへ企画を持ち込むものの、同社は既に『宇宙家族ロビンソン』というSFテレビドラマの企画が進行中のためまたも断られてしまう。次にデシル・プロダクションへ企画を持ち込み、 ロッデンベリーは同プロダクションが番組企画を売り込んだNBCから3話分のプロットを求められる。その後、3話分のうち1話をパイロット版として製作することが決まり、ジェフリー・ハンターをクリストファー・パイク船長役としたパイロット版「歪んだ楽園(英語版)」が製作された。このパイロット版はNBCからアクションシーンの少なさを指摘されたものの、異例ながら新たなパイロット版の製作が許可され、ウィリアム・シャトナーをジェームズ・T・カーク船長役とし、スポック以外の登場人物を一新した第2パイロット版「光るめだま(英語版)」が製作された。この第2パイロット版により、1966年2月に最初のドラマシリーズとなる『宇宙大作戦』の放映が決定し、同年9月より開始された。 『宇宙大作戦』の放映当時は視聴率が伸び悩み、第2シーズンでの打ち切りが囁かれるほどであった。ファンによる手紙での継続嘆願運動などにより、辛うじて第3シーズンへ継続できたものの、放映時間の変更や予算削減、それに伴う内容の方針転換から更なる視聴率の低下を招き、結局このシーズンで打ち切りが決定し、1969年6月に放送を終了した。しかしその後、番組販売による再放送が始まると、次第にアメリカ全土でファンを獲得し、ニューヨークなどの大都市でコンベンションが開かれるなど、カルトクラシックの地位を獲得しつつ大衆文化に影響を与えるに至った。 本作の版権を持っていたパラマウント映画では、ロッデンベリーに続編の製作を依頼し、テレビアニメ『まんが宇宙大作戦』が1973年9月から放送されるも、依然として実写でのシリーズ復活を求めるファンの声は大きかった。1975年5月、ロッデンベリーはパラマウント映画と映画製作の契約を結び"Star Trek: The God Thing"の企画が立ち上がるが、宗教色の強い内容にパラマウント映画が難色を示したためこの企画は消滅した。1976年9月、新たに雇われた脚本家達によって"Star Trek: Planet of the Titans"の企画が立ち上がるが、この企画もまた草稿台本に了承が出ずに消滅している。1977年にはテレビドラマ『スタートレック:フェイズII』の企画が立ち上がり、1978年春からの放送がパラマウント・テレビジョン・サービスによって告知される。ところが、同年より『スター・ウォーズ』の大ヒットを契機としたSF映画ブームが生じたため、改めて映画へ企画が再変更され、1979年12月、映画第1作『スター・トレック』として公開されるに至った。この映画第1作は莫大な製作費の回収さえ至らなかったものの、パラマウント映画が製作費を抑えつつ続編を企画するには十分で、その後も映画が継続して作られるようになった。 映画第1作が莫大な製作費の回収に至らなかったこともあり、ロッデンベリーは製作総指揮から製作顧問という役職に回され、以降の映画の製作にあまり関れなくなった。1982年6月に公開された映画第2作『カーンの逆襲』では、監督のニコラス・メイヤーによって登場人物が年をとったことを隠さない方針が持ち込まれ、人生、成長、老いが物語に深く関わるようになり、これらの要素は以降の作品群にも受け継がれている。『宇宙大作戦』の映画はその後も好評だったが、フランチャイズの価値を認めるパラマウント映画は、『宇宙大作戦』のキャストに多額の出演料を支払うよりも新しいキャストを起用したほうが利益が大きいと判断し、新しいテレビドラマの製作を企画する。ロッデンベリーは当初は関与を拒否していたが、初期のコンセプトワークに不満があったため、製作総指揮として参加することになった。こうして、1986年10月に新しいテレビドラマである『新スタートレック』の放映が告知され、1987年9月より放映されることとなった。 『新スタートレック』は『宇宙大作戦』の続編ではあるものの、約80年後を舞台に、登場人物を一新した次世代の物語となった。第2シーズンまでは前作から脱し切れていないという評価が多かったが、第3シーズンからは脚本家のマイケル・ピラーらの手腕でイメージを一新、毎話ごとにスポットを当てる登場人物を変えていく形式とし、制服や小道具、船内セットなどのビジュアル的な部分も作り変えられた。こうした努力により、『新スタートレック』は中盤から人気が上昇し、『宇宙大作戦』に匹敵すると言われるほどの人気作品に成長するに至った。 1991年10月、かねてより患っていた脳卒中の発作によりロッデンベリーが死去。同年12月に公開された映画第6作『未知の世界』は、作中で長らく敵対していたクリンゴン帝国との和平という、現実の冷戦終結を下敷きにしたストーリーによって高い評価を受けた。本作が『宇宙大作戦』の事実上の完結編となり、続く映画第7作『ジェネレーションズ』からは『新スタートレック』の映画が複数製作された。 一方、テレビドラマの製作総指揮はリック・バーマンらに引き継がれた。『新スタートレック』放送中の1993年1月、バーマンはピラーと共にスピンオフ作品となる『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』を立ち上げ、これにより初めて同時期に2つのシリーズ作品が放送されることとなった。さらに、『新スタートレック』完結後の1995年1月、バーマンはピラー、ジェリ・テイラー(英語版)と共に『スタートレック:ヴォイジャー』を立ち上げ、これら3作品とも全7シーズンの長期にわたる人気作品となった。しかし、『スタートレック:ヴォイジャー』第4シーズン終盤から第6シーズン序盤にかけて、長年のプロデューサーかつメインライターであったピラー、ロナルド・D・ムーア、テイラーらがフランチャイズから離脱する。 2001年9月、バーマンはブラノン・ブラーガと共に『スタートレック:エンタープライズ』を立ち上げるが、放送開始から視聴率が低迷し、過去の作品で人気を博した異星人を登場させる、第3シーズンをまるごと一つの物語に費やすなどの様々なテコ入れが試されるも成果は上がらなかった。『スタートレック:エンタープライズ』第4シーズンでは製作総指揮からバーマンとブラーガが外され、マニー・コトのみになったことで、過去の作品との整合性を取り、時には無理なく補完が行われるなどエピソードとしての質は改善されていった。これらのコンセプトおよび物語構成の再構築の多くは概ね好意的に受け入れられたが、結局このシーズンで打ち切りが決定し、2005年5月に放送を終了した。これにより、バーマンとブラーガはフランチャイズから完全に退くこととなった。 『スタートレック:エンタープライズ』の打ち切り後、フランチャイズのリブートが模索され、2009年5月、『宇宙大作戦』を新たなキャストで描いた映画第11作『スター・トレック』が公開された。これに始まるリブート映画作品群は「ケルヴィン・タイムライン」シリーズと呼ばれ、従来のフランチャイズ作品の歴史(「プライム・タイムライン」)の束縛から離れて、異なる時間軸を描いた。この間、テレビドラマは製作されない状況が続いた。 2014年10月、CBSが映像配信サービスCBS All Access(現・Paramount+)を開始。その目玉作品として、2017年9月、アレックス・カーツマンが製作総指揮を務め、『宇宙大作戦』の10年前(のちには遠い未来)を描く『スタートレック:ディスカバリー』の配信が開始された。これを皮切りに、カーツマンの監督の下でフランチャイズの作品世界は大きく拡大していくことになり、『新スタートレック』の約30年後を描く『スタートレック:ピカード』、『スタートレック:ディスカバリー』と同時期で『宇宙大作戦』に先立つエンタープライズ号の航海を描く『スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド』、さらにアニメーション作品の『スタートレック:ローワー・デッキ』や"Star Trek: Prodigy"などの作品が製作、配信されている。さらにStar Trek: Starfleet Academyシリーズと、「セクション31」配信映画作品の製作が発表されている。Paramount+のサービスは北米など限定的な地域から始まり、それ以外の地域ではNetflixやAmazon Prime Videoなどで配信された作品もあった。Paramount+においては、映画も含めた過去の全作品が配信されている。 『スタートレック』の熱心なファンのことを、トレッキーまたはトレッカーと呼ぶが、アメリカのみならず世界中の宇宙関連事業関係者にもファンが多いと言われる。また、スティーヴン・ホーキングのように、『スタートレック』を自らの講演で引用したり、ゲストとして出演するような著名人もいる。また、映画『ターミナル』に登場した入国審査官のように、現代のアメリカを舞台とした作品では、登場人物がトレッキーという設定になっていることもある。 スペースシャトルのオービター1号機(大気圏内での滑空飛行試験用の機体)は当初は「コンスティテューション」と名付けられる予定だったが、トレッキーによる40万通ほどの投書が行われたことで、当時のジェラルド・R・フォード大統領の権限によって「エンタープライズ」と名付けられることになった。そのロールアウト式典にはロッデンベリーやキャストなどの関係者が招待されている。なお、『宇宙大作戦』の頃から科学考証をアメリカ航空宇宙局(NASA)に求めることがあり、映画のクレジットタイトルなどでNASAの名前が出ることがある。また、小惑星2309番が「ミスター・スポック」(公式には発見者のペットの同名の猫に由来するとされている)、9777番が「エンタープライズ」と命名された。ほか数個の小惑星にも、作品に出演したキャストなどの名前がつけられている。 関連する企業の統廃合が繰り返されているため、版権や製作体制は何度も変遷している。最初のテレビドラマである『宇宙大作戦』の権利は当初製作したデシル・プロダクションが有していたが、1967年に同社は作品の権利ともどもパラマウント映画に買収された。さらに、1994年にパラマウント映画はバイアコムに買収され、その後、2005年にテレビ事業と映画事業が分社化された結果、CBSが作品の諸権利を全て一元的に管理すると共にテレビ番組の製作を担当し、パラマウント映画は映画作品の製作および映像メディア商品の販売をCBSから請け負うという体制になった。さらに、2019年のバイアコムとCBSの合併により、全ての権利の管理はバイアコムCBS(現・パラマウント・グローバル)が引き継いだ。このため、『宇宙大作戦』以降のテレビ番組のうち、『まんが宇宙大作戦』から『スタートレック:エンタープライズ』まではパラマウント映画、『スタートレック:ディスカバリー』以降はCBSが製作している。 『宇宙大作戦』はNBC系列で放送されたが、『新スタートレック』は三大ネットワークやフォックス放送との交渉が頓挫した(ミニシリーズとしての製作しか認められなかった)ため、当時としては異例の番組販売となった。これは成功を収め、続く『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』でも同様の放送形態がとられている。1995年にはパラマウント映画の傘下の放送局UPNが誕生し、『スタートレック:ヴォイジャー』と『スタートレック:エンタープライズ』はUPNで放送された。 『スタートレック:ディスカバリー』以降はCBSの映像配信サービスであるParamount+が配信しており、放送ではなく映像ストリーミングによる配信となっている。 以前は実写映像作品のみが公式(正史)と見做されていたため、『まんが宇宙大作戦』は番外編として他の作品と同列に扱われていなかった。しかし、『スタートレック』フランチャイズの版権を管理するCBSは、2007年以降「公式な映像作品」として扱っている。 2020年にはCBS All Access(現・Paramount+)でコメディ作品『スタートレック:ローワー・デッキ』が配信され、第5シーズンの製作も決定している。また、2021年にはParamount+で子供向け作品"Star Trek: Prodigy"が配信され、ニコロデオンで放送もされた。ただし"Star Trek: Prodigy"はParamount+の配信ラインアップから削除され。Netflixに移動することになった。 2018年以降、Paramount+が短編のアンソロジーシリーズである『スタートレック:ショートトレック』を配信している。2018年には『スタートレック:ディスカバリー』に関連した第1シーズンの4話が配信され、2019年から2020年にかけては『スタートレック:ディスカバリー』だけでなく『スタートレック:ピカード』に関連した話やアニメーションを含む第2シーズンの6話が配信された。 2023年から『スタートレック:ベリーショートトレック』が公式サイトとYouTubeで配信している。 2012年以降、フランチャイズの版権を管理するCBSは「公式(英: official)」という表現を用いて、作品を「CBS・パラマウント映画が製作したオフィシャルな作品(テレビドラマ・テレビアニメ・映画など)」「オフィシャルライセンス契約に基づいてサードパーティーが製作した作品(小説・コミック・ゲームなど)」「オフィシャルライセンス契約がなされていないファンメイドの作品(いわゆるファンムービーなど)」の三つに分類し、前の二つについて公式サイトで取り扱っている。 以前は版権元により「正史(英: canon)」といった分類がなされており、異なるメディア間の作品の内容については、実写映像作品のみを公式な設定として扱ってきた。しかし、CBS副社長でフランチャイズのブランド開発担当であるジョン・ヴァン・チッターズと製作プロデューサーであるアレックス・カーツマンらは、『スタートレック:ディスカバリー』以降の作品においては映像作品と小説・コミック・ゲームの扱いを統合しメディアミックスの手法をとる方針を打ち出している。『スタートレック:ディスカバリー』では作品のサイドストーリーがMMORPG『Star Trek Online』で配信され、小説が初出となる設定が登場した。また、『スタートレック:ピカード』でもドラマの前日譚となる、ピカードの引退を説明するコミック『Star Trek: Picard – Countdown』が出版されている。『スタートレック:ピカード』には『Star Trek Online』のオリジナル宇宙船が複数登場する。一方で、『スタートレック:ディスカバリー』以前の非映像作品においては非正史という扱いになっている。 アメリカでは『スタートレック』の世界を舞台とする小説・コミック(英語版)等が数多く出版され続けているが、これらは版権元であるCBSにより「オフィシャルライセンス契約に基づいてサードパーティーが製作した作品」に区分される。小説の日本語訳は、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』と『スタートレック:ヴォイジャー』が角川文庫から、他がハヤカワ文庫から出版されたが、多くが絶版状態となっている。また、テレビドラマや映画のノベライズとは別に、オリジナル小説もいくつか出版された。 アメリカでは『スタートレック』の世界を舞台とするゲームも数多く販売され、1971年に一般のファンらが作成したシミュレーションマイコンゲームは人気を博し、日本でも1980年代初期まで人気だった。『宇宙大作戦』は北海道や関西地域では度々再放送されるも、関東地方では本放送時、映画第1作日本公開時、1980年代後半と3時期のみで、本作品とゲームの関係性を希薄に感じる者も見られた。 2010年以降からはMMORPGの『Star Trek Online』の配信が開始された。内容は『ネメシス/S.T.X』などの続編となっている。 以下ではM(Main)、C(Co-star)、R(Recurring)、G(Guest)と略す。 『宇宙大作戦』の登場人物については、続編で同じ声優が続投できなかったり、当初日本語版でカットされていたシーンに後から吹き替えを追加したことで声優が変更されるケースが多いため、ここにまとめて記載する。なお、映画は便宜上「映画第○作」で表記した。括弧内は追加収録担当声優。 作品内において何度もタイムトラベルによる過去改変が行われるため時系列が複数のタイムラインに分岐している。 テレビドラマ・テレビアニメとその映画が舞台としている宇宙(英: Prime Timeline)。後述の「ケルヴィン・タイムライン」と区別してこう呼ばれている。 映画第11作から映画第13作までが舞台とする平行宇宙(英: Kelvin Timeline)。プライム・タイムライン(以下、PT)のネロ達のタイムトラベルの影響で異なる歴史が生じた平行宇宙で、2233年以前の出来事はPTと同一である。 この平行宇宙を指す公式名は当初存在せず、ファンからは「別現実(英: Alternate Reality、映画第11作での台詞に由来)」または「エイブラムスバース(英: Abramsverse、映画第11作の監督である「J・J・エイブラムス」と多元宇宙を意味する「マルチバース」のかばん語)」と呼ばれていたが、2233年に起こったU.S.S.ケルヴィンの破壊がPTとの歴史の分岐点であることから、映画第13作の公開時に「ケルヴィン・タイムライン」という公式名が与えられた。 『宇宙大作戦』第33話「イオン嵐の恐怖(英語版)」を初出とする平行宇宙(英: Mirror Universe)。プライム・タイムライン(以下、PT)と対になっており、同じ名前の人物や組織が存在しているが、その性格や性質はPTと比べると好戦的で、地球は惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成している。 作中においてタイムトラベルにより様々な歴史改変が行われるため上記以外にもタイムラインが存在する(大抵は主人公たちの活躍で無かったことになる)。 例として第二次世界大戦においてエディス・キーラー(作中人物)による反戦運動によりアメリカの参戦が遅れたためナチスドイツが勝利を収めたタイムライン(宇宙大作戦)。24世紀においてクリンゴンが惑星連邦と和解せず敵対しているタイムライン(新スタートレック)、1950年代のアメリカでSF作家ベニー・ラッセルが『ディープ・スペース・ナイン』を執筆しているタイムライン(ディープ・スペース・ナイン)、惑星連邦が成立せず全体主義的な地球連合(Confederation of Earth)が存在するタイムライン(ピカード)など。 『スタートレック:ヴォイジャー』には自己の目的のために歴史改変を行い続けるクレニム人が登場する他、『スタートレック:エンタープライズ』の作中では“時間冷戦”により頻繁にタイムラインの変更が行われる。 作品終了後に、他の作品でその歴史改変の影響が出ることがある。 2063年は、バルカン人との初接触を取った歴史上重要な年とされている。映画第8作において、ボーグは歴史改変により初接触を妨害しようとするが、ピカード達によって阻止された。コクレーンが未来を知った以外は歴史が元に戻ったかに見えたが、『スタートレック:エンタープライズ』第49話「覚醒する恐怖(英語版)」において、撃墜された一部のボーグは北極に墜落し、そこで活動を停止していたことが明らかとなる。蘇生したボーグには地球の座標をデルタ宇宙域に送信し、2365年に惑星連邦がボーグと初接触する原因となる。 その他の用語は「異星人の一覧」「勢力一覧」「惑星一覧」「宇宙船のクラス一覧」「登場兵器(英語版)」を参照。 アレクサンダー・カレッジ(英語版)作曲による『宇宙大作戦』のテーマ曲は、後の作品で他の作曲家に担当が変わっても、必ずモチーフとして用いられている。この曲にはロッデンベリーによって歌詞がつけられたが、ボーカルバージョンは実現しなかった。器楽曲としては多くの音楽家にカバーされ、とりわけ日本ではメイナード・ファーガソンによる演奏版が『アメリカ横断ウルトラクイズ』の主題曲などに使われたことから広く知られている。またニュー・サウンズ・イン・ブラス等、吹奏楽への編曲もファーガソン版を基にしたものが多い。 映画はジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当し、『宇宙大作戦』のファンファーレやメインモチーフが所々で引用された。カレッジはゴールドスミスと親しく、晩年はゴールドスミスが手掛けた映画音楽のオーケストレイターを務めた。元々『宇宙大作戦』の製作者はゴールドスミスに依頼するつもりであったが、ゴールドスミスは他の仕事が入っていて受けられなかったという。企画書を読んだカレッジは、音楽をゴールドスミスに依頼する予定と記述してあったので、このことをゴールドスミスに伝えると、そう言われてみればロッテンベリーから電話で依頼があったと、思い出したそうである。なお、『新スタートレック』のテーマ曲は、映画第1作のテーマ曲を流用しアレンジしたものであり、『スタートレック:ヴォイジャー』のテーマ曲もゴールドスミスが作曲している。
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"title": "作品の概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このほか、『宇宙大作戦』第33話「イオン嵐の恐怖(英語版)」が初出となる「鏡像宇宙」は、地球が惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成した宇宙である。また、同じ宇宙の中においても、『新スタートレック』第63話「亡霊戦艦エンタープライズ'C'(英語版)」などで描かれているように、タイムトラベルの影響で異なる歴史が生じたタイムラインがいくつも存在している。『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』第37話「宇宙の原型(英語版)」では宇宙に内包されるかたちで別の宇宙が発見されるなど、この作品の宇宙は多元多層の非常に複雑な構成になっている。", "title": "作品の概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "登場する異星人にはヒューマノイド型の異星人が多い。これは元々の遺伝子が同じものであったからということが『新スタートレック』で語られている。クリンゴン人を始めいくつかの種族には独自の言語が設定されているが、高性能な宇宙翻訳機があるため、基本的にどの星の人とも英語で会話ができる(フェレンギ人が過去の地球に囚われてしまった話では、翻訳機が頭に埋め込まれていることを示唆する描写がある)。未知の言語であっても普通はコンピューターが短時間で解析し翻訳できるようになるが、一部の特殊な言語を持つ種族に対しては翻訳が不能であるなど例外もある。22世紀ではまだ翻訳機の性能が低く、意思疎通に苦労することも多い。", "title": "作品の概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『スタートレック』はジーン・ロッデンベリーにより創作されている。アメリカ西部開拓を描いたテレビドラマ『幌馬車隊(英語版)』を参考に、宇宙を開拓する物語が初期の構想であった。これは、SFの体をなすことで検閲を逃れ、60年代当時のアメリカにおける社会問題を指摘できると意図したためである。加えてロッデンベリーは『ホーンブロワー』からも影響を受けたと語っている。なお、企画段階の時点では、舞台となる宇宙船の名は「エンタープライズ」ではなく「ヨークタウン」であった。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1964年、ロッデンベリーはメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに『スタートレック』の企画を持ち込むが却下され、次にCBSへ企画を持ち込むものの、同社は既に『宇宙家族ロビンソン』というSFテレビドラマの企画が進行中のためまたも断られてしまう。次にデシル・プロダクションへ企画を持ち込み、 ロッデンベリーは同プロダクションが番組企画を売り込んだNBCから3話分のプロットを求められる。その後、3話分のうち1話をパイロット版として製作することが決まり、ジェフリー・ハンターをクリストファー・パイク船長役としたパイロット版「歪んだ楽園(英語版)」が製作された。このパイロット版はNBCからアクションシーンの少なさを指摘されたものの、異例ながら新たなパイロット版の製作が許可され、ウィリアム・シャトナーをジェームズ・T・カーク船長役とし、スポック以外の登場人物を一新した第2パイロット版「光るめだま(英語版)」が製作された。この第2パイロット版により、1966年2月に最初のドラマシリーズとなる『宇宙大作戦』の放映が決定し、同年9月より開始された。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『宇宙大作戦』の放映当時は視聴率が伸び悩み、第2シーズンでの打ち切りが囁かれるほどであった。ファンによる手紙での継続嘆願運動などにより、辛うじて第3シーズンへ継続できたものの、放映時間の変更や予算削減、それに伴う内容の方針転換から更なる視聴率の低下を招き、結局このシーズンで打ち切りが決定し、1969年6月に放送を終了した。しかしその後、番組販売による再放送が始まると、次第にアメリカ全土でファンを獲得し、ニューヨークなどの大都市でコンベンションが開かれるなど、カルトクラシックの地位を獲得しつつ大衆文化に影響を与えるに至った。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "本作の版権を持っていたパラマウント映画では、ロッデンベリーに続編の製作を依頼し、テレビアニメ『まんが宇宙大作戦』が1973年9月から放送されるも、依然として実写でのシリーズ復活を求めるファンの声は大きかった。1975年5月、ロッデンベリーはパラマウント映画と映画製作の契約を結び\"Star Trek: The God Thing\"の企画が立ち上がるが、宗教色の強い内容にパラマウント映画が難色を示したためこの企画は消滅した。1976年9月、新たに雇われた脚本家達によって\"Star Trek: Planet of the Titans\"の企画が立ち上がるが、この企画もまた草稿台本に了承が出ずに消滅している。1977年にはテレビドラマ『スタートレック:フェイズII』の企画が立ち上がり、1978年春からの放送がパラマウント・テレビジョン・サービスによって告知される。ところが、同年より『スター・ウォーズ』の大ヒットを契機としたSF映画ブームが生じたため、改めて映画へ企画が再変更され、1979年12月、映画第1作『スター・トレック』として公開されるに至った。この映画第1作は莫大な製作費の回収さえ至らなかったものの、パラマウント映画が製作費を抑えつつ続編を企画するには十分で、その後も映画が継続して作られるようになった。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "映画第1作が莫大な製作費の回収に至らなかったこともあり、ロッデンベリーは製作総指揮から製作顧問という役職に回され、以降の映画の製作にあまり関れなくなった。1982年6月に公開された映画第2作『カーンの逆襲』では、監督のニコラス・メイヤーによって登場人物が年をとったことを隠さない方針が持ち込まれ、人生、成長、老いが物語に深く関わるようになり、これらの要素は以降の作品群にも受け継がれている。『宇宙大作戦』の映画はその後も好評だったが、フランチャイズの価値を認めるパラマウント映画は、『宇宙大作戦』のキャストに多額の出演料を支払うよりも新しいキャストを起用したほうが利益が大きいと判断し、新しいテレビドラマの製作を企画する。ロッデンベリーは当初は関与を拒否していたが、初期のコンセプトワークに不満があったため、製作総指揮として参加することになった。こうして、1986年10月に新しいテレビドラマである『新スタートレック』の放映が告知され、1987年9月より放映されることとなった。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『新スタートレック』は『宇宙大作戦』の続編ではあるものの、約80年後を舞台に、登場人物を一新した次世代の物語となった。第2シーズンまでは前作から脱し切れていないという評価が多かったが、第3シーズンからは脚本家のマイケル・ピラーらの手腕でイメージを一新、毎話ごとにスポットを当てる登場人物を変えていく形式とし、制服や小道具、船内セットなどのビジュアル的な部分も作り変えられた。こうした努力により、『新スタートレック』は中盤から人気が上昇し、『宇宙大作戦』に匹敵すると言われるほどの人気作品に成長するに至った。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1991年10月、かねてより患っていた脳卒中の発作によりロッデンベリーが死去。同年12月に公開された映画第6作『未知の世界』は、作中で長らく敵対していたクリンゴン帝国との和平という、現実の冷戦終結を下敷きにしたストーリーによって高い評価を受けた。本作が『宇宙大作戦』の事実上の完結編となり、続く映画第7作『ジェネレーションズ』からは『新スタートレック』の映画が複数製作された。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、テレビドラマの製作総指揮はリック・バーマンらに引き継がれた。『新スタートレック』放送中の1993年1月、バーマンはピラーと共にスピンオフ作品となる『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』を立ち上げ、これにより初めて同時期に2つのシリーズ作品が放送されることとなった。さらに、『新スタートレック』完結後の1995年1月、バーマンはピラー、ジェリ・テイラー(英語版)と共に『スタートレック:ヴォイジャー』を立ち上げ、これら3作品とも全7シーズンの長期にわたる人気作品となった。しかし、『スタートレック:ヴォイジャー』第4シーズン終盤から第6シーズン序盤にかけて、長年のプロデューサーかつメインライターであったピラー、ロナルド・D・ムーア、テイラーらがフランチャイズから離脱する。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2001年9月、バーマンはブラノン・ブラーガと共に『スタートレック:エンタープライズ』を立ち上げるが、放送開始から視聴率が低迷し、過去の作品で人気を博した異星人を登場させる、第3シーズンをまるごと一つの物語に費やすなどの様々なテコ入れが試されるも成果は上がらなかった。『スタートレック:エンタープライズ』第4シーズンでは製作総指揮からバーマンとブラーガが外され、マニー・コトのみになったことで、過去の作品との整合性を取り、時には無理なく補完が行われるなどエピソードとしての質は改善されていった。これらのコンセプトおよび物語構成の再構築の多くは概ね好意的に受け入れられたが、結局このシーズンで打ち切りが決定し、2005年5月に放送を終了した。これにより、バーマンとブラーガはフランチャイズから完全に退くこととなった。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『スタートレック:エンタープライズ』の打ち切り後、フランチャイズのリブートが模索され、2009年5月、『宇宙大作戦』を新たなキャストで描いた映画第11作『スター・トレック』が公開された。これに始まるリブート映画作品群は「ケルヴィン・タイムライン」シリーズと呼ばれ、従来のフランチャイズ作品の歴史(「プライム・タイムライン」)の束縛から離れて、異なる時間軸を描いた。この間、テレビドラマは製作されない状況が続いた。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2014年10月、CBSが映像配信サービスCBS All Access(現・Paramount+)を開始。その目玉作品として、2017年9月、アレックス・カーツマンが製作総指揮を務め、『宇宙大作戦』の10年前(のちには遠い未来)を描く『スタートレック:ディスカバリー』の配信が開始された。これを皮切りに、カーツマンの監督の下でフランチャイズの作品世界は大きく拡大していくことになり、『新スタートレック』の約30年後を描く『スタートレック:ピカード』、『スタートレック:ディスカバリー』と同時期で『宇宙大作戦』に先立つエンタープライズ号の航海を描く『スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド』、さらにアニメーション作品の『スタートレック:ローワー・デッキ』や\"Star Trek: Prodigy\"などの作品が製作、配信されている。さらにStar Trek: Starfleet Academyシリーズと、「セクション31」配信映画作品の製作が発表されている。Paramount+のサービスは北米など限定的な地域から始まり、それ以外の地域ではNetflixやAmazon Prime Videoなどで配信された作品もあった。Paramount+においては、映画も含めた過去の全作品が配信されている。", "title": "作品の沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『スタートレック』の熱心なファンのことを、トレッキーまたはトレッカーと呼ぶが、アメリカのみならず世界中の宇宙関連事業関係者にもファンが多いと言われる。また、スティーヴン・ホーキングのように、『スタートレック』を自らの講演で引用したり、ゲストとして出演するような著名人もいる。また、映画『ターミナル』に登場した入国審査官のように、現代のアメリカを舞台とした作品では、登場人物がトレッキーという設定になっていることもある。", "title": "作品が及ぼした影響" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "スペースシャトルのオービター1号機(大気圏内での滑空飛行試験用の機体)は当初は「コンスティテューション」と名付けられる予定だったが、トレッキーによる40万通ほどの投書が行われたことで、当時のジェラルド・R・フォード大統領の権限によって「エンタープライズ」と名付けられることになった。そのロールアウト式典にはロッデンベリーやキャストなどの関係者が招待されている。なお、『宇宙大作戦』の頃から科学考証をアメリカ航空宇宙局(NASA)に求めることがあり、映画のクレジットタイトルなどでNASAの名前が出ることがある。また、小惑星2309番が「ミスター・スポック」(公式には発見者のペットの同名の猫に由来するとされている)、9777番が「エンタープライズ」と命名された。ほか数個の小惑星にも、作品に出演したキャストなどの名前がつけられている。", "title": "作品が及ぼした影響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "関連する企業の統廃合が繰り返されているため、版権や製作体制は何度も変遷している。最初のテレビドラマである『宇宙大作戦』の権利は当初製作したデシル・プロダクションが有していたが、1967年に同社は作品の権利ともどもパラマウント映画に買収された。さらに、1994年にパラマウント映画はバイアコムに買収され、その後、2005年にテレビ事業と映画事業が分社化された結果、CBSが作品の諸権利を全て一元的に管理すると共にテレビ番組の製作を担当し、パラマウント映画は映画作品の製作および映像メディア商品の販売をCBSから請け負うという体制になった。さらに、2019年のバイアコムとCBSの合併により、全ての権利の管理はバイアコムCBS(現・パラマウント・グローバル)が引き継いだ。このため、『宇宙大作戦』以降のテレビ番組のうち、『まんが宇宙大作戦』から『スタートレック:エンタープライズ』まではパラマウント映画、『スタートレック:ディスカバリー』以降はCBSが製作している。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "『宇宙大作戦』はNBC系列で放送されたが、『新スタートレック』は三大ネットワークやフォックス放送との交渉が頓挫した(ミニシリーズとしての製作しか認められなかった)ため、当時としては異例の番組販売となった。これは成功を収め、続く『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』でも同様の放送形態がとられている。1995年にはパラマウント映画の傘下の放送局UPNが誕生し、『スタートレック:ヴォイジャー』と『スタートレック:エンタープライズ』はUPNで放送された。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "『スタートレック:ディスカバリー』以降はCBSの映像配信サービスであるParamount+が配信しており、放送ではなく映像ストリーミングによる配信となっている。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以前は実写映像作品のみが公式(正史)と見做されていたため、『まんが宇宙大作戦』は番外編として他の作品と同列に扱われていなかった。しかし、『スタートレック』フランチャイズの版権を管理するCBSは、2007年以降「公式な映像作品」として扱っている。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2020年にはCBS All Access(現・Paramount+)でコメディ作品『スタートレック:ローワー・デッキ』が配信され、第5シーズンの製作も決定している。また、2021年にはParamount+で子供向け作品\"Star Trek: Prodigy\"が配信され、ニコロデオンで放送もされた。ただし\"Star Trek: Prodigy\"はParamount+の配信ラインアップから削除され。Netflixに移動することになった。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2018年以降、Paramount+が短編のアンソロジーシリーズである『スタートレック:ショートトレック』を配信している。2018年には『スタートレック:ディスカバリー』に関連した第1シーズンの4話が配信され、2019年から2020年にかけては『スタートレック:ディスカバリー』だけでなく『スタートレック:ピカード』に関連した話やアニメーションを含む第2シーズンの6話が配信された。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2023年から『スタートレック:ベリーショートトレック』が公式サイトとYouTubeで配信している。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年以降、フランチャイズの版権を管理するCBSは「公式(英: official)」という表現を用いて、作品を「CBS・パラマウント映画が製作したオフィシャルな作品(テレビドラマ・テレビアニメ・映画など)」「オフィシャルライセンス契約に基づいてサードパーティーが製作した作品(小説・コミック・ゲームなど)」「オフィシャルライセンス契約がなされていないファンメイドの作品(いわゆるファンムービーなど)」の三つに分類し、前の二つについて公式サイトで取り扱っている。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "以前は版権元により「正史(英: canon)」といった分類がなされており、異なるメディア間の作品の内容については、実写映像作品のみを公式な設定として扱ってきた。しかし、CBS副社長でフランチャイズのブランド開発担当であるジョン・ヴァン・チッターズと製作プロデューサーであるアレックス・カーツマンらは、『スタートレック:ディスカバリー』以降の作品においては映像作品と小説・コミック・ゲームの扱いを統合しメディアミックスの手法をとる方針を打ち出している。『スタートレック:ディスカバリー』では作品のサイドストーリーがMMORPG『Star Trek Online』で配信され、小説が初出となる設定が登場した。また、『スタートレック:ピカード』でもドラマの前日譚となる、ピカードの引退を説明するコミック『Star Trek: Picard – Countdown』が出版されている。『スタートレック:ピカード』には『Star Trek Online』のオリジナル宇宙船が複数登場する。一方で、『スタートレック:ディスカバリー』以前の非映像作品においては非正史という扱いになっている。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アメリカでは『スタートレック』の世界を舞台とする小説・コミック(英語版)等が数多く出版され続けているが、これらは版権元であるCBSにより「オフィシャルライセンス契約に基づいてサードパーティーが製作した作品」に区分される。小説の日本語訳は、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』と『スタートレック:ヴォイジャー』が角川文庫から、他がハヤカワ文庫から出版されたが、多くが絶版状態となっている。また、テレビドラマや映画のノベライズとは別に、オリジナル小説もいくつか出版された。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アメリカでは『スタートレック』の世界を舞台とするゲームも数多く販売され、1971年に一般のファンらが作成したシミュレーションマイコンゲームは人気を博し、日本でも1980年代初期まで人気だった。『宇宙大作戦』は北海道や関西地域では度々再放送されるも、関東地方では本放送時、映画第1作日本公開時、1980年代後半と3時期のみで、本作品とゲームの関係性を希薄に感じる者も見られた。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2010年以降からはMMORPGの『Star Trek Online』の配信が開始された。内容は『ネメシス/S.T.X』などの続編となっている。", "title": "作品の一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "以下ではM(Main)、C(Co-star)、R(Recurring)、G(Guest)と略す。", "title": "作品のキャスト" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『宇宙大作戦』の登場人物については、続編で同じ声優が続投できなかったり、当初日本語版でカットされていたシーンに後から吹き替えを追加したことで声優が変更されるケースが多いため、ここにまとめて記載する。なお、映画は便宜上「映画第○作」で表記した。括弧内は追加収録担当声優。", "title": "作品のキャスト" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "作品内において何度もタイムトラベルによる過去改変が行われるため時系列が複数のタイムラインに分岐している。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "テレビドラマ・テレビアニメとその映画が舞台としている宇宙(英: Prime Timeline)。後述の「ケルヴィン・タイムライン」と区別してこう呼ばれている。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "映画第11作から映画第13作までが舞台とする平行宇宙(英: Kelvin Timeline)。プライム・タイムライン(以下、PT)のネロ達のタイムトラベルの影響で異なる歴史が生じた平行宇宙で、2233年以前の出来事はPTと同一である。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この平行宇宙を指す公式名は当初存在せず、ファンからは「別現実(英: Alternate Reality、映画第11作での台詞に由来)」または「エイブラムスバース(英: Abramsverse、映画第11作の監督である「J・J・エイブラムス」と多元宇宙を意味する「マルチバース」のかばん語)」と呼ばれていたが、2233年に起こったU.S.S.ケルヴィンの破壊がPTとの歴史の分岐点であることから、映画第13作の公開時に「ケルヴィン・タイムライン」という公式名が与えられた。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『宇宙大作戦』第33話「イオン嵐の恐怖(英語版)」を初出とする平行宇宙(英: Mirror Universe)。プライム・タイムライン(以下、PT)と対になっており、同じ名前の人物や組織が存在しているが、その性格や性質はPTと比べると好戦的で、地球は惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成している。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "作中においてタイムトラベルにより様々な歴史改変が行われるため上記以外にもタイムラインが存在する(大抵は主人公たちの活躍で無かったことになる)。 例として第二次世界大戦においてエディス・キーラー(作中人物)による反戦運動によりアメリカの参戦が遅れたためナチスドイツが勝利を収めたタイムライン(宇宙大作戦)。24世紀においてクリンゴンが惑星連邦と和解せず敵対しているタイムライン(新スタートレック)、1950年代のアメリカでSF作家ベニー・ラッセルが『ディープ・スペース・ナイン』を執筆しているタイムライン(ディープ・スペース・ナイン)、惑星連邦が成立せず全体主義的な地球連合(Confederation of Earth)が存在するタイムライン(ピカード)など。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『スタートレック:ヴォイジャー』には自己の目的のために歴史改変を行い続けるクレニム人が登場する他、『スタートレック:エンタープライズ』の作中では“時間冷戦”により頻繁にタイムラインの変更が行われる。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "作品終了後に、他の作品でその歴史改変の影響が出ることがある。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2063年は、バルカン人との初接触を取った歴史上重要な年とされている。映画第8作において、ボーグは歴史改変により初接触を妨害しようとするが、ピカード達によって阻止された。コクレーンが未来を知った以外は歴史が元に戻ったかに見えたが、『スタートレック:エンタープライズ』第49話「覚醒する恐怖(英語版)」において、撃墜された一部のボーグは北極に墜落し、そこで活動を停止していたことが明らかとなる。蘇生したボーグには地球の座標をデルタ宇宙域に送信し、2365年に惑星連邦がボーグと初接触する原因となる。", "title": "作品の年表" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "その他の用語は「異星人の一覧」「勢力一覧」「惑星一覧」「宇宙船のクラス一覧」「登場兵器(英語版)」を参照。", "title": "劇中用語" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アレクサンダー・カレッジ(英語版)作曲による『宇宙大作戦』のテーマ曲は、後の作品で他の作曲家に担当が変わっても、必ずモチーフとして用いられている。この曲にはロッデンベリーによって歌詞がつけられたが、ボーカルバージョンは実現しなかった。器楽曲としては多くの音楽家にカバーされ、とりわけ日本ではメイナード・ファーガソンによる演奏版が『アメリカ横断ウルトラクイズ』の主題曲などに使われたことから広く知られている。またニュー・サウンズ・イン・ブラス等、吹奏楽への編曲もファーガソン版を基にしたものが多い。", "title": "テーマ曲" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "映画はジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当し、『宇宙大作戦』のファンファーレやメインモチーフが所々で引用された。カレッジはゴールドスミスと親しく、晩年はゴールドスミスが手掛けた映画音楽のオーケストレイターを務めた。元々『宇宙大作戦』の製作者はゴールドスミスに依頼するつもりであったが、ゴールドスミスは他の仕事が入っていて受けられなかったという。企画書を読んだカレッジは、音楽をゴールドスミスに依頼する予定と記述してあったので、このことをゴールドスミスに伝えると、そう言われてみればロッテンベリーから電話で依頼があったと、思い出したそうである。なお、『新スタートレック』のテーマ曲は、映画第1作のテーマ曲を流用しアレンジしたものであり、『スタートレック:ヴォイジャー』のテーマ曲もゴールドスミスが作曲している。", "title": "テーマ曲" } ]
『スタートレック』は、ジーン・ロッデンベリーの製作したSFテレビドラマシリーズを基にするメディア・フランチャイズ。最初の作品である『宇宙大作戦』が1966年に放映開始以来、8本のテレビドラマ、3本のテレビアニメ、13本の映画が製作されており、各作品によってハードSF、スペースオペラ、コメディー、サスペンス、ヒューマンドラマなどの要素を含み、その内容は多岐にわたる。 フランチャイズ初作の『宇宙大作戦』では、原作者であるジーン・ロッデンベリーが理想とする未来像を描きつつ、現代における様々な社会問題をSFの形で提示した。以降に製作されたシリーズ作品においても、現実社会の複雑化を反映させることで、今日に至るヒットに結びついている。
{{Otheruses}} {{表記揺れ案内 |text= この項目の表記名には以下のような表記揺れがあります{{Refnest|group="注"|日本でのテレビ放送権を持つ[[東北新社]]が中黒なし、ソフト販売と映画配給を行う[[パラマウント映画]]が中黒ありを用いているため、同じ作品でも媒体によって邦題が異なる場合がある。たとえば、『[[スタートレック:ディスカバリー]]』は映像ストリーミング時は中黒ありだったが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.netflix.com/title/80126024 |title=スター・トレック: ディスカバリー - Netflix |accessdate=2021-09-28 |website=Netflix}}</ref>、テレビ放送時は邦題とロゴから中黒が取り除かれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.superdramatv.com/lineup/SN0000001283.html |title=スタートレック ディスカバリー シーズン1 |accessdate=2021-09-28 |website=海外ドラマ専門チャンネル スーパー!ドラマTV}}</ref>。}}。 |表記1=スタートレック |表記2=スター・トレック |議論ページ= }} {{Infobox media franchise | color = black | title = スタートレック | image = File:Star Trek TOS logo.svg | caption = 『宇宙大作戦』タイトルロゴ | creator = [[ジーン・ロッデンベリー]] | origin = 『[[宇宙大作戦]]』 | owner = [[パラマウント・グローバル]] | years = [[1966年]] - | books = [[スタートレックに関する日本語資料一覧#書籍|一覧]] | novels = [[スタートレックに関する日本語資料一覧#書籍|一覧]] | tv_series = テレビ放送<br />{{ubl|『[[宇宙大作戦]]』 {{Small|(1966-1969)}}|『[[新スタートレック]]』 {{Small|(1987-1994)}}|『[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]』 {{Small|(1993-1999)}}|『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』 {{Small|(1995-2001)}}|『[[スタートレック:エンタープライズ]]』 {{Small|(2001-2005)}}}} ---- ストリーミング配信<br />{{ubl|『[[スタートレック:ディスカバリー]]』 {{Small|(2017-)}}|『[[スタートレック:ピカード]]』 {{Small|(2020-2023)}}|『[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]』 {{Small|(2022-)}}}} |films=『宇宙大作戦』シリーズ<br />『[[スター・トレック (1979年の映画)|スター・トレック]]』 {{Small|(1979)}}<br />『[[スタートレックII カーンの逆襲]]』 {{Small|(1982)}}<br />『[[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!]]』 {{Small|(1984)}}<br />『[[スタートレックIV 故郷への長い道]]』 {{Small|(1986)}}<br />『[[スタートレックV 新たなる未知へ]]』 {{Small|(1989)}}<br />『[[スタートレックVI 未知の世界]]』 {{Small|(1991)}} ---- 『新スタートレック』シリーズ<br />『[[スタートレック ジェネレーションズ]]』 {{Small|(1994)}}<br />『[[スタートレック ファーストコンタクト]]』 {{Small|(1996)}}<br />『[[スタートレック 叛乱]]』 {{Small|(1998)}}<br />『[[ネメシス/S.T.X]]』 {{Small|(2002)}} ---- リブート (「ケルヴィン・タイムライン」シリーズ) <br />『[[スター・トレック (2009年の映画)|スター・トレック]]』 {{Small|(2009)}}<br />『[[スター・トレック イントゥ・ダークネス]]』 {{Small|(2013)}}<br />『[[スター・トレック BEYOND]]』 {{Small|(2016)}} | animated_series = {{ubl|『[[まんが宇宙大作戦]]』 {{Small|(1973-1974)}}|『[[スタートレック:ローワー・デッキ]]』 {{Small|(2020-)}}|『[[:en:Star Trek: Prodigy|Star Trek: Prodigy]]』 {{Small|(2021-)}}}} | tv_shorts = 『[[スタートレック:ショートトレック]]』 {{Small|(2018–)}} | website = {{Official website|https://www.startrek.com/en-un|name= Star Trek|Official Site}} {{Official website|https://paramount.jp/startrek|name= STAR TREK/スター・トレック 公式サイト|パラマウント}} }} 『'''スタートレック'''』({{lang-en-short|''Star Trek''}})は、[[ジーン・ロッデンベリー]]の製作した[[サイエンス・フィクション|SF]][[テレビドラマ]]シリーズを基にする[[メディア・フランチャイズ]]。最初の作品である『[[宇宙大作戦]]』が[[1966年]]に放映開始以来、8本のテレビドラマ、3本のテレビアニメ、13本の映画が製作されており、各作品によって[[ハードSF]]、[[スペースオペラ]]、[[コメディー]]、[[サスペンス]]、[[ヒューマンドラマ]]などの要素を含み、その内容は多岐にわたる。 フランチャイズ初作の『宇宙大作戦』では、原作者であるジーン・ロッデンベリーが理想とする未来像を描きつつ、現代における様々な社会問題をSFの形で提示した。以降に製作されたシリーズ作品においても、現実社会の複雑化を反映させることで、今日に至るヒットに結びついている。 == 作品の概要 == このフランチャイズの主要な構成は、[[宇宙船]]もしくは[[宇宙ステーション]]で活動する登場人物([[地球人]]のみならず[[宇宙人|異星人]]も含む)が、艦長や司令官の指揮のもとに様々な困難を乗り越えて活躍し、未知の生命体や文明と交流していくというものである。これらの登場人物と、習慣や価値観の異なる異星人や、不可思議な宇宙現象との遭遇等が絡みあい、ドラマが繰り広げられる。 === 時代設定 === 時代は作品ごとに違うが、おおむね[[22世紀]]から[[24世紀]]の話である。地球人は[[銀河系]]内の約4分の1の領域に進出しており、様々な異星人と交流しながら、残りの領域の探索を進めている。地球からは貧困や戦争などが根絶されており、見た目や無知から来る偏見、差別も存在しない、ある意味で理想的な世界と化している。貨幣経済はなくなり、人間は富や欲望ではなく人間性の向上を目指して働いているとされる。  地球は統一政府「地球連合(United Earth)」に統治され、150個ほどの星系とともに[[惑星連邦]](United Federation of Planets)という[[連邦]]国家を形成しており、[[惑星連邦#宇宙艦隊|宇宙艦隊]]を編成して銀河系の探査や学術調査、外交、治安維持等の任務にあてている。惑星連邦の本部は[[パリ]]にあり、宇宙艦隊の本部は[[サンフランシスコ]]にある。惑星連邦内では軍事力を伴った紛争がほぼ根絶されたが、他の星間国家との間ではそうはなっていない。[[クリンゴン人|クリンゴン帝国]]や[[ロミュラン人|ロミュラン帝国]]、[[カーデシア人|カーデシア連合]]などの侵略的な星間国家との関係は必ずしも良好ではなく、武力行使を含めた外交の駆け引きが繰り広げられている。『[[スタートレック:エンタープライズ]]』では惑星連邦設立以前の時代を描いているが、他の作品に出てくる星間国家や異星人が登場しており、フランチャイズとしての一貫性が保たれている。また、銀河系の一部しか知られていないという設定のため、後の作品では既成の事実や知識となっている未知の異星人や、[[天文現象]]と初めて遭遇するパターンも多く使われている。『[[スタートレック:ディスカバリー]]』第3-4シーズンでは、地球連合や[[バルカン星]]などが脱退し、惑星連邦が瓦解した32世紀の世界が描かれている。 === 共有される設定 === 長く作品が製作され続けるフランチャイズでは、これまでの作品を「なかったこと」にして、複雑化した設定を一新することがよくあるが、このフランチャイズではほとんどすべての作品が同じ宇宙を共有している。そのため、これまでに製作されたテレビドラマ・テレビアニメはすべて『[[宇宙大作戦]]』から見て過去または未来の出来事である。一方で、作品の根幹として[[多元宇宙論|マルチバース]]の概念が取り入れられており、物語の主軸として描かれている宇宙とは異なる平行宇宙(いわゆる[[パラレルワールド]])が登場する話もある。[[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]]から[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]]まではいわゆる[[リブート (作品展開)|リブート作品]]であり、『宇宙大作戦』とは別の宇宙が舞台となっているが、[[タイムトラベル]]の影響で異なる歴史が生じた平行宇宙を舞台にするという設定により、フランチャイズとしての連続性が保たれている(『宇宙大作戦』から始まる宇宙は別に存続しており、これまでの作品の出来事が書き換えられたわけではない)。 このほか、『宇宙大作戦』第33話「{{仮リンク|イオン嵐の恐怖|en|Mirror, Mirror (Star Trek: The Original Series)}}」が初出となる「鏡像宇宙」は、地球が惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成した宇宙である。また、同じ宇宙の中においても、『[[新スタートレック]]』第63話「{{仮リンク|亡霊戦艦エンタープライズ'C'|en|Yesterday's Enterprise}}」などで描かれているように、タイムトラベルの影響で異なる歴史が生じたタイムラインがいくつも存在している。『[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]』第37話「{{仮リンク|宇宙の原型|en|Playing God (Star Trek: Deep Space Nine)}}」では宇宙に内包されるかたちで別の宇宙が発見されるなど、この作品の宇宙は多元多層の非常に複雑な構成になっている。 登場する異星人にはヒューマノイド型の異星人が多い。これは元々の遺伝子が同じものであったからということが『新スタートレック』で語られている。クリンゴン人を始めいくつかの種族には独自の言語が設定されているが、高性能な[[万能翻訳機|宇宙翻訳機]]があるため、基本的にどの星の人とも英語で会話ができる([[フェレンギ人]]が過去の地球に囚われてしまった話では、翻訳機が頭に埋め込まれていることを示唆する描写がある)。未知の言語であっても普通はコンピューターが短時間で解析し翻訳できるようになるが、一部の特殊な言語を持つ種族に対しては翻訳が不能であるなど例外もある。22世紀ではまだ翻訳機の性能が低く、意思疎通に苦労することも多い。 == 作品の沿革 == === 作品が世に出るまで(1964年 - 1966年) === {{Anchors|作品が世に出るまで}} [[File:Leonard Nimoy William Shatner Star Trek 1968.JPG|thumb|『[[宇宙大作戦]]』に登場した[[スポック]](左)と[[ジェームズ・T・カーク|カーク]](右)、下部に写っているのが舞台となる宇宙船[[エンタープライズ (スタートレック)|エンタープライズ]]の模型。]] 『スタートレック』は[[ジーン・ロッデンベリー]]により創作されている。アメリカ西部開拓を描いたテレビドラマ『{{仮リンク|幌馬車隊|en|Wagon_Train}}』を参考に、宇宙を開拓する物語が初期の構想であった<ref>{{Cite web |url=http://leethomson.myzen.co.uk/Star_Trek/1_Original_Series/Star_Trek_Pitch.pdf |title=Star Trek Pitch |accessdate=2021-07-31 |last=Roddenberry |first=Gene |date=1964-03-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160512162509/http://leethomson.myzen.co.uk/Star_Trek/1_Original_Series/Star_Trek_Pitch.pdf |archivedate=2016-03-12 |language=en}}</ref>。これは、SFの体をなすことで検閲を逃れ、60年代当時のアメリカにおける社会問題を指摘できると意図したためである。加えてロッデンベリーは『[[ホーンブロワーシリーズ|ホーンブロワー]]』からも影響を受けたと語っている。なお、企画段階の時点では、舞台となる宇宙船の名は「[[エンタープライズ (スタートレック)|エンタープライズ]]」ではなく「ヨークタウン」であった<ref>{{Cite book |和書 |author=マイケル・オクダ|authorlink=マイケル・オクダ |title=スタートレックエンサイクロペディア 完全日本語版 スタートレックBOOKスペシャル |year=2003 |publisher=ダイエックス出版 |isbn=978-4-8125-1872-4}}</ref>。 [[1964年]]、ロッデンベリーは[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]に『スタートレック』の企画を持ち込むが却下され、次に[[CBS]]へ企画を持ち込むものの、同社は既に『[[宇宙家族ロビンソン]]』というSFテレビドラマの企画が進行中のためまたも断られてしまう。次に[[デシル・プロダクション]]へ企画を持ち込み、 ロッデンベリーは同プロダクションが番組企画を売り込んだ[[NBC]]から3話分の[[プロット (物語)|プロット]]を求められる。その後、3話分のうち1話を[[パイロット版]]として製作することが決まり、[[ジェフリー・ハンター]]を[[クリストファー・パイク]]船長役としたパイロット版「{{仮リンク|歪んだ楽園|en|The Cage (Star Trek: The Original Series)}}」が製作された。このパイロット版はNBCからアクションシーンの少なさを指摘されたものの<ref>{{cite book |last=Shatner |first=William |title=Up Till Now: The Autobiography |publisher=Thomas Dunne Books |location=New York |date=2008 |pages=[https://archive.org/details/uptillnowautobio00shat/page/119 119] |isbn=978-0-312-37265-1}}</ref>、異例ながら新たなパイロット版の製作が許可され、[[ウィリアム・シャトナー]]を[[ジェームズ・T・カーク]]船長役とし、[[スポック]]以外の登場人物を一新した第2パイロット版「{{仮リンク|光るめだま|en|Where No Man Has Gone Before}}」が製作された<ref name="Davies">{{cite book |last1=Davies |first1=Máire Messenger |last2=Pearson |first2=Roberta |title=NBC: America's network |publisher=University of California Press |location=Berkeley |date=2007 |pages=209–223 |isbn=978-0-520-25079-6}}</ref>。この第2パイロット版により、[[1966年]]2月に最初のドラマシリーズとなる『[[宇宙大作戦]]』の放映が決定し、同年9月より開始された。 === 打ち切りと映画化(1966年 - 1979年) === [[File:Gene roddenberry 1976.jpg|thumb|[[ジーン・ロッデンベリー]](1976年撮影)]] 『宇宙大作戦』の放映当時は視聴率が伸び悩み、第2シーズンでの打ち切りが囁かれるほどであった。ファンによる手紙での継続嘆願運動などにより、辛うじて第3シーズンへ継続できたものの<ref>{{Cite book |last1=Solow |first1=Herbert F. |last2=Justman |first2=Robert H. |title=Inside Star Trek: The Real Story |publisher=Pocket Books |location=New York |date=1996 |pages=[https://archive.org/details/isbn_9780671896287/page/377 377–394] |isbn=978-0-671-89628-7}}</ref>、放映時間の変更や予算削減、それに伴う内容の方針転換から更なる視聴率の低下を招き、結局このシーズンで打ち切りが決定し<ref name="Davies" />、[[1969年]]6月に放送を終了した。しかしその後、[[番組販売]]による[[再放送]]が始まると、次第にアメリカ全土でファンを獲得し、[[ニューヨーク]]などの大都市で[[コンベンション]]が開かれるなど、カルトクラシックの地位を獲得しつつ大衆文化に影響を与えるに至った<ref>{{Cite web |url=https://intl.startrek.com/article/celebrating-40-years-since-treks-1st-convention |title=Celebrating 40 Years since Trek's 1st Convention |access-date=2021-09-04 |date=2012-01-20 |website=StarTrek.com |language=en}}</ref>。 本作の版権を持っていた[[パラマウント映画]]では、ロッデンベリーに続編の製作を依頼し、テレビアニメ『[[まんが宇宙大作戦]]』が[[1973年]]9月から放送されるも<ref>{{Cite book |title=A Star Trek Catalog |editor-last=Turnbull |editor-first=Gerry |publisher=Grosset & Dunlap |location=New York |date=1979 |isbn=978-0-441-78477-6 |url=https://archive.org/details/isbn_0441784771}}</ref>、依然として実写でのシリーズ復活を求めるファンの声は大きかった。[[1975年]]5月、ロッデンベリーはパラマウント映画と映画製作の契約を結び''"[[:en:Star Trek: The God Thing|Star Trek: The God Thing]]"''の企画が立ち上がるが、宗教色の強い内容にパラマウント映画が難色を示したためこの企画は消滅した<ref>{{Cite journal |last=Burns |first=Jim |date=1976 |title=The Star Trek movie |journal=Starlog |issue=2 |page=13 |url=https://archive.org/stream/starlog_magazine-002/002#page/n12/mode/1up}}</ref>。[[1976年]]9月、新たに雇われた脚本家達によって''"[[:en:Star Trek: Planet of the Titans|Star Trek: Planet of the Titans]]"''の企画が立ち上がるが、この企画もまた草稿台本に了承が出ずに消滅している<ref>{{cite book |last1=Reeves-Stevens |first1=Judith |last2=Reeves-Stevens |first2=Garfield |title=Star Trek: Phase II: The Lost Series |publisher=Pocket Books |location=New York |edition=2nd |date=1997 |isbn=978-0-671-56839-9}}</ref>。[[1977年]]にはテレビドラマ『[[スタートレック:フェイズII]]』の企画が立ち上がり、[[1978年]]春からの放送が[[:en:Paramount Television Service|パラマウント・テレビジョン・サービス]]によって告知される。ところが、同年より『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』の大ヒットを契機としたSF映画[[流行|ブーム]]が生じたため、改めて映画へ企画が再変更され、[[1979年]]12月、映画第1作『[[スター・トレック (1979年の映画)|スター・トレック]]』として公開されるに至った。この映画第1作は莫大な製作費の回収さえ至らなかったものの、パラマウント映画が製作費を抑えつつ続編を企画するには十分で、その後も映画が継続して作られるようになった。 === テレビドラマの再開(1979年 - 1991年) === 映画第1作が莫大な製作費の回収に至らなかったこともあり、ロッデンベリーは製作総指揮から製作顧問という役職に回され、以降の映画の製作にあまり関れなくなった。[[1982年]]6月に公開された映画第2作『[[スタートレックII カーンの逆襲|カーンの逆襲]]』では、監督の[[ニコラス・メイヤー]]によって登場人物が年をとったことを隠さない方針が持ち込まれ、人生、成長、老いが物語に深く関わるようになり、これらの要素は以降の作品群にも受け継がれている。『宇宙大作戦』の映画はその後も好評だったが、フランチャイズの価値を認めるパラマウント映画は、『宇宙大作戦』のキャストに多額の出演料を支払うよりも新しいキャストを起用したほうが利益が大きいと判断し<ref>{{Cite news |title=How Gene Roddenberry and his Brain Trust Have Boldly Taken 'Star Trek' Where No TV Series Has Gone Before : Trekking to the Top |work=Los Angeles Times |date=1991-05-05 |last=Teitelbaum |first=Sheldon |url=https://articles.latimes.com/print/1991-05-05/magazine/tm-2100_1_star-trek |accessdate=2011-04-27 |page=16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151106201722/http://articles.latimes.com/print/1991-05-05/magazine/tm-2100_1_star-trek |archivedate=2015-11-06}}</ref>、新しいテレビドラマの製作を企画する<ref>{{Cite news |title=New 'Star Trek' Plan Reflects Symbiosis of TV and Movies |work=The New York Times |date=1986-11-02 |last=Harmetz |first=Aljean |url=https://www.nytimes.com/1986/11/02/arts/new-star-trek-plan-reflects-symbiosis-of-tv-and-movies.html?pagewanted=all |accessdate=2015-02-11 |page=31}}</ref>。ロッデンベリーは当初は関与を拒否していたが、初期のコンセプトワークに不満があったため、製作総指揮として参加することになった。こうして、[[1986年]]10月に新しいテレビドラマである『[[新スタートレック]]』の放映が告知され、[[1987年]]9月より放映されることとなった。 『新スタートレック』は『宇宙大作戦』の続編ではあるものの、約80年後を舞台に、登場人物を一新した次世代の物語となった。{{要出典範囲|第2シーズンまでは前作から脱し切れていないという評価が多かったが|date=2022年11月}}、第3シーズンからは脚本家の[[マイケル・ピラー]]らの手腕でイメージを一新、毎話ごとにスポットを当てる登場人物を変えていく形式とし、制服や小道具、船内セットなどのビジュアル的な部分も作り変えられた。こうした努力により、『新スタートレック』は中盤から人気が上昇し、『宇宙大作戦』に匹敵すると言われるほどの人気作品に成長するに至った。 === スピンオフ作品の登場(1991年 - 2005年) === [[1991年]]10月、かねてより患っていた脳卒中の発作によりロッデンベリーが死去。同年12月に公開された映画第6作『[[スタートレックVI 未知の世界|未知の世界]]』は、作中で長らく敵対していた[[クリンゴン人|クリンゴン帝国]]との和平という、現実の[[冷戦]]終結を下敷きにしたストーリーによって高い評価を受けた。本作が『宇宙大作戦』の事実上の完結編となり、続く映画第7作『[[スタートレック ジェネレーションズ|ジェネレーションズ]]』からは『新スタートレック』の映画が複数製作された。 一方、テレビドラマの製作総指揮は[[リック・バーマン]]らに引き継がれた。『新スタートレック』放送中の[[1993年]]1月、バーマンはピラーと共に[[派生作品|スピンオフ作品]]となる『[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]』を立ち上げ、これにより初めて同時期に2つのシリーズ作品が放送されることとなった<ref name="ds9companion">{{Cite book|title= Deep Space Nine Companion|first=Terry J.|last=Erdmann|coauthors=Paula M. Block|date=2000-08-01|isbn=978-0-671-50106-8}}</ref>。さらに、『新スタートレック』完結後の[[1995年]]1月、バーマンはピラー、{{仮リンク|ジェリ・テイラー|en|Jeri Taylor}}と共に『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』を立ち上げ、これら3作品とも全7シーズンの長期にわたる人気作品となった。しかし、『スタートレック:ヴォイジャー』第4シーズン終盤から第6シーズン序盤にかけて、長年のプロデューサーかつメインライターであったピラー、[[ロナルド・D・ムーア]]、テイラーらがフランチャイズから離脱する。 [[2001年]]9月、バーマンは[[ブラノン・ブラーガ]]と共に『[[スタートレック:エンタープライズ]]』を立ち上げるが、放送開始から視聴率が低迷し、過去の作品で人気を博した異星人を登場させる、第3シーズンをまるごと一つの物語に費やすなどの様々なテコ入れが試されるも成果は上がらなかった。『スタートレック:エンタープライズ』第4シーズンでは製作総指揮からバーマンとブラーガが外され、[[マニー・コト]]のみになったことで、過去の作品との整合性を取り、時には無理なく補完が行われるなどエピソードとしての質は改善されていった。これらのコンセプトおよび物語構成の再構築の多くは概ね好意的に受け入れられたが、結局このシーズンで打ち切りが決定し、[[2005年]]5月に放送を終了した。これにより、バーマンとブラーガはフランチャイズから完全に退くこととなった。 === リブート映画の公開(2009年 - 2016年) === 『スタートレック:エンタープライズ』の打ち切り後、フランチャイズの[[リブート (作品展開)|リブート]]が模索され{{Refnest|group="注"|2006年に、新たな作品として''"Star Trek: Final Frontier"''が企画されていた<ref name="trekm20061213">{{Cite web |url=https://trekmovie.com/2006/12/13/cbs-considering-new-animated-trek-series/ |title=CBS Considering New Animated Trek Series For The Web |access-date=2022-05-07 |last=Pascale |first=Anthony |date=2006-12-13 |website=TrekMovie.com |language=en-US}}</ref><ref name="aipha_STFF">{{Cite web |url=https://memory-alpha.fandom.com/wiki/Star_Trek:_Final_Frontier |title=Star Trek: Final Frontier |access-date=2022-05-07 |website=Memory Alpha |language=en}}</ref>。[[ネット配信|ウェブ配信]]によるアニメーション作品で、26世紀のU.S.S.エンタープライズが活躍するという内容であった<ref name="trekm20061213"/>。作中の設定や[[キャラクターデザイン]]も出来上がっており、5話分の脚本も完成していたが、リブート映画の製作が優先されたために結局はお蔵入りとなった<ref name="aipha_STFF"/>。}}、[[2009年]]5月、『宇宙大作戦』を新たなキャストで描いた映画第11作『[[スター・トレック (2009年の映画)|スター・トレック]]』が公開された。これに始まるリブート映画作品群は「ケルヴィン・タイムライン」シリーズと呼ばれ、従来のフランチャイズ作品の歴史(「プライム・タイムライン」)の束縛から離れて、異なる時間軸を描いた。この間、テレビドラマは製作されない状況が続いた。 === 作品世界の拡大と映像配信への移行(2017年 -) === [[2014年]]10月、CBSが映像配信サービスCBS All Access(現・[[Paramount+]])を開始。その目玉作品として、[[2017年]]9月、[[アレックス・カーツマン]]が製作総指揮を務め、『[[宇宙大作戦]]』の10年前(のちには遠い未来)を描く『[[スタートレック:ディスカバリー]]』の配信が開始された。これを皮切りに、カーツマンの監督の下でフランチャイズの作品世界は大きく拡大していくことになり<ref>{{cite web|url=https://deadline.com/2018/06/alex-kurtzman-star-trek-franchise-expansion-overall-deal-cbs-tv-studios-1202413294/|title=Alex Kurtzman To Shepherd 'Star Trek' Franchise Expansion Under New 5-Year Overall Deal With CBS TV Studios|publisher=Deadline|date=June 19, 2018|access-date=February 7, 2020|archive-url=https://web.archive.org/web/20191121135347/https://deadline.com/2018/06/alex-kurtzman-star-trek-franchise-expansion-overall-deal-cbs-tv-studios-1202413294/|archive-date=November 21, 2019|url-status=live}}</ref>、『[[新スタートレック]]』の約30年後を描く『[[スタートレック:ピカード]]』、『スタートレック:ディスカバリー』と同時期で『宇宙大作戦』に先立つ[[エンタープライズ (スタートレック)|エンタープライズ号]]の航海を描く『[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]』、さらにアニメーション作品の『[[スタートレック:ローワー・デッキ]]』や''"[[:en:Star Trek: Prodigy|Star Trek: Prodigy]]"''などの作品が製作、配信されている。さらに''Star Trek: Starfleet Academy''<ref>{{cite tweet|number=1641485446038568961|user=StarTrekOnPPlus|title=Star Trek: #StarfleetAcademy is coming to @ParamountPlus! From executive producers @Alex_Kurtzman and @NogaLandau, the series will follow the adventures of a new class of Starfleet cadets as they come of age in one of the most legendary places in the galaxy. #StarTrek|accessdate=March 31, 2023}}</ref>シリーズと、「[[セクション31]]」配信映画作品<ref>{{cite web|url=https://blog.trekcore.com/2023/04/michelle-yeoh-returns-in-star-trek-section-31-movie/|title=Oscar Winner Michelle Yeoh (Finally) Returns in STAR TREK: SECTION 31 Paramount+ Original Movie Event|accessdate=2023-04-18}}</ref>の製作が発表されている。Paramount+のサービスは北米など限定的な地域から始まり、それ以外の地域では[[Netflix]]や[[Amazon Prime Video]]などで配信された作品もあった。Paramount+においては、映画も含めた過去の全作品が配信されている。 == 作品が及ぼした影響 == [[File:The Shuttle Enterprise - GPN-2000-001363.jpg|thumb|[[スペースシャトル・エンタープライズ]]のロールアウト式典に招待されたロッデンベリーとキャスト。左端は[[NASA長官]]の[[ジェームズ・フレッチャー]]、右から2人目はフロリダ州[[アメリカ合衆国下院議員一覧|下院議員]]の{{仮リンク|ドン・フュークア|en|Don Fuqua}}。]] 『スタートレック』の熱心なファンのことを、[[トレッキー]]またはトレッカーと呼ぶが、アメリカのみならず世界中の宇宙関連事業関係者にもファンが多いと言われる。また、[[スティーヴン・ホーキング]]のように、『スタートレック』を自らの講演で引用したり、ゲストとして出演するような著名人もいる。また、映画『[[ターミナル (映画)|ターミナル]]』に登場した入国審査官のように、現代のアメリカを舞台とした作品では、登場人物がトレッキーという設定になっていることもある。 [[スペースシャトル]]の[[スペースシャトル・オービター|オービター]]1号機(大気圏内での滑空飛行試験用の機体)は当初は「コンスティテューション」と名付けられる予定だったが、トレッキーによる40万通ほどの投書が行われたことで、当時の[[ジェラルド・R・フォード]]大統領の権限によって「[[スペースシャトル・エンタープライズ|エンタープライズ]]」と名付けられることになった{{Refnest|group="注"|ただし、フォード大統領は決定に投書が与えた影響について特に言及しておらず、ただ「『エンタープライズ』という名が気に入っている」からだと述べている<ref>{{cite news |url=https://news.google.com/newspapers?id=JGIgAAAAIBAJ&pg=2595,1284578 |title=Star Trek Fans Win on Space Shuttle |work=The Lewiston Daily Sun |first=Frances |last=Lewine |page=20 |date=1976-09-06 |access-date=2011-05-05}}</ref>。}}。そのロールアウト式典にはロッデンベリーやキャストなどの関係者が招待されている。なお、『宇宙大作戦』の頃から科学考証を[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)に求めることがあり、映画のクレジットタイトルなどでNASAの名前が出ることがある。また、小惑星2309番が「[[ミスター・スポック (小惑星)|ミスター・スポック]]」<ref>{{Cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=2309#content/|title=JPL Small-Body Database Browser|website=[[ジェット推進研究所]]|accessdate=2019-08-14}}</ref>(公式には発見者のペットの同名の猫に由来するとされている)、9777番が「エンタープライズ」<ref>{{Cite web|url=https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=9777#content/|title=JPL Small-Body Database Browser|website=[[ジェット推進研究所]]|accessdate=2019-08-14}}</ref>と命名された。ほか数個の小惑星にも、作品に出演したキャストなどの名前がつけられている。 == 作品の一覧 == 関連する企業の統廃合が繰り返されているため、版権や製作体制は何度も変遷している。最初のテレビドラマである『[[宇宙大作戦]]』の権利は当初製作した[[デシル・プロダクション]]が有していたが、[[1967年]]に同社は作品の権利ともども[[パラマウント映画]]に買収された。さらに、[[1994年]]にパラマウント映画は[[バイアコム (1952-2006)|バイアコム]]に買収され、その後、[[2005年]]にテレビ事業と映画事業が分社化された結果、[[CBS]]が作品の諸権利を全て一元的に管理すると共にテレビ番組の製作を担当し、パラマウント映画は映画作品の製作および映像メディア商品の販売をCBSから請け負うという体制になった。さらに、[[2019年]]のバイアコムとCBSの合併により、全ての権利の管理はバイアコムCBS(現・[[パラマウント・グローバル]])が引き継いだ。このため、『宇宙大作戦』以降のテレビ番組のうち、『[[まんが宇宙大作戦]]』から『[[スタートレック:エンタープライズ]]』まではパラマウント映画、『[[スタートレック:ディスカバリー]]』以降は[[CBS]]が製作している。 === テレビドラマ === 『宇宙大作戦』は[[NBC]]系列で放送されたが、『[[新スタートレック]]』は三大ネットワークや[[フォックス放送]]との交渉が頓挫した(ミニシリーズとしての製作しか認められなかった)ため、当時としては異例の[[番組販売]]となった。これは成功を収め、続く『[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]』でも同様の放送形態がとられている。1995年には[[パラマウント映画]]の傘下の放送局[[United Paramount Network|UPN]]が誕生し、『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』と『スタートレック:エンタープライズ』はUPNで放送された。 『スタートレック:ディスカバリー』以降は[[CBS]]の映像配信サービスである[[Paramount+]]が配信しており、放送ではなく映像[[ストリーミング]]による配信となっている。 {|class=wikitable style="font-size:small" !略称!!日本語版の題<br />原題!!製作!!放送・映像配信局!!放送期間!!シーズン数!!話数!!劇中の時代 |- |TOS |[[宇宙大作戦]]<br />{{lang|en|Star Trek: The Original Series}}<ref group="注">当初の原題は『{{lang|en|Star Trek}}』だったが、他作品との区別のため変更された([[レトロニム]])。</ref> |[[デシル・プロダクション]]<br />[[パラマウント映画]] |[[NBC]] |1966年9月8日 - <br />1969年6月3日 |3 |79 |2264年 - 2269年 |- |TNG |[[新スタートレック]]<br />{{lang|en|Star Trek: The Next Generation}} |rowspan="4"|[[パラマウント映画]] |rowspan="2"|[[番組販売]] |1987年9月28日 - <br />1994年5月23日 |7 |176<ref group="注">再放送では長編が分割され178話である。</ref> |2363年 - 2370年 |- |DS9 |[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン]]<br />{{lang|en|Star Trek: Deep Space Nine}} |1993年1月2日 - <br />1999年5月29日 |7 |173<ref group="注">再放送では長編が分割され176話である。</ref> |2369年 - 2375年 |- |VOY |[[スタートレック:ヴォイジャー]]<br />{{lang|en|Star Trek: Voyager}} |rowspan="2"|[[United Paramount Network]] |1995年1月16日 - <br />2001年5月23日 |7 |168<ref group="注">再放送では長編が分割され172話である。</ref> |2371年 - 2378年 |- |ENT |[[スタートレック:エンタープライズ]]<br />{{lang|en|Star Trek: Enterprise}}<ref group="注">当初の原題は『{{lang|en|Enterprise}}』だったが、第3シーズンから『{{lang|en|Star Trek}}』を冠するよう変更された。</ref> |2001年9月26日 - <br />2005年5月13日 |4 |97<ref group="注">再放送では長編が分割され98話である。</ref> |2151年 - 2161年 |- |DSC |[[スタートレック:ディスカバリー]]<br />{{lang|en|Star Trek: Discovery}} |rowspan="3"|[[CBS]] |[[CBS]](第1話のみ)<br />[[Paramount+]](映像配信・アメリカなど){{Refnest|group="注"|name="Netflix"|アメリカ、カナダ以外の国々では[[Netflix]]が第1シーズンから第3シーズンまでを配信していたが、第4シーズン開始直前の2021年11月17日をもって全シーズンが配信停止となった<ref>{{cite web|url=https://deadline.com/2021/11/star-trek-discovery-netflix-deal-paramount-viacomcbs-1234875466/|title=‘Star Trek: Discovery’ Exits Netflix Tonight; Set For 2022 Launch On Paramount+ Globally|first=Dominic|last=Patten|work=Deadline|date=November 16, 2021|access-date=November 16, 2021}}</ref>。アメリカ、カナダ以外の国々での配信は、2022年以降に順次世界展開するParamount+、および日本での[[Google TV]]など各国での種々の配信サービスで行われる。}}<br />CTV Sci-Fi Channel(放送・英語版・カナダ)<br />Z(放送・フランス語版・カナダ)<br />Crave(映像配信・カナダ、2023年8月まで)<br />[[Netflix]](S3まで、映像配信・その他の国々)<ref group="注" name="Netflix" /> |2017年9月24日 - |4~ |55~ |2256年 - 2258年<br />3188年 - |- |PIC |[[スタートレック:ピカード]]<br />{{lang|en|Star Trek: Picard}} |[[Paramount+]](アメリカ)<br />CTV Sci-Fi Channel(英語版・カナダ)<br />Z(フランス語版・カナダ)<br />Crave(カナダ、2023年7月まで)<br />[[Amazonプライム・ビデオ]](映像配信・その他の国々) |2020年1月23日 - 2023年4月20日 |3 |30 |2399年 - 2401年<br />2024年 |- |SNW |[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド]]<br />{{lang|en|Star Trek: Strange New Worlds}} |[[Paramount+]](サービス実施地域)<br />CTV Sci-Fi Channel(英語版・カナダ)<br />Z(フランス語版・カナダ)<br />Crave(カナダ、2023年7月まで)<br />TVNZ(ニュージーランド)<br />VOOT(インド) |2022年5月5日<ref>{{cite web |last=Bailey |first=Kat |title=Star Trek: Discovery Renewed For Season 5 Amid a Flurry Of New Release Dates |url=https://www.ign.com/articles/star-trek-discovery |website=IGN |access-date=January 18, 2022|date=January 18, 2022}}</ref> - |2~ |20~ |2259年 - |- |} === テレビアニメ === 以前は実写映像作品のみが公式([[カノン (文芸)|正史]])と見做されていたため、『まんが宇宙大作戦』は[[外伝|番外編]]として他の作品と同列に扱われていなかった{{Refnest|group="注"|name="canon"|たとえば、『スタートレックパラマウント社公認オフィシャルデータベース』には「本章ではTVと映画の両シリーズ(ただしアニメ版は除く)の設定上の歴史を、STの正史として解説を行っていく」と記述されている<ref>{{Cite book |和書 |author=岸川靖|authorlink=岸川靖 |title=スタートレックパラマウント社公認オフィシャルデータベース |year=1998 |publisher=[[ぶんか社]] |page=22 |isbn=978-4-8211-0570-0}}</ref>。}}。しかし、『スタートレック』フランチャイズの版権を管理するCBSは、2007年以降「公式な映像作品」として扱っている<ref>{{Cite web |url=https://www.startrek.com/shows |title=Shows and Movies |accessdate=2022-03-30 |website=Star Trek |language=en}}</ref>。 2020年にはCBS All Access(現・[[Paramount+]])でコメディ作品『[[スタートレック:ローワー・デッキ]]』が配信され、第5シーズンの製作も決定している。また、2021年にはParamount+で子供向け作品''"Star Trek: Prodigy"''が配信され<ref>{{Cite web|url=https://variety.com/2019/tv/news/star-trek-animated-show-nickelodeon-1203138869/|title=‘Star Trek’ Animated Kids Show in the Works at Nickelodeon – Variety|last=Otterson|first=Joe|date=2019-02-13|website=[[Variety (magazine)|Variety]]|accessdate=2019-02-17}}</ref>、[[ニコロデオン (TVチャンネル)|ニコロデオン]]で放送もされた。ただし''"Star Trek: Prodigy"''はParamount+の配信ラインアップから削除され<ref>{{cite web|url=https://gizmodo.com/star-trek-prodigy-paramount-plus-where-to-watch-buy-1850577267|title=How to Watch Star Trek: Prodigy Now That It's Been Removed From Paramount+|website=gizmodo|accessdate=2023-06-30}}</ref>。[[Netflix]]に移動することになった<ref>{{cite web|url=https://www.hollywoodreporter.com/tv/tv-news/star-trek-prodigy-netflix-pickup-1235615236/|title=‘Star Trek: Prodigy’ Moves to Netflix After Paramount+ Cancellation|last=Goldberg|first=Lesley|website=[[The Hollywood Reporter]]|date=October 11, 2023|access-date=October 11, 2023}}</ref>。 {|class=wikitable style="font-size:small" !略称!!日本語版の題<br />原題!!製作!!放送・映像配信局!!放送期間!!シーズン数!!話数!!劇中の時代 |- |TAS |[[まんが宇宙大作戦]]<br />{{lang|en|Star Trek: The Animated Series}}<ref group="注">当初の原題は『{{lang|en|Star Trek}}』だったが、他作品との区別のため変更された([[レトロニム]])。</ref> |[[フィルメーション]] |[[NBC]] |1973年9月8日 - <br />1974年10月12日 |2 |22 |2269年 - 2270年 |- |LD |[[スタートレック:ローワー・デッキ]]<br />{{lang|en|Star Trek: Lower Decks}} |rowspan="2"|[[CBS]] |[[Paramount+]](映像配信・アメリカ)<br />CTV Sci-Fi Channel(英語版・カナダ)<br />Z(フランス語版・カナダ)<br />Crave(映像配信・カナダ、2023年7月まで)<br />[[Amazonプライム・ビデオ]](映像配信・その他の国々)<ref>{{Cite web|title=Star Trek: Lower Decks Transports to Amazon Prime In Multiple International Territories|url=https://www.startrek.com/news/star-trek-lower-decks-transports-to-amazon-prime-in-multiple-international-territories|access-date=2020-12-17|website=Star Trek|language=en}}</ref> |2020年8月6日 - |4~ |40~ |2380年 - |- |PRO |{{lang|en|[[:en:Star Trek: Prodigy|Star Trek: Prodigy]]}} |シーズン1: [[Paramount+]](サービス対象国、2023年6月まで)<br />[[Netflix]] (サービス対象国、2023年12月25日より{{Refnest|group="注"|2023年12月25日より日本でも配信されたが音声・字幕とも日本語対応はされていない}})<br />Crave(カナダ)<br />[[ニコロデオン (TVチャンネル)|ニコロデオン]]<ref>{{Cite web |last=Zalben |first=Alex |date=September 9, 2021 |title='Star Trek: Prodigy' Reveals October Premiere Date, Full Trailer |url=https://decider.com/2021/09/08/star-trek-prodigy-premiere-date-trailer-key-art/ |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20210909011354/https://decider.com/2021/09/08/star-trek-prodigy-premiere-date-trailer-key-art/ |archive-date=September 9, 2021 |access-date=September 10, 2021 |website=Decider}}</ref><br />シーズン2: [[Netflix]](サービス対象国) ||2021年10月28日<ref>{{Cite web|date=2021-09-09|title=‘Star Trek: Prodigy’ Reveals October Premiere Date, Full Trailer|url=https://decider.com/2021/09/08/star-trek-prodigy-premiere-date-trailer-key-art/|access-date=2021-09-09|website=Decider|language=en-US}}</ref> - |1~ |20~ |2383年<ref>{{Cite web |last=<!-- TrekMovie.com Staff --> |date=April 5, 2021 |title='Star Trek: Prodigy' First Look Reveals A Whole New Janeway And More Show Details |url=https://trekmovie.com/2021/04/05/star-trek-prodigy-first-look-reveals-a-whole-new-janeway-and-more-show-details/ |url-status=live |archive-url=https://web.archive.org/web/20210406000448/https://trekmovie.com/2021/04/05/star-trek-prodigy-first-look-reveals-a-whole-new-janeway-and-more-show-details/ |archive-date=April 6, 2021 |access-date=April 6, 2021 |website=[[TrekMovie.com]]}}</ref> |- |} ===短編=== [[2018年]]以降、[[Paramount+]]が短編のアンソロジーシリーズである『[[スタートレック:ショートトレック]]』を配信している。2018年には『[[スタートレック:ディスカバリー]]』に関連した第1シーズンの4話が配信され、[[2019年]]から[[2020年]]にかけては『スタートレック:ディスカバリー』だけでなく『[[スタートレック:ピカード]]』に関連した話やアニメーションを含む第2シーズンの6話が配信された。 2023年から『[[スタートレック:ベリーショートトレック]]』が公式サイトと[[YouTube]]で配信している。 ===映画=== {{main|スタートレックの映画作品}} {|class=wikitable style="font-size:small" !略称!!日本語版の題<br />原題!!監督!!公開年!!劇中の<br />時代!!備考 |- |TMP||[[スター・トレック (1979年の映画)|スター・トレック]]<br />{{lang|en|Star Trek: The Motion Picture}}||[[ロバート・ワイズ]]||1979年||2271年||rowspan="6"|『[[宇宙大作戦]]』のキャラクターによる作品。 |- |TWOK||[[スタートレックII カーンの逆襲]]<br />{{lang|en|Star Trek II: The Wrath of Khan}}||[[ニコラス・メイヤー]]||1982年||2285年 |- |TSFS||[[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!]]<br />{{lang|en|Star Trek III: The Search for Spock}}||rowspan="2"|[[レナード・ニモイ]]||1984年||2285年 |- |TVH||[[スタートレックIV 故郷への長い道]]<br />{{lang|en|Star Trek IV: The Voyage Home}}||1986年||2286年 |- |TFF||[[スタートレックV 新たなる未知へ]]<br />{{lang|en|Star Trek V: The Final Frontier}}||[[ウィリアム・シャトナー]]||1989年||2287年 |- |TUC||[[スタートレックVI 未知の世界]]<br />{{lang|en|Star Trek VI: The Undiscovered Country}}||ニコラス・メイヤー||1991年||2293年 |- |GEN||[[スタートレック ジェネレーションズ]]<br />{{lang|en|Star Trek Generations}}||[[デヴィッド・カーソン]]||1994年||2371年||rowspan="4"|『[[新スタートレック]]』のキャラクターによる作品。 |- |FC||[[スタートレック ファーストコンタクト]]<br />{{lang|en|Star Trek: First Contact}}||rowspan="2"|[[ジョナサン・フレイクス]]||1996年||2373年 |- |INS||[[スタートレック 叛乱]]<br />{{lang|en|Star Trek: Insurrection}}||1998年||2375年 |- |NEM||[[ネメシス/S.T.X]]<br />{{lang|en|Star Trek Nemesis}}||[[スチュアート・ベアード]]||2002年||2379年 |- |STXI||[[スター・トレック (2009年の映画)|スター・トレック]]<br />{{lang|en|Star Trek}}||rowspan="2"|[[J・J・エイブラムス]]||2009年||2258年||rowspan="3"|新キャストでの『[[宇宙大作戦]]』のキャラクターによる作品。<br />ケルヴィン・タイムラインの平行宇宙が舞台となる。 |- |STID||[[スター・トレック イントゥ・ダークネス]]<br />{{lang|en|Star Trek Into Darkness}}||2013年||2259年 |- |STB||[[スター・トレック BEYOND]]<br />{{lang|en|Star Trek Beyond}}||[[ジャスティン・リン]]||2016年||2263年 |} ===公式作品とその他の作品について=== [[2012年]]以降、フランチャイズの版権を管理するCBSは「公式({{lang-en-short|official}})」という表現を用いて、作品を「CBS・パラマウント映画が製作したオフィシャルな作品(テレビドラマ・テレビアニメ・映画など)」「オフィシャルライセンス契約に基づいて[[サードパーティー]]が製作した作品(小説・コミック・ゲームなど)」「オフィシャルライセンス契約がなされていないファンメイドの作品(いわゆるファンムービーなど)」の三つに分類し、前の二つについて公式サイトで取り扱っている<ref> [https://intl.startrek.com/licensees 公式サイトのオフィシャルライセンス契約者の一覧]</ref><ref>[https://intl.startrek.com/fan-films 公式サイトのオフィシャルライセンス契約を伴わないファンムービーに関する記載]</ref>。 以前は版権元により「[[カノン (文芸)|正史]]({{lang-en-short|canon}})」といった分類がなされており、異なるメディア間の作品の内容については、実写映像作品のみを公式な設定として扱ってきた<ref name="canon" group="注" />。しかし、CBS副社長でフランチャイズのブランド開発担当であるジョン・ヴァン・チッターズと製作プロデューサーである[[アレックス・カーツマン]]らは、『スタートレック:ディスカバリー』<u>以降</u>の作品においては映像作品と小説・コミック・ゲームの扱いを統合し[[メディアミックス]]の手法をとる方針を打ち出している<ref>{{Cite web|url=https://comicbook.com/startrek/2018/10/09/star-trek-online-age-of-discovery-comics-crossover/|title=Star Trek Just Launched Its First Comics and Video Games Crossover|last=Lovett|first=Jamie|date=2018-10-09|website=Comic Book|accessdate=2019-08-14}}</ref>。『スタートレック:ディスカバリー』では作品のサイドストーリーがMMORPG『[[Star Trek Online]]』で配信され、小説が初出となる設定が登場した。また、『スタートレック:ピカード』でもドラマの前日譚となる、ピカードの引退を説明するコミック『''Star Trek: Picard – Countdown''』が出版されている。『スタートレック:ピカード』には『Star Trek Online』のオリジナル宇宙船が複数登場<ref>[https://www.arcgames.com/en/games/star-trek-online/news/detail/11510543-sto-ships-are-canon%21 STO Ships are Canon!]2022.3.3.</ref><ref>[https://www.arcgames.com/en/games/star-trek-online/news/detail/11510833-star-trek-online%3A-my-life-at-warp-speed Star Trek Online: My Life at Warp Speed]2022.3.4.</ref><ref>[https://www.5d-blog.com/star-trek/ Star Trek Online Starships Make Worldwide Debut in Star Trek: Picard]5D. 2022.3.3.</ref><ref>[https://www.inverse.com/entertainment/star-trek-picard-season-2-fleet HOW STAR TREK: PICARD SEASON 2 FIXED ITS BIGGEST STARSHIP CONTROVERSY]INVERSE 2022.3.4.</ref><ref>[https://twitter.com/trekonlinegame/status/1499293626463096838 Star Trek Online公式twitter]2022.3.3.</ref><ref>[https://twitter.com/thomasthecat/status/1499312947604062210 本作の開発スタッフであるトーマス・マローンのtwitter発言]2022.3.3.</ref><ref>[https://twitter.com/DaveBlass/status/1499603659667095552 『スタートレック:ピカード』のプロダクションデザイナーであるデイヴ・ブラスのtwitter発言]2022.3.4.</ref><ref>[https://twitter.com/Treksphere/status/1499400226351710224 Trekspere.comのtwitter発言]2022.3.4.</ref>する。一方で、『スタートレック:ディスカバリー』<u>以前</u>の非映像作品においては非正史という扱いになっている。 ====小説・コミック==== {{See also|スタートレックに関する日本語資料一覧#出版物}} アメリカでは{{仮リンク|『スタートレック』の世界を舞台とする小説・コミック|en|List of Star Trek novels}}等が数多く出版され続けているが、これらは版権元であるCBSにより「オフィシャルライセンス契約に基づいてサードパーティーが製作した作品」に区分される。小説の日本語訳は、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』と『スタートレック:ヴォイジャー』が[[角川文庫]]から、他が[[ハヤカワ文庫]]から出版されたが、多くが[[絶版]]状態となっている。また、テレビドラマや映画のノベライズとは別に、オリジナル小説もいくつか出版された。 ====コンピュータゲーム==== {{See also|スタートレック (マイコンゲーム)}} アメリカでは『スタートレック』の世界を舞台とするゲームも数多く販売され、[[1971年]]に一般のファンらが作成したシミュレーション[[パソコンゲーム|マイコンゲーム]]は人気を博し、日本でも1980年代初期まで人気だった。『[[宇宙大作戦]]』は北海道や関西地域では度々再放送されるも、関東地方では本放送時、[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]]日本公開時、1980年代後半と3時期のみで、本作品とゲームの関係性を希薄に感じる者も見られた。 {{See also|Star Trek Online}} 2010年以降からは[[MMORPG]]の『Star Trek Online』の配信が開始された。内容は『[[ネメシス/S.T.X]]』などの続編となっている。 ==作品のキャスト== 以下ではM(Main)、C(Co-star)、R(Recurring)、G(Guest)と略す。 ===テレビドラマ=== <div class="overflowbugx" style="overflow:auto; width: 100%;"> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" |- ! rowspan="2"|役名 ! rowspan="2" |俳優 / 声優 ! rowspan="2" |日本語吹き替え ! colspan="2" style="text-align:center;"|[[宇宙大作戦|TOS]] ! rowspan="2"|[[新スタートレック|TNG]]{{Break}}{{Small|(1987-1994)}} ! rowspan="2"|[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|DS9]]{{Break}}{{Small|(1993-1999)}} ! rowspan="2" |[[スタートレック:ヴォイジャー|VOY]]{{Break}}{{Small|(1995-2001)}} ! rowspan="2" |[[スタートレック:エンタープライズ|ENT]]{{Break}}{{Small|(2001-2005)}} ! rowspan="2" |[[スタートレック:ディスカバリー|DSC]]{{Break}}{{Small|(2017–)}} ! rowspan="2"|[[スタートレック:ピカード|PIC]]{{Break}}{{Small|(2020-2023)}} ! rowspan="2" |[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|SNW]]{{Break}}{{Small|(2022-)}} |- !{{small|パイロット版}}{{Break}}{{Small|(1965)}} !{{small|レギュラーシーズン}}{{Break}}{{Small|(1966-1969)}} |- ! rowspan="2"|[[クリストファー・パイク]] |[[ジェフリー・ハンター]] |[[中田浩二 (俳優)|中田浩二]]<br />[[山野井仁]] |{{cMain|M}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive">アーカイブ出演。</ref>{{Break}}{{Small|(S1)}} |colspan="13" {{cNone}} |- |[[アンソン・マウント]] |[[てらそままさき]] |colspan="6" {{cNone}} |{{cMain|M}}{{Break}}{{Small|(S2)}} |{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|ウーナ・チン=ライリー<br />(ナンバーワン) |[[メイジェル・バレット]] |[[翠準子]] |style="background: #ffd;"|C |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S1)}} |colspan="13" {{cNone}} |- |[[レベッカ・ローミン]] |[[五十嵐麗]] |colspan="6" {{cNone}} |{{cRecurring|R}}{{Break}}{{Small|(S2)}} |{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[ジェームズ・T・カーク]] |[[ウィリアム・シャトナー]] |[[矢島正明]] |{{cNone}} |{{cMain|M}} |{{cNone}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S5)}} |{{cNone}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="narration">アーカイブ出演。ナレーションのみ。</ref>{{Break}}{{Small|(S4)}} |colspan="3" {{cNone}} |- |[[ポール・ウェズレイ]] |[[浪川大輔]] |colspan="8" {{cNone}} |{{cRecurring|R}}<ref group="注">第1シーズンは ゲスト。第2シーズンでリカーリング。</ref>{{Break}}{{Small|(S1-2)}} |- ! rowspan="2"|[[スポック]] |[[レナード・ニモイ]] |[[久松保夫]]<br />[[菅生隆之]]<br />[[小原雅人]] |style="background: #ffd;"|C |{{cMain|M}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(S5)}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S5)}} |colspan="2" {{cNone}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S3)}} |colspan="2" {{cNone}} |- |{{仮リンク|イーサン・ペック|en|Ethan Peck}} |[[星野貴紀]] |colspan="6" {{cNone}} |{{cRecurring|R}}{{Break}}{{Small|(S2)}} |{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! rowspan="1"|[[レナード・マッコイ]] |[[デフォレスト・ケリー]] |[[吉沢久嘉]]<br />[[小島敏彦]] |{{cNone}} |{{cMain|M}}<ref group="注">第1シーズンは "C" 扱い。</ref> |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(S1)}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S5)}} |colspan="5" {{cNone}} |- ! rowspan="2"|[[モンゴメリー・スコット]]<br />(チャーリー) |[[ジェームズ・ドゥーハン]] |[[小林修_(声優)|小林修]]<br />[[内海賢二]] |{{cNone}} |style="background: #ffd;"|C |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(S6)}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S5)}} |colspan="5" {{cNone}} |- |Martin Quinn | |colspan="8" {{cNone}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(S2)}} |- ! rowspan="2"|[[ウフーラ|ニヨタ・ウフーラ]]<br />(ウラ) |[[ニシェル・ニコルズ]] |[[松島みのり]] |{{cNone}} |style="background: #ffd;"|C |{{cNone}} |{{cGuest|G}}<ref group="注" name="archive" />{{Break}}{{Small|(S5)}} |colspan="5" {{cNone}} |- |{{仮リンク|セリア・ローズ・グッディング|en|Celia Rose Gooding}} |[[葉山那奈]] |colspan="8" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! 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Dal |{{仮リンク|ブレット・グレイ|en|Brett Gray}} | | colspan="2"{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Gwyn |[[エラ・パーネル]] | | colspan="2"{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Jankom Pog |[[ジェイソン・マンツォーカス]] | | colspan="2"{{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Zero |{{仮リンク|アンガス・イムリー|en|Angus Imrie}} | | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Rok-Tahk |ライリー・アラズラキ | | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Murf |[[ディー・ブラッドリー・ベイカー]] | | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! Drednok |[[ジミ・シンプソン]] | | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! The Diviner |[[ジョン・ノーブル]] | | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! {{仮リンク|クリスティン・チャペル|en|Christine Chapel}} |[[メイジェル・バレット]] |[[吉田理保子]] |{{cRecurring|R}}{{Break}}{{Small|(S1-2)}} |colspan="2" {{cNone}} |- |} </div> === 映画 === <div class="overflowbugx" style="overflow:auto; width: 100%;"> {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" |- ! rowspan="2" |役名 ! rowspan="2" |俳優 / 声優 ! rowspan="2"|日本語吹き替え |- ! rowspan="1" |第1~6作{{Break}}{{Small|(1979-1991)}} ! rowspan="1" |第7~10作{{Break}}{{Small|(1994-2002)}} ! rowspan="1" |第11~13作{{Break}}{{Small|(2009-2016)}} |- ! [[クリストファー・パイク]] |[[ブルース・グリーンウッド]] |[[田中正彦]] | colspan="2" {{cNone}} | {{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(11-12)}} |- ! rowspan="2"|[[ジェームズ・T・カーク]] |[[ウィリアム・シャトナー]] |[[矢島正明]]<br />[[大塚明夫]]<br />[[筈見純]] |{{cMain|M}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(7)}} |{{cNone}} |- |[[クリス・パイン]] |[[阪口周平]] | colspan="2" {{cNone}} | {{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[スポック]] |[[レナード・ニモイ]] |[[瑳川哲朗]]<br />[[大木民夫]]<br />[[仁内建之]]<br />[[吉水慶]]<br />[[菅生隆之]] |{{cMain|M}} |{{cNone}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(11-12)}} |- |[[ザカリー・クイント]] |[[喜山茂雄]]<br />[[菅生隆之]] | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[レナード・マッコイ]] |[[デフォレスト・ケリー]] |[[山内雅人]]<br />[[江角英明]]<br />[[嶋俊介]]<br />[[仁内建之]]<br />[[小島敏彦]] |{{cMain|M}} |colspan="2" {{cNone}} |- |[[カール・アーバン]] |[[宮内敦士]] | colspan="2" {{cNone}} | {{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[モンゴメリー・スコット]]<br />(チャーリー) |[[ジェームズ・ドゥーハン]] |[[小林修_(声優)|小林修]]<br />[[神山卓三]]<br />[[島香裕]]<br />[[藤本譲]] |{{cMain|M}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(7)}} |{{cNone}} |- |[[サイモン・ペッグ]] |[[根本泰彦]] | colspan="2" {{cNone}} | {{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[ウフーラ|ニヨタ・ウフーラ]]<br />(ウラ) |[[ニシェル・ニコルズ]] |[[川島千代子]]<br />[[横尾まり]]<br />[[さとうあい]]<br />[[竹口安芸子]]<br />[[小宮和枝]]<br />[[松島みのり]]<br />[[朴璐美]] |{{cMain|M}} |colspan="2" {{cNone}} |- |[[ゾーイ・サルダナ]] |[[東條加那子]]<br />[[栗山千明]] | colspan="2" {{cNone}} | {{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[ヒカル・スールー]]<br />(カトウ) |[[ジョージ・タケイ]] |[[富山敬]]<br />[[坂東尚樹]]<br />[[田中亮一]]<br />[[宮本充]]<br />[[牛山茂]]<br />[[田原アルノ]] |{{cMain|M}} |colspan="2" {{cNone}} |- |[[ジョン・チョー]] |[[浪川大輔]] | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! rowspan="2"|[[パヴェル・チェコフ]] |[[ウォルター・ケーニッヒ|ウォルター・ケーニッグ]] |[[古川登志夫]]<br />[[曽我部和恭]]<br />[[金尾哲夫]]<br />[[西村知道]]<br />[[辻親八]]<br />[[佐久田修]]<br />[[樫井笙人]] |{{cMain|M}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(7)}} |{{cNone}} |- |[[アントン・イェルチン]] |[[粟野志門]] | colspan="2" {{cNone}} |{{cMain|M}} |- ! |[[ジャン=リュック・ピカード]] |[[パトリック・スチュワート]] |[[吉水慶]]<br />[[麦人]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ウィリアム・T・ライカー]] |[[ジョナサン・フレイクス]] |[[大塚明夫]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ジョーディ・ラ=フォージ]] |[[レヴァー・バートン]] |[[星野充昭]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ウォーフ]] |[[マイケル・ドーン]] |[[銀河万丈]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ビバリー・クラッシャー]] |[[ゲイツ・マクファーデン]] |[[一城みゆ希]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ディアナ・トロイ]] |[[マリーナ・サーティス]] |[[高島雅羅]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[データ (スタートレック)|データ]] |[[ブレント・スパイナー]] |[[大塚芳忠]] |{{cNone}} | {{cMain|M}} |{{cNone}} |- ! |[[ウェスリー・クラッシャー]] |[[ウィル・ウィトン]] |[[石田彰]] |{{cNone}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(10)}} |{{cNone}} |- ! |[[キャスリン・ジェインウェイ]] |[[ケイト・マルグルー]] |[[松岡洋子 (声優)|松岡洋子]] |{{cNone}} |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(10)}} |{{cNone}} |- ! {{仮リンク|クリスティン・チャペル|en|Christine Chapel}} |[[メイジェル・バレット]] |[[島木綿子]]<br />[[中澤やよい]]<br />[[定岡小百合]] |{{cGuest|G}}{{Break}}{{Small|(1, 4)}} |colspan="2" {{cNone}} |- |} </div> ===日本語吹き替え=== 『宇宙大作戦』の登場人物については、続編で同じ[[声優]]が続投できなかったり、当初日本語版でカットされていたシーンに後から吹き替えを追加したことで声優が変更されるケースが多いため、ここにまとめて記載する。なお、映画は便宜上「映画第○作」で表記した。括弧内は追加収録担当声優。 {|class=wikitable style="font-size:small" ! 作品 ! [[ジェームズ・T・カーク|カーク]] ! [[スポック]] ! [[レナード・マッコイ|マッコイ]] ! [[モンゴメリー・スコット|スコット]]<br />(チャーリー) ! [[ウフーラ]]<br />(ウラ) ! [[ヒカル・スールー|スールー]]<br />(カトウ) ! [[パベル・チェコフ|チェコフ]] ! [[クリストファー・パイク|パイク]] ! [[サレク]] |- |[[宇宙大作戦]]<br />第1シーズン |rowspan="2"|[[矢島正明]]<br />(矢島正明) |rowspan="2"|[[久松保夫]]<br />([[菅生隆之]]) |rowspan="2"|[[吉沢久嘉]]<br />([[小島敏彦]]) |[[小林修 (声優)|小林修]]<br />(小林修) |rowspan="2"|[[松島みのり]]<br />(松島みのり) |[[富山敬]]<br />([[坂東尚樹]])<br />[[納谷六朗]]<br />(納谷六朗) |{{cNone}} |[[中田浩二 (俳優)|中田浩二]]<br />(中田浩二) |{{cNone}} |- |宇宙大作戦<br />第2 - 3シーズン |[[内海賢二]]<br />(内海賢二) |[[田中亮一]]<br />(田中亮一) |[[井上弦太郎]]<br />([[樫井笙人]]) |rowspan="16" {{cNone}} |[[加藤正之]]<br />([[小山武宏]]) |- |[[まんが宇宙大作戦]] |[[ささきいさお|佐々木功]] |[[阪脩]] |[[村越伊知郎]] |[[石丸博也]] |[[高島雅羅]] |[[村山明 (声優)|村山明]] |{{cNone}} |[[上田敏也]] |- |[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]]([[テレビ朝日]]版) |rowspan="3"|矢島正明 |rowspan="3"|[[瑳川哲朗]] |rowspan="3"|[[山内雅人]] |rowspan="3"|小林修 |rowspan="2"|[[川島千代子]] |rowspan="3"|富山敬<br />(坂東尚樹) |[[古川登志夫]] |rowspan="2" {{cNone}} |- |[[スタートレックII カーンの逆襲|映画第2作]]([[日本テレビ]]版) |rowspan="2"|[[曽我部和恭]] |- |[[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!|映画第3作]](日本テレビ版) |[[横尾まり]] |[[納谷悟朗]] |- |[[スタートレックIV 故郷への長い道|映画第4作]]([[フジテレビ]]版) |[[大塚明夫]] |[[大木民夫]] |[[江角英明]] |[[神山卓三]] |[[さとうあい]] |[[宮本充]] |[[金尾哲夫]] |[[清川元夢]] |- |[[スタートレックV 新たなる未知へ|映画第5作]](機内上映版) |[[筈見純]] |[[仁内建之]] |[[嶋俊介]] |[[島香裕]] |[[竹口安芸子]] |[[牛山茂]] |[[西村知道]] |(台詞なし) |- |[[新スタートレック]] |{{cNone}} |[[矢田耕司]] |[[丸山詠二]]<ref group="注">劇中でマッコイであることは明言されていない。</ref> |[[寺島幹夫]] |{{cNone}} |{{cNone}} |{{cNone}} |[[山野史人]] |- |[[スタートレックVI 未知の世界|映画第6作]](VHS版) |大塚明夫 |[[吉水慶]] |仁内建之 |rowspan="2"|[[藤本譲]] |[[小宮和枝]] |[[田原アルノ]] |rowspan="2"|[[辻親八]] |不明 |- |[[スタートレック ジェネレーションズ|映画第7作]](VHS版) |rowspan="2"|矢島正明 |{{cNone}} |{{cNone}} |{{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="4" {{cNone}} |- |[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |菅生隆之 |小島敏彦 |小林修 |松島みのり |[[遊佐浩二]] |- |[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |{{cNone}} |{{cNone}} |{{cNone}} |{{cNone}} |{{cNone}} |納谷六朗 |{{cNone}} |- |映画第1作(新録版) |rowspan="3"|矢島正明 |rowspan="2"|菅生隆之 |rowspan="2"|小島敏彦 |rowspan="3"|小林修 |松島みのり |rowspan="2"|坂東尚樹 |[[佐久田脩|佐久田修]] |- |映画第2 - 6作(新録版) |[[朴璐美]] |rowspan="2"|樫井笙人 |[[納谷悟朗]]<ref group="注">映画第3、4、6作のみ出演。</ref> |- |映画第7作(新録版) |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |- |[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |矢島正明<ref group="注">ナレーションのみ。</ref> |{{cNone}} |{{cNone}} |- |[[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]] |rowspan=3|[[阪口周平]] |rowspan=2|[[喜山茂雄]]<br />菅生隆之<ref group="注">老スポック役。</ref> |rowspan=3|[[宮内敦士]] |rowspan=3|[[根本泰彦]] |[[東條加那子]] |rowspan=3|[[浪川大輔]] |rowspan=3|[[粟野志門]] |rowspan=2|[[田中正彦]] |[[佐々木睦]] |- |[[スター・トレック イントゥ・ダークネス|映画第12作]] |[[栗山千明]] |rowspan="3" {{cNone}} |- |[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |喜山茂雄 |東條加那子 |{{cNone}} |- |宇宙大作戦 パイロット版<br />([[Netflix]]配信版) |rowspan="3" {{cNone}} |[[小原雅人]] |rowspan="4" {{cNone}} |rowspan="3" {{cNone}} |rowspan="3" {{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |rowspan="4" {{cNone}} |[[山野井仁]] |- |[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |[[星野貴紀]]<br />矢田耕司<ref group="注" name="archive" /> |[[てらそままさき]] |[[楠大典]] |- |[[スタートレック:ローワー・デッキ|ローワー・デッキ]] |{{cNone}} |坂東尚樹 |{{cNone}} |rowspan="2" {{cNone}} |- |[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|ストレンジ・ニューワールド]] |[[浪川大輔]] |[[星野貴紀]] | <!-- S2で登場するが吹替未定 --> |[[葉山那奈]] |{{cNone}} |[[てらそままさき]] |- |} ==作品の年表== {{Main|{{仮リンク|スタートレックの年表|en|Timeline of Star Trek}}}} 作品内において何度もタイムトラベルによる過去改変が行われるため時系列が複数のタイムラインに分岐している。 <!-- 細かすぎない程度に --> ===プライム・タイムライン=== テレビドラマ・テレビアニメとその映画が舞台としている宇宙({{lang-en-short|Prime Timeline}})。後述の「ケルヴィン・タイムライン」と区別してこう呼ばれている。 {|class=wikitable style="font-size:small" ! style="min-width: 9em;"|年 !出来事 ! style="min-width: 13em;"|作品 |- !colspan="3"|20世紀以前 |- |約40億年以上前||謎のヒューマノイド種族が銀河各地の惑星に自分達の遺伝子を播く。||[[新スタートレック]] |- |約6500万年以上前||[[ヴォス人]]の先祖が故郷を離れ、4500万年後に[[宇宙域|デルタ宇宙域]]に到達し定住。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |約20万年前||高度な文明を持つアイコニア帝国が、広大な宇宙域を支配し繁栄するも、後に滅亡。||[[新スタートレック]]など |- |4世紀-6世紀頃||バルカン星においてスラクの改革により後に続く[[バルカン人|バルカン]]の体制や文化が成立。反対派は他の星系に移住し同じく後に続く[[ロミュラン人|ロミュラン]]帝国が成立。||[[新スタートレック]]など |- |9世紀頃||カーレスにより[[クリンゴン人|クリンゴン]]帝国建国。||[[新スタートレック]] |- |14世紀頃||惑星[[カターン人|カターン]]が太陽放射線の影響により滅亡。||[[新スタートレック]] |- |1893年||アメリカ・サンフランシスコにおいてデヴィディア人が活動。||[[新スタートレック]] |- !colspan="3"|20世紀 |- |1930年||社会事業家のエディス・キーラーが事故死。||[[宇宙大作戦]] |- |1947年||[[ロズウェル事件]]。||[[ディープスペースナイン]] |- |1957年||人類初の人工衛星[[スプートニク1号|スプートニク]]が打ち上げられ、その調査に訪れた[[バルカン人|バルカン]]の宇宙船が[[地球]]([[アメリカ合衆国]][[ペンシルベニア州]][[カーボン郡 (ペンシルベニア州)|カーボン]]・クリーク近郊)に不時着する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |1967年||東カリフォルニアに時間パトロール艦イーオンが不時着。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |1968年||アメリカ合衆国の核兵器搭載衛星が打ち上げられるが、ゲリー・セブンによる破壊工作のため軌道投入に失敗する。この事件を契機として、核兵器使用を禁止する国際協定が結ばれる。||[[宇宙大作戦]] |- |1986年||[[ザトウクジラ]]捕獲のため、[[ジェームズ・T・カーク|カーク]]達が2286年から[[タイムトラベル]]してくる。||[[スタートレックIV 故郷への長い道|映画第4作]] |- |1992年 - 1996年||優生戦争{{Refnest|group="注"|後続作品によれば、21世紀にも優生戦争は勃発し、第二次南北戦争や第三次世界大戦のきっかけとも言われている。}}が勃発し、[[カーン・ノニエン・シン|カーン]]率いる優生人類が地球上の約3分の1を征服するが、内紛によって敗北する。カーンら一部の優生人類は寝台船S.S.ボタニー・ベイに乗り、[[コールドスリープ|冷凍冬眠]]の状態となって地球を脱出する。||[[宇宙大作戦]] |- |1996年||ロサンゼルスでUFOが撮影される。数日後、世界的に有名な実業家で発明家のヘンリー・スターリングが行方不明になる。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |1999年||惑星探査機[[ボイジャー計画|ボイジャー6号]]が打ち上げられる。||[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]] |- !colspan="3"|21世紀 |- |2022年||ラアン・ヌニエン・シンと、改変され惑星連邦のなくなった時間線のカークが、ロミュラン人による歴史改変を妨害する || [[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|ストレンジ・ニュー・ワールド]] |- |rowspan="2"|2024年 |[[ジャン=リュック・ピカード|ピカード]]達が時間軸の分岐を修復するため、2401年から[[ボーグ・クイーン]]を連れてタイムトラベルしてくる。<br />有人[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]探査船シャンゴが打ち上げられる。||[[スタートレック:ピカード|ピカード]] |- |[[ベンジャミン・シスコ|シスコ]]達が転送事故で過去に飛ばされ、[[サンフランシスコ]]で発生した市民暴動「ベル暴動」に巻き込まれる。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2026年 - 2053年||アメリカ合衆国とECON(東部連合)の間で[[第三次世界大戦]]が勃発し、双方の核兵器使用によって約6億人が犠牲となる。世界各地で政府や社会秩序が崩壊し独裁者が台頭、暗黒時代が始まる。||[[スタートレック ファーストコンタクト|映画第8作]] |- |2032年||[[有人火星探査]]船[[アレース4 (スタートレック)|アーレス4号]]が[[火星]]に着陸する。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |rowspan="2"|2063年 |[[ゼフラム・コクレーン|コクレーン]]が[[大陸間弾道ミサイル]]を流用した宇宙船フェニックスを製造し、人類初の[[ワープ]]航法に成功する。その様子を秘かに調査していたバルカン人が地球を訪れ[[ファーストコンタクト|初接触]]を果たし、異星人の存在が公となる。 |rowspan="2"|[[スタートレック ファーストコンタクト|映画第8作]] |- |2373年から[[ボーグ]]とピカード達がタイムトラベルしてくる。 |- |2065年||[[宇宙探査]]船S.S.ヴァリアントが[[銀河系]]辺境で行方不明となる。||[[宇宙大作戦]] |- |21世紀後半||地球・[[クジン人|クジン]]戦争で地球側が勝利。||[[まんが宇宙大作戦]] |- !colspan="3"|22世紀 |- |2119年||コクレーン自ら操縦する宇宙船が、[[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]]・[[スペースコロニー|コロニー]]から出発したまま行方不明となる。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2150年||地球連合(United Earth)が名実共に地球の統一政府となる。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2151年||地球連合が[[クリンゴン人]]およびスリバン人と初接触する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2151年 - 2161年||[[エンタープライズ (スタートレック)#エンタープライズ NX-01|エンタープライズ]](NX-01)が[[ジョナサン・アーチャー|アーチャー]]の指揮下で進宙し、宇宙探査を行う。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2152年||地球連合が[[ロミュラン人]]と初接触する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2153年||[[ズィンディ]]が惑星破壊兵器を用いて地球を攻撃し、700万人が虐殺される。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2154年||コロンビア(NX-02)がヘルナンデスの指揮下で進宙する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2155年||地球連合がアルファ宇宙域の友好的種族の代表をサンフランシスコに招き惑星間同盟協議を主催する。パクストン率いる政治結社テラ・プライムが、地球からの異星人排除を掲げ武装蜂起する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2156年 - 2160年||地球連合初となる恒星間戦争がロミュラン帝国との間で勃発し、地球連合側の勝利で終結する。後の[[平和条約|講和条約]]により、中立地帯が設けられる。||[[宇宙大作戦]] |- |2161年||惑星連邦憲章が成立し、惑星間同盟協議に参加していた国家の中で地球、バルカン、[[アンドリア人|アンドリア]]、[[テラライト人|テラライト]]が原加盟国となり恒星間共同体[[惑星連邦]]が発足する。[[地球連合宇宙艦隊|宇宙艦隊]]が[[地球連合宇宙艦隊#軍事攻撃指令作戦部隊の概要|軍事攻撃指令作戦部隊]]と統合・再編され、地球連合政府から惑星連邦評議会へ移管される。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]]<br />[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |- |2164年||U.S.S.フランクリン(NX-326)がガガーリン放射線帯で行方不明となる。||[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |- !colspan="3"|23世紀 |- |2245年 - 2250年||[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)]]が[[:en:Robert April|エイプリル]]の指揮下で進宙する。||[[まんが宇宙大作戦]] |- |2251年 - 2264年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)が[[クリストファー・パイク|パイク]]の指揮下で2回にわたる5年間の深宇宙調査を行う。||[[宇宙大作戦]]<br />[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|ストレンジ・ニュー・ワールド]] |- |2254年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)がタロス人と初接触する。パイクの報告から惑星連邦はタロス人を危険な種族と認定し、タロス4号星は接近禁止宙域となる。||[[宇宙大作戦]]<br />[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2256年||トゥクヴマがクリンゴン帝国の統一を24の名家に呼びかけ、これをきっかけに惑星連邦とクリンゴン帝国の間で戦争が勃発する。<br />戦争を誘発したとして[[マイケル・バーナム|バーナム]]に終身刑が科される。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2257年||惑星連邦とクリンゴン帝国間の戦争が終結し、バーナムは赦免され任務に復帰する。<br />[[クリストファー・パイク|パイク]]が[[U.S.S.ディスカバリー|U.S.S.ディスカバリー(NCC-1031)]]の臨時船長となり、約10万年分の英知を蓄積した「球体」に遭遇、その情報データがU.S.Sディスカバリーに転送される。データを守るため、ディスカバリーはU.S.Sエンタープライズと共に[[セクション31]]を乗っ取ったAIと戦う。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2258年||U.S.S.ディスカバリー(NCC-1031)が貴重なデータの悪用を防ぐため、3189年にタイムトラベルする。公式にはU.S.S.ディスカバリーは破壊されたと記録され、そのタイムトラベルや[[U.S.S.ディスカバリー#活性マイセリウム胞子転移ドライブ(Displacement-activated_spore_hub_drive)|胞子ドライブ]]に関する情報は極秘扱いとなる。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2259年 |U.S.S.エンタープライズ (NCC-1701)が[[クリストファー・パイク]]の指揮下で深宇宙調査に再出航する。ゴーン人と遭遇する。 |[[スタートレック:ストレンジ・ニュー・ワールド|ストレンジ・ニュー・ワールド]] |- |2264年 - 2269年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)がカークの指揮下で5年間の深宇宙調査を行う。||[[宇宙大作戦]]<br />[[まんが宇宙大作戦]] |- |2265年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)が、200年前に消息を絶ったS.S.ヴァリアントの[[ブラックボックス (航空)|フライトレコーダー]]を回収する。それを切っ掛けに、ミッチェルら[[乗務員|クルー]]11名が殉職する事態となる。||[[宇宙大作戦]] |- |2266年||地球人がロミュラン人と再接触||[[宇宙大作戦]] |- |rowspan="3"|2267年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)によって、200年以上も漂流していた寝台船S.S.ボタニー・ベイが発見される。冷凍冬眠から目覚めたカーン達は、U.S.S.エンタープライズの[[強奪]]を謀るも失敗し、セティ・アルファ第5惑星に追放される。||[[宇宙大作戦]]<br>[[スタートレックII カーンの逆襲|映画第2作]] |- |カーク達を乗せたシャトルがガンマ・カナリス宙域の小惑星に不時着し、行方不明のまま生き長らえていたコクレーンと遭遇する。||[[宇宙大作戦]] |- |惑星連邦、ロミュラン帝国、クリンゴン帝国がニンバス3号星に共同の植民地を建設。|||[[スタートレックV 新たなる未知へ|映画第5作]] |- |rowspan="2"|2268年||ロミュラン帝国とクリンゴン帝国が同盟を結び、隠蔽装置や宇宙船などの技術交換が行われる。||[[宇宙大作戦]] |- |[[U.S.S.ディファイアント#NCC-1764|U.S.S.ディファイアント(NCC-1764)]]が鏡像宇宙にタイムトラベルし、行方不明となる。||[[宇宙大作戦]]<br />[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]]<br />[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2269年 - 2271年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)が[[ウィラード・デッカー|デッカー]]の指揮下で改装を開始する。||[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]] |- |2271年||ヴィジャーが地球に接近する。事態収集のため、カークがU.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)の指揮官に復職する。||[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]] |- |rowspan="2"|2285年||カーン達がカークに復讐を企てU.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)を襲撃、[[スポック]]が殉職する。||[[スタートレックII カーンの逆襲|映画第2作]] |- |[[ジェネシス計画 (スタートレック)|ジェネシス計画]]が失敗するものの、それによりスポックが蘇生する。クリンゴン艦との戦闘中、カーク達は撤退のためU.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)を自爆させる。||[[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!|映画第3作]] |- |2286年||絶滅したザトウクジラを捕獲するため、カーク達は1986年にタイムトラベルする。<br />[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-A|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-A)]]がカークの指揮下で進宙する。||[[スタートレックIV 故郷への長い道|映画第4作]] |- |2287年||スポックの異母兄サイボックが乗員達を洗脳し、U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-A)を乗っ取る。||[[スタートレックV 新たなる未知へ|映画第5作]] |- |2293年||[[クリンゴン人|クロノス]]の衛星プラクシスが爆発。エネルギー供給を断たれたクリンゴン帝国は惑星連邦と和平交渉を行うが、双方の継戦派の陰謀によりゴルコン総裁が暗殺される。カーク達がさらなる暗殺を防ぎ惑星連邦とクリンゴン帝国がキトマー協定により和平を結ぶ。||[[スタートレックVI 未知の世界|映画第6作]] |- |rowspan="2"|2294年||[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-B|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-B)]]が[[ジョン・ハリマン|ハリマン]]の指揮下で進宙する。初航行中、難破した輸送船S.S.ラクールに遭遇し、乗員救助の最中カークが行方不明となる。||[[スタートレック ジェネレーションズ|映画第7作]] |- |[[モンゴメリー・スコット|スコット]]を乗せた輸送船U.S.S.ジェノーランが、ノルビン・コロニーへ航行中消息を絶つ。||[[新スタートレック]] |- !colspan="3"|24世紀 |- |2328年||[[カーデシア人|カーデシア連合]]が[[ベイジョー人|ベイジョー]]を併合する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2332年||[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-C|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-C)]]がギャレットの指揮下で進宙する。||[[新スタートレック]] |- |2344年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-C)がロミュラン帝国との戦闘で撃沈され、クルーの一部が捕虜になる。||[[新スタートレック]] |- |2347年 - 2367年||惑星連邦とカーデシア連合の間でカーデシア戦争が勃発する。||[[新スタートレック]] |- |2355年||[[U.S.S.スターゲイザー|U.S.S.スターゲイザー(NCC-2893)]]がマクシア・ゼータ星系で未知の異星人(後に[[フェレンギ人]]と判明)に攻撃され大破し、ピカードら生存者は艦を放棄して脱出する。||[[新スタートレック]] |- |2363年 - 2371年||[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-D|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-D)]]がピカードの指揮下で進宙し、7年間の深宇宙探査を行う。||[[新スタートレック]] |- |2364年||惑星連邦が[[Q (スタートレック)|Q連続体]]と初接触する。フェレンギ人に鹵獲されていたU.S.S.スターゲイザー(NCC-2893)が惑星連邦に返還される。||[[新スタートレック]] |- |2365年||惑星連邦がボーグと初接触する。||[[新スタートレック]] |- |2367年||ボーグが初の太陽系侵攻に備えるため、ピカードを拉致し同化する。その後ボーグと惑星連邦の間で[[ウルフ359の戦い]]が勃発し、連邦艦40隻中39隻が撃沈される。||[[新スタートレック]]<br />[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2368年||連邦大使のスポックがロミュラン帝国に亡命し、バルカンとロミュランの再統一を目指して秘密裏に活動を始める。||[[新スタートレック]] |- |rowspan="2"|2369年||U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-D)が[[ダイソン球|ダイソンの天球]]に遭遇し、天球外壁で難破していたU.S.S.ジェノーランを発見する。その際、実体化せず転送ビームのまま生き長らえていたスコットが救出される。||[[新スタートレック]] |- |カーデシア連合がベイジョーから撤退する。それにより、発掘用宇宙基地テロック・ノールは惑星連邦管轄のディープ・スペース・ナインに改修され、その司令官に[[ベンジャミン・シスコ|シスコ]]が就任する。<br />ガンマ[[宇宙域]]へ繋がるベイジョー・[[ワームホール]]が発見される。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2370年||惑星連邦が[[ドミニオン (スタートレック)|ドミニオン]]と初接触する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |rowspan="2"|2371年||[[U.S.S.ヴォイジャー|U.S.S.ヴォイジャー(NCC-74656)]]が[[キャスリン・ジェインウェイ|ジェインウェイ]]の指揮下で進宙するも、「管理者」と呼ばれる未知の種族によって7万光年先のデルタ宇宙域に飛ばされてしまう。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |ネクサスといわれるエネルギー帯に囚われたピカードは、そこで行方不明となっていたカークと出会う。[[マッドサイエンティスト]]と化したソランの星系破壊を2人で阻止するものの、カークは重傷を負い死亡する。クリンゴン艦に攻撃を受けたU.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-D)がヴェリディアン3号星に不時着し大破する。||[[スタートレック ジェネレーションズ|映画第7作]] |- |rowspan="2"|2372年||クリンゴン帝国がドミニオンに抗戦しない惑星連邦を見限ってキトマー協定を破棄し、カーデシア連合を攻撃する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |[[エンタープライズ (スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ NCC-1701-E|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701-E)]]がピカードの指揮下で進宙する。||[[スタートレック ファーストコンタクト|映画第8作]] |- |rowspan="4"|2373年||ボーグが2度目となる太陽系侵攻を行い、ボーグによる[[歴史改変SF|歴史改変]]を防ぐため、ピカード達は2063年にタイムトラベルする。宇宙艦隊が初めて[[ボーグ・クイーン]]を倒す。||[[スタートレック ファーストコンタクト|映画第8作]] |- |カーデシア連合がドミニオンの一員となる。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |キトマー条約の再調印により再び惑星連邦とクリンゴン帝国が同盟を結ぶ。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |U.S.S.ヴォイジャー(NCC-74656)が[[生命体8472]]と初接触する。生命体8472に対抗するため、ボーグと一時的に同盟を結ぶ。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |2373年 - 2375年||惑星連邦・クリンゴン帝国とドミニオンの間で[[ドミニオン戦争]]が勃発する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2375年||カーデシア連合がドミニオンに叛乱を起こし、独立を取り戻す。<br />シスコが行方不明となる。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2378年||U.S.S.ヴォイジャー(NCC-74656)が地球に帰還する。||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- |rowspan="2"|2379年||ロミュラン帝国で[[クーデター]]が発生し、シンゾンが権力を掌握する。ピカード達はシンゾンの地球侵攻を阻止するも、[[データ (スタートレック)|データ]]が殉職する。||[[ネメシス/S.T.X|映画第10作]] |- |[[ウィリアム・T・ライカー|ライカー]]が大佐に昇進し、[[U.S.S.タイタン|U.S.S.タイタン(NCC-80102)]]の艦長に就任する。||[[スタートレック:ローワー・デッキ|ローワー・デッキ]]<br>[[ネメシス/S.T.X|映画第10作]] |- |2380年代{{Refnest|group="注"|この時代の前後から『[[Star Trek Online]]』のタイムラインと分岐する。}}||ロミュラン主星の超新星爆発の兆候が表れる。ピカードの主導により、惑星連邦はロミュラン市民を避難させるべく救難船の建造を始める。||[[スタートレック:ピカード|ピカード]] |- |2383年||デルタ宇宙域において放棄された連邦宇宙艦U.S.S.プロトスターが発見される。||[[:en:Star Trek: Prodigy|Prodigy]] |- |2385年||人工生命(シンス)の襲撃によりユートピア・プラニシア造船所が破壊され、人工生命の活動と研究開発は禁止となる。艦船不足に陥った惑星連邦はロミュラン市民の救難活動を停止し、ピカードがこの決定に抗議して宇宙艦隊を辞職する。||[[スタートレック:ピカード|ピカード]] |- |2387年||ロミュラン主星の超新星爆発により惑星ロミュラスと惑星レムスが消滅する。スポックとネロ達がブラックホールに飲み込まれ、行方不明となる。||[[スタートレック:ピカード|ピカード]]<br />[[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]] |- |2399年 |ピカードはデータの「娘」に相当するアンドロイドと出会い、仲間を率いて人工生命(シンス)が隠棲する惑星を発見、人工生命撲滅を図るロミュラン艦隊からの攻撃を防ぐ。不治の病を抱えていたピカードは死亡するものの、その意識が人工有機体に移植され蘇生する。後に人工生命の禁止が解かれる。 |[[スタートレック:ピカード|ピカード]] |- !colspan="3"|25世紀 |- |rowspan="2"|2401年 |[[Q (スタートレック)|Q]]によって、ピカード達は惑星連邦の代わりに[[全体主義]]的な地球連合(Confederation of Earth)が存在する別時間軸へ移動させられる。ボーグ・クイーンを連れて2024年にタイムトラベルし、時間軸の分岐を修復する。 |rowspan="2"|[[スタートレック:ピカード|ピカード]] |- |固形種を憎む[[創設者 (スタートレック)|可変種]]が[[ボーグ]]と組み、ボーグが改変したピカードの遺伝子を転送装置で艦隊に広め、反乱を起こさせて艦隊全体を同化する。 |- !colspan="3"|26世紀 |- |26世紀中盤 |惑星連邦と別宇宙から侵攻して来た球体創造者との間で大戦争が起き、プロキオン5の戦いで惑星連邦が決定的勝利を収める。 |[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- !colspan="3"|27世紀 |- | |時間冷戦開始。 |[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- !colspan="3"|29世紀 |- | |時間統合委員会の活動時期。 |[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- !colspan="3"|31世紀 |- |31世紀前半 |ダニエルスが22世紀へ派遣される。 |[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |3064年頃||「大火」と呼ばれる災害が発生し、全宇宙にある[[ダイリチウム]]の殆どが爆発消失したため極めて希少な資源となる。惑星連邦は壊滅状態となり、地球、トリル、ニバー(バルカンとロミュランの統一政府)などが連邦を離脱する。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |3070年代前後||キリアンの史跡博物館に保管されていたU.S.S.ヴォイジャーの緊急医療用ホログラムのバックアップモジュールが再起動する。 ||[[スタートレック:ヴォイジャー|ヴォイジャー]] |- !colspan="3"|32世紀 |- |3189年以降||U.S.S.ディスカバリー(NCC-1031)が2258年からタイムトラベルしてくる。前年にタイムトラベルしていたバーナムと合流し、「大火」の原因を究明する。<br />未知の種族10-Cによる銀河系の危機が回避され、地球が惑星連邦に再加入する。 |[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |} ===ケルヴィン・タイムライン=== [[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]]から[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]]までが舞台とする平行宇宙({{lang-en-short|Kelvin Timeline}})。プライム・タイムライン(以下、PT)のネロ達のタイムトラベルの影響で異なる歴史が生じた平行宇宙で、2233年以前の出来事はPTと同一である。 この平行宇宙を指す公式名は当初存在せず、ファンからは「別現実({{lang-en-short|Alternate Reality}}、映画第11作での台詞に由来)」または「エイブラムスバース({{lang-en-short|Abramsverse}}、映画第11作の監督である「[[J・J・エイブラムス]]」と多元宇宙を意味する「[[多元宇宙論|マルチバース]]」の[[かばん語]])」と呼ばれていたが、2233年に起こったU.S.S.ケルヴィンの破壊がPTとの歴史の分岐点であることから、映画第13作の公開時に「ケルヴィン・タイムライン」という公式名が与えられた<ref>{{Cite web|url=https://comicbook.com/startrek/2018/10/09/star-trek-online-age-of-discovery-comics-crossover/|title=The ‘Abramsverse’ Is No More &#x7C; TREKNEWS.NET|date=2016-06-23|website=TREKNEWS.NET|accessdate=2019-08-14}}</ref>。 {|class=wikitable style="font-size:small" ! style="min-width: 9em;"|年 !出来事 ! style="min-width: 13em;"|作品 |- !colspan="3"|20世紀 |- |1992年 - 1996年||優生戦争が勃発し、カーン率いる優生人類が地球上の約3分の1を征服するが、内紛によって敗北する。カーンら一部の優生人類は寝台船S.S.ボタニー・ベイに乗り、冷凍冬眠の状態となって地球を脱出する。||[[宇宙大作戦]] |- !colspan="3"|22世紀 |- |2153年||ズィンディが惑星破壊兵器を用いて地球を攻撃し、700万人が虐殺される。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- |2156年 - 2160年||地球連合(United Earth)初となる恒星間戦争がロミュラン帝国との間で勃発する(ロミュラン戦争)。||[[宇宙大作戦]] |- |2161年||惑星連邦憲章が成立し、惑星間同盟協議に参加していた国家の中で地球、バルカン、アンドリア、テラライトが原加盟国となり恒星間共同体惑星連邦が発足する。宇宙艦隊が軍事攻撃指令作戦部隊と統合・再編され、地球連合政府から惑星連邦評議会へ移管される。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]]<br />[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |- |2164年||U.S.S.フランクリン(NX-326)がガガーリン放射線帯で行方不明となる。||[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |- !colspan="3"|23世紀 |- |2233年||ブラックホールに飲み込まれたネロ(PT)達が、PTの2387年からタイムトラベルしてくる。ネロ(PT)達によってU.S.S.ケルヴィン(NCC-0514)は破壊され、カークの父が殉職する。||[[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]] |- |rowspan="2"|2258年||ブラックホールに飲み込まれたスポック(PT)が、PTの2387年からタイムトラベルしてくる。<br />[[エンタープライズ_(スタートレック)#U.S.S.エンタープライズ_NCC-1701_2|U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)]]がパイクの指揮下で進宙する。ネロ(PT)達が惑星連邦の崩壊を企てるも、カーク達によって阻止される。||[[スター・トレック (2009年の映画)|映画第11作]] |- |未開拓宙域を探査中の宇宙艦隊によって寝台船S.S.ボタニー・ベイが発見される。冷凍冬眠から蘇生されたカーンは同胞72名を人質に取られ、セクション31に徴用される。||[[スター・トレック イントゥ・ダークネス|映画第12作]] |- |2259年||カーンが反旗を翻し惑星連邦に対して[[テロリズム|テロ]]攻撃を行い、パイクが殉職する。||[[スター・トレック イントゥ・ダークネス|映画第12作]] |- |2260年 - 2263年||一年間の修理および改装を終えたU.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)がカークの指揮下で5年間の深宇宙調査を行う(3年で中断)。||[[スター・トレック イントゥ・ダークネス|映画第12作]] |- |2263年||スポック(PT)が死亡する。<br />U.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)が惑星アルタミットで撃沈される。<br />行方不明となっていたU.S.S.フランクリン(NX-326)が発見される。||[[スター・トレック BEYOND|映画第13作]] |} ===鏡像宇宙=== 『[[宇宙大作戦]]』第33話「{{仮リンク|イオン嵐の恐怖|en|Mirror, Mirror (Star Trek: The Original Series)}}」を初出とする平行宇宙({{lang-en-short|Mirror Universe}})。プライム・タイムライン(以下、PT)と対になっており、同じ名前の人物や組織が存在しているが、その性格や性質はPTと比べると好戦的で、地球は惑星連邦ではなく侵略的なテラン帝国を形成している。 {|class=wikitable style="font-size:small" ! style="min-width: 9em;"|年 !出来事 ! style="min-width: 13em;"|作品 |- !colspan="3"|21世紀 |- |2063年||コクレーンが宇宙船フェニックスで人類初のワープ航法に成功し、調査のため地球に訪れたバルカン人と初接触するが、地球人たちは着陸したバルカン船を襲い最新技術を略奪する。以降、22世紀にかけて多種族を征服し、テラン帝国を建国する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]] |- !colspan="3"|22世紀 |- |2155年||PTからU.S.S.ディファイアント(NCC-1764)が次元を超えてタイムトラベルしてくる。U.S.S.ディファイアントを奪った[[ホシ・サトウ|サトウ]]がクーデターを起こし、テラン帝国の女帝に即位する。||[[スタートレック:エンタープライズ|エンタープライズ]]<br />[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- !colspan="3"|23世紀 |- |2250年代||I.S.S.ブラン(NCC-1422)のロルカがジョージャウ皇帝暗殺を謀って失敗、逃亡する。その際にイオン嵐に遭い、PTに転移する。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2256年||PTからU.S.S.ディスカバリー(NCC-1031)が鏡像宇宙のI.S.S.ディスカバリー(NCC-1031)と入れ替わりに出現する。皇帝専用艦I.S.S.カロンは破壊され、ジョージャウ皇帝はU.S.S.ディスカバリーとともにPTへ移動し、セクション31に加わる。||[[スタートレック:ディスカバリー|ディスカバリー]] |- |2267年||PTからやってきたカーク(PT)が、[[エンタープライズ_(スタートレック)#I.S.S.エンタープライズ_NCC-1701|I.S.S.エンタープライズ(NCC-1701)]]のスポックに惑星連邦の理念を伝える。指導者となったスポックは、この後20年以上の年月をかけてテラン帝国の改革を推進する。||[[宇宙大作戦]] |- |2293年||テラン帝国は帝政を廃して共和制に移行するも、侵略と反乱が相次いで同年の内にクリンゴン・カーデシア同盟に征服される。以降、地球人はクリンゴン・カーデシア同盟内の奴隷階級として支配される。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- !colspan="3"|24世紀 |- |2370年||PTからやってきた[[キラ・ネリス|キラ]](PT)と[[ジュリアン・ベシア|ベシア]](PT)が、発掘用宇宙基地テロック・ノールで捕虜となるも脱走を試みたことで、シスコや[[マイルズ・オブライエン#平行世界のオブライエン|オブライエン]]がクリンゴン・カーデシア同盟に反乱を起こし、テラン・リベリオンを結成する。[[オドー]]がベシア(PT)に撃たれて死亡する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2371年||テラン・リベリオンのリーダーであったシスコが死亡する。PT・鏡像宇宙間の任意の転送方法を発見したオブライエンによって、PTからシスコ(PT)が誘拐される。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2372年||テラン・リベリオンがPTから盗んだ設計図を基に、[[U.S.S.ディファイアント#NX-74205|I.S.S.ディファイアント]](NX-74205)を建造し、オブライエンの指揮下で進宙する。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |2375年||PTからやってきた[[フェレンギ人|フェレンギ]]のグランドネーガス・ゼク(PT)が、クリンゴン・カーデシア同盟の捕虜になる。テラン・リベリオンがクリンゴンの[[ネグヴァー級|I.K.S.ネグヴァー]]を鹵獲して艦長のウォーフ評議員を捕虜とし、テロック・ノールを降伏させ支配下に置く。||[[スタートレック:ディープ・スペース・ナイン|ディープ・スペース・ナイン]] |- |} === 上記以外のタイムライン === 作中においてタイムトラベルにより様々な歴史改変が行われるため上記以外にもタイムラインが存在する(大抵は主人公たちの活躍で無かったことになる)。 例として第二次世界大戦においてエディス・キーラー(作中人物)による反戦運動によりアメリカの参戦が遅れたためナチスドイツが勝利を収めたタイムライン(宇宙大作戦)。24世紀においてクリンゴンが惑星連邦と和解せず敵対しているタイムライン(新スタートレック)、1950年代のアメリカでSF作家ベニー・ラッセルが『ディープ・スペース・ナイン』を執筆しているタイムライン(ディープ・スペース・ナイン){{Refnest|group="注"|[[メタフィクション|メタネタ]]ないしは[[夢オチ]]回}}、惑星連邦が成立せず全体主義的な地球連合(Confederation of Earth)が存在するタイムライン(ピカード)など。 『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』には自己の目的のために歴史改変を行い続ける[[クレニム人]]が登場する他、『[[スタートレック:エンタープライズ]]』の作中では“時間冷戦”により頻繁にタイムラインの変更が行われる。 ===作品を超えた歴史改変=== 作品終了後に、他の作品でその[[歴史改変SF|歴史改変]]の影響が出ることがある。 2063年は、バルカン人との初接触を取った歴史上重要な年とされている。[[スタートレック ファーストコンタクト|映画第8作]]において、ボーグは歴史改変により初接触を妨害しようとするが、ピカード達によって阻止された。コクレーンが未来を知った以外は歴史が元に戻ったかに見えたが、『[[スタートレック:エンタープライズ]]』第49話「{{仮リンク|覚醒する恐怖|en|Regeneration (Star Trek: Enterprise)}}」において、撃墜された一部のボーグは北極に墜落し、そこで活動を停止していたことが明らかとなる。蘇生したボーグには地球の座標をデルタ宇宙域に送信し、2365年に惑星連邦がボーグと初接触する原因となる。 == 劇中用語 == {{節スタブ}} その他の用語は「[[スタートレックに登場した異星人の一覧|異星人の一覧]]」「[[スタートレックに登場する勢力|勢力一覧]]」「[[スタートレックに登場した惑星の一覧|惑星一覧]]」「[[スタートレックに登場した宇宙船のクラス一覧|宇宙船のクラス一覧]]」「{{仮リンク|スタートレックの登場兵器|en|Weapons in Star Trek|label=登場兵器}}」を参照。 ; [[宇宙域]] : [[天の川銀河]]を四つの区画に分けたもの。 ; [[宇宙暦]] : 惑星連邦の標準暦。 ; [[インパルス・ドライブ]] : [[核融合ロケット]]エンジンのこと。通常エンジンとも。 ; [[光子魚雷]] : [[反物質]]弾頭の実弾兵器。 ; {{仮リンク|コミュニケーター|en|Communicator (Star Trek)}} : 携帯通信機兼位置確認用の発信機。24世紀からは[[同時通訳]]・[[吹き替え]]機能のある[[宇宙翻訳機]](万能翻訳機)を内蔵したコミュニケーター(コム)バッジに変わった。 ; [[遮蔽装置]] : 空間を歪曲させて艦艇などを不可視にする装置。 ; [[ダイリチウム]] : 宇宙船の燃料である[[反物質]]の制御に使用する物質。消耗品。 ; [[デフレクター盤|デフレクター]] : 防御スクリーンの発生装置。 ; [[転送装置]] : 物体をいったん分子レベルに分解し、所定の座標で再構成することにより移動させる装置。 ; [[トラクタービーム]] : [[重力子]]をビーム状に放射したもの。物の牽引に使用する。 ; [[トリコーダー]] : 多目的の携帯分析装置。 ; {{仮リンク|ハイポスプレー|en|Hypospray}} : スプレー型の[[無針注射器]]。 ; {{仮リンク|バルカンつかみ|en|Vulcan nerve pinch}} : 強力な握力で相手を気絶させる格闘技の技の一種。人間には不可能。 ; [[フェイザー]] : [[ビーム (物理学)|ビーム]]兵器。携帯用武器から対艦用まで様々。 ; 防御スクリーン : 敵の攻撃などから防御するための[[シールド (サイエンス・フィクション)|力場]]。転送も防げる。 ; [[ホロデッキ]] : フォースビーム(重力子ビーム)により実際に触ることができる立体映像を移すことができる装置が設置された部屋。 ; [[優生人類]] : かつての地球において[[遺伝子工学]]によって作り出された新人類。旧人類との間で優生戦争を起こしたが自滅。このため作中世界では人間に対する遺伝子操作は禁止されている。 ; [[レプリケーター]] : エネルギーを物質に変換する技術を用いて生成したい物(食品など)の分子を再構成して加工生成する装置の総称。 ; [[ワープ]]航法 : 亜空間フィールドを使用する[[超光速航法]]。ワープ+数字で速度を表わす。 ;:トランスワープ ::通常のワープよりも高速で移動できる超光速航法とその技術。ボーグや[[ヴォス人]]が保有。 ; [[惑星クラス]] : 惑星の特徴をアルファベットで分類したもの。地球のような惑星は[[Mクラス惑星]]。 ==テーマ曲== {{External media|topic=テーマ曲を試聴 |audio1= '''[https://www.youtube.com/watch?v=ZaRIILnSA40&list=OLAK5uy_nNRShWBuPlJxe6nbcDDWK_NMDHngFwSCY Star Trek Original Series Main Title]''' - オリジナルのテーマ曲、[[The Orchard|The Orchard Enterprises]]提供のYouTubeアートトラック |audio2= '''[https://www.youtube.com/watch?v=N_sbvQTpVwk Theme From Star Trek]''' - メイナード・ファーガソンによるカバー、[[コロムビア・レコード|Columbia]]提供のYouTubeアートトラック}} {{仮リンク|アレクサンダー・カレッジ|en|Alexander Courage}}作曲による『宇宙大作戦』のテーマ曲は、後の作品で他の作曲家に担当が変わっても、必ずモチーフとして用いられている。この曲にはロッデンベリーによって歌詞がつけられたが、[[ボーカル]]バージョンは実現しなかった。[[器楽曲]]としては多くの音楽家に[[カバー]]され、とりわけ日本では[[メイナード・ファーガソン]]による演奏版が『[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]』の主題曲などに使われたことから広く知られている。また[[ニュー・サウンズ・イン・ブラス]]等、[[吹奏楽]]への編曲もファーガソン版を基にしたものが多い。 映画は[[ジェリー・ゴールドスミス]]が音楽を担当し、『宇宙大作戦』のファンファーレやメインモチーフが所々で引用された。カレッジはゴールドスミスと親しく、晩年はゴールドスミスが手掛けた[[映画音楽]]の[[管弦楽法|オーケストレイター]]を務めた。{{要出典範囲|元々『宇宙大作戦』の製作者はゴールドスミスに依頼するつもりであったが、ゴールドスミスは他の仕事が入っていて受けられなかったという。企画書を読んだカレッジは、音楽をゴールドスミスに依頼する予定と記述してあったので、このことをゴールドスミスに伝えると、そう言われてみればロッテンベリーから電話で依頼があったと、思い出したそうである|date=2019年9月}}。なお、『[[新スタートレック]]』のテーマ曲は、[[スター・トレック (1979年の映画)|映画第1作]]のテーマ曲を流用しアレンジしたものであり、『[[スタートレック:ヴォイジャー]]』のテーマ曲もゴールドスミスが作曲している。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == ===スタッフ=== * [[ドロシー・フォンタナ|D・C・フォンタナ]] - 本作のスタッフ(脚本家) * [[マイケル・オクダ]] - 本作のスタッフ(技術コンサルタント) ===関連作品=== * [[ギャラクシー・クエスト]] - 本作の[[パロディ]]であるSF映画 * [[宇宙探査艦オーヴィル]] - 本作のパロディであるSFドラマ * [[500ページの夢の束]] - 本作を題材とする映画 * [[ビッグバン★セオリー/ギークなボクらの恋愛法則]] * [[アンドロメダ (テレビドラマ)]] ===関連用語=== * [[Mary Sue]] - 本作の[[二次創作]]に由来する同人用語 * [[チャーリー、転送を頼む]] - 『宇宙大作戦』から生まれた[[キャッチフレーズ]] ==外部リンク== ===公式=== * [https://www.startrek.com/en-un Star Trek | Official Site] {{en icon}} * [https://paramount.jp/startrek/ STAR TREK/スター・トレック 公式サイト | パラマウント] - 日本版公式サイト ===非公式=== *[[MemoryAlpha:Main_Page|Memory Alpha]] - WIKIを使ったスタートレック百科辞典 {{en icon}} *[https://memory-alpha.fandom.com/ja/wiki/Portal:Main Memory Alpha 日本語版] - 上記の日本語版 {{スタートレック}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すたあとれつく}} [[Category:スタートレック|*]] [[Category:メディアミックス作品]] [[Category:特撮のシリーズ]] [[Category:SF作品]] [[Category:宇宙を舞台としたSF作品]] [[Category:宇宙を舞台としたSFテレビドラマ]] [[Category:宇宙を舞台としたSF映画]]
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トレッキー
トレッキー(英: Trekkie)とは『スタートレック』シリーズの熱心なファンの総称(否定的なニュアンスが強く、揶揄する為に使われているので、ファン自身には嫌われている呼び方)。本国のアメリカ合衆国のみならず、世界中に存在する。ファン層も年齢性別など問わず幅広い。 トレッキー達は、少なくとも1960年代から1970年代のテレビ番組業界に対して大きな影響力を持つことになった。その後も「映画シリーズの打ち切り」や「テレビシリーズの打ち切り」という話が出てくるたびに活発な行動をおこしている。 また、仕事場を含めた自宅の内装を宇宙船内のように改装したり、番組の衣装を着たまま仕事をしたり等、表立った行動をとる人もおり、テレビ番組の特集に取り上げられて話題になることがある。 1966年から始まったSFTV番組『STAR TREK(邦題:宇宙大作戦)』は、放映当初よりファンを増やしていた。1968年3月の第2シーズンをもって打ち切るという噂が流れた時、番組存続を求める動きがおきた。ファンの一人が投書のキャンペーンを働きかけることで、番組を放映していたNBCには100万通を越える抗議文が殺到。結局番組は続行することになり、1968年9月20日より第3シーズンが始まった。 番組そのものは終了したが、アメリカ国内で再放送が始まったことによりファンはさらに増加し、1972年にはニューヨークにおいて、俳優や関係者等も含めた初の大規模な集会(コンベンション)が行われた。これをきっかけに全米のファンクラブが交流を持つようになり、活動が活発化していくことになる。また1970年代半ばには、ホワイトハウスに対し週に1万通を越える大量の投書を行うことで、スペースシャトルのオービタ1号機が「エンタープライズ」と命名された。合計では40万通ほど。 『スタートレック:エンタープライズ』が第4シーズンで打ち切られ、2005年5月の放映が最後になることが報道されたことを受け、存続を求めるキャンペーンが始まった。第5シーズンの製作費を寄付として集める計画が実行にうつされている。 日本においては1969年4月より『宇宙大作戦』(第2シーズン分以降は『宇宙パトロール』に改題)として放映され、ファンもできたが、その行動は今に至るまで社会現象となるまでには至っていない。しかしファンによる活動は存在しており、1975年には「STAR FLEET BASE 京都」が設立、以後各地にファンクラブが設立されている。 トレッキーには数種類に分類できると言われることがある。以下のような定義が用いられる場合がある。 他にも『宇宙大作戦』からの古いファンをトレッキー、『新スタートレック』からのファンをトレッカーとする説、またはマニアックな知識を持っているファンをトレッキー、それ以外あるいは謙遜するファンをトレッカーと呼ぶなど、様々な解釈が存在している。
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トレッキーとは『スタートレック』シリーズの熱心なファンの総称(否定的なニュアンスが強く、揶揄する為に使われているので、ファン自身には嫌われている呼び方)。本国のアメリカ合衆国のみならず、世界中に存在する。ファン層も年齢性別など問わず幅広い。
{{出典の明記|date=2010年9月}} [[ファイル:Trekkies at baycon 2003.jpg|thumb|仮装しているトレッキーたち]] '''トレッキー'''({{lang-en-short|Trekkie}})とは『[[スタートレック]]』シリーズの熱心な[[ファン]]の総称(否定的なニュアンスが強く、揶揄する為に使われているので、ファン自身には嫌われている呼び方)。本国の[[アメリカ合衆国]]のみならず、世界中に存在する。ファン層も年齢性別など問わず幅広い。 ==アメリカでの場合== トレッキー達は、少なくとも[[1960年代]]から[[1970年代]]のテレビ番組業界に対して大きな影響力を持つことになった。その後も「映画シリーズの打ち切り」や「テレビシリーズの打ち切り」という話が出てくるたびに活発な行動をおこしている。 また、仕事場を含めた自宅の内装を宇宙船内のように改装したり、番組の衣装を着たまま仕事をしたり等、表立った行動をとる人もおり、テレビ番組の特集に取り上げられて話題になることがある。 ===1960年代=== 1966年から始まったSFTV番組『STAR TREK(邦題:[[宇宙大作戦]])』は、放映当初よりファンを増やしていた。1968年3月の第2シーズンをもって打ち切るという噂が流れた時、番組存続を求める動きがおきた。ファンの一人が投書のキャンペーンを働きかけることで、番組を放映していた[[NBC]]には100万通を越える抗議文が殺到。結局番組は続行することになり、1968年9月20日より第3シーズンが始まった。 ===1970年代=== 番組そのものは終了したが、アメリカ国内で再放送が始まったことによりファンはさらに増加し、1972年には[[ニューヨーク]]において、俳優や関係者等も含めた初の大規模な集会(コンベンション)が行われた。これをきっかけに全米のファンクラブが交流を持つようになり、活動が活発化していくことになる。また1970年代半ばには、[[ホワイトハウス]]に対し週に1万通を越える大量の投書を行うことで、[[スペースシャトル]]の[[オービタ]]1号機が「[[スペースシャトル・エンタープライズ|エンタープライズ]]」と命名された。合計では40万通ほど。 <!-- ===1980年代=== ===1990年代=== --> ===2000年代=== 『[[スタートレック:エンタープライズ]]』が第4シーズンで打ち切られ、2005年5月の放映が最後になることが報道されたことを受け、存続を求めるキャンペーンが始まった。第5シーズンの製作費を寄付として集める計画が実行にうつされている。 ==日本での場合== 日本においては1969年4月より『宇宙大作戦』(第2シーズン分以降は『宇宙パトロール』に改題)として放映され、ファンもできたが、その行動は今に至るまで社会現象となるまでには至っていない。しかしファンによる活動は存在しており、1975年には「STAR FLEET BASE 京都」が設立、以後各地にファンクラブが設立されている。 ==区分== [[File:ISS-43_Samantha_Cristoforetti_drinks_coffee_in_the_Cupola.jpg|ISS-43 [[サマンサ・クリストフォレッティ]]はキューポラでコーヒーを飲みながら、スタートレックのユニフォームを着ている|thumbnail|right]] トレッキーには数種類に分類できると言われることがある。以下のような定義が用いられる場合がある。 ;トレッキー:ファンの総称。または軽率な行動もとるファン。 ;トレッカー:ファン同士の交流を含めた積極的で節度ある行動をとるファン。 ;トレッキスト:積極的ではあるがファン同士の交流はしない独立したファン。 ;トレッキアン:かなりマニアックな知識を持つファン。 他にも『宇宙大作戦』からの古いファンをトレッキー、『[[新スタートレック]]』からのファンをトレッカーとする説、またはマニアックな知識を持っているファンをトレッキー、それ以外あるいは謙遜するファンをトレッカーと呼ぶなど、様々な解釈が存在している。 == 映画 == * [[500ページの夢の束]](原題:Please Stand By) : 2018年公開。トレッキーを主人公とした映画。 == 関連項目 == * [[シャーロキアン]] - [[シャーロック・ホームズ]]の熱烈なファン * [[ギャラクシー・クエスト]] - スタートレックのパロディ映画だが、トレッキー達もパロディ化されている *[[アブドゥッラー2世]] - ヨルダン国王。トレッキーの一人。 {{ファンダム}} {{DEFAULTSORT:とれつき}} [[Category:スタートレック]] [[Category:ファンの愛称]]
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マルチナ・ヒンギス
マルチナ・ヒンギス(Martina Hingis, 1980年9月30日 - )は、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。選手としての活動期間は1994年のプロデビューから2017年の3度目の引退時までの長期に及び、この間にWTAツアーでシングルス43勝、ダブルス64勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した世界ランキング1位(16歳6か月)、4大大会年間3冠獲得は歴代最年少記録、4大大会初制覇(1997年全豪オープンに16歳3か月で優勝)はオープン化以降の最年少記録である。彼女は1998年に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。また30代半ばには混合ダブルスでもキャリア・グランドスラムを達成している。4大大会でシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝を挙げた。 2013年国際テニス殿堂入り。 1980年9月30日、チェコスロバキアのコシツェでマルティナ・ヒンギソヴァー(Martina Hingisová)として生まれる。誕生時に、当時チェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身の名選手マルチナ・ナブラチロワにあやかって娘を「マルチナ」と命名した。(この当時ナブラチロワは24歳で、1978年と1979年のウィンブルドン選手権に2連覇していた)。母親の影響で2歳の頃からテニスを習い、早熟な才能を開花させた。スロバキア人であった実の父親とは、マルチナが7歳の時に別れている。8歳の頃にスイスへ移住した。 1993年、12歳の若さで全仏オープンジュニア女子シングルス優勝。1994年には全仏オープンとウィンブルドンのジュニア女子シングルスで優勝した。 1994年10月14日、14歳の誕生日の2週間後にプロデビュー。直ちに1995年の全豪オープンで4大大会に初出場を果たし、同年の女子テニス協会「最優秀新人賞」を受賞する。 1996年10月にドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・テニス・グランプリ」でWTAツアー初優勝。女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「チェイス選手権」)に大会初出場で準優勝、年末の最終ランキングを4位に上げた。 1997年1月25日、オープン化以降4大大会史上最年少の「16歳3か月」で全豪オープン初優勝を達成。同年3月31日に「16歳6か月」で史上最年少の世界ランキング1位になり、こうしてヒンギスはモニカ・セレシュが持っていた2つの最年少記録を更新した。(セレシュの記録:1990年全仏オープンに16歳6か月で優勝、1991年3月に17歳3か月で世界ランキング1位)その後ウィンブルドン・全米オープンも制覇し、史上最年少の16歳で4大大会3冠を達成した。 ヒンギスは少女時代から日本での広告出演で人気を獲得し、グリコの「カフェオーレ」(1996年)やタニタのヘルスメーター、日本食研の「バランスデイト」(ともに1998年)のテレビCMで日本語を披露したことで、日本のお茶の間にも広く浸透した選手になった。 しかしながら、あまりにも早くして頂点に上り詰めたせいか、ヒンギスは徐々にテニスへの情熱を失っていく。この頃から女子テニス界は、リンゼイ・ダベンポートやビーナス、セリーナのウィリアムズ姉妹などのパワーテニスの時代になりつつあった。情熱を失ったヒンギスは、彼女たちに押されてゆき、少しずつテニス成績が降下していった。1999年全豪オープンを最後に、ヒンギスは4大大会のシングルス優勝から見放されてしまう。 唯一優勝がない全仏オープンでは、1997年の決勝ではクロアチアのイバ・マヨリに 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、2年後の1999年にはシュテフィ・グラフとの“新旧女王対決”の決勝で 6-4, 5-7, 2-6 の逆転で敗れてしまった。全豪オープンではシングルスで「6年連続」決勝進出の記録を持つが(1997年 - 2002年)、最初は大会3連覇、後は3年連続準優勝になっている。 2002年全米オープンの4回戦でモニカ・セレシュに完敗した後、同年10月の「ポルシェ・テニス・グランプリ」2回戦敗退を最後にツアーから離れ、2003年の全豪オープンの時期に新聞を通じて引退表明を行った。それ以後は日本で開催される「ヨネックス・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは異なる分野でテニス振興活動を続けてきたが、2005年11月に次年度からの現役復帰を表明する。 2006年1月にオーストラリア・ゴールドコーストの「モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権」で現役復帰を果たし、フラビア・ペンネッタとの準決勝まで勝ち進む。全豪オープンで4大大会にも復帰し、1回戦でロシアのベラ・ズボナレワに快勝して再出発を飾り、第2シードのキム・クライシュテルスとの準々決勝まで勝ち進んだ(スコア:クライシュテルスの 6-3, 2-6, 6-4)。同大会の混合ダブルスでは、ダブルスの名手であるマヘシュ・ブパシと組み、決勝でダニエル・ネスター&エレーナ・リホフツェワ組を 6-3, 6-3 で破って優勝した。2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント(東京体育館開催)にも4年ぶりに出場し、準決勝でマリア・シャラポワを 6-3, 6-1 で圧倒したが、2月5日の決勝戦でエレーナ・デメンチェワに 2-6, 0-6 で敗れた。奇しくも、2002年10月のポルシェ・テニス・グランプリ2回戦で敗れた最後の対戦相手がこのデメンチェワであり、東京では雪辱を果たせなかったことになる。 3か月後の5月21日、イタリア・ローマで行われた「イタリア国際選手権」決勝でディナラ・サフィナを 6-2, 7-5 で破り、復帰5か月目で復活優勝を飾った。5年ぶりの復帰となった全仏オープンでは第12シードを得たが、準々決勝でクライシュテルスに 6-7, 1-6 で連敗した。その後はウィンブルドン3回戦で杉山愛に敗れ、全米オープンは2回戦で止まったが、8月下旬の「ロジャーズ・カップ」準優勝で世界ランキングトップ10にも復帰した。年末のWTAツアー選手権にも6年ぶりの出場を果たし、ヒンギスは世界ランキング「7位」の位置で2006年のシーズンを終えた。 2007年の全豪オープンでは、2年連続でクライシュテルスに準々決勝で敗れたが、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントの決勝でアナ・イバノビッチを 6-4, 6-2 で破り、大会最多の5度目の優勝を遂げた。3月初頭にはカタール・ドーハ大会のダブルスでマリア・キリレンコとペアを組んで優勝し、復帰後のダブルス初優勝を果たした。 11月1日、ヒンギスはウィンブルドン3回戦敗退後の検査で、薬物のコカインに陽性反応を示したことを明らかにした。本人は薬物使用を否定したが、情熱の喪失を理由に、2度目の現役引退を表明した。体力勝負のパワーテニスが優勢な時代にあっても、彼女ならではの頭脳的なテニスを高い水準で披露してきたが、復帰から2年での引退表明となった。 コカイン陽性反応に対する処分として、国際テニス連盟(ITF)は2008年1月4日、ヒンギスに対し2年間の出場停止、2007年ウィンブルドン以降の大会はすべて失格扱いとし、世界ランキングのポイントと賞金6万5500ポンド(約1400万円)を没収すると発表した。 2011年にロジャー・フェデラーから2012年ロンドンオリンピックでヒンギスと混合ダブルスのペアで出場したいとの打診を受けていたがこのペアは実現しなかった。 2013年にヒンギスは国際テニス殿堂入りを果たした。32歳での殿堂入りは4番目の若さである。そして8月の南カリフォルニア・オープンからダニエラ・ハンチュコバとのダブルスで現役復帰することを発表した。シングルスへの出場は考えていないと話している。 ハンチュコバとのペアでは好成績を挙げられなかったが2014年3月のソニー・オープンではザビーネ・リシキとのペアで優勝し7年ぶりのダブルス38勝目を挙げた。2014年全米オープンではフラビア・ペンネッタとのペアでノーシードから決勝に進出した。決勝ではエカテリーナ・マカロワ&エレーナ・ベスニナ組に 6–2, 3–6, 2–6 で敗れ準優勝となった。 2015年全豪オープンではリーンダー・パエスと組んだ混合ダブルスで決勝に進出した。決勝では前年優勝のクリスティナ・ムラデノビッチ&ダニエル・ネスター組を 6–4, 6–3 で破り9年ぶりの4大大会ダブルスタイトルを獲得した。パエスとのペアでウィンブルドン、全米オープンの年間4大大会3勝を挙げた。女子ダブルスではサニア・ミルザと組みウィンブルドンと全米オープンで優勝した。 2016年全仏オープン混合ダブルスで優勝を果たし、リーンダー・パエスとともに混合ダブルスでキャリア・グランドスラムを達成した。リオ五輪で20年ぶりのオリンピックに出場した。混合ダブルスでロジャー・フェデラーと組む予定だったが、フェデラーの欠場で取りやめとなった。女子ダブルスではティメア・バシンスキーと組んで決勝に進出。決勝でロシアのマカロワ&ベスニナ組に 4-6, 4-6 で敗れ銀メダルを獲得した。 2017年はウィンブルドンと全米オープンの混合ダブルスでジェイミー・マリーと組んで優勝した。全米では詹詠然と組んだ女子ダブルスも優勝し、通算4大大会タイトルがシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝となった。ダブルスランキング1位にも復帰したが、10月に3度目の現役引退を発表した。 2006年11月に、幼なじみであるチェコの男子プロテニス選手ラデク・ステパネクと婚約したが、2007年8月にヒンギスとステパネクは婚約の解消を発表した。ヒンギスは2010年3月にスイスの弁護士との婚約を発表したが、1カ月で婚約解消した。 2010年12月10日にフランスの馬術選手であるティボー・ユタン(Thibault Hutin)と結婚したが、3年後に破局した。 2018年7月21日、自身のインスタグラムにてスポーツ医師との結婚を発表した。
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マルチナ・ヒンギスは、スイスの女子プロテニス選手。チェコスロバキア(現スロバキア)のコシツェに生まれる。選手としての活動期間は1994年のプロデビューから2017年の3度目の引退時までの長期に及び、この間にWTAツアーでシングルス43勝、ダブルス64勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した世界ランキング1位(16歳6か月)、4大大会年間3冠獲得は歴代最年少記録、4大大会初制覇(1997年全豪オープンに16歳3か月で優勝)はオープン化以降の最年少記録である。彼女は1998年に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。また30代半ばには混合ダブルスでもキャリア・グランドスラムを達成している。4大大会でシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝を挙げた。 2013年国際テニス殿堂入り。
{{テニス選手 |選手名(日本語)=マルチナ・ヒンギス |写真=Hingis RG16 (10) (27331857371).jpg |写真サイズ=230px |写真のコメント=マルチナ・ヒンギス |選手名(英語)=Martina Hingis |フルネーム(英語名)= |愛称=天才少女<ref>{{cite news |url=https://www.sankei.com/article/20150926-PBOYRJMCIFMM5AC2CSE3TTZT2U/ |title="ヒンギス2世"18歳ベンチッチ、元世界1位破り決勝へ 東レパンパシOP |work=[[産経新聞ニュース#産経ニュース (ウェブ)|産経ニュース]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |accessdate=2019-03-15 |date=2015-09-26 }}</ref> |国籍={{CHE}} |出身地={{TCH}} [[コシツェ]] |居住地={{SUI}} [[トリュバッハ]] |誕生日={{生年月日と年齢|1980|9|30}} |没年日= |死没地= |身長=170cm |体重=59kg |利き手=右 |バックハンド=両手打ち |デビュー年=1994年 |引退年=2003年(1回目)<br/>2007年(2回目)<br/>2017年(3回目) |殿堂入り=2013年 |ツアー通算=107勝 |シングルス=43勝 |ダブルス=64勝 |生涯通算成績=1038勝245敗 |シングルス通算=548勝135敗 |ダブルス通算=490勝110敗 |生涯獲得賞金=$24,749,074 |全豪オープン=優勝(1997-99) |全仏オープン=準優勝(1997・99) |ウィンブルドン=優勝(1997) |全米オープン=優勝(1997) |優勝回数=5(豪3・英1・米1) |全豪オープンダブルス=優勝(1997-99・2002・16) |全仏オープンダブルス=優勝(1998・2000) |ウィンブルドンダブルス=優勝(1996・98・2015) |全米オープンダブルス=優勝(1998・2015・17) |ダブルス優勝回数=13(豪5・仏2・英3・米3) |全豪オープン混合ダブルス=優勝(2006・15) |全仏オープン混合ダブルス=優勝(2016) |ウィンブルドン混合ダブルス=優勝(2015・17) |全米オープン混合ダブルス=優勝(2015・17) |混合ダブルス優勝回数=7(豪2・仏1・英2・米2) |フェドカップ=準優勝(1998) |ホップマンカップ=優勝(2001) |シングルス最高=1位(1997年3月31日) |ダブルス最高=1位(1998年6月8日) | medaltemplates = {{MedalSport|女子 [[テニス]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]}} {{MedalSilver|[[2016年リオデジャネイロオリンピックのテニス競技|2016 リオデジャネイロ]]|女子ダブルス}} }} '''マルチナ・ヒンギス'''('''Martina Hingis''', [[1980年]][[9月30日]] - )は、[[スイス]]の女子プロ[[テニス]]選手。[[チェコスロバキア]](現[[スロバキア]])の[[コシツェ]]に生まれる。選手としての活動期間は[[1994年]]のプロデビューから[[2017年]]の3度目の引退時までの長期に及び、この間に[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルス43勝、ダブルス64勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。 ヒンギスは早熟選手であったことから、女子テニス界における数々の最年少記録を保持している。16歳の時に達成した世界ランキング1位(16歳6か月)、4大大会年間3冠獲得は歴代最年少記録、4大大会初制覇([[1997年全豪オープン]]に16歳3か月で優勝)はオープン化以降の最年少記録である。彼女は[[1998年]]に女子ダブルスの年間グランドスラムを達成したこともあり、シングルス・ダブルスともに世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。また30代半ばには混合ダブルスでもキャリア・グランドスラムを達成している。4大大会でシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝を挙げた。 2013年[[国際テニス殿堂]]入り。 == プロフィール == [[1980年]]9月30日、[[チェコスロバキア]]の[[コシツェ]]でマルティナ・ヒンギソヴァー(Martina Hingisová)として生まれる。誕生時に、当時チェコスロバキアの代表選手だった母親メラニーが、同じチェコスロバキア出身の名選手[[マルチナ・ナブラチロワ]]にあやかって娘を「マルチナ」と命名した。(この当時ナブラチロワは24歳で、[[1978年ウィンブルドン選手権|1978年]]と[[1979年ウィンブルドン選手権|1979年]]のウィンブルドン選手権に2連覇していた)。母親の影響で2歳の頃からテニスを習い、早熟な才能を開花させた。[[スロバキア]]人であった実の父親とは、マルチナが7歳の時に別れている。8歳の頃に[[スイス]]へ移住した。 == 選手経歴 == === 天才少女の活躍 === [[1993年]]、12歳の若さで[[1993年全仏オープン|全仏オープン]]ジュニア女子シングルス優勝。[[1994年]]には[[1994年全仏オープン|全仏オープン]]と[[1994年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]のジュニア女子シングルスで優勝した。 [[1994年]]10月14日、14歳の誕生日の2週間後にプロデビュー。直ちに[[1995年]]の[[1995年全豪オープン|全豪オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]に初出場を果たし、同年の[[女子テニス協会]]「[[WTAアワード|最優秀新人賞]]」を受賞する。 [[1996年]]10月に[[ドイツ]]・フィルダーシュタットの「[[ポルシェ・テニス・グランプリ]]」で[[女子テニス協会|WTA]]ツアー初優勝。女子ツアー年間最終戦(当時の名称は「[[WTAツアー選手権|チェイス選手権]]」)に大会初出場で準優勝、年末の最終ランキングを4位に上げた。 [[1997年]]1月25日、オープン化以降4大大会史上最年少の「16歳3か月」で[[1997年全豪オープン|全豪オープン]]初優勝を達成。同年3月31日に「16歳6か月」で史上最年少の世界ランキング1位になり、こうしてヒンギスは[[モニカ・セレシュ]]が持っていた2つの最年少記録を更新した。(セレシュの記録:[[1990年全仏オープン]]に16歳6か月で優勝、[[1991年]]3月に17歳3か月で世界ランキング1位)その後[[1997年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]・[[1997年全米オープン (テニス)|全米オープン]]も制覇し、史上最年少の16歳で4大大会3冠を達成した。 ヒンギスは少女時代から[[日本]]での広告出演で人気を獲得し、[[グリコ]]の「カフェオーレ」(1996年)や[[タニタ]]のヘルスメーター、[[日本食研ホールディングス|日本食研]]の「バランスデイト」(ともに1998年)のテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]で日本語を披露したことで、日本のお茶の間にも広く浸透した選手になった。 === パワーテニスの到来から引退へ === しかしながら、あまりにも早くして頂点に上り詰めたせいか、ヒンギスは徐々にテニスへの情熱を失っていく。この頃から女子テニス界は、[[リンゼイ・ダベンポート]]や[[ビーナス・ウィリアムズ|ビーナス]]、[[セリーナ・ウィリアムズ|セリーナ]]のウィリアムズ姉妹などのパワーテニスの時代になりつつあった。情熱を失ったヒンギスは、彼女たちに押されてゆき、少しずつテニス成績が降下していった。[[1999年全豪オープン]]を最後に、ヒンギスは4大大会のシングルス優勝から見放されてしまう。 唯一優勝がない[[全仏オープン]]では、[[1997年全仏オープン|1997年]]の決勝では[[クロアチア]]の[[イバ・マヨリ]]に 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、2年後の[[1999年全仏オープン|1999年]]には[[シュテフィ・グラフ]]との“新旧女王対決”の決勝で 6-4, 5-7, 2-6 の逆転で敗れてしまった。全豪オープンではシングルスで「6年連続」決勝進出の記録を持つが(1997年 - [[2002年全豪オープン|2002年]])、最初は大会3連覇、後は3年連続準優勝になっている。 [[2002年全米オープン (テニス)|2002年全米オープン]]の4回戦で[[モニカ・セレシュ]]に完敗した後、同年10月の「[[ポルシェ・テニス・グランプリ]]」2回戦敗退を最後にツアーから離れ、[[2003年]]の全豪オープンの時期に新聞を通じて引退表明を行った。それ以後は日本で開催される「[[ヨネックス]]・テニス・フェスティバル」に参加するなど、競技とは異なる分野でテニス振興活動を続けてきたが、[[2005年]]11月に次年度からの現役復帰を表明する。 === ツアー復帰後 === [[File:Martina Hingis Australian Open 2006.JPG|thumb|180px|left|[[2006年全豪オープン]]にて]] [[2006年]]1月に[[オーストラリア]]・[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]の「[[モンディアル・オーストラリア女子ハードコート選手権]]」で現役復帰を果たし、[[フラビア・ペンネッタ]]との準決勝まで勝ち進む。[[2006年全豪オープン|全豪オープン]]で4大大会にも復帰し、1回戦で[[ロシア]]の[[ベラ・ズボナレワ]]に快勝して再出発を飾り、第2シードの[[キム・クライシュテルス]]との準々決勝まで勝ち進んだ(スコア:クライシュテルスの 6-3, 2-6, 6-4)。同大会の混合ダブルスでは、ダブルスの名手である[[マヘシュ・ブパシ]]と組み、決勝で[[ダニエル・ネスター]]&[[エレーナ・リホフツェワ]]組を 6-3, 6-3 で破って優勝した。2月の[[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント]]([[東京体育館]]開催)にも4年ぶりに出場し、準決勝で[[マリア・シャラポワ]]を 6-3, 6-1 で圧倒したが、2月5日の決勝戦で[[エレーナ・デメンチェワ]]に 2-6, 0-6 で敗れた。奇しくも、2002年10月のポルシェ・テニス・グランプリ2回戦で敗れた最後の対戦相手がこのデメンチェワであり、東京では雪辱を果たせなかったことになる。 3か月後の5月21日、[[イタリア]]・[[ローマ]]で行われた「[[BNLイタリア国際|イタリア国際選手権]]」決勝で[[ディナラ・サフィナ]]を 6-2, 7-5 で破り、復帰5か月目で復活優勝を飾った。5年ぶりの復帰となった[[2006年全仏オープン|全仏オープン]]では第12シードを得たが、準々決勝でクライシュテルスに 6-7, 1-6 で連敗した。その後は[[2006年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]3回戦で[[杉山愛]]に敗れ、[[2006年全米オープン (テニス)|全米オープン]]は2回戦で止まったが、8月下旬の「[[ロジャーズ・カップ]]」準優勝で世界ランキングトップ10にも復帰した。年末の[[WTAツアー選手権]]にも6年ぶりの出場を果たし、ヒンギスは世界ランキング「7位」の位置で2006年のシーズンを終えた。 [[2007年]]の[[2007年全豪オープン|全豪オープン]]では、2年連続でクライシュテルスに準々決勝で敗れたが、[[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント]]の決勝で[[アナ・イバノビッチ]]を 6-4, 6-2 で破り、大会最多の5度目の優勝を遂げた。3月初頭には[[カタール]]・[[ドーハ]]大会のダブルスで[[マリア・キリレンコ]]とペアを組んで優勝し、復帰後のダブルス初優勝を果たした。 11月1日、ヒンギスは[[2007年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]3回戦敗退後の検査で、薬物の[[コカイン]]に陽性反応を示したことを明らかにした。本人は薬物使用を否定したが、情熱の喪失を理由に、2度目の現役引退を表明した。体力勝負のパワーテニスが優勢な時代にあっても、彼女ならではの頭脳的なテニスを高い水準で披露してきたが、復帰から2年での引退表明となった。 コカイン陽性反応に対する処分として、[[国際テニス連盟]](ITF)は[[2008年]]1月4日、ヒンギスに対し2年間の出場停止、2007年ウィンブルドン以降の大会はすべて失格扱いとし、世界ランキングのポイントと賞金6万5500ポンド(約1400万円)を没収すると発表した<ref>{{citenews|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPJAPAN-29618820080105|title=テニス=ドーピング違反のヒンギス、2年間の出場停止|publisher=Reuters|date=2008年1月5日}}</ref>。 === ダブルスでの2度目の現役復帰・混合ダブルスのキャリア・グランドスラム === 2011年に[[ロジャー・フェデラー]]から[[2012年ロンドンオリンピック]]でヒンギスと混合ダブルスのペアで出場したいとの打診を受けていたがこのペアは実現しなかった<ref>{{citenews|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20120114-889628.html|title=フェデラー、ヒンギスさんにペア断られる|publisher=nikkansports.com|date=2012年1月14日}}</ref>。 [[File:2013 US Open (Tennis) - Martina Hingis (9649579307).jpg|thumb|right|[[2013年全米オープン (テニス)|2013年全米オープン]]にて]] 2013年にヒンギスは[[国際テニス殿堂]]入りを果たした。32歳での殿堂入りは4番目の若さである<ref>{{citenews|url=http://news.tennis365.net/news/today/201307/97856.html|title=元女王ヒンギスが殿堂入りに感激「テニスという競技に感謝」|publisher=tennis365.net|date=2013年7月15日}}</ref>。そして8月の[[南カリフォルニア・オープン]]から[[ダニエラ・ハンチュコバ]]とのダブルスで現役復帰することを発表した<ref>{{citenews|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPTYE96G00I20130717|title=テニス=殿堂入りヒンギス、ダブルスで6年ぶり現役復帰|publisher=Reuters|date=2013年7月17日}}</ref>。シングルスへの出場は考えていないと話している<ref>{{citenews|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPTYE97002520130801|title=テニス=ヒンギス、シングルス復帰の考えなし|publisher=Reuters|date=2013年8月1日}}</ref>。 ハンチュコバとのペアでは好成績を挙げられなかったが2014年3月の[[マイアミ・オープン|ソニー・オープン]]では[[ザビーネ・リシキ]]とのペアで優勝し7年ぶりのダブルス38勝目を挙げた。[[2014年全米オープン (テニス)|2014年全米オープン]]では[[フラビア・ペンネッタ]]とのペアでノーシードから決勝に進出した。決勝では[[エカテリーナ・マカロワ]]&[[エレーナ・ベスニナ]]組に 6–2, 3–6, 2–6 で敗れ準優勝となった。 [[2015年全豪オープン混合ダブルス|2015年全豪オープン]]では[[リーンダー・パエス]]と組んだ混合ダブルスで決勝に進出した。決勝では前年優勝の[[クリスティナ・ムラデノビッチ]]&[[ダニエル・ネスター]]組を 6–4, 6–3 で破り9年ぶりの4大大会ダブルスタイトルを獲得した<ref>{{citenews|url=http://jp.reuters.com/article/sportsNews/idJPKBN0L604T20150202|title=テニス=ヒンギス組が混合ダブルス優勝、全豪オープン|publisher=Reuters|date=2015年2月2日}}</ref>。パエスとのペアで[[2015年ウィンブルドン選手権混合ダブルス|ウィンブルドン]]、[[2015年全米オープン混合ダブルス|全米オープン]]の年間4大大会3勝を挙げた。女子ダブルスでは[[サニア・ミルザ]]と組み[[2015年ウィンブルドン選手権女子ダブルス|ウィンブルドン]]と[[2015年全米オープン女子ダブルス|全米オープン]]で優勝した。 [[2016年全仏オープン混合ダブルス]]で優勝を果たし、[[リーンダー・パエス]]とともに混合ダブルスでキャリア・グランドスラムを達成した。[[2016年リオデジャネイロオリンピックのテニス競技|リオ五輪]]で20年ぶりのオリンピックに出場した。混合ダブルスで[[ロジャー・フェデラー]]と組む予定だったが、フェデラーの欠場で取りやめとなった。[[2016年リオデジャネイロオリンピックのテニス競技・女子ダブルス|女子ダブルス]]では[[ティメア・バシンスキー]]と組んで決勝に進出。決勝で[[2016年リオデジャネイロオリンピックのロシア選手団|ロシア]]の[[エカテリーナ・マカロワ|マカロワ]]&[[エレーナ・ベスニナ|ベスニナ]]組に 4-6, 4-6 で敗れ銀メダルを獲得した。 2017年は[[2017年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[2017年全米オープン (テニス)|全米オープン]]の混合ダブルスで[[ジェイミー・マリー]]と組んで優勝した。全米では[[詹詠然]]と組んだ女子ダブルスも優勝し、通算4大大会タイトルがシングルス5勝、ダブルス13勝、混合ダブルス7勝の計25勝となった。ダブルスランキング1位にも復帰したが、10月に3度目の現役引退を発表した<ref>{{citenews|url=https://www.thetennisdaily.jp/news/contents/overseas/wta/20171027_0027839.php |title=ダブルス女王のヒンギス、自身3度目となる引退を表明「これ以上ない終わり方。」|publisher=THE TENNIS DAILY|date=2017年10月27日}}</ref>。 == 私生活 == 2006年11月に、幼なじみである[[チェコ]]の男子プロテニス選手[[ラデク・ステパネク]]と婚約したが、2007年8月にヒンギスとステパネクは婚約の解消を発表した<ref>{{cite web|url=http://www.heraldsun.com.au/news/more-news/martina-hingis-ace-of-hearts/story-e6frf7l6-1111112746834 |title=Martina Hingis' ace of hearts |publisher=[[ヘラルド・サン]] |date=2006-12-08 |accessdate=2012-05-03 }}</ref>。ヒンギスは2010年3月にスイスの[[弁護士]]との婚約を発表したが<ref>{{cite web|url=http://www.womenstennisblog.com/2010/03/06/martina-hingis-engaged-to-zurich-attorney-nicole-vaidisova-to-marry-radek-stepanek/ |title=Martina Hingis engaged to Zurich attorney, Nicole Vaidisova to marry Radek Stepanek |publisher=womenstennisblog.com |date=2010-03-06 |accessdate=2012-05-03 }}</ref>、1カ月で婚約解消した<ref>{{cite web|url=http://www.womenstennisblog.com/2010/11/17/martina-hingis-has-new-boyfriend-thibault-hutin/ |title=Martina Hingis has new boyfriend – Thibault Hutin |publisher=womenstennisblog.com |date=2010-11-17 |accessdate=2012-05-03 }}</ref>。 2010年12月10日に[[フランス]]の[[馬術]]選手であるティボー・ユタン(Thibault Hutin)と結婚したが<ref>{{cite web|url=http://www.people.com/people/article/0,,20449062,00.html |title=Martina Hingis Marries |publisher=[[ピープル (雑誌)|ピープル]] |date=2010-12-13 |accessdate=2012-05-03 }}</ref>、3年後に破局した<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://derdiedas.jp/2016/04/13/martina-hingis-swiss-tennis-player/ |title=ドン底から復活したテニスの女王、マルチナ・ヒンギス |publisher=derdiedas |accessdate=2018-07-21}}</ref>。 2018年7月21日、自身の[[インスタグラム]]にてスポーツ医師との結婚を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2018-07-22 |url=http://news.tennis365.net/news/today/201807/120373.html |title=ヒンギス結婚 スポーツ医師と |publisher=tennis365.net |accessdate=2018-07-22}}</ref>。 == 各種記録一覧 == * '''女子テニス協会「最優秀新人賞」''':1995年に15歳で受賞。 * '''史上最年少4大大会優勝「16歳3か月」''':[[1997年全豪オープン|1997年]]全豪オープンで達成。 * '''史上最年少での4大大会3冠'''「16歳」:1997年に全豪オープン・[[1997年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]・[[1997年全米オープン (テニス)|全米オープン]]を制覇することによって達成。 * '''史上最年少での世界ランキング1位「16歳6か月」''':全豪オープンでの優勝などが功を奏し、1997年3月31日に達成。 * '''ダブルス年間グランドスラム''':1998年に[[ミリヤナ・ルチッチ]]とのペアで全豪オープン、[[ヤナ・ノボトナ]]とのペアで全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンを制覇することによって達成。 * '''混合ダブルスキャリアグランドスラム''':[[2006年全豪オープン]]を[[マヘシュ・ブパシ]]と、[[2015年全豪オープン]] 、[[2015年ウィンブルドン選手権]]、[[2015年全米オープン (テニス)|2015年全米オープン]]、[[2016年全仏オープン]]を[[リーンダー・パエス]]と優勝。[[リーンダー・パエス]]もともに達成。 == 4大大会優勝 == * [[全豪オープン]] 女子シングルス:3勝(1997年-1999年)/女子ダブルス:5勝(1997年-1999年・2002年・2016年)/混合ダブルス:2勝(2006年・2015年) [女子シングルス準優勝:2000年-2002年、3年連続] * [[全仏オープン]] 女子ダブルス:2勝(1998年・2000年)/混合ダブルス:1勝(2016年) [女子シングルス準優勝2度:1997年・1999年] * [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] 女子シングルス:1勝(1997年)/女子ダブルス:3勝(1996年・1998年・2015年)/混合ダブルス:2勝(2015年・2017年) * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] 女子シングルス:1勝(1997年)/女子ダブルス:3勝(1998年・2015年・2017年)/混合ダブルス:2勝(2015年・2017年) [女子シングルス準優勝2度:1998年、1999年] {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #FD5;" | [[1997年]] || [[1997年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|FRA}} [[マリー・ピエルス]] || 6-2, 6-2 |-style="background: #CF9;" | [[1997年]] || [[1997年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|CZE}} [[ヤナ・ノボトナ]] || 2-6, 6-3, 6-3 |-style="background: #CCF;" | [[1997年]] || [[1997年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|USA}} [[ビーナス・ウィリアムズ]] || 6-0, 6-4 |-style="background: #FD5;" | [[1998年]] || [[1998年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|ESP}} [[コンチタ・マルティネス]] || 6-3, 6-3 |-style="background: #FD5;" | [[1999年]] || [[1999年全豪オープン|全豪オープン]] || {{flagicon|FRA}} [[アメリ・モレスモ]] || 6-2, 6-3 |- |} == 成績 == {{Main|マルチナ・ヒンギスの通算成績一覧}} === 4大大会シングルス === {| class="wikitable" |- ! 大会 !! 1995 !! 1996 !! 1997 !! 1998 !! 1999 !! 2000 !! 2001 !! 2002 !! 2003 !! 2004 !! 2005 !! 2006 !! 2007 !! 通算成績 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全豪オープン]] | align="center" style="background:#afeeee;"|[[1995年全豪オープン女子シングルス|2R]] | align="center" style="background:#ffebcd;"|[[1996年全豪オープン女子シングルス|QF]] | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1997年全豪オープン女子シングルス|W]]''' | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1998年全豪オープン女子シングルス|W]]''' | align="center" style="background:#00ff00;"|'''[[1999年全豪オープン女子シングルス|W]]''' | align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[2000年全豪オープン女子シングルス|F]] | align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[2001年全豪オープン女子シングルス|F]] | align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[2002年全豪オープン女子シングルス|F]] | align="center" | A | align="center" | A | align="center" | A | align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2006年全豪オープン女子シングルス|QF]] | align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2007年全豪オープン女子シングルス|QF]] |align="center" style="background:#EFEFEF;"|52–7 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[全仏オープン]] | align="center" style="background:#afeeee;"|[[1995年全仏オープン女子シングルス|3R]] | align="center" style="background:#afeeee;"|[[1996年全仏オープン女子シングルス|3R]] | align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[1997年全仏オープン女子シングルス|F]] | align="center" style="background:yellow;"|[[1998年全仏オープン女子シングルス|SF]] | align="center" style="background:#D8BFD8;"|[[1999年全仏オープン女子シングルス|F]] | align="center" style="background:yellow;"|[[2000年全仏オープン女子シングルス|SF]] | align="center" style="background:yellow;"|[[2001年全仏オープン女子シングルス|SF]] | align="center" | A | align="center" | A | align="center" | A | align="center" | A | align="center" style="background:#ffebcd;"|[[2006年全仏オープン女子シングルス|QF]] | align="center" | A |align="center" style="background:#EFEFEF;"|35–8 |- | style="background:#EFEFEF;" | [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] | 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てなもんや三度笠
『てなもんや三度笠』(てなもんやさんどがさ)は、1962年(昭和37年)5月6日から1968年(昭和43年)3月31日まで朝日放送制作・TBS系列で放送されたテレビコメディ番組。全309回放送。ほとんどの時期が白黒放送だが、末期の1967年(昭和42年)12月17日の第294話からはカラー放送になった。放送時間は、毎週日曜18:00 - 18:30(JST)。前田製菓の一社提供。 ABCホールでの公開放送形式による、時代劇風コメディ。 番組初期の時代には録画したビデオテープを編集する技術がまだ確立していなかったため、生放送風の撮って出し収録であったが(2日前の金曜昼12:15 - 12:45に収録)、末期の1968年(昭和43年)にはABCセンターからのスタジオ収録放送となった(昼収録は変わらずだったが、収録曜日が変動になった)。スタジオに組まれたセットの中で、スピーディーに展開する物語を生本番でミスなく演じる出演者と、それを支えるスタッフの姿はまさに職人芸と言えるものであったと語り継がれている。1967年(昭和42年)3月19日放送、第255話「上野の戦争」の官軍と彰義隊の砲撃戦シーンでは2トンの火薬が使用されており、カメラが衝撃で何度もブレている。 1967年(昭和42年)12月7日放送、第294話「熱田の絵師」は、ABC制作のカラー番組第一号であった。 商品名とかけた「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」や、「非ッ常にキビシ〜ッ!!」、「許して...チョーダイ!!」などの流行語も生み出した。 その後も、1971年(昭和46年)まで続編2作品(『てなもんや一本槍』、『てなもんや二刀流』)と、同じキャストによる現代劇コメディー『スコッチョ大旅行』が製作された。ただし、これら3作品に演出の澤田隆治は関与しておらず、脚本の香川登志緒のみの続投となった。さらにスポンサーの前田製菓も、本作終了とともにスポンサーを降板している(詳細は下述の「番組の終了」参照)。 ※このほか、星十郎、岸田一夫、大村崑、高橋元太郎、榎本健一、世志凡太、花菱アチャコ、中田ダイマル・ラケット、コント55号、チャンバラトリオ、漫画トリオ、ザ・ドリフターズ、かしまし娘、清川虹子、E・H・エリック、ザ・タイガースなど、東西の人気スターが毎回ゲスト出演した。 ※TBSテレビ系列の全国ネット番組でもあった。 最高視聴率としては、関西地区(ABCテレビ)で60%台、関東地区(TBSテレビ:当時)でも40%台を記録した人気番組であった。 番組開始当初は時間帯的不利(当時、日曜は外出していてテレビを観ないという風潮があった)なこともあり「せめて東海道五十三次を走破できる53回までできれば」と、1年も持てばもうけものと考えられていた。当初の視聴率は10%いかないこともあったものの、徐々に視聴率は上昇。やがて平均視聴率30%という「お化け番組」へと成長した。 番組開始当初の視聴率(ニールセン調べ)は関西で15.5%、関東で6.0%と低調だったが、在宅率の高い雨の日となった1962年(昭和37年)5月27日放送の第4話では関西で27.3%、関東で14.4%を記録。10月21日放送では関西で24.8%、関東で20.2%を記録した。 (無印=同時ネット、★=遅れネット) TBS系列局不在地域では日本テレビ系列局(当時はニュース系列のNNNのみ放送期間中の1966年4月1日に成立)でカバーした。また、TBS系列局でも他系列遅れネット番組などの関係で遅れネットとする局があった。 制作局のABCは当時TBS系列だったが、その後MBSとのネット交換により、テレビ朝日系列(当時は、NETテレビ系列)にネットチェンジしていることから、テレビ朝日が開局30周年記念番組の中で、ABCがTBS系列時代に制作した過去の番組として紹介したことがあった。その中でMBSとのネット交換や『ヤングおー!おー!』が当初NETで放送されていたことについても併せて説明されたが、『ヤングおー!おー!』の映像はNET系時代(関東地区での東京12チャンネルへのネット期間を含む)のものが現存していないため、TBS系移行後のものを使用していた。 一方のTBSでも開局60周年特番の中で当番組を紹介した際、進行役の安住紳一郎アナから当番組放送時の大阪でのTBS系列局は1975年までABCで、その後MBSが系列局になる旨の補足説明があった。 「中仙道編」継続中の1964年12月31日(木曜日)には、『第15回NHK紅白歌合戦』の対抗番組として、唯一のスペシャル版『唄と笑いの総決算 特別ワイドコメディー てなもんや三度笠 東海道超特急シリーズ』を、22:00 - 23:45で放送した。 番組は3パートからなり、第1部は「花の京洛」、第2部は「尾張の月」、第3部は「雪の大江戸」という構成。そして第1部と第3部は通常版と同じABCホールからの収録だったが、第2部はABCスタジオからの収録だった。 出演者は本編の藤田・白木・香山をはじめ、月形半平太役に高田浩吉、清水次郎長役に鶴田浩二、そのほか、村田英雄・島倉千代子・長門勇・茶川一郎・天野新二・平参平・桜京美・高田夕起夫・天知茂・北原謙二・芦屋雁之助・芦屋小雁・高石かつ枝・人見きよし・藤純子・堺駿二と、豪華なメンバーがそろっている。 同じ澤田と香川のコンビで制作され、日曜昼に放送されていた『スチャラカ社員』とともに絶頂を誇った当番組は、2人の対立がきっかけで転機を迎えることになる。 1966年(昭和41年)に朝日放送本社が大阪・中之島の新朝日ビルディングから国鉄大阪駅北側の大淀に新設されたABCセンターへ移転し、やはり公開収録されていた『スチャラカ』の客層が様変わりする。澤田は、時代の流れに合わせたギャグを導入するように香川に求める。しかしこれは香川が目指していた喜劇のスタイルと相反し、受け入れられるものではなかった。香川は「視聴率優先でギャグを作れなんて自分には無理。もうこれ以上書けまへん」とさじを投げ、1967年(昭和42年)4月30日、『スチャラカ』は6年あまり続いた歴史の幕を閉じる。 こうして2人の共同作業は当番組だけとなるが、1年間で3回のシリーズ変更をする。視聴率第一主義の澤田と、出演者の特性を理解したギャグを書き続けたかった香川の路線対立が『スチャラカ』だけでなく当番組にも飛び火したかたちとなる。2人はほぼケンカ別れの状態となり、ABCは澤田を『てなもんやシリーズ』から外すべく、1968年(昭和43年)3月29日の放送を以て終了とし、全面リニューアルをかける。 当時、ABCと専属契約をしていた香川は後継となった『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』そして『スコッチョ大旅行』まで約3年間、この時間に放送されたコメディ番組の脚本を引き続き担当したが、スポンサーの前田製菓は当番組の終了と同時に降板、『一本槍』以降は藤田の発する決め台詞も変わりさらにイメージを落とす。視聴率と重要スポンサーを同時に失う原因を作ったとして澤田はABC社内で「戦犯扱い」を受け、『ABC上方落語をきく会』事務局担当へ左遷。ディレクターの職務からも外され、のちの「社籍を残したままでの『東阪企画』設立」への伏線を作る結果となった。 藤田も『スコッチョ』までこの時間帯のコメディドラマに出演した後、1973年(昭和48年)の『必殺仕置人』以降、いわゆる『必殺シリーズ』では本格時代劇を演じた。さらに1988年(昭和63年)スタートの『はぐれ刑事純情派』では現代を舞台にした刑事ドラマと芸域を広げ、終生にわたりABCテレビ・テレビ朝日系列のドラマで活躍した。その一方、ネットチェンジ後のMBS・TBSテレビのドラマへの出演は少なくなっていた。 後年、藤田は前田製菓の別の商品のラジオCMに出演し「あたり前田のセサミハイチ。最近は、これですわー」と言っている。本番組のパロディである。そのパロディはすでに当番組の放送中に行っていた。一つは、日本テレビ系列のコメディ番組『俺はすけてん』(1964年放送。主演:人見きよし)で、第1回目に藤田が小坊主の「鈍念」、白木が「くずかけの時次郎」と、お互いの役柄を交換して出演した。二つ目は、同局放送のバラエティ『マイ・チャンネル!』(1967年放送)で、第1回目のゲストの藤田が当番組のパロディをやっていた。「藤田まことさんをしのぶ会」にて当時のVTRが放映されたが、黒柳徹子は当時生放送の裏番組(NHK)に出演しており、「てなもんや三度笠を一度も見たことがなかったせいで『あたり前田のクラッカー』に爆笑をしてしまった」と語っている。 2008年(平成20年)2月15日 NHK大阪放送局(関西ローカル)で放送された『かんさい特集 きよしとよしみの浪速ナイトショー』の中で藤田と白木が数年ぶりに競演を果たし、藤田は「2008年の目標で、もう一度『てなもんや三度笠』をやりたい」とコメントした。 当時はビデオテープが高価だったことなどから、放送局でも放送が終了した作品映像の上に、上書き再使用が行われていたために、当時の映像は残っていない場合がほとんどで、この番組も例外ではない。しかし演出の澤田隆治が、当時登場したばかりで高価だったオープンリール式モノクロームのビデオレコーダーを個人で購入し、最後の約1年ほどの分を録画した。ただし、再生不能なテープも多く、再生可能の数十本のみが、市販用のVHS・DVDとしてリリースされている。さらに放送では晩年には、当番組もカラー放送を始めたが、家庭用オープンリール式のビデオレコーダーは、モノクロームで録画される製品しかなかったために、カラー放送時に録画を行った話数には、カラーの文字テロップが映り込んでいるが、残っている映像は白黒のモノクローム映像しか存在していない。 また澤田の録画分とは別に、キネコで録画された第218話「奥入瀬の襲撃」(1966年7月3日放送)も残っており、コナミから発売されたビデオにのみ収録されていた。なお放送ライブラリーではこの第218話のほか、『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』が各1本収蔵されており、視聴することができる。 本作の終了から約51年後の2019年、CSの時代劇専門チャンネルにおいて、全309話の中から選りすぐりの傑作エピソード8話が7月28日より4週にわたって放送された。放送されたエピソードの中には、前述の第218話と同じくキネコで収録された第164話「賤ヶ岳の夢」や、長らく再生不能とされていた第301話「長島の難船」も含まれている。第250話「深川の脱走」も再生可能だったようで、後日2020年10月4日に放送されている. 本作の時代劇専門チャンネルでの放送に先駆けて、特別番組『これが伝説の舞台裏!てなもんや奮闘記 - てなもんや三度笠 特別番組 - 』が同チャンネルで前後編というかたちで放送された。本番組では、徳光和夫をメインMCに、演出を手がけていた澤田隆治や、本作の最後期のレギュラー出演者であった山本リンダや西川きよしをゲストに迎え、本作の放送当時の裏話や時代背景をうかがったり、山本・西川の二人が本作の一部エピソードを再現したりするなど、本作の放送当時の裏側を垣間見ることができる内容であった。 水島新司、山根赤鬼、石井いさみ、藤木てるみにより漫画化されている。
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『てなもんや三度笠』(てなもんやさんどがさ)は、1962年(昭和37年)5月6日から1968年(昭和43年)3月31日まで朝日放送制作・TBS系列で放送されたテレビコメディ番組。全309回放送。ほとんどの時期が白黒放送だが、末期の1967年(昭和42年)12月17日の第294話からはカラー放送になった。放送時間は、毎週日曜18:00 - 18:30(JST)。前田製菓の一社提供。
{{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = てなもんや三度笠 | 画像 = | 画像説明 = | ジャンル = [[喜劇|コメディ]] | 放送時間 = 日曜 18:00 - 18:30 | 放送分 = 30 | 放送枠 = | 放送期間 = [[1962年]][[5月6日]] - [[1968年]][[3月31日]] | 放送回数 = 309 | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[朝日放送テレビ|ABC]] | 企画 = | 製作総指揮 = | 監督 = | 演出 = [[澤田隆治]] | 原作 = | 脚本 = [[香川登志緒]] | プロデューサー = | 出演者 = [[藤田まこと]]<br />[[白木みのる]]<br />[[香山武彦]]<br />[[財津一郎]]<br />[[原哲男]]<br />ほか | 音声 = | 字幕 = | データ放送 = | OPテーマ = 「てなもんや三度笠」(藤田まこと) | EDテーマ = | 時代設定 = [[江戸時代]]末期から[[明治時代]]初期 | 番組名2 = てなもんや三度笠 東海道超特急シリーズ | 放送期間2 = [[1964年]][[12月31日]] | 放送時間2 = [[木曜日|木曜]]22:00 - 23:45 | 放送分2 = 105 | 放送回数2 = 1 | 外部リンク = | 外部リンク名 = | 特記事項 = [[前田製菓]]の単独[[提供]]番組。 当時は、[[TBSテレビ]]([[JNNネットワーク]])系列で全国[[ネット]]していた。 }} 『'''てなもんや三度笠'''』(てなもんやさんどがさ)は、[[1962年]]([[昭和]]37年)[[5月6日]]から[[1968年]](昭和43年)[[3月31日]]まで[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作・[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]で放送された[[テレビ番組|テレビ]][[喜劇|コメディ番組]]。全309回放送。ほとんどの時期が[[モノクローム|白黒]]放送だが、末期の[[1967年]](昭和42年)[[12月17日]]の第294話からは[[カラーテレビ|カラー]]放送になった。放送時間は、毎週日曜18:00 - 18:30([[日本標準時|JST]])。[[前田製菓]]の[[一社提供]]。 == 概要 == [[リサイタルホール|ABCホール]]での公開放送形式による、[[時代劇]]風[[喜劇|コメディ]]<ref>{{Cite book|和書|editor=講談社|title=TVグラフィティ : 1953年〜1970年ブラウン管のスター・ヒーロー・名場面1700|publisher=講談社|date=1978-04-03|pages=154 - 155|id={{NDLJP|12275878/81}}}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=[[志賀信夫]]|title=テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|date=1984-08-01|pages=82 - 84|id={{NDLJP|12275392/45}}}}</ref>。 番組初期の時代には録画した[[ビデオテープ]]を編集する技術がまだ確立していなかったため、[[生放送]]風の[[撮って出し]]収録であったが(2日前の金曜昼12:15 - 12:45{{efn|サラリーマンでも休憩時間に観てもらえるように、との配慮から。}}に収録)、末期の[[1968年]](昭和43年)には[[ABCセンター]]からのスタジオ収録放送となった(昼収録は変わらずだったが、収録曜日が変動になった)。スタジオに組まれたセットの中で、スピーディーに展開する物語を生本番でミスなく演じる出演者と、それを支えるスタッフの姿はまさに職人芸と言えるものであったと語り継がれている{{efn|撮って出しであるため、物語が早く終了した場合は尺埋めとして[[金魚鉢]]の映像で凌いだこともあった<ref>『[[ABCお笑い60年史 てなもんやからM-1まで いま明かされるマル秘伝説]]』コメディ伝説より</ref>。}}。[[1967年]](昭和42年)[[3月19日]]放送、第255話「上野の戦争」の[[官軍]]と[[彰義隊]]の砲撃戦シーンでは2トンの火薬が使用されており、カメラが衝撃で何度もブレている。 1967年(昭和42年)[[12月7日]]放送、第294話「熱田の絵師」は、ABC制作のカラー番組第一号であった<ref>{{Harvnb|abc50|p=59}}</ref>。 商品名とかけた「'''俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!'''」や、「'''非ッ常にキビシ〜ッ!!'''」、「'''許して…チョーダイ!!'''」などの[[流行語]]も生み出した。 その後も、[[1971年]](昭和46年)まで続編2作品(『[[てなもんや一本槍]]』、『[[てなもんや二刀流]]』)と、同じキャストによる現代劇コメディー『スコッチョ大旅行』が製作された。ただし、これら3作品に演出の[[澤田隆治]]は関与しておらず、脚本の[[香川登志緒]]のみの続投となった。さらにスポンサーの前田製菓も、本作終了とともにスポンサーを降板している{{efn|続編シリーズは[[久光製薬]]の提供となり、主力商品「サロンパス」にかけた決め台詞があった。}}(詳細は下述の[[てなもんや三度笠#番組の終了|「番組の終了」]]参照)。 == 番組の流れ == # 提供表示・女性(山口紀久子)によるCM(提供アナウンスは「良い子のおやつでおなじみの前田製菓の時間が参りました」、クレジットには子供兄妹と思われる人形が飾られ、そこに前田のランチクラッカーが添えられて、字幕「提供 前田製菓」が入る。また放送末期では一枚絵で真ん中に字幕「提供 前田製菓」が入り、その周りにカラフルな水玉模様が描かれたバージョンになっている) # アバンタイトル・あんかけの時次郎と斬られ役(初期は的場達雄、後期は原哲男)によるコント。鐘の音とともにお堂から時次郎が現れ、「'''ええ、あっしゃあ泉州は信太の生まれ、あんかけの時次郎。義理には強いが人情にゃ弱い、男の中の男一匹…'''」と口上を述べていると、毎回さまざまな扮装をした原が現れて一悶着したところで、時次郎が「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と締める(稀に違う台詞もある)。 # オープニング # 本編(途中テロップCMが挿入される) # 視聴者へのクイズ(前田製菓の製品に関する穴埋め問題など) # 白木みのると原哲男{{efn|時折、ゲスト出演者(例として[[関敬六]]など)が登場することも稀にあった。}}(初期は白木みのる単独)によるCM # [[次回予告]]・提供表示・(提供アナウンスは「提供は良い子のおやつでおなじみの前田製菓でした」、クレジットには子供兄妹と思われる人形が飾られ、そこに前田のクラッカーが添えられて、字幕「提供 前田製菓」が入る)・クロージング(アナウンスは「いつも楽しい『てなもんや三度笠』、来週もきっと見てくださいね」) == 出演者 == === てなもんやコンビ === ;あんかけの時次郎(あんかけのときじろう):[[藤田まこと]](この番組が「出世作」となる) : [[三度笠]]をかぶり各地を放浪する[[ヤクザ|渡世人]]。[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]の主演映画「[[沓掛時次郎|沓掛(くつかけ)時次郎]]」([[1961年]]・[[大映]])の[[パロディ]]。顔が長いところから、[[ウマ|馬]]呼ばわりされる。 ;珍念(ちんねん):[[白木みのる]] : 第3話から登場、時次郎の相棒の小坊主。口が達者で小生意気。食べ物に目がない。時次郎が馬呼ばわりされるのに対し、珍念は[[イイダコ]]呼ばわりされている。 === アバンタイトル・斬られ役 === ;初代:[[的場達雄]] : 本業は[[殺陣|殺陣師]]。体調不良のため、[[1965年]](昭和40年)春までの出演。 ;2代目:[[原哲男]] : 本編でも脇役での登場が多く、主に敵役で[[カバ]]呼ばわりされていた。原は番組終了後[[1990年]](平成2年)まで出演していた[[吉本新喜劇]]でも「カバ」のあだ名で親しまれ、十八番の'''「誰がカバやねん」'''のネタは実質、当番組から生まれた。{{main|原哲男#来歴・人物}} :: 第255話・第256話(東北編の最後と甲州編の最初)では[[新門辰五郎]]役で登場、[[彰義隊]]の供養のための100両を時次郎に預ける。 === 準レギュラー === ;[[鼠小僧|鼠小僧次郎吉]](ねずみこぞう じろきち):[[南利明 (俳優)|南利明]] : いわずと知れた[[義賊]]だが、今作では何故か[[名古屋弁]]。全シリーズに不定期登場。道中「てなもんやコンビ」とよく遭遇し、機嫌がよければ酒代や宿代を気前よくおごることもある。さまざまな[[変装|扮装]]で登場するが、飴屋売り姿が一番多い。 :: [[脱線トリオ]]のメンバーであった[[由利徹]]や[[八波むと志]]が、それぞれ別々にゲスト出演し南利明と共演している。 ;お銀(おぎん)・千太(せんた):[[京唄子]]・[[鳳啓助]] : [[スリ]]の姉御お銀と子分千太は、旅して歩くスリのコンビ。初期から不定期登場しているが、甲州編以降の後期シリーズになってから頻繁に登場している。お銀は口が大きいのをネタにされているが、大口開けて嵐を起こしたこともあり[[妖怪]]呼ばわりされてしまう。 === シリーズ・レギュラー === ==== 東海道編(第1話 - 第53話) ==== ;水上三四郎(みなかみ さんしろう):[[入川保則]] : [[木戸孝允|桂小五郎]]から、[[江戸]]の[[西郷隆盛]]に宛てた密書を託された。 ;浪路(なみじ):[[山東昭子]] : 武家娘。三四郎とともに江戸へ向かう。 ;三平(さんぺい):[[平参平]] : [[岡っ引|目明かし]]。足カックンが、お約束のネタ。 ==== 中仙道編(第54話 - 第90話) ==== ;駒下駄茂兵衛(こまげたのもへい):[[香山武彦]] : 桁外れの[[えびすこ|大喰らい]]のために、[[相撲部屋]]を[[破門]]された[[力士養成員|取的]]。[[大阪|大坂]]へ帰る「てなもんやコンビ」と行動を共にし「てなもんやトリオ」となり「知恵は珍念、力は茂兵衛、顔の長いは時次郎」と、よく歌っていた。 ==== 山陽・九州・四国編(第91話 - 第150話) ==== ;[[西郷隆盛]](さいごう たかもり):[[柳家金語楼]] : 貫禄も[[九州男児]]っぽさもない人物として登場。 ;道化(どうけ):[[博多淡海 (2代目)|博多淡海]] : [[大衆演劇|旅役者]][[一座]]の[[俳優|役者]]だが、[[博多弁]]なまりが抜けないため[[道外方|道化方]]をしている。 ;熊(くま){{efn|のちに[[やすし・きよし]]がスペシャルにゲスト出演したときには[[明石家さんま]]が熊の中に入っており、やすしはきよしのように熊に入ると出世するとさんまに言っている。}}:[[西川きよし|西川潔]] : 文字通りの[[クマ|熊]]であり、着ぐるみで顔の出ない[[端役]]{{efn|元来、端役の場合は名前を紹介されることはない(西川は[[吉本興業]]所属なので「吉本コメディアン」というくくりにされるところだった)。西川の真面目な舞台稽古ぶりに番組スタッフが感心し、特別に名前の紹介を許された。}}。[[大歩危]]にて出没後、不定期登場。 ==== 北陸・佐渡・蝦夷地編(第151話 - 第217話) ==== ;ちょろ松(ちょろまつ):[[ルーキー新一]] : 大坂の豪商[[鴻池幸富|鴻池善右衛門]]に仕える[[丁稚]]。服の胸(乳首)の部分を両手で摘み上げての「いやーん、いやーん」が、お約束のネタ。 ;松平竹千代(まつだいら たけちよ):[[茶川一郎]] : 『[[てんてこ漫遊記]]』の[[主人公]]で、番組枠を越えた[[コラボレーション]]として登場。 =====放送リスト===== {| class="wikitable" !放送回数 !サブタイトル |- |151 |住吉の茶屋 |- |164 |賤ヶ岳の夢 |- |217 | |} ==== 東北編(第218話 - 第255話) ==== ;まゆみ:[[野川由美子]] : 謎の女として登場。正体は[[柴田氏|柴田家]]の「姫」であった。 ;蛇口一角(へびぐち いっかく):[[財津一郎]] : [[浪人]]。柴田家復興後は、まゆみ姫の家臣となる。舌を伸ばして、しつこく刀を舐め回す仕草が多いため[[ヘビ]]呼ばわりされる。奇声を発し「キビシ〜ッ!!」または「ちょ〜だい!!」などの流行語を生み出す。一角の名前は、[[清水一学|清水一角]]のパロディ。 ;[[天野八郎]](あまの はちろう):[[芦屋雁之助]] : [[彰義隊]]の隊長として登場(実在人物は副隊長)。隊長としての貫禄はあるが、なぜか時折おばちゃん口調になる。 :: のちの第293話では別役で登場し、[[芦屋小雁]]と[[芦屋雁平]]との兄弟での共演となった。 ;[[山岡鉄舟|山岡鉄太郎]](やまおか てつたろう):[[里見浩太朗|里見浩太郎]] : 江戸の町の戦火から守るため、彰義隊を解散するように何度もかけあうが、おばちゃん口調の天野八郎に毎度はぐらかされてしまう。 =====放送リスト===== {| class="wikitable" !放送回数 !サブタイトル |- |218 |奥入瀬の襲撃 |- |219 |十和田湖畔 |- |220 |発荷峠の惨劇 |-f |221 |谷間の小鷹 |- |222 |花輪の長者 |- |223 |盛岡の花嫁 |- |224 |花巻の観音堂 |- |225 |北上の水難 |- |226 |平泉の切腹 |- |227 |松島さわぎ |- |228 |塩釜の水色 |- |229 |仙台の縛り地蔵 |- |230 |劔風白石堤 |- |231 |飯坂の陰謀 |- |232 |福島の逆襲 |- |233 |安達原の廃家 |- |234 |三春のデコ屋敷 |- |235 |須賀川の火祭 |- |236 |白河の紅葉 |- |237 |棚倉のこんにゃく |- |238 |矢祭山の朝霧 |- |239 |袋田の待ち伏せ |- |240 |水戸の牢獄 |- |241 |小幡の輪子 |- |242 |仁王門の血闘 |- |243 |高浜の夕暮 |- |244 |鹿島の正月 |- |245 |銚子の顔役 |- |246 |佐原の醤油屋 |- |247 |成田の祈願 |- |248 |千葉の城跡 |- |249 |ここは木更津 |- |250 |深川の脱走 |- |251 |神田の陸軍所 |- |252 |柳橋の乱戦 |- |253 |本願寺門前 |- |254 |花の御殿山 |- |255 |上野の戦争 |} ==== 甲州編(第256話 - 第269話) ==== ;早瀬数江(はやせ かずえ):[[水前寺清子]] : 当初は「早瀬数馬」と名乗り、[[男装]]して旅をしていた。[[甲府]]にいる兄に会うためであるが、実は従兄であり[[許婚]]でもあった。 ;[[河内山宗春|河内山宗俊]](こうちやま そうしゅん):[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]([[てんぷくトリオ]]) : お城勤めをお役御免となり、乞食坊主となる。丑松と雨之丞を子分に従え、時次郎の持っている100両を狙っている。第293話までトリオで登場し、時次郎と顔合わせるたびに「改心した」と言うものの実は改心していない。 ;暗闇の丑松(くらやみのうしまつ):[[戸塚睦夫]](てんぷくトリオ) : 時次郎が100両持っているという情報を嗅ぎつけ「てなもんやコンビ」の後をつけていた。河内山宗俊と雨之丞に出会い100両横取り計画を持ちかけるが、宗俊の子分にさせられる。 ;中村雨之丞(なかむら あまのじょう):[[伊東四朗]](てんぷくトリオ) : 歌舞伎の女形。師匠に暴力をふるいヒマを出され、江戸に帰る途中に河内山宗俊と出会い無理矢理一味に加えられた。 =====放送リスト===== {| class="wikitable" !放送回数 !サブタイトル |- |256 |これより甲州路 |- |257 |府中の愛憎 |- |258 |日野の悪玉 |- |259 |八王子の女侠 |- |260 |小仏の間道 |- |261 |与瀬の掛小屋 |- |262 |吉野の壁ぬり |- |263 |甲斐の猿橋 |- |264 |哀怨笹子峠 |- |265 |石和の遭遇 |- |266 |甲府の金函 |- |267 |浅原の首吊り |- |268 |月の鰍沢 |- |269 |身延の寄進 |} ==== 再び東海道編(第270話 - 第296話) ==== ;桜富士夫(さくら ふじお):財津一郎 : 欧米諸国で撮影技術の修行したと自称する写真師。いつも[[三脚]][[カメラ|写真機]]を肩に担いでおり、蛇口一角以上の変人ぶりをみせる。「てなもんやコンビ」と行動を共にし、「てなもんやトリオ」として最終シリーズまで出演した。富士夫の名前の由来は、フィルムブランド([[コニカ|サクラカラー]]〔のちの「[[コニカ|コニカカラー]]」→「[[DNPフォトルシオ]]」〕と[[富士写真フイルム|フジカラー]])から。 =====放送リスト===== {| class="wikitable" !放送回数 !サブタイトル |- |270 |岩渕の泣き笑い |- |271 |蒲原の寺小屋 |- |272 |由井の写真師 |- |273 |興津のあばらや |- |274 |江尻の野心家 |- |275 |府中の親切 |- |276 |宇津谷の鬼女 |- |277 |岡部の傍仗 |- |278 |藤枝の汁粉屋 |- |279 |島田の刀工 |- |280 |大井川の義憤 |- |281 |日坂の捨子 |- |282 |掛川の馬泥棒 |- |283 |袋井の悪童 |- |284 |見附の歌くらべ |- |285 |浜松のなみだ傘 |- |286 |舞坂の助太刀 |- |287 |新居の昼酒 |- |288 |二川の聖者 |- |289 |御油の万歳 |- |290 |赤坂の婚礼 |- |291 |藤川の水車小屋 |- |292 |岡崎の武勇伝 |- |293 |鳴海の別離 |- |294 |熱田の絵師 |- |295 |桑名の浦島 |- |296 |四日市暮色 |} ==== 鯨編(第297話 - 第309話) ==== ;おこま:[[山本リンダ]] : 江戸の[[見世物小屋|見世物師]]の娘。亡き父の意志を継ぎ、見世物用の[[クジラ|鯨]]を生け捕りにするため旅に出た。 ;かも平(かもへい)・ねぎ作(ねぎさく):[[横山やすし・西川きよし]] : おこまのお供で、荷物持ち。ドジが多い。 :: やすし・きよしは別役で、山賊の一味(第268話)や百姓(第279話)で登場していた。 ;四ツ目屋東十郎(よつめや とうじゅうろう):[[トニー谷]] : 江戸の興行師で、おこまの父とはライバル関係。おこまの計画を邪魔し、鯨の横取りを狙っている。 =====放送リスト===== {| class="wikitable" !放送回数 !サブタイトル |- |297 |二見の乙女 |- |298 |日和山の決闘 |- |299 |朝熊の逢引 |- |300 |風流おうむ石 |- |301 |長島の難船 |- |302 |八鬼山の猟師 |- |303 |鬼ヶ城の盗賊 |- |304 |新宮の秘薬 |- |305 |那智の代参 |- |306 |勝浦の恩讐 |- |307 |太地の鯨方 |- |308 |運命の一夜 |- |309 |いざや帰らん |} === ゲスト === ;天王寺屋塔兵衛(てんのうじや とうべえ):[[伴淳三郎]] : 時次郎の親分。威厳があるのかないのか、つかみどころがない人物。 :: 記念すべき第1話のゲストであり、用心棒役の[[堺駿二]]のほかに、[[曾我廼家五郎八]]、[[石井均]]、[[吉田義夫]]が出演。 ※このほか、[[星十郎]]、[[岸田一夫]]、[[大村崑]]、[[高橋元太郎]]、[[榎本健一]]、[[世志凡太]]、[[花菱アチャコ]]、[[中田ダイマル・ラケット]]、[[コント55号]]、[[チャンバラトリオ]]、[[漫画トリオ]]、[[ザ・ドリフターズ]]、[[かしまし娘]]、[[清川虹子]]、[[E・H・エリック]]、[[ザ・タイガース]]など、東西の人気スターが毎回ゲスト出演した。 == スタッフ == *脚本:[[香川登志緒]] *演出:[[澤田隆治]] *音楽:[[野口源次郎]] *美術:[[阪本雅信]] *殺陣振付:的場達雄 *TK:昼間里紗 *タイトル:[[川串誠]] *制作著作:ABC ※[[TBSテレビ系]]列の[[全国]][[ネット]][[番組]]でもあった。 == 主題歌・劇中歌 == * 『てなもんや三度笠』オープニング。作詞:[[香川登志緒]] 作曲:[[林伊佐緒]] 歌:藤田まこと(キングレコード) * [[宮さん宮さん]] 東北編(第218話 - 第255話)の中盤から終盤にかけて官軍の兵士が時折口ずさんでいた日本最初の軍歌とされる歌。ちなみに第254話「花の御殿山」(1967年(昭和42年)3月12日放送)の冒頭で、この歌の替え歌を時次郎とカバみたいな少年(原哲男)が輪唱で歌うシーンがあるが、その際、この歌詞の内容{{efn|「あんかけの時次郎」そのものである。また、第254話の終盤では、本曲の歌詞の内容と官軍行動隊長の[[益満休之助]]([[玉川良一]])の挑発的態度に激怒した時次郎が、休之助に金的蹴りを喰らわすというシーンがある。}}に激怒した時次郎が、その少年を「'''何や!'''」と突き飛ばした後、お馴染みの決め台詞「あたり前田のクラッカー」をこの曲の替え歌に乗せて歌った。 *『(仮題名)てなてなもんやてなもんや』始まってから二人が登場するシーンの直前に前奏が流されはじめ、「♬〜〜時次郎さんは〜┉」と唱いはじめ、そのときの状況を歌詞にして、最後の部分には「♬てなてなもんやてなもんや~~てなもんや~」と並んで唄う劇中歌が登場時に唱われた。 == 視聴率 == 最高視聴率としては、[[関西地区]]([[朝日放送テレビ|ABCテレビ]])で60%台、[[関東地区]]([[TBSテレビ]]:当時)でも40%台を記録した人気番組であった<ref>朝日新聞社 『聞蔵IIビジュアル』 1998-10-01 夕刊 p.5</ref>。 {{出典の明記|section=1|date=2014-11}} 番組開始当初は時間帯的不利(当時、日曜は外出していてテレビを観ないという風潮があった)なこともあり「せめて[[東海道五十三次]]を走破できる53回までできれば」と、1年も持てばもうけものと考えられていた。当初の視聴率は10%いかないこともあったものの、徐々に視聴率は上昇。やがて平均視聴率30%という「お化け番組」へと成長した。 番組開始当初の視聴率([[エーシーニールセン|ニールセン]]調べ)は関西で15.5%、関東で6.0%と低調だったが<ref>{{Harvnb|abc50|p=57}}</ref>、在宅率の高い雨の日となった1962年(昭和37年)5月27日放送の第4話では関西で27.3%、関東で14.4%を記録<ref name=abc50_58>{{Harvnb|abc50|p=58}}</ref>。10月21日放送では関西で24.8%、関東で20.2%を記録した<ref name=abc50_58 />。 ;[[エーシーニールセン|ニールセン]]調査の視聴率データ<ref name=shiga_306 /> *[[関東地方|関東地区]](東京):平均視聴率26.6%<ref name=abc50_58 /><ref name=shiga_306>[[志賀信夫]]『テレビを創った人びと―巨大テレビにした人間群像』[[日本工業新聞社]]、1979年、306頁。(『テレビ番組論 見る体験の社会心理史』(読売テレビ放送、1972年)からの引用として掲載)</ref>、最高視聴率42.9%<ref name=abc50_58 /><ref name=shiga_306 /> *[[近畿地方|関西地区]](大阪):平均視聴率37.5%<ref name=abc50_58 /><ref name=shiga_306 />、最高視聴率64.8%<ref name=abc50_58 /><ref name=shiga_306 />(1966年2月20日放送<ref name=abc50_58 />) == 放映ネット局(特記以外はTBS系列) == {{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} *朝日放送(制作・幹事局、現在:[[朝日放送テレビ]]) *東京放送(現在:[[TBSテレビ]]) <!-- 北海道放送は、1962年5月 - 1968年3月の『北海道新聞』(マイクロフィルム版)のテレビ欄に一度も時差および同時でも掲載されていない。--> <!-- 青森放送・岩手放送・秋田放送の3局は、1964年7月から1967年9月までの『河北新報』テレビ欄に時差および同時でも掲載されていない。 --> *[[山形放送]](日本テレビ系列):1963年から1965年9月までは同時ネット。1965年10月から1966年2月までは日曜9:00 - 9:30に放送<ref>『[[福島民報]]』1963年6月16日 - 1966年2月20日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *[[東北放送]]:1964年5月から放送終了まで<ref>『福島民報』1964年5月3日 - 1968年3月31日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *[[福島テレビ]](当時は日本テレビ系列):1963年4月開局から1964年2月まで<ref>『福島民報』1963年4月7日 - 1964年2月23日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *[[新潟放送]]★:1964年から1965年9月まで日曜9:00 - 9:30に放送<ref>『福島民報』1964年8月2日 - 1965年9月26日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *[[信越放送]] *[[山梨放送]](日本テレビ系列)★ *[[静岡放送]]:1967年12月時点では同時ネット<ref>『[[静岡新聞]]』1967年12月17日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *中部日本放送(現在:[[CBCテレビ]]) *[[北日本放送]](日本テレビ系列)★ *[[北陸放送]] *[[福井放送]](当時は日本テレビ系列単独加盟局)★ *[[山陰放送]](当時の放送免許エリアは[[島根県]]のみ) *[[RSKテレビ|山陽放送]](現在:[[RSK山陽放送]]。当時の放送免許エリアは[[岡山県]]のみ)★:1964年11月時点では日曜9:00 - 9:30に放送<ref name="e64111">『[[愛媛新聞]]』1964年11月1日付朝刊、テレビ欄。</ref>。 *[[中国放送]](1967年まではラジオ中国):1964年11月時点では同時ネット<ref name="e64111" />。 *[[山口放送]](日本テレビ系列)★:1964年9月 - 11月時点では日曜10:00 - 10:30に放送{{efn|当時大半が別編成だった徳山局・関門局とも同時間帯<ref>『[[読売新聞]]』([[読売新聞西部本社|西部本社]]版)1964年9月27日付朝刊、テレビ欄。</ref>。}}<ref name="e64111" />。 *[[四国放送]](日本テレビ系列)★ *[[西日本放送テレビ|西日本放送]](日本テレビ系列。当時の放送免許エリアは[[香川県]]のみ)★ *[[南海放送]](日本テレビ系列。1963年1月 - )<!--「地域とともに三十年 南海放送」P105-->:1964年11月時点では同時ネット<ref name="e64111" />。 *[[高知放送]](日本テレビ系列)★ *[[RKB毎日放送]]<!--「+rkb」という表記はデジタル放送化後につき、この番組の記事で用いるのは間違い。デジタル放送開始前の各番組の記事についても同様。--> *[[長崎放送]] *[[熊本放送]] *[[大分放送]]★:1964年11月時点では日曜9:00 - 9:30に放送<ref name="e64111" />。1964年10月時点では本来の時間帯は『[[鉄人28号 (テレビアニメ第1作)|鉄人28号]]』を放送していた。<ref>[https://mobile.twitter.com/guchikawa618/status/1137925707676364802/photo/1 1964年10月4日の読売新聞テレビ欄]</ref> *[[宮崎放送]] *[[南日本放送]] *[[琉球放送]]★(当時は[[アメリカ合衆国]]の統治下でTBS系列にはオブザーバー参加。1965年2月から最終回まで) (無印=同時ネット、★=遅れネット) TBS系列局不在地域では日本テレビ系列局(当時は[[ニュース系列]]の[[日本ニュースネットワーク|NNN]]のみ放送期間中の[[1966年]][[4月1日]]に成立)でカバーした。また、TBS系列局でも他系列遅れネット番組などの関係で遅れネットとする局があった。 制作局のABCは当時TBS系列だったが、その後[[毎日放送|MBS]]との[[ネットチェンジ|ネット交換]]により、[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]](当時は、NETテレビ系列)にネットチェンジしていることから、[[テレビ朝日]]が開局30周年記念番組の中で、ABCがTBS系列時代に制作した過去の番組として紹介したことがあった。その中でMBSとのネット交換や『[[ヤングおー!おー!]]』が当初NETで放送されていたことについても併せて説明されたが、『ヤングおー!おー!』の映像はNET系時代(関東地区での[[テレビ東京|東京12チャンネル]]へのネット期間を含む)のものが現存していないため、TBS系移行後のものを使用していた{{efn|番組中では司会の[[芳村真理]]が、「それでは、朝日放送さん、毎日放送さんよろしくお願いします」と発言した後、『ヤングおー!おー!』に出演していた[[桂文枝 (6代目)|桂三枝(現:6代目桂文枝)]]がネットチェンジについて説明した。}}。 一方のTBSでも開局60周年特番の中で当番組を紹介した際、進行役の[[安住紳一郎]]アナから当番組放送時の大阪でのTBS系列局は1975年までABCで、その後MBSが系列局になる旨の補足説明があった。 == 大晦日スペシャル == 「中仙道編」継続中の[[1964年]][[12月31日]]([[木曜日]])には、『[[第15回NHK紅白歌合戦]]』の対抗番組として、唯一のスペシャル版『'''唄と笑いの総決算 特別ワイドコメディー てなもんや三度笠 東海道超特急シリーズ'''』を、22:00 - 23:45で放送した。 番組は3パートからなり、第1部は「花の京洛」、第2部は「尾張の月」、第3部は「雪の大江戸」という構成。そして第1部と第3部は通常版と同じABCホールからの収録だったが、第2部はABCスタジオからの収録だった。 出演者は本編の藤田・白木・香山をはじめ、[[月形半平太]]役に[[高田浩吉]]、[[清水次郎長]]役に[[鶴田浩二]]、そのほか、[[村田英雄]]・[[島倉千代子]]・[[長門勇]]・茶川一郎・[[天野新二]]・平参平・[[桜京美]]・[[高田夕起夫]]・[[天知茂]]・[[北原謙二]]・芦屋雁之助・芦屋小雁・[[高石かつ枝]]・[[人見きよし]]・藤純子・堺駿二と、豪華なメンバーがそろっている。<!--「テレビドラマデータベース」より--> == 番組の終了 == 同じ澤田と香川のコンビで制作され、日曜昼に放送されていた『[[スチャラカ社員]]』とともに絶頂を誇った当番組は、2人の対立がきっかけで転機を迎えることになる。 [[1966年]](昭和41年)に朝日放送本社が大阪・[[中之島 (大阪府)|中之島]]の[[新朝日ビルディング]]から[[日本国有鉄道|国鉄]][[大阪駅]]北側の[[大淀 (大阪市)|大淀]]に新設された[[ABCセンター]]へ移転し、やはり公開収録されていた『スチャラカ』の客層が様変わりする。澤田は、時代の流れに合わせたギャグを導入するように香川に求める。しかしこれは香川が目指していた喜劇のスタイルと相反し、受け入れられるものではなかった。香川は「視聴率優先でギャグを作れなんて自分には無理。もうこれ以上書けまへん」とさじを投げ、[[1967年]](昭和42年)[[4月30日]]、『スチャラカ』は6年あまり続いた歴史の幕を閉じる。{{main|スチャラカ社員#ABCセンターと転機|よしもと新喜劇#地方への番販と打倒ABC}}{{see also|日曜笑劇場#腸捻転時代}} こうして2人の共同作業は当番組だけとなるが、1年間で3回のシリーズ変更をする。視聴率第一主義の澤田と、出演者の特性を理解したギャグを書き続けたかった香川の路線対立が『スチャラカ』だけでなく当番組にも飛び火したかたちとなる。2人はほぼケンカ別れの状態となり{{efn|[[小林信彦]]『日本の喜劇人』によれば、決定的に感情のもつれを招いた原因は、双方の「アクの強さ」である、としている。}}、ABCは澤田を『てなもんやシリーズ』から外すべく、[[1968年]](昭和43年)3月29日の放送を以て終了とし、全面リニューアルをかける。 当時、ABCと専属契約をしていた香川は後継となった『[[てなもんや一本槍]]』『[[てなもんや二刀流]]』そして『[[スコッチョ大旅行]]』まで約3年間、この時間に放送されたコメディ番組の脚本を引き続き担当したが、スポンサーの前田製菓は当番組の終了と同時に降板、『一本槍』以降は藤田の発する決め台詞も変わりさらにイメージを落とす。視聴率と重要スポンサーを同時に失う原因を作ったとして澤田はABC社内で「戦犯扱い」を受け、『[[上方落語をきく会|ABC上方落語をきく会]]』事務局担当へ左遷。ディレクターの職務からも外され、のちの「社籍を残したままでの『[[東阪企画]]』設立」への伏線を作る結果となった。{{main|スチャラカ社員#ABC日曜夕方枠への影響と澤田の処遇|澤田隆治#朝日放送在職時代}}{{see also|香川登志緒#澤田隆治|てなもんや一本槍#概要}} 藤田も『スコッチョ』までこの時間帯のコメディドラマに出演した後、[[1973年]](昭和48年)の『[[必殺仕置人]]』以降、いわゆる『[[必殺シリーズ]]』では本格[[時代劇]]を演じた。さらに[[1988年]](昭和63年)スタートの『[[はぐれ刑事純情派]]』では現代を舞台にした刑事ドラマと芸域を広げ、終生にわたりABCテレビ・テレビ朝日系列のドラマで活躍した。その一方、[[ネットチェンジ]]後のMBS・[[TBSテレビ]]のドラマへの出演は少なくなっていた。{{main|藤田まこと#必殺シリーズに出演|中村主水#中村主水の誕生}}{{see also|必殺シリーズ#中村主水の主人公問題|はぐれ刑事純情派の登場人物#安浦吉之助}} 後年、藤田は前田製菓の別の商品のラジオCMに出演し「'''あたり前田のセサミハイチ。最近は、これですわー'''」と言っている。本番組の[[パロディ]]である。そのパロディはすでに当番組の放送中に行っていた。一つは、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列のコメディ番組『[[俺はすけてん]]』([[1964年]]放送。主演:[[人見きよし]])で、第1回目に藤田が小坊主の「'''鈍念'''」、白木が「'''くずかけの時次郎'''」と、お互いの役柄を交換して出演した。二つ目は、同局放送のバラエティ『[[マイ・チャンネル!]]』([[1967年]]放送)で、第1回目のゲストの藤田が当番組のパロディをやっていた。「藤田まことさんをしのぶ会」にて当時のVTRが放映されたが、[[黒柳徹子]]は当時生放送の裏番組(NHK)に出演しており、「てなもんや三度笠を一度も見たことがなかったせいで『あたり前田のクラッカー』に爆笑をしてしまった」と語っている。 [[2008年]](平成20年)[[2月15日]] [[NHK大阪放送局]]([[関西ローカル]])で放送された『[[かんさい特集]] [[西川きよし|きよし]]と[[天童よしみ|よしみ]]の浪速ナイトショー』の中で藤田と白木が数年ぶりに競演を果たし、藤田は「2008年の目標で、もう一度『てなもんや三度笠』をやりたい」とコメントした。 == 現存する映像 == 当時はビデオテープが高価だったことなどから、放送局でも放送が終了した作品映像の上に、上書き再使用が行われていたために、当時の映像は残っていない場合がほとんどで、この番組も例外ではない。しかし演出の澤田隆治が、当時登場したばかりで高価だったオープンリール式モノクロームのビデオレコーダーを個人で購入し、最後の約1年ほどの分を録画した{{efn|澤田の回想によれば、「50本あまり」が手許に残っているという<ref>「てなもんや三度笠 爆笑傑作集1」解説書。</ref>。}}。ただし、再生不能なテープも多く、再生可能{{efn|第164話、第218話、第252話 - 第256話、第258話、第259話、第262話、第263話、第266話、第268話、第269話、第275話 - 第280話、第282話、第284話、第286話、第288話、第290話、第291話、第293話、第294話、第296話、第297話、第299話、第300話、第301話、第308話の34回分。}}の数十本のみが、市販用のVHS・DVDとしてリリースされている。さらに放送では晩年には、当番組もカラー放送を始めたが、家庭用オープンリール式のビデオレコーダーは、モノクロームで録画{{efn|カラーで録画、再生が可能な製品は、高額な放送局用のものしか用意されていなかった。家庭用はそれよりは安価であるが、高額には代わりなく一般家庭用オープンリール式ビデオテープレコーダーは、全て白黒のモノクローム映像の録画・再生用の製品しか販売がされていなかった。}}される製品しかなかったために、カラー放送時に録画を行った話数には、カラーの文字テロップが映り込んでいるが、残っている映像は白黒のモノクローム映像しか存在していない{{efn|DVD-BOXの製品や、CSの放送で、カラー放送時代の作品が、“カラー放送”のテロップが出る作品が、白黒のモノクローム映像での放送、また市販用のビデオ収録(VHS、DVD)が行われている。}}。 また澤田の録画分とは別に、[[キネコ]]で録画された第218話「奥入瀬の襲撃」(1966年7月3日放送)も残っており、コナミから発売されたビデオにのみ収録されていた。なお[[放送ライブラリー]]ではこの第218話のほか、『てなもんや一本槍』『てなもんや二刀流』が各1本収蔵されており、視聴することができる。 === ソフト化 === *てなもんや三度笠([[コナミデジタルエンタテインメント|コナミ]]、1巻3話・全4巻、VHS) *てなもんや三度笠 傑作選([[大映]]、発売:ヴイワン、1巻3話・全5巻、VHS) *てなもんや三度笠 決定版([[東阪企画]]、発売:ヴイワン、1巻3話・全5巻、VHS) *てなもんや三度笠 爆笑傑作集([[日本コロムビア]]、1巻2話・全5巻、VHS・DVD) **澤田が[[オープンリール]]で録画されていたものを商品化した。番組は途中でカラー化しているが、ビデオがカラーに対応していないため、すべてモノクロ映像である。 == CSでの再放送 == 本作の終了から約51年後の2019年、CSの[[時代劇専門チャンネル]]において、全309話の中から選りすぐりの傑作エピソード8話{{efn|第164話・第252話 - 第255話・第300話 - 第301話・第308話。}}が7月28日より4週にわたって放送された。放送されたエピソードの中には、前述の第218話と同じくキネコで収録された第164話「賤ヶ岳の夢」{{efn|[[ハナ肇とクレージーキャッツ]]の出演回。}}や、長らく再生不能とされていた第301話「長島の難船」{{efn|[[ザ・タイガース]]・[[E・H・エリック]]の出演回。}}も含まれている。第250話「深川の脱走」も再生可能だったようで、後日2020年10月4日に放送されている. === 特別番組 === 本作の時代劇専門チャンネルでの放送に先駆けて、特別番組『これが伝説の舞台裏!てなもんや奮闘記 - てなもんや三度笠 特別番組 - 』が同チャンネルで前後編というかたちで放送された。本番組では、徳光和夫{{efn|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]アナウンサー時代に、澤田が制作に参画していた『[[ズームイン!!朝]]』でメインキャスターを務めていた。}}をメインMCに、演出を手がけていた澤田隆治や、本作の最後期のレギュラー出演者であった[[山本リンダ]]や[[西川きよし]]をゲストに迎え、本作の放送当時の裏話や時代背景をうかがったり、山本・西川の二人が本作の一部エピソード{{efn|第300話「風流おうむ岩」のおこま(山本)・かも平([[横山やすし]])・ねぎ作(西川)の登場シーンとされる。}}を再現したりするなど、本作の放送当時の裏側を垣間見ることができる内容であった。 == 映画化 == ; 東映版(東映京都撮影所制作)モノクロ、[[シネマスコープ]] :* [[てなもんや三度笠 (映画)#てなもんや三度笠|てなもんや三度笠]](1963年6月9日) [[内出好吉]]監督 :* [[てなもんや三度笠 (映画)#続 てなもんや三度笠|続てなもんや三度笠]](1963年10月13日) 内出好吉監督 ; 東宝版(東宝、宝塚映画、渡辺プロ共同制作)カラー、東宝スコープ(シネマスコープサイズ) :* [[てなもんや東海道]](1966年8月14日) [[松林宗恵]]監督 :* [[幕末てなもんや大騒動]](1967年3月12日) [[古澤憲吾]]監督 :* [[てなもんや幽霊道中]](1967年9月2日) 松林宗恵監督 === 補足 === * 東宝版の内『東海道』と『幽霊道中』は、東宝マーク→制作クレジット→プロローグシーンの一部のみ、モノクロ・スタンダードとなっている。これは、プロローグでモノクロ・スタンダードからカラー・シネスコへと変えるギャグのためである(当時[[東映]]系劇場でテレビ版ブローアップ作品が頻繁に上映されており、それを逆手に取ったギャグだった)。 * 東映版の劇場版は藤田まことが2010年2月に死去したのを受けて同年5月21日にDVD版が緊急発売された(それ以前にVHS版は販売されていた)。 * 一方の東宝版は、[[DVDマガジン]]「昭和の爆笑喜劇」([[講談社]])より、『東海道』が[[2013年]][[8月27日]]に発売、『大騒動』が同年[[9月24日]]、『幽霊道中』が同年[[10月22日]]にそれぞれ発売され、DVDマガジンとはいえ初のDVD化となった。 * 1963年の東映版は、[[俊藤浩滋]]が東映と関わる際に手土産として東映に映画化を持ってきたもの<ref name="映画芸術2011">{{Cite journal | 和書 | author = |date = 2011年8月号 | title = 鎮魂、映画の昭和 岡田茂 安藤庄平 加藤彰 高田純 沖山秀子 長門裕之 | journal = [[映画芸術]] | volume = | publisher = 編集プロダクション映芸 |pages=133-134}}</ref>。しかし脚本を担当した[[野上龍雄]]は根っからの東京人で関西独特の笑いがなじめない。腹を決めて清水の次郎長を狙って日本中から殺し屋がやってくるという話をでっち上げた。当時[[東映京都撮影所]]所長だった[[岡田茂 (東映) |岡田茂]]に呼び出され散々しぼられたという<ref name="映画芸術2011"/>。 == 漫画化 == [[水島新司]]、[[山根赤鬼]]、[[石井いさみ]]、[[藤木てるみ]]により漫画化されている。 ;水島新司版 :[[日の丸文庫]]・[[光伸書房]]より単行本が発行。全2巻。第1巻は[[1964年]]発行。 ;山根赤鬼版 :「[[なかよし]]」([[講談社]])にて1964年 - 1965年に連載。 ;石井いさみ版 :「[[少年現代]]」([[現代芸術社]])に掲載。 ;藤木てるみ版 :「[[りぼん]]」([[集英社]])にて1964年に掲載。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[朝日放送テレビ番組一覧]] ==参考文献== * {{Cite book|和書|editor=朝日放送社史編修室|title=朝日放送の50年|volume=II|volume-title=番組おもしろ史|publisher=朝日放送|year=2000|ref={{SfnRef|abc50}}}} == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20070820175056/http://www.kobe-np.co.jp/rensai/tv50/07.html 神戸新聞 Web News 関西素材 関西風味 テレビ50年 7.公開収録]:番組にまつわるエピソードが記載されている、オリジナルの2007年8月20日のアーカイブ {{前後番組 | 放送局=[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作・[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | 放送枠=[[日曜日|日曜]]18時台前半枠 | 番組名=てなもんや三度笠 | 前番組=[[アチャコのどっこい御用だ]] | 次番組=[[てなもんや一本槍]] }} {{三波伸介}} {{伊東四朗}} {{デフォルトソート:てなもんやさんとかさ}} [[Category:1962年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:朝日放送のバラエティ番組の歴史]] [[Category:日本のコメディ番組]] [[Category:日本のシットコム]] [[Category:朝日放送テレビの一社提供番組]] [[Category:TBSの一社提供番組]] [[Category:かつて存在したTBSの年末年始特番]] [[Category:漫画作品 て|なもんやさんとかさ]] [[Category:1964年の漫画]] [[Category:水島新司の漫画作品]] [[Category:なかよし本誌の漫画作品]] [[Category:キングレコードの楽曲]] [[Category:江戸時代の侠客を題材とした作品]] [[Category:19世紀を舞台とした作品]]
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67(六十七、ろくじゅうしち、ろくじゅうなな、むそじあまりななつ)は、自然数、また整数において、66の次で68の前の数である。
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67(六十七、ろくじゅうしち、ろくじゅうなな、むそじあまりななつ)は、自然数、また整数において、66の次で68の前の数である。
{{整数|Decomposition=([[素数]])}} '''67'''('''六十七'''、ろくじゅうしち、ろくじゅうなな、むそじあまりななつ)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[66]]の次で[[68]]の前の数である。 == 性質 == *67は19番目の[[素数]]である。1つ前は[[61]]、次は[[71]]。 **[[約数]]の和は[[68]]。 *8番目の[[スーパー素数]]である。1つ前は[[59]]、次は[[83]]。 * 67 = 67 + 0 × ''i'' (''i''は[[虚数単位]]) ** a + 0 × ''i'' (a > 0) で表される10番目の[[ガウス整数#ガウス素数|ガウス素数]]である。1つ前は59、次は71。 *6番目の 8''n'' + 3 型の素数であり、この類の素数は ''x''{{sup|2}} + 2''y''{{sup|2}} と表せるが、67 = 7{{sup|2}} + 2 × 3{{sup|2}} である。1つ前は59、次は83。 *3番目の[[非正則素数]]である。1つ前は[[59]]、次は[[101]]である。 * 6 と 7 を使った最小の素数である。次は[[677]]。ただし単独使用を可とするなら1つ前は[[7]]。({{OEIS|A020469}}) ** 67…7 の形の最小の素数である。次は[[677]]。({{OEIS|A093942}}) ** 6…67 の形の最小の素数である。次は666667。({{OEIS|A093170}}) * 67 = 2{{sup|6}} + 3 ** ''n'' = 6 のときの 2{{sup|''n''}} + 3 の値とみたとき1つ前は[[35]]、次は[[131]]。({{OEIS|A062709}}) *** 2{{sup|''n''}} + 3 の形の5番目の素数である。1つ前は[[19]]、次は[[131]]。({{OEIS|A057733}}) ** 67 = 4{{sup|3}} + 3 *** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} + 3 の値とみたとき1つ前は[[19]]、次は[[259]]。({{OEIS|A253208}}) **** 4{{sup|''n''}} + 3 の形の3番目の素数である。1つ前は[[19]]、次は4099。({{OEIS|A228026}}) *** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[18]]、次は[[260]]。({{OEIS|A158879}}) **** 4{{sup|''n''}} + ''n'' の形の2番目の素数である。1つ前は[[5]]、次は262153。({{OEIS|A129963}}) *** 67 = 4{{sup|3}} + 4 &minus; 1 **** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + ''n'' &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[29]]、次は[[129]]。 ***** この形の2番目の素数である。1つ前は[[29]]、次は[[349]]。({{OEIS|A182332}}) *{{sfrac|1|67}} = 0.{{underline|014925373134328358209855223880597}}… (下線部は[[循環節]]で長さは33) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が33になる最小の数である。次は[[134]]。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の32は[[353]]、次の34は[[103]]。({{OEIS|A003060}}) *''p'' = 67 のときの 2{{sup|''p''}} &minus; 1 で表せる 2{{sup|67}} &minus; 1 を[[マラン・メルセンヌ|メルセンヌ]]は[[素数]]であると予想したが、[[1903年]]に[[フランク・ネルソン・コール|コール]]によって次のように[[素因数分解]]された。 *:2{{sup|67}} &minus; 1 = 147573952589676412927 = 193707721 × 761838257287 *[[素数#連続素数和|5つの連続した素数の和]]で表せる4番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[83]]。<br>67 = [[7]] + [[11]] + [[13]] + [[17]] + [[19]] **5つの連続した素数の和が素数になる2番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[83]]。 * 異なる[[平方数]]の和で表せない31個の数の中で24番目の数である。1つ前は[[60]]、次は[[72]]。 *[[各位の和]]が13になる3番目の数である。1つ前は[[58]]、次は[[76]]。 **各位の和が13になる数で[[素数]]になる最小の数である。次は[[139]]。({{OEIS|A106755}}) *各位の[[立方和]]が559になる最小の数である。次は[[76]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の558は1566、次の560は[[167]]。({{OEIS|A165370}}) * 2つの連続[[自然数]]を昇順に並べてできる6番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[78]]。({{OEIS|A035333}}) **2つの連続自然数を昇順に並べてできる2番目の素数である。1つ前は[[23]]、次は[[89]]。({{OEIS|A030458}}) *** 6からの連続整数を昇順に並べてできる最小の素数とみたとき、次は678910111213。 ***''n'' からの連続整数を昇順に並べてできる最小の素数とみたとき1つ前の5からは5678…151617、次の7からは78910111213。({{OEIS|A140793}}) *67 = 3{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる31番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[68]]。({{OEIS|A025321}}) *16番目の[[幸運数]]である。1つ前は[[63]]、次は[[69]]。 ** 幸運数自身のすべての約数が幸運数である数としては12番目である。1つ前は63、次は[[73]]。 ** [[累乗数]]はもちろん1にもなり得ない幸運数としても12番目である。1つ前は63、次は69。 == その他 67 に関すること == *年始から数えて67日目は[[3月8日]]、ただし閏年では[[3月7日]]。 *[[原子番号]] 67 の[[元素]]は[[ホルミウム]] (Ho)。 *[[大相撲]]の第67代[[横綱]]は[[武蔵丸光洋]]。 *第67代[[天皇]]は[[三条天皇]]である。 *[[日本]]の第67代[[内閣総理大臣]]は[[福田赳夫]]である。 *第67代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ボニファティウス4世 (ローマ教皇)|ボニファティウス4世]](在位:[[608年]][[9月15日]]~[[615年]][[5月25日]])である。 *[[M67 (天体)|M67]] は[[かに座]]にある[[散開星団]]。 *[[120フィルム]]、220フィルムでの画面サイズ → [[中判カメラ#67判(ロクナナ)|6×7cm判]] *[[User Datagram Protocol|UDP]] では [[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]] [[サーバ]]の[[ポート番号]]。 *[[モウソウチク|孟宗竹]]の開花周期は67年である。 *Central 67 は、[[木村豊]]が設立したデザイン事務所。 *[[クルアーン]]における第67番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[大権 (クルアーン)|大権]]である。 *『[[惰性67パーセント]]』は、[[紙魚丸]]による日本の[[漫画]]作品。 * [[国鉄EF67形電気機関車]]は、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)が保有する[[補助機関車]]。 == 関連項目 == {{数字2桁|6|}} *[[6月7日]] {{自然数}}
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テレビドラマの一覧
テレビドラマの一覧(テレビドラマのいちらん)は、世界各国のテレビドラマの一覧。Wikipedia内に記事があるものを中心とする。
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テレビドラマの一覧(テレビドラマのいちらん)は、世界各国のテレビドラマの一覧。Wikipedia内に記事があるものを中心とする。
{{Portal box|テレビ|ドラマ}} [[ファイル:Blank_television_set.svg|右|120x120ピクセル]] '''テレビドラマの一覧'''(テレビドラマのいちらん)は、世界各国の[[テレビドラマ]]の一覧。Wikipedia内に記事があるものを中心とする。 <!--   ・日本国内で放送、配信、ソフト化されたか、日本語Wikipediaに記事があるドラマ。(地上波・衛星・CATV・Webなどは問わず)   ・放映年は本国放映。   ・タイトルは邦題(ないものは原題)。   ・ジャンルはできるだけ一つに絞る。   ・放映中・過去の番組を問わない。   ・放映局・放映時間は不要。   ・番組の内容説明は不要。   ・特記事項は注釈 {{Efn2|〜}} を利用。   ・一覧の数が増えたら、サブジャンルの記事へ移す。(国別等) --> == 北アメリカ == === {{flagicon|USA}}アメリカ合衆国 === {{main|アメリカ合衆国のテレビドラマ一覧 (年代順)|Category:アメリカ合衆国のテレビドラマ|アメリカ合衆国のテレビドラマ一覧}} === {{flagicon|CAN}}カナダ === {{main|カナダのテレビドラマ一覧|Category:カナダのテレビドラマ}} === {{flagicon|MEX}}メキシコ === {{see also|Category:メキシコのテレビドラマ}} {| class="sortable wikitable" ! style="white-space:nowrap" |{{縦書き|初回}} ! style="white-space:nowrap" |{{縦書き|最終}} !タイトル ! style="white-space:nowrap" |ジャンル |- |1992 |1993 |[[マリア・メルセデス]] |テレノベラ |- |1993 |1993 |[[ロス・パリエンテス・ポブレス]] |ドラマ |- |1994 |1994 |[[マリマール]] |テレノベラ |- |1995 |1996 |[[マリア・ラ・デル・バリオ]] |テレノベラ |- |1997 |1997 |[[エスメラルダ(1997年のテレビドラマ)|エスメラルダ]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |1998 |1998 |[[ラ・ウスルパドラ]] |テレノベラ |- |1999 |[[エル・プリヴィレヒオ・デ・アマル]] |ロマンス |- |1999 |1999 |[[ロザリンダ]] |テレノベラ |- |2001 |2002 |{{仮リンク|ゲーム・オブ・ライフ|es|El juego de la vida (telenovela mexicana)|label=}} |ドラマ |- |2002 |2012 |[[ラ・ファミリア・P. ルチェ]] |コメディ |- |2003 |2003 |[[アモール・レアル]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2004 |2004 |[[ルビ (テレビドラマ)|ルビ]] |テレノベラ |- |2006 |[[レベルデ]] |テレノベラ |- | rowspan="3" |2008 |2008 |[[ラス・トンタス・ノ・ヴァン・アル・シエロ]] |テレノベラ |- |2009 |[[クイダード・コン・エル・アンヘル]] |テレノベラ |- |継続 |[[ラ・ロサ・デ・グアダルーペ]] |メロドラマ |- |2009 |2010 |[[カマレオネス]] |テレノベラ |- |2010 |2011 |[[クアンド・メ・エナモロ]] |テレノベラ |- |2011 |継続 |[[コモ・ディセ・エル・ディチョ]] |テレノベラ |- | rowspan="4" |2013 |2013 |[[ラ・テムペスタッド]] |テレノベラ |- |2013 |[[コラソン・インドマブレ]] |テレノベラ |- |2014 |[[キエロ・アマールテ]] |テレノベラ |- |2018 |[[セニョール・アヴィラ]] |クライム |- |2014 |2015 |[[ミー・コラソン・エス・トウヨ]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2015 |2015 |[[ケ・テ・ペルドネ・ディオス]] |テレノベラ |- |2016 |[[アンテス・ムエルタ・ケ・リチタ]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2016 |2016 |[[コラソン・ケ・ミエンテ]] |テレノベラ |- |2017 |[[ラ・カンディダタ]] |テレノベラ |- | rowspan="4" |2017 |2017 |[[エナモランドメ・デ・ラモン]] |テレノベラ |- |2017 |[[エル・ヴエロ・デ・ラ・ビクトリア]] |テレノベラ |- |2018 |[[パパ・ア・トダ・マドレ]] |テレノベラ |- |2019 |[[ミ・マリド・ティエネ・ファミリア]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2018 |2020 |[[ハウス・オブ・フラワーズ]] |コメディ |- |継続 |[[ポル・アマール・シン・レイ]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2019 |2019 |[[ウン・ポキト・トゥヨ]] |テレノベラ |- |継続 |[[メディコス]] |テレノベラ |- |2020 |2021 |[[インペリオ・デ・メンティラス]] |テレノベラ |- | rowspan="2" |2021 | rowspan="2" |継続 |[[テ・アクエルダス・デ・ミ]] |テレノベラ |- |[[フエゴ・アルディエンテ]] |テレノベラ |} == 南アメリカ == {{see also|テレノベラ}} === {{flagicon|ARG}}アルゼンチン === {{see also|Category:アルゼンチンのテレビドラマ}} {| class="sortable wikitable" ! 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発光ダイオード
発光ダイオード(はっこうダイオード、英語: light-emitting diode: LED)とは、ダイオードの1種で、順方向に電圧を加えた際に発光する半導体素子である。発光原理にはエレクトロルミネセンス (EL) 効果を利用している。また、有機エレクトロルミネッセンス(OLEDs、有機EL)も分類上は、LEDに含まれる。 1962年にニック・ホロニアックによって発明された。発明当時は、赤外線LEDと赤色LEDのみだった。1972年にジョージ・クラフォード(英語版)によって黄緑色LEDが発明された。1986年には、赤﨑勇と天野浩により、青色LEDの発光結晶の窒化ガリウムが世界で初めて制作され、続いて1989年には青色LEDが発明された。この発明を利用し、豊田合成と日亜化学工業の2社が青色LEDの工業化を目指した。1993年には、NTT物性科学基礎研究所の松岡隆志によって開発された発光物質の窒化インジウムガリウムを使用した実用的な高輝度青LEDが日亜化学工業により製品化された。この発明によって中村修二が2014年に赤﨑勇、天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞した。 発光ダイオードは、半導体を用いたpn接合と呼ばれる構造で作られている。発光はこの中で電子の持つエネルギーを直接、光に変換する方法で行われ、巨視的には熱や運動の介在を必要としない。電極から半導体に注入された電子と正孔は異なったエネルギー帯(伝導帯と価電子帯)を流れ、pn接合部付近にて禁制帯を越えて再結合する。再結合時に、バンドギャップ(禁制帯幅)にほぼ相当するエネルギーが光として放出される。放出される光の波長は材料のバンドギャップによって決まる。基本的には、エネルギーが多いと波長の短い光が出る。これにより赤外線領域から可視光線領域、紫外線領域まで様々な発光を得られるが、基本的に単一波長の光のみを放出する。ただし人間の視覚に合わせて、青色、赤色、緑色(光の三原色)の発光ダイオードを組み合わせて用いれば、人間にとって区別できるあらゆる色(フルカラー)を表現できる。また、青色または紫外線を発する発光ダイオードの表面に蛍光塗料を塗布する方法で、高エネルギーの青色の光を蛍光塗料に吸収させて、蛍光塗料からエネルギーの低い他の色の蛍光を放出させて、適切に色の変換を行い、白色や電球色などといった様々な中間色の発光ダイオードも製造されている。 他の一般的なダイオードと同様に極性を持っており、カソード(陰極)に対しアノード(陽極)に正電圧を加えて使用する。この順方向にかけた電圧が低い間は、電圧を上げても電流が増えず、発光もしない。ある電圧を超えると電圧上昇に対する電流の増え方が急になり、電流量に応じて光を発するようになる。この電圧を「順方向降下電圧 (VF)」と呼び、一般的なケイ素を主原料に使ったダイオードと比較すると、発光ダイオードは順方向降下電圧が高い。発光色によって違うが、赤外では1.4 V程度。赤色・橙色・黄色・緑色では2.1 V程度。白色・青色では3.5 V程度。紫外線LEDは最もVFが高く、4.5 Vから6 Vが必要である。 発光時の消費電流は表示灯用途では数 mAから50 mA程度だが、照明用途では消費電力が数十Wに及ぶ大電力の発光ダイオードも販売されている。 ただし、一般的なダイオードとは異なり、整流用途にLEDは使用できない。逆方向に電圧を掛けた場合の耐電圧は、通常のシリコンダイオードより遙かに低く、通常はマイナス5 V程度である。これを超えると破壊される危険性がある。 また、順方向電圧の低いダイオードの代わりとしての利用にも向かない。例えばラジオなどの受信機には、ゲルマニウムダイオードなど、シリコンダイオードよりも順方向電圧の低いダイオードが用いられるが、LEDを用いた場合には、発光する分だけ無駄に電力を消費するため、LEDは不利である。 基本的に光量が電流に比例するため、定電流回路や平均電流を一定になるように制御した高周波回路で駆動する。交流電源はダイオードブリッジなどで整流して利用される。 LEDを回路に組み込む際には、原則として、電流が過剰に流れ過ぎないようにするための抵抗器を、LEDと直列に入れておかねばならない。この目的で回路に挿入される抵抗器を「電流制限抵抗」などと呼称する。 定電圧電源に接続して使用する場合は、電流制限抵抗をLEDと直列に接続する事で、LEDに流れる電流をほぼ一定にできる。 これに対して、電源電圧と、LEDの順方向にかけるべき定格電圧が同じだったとしても、電流制限抵抗を省くと、しばしばLEDには過剰な電流が流れて、LEDは破壊され得る。なお、別個に電流制限抵抗を用意しなくとも大丈夫な例外として、LEDの内部に電流制限抵抗も納めた製品も存在する。 電源電圧を E として電流 I を流すには、適切な抵抗値はおよそ (E-VF) /I だが、LEDの順方向降下電圧 (VF) には個体差があり、抵抗にかかる電圧が変わるため、実際に製造された製品に流れる電流は設計時に想定した値に比べて多少のバラツキが生じる。 抵抗も電力を消費するため電力効率は良くないが、定電圧電源を用意できる場合には最も単純かつ低コストな回路である。そのため、発光効率を特に追求しない表示灯用途には多用される。 定電流ダイオード (CRD) を直列に接続する等、能動素子で定電流回路を構成する事により自動車やバイクのバッテリー等、電源電圧がある程度変動する環境下でも対応できる。 電源には、LEDの順方向電圧降下に加え、定電流回路の動作に必要な電圧が必要となる。CRDは動作に5 Vから10 V程度の電圧を必要とするが、1 V程度の電圧でCRDと同等の動作ができるICも利用されている。 回路は単純だが、電流制限抵抗と同様、過大な電源電圧を電力を消費して吸収するため、電源電圧によっては電力効率が悪くなる。 ヒトの視覚が認識できない短い時間周期の点滅を繰り返し、見かけ上一定の明るさを得る方式である。明るさは点灯時間のデューティ比を変えるパルス幅変調により容易に調節できる。 駆動回路には電力効率は良く、出力に電流・電圧に変動(リップル)があるスイッチング電源や昇圧回路を用いる事が可能である。また、出力電流の平均を一定に保つ事で、乾電池のように電源電圧が低かったり、変動幅が大きかったり、という場合にも一定の明るさを維持可能である。 駆動回路で消費される電力が他の駆動方式に比べ少なく、入力電力の大半がLEDで消費されるため、電力効率は比較的良い。しかし、電流断続時の急激な電流変化により生じるノイズ放射が機器内外へ電磁妨害を及ぼすほか、回路規模増大に伴ってコストと実装体積が増加する。 放出された光の波長(色)は、pn接合を形成する素材のバンドギャップの大きさが関係する。発光ダイオードでは近赤外線や可視光、紫外線に至る波長に対応したバンドギャップを持つ半導体材料が用いられる。一般に発光ダイオードには発光再結合確率の高い直接遷移型の半導体が適する一方、一般的な半導体材料であるケイ素(シリコン)やゲルマニウムなど間接遷移型半導体では、電子と正孔が再結合する際に光は放出され難く、単純に熱に変わり易い。しかし、黄色や黄緑色に長く使われてきたGaAsP系やGaP系などドープした不純物の準位を介して強い発光を示す材料もあり、広く用いられている。 以下の素材を使用する事により、様々な色の発光ダイオードを作り出せる。 以下は基板として利用されている。 青色発光ダイオードは、窒化ガリウム (GaN) を材料とする、青色の光を発する発光ダイオードである。青色LEDとも書かれる。日本の化学会社、日亜化学工業株式会社が大きな市場占有率を持っている。他の有力企業としては、豊田合成、星和電機がある。GaN系化合物を用いた発光ダイオードの開発と、それに続く青色半導体レーザーの実現により、紫外から純緑色の可視光短波長領域の半導体発光素子が広く実用化されるに至った。 発光ダイオードは、低電力で駆動可能な光源であるため、ディスプレイへの応用が期待されていた。RGBによるフルカラー表示のためには、光の三原色(赤・緑・青)の発光素子が必要である。このうち1980年代中頃までに、実用化されていたのは純赤色のみであった。 当時も「青色ダイオード」の名で販売されていた製品は存在したものの、色味が紫がかっており、純青としての実用的な高い輝度を出す製品は皆無だった。また黄緑色は赤色と共に早くから実用化されていたが、純緑色の実現には結果的に青色と同じくGaN系半導体材料が必要とされ、純緑色LEDの実用化は青色LEDの登場以降である。これらの理由で、発光ダイオードによるフルカラーディスプレイの実現は出来なかった。 純青色発光の実現のため、セレン化亜鉛 (ZnSe) 系化合物や炭化ケイ素 (SiC) を用いての研究が古くから行われ、ZnSe系による青緑 - 緑色発光ダイオードの開発に至った他、SiCの青色発光ダイオードは弱い発光強度ながら市販もされた。しかしその後、GaN系化合物による青色発光ダイオードが急速に普及したため、現在ではこれらの材料系の技術は白色発光素子や基板などの用途に転用されている。 窒化ガリウムを用いた高輝度の青色LED開発に関して、1986年に、赤﨑勇、天野浩らが高品質、高純度のGaN結晶の結晶生成に成功した。天野浩は不可能とされていた「PN接合」が可能だと初めて証明した。1993年に中村修二が、世界に先駆け高輝度青色LEDを発明し、実用化した。 2001年8月、中村が職務上で1993年11月に発明した(職務発明)「404特許」を巡って元勤務先の日亜化学工業を提訴し、同特許の原告への帰属権確認ないし譲渡対価を巡って係争した(青色LED訴訟)。この訴訟は企業と職務発明者との関係について社会の関心を広く喚起し、裁判所は東京地方裁判所では発明の対価を約604億円と評価し200億円の支払いを命じたが、東京高等裁判所は和解へと誘導し1審判決が認定した発明の対価約604億円の1/100 相当の6億円を「対価」として提示した。日亜は、(いずれにせよ対価の支払いが遅れていたので)遅延損害金を含む約8億4千万円を支払うことで和解が成立した。しかし中村はなお納得できず「高裁は山ほど提出した書面をまるで読まず、最初から和解金額を決めていた。高裁の和解案の決め方は正義とは言えない。」と指摘するために、滞在していたアメリカ合衆国から日本を訪れた。 2004年12月、東北大学金属材料研究所の川崎雅司(薄膜電子材料化学)らの研究チームは、より安価な酸化亜鉛を用いた青色発光ダイオードの開発に成功した。青色LEDの再発明とも言われ、この成果は同年12月19日付の英科学誌ネイチャーマテリアルズ(電子版)にて発表された。 赤﨑、天野、中村の3名は青色発光ダイオードに関する業績が評価され、2014年のノーベル物理学賞を受賞した。 白色LEDとも書かれる。白色光とは、一般には可視光線の全波長域に亘り強度が連続している光(連続スペクトルの光)を指す用語である。発光ダイオードで得られる発光は、レーザーほどではないものの狭い波長範囲のみに限られるため、この意味での白色光は生成できない。しかし、白色のような多色光に対しては、それを構成する光の波長、すなわち、スペクトルが異なっていても、白色とヒトの視覚で認知されるように、発光スペクトルを設計する事は可能である。典型的には、テレビのように光の三原色を混合したり、補色関係にある2色を混合して、適切な強度比に設計すれば、白色だとヒトに認知される光が生成できる。白色発光ダイオードではこの原理が利用され、具体的な手法が幾つか考案された。この結果、低電圧でのDC駆動などダイオードの持つ電気的な扱い易さのみならず、光源としても高効率(低消費電力)であり、しかも寿命も既存の光源以上に長いため、LED照明として白色発光ダイオードが利用されてきたなど、気体を使わない固体光源として普及が進んだ。 青またはそれよりも波長の短い光を放つ発光ダイオードのチップに、その発光ダイオードの光により励起されて長波長の光を放つ蛍光体(フォトルミネセンス)を組み合わせた方式である。発光ダイオードのチップは蛍光体で覆われており、点灯させると、発光ダイオードチップからの光の一部または全部が蛍光体に吸収され、蛍光はそれよりも長波長の光を放つ。発光ダイオードのチップが青発光であれば、チップからの青色の光に蛍光体の光が混合されて、一緒に出力される。蛍光波長や蛍光体の厚さなどを調整すれば、白色光を得られる。この蛍光体には、例えばYAG系の物が用いられる。この方式には、単一のチップとパッケージだけで、白色発光が実現可能だという利点を有する。 白色にヒトに認識される光を放つような白色発光ダイオードの実現には、青色発光ダイオードの存在が不可欠であった。蛍光体による発光では、蛍光体が受けた光より短い波長の光は得られないため、赤や緑のLEDでは短波長の成分が不足し、白色とヒトには認識されないからである。 この蛍光体方式の開発により、固体光源である白色発光ダイオードが本格的に普及した。 現在の白色発光ダイオードの主流であり、一般に青黄色系擬似白色発光ダイオードと呼ばれている。視感度の高い波長である黄色に蛍光する蛍光体と青色発光ダイオードとを組み合わせる方法で、ヒトの視覚上で大変に明るく感じられる白色発光ダイオードを実現した。青色発光ダイオードの製造を行っている日亜化学は元々蛍光体の製造メーカーであるため、この方式を得意としている。豊田合成も同方式を用いている。この方式により作成された白色発光ダイオードが、世界初の白色発光ダイオードとされている。擬似白色発光ダイオードの実現は、世界的にインパクトを与えた青色発光ダイオードの発表の後だったため報道は控えめだったが、業界内では大きなニュースだった。 擬似白色発光ダイオードは非常に高いランプ効率 (lm/W) 値を得られる点が特徴である。その理由にはヒトの視感度が関連しており、視感度の高い波長にスペクトルを集中させた蛍光体の黄色と発光ダイオードの青色とを組み合わせて実現した。一般に、ヒトの網膜にて光の強度や色を識別する細胞組織である錐体は黄緑色の波長(約555 nm付近)に高い分光感度を持つ(視感度が高い)。このため、この黄緑色の波長のスペクトルに蛍光体の発光を集中させるとエネルギーの割にヒトは明るく感じ、視覚上大変に明るい白色発光ダイオードが実現できる。100 (lm/W)を超えるような白色発光ダイオードでは、ランプ効率が高い擬似白色発光ダイオードを実現するために、全光束に対するエネルギー効率が高くなるように、ヒトの視感度を考慮して最適化されている。なお、物理的なエネルギー効率は、物理エネルギー量を示す放射束を投入電力(ワット)で除算して計算されるため、光として取り出せる光(光子数)を増す事により高められるが、それのみでは視感度に対して効率の高くない波長域の光が多い場合もある。ランプ効率を高めるには、物理的に効率が良く、かつ、視感度に適したスペクトルが得られる必要がある。 その引き替えに、特にランプ効率を優先した設計の擬似白色発光ダイオードでは演色性が低下し易い。一般には擬似白色発光ダイオードの平均演色評価数 (Ra) は76程度に留まり、一般型蛍光灯 (Ra67) と三波長型蛍光灯(同85)の中間に当たる。ただし現行の演色性の評価法は、白熱灯や蛍光灯を前提とした物であるため、発光ダイオードのように急峻なスペクトルを持つ光源の場合に、演色性が見た目の印象より低く評価される傾向がある。このため、前述のような特性を持つ光源について、平均演色評価数がもっと高くなるように評価法を見直す議論もある。 青色発光ダイオードと黄色の蛍光体を組合わせた構成での白色光は、緑や赤のスペクトル成分が少ないため演色性が低い。赤色や深紅色の発色が悪いという性質を改善するために黄色以外の蛍光体を混ぜて演色性を改善しようとすると、ランプ効率 (lm/W) が低下する。これは赤色系の蛍光体を多く配合して赤色領域で多くの光エネルギーを発生させても、この領域のヒトの視感度が低いため、ランプ効率の評価が低下するためである。また、透過して出力される青色光の割合を正確に揃える事が難しく、製造時の色温度の個体差が大きい欠点もある。 これらの点について、近年は、蛍光体と発光波長の点で進展が見られる。蛍光体については、独立行政法人の物質・材料研究機構がβサイアロン蛍光体の開発に成功し、これを用いて大幅なランプ効率の向上が得られ、赤色や深紅色の発色の問題も解決されるとされていたが、赤色波長を多く発色させるとランプ効率は低くなる現象は物理的限界であって、改善は不可能だと確認された。発光波長の点では、紫色光 - 紫外線を発光する発光ダイオードが開発された。これにより、蛍光灯と同様に紫光または紫外光の励起により多色を発光させ、演色性を向上させた白色発光ダイオードも登場した。 その他の白色発光の実現方法として、光の三原色である赤色・緑色・青色の発光ダイオードのチップを用い、これを1つの発光源として白色を得る方法もある。この方式は各LEDの光量を調節すれば、任意の色彩を得られるため、大型映像表示装置やカラー電光掲示板の発光素子として使用されている。ただし、照明用には適さないとされる。照明として用いる場合、蛍光体方式はある程度幅を有するスペクトルなのに対して、3色LED方式は赤・緑・青の鋭い3つのピークを有するのみで黄およびシアンのスペクトルが欠落している。このため、3色LED方式の白色発光は光自体は白く見えても、自然光(太陽光)の白色光とはほど遠いため、それで照らされた物の色合いは太陽光の場合と異なってくる。 連続スペクトルの白色光下と、3色LED方式による白色発光下において、照らされた物の色合いが違って見える理由を説明する。 可視光線のうち、 があったとする。太陽や白熱電球の光は広い波長の可視光線を含むので、その下では、1は赤色と緑色の光が反射され網膜の赤錐体と緑錐体を刺激して黄色に見える。2は黄色の光が反射され、その光が網膜の赤錐体と緑錐体の両方を刺激して黄色に見える。つまり両者とも黄色に見える。ところが光の三原色の混合で照らした場合、1は赤と緑の光が反射され黄色に見えるが2は赤・緑・青いずれも物体に吸収されてしまい、理論上は黒く見えるはずである。ただ実際には、完全に黄色の光のみを反射して他の光を一切反射しないという物体は存在しないため、黄色いはずの物が黒く見えるほどの極端な結果にはならないものの、多少色合いが異なって見える。蛍光灯ではこの問題を解決するために5色発光や7色発光の物も作られたが、それでも演色性は連続スペクトルの白色光に劣る。 この方式は3つのチップが必要で、見る角度に依存しない均一な発光色を得る事も難しい。さらにそれぞれのチップの要求する電圧が異なるので、点灯回路も3系統必要である。しかし、発光ダイオードのチップからの発熱のせいで、蛍光体が劣化する問題を回避できるメリットはある。また液晶バックライトなど表示用に用いる場合は赤・緑・青の3つの成分しか持たない事が逆に利点になり、色純度の高い鮮やかな表示色を得られる。 発光ダイオードの基本構造はpn接合だが、実際には発光効率を上げるためにダブルヘテロ接合構造や量子井戸接合構造などが用いられ、技術的には半導体レーザとの共通点が非常に多い。製造法としては、基板の上に化学気相成長法によって、薄膜を積み重ねていく方式などが用いられる。また、ペロブスカイト半導体ではインクジェット等の印刷技術で製造できる。また、半導体レーザと同様に、面発光型と端面発光型が存在する。 最も単純な構造は、発光部を内包する透明樹脂部分と2本の端子からなる。多色のLEDを内蔵した物は、3本以上の端子を持つ。 インジウムと比較してガリウムの資源は逼迫していない。しかし、その産出地が主に中華人民共和国、カザフスタン、ウクライナに偏在し、これら各国に特有の政治的カントリーリスクの観点から、半導体材料をガリウムに依存し過ぎる事に懸念が出ている。このため酸化亜鉛やシリコン、炭化ケイ素といった材料による実用的な青色発光ダイオードの実現が急務となっている。 LEDは低消費電力、長寿命、小型化可能であるため、数多くの電子機器に利用されている。また、1つの素子で複数の色を出せるような構造の物もある。機器の動作モードによって色を変えられるなど、機器の小型化に貢献した。 当初のLEDは輝度が低かったため、電子機器の動作表示灯などの屋内用途に限られていたが、赤色や黄緑色の高輝度タイプの物が実用化されてからは屋外でも電球式に代わって電光掲示板に採用され、さらには鉄道駅の発車標などにも使用されるようになった。 高輝度の青色や緑色、それを応用した白色の発光ダイオードが出回るようになってからは、フルカラーの大型ディスプレイ、電球の代わりとして懐中電灯や信号機、自動車のウィンカーやブレーキランプ、各種の照明にも利用されていった。特にブレーキランプに使用した場合、電球よりブレーキペダルを踏んでから点灯するまでのタイムラグが短いため、安全性が向上する。2006年には日本初の超高輝度LEDを用いた前照灯が、JR東海313系電車で採用された。2012年5月開業の東京スカイツリーでは、夜のライトアップ照明を全てLEDで行っている。 なお、発光ダイオード自体の寿命は長いが使用目的によっては樹脂の劣化による光束低下の進行が早くなる場合もあり、LED交換が必要となる程度まで光束が落ちた場合に基板の交換も含む大規模なメンテナンスが必要とされ得る点が、今後の課題である。鉄道車両では、駅での行き先表示としての役目を果たせば良いという考えから、走行中には側面表示が一定の走行速度に達した際には消灯させるなど、きめ細かい制御で表示装置の長寿命化を図っている車両も存在する。なお、編成前後の前面表示は表示のままである場合が多い。ちなみに側面表示は、ドットマトリックスの制御方法から、高速移動中は表示し続けていたとしても表示文字の視認が難しい。 色覚異常によって発光ダイオードの色の見分けが困難な場合がある。例えば1型2型の色弱のヒトには、赤・橙・黄色・黄緑・緑のLEDは同じ色に見えてしまう。交通信号機では緑を青緑色にする方法で、色覚異常でも判別できるようにしているが、交通信号機以外でも色覚障害者向けの対策が必要とされる。 信号機は光源が光らなければ役目を果たせないため、従来の白熱電球を光源にした信号機は、電球の寿命の問題で、頻回なメンテナンスが欠かせなかった。これに対して、発光ダイオードの製造コストが低下し始めた2000年代以降、省エネルギーで耐久性が高いとして、鉄道用および道路交通信号機での利用も拡大した。 また、白熱電球を使った従来の信号機では、LED式信号機とは異なり、白熱電球を納める比較的大型の筐体が必要だった。 これに加えて、白熱電球にカラーレンズを組み合わせて色を表現していた従来の信号灯では、太陽光が灯器に入り込んでカラーレンズを明るく見せるため、実際の点灯箇所と見分けづらくなる。これを疑似点灯現象と呼ぶ。発光ダイオードを使った信号機は、レンズ自体が無色であり、発光ダイオードも点灯していなければ無色であるため、疑似点灯現象の防止が可能で、太陽光などの影響を受け難いとされている。 なお、中央に高輝度のLEDの集合体を置き、無色半透明の反射板でLEDの光を均等に行き渡らせて無色のレンズ全体に広げる方式のプロジェクター式と、小さなLED素子を基盤に多数装着して全面にLEDが並んだ素子式とが有る。 駅の発車案内表示板や空港の出発案内板などには、従来の反転フラップ式や字幕式に代わり、鉄道車両やバスの行先表示、タクシーの実空車表示器(スーパーサイン)などには従来の幕式に代わり普及が進んだ。 最初に登場したLED表示機は赤色・黄緑色・橙色の3色(橙色は赤色と黄緑色LEDによる)表示方式だった。赤色LEDと黄緑色LEDにより3色目の橙色が表現していた方式で、俗に「3色LED方式」とも呼ばれる。ただし、実際は2色のLEDを用いているため、工業製品などでは「2色LED」とも呼称される。これは、白色LEDでの赤色、青色、緑色の3色のLEDを用いた「3色LED方式」とは異なる。 その後、白色LEDを搭載した物や、単色で赤・青・緑、2色の混色で黄・シアン・マゼンタ、3色の混色での白の計7色を表示するマルチカラーLEDとされる物、さらに高輝度の赤色・青色・緑色LEDにより、あらゆる色を表示可能にしたフルカラーLEDの物も登場した。なお日本の場合、路線バスは、鉄道と比べると表示種別が少ないため、多くの発色を必要としないので「3色LED」を使用しつつ、交通の妨げとなり難い橙をメインに使用する方式であったが、近年ではフルカラーLEDを採用する例も出てきた。 従来、大型ビジョンの発光素子にはCRTやVFDの光の三原色素子が利用されていた。しかし、青色LEDの進歩によりこれらに代ってLEDが使用されていった。従来の方式に比べ、コストや輝度が優れており普及が進んだ。 店頭看板などでも、従来のFL蛍光管等に代わり、LEDモジュールなどのLED製品の普及が進んだ。看板・サインのサイズの大小化や軽量化と共に、故障が少なくコストに優れている。 冷陰極管が発する白色光をカラーフィルタで透過して得られる色(赤・緑・青)に比べ、RGB3色発光ダイオードが放つ光は色純度が高い。そのため、液晶ディスプレイのバックライトの光源を冷陰極管から発光ダイオードに置き換える事により、色の再現範囲を大きく広げられる。また電力消費も少ない。こうした理由から、液晶バックライト光源としてLEDを用いる方式が普及した。ただしコストが安くて効率の高い擬似白色LEDが用いられる場合も多く、この場合は色の再現範囲は広色域タイプの冷陰極管と比べ劣る。また、LEDは点光源のため広い面積を照射しようとするとムラを生じ易い。 大型ディスプレイ用のLEDバックライトとしては、2004年11月にソニーより液晶テレビ「QUALIA」で実用化された。より一般的に普及が進んだのは2008年からで、各メーカーが上位機種を中心に採用し始めた。LEDテレビとは一般的に、LEDバックライトを搭載した液晶テレビを指す。2011年現在は、低価格化が進み、下位機種でも採用される場合がある。エリア駆動対応機種では、映像が暗い部分のみLEDバックライトを消灯するエリア駆動により、液晶ディスプレイの弱点であるコントラストを大幅に拡大できるメリットがある。また超薄型と呼ばれる厚さを抑えた液晶テレビや、ノートパソコンの薄型化でもLEDバックライトが重要な要素となった。また、LEDバックライトを搭載したエッジ型のディスプレイは、LEDの特性上、CCFL(蛍光管)テレビに比べて消費電力が少ない。 なお、上述の「LEDテレビ」やLEDバックライトを搭載した液晶ディスプレイ全般を指す場合に使われる「LEDディスプレイ」という呼称は、正確には誤用である。液晶テレビのバックライトは発光するための物であり、映像を表示する物ではないためである。2012年、ソニーが実際に発光素子としてLEDを採用した「Crystal LED Display」を開発した。それ以降、「LEDビジョン」や「LEDウォール」と呼ばれるLED発光素子の製品が他社からも発売され、大型ビジョンや街頭広告などで用いられている。 発光素子に超小型LEDを採用したディスプレイである。液晶ディスプレイや有機エレクトロルミネッセンスを使用したディスプレイと比べ、画質や寿命の点で優れているとされるが、その実装コストの問題から一般家庭用途などのディスプレイではあまり開発が進んでいない。 沖データは2009年11月26日に、1.1インチQVGAの高輝度LEDディスプレイの開発に世界で初めて成功したと発表した。 省エネルギー、高輝度で長寿命を実現できる白色LEDの開発に伴い、発熱に伴うエネルギー損失の多い白熱電球や蛍光灯などに代わり、屋内・屋外照明材料として、LED照明が期待された。また、LEDはデザインや光色なども比較的容易に調節できるため、電球や蛍光灯より自由度の高い照明が可能である。現在は既存の照明に置き換わる性能を有した製品が発売されており、懐中電灯、乗用車用ランプ、電球型照明、スポットライト、常夜灯、サイド照明、街路灯、道路照明灯などLEDを使用した製品が次々登場した。 日本エネルギー経済研究所が2011年に発表したリポートによると、日本全体の白熱電球や蛍光灯など全部を、LED照明に置き換えた場合に、1時間あたり922億キロワットを節約できると試算した。これは日本の総電力消費量の約9パーセントに相当し、原子力発電所13基分という。 E26型、E17型を中心とした白熱電球のソケットに装着可能な「LED電球」は企業間競争などにより大幅に価格が下落した。製品寿命や消費電力を考慮すれば「LED電球」の方が、白熱電球や電球形蛍光灯より低コストであると謳われているが、発売されてからまだ日が浅い商品であり、公称寿命として、各メーカーが謳う40000時間に達した例がほとんど無く、頻繁な点灯・消灯の繰り返しや連続点灯が、寿命に関わる劣化にどう影響を与えるかは未だ検証可能な個体が少なく、未知数である。 明るさや照射範囲などは「LED電球」の型番によって違いがある。より電球に近づけたと謳う製品や、広配光を謳う製品、下方向のみの製品など多種多様である。中でも明るさについては、実際の明るさよりも明るいと不適切な表示(優良誤認)を行ったとして、メーカー12社に対して、2012年6月に消費者庁が景品表示法に基づく措置命令を行った。これにより「LED電球」の明るさ基準を作る動きが生まれ、業界団体である一般社団法人日本電球工業会により、電球と置き換えた場合、電球の何ワット相当に該当するかを、全光束(ルーメン)が明るさ表示の基準として統一され出された。これにより、加盟会社の電球製品はそれぞれ電球何ワット相当と表示できる基準ルーメンと実際のルーメンに合わせる必要があり、不適切な表示はなくなった。ただし、非加盟会社の製品は、インターネットを通じて販売される場合が多く、未だに不適切な表示を継続する例が後を絶たない。 直管蛍光灯(FL40W形等)と同形状・同口金 (T8:G13) の物も発売され、LEDチップ価格の下落に伴い、ややコストメリットが出つつある。しかし、急速に価格が下落し、電球との消費電力の差も大きい「LED電球」と違い、直管蛍光灯型LEDは、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。カバーに透明と乳白色の2種類があり、直下の照度を重視するなら透明、広い照射角(最大310度の製品もある)を求めるなら乳白色の物を選ぶのが妥当である。照明機器としてLED素子1個では充分な光束が得られないため、使用目的に合わせてLED素子を複数個使用して照度を確保している。100個以上のLED素子を使用した製品も珍しくない。ただし、蛍光灯と比べて重量が増すために、蛍光灯用のソケットが重みに耐えられず落下する危険性があるほか、蛍光灯器具の安定器を取り除かねばならないタイプの製品もある。そのため、日本の大手メーカーなどは器具そのものをLEDユニットにした製品を開発した。 丸形蛍光灯型LEDを使用するシーリングライト等についても、直管蛍光灯と同じく、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。 表面実装 (SMD) タイプのLEDを使用した照明器具を、「SMDライト」等と称して差別化して販売している例もあるが、本質的にLEDと何ら変わりがない。 自動車用灯火類の光源としてはまず、2000年代後半からテールランプ用の光源として使用され始めた。テールランプは後続車両へのブレーキ作動の警告、及び夜間走行時の自車の存在アピールとして使われるため使用頻度が高く、急激な電力供給と発熱のため寿命が短い一方で、ランプ切れは事故につながり易いため、長寿命のLEDが適している。また白熱型照明は発熱に時間がかかり、それがブレーキ作動から点灯までの時間差を生み事故の原因の1つになり得るが、LEDは時間差がきわめて少ない。 当初は光量が足りないためヘッドライトにLEDを採用例は無かったが、2007年5月発売の4代目LS600hには小糸製作所が日亜化学工業と共同開発した(鉄道以外の用途として)世界初のLEDヘッドランプが搭載された。LS600hのLEDヘッドランプは、1つのLEDランプでは光量が足りず、3つのLEDランプをロービームとして使用していたが、その後LEDランプ1つあたりの光量が増え、2013年発売の3代目レクサスISでは1つのLEDランプでロービームとして使用できるようになった。LEDヘッドランプは、消費電力が少ないのに、光量はHIDを上回っており、各自動車メーカーが採用しつつある。 オートバイへの利用ではko-zaru仔猿(CKデザイン製)が、ウィンカーとテールランプ、ストップランプに2003年から採用している。小型バイクのためバッテリーの積載容量に制限があり、電力消費の点から採用した。一般市販バイク初搭載としては、ホンダが2014年3月20日に発売したCB1300スーパーボルドール(型式SC54)の2014年モデルから正式採用された。 2020年前後の段階では四輪車・オートバイいずれも、アフターパーツとして数多くのLED灯火類が市販されている。これらは といった形態が存在している。 自転車用ランプのLED普及率は、自動車のそれに比べて先行して上昇した。自転車で電力を作るための発電機は、ペダルをこぐ力で得ているため、電力消費量が多いと、より強い力でペダルをこぐ必要が出てくる。そこで、消費電力の少ないLEDの使用により、発電のために必要な、ペダルをこぐ力を減らせる。さらに、LEDは使用電力が少ないため、非接触型の発電機でも充分な電力が得られ、非接触型の発電機を採用すれば、照明使用時にペダルをこぐ負荷が非常に少くて済む。また電池式の場合でも、消費電力の少ない分だけ、電池が長持ちする利点がある。廉価な軽快車などでは相変わらず電球が主流であるが、ハブに発電機を付けたタイプが、オートライトには多く採用されている。この他、前照灯としての役目より、他の自転車や自動車からの被視認性を意識した認識灯や尾灯への応用も多い。 高輝度LEDを搭載した、舞台用照明器具が開発された。赤、緑、青、(アンバー、シアン、ライム)と3~6色の高輝度LEDを搭載した事により、一般的な電球を用いた舞台照明と比較して次の利点が挙げられる。 これらはハロゲン化白熱電球の舞台照明から、次第に移り変わり、舞台を始めコンサート・ライブ等で実用されつつある他、スポーツ施設(屋外の陸上競技場、球技場、野球場、競馬場、屋内の体育館など)にも、従来からあったメタルハライドランプから転換し、スポーツの試合においても意図的に照明の点滅や消灯などができるよう改善されたバージョンが多数登場している。 LEDの低電力消費量を活かして、太陽電池と内蔵した充電式電池を組み合わせ、外部からの電力供給が不要なLED照明装置が製造された。充分な日照時間が得られる場所では、庭に電気配線を張り巡らさずとも使用可能である。 電子写真式プリンターとして一般的なレーザープリンターは、レーザーの出力を直接変化させたり、液晶シャッターで強度を変調した光を、回転するポリゴンミラー(多角形鏡)に反射させて走査したりして、感光ドラム上に走査線を作り出している。光学系には高い精度が要求され、構造上どうしてもある程度以上の走光路距離を確保せねばならず、プリンターの小型化、低価格化は困難だった。 これを解決したのが、LEDアレイヘッドを使用したLEDプリンターである。微細加工したLEDを直線上に数千 - 数万個並べ、感光ドラム上の潜像の1ドット1ドットに対応するLEDで感光書き込みを行う。機械的駆動系(ポリゴンミラー)は不要になり、光学系は単純な収束レンズのみで済み信頼性向上とコスト削減、機器の小型化を実現した。ただし、主走査解像度がヘッドの集積度によって制限される、素子間のバラつき補正が必要、ドラムとLEDアレイが非常に近いために飛散したトナーが付着して出力物のクオリティ安定性に欠けるなどの欠点も持つ。 駆動電流の変化に対し、LEDは光出力が高速応答できるという特性を活かし、TOSリンクを始めとする光ファイバー通信の信号送信機、フォトカプラ内部の光源に赤外発光LED、家電製品などの赤外線を利用したリモコンにも広く使われている。 赤外発光LEDはフォトトランジスタ等と組み合わせて、対象物の有無を検出するフォトインタラプタやフォトリフレクタ等の構成要素として用いられる。 模型用の点灯光源としても、LEDの価格低減に伴って、かつて使用されていた小型電球の代替として、LEDが使用されるようになってきた。光色の制限から、かつては赤色光への使用が主だったが黄色、白色LEDの開発により前照灯や室内蛍光灯の白色光の再現も可能となった。さらに白熱電球の再現については電球色(淡橙色)LEDの開発により、実際の電球ではサイズや発熱などの理由で難しかった箇所ですら、実感的な光色の再現が可能となった。特に、点灯機構を組み込むスペースが限られ、また部材がABS樹脂やポリスチレンなどで作られているなど電球の発熱の面でも不利な場合があったNゲージを中心とした鉄道模型の場合、通常のレンズタイプからチップタイプへの移行により構造の小型化により実感の再現に大きく寄与し、これにより従来は実車のヘッドライト構造の関係で製品化が困難だった車種の製品化が実現した。コストは従来の電球使用より割高であっても、実感的な模型の実現からユーザーに歓迎された面があり、分野としての消費量は少ないながらも、実用照明器具での利用に先行して採用されていった。また模型用途としては他にカーモデル用ディティールアップパーツやミニ四駆用のタミヤ純正カスタムパーツなど、改造用LEDキットが存在する。 カメラ(デジタルカメラも同様)では、暗所での撮影や接近撮影・人物撮影での際には露出のラティチュードを揃える意味でフラッシュやレフ板などを使って光を当てる事がある。しかし、一般的なフラッシュ撮影では瞬間的に光を当てて撮影するため、撮影者や被写体としては写真の仕上がりを想定し難い。レフ板に関しては、自然な感じの照明効果が得られる半面、嵩ばり、移動の際に運搬し難い欠点がある。写真撮影用ライトは白熱電球の原理を用いた物が多いため、照明効率に対しての熱放射も大きく、被写体が熱を嫌う物である場合は照明器具として好ましくない例も多かった。またスタジオ外で撮影の為に携帯する機器は事実上、クリップオンフラッシュに限られた。LEDアレイ式ライトは電池での駆動が可能で、かつ照明光源としても必要充分な光量が得られる上に、比較的長時間の使用が可能なため、今後は撮影用照明器具としての普及が見込まれる。 2013年頃から、白色LEDをアレイ状に敷き詰めた撮影用LEDライトが、中国などを原生産国としてインターネットを中心に照明器具として普及しつつある。 ろうそくに似せたLED照明器具も製作・販売されている。火傷の心配がなく、火災の危険性が低いメリットがある。センサーやコンピューターと組み合わせて、周囲の音を感知して光を動かし、風による炎のゆらめきを再現する技術も開発された。 電子回路内の基準電圧源として一般に使われるツェナーダイオードは、アバランシェ降伏現象を利用しているため、出力電圧にわずかながらノイズを発生させてしまう。通常はフィルタ回路によってノイズを充分に減衰させる設計を取るが、オペアンプをディスクリートで組む場合等、「そもそもノイズが発生しない基準電圧源」を追求して定電流駆動したLEDが使われる事例がある。 ディストーションやオーバードライブ、またギターアンプのクリッピング素子として、シリコンダイオードやゲルマニウムダイオードの代わりに使われる場合がある。 深紫外線を発する方法で、水などを殺菌できる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "発光ダイオード(はっこうダイオード、英語: light-emitting diode: LED)とは、ダイオードの1種で、順方向に電圧を加えた際に発光する半導体素子である。発光原理にはエレクトロルミネセンス (EL) 効果を利用している。また、有機エレクトロルミネッセンス(OLEDs、有機EL)も分類上は、LEDに含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1962年にニック・ホロニアックによって発明された。発明当時は、赤外線LEDと赤色LEDのみだった。1972年にジョージ・クラフォード(英語版)によって黄緑色LEDが発明された。1986年には、赤﨑勇と天野浩により、青色LEDの発光結晶の窒化ガリウムが世界で初めて制作され、続いて1989年には青色LEDが発明された。この発明を利用し、豊田合成と日亜化学工業の2社が青色LEDの工業化を目指した。1993年には、NTT物性科学基礎研究所の松岡隆志によって開発された発光物質の窒化インジウムガリウムを使用した実用的な高輝度青LEDが日亜化学工業により製品化された。この発明によって中村修二が2014年に赤﨑勇、天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "発光ダイオードは、半導体を用いたpn接合と呼ばれる構造で作られている。発光はこの中で電子の持つエネルギーを直接、光に変換する方法で行われ、巨視的には熱や運動の介在を必要としない。電極から半導体に注入された電子と正孔は異なったエネルギー帯(伝導帯と価電子帯)を流れ、pn接合部付近にて禁制帯を越えて再結合する。再結合時に、バンドギャップ(禁制帯幅)にほぼ相当するエネルギーが光として放出される。放出される光の波長は材料のバンドギャップによって決まる。基本的には、エネルギーが多いと波長の短い光が出る。これにより赤外線領域から可視光線領域、紫外線領域まで様々な発光を得られるが、基本的に単一波長の光のみを放出する。ただし人間の視覚に合わせて、青色、赤色、緑色(光の三原色)の発光ダイオードを組み合わせて用いれば、人間にとって区別できるあらゆる色(フルカラー)を表現できる。また、青色または紫外線を発する発光ダイオードの表面に蛍光塗料を塗布する方法で、高エネルギーの青色の光を蛍光塗料に吸収させて、蛍光塗料からエネルギーの低い他の色の蛍光を放出させて、適切に色の変換を行い、白色や電球色などといった様々な中間色の発光ダイオードも製造されている。", "title": "原理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "他の一般的なダイオードと同様に極性を持っており、カソード(陰極)に対しアノード(陽極)に正電圧を加えて使用する。この順方向にかけた電圧が低い間は、電圧を上げても電流が増えず、発光もしない。ある電圧を超えると電圧上昇に対する電流の増え方が急になり、電流量に応じて光を発するようになる。この電圧を「順方向降下電圧 (VF)」と呼び、一般的なケイ素を主原料に使ったダイオードと比較すると、発光ダイオードは順方向降下電圧が高い。発光色によって違うが、赤外では1.4 V程度。赤色・橙色・黄色・緑色では2.1 V程度。白色・青色では3.5 V程度。紫外線LEDは最もVFが高く、4.5 Vから6 Vが必要である。", "title": "LEDの特性" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "発光時の消費電流は表示灯用途では数 mAから50 mA程度だが、照明用途では消費電力が数十Wに及ぶ大電力の発光ダイオードも販売されている。", "title": "LEDの特性" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただし、一般的なダイオードとは異なり、整流用途にLEDは使用できない。逆方向に電圧を掛けた場合の耐電圧は、通常のシリコンダイオードより遙かに低く、通常はマイナス5 V程度である。これを超えると破壊される危険性がある。", "title": "LEDの特性" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、順方向電圧の低いダイオードの代わりとしての利用にも向かない。例えばラジオなどの受信機には、ゲルマニウムダイオードなど、シリコンダイオードよりも順方向電圧の低いダイオードが用いられるが、LEDを用いた場合には、発光する分だけ無駄に電力を消費するため、LEDは不利である。", "title": "LEDの特性" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "基本的に光量が電流に比例するため、定電流回路や平均電流を一定になるように制御した高周波回路で駆動する。交流電源はダイオードブリッジなどで整流して利用される。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "LEDを回路に組み込む際には、原則として、電流が過剰に流れ過ぎないようにするための抵抗器を、LEDと直列に入れておかねばならない。この目的で回路に挿入される抵抗器を「電流制限抵抗」などと呼称する。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "定電圧電源に接続して使用する場合は、電流制限抵抗をLEDと直列に接続する事で、LEDに流れる電流をほぼ一定にできる。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これに対して、電源電圧と、LEDの順方向にかけるべき定格電圧が同じだったとしても、電流制限抵抗を省くと、しばしばLEDには過剰な電流が流れて、LEDは破壊され得る。なお、別個に電流制限抵抗を用意しなくとも大丈夫な例外として、LEDの内部に電流制限抵抗も納めた製品も存在する。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "電源電圧を E として電流 I を流すには、適切な抵抗値はおよそ (E-VF) /I だが、LEDの順方向降下電圧 (VF) には個体差があり、抵抗にかかる電圧が変わるため、実際に製造された製品に流れる電流は設計時に想定した値に比べて多少のバラツキが生じる。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "抵抗も電力を消費するため電力効率は良くないが、定電圧電源を用意できる場合には最も単純かつ低コストな回路である。そのため、発光効率を特に追求しない表示灯用途には多用される。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "定電流ダイオード (CRD) を直列に接続する等、能動素子で定電流回路を構成する事により自動車やバイクのバッテリー等、電源電圧がある程度変動する環境下でも対応できる。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "電源には、LEDの順方向電圧降下に加え、定電流回路の動作に必要な電圧が必要となる。CRDは動作に5 Vから10 V程度の電圧を必要とするが、1 V程度の電圧でCRDと同等の動作ができるICも利用されている。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "回路は単純だが、電流制限抵抗と同様、過大な電源電圧を電力を消費して吸収するため、電源電圧によっては電力効率が悪くなる。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ヒトの視覚が認識できない短い時間周期の点滅を繰り返し、見かけ上一定の明るさを得る方式である。明るさは点灯時間のデューティ比を変えるパルス幅変調により容易に調節できる。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "駆動回路には電力効率は良く、出力に電流・電圧に変動(リップル)があるスイッチング電源や昇圧回路を用いる事が可能である。また、出力電流の平均を一定に保つ事で、乾電池のように電源電圧が低かったり、変動幅が大きかったり、という場合にも一定の明るさを維持可能である。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "駆動回路で消費される電力が他の駆動方式に比べ少なく、入力電力の大半がLEDで消費されるため、電力効率は比較的良い。しかし、電流断続時の急激な電流変化により生じるノイズ放射が機器内外へ電磁妨害を及ぼすほか、回路規模増大に伴ってコストと実装体積が増加する。", "title": "駆動方式" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "放出された光の波長(色)は、pn接合を形成する素材のバンドギャップの大きさが関係する。発光ダイオードでは近赤外線や可視光、紫外線に至る波長に対応したバンドギャップを持つ半導体材料が用いられる。一般に発光ダイオードには発光再結合確率の高い直接遷移型の半導体が適する一方、一般的な半導体材料であるケイ素(シリコン)やゲルマニウムなど間接遷移型半導体では、電子と正孔が再結合する際に光は放出され難く、単純に熱に変わり易い。しかし、黄色や黄緑色に長く使われてきたGaAsP系やGaP系などドープした不純物の準位を介して強い発光を示す材料もあり、広く用いられている。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "以下の素材を使用する事により、様々な色の発光ダイオードを作り出せる。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "以下は基板として利用されている。", "title": "材料" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "青色発光ダイオードは、窒化ガリウム (GaN) を材料とする、青色の光を発する発光ダイオードである。青色LEDとも書かれる。日本の化学会社、日亜化学工業株式会社が大きな市場占有率を持っている。他の有力企業としては、豊田合成、星和電機がある。GaN系化合物を用いた発光ダイオードの開発と、それに続く青色半導体レーザーの実現により、紫外から純緑色の可視光短波長領域の半導体発光素子が広く実用化されるに至った。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "発光ダイオードは、低電力で駆動可能な光源であるため、ディスプレイへの応用が期待されていた。RGBによるフルカラー表示のためには、光の三原色(赤・緑・青)の発光素子が必要である。このうち1980年代中頃までに、実用化されていたのは純赤色のみであった。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "当時も「青色ダイオード」の名で販売されていた製品は存在したものの、色味が紫がかっており、純青としての実用的な高い輝度を出す製品は皆無だった。また黄緑色は赤色と共に早くから実用化されていたが、純緑色の実現には結果的に青色と同じくGaN系半導体材料が必要とされ、純緑色LEDの実用化は青色LEDの登場以降である。これらの理由で、発光ダイオードによるフルカラーディスプレイの実現は出来なかった。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "純青色発光の実現のため、セレン化亜鉛 (ZnSe) 系化合物や炭化ケイ素 (SiC) を用いての研究が古くから行われ、ZnSe系による青緑 - 緑色発光ダイオードの開発に至った他、SiCの青色発光ダイオードは弱い発光強度ながら市販もされた。しかしその後、GaN系化合物による青色発光ダイオードが急速に普及したため、現在ではこれらの材料系の技術は白色発光素子や基板などの用途に転用されている。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "窒化ガリウムを用いた高輝度の青色LED開発に関して、1986年に、赤﨑勇、天野浩らが高品質、高純度のGaN結晶の結晶生成に成功した。天野浩は不可能とされていた「PN接合」が可能だと初めて証明した。1993年に中村修二が、世界に先駆け高輝度青色LEDを発明し、実用化した。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2001年8月、中村が職務上で1993年11月に発明した(職務発明)「404特許」を巡って元勤務先の日亜化学工業を提訴し、同特許の原告への帰属権確認ないし譲渡対価を巡って係争した(青色LED訴訟)。この訴訟は企業と職務発明者との関係について社会の関心を広く喚起し、裁判所は東京地方裁判所では発明の対価を約604億円と評価し200億円の支払いを命じたが、東京高等裁判所は和解へと誘導し1審判決が認定した発明の対価約604億円の1/100 相当の6億円を「対価」として提示した。日亜は、(いずれにせよ対価の支払いが遅れていたので)遅延損害金を含む約8億4千万円を支払うことで和解が成立した。しかし中村はなお納得できず「高裁は山ほど提出した書面をまるで読まず、最初から和解金額を決めていた。高裁の和解案の決め方は正義とは言えない。」と指摘するために、滞在していたアメリカ合衆国から日本を訪れた。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2004年12月、東北大学金属材料研究所の川崎雅司(薄膜電子材料化学)らの研究チームは、より安価な酸化亜鉛を用いた青色発光ダイオードの開発に成功した。青色LEDの再発明とも言われ、この成果は同年12月19日付の英科学誌ネイチャーマテリアルズ(電子版)にて発表された。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "赤﨑、天野、中村の3名は青色発光ダイオードに関する業績が評価され、2014年のノーベル物理学賞を受賞した。", "title": "青色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "白色LEDとも書かれる。白色光とは、一般には可視光線の全波長域に亘り強度が連続している光(連続スペクトルの光)を指す用語である。発光ダイオードで得られる発光は、レーザーほどではないものの狭い波長範囲のみに限られるため、この意味での白色光は生成できない。しかし、白色のような多色光に対しては、それを構成する光の波長、すなわち、スペクトルが異なっていても、白色とヒトの視覚で認知されるように、発光スペクトルを設計する事は可能である。典型的には、テレビのように光の三原色を混合したり、補色関係にある2色を混合して、適切な強度比に設計すれば、白色だとヒトに認知される光が生成できる。白色発光ダイオードではこの原理が利用され、具体的な手法が幾つか考案された。この結果、低電圧でのDC駆動などダイオードの持つ電気的な扱い易さのみならず、光源としても高効率(低消費電力)であり、しかも寿命も既存の光源以上に長いため、LED照明として白色発光ダイオードが利用されてきたなど、気体を使わない固体光源として普及が進んだ。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "青またはそれよりも波長の短い光を放つ発光ダイオードのチップに、その発光ダイオードの光により励起されて長波長の光を放つ蛍光体(フォトルミネセンス)を組み合わせた方式である。発光ダイオードのチップは蛍光体で覆われており、点灯させると、発光ダイオードチップからの光の一部または全部が蛍光体に吸収され、蛍光はそれよりも長波長の光を放つ。発光ダイオードのチップが青発光であれば、チップからの青色の光に蛍光体の光が混合されて、一緒に出力される。蛍光波長や蛍光体の厚さなどを調整すれば、白色光を得られる。この蛍光体には、例えばYAG系の物が用いられる。この方式には、単一のチップとパッケージだけで、白色発光が実現可能だという利点を有する。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "白色にヒトに認識される光を放つような白色発光ダイオードの実現には、青色発光ダイオードの存在が不可欠であった。蛍光体による発光では、蛍光体が受けた光より短い波長の光は得られないため、赤や緑のLEDでは短波長の成分が不足し、白色とヒトには認識されないからである。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この蛍光体方式の開発により、固体光源である白色発光ダイオードが本格的に普及した。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在の白色発光ダイオードの主流であり、一般に青黄色系擬似白色発光ダイオードと呼ばれている。視感度の高い波長である黄色に蛍光する蛍光体と青色発光ダイオードとを組み合わせる方法で、ヒトの視覚上で大変に明るく感じられる白色発光ダイオードを実現した。青色発光ダイオードの製造を行っている日亜化学は元々蛍光体の製造メーカーであるため、この方式を得意としている。豊田合成も同方式を用いている。この方式により作成された白色発光ダイオードが、世界初の白色発光ダイオードとされている。擬似白色発光ダイオードの実現は、世界的にインパクトを与えた青色発光ダイオードの発表の後だったため報道は控えめだったが、業界内では大きなニュースだった。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "擬似白色発光ダイオードは非常に高いランプ効率 (lm/W) 値を得られる点が特徴である。その理由にはヒトの視感度が関連しており、視感度の高い波長にスペクトルを集中させた蛍光体の黄色と発光ダイオードの青色とを組み合わせて実現した。一般に、ヒトの網膜にて光の強度や色を識別する細胞組織である錐体は黄緑色の波長(約555 nm付近)に高い分光感度を持つ(視感度が高い)。このため、この黄緑色の波長のスペクトルに蛍光体の発光を集中させるとエネルギーの割にヒトは明るく感じ、視覚上大変に明るい白色発光ダイオードが実現できる。100 (lm/W)を超えるような白色発光ダイオードでは、ランプ効率が高い擬似白色発光ダイオードを実現するために、全光束に対するエネルギー効率が高くなるように、ヒトの視感度を考慮して最適化されている。なお、物理的なエネルギー効率は、物理エネルギー量を示す放射束を投入電力(ワット)で除算して計算されるため、光として取り出せる光(光子数)を増す事により高められるが、それのみでは視感度に対して効率の高くない波長域の光が多い場合もある。ランプ効率を高めるには、物理的に効率が良く、かつ、視感度に適したスペクトルが得られる必要がある。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その引き替えに、特にランプ効率を優先した設計の擬似白色発光ダイオードでは演色性が低下し易い。一般には擬似白色発光ダイオードの平均演色評価数 (Ra) は76程度に留まり、一般型蛍光灯 (Ra67) と三波長型蛍光灯(同85)の中間に当たる。ただし現行の演色性の評価法は、白熱灯や蛍光灯を前提とした物であるため、発光ダイオードのように急峻なスペクトルを持つ光源の場合に、演色性が見た目の印象より低く評価される傾向がある。このため、前述のような特性を持つ光源について、平均演色評価数がもっと高くなるように評価法を見直す議論もある。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "青色発光ダイオードと黄色の蛍光体を組合わせた構成での白色光は、緑や赤のスペクトル成分が少ないため演色性が低い。赤色や深紅色の発色が悪いという性質を改善するために黄色以外の蛍光体を混ぜて演色性を改善しようとすると、ランプ効率 (lm/W) が低下する。これは赤色系の蛍光体を多く配合して赤色領域で多くの光エネルギーを発生させても、この領域のヒトの視感度が低いため、ランプ効率の評価が低下するためである。また、透過して出力される青色光の割合を正確に揃える事が難しく、製造時の色温度の個体差が大きい欠点もある。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらの点について、近年は、蛍光体と発光波長の点で進展が見られる。蛍光体については、独立行政法人の物質・材料研究機構がβサイアロン蛍光体の開発に成功し、これを用いて大幅なランプ効率の向上が得られ、赤色や深紅色の発色の問題も解決されるとされていたが、赤色波長を多く発色させるとランプ効率は低くなる現象は物理的限界であって、改善は不可能だと確認された。発光波長の点では、紫色光 - 紫外線を発光する発光ダイオードが開発された。これにより、蛍光灯と同様に紫光または紫外光の励起により多色を発光させ、演色性を向上させた白色発光ダイオードも登場した。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その他の白色発光の実現方法として、光の三原色である赤色・緑色・青色の発光ダイオードのチップを用い、これを1つの発光源として白色を得る方法もある。この方式は各LEDの光量を調節すれば、任意の色彩を得られるため、大型映像表示装置やカラー電光掲示板の発光素子として使用されている。ただし、照明用には適さないとされる。照明として用いる場合、蛍光体方式はある程度幅を有するスペクトルなのに対して、3色LED方式は赤・緑・青の鋭い3つのピークを有するのみで黄およびシアンのスペクトルが欠落している。このため、3色LED方式の白色発光は光自体は白く見えても、自然光(太陽光)の白色光とはほど遠いため、それで照らされた物の色合いは太陽光の場合と異なってくる。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "連続スペクトルの白色光下と、3色LED方式による白色発光下において、照らされた物の色合いが違って見える理由を説明する。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "可視光線のうち、", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "があったとする。太陽や白熱電球の光は広い波長の可視光線を含むので、その下では、1は赤色と緑色の光が反射され網膜の赤錐体と緑錐体を刺激して黄色に見える。2は黄色の光が反射され、その光が網膜の赤錐体と緑錐体の両方を刺激して黄色に見える。つまり両者とも黄色に見える。ところが光の三原色の混合で照らした場合、1は赤と緑の光が反射され黄色に見えるが2は赤・緑・青いずれも物体に吸収されてしまい、理論上は黒く見えるはずである。ただ実際には、完全に黄色の光のみを反射して他の光を一切反射しないという物体は存在しないため、黄色いはずの物が黒く見えるほどの極端な結果にはならないものの、多少色合いが異なって見える。蛍光灯ではこの問題を解決するために5色発光や7色発光の物も作られたが、それでも演色性は連続スペクトルの白色光に劣る。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この方式は3つのチップが必要で、見る角度に依存しない均一な発光色を得る事も難しい。さらにそれぞれのチップの要求する電圧が異なるので、点灯回路も3系統必要である。しかし、発光ダイオードのチップからの発熱のせいで、蛍光体が劣化する問題を回避できるメリットはある。また液晶バックライトなど表示用に用いる場合は赤・緑・青の3つの成分しか持たない事が逆に利点になり、色純度の高い鮮やかな表示色を得られる。", "title": "白色発光ダイオード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "発光ダイオードの基本構造はpn接合だが、実際には発光効率を上げるためにダブルヘテロ接合構造や量子井戸接合構造などが用いられ、技術的には半導体レーザとの共通点が非常に多い。製造法としては、基板の上に化学気相成長法によって、薄膜を積み重ねていく方式などが用いられる。また、ペロブスカイト半導体ではインクジェット等の印刷技術で製造できる。また、半導体レーザと同様に、面発光型と端面発光型が存在する。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "最も単純な構造は、発光部を内包する透明樹脂部分と2本の端子からなる。多色のLEDを内蔵した物は、3本以上の端子を持つ。", "title": "製造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "インジウムと比較してガリウムの資源は逼迫していない。しかし、その産出地が主に中華人民共和国、カザフスタン、ウクライナに偏在し、これら各国に特有の政治的カントリーリスクの観点から、半導体材料をガリウムに依存し過ぎる事に懸念が出ている。このため酸化亜鉛やシリコン、炭化ケイ素といった材料による実用的な青色発光ダイオードの実現が急務となっている。", "title": "ガリウムの資源問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "LEDは低消費電力、長寿命、小型化可能であるため、数多くの電子機器に利用されている。また、1つの素子で複数の色を出せるような構造の物もある。機器の動作モードによって色を変えられるなど、機器の小型化に貢献した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "当初のLEDは輝度が低かったため、電子機器の動作表示灯などの屋内用途に限られていたが、赤色や黄緑色の高輝度タイプの物が実用化されてからは屋外でも電球式に代わって電光掲示板に採用され、さらには鉄道駅の発車標などにも使用されるようになった。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "高輝度の青色や緑色、それを応用した白色の発光ダイオードが出回るようになってからは、フルカラーの大型ディスプレイ、電球の代わりとして懐中電灯や信号機、自動車のウィンカーやブレーキランプ、各種の照明にも利用されていった。特にブレーキランプに使用した場合、電球よりブレーキペダルを踏んでから点灯するまでのタイムラグが短いため、安全性が向上する。2006年には日本初の超高輝度LEDを用いた前照灯が、JR東海313系電車で採用された。2012年5月開業の東京スカイツリーでは、夜のライトアップ照明を全てLEDで行っている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "なお、発光ダイオード自体の寿命は長いが使用目的によっては樹脂の劣化による光束低下の進行が早くなる場合もあり、LED交換が必要となる程度まで光束が落ちた場合に基板の交換も含む大規模なメンテナンスが必要とされ得る点が、今後の課題である。鉄道車両では、駅での行き先表示としての役目を果たせば良いという考えから、走行中には側面表示が一定の走行速度に達した際には消灯させるなど、きめ細かい制御で表示装置の長寿命化を図っている車両も存在する。なお、編成前後の前面表示は表示のままである場合が多い。ちなみに側面表示は、ドットマトリックスの制御方法から、高速移動中は表示し続けていたとしても表示文字の視認が難しい。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "色覚異常によって発光ダイオードの色の見分けが困難な場合がある。例えば1型2型の色弱のヒトには、赤・橙・黄色・黄緑・緑のLEDは同じ色に見えてしまう。交通信号機では緑を青緑色にする方法で、色覚異常でも判別できるようにしているが、交通信号機以外でも色覚障害者向けの対策が必要とされる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "信号機は光源が光らなければ役目を果たせないため、従来の白熱電球を光源にした信号機は、電球の寿命の問題で、頻回なメンテナンスが欠かせなかった。これに対して、発光ダイオードの製造コストが低下し始めた2000年代以降、省エネルギーで耐久性が高いとして、鉄道用および道路交通信号機での利用も拡大した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、白熱電球を使った従来の信号機では、LED式信号機とは異なり、白熱電球を納める比較的大型の筐体が必要だった。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "これに加えて、白熱電球にカラーレンズを組み合わせて色を表現していた従来の信号灯では、太陽光が灯器に入り込んでカラーレンズを明るく見せるため、実際の点灯箇所と見分けづらくなる。これを疑似点灯現象と呼ぶ。発光ダイオードを使った信号機は、レンズ自体が無色であり、発光ダイオードも点灯していなければ無色であるため、疑似点灯現象の防止が可能で、太陽光などの影響を受け難いとされている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、中央に高輝度のLEDの集合体を置き、無色半透明の反射板でLEDの光を均等に行き渡らせて無色のレンズ全体に広げる方式のプロジェクター式と、小さなLED素子を基盤に多数装着して全面にLEDが並んだ素子式とが有る。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "駅の発車案内表示板や空港の出発案内板などには、従来の反転フラップ式や字幕式に代わり、鉄道車両やバスの行先表示、タクシーの実空車表示器(スーパーサイン)などには従来の幕式に代わり普及が進んだ。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "最初に登場したLED表示機は赤色・黄緑色・橙色の3色(橙色は赤色と黄緑色LEDによる)表示方式だった。赤色LEDと黄緑色LEDにより3色目の橙色が表現していた方式で、俗に「3色LED方式」とも呼ばれる。ただし、実際は2色のLEDを用いているため、工業製品などでは「2色LED」とも呼称される。これは、白色LEDでの赤色、青色、緑色の3色のLEDを用いた「3色LED方式」とは異なる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その後、白色LEDを搭載した物や、単色で赤・青・緑、2色の混色で黄・シアン・マゼンタ、3色の混色での白の計7色を表示するマルチカラーLEDとされる物、さらに高輝度の赤色・青色・緑色LEDにより、あらゆる色を表示可能にしたフルカラーLEDの物も登場した。なお日本の場合、路線バスは、鉄道と比べると表示種別が少ないため、多くの発色を必要としないので「3色LED」を使用しつつ、交通の妨げとなり難い橙をメインに使用する方式であったが、近年ではフルカラーLEDを採用する例も出てきた。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "従来、大型ビジョンの発光素子にはCRTやVFDの光の三原色素子が利用されていた。しかし、青色LEDの進歩によりこれらに代ってLEDが使用されていった。従来の方式に比べ、コストや輝度が優れており普及が進んだ。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "店頭看板などでも、従来のFL蛍光管等に代わり、LEDモジュールなどのLED製品の普及が進んだ。看板・サインのサイズの大小化や軽量化と共に、故障が少なくコストに優れている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "冷陰極管が発する白色光をカラーフィルタで透過して得られる色(赤・緑・青)に比べ、RGB3色発光ダイオードが放つ光は色純度が高い。そのため、液晶ディスプレイのバックライトの光源を冷陰極管から発光ダイオードに置き換える事により、色の再現範囲を大きく広げられる。また電力消費も少ない。こうした理由から、液晶バックライト光源としてLEDを用いる方式が普及した。ただしコストが安くて効率の高い擬似白色LEDが用いられる場合も多く、この場合は色の再現範囲は広色域タイプの冷陰極管と比べ劣る。また、LEDは点光源のため広い面積を照射しようとするとムラを生じ易い。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "大型ディスプレイ用のLEDバックライトとしては、2004年11月にソニーより液晶テレビ「QUALIA」で実用化された。より一般的に普及が進んだのは2008年からで、各メーカーが上位機種を中心に採用し始めた。LEDテレビとは一般的に、LEDバックライトを搭載した液晶テレビを指す。2011年現在は、低価格化が進み、下位機種でも採用される場合がある。エリア駆動対応機種では、映像が暗い部分のみLEDバックライトを消灯するエリア駆動により、液晶ディスプレイの弱点であるコントラストを大幅に拡大できるメリットがある。また超薄型と呼ばれる厚さを抑えた液晶テレビや、ノートパソコンの薄型化でもLEDバックライトが重要な要素となった。また、LEDバックライトを搭載したエッジ型のディスプレイは、LEDの特性上、CCFL(蛍光管)テレビに比べて消費電力が少ない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "なお、上述の「LEDテレビ」やLEDバックライトを搭載した液晶ディスプレイ全般を指す場合に使われる「LEDディスプレイ」という呼称は、正確には誤用である。液晶テレビのバックライトは発光するための物であり、映像を表示する物ではないためである。2012年、ソニーが実際に発光素子としてLEDを採用した「Crystal LED Display」を開発した。それ以降、「LEDビジョン」や「LEDウォール」と呼ばれるLED発光素子の製品が他社からも発売され、大型ビジョンや街頭広告などで用いられている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "発光素子に超小型LEDを採用したディスプレイである。液晶ディスプレイや有機エレクトロルミネッセンスを使用したディスプレイと比べ、画質や寿命の点で優れているとされるが、その実装コストの問題から一般家庭用途などのディスプレイではあまり開発が進んでいない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "沖データは2009年11月26日に、1.1インチQVGAの高輝度LEDディスプレイの開発に世界で初めて成功したと発表した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "省エネルギー、高輝度で長寿命を実現できる白色LEDの開発に伴い、発熱に伴うエネルギー損失の多い白熱電球や蛍光灯などに代わり、屋内・屋外照明材料として、LED照明が期待された。また、LEDはデザインや光色なども比較的容易に調節できるため、電球や蛍光灯より自由度の高い照明が可能である。現在は既存の照明に置き換わる性能を有した製品が発売されており、懐中電灯、乗用車用ランプ、電球型照明、スポットライト、常夜灯、サイド照明、街路灯、道路照明灯などLEDを使用した製品が次々登場した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "日本エネルギー経済研究所が2011年に発表したリポートによると、日本全体の白熱電球や蛍光灯など全部を、LED照明に置き換えた場合に、1時間あたり922億キロワットを節約できると試算した。これは日本の総電力消費量の約9パーセントに相当し、原子力発電所13基分という。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "E26型、E17型を中心とした白熱電球のソケットに装着可能な「LED電球」は企業間競争などにより大幅に価格が下落した。製品寿命や消費電力を考慮すれば「LED電球」の方が、白熱電球や電球形蛍光灯より低コストであると謳われているが、発売されてからまだ日が浅い商品であり、公称寿命として、各メーカーが謳う40000時間に達した例がほとんど無く、頻繁な点灯・消灯の繰り返しや連続点灯が、寿命に関わる劣化にどう影響を与えるかは未だ検証可能な個体が少なく、未知数である。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "明るさや照射範囲などは「LED電球」の型番によって違いがある。より電球に近づけたと謳う製品や、広配光を謳う製品、下方向のみの製品など多種多様である。中でも明るさについては、実際の明るさよりも明るいと不適切な表示(優良誤認)を行ったとして、メーカー12社に対して、2012年6月に消費者庁が景品表示法に基づく措置命令を行った。これにより「LED電球」の明るさ基準を作る動きが生まれ、業界団体である一般社団法人日本電球工業会により、電球と置き換えた場合、電球の何ワット相当に該当するかを、全光束(ルーメン)が明るさ表示の基準として統一され出された。これにより、加盟会社の電球製品はそれぞれ電球何ワット相当と表示できる基準ルーメンと実際のルーメンに合わせる必要があり、不適切な表示はなくなった。ただし、非加盟会社の製品は、インターネットを通じて販売される場合が多く、未だに不適切な表示を継続する例が後を絶たない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "直管蛍光灯(FL40W形等)と同形状・同口金 (T8:G13) の物も発売され、LEDチップ価格の下落に伴い、ややコストメリットが出つつある。しかし、急速に価格が下落し、電球との消費電力の差も大きい「LED電球」と違い、直管蛍光灯型LEDは、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。カバーに透明と乳白色の2種類があり、直下の照度を重視するなら透明、広い照射角(最大310度の製品もある)を求めるなら乳白色の物を選ぶのが妥当である。照明機器としてLED素子1個では充分な光束が得られないため、使用目的に合わせてLED素子を複数個使用して照度を確保している。100個以上のLED素子を使用した製品も珍しくない。ただし、蛍光灯と比べて重量が増すために、蛍光灯用のソケットが重みに耐えられず落下する危険性があるほか、蛍光灯器具の安定器を取り除かねばならないタイプの製品もある。そのため、日本の大手メーカーなどは器具そのものをLEDユニットにした製品を開発した。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "丸形蛍光灯型LEDを使用するシーリングライト等についても、直管蛍光灯と同じく、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "表面実装 (SMD) タイプのLEDを使用した照明器具を、「SMDライト」等と称して差別化して販売している例もあるが、本質的にLEDと何ら変わりがない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "自動車用灯火類の光源としてはまず、2000年代後半からテールランプ用の光源として使用され始めた。テールランプは後続車両へのブレーキ作動の警告、及び夜間走行時の自車の存在アピールとして使われるため使用頻度が高く、急激な電力供給と発熱のため寿命が短い一方で、ランプ切れは事故につながり易いため、長寿命のLEDが適している。また白熱型照明は発熱に時間がかかり、それがブレーキ作動から点灯までの時間差を生み事故の原因の1つになり得るが、LEDは時間差がきわめて少ない。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "当初は光量が足りないためヘッドライトにLEDを採用例は無かったが、2007年5月発売の4代目LS600hには小糸製作所が日亜化学工業と共同開発した(鉄道以外の用途として)世界初のLEDヘッドランプが搭載された。LS600hのLEDヘッドランプは、1つのLEDランプでは光量が足りず、3つのLEDランプをロービームとして使用していたが、その後LEDランプ1つあたりの光量が増え、2013年発売の3代目レクサスISでは1つのLEDランプでロービームとして使用できるようになった。LEDヘッドランプは、消費電力が少ないのに、光量はHIDを上回っており、各自動車メーカーが採用しつつある。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "オートバイへの利用ではko-zaru仔猿(CKデザイン製)が、ウィンカーとテールランプ、ストップランプに2003年から採用している。小型バイクのためバッテリーの積載容量に制限があり、電力消費の点から採用した。一般市販バイク初搭載としては、ホンダが2014年3月20日に発売したCB1300スーパーボルドール(型式SC54)の2014年モデルから正式採用された。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2020年前後の段階では四輪車・オートバイいずれも、アフターパーツとして数多くのLED灯火類が市販されている。これらは", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "といった形態が存在している。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "自転車用ランプのLED普及率は、自動車のそれに比べて先行して上昇した。自転車で電力を作るための発電機は、ペダルをこぐ力で得ているため、電力消費量が多いと、より強い力でペダルをこぐ必要が出てくる。そこで、消費電力の少ないLEDの使用により、発電のために必要な、ペダルをこぐ力を減らせる。さらに、LEDは使用電力が少ないため、非接触型の発電機でも充分な電力が得られ、非接触型の発電機を採用すれば、照明使用時にペダルをこぐ負荷が非常に少くて済む。また電池式の場合でも、消費電力の少ない分だけ、電池が長持ちする利点がある。廉価な軽快車などでは相変わらず電球が主流であるが、ハブに発電機を付けたタイプが、オートライトには多く採用されている。この他、前照灯としての役目より、他の自転車や自動車からの被視認性を意識した認識灯や尾灯への応用も多い。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "高輝度LEDを搭載した、舞台用照明器具が開発された。赤、緑、青、(アンバー、シアン、ライム)と3~6色の高輝度LEDを搭載した事により、一般的な電球を用いた舞台照明と比較して次の利点が挙げられる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "これらはハロゲン化白熱電球の舞台照明から、次第に移り変わり、舞台を始めコンサート・ライブ等で実用されつつある他、スポーツ施設(屋外の陸上競技場、球技場、野球場、競馬場、屋内の体育館など)にも、従来からあったメタルハライドランプから転換し、スポーツの試合においても意図的に照明の点滅や消灯などができるよう改善されたバージョンが多数登場している。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "LEDの低電力消費量を活かして、太陽電池と内蔵した充電式電池を組み合わせ、外部からの電力供給が不要なLED照明装置が製造された。充分な日照時間が得られる場所では、庭に電気配線を張り巡らさずとも使用可能である。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "電子写真式プリンターとして一般的なレーザープリンターは、レーザーの出力を直接変化させたり、液晶シャッターで強度を変調した光を、回転するポリゴンミラー(多角形鏡)に反射させて走査したりして、感光ドラム上に走査線を作り出している。光学系には高い精度が要求され、構造上どうしてもある程度以上の走光路距離を確保せねばならず、プリンターの小型化、低価格化は困難だった。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "これを解決したのが、LEDアレイヘッドを使用したLEDプリンターである。微細加工したLEDを直線上に数千 - 数万個並べ、感光ドラム上の潜像の1ドット1ドットに対応するLEDで感光書き込みを行う。機械的駆動系(ポリゴンミラー)は不要になり、光学系は単純な収束レンズのみで済み信頼性向上とコスト削減、機器の小型化を実現した。ただし、主走査解像度がヘッドの集積度によって制限される、素子間のバラつき補正が必要、ドラムとLEDアレイが非常に近いために飛散したトナーが付着して出力物のクオリティ安定性に欠けるなどの欠点も持つ。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "駆動電流の変化に対し、LEDは光出力が高速応答できるという特性を活かし、TOSリンクを始めとする光ファイバー通信の信号送信機、フォトカプラ内部の光源に赤外発光LED、家電製品などの赤外線を利用したリモコンにも広く使われている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "赤外発光LEDはフォトトランジスタ等と組み合わせて、対象物の有無を検出するフォトインタラプタやフォトリフレクタ等の構成要素として用いられる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "模型用の点灯光源としても、LEDの価格低減に伴って、かつて使用されていた小型電球の代替として、LEDが使用されるようになってきた。光色の制限から、かつては赤色光への使用が主だったが黄色、白色LEDの開発により前照灯や室内蛍光灯の白色光の再現も可能となった。さらに白熱電球の再現については電球色(淡橙色)LEDの開発により、実際の電球ではサイズや発熱などの理由で難しかった箇所ですら、実感的な光色の再現が可能となった。特に、点灯機構を組み込むスペースが限られ、また部材がABS樹脂やポリスチレンなどで作られているなど電球の発熱の面でも不利な場合があったNゲージを中心とした鉄道模型の場合、通常のレンズタイプからチップタイプへの移行により構造の小型化により実感の再現に大きく寄与し、これにより従来は実車のヘッドライト構造の関係で製品化が困難だった車種の製品化が実現した。コストは従来の電球使用より割高であっても、実感的な模型の実現からユーザーに歓迎された面があり、分野としての消費量は少ないながらも、実用照明器具での利用に先行して採用されていった。また模型用途としては他にカーモデル用ディティールアップパーツやミニ四駆用のタミヤ純正カスタムパーツなど、改造用LEDキットが存在する。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "カメラ(デジタルカメラも同様)では、暗所での撮影や接近撮影・人物撮影での際には露出のラティチュードを揃える意味でフラッシュやレフ板などを使って光を当てる事がある。しかし、一般的なフラッシュ撮影では瞬間的に光を当てて撮影するため、撮影者や被写体としては写真の仕上がりを想定し難い。レフ板に関しては、自然な感じの照明効果が得られる半面、嵩ばり、移動の際に運搬し難い欠点がある。写真撮影用ライトは白熱電球の原理を用いた物が多いため、照明効率に対しての熱放射も大きく、被写体が熱を嫌う物である場合は照明器具として好ましくない例も多かった。またスタジオ外で撮影の為に携帯する機器は事実上、クリップオンフラッシュに限られた。LEDアレイ式ライトは電池での駆動が可能で、かつ照明光源としても必要充分な光量が得られる上に、比較的長時間の使用が可能なため、今後は撮影用照明器具としての普及が見込まれる。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2013年頃から、白色LEDをアレイ状に敷き詰めた撮影用LEDライトが、中国などを原生産国としてインターネットを中心に照明器具として普及しつつある。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ろうそくに似せたLED照明器具も製作・販売されている。火傷の心配がなく、火災の危険性が低いメリットがある。センサーやコンピューターと組み合わせて、周囲の音を感知して光を動かし、風による炎のゆらめきを再現する技術も開発された。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "電子回路内の基準電圧源として一般に使われるツェナーダイオードは、アバランシェ降伏現象を利用しているため、出力電圧にわずかながらノイズを発生させてしまう。通常はフィルタ回路によってノイズを充分に減衰させる設計を取るが、オペアンプをディスクリートで組む場合等、「そもそもノイズが発生しない基準電圧源」を追求して定電流駆動したLEDが使われる事例がある。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ディストーションやオーバードライブ、またギターアンプのクリッピング素子として、シリコンダイオードやゲルマニウムダイオードの代わりに使われる場合がある。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "深紫外線を発する方法で、水などを殺菌できる。", "title": "応用" } ]
発光ダイオードとは、ダイオードの1種で、順方向に電圧を加えた際に発光する半導体素子である。発光原理にはエレクトロルミネセンス (EL) 効果を利用している。また、有機エレクトロルミネッセンス(OLEDs、有機EL)も分類上は、LEDに含まれる。 1962年にニック・ホロニアックによって発明された。発明当時は、赤外線LEDと赤色LEDのみだった。1972年にジョージ・クラフォードによって黄緑色LEDが発明された。1986年には、赤﨑勇と天野浩により、青色LEDの発光結晶の窒化ガリウムが世界で初めて制作され、続いて1989年には青色LEDが発明された。この発明を利用し、豊田合成と日亜化学工業の2社が青色LEDの工業化を目指した。1993年には、NTT物性科学基礎研究所の松岡隆志によって開発された発光物質の窒化インジウムガリウムを使用した実用的な高輝度青LEDが日亜化学工業により製品化された。この発明によって中村修二が2014年に赤﨑勇、天野浩とともにノーベル物理学賞を受賞した。
{{redirect|LED}} {{Infobox electronic component | name = 発光ダイオード | image = RBG-LED.jpg | image_size = 225px | caption = 青, 緑, 赤の LED | type = [[能動素子]], [[光エレクトロニクス]] | working_principle = [[エレクトロルミネセンス]] | invented = [[オレク・ロシェフ]] (1927)<ref name="100-YEAR HISTORY">{{cite news | url=http://holly.orc.soton.ac.uk/fileadmin/downloads/100_years_of_optoelectronics__2_.pdf| title=The life and times of the LED — a 100-year history | date=April 2007| agency=The Optoelectronics Research Centre, University of Southampton| accessdate=September 4, 2012}}</ref><br />{{仮リンク|James R. Biard|en|James R. Biard}} (1961)<ref>[http://www.freepatentsonline.com/3293513.pdf US Patent 3293513], "Semiconductor Radiant Diode", James R. Biard and Gary Pittman, Filed on Aug. 8th, 1962, Issued on Dec. 20th, 1966.</ref><br />[[ニック・ホロニアック]] (1962)<ref name="LEMELSON-MIT">{{cite news | url=http://web.mit.edu/invent/n-pressreleases/n-press-04LMP.html | title=Inventor of Long-Lasting, Low-Heat Light Source Awarded $500,000 Lemelson-MIT Prize for Invention| date=April 21, 2004 | agency=Massachusetts Institute of Technology | accessdate=December 21, 2011 | location=Washington, D.C.}}{{dead link|date=January 2016}}</ref> | first_produced = [[1962年]]10月 | symbol = [[File:LED symbol.svg]] | pins = [[アノード]] と [[カソード]] }} {{Vertical_images_list | 1=LED Labelled-J.svg | 2=LEDの構造 | 3=LED macro blue+-.png | 4=発光部の拡大図。+/-で示されるのが端子の極性。発光素子の乗っている側のリードがカソード(負極)の製品が多い。 | 5=+- of Led.svg | 6=陽極(アノード、{{lang|en|anode}})と陰極(カソード、{{lang|en|cathode}})の形状の例と回路記号。 | 7=PnJunction-LED-J.PNG | 8='''上図''' 発光ダイオードの[[回路図]]と、[[電子]]・[[正孔]]の分布を模式的に描いた図。<br />'''下図''' 発光ダイオードの[[バンド構造]]と、それによる発光過程の説明。横軸が距離または位置、縦軸が電子または正孔のポテンシャルエネルギー([[エネルギー準位]])を表す。 | 9=Rectifier_vi_curve.GIF | 10=半導体ダイオードの電流-電圧特性。LEDも基本的には同様の特性を示す。図示した通り、印加電圧がVfを超えると急に電流が流れ始める非直線特性を持つ。抵抗を直列に入れて傾きを緩やかにするか、能動素子で定電流制御する必要がある。 }} '''発光ダイオード'''(はっこうダイオード、{{lang-en|light-emitting diode}}: '''LED''')とは、[[ダイオード]]の1種で、'''順方向'''<ref name="Azra" group="注">ダイオードのように電流の流れる向きによって電気抵抗の値が異なる部品、つまり、方向性が有る回路素子に,順方向の電圧を加えた際に、流れる電流のこと。</ref>に[[電圧]]を加えた際に[[発光]]する[[半導体素子]]である。発光原理には[[エレクトロルミネセンス]] (EL) 効果を利用している。また、[[有機エレクトロルミネッセンス]](OLEDs<ref group="注">{{lang-en|organic light-emitting diodes}}</ref>、有機EL)も分類上は、LEDに含まれる。 [[1962年]]に[[ニック・ホロニアック]]によって発明された<ref>[http://www.ge.com/jp/news/reports/edisons_shoulders_aug15_12.html エジソンに続く物語:GEのエンジニア、ニック・ホロニアックのLED発明から50年]({{lang|en|GE imagination at work}} / 原文(英語):2012年8月15日公開)</ref>。発明当時は、赤外線LEDと赤色LEDのみだった<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.68 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>。[[1972年]]に{{仮リンク|ジョージ・クラフォード|en|M. George Craford}}によって黄緑色LEDが発明された。[[1986年]]には、[[赤﨑勇]]と[[天野浩]]により、青色LEDの発光結晶の[[窒化ガリウム]]が世界で初めて制作され、続いて[[1989年]]には青色LEDが発明された。この発明を利用し、[[豊田合成]]と[[日亜化学工業]]の2社が青色LEDの工業化を目指した<ref>[https://www.toyoda-gosei.co.jp/news/detail/?id=81 青色LED訴訟、全面和解] 豊田合成株式会社、日亜化学工業株式会社</ref>。[[1993年]]には、[[NTT物性科学基礎研究所]]の松岡隆志によって開発された発光物質の[[窒化インジウムガリウム]]を使用した実用的な高輝度青LEDが日亜化学工業により製品化された。この発明によって[[中村修二]]が2014年に[[赤﨑勇]]、[[天野浩]]とともにノーベル物理学賞を受賞した。 == 原理 == 発光ダイオードは、[[半導体]]を用いた[[pn接合]]と呼ばれる構造で作られている。発光はこの中で[[電子]]の持つエネルギーを直接、[[光]]に変換する方法で行われ、巨視的には[[熱]]や[[運動 (物理学)|運動]]の介在を必要としない。[[電極]]から半導体に注入された電子と[[正孔]]は異なった[[エネルギー帯]]([[伝導帯]]と[[価電子帯]])を流れ、pn接合部付近にて[[禁制帯]]を越えて[[再結合]]する。再結合時に、[[バンドギャップ]](禁制帯幅)にほぼ相当するエネルギーが光として放出される。放出される光の[[波長]]は材料のバンドギャップによって決まる。基本的には、エネルギーが多いと波長の短い光が出る。これにより[[赤外線]]領域から[[可視光線]]領域、[[紫外線]]領域まで様々な発光を得られるが、基本的に単一波長の光のみを放出する。ただし人間の視覚に合わせて、青色、赤色、緑色([[光の三原色]])の発光ダイオードを組み合わせて用いれば、人間にとって区別できるあらゆる色([[フルカラー]])を表現できる。また、青色または紫外線を発する発光ダイオードの表面に[[蛍光塗料]]を塗布する方法で、高エネルギーの青色の光を蛍光塗料に吸収させて、蛍光塗料からエネルギーの低い他の色の蛍光を放出させて、適切に色の変換を行い、白色や[[電球]]色などといった様々な[[中間色]]の発光ダイオードも製造されている。 == LEDの特性 == === 電気的特性 === 他の一般的な[[ダイオード]]と同様に極性を持っており、[[カソード]](陰極)に対し[[アノード]](陽極)に正電圧を加えて使用する。この順方向にかけた電圧が低い間は、電圧を上げても[[電流]]が増えず、発光もしない。ある電圧を超えると電圧上昇に対する電流の増え方が急になり、電流量に応じて光を発するようになる。この電圧を「順方向降下電圧 (V<sub>F</sub>)」と呼び、一般的なケイ素を主原料に使ったダイオードと比較すると、発光ダイオードは順方向降下電圧が高い。発光色によって違うが、赤外では1.4 V程度。赤色・橙色・黄色・緑色では2.1 V程度。白色・青色では3.5 V程度。<!-- 見た目は1本のダイオードでも内部的に2本直列になっているという製品では?高出力品(所謂ワット級LED)では5 V前後。-->紫外線LEDは最もV<sub>F</sub>が高く、4.5 Vから6 Vが必要である。 発光時の消費電流は表示灯用途では数 mAから50 mA程度だが、照明用途では消費電力が数十Wに及ぶ大電力の発光ダイオードも販売されている<ref>[https://www.nichia.co.jp/jp/product/led_product_data.html?type=%27NV3W470A%27 日亜化学工業 NV3W470A]</ref>。 ただし、一般的なダイオードとは異なり、整流用途にLEDは使用できない。逆方向に電圧を掛けた場合の[[耐電圧]]は、通常のシリコンダイオードより遙かに低く、通常はマイナス5 V程度である。これを超えると破壊される危険性がある。 また、順方向電圧の低いダイオードの代わりとしての利用にも向かない。例えばラジオなどの受信機には、ゲルマニウムダイオードなど、シリコンダイオードよりも順方向電圧の低いダイオードが用いられるが、LEDを用いた場合には、発光する分だけ無駄に電力を消費するため、LEDは不利である。 === 光の特性 === * 波長の偏り : [[蛍光灯]]や[[白熱電球]]など他の多くの光源と異なり、LEDは特定の波長に偏った光を発する。そのため、対応する波長に対する[[光反応|光化学反応]]が促進されたり、逆に明るさの割に必要な波長の光が含まれないため充分な効果が得られない場合がある。 : LEDの有効活用法としては、光源の種類によっては不要な紫外線や赤外線を含まない単色光が簡単に得られるため、紫外線による劣化が問題とされる[[文化財]]や芸術作品や、熱照射を嫌う物品への照明に用いられる。また特定の波長の光を好む植物に、その波長の光のみをLEDを用いて照射する方法で、少ない電力使用量で、その植物を充分に育成できる。 : 逆に、明るくても特定の波長の光が含まれないため、照明として使用した場合に、動植物の育成を阻害する事もある。例えば、[[ビタミンD]]の生成に必要な波長を含んでいないために欠乏症になったり、光合成に必要な波長の光を含んでいないために生育が阻害されたりする。特に、3色LED方式で白色発光を作り出している方式では、波長分布による弊害が顕在化し易い。 : なお、青色LEDと適切な蛍光体を組み合わせて、高エネルギーの青い光を蛍光体に受けさせて、低エネルギーの蛍光を放出させる方法で、波長分布を拡散して白色の光を実現したLEDの場合でも、光源である青色LEDが発する[[波長]]が、ひときわ多く含まれている。 * 明滅の切り替え速度 : 入力電流変化に対する光出力の応答が速いため、通信などにも利用される。なお、自動車で後続車に対してブレーキ作動の警告を行う場合などにも、便利な特性である。 : また、照明として用いた場合は点灯と同時に最大光量が得られるため、瞬時に明るくしたい場所にも向く。 === 物理的特性 === * LEDは構造が簡単なため[[大量生産]]が可能である。価格は赤色LEDで1個5[[円 (通貨)|円]] - 10円程度と安価に抑えられる。 * 白熱電球と違い、LEDは[[フィラメント]]を使わないため軽量で衝撃に強く長寿命であり、電球のように衝撃が原因で破壊される頻度も低い。 * 白熱電球はフィラメントが加熱されないと発光しないのに対し、LEDは電子の持つエネルギーが熱に変わってしまっては発光効率が低下する。なおLEDは、白熱電球と比べて、高温に対する耐性にも欠ける。 * 白熱電球と違い、LEDは半導体素子なので、回路に問題が生じて故障する可能性を有する。 * 安定器などが必要な蛍光灯と比べれば、LEDの回路は比較的単純である。 == 駆動方式 == 基本的に光量が電流に比例するため、[[定電流回路]]や平均電流を一定になるように制御した[[高周波回路]]で駆動する。交流電源は[[ダイオードブリッジ]]などで整流して利用される。 === 電流制限抵抗 === LEDを回路に組み込む際には、原則として、電流が過剰に流れ過ぎないようにするための[[抵抗器]]を、LEDと直列に入れておかねばならない<ref><!--間のページは無関係なので、勝手に「pp.48 - 81」などとせぬ事。-->伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.48、p.49、p.76、p.77、p.80、p.81 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>。この目的で回路に挿入される抵抗器を「[[電流制限抵抗]]」などと呼称する。 [[定電圧電源]]に接続して使用する場合は、電流制限抵抗をLEDと[[直列回路|直列]]に接続する事で、LEDに流れる電流をほぼ一定にできる。 これに対して、電源電圧と、LEDの順方向にかけるべき定格電圧が同じだったとしても、電流制限抵抗を省くと、しばしばLEDには過剰な電流が流れて、LEDは破壊され得る<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.76、p.77 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>。なお、別個に電流制限抵抗を用意しなくとも大丈夫な例外として、LEDの内部に電流制限抵抗も納めた製品も存在する<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.46 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>。 電源電圧を E として電流 I を流すには、適切な抵抗値はおよそ (E-V<sub>F</sub>) /I だが、LEDの順方向降下電圧 (V<sub>F</sub>) には個体差があり、抵抗にかかる電圧が変わるため、実際に製造された製品に流れる電流は設計時に想定した値に比べて多少のバラツキが生じる。 抵抗も電力を消費するため電力効率は良くないが、定電圧電源を用意できる場合には最も単純かつ低コストな回路である。そのため、発光効率を特に追求しない表示灯用途には多用される。 === 定電流駆動 === [[定電流ダイオード]] (CRD) を直列に接続する等、[[能動素子]]で定電流回路を構成する事により[[自動車]]や[[オートバイ|バイク]]の[[二次電池|バッテリー]]等、電源電圧がある程度変動する環境下でも対応できる。 電源には、LEDの順方向電圧降下に加え、定電流回路の動作に必要な電圧が必要となる。CRDは動作に5 Vから10 V程度の電圧を必要とするが、1 V程度の電圧でCRDと同等の動作ができる[[集積回路|IC]]も利用されている。 回路は単純だが、電流制限抵抗と同様、過大な電源電圧を電力を消費して吸収するため、電源電圧によっては電力効率が悪くなる。 === 高周波駆動 === ヒトの視覚が認識できない短い時間周期の点滅を繰り返し、見かけ上一定の明るさを得る方式である。明るさは点灯時間の[[デューティ比]]を変える[[パルス幅変調]]により容易に調節できる。 駆動回路には電力効率は良く、出力に電流・電圧に変動([[リップル]])がある[[スイッチング電源]]や[[昇圧回路]]を用いる事が可能である。また、出力電流の平均を一定に保つ事で、[[乾電池]]のように電源[[電圧]]が低かったり、変動幅が大きかったり、という場合にも一定の明るさを維持可能である。 駆動回路で消費される電力が他の駆動方式に比べ少なく、入力電力の大半がLEDで消費されるため、電力効率は比較的良い。しかし、電流断続時の急激な電流変化により生じるノイズ放射が機器内外へ[[電磁両立性|電磁妨害を及ぼす]]ほか、回路規模増大に伴ってコストと実装体積が増加する。 == 使用に必要な知識 == * LEDが発する光の強さは、電流の量におおよそ比例する。しかし特に大電流域では発光効率が低下し、その分だけ発熱する。一般にLEDは発熱が少ないとは言え、高出力品では相応に発熱するのである。LEDは熱に弱いので、放熱の必要性は白熱球や蛍光灯よりむしろ高い。[[ヒートシンク]]などで適切に放熱しないと効率の低下や寿命の短縮でLEDの利点が失われる他、発煙・発火などの事故に繋がる事がある。 * 連続最大電流、瞬間最大電流を超えないこと。定格電流より多い電流をLEDに流すと、高い[[光束]]が得られるものの、寿命が極端に短くなる。LEDを使用した市販品では、寿命を犠牲にして高輝度を得ている物や価格を抑えるために電流を制限する回路を省いている製品もある。 * LEDは極性を有するため、陰極と陽極とを間違えて電圧を印加した場合は、LEDが発光しない。また逆方向に対する耐電圧が低いため、LEDが破壊され易い。自動車やバイクのウェッジ球のように極性が差し込むまで判らない、あるいはオルタネーターの交流が直接入るような用途用の物では、対策としてブリッジ回路を間に挟んで無極性化している製品も存在する。 * LEDを[[並列回路|並列接続]]する際は、注意が必要である<ref>日亜化学工業 LEDテクニカルデータ {{PDFlink|『[http://www.nichia.co.jp/specification/products/led/ApplicationNote_STS-KSE3694.pdf GaN系LEDの並列接続回路について]』}}</ref>。順方向降下電圧 (V<sub>F</sub>) には、通常のLEDでは同じ品番の製品にでも個体差が見られ、並列に繋ぐと最も順方向降下電圧(簡単に言えば、電流が流れ始める電圧)の低い素子のみに電流が集中する。電流の集中でさらに発熱し[[電気抵抗]]とV<sub>F</sub>の値が減少し、さらに電流の集中が促進されるという悪循環が起こる。発光量が不均一になるだけでなく、電流が最大定格を超えれば、過熱による寿命短縮や焼損の危険も出てくる。素子の破壊がオープンモードだった場合は、次にV<sub>F</sub>の低い素子に更に大量の電流が集中し、連鎖的に破壊が進行する。複数のLEDを同時に点灯する場合は、可能な限り直列に繋いだ上で抵抗や能動素子で定電流制御した回路を1単位とし、この単位回路を並列に電源に繋ぐ。ただし、複数の素子が内部で並列接続されている製品も存在する<ref>[http://www.acriche.com/jp/product/prd/zpowerLEDp7.asp Z-Power LED P7 Series] - Seoul Semiconductor Co., Ltd.</ref>。 * GaN系などのLED素子は、[[静電気]]や[[サージ電流]]に弱い。 * [[レンズ]]付きのLEDの場合、素子の[[光軸]]と実際に放出される光の方向は、製造過程でのばらつきのため、通常は一致せず、僅かにズレている。 * LEDが発光する光は、特定の周波数に偏った光であるため、見た目の明るさ以上に強い光であり、該当する周波数の光による光化学反応が促進される。例えば、他の発光器具にも言えるものの、直視すると、[[目]]に悪影響を与える事がある。特に紫外線や高出力の物はその傾向が強い。 == 材料 == 放出された光の[[波長]](色)は、[[pn接合]]を形成する素材の[[バンドギャップ]]の大きさが関係する。発光ダイオードでは近赤外線や可視光、紫外線に至る波長に対応したバンドギャップを持つ半導体材料が用いられる。一般に発光ダイオードには発光再結合確率の高い[[直接遷移]]型の半導体が適する一方、一般的な半導体材料である[[ケイ素]](シリコン)や[[ゲルマニウム]]など[[間接遷移]]型半導体では、電子と正孔が再結合する際に光は放出され難く、単純に熱に変わり易い。しかし、黄色や黄緑色に長く使われてきたGaAsP系やGaP系などドープした不純物の準位を介して強い発光を示す材料もあり、広く用いられている。 以下の素材を使用する事により、様々な色の発光ダイオードを作り出せる。 * [[ヒ化アルミニウムガリウム|アルミニウムガリウムヒ素]] (AlGaAs) - 赤外線・赤 * ガリウムヒ素リン (GaAsP) - 赤・橙・黄 * インジウム窒化ガリウム (InGaN) /[[窒化ガリウム]] (GaN) /アルミニウム窒化ガリウム (AlGaN) - 橙・黄・緑・青・紫・紫外線 * リン化ガリウム (GaP) - 赤・黄・緑 * [[セレン化亜鉛]] (ZnSe) - 緑・青 * アルミニウムインジウムガリウムリン (AlGaInP) - 橙・黄橙・黄・緑 * [[ダイヤモンド]] (C) - 紫外線 * [[酸化亜鉛]] (ZnO) - 青・紫・近紫外線(開発中) * [[ペロブスカイト半導体]] - 赤・黄・緑 以下は基板として利用されている。 * [[炭化珪素]]基板 (SiC) - 青 * [[サファイア]]([[コランダム]])基板 (Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub>) - 青 * ケイ素基板 (Si) - 青(研究段階) == 青色発光ダイオード == [[File:Blue light emitting diodes over a proto-board.jpg|200px|thumb|right|青色発光ダイオード]] 青色発光ダイオードは、[[窒化ガリウム]] (GaN) を材料とする、[[青色]]の光を発する発光ダイオードである。'''青色LED'''とも書かれる。日本の化学会社、[[日亜化学工業]]株式会社が大きな市場占有率を持っている。他の有力企業としては、[[豊田合成]]、[[星和電機]]がある。GaN系化合物を用いた発光ダイオードの開発と、それに続く青色[[半導体レーザー]]の実現により、紫外から純緑色の可視光短波長領域の半導体発光素子が広く実用化されるに至った。 === 歴史 === 発光ダイオードは、低電力で駆動可能な光源であるため、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]への応用が期待されていた。[[RGB]]による[[フルカラー]]表示のためには、[[光の三原色]]([[赤]]・[[緑]]・[[青]])の発光素子が必要である。このうち[[1980年代]]中頃までに、実用化されていたのは純赤色のみであった。 当時も「青色ダイオード」の名で販売されていた製品は存在したものの、色味が[[紫]]がかっており、純青としての実用的な高い[[輝度 (光学)|輝度]]を出す製品は皆無だった。また[[黄緑]]色は赤色と共に早くから実用化されていたが、純緑色の実現には結果的に青色と同じくGaN系半導体材料が必要とされ、'''純緑色LEDの実用化は青色LEDの登場以降'''である。これらの理由で、発光ダイオードによるフルカラーディスプレイの実現は出来なかった。 純青色発光の実現のため、[[セレン化亜鉛]] (ZnSe) 系化合物や[[炭化ケイ素]] (SiC) を用いての研究が古くから行われ、ZnSe系による青緑 - 緑色発光ダイオードの開発に至った他、SiCの青色発光ダイオードは弱い発光強度ながら市販もされた。しかしその後、GaN系化合物による青色発光ダイオードが急速に普及したため、現在ではこれらの材料系の技術は白色発光素子や基板などの用途に転用されている。 窒化ガリウムを用いた高輝度の青色LED開発に関して、1986年に、[[赤﨑勇]]、[[天野浩]]らが高品質、高純度のGaN結晶の結晶生成に成功した。天野浩は不可能とされていた「PN接合」が可能だと初めて証明した。1993年に[[中村修二]]が、世界に先駆け高輝度青色LEDを発明し、実用化した<ref>[https://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2016/05/26/1371168_001_1.pdf 文部科学省平成28年版科学技術白書]のp20とp28に記載されている。</ref>。 [[2001年]]8月、中村が職務上で[[1993年]]11月に発明した([[職務発明]])「[[404特許]]」を巡って元勤務先の日亜化学工業を提訴し、同特許の原告への帰属権確認ないし譲渡対価を巡って係争した('''青色LED訴訟''')。この訴訟は企業と職務発明者との関係について社会の関心を広く喚起し、裁判所は[[東京地方裁判所]]では発明の対価を約604億円と評価し200億円の支払いを命じたが、[[東京高等裁判所]]は[[和解]]へと誘導し1審判決が認定した発明の対価約604億円の1/100 相当の6億円を「対価」として提示した。日亜は、(いずれにせよ対価の支払いが遅れていたので)[[遅延損害金]]を含む約8億4千万円を支払うことで[[和解]]が成立した。しかし中村はなお納得できず「高裁は山ほど提出した書面をまるで読まず、最初から和解金額を決めていた。高裁の和解案の決め方は正義とは言えない。」と指摘するために、滞在していたアメリカ合衆国から日本を訪れた<ref>“[https://web.archive.org/web/20130514054022/http://www.47news.jp/CN/200501/CN2005011201004267.html 「腐った司法に怒り心頭」 中村教授、帰国し批判会見]”. 共同通信 (2005年1月12日). 2012年1月2日閲覧。</ref>。 [[2004年]]12月、東北大学[[金属材料研究所]]の[[川崎雅司]](薄膜電子材料化学)らの研究チームは、より安価な[[酸化亜鉛]]を用いた青色発光ダイオードの開発に成功した。青色LEDの再発明とも言われ、この成果は同年12月19日付の英科学誌[[ネイチャー|ネイチャーマテリアルズ]](電子版)にて発表された。<!--高コストの窒化ガリウムに取って代わる可能性もある。/歴史は、起きた事を書く場所であり「可能性」を書く場所ではない。--> 赤﨑、天野、中村の3名は青色発光ダイオードに関する業績が評価され、[[2014年]]の[[ノーベル物理学賞#2010年代|ノーベル物理学賞]]を受賞した<ref>[http://www.nippon.com/ja/features/h00080/ 日本の3氏に2014年度ノーベル物理学賞—青色LEDの開発で] nippon.com 2014年10月8日</ref><ref>[http://wired.jp/2014/10/09/nobel-prize-blue-leds/ 青色LEDがノーベル賞に値する理由] WIRED 2014年10月9日</ref>。 == 白色発光ダイオード == [[File:WhiteLED-Tentou.JPG|200px|thumb|right|白色発光ダイオード(点灯時)]] '''白色LED'''とも書かれる。白色光とは、一般には可視光線の全波長域に亘り強度が連続している光(連続スペクトルの光)を指す用語である。発光ダイオードで得られる発光は、レーザーほどではないものの狭い波長範囲のみに限られるため、この意味での白色光は生成できない。しかし、白色のような多色光に対しては、それを構成する光の波長、すなわち、スペクトルが異なっていても、白色とヒトの視覚で認知されるように、発光スペクトルを設計する事は可能である。典型的には、テレビのように[[光の三原色]]を混合したり、[[補色]]関係にある2色を混合して、適切な強度比に設計すれば、白色だとヒトに認知される光が生成できる。白色発光ダイオードではこの原理が利用され、具体的な手法が幾つか考案された。この結果、低電圧でのDC駆動などダイオードの持つ電気的な扱い易さのみならず、光源としても高効率(低消費電力)であり、しかも寿命も既存の光源以上に長いため、[[LED照明]]として白色発光ダイオードが利用されてきたなど、気体を使わない固体光源として普及が進んだ。 === 蛍光体方式 === 青またはそれよりも波長の短い光を放つ発光ダイオードのチップに、その発光ダイオードの光により励起されて長波長の光を放つ[[蛍光体]]([[フォトルミネセンス]])を組み合わせた方式である。発光ダイオードのチップは蛍光体で覆われており、点灯させると、発光ダイオードチップからの光の一部または全部が蛍光体に吸収され、[[蛍光]]はそれよりも長波長の光を放つ。発光ダイオードのチップが青発光であれば、チップからの青色の光に蛍光体の光が混合されて、一緒に出力される。蛍光波長や蛍光体の厚さなどを調整すれば、白色光を得られる。この蛍光体には、例えば[[イットリウム・アルミニウム・ガーネット|YAG]]系の物が用いられる。この方式には、単一のチップとパッケージだけで、白色発光が実現可能だという利点を有する。 白色にヒトに認識される光を放つような白色発光ダイオードの実現には、青色発光ダイオードの存在が不可欠であった。蛍光体による発光では、蛍光体が受けた光より短い波長の光は得られないため、赤や緑のLEDでは短波長の成分が不足し、白色とヒトには認識されないからである。 この蛍光体方式の開発により、固体光源である白色発光ダイオードが本格的に普及した。 ==== 擬似白色発光ダイオード ==== 現在の<!-- 擬似白色発光ダイオードの主流が擬似白色発光ダイオードであるのは当たり前 --><!-- 相似 -->白色発光ダイオードの主流であり、一般に青黄色系[[発光効率#擬似白色|擬似白色]]発光ダイオードと呼ばれている。視感度の高い波長である黄色に蛍光する蛍光体と青色発光ダイオードとを組み合わせる方法で、ヒトの視覚上で大変に明るく感じられる白色発光ダイオードを実現した。青色発光ダイオードの製造を行っている日亜化学は元々蛍光体の製造メーカーであるため、この方式を得意としている。豊田合成も同方式を用いている。この方式により作成された白色発光ダイオードが、世界初の白色発光ダイオードとされている。擬似白色発光ダイオードの実現は、世界的にインパクトを与えた青色発光ダイオードの発表の後だったため報道は控えめだったが、業界内では大きなニュースだった。 擬似白色発光ダイオードは非常に高い[[ランプ効率]] (lm/W) 値を得られる点が特徴である。その理由にはヒトの[[視感度]]が関連しており、視感度の高い波長にスペクトルを集中させた蛍光体の黄色と発光ダイオードの青色とを組み合わせて実現した。一般に、ヒトの[[網膜]]にて光の強度や色を識別する細胞組織である[[視覚#視感度と錐体分光感度|錐体]]は黄緑色の波長(約555 nm付近)に高い分光感度を持つ(視感度が高い)。このため、この黄緑色の波長のスペクトルに蛍光体の発光を集中させるとエネルギーの割にヒトは明るく感じ、視覚上大変に明るい白色発光ダイオードが実現できる。100 (lm/W)を超えるような白色発光ダイオードでは、ランプ効率が高い擬似白色発光ダイオードを実現するために、[[光束|全光束]]に対するエネルギー効率が高くなるように、ヒトの視感度を考慮して最適化されている。なお、物理的なエネルギー効率は、物理エネルギー量を示す[[放射束]]を投入電力(ワット)で除算して計算されるため、光として取り出せる光(光子数)を増す事により高められるが、それのみでは視感度に対して効率の高くない波長域の光が多い場合もある。ランプ効率を高めるには、物理的に効率が良く、かつ、視感度に適したスペクトルが得られる必要がある。 その引き替えに、特にランプ効率を優先した設計の擬似白色発光ダイオードでは[[演色性]]が低下し易い。一般には擬似白色発光ダイオードの平均演色評価数 (Ra) は76程度に留まり、[[蛍光灯|一般型蛍光灯]] (Ra67) と三波長型蛍光灯(同85)の中間に当たる<ref>財団法人光産業技術振興協会{{PDFlink|『[http://www.oitda.or.jp/main/technology/technology0609.pdf 光技術動向調査報告書]』}}(リンク切れ)</ref>。ただし現行の演色性の評価法は、白熱灯や蛍光灯を前提とした物であるため、発光ダイオードのように急峻なスペクトルを持つ光源の場合に、演色性が見た目の印象より低く評価される傾向がある。このため、前述のような特性を持つ光源について、平均演色評価数がもっと高くなるように評価法を見直す議論もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcri.jp/JCRI/hiroba/COLOR/buhou/146/146-3.htm |title=<研究2部報>照明用光源(LEDを含む)の演色性評価方法に関する調査研究 |publisher=一般財団法人 日本色彩研究所 |accessdate=2015-10-19}}</ref>。 ==== 高演色白色発光ダイオード ==== 青色発光ダイオードと黄色の蛍光体を組合わせた構成での白色光は、緑や赤のスペクトル成分が少ないため演色性が低い。赤色や深紅色の発色が悪いという性質を改善するために黄色以外の蛍光体を混ぜて演色性を改善しようとすると、ランプ効率 (lm/W) が低下する<ref group="注">東芝(高演色) キレイ色の例では[https://www.biccamera.com/bc/item/1508026/?source=googleps&utm_content=001150070080005&utm_source=pla&utm_medium=cpc&utm_campaign=PC_PLA&argument=DeKekqqK&dmai=a58dd2797417a3 540lm/8.8W=63lm/W]と公称されており、高演色LEDのランプ効率はそれほど高くない。</ref>。これは赤色系の蛍光体を多く配合して赤色領域で多くの光エネルギーを発生させても、この領域のヒトの視感度が低いため、ランプ効率の評価が低下するためである。また、透過して出力される青色光の割合を正確に揃える事が難しく、製造時の色温度の個体差が大きい欠点もある。 これらの点について、近年は、蛍光体と発光波長の点で進展が見られる。蛍光体については、独立行政法人の[[物質・材料研究機構]]がβサイアロン蛍光体の開発に成功し、これを用いて大幅なランプ効率の向上が得られ、赤色や深紅色の発色の問題も解決されるとされていたが、赤色波長を多く発色させるとランプ効率は低くなる現象は物理的限界であって、改善は不可能だと確認された。発光波長の点では、紫色光 - 紫外線を発光する発光ダイオードが開発された<ref group="注">ただし、紫色発光ダイオードは紫外領域に近いため暗く見える、ヒトの比視感度の問題がある。</ref>。これにより、蛍光灯と同様に紫光または紫外光の励起により多色を発光させ、演色性を向上させた白色発光ダイオードも登場した<ref>“[http://www.toyoda-gosei.co.jp/news/03/03_1007.html 豊田合成/ニュース/プレスリリース「高演色性 ハイパワー白色LEDランプの開発・販売」]”. 豊田合成株式会社 (2003年10月7日). 2012年1月1日閲覧。</ref>。 === 3色LED方式による白色発光 === その他の白色発光の実現方法として、光の三原色である赤色・緑色・青色の発光ダイオードのチップを用い、これを1つの発光源として白色を得る方法もある<ref>[http://www.nichia.co.jp/jp/product/led-lamp-full.html 製品例]</ref>。この方式は各LEDの光量を調節すれば、任意の色彩を得られるため、大型映像表示装置やカラー電光掲示板の発光素子として使用されている。ただし、照明用には適さないとされる。照明として用いる場合、蛍光体方式はある程度幅を有するスペクトルなのに対して、3色LED方式は赤・緑・青の鋭い3つのピークを有するのみで黄および[[シアン (色)|シアン]]のスペクトルが欠落している。このため、3色LED方式の白色発光は光自体は白く見えても、自然光(太陽光)の白色光とはほど遠いため、それで照らされた物の色合いは太陽光の場合と異なってくる。 連続スペクトルの白色光下と、3色LED方式による白色発光下において、照らされた物の色合いが違って見える理由を説明する。{{see also|演色性}}可視光線のうち、 # 赤色と緑色の光を反射し他を吸収する物体 # 黄色の光のみを反射し他を吸収する物体 があったとする。太陽や白熱電球の光は広い波長の可視光線を含むので、その下では、1は赤色と緑色の光が反射され網膜の赤錐体と緑錐体を刺激して黄色に見える。2は黄色の光が反射され、その光が網膜の赤錐体と緑錐体の両方を刺激して黄色に見える。つまり両者とも黄色に見える。ところが光の三原色の混合で照らした場合、1は赤と緑の光が反射され黄色に見えるが2は赤・緑・青いずれも物体に吸収されてしまい、理論上は黒く見えるはずである。ただ実際には、完全に黄色の光のみを反射して他の光を一切反射しないという物体は存在しないため、黄色いはずの物が黒く見えるほどの極端な結果にはならないものの、多少色合いが異なって見える。蛍光灯ではこの問題を解決するために5色発光や7色発光の物も作られたが、それでも演色性は連続スペクトルの白色光に劣る。 この方式は3つのチップが必要で、見る角度に依存しない均一な発光色を得る事も難しい。さらにそれぞれのチップの要求する電圧が異なるので、点灯回路も3系統必要である。しかし、発光ダイオードのチップからの発熱のせいで、蛍光体が劣化する問題を回避できるメリットはある。また液晶バックライトなど表示用に用いる場合は赤・緑・青の3つの成分しか持たない事が逆に利点になり、色純度の高い鮮やかな表示色を得られる。 == 製造 == 発光ダイオードの基本構造はpn接合だが、実際には発光効率を上げるために[[ダブルヘテロ接合]]構造や[[量子井戸接合]]構造などが用いられ、技術的には[[半導体レーザ]]との共通点が非常に多い。製造法としては、基板の上に[[化学気相成長法]]によって、[[薄膜]]を積み重ねていく方式などが用いられる。また、[[ペロブスカイト半導体]]ではインクジェット等の印刷技術で製造できる。また、半導体レーザと同様に、面発光型と端面発光型が存在する。 === 製品の外観 === {{Vertical_images_list |幅= 200px |枠幅= 200px | 1=7segdisplay.jpg | 2=[[7セグメントディスプレイ|7セグメント]]2連表示素子 | 3=5x7Display.jpg | 4=5×7マトリックス表示素子 }} 最も単純な構造は、発光部を内包する透明樹脂部分と2本の端子からなる。多色のLEDを内蔵した物は、3本以上の端子を持つ。 * 砲弾型 * チップ型 * 多セグメント形 ** [[7セグメントディスプレイ|7セグメント]]形<ref group="注">7セグメントは、ちょうど「日」の形にLEDなどを並べて、1桁の算用数字を表示できるようにしたディスプレイを意味する。</ref> ** [[7セグメントディスプレイ#14セグメント|14セグメント]]形 ** [[ドットマトリクス|マトリックス]]形 *** 反射型 == ガリウムの資源問題 == [[インジウム]]と比較して[[ガリウム]]の資源は逼迫していない。しかし、その産出地が主に[[中華人民共和国]]、[[カザフスタン]]、[[ウクライナ]]に偏在し、これら各国に特有の政治的[[カントリーリスク]]の観点から、半導体材料をガリウムに依存し過ぎる事に懸念が出ている。このため酸化亜鉛やシリコン、[[炭化ケイ素]]といった材料による実用的な青色発光ダイオードの実現が急務となっている。 {{-}} == 応用 == {{Vertical_images_list |幅= 200px |枠幅= 200px | 1=Ichigaya-Station-2005-10-24 3.jpg | 2=3色LED方式(種別部分はフルカラーLED方式)を用いた駅の発車標<br />[[東京メトロ有楽町線]]の[[市ケ谷駅]] | 3=JR Tokai 313 Series 012.JPG | 4=日本初の超高輝度LED前照灯<br />[[JR東海313系電車]] | 5=FDD-Cardreader.jpg | 6=動作インジケータにLEDを用いた機器。 | 7=LedSignal.JPG | 8=LEDを利用した信号機。太陽光などの影響を受け難い。 | 9=Yamanote-line-e235-led.gif | 10=フルカラーLED方式を用いた[[JR東日本E235系電車|E235系電車]]のLED式側面行先表示装置。 | 11=SHARP LED Bulbs DL-L601N switch on.jpg | 12=白熱電球の代替として開発されたLED電球。 }} LEDは低消費電力、長寿命、小型化可能であるため、数多くの電子機器に利用されている。また、1つの素子で複数の色を出せるような構造の物もある。機器の動作モードによって色を変えられるなど、機器の小型化に貢献した。 当初のLEDは輝度が低かったため、電子機器の動作表示灯などの屋内用途に限られていたが、赤色や黄緑色の高輝度タイプの物が実用化されてからは屋外でも電球式に代わって[[電光掲示板]]に採用され、さらには鉄道駅の[[発車標]]などにも使用されるようになった。 高輝度の青色や緑色、それを応用した白色の発光ダイオードが出回るようになってからは、フルカラーの大型[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]、電球の代わりとして[[懐中電灯]]や[[信号機]]、自動車の[[方向指示器|ウィンカー]]や[[尾灯|ブレーキランプ]]、各種の照明にも利用されていった。特にブレーキランプに使用した場合、電球よりブレーキペダルを踏んでから点灯するまでのタイムラグが短いため、安全性が向上する。[[2006年]]には日本初の超高輝度LEDを用いた[[前照灯]]が、[[JR東海313系電車#3次車|JR東海313系電車]]で採用された。[[2012年]]5月開業の[[東京スカイツリー]]では、夜のライトアップ照明を全てLEDで行っている。 なお、発光ダイオード自体の寿命は長いが使用目的によっては樹脂の劣化による光束低下の進行が早くなる場合もあり、LED交換が必要となる程度まで光束が落ちた場合に[[基板]]の交換も含む大規模なメンテナンスが必要とされ得る点が、今後の課題である。鉄道車両では、駅での行き先表示としての役目を果たせば良いという考えから、走行中には側面表示が一定の走行速度に達した際には消灯させるなど、きめ細かい制御で表示装置の長寿命化を図っている車両も存在する<ref group="注">[[JR西日本221系電車]]など。</ref>。なお、編成前後の前面表示は表示のままである場合が多い。ちなみに側面表示は、[[ドットマトリックス]]の制御方法から、高速移動中は表示し続けていたとしても表示文字の視認が難しい。 [[色覚異常]]によって発光ダイオードの色の見分けが困難な場合がある。例えば1型2型の色弱のヒトには、赤・橙・黄色・黄緑・緑のLEDは同じ色に見えてしまう。交通信号機では緑を青緑色にする方法で、色覚異常でも判別できるようにしているが、交通信号機以外でも色覚障害者向けの対策が必要とされる。 === 信号機 === {{See|日本の交通信号機}} 信号機は光源が光らなければ役目を果たせないため、従来の[[白熱電球]]を光源にした信号機は、電球の寿命の問題で、頻回なメンテナンスが欠かせなかった<ref name="Ito_LED_p40">伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.40 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>。これに対して、発光ダイオードの製造コストが低下し始めた2000年代以降、[[省エネルギー]]で耐久性が高いとして、鉄道用および[[日本の交通信号機|道路交通信号機]]での利用も拡大した。 また、白熱電球を使った従来の信号機では、LED式信号機とは異なり、白熱電球を納める比較的大型の筐体が必要だった<ref name="Ito_LED_p40" />。 これに加えて、白熱電球にカラーレンズを組み合わせて色を表現していた従来の信号灯では、太陽光が灯器に入り込んでカラーレンズを明るく見せるため、実際の点灯箇所と見分けづらくなる。これを疑似点灯現象と呼ぶ<ref group="注">これが原因で、赤信号を黄色信号と誤認した結果、例えば、[[ラッドブルック・グローブ列車衝突事故]]が発生した。</ref>。発光ダイオードを使った信号機は、レンズ自体が無色であり、発光ダイオードも点灯していなければ無色であるため、疑似点灯現象の防止が可能で、太陽光などの影響を受け難いとされている。 なお、中央に高輝度のLEDの集合体を置き、無色半透明の反射板でLEDの光を均等に行き渡らせて無色のレンズ全体に広げる方式のプロジェクター式と、小さなLED素子を基盤に多数装着して全面にLEDが並んだ素子式とが有る。 ==== 問題点 ==== *ドライブレコーダー *: 信号機に限らずLED照明全般に言える事だが、従来の本当に「点灯」している[[白熱電球]]と違い、LED照明は「ヒトの視覚で追えないぐらい高速で点滅」して点灯を表現している。点滅の周期は、その地域で送電されている交流の周波数に一致している場合が多い。通常動画は30 FPSで、特に西日本の周期の丁度半分なので通常の[[ドライブレコーダー]]の録画フレームとLEDの消灯している周期が完全に同期した場合、録画した記録では信号が全部消灯しているように写る問題が顕在化した。これを防ぐためドライブレコーダーの録画フレームレートを信号機の点滅周期から少しずらして録画する機種が販売され始めた。 *色の問題 *: 色によっては色覚障碍者の人達には見え難い場合があるため、様々な対策・研究が行われている。 *着雪の問題 *: 降雪が見られる地域では、LED信号機の点灯面に[[着雪]]し、信号が見えなくなる問題が発生した。従来は白熱電球の発熱によって融けていた着雪が、発熱の少ないLEDでは融けずに溜まってしまうためである。着雪の対策として、点灯面が凹凸の無い平面で下向きに傾けた「フラット型」や、点灯面に透明でカプセル型のフードを装着した「着雪防止装着型」、点灯面にヒーターを装着した「ヒーター装着型」などが開発された。 === 電光掲示板・大型映像装置 === ==== 交通関連 ==== 駅の[[発車標|発車案内表示板]]や空港の出発案内板などには、従来の[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]]や字幕式に代わり、鉄道車両やバスの[[行先標|行先表示]]、タクシーの[[実空車表示器]](スーパーサイン)などには従来の[[方向幕|幕式]]に代わり普及が進んだ<ref group="注">ただ、従来の[[方向幕]]方式だった名残りで、日本では「LED方向幕」と呼ばれることもある。</ref>。 最初に登場したLED表示機は赤色・黄緑色・橙色の3色(橙色は赤色と黄緑色LEDによる)表示方式だった。赤色LEDと黄緑色LEDにより3色目の橙色が表現していた方式で、俗に「3色LED方式」とも呼ばれる。ただし、実際は2色のLEDを用いているため、工業製品などでは「2色LED」とも呼称される。これは、白色LEDでの赤色、青色、緑色の3色のLEDを用いた「3色LED方式」とは異なる。 その後、白色LEDを搭載した物や、単色で赤・青・緑、2色の混色で[[黄色#光源色としての黄色|黄]]・[[シアン (色)|シアン]]・[[マゼンタ]]、3色の混色での白の計7色を表示するマルチカラーLEDとされる物、さらに高輝度の赤色・青色・緑色LEDにより、あらゆる色を表示可能にしたフルカラーLEDの物も登場した。なお日本の場合、路線バスは、鉄道と比べると表示種別が少ないため、多くの発色を必要としないので「3色LED」を使用しつつ、交通の妨げとなり難い橙をメインに使用する方式であったが、近年ではフルカラーLEDを採用する例も出てきた。 ==== 大型ビジョン ==== 従来、大型ビジョンの発光素子には[[ブラウン管|CRT]]や[[蛍光表示管|VFD]]の[[光の三原色]]素子が利用されていた。しかし、青色LEDの進歩によりこれらに代ってLEDが使用されていった。従来の方式に比べ、コストや輝度が優れており普及が進んだ。 ==== 看板など ==== 店頭看板などでも、従来のFL蛍光管等に代わり、LEDモジュールなどのLED製品の普及が進んだ。看板・サインのサイズの大小化や軽量化と共に、故障が少なくコストに優れている。 === 液晶ディスプレイのバックライト === 冷陰極管が発する白色光を[[カラーフィルタ]]で透過して得られる色([[赤]]・[[緑]]・[[青]])に比べ、RGB3色発光ダイオードが放つ光は色純度が高い。そのため、[[液晶ディスプレイ]]の[[バックライト]]の光源を[[冷陰極管]]から発光ダイオードに置き換える事により、色の再現範囲を大きく広げられる。また電力消費も少ない。こうした理由から、液晶バックライト光源としてLEDを用いる方式が普及した。ただしコストが安くて効率の高い擬似白色LEDが用いられる場合も多く、この場合は色の再現範囲は広色域タイプの冷陰極管と比べ劣る。また、LEDは[[点光源]]のため広い面積を照射しようとするとムラを生じ易い。 大型ディスプレイ用のLEDバックライトとしては、[[2004年]]11月に[[ソニー]]より液晶テレビ「[[QUALIA]]」で実用化された。より一般的に普及が進んだのは2008年からで、各メーカーが上位機種を中心に採用し始めた。'''LEDテレビ'''とは一般的に、LEDバックライトを搭載した液晶テレビを指す。2011年現在は、低価格化が進み、下位機種でも採用される場合がある。エリア駆動対応機種では、映像が暗い部分のみLEDバックライトを消灯するエリア駆動により、液晶ディスプレイの弱点であるコントラストを大幅に拡大できるメリットがある。また超薄型と呼ばれる厚さを抑えた液晶テレビや、[[ノートパソコン]]の薄型化でもLEDバックライトが重要な要素となった。また、LEDバックライトを搭載したエッジ型のディスプレイは、LEDの特性上、CCFL(蛍光管)テレビに比べて消費電力が少ない。 なお、上述の「LEDテレビ」やLEDバックライトを搭載した液晶ディスプレイ全般を指す場合に使われる「LEDディスプレイ」という呼称は、正確には'''誤用'''である。液晶テレビのバックライトは発光するための物であり、映像を表示する物ではないためである<ref>[http://www.sharp.co.jp/products/lcd/tech/s2_3.html 液晶ディスプレイの構造と作り方]</ref>。2012年、ソニーが実際に発光素子としてLEDを採用した「[[Crystal LED Display]]」を開発した<ref>{{Cite web|和書|title=大画面・高画質に優れた次世代ディスプレイ“Crystal LED Display”を開発 |url=http://www.sony.com/ja/SonyInfo/News/Press/201201/12-005/index.html |website=ソニーグループポータル {{!}} ソニーグループ ポータルサイト |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>。それ以降、「LEDビジョン」や「LEDウォール」と呼ばれるLED発光素子の製品が他社からも発売され、大型ビジョンや街頭広告などで用いられている<ref>{{Cite web|和書|title=LEDウォール {{!}} タテイシ広美社 |url=https://t-kobisha.co.jp/solution/solution3/ |date=2019-07-05 |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=三菱電機 オーロラビジョン:屋外用 |url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/visual/aurora/od/ |website=www.mitsubishielectric.co.jp |access-date=2023-01-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=デジタルサイネージ|LEDビジョン|エヌエスティ・グローバリスト株式会社 |url=https://visualcommunication.nstg.co.jp/ |website=デジタルサイネージ|LEDビジョン|エヌエスティ・グローバリスト株式会社 |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>。 === マイクロLEDディスプレイ === {{Main|マイクロLED}} {{main2|有機発光ダイオードを採用したディスプレイ|有機エレクトロルミネッセンス}} 発光素子に超小型LEDを採用したディスプレイである<ref>{{Cite web|和書|title=マイクロLEDディスプレイの市場拡大はまだ先 |url=https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/2104/28/news070.html |website=EE Times Japan |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>。液晶ディスプレイや有機エレクトロルミネッセンスを使用したディスプレイと比べ、画質や寿命の点で優れているとされるが<ref>{{Cite web|和書|title=液晶、有機ELに続く!? 第3の新世代テレビ「マイクロLED」とは? - 価格.comマガジン |url=https://kakakumag.com/av-kaden/?id=11853 |website=kakaku.com |accessdate=2019-06-02 |language=ja}}</ref>、その実装コストの問題から一般家庭用途などのディスプレイではあまり開発が進んでいない。 [[沖データ]]は2009年11月26日に、1.1インチQVGAの高輝度LEDディスプレイの開発に世界で初めて成功したと発表した<ref>“[http://www.okidata.co.jp/info/2009/news_091102.html 世界初、1.1インチQVGA高輝度LEDディスプレイの開発に成功|2009年|ニュースリリース情報|OKIデータ]”. 株式会社沖データ (2009年11月26日). 2012年1月1日閲覧。</ref>。 === 各種照明用 === 省エネルギー、高輝度で長寿命を実現できる白色LEDの開発に伴い、発熱に伴うエネルギー損失の多い白熱電球や蛍光灯などに代わり、屋内・屋外照明材料として、[[LED照明]]が期待された。また、LEDはデザインや光色なども比較的容易に調節できるため、電球や蛍光灯より自由度の高い照明が可能である。現在は既存の照明に置き換わる性能を有した製品が発売されており、[[懐中電灯]]、乗用車用ランプ、電球型照明、スポットライト、[[常夜灯]]、サイド照明、[[街路灯]]、[[道路照明灯]]などLEDを使用した製品が次々登場した。 日本エネルギー経済研究所が2011年に発表したリポートによると、日本全体の白熱電球や蛍光灯など全部を、LED照明に置き換えた場合に、1時間あたり922億キロワットを節約できると試算した。これは日本の総電力消費量の約9パーセントに相当し、[[原子力発電所]]13基分という<ref>http://eneken.ieej.or.jp/data/3862.pdf</ref>。 E26型、E17型を中心とした白熱電球のソケットに装着可能な「LED電球」は企業間競争などにより大幅に価格が下落した。製品寿命や消費電力を考慮すれば「LED電球」の方が、白熱電球や電球形蛍光灯より低コストであると謳われているが、発売されてからまだ日が浅い商品であり、公称寿命として、各メーカーが謳う40000時間<ref>[http://ctlg.panasonic.jp/product/lineup.do?pg=03&scd=00006019 例 パナソニック社のLED電球]</ref>に達した例がほとんど無く、頻繁な点灯・消灯の繰り返しや連続点灯が、寿命に関わる劣化にどう影響を与えるかは未だ検証可能な個体が少なく、未知数である。 明るさや照射範囲などは「LED電球」の型番によって違いがある。より電球に近づけたと謳う製品や、広配光を謳う製品、下方向のみの製品など多種多様である。中でも明るさについては、実際の明るさよりも明るいと不適切な表示(優良誤認)を行ったとして、メーカー12社<ref>{{PDFlink|[http://www.caa.go.jp/representation/pdf/120614premiums_2.pdf 12社の概要]}}</ref>に対して、[[2012年]]6月に[[消費者庁]]が[[景品表示法]]に基づく措置命令を行った<ref>{{PDFlink|[http://www.caa.go.jp/representation/pdf/120614premiums_1.pdf LED電球販売業者12社に対する景品表示法に基づく措置命令文]}}</ref>。これにより「LED電球」の明るさ基準を作る動きが生まれ、業界団体である一般社団法人日本電球工業会により、電球と置き換えた場合、電球の何ワット相当に該当するかを、全光束(ルーメン)が明るさ表示の基準として統一され出された<ref>{{PDFlink|[http://www.jelma.or.jp/07kankyou/pdf/02ZenkousokuLED.pdf 光量=全光束ルーメン対比表]}}</ref>。これにより、加盟会社の電球製品はそれぞれ電球何ワット相当と表示できる基準ルーメンと実際のルーメンに合わせる必要があり、不適切な表示はなくなった。ただし、非加盟会社の製品は、インターネットを通じて販売される場合が多く、未だに不適切な表示を継続する例が後を絶たない。 直管蛍光灯(FL40W形等)と同形状・同口金 (T8:G13) の物も発売され、LEDチップ価格の下落に伴い、ややコストメリットが出つつある。しかし、急速に価格が下落し、電球との消費電力の差も大きい「LED電球」と違い、直管蛍光灯型LEDは、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。カバーに透明と乳白色の2種類があり、直下の照度を重視するなら透明、広い照射角(最大310度の製品もある)を求めるなら乳白色の物を選ぶのが妥当である。照明機器としてLED素子1個では充分な光束が得られないため、使用目的に合わせてLED素子を複数個使用して照度を確保している。100個以上のLED素子を使用した製品も珍しくない。ただし、蛍光灯と比べて重量が増すために、蛍光灯用のソケットが重みに耐えられず落下する危険性があるほか、蛍光灯器具の安定器を取り除かねばならないタイプの製品もある。そのため、日本の大手メーカーなどは器具そのものをLEDユニットにした製品を開発した。 丸形蛍光灯型LEDを使用するシーリングライト等についても、直管蛍光灯と同じく、低消費電力の蛍光灯との競争のため、消費電力の差が少なく、価格も高い。 [[表面実装]] (SMD) タイプのLEDを使用した照明器具を、「SMDライト」等と称して差別化して販売している例もあるが、本質的にLEDと何ら変わりがない。 ==== 乗り物の灯火類 ==== 自動車用灯火類の光源としてはまず、2000年代後半から[[テールランプ]]用の光源として使用され始めた。テールランプは後続車両へのブレーキ作動の警告、及び夜間走行時の自車の存在アピールとして使われるため使用頻度が高く、急激な電力供給と発熱のため寿命が短い一方で、ランプ切れは事故につながり易いため、長寿命のLEDが適している。また白熱型照明は発熱に時間がかかり、それがブレーキ作動から点灯までの時間差を生み事故の原因の1つになり得るが、LEDは時間差がきわめて少ない。 当初は光量が足りないためヘッドライトにLEDを採用例は無かったが、2007年5月発売の4代目[[レクサス・LS|LS600h]]には[[小糸製作所]]が日亜化学工業と共同開発した(鉄道以外の用途として)世界初のLEDヘッドランプが搭載された<ref>{{PDFlink|[http://www.koito.co.jp/pdf/news/07/20070327.pdf 世界初 LEDヘッドランプの開発、実用化 株式会社小糸製作所]}}</ref>。LS600hのLEDヘッドランプは、1つのLEDランプでは光量が足りず、3つのLEDランプをロービームとして使用していたが<ref>[https://allabout.co.jp/gm/gc/193094/2/ 次世代ヘッドライトはLEDに! All About]</ref>、その後LEDランプ1つあたりの光量が増え、2013年発売の3代目[[レクサス・IS#3代目|レクサスIS]]では1つのLEDランプでロービームとして使用できるようになった。LEDヘッドランプは、消費電力が少ないのに、光量はHIDを上回っており<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/1305/24/news035.html#l_sp_130523jsae_koito_01.jpg 新型「レクサスIS」のLEDヘッドランプは第4世代、消費電力は第1世代の半分以下 ]</ref>、各自動車メーカーが採用しつつある。 [[オートバイ]]への利用ではko-zaru仔猿(CKデザイン製)が、ウィンカーとテールランプ、ストップランプに2003年から採用している。小型バイクのためバッテリーの積載容量に制限があり、電力消費の点から採用した。一般市販バイク初搭載としては、ホンダが2014年3月20日に発売した[[CB1300]]スーパーボルドール(型式SC54)の2014年モデルから正式採用された。 2020年前後の段階では四輪車・オートバイいずれも、アフターパーツとして数多くのLED灯火類が市販されている。これらは * ランプハウジングはそのままに、従来型の白熱電球やHIDランプからのコンバージョンキットの形を取る製品。 * ランプハウジングまるごと[[ASSY]]交換する製品。いわゆる[[ユーロテール]]や最新モデルの流行を取り入れたデザインなどへの変更によるドレスアップパーツとしての側面も強い。 * 車種を特定しない汎用ASSYの形をとる製品。オートバイ用や追加用のフォグランプ、[[常時点灯|DRL]]、[[ハイマウントストップランプ]]等に見られる。 といった形態が存在している。 [[自転車]]用ランプのLED普及率は、自動車のそれに比べて先行して上昇した。自転車で電力を作るための発電機は、ペダルをこぐ力で得ているため、電力消費量が多いと、より強い力でペダルをこぐ必要が出てくる。そこで、消費電力の少ないLEDの使用により、発電のために必要な、ペダルをこぐ力を減らせる。さらに、LEDは使用電力が少ないため、非接触型の発電機でも充分な電力が得られ、非接触型の発電機を採用すれば、照明使用時にペダルをこぐ負荷が非常に少くて済む。また電池式の場合でも、消費電力の少ない分だけ、電池が長持ちする利点がある。廉価な[[軽快車]]などでは相変わらず電球が主流であるが、[[ハブ (機械)|ハブ]]に発電機を付けたタイプが、[[オートライト]]には多く採用されている。この他、前照灯としての役目より、他の自転車や自動車からの被視認性を意識した認識灯や尾灯への応用も多い。 ==== 舞台演出用の照明器具として ==== 高輝度LEDを搭載した、舞台用照明器具が開発された。赤、緑、青、(アンバー、シアン、ライム)と3~6色の高輝度LEDを搭載した事により、一般的な電球を用いた舞台照明と比較して次の利点が挙げられる。 * 白熱電球式と比べて、消費電力が圧倒的に少ない。 * 1つの照明であっても、多くの色を表現できる。シームレスな発光色の切り替えで、グラデーションも可能である。 これらはハロゲン化白熱電球の舞台照明から、次第に移り変わり、舞台を始めコンサート・ライブ等で実用されつつある他、スポーツ施設(屋外の[[陸上競技場]]、[[球技場]]、[[野球場]]、[[競馬場]]、屋内の[[体育館]]など)にも、従来からあったメタルハライドランプから転換し、スポーツの試合においても意図的に照明の点滅や消灯などができるよう改善されたバージョンが多数登場している<ref>[https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/topic/topic/1398493.html 甲子園球場の照明がついにLED化! 何が変わったのか見てきた](家電watch)</ref>。 {{multiple image |direction = horizontal |align = right |header = |header align = center |image1 = Solarlight.JPG |caption1 = ガーデン用ソーラーライト |width1 = 155 |image2 = Solar-lamp.gif |caption2 = 構成 |width2 = 212 }} ==== ガーデン用ソーラーライト ==== LEDの低電力消費量を活かして、太陽電池と内蔵した充電式電池を組み合わせ、外部からの電力供給が不要なLED照明装置が製造された。充分な日照時間が得られる場所では、庭に電気配線を張り巡らさずとも使用可能である。 ==== 電子写真式プリンター内部の感光用光源 ==== 電子写真式プリンターとして一般的な[[レーザープリンター]]は、[[レーザー]]の出力を直接変化させたり、液晶シャッターで強度を変調した光を、回転する[[ポリゴンミラー]](多角形鏡)に反射させて走査したりして、感光ドラム上に走査線を作り出している。光学系には高い精度が要求され、構造上どうしてもある程度以上の走光路距離を確保せねばならず、プリンターの小型化、低価格化は困難だった。 これを解決したのが、LEDアレイヘッドを使用した[[LEDプリンター]]である。微細加工したLEDを直線上に数千 - 数万個並べ<ref group="注">通常の半導体加工のように、1回の加工で数千から数万個を並べる。</ref>、感光ドラム上の潜像の1ドット1ドットに対応するLEDで感光書き込みを行う。機械的駆動系(ポリゴンミラー)は不要になり、光学系は単純な収束レンズのみで済み信頼性向上とコスト削減、機器の小型化を実現した。ただし、主走査解像度がヘッドの集積度によって制限される、素子間のバラつき補正が必要、ドラムとLEDアレイが非常に近いために飛散したトナーが付着して出力物のクオリティ安定性に欠けるなどの欠点も持つ。 ==== 光通信用光源 ==== 駆動電流の変化に対し、LEDは光出力が高速応答できるという特性を活かし<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.66 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>、[[TOSリンク]]を始めとする[[光ファイバー]]通信の信号送信機<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.66、p.67 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>、[[フォトカプラ]]内部の光源に赤外発光LED<ref>伊藤 尚未 『ゼロから理解する世界一簡単なLEDのきほん』 p.62、p.63 誠文堂新光社 2008年9月30日発行 ISBN 978-4-416-10813-0</ref>、家電製品などの赤外線を利用した[[リモコン]]にも広く使われている。 ==== センサ用光源 ==== 赤外発光LEDはフォトトランジスタ等と組み合わせて、対象物の有無を検出する[[フォトインタラプタ]]やフォトリフレクタ等の構成要素として用いられる。 ==== 模型製作・改造用光源 ==== 模型用の点灯光源としても、LEDの価格低減に伴って、かつて使用されていた小型電球の代替として、LEDが使用されるようになってきた。光色の制限から、かつては赤色光への使用が主だったが黄色、白色LEDの開発により前照灯や室内蛍光灯の白色光の再現も可能となった。さらに白熱電球の再現については電球色(淡橙色)LEDの開発により、実際の電球ではサイズや発熱などの理由で難しかった箇所ですら、実感的な光色の再現が可能となった。特に、点灯機構を組み込むスペースが限られ、また部材が[[ABS樹脂]]や[[ポリスチレン]]などで作られているなど電球の発熱の面でも不利な場合があった[[Nゲージ]]を中心とした[[鉄道模型]]の場合、通常のレンズタイプからチップタイプへの移行により構造の小型化により実感の再現に大きく寄与し、これにより従来は実車のヘッドライト構造の関係で製品化が困難だった車種の製品化が実現した。コストは従来の電球使用より割高であっても、実感的な模型の実現からユーザーに歓迎された面があり、分野としての消費量は少ないながらも、実用照明器具での利用に先行して採用されていった。また模型用途としては他にカーモデル用ディティールアップパーツや[[ミニ四駆]]用のタミヤ純正カスタムパーツ<ref group="注">製品例(タミヤ純正):[http://www.tamiya.com/japan/products/product_info_ex.html?products_id=15384 GP.384 N-03・T-03バンパーレス LED(赤)ユニット]<br>過去にはLEDのみの製品もあった(レッド:No.081 グリーン:No.224)が、2017年3月現在絶版品。</ref>など、改造用LEDキットが存在する。 ==== エレクトロニックフラッシュやレフ板の代用として ==== カメラ(デジタルカメラも同様)では、暗所での撮影や接近撮影・人物撮影での際には露出の[[ラティチュード]]を揃える意味で[[エレクトロニックフラッシュ|フラッシュ]]や[[レフ板]]などを使って光を当てる事がある。しかし、一般的なフラッシュ撮影では瞬間的に光を当てて撮影するため、撮影者や被写体としては写真の仕上がりを想定し難い。レフ板に関しては、自然な感じの照明効果が得られる半面、嵩ばり、移動の際に運搬し難い欠点がある。写真撮影用ライトは白熱電球の原理を用いた物が多いため、照明効率に対しての熱放射も大きく、被写体が熱を嫌う物である場合は照明器具として好ましくない例も多かった。またスタジオ外で撮影の為に携帯する機器は事実上、[[クリップオンフラッシュ]]に限られた。LEDアレイ式ライトは電池での駆動が可能で、かつ照明光源としても必要充分な光量が得られる上に、比較的長時間の使用が可能なため、今後は撮影用照明器具としての普及が見込まれる。 [[2013年]]頃から、白色LEDをアレイ状に敷き詰めた撮影用LEDライトが、中国などを原生産国としてインターネットを中心に照明器具として普及しつつある。 ==== ろうそく・灯火の代用品として ==== [[ろうそく]]に似せたLED照明器具も製作・販売されている。火傷の心配がなく、火災の危険性が低いメリットがある。センサーやコンピューターと組み合わせて、周囲の音を感知して光を動かし、風による炎のゆらめきを再現する技術も開発された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28845970R30C18A3MM0000/ 風で光ゆらぐLED照明 和ろうそくの風情再現 神奈川工科大など開発]『日本経済新聞』夕刊2018年3月31日(1面)</ref>。 ===他の電子部品の代用として=== ==== ツェナーダイオードの代用品として ==== 電子回路内の基準電圧源として一般に使われる[[ツェナーダイオード]]は、[[アヴァランシェ・ブレークダウン|アバランシェ降伏]]現象を利用しているため、出力電圧にわずかながらノイズを発生させてしまう。通常は[[フィルタ回路]]によってノイズを充分に減衰させる設計を取るが、[[オペアンプ]]をディスクリートで組む場合等、「そもそもノイズが発生しない基準電圧源」を追求して定電流駆動したLEDが使われる事例がある。 ==== 小信号ダイオードの代用品として ==== [[ディストーション (音響機器)|ディストーション]]や[[オーバードライブ (音響機器)|オーバードライブ]]、また[[ギターアンプ]]のクリッピング素子として、シリコンダイオードやゲルマニウムダイオードの代わりに使われる場合がある。 === 殺菌 === 深紫外線を発する方法で、水などを殺菌できる<ref>[http://www.sankei.com/special/nihonryoku2015/ecology/article21.html 産経ニュース 【水を殺菌】深紫外LED「未来の光」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|LED|LED}} {{Wiktionary|発光ダイオード|LED}} {{columns-list|3| * [[西澤潤一]] * [[ダブルヘテロ接合]] * [[半導体レーザー]](レーザーダイオード) * [[バンド理論]] * [[pn接合]] * [[エレクトロルミネセンス]] * [[有機エレクトロルミネッセンス]](有機EL) * [[光起電力効果]] * [[電光掲示板]] * [[LED照明]] * [[LED標識灯]] * [[高エネルギー可視光線]] * [[ディスプレイデバイス]] }} {{映像出力機器}} {{Electronic components|state=collapsed}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつこうたいおおと}} [[Category:発光ダイオード|*]] [[Category:電子工学]] [[Category:光学機器]] [[Category:照明器具]]
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62
62(六十二、ろくじゅうに、むそふた、むそじあまりふたつ)は自然数、また整数において、61の次で63の前の数である。
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62(六十二、ろくじゅうに、むそふた、むそじあまりふたつ)は自然数、また整数において、61の次で63の前の数である。
{{整数|Decomposition=2 × 31}} '''62'''('''六十二'''、ろくじゅうに、むそふた、むそじあまりふたつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[61]]の次で[[63]]の前の数である。 == 性質 == *62は[[合成数]]であり、正の約数は [[1]], [[2]], [[31]], 62 である。 **[[約数]]の和は[[96]]。 * 62 = 2 × 31 **22番目の[[半素数]]である。1つ前は[[58]]、次は[[65]]。 ** 3番目の[[メルセンヌ素数]]31の2倍の数である。これは3番目の完全数[[496]]の[[素因数]]の積が62になることを示している。(496 = 2{{sup|4}} × 31) 1つ前は[[14]]、次は[[254]]。 *** [[完全数]][[496]]の7番目の約数である。1つ前は[[31]]、次は[[124]]。({{OEIS|A018487}}) ****完全数の約数とみたとき13番目の数である。1つ前は[[32]]、次は[[64]]。({{OEIS|A096360}}) ****元の数と[[各位の和]]の積が[[完全数]]になる数である。次は[[1016]]。 ****:例: 62 × (6 + 2) = [[496]] *{{sfrac|1|62}} = 0.0{{underline|161290322580645}}… (下線部は循環節で長さは15) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が15になる2番目の数である。1つ前は[[31]]、次は[[93]]。 *62{{sup|3}} = 238328 **[[立方数]]が2個の同一数字3組で表せる数である。1つ前は[[11]]、次は[[303]]。({{OEIS|A052051}}) *62 = 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}} + 2{{sup|4}} + 2{{sup|5}} **''a'' = 2 のときの ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} + ''a''{{sup|3}} + ''a''{{sup|4}} + ''a''{{sup|5}} の値とみたとき1つ前は[[5]]、次は[[363]]。 **[[2]]の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[126]]。 * [[偶数]]の6番目の[[ノントーティエント]]である。1つ前は[[50]]、次は[[68]]。 *62 = 1<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> = 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる8番目の数である。1つ前は[[59]]、次は[[69]]。({{OEIS|A025322}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる最小の数である。次は[[69]]。({{OEIS|A025340}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の1通りは[[14]]、次の3通りは[[101]]。({{OEIS|A025415}}) **62 = 1<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 1<sup>''n''</sup> + 5<sup>''n''</sup> + 6<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[342]]。({{OEIS|A074516}}) **62 = 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> ***''n'' = 2 のときの 2<sup>''n''</sup> + 3<sup>''n''</sup> + 7<sup>''n''</sup> の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[378]]。({{OEIS|A074529}}) * ''π''(300) = 62 (ただし''π''(''x'')は[[素数計数関数]]) **[[300]]までの素数は62個ある。1つ前の200までは[[46]]、次の400までは[[78]]。({{OEIS|A028505}}) *約数の和が62になる数は1個ある。([[61]]) 約数の和1個で表せる19番目の数である。1つ前は[[57]]、次は[[63]]。 *[[各位の和]]が8になる7番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[71]]。 * 62 = 2{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}} ** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる9番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[66]]。({{OEIS|A025395}}) * 62 = 8{{sup|2}} − 2 ** ''n'' = 2 のときの 8{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[509]]。({{OEIS|A024089}}) * 桁の[[調和平均]]が3になる4番目の数である。1つ前は[[33]]、次は[[236]]。({{OEIS|A062181}}) *:例.{{sfrac|2|{{sfrac|1|6}} + {{sfrac|1|2}}}} = 3 * ''n'' = 62 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる9番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[68]]。({{OEIS|A030457}}) * 62 = [[496]] × 5{{sup|3}} × 10{{sup|−3}} == その他 62 に関すること == *[[原子番号]] 62 の[[元素]]は[[サマリウム]] (Sm)。 *第62代[[天皇]]は[[村上天皇]]である。 *[[日本]]の第62代[[内閣総理大臣]]は[[佐藤栄作|佐藤榮作]]である。 *[[大相撲]]の第62代[[横綱]]は[[大乃国康]]である。 *第62代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ベネディクトゥス1世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス1世]](在位:[[575年]][[6月2日]]~[[579年]][[7月30日]])である。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第62番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#小過|雷山小過]]。 *[[クルアーン]]における第62番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[合同礼拝 (クルアーン)|合同礼拝]]である。 *[[短期大学]]と2年制[[専門学校]]の卒業に必要な単位数。 * [[平年]]の場合[[3月3日]]は年始から数えて62日目に当てはまる。通称[[ひなまつり]]。閏年の62日目は[[3月2日]]となる。 *[[極超短波|UHF]] の[[テレビ]][[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]は 62 まで。 *かつての[[第一種郵便物|定型郵便物]]の[[封書]](25g以内)と[[はがき]]の郵便料金は 62 円(封書は1989年4月1日から1994年1月23日、はがきは2017年6月1日から2019年9月30日)だった。 *「62」の形式を持つ鉄道車両。 **[[国鉄C62形蒸気機関車]] **[[国鉄EF62形電気機関車]] **[[国鉄ED62形電気機関車]] **[[国鉄72系電車#モハ62形・クハ66形|国鉄モハ62形電車]] *62は[[シュノーケル (バンド)|シュノーケル]]の楽曲。アルバム『[[SNOWKEL SNORKEL]]』に収録されている。 == 関連項目 == {{数字2桁|6| - [[昭和62年]]}} *[[6月2日]] {{自然数}}
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ベタ
ベタ(Betta, 和名:トウギョ〈闘魚〉)は、スズキ目 キノボリウオ亜目オスフロネムス科(かつてはゴクラクギョ科)ゴクラクギョ亜科ベタ属(別名トウギョ属)の熱帯魚。 広義には、ベタ属に含まれる50種ほどの魚をベタ、ベタ類と総称する。「ベタ」は属の学名 Betta で、タイの方言に由来する。 特に、その中の1種であるベタ・スプレンデンス Betta splendens が、古くから特に観賞魚として世界中で広く親しまれており、狭義には、この種のことだけを指してベタと呼ぶ場合も多い。ただし、他種との繁殖行為がおこなわれることもあり、区別は曖昧である。 和名が同じタイワンキンギョおよびチョウセンブナとは近縁種 タイのメコン川流域原産の熱帯魚で、大きな川から、水田、ときには洪水によって一時的にできた水溜りなどにも生息する。動物性プランクトンやボウフラなどの昆虫の幼虫類などを食べる。 もともとオスが縄張りを持つ種で、縄張り内に入る他個体を威嚇、攻撃する性質がある。飼育下でも、オス同士を混泳させると喧嘩を始めてしまうことから、2匹のオス同士を戦わせる遊戯のために飼われるようになった。品種改良の結果、より気性が荒い、強い品種ができていった。「闘魚」、「シャム闘魚」の名がある。また2匹を瓶などで仕切りにいれると互いに背ビレや尾ビレやエラを最大限まで広げて体を震えさせてに威嚇し合う(これは雄雌に関わらない)。これを「フレアリング」と言う。闘魚としての品種改良のための交配を重ねた副産物として、鮮やかな体色をもつものがあらわれ、美しさを求めてさらに品種改良が加えられ、目の覚めるような青や赤の体色で、ヒレの長い品種が誕生し、流通するようになった。 ベタ類の繁殖であるが、まず、雄が水草などの浮遊物を集め、そこに泡をつけた浮き巣(泡巣)をつくる。そして、多くの場合、雄は激しく雌を追い回す。雌が激しい求愛行動に疲労すると、雄は雌の体に巻き付いて雌に産卵を促す。雌がポロポロと産卵すると、雄はその卵に射精して、落ちた卵を泡巣に集める。このように、ベタの生殖活動は激しいので、産卵後の雌は瀕死状態であることが少なくない。他方、雄は生まれた稚魚を守る行動をとり、場合によっては、母親である雌にも攻撃をすることがある。縄張り行動や、生殖行動、巣作り、子育てなどの本能行動研究のための実験動物としても用いられている。 ラビリンス器官をもち、低酸素状態に強い。 現在、本属には73種が認められている。現在のベタ属は保護の目的で幾つかの上種(種複合体、英: Species complex)に分けられる(この分類は系統学的事実を表すものではない)。いかにそれを示す 。 観賞魚としてのベタ類を大きく分けると、 などがある。ペットとしてのトラディショナル・ベタは、日本を含め、世界中で楽しまれている。ショウベタは、系統の維持に高度な技術を要する趣味として人気があり、英国のチャーチル首相も飼育していたという。
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ベタは、スズキ目 キノボリウオ亜目オスフロネムス科(かつてはゴクラクギョ科)ゴクラクギョ亜科ベタ属(別名トウギョ属)の熱帯魚。 広義には、ベタ属に含まれる50種ほどの魚をベタ、ベタ類と総称する。「ベタ」は属の学名 Betta で、タイの方言に由来する。 特に、その中の1種であるベタ・スプレンデンス Betta splendens が、古くから特に観賞魚として世界中で広く親しまれており、狭義には、この種のことだけを指してベタと呼ぶ場合も多い。ただし、他種との繁殖行為がおこなわれることもあり、区別は曖昧である。 和名が同じタイワンキンギョおよびチョウセンブナとは近縁種 タイのメコン川流域原産の熱帯魚で、大きな川から、水田、ときには洪水によって一時的にできた水溜りなどにも生息する。動物性プランクトンやボウフラなどの昆虫の幼虫類などを食べる。 もともとオスが縄張りを持つ種で、縄張り内に入る他個体を威嚇、攻撃する性質がある。飼育下でも、オス同士を混泳させると喧嘩を始めてしまうことから、2匹のオス同士を戦わせる遊戯のために飼われるようになった。品種改良の結果、より気性が荒い、強い品種ができていった。「闘魚」、「シャム闘魚」の名がある。また2匹を瓶などで仕切りにいれると互いに背ビレや尾ビレやエラを最大限まで広げて体を震えさせてに威嚇し合う(これは雄雌に関わらない)。これを「フレアリング」と言う。闘魚としての品種改良のための交配を重ねた副産物として、鮮やかな体色をもつものがあらわれ、美しさを求めてさらに品種改良が加えられ、目の覚めるような青や赤の体色で、ヒレの長い品種が誕生し、流通するようになった。 ベタ類の繁殖であるが、まず、雄が水草などの浮遊物を集め、そこに泡をつけた浮き巣(泡巣)をつくる。そして、多くの場合、雄は激しく雌を追い回す。雌が激しい求愛行動に疲労すると、雄は雌の体に巻き付いて雌に産卵を促す。雌がポロポロと産卵すると、雄はその卵に射精して、落ちた卵を泡巣に集める。このように、ベタの生殖活動は激しいので、産卵後の雌は瀕死状態であることが少なくない。他方、雄は生まれた稚魚を守る行動をとり、場合によっては、母親である雌にも攻撃をすることがある。縄張り行動や、生殖行動、巣作り、子育てなどの本能行動研究のための実験動物としても用いられている。 ラビリンス器官をもち、低酸素状態に強い。
{{Otheruses|魚}} {{生物分類表 |名称 = ベタ |画像 = [[ファイル:Betta splendens colore.JPG|250px|Betta splendens]] |画像キャプション = {{snamei||Betta splendens}} |省略 = 条鰭綱 |目 = [[スズキ目]] {{sname||Perciformes}} |科 = [[オスフロネムス科]] {{sname||Osphronemidae}} |亜科 = [[ゴクラクギョ亜科]] {{sname||Macropodusinae}} |属 = '''ベタ属''' {{snamei||Betta}} |学名 = {{snamei|Betta}}<br>{{AUY|Bleeker|1850}} |タイプ種 = {{snamei||Betta trifasciata}}<br>{{AUY|Bleeker|1850}} |シノニム = * {{snamei|Anostoma}} <small>{{AUY|van Hasselt|1859}}</small> * {{snamei|Micracanthus}} <small>{{AUY|Sauvage|1879}}</small> * {{snamei|Parophiocephalus}} <small>{{AUY|Popta|1905}}</small> * {{snamei|Oshimia}} <small>{{AUY|D. S. Jordan|1919}}</small> * {{snamei|Pseudobetta}} <small>{{AUY|H. J. Richter|1981}}</small> |下位分類名 = [[種 (分類学)|種]] |下位分類 = {{Center|[[#種|本文参照]]}} }} '''ベタ'''({{snamei|Betta}}, 和名:'''トウギョ'''〈闘魚〉)は、[[スズキ目]] [[キノボリウオ亜目]][[オスフロネムス科]](かつてはゴクラクギョ科)[[ゴクラクギョ亜科]]ベタ属(別名トウギョ属)の[[熱帯魚]]。 広義には、ベタ属に含まれる50種ほどの[[魚類|魚]]をベタ、ベタ類と総称する。「ベタ」は属の学名 {{snamei|Betta}} で、[[タイ王国|タイ]]の方言に由来する。 特に、その中の1種である[[ベタ・スプレンデンス]] {{snamei||Betta splendens}} が、古くから特に観賞魚として世界中で広く親しまれており、狭義には、この種のことだけを指してベタと呼ぶ場合も多い。ただし、他種との繁殖行為がおこなわれることもあり、区別は曖昧である。<!--本稿では、ベタ・スプレンデンスのことをベタと呼び、ベタ属の魚のことはベタ類と便宜的に呼んでこれを区別する。--><!--実際は「ベタ」としての記述がない?--> 和名が同じ'''[[タイワンキンギョ]]'''および'''[[チョウセンブナ]]'''とは近縁種 [[タイ王国|タイ]]の[[メコン川]]流域原産の[[熱帯魚]]で、大きな川から、水田、ときには洪水によって一時的にできた水溜りなどにも生息する。動物性プランクトンや[[ボウフラ]]などの昆虫の幼虫類などを食べる。 もともとオスが縄張りを持つ種で、縄張り内に入る他個体を威嚇、攻撃する性質がある。飼育下でも、オス同士を混泳させると喧嘩を始めてしまうことから、2匹のオス同士を戦わせる遊戯のために飼われるようになった。品種改良の結果、より気性が荒い、強い品種ができていった。「'''闘魚'''」、「シャム闘魚」の名がある。また2匹を瓶などで仕切りにいれると互いに背ビレや尾ビレやエラを最大限まで広げて体を震えさせてに威嚇し合う(これは雄雌に関わらない)。これを「フレアリング」と言う。闘魚としての品種改良のための交配を重ねた副産物として、鮮やかな[[体色]]をもつものがあらわれ、美しさを求めてさらに品種改良が加えられ、目の覚めるような青や赤の体色で、ヒレの長い品種が誕生し、流通するようになった。 ベタ類の繁殖であるが、まず、雄が水草などの浮遊物を集め、そこに泡をつけた浮き巣(泡巣)をつくる。そして、多くの場合、雄は激しく雌を追い回す。雌が激しい求愛行動に疲労すると、雄は雌の体に巻き付いて雌に産卵を促す。雌がポロポロと産卵すると、雄はその卵に射精して、落ちた卵を泡巣に集める。このように、ベタの生殖活動は激しいので、産卵後の雌は瀕死状態であることが少なくない。他方、雄は生まれた稚魚を守る行動をとり、場合によっては、母親である雌にも攻撃をすることがある。縄張り行動や、生殖行動、巣作り、子育てなどの本能行動研究のための実験動物としても用いられている。 ラビリンス器官をもち、低酸素状態に強い。 ==種== [[File:Betta smaragdina pair1.jpg|thumb|right|{{snamei|Betta smaragdina}}の番]] [[File:Betta tussyae (male) 2010-04-01.JPG|thumb|right|{{snamei|Betta tussyae}}雄]] 現在、本属には73種が認められている。現在の'''ベタ属'''は保護の目的で幾つかの上種(種複合体、{{lang-en-short|Species complex}})に分けられる(この分類は[[系統学]]的事実を表すものではない)。いかにそれを示す<ref name="fishbase">{{FishBase_genus|genus=Betta|month=February|year=2014}}</ref> <ref name="complex_mgt">{{cite web | title = Species Complex Management | url = https://smp.ibcbettas.org/Pages/complex.html | publisher = International Betta Congress Species Maintenance Program | accessdate = 2006-07-01 }}</ref> <ref name="itis">{{ITIS |id=172610 |taxon=Betta |accessdate=30 June 2006}}</ref>。 * {{snamei|Betta akarensis}} complex: ** {{snamei||Betta akarensis}} <small>{{AUY|Regan|1910}}</small> ({{lang-en-short|Akar betta}}) ** {{snamei||Betta antoni}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2006}}</small> ** {{snamei||Betta aurigans}} <small>{{AUY|H. H. Tan}} & {{AUY|K. K. P. Lim|2004}}</small> ** {{snamei||Betta balunga}} <small>{{AUY|Herre|1940}}</small> ** {{snamei||Betta chini}} <small>{{AUY|P. K. L. Ng|1993}}</small> ** {{snamei||Betta ibanorum}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2004}}</small> ** {{snamei||Betta obscura}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2005}}</small> ** {{snamei||Betta pinguis}} <small>{{AUY|H. H. Tan}} & {{AUY|Kottelat|1998}}</small> * {{snamei|Betta albimarginata}} complex: ** {{snamei||Betta albimarginata}} <small>{{AUY|Kottelat}} & {{AUY|P. K. L. Ng|1994}}</small> ** {{snamei||Betta channoides}} <small>{{AUY|Kottelat}} & {{AUY|P. K. L. Ng|1994}}</small> * ''B. anabatoides'' complex: ** {{snamei||Betta anabatoides}} <small>{{AUY|Bleeker|1851}}</small> ({{lang-en-short|giant betta}}) ** {{snamei||Betta midas}} <small>{{AUY|H. H. Tan|2009}}</small> * {{snamei|Betta bellica}} complex: ** {{snamei||Betta bellica}} <small>{{AUY|Sauvage|1884}}</small> ({{lang-en-short|slim betta}}) ** {{snamei||Betta simorum}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|1996}}</small> * {{snamei|Betta coccina}} complex: ** {{snamei||Betta brownorum}} <small>{{AUY|K. E. Witte}} & {{AUY|J. Schmidt|1992}}</small> ** {{snamei||Betta burdigala}} <small>{{AUY|Kottelat}} & {{AUY|P. K. L. Ng|1994}}</small> ** {{snamei||Betta coccina}} <small>{{AUY|Vierke|1979}}</small> ** {{snamei||Betta hendra}} <small>{{AUY|I. Schindler}} & {{AUY|Linke|2013}}</small> ** {{snamei||Betta livida}} <small>{{AUY|P. K. L. Ng}} & {{AUY|Kottelat|1992}}</small> ** {{snamei||Betta miniopinna}} <small>{{AUY|H. H. Tan}} & {{AUY|S. H. Tan|1994}}</small> ** {{snamei||Betta persephone}} <small>{{AUY|Schaller|1986}}</small> ** {{snamei||Betta rutilans}} <small>{{AUY|K. E. Witte}} & {{AUY|Kottelat|1991}}</small> ** {{snamei||Betta tussyae}} <small>{{AUY|Schaller|1985}}</small> ** {{snamei||Betta uberis}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2006}}</small> * {{snamei|Betta dimidiata}} complex: ** {{snamei||Betta dimidiata}} <small>{{AUY|T. R. Roberts|1989}}</small> ** {{snamei||Betta krataios}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2006}}</small> * {{snamei|Betta edithae}} complex: ** {{snamei||Betta edithae}} <small>{{AUY|Vierke|1984}}</small> * {{snamei|Betta foerschi}} complex: ** {{snamei||Betta dennisyongi}} <small>{{AUY|H. H. Tan|2013}}</small> ** {{snamei||Betta foerschi}} <small>{{AUY|Vierke|1979}}</small> ** {{snamei||Betta mandor}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2006}}</small> ** {{snamei||Betta rubra}} <small>{{AUY|Perugia|1893}}</small> ({{lang-en-short|Toba betta}}) ** {{snamei||Betta strohi}} <small>{{AUY|Schaller}} & {{AUY|Kottelat|1989}}</small> * {{snamei|Betta picta}} complex: ** {{snamei||Betta falx}} <small>{{AUY|H. H. 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Ng|2005}}</small> ** {{snamei||Betta pallida}} <small>{{AUY|I. Schindler}} & {{AUY|J. Schmidt|2004}}</small> ** {{snamei||Betta prima}} <small>{{AUY|Kottelat|1994}}</small> ** {{snamei||Betta pugnax}} <small>({{AUY|Cantor|1849}})</small> ({{lang-en-short|Penang betta}}) ** {{snamei||Betta pulchra}} <small>{{AUY|H. H. Tan}} & {{AUY|S. H. Tan|1996}}</small> ** {{snamei||Betta raja}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2005}}</small> ** {{snamei||Betta schalleri}} <small>{{AUY|Kottelat}} & {{AUY|P. K. L. Ng|1994}}</small> ** {{snamei||Betta stigmosa}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2005}}</small> * {{snamei|Betta splendens}} complex: ** {{snamei||Betta imbellis}} <small>{{AUY|Ladiges|1975}}</small> ({{lang-en-short|crescent betta}}) ** {{snamei||Betta mahachaiensis}} <small>{{AUY|Kowasupat}}, {{AUY|Panjipan}}, {{AUY|Ruenwongsa}} & {{AUY|Jeenthong|2012}}</small> ** {{snamei||Betta siamorientalis}} <small>{{AUY|Kowasupat}}, {{AUY|Panjipan}}, {{AUY|Ruenwongsa}} & {{AUY|Jeenthong|2012}}</small> ** {{snamei||Betta smaragdina}} <small>{{AUY|Ladiges|1972}}</small> ({{lang-en-short|blue betta}}) ** {{snamei||Betta splendens}} <small>{{AUY|Regan|1910}}</small> ({{lang-en-short|Siamese fighting fish}}) ** {{snamei||Betta stiktos}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2005}}</small> * {{snamei|Betta unimaculata}} complex: ** {{snamei||Betta compuncta}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2006}}</small> ** {{snamei||Betta gladiator}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. Ng|2005}}</small> ** {{snamei||Betta ideii}} <small>{{AUY|H. H. Tan & P. K. L. 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Tan|2009}}</small><ref>{{cite journal | journal = The Raffles Bulletin of Zoology | volume = 57 | issue = 2 | year = 2009 | pages = 501–504 | title = ''Betta pardalotos'', a new species of fighting fish (Teleostei: Osphronemidae) from Sumatra, Indonesia | author = Tan Heok Hui}}</ref> ** {{snamei||Betta pi}} <small>{{AUY|H. H. Tan|1998}}</small> ** {{snamei||Betta renata}} <small>{{AUY|H. H. Tan|1998}}</small> ** {{snamei||Betta spilotogena}} <small>{{AUY|P. K. L. Ng}} & {{AUY|Kottelat|1994}}</small> ** {{snamei||Betta tomi}} <small>{{AUY|P. K. L. Ng}} & {{AUY|Kottelat|1994}}</small> ** {{snamei||Betta waseri}} <small>{{AUY|Krummenacher|1986}}</small> == 品種群 == 観賞魚としてのベタ類を大きく分けると、 * 闘魚としての品種改良が加えられた品種群(プラカット) * その後、観賞魚として色の美しさを引き出した品種群(トラディショナル) * トラディショナル・ベタを元にして、更なる血統管理を繰り返し、ヒレが大きく扇状に広がり、様々な色調をもった個体(ショウベタ) * 品種改良が加えられていない野生種のベタ(ワイルド)、これにはベタ属のほかの種類も含まれる などがある。ペットとしてのトラディショナル・ベタは、日本を含め、世界中で楽しまれている。ショウベタは、系統の維持に高度な技術を要する趣味として人気があり、英国の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相も飼育していたという。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Betta}} {{Wikispecies|Betta}} * [[熱帯魚]] * [[魚の一覧]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へた}} [[Category:オスフロネムス科]] [[Category:タイの文化]]
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63
63(六十三、ろくじゅうさん、むそみ、むそじあまりみつ)は自然数、また整数において、62の次で64の前の数である。
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63(六十三、ろくじゅうさん、むそみ、むそじあまりみつ)は自然数、また整数において、62の次で64の前の数である。
{{整数|Decomposition=3{{sup|2}} × 7}} '''63'''('''六十三'''、ろくじゅうさん、むそみ、むそじあまりみつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[62]]の次で[[64]]の前の数である。 == 性質 == * 63 は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[3]], [[7]], [[9]], [[21]], 63 である。 **[[約数]]の和は[[104]]。 *{{sfrac|1|63}} = 0.{{underline|015873}}… (下線部は[[循環節]]で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる12番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[65]]。 *63 = 2{{sup|6}} &minus; 1 ** 2{{sup|''p''}} &minus; 1 は ''p'' が合成数のときは合成数になる。 **6番目の[[メルセンヌ数]]である。1つ前は[[31]]、次は[[127]]。 ***3番目の[[メルセンヌ素数]]でないメルセンヌ数である。1つ前は[[15]]、次は[[255]]。({{OEIS|A135972}}) ** 63 = 2{{sup|0}} + 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}} + 2{{sup|4}} + 2{{sup|5}} ***メルセンヌ数 2{{sup|''p''}} &minus; 1 は 1 (2{{sup|0}}) から 2{{sup|''n''&minus;1}} までの[[2の累乗数]]の[[総和]]に等しい。 *** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|5}} + ''n''{{sup|4}} + ''n''{{sup|3}} + ''n''{{sup|2}} + ''n'' + 1 の値とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[364]]。({{OEIS|A053700}}) **** 63 = 111111{{sub|(2)}} ** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|6}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[728]]。({{OEIS|A123866}}) ** 63 = 4{{sup|3}} &minus; 1 *** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[255]]。({{OEIS|A024036}}) *** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[26]]、次は[[124]]。({{OEIS|A068601}}) *** ''n'' = 4 のときの 4''n''{{sup|''2''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[35]]、次は[[99]]。({{OEIS|A000466}}) ** 63 = 8{{sup|2}} &minus; 1 *** ''n'' = 2 のときの 8{{sup|''n''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[511]]。({{OEIS|A024088}}) *** ''n'' = 8 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[48]]、次は[[80]]。({{OEIS|A005563}}) ** 63 = 16 × 2{{sup|2}} &minus; 1 *** ''n'' = 2 のときの 16''n''{{sup|''2''}} &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[143]]。({{OEIS|A141759}}) ** 63 = 4 × 2{{sup|4}} &minus; 1 *** 4番目の[[ウッダル数]]である。1つ前は[[23]]、次は[[159]]。({{OEIS|A003261}}) *[[九九]]では 7 の段で 7 × 9 = 63 (しちくろくじゅうさん)、9 の段で 9 × 7 = 63 (くしちろくじゅうさん)と2通りの表し方がある。 *26番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[60]]、次は[[70]]。 **9を基とする7番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[54]]、次は[[72]]。 * 各位の積が[[各位の和]]の2倍になる3番目の数である。1つ前は[[44]]、次は[[138]]。({{OEIS|A062034}}) *√{{overline|4000}} に最も近い整数である。√{{overline|4000}} = 63.24555…。{{math|63{{sup|2}}{{=}}3969}}, {{math|64{{sup|2}}{{=}}4096}}。 *[[約数]]の和が63になる数は1個ある。([[32]]) 約数の和1個で表せる20番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[68]]。 **[[約数]]の和が奇数になる9番目の奇数である。1つ前は[[57]]、次は[[91]]。 * 63 = 7 × 3{{sup|2}} ** ''n'' = 3 のときの 7''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[112]]。({{OEIS|A033582}}) ** ''n'' = 2 のときの 7 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[21]]、次は[[189]]。({{OEIS|A005032}}) ** 2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q'' の形で表せる9番目の数である。1つ前は[[52]]、次は[[68]]。({{OEIS|A054753}}) * 15番目の[[幸運数]]である。1つ前は51、次は[[67]]。 **幸運数自身のすべての約数が幸運数である数としては11番目である。1つ前は49、次は67。 ** [[累乗数]]はもちろん1にもなり得ない幸運数としても11番目である。1つ前は51、次は67。 * 桁の[[調和平均]]が4になる4番目の数である。1つ前は[[44]]、次は[[288]]。({{OEIS|A062182}}) *:例.{{sfrac|2|{{sfrac|1|6}} + {{sfrac|1|3}}}} = 4 *8乗した数の各位の和が元の数になる最大の数である。1つ前は[[54]]。 *:63{{sup|8}} = 248155780267521 → 2 + 4 + 8 + 1 + 5 + 5 + 7 + 8 + 0 + 2 + 6 + 7 + 5 + 2 + 1 = 63 ** ''n'' = 8 のときの ''n'' 乗した数の各位の和が元の数になる最大の数とみたとき1つ前の7乗は[[68]]、次の9乗は[[81]]。({{OEIS|A046000}}) * 1から10までの数を使って分数 {{sfrac|''p''|''q''}} を作るとき[[既約分数]]([[互いに素 (整数論)|互いに素]])の数は63個である。1つ前の9までは[[55]]個、次の11までは[[83]]個。({{OEIS|A018805}}) * ''n'' = 3 のときの 2''n'' と ''n'' を並べてできる数である。1つ前は[[42]]、次は[[84]]。({{OEIS|A235497}}) == その他 63 に関すること == *[[原子番号]] 63 の[[元素]]は、[[ユウロピウム]] (Eu)。 *第63代[[天皇]]は、[[冷泉天皇]]。 *[[日本]]の第63代[[内閣総理大臣]]は、[[佐藤栄作|佐藤榮作]]。 *[[大相撲]]の第63代[[横綱]]は、[[旭富士正也]]。 *[[年始]]から数えて63日目は[[3月4日]]、[[閏年]]は[[3月3日]]。 *第63代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ペラギウス2世 (ローマ教皇)|ペラギウス2世]](在位:[[579年]][[11月26日]]〜[[590年]][[2月7日]])である。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第63番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#既済|水火既済]]。 *[[クルアーン]]における第63番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[偽信者たち (クルアーン)|偽信者たち]]である。 <!--*[[1991年]][[6月3日]]に[[雲仙普賢岳]]で大規模な[[火砕流]]が発生した。--> <!--敢えて本項で挙げるには無理があるのでは--> <!--*[[日本放送協会|NHK]][[NHK大阪放送局|大阪]][[NHK教育テレビジョン|教育テレビジョン]]の[[アナログ放送]]でのチャンネルは '''63ch''' である。これは、[[極超短波|UHF]]テレビジョンの最高位チャンネルでもある。--> <!--63チャンネルはSHF帯(センチメートル波)チャンネル--> *[[BD-17°63]] は、[[くじら座]]の方角にある[[恒星]]。 *63系または63形の[[鉄道車両]] **[[国鉄63系電車]] **[[国鉄C63形蒸気機関車]] **[[国鉄EF63形電気機関車]] **[[真岡鐵道モオカ63形気動車]] *[[63ビル]]は、[[大韓民国|韓国]][[ソウル特別市|ソウル]]にある[[超高層ビル]]。 *[[63年グループ]]は、[[イタリア]]の[[文学]]・[[美学]]グループ。 *[[大日本帝国陸軍]]の部隊 **[[第63師団 (日本軍)|第63師団]] **[[歩兵第63連隊]] *[[中華人民共和国|中国]]の軍・警察の部隊 **[[第63集団軍]] **[[武装警察第63師団]] *[[ストーナー63]]は、[[ユージン・ストーナー]]が[[1960年代]]に開発した[[アメリカ合衆国]]の[[アサルトライフル]]。 *[[AO-63]] は、旧[[ソビエト連邦]]の[[アサルトライフル]]。 *[[AKM-63]] は、[[ハンガリー]]のアサルトライフル。 *[[PM-63 RAK]] は、[[ポーランド]]の[[短機関銃]]。 *中国の[[武器]]・[[兵器]] **[[63式自動歩槍]]は、[[自動小銃]]。 **[[63式107mmロケット砲]] **[[63/80式装甲兵員輸送車|63式装甲兵員輸送車]] **[[63式水陸両用戦車]] *[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ (USS Missouri, BB-63)]] は、[[アメリカ海軍]]の[[戦艦]]。 *[[キティホーク (空母)|キティホーク (USS Kitty Hawk, CVA-63)]] は、アメリカ海軍の[[航空母艦]]。 *[[モービル (軽巡洋艦)|モービル (USS Mobile, CL-63)]] は、アメリカ海軍の[[軽巡洋艦]]。 *[[カウペンス (ミサイル巡洋艦)|カウペンス (USS Cowpens, CG-63)]] は、アメリカ海軍の[[ミサイル巡洋艦]]。 *[[サンプソン (駆逐艦)|サンプソン]] ([[:en:USS Sampson (DD-63)|USS Sampson, DD-63]]) は、アメリカ海軍の[[駆逐艦]]。 *[[ステザム (ミサイル駆逐艦)|ステザム (USS Stethem, DDG-63)]] は、アメリカ海軍の[[ミサイル駆逐艦]]。 *[[アイラ・ジェフリー (護衛駆逐艦)|アイラ・ジェフリー]] ([[:en:USS Ira Jeffrey (DE-63)|USS Ira Jeffrey, DE-63]]) は、アメリカ海軍の[[護衛駆逐艦]]。 *サプライズ ([[:en:USS Surprise (PG-63)|USS Surprise, PG-63]]) は、アメリカ海軍の[[コルベット]]。 *O-2 ([[:en:USS O-2 (SS-63)|USS O-2, SS-63]]) は、アメリカ海軍の[[潜水艦]]。 *[[P-63 (航空機)|P-63 キングコブラ]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の戦闘機。 *[[YAH-63]] は、アメリカの[[攻撃ヘリコプター]]の試作機。 *[[花の六三組]]は、[[昭和]]63年([[1988年]])[[春場所]]に[[初土俵]]を踏んだ[[力士]]で[[関取]]になった者の総称を言う。関取経験者は11人を数え、'''3[[横綱]]1[[大関]]'''(横綱:[[曙太郎]]、[[貴乃花光司]]、[[花田虎上|若乃花勝]]。大関:[[魁皇博之]]。)を輩出した[[黄金世代]]となった。 **[[2013年]][[8月12日]]放送の[[日本放送協会|NHK]]の番組『ドキュメンタリー同期生』では、花の六三組が特集された。曙と貴乃花が出演した<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/navi/detail/index.cgi?id=09_0031 ドキュメンタリー同期生(NHK注目番組ナビ!)] 2013年8月12日閲覧。</ref><ref>[https://www.j-cast.com/tv/2013/08/10181247.html 若貴、曙、魁皇…相撲ブームの火付け役「花の六三組」25年目の同期会(J-CASTテレビウォッチ)] 2013年8月12日閲覧。</ref>。 *[[すごろく]]・[[鵞鳥のゲーム]]のマスの数は、通常63個ある。 *現行の[[はがき]]の郵便料金は63円である。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[紀元前63年]]-[[63年|西暦63年]]-[[1963年]]-[[昭和63年]] *[[6月3日]] {{自然数}}
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64
64(六十四、ろくじゅうし、むそよん、むそじあまりよっつ)は、自然数また整数において、63の次で65の前の数である。 名前に「64」が入っているものには、「ロクヨン」の愛称が付けられることがある。先の NINTENDO64 以外にも、以下のものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "64(六十四、ろくじゅうし、むそよん、むそじあまりよっつ)は、自然数また整数において、63の次で65の前の数である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "名前に「64」が入っているものには、「ロクヨン」の愛称が付けられることがある。先の NINTENDO64 以外にも、以下のものがある。", "title": "その他 64 に関すること" } ]
64(六十四、ろくじゅうし、むそよん、むそじあまりよっつ)は、自然数また整数において、63の次で65の前の数である。
{{整数|Decomposition=2{{sup|6}}}} '''64'''('''六十四'''、ろくじゅうよん、ろくじゅうし、むそよん、むそじあまりよっつ)は、[[自然数]]また[[整数]]において、[[63]]の次で[[65]]の前の数である。 == 性質 == * 64は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[8]], [[16]], [[32]], 64 である。 ** [[約数]]の和は[[127]]。 ***[[約数]]の和が奇数になる13番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[72]]。 *** [[約数]]の和が[[素数]]になる6番目の数である。1つ前は[[25]]、次は[[289]]。 ** 約数を7個もつ最小の数である。次は[[729]]。 ***約数を7個もつ最小の数である。1つ前の6個は[[12]]、次の8個は[[24]]。({{OEIS|A005179}}) **約数の和と元の数との積が[[完全数]]になる4番目の[[超完全数]]である。1つ前は[[16]]、次は[[4096]]。({{OEIS|A019279}})<br>64 × σ(64) = 8128 (ただし σ は[[約数関数]]) *** [[完全数]][[8128]]の約数である。1つ前は[[32]]、次は[[127]]。({{OEIS|A133024}}) ****完全数の約数とみたとき14番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[124]]。({{OEIS|A096360}}) * {{sfrac|1|64}} = 0.015625 **[[逆数]]が[[有限小数]]になる12番目の数である。また、2{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} (''i'' ≧ 0, ''j'' ≧ 0) で表せる12番目の数となる。1つ前は[[50]]、次は[[80]]。({{OEIS|A003592}}) ***2{{sup|&minus;''n''}} (''n'' は自然数) は小数点以下が ''n'' 桁の[[有限小数]]になる。{{sfrac|1|64}} は 2{{sup|&minus;6}} なので、小数第六位の有限小数になる。 *** [[十進法]]では ''n'' ≧ 2 のとき、この有限小数の下二桁は 25 である。また、''n'' ≧ 3 のとき、この有限小数の下三桁は、[[奇数]]であれば 125、[[偶数]]であれば 625 となる。 * 64 = [[8]]{{sup|2}} ** 8番目の[[平方数]]である。1つ前は[[49]]、次は[[81]]。 ** ''n'' = 2 のときの 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[512]]。 ** 64 = (2 × 4){{sup|2}} ***''n'' = 4 のときの (2''n''){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[36]]、次は[[100]]。({{OEIS|A016742}}) ***''n'' = 2 のときの (4''n''){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[144]]。({{OEIS|A016802}}) ** 64 = 1 × 2 × 4 × 8 *** 8 の約数の積で表せる数である。1つ前は[[7]]、次は[[27]]。({{OEIS|A007955}}) *** 初項 1、公比 2 の[[等比数列]]における第4項までの[[総乗]]である。1つ前は[[8]]、次は[[1024]]。({{OEIS|A006125}}) **** この値は ''n'' = 4 のときの 2{{sup|{{sfrac|''n''(''n''&minus;1)|2}}}} の値である。 * 64 = 4{{sup|3}} ** 4番目の[[立方数]]である。1つ前は[[27]]、次は[[125]]。 ** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[16]]、次は[[256]]。 ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|''n''&minus;1}} の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[625]]。({{OEIS|A000169}}) ** ''n'' = 1 のときの 4{{sup|2''n''+1}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[1024]]。({{OEIS|A013709}}) ** ''n'' = 2 のときの (2''n''){{sup|''n''+1}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[1296]]。({{OEIS|A085532}}) ** 64 = 4 × 2{{sup|4}} *** ''n'' = 2 のときの 4''n''{{sup|4}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[324]]。({{OEIS|A141046}}) *** ''n'' = 4 のときの ''n'' × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[24]]、次は[[160]]。({{OEIS|A036289}}) ** 64 = (2 × 2){{sup|3}} ***''n'' = 2 のときの (2''n''){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[216]]。({{OEIS|A016743}}) ** 64 = 1 × 4 × 16 *** 初項 1、公比 4 の[[等比数列]]における第3項までの[[総乗]]である。1つ前は[[4]]、次は[[4096]]。({{OEIS|A053763}}) **** この値は ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''(''n''&minus;1)}} の値である。 * 64 = [[2]]{{sup|6}} ** 6番目の[[2の冪|2の累乗数]]である。1つ前は[[32]]、次は[[128]]。 ** 2番目の6乗数である。1つ前は[[1]]、次は[[729]]。 ***64は[[平方数]]と[[立方数]]の性質を両方あわせもつ数である。 ** 64 = 2{{sup|3!}} *** ''n'' = 3 のときの 2{{sup|''n''!}} の値とみたとき1つ前は[[4]]、次は[[16777216]]。({{OEIS|A050923}}) * 64 = 4 × 2{{sup|4}} ** ''n'' = 4 のときの ''n'' × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[24]]、次は[[160]]。({{OEIS|A036289}}) * 64 = 2{{sup|6}} × 3{{sup|0}} ** 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} (''i'' ≧ 0, ''j'' ≧ 0) で表せる17番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[72]]。({{OEIS|A003586}}) * [[九九]]では 8 の段で 8 × 8 = 64 (はっぱろくじゅうし) と1通りで表される。偶数で表し方が1通りしかないのは64のみ。 * 各位の和([[数字和]])が10になる6番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[73]]。 *6乗した数の各位の和が元の数になる最大の数である。1つ前は[[26]]。({{OEIS|A046459}}) *:64{{sup|6}} = 68719476736 → 6 + 8 + 7 + 1 + 9 + 4 + 7 + 6 + 7 + 3 + 6 = 64 ** ''n'' = 6 のときの ''n'' 乗した数の各位の和が元の数になる最大の数とみたとき1つ前の5乗は[[46]]、次の7乗は[[68]]。({{OEIS|A046000}}) * 64 = 8{{sup|2}} = [[28]] + 6{{sup|2}} <!-- === 他の進数での性質 === * 「[[2の冪|2の冪数]]」進法だと、[[二進法]]では 1000000 、[[八進法]]では 100 となる。 * [[六進法]]では 2{{sup|10}} の数に当たる。 ** {{sfrac|1|64}}{{sub|(10)}} = {{sfrac|1|144}}{{sub|(6)}} = 0.00[[729|3213]]{{sub|(6)}} *** 六進法では、2{{sup|&minus;''n''}} は ''n'' ≧ 2 で[[偶数]]のとき、この有限小数の下二桁は 13 になり、''n'' ≧ 2 で[[奇数]]のときは、下二桁は 43 になる。また、''n'' ≧ 3 のとき、この有限小数の下三桁は、[[奇数]]であれば 043、[[偶数]]であれば 213 となる。 ** 一方で、[[キロバイト]]は 2{{sup|14}} = [[1024|4424]] となる。 * [[九進法]]では乗算表に現れる最後の数で、71 となる。 ** 九進法では、2{{sup|-6}}の[[循環節]]は8桁(= 2{{sup|6-3}}桁)になる。 *** {{sfrac|1|64}}{{sub|(10)}} = {{sfrac|1|71}}{{sub|(9)}} = 0.<u>01234568</u>…{{sub|(9)}} *** 一つ前の2{{sup|-5}}({{sfrac|1|[[32|35]]}})は循環節が4桁(= 2{{sup|5-3}})、次の2{{sup|-7}}({{sfrac|1|[[128|152]]}})は循環節が16{{sub|(10)}}桁(= 2{{sup|7-3}}桁)になる。 --> == その他 64 に関すること == * [[原子番号]] 64 の[[元素]]は[[ガドリニウム]] (Gd)。 * [[チェス]]の盤と、[[オセロ (ボードゲーム)|リバーシ]]の盤の升目は64個である。 * '''[[六十四卦]]''':[[八卦]]を 2つ重ねたもので、[[易]]([[占い|卜占]])に使われる。第64番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#未済|火水未済]]。 * [[クルアーン]]における第64番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[騙し合い (クルアーン)|騙し合い]]である。 * [[ビートルズ]]は、「[[ホエン・アイム・シックスティ・フォー|When I'm '''Sixty-Four''']]」を、“[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (代表的なトピック)|Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->”(1967) にて発表した。[[ポール・マッカートニー]]が、少年時に定年65歳間際の状況を想像して作ったという。多くのカバー、リミックスが為されている。2003年7月に[[イギリス]]の[[トニー・ブレア|ブレア]]首相が[[北京市|北京]]を訪問した際、聴衆との質疑応答で[[ビートルズ]]の曲をリクエストされ、妻シェリーが同曲を咄嗟に歌った。これが後に抽出されてダンスナンバーとして加工され、欧州のクラブで流行した。 * 六四事件は[[1989年]][[6月4日]]における中国の学生運動の武力鎮圧で知られる[[六四天安門事件]]の別称。略して六四とも。[[中国のネット検閲]]の対象となる。なお5月35日を表す535も同じ隠語として管理対象となる。 * 第64代[[天皇]]は[[円融天皇]]である。 * [[日本]]の64代目の[[内閣総理大臣]]は、[[田中角栄]]。 * 日本で最も長い[[元号]]である[[昭和]]は64年まで続いた。 * [[姓名学]]では小心者で衰退、離散する[[凶数]]とされる。 * [[大相撲]]の第64代[[横綱]]は[[曙太郎]]である。 * 第64代[[教皇|ローマ教皇]]は[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]](在位:[[590年]][[9月3日]]~[[604年]][[3月12日]])である。 * [[年始]]から数えて64日目は[[3月5日]]、[[閏年]]では[[3月4日]]。 * 2の6乗であることから[[情報工学]]分野において高頻度で目にする値である([[64ビット]]も参照)。またこれに関連して[[CPU]]アーキテクチャなどに因んだ商品名が多数存在する。 ** [[x64|AMD64]] [[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]] が開発した64bit CPU命令セット。これに対応した製品は[[Athlon64]]、[[Turion 64]] のように '64' が付与された時期があった。 ** [[コモドール64]] 搭載RAMが64kバイトであったことから。 ** [[任天堂]]の[[テレビゲーム]]機、[[NINTENDO64]] は「'''ロクヨン'''」と呼ばれた。この数字は NINTENDO64 が [[MIPSアーキテクチャ#MIPS CPU ファミリ|MIPS]] [[R4200|R4300i]] カスタム搭載の64ビット機であることに由来し、8ビット機、16ビット機と続いた同社の次世代マシンの象徴的数字であった。 ** [[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]の[[アーケードゲーム基板]]、[[ハイパーネオジオ64]]。CPU が [[MIPSアーキテクチャ#MIPS CPU ファミリ|MIPS R4600]] であることから。 ** [[Base64]] - 64種類の[[英数字]]のみが使用可能な[[エンコード]]方式。 * [[横山秀夫]]の小説に『'''[[64(ロクヨン)]]'''』という作品がある。 * [[軽自動車]]における出力の自主規制値が64PS。 === ロクヨン === 名前に「64」が入っているものには、「ロクヨン」の愛称が付けられることがある。先の NINTENDO64 以外にも、以下のものがある。 *日本の電気機関車、[[国鉄EF64形電気機関車]]。 *[[自衛隊]]が採用した国産[[自動小銃]]、[[64式7.62mm小銃]]。 *[[ニコン]]、[[キヤノン]]等が製造している、600mm f/4の望遠[[単焦点レンズ]]。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|6|-[[昭和64年]]}} *[[6月4日]] *[[64ビット]] {{自然数}} {{2^n}}
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月刊少年エース
『月刊少年エース』(げっかんしょうねんエース)は、株式会社KADOKAWA(以前は株式会社角川書店が発行、ブランドカンパニー化以後は角川書店BCが編集企画)が1994年(平成6年)より発行している月刊漫画雑誌。2015年7月号以降はコミック&キャラクター局が企画編集を行っている。発売日は毎月26日。略称は「エース」。 少年エースは、発売日の2か月後を号数としている(例:少年エース2010年3月号は2010年1月26日に発売)。 1992年に起きた角川書店のお家騒動により、編集者・漫画家の多くが角川歴彦率いるメディアワークスへ流出。その影響で『月刊コミックコンプ』(1988年-1994年)の連載作品の大半は、『月刊電撃コミックガオ!』(1993年-2008年)に移籍してしまった。 1994年夏に角川春樹が逮捕されたことによって角川歴彦は角川書店に復帰し、角川お家騒動は収束に向かう運びとなった。これを受けて『コミックコンプ』は休刊。その2か月あまり後に、『コミックコンプ』と『コミックGENKi』の編集者が中心となって創刊された。 創刊直前には『少年キッズ』が一号だけ、実験的に発行されている。 創刊第3号の1995年2月号から『新世紀エヴァンゲリオン』の漫画連載が始まり、以降は順調に売り上げを伸ばし1997年ごろには発行部数30万部を称した。この頃には本誌の台湾版や香港版も発売されていたようである。 しかしその後は部数が激減し、2004年度には5万部台にまで落ちてしまった。 2000年代中盤は全盛期のレベルまでは回復していないものの売り上げが好調なようで、『ケロロ軍曹』のヒット・アニメ化や『エヴァンゲリオン』人気の再燃などによって発行部数は回復傾向にあり、2007年度の発行部数は9万部を超えた。2008年には『コミックコンプ』時代から数えて20周年を迎えた。 CMナレーションは長らく渡辺久美子(ケロロ軍曹)が担当していたが、2011年6月号からは相沢舞や富樫美鈴等連載作品のうちその時期に放送していたアニメの声優が務めている。2012年1月26日発売の少年エース3月号にて通巻300号(本誌のほか増刊誌も含む)を達成した。2014年11月25日発売の少年エース12月号にて創刊20周年となっている。 角川グループの再編により、2015年7月号より株式会社KADOKAWA発行、コミック&キャラクター局編集企画に改められ、奥付の発行人、編集人、編集長欄については編集長の記載項目が廃止されている。 日本雑誌協会調べ、期間内における1号あたりの印刷証明付き平均印刷部数。 以下の部数は全国出版協会発行の「出版指標 年報」掲載の推定値であり、実数ではないので注意が必要である。 再録誌は除く。現在はすべて休刊している。
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『月刊少年エース』(げっかんしょうねんエース)は、株式会社KADOKAWA(以前は株式会社角川書店が発行、ブランドカンパニー化以後は角川書店BCが編集企画)が1994年(平成6年)より発行している月刊漫画雑誌。2015年7月号以降はコミック&キャラクター局が企画編集を行っている。発売日は毎月26日。略称は「エース」。 少年エースは、発売日の2か月後を号数としている。
{{混同|月刊小学エース|[[山川惣治]]の絵物語『少年エース』}} {{加筆|2016年〜2017年の推定発行部数|date=2019年4月}} {{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 誌名 = 月刊少年エース | 英文誌名 = Shōnen Ace | 誌名略称 = A(エース) | ジャンル = [[少年漫画]]雑誌 | 読者対象 = 少年 | 刊行頻度 = [[逐次刊行物#月刊|月刊]](毎月26日) | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 定価 = 590円(税込) - 2015年10月号 | 出版社 = 株式会社[[KADOKAWA]]<br />編集企画 コミック&キャラクター局 | 編集部名 = 少年エース編集部 | 発行人 = 青柳昌行 | 編集人1役職 = | 編集人1氏名 = 加藤浩嗣{{R|natalie20220131}} | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = 487 ([[雑誌コード]]:04879) | 刊行期間 = 1994年10月26日(1994年12月号) - | 発行部数 = 推定3万 | 発行部数調査年月 = 2015年1月 - 2015年12月 | 発行部数調査機関 = [[全国出版協会]] | レーベル = [[カドカワコミックス|カドカワコミックス・エース]] | 姉妹誌 = [[ヤングエース]] | ウェブサイト = [https://web-ace.jp/shonenace/ 少年エース公式サイト] | 特記事項 = }} 『'''月刊少年エース'''』(げっかんしょうねんエース)は、株式会社[[KADOKAWA]](以前は株式会社[[角川書店]]が発行、ブランドカンパニー化以後は角川書店BCが編集企画)が[[1994年]]([[平成]]6年)より発行している[[月刊誌|月刊]][[漫画雑誌]]。2015年7月号以降はコミック&キャラクター局が企画編集を行っている。発売日は毎月26日。略称は「'''エース'''」。 少年エースは、発売日の2か月後を号数としている(例:少年エース2010年3月号は2010年1月26日に発売)。 == 概要 == [[画像:Shone ace.jpg|464px|right|thumb|エース誕生の経緯図]] [[1992年]]に起きた角川書店のお家騒動により、編集者・漫画家の多くが[[角川歴彦]]率いる[[メディアワークス]]へ流出。その影響で『[[月刊コミックコンプ]]』(1988年-1994年)の連載作品の大半は、『[[月刊電撃コミックガオ!]]』(1993年-2008年)に移籍してしまった。 [[1994年]]夏に[[角川春樹]]が逮捕されたことによって角川歴彦は角川書店に復帰し、角川お家騒動は収束に向かう運びとなった。これを受けて『コミックコンプ』は休刊。その2か月あまり後に、『コミックコンプ』と『[[月刊ニュータイプ#コミックGENKi|コミックGENKi]]』の[[編集者]]が中心となって創刊された。 創刊直前には『少年キッズ』が一号だけ、実験的に発行されている。 創刊第3号の[[1995年]]2月号から『[[新世紀エヴァンゲリオン (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン]]』の漫画連載が始まり、以降は順調に売り上げを伸ばし1997年ごろには発行部数30万部を称した<ref>『新世紀エヴァンゲリオンのすべて シト新生補完計画』 - テレビ東京、1997年3月9日放送</ref>。この頃には本誌の[[台湾]]版や[[香港]]版も発売されていたようである<ref>[http://www.takjapan.com/takMMhitomap970326.htm (株)角川書店 月刊「少年エース」編集長 井上伸一郎氏に聞く] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070708113834/http://www.takjapan.com/takMMhitomap970326.htm |date=2007年7月8日 }}、マルチメディアの人脈地図</ref>。 しかしその後は部数が激減し、[[2004年]]度には5万部台にまで落ちてしまった。 2000年代中盤は全盛期のレベルまでは回復していないものの売り上げが好調なようで、『[[ケロロ軍曹]]』のヒット・[[ケロロ軍曹 (アニメ)|アニメ化]]や『エヴァンゲリオン』人気の再燃などによって発行部数は回復傾向にあり、[[2007年]]度の発行部数は9万部を超えた。2008年には『コミックコンプ』時代から数えて20周年を迎えた。 [[コマーシャルメッセージ|CM]][[ナレーター|ナレーション]]は長らく[[渡辺久美子]]([[ケロロ|ケロロ軍曹]])が担当していたが、2011年6月号からは[[相沢舞]]や[[富樫美鈴]]等連載作品のうちその時期に放送していたアニメの声優が務めている。2012年1月26日発売の少年エース3月号にて通巻300号(本誌のほか増刊誌も含む)を達成した。2014年11月25日発売の少年エース12月号にて創刊20周年となっている。 [[角川グループ]]の再編により、[[2015年]]7月号より株式会社KADOKAWA発行、コミック&キャラクター局編集企画に改められ、奥付の発行人、編集人、編集長欄については編集長の記載項目が廃止されている。 === 歴代編集長 === {{節スタブ}} * [[井上伸一郎]](創刊編集長) * 渡辺啓之 * 見野善則(2012年5月号まで) * 人見英行(2012年6月号 - 2013年5月号) * 田中政哉(2013年6月号 - ) * 加藤浩嗣<ref name="natalie20220131">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/column/462518|title=恋愛マンガからダークファンタジーまで、26人の編集者が回答|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-01-31|accessdate=2022-02-01}}</ref> == 発行部数 == [[日本雑誌協会]]調べ、期間内における1号あたりの印刷証明付き平均印刷部数。 * 2003年9月 - 2004年8月:59,167部 * 2004年9月 - 2005年8月:68,917部 * 2005年9月 - 2006年8月:80,833部 * 2006年9月 - 2007年8月:91,666部 * 2007年10月 - 2008年9月:85,000部 * 2008年10月 - 2009年9月:83,334部 * 2009年10月 - 2010年9月:75,084部 * 2010年10月 - 2011年9月:66,500部 * 2011年10月 - 2012年9月:60,417部 * 2012年10月 - 2012年12月:52,667部 以下の部数は[[全国出版協会]]発行の「出版指標 年報」掲載の推定値であり、実数ではないので注意が必要である。 * 2013年1月 - 2013年12月:4万部 * 2014年1月 - 2014年12月:4万部 * 2015年1月 - 2015年12月:3万部 {{節スタブ}} == 関連雑誌 == === 増刊誌 === 再録誌は除く。現在はすべて休刊している。 * 『格闘エース』(1996年)※1号のみ。 * 『エースダッシュ』(1997年 - 1998年) * 『[[月刊エースネクスト]]』(1999年 - 2000年) * 『[[エース桃組]]』(2000年 - 2004年) * 『エヴァ・エース』(2003年)※1号のみ。 * 『[[エース特濃]]』(2003年 - 2004年) * 『[[特撮エース]]』(2003年 - 2006年)※2004年発行のNo.6以外は『[[月刊ニュータイプ#姉妹誌|Newtype THE LIVE 特撮ニュータイプ]]』増刊扱い。 * 『[[ケロロランド]]』(2004年 - 2012年)※2009年発行のVol.28より『[[ケロケロエース]]』増刊扱い。 * 『[[ビーンズエース]]』(2005年 - 2009年)※2006年発行のVol.4より『[[月刊Asuka]]』増刊扱い。 * 『[[エースアサルト]]』(2007年 - 2009年) * 『[[4コマnanoエース]]』(2011年 - 2013年) === 姉妹誌 === * 『[[コンプティーク]]』(1987年 - ) * 『[[ガンダムエース]]』(2001年 - ) * 『ガンダムゲームエース』(2003年 - 2004年) * 『Ζガンダムエース』(2005年 - 2006年) * 『[[月刊コンプエース]]』(2005年 - ) * 『ガンダムエースSPECIAL』(2006年 - 2008年) * 『[[ケロケロエース]]』(2007年 - 2013年) * 『[[TYPE-MOON#TYPE-MOONエース|TYPE-MOONエース]]』(2008年 - ) * 『[[マクロスエース]]』(2009年 - 2011年) * 『[[ヤングエース]]』(2009年 - )※Vol.1-9までは増刊扱い。 * 『[[ニュータイプエース]]』(2011年 - 2013年) * 『[[アルティマエース]]』(2011年 - 2012年) * 『[[サムライエース]]』(2012年 - 2013年) == 掲載作品一覧 == * '''太字'''で色が付いているものは、連載中の作品を表す。 * 開始・終了はyyyy年mm月号を「yyyy.mm」の形で略記。 * 読み切り作品は除く。 ** エース誌上にて「短期連載」「短期集中連載」などと表記された作品については表から除いた。 ** エース誌上にて「連載開始」と表記された号を連載開始とみなす。「連載開始」と表記される前に何号か連続で読みきりが掲載されていても、それは連載開始とはみなさない。 *** ただし『[[喰霊]]』は当初「短期集中連載」とされていたものがそのまま通常の連載となったため、「短期集中連載」が開始された号を連載開始とみなした。 <!-- ※※※更新の際の注意事項※※※ * ソートを正しく行なうため、<span style="display:none">を使用して非表示でソートキーを加えています。ソートを正しく行なうための物ですので、濁音・半濁音・促音・拗音をすべて清音にし平仮名で記述して下さい。長音は直前の母音に置き変えます。姓・名の間には「 」(スペース)を挿入。 ** 原作者など *** 「不明」の場合はソート順調整のために片仮名の「イ」をソートキーに振って下さい。 *** 空欄の場合はソート順調整のため「-」(←似た文字が色々あるのでコピペ推奨)を使って下さい。 ** 開始・終了 *** ソート順調製のため、1桁の月も0を付けて2桁で記述して下さい(2014年7月号→×2014.7、○2014.07)。 *** ソート順調製のため、「不明」の前には「5000.00」をソートキーに振って下さい。 *** ソート順調製のため、「連載中」の前には「7000.00」をソートキーに振って下さい。 番号は意図がわからなかった&通し番号をふるのはまたズレる可能性が高そうでメンテが大変そう ということでとりあえずコメントアウトしてます。 --> {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #fdd; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 連載中(2024年2月号(2023年12月25日現在)) | style="background-color: #aaa; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 見出し(非データ) |} <!-- ! 11--> {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" ! <!-- !! -->作品名 !! 作者(作画) !! 原作者など !! 開始 !! 終了 !! 注記 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1994年 ||<span style="display:none;">1994.00</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひいとえつくす</span>[[B'T X]]||<span style="display:none;">くるまた まさみ</span>[[車田正美]]|| - || 1994.12 || 2000.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">くるまんくん</span>[[グルマンくん]]||<span style="display:none;">ゆてたまこ</span>[[ゆでたまご]]|| - || 1994.12 || 1996.07 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">めさめよはにわせんせい</span>めざめよ!はにわ先生 ||<span style="display:none;">さとう よしひろ</span>佐藤よしひろ || - || 1994.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">さきんくおふふあいたす</span>[[ザ・キング・オブ・ファイターズ|ザ・キング・オブ・ファイターズ '94]]||<span style="display:none;">しんきようし たつや</span>[[真行寺たつや]]||<span style="display:none;">えすえぬけい</span>[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]](原作)<br />堀川裕之(ストーリー原案) || 1994.12 || 1996.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふりさあとゆき</span>[[ブリザードYuki]]||<span style="display:none;">あんさい まこと</span>安西真 ||<span style="display:none;">よしおか ひとし</span>[[吉岡平]](原案) || 1994.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きとうせんしくろすほおんかんたむ</span>[[機動戦士クロスボーン・ガンダム]]||<span style="display:none;">はせかわ ゆういち</span>[[長谷川裕一]]||<span style="display:none;">とみの よしゆき</span>[[富野由悠季]](原作) || 1994.12 || 1997.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まくろすせふんとらつしゆ</span>[[マクロス7 トラッシュ]]||<span style="display:none;">みきもと はるひこ</span>[[美樹本晴彦]]||<span style="display:none;">イ</span>不明 || 1994.12 || 2001.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">てんくうのえすかふろおね</span>[[天空のエスカフローネ]]||<span style="display:none;">かつ あき</span>[[克・亜樹]]||<span style="display:none;">イ</span>不明 || 1994.12 || 1998.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひんはついちはん</span>ビンパツ一番 ||<span style="display:none;">さとう けん</span>[[佐藤元|さとうげん]]|| - || 1994.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かるたいや</span>[[ガルダイヤ]]||<span style="display:none;">やまさき ひろし</span>[[山崎浩]]|| - || 1994.12 || 1996.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふりんせすえこおこお</span>ぷりんせす A GO! GO! ||<span style="display:none;">うちの ふんこ</span>内野文吾 || - || 1994.12 || 1997.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">いのちかけしようねんれつてん</span>イノチがけ少年列伝! ||<span style="display:none;">よしのおん</span>よしの〜ん || - || 1994.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かいていくんかん</span>[[海底軍艦]]||<span style="display:none;">みすた まり</span>水田麻里 || - || 1994.12 || 1995.02 || 連載中止 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あいとこんひにのかそく</span>愛とコンビニの家族 ||<span style="display:none;">いすみ はるき</span>[[泉晴紀]]|| - || 1994.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1995年 ||<span style="display:none;">1995.00</span>||<span style="display:none;">1995.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 1--> |<span style="display:none;">しんせいきえうあんけりおん</span>[[新世紀エヴァンゲリオン (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン]]||<span style="display:none;">さたもと よしゆき</span>[[貞本義行]]||<span style="display:none;">からあ</span>[[カラー (映像制作会社)|カラー]]・[[ガイナックス|GAINAX]](原作) || 1995.02 || 2007.12<!--最後に掲載された号--> || →『[[ヤングエース]]』へ移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まりんからあ</span>マリンカラー ||<span style="display:none;">すえせん</span>[[SUEZEN]]|| - || 1995.02 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">おんせんまん</span>オンセンマン ||<span style="display:none;">しまもと かすひこ</span>[[島本和彦]]|| - || 1995.04 || 1997.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しんかいていくんかん</span>[[新海底軍艦]]||<span style="display:none;">いいしま ゆうすけ</span>[[飯島祐輔|飯島ゆうすけ]]|| - || 1995.11 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ようこそろおとすとうへ</span>[[ロードス島戦記|ようこそロードス島へ!]]||<span style="display:none;">ひやくやしき れい</span>百やしきれい || - ||<span style="display:none;">5000.00</span>1995.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>1999.5 ||「[[ロードス島戦記]]」のパロディ |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1996年 ||<span style="display:none;">1996.00</span>||<span style="display:none;">1996.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 5--> |<span style="display:none;">えてんすほうい</span>[[ヱデンズボゥイ]]||<span style="display:none;">てんのうし きつね</span>[[天王寺きつね]]|| - || 1996.04 || 2009.11 || ←『[[コンプティーク]]』より移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はあさすないとらむねあんどふおおていいふあいあ</span>[[VS騎士ラムネ&40炎]]||<span style="display:none;">よしさき みね</span>[[吉崎観音]]||<span style="display:none;">あかほり さとる</span>[[あかほりさとる]](原案・構成)<br />[[葦プロダクション|葦プロ企画室]](原作) || 1996.04 || 1998.06 || |- |<span style="display:none;">はりほ</span>バリボ ||<span style="display:none;">はやしさき ふみひろ</span>[[林崎文博]]|| - ||<span style="display:none;">5000.00</span>1996.05 ||<span style="display:none;">5000.00</span>1997.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ゆうけきうちゆうせんかんなてしこ</span>[[遊撃宇宙戦艦ナデシコ]]||<span style="display:none;">あさみや きあ</span>[[麻宮騎亜]]|| - || 1996.09 || 1999.02 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1997年 ||<span style="display:none;">1997.00</span>||<span style="display:none;">1997.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 10--> |<span style="display:none;">たしゆしんかくたんていさいこ</span>[[多重人格探偵サイコ]]||<span style="display:none;">たしま しようう</span>[[田島昭宇]]||<span style="display:none;">おおつか えいし</span>[[大塚英志]](原作) || 1997.02 || 2005.01<!--最後に掲載された号--> || →『[[コミックチャージ]]』へ移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ろおとすとうせんきえいゆうきしてん</span>[[ロードス島戦記-英雄騎士伝-]]||<span style="display:none;">なつもと まさと</span>[[夏元雅人]]||<span style="display:none;">みすの りょう</span>[[水野良]](原作) || 1997.06 || 2000.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">おとこのいちまいれつとかあと</span>[[男の一枚 レッド・カード]]||<span style="display:none;">しまもと かすひこ</span>[[島本和彦]]|| - || 1997.07 || 1999.05 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1998年 ||<span style="display:none;">1998.00</span>||<span style="display:none;">1998.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふれんはわあと</span>[[ブレンパワード]]||<span style="display:none;">さきさき ゆきる</span>[[杉崎ゆきる]]||<span style="display:none;">とみの よしゆき</span>[[富野由悠季]](原作) || 1998.01 || 2000.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ほうかこあとへんちやあうありあんと</span>放課後アドベンチャー ヴァリアント ||<span style="display:none;">たけはやし たけし</span>[[武林武士]]|| - || 1998.05 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たのしいこうしえん</span>[[たのしい甲子園]]||<span style="display:none;">おおわた ひてき</span>[[大和田秀樹]]|| - || 1998.07 || 2000.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">よのなはすしお</span>[[余の名はズシオ]]||<span style="display:none;">きむら たひこ</span>[[木村太彦]]|| - || 1998.08 || 2001.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">てんねんのうしゆくおれんしせんき</span>[[天然濃縮!!オレンジ戦機]]||<span style="display:none;">たかた しんいちろう</span>[[高田慎一郎]]|| - || 1998.10 || 1998.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">けんへいてんねお</span>[[源平伝NEO]]||<span style="display:none;">へつてん こうと</span>[[別天荒人]]||<span style="display:none;">あかほり さとる</span>[[あかほりさとる]](原作) || 1998.11 || 2001.05 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>1999年 ||<span style="display:none;">1999.00</span>||<span style="display:none;">1999.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">えんしえりつくれいやあ</span>[[ANGELIC LAYER]]||<span style="display:none;">くらんふ</span>[[CLAMP]]|| - || 1999.02 || 2001.11 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 2--> |<span style="display:none;">けろろくんそう</span>'''[[ケロロ軍曹]]'''||<span style="display:none;">よしさき みね</span>[[吉崎観音]]|| - || 1999.04 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || 『[[ケロケロエース]]』と平行連載(2010.06-2013.09) |- <!-- ! 3--> |<span style="display:none;">なるえのせかい</span>[[成恵の世界]]||<span style="display:none;">まるかわ ともひろ</span>[[丸川トモヒロ]]|| - || 1999.06 || 2013.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しりうすのきすあと</span>[[シリウスの痕]]||<span style="display:none;">たかた しんいちろう</span>[[高田慎一郎]]|| - || 1999.07 || 2001.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ありす</span>[[A・LI・CE]]||<span style="display:none;">きさき ひろすけ</span>[[木崎ひろすけ]]||<span style="display:none;">よしもと まさひろ</span>[[吉本昌弘]](原作) || 1999.12 || 2001.05 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2000年 ||<span style="display:none;">2000.00</span>||<span style="display:none;">2000.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しようくんこつふ</span>SHOGUN COP ||<span style="display:none;">かんさき まさおみ</span>[[神崎将臣]]|| - || 2000.07 || 2001.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ていれいそくていとりむ</span>[[低俗霊DAYDREAM]]||<span style="display:none;">めくろ さんきち</span>[[目黒三吉]]||<span style="display:none;">おくせ さき</span>[[奥瀬サキ]](原作) || 2000.08 || 2007.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あんねふりいくす</span>[[Anne・Freaks]]||<span style="display:none;">こてかわ ゆあ</span>[[小手川ゆあ]]|| - || 2000.09 || 2002.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しりつひわたりこうこうこみつくす</span>私立樋渡高校COMICS ||<span style="display:none;">ひろせ けいた</span>広瀬けいた || - || 2000.10 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かはめんつ</span>ガバメンツ ||<span style="display:none;">なつもと まさと</span>[[夏元雅人]]|| - || 2000.11 || 2002.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らくなろく</span>[[ラグナロク (小説)|ラグナロク]]||<span style="display:none;">ことふき つかさ</span>[[ことぶきつかさ]]||<span style="display:none;">やすい けんたろう たさ</span>[[安井健太郎]](原作)<br />TASA(デザイン協力) || 2000.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2001年 ||<span style="display:none;">2001.00</span>||<span style="display:none;">2001.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 16--> |<span style="display:none;">たしゆうしんかくたんていさいちよこ</span>[[多重人格探偵サイチョコ]]||<span style="display:none;">ひらりん</span>[[ひらりん]]||<span style="display:none;">おおつか えいし</span>[[大塚英志]](原作) || 2001.01 || 2010.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きふんはもうせんそうつう</span>[[気分はもう戦争|気分はもう戦争2]]||<span style="display:none;">ふしわら かむい</span>[[藤原カムイ]]||<span style="display:none;">やはき としひこ</span>[[矢作俊彦]](原作) || 2001.02 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || 2002.01より「気分はもう戦争2.1」に改題 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しい てすていねふおふあいあ</span>G 〜Destine For Fire〜 ||<span style="display:none;">つつき まさき</span>[[都築真紀]]|| - || 2001.03 || 2001.11<!--11にて連載の終了が発表された。11には最終話、掲載なし。--> || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">けいしちようにしゆうよし</span>[[警死庁24時]]||<span style="display:none;">おおわた ひてき</span>[[大和田秀樹]]|| - || 2001.05 || 2004.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かあるすふらほお</span>[[GIRLSブラボー]]||<span style="display:none;">まりお かねた</span>[[まりお金田]]|| - || 2001.05<!--2001.01から読みきり3号連続掲載。--> || 2005.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かあていあんはあつ</span>[[がぁーでぃあんHearts]]||<span style="display:none;">あまつ さえ</span>[[天津冴]]|| - || 2001.06<!--今号より連載化。--> || 2005.07 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まるみえぴゆあはあと</span>まるみえ!PureHeart ||<span style="display:none;">かわした かんし</span>[[川下寛次]]||<span style="display:none;">かわせ ゆか</span>かわせゆか(原作)<br />浅葉りな(原案協力) || 2001.07 || 2001.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とくたりあんかみてあける</span>[[Dr.リアンが診てあげる]]||<span style="display:none;">たけうち もとき</span>[[竹内元紀]]|| - || 2001.09<!--今号より連載化。2001.03より読みきりで実質連載。--> ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">にるちやな</span>にるちゃな! ||<span style="display:none;">しいな とん</span>椎名丼 || - || 2001.09 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あめのおとかきこえる</span>雨の音が聞こえる ||<span style="display:none;">やまさき もへし</span>[[やまさきもへじ]]||<span style="display:none;">おおつか まいこ</span>[[白倉由美|大塚麻巳子]](原作) || 2001.10<!--2002.2かも?--> || 2002.04 || |- <!-- ! 11--> |あたためますか||<span style="display:none;">ひやくやしき れい</span>百やしきれい|| - || 2001.11<!--今号より連載化。--> ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">こうてつのしようしよたち</span>[[鋼鉄の少女たち]]||<span style="display:none;">しけた みかの</span>[[野上武志|しけたみがの]]||<span style="display:none;">てつか かすよし</span>手塚一佳(原作) || 2001.12 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2002年 ||<span style="display:none;">2002.00</span>||<span style="display:none;">2002.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ささめけ</span>[[ササメケ]]||<span style="display:none;">こつほ りゆうし</span>[[ゴツボ×リュウジ]]|| - || 2002.01<!--当初は短期集中連載だったが、そのまま正式連載化--> || 2004.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らんふるふいつしゆ</span>[[ランブルフィッシュ (小説)|ランブルフィッシュ]]||<span style="display:none;">かわした かんし</span>[[川下寛次]]||<span style="display:none;">みくも かくと</span>[[三雲岳斗]](原作)<br />[[久織ちまき]]&[[山根公利]](デザイン協力) || 2002.03 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">なつめうるたらあく</span>なつめヴルダラーク! ||<span style="display:none;">にしかわ ろすけ</span>[[西川魯介]]|| - || 2002.03 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || <!--隔月連載--> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ちまちまはへつと</span>ちまちまぱぺっと ||<span style="display:none;">ひな</span>[[紺野比奈子|ひな。]]|| - || 2002.04 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ほうきやくのせんりつ</span>[[忘却の旋律]]||<span style="display:none;">かたくら しんし</span>[[片倉真二]]||<span style="display:none;">しみす えいいち</span>GJK(原作)<br />[[清水栄一]](脚本・設定協力) || 2002.05 || 2005.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">くれねえたあ</span>[[グレネーダー]]||<span style="display:none;">かいせ そうすけ</span>[[海瀬壮祐]]|| - || 2002.06 || 2005.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">こうてつせんしくるみ</span>[[鋼鉄天使くるみ]]||<span style="display:none;">かいしやく</span>[[介錯 (漫画家)|介錯]]|| - || 2002.07 || 2004.02 || ←『[[月刊エースネクスト]]』より移籍 |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 10--> |<span style="display:none;">きようしよくそうこうかいはあ</span>'''[[強殖装甲ガイバー]]'''||<span style="display:none;">やたかや よしき</span>[[高屋良樹]]|| - || 2002.09 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || ←『[[月刊エースネクスト]]』より移籍<br />休載中 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きていくれいとりはあす</span>[[キディ・グレイド|キディ・グレイド -リバース-]]||<span style="display:none;">ひよひよ</span>[[ひよひよ]]||<span style="display:none;">きみつく こんそ</span>[[gimik]]・[[ゴンゾ|GONZO]](原作) || 2002.10 || 2003.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きとうせんしかんたむしいとあすとれいあある</span>[[機動戦士ガンダムSEED ASTRAYシリーズ|機動戦士ガンダムSEED ASTRAY R]]||<span style="display:none;">とた やすなり</span>[[戸田泰成]]||<span style="display:none;">ちは ともひろ</span>[[千葉智宏]](脚本) || 2002.12<!--11に「予告版」掲載あり--> || 2004.07 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2003年 ||<span style="display:none;">2003.00</span>||<span style="display:none;">2003.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">こす</span>[[GOTH リストカット事件|GOTH]]||<span style="display:none;">おおいわ けんち</span>[[大岩ケンヂ]]||<span style="display:none;">おついち</span>[[乙一]](原作) || 2003.02 || 2003.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">つくもはつひいそうる</span>99ハッピーソウル ||<span style="display:none;">おおいわ けんち</span>[[大岩ケンヂ]]|| - || 2003.07 || 2003.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らいん</span>[[ライン (漫画)|ライン]]||<span style="display:none;">こてかわ ゆあ</span>[[小手川ゆあ]]|| - || 2003.08 || 2003.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かみやとり</span>[[カミヤドリ]]||<span style="display:none;">さんへ けい</span>[[三部敬]]|| - || 2003.09 || 2006.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とりくらむえいと</span>TRIGRAM8||<span style="display:none;">ひよひよ</span>[[ひよひよ]]|| - || 2003.11 || 2005.10 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2004年 ||<span style="display:none;">2004.00</span>||<span style="display:none;">2004.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">えぬえいちけいにようこそ</span>[[NHKにようこそ!]]||<span style="display:none;">おおいわ けんち</span>[[大岩ケンヂ]]||<span style="display:none;">たきもと たつひこ</span>[[滝本竜彦]](原作) || 2004.02 || 2007.06<!--07かも?--> || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">さむらいちやんふるう</span>[[サムライチャンプルー]]||<span style="display:none;">こつほ まさる</span>[[ゴツボ☆マサル]]||<span style="display:none;">まんくろおふ</span>[[マングローブ (アニメ制作会社)|manglobe]](原作) || 2004.03 || 2004.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ささなき</span>[[ササナキ]]||<span style="display:none;">こつほ りゆうし</span>[[ゴツボ×リュウジ]]|| - || 2004.04 || 2006.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ありさのししよう</span>[[ありさ2|ありさ<sup>2</sup>]]||<span style="display:none;">やかみ けん</span>[[八神健]]||<span style="display:none;">みつくすういるそふと</span>mixwill soft(原作) || 2004.04 || 2004.09 || |- <!-- ! 14--> |<span style="display:none;">すすみやはるひのゆううつ</span>[[涼宮ハルヒシリーズ|涼宮ハルヒの憂鬱]]||<span style="display:none;">みすの まこと</span>[[みずのまこと]]||<span style="display:none;">たにかわ なかる</span>[[谷川流]](原作)<br />[[いとうのいぢ]](キャラクター原案) || 2004.05 || 2004.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かんなつきのみこ</span>[[神無月の巫女]]||<span style="display:none;">かいしやく</span>[[介錯 (漫画家)|介錯]]|| - || 2004.05 || 2005.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はなことくうわのてらあ</span>[[花子と寓話のテラー]]||<span style="display:none;">えすの さかえ</span>[[えすのサカエ]]|| - || 2004.06 || 2005.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しゆうたす</span>[[JUDAS]]||<span style="display:none;">みなつき すう</span>[[水無月すう]]|| - || 2004.07 || 2006.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひひきのまほう</span>[[ヒビキのマホウ]]||<span style="display:none;">いつみ れい</span>[[依澄れい]]||<span style="display:none;">まえた しゆん</span>[[麻枝准]](原作) || 2004.08 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || →『[[月刊コンプエース]]』へ移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らきすた</span>[[らき☆すた]]||<span style="display:none;">よしみす かかみ</span>[[美水かがみ]]|| - || 2004.08 || 2006.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しきるのかすかへさん</span>[[仕切るの?春日部さん]]||<span style="display:none;">たけうち もとき</span>[[竹内元紀]]|| - || 2004.09 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たんていきしき</span>[[探偵儀式]]||<span style="display:none;">はしい ちす</span>[[箸井地図]]||<span style="display:none;">せいりよういん りゆうすい</span>[[清涼院流水]](原作)<br />[[大塚英志]](原案・脚本) || 2004.10 || 2009.06 || ←『[[エース特濃]]』より移籍 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2005年 ||<span style="display:none;">2005.00</span>||<span style="display:none;">2005.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まかいとお</span>マカイど〜 ||<span style="display:none;">おおわた ひてき</span>[[大和田秀樹]]|| - || 2005.02 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || 連載中断 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">せんこくしえいたいいちこうよんきゆう</span>[[戦国自衛隊1549]]||<span style="display:none;">あくはふおまんす</span>[[Ark Performance]]||<span style="display:none;">はんむら りよう</span>[[半村良]](原案)<br />[[福井晴敏]](原作) || 2005.03 || 2005.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">こうきようしへんえうれかせふん</span>[[交響詩篇エウレカセブン]]||<span style="display:none;">かたおか しんせい</span>[[片岡人生]]<br />[[近藤一馬]]||<span style="display:none;">ほんす</span>[[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]]|| 2005.03 || 2007.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きやんはす2 にしいろのすけつち</span>[[Canvas2|Canvas2 〜虹色のスケッチ〜]]||<span style="display:none;">こたま みき</span>[[児玉樹 (漫画家)|児玉樹]]||<span style="display:none;">えふあんとしい</span>[[F&C|F&C 001]](原作) || 2005.04 || 2006.05 || ←『[[エース桃組]]』より改題して移籍 |- <!-- ! 13--> |<span style="display:none;">しんせいきえうあんけりおん いかりしんしいくせいけいかく</span>[[新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画 (漫画)|新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画]]||<span style="display:none;">たかはし おさむ</span>[[高橋脩]]||<span style="display:none;">からあ</span>[[カラー (映像制作会社)|カラー]]・[[ガイナックス|GAINAX]](原作) || 2005.06 || 2016.04 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">せいひんくらいふ</span>セイビング・ライフ ||<span style="display:none;">まりお かねた</span>[[まりお金田]]|| - || 2005.08 || 2007.04 || |- <!-- ! 11--> |[[くもはち]]||<span style="display:none;">やまさき ほうすい</span>[[山崎峰水]]||<span style="display:none;">おおつか えいし</span>[[大塚英志]](原作) || 2005.08 || 2005.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふらつとふらす</span>[[BLOOD+]]||<span style="display:none;">かつら あすか</span>[[桂明日香]]||<span style="display:none;">ふろたくしよんあいしい</span>[[プロダクション・アイジー|Production I.G]]/<br />[[アニプレックス]](原作) || 2005.09 || 2007.04 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まることあんしゆかくえん</span>[[まるごと・杏樹学園|まるごと♥杏樹学園]]||<span style="display:none;">あまつ さえ</span>[[天津冴]]|| - || 2005.10 || 2007.05 || |- <!-- ! 14--> |<span style="display:none;">すすみやはるひのゆううつ</span>[[涼宮ハルヒシリーズ|涼宮ハルヒの憂鬱]]||<span style="display:none;">つかの かく</span>[[ツガノガク]]||<span style="display:none;">たにかわ なかる</span>[[谷川流]](原作)<br />[[いとうのいぢ]](キャラクター原案) || 2005.11 || 2013.11 || 第一部完 |- <!-- ! 8--> |<span style="display:none;">かれい</span>[[喰霊]]||<span style="display:none;">せかわ はしめ</span>[[瀬川はじめ]]|| - || 2005.12 || 2010.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ちようちようたいまほうとうけ</span>[[大魔法峠|超・超・大魔法峠]]||<span style="display:none;">おおわた ひてき</span>[[大和田秀樹]]|| - || 2005.12<!--2006.02からかも?--> || 2006.06 || 「[[大魔法峠|超・大魔法峠]]」の続編 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2006年 ||<span style="display:none;">2006.00</span>||<span style="display:none;">2006.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふえいとすていないと</span>[[Fate/stay night]]||<span style="display:none;">にしわき たつと</span>西脇だっと ||<span style="display:none;">たいふむうん</span>[[TYPE-MOON]](原作) || 2006.02 || 2012.12 || |- <!-- ! 15--> |<span style="display:none;">みらいにつき</span>[[未来日記 (漫画)|未来日記]]||<span style="display:none;">えすの さかえ</span>[[えすのサカエ]]|| - || 2006.03 || 2011.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ときをかけるしようしよときかけ</span>[[時をかける少女|時をかける少女 -TOKIKAKE-]]||<span style="display:none;">ことね らんまる</span>[[琴音らんまる]]||<span style="display:none;">つつい やすたか</span>[[筒井康隆]](原作) || 2006.06 || 2006.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ちようちようちようたいまほうとうけ</span>[[大魔法峠|超・超・超・大魔法峠]]||<span style="display:none;">おおわた ひてき</span>[[大和田秀樹]]|| - || 2006.07 || 2007.01 || 「[[大魔法峠|超・超・大魔法峠]]」の続編 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">くろさきしたいたくはいひん</span>[[黒鷺死体宅配便]]||<span style="display:none;">やまさき ほうすい</span>[[山崎峰水]]||<span style="display:none;">おおつか えいし</span>[[大塚英志]](原作) || 2006.07 || 2007.04 || ←『[[Comic 新現実]]』より移籍<br />→『[[コミックチャージ]]』へ移籍 |- <!-- ! 11--> |[[もののけもの]]||<span style="display:none;">こつほ りゆうし</span>[[ゴツボ×リュウジ]]|| - || 2006.09 || 2008.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">えてん</span>EDEN ||<span style="display:none;">すきさき ゆきる</span>[[杉崎ゆきる]]||<span style="display:none;">おかた しゆんへい</span>岡田俊平、<br />廣瀬雄(原作) || 2006.10 || 2007.02 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 20--> |rowspan="2"|<span style="display:none;">にちしよう</span>'''[[日常 (漫画)|日常]]'''||rowspan="2"|<span style="display:none;">あらい けいいち</span>[[あらゐけいいち]]||rowspan="2"| - || 2006.12 || 2015.12 ||rowspan="2"| |- style="background-color:#fdd;" | 2021.12 || <span style="display:none;">7000.00</span>連載中 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2007年 ||<span style="display:none;">2007.00</span>||<span style="display:none;">2007.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らいていん</span>[[REIDEEN]]||<span style="display:none;">からすま たすく</span>[[烏丸匡]]||<span style="display:none;">とうほくしんしや</span>[[東北新社]](原作)<br />[[プロダクション・アイジー|Production I.G]](協力) || 2007.01 || 2007.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はする</span>[[パズル (小説)|パズル]]||<span style="display:none;">さんへ けい</span>[[三部敬|三部けい]]||<span style="display:none;">やまた ゆうすけ</span>[[山田悠介]](原作) || 2007.03 || 2007.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しすたるかはいのらないて</span>[[シスター・ルカは祈らないで!!]]||<span style="display:none;">たけうち もとき</span>[[竹内元紀]]|| - || 2007.04 || 2008.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きみにしかきこえない</span>[[きみにしか聞こえない]]||<span style="display:none;">きよはら ひろ</span>[[清原紘]]||<span style="display:none;">おついち</span>[[乙一]](原作) || 2007.04 || 2007.07 || |- <!-- ! 15--> |[[そらのおとしもの]]||<span style="display:none;">みなつき すう</span>[[水無月すう]]|| - || 2007.05 || 2014.03 || 4・5月号に番外編掲載あり |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">むしうた</span>[[ムシウタ]]||<span style="display:none;">みす せいしゆうろう</span>[[水清十朗]]||<span style="display:none;">いわい きようへい</span>[[岩井恭平]](原作) || 2007.05 || 2007.12 || |- <!-- ! 17--> |<span style="display:none;">てつとまんわんたらんと</span>[[デッドマン・ワンダーランド]]||<span style="display:none;">かたおか しんせい</span>[[片岡人生]]<br />[[近藤一馬]]|| - || 2007.06 || 2013.09 || |- <!-- ! 18--> |<span style="display:none;">てるてるてんしんとおり</span>[[てるてる天神通り]]||<span style="display:none;">こたま みき</span>[[児玉樹 (漫画家)|児玉樹]]|| - || 2007.06 || 2010.08 || |- <!-- ! 13--> |<span style="display:none;">ふちえうあ</span>[[ぷちえゔぁ]]||<span style="display:none;">はまもと りゆうすけ</span>[[濱元隆輔]]||<span style="display:none;">からあ かいなつくす</span>[[カラー (映像制作会社)|カラー]]・[[ガイナックス|GAINAX]](原作) || 2007.07 || 2009.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">くらくらくう</span>[[くらくらくー]]||<span style="display:none;">あまつ さえ</span>[[天津冴]]|| - || 2007.07 || 2009.01 || |- <!-- ! 17--> |<span style="display:none;">らつとまん</span>[[RATMAN]]||<span style="display:none;">いぬい せきひこ</span>[[犬威赤彦]]|| - || 2007.08 || 2013.07 || 2013年8月号にエピローグを掲載 |- <!-- ! 12--> |<span style="display:none;">すすみやはるひちやんのゆううつ</span>[[涼宮ハルヒちゃんの憂鬱]]||<span style="display:none;">ふよ</span>[[ぷよ (漫画家)|ぷよ]]||<span style="display:none;">たにかわ なかる</span>[[谷川流]](原作)<br />[[いとうのいぢ]](キャラクター原案) || 2007.09 || 2019.02 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 19--> |<span style="display:none;">とうきようけす</span>'''[[東京事件]]'''||<span style="display:none;">かんの ひろし</span>[[菅野博之]]||<span style="display:none;">おおつか えいし</span>[[大塚英志]](原作) || 2007.09 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || ←『[[特撮エース]]』より移籍<br />休載中 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はなやしきのしゆうにんたち</span>花やしきの住人たち ||<span style="display:none;">かつら あすか</span>[[桂明日香]]|| - || 2007.10 || 2009.01 || |- <!-- ! 6--> |<span style="display:none;">あきはろまんす</span>[[あきば浪漫ス!]]||<span style="display:none;">きしま れんか</span>[[貴島煉瓦]]|| - || 2007.11 || 2009.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ねかていふはつひいちええんそおえつち</span>[[ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ]]||<span style="display:none;">さいき しゆんいち</span>[[佐伯淳一]]||<span style="display:none;">たきもと たつひこ</span>[[滝本竜彦]](原作) || 2007.12 || 2008.07 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しきそうちやちやちや</span>四季荘ちゃちゃちゃ! ||<span style="display:none;">かなりあ ゆか</span>かなりあ由歌 || - || 2007.12 || 2008.03 || →『[[エースアサルト]]』へ移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かえるおとこまつりたせ</span>[[蛙男祭りだぜ!]]||<span style="display:none;">ふろつくまん</span>[[FROGMAN]]|| - || 2007.12 || 2009.08 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2008年 ||<span style="display:none;">2008.00</span>||<span style="display:none;">2008.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">よるはみしかしあるけよおとめ</span>[[夜は短し歩けよ乙女]]||<span style="display:none;">ことね らんまる</span>[[琴音らんまる]]||<span style="display:none;">もりみ とみひこ</span>[[森見登美彦]](原作) || 2008.01 || 2009.03 || |- <!-- ! 14--> |<span style="display:none;">まくろすふろんていあ</span>[[マクロスF]]||<span style="display:none;">あおき はやと</span>[[青木ハヤト]]|| - || 2008.02 || 2010.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ゆめわたりふるちねつら</span>夢渡りプルチネッラ ||<span style="display:none;">おおいわ けんし</span>[[大岩ケンヂ|大岩ケンジ]]|| - || 2008.03 || 2008.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かもかわほるもお</span>[[鴨川ホルモー]]||<span style="display:none;">わたらい けいし</span>[[渡会けいじ]]||<span style="display:none;">まきめ まなふ</span>[[万城目学]](原作) || 2008.04 || 2009.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まほうつかいにたいせつなこと なつのそら</span>[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]||<span style="display:none;">よしつき くみち</span>[[よしづきくみち]]||<span style="display:none;">やまた のりえ</span>[[山田典枝]](原作) || 2008.04 || 2009.01 || |- <!-- ! 19--> |<span style="display:none;">てすこみゆにけえしよん</span>Death/こみゅにけーしょん ||<span style="display:none;">まりお かねた</span>[[まりお金田]]|| - || 2008.05 || 2009.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">らいふこんはあと</span>ライフコンバート ||<span style="display:none;">きりしま よう</span>桐島ヨウ || - || 2008.08 || 2008.11 || |- <!-- ! 9--> |<span style="display:none;">くろきつはさのかとるうえいん</span>[[黒き翼のカドルヴェイン]]||<span style="display:none;">そかへ しゆうし</span>[[曽我部修司]]|| - || 2008.12 || 2009.12 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2009年 ||<span style="display:none;">2009.00</span>||<span style="display:none;">2009.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しやんくりら</span>[[シャングリ・ラ (池上永一の小説)|シャングリ・ラ]]||<span style="display:none;">からすま たすく</span>[[烏丸匡]]||<span style="display:none;">いけかみ えいいち</span>[[池上永一]](原作) || 2009.01 || 2010.02 || ←『[[エースアサルト]]』より移籍 |- <!-- ! 4--> |<span style="display:none;">あにこい</span>[[アニコイ]]||<span style="display:none;">こつほ りゆうし</span>[[ゴツボ×リュウジ]]|| - || 2009.02 || 2012.05 || |- <!-- ! 10--> |<span style="display:none;">はすかつしゆ</span>[[バスカッシュ!]]||<span style="display:none;">はやし てつや</span>林哲也 ||<span style="display:none;">かわもり しようし</span>[[河森正治]]、<br />[[ロマン・トマ]]/[[サテライト (アニメ制作会社)|サテライト]](原作) || 2009.03 || 2009.11 || |- <!-- ! 12--> |<span style="display:none;">ほくかの</span>[[ボク×カノ]]||<span style="display:none;">しまた</span>しまだ || - || 2009.04 || 2009.10 || |- <!-- ! 7--> |<span style="display:none;">かみはさいころをふらない</span>[[神はサイコロを振らない (漫画)|神はサイコロを振らない]]||<span style="display:none;">たけうち もとき</span>[[竹内元紀]]|| - || 2009.05 || 2010.05 || |- <!-- ! 21--> |<span style="display:none;">はかとてすととしようかんしゆう</span>[[バカとテストと召喚獣]]||<span style="display:none;">まつたくもおすけ ゆめうた</span>[[まったくモー助]]<br />[[夢唄 (漫画家)|夢唄]]||<span style="display:none;">いのうえ けんし</span>[[井上堅二]](原作)<br />[[葉賀ユイ]](キャラクター原案) || 2009.06 || 2016.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ほうねんのさむと</span>[[忘念のザムド]]||<span style="display:none;">かわなへ まさひろ</span>川那辺雅弘 ||<span style="display:none;">ほんす</span>[[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]](原作) || 2009.06 || 2009.08 || ←『[[エースアサルト]]』より移籍 |- <!-- ! 16--> |<span style="display:none;">みすまるかこうこくものかたり</span>[[ミスマルカ興国物語]]||<span style="display:none;">あさかわ けいし</span>浅川圭司 ||<span style="display:none;">はやし ともあき</span>[[林トモアキ]](原作)<br />[[ともぞ]](キャラクター原案) || 2009.07 || 2011.05 || |- <!-- ! 14--> |<span style="display:none;">ほりいさんかとおる</span>[[ホリィさんが通る]]||<span style="display:none;">おおは かもん</span>大庭下門 ||<span style="display:none;">いわい きようへい</span>[[岩井恭平]](原作) || 2009.08 || 2010.06 || |- <!-- ! 18--> |<span style="display:none;">てんかふ</span>てんかぶ! ||<span style="display:none;">いとう りよう</span>井冬良 || - || 2009.09 || 2011.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かみやとりのなき</span>[[神宿りのナギ]]||<span style="display:none;">さんへ けい</span>[[三部敬|三部けい]]|| - || 2009.10 || 2010.11 || ←『[[エースアサルト]]』より移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひきよたん</span>[[ひきょたん!!]]||<span style="display:none;">くおん まこと</span>[[久遠まこと]]|| - || 2009.10 || 2011.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はとるすひりつつしようねんけきはたん</span>[[バトルスピリッツ 少年激覇ダン]]||<span style="display:none;">とかわ よしき</span>東川祥樹 ||<span style="display:none;">やたて はしめ</span>[[矢立肇]](原作) || 2009.11 || 2010.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しはらく</span>[[シバラク]]||<span style="display:none;">ふくた しんいち</span>[[福田晋一]]|| - || 2009.12 || 2011.04 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ゆうゆるしつこうふ</span>[[ゆーゆる執行部]]||<span style="display:none;">ほみ</span>[[bomi]]|| - || 2009.12 || 2012.08 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2010年 ||<span style="display:none;">2010.00</span>||<span style="display:none;">2010.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はつはな</span>ハツハナ ||<span style="display:none;">きりしま よう</span>桐島ヨウ || - || 2010.01 || 2010.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かたひらおへれつた</span>かたぴら♥おぺれった ||<span style="display:none;">やまた とうや</span>山田馬也 || - || 2010.01 || 2010.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふりんすふらいと</span>[[ぷりんすぶらいど]]||<span style="display:none;">はやし てつや</span>林哲也 || - || 2010.01 || 2010.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しいんす</span>[[GENEZ]]||<span style="display:none;">かすかい あきら</span>[[春日井明]]||<span style="display:none;">ふかみ まこと</span>[[深見真]](原作)<br />[[mebae]](キャラクター原案) || 2010.02 || 2011.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">はかとてすととしようかんしゆうちや</span>[[バカとテストと召喚獣|バカとテストと召喚獣ぢゃ]]||<span style="display:none;">こいすみ</span>KOIZUMI ||<span style="display:none;">いのうえ けんし</span>[[井上堅二]](原作)<br />[[葉賀ユイ]](キャラクター原案) || 2010.02 || 2014.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とうきよういいえすひい</span>[[東京ESP]]||<span style="display:none;">せかわ はしめ</span>[[瀬川はじめ]]|| - || 2010.04 || 2016.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たんたりあんのしよか</span>[[ダンタリアンの書架]]||<span style="display:none;">あへの ちやこ</span>[[阿倍野ちゃこ]]||<span style="display:none;">みくも かくと</span>[[三雲岳斗]](原作)<br />[[Gユウスケ]](キャラクター原案) || 2010.05 || 2012.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とうきようれいうんす</span>[[東京レイヴンズ]]||<span style="display:none;">すすみ あつし</span>[[鈴見敦]]||<span style="display:none;">あさの こうへい</span>[[あざの耕平]](原作)<br />[[すみ兵]](キャラクター原案) || 2010.06 || 2017.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ああるしゆうこ</span>[[R-15 (小説)|R-15]]||<span style="display:none;">おおはし はやと</span>大橋隼人 ||<span style="display:none;">ふしみ ひろゆき</span>[[伏見ひろゆき]](原作)<br />[[藤真拓哉]](キャラクター原案) || 2010.06 || 2012.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">こおときあす しつこくのれんやかり</span>[[コードギアス 漆黒の蓮夜]]||<span style="display:none;">たくま ともまさ</span>[[たくま朋正]]||<span style="display:none;">たにくち ころう</span>[[谷口悟朗]](原案・脚本) || 2010.07 || 2013.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とらうまくおんたむ</span>[[トラウマ量子結晶]]||<span style="display:none;">あおき はやと</span>[[青木ハヤト]]|| - || 2010.12 || 2013.11 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2011年 ||<span style="display:none;">2011.00</span>||<span style="display:none;">2011.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">きつねとあくまとくろいくりもあ</span>狐の悪魔と黒い魔導書 ||<span style="display:none;">たちばな ゆう</span>橘由宇 || - || 2011.01 || 2013.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">さくらたりせっと</span>[[サクラダリセット]]||<span style="display:none;">よしはら まさひこ</span>吉原雅彦 ||<span style="display:none;">こうの ゆたか</span>[[河野裕 (小説家)|河野裕]](原作)<br />[[椎名優]](キャラクター原案) || 2011.02 || 2011.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">さんねんはかせ</span>[[残念博士]]||<span style="display:none;">せの そると</span>[[瀬野反人]]|| - || 2011.03 || 2012.10 || 2010年9月号、2011年2月号に読切掲載<br />連載に際して改題 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">いつかてんまのくろうさきこうこうへん くれないけつこうのせいとかいしつ</span>[[いつか天魔の黒ウサギ|いつか天魔の黒ウサギ高校編 紅月光の生徒会室]]||<span style="display:none;">いまた ひてひと</span>今田秀士 ||<span style="display:none;">かかみ たかや</span> [[鏡貴也]](原作)<br />[[榎宮祐]](キャラクター原案) || 2011.04 || 2012.01 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">よんしゆつせんちのはつこい</span>40センチの初恋 ||<span style="display:none;">しまた</span>しまだ || - || 2011.05 || 2011.09 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">うほつて</span>'''[[うぽって!!]]'''||<span style="display:none;">てんのうし きつね</span>[[天王寺きつね|天王寺キツネ]]|| - || 2011.06 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || ←『[[ヤングエース]]』より移籍 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">てくのくらのいす</span>テクノクラノイズ ||<span style="display:none;">くう てんうん</span>クゥ・テンウン || - || 2011.06 || 2011.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふらつとしい</span>[[BLOOD-C]]||<span style="display:none;">ことね らんまる</span>[[琴音らんまる]]||<span style="display:none;">ふろたくしよんあいしい</span>[[プロダクション・アイジー|Production I.G]]・[[CLAMP]](原作) || 2011.07 || 2012.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しないみしかしこいせよおとめ</span>[[しなこいっ|竹刀短し恋せよ乙女]]||<span style="display:none;">かんさき かるな</span>神崎かるな ||<span style="display:none;">くろかみ ゆうや</span>黒神遊夜(原作) || 2011.08 || 2013.07 || ←『[[月刊コミックラッシュ]]』より移籍し改題 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たわあおふあいおん/</span>[[タワー オブ アイオン]]||<span style="display:none;">いとう たたまさ</span>伊藤忠征 <br />真辺広史 ||<span style="display:none;">えぬしいしやはん</span> [[エヌ・シー・ジャパン]](原案)<br />ハンサムX(冒険企画局)(ストーリー協力) || 2011.09 || 2012.03 || 急病により第3話より作画者変更 |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しゆたいんすけえと ししようさいきようのすらいとふいいはあ</span>'''[[STEINS;GATE|シュタインズ・ゲート 史上最強のスライトフィーバー]]'''||<span style="display:none;">もりた ゆすか</span>[[森田柚花]]||<span style="display:none;">ふあいふひいひい</span>[[5pb]]×[[ニトロプラス]](原作)<br />とねね(シナリオ) || 2011.10 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || ←『[[コンプティーク]]』より移籍<br />休載中 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひつくおおたあ</span>[[ビッグオーダー]]||<span style="display:none;">えすの さかえ</span>[[えすのサカエ]]|| - || 2011.11 || 2016.09 ||10月号にエピローグ掲載 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まほまほ</span>まほマほ ||<span style="display:none;">こたま みき</span>[[児玉樹 (漫画家)|児玉樹]]|| - || 2011.11 || 2013.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひつぎひめのちやいか</span>[[棺姫のチャイカ]]||<span style="display:none;">さかやま しんた</span>[[茶菓山しん太]]||<span style="display:none;">さかき いちろう</span> [[榊一郎]](原作)<br />[[なまにくATK]](キャラクター原案) || 2011.12 || 2015.02 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2012年 ||<span style="display:none;">2012.00</span>||<span style="display:none;">2012.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">のろかある</span>のろガール! ||<span style="display:none;">くおん まこと</span>[[久遠まこと]]|| - || 2012.02 || 2013.02 || 2012年1月号は読切扱い |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">なまちゆう</span>なまちゅー。 ||<span style="display:none;">いとう りよう</span>井冬良 || - || 2012.02 || 2013.03 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひようか</span>'''[[〈古典部〉シリーズ|氷菓]]'''||<span style="display:none;">たすくおおな</span>[[タスクオーナ]]||<span style="display:none;">よねさわ ほのふ</span>[[米澤穂信]](原作)<br />西屋太志(キャラクター原案) || 2012.03 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">えうれかせふんええおお</span>[[エウレカセブンAO]]||<span style="display:none;">かとう ゆういち</span>加藤雄一 ||<span style="display:none;">ほんす</span>[[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]](原作) || 2012.03 || 2013.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ひいとれす ていすとひあ</span>BEATLESS -dystopia- ||<span style="display:none;">うくいす かくら</span>鶯神楽 ||<span style="display:none;">はせ さとし</span>[[長谷敏司]](原作)<br />[[redjuice]](キャラクター原案) || 2012.04 || 2013.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たわあおふあいおんふらす</span>[[タワー オブ アイオン|タワー オブ アイオン+]]||<span style="display:none;">まなへ ひろし</span>真辺広史 ||<span style="display:none;">えぬしいしやはん</span>[[エヌ・シー・ジャパン]](原案) || 2012.04 || 2012.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">てえとあらいふ</span>[[デート・ア・ライブ]]||<span style="display:none;">りんこ</span>[[高梨りんご|ringo]]||<span style="display:none;">たちはな こうし</span>[[橘公司]](原作)<br />[[つなこ]](キャラクター原案) || 2012.06 || 2013.01 || 作画者の病気のため連載打ち切り(2013.04告知) |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">いぬとはさみはつかいよう</span>[[犬とハサミは使いよう]]||<span style="display:none;">おおは かもん</span>大庭下門 ||<span style="display:none;">さらい しゆんすけ</span>[[更伊俊介]](原作)<br />[[鍋島テツヒロ]](キャラクター原案) || 2012.07 || 2014.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ろほていくすのおつさいとしゆんなちいさななつのものかたり</span>[[ROBOTICS;NOTES|ROBOTICS;NOTES side Junna 小さな夏のものがたり]]||<span style="display:none;">えぬひい</span>NB ||<span style="display:none;">ふあいふひいひい</span>[[5pb.]](原作) || 2012.11 || 2013.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふたりはこすめす</span>ふたりは牛頭馬頭! ||<span style="display:none;">せの そると</span>[[瀬野反人]]|| - || 2012.11 || 2013.10 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ああるていしいれつとてえたかある</span>[[RDG レッドデータガール]]||<span style="display:none;">ことね らんまる</span>[[琴音らんまる]]||<span style="display:none;">おきわら のりこ</span>[[荻原規子]](原作)<br />[[岸田メル]](キャラクター原案) || 2012.12 || style="text-align:center;" | 2014.09 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2013年 ||<span style="display:none;">2013.00</span>||<span style="display:none;">2013.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> | しままん ||<span style="display:none;">ほみ</span>[[bomi]]||<span style="display:none;">きゆうりあん</span>木瓜庵(原作) || 2013.03 || 2014.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">けきしようはんしゆたいんすけえとふかりよういきのてしやふ</span>[[STEINS;GATE|劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ]]||<span style="display:none;">くかやま れき</span>九我山レキ ||<span style="display:none;">しくら ちよまる</span>[[志倉千代丸]]・[[MAGES.]]・<br />[[ニトロプラス]](原作) || 2013.05 || 2013.12 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">たんかんろんはきほうのかくえんとせつほうのこうこうせい</span>[[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生|ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 THE ANIMATION]]||<span style="display:none;">つきみ たかし</span>月見隆士 ||<span style="display:none;">すはいく</span>[[スパイク・チュンソフト]](原作) || 2013.05 || 2014.09 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あしかる</span>あしがる ||<span style="display:none;">こつほ りゆうし</span>[[ゴツボ×リュウジ]]|| - || 2013.06 || 2014.08 || |- style="background-color:#fdd;" <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふえいとほろうあとらくしあ</span>'''[[Fate/hollow ataraxia]]'''||<span style="display:none;">めとり</span>雌鳥 ||<span style="display:none;">たいふむうん</span>[[TYPE-MOON]](原作) || 2013.07 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 ||休載中 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しんまいまおうのてすためんと</span>[[新妹魔王の契約者]]||<span style="display:none;">みやこかしわ</span>[[みやこかしわ]] ||<span style="display:none;">うえす てつと</span>[[上栖綴人]](原作)<br />大熊猫介(キャラクター原案) || 2013.07 || 2017.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">かのしよたちのめしかますいひやくのりゆう</span>彼女たちのメシがマズい100の理由 ||<span style="display:none;">りん</span>[[Rin (漫画家)|rin]] ||<span style="display:none;">たかの ころく</span>[[高野小鹿]](原作)<br />たいしょう田中(キャラクター原案) || 2013.07 || 2014.05 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しおのみやあやねはまちがえない</span>汐ノ宮綾音は間違えない。 ||<span style="display:none;">なかむら ゆきとし</span>仲村ユキトシ ||<span style="display:none;">あさきり かふか</span>[[朝霧カフカ]](原作) || 2013.08 || 2015.01|| |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">すとらいくういつちいすたいこまるひととうこうせんとうこうくうたん</span>[[ストライクウィッチーズ|ストライクウィッチーズ第501統合戦闘航空団]]||<span style="display:none;">みすさき ひろあき</span>水崎弘明 ||<span style="display:none;">しまた ふみかね</span>[[島田フミカネ]]&Projekt Kagonish(原作) || 2013.12 || 2016.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とらいくういつちいすけきしようはんこまるひとふたいはつしんしますつ</span>[[ストライクウィッチーズ|ストライクウィッチーズ劇場版 501部隊発進しますっ!]]||<span style="display:none;">ふしはやし まこと</span>藤林真 ||<span style="display:none;">しまた ふみかね</span>[[島田フミカネ]]&Projekt Kagonish(原作) || 2013.12 || 2016.02|| ←『[[4コマnanoエース]]』より移籍 |- <!-- ! 11--> |[[あいうら]]||<span style="display:none;">ちやま</span>茶麻 || - || 2013.12 || 2014.06 || ←『[[4コマnanoエース]]』より移籍 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2014年 ||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">てえとあらいふ</span>[[デート・ア・ライブ]]||<span style="display:none;">いぬい せきひこ</span>[[犬威赤彦]]||<span style="display:none;">たちはな こうし</span>[[橘公司]](原作)<br />[[つなこ]](キャラクター原案) || 2014.01 || 2014.12 || 仕切り直しで原作1巻から開始 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あくまのかきとしようしよのれそんてえとる</span>悪魔の鍵と少女のレゾンデートル ||<span style="display:none;">うくいす かくら</span>鶯神楽 || - || 2014.01 || 2014.06 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ほつちまん</span>ぼっちマン ||<span style="display:none;">さかきはら そうそう</span>榊原早々 || - || 2014.02 ||2014.12||2014年8月号より『BOCCHIMAN』よりタイトル変更 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ふそうしようしよまきやへりすむ</span>[[武装少女マキャヴェリズム]]||<span style="display:none;">かんさき かるな</span>[[神崎かるな]] ||<span style="display:none;">くろかみ ゆうや</span>[[黒神遊夜]](原作) || 2014.03 || 2022.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ほむんのれんきんしゆつふ</span>ほむんの錬金術部 ||<span style="display:none;">はせがわ しんや</span>長谷川真也 || - || 2014.04 || style="text-align:center;" | 2015.02 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">くろいくんはらふこめかてきない</span>黒井クンは恋愛ができない。 ||<span style="display:none;">いとう りよう</span>井冬良 || - || 2014.05 || 2015.05 ||2014年10月号より2年G組千坂千陽彼氏募集中からタイトル変更 |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">まんかや</span>[[マンガヤ]]||<span style="display:none;">つかの かく</span>[[ツガノガク]]|| - || 2014.06 || 2015.03 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">おうこくちようそらそれ</span>逢刻町そらそれ||<span style="display:none;">とつとりさきゆう</span>鳥取砂丘 || - || 2014.06 || 2015.01 || <!-- ! 11--> |- |<span style="display:none;">まよいしんしやにおたすねもうす</span>迷い神社にお尋ね申す!||<span style="display:none;">みすさわ なかる</span>水沢ながる || - || 2014.10 || 2015.03 || <!-- ! 11--> |- |<span style="display:none;">あおおにけんしへん</span>[[青鬼 (ゲーム)|青鬼 元始編]]||<span style="display:none;">すすらき かりん</span>[[鈴羅木かりん]]||noprops(原作)<br />[[黒田研二]](構成) || 2014.12 || 2016.12 || <!-- ! 11--> |- |<span style="display:none;">こうきとうむしよくにいてんへるく</span>[[高機動無職ニーテンベルグ]]||<span style="display:none;">あおき はやと</span>[[青木ハヤト]]|| - || 2014.12 || 2017.05 || <!-- ! 11--> |- |<span style="display:none;">ふしよしのしあわせ</span>腐女子の幸せ ||<span style="display:none;">あかまる</span>[[あかまる]]|| - || 2014.12 || 2015.09 || <!-- ! 11--> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2015年 ||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- |<span style="display:none;">わんたりんくわんたあわあると</span>[[ワンダリングワンダーワールド]]||<span style="display:none;">ひいちひつと</span>[[PEACH-PIT]]|| - || 2015.01 || 2017.03 || |- |<span style="display:none;">ふらんたら</span>[[プランダラ]]||<span style="display:none;">みなつき すう</span>[[水無月すう]]|| - || 2015.02 || 2022.06 || |- |<span style="display:none;">はらほろきいはあす</span>はらほろキーパーズ! ||<span style="display:none;">こたま みき</span>[[児玉樹 (漫画家)|児玉樹]]|| - || 2015.02 || 2016.03 ||2016年3月号より長期休載<br />2017年9月号で連載終了が告知された。 |- |<span style="display:none;">さくらいろふれんす</span>桜色フレンズ||<span style="display:none;">さくらしき</span>佐倉色|| - || 2015.04 || 2016.07 || |- |<span style="display:none;">ろくてなしましゆつこうしとあかしつくれこおと</span>[[ロクでなし魔術講師と禁忌教典]]||<span style="display:none;">つねみ あおさ</span>常深アオサ||[[羊太郎]](原作)<br />三嶋くろね(キャラクター原案) || 2015.05 || 2021.08 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">とつこうめいとあかねちやん</span>'''特攻メイド茜音ちゃん'''||<span style="display:none;">かまた いつせい</span>鎌田一世|| - || 2015.05 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 ||休載中 |- |<span style="display:none;">はけもののこ</span>[[バケモノの子]]||<span style="display:none;">あさい れんし</span>浅井蓮次||[[細田守]](原作) || 2015.06 || 2017.01 || |- |<span style="display:none;">きようかいのないせかい</span>[[境界のないセカイ]]||<span style="display:none;">いくやたいこくとう</span>[[幾夜大黒堂]]|| - || 2015.06 || 2016.04 ||←[[マンガボックス]]より移籍 |- |<span style="display:none;">けものふれんすようこそしやはりああくへ</span>[[けものフレンズ -ようこそジャパリパークへ!-]]||<span style="display:none;">ふらい</span>[[フライ (イラストレーター)|フライ]]|| けものフレンズプロジェクト(企画・原案) || 2015.07 || 2017.03 || |- |<span style="display:none;">すまいる</span>スマイル||<span style="display:none;">かすかい あきら</span>[[春日井明]]|| - || 2015.09 || 2016.08 || |- |<span style="display:none;">すもうきんくはれえと</span>スモーキン’パレヱド||<span style="display:none;">かたおかしんせい こんとうかすま</span>[[片岡人生]]<br />[[近藤一馬]]|| - || 2015.10 || 2021.06 || |- |<span style="display:none;">わたしとこねことときとききみと</span>私と仔猫と、ときどき、君と。||<span style="display:none;">つるみ ゆう</span>鶴見悠|| - || 2015.10 || 2016.10 || |- |<span style="display:none;">ひにいる</span>ヒニイル||<span style="display:none;">かとう ゆういち</span>加藤雄一|| - || 2015.11 || 2016.08 ||←コミックウォーカーから移籍並行連載 |- |<span style="display:none;">ほくとぬえちやんのひやくいつきやこう</span>ぼくとぬえちゃんの百一鬼夜行||<span style="display:none;">ききなと</span>[[樹生ナト]]|| 大塚英志(原作) || 2015.11 || 2017.04 || |- |<span style="display:none;">はるちか</span>[[〈ハルチカ〉シリーズ|ハルチカ]]||<span style="display:none;">ふうた</span>[[ぶーた]]|| 初野靖(原作)<br />[[なまにくATK]](キャラクター原案) || 2015.12 || 不明 || |- |<span style="display:none;">れつととらこん</span>レッドドラゴン||<span style="display:none;">いけのまさひろ</span>[[池野雅博]]|| - || 2015.12 || 2018.01 || |- |<span style="display:none;">へいせいひんくてんは</span>ヘイセイピンクデンパ||<span style="display:none;">しゆはし えとな</span>朱橋えとな|| - || 2015.12 || 2017.02 || |- |<span style="display:none;">ささきさんとみやもとくん</span>佐々木さんと宮本くん||<span style="display:none;">しの</span>しの || - || 2015.12 || 2017.01 || <!-- ! 11--> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2016年 ||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">2014.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- |<span style="display:none;">うあにしんくすたあらいと</span>[[ヴァニシング・スターライト]]||<span style="display:none;">ありさかあこ</span>[[有坂あこ]]||[[Sound Horizon]](原作)<br />時田とおる(解釈・構成) || 2016.01 || 2017.08 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">はしめてのきやる</span>'''[[はじめてのギャル]]'''||<span style="display:none;">うえのめくる</span>植野メグル|| ― || 2016.01 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">ひかんはなほいくしよはかいきすほつとなのか</span>彼岸花保育所は怪奇スポットなのか!?||<span style="display:none;">カネコマサル</span>カネコマサル|| ― || 2016.02 || 2016.10 || |- |<span style="display:none;">なせたないとう</span>[[なぜだ内藤]]||<span style="display:none;">あかのきのこ</span>赤のキノコ|| ― || 2016.05 || 2017.05 || |- |<span style="display:none;">なさけないほくらのいろこいもよう</span>情けない僕らの色恋模様||<span style="display:none;">かやふきなや</span>茅なや|| ― || 2016.08 || 2017.09 || |- |<span style="display:none;">またかたおもう</span>また、片想う。||<span style="display:none;">たちはなろく</span>[[タチバナロク]]|| ― || 2016.09 || 2018.09 || |- |<span style="display:none;">にやんきいす</span>NYANKEES||<span style="display:none;">おかたあつし</span>岡田淳司|| ― || 2016.09 || 2019.10 || |- |<span style="display:none;">まんかかせつたいこはん</span>漫画家接待ごはん||<span style="display:none;">せくちたかひろ</span>[[瀬口たかひろ]]|| ― || 2016.10 || 2018.06 || |- |<span style="display:none;">けえまあす</span>[[ゲーマーズ!]]||<span style="display:none;">たかはし つはさ</span>高橋つばさ||[[葵せきな]](原作)<br />仙人掌(キャラクター原案) || 2016.12 || 2019.09 || |- |<span style="display:none;">いにんく</span>いにんぐ!||<span style="display:none;">ちやま</span>[[茶麻]]|| ― || 2016.12 || 2019.12 || |- |<span style="display:none;">とくかわふいふていん</span>TOKUGAWA 15||<span style="display:none;">こなみ あさと</span>斯波浅人|| ― || 2016.12 || 2017.10 || <!-- ! 11--> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2017年 ||<span style="display:none;">2017.00</span>||<span style="display:none;">2017.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">けものみち</span>'''[[けものみち (漫画) |けものみち]]'''||<span style="display:none;">まつたくもおすけ ゆめうた</span>[[まったくモー助]]<br />[[夢唄]]||[[暁なつめ]](原作) || 2017.01 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">きんのうえんてつた</span>銀のヴェンデッタ||<span style="display:none;">あもうきん</span>[[天羽銀]]|| ― || 2017.01 || 2017.10 || |- |<span style="display:none;">とうとうとあいとるおしてもいいてすか</span>堂々とアイドル推してもいいですか?||<span style="display:none;">こしよう てつや</span>[[小城徹也]]|| ― || 2017.01 || 2017.08 || |- |<span style="display:none;">りとるういつちあかてみあ</span>[[リトルウィッチアカデミア]]||<span style="display:none;">さとう けいすけ</span>[[左藤圭右]]|| TRIGGER・吉成曜(原作) || 2017.02 || 2018.10 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">いせかいちいとまししやん</span>'''[[異世界チート魔術師]]'''||<span style="display:none;">すすらき かりん</span>[[鈴羅木かりん]]|| 内田健(原作)<br />Nardack(キャラクター原案) || 2017.02 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">ふたりのたあひい</span>ふたりのダービー||<span style="display:none;">ささき まさひと</span>佐々木マサヒト|| ― || 2017.02 || 2017.09 || |- |<span style="display:none;">らいせかみか</span>ライセカミカ||<span style="display:none;">せかわ はしめ</span>[[瀬川はじめ]]|| ― || 2017.03 || 2019.10 || |- |<span style="display:none">ふあんたしいすたあおんらいんつう</span>[[ファンタシースターオンライン2|PHANTASY STAR ONLINE 2 EPISODE0]]||<span style="display:none;">きはこ きゆ</span>木箱キユ||[[セガゲームス]](原作) || 2017.04 || 2017.09 || |- |<span style="display:none">とうきようかりにくてつほうたい</span>東京カリニク鉄砲隊||<span style="display:none;">これかわ かすとも</span>これかわかずとも|| ― || 2017.04 || 2018.03 || |- |<span style="display:none">たんていあけちはきようらんす</span>探偵明智は狂乱す||<span style="display:none;">えすの さかえ</span>[[えすのサカエ]]|| ― || 2017.05 || 2019.02 || |- |<span style="display:none">さくらこさんのあしもとにはしたいかうまつている</span>[[櫻子さんの足下には死体が埋まっている|櫻子さんの足下には死体が埋まっている 蝶は十一月に消えた]]||<span style="display:none;">あやみね けう</span>綾峰けう||[[太田紫織]](原作)<br />鉄雄(キャラクター原案) || 2017.05 || 2017.09 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none">いせかいめいきゆうてはあれむを</span>'''[[異世界迷宮でハーレムを]]'''||<span style="display:none;">ひようしゆ いつせい</span>[[氷樹一世]]||蘇我捨恥(原作)<br />[[四季童子]](キャラクター原案) || 2017.06 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none">ねくすとらいふ</span>'''[[ネクストライフ]]'''||<span style="display:none;">いちくら とかけ</span>市倉とかげ||相野仁(原作)<br />[[鵜飼沙樹]]・[[マニャ子]](キャラクター原案) || 2017.07 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none">とうさんなてすけえむうんえいてくつているんた</span>父さんな、デスゲーム運営で食っているんだ||<span style="display:none;">いなほ さき</span>いなほ咲貴||[[みかみてれん]](原作) || 2017.10 || 2019.01 || |- |<span style="display:none">なせたないとう</span>[[なぜだ内藤|なぜだ内藤2nd]]||<span style="display:none;">あかのきのこ</span>赤のキノコ|| ― || 2017.10 || 2019.05 || |- |<span style="display:none">うえからかてきよとなまいきしようねん</span>上からカテキョとナマイキ少年||<span style="display:none;">いしいたくま</span>石井たくま|| ― || 2017.11 || 2018.10 || |- |<span style="display:none">としのみこ</span>[[刀使ノ巫女]]||<span style="display:none;">さいとお さかえ</span>[[さいとー栄]]|| 伍箇伝計画(原作)<br />[[しずまよしのり]](キャラクター原案) || 2017.12 || 2019.05 || |- |<span style="display:none">れんあいせんししゆらはん</span>恋愛戦士シュラバン||<span style="display:none;">あおき はやと</span>[[青木ハヤト]]|| ― || 2017.12 || 2019.07 || |- |<span style="display:none">ななおくえんをてにいれたほくにありかちなこと</span>七億円を手に入れた僕にありがちなこと。||<span style="display:none;">かわむら たく</span>[[川村拓]]|| ― || 2017.12 || 2018.08 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2018年 ||<span style="display:none;">2018.00</span>||<span style="display:none;">2018.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- |<span style="display:none">ふりいらいふいせかいなんてもやふんとうき</span>[[フリーライフ 異世界何でも屋奮闘記|フリーライフ 〜異世界何でも屋奮闘記〜]]||<span style="display:none;">もり あいり</span>森あいり||気がつけば毛玉(原作)<br />[[かにビーム]](キャラクター原案) || 2018.01 || 2020.10 || |- |<span style="display:none">しりつかんはねらかくえんたんしかていかふ</span>私立カンパネラ学園男子家庭科部||<span style="display:none;">いすみ れい</span>[[依澄れい]]|| ― || 2018.01 || 2019.01 || |- |<span style="display:none">あまてらすさんはひきこもりたい</span>アマテラスさんはひきこもりたい!||<span style="display:none;">しらの あきひろ</span>白野アキヒロ|| ― || 2018.01 || 2020.03 || |- |<span style="display:none">めかみりようのりようほくん</span>[[女神寮の寮母くん。]]||<span style="display:none;">ひの いくみ</span>日野行望|| ― || 2018.02 || 2022.08 || |- |<span style="display:none">このすはらしいせかいにしゆくふくをえくすとら</span>[[この素晴らしい世界に祝福を!|この素晴らしい世界に祝福を!エクストラ あの愚か者にも脚光を!]]||<span style="display:none;">ふたたまこ</span>豚たま子||[[暁なつめ]](原作)<br />昼熊(ストーリー原案)<br />[[三嶋くろね]]・[[憂姫はぐれ]](キャラクター原案) || 2018.03 || 2020.03 || |- |<span style="display:none">ほうかこかくらうあいふす</span>放課後カグラヴァイブス||<span style="display:none;">すすみ あつし</span>[[鈴見敦]]|| ― || 2018.04 || 2019.05 || |- |<span style="display:none">いかくせいかんへさくたろうのかいほうかるて</span>医學生 神戸朔太郎の解剖カルテ||<span style="display:none;">あやみね けう</span>綾峰けう|| ― || 2018.05 || 2019.04 || |- |<span style="display:none">これいしようたかしまきよのはひそかにたしなむ</span>御令嬢高嶋清乃は密かに嗜む。||<span style="display:none;">みきほん</span>みきぽん|| ― || 2018.06 || 2020.08 || |- |<span style="display:none">おもてなしせいとかい</span>オモテナシ生徒会||<span style="display:none;">とりやすこうしよう</span>[[ドリヤス工場]]|| ― || 2018.06 || 2019.01 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none">しんのなかましやないとゆうしやのはあていいをおいたされたのてへんきようてすろうらいふすることにしました</span>'''[[真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました]]'''||<span style="display:none;">いけの まさひろ</span>[[池野雅博]]||ざっぽん(原作)<br />やすも(キャラクター原案) || 2018.07 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none">へすていあ</span>Bestia||<span style="display:none;">ありさか あこ</span>[[有坂あこ]]||[[三田誠]](原作)<br />[[みやこかしわ]](構成) || 2018.08 || 2021.01 || |- |<span style="display:none">こいするきせいちゆう</span>[[恋する寄生虫#コミカライズ|恋する寄生虫]]||<span style="display:none;">ほたて ゆうき</span>ホタテユウキ||[[三秋縋]](原作)<br />しおん・ホタテユウキ(キャラクター原案) || 2018.09 || 2020.02 || |- |<span style="display:none;">それゆけいせかいちいとまししやん</span>[[異世界チート魔術師|それゆけ!異世界チート魔術師]]||<span style="display:none;">かわむら たく</span>[[川村拓]]|| 内田健(原作)<br />Nardack(キャラクター原案) || 2018.10 || 2019.12 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">いなかのほおむせんたあおとこのしゆうないせかいせいかつ</span>'''田舎のホームセンター男の自由な異世界生活'''||<span style="display:none;">こらい あゆむ</span>古来渉||うさぴょん(原作)<br />市丸きすけ(キャラクター原案) || 2018.11 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">ちようけろろくんそううるとらくうる</span>[[ケロロ軍曹|超ケロロ軍曹UC 激闘!! ケロロロボ大決戦]]||<span style="display:none;">しと ゆうたろう</span>士土幽太郎||[[吉崎観音]](原作)<br />[[BANDAI SPIRITS]](企画協力) || 2018.12 || 2019.11 || |- |<span style="display:none;">かありいえあふおおす</span>[[ガーリー・エアフォース]]||<span style="display:none;">せくち たかひろ</span>[[瀬口たかひろ]]||[[夏海公司]](原作)<br />[[遠坂あさぎ]](キャラクター原案) || 2018.12 || 2019.07 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2019年 ||<span style="display:none;">2019.00</span>||<span style="display:none;">2019.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ひけをそるそしてしよしこうせいをひろう</span>'''[[ひげを剃る。そして女子高生を拾う。]]'''||<span style="display:none;">あたち いまる</span>足立いまる||[[しめさば (作家)|しめさば]](原作)<br />[[ぶーた]](キャラクター原案) || 2019.01 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">すへてのしんるいをはかいするそれらはさいせいてきない</span>'''すべての人類を破壊する。それらは再生できない。'''||<span style="display:none;">よこた たくま</span>[[横田卓馬]]||伊瀬勝良(原作)<br />[[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]](協力) || 2019.01 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">もとせかいいちいのさふきやらいくせいにつきはいふれいやあいせかいをこうりやくちゆう</span>'''[[元・世界1位のサブキャラ育成日記 〜廃プレイヤー、異世界を攻略中!〜]]'''||<span style="display:none;">まえた りそう</span>[[前田理想]]||沢村治太郎(原作)<br />まろ(キャラクター原案) || 2019.02 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">けものふれんすつう</span>[[けものフレンズ|けものフレンズ2]]||<span style="display:none;">ないとう たかし</span>内藤隆|| けものフレンズプロジェクト(原作・原案) || 2019.03 || 2020.09 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ふえいとくらんとおおたあ</span>'''[[Fate/Grand Order|Fate/Grand Order -Epic of Remnant- 亜種特異点I 悪性隔絶魔境 新宿 新宿幻霊事件]]'''||<span style="display:none;">ささきしようねん</span>[[佐々木少年]]||[[TYPE-MOON]](原作) || 2019.03 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">にしゆうきゆうさいとくしんはいせかいてしゆうにいきたかつた</span>'''29歳独身は異世界で自由に生きた……かった。'''||<span style="display:none;">おおは まいこ</span>オオハマイコ||リュート(原作)<br />桑島黎音(キャラクター原案) || 2019.04 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 ||休載中<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-10-26|title=長期休載のお知らせ|journal =月刊少年エース|volume=2023年12月号|publisher = KADOKAWA|page=621|asin = B0CKSHPJXD}}</ref> |- |<span style="display:none;">きみかしねたすうけつてすけえむ</span>[[キミガシネ -多数決デスゲーム-]]||<span style="display:none;">いけかみ たつや</span>池上竜矢||[[ナンキダイ]](原作・構成) || 2019.05 || 2023.10 || |- |<span style="display:none;">ななつのまけんかしはいする</span>[[七つの魔剣が支配する]]||<span style="display:none;">えすの さかえ</span>[[えすのサカエ]]||[[宇野朴人]](原作)<br />ミユキルリア(キャラクター原案) || 2019.07 || 2024.01 || |- |<span style="display:none;">おんせんむすめあたあらのにちしよう</span>[[温泉むすめ|温泉むすめ Adharaの日常]]||<span style="display:none;">みつき めいあ</span>美月めいあ||エンバウンド(原作) || 2019.07 || 2020.03 || |- |<span style="display:none;">ろおとすとうせんきせいやくのほうかん</span>[[ロードス島戦記|ロードス島戦記 誓約の宝冠]]||<span style="display:none;">すすみ あつし</span>[[鈴見敦]]||[[水野良]](原作) || 2019.12 || 2021.06 ||第一部完 |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2020年 ||<span style="display:none;">2020.00</span>||<span style="display:none;">2020.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">せいけんかくいんのまけんつかい</span>'''[[聖剣学院の魔剣使い]]'''||<span style="display:none;">けいけん あすか</span>蛍幻飛鳥||[[志瑞祐]](原作)<br />[[遠坂あさぎ]](キャラクター原案) || 2020.01 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">ふんこうすとれいとつくすひいすと</span>[[文豪ストレイドッグス|文豪ストレイドッグス BEAST]]||<span style="display:none;">ほしかわ しわす</span>星河シワス||[[朝霧カフカ]](原作) || 2020.02 || 2022.03 || |- |<span style="display:none;">はんこうてきないいはらちやん</span>反抗できない!いばらちゃん||<span style="display:none;">ふしわら あおい</span>藤原あおい|| ― || 2020.06 || 2021.10 || |- |<span style="display:none;">しかはねかたな</span>屍刀-シカバネガタナ-||<span style="display:none;">せかわ はしめ</span>[[瀬川はじめ]]|| ― || 2020.08 || 2022.02 || |- |<span style="display:none;">せいけんかくいんのまけんつかい</span>社畜ダンジョンマスターの食堂経営〜断じて史上最悪の魔王などでは無い!!||<span style="display:none;">しよんたろう</span>じょんたろう||井上みつる(原作)<br />片桐(キャラクター原案) || 2020.08 || 2022.03 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">いつしきさんはこいをしりたい</span>'''一式さんは恋を知りたい。'''||<span style="display:none;">あららき あゆね</span>[[あららぎあゆね]]|| ― || 2020.08 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 ||連載開始時タイトルは『鋼鉄のリンナは××されたい』 |- |<span style="display:none;">かわらないておかたくん</span>変わらないで、緒方くん!||<span style="display:none;">かんな なこみ</span>神奈なごみ|| ― || 2020.10 || 2021.10 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2021年 ||<span style="display:none;">2021.00</span>||<span style="display:none;">2021.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- |<span style="display:none;">きみからしおをすきたから</span>きみがラジオを好きだから||<span style="display:none;">たかはし つはさ</span>高橋つばさ|| ― || 2021.01 || 2022.03 || |- |<span style="display:none;">ようかいたいせんそうかあていあんす</span>[[妖怪大戦争 ガーディアンズ#コミカライズ|妖怪大戦争 ガーディアンズ]]||<span style="display:none;">すすき さなみ</span>[[鈴木小波]]||[[渡辺雄介]](映画脚本) || 2021.02 || 2022.10 || |- |<span style="display:none;">しんせんくみちゆうほおろく</span>[[新選組チューボー録]]||<span style="display:none;">くまかい あやひと</span>熊谷綾人||[[BN Pictures]]・SOW(原作) || 2021.04 || 2022.03 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">いせかいしよくとうようしよくのねこや</span>'''[[異世界食堂#漫画|異世界食堂 〜洋食のねこや〜]]'''||<span style="display:none;">やみさわ もろさわ</span>ヤミザワ・モロザワ||犬塚惇平(原作)<br />[[エナミカツミ]](キャラクター原案) || 2021.06 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">せかいさいそくのれへるあつふ</span>'''世界最速のレベルアップ'''||<span style="display:none;">すすみ あつし</span>[[鈴見敦]]||八又ナガト(原作)<br />fame(キャラクター原案) || 2021.08 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">おれのいもうとかこんなにかわいいわけかないくろねこいふ</span>'''[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない#漫画|俺の妹がこんなに可愛いわけがない 黒猫if]]'''||<span style="display:none;">もり あいり</span>森あいり||[[伏見つかさ]](原作)<br />[[かんざきひろ]](キャラクター原案) || 2021.09 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- |<span style="display:none;">おたくにおとくなきやるくらし</span>オタクにオトクなギャルぐらし||<span style="display:none;">ひの はると</span>火野遥人|| ― || 2021.10 || 2023.09 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2022年 ||<span style="display:none;">2022.00</span>||<span style="display:none;">2022.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- |<span style="display:none;">いもうとにきいてみないと</span>妹に聞いてみないと||<span style="display:none;">わたなへ いおり</span>[[渡辺伊織]]|| ― || 2022.09 || 2023.11 || |- |<span style="display:none;">きやるとおんなきし</span>ギャルと女騎士||<span style="display:none;">いしい たくま</span>石井たくま|| ― || 2022.10 || 2023.10 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">しようちよをめちやくちやにしてくるおんな</span>'''情緒をめちゃくちゃにしてくる女'''||<span style="display:none;">せみまる</span>蝉丸|| ― || 2022.10 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">しんかいきようしつのにんけんきらいきようしひとませんせいわたしたちににんけんをおしえてくれますか</span>'''人外教室の人間嫌い教師 ヒトマ先生、私たちに人間を教えてくれますか……?'''||<span style="display:none;">へにの あつ</span>紅野あつ||[[来栖夏芽]](原作)<br />泉彩(キャラクター原案) || 2022.10 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ふんこうすとれいとつくすたさいしゆうやしゆうこさい</span>'''[[文豪ストレイドッグス|文豪ストレイドッグス 太宰、中也、十五歳]]'''||<span style="display:none;">ほしかわ しわす</span>星河シワス||[[朝霧カフカ]](原作)<br />[[春河35]](キャラクター原案) || 2022.11 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ものかたりのくろまくにてんせいして</span>'''物語の黒幕に転生して'''||<span style="display:none;">せかわ はしめ</span>[[瀬川はじめ]]||結城涼(原作)<br />なかむら(キャラクター原案) || 2022.11 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">しにかみらあめん</span>'''死神らーめん'''||<span style="display:none;">くろ</span>クロ|| ― || 2022.12 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">りゆうころしのふりゆんひると</span>'''竜殺しのブリュンヒルド'''||<span style="display:none;">きりしま たける</span>[[桐嶋たける]]||東崎惟子(原作)<br />あおあそ(キャラクター原案) || 2022.12 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>2023年 ||<span style="display:none;">2023.00</span>||<span style="display:none;">2023.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ゆうりようふつけんもうためそうふろといれとてんしはきようとうてす</span>'''優良物件もうダメ荘 〜風呂、トイレと天使は共同です〜'''||<span style="display:none;">みなつき すう</span>[[水無月すう]]|| ― || 2023.02 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">そおとああとおんらいんゆないたるりんく</span>'''[[ソードアート・オンライン|ソードアート・オンライン ユナイタル・リング]]'''||<span style="display:none;">かねつき まさと</span>カネツキマサト||[[川原礫]](原作)<br />abec(キャラクター原案) || 2023.06 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">ようあくありすと</span>'''よぅ、アクアリスト'''||<span style="display:none;">かんさき かるな</span>[[神崎かるな]] ||<span style="display:none;">くろかみ ゆうや</span>[[黒神遊夜]](原作) || 2023.10 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#fdd;" |<span style="display:none;">りかさんけつこんしてくたさい</span>'''理香さん、結婚してください!'''||<span style="display:none;">のも</span>Nomo|| ― || 2023.12 || style="text-align:center;" |<span style="display:none;">7000.00</span>連載中 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">xx</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">ア</span>不明 ||<span style="display:none;">4000.00</span>||<span style="display:none;">4000.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">とうしんてん</span>[[闘神伝]]||<span style="display:none;">たけはやし たけし</span>[[武林武士]]||<span style="display:none;">イ</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ちよへりはひほたんおしようさま</span>チョベリバ緋牡丹お嬢さま ||<span style="display:none;">やはた かすとし</span>[[矢幡和俊]]|| - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">ようえんぬけにんしようかんしまひめ</span>妖艶抜忍召喚師 魔姫 ||<span style="display:none;">おきしま ちあき</span>御祇島千明 || - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || 1999.08 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">しんはんのうふんかねこむすめ</span>[[万能文化猫娘|新・万能文化猫娘]]||<span style="display:none;">たかた ゆうそう</span>[[高田裕三]]|| - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">さんちようめのかみさま</span>三丁目の神さま ||<span style="display:none;">にしたて なおき</span>西舘直樹 || - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || 2000.11 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">あゆすたいにしせいめいたい</span>AYUS 第二次生命体 ||<span style="display:none;">たたの かすこ</span>[[只野和子]]|| - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- <!-- ! 11--> |<span style="display:none;">やかた</span>YAKATA ||<span style="display:none;">たこもり こうし</span>田篭功次 ||<span style="display:none;">あやつし ゆきと</span>[[綾辻行人]](原作) ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- |<span style="display:none;">りゆうくうせんき</span>竜宮戦記 ||<span style="display:none;">はくはやし</span>[[伯林 (漫画家)|伯林]]|| - ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 ||<span style="display:none;">5000.00</span>不明 || |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">あ/</span>||<span style="display:none;">あ/</span>|| あ<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">か/</span>||<span style="display:none;">か/</span>|| か<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">さ/</span>||<span style="display:none;">さ/</span>|| さ<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">た/</span>||<span style="display:none;">た/</span>|| た<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">な/</span>||<span style="display:none;">な/</span>|| な<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">は/</span>||<span style="display:none;">は/</span>|| は<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">ま/</span>||<span style="display:none;">ま/</span>|| ま<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">や/</span>||<span style="display:none;">や/</span>|| や<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">ら/</span>||<span style="display:none;">ら/</span>|| ら<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">わ/</span>||<span style="display:none;">わ/</span>|| わ<span style="display:none;">/</span>行 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">Z/</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">ウ</span>なし ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">Z</span> |- style="background-color:#aaa; text-align:center" <!-- |<span style="display:none">999</span>--> |<span style="display:none">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>||<span style="display:none;">Z</span>連載中 ||<span style="display:none;">9999.99</span>||<span style="display:none;">6000.00</span>||<span style="display:none;">Z</span> |} == 映像化作品 == === アニメ化 === ; テレビアニメ {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !放送年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[B'T-X]] |1996年 |[[キョクイチ東京ムービー]] |OVAあり |- |[[ヱデンズボゥイ]] |1999年 |[[スタジオディーン]] | |- |[[ANGELIC LAYER]] |2001年 |[[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]] | |- |[[成恵の世界]] |2003年 |[[スタジオ・ライブ]] | |- | rowspan="3" |[[ケロロ軍曹 (アニメ)|ケロロ軍曹]] |2004年-2011年 | rowspan="3" |[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]] | rowspan="3" |映画あり |- |2010年-2011年(乙) |- |2014年(keroro) |- | rowspan="2" |[[GIRLSブラボー]] |2004年(第1期) | rowspan="2" |[[アニメインターナショナルカンパニー|AICスピリッツ]] | rowspan="2" | |- |2005年(第2期) |- |[[神無月の巫女]] |2004年 |[[ティー・エヌ・ケー|TNK]] | |- |[[グレネーダー]] |2004年-2005年 |スタジオ・ライブ、[[グループ・タック]] | |- |[[強殖装甲ガイバー]] |2005年-2006年 |[[オー・エル・エム]] |映画、OVAあり |- |[[喰霊]] |2008年 |[[アスリード|asread.]] × AICスピリッツ | |- |[[涼宮ハルヒちゃんの憂鬱]] |2009年 |[[京都アニメーション]] | |- | rowspan="2" |[[そらのおとしもの]] |2009年(第1期) | rowspan="2" |AIC ASTA | rowspan="2" |映画あり |- |2010年(第2期) |- |[[日常 (アニメ)|日常]] |2011年 |京都アニメーション |OVAあり |- |[[デッドマン・ワンダーランド]] |2011年 |[[マングローブ (アニメ制作会社)|manglobe]] |OVAあり |- |[[未来日記 (漫画)|未来日記]] |2011年-2012年 |asread. | |- |[[うぽって!!]] |2012年 |[[ジーベック (アニメ制作会社)|XEBEC]] | |- |[[東京ESP]] |2014年 |XEBEC | |- |[[ビッグオーダー]] |2016年 |asread. | |- |[[武装少女マキャヴェリズム]] |2017年 |[[SILVER LINK.]] / CONNECT | |- |[[はじめてのギャル]] |2017年 |[[アニマ&カンパニー|NAZ]] | |- |[[けものみち (漫画)|けものみち]] |2019年 |[[ENGI]] |アニメタイトルは『旗揚!けものみち』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/337208|title=TVアニメ「けものみち」10月開始、異世界ケモナー作品で声優に小西克幸と稲田徹|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-06-19|accessdate=2022-08-04}}</ref> |- |[[プランダラ]] |2020年 |[[ギークトイズ|GEEKTOYS]] | |- |[[女神寮の寮母くん。]] |2021年 |asread. | |} ; 劇場アニメ {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !アニメーション制作 !備考 |- |強殖装甲ガイバー |1986年 |[[アニメイトフィルム]]、スタジオライブ | |} ; OVA {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !発売年 !アニメーション制作 !備考 |- | rowspan="2" |強殖装甲ガイバー |1989年(第1期) |アニメイトフィルム | |- |1992年(第2期) | | |- | rowspan="2" |[[がぁーでぃあんHearts]] |2003年(第1期) | rowspan="2" |VENET | rowspan="2" | |- |2005年(第2期) |- |[[低俗霊DAYDREAM]] |2004年 |[[ハルフィルムメーカー]] | |- |[[大魔法峠]] |2006年 |[[スタジオバルセロナ]] | |} === 実写映画化 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !監督 !備考 |- | rowspan="2" |強殖装甲ガイバー |1991年 |[[スクリーミング・マッド・ジョージ]]、[[スティーブ・ワン]] |GUYVER |- |1994年 |スティーブ・ワン |GUYVER DARK HERO |} == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[カドカワコミックス]] * [[コミックコンプ]] * [[コンプティーク]] * [[月刊ニュータイプ]] * [[月刊Asuka]] * [[コミックチャージ]] * [[月刊少年キャプテン]] * [[角川漫画新人賞]] * [[月刊コロコロコミック]] - ライバル雑誌。同じ角川の[[ケロケロエース]]もこれのライバル。 == 外部リンク == * [https://web-ace.jp/shonenace/ 少年エース公式サイト] * {{Twitter|shonen_Ace}} * {{ニコニコ静画|magazine|shonenace|少年エース}} {{月刊少年エース連載中}} {{角川書店}} {{DEFAULTSORT:けつかんしようねんええす}} [[Category:月刊少年エース|*]] [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:角川書店の漫画雑誌]] [[Category:月刊漫画雑誌|しようねんええす]] [[Category:少年漫画雑誌]] [[Category:青年漫画雑誌]] [[Category:1994年創刊の雑誌]] [[Category:月刊コミックコンプ|*Bしようねんええす]] [[Category:月刊ニュータイプ|-しようねんええす]] [[Category:刊行中の漫画雑誌]]
2003-09-07T15:49:48Z
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ハンググライダー
ハンググライダーは、スカイスポーツのひとつであり、狭義には飛行に使用する機体自体を指す。機体に対し搭乗者が“ベルトに吊り下がった (hang) 状態でグライダー(glider、滑空機)に乗り滑空する(gliding)”ことから、ハング・グライディングと呼ばれる。また、連続した"ng"と"g"の音が重なる英語の原音により近いハングライダーの発音・表記もある(これが誤って逆類推され、つり下がるライダーとして hang rider のように表記されることもあるが、このような語は存在しない。そもそもライディング=乗るのではなく、グライディング=滑空するものである)。 同様に滑空を楽しむものには、パラシュートが進化したようなパラグライダーがある。 機体は空気より重く、ランディングギアを持たずもっぱら搭乗者の身体で離着陸を行なうものとされる。その為機体重量は20 kgから45 kg程度で、人間一人の力で持ち上げることができる範囲である。搭乗者はハーネスなどで機体の重心付近に身体をつなぐ。 搭乗者は機体を持ち上げたまま滑空角より大きな斜面等を駆け下りる。機体の滑空角が斜面の傾斜より浅いため、5m程度の助走で離陸する。上昇気流を利用しながら飛行を楽しんで、たいていの場合は離陸地の近隣に用意してある着陸場に着陸する。巡航速度は20km/hから130km/h程度。滑空比は7から25程度。着陸のときは速度をぎりぎりまで落として、フレアー操作(後述)を行いつつ搭乗者自身の足で着地し、グライダーは搭乗者が自力で保持する。 機体は折りたたみ式のものが多く、直径50cm・長さ5mほどの棒状になる。通常は乗用車の屋根に積んで運搬する。 日本の航空法上は資格は不要だが、多くのフライトエリアでは(公益社団法人)日本ハング・パラグライディング連盟発行のライセンスの携行及びフライヤー登録を義務付けており、その取得のために講習を修了する必要がある。 ハンググライダーは、構造によってクラス1からクラス5に分類されている。 875年、後ウマイヤ朝の学者アッバース・イブン・フィルナスが原始的なハンググライダーで飛ぼうとして負傷したという。 歴史的に見ると、19世紀末期のドイツのオットー・リリエンタールのグライダーが、既に一種のハンググライダーであった。戦前の日本においても個人によってハンググライダーが製作されており、1937年には頓所式1型が、1940年には大久保式ハング・グライダーが 初飛行している。 1949年、NACA(NASAの前身)のフランシス・ロガロは現在のハンググライダーの形状の翼を発明した。その翼はロガロウイングと名付けられ、宇宙船や切り離したロケットの回収に使うことが検討されたが、実用化はされなかった。その後、1960年代後半に航空スポーツに応用されるようになっていった。 1971年、現在のようなフレキシブルタイプのロガロウイングを使用したハンググライダーが登場した。日本で本格的に普及するようになったのは1976年である。この年、北海道の留寿都村橇負山で、第1回ハンググライダー日本選手権が行われた。当時の競技内容は、滞空時間とターゲットが主であった。 アルミニウム合金やカーボンファイバー製のパイプでできた骨組みに、ポリエステル系の合成繊維でできた翼が張られる。翼型(翼断面形状)はバテン(アルミ合金やカーボンファイバー製の整形された細いパイプ)により維持される。要所にワイヤを張って強度を保持する。 中心から下に向けて、コントロールバーが取り付けられている。アルミ合金やカーボンファイバー製のパイプを三角形に組んだもので、楽器のトライアングルのような形をしている。一辺1.5メートル程度の大きさで、底辺に当たる部分をベースバー、斜辺に当たる部位をダウンチューブ(アップライト)と区別することもある。パイロットはこの三角形の内側に吊り下げられて飛行する。 グライダーは、そのまま投げれば紙飛行機のようにまっすぐ飛んでゆくほど安定に作られている。 搭乗者(パイロット)をグライダーと繋ぐための物で、体の一部あるいは全部を布で覆うようになっている。重心部付近から、グライダーと繋ぐためのベルトが伸びている。ハーネスとグライダーはカラビナ等で接続される。ハーネスには緊急時に備えて予備のパラシュートが収納されている。 グライダーの重心付近に吊り下げられたパイロットのそばには、グライダーに直結したコントロールバーがあり、パイロットはコントロールバーを押したり引いたりして、グライダーとの位置関係を腕の長さ程度の範囲で変えられる。グライダーよりもパイロットのほうが重いために、コントロールバーを操作する反動でグライダーの方が姿勢を変えることになり、速度の変化や旋回などが広範囲に行える。 パイロットがコントロールバーを前に押し出すようにすると、パイロットの重心が機体後方に移動するので機体は機首を上げ、翼の迎角が増加する。その結果、機体は滑空速度を落とす。逆にコントロールバーを手前に引くようにすると機首を下げて滑空速度が増す。 コントロールバーを左に送り出す(体を右に寄せる)ようにすると、機体は右翼を下げ、右旋回を始める。 他航空機同様に離陸と着陸は共に危険が伴うので、念入りな練習が必要とされる。 離陸に適した場所は、風向風力の安定した斜面(丘陵や雪のない季節のスキーゲレンデなど)や崖(ランチャー台が設置されることもある)など。斜面の場合はグライダーの滑空比よりもきつい傾斜が、崖の場合には短い助走距離で安定した滑空に入れる程度の強めの風が必要になる。 パイロットはハーネスを装着して体をグライダーと接続し、ダウンチューブの間に入ってグライダーを両手両肩で持ち上げバランスをとる。適度な向い風に合わせてバランスを保ちながら助走するとグライダーが揚力を得て浮こうとする。更に加速しつつ走り続けると、やがてパイロットを吊り下げるベルトがピンと張ってグライダーにパイロットの体重が掛かるようになる。この状態でさらに走り続けるとパイロットの足も地面から離れて、グライダーは滑空に入る。この間数秒、走る距離は数メートルである。 離陸するとパイロットは体をうつぶせに寝かせ、ダウンチューブを握っていた手をベースバーに持ち替える。足をハーネスの中に収納してファスナーで閉じる。この姿勢で空気抵抗を低減して飛行する。 販売用又は公式競技に出場しようとするハンググライダーは耐空性基準を満たしている必要がある。 耐空性基準の審査においては強度試験、性能及び飛行特性試験が行われる。 耐空性基準に適合するハンググライダーは、その型式を日本ハンググライディング安全性委員会に登録することにより公認される。 高度・速度を利用したスポーツであるため、陸上のスポーツと比べて事故が発生した際は激しい衝撃を受け、骨折・脊髄損傷・死亡事故に至る可能性が大きい。死亡事故の発生率は、上掲の表を用いて、交通死亡事故などに比べて低いとされるが、競技人口が少ないため競技人口当たりの事故率で考えれば非常に高いので注意が必要。(パラグライダー#安全性)事故情報と安全情報が日本ハング・パラグライディング連盟安全性委員会(JHSC)にて収集、提供されている。 起こりえる事故としては場面ごとに以下の例が挙げられる。 特に空中衝突、送電線に接触しての感電、山肌や樹木への衝突などの事故が報道されることがある。 日本国内では航空法に基づき、空域によっては、飛行させることが禁止される場合、または飛行させる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。また、小型無人機等飛行禁止法により、国の重要施設等と周辺の上空は飛行を禁止される場合がある。
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ハンググライダーは、スカイスポーツのひとつであり、狭義には飛行に使用する機体自体を指す。機体に対し搭乗者が“ベルトに吊り下がった (hang) 状態でグライダー(glider、滑空機)に乗り滑空する(gliding)”ことから、ハング・グライディングと呼ばれる。また、連続した"ng"と"g"の音が重なる英語の原音により近いハングライダーの発音・表記もある。 同様に滑空を楽しむものには、パラシュートが進化したようなパラグライダーがある。
{{出典の明記|date=2022年12月}} [[Image:Hangglider.austria.750pix.jpg|thumb|300px|right|ハンググライダー]] [[Image:Hang glider Pilotenview oct2005.jpg|thumb|300px|right|上空からの眺望]] '''ハンググライダー'''は、[[スカイスポーツ (競技)|スカイスポーツ]]のひとつであり、狭義には飛行に使用する機体自体を指す{{要出典|date=2023年3月}}。機体に対し搭乗者が“ベルトに吊り下がった (hang) 状態でグライダー(glider、滑空機)に乗り滑空する(gliding)”ことから、'''ハング・グライディング'''と呼ばれる{{要出典|date=2023年3月}}。また、連続した"ng"と"g"の音が重なる英語の原音により近い'''ハングライダー'''の発音・表記もある<!--これは"make-up"を「メイク・アップ」としても「メーキャップ」としても誤りではないのと同様。-->(これが誤って逆類推され、つり下がるライダーとして hang rider のように表記されることもあるが、このような語は存在しない。そもそもライディング=乗るのではなく、グライディング=滑空するものである)。 同様に滑空を楽しむものには、パラシュートが進化したような[[パラグライダー]]がある。 ==概要== {{出典の明記|date=2023年3月}} 機体は空気より重く、[[ランディングギア]]を持たずもっぱら搭乗者の身体で離着陸を行なうものとされる。その為機体重量は20 [[キログラム|kg]]から45 kg程度で、人間一人の力で持ち上げることができる範囲である。搭乗者はハーネスなどで機体の重心付近に身体をつなぐ。 搭乗者は機体を持ち上げたまま滑空角より大きな斜面等を駆け下りる。機体の滑空角が斜面の傾斜より浅いため、5[[メートル|m]]程度の助走で離陸する。[[上昇気流]]を利用しながら飛行を楽しんで、たいていの場合は離陸地の近隣に用意してある着陸場に着陸する。巡航速度は20[[時速|km/h]]から130km/h程度。滑空比は7から25程度。着陸のときは速度をぎりぎりまで落として、フレアー操作(後述)を行いつつ搭乗者自身の足で着地し、グライダーは搭乗者が自力で保持する。 機体は折りたたみ式のものが多く、直径50[[センチメートル|cm]]・長さ5mほどの棒状になる。通常は[[乗用車]]の屋根に積んで運搬する。 {{要説明範囲|date=2022年12月|日本の[[航空法]]上は資格は不要}}{{要出典|date=2022年12月}}だが、多くのフライトエリアでは(公益社団法人)[[日本ハング・パラグライディング連盟]]発行のライセンスの携行及びフライヤー登録を義務付けており、その取得のために講習を修了する必要がある。 ハンググライダーは、構造によってクラス1からクラス5に分類されている。 ==歴史== {{出典の明記|date=2023年3月}} [[875年]]、[[後ウマイヤ朝]]の学者[[アッバース・イブン・フィルナス]]が原始的なハンググライダーで飛ぼうとして負傷したという。 歴史的に見ると、19世紀末期の[[ドイツ]]の[[オットー・リリエンタール]]のグライダーが、既に一種のハンググライダーであった。戦前の日本においても個人によってハンググライダーが製作されており、[[1937年]]には[[頓所式1型]]が、[[1940年]]には大久保式ハング・グライダーが<ref>[http://www.vsha.jp/photo/ookubo-hangu-kiji.jpg 大久保式ハンググライダー] - [[滑空史保存協会]]公式サイト。</ref> 初飛行している。 [[1949年]]、[[アメリカ航空諮問委員会|NACA]](NASAの前身)の[[フランシス・ロガロ]]は現在のハンググライダーの形状の[[翼]]を発明した{{要出典|date=2023年3月}}。その翼はロガロウイングと名付けられ、[[宇宙船]]や切り離したロケットの回収に使うことが検討されたが、実用化はされなかった{{要出典|date=2023年3月}}。その後、1960年代後半に航空スポーツに応用されるようになっていった{{要出典|date=2023年3月}}。 [[1971年]]、現在のようなフレキシブルタイプのロガロウイングを使用したハンググライダーが登場した{{要出典|date=2023年3月}}。日本で本格的に普及するようになったのは[[1976年]]である{{要出典|date=2023年3月}}。この年、北海道の留寿都村橇負山で、第1回ハンググライダー日本選手権が行われた{{要出典|date=2023年3月}}。当時の競技内容は、滞空時間とターゲットが主であった{{要出典|date=2023年3月}}。 ==構造・用具== {{出典の明記|date=2023年3月}} ===グライダー=== アルミニウム合金やカーボンファイバー製のパイプでできた骨組みに、[[ポリエステル]]系の[[合成繊維]]でできた[[翼]]が張られる。翼型(翼断面形状)はバテン(アルミ合金やカーボンファイバー製の整形された細いパイプ)により維持される。要所に[[ワイヤ]]を張って強度を保持する。 中心から下に向けて、コントロールバーが取り付けられている。アルミ合金やカーボンファイバー製のパイプを三角形に組んだもので、楽器のトライアングルのような形をしている。一辺1.5メートル程度の大きさで、底辺に当たる部分をベースバー、斜辺に当たる部位をダウンチューブ(アップライト)と区別することもある{{要出典|date=2023年3月}}。パイロットはこの三角形の内側に吊り下げられて飛行する。 グライダーは、そのまま投げれば[[紙飛行機]]のようにまっすぐ飛んでゆくほど安定に作られている。 <!--(シングル/ダブル サーフェイスなど・・・書きかけです。)-- 何もないのも寂しいので図を入れてみました。--> [[画像:Section of double surface wing.png|thumb|一般的なダブルサーフェイス機の翼断面]] <!--(キングポストレスなど・・・書きかけです。) 期待してます--> ===ハーネス=== 搭乗者(パイロット)をグライダーと繋ぐための物で、体の一部あるいは全部を布で覆うようになっている。重心部付近から、グライダーと繋ぐためのベルトが伸びている。ハーネスとグライダーはカラビナ等で接続される。ハーネスには緊急時に備えて予備の[[パラシュート]]が収納されている。 ===計器=== {{出典の明記|date=2023年3月}} *速度計 *[[バリオメータ|昇降計]] *[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]] *[[無線機]] ==飛行技術== {{出典の明記|date=2023年3月}} グライダーの[[重心]]付近に吊り下げられたパイロットのそばには、グライダーに直結したコントロールバーがあり、パイロットはコントロールバーを押したり引いたりして、グライダーとの位置関係を腕の長さ程度の範囲で変えられる。グライダーよりもパイロットのほうが重いために、コントロールバーを操作する反動でグライダーの方が姿勢を変えることになり、速度の変化や旋回などが広範囲に行える。 パイロットがコントロールバーを前に押し出すようにすると、パイロットの重心が機体後方に移動するので機体は機首を上げ、翼の[[迎角]]が増加する。その結果、機体は滑空速度を落とす。逆にコントロールバーを手前に引くようにすると機首を下げて滑空速度が増す。 コントロールバーを左に送り出す(体を右に寄せる)ようにすると、機体は右翼を下げ、右旋回を始める。 他航空機同様に離陸と着陸は共に危険が伴うので、念入りな練習が必要とされる。 ===離陸=== [[Image:Hang glider start hill aug2004.jpg|thumb|200px|right|テイクオフ]] [[画像:Goisan03.jpg|thumb|200px|right|ランチャー台の例(愛知県[[五井山]])]] 離陸に適した場所は、風向風力の安定した斜面(丘陵や雪のない季節のスキーゲレンデなど)や崖(ランチャー台が設置されることもある)など。斜面の場合はグライダーの滑空比よりもきつい傾斜が、崖の場合には短い助走距離で安定した滑空に入れる程度の強めの風が必要になる。 パイロットはハーネスを装着して体をグライダーと接続し、ダウンチューブの間に入ってグライダーを両手両肩で持ち上げバランスをとる。適度な向い風に合わせてバランスを保ちながら助走するとグライダーが揚力を得て浮こうとする。更に加速しつつ走り続けると、やがてパイロットを吊り下げるベルトがピンと張ってグライダーにパイロットの体重が掛かるようになる。この状態でさらに走り続けるとパイロットの足も地面から離れて、グライダーは滑空に入る。この間数秒、走る距離は数メートルである。 離陸するとパイロットは体をうつぶせに寝かせ、ダウンチューブを握っていた手をベースバーに持ち替える。足をハーネスの中に収納してファスナーで閉じる。この姿勢で空気抵抗を低減して飛行する。 ===着陸=== ;アプローチ :動力を持たないグライダーは、通常着陸をやり直すことができないし、着陸場所は無制限な広さを持たない場合が多い。現在の高度と着陸場所からの距離がうまくあっていないと、着陸場所を通り越して先にある障害物に当たったり、着陸場所にとどかずに手前の危険な場所に下りなければならなくなったりする。 :また、着陸場所には風下から進入するようにすると、同じ対気速度を維持して(=同じ[[揚力]]を得る)も対地速度が小さくなるので着陸時の安全性が増す。うまく高度をあわせて風下から着陸するために、着陸場所の風下側で8の字旋回をするなどの種々の高度処理方法が採られる。 ;フレアー :着陸場所にたどり着いたら、速度を落として安全に止まらなければならない。 :コントロールバーを徐々に前に押し出していくことで、徐々に速度を落としてゆくが、ある速度より低速になると機体は急激に揚力を失って墜落する([[失速|失速現象]])。そこで、失速の直前にコントロールバーの押し出しを急激に強めると、機体は急激に機首を上げたまま高度も変えずにその場で静止する。このときの高度が、ちょうどパイロットの足が地面に着く程度であれば、そのまま安全に着陸できる。 ==競技== ===競技の種類=== *パイロン競技 *距離競技 *スピード競技 ===大会(日本以外)=== *FAI World Hang Gliding Championships *FAI European Hang Gliding Championship *FAI Women's World Hang Gliding Championship ===大会(日本)=== *西富士ジヤパン・クラシツク *紀ノ川スカイグランプリ *板敷山スプリングフライト *スカイフェスティバルin[[南陽市|南陽]] *池田山カップ [[池田山 (岐阜県)|池田山]] *East Japan Championship *ハンググライディング日本選手権 ==コミュニティー== *[[国際航空連盟]](FAI) 空のスポーツを統括する国際機関 *国際ハンググライディング委員会(CIVL) *公益社団法人[[日本ハング・パラグライディング連盟]](JHF) ハンググライダーに関する、日本唯一の技能証発行機関 ==安全== ===耐空性基準=== 販売用又は公式競技に出場しようとするハンググライダーは耐空性基準を満たしている必要がある。 耐空性基準の審査においては強度試験、性能及び飛行特性試験が行われる。 耐空性基準に適合するハンググライダーは、その型式を日本ハンググライディング安全性委員会に登録することにより公認される。 ===事故の可能性=== {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em;" |+<span style="font-size:small;">'''一般災害における事故(負傷)率'''<br/>(平成13年度警察白書2000年度統計)</span> |- |道路交通事故||9.1×10<sup>−3</sup> |- |山登り||5.0×10<SUP>-6</SUP> |- |船舶事故||1.4×10<sup>−6</sup> |- |モーターボート||3.5×10<sup>−7</sup> |- |パラグライダー||2.0×10<sup>−7</sup> |- |航空機事故||1.8×10<sup>−7</sup> |- |スクーバーダイビング||7.8×10<sup>−8</sup> |- style="background-color:yellow;" |ハンググライダー||4.7×10<sup>−8</sup> |} 高度・速度を利用したスポーツであるため、陸上のスポーツと比べて事故が発生した際は激しい衝撃を受け、骨折・脊髄損傷・死亡事故に至る可能性が大きい。死亡[[事故]]の発生率は、上掲の表を用いて、[[交通事故|交通死亡事故]]などに比べて低いとされるが、競技人口が少ないため競技人口当たりの事故率で考えれば非常に高いので注意が必要。([[パラグライダー#安全性]])事故情報と安全情報が日本ハング・パラグライディング連盟安全性委員会(JHSC)にて収集、提供されている。 起こりえる事故としては場面ごとに以下の例が挙げられる。 *離陸時 **機体の組み立てミスによる操縦不能 **カラビナのかけ忘れによる、操縦不能・落下 **風向・風力の判断ミスによる浮力の不足からの山肌への落下 *飛行時(高高度) **空中接触 **スパイラルスピン **空中分解 **操作ミス等による山肌等への衝突・落下 *着陸アプローチ時(低高度) **障害物(樹木、送電線、施設、民家)への接触・衝突・落下 *着陸時 **フレア操作のミスによる地面への衝突 **失速状態での地面への衝突 **着陸地の形状による怪我 特に空中衝突、送電線に接触しての[[感電]]、山肌や[[樹木]]への衝突などの事故が報道されることがある。 ==航空法== 日本国内では[[航空法]]に基づき、空域によっては、飛行させることが禁止される場合、または飛行させる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。また、[[小型無人機等飛行禁止法]]により、国の重要施設等と周辺の上空は飛行を禁止される場合がある。 {{see also|制限表面}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} ==関連項目== {{Commons|Hang gliding}} *[[グライダー]] *[[パラグライダー]] *[[DHV]] *[[航空法]] ==外部リンク== *[http://jhf.hangpara.or.jp/ 公益社団法人日本ハング・パラグライディング連盟] {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} [[Category:スカイスポーツ|はんくくらいた]] [[Category:グライダー|*]]
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月刊アフタヌーン
『月刊アフタヌーン』(げっかんアフタヌーン)は、講談社が発行する日本の月刊青年漫画雑誌。1986年創刊。毎月25日発売。略称は「アフタヌーン」など。 発売日は毎月25日。創刊は1986年12月25日発売1987年2月号。兄弟誌の『モーニング』の二軍のような存在としてスタートした。漫画家の育成のため、創刊時より四季賞を主催する。 看板作家であった藤島康介以外はほとんど無名の新人作家の作品を掲載したため、次第に質より量という誌面構成が強調された。1992年には1000ページを突破し、1997年のリニューアル号まで常時1000ページ台を維持、それまで最厚だった『月刊コロコロコミック』を上回る誌面の厚さを誇っていた。その際に岩明均による『寄生獣』がヒットし看板漫画の一つになる。 2003年からは、当時人気を得ていた『ああっ女神さまっ』のファンサービスの一環として、海洋堂とタイアップしたフィギュアや、オリジナルDVDソフトなどの豪華付録を付ける路線も模索した。 2004年頃から講談社の他誌で掲載されていた作品をそっくり移転させるなど、購買層拡大に向けさまざまな実験的な試みを行っている。これには、週刊少年マガジンで連載していた『ヴィンランド・サガ』などが挙げられる。 太字は連載中の作品を示す(2023年11月25日現在) 1987年- 1988年- 1989年- 1990年- 1991年- 1992年 - 1993年- 1994年- 1995年- 1996年- 1997年- 1998年- 1999年- 2000年- 2001年- 2002年- 2003年- 2004年- 2005年- 2006年- 2007年- 2008年- 2009年- 2010年- 2011年- 2012年- 2013年- 2014年- 2015年- 2016年- 2017年- 2018年- 2019年- 2020年- 2021年- 2022年- 2023年- 2024年- 発行部数(2008年4月以前) アフタヌーンKCは『月刊アフタヌーン』に掲載された作品を主に収録する漫画単行本レーベル。1987年5月18日創刊、新刊は毎月23日頃発売。 『幸福大通り』(水谷龍二、内山まもる)、『Let it be!』(たかもちげん)が最初に発行された。 コード番号は、アフタヌーンKC○○という形で表記され、背表紙上部や奥付などに載せられる。創刊時にKC1で始まるタイプとKC1001から始まるタイプの二種類が用意され、それぞれが発行順番で1,2,3...、1001,1002,1003...というように割り振られている。 KCまつりに参加している各書店で、サイン会やプレゼントが行われる。 KCまつりに関連して、「アフタヌーンKCまつり」公式サイト上でWebラジオが配信された。全6回。
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『月刊アフタヌーン』(げっかんアフタヌーン)は、講談社が発行する日本の月刊青年漫画雑誌。1986年創刊。毎月25日発売。略称は「アフタヌーン」など。
{{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 = | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 誌名 = 月刊アフタヌーン | 英文誌名 = | 誌名略称 = アフタヌーン | ジャンル = 漫画雑誌 | 読者対象 = 高校生〜社会人以上 | 刊行頻度 = [[逐次刊行物#月刊|月刊]](毎月25日発売) | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 定価 = | 出版社 = [[講談社]] | 編集部名 = 月刊アフタヌーン編集部 | 発行人 = [[五十嵐隆夫]] | 編集人1役職 = 編集長 | 編集人1氏名 = 金井暁<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/column/416418|title=マンガ誌編集長が選ぶ、2020年のイチオシ作品|date=2021-03-05|accessdate=2021-05-15}}</ref> | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = 387 | 刊行期間 = 1986年12月25日(1987年2月号) - | 発行部数 = 2万6,633<!--<ref>{{Cite web|url=https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index|title=印刷証明付部数|publisher=日本雑誌協会|accessdate=2023-08-11}}</ref>--> | 発行部数調査年月 = 2023年4月 - 6月 | 発行部数調査機関 = [[日本雑誌協会]] | レーベル = アフタヌーンKC | 姉妹誌 = [[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]] | ウェブサイト = [https://afternoon.kodansha.co.jp/ 月刊アフタヌーン] | 特記事項 = }} 『'''月刊アフタヌーン'''』(げっかんアフタヌーン)は、[[講談社]]が発行する[[日本]]の[[逐次刊行物#月刊|月刊]][[青年漫画|青年]][[日本の漫画雑誌|漫画雑誌]]。[[1986年]]創刊。毎月25日発売。略称は「アフタヌーン」など。 == 概要 == {{出典の明記|section=1|date=2015年4月}} 発売日は毎月25日。創刊は[[1986年]]12月25日発売[[1987年]]2月号。兄弟誌の『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』の二軍のような存在としてスタートした。[[漫画家]]の育成のため、創刊時より[[アフタヌーン四季賞|四季賞]]を主催する。 看板作家であった[[藤島康介]]以外はほとんど無名の新人作家の作品を掲載したため、次第に質より量という誌面構成が強調された。1992年には1000ページを突破し、1997年のリニューアル号まで常時1000ページ台を維持、それまで最厚だった『[[月刊コロコロコミック]]』を上回る誌面の厚さを誇っていた。その際に[[岩明均]]による『[[寄生獣]]』がヒットし看板漫画の一つになる。 [[2003年]]からは、当時人気を得ていた『[[ああっ女神さまっ]]』のファンサービスの一環として、[[海洋堂]]と[[タイアップ]]した[[フィギュア]]や、オリジナル[[DVD]]ソフトなどの豪華付録を付ける路線も模索した。 [[2004年]]頃から講談社の他誌で掲載されていた作品をそっくり移転させるなど、購買層拡大に向けさまざまな実験的な試みを行っている。これには、週刊少年マガジンで連載していた『[[ヴィンランド・サガ]]』などが挙げられる。 == 年表 == <!-- 注意:連載作品を追加していくとキリがないので、さしあたりは以下の2作品のみで--> * [[1986年]] - 12月25日創刊(1987年2月号)。当時は[[中綴じ]]の薄い雑誌であった。 * 1987年 - この年の8月号から翌年の6月号まで表紙イラストが連載作品から、当時『リリックス』を連載していた[[森雅之 (漫画家)|森雅之]]によるオリジナル作品となる。 * 1988年 - 『[[ああっ女神さまっ]]』連載開始(11月号 - 2014年6月号)。 * 1989年 - 『[[寄生獣]]』連載開始(1990年1月号 - 1995年2月号)。 * 1990年 - この年の2月号から8月号まで表紙イラストが連載作品から、イラストレーターの[[若泉さな絵]]による作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ne.jp/asahi/s/bigsur/profilew.html|title=若泉さな絵のプロフィール||accessdate=2020-05-08}}</ref>となる。 * 1991年 - [[平綴じ]]となる(1992年2月号)。<!--2006年12月号巻末ではこの号から1000ページとなってますが、間違いです-->まだ500ページに満たない時点で誌上にて「1000ページ越え」することを宣言。 * 1992年 - 1000ページ突破(1993年2月号)。以後4年半の間1000ページを維持する。 * 1994年 - 雑誌[[ロゴ]]が筆文字に(8月号)。[[アフタヌーン四季賞|四季賞]]が現在の体制(ページ数無制限、[[うえやまとち]]ら4人の審査員持ち回り)となる(9月号)。 * [[1996年]] - 創刊10周年を記念し『[[大合作]]』を制作(1997年2月号掲載)。 * 1997年 - 雑誌[[デザイン]]をリニューアル(10月号)。[[ノンブル|ページ]]数も以後800-900ページ台になる。 * 1999年 - 『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』を発刊(2002年[[休刊]]、全14号)。 * 2001年 - [[メディアミックス]]作品の掲載が始まる(『[[アベノ橋魔法☆商店街]]』9月号 - 2003年4月号)。 * 2003年 - 付録がつき始める。第1回「アフタヌーンKCまつり」(作家[[サイン会]]などの[[書店]]フェア)開催、以後毎年の恒例となる。 * 2005年 - 過去の四季賞入賞作品48本を収録した『[[アフタヌーン四季賞CHRONICLE]]』を制作(受注生産)。 * [[2006年]] - それまで本誌に掲載されていた四季賞入賞作品が付録冊子(「アフタヌーン四季賞PORTABLE」)に収録されるようになる(4月号)。創刊20周年を記念し、作家64名の[[色紙]][[イラスト]]を収録した[[小冊子]](2007年2月号)や[[永井豪]]の描きおろし短編6本を収録した小冊子「豪ちゃんマガジン」(2007年3月号)が付録としてつけられた<!-- <ref>なお永井の作品が過去に本誌に掲載されたことはない(同じ号に掲載されたエッセイコミック『永井豪40年のキセキ』を除く)</ref> --><!-- 読切シリーズ『ウタマロ 紅蓮の女』掲載によりコメントアウト -->。 * 2007年 - リニューアル後初めて1000ページを突破(8月号)以後1000ページを維持。 * 2008年 - 『[[good!アフタヌーン]]』を隔月刊で発刊。 * 2012年 - 『[[good!アフタヌーン]]』月刊化。 * 2013年 - 11月25日発売の2014年1月号より[[Amazon.co.jp|Amazon]]にて電子[[Kindle]]版を同時配信。 * 2014年 - 10月25日発売予定だった12月号が付録の不具合を理由として10月31日へ発売延期(付録は付かない)<ref>[http://afternoon.moae.jp/news/1644 【『月刊アフタヌーン』12月号発売延期についてのお詫びとお知らせ】 - アフタヌーン公式サイト - モアイ]</ref>。この号のみ、『[[別冊フレンド]]』(2014年11月号)増刊として扱われる。 * 2017年 - 四季賞秋のコンテストから、大賞まで佳作まで全ての受賞作を1週1作品ずつモアイにて公開<ref>2017年12月号、アフタヌーン公式サイトより。</ref>。 * 2021年 - 本誌編集部運営のWebマンガサイト「&Sofa」が11月22日より開始<ref name="natalie20211025">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/450815|title=アフタヌーン編集部が運営する新Webマンガサイト・&Sofa誕生、瀧波ユカリら参加|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-25|accessdate=2021-10-26}}</ref>。オリジナルの漫画やコラムが掲載される{{R|natalie20211025}}。 * 2023年 - 8月号で[[KAT-TUN]]の[[中丸雄一]]が漫画家デビューを果たし、20数年ぶりに雑誌に重版がかかる<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/column/547272|title=40歳の新人マンガ家・中丸雄一|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-13|accessdate=2023-11-13}}</ref>。 == 掲載作品一覧 == '''太字'''は連載中の作品を示す(2023年12月25日現在) === 1980年代 - === 1987年- * 幸福大通り([[内山まもる]]/[[水谷龍二]])2月号 ※『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』より移籍 * Let it be!([[たかもちげん]])2月号 - 11号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * 失礼しまっす!(ヒロナカヤスシ/金山吉龍)2月号 - 4月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * 田舎刑事([[湯浅ひとし]])2月号-1989年5月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * 冒険!ヴィクトリア号!!([[田中政志]])2月号 - 11月号 ※『モーニングオープン増刊』より移籍 * ASUMI([[三浦みつる]])2月号-12月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * 開運セールスマン杉山等くん([[倉田よしみ]])3月号 - 7月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * なって頂戴大物に!(畠山耕太郎)2月号 - 1988年5月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * カンタリス([[三山のぼる]])2月号-7月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * どろくれもん(村尾ただよし)2月号-6月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * あの娘はインディアン・ペッパー!(工藤信介)2月号 - 4月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * マハラジャ日和([[ユズキカズ]])2月号 - 1988年5月号 * リリックス([[森雅之 (漫画家)|森雅之]])2月号 - 1989年5月号 * [[地球氷解事紀|イシュメル=地球氷解事紀=]]([[谷口ジロー]]) 3月号 - 1988年1月号 ※『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』へ移籍 * 僕はムコ養子([[夢野一子]])5月号 - 1993年8月号 * LET IT ROLL([[上條淳士]])5月号 - 9月号 * 戦湯地帯(岩本義行)6月号 - 9月号 * TAXIドライバー([[遊人]]/原案・[[梁石日]])7月号 - 1988年4月号 * 兎〜うさぎ〜([[高口里純]])8月号 - 1988年8月号 * ぶたいぬ([[さだやす圭]])9月号 - 1988年4月号 ※『モーニングマグナム増刊』より移籍 * これから([[倉田よしみ]])10月号 - 1988年1月号 * おっ! 奥田くんだいじょうぶ([[なかたひろお|中田博雄]])11月号-1989年1月号 * Poco Poco(獅子刀夕凪)12月号-1988年5月号 <!-- * Yのテンション(くさのあきひろ)増刊で連載 --> 1988年- * 天晴れ、桜田!([[井浦秀夫]])2月号 - 1990年4月号 * がんばれ! アニマルズ(滝直毅/小原英治)5月号 - 1989年1月号 * ホームタウン(小池利春)5月号 - 8月号 * momo太郎([[内山まもる]]/ヒロナカヤスシ)5月号 - 1990年5月号 * つれづれなるがパンク([[末田雄一郎]])7月号 - 1989年3月号 * 東京不動産キッズ([[杉元伶一|杉本成三]]/上鹿渡健二)7月号 - 1989年3月号 * 永ちゃん([[土田世紀]])8月号 - 1989年5月号 * バサラ([[舟崎克彦]]/[[くさのあきひろ]])9月号 - 1989年6月号 * Golden Sports Times(クリタキョウ/[[森気楼|モリトシアキ]])10月号 - 1990年2月号 * [[ああっ女神さまっ]]([[藤島康介]])11月号 - 2014年6月号 * レンタル([[山口よしのぶ|山口芳宣]])12月号 - 1989年5月号 <!-- * 猫の手貸します([[入江紀子]])増刊号の連載 --> 1989年- * 空を斬る([[三田紀房]])1月号 - 6月号 * SWEET DREAMS([[山田玲司]])2月号 - 7月号 * 車輪(どんいさな)3月号 - 11月号 * 無限館よ永遠に([[前川つかさ]])4月号 - 1990年1月号 * タックルBEAT([[土田世紀]])6月号 - 1990年1月号 * キャプテンアリス([[岩尾奈美恵]])6月号 - 1990年10月号 * 考える侍([[山田芳裕]])6月号 - 1990年6月号 * 天下御免なさい!([[末田雄一郎]])6月号 - 7月号 * 抱きしめてよ秀次郎(畠山耕太郎)7月号 - 11月号 * FLASH([[田中政志]])7月号 - 1990年10月号 * スエダ大学([[末田雄一郎]])8月号 - 1990年2月号 * ひよこさんチーム!(うごのみか)8月号 - 1990年4月号 * 8月の光([[新井英樹]])9月号 - 1990年7月号 * LIZA(かきざき和美)12月号 - 1991年4月号 === 1990年代 - === 1990年- * [[寄生獣]]([[岩明均]])1月号 - 1995年2月号 ※『モーニングオープン増刊』より移籍 * [[Spirit of Wonder]]([[鶴田謙二]])1月号 - 1995年1月号 ※『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』より移籍、シリーズ連載 * MONSTERLAND(F.ANDERSONJr.)1月号 - 4月号 * 我が家のささえ([[田中誠 (漫画家)|田中誠]])2月号 - 1993年9月号 * Pika☆Pika☆([[中野きゆ美]])2月号 - 10月号 * フレックスタイム([[中山昌亮]])2月号 - 8月号 ※1990年2月号のみ作品名「ランチタイム」。 * OLサンダー([[電光石火轟]])3月号 - 1991年2月号 * [[Compiler|コンパイラ]]([[麻宮騎亜]])5月号 - 1992年10月号 * GAIN ([[王欣太|GONTA]])5月号 - 7月号 * サ・ッ・ポ・ロ・関・節・キ・ッ・ズ(光国福洋)7月号 - -1991年3月号 * HEAVEN([[王欣太|GONTA]])8月号 - 1992年3月号 * 侍大冒険([[田中政志]])11月号 - 1991年5月号 * パニックキッス([[岩尾奈美恵]])12月号 - 1991年7月号 1991年- * [[ガンスミスキャッツ|GUN SMITH CATS]]([[園田健一]])2月号 - 1997年6月号 * のぼるくんたち([[いがらしみきお]])3月号 - 1993年9月号 * 虚構体質(南哲秋)3月号 - 11月号 * 龍子(かきざき和美)6月号 - 12月号 * モダンストーリー(未浩)6月号 - 11月号 * 知的ボクサー([[田口雅之]])8月号 - 1992年1月号 ※作品名の「的」は○の中に的。 * 夜の筋肉([[ロビン西|藤嵜ヒトシ]])8月号 - 12月号 1992年 - * 深く美しきアジア([[鄭問]])2月号 - 1994年8月号 * [[ディスコミュニケーション]]([[植芝理一]])2月号 - 2000年11月号 * パラダイスレディー(かきざき和美)2月号 - 1993年1月号 * SINGLE ACTION ARMY([[ヒロモト森一]])2月号 - 1993年1月号 * 眉白町(椎名品夫)2月号 - 9月号 * ドクトル・ノンベ([[中原とほる]])2月号 - 1993年12月号 ※『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』より移籍、シリーズ連載 * ブルーミント・ホテル(小田浩志)3月号 - 1994年1月号 ※1992年7月号までのタイトルは「見知らぬ不思議」。 * 地獄の家([[王欣太|GONTA]]) 4月号 - 1994年5月号 * 人生の方程式(デニス・イー/外藤冲也) 4月号 - 1993年1月号 * ヘルマドンナ([[原口清志]])5月号 - 12月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * [[ワッハマン]]([[あさりよしとお]])5月号 - 1999年4月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * [[よしえサン]]([[須賀原洋行]])5月号 - 2000年7月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * なにわ慕情(岡直裕)5月号 - 1994年2月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * スズキ(安井雄一)5月号 - 2003年3月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * BiO-MANGA(梅緒安土)5月号 - 1993年2月号 * [[岸和田博士の科学的愛情]]([[トニーたけざき]])6月号 - 1998年8月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * [[バイキッズ!]]([[神塚ときお]])6月号 - 1993年4月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍 * チャイニーズエンゼルカンパニー([[たかもちげん]])6月号 - 11月号 * 嗚呼!祐天寺家([[亜月裕]])7月号 - 1993年7月号 ※『モーニングパーティ増刊』より移籍、その後『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』へ移籍 * ウィングハーフ([[岩尾奈美恵]])8月号 - 1993年9月号 * コアラのアラコ(重久享子)9月号 - 1993年1月号 * 天水([[花輪和一]])10月号 - 1994年11月号 * プギ・ポンマリ(ノモトユウ)10月号 - 1997年8月号 * デカさん(ハセキョウゾウ)10月号 - 1993年4月号 * [[地雷震]]([[髙橋ツトム]])11月号 - 2000年1月号 ※毎号連載化は1994年2月号から * [[アセンブラ0X]]([[麻宮騎亜]])12月号 - 1995年8月号 * カニロボの気持ち(アンソニー・ゼアハット)12月号 - 1993年8月号 * 土を喰らう(向中野義雄)12月号 - 1993年10月号 1993年- * れっどまん(柴田芳樹)1月号 - 7月号 * 拡散([[小田ひで次]])1月号 - 1998年3月号 ※シリーズ連載 * 弁慶([[ヒロモト森一]])2月号 - 7月号 * [[ツヨシもっとしっかりしなさい]]([[永松潔]])2月号 - 1994年11月号 * 鍍乱綺羅威挫婀(トランキライザア)(澤田賢二)2月号 - 1994年6月号 * [[スモールマンビッグマウス]](楠岡大悟)2月号 - 7月号 ※シリーズ連載(3回) * Kabelシリーズ(ベネイト)2月号 - 1996年4月号 ※シリーズ連載 * H.I.L.D.ジェレミィ(菊池賢二)2月号 - 1996年3月号 ※シリーズ連載 * 午後3時の魔法([[垣野内成美]])3月号 - 1999年3月号 ※シリーズ連載 * PO+GO(モレノ)3月号 - 1994年6月号 ※シリーズ連載 * [[酒場ミモザ]]([[ほうさいともこ|とだともこ]])4月号 - 1996年11月号 * ガリア日記(井上宣)4月号 - 10月号 * 神の腕(ブロカル・レモイ)6月号 - 1994年3月号 * 妖精事件([[高河ゆん]])6月号 - 1999年9月号 * ラブマシンガンズ (ハセキョウゾウ)6月号 - 9月号 * [[あっかんべェ一休]]([[坂口尚]])7月号 - 1996年1月号 * パーティジョ〜ク(宮本涼子)7月号 - 1997年9月号 * ぼくはおとうと([[小原愼司]])8月号 - 1994年9月号 ※シリーズ連載 * [[無限の住人]]([[沙村広明]])8月号 - 2013年2月号 * 空になる青([[秋山晟]])8月号 - 1996年6月 ※シリーズ連載(4回) * ラ・ムッシュ(ルイス)8月号 - 1994年2月号 * 高密度タコ漫画(栗川アキコ)8月号 - 1996年7月号 * ドミネーター(トニー・ルーク/アラン・グラント)9月号 - 1994年7月号 * ラウドの怪人(イワフチヤスナリ)9月号 - 1994年4月号 * BOX(田中流星)9月号 - 1996年9月号 ※シリーズ連載 * いろけ食堂(林一徳)9月号 - 1995年9月号 * ぐるぐる(森田福助)9月号 - 1997年3月号 * 小さな巨人([[バロン吉元]])10月号 - 1995年4月号 * ブルーガーデン([[あびゅうきょ]])10月号 - 1994年7月号 * JUNK([[戸井十月]]/[[土光てつみ]])11月号 - 1994年7月号 * [[セラフィック・フェザー]](森本洋/武田俊也/[[うたたねひろゆき]])11月号 - 2008年8月号 1994年- * 警察署長ミリアム(こうや鷹彦)1月号 - 1995年12月号 * キバクロウ([[雨宮慶太]])1月号 - 1995年7月号 * 下劣天国(中森一郎)1月号 - 1995年2月号 * [[勇午]]([[赤名修]]/[[真刈信二]])2月号 - 2004年8月号 ※『[[イブニング]]』へ移籍 * ワイズマン([[外薗昌也]])3月号 - 1995年9月号 * やす子の太陽(山浦章)4月号 - 1998年10月号 * ガーディアン・エンジェル(ナンシー)4月号 - 8月号 * A.A.LADY([[的場健]]/デニス・フランシス)5月号 - 9月号 * [[そんな奴ァいねぇ!!]]([[駒井悠]])6月号 - 2009年12月号 ※コーナー扱いであった『[[駒っ旅]]』は独立して2011年11月号まで連載継続。 * はなしっぱなし([[五十嵐大介]])7月号 - 1996年8月号 * AQUA([[都築和彦]])8月号 - 1995年5月号 * [[エンブリヲ]]([[おがわ甘藍|小川幸辰]])8月号 - 1996年1月号 * 要塞学園([[ヒロモト森一]]/[[鳴海丈]])9月号 - 1997年7月号 * [[反町くんには彼女がいない]](有川祐) 9月号 - 1998年7月号 * [[ヨコハマ買い出し紀行]]([[芦奈野ひとし]])9月号 - 2006年4月号 * げ〜術劇場(げ〜ださとし)9月号 - 1999年1月号 * [[大日本天狗党絵詞]]([[黒田硫黄]])10月号 - 1997年1月号 * 空想の大きさ(ジョン・J・ミュース/ジョン・クラモト)10月号 - 1997年8月号 1995年- * いんちき(成人功)2月号 - 1999年3月号 * ドラゴン・ウォー(エスピノ)3月号 - 10月号 * [[ブルーホール (漫画)|ブルー・ワールド]]([[星野之宣]])4月号 - 1997年10月号 * 網吉劇場(亀谷一本)4月号 - 1996年3月号 ※シリーズ連載 * カームブレイカー([[岩瀬昌嗣]])5月号 - 1998年8月号 * Ω(オメガ)([[松森正]]/[[井上敏樹]])6月号 - 1997年9月号 * 龍吟鳳鳴(李載學)7月号 - 1996年8月号 * M-Stage(MON-MON)7月号 - 12月号 * アジアでごはん(トオジョオミホ)8月号 - 1996年11月号 * スカタン野郎([[北道正幸]])9月号 - 1997年4月号 * 二軍(ファーム)昆虫記(森徒利)10月号 - 1999年5月号 * THE FISHBONE(大山玲)12月号 - 1997年8月号 1996年- * 歯男(度魯)2月号-9月号 * WHOO?!([[都築和彦]])3月号 - 1997年7月号 * 我らの流儀(大武ユキ)3月号 - 1997年9月号 * 死鬼導凱歌(矢荻貴子/[[はままさのり]])4月号 - 1997年9月号 * GENOMES(ジェノムズ)([[荒巻圭子]])6月号 - 1997年5月号 * [[犬神 (漫画)|犬神]]([[外薗昌也]])9月号 - 2002年10月号 * [[菫画報]]([[小原愼司]])10月号 - 1999年6月号 * [[ハヤ子サケ道をいく]]([[玉川重機|玉川敏秀]])11月号 - 1997年8月号 * [[幻蔵人形鬼話]]([[高田裕三]])10月号 - 2004年6月号 ※当初は不定期連載、2002年7月号より毎号連載 * 栄光館殺人事件([[おがわ甘藍|小川幸辰]]/青木吾郎)12月号 - -1997年1月号 1997年- * ファミレス隊(りえ太郎)1月号 - 11月号 * [[BLAME!]]([[弐瓶勉]])3月号 - 2003年9月号 * [[仮面天使]](若菜将平)4月号 - 2000年2月号 * 新 首代引受人([[平田弘史]])4月号 - 2001年5月号 ※シリーズ連載 * [[神・風]]([[士貴智志]])5月号 - 2003年3月号 * スカタン天国(パラダイス)([[北道正幸]])5月号 - 1999年9月号 * 越後荒川堂夜話(石坂和道)6月号 - 2000年7月号 ※シリーズ連載 * ヨガのプリンセス プリティーヨーガ(稲留正義)6月号 - 1998年5月号 * [[ヴァンデミエールの翼]]([[鬼頭莫宏]])6月号 - 1998年1月号 ※シリーズ連載 * 孤島館殺人事件([[おがわ甘藍|小川幸辰]]/青木吾郎)8 - 10月号 * [[砲神エグザクソン]]([[園田健一]])10月号 - 2004年7月号 * [[G組のG]](欄外)([[真右衛門]])10月号 - 1999年3月号 * ヒメ HIME([[赤井孝美]])10月号 - 1998年7月号 ※シリーズ連載 * [[EDEN 〜It's an Endless World!〜]]([[遠藤浩輝]])11月号 - 2008年8月号 * [[四年生]]([[木尾士目]])12月号 - 1998年5月号 * ガナパの手([[雨宮慶太]])12月号 - 1999年5月号 1998年- * [[愛天明王物語]]([[見田竜介]])1月号 - 1999年6月号 * [[なるたる]]([[鬼頭莫宏]])5月号 - 2003年12月号 * [[五年生]]([[木尾士目]])7月号 - 2001年1月号 * 電夢時空2 RUNNER([[高山和雅]])9月号 - 1999年4月号 * [[風林火嶄]]([[小川雅史]])10月号 - 2001年2月号 * [[なぁゲームをやろうじゃないか!!]]([[桜玉吉]])11月号 - 2002年2月号 1999年- * [[G組のG]]([[真右衛門]])1999年4月号 - 2005年10月号 * ニライカナイ([[岡田芽武]])5月号 - 2003年1月号 * フォワード([[近藤和久]])5月号 - 8月号 * [[宇宙家族カールビンソン]]([[あさりよしとお]])6月号 - 2000年3月号 * [[ハトのおよめさん]]([[ハグキ]])9月号 - 2012年12月号 * 暁の息子([[樹なつみ]])10月号 - 2000年2月号 * [[黄色い本]]([[高野文子]])10月号 ※読みきり<!-- 手塚治虫文化賞大賞作品ということで例外的に載せています --> * 女禍JOKER([[大西巷一]])11月号 - 2002年2月号 * [[神戸在住]]([[木村紺]])11月号 - 2006年5月号 === 2000年代 - === 2000年- * のぶみのえほん([[のぶみ]])1月号 - -2001年1月号 * クーの世界([[小田ひで次]])1月号 - 2001年1月号 ※2000年9月号からはタイトルが「クーの世界2」に変更。 * ぽちょむきん([[北道正幸]])2月号 - 2002年12月号 * [[家族のそれから]]([[ひぐちアサ]])2月号 - 5月号 * ミルククローゼット([[富沢ひとし]])3月号 - 2001年10月号 * イハーブの生活([[小路啓之]])4月号 - 2002年3月号 * [[スマグラー]]([[真鍋昌平]])5月号 - 8月号 * ANGEL DOLL([[都築和彦]])8月号 - 10月号 * 女神調書([[小原愼司]])9月号 - 12月号 * 天の回廊(秋山晟)10月号 - 2001年10月号 * [[茄子 (漫画)|茄子]]([[黒田硫黄]])11月号 - 2002年10月号 2001年- * 細腕三畳紀([[あさりよしとお]])1月号 - 10月号 * [[ヤサシイワタシ]]([[ひぐちアサ]])1月号 - 2002年2月号 * SPACE PINCHY([[トニーたけざき]])2月号 - 2002年9月号 * [[夢使い]]([[植芝理一]])3月号 - 2004年2月号 * 緑の黙示録([[岡崎二郎]])3月号 - 2003年2月号 ※シリーズ連載 * くまがゆく(あたまん)3月号 - 2004年3月号 * THE END([[真鍋昌平]])4月号 - 2002年11月号 * てんでフリーズ!([[ISUTOSHI]])6月号 - 2004年5月号 * [[アベノ橋魔法☆商店街]]([[鶴田謙二]]/[[ガイナックス|GAINAX]])9月号 - 2003年2月号 * STONe([[ヒロモト森一]])11月号 - 2002年8月号 * [[るくるく]]([[あさりよしとお]])12月号 - 2009年5月号 2002年- * [[空談師]]([[篠房六郎]])3月号 - 2003年7月号 * 蔵野夫人([[一条裕子]])5月号 - 2003年2月号 * [[げんしけん]]([[木尾士目]])6月号 - 2006年7月号 * [[悪1013]]([[小川雅史]])8月号 - 2003年6月号 * ムーン・ロスト([[星野之宣]])11月号 - 2004年6月号 * [[爆音列島]]([[髙橋ツトム]])12月号 - 2013年1月号 * [[リトル・フォレスト]]([[五十嵐大介]])12月号 - 2005年7月号 2003年- * [[蟲師]]([[漆原友紀]])2月号 - 2008年10月号 ※『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』より移籍、隔月連載、2014年1月号 - 2月号に「特別篇『日蝕む翳』」掲載 * '''[[ヒストリエ]]'''([[岩明均]])3月号 - ※2013年10月号より隔月連載明記 * [[もっけ]]([[熊倉隆敏]])3月号-2009年7月号 ※『アフタヌーンシーズン増刊』より移籍、隔月連載 * [[愛読者ボイス選手権 特別版]]([[カラスヤサトシ]])3月号 - 2010年2月号 ※欄外などに掲載 * [[SHADOW SKILL]]([[岡田芽武]])4月号 - 2006年2月号(一時休載)、2009年9月号 - 2014年5月号 ※事実上、不定期連載 * ななはん〜七屋ちょこっと繁盛記〜([[ももせたまみ]])4月号 - 2007年11月号 ※『アフタヌーンシーズン増刊』より移籍 * [[ラブやん]]([[田丸浩史]])4月号 - 2015年7月号 ※『アフタヌーンシーズン増刊』より移籍 * [[ACONY]]([[冬目景]])5月号 - 2004年8月号(一時休載)、2008年9月号 - 2010年9月号 * [[ラブロマ]]([[とよ田みのる]])5月号 - 2005年12月号 * [[TOKKO 特公]]([[藤沢とおる]])6月号 - 2004年4月号 * Kiss girl([[上田宏則]])7月号 - 9月号 * ダンダラ([[赤名修]])8月号 - 12月号 * マゴロボ(トミイマサコ)9月号 - 2004年5月号 * 犬姫様([[二宮ひかる]])10月号 - 2004年4月号 * '''[[おおきく振りかぶって]]'''([[ひぐちアサ]])11月号 - 2011年2月号(一時休載)、2012年1月号 - 2016年10月号(一時休載)、2017年9月号 - 2004年- * ラヂオヘッド([[内藤曜ノ介]])1月号 - 12月号 * [[俺と悪魔のブルーズ]]([[平本アキラ]])2月号 - 2008年4月号 ※未完のまま連載中断、『[[ヤングマガジンサード]]』へ移籍 * カラプリ([[麻宮騎亜]])2月号 - 9月号 * '''プ〜ねこ'''([[北道正幸]])2月号- * くまがくる(あたまん)2月号 - 2005年10月号 * [[ほしのこえ]]([[佐原ミズ]]/[[新海誠]])4月号 - 2005年2月号 * [[しおんの王]]([[安藤慈朗]]/[[かとりまさる]])5月号 - 2008年6月号 * [[神社のススメ]]([[田中ユキ]])6月号 - 2006年8月号 * アキバ署!([[瀬尾浩史]])7月号 - 2006年11月号 ※隔月連載 * リンガフランカ([[鹿島麻耶|滝沢麻耶]])8月号 - 12月号 * [[リトル・ジャンパー]]([[高田裕三]])9月号 - 2008年10月号 * [[ガンスミスキャッツ|GUNSMITH CATS BURST]]([[園田健一]])9月号 - 2008年11月号 * under current([[豊田徹也]])10月号 - 2005年10月号 * ぺし([[風呂前有]])11月号 - 2007年12月号 2005年- * [[すずめすずなり]]([[秋山はる]])1月号 - 2006年6月号 * [[愛読者ボイス選手権 特別版|愛読者ボイス選手権 超拡大版]]([[カラスヤサトシ]])3月号 - 2010年2月号 * [[臨死!!江古田ちゃん]]([[瀧波ユカリ]])4月号 - 2014年9月号 * [[終戦のローレライ]]([[虎哉孝征]]/[[長崎尚志]]/[[福井晴敏]])4月号 - 2007年11月号 * ミシ([[黒田硫黄]])4月号 - 9月号 * [[巌窟王 (テレビアニメ)|巌窟王]]([[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]/有原由良)5月号 - 2006年11月号、2008年5月号に完結編 * [[ハツカネズミの時間]]([[冬目景]])7月号 - 2008年4月号 ※『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』より移籍 * [[ガガガガ]]([[山下ユタカ|山下ゆたか]])8月号 - 2007年11月号 ※『[[週刊ヤングマガジン]]』より移籍、『Michao』携帯配信へ移行 * [[世界の孫]]([[SABE]])10月号 - 2008年3月号 * [[宙のまにまに]]([[柏原麻実]])11月号 - 2011年8月号 ※2011年9月号に番外編となる「青春の光(マボロシ)編」掲載 * [[G組のG|3年G組長州先生]]([[真右衛門]])11月号 - 2006年1月号 <!-- * 超市民F([[ふくしま政美]]/[坂本六有]]/)2005年5月号に新連載作品として掲載もこの号以降掲載されなかった --> 2006年- * '''[[ヴィンランド・サガ]]'''([[幸村誠]])2月号 - ※『[[週刊少年マガジン]]』より移籍 * [[雲のむこう、約束の場所]]([[佐原ミズ]]/[[新海誠]])2月号 - 10月号 * [[G組のG|G組のG 猛将伝]]([[真右衛門]])2月号 - 7月号 * [[謎の彼女X]]([[植芝理一]])5月号 - 2014年11月号 * [[ナチュン]]([[都留泰作]])8月号 - 2010年4月号 * [[あたらしい朝]]([[黒田硫黄]])9月号 - 2010年12月号 ※実質的に不定期連載 * パノラマデリュージョン([[小原愼司]])10月号 - 2008年3月号 * [[くじびきアンバランス|くじびき♥アンバランス]]([[小梅けいと]]/[[木尾士目]])11月号 - 2008年2月号 * 呪街([[惣本蒼]])12月号 - 2010年1月号 ※隔月連載 2007年- * [[ミミア姫]]([[田中ユタカ]])1月号 - 2009年5月号 * [[巨娘]]([[木村紺]])1月号 - 9月号 ※隔月連載。アフタヌーン増刊号『good!アフタヌーン』(2008年11月創刊)にて再開。 <!-- 毎回のタイトル自体に掲載話数が含まれる。「巨娘さん」「巨娘よん」「ご巨娘」など。 --> * [[大江戸ロケット]]([[浜名海]]/[[中島かずき]])4月号 - 2009年9月号 * [[ザリガニ課長]]([[そにしけんじ]])5月号 - 2010年5月号 * [[吉田家のちすじ]]([[中島守男]])5月号 - 2010年11月号 * [[チノミ]]([[吉永龍太]])6月号 - 2008年8月号 * 元祖ユルヴァちゃん([[西本英雄]])6月号 - 2010年11月号 * みんなのきせき([[内藤曜ノ介]])7月号 - 2008年3月号<!--未完、最後に載った号 --> * 学園夢探偵 獏([[鹿島麻耶]])8月号 - 0月号 * [[カブのイサキ]]([[芦奈野ひとし]])8月号 - 2013年1月号 ※当初不定期掲載、2008年4月号より隔月連載、2010年4月号より連載。 * [[ファンシーGUYきゃとらん]]([[くぼたまこと]])11月号 - 2010年2月号 * [[ヴァムピール]]([[樹なつみ]])12月号 - 2010年4月号 2008年- * スピリット魂([[秋本こうじ]])1月号 - 2009年11月号 * [[トライアルライド]]([[小林知恵子]]/[[魚住青時]])1月号 - -2009年7月号 ※2009年8月号に作画担当の小林の出産報告と休載が告知され、2011年6月号に「特別編」掲載と『[[good!アフタヌーン]]』16号からの連載再開が発表された。 * [[オクターヴ (漫画)|オクターヴ]]([[秋山はる]])3月号 - 2011年2月号 * [[FLIP-FLAP (漫画)|FLIP-FLAP]]([[とよ田みのる]])3月号 - 6月号 * [[百舌谷さん逆上する]]([[篠房六郎]])3月号 - 2013年9月号 * [[からん]]([[木村紺]])5月号 - 2011年6月号 * [[珈琲時間 (漫画)|珈琲時間]]([[豊田徹也]])7月号 - 2009年12月号 * [[ぢごぷり]]([[木尾士目]])7月号 - 2010年8月号 * [[ハックス!]]([[今井哲也]])7月号 - 2010年6月号 * [[もえタイ]]([[杉基イクラ]])7月号 - 9月号 * [[ベントラーベントラー]]([[野村亮馬]])8月号 - 2010年5月号 ※第2回は11月号、以降連載 * 火曜午後9時([[岡戸達也]])9月号 - 11月号 ※「DoLL」「夏をおぼえる」との 3作同時連載開始。 * DoLL(岡戸達也)9月号 - 2009年10月号 * 夏をおぼえる(岡戸達也)9月号 - 12月号 * 世界に羽ばたけ轟先生!([[神原則夫]])11月号 - 2010年1月号 2009年- * アストライアの天秤([[小川悦司 (漫画家)|小川悦司]]/[[さいふうめい|竹内一郎]]) ※1月号に『さばき、さばかれ、アストライアの天秤』の題名で掲載、以降2011年6月号まで不定期連載。 * [[ZOMBIEMEN]]([[岡エリ]]/[[樹崎聖]])1月号 - 3月号 ※シリーズ連載 * バーサス!([[和田依子]])2月号 - 5月号 * ウタマロ 紅蓮の女([[永井豪]])2月号 - 2010年5月号 ※シリーズ連載 * コス丸くん([[猪熊あき代]])2月号 - 4月号 * [[友達100人できるかな]]([[とよ田みのる]])3月号 - 2011年4月号 * [[いもうとデイズ]]([[田中ユキ]])3月号 - 2011年4月号 * 菱川さんと猫 -ゲバラシリーズ-([[萩尾望都]]/[[田中アコ]])5月号 - 2010年10月号 ※シリーズ連載 * [[薬師寺涼子の怪奇事件簿]]([[垣野内成美]]/[[田中芳樹]])5月号 - 2013年11月号 ※『[[月刊マガジンZ]]』より移籍。エピソード毎の集中連載方式。 * [[武士道シックスティーン]]([[安藤慈朗]]/[[誉田哲也]])5月号 - 2010年12月号 * [[シドニアの騎士]]([[弐瓶勉]])6月号 - 2015年11月号<ref name="natalie150925">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/160948|title=弐瓶勉「シドニアの騎士」完結!TVアニメ化もされたロボットSF|publisher=コミックナタリー|date=2015-09-25|accessdate=2015-09-25}}</ref> * 少年式少女(和田依子)10月号 - 2010年12月号 * [[雪月記]]([[猪熊しのぶ]]/[[山上旅路]])11月号 - 2011年2月号 === 2010年代 - === 2010年- * [[水域 (漫画)|水域]]([[漆原友紀]])1月号 - 12月号 * [[BUTTER!!!]]([[ヤマシタトモコ]])2月号 - 2013年4月号 * [[愛読者ボイス選手権 特別版|アフタ寺問答201x 特別版]]、アフタ寺問答201x 超拡大版([[カラスヤサトシ]])共に3月号 - 2013年2月号 ※欄外などに掲載 * 雑草女([[朝基まさし]]/[[山田隆道]])4月号 - 2011年11月号 * 弾丸ティアドロップ([[稲見独楽]])5月号 - 2011年5月号 * 018([[宮川輝]])6月号 - 2011年1月号 * [[秒速5センチメートル]]([[清家雪子]]/[[新海誠]])7月号 - 2011年5月号 * [[ブレット・ザ・ウィザード]]([[園田健一]])9月号 - 2013年2月号 * 闘え!! 父さんチョップ([[そにしけんじ]])9月号 - 2011年9月号 * [[ネクログ]]([[熊倉隆敏]])11月号 - 2012年12月号 <!--ロゴでは「尸彔」と表記されているが、目次等では片仮名表記のみ --> * [[げんしけん|げんしけん 二代目]]([[木尾士目]])12月号 - 2016年10月号 * 侍父([[錦ソクラ]])12月号 - 2012年4月号 2011年- * [[ぼくらのよあけ]]([[今井哲也]])3月号 - 12月号 * じゃりテン([[赤井吟行]])4月号 - 2012年4月号 * イコン([[田中一行]])5月号 - 2012年1月号 * [[天地明察]]([[槇えびし]]/[[冲方丁]])6月号 - 2015年12月号 * 幼軍隊(おさなぐんたい)([[松本勇祐]])8月号 - 2012年12月号 * [[今日のユイコさん]]([[秀河憲伸]])11月号 - 2015年6月号<!-- 事実上、毎月連載されていた --> * [[戯言シリーズ#人間シリーズ|零崎双識(ゼロサキソウシキ)の人間試験]]([[シオミヤイルカ]]/[[西尾維新]])11月号 - 2013年8月号 ※2013年10月号に外伝掲載 * 冒険エレキテ島([[鶴田謙二]])11月号 - 2017年12月号 ※不定期掲載、『[[講談社BOX|漫画BOX AMASIA]]』より移籍 * [[アップルシード#APPLESEED XIII|APPLESEED XIII]]([[宮川輝]]/[[士郎正宗]]・[[青心社]]・「アップルシード XIII」製作委員会)12月号 - 2013年6月号 * はじまりのはるシリーズ([[端野洋子]])12月号 - ※12月号『はじまりのはる』、2012年9月号『はじまりのはる2 故郷』読切掲載を経て、2013年8月号-12月号に『はじまりのはる3 チェーンソー・ラプソディー』を、2016年1月号-5月号に『ハッピーエンド?』を連載 2012年- * 勇者ヴォグ・ランバ([[庄司創]])1月号 - 2013年3月号 * 山口とう子が取り調べます。([[中島守男]])1月号 - 2013年6月号 * まじめな時間([[清家雪子]])2月号 - 10月号 * [[天の血脈]]([[安彦良和]])3月号 - 2016年11月号 * リマスターズ!([[みやざき明日香]])3月号 - 2013年3月号 * [[こたつやみかん]]([[秋山はる]])5月号 - 2014年6月号 ※5月号 - 6月号前後編掲載を経て、2013年2月号より連載化 * [[ゴン (漫画)|カラー連載 GON-ゴン-]]([[田中政志]])5月号 - 2013年4月号 ※少ページのカラーイラスト。その後、2013年11月号にモノクロ・通常のコマ割り漫画形式の読切を掲載。 * 午後のお花屋さん([[友沢マサオ]])8月号 - 2013年2月号 * '''[[宝石の国]]'''([[市川春子]])12月号 - 2013年- * たくのこ([[花輪園人]])1月号 - 6月号 * [[愛読者ボイス選手権 特別版|アメゾ・ザ・ボイスはカラスヤサトシのもの]]、アフタヌーンはカラスヤサトシのもの([[カラスヤサトシ]])共に3月号 - 2016年6月号 ※欄外などに掲載 * 遠い食卓([[イシダナオキ]])3月号 - 2015年6月号 ※不定期掲載、2015年9月号に特別編掲載 * [[インハンド|ネメシスの杖]]([[朱戸アオ]])3月号 - 2013年8月号 * 思春期シンドローム([[赤星トモ]])4月号 - 2015年4月号 * タナトスの使者([[赤名修]]/[[吉田穣]])4月号 - 2014年11月号 * ほしにねがいを([[中川貴賀]])4月号 - 7月号 * 神様がうそをつく。([[尾崎かおり]])5月号 - 9月号 * [[言の葉の庭]]([[本橋翠]]/[[新海誠]])6月号 - 12月号 * ミズサキマキ 水惑星再開発推進機構([[吉本ゆーすけ]])6月号 - 2014年3月号 * さわれぬ神にたたりなし([[閂夜明]])7月号 - 2015年4月号 * [[ベムハンター・ソード]]([[星野之宣]])7月号 - 2015年2月号 ※不定期連載、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』より移籍。 * [[マージナル・オペレーション]]([[キムラダイスケ]]/[[芝村裕吏]]・[[星海社FICTIONS]]『マージナル・オペレーション』より([[星海社]]刊))7月号 - 2021年3月号 * キヌ六([[野村亮馬]])8月号 - 2014年7月号 * 芸能すまいる日和([[十野七]])8月号 - 2014年7月号 * スパイの家([[雨松]]/[[真刈信二]])9月号 - 2015年10月号 * 風姿十二花([[冬目景|冬目ケイ]]+[[若緒]])9月号 - 2014年8月号 ※ポスターイラスト * 星のポン子と豆腐屋れい子([[トニーたけざき]]/[[小原愼司]])10月号 - 12月号 * [[月に吠えらんねえ]]([[清家雪子]])11月号 - 2019年9月号 2014年- * [[コトノバドライブ]]([[芦奈野ひとし]])3月号 - 2017年3月号 * 白馬のお嫁さん([[庄司創]])5月号 - 2016年7月号 * マイボーイ([[木村紺]])5月号 - 2016年2月号 * 螺旋じかけの海([[永田礼路]])5月号 - 2016年12月号 ※シリーズ連載 * '''アンダー3'''([[榎本俊二]])6月号 - * [[パラダイスレジデンス]]([[藤島康介]])7月号 - 2016年3月号 ※『[[good!アフタヌーン]]』より移籍。 * マルさんのスナック([[シオミヤイルカ]])7月号 - 2015年4月号 ※2015年7月号に「番外編」掲載 * '''[[フラジャイル 病理医岸京一郎の所見]]'''([[恵三朗]]/[[草水 敏]])8月号 - * '''[[波よ聞いてくれ]]'''([[沙村広明]])9月号 - * [[戯言シリーズ#人間シリーズ|零崎軋識(ゼロサキキシシキ)の人間ノック]]([[チョモラン]]/[[西尾維新]])10月号 - 2016年11月号 * 花井沢町公民館便り([[ヤマシタトモコ]])10月号 - 2016年8月号 2015年- * あさはかな夢みし([[瀧波ユカリ]])1月号 - 2017年3月号 * 葬送のリミット([[篠房六郎]])5月号 - 2016年10月号 * [[ディザインズ]]([[五十嵐大介]])6月号 - 2019年5月号 ※隔月連載 * そろそろ家の話をしましょう。([[西本英雄]])7月号 - 2016年6月号 * カナリアたちの舟([[高松美咲]])8月号 - 2016年1月号 ※短期集中連載 * BLACK-BOX([[髙橋ツトム]])8月号 - 2019年5月号 * Vet's Egg([[ほづみりや]])9月号 - 2017年3月号 ※2014年10月号読切掲載作品の連載化 * 少女回路([[横山キムチ]])11月号<ref name="natalie150925"/> - 2018年2月号 2016年- * [[ぼくは愛を証明しようと思う。]]([[井雲くす]]/[[藤沢数希]])1月号 - 2018年4月号 * 発症区([[いとまん]])3月号 - 2017年10月号 * [[彼女と彼女の猫]]([[山口つばさ]]/[[新海誠]])4月号 - 7月号 * [[インハンド|インハンド 紐倉博士とまじめな右腕]]([[朱戸アオ]])5月号 - 7月号 ※短期集中連載 * 探偵プロビデンス 迷宮事件解明録([[外木寸]])6月号 - 9月号 ※シリーズ連載 * '''トップウGP'''([[藤島康介]])7月号 - * 小さな恋のやおよろず([[千真]])7月号 - -2019年1月号 * [[ライフ2 ギバーテイカー]]([[すえのぶけいこ]])8月号 - 2018年12月号 * 球場三食([[渡辺保裕]])8月号 - 2018年3月号 * あやつき([[寺田亜太朗]])9月号 - 2017年11月号 * 聖域コンシェルジュ([[鈴木ミニラ]])9月号 - 2017年10月号 * [[ソフトメタルヴァンパイア]]([[遠藤浩輝]])10月号 - 2019年2月号 * あしあと探偵([[園田ゆり]])11月号 - 2017年10月号 * 春と盆暗([[熊倉献]])11月号 - 2017年2月号 * 僕のクラスの織田君は([[秋津そたか]])11月号 - 2017年6月号 * 大上さん、だだ漏れです。([[吉田丸悠]])12月号 - 2020年1月号 2017年- * [[あたりのキッチン!]]([[白乃雪]])1月号 - 2018年11月号 * '''[[青野くんに触りたいから死にたい]]'''([[椎名うみ]])2月号 - * ミコさんは腑に落ちない([[イツ家朗]])2月号 - 2018年1月号 * '''[[イサック (漫画)|イサック]]'''([[DOUBLE-S]]/[[真刈信二]])3月号 - * [[もう、しませんから。|もう、しませんから。 〜アフタヌーン激流編〜]]([[西本英雄]])3月号 - 2020年2月号 * シンギュラリティは雲をつかむ([[園田俊樹]])4月号 - 2018年6月号 * 魃鬼([[下川咲]])5月号 - 2018年4月号 * [[我らコンタクティ]]([[森田るい]])5月号 - 11月号 * バギーウィップ([[大野すぐる]])6月号 - 2018年9月号 * [[大蜘蛛ちゃんフラッシュ・バック]]([[植芝理一]])7月号 - 2020年8月号 * '''[[ブルーピリオド]]'''([[山口つばさ]])8月号 - * しったかブリリア([[珈琲 (漫画家)|珈琲]])9月号 - 2018年7月号 * '''[[来世は他人がいい]]'''([[小西明日翔]])10月号 - * 金のひつじ([[尾崎かおり]])11月号 - 2019年4月号 * 恋の罪 -エルネスティナ-([[如月芳規]])12月号 - 2019年9月号 * ダレカノセカイ([[三都慎司]])12月号 - 2018年12月号 2018年- * [[全生物に告ぐ]]([[オオヒラ航多]])1月号 - 2019年1月号 * '''[[天国大魔境]]'''([[石黒正数]])3月号 - * '''[[カラスヤサトシ (漫画)|帰ってきたカラスヤサトシ]]'''([[カラスヤサトシ]])3月号 - * はしっこアンサンブル([[木尾士目]])4月号 - 2022年3月号 * 猫が西向きゃ([[漆原友紀]])6月号 - 2021年2月号 ※隔月連載 * 概念ドロボウ([[田中一行]])8月号 - 2019年9月号 * '''[[スキップとローファー]]'''([[高松美咲]])10月号 - * '''乾と巽 -ザバイカル戦記-'''([[安彦良和]])11月号 - * おあいにくさま!([[近由子]])12月号 - 2019年9月号 2019年- * [[ああっ女神さまっ#スピンオフ|ああっ就活の女神さまっ]]([[青木U平]]/[[よしづきくみち]]/[[藤島康介]])3月号 - 2021年12月号 * '''[[ワンダンス]]'''([[珈琲 (漫画家)|珈琲]])3月号 - * '''[[無限の住人|無限の住人 〜幕末ノ章〜]]'''([[滝川廉治]]/[[陶延リュウ]]/[[沙村広明]])7月号 - * [[HUMAN LOST 人間失格]]([[髙城隆介]]/[[京楽産業ホールディングス|MAGNET]]・[[スロウカーブ]]/[[太宰治]])8月号 - 2019年12月号 ※短期集中連載 * [[天気の子]]([[窪田航]]/[[新海誠]])9月号 - 2020年10月号 * [[十角館の殺人]]([[清原紘]]/[[綾辻行人]])10月号 - 2022年6月号 === 2020年代 - === 2020年- * 友達として大好き([[ゆうち巳くみ]])3月号 - 2021年7月号 * '''[[もう、しませんから。|もう、しませんから。 〜青雲立志編〜]]'''([[西本英雄]])3月号 - * '''[[メダリスト (漫画)|メダリスト]]'''([[つるまいかだ]])7月号 - * '''[[ダーウィン事変]]'''([[うめざわしゅん]])8月号 - * スポットライト([[三浦風]])9月号 - 2021年9月号 2021年- * Q、恋ってなんですか?([[Fiok Lee]])6月号 - 2022年4月号 * 魔王の帰還([[嵐山のり]]/[[一穂ミチ]])6月号 - 9月号 * [[アイの歌声を聴かせて]]([[前田めぐむ]]/[[吉浦康裕]])8月号 - 2022年9月号 * ビターエンドロール([[佐倉旬]])8月号 - 2022年12月号 * '''[[天狗の台所]]'''([[田中相]])11月号 - 2022年- * '''ヘルハウンド'''([[皆川亮二]])8月号 - * '''カオスゲーム'''(山嵜大輝)9月号 - * 民俗学者 赤坂弥一郎の事件簿([[芳崎せいむ]]/[[リチャード・ウー]])10月号 - 2023年5月号 * [[medium 霊媒探偵城塚翡翠]]([[清原紘]]/[[相沢沙呼]])11月号 - 2023年11月号 * '''[[すずめの戸締まり]]'''(甘島伝記/[[新海誠]])12月号 - 2024年2月号 2023年- * '''最果てのセレナード'''(ひの宙子)1月号 - * '''クオーツの王国'''(BOMHAT)2月号 - * '''地獄のアシタ'''(ゆうち巳くみ)4月号 - * '''冥冥冥色聖域'''(セキアユム)4月号 - * '''7人の眠り姫'''(FiokLee)5月号 - * 山田君のざわめく時間([[中丸雄一]])8月号 - 2024年1月号 ※短期集中連載<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/529991|title=KAT-TUN・中丸雄一がアフタで短期集中連載開始、“ざわめいて”しまう青年描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-23|accessdate=2023-06-23}}</ref> * '''ミライライフライ'''(雨田青)12月号 - 2024年- * '''どくだみの花咲くころ'''(城戸志保)1月号 - == 漫画賞受賞作品 == * [[寄生獣]]([[岩明均]]) - 第17回[[講談社漫画賞]]一般部門(1993年)、第27回[[星雲賞]]コミック部門(1996年) * [[あっかんべェ一休]]([[坂口尚]]) - 第25回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(1995年) * [[無限の住人]]([[沙村広明]]) - 第1回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞(1997年) * 越後荒川堂夜話([[石坂和道]]) - 第29回日本漫画家協会賞優秀賞(2000年) * [[神戸在住]]([[木村紺]]) - 第31回日本漫画家協会賞新人賞(2002年) * [[黄色い本]]([[高野文子]]) - 第7回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(2003年) * [[蟲師]]([[漆原友紀]]) - 第7回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(2003年)、第30回講談社漫画賞一般部門(2006年) * [[おおきく振りかぶって]]([[ひぐちアサ]]) - 第10回手塚治虫文化賞新生賞(2006年)、第31回講談社漫画賞一般部門(2007年) * [[ヨコハマ買い出し紀行]]([[芦奈野ひとし]]) - 第38回星雲賞コミック部門(2007年) * [[ああっ女神さまっ]]([[藤島康介]]) - 第33回講談社漫画賞一般部門(2009年) * 虫と歌 市川春子作品集([[市川春子]]) -第14回[[手塚治虫文化賞]]新生賞 (2010年) * [[ヒストリエ]]([[岩明均]])-第16回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞(2012年) * [[我らコンタクティ]]([[森田るい]])-[[マンガ大賞]]2018 第2位 (2018年) * [[天国大魔境]]([[石黒正数]])-[[このマンガがすごい!]]2019 第1位(2018年) * [[フラジャイル 病理医岸京一郎の所見]] (原作:草水敏・漫画:恵三朗)-第42回講談社漫画賞一般部門(2018年) == 他メディア展開作品 == === アニメ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ テレビアニメ !作品 !放送年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[なるたる]] |2003年 |[[プラネットエンターテイメント|プラネット]] | |- | rowspan="2" |[[勇午]] | rowspan="2" |2004年 |[[G&G Direction|G&G]](パキスタン編) | rowspan="2" | |- |[[アートランド]](ロシア編) |- | rowspan="3" |[[げんしけん]] |2004年(第1期) |[[パルム (アニメ制作会社)|パルムスタジオ]] | rowspan="3" | |- |2007年(第2期) |[[アームス]] |- |2013年(二代目) |[[プロダクション・アイジー|Production I.G]] |- | rowspan="2" |[[ああっ女神さまっ]] |2005年(第1期) | rowspan="2" |[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]] | rowspan="2" | |- |2006年(第2期) |- | rowspan="2" |[[蟲師]] |2005年(第1期) | rowspan="2" |ART LAND | rowspan="2" | |- |2014年(特別編、第2期) |- |[[TOKKO 特公]] |2006年 |[[グループ・タック]]<br />AICスピリッツ | |- |[[夢使い]] |2006年 |[[マッドハウス]] | |- | rowspan="2" |[[おおきく振りかぶって]] |2007年(第1期) | rowspan="2" |[[A-1 Pictures]] | rowspan="2" | |- |2010年(第2期) |- |[[もっけ]] |2007年 |マッドハウス<br />[[手塚プロダクション]] | |- |[[しおんの王]] |2007年 |[[スタジオディーン]] | |- |[[無限の住人]] |2008年 |[[ビィートレイン]] | |- |[[宙のまにまに]] |2009年 |[[スタジオコメット]] | |- | rowspan="2" |[[臨死!!江古田ちゃん]] |2011年(第1作) ! |[[ユルアニ?]]内<br />『元気!!江古田ちゃん』として放送 |- |2019年(第2作) |[[臨死!!江古田ちゃん#スタッフ(テレビアニメ第2作)|オムニバス形式]] | |- |[[謎の彼女X]] |2012年 |[[フッズエンタテインメント]] | |- | rowspan="2" |[[シドニアの騎士]] |2014年(第1期) | rowspan="2" |[[ポリゴン・ピクチュアズ]] | rowspan="2" | |- |2015年(第2期) |- |[[寄生獣]] |2014年 |マッドハウス | |- |[[宝石の国]] |2017年 |[[オレンジ (アニメ制作会社)|オレンジ]] | |- | rowspan="2" |[[ヴィンランド・サガ]] |2019年(第1期) |[[ウィットスタジオ|WIT STUDIO]] | rowspan="2" | |- |2023年(第2期) |[[MAPPA]] |- |[[波よ聞いてくれ]] |2020年 |[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]] | |- |[[ブルーピリオド]] |2021年 |[[Seven Arcs]] | |- |[[天国大魔境]] |2023年 |Production I.G | |- |[[スキップとローファー]] |2023年 |[[ピーエーワークス|P.A.WORKS]] | |- |[[メダリスト (漫画)|メダリスト]] |未発表 |[[ENGI]] | |- |[[来世は他人がいい]] |未発表 |未発表 | |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 劇場アニメ !作品 !公開年 !監督 !アニメーション制作 !備考 |- |[[ああっ女神さまっ]] |2000年 |[[合田浩章]] |AIC | |- |[[茄子 (漫画)|茄子]] |2003年 |[[高坂希太郎]] |マッドハウス | |- |[[ぼくらのよあけ]] |2022年 |黒川智之 |[[ゼロジー]] | |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ OVA !作品 !発売年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[Spirit of Wonder]] |1991年-2004年 |[[亜細亜堂]] | |- |[[ああっ女神さまっ]] |1993年-1994年 |AIC | |- | rowspan="2" |[[Compiler|コンパイラ]] | rowspan="2" |1994年-1995年 |[[アニメイトフィルム]](陰の章、陽の章) | rowspan="2" | |- |[[スタジオ・ファンタジア|スタジオファンタジア]](FESTA) |- |[[ガンスミスキャッツ]] |1995年-1996年 |[[オー・エル・エム|OLM]] | |- | rowspan="2" |[[ヨコハマ買い出し紀行]] |1998年(第1期) | rowspan="2" |亜細亜堂 | rowspan="2" | |- |2002年-2003年(第2期) |- |[[BLAME!]] |2003年 |グループ・タック | |- |[[げんしけん]] |2006年-2007年 |亜細亜堂 |『くじびき♥アンバランス』DVDボックス同梱 |- |[[茄子 (漫画)|茄子]] |2007年 |マッドハウス | |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ Webアニメ !作品 !配信年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[無限の住人]] |2019年-2020年 |[[ライデンフィルム]] | |} === テレビドラマ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !放送年 !制作 !備考 |- |[[フラジャイル 病理医岸京一郎の所見]] |2016年 |[[フジテレビジョン|フジテレビ]] | |- |[[青野くんに触りたいから死にたい]] |2022年 |[[WOWOW]]<br />ソケット | |- |[[天狗の台所]] |2023年 |ラインバック | |- |[[あたりのキッチン!]] |2023年 |[[東海テレビ]] | |- |[[波よ聞いてくれ]] |2023年 |[[テレビ朝日]] | |} === 実写映画 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !配給 !備考 |- |[[蟲師]]([[蟲師 (映画)|映画]]) |2007年 |[[ショウゲート]] | |- |[[スマグラー]] |2011年 |[[ワーナー ブラザース ジャパン|ワーナー・ブラザース映画]] | |- |[[寄生獣]]([[寄生獣 (映画)|映画]]) |2014年-2015年(2部構成) |[[東宝]] | |- |[[無限の住人]] |2017年 |ワーナー・ブラザース映画 | |- |[[アンダーカレント (漫画)|アンダーカレント]] |2023年 |[[角川映画|KADOKAWA映画]] | |} === ドラマCD === * [[ああっ女神さまっ]](藤島康介) - 1991年 * [[ヨコハマ買い出し紀行]](芦奈野ひとし) - 1996年 - 2002年 * [[ディスコミュニケーション]](植芝理一) - 1996年 * [[カームブレイカー]]([[岩瀬昌嗣]])- 1997年 * [[岸和田博士の科学的愛情]]([[トニーたけざき]]) - 1997年 - 1998年 * [[反町君には彼女がいない]]([[有川祐]]) - * [[げんしけん]](木尾士目) - 2006年(特装単行本付録) === ラジオドラマ === * [[臨死!!江古田ちゃん]](瀧波ユカリ) - 2009年([[オールナイトニッポンモバイル]]にて[[ネット配信|配信]]) === 小説 === * [[勇午]](赤名修、真刈信二) - 『勇午―交渉人 in ロシア&インディア』(真刈信二著、1999年、講談社アフタヌーンノベルス) * [[地雷震]]([[髙橋ツトム]]) - 『D.O.A 地雷震』([[新田隆男]]著、2000年、講談社ノベルス) * [[ああっ女神さまっ]](藤島康介) - 『ああっ女神さまっ 初終-First End-』([[冬馬由美]]著、2006年、講談社アフタヌーンノベルス) * [[蟲師]](漆原友紀) - 『小説 蟲師』([[辻井南青紀]]著、2007年、講談社KCノベルス)※映画版のノベライズ * [[夢使い]](植芝理一) - 『小説・夢使い』([[小林靖子]]著、2007年、講談社KCノベルス) * [[げんしけん]](木尾士目) - 『小説 げんしけん』([[飯田和敏]]著、2008年、講談社KCノベルス) * [[無限の住人]](沙村広明) - 『無限の住人 忍獣異聞』([[大迫純一]]著、2008年、講談社KCノベルス) * [[ヨコハマ買い出し紀行]](芦奈野ひとし) - 『小説ヨコハマ買い出し紀行 -見て、歩き、よろこぶ者-』([[香月照葉]]著、2008年、講談社KCノベルス) === メディアミックス作品 === * [[アベノ橋魔法☆商店街]]([[鶴田謙二]]、[[ガイナックス|GAINAX]]) * [[ほしのこえ]]([[佐原ミズ]]、[[新海誠]]) * [[終戦のローレライ]]([[虎哉孝征]]、[[長崎尚志]]、[[福井晴敏]]) * [[巌窟王 (テレビアニメ)|巌窟王]]([[前田真宏 (アニメ監督)|前田真宏]]、[[有原由良]]) * [[雲のむこう、約束の場所]](佐原ミズ、新海誠) * [[くじびきアンバランス|くじびき♥アンバランス]]([[小梅けいと]]、木尾士目) * [[大江戸ロケット]]([[浜名海]]、[[中島かずき]]) * [[秒速5センチメートル]]([[清家雪子]]、新海誠) * [[アップルシード#APPLESEED XIII|APPLESEED XIII]]([[宮川輝]]、[[士郎正宗]]/[[青心社]]・「アップルシード XIII」製作委員会) == 発行部数 == '''発行部数(2008年4月以前) ''' * 2004年(2003年9月 - 2004年8月):144,583部<ref name="jmpa">[http://www.j-magazine.or.jp/ 社団法人日本雑誌協会]JMPAマガジンデータによる該当期間中に発売された雑誌1号当たりの平均印刷部数。</ref> * 2005年(2004年9月 - 2005年8月):133,834部<ref name="jmpa" /> * 2006年(2005年9月 - 2006年8月):127,417部<ref name="jmpa" /> * 2007年(2006年9月 - 2007年8月):119,666部<ref name="jmpa" /> * 2008年(2007年10月 - 2008年9月):115,000部<ref name="jmpa" /> {| class="wikitable" |+ 発行部数(2008年4月以降)([https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index 一般社団法人 日本雑誌協会]) ! !! 1〜3月 !! 4〜6月 !! 7〜9月 !! 10〜12月 |- ! 2008年 | || 114,000 部 || 114,334 部 || 117,667 部 |- ! 2009年 | 112,667 部 || 106,334 部 || 105,000 部 || 105,000 部 |- ! 2010年 | 104,334 部 || 102,000 部 || 100,000 部 || 100,000 部 |- ! 2011年 | 98,000 部 || 95,000 部 || 91,667 部 || 91,667 部 |- ! 2012年 | 90,000 部 || 89,000 部 || 87,000 部 || 87,000 部 |- ! 2013年 | 87,000 部 || 85,000 部 || 85,000 部 || 87,000 部 |- ! 2014年 | 85,000 部 || 85,000 部 || 84,500 部 || 83,367 部 |- ! 2015年 | 75,607 部 || 75,310 部 || 74,444 部 || 74,110 部 |- ! 2016年 | 73,843 部 || 72,310 部 || 69,310 部 || 65,000 部 |- ! 2017年 | 65,000 部 || 65,000 部 || 63,000 部 || 63,000 部 |- ! 2018年 | 62,333 部 || 60,333 部 || 53,333 部 || 51,000 部 |- ! 2019年 | 49,000 部 || 44,167 部 || 42,700 部 || 41,500 部 |- ! 2020年 | 37,800 部 || 34,267 部 || 33,380 部 || 32,000 部 |- ! 2021年 | 30,467 部 || 30,200 部 || 29,333 部 || 28,333 部 |- ! 2022年 | 27,000 部 || 26,500 部 || 26,333 部 || 25,633 部 |- ! 2023年 | 24,733 部 || 26,633 部 || 27,700 部 || |} {{節スタブ}} == アフタヌーンKC == '''アフタヌーンKC'''は『月刊アフタヌーン』に掲載された作品を主に収録する[[漫画単行本レーベル]]。[[1987年]][[5月18日]]創刊、新刊は毎月23日頃発売。 『幸福大通り』(水谷龍二、内山まもる)、『Let it be!』(たかもちげん)が最初に発行された。 コード番号は、アフタヌーンKC○○という形で表記され、背表紙上部や奥付などに載せられる。創刊時にKC1で始まるタイプとKC1001から始まるタイプの二種類が用意され、それぞれが発行順番で1,2,3…、1001,1002,1003…というように割り振られている。 === 関連レーベル === ;ワイドKCアフタヌーン :汎用レーベル'''ワイドKC'''のアフタヌーン版。A5判の単行本。 ;アフタヌーンKCDX :汎用レーベル'''KCDX'''のアフタヌーン版。特装単行本。 === アフタヌーンKCまつり === KCまつりに参加している各書店で、サイン会やプレゼントが行われる。 * 開催期間:2010年1月22日 - 2010年3月末 ==== Webラジオ ==== KCまつりに関連して、「アフタヌーンKCまつり」公式サイト上でWebラジオが配信された。全6回。 ; 概要 * タイトル:井上喜久子のアフタヌーンラジオ * 配信期間:2010年1月18日 - 2010年3月25日 * 番組冒頭には[[ラジオドラマ]]+静止画(コミックスからの抜粋)による「コラボムービー」を配信する。 ; パーソナリティ * [[井上喜久子]](『[[ああっ女神さまっ]]』ベルダンディー役) * [[阿久津加菜]] ; ゲスト * 第1回(2010年1月18日配信):[[代永翼]] ** コラボムービー:『[[ああっ女神さまっ]]』、『[[おおきく振りかぶって]]』、『[[ハトのおよめさん]]』 *** 出演:井上喜久子(『ああっ女神さまっ』ベルダンディー役)、代永翼(『おおきく振りかぶって』三橋廉役)、阿久津加菜(『ハトのおよめさん』ハトのヨメ役) * 第2回(2010年1月22日配信):[[伊藤かな恵]] ** コラボムービー:『[[地雷震]]』、『[[宙のまにまに]]』、『[[ハトのおよめさん]]』 *** 出演:井上喜久子(『地雷震』飯田響也役)、伊藤かな恵(『宙のまにまに』明野美星役)、阿久津加菜(『ハトのおよめさん』ブッコ役) * 第3回(2010年2月6日配信):[[生天目仁美]] ** コラボムービー:『[[ああっ女神さまっ]]』、『[[薬師寺涼子の怪奇事件簿]]』、『[[百舌谷さん逆上する]]』 *** 出演:井上喜久子(『ああっ女神さまっ』ベルダンディー役)、生天目仁美(『薬師寺涼子の怪奇事件簿』薬師寺涼子役)、阿久津加菜(『百舌谷さん逆上する』百舌谷小音役) * 第4回(2010年2月27日配信):[[森谷里美]]、[[桑門そら]]、[[坂巻学]] ** コラボムービー:『[[友達100人できるかな]]』、『[[ACONY]]』、『[[ラブやん]]』、『[[げんしけん]]』、『[[シドニアの騎士]]』、『[[爆音列島]]』、『[[いもうとデイズ]]』、『[[武士道シックスティーン]]』、『[[元祖ユルヴァちゃん]]』、『[[ぢごぷり]]』、『[[ヴァムピール]]』、『[[少年式少女]]』ほか *** 出演:井上喜久子、阿久津加菜(『ACONY』アコニー役ほか)、森谷里美(『シドニアの騎士』科戸瀬イザナ役ほか)、桑門そら(『いもうとデイズ』菊村ディアナ役ほか)、坂巻学(『ラブやん』大森カズフサ役ほか) * 第5回(2010年3月6日配信):[[長沢美樹]] ** コラボムービー:『[[臨死!!江古田ちゃん]]』、『[[プーねこ]]』、『[[ヒストリエ]]』 *** 出演:井上喜久子(『臨死!!江古田ちゃん』猛禽役ほか)、阿久津加菜(『プーねこ』書生くん役ほか)、長沢美樹(『臨死!!江古田ちゃん』江古田ちゃん役ほか)、吉田昌平(『月刊アフタヌーン』編集長、『臨死!!江古田ちゃん』ショークラブの客役ほか) * 第6回(2010年3月25日配信):[[関智一]]、吉田昌平(『月刊アフタヌーン』編集長) ** コラボムービー:『[[無限の住人]]』、『[[謎の彼女X]]』、『[[ヴィンランド・サガ]]』、『[[ハトのおよめさん]]』 *** 出演:井上喜久子(『謎の彼女X』卜部美琴役ほか)、阿久津加菜(『ハトのおよめさん』ハトのヨメ役ほか)、関智一(『無限の住人』万次役) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020年6月|section=1}} * アフタヌーン大辞典(月刊アフタヌーン2012年3月号付録) == 関連項目 == * [[アフタヌーン四季賞]](新人賞) ** [[アフタヌーン四季賞CHRONICLE]](2005年受注生産) * [[アフタヌーンシーズン増刊]](増刊号。休刊) * [[大合作]](創刊10周年特別企画) * [[good!アフタヌーン]](増刊号。隔月刊) * [[コミックDAYS]](ウェブコミック配信サイト) == 外部リンク == * [https://afternoon.kodansha.co.jp アフタヌーン公式サイト] * {{Twitter|afternoon_manga|アフタヌーン編集部}} *{{Facebook|afternoon.manga|アフタヌーン編集部}} {{アフタヌーン連載中}} {{講談社}} {{DEFAULTSORT:けつかんあふたぬうん}} [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:講談社の漫画雑誌]] [[Category:月刊漫画雑誌|あふたぬうん]] [[Category:青年漫画雑誌]] [[Category:モーニング|*Bあふたぬうん]] [[Category:月刊アフタヌーン|*]] [[Category:1986年創刊の雑誌]] [[Category:刊行中の漫画雑誌]]
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高規格幹線道路
高規格幹線道路(こうきかくかんせんどうろ、英: Arterial High‐standard Highway)とは、高速自動車国道を中心に一般国道の自動車専用道路と本州四国連絡道路を加えた全国的な自動車交通網を形成する自動車専用道路であり、自動車が高速かつ安全に走行できるような構造となっている道路のことである。 1966年(昭和41年)に成立した国土開発幹線自動車道建設法を、その後の交通状況の変化に応じて修正を加えて計画された道路網のことで、1987年(昭和62年)6月26日の道路審議会答申を受け、閣議決定された第四次全国総合開発計画(四全総)によって構想された。四全総では、これまでの全国総合開発計画(全総)の見直しが行われ、人口や諸機能が東京に集中する東京一極集中や、地方圏での雇用問題の深刻化、国際化へ対応するために「多極分散型の国土構築」を基本理念に、開発方式「交流ネットワーク構想」によって実現することが提唱された。この中の主要プロジェクトに位置づけられたのが、14,000 kmからなる高規格幹線道路網計画である。 高規格幹線道路は1966年(昭和41年)に既に指定されていた国土開発幹線自動車道(32路線、7,600 km)に新たな高速道路を追加して、国土開発幹線自動車道(国幹道道法に基づく高規格幹線道路〈高速自動車国道〉、43路線、11,520 km)、一般国道の自動車専用道路(高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路および、国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)、合計2,300 km)に、本州四国連絡橋公団(現・本州四国連絡高速道路株式会社)の管理する本州四国連絡道路(3路線、180 km)を合わせた合計延長14,000 kmの道路からなる。本州四国連絡道路を除いた既定計画7,600 kmから新たに追加された路線のうち、約3,920 kmが国土開発幹線自動車道に指定され、残りの約2,300 kmが国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)とされた。 2023年(令和5年)、国土交通省は「高規格幹線道路」と一体で地域構造を強化する道路と位置付けられながら計画策定手続きが異なっていた「地域高規格道路」について、両者を統一して新たに「高規格道路」と位置付け、一体的な道路ネットワークとして路線網のスクラップアンドビルドを図る方針を示した。 従前の国土開発幹線自動車道(7,600 km)、本州四国連絡道路(180 km)と接続し、次のいずれかに該当するものとされる。 高規格幹線道路(約14,000 km)の路線については、各項目の路線名表を参照。 全国高速道路建設協議会による調査によると、2022年8月25日現在の整備進捗率は、高規格幹線道路全体で87%、高速自動車国道で79%(高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路を含むと89%)、一般国道自動車専用道路(本州四国連絡道路を含む)で79%となっている。
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高規格幹線道路とは、高速自動車国道を中心に一般国道の自動車専用道路と本州四国連絡道路を加えた全国的な自動車交通網を形成する自動車専用道路であり、自動車が高速かつ安全に走行できるような構造となっている道路のことである。 1966年(昭和41年)に成立した国土開発幹線自動車道建設法を、その後の交通状況の変化に応じて修正を加えて計画された道路網のことで、1987年(昭和62年)6月26日の道路審議会答申を受け、閣議決定された第四次全国総合開発計画(四全総)によって構想された。四全総では、これまでの全国総合開発計画(全総)の見直しが行われ、人口や諸機能が東京に集中する東京一極集中や、地方圏での雇用問題の深刻化、国際化へ対応するために「多極分散型の国土構築」を基本理念に、開発方式「交流ネットワーク構想」によって実現することが提唱された。この中の主要プロジェクトに位置づけられたのが、14,000 kmからなる高規格幹線道路網計画である。
'''高規格幹線道路'''(こうきかくかんせんどうろ、{{Lang-en-short|''Arterial High‐standard Highway''}})とは、[[高速自動車国道]]を中心に一般国道の自動車専用道路と[[本州四国連絡道路]]を加えた全国的な自動車交通網を形成する[[自動車専用道路]]であり{{efn|なお、この定義に言う「自動車専用道路」とは広義の字義通りの自動車専用の道路の意味である。}}、自動車が高速かつ安全に走行できるような構造となっている道路のことである{{sfn|浅井建爾|2001|pp=58-59}}。 [[1966年]]([[昭和]]41年)に成立した[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]を、その後の交通状況の変化に応じて修正を加えて計画された道路網のことで、[[1987年]](昭和62年)[[6月26日]]の[[道路審議会]]答申を受け、閣議決定された[[第四次全国総合開発計画|第四次全国総合開発計画(四全総)]]によって構想された{{sfn|浅井建爾|2001|pp=58&ndash;59}}。四全総では、これまでの[[全国総合開発計画]](全総)の見直しが行われ、人口や諸機能が東京に集中する[[東京一極集中]]や、地方圏での雇用問題の深刻化、国際化へ対応するために「多極分散型の国土構築」を基本理念に、開発方式「交流ネットワーク構想」によって実現することが提唱された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。この中の主要プロジェクトに位置づけられたのが、14,000&nbsp;kmからなる高規格幹線道路網計画である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。 == 指定動向 == 高規格幹線道路は[[1966年]](昭和41年)に既に指定されていた[[国土開発幹線自動車道]](32路線、7,600 [[キロメートル|km]])に新たな高速道路を追加して、国土開発幹線自動車道(国幹道道法に基づく高規格幹線道路〈[[高速自動車国道]]〉、43路線、11,520 km)、[[一般国道]]の自動車専用道路([[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]および、[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]]、合計2,300 km)に、[[本州四国連絡橋公団]](現・[[本州四国連絡高速道路|本州四国連絡高速道路株式会社]])の管理する[[本州四国連絡道路]](3路線、180 km)を合わせた合計延長14,000 kmの道路からなる{{sfn|浅井建爾|2001|pp=58&ndash;59}}。本州四国連絡道路を除いた既定計画7,600&nbsp;kmから新たに追加された路線のうち、約3,920 kmが国土開発幹線自動車道に指定され、残りの約2,300 kmが[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]]とされた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=51}}。 [[2023年]](令和5年)、国土交通省は「高規格幹線道路」と一体で地域構造を強化する道路と位置付けられながら計画策定手続きが異なっていた「[[地域高規格道路]]」について、両者を統一して新たに「'''高規格道路'''」と位置付け、一体的な道路ネットワークとして路線網の[[スクラップアンドビルド]]を図る方針を示した<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.kentsu.co.jp/webnews/view.asp?cd=230706590002&area=0&yyyy=0&pub=1|title=地域高規格道路 計画策定プロセス見直しへ|newspaper=建設ニュース|date=2023-07-06|publisher=建通新聞社|accessdate=2023-12-01}}</ref>。 {{Wide image|High-standard roads in Japan.svg|800px|高規格幹線道路と[[地域高規格道路]]を統合した「高規格道路」ネットワーク(2023年)}} == 要件 == 従前の国土開発幹線自動車道(7,600&nbsp;km)、本州四国連絡道路(180&nbsp;km)と接続し、次のいずれかに該当するものとされる{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。 # 地域発展の拠点となる地方の中心都市を効率的に連絡し、地域相互の交流の円滑化に資するもの。 # 大都市圏において近郊地域を環状的に連絡し都市交通の円滑化と広域的な都市圏の形成に資するもの。 # 重要な空港・港湾と高規格幹線道路を連絡し、自動車交通網と空路・海路の有機的な結合に資するもの。 # 全国の都市、農村地区から概ね1時間以内で到達し得るネットワークを形成するために必要なもので、全国の高速交通サービスの均てんに資するもの。 # 国幹道の重要区間における代替ルートを形成するために必要なもので、災害の発生等に対し、高速交通システムの信頼性の向上に資するもの。 # 国幹道の混雑の著しい区間を解消するために必要なもので、高速交通サービスの改善に資するもの。 == 整備体系による分類 == '''高規格幹線道路'''(約14,000 km)の路線については、各項目の路線名表を参照。 * '''国幹道法に基づく高規格幹線道路'''([[国土開発幹線自動車道]]〈国幹道〉) ** [[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]に基づき建設することが定められた高規格幹線道路の1つ。現在の総距離は、未開通区間も含め11,520 kmとなっている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=51}}。予定路線のうち基本計画が決定した区間から順次[[高速自動車国道の路線を指定する政令|政令]]で高速自動車国道の路線を指定する。 ** '''[[高速自動車国道]]''':(A路線) *** [[高速自動車国道法]]第四条(高速自動車国道の意義及び路線の指定)に基づく、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]でその路線を指定されたもの。本来、[[国道]]の建設及び管理は[[道路管理者]]である[[国土交通大臣]]が行うことになっているが高速自動車国道については法令により[[東日本高速道路|東日本]]・[[中日本高速道路|中日本]]・[[西日本高速道路|西日本]]の各高速道路会社(民営化以前は[[日本道路公団]])に委任されている。 *** '''高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線'''(国土開発幹線自動車道の予定路線を除く)'''のうちから[[高速自動車国道の路線を指定する政令|政令]]でその路線を指定したもの''' **** [[新空港自動車道|成田国際空港線]]、[[関西空港自動車道|関西国際空港線]]、[[関門橋|関門自動車道]]、[[沖縄自動車道]]の4路線が指定されている。 ** '''[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]''':(A'路線) *** 本来高速自動車国道で整備される路線のうち全区間整備の必要性は低いが、部分的にこれに並行して混雑解消や山間部の隘路解消のため[[一般国道]]の整備が急務となっている一部区間を先行整備した道路。高速自動車国道へ編入されることもある。[[租税|税金]](国土交通省整備の場合、国と[[都道府県|県]]の建設費負担は2対1。)又は追加で東日本・中日本・西日本の各高速道路会社(民営化以前は日本道路公団)等から建設費を投入されて建設。 * '''[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]]''':(B路線) ** [[道路法]]第48条の2に基づき、国土交通大臣が指定した道路。一般国道のバイパス道路となるため建設費用負担はA'路線に準じる。現在の総距離は、未開通区間を含め約2,480&nbsp;kmとなっている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=51}}。 ** '''[[本州四国連絡道路]]''' *** B路線に準じる。総距離は約180&nbsp;km。 == 整備の進捗状況 == 全国高速道路建設協議会による調査<ref>{{Cite web|和書|title=高規格幹線道路網の現況 {{!}} 全国高速道路建設協議会 |url=http://www.zenkousoku.com/maintenance/%E9%AB%98%E8%A6%8F%E6%A0%BC%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E6%B3%81/ |access-date=2022-09-04 |language=ja |last=united}}</ref>によると、2022年8月25日現在の整備進捗率は、高規格幹線道路全体で87%、高速自動車国道で79%(高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路を含むと89%)、一般国道自動車専用道路(本州四国連絡道路を含む)で79%となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }} == 関連項目 == {{Commons|Category:Expressways in Japan}} * [[高速道路]] * [[日本の高速道路]] * [[日本の高速道路一覧]] * [[地域高規格道路]] == 外部リンク == * [https://www.mlit.go.jp/road/index.html 国土交通省道路局] ** [https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/index.html 施策紹介・道路行政の簡単解説] {{日本の高速道路}} [[Category:日本の道路|こうきかくかんせんとうろ]]
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複葉機
複葉機(ふくようき、英: Biplane)とは、飛行機において、揚力を得るための主翼が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「三葉機」、4枚以上のものを「多葉機」と区別することもある。但しミサイルに見られるような、胴体を貫通する主翼2枚が十字型に直交して配された物は、一般に「複葉機」と呼ばない。 揚力は速度の2乗、密度、翼面積に比例するが、飛行機の発展当初においてはエンジンが非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。だが当時の翼は布張り木製で強度がなかったため、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらすことで、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。 しかし、複葉翼は上下の翼間において流れの干渉が起こるため単純に翼2枚分の揚力は発生しないうえ、上下の翼をつなぐのに使用されるワイヤーの抵抗が大きく(抗力係数が翼型の数倍~数十倍)、効率が悪かった。そのため飛行機の速度性能の向上や製造技術の向上に伴う翼の強度の向上とともに欠点が目立つようになり、1930年代後半には金属製の単葉機が一般的となる。 しかしながら上下の翼の干渉は両翼を前後にずらすことにより、空気抵抗はワイヤーの本数を減らすことや、ワイヤーを廃し空気抵抗をできるだけ小さくした桁のみで主翼を支えることで、ある程度の解決はできた。一方で単葉機の側も初期の頃は洗練がなされず、必要な強度を確保するため主翼を厚くして空気抵抗を増して失敗した例もある。そのため1920年代から1930年代は、単葉機と複葉機が併用された時代であった。例えば1925年のシュナイダー・トロフィー・レースでは、複葉機のカーチス R3C-2が単葉機のマッキ M.33に対して勝利している。 第二次世界大戦期には練習機や観測機を除き、ほとんど単葉機への移行が完了したものの、アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、イタリア、ソビエト連邦、フランスにおける複葉機の使用例もある。特にイタリアは1930年代において当時最速の時速709kmの単葉水上機マッキ M.C.72を開発しており、この分野では先駆者であったにもかかわらず、複葉戦闘機であるCR.42を1942年まで生産し続けた(なお同機は、イタリア休戦後の1943年にはパルチザン掃討に使用するため、ドイツの命令により150機が生産された)。 複葉機が最も最近まで兵器として使用された例は2020年ナゴルノ・カラバフ紛争である。アゼルバイジャン側が敵レーダー網をあぶりだすために無人の複葉機An-2を囮として飛ばしたものである。 省スペース性やロール特性といった理由から、現代でもスポーツ機や農業機、ウルトラライトプレーンに残っている。 航空力学上の研究対象としては、誘導抗力や衝撃波の低減、超小型無人飛行機(英語版)への適用などいくつかの可能性が現在も研究されている。 1930年代にドイツの航空工学者アドルフ・ブーゼマンが提唱したブーゼマン複葉翼を戦後NASAなどが研究していた。これは二枚の翼に発生した衝撃波を干渉させ打ち消すもので、超音速機に発生する衝撃波の低減が期待されていたが、 などの問題によって研究は打ち切られた。 上記の問題を解決するため、全翼機のように胴体を上の翼上に配置し、上下の翼端を接触させることでメリットを保ったまま、デメリットを打ち消す案が研究されている。このような翼の両端を繋げてリング上にした翼型平面は閉鎖翼(英語版)と呼ばれている。 複葉機の翼の間に翼を一枚追加した形態。 飛行機の研究の初期には、より多くの主翼を重ねる研究もなされていた。 2枚の翼を上下ではなく、前後に配置したものはタンデム翼機と呼ばれる。
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複葉機とは、飛行機において、揚力を得るための主翼が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「三葉機」、4枚以上のものを「多葉機」と区別することもある。但しミサイルに見られるような、胴体を貫通する主翼2枚が十字型に直交して配された物は、一般に「複葉機」と呼ばない。
[[Image:SPAD SVII 4.jpg|thumb|right|260px|[[フランス空軍]]の複葉戦闘機S.VII]] '''複葉機'''(ふくようき、{{lang-en-short|Biplane}})とは、[[飛行機]]<ref>および、固定翼を持つタイプの[[航空機]]。飛行機以外にも[[飛行船]]や[[回転翼機]]にも揚力を得る目的の固定翼を持つ機種がある。 (一般に「飛行機」とは動力があり主として固定翼で揚力を得る航空機を指すが、複葉機という語は[[グライダー]]・[[モーターグライダー]]にも用いられる。単に『航空機』と言ってしまうと[[気球]]や[[飛行船]]・[[回転翼機]]などもすべて含まれるので、すこし範囲が広すぎる)</ref>において、[[揚力]]を得るための[[翼|主翼]]が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「[[三葉機]]」、4枚以上のものを「多葉機」と区別することもある。但し[[ミサイル]]に見られるような、胴体を貫通する主翼2枚が十字型に直交して配された物は、一般に「複葉機」と呼ばない。 == 歴史的経緯 == [[File:WACO YMF F5C.JPG|thumb|260px|[[:en:Waco Aircraft Company|WACO]]のスポーツ機[[:en:Waco F series|YMF F5C]]]] 揚力は速度の2乗、密度、翼面積に比例するが、飛行機の発展当初においては[[エンジン]]が非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。だが当時の翼は布張り木製で強度がなかったため、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらすことで、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。 しかし、複葉翼は上下の翼間において流れの干渉が起こるため単純に翼2枚分の揚力は発生しないうえ、上下の翼をつなぐのに使用されるワイヤーの抵抗が大きく([[抗力]]係数が翼型の数倍~数十倍)、効率が悪かった。そのため飛行機の速度性能の向上や製造技術の向上に伴う翼の強度の向上とともに欠点が目立つようになり、1930年代後半には金属製の[[単葉機]]が一般的となる。 しかしながら上下の翼の干渉は両翼を前後にずらすことにより、空気抵抗はワイヤーの本数を減らすことや、ワイヤーを廃し空気抵抗をできるだけ小さくした桁のみで主翼を支えることで、ある程度の解決はできた。一方で単葉機の側も初期の頃は洗練がなされず、必要な強度を確保するため主翼を厚くして空気抵抗を増して失敗した例もある。そのため1920年代から1930年代は、単葉機と複葉機が併用された時代であった。例えば[[1925年]]の[[シュナイダー・トロフィー・レース]]では、複葉機の[[カーチス R3C-2]]が単葉機の[[マッキ M.33]]に対して勝利している。 [[第二次世界大戦]]期には[[練習機]]や[[観測機]]を除き、ほとんど単葉機への移行が完了したものの、[[アメリカ]]、[[日本]]、[[ドイツ]]、[[イギリス]]、[[イタリア]]、[[ソビエト連邦]]、[[フランス]]における複葉機の使用例もある。特にイタリアは1930年代において当時最速の時速709kmの単葉水上機[[マッキ M.C.72]]を開発しており、この分野では先駆者であったにもかかわらず、複葉戦闘機である[[CR.42 (航空機)|CR.42]]を[[1942年]]まで生産し続けた(なお同機は、イタリア休戦後の1943年には[[パルチザン (イタリア)|パルチザン]]掃討に使用するため、[[ドイツ]]の命令により150機が生産された)。 複葉機が最も最近まで兵器として使用された例は[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争]]である。[[アゼルバイジャン]]側が敵[[レーダー]]網をあぶりだすために無人の複葉機<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20201221-OYT1T50050/ |title=自治州巡る戦闘でドローン猛威、衝撃受けるロシア…「看板商品」防空ミサイル網が突破される |publisher=読売新聞 |date=2021-12-21 |accessdate=2021-10-20}}</ref>[[An-2 (航空機)|An-2]]を囮として飛ばしたものである。 省スペース性やロール特性といった理由から、現代でもスポーツ機や[[農業機]]、[[超軽量動力機|ウルトラライトプレーン]]に残っている。 航空力学上の研究対象としては、[[誘導抗力]]や[[衝撃波]]の低減、{{仮リンク|超小型無人飛行機|en|Micro air vehicle}}への適用などいくつかの可能性が現在も研究されている<ref>秋山皓平, 手塚亜聖, 砂田保人 ほか、「[https://doi.org/10.2322/jjsass.57.476 複葉型超小型航空機の主翼揚力特性に関する実験]」 『日本航空宇宙学会論文集』 2009年 57巻 671号 p.476-485, {{doi|10.2322/jjsass.57.476}}</ref><ref>伊藤章洋、[http://www.kochi-tech.ac.jp/library/ron/2014/20/1175020.pdf 複数翼の設計] 高知工科大学 修士論文</ref>。 == ブーゼマン複葉翼 == 1930年代にドイツの航空工学者[[アドルフ・ブーゼマン]]が提唱したブーゼマン複葉翼を戦後[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]などが研究していた。これは二枚の翼に発生した衝撃波を干渉させ打ち消すもので、超音速機に発生する衝撃波の低減が期待されていたが、 * 迎角が変化すると干渉が崩れてしまう * [[スーパークルーズ|超音速巡航]]状態以外では逆に既存の翼より抗力が大きい * 翼端では干渉が崩れる などの問題によって研究は打ち切られた。 上記の問題を解決するため、[[全翼機]]のように胴体を上の翼の上に配置し、上下の翼端を接触させることでメリットを保ったまま、デメリットを打ち消す案が研究されている<ref>[http://www.ifs.tohoku.ac.jp/edge/ 大林・大谷研究室/下山研究室]</ref><ref>[http://www.mech.tohoku.ac.jp/sena/series19/vol1/vol1-1.html 東北大学工学部・工学研究科 | 瀬名秀明がゆく!東北大学工学部機械系]</ref>。このような翼の両端を繋げてリング上にした翼型平面は{{仮リンク|閉鎖翼|en|Closed wing}}と呼ばれている。 == 有名な複葉機 == [[File:N2S-2 NAS Corpus Christi 1943.jpg|thumb|right|300px|[[アメリカ海軍]]の練習機N2S-2([[ボーイング・ステアマン モデル75|モデル75]])]] [[Image:Doppeldecker 01 KMJ.jpg|thumb|300px|農薬散布を行う[[グラマン アグキャット|グラマン G-146 アグキャット]]]] * [[第一次世界大戦]]まで ** [[ライトフライヤー号]]:世界最初に飛行に成功した機体である。 ** [[フォッカー Dr.I]]:([[三葉機]])撃墜王[[マンフレート・フォン・リヒトホーフェン|リヒトホーフェン]]男爵(レッドバロン)の乗機として有名。 ** [[フォッカー_D.VII_(航空機)|フォッカーD.VII]]:[[第一次世界大戦]]で連合国側に最も恐れられた機体。 ** [[アルバトロス D.III]]:木製[[モノコック]]の胴体を採用。 ** [[ゴータ G.IV]]:[[ロンドン]]を夜間爆撃したことで知られる。 ** [[S.VII_(航空機)|スパッド VII]]:水冷エンジン搭載の[[フランス]]の重戦闘機。 ** [[ニューポール 11]]:複葉の下翼が短い一葉半方式を採用、格闘戦に強い。 ** [[ソッピース キャメル]]:旋回性能が優れた格闘戦向きの機体。 * 第二次世界大戦まで(戦間期) ** [[九三式中間練習機]]:日本海軍の初等・中等練習機。「赤とんぼ」と称された。 ** [[九五式一型練習機]]:日本陸軍の初等・中等練習機。「赤とんぼ」と称された。 ** [[九五式艦上戦闘機]]:日本海軍最後の複葉戦闘機。 ** [[九五式戦闘機]]:日本陸軍最後の複葉戦闘機。水冷V12エンジンを採用し最大速度400km/hを発揮し、後に[[キ28 (航空機)|キ28]]に類似した胴体と密閉風防を与えられた試作機の「性能向上第二案型」は最大速度445km/hに達した。 ** [[零式観測機]]:格闘戦能力は[[九六式艦上戦闘機]]と同等の戦力を持つと評された。 ** [[ボーイング・ステアマン モデル75]]:アメリカ海軍と陸軍航空隊で練習機として採用され10000機以上が製造された。 ** [[F3F_(航空機)|グラマンF3F]]:米軍最後の複葉機。引込脚を装備し「空飛ぶ樽」と渾名された。 ** [[ブリストル ブルドッグ]]:1920年代後半の英国のベストセラー機で、日本の[[九〇式艦上戦闘機]]の原型にもなった他、[[フィンランド]]などにも輸出され[[冬戦争]]にも参加した。 ** [[Hs 123 (航空機)|ヘンシェル Hs 123]]:[[東部戦線]]では頑丈で扱いやすい本機は重宝され、ソ連の戦車隊攻撃に出動し、実戦部隊からは本機の生産再開要求が出されたという。 ** [[グロスター グラディエーター]]:1930年代では先進的な全金属胴体、密閉風防を採用。艦上機仕様も製作された。 ** [[フェアリー ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]:[[第二次世界大戦]]中、ヨーロッパ戦線で活躍した[[イギリス]]の艦上[[雷撃機]]。最後の部隊である第836飛行中隊は、1945年5月21日に解散した。 ** [[Po-2 (航空機)|ポリカルポフ Po-2]]:女性民間パイロットの志願者で構成された[[第46親衛夜間爆撃航空連隊|第588夜間爆撃機連隊]]が編成された。 ** [[I-153 (航空機)|ポリカールポフ I-153]]:[[ガル翼|ガルウィング]]を採用した特徴的な外見から、[[チャイカ]]の愛称で呼ばれた。空冷星型1000馬力の[[シュベツォフ ASh-62|M-62エンジン]]に換装されたI-153bisは最大速度444km/hに達し、量産複葉機では最速クラスであった事から、「究極の複葉機」とも呼ばれた。 ** [[CR.42 (航空機)|フィアット CR.42]]:第二次大戦期のイタリアの主力戦闘機のひとつ。[[ダイムラー・ベンツ DB 601]]エンジン搭載のCR42B(1機試作)は最大速度520km/hを記録し、世界最速の複葉機であった。 ** {{仮リンク|スタンプ SV.4|en|Stampe SV.4}}:ベルギーで開発され、1970年代まで練習機として使用された。 * 現代 ** [[ピッツ・スペシャル]]:曲技用複葉機。 ** [[グラマン アグキャット]]:[[1950年代]]に設計された農業用複葉機。 ** [[M-15_(航空機)|PZL M-15]]:農業用複葉ジェット機。 ** [[An-2_(航空機)|An-2]]:第二次世界大戦戦後に開発された複葉単発機。 ** [[An-3_(航空機)|An-3]]:[[ターボプロップエンジン]]を搭載した複葉単発機。 == 多葉機 == === 三葉機 === [[ファイル:Fokker Dr1 on the ground.jpg|thumb|right|260px|[[ドイツ空軍]]の三葉戦闘機Dr.I]] 複葉機の翼の間に翼を一枚追加した形態。 {{see|三葉機}} === 四葉以上 === [[Image:1907 flying machine.jpg|thumb|right|260px|[[ホラティオ・フレデリック・フィリップス]]が1907年に飛行に成功した多翼型複葉機]] 飛行機の研究の初期には、より多くの主翼を重ねる研究もなされていた。 * [[ゼルブ多葉機]] * [[ホラティオ・フレデリック・フィリップス]] - 多葉機を設計している。 * [[カプロニ Ca.60]] - 三葉三列構成 * [[スーパーマリン ナイトホーク]] * [[ガーハート サイクルプレーン]] == タンデム翼機 == 2枚の翼を上下ではなく、前後に配置したものはタンデム翼機と呼ばれる。 {{see|タンデム翼機}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Biplanes}} * [[飛行機の歴史]] - [[航空に関する年表]] * [[翼間支柱]] - 複葉機にのみ見られる強度部材 * [[ヒルソン バイモノ]] - 離陸後に上の翼を投棄して単葉機になる実験機。 * [[スタガー (航空)|スタガー]] - 積み重ねられた翼の相対的な水平前後位置。 * [[マルチプレーン (航空)|マルチプレーン]] {{Aviation-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふくようき}} [[Category:航空機の形態]]
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魔太郎がくる!!
『魔太郎がくる!!』(またろうがくる)は藤子不二雄の安孫子素雄(のちの藤子不二雄A)による日本のホラー漫画作品。1972年から1975年にかけて『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載。 見た目も性格もパッとしない典型的「いじめられっ子」である主人公・浦見魔太郎。毎回様々な人物からいじめを受けるが、どうしても許せない行き過ぎたいじめや悪行に対しては、自身の持つ超能力「うらみ念法」やオカルトアイテムを使って復讐を行う。ときに残虐な手段が用いられることもある。 毎回「袋」・「ロープ」などさまざまなアイテムが登場し、魔太郎はそのアイテムでいじめを受け、終盤で魔太郎がそのアイテムを使用した復讐を展開するというコンセプトで描かれている。陰湿な人間の心の側面が描かれたサスペンスフルな怪奇作品。 藤子不二雄Aは本作について『自分がいじめられっ子だったこともあるのですが、いじめられっ子が実は凄く強くて、やられた相手に大逆襲するような作品なら面白いだろうと思ったのが本作の出発点です』と語っているように、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品である。 基本的に一話完結。初期は「いじめ」というイメージ通り友愛学園のいじめっ子たちへの復讐劇が展開された。その後、段々と学園外の不良や曲がった精神を隠して善人ぶる優等生、学校とはあまり関係ない奇人変人などが登場し舞台が広がる。魔太郎へのいじめ対象だけでなく、彼の家族や親しい人を陥れようとする人間へも魔太郎の復讐劇が展開されるようになる。やがて魔太郎を陥れようとする謎に満ちた不気味な赤ん坊「阿部切人」とその両親の謎にフォーカスしていき、物語は徐々に路線変更していくと共に連続性を帯びていく。クライマックスに至って、魔太郎出生の真実が明かされると共に、人類存亡を賭けた壮大な善と悪の戦いが描かれ、恨みを晴らす物語からファンタジー・ホラー(ダーク・ファンタジー)へと変化していった。 ひ弱な中学生、浦見魔太郎は毎回同級生や傍若無人な連中から激しいいじめなど理不尽な目に遭う。しかしオカルトの知識に長けた彼は得意の「うらみ念法」を駆使して壮絶な復讐を行う。彼は我慢の限界を超えた屈辱を受けた時、決め台詞「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」(この恨み、晴らさで置くべきか―この恨みを晴らさず放置していいのか)と呟き(宣言して)行動を開始する。黒魔術によって魔王サタンと契約し、黒マントを羽織り、赤バラ模様のシャツを着て出陣し、加害者に対して壮絶な復讐を展開する。だがある日、魔太郎の自宅の直近に阿部切人という赤ん坊とその親が引っ越してきてからは、逆に切人たちから魔術を駆使した虐めを受けるようになる。魔太郎の魔術の上手を行く切人とは何者か、魔太郎自身は......? 本作は発表当初(特に初期エピソード)、魔太郎の恨みの晴らしかたの一部が過激で、ほとんどの場合自分をいじめた者を「うらみ念法」を使わず、現実的にも可能な手段で明確に殺害または重体・心身共に廃人にまで追い込んだ。悪人は徹底的に醜悪に描かれており、その報復手段も「いじめっ子をパワーショベルで引き裂いた上に遺体を生コンクリートで埋める」、「恐喝してきたチンピラをゴミ袋に詰めて執拗にバットで殴り、そのまま遺体をゴミに出す」、「過剰なしごきをしたコーチを水中で虎バサミに掛けた挙句に溺死させる」等々、その手口も凄惨さを極めた。 初単行本化作品(秋田書店刊)は雑誌初出とほぼ同じものが収録発売されていたが、その後の少年事件の凶悪化・深刻化などの社会情勢を考慮し、後年発刊された作品全集『藤子不二雄ランド』刊行にあたってエピソード全133話のうち大幅に描き直された話が34話、欠番扱いとなった話が25話ほど存在する(「エピソード」項参照)。修正の仕方もオチ自体が大幅に変更に変更されたものから描写・セリフを変更して明確な死亡・大怪我描写をマイルドにしたりぼやかしたりと様々である。 魔太郎の漫画の誕生秘話を描いた番外編の1話『魔太郎の生い立ち』(チャンピオン1975年46号掲載)だけは当初から単行本未収録となっているが、『日本の教育 1977』(日本の教育1977編集委員会 編、現代書館、1977年)には丸ごと収録されている。 また「あなたの恨みを買います」というお遊びレベルで考えていた雑誌企画に対し、ハガキではなく便箋で真剣に恨みを晴らしたいことを綴る投書が多かったため、漫画での表現を現実的なものから幻想的なものへ変更した。(読売新聞「時代の証言者」) 本作は度々アニメ化の企画が持ち込まれていたが、そういった事情からか作者は映像作品にすることを拒否しているという。 後年、成人した魔太郎を描いた後日談『魔太郎が翔ぶ』全2話(『ハワイに吹いたうらみ風』ならびに『香港に燃えたうらみ火』)、須麻切人(すま きりと)と名前を変えた切人を主人公にした作品『切人がきた!!』が執筆された。 週刊少年チャンピオン掲載順。数えは「うらみの○番」で統一(初出時のものであり、各単行本によって数字は異なる)。
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『魔太郎がくる!!』(またろうがくる)は藤子不二雄の安孫子素雄(のちの藤子不二雄Ⓐ)による日本のホラー漫画作品。1972年から1975年にかけて『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載。
{{Pathnav|[[藤子不二雄]]([[藤子不二雄の連載一覧|連載]])|[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]|frame=1}} {{redirect|魔太郎|お笑い芸人|鉄板■魔太郎}} {{Infobox animanga/Header |タイトル=魔太郎がくる<nowiki>!!</nowiki> |画像= |サイズ= |説明= |ジャンル=[[ホラー漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga |タイトル= |作者=[[藤子不二雄]](安孫子単独執筆作) |作画= |出版社=[[秋田書店]]<br />[[中央公論新社]] |他出版社= |掲載誌=[[週刊少年チャンピオン]] |レーベル=[[少年チャンピオン・コミックス]] |発行日= |発売日= |開始号=1972年30号 |終了号=1975年48号 |開始日= |終了日= |発表期間= |巻数=全12巻(少年チャンピオン・コミックス)<br />全6巻([[中公文庫]])<br />全3巻(Chuko コミックLite Special) |話数= |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= |ウィキポータル= }} 『'''魔太郎がくる!!'''』(またろうがくる)は[[藤子不二雄]]の安孫子素雄(のちの[[藤子不二雄A|藤子不二雄<span class="Unicode">&#9398;</span>]])による[[日本]]の[[ホラー漫画]]作品。[[1972年]]から[[1975年]]にかけて『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])に連載。 == 作品概要 == 見た目も性格もパッとしない典型的「いじめられっ子」である主人公・浦見魔太郎。毎回様々な人物からいじめを受けるが、どうしても許せない行き過ぎたいじめや悪行に対しては、自身の持つ超能力「うらみ念法」やオカルトアイテムを使って復讐を行う。ときに残虐な手段が用いられることもある。 毎回「[[袋]]」・「[[ロープ]]」などさまざまなアイテムが登場し、魔太郎はそのアイテムで[[いじめ]]を受け、終盤で魔太郎がそのアイテムを使用した復讐を展開するというコンセプトで描かれている。陰湿な人間の心の側面が描かれた[[サスペンス]]フルな怪奇作品。 藤子不二雄<span class="Unicode">&#9398;</span>は本作について『'''自分がいじめられっ子だったこともあるのですが、いじめられっ子が実は凄く強くて、やられた相手に大逆襲するような作品なら面白いだろうと思ったのが本作の出発点です'''』と語っているように、全国のいじめられっ子のうっぷんを代弁し、それを豪快に晴らしていくカタルシスに満ちた作品である。 === 路線変更 === 基本的に一話完結。初期は「いじめ」というイメージ通り友愛学園のいじめっ子たちへの復讐劇が展開された。その後、段々と学園外の不良や曲がった精神を隠して善人ぶる優等生、学校とはあまり関係ない奇人変人などが登場し舞台が広がる。魔太郎へのいじめ対象だけでなく、彼の家族や親しい人を陥れようとする人間へも魔太郎の復讐劇が展開されるようになる。やがて魔太郎を陥れようとする謎に満ちた不気味な赤ん坊「阿部切人」とその両親の謎にフォーカスしていき、物語は徐々に路線変更していくと共に連続性を帯びていく。クライマックスに至って、魔太郎出生の真実が明かされると共に、人類存亡を賭けた壮大な善と悪の戦いが描かれ、恨みを晴らす物語から[[ファンタジー]]・ホラー([[ダーク・ファンタジー]])へと変化していった。 == あらすじ == ひ弱な[[中学生]]、'''浦見魔太郎'''は毎回同級生や傍若無人な連中から激しいいじめなど理不尽な目に遭う。しかしオカルトの知識に長けた彼は得意の「うらみ念法」を駆使して壮絶な復讐を行う。彼は我慢の限界を超えた屈辱を受けた時、決め台詞「'''こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か'''」(この恨み、晴らさで置くべきか―この恨みを晴らさず放置していいのか)<ref>このセリフは、作者が子供の頃に観た化け猫映画に由来するという([http://www.jinnken.org/kouenroku/fujikofujioa.html 藤子不二雄Ⓐ会見録 2004.11.15 新宿 藤子スタジオにて])。なお、このセリフは[[藤子・F・不二雄]]の作品『[[エスパー魔美]]』のエピソード「ヤミに光る目」(初出『[[マンガくん]]』[[1978年]]第3号)にも[[パロディ]]的に使用されている。</ref>と呟き(宣言して)行動を開始する。黒魔術によって魔王サタンと契約し、黒マントを羽織り、赤バラ模様のシャツを着て出陣し、加害者に対して壮絶な復讐を展開する。だがある日、魔太郎の自宅の直近に阿部切人という赤ん坊とその親が引っ越してきてからは、逆に切人たちから魔術を駆使した虐めを受けるようになる。魔太郎の魔術の上手を行く切人とは何者か、魔太郎自身は……? == 原作の改編とその事情 == 本作は発表当初(特に初期エピソード)、魔太郎の恨みの晴らしかたの一部が過激で、ほとんどの場合自分をいじめた者を「うらみ念法」を使わず、現実的にも可能な手段で明確に殺害または重体・心身共に廃人にまで追い込んだ。悪人は徹底的に醜悪に描かれており、その報復手段も「いじめっ子をパワーショベルで引き裂いた上に遺体を生コンクリートで埋める」、「恐喝してきたチンピラをゴミ袋に詰めて執拗にバットで殴り、そのまま遺体をゴミに出す」、「過剰なしごきをしたコーチを水中で虎バサミに掛けた挙句に溺死させる」等々、その手口も凄惨さを極めた。 初単行本化作品(秋田書店刊)は雑誌初出とほぼ同じものが収録発売されていたが、その後の少年事件の凶悪化・深刻化などの社会情勢を考慮し、後年発刊された作品全集『[[藤子不二雄ランド]]』刊行にあたってエピソード全133話のうち大幅に描き直された話が34話、欠番扱いとなった話が25話ほど存在する(「[[魔太郎がくる!!#エピソード|エピソード]]」項参照)。修正の仕方もオチ自体が大幅に変更に変更されたものから描写・セリフを変更して明確な死亡・大怪我描写をマイルドにしたりぼやかしたりと様々である。 魔太郎の漫画の誕生秘話を描いた番外編の1話『魔太郎の生い立ち』(チャンピオン1975年46号掲載)だけは当初から単行本未収録となっているが、『日本の教育 1977』(日本の教育1977編集委員会 編、[[現代書館]]、1977年)には丸ごと収録されている。 また「あなたの恨みを買います」というお遊びレベルで考えていた雑誌企画に対し、ハガキではなく便箋で真剣に恨みを晴らしたいことを綴る投書が多かったため、漫画での表現を現実的なものから幻想的なものへ変更した。(読売新聞「時代の証言者」) 本作は度々アニメ化の企画が持ち込まれていたが、そういった事情からか作者は映像作品にすることを拒否しているという。 後年、成人した魔太郎を描いた後日談『魔太郎が翔ぶ』全2話(『ハワイに吹いたうらみ風』ならびに『香港に燃えたうらみ火』)、'''須麻切人'''(すま きりと)と名前を変えた切人を主人公にした作品『切人がきた!!』<ref>『魔太郎がくる!!』との関連はない。</ref>が執筆された。 == 登場人物 == ; 浦見魔太郎(うらみ またろう) : 本作の主人公。友愛学園中等部に通う中学生。小柄で風采が上がらないメガネの少年。普段は温厚かつ気が弱いゆえにいじめっ子から理不尽ないじめを受け、悪人から騙されたり利用されたりする。しかし超能力「うらみ念法」の使い手で、魔王サタンと契約しており、相手を不可思議な力で心身両面を破滅に追い込み恨みを晴らす(魔力を復讐以外の目的で悪用したり、善良な他者を虐げるためには使わない。また「必殺シリーズ」「怨み屋本舗」のように、依頼を受けて他者の復讐を代行するといったことも行わない)。上記の通り現在ではカットされているが、雑誌掲載時や初期単行本では殺人や直接的に相手を傷つける行為を何度も犯している。 : 日蔭者ながら孤立はしておらず、彼が想いを寄せるクラスメイトの由紀子と親交があるほか、しばしば共通の趣味などで友人が出来る。しかし大抵はいじめっ子や悪い大人のせいで離別する羽目になったり、裏切られて悲惨な目に遭わされたりする。家族や由紀子に被害が及ぼうとした場合や友人・尊敬する人が破滅に追い込まれた場合などは、自分が直接いじめを受けていなくとも「うらみ晴らし」を実行する事もある(内容としては相手に対する「報い」を意識している模様)。また魔太郎に直接手を下しておらずとも、約束を破られたり信用している者の裏切りによっていじめられる羽目になった場合は、直接いじめた者より自分を裏切った者に対し優先的に「うらみ晴らし」を行う。 : なお必ずしも魔力を隠そうとはしておらず(無自覚の部分も多いため)、超能力者として霊能番組に、一般回答者としてクイズ番組などテレビに出演したことも幾度かある。彼の本当の素性については本人も知らず、最終回「さらば魔太郎 また会う日まで」で明らかにされた。 : その正体は本物の魔族であり、とある組織によって人間の赤ん坊とすりかえられて浦見家に送り込まれ人間として育てられてきた。最終回では組織の刺客によって素性を明かされ、仲間として迎える条件に近しい者たちの抹殺を要求される。拒否したところで相手のほうが強いため逆らえないと思われたが、家族や由紀子を守るために戦うことを決意。対決するも劣勢に追い込まれたが、切人とその父親が咄嗟に助太刀したことで勝利。組織に追われることになった魔太郎は、大切な人たちを巻き込まないように一人旅立ち、周囲から姿を消した。その後を描く後日談となる短編「魔太郎が翔ぶ!!」では、少年期の陰気な雰囲気から打って変わった爽やかないで立ちの青年に成長しているが、トラブルに巻き込まれる度にバラ柄のシャツに黒いマントをまとい、うらみ念法をふるって恨みを抱いた者たちに復讐するなど、大人になっても相変わらずな様子を見せている。 : 波打前髪と楕円形の眼鏡が特徴。ファッションセンスが独特で、うらみ念法の発揮に必要なのかバラ模様のシャツを持っている(「夢魔の家」では配達ミスで入れ替わった、夢魔一郎のパジャマの上に着ていた)。母がチョッキを作ってくれたときはしばらくそのチョッキを着用していた。好きなものは昔の武器、怪奇に関わるもの、模型、不思議絵。芸術のセンスがありクラスメイトの似顔絵を披露したり呪いの儀式に使うためにいじめっ子そっくりの人形を作ったりしたこともある。 ; 浦見陽太郎(うらみ ようたろう) : 魔太郎の父親。名前の通り朗々な性格で魔太郎をかわいがりお土産を買ってきたりする。お人良しでひどい目に遭っても相手のせいだとは思わない。千代田区丸の内の丸井商事株式会社に勤務、営業課(2階)に所属している。同僚(押田くん)の妨害により係長職になり損ねるが、その後実力で課長職に昇進している。運転免許を有するが運転技術はペーパードライバー並み。奥山村出身。 ; 浦見美代子(うらみ みよこ) : 魔太郎の母親。優しいしっかり者でこづかいには厳しい。魔太郎が気弱かつひ弱な事はわかっているが学校で凄惨ないじめに遭っていることには気付いていないらしい。専業主婦。「残像写真」の時点で36歳。よく黒いタイトスカートを着用。 ; 浦見次郎(うらみ じろう) : 魔太郎の叔父。うらみの27番『きたない切手集めは許さない』のみ登場。2年間のアフリカ出張帰りに魔太郎の家に寄る。アフリカの切手をお土産にくれた。 ; 浦見青三郎(うらみ せいざぶろう) : 魔太郎の叔父。仕事の関係で世界各地を飛び回っており、見聞が広く、日本へ帰国した折には魔太郎の家を訪れて土産話を語ると共に珍奇な土産物をもたらす。彼が持ってきた土産のせいで魔太郎がいじめられることも多い。うらみの108番以降は「清三郎」となっている。 ; 南由紀子(みなみ ゆきこ) : 魔太郎の憧れのクラスメイト。美人で本作のマドンナ的存在である。明るくサバサバした性格でいじめとはする方もされる方も縁遠い。日陰者である魔太郎を気遣い、彼をかばうこともあるが、周囲の言い分に負け見捨ててしまうことも多い。また彼女がかばった結果、余計魔太郎がいじめられるという事態の悪化を招くこともある。しかし、魔太郎の数少ない味方であることに間違いは無いためか、魔太郎は彼女を誘導した人物のみに復讐する。いとこが数人いるが、1人を除いた全員が魔太郎の「うらみ念法」の餌食となった。学校に行くときはよく黒のブレザーを着用。由津子という2~3歳くらいの妹がいる。 ; 阿部切人(あべ きりひと、藤子不二雄ランド版以降ではきりと) : 浦見家の隣に引っ越してきた一家の子供。3歳。可愛らしく素直な幼児を装っているが、実は魔太郎に匹敵するかそれ以上の魔力を持っており、性格は陰湿で残忍。魔太郎とはお互いの秘密を共有しており、腹話術やテレパシーなどで会話をし、本性を曝け出している。魔太郎の事は気に入っている様な描写もあるが、彼もまた「いじめっ子」であり、執拗に魔太郎をいじめ、周囲には可愛い幼児を装いながら死亡に至ってもおかしくないレベルの罠に何度もはめようとする(ただし、彼の本性を知って以降は魔太郎自身も切人との対決を楽しんでいるような節を見せる)。一方で魔太郎が誘拐に遭った際には助けたり、窮地に陥った際には加勢するなど、憎めない一面もある。3歳児らしい嗜好も持ってはおり、また閉所恐怖症という弱点も持つ。由紀子の妹・由津子に好意を寄せており、顔を見ると興奮の余りおもらししてしまうほどである。両親に対しては純粋に慕っている様で、最終エピソードで親ともども正体が判明したが「大切な人たちを巻き込めない」と魔太郎が戦いに臨む際にはシンパシーを感じていた。一般的に名前の読みは「きりひと」だが、正確には「きりと」であると本人が断言している。魔太郎の友達というより腐れ縁に近い存在。 ; 切人のパパ : 切人の父親。名前は不明。ハンサムで爽やかな好人物として振る舞っているが、息子の切人同様残忍かつ他人を不幸に陥れ楽しむ性格。自業自得ではあるが、魔太郎にちょっかいを出しては逆襲され、散々な目に遭う。切人も彼に関しては普段は毛嫌いしている事を魔太郎に吐露しているが、父が魔太郎のうらみ晴らしにあった際は救いに来るなど愛憎入り混じった複雑な感情を垣間見せる。最終エピソードで切人と共に正体が判明するが、土壇場で切人と共に意外な行動に出る。息子の切人と同じく魔太郎とは腐れ縁。 ; 阿部真理亜(あべ まりあ) : 切人の母(切人と真理亜は[[キリスト]]と[[聖母マリア]]のメタファ)。浦見美代子とは高校時代の同級生。夫や息子と違いまともな性格の人物だが、切人が一時期有名人になった時はそのマネージャー気取りで高慢な性格になっていた。 ; 「怪奇や」のマスター : 怪奇映画のグッズなどを取り扱う店「MONSTER SHOP 怪奇や」の店主。常に「[[オペラ座の怪人]]」のマスクをかぶっており、素顔は不明。常連客となった魔太郎と仲が良く、無料でオカルトアイテムをくれたり相談に乗ってくれたりもする魔太郎の数少ない味方の一人。魔太郎の両親や南由紀子と接触したことは一度も無い。外に出る時はサングラスをかけている。また、彼自身も戦闘に参加した事がある。 ; 満月万太郎(まんげつ まんたろう) : 「魔族」の幹部で、ニューヨークの本部に所属する。風貌は小太りに丸眼鏡の紳士だが、魔太郎をはるかに上回る強大な魔力を持つ実力者<ref>魔太郎のうらみ念法「炎つつみ」による全力攻撃を回避もせずまともに受け、ノーダメージで平然と高笑いする描写がある。</ref>である。魔太郎の出生の秘密を知っており、魔族の存在を魔太郎に教え、魔太郎の魔力を魔族の「指令」に使わせるために両親を人質に取り脅迫する。 == エピソード == 週刊少年チャンピオン掲載順。数えは「うらみの○番」で統一(初出時のものであり、各単行本によって数字は異なる)。 ; 凡例 * 秋田 : チャンピオンコミックス「魔太郎がくる!!」全13巻(秋田書店) * FF : 藤子不二雄ランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻(中央公論社) * 文庫 : 中公文庫コミック版「魔太郎がくる!!」全8巻(中央公論社) * 新秋田 : チャンピオンコミックス「新装版 魔太郎がくる!!」全12巻(秋田書店) {| class="sortable wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em; margin-right:0px;" |- !話数!!サブタイトル<br />(カッコ内は改題後)!!秋田!!FF!!文庫!!新秋田!!備考(変更点など) |- |うらみの1番||うらみはらさでおくべきか!!||1||1||1||1|| |- |うらみの2番||鉄のキバがひきさいた夜||1||1||1||1||藤子不二雄ランド以降は終盤2ページを書き換え、結末が異なる |- |うらみの3番||ゴミはふくろにしまつしよう||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの4番||サルが空から落ちた!!||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの5番||おかえしはコンクリート・パンチで!!||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの6番||黒メガネをかけた中学生||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの7番||サングラスをとればただの人!!||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの8番||暴走カーを暴走させた!!||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの9番||おぼれ方教えます||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの10番||マムシがマムシにかまれた!!||2||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||2011年刊行のMy First Big SPECIALで一部台詞を変更した上で再録。 |- |うらみの11番||ねじれた心にはねじれた顔!!||1||1||1||1||藤子不二雄ランド以降は魔太郎を狙ったハサミの仕掛けを墨汁に書き換え |- |うらみの12番||ニセ教師はイジメの先生だった||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの13番||いじめるのも相手を選べ!!||1||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの14番||ネズミがネコをかむ!!||2||1||1||1||連載時は2週。コミックス収録時に後編の「ネコ一匹にネズミ百匹」と統合。 |- |うらみの15番||バレーボールほど運動になるものはない!!||2||1||1||1|| |- |うらみの16番||天使のそばに近よるな!!||2||1||1||1|| |- |うらみの17番||よっぱらい牛は暴走する!!||2||1||1||1||藤子不二雄ランド以降は、ガードレールからの転落描写からガードレールを削除 |- |うらみの18番||投げ矢(ダーツ)遊びは危険だぜ!!||2||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの19番||必殺!!砕石げり!!||2||1||1||1||藤子不二雄ランド以降は、崩落したブロックから覗いていた手を削除 |- |うらみの20番||ひとさらいには相手をえらべ!!||2||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの21番||切られ役はやっぱり切られる!!||2||2||1||1|| |- |うらみの22番||俺の手はすばやい!!||2||2||1||1|| |- |うらみの23番||もうひとりのおれをやっつけろ!!||2||1||1||1|| |- |うらみの24番||松葉づえをさがせ!!<br />(望遠鏡をさがせ!!)||3||1||1||1||登場人物の称していた「松葉づえ」を「望遠鏡」に全面的に書き換え、タイトルも改題 |- |うらみの25番||自転車もブレーキが大事!!||3||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの26番||秘密兵器も使いよう!!||3||2||1||2|| |- |うらみの27番||ぼくの同級生はスターだ!!||3||2||1||2|| |- |うらみの28番||パパのかたきは、ぼくがとる!!||3||2||1||2|| |- |うらみの29番||きたない切手集めは許さない||3||2||2||2||アフリカに対する差別的発言を書き換え |- |うらみの30番||ぼくの親友はガン気狂いだ!!<br />(ぼくの親友はガンマニアだ!!)||3||2||2||2|| |- |うらみの31番||トランプのうらみはトランプでかえす!!||3||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||2011年刊行のMy First Big SPECIALに再録。 |- |うらみの32番||悪魔のようなチビ||3||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||初出時・最初の単行本のみ切人の初登場話。 |- |うらみの33番||ネジれた心の正義の味方||3||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの34番||ドラキュラ・マントはドラキュラを呼ぶ||3||2||2||2|| |- |うらみの35番||悪魔のようなチビがまたきた<br />(悪魔のようなチビがやってきた)||3||3||2||2||藤子不二雄ランド以降は、切人の初登場話となるように台詞を変更。 |- |うらみの36番||うらみ念法!鳥のろい!||4||3||2||3|| |- |うらみの37番||空中に浮かぶ魔法の岩よ||3||2||2||2||登場人物の名前「酋長」を「モヒカン」に変更。 |- |うらみの38番||時計の歯車 ギリギリせまる!!||4||3||2||3|| |- |うらみの39番||食いもののウラミはこわいよ!||4||3||2||3|| |- |うらみの40番||ぼくのペットは吸血コウモリ!||4||3||2||3|| |- |うらみの41番||のろいは深し悪魔の城||4||3||2||3|| |- |うらみの42番||悪魔のチビにも弱みはある!!||4||3||2||3|| |- |うらみの43番||うらみ念法のろいゴケ||5||3||2||4|| |- |うらみの44番||ヒビわれた友情||4||3||2||3|| |- |うらみの45番||必殺手裏剣魔球をやぶれ!!||4||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの46番||うらみはらされた魔太郎!!||4||3||2||4|| |- |うらみの47番||猿人対オオカミ男 満月の決闘!!||4||4||2||3|| |- |うらみの48番||たとえ骨でも恐竜はこわい!||4||4||3||3|| |- |うらみの49番||人間狩りは悪い遊びだ!!||5||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの50番||8ミリのうらみは8ミリでかえす!!||4||4||3||3|| |- |うらみの51番||無断モデルはおことわり||5||4||3||4|| |- |うらみの52番||魔物がついた!!||7||4||3||6|| |- |うらみの53番||悪魔のチビはスーパースター||5||4||3||4|| |- |うらみの54番||夢魔の家||5||4||3||4|| |- |うらみの55番||おれの予言はよく当たる!!||5||5||3||4||連載時は2週。 |- |うらみの56番||ガラスの中の別荘||5||3||4||4|| |- |うらみの57番||恐怖のサングラス団||5||4||3||4|| |- |うらみの58番||うらみ念法!!悪夢旅!!||5||5||3||4|| |- |うらみの59番||ゴルフの的には人間が一番!!||5||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの60番||夏の終わり||5||5||3||4|| |- |うらみの61番||恐怖!!応援ダイコ||6||5||3||5|| |- |うらみの62番||吸血少年団がくる||6||5||3||5||連載時は2週。コミックス収録時に後編の「三人のドラキュラ」と統合。 |- |うらみの63番||ルーレットで勝負!!||6||5||3||5|| |- |うらみの64番||「よい子の会」会長は、ホントによい子か?||6||5||4||5||連載時は2週。 |- |うらみの65番||切人ちゃんは天使か?悪魔か?||6||5||4||5|| |- |うらみの66番||パパをだますやつはゆるさない!!||6||6||4||5|| |- |うらみの67番||きれいなバラにはトゲがある!!||6||6||4||5||連載時は2週。 |- |うらみの68番||タイガー戦車軍団出撃せよ!!||6||6||4||5|| |- |うらみの69番||オリエンテーリングのすすめ!!||6||6||4||6||連載時は2週。 |- |うらみの70番||文化祭の怪物(モンスター)||7||6||4||6||連載時は2週。 |- |うらみの71番||踊るキング・コブラ||13||6||4||12|| |- |うらみの72番||悪魔のチビのパパもやはり悪魔か?||7||7||4||6|| |- |うらみの73番||悪魔のようなパパと対決!!||7||7||4||6|| |- |うらみの74番||ハゲのうらみはこわい!!||7||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||連載時は2週。 |- |うらみの75番||白いスキー場の黒い心||7||7||4||6|| |- |うらみの76番||恐怖のハト時計||7||7||5||6|| |- |うらみの77番||怪物ガキ連||7||6||4||6|| |- |うらみの78番||燃えよ!!魔太郎||8||7||5||8|| |- |うらみの79番||内木一郎は本当に内気か?||7||7||5||7||連載時は2週。 |- |うらみの80番||念力!ガラス割り||8||7||5||7|| |- |うらみの81番||魔教ブードーの呪い||8||7||5||7|| |- |うらみの82番||うらみ念法!!のろいバエ||9||7||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの83番||子連れイヤガラセ||8||8||5||8|| |- |うらみの84番||自転車ピラニア事件||8||8||5||7|| |- |うらみの85番||ネズミに似た男||9||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの86番||狙い狂えば頭がとぶぜ!!||8||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの87番||悪霊対魔太郎連合軍||8||8||5||7||連載時は2週。 |- |うらみの88番||暴走自動車||8||8||5||7|| |- |うらみの89番||ウラメーション!!||8||8||5||7|| |- |うらみの90番||おどるガイコツ!!||8||8||5||7|| |- |うらみの91番||貝がらの中の少女||9||8||5||8|| |- |うらみの92番||奇人怪人奇々怪人||8||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの93番||ロウソクのつきる時||8||9||6||7|| |- |うらみの94番||無田博士のビックリ・ハウス||9||8||5||8||連載時は2週。 |- |うらみの95番||手の花が咲いた!!||9||9||6||8|| |- |うらみの96番||隣は何をする人ぞ……||9||8||5||8|| |- |うらみの97番||恐怖のTシャツ!||9||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの98番||水難の相あり!!||9||10||6||8|| |- |rowspan="4"|うらみの99番||魔太郎ひとり旅(1)(2)<br />(魔太郎ひとり旅 その1 毒蛾)||9||9||6||8||連載時は2週。 |- |魔太郎ひとり旅(3)(4)<br />(魔太郎ひとり旅 その2 ハク製の家)||9||9||6||8||連載時は2週。 |- |魔太郎ひとり旅(5)<br />(魔太郎ひとり旅 その3 船の旅)||style="background-color:#ddf"|×||9||6||style="background-color:#ddf"|×|| |- |魔太郎ひとり旅(6)(7)(8)(9)<br />(魔太郎ひとり旅 その4 黒魔城)||10||9||6||9||連載時は4週。 |- |style="white-space:nowrap"|うらみの100番||友情の押し売りはありがた迷惑!!||10||10||6||9|| |- |うらみの101番||辛見がカラム!!||10||10||6||9|| |- |うらみの102番||ボクはごちそうじゃない||10||10||6||9||連載時は2週。 |- |うらみの103番||アタリ屋に当てろ!!||10||10||6||9|| |- |うらみの104番||うらみのKOパンチ||10||10||6||9|| |- |うらみの105番||吸血鬼の子孫はやっぱり吸血鬼||13||10||6||12|| |- |うらみの106番||くるくるもどるブーメラン||10||10||6||9|| |- |うらみの107番||大小学生||10||10||7||9|| |- |うらみの108番||下宿人||style="background-color:#ddf"|×||10||7||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの109番||食べ物がなくなる!?||style="background-color:#ddf"|×||11||7||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの110番||本性を写すカメラ!?||13||11||7||12|| |- |うらみの111番||黒い雪と共に||11||11||7||10|| |- |うらみの112番||幸福行きのキップ||10||11||7||10||連載時は2週。 |- |うらみの113番||ガイコツのケーキ||13||11||7||12|| |- |うらみの114番||クイズ!!イエスか?ノーか?||11||11||7||11||連載時は3週。 |- |うらみの115番||フランケンシュタインを愛する男||11||11||7||10||連載時は2週。 |- |うらみの116番||通り魔||11||12||7||10|| |- |うらみの117番||パイ投げ仕掛人参上!||11||12||7||10||連載時は2週。 |- |うらみの118番||アリスの鏡 <br />(鏡の中へ)||11||12||7||10||連載時は2週。 |- |うらみの119番||不気味な侵略者||11||12||7||10||連載時は2週。 |- |うらみの120番||犬の飼い方教えます||13||12||8||12||連載時は2週。 |- |うらみの121番||不幸の手紙などこわくない!!||12||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||2011年刊行のMy First Big SPECIALに再録。 |- |うらみの122番||手を売る男||12||13||8||11|| |- |うらみの123番||筋肉男||12||12||8||11||連載時は2週。 |- |うらみの124番||恐怖の同窓会||12||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||連載時は2週。 |- |うらみの125番||ペンフレンド||12||13||8||11||連載時は2週。 |- |うらみの126番||残像写真||12||13||8||11||連載時は2週。 |- |うらみの127番||蚊男(モスキートマン)||12||13||8||11||連載時は2週。 |- |うらみの128番||人食いザメ||13||13||8||12||連載時は2週。 |- |うらみの129番||人形の家||13||14||8||12||連載時は2週。 |- |うらみの130番||ドリアン・グレイの肖像||13||14||8||12||連載時は2週。 |- |うらみの131番||赤ヘル対ジャイアンツ帽||style="background-color:#ddf"|×||14||8||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの132番||魔太郎の生い立ち||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×||style="background-color:#ddf"|×|| |- |うらみの133番||魔太郎が去る!!||13||14||8||12||連載時は2週。 |} == 単行本 == * チャンピオンコミックス「魔太郎がくる!!」全13巻、秋田書店、1973年-1975年 * 藤子不二雄ランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、[[中央公論新社|中央公論社]]、1987年-1988年 * 中公文庫コミック版「魔太郎がくる!!」全8巻、中央公論社、1997年 * チャンピオンコミックス「新装版 魔太郎がくる!!」全12巻、秋田書店、1999年-2000年 * アイランドコミックスPRIMO「魔太郎がくる!!」全12巻、[[嶋中書店]]、2002年 * 藤子不二雄<span class="Unicode">&#9398;</span>ランド「新編集 魔太郎がくる!!」全14巻、[[ブッキング]]、2004年-2005年 * 秋田トップコミックスW「魔太郎がくる!!」全5巻、秋田書店、2008年 * My First Big SPECIAL「魔太郎がくる!!」全5巻、小学館、2011年 * 新編集 魔太郎がくる!! 全14巻 復刊ドットコム == 脚注 == <references/> {{藤子不二雄}} {{DEFAULTSORT:またろうかくる}} [[Category:藤子不二雄Aの漫画作品]] [[Category:漫画作品 ま|たろうかくる]] [[Category:1972年の漫画]] [[Category:週刊少年チャンピオンの漫画作品]] [[Category:ホラー漫画]] [[Category:オカルトを題材とした作品]] [[Category:中学校を舞台とした漫画作品]] 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アイザック・アシモフ
アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 - 1992年4月6日)は、アメリカ合衆国の生化学者(ボストン大学教授)・作家。その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。 日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの表記揺れがあり、前者が一般的ではあるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い[ˈaɪzək ˈæzɪmɒv]である。 ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた。 1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アロノヴィチ・アジモフ (Юда Аронович Азимов、Judah Azimov、Judah Ozimov) と母アンナ=ラヒリ・イサーコヴナ・ベルマン (Анна-Рахиль Исааковна Берман、Anna Rachel Azimov、Anna Rachel Ozimov) の間にユダヤ系ロシア人イサーク・ユードヴィチ・オジモフ (Исаак Юдович Озимов、Исаа́к Ю́дович Ази́мов) として生まれた。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる。本人によれば、父親の経営するキャンデーストア(英語版)にはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという。 家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした。 この頃、ニューヨークのSFファングループのフューチャリアンズに属していた。会員にはフレデリック・ポール、C・M・コーンブルース、ジュディス・メリル、ドナルド・A・ウォルハイム、ジェイムズ・ブリッシュ、デーモン・ナイト、H・ビーム・パイパーらがいた。 1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した。 1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。 1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。1979年7月、ボストン大学教授に昇任する。 1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医で後にSF作家となるジャネット・ジェプスン(英語版)と再婚した。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。 アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、特に1957年のスプートニク・ショックがアシモフの執筆活動を後押しした。 科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man's Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞(英語版)を受賞した。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した。その際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。 1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。 アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life (我が良き生涯)で明らかにされた。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。 アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2つの言語が使えると述べているが、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。 作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している。飛行機嫌いで、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ。普段と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。ただしこうした女性に対する行動は現在ではセクシュアルハラスメントと認識され、男性中心のSF業界が抱えてきた問題の一例として言及されている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の逆)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。 アシモフは人道主義者で、アメリカ人道主義協会の会長を務めた。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、サイコップの創立者の一人である。 ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 In Joy Still Felt の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であったアビー・ホフマンとの会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった。アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派についた。 また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、ポール・アンダースンは共産主義の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが、(アシモフを含む)アメリカのSF作家たちを手厳しく批判したために起きた1976年の「レム事件」についても、アシモフははぐらかすような意見をのべた。 このほか、ポール・エルリッヒ(英語版)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth (怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。 メンサの会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した。アシモフは同じく会員であったマービン・ミンスキーとカール・セーガンの2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている。 彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星、アシモフという火星のクレーター、SFのアイザック・アシモフ賞がある。また出身の高校も現在(2022年)ではアイザック・アシモフ高校という名前になっている。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーと同じ「Rダニール」と名付けられた。世界初のロボットスーツHALを開発した山海嘉之はアシモフの影響を受けている。本田技研工業の人型ロボットASIMOは名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の "V" がない)、開発者はまったく関係はないとしている。アシモフはロボット工学を造語したが、「ロボット工学の父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフに影響を受けていた。 アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる(日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野でヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回、ローカス賞を4回受賞している。 10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけていき、クリフォード・シマックやロバート・ハインラインらとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた。 キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall, 1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている。彼は短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で次のように述べている。 短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性」(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline, 1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した。 ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした。 その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していったことから二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド(英語版)編集長、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』 (F&SF) 誌のアンソニー・バウチャー、ロバート・P・ミルズ(英語版)両編集長との関係を深めた。前者は長編『鋼鉄都市』、後者は F&SF 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった。 アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である。 1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。 1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した。以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。 アシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した。 ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I, Robot, 1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学三原則)が世に広められた。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門と1977年のネビュラ賞 中編小説部門、ローカス賞 長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。 一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は三原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。 ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。 1958年にボストン大学を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。 アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。 アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞した後もひきつづいて「編者」を務めた。さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1992年の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。 1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov's Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov's Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた。 マーティン・H・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた。 他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。 アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、推理小説作家としても評価を受けている。 純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている。ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる。 『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers (2003年)にまとめられた。 アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。 『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。 アシモフは科学解説者としてもよく知られている。ファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる。記事はエスクァイア、ハーパーズ、サタデー・イブニング・ポストなどにも寄稿した。 1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (The Chemicals of Life) 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった。 科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(The Intelligent Man's Guide to Science, 1960年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた。また『宇宙を作る元素』(Building Blocks of the Universe, 1957年)はエジソン財団賞を、血液についての著作『生きている川』(The Living River, 1960年)はアメリカ心臓協会のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた。さらに、1967年にはアメリカ科学振興協会から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている。 アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (Asimov's Guide to the Bible) を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている。 そのほか、科学以外の分野では歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作も残した。 彼はまた、3冊の自伝、すなわち In Memory Yet Green (1979年、『アシモフ自伝I』)、In Joy Still Felt (1980年、『アシモフ自伝II』)、I, Asimov: A Memoir (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。 3番目の自伝、I, Asimov: A Memoir は1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。 他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(Thinking About Thinking, 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(Science: Knock Plastic, 1967年)など。 また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、Opus 100 (1969), Opus 200 (1979), Opus 300 (1984) を刊行しており、Opus 200 は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アイザック・アシモフ(Isaac Asimov、1920年1月2日 - 1992年4月6日)は、アメリカ合衆国の生化学者(ボストン大学教授)・作家。その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの表記揺れがあり、前者が一般的ではあるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い[ˈaɪzək ˈæzɪmɒv]である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アロノヴィチ・アジモフ (Юда Аронович Азимов、Judah Azimov、Judah Ozimov) と母アンナ=ラヒリ・イサーコヴナ・ベルマン (Анна-Рахиль Исааковна Берман、Anna Rachel Azimov、Anna Rachel Ozimov) の間にユダヤ系ロシア人イサーク・ユードヴィチ・オジモフ (Исаак Юдович Озимов、Исаа́к Ю́дович Ази́мов) として生まれた。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。ソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる。本人によれば、父親の経営するキャンデーストア(英語版)にはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この頃、ニューヨークのSFファングループのフューチャリアンズに属していた。会員にはフレデリック・ポール、C・M・コーンブルース、ジュディス・メリル、ドナルド・A・ウォルハイム、ジェイムズ・ブリッシュ、デーモン・ナイト、H・ビーム・パイパーらがいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。この頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。ここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。1979年7月、ボストン大学教授に昇任する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医で後にSF作家となるジャネット・ジェプスン(英語版)と再婚した。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、特に1957年のスプートニク・ショックがアシモフの執筆活動を後押しした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "科学を概観した『知識人のための科学入門』 (The Intelligent Man's Guide to Science) が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞(英語版)を受賞した。1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した。その際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。SFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アシモフは1992年4月6日に没した。死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 It's Been a Good Life (我が良き生涯)で明らかにされた。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アシモフは自伝の中で英語とイディッシュ語の2つの言語が使えると述べているが、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している。飛行機嫌いで、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである。そのため遠くへ行くことは少なかったが、東海岸の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される世界SF大会にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ。普段と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。ただしこうした女性に対する行動は現在ではセクシュアルハラスメントと認識され、男性中心のSF業界が抱えてきた問題の一例として言及されている。また、ハーラン・エリスンなどとは過激なやりとりを楽しんだ。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家(閉所恐怖症の逆)でもあり、地下室や屋根裏部屋でタイプライターに向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アシモフは人道主義者で、アメリカ人道主義協会の会長を務めた。かつ合理主義者だった。純粋な信仰心に反対することはなかったが、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、サイコップの創立者の一人である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して民主党の強い支持者だった。1970年代初期のテレビのインタビューでは公然とジョージ・マクガヴァンを支持した。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 In Joy Still Felt の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であったアビー・ホフマンとの会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった。アメリカのSF界を2つに割ったベトナム戦争への賛成・反対問題については反対派についた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、ポール・アンダースンは共産主義の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが、(アシモフを含む)アメリカのSF作家たちを手厳しく批判したために起きた1976年の「レム事件」についても、アシモフははぐらかすような意見をのべた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "このほか、ポール・エルリッヒ(英語版)によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた。彼の最後のノンフィクションの著作は Our Angry Earth (怒れる地球、1991年、SF作家フレデリック・ポールとの共著)であり、この中で彼は地球温暖化やオゾン層の破壊といった環境危機について論じている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "メンサの会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した。アシモフは同じく会員であったマービン・ミンスキーとカール・セーガンの2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星、アシモフという火星のクレーター、SFのアイザック・アシモフ賞がある。また出身の高校も現在(2022年)ではアイザック・アシモフ高校という名前になっている。東京大学で2003年に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボットR・ダニール・オリヴォーと同じ「Rダニール」と名付けられた。世界初のロボットスーツHALを開発した山海嘉之はアシモフの影響を受けている。本田技研工業の人型ロボットASIMOは名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の \"V\" がない)、開発者はまったく関係はないとしている。アシモフはロボット工学を造語したが、「ロボット工学の父」と呼ばれることもあるジョセフ・F・エンゲルバーガー博士はアシモフに影響を受けていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アシモフは、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインと合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる(日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野でヒューゴー賞を7回、ネビュラ賞を2回、ローカス賞を4回受賞している。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "10代の頃からSFファンであり、『アスタウンディング』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた。1938年に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者のジョン・W・キャンベルの指導の下で実力をつけていき、クリフォード・シマックやロバート・ハインラインらとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「夜来たる」(Nightfall, 1941年)は Bewildering Stories 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている。また、1968年アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている。彼は短編集『夜来たる』 (Nightfall and Other Stories) の中で次のように述べている。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "短編小説以外にもSF雑誌に「チオチモリンの驚くべき特性」(The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline, 1948年)という科学論文のパロディーを書いた。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルがダイアネティックスなどの疑似科学に傾倒していったことから二人は疎遠となり、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『ギャラクシー』誌のホーレス・ゴールド(英語版)編集長、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』 (F&SF) 誌のアンソニー・バウチャー、ロバート・P・ミルズ(英語版)両編集長との関係を深めた。前者は長編『鋼鉄都市』、後者は F&SF 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した。以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『われはロボット』(I, Robot, 1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学三原則)が世に広められた。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。また中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞 中編小説部門と1977年のネビュラ賞 中編小説部門、ローカス賞 長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は三原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。また没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1958年にボストン大学を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた。これは、アシモフがその時点でヒューゴー賞を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、1963年にSF雑誌F&SFの科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞した後もひきつづいて「編者」を務めた。さらに異星人とセックスの要素を含む『神々自身』(1972年)でヒューゴー賞 長編小説部門とネビュラ賞 長編小説部門を受賞した。1992年の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1977年には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン Isaac Asimov's Science Fiction Magazine 」が創刊された(現在の誌名は「アシモフズ・サイエンス・フィクション Asimov's Science Fiction 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "マーティン・H・グリーンバーグらと共同編集のアンソロジーも多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。", "title": "SF" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており、推理小説作家としても評価を受けている。", "title": "推理小説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "純粋なミステリの代表作は『黒後家蜘蛛の会』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている。ほぼ純粋なパズル・ストーリーであり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる。", "title": "推理小説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、The Return of the Black Widowers (2003年)にまとめられた。", "title": "推理小説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アシモフは『ユニオン・クラブ奇談』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。", "title": "推理小説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。", "title": "推理小説" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アシモフは科学解説者としてもよく知られている。ファンタジー&サイエンス・フィクション誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる。記事はエスクァイア、ハーパーズ、サタデー・イブニング・ポストなどにも寄稿した。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (The Chemicals of Life) 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、ソ連がアメリカに先駆けて初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げると、いわゆるスプートニク・ショックによってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(The Intelligent Man's Guide to Science, 1960年)はニューズウィーク等の書評から好評を受け、全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされた。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた。また『宇宙を作る元素』(Building Blocks of the Universe, 1957年)はエジソン財団賞を、血液についての著作『生きている川』(The Living River, 1960年)はアメリカ心臓協会のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた。さらに、1967年にはアメリカ科学振興協会から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (Asimov's Guide to the Bible) を著した。第1巻(1967年)は旧約聖書を、第2巻(1969年)は新約聖書をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "そのほか、科学以外の分野では歴史の解説やシェイクスピアなどの文学の解説、趣味である滑稽五行詩(リメリック)についての著作も残した。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "彼はまた、3冊の自伝、すなわち In Memory Yet Green (1979年、『アシモフ自伝I』)、In Joy Still Felt (1980年、『アシモフ自伝II』)、I, Asimov: A Memoir (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "3番目の自伝、I, Asimov: A Memoir は1994年4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり、1995年のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した。他にも『木星買います』『アシモフ初期作品集』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(Thinking About Thinking, 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(Science: Knock Plastic, 1967年)など。", "title": "ノンフィクション" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、Opus 100 (1969), Opus 200 (1979), Opus 300 (1984) を刊行しており、Opus 200 は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている。", "title": "ノンフィクション" } ]
アイザック・アシモフは、アメリカ合衆国の生化学者(ボストン大学教授)・作家。その著作は500冊以上を数える。彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。 日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの表記揺れがあり、前者が一般的ではあるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近いである。 ジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。1942年発表のSF短編 Time Pussy では George E. Dale という筆名を用いた。1971年の著書 The Sensuous Dirty Old Man では Dr. A という筆名を用いた。
{{Infobox 作家 | name = アイザック・アシモフ<br/>Isaac Asimov | image = Isaac.Asimov01.jpg | caption = 若い頃のアシモフ(1965年) | pseudonym = Dr. A, Paul French, George E. Dale | birth_date = [[1920年]][[1月2日]] | birth_place = [[ファイル:Flag_RSFSR_1918.svg|border|25x20px|ロシアSFSRの旗]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] [[ペトロヴィッチ (地名)|ペトロヴィッチ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1920|1|2|1992|4|6}} | death_place = {{USA}}<br/>[[ファイル:Flag of New York City.svg|border|25x20px|ニューヨーク市の旗]] ニューヨーク州[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]<br/>[[ファイル:Flag of Brooklyn, New York.svg|border|25x20px|ブルックリン区の旗]] [[ブルックリン区]] | occupation = 生化学者<br/>作家<br/>エッセイスト<br/>短編小説家<br/>教科書作家<br/>ユーモア作家<br/>歴史家 | genre = [[サイエンス・フィクション]]([[ハードSF]])<br/>[[ポピュラー・サイエンス]]<br/>[[ミステリー]]<br/>[[随筆]]<br/>[[文芸評論]] | movement = [[サイエンス・フィクション#1950年代のSF|サイエンスフィクションの黄金時代]] | awards = [[ヒューゴー賞]]<br/>[[ネビュラ賞]]<br/>[[ローカス賞]] | debut_works = 「真空漂流」 | influences = [[クリフォード・D・シマック]]<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻263–264頁。</ref><br/>[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]<br/>[[スタンリー・G・ワインボウム]] | signature = Isaac Asimov signature.svg }} '''アイザック・アシモフ'''({{lang|ru-Latn|Isaac Asimov}}、[[1920年]][[1月2日]] - [[1992年]][[4月6日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[生化学|生化学者]]([[ボストン大学]][[教授]])・[[作家]]。その著作は500冊以上を数える<ref name=Krystek />。彼が扱うテーマは[[科学]]、[[言語]]、[[歴史]]、[[聖書]]など多岐にわたり、[[デューイ十進分類法]]の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが<ref>{{cite web|last=Seiler|first=Edward|coauthors=Jenkins, John H.|url=http://www.asimovonline.com/asimov_FAQ.html#others11|title=Isaac Asimov FAQ|publisher=Isaac Asimov Home Page|date=June 27, 2008|accessdate=July 2, 2008 }}</ref><ref group="注">唯一の例外は1類「哲学及び心理学」である。ただし、1類に分類される ''The Humanist Way'' の序文を執筆している。</ref>、特に[[サイエンス・フィクション|SF]]、一般向け[[科学]]解説書、[[推理小説]]によってよく知られている。 [[日本語]]では「'''アシモフ'''」と「'''アジモフ'''」<ref>{{cite journal|title=SFにおける自己組織的AI像|author=[[金子隆一 (サイエンスライター)|金子隆一]]|page=37|journal~AIジャーナル 未来派知性の総合誌|volume=No.4|publisher=[[イースト株式会社]]|year=1986}}</ref>などの表記揺れがあり、前者が一般的ではあるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い{{IPAc-en|ˈ|aɪ|z|ə|k|_|ˈ|æ|z|ɪ|m|ɒ|v}}である<ref group="注">Asimov の発音については自伝に has-him-of のエピソードが掲載されている。『アシモフ自伝I』 上巻31頁には、has, him, of の3つの簡単な[[英単語]]から2つの '''h''' を抜くと Asimov の発音になるという記述がある。さらに同書30頁には Asimov の '''s''' は発音としては '''z''' である旨の記述もある。</ref>。 [[ジュブナイル]]作品では'''ポール・フレンチ'''という筆名を用いた<ref>{{cite book|author=Server, Lee|year=2002|title=Encyclopedia of Pulp Fiction Writers|publisher=Facts on File|location=New York|page=17|isbn=0816045771}}</ref><ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻340頁。</ref>。1942年発表のSF短編 ''Time Pussy'' では George E. Dale という筆名を用いた<ref>{{cite book|author=Smith, Stephen|year=2006|title=An Inkwell of Pen Names|publisher=Xlibris|location=Bloomington|page=27|isbn=1425728243}}</ref><ref>{{cite book|author=Asimov, Isaac|year=1972|title=The early Asimov|publisher=Doubleday|location=New York|page=371|isbn=0345325907}}</ref>。1971年の著書 ''The Sensuous Dirty Old Man'' では Dr. A という筆名を用いた<ref>[[#White|White (2005)]], p. 207.</ref><!--(翌1972年刊のペーパーバック版では Isaac Asimov と印刷されていた)-->。 == 生涯 == [[ファイル:Heinlein-decamp-and-asimov.jpg|thumb|300px|right|[[ロバート・A・ハインライン|ハインライン]](左)、[[L・スプレイグ・ディ・キャンプ|ディ・キャンプ]](中央)と共に[[フィラデルフィア海軍造船所]]で勤務するアシモフ(右)。1944年]] === 生い立ち === [[1920年]][[1月2日]]、当時の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[ペトロヴィッチ (地名)|ペトロヴィッチ]]において<ref name=Gunn_p4>[[#Gunn|Gunn (1996)]], p. 4; [[#Campbell|Campbell (1991)]], p. 4.</ref>、父ユダ・アロノヴィチ・アジモフ ({{lang|ru|Юда Аронович Азимов}}、{{lang|ru-Latn|Judah Azimov}}、{{lang|ru-Latn|Judah Ozimov}}) と母アンナ=ラヒリ・イサーコヴナ・ベルマン ({{lang|ru|Анна-Рахиль Исааковна Берман}}、{{lang|ru-Latn|Anna Rachel Azimov}}、{{lang|ru-Latn|Anna Rachel Ozimov}}) の間に<ref name=Touponce_p_xi>[[#Touponce|Touponce (1991)]], p. xi.</ref>[[ユダヤ人|ユダヤ系]]ロシア人'''イサーク・ユードヴィチ・オジモフ''' ({{lang|ru|Исаак Юдович Озимов}}、{{lang|ru|Исаа́к Ю́дович Ази́мов}}) として<ref>{{cite book|author=Peach, A. R.|year=2011|title=Totalitarianism|publisher=Dogwood|location=Maryville|page=243|id=ASIN B005FHNS5W}}</ref>生まれた<ref group="注">ロシア語には強勢のないOをAと読む発音規則があり、読み方は「アジマフ」のほうが近い。</ref>。生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻51頁。</ref>{{#tag:ref|早ければ1919年10月4日の可能性もある<ref name=Gunn_p4 />。|group=注}}。[[ソビエト連邦]]成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、[[ニューヨーク]]・[[ブルックリン区|ブルックリン]]で育った<ref name=Touponce_p_xi />。10歳のころ、SF雑誌『[[アメージング・ストーリーズ]]』によりSFファンとなる<ref>[[#Touponce|Touponce (1991)]], p. 6.</ref>。本人によれば、父親の経営する{{仮リンク|キャンデーストア|en|Confectionery store}}には[[パルプ・マガジン]]が置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス(科学)」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという<ref>[[#White|White (2005)]], p. 14; [[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻125–128頁。</ref>。 家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を[[飛び級]]で卒業して[[1935年]]に15歳で[[コロンビア大学]]へ入学した<ref name=Olander_p235>[[#Olander and Greenberg|Olander and Greenberg (1977)]], p. 235</ref><ref name=Gunn_p7>[[#Gunn|Gunn (1996)]], p. 7; [[#Campbell|Campbell (1991)]], p. 7.</ref>。[[1938年]]に初めての作品をSF雑誌『[[アスタウンディング]]』に持ち込み、採用はされなかったが編集者[[ジョン・W・キャンベル]]の指導を受けるようになった<ref>[[#Gunn|Gunn (1996)]], p. 9; [[#Campbell|Campbell (1991)]], p. 9.</ref>。[[1939年]]には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした<ref>[[#Olander and Greenberg|Olander and Greenberg (1977)]], p. 16; [[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻271–282頁。</ref>。 この頃、ニューヨークのSFファングループの[[フューチャリアンズ]]に属していた。会員には[[フレデリック・ポール]]、[[C・M・コーンブルース]]、[[ジュディス・メリル]]、[[ドナルド・A・ウォルハイム]]、[[ジェイムズ・ブリッシュ]]、[[デーモン・ナイト]]、[[H・ビーム・パイパー]]らがいた。 === 大学と就職 === [[1939年]]にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で[[化学]]を専攻した<ref>[[#White|White (2005)]], p. 43.</ref>。この頃すでに『[[われはロボット]]』所収の[[ロボット工学三原則]]物や[[ファウンデーションシリーズ]]の諸作品、出世作『[[夜来たる]]』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた<ref>[[#Fiedler and Mele|Fiedler and Mele (1982)]], p. 4.</ref>。1942年にはガートルードという女性と結婚、[[第二次世界大戦]]の勃発を理由に大学院を休学し、[[フィラデルフィア海軍造船所]]に技術者として勤務した<ref name=Gunn_p7 />。ここでは予備役の技術士官として勤務していた[[ロバート・A・ハインライン]]と[[L・スプレイグ・ディ・キャンプ]]に出会った<ref name=Olander_p235 />。終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由に[[ビキニ環礁]]での[[クロスロード作戦]]に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻105–159頁。</ref>。 1946年に大学院に復学し<ref name=Touponce_p_xii>[[#Touponce|Touponce (1991)]], p. xii.</ref>、[[1948年]]には[[博士|博士号]]を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間[[博士研究員]]を務めた後に、[[1949年]]から[[ボストン大学]][[医学部]]の[[生化学]]の講師となった<ref name=Gunn_p7 />。大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻260–262頁; [[#Gunn|Gunn (1996)]], p. 136.</ref>。この頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており<ref name=Touponce_p_xii />、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、[[1950年]]に[[ダブルデイ]]社から初めての単行本『[[宇宙の小石]]』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化や[[アンソロジー]]への再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて[[印税]]でも収入を得られるようになった<ref>[[#White|White (2005)]], p. 105; [[#Fiedler and Mele|Fiedler and Mele (1982)]], p. 5.</ref>。1953年から1954年にはSFミステリ『[[鋼鉄都市]]』を発表した。また化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻252–260頁、282–283頁、323頁; [[#White|White (2005)]], 160.</ref>。 [[1955年]]に[[准教授]]となり[[テニュア|終身の在職権]]を得たが<ref name=Hassler_p2>[[#Hassler|Hassler (1991)]], p. 2.</ref>、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた<ref>[[#White|White (2005)]], p. 103.</ref>。既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、[[1958年]]に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた<ref name=Hassler_p2 />。その後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻58–63頁、139–143頁、153–155頁、170–171頁。</ref>。[[1979年]][[7月]]、[[ボストン大学]]教授に昇任する<ref>{{cite book|author=Asimov, Stanley|year=1995|title=Yours, Isaac Asimov: A Lifetime of Letters|publisher=Doubleday|location=New York|page=301|isbn=0385476248}}</ref>。 1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが<ref>[[#Freedman|Freedman (2005)]], pp. xix–xx.</ref>、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ<ref>[[#White|White (2005)]], pp. 101, 158.</ref>。1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医で後にSF作家となる{{仮リンク|ジャネット・ジェプスン|en|Janet Asimov}}と再婚した<ref>[[#Freedman|Freedman (2005)]], p. xx.</ref>。アシモフとジャネットはノービー (Norby) シリーズなどの共著を残している。 === 執筆活動 === アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり<ref>[[#Freedman|Oliver, Myrna (2005)]], pp. 163–165.</ref>、特に1957年の[[スプートニク・ショック]]がアシモフの執筆活動を後押しした。 科学を概観した『知識人のための科学入門』 (''The Intelligent Man's Guide to Science'') が1961年の[[全米図書賞]]ノンフィクション部門にノミネートされ<ref>{{cite web|title=1961 National Book Awards Winners and Finalists|url=http://www.nationalbook.org/nba1961.html|year=2007|publisher=The National Book Foundation|accessdate=2011-09-25}}</ref>、1965年には[[アメリカ化学会]]から化学についての[[報道]]を表彰する{{仮リンク|ジェイムズ・T・グラディー=ジェイムズ・H・スタック賞|en|James T. Grady-James H. Stack Award for Interpreting Chemistry|label=ジェイムズ・T・グラディー賞}}を受賞した<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻285–286頁、420頁; {{cite web|title=James T. Grady-James H. Stack Award for Interpreting Chemistry for the Public|url=http://portal.acs.org/portal/PublicWebSite/funding/awards/national/bytopic/CTP_004537|publisher=The American Chemical Society|year=2011|accessdate=2011-09-25 |archiveurl=https://archive.is/20120715185359/http://portal.acs.org/portal/acs/corg/content?_nfpb=true&_pageLabel=PP_ARTICLEMAIN&node_id=1319&content_id=CTP_004537&use_sec=true&sec_url_var=region1&__uuid=cbc81d20-77f4-48c1-931c-0e4dd5c1e26c |archivedate=2012-07-15}}</ref><ref name=NYT>{{cite web|author=Rothstein, Mervyn|date=1992-04-07|title=Isaac Asimov, Whose Thoughts and Books Traveled the Universe, Is Dead at 72|url=http://www.nytimes.com/books/97/03/23/lifetimes/asi-v-obit.html|publisher=New York Times on the Web|accessdate=2011-09-25|archiveurl=https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:rYMAD3e_gSkJ:www.nytimes.com/books/97/03/23/lifetimes/asi-v-obit.html&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp|archivedate=2011-09-05}}</ref>。1962年に[[メンサ]]の会員になったが数年後に退会した<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻341頁、422頁。</ref>。1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した<ref name=trip>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻241頁、320–325頁; [[#White|White (2005)]], p. 185.</ref>。その際、同じく[[メンサ]]会員で親睦の深かった[[アーサー・C・クラーク]]と再会し、共に講演に参加している<ref>[https://web.archive.org/web/20180108163855/http://www.bis-space.com/wp-content/uploads/2011/07/odyssey_5_July2011.pdf The Newsletter of the British Interplanetary Society:July 2011]</ref>。 1970年ごろから『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』にて純粋なミステリの『[[黒後家蜘蛛の会|黒後家蜘蛛の会シリーズ]]』の連載を開始した<ref name=Hoppa_p67>[[#Hoppa|Hoppa (2009)]], p. 67; {{cite book|author=Asimov, Isaac|year=1980|title=Casebook of the Black Widowers|publisher=Doubleday|location=New York|page=2|isbn=0385157045}}</ref>。SFでは1972年に久々の長編である『[[神々自身]]』を出版し、[[ヒューゴー賞 長編小説部門]]<ref name="hugo_1973">{{cite web|url=http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1973.html|title=The Long List of Hugo Awards, 1973|publisher=World Science Fiction Society|accessdate=2011-09-27}}</ref>と[[ネビュラ賞 長編小説部門]]<ref name="neb_1972">{{cite web|url=http://dpsinfo.com/awardweb/nebulas/#1972|title=SFWA Nebula Awards|publisher=dpsinfo.com|author=Mann, Laurie|accessdate=2011-09-27}}</ref>を受賞した<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻151–155頁、181–183頁、194–195頁、302–305頁; [[#Touponce|Touponce (1991)]], p. 122.</ref>。1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆した<ref name=Gun2011>{{cite web|author=Gunn, James|year=2011|title=Thought Experiments: Celebrating Isaac|url=http://www.asimovs.com/2011_04-05/Thoughtexperiments.shtml|work=Asimov's Science Fiction|publisher=Dell Magazines|location=New York|accessdate=2011-09-18}}</ref><ref name=Gold>{{cite book|author=Asimov, Isaac|year=1995|title=Gold|publisher=HarperPrism|location=New York|page=193|isbn=0061054097}}</ref>ファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『[[ファウンデーションの彼方へ]]』が[[ベストセラー]]となり<ref>[[#Gunn|Gunn (1996)]], pp. 189–190; [[#Hoppa|Hoppa (2009)]], p. 74.</ref>、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。 === 病気と死 === アシモフは[[1992年]][[4月6日]]に没した<ref name=NYT />。死因は[[後天性免疫不全症候群]](エイズ)によるもので、[[1983年]]に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液が[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]に汚染されていたことが原因である<ref>{{cite book|author=Asimov, Isaac; Asimov, Janet Jeppson|year=2002|title=It's been a good life|editor=Asimov, Janet Jeppson|publisher=Prometheus Books|location=New York|page=253|isbn=1573929689}}</ref>。アシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝 ''It's Been a Good Life'' (我が良き生涯)で明らかにされた<ref>{{cite book|author=Carroll, Siobhan|year=2009|chapter=Asimov, Isaac|title=Encyclopedia of American popular fiction|editor=Hamilton, Geoff; Jones, Brian|publisher=Infobase|location=New York|page=13|isbn=0816071578}}</ref>。アシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した<ref name=Krystek>{{cite web|author=Krystek, Lee|year=2007|url=http://unmuseum.mus.pa.us/notescurator/b3asimov.htm|work=Notes from Curator's Office|title=Revisiting the Big Three: Isaac Asimov|accessdate=2011-09-25}}</ref>。 == 人物 == アシモフは自伝の中で[[英語]]と[[イディッシュ語]]の2つの言語が使えると述べている<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻34頁、53頁。</ref>が、イディッシュ語による作品は残していない。すべての著作は英語で行われた。 作家としての地位を確立し、著作からの収入で裕福になってからも「仕事中毒」であり、贅沢をしたり余暇を楽しむことは少なかった。アシモフ自身は、父の自営する店で幼い頃から働いた影響であると自己分析している<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻118–119頁。</ref>。[[飛行機]]嫌いで<ref>[[#Hassler|Hassler (1991)]], p. 79; {{cite web|url=http://www.asimovonline.com/asimov_FAQ.html#non-literary11|title=Is it true that Asimov had a fear of flying?|work=Asimov FAQ|publisher=www.asimovonline.com|accessdate=2011-10-02}}</ref>、その生涯で飛行機を利用したのは2度のみである<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻90–91頁、150頁。</ref>。そのため遠くへ行くことは少なかったが、[[アメリカ合衆国東海岸|東海岸]]の各地で講演を行った。自宅近辺で開催される[[ワールドコン|世界SF大会]]にはよく参加し、他の作家やファンと陽気に交流を楽しんだ<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻68–69頁。</ref>。普段<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻373頁、385頁、403頁。</ref>と同様に女性に対して飛びついたりしたが、相手がマジメに返すと驚いて引き下がる、などのエピソードも残っている。ただしこうした女性に対する行動は現在では[[セクシュアルハラスメント]]と認識され、男性中心のSF業界が抱えてきた問題の一例として言及されている<ref >{{Cite web |last=Nevala-Lee |first=Alec |author-link=Alec Nevala-Lee |url=https://www.publicbooks.org/asimovs-empire-asimovs-wall/ |title=Asimov's Empire, Asimov's Wall |archive-url=https://web.archive.org/web/20200109111535/https://www.publicbooks.org/asimovs-empire-asimovs-wall/ |archive-date=January 9, 2020 |website=Public Books |date=January 7, 2020|accessdate=April 6, 2023}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://io9.gizmodo.com/dont-look-away-fighting-sexual-harassment-in-the-scifi-1785704207|title=Don't Look Away: Fighting Sexual Harassment in the Scifi/Fantasy Community|last=Hines|first=Jim C.|date=August 29, 2016|work=io9|access-date=December 18, 2017|language=en-US|archive-date=November 23, 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171123220020/https://io9.gizmodo.com/dont-look-away-fighting-sexual-harassment-in-the-scifi-1785704207|url-status=live}}</ref>。また、[[ハーラン・エリスン]]などとは過激なやりとりを楽しんだ<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻417–418頁。</ref>。狭くて閉ざされた空間をこよなく愛する閉所愛好家([[閉所恐怖症]]の逆)でもあり<ref>[[#Freedman|Elms, Alan C. (2005)]], p. 125; {{cite book|author=Easton, Tom|year=2006|title=Off the Main Sequence|page=165|publisher=Wildside Press|location=Rockville|isbn=9780809512058}}</ref>、[[地下室]]や屋根裏部屋で[[タイプライター]]に向かう時間が無上の喜びだったと自ら語っている<!--短編集『サリーはわが恋人』収録「こんなにいい日なんだから」の前書きなど-->。 アシモフは[[ヒューマニズム|人道主義]]者で、{{仮リンク|アメリカ人道主義協会|en|American Humanist Association}}の会長を務めた<ref>{{cite web|url=http://asimovhumanists.org/AboutIsaacAssimov2.htm|title=About Isaac Asimov|author=Henry, Ross Hamilton|year=2005|publisher=Asimov Humanists|accessdate=2011-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120614180101/http://www.asimovhumanists.org/AboutIsaacAssimov2.htm|archivedate=2012年6月14日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。かつ[[合理主義哲学|合理主義者]]だった<ref>[[#Gunn|Gunn (1996)]], pp. 12, 225.</ref>。純粋な信仰心に反対することはなかったが<ref>{{cite book|author=Bates, Gary|year=2005|title=Alien Intrusion|publisher=Master Books|location=Green Forest|pages=pp. 60–61|isbn=0890514356}}</ref>、超常現象や根拠のない思想に対しては断固とした態度を貫いた<ref>{{cite journal|author=Cross, Michael|year=1984|month=May|title=Fringe science speaks, and scientists listen|journal=New Scientist|volume=102|issue=1412|page=12|url=https://books.google.co.jp/books?id=IFqxBJNuET8C&pg=PA12&redir_esc=y&hl=ja}}</ref>。アシモフは疑似科学の科学的な調査・批判を行う団体、[[サイコップ]]の創立者の一人である<ref>{{cite book|author=Austin, Joanne P.|year=2008|title=ESP, Psychokinesis, and Psychics|editor=[[ローズマリ・エレン・グィリー|Guiley, Rosemary Ellen]]|publisher=Chelsea House|location=New York|page=88|isbn=0791093883}}</ref>。 ほとんどの政治的問題においては進歩的な態度をとっており、若い頃から一貫して[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の強い支持者だった<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻77頁、231頁、[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻413頁。</ref>。[[1970年代]]初期のテレビのインタビューでは公然と[[ジョージ・マクガヴァン]]を支持した<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻118–119頁。</ref>。1960年代後期以降に急進的な政治活動家によって採られていた、アシモフにとっては「非合理主義的」な物の見方を不満に思っていた。第2の自伝 ''In Joy Still Felt'' の中で、アシモフはカウンターカルチャーの象徴であった[[アビー・ホフマン]]との会合を回想している。アシモフの受けた印象は、この1960年代のカウンターカルチャーの英雄は感情の波に乗り、最後に「思想の中立地帯」で座礁させられたようであり、彼らはそこから二度と戻ってはこないのだろうか、といぶかしむものであった<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻202頁。</ref>。アメリカのSF界を2つに割った[[ベトナム戦争]]への賛成・反対問題については反対派についた<ref>{{cite book|author=Ashley, Michael|year=2005|title=Transformations|publisher=Liverpool University Press|pages=282–283|isbn=0853237697}}</ref>。 また、1960年代の半ば、ソ連のSF評論家たちがアメリカSFを「社会の進歩を信じていない」と批判した際、[[ポール・アンダースン]]は[[共産主義]]の欺瞞をついた激しい反論を行ったが、ソ連からの移民でもあるアシモフははっきりとした政治的態度を取らなかった<ref>『世界SF全集 23巻レム』月報 [https://kokada-jnet.hatenablog.com/entry/00010123/p5 [伊藤典夫「アメリカのSF ソ連のSF」]</ref>。ポーランドのSF作家[[スタニスワフ・レム]]が、(アシモフを含む)アメリカのSF作家たちを手厳しく批判したために起きた1976年の「レム事件」についても、アシモフははぐらかすような意見をのべた<ref>『SF宝石』[創刊号]昭和54年8月1日発行『日米巨頭会談 アイザック・アシモフ VS. 小松左京 飛行機と船を使わないで日本へ行く方法はないだろうか』P.36-P.37 小松「スタニスワフ・レムについてはどう思われますか。ポーランドのSF作家の。」アシモフ「彼はたしかに、現代のヨーロッパの—東欧の—SF作家のうちではいちばん有名ですし、めざましい作家です。」小松「でも、彼は、アメリカのSF作家連と喧嘩をしたことがありましたね。」アシモフ「そうそうそう。彼はたしかに、非常に友好的とは言えないことをあれこれ言いました(笑)。SF作家協会の人たちには、だいぶ不愉快だったようです。私の態度は、これは手紙に書いたんですが、怒るのは的はずれなんじゃないか—というのは、何といっても彼は、ポーランドに住んでいるんだから、ああしたことを言うことで自分の立場をよくしようということがあったのだろう。だから、怒るよりは喜ばなくちゃいけない。私たちは、心にもないことを言う必要がない国に住んでいることを喜ぶべきだ—とね。しかし、私は直接彼に会ったことはありませんし、文通したこともありません。」</ref>。 このほか、{{仮リンク|ポール・エルリッヒ|en|Paul R. Ehrlich}}によって発表された将来の見通しを受けて、多くの著作で人口管理の重要性を訴えた<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻142頁、308–309頁。</ref>。彼の最後のノンフィクションの著作は ''Our Angry Earth'' (怒れる地球、[[1991年]]、SF作家[[フレデリック・ポール]]との共著)であり、この中で彼は[[地球温暖化]]や[[オゾン層]]の破壊といった環境危機について論じている<ref>{{cite book|author=Netzley, Patricia D.|year=1999|title=Environmental Literature|publisher=ABC-CLIO|location=Santa Barbara|page=203|isbn=157607000X}}</ref>。 [[メンサ]]の会員として非常に有名であり副議長まで務めていたが、メンサへの参加には消極的であった<ref>[[#Hoppa|Hoppa (2009)]], p. 68.</ref>。一部の攻撃的である会員に対してあまり良い感情を抱いていなかったこともあり、一時期脱退したが<ref>{{cite web|url=https://www.imdb.com/name/nm0001920/bio/|title=Biography for Isaac Asimov|author=Shelokhonov, Steve|publisher=IMDb|accessdate=2011-10-02}}</ref>、後に復帰しメンサの講演のためにイギリスへと旅行した<ref name=trip />。アシモフは同じく会員であった[[マービン・ミンスキー]]と[[カール・セーガン]]の2人に関して、アシモフ自身よりも知的であると認めている<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻137頁。</ref>。 彼の栄誉をたたえ、その名を冠したものとして、(5020) アシモフという小惑星<ref>{{cite book|author=Schmadel, Lutz D.|year=2003|title=Dictionary of Minor Planet Names|edition=5th ed.|publisher=Springer|location=Berlin|page=432|isbn=3540002383}}</ref>、アシモフという[[火星]]の[[クレーター]]<ref>{{cite web|url=http://planetarynames.wr.usgs.gov/Feature/14567|title=Asimov on Mars|work=Gazetteer of Planetary Nomenclature|publisher=International Astronomical Union Working Group for Planetary System Nomenclature|accessdate=2011-10-02}}</ref>、SFのアイザック・アシモフ賞<ref>{{cite web|url=http://www.asimovs.com/info/iaaward.htm|title=Isaac Asimov Award for Undergraduate Excellence in Science Fiction and Fantasy Writing|publisher=Dell Magazines|location=New York|work=Asimov's Science Fiction|accessdate=2011-10-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060208215531/http://www.asimovs.com/info/iaaward.htm|archivedate=2006年2月8日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>がある。また出身の高校も現在(2022年)ではアイザック・アシモフ高校という名前になっている<ref>{{cite web|url=https://www.schools.nyc.gov/schools/K099|title=P.S. 99 Isaac Asimov | accessdate=2022-03-24}}</ref>。[[東京大学]]で[[2003年]]に開発された、起き上がり動作に特化したロボットが、アシモフの小説に登場するロボット[[R・ダニール・オリヴォー]]と同じ「Rダニール」と名付けられた<ref>{{cite journal|和書|author=國吉康夫|title=機械はコツを身につけられるか|journal=日経サイエンス|year=2004|volume=34|issue=1|pages=28–33頁|url=http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0401/sp_2.html}}</ref>。世界初のロボットスーツ[[HAL (パワードスーツ)|HAL]]を開発した[[山海嘉之]]はアシモフの影響を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=http://next.rikunabi.com/tech_souken/entry/ct_s03600p000743|title=【クレイジー☆エンジニア】山海嘉之が挑む、介護用ロボットスーツ「HAL」実用化|accessdate=2016-08-08|date=2015-11-06}}</ref>。[[本田技研工業]]の人型ロボット[[ASIMO]]は名前の綴りがアシモフと似ているが(最後の "V" がない)、開発者はまったく関係はないとしている<ref>{{cite web|url=http://www.japaninc.com/article.php?articleID=1274|title=These Bots Were Made for Walking|author=McNicol, Tony|year=2004|publisher=Japan Inc Communications|accessdate=2011-10-02}}</ref>{{#tag:ref|本田技研は、ASIMOは Advanced Step in Innovative Mobility の[[アクロニム]]であると説明している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.honda.co.jp/ASIMO/information/index.html|title=ASIMOの全般|publisher=本田技研工業|accessdate=2011-10-02}}</ref>。[[バクロニム]]も参照。|group="注"}}。アシモフは[[ロボット工学]]を造語したが<ref>Asimov, Isaac (1996) [1995]. "The Robot Chronicles". Gold. London: Voyager. pp. 224–225. {{ISBN2|0-00-648202-3}}.</ref><ref>Asimov, Isaac (1983). "4 The Word I Invented". Counting the Eons. Doubleday. "Robotics has become a sufficiently well developed technology to warrant articles and books on its history and I have watched this in amazement, and in some disbelief, because I invented … the word"</ref>、「ロボット工学の父」<ref>{{cite web|url=http://www.robotics.org/joseph-engelberger/about.cfm|publisher=Robotics Industries Association|accessdate=December 1, 2015|title=JOSEPH ENGELBERGER // The Father of Robotics}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.mmh.com/article/joseph_f._engelberger_the_father_of_robotics_turns_90|work=Modern Materials Handling|title=Joseph F. Engelberger, the "Father of Robotics," turns 90|date=July 27, 2015|accessdate=2016-05-16}}</ref>と呼ばれることもある[[ジョセフ・F・エンゲルバーガー]][[博士]]はアシモフに影響を受けていた<ref>{{cite web|url=http://www.eetimes.com/author.asp?section_id=36&doc_id=1328428|publisher=EE Times|accessdate=2016-05-16|date=2015-12-05|title=Farewell, Joe Engelberger}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ft.com/cms/s/0/1350d3cc-9f7f-11e5-beba-5e33e2b79e46.html|publisher=[[フィナンシャル・タイムズ]]|date=2015-12-18|accessdate=2016-05-16|title=Joe Engelberger, robotics pioneer, 1925-2015}}</ref>。 == SF == アシモフは、[[アーサー・C・クラーク]]、[[ロバート・A・ハインライン]]と合わせて三大SF作家 (The Big Three) と呼ばれる<ref>{{cite book|author=Freedman, Carl|year=2000|title=Critical theory and science fiction|publisher=Wesleyan University Press|location=|page=71|isbn=0819563994}}</ref><ref>{{cite book|author=Buker, Derek M.|year=2002|title=The Science Fiction and Fantasy Readers' Advisory|publisher=ALA Editions|location=Chicago|page=9|isbn=0838908314}}</ref>(日本では「(海外)SF御三家」)。SFの分野で[[ヒューゴー賞]]を7回、[[ネビュラ賞]]を2回、[[ローカス賞]]を4回受賞している。 === 初期 === 10代の頃からSFファンであり、『[[アスタウンディング]]』誌の読者欄に書評を投稿したりSFのファンダムに参加していた<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻125–127頁、236頁、257–260頁。</ref>。[[1938年]]に初めての商業作品をアスタウンディング誌へ持ち込んでから、編集者の[[ジョン・W・キャンベル]]の指導の下で実力をつけていき、[[クリフォード・D・シマック|クリフォード・シマック]]や[[ロバート・A・ハインライン|ロバート・ハインライン]]らとともに、いわゆる「アメリカSFの黄金時代」を作り上げた<ref>{{cite book|author=Roberts, Adam|year=2006|title=Science fiction|edition=2nd ed.|publisher=Routledge|location=London|page=56|isbn=0415366682}}</ref>。アシモフはキャンベルと個人的にも親しくなり、その影響を強く受けた<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻243–256頁、297–298頁。</ref>。 キャンベルの発案で書かれ出世作となった短編「[[夜来たる]]」(''Nightfall'', [[1941年]])は ''Bewildering Stories'' 第8号で「もっとも有名なSF短編」の一つとして挙げられている<ref>{{cite web|url=http://www.bewilderingstories.com/issue8/asimov.html|title=Isaac Asimov: The Good Doctor|author=The Invincible Spud|year=2002|publisher=Bewildering Stories|accessdate=2011-10-08}}</ref>。また、[[1968年]]アメリカSF作家協会(現アメリカSFファンタジー作家協会)による投票でも「これまでに書かれた最高のSF短編」に選ばれている<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻359頁</ref><ref name=NYT />。彼は短編集『夜来たる』 (''Nightfall and Other Stories'') の中で次のように述べている。 {{Quotation|『夜来たる』は、わたしのプロ作家としての経歴の中で、一つの転換点となった作品である(中略)突然、私は重要な作家と見なされ、SF界が私の存在に注目するようになった。何年か後には、わたしはいわゆる"古典"を書いたことがはっきりした。|アイザック・アシモフ|『夜来たる』 <ref>アイザック・アシモフ 『夜来たる』 美濃透(訳)、早川書房〈ハヤカワ文庫SF〉、1986年。{{ISBN2|4-15-010692-4}}。</ref>}} 短編小説以外にもSF雑誌に「[[チオチモリン]]の驚くべき特性」(''The Endochronic Properties of Resublimated Thiotimoline'', 1948年)という科学論文のパロディーを書いた<ref>{{cite book|author=Smith, Jonathan C.|year=2009|title=Pseudoscience and Extraordinary Claims of the Paranormal|publisher=Wiley-Blackwell|location=Chichester|pages=pp. 75–76|isbn=9781405181235}}</ref>。ペンネームが用いられるはずが博士号の口述試験の直前に実名で掲載されたためにアシモフは不合格とされることを心配したが、試験には合格した<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻208–218頁。</ref>。 ファウンデーションシリーズやロボットシリーズの初期作品にもキャンベルは深く関わっており、多大な影響を及ぼした<ref>{{cite book|author=Wald, Priscilla|year=2011|title=The Cambridge History of the American Novel|publisher=Cambridge University Press|editor=Cassuto, Leonard; Eby, Clare Virginia; Reiss, Benjamin|chapter=Science Fiction|page=833|isbn=9780521899079}}</ref>。<!--具体的な内容はキャンベルや各作品の項に詳しいので割愛--> その後就職のためニューヨークを離れボストンに転居したこと、キャンベルが[[ダイアネティックス]]などの[[疑似科学]]に傾倒していったことから二人は疎遠となり<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻292頁; [[#Asimov (1994)|Asimov (1994)]], p. 74.</ref>、折しもアスタウンディング誌に代わって台頭してきた『[[ギャラクシー・サイエンス・フィクション|ギャラクシー]]』誌の{{仮リンク|ホーレス・ゴールド|en|H. L. Gold}}編集長、『[[ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション]]』 (''F&SF'') 誌の[[アンソニー・バウチャー]]、{{仮リンク|ロバート・P・ミルズ|en|Robert P. Mills}}両編集長との関係を深めた。前者は長編『[[鋼鉄都市]]』<ref>[[#White|White (2005)]], pp. 128–129.</ref>、後者は ''F&SF'' 誌の科学エッセイシリーズに関わることとなった<ref>[[#Asimov (1994)|Asimov (1994)]], pp. 74, 253.</ref>。 === ファウンデーション === アシモフの代表的SFシリーズである[[ファウンデーションシリーズ]]は、[[エドワード・ギボン]]の『[[ローマ帝国衰亡史]]』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、上巻378–379頁; {{cite book|author=Evans, Arthur B. ''et al.''|year=2010|title=The Wesleyan Anthology of Science Fiction|publisher=Wesleyan University Press|page=160|isbn=0819569550}}</ref>。 1942年に第一作『[[ファウンデーション (小説)|ファウンデーション]]』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『[[ファウンデーション (小説)|ファウンデーション]]』(1951年)、『[[ファウンデーション対帝国]]』(1952年)、『[[第二ファウンデーション]]』(1953年)の3冊にまとめられた<ref>{{cite book|author=Wolfe, Gary K.|year=2011|title=Evaporating Genres|publisher=Wesleyan University Press|page=55|isbn=0819569372}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.biblio.com/authors/212/Isaac_Asimov_Biography.html|title=Isaac Asimov Biography and Notes|publisher=Biblio|accessdate=2011-10-10}}</ref>。現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年に[[ヒューゴー賞]]過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した<ref>{{cite book|author=Amber, David|year=2010|title=Encyclopedia of Science and Technology Communication|editor=Priest, Susanna Hornig|chapter=Asimov, Isaac|publisher=SAGE|location=Thousand Oaks|page=62|isbn=1412959209}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1966.html|title=The Long List of Hugo Awards, 1966|publisher=World Science Fiction Society|accessdate=2011-10-10}}</ref>。 1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは<ref name=Gun2011 /><ref name=Gold />、新作『[[ファウンデーションの彼方へ]]』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に<ref>[[#Hoppa|Hoppa (2009)]], p. 74.</ref>、[[1983年]]のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した<ref>[[#White|White (2005)]], pp. 235–236; {{cite web|url=http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1983.html|title=The Long List of Hugo Awards, 1983|publisher=World Science Fiction Society|accessdate=2011-10-10}}</ref>。以後その続編『[[ファウンデーションと地球]]』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『[[ファウンデーションへの序曲]]』(1988年)、『[[ファウンデーションの誕生]]』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた<ref>{{cite book|author=Voller, Jack G.|year=1989|title=Mindscapes|editor=Slusser, George Edgar; Rabkin, Eric S.|chapter=Universal Mindscape: The Gaia Hypothesis in Science Fiction|publisher=Southern Illinois University Press|location=Carbondale|page=141|isbn=0809314541}}</ref>。 アシモフの死後、SF作家[[グレゴリー・ベンフォード]]、[[デイヴィッド・ブリン]]、[[グレッグ・ベア]]の3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作 (Second Foundation trilogy) を発表した<ref>{{cite book|author=Drew, Bernard A.|year=2010|title=Literary Afterlife|publisher=McFarland|location=Jefferson|page=276|isbn=0786441798}}</ref>。 === ロボット === [[ロボット]]ものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。その多くは後に短編集『[[われはロボット]]』(''I, Robot'', 1950年)、『[[ロボットの時代]]』(1964年)として出版された<ref name=White_52>[[#White|White (2005)]], pp. 52–57.</ref>。この作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆる[[ロボット工学三原則]])が世に広められた<ref name=White_52 />。この規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている<ref>{{cite book|author=Kerslake, Patricia|year=2007|title=Science Fiction and Empire|publisher=Liverpool University Press|page=110|isbn=1846310245}}</ref>。また中編『[[バイセンテニアル・マン]]』(1976年)は1977年の[[ヒューゴー賞 中編小説部門]]<ref>{{cite web|url=http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1977.html|title=The Long List of Hugo Awards, 1977|publisher=World Science Fiction Society|accessdate=2011-10-10}}</ref>と1977年の[[ネビュラ賞 中編小説部門]]<ref>{{cite web|url=http://dpsinfo.com/awardweb/nebulas/#1977|title=SFWA Nebula Awards|publisher=dpsinfo.com|author=Mann, Laurie|accessdate=2011-10-10}}</ref>、[[ローカス賞 長篇部門]]<ref>{{cite web|url=http://www.locusmag.com/SFAwards/Db/Locus1977.html|title=1977 Locus Awards|author=Kelly, Mark R|publisher=Locus Publications|accessdate=2011-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080517071201/http://www.locusmag.com/SFAwards/Db/Locus1977.html|archivedate=2008年5月17日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>を受賞し<ref>{{cite book|author=Reginald, Robert; Menville, Douglas; Burgess, Mary A.|year=2010|title=Science Fiction and Fantasy Literature|volume=1|publisher=Borgo Press|location=San Bernardino|page=771|isbn=0941028763}}</ref>、1999年に[[ロビン・ウィリアムズ]]主演で映画化された(日本では『[[アンドリューNDR114]]』のタイトルで公開)。 一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するという[[ミステリー|ミステリ]]仕立ての作品が多く、中でも長編『[[鋼鉄都市]]』と続編『[[はだかの太陽]]』は三原則の盲点を利用した巧妙な殺人[[トリック (推理小説)|トリック]]を描いたSFミステリの傑作としても知られている<ref>[[#Hassler|Hassler (1991)]], p. 76.</ref><ref>[[#Freedman|Freedman (2005)]], p. x.</ref><ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻366頁。</ref>。 ファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『[[ロボットと帝国]]』([[1985年]])によってひとつの[[未来史]]としてまとめられた<ref>[[#White|White (2005)]], p. 238.</ref>。また没後に『アンドリューNDR114』および『[[アイ,ロボット|アイ,ロボット]]』の2本の映画が公開されている。 === 専業作家以降 === [[1958年]]に[[ボストン大学]]を辞して専業作家となったアシモフだが、増加した執筆時間は専らノンフィクションの分野に向けられることとなり、SFの執筆量はかえって激減した。それでも(何とか彼にSFを書かせようという編集者の努力もあって)短編を中心に年に数作は書いており、ファンの「何故SFを書くのを止めたのか」との問いにも「決して止めてはいない」と繰り返し答えている。 アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』([[1952年]])など[[ジュヴナイル]]の長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた<ref>[[#アシモフ (1983)|アシモフ (1983)]]、下巻331–332頁、340頁; [[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻94頁。</ref>。結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。 アシモフは「編集をせずとも、自動的に収録される作品が決まる」アンソロジーである『ヒューゴー賞傑作集』の形式上の「編者」として、収録各作品の前にユーモラスなエッセイを書いた<ref>[[#Gunn|Gunn (1996)]], p. 1; [[#Campbell|Campbell (1991)]], p. 1.</ref><ref>{{citation|author=Leslie, Christopher S.|year=2007|title=Social Science Fiction|type=PhD dissertation|publisher=City University of New York|pages=128–129|url=http://gradworks.umi.com/32/83/3283184.html}}.</ref>。これは、アシモフがその時点で[[ヒューゴー賞]]を受賞していなかったために「編者」に選ばれたのだが、[[1963年]]にSF雑誌[[ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション|F&SF]]の科学のコラムによる功績で初めてヒューゴー賞を受賞<ref>[http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1963.html The Long List of Hugo Awards, 1963]</ref>した後もひきつづいて「編者」を務めた<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻337–339頁、下巻169–170頁。</ref>。さらに[[宇宙人|異星人]]と[[性行為|セックス]]の要素を含む『[[神々自身]]』([[1972年]])で[[ヒューゴー賞 長編小説部門]]<ref name="hugo_1973" />と[[ネビュラ賞 長編小説部門]]<ref name="neb_1972" />を受賞した。[[1992年]]の「ゴールド-黄金」でもヒューゴー賞 中編小説部門を受賞した<ref>[http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1992.html The Long List of Hugo Awards, 1992]</ref>。 [[1977年]]には彼の名前を冠したSF雑誌「アイザック・アシモフズ・サイエンス・フィクション・マガジン ''Isaac Asimov's Science Fiction Magazine'' 」が創刊された(現在の誌名は「[[アシモフズ・サイエンス・フィクション]] ''Asimov's Science Fiction'' 」)。アシモフ自身は編集には関わっていなかったが、巻頭のエッセイと読書投稿欄のコメントを担当していた<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、下巻391–392頁、396–397頁、402頁、406頁、415頁、441頁。</ref>。 [[マーティン・H・グリーンバーグ]]らと共同編集の[[アンソロジー]]も多数(グリーンバーグとの共同編集は127作)発表しており、<!-- いるが、アシモフは編集作業にはほとんどタッチしておらず、名義を貸しただけと推測される。ただし、必ず-->ユーモラスな前書きを書いてそれらのアンソロジーに花を添えている。なお、グリーンバーグとの最初の共同編集アンソロジーである『三分間の宇宙』は、グリーンバーグらがすでに選択済である、2倍の数の作品を、アシモフが半分にしぼる方法で作品選択がされた<REF>『アシモフ自伝』Ⅱ(下)P.416</REF>。 他に彼の作品の世界観を元に若手作家が競作する『電脳惑星シリーズ』などのシェアード・ワールド物にも積極的に協力した。 == 推理小説 == アシモフはしばしばSFにミステリの手法を用いる一方で、純粋なミステリ作品も執筆しており<ref name=Hoppa_p67 />、推理小説作家としても評価を受けている<ref>{{cite book|author=Story, D. B.|year=2009|title=The Fembot Chronicles|volume=1|publisher=eXcessica|page=p. viii|isbn=1449508073}}</ref><ref name=Langford>{{cite book|author=Langford, David|year=2002|title=The Complete Critical Assembly|publisher=Wildside Press|location=Rockville|page=108|isbn=1587153300}}</ref>。 純粋なミステリの代表作は『[[黒後家蜘蛛の会]]』シリーズである。『黒後家蜘蛛の会』はアシモフも属した実在の「トラップ・ドア・スパイダース」という会をモデルにしている<ref name=Hoppa_p67 />。ほぼ純粋な[[パズル・ストーリー]]であり、殺人事件さえめったに起こらない。題材は盗まれた物や遺産を得るための暗号の解読、忘れてしまった地名の推測など、より日常的な問題である。解決には登場人物である給仕ヘンリーの該博な知識が使われる<ref>{{cite book|author=Sharp, Michael D.|year=2005|title=Popular Contemporary Writers|publisher=Marshall Cavendish|location=Singapore|page=112|isbn=0761476024}}</ref>。 『黒後家蜘蛛の会』はすべて短編であり、1972年2月号の『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』に第1作「会心の笑い」が発表されてから断続的に合計66作が書かれた<ref>{{cite web|url=http://www.asimovonline.com/oldsite/short_fiction_bw_index.html|title=Isaac Asimov's Short Fiction: Black Widowers Mystery Stories Index|work=Isaac Asimov Home Page|author=Seiler, Edward|year=1995|accessdate=2011-10-19}}</ref>。60作は5冊の短編集として出版され(日本語訳あり)、残りの6作はアシモフの死後、''The Return of the Black Widowers'' (2003年)にまとめられた。 アシモフは『[[ユニオン・クラブ奇談]]』というシリーズも書いている。これはクラブで語られるパズル・ストーリーである。『黒後家』の名探偵役ヘンリーが人格円満で謙虚な人物であるのに対して<ref>{{cite web|url=http://www.asimovreviews.net/Books/Book155.html|title=Tales of the Black Widowers|work=Jenkins’ Spoiler-Laden Guide to Isaac Asimov|author=Jenkins, John H.|year=1995|accessdate=2011-10-19}}</ref>、『ユニオン・クラブ』の名探偵役グリズウォルドは傲岸で偽悪的な人物である<ref name=Langford />。しかし両者はともにアシモフに似た人物であり、全体的な構成やトリックも似ている<ref>{{cite journal|author=Hubin, Allen J.|year=1997|title=Isaac Asimov's Mystery Fiction|journal=The Armchair Detective|publisher=The Armchair Detective|volume=30|issue=2|pages=151–152}}</ref>。アイディアを使うという点で2作は競合関係にあって、『ユニオン・クラブ』執筆中は『黒後家』の執筆は進まなかった。 『黒後家蜘蛛の会』『ユニオン・クラブ奇談』シリーズには長編作品はないが、アシモフは長編ミステリーの『ABAの殺人』(1958年)<ref>{{cite book|author=Dale, Alzina Stone|year=2002|title=Mystery Reader's Walking Guide: New York|publisher=iUniverse|location=Lincoln|page=111|isbn=0595230229}}</ref>『象牙の塔の殺人』(1976年)を書いた。 == ノンフィクション == アシモフは科学解説者としてもよく知られている。[[ファンタジー&サイエンス・フィクション]]誌に連載されていた科学エッセイは400編以上を数え、テーマは物理・天文・化学・生物学・科学史など多岐にわたる<ref>{{cite web|url=http://www.asimovonline.com/oldsite/essay_guide.html|author=Seiler, Edward; Hatcher, Richard|year=1995|title=A Guide to Isaac Asimov's Essays|work=Lists of Asimov's Works|publisher=www.asimovonline.com|accessdate=2011-11-05}}</ref>。記事は[[エスクァイア]]、{{仮リンク|ハーパーズ|en|Harper's Magazine}}、[[サタデー・イブニング・ポスト]]などにも寄稿した<ref>{{cite book|author=Oakes, Elizabeth H.|year=2004|title=American Writers|publisher=Facts On File|location=New York|page=24|isbn=0816051585}}</ref>。 1954年に出版した10代向けの生化学の本『生命の化合物』 (''The Chemicals of Life'') 以来、アシモフは大衆向け・子供向けの科学の本も執筆した。1957年、[[ソビエト連邦|ソ連]]がアメリカに先駆けて初の人工衛星「[[スプートニク1号]]」を打ち上げると、いわゆる[[スプートニク・ショック]]によってアメリカ国内で科学に対する関心が高まり、一般向けの科学解説書の需要が急増した<ref>{{cite book|author=Hoerschelmann, Olaf|year=2006|title=Rules of the Game|publisher=State University of New York Press|location=Albany|page=74|isbn=0791468097}}</ref>。アシモフはこれに応える形で多数の科学解説書を執筆し、ノンフィクションに執筆活動の中心を移して行く契機となった<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻38頁、147頁。</ref>。 科学全般について大衆向けに書かれた『知識人のための科学入門』(''The Intelligent Man's Guide to Science'', 1960年)は[[ニューズウィーク]]等の書評から好評を受け、[[全米図書賞]]ノンフィクション部門にノミネートされた<ref>[[#White|White (2005)]], p. 166.</ref>。アシモフはこの本によって科学の解説者としての地位を向上させた<ref>[[#アシモフ (1985)|アシモフ (1985)]]、上巻275–276頁、285–286頁、304–306頁。</ref>。また『宇宙を作る元素』(''Building Blocks of the Universe'', 1957年)はエジソン財団賞を<ref>{{cite book|author=Wenzel, Evelyn L.; Arbuthnot, May Hill|year=1971|title=Time for discovery|publisher=Scott, Foresman|location=Glenview|page=282|oclc=147254}}</ref>、血液についての著作『生きている川』(''The Living River'', 1960年)は[[アメリカ心臓協会]]のハワード・W・ブレイクスリー賞を、それぞれ受けた<ref>{{cite book|author=Cullinan, Bernice E.; Person, Diane Goetz|year=2001|title=The Continuum Encyclopedia of Children's Literature|publisher=Continuum International|location=New York|page=46|isbn=0826415164}}</ref>。さらに、1967年には[[アメリカ科学振興協会]]から科学の著述における功績でウェスティングハウス賞を与えられている<ref>[[#Hassler|Hassler (1991)]], p. 3.</ref>。 アシモフは2冊の『アシモフの聖書入門』 (''Asimov's Guide to the Bible'') を著した。第1巻([[1967年]])は[[旧約聖書]]を、第2巻([[1969年]])は[[新約聖書]]をそれぞれ扱っている。後にこの本は1295ページの1冊の本にもまとめられた<ref>{{cite book|author=Asimov, Isaac|year=1981|title=Asimov's Guide to the Bible|publisher=Avenel Books Distributed by Crown Publishers|location=New York|isbn=051734582X}}</ref>。この本では、聖書に記述されている事件、人物や場所について、冒涜も妄信もせずに科学的な観点からの解説や考察を行っている<ref>{{cite web|url=http://www.asimovreviews.net/Books/Book093.html|author=Jenkins, John H.|title=Asimov‘s Guide to the Bible, Volume One|work=Jenkins’ Spoiler-Laden Guide to Isaac Asimov|year=1995–2011|accessdate=2011-11-06}}</ref><ref>{{cite book|author=White, Brenda|year=1986|title=Collection Management for School Library Media Centers|publisher=Haworth Press|location=New York|pages=pp. 271–272|isbn=0866564330}}</ref>。 そのほか、科学以外の分野では歴史の解説や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]などの文学の解説<ref>{{cite book|author=Desmet, Christy; Sawyer, Robert J.|year=2004|title=Harold Bloom's Shakespeare|publisher=Palgrave Macmillan|location=Basingstoke|page=219|isbn=140396906X}}</ref>、趣味である滑稽五行詩([[リメリック]])についての著作も残した<ref>{{cite journal|author=Stansell, John|year=1977|title=Isaac's mysteries|journal=New Scientist|volume=65|issue=1065|pages=399}}</ref>。 彼はまた、3冊の自伝、すなわち ''In Memory Yet Green'' ([[1979年]]、『アシモフ自伝I』)、''In Joy Still Felt'' ([[1980年]]、『アシモフ自伝II』)、''I, Asimov: A Memoir'' (1994年)も書いている。この自伝は非常に大分量のもので、アシモフの生涯のできごとや作品と、それによる収支まで詳細に書かれたものである。 3番目の自伝、''I, Asimov: A Memoir'' は[[1994年]]4月に出版された。この本のエピローグは彼の死のあとまもなく、彼の後妻であるジャネット・アシモフによって書かれたものであり<ref group="注">このジャネットによるエピローグ部分のみ[[S-Fマガジン]]1995年12月号に邦訳が掲載されている。</ref>、[[1995年]]のヒューゴー賞ノンフィクション部門を受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1995.html|title=The Long List of Hugo Awards, 1995|publisher=World Science Fiction Society|accessdate=2011-11-05}}</ref>。他にも『[[木星買います]]』『[[アシモフ初期作品集]]』などのSF短編集でも、収録作品の前書きに代えて執筆当時の自身の状況を詳細に記している。 他にも彼の日ごろからの社会的主張もいくつかのエッセイにまとめられている。『考えることを考える』(''Thinking About Thinking'', 1967年)、『科学:プラスチックをたたく』(''Science: Knock Plastic'', 1967年)など。 また彼は、自身の著作が100冊、200冊、300冊にそれぞれ到達した際に、それまでの著書の内容から選別した本、''Opus 100'' (1969), ''Opus 200'' (1979), ''Opus 300'' (1984) を刊行しており、''Opus 200'' は『アシモフ博士の世界』として日本語訳されている<ref group="注">日本の映画史家の[[四方田犬彦]]はアシモフのこの例にならい、自身の100冊目の著書として自選集『濃縮四方田』を刊行した。</ref>。 == 代表的著作 == === SF === * 長編 ** 1950年 - ''Pebble In The Sky'' (『[[宇宙の小石]]』) ** 1951年 - ''The Stars, Like Dust'' (『[[暗黒星雲のかなたに]]』) ** 1951年 - ''Foundation'' (『[[ファウンデーション (小説)|ファウンデーション]]』) ** 1952年 - ''Foundation and Empire'' (『[[ファウンデーション対帝国]]』) ** 1952年 - ''The Currents of Space'' (『[[宇宙気流]]』) ** 1953年 - ''Second Foundation'' (『[[第二ファウンデーション]]』) ** 1954年 - ''The Caves of Steel'' (『[[鋼鉄都市]]』) ** 1955年 - ''The End of Eternity'' (『[[永遠の終り]]』) ** 1957年 - ''The Naked Sun'' (『[[はだかの太陽]]』) ** 1966年 - ''Fantastic Voyage'' (『[[ミクロの決死圏]]』) ** 1972年 - ''The Gods Themselves'' (『[[神々自身]]』) ** 1982年 - ''Foundation's Edge'' (『[[ファウンデーションの彼方へ]]』) ** 1983年 - ''The Robots of Dawn'' (『[[夜明けのロボット]]』) ** 1985年 - ''Robots and Empire'' (『[[ロボットと帝国]]』) ** 1986年 - ''Foundation and Earth'' (『[[ファウンデーションと地球]]』) ** 1987年 - ''Fantastic Voyage II: Destination Brain'' (『ミクロの決死圏 2 - 目的地は脳』) ** 1988年 - ''Prelude to Foundation'' (『[[ファウンデーションへの序曲]]』) ** 1989年 - ''Nemesis'' (『[[ネメシス (小説)|ネメシス]]』) ** 1993年 - ''Forward the Foundation'' (『[[ファウンデーションの誕生]]』) * 短編集 ** 1950年 - ''I, Robot'' (『[[われはロボット]]』) ** 1955年 - ''The Martian Way and Other Stories'' (『[[火星人の方法]]』) ** 1957年 - ''Earth Is Room Enough'' (『[[地球は空き地でいっぱい]]』) ** 1959年 - ''Nine Tomorrows'' (『[[停滞空間]]』) ** 1964年 - ''The Rest of the Robots'' (『[[ロボットの時代]]』) ** 1968年 - ''Asimov's Mysteries'' (『[[アシモフのミステリ世界]]』) ** 1969年 - ''Nightfall and Other Stories'' (『[[夜来たる]]』『サリーはわが恋人』) ** 1972年 - ''The Early Asimov'' ([[アシモフ初期作品集]]『カリストの脅威』『ガニメデのクリスマス』『母なる地球』) ** 1975年 - ''Buy Jupiter and Other Stories'' (『[[木星買います]]』) ** 1976年 - ''The Bicentennial Man and Other Stories'' (『[[バイセンテニアル・マン|聖者の行進]]』) ** 1982年 - ''The Complete Robot'' (『[[コンプリート・ロボット]]』) ** 1983年 - ''The Winds of Change and Other Stories'' (『[[変化の風]]』) ** 1988年 - ''Azazel'' (『[[小悪魔アザゼル18の物語]]』) ** 1995年 - ''Gold'' (『[[ゴールド-黄金]]』) ** 1996年 - ''Magic'' * [[ロバート・シルヴァーバーグ]]による長編化作品 ** 1990年 - ''Nightfall'' (『[[夜来たる]] (長編版)』) ** 1991年 - ''The Ugly Little Boy'' (『[[停滞空間]]』の長編化) ** 1992年 - ''The Positronic Man'' (『[[アンドリューNDR114]]』) * ジュヴナイル(ポール・フレンチ名義) ** 1952年 - ''David Starr, Space Ranger'' (『<small>宇宙をかけるレインジャーの物語</small> 地球の危機』) ** 1953年 - ''Lucky Starr and the Pirates of Asteroids'' (『小惑星 (アステロイド)の海賊』) ** 1954年 - ''Lucky Starr and the Oceans of Venus'' ** 1956年 - ''Lucky Starr and the Big Sun of Mercury'' (『水星基地のなぞ』) ** 1957年 - ''Lucky Starr and the the Moons of Jupiter'' (『木星のラッキースター』、『九号衛星のなぞ』の2種) ** 1958年 - ''Lucky Starr and the Rings of Saturn'' (『太陽系の侵入者』)(『天狼星 (シリウス)の侵略』) * ジャネット・アシモフとの共著 ** 1983年 - ''Norby, the Mixed-up Robot'' ** 1984年 - ''Norby's Other Secret'' ** 1985年 - ''Norby and the Lost Princess'' ** 1985年 - ''Norby and the Invaders'' ** 1986年 - ''Norby and the Queen's Necklace'' ** 1987年 - ''Norby Finds a Villain'' ** 1988年 - ''Norby Down to Earth'' ** 1989年 - ''Norby and Yobo's Great Adventure'' ** 1990年 - ''Norby and the Oldest Dragon'' ** 1991年 - ''Norby and the Court Jester'' === 推理小説 === * 長編 ** 1958年 - ''The Death Dealers'' (後に ''A Whiff of Death'' に改題、『象牙の塔の殺人』) ** 1976年 - ''Murder at the ABA'' (『ABAの殺人』) * 短編集 ** 1974年 - ''Tales of the Black Widowers'' (『[[黒後家蜘蛛の会]]1』) ** 1976年 - ''More Tales of the Black Widowers'' (『黒後家蜘蛛の会2』) ** 1980年 - ''Casebook of the Black Widowers'' (『黒後家蜘蛛の会3』) ** 1983年 - ''The Union Club Mysteries'' (『ユニオン・クラブ綺談』) ** 1984年 - ''Banquets of the Black Widowers'' (『黒後家蜘蛛の会4』) ** 1986年 - ''The Best Mysteries of Isaac Asimov'' ** 1990年 - ''Puzzles of the Black Widowers'' (『黒後家蜘蛛の会5』) ** 2003年 - ''The Return of Black Widowers'' * 編者として ** 1981年 - ''The Twelve Crimes Of Christmas''(『クリスマス12のミステリー』) ** 1982年 - ''The Big Apple Mysteries(『ビッグ・アップル・ミステリー』)'' ** 1984年 - ''Murder On The Menu''(『16品の殺人メニュー』) ** 1986年 - ''The Twelve Frights Of Christmas''(『クリスマス12の戦慄』) === ノンフィクション === * 1954年 - ''The Chemicals of Life'' (『生命の化合物』) * 1956年 - ''Inside the Atom'' (『原子の内幕 - 百万人の核物理学入門』) * 1957年 - ''Only a Trillion'' (『たった一兆』) * 1958年 - ''The World of Nitrogen'' (『窒素の世界』) * 1960年 - ''The Intelligent Man's Guide to Science'' * 1960年 - ''The Living River'' * 1962年 - ''Life and Energy'' * 1963年 - ''View from a Height'' (『空想自然科学入門』) * 1963年 - ''From Earth to Heaven'' (『地球から宇宙へ』) * 1964年 - ''The Human Brain'' (『脳 - 生命の神秘をさぐる』) * 1964年 - ''Adding a Dimension'' (『次元がいっぱい』) * 1964年 - ''Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology'', Doubleday (1982年改訂、『科学技術人名事典』 皆川 義雄 (訳) 共立出版、1971年) * 1964年 - ''A Short History of Biology'' (『生物学の歴史』) * 1965年 - ''Of Time and Space and other things'' (『時間と宇宙について』) * 1965年 - ''A Short History of Chemistry'' (『化学の歴史』) * 1966年 - ''The Neutrino'' (『ニュートリノ』) * 1967年 - ''Is Anyone There?'' (『生命と非生命のあいだ』) * 1968年 - ''Science, Numbers and I'' * 1969年 - ''Opus 100'' * 1969年 - ''Twenty Century Discovery'' (『発見、また発見!』) * 1971年 - ''The Stars in their Courses'' (『わが惑星、そは汝のもの』) * 1974年 - ''Of Matters Great and Small'' (『アジモフ博士の極大の世界・極小の世界』) * 1974年 - ''Our World in Space'' * 1976年 - ''The Planet that Wasn't'' (『存在しなかった惑星』) * 1978年 - ''Quasar, Quasar, Burning Bright'' (『輝けクエーサー』) * 1979年 - ''Isaac Asimov's Book of Facts'' (『アシモフの雑学コレクション』 [[星新一]](編訳)) * 1979年 - ''The Road to Infinity'' (『アジモフ博士の地球・惑星・宇宙』) * 1979年 - ''Opus 200'' (『アシモフ博士の世界』) * 1981年 - ''Change!'' (『変わる!』) * 1981年 - ''Views of the Universe'' * 1982年 - ''The Sun Shine Bright'' (『アジモフ博士の輝け太陽』) * 1983年 - ''Counting the Eons'' (『アジモフ博士の地球の誕生』『アジモフ博士の宇宙の誕生』) * 1984年 - ''X Stands for Unknown'' (『未知のX』) * 1984年 - ''Opus 300'' * 1985年 - ''Asimov's Guide To Halley's Comet'' (『アジモフ博士のハレー彗星ガイド』) * 1985年 - ''The Subatomic Monster'' (『素粒子のモンスター』) * 1986年 - ''The Dangers of Intelligence and other science essays'' (『真空の海に帆をあげて』) * 1987年 - ''Far as Human Eye Could See'' (『見果てぬ時空』) * 1988年 - ''The relativity of Wrong'' (『[[誤りの相対性]]』) * 1989年 - ''Asimov's Chronology of Science and Discovery'', Harper & Row (『アイザック・アシモフの科学と発見の年表』 小山慶太・輪湖博(訳) 丸善、1992年) * 1990年 - ''Out of the Everywhere'' (『人間への長い道のり』) * 1991年 - ''The Secret of the Universe'' (『宇宙の秘密』) * 1991年 - ''Asimov's Chronology of the World'', HarperCollins (『アイザック・アシモフの世界の年表』 川成洋(訳) 丸善、1992年) * 1995年 - ''Breakthroughs in Science'' (『アシモフの科学者伝』〈地球人ライブラリー〉 木村繁(訳) 小学館、1995年) == 注釈 == {{Notelist2}} == 出典 == {{reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=アイザック・アシモフ|others=山高昭訳|year=1983|title=アシモフ自伝I|publisher=早川書房|ref=アシモフ (1983)}}{{ISBN2|4-15-203239-1}} (上巻)、{{ISBN2|4-15-203240-5}}(下巻)。 * {{Cite book|和書|author=アイザック・アシモフ|others=山高昭訳|year=1985|title=アシモフ自伝II|publisher=早川書房|ref=アシモフ (1985)}}{{ISBN2|4-15-203285-5}} (上巻)、{{ISBN2|4-15-203286-3}} (下巻)。 * {{cite book|last=Asimov, Isaac|year=1994|title=I. Asimov: A Memoir|publisher=Doubleday|location=New York|isbn=0-385-41701-2|ref=Asimov (1994)}} * {{cite book|author=Olander, Joseph D.; Greenberg, Martin Harry|year=1977|title=Isaac Asimov|publisher=Taplinger|location=New York|ref=Olander and Greenberg|isbn=080084257X}} * {{cite book|author=Fiedler, Jean; Mele, Jim|year=1982|title=Isaac Asimov|publisher=Ungar|location=New York|ref=Fiedler and Mele|isbn=0804422036}} * {{cite book|author=Hassler, Donald M.|year=1991|title=Isaac Asimov|publisher=Wildside Press|location=Rockville|ref=Hassler|isbn=0930261313}} * {{cite book|author=Campbell, John Wood|year=1991|title=The John W. Campbell Letters With Isaac Asimov and A.E. van Vogt|volume=II|publisher=AC Projects|location=Fairview, TN|url=http://www.arthritistrust.org/Directors/scifi/TheJWCLettersWithIsaac.pdf|authorlink=ジョン・W・キャンベル|ref=Campbell|isbn=0931150191|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060214065038/http://www.arthritistrust.org/Directors/scifi/TheJWCLettersWithIsaac.pdf|archivedate=2006年2月14日|deadlinkdate=2018年3月}} * {{cite book|author=Touponce, William F.|year=1991|title=Isaac Asimov|publisher=Twayne|location=Farmington Hills, MI|ref=Touponce|isbn=0805776230}} * {{cite book|author=Gunn, James|year=1996|title=Isaac Asimov: The Foundations of Science Fiction|publisher=Oxford University Press|edition=Revised ed.|authorlink=ジェイムズ・E・ガン (小説家)|ref=Gunn|isbn=0810831295}} * {{cite book|author=Anthology|year=2005|title=Conversations with Isaac Asimov|editor=Freedman, Carl Howard|publisher=University Press of Mississippi|ref=Freedman|isbn=1578067383}} * {{cite book|last=White|first=Michael|year=2005|title=Isaac Asimov: A Life of the Grand Master of Science Fiction|publisher=Da Capo Press|location=Cambridge|ref=White|isbn=0786715189}} * {{cite book|author=Hoppa, Jocelyn|year=2009|title=Isaac Asimov: Science Fiction Trailblazer|publisher=Enslow|location=Berkeley Heights|ref=Hoppa|isbn=0766029611}} == 関連項目 == * [[アーサー・C・クラーク]] * [[ロバート・A・ハインライン]] * [[ハーラン・エリスン]] == 外部リンク == {{commons|Isaac_Asimov}} {{Wikiquote|en:Isaac Asimov|英語:アイザック・アシモフ}} * {{公式サイト|name=Isaac Asimov Home Page}} "Asimov Online" 公式ウェブサイト {{en icon}} ** [http://www.asimovonline.com/oldsite/asimov_big_list.html asimov_big_list.html] 全著作一覧{{en icon}} ** [http://www.asimovonline.com/asimov_FAQ.html Isaac Asimov FAQ] "Frequently Asked Questions about Isaac Asimov"{{en icon}} * [https://www.hayakawa-online.co.jp/shopbrand/author_Agyo_A_127/ 著訳者,ア行,ア,アシモフ, アイザック | ハヤカワ・オンライン] 早川書房の出版しているアシモフの著作リスト(アシモフ作品の日本語訳の出版最大手) {{ja icon}} * [https://ameqlist.com/ ameqlist 翻訳作品集成(Japanese Translation List)] > [https://ameqlist.com/sfa/asimov.htm アイザック・アシモフ(Isaac Asimov)/SF] (詳細な翻訳作品リスト){{ja icon}} * {{Isfdb name|id=Isaac_Asimov|name=Summary Bibliography: Isaac Asimov}} * [https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%95-25346 アシモフとは - コトバンク] {{アイザック・アシモフの作品}} {{典拠管理}} {{Featured_article}} {{DEFAULTSORT:あしもふ あいさつく}} [[Category:アイザック・アシモフ|*]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:20世紀の無神論者]] [[Category:アメリカ合衆国のSF作家]] [[Category:アメリカ合衆国の推理作家]] [[Category:アメリカ合衆国のサイエンスライター]] [[Category:宗教と科学に関する著作家]] [[Category:ヒューゴー賞作家]] [[Category:ネビュラ賞作家]] [[Category:ローカス賞作家]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:ジェイムズ・T・グラディー=ジェイムズ・H・スタック賞の受賞者]]<!-- 1965年 --> [[Category:E・E・スミス記念賞の受賞者]]<!-- 1967年 --> [[Category:クルンプケ・ロバーツ賞の受賞者]]<!-- 1975年 --> [[Category:デーモン・ナイト記念グランド・マスター賞の受賞者]]<!-- 1987年 --> [[Category:科学的懐疑主義の人物]] [[Category:アメリカ合衆国の無神論者]] [[Category:ユダヤ人の無神論者]] [[Category:男性のフェミニスト]] [[Category:ユダヤ系フェミニスト]] [[Category:ユダヤ系ロシア人]] [[Category:ユダヤ人の著作家]] [[Category:ロシア系アメリカ人]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ボストン大学の教員]] [[Category:コロンビア大学出身の人物]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:メンサ会員]] [[Category:エイズで死亡した人物]] [[Category:1920年生]] [[Category:1992年没]]
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東武鉄道夜行列車
東武鉄道夜行列車(とうぶてつどうやこうれっしゃ)では、東武鉄道が運行している夜行列車をまとめて解説する。なお、運行期間により以下の名称が与えられる。 なお、列車名に浅草駅出発時刻を付して「尾瀬夜行23:45」(おぜやこうニーサン・ヨンゴー)・「スノーパル23:55」( - ニーサン・ゴーゴー)と名乗る場合があり、東武鉄道及び東武トップツアーズでもそのように案内される。但し、運行時間はダイヤ改正により変更される場合がある。 いずれも下りのみの運転で、浅草駅を金曜日、土曜日、休前日の23時45分に出発(2021年までは23時55分発)。「尾瀬夜行」は翌3時18分、「スノーパル」は翌5時18分に野岩鉄道会津高原尾瀬口駅に、「日光紅葉夜行」は翌2時16分に東武日光駅にそれぞれ到着する。 販売方法は連絡バス乗車券やスキー場施設利用券等とセット販売が基本である。申し込みは当日の17時までで、あらかじめ東武トップツアーズ等への申し込みが必要である。列車種別は、以前は使用車両によって急行または快速急行であったが、2001年から2017年3月まで300型を、2017年5月から2018年3月までは350型を、2018年6月からは500系を使用しており、2005年度までは急行として、2006年度より特急と列車種別が固定されている。全車両座席指定である。 本線系統を走る特急列車の中で唯一新越谷駅に停車する一方、全列車停車駅となっているとうきょうスカイツリー駅は通過する。 基本的に5月末から10月中旬の金・土曜日および休日前日に運行される。会津高原尾瀬口駅で4時20分発尾瀬(沼山峠)行きのバスに接続するが、その際バスが出発するまで列車内で過ごすことができる。 2010(平成22)年度は片道での利用ができなくなり、復路(東武鉄道経由または関越交通高速バス経由)とのセット販売のみとなったが、2011(平成23)年度から再び片道での利用が出来るようになった。 2020年(令和2年)には東武トップツアーズの旅行商品として、尾瀬からバス及び遊覧船で新潟県の浦佐駅に抜けるオプショナルツアーが設定された(東京に戻るには各自上越新幹線等を利用する)。具体的なルート、及び交通機関は以下の通り。 同ルート自体は2019年以前から存在し、尾瀬沼山峠 - 尾瀬口船着場間のバスと奥只見湖の観光船は魚沼市観光協会を通じて予約することで利用可能だったが、東武トップツアーズがこのオプショナルツアーを設定したことで、夜行列車を利用すると尾瀬を経由して翌日午後の早い時間には福島県から新潟県に抜けられるとしてメディアにも取り上げられた。2020年における沼山峠 - 尾瀬口船着き場間のバスと奥只見湖の観光船は6月1日から10月15日までの運行・運航予定だったが、「尾瀬夜行23:55」が後述する新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行に伴い8月1日(浅草発日)からの運行に縮小されたため、このオプショナルツアーの利用可能期間も同様に縮小された。 2022年は浅草駅が23:45発になり、車両も500系の3両編成から6両編成に変更された。 基本的に12月末から3月中旬の金・土曜日および休日前日に運行される。車内で仮眠を取った後、会津高原・たかつえスキーリゾート&ホテルズ、会津高原だいくらスキー場行きのバスに接続する。 紅葉狩りの需要に対応して、2016年10月15日に18年ぶりに運行再開された。車内で仮眠を取った後、東武日光駅で中禅寺温泉(日光自然博物館)・竜頭の滝・戦場ヶ原・日光湯元温泉行きの専用バスに接続する。2017年は100系(スペーシア)を使用して秋に運行され、2018年は栃木ディスティネーションキャンペーンの一環で夏にも運行された。2018年秋季には、従来の浅草駅発に加えて、初のJR新宿駅発の列車も運行される。 なお、2020年からは日光紅葉夜行という名称で運行しており、2021年からは500系を使用している。 全ての列車とも、終点駅以外は乗車のみ可能である。 尾瀬夜行・スノーパルは途中運転停車する駅があり、特にスノーパルは新藤原駅で野岩鉄道線内除雪のため長時間停車を行う。
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東武鉄道夜行列車(とうぶてつどうやこうれっしゃ)では、東武鉄道が運行している夜行列車をまとめて解説する。なお、運行期間により以下の名称が与えられる。 夏季に運行される「尾瀬夜行(おぜやこう)」 秋季に運行される「日光紅葉夜行(にっこうこうようやこう)」 冬季に運行される「スノーパル」 なお、列車名に浅草駅出発時刻を付して「尾瀬夜行23:45」(おぜやこうニーサン・ヨンゴー)・「スノーパル23:55」と名乗る場合があり、東武鉄道及び東武トップツアーズでもそのように案内される。但し、運行時間はダイヤ改正により変更される場合がある。
{{Infobox rail service |box_width=300px |name=東武鉄道夜行列車<br />(尾瀬夜行・スノーパル・日光夜行) |image=Tobu 350 Limited express Ozeyakou 20151206.jpg |image_width=300px |caption=特急「尾瀬夜行」 |type=[[夜行列車]] |locale=[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[群馬県]]・[[栃木県]]・[[福島県]] |first=[[2006年]][[3月18日]] |last= |successor= |operator=[[東武鉄道]]<br/>[[野岩鉄道]] |start=[[浅草駅]] |end=[[会津高原尾瀬口駅]]・[[東武日光駅]] |trainnumber=5163(尾瀬夜行・スノーパル) |line_used=[[東武伊勢崎線]]・[[東武日光線|日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]<br />[[野岩鉄道会津鬼怒川線]] |stock=[[東武500系電車]] |gauge=1,067[[ミリメートル|mm]] |el=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]] }} '''東武鉄道夜行列車'''(とうぶてつどうやこうれっしゃ)では、[[東武鉄道]]が運行している[[夜行列車]]をまとめて解説する。なお、運行期間により以下の名称が与えられる。 *夏季に運行される「'''尾瀬夜行'''(おぜやこう)」 *秋季に運行される「'''日光紅葉夜行'''(にっこうこうようやこう)」<ref name="2022nikko">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/news/20220830115707HFVqf_MKgWlICsjGxXL8zw.pdf|title=10月8日(土)から計6日間 臨時夜行列車「日光紅葉夜行」を運転します。|date=2022-8-29|publisher=東武鉄道|accessdate=2022-11-27}}</ref> *冬季に運行される「'''スノーパル'''」 なお、列車名に[[浅草駅]]出発時刻を付して「'''尾瀬夜行23:45'''」(おぜやこうニーサン・ヨンゴー)・「'''スノーパル23:55'''」( - ニーサン・ゴーゴー)<ref group="注">2021年度以前の運行時刻</ref>と名乗る場合があり、東武鉄道及び[[東武トップツアーズ]]でもそのように案内される。但し、運行時間は[[ダイヤ改正]]により変更される場合がある。 == 概要 == いずれも下りのみの運転で、[[浅草駅]]を金曜日、土曜日、休前日の23時45分に出発(2021年までは23時55分発<ref name="tobu20220519">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/83/|title=尾瀬夜行23:45[2022年度版]|publisher=東武鉄道・東武トップツアーズ|date=2022-05-19|accessdate=2022-07-06}}</ref>)。「尾瀬夜行」は翌3時18分、「スノーパル」は翌5時18分に[[野岩鉄道]][[会津高原尾瀬口駅]]に、「日光紅葉夜行」は翌2時16分に[[東武日光駅]]にそれぞれ到着する<ref name="2022nikko"/>。 販売方法は連絡バス乗車券やスキー場施設利用券等とセット販売が基本である。申し込みは当日の17時までで、あらかじめ東武トップツアーズ等への申し込みが必要である。列車種別は、以前は使用車両によって[[急行列車|急行]]または[[快速急行]]であったが、2001年から2017年3月まで[[東武300系電車|300型]]を<ref name="tobu201612">{{Cite web|和書|url=http://tabi.tobu.co.jp/campaign/gogo-archive/tour/201612-01.html|title=東武のスキー・スノーボード専用夜行列車「スノーパル23:55」|publisher=東武鉄道・東武トップツアーズ|date=2016-12|accessdate=2017-06-21}}</ref><ref name="railf170421">{{Cite news|url=http://railf.jp/news/2017/04/21/180000.html |title=東武鉄道300系が引退|publisher= 交友社|work=鉄道ファン|agency=railf.jp |date= 2017-04-21}}</ref>、2017年5月から2018年3月までは[[東武300系電車|350型]]を<ref name="tobu201705">{{Cite web|和書|url=http://tabi.tobu.co.jp/campaign/gogo-archive/tour/201705-01.html|title=尾瀬夜行23:55 2017年版|publisher=東武鉄道・東武トップツアーズ|date=2017-05|accessdate=2017-06-21}}</ref>、2018年6月からは[[東武500系電車|500系]]を使用<ref name="tobu201804">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/5ee7254059d4a98096ac2d164a859238/180425_1.pdf|title=臨時夜行列車 「尾瀬夜行23:55」を特急車両「リバティ」で運行します!|publisher=東武鉄道|date=2018-04-25|accessdate=2018-04-26}}</ref><ref name="tobu20181101">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/963ab6e0c9365c760f5d1d63299dc691/181101_2.pdf?date=20181101112641|title=スキー・スノーボード専用夜行列車 「スノーパル23:55」を特急車両「リバティ」で運行します!|publisher=東武鉄道|date=2018-11-01|accessdate=2019-01-06}}</ref>しており、2005年度までは急行として、2006年度より[[特別急行列車|特急]]と列車種別が固定されている。全車両座席指定である。 本線系統を走る特急列車の中で唯一[[新越谷駅]]に停車する一方、全列車停車駅となっている[[とうきょうスカイツリー駅]]は通過する。 === 尾瀬夜行 === [[Image:Ozeyakou ozeguchi.jpg|thumb|240 px|会津高原尾瀬口駅に到着した<br>「尾瀬夜行」]] 基本的に5月末から10月中旬の金・土曜日および休日前日に運行される。会津高原尾瀬口駅で4時20分発[[尾瀬]]([[沼山峠]])行きのバスに接続するが、その際バスが出発するまで列車内で過ごすことができる<ref name="乗りものニュース">{{Cite web|和書|date=2020-09-05 |url=https://trafficnews.jp/post/99669 |title=「尾瀬夜行で新潟、抜けられる…!」超秘境バスルート 東武が商品化 酷道険道 遊覧船も |publisher=[[乗りものニュース]] |accessdate=2020-09-08}}</ref>。 2010(平成22)年度は片道での利用ができなくなり、復路(東武鉄道経由または[[関越交通]]高速バス経由)とのセット販売のみとなったが、2011(平成23)年度から再び片道での利用が出来るようになった。 2020年(令和2年)には[[東武トップツアーズ]]の旅行商品として、尾瀬からバス及び遊覧船で新潟県の[[浦佐駅]]に抜けるオプショナルツアーが設定された(東京に戻るには各自[[上越新幹線]]等を利用する)<ref name="乗りものニュース" />。具体的なルート、及び交通機関は以下の通り。 * 浅草駅 -(東武鉄道・野岩鉄道、「尾瀬夜行23:55」)→ 会津高原尾瀬口駅 -([[会津乗合自動車]]、尾瀬夜行利用客専用バス・[[国道352号]]経由)→ 尾瀬御池または[[沼山峠|尾瀬沼山峠]]<ref>尾瀬御池 - 尾瀬沼山峠間は前後のバスの重複運行区間(会津高原尾瀬口駅 - 尾瀬御池 - 尾瀬沼山峠、尾瀬沼山峠 - 尾瀬御池 - 尾瀬口船着場でそれぞれ運行)。</ref> -(会津バス、予約制臨時バス・国道352号経由)→ 尾瀬口船着場 -(奥只見観光、予約制観光船・奥只見湖上運航)→ [[奥只見ダム]] ―([[南越後観光バス]]・路線バス、[[新潟県道50号小出奥只見線]](奥只見シルバーライン)経由)→ 浦佐駅東口 同ルート自体は2019年以前から存在し、尾瀬沼山峠 - 尾瀬口船着場間のバスと奥只見湖の観光船は魚沼市観光協会を通じて予約することで利用可能だったが、東武トップツアーズがこのオプショナルツアーを設定したことで、夜行列車を利用すると尾瀬を経由して翌日午後の早い時間には福島県から新潟県に抜けられる<ref>東武トップツアーズで示されていたモデルコースでは、浦佐駅東口着が12時55分。なお、尾瀬沼山峠での滞在時間を約2時間から約8時間に延ばし、同ルートで浦佐駅東口に18時30分に到着する接続ダイヤも会津乗合自動車では紹介されており、この場合でも上越新幹線に乗り継いで浅草駅を含む東京都区内への日着が可能だった。</ref>としてメディアにも取り上げられた<ref name="乗りものニュース" />。2020年における沼山峠 - 尾瀬口船着き場間のバスと奥只見湖の観光船は6月1日から10月15日までの運行・運航予定だったが、「尾瀬夜行23:55」が後述する[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]](COVID-19)の流行に伴い8月1日(浅草発日)からの運行に縮小されたため、このオプショナルツアーの利用可能期間も同様に縮小された。 2022年は浅草駅が23:45発になり、車両も500系の3両編成から6両編成に変更された<ref name="tobu20220519"/>。 === スノーパル === 基本的に12月末から3月中旬の金・土曜日および休日前日に運行される。車内で仮眠を取った後、[[会津高原・たかつえスキーリゾート&ホテルズ]]、[[会津高原だいくらスキー場]]行きのバスに接続する。 === 日光夜行、日光紅葉夜行 === [[紅葉]]狩りの需要に対応して、2016年10月15日に18年ぶりに運行再開された。車内で仮眠を取った後、東武日光駅で[[中禅寺温泉]]([[日光国立公園|日光自然博物館]])・[[竜頭の滝]]・[[戦場ヶ原]]・[[日光湯元温泉]]行きの専用バスに接続する<ref name="tobu20160908">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/b76fed2fd4ef2d923b2c0bf77fd881ed/160908_1.pdf?date=20160908165314|title=日光の紅葉シーズンに、臨時夜行列車「日光夜行号」を運転します!|publisher=東武鉄道・東武トップツアーズ|date=2016-09-08|accessdate=2016-09-11}}</ref>。2017年は[[東武100系電車|100系(スペーシア)]]を使用して秋に運行され<ref name="tobu20170907">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/31280b564520b38bd3f8cc31425e304d/170907_1.pdf?date=20170907123951|title=特急車両「スペーシア」を初めて夜行列車に使用 日光の紅葉シーズンに、臨時夜行列車 「日光夜行号」を運行します!|publisher=東武鉄道・東武トップツアーズ|date=2017-09-07|accessdate=2017-09-12}}</ref>、2018年は栃木[[ディスティネーションキャンペーン]]の一環で夏にも運行された<ref name="tobu20180214">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/a36e5bca7c77f4bf43e8e930cfa2e5c3/180214.pdf?date=20180227182541|title=「本物の出会い 栃木」 デスティネーションキャンペーンの開催について|publisher=「本物の出会い 栃木」 デスティネーションキャンペーンの開催について実行委員会|date=2018-02-14|accessdate=2018-03-01}}</ref>。2018年秋季には、従来の浅草駅発に加えて、初のJR新宿駅発の列車も運行される<ref name="tobu20180820">{{Cite web|和書|date=2018-08-20|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9917ac7435eb87f49fcce2cd2fed825b/180820.pdf?date=20180820102802|title=日光の紅葉シーズンに、JR新宿駅発の臨時夜行列車「日光夜行号」を運行します!|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180824101928/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/9917ac7435eb87f49fcce2cd2fed825b/180820.pdf?date=20180820102802|archivedate=2021-09-17|accessdate=2023-10-21}}</ref>。 なお、2020年からは日光紅葉夜行という名称<ref name="tobu20201006">{{Cite web|和書|date=2020-10-06|url=https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/15/|title=特急スペーシア車両(100系)で行く日光紅葉夜行|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201024211052/https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/15/|archivedate=2020-10-24|accessdate=2023-10-21|accessdate=2022-07-06}}</ref>で運行しており、2021年からは[[東武500系電車|500系]]を使用<ref name="tobu20211011">{{Cite web|和書|date=2021-10-11|url=https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/47/|title=特急リバティ車両(500系)で行く日光紅葉夜行|publisher=東武鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210917070649/https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/47/|archivedate=2021-09-17|accessdate=2023-10-21}}</ref>している。 == 停車駅 == 全ての列車とも、終点駅以外は乗車のみ可能である。 尾瀬夜行・スノーパルは途中[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]する駅があり、特にスノーパルは[[新藤原駅]]で野岩鉄道線内除雪のため長時間停車を行う。 * 尾瀬夜行・スノーパル ** [[浅草駅]] → [[北千住駅]] → [[新越谷駅]] → [[春日部駅]] → [[会津高原尾瀬口駅]] * 日光夜行 ** 浅草駅 → 北千住駅 → 新越谷駅 → 春日部駅 → [[東武日光駅]] ** [[新宿駅]] → [[池袋駅]] → [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] → 東武日光駅 == 沿革 == [[Image:Tobu_Railway_300_Limited_Express_Kirifuri.jpg|thumb|240px|東武300型<br />(2007年10月29日)]] [[Image:Tobu-Express"Kirifuri".JPG|thumb|240px|東武350型<br />(2007年8月19日 / 姫宮)]] * [[1955年]]([[昭和]]30年)[[7月2日]] 浅草駅 - [[東武日光駅]]間運行の「日光山岳夜行」の運行開始。 * [[1956年]](昭和31年)[[6月9日]] 浅草駅 - [[上毛電気鉄道]][[中央前橋駅]]間運行の「赤城夜行」運行開始。 *:当時、同区間を運行する「[[りょうもう|こうづけ]]」号があったことから、これとセットして運行された。 * [[1967年]](昭和42年)[[11月11日]] 「赤城夜行」運行終了。 * [[1986年]](昭和61年)[[12月27日]] 現行の「スノーパル」運行開始。運行当初は[[東武6050系電車|6050系]]により[[快速急行|快速急行列車]]扱い。 * [[1987年]](昭和62年)[[5月]] 現行の「尾瀬夜行」運行開始。種別は快速急行列車扱い。 * [[1996年]]([[平成]]8年) 「日光山岳夜行」の使用車両を、6050系電車から[[東武300系電車|300型・350型]]に変更し、急行列車扱いとする。 * [[1997年]](平成9年) [[北千住駅]]停車開始。 * [[1998年]](平成10年) 「日光山岳夜行」運行終了。 * [[2001年]](平成13年)[[12月]] 「スノーパル」の使用車両を6050系から300型・350型に変更し、[[急行列車]]扱いとする。 * [[2002年]](平成14年)5月 「尾瀬夜行」の使用車両を6050系から300型・350型に変更し、急行列車扱いとする。 * 2002年(平成14年)12月 「スノーパル」[[新越谷駅]]停車開始。 * [[2003年]](平成15年)5月 「尾瀬夜行」新越谷駅停車開始。 * [[2005年]](平成17年)[[6月]] 「尾瀬夜行」に[[女性専用車両]]設定開始。同年12月より運行の「スノーパル」にも女性専用車両の設定を行う。また、[[毛布]]の全席貸与を行う。 * [[2006年]](平成18年)6月 同年3月のダイヤ改正に伴う種別の変更により、「尾瀬夜行」は[[特別急行列車|特急列車]]へ扱いを変更する。同年12月より運行の「スノーパル」も特急列車へ扱いを変更。また、[[枕|空気枕]]のプレゼントサービスを開始。 * [[2015年]](平成27年) ** [[9月10日]] [[平成27年9月関東・東北豪雨|関東・東北豪雨]]による日光線・鬼怒川線の一部区間不通に伴い、尾瀬夜行も当面の間運行休止<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/6ae9ed0aa7f5c4530b142c9e00662c6d/150914-unkou.pdf?date=20150914134203|title=日光線・鬼怒川線・宇都宮線の当面の運行計画について|publisher=東武鉄道|date=2015-09-14|accessdate=2015-09-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d3c4a581ef3e3402fb6cb9d6ee553112/18-unkou_150918_2.pdf?date=20150918194526|title=東武線 9月18日(金)以降の運転計画について|publisher=東武鉄道|date=2015-09-18|accessdate=2015-09-18}}</ref><ref>[http://www.tobu.co.jp/news/2015/854/ 当面の尾瀬夜行23:55の運行中止について] 東武鉄道</ref>。 ** [[12月11日]] 夜行列車の運行を再開<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20151116-a442/ |title=野岩鉄道、12/11から全線通常ダイヤに - 東武・会津鉄道との直通運転も再開|publisher=マイナビニュース |date=2015-11-16}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[10月15日]] 18年ぶりに「日光夜行」が運行再開(10月21日・22日も運行)<ref name="tobu20160908"/>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月24日]] 300型による夜行列車の運用終了<ref name="tobu201612"/><ref name="railf170421"/>。 ** [[5月26日]] 300型の運用終了に伴い、使用車両が350系に変更される<ref name="tobu201705"/>。 ** [[10月14日]] 100系による日光夜行が運行(10月20日・21日も運行)<ref name="tobu20170907"/> * [[2018年]](平成30年) **[[6月1日]] 尾瀬夜行の使用車両が[[東武500系電車|500系]]に変更される<ref name="tobu201804"/> **[[6月22日]] 栃木[[デスティネーションキャンペーン]]の一環で100系による日光夜行が運行(7月7日も運行)<ref name="tobu20180214"/> **[[10月5日]] 100系によるJR新宿発の日光夜行が運行(10月12日も運行)<ref name="tobu20180820"/> **[[10月13日]] 100系による日光夜行が運行(10月19日・20日も運行)<ref name="tobu20180820"/> **[[12月28日]] スノーパルの使用車両が500系に変更される<ref name="tobu20181101"/> * [[2020年]]([[令和]]2年) [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]](COVID-19)の流行に伴い、この年に限り「尾瀬夜行」の運転を8月1日 - 10月15日に縮小。 * [[2021年]](令和3年) 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行ならびにそれに伴う首都圏に対する[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]の発令に伴い、この年に限り「スノーパル」の運転取りやめ。 **[[10月9日]] 日光紅葉夜行の使用車両が500系に変更される(10月16日・22日・23日・29日・30日も運行)<ref name="tobu20211011"/> * [[2022年]](令和4年) **[[6月10日]] 尾瀬夜行の浅草駅発が23:45発になり、車両が500系の3両編成から6両編成に変更<ref name="tobu20220519"/> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[きりふり|ゆのさと]] - [[東武日光線]]・[[東武鬼怒川線|鬼怒川線]]の臨時特急列車 * [[きりふり#南会津|南会津]] - かつて[[野岩鉄道]]・[[会津鉄道]]に乗り入れていた急行列車 * [[シュプール号]] - 「スノーパル」同様に[[日本国有鉄道]]およびJR各社がかつて運行していたスキー客向けの臨時列車。その多くが夜行列車として運行された。 == 外部リンク == *[http://www.tobu.co.jp/ 東武鉄道ポータルサイト] **[https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/83/ 「尾瀬夜行23:45」2022年度版] **[https://www.tobu.co.jp/odekake/campaign/98/ 「日光紅葉夜行」2022年度版] <!-- **[http://www.tobu.co.jp/snowpal/ スノーパル23:55] - 「スノーパル」特設サイト --> *[http://www.yagan.co.jp/ 野岩鉄道] - 乗り入れ先である野岩鉄道のWebサイト {{現存する夜行列車}} {{rail-stub}} {{DEFAULTSORT:とうふやこうれつしや}} [[Category:東武鉄道の列車|*やこう]] [[Category:野岩鉄道|列]] [[Category:日本の夜行列車|とうふてつとう]] [[Category:臨時列車]]
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北京料理
北京料理(ペキンりょうり)とは、歴代中国王朝が現在の北京に首都を定めて以後の北京貴族の宮廷料理や、北京市民の家庭料理や屋台で提供される郷土料理を指す。中国での一般的な呼称は「京菜 ジンツァイ」。 広義では山東省・山西省・河北省の料理を吸収して、北京風にアレンジした料理の総称。更に、北京は大元帝国(つまりモンゴル帝国)、大清帝国のような中国全土を支配した少数民族が打ち建てた国の首都であったので、故地である満洲国(いまの中国東北地方)・モンゴル国の料理も北京の中華料理に含める事がある。こうして、漢民族の多くない省・少数民族の地域も含む中国全土の名物料理が集積され、主に宮廷料理人によって洗練されてゆき「北京料理」と言い習わされた。ただし、モンゴル国も、中国の東北地方も、これらの地域の郷土料理自体が、漢民族の中華料理の影響を何百年間も受けて同化された。自分の国の固有の料理と中華料理の間の差異はほぼ消滅し、これにより満洲料理・モンゴル料理もすべて中華料理の北京料理に含むという説もある。 元王朝・明王朝・清王朝の時期に、北京料理は中国歴代王朝の食文化に大成にされ、中国の代表的な料理となった。だが、近代に入って、中国の清朝が崩壊するに至ったため、お金や命の保護を求めて、宮廷料理人の大半は北京から流出し、それと共に最高レベルの中華料理の調理法も中国全土に広まった。特にその恩恵を受けたのは、当時一番平和であった四川省と広東省であった。広東省はイギリスの植民地である香港のすぐ隣で、言葉も広東語であるから、北京料理の技術を使った広東料理は当時大英帝国のすべての植民地に広がった。そして、イギリスの世界への影響力によって、いま中国料理を代表する料理はもはや北京料理ではなく、広東料理となった。また、元来独特な麻辣味を持つ四川料理は、北京料理の繊細性と宮廷料理の高水準を融合して、今の高級四川中華になった。北京料理が四川化した例として、北京料理に由来するおこげ料理は今の四川の庶民の中でも普通に食べられるという。 宮廷料理であったため、繊細且つ見栄えのする料理が多い。また華北であるため、米や魚よりも小麦粉や獣肉を多用している。東西交流の証しとして、ナンやジンギスカン鍋をベースとした清真料理(イスラム料理)も盛んであり、北京ダックを焼く窯も、インドのタンドールや中東や中央アジアでパンなどを焼く窯に似ている。 最近では北京市出身の料理研究家ウー・ウェンが北京の家庭料理の紹介で知られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北京料理(ペキンりょうり)とは、歴代中国王朝が現在の北京に首都を定めて以後の北京貴族の宮廷料理や、北京市民の家庭料理や屋台で提供される郷土料理を指す。中国での一般的な呼称は「京菜 ジンツァイ」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広義では山東省・山西省・河北省の料理を吸収して、北京風にアレンジした料理の総称。更に、北京は大元帝国(つまりモンゴル帝国)、大清帝国のような中国全土を支配した少数民族が打ち建てた国の首都であったので、故地である満洲国(いまの中国東北地方)・モンゴル国の料理も北京の中華料理に含める事がある。こうして、漢民族の多くない省・少数民族の地域も含む中国全土の名物料理が集積され、主に宮廷料理人によって洗練されてゆき「北京料理」と言い習わされた。ただし、モンゴル国も、中国の東北地方も、これらの地域の郷土料理自体が、漢民族の中華料理の影響を何百年間も受けて同化された。自分の国の固有の料理と中華料理の間の差異はほぼ消滅し、これにより満洲料理・モンゴル料理もすべて中華料理の北京料理に含むという説もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元王朝・明王朝・清王朝の時期に、北京料理は中国歴代王朝の食文化に大成にされ、中国の代表的な料理となった。だが、近代に入って、中国の清朝が崩壊するに至ったため、お金や命の保護を求めて、宮廷料理人の大半は北京から流出し、それと共に最高レベルの中華料理の調理法も中国全土に広まった。特にその恩恵を受けたのは、当時一番平和であった四川省と広東省であった。広東省はイギリスの植民地である香港のすぐ隣で、言葉も広東語であるから、北京料理の技術を使った広東料理は当時大英帝国のすべての植民地に広がった。そして、イギリスの世界への影響力によって、いま中国料理を代表する料理はもはや北京料理ではなく、広東料理となった。また、元来独特な麻辣味を持つ四川料理は、北京料理の繊細性と宮廷料理の高水準を融合して、今の高級四川中華になった。北京料理が四川化した例として、北京料理に由来するおこげ料理は今の四川の庶民の中でも普通に食べられるという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "宮廷料理であったため、繊細且つ見栄えのする料理が多い。また華北であるため、米や魚よりも小麦粉や獣肉を多用している。東西交流の証しとして、ナンやジンギスカン鍋をベースとした清真料理(イスラム料理)も盛んであり、北京ダックを焼く窯も、インドのタンドールや中東や中央アジアでパンなどを焼く窯に似ている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最近では北京市出身の料理研究家ウー・ウェンが北京の家庭料理の紹介で知られている。", "title": "特徴" } ]
北京料理(ペキンりょうり)とは、歴代中国王朝が現在の北京に首都を定めて以後の北京貴族の宮廷料理や、北京市民の家庭料理や屋台で提供される郷土料理を指す。中国での一般的な呼称は「京菜 ジンツァイ」。
{{出典の明記|date=2017年1月20日 (金) 23:20 (UTC)}} {{Otheruses|中華料理の種類|植物のミズナの別名・京菜|ミズナ}} {{中華料理}} '''北京料理'''(ペキンりょうり)とは、歴代[[中国]]王朝が現在の[[北京市|北京]]に[[首都]]を定めて以後の北京[[貴族]]の宮廷料理や、北京市民の[[家庭料理]]や[[屋台]]で提供される[[郷土料理]]を指す。中国での一般的な呼称は「京菜 ジンツァイ」。 == 概要 == 広義では[[山東省]]・[[山西省]]・[[河北省]]の料理を吸収して、北京風にアレンジした料理の総称。更に、北京は大元帝国(つまり[[モンゴル帝国]])、[[大清帝国]]のような中国全土を支配した少数民族が打ち建てた国の首都であったので、故地である[[満洲国]](いまの[[中国東北地方]])・モンゴル国の料理も北京の[[中華料理]]に含める事がある。こうして、漢民族の多くない省・少数民族の地域も含む中国全土の名物料理が集積され、主に宮廷料理人によって洗練されてゆき「北京料理」と言い習わされた。ただし、モンゴル国も、中国の東北地方も、これらの地域の郷土料理自体が、漢民族の中華料理の影響を何百年間も受けて同化された。自分の国の固有の料理と中華料理の間の差異はほぼ消滅し、これにより満洲料理・モンゴル料理もすべて中華料理の北京料理に含むという説もある。 [[元 (王朝)|元]]王朝・[[明]]王朝・[[清]]王朝の時期に、北京料理は中国歴代王朝の食文化に大成にされ、中国の代表的な料理となった。だが、近代に入って、中国の清朝が崩壊するに至ったため、お金や命の保護を求めて、宮廷料理人の大半は北京から流出し、それと共に最高レベルの中華料理の調理法も中国全土に広まった。特にその恩恵を受けたのは、当時一番平和であった四川省と広東省であった。広東省はイギリスの植民地である香港のすぐ隣で、言葉も広東語であるから、北京料理の技術を使った広東料理は当時大英帝国のすべての植民地に広がった。そして、イギリスの世界への影響力によって、いま中国料理を代表する料理はもはや北京料理ではなく、広東料理となった。また、元来独特な[[麻辣味]]を持つ[[四川料理]]は、北京料理の繊細性と宮廷料理の高水準を融合して、今の高級四川中華になった。北京料理が四川化した例として、北京料理に由来する[[お焦げ|おこげ]]料理は今の四川の庶民の中でも普通に食べられるという。 == 特徴 == [[宮廷]]料理であったため、繊細且つ見栄えのする料理が多い。また[[華北]]であるため、[[米]]や[[魚]]よりも[[小麦粉]]や獣肉を多用している。東西交流の証しとして、[[ナン]]や[[ジンギスカン鍋]]をベースとした[[清真料理]](イスラム料理)も盛んであり、[[北京ダック]]を焼く窯も、インドの[[タンドール]]や[[中東]]や[[中央アジア]]でパンなどを焼く窯に似ている。 最近では[[北京市]]出身の料理研究家[[ウー・ウェン]]が北京の家庭料理の紹介で知られている。 == 料理例 == * [[北京ダック]] * [[杏仁豆腐]] * [[炸醤麺|ジャージャン麺]] * [[油条]] * [[酸辣湯]] * [[刀削麺]] * [[饅頭 (中国)|饅頭]](マントウ): 日本のものに比べると、形が大きく、粘りと甘みがある。一般にマントウと呼ばれるものは具が入っておらず、蒸しパンの一種であり、挽肉や豆[[餡]]などの具の入ったものは[[包子]](バオズ、パオズ)と呼ばれる。 * 紅焼熊掌(ホンシャオションヂャン):[[熊]]の手の煮込み。 * [[餃子]](チャオズ):他地方でも食べられるが、主に北京地方で盛ん。日本と違い、通常は茹で上げる[[餃子#中国の餃子|水餃子]]である。 * [[葱油餅]]:小麦粉を練り上げて作った円盤状のパン。ネギの入った油で炒める。[[南アジア]]や[[中近東]]の[[ナン]]との類似が見られる。 * [[皮蛋]] * 涮羊肉(シュアンヤンロウ)([[:zh:涮羊肉]]):[[羊肉|羊の肉]]を薄く切ったものを鍋のスープにくぐらせ、タレにつけて食べる。日本の[[しゃぶしゃぶ]]の元祖と言われる。 * [[肉末焼餅]](ローモーシャオピン):胡麻付きのパンにそぼろを挟んだもの。 * [[京醤肉絲]]([[:zh:京醬肉絲]]) *[[炙子烤肉]]([[:zh:炙子烤肉]]) *[[粉蒸肉]]([[:zh:粉蒸肉]]) * [[爆肚]]([[:zh:爆肚]]) <center><gallery> ファイル:Beijing Duck set.jpeg|北京ダック ファイル:Instant-boiled mutton with sesame sauce.jpg|涮羊肉 ファイル:Annin tofu with osmanthus jam.jpg|杏仁豆腐 ファイル:Noodles with soy bean paste.jpg|ジャージャン麺 ファイル:Youtiao.jpg|油条 ファイル:KakaoTalk 20190510 144458087.jpg|刀削麺 ファイル:BoiledDumplings.jpg|餃子 ファイル:Jing_Jiang_Rou_Si_01.jpg|京醤肉絲 ファイル:爆肚.jpg|爆肚 ファイル:Beijing Style barbecue.jpg|炙子烤肉 </gallery></center> ==中華老字号== [[File:Beijing Lao Zihao.jpg|200px|thumb|国内貿易部認定の中華老字号牌(旧)。北京の東興順爆肚張]] {{see|[[中華老字号]]}} *[[全聚徳]] *[[便宜坊]] *[[東来順]] *[[都一処]] *[[六必居]] *[[王致和]] *[[:zh:仿膳飯莊]] *[[:zh:爆肚馮]] *[[:zh:天源醬園]] *[[:zh:天福号]] *[[:zh:北京稻香村]] <center><gallery> ファイル:Quanjude_Qianmen_Dajie_Store_2010.jpg|全聚徳 ファイル:Bianyifang_Roast_Duck_(QianMen_Xian_YuKou).jpg|便宜坊 ファイル:Building_in_Legation_Quarter_(8411271318).jpg|東来順 ファイル:Duyichu.JPG|都一処 </gallery></center> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Commonscat}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へきんりようり}} [[Category:地域別の中国の食文化]] [[Category:北京の食文化|*]]
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ミニボックスシリーズ
ミニボックスシリーズは、ハセガワが1970年代から製造・販売している、1/72スケールの戦車などの陸上兵器や軍用車両を中心としたプラモデルのシリーズである。 ミニボックスシリーズの発売された1970年代初めには、ミニスケールAFVはHOゲージ鉄道模型向けの1/87や、イギリスのOOゲージ鉄道模型向けの1/76が主流であった。ハセガワは同社の柱とも言える飛行機模型と並べても違和感のないように、ミニボックスシリーズに1/72スケールを採用した。このコンセプトに沿って、日本軍の燃料補給車やエンジン起動車のようにその後長らく唯一のモデルとなる車両が作られたほか、当時としては第二次世界大戦中のアメリカ軍のソフトスキンも充実していた。また、1970年代後半にはハセガワが輸入代理店であったエッシーの同スケールのミリタリーモデルを、ミニボックスEシリーズとしてラインナップに加えていた。 2010年現在の市場においては、自社の1/35キットを縮小した品質とラインナップを持つドイツレベルやドラゴン、人件費の安さと国内の博物館に実物がある事による資料の充実を武器にするロシアや東欧、中国の模型メーカーの1/72キットに対し、旧キットのバージョン替えや完全新金型キットの投入により対抗しているものの、30年以上前に開発された製品が多数を占めるため苦戦を強いられている。また2000年代半ば以降、ミニボックスシリーズのコンセプトと同じく、同一メーカの航空機模型と並べる事が可能なストラクチャーとして、タミヤが1/48ミリタリーミニチュアシリーズを展開している。 2010年8月時点で発売済みの製品を下記に示す。「新No.」は1992年以降使用されている、新しい製品番号である。1992年当時生産休止品であった3点は新番号 (MT) が与えられず、生産再開後も旧番号 (MB) が使用されている。 ミニボックスシリーズは1970年代前半から1980年代半ばにかけて、アメリカのミニクラフトと、イギリスのHALESから、それぞれ日本版のパッケージと多少異なる独自の英語版パッケージで発売されている。ミニボックスEシリーズの逆にエッシーからハセガワのミニボックスシリーズが販売された形跡は無いが、1970年代初めにエッシーの1/72AFVキットや緑商会の1/76ミニAFVをアメリカで販売していたAHMから、ミニボックスシリーズをコピーしたキットが3点発売されている。これと同一のキットは後にアメリカのリンドバーグからも発売され、リンドバーグ版の製品は2010年現在でも流通している。これらのキットは、部品自体はほとんどハセガワ製と区別が付かないが、ランナー内の部品配置がやや異なり、ランナーに刻印された部品番号の位置と書体も異なっている。コピーが作られた経緯は不明であるが、AHM版のパッケージには香港製と書かれている。また、ミニボックスシリーズの製品をコピーしたキットは、中国のサイエンス・トレジャリー(美豊プラスチック玩具)および韓国のポパイ科学からも15点程発売されているほか、中国のFADA(発達玩具)からも発売されている。
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ミニボックスシリーズは、ハセガワが1970年代から製造・販売している、1/72スケールの戦車などの陸上兵器や軍用車両を中心としたプラモデルのシリーズである。
'''ミニボックスシリーズ'''は、[[ハセガワ]]が1970年代から製造・販売している、[[1/72スケール]]の[[戦車]]などの陸上兵器や[[軍用車両]]を中心とした[[プラモデル]]のシリーズである。 == 概要 == ミニボックスシリーズの発売された[[1970年代]]初めには、ミニスケール[[装甲戦闘車両|AFV]]は[[HOゲージ]][[鉄道模型]]向けの1/87や、イギリスの[[OOゲージ]]鉄道模型向けの1/76が主流であった。ハセガワは同社の柱とも言える飛行機模型と並べても違和感のないように、ミニボックスシリーズに[[1/72スケール]]を採用した。このコンセプトに沿って、日本軍の燃料補給車やエンジン起動車のようにその後長らく唯一のモデルとなる車両が作られたほか、当時としては[[第二次世界大戦]]中のアメリカ軍の[[軍用車両#ソフトスキン/非装甲車両|ソフトスキン]]も充実していた。また、1970年代後半にはハセガワが輸入代理店であった[[エッシー (模型メーカー)|エッシー]]の同スケールの[[ミリタリーモデル]]を、[[ミニボックスEシリーズ]]としてラインナップに加えていた。 [[2010年]]現在の市場においては、自社の1/35キットを縮小した品質とラインナップを持つ[[ドイツレベル]]や[[ドラゴンモデルズ|ドラゴン]]、人件費の安さと国内の博物館に実物がある事による資料の充実を武器にするロシアや東欧、中国の模型メーカーの1/72キットに対し、旧キットのバージョン替えや完全新金型キットの投入により対抗しているものの、30年以上前に開発された製品が多数を占めるため苦戦を強いられている。また2000年代半ば以降、ミニボックスシリーズのコンセプトと同じく、同一メーカの航空機模型と並べる事が可能なストラクチャーとして、[[タミヤ]]が[[ミリタリーミニチュアシリーズ|1/48ミリタリーミニチュアシリーズ]]を展開している。 == 製品一覧 == 2010年8月時点で発売済みの製品を下記に示す。「新No.」は1992年以降使用されている、新しい製品番号である。1992年当時生産休止品であった3点は新番号 (MT) が与えられず、生産再開後も旧番号 (MB) が使用されている。 {|class="wikitable" !旧No.!!新No.!!名称!!発売 |- | MB1 || MT1 || ウィリス M.B. [[ジープ]] ||1973 |- | MB2 || MT2 || [[M59 155mmカノン砲|155mm カノン砲 ロングトム]] ||1973 |- | MB3 || MT3 || [[M3軽戦車|M3 スチュアート Mk.I 軽戦車]] ||1973 |- | MB4 || MT4 || [[M3中戦車|M3 リー Mk.I 中戦車]] ||1973 |- | MB5 || MT5 || [[M3中戦車#ジェネラル・グラント|M3 グラント Mk.I 中戦車]] ||1973 |- | MB6 || MT6 || [[M3ハーフトラック|M3A1 ハーフトラック]] ||1973 |- | MB7 || MT7 || M4A1 ハーフトラック ||1973 |- | MB8 || MT8 || [[ティーガーI|VI号戦車 タイガーI型]] ||1973 |- | MB9 || MT9 || [[V号戦車パンター|V号戦車 パンサーG型]] ||1973 |- | MB10 || MT10 || [[8.8 cm FlaK 18/36/37|88mm 対空砲 Flak 18]] ||1973 |- | MB11 || MT11 || [[Sd Kfz 7|Sd.Kfz.7 8トンハーフトラック]] ||1973 |- | MB12 || MT12 || [[キューベルワーゲン]] & [[BMW・R75|B.M.W.サイドカー]] ||1973 |- | MB13 || MT13 || [[シュビムワーゲン]] & [[ケッテンクラート]] ||1973 |- | MB14 || MT14 || [[Sd Kfz 7|Sd.Kfz.7/1 8トンハーフトラック 20mm 4連装砲]] ||1973 |- | MB15 || MT15 || [[M4中戦車|M4A3E8 シャーマン]] ||1974 |- | MB16 || MT16 || [[いすゞ・TX|いすゞ TX-40]] 燃料補給車 ||1974 |- | MB17 || MT17 || トヨタ GB エンジン起動車 ||1974 |- | MB18 || MT18 || [[Sd Kfz 7|Sd.Kfz.7/2 8トンハーフ トラック 37mm 対空砲]] ||1974 |- | MB19 || MT19 || [[M24軽戦車|M-24 チャーフィー]] ||1974 |- | MB20 || MT20 || [[GMC]] CCKW-353 兵員輸送車 ||1974 |- | MB21 || MT21 || GMC CCKW-353 タンクローリー ||1974 |- | MB22 || MT22 || GMC CCKW-353 ダンプカー ||1974 |- | MB23 || MT23 || [[砲兵トラクター|M5 ハイスピード トラクター]] ||1975 |- | MB24 || MT24 || [[ダイムラー装甲車|ダイムラー Mk.II 装甲車]] ||1975 |- | MB25 || MT25 || [[ハンバー装甲車|ハンバー Mk.II 装甲車]] ||1975 |- | MB26 || MT26 || [[クルセーダー巡航戦車|クルセーダー Mk.III]] ||1975 |- | MB27 || MT27 || [[チャーチル歩兵戦車|チャーチル Mk.I]] ||1975 |- | MB28 || || [[クルップK5|ドイツ列車砲 K5 (E) レオポルド]] ||1975 |- | MB29 || MT28 || [[メルセデス・ベンツ|メルセデス ベンツ]] G4型 ||1976 |- | MB30 || MT31 || 検問所セット ||1977 |- | MB31 || MT32 || 野営セット ||1977 |- | MB32 || || [[カール自走臼砲|600㎜自走臼砲 カール]] & 運搬貨車 ||1977 |- | MB33 || || 600㎜自走臼砲 カール & [[IV号戦車#派生型|4号特殊弾薬運搬車]] ||1977 |- | MB34 || MT29 || アメリカ歩兵 コンバットチーム ||1980 |- | MB35 || MT30 || ドイツ歩兵 アタックグループ ||1980 |- | MA1 || MT33 || [[M1エイブラムス|M-1 エイブラムス]] ||1986 |- | MA2 || MT34 || [[レオパルト2|レオパルト 2]] ||1986 |- | MA3 || MT35 || M-1E1 エイブラムス ||1986 |- | || MT36 || VI号戦車 タイガー I型 "後期タイプ" ||1997 |- | || MT37 || V号戦車 パンサー G型 "スチール ホイール" ||1997 |- | || MT38 || 88mm 対空砲 Flak36 ||1997 |- | || MT39 || VI号戦車 タイガー I型 "最後期型" ||1997 |- | || MT40 || V号戦車 パンサー F型 ||1997 |- | || MT41 || [[IV号戦車]] F1型 ||1999 |- | || MT42 || IV号戦車 F2型 ||1999 |- | || MT43 || IV号戦車 G型 ||1999 |- | || MT44 || [[Sd Kfz 251|Sd.Kfz 251/1]] D型 装甲兵員輸送車 ||2000 |- | || MT45 || Sd.Kfz 251/22 D型 "パックワーゲン" ||2000 |- | || MT46 || Sd.Kfz 251/9 D型 "シュツンメル" ||2001 |- | || MT47 || [[オストヴィント|37mm IV号対空戦車 "オストヴィント"]] ||2001 |- | || MT48 || [[ヴィルベルヴィント|20mm 4連装 IV号対空戦車 "ヴィルベルヴィント"]] ||2001 |- | || MT49 || [[IV号駆逐戦車|Sd.Kfz.162 IV号駆逐戦車]] L/48 "初期型" ||2002 |- | || MT50 || Sd.Kfz.162/1 IV号戦車/70 (V) ラング ||2002 |- | || MT51 || Sd.Kfz.162 IV号 駆逐戦車 L/48 "後期型" ||2003 |- | || MT52 || [[Sd Kfz 234|Sd.Kfz.234/2 8輪重装甲偵察車]] "プーマ" ||2005 |- | || MT53 || Sd.Kfz.234/1 8輪重装甲偵察車 ||2005 |- | || MT54 || Sd.Kfz.234/3 8輪重装甲偵察車 "シュツンメル" ||2006 |- | || MT55 || VI号戦車 タイガーI "ハイブリッド" ||2006 |- | || MT56 || 54cm 自走臼砲 カール w/IV号特殊弾薬運搬車 ||2006 |- | || MT57 || 60cm 自走臼砲 カール 量産型 w/運搬貨車 ||2007 |} == 日本以外での展開・その他 == ミニボックスシリーズは1970年代前半から1980年代半ばにかけて、アメリカのミニクラフトと、イギリスのHALESから、それぞれ日本版のパッケージと多少異なる独自の英語版パッケージで発売されている。ミニボックスEシリーズの逆にエッシーからハセガワのミニボックスシリーズが販売された形跡は無いが、1970年代初めにエッシーの1/72AFVキットや緑商会の1/76ミニAFVをアメリカで販売していたAHMから、ミニボックスシリーズをコピーしたキットが3点発売されている。これと同一のキットは後にアメリカのリンドバーグからも発売され、リンドバーグ版の製品は2010年現在でも流通している。これらのキットは、部品自体はほとんどハセガワ製と区別が付かないが、ランナー内の部品配置がやや異なり、ランナーに刻印された部品番号の位置と書体も異なっている。コピーが作られた経緯は不明であるが、AHM版のパッケージには香港製と書かれている。また、ミニボックスシリーズの製品をコピーしたキットは、中国の[[サイエンス・トレジャリー]](美豊プラスチック玩具)および韓国のポパイ科学からも15点程発売されているほか、中国のFADA(発達玩具)からも発売されている。 == 参考文献 == * 日本プラモデル工業協同組合編 『日本プラモデル50年史』 文藝春秋企画出版部、2008年 ISBN 978-416008063-8 * [http://henk.fox3000.com/Hasegawa.htm ハセガワ1/72キット (外部サイト) ] == 外部リンク == * [http://www.hasegawa-model.co.jp/hp/catalog/mt_series/mt_index.html ハセガワ公式ウェブサイト・ミニボックスシリーズ] {{DEFAULTSORT:みにほつくすしりいす}} [[Category:プラモデル]] [[Category:1970年代の玩具]]
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ミニボックスEシリーズ
ミニボックスEシリーズは、イタリアの模型メーカー、ESCI(エッシー)が製造していた1/72スケールの戦車などのAFVの模型をハセガワが輸入し、自社のミニボックスシリーズの一部として販売していたシリーズである。 ハセガワは1973年より、1/72スケールのミニAFVモデルをミニボックスシリーズとして販売していたが、当時ミニAFVモデルはイギリスのエアフィックスの採用した1/76スケールが主流であり、日本国内でもフジミ模型や日東科学が1/76でのシリーズ展開を行っていた。そこで、ハセガワは1/72スケールの普及を図るため、同時期に1/72スケールミニAFVを製造していたエッシーの製品を輸入し、1976年よりミニボックスEシリーズとして販売を行った。価格はハセガワ製ミニボックスシリーズの200円に対しEシリーズは300円であり、国産キットよりは若干高価ではあったが、輸入品としては低い価格に抑えられていた。パッケージデザインはハセガワ製ミニボックスシリーズや、当時のエッシーのパッケージとも異なる、ホワイトパッケージを採用していた。ハセガワは最終的に当時の自社製ミニボックスシリーズの製品数を上回る、45点の製品をミニボックスEシリーズとして販売したが、1978年にエッシーとの提携は終了し、「ミニボックスEシリーズ」というシリーズ名は消滅した。 ミニボックスEシリーズの元となったキットは、エッシーが1973年頃に生産を始めたもので、1986年にシリーズが一旦終了するまでに、73点のキットが発売されている。エッシーがアメリカのアーテル(ERTL)に買収された後の1987年に、エッシー/アーテルのブランドでシリーズの構成を一新して再スタートし、1990年までに旧キットの再発売品を含めて75点のキットが発売された。ただし、一部の製品は旧シリーズの製品番号のまま販売が継続され、新シリーズへの移行は行われていない。1992年以降新シリーズのキットも多くが絶版となったが、一部のキットは1990年代一杯生産が継続されている。新シリーズへの移行に際し、旧シリーズの戦車キットの多くはキャタピラがポリ製のベルト式からプラスチック製の組み立て式に変更された。これは当時のミニAFVキットの弱点であったキャタピラの実感の無さを解消するための改良であり新シリーズの売りの1つでもあったが、直線部分は一体、曲線部分は1枚ずつバラで成形されていたため、1枚の大きさが小さいこともあって曲線部分が滑らかに繋がるように組み立てるのは難しく、また新金型にもかかわらずモールドがベルト式当時と殆ど変わらないなど中途半端な面も見られた。パッケージは旧シリーズの初期はホワイトパッケージ仕様であったが、程なく通常の背景付のボックスアートで側面の赤が印象的なものに変更された。新シリーズのボックスアートはホワイトパッケージ風の白バックとなったが、側面の赤は残されている。1990年代後半まで生産が継続されたものは、再度パッケージが一新された。金型はハセガワから国内販売されていた当時は日本、後に韓国で作られていた。 本シリーズの問題点は、他社製の大型(主に1/35)のキットと類似した製品が多い点にある。特に初期のキットの多くはタミヤ、イタレリ、マックス模型の製品と同一の車種をモデル化しており、さらにバンダイ、ニットー、モノグラム等も考慮に入れると初期のキットの殆どは他社からキットが発売されている。 もちろん、モデル化されているのはメジャーな車両が多いので、他社からキットが出ていること自体は不思議ではないが、問題なのは元とされるキットがかなり特殊なタイプをモデル化しているのに、それと同じタイプだったり、外形的な特徴や細部が実車より既存のキットの方に似ているキットが多い点にある。例えばドイツの装甲ハーフトラックのSd.Kfz.251は、基本となる車体にもバリエーションが多いのが特徴であるが、エッシーは当時タミヤが1/35でモデル化していたのと同一の、C型でリベットを多用したタイプという全体的に見るとかなりマイナーなタイプをモデル化している。これらの点から、多くのキットの設計に際し資料の一部として他社製のキットを使用していたことは間違いない。また付属している兵士のフィギュアも、元キットと極めて似たプロポーションでスケールダウンされていた。サイズが違い、部品分割も大きく異なるものをコピーと呼ぶかどうかについては異論もあるが、少なくともタミヤは本シリーズの多くを自社製品のコピーと認識している。 上記のような問題点はあるものの、エッシー製のキットは当時としては出来が良かったため、ミニボックスEシリーズ以外にも以下に示すように多くのメーカーが自社ブランドあるいは自社製パッケージでの販売を行っている。 アーテルは1990年代末に飛行機や戦車等のスケールモデルの生産・販売から撤退し、旧エッシー製も含め所有するスケールモデルの金型の大半をイタレリに売却した。ミニAFVの金型もイタリアへの里帰りを果たすことになった。イタレリは2001年より旧エッシー製1/72AFVキットの自社ブランドでの再発売を開始したが、イタレリの日本市場向け代理店であるタミヤは前述の理由により本シリーズの取り扱いを拒否したため、発売後しばらくは正規輸入が行われない状態が続いた。その後イタレリが併合したイタリアの模型メーカー、プロターの日本現地法人がタミヤの承認を得た上で輸入を行ったが、2006年7月にプロタージャパンも廃業したため、2010年現在日本国内での流通は限定的なものとなっている。
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ミニボックスEシリーズは、イタリアの模型メーカー、ESCI(エッシー)が製造していた1/72スケールの戦車などのAFVの模型をハセガワが輸入し、自社のミニボックスシリーズの一部として販売していたシリーズである。
'''ミニボックスEシリーズ'''は、イタリアの模型メーカー、[[エッシー (模型メーカー)|ESCI]](エッシー)が製造していた1/72スケールの[[戦車]]などの[[装甲戦闘車両|AFV]]の模型を[[ハセガワ]]が輸入し、自社の[[ミニボックスシリーズ]]の一部として販売していたシリーズである。 ==概要== ハセガワは[[1973年]]より、1/72スケールのミニAFVモデルをミニボックスシリーズとして販売していたが、当時ミニAFVモデルはイギリスの[[エアフィックス]]の採用した1/76スケールが主流であり、日本国内でも[[フジミ模型]]や[[日東科学]]が1/76でのシリーズ展開を行っていた。そこで、ハセガワは1/72スケールの普及を図るため、同時期に1/72スケールミニAFVを製造していたエッシーの製品を輸入し、[[1976年]]よりミニボックスEシリーズとして販売を行った。価格はハセガワ製ミニボックスシリーズの200円に対しEシリーズは300円であり、国産キットよりは若干高価ではあったが、輸入品としては低い価格に抑えられていた。パッケージデザインはハセガワ製ミニボックスシリーズや、当時のエッシーのパッケージとも異なる、ホワイトパッケージを採用していた。ハセガワは最終的に当時の自社製ミニボックスシリーズの製品数を上回る、45点の製品をミニボックスEシリーズとして販売したが、[[1978年]]にエッシーとの提携は終了し、「ミニボックスEシリーズ」というシリーズ名は消滅した。 ==オリジナルキット== ミニボックスEシリーズの元となったキットは、エッシーが1973年頃に生産を始めたもので、1986年にシリーズが一旦終了するまでに、73点のキットが発売されている。エッシーがアメリカの[[アーテル]](ERTL)に買収された後の1987年に、エッシー/アーテルのブランドでシリーズの構成を一新して再スタートし、1990年までに旧キットの再発売品を含めて75点のキットが発売された。ただし、一部の製品は旧シリーズの製品番号のまま販売が継続され、新シリーズへの移行は行われていない。1992年以降新シリーズのキットも多くが[[絶版]]となったが、一部のキットは1990年代一杯生産が継続されている。新シリーズへの移行に際し、旧シリーズの戦車キットの多くは[[キャタピラ]]が[[ポリプロピレン|ポリ]]製のベルト式から[[ポリスチレン|プラスチック]]製の組み立て式に変更された。これは当時のミニAFVキットの弱点であったキャタピラの実感の無さを解消するための改良であり新シリーズの売りの1つでもあったが、直線部分は一体、曲線部分は1枚ずつバラで成形されていたため、1枚の大きさが小さいこともあって曲線部分が滑らかに繋がるように組み立てるのは難しく、また新金型にもかかわらずモールドがベルト式当時と殆ど変わらないなど中途半端な面も見られた。パッケージは旧シリーズの初期はホワイトパッケージ仕様であったが、程なく通常の背景付の[[ボックスアート]]で側面の赤が印象的なものに変更された。新シリーズのボックスアートはホワイトパッケージ風の白バックとなったが、側面の赤は残されている。1990年代後半まで生産が継続されたものは、再度パッケージが一新された。[[金型]]はハセガワから国内販売されていた当時は日本、後に韓国で作られていた。 ==問題点== 本シリーズの問題点は、他社製の大型(主に1/35)のキットと類似した製品が多い点にある。特に初期のキットの多くは[[タミヤ]]、[[イタレリ]]、マックス模型の製品と同一の車種をモデル化しており、さらに[[バンダイ]]、[[日東科学教材|ニットー]]、[[モノグラム (模型メーカー)|モノグラム]]等も考慮に入れると初期のキットの殆どは他社からキットが発売されている。 もちろん、モデル化されているのはメジャーな車両が多いので、他社からキットが出ていること自体は不思議ではないが、問題なのは元とされるキットがかなり特殊なタイプをモデル化しているのに、それと同じタイプだったり、外形的な特徴や細部が実車より既存のキットの方に似ているキットが多い点にある。例えばドイツの装甲ハーフトラックの[[Sd Kfz 251|Sd.Kfz.251]]は、基本となる車体にもバリエーションが多いのが特徴であるが、エッシーは当時タミヤが1/35でモデル化していたのと同一の、C型でリベットを多用したタイプという全体的に見るとかなりマイナーなタイプをモデル化している。これらの点から、多くのキットの設計に際し資料の一部として他社製のキットを使用していたことは間違いない。また付属している兵士のフィギュアも、元キットと極めて似たプロポーションでスケールダウンされていた。サイズが違い、部品分割も大きく異なるものをコピーと呼ぶかどうかについては異論もあるが、少なくともタミヤは本シリーズの多くを自社製品のコピーと認識している。 ==他ブランドでの販売== 上記のような問題点はあるものの、エッシー製のキットは当時としては出来が良かったため、ミニボックスEシリーズ以外にも以下に示すように多くのメーカーが自社ブランドあるいは自社製パッケージでの販売を行っている。 *AHM(アメリカ) :1970年代前半にドイツ車両を中心に初期の製品7点を米国内で発売。 *[[ドイツレベル]](ドイツ) :1976~81年にエッシーブランド以外では最多の65点を発売。[[ボックスアート]]は独自のものを使用した。 *[[オーロラ (模型メーカー) |オーロラ]](アメリカ) :倒産直前の1977年に30点を米国内で発売。 *アーテル(アメリカ) :エッシー買収以前の1982~84年に14点を米国内で発売。 *[[ハンブロール]](イギリス) :1980年代に10点を販売。ボックスアートにはキットの完成品写真を使用していた。 *AMT/アーテル(アメリカ) :アーテルの持つもう一つのプラモデルブランドであるAMTから1989~90年に現用車両を中心に10点を発売。 *グンゼ産業(現・[[GSIクレオス]])(日本) :1989~93年に24点を発売。パッケージデザインはエッシー/アーテル版に準じるが、側面の赤を白に変更しているため印象は異なる。 ==現状== アーテルは1990年代末に飛行機や戦車等の[[スケールモデル]]の生産・販売から撤退し、旧エッシー製も含め所有するスケールモデルの金型の大半をイタレリに売却した。ミニAFVの金型もイタリアへの里帰りを果たすことになった。イタレリは2001年より旧エッシー製1/72AFVキットの自社ブランドでの再発売を開始したが、イタレリの日本市場向け代理店であるタミヤは前述の理由により本シリーズの取り扱いを拒否したため、発売後しばらくは正規輸入が行われない状態が続いた。その後イタレリが併合したイタリアの模型メーカー、[[プロター (模型メーカー)|プロター]]の日本現地法人がタミヤの承認を得た上で輸入を行ったが、2006年7月にプロタージャパンも廃業したため、2010年現在日本国内での流通は限定的なものとなっている。 == 参考文献 == * 日本プラモデル工業協同組合編 『日本プラモデル50年史』 文藝春秋企画出版部、2008年 ISBN 978-416008063-8 * [http://henk.fox3000.com/Esci3.htm 他ブランドで発売されたエッシー製キット (英文外部サイト) ] [[Category:プラモデル|みにぼっくすEしりーず]]
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(有) 椎名百貨店
『(有) 椎名百貨店』(ゆうげんがいしゃ しいなひゃっかてん)は、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)に1990年4月号から1991年5月号にかけて全14話に渡って毎月連載された椎名高志の漫画作品である。 本稿では、単行本化に際して併録された作品についても併せてここで扱う。 毎回、ジャンルの異なる読切作品を掲載する連載形式を採っており、この中の一編である「極楽亡者」(第12話)から『週刊少年サンデー』本誌に連載された『GS美神 極楽大作戦!!』が派生した。 また、『(有) 椎名百貨店』は、椎名高志により小学館から刊行された単行本のタイトルでもあるが、この場合、連載作品としての『(有) 椎名百貨店』の内11話分に、同タイトル以外で発表された作品(下記、併録作品参照)も加えて収録されている。またその登場人物を『GS美神』にゲスト出演させたりもしている。 短編集は、『(有) 椎名百貨店 (超) GSホームズ 極楽大作戦!!』・『(有) 椎名大百貨店』へと続いている。 『週刊少年サンデー増刊号』に掲載された作品は以下の通り。★は単行本未収録作品。「極楽亡者」のみ、『GS美神 極楽大作戦!!』の単行本に収録。 『(有) 椎名百貨店』が単行本化された際に、以下の5作品が併せて収録された。 オムニバス形式の4コマ漫画で、椎名高志のデビュー作である。『週刊少年サンデー』1989年第14号にて掲載。その後も同誌に不定期で掲載され、1990年第34号まで合計12回分が掲載された。 『週刊少年サンデー増刊号』1989年8月号に掲載。アンドロイドが電器店で入手できるようになった近未来に、とある電器店で女性型アンドロイド・ミソッカス90Fを手に入れた若者の話。ミソッカスは椎名高志のホームページに掲載されたWEBコミック「看板娘行進曲」、「家電少女MISOCCUS」にも登場する。 『週刊少年サンデー』1989年43号掲載。 父の頼みを聞いていやいやながらも、正体を隠して舞台に立つ藤本ゆかり。ある時、それを同じ学校の藍方圭介に目撃されてしまう。 『週刊少年サンデー』1993年(平成5年)16号に掲載。宇宙で力を持つ王族が地球へ亡命に来るという話は『一番湯のカナタ』のプロットと共通しており、主人公が幼少期にいい宇宙人に助けられるという設定も共通している。また、宇宙船のデザインなども引用されている。家老など、江戸時代や戦国時代に使われていた用語を使い、その地位を示している。 かつて、幼少期に「ゴリガン」によって助けられた天野勝也は、「ゴリガン」の家に通うようになる。あるとき、「ゴリガン」の家付近で起きた大爆発で、勝也はそこへ向うが......。 『ビッグコミックオリジナル増刊』1990年11月5日号に「のんぽり魂 1」が、1991年4月28日号に「のんぽり魂 2」が掲載された。ともにオムニバス形式となっており、それぞれの掲載エピソードは以下の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『(有) 椎名百貨店』(ゆうげんがいしゃ しいなひゃっかてん)は、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)に1990年4月号から1991年5月号にかけて全14話に渡って毎月連載された椎名高志の漫画作品である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本稿では、単行本化に際して併録された作品についても併せてここで扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "毎回、ジャンルの異なる読切作品を掲載する連載形式を採っており、この中の一編である「極楽亡者」(第12話)から『週刊少年サンデー』本誌に連載された『GS美神 極楽大作戦!!』が派生した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、『(有) 椎名百貨店』は、椎名高志により小学館から刊行された単行本のタイトルでもあるが、この場合、連載作品としての『(有) 椎名百貨店』の内11話分に、同タイトル以外で発表された作品(下記、併録作品参照)も加えて収録されている。またその登場人物を『GS美神』にゲスト出演させたりもしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "短編集は、『(有) 椎名百貨店 (超) GSホームズ 極楽大作戦!!』・『(有) 椎名大百貨店』へと続いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『週刊少年サンデー増刊号』に掲載された作品は以下の通り。★は単行本未収録作品。「極楽亡者」のみ、『GS美神 極楽大作戦!!』の単行本に収録。", "title": "連載された作品" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『(有) 椎名百貨店』が単行本化された際に、以下の5作品が併せて収録された。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オムニバス形式の4コマ漫画で、椎名高志のデビュー作である。『週刊少年サンデー』1989年第14号にて掲載。その後も同誌に不定期で掲載され、1990年第34号まで合計12回分が掲載された。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『週刊少年サンデー増刊号』1989年8月号に掲載。アンドロイドが電器店で入手できるようになった近未来に、とある電器店で女性型アンドロイド・ミソッカス90Fを手に入れた若者の話。ミソッカスは椎名高志のホームページに掲載されたWEBコミック「看板娘行進曲」、「家電少女MISOCCUS」にも登場する。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『週刊少年サンデー』1989年43号掲載。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "父の頼みを聞いていやいやながらも、正体を隠して舞台に立つ藤本ゆかり。ある時、それを同じ学校の藍方圭介に目撃されてしまう。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『週刊少年サンデー』1993年(平成5年)16号に掲載。宇宙で力を持つ王族が地球へ亡命に来るという話は『一番湯のカナタ』のプロットと共通しており、主人公が幼少期にいい宇宙人に助けられるという設定も共通している。また、宇宙船のデザインなども引用されている。家老など、江戸時代や戦国時代に使われていた用語を使い、その地位を示している。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつて、幼少期に「ゴリガン」によって助けられた天野勝也は、「ゴリガン」の家に通うようになる。あるとき、「ゴリガン」の家付近で起きた大爆発で、勝也はそこへ向うが......。", "title": "併録作品" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『ビッグコミックオリジナル増刊』1990年11月5日号に「のんぽり魂 1」が、1991年4月28日号に「のんぽり魂 2」が掲載された。ともにオムニバス形式となっており、それぞれの掲載エピソードは以下の通り。", "title": "併録作品" } ]
『(有) 椎名百貨店』は、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)に1990年4月号から1991年5月号にかけて全14話に渡って毎月連載された椎名高志の漫画作品である。 本稿では、単行本化に際して併録された作品についても併せてここで扱う。
{{redirectlist|椎名百貨店|[[椎名高志]]の4冊目の短編集|(有) 椎名百貨店 (超) GSホームズ 極楽大作戦!!|5冊目の短編集|(有) 椎名大百貨店}} 『'''(有) 椎名百貨店'''』(ゆうげんがいしゃ しいなひゃっかてん)は、『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』([[小学館]])に[[1990年]][[4月]]号から[[1991年]][[5月]]号にかけて全14話に渡って毎月連載された[[椎名高志]]の[[漫画]]作品である。 本稿では、単行本化に際して併録された作品についても併せてここで扱う。 == 概要 == 毎回、[[ジャンル]]の異なる読切作品を掲載する連載形式を採っており、この中の一編である「極楽亡者」(第12話)から『[[週刊少年サンデー]]』本誌に連載された『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』が派生した。 また、『(有) 椎名百貨店』は、椎名高志により小学館から刊行された[[単行本]]のタイトルでもあるが、この場合、連載作品としての『(有) 椎名百貨店』の内11話分に、同タイトル以外で発表された作品(下記、併録作品参照)も加えて収録されている。またその登場人物を『GS美神』にゲスト出演させたりもしている。 短編集は、『[[(有) 椎名百貨店 (超) GSホームズ 極楽大作戦!!]]』・『[[(有) 椎名大百貨店]]』へと続いている。 == 連載された作品 == 『[[週刊少年サンデー増刊号]]』に掲載された作品は以下の通り。★は単行本未収録作品。「極楽亡者」のみ、『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』の単行本に収録。 ; 一覧 <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> # ポケットナイト(1990年4月号掲載) # マリちゃんたすけて!(5月号掲載) # ★眠る牙(6月号掲載) # 乱破S.S.(7月号掲載) # ポケットナイト 2(8月号掲載) # ★フォワード(9月号掲載) # 長いお別れ(10月号掲載) </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> <ol start="8"> <li> バンパイア・シティー(11月号掲載) <li> ポケットナイト 3(12月号掲載)</li> <li> 乱破S.S. 2(1991年1月号掲載)</li> <li> はじめてのおつきあい(2月号掲載)</li> <li> 極楽亡者(3月号掲載)</li> <li> 発展途上帝国MORO(4月号掲載)</li> <li> 乱破S.S. 3(5月号掲載)</li> </ol> </div>{{Clearleft}} ---- ; ポケットナイト : 「ポケットナイト」、「ポケットナイト2」、「ポケットナイト3」の計3作をそれぞれ『週刊少年サンデー増刊号』1990年4月号、8月号、12月号に掲載。ページ数はいずれも30ページ。本作をモデルとした話が、『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場する。 : 母を亡くして父親と二人暮しをしている小学生の女の子・'''小田切あゆみ'''と、そんな彼女の下に転がり込んできた人語を解するネズミの'''ムラマサ'''。ムラマサは生物研究所から脱走してきた生物兵器だった。本作は、そんな1人と1匹を巡って巻き起こる(ささやかな)事件を描いた、ハートウォーミングなコメディ作品。 ; マリちゃんたすけて! : 『少年サンデー増刊号』5月号に掲載。32ページ。 : 主人公'''マリー・アンダーソン'''は、捜査官としてコメリカ連邦捜査局に配属される。彼女の父親も連邦捜査官であったが、幼い頃に殉職していた。彼女は、父の形見である銃を手にその遺志を継ぐべく… …というシリアスな設定だが、相棒の'''オークビレジ'''捜査官以外は、まともなキャラクターがほぼ皆無という'''ナンセンス・ギャグ'''漫画。 ; 眠る牙 :『少年サンデー増刊号』1990年6月号に掲載され、ホラーの要素も加味された伝奇漫画となっている。現在のところ、既刊のいずれの単行本においても未収録である。30ページ。 : 主人公'''犬塚'''は、奇妙な夢にうなされ続けていた。夢の中では、彼は狼として存在し、そして彼を「'''牙'''」と呼ぶ少女がその傍にいた。その夢の中の少女〜「牙使い」の'''ダナーン'''〜が、現実の犬塚の前に現れた時、彼は神聖獣「牙」として己の敵と対峙していく。 ; 乱破S.S. : 全6作のギャグコメディ。うち3作が『少年サンデー増刊号』1990年7月号、1991年1月号、5月号に掲載。『(有) 椎名百貨店』の連載終了後も集中連載として3作が発表された。 : 主人公・'''伊能せいこう'''は目立つことを極端に嫌い、日々を静かにすごしている小学生の男の子。そんな彼の家に「乱破」と名乗る二人の姉弟・'''氷雅'''と'''妖岩'''がやってきたことから巻き起こる騒動を描く。 {{Main|乱破S.S.}} ; フォワード : 『少年サンデー増刊号』1990年9月号に掲載。これも既刊のいずれの単行本においても未収録となっている。学校のバスケットボール部を舞台にした青春物。 ; 長いお別れ : 『少年サンデー増刊号』1990年10月号掲載に掲載。タイムトラベルを素材にしたギャグコメディ。30ページ。 : 神社で巫女のバイトをしている'''加代子'''と、同じく社務所でバイトしているボーイフレンドの'''凡能くん'''。その神社に考古学者の'''柳国'''と名乗る男が、ある目的を持って現れる。その時、彼ら一同の前に出現したのは、遠い昔の(本職の)巫女さんとロボットの'''[[土偶羅魔具羅]]'''(ドグラマグラ)、そして一頭の'''竜'''であった。 : 土偶羅魔具羅のキャラクターは後の『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』でも流用され、また同作品のアシュタロス編のエピローグのサブタイトルもこの作品と同じ名称である。 ; バンパイア・シティー : 『少年サンデー増刊号』1990年11月号に掲載。「眠る牙」に続くシリアス色の強い妖怪退治物。30ページ。 : その世界では[[吸血鬼]]は、ごく当たり前に存在していた。彼らは人類の[[天敵]]として取り締まりの対象とされ、[[世界保健機関|WHO]] には吸血鬼取締課までも存在していた。吸血鬼の少女'''阿麗'''(アーリー)は、そんな WHO 直属の吸血鬼Gメン'''十字'''に逮捕されるが、ある取引を持ちかけられる。彼の狙いは大物吸血鬼のストーカー…かくして奇妙なコンビが結成される。 ; はじめてのおつきあい : 『少年サンデー増刊号』[[1991年]]2月号に掲載。30ページの中で綺麗にまとめられた[[サイエンス・フィクション|SF]]漫画。 : 奇妙な犬を連れた小さな女の子と、好きな娘に告白したいのになかなか踏み切れない中学生の'''筒井くん'''。2人の邂逅が、お互いに夢見ていた「おつきあい」を紡ぎ出してゆく。 ; 極楽亡者 : 『少年サンデー増刊号』1991年3月号に掲載。『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』のパイロット版的作品で、同作品の単行本に収録されている。 ; 発展途上帝国MORO : 『少年サンデー増刊号』1991年4月号に掲載。30ページ。映画『[[ドクター・モローの島]]』のパロディだが、マッドサイエンティスト未満でしかない茂呂の振る舞いが微笑ましい、[[サイエンス・フィクション|SF]]コメディ。 : 主人公'''真友康則'''は、親の仕事の都合で、ある島に引っ越すことになった。その島で彼は、少年'''茂呂'''と出会う。茂呂の屋敷には奇天烈なメカが貯め込まれていたが、茂呂はそれらを使いこなせていなかった。こうして真友クンの少しマトモでない毎日が始まった。 == 併録作品 == 『(有) 椎名百貨店』が単行本化された際に、以下の5作品が併せて収録された。 === Dr.椎名の教育的指導!! === オムニバス形式の4コマ漫画で、椎名高志のデビュー作である。『[[週刊少年サンデー]]』1989年第14号にて掲載。その後も同誌に不定期で掲載され、1990年第34号まで合計12回分が掲載された。 {{Main|Dr.椎名の教育的指導!!}} === 電化製品に乾杯! === 『週刊少年サンデー増刊号』1989年8月号に掲載。アンドロイドが電器店で入手できるようになった近未来に、とある電器店で女性型アンドロイド・ミソッカス90Fを手に入れた若者の話。ミソッカスは椎名高志のホームページに掲載されたWEBコミック「看板娘行進曲」、「家電少女MISOCCUS」にも登場する。 {{Main|電化製品に乾杯!}} === オール・ザット・ギャグ === 『週刊少年サンデー』[[1989年]]43号掲載。 ; あらすじ 父の頼みを聞いていやいやながらも、正体を隠して舞台に立つ藤本ゆかり。ある時、それを同じ学校の藍方圭介に目撃されてしまう。 ; 登場人物 * '''藤本ゆかり''' : 藤本興業の社長を父に持つため、舞台に立たされることがある。天才的な[[漫才#ボケとツッコミ|ボケ]]の才能の持ち主。高校3年。 * '''藍方圭介''' : 芸人を神様と思うほどのお笑い好き。[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]で、ボケ役を探していた。高校1年。 ; 用語 * '''藤本興業''' : かつては、「お笑い帝国」とまで呼ばれたお笑い芸能事務所。[[吉本興業]]のパロディ。 === ゴリガン === 『週刊少年サンデー』[[1993年]]([[平成]]5年)16号に掲載。宇宙で力を持つ王族が地球へ亡命に来るという話は『[[一番湯のカナタ]]』のプロットと共通しており、主人公が幼少期にいい宇宙人に助けられるという設定も共通している。また、宇宙船のデザインなども引用されている。家老など、江戸時代や戦国時代に使われていた用語を使い、その地位を示している。 ; あらすじ かつて、幼少期に「ゴリガン」によって助けられた'''天野勝也'''は、「ゴリガン」の家に通うようになる。あるとき、「ゴリガン」の家付近で起きた大爆発で、勝也はそこへ向うが……。 ; 登場人物 * '''天野勝也''' :かつて、幼少期に「ゴリガン」によって銀行強盗の手から助けられた過去を持つ。 * '''ゴーリキ/剛力''' :本名は、ゴーリキ。実は、男爵の地位を持つ宇宙人。地球では剛力と名乗っているが、「ゴリガン」の通称で呼ばれている。 * '''サオリ・マホロバ''' :マホロバ藩星第726王女。 * '''フィンク''' :言葉を話す鳥。 ; 用語 *'''銀河系''' :かつては戦争が絶えなかったが、5000年前に大銀河神聖将軍家によって統一され、今は大銀河神聖幕府とその配下の藩によって構成されている。 *'''マホロバ藩''' :太陽系を含む直系150光年を管理する藩。悪家老によりクーデターが起こされてしまう。 === のんぽり魂 === 『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』[[1990年]][[11月5日]]号に「のんぽり魂 1」が、[[1991年]][[4月28日]]号に「のんぽり魂 2」が掲載された。ともにオムニバス形式となっており、それぞれの掲載エピソードは以下の通り。 ; のんぽり魂 1 * '''人間交差点''' : 十分な条件の家庭を持ちながら、なぜか満たされない男の話。『[[人間交差点]]』のパロディ。 * '''痴人の愛''' : 人魚との恋を描いた作品。『[[GS美神 極楽大作戦!!]] 』でこの作品のネタが引用されている。 * '''スティング''' : グアムまで2万5千円という詐欺を行う旅行会社の話。 * '''愛は不条理に''' : ある日、美女へ変身してしまった男の話。 * '''はるかなる山の呼び声''' : とある戦国武将の話。 ; のんぽり魂 2 * '''CHARIOTS OF FIRE''' : 車でナンパを行う男の話。 * '''流れよ、我が涙''' : スーパーパワーを持った男の話。 * '''とんちでGO!''' : 子供が生めない女性の話。 * '''CHARIOTS OF FIRE II''' : 「CHARIOTS OF FIRE」の続編。 == 単行本情報 == ; 少年サンデーコミックス(小学館)全3巻 # 第1巻 初版発行:[[1991年]][[6月15日]] ISBN 4-09-122571-3 #*ポケットナイト #*ポケットナイト 2 #*ポケットナイト 3 #*[[電化製品に乾杯!|電化製品(アンドロイド)に乾杯!]] #*長いお別れ #*[[Dr.椎名の教育的指導!!]] # 第2巻 初版発行:[[1991年]][[8月15日]] ISBN 4-09-122572-1 #*乱破S.S. #*乱破S.S. 2 #*乱破S.S. 3 #*オール・ザット・ギャグ #*マリちゃんたすけて! #*Dr.椎名の教育的指導!! # 第3巻 初版発行:[[1994年]][[3月15日]] ISBN 4-09-122573-X #*乱破S.S. 4 #*乱破S.S. 5 #*乱破S.S. 6 #*発展途上帝国MORO #*ゴリガン #*バンパイア・シティー #*はじめてのおつきあい #*Dr.椎名の教育的指導!! #*のんぽり魂 ; 少年サンデーコミックス ワイド版(小学館)全1巻 # 第1巻 初版発行:[[2000年]][[1月15日]] ISBN 4-09-125841-7 #*収録作品:少年サンデーコミックス全3巻に収録の全タイトル == 関連項目 == * 短編集 ** [[(有) 椎名百貨店 (超) GSホームズ 極楽大作戦!!]] - 4冊目の短編集。 ** [[(有) 椎名大百貨店]] - 5冊目の短編集。 {{椎名高志}} {{GS美神 極楽大作戦!!}} {{DEFAULTSORT:ゆうけんかいしやしいなひやつかてん}} [[Category:漫画短編集]] [[Category:週刊少年サンデー超]]
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J・R・R・トールキン
ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、イギリスの文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人。『ホビットの冒険』や『指輪物語』の著者として知られる。 オックスフォード大学で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(1925年 - 1945年)、同大学マートン学寮英語英文学教授(1945年 - 1959年)を歴任。文学討論グループ「インクリングズ」のメンバーで、同会所属の英文学者C・S・ルイスや詩人チャールズ・ウィリアムズ(英語版)と親交が深かった。カトリックの敬虔な信者であった。1972年3月28日エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章コマンダー勲爵士)を受勲した。 没後、息子のクリストファは彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』、『中つ国の歴史(英語版)』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「アルダ」や「中つ国」と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を legendarium (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた。 小惑星(2675) Tolkienはトールキンの名前にちなんで命名された。 父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkühnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である。 母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた。 オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857–1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870–1904)の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。 アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール(英語版)に移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる。 母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。 1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗したため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった。 孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(英語版)にある、バーミンガムオラトリオ会(英語版)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(英語版)司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。 16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った。 1911年、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店(英語版)や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。 1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(英語版)(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデック(英語版)を過ぎてマイリンゲン(英語版)に、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。 21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ。1913年1月にバーミンガムで婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した。 1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮で学んでいた)オックスフォード大学を卒業後、第一次世界大戦時にイギリス陸軍に入隊し、少尉としてランカシャー・フュージリアーズの第11大隊に所属した。部隊は1916年にフランスに転戦し、トールキンもソンムの戦いのあいだ、同年10月27日に塹壕熱を患うまで通信士官を務め、11月8日にイギリスへと帰国した。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの陥落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年から1918年にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハルに配属されたとき、夫婦でルース(英語版)の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」。この出来事から、トールキンはベレンとルーシエンの出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ。 第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮(英語版)に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(英語版)として、オックスフォードに戻った。 ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書く。また1928年、モーティマー・ウィーラー(英語版)がグロスターシャー、Lydney Parkのアスクレペイオン(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた。学術刊行物の中では特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、フィンネスブルグの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル』を執筆していたようである。 1945年にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授(英語版)となり、1959年に引退するまでその職位にいた。1948年に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレントにある息子のジョンの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。 妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年11月16日 - 2003年1月22日)、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月22日 - 1984年2月27日)、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日 - 2020年1月16日)、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年6月18日 - 2022年2月28日)である。 W・H・オーデンは『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは1971年の手紙で、 と書いた。 1969年度のノーベル文学賞の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっている。 オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれている。 最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤとシンダール語に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriandとしてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。 トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話)、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』などである。 このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロースからのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』として出版された。 だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年に『ホビットの冒険(The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年から1955年にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語(The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズの仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり』の作者で親友のC・S・ルイスは絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。 1960年代、『指輪物語』はアメリカの多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。 トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学というジャンルに多大な影響を残した。 文献学のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ』の『巫女の予言』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ』から取られている。トールキンはベーオウルフについて誰もが認める権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。 中つ国の物語は死の直前まで書き続けられていた。その後、息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイの助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年に『シルマリルの物語(The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『中つ国の歴史』シリーズや『終わらざりし物語』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』に至っては『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。 アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーにあるマーケット大学(英語版)の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォードのボドリアン図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。 文献学、言語に関する研究は生涯を通じて熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の人工言語を発明するにいたった。中でも二つのエルフ語、すなわち「クウェンヤ」と「シンダール語」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、中つ国の詳細な宇宙論や歴史を創り上げた。 トールキンは専門であるアングロ・サクソン語(古英語)や古ノルド語に加えて、他のインド・ヨーロッパ語族の諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語とラテン語、ドイツ語やオランダ語などのゲルマン諸語とその古語(古サクソン語など)、ゲール語やウェールズ語といったケルト諸語、バルト諸語やスラヴ諸語など)、さらにはウラル語族のフィンランド語など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これがクウェンヤの着想を与えたと書いている。 彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及ぼしている。特に"dwarf"(ドワーフ)の複数形を"dwarfs"ではなく"dwarves"としたり、"Elf"(エルフ)の形容詞形を"elfish"ではなく"elvish"と表記する慣例は彼によって生まれた。 1951年のミルトン・ウォルドマンへの手紙(Letters #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。 「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」 多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『トム・ボンバディルの冒険』と『農夫ジャイルズの冒険』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『道は続くよどこまでも』に曲を付けた)だった。1970年代初期、デンマークのマルグレーテ2世は『指輪物語』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。 しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。 1946年の手紙(Letters #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにもディズニー的であると拒否した。 「たれた鼻のビルボ、わたしの意図したオーディンのような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」 また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、1954年にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(Letters #144)。 「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」 そして1958年、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(Letters #207)。 「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」 この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く(「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」)。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。1968年、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権をユナイテッド・アーティスツに売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたりディズニーが関与することを一切禁止した(Letters #13, 1937年)。 「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」 ジョン・ブアマンが70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは1976年に製作の権利をソウル・ゼインツの会社の傘下にあったトールキン・エンタープライズ(英語版)に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。ラルフ・バクシ監督によるロトスコーピング手法で製作され、1978年に公開された。 その後『指輪物語』の配給権はミラマックス社を経てニュー・ライン・シネマ社に移り、2001年から2003年にかけてピーター・ジャクソンの監督によってロード・オブ・ザ・リング三部作として初めて実写映画化された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、イギリスの文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人。『ホビットの冒険』や『指輪物語』の著者として知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オックスフォード大学で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(1925年 - 1945年)、同大学マートン学寮英語英文学教授(1945年 - 1959年)を歴任。文学討論グループ「インクリングズ」のメンバーで、同会所属の英文学者C・S・ルイスや詩人チャールズ・ウィリアムズ(英語版)と親交が深かった。カトリックの敬虔な信者であった。1972年3月28日エリザベス2世からCBE(大英帝国勲章コマンダー勲爵士)を受勲した。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "没後、息子のクリストファは彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『シルマリルの物語』、『終わらざりし物語』、『中つ国の歴史(英語版)』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「アルダ」や「中つ国」と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を legendarium (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小惑星(2675) Tolkienはトールキンの名前にちなんで命名された。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在のドイツのザクセン州にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという。苗字のTolkienは、ドイツ語のTollkiehn(注:tollkühnは「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen(注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法(oxymoron、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガムに住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年から服地と靴下を商っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857–1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870–1904)の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラに噛み付かれた。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランドに行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱により亡くなってしまった。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガムに行き、1896年には(現在はホール・グリーンにある)セアホール(英語版)に移った。ここは当時ウースターシャーの村で、現在はバーミンガムの一部である。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷(Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた。植物学に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語の基本を教えた。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校(英語版)に入学して、バッキンガム宮殿の門に掲示されたジョージ5世の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり、学資不足のためセント・フィリップス校(英語版)に一時籍を移したりもした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1900年、母はバプテストであった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリックに改宗したため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年に糖尿病で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教者であったと思うようになった。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイスをキリスト教に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会を選び大いに失望することになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区(英語版)にある、バーミンガムオラトリオ会(英語版)のフランシス・シャヴィエル・モーガン(英語版)司祭であった。トールキンはPerrott's Follyとエッジバーストン水道施設(英語版)のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズとラファエル前派のロマン主義の絵画だった。バーミンガム美術館には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラットと出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1911年、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S.」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店(英語版)や学校図書館で不法にお茶を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1911年夏、友人たちとスイスに遊びに行ったが、1968年の手紙にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケンからラウターブルンネンまでを縦走し、ミュレンの先の氷堆石まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈を越えるビルボの旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウとシルバーホルン(英語版)(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデックを越えグリンデルワルトへ向かい、グレッセ・シャイデック(英語版)を過ぎてマイリンゲン(英語版)に、さらにグリムゼル峠を越え、アッパーヴァレーを通りブリーク、そして、アレッチ氷河とツェルマットに着いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ。1913年1月にバーミンガムで婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した、1916年3月22日にイングランドのウォリックで結婚した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1915年に優秀な成績で英語の学位を取り(エクセター学寮で学んでいた)オックスフォード大学を卒業後、第一次世界大戦時にイギリス陸軍に入隊し、少尉としてランカシャー・フュージリアーズの第11大隊に所属した。部隊は1916年にフランスに転戦し、トールキンもソンムの戦いのあいだ、同年10月27日に塹壕熱を患うまで通信士官を務め、11月8日にイギリスへと帰国した。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。スタッフォードシャー、グレート・ヘイウッドで療養していた間に、「ゴンドリンの陥落」に始まる、後に『失われた物語の書』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年から1918年にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハルに配属されたとき、夫婦でルース(英語版)の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」。この出来事から、トールキンはベレンとルーシエンの出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した。1920年、リーズ大学で英語学の講師の地位を得、1924年に教授となったが、1925年秋から、ペンブローク学寮(英語版)に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授(英語版)として、オックスフォードに戻った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険』と『指輪物語』の『旅の仲間』と『二つの塔』を書く。また1928年、モーティマー・ウィーラー(英語版)がグロスターシャー、Lydney Parkのアスクレペイオン(古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた。学術刊行物の中では特に1936年に講演され、翌年に出版された“Beowulf: the Monsters and the Critics”は『ベーオウルフ』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、フィンネスブルグの戦いの挿話および古英詩断片のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル』を執筆していたようである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1945年にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授(英語版)となり、1959年に引退するまでその職位にいた。1948年に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレントにある息子のジョンの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年11月16日 - 2003年1月22日)、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年10月22日 - 1984年2月27日)、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル(1924年11月21日 - 2020年1月16日)、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年6月18日 - 2022年2月28日)である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "W・H・オーデンは『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは1971年の手紙で、", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "と書いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1969年度のノーベル文学賞の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン」そして「ルーシエン」の名が刻まれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤとシンダール語に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriandとしてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話)、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ』などである。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロースからのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』として出版された。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年に『ホビットの冒険(The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年から1955年にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語(The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズの仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり』の作者で親友のC・S・ルイスは絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1960年代、『指輪物語』はアメリカの多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学というジャンルに多大な影響を残した。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "文献学のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ』の『巫女の予言』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ』から取られている。トールキンはベーオウルフについて誰もが認める権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中つ国の物語は死の直前まで書き続けられていた。その後、息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイの助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年に『シルマリルの物語(The Silmarillion)』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『中つ国の歴史』シリーズや『終わらざりし物語』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』に至っては『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アメリカのウィスコンシン州ミルウォーキーにあるマーケット大学(英語版)の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォードのボドリアン図書館には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "文献学、言語に関する研究は生涯を通じて熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の人工言語を発明するにいたった。中でも二つのエルフ語、すなわち「クウェンヤ」と「シンダール語」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、中つ国の詳細な宇宙論や歴史を創り上げた。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "トールキンは専門であるアングロ・サクソン語(古英語)や古ノルド語に加えて、他のインド・ヨーロッパ語族の諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語とラテン語、ドイツ語やオランダ語などのゲルマン諸語とその古語(古サクソン語など)、ゲール語やウェールズ語といったケルト諸語、バルト諸語やスラヴ諸語など)、さらにはウラル語族のフィンランド語など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これがクウェンヤの着想を与えたと書いている。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及ぼしている。特に\"dwarf\"(ドワーフ)の複数形を\"dwarfs\"ではなく\"dwarves\"としたり、\"Elf\"(エルフ)の形容詞形を\"elfish\"ではなく\"elvish\"と表記する慣例は彼によって生まれた。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1951年のミルトン・ウォルドマンへの手紙(Letters #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『トム・ボンバディルの冒険』と『農夫ジャイルズの冒険』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『道は続くよどこまでも』に曲を付けた)だった。1970年代初期、デンマークのマルグレーテ2世は『指輪物語』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1946年の手紙(Letters #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにもディズニー的であると拒否した。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「たれた鼻のビルボ、わたしの意図したオーディンのような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、1954年にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(Letters #144)。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そして1958年、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(Letters #207)。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く(「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」)。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。1968年、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権をユナイテッド・アーティスツに売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたりディズニーが関与することを一切禁止した(Letters #13, 1937年)。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ジョン・ブアマンが70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは1976年に製作の権利をソウル・ゼインツの会社の傘下にあったトールキン・エンタープライズ(英語版)に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。ラルフ・バクシ監督によるロトスコーピング手法で製作され、1978年に公開された。", "title": "派生作品" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その後『指輪物語』の配給権はミラマックス社を経てニュー・ライン・シネマ社に移り、2001年から2003年にかけてピーター・ジャクソンの監督によってロード・オブ・ザ・リング三部作として初めて実写映画化された。", "title": "派生作品" } ]
ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンは、イギリスの文献学者、作家、詩人、イギリス陸軍軍人。『ホビットの冒険』や『指輪物語』の著者として知られる。
{{Expand language|langcode=en|date=2020年9月|fa=yes}} {{Infobox 作家 | name = J・R・R・トールキン<br />''J. R. R. Tolkien'' | image = J.R.R. Tolkien in the 1940s.jpg | image_size = 200px | caption = 1916年 | pseudonym = | birth_date = {{生年月日と年齢|1892|1|3|no}} | birth_place = [[ファイル:Flag of the Orange Free State.svg|border|25px|オレンジ自由国の旗]] [[オレンジ自由国]]、[[ブルームフォンテーン]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1892|1|3|1973|9|2}} | death_place = {{UK}}、[[ボーンマス]] | occupation = [[文献学]]者、[[作家]]、[[詩人]]、[[オックスフォード大学]]等の[[教授]] | nationality = {{UK}} | period = | genre = [[ファンタジー]] | subject = | movement = | notable_works = 『[[ホビットの冒険]]』<br />『[[指輪物語]]』<br />『[[シルマリルの物語]]』 | awards = | debut_works = | spouse = | website = }} '''ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン'''<ref group=* name=pron/>({{En|John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL}}、[[1892年]][[1月3日]] - [[1973年]][[9月2日]])は、[[イギリス]]の[[文献学]]者、[[作家]]、[[詩人]]、[[イギリス陸軍]][[軍人]]。『[[ホビットの冒険]]』や『[[指輪物語]]』の著者として知られる。 == 概略 == [[オックスフォード大学]]で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念[[古英語|アングロ・サクソン語]]教授([[1925年]] - [[1945年]])、同大学マートン学寮英語英文学教授([[1945年]] - [[1959年]])を歴任。文学討論グループ「[[インクリングズ]]」のメンバーで、同会所属の英文学者[[C・S・ルイス]]や詩人{{仮リンク|チャールズ・ウィリアムズ (イギリスの作家)|en|Charles Williams (British writer)|label=チャールズ・ウィリアムズ}}と親交が深かった。[[カトリック教会|カトリック]]の敬虔な信者であった。1972年3月28日[[エリザベス2世]]からCBE([[大英帝国勲章]]コマンダー勲爵士)を受勲した。 没後、息子の[[クリストファ・トールキン|クリストファ]]は彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『[[シルマリルの物語]]』、『[[終わらざりし物語]]』、『{{仮リンク|中つ国の歴史|en|The History of Middle-earth}}』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「[[アルダ]]」や「[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]」<ref group=* name="中つ国"/>と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を ''legendarium'' (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#131, 153, 154, 163}}</ref>。 [[小惑星]][[トールキン (小惑星)|(2675) Tolkien]]はトールキンの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2675|title=(2675) Tolkien = 1934 VO = 1937 RH = 1939 FR = 1949 FO = 1950 QA1 = 1952 DX = 1969 JE = 1969 KB = 1970 RB = 1973 QX = 1975 BV = 1982 GB|publisher=MPC|accessdate=2021-09-30}}</ref>。 == 生涯 == === 家系 === 父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在の[[ドイツ]]の[[ザクセン州]]にあたる。イギリスに渡ったのは[[18世紀]]ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#165}}</ref>。苗字の{{En|''Tolkien''}}は、ドイツ語の{{De|''Tollkiehn''}}(注:{{De|''tollkühn''}}は「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、{{En|''dull-keen''}}(注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる[[撞着語法]]({{En|oxymoron}}、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である<ref group=* name=Rashbold/>。 母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、[[バーミンガム]]に住んでいて、市の中心に店を持ち、[[1812年]]以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、[[1826年]]から服地と靴下を商っていた<ref name=birm/>。 === 子供時代 === [[オレンジ自由国]](現在は[[南アフリカ共和国]]の一部)の[[ブルームフォンテーン]]で、イギリスの銀行支店長アーサー・ロウエル・トールキン(1857–1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870–1904)の間に生まれた。[[1894年]][[2月17日]]生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=23}}</ref>。 アフリカに住んでいたとき、庭で[[タランチュラ]]に噛み付かれた<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=22}}</ref>。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共に[[イングランド]]に行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカで[[リューマチ熱]]により亡くなってしまった<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=26}}</ref>。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むために[[バーミンガム]]に行き、[[1896年]]には(現在はホール・グリーンにある){{仮リンク|セアホール|en|Sarehole}}に移った。ここは当時[[ウースターシャー]]の村で、現在はバーミンガムの一部である<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=30}}</ref>。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの[[袋小路屋敷]](Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=131}}</ref>。 母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=32}}</ref>。[[植物学]]に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちから[[ラテン語]]の基本を教えた<ref name=bio01/>。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムの{{仮リンク|キング・エドワード校|en|King Edward's School, Birmingham}}に入学して、[[バッキンガム宮殿]]の門に掲示された[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり<ref name="名前なし-1">{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#306}}</ref>、学資不足のため{{仮リンク|セント・フィリップス校|en|St Philip's School}}に一時籍を移したりもした。 [[1900年]]、母は[[バプテスト教会|バプテスト]]であった親戚の猛烈な反対を押し切って[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=35}}</ref>ため、全ての財政援助は中断された。その母は[[1904年]]に[[糖尿病]]で亡くなり、トールキンは母が信仰の[[殉教]]者であったと思うようになった<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=44}}</ref>。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、[[C・S・ルイス]]を[[キリスト教]]に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが[[イングランド国教会|英国国教会]]を選び大いに失望することになった<ref>{{harvnb|Carpenter|1978}}</ref>。 [[ファイル:Tolkien Twin Towers 02.jpg|thumb|220px|バーミンガムのエッジバーストンの塔の影]] 孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムの{{仮リンク|エッジバーストン地区|en|Edgbaston}}にある、{{仮リンク|バーミンガムオラトリオ会|en|Birmingham Oratory}}の{{仮リンク|フランシス・シャヴィエル・モーガン|en|Francis Xavier Morgan}}司祭であった。トールキンは[[:en:Perrott's Folly|Perrott's Folly]]と{{仮リンク|エッジバーストン水道施設|en|Edgbaston Waterworks}}のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、[[エドワード・バーン=ジョーンズ]]と[[ラファエル前派]]の[[ロマン主義]]の絵画だった。[[バーミンガム美術館]]には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。 === 青年時代 === 16歳のときに3歳年上の[[エディス・ブラット|エディス・メアリ・ブラット]]と出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った<ref name=bio02 />。 [[1911年]]、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「{{En|'''T.C.B.S.'''}}」を結成した。これは、学校の近くの{{仮リンク|バロウズの店|en|Barrows (department store)}}や学校図書館で不法に[[お茶]]を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=61-63}}</ref>。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、[[1914年]]12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。 1911年夏、友人たちと[[スイス]]に遊びに行ったが、[[1968年]]の手紙<ref name="名前なし-1"/>にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人が[[インターラーケン]]から[[ラウターブルンネン]]までを縦走し、[[ミューレン|ミュレン]]の先の[[モレーン|氷堆石]]まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)[[霧ふり山脈]]を越える[[ビルボ・バギンズ|ビルボ]]の旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、[[ユングフラウ]]と{{仮リンク|シルバーホルン|en|Silberhorn}}(「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等は[[クライネ・シャイデック]]を越え[[グリンデルヴァルト|グリンデルワルト]]へ向かい、{{仮リンク|グレッセ・シャイデック|en|Grosse Scheidegg}}を過ぎて{{仮リンク|マイリンゲン|en|Meiringen}}に、さらに[[グリムゼル峠]]を越え、アッパー[[ヴァレー州|ヴァレー]]を通り[[ブリーク]]、そして、[[アレッチ氷河]]と[[ツェルマット]]に着いた。 21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=79,80}}</ref>。[[1913年]]1月に[[バーミンガム]]で婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 85}}</ref>、[[1916年]][[3月22日]]に[[イングランド]]の[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]で結婚した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 100}}</ref>。 [[1915年]]に優秀な成績で[[英語]]の学位を取り([[エクセター・カレッジ (オックスフォード大学)|エクセター学寮]]で学んでいた)[[オックスフォード大学]]を卒業後、[[第一次世界大戦]]時に[[イギリス陸軍]]に入隊し、[[少尉]]として[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊#ランカシャー・フュージリアーズ(20)|ランカシャー・フュージリアーズ]]の第11[[大隊]]に所属した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=85}}</ref>。部隊は[[1916年]]にフランスに転戦し、トールキンも[[ソンムの戦い]]のあいだ、同年[[10月27日]]に[[塹壕熱]]を患うまで通信士官を務め、[[11月8日]]にイギリスへと帰国した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=107}}</ref>。多くの親友同然だった人々も含めて、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。[[スタッフォードシャー]]、[[グレート・ヘイウッド]]で療養していた間に、「[[ゴンドリンの没落|ゴンドリンの陥落]]」に始まる、後に『[[失われた物語の書]]』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。[[1917年]]から[[1918年]]にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日[[キングストン・アポン・ハル]]に配属されたとき、夫婦で{{仮リンク|ルース (イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー)|en|Roos|label=ルース}}の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」<ref group=* name=hemlock/>。この出来事から、トールキンは[[ベレン (トールキン)|ベレン]]と[[ルーシエン]]の出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ<ref name=tele />。 === キャリア === [[ファイル:20_Northmoor_Road,_Oxford.JPG|thumb|220px|トールキンの家、[[オックスフォード]]]] 第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、[[オックスフォード英語辞典]]の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した<ref>{{Harvnb|Gilliver|Marshall|Weiner|2006}}</ref>。[[1920年]]、[[リーズ大学]]で英語学の[[講師 (教育)|講師]]の地位を得、[[1924年]]に[[教授]]となったが、[[1925年]]秋から、{{仮リンク|ペンブルック・カレッジ (オックスフォード大学)|en|Pembroke College, Oxford|label=ペンブローク学寮}}に籍を置く{{仮リンク|ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授|en|Rawlinson and Bosworth Professor of Anglo-Saxon}}として、オックスフォードに戻った<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=125,126,132,133}}</ref>。 ペンブロークにいる間に『[[ホビットの冒険]]』と『[[指輪物語]]』の『[[旅の仲間]]』と『[[二つの塔]]』を書く。また[[1928年]]、{{仮リンク|モーティマー・ウィーラー|en|Mortimer Wheeler}}が[[グロスターシャー]]、[[:w:Lydney Park|Lydney Park]]の[[アスクレペイオン]](古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた<ref>[[#Tolkien 1932|Tolkien 1932]]</ref>。学術刊行物の中では特に[[1936年]]に講演され、翌年に出版された“[[:en:Beowulf: the Monsters and the Critics|''Beowulf'': the Monsters and the Critics]]”は『[[ベーオウルフ]]』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=165-167}}</ref>。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。<ref name=our />。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=no. 25, p.31}}</ref>。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される<ref name=triode/>。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、[[フィンネスブルグ争乱断章#『ベーオウルフ』における戦いの記述|フィンネスブルグの戦いの挿話および古英詩断片]]のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)<ref>{{Harvnb|Tolkien|1982}}. 主に Alan Bliss の Introduction の pp. 4-5 ほか、''Eotena'' の語義を幻想的に解釈して「巨人」の意味で解するか、「ジュート族」を表す語と解釈するかについては ''Finn and Hengest'' 内の随所で議論される。</ref>。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『[[セリーチ・スペル]]』を執筆していたようである<ref>トールキン, J.R.R. 『トールキンのベーオウルフ物語 <注釈版>』原書房 2017 pp.413-414</ref>。 [[1945年]]にはオックスフォードの[[マートン・カレッジ (オックスフォード大学)|マートン学寮]]に籍を置く{{仮リンク|マートン記念英文学教授|en|Merton Professors|label=マートン記念英語英文学教授}}となり、[[1959年]]に引退するまでその職位にいた。[[1948年]]に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代には[[ストーク=オン=トレント]]にある息子のジョンの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、[[工業化]]の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=no. 64, 131, etc.}}</ref>。この態度は『指輪物語』における、[[ホビット庄]]の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。 妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル([[1917年]][[11月16日]] - [[2003年]][[1月22日]])、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル([[1920年]][[10月22日]] - [[1984年]][[2月27日]])、父の後を継いだ[[クリストファ・トールキン|クリストファ・ジョン・ロウエル]]([[1924年]][[11月21日]] - [[2020年]][[1月16日]])、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル([[1929年]][[6月18日]] - [[2022年]][[2月28日]])である。 [[W・H・オーデン]]は『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは[[1971年]]の手紙で、 {{Quotation|「近年私は非常に深くオーデンに世話になっている。彼が私を支持してくれて、私の作品に関心を持ってくれるので、非常に元気づけられた。一般にはそういう批評がなかった最初の頃に、彼は非常に良い批評や手紙を送ってくれた。実際、彼はそれの為にあざけられた」}}と書いた<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#327}}</ref>。 === 引退と晩年 === [[ファイル:Tolkiengrab.jpg|200px|thumb|right|[[オックスフォード]]のWolvercote墓地にあるJ・R・R・トールキンと妻のエディス・トールキンの墓]] 1969年度の[[ノーベル文学賞]]の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっている<ref>{{PDFlink|[https://www.svenskaakademien.se/sites/default/files/forslag_1969.pdf 1969年度ノーベル文学賞候補者]}} - スウェーデンアカデミー(スウェーデン語、7ページ目を参照)</ref>。 オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「[[ベレン (トールキン)|ベレン]]」そして「[[ルーシエン]]」の名が刻まれている。 == 著作 == 最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後で[[クウェンヤ]]と[[シンダール語]]に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩[[The Lays of Beleriand]]としてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。 トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『[[ベーオウルフ]]』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『[[エッダ]]』、『[[ヴォルスンガ・サガ]]』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系([[北欧神話]])、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『[[カレワラ]]』などである。 このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「[[サンタクロース]]からのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き [[サンタ・クロースからの手紙]]』として出版された。 だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで[[1937年]]に『[[ホビットの冒険]](The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、[[1954年]]から[[1955年]]にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『[[指輪物語]](The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間[[インクリングズ]]の仲間たち、中でも『[[ナルニア国ものがたり]]』の作者で親友の[[C・S・ルイス]]は絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。 [[1960年代]]、『指輪物語』は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、[[20世紀]]における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの[[1999年]]の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。[[2002年]]には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、[[2004年]]に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、[[2004年]]には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。 トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『[[シルマリルの物語]]』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がった[[ファンタジー#文学におけるファンタジー|ファンタジー文学]]というジャンルに多大な影響を残した。 [[文献学]]のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『[[エッダ]]』の『[[巫女の予言]]』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『[[ベーオウルフ]]』から取られている。トールキンはベーオウルフについて誰もが認める権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。 中つ国の物語は死の直前まで書き続けられていた。その後、息子のクリストファは、ファンタジー作家[[ガイ・ゲイブリエル・ケイ]]の助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、[[1977年]]に『[[シルマリルの物語]]''(The Silmarillion)''』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『[[中つ国の歴史]]』シリーズや『[[終わらざりし物語]]』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』に至っては『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。[[1951年]]の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]にある{{仮リンク|マーケット大学|en|Marquette University}}の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、[[オックスフォード大学|オックスフォード]]の[[ボドリアン図書館]]には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。 == 言語 == {{see|アルダの言語}} [[文献学]]、言語に関する研究は生涯を通じて熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の[[人工言語]]を発明するにいたった。中でも二つの[[エルフ語]]、すなわち「[[クウェンヤ]]」と「[[シンダール語]]」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]の詳細な[[宇宙論]]や歴史を創り上げた。 トールキンは専門である[[古英語|アングロ・サクソン語]](古英語)や[[古ノルド語]]に加えて、他の[[インド・ヨーロッパ語族]]の諸言語([[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[イタリア語]]などの[[ロマンス諸語]]と[[ラテン語]]、[[ドイツ語]]や[[オランダ語]]などの[[ゲルマン諸語]]とその古語([[古ザクセン語|古サクソン語]]など)、[[ゲール語]]や[[ウェールズ語]]といった[[ケルト語派|ケルト諸語]]、[[バルト諸語]]や[[スラヴ諸語]]など)、さらには[[ウラル語族]]の[[フィンランド語]]など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これが[[クウェンヤ]]の着想を与えたと書いている。 彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及ぼしている。特に"dwarf"([[ドワーフ]])の複数形を"dwarfs"ではなく"dwarves"としたり、"Elf"([[エルフ]])の形容詞形を"elfish"ではなく"elvish"と表記する慣例は彼によって生まれた。 == 派生作品 == [[1951年]]のミルトン・ウォルドマンへの手紙(''Letters'' #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。 '''「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」 多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『[[トム・ボンバディルの冒険]]』と『[[農夫ジャイルズの冒険]]』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『[[道は続くよどこまでも]]』に曲を付けた)だった。[[1970年代]]初期、[[デンマーク]]の[[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]は『[[指輪物語]]』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。 しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。 [[1946年]]の手紙(''Letters'' #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにも[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]的であると拒否した。 '''「たれた鼻のビルボ、わたしの意図した[[オーディン]]のような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」 また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、[[1954年]]にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(''Letters'' #144)。 '''「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」 そして[[1958年]]、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(''Letters'' #207)。 '''「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」 この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く('''「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」''')。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。[[1968年]]、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権を[[ユナイテッド・アーティスツ]]に売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたり[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]が関与することを一切禁止した(''Letters'' #13, [[1937年]])。 '''「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」''' [[ジョン・ブアマン]]が70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは[[1976年]]に製作の権利を[[ソウル・ゼインツ]]の会社の傘下にあった{{仮リンク|ミドルアース・エンタープライズ|en|Middle-earth Enterprises|label=トールキン・エンタープライズ}}に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。[[ラルフ・バクシ]]監督による[[ロトスコープ|ロトスコーピング]]手法で製作され、[[1978年]]に公開された。 その後『指輪物語』の配給権は[[ミラマックス]]社を経て[[ニュー・ライン・シネマ]]社に移り、[[2001年]]から[[2003年]]にかけて[[ピーター・ジャクソン]]の監督によって[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]三部作として初めて実写映画化された。<!--娯楽性に重きを置いた内容で、原作を出来る限り追いつつも、その忠実さへの疑問は多数ある--> == 書誌 == === 創作 === * [[1936年]] ''Songs for the Philologists'', E.V. Gordon他と共著 * [[1937年]] 『[[ホビットの冒険]]』''The Hobbit or There and Back again'' * [[1945年]] 『[[ニグルの木の葉]]』''Leaf by Niggle''(Dublin Review誌に掲載) * [[1945年]] 『[[領主と奥方の物語]]』''The Lay of Aotrou and Itroun'', ''Welsh Review''誌に掲載 ** 辺見葉子訳、「ユリイカ」1992年7月号所収、青土社 * [[1949年]] 『農夫ジャイルズの冒険』''Farmer Giles of Ham'' ** 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 * [[1953年]] 『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』''The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Son''論考''Ofermod''とともに出版された * 『[[指輪物語]]』''The Lord of the Rings'' ** [[1954年]] 第一部『旅の仲間』''The Fellowship of the Ring'' ** [[1954年]] 第二部『二つの塔』''The Two Towers'' ** [[1955年]] 第三部『王の帰還』''The Return of the King'' * [[1962年]] 『トム・ボンバディルの冒険』''The Adventure of Tom Bombadil'' ** 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 * [[1964年]] 『木と葉』''Tree and Leaf'' ** 『妖精物語について』''On Fairy-stories'' *** 『妖精物語について ファンタジーの世界』 [[猪熊葉子]]訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 *** 『妖精物語の国へ』 [[杉山洋子]]訳 [[ちくま文庫]] 2003年 ISBN 4-480-03830-2 所収 ** 『ニグルの木の葉』 * [[1966年]] ''The Tolkien Reader''(『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『トム・ボンバディルの冒険』を収録) * [[1966年]] ''Tolkien on Tolkien''(自伝的) * [[1967年]] 『星をのんだかじや』''Smith of Wootton Major'' ** 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 * [[1967年]] ''The Road Goes Ever On''([[ドナルド・スワン]]と共著) === 学術的な著作 === * [[1922年]] ''A Middle English Vocabulary'' * [[1925年]] ''Sir Gawain and the Green Knight'' E. V. Gordonと共著、『[[ガウェイン卿と緑の騎士]]』の[[中英語]]から現代英語への翻訳 ** 『サー・ガウェインと緑の騎士: トールキンのアーサー王物語』[[山本史郎]]訳 原書房 新版2019年 ISBN 4-562-05673-8 * [[1925年]] ''Some Contributions to Middle-English Lexicography'' * [[1925年]] ''The Devil's Coach Horses'' * [[1929年]] ''Ancrene Wisse and Hali Meiohad'' * [[1932年]] ''The Name 'Nodens' ''(''Report on the Excavation of the Prehistoric, Roman, and Post-Roman Site in Lydney Park, Gloucestershire''所収) * [[1932年]]/[[1935年]] ''Sigelwara Land'' parts I and II * [[1934年]] ''[[:en:The Reeve's Tale|The Reeve's Tale]]''([[ジェフリー・チョーサー]]の『[[カンタベリー物語]]』の批評にHengwrt manuscriptを導入して、方言のユーモアを再発見した) * [[1937年]] ''Beowulf: The Monster and the Critics'' * [[1944年]] ''Sir Orfeo'' * [[1947年]] 『妖精物語について』''On Fairy-stories''(Essays Presented to Charles Williamsに掲載) * [[1953年]] ''Ofermod'', ''The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Son''とともに出版。 * [[1962年]] ''[[:en:Ancrene_Wisse|Ancrene Wisse: the Ancrene Riwle]]''の英語テキスト。 * [[1963年]] [[イングリッシュ・アンド・ウェルシュ|''English and Welsh'']] * [[1966年]] 『[[旧エルサレム聖書|エルサレム聖書]]』''[[:en:Jerusalem Bible|Jerusalem Bible]]''(翻訳と索引を担当) === 没後に出版された作品 === * [[1974年]] 『ビルボの別れの歌』''Bilbo’s Last Song'' ** 『ビルボの別れの歌』[[脇明子]]訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 * [[1975年]] ''Guide to the Names in The Lord of the Rings''(編集版) - Jared Lobdell編 ''A Tolkien Compass'' 1st edition 所収。トールキンが書いた『[[指輪物語]]』の翻訳指示。 * [[1975年]] ''Pearl (poem)'' と ''Sir Orfeo''の翻訳 ** 『サー・ガウェインと緑の騎士: トールキンのアーサー王物語』[[山本史郎]]訳 原書房 新版2019年 ISBN 4-562-05673-8 所収 * [[1976年]] 『サンタ・クロースからの手紙』''The Father Christmas Letters'' ** 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳、トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 * [[1977年]]『[[シルマリルの物語]]』''The Silmarillion'' * [[1979年]] ''Pictures by J. R. R. Tolkien'' * [[1980年]]『[[終わらざりし物語]]』''Unfinished Tales'' * [[1980年]] ''Poems and Stories''(『トム・ボンバディルの冒険』、『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『星をのんだかじや』をまとめたもの) * [[1981年]] ''The Letters of J. R. R. Tolkien'' Selected and edited by Humphrey Carpenter with assistance of Christopher Tolkien * [[1981年]] ''The Old English Exodus Text'' * [[1982年]] ''Finn and Hengest: The Fragment and the Episode'' * [[1982年]] 『ブリスさん』''Mr. Bliss'' ** 『ブリスさん』田中明子訳、トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 * [[1983年]] ''The Monster and the Critics and Other Essays''(論考集) * [[1983年]] - [[2002年]] {{仮リンク|中つ国の歴史|en|The History of Middle-earth|label=''The History of Middle-earth''}} シリーズ ** I. [[1983年]] ''The Book of Lost Tales 1'' ** II. [[1984年]] ''The Book of Lost Tales 2'' ** III. [[1985年]] ''The Lays of Beleriand'' ** IV. [[1986年]] ''The Shaping of Middle-earth'' ** V. [[1987年]] ''The Lost Road and Other Writings'' ** VI. [[1988年]] ''The Return of the Shadow'' (The History of The Lord of the Rings v.1)(『指輪物語の歴史』) ** VII. [[1989年]] ''The Treason of Isengard'' (The History of The Lord of the Rings v.2) ** VIII. [[1990年]] ''The War of the Ring'' (The History of The Lord of the Rings v.3) ** IX. [[1992年]] ''Sauron Defeated'' (The History of The Lord of the Rings v.4) ** X. [[1993年]] ''Morgoth's Ring'' (The Later Silmarillion v.1) ** XI. [[1994年]] ''The War of the Jewels'' (The Later Silmarillion v.2) ** XII. [[1996年]] ''The Peoples of Middle-earth'' ** [[2002年]] ''The History of Middle-earth Index'' * [[1988年]] 『木と葉』''Tree and Leaf'' ** 『妖精物語について』''On Fairy-stories'' ** 『ニグルの木の葉』''Leaf by Niggle'' ** 『神話の創造』''Mythopoeia'' ** 上記すべて『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収 * [[1994年]] ''Poems from 'The Lord of the Rings' '' ** 『「中つ国」のうた』 瀬田貞二・田中明子訳 アラン・リー挿画 評論社 2004年 ISBN 4-566-02381-8 * [[1995年]] ''J. R. R. Tolkien: Artist and Illustrator'' (a compilation of Tolkien's art) * [[1995年]] ''Poems from 'The Hobbit' '' * [[1995年]] 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』''Letters from Father Christmas'' ** 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳、トールキン絵 1995年 評論社 ISBN 4-566-00458-9 * [[1997年]] ''Tales from the Perilous Realm'' ** 「農夫ジャイルズの冒険」''Farmer Giles of Ham'' ** 「トム・ボンバディルの冒険」''The Adventure of Tom Bombadil'' ** 「ニグルの木の葉」''Leaf by Niggle'' ** 「星をのんだかじや」''Smith of Wootton Major'' ** 上記すべて、『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収 * [[1998年]] 『仔犬のローヴァーの冒険』''Roverandom'' ** 『仔犬のローヴァーの冒険』 [[クリスティーナ・スカル]]、[[ウェイン・G・ハモンド]]編 [[山本史郎]]訳、トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 * [[2002年]] 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』''Beowulf and the Critics''(Medieval and Renaissance Texts and Studies, Volume 248) Michael D.C. Drout 編 ** 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9 * [[2005年]] ''Guide to the Names in The Lord of the Rings''(完全版) - Wayne Hammond and Christina Scull 編 ''The Lord of the Rings: A Reader's Companion''所収。トールキンの説明による『指輪物語』の翻訳指示。 * [[2007年]] ''The Children of Húrin'' * [[2007年]] ''The History of The Hobbit'' * [[2009年]] 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』''The Legend of Sigurd and Gudrún'' **『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』 クリストファー・トールキン編、[[小林朋則]]訳 原書房 2018年 ISBN 4-562-05588-X * [[2013年]] 『トールキンのアーサー王最後の物語 注釈版』''The Fall of Arthur'' ** 『トールキンのアーサー王最後の物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、小林朋則訳 原書房 2019年 ISBN 4-562-05632-0 * [[2015年]] 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』''The Story of Kullervo'' ** 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 * [[2017年]] 『[[ベレンとルーシエン]]』''Beren and Lúthien'' ** 『ベレンとルーシエン』 クリストファー・トールキン編、沼田香穂里訳 評論社 2020年 ISBN 4-566-02387-7 * [[2018年]] ''The Fall of Gondolin'' === 入手可能な日本語訳 === * 『[[ホビットの冒険]]』[[瀬田貞二]]訳 [[岩波書店]]、1965年 * 『ホビット ゆきてかえりし物語』ダグラス・A・アンダーソン注、[[山本史郎]]訳 [[原書房]] 1997年 ISBN 4-562-03023-2 ** 『ホビット ゆきてかえりし物語 注釈版』原書房(単行判)、文庫判(上下) 新版 各2012年 ISBN 4-562-04866-2 ISBN 4-562-07000-5 ISBN 4-562-07001-3 * 『[[指輪物語]]』瀬田貞二・[[田中明子]]訳 [[評論社]]、新版1992年、同・文庫 全6巻、新訂版2022年、第7巻(総解説) 2023年 * 『サンタ・クロースからの手紙』 ベイリー・トールキン編 瀬田貞二訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1976年 ISBN 4-566-00228-4 * 『[[シルマリルの物語]]』田中明子訳 評論社、新版2003年 ISBN 4-566-02377-X * 『[[終わらざりし物語]]』(上・下)クリストファ・トールキン編 山下なるや訳 [[河出書房新社]] 2003年/河出文庫 2022年 * 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』 評論社 2002年 ISBN 4-566-02110-6 ** 「[[農夫ジャイルズの冒険]]」[[吉田新一]]訳 [[ポーリン・ベインズ|ポーリン・ダイアナ・ベインズ]]挿絵 ** 「[[星をのんだかじや]]」[[猪熊葉子]]訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 ** 「[[ニグルの木の葉]]」猪熊葉子訳 ** 「[[トム・ボンバディルの冒険]]」[[早乙女忠]]訳 ポーリン・ダイアナ・ベインズ挿絵 * 『農夫ジャイルズの冒険』吉田新一訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02273-0 * 『星をのんだかじや』猪熊葉子訳 ポーリン・ベインズ画 評論社 てのり文庫 1991年 ISBN 4-566-02270-6 * 『ビルボの別れの歌』[[脇明子]]訳 ポーリン・ベインズ絵 岩波書店 1991年 ISBN 4-00-110613-2 * 『ブリスさん』田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1993年 ISBN 4-566-01321-9 * 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』 瀬田貞二・田中明子訳 J・R・R・トールキン絵 評論社 1995年 ISBN 4-566-00458-9 * 『仔犬のローヴァーの冒険』 クリスティーナ・スカル、ウェイン・G・ハモンド編 山本史郎訳 J・R・R・トールキン絵 原書房 1999年 ISBN 4-562-03205-7 * 『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 新版2003年 ISBN 4-566-02111-4 ** 「妖精物語とは何か」 ** 「ニグルの木の葉」 ** 「神話の創造」 * 『妖精物語の国へ』 [[杉山洋子]]訳 [[ちくま文庫]] 2003年 ISBN 4-480-03830-2 ** 「妖精物語について」 ** 「神話を創る」 ** 「ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還」 * 『ファーザー・クリスマス―サンタ・クロースからの手紙』ベイリー・トールキン編 瀬田貞二・田中明子訳 評論社 2006年 ISBN 4-566-02383-4 * 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』 ヴァーリン・フリーガー編、塩崎麻彩子訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05388-7 * 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、岡本千晶訳 原書房 2017年 ISBN 4-562-05387-9 * 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』 クリストファー・トールキン編、小林朋則訳 原書房 2018年 ISBN 4-562-05588-X * 『トールキンのアーサー王最後の物語 注釈版』 クリストファー・トールキン編、小林朋則訳 原書房 2019年 ISBN 4-562-05632-0 * 『サー・ガウェインと緑の騎士: トールキンのアーサー王物語』[[山本史郎]]訳 原書房 新版2019年 ISBN 4-562-05673-8 * 『ベレンとルーシエン』 [[クリストファ・トールキン]]編、沼田香穂里訳 評論社 2020年 ISBN 4-566-02387-7 * 『J・R・R・トールキン 自筆画とともにたどるその生涯と作品』キャサリン・マキルウェイン、山本史郎訳 原書房 2023年 == 伝記文献 == * [[本多英明]]『トールキンとC・S・ルイス』[[笠間書院]]、新装版2006年 * マイケル・コーレン『トールキン 『指輪物語』を創った男』[[井辻朱美]]訳、[[原書房]]、2001年 * コリン・ドゥーリエ『トールキンとC・S・ルイス 友情物語―ファンタジー誕生の軌跡』成瀬俊一訳、柊風舎、2011年 *『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 総特集:J・R・R・トールキン 没後50年-異世界ファンタジーの帰還』2023年11月臨時増刊号、[[青土社]]  === 伝記映画 === * [[トールキン 旅のはじまり]](2019年、米国、主演:[[ニコラス・ホルト]])、少年期・青年期を描く。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|colwidth=30em|group=*|refs= <ref group=* name=pron>'''Tolkien''' の発音については ''The Return of the Shadow: The History of The Lord of the Rings, Part One'' [Edited by] Christopher Tolkien, London: Unwin Hyman [25 August] 1988 (The History of Middle-earth; 6) ISBN 0-04-440162-0 に拠れば「'''トル'''キーン」 {{IPA|tɒ́lkiːn}} (太字に[[アクセント]])。アクセントの位置は完全に一致している訳ではなく、トールキン家には第二音節にアクセントを置いて「トル'''キーン'''」 {{IPA|tɒlkíːn}} と発音していた人もいた。<br />『''小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版'' 』 ISBN 4-09-510101-6 に拠れば[[イギリス英語|英音]]で「'''トル'''キーン」 {{IPA|ˈtɒlkiːn}} 、[[アメリカ英語|米音]]で「'''トウル'''キーン、'''タル'''キーン」 {{IPA|ˈtoʊlkiːn, ˈtɑl-}} 。<br />『''研究社英米文学辞典'' 』 ISBN 4767430003 では'''トルキーン'''と記されており、また『''「熊谷市」と「トルキーン」――固有名詞の読み方の変化に関する一考察'' 』([[鈴木聡 (英文学者)|鈴木聡]]、『''月刊言語'' 』2005年1月号(大修館書店)掲載)によれば'''トーキン'''と呼ぶ人もある。オックスフォード大学に留学してトールキン教授に師事した[[猪熊葉子]]の証言によると、トーキンが一番近いとのこと。<br />また、'''Reuel''' の発音については『''小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版'' 』(前掲)に拠れば「'''ルー'''エル」 {{IPA|ˈɹuːəl}} 。</ref> <ref group=* name=Rashbold>因みに「ラッシュボールド(Rashbold)」という苗字が、『''[[w:en:The Notion Club Papers|The Notion Club Papers]]''』というトールキン作品で学部学生ジョン・ジェスロ・ラッシュボールドとペンブロークの老教授ラッシュボールドの二人の人物名として登場するが、それはトールキン自身の名前のもじりである。''Sauron Defeated'', page 151, ''Letters'', 165)。</ref> <ref group=* name="中つ国">[[中つ国 (トールキン)|中つ国]](Middle-earth)は古英語「ミッダンイェアルド(middanġeard)」から直接、あるいは古北欧語「[[ミズガルズル]](Miðgarðr)」からの借入が混じって、中世から現代まで音声学的変遷を経て受け継がれた単語で、「天と地の間にある、人間が住んでいる土地」を意味する。この語はトールキン以外に[[ウォルター・スコット]]や[[ナサニエル・ホーソーン]]なども作品中で使用している。</ref> <ref group=* name=hemlock>田舎の方言で、トールキンは[[花序|散形花序]]の白い花を持つ毒ニンジンに類似した様々な植物をhemlock'ドクニンジン'と呼んだ。エディスが踊った場所に咲く花は、おそらくコシャク(Anthriscus sylvestris)かニンジン(Daucus carota)だろう。John Garth ''Tolkien and the Great War'' (HarperCollins/Houghton Mifflin 2003) and Peter Gilliver, Jeremy Marshall, & Edmund Weiner ''The Ring of Words'' (OUP 2006)を参照のこと。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|colwidth=20em|refs= <ref name=birm>{{Cite web|和書 | last = | first = | year = | url = https://www.birmingham.gov.uk/GenerateContent?CONTENT_ITEM_ID=46417&CONTENT_ITEM_TYPE=0&MENU_ID=13150 | title = 取り壊される前のジョン・サフィールドの店 | publisher = Birmingham.gov.uk | work = | language = 英語 | accessdate = 2013-06-29 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090619173930/http://www.birmingham.gov.uk/GenerateContent?CONTENT_ITEM_ID=46417&CONTENT_ITEM_TYPE=0&MENU_ID=13150 | archivedate = 2009年6月19日}}</ref> <ref name=bio01>{{cite web | last = Doughan | first = David | year = 2002 | url = https://www.tolkiensociety.org/author/biography/ | title = JRR Tolkien Biography | work = Life of Tolkien | language = 英語 | accessdate = 2006-03-12 | deadlinkdate = }}</ref> <ref name=bio02>{{cite web | last = Doughan | first = David | year = 2002 | url = https://www.tolkiensociety.org/author/biography/#2 | title = War, Lost Tales And Academia | work = J. 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国土開発幹線自動車道
国土開発幹線自動車道(こくどかいはつかんせんじどうしゃどう)(略語: 国幹道)とは、国土開発幹線自動車道建設法(以下「法」)に基づき建設することが予定されている道路である。高規格幹線道路の1つである。 法第1条で、「この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進する」とうたわれている。この法律は、1957年に国土開発縦貫自動車道建設法として公布・施行、6つの旧道路建設法を廃止して1966年に改正されたもので、全国の都道府県を結ぶ高速道路網として、32路線、総延長7,600 kmの予定路線が定められた。1987年に第四次全国総合開発計画(四全総)に基づいて従前の路線を延伸、または新たな路線を追加した改正が行われ、現在の延長は11,520 kmとなっている。 国幹道は、予定路線のうち基本計画が決定された区間から順次高速自動車国道法第4条第1項 の規定に基づく高速自動車国道の路線を指定する政令によって高速自動車国道とされる。2009年の第4回国土開発幹線自動車道建設会議までに、予定路線の92 %にあたる延長10,623 kmの区間が基本計画に、またうち9,428 kmの区間が整備計画に策定されている。 日本の高速道路建設は、戦前から構想はあったものの、戦後復興期になってから田中清一と田中角栄の二人の活動もあってようやく実現化されたが、当初は個別路線単独に計画が進められ、6つの自動車道を建設する法律によって合計延長5000キロメートル (km) の道路が計画されていた。自動車道と称する6つの路線の高速道路建設法とは、1957年(昭和32年)4月の国土開発縦貫自動車道建設法に始まり、1960年(昭和35年)7月の東海道幹線自動車国道建設法、1963年(昭和38年)7月の関越自動車道建設法、1964年(昭和39年)6月の東海北陸自動車道建設法、1965年(昭和40年)5月の九州横断自動車道建設法、同年6月の中国横断自動車道建設法のことである。これらの高速道路は、全国的な高速道路網構想に基づくものではなく、地域的均衡性がとれていないものであったことから、旧建設省が1960年から「自動車道路網設定のための調査」を進めていた。北海道とそれ以外の内地(本州・四国・九州)とに分けて計画が行われ、内地では既定の6つの自動車道路計画を骨格に、地方中心都市や産業都市、地方開発の拠点を相互連絡するための必要な路線を追加認定するものとし、全国の都市や農村地から概ね2時間以内にアクセスできることを目標とした。北海道については、国土係数理論を用いて本土との道路延長を0.15対1の比率で設定されたことにより、内地分が6580 km、北海道分が約1000 kmが計上されて、全国合計を7600 kmの国土開発幹線自動車道として当初の計画が旧建設省により策定された。これを受けて、1966年7月に既定の6つの個別法律に基づく約5000 kmの自動車道を包含した高速自動車国道を形成する国土開発幹線自動車道建設法が制定された。 1980年以降、人口の東京一極集中が起こるようになったことから、1987年(昭和62年)6月の閣議決定により第四次全国総合開発計画(四全総)が策定され、従来の国幹道7600 kmを含めた延長1万4000 kmの高規格幹線道路網が計画された。このとき新規追加された国幹道法に基づく高規格幹線道路の延長は約3920 kmで、既定計画分の約7600 kmと合わせて、合計延長約1万1520 km分が国土開発幹線自動車道としている。この計画で、従前のアクセス2時間とした目標から1時間へと利便性の見直しが図られた。 国土開発幹線自動車道の予定路線は、下表のとおりとされている(法3条、別表)(最終改正:1999年12月22日)。法の別表では市町村合併は反映されていない。
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国土開発幹線自動車道(こくどかいはつかんせんじどうしゃどう)とは、国土開発幹線自動車道建設法(以下「法」)に基づき建設することが予定されている道路である。高規格幹線道路の1つである。 法第1条で、「この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進する」とうたわれている。この法律は、1957年に国土開発縦貫自動車道建設法として公布・施行、6つの旧道路建設法を廃止して1966年に改正されたもので、全国の都道府県を結ぶ高速道路網として、32路線、総延長7,600 kmの予定路線が定められた。1987年に第四次全国総合開発計画(四全総)に基づいて従前の路線を延伸、または新たな路線を追加した改正が行われ、現在の延長は11,520 kmとなっている。 国幹道は、予定路線のうち基本計画が決定された区間から順次高速自動車国道法第4条第1項 の規定に基づく高速自動車国道の路線を指定する政令によって高速自動車国道とされる。2009年の第4回国土開発幹線自動車道建設会議までに、予定路線の92 %にあたる延長10,623 kmの区間が基本計画に、またうち9,428 kmの区間が整備計画に策定されている。
{{混同|自動車道|x1=[[道路運送法]]に基づく}} {{出典の明記|date=2019年7月}} '''国土開発幹線自動車道'''(こくどかいはつかんせんじどうしゃどう)([[略語]]: '''国幹道''')とは、[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]](以下「法」)に基づき[[建設]]することが予定されている[[道路]]である。[[高規格幹線道路]]の1つである。 法第1条で、「この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる全国的な高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫し、又は横断する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進する」とうたわれている。この[[法律]]は、[[1957年]]に[[s:国土開発縦貫自動車道建設法|国土開発縦貫自動車道建設法]]として[[公布]]・[[施行]]、6つの旧道路建設法を廃止して[[1966年]]に改正されたもので、全国の[[都道府県]]を結ぶ高速道路網として、32路線、総延長7,600 [[キロメートル|km]]の予定路線が定められた{{sfn|武部健一|2015|p=201}}。[[1987年]]に[[第四次全国総合開発計画]](四全総)に基づいて従前の路線を延伸、または新たな路線を追加した改正が行われ、現在の延長は11,520 kmとなっている。 国幹道は、予定路線のうち[[基本計画]]が決定された区間から順次[[高速自動車国道法]]第4条第1項 の規定に基づく[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]によって[[高速自動車国道]]とされる。[[2009年]]の第4回[[国土開発幹線自動車道建設会議]]までに、予定路線の92 [[パーセント|%]]にあたる延長10,623 kmの区間が基本計画に、またうち9,428 kmの区間が整備計画に策定されている<ref>{{PDF|[https://www.mlit.go.jp/road/sisaku/dorogyousei/2.pdf 道路の種類]}}(国土交通省道路局資料、2013年4月30日閲覧)</ref>。 == 経緯 == 日本の高速道路建設は、戦前から構想はあったものの、戦後復興期になってから[[田中清一]]と[[田中角栄]]の二人の活動もあってようやく実現化されたが、当初は個別路線単独に計画が進められ、6つの自動車道を建設する法律によって合計延長5000[[キロメートル]] (km) の道路が計画されていた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。自動車道と称する6つの路線の高速道路建設法とは、1957年(昭和32年)4月の国土開発縦貫自動車道建設法に始まり、1960年(昭和35年)7月の東海道幹線自動車国道建設法、1963年(昭和38年)7月の関越自動車道建設法、1964年(昭和39年)6月の東海北陸自動車道建設法、1965年(昭和40年)5月の九州横断自動車道建設法、同年6月の中国横断自動車道建設法のことである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=49}}。これらの高速道路は、全国的な高速道路網構想に基づくものではなく、地域的均衡性がとれていないものであったことから、旧建設省が1960年から「自動車道路網設定のための調査」を進めていた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。北海道とそれ以外の内地(本州・四国・九州)とに分けて計画が行われ、内地では既定の6つの自動車道路計画を骨格に、地方中心都市や産業都市、地方開発の拠点を相互連絡するための必要な路線を追加認定するものとし、全国の都市や農村地から概ね2時間以内にアクセスできることを目標とした{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。北海道については、国土係数理論を用いて本土との道路延長を0.15対1の比率で設定されたことにより、内地分が6580&nbsp;km、北海道分が約1000&nbsp;kmが計上されて、全国合計を7600&nbsp;kmの国土開発幹線自動車道として当初の計画が旧建設省により策定された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。これを受けて、1966年7月に既定の6つの個別法律に基づく約5000&nbsp;kmの自動車道を包含した高速自動車国道を形成する国土開発幹線自動車道建設法が制定された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。 1980年以降、人口の[[東京一極集中]]が起こるようになったことから、1987年(昭和62年)6月の閣議決定により[[第四次全国総合開発計画]](四全総)が策定され、従来の国幹道7600&nbsp;kmを含めた延長1万4000&nbsp;kmの高規格幹線道路網が計画された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。このとき新規追加された国幹道法に基づく高規格幹線道路の延長は約3920&nbsp;kmで、既定計画分の約7600&nbsp;kmと合わせて、合計延長約1万1520&nbsp;km分が国土開発幹線自動車道としている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=51}}。この計画で、従前のアクセス2時間とした目標から1時間へと利便性の見直しが図られた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。 == 予定路線 == 国土開発幹線自動車道の予定路線は、下表のとおりとされている(法3条、別表)(最終改正:1999年12月22日)。法の別表では市町村合併は反映されていない。 <!-- 法令の改正がなされていないのに勝手に合併後の市町村名に書き換えることはおやめください --> {| class="wikitable" |- !colspan="2"|路線名 !起点 !colspan="2"|主たる経過地 !終点 |- |colspan="2"|[[北海道縦貫自動車道]] |[[函館市]] |colspan="2"|[[室蘭市]]付近 [[札幌市]] [[岩見沢市]] [[旭川市]]付近 |[[稚内市]] |- |rowspan="2"|[[北海道横断自動車道]] |根室線 |rowspan="2"|[[北海道]][[寿都郡]][[黒松内町]] |rowspan="2"|北海道[[虻田郡]][[倶知安町]]付近 [[小樽市]] 札幌市 [[夕張市]]付近 [[帯広市]]付近 北海道[[足寄郡]][[足寄町]]付近 |[[釧路市]] |[[根室市]] |- |網走線 |[[北見市]] |[[網走市]] |- |rowspan="2"|[[東北縦貫自動車道]] |弘前線 |rowspan="2"|[[東京都]] |rowspan="2"|[[浦和市]] [[館林市]] [[宇都宮市]] [[福島市]] [[仙台市]] [[盛岡市]] |[[鹿角市]] [[弘前市]] 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守護代
守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。 守護の職務を代行した職種を指す。広義には代官の一種であるが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代と代官は区別された。 守護は、鎌倉や京都につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。複数の国を兼任する守護の場合、兼任した国を視察する機会はさらに少なかった。このため守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である。守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。また、一国に2人以上の守護代が居ることもあり、このような場合は「分郡守護代」の体制をとった。 室町時代に入ると、当初は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士(国人)が任じられる(ただし、複数の守護を兼ねる家の場合には、他の領国の国人が守護代とされる場合もある。讃岐香西氏→丹波守護代、能登遊佐氏→河内守護代など)ことが多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質的統治者になっていった。守護代は室町幕府より守護の白傘袋(しろかさぶくろ)、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、及び塗輿(ぬりごし)の格式に次ぐ、唐傘袋(からかさぶくろ)、毛氈鞍覆、及び塗輿の使用が認められる格式を与えられ、国人よりも一等高い地位にあった。 いっぽう、荘園の崩壊による惣の発達によって在地土豪や国人層の社会的地位が上昇し諸国で紛争が発生すると、領国を一元的に支配する傾向が顕著になって戦国大名が成長し守護大名とともに守護代は消滅していった。ただし越後の長尾氏、越前の朝倉氏や、尾張の織田氏、阿波の三好氏、備前の浦上氏、出雲の尼子氏のように、守護代が戦国大名化した事例も全国的に見られる。 また、守護代の戦国大名化に伴い、守護級の格式を求められる大名家が増えていった。 その代表例は朝倉氏である。朝倉氏はそもそも、足利将軍家の有力一門で、代々三管領筆頭の地位を占めた斯波氏の被官であった国人の一人であった。応仁の乱では西軍に加担し、渋川氏から斯波氏を相続した斯波義廉を大将に守り立てていたが、東軍の総帥、管領細川勝元の誘引により、東軍寝返りの見返りに越前守護に補任され、守護となった。しかし、旧主斯波氏による訴えや幕府の斯波氏に対する同情から、朝倉氏の守護職維持が次第に難しくなり、三代将軍足利義満の次男で兄足利義持に謀叛して倒れた足利義嗣の末裔が越前国に鞍谷御所と称し存続していた点に目をつけ、斯波義廉の子に鞍谷御所を相続させて足利義俊と名乗らせ、傀儡の越前守護に補任するよう手続きし、越前一国の実効支配を確保した。 出雲国の守護代尼子氏も同国守護京極氏の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、京極政経に背いた尼子経久が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の尼子政久が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍足利義晴より偏諱を受けて尼子晴久と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 さらに、越後守護代の長尾氏(のち越中守護代も兼ねる)では、当初、守護職までは手中にしなかったものの、主君を追放し、関東管領をも討ち果たした長尾為景が、朝廷と幕府に寄進して守護の格式である白傘・袋毛氈鞍覆の格式と、嫡男に12代将軍足利義晴の偏諱を賜り、長尾晴景と名乗らせるなど、守護代に守護級の格式を認められていった。やがて、病弱な晴景に代わり、為景四男の景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぐと、勢力拡大、甲信を制した武田氏と雌雄を決する対戦を繰り返し、やがて北条氏に攻められ勢力を失いつつあった上杉氏の上杉憲政の懇願で、上杉氏の家督と関東管領職を継承し、通常の守護よりも格段に高い地位を得ることとなった。晩年は畠山氏が守護だった越中と能登をも支配し、畠山氏を客将(高家)として傘下に置いた。 このように、室町時代は守護の代理人としての地位に過ぎなかった守護代の地位は戦国時代の幕開けとともに、主君を追い、取って代わる存在へと変貌していった。 一方で、戦国大名化に一時的に成功するも、やがてその家臣により失敗した例も多く存在する。その代表例が、三好氏である。尾張国の守護代織田信友も主君である斯波義統を傀儡の守護として奉じ、自らの尾張国内での優位性と勢力拡大の大義名分に利用していた。しかし、やがて対立するようになった主君を自害に追うものの、傍流にして家臣でもあった、織田信長に主殺しを咎められ攻め滅ぼされた。 また、備前国に勢力を持った浦上氏も、一時的に戦国大名化を遂げ、配下の宇喜多氏にとって代わられた家のひとつである。浦上氏は播磨国を本貫とし、播磨国、備前国などの守護を務めた赤松氏の重臣で、代々、備前守護代を務めてきた。しかし、浦上宗景の代に、主家に反抗し、やがて独立的な地位を確立し、備前国の戦国大名として中国に鳴らした。しかし、自家の傘下にいた有力国人である宇喜多氏が、やがて浦上氏を下し、その領国支配を奪取した。
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守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。
'''守護代'''(しゅごだい)とは、[[鎌倉時代]]と[[室町時代]]に[[守護]]の下に置かれた役職である。 == 概説 == 守護の職務を代行した職種を指す<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AE%88%E8%AD%B7%E4%BB%A3/|title=守護代(しゅごだい)の意味 |publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-11-05}}</ref>。広義には[[代官]]の一種であるが、室町時代以降は室町幕府の直轄領の土地支配の代理人を代官といい、守護の代理人たる守護代と代官は区別された。 守護は、[[鎌倉]]や[[京都]]につめて中央の政務に携わることが多く、任国を留守にする期間が長かった。複数の国を兼任する守護の場合、兼任した国を視察する機会はさらに少なかった。このため守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。これが守護代である。守護代も自らの代理人たる[[小守護代]]を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。また、一国に2人以上の守護代が居ることもあり、このような場合は「分郡守護代」の体制をとった。 [[室町時代]]に入ると、当初は守護の一門やその傍流、或いは重臣、または守護国内の有力武士([[国人]])が任じられる(ただし、複数の守護を兼ねる家の場合には、他の領国の国人が守護代とされる場合もある。[[讃岐国|讃岐]][[香西氏]]→[[丹波国|丹波]]守護代、[[能登国|能登]][[遊佐氏]]→[[河内国|河内]]守護代など)ことが多くなり、次第に世襲化していくと、守護に代わって実質的統治者になっていった。守護代は[[室町幕府]]より守護の[[白傘袋]](しろかさぶくろ)、[[毛氈鞍覆]](もうせんくらおおい)、及び[[塗輿]](ぬりごし)の格式に次ぐ、唐傘袋(からかさぶくろ)、毛氈鞍覆、及び[[塗輿]]の使用が認められる格式を与えられ、国人よりも一等高い地位にあった。 いっぽう、[[荘園 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出雲国の守護代[[尼子氏]]も同国守護[[京極氏]]の庶流であり、その重臣として出雲守護代を命ぜられた家であった。しかし、応仁の乱以降の戦乱において戦功を重ね、京極家中において実力を養うと主家を追い戦国大名化し、やがて守護の格式を手中にした。そもそも、出雲守護には代々京極氏が補任されていたが、[[京極政経]]に背いた[[尼子経久]]が主君を追い、出雲国を掌握し11カ国に拡がる大名へと成長していった。子の[[尼子政久]]が討ち死にしたため、家督を嫡孫に譲ると、経久は孫に将軍[[足利義晴]]より偏諱を受けて[[尼子晴久]]と名乗らせ、また出雲守護補任を認めさせ、守護代から守護への格式へと家柄を向上させた。 さらに、越後守護代の[[長尾氏]](のち越中守護代も兼ねる)では、当初、守護職までは手中にしなかったものの、主君を追放し、関東管領をも討ち果たした[[長尾為景]]が、朝廷と幕府に寄進して守護の格式である白傘・袋毛氈鞍覆の格式と、嫡男に12代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義晴]]の偏諱を賜り、[[長尾晴景]]と名乗らせるなど、守護代に守護級の格式を認められていった。やがて、病弱な晴景に代わり、為景四男の[[上杉謙信|景虎]](後の上杉謙信)が家督を継ぐと、勢力拡大、甲信を制した[[武田氏]]と雌雄を決する対戦を繰り返し、やがて北条氏に攻められ勢力を失いつつあった上杉氏の[[上杉憲政]]の懇願で、上杉氏の家督と[[関東管領|関東管領職]]を継承し、通常の守護よりも格段に高い地位を得ることとなった。晩年は[[#能登畠山家(匠作家)|畠山氏]]が守護だった越中と能登をも支配し、畠山氏を客将(高家)として傘下に置いた。 このように、室町時代は守護の代理人としての地位に過ぎなかった守護代の地位は戦国時代の幕開けとともに、主君を追い、取って代わる存在へと変貌していった。 一方で、戦国大名化に一時的に成功するも、やがてその家臣により失敗した例も多く存在する。その代表例が、三好氏である。尾張国の守護代[[織田信友]]も主君である[[斯波義統]]を傀儡の守護として奉じ、自らの尾張国内での優位性と勢力拡大の大義名分に利用していた。しかし、やがて対立するようになった主君を自害に追うものの、傍流にして家臣でもあった、[[織田信長]]に主殺しを咎められ攻め滅ぼされた。 また、備前国に勢力を持った[[浦上氏]]も、一時的に戦国大名化を遂げ、配下の[[宇喜多氏]]にとって代わられた家のひとつである。浦上氏は播磨国を[[本貫]]とし、播磨国、備前国などの守護を務めた[[赤松氏]]の重臣で、代々、備前守護代を務めてきた。しかし、[[浦上宗景]]の代に、主家に反抗し、やがて独立的な地位を確立し、備前国の戦国大名として中国に鳴らした。しかし、自家の傘下にいた有力国人である宇喜多氏が、やがて浦上氏を下し、その領国支配を奪取した。 == 主な守護代の一覧 == {{columns-list|3| *守護:[[斯波氏]] **[[甲斐氏]](越前・遠江) **[[織田氏]](尾張) **[[朝倉氏]](越前) **[[二宮氏]](越中・信濃・加賀) **[[完草氏]](越前・越中・若狭・信濃) **[[島田氏]](越前・信濃) *守護:[[畠山氏]] **[[遊佐氏]](河内・能登・越中・紀伊) **[[長尾氏|長尾(府内)氏]](越後・越中) **[[神保氏]](越中・紀伊・能登) **[[椎名氏]](越中) **[[本間氏]](佐渡) **[[木沢氏]](河内) **[[誉田氏]](山城) **[[湯川氏]](河内) **[[飯川氏]](能登) **[[温井氏]](能登) *守護:[[細川氏]] **[[香川氏]](讃岐・摂津) **[[三好氏]](阿波) **[[香西氏]](丹波・山城・摂津) **[[安富氏]](讃岐・備中・近江) **[[内藤氏]](摂津・丹波) **[[上原氏]] (丹波) **[[庄氏]](備中) **[[秋庭氏]](備中) **[[石川氏]](備中) **[[細川氏#遠州家|細川氏]](土佐) **[[上野氏]](土佐・備後) **[[波多野氏]] (丹波) **[[薬師寺氏]](備後・摂津) **[[長塩氏]](摂津) **[[奈良氏]](摂津) **[[一宮氏]](丹波) **[[東条氏]](三河) *守護:[[一色氏]] **[[若狭島津氏|三方氏]](若狭) **[[延永氏]](丹後) **[[小笠原氏]](三河・若狭) *守護:[[京極氏]] **[[尼子氏]](出雲) **[[三木氏]](飛騨) **[[隠岐氏]](隠岐) **[[多賀氏]](近江・飛騨) **[[塩冶氏]](出雲) **[[古志氏]](備後) **[[若宮氏]](山城) *守護:[[今川氏]] **[[長瀬氏]](遠江・駿河・筑後・備後) **[[蒲原氏]](遠江・日向) **[[三浦氏]](遠江) *守護:[[六角氏]] **[[山内氏]](近江) **[[伊庭氏]](近江) **[[馬淵氏]](近江) **[[目賀田氏]](近江) **[[儀峨氏]](近江) *守護:[[山名氏]] **[[垣屋氏]](但馬・播磨・山城) **[[太田垣氏]](備後・備前・播磨) **[[八木氏]](但馬・越前) **[[宮田氏]](石見・備後・播磨) **[[入沢氏]](美作・因幡・石見) **[[山内氏]](備後) **[[南条氏]](伯耆) **[[小鴨氏]](備前) **[[小林氏]](丹波) **[[田公氏]](因幡) *守護:[[赤松氏]] **[[浦上氏]](備前・山城) **[[小寺氏]](播磨・備前・加賀) **[[松田氏#備前松田氏|備前松田氏]](備前) **[[別所氏]](播磨) **[[宇野氏]](播磨) **[[摂津有馬氏|有馬氏]](播磨) **[[中村氏]](美作) **[[大河原氏]](美作) *守護:[[土岐氏]] **[[斎藤氏]](美濃) **[[富島氏]](美濃) *守護:[[武田氏]] **[[逸見氏]](若狭) **[[内藤氏]](若狭) **[[跡部氏]](甲斐) *守護:[[富樫氏]] **[[額氏]](加賀) **[[山川氏]](加賀) **[[槻橋氏]](加賀) **[[英田氏]](加賀) *守護:[[上杉氏]] **[[長尾氏|長尾(白井・総社)氏]] (上野・武蔵・越後) **[[大石氏]](武蔵・上野・伊豆) **[[太田氏]](相模・武蔵) **[[吉江氏]](武蔵) **[[千坂氏]](武蔵) **[[石川氏]](上総) **[[宇佐美氏]](伊豆) **[[寺尾氏]](伊豆) **[[木戸氏]](下野) *守護:[[仁木氏]] **[[服部氏]](伊賀) **[[西郷氏]](三河) *守護:[[千葉氏]] **[[大須賀氏]](下総) *守護:[[佐竹氏]] **[[小野崎氏]](常陸) **[[江戸氏]](常陸) *守護:[[結城氏]] **[[山川氏]](山城) **[[栃本氏]](安房) **[[水谷氏]](下野) *守護:[[宇都宮氏]] **[[芳賀氏]](越後・上野・上総) *守護:[[小笠原氏]] **[[大井氏]](信濃) **[[赤沢氏]](信濃) *守護:[[大内氏]] **[[杉氏]](豊前・長門・筑前・和泉・豊前) **[[陶氏]](長門・周防・筑前・紀伊) **[[弘中氏]](周防・安芸・山城) **[[内藤氏]] (長門) **[[問田氏]](周防・石見) **[[鷲頭氏]](長門・石見) *守護:[[少弐氏]] **[[志佐氏]](壱岐) **[[宗氏]](対馬) **[[饗庭氏]](肥後・筑前) **[[千葉氏]](肥前) **[[原田氏]](筑前) *守護:[[渋川氏]] **[[吉見氏]](肥前) *守護:[[大友氏]] **[[入田氏]](日向) **[[斎藤氏]](肥前) *守護:[[島津氏]] **[[薩州家|島津氏]](薩摩) **[[本田氏]](大隅) **[[土持氏]](日向・大隅) **[[酒匂氏]](薩摩) }} == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:しゆこたい}} [[Category:守護|*しゆこたい]] [[Category:鎌倉時代]] [[Category:室町時代]] [[Category:守護代|*]] [[Category:中世日本の称号]]
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捕鯨問題
捕鯨問題(ほげいもんだい)とは、クジラおよびイルカの捕鯨の是非に関する国際的な倫理問題、社会問題である。 現在では反捕鯨側に立っている国々も、過去には捕鯨国だった場合がある。それらの国々の捕鯨も、最初は沿岸捕鯨から始まった。19世紀末にはノルウェー式捕鯨が開発され、ナガスクジラ科の捕獲も進んだ。鎖国中の日本と異なり遠洋航海が可能だった国々では、沿岸捕鯨で鯨が減れば、沖合捕鯨・遠洋捕鯨へと移行し、さらに他の漁場へ移動して捕鯨を続けた。初期には食肉利用も行っていたが、十分な保存技術がなかったため、鯨油・ヒゲなどの資源のみを目的とするようになった。南極海でも20世紀初頭に本格的な捕鯨が始まった。19世紀から20世紀半ばにかけてアメリカやオーストラリアやノルウェーは灯火燃料や機械油用の鯨油目的の捕鯨を当時世界最大の規模で盛んに行ったため、絶滅寸前に瀕した鯨種もいたといわれ、主にセミクジラやマッコウクジラが減少した。1931年にシロナガスクジラ捕獲はピークとなる。以後もナガスクジラなどのより小型の鯨種に移行して捕獲が続いたが、最終的には、鯨類資源の減少と鯨油需要の低下から不採算となる。 日本では鯨文化が全国で育まれていた事から欧米の商業捕鯨とは一線を画す漁法が行われていたものの、前述のアメリカの捕鯨船の捕鯨により日本近海は短期間の内に資源の枯渇を招いた、とする論調もある。しかし、欧米の捕鯨の対象種が主としてマッコウクジラとセミクジラを対象にしているのに対し、網捕り式捕鯨では当時欧米が捕れなかったシロナガスクジラなども獲物に出来たため、必ずしも欧米のみに起因する資源枯渇であったかは疑問視されている。特にアメリカ式捕鯨で重視されたのはマッコウクジラであるが、殆ど食用に向かないマッコウクジラは日本の捕鯨ではあまり重視されていなかった。セミクジラに関しては日本近海での欧米の操業は行われてはいない。また、そもそも世界規模の航海を伴うものの、この時代のアメリカ式捕鯨とは帆船の母船から肉眼でクジラを捜し、発見後手漕ぎのボートを降し、人力にて銛を打ち込むというものであって、全盛期で世界全体で800隻程度が年10頭程度ずつを捕獲していた。 日本各地に点在していた鯨組の多くが姿を消していった。この為日本は前述のノルウェーなどとともに20世紀初頭から南氷洋捕鯨に参加している。 日本の鯨肉食文化は縄文・弥生時代から存在し、弥生時代にはより大型の鯨の捕鯨も行われていたとみられる。北海道でも古代に捕鯨が始まっていた。江戸時代には鯨組の成立など大規模化が進み、セミクジラなどを組織的に捕獲して、鯨油や鯨肉などとして商品化していた。 江戸時代末期になり、アメリカ・イギリスなどの諸国からの多数の捕鯨船が日本近海で活動した(この頃の遠洋捕鯨は「アメリカ式捕鯨」と呼ばれる帆船捕鯨。「白鯨」などで描写された)。その結果、日本近海でも鯨の個体数は激減し、日本の古式捕鯨は壊滅的打撃を受けた(なおペリーからの開国要求及び日米和親条約は当時日本沿岸で活動していた捕鯨船への補給も一因であり、小笠原諸島に居住している欧米系島民は、定着したアメリカ捕鯨船員の子孫)。 その後、明治時代になると近代捕鯨法が導入され、定着したのはノルウェー式捕鯨だった。これにより捕鯨対象鯨種もシロナガスクジラなどが中心となる。古式捕鯨法は、1878年(明治11年)の太地における海難事故「大背美流れ」などの海難事故もあって打撃を受け、九州の一部を除き近代捕鯨産業への変身には失敗して、沿岸域でのゴンドウクジラやミンククジラを対象とした捕鯨として存続した。もっとも、古式捕鯨の行われた地域は近代捕鯨産業でも重要な拠点だった。捕鯨が近代化され沖合捕鯨へと漁場を拡大するのと平行して、日本も1934年以降は鯨油を目的として南氷洋まで船団を派遣して捕鯨を実施。第二次世界大戦が始まると、母船式捕鯨は一旦中止された。 戦後、日本の食糧事情を改善するため、大量かつ容易に確保が可能な蛋白源としてクジラが注目され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の協力も得て捕鯨が推進され、南氷洋での捕鯨も復活した。 1931年にシロナガスクジラ捕獲はピークとなったが、同時期に国際的な捕鯨規制が始まり、1931年のジュネーブ捕鯨条約、1937年の国際捕鯨取締協定などが結ばれた。セミクジラとコククジラの禁漁や、漁期制限、未成熟個体の捕獲禁止などが内容だった。鯨油の生産調整も行われた。日独ソなどはこうした条約への参加には積極的でなかった。日本は1939年に加盟するはずだったが、第二次世界大戦の勃発のため未加盟に終わった。 戦後の1946年、上記の各条約を発展させる形で、国際捕鯨取締条約が結ばれた。これにもとづき1948年に国際捕鯨委員会 (IWC) が設置され、日本も独立直後の1951年に加入した(捕鯨国のうちスペイン・ポルトガル・チリ・ペルーは1970年代以降の加盟)。捕獲枠は1963年以降大きく縮小され、1966年にザトウクジラとシロナガスクジラは禁漁となった。コスト上昇に耐えられず、捕鯨業から撤退する国が増えた。1960年代にイギリス・オランダ・オーストラリアなどが捕鯨から撤退した。 1950年代、実質他国の撤退する中で日本が一人勝ちしていた時期に、効率の良い鯨から資源が減少し、当時IWCの科学委員会ではシロナガスクジラの全面禁漁を提案していたが、日本、ソ連、ノルウェー、オランダは受け入れなかった件などが紛争の火種になったといわれ。1960年代末、鯨類全面禁漁の意見が出始めた。米国は1972年の国連人間環境会議で商業捕鯨の10年間一時停止を提案し採択された。IWCでも同年にモラトリアム提案を提出したが、科学的正当性に欠けるとの理由で否決された。アメリカが反捕鯨を持ち出したのは、当時話題になっていた核廃棄物の海洋投棄問題から目をそらせるためであったと国際ピーアール(現ウェーバーシャンドウィックワールドワイド)「捕鯨問題に関する国内世論の喚起」に記されている。この他、人間環境会議に出席した日本代表の米沢邦男は、主催国スウェーデンのオロフ・パルメ首相が、ベトナムでの米軍の枯れ葉作戦を非難し環境会議で取り上げることを予告していた。アメリカはそれまでIWCに捕鯨モラトリアムを提案しておらず、それを唐突に焦点にしたのは、ベトナム戦争の枯葉剤作戦隠しの意図があったのではないかといわれている。しかしながら、同会議に日本から出席した綿貫礼子によれば、当時は国連主催の会議でベトナム戦争には言及しない事が暗黙の了解となっており、同会議場ではアメリカの「地球の友」と英国の「エコロジスト」を出しているグループが共同で出したミニ新聞には国連会議の動きが記されており、国連会議で鯨に対する日本政府の姿勢を攻撃するニュースも記されていた。また、人間環境会議にいたる状況を調べた真田康弘によると、人間環境会議から八ヶ月前にIWCで採択していた南半球の一部海域でのマッコウクジラの捕獲制限措置に対して、日本が充分な科学的根拠がないと異議申立てを行い、捕獲制限に従わない意向を表明した為モラトリアムを不要としてきた米国の立場は著しく困難になり、米外務省担当官が「もしアメリカがモラトリアムを本当に追求することとなれば、適切な国際フォーラムに提起することになるだろう」と当時の在米日本大使館佐野宏哉一等書記官に対して示唆した。その後、米国政府ではCEQ(環境問題諮問委員会)から持ち上がった捕鯨政策転換に同調した、ロジャーズ・モートン内務長官が1971年11月に十年モラトリアムの支持を公言した、と人間環境会議に至る過程の米国内部の変遷を明かし、人間環境会議で米国が唐突に反捕鯨の提案を行ったとする見方を否定している。その結果、人間環境会議でスウェーデンのオロフ・パルメ首相は言及しないのが暗黙の了解とされていた中で、枯葉剤作戦を人道的見地および生態系破壊の面から非難するに至ったと考えられている。 1982年、反捕鯨国多数が加入したことでIWCで「商業捕鯨モラトリアム」が採択される。これは、NMP方式によるミンククジラの捕獲枠算定が、蓄積データ不足で行えないことを名目とするものである。この「商業捕鯨モラトリアム」は、1982年7月23日のIWC総会において採択された国際捕鯨取締条約附表に属するものであるが、1972年と1973年のIWC科学委員会において「科学的正当性が無い」として否決されていたもので、1982年においてはIWC科学委員会の審理を経ていないことから、国際捕鯨取締条約の第5条2項にある付表修正に要する条件である「科学的認定に基くもの」に反しており同条約違反で法的には無効であるとの立場を日本は取っている。 日本・ノルウェー・ペルー・ソ連の4カ国が異議申し立てをしたが、その後日本とペルーは撤回した。日本が1985年に異議申し立てを撤回したのは、米国のパックウッド・マグナソン法に基づいて同国の排他的経済水域内における日本漁船の漁獲割り当て量が大幅に削減される可能性があったためであった。 アメリカは日本に異議申し立てを撤回しなければ、アメリカの排他的経済水域から日本漁船を締め出すとの意向が伝えられたため、日本はやむなくモラトリアムを受け入れるかわりに、科学的調査として「調査捕鯨」を開始した。1988年に日本は商業捕鯨から撤退した。異議撤回の背景には、米国による水産物輸入停止などの制裁措置があった。同様の制裁措置は、1990年代にはアイスランドに対しても行われた。アイスランドは1992年以降一時IWCを脱退していたが、2003年にモラトリアム条項に異議ないし留保を付して再加入している。 1997年にアイルランドから「調査捕鯨を段階的に終了し全公海を保護区とする代わりに日本の沿岸捕鯨を認める」とする妥協案が提示され継続的に審議されたが、合意に至らなかった。 2000年頃にアメリカは、日本の調査捕鯨停止を求め、形式的ながら制裁を再度発動した。日本は沿岸捕鯨の復活を訴え続けてきたが、2007年のIWC総会でも認められず、政府代表団は「日本の忍耐は限界に近い」と脱退を示唆し、2018年(平成30年)12月26日に、日本国政府はIWCからの脱退を通告した。 またモラトリアムとは別に1979年にはIWCでインド洋の保護区指定などが採択された。南極海については保護区とする付表修正が採択され、南太平洋と南大西洋についても、それぞれオーストラリアなどと南米諸国により保護区化が提案がされた。 1974年にIWCは鯨種ごとの規制である新管理方式 (NMP) を導入。これによりナガスクジラやイワシクジラの禁漁措置が適切に行われるなど一定の成果を収めた。残る捕獲対象はミンククジラ・マッコウクジラ・ニタリクジラのみとなった。 1994年、少ないデータでも捕獲枠が算定できる改訂管理方式(RMP)が採択されて、現在までに北西太平洋のミンククジラについては捕獲枠の試算が完了している。なおRMPによる捕獲枠算定には調査捕鯨のデータは必要ない(RMPの運用に調査捕鯨のデータは不要)。現在のIWCでは捕獲枠の実効確保のための監視などの枠組み(RMS)の交渉が行われていたが、2006年に交渉は決裂した。環境保護団体グリーンピースなどは、たとえRMSが採択されても乱獲を防げないと主張し、一切の商業捕鯨に反対している。 2010年5月、オーストラリアは、南極海での日本の調査捕鯨は実態は商業捕鯨とし国際条約に違反しているとして停止を求め国際司法裁判所に提訴した(南極海捕鯨事件)。2010年12月、ニュージーランドは、オーストラリアによる提訴に、意見陳述などを行うなど協力すると発表した。2014年3月31日に国際司法裁判所は、日本の南極海での現状の調査方法による調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であり、調査捕鯨とは認められないとする判決を下し、オーストラリア側の主張が認められた。日本は判決を受けいれるとした。 2023年、新経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の交渉で、米国が捕鯨反対の立場を協定に明記するよう求めたが、日本の抵抗により見送られた。米国の提案が通っていれば日本の沿岸や沖合で行われている商業捕鯨が難しくなる可能性があった。 基本的には、今後捕鯨を行うことに賛成か、反対かの対立構造があり、2010年5月時点で国際捕鯨委員会(加盟国88カ国)の内、捕鯨支持国は39カ国、反捕鯨国は49カ国ある。 捕鯨をしている国々には、ロシア、日本、インドネシア、ノルウェー、アイスランド、フェロー諸島(デンマーク自治領)、セントビンセント・グレナディーン、カナダなどが挙げられる。また、カナダは1982年に国際捕鯨委員会を脱退している。 アメリカ合衆国は、国内少数民族の先住民生存捕鯨は是認しているが商業捕鯨には反対している。 捕鯨反対国には、商業鯨油目的の捕鯨を行っていた元捕鯨国のオーストラリア、フランス・スペインなどのEU加盟諸国、ラテンアメリカ諸国(反捕鯨の立場を鮮明にしているアルゼンチンやブラジルなどが主導するかたちで、他のラテンアメリカ諸国も反捕鯨の立場で足並みをそろえている)、ほかニュージーランド、インド等が中心となっており、これに与するNGOも多い。各国で反対理由は異なる。 IWC非加盟国による捕鯨(IWC管轄外の小型鯨類は含まない)もある。 米国やカナダでは先住民の「伝統的な生業」(狩猟漁撈)活動の継続は先住権として認められており、アメリカのアラスカ州のイヌピアックやカナダ・イヌイットにはホッキョククジラを捕獲する権利が承認されている。ほかグリーンランド、ロシアなど北極圏に住む北方先住民、カリブ海のベクウェイ島などでの捕鯨は、「原住民生存捕鯨」として一定の捕鯨がIWCでも認められている。この原住民生存捕鯨は、原則として近代的なノルウェー式捕鯨と異なる伝統的な捕鯨手法に基づくものとされ、致死時間の短縮に寄与する銃器の使用などは認められている。 IWC管轄外の小型鯨類の捕鯨は現在も各地で実施されている。 海の憲法とも評される海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)に日本も1996年に批准している。 日本は国連海洋法条約第116条 - 第120条に基づき「公海での自由な漁業の権利」として公海利用に関する国際法上の根拠としている。 しかしながら、この条約では200海里の水域内では沿岸国の主権的権利を求める一方、公海における海洋生物の利用は国際管理体制の確立を求めるのが原則であり「公海の利用には国際社会の合意が必要」とされる。たとえば、漁獲高を維持するための「資源保護」に協力する義務があると定めており、第65条において締約国は海洋哺乳類の保存のために協力するものとし、鯨類については国際捕鯨委員会等の国際機関を通じて管理を行なう義務があるとされている。したがって、もしIWCを脱退すればモラトリアムなどのルールに縛られない一方、「今以上に反捕鯨勢力から違法だという批判にさらされ、それに対する法的反論が難しい」ことが水産庁漁業交渉官によっても認識されている。 なお、過去には多くの国が公海捕鯨を行ってきたが、公海での捕鯨をめぐる争点は主として南極海での捕鯨を求める日本のみを対象としたものとなっている。 南極海洋生物資源保存条約第6条において、同条約のいかなる規定も、国際捕鯨取締条約に基づき有する権利を害し及びこれらの条約に基づき負う義務を免れさせるものではない旨を規定している。 絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)では、付属書Iにシロナガスクジラ、ザトウクジラ、ミンククジラなどの鯨類を掲載し、これらについては商業目的での貿易並びに海からの持込を禁じている。「海からの持込」規定は、ワシントン条約の適用範囲を、公海での漁獲・捕獲活動に広げる意義を有している。条約案が検討された当初の構想ではクジラ類に対するIWCでの規制が不十分であるとの自国の環境保護団体からの強い突き上げを受け、米国政府が「海からの持込」規定を条約草案に挿入、1973年に開催されたワシントン条約採択会議で強く同条項の盛り込みを求め、この結果挿入された経緯がある。 日本は鯨類に関してミンククジラ、イワシクジラ(北太平洋のものを除く)、ニタリクジラ、ナガスクジラ、イラワジイルカ、マッコウクジラ、アカボウクジラにつき留保を付し、上記鯨種については同条約の適用を免れた。但し留保を付していないザトウクジラと北太平洋に生息するイワシクジラについては、公海上での標本捕獲・持込について、当該持込がされる国の科学当局(日本では水産庁)が、標本の持込が当該標本に係る種の存続を脅かすこととならないこと、標本が主として商業目的のために使用されるものではないと認める必要がある。なお、経済的な利益獲得のための活動のみならず、非商業的側面が際立っていると明らかにはいえない利用方法についても「商業目的」と解釈するものとされている。以上から鑑み、日本によるザトウクジラと太平洋イワシクジラ捕獲はワシントン条約の諸規定を侵害する違法行為にあたるとの見解が元ワシントン条約事務局長で国際法学者のピーター・サンド教授により提起されている。これに対して日本鯨類研究所は、商業目的であるか否かについての判断は締約国に委ねられていると主張している。なおワシントン条約違反行為等に関しては、締約国会議の下に常設委員会が設けられており、同委員会は締約国会合において採択された諸決議に即し、条約違反国に対する貿易制裁を締約国へ勧告する権限を有している。 捕鯨を巡る争点を以下、概説する。 一般的に捕鯨と反捕鯨の対立とされる場合も多いが、中立的な立場や、捕鯨自体には賛成するもののその方向性において様々な立場があり、捕鯨と反捕鯨の対立という短絡的な解釈には問題があり、現実の構図はこの一般的理解よりもはるかに複雑であり、問題を単純化、一般化するのは必ずしも容易ではない。 1999年の漁業白書によれば、鯨類の餌消費量は2.8 - 5億トンと日本鯨類研究所が推定した。大隅清治は1999年の著書で、増えすぎたミンククジラなどの鯨を間引くことは正に一石二鳥の効果をもたらす、としている。 元沿岸小型捕鯨担当の水産庁調査員の関口雄祐によれば、この効果を実現する為には「海洋全体のコントロール」が絶対条件であるものの、80種の鯨類の管理は単一種の生物を管理する牧場や畑とは段違いに難しく、気象や温暖化も完全に予測できない現在の人類には不可能であるとしている。また、大泉宏は確かに鯨類は沢山の餌を食べているが、鯨類の餌生物は必ずしも人類が利用する生物ばかりではない(一例、ナンキョクオキアミは現在では然程大きい漁業ではない)。イシイルカが食べるスケトウダラのように漁獲高を圧迫しているのではないかと見られるものもあるが、豊漁期のマイワシは年間百万トン近い漁獲が有り、鯨類の他に魚類や海鳥が捕食していたが、食べきれないほどの数であり、マイワシ資源学者はそれで減ったとは考えておらず。鯨類と漁業との競合は個々のケースで考える必要があるとしている。 調査捕鯨を前提にした農林水産省の2011年の「鯨類捕獲調査に関する検討委員会」第3回と第4回において、この件に触れられており。横浜国立大学教授松田裕之は「数学論モデル的に立証された『ピーター・ヨッジスの間接効果理論』は捕食者と被捕食者以外の第三者に対する影響の間接効果の理論であり、これが鯨類(というより特定の水棲捕食生物)による捕食が餌生物の減少をもたらすとは限らない」と指摘し、WWFジャパン自然保護室長岡安直比は「生態系の変動は一種類の動物だけを見るのではなく、全体的なバランスの上で考えなければいけない。全体的に生態系が絶滅に追いやられるほど大きく崩れた事例はあまり観察されてはおらず、国際社会の中では科学的ではないとみられている。」と指摘した。それに対して、野村一郎は「鯨害獣論は科学的に検証が難しく、それよりも鯨の資源が多いから捕っていいのだと言う議論の方が受け入れやすい」とし、東海大学海洋学部専任講師大久保彩子は「鯨害獣説は2002年ぐらいにPRが盛んに行われていたが、科学的妥当性に批判があり、 また、2009年のIWC会合で日本の政府代表団が日本の科学者が漁業資源の減少の要因がクジラであると結論づけた事がないとの発言を指摘し、仮説に過ぎないものを大々的にアピールするのは日本の科学の信頼性を損ねる」とし、高成田亨は「生物学の権威が疑問を呈している点は真剣に考えるべき所である」としている。 バーモント大学のジョー・ローマン(英語版)は「我々が新たに検証した複数の研究では、クジラのような大型捕食動物が存在するほうが、生態系における魚類の個体数が多くなることが明らかになっている」と2014年に指摘した。 また、大型鯨類の糞に含まれる大量の窒素やリンや鉄は植物プランクトンの発生を促し、海洋生態系全体への恩恵があるだけでなく、二酸化炭素の抑制にも効果があるとされている。さらに、大型鯨類の死骸による炭素の吸収も指摘されている。 2009年6月にマデイラ諸島で開催された国際捕鯨委員会の年次会合において、森下丈二(水産庁参事官)は、日本政府代表代理としての立場から、鯨類の増加による漁業資源への被害を実質的に撤回した。 国際捕鯨委員会科学委員会の推定資源量では、 であり、シロナガスクジラやセミクジラは絶滅の危険性が高い。また、クロミンククジラについては増加に度々引き合いに出される76万頭という生息数は下方修正されており、増加の停止が確認されている(後述)。なお種としての生息数が豊富であっても、世界中に生息する種類では生息域によっては系群単位で危機にある場合もあり、そういった事実を鑑みた上で資源管理は地域ごとにおこなわなければならない。 捕鯨に対して、数をコントロールしやすい「家畜」と違い鯨類の捕獲はその減少をコントロールできなくなるという懸念もグリーンピースが主張している。 国連食糧農業機関の2008年報告によれば、海洋水産資源の利用は19%が過剰漁獲、8%が枯渇、1%が枯渇から回復しつつあるとされ、52%が満限利用の状態にあり、20%が適度な利用又は低・未利用の状態とされている。FAO水産委員会の「漁獲能力に関する国際行動計画」に即し水産資源を持続的に利用していくためには、各国による水産資源管理の一層の強化が求められている。 自然保護の観点からは、「人間による捕鯨を含む漁業によって海洋生態系が撹乱されている」という海洋資源の過剰搾取問題がある。捕鯨は、海洋生態系ピラミッドの頂点に立っていた鯨類をバイオマス換算で半分以下まで減らし、その結果海洋生態系はダメージを受けている可能性がある(鯨類の餌としての水産資源消費も鯨類のバイオマス総量に比例して激減していると推測され、鯨類の死体を経由しての生態系ループもまた激減している)。これまでの人類による海洋の過剰搾取を見直す必要がある。この問題は鯨類だけではなく、マグロ(ミナミマグロやタイセイヨウマグロを含む)など特定魚種の集中的漁獲について同様の問題を抱えている。 また、化学物質汚染などにより海洋生態系の状況の悪化も指摘されており、海洋の利用は抑制に転じるべきであると言う主張がある。 日本が電気銛からライフルを中心に切り替える旨を表明し、これを評価する国が多かったため、イギリスなども提案を撤回した。 致死時間の長さの一因について日本鯨類研究所は「年齢測定のために耳垢栓を無傷で入手する必要があり、致命傷を与えうる部位のうち頭部を避けて捕鯨砲を打ち込んでいたため」と説明。その後独自に開発した効率の高い爆発銛の使用により陸上野生動物のケースに劣らない即死率と平均致死時間を達成している、と反論している。 日本鯨類研究所によれば、2005-2006年の調査捕鯨において平均致死時間(銛命中から致死判定まで)は104秒、即死率は57.8%である(抗議団体の妨害を受けていない場合)。ノルウェーが発表した2000年のデータでは、平均致死時間が136秒、即死率が78%である。 日本の沿岸でのイルカ漁についても致死時間が長いとの批判がされたため、フェロー諸島で使用されている技術の導入が図られている。この方法によれば、脳への血流を即時に停止させ、即死に導くことができる。ただし、スジイルカなど一部の種については、水際で激しく動くために適用が困難で、さらなる改善研究が行われている。 最新の食肉用家畜の屠殺においては、専用の道具(主に屠殺銃)および炭酸ガス麻酔法を用いた安楽死が多いのに対し、鯨は専用施設内での殺処理が行えず、致命傷でなければ死ぬまで時間がかかり、動物福祉の観点から非人道的であるとされる。乗組員の安全性(「大背美流れ」など)や人道的視点などからの致死時間短縮は比較的古くからの課題であり、鯨を感電死させる電気銛などの研究が戦前からあった。日本でも1950年代に電気銛の試験が行われ、鯨の即死が確認されたものの、有効射程の短さなど運用上の困難から主力にはならなかった。 元々食性の生物段階が低いヒゲクジラ類では汚染の程度は低く、南極海産のヒゲクジラについては汚染はほとんどないことも判明している。南極海のミンククジラにも汚染物質がほとんどないことが南極海鯨類捕獲調査で判明している。特に南極海のクロミンククジラの脂皮や筋肉中に蓄積されたPCBやDDTなど人工有機塩素化合物や水銀はごく微量で、北半球の個体と比べると10分の1以下の値である。 2003年の厚生労働省調査ではマッコウクジラやゴンドウクジラ、ハンドウイルカなどのハクジラ類全般について、1970年代に定められた遠洋沖合魚介類に関する暫定的規制値を上回る高濃度のメチル水銀やPCB類が検出された。他方でヒゲクジラ類については、北西太平洋産のミンククジラやニタリクジラに関しては、ミンククジラの脂皮からは暫定規制値を超えるPCB類が認められたものの、メチル水銀は暫定規制値を超えるサンプルは無かった。流通量の過半数を占めていた南極海産のミンククジラ肉については、水銀・PCBともに汚染はほとんどないことが確認された。メチル水銀やPCB類が人体に摂取された場合の健康に生じる影響に関してはフェロー諸島での調査で妊娠中の母親体内の水銀濃度が高度となった場合に胎児の発育に一定の影響を与えることが確認された。それ以外の場合については、影響は科学的には確認されなかった。以上を踏まえて、日本の厚生労働省は、妊婦を対象とした魚介類の摂食ガイドラインを設定し、マグロやキンメダイと並び、ハクジラ類も摂取量の目安が定められた。ただし、これはあくまで妊婦のみを対象としたもので、幼児や授乳婦などを対象とするものではない。また、ミンククジラなどのヒゲクジラ類は汚染が軽度であるとして、沿岸域のものも含めて制限の対象外である。 2010年の国立水俣病総合研究センターによる太地町の健康影響調査で、全国の他地域と比べて平均で4倍超の水銀濃度を毛髪から検出され、うち43人(調査人員の3.8%)の対象者は毛髪水銀濃度の下限値を上回ったが、日本人の平均の70倍の水銀が蓄積している事例がみられ、これは水俣病患者のレベルに達している。濃度が比較的高い182人はメチル水銀中毒と思われるような健康への影響は認められなかった が、非常に心配な状況と見る向きもある。太地町は水銀の影響を受けやすい子供の調査を実施すると発表した。 食の安全の観点から、鯨肉が有害物質によって汚染されており、捕獲自体も止めるべきで、沿岸域の鯨肉、特に栄養段階が高次であるハクジラ類の鯨肉については安全性に問題があると言う主張がある。人間・自然由来の海洋の化学物質が生態系ピラミッドの上位者であるクジラ類・イルカ類の体内に濃縮されること、特に、年齢を重ねるごとに脂溶性の物質が脂肪細胞に蓄積される。その主たるものは水銀および有機塩素系化合物(PCB等)である。生態系ピラミッドの上位である他のマグロやカジキなどの大型魚類についても同様の指摘があるが、哺乳類のクジラ類の寿命は長く、前述の通り年齢を重ねるごとに蓄積される汚染物質が多くなる為、その値はクジラ類ほど高くはない。と言う主張がある。 日本捕鯨協会によると、日本においてはクジラはただ単に食料としてではなく骨や皮まで全て廃棄することなく利用されていた。縄文時代には骨が土器の製造台として使われ、飛鳥時代に仏教が伝来して一般的に肉食が禁止されると、当時は魚と見なされていたクジラから貴重な動物性タンパク質が摂取された。江戸時代初期まではクジラは貴重な食材として扱われ、饗応品や献上品に利用された。江戸時代初期以降に組織的捕鯨が始まると供給量が一気に増大し、赤肉や皮類は塩漬けされて日本全国に供給され、江戸時代中期に庶民の一般的な食料となり、時節やハレの日に縁起物として広く食されるようになり、多種多様な鯨料理と鯨食文化が生まれた。一例として、毎年12月13日に塩蔵した鯨の皮の入った鯨汁を食べる「煤払い(すすはらい)」や、70種類の鯨料理を紹介した書物「鯨肉調味方」があげられる。食文化以外では「花おさ」に代表される縁起物としての工芸品でもある鯨細工は、クジラの歯・骨・鯨ひげを材料とし、鯨ひげは人形浄瑠璃の板バネやカラクリ人形のゼンマイにも使われてきた。 ノルウェーやアイスランドなどにも鯨食文化が残っている。また、鯨肉は美味であるだけでなく、高タンパク、低脂肪、低カロリー、でコレステロール含有量も少なく、脂肪酸には血栓を予防するエイコサペンタエン酸(EPA)や頭の働きをよくするドコサヘキサエン酸(DHA)、抗疲労効果のあるバレニン成分が豊富に含まれ、生活習慣病、アトピー等のアレルギー症状を軽減する。 ナンシー・シューメイカーは、かつて鯨肉食を普及させようと試みたが失敗した米国政府は捕鯨規制には鯨肉を食す国の視点を取り入れずに規制しようとしたため、商業か生業か、文明か野蛮かという二分法の枠組みで扱われた。石油開発によって鯨油は産業資源でなくなったため、アメリカはクジラの捕獲を禁止してもアメリカ人は失うものは何もなく、すなわち鯨肉はアメリカの文化的な好みに合致する味にはならなかったため、国際合意に負の影響を与えていると指摘している。 このような食文化その他の文化面における対立には、中国の一部、韓国やベトナムにおける犬食文化がある。 先史時代、縄文時代前期より日本では捕鯨が行われてきた。江戸時代の鎖国政策によって遠洋航海が可能な船の建造が禁止されていたため、遠隔捕鯨化に伴う産業的な拡大は限定的で、これは明治以降の沿岸捕鯨の近代化・沖合捕鯨の開始・南極海商業捕鯨(輸出向けの鯨油の確保による外資稼ぎが主目的で、冷凍船の導入などで持ち帰りが可能に)にもある程度引き継がれた。 2002年のIWC下関会議では、原住民生存捕鯨枠には反捕鯨国が含まれる一方で、日本に対しては捕獲枠がいっさい認められず、調査捕鯨も引き続き反捕鯨国から非難され、また先住民には絶滅危惧種であるホッキョククジラなどの捕獲を認める一方で、日本に対しては絶滅の危機に直面しているわけではないクロミンククジラの捕獲も許さないという対応がとられた。日本は「反捕鯨国による二重基準である」と反発し、生存捕鯨の採択を否決に持ち込んだ。このため、生存捕鯨枠の運用は一時停止を余儀なくされた。ユージン・ラポワントは欧米人が植民地主義の贖罪意識から絶滅危惧種のホッキョククジラ捕獲を自国の先住民に認め、他方で日本やノルウェーの捕鯨を認めない理由について、かつて両国は自分たちの意のままにならなかったためであると指摘している。 日本が求める沿岸捕鯨は、日本の伝統捕鯨とは捕獲方法も対象鯨種も異なり、「原住民生存捕鯨」と同じカテゴリで認められる可能性はない。 NGOグリーンピースは2007年に日本が提出した議案「沿岸小型捕鯨の捕獲枠」は「原住民生存捕鯨」と同列に扱い、また「調査捕鯨」の拡大解釈とともに二重基準であると批判している。またグリーンピースは「原住民生存捕鯨」及び鯨肉食自体にも反対せず。逆に日本政府がアイヌ民族の寄り鯨利用も禁じるなど先住権を認めず、近代捕鯨を「原住民生存捕鯨」に見せかけ偽装することは先住民族を傷つけるものであると非難している。 国際捕鯨委員会(IWC)の目的の一つが捕鯨産業の秩序ある発展であることは、IWC設立の根拠となる国際捕鯨取締条約にも明確に記載されている。 国際捕鯨取締条約8条ではIWCメンバー国は自国が適当と考える条件で科学調査を目的として鯨を捕獲できるとしており、商業捕鯨モラトリアムや南大洋鯨類サンクチュアリー(保護区)に拘束されずに、捕獲調査を行うことができると条約で認められている。むしろ、モラトリアムはもう必要がなく、南大洋の永久保護区(サンクチュアリー)は資源量と無関係に設定されているため、条約に反している。 1994年、日本をのぞいてIWC全会一致で南極海は永久保護区(サンクチュアリー)に指定された。 調査捕鯨の仕事は大別すると、鯨体を捕獲する捕獲調査と個体数を数える目視調査がある。鯨の推定頭数の算出や生態調査も目的としている。平行してバイオプシー調査も行っており、こちらでは確保不能なシロナガスクジラなどの種のサンプルも集めている。 調査捕鯨が開始された理由は、1982年のモラトリアム導入に際し反捕鯨国側は「現在使われている科学的データには不確実性がある」ことを根拠にして安全な資源管理ができないと主張したためであった。 日本捕鯨協会によれば日本の南極海鯨類捕獲調査捕鯨ではクロミンククジラ、ザトウクジラなど各種クジラが増加していること、鯨種や成長段階による棲み分けの状態、回遊範囲が非常に広範囲であること、1980年代後半から現在までクロミンククジラの資源量推定値に大きな増減はみられず、個体数は安定していることも明らかになり、多様な調査結果が得られている。 北西太平洋鯨類捕獲調査においては、日本周辺のクジラは豊富であること。DNA分析で太平洋側と日本海側の鯨は別の系群にあること、などがわかった。IUCNのレッドリストで「絶滅危機」に分類されているイワシクジラの調査捕鯨では、北西太平洋イワシクジラの生息数を2004年6月までは28,000頭、2004年9月からは67,600頭、2009年5月からは28,500頭と考えており、年間100頭程度の捕獲はイワシクジラの安定的な生息には影響を与えないとしている。 調査捕鯨に関して日本は1987年から2006年までの間に、査読制度のある学術誌に91編の論文を発表し、IWCの科学小委員会に182編の科学論文を提出するなどしており、2006年12月のIWC科学小委員会では、日本の研究について「海洋生態系における鯨類の役割のいくつかの側面を解明することを可能にし、その関連で科学小委員会の作業や南極の海洋生物資源の保存に関する条約(CCAMLR)など他の関連する機関の作業に重要な貢献をなす可能性を有する」と結論づけ、1997年のIWC科学小委員会においても、日本の調査が「南半球産ミンククジラの管理を改善する可能性がある」と評価されている。「捕獲調査は商業捕鯨の隠れみの」という批判に対し、クジラ調査は専門の学者が調査計画に基づいて船を運航させて、若干の捕獲を行い、耳垢栓や卵巣などの標本を採取し、調査後の鯨体は完全に利用することが条約(ICRW第8条第2項)で定められているので調査の副産物として持ち帰り、市場に出し、販売で得られた代金は調査経費の一部に充当されており、鯨体を可能な限り利用することは資源を大切にするという意味であると述べている。 また、耳垢栓や生殖腺などの器官は鯨体の内部深くにあり、体内の汚染物質、胃内容物の調査を効果的に実施するためには致死的調査は不可欠である。バイオプシーなど非致死的調査で得られる情報もあるが非効率で現実的でないことはIWC科学委員会でも認識されている。 世界自然保護基金は、日本は生態系調査を目的とする「調査捕鯨」(鯨類捕獲調査)に切り替えたが、捕殺した鯨の肉の一部を商業市場で販売しており、調査捕鯨は科学調査という大義名分を使った疑似商業捕鯨であると述べた上で、日本は集積された情報を独立した審査のために公開することを拒否し、調査で集められたデータの殆どは殺さない方法で得ることが可能であり、日本の鯨調査計画が信頼にたる科学として最低限の基準を満たしていないと批判している。 2014年、国際司法裁判所は、日本の南極海での調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であるとする判決を下した。 消費量は近年は拡大傾向にありまた在庫量は一定の水準を保っている。在庫に余りはないと水産庁は説明しているが、衆議院決算行政監視委員会の理事である自民党の平将明衆院議員は調査捕鯨の必要性を訴えられ、調査したら鯨肉の在庫は余っており、役所に嘘をつかれたと非難している。また、日本の調査捕鯨拡大に伴い鯨肉の在庫量が増加しているという報道があり、鯨肉の需要は現在は減っている。長引く商業捕鯨停止で卸業者が減少したために流通が滞っている。2016年の消費量は2845t、入荷量は4089t、在庫量は2237t。 オーストラリア及びニュージーランドがその領海に隣接する南極海の領域を管理しているという見方がまず客観的にも存在しており、そこが南極の調査捕鯨に対する不快感につながっているとされている。 ただし、1959年の南極条約により領土主権は凍結されており、日本はオーストラリア南極領土の領有権を認めていない。 中国メディアによれば、日本の捕鯨に対してオーストラリアが「日本が権利もなくわが国が南極に持つ40%の領土に侵入した」と南極領土の問題を主張した 。 反捕鯨国の多くはクジラを食料としてきた歴史が途絶えて久しいため、「クジラを食料と見る文化が生き残っているか、そういう文化が生き残っておらず、保護対象としての野生動物と見る」という異文化対立が生じている。愛媛大学農学部の細川隆雄は、「鯨を捕るな食べるな」という価値観を日本は押し付けられたとしている。文化の多様性は尊重されるべきであるし、資源管理における地域社会の貢献もあり、日本の沿岸小型捕鯨者によるミンククジラの捕鯨は認められるべきである。B.モーランも、生存(生業)捕鯨(subsistence whaling)と商業捕鯨 (commercial whaling) の区別は西欧的な偏見のかかった価値体系に基づいたもので非西欧人には受け入れることができないし、捕鯨はコモディティであり生業捕鯨と商業捕鯨の区別は無意味であるとした。フリードハイムも反捕鯨規範を押し付けることは、文化的侵害行為として批判している。1989年に日本代表はIWCで「肉食文化が魚食文化を破壊するためにIWCを利用している」と批判した。オーストラリアではカンガルー、欧州ではきつね、アメリカでは子牛などのほ乳類を殺し食べているが日本の捕鯨を認めないというのは偽善である。ある文化的風習が過剰搾取や種の絶滅にならない限りは風習を堅持する権利が各文化にはある。農林水産省は「鯨肉の消費は時代遅れの文化的風習ではなく、牛肉を食べることが世界の標準でもない」と主張している。しばしば主に欧米と捕鯨国の捕鯨に対する意見の衝突は「ユダヤ教やキリスト教といった宗教・文化と捕鯨国(日本)との宗教・文化の価値観の相違」でもあると語られることがある。日本では捕鯨とクジラへの信仰があり、クジラを供養する宗教観が存在する。ただキリスト教国家でも捕鯨は行われていたことがある。 伝統的には日本では捕鯨された鯨への感謝や供養が見られ、当時は食糧確保が難しかったことを鑑みると、これは動物保護団体の思想に近いとする指摘や、村八分等の悪しき伝統もあり文化だからという理由だけで擁護すべきではないという指摘がある。 岸上伸啓によれば鯨の神格化は、メディアの圧倒的な物量作戦によって生み出された鯨の虚像(メディアホエール)であり、愛や平和,非暴力などの価値が強調され、映像や音声表現にヴァーチャル・リアリティが入っており、こうしたメッセージから捕鯨が倫理的に悪と考えられている。また、俗流動物中心主義にたつ反捕鯨論はエコファシズムに向かう危険があるとみている。また、環境保護はこうしたシンボルを利用して、多額の資金を調達し、また企業や政府はこうした神話を支持することによって「地球にやさしい」という政治的な正当性を獲得したと分析している。 ノルウェーの人類学者カラン(ノルウェー語版)によれば、クジラを生物学的、生態学的、文化政治的に象徴的に特別な存在とみなして、地球上で最大の動物(シロナガスクジラ),地球上で最大の脳容積を持つ動物(マッコウクジラ),身体に比して大きな脳を持つ動物(バンドウイルカ),愉快でさまざまな歌を歌う動物(ザトウクジラ),人間に友好的な親しい動物(コククジラ),絶滅の危機に瀕している動物(ホッキョククジラやシロナガスクジラ)といった特徴のすべてを併せ持った空想の鯨、「スーパーホエール神話」がメディアにおいて流通し、環境保護のシンボルとなったと指摘している。 三浦淳は、知能の高低と殺してよいもの、そうでないものを結びつけることに合意される合理的な理由はないうえに、その論法を用いれば知能が低い人間は殺害してもよい、という考えに結びつくと述べている。このような価値観が反捕鯨の世論の形成の根底にあるといわれる。 また、河島基弘はクジラに見られる以下の6つの特殊性が反捕鯨思想に影響を与えていると考察したうえで、鯨を神格化し特別視することは種の違いに基づく種差別であるとしている。 日本政府水産庁は海外援助で発展途上国の票を買うことはしていないと公表している。一方企業の動きを見ると、反捕鯨運動をうけて、イトーヨーカ堂、西友などの大手チェーンを含む少なくとも3500のスーパーが日本国内におけるクジラやイルカ製品の販売を中止した。ヤフーやアマゾンジャパンも鯨肉販売を中止した。 グリーンピースやシーシェパードといった反捕鯨NGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブルがある。シーシェパードの暴力的な示威活動はカナダ、デンマーク、日本、ワシントン州のアメリカ先住民の部族であるマカー族に対して起こされている。 反捕鯨には日本人への人種差別が基調にあるという言説によれば、1978年6月のIWCロンドン総会で日本代表団は反捕鯨団体に赤い染料をかけられ、「殺人者!バーバリアン(野蛮人)!お前たちが殺した鯨の血だ!」と怒号がかけられ、そうした様子は「この野蛮人をみよ」としてBBCで放映された。1979年の総会でもロンドンのトラファルガー広場で「日本死刑執行」と称して眼鏡をかけた人形を吊るし、銛で刺すデモンストレーションや、日の丸が焼かれるなどした。こうした行動は同じ捕鯨国のノルウェーやソ連に対しては行われなかった。しかしながら、捕鯨問題に詳しいC.W.ニコルは日の丸が焼かれた事件について、飽くまでも差別的な個人が煽っているのであり、人種全体がそうだという訳ではないのだと語っており、また、捕鯨問題は黄色人種と白人の対立ではない、反捕鯨主義者の一部と日本人の一部が人種問題に扇動しているとしている。 2010年1月のオーストラリア人1000人を対象にした世論調査では94%が捕鯨に反対している(「ニューズウィーク日本版』2014年4月15日号より)が、南極海の領域を管理しているという点からのテリトリー意識や観光資源としての利益保護という点もあるのだろうとされる。 2008年にはグリーンピース日本支部によるクジラ肉窃盗事件が発生した。平成17年には日本鯨類研究所がグリーンピースジャパンに対して暴力的な妨害について公開質問状を出した。 岸上伸啓は環境NGOグリーンピースは、反捕鯨を資金集めの手段としており「抗議ビジネス」であり、グリーンピースは支援者から注目を集め資金をえるために,クジラに関して誇張した情報を流して人々の不安心理を掻きたてメディアを操作し、欧米の政治家の中にはクリーンなイメージをアピールし,支持者を集める手段として反捕鯨を訴える者がおり、捕鯨問題が政治的に利用されているとの批判があるとしている。 また、この問題は、日本の経済が好調であった時期に欧米諸国の自然保護団体に同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、ジャパンバッシングに起因する反日運動の一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。 尚、川端裕人によると、ニュージーランドは日本に好印象を持っており、グリーンピース・ニュージーランドの反捕鯨キャンペーンのキャッチフレーズは「日本は好きだけど、捕鯨には胸が痛む!」であると指摘している。 日本の統一戦線義勇軍は榎本正隆をオーストラリアへ派遣して、2008年から一年間オーストラリアで反シーシェパードの活動を行っていた。榎本によるとオーストラリア人の中には日本は捕鯨をした方がいいと言う人も沢山いて、大半のオーストラリア人は反シーシェパードである(あれは下品)と述べている。 主権回復を目指す会はシー・シェパードが協力した映画『ザ・コーヴ』を反日映画として、日本国内で公開禁止の抗議活動を強硬に行った。しかしながらこの抗議活動は製作に関与していない日本国内の映画配給会社や映画館の支配人の自宅での抗議であり、支配人の高齢の母親が攻撃されるに至って、家族を攻撃するのは右翼であれ左翼であれ許されざることであり、統一戦線義勇軍や一水会など他の右翼団体の反発を招いた。前述の統一義勇軍の榎本曰く、外国の映画で日本人同士がぶつかっている奇妙な構図だと指摘している。 デンマークのフェロー諸島のゴンドウクジラ協会は捕鯨のPR活動を行っているが、これはシー・シェパードによる妨害活動に対抗する為に設立されたものである。 日本は2018年12月26日、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、翌2019年7月1日から商業捕鯨を日本の200海里水域内で再開することを発表した。 日本においては、2001年に内閣府による捕鯨に関する複数項目の世論調査が行われ、賛成多数となっており、また2006年にはインターネットサイトYahoo!によるアイスランドの捕鯨再開に伴う商業捕鯨の賛否を問うアンケート調査が行われ、こちらも賛成多数となっている。 近々においても2018年に外務省により外交に関する電話での世論調査が行われ、複数項目の内、IWC脱退と捕鯨再開の政府方針への賛否の項目で賛成多数となっている。 捕鯨に賛成する人が多数であるが、捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、捕鯨を批判・否定するという価値観の押し付けに対する反発という側面が強いという見方もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "捕鯨問題(ほげいもんだい)とは、クジラおよびイルカの捕鯨の是非に関する国際的な倫理問題、社会問題である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在では反捕鯨側に立っている国々も、過去には捕鯨国だった場合がある。それらの国々の捕鯨も、最初は沿岸捕鯨から始まった。19世紀末にはノルウェー式捕鯨が開発され、ナガスクジラ科の捕獲も進んだ。鎖国中の日本と異なり遠洋航海が可能だった国々では、沿岸捕鯨で鯨が減れば、沖合捕鯨・遠洋捕鯨へと移行し、さらに他の漁場へ移動して捕鯨を続けた。初期には食肉利用も行っていたが、十分な保存技術がなかったため、鯨油・ヒゲなどの資源のみを目的とするようになった。南極海でも20世紀初頭に本格的な捕鯨が始まった。19世紀から20世紀半ばにかけてアメリカやオーストラリアやノルウェーは灯火燃料や機械油用の鯨油目的の捕鯨を当時世界最大の規模で盛んに行ったため、絶滅寸前に瀕した鯨種もいたといわれ、主にセミクジラやマッコウクジラが減少した。1931年にシロナガスクジラ捕獲はピークとなる。以後もナガスクジラなどのより小型の鯨種に移行して捕獲が続いたが、最終的には、鯨類資源の減少と鯨油需要の低下から不採算となる。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では鯨文化が全国で育まれていた事から欧米の商業捕鯨とは一線を画す漁法が行われていたものの、前述のアメリカの捕鯨船の捕鯨により日本近海は短期間の内に資源の枯渇を招いた、とする論調もある。しかし、欧米の捕鯨の対象種が主としてマッコウクジラとセミクジラを対象にしているのに対し、網捕り式捕鯨では当時欧米が捕れなかったシロナガスクジラなども獲物に出来たため、必ずしも欧米のみに起因する資源枯渇であったかは疑問視されている。特にアメリカ式捕鯨で重視されたのはマッコウクジラであるが、殆ど食用に向かないマッコウクジラは日本の捕鯨ではあまり重視されていなかった。セミクジラに関しては日本近海での欧米の操業は行われてはいない。また、そもそも世界規模の航海を伴うものの、この時代のアメリカ式捕鯨とは帆船の母船から肉眼でクジラを捜し、発見後手漕ぎのボートを降し、人力にて銛を打ち込むというものであって、全盛期で世界全体で800隻程度が年10頭程度ずつを捕獲していた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本各地に点在していた鯨組の多くが姿を消していった。この為日本は前述のノルウェーなどとともに20世紀初頭から南氷洋捕鯨に参加している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本の鯨肉食文化は縄文・弥生時代から存在し、弥生時代にはより大型の鯨の捕鯨も行われていたとみられる。北海道でも古代に捕鯨が始まっていた。江戸時代には鯨組の成立など大規模化が進み、セミクジラなどを組織的に捕獲して、鯨油や鯨肉などとして商品化していた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "江戸時代末期になり、アメリカ・イギリスなどの諸国からの多数の捕鯨船が日本近海で活動した(この頃の遠洋捕鯨は「アメリカ式捕鯨」と呼ばれる帆船捕鯨。「白鯨」などで描写された)。その結果、日本近海でも鯨の個体数は激減し、日本の古式捕鯨は壊滅的打撃を受けた(なおペリーからの開国要求及び日米和親条約は当時日本沿岸で活動していた捕鯨船への補給も一因であり、小笠原諸島に居住している欧米系島民は、定着したアメリカ捕鯨船員の子孫)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、明治時代になると近代捕鯨法が導入され、定着したのはノルウェー式捕鯨だった。これにより捕鯨対象鯨種もシロナガスクジラなどが中心となる。古式捕鯨法は、1878年(明治11年)の太地における海難事故「大背美流れ」などの海難事故もあって打撃を受け、九州の一部を除き近代捕鯨産業への変身には失敗して、沿岸域でのゴンドウクジラやミンククジラを対象とした捕鯨として存続した。もっとも、古式捕鯨の行われた地域は近代捕鯨産業でも重要な拠点だった。捕鯨が近代化され沖合捕鯨へと漁場を拡大するのと平行して、日本も1934年以降は鯨油を目的として南氷洋まで船団を派遣して捕鯨を実施。第二次世界大戦が始まると、母船式捕鯨は一旦中止された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "戦後、日本の食糧事情を改善するため、大量かつ容易に確保が可能な蛋白源としてクジラが注目され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の協力も得て捕鯨が推進され、南氷洋での捕鯨も復活した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1931年にシロナガスクジラ捕獲はピークとなったが、同時期に国際的な捕鯨規制が始まり、1931年のジュネーブ捕鯨条約、1937年の国際捕鯨取締協定などが結ばれた。セミクジラとコククジラの禁漁や、漁期制限、未成熟個体の捕獲禁止などが内容だった。鯨油の生産調整も行われた。日独ソなどはこうした条約への参加には積極的でなかった。日本は1939年に加盟するはずだったが、第二次世界大戦の勃発のため未加盟に終わった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "戦後の1946年、上記の各条約を発展させる形で、国際捕鯨取締条約が結ばれた。これにもとづき1948年に国際捕鯨委員会 (IWC) が設置され、日本も独立直後の1951年に加入した(捕鯨国のうちスペイン・ポルトガル・チリ・ペルーは1970年代以降の加盟)。捕獲枠は1963年以降大きく縮小され、1966年にザトウクジラとシロナガスクジラは禁漁となった。コスト上昇に耐えられず、捕鯨業から撤退する国が増えた。1960年代にイギリス・オランダ・オーストラリアなどが捕鯨から撤退した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1950年代、実質他国の撤退する中で日本が一人勝ちしていた時期に、効率の良い鯨から資源が減少し、当時IWCの科学委員会ではシロナガスクジラの全面禁漁を提案していたが、日本、ソ連、ノルウェー、オランダは受け入れなかった件などが紛争の火種になったといわれ。1960年代末、鯨類全面禁漁の意見が出始めた。米国は1972年の国連人間環境会議で商業捕鯨の10年間一時停止を提案し採択された。IWCでも同年にモラトリアム提案を提出したが、科学的正当性に欠けるとの理由で否決された。アメリカが反捕鯨を持ち出したのは、当時話題になっていた核廃棄物の海洋投棄問題から目をそらせるためであったと国際ピーアール(現ウェーバーシャンドウィックワールドワイド)「捕鯨問題に関する国内世論の喚起」に記されている。この他、人間環境会議に出席した日本代表の米沢邦男は、主催国スウェーデンのオロフ・パルメ首相が、ベトナムでの米軍の枯れ葉作戦を非難し環境会議で取り上げることを予告していた。アメリカはそれまでIWCに捕鯨モラトリアムを提案しておらず、それを唐突に焦点にしたのは、ベトナム戦争の枯葉剤作戦隠しの意図があったのではないかといわれている。しかしながら、同会議に日本から出席した綿貫礼子によれば、当時は国連主催の会議でベトナム戦争には言及しない事が暗黙の了解となっており、同会議場ではアメリカの「地球の友」と英国の「エコロジスト」を出しているグループが共同で出したミニ新聞には国連会議の動きが記されており、国連会議で鯨に対する日本政府の姿勢を攻撃するニュースも記されていた。また、人間環境会議にいたる状況を調べた真田康弘によると、人間環境会議から八ヶ月前にIWCで採択していた南半球の一部海域でのマッコウクジラの捕獲制限措置に対して、日本が充分な科学的根拠がないと異議申立てを行い、捕獲制限に従わない意向を表明した為モラトリアムを不要としてきた米国の立場は著しく困難になり、米外務省担当官が「もしアメリカがモラトリアムを本当に追求することとなれば、適切な国際フォーラムに提起することになるだろう」と当時の在米日本大使館佐野宏哉一等書記官に対して示唆した。その後、米国政府ではCEQ(環境問題諮問委員会)から持ち上がった捕鯨政策転換に同調した、ロジャーズ・モートン内務長官が1971年11月に十年モラトリアムの支持を公言した、と人間環境会議に至る過程の米国内部の変遷を明かし、人間環境会議で米国が唐突に反捕鯨の提案を行ったとする見方を否定している。その結果、人間環境会議でスウェーデンのオロフ・パルメ首相は言及しないのが暗黙の了解とされていた中で、枯葉剤作戦を人道的見地および生態系破壊の面から非難するに至ったと考えられている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1982年、反捕鯨国多数が加入したことでIWCで「商業捕鯨モラトリアム」が採択される。これは、NMP方式によるミンククジラの捕獲枠算定が、蓄積データ不足で行えないことを名目とするものである。この「商業捕鯨モラトリアム」は、1982年7月23日のIWC総会において採択された国際捕鯨取締条約附表に属するものであるが、1972年と1973年のIWC科学委員会において「科学的正当性が無い」として否決されていたもので、1982年においてはIWC科学委員会の審理を経ていないことから、国際捕鯨取締条約の第5条2項にある付表修正に要する条件である「科学的認定に基くもの」に反しており同条約違反で法的には無効であるとの立場を日本は取っている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本・ノルウェー・ペルー・ソ連の4カ国が異議申し立てをしたが、その後日本とペルーは撤回した。日本が1985年に異議申し立てを撤回したのは、米国のパックウッド・マグナソン法に基づいて同国の排他的経済水域内における日本漁船の漁獲割り当て量が大幅に削減される可能性があったためであった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アメリカは日本に異議申し立てを撤回しなければ、アメリカの排他的経済水域から日本漁船を締め出すとの意向が伝えられたため、日本はやむなくモラトリアムを受け入れるかわりに、科学的調査として「調査捕鯨」を開始した。1988年に日本は商業捕鯨から撤退した。異議撤回の背景には、米国による水産物輸入停止などの制裁措置があった。同様の制裁措置は、1990年代にはアイスランドに対しても行われた。アイスランドは1992年以降一時IWCを脱退していたが、2003年にモラトリアム条項に異議ないし留保を付して再加入している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1997年にアイルランドから「調査捕鯨を段階的に終了し全公海を保護区とする代わりに日本の沿岸捕鯨を認める」とする妥協案が提示され継続的に審議されたが、合意に至らなかった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2000年頃にアメリカは、日本の調査捕鯨停止を求め、形式的ながら制裁を再度発動した。日本は沿岸捕鯨の復活を訴え続けてきたが、2007年のIWC総会でも認められず、政府代表団は「日本の忍耐は限界に近い」と脱退を示唆し、2018年(平成30年)12月26日に、日本国政府はIWCからの脱退を通告した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "またモラトリアムとは別に1979年にはIWCでインド洋の保護区指定などが採択された。南極海については保護区とする付表修正が採択され、南太平洋と南大西洋についても、それぞれオーストラリアなどと南米諸国により保護区化が提案がされた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1974年にIWCは鯨種ごとの規制である新管理方式 (NMP) を導入。これによりナガスクジラやイワシクジラの禁漁措置が適切に行われるなど一定の成果を収めた。残る捕獲対象はミンククジラ・マッコウクジラ・ニタリクジラのみとなった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1994年、少ないデータでも捕獲枠が算定できる改訂管理方式(RMP)が採択されて、現在までに北西太平洋のミンククジラについては捕獲枠の試算が完了している。なおRMPによる捕獲枠算定には調査捕鯨のデータは必要ない(RMPの運用に調査捕鯨のデータは不要)。現在のIWCでは捕獲枠の実効確保のための監視などの枠組み(RMS)の交渉が行われていたが、2006年に交渉は決裂した。環境保護団体グリーンピースなどは、たとえRMSが採択されても乱獲を防げないと主張し、一切の商業捕鯨に反対している。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2010年5月、オーストラリアは、南極海での日本の調査捕鯨は実態は商業捕鯨とし国際条約に違反しているとして停止を求め国際司法裁判所に提訴した(南極海捕鯨事件)。2010年12月、ニュージーランドは、オーストラリアによる提訴に、意見陳述などを行うなど協力すると発表した。2014年3月31日に国際司法裁判所は、日本の南極海での現状の調査方法による調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であり、調査捕鯨とは認められないとする判決を下し、オーストラリア側の主張が認められた。日本は判決を受けいれるとした。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2023年、新経済圏構想「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の交渉で、米国が捕鯨反対の立場を協定に明記するよう求めたが、日本の抵抗により見送られた。米国の提案が通っていれば日本の沿岸や沖合で行われている商業捕鯨が難しくなる可能性があった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "基本的には、今後捕鯨を行うことに賛成か、反対かの対立構造があり、2010年5月時点で国際捕鯨委員会(加盟国88カ国)の内、捕鯨支持国は39カ国、反捕鯨国は49カ国ある。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "捕鯨をしている国々には、ロシア、日本、インドネシア、ノルウェー、アイスランド、フェロー諸島(デンマーク自治領)、セントビンセント・グレナディーン、カナダなどが挙げられる。また、カナダは1982年に国際捕鯨委員会を脱退している。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国は、国内少数民族の先住民生存捕鯨は是認しているが商業捕鯨には反対している。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "捕鯨反対国には、商業鯨油目的の捕鯨を行っていた元捕鯨国のオーストラリア、フランス・スペインなどのEU加盟諸国、ラテンアメリカ諸国(反捕鯨の立場を鮮明にしているアルゼンチンやブラジルなどが主導するかたちで、他のラテンアメリカ諸国も反捕鯨の立場で足並みをそろえている)、ほかニュージーランド、インド等が中心となっており、これに与するNGOも多い。各国で反対理由は異なる。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "IWC非加盟国による捕鯨(IWC管轄外の小型鯨類は含まない)もある。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "米国やカナダでは先住民の「伝統的な生業」(狩猟漁撈)活動の継続は先住権として認められており、アメリカのアラスカ州のイヌピアックやカナダ・イヌイットにはホッキョククジラを捕獲する権利が承認されている。ほかグリーンランド、ロシアなど北極圏に住む北方先住民、カリブ海のベクウェイ島などでの捕鯨は、「原住民生存捕鯨」として一定の捕鯨がIWCでも認められている。この原住民生存捕鯨は、原則として近代的なノルウェー式捕鯨と異なる伝統的な捕鯨手法に基づくものとされ、致死時間の短縮に寄与する銃器の使用などは認められている。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "IWC管轄外の小型鯨類の捕鯨は現在も各地で実施されている。", "title": "捕鯨国と捕鯨反対国" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "海の憲法とも評される海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)に日本も1996年に批准している。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本は国連海洋法条約第116条 - 第120条に基づき「公海での自由な漁業の権利」として公海利用に関する国際法上の根拠としている。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかしながら、この条約では200海里の水域内では沿岸国の主権的権利を求める一方、公海における海洋生物の利用は国際管理体制の確立を求めるのが原則であり「公海の利用には国際社会の合意が必要」とされる。たとえば、漁獲高を維持するための「資源保護」に協力する義務があると定めており、第65条において締約国は海洋哺乳類の保存のために協力するものとし、鯨類については国際捕鯨委員会等の国際機関を通じて管理を行なう義務があるとされている。したがって、もしIWCを脱退すればモラトリアムなどのルールに縛られない一方、「今以上に反捕鯨勢力から違法だという批判にさらされ、それに対する法的反論が難しい」ことが水産庁漁業交渉官によっても認識されている。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、過去には多くの国が公海捕鯨を行ってきたが、公海での捕鯨をめぐる争点は主として南極海での捕鯨を求める日本のみを対象としたものとなっている。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南極海洋生物資源保存条約第6条において、同条約のいかなる規定も、国際捕鯨取締条約に基づき有する権利を害し及びこれらの条約に基づき負う義務を免れさせるものではない旨を規定している。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)では、付属書Iにシロナガスクジラ、ザトウクジラ、ミンククジラなどの鯨類を掲載し、これらについては商業目的での貿易並びに海からの持込を禁じている。「海からの持込」規定は、ワシントン条約の適用範囲を、公海での漁獲・捕獲活動に広げる意義を有している。条約案が検討された当初の構想ではクジラ類に対するIWCでの規制が不十分であるとの自国の環境保護団体からの強い突き上げを受け、米国政府が「海からの持込」規定を条約草案に挿入、1973年に開催されたワシントン条約採択会議で強く同条項の盛り込みを求め、この結果挿入された経緯がある。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本は鯨類に関してミンククジラ、イワシクジラ(北太平洋のものを除く)、ニタリクジラ、ナガスクジラ、イラワジイルカ、マッコウクジラ、アカボウクジラにつき留保を付し、上記鯨種については同条約の適用を免れた。但し留保を付していないザトウクジラと北太平洋に生息するイワシクジラについては、公海上での標本捕獲・持込について、当該持込がされる国の科学当局(日本では水産庁)が、標本の持込が当該標本に係る種の存続を脅かすこととならないこと、標本が主として商業目的のために使用されるものではないと認める必要がある。なお、経済的な利益獲得のための活動のみならず、非商業的側面が際立っていると明らかにはいえない利用方法についても「商業目的」と解釈するものとされている。以上から鑑み、日本によるザトウクジラと太平洋イワシクジラ捕獲はワシントン条約の諸規定を侵害する違法行為にあたるとの見解が元ワシントン条約事務局長で国際法学者のピーター・サンド教授により提起されている。これに対して日本鯨類研究所は、商業目的であるか否かについての判断は締約国に委ねられていると主張している。なおワシントン条約違反行為等に関しては、締約国会議の下に常設委員会が設けられており、同委員会は締約国会合において採択された諸決議に即し、条約違反国に対する貿易制裁を締約国へ勧告する権限を有している。", "title": "国際法上の捕鯨問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "捕鯨を巡る争点を以下、概説する。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一般的に捕鯨と反捕鯨の対立とされる場合も多いが、中立的な立場や、捕鯨自体には賛成するもののその方向性において様々な立場があり、捕鯨と反捕鯨の対立という短絡的な解釈には問題があり、現実の構図はこの一般的理解よりもはるかに複雑であり、問題を単純化、一般化するのは必ずしも容易ではない。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1999年の漁業白書によれば、鯨類の餌消費量は2.8 - 5億トンと日本鯨類研究所が推定した。大隅清治は1999年の著書で、増えすぎたミンククジラなどの鯨を間引くことは正に一石二鳥の効果をもたらす、としている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "元沿岸小型捕鯨担当の水産庁調査員の関口雄祐によれば、この効果を実現する為には「海洋全体のコントロール」が絶対条件であるものの、80種の鯨類の管理は単一種の生物を管理する牧場や畑とは段違いに難しく、気象や温暖化も完全に予測できない現在の人類には不可能であるとしている。また、大泉宏は確かに鯨類は沢山の餌を食べているが、鯨類の餌生物は必ずしも人類が利用する生物ばかりではない(一例、ナンキョクオキアミは現在では然程大きい漁業ではない)。イシイルカが食べるスケトウダラのように漁獲高を圧迫しているのではないかと見られるものもあるが、豊漁期のマイワシは年間百万トン近い漁獲が有り、鯨類の他に魚類や海鳥が捕食していたが、食べきれないほどの数であり、マイワシ資源学者はそれで減ったとは考えておらず。鯨類と漁業との競合は個々のケースで考える必要があるとしている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "調査捕鯨を前提にした農林水産省の2011年の「鯨類捕獲調査に関する検討委員会」第3回と第4回において、この件に触れられており。横浜国立大学教授松田裕之は「数学論モデル的に立証された『ピーター・ヨッジスの間接効果理論』は捕食者と被捕食者以外の第三者に対する影響の間接効果の理論であり、これが鯨類(というより特定の水棲捕食生物)による捕食が餌生物の減少をもたらすとは限らない」と指摘し、WWFジャパン自然保護室長岡安直比は「生態系の変動は一種類の動物だけを見るのではなく、全体的なバランスの上で考えなければいけない。全体的に生態系が絶滅に追いやられるほど大きく崩れた事例はあまり観察されてはおらず、国際社会の中では科学的ではないとみられている。」と指摘した。それに対して、野村一郎は「鯨害獣論は科学的に検証が難しく、それよりも鯨の資源が多いから捕っていいのだと言う議論の方が受け入れやすい」とし、東海大学海洋学部専任講師大久保彩子は「鯨害獣説は2002年ぐらいにPRが盛んに行われていたが、科学的妥当性に批判があり、", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、2009年のIWC会合で日本の政府代表団が日本の科学者が漁業資源の減少の要因がクジラであると結論づけた事がないとの発言を指摘し、仮説に過ぎないものを大々的にアピールするのは日本の科学の信頼性を損ねる」とし、高成田亨は「生物学の権威が疑問を呈している点は真剣に考えるべき所である」としている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "バーモント大学のジョー・ローマン(英語版)は「我々が新たに検証した複数の研究では、クジラのような大型捕食動物が存在するほうが、生態系における魚類の個体数が多くなることが明らかになっている」と2014年に指摘した。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、大型鯨類の糞に含まれる大量の窒素やリンや鉄は植物プランクトンの発生を促し、海洋生態系全体への恩恵があるだけでなく、二酸化炭素の抑制にも効果があるとされている。さらに、大型鯨類の死骸による炭素の吸収も指摘されている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2009年6月にマデイラ諸島で開催された国際捕鯨委員会の年次会合において、森下丈二(水産庁参事官)は、日本政府代表代理としての立場から、鯨類の増加による漁業資源への被害を実質的に撤回した。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国際捕鯨委員会科学委員会の推定資源量では、", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "であり、シロナガスクジラやセミクジラは絶滅の危険性が高い。また、クロミンククジラについては増加に度々引き合いに出される76万頭という生息数は下方修正されており、増加の停止が確認されている(後述)。なお種としての生息数が豊富であっても、世界中に生息する種類では生息域によっては系群単位で危機にある場合もあり、そういった事実を鑑みた上で資源管理は地域ごとにおこなわなければならない。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "捕鯨に対して、数をコントロールしやすい「家畜」と違い鯨類の捕獲はその減少をコントロールできなくなるという懸念もグリーンピースが主張している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "国連食糧農業機関の2008年報告によれば、海洋水産資源の利用は19%が過剰漁獲、8%が枯渇、1%が枯渇から回復しつつあるとされ、52%が満限利用の状態にあり、20%が適度な利用又は低・未利用の状態とされている。FAO水産委員会の「漁獲能力に関する国際行動計画」に即し水産資源を持続的に利用していくためには、各国による水産資源管理の一層の強化が求められている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "自然保護の観点からは、「人間による捕鯨を含む漁業によって海洋生態系が撹乱されている」という海洋資源の過剰搾取問題がある。捕鯨は、海洋生態系ピラミッドの頂点に立っていた鯨類をバイオマス換算で半分以下まで減らし、その結果海洋生態系はダメージを受けている可能性がある(鯨類の餌としての水産資源消費も鯨類のバイオマス総量に比例して激減していると推測され、鯨類の死体を経由しての生態系ループもまた激減している)。これまでの人類による海洋の過剰搾取を見直す必要がある。この問題は鯨類だけではなく、マグロ(ミナミマグロやタイセイヨウマグロを含む)など特定魚種の集中的漁獲について同様の問題を抱えている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、化学物質汚染などにより海洋生態系の状況の悪化も指摘されており、海洋の利用は抑制に転じるべきであると言う主張がある。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "日本が電気銛からライフルを中心に切り替える旨を表明し、これを評価する国が多かったため、イギリスなども提案を撤回した。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "致死時間の長さの一因について日本鯨類研究所は「年齢測定のために耳垢栓を無傷で入手する必要があり、致命傷を与えうる部位のうち頭部を避けて捕鯨砲を打ち込んでいたため」と説明。その後独自に開発した効率の高い爆発銛の使用により陸上野生動物のケースに劣らない即死率と平均致死時間を達成している、と反論している。 日本鯨類研究所によれば、2005-2006年の調査捕鯨において平均致死時間(銛命中から致死判定まで)は104秒、即死率は57.8%である(抗議団体の妨害を受けていない場合)。ノルウェーが発表した2000年のデータでは、平均致死時間が136秒、即死率が78%である。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本の沿岸でのイルカ漁についても致死時間が長いとの批判がされたため、フェロー諸島で使用されている技術の導入が図られている。この方法によれば、脳への血流を即時に停止させ、即死に導くことができる。ただし、スジイルカなど一部の種については、水際で激しく動くために適用が困難で、さらなる改善研究が行われている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "最新の食肉用家畜の屠殺においては、専用の道具(主に屠殺銃)および炭酸ガス麻酔法を用いた安楽死が多いのに対し、鯨は専用施設内での殺処理が行えず、致命傷でなければ死ぬまで時間がかかり、動物福祉の観点から非人道的であるとされる。乗組員の安全性(「大背美流れ」など)や人道的視点などからの致死時間短縮は比較的古くからの課題であり、鯨を感電死させる電気銛などの研究が戦前からあった。日本でも1950年代に電気銛の試験が行われ、鯨の即死が確認されたものの、有効射程の短さなど運用上の困難から主力にはならなかった。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "元々食性の生物段階が低いヒゲクジラ類では汚染の程度は低く、南極海産のヒゲクジラについては汚染はほとんどないことも判明している。南極海のミンククジラにも汚染物質がほとんどないことが南極海鯨類捕獲調査で判明している。特に南極海のクロミンククジラの脂皮や筋肉中に蓄積されたPCBやDDTなど人工有機塩素化合物や水銀はごく微量で、北半球の個体と比べると10分の1以下の値である。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2003年の厚生労働省調査ではマッコウクジラやゴンドウクジラ、ハンドウイルカなどのハクジラ類全般について、1970年代に定められた遠洋沖合魚介類に関する暫定的規制値を上回る高濃度のメチル水銀やPCB類が検出された。他方でヒゲクジラ類については、北西太平洋産のミンククジラやニタリクジラに関しては、ミンククジラの脂皮からは暫定規制値を超えるPCB類が認められたものの、メチル水銀は暫定規制値を超えるサンプルは無かった。流通量の過半数を占めていた南極海産のミンククジラ肉については、水銀・PCBともに汚染はほとんどないことが確認された。メチル水銀やPCB類が人体に摂取された場合の健康に生じる影響に関してはフェロー諸島での調査で妊娠中の母親体内の水銀濃度が高度となった場合に胎児の発育に一定の影響を与えることが確認された。それ以外の場合については、影響は科学的には確認されなかった。以上を踏まえて、日本の厚生労働省は、妊婦を対象とした魚介類の摂食ガイドラインを設定し、マグロやキンメダイと並び、ハクジラ類も摂取量の目安が定められた。ただし、これはあくまで妊婦のみを対象としたもので、幼児や授乳婦などを対象とするものではない。また、ミンククジラなどのヒゲクジラ類は汚染が軽度であるとして、沿岸域のものも含めて制限の対象外である。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2010年の国立水俣病総合研究センターによる太地町の健康影響調査で、全国の他地域と比べて平均で4倍超の水銀濃度を毛髪から検出され、うち43人(調査人員の3.8%)の対象者は毛髪水銀濃度の下限値を上回ったが、日本人の平均の70倍の水銀が蓄積している事例がみられ、これは水俣病患者のレベルに達している。濃度が比較的高い182人はメチル水銀中毒と思われるような健康への影響は認められなかった が、非常に心配な状況と見る向きもある。太地町は水銀の影響を受けやすい子供の調査を実施すると発表した。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "食の安全の観点から、鯨肉が有害物質によって汚染されており、捕獲自体も止めるべきで、沿岸域の鯨肉、特に栄養段階が高次であるハクジラ類の鯨肉については安全性に問題があると言う主張がある。人間・自然由来の海洋の化学物質が生態系ピラミッドの上位者であるクジラ類・イルカ類の体内に濃縮されること、特に、年齢を重ねるごとに脂溶性の物質が脂肪細胞に蓄積される。その主たるものは水銀および有機塩素系化合物(PCB等)である。生態系ピラミッドの上位である他のマグロやカジキなどの大型魚類についても同様の指摘があるが、哺乳類のクジラ類の寿命は長く、前述の通り年齢を重ねるごとに蓄積される汚染物質が多くなる為、その値はクジラ類ほど高くはない。と言う主張がある。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本捕鯨協会によると、日本においてはクジラはただ単に食料としてではなく骨や皮まで全て廃棄することなく利用されていた。縄文時代には骨が土器の製造台として使われ、飛鳥時代に仏教が伝来して一般的に肉食が禁止されると、当時は魚と見なされていたクジラから貴重な動物性タンパク質が摂取された。江戸時代初期まではクジラは貴重な食材として扱われ、饗応品や献上品に利用された。江戸時代初期以降に組織的捕鯨が始まると供給量が一気に増大し、赤肉や皮類は塩漬けされて日本全国に供給され、江戸時代中期に庶民の一般的な食料となり、時節やハレの日に縁起物として広く食されるようになり、多種多様な鯨料理と鯨食文化が生まれた。一例として、毎年12月13日に塩蔵した鯨の皮の入った鯨汁を食べる「煤払い(すすはらい)」や、70種類の鯨料理を紹介した書物「鯨肉調味方」があげられる。食文化以外では「花おさ」に代表される縁起物としての工芸品でもある鯨細工は、クジラの歯・骨・鯨ひげを材料とし、鯨ひげは人形浄瑠璃の板バネやカラクリ人形のゼンマイにも使われてきた。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ノルウェーやアイスランドなどにも鯨食文化が残っている。また、鯨肉は美味であるだけでなく、高タンパク、低脂肪、低カロリー、でコレステロール含有量も少なく、脂肪酸には血栓を予防するエイコサペンタエン酸(EPA)や頭の働きをよくするドコサヘキサエン酸(DHA)、抗疲労効果のあるバレニン成分が豊富に含まれ、生活習慣病、アトピー等のアレルギー症状を軽減する。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ナンシー・シューメイカーは、かつて鯨肉食を普及させようと試みたが失敗した米国政府は捕鯨規制には鯨肉を食す国の視点を取り入れずに規制しようとしたため、商業か生業か、文明か野蛮かという二分法の枠組みで扱われた。石油開発によって鯨油は産業資源でなくなったため、アメリカはクジラの捕獲を禁止してもアメリカ人は失うものは何もなく、すなわち鯨肉はアメリカの文化的な好みに合致する味にはならなかったため、国際合意に負の影響を与えていると指摘している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "このような食文化その他の文化面における対立には、中国の一部、韓国やベトナムにおける犬食文化がある。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "先史時代、縄文時代前期より日本では捕鯨が行われてきた。江戸時代の鎖国政策によって遠洋航海が可能な船の建造が禁止されていたため、遠隔捕鯨化に伴う産業的な拡大は限定的で、これは明治以降の沿岸捕鯨の近代化・沖合捕鯨の開始・南極海商業捕鯨(輸出向けの鯨油の確保による外資稼ぎが主目的で、冷凍船の導入などで持ち帰りが可能に)にもある程度引き継がれた。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2002年のIWC下関会議では、原住民生存捕鯨枠には反捕鯨国が含まれる一方で、日本に対しては捕獲枠がいっさい認められず、調査捕鯨も引き続き反捕鯨国から非難され、また先住民には絶滅危惧種であるホッキョククジラなどの捕獲を認める一方で、日本に対しては絶滅の危機に直面しているわけではないクロミンククジラの捕獲も許さないという対応がとられた。日本は「反捕鯨国による二重基準である」と反発し、生存捕鯨の採択を否決に持ち込んだ。このため、生存捕鯨枠の運用は一時停止を余儀なくされた。ユージン・ラポワントは欧米人が植民地主義の贖罪意識から絶滅危惧種のホッキョククジラ捕獲を自国の先住民に認め、他方で日本やノルウェーの捕鯨を認めない理由について、かつて両国は自分たちの意のままにならなかったためであると指摘している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "日本が求める沿岸捕鯨は、日本の伝統捕鯨とは捕獲方法も対象鯨種も異なり、「原住民生存捕鯨」と同じカテゴリで認められる可能性はない。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "NGOグリーンピースは2007年に日本が提出した議案「沿岸小型捕鯨の捕獲枠」は「原住民生存捕鯨」と同列に扱い、また「調査捕鯨」の拡大解釈とともに二重基準であると批判している。またグリーンピースは「原住民生存捕鯨」及び鯨肉食自体にも反対せず。逆に日本政府がアイヌ民族の寄り鯨利用も禁じるなど先住権を認めず、近代捕鯨を「原住民生存捕鯨」に見せかけ偽装することは先住民族を傷つけるものであると非難している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "国際捕鯨委員会(IWC)の目的の一つが捕鯨産業の秩序ある発展であることは、IWC設立の根拠となる国際捕鯨取締条約にも明確に記載されている。 国際捕鯨取締条約8条ではIWCメンバー国は自国が適当と考える条件で科学調査を目的として鯨を捕獲できるとしており、商業捕鯨モラトリアムや南大洋鯨類サンクチュアリー(保護区)に拘束されずに、捕獲調査を行うことができると条約で認められている。むしろ、モラトリアムはもう必要がなく、南大洋の永久保護区(サンクチュアリー)は資源量と無関係に設定されているため、条約に反している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1994年、日本をのぞいてIWC全会一致で南極海は永久保護区(サンクチュアリー)に指定された。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "調査捕鯨の仕事は大別すると、鯨体を捕獲する捕獲調査と個体数を数える目視調査がある。鯨の推定頭数の算出や生態調査も目的としている。平行してバイオプシー調査も行っており、こちらでは確保不能なシロナガスクジラなどの種のサンプルも集めている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "調査捕鯨が開始された理由は、1982年のモラトリアム導入に際し反捕鯨国側は「現在使われている科学的データには不確実性がある」ことを根拠にして安全な資源管理ができないと主張したためであった。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本捕鯨協会によれば日本の南極海鯨類捕獲調査捕鯨ではクロミンククジラ、ザトウクジラなど各種クジラが増加していること、鯨種や成長段階による棲み分けの状態、回遊範囲が非常に広範囲であること、1980年代後半から現在までクロミンククジラの資源量推定値に大きな増減はみられず、個体数は安定していることも明らかになり、多様な調査結果が得られている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "北西太平洋鯨類捕獲調査においては、日本周辺のクジラは豊富であること。DNA分析で太平洋側と日本海側の鯨は別の系群にあること、などがわかった。IUCNのレッドリストで「絶滅危機」に分類されているイワシクジラの調査捕鯨では、北西太平洋イワシクジラの生息数を2004年6月までは28,000頭、2004年9月からは67,600頭、2009年5月からは28,500頭と考えており、年間100頭程度の捕獲はイワシクジラの安定的な生息には影響を与えないとしている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "調査捕鯨に関して日本は1987年から2006年までの間に、査読制度のある学術誌に91編の論文を発表し、IWCの科学小委員会に182編の科学論文を提出するなどしており、2006年12月のIWC科学小委員会では、日本の研究について「海洋生態系における鯨類の役割のいくつかの側面を解明することを可能にし、その関連で科学小委員会の作業や南極の海洋生物資源の保存に関する条約(CCAMLR)など他の関連する機関の作業に重要な貢献をなす可能性を有する」と結論づけ、1997年のIWC科学小委員会においても、日本の調査が「南半球産ミンククジラの管理を改善する可能性がある」と評価されている。「捕獲調査は商業捕鯨の隠れみの」という批判に対し、クジラ調査は専門の学者が調査計画に基づいて船を運航させて、若干の捕獲を行い、耳垢栓や卵巣などの標本を採取し、調査後の鯨体は完全に利用することが条約(ICRW第8条第2項)で定められているので調査の副産物として持ち帰り、市場に出し、販売で得られた代金は調査経費の一部に充当されており、鯨体を可能な限り利用することは資源を大切にするという意味であると述べている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また、耳垢栓や生殖腺などの器官は鯨体の内部深くにあり、体内の汚染物質、胃内容物の調査を効果的に実施するためには致死的調査は不可欠である。バイオプシーなど非致死的調査で得られる情報もあるが非効率で現実的でないことはIWC科学委員会でも認識されている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "世界自然保護基金は、日本は生態系調査を目的とする「調査捕鯨」(鯨類捕獲調査)に切り替えたが、捕殺した鯨の肉の一部を商業市場で販売しており、調査捕鯨は科学調査という大義名分を使った疑似商業捕鯨であると述べた上で、日本は集積された情報を独立した審査のために公開することを拒否し、調査で集められたデータの殆どは殺さない方法で得ることが可能であり、日本の鯨調査計画が信頼にたる科学として最低限の基準を満たしていないと批判している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2014年、国際司法裁判所は、日本の南極海での調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であるとする判決を下した。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "消費量は近年は拡大傾向にありまた在庫量は一定の水準を保っている。在庫に余りはないと水産庁は説明しているが、衆議院決算行政監視委員会の理事である自民党の平将明衆院議員は調査捕鯨の必要性を訴えられ、調査したら鯨肉の在庫は余っており、役所に嘘をつかれたと非難している。また、日本の調査捕鯨拡大に伴い鯨肉の在庫量が増加しているという報道があり、鯨肉の需要は現在は減っている。長引く商業捕鯨停止で卸業者が減少したために流通が滞っている。2016年の消費量は2845t、入荷量は4089t、在庫量は2237t。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "オーストラリア及びニュージーランドがその領海に隣接する南極海の領域を管理しているという見方がまず客観的にも存在しており、そこが南極の調査捕鯨に対する不快感につながっているとされている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ただし、1959年の南極条約により領土主権は凍結されており、日本はオーストラリア南極領土の領有権を認めていない。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "中国メディアによれば、日本の捕鯨に対してオーストラリアが「日本が権利もなくわが国が南極に持つ40%の領土に侵入した」と南極領土の問題を主張した 。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "反捕鯨国の多くはクジラを食料としてきた歴史が途絶えて久しいため、「クジラを食料と見る文化が生き残っているか、そういう文化が生き残っておらず、保護対象としての野生動物と見る」という異文化対立が生じている。愛媛大学農学部の細川隆雄は、「鯨を捕るな食べるな」という価値観を日本は押し付けられたとしている。文化の多様性は尊重されるべきであるし、資源管理における地域社会の貢献もあり、日本の沿岸小型捕鯨者によるミンククジラの捕鯨は認められるべきである。B.モーランも、生存(生業)捕鯨(subsistence whaling)と商業捕鯨 (commercial whaling) の区別は西欧的な偏見のかかった価値体系に基づいたもので非西欧人には受け入れることができないし、捕鯨はコモディティであり生業捕鯨と商業捕鯨の区別は無意味であるとした。フリードハイムも反捕鯨規範を押し付けることは、文化的侵害行為として批判している。1989年に日本代表はIWCで「肉食文化が魚食文化を破壊するためにIWCを利用している」と批判した。オーストラリアではカンガルー、欧州ではきつね、アメリカでは子牛などのほ乳類を殺し食べているが日本の捕鯨を認めないというのは偽善である。ある文化的風習が過剰搾取や種の絶滅にならない限りは風習を堅持する権利が各文化にはある。農林水産省は「鯨肉の消費は時代遅れの文化的風習ではなく、牛肉を食べることが世界の標準でもない」と主張している。しばしば主に欧米と捕鯨国の捕鯨に対する意見の衝突は「ユダヤ教やキリスト教といった宗教・文化と捕鯨国(日本)との宗教・文化の価値観の相違」でもあると語られることがある。日本では捕鯨とクジラへの信仰があり、クジラを供養する宗教観が存在する。ただキリスト教国家でも捕鯨は行われていたことがある。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "伝統的には日本では捕鯨された鯨への感謝や供養が見られ、当時は食糧確保が難しかったことを鑑みると、これは動物保護団体の思想に近いとする指摘や、村八分等の悪しき伝統もあり文化だからという理由だけで擁護すべきではないという指摘がある。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "岸上伸啓によれば鯨の神格化は、メディアの圧倒的な物量作戦によって生み出された鯨の虚像(メディアホエール)であり、愛や平和,非暴力などの価値が強調され、映像や音声表現にヴァーチャル・リアリティが入っており、こうしたメッセージから捕鯨が倫理的に悪と考えられている。また、俗流動物中心主義にたつ反捕鯨論はエコファシズムに向かう危険があるとみている。また、環境保護はこうしたシンボルを利用して、多額の資金を調達し、また企業や政府はこうした神話を支持することによって「地球にやさしい」という政治的な正当性を獲得したと分析している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ノルウェーの人類学者カラン(ノルウェー語版)によれば、クジラを生物学的、生態学的、文化政治的に象徴的に特別な存在とみなして、地球上で最大の動物(シロナガスクジラ),地球上で最大の脳容積を持つ動物(マッコウクジラ),身体に比して大きな脳を持つ動物(バンドウイルカ),愉快でさまざまな歌を歌う動物(ザトウクジラ),人間に友好的な親しい動物(コククジラ),絶滅の危機に瀕している動物(ホッキョククジラやシロナガスクジラ)といった特徴のすべてを併せ持った空想の鯨、「スーパーホエール神話」がメディアにおいて流通し、環境保護のシンボルとなったと指摘している。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "三浦淳は、知能の高低と殺してよいもの、そうでないものを結びつけることに合意される合理的な理由はないうえに、その論法を用いれば知能が低い人間は殺害してもよい、という考えに結びつくと述べている。このような価値観が反捕鯨の世論の形成の根底にあるといわれる。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、河島基弘はクジラに見られる以下の6つの特殊性が反捕鯨思想に影響を与えていると考察したうえで、鯨を神格化し特別視することは種の違いに基づく種差別であるとしている。", "title": "争点" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "日本政府水産庁は海外援助で発展途上国の票を買うことはしていないと公表している。一方企業の動きを見ると、反捕鯨運動をうけて、イトーヨーカ堂、西友などの大手チェーンを含む少なくとも3500のスーパーが日本国内におけるクジラやイルカ製品の販売を中止した。ヤフーやアマゾンジャパンも鯨肉販売を中止した。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "グリーンピースやシーシェパードといった反捕鯨NGOの活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブルがある。シーシェパードの暴力的な示威活動はカナダ、デンマーク、日本、ワシントン州のアメリカ先住民の部族であるマカー族に対して起こされている。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "反捕鯨には日本人への人種差別が基調にあるという言説によれば、1978年6月のIWCロンドン総会で日本代表団は反捕鯨団体に赤い染料をかけられ、「殺人者!バーバリアン(野蛮人)!お前たちが殺した鯨の血だ!」と怒号がかけられ、そうした様子は「この野蛮人をみよ」としてBBCで放映された。1979年の総会でもロンドンのトラファルガー広場で「日本死刑執行」と称して眼鏡をかけた人形を吊るし、銛で刺すデモンストレーションや、日の丸が焼かれるなどした。こうした行動は同じ捕鯨国のノルウェーやソ連に対しては行われなかった。しかしながら、捕鯨問題に詳しいC.W.ニコルは日の丸が焼かれた事件について、飽くまでも差別的な個人が煽っているのであり、人種全体がそうだという訳ではないのだと語っており、また、捕鯨問題は黄色人種と白人の対立ではない、反捕鯨主義者の一部と日本人の一部が人種問題に扇動しているとしている。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2010年1月のオーストラリア人1000人を対象にした世論調査では94%が捕鯨に反対している(「ニューズウィーク日本版』2014年4月15日号より)が、南極海の領域を管理しているという点からのテリトリー意識や観光資源としての利益保護という点もあるのだろうとされる。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2008年にはグリーンピース日本支部によるクジラ肉窃盗事件が発生した。平成17年には日本鯨類研究所がグリーンピースジャパンに対して暴力的な妨害について公開質問状を出した。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "岸上伸啓は環境NGOグリーンピースは、反捕鯨を資金集めの手段としており「抗議ビジネス」であり、グリーンピースは支援者から注目を集め資金をえるために,クジラに関して誇張した情報を流して人々の不安心理を掻きたてメディアを操作し、欧米の政治家の中にはクリーンなイメージをアピールし,支持者を集める手段として反捕鯨を訴える者がおり、捕鯨問題が政治的に利用されているとの批判があるとしている。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また、この問題は、日本の経済が好調であった時期に欧米諸国の自然保護団体に同調した自動車産業団体や、農産物生産者等によって利用され、ジャパンバッシングに起因する反日運動の一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "尚、川端裕人によると、ニュージーランドは日本に好印象を持っており、グリーンピース・ニュージーランドの反捕鯨キャンペーンのキャッチフレーズは「日本は好きだけど、捕鯨には胸が痛む!」であると指摘している。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "日本の統一戦線義勇軍は榎本正隆をオーストラリアへ派遣して、2008年から一年間オーストラリアで反シーシェパードの活動を行っていた。榎本によるとオーストラリア人の中には日本は捕鯨をした方がいいと言う人も沢山いて、大半のオーストラリア人は反シーシェパードである(あれは下品)と述べている。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "主権回復を目指す会はシー・シェパードが協力した映画『ザ・コーヴ』を反日映画として、日本国内で公開禁止の抗議活動を強硬に行った。しかしながらこの抗議活動は製作に関与していない日本国内の映画配給会社や映画館の支配人の自宅での抗議であり、支配人の高齢の母親が攻撃されるに至って、家族を攻撃するのは右翼であれ左翼であれ許されざることであり、統一戦線義勇軍や一水会など他の右翼団体の反発を招いた。前述の統一義勇軍の榎本曰く、外国の映画で日本人同士がぶつかっている奇妙な構図だと指摘している。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "デンマークのフェロー諸島のゴンドウクジラ協会は捕鯨のPR活動を行っているが、これはシー・シェパードによる妨害活動に対抗する為に設立されたものである。", "title": "反捕鯨運動" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "日本は2018年12月26日、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、翌2019年7月1日から商業捕鯨を日本の200海里水域内で再開することを発表した。", "title": "日本のIWC脱退" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "日本においては、2001年に内閣府による捕鯨に関する複数項目の世論調査が行われ、賛成多数となっており、また2006年にはインターネットサイトYahoo!によるアイスランドの捕鯨再開に伴う商業捕鯨の賛否を問うアンケート調査が行われ、こちらも賛成多数となっている。", "title": "日本における世論・報道" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "近々においても2018年に外務省により外交に関する電話での世論調査が行われ、複数項目の内、IWC脱退と捕鯨再開の政府方針への賛否の項目で賛成多数となっている。", "title": "日本における世論・報道" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "捕鯨に賛成する人が多数であるが、捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、捕鯨を批判・否定するという価値観の押し付けに対する反発という側面が強いという見方もある。", "title": "日本における世論・報道" } ]
捕鯨問題(ほげいもんだい)とは、クジラおよびイルカの捕鯨の是非に関する国際的な倫理問題、社会問題である。
{{出典の明記| date = 2018年12月}} {{一次資料|date=2019年7月}} [[File:Anti-whaling.jpg|thumb|日本の捕鯨に対する抗議運動(2007年、オーストラリア在メルボルン日本国総領事館前、赤塗りの女性は Jamie Yew)]] '''捕鯨問題'''(ほげいもんだい)とは、[[クジラ目|クジラ]]および[[イルカ]]の[[捕鯨]]の是非に関する国際的な倫理問題、社会問題である。 == 経緯 == === 捕鯨の歴史 === {{Main|捕鯨#歴史|鯨肉#鯨肉の食文化}} 現在では反捕鯨側に立っている国々も、過去には捕鯨国だった場合がある。それらの国々の捕鯨も、最初は沿岸捕鯨から始まった。19世紀末には[[ノルウェー]]式捕鯨が開発され、[[ナガスクジラ]]科の捕獲も進んだ。[[鎖国]]中の[[日本]]と異なり遠洋航海が可能だった国々では、沿岸捕鯨で鯨が減れば、沖合捕鯨・遠洋捕鯨へと移行し、さらに他の漁場へ移動して捕鯨を続けた。初期には[[食肉]]利用も行っていたが、十分な保存技術がなかったため、鯨油・ヒゲなどの資源のみを目的とするようになった。[[南極海]]でも20世紀初頭に本格的な捕鯨が始まった。19世紀から20世紀半ばにかけてアメリカや[[オーストラリア]]やノルウェーは灯火燃料や機械油用の[[鯨油]]目的の捕鯨を当時世界最大の規模で盛んに行ったため、絶滅寸前に瀕した鯨種もいたといわれ、主に[[セミクジラ]]や[[マッコウクジラ]]が減少した。1931年に[[シロナガスクジラ]]捕獲はピークとなる。以後もナガスクジラなどのより小型の鯨種に移行して捕獲が続いたが、最終的には、鯨類資源の減少と鯨油需要の低下から不採算となる。 日本では鯨文化が全国で育まれていた事から欧米の商業捕鯨とは一線を画す漁法が行われていたものの、前述のアメリカの捕鯨船の捕鯨により日本近海は短期間の内に資源の枯渇を招いた、とする論調もある{{要出典|date=2019年7月}}。しかし、欧米の捕鯨の対象種が主としてマッコウクジラとセミクジラを対象にしているのに対し、網捕り式捕鯨では当時欧米が捕れなかったシロナガスクジラなども獲物に出来たため、必ずしも欧米のみに起因する資源枯渇であったかは疑問視されている。特にアメリカ式捕鯨で重視されたのはマッコウクジラであるが、殆ど食用に向かないマッコウクジラは日本の捕鯨ではあまり重視されていなかった。セミクジラに関しては日本近海での欧米の操業は行われてはいない。また、そもそも世界規模の航海を伴うものの、この時代のアメリカ式捕鯨とは帆船の母船から肉眼でクジラを捜し、発見後手漕ぎのボートを降し、人力にて銛を打ち込むというものであって、全盛期で世界全体で800隻程度が年10頭程度ずつを捕獲していた。 日本各地に点在していた鯨組の多くが姿を消していった。この為日本は前述のノルウェーなどとともに20世紀初頭から南氷洋捕鯨に参加している<ref group="注釈">当初の南氷洋捕鯨では沿岸捕鯨への影響を考慮したのと、赤肉等を持ち帰る為の冷蔵設備がなかったという事情から全量の活用は出来なかった。([[鯨肉#日本での食文化の歴史]]日本での食文化の歴史の[[昭和]]以降の需要供給、流通も参照)</ref>。 ===日本における捕鯨=== {{main|日本の捕鯨}} 日本の鯨肉食文化は[[縄文時代|縄文]]・[[弥生時代]]から存在し、弥生時代にはより大型の鯨の捕鯨も行われていたとみられる。北海道でも古代に捕鯨が始まっていた。[[江戸時代]]には[[鯨組]]の成立など大規模化が進み、[[セミクジラ]]などを組織的に捕獲して、鯨油や鯨肉などとして商品化していた。 江戸時代末期になり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]などの諸国からの多数の捕鯨船が日本近海で活動した(この頃の遠洋捕鯨は「アメリカ式捕鯨」と呼ばれる帆船捕鯨。「[[白鯨]]」などで描写された)。その結果、日本近海でも鯨の個体数は激減し、日本の古式捕鯨は壊滅的打撃を受けた(なお[[マシュー・ペリー|ペリー]]からの開国要求及び[[日米和親条約]]は当時日本沿岸で活動していた捕鯨船への補給も一因であり、[[小笠原諸島]]に居住している[[欧米系島民]]は、定着したアメリカ捕鯨船員の子孫)。 その後、[[明治]]時代になると近代捕鯨法が導入され、定着したのはノルウェー式捕鯨だった。これにより捕鯨対象鯨種もシロナガスクジラなどが中心となる。古式捕鯨法は、1878年(明治11年)の太地における海難事故「大背美流れ」などの海難事故もあって打撃を受け、九州の一部を除き近代捕鯨産業への変身には失敗して、沿岸域でのゴンドウクジラやミンククジラを対象とした捕鯨として存続した。もっとも、古式捕鯨の行われた地域は近代捕鯨産業でも重要な拠点だった。捕鯨が近代化され沖合捕鯨へと漁場を拡大するのと平行して、日本も[[1934年]]以降は鯨油を目的として[[南極海|南氷洋]]まで船団を派遣して捕鯨を実施。[[第二次世界大戦]]が始まると、母船式捕鯨は一旦中止された。 [[戦後]]、日本の食糧事情を改善するため、大量かつ容易に確保が可能な蛋白源としてクジラが注目され、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の協力も得て捕鯨が推進され、南氷洋での捕鯨も復活した。 === 捕鯨規制の流れ === 1931年に[[シロナガスクジラ]]捕獲はピークとなったが、同時期に国際的な捕鯨規制が始まり、[[1931年]]のジュネーブ捕鯨条約、[[1937年]]の国際捕鯨取締協定などが結ばれた。[[セミクジラ]]と[[コククジラ]]の禁漁や、漁期制限、未成熟個体の捕獲禁止などが内容だった。[[鯨油]]の生産調整も行われた。日独ソなどはこうした条約への参加には積極的でなかった。日本は1939年に加盟するはずだったが、第二次世界大戦の勃発のため未加盟に終わった。 ==== 国際捕鯨委員会の設置 ==== {{Main|国際捕鯨委員会}} 戦後の[[1946年]]、上記の各条約を発展させる形で、[[国際捕鯨取締条約]]が結ばれた。これにもとづき1948年に[[国際捕鯨委員会]] (IWC) が設置され、日本も独立直後の1951年に加入した(捕鯨国のうち[[スペイン]]・[[ポルトガル]]・[[チリ]]・[[ペルー]]は1970年代以降の加盟)。捕獲枠は1963年以降大きく縮小され、[[1966年]]にザトウクジラとシロナガスクジラは禁漁となった。コスト上昇に耐えられず、捕鯨業から撤退する国が増えた。1960年代にイギリス・[[オランダ]]・オーストラリアなどが捕鯨から撤退した。 ==== 商業捕鯨モラトリアム ==== 1950年代、実質他国の撤退する中で日本が一人勝ちしていた時期に、効率の良い鯨から資源が減少し、当時IWCの科学委員会ではシロナガスクジラの全面禁漁を提案していたが、日本、ソ連、ノルウェー、オランダは受け入れなかった件などが紛争の火種になったといわれ<ref>「魚の経済学」山下東子 2009年 日本評論社、95頁 - 96頁。ISBN 4-535-55609-1。</ref><ref group="注釈">「魚の経済学」の著者である山下が受講した、櫻本和美の1995年8月24日、第二二回東京水産大学(現 東京海洋大学)公開講座内容より。櫻本は受け入れていれば今のような紛争は起きなかっただろうとしている。</ref>。[[1960年]]代末、鯨類全面禁漁の意見が出始めた。米国は[[1972年]]の[[国際連合人間環境会議|国連人間環境会議]]で商業捕鯨の10年間一時停止を提案し採択された。IWCでも同年にモラトリアム提案を提出したが、科学的正当性に欠けるとの理由<ref>日本捕鯨協会Q&A 「IWC内で、いつごろから捕鯨・反捕鯨国の対立が始まったのですか?」</ref>で否決された。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が反捕鯨を持ち出したのは、当時話題になっていた[[核廃棄物]]の海洋投棄問題から目をそらせるためであったと国際ピーアール(現[[ウェーバー・シャンドウィック|ウェーバーシャンドウィックワールドワイド]])「捕鯨問題に関する国内世論の喚起」<ref>『日本PR年鑑』1983、[[日本パブリックリレーションズ協会|日本パブリックリレーションズ]]。斎藤貴男「鯨と世論」2010による。</ref><ref name=saito>[[斎藤貴男]]「鯨と世論」『世界』2010.12月号、p176-182</ref>{{refnest|group="注釈"|この記事の論拠は味の素の広報誌「マイファミリー」のM・Cデービットソンの記事であり、同社は彼にインタビューする以上の事実関係の追及は行っていない。とする指摘がある<ref>「解体新書 「捕鯨論争」」石井敦 2011年、171 - 172頁。ISBN 4-7948-0870-4</ref>。}}に記されている。この他、人間環境会議に出席した日本代表の米沢邦男は、主催国[[スウェーデン]]の[[オロフ・パルメ]][[スウェーデンの首相|首相]]が、[[ベトナム]]での[[アメリカ軍|米軍]]の枯れ葉作戦を非難し環境会議で取り上げることを予告していた。アメリカはそれまでIWCに捕鯨モラトリアムを提案しておらず、それを唐突に焦点にしたのは、[[ベトナム戦争]]の[[枯葉剤]]作戦隠しの意図があったのではないかといわれている<ref>「動物保護運動の虚像 ‐その源流と真の狙い‐」梅崎義人 1999年、64-65頁。ISBN 4-425-98091-3。</ref>。しかしながら、同会議に日本から出席した[[綿貫礼子]]によれば、当時は国連主催の会議でベトナム戦争には言及しない事が暗黙の了解となっており、同会議場ではアメリカの「地球の友」と英国の「エコロジスト」を出しているグループが共同で出したミニ新聞には国連会議の動きが記されており、国連会議で鯨に対する日本政府の姿勢を攻撃するニュースも記されていた<ref>「生命系の危機 ‐環境問題を捉えなおす旅」綿貫礼子 1988年 社会思想社、221-222頁。ISBN 4-390-11263-5。</ref>。また、人間環境会議にいたる状況を調べた真田康弘によると、人間環境会議から八ヶ月前にIWCで採択していた南半球の一部海域でのマッコウクジラの捕獲制限措置に対して、日本が充分な科学的根拠がないと異議申立てを行い、捕獲制限に従わない意向を表明した為モラトリアムを不要としてきた米国の立場は著しく困難になり、米外務省担当官が「もしアメリカがモラトリアムを本当に追求することとなれば、適切な国際フォーラムに提起することになるだろう」と当時の在米日本大使館佐野宏哉一等書記官に対して示唆した<ref group="注釈">「解体新書 「捕鯨論争」」82 - 83頁 米国務省の担当官が佐藤書記官に対して示唆した件は1971年10月14日付の在アメリカ日本大使館発外交電報で日本政府に届けられており、その写真は同書籍の84頁に掲載されている。</ref>。その後、米国政府ではCEQ(環境問題諮問委員会)から持ち上がった捕鯨政策転換に同調した、ロジャーズ・モートン[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]が1971年11月に十年モラトリアムの支持を公言した<ref group="注釈">「解体新書 「捕鯨論争」85頁 その後米国が人間環境会議の全参加国に支持を呼びかけたのに対して、日本は主としてIWCの参加国やそれ以外の捕鯨国にしか働きかけなかった点からも、対処が後手に回っていたのだとされる(87 - 88頁)</ref>、と人間環境会議に至る過程の米国内部の変遷を明かし、人間環境会議で米国が唐突に反捕鯨の提案を行ったとする見方を否定している。その結果、人間環境会議でスウェーデンのオロフ・パルメ首相は言及しないのが暗黙の了解とされていた中で、枯葉剤作戦を人道的見地および生態系破壊の面から非難するに至ったと考えられている<ref group="注釈">綿貫によれば「公式の演説で「戦争」を環境破壊の因子として位置づけた」とのこと。斉藤によれば「そこに同意する他国の代表団は現れなかった」とされている。</ref><ref name=saito/>。 [[1982年]]、反捕鯨国多数が加入したことでIWCで「[[商業捕鯨]]モラトリアム」が採択される。これは、NMP方式によるミンククジラの捕獲枠算定が、蓄積データ不足で行えないことを名目とするものである。この「商業捕鯨モラトリアム」は、[[1982年]][[7月23日]]のIWC総会において採択された国際捕鯨取締条約附表に属するもの<ref>「国際捕鯨取締条約」 日本捕鯨協会ホームページ</ref>であるが、1972年と1973年のIWC科学委員会において「科学的正当性が無い」として否決されていたもので、1982年においてはIWC科学委員会の審理を経ていないことから、国際捕鯨取締条約の第5条2項にある付表修正に要する条件である「科学的認定に基くもの」に反しており同条約違反で法的には無効であるとの立場を日本は取っている<ref>鯨研通信 2012年6月 第454号「海洋からの食料供給と捕鯨問題 (2)」5頁 財団法人 日本鯨類研究所</ref>。 ==== 日本による商業捕鯨撤退と調査捕鯨 ==== 日本・ノルウェー・[[ペルー]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]の4カ国が異議申し立てをしたが、その後日本とペルーは撤回した。日本が1985年に異議申し立てを撤回したのは、米国のパックウッド・マグナソン法に基づいて同国の[[排他的経済水域]]内における日本漁船の漁獲割り当て量が大幅に削減される可能性があったためであった<ref>鯨研通信 2012年6月 第454号「海洋からの食料供給と捕鯨問題 (2)」7頁 財団法人 日本鯨類研究所</ref>。 アメリカは日本に異議申し立てを撤回しなければ、アメリカの排他的経済水域から日本漁船を締め出すとの意向が伝えられたため、日本はやむなくモラトリアムを受け入れるかわりに、科学的調査として「調査捕鯨」を開始した<ref name=saito/>。[[1988年]]に日本は商業捕鯨から撤退した。異議撤回の背景には、米国による水産物輸入停止などの制裁措置があった。同様の制裁措置は、1990年代には[[アイスランド]]に対しても行われた。アイスランドは1992年以降一時IWCを脱退していたが、2003年にモラトリアム条項に異議ないし留保を付して再加入している。 1997年に[[アイルランド]]から「調査捕鯨を段階的に終了し全公海を保護区とする代わりに日本の沿岸捕鯨を認める」とする妥協案が提示され継続的に審議されたが、合意に至らなかった<ref>[http://www.news.janjan.jp/world/0706/0706280989/1.php やってる「ふり」だけ?の沿岸小型捕鯨再開提案〜国際捕鯨委員会・2007総会ウォッチ (5)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080120042013/http://www.news.janjan.jp/world/0706/0706280989/1.php |date=2008年1月20日 }} [[JANJAN]] 2007年6月28日</ref>。 2000年頃にアメリカは、日本の調査捕鯨停止を求め、形式的ながら制裁を再度発動した。日本は沿岸捕鯨の復活を訴え続けてきたが、[[2007年]]のIWC総会でも認められず、政府代表団は「日本の忍耐は限界に近い」と脱退を示唆し、[[2018年]]([[平成]]30年)[[12月26日]]に、[[日本国政府]]はIWCからの脱退を通告した。 ;保護区、サンクチュアリ またモラトリアムとは別に[[1979年]]にはIWCで[[インド洋]]の保護区指定などが採択された。[[南極海]]については保護区とする付表修正が採択され、南太平洋と[[南大西洋]]についても、それぞれオーストラリアなどと南米諸国により保護区化が提案がされた。 ==== 捕獲枠 ==== [[1974年]]にIWCは鯨種ごとの規制である新管理方式 (NMP) を導入。これにより[[ナガスクジラ]]や[[イワシクジラ]]の禁漁措置が適切に行われるなど一定の成果を収めた。残る捕獲対象は[[ミンククジラ]]・[[マッコウクジラ]]・[[ニタリクジラ]]のみとなった。 [[1994年]]、少ないデータでも捕獲枠が算定できる改訂管理方式(RMP)が採択されて、現在までに北西太平洋のミンククジラについては捕獲枠の試算が完了している。なおRMPによる捕獲枠算定には調査捕鯨のデータは必要ない(RMPの運用に調査捕鯨のデータは不要)<ref>https://www.jfa.maff.go.jp/j/study/enyou/pdf/yushikisya4_7.pdf 、[[水産庁]]</ref>。現在のIWCでは捕獲枠の実効確保のための監視などの枠組み(RMS)の交渉が行われていたが、2006年に交渉は決裂した。環境保護団体[[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]などは、たとえRMSが採択されても乱獲を防げないと主張し、一切の商業捕鯨に反対している。 ==== オーストラリアによる日本提訴 ==== [[2010年]][[5月]]、オーストラリアは、南極海での日本の調査捕鯨は実態は商業捕鯨とし国際条約に違反しているとして停止を求め[[国際司法裁判所]]に提訴した([[南極海捕鯨事件]])<ref>豪政府、実態は商業捕鯨と主張 国際司法裁判所への訴状で[https://web.archive.org/web/20100605230115/http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010060101000985.html]</ref>。[[2010年]][[12月]]、ニュージーランドは、オーストラリアによる提訴に、意見陳述などを行うなど協力すると発表した<ref>NZ、豪の捕鯨裁判に協力 当事者として参加はせず[https://web.archive.org/web/20111025073907/http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010121501000400.html]</ref>。[[2014年]][[3月31日]]に国際司法裁判所は、日本の南極海での現状の調査方法による調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であり、調査捕鯨とは認められないとする判決を下し、オーストラリア側の主張が認められた<ref>[http://www.icj-cij.org/docket/files/148/18136.pdf]</ref>。日本は判決を受けいれるとした。 ==== 「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」の交渉 ==== 2023年、新経済圏構想「[[インド太平洋経済枠組み]](IPEF)」の交渉で、米国が捕鯨反対の立場を協定に明記するよう求めたが、日本の抵抗により見送られた。米国の提案が通っていれば日本の沿岸や沖合で行われている商業捕鯨が難しくなる可能性があった<ref>{{Cite web|和書|title=経済協定に「反捕鯨」明記見送り 日本抵抗、国際社会は厳しい目|全国のニュース|北國新聞 |url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1186528 |website=北國新聞 |date=2023-09-20 |access-date=2023-11-13 |language=ja}}</ref>。 == 捕鯨国と捕鯨反対国 == {{See|国際捕鯨委員会}} 基本的には、今後[[捕鯨]]を行うことに賛成か、反対かの対立構造があり、[[2010年]]5月時点で[[国際捕鯨委員会]](加盟国88カ国)の内、捕鯨支持国は39カ国、反捕鯨国は49カ国ある<ref name="qa1-2">{{Cite web|和書 |url=http://www.whaling.jp/qa.html#01_02 |title=どのような国が加盟していますか? 捕鯨問題Q&A |publisher=日本捕鯨協会 |accessdate=2013-7-20 }}</ref>。 ;捕鯨国 [[捕鯨]]をしている国々には、[[ロシア]]、[[日本]]、[[インドネシア]]、[[ノルウェー]]、[[アイスランド]]、[[フェロー諸島]]([[デンマーク]]自治領)、[[セントビンセント・グレナディーン]]、[[カナダ]]などが挙げられる<ref>{{Cite web|url=https://www.whaling.jp/qa.html|title=捕鯨問題Q&A - 世界の人々は捕鯨をどう思っているのですか?|publisher=一般社団法人 日本捕鯨協会|year=|accessdate=June 7 2021}}</ref>。また、カナダは1982年に国際捕鯨委員会を脱退している<ref>{{Cite encyclopedia |title=Whaling |url=https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/whaling |encyclopedia=[[The Canadian Encyclopedia]] |access-date=2023-09-02 |date=2015-05-26 |first=Daniel |last=Francis |language=en}}</ref>。 <!--論理的な誤り [[アメリカ合衆国]]は、国内少数民族の先住民生存捕鯨は是認しているが商業捕鯨には反対しており、そのように国内に捕鯨推進派・捕鯨反対派の両者を抱える国も珍しくない。 --> [[アメリカ合衆国]]は、国内少数民族の先住民生存捕鯨は是認しているが商業捕鯨には反対している。 ;捕鯨反対国 捕鯨反対国には、商業[[鯨油]]目的の捕鯨を行っていた元捕鯨国の[[オーストラリア]]、[[フランス]]・[[スペイン]]などの[[欧州連合|EU]]加盟諸国、[[ラテンアメリカ]]諸国(反捕鯨の立場を鮮明にしている[[アルゼンチン]]や[[ブラジル]]などが主導するかたちで、他のラテンアメリカ諸国も反捕鯨の立場で足並みをそろえている)、ほか[[ニュージーランド]]、[[インド]]等が中心となっており、これに与する[[非政府組織|NGO]]も多い。各国で反対理由は異なる。 === 捕鯨再開国 === *商業捕鯨モラトリアムを留保していた[[ノルウェー]]は[[1993年]]に商業捕鯨実施を公式に認めた。 *[[アイスランド]]は、2003年から2007年にかけて調査捕鯨を実施したほか、[[2006年]]に商業捕鯨再開を認め、2007年の1期のみ操業した。 *[[大韓民国|韓国]]は2009年6月23日に国際捕鯨委員会総会で近海捕鯨活動を再開したいと公式に要請した<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=117115&servcode=400&sectcode=400 「蔚山での捕鯨活動の再開を認めてほしい」] [[中央日報]] 2006年6月25日</ref>。2012年7月4日には領海内の調査捕鯨開始を表明した<ref>[https://www.recordchina.co.jp/b62726-s0-c20-d0000.html 韓国、調査捕鯨を再開へ、日本同様「科学研究目的」―韓国メディア Record china 2012年7月6日]</ref>ものの、様々な批判に対し、6日その発言を訂正し、捕鯨は行われなかった<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/6739411/ 韓国が捕鯨再開を表明も、強い反対を受けて再開を否定=中国 及川源十郎 ライブドアニュース 2012年7月9日]</ref>。 === 非加盟国による捕鯨 === IWC非加盟国による捕鯨(IWC管轄外の小型鯨類は含まない)もある。 *[[フィリピン]]では[[ニタリクジラ]]が年間約5頭捕獲<ref name=qa/>。 *[[インドネシア]]のレンバタ島ではマッコウクジラが年間20 - 50頭、推定生産量は数百トン規模<ref name=qa/><ref name=kisigami/>。 *[[カナダ]]([[北極海]]沿岸住民[[イヌイット]])では[[ホッキョククジラ]]が捕獲されている<ref name=qa/><ref name=kisigami/>。 === 先住民生存捕鯨 === 米国やカナダでは先住民の「伝統的な生業」(狩猟漁撈)活動の継続は先住権として認められており、アメリカの[[アラスカ州]]のイヌピアックやカナダ・イヌイットには[[ホッキョククジラ]]を捕獲する権利が承認されている<ref>岸上伸啓「[http://www.minpaku.ac.jp/research/activity/project/other/kaken/21401045 北アメリカ地域における先住民生存捕鯨と先住権 (2009-2013)]」科学研究費補助金による研究プロジェクト|基盤研究 (B)、国立民俗学博物館</ref>。ほか[[グリーンランド]]、[[ロシア]]など北極圏に住む北方先住民、[[カリブ海]]のベクウェイ島などでの捕鯨は、「原住民生存捕鯨」として一定の捕鯨がIWCでも認められている<ref name=kisigami/>。この原住民生存捕鯨は、原則として近代的な[[捕鯨#歴史|ノルウェー式捕鯨]]と異なる伝統的な捕鯨手法に基づくものとされ、致死時間の短縮に寄与する銃器の使用などは認められている。 === 小型鯨類の捕鯨 === IWC管轄外の小型鯨類の捕鯨は現在も各地で実施されている。 *[[カナダ]]の極北地域に住む[[イヌイット]]は[[シロイルカ]]や[[イッカク]]を捕獲している。 *[[グリーンランド]]のカラーリットはシロイルカやイッカク、[[ゴンドウクジラ]]を捕獲している。[[アラスカ]]や[[チュコト半島]]の[[先住民]]は、シロイルカを捕獲している。 *[[デンマーク]]領[[フェロー諸島]]や[[カリブ海]]諸国ではゴンドウクジラが捕獲されている。 *[[ソロモン諸島]]などではイルカ漁がなされている。 *日本でも、[[北海道]]の[[網走市|網走]]と[[函館市|函館]]、[[宮城県]]の[[鮎川浜|鮎川]]、[[千葉県]]の[[和田町 (千葉県)|和田浦]]、[[和歌山県]]の[[太地町|太地]]で、[[ツチクジラ]]やマゴンドウ、タッパナガ、[[ハナゴンドウ]]を捕獲している。そのほか、日本各地において[[イルカ追い込み漁|追込漁]]や突棒漁、石弓漁によって[[イシイルカ]]やリンゼイイルカ、[[スジイルカ]]、ハナゴンドウ、[[オキゴンドウ]]、[[バンドウイルカ]]などのイルカ漁が実施されている<ref name=kisigami/>。 == 国際法上の捕鯨問題 == === 国連海洋法条約 === 海の憲法とも評される[[海洋法に関する国際連合条約]](国連海洋法条約)<ref>[http://www.un.org/Depts/los/convention_agreements/texts/unclos/closindx.htm UNCLOS and Agreement on Part XI - Preamble and frame index<!-- Bot generated title -->]</ref>に日本も1996年に批准している。 日本は[[国連海洋法条約]]第116条 - 第120条に基づき「公海での自由な漁業の権利」として公海利用に関する国際法上の根拠としている。 しかしながら、この条約では200海里の水域内では沿岸国の主権的権利を求める一方、公海における海洋生物の利用は国際管理体制の確立を求めるのが原則であり「公海の利用には国際社会の合意が必要」とされる<ref>「野生動物問題」2001年 地人書館 羽山伸一、151-152頁。ISBN 4-8052-0689-6。</ref>。たとえば、漁獲高を維持するための「資源保護」に協力する義務があると定めており、第65条において締約国は海洋哺乳類の保存のために協力するものとし、鯨類については国際捕鯨委員会等の国際機関を通じて管理を行なう義務があるとされている。したがって、もしIWCを脱退すればモラトリアムなどのルールに縛られない一方、「今以上に反捕鯨勢力から違法だという批判にさらされ、それに対する法的反論が難しい」ことが水産庁漁業交渉官によっても認識されている<ref>[http://www.e-kujira.or.jp/geiron/morishita/1/#c12 森下丈二水産庁漁業交渉官の発言] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071223051403/http://www.e-kujira.or.jp/geiron/morishita/1/ |date=2007年12月23日 }}</ref>。 なお、過去には多くの国が公海捕鯨を行ってきたが<ref group="注釈">現在では日本以外の捕鯨国は、ノルウェーも含めて原則として近海捕鯨・沖合捕鯨しか行っていない。</ref>、公海での捕鯨をめぐる争点は主として南極海での捕鯨を求める日本のみを対象としたものとなっている<ref>「野生動物問題」154頁 </ref>。 === 南極海洋生物資源保存条約 === 南極海洋生物資源保存条約[http://www.ccamlr.org/]第6条において、同条約のいかなる規定も、国際捕鯨取締条約に基づき有する権利を害し及びこれらの条約に基づき負う義務を免れさせるものではない旨を規定している。 === ワシントン条約 === [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約]](ワシントン条約)[http://www.cites.org/]では、付属書Ⅰに[[シロナガスクジラ]]、[[ザトウクジラ]]、[[ミンククジラ]]などの鯨類を掲載し、これらについては商業目的での貿易並びに海からの持込を禁じている。「海からの持込」規定は、ワシントン条約の適用範囲を、公海での漁獲・捕獲活動に広げる意義を有している。条約案が検討された当初の構想ではクジラ類に対するIWCでの規制が不十分であるとの自国の環境保護団体からの強い突き上げを受け、[[アメリカ合衆国連邦政府|米国政府]]が「海からの持込」規定を条約草案に挿入、1973年に開催されたワシントン条約採択会議で強く同条項の盛り込みを求め、この結果挿入された経緯がある<ref>{{Cite journal|和書|author=真田康弘 |year=2007 |url=https://doi.org/10.11492/ceispapers.ceis21.0.315.0 |title=CITESとIWCとの相互連関の起源:「海からの持込」規定のCITESへの導入と付属書における鯨類の取り扱いを巡って |journal=環境情報科学論文集 |ISSN=03896633 |publisher=環境情報科学センター |volume=Vol.21(第21回環境情報科学学術研究論文発表会) |pages=315-320 |doi=10.11492/ceispapers.ceis21.0.315.0 |CRID=1390282680600114688}}</ref>。 日本は鯨類に関してミンククジラ、イワシクジラ(北太平洋のものを除く)、[[ニタリクジラ]]、[[ナガスクジラ]]、[[イラワジイルカ]]、マッコウクジラ、[[アカボウクジラ]]につき留保を付し、上記鯨種については同条約の適用を免れた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cites.org/eng/app/reserve_index.shtml |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2005年10月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051012154335/http://www.cites.org/eng/app/reserve_index.shtml |archivedate=2005年10月12日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。但し留保を付していない[[ザトウクジラ]]と北太平洋に生息する[[イワシクジラ]]については、公海上での標本捕獲・持込について、当該持込がされる国の科学当局(日本では[[水産庁]])が、標本<ref group="注釈">ワシントン条約にいう「標本」とは、動物または植物の個体などを指す(条約第1条 (b) )</ref>の持込が当該標本に係る種の存続を脅かすこととならないこと、標本が主として商業目的のために使用されるものではないと認める必要がある<ref group="注釈"> 同管理当局が持ち込みに先立ち上記についての証明書の発給を行なう必要がある(第3条5項)</ref>。なお、経済的な利益獲得のための活動のみならず、非商業的側面が際立っていると明らかにはいえない利用方法についても「商業目的」と解釈するものとされている<ref>(ワシントン条約第5回締約国会議[http://www.cites.org/eng/res/all/05/E05-10.pdf 決議5.10])</ref>。以上から鑑み、日本によるザトウクジラと[[太平洋]]イワシクジラ捕獲はワシントン条約の諸規定を侵害する違法行為にあたるとの見解が元ワシントン条約事務局長で国際法学者のピーター・サンド教授により提起されている<ref>Peter Sand, "Japan's ‘Research Whaling’ in the Antarctic Southern Ocean and the North Pacific Ocean in the Face of the Endangered Species Convention (CITES)," ''Review of European Community & International Environmental Law,'' Vol. 17, No. 1 (2008), pp. 56-71. {{doi|10.1111/j.1467-9388.2008.00587.x}}</ref><ref>河北新報2008年1月21日付「捕鯨問題 日本の戦略 東北大学准教授石井敦氏に聞く」</ref><ref>[http://www.ifaw.org/ifaw/general/default.aspx?oid=223455 (IFAWホームページ)]{{リンク切れ|date=2010年3月}}</ref>。これに対して日本鯨類研究所は、商業目的であるか否かについての判断は締約国に委ねられていると主張している<ref>[http://www.icrwhale.org/05-A-d.htm (日本鯨類研究所)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080211095058/http://www.icrwhale.org/05-A-d.htm |date=2008年2月11日 }}</ref>。なおワシントン条約違反行為等に関しては、締約国会議の下に常設委員会が設けられており、同委員会は締約国会合において採択された諸決議に即し、条約違反国に対する貿易制裁を締約国へ勧告する権限を有している<ref>Rosalind Reeve, ''Policing International Trade in Endangered Species: The CITES Treaty and Compliance'' (London: Earthcan, 2002) </ref>。 == 争点 == 捕鯨を巡る争点を以下、概説する。 一般的に捕鯨と反捕鯨の対立とされる場合も多いが、中立的な立場や、捕鯨自体には賛成するもののその方向性において様々な立場があり、捕鯨と反捕鯨の対立という短絡的な解釈には問題があり{{sfn|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』|p=275}}、現実の構図はこの一般的理解よりもはるかに複雑であり、問題を単純化、一般化するのは必ずしも容易ではない。 === 鯨害獣論 === 1999年の漁業白書によれば、鯨類の餌消費量は2.8 - 5億トンと[[日本鯨類研究所]]が推定した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_document/hakusyo_h11.html |title=想像以上に大量の魚を消費している鯨類(平成11年度版漁業白書より) |accessdate=2023-11-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190215012755/http://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_document/hakusyo_h11.html |archivedate=2019-02-15}}</ref><ref name="Tamura2001">これは、[[大隅清治]]と田村力が37種の鯨の基礎資源量に基づいて算出したものである。計算根拠等はIWCに報告され論文はFAOを通じて公表。{{cite journal |url=ftp://ftp.fao.org/FI/DOCUMENT/reykjavik/pdf/09Tamura.pdf |author=Tsutomu Tamura |title=Competition for food in the ocean: Man and other apical predators |journal=Reykjavik Conference on Responsible Fisheries in the Marine Ecosystem |date=2001 |doi= |format=PDF}}算出した田村力も不確かな部分が多い点は認めており、更なる調査が必要であるとしている(『読売新聞』2002年5月21日)。</ref>。[[大隅清治]]は1999年の著書で、増えすぎた[[ミンククジラ]]などの鯨を間引くことは正に一石二鳥の効果をもたらす、としている<ref>「動物保護運動の虚像 ‐その源流と真の狙い‐」122頁</ref>。 元沿岸小型捕鯨担当の水産庁調査員の[[関口雄祐]]によれば、この効果を実現する為には「海洋全体のコントロール」が絶対条件であるものの、80種の鯨類の管理は単一種の生物を管理する牧場や畑とは段違いに難しく、気象や温暖化も完全に予測できない現在の人類には不可能であるとしている<ref>「イルカを食べちゃダメですか? 科学者の追い込み漁体験記」 2010年 光文社 関口雄祐、155 - 158頁。ISBN 4-334-03576-0。</ref>。また、大泉宏は確かに鯨類は沢山の餌を食べているが、鯨類の餌生物は必ずしも人類が利用する生物ばかりではない(一例、ナンキョクオキアミは現在では然程大きい漁業ではない)。[[イシイルカ]]が食べる[[スケトウダラ]]のように漁獲高を圧迫しているのではないかと見られるものもあるが、豊漁期のマイワシは年間百万トン近い漁獲が有り、鯨類の他に魚類や海鳥が捕食していたが、食べきれないほどの数であり、マイワシ資源学者はそれで減ったとは考えておらず。鯨類と漁業との競合は個々のケースで考える必要があるとしている{{sfn|『イルカとクジラの謎に挑む』|p=110-111}}。 調査捕鯨を前提にした[[農林水産省]]の2011年の「鯨類捕獲調査に関する検討委員会」第3回と第4回において、この件に触れられており。[[横浜国立大学]]教授[[松田裕之 (生態学者)|松田裕之]]は「数学論モデル的に立証された『ピーター・ヨッジスの間接効果理論』は捕食者と被捕食者以外の第三者に対する影響の間接効果の理論であり、これが鯨類(というより特定の水棲捕食生物)による捕食が餌生物の減少をもたらすとは限らない」と指摘<ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/j/study/enyou/pdf/gizigaiyo3.pdf 第3回 鯨類捕獲調査に関する検討委員会議事概要] 13頁</ref>し、[[世界自然保護基金|WWFジャパン]]自然保護室長[[岡安直比]]は「生態系の変動は一種類の動物だけを見るのではなく、全体的なバランスの上で考えなければいけない。全体的に生態系が絶滅に追いやられるほど大きく崩れた事例はあまり観察されてはおらず、国際社会の中では科学的ではないとみられている。」と指摘<ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/j/study/enyou/pdf/gizigaiyo4_1.pdf 第4回 鯨類捕獲調査に関する検討委員会議事概要] 14頁</ref>した。それに対して、野村一郎は「鯨害獣論は科学的に検証が難しく、それよりも鯨の資源が多いから捕っていいのだと言う議論の方が受け入れやすい」<ref>「第3回 鯨類捕獲調査に関する検討委員会議事録概要」32頁</ref>とし、東海大学海洋学部専任講師大久保彩子は「鯨害獣説は2002年ぐらいにPRが盛んに行われていたが、科学的妥当性に批判があり、 また、2009年のIWC会合で日本の政府代表団が日本の科学者が漁業資源の減少の要因がクジラであると結論づけた事がないとの発言を指摘し、仮説に過ぎないものを大々的にアピールするのは日本の科学の信頼性を損ねる」<ref>「第4回 鯨類捕獲調査に関する検討委員会議事録概容」23頁</ref>とし、[[高成田亨]]は「生物学の権威が疑問を呈している点は真剣に考えるべき所である」<ref>「第4回 鯨類捕獲調査に関する検討委員会議事録概容」44頁</ref>としている。 [[バーモント大学]]の{{仮リンク|ジョー・ローマン|en|Joe Roman}}は「我々が新たに検証した複数の研究では、クジラのような大型捕食動物が存在するほうが、生態系における魚類の個体数が多くなることが明らかになっている」と2014年に指摘した<ref name=natgeo>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9468/ 巨大クジラ、漁業資源の増殖に貢献?] 2014.07.11 [[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版</ref><ref>「我々が新たに検証した」の詳細は Joe Roman, James A Estes, Lyne Morissette, Craig Smith, Daniel Costa, James McCarthy, JB Nation, Stephen Nicol, Andrew Pershing, and Victor Smetacek 2014. Whales as marine ecosystem engineers. Frontiers in Ecology and the Environment 12: 377–385. [[doi:10.1890/130220]]</ref>。 また、大型鯨類の糞に含まれる大量の[[窒素]]や[[リン]]や[[鉄]]は[[植物プランクトン]]の発生を促し、海洋生態系全体への恩恵があるだけでなく、[[二酸化炭素]]の抑制にも効果があるとされている。さらに、大型鯨類の死骸による[[炭素]]の吸収も指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51034140W9A011C1000000/ |title=クジラ1頭に2億円の経済効果 IMFの学者が試算|author=マデリーン・ストーン, ルーバー荒井ハンナ |date=2019-09-27 |work=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]|pages= |website=[[日本経済新聞]]|access-date=2023-11-12}}</ref>。 <!--- {{独自研究範囲|鯨が食す餌の量(魚、[[オキアミ]]、[[端脚類]]、[[カイアシ類]]、[[イカ]]など)は世界中の人間による漁獲量9千万トンの3倍 - 6倍であり、鯨のみを保護すると海洋生態系に悪影響を与える(鯨[[食害]]論)|date=2014年10月}}。鯨が魚を大量に補食するため漁業資源が減少しており、は鯨は[[害獣]]である<ref name=matsuda/>。 なお、古くから[[漁師|漁業者]]は[[アシカ]]や[[トド]]などの海洋哺乳類による[[食害]]について問題視し、沿岸に生息する小型ハクジラ類([[イルカ]])が漁業に害をもたらす害獣<ref group="注釈">具体的には、[[延縄]]漁業で針にかかった魚をイルカに横取りされるとか、操業海域にイルカが進入することで魚群が散ってしまうという「被害」が主張される。こういった被害は[[シャチ]]に近い生態の[[オキゴンドウ]]による被害が特に多い。</ref>として駆除される[[イルカ追い込み漁]]が実施され、[[動物の権利]]の立場から競合するのは人間の漁業が過大な規模であるからだとの批判がある。他方、トドの保全を優先し漁業を絶滅させるのは問題であるという反論がなされていもいる<ref name=matsuda/>。しかしながら、鯨害獣論は謬説であり、鯨による摂食は漁業と競合していないという見方もあり<ref name=matsuda/>。鯨は、人類が誕生する以前から海洋[[生態系]]に組み込まれる形で、海洋生物を消費し、[[鯨骨#遺骸としての鯨骨|鯨もその中で死後、糧になることを繰り返してきた]]。元国際捕鯨委員会日本代表代理[[小松正之]]は「鯨80種は全て食用になる」とコメントしている<ref>「常識はウソだらけ」ワック{{要ページ数|date=2013年7月}}</ref>。総消費量の内訳は、魚が年間5736万 - 7804万トン、[[頭足類]](深海凄の[[イカ]]類)が7713万 - 1億2246万トン、[[甲殻類]]([[オキアミ]]や[[コペポーダ]]のような[[プランクトン]])が1億734万トン - 2億3322万トンである。[[南極]]で餌をとる鯨や、[[マッコウクジラ]]などの餌消費は、人間の漁業と競合していない。また計算の対象となった世界中の鯨類にはイルカなど捕鯨対象種以外の種を含んでいる。[[日本鯨類研究所]]の算定論文では、捕鯨対象種のIWC所管のヒゲ鯨に限っては、直接人間の漁業と競合する魚の消費量を1200万 - 2400万トンと推定しており、これは漁獲量の15 - 30%にしか相当せず、2.8 - 5億トンと言う数字を漁獲量と比較して競合を論ずるのは不適当であり重大な誤解を招く。元[[日本鯨類研究所]]教授[[粕谷俊雄]]はこの説は不明確な部分も多く、仮定に過ぎないと指摘している。グリーンピースUKのジョン・フリゼルは、人間が生存する前からクジラは生存していたが人類の誕生以前に海の魚が絶滅の危機に瀕していたということはなかったし、クジラは大きな魚を食べないため、クジラを「間引く」必要はないと主張している<ref name=grepjhon/>。 独自研究とされる餌の量の内訳は論文の和訳と思われます。件の論文は英文のみです。----> [[2009年]]6月に[[マデイラ諸島]]で開催された[[国際捕鯨委員会]]の年次会合において、森下丈二(水産庁参事官)は、日本政府代表代理としての立場から、鯨類の増加による漁業資源への被害を実質的に撤回した<ref>佐久間淳子, 2009年6月30日, ''[https://web.archive.org/web/20100107183730/http://www.news.janjan.jp/living/0906/0906290018/1.php 「クジラが魚食べて漁獲減」説を政府が撤回 - 国際捕鯨委員会で森下・政府代表代理が「修正」発言]'', [[JanJan]]</ref>。 === 絶滅の可能性 === {{単一の出典|date=2015-03-28|section=1}}{{更新|date=2019年7月|section=1}} [[国際捕鯨委員会]]科学委員会の推定資源量では、 *[[ミンククジラ]]は南半球761,000頭、北大西洋174,000頭、西グリーンランド10,800頭、北西[[太平洋]]及び[[オホーツク海]]25,000頭<ref name=qa/>。 *シロナガスクジラは南半球2,300頭<ref name=qa/>。(世界的に10000~25000頭(IUCNレッドリスト<ref>{{Cite web|title=The IUCN Red List of Threatened Species|url=https://www.iucnredlist.org/species/2477/50226195|website=IUCN Red List of Threatened Species|accessdate=2019-04-25|publisher=}}</ref>)) *ナガスクジラは33200頭<ref name=qa/>。 *コククジラは26421頭<ref name=qa/>。 *ホッキョククジラは11730頭<ref name=qa/>。 *ザトウクジラは北西[[大西洋]]で11,600、南半球42,000、北太平洋で少なくとも10,000頭<ref name=qa/>。 *セミクジラは約7800頭<ref name=qa/>。 *ゴンドウクジラは78万頭<ref name=qa/>。 であり、シロナガスクジラやセミクジラは絶滅の危険性が高い。また、[[クロミンククジラ]]については増加に度々引き合いに出される76万頭という生息数は下方修正されており、増加の停止が確認されている(後述)。なお種としての生息数が豊富であっても、世界中に生息する種類では生息域によっては系群単位で危機にある場合もあり、そういった事実を鑑みた上で資源管理は地域ごとにおこなわなければならない<ref>[http://www.animalweb.jp/nekonome/labo/kasuya.html ねこの目通信 研究室訪問 粕谷研究室]</ref>。 捕鯨に対して、数をコントロールしやすい「家畜」と違い鯨類の捕獲はその減少をコントロールできなくなるという懸念もグリーンピースが主張している<ref>[http://www.greenpeace.org/japan/Global/japan/code/whale/index.html グリーンピース] 2018年2月1日 閲覧</ref>。 === 海洋資源の過剰搾取 === [[国連食糧農業機関]]の2008年報告によれば、海洋水産資源の利用は19%が過剰漁獲、8%が枯渇、1%が枯渇から回復しつつあるとされ、52%が満限利用の状態にあり、20%が適度な利用又は低・未利用の状態とされている<ref name="kajyo">[http://www.jfa.maff.go.jp/j/kikaku/wpaper/h20_h/trend/1/t1_2_1_2.html]平成20年度 水産白書「第2章 平成19年度以降の我が国水産の動向 世界の水産資源の状況」水産庁</ref>。FAO水産委員会の「漁獲能力に関する国際行動計画」に即し水産資源を持続的に利用していくためには、各国による水産資源管理の一層の強化が求められている<ref name=kajyo/>。 [[自然保護]]の観点からは、「人間による捕鯨を含む漁業によって海洋[[生態系]]が撹乱されている」という海洋資源の過剰搾取問題がある。捕鯨は、海洋生態系ピラミッドの頂点に立っていた鯨類を[[バイオマス]]換算で半分以下まで減らし、その結果海洋生態系はダメージを受けている可能性がある(鯨類の餌としての水産資源消費も鯨類のバイオマス総量に比例して激減していると推測され、鯨類の死体を経由しての生態系ループもまた激減している)。これまでの人類による海洋の過剰搾取を見直す必要がある。この問題は鯨類だけではなく、[[マグロ]]([[ミナミマグロ]]やタイセイヨウマグロを含む)など特定魚種の集中的漁獲について同様の問題を抱えている。{{要出典|date=2018年12月}} また、[[化学物質]]汚染などにより海洋生態系の状況の悪化も指摘されており、海洋の利用は抑制に転じるべきであると言う主張がある{{要出典|date=2018年12月}}。 <!-- 出典なし独自研究 また、化学物質汚染などにより海洋生態系の状況は悪化しているうえ、オゾン層破壊による紫外線の増加(それに伴う海洋生態系ピラミッド最下層の植物性プランクトンへのダメージ、そこから生態系ピラミッド上層に向けての悪影響)によってこれから更に悪くなる可能性が強く、海洋の利用は抑制に転じるべきである。 --> === 人道的捕殺 === 日本が電気銛から[[小銃|ライフル]]を中心に切り替える旨を表明し、これを評価する国が多かったため、イギリスなども提案を撤回した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.maff.go.jp/soshiki/suisan/971106-17.txt |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年2月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051126190445/http://www.maff.go.jp/soshiki/suisan/971106-17.txt |archivedate=2005年11月26日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 致死時間の長さの一因について日本鯨類研究所は「年齢測定のために耳垢栓を無傷で入手する必要があり、致命傷を与えうる部位のうち頭部を避けて捕鯨砲を打ち込んでいたため」と説明。その後独自に開発した効率の高い爆発銛の使用により陸上野生動物のケースに劣らない即死率と平均致死時間を達成している、と反論している<ref>[http://www.icrwhale.org/05-A-a.htm#35 FAQ<!-- Bot generated title -->]</ref>。 日本鯨類研究所によれば、2005-2006年の調査捕鯨において平均致死時間(銛命中から致死判定まで)は104秒、即死率は57.8%である(抗議団体の妨害を受けていない場合)<ref>[http://www.icrwhale.org/gpandsea-geiken431.htm グリーンピースと動物福祉-「環境保護団体」は南極海で人と鯨に何をしたか-] 石川創 日本鯨類研究所</ref>。[[ノルウェー]]が発表した2000年のデータでは、平均致死時間が136秒、即死率が78%である<ref>[http://luna.pos.to/whale/jpn_hna_deer.html 商業的鹿猟がイギリスの二重基準を露呈する<!-- Bot generated title -->]</ref>。 日本の沿岸でのイルカ漁についても致死時間が長いとの批判がされたため、フェロー諸島で使用されている技術の導入が図られている。この方法によれば、脳への血流を即時に停止させ、即死に導くことができる。ただし、[[スジイルカ]]など一部の種については、水際で激しく動くために適用が困難で、さらなる改善研究が行われている<ref>水産総合研究センター「[http://kokushi.job.affrc.go.jp/H20/H20_45.html 45 小型鯨類の漁業と資源調査(総説)]」『平成20年度国際漁業資源の現況』</ref>。 最新の食肉用家畜の[[屠殺]]においては、専用の道具(主に屠殺銃)および炭酸ガス麻酔法を用いた[[安楽死]]が多いのに対し、鯨は専用施設内での殺処理が行えず、致命傷でなければ死ぬまで時間がかかり、[[動物福祉]]の観点<ref name=kisigami/>から非人道的であるとされる。乗組員の安全性(「大背美流れ」など)や人道的視点などからの致死時間短縮は比較的古くからの課題であり、鯨を感電死させる電気銛などの研究が戦前からあった。日本でも1950年代に電気銛の試験が行われ、鯨の即死が確認されたものの、有効射程の短さなど運用上の困難から主力にはならなかった。 === 食の安全からみた鯨肉 === 元々食性の生物段階が低いヒゲクジラ類では汚染の程度は低く、南極海産の[[ヒゲクジラ]]については汚染はほとんどないことも判明している。南極海のミンククジラにも汚染物質がほとんどないことが南極海鯨類捕獲調査で判明している<ref name=qa/>。特に南極海の[[クロミンククジラ]]の脂皮や筋肉中に蓄積されたPCBやDDTなど人工有機塩素化合物や水銀はごく微量で、北半球の個体と比べると10分の1以下の値である<ref name=qa/>。 [[2003年]]の[[厚生労働省]]調査では[[マッコウクジラ]]や[[ゴンドウクジラ]]、[[ハンドウイルカ]]などの[[ハクジラ類]]全般について、1970年代に定められた遠洋沖合魚介類に関する暫定的規制値を上回る高濃度の[[メチル水銀]]や[[ポリ塩化ビフェニル|PCB]]類が検出された。他方でヒゲクジラ類については、北西太平洋産のミンククジラやニタリクジラに関しては、ミンククジラの脂皮からは暫定規制値を超えるPCB類が認められたものの、メチル水銀は暫定規制値を超えるサンプルは無かった。流通量の過半数を占めていた南極海産のミンククジラ肉については、水銀・PCBともに汚染はほとんどないことが確認された<ref group="注釈">厚生労働省食品保健部「[https://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/01/h0116-4.html 鯨由来食品のPCB・水銀の汚染実態調査結果について]」</ref>。メチル水銀やPCB類が人体に摂取された場合の健康に生じる影響に関しては[[フェロー諸島]]での調査で妊娠中の母親体内の水銀濃度が高度となった場合に胎児の発育に一定の影響を与えることが確認された。それ以外の場合については、影響は科学的には確認されなかった。以上を踏まえて、日本の厚生労働省は、妊婦を対象とした[[魚介類]]の摂食ガイドラインを設定し、マグロやキンメダイと並び、[[ハクジラ]]類も摂取量の目安が定められた<ref>厚生労働省「[https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/051102-1.html 妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項の見直しについて]」</ref>。ただし、これはあくまで妊婦のみを対象としたもので、幼児や授乳婦などを対象とするものではない。また、ミンククジラなどのヒゲクジラ類は汚染が軽度であるとして、沿岸域のものも含めて制限の対象外である。 [[2010年]]の[[国立水俣病総合研究センター]]による[[太地町]]の健康影響調査で、全国の他地域と比べて平均で4倍超の[[水銀]]濃度を毛髪から検出され、うち43人(調査人員の3.8%)の対象者は毛髪水銀濃度の下限値を上回った<ref group="注釈">これはWHOの基準では精神疾患が出かねない数値である。{{harv|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』|p=290}}</ref>が、日本人の平均の70倍の水銀が蓄積している事例<ref>139ppm検出された、平均は2ppmである。</ref>がみられ、これは水俣病患者のレベルに達している{{sfn|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』|p=290}}。濃度が比較的高い182人はメチル水銀中毒と思われるような健康への影響は認められなかった<ref group="注釈">[[環境省]][[国立水俣病総合研究センター]] 「[http://www.nimd.go.jp/kenkyu/report/20100427_taiji_report.html 太地町における水銀と住民の健康影響に関する調査結果について]」 2010年5月9日。2009年6-8月と2010年2月の2回にわたって、[[和歌山県]][[太地町]]の全住民の3割にあたる計1137人を調査。</ref> が、非常に心配な状況と見る向きもある{{sfn|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』|p=291}}。太地町は水銀の影響を受けやすい子供の調査を実施すると発表した<ref>{{Cite news| url =http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=232557| title =クジラ肉健康に影響なし 水銀中毒の調査結果発表 太地町| newspaper =[[紀伊民報]]| publisher =| date =2012-05-31| archiveurl =https://web.archive.org/web/20140114033131/http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=232557| archivedate =2014年1月14日| deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。 [[食の安全]]の観点から、鯨肉が有害物質によって汚染されており、捕獲自体も止めるべきで、沿岸域の鯨肉、特に栄養段階が高次であるハクジラ類の鯨肉については安全性に問題があると言う主張がある{{要出典|date=2018年12月}}。人間・自然由来の海洋の化学物質が[[生態系]]ピラミッドの上位者である[[クジラ目|クジラ]]類・[[イルカ]]類の体内に濃縮されること、特に、年齢を重ねるごとに[[脂溶性]]の物質が脂肪細胞に蓄積される。その主たるものは[[水銀]]および有機[[塩素]]系化合物([[ポリ塩化ビフェニル|PCB]]等)である。生態系ピラミッドの上位である他のマグロや[[カジキ]]などの大型[[魚類]]についても同様の指摘があるが、哺乳類のクジラ類の寿命は長く、前述の通り年齢を重ねるごとに蓄積される汚染物質が多くなる為、その値はクジラ類ほど高くはない。と言う主張がある{{要出典|date=2018年12月}}。 === 食文化、伝統文化としての捕鯨 === 日本捕鯨協会によると、日本においてはクジラはただ単に食料としてではなく骨や皮まで全て廃棄することなく利用されていた<ref name=qa/>。[[縄文時代]]には骨が[[土器]]の製造台として使われ、[[飛鳥時代]]に仏教が伝来して一般的に肉食が禁止されると、当時は魚と見なされていたクジラから貴重な動物性[[タンパク質]]が摂取された。[[江戸時代]]初期まではクジラは貴重な食材として扱われ、饗応品や献上品に利用された。江戸時代初期以降に組織的捕鯨が始まると供給量が一気に増大し、赤肉や皮類は塩漬けされて日本全国に供給され、江戸時代中期に庶民の一般的な食料となり、[[時節]]や[[ハレとケ|ハレ]]の日に[[縁起物]]として広く食されるようになり、多種多様な[[鯨料理]]と鯨食文化が生まれた。一例として、毎年12月13日に塩蔵した鯨の皮の入った鯨汁を食べる「煤払い(すすはらい)」や、70種類の鯨料理を紹介した書物「鯨肉調味方」があげられる<ref>[https://web.archive.org/web/20210607160807/https://www.whaling.jp/culture.html 鯨食文化.] 日本捕鯨協会</ref>。食文化以外では「花おさ」に代表される縁起物としての工芸品でもある[[捕鯨文化|鯨細工]]は、クジラの歯・骨・[[鯨ひげ]]を材料とし、鯨ひげは[[人形浄瑠璃]]の板バネや[[からくり人形|カラクリ人形]]の[[ぜんまいばね|ゼンマイ]]にも使われてきた<ref>[https://web.archive.org/web/20210702034222/https://www.shimonoseki-cu.ac.jp/chiikikyoso/kuchan/2018_vol05.pdf くーちゃんの部屋 vol.5] [[下関市立大学]]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20201124015610/https://www.nikkei.com/article/DGXNASHD2302I_U4A620C1AA1P00/ 鯨のヒゲ 魂吹き込む 文楽を支えるかしら係 (未来への百景)] 日本経済新聞 2014年7月1日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20170721052139/https://otonanokagaku.net/products/karakuri/edo/story.html 大江戸からくり人形.] 大人の科学.com</ref>。 [[ノルウェー]]や[[アイスランド]]などにも[[鯨食]]文化が残っている。また、鯨肉は美味であるだけでなく、高タンパク、低脂肪、低カロリー、で[[コレステロール]]含有量も少なく、[[脂肪酸]]には[[血栓]]を予防する[[エイコサペンタエン酸]](EPA)や頭の働きをよくする[[ドコサヘキサエン酸]](DHA)、抗疲労効果のある[[バレニン]]成分が豊富に含まれ、[[生活習慣病]]、[[アトピー]]等の[[アレルギー]]症状を軽減する<ref name="qa" />。 ナンシー・シューメイカーは、かつて鯨肉食を普及させようと試みたが失敗した米国政府は捕鯨規制には鯨肉を食す国の視点を取り入れずに規制しようとしたため、商業か生業か、文明か野蛮かという二分法の枠組みで扱われた。石油開発によって[[鯨油]]は産業資源でなくなったため、アメリカはクジラの捕獲を禁止してもアメリカ人は失うものは何もなく、すなわち鯨肉はアメリカの文化的な好みに合致する味にはならなかったため、国際合意に負の影響を与えていると指摘している<ref name=kisigami/>。 このような食文化その他の文化面における対立には、中国の一部、[[大韓民国|韓国]]やベトナムにおける[[犬食文化]]<ref name="hirata" />がある。 === 伝統捕鯨、原住民生存捕鯨 === [[先史時代]]、[[縄文時代]]前期より[[日本]]では捕鯨が行われてきた<ref name=qa/>。江戸時代の[[鎖国]]政策によって遠洋航海が可能な船の建造が禁止されていたため、遠隔捕鯨化に伴う産業的な拡大は限定的で、これは[[明治]]以降の沿岸捕鯨の[[近代化]]・沖合捕鯨の開始・南極海商業捕鯨(輸出向けの鯨油の確保による外資稼ぎが主目的で、冷凍船の導入などで持ち帰りが可能に)にもある程度引き継がれた。 [[2002年]]のIWC[[下関市|下関]]会議では、原住民生存捕鯨枠には反捕鯨国が含まれる一方で、日本に対しては捕獲枠がいっさい認められず、調査捕鯨も引き続き反捕鯨国から非難され、また先住民には絶滅危惧種である[[ホッキョククジラ]]などの捕獲を認める一方で、日本に対しては絶滅の危機に直面しているわけではない[[クロミンククジラ]]の捕獲も許さないという対応がとられた。日本は「反捕鯨国による二重基準である」と反発し、生存捕鯨の採択を否決に持ち込んだ。このため、生存捕鯨枠の運用は一時停止を余儀なくされた。ユージン・ラポワントは欧米人が[[植民地主義]]の贖罪意識から絶滅危惧種の[[ホッキョククジラ]]捕獲を自国の先住民に認め、他方で日本やノルウェーの捕鯨を認めない理由について、かつて両国は自分たちの意のままにならなかったためであると指摘している<ref name=kisigami/>。 {{独自研究範囲|日本が求める沿岸捕鯨は、日本の伝統捕鯨とは捕獲方法も対象鯨種も異なり、「原住民生存捕鯨」と同じカテゴリで認められる可能性はない|date=2014年11月}}。 NGOグリーンピースは2007年に日本が提出した議案「沿岸小型捕鯨の捕獲枠」は「原住民生存捕鯨」と同列に扱い、また「調査捕鯨」の拡大解釈とともに二重基準であると批判している<ref name=GRsenjyu>NGOグリーンピース「「原住民生存捕鯨」に関する日本政府の考え方について」2007.5.31.</ref>。またグリーンピースは「原住民生存捕鯨」及び鯨肉食自体にも反対せず。逆に日本政府が[[アイヌ民族]]の[[寄り鯨]]利用も禁じるなど先住権を認めず、近代捕鯨を「原住民生存捕鯨」に見せかけ偽装することは先住民族を傷つけるものであると非難している<ref name=GRsenjyu/>。 === 国際捕鯨取締条約の解釈 === [[国際捕鯨委員会]](IWC)の目的の一つが捕鯨産業の秩序ある発展であることは、IWC設立の根拠となる国際捕鯨取締条約にも明確に記載されている<ref name=qa>{{Cite web|和書 |url=http://www.whaling.jp/qa.html |title=捕鯨問題Q&A |publisher=日本捕鯨協会 |accessdate=2013-7-20 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.whaling.jp/icrw.html |title=日本捕鯨協会 - 国際捕鯨取締条約 - |publisher=日本捕鯨協 |accessdate=2013-7-20 }}</ref>。 国際捕鯨取締条約8条ではIWCメンバー国は自国が適当と考える条件で科学調査を目的として鯨を捕獲できるとしており、商業捕鯨モラトリアムや南大洋鯨類サンクチュアリー(保護区)に拘束されずに、捕獲調査を行うことができると条約で認められている<ref name=qa/>。むしろ、モラトリアムはもう必要がなく、[[南大洋]]の永久保護区(サンクチュアリー)は資源量と無関係に設定されているため、条約に反している<ref name=qa/>。 1994年、日本をのぞいてIWC全会一致で[[南極海]]は永久保護区(サンクチュアリー)に指定された<ref>「クジラは殺さなければ科学的な調査はできないか? - 日本の調査捕鯨の実態」グリーンピース、2008年1月8日 </ref>。 === 調査捕鯨 === <!--古い内容の記述 1987年から実施されているJARPA(日本の調査捕鯨)は国際捕鯨取締条約第8条により各国政府の固有の権利である<ref name=qa/>。 --> 調査捕鯨の仕事は大別すると、鯨体を捕獲する捕獲調査と個体数を数える目視調査がある。鯨の推定頭数の算出や生態調査も目的としている{{sfn|『クジラを捕って、考えた』|p=80}}。平行してバイオプシー調査も行っており、こちらでは確保不能なシロナガスクジラなどの種のサンプルも集めている{{sfn|『クジラを捕って、考えた』|p=154-156}}。 調査捕鯨が開始された理由は、1982年のモラトリアム導入に際し反捕鯨国側は「現在使われている科学的データには不確実性がある」ことを根拠にして安全な資源管理ができないと主張したためであった<ref name=qa/>。 日本捕鯨協会によれば日本の南極海鯨類捕獲調査捕鯨では[[クロミンククジラ]]、[[ザトウクジラ]]など各種クジラが増加していること、鯨種や成長段階による棲み分けの状態、回遊範囲が非常に広範囲であること、1980年代後半から現在までクロミンククジラの資源量推定値に大きな増減はみられず、個体数は安定していることも明らかになり{{sfn|『イルカとクジラの謎に挑む』|p=214}}、多様な調査結果が得られている<ref name=qa/>。 北西太平洋鯨類捕獲調査においては、日本周辺のクジラは豊富であること<ref group="注釈">日本周辺の鯨は[[カタクチイワシ]]、[[サンマ]]、[[スケトウダラ]]、[[イカ]]を大量に捕食していることが、この調査で明確になったといわれる。しかしながら、北太平洋の[[ミンククジラ]]個体群が[[オキアミ]]よりも、[[サンマ]]や[[イワシ]]など群居性の中小型魚を多く捕食していたことは専門家にとっては古くからの常識であり一般向けの動物学啓蒙書籍にも広く記されていた。(村山司、笠松不二男『ここまでわかったクジラとイルカ』講談社 1996年 155頁)。また『貝と水の生物』旺文社 1977年 では「オキアミ、魚、小甲殻類」と表記されている。 </ref>。DNA分析で太平洋側と日本海側の鯨は別の系群にあること、などがわかった<ref name=qa/>。[[IUCN]]の[[レッドリスト]]で「絶滅危機」に分類されている[[イワシクジラ]]の[[調査捕鯨]]<ref>『日本捕鯨協会 捕鯨問題Q&A』</ref>では、北西太平洋イワシクジラの生息数を2004年6月までは28,000頭<ref>2004年6月10日イワシクジラ(体長14m、資源量28,000頭 http://www.icrwhale.org/02-A-33.htm</ref>、2004年9月からは67,600頭<ref>2004年9月24日イワシクジラ(体長平均14m、資源量67,600頭)http://icrwhale.org/02-A-35.htm</ref>、2009年5月からは28,500頭と考えており<ref>2009年5月9日イワシクジラ(体長14m、資源量28,500頭(東太平洋を含まず))http://icrwhale.org/090509ReleaseJp.htm</ref>、年間100頭程度の捕獲はイワシクジラの安定的な生息には影響を与えないとしている。 調査捕鯨に関して日本は1987年から2006年までの間に、査読制度のある学術誌に91編の論文を発表し、IWCの科学小委員会に182編の科学論文を提出するなどしており、2006年12月のIWC科学小委員会では、日本の研究について「海洋生態系における鯨類の役割のいくつかの側面を解明することを可能にし、その関連で科学小委員会の作業や南極の海洋生物資源の保存に関する条約(CCAMLR)など他の関連する機関の作業に重要な貢献をなす可能性を有する」と結論づけ、1997年のIWC科学小委員会においても、日本の調査が「南半球産ミンククジラの管理を改善する可能性がある」と評価されている<ref>Q&A-南極海における日本の捕獲調査 日本鯨類研究所</ref>。「捕獲調査は商業捕鯨の隠れみの」という批判に対し、クジラ調査は専門の学者が調査計画に基づいて船を運航させて、若干の捕獲を行い、耳垢栓や卵巣などの標本を採取し、調査後の鯨体は完全に利用することが条約(ICRW第8条第2項)で定められているので調査の副産物として持ち帰り、市場に出し、販売で得られた代金は調査経費の一部に充当されており、鯨体を可能な限り利用することは資源を大切にするという意味であると述べている<ref name=qa/>。 また、耳垢栓や生殖腺などの器官は鯨体の内部深くにあり、体内の汚染物質、胃内容物の調査を効果的に実施するためには致死的調査は不可欠である<ref name=qa/>。バイオプシーなど非致死的調査で得られる情報もあるが非効率で現実的でないことはIWC科学委員会でも認識されている<ref name=qa/>。 <!--前後と関連性のない記述 IUCNの基準は[[予防原則]]に基づき生息数の現状のみで判断するものではなく、過去から現在に向けて[[野生生物]]が受けてきた影響を考慮するものである。 --> [[世界自然保護基金]]は、日本は生態系調査を目的とする「[[調査捕鯨]]」(鯨類捕獲調査)に切り替えたが、捕殺した鯨の肉の一部を商業市場で販売しており、調査捕鯨は科学調査という大義名分を使った疑似商業捕鯨である<ref name=WWP_letter_to_NYT>{{Cite web|和書|title =「調査捕鯨」に関する科学者からの声明書|publisher =世界自然保護基金|url =http://www.baleinesendirect.net/pdf/whaling-letter_to_NY_Times.pdf|accessdate =2011-02-28|deadlinkdate =2017年10月|archiveurl =https://web.archive.org/web/20070819151058/http://www.baleinesendirect.net/pdf/whaling-letter_to_NY_Times.pdf|archivedate =2007年8月19日}}</ref>と述べた上で、日本は集積された情報を独立した審査のために公開することを拒否し、調査で集められたデータの殆どは殺さない方法で得ることが可能であり、日本の鯨調査計画が信頼にたる科学として最低限の基準を満たしていない<ref name=WWP_letter_to_NYT />と批判している。 [[2014年]]、[[国際司法裁判所]]は、日本の[[南極海]]での調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であるとする判決を下した。 ==== 調査捕鯨による鯨肉の需要減少による過剰在庫の存在 ==== 消費量は近年は拡大傾向にありまた在庫量は一定の水準を保っている<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.e-kujira.or.jp/whaletheory/morishita/1/index.html |title=鯨論・闘論 「どうして日本はここまで捕鯨問題にこだわるのか?」 |author=森下丈二 |date=2007-12-20 |accessdate=2013-07-20 |publisher= }}</ref>。在庫に余りはないと[[水産庁]]は説明している<ref name=jcastdb/>が、[[衆議院]][[決算行政監視委員会]]の理事である[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[平将明]]衆院議員は調査捕鯨の必要性を訴えられ、調査したら鯨肉の在庫は余っており、役所に嘘をつかれたと非難している<ref>「デタラメ復興予算の全貌 民主は審議ボイコット!「バカ全開だ」」 ZAKZAK(夕刊フジ)2012年10月12日</ref>。また、日本の調査捕鯨拡大に伴い鯨肉の在庫量が増加している<ref>{{cite news |url = http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/47/naruhodo260.htm |title = 意外にダブつく「忘れられた味」 クジラ どんどん売り込め! |publisher = [[読売新聞社]] |date = 2006-09-05 |newspaper = 読売新聞 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080220231846/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/47/naruhodo260.htm |archivedate = 2008年2月20日 |deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref>という報道があり、鯨肉の需要は現在は減っている。長引く商業捕鯨停止で卸業者が減少したために流通が滞っている<ref name=jcastdb>{{Cite web|和書 |url=https://www.j-cast.com/2006/09/14002955.html |title=クジラ在庫 「ダブつき」の真相 (1/2) : J-CASTニュース |date=2006-9-14 |accessdate=2013-7-20 |publisher=[[ジェイ・キャスト]] }}</ref>。2016年の消費量は2845t、入荷量は4089t、在庫量は2237t<ref>http://www.market.jafic.or.jp/suisan/</ref>。 === 領海への接近及び侵入 === オーストラリア及びニュージーランドがその[[領海]]に隣接する南極海の領域を管理しているという見方がまず客観的にも存在しており、そこが南極の調査捕鯨に対する不快感につながっているとされている<ref>「「おバカ大国」オーストラリア - だけど幸福度世界1位! 日本20位!」2015年 中央公論新社 沢木サニー祐二、174頁。ISBN 4-12-150519-0。</ref>。 ただし、[[1959年]]の[[南極条約]]により領土主権は凍結されており、日本は[[オーストラリア南極領土]]の領有権を認めていない。{{See|南極条約|南極における領有権主張の一覧|オーストラリア南極領土}} 中国メディアによれば、日本の捕鯨に対してオーストラリアが「日本が権利もなくわが国が[[オーストラリア南極領土|南極に持つ40%の領土]]に侵入した」と[[南極における領有権主張の一覧|南極領土]]の問題を主張した <ref>{{Cite web|和書|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140406-00000001-xinhua-cn |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2014年7月9日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714175539/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140406-00000001-xinhua-cn |archivedate=2014年7月14日 |deadlinkdate=2017年10月 }} </ref>。 === 異文化対立、文化多様性 === 反捕鯨国の多くはクジラを食料としてきた歴史が途絶えて久しい<ref>{{独自研究範囲|過去に捕鯨歴がある反捕鯨国の多くもまた、当初は沿岸捕鯨からスタートしている。しかしそれらの原始的沿岸捕鯨は資源の枯渇を招き、徐々に沖合・遠洋へと漁場をシフトしていった。この時期にはまだ冷凍技術がなく漁場から鯨肉を持ち帰れなかったため、保存可能な鯨油や資材(ヒゲなど)のみを対象とする産業構造になった(過去に捕鯨歴がある反捕鯨国について「鯨肉食文化が存在しなかった」とするのは誤り)|date=2014年11月}}。</ref>ため、「クジラを食料と見る文化が生き残っているか、そういう文化が生き残っておらず、保護対象としての[[野生動物]]と見る」という[[異文化]]対立が生じている。[[愛媛大学]][[農学部]]の細川隆雄は、「鯨を捕るな食べるな」という価値観を日本は押し付けられたとしている<ref>[http://web.agr.ehime-u.ac.jp/~hosokawa/hogei.html <403 Forbidden>捕鯨問題に見る異文化の対立についての考察] ([[愛媛大学]][[農学部]]・細川隆雄のページ)2014.11.10閲覧。{{404|date=2023-11}}</ref>。文化の多様性は尊重されるべきであるし、資源管理における地域社会の貢献もあり、日本の沿岸小型捕鯨者による[[ミンククジラ]]の捕鯨は認められるべきである<ref name=qa/>。B.モーランも、生存(生業)捕鯨(subsistence whaling)と商業捕鯨 (commercial whaling) の区別は西欧的な偏見のかかった価値体系に基づいたもので非西欧人には受け入れることができないし、捕鯨は[[コモディティ]]であり生業捕鯨と商業捕鯨の区別は無意味であるとした<ref name=kisigami/>。フリードハイムも反捕鯨規範を押し付けることは、文化的侵害行為として批判している<ref name=hirata/>。1989年に日本代表はIWCで「肉食文化が魚食文化を破壊するためにIWCを利用している」と批判した<ref name=hirata/>。オーストラリアではカンガルー、欧州ではきつね、アメリカでは子牛などのほ乳類を殺し食べているが日本の捕鯨を認めないというのは偽善である<ref name=hirata/><ref>[https://www.j-cast.com/2014/02/19197187.html 牛やブタはよくてなぜイルカは悪いのか 「ワイヤード」イタリア版に異色批判記事] Jcastニュース 2018年2月1日 閲覧</ref>。ある文化的風習が過剰搾取や種の絶滅にならない限りは風習を堅持する権利が各文化にはある<ref name=hirata/>。農林水産省は「鯨肉の消費は時代遅れの文化的風習ではなく、牛肉を食べることが世界の標準でもない」と主張している<ref name=hirata/>。しばしば主に欧米と捕鯨国の捕鯨に対する意見の衝突は「ユダヤ教やキリスト教といった宗教・文化と捕鯨国(日本)との宗教・文化の価値観の相違」でもあると語られることがある<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20080512/301274/ 第11回 反捕鯨に見る「自然の権利」 -ITpro] 2018年2月1日 閲覧</ref><ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0093056 捕鯨問題の賛否を問うドキュメンタリー…『ハーブ&ドロシー』佐々木芽生監督の話題作] - シネマトゥデイ 2018年2月1日 閲覧</ref><ref>[http://the-liberty.com/article.php?item_id=8440 【そもそも解説】どうして捕鯨が非難されているの?] ザ・リバティweb 2018年2月1日</ref><ref>[http://agora-web.jp/archives/1582611.html 思想・文化問題としての捕鯨・イルカ漁問題] アゴラ 2018年2月4日 閲覧</ref>。日本では捕鯨とクジラへの信仰があり<ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/pdf/140513japanese.pdf 捕鯨問題の真実] 水産庁 2018年2月1日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/culture/nihon-isan/ichiran/20170421-OYT8T50021.html 鯨とともに生きる【和歌山】] YOMIURI ONLINE 2018年2月1日</ref>、クジラを供養する宗教観が存在する<ref>[http://www.whaling.jp/qa.html 捕鯨問題Q&A] 日本捕鯨協会 2018年2月1日 閲覧</ref>。ただキリスト教国家でも捕鯨は行われていたことがある。 伝統的には日本では捕鯨された鯨への感謝や供養が見られ、当時は食糧確保が難しかったことを鑑みると、これは動物保護団体の思想に近いとする指摘や、村八分等の悪しき伝統もあり文化だからという理由だけで擁護すべきではないという指摘がある。<ref>{{Cite book|和書|author=シェリー・F・コーブ|title=菜食への疑問に答える13章 |date=2016 |publisher=新評論|page=210|translator=井上太一}}</ref>{{Main2|食用利用以外の歴史的経過については、[[捕鯨文化]]、[[鯨骨]]、[[鯨ひげ]]、[[鯨油]]も}} === 鯨の神格化、クジラ知的生物論 === [[岸上伸啓]]によれば鯨の神格化は、メディアの圧倒的な物量作戦によって生み出された鯨の虚像(メディアホエール)であり、愛や平和,非暴力などの価値が強調され、映像や音声表現に[[ヴァーチャル・リアリティ]]が入っており、こうしたメッセージから捕鯨が倫理的に悪と考えられている<ref name=kisigami/>。また、俗流動物中心主義にたつ反捕鯨論は[[エコファシズム]]に向かう危険があるとみている<ref name=kisigami/>。また、環境保護はこうしたシンボルを利用して、多額の資金を調達し、また企業や政府はこうした神話を支持することによって「地球にやさしい」という政治的な正当性を獲得したと分析している<ref name=kisigami/>。 ノルウェーの人類学者{{仮リンク|アルネ・カラン|label=カラン|no|Arne Kalland}}によれば、クジラを生物学的、生態学的、文化政治的に象徴的に特別な存在とみなして、地球上で最大の動物(シロナガスクジラ),地球上で最大の脳容積を持つ動物(マッコウクジラ),身体に比して大きな脳を持つ動物(バンドウイルカ),愉快でさまざまな歌を歌う動物(ザトウクジラ),人間に友好的な親しい動物(コククジラ),絶滅の危機に瀕している動物(ホッキョククジラやシロナガスクジラ)といった特徴のすべてを併せ持った空想の鯨、「スーパーホエール神話」がメディアにおいて流通し、環境保護のシンボルとなったと指摘している<ref name=hirata>{{Cite journal|和書|author=平田恵子 |date=2006-01 |url=https://doi.org/10.34607/jssiss.57.2_162 |title=捕鯨問題 ―日本政府による国際規範拒否の考察― |journal=社会科学研究 |ISSN=0387-3307 |publisher=国立大学法人 東京大学社会科学研究所 |volume=57 |issue=2 |pages=173 |doi=10.34607/jssiss.57.2_162 |CRID=1390568617217699328}}</ref>。 [[三浦淳 (ドイツ文学者)|三浦淳]]は、知能の高低と殺してよいもの、そうでないものを結びつけることに合意される合理的な理由はないうえに、その論法を用いれば知能が低い人間は殺害してもよい、という考えに結びつくと述べている<ref>{{Cite web|和書|author=三浦淳|authorlink=三浦淳 (ドイツ文学者)|url=http://luna.pos.to/whale/jpn_nemo6.html|title=反捕鯨の病理学 第四回|accessdate=2013-7-20}}{{404|date=2023-11}}</ref>。このような価値観が反捕鯨の世論の形成の根底にあるといわれる<ref>日本鯨類研究所 1996年 3月発行「鯨研通信」第 389号</ref><ref>{{Cite web|和書|author=三浦淳|authorlink=三浦淳 (ドイツ文学者)|url=http://luna.pos.to/whale/jpn_nemo4.html|title=反捕鯨の病理学 第二回|accessdate=2013-7-20}}{{404|date=2023-11}}</ref>{{疑問点|title=前件否定の虚偽?|date=2019年7月}}。 また、[[河島基弘]]はクジラに見られる以下の6つの特殊性が反捕鯨思想に影響を与えていると考察したうえで、鯨を神格化し特別視することは種の違いに基づく[[種差別]]であるとしている<ref>{{Cite journal|和書|author=河島基弘 |date=2010-03 |url=https://gunma-u.repo.nii.ac.jp/records/1099 |title=欧米で鯨が特別視される理由の批判的考察 |journal=群馬大学社会情報学部研究論集 |ISSN=1346-8812 |publisher=群馬大学社会情報学部 |volume=17 |pages=1-17 |hdl=10087/5082 |CRID=1050001337664042112}}</ref>。 *地上最大の動物で巨大な脳を持つという生物学的特殊性 *何百万年にわたり海洋に適応し、食物連鎖の最上位に位置しているという生態学的特殊性 *クジラは美と優雅さを備えているという美的特殊性 *クジラは神秘的で、平和的で、寛容であるという文化的特殊性 *広域を回遊するためにどの国にも属さず、国際的な管理が必要であるという政治的特殊性 *環境保護のシンボルであるという象徴的特殊性 == 反捕鯨運動 == {{See|反捕鯨}} 日本政府水産庁は海外援助で発展途上国の票を買うことはしていないと公表している<ref>水産庁「[https://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_faq/faq.html#q3 Q3]」2014.11.11閲覧</ref>。一方企業の動きを見ると、反捕鯨運動をうけて、[[イトーヨーカ堂]]、[[西友]]などの大手チェーンを含む少なくとも3500のスーパーが日本国内におけるクジラやイルカ製品の販売を中止した<ref>{{Cite web |url=https://reports.eia-international.org/keeptheban/ |title=Commercial whaling Unsustainable Inhumane Unnecessary |access-date=20230624}}</ref>。[[ヤフー (企業)|ヤフー]]や[[アマゾンジャパン]]も鯨肉販売を中止した<ref>{{Cite web |url=https://eia-international.org/wp-content/uploads/Yahoo-briefing-FINAL.pdf |title=Yahoo-briefing-FINAL.pdf |access-date=20230624}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://eia-international.org/blog/whale-campaign-made-huge-change-overnight/ |title=The Whale Campaign that made a huge change - overnight. |access-date=20230624}}</ref>。 [[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]や[[シーシェパード]]といった反捕鯨[[NGO]]の活動船と日本やノルウェーなどの捕鯨船とのトラブルがある。[[シーシェパード]]の[[暴力]]的な示威活動は[[カナダ]]、[[デンマーク]]、日本、[[ワシントン州]]の[[アメリカ先住民]]の部族である[[マカー族]]に対して起こされている。 反捕鯨には日本人への[[人種差別]]が基調にあるという言説によれば、1978年6月のIWCロンドン総会で日本代表団は反捕鯨団体に赤い染料をかけられ、「殺人者!バーバリアン(野蛮人)!お前たちが殺した鯨の血だ!」と怒号がかけられ、そうした様子は「この野蛮人をみよ」として[[BBC]]で放映された<ref name=saito/>。1979年の総会でもロンドンの[[トラファルガー広場]]で「日本死刑執行」と称して眼鏡をかけた人形を吊るし、[[銛]]で刺すデモンストレーションや、[[日の丸]]が焼かれるなどした<ref name=saito/>。こうした行動は同じ捕鯨国のノルウェーやソ連に対しては行われなかった<ref name=saito/>。しかしながら、捕鯨問題に詳しい[[C.W.ニコル]]は日の丸が焼かれた事件について、飽くまでも差別的な個人が煽っているのであり、人種全体がそうだという訳ではないのだと語っており、また、捕鯨問題は黄色人種と白人の対立ではない、反捕鯨主義者の一部と日本人の一部が人種問題に扇動しているとしている<ref>「鯨捕りよ、語れ!」2007年 アートデイズ C・Wニコル、82頁。ISBN 4-86119-089-4。ニコルは仲が良い捕鯨船員が日の丸を焼いた事件に触れた際に、奴らが悪いのではない、彼が悪いのだと語っている。</ref>。 2010年1月のオーストラリア人1000人を対象にした世論調査では94%が捕鯨に反対している(「ニューズウィーク日本版』2014年4月15日号より)が、南極海の領域を管理しているという点からのテリトリー意識や観光資源としての利益保護という点もあるのだろうとされる。 2008年にはグリーンピース日本支部による[[グリーンピース宅配便窃盗事件|クジラ肉窃盗事件]]が発生した。平成17年には日本鯨類研究所がグリーンピースジャパンに対して暴力的な妨害について公開質問状を出した<ref>[http://www.icrwhale.org/pdf/JARPAII-GP.pdf 日本鯨類研究所の公開質問状] (グリーンピースへのオープンレター)</ref>。 岸上伸啓は環境NGO[[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]は、反捕鯨を資金集めの手段としており「抗議ビジネス」であり、グリーンピースは支援者から注目を集め資金をえるために,クジラに関して誇張した情報を流して人々の不安心理を掻きたてメディアを操作し、欧米の政治家の中にはクリーンなイメージをアピールし,支持者を集める手段として反捕鯨を訴える者がおり、捕鯨問題が政治的に利用されているとの批判があるとしている<ref name="kisigami">{{Cite journal|和書|author=岸上伸啓 |date=2011-02 |url=https://doi.org/10.15021/00003885 |title=捕鯨に関する文化人類学的研究における最近の動向について |journal=国立民族学博物館研究報告 |ISSN=0385-180X |publisher=国立民族学博物館 |volume=35 |issue=3 |pages=399-470 |doi=10.15021/00003885 |hdl=10502/4475 |CRID=1390290699797189504}}</ref>。 また、この問題は、日本の経済が好調であった時期に欧米諸国の[[自然保護団体]]に同調した[[自動車産業]]団体や、[[農産物生産者]]等によって利用され、[[ジャパンバッシング]]に起因する[[反日]]運動の一つとして、過激な運動やパフォーマンスも行われた。 尚、川端裕人によると、ニュージーランドは日本に好印象を持っており、グリーンピース・ニュージーランドの反捕鯨キャンペーンのキャッチフレーズは「日本は好きだけど、捕鯨には胸が痛む!」であると指摘している{{sfn|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』|p=296}}。 ;エコテロリストへの対抗運動 日本の[[統一戦線義勇軍]]は榎本正隆をオーストラリアへ派遣して、2008年から一年間オーストラリアで反シーシェパードの活動を行っていた。榎本によるとオーストラリア人の中には日本は捕鯨をした方がいいと言う人も沢山いて、大半のオーストラリア人は反シーシェパードである(あれは下品)と述べている<ref>月刊「創」2010年9・10月号ASIN B003XNGJOW 映画「ザ・コーヴ」公開初日の怒号激論 51頁</ref>。 [[主権回復を目指す会]]はシー・シェパードが協力した映画『[[ザ・コーヴ]]』を[[反日]]映画として、日本国内で公開禁止の抗議活動を強硬に行った。しかしながらこの抗議活動は製作に関与していない日本国内の映画配給会社や映画館の支配人の自宅での抗議であり、支配人の高齢の母親が攻撃されるに至って、家族を攻撃するのは右翼であれ左翼であれ許されざることであり、統一戦線義勇軍や[[一水会 (思想団体)|一水会]]など他の右翼団体の反発を招いた<ref>月刊「創」2010年9・10月号 41頁</ref>。前述の統一義勇軍の榎本曰く、外国の映画で日本人同士がぶつかっている奇妙な構図だと指摘している<ref>月刊「創」2010年9・10月号 51頁</ref>。 デンマークのフェロー諸島のゴンドウクジラ協会は捕鯨のPR活動を行っているが、これは[[シー・シェパード]]による妨害活動に対抗する為に設立されたものである<ref>「白人はイルカを食べてもOKで日本人はNGの本当の理由」 2011年 講談社、230頁。ISBN 4-06-272712-9。</ref>。 == 日本のIWC脱退 == 日本は2018年12月26日、国際捕鯨委員会(IWC)から脱退し、翌2019年7月1日から商業捕鯨を日本の200海里水域内で再開することを発表した。 == 日本における世論・報道 == 日本においては、2001年に内閣府による捕鯨に関する複数項目の世論調査が行われ、賛成多数となっており<ref>[https://survey.gov-online.go.jp/h13/h13-hogei/2-3.html 捕鯨問題に関する世論調査]</ref>、また2006年にはインターネットサイトYahoo!によるアイスランドの捕鯨再開に伴う商業捕鯨の賛否を問うアンケート調査が行われ、こちらも賛成多数となっている<ref>[https://news.yahoo.co.jp/polls/other/120/result 商業捕鯨に90%が賛成 - yahooニュース みんなの意見]</ref>。 近々においても2018年に外務省により外交に関する電話での世論調査が行われ、複数項目の内、IWC脱退と捕鯨再開の政府方針への賛否の項目で賛成多数となっている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007335.html 平成30年度 外交に関する国内世論調査]</ref>。 捕鯨に賛成する人が多数であるが、捕鯨自体に積極的に賛成というよりは、捕鯨を批判・否定するという価値観の押し付けに対する反発という側面が強い<ref>『創 2010年 06月号』(創出版)「上映禁止が懸念されるドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」を論じる」91頁 </ref>という見方もある。 *[[中田宏]](当時の[[横浜市]]長)は「IWC総会では毎年、正当な主張は採択されず、根拠のない不当な意見ばかりが多数決で押し切られるという、およそ国際会議とは信じられないような出鱈目さを呈している」と批判している<ref name=nakata>{{Cite web|和書 |last = 中田 |first = 宏 |authorlink = 中田宏 |url = http://www.nakada.net/syutyo/SYUTHO06.htm |title = IWC(国際捕鯨委員会)について |archiveurl = https://web.archive.org/web/20080109160624/http://www.nakada.net/syutyo/SYUTHO06.htm |archivedate = 2008年1月9日 |accessdate = 2011-02-28 |deadlinkdate = 2017年10月 }}([[横浜市]]長・中田宏のページ)</ref>。 *作家の[[川端裕人]]は[[報道機関|マスコミ]]が「日本文化の捕鯨を訳の分からない保護団体が不当に反対している」という切り口のみで報道すると指摘している。また環境団体の情報ソースを団体の宣伝になるからと報道しなかった実体験から、メディアには環境団体の情報を吟味する能力がないのだと告白しているのと同義だとしている{{sfn|『イルカとぼくらの微妙な関係』|p=266-269}}。 *[[神保哲生]]は捕鯨問題の図式はメディアでも[[タブー]]になっており、政府の長年のPR活動と西側NGOの戦略の拙さが原因だとしている<ref>『サイゾー2010年11月号』「マル劇トーク・オンデマンド第47回」</ref>。当時俳優の[[山本太郎]]もメディアでのタブーについて、6(六ヶ所村)と並んで9(クジラ)のことは話題にもできない空気があると指摘している<ref>『SPA!2011年7/5・7/12合併号』扶桑社「俳優・山本太郎が事務所を辞めてまで伝えたかったこと」</ref>。 *元水産庁技官[[小松正之]]は日本政府は捕鯨問題に真剣に取り組んでおらず、「アメリカやアングロサクソンの国々と対立しても戦わずして争いを避けてしまう、やる気も能力もない外交」と非難し、「捕鯨のような小さな案件での対立が日米関係の全体に悪影響を及ぼすはずがなく、むしろマイナーな分野だからこそ、毅然とした態度で主張すべき」としている<ref name=saito2>[[斎藤貴男]]「鯨と世論」『世界』2010.12月号、p185</ref>。 == 関連作品 == *[[白鯨]] - [[ハーマン・メルヴィル]]の小説。[[グレゴリー・ペック]]が主演で映画化もされている。 *[[ザ・コーヴ]] - 太地のイルカ漁を批判した映画。[[アカデミー賞]]受賞作。 *[[ビハインド・ザ・コーヴ 〜捕鯨問題の謎に迫る〜]](Behind "The Cove")2015モントリオール国際映画祭出品作品。 *[[Whale Whores]] - アメリカのアニメ、[[サウスパーク]]第13シーズン第11話。[[シー・シェパード]]による過激な運動と[[リアリティショー]]の演出手法を批判的に描いている。 *『[[美味しんぼ]]・激闘鯨合戦』漫画(抜き刷りを捕鯨協会が配布している) * [[クジラと生きる|NHKスペシャル クジラと生きる]] - 映画『ザ・コーヴ』の舞台となった和歌山県の東牟婁郡太地町を半年間取材し、主に漁業者の心中を描いた、NHK総合テレビで放送されたドキュメンタリー特別番組。 ==注釈== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|group="注釈"}} ==出典== {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==参考文献== * {{cite book|和書|author=川端裕人 |author-link=川端裕人 |title=クジラを捕って、考えた |publisher=徳間書店 |year=2004 |series=徳間文庫 |ISBN=4198921377 |id={{全国書誌番号|20681467}} |ref={{harvid|『クジラを捕って、考えた』}}}} * {{cite book|和書|author=川端裕人 |title=イルカとぼくらの微妙な関係 |publisher=時事通信社 |year=1997 |ISBN=4788797291 |id={{全国書誌番号|98028539}} |ref={{harvid|『イルカとぼくらの微妙な関係』}} }} ** {{cite|title=のち『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』に改題。ちくま文庫 |ISBN=978-4-480-42744-1 |ref={{harvid|『イルカと泳ぎ、イルカを食べる』}}}} * {{cite book|和書|author=村山司, 中原史生, 森恭一, 鈴木美和, 吉岡基 |title=イルカ・クジラ学 : イルカとクジラの謎に挑む |publisher=東海大学出版会 |year=2002 |ISBN=4486015932 |id={{全国書誌番号|20480575}} |ref={{harvid|『イルカとクジラの謎に挑む』}}}} == 関連書籍== * [[岡島成行]]『クジラ論争!』岩波書店 ISBN 4-00-003236-4 C0336 * [[喜多義人]] 「国際捕鯨委員会と商業捕鯨の禁止」『日本法学』第71巻4号([[日本大学]]法学会)所収 * 喜多義人 「商業捕鯨の合法性と必要性」『日本法学』第73巻第2号(日本大学法学会)所収 * 喜多義人「鯨類資源の管理と国際法--国際捕鯨規制の展開」『日本法学』第71巻第3号(日本大学法学会)所収 * 鯨者連『鯨イルカ雑学ノート』ダイヤモンド社 ISBN 4-478-96032-1 * [[小松正之]]『よくわかるクジラ論争 捕鯨の未来をひらく』 2005年9月 ISBN 4-425-85211-7 * [[斎藤貴男]]「鯨と世論」『世界』2010.12月号 * 財団法人[[日本鯨類研究所]]・日本捕鯨協会編『第1回日本伝統捕鯨地域サミット開催の記録』長門市・財団法人日本鯨類研究所発行 2003年5月 * 財団法人日本鯨類研究所・日本捕鯨協会編『第2回日本伝統捕鯨地域サミット開催の記録』生月町・財団法人日本鯨類研究所発行 2004年3月 * [[丹野大]] 『反捕鯨? 日本人に鯨を捕るなという人々(アメリカ人)』 (文眞堂、2004年) ISBN 4-8309-4475-7 * ニュースダイジェスト[http://www.news-digest.co.uk/news/features/2020-whaling-antiwhaling.html 「クジラを食べるな」その理由] (グリーンピースUK 海洋キャンペーン担当ジョン・フリゼルインタビュー特集) * [[松井章]]編『考古科学的研究法から見た 木の文化・骨の文化』2003年3月 ISBN 4-87805-026-8(クバプロ) * {{Cite journal|和書|author=三浦淳 |date=2008-07 |url=https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/28814 |title=鯨イルカ・イデオロギーを考える(IV) : ジョン・C・リリーの場合 |journal=人文科学研究 |ISSN=04477332 |publisher=新潟大学人文学部 |volume=122 |pages=Y113-Y134 |hdl=10191/9758 |CRID=1050564289187303936}} * 三崎滋子「捕鯨をめぐる情報戦争」Japan Australia News紙2000年9月 * [[渡邊洋之]]『捕鯨問題の歴史社会学‐近現代日本におけるクジラと人間』東信堂 2006年9月 ISBN 4-88713-700-1 * [http://www.informaworld.com/smpp/title~content=g777444015~db=all Atsushi Ishii, Ayako Okubo (2007) An Alternative Explanation of Japan's whaling diplomacy in the Post-Moratorium Era. ''Journal of International Wildlife Law and Policy'', Vol. 10 No. 1, pp. 55-87.] ==関連項目== <!--本文で十分に説明しているものは重複。---> *[[捕鯨文化]] - [[鯨肉]] *[[職業倫理]] *[[肉食]] - [[食文化]] - [[食のタブー]] *[[日本の獣肉食の歴史]] *[[日本の捕鯨]] *[[ノルウェーの捕鯨]] *[[イルカ追い込み漁]] *[[種差別]] *[[太地町]]([[和歌山県]]) - 現在、日本で唯一「イルカ追い込み漁」が行われている。 ==外部リンク== *[https://www.jfa.maff.go.jp/j/whale/w_faq/faq.html 鯨問題に関するよくある質問と答え] 水産庁 *[http://www.sydney.au.emb-japan.go.jp/japanese/top/important_info/standpoint_of_japan.htm 捕鯨問題における日本の立場] 在シドニー日本国総領事館 *[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/listen/interview/intv_17.html 外務省(「如何にして日本の漁業文化を守りしか-国際漁業問題への日本の取り組み-」)] *[http://www.whaling.jp/ 日本捕鯨協会] **[http://www.whaling.jp/qa.html 捕鯨問題Q&A] (第II期北西太平洋鯨類捕獲調査について) *[http://www.icrwhale.org/ 財団法人日本鯨類研究所] *[http://tanakanews.com/a0731whale.htm 捕鯨をめぐるゆがんだ戦い] {{動物の権利}} {{DEFAULTSORT:ほけいもんたい}} [[Category:捕鯨]] [[Category:社会問題]] [[Category:動物の権利]] [[Category:倫理的に問題のあるビジネス慣行]]
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肝試し
肝試し(きもだめし)とは、怖い場所へ行かせて、その人の恐怖に耐える力を試すことである。もっぱら夏の夜に行なわれ霊的な恐怖に耐える、日本の伝統的なゲームの一種。試胆会ともいう。 日本の習俗の一つで、遊びとしての度胸試し(どきょうだめし、英語:test of courage、courage test)の一種。 人間が潜在的恐怖心を抱くような場所、すなわち夜の森など心情的恐怖の対象となり得る場所を巡ることによって、持てる勇気のほどを確かめながら、そこで起こる事象を楽しむ行事である。 日本文化において心霊にまつわる怪奇現象の多くは夏の風物詩であるが、霊への恐怖心と関連づけられる肝試しもまた、この季節に行われることが多い。現代社会では、多くが学校のクラブやスポーツ少年団などが集団行動する際の一行事として、合宿のときなどに野外で催される。 平安時代末期に書かれたという『大鏡』には時の帝(花山天皇)が夏の午前3時に、藤原兼家の三人の息子たちに、鬼が出ると言われていた屋敷に行かせ、藤原道長だけがやり遂げて、証拠として刀で柱を削いで持って帰ったという記述があり、肝試しの発想が当時からあったことが窺える。 肝試しを行う場所は墓地、森林、廃墟といった閑散とした不気味な場所が選ばれる。現代において学校やスポーツクラブの合宿で肝試しを行う場合、安全ではあるが恐怖感を煽る墓地や山林などが選定されるのが普通である。 通常、肝試しは辺りが暗くなる夜間に限って行われる。闇そのものが人間に恐怖心を抱かせる、あるいは、潜在的恐怖の源であるがゆえんである。なんら細工をすることの無い場合もあれば、参加者の一部が脅かし役にまわり、あらかじめのコース設定や脅かす道具の準備といった事前の仕込みを施す場合もある。 肝試しを始める前に、その場所にちなんだ怪談をする場合もある。 参加者は1人もしくは2- 4人程度のグループを作り、順番に決められたコースを巡る。脅かし役は白い布を被ったり人形などを使ってお化けや妖怪、骸骨などに仮装し、やってきた参加者を驚かせる。他にも、音響機器で不気味な音楽や悲鳴の効果音を流したり、竿の先にぶら下げたコンニャクで参加者を撫でるなど、様々に工夫を凝らす。 きちんとゴールまで辿り着いたことを確かめるために、折り返し地点に何らかの小道具(札やカード、菓子など)を置いておき、辿り着いた参加者が一つずつ持ってくるようにする。 肝試しは適切な配慮や手加減が不足すると、犯罪になってしまう遊びである。 肝試しの目的で無断で他人の廃墟に立ち入る行為は、刑法130条で「建造物侵入」と定められている。誤って廃墟に迷い込んだ場合は成立しないが、管理者などより退去を命じられて従わなければ「不退去罪」が成立する。どちらも有罪となった場合は3年以下の懲役または、罰金10万円以下の罰則が定められている。未遂の場合は刑法133条で「建造物侵入未遂」罪と定められている。 落書きや破壊行為は、刑法261条で器物損壊に定められる。有罪の場合は3年以下の懲役または30万円以下の罰則が定められている。 参加者が恐怖のため行くことを拒んでいるのに無理強いしすぎると、刑法222条、223条によって脅迫罪、強要罪が成立する。また無理強いの結果、相手が心的傷害を負った場合は、傷害罪が成立する場合もある。 以上のことから、参加者の合意があった場合でも、主催者は参加者に対し、ある程度の安全に配慮することが求められている。
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肝試し(きもだめし)とは、怖い場所へ行かせて、その人の恐怖に耐える力を試すことである。もっぱら夏の夜に行なわれ霊的な恐怖に耐える、日本の伝統的なゲームの一種。試胆会ともいう。
{{独自研究|date=2019年7月}} [[ファイル:Kinunomiti.JPG|thumb|250px|[[道了堂跡]]へ続く山道]] '''肝試し'''(きもだめし)とは、怖い場所へ行かせて、その人の恐怖に耐える力を試すことである<ref>大辞林第二版【肝試し】</ref>。もっぱら[[夏]]の夜に行なわれ霊的な恐怖に耐える、[[日本]]の伝統的なゲームの一種。'''試胆会'''ともいう。 == 概要 == 日本<!--アジア諸国にもあるなら定義の拡大を。-->の[[風習|習俗]]の一つで、[[遊び]]としての度胸試し(どきょうだめし、[[英語]]:test of [[wikt:courage|courage]]、courage test)の一種。 人間が[[無意識|潜在的]][[恐怖|恐怖心]]を抱くような場所、すなわち夜の[[森林|森]]など心情的恐怖の対象となり得る場所を巡ることによって、持てる[[勇気]]のほどを確かめながら、そこで起こる事象を楽しむ[[イベント|行事]]である。 [[日本の文化|日本文化]]において[[幽霊|心霊]]にまつわる怪奇現象の多くは[[夏]]の[[風物詩]]であるが、霊への恐怖心と関連づけられる肝試しもまた、この季節に行われることが多い。現代社会では、多くが[[学校]]の[[クラブ活動|クラブ]]や[[スポーツ少年団]]などが集団行動する際の一行事として、[[合宿]]のときなどに野外で催される。 == 起源 == [[平安時代]]末期に書かれたという『[[大鏡]]』には時の帝([[花山天皇]])が夏の午前3時に、[[藤原兼家]]の三人の息子たちに、[[鬼]]が出ると言われていた屋敷に行かせ、[[藤原道長]]だけがやり遂げて、証拠として刀で柱を削いで持って帰ったという記述があり<ref>『大鏡』肝試しの段</ref>、肝試しの発想が当時からあったことが窺える。 == 現代的肝試しの実際 == === 事前準備 === 肝試しを行う場所は[[墓地]]、[[森林]]、[[廃墟]]といった閑散とした不気味な場所が選ばれる。現代において学校やスポーツクラブの合宿で肝試しを行う場合、[[安全]]ではあるが恐怖感を煽る墓地や山林などが選定されるのが普通である。 通常、肝試しは辺りが暗くなる[[夜|夜間]]に限って行われる。[[闇]]そのものが人間に恐怖心を抱かせる、あるいは、潜在的恐怖の源であるがゆえんである。なんら細工をすることの無い場合もあれば、参加者の一部が脅かし役にまわり、あらかじめのコース設定や脅かす道具の準備といった事前の仕込みを施す場合もある。 === 遊び方 === 肝試しを始める前に、その場所にちなんだ[[怪談]]をする場合もある。 参加者は1人もしくは2- 4人程度のグループを作り、順番に決められたコースを巡る。脅かし役は白い布を被ったり[[人形]]などを使って[[お化け]]や[[妖怪]]、[[骸骨]]などに[[仮装]]し、やってきた参加者を驚かせる。他にも、[[音響機器]]で不気味な[[音楽]]や悲鳴の[[効果音]]を流したり、[[竿]]の先にぶら下げた[[コンニャク]]で参加者を撫でるなど、様々に工夫を凝らす。 きちんとゴールまで辿り着いたことを確かめるために、折り返し地点に何らかの小道具([[札]]や[[カード]]、[[菓子]]など)を置いておき、辿り着いた参加者が一つずつ持ってくるようにする。 == 運用に関する法律 == 肝試しは適切な配慮や手加減が不足すると、[[犯罪]]になってしまう遊びである<ref>{{Cite web |title=「心霊スポットと思い肝試しに」 世田谷一家殺人現場に高校生が侵入、警視庁が捜査 |url=https://www.sankei.com/article/20231123-VVPAOX6PAVMAJC4GOLVXDZ3Z2E/ |website=産経ニュース |date=2023-11-23 |access-date=2023-11-24 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 肝試しの目的で無断で他人の廃墟に立ち入る行為は、[[刑法]]130条で「[[建造物侵入]]」と定められている。誤って廃墟に迷い込んだ場合は成立しないが、管理者などより退去を命じられて従わなければ「[[不退去罪]]」が成立する。どちらも有罪となった場合は3年以下の懲役または、罰金10万円以下の罰則が定められている。未遂の場合は刑法133条で「建造物侵入未遂」罪と定められている。 [[落書き]]や破壊行為は、刑法261条で[[器物損壊]]に定められる。有罪の場合は3年以下の懲役または30万円以下の罰則が定められている。 参加者が恐怖のため行くことを拒んでいるのに無理強いしすぎると、刑法222条、223条によって[[脅迫罪]]、[[強要罪]]が成立する。また無理強いの結果、相手が心的傷害を負った場合は、[[傷害罪]]が成立する場合もある。 以上のことから、参加者の合意があった場合でも、主催者は参加者に対し、ある程度の安全に配慮することが求められている。 == 出典 == <references /> == 関連項目 == * [[日本の文化#遊び]] * [[お化け屋敷]] * [[怪談]] * [[百物語]] * [[夏休み]] * {{ill2|Legend tripping|en|Legend tripping}} - 英語圏での度胸試しに廃墟・墓地をたんさくする活動 * [[ゴーストハンティング]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:きもためし}} [[Category:日本のゲーム]] [[Category:子供の遊び]] [[Category:夏]] [[Category:野外活動]] [[Category:夏の季語]]
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山本貴司
山本 貴司(やまもと たかし、1978年7月23日 - )は、日本の男子競泳選手。1996年アトランタオリンピック・2000年シドニーオリンピック・2004年アテネオリンピックの3大会連続出場。2004年アテネオリンピック200mバタフライ銀メダリスト、400mメドレーリレー銅メダリスト。100m、200mバタフライの元日本記録保持者。 大阪市住之江区に生まれ、3歳から水泳を始める。高校3年時にアトランタオリンピックに出場し、オリンピックデビュー。その後近畿大学附属高校から近畿大学商経学部を2001年3月卒業。2001年4月からは近畿大学の職員に、2004年10月から水上競技部コーチを、2013年11月からは同部監督を務めている。 2002年にバルセロナオリンピック・アトランタオリンピック競泳日本代表の千葉すずと結婚した。3児の父(第1児・2005年生、第2児・2007年生)でもある。 2008年、北京オリンピック出場を賭けて臨んだ日本選手権水泳競技大会では100m4位、200m3位と敗れ、4大会連続オリンピック出場はならなかった。これを受け、大会終了後のプレスインタビューでは『やりつくした思いでいっぱい』と、笑顔を浮かべながら現役引退を明らかにした。後日、正式な引退記者会見を行った。 日本選手権では、バタフライ50mで1度100mで10度、200mで7度優勝した。 関西テレビで夕方に放送されているニュース番組(スーパー ニュース ほっと関西→FNNスーパーニュースアンカー)で2006年10月27日までスポーツキャスターを担当していた。 現在は近畿大学東大阪キャンパスの職員でもある。2010年現在、入試センター入試広報課で勤務している。 2013年11月、近畿大学水上競技部監督に就任。 ひょうきんな性格でユニークな言動が多く、日本チームのムードメーカー的な存在であった。 2006年8月、山本が保持していた最古の高校記録である100mバタフライの記録(53秒85)が村松由規によって破られた。 2007年3月、世界水泳メルボルン大会の男子400mメドレーリレーで銀メダル。 一時期タイムが伸び悩んだ時期、どうすればタイムを伸びるかを考えた結果、過度の筋肉トレーニングを辞めて基本動作の確認を中心に練習し、日本記録を出した事がある。 泳ぎの特徴としては、うねりの少ない泳ぎとされている。 アジア競技大会では100mバタフライで3連覇を達成している
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "山本 貴司(やまもと たかし、1978年7月23日 - )は、日本の男子競泳選手。1996年アトランタオリンピック・2000年シドニーオリンピック・2004年アテネオリンピックの3大会連続出場。2004年アテネオリンピック200mバタフライ銀メダリスト、400mメドレーリレー銅メダリスト。100m、200mバタフライの元日本記録保持者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大阪市住之江区に生まれ、3歳から水泳を始める。高校3年時にアトランタオリンピックに出場し、オリンピックデビュー。その後近畿大学附属高校から近畿大学商経学部を2001年3月卒業。2001年4月からは近畿大学の職員に、2004年10月から水上競技部コーチを、2013年11月からは同部監督を務めている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2002年にバルセロナオリンピック・アトランタオリンピック競泳日本代表の千葉すずと結婚した。3児の父(第1児・2005年生、第2児・2007年生)でもある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2008年、北京オリンピック出場を賭けて臨んだ日本選手権水泳競技大会では100m4位、200m3位と敗れ、4大会連続オリンピック出場はならなかった。これを受け、大会終了後のプレスインタビューでは『やりつくした思いでいっぱい』と、笑顔を浮かべながら現役引退を明らかにした。後日、正式な引退記者会見を行った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本選手権では、バタフライ50mで1度100mで10度、200mで7度優勝した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "関西テレビで夕方に放送されているニュース番組(スーパー ニュース ほっと関西→FNNスーパーニュースアンカー)で2006年10月27日までスポーツキャスターを担当していた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在は近畿大学東大阪キャンパスの職員でもある。2010年現在、入試センター入試広報課で勤務している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2013年11月、近畿大学水上競技部監督に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ひょうきんな性格でユニークな言動が多く、日本チームのムードメーカー的な存在であった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2006年8月、山本が保持していた最古の高校記録である100mバタフライの記録(53秒85)が村松由規によって破られた。", "title": "主な記録と特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2007年3月、世界水泳メルボルン大会の男子400mメドレーリレーで銀メダル。", "title": "主な記録と特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一時期タイムが伸び悩んだ時期、どうすればタイムを伸びるかを考えた結果、過度の筋肉トレーニングを辞めて基本動作の確認を中心に練習し、日本記録を出した事がある。", "title": "主な記録と特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "泳ぎの特徴としては、うねりの少ない泳ぎとされている。", "title": "主な記録と特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アジア競技大会では100mバタフライで3連覇を達成している", "title": "主な記録と特徴" } ]
山本 貴司は、日本の男子競泳選手。1996年アトランタオリンピック・2000年シドニーオリンピック・2004年アテネオリンピックの3大会連続出場。2004年アテネオリンピック200mバタフライ銀メダリスト、400mメドレーリレー銅メダリスト。100m、200mバタフライの元日本記録保持者。
{{MedalTop}} {{MedalSport|[[競泳]]}} {{MedalSilver|[[2004年アテネオリンピックの競泳競技|2004]]|男子200mバタフライ}} {{MedalBronze|[[2004年アテネオリンピックの競泳競技|2004]]|男子4×100mメドレーリレー}} {{MedalBottom}} '''山本 貴司'''(やまもと たかし、[[1978年]][[7月23日]] - )は、[[日本]]の男子[[競泳]]選手。[[1996年アトランタオリンピック]]・[[2000年シドニーオリンピック]]・[[2004年アテネオリンピック]]の3大会連続出場。[[2004年アテネオリンピック]]200m[[バタフライ]]銀メダリスト、400m[[メドレーリレー]]銅メダリスト。100m、200mバタフライの元[[競泳の日本記録一覧|日本記録]]保持者。 == 経歴 == [[大阪市]][[住之江区]]に生まれ、3歳から水泳を始める。高校3年時にアトランタオリンピックに出場し、オリンピックデビュー。その後[[近畿大学附属高等学校・中学校|近畿大学附属高校]]から[[近畿大学]][[商経学部]]を2001年3月卒業。2001年4月からは近畿大学の職員に、2004年10月から水上競技部コーチを、2013年11月からは同部監督を務めている。 [[2002年]]に[[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナオリンピック]]・[[1996年アトランタオリンピック|アトランタオリンピック]]競泳日本代表の[[千葉すず]]と結婚した。3児の父(第1児・2005年生、第2児・2007年生<!--、第2児・2010年で1歳(かんさい情報ネットten!、7月21日放送より)-->)でもある。 [[2008年]]、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]出場を賭けて臨んだ[[日本選手権水泳競技大会]]では100m4位、200m3位と敗れ、4大会連続オリンピック出場はならなかった。これを受け、大会終了後のプレスインタビューでは『やりつくした思いでいっぱい』と、笑顔を浮かべながら現役引退を明らかにした。後日、正式な引退記者会見を行った。<ref>[http://www.daily.co.jp/general/2008/05/01/0000993801.shtml 山本貴司が引退表明] - デイリースポーツ、2008年4月30日</ref> [[日本選手権水泳競技大会|日本選手権]]では、バタフライ50mで1度100mで10度、200mで7度優勝した。 [[関西テレビ放送|関西テレビ]]で夕方に放送されているニュース番組([[FNNスーパーニュースほっとKANSAI|スーパー ニュース ほっと関西]]→[[FNNスーパーニュースアンカー]])で2006年10月27日までスポーツキャスターを担当していた。 現在は近畿大学東大阪キャンパスの職員でもある。2010年現在、入試センター入試広報課で勤務している<ref>[[かんさい情報ネットten!]]、2010年7月21日放送より</ref>。 2013年11月、近畿大学水上競技部監督に就任<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31336960U8A600C1AA2P00/ 日本経済新聞]</ref>。 == 人物 == ひょうきんな性格でユニークな言動が多く、日本チームの[[ムードメーカー]]的な存在であった。 == 主な記録と特徴 == * 種目はすべてバタフライ {| class="wikitable" !距離!!タイム!!大会名 |- |100m||52.27||2003年[[バルセロナ]]世界選手権 |- |200m||1.54.56||2004年アテネオリンピック |} [[2006年]]8月、山本が保持していた最古の高校記録である100mバタフライの記録(53秒85)が村松由規によって破られた。 [[2007年]]3月、[[2007年世界水泳選手権|世界水泳メルボルン大会]]の男子400m[[メドレーリレー]]で銀メダル。 一時期タイムが伸び悩んだ時期、どうすればタイムを伸びるかを考えた結果、過度の筋肉トレーニングを辞めて基本動作の確認を中心に練習し、日本記録を出した事がある。 泳ぎの特徴としては、うねりの少ない泳ぎとされている。 アジア競技大会では100mバタフライで3連覇を達成している == 関連項目 == * [[千葉すず]] - 妻 * [[バッド・マカリスター]] - 現役時代に師事していたことがある == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Sports links}} * {{Wayback|url=http://www.nhk.or.jp/spotai/onair/77/index.html |title=復活ミスターバタフライ ~水泳・山本貴司~ |date=20071205205040}} - [[NHKスポーツ大陸]] * [http://www.30ans.com/specialtalk/backnumber/vivi_200311.html スペシャル対談 藤本裕子が各界トップに迫る・2003年11月号] - トランタンネットワーク新聞社 | 30ans {{日本選手権水泳競技大会男子50mバタフライ優勝者}} {{日本選手権水泳競技大会男子100mバタフライ優勝者}} {{日本選手権水泳競技大会男子200mバタフライ優勝者}} {{Navboxes|title=[[競泳日本代表]] - 出場大会 オリンピック3回・世界選手権4回 |titlestyle=background:#BFD7FF; |list1= {{1995年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{1996年アトランタオリンピック 競泳日本代表}} {{1997年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{1998年世界水泳選手権 競泳日本代表}} {{1998年アジア競技大会 競泳日本代表}} {{1999年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{2000年シドニーオリンピック 競泳日本代表}} {{2001年世界水泳選手権 競泳日本代表}} {{2002年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{2002年アジア競技大会 競泳日本代表}} {{2003年世界水泳選手権 競泳日本代表}} {{2004年アテネオリンピック 競泳日本代表}} {{2006年パンパシフィック水泳選手権 競泳日本代表}} {{2006年アジア競技大会 競泳日本代表}} {{2007年世界水泳選手権 競泳日本代表}} {{2007年世界競泳 競泳日本代表}} }} {{Swimming-bio-stub}} {{デフォルトソート:やまもと たかし}} [[Category:日本の男子競泳選手]] [[Category:競泳日本代表選手]] [[Category:バタフライの選手]] [[Category:オリンピック競泳日本代表選手]] [[Category:日本のオリンピック銀メダリスト]] [[Category:日本のオリンピック銅メダリスト]] [[Category:競泳のオリンピックメダリスト]] [[Category:世界水泳選手権競泳日本代表選手]] [[Category:世界水泳選手権競泳競技メダリスト]] [[Category:パンパシフィック水泳選手権日本代表選手]] [[Category:パンパシフィック水泳選手権メダリスト]] [[Category:アジア競技大会競泳日本代表選手]] [[Category:日本のアジア競技大会金メダリスト]] [[Category:日本のアジア競技大会銀メダリスト]] [[Category:日本のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:アジア競技大会競泳競技メダリスト]] [[Category:ユニバーシアード競泳日本代表選手]] [[Category:日本のユニバーシアード銀メダリスト]] [[Category:ユニバーシアード競泳競技メダリスト]] [[Category:近畿大学附属高等学校出身の人物]] [[Category:近畿大学出身の人物]] [[Category:近畿大学の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1978年生]] [[Category:存命人物]]
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オームの法則
オームの法則(オームのほうそく、英語: Ohm's law)とは、導電現象において、電気回路の部分に流れる電流とその両端の電位差の関係を主張する法則である。クーロンの法則とともに電気工学で最も重要な関係式の一つである。 1781年にヘンリー・キャヴェンディッシュが発見したが、その業績は死後数十年した後に1879年にその遺稿を纏めたマクスウェルが『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として出版するまで世間には未公表であったため知られておらず、1826年にドイツの物理学者であるゲオルク・オームによって独自に再発見・公表されたため、その名を冠してオームの法則と呼ばれる。 オームの法則は、電気回路の2点間の電位差が、その2点間に流れる電流に比例することを主張する。 電流が I で電位差が V であるとき V = I R {\displaystyle V=IR} となる。比例係数 R は導体の材質・形状・温度などによって定まり、電気抵抗(electric resistance)あるいは単に抵抗(resistance)と呼ばれる。 この関係の逆を考えると、流れる電流が電位差に比例する、と表現することができる。これを数式で表せば I = G V {\displaystyle I=GV} となる。このときの比例係数 G = R は電気伝導度(conductance)、あるいはコンダクタンスと呼ばれる。 電流の単位にアンペア(記号:A)を、電位差の単位にボルト(記号:V)を用いたときの電気抵抗の単位はオーム(記号:Ω)が用いられる。また、コンダクタンスの単位はジーメンス(記号:S)が用いられる。 導体内の微小な断面(法ベクトル n)を考え、その面積を ΔS とすると、この断面を貫く電流 I は、この点での電流密度を j として I = j ⋅ n Δ S {\displaystyle I={\boldsymbol {j}}\cdot {\boldsymbol {n}}\Delta S} と表される。 一方、この微小な断面を貫く微小な法線を考え、その長さを ΔL とすると、この法線に沿った電位差 V は、この点での電場を E として V = E ⋅ n Δ L {\displaystyle V={\boldsymbol {E}}\cdot {\boldsymbol {n}}\Delta L} と表される。この電流と電位差にオームの法則を適用すれば E ⋅ n = R Δ S Δ L j ⋅ n {\displaystyle {\boldsymbol {E}}\cdot {\boldsymbol {n}}={\frac {R\Delta S}{\Delta L}}\,{\boldsymbol {j}}\cdot {\boldsymbol {n}}} となる。導体が一様で等方な材質であると考えれば、電場 E と電流密度 j は平行であると考えられ E = ρ j {\displaystyle {\boldsymbol {E}}=\rho {\boldsymbol {j}}} と表される。比例係数 ρ = R ΔS/ΔL は導体の材質と温度によって定まり、抵抗率 (resistivity)あるいは固有抵抗 (specific resistance)と呼ばれる。 さらにその逆関数 j = σ E {\displaystyle {\boldsymbol {j}}=\sigma {\boldsymbol {E}}} と表したときの比例係数 σ = 1/ρ は導電率 (conductivity)と呼ばれる。 この表現は導体内の微小領域におけるオームの法則を示しており、微分型表現といわれる。この微分型表現を実際の導体の形状寸法に合わせて積分することによりその導体の電気抵抗が定まる。 地球電磁気学、宇宙空間物理学などで使われる磁気流体力学(MHD)はオームの法則を1次元の導体から3次元の連続体、特に流体に拡張して用いる。この時のオームの法則は磁場の影響も含むようになり、「一般化されたオームの法則」と呼ばれる。 磁場が存在し、かつ導電体が動く場合、磁場の影響によるローレンツ力が無視できなくなる。ローレンツ変換を使うと、電場は と変換される。ただし ∥ {\displaystyle \parallel } は導電体の移動方向と並行な成分、 ⊥ {\displaystyle \bot } は垂直な成分、 γ {\displaystyle \gamma } はローレンツ因子、 β {\displaystyle \beta } は光速に対する相対的な速度。 速度が光速より十分に遅く、かつ磁場が十分強いと仮定する。この時、オームの法則は j = σ ( E + v × B ) {\displaystyle {\boldsymbol {j}}=\sigma \left({\boldsymbol {E}}+{\boldsymbol {v}}\times {\boldsymbol {B}}\right)} と修正される。 完全に電離した水素原子のプラズマを考える。つまり流体を構成する粒子は陽子と電子の2成分のみとする。陽子と電子それぞれの流体に対し、速度を u p , u e {\displaystyle {\boldsymbol {u}}_{p},{\boldsymbol {u}}_{e}} 、数密度を n p , n e {\displaystyle n_{p},n_{e}} 、粒子の質量を m p , m e {\displaystyle m_{p},m_{e}} 、分圧を P p , P e {\displaystyle P_{p},P_{e}} とする。また電気素量を e {\displaystyle e} 、陽子と電子の二体衝突の頻度を ν {\displaystyle \nu } とする。ローレンツ力と衝突の影響を含めた運動方程式(オイラー方程式)は となる。ただし R {\displaystyle {\boldsymbol {R}}} は衝突項。 ミクロな空間において定常状態を考えると、運動方程式の左辺と分圧の勾配を0と近似できる。 中性流体を考えると n ≃ n p ≃ n e {\displaystyle n\simeq n_{p}\simeq n_{e}} とできる。陽子の質量が電子の質量より非常に大きいこと m p ≫ m e {\displaystyle m_{p}\gg m_{e}} と合わせると、重心の速度は と近似できる。 電流は j = e ( n p u p − n e u e ) {\displaystyle {\boldsymbol {j}}=e(n_{p}{\boldsymbol {u}}_{p}-n_{e}{\boldsymbol {u}}_{e})} と表されるので、運動方程式の衝突項を代入すると、 j = R m e ν {\displaystyle {\boldsymbol {j}}={\frac {\boldsymbol {R}}{m_{e}\nu }}} 以上より一般化されたオームの法則 が導ける。ただし σ = e n / ( m e ν ) {\displaystyle \sigma =en/(m_{e}\nu )} とした。
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オームの法則とは、導電現象において、電気回路の部分に流れる電流とその両端の電位差の関係を主張する法則である。クーロンの法則とともに電気工学で最も重要な関係式の一つである。 1781年にヘンリー・キャヴェンディッシュが発見したが、その業績は死後数十年した後に1879年にその遺稿を纏めたマクスウェルが『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として出版するまで世間には未公表であったため知られておらず、1826年にドイツの物理学者であるゲオルク・オームによって独自に再発見・公表されたため、その名を冠してオームの法則と呼ばれる。
[[ファイル:Georg-simon-ohm 1.jpg|thumb|120px|[[ゲオルク・オーム]]]] '''オームの法則'''(オームのほうそく、{{Lang-en|Ohm's law}})とは、導電現象において、[[電気回路]]の部分に流れる[[電流]]とその両端の[[電位差]]の関係を主張する[[法則]]である。[[クーロンの法則]]とともに[[電気工学]]で最も重要な関係式の一つである。 [[1781年]]に[[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]]が発見したが、その業績は死後数十年した後に[[1879年]]にその遺稿を纏めた[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]が『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として出版するまで世間には未公表であったため知られておらず、[[1826年]]に[[ドイツ]]の[[物理学者]]である[[ゲオルク・オーム]]によって独自に再発見・公表されたため、その名を冠してオームの法則と呼ばれるようになった。 == 内容 == オームの法則は、電気回路の2点間の電位差が、その2点間に流れる電流に比例することを主張する<ref name="hara">原康夫 『物理学通論II』 19章19.2、学術図書出版、1988年</ref>。 電流が {{mvar|I}} で電位差が {{mvar|V}} であるとき {{Indent| <math>V =IR</math> }} となる。[[比例係数]] {{mvar|R}} は導体の材質・形状・温度などによって定まり、[[電気抵抗]]({{en|electric resistance}})あるいは単に抵抗({{en|resistance}})と呼ばれる。 この関係の逆を考えると、流れる電流が電位差に比例する、と表現することができる。これを数式で表せば {{Indent| <math>I =GV</math> }} となる。このときの比例係数 {{math|1=''G'' = ''R''{{sup-|1}}}} は[[電気伝導度]]({{en|conductance}})、あるいは[[コンダクタンス]]と呼ばれる。 電流の単位に[[アンペア]](記号:A)を、電位差の単位に[[ボルト (単位)|ボルト]](記号:V)を用いたときの電気抵抗の単位は[[オーム]](記号:&Omega;)が用いられる。また、コンダクタンスの単位は[[ジーメンス]](記号:S)が用いられる。 == 微分型表現 == 導体内の微小な断面([[法ベクトル]] {{mvar|'''n'''}})を考え、その面積を {{mvar|&Delta;S}} とすると、この断面を貫く電流 {{mvar|I}} は、この点での[[電流密度]]を {{mvar|'''j'''}} として {{Indent| <math>I =\boldsymbol{j}\cdot \boldsymbol{n} \Delta S</math> }} と表される。 一方、この微小な断面を貫く微小な法線を考え、その長さを {{mvar|&Delta;L}} とすると、この法線に沿った電位差 {{mvar|V}} は、この点での[[電場]]を {{mvar|'''E'''}} として {{Indent| <math>V =\boldsymbol{E}\cdot \boldsymbol{n} \Delta L</math> }} と表される。この電流と電位差にオームの法則を適用すれば {{Indent| <math>\boldsymbol{E}\cdot \boldsymbol{n} =\frac{R\Delta S}{\Delta L}\, \boldsymbol{j}\cdot \boldsymbol{n}</math> }} となる。導体が一様で等方な材質であると考えれば、電場 {{mvar|'''E'''}} と電流密度 {{mvar|'''j'''}} は平行であると考えられ {{Indent| <math>\boldsymbol{E} =\rho \boldsymbol{j}</math> }} と表される。比例係数 {{math|1=''&rho;'' = ''R &Delta;S''/''&Delta;L''}} は導体の材質と温度によって定まり、[[電気抵抗率|抵抗率]] ({{en|resistivity}})<ref name="hara" />あるいは固有抵抗 ({{en|specific resistance}})と呼ばれる。 さらにその逆関数 {{Indent| <math>\boldsymbol{j} =\sigma \boldsymbol{E}</math> }} と表したときの比例係数 {{math|1=''&sigma;'' = 1/''&rho;''}} は[[導電率]] ({{en|conductivity}})<ref name="hara" />と呼ばれる。 この表現は導体内の微小領域におけるオームの法則を示しており、微分型表現といわれる。この微分型表現を実際の導体の形状寸法に合わせて[[積分]]することによりその導体の電気抵抗が定まる。 == 磁気流体力学での一般化されたオームの法則 == [[地球電磁気学]]、[[宇宙空間物理学]]などで使われる[[磁気流体力学]](MHD)はオームの法則を1次元の導体から3次元の[[連続体力学|連続体]]、特に[[流体]]に拡張して用いる。この時のオームの法則は磁場の影響も含むようになり、「一般化されたオームの法則」と呼ばれる。 === 液体金属における導出 === [[磁場]]が存在し、かつ導電体が動く場合、磁場の影響による[[ローレンツ力]]が無視できなくなる。[[ローレンツ変換]]を使うと、電場は <math display="block">\begin{align} \boldsymbol{E}_{\parallel}' &= \boldsymbol{E}_\parallel \\ \boldsymbol{E}_{\bot}' &= \gamma \left( \boldsymbol{E} + \boldsymbol{\beta} \times \boldsymbol{B} \right)_\bot \end{align}</math> と変換される。ただし<math>\parallel</math>は導電体の移動方向と並行な成分、<math>\bot</math>は垂直な成分、<math>\gamma</math>は[[ローレンツ因子]]、<math>\beta</math>は光速に対する相対的な速度。 速度が[[光速]]より十分に遅く、かつ磁場が十分強いと仮定する。この時、オームの法則は {{Indent| <math>\boldsymbol{j} =\sigma \left( \boldsymbol{E} + \boldsymbol{v} \times \boldsymbol{B}\right)</math> }} と修正される。 === プラズマにおける導出 === 完全に電離した[[水素原子]]の[[プラズマ]]を考える。つまり流体を構成する粒子は[[陽子]]と[[電子]]の2成分のみとする。陽子と電子それぞれの流体に対し、速度を<math>\boldsymbol{u}_p, \boldsymbol{u}_e</math>、数密度を<math>n_p, n_e</math>、粒子の質量を<math>m_p, m_e</math>、分圧を<math>P_p, P_e</math>とする。また[[電気素量]]を<math>e</math>、陽子と電子の二体衝突の頻度を<math>\nu</math>とする。[[ローレンツ力]]と衝突の影響を含めた運動方程式([[オイラー方程式_(流体力学)|オイラー方程式]])は <math display="block">\begin{align} m_p n_p \left(\frac{\partial}{\partial t} + (\boldsymbol{u}_p \cdot \nabla)\right) \boldsymbol{u}_p &= -\nabla P_p + en_p (\boldsymbol{E} + \boldsymbol{u}_p \times \boldsymbol{B}) - \boldsymbol{R}\\ m_e n_e \left(\frac{\partial}{\partial t} + (\boldsymbol{u}_e \cdot \nabla)\right) \boldsymbol{u}_e &= -\nabla P_e - en_e (\boldsymbol{E} + \boldsymbol{u}_e \times \boldsymbol{B}) + \boldsymbol{R}\\ \boldsymbol{R} &= en_e m_e \nu (\boldsymbol{u}_p - \boldsymbol{u}_e) \end{align}</math> となる。ただし<math>\boldsymbol{R}</math>は衝突項。 ミクロな空間において定常状態を考えると、運動方程式の左辺と分圧の勾配を0と近似できる。 <math display="block">\begin{align} en_p (\boldsymbol{E} + \boldsymbol{u}_p \times \boldsymbol{B}) - \boldsymbol{R} &= 0\\ - en_e (\boldsymbol{E} + \boldsymbol{u}_e \times \boldsymbol{B}) + \boldsymbol{R} &= 0 \end{align}</math> 中性流体を考えると<math>n \simeq n_p \simeq n_e</math>とできる。陽子の質量が電子の質量より非常に大きいこと<math>m_p \gg m_e</math>と合わせると、重心の速度は <math display="block">\begin{align} \boldsymbol{u} &= \frac{n_pm_p\boldsymbol{u}_p + n_em_e\boldsymbol{u}_e}{n_pm_p + n_em_e}\\ &\simeq \frac{m_p\boldsymbol{u}_p + m_e\boldsymbol{u}_e}{m_p+m_e}\\ &\simeq \boldsymbol{u}_p \end{align}</math> と近似できる。 電流は {{Indent| <math> \boldsymbol{j} = e(n_p\boldsymbol{u}_p - n_e\boldsymbol{u}_e)</math> }} と表されるので、運動方程式の衝突項を代入すると、 {{Indent| <math> \boldsymbol{j} = \frac{\boldsymbol{R}}{m_e\nu}</math> }} 以上より一般化されたオームの法則 <math display="block">\begin{align} \boldsymbol{j} &= \sigma (\boldsymbol{E} + \boldsymbol{u} \times \boldsymbol{B}) \end{align}</math> が導ける。ただし<math>\sigma = en /(m_e\nu)</math>とした。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * 大野木哲也・高橋義朗『電磁気学I』益川敏英監修、植松恒夫・青山秀明編、東京図書〈基幹講座 物理学〉、2015年、53-54頁。{{ISBN2|978-4489022234}} * 柴田一成・横山央明・工藤 哲洋『宇宙電磁流体力学の基礎』日本評論社〈宇宙物理学の基礎〉、2023年。{{ISBN2|978-4535603417}} == 関連項目 == * [[オーム]] * [[超伝導]] * [[ヘンリー・キャヴェンディッシュ]] * [[ゲオルク・オーム]] * [[クーロンの法則]] * [[フィックの法則]] * [[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]] * [[電気計測工学]] - [[電気抵抗の測定]] * [[電気抵抗]] - [[オーム]] * [[電気伝導]] - [[ジーメンス]] * [[直流回路]] - [[電気回路]] - [[等価回路]] * [[熱雑音]] * [[電磁気学]] * [[交流]] * [[直流]] * [[周波数]] * [[インピーダンス]] {{電気電力}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおむのほうそく}} [[Category:電気理論]] [[Category:電気回路の定理]] [[Category:電磁気学]] [[Category:移動現象]] [[Category:自然科学の法則]] [[Category:ゲオルク・オーム]] [[Category:ヘンリー・キャヴェンディッシュ]] [[Category:物理学のエポニム]]
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真如
真如(しんにょ、巴, 梵: tathatā、蔵: de bzhin nyid)は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality)、無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)のことである。 『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。 真如はまた、法、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる。 釈迦は自身のことをTathāgata(如来)と呼んでおり、これは「こうして来た人 (One who has thus come)」「こうして去って行った人 (One who has thus gone)」を意味し、また「そのような境地に達した者」とも解釈できる。 『大乗起信論』に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。 無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。 真如の究竟して染法を離れることが明鏡のようであるのを空真如といい、真如は一切の清浄法を備えているのが明鏡にすべての様相を写すようなことを不空真如という。これは『釈摩訶衍論』の説である。 これは随縁真如・不変真如の異名である。 衆生が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。『摩訶止観』に説かれている。これは、『大乗起信論』には在纏(てん)真如・出纏真如と呼ばれている。 人我の空を顕す真如を生空真如、法我の空を顕す真如を法空真如といい、『唯識論』に説かれる。 真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできないので、これを離言真如という。言葉を仮設することでその相を表すのを依言真如という。これは『大乗起信論』の説。 これを『華厳大疏鈔』では、相待真如、絶待真如と呼んでいる。 流転・安立・邪行の三真如は仏にはいわない。実相・唯識・清浄の三真如は根本智の境であり、他の四は後得智の境である。 宇宙・万有に遍在する本来たる真如は、固より絶対であって分かつべきではないが、その徳相を顕わし、またはこれを證(証)明する歴程に区別があることより分類することがある。今は菩薩の十地に真如を分證するが、その勝徳により見て假立するものをいう。
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真如は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方、無名で無個性な現実のことである。 『金剛般若経』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。 真如はまた、法、自性清浄心、仏性、法身、如来蔵、実相、法界、法性、円成実性と同体異名であるとされる。
{{出典の明記|date=2016年4月23日 (土) 04:16 (UTC)}} {{Otheruses|仏教用語の「真如」|浄土真宗の僧「眞如」|真如 (東本願寺)|真言宗の僧「真如」|高岳親王}} {{Infobox Buddhist term | title = 真如 | en = thusness, suchness | pi = tathatā | sa = tathatā | bn = | zh = 真如 | zh-Latn = Zhēnrú | ja = 真如 | ja-Latn = しんにょ | bo = དེ་བཞིན་ཉིད }} '''真如'''(しんにょ、[[パーリ語|巴]], {{lang-sa-short|tathatā}}、[[チベット語|蔵]]: {{ラテン翻字|bo|de bzhin nyid}})は、原義では「あるがままであること」「そのような状態」という意味であり、物事の真理・実際のあり方 (the way things are in truth or actuality){{R|oxford}}、無名で無個性な現実 (nameless and characterless reality)<ref>{{Cite web|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/suchness|title=Suchness Definition &amp; Meaning|website=Merriam-Webster.com Dictionary|publisher=[[メリアム=ウェブスター|Merriam-Webster]]|accessdate=2023-08-21}}</ref>のことである。 『[[般若経|金剛般若経]]』のサンスクリット本に出て、「真如性」と訳されている。「真」とは真実、「如」とは如常の意味である。諸法の体性虚妄を離れて真実であるから真といい、常住であり不変不改であるから如と言うとされる。 真如はまた、[[法 (仏教)|法]]、[[自性清浄心]]、[[仏性]]、[[法身]]、[[如来蔵]]、[[実相]]、法界、[[法性]]、円成実性と同体異名であるとされる。 ==釈迦== [[釈迦]]は自身のことをTathāgata([[如来]])と呼んでおり、これは「こうして来た人 (One who has thus come)」「こうして去って行った人 (One who has thus gone)」を意味し<ref name=oxford>{{Cite book|title=A Dictionary of Buddhism|publisher=[[オックスフォード大学出版局|OUP]]|series=Oxford Paperback Reference|edition=Illustrated|first=Damien|last=Keown|authorlink=:en:Damien Keown|date=September 4, 2008|origdate=August 26, 2004|page={{Google books quote|id=985a1M7L1NcC|page=296|text=296}}|isbn=978-0192800626|oclc=59264404|ncid=BA71231448|asin=0192800620}}</ref>、また「そのような境地に達した者」とも解釈できる。 == 大乗仏教 == ===一真如=== 『[[大乗起信論]]』に、「真生未分の一心」とあり、一真法界には差別がないことを言う。 ===二真如=== ====随縁真如・不変真如==== 無明の縁にしたがって九界の妄法を起すのを随縁真如といい、随縁して妄法となるがその真性は不変であるのを不変真如という。よって、随縁真如であるから真如即萬法であり、不変真如であるから萬法即真如である。これは華厳教の終教・天台教の別教以上でいうことである。 ====空真如・不空真如==== 真如の究竟して染法を離れることが明鏡のようであるのを空真如といい、真如は一切の清浄法を備えているのが明鏡にすべての様相を写すようなことを不空真如という。これは『釈摩訶衍論』の説である。 ====清浄真如・染浄真如==== これは随縁真如・不変真如の異名である。 ====有垢真如・無垢真如==== [[衆生]]が具えている真如を有垢真如といい、諸仏に顕されているものを無垢真如という。『[[摩訶止観]]』に説かれている。これは、『大乗起信論』には在纏(てん)真如・出纏真如と呼ばれている。 ====生空真如・法空真如==== 人我の[[空 (仏教)|空]]を顕す真如を生空真如、法我の空を顕す真如を法空真如といい、『唯識論』に説かれる。 ====依言真如・離言真如==== 真如の体は本来言葉にはできず、心に思うこともできないので、これを離言真如という。言葉を仮設することでその相を表すのを依言真如という。これは『大乗起信論』の説。 これを『[[華厳大疏鈔]]』では、相待真如、絶待真如と呼んでいる。 ===三真如=== # 無相真如 - 諸法の体に遍計所執がないことを言う。 # 無生真如 - 諸法が因縁によって生じるから、実生はないことをいう。 # 無性真如 - 諸法の真実の体は言葉も想念もないから、妄情所執の実性がないのを言う。 : この三真如は『唯識論』に説かれる[[三無性]]によっている。 # 善法真如 - 真如が随縁して善法となることを言う。 # 不善法真如 - 真如が縁にしたがって不善法になることを言う。 # 無記法真如 - 同じく無記法となることを言う。 : 『[[雑集論]]』にある。 ===七真如=== # 流転真如 - [[有為法]]が流転(るてん)する実性を言う。 # 実相真如 - 人法二[[無我]]に顕れる実性を言う。 # 唯識真如 - 染浄の法の[[唯識]]の実性を言う。 # 安立真如 - [[四諦|苦諦]]の実性を言う。 # 邪行真如 - [[四諦|集諦]]の実性を言う。 # 清浄真如 - [[四諦|滅諦]]の実性を言う。 # 正行真如 - [[四諦|道諦]]の実性を言う。 流転・安立・邪行の三真如は仏にはいわない。実相・唯識・清浄の三真如は[[根本智]]の[[境]]であり、他の四は[[後得智]]の境である。 ===十真如=== 宇宙・万有に遍在する本来たる真如は、固より絶対であって分かつべきではないが、その徳相を顕わし、またはこれを證(証)明する歴程に区別があることより分類することがある。今は菩薩の[[十地]]に真如を分證するが、その勝徳により見て假立するものをいう。 # 遍行真如 - 菩薩の初地に、人執・法執(主観の我、客観の物心現象に対する執見)を断じて悟る、現象の執われ(異生性障)を断滅して悟る真如。 # 最勝真如 - 菩薩の第二地に、邪行障を断じて悟る真如。 # 勝流真如 - 菩薩の第三地に、闇鈍障を断じて悟る真如。 # 無摂受真如 - 菩薩の第四地に、微細煩悩(現行)障を断じて悟る真如。 # 類無別真如 - 菩薩の第五地に、下乗(般)涅槃障を断じて悟る真如。 # 無染浄真如 - 菩薩の第六地に、麁相現行障を断じて悟る真如。 # 法無別真如 - 菩薩の第七地に、細相現行障を断じて悟る真如。 # 不増減真如 - 菩薩の第八地に、無相中作加行障を断じて悟る真如。 # 智自在所依真如 - 菩薩の第九地に、利他中不欲行障を断じて悟る真如。 # 業自在等所依真如 - 菩薩の第十地に、諸法中に未得自在障を断じて悟る真如。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[菩提]] * [[如来]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しんによ}} [[Category:仏教用語]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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立秋
立秋(りっしゅう)は、二十四節気の第13。七月節(旧暦6月後半から7月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が135度のときで8月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から5/8年(約228.28日)後で8月8日ごろ。 期間としての意味もあり、そのように用いる場合は、この日から、次の節気の処暑前日までの期間を指す。 夏が極まり秋の気配が立ち始める日。七月節(旧暦7月)。『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。 夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から立冬の前日までが秋となる。二十四節気が成立した中国内陸部は大陸性気候のためこの頃には徐々に涼しくなり始めるが、海に囲まれた日本列島は立秋を過ぎてもしばらくは猛暑が続く。 立秋からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。また、この日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになる。 藤原敏行は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)と詠んだ。 2004年(平成16年)以降より、この日に至っても梅雨が明けない場合は「梅雨明け」の発表はされなくなる(明確な区切り無く秋雨に移る。立秋以降の長雨は秋雨という)。それゆえに、東北地方(特に北東北)などでは「梅雨明け特定せず(梅雨明けなし)」となることも決して少なくない。 全国高等学校野球選手権大会も立秋頃に開幕を迎える。 定気法による立秋の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での立秋日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の立秋は表のとおり。 2023年の立秋は8月8日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(立秋は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1916年 - 2071年には8月7日か8月8日だが、1915年までは8月9日もあり、2072年からは8月6日もある。 立秋の期間の七十二候は以下の通り。 大暑 → 立秋 → 処暑
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立秋(りっしゅう)は、二十四節気の第13。七月節(旧暦6月後半から7月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が135度のときで8月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から5/8年(約228.28日)後で8月8日ごろ。 期間としての意味もあり、そのように用いる場合は、この日から、次の節気の処暑前日までの期間を指す。
{{節気}} '''立秋'''(りっしゅう)は、[[二十四節気]]の第13。七月節([[旧暦6月]]後半から[[旧暦7月|7月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が135[[度 (角度)|度]]のときで[[8月7日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から5/8年(約228.28日)後で8月8日ごろ。 期間としての意味もあり、そのように用いる場合は、この日から、次の節気の[[処暑]]前日までの期間を指す。 == 季節 == 夏が極まり秋の気配が立ち始める日<ref>天体観測ハンドブック―「天文年鑑」を100%活用するために, 誠文堂新光社 (たとえば1970年){{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。七月節([[旧暦7月]])。『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆゑなれば也」と説明している。 [[夏至]]と[[秋分]]の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区分する場合、この日から[[立冬]]の前日までが[[秋]]となる。二十四節気が成立した中国内陸部は[[大陸性気候]]のためこの頃には徐々に涼しくなり始めるが、海に囲まれた日本列島は立秋を過ぎてもしばらくは猛暑が続く。<ref>{{Cite web|和書|url=http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0702.htm|title=なぜずれる? 二十四節気と季節感(No.0702)|website=koyomi8.com|accessdate=2016年8月30日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160506055634/http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0702.htm|archivedate=2016年5月6日|deadlinkdate=}}</ref> 立秋からの暑さを「残暑」といい、手紙や文書等の時候の挨拶などで用いられる。また、この日から[[暑中見舞い]]ではなく[[暑中見舞い|残暑見舞い]]を出すことになる。 [[藤原敏行]]は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(古今和歌集)と詠んだ。 [[2004年]]([[平成]]16年)以降より、この日に至っても[[梅雨]]が明けない場合は「梅雨明け」の発表はされなくなる(明確な区切り無く[[秋雨]]に移る。'''立秋'''以降の長雨は秋雨という)。それゆえに、[[東北地方]](特に[[北東北]])などでは「'''梅雨明け特定せず(梅雨明けなし)'''」となることも決して少なくない。 {{main|[[梅雨#梅雨明けの特定なしの年]]}} [[全国高等学校野球選手権大会]]も立秋頃に開幕を迎える。 == 日付 == {{節気時刻説明|立秋}} {|Class="wikitable" align="left" |- ! 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処暑
処暑(しょしょ)は、二十四節気の第14。七月中(通常旧暦7月内)。現在広まっている定気法では太陽黄経が150度のとき(黄道十二宮では処女宮の原点に相当)で8月23日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から2/3年(約243.4906日)後で8月23日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の白露前日までである。 暑さが峠を越えて後退し始めるころ。『暦便覧』では「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と説明している。 二百十日・二百二十日とともに台風襲来の特異日とされている。 定気法による処暑の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での処暑日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の処暑は表のとおり。 2023年の処暑は8月23日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(処暑は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1797年から1991年までは8月23日、8月24日のいずれか。 1992年から2023年まで8月23日が続く。 2024年以降は8月22日、8月23日のいずれかとなる(稀に8月24日)。 処暑の期間の七十二候は以下の通り。 立秋 → 処暑 → 白露
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処暑(しょしょ)は、二十四節気の第14。七月中(通常旧暦7月内)。現在広まっている定気法では太陽黄経が150度のとき(黄道十二宮では処女宮の原点に相当)で8月23日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から2/3年(約243.4906日)後で8月23日ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の白露前日までである。
{{節気}} '''処暑'''(しょしょ)は、[[二十四節気]]の第14。七月中(通常[[旧暦7月]]内)。現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が150[[度 (角度)|度]]のとき([[黄道十二宮]]では[[処女宮]]の原点に相当)で[[8月23日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[平気法]]では[[冬至]]から2/3[[年]](約243.4906日)後で[[8月23日]]ごろ。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[白露]]前日までである。 ==季節== 暑さが峠を越えて後退し始めるころ。『暦便覧』では「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と説明している。 [[二百十日]]・[[二百二十日]]とともに[[台風]]襲来の[[特異日]]とされている。 ==日付== {{節気時刻説明|処暑}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|08|23|14|18}} {{節気の日付|1967|08|23|20|12}} {{節気の日付|1968|08|23|02|03}} {{節気の日付|1969|08|23|07|43}} {{節気の日付|1970|08|23|13|34}} {{節気の日付|1971|08|23|19|15}} {{節気の日付|1972|08|23|01|03}} {{節気の日付|1973|08|23|06|53}} {{節気の日付|1974|08|23|12|29}} {{節気の日付|1975|08|23|18|24}} {{節気の日付|1976|08|23|00|18}} {{節気の日付|1977|08|23|06|00}} {{節気の日付|1978|08|23|11|57}} {{節気の日付|1979|08|23|17|47}} {{節気の日付|1980|08|22|23|41}} {{節気の日付|1981|08|23|05|38}} {{節気の日付|1982|08|23|11|15}} {{節気の日付|1983|08|23|17|07}} {{節気の日付|1984|08|22|23|00}} {{節気の日付|1985|08|23|04|36}} {{節気の日付|1986|08|23|10|26}} {{節気の日付|1987|08|23|16|10}} {{節気の日付|1988|08|22|21|54}} {{節気の日付|1989|08|23|03|46}} {{節気の日付|1990|08|23|09|21}} {{節気の日付|1991|08|23|15|13}} {{節気の日付|1992|08|22|21|10}} {{節気の日付|1993|08|23|02|50}} {{節気の日付|1994|08|23|08|44}} {{節気の日付|1995|08|23|14|35}} {{節気の日付|1996|08|22|20|23}} {{節気の日付|1997|08|23|02|19}} {{節気の日付|1998|08|23|07|59}} {{節気の日付|1999|08|23|13|51}} {{節気の日付|2000|08|22|19|49}} {{節気の日付|2001|08|23|01|27}} {{節気の日付|2002|08|23|07|17}} {{節気の日付|2003|08|23|13|08}} {{節気の日付|2004|08|22|18|53}} {{節気の日付|2005|08|23|00|45}} {{節気の日付|2006|08|23|06|23}} {{節気の日付|2007|08|23|12|08}} {{節気の日付|2008|08|22|18|02}} {{節気の日付|2009|08|22|23|39}} {{節気の日付|2010|08|23|05|27}} {{節気の日付|2011|08|23|11|21}} {{節気の日付|2012|08|22|17|07}} {{節気の日付|2013|08|22|23|02}} {{節気の日付|2014|08|23|04|46}} {{節気の日付|2015|08|23|10|37}} {{節気の日付|2016|08|22|16|38}} {{節気の日付|2017|08|22|22|20}} {{節気の日付|2018|08|23|04|08}} {{節気の日付|2019|08|23|10|02}} {{節気の日付|2020|08|22|15|45}} {{節気の日付|2021|08|22|21|35}} {{節気の日付|2022|08|23|03|16}} {{節気の日付|2023|08|23|09|01}} {{節気の日付|2024|08|22|14|55}} {{節気の日付|2025|08|22|20|34}} {{節気の日付|2026|08|23|02|18}} {{節気の日付|2027|08|23|08|14}} {{節気の日付|2028|08|22|14|00}} {{節気の日付|2029|08|22|19|51}} {{節気の日付|2030|08|23|01|35}} {{節気の日付|2031|08|23|07|22}} {{節気の日付|2032|08|22|13|17}} {{節気の日付|2033|08|22|19|01}} {{節気の日付|2034|08|23|00|46}} {{節気の日付|2035|08|23|06|43}} {{節気の日付|2036|08|22|12|31}} {{節気の日付|2037|08|22|18|21}} {{節気の日付|2038|08|23|00|09}} {{節気の日付|2039|08|23|05|57}} {{節気の日付|2040|08|22|11|52}} {{節気の日付|2041|08|22|17|35}} {{節気の日付|2042|08|22|23|17}} {{節気の日付|2043|08|23|05|08}} {{節気の日付|2044|08|22|10|53}} {{節気の日付|2045|08|22|16|38}} {{節気の日付|2046|08|22|22|23}} {{節気の日付|2047|08|23|04|09}} {{節気の日付|2048|08|22|10|01}} {{節気の日付|2049|08|22|15|46}} {{節気の日付|2050|08|22|21|31}} {{節気の日付|2051|08|23|03|28}} {{節気の日付|2052|08|22|09|20}} {{節気の日付|2053|08|22|15|09}} {{節気の日付|2054|08|22|20|57}} {{節気の日付|2055|08|23|02|47}} {{節気の日付|2056|08|22|08|37}} {{節気の日付|2057|08|22|14|23}} {{節気の日付|2058|08|22|20|07}} {{節気の日付|2059|08|23|01|59}} {{節気の日付|2060|08|22|07|48}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|処暑|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1797年]]から[[1991年]]までは[[8月23日]]、[[8月24日]]のいずれか。 [[1992年]]から[[2023年]]まで[[8月23日]]が続く。 [[2024年]]以降は[[8月22日]]、[[8月23日]]のいずれかとなる(稀に[[8月24日]])。 {|class="wikitable" align="left" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1627}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 1627(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1628|1659}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 1656(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1660|1687}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1688|1699}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || 1689(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1719}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1720|1747}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1748|1783}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1784|1799}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1811}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1812|1839}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1840|1871}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 1871(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1872|1899}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1903}} || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1904|1931}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1932|1963}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 1933(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1964|1991}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1992|2023}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2024|2055}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2024(22-23日), 2053(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2056|2083}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2084|2099}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2111}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2112|2147}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2144(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2148|2175}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2176|2199}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2203}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2204|2231}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 2206(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2232|2267}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2268|2295}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2296|2299}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2323}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2324|2355}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || 2355(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2356|2383}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2384|2399}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2384(22-23日), |} {{clear}} == 七十二候 == 処暑の期間の[[七十二候]]は以下の通り。 ;初候 :'''綿柎開'''(めんぷ ひらく) : [[綿]]を包む[[萼|咢]](がく)が開く(日本) :'''鷹乃祭鳥'''(たか すなわち とりを まつる) : [[鷹]]が捕らえた鳥を並べて食べる(中国) ;次候 :'''天地始粛'''(てんち はじめて しじむ(しゅくす)) : ようやく暑さが鎮まる(日本・中国) ;末候 :'''禾乃登'''(か すなわち みのる) : [[イネ|稲]]が実る(日本・中国) == 前後の節気 == [[立秋]] → '''処暑''' → [[白露]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:しよしよ}} [[Category:節気]] [[Category:8月]] [[Category:旧暦7月]] [[Category:秋の季語]]
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白露
白露(はくろ)は、二十四節気の第15。八月節(旧暦7月後半から8月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が165度のときで9月8日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から17/24年(約258.71日)後で9月6日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の秋分前日までである。 大気が冷えてきて、露ができ始めるころ。『暦便覧』では、「陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」と説明している。 定気法による白露の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での白露日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の白露は表のとおり。 2023年の白露は9月8日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(白露は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 殆ど9月7日、9月8日のいずれか。1931年までは9月9日になることもあった。 稀に9月6日になることも(2088年、2092年、2096年)。 白露の期間の七十二候は以下のとおり。 処暑 → 白露 → 秋分
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白露(はくろ)は、二十四節気の第15。八月節(旧暦7月後半から8月前半)。 現在広まっている定気法では太陽黄経が165度のときで9月8日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から17/24年(約258.71日)後で9月6日ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の秋分前日までである。
{{otheruses|節気|その他|白露 (曖昧さ回避)}} {{節気}} '''白露'''(はくろ)は、[[二十四節気]]の第15。八月節([[旧暦7月]]後半から[[旧暦8月|8月]]前半)。 現在広まっている[[定気法]]では[[太陽黄経]]が165[[度 (角度)|度]]のときで[[9月8日]]ごろ。[[暦]]ではそれが起こる[[日]]だが、[[天文学]]ではその瞬間とする。[[恒気法]]では[[冬至]]から17/24[[年]](約258.71日)後で[[9月6日]]ごろ。 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の[[秋分]]前日までである。 ==季節== 大気が冷えてきて、露ができ始めるころ。『[[暦便覧]]』では、「陰気やうやく重りて、[[露]]にごりて白色となれば也」と説明している。 ==日付== {{節気時刻説明|白露}} {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|09|08|02|32}} {{節気の日付|1967|09|08|08|18}} {{節気の日付|1968|09|07|14|11}} {{節気の日付|1969|09|07|19|55}} {{節気の日付|1970|09|08|01|38}} {{節気の日付|1971|09|08|07|30}} {{節気の日付|1972|09|07|13|15}} {{節気の日付|1973|09|07|18|59}} {{節気の日付|1974|09|08|00|45}} {{節気の日付|1975|09|08|06|33}} {{節気の日付|1976|09|07|12|28}} {{節気の日付|1977|09|07|18|16}} {{節気の日付|1978|09|08|00|02}} {{節気の日付|1979|09|08|06|00}} {{節気の日付|1980|09|07|11|53}} {{節気の日付|1981|09|07|17|43}} {{節気の日付|1982|09|07|23|32}} {{節気の日付|1983|09|08|05|20}} {{節気の日付|1984|09|07|11|10}} {{節気の日付|1985|09|07|16|53}} {{節気の日付|1986|09|07|22|35}} {{節気の日付|1987|09|08|04|24}} {{節気の日付|1988|09|07|10|12}} {{節気の日付|1989|09|07|15|54}} {{節気の日付|1990|09|07|21|37}} {{節気の日付|1991|09|08|03|27}} {{節気の日付|1992|09|07|09|18}} {{節気の日付|1993|09|07|15|08}} {{節気の日付|1994|09|07|20|55}} {{節気の日付|1995|09|08|02|49}} {{節気の日付|1996|09|07|08|42}} {{節気の日付|1997|09|07|14|29}} {{節気の日付|1998|09|07|20|16}} {{節気の日付|1999|09|08|02|10}} {{節気の日付|2000|09|07|07|59}} {{節気の日付|2001|09|07|13|46}} {{節気の日付|2002|09|07|19|31}} {{節気の日付|2003|09|08|01|20}} {{節気の日付|2004|09|07|07|13}} {{節気の日付|2005|09|07|12|57}} {{節気の日付|2006|09|07|18|39}} {{節気の日付|2007|09|08|00|29}} {{節気の日付|2008|09|07|06|14}} {{節気の日付|2009|09|07|11|58}} {{節気の日付|2010|09|07|17|45}} {{節気の日付|2011|09|07|23|34}} {{節気の日付|2012|09|07|05|29}} {{節気の日付|2013|09|07|11|16}} {{節気の日付|2014|09|07|17|01}} {{節気の日付|2015|09|07|23|00}} {{節気の日付|2016|09|07|04|51}} {{節気の日付|2017|09|07|10|38}} {{節気の日付|2018|09|07|16|30}} {{節気の日付|2019|09|07|22|17}} {{節気の日付|2020|09|07|04|08}} {{節気の日付|2021|09|07|09|53}} {{節気の日付|2022|09|07|15|32}} {{節気の日付|2023|09|07|21|26}} {{節気の日付|2024|09|07|03|11}} {{節気の日付|2025|09|07|08|52}} {{節気の日付|2026|09|07|14|41}} {{節気の日付|2027|09|07|20|28}} {{節気の日付|2028|09|07|02|21}} {{節気の日付|2029|09|07|08|11}} {{節気の日付|2030|09|07|13|52}} {{節気の日付|2031|09|07|19|49}} {{節気の日付|2032|09|07|01|37}} {{節気の日付|2033|09|07|07|19}} {{節気の日付|2033|09|07|07|19}} {{節気の日付|2034|09|07|13|13}} {{節気の日付|2035|09|07|19|01}} {{節気の日付|2036|09|07|00|54}} {{節気の日付|2037|09|07|06|44}} {{節気の日付|2038|09|07|12|25}} {{節気の日付|2039|09|07|18|23}} {{節気の日付|2040|09|07|00|13}} {{節気の日付|2041|09|07|05|52}} {{節気の日付|2042|09|07|11|44}} {{節気の日付|2043|09|07|17|29}} {{節気の日付|2044|09|06|23|15}} {{節気の日付|2045|09|07|05|04}} {{節気の日付|2046|09|07|10|42}} {{節気の日付|2047|09|07|16|37}} {{節気の日付|2048|09|06|22|26}} {{節気の日付|2049|09|07|04|04}} {{節気の日付|2050|09|07|09|59}} {{節気の日付|2051|09|07|15|50}} {{節気の日付|2052|09|06|21|41}} {{節気の日付|2053|09|07|03|37}} {{節気の日付|2054|09|07|09|18}} {{節気の日付|2055|09|07|15|14}} {{節気の日付|2056|09|06|21|06}} {{節気の日付|2057|09|07|02|42}} {{節気の日付|2058|09|07|08|36}} {{節気の日付|2059|09|07|14|25}} {{節気の日付|2060|09|06|20|09}} |} {{clear}} ===グレゴリオ暦=== {{節気日付パターン説明|白露|{{CURRENTYEAR-JST}}}} 殆ど[[9月7日]]、[[9月8日]]のいずれか。[[1931年]]までは[[9月9日]]になることもあった。 稀に[[9月6日]]になることも([[2088年]]、[[2092年]]、[[2096年]])。 {|class="wikitable" align="left" ! 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2021-09-06T21:58:14Z
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秋分
秋分(しゅうぶん)は、二十四節気の第16。9月22日または9月23日になることが多い。 現在広く採用されている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったとき(黄道十二宮では天秤宮の原点に相当)が天文学上の「秋分」である。 暦では「秋分」の瞬間が属する日を秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。いずれの日が秋分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。平気法では冬至から3/4年経過した約273.93日後である。 「秋分」の語には期間としての意味もあり、この場合は、秋分日から、次の節気である寒露の前日までの期間をいう。 しばしば、秋分日においては昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなると言われるが、実際には昼の方が約14分長い(日本の場合。後述#昼夜の長さ)。 日本では、秋分に関して、3種の用語がある。 定気法による秋分の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での秋分日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 日本と中国との時差が1時間あるので、秋分の時刻が世界時の15時台である場合(日本時間では0時台)には、日本と中国での秋分日の日付がずれる。1975年、1979年、2008年、2041年がこれに当たる。 グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の秋分は表のとおり。 2023年の秋分は9月23日。[更新] 365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(秋分は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1980年から2011年は9月23日だが、1979年までは9月24日、1896年までは9月22日もあり、2012年からは再び9月22日が現れる。 日本では秋分の日という休日(国民の祝日)となる。この日が休日となる歴史は1878年(明治11年)から続いており、1948年(昭和23年)に休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)が廃止されるまでは秋季皇霊祭という名称だった。 秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして、前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄で暦要項として公告される。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、この日をはさんで前後7日間が秋の彼岸である。 春分と同様に、秋分では昼夜の長さが等しくなる。『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。これは、次の理由による。 これらを合わせると日本において、日出は太陽の中心が地平線から昇るより3分25秒早く、日没は太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなる。したがって、秋分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は秋分の4日程度後になる。 秋分を含む日には、太陽は真東から昇って真西に沈む。赤道上の観測者から見ると、太陽は正午に天頂を通過する。北極点又は南極点の観測者から見ると、秋分の太陽はちょうど地平線と重なるようにして動き、昇ることも沈むこともない。 秋分の期間の七十二候は以下の通り。 白露 → 秋分 → 寒露
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "秋分(しゅうぶん)は、二十四節気の第16。9月22日または9月23日になることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現在広く採用されている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったとき(黄道十二宮では天秤宮の原点に相当)が天文学上の「秋分」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "暦では「秋分」の瞬間が属する日を秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。いずれの日が秋分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。平気法では冬至から3/4年経過した約273.93日後である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「秋分」の語には期間としての意味もあり、この場合は、秋分日から、次の節気である寒露の前日までの期間をいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しばしば、秋分日においては昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなると言われるが、実際には昼の方が約14分長い(日本の場合。後述#昼夜の長さ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では、秋分に関して、3種の用語がある。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "定気法による秋分の瞬間(世界時、UT)と、日本・中国での秋分日の日付は表のとおり。日本における時刻はこの表の9時間後、中国では8時間後となり、世界時15時台の2国の日付は異なる。 日本と中国との時差が1時間あるので、秋分の時刻が世界時の15時台である場合(日本時間では0時台)には、日本と中国での秋分日の日付がずれる。1975年、1979年、2008年、2041年がこれに当たる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "グレゴリオ暦による17世紀から24世紀までの日本の秋分は表のとおり。 2023年の秋分は9月23日。[更新]", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "365日からの超過分が毎年蓄積し、 4年に一度閏年でリセットされる様子がわかる(秋分は閏日の挿入される2月末日より後のため、 4で割り切れる年が先頭)。 1980年から2011年は9月23日だが、1979年までは9月24日、1896年までは9月22日もあり、2012年からは再び9月22日が現れる。", "title": "日付" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本では秋分の日という休日(国民の祝日)となる。この日が休日となる歴史は1878年(明治11年)から続いており、1948年(昭和23年)に休日ニ關スル件(昭和2年勅令第25号)が廃止されるまでは秋季皇霊祭という名称だった。", "title": "記念日" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "秋分の日は、国立天文台の算出する定気法による秋分日を基にして、前年の2月第1平日付の官報の公告(特殊法人等)欄で暦要項として公告される。なお、この暦要項は、閣議決定等はされず、閣議報告事項でもない。天文学に基づいて年ごとに決定される国家の祝日は世界的にみても珍しい。また、この日をはさんで前後7日間が秋の彼岸である。", "title": "記念日" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "春分と同様に、秋分では昼夜の長さが等しくなる。『暦便覧』では「陰陽の中分なれば也」と説明している。しかし、実際には、昼の方が夜よりも長い。日本付近では、年による差もあるが、平均すれば昼が夜よりも約14分長い。これは、次の理由による。", "title": "昼夜の長さ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらを合わせると日本において、日出は太陽の中心が地平線から昇るより3分25秒早く、日没は太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなる。したがって、秋分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は秋分の4日程度後になる。", "title": "昼夜の長さ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "秋分を含む日には、太陽は真東から昇って真西に沈む。赤道上の観測者から見ると、太陽は正午に天頂を通過する。北極点又は南極点の観測者から見ると、秋分の太陽はちょうど地平線と重なるようにして動き、昇ることも沈むこともない。", "title": "昼夜の長さ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "秋分の期間の七十二候は以下の通り。", "title": "七十二候" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "白露 → 秋分 → 寒露", "title": "前後の節気" } ]
秋分(しゅうぶん)は、二十四節気の第16。9月22日または9月23日になることが多い。 現在広く採用されている定気法では、太陽が秋分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経が180度となったとき(黄道十二宮では天秤宮の原点に相当)が天文学上の「秋分」である。 暦では「秋分」の瞬間が属する日を秋分日(しゅうぶんび)と呼ぶ。いずれの日が秋分日になるかはその国・地域の時差によって1日の違いが出る。平気法では冬至から3/4年経過した約273.93日後である。 「秋分」の語には期間としての意味もあり、この場合は、秋分日から、次の節気である寒露の前日までの期間をいう。 しばしば、秋分日においては昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなると言われるが、実際には昼の方が約14分長い(日本の場合。後述#昼夜の長さ)。
{{Otheruses|天文・暦法上の秋分|[[日本]]の[[国民の祝日]]|秋分の日}} {{節気}} '''秋分'''(しゅうぶん)は、[[太陽]]が[[秋分点]](天の赤道を北から南へ横切る点)を通過すること<ref name="kodama" /><ref name="egoshi" />。[[二十四節気]]の第16にあたる。9月22日または9月23日になることが多い。 二至二分([[冬至]]、[[夏至]]、[[春分]]、秋分)を基盤とする暦法は[[春秋時代]]には存在していたが、「秋分」の名は後に「二十四節気」における節気名として名付けられた<ref name="ozawa" />。 == 概要 == === 秋分の概念 === 地球は約1年の周期で太陽の周りを公転しており、この太陽の年周運動を天球上で表したもの(太陽の通り道)が黄道である<ref name="kodama">{{Cite web|和書|author=児玉光義|title=プラネタリウム技術の系統化調査|url=https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/115.pdf |website=国立科学博物館産業技術史資料情報センター|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref><ref name="egoshi">{{Cite web|和書|author=江越 航|title=春分の日|url=http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~egoshi/files/pdf/universe/2010/201103_16-17.pdf |website=大阪市立科学館|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref>。黄道と天の赤道は天球上の2箇所で交わっており、秋分点は太陽が天の赤道を北から南へ横切る点で、ここを通過するのが秋分(その属する日が秋分日)である<ref name="kodama" /><ref name="egoshi" />。 * 秋分:[[太陽]]が[[秋分点]]を通過した瞬間の時刻をその国の標準時で表したもの。秋分時ということもある<ref>{{Cite journal |和書 |author1=宮崎 茂 |author2=巌本 巌 |author3=宮崎 茂 |author4=巌本 巌 |title=7. 2 夜間上部電離圏における o+イオン密度 トラフの季節変化特性 |journal=電波研究所季報 |volume=28 |issue=146 |publisher=国立研究開発法人情報通信研究機構 |year=1982|pages=471-477 |url=https://www.nict.go.jp/publication/kiho/28/146/Kiho_Vol28_No146_pp471-477.pdf}}</ref>。例えば2008年の秋分は、日本時間では9月23日0時45分である。 * 秋分日:秋分が属する日。時差のために国・地域によって1日の違いが生ずる。 例えば2008年の秋分日は、日本では9月23日であり、中国では9月22日である。 === 昼夜の長さ === [[ファイル:Earth-lighting-equinox EN.png|thumb|250px|秋分の日の太陽光の当たり方]] [[ファイル:冬至 夏至 春分秋分.svg|thumb|250px|太陽の動き]] 『[[暦便覧]]』では秋分について「陰陽の中分なれば也」(ちなみに春分については「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」)と記され、昼夜の時間が同じになるという意味であるが、これは江戸時代に庶民が用いた時法が季節による昼夜の時間の長短に応じて1単位時間の長さが変動する[[不定時法]]だったことによる<ref>{{Cite web|和書|author=染谷康宏|title=二十四節気 季節で感じる運命学《春分》|url=https://surirekigaku.com/2019/03/30/24sekishunbun/ |website=一般社団法人数理暦学協会|date= |access-date=2023-12-19 |language=ja}}</ref><ref name="yuasa" />。 現代では秋分は太陽の黄経が180度となる瞬間と定義され、定時法が採用されているもとでは、昼夜がちょうど12時間ずつとはならない<ref name="yuasa">{{Cite journal |和書 |author=湯浅吉美 |title=前近代日本人の時間意識 |journal=埼玉学園大学紀要 人間学部篇 |volume=埼玉学園大学 |issue=15 |publisher= |year=2015|pages=195-202 |url=https://saigaku.repo.nii.ac.jp/records/175}}</ref>。 実際には昼の方が夜よりも長くなるが、これは次の理由による。 ;日の出と日の入の定義 :太陽の上端が地平線と一致した時刻を日の出及び日の入と定義しているため<ref name="a0303" />。 ;[[大気差]] :[[大気]]による[[屈折]]で太陽の位置が実際より上に見えるため、太陽が上に見える[[角度]]の分、日出が早く、日没が遅くなる。屈折は太陽が[[地平線]]に近いほど大きくなる。[[国立天文台]]では、太陽が地平線付近にある時の、その屈折角度を35分8秒角と見積もっている<ref name="a0303" />。 これらを合わせると日本において、日出は太陽の中心が地平線から昇るより3分25秒早く、日没は太陽の中心が地平線より沈むより3分25秒遅くなる。したがって、秋分の日の昼の長さは約12時間7分、夜の長さは約11時間53分である。そして、実際に昼夜の長さの差が最も小さくなる日は秋分の4日程度後になる<ref name="a0303">[https://www.nao.ac.jp/faq/a0303.html 国立天文台 よくある質問 「春分の日・秋分の日には、昼と夜の長さは同じになるの?」]</ref>。 == 暦法 == 中国では春秋時代に二至二分(冬至と夏至の二至及び春分と秋分の二分)を基盤とする暦法が用いられていた<ref name="ozawa">{{Cite journal |和書 |author=小沢賢二 |title=春秋の暦法と戦国の暦法 : 『競建内之』に見られる日食表現とその史的背景 |journal=中国研究集刊 |volume= |issue=45 |publisher= 大阪大学|year=2007|pages=195-202 |url=https://doi.org/10.18910/61027}}</ref>。 その後、[[二十八宿]]を天空上に配置するモデルが出現した<ref name="ozawa" />。二十八宿の[[角宿]]は春秋時代前期から戦国時代直前にかけて、春分日の日没時に真東に位置していたことが判明している<ref name="ozawa" />。 ただ、「秋分」という語はあくまでも後世の「二十四節気」における節気名である<ref name="ozawa" />。 === 二十四節気 === 二十四節気は一太陽年を24等分(約15日間)にして季節の目安としたもので、秋分は[[白露]]と[[寒露]]の間にあたる<ref name="ito">{{Cite web|和書|author=伊藤節子|title=天象用語解説1 24節気|url=https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1979/pdf/19790705.pdf |website=天文月報第72巻第7号|date= |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。当初は1年の長さをそのまま24等分する平気法(恒気法、常気法)が用いられたが、天保暦で太陽の視黄経が15度の倍数になる瞬間で定義する定気法(実気法)が導入された<ref>{{Cite web|和書|title=旧暦2033年問題について|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/tex/topics2014.pdf |website=国立天文台 天文情報センター 暦計算室|date= |access-date=2023-12-20 |language=ja}}</ref>。秋分は太陽の視黄経が180度のときにあたる<ref name="ito" />。 === 七十二候 === 秋分の期間の[[七十二候]]は以下の通り。 ;初候 :'''雷乃収声'''(らい すなわち こえを おさむ):雷が鳴り響かなくなる(日本・中国) ;次候 :'''蟄虫坏戸'''(ちっちゅう こを はいす):虫が土中に掘った穴をふさぐ(日本・中国) ;末候 :'''水始涸'''(みず はじめて かる):田畑の水を干し始める(日本・中国) === 秋分日の日付 === {{節気時刻説明|秋分}} 日本と中国との時差が1時間あるので、秋分の時刻が世界時の15時台である場合(日本時間では0時台)には、日本と中国での秋分日の日付がずれる。1975年、1979年、2008年、2041年がこれに当たる。 {|class="wikitable" align="left" |- ! 年 !! 日時 (UT) !! 日本 !! 中国 {{節気の日付|1966|09|23|11|43}} {{節気の日付|1967|09|23|17|38}} {{節気の日付|1968|09|22|23|26}} {{節気の日付|1969|09|23|05|07}} {{節気の日付|1970|09|23|10|59}} {{節気の日付|1971|09|23|16|45}} {{節気の日付|1972|09|22|22|33}} {{節気の日付|1973|09|23|04|21}} {{節気の日付|1974|09|23|09|58}} {{節気の日付|1975|09|23|15|55}} {{節気の日付|1976|09|22|21|48}} {{節気の日付|1977|09|23|03|29}} {{節気の日付|1978|09|23|09|25}} {{節気の日付|1979|09|23|15|16}} {{節気の日付|1980|09|22|21|09}} {{節気の日付|1981|09|23|03|05}} {{節気の日付|1982|09|23|08|46}} {{節気の日付|1983|09|23|14|42}} {{節気の日付|1984|09|22|20|33}} {{節気の日付|1985|09|23|02|07}} {{節気の日付|1986|09|23|07|59}} {{節気の日付|1987|09|23|13|45}} {{節気の日付|1988|09|22|19|29}} {{節気の日付|1989|09|23|01|20}} {{節気の日付|1990|09|23|06|56}} {{節気の日付|1991|09|23|12|48}} {{節気の日付|1992|09|22|18|43}} {{節気の日付|1993|09|23|00|22}} {{節気の日付|1994|09|23|06|19}} {{節気の日付|1995|09|23|12|13}} {{節気の日付|1996|09|22|18|00}} {{節気の日付|1997|09|22|23|56}} {{節気の日付|1998|09|23|05|37}} {{節気の日付|1999|09|23|11|31}} {{節気の日付|2000|09|22|17|28}} {{節気の日付|2001|09|22|23|04}} {{節気の日付|2002|09|23|04|55}} {{節気の日付|2003|09|23|10|47}} {{節気の日付|2004|09|22|16|30}} {{節気の日付|2005|09|22|22|23}} {{節気の日付|2006|09|23|04|03}} {{節気の日付|2007|09|23|09|51}} {{節気の日付|2008|09|22|15|45}} {{節気の日付|2009|09|22|21|19}} {{節気の日付|2010|09|23|03|09}} {{節気の日付|2011|09|23|09|05}} {{節気の日付|2012|09|22|14|49}} {{節気の日付|2013|09|22|20|44}} {{節気の日付|2014|09|23|02|29}} {{節気の日付|2015|09|23|08|21}} {{節気の日付|2016|09|22|14|21}} {{節気の日付|2017|09|22|20|02}} {{節気の日付|2018|09|23|01|54}} {{節気の日付|2019|09|23|07|50}} {{節気の日付|2020|09|22|13|30}} {{節気の日付|2021|09|22|19|21}} {{節気の日付|2022|09|23|01|03}} {{節気の日付|2023|09|23|06|50}} {{節気の日付|2024|09|22|12|43}} {{節気の日付|2025|09|22|18|19}} {{節気の日付|2026|09|23|00|05}} {{節気の日付|2027|09|23|06|01}} {{節気の日付|2028|09|22|11|44}} {{節気の日付|2029|09|22|17|38}} {{節気の日付|2030|09|22|23|26}} {{節気の日付|2031|09|23|05|14}} {{節気の日付|2032|09|22|11|10}} {{節気の日付|2033|09|22|16|51}} {{節気の日付|2034|09|22|22|38}} {{節気の日付|2035|09|23|04|38}} {{節気の日付|2036|09|22|10|22}} {{節気の日付|2037|09|22|16|12}} {{節気の日付|2038|09|22|22|01}} {{節気の日付|2039|09|23|03|48}} {{節気の日付|2040|09|22|09|43}} {{節気の日付|2041|09|22|15|25}} {{節気の日付|2042|09|22|21|10}} {{節気の日付|2043|09|23|03|05}} {{節気の日付|2044|09|22|08|46}} {{節気の日付|2045|09|22|14|31}} {{節気の日付|2046|09|22|20|20}} {{節気の日付|2047|09|23|02|06}} {{節気の日付|2048|09|22|07|59}} {{節気の日付|2049|09|22|13|41}} {{節気の日付|2050|09|22|19|27}} {{節気の日付|2051|09|23|01|26}} {{節気の日付|2052|09|22|07|14}} {{節気の日付|2053|09|22|13|05}} {{節気の日付|2054|09|22|18|58}} {{節気の日付|2055|09|23|00|47}} {{節気の日付|2056|09|22|06|38}} {{節気の日付|2057|09|22|12|22}} {{節気の日付|2058|09|22|18|07}} {{節気の日付|2059|09|23|00|02}} {{節気の日付|2060|09|22|05|47}} |} {{clear}} === 閏年の循環との関係 === {{節気日付パターン説明|秋分|{{CURRENTYEAR-JST}}}} [[1980年]]から[[2011年]]は[[9月23日]]だが、[[1979年]]までは[[9月24日]]、[[1896年]]までは[[9月22日]]もあり、[[2012年]]からは再び9月22日が現れる。 {|class="wikitable" align="left" |+ 表 秋分日(日本時間におけるもの) |- ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り !! 確定困難な(日を跨ぐ)年 |- ! 0 !! 1 !! 2 !! 3 !! 真夜中の前後10分 |- |{{EqJSTYRangeMark|1600|1635}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1636|1667}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1668|1695}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1696|1699}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || 1698(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1700|1727}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1728|1763}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 1760(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1764|1791}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1792|1799}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || 1793(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1800|1823}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 1822(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1824|1851}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1852|1887}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 1855(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1888|1899}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || 1888(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1900|1919}} || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 1917(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|1920|1947}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1948|1979}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|1980|2011}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2012|2043}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2044|2075}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || 2074(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2076|2099}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2100|2103}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2104|2139}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2140|2167}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2168|2199}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || 2198(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2200|2227}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2228|2263}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || 2260(22-23日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2264|2291}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2292|2299}} || bgcolor=yellow|22日 || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2300|2323}} || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || bgcolor=cyan|24日 || 2322(23-24日), |- |{{EqJSTYRangeMark|2324|2351}} || |23日 || |23日 || |23日 || bgcolor=cyan|24日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2352|2383}} || |23日 || |23日 || |23日 || |23日 || |- |{{EqJSTYRangeMark|2384|2399}} || bgcolor=yellow|22日 || |23日 || |23日 || |23日 || |} {{clear}} == 記念日 == {{seealso|秋分の日}} 日本では[[秋分の日]]という[[休日]]([[国民の祝日]])となる。この日が休日となる歴史は[[1878年]]([[明治]]11年)から続いており、[[1948年]](昭和23年)に[[s:休日ニ關スル件|休日ニ關スル件]](昭和2年勅令第25号)が廃止されるまでは[[皇霊祭|秋季皇霊祭]]という名称だった。 秋分の日は、[[国立天文台]]の算出する定気法による秋分日を基にして、前年の[[2月]]第1[[平日]]付の[[官報]]の[[公告]]([[特殊法人]]等)欄で[[暦要項]]として公告される。なお、この暦要項は、[[閣議決定]]等はされず、閣議報告事項でもない<ref>閣議案件は、首相官邸HP[https://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/index.html 閣議]で公表されている。</ref>。 == 前後の節気 == [[白露]] → '''秋分''' → [[寒露]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[秋分点]]-[[秋分の日]] * [[春分点]]-[[春分]]-[[春分の日]] * [[国民の祝日に関する法律]] * [[暑さ寒さも彼岸まで]] * [[黄道]]-[[天の赤道]] * [[夏至]]-[[冬至]] * [[シュウブンソウ]]:[[キク科]]の[[草本]]。秋分の頃に咲く。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:しゆうふん}} [[Category:天文学]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:節気]] [[Category:9月]] [[Category:旧暦8月]] [[Category:秋の季語]]
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部屋
部屋(へや)とは、壁、間仕切り、襖、床、天井などで仕切られ、生活の場などに用いられる、住居などの建物内部の隔てられた空間の区画。部屋の中を室内、外を室外という。 すべての部屋が生活の場であるわけではなく、車庫、厩舎、物置部屋のようなものもあれば、玄関、廊下、風呂、便所のように敢えて部屋とは呼ばない箇所も含む。なお、船上では通常「部屋」とは言わず、「キャビン」「船室」などの名称で呼ぶ。 部屋には通常、出入りをするための扉があり、自然光や外気を室内に取り込むための窓を持っていることが多い。 アパートやホテルなどでは、一つの空間の部屋複数を単位としても部屋という。 日本の建築基準法では「居住、執務、作業、集会、娯楽その他これらに類する目的のために継続的に使用する室」と定義されている。天井高、採光、換気などの規定がある。 住宅では、台所、ダイニングルーム、居間、寝室、個室、和室など。 住宅以外でも建物、乗り物の中の特定用途に限定して、他から区別して設けられた空間に「部屋」という呼び名が付けられる。会社、事業所では、事務室、執務室、社長室など。乗り物でも、操縦室、操舵室、客室など。そのほかの特殊なものでは、霊安室、映写室、会見室など。 なお、会社、事業所、学校などの部屋の入り口には室名札が取り付けられていることが多い。
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部屋(へや)とは、壁、間仕切り、襖、床、天井などで仕切られ、生活の場などに用いられる、住居などの建物内部の隔てられた空間の区画。部屋の中を室内、外を室外という。 すべての部屋が生活の場であるわけではなく、車庫、厩舎、物置部屋のようなものもあれば、玄関、廊下、風呂、便所のように敢えて部屋とは呼ばない箇所も含む。なお、船上では通常「部屋」とは言わず、「キャビン」「船室」などの名称で呼ぶ。 部屋には通常、出入りをするための扉があり、自然光や外気を室内に取り込むための窓を持っていることが多い。 アパートやホテルなどでは、一つの空間の部屋複数を単位としても部屋という。
{{Otheruses||相撲用語|相撲部屋|[[クルアーン]]の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]|部屋 (クルアーン)|[[栃木県]][[栃木市]]の大字|藤岡町部屋}} {{Redirect|ルーム|その他の項目|ルーム (曖昧さ回避)}} [[画像:Japanese youth hostel room.jpg|thumb|right|日本の[[ユースホステル]]の部屋の一例]] [[画像:Room 823743.jpg|thumb|right|居間]] [[画像:Krankenzimmer.JPG|thumb|right|病院の病室]] '''部屋'''(へや)とは、[[壁]]、[[間仕切り]]、[[襖]]、[[床]]、[[天井]]などで仕切られ、生活の場などに用いられる、[[住居]]などの[[建物]]内部の隔てられた[[空間]]の区画。部屋の中を'''室内'''、外を'''室外'''という。 すべての部屋が生活の場であるわけではなく、[[車庫]]、[[厩舎]]、[[物置部屋]]のようなものもあれば、[[玄関]]、[[廊下]]、[[風呂]]、[[便所]]のように敢えて部屋とは呼ばない箇所も含む。なお、船上では通常「部屋」とは言わず、「[[キャビン]]」「船室」などの名称で呼ぶ。 部屋には通常、出入りをするための[[扉]]があり、自然光や外気を室内に取り込むための[[窓]]を持っていることが多い。 [[アパート]]や[[ホテル]]などでは、一つの空間の部屋複数を単位としても部屋という。 <!-- 『部屋の内外を'''室内'''(lat:interia、インテリア)、'''室外'''(lat:exteria、エクステリア)と呼称する。』 という1文についてですが、 ◎ interia/exteria という言葉は英語にもラテン語にもないのではないかと思います。 ◎ interior/exterior という言葉は英語にありますが、「室内の/室外の」という形容詞で、単独で「室内/室外」の訳とするのはやや無理を感じます。 ◎日本語の「インテリア/エクステリア」は(それぞれ項目も立っていますが)通常「〜デザイン/〜デザイン」の略で、やはり意味が違います。 ◎「部屋の内外を室内、室外と呼称する」だけだと敢えて載せる意味も薄いと思いました。 以上いろいろ考慮し、とりあえずコメントアウトしておきます。「インテリア」は関連項目に立てておきます。 --> == 部屋の種類 == * その用途から ** [[居間]] ** [[台所]] ** [[浴室]] ** [[寝室]] ** 物置部屋 ** [[食堂]] ** 仕事部屋 ** [[書斎]] ** [[子供部屋]] ** 仏間 ** [[セーフルーム]] ** [[座敷牢]] ** [[管理人]]室 ** [[厨房]] ** 客室 *** ホテルの部屋 *** [[VIPルーム]] ** [[病室]] *** [[無菌室]] ** [[新生児]]室 ** [[診察室]] ** 処置室 ** [[手術室]] ** [[分娩室]] ** [[集中治療室]] ** [[待合室]] ** 控え室 *** [[楽屋]] ** [[更衣室]] ** 休憩室 ** [[喫煙室]] ** [[会議室]] ** 応接室 ** [[教室]] ** [[図書室]] ** [[部室]] ** [[保健室]] ** 執務室 ** [[職員室]] ** [[校長室]] ** [[取調室]] ** [[接見]]室 ** [[実験室]] ** 防音室 ** [[スタジオ]] ** [[クリーンルーム]] ** [[警備]]室 ** [[たこ部屋]] ** [[ショールーム]] ** 隠し部屋 * その場所から ** [[地下室]] ** [[屋根裏部屋]] ** [[ペントハウス]] ** [[サーバ|サーバー]]ルーム([[データセンター]]) ** サンルーム ** 次の間 === 居室 === [[日本]]の[[建築基準法]]では「居住、執務、作業、集会、娯楽その他これらに類する目的のために継続的に使用する室」と定義されている。天井高、[[採光]]、[[換気]]などの規定がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/居室-479644#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 |title=居室(キョシツ)とは |accessdate=2018-10 |website=[[コトバンク]] |work=家とインテリアの用語がわかる辞典 }}</ref>。 [[住宅]]では、台所、ダイニングルーム、居間、寝室、[[個室]]、[[和室]]など。 == 住宅以外の部屋 == 住宅以外でも建物、[[乗り物]]の中の特定用途に限定して、他から区別して設けられた空間に「部屋」という呼び名が付けられる。会社、事業所では、[[事務室]]、執務室、社長室など。乗り物でも、[[操縦室]]、操舵室、客室など。そのほかの特殊なものでは、[[霊安室]]、映写室、会見室など。 なお、会社、事業所、学校などの部屋の入り口には室名札が取り付けられていることが多い。 == 逸話 == * 「へっぴりよめご」「屁ひり女房」という昔話では、オチで「[[屁]]をするために、使うから部屋と言うようになった」と言われている<ref>[https://www.town.kawamata.lg.jp/site/mukasi-banasi/list34-262.html 川俣町] へっぴり嫁(部屋の由来の話)</ref>。 == 慣用句 == * 牛部屋の吹き矢(うしべやのふきや)- 牛舎で[[吹き矢]]を吹き誤ると、牛たちが興奮して何をしでかすか分らないので、ことに及ぶには慎重に行動すべしとのたとえ。 * 室に入りて戈を操る(しつにいりてほこをあやつる)- 他人の部屋に入って、その[[住人]]の戈を使って乱暴狼藉の限りを尽くす。転じて、相手の主張を逆手にとって、攻撃を仕掛けること。 == 脚注・出典 == <references/> == 関連項目 == * [[部屋着]] * [[密室]] * [[インテリア]] * [[茶室]] {{部屋}} {{Normdaten}} {{Architecture-stub}} {{DEFAULTSORT:へや}} [[Category:部屋|*]] [[Category:インテリア]] [[category:熟字訓]]
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陽明学
陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。 宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は、訓詁学者は六経(五経)に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。 朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。 四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。 隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。 この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。 このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。 なお以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。 また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在) 朱子の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は、程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。 朱子の晩年に偽学の禁がおこって、道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相趙如愚以下の名士59人が偽党とされた(慶元党禁)。 しかし、元代になると、南方では既に学界の主流となり、更に許衡と劉因の二人によって北方にも伝来していった。 以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。劉因は、生涯、異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は、仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた科挙を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの五経についても従来の指定学説であった古い漢唐の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである。 朱子学は体制側の思想となったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。朱子学では「理」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。 当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。 なお陽明学の登場は、朱子学の時ほど劇的ではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、大転換が起こったわけではなく、その点は注意を要する。 王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そしてその学問思想の特徴は以下のことばに凝縮されている。 1. 心即理 ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。 しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。 2. 致良知 ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。 そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。 無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり) 有善有悪是意之動(善有り悪有るは是れ意の動なり) 知善知悪是良知(善を知り悪を知るは是れ良知なり) 為善去悪是格物(善を為し悪を去るは是れ格物なり) これは、「理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」というのが大意である。ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。 3. 知行合一 ― 良知の有り様(1)。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。 4. 万物一体の仁と良知の結合 ― 良知の有り様(2)。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は程顥に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は社会救済の根拠を見出したのである。 5. 事上磨錬 ― 自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。 宋明理学において四書は非常に重視された経書である。このうち、『大学』は、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が著しく分かれた。以下、主な朱子学との相違を記す。 宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。 王陽明の高弟としては、王畿(龍渓)、王艮(心斎)、徐愛(横山)、欧陽徳(南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。 陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。 明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。閹党と東林党は当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。 そのため、宦官政治に批判的な人々は朱子学、陽明学を問わず東林党に集ったが、東林党に入った陽明学の人々は陽明学右派が中心であったため、陽明学左派の過激な思想や行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲を制御する役目を「理」に与えることにより現実的な政策や思想を構想しようとした。それは清代の考証学や経世致用の学を生み出す端緒となる。 その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。 朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して、陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。 陽明学は、陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威、に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラディカリストであった。 ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において、士大夫、読書人、としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。 それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした。 明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至るが、全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。ただすでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆・嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。 陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。 下の日本の項目で述べるように陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』やその類似雑誌がいくつも創刊された。 日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。 中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。こうした梁の傾向は戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。 こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。 こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。 日本に伝わった朱子学は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。 心即理(鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。 江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。 幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。高名な偉人では吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らが影響を受け、大塩平八郎の乱に代表されるように革命運動に身を挺した者も多い。 一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ、陽明学を教えた。 山田方谷と佐久間象山は佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。 佐藤一斎は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また、幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には陽明学の思想が散見される。また、一斎が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。 日本における陽明学の全盛期を、明治維新以降とする説もある。即ち、三宅雪嶺が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、欧化政策の反動として高揚した国粋主義や武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけて頂点を迎えたという見方である。 この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、高瀬武次郎、徳富蘇峰、吉本譲、東敬治、石崎東国らがいる。当時の陽明学は日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった。 また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。 朝鮮半島の陽明学については 中 2013, 馬淵 2011 が詳しい(本項では未参照)。 朝鮮半島には16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては南彦経と李瑶がいる。 次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。 その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭斉斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。 しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。 陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。 大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は、訓詁学者は六経(五経)に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在)", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "朱子の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は、程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "朱子の晩年に偽学の禁がおこって、道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相趙如愚以下の名士59人が偽党とされた(慶元党禁)。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、元代になると、南方では既に学界の主流となり、更に許衡と劉因の二人によって北方にも伝来していった。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。劉因は、生涯、異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は、仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた科挙を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの五経についても従来の指定学説であった古い漢唐の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである。", "title": "陽明学以前" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "朱子学は体制側の思想となったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。朱子学では「理」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお陽明学の登場は、朱子学の時ほど劇的ではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、大転換が起こったわけではなく、その点は注意を要する。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そしてその学問思想の特徴は以下のことばに凝縮されている。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1. 心即理 ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2. 致良知 ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり) 有善有悪是意之動(善有り悪有るは是れ意の動なり) 知善知悪是良知(善を知り悪を知るは是れ良知なり) 為善去悪是格物(善を為し悪を去るは是れ格物なり)", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これは、「理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」というのが大意である。ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "3. 知行合一 ― 良知の有り様(1)。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "4. 万物一体の仁と良知の結合 ― 良知の有り様(2)。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は程顥に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は社会救済の根拠を見出したのである。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "5. 事上磨錬 ― 自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "宋明理学において四書は非常に重視された経書である。このうち、『大学』は、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が著しく分かれた。以下、主な朱子学との相違を記す。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。", "title": "王陽明の登場" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "王陽明の高弟としては、王畿(龍渓)、王艮(心斎)、徐愛(横山)、欧陽徳(南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。閹党と東林党は当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "そのため、宦官政治に批判的な人々は朱子学、陽明学を問わず東林党に集ったが、東林党に入った陽明学の人々は陽明学右派が中心であったため、陽明学左派の過激な思想や行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲を制御する役目を「理」に与えることにより現実的な政策や思想を構想しようとした。それは清代の考証学や経世致用の学を生み出す端緒となる。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して、陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "陽明学は、陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威、に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラディカリストであった。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において、士大夫、読書人、としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至るが、全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。ただすでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆・嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "下の日本の項目で述べるように陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』やその類似雑誌がいくつも創刊された。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。こうした梁の傾向は戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。", "title": "陽明学の流行と展開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本に伝わった朱子学は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "心即理(鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。高名な偉人では吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らが影響を受け、大塩平八郎の乱に代表されるように革命運動に身を挺した者も多い。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ、陽明学を教えた。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "山田方谷と佐久間象山は佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "佐藤一斎は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また、幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には陽明学の思想が散見される。また、一斎が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本における陽明学の全盛期を、明治維新以降とする説もある。即ち、三宅雪嶺が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、欧化政策の反動として高揚した国粋主義や武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけて頂点を迎えたという見方である。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、高瀬武次郎、徳富蘇峰、吉本譲、東敬治、石崎東国らがいる。当時の陽明学は日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。", "title": "日本の陽明学" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "朝鮮半島の陽明学については 中 2013, 馬淵 2011 が詳しい(本項では未参照)。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "朝鮮半島には16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては南彦経と李瑶がいる。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭斉斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。", "title": "朝鮮の陽明学" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。", "title": "朝鮮の陽明学" } ]
陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに新儒学に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。
{{redirect|明学|明学と略称される大学|明治学院大学|その設置者|学校法人明治学院}}{{脚注の不足|date=2017年10月}} [[ファイル:Great philosopher Wang Shouren.jpg|thumb|[[王陽明|王守仁]](王陽明)]] {{儒教}}{{出典の明記| date = 2023年3月}} '''陽明学'''(ようめいがく)は、[[中国]]の[[明]]代に、[[王陽明]]がおこした[[儒教]]の一派で、[[孟子]]の[[性善説]]の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は'''王学'''といっていた。また[[漢]][[唐]]の[[訓詁学]]や[[清]]の[[考証学]]との違いを鮮明にするときは、[[宋明理学]]と呼び、同じ理学でも[[朱子学]]と区別する際には'''心学'''あるいは'''明学'''、'''陸王学'''([[陸象山]]と王陽明の学問の意)ともいう。西洋では朱子学とともに'''新儒学'''([[英語|英]]: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた<ref name="dai">『大辞泉』</ref>。[[心即理]]、[[知行合一]]、[[致良知]]の説を主要な思想とする<ref name="dai" />。 == 陽明学以前 == {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は[[経書]]の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は、訓詁学者は[[六経]]([[五経]])に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が[[朱子学]]と陽明学であった。 朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。 四書とは、[[経書]]の中の『[[礼記]]』から分割編纂した「[[大学 (書物)|大学]]」と「[[中庸]]」、そして準経書扱いされていた『[[論語]]』と、『荀子』と並称されていた『[[孟子 (書物)|孟子]]』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。 隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に[[道学]]と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。 この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に[[科挙]]に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。 このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた[[江南|江南地方]]には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府[[崇仁県]]の[[呉与弼]](康斎)や広州府[[新会県]]の[[陳献章]](白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・[[静坐]]を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子[[湛若水]](甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。 なお以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。 また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。{{要出典|以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在)|date=2023年2月|title=2006年12月16日 (土) 13:44に「2006年現在」として追記されたものですが、参考文献は追加されませんでした。個人の見解の恐れがあります。}} [[朱熹|朱子]]の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は、程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。 朱子の晩年に偽学の禁がおこって、道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相[[趙汝愚|趙如愚]]以下の名士59人が偽党とされた([[慶元党禁]])。 しかし、元代になると、南方では既に学界の主流となり、更に[[許衡]]と[[劉因]]の二人によって北方にも伝来していった。 以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。劉因は、生涯、異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は、仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた[[科挙]]を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの[[五経]]についても従来の指定学説であった古い[[漢唐訓詁学|漢唐]]の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである<ref name="陽明学1">{{Cite book|和書|author=島田虔次|title=朱子学と陽明学|pages=119-120|date=1967.5.20|publisher=岩波新書|isbn=9784004120285}}</ref>。 == 王陽明の登場 == {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 朱子学は体制側の思想となったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。朱子学では「[[理]]」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。 当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「[[格物致知]]」解釈に以下のような疑義を呈した。まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして[[朱子]]は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で[[陸象山]]の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。 なお陽明学の登場は、朱子学の時ほど劇的ではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、大転換が起こったわけではなく、その点は注意を要する。 === 陽明学の根本思想 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 王陽明の思想は『[[伝習録]]』、『'''朱子晩年定論'''』、『'''大学問'''』にうかがうことができる。そしてその学問思想の特徴は以下のことばに凝縮されている。 1. [[心即理]] ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。 しかし王陽明は「'''理あに吾が心に外ならんや'''」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。 2. [[致良知]] ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「'''良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ'''」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。 そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「'''無善無悪'''」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。 <poem> '''無善無悪是心之体'''(善無く悪無きは是れ心の体なり) '''有善有悪是意之動'''(善有り悪有るは是れ意の動なり) '''知善知悪是良知'''(善を知り悪を知るは是れ良知なり) '''為善去悪是格物'''(善を為し悪を去るは是れ格物なり) </poem> これは、「理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」というのが大意である。ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。 3. [[知行合一]] ― 良知の有り様(1)。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また「'''知は行の始めにして、行は知の成なり'''」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。 4. '''万物一体の仁と良知の結合''' ― 良知の有り様(2)。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は[[程顥]]に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は社会救済の根拠を見出したのである。 5. '''事上磨錬''' ― 自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。 ===『大学』の再解釈=== {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 宋明理学において四書は非常に重視された経書である。このうち、『大学』は、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が著しく分かれた。以下、主な朱子学との相違を記す。 #'''テクスト''' #* 朱子学: 朱子は大きく『大学』を改訂した。朱子以前より『大学』は文章や字句が並べ間違えられ、あるいは抜けていると言われていたが、それを改めたのが『大学章句』である。『大学章句』は[[程顥]]・[[程頤]]の[[本文批評|テクスト批評]]を継承し、朱子が完成させたもので、脱落したと思われる箇所は朱子が書き足している。 #* 陽明学: 王陽明は朱子学以前のテクストをそのまま使用した。ただし、王陽明の序を付したものを『'''古本大学'''』という。 #'''「大学」という言葉の意味''' #*朱子学: 大学を「大人の学問」と規定する。大人は成人の意である。 #*陽明学: 小人に対する大人、すなわち「君子の学問」と規定する。小人は得の無い者の意である。 # '''三綱領の「親民」''' #*三綱領とは『大学』における三つの総括的な主題で、『大学』はこの主題を説明するためにあるといってもよい。その二番目にあたる「親民」の解釈をめぐっても朱子と王陽明は大きく異なる。 #*朱子学: 朱子は「親」を「新」と読み替え、「民を新たにす」、つまり「自分自身の明徳を明らかにした君子が、他者にまでそれを及ぼし革新する」の様に解した。 #*陽明学: 王陽明は素直に「民を親しむ」と読む。 # '''八条目の「'''{{Ruby|'''格物致知'''|かくぶつちち}}'''」''' #*八条目とは三綱領の細目で「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八つである。 #*朱子は読書・修養によって聖人の高みに至るとし、三綱領に置かれた「格物致知」に根拠を求めた。つまり、「物に{{Ruby|格|いた}}る」(事物に即して理を極める、格=至)とした。 #*一方、王陽明はこの部分を再解釈し「物を{{Ruby|格|ただ}}す」(物=事、格=正)とした。朱子においては「知」は道徳知と知識知が未可分であったが、陽明は専ら道徳知として理解する。「事」とは心の動きである「意」の所在であって、「知」とは良知を指す。「格物致知」を、「意」を正すことにより良知を発揮することとしたのである。端的に言えば心の不正を正すと王陽明は再解釈した。 # '''「誠意」の重視''' #*朱子学: 朱子学で最も要とされたのは、上記の「'''格物致知'''」である。 #*陽明学: 陽明学で最も要とされたのは、「'''誠意'''」である(「'''大学の要は、意を誠にするのみ'''」)。ただし、陽明学の観点から言えば、意が誠ならば、良知は致されており、また、物も格されている。つまり「物を格し、知を致す」とは「意を誠にする」ことである。 ===陽明学が開いた地平=== *'''聖人観の変化''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} [[宋 (王朝)|宋]]以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。 *:しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。王陽明のある弟子の「'''満街これ聖人'''」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは端的にこのことを表現していると言えよう。陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。 *'''人欲肯定への道を開く''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 心全体を理とするならば、その内にある欲望のみを否定することは原理的にできない。王陽明自身は「天理を存し人欲を去る」という朱子学的な側面を捨てきってはいなかったが、下で述べるように、その弟子達は人欲を自然なものとして肯定していくのである。よく知られているように明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。軽々に思想と経済の間の因果関係を結論づけることはできないが、陽明学における人欲の肯定が、発展著しい商業経済にとって時宜に適う思想であったことは間違いない。 *'''経書の地位低下''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 心を外的な規範から解放した結果、[[六経]]などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「'''吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず'''」と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は[[四書]]だけといわれる人が陽明学派から出てくるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である[[黄宗羲]]ら浙東史学から[[章学誠]]を経て、[[章炳麟]]へ受け継がれていった。 *'''朋友関係の重視''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 陽明学の一派は、講学といわれる研究会を好んだことで知られる。派内の交遊が壮んであることは、「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の中でも特に「朋友」という人間関係を重視する姿勢を生み出した。すなわち極めて同志意識・連帯意識が濃厚であった。本来、朋友以外の四倫は上下関係を基礎におくものであるが、朋友に限っては水平方向の人間関係である。それを重視するということは、儒教的価値観に一石を投じるものであった。 == 陽明学の流行と展開 == === 陽明学左派―心学の横流- === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 王陽明の高弟としては、[[王畿]](龍渓)、[[王艮]](心斎)、[[徐愛]](横山)、欧陽徳(南野)、[[銭徳洪]](緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。 陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「{{Ruby|'''四無説'''|しむせつ}}」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。 *'''王龍渓''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 王龍渓が上で師王陽明の良知説を革新したと述べたが、もう少し具体的にいうと、以下の二つの意味を良知に追加した。まず王陽明にあって良知はあくまで人の心にあるものであったが、弟子王龍渓はそれを「天則」(天のことわり)にまで拡大した点。次に「'''現成良知'''」を主張した点。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることであり、良知を発現させるために作為的もしくは意識的な修養は無用であって、良知はすでに既成の善悪を超え自律的に正しく判断するのだと主張した。王龍渓は良知を非常に動的なものとして捉え直したといえる。 *:また理学がその成立当初から[[禅宗]]の影響を強く受けていることは、[[宋代]]より言われ続けてきたことであるが、陽明学左派はとりわけ[[仏教]]の、そして[[老荘思想]]の影響が顕著である。この傾向は王陽明も持っていたが、特に王龍渓はこの傾向を強めたといわれる。その証拠として経書の解釈においても積極的に仏教などの語彙を使用して説明しようとした点がよく指摘される。そして仏教も[[道教]]も真理の一面を有していたことを認め、'''三教一致'''を目指そうとした。この傾向は王心斎の一派にも見られ、それ故にもはや儒教ではなく [[禅宗]]の学だという批判を招くに至った。 *'''王心斎と泰州学派''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 王心斎も王龍渓と同じく「現成良知」を奉じていたが、思弁性よりも、社会に向けた実践活動に特徴を有する。具体的には王心斎は、『[[孝経]]』と[[四書]]を重視したが、経書の注釈に拘らない自得の学問を説き、独特な「'''淮南格物'''」を主張したこと、古代を理想とする尚古思想をもっていたことがその思想的特徴といえるが、なによりも重要なのは、知識人層以外の階層に陽明学を広めることを己が責務としたことである。王心斎らの一派は[[泰州学派]]といわれ、この派からは[[何心隠]]、羅如芳(近渓)、楊起元(復所)、[[李贄]](卓吾)、周汝登(海門)、[[陶望齢]]を輩出した。彼らはその身の中で、万民を救うという[[士大夫]]的責任感と「知行合一」とを結合させ、以下に述べるような社会批判を繰り広げていくのである。この意識が非常に高揚して、「侠」あるいは「遊侠」という境地に達するものも現れた。 *'''[[李卓吾]]''' *:{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 李卓吾は陽明学左派の掉尾を飾る人物である。彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し、「童心説」を唱えた。童心とは経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「'''穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり'''」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定した。 === 陽明学右派と東林党 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 明末は[[魏忠賢]]ら宦官に与する閹党と[[顧憲成]]らの[[東林党]]が党争を繰り返していた。閹党と東林党は当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。 そのため、宦官政治に批判的な人々は朱子学、陽明学を問わず東林党に集ったが、東林党に入った陽明学の人々は陽明学右派が中心であったため、陽明学左派の過激な思想や行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲を制御する役目を「理」に与えることにより現実的な政策や思想を構想しようとした。それは清代の考証学や経世致用の学を生み出す端緒となる。 その代表的思想家は[[黄宗羲]]である。黄は陽明学右派[[劉宗周]]の弟子にあたり、『[[明夷待訪録]]』や『'''明儒学案'''』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。 === 陽明学左派 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} [[朱熹|朱子]]とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して、陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。 陽明学は、陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる[[泰州学派]])はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威、に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的に[[急進主義|ラディカリスト]]であった。 ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において、[[士大夫]]、読書人、としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。 それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした<ref name="陽明学2">{{Cite book|和書|author=島田虔次|title=朱子学と陽明学|pages=146-147|date=1967.5.20|publisher=岩波新書|isbn=9784004120285}}</ref>。 === 明末清初の陽明学 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では[[考証学]]に学問の主役の座を奪われるに至るが、全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と[[康熙帝]]が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。ただすでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。[[雍正帝]]以降、朱子学の正学化確立、[[乾隆]]・[[嘉慶 (清)|嘉慶]]の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。 === 清末の陽明学 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 陽明学の沈滞状況は、[[1840年]]の[[アヘン戦争]]以降徐々に変化する。まず『[[海国図志]]』を著した[[魏源]]によって陽明学は見直され初め、[[康有為]]の師である[[朱次琦]]は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に[[今文]][[公羊学]]を掲げる康有為自身も[[吉田松陰]]の『'''幽室文稿'''』を含む陽明学を研究したという。 下の日本の項目で述べるように陽明学は日本に伝来して[[江戸時代]]以降の日本史に大きな足跡を残した。特に[[明治維新]]の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、[[三宅雪嶺]]が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』やその類似雑誌がいくつも創刊された。 [[日清戦争]]以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた[[李卓吾]]の『'''焚書'''』や『'''蔵書'''』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。 中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子[[梁啓超]]である。梁啓超は[[1905年]]、[[上海市|上海]]で『'''松陰文鈔'''』を出版するほど、陽明学を奉じた[[吉田松陰]]を称揚した。また同時期書かれた梁の『'''徳育鑑'''』や「'''論私徳'''」(代表作『新民説』の一節)には、[[井上哲次郎]]の『'''日本陽明学派之哲学'''』の影響が見られる。こうした梁の傾向は[[戊戌政変]]後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。 こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。 こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。 == 日本の陽明学 == {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 日本に伝わった[[朱子学]]は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。 [[心即理]](鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を[[良知]]と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。[[山田方谷]]も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。 江戸期の代表的な陽明学者は[[中江藤樹]]と弟子の[[熊沢蕃山]]である。その他、[[淵岡山]]、[[中川謙叔]]、[[三輪執斎]]らがいる。 === 幕末期の陽明学信奉者 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。高名な偉人では[[吉田松陰]]、[[高杉晋作]]、[[西郷隆盛]]、[[河井継之助]]、[[佐久間象山]]らが影響を受け、{{疑問点範囲|[[大塩平八郎の乱]]に代表されるように革命運動|date=2023年9月|title=大塩平八郎の乱が革命運動であるとする論拠は何か?}}に身を挺した者も多い。 一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される[[備中松山藩]]の[[山田方谷]]は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ、陽明学を教えた。 [[山田方谷]]と[[佐久間象山]]は[[佐藤一斎]]が塾頭をしていた[[昌平坂学問所|昌平黌]]で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。 [[佐藤一斎]]は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また、幕末の志士に大きく影響をあたえた『[[言志四録]]』には陽明学の思想が散見される。また、一斎が[[中江藤樹]]を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。 === 近代日本の陽明学 === {{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 日本における陽明学の全盛期を、[[明治維新]]以降とする説もある。即ち、[[三宅雪嶺]]が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、[[欧化政策]]の反動として高揚した[[ナショナリズム|国粋主義]]や[[武士道]]の見直しの動きと結びつき、明治後期から[[大正時代]]にかけて頂点を迎えたという見方である。 この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、[[高瀬武次郎]]、[[徳富蘇峰]]、[[吉本譲]]、[[東敬治]]、[[石崎東国]]らがいる{{Sfn|荻生|2008|p=422-427}}{{Sfn|吉田|1999|loc=序論}}。当時の陽明学は日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった{{Sfn|荻生|2008|p=422-427}}<ref>荻生茂博「陽明学」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0)</ref>。 また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。 === 各界の信奉者 === ;{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} 財界 :*[[岩崎弥太郎]] - [[三菱財閥]]の創設者 :*[[渋沢栄一]] - [[実業家]]、「日本資本主義の父」 ;その他 :*[[広瀬武夫]] - [[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]] :*[[東郷平八郎]] - 海軍軍人 :*[[奥宮健之]] - [[自由民権運動|自由民権運動家]] :*[[幸徳秋水]] - 明治期の社会主義者、奥宮健之の父・慥慥斉に師事 :*[[富岡鉄斎]] - 文人画家、儒学者 :* [[三島中洲|三島中州]] - 漢学者、[[二松學舍大学|二松學舍]]創立者 :*[[三島由紀夫]] - 作家。晩年に傾倒<ref>林田明大、『「真説・陽明学」入門』、三五館、1994年、1ページ、ISBN 4-88320-031-0。</ref>。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」の系譜からの影響を受けた。三島は[[井上哲次郎]]の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んでいる。三島の評論には『革命哲学としての陽明学』がある<ref>三島由紀夫『[[行動学入門]]』([[文藝春秋]]、1970年。[[文春文庫]]、1974年)に収む。</ref>。 :*[[安岡正篤]] - 陽明学の像を「帝王学」とし、本来は「心学」である陽明学の像を変えたという意味で功罪があるとされる。安岡が東大卒業時に出版した『[[王陽明研究]]』は日本や中国の識者に大きな影響を与えた。安岡の著書は『東洋宰相学』『日本精神の研究』など多岐に亘り、安岡が必ずしも陽明学者としてのみ位置づけられるものではない。 == 朝鮮の陽明学 == {{See also|李氏朝鮮の学問#陽明学}}{{出典の明記| date = 2023年3月| section = 1}} [[朝鮮半島]]の陽明学については {{Harvnb|中|2013}}, {{Harvnb|馬淵|2011}} が詳しい(本項では未参照)。 朝鮮半島には[[16世紀]]初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては[[南彦経]]と[[李瑶]]がいる。 次いで[[許筠]]と[[張維]]が出て、陽明学を発展させた。[[許筠]]は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。 その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる[[鄭斉斗]](霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。 しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、[[李滉]](退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。 陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。 [[大韓帝国]]末期から[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]には、[[朴殷植]]や[[鄭寅普]]が陽明学を論じた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連文献 == {{参照方法|date=2018年9月|section=1}} *[[荒木見悟]] 『陽明学の位相』研文出版、1992年、ISBN 4876361045 *大橋健二 『良心と至誠の精神史―日本陽明学の近現代』 勉誠出版、1999年 *荻生茂博「陽明学」『日本歴史大事典 3』小学館、2001年、ISBN 978-4-095-23003-0 *荻生茂博『近代・アジア・陽明学』ぺりかん社、2008年、ISBN 978-4831512024 *[[小島毅]]『近代日本の陽明学』講談社選書メチエ、2006年 *小島毅『朱子学と陽明学』 ちくま学芸文庫、2013年 *[[島田虔次]]訳・解説 『中国文明選6 [[王陽明]]集』 朝日新聞社、1975年 *島田虔次 『[[朱子学]]と陽明学』 [[岩波新書]]、1967年、ISBN 4004120284 *島田虔次訳・解説 『大学・[[中庸]]』 朝日文庫(上下)、1978年 *{{Citation|和書|title=朝鮮の陽明学―初期江華学派の研究―|year=2013|last=中|first=純夫|publisher=[[汲古書院]]|isbn=9784762929946}} *{{Citation|和書|title=東アジアの陽明学 接触・流通・変容|year=2011|publisher=東方書店|editor-last=馬淵|editor-first=昌也|editor-link=馬淵昌也}} *[[溝口雄三]]訳 『[[伝習録]]』 新版・[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2005年、ISBN 4121600827 *[[山田準]]・鈴木直治訳 『[[伝習録]]』 [[岩波文庫]]、1936年 復刊多数 *[[吉田公平]] 『日本における陽明学』 [[ぺりかん社]]、1999年、ISBN 4831509213 *吉田公平 『陽明学が問いかけるもの』[[研文出版]]〈研文選書〉、2000年、ISBN 487636186X === 叢書 === {{See also|朱子学大系}} *『シリーズ陽明学』[[明徳出版社]]、1989年-2010年。{{NCID|BN03826126}} *『王陽明全集』(全10巻)明徳出版社、1983年-1987年。{{NCID|BN00465633}} *『陽明学大系』(全11巻別巻1)明徳出版社、1971年-1974年。{{NCID|BN02307644}} == 外部リンク == * [[王陽明]]著、[[佐藤一斎]](坦)注釈、[[南部保城]]編『[https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40000456 伝習録]』、明治40年刊([[国立国会図書館]]所蔵) * [[大塩平八郎]]『[http://210.167.252.45/nakato/daitenji/genbu/g_16.html 古本大学刮目]』([[中之島図書館]]所蔵) * [[井上哲次郎]]『[{{NDLDC|754798}} 日本陽明学派之哲学]』冨山房、明治33年刊(国立国会図書館所蔵) * [[三宅雪嶺]](雄二郎)『[https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40019126 王陽明]』政教社、明治26年刊(国立国会図書館所蔵) * {{Wayback|url=http://www2.ocn.ne.jp/~ichitubo/yomei/yomeishi.html |title=β版陽明資料目録集成 |date=20140704085653}} * [{{NDLDC|957471/327}} 東澤瀉 ( 正純)--沢潟先生全集上巻--傳習錄參考] * [https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i13/i13_00882/ 三輪執齋 : 標註伝習録] {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:ようめいかく}} [[Category:王陽明]] [[Category:陽明学|*]] [[Category:陽明学者|*]] [[Category:宋明理学|*ようめいかく]] [[Category:儒教の学派]] [[Category:明朝]] [[Category:中国の思想史]] [[Category:日本の思想史]] [[Category:日本の儒学]] [[Category:李氏朝鮮]]
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電気計測工学
電気計測工学(でんきけいそくこうがく)は、電気の正確な測定のための計器の開発、測定誤差の検証・補償などを行う計測工学と電気工学との境界分野である。 電気回路・電子回路の測定を行うと、被測定回路の電圧や電流に影響を与えることが避けられない。測定技術の目的は、測定回路の影響を最小化あるいは補償することである。
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日本の珍味一覧
日本の珍味一覧(にほんのちんみいちらん)では、地域古来の珍しい食材、あるいは昔は一般的であったが、食文化の変化により現在では一般の食事としては口にすることが少なくなった物を列記する。 また、酒肴として袋入りなどで販売される一部の魚肉加工品などは、特色のある一部のみ列記した。 また、グルメブームにより過去に失った食文化が再評価され改めて一般化したものが含まれる場合がある。 一般に、日本の三大珍味と言えばウニ(塩うに)、カラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)、このわた(なまこの腸の塩辛)のことである。より狭義には「越前の雲丹」「長崎野母の唐墨」「三河の海鼠腸」である。という説と、カラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)、このわた(なまこの腸の塩辛)までは同じだが、うるか(アユの内臓の塩辛)という説もある。これは、食文化の違いから発生しているものと思われるが、西日本では、主に後者が多い。
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日本の珍味一覧(にほんのちんみいちらん)では、地域古来の珍しい食材、あるいは昔は一般的であったが、食文化の変化により現在では一般の食事としては口にすることが少なくなった物を列記する。 また、酒肴として袋入りなどで販売される一部の魚肉加工品などは、特色のある一部のみ列記した。 また、グルメブームにより過去に失った食文化が再評価され改めて一般化したものが含まれる場合がある。 一般に、日本の三大珍味と言えばウニ(塩うに)、カラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)、このわた(なまこの腸の塩辛)のことである。より狭義には「越前の雲丹」「長崎野母の唐墨」「三河の海鼠腸」である。という説と、カラスミ(ボラの卵巣の塩漬け)、このわた(なまこの腸の塩辛)までは同じだが、うるか(アユの内臓の塩辛)という説もある。これは、食文化の違いから発生しているものと思われるが、西日本では、主に後者が多い。
'''日本の珍味一覧'''(にほんのちんみいちらん)では、地域古来の珍しい食材、あるいは昔は一般的であったが、食文化の変化により現在では一般の食事としては口にすることが少なくなった物を列記する。 また、酒肴として袋入りなどで販売される一部の魚肉加工品などは、特色のある一部のみ列記した。 また、[[グルメ]]ブームにより過去に失った食文化が再評価され改めて一般化したものが含まれる場合がある。 一般に、日本の[[日本三大一覧#三大珍味|三大珍味]]と言えば[[ウニ]](塩うに)、[[カラスミ]](ボラの卵巣の塩漬け)、[[このわた]](なまこの腸の塩辛)のことである。より狭義には「越前の雲丹」「長崎野母の唐墨」「三河の海鼠腸」である。という説と、[[カラスミ]](ボラの卵巣の塩漬け)、[[このわた]](なまこの腸の塩辛)までは同じだが、うるか(アユの内臓の塩辛)という説もある。これは、食文化の違いから発生しているものと思われるが、西日本では、主に後者が多い。 ==日本の珍味一覧== ===北海道の珍味=== *'''かんかい'''(寒海) **氷下魚([[コマイ]])という魚を干したもの。氷下魚は北海道では「かんかい」とも呼ぶ。そのまま、あるいは焼いてからマヨネーズ醤油や一味唐辛子をつけて食べる。 *'''[[松前漬け]]''' *'''[[鮭とば]]''' **鮭の細切りに立塩をして寒風で乾燥させた干物。最近では北海道に限らず、鮭の産地であれば販売している所が多い。 *'''イカナンコツ''' **[[イカ]]の[[軟骨]]を[[酢]]などで調理したもの。 *'''[[ウニ]]'''(エゾバフンウニ、キタムラサキウニ) **ウニは、カラスミ・コノワタと並び日本の3大珍味と言われる。北海道で取れるエゾバフンウニは、赤ウニの中でも最高の珍味として重宝される。 *'''[[イクラ]]'''・'''[[筋子]]''' **[[サケ]]の[[卵巣]]を醤油漬け・塩漬けにしたもの。 *'''[[めふん]]''' *'''[[切り込み]]''' *'''[[氷頭なます]]'''(ひずなます) **サケの頭の軟骨のなます。東北・北陸地方でも作られる。 *'''[[たつのかまぼこ]]'''・'''たちのかまぼこ'''(たつかま・たちかま) *'''[[ユムシ|ルッツ]]''' **ユムシという海産[[無脊椎動物]]。刺身や炒め物などにして食べる。[[石狩市]][[浜益村|浜益地区]]が有名。[[大韓民国|韓国]]でも食材として利用される。釣りえさとしても使われる。 *'''[[カラストンビ]]'''('''イカトンビ'''、'''タコトンビ''') **[[カラス]]と[[トビ|トンビ]]の嘴([[くちばし]])に形・色が似ていることからこの名前がついた。嘴そのものは固くて食べられないが、その周りの身を食す。人間でいうところの咀嚼筋にあたり、他の部位と比較して筋肉質が豊富な部位であり、独特の風味がある。 ***[[タコ]]や[[イカ]]の口をその周りの身ごとくり抜いて干したもの。または、[[燻製]]にしたもの。 ***タコの口を[[塩茹で]]にしたもの。 ===東北地方の珍味=== *'''津軽漬け''' **[[カズノコ]]を、イカ・昆布と一緒に漬け込んだもので大根が入ることが多い。[[松前漬]]よりも昆布のとろみが強い。[[弘前市]]など[[津軽地方]]のお土産品とされることが多い。 *'''[[ホヤ]]''' **マボヤの身。独特の風味があり、人により好き嫌いが分かれる。[[膾|酢の物]]として[[キュウリ]]と一緒に供されることが多い。北海道でもアカホヤを同様に調理したものがある。 *'''どんぴこ''' **鮭の心臓。[[レバー (食材)|レバー]]に似た味わいがある。一匹から一つしか取れないため貴重。 *'''アワビの肝''' **[[アワビ]]の肝を裏ごししたもの。滑らかな食感と濃厚なコクがある。 *'''[[紅葉漬]]''' **生の鮭を細く切り、[[イクラ]]と一緒に漬け込んだもの。名前は見た目から。 *'''[[いなごの佃煮]]''' **[[イナゴ]]の足、羽を取り、[[甘露煮]]した物。 *'''[[食用菊|もってのほか]]''' **山形県の郷土料理。もってのほか(食用菊)を使った郷土料理である *'''[[とんぶり]]''' **秋田県の特産品。[[ホウキギ]]の実を乾燥・加熱加工した物。「畑の[[キャビア]]」とも呼ばれる。 *'''[[ウニの貝焼き]]''' **[[福島県]][[いわき市]]の特産品。新鮮なウニの身を貝殻に山盛りにのせて焼いたもの。 *'''モウカの星''' **[[ネズミザメ|モウカザメ]]の心臓。刺身で食べる。 *'''[[梅水晶]]''' **細切りにした[[サメ]]の[[軟骨]]と[[梅肉]]を和えたもの。[[宮城県]][[気仙沼市]]発祥。 ===関東地方の珍味=== *'''[[くさや]]''' **伊豆諸島に古くから伝わる干物の一種。魚をくさや汁と呼ばれる汁に漬けて作る。保存性に優れ、塩分は少ない。 *'''[[アンコウ]]の肝'''(あんきも) **文字通りアンコウの肝を蒸したり、生の状態をアンコウ鍋の身につけたり、鍋に溶かしいれたりして食べる。 *'''[[筋蒲鉾]]'''(すじ) **鮫の軟骨を含む白身魚の練り物の一種。はんぺんの残材から作られる。おでんだねとして食べられる。 *'''[[しもつかれ]]''' **鮭の頭と大根などの根菜類(鬼おろしか刻む)や豆類などと酒粕を混ぜて煮込んだ北関東地方に分布する郷土料理。 ===中部地方の珍味=== ;山間部 *'''[[はちのこ]]'''(ヘボ)- クロスズメバチの子。[[愛知県|愛知]]、[[岐阜県|岐阜]]、[[静岡県|静岡]]、[[長野県|長野]]の山間部に残る食文化。 *'''[[ざざむし]]'''(長野県) - かわげら、かげろう、トビケラ、マゴタロウムシ、アオムシなどの幼虫<ref name=a/>。長野県[[伊那谷]]地方の名物。 *'''[[カイコ|蚕]]の蛹'''(長野県)- [[諏訪地域]]で食される。製糸業を深い関わりがあり、繭玉を作ったあとの蚕のサナギを供する。 *'''[[セミ]]の幼虫'''(長野県)<ref name=a/> *'''[[つぼ汁]]''' - つぼまたはつぶ([[タニシ]])を使った味噌汁。米作りが盛んな[[山梨県]]中北地域や[[長野県]]で貴重なタンパク源として食べられていた。近代に地方病の原因が[[ミヤイリガイ|宮入貝]]を中間宿主とする[[日本住血吸虫]]が原因だと判明してからは食べられなくなったが、県北部では現在でも食用とされる。 *'''[[うるか]]''' - 岐阜県の他、各地で作られる、川獲りのアユを用いた塩辛。身や内臓を用いて塩漬けするがアユの部位などによりいろいろと種類がある。 ;沿岸 *'''[[このわた]]''' - [[ナマコ]]の[[内臓]]を塩漬けしたもの(塩辛)。 *'''[[くちこ]]''' - ナマコの[[卵巣]]。「このこ」とも呼ばれる。 *'''くろづくり''' - イカスミを入れて作ったイカの塩辛 *'''イカの丸干し''' - イカの内臓を取り出さずそのまま干した物。 *'''[[河豚の卵巣の糠漬け]]''' - [[石川県]][[金沢市]]周辺、[[能登半島]]と[[新潟県]][[佐渡島]]の特産。猛毒である[[フグ]]の卵巣([[ゴマフグ]]、[[サバフグ属|サバフグ]]のもの)を3年前後、塩漬けと糠漬け(および粕漬け)にすることにより無毒化される<ref>小泉武夫『食の世界遺産 日本編』 講談社</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/33/58fugu.pdf|title=58.ふぐの子糠漬け|website=金沢市|accessdate=2022-10-1}}</ref>。江戸時代から食されてきたが、無毒化のメカニズムが不明なため、局地的に生産・販売が許可されている。 *'''こんかいわし''' - イワシの糠漬け。石川県能登地方の伝統的保存食。火で軽くあぶって食べるのが一般的。 *'''[[へしこ]]''' - 鯖に塩を振って[[糠漬け|ぬか漬け]]にしたものである。[[若狭国|若狭地方]]の伝統料理。 *'''[[メダカ]]''' - 新潟県中越地方ではメダカの佃煮がある。但しこれは養殖が容易な[[ヒメダカ]]が使用されている。 *'''[[イルカ|いるか]]''' - 静岡県中部および東部地方で主に食されている。 ;その他 *'''金時草''' - 別名'''「水前寺草」'''。おひたしにして食べる。 ===近畿地方の珍味=== *'''[[鮒寿司]]''' **卵の入ったメスのフナを腹開きにして、腹腔内に塩を詰めて数ヶ月から1年ほど塩漬けにするしてから仕込む熟れ寿司([[なれずし]])のひとつ。 *'''[[金山寺味噌]]''' *'''[[大徳寺納豆]]''' *'''[[ゆべし]]''' *'''[[ヤガラ科|矢柄]](やがら)''' **[[謡曲]][[阿漕]]参照のこと。 ===中国地方の珍味=== *'''[[ままかり|ママカリ]]''' *'''[[広島菜]]''' *'''[[アメフラシ]]'''([[島根県]][[隠岐諸島|隠岐の島]]) ===四国地方の珍味=== *'''[[酒盗]]''' **カツオの内臓の[[塩辛]]。 *'''カツオのへそ''' **[[カツオ]]の心臓。 ===九州地方の珍味=== ;福岡県 *'''[[おきゅうと]]'''([[福岡県]]) *'''[[辛子明太子]]'''(福岡県) *'''[[かつお菜]]'''(福岡県) *'''[[糠炊き]]'''(福岡県) - サバ、イワシを糠で煮た料理 *'''[[塩鯨]]'''(福岡県) - クジラ肉の塩漬け、ジャーキー ;福岡県・佐賀県 *'''ワケノシンノス(シンノス)'''(福岡県、佐賀県) - [[有明海]]でとれるイシワケ[[イソギンチャク]]。砂に埋まっているのを掘り出す。味噌煮、醤油煮、唐揚げにして食べる。ワケノシンノスとは方言で「若い人の尻の穴」と言う意味。 *'''メカジャ'''(福岡県、佐賀県) - 有明海でとれる[[生きている化石|生きた化石]]、[[シャミセンガイ|ミドリシャミセンガイ]]。味噌煮、醤油煮にして食べる。 ;佐賀県 *'''[[ワラスボ]]'''([[佐賀県]]) *'''[[松浦漬]]'''(佐賀県)- [[鯨]]の[[軟骨]]を[[酒粕]]に漬け込んだもの。[[平凡社]]の百科事典では「日本珍味五種」の一つとされた<ref>[https://www.matsuurazuke.com/cont_matsuurazuke.html 松浦漬とは] - 有限会社 松浦漬本舗</ref>。 *'''[[がん漬]]'''(佐賀県) - [[干潟]]に生息する小型の[[カニ]]を利用した[[塩辛]]の一種。 ;長崎県 *'''[[カラスミ]]'''([[長崎県]]) - [[ボラ]]の[[卵巣]]を塩漬けし、塩抜き後、天日干しで乾燥させたもの。 ;熊本県 *'''[[辛子蓮根]]'''([[熊本県]]) - [[レンコン|蓮根]]の穴に[[味噌|辛子味噌]]を詰め込み、黄色い衣を付けて油で揚げたもの。 ;大分県 *'''[[がん汁]]'''([[大分県]]) - [[宇佐市]]の郷土料理。[[淡水]]産の[[モクズガニ]]を生きたまま殻ごとすりつぶし、ザルなどで殻をこした後に塩を入れて煮立て、[[醤油]]味の汁に仕立てたもの。 ;鹿児島県 *'''こいじゃっど'''([[鹿児島県]]) - [[カツオ|鰹]]の腹皮の燻製。 ===沖縄の珍味=== *'''[[豆腐よう]]''' **[[島豆腐]]を[[麹#米麹|米麹]]、[[ベニコウジカビ|紅麹]]、[[泡盛]]によって発酵・熟成させた発酵食品 *'''海ぶどう''' **[[緑藻類]]イワズタ科([[イワヅタ科]])の[[海藻]]である[[クビレズタ]](クビレヅタ)のこと。細かい実のなった[[ブドウ|葡萄]]のような見た目から名づけられた。 *'''[[ミミガー]]''' **[[ブタ|豚]]の[[耳介]]を、毛を直火で焼いて除去し、茹でるか蒸したもの。 *'''[[イラブー汁]]''' **エラブウミヘビのこと(実際には同じエラブウミヘビ属であるヒロオウミヘビやアオマダラウミヘビもイラブーとして販売されている)であり、伝統的に神事に携わるノロにのみ、産卵のために上陸したものを採捕する漁業権が許されてきた歴史を有する。漁獲したイラブーは硬く乾燥した燻製にして保存し、これを手間と時間をかけてもどし、煮込んで出汁をとる。 *'''[[イソアワモチ]]'''([[沖縄県]][[伊是名島]]) **陸上でもある程度呼吸できる[[ウミウシ]]の仲間。塩もみして内臓も出して炒めるなどして食べる。 ===その他の珍味(全国および広範囲での生産・流通消費される珍味)=== *[[ボラ#利用|ボラの胃]] **地域によって「ボラのへそ」や「そろばん玉」などとしても呼ばれる。一尾につき一つなのでボラの胃単体のみで流通することはなく、ボラをさばいた際に付随して供せられる食材のため、[[津軽海峡]]以南のボラが獲れる地域で外食および食卓の場で消費される。 == 脚注 == {{reflist|refs= <ref name=a>久保田政雄 [http://ant.miyakyo-u.ac.jp/BJ/antStory/AAAnt5.html#8 アリをご馳走として食べる人びと]</ref> }} {{日本関連の項目}} {{デフォルトソート:にほんのちんみいちらん}} [[Category:日本の食文化関連一覧|ちんみ]] [[Category:日本の郷土料理|*ちんみ]]
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電子回路
電子回路(でんしかいろ、英語: electronic circuit)は、ダイオードやトランジスタなどの能動素子を構成要素に含む電気回路。 電子回路にはアナログ電子回路とデジタル電子回路がある。信号を増幅したり、計算したり、データを転送したりといったことができる。回路は個々の電子部品を電気伝導体のワイヤで相互接続することで構築できるが、近年では一般にプリント基板にフォトリソグラフィで配線を作り、そこにはんだで電子部品を固定することで回路を構築する。 集積回路では、ケイ素などの半導体でできた基板上に素子と配線を形成する。集積回路も電子回路の一種だが、この記事ではもっぱら集積回路は不可分な一個部品として扱う。集積回路の内部の電子回路については集積回路の記事を参照のこと。 プリント基板は試作には向いていないため、新規設計の評価にはブレッドボード、ユニバーサル基板などを一般に使用する。それらは開発途中で素早く回路に変更を加えることができる。 プリント基板が多用されるようになる以前は、ワイヤラッピング配線や、ラグ板などを利用した空中配線により、電子回路は作られていた。 大きくアナログ回路・デジタル回路(論理回路)・アナログとデジタルの混合信号回路(アナログ-デジタル変換回路、デジタル-アナログ変換回路など)に分けられる。取り扱う周波数により、低周波回路・高周波回路という分け方をする場合もある。 アナログ回路は、表現している情報に対応して電流または電圧が時と共に連続的に変化する電子回路である。アナログ回路の基本構成として直列回路と並列回路がある。直列回路では、同じ電流経路上に電子部品が並んでいる。例えば、クリスマスのイルミネーションで使用する電球が並んだ線がある。この場合、電球のどれか1つが切れると全部の電球が消える。並列回路では、それぞれの電子部品に同じ電圧がかかり、各部品の電気抵抗値に応じて電流が分配される。 アナログ回路の基本構成部品として、配線、抵抗器、コンデンサ、コイル、ダイオード、トランジスタがある(最近では、メモリスタも基本素子の1つとして加わっている)。配線を直線で表し、各部品を記号で表した回路図で表現するのが一般的である。アナログ回路の解析にはキルヒホッフの法則を利用する。すなわち、ある節点(配線が交わる点)での全電流の総和は常に0であり、閉路を形成する配線上の電圧の総和は0になるというものである。配線は一般に電気抵抗がなく電圧がかからない理想的な電気伝導体とみなす。電気抵抗やリアクタンスを付与するには、明示的に抵抗器やコイルのような受動素子を追加する。トランジスタなどの能動素子は、制御された電流源または電圧源として扱われることが多い。例えば電界効果トランジスタはソース・ドレイン間の電流源としてモデル化でき、その電流はゲート・ソース間の電圧で制御される。 回路の大きさとその回路が扱う信号周波数の波長が近い場合、より洗練された手法を使用しなければならない。配線は伝送線路として扱われ、一定の特性インピーダンスを持つことが望ましい。始点と終点におけるインピーダンスから伝送される波と反射波が決定される。このような考慮は扱う周波数がGHz以上の場合に重要となる。集積回路は配線が短いため、10GHzぐらいまでは素子の集まりとして扱える。 代替となるモデルとして、基本電子ユニットとして独立電源と電磁誘導を採用することがある。この場合、二次電子部品として周波数に依存した負性抵抗、ジャイレータ、負性インピーダンス変換回路などを扱える。 デジタル回路では電気信号が離散値をとるものとし、それらが真理値や数値を表す。それらの値が処理すべき情報を表している。ほとんどの場合二値に符号化し、1つの電圧(一般に高い方の電圧)が二進数の '1' を表し、もう1つの電圧(一般に接地電位 0V)が二進数の '0' を表す。デジタル回路は論理素子を多用して論理回路を構成し、ブール論理の関数であるAND、OR、NOTやそれらの可能な組み合わせを実装する。ポジティブフィードバックを提供する形でトランジスタを相互接続するとラッチ回路やフリップフロップが構成でき、回路は2つ以上の準安定状態をとるようになり、外部からの入力が変化するまで1つの状態を保持し続ける。したがってデジタル回路は論理とメモリを提供でき、任意の計算機能を構成できる。フリップフロップを使ったメモリをSRAMと呼ぶ。よく使われているDRAMはコンデンサに電荷を蓄えるメモリである。 デジタル回路は個々の論理ゲートが信号を再生成しているため、減衰や利得やオフセット電圧などのアナログ設計で考慮すべきところを無視でき、同程度の複雑さ(部品数)ならアナログ回路よりも設計が容易である。結果として、単一のシリコンチップ上に多数の論理素子を集積した複雑なデジタル回路を低価格で大量生産できる。そのようなデジタル集積回路は、電卓、携帯電話、コンピュータなどの現代の電子機器で広く使われている。 デジタル回路はマイクロプロセッサなどの汎用計算チップやASICなどの特定用途向けの論理回路で使われている。工場出荷後に論理回路構成を変更できるFPGAなども広く使われている。 混合信号回路またはハイブリッド回路は、アナログ回路の要素とデジタル回路の要素を同時に含んでいる。例えば、コンパレータ、マルチバイブレータ、位相同期回路 (PLL)、ADC(アナログ-デジタル変換回路)、DAC(デジタル-アナログ変換回路)などがある。最近の無線回路や通信回路は混合信号回路を使っている。例えば受信機では、アナログ回路で信号の増幅と周波数変換を行い、それをデジタルに変換した後はデジタル回路で処理を進める。
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電子回路は、ダイオードやトランジスタなどの能動素子を構成要素に含む電気回路。
[[ファイル:Intel 8742 153056995.jpg|right|thumb|200px|[[インテル|Intel]] 8742 の[[ダイ#die|ダイ]]。8ビット[[マイクロコントローラ]]で、[[CPU]]、128[[バイト (情報)|バイト]][[Random Access Memory|RAM]]、2048バイト[[EPROM]]、[[入出力|I/O]]が1つのチップに集積されている。]] [[ファイル:PExdcr01CJC.jpg|right|thumb|200px|[[プリント基板]]を使った電子回路]] '''電子回路'''(でんしかいろ、{{lang-en|electronic circuit}})は、[[ダイオード]]や[[トランジスタ]]などの[[能動素子]]を構成要素に含む[[電気回路]]。 <!--<ref name="iwata1">岩田聡『電子回路 新インターユニバーシティ』2008年、1頁</ref>。 一般に抵抗、キャパシタンス、インダクタンスといった受動素子のみを構成要素とする[[電気回路]]とは区別される<ref name="iwata1" />。 受動素子のみを構成要素とする電気回路は線形回路であり回路方程式から解析的な解が得られるのに対し、能動素子を構成要素に含む電子回路は非線形回路であるため等価回路を用いた解析が必要であり性質が大きく異なる<ref>岩田聡『電子回路 新インターユニバーシティ』2008年、1-2頁</ref>。--> == 特徴 == 電子回路にはアナログ電子回路とデジタル電子回路がある<ref name="iwata1">岩田聡『電子回路 新インターユニバーシティ』2008年、1頁</ref>。信号を増幅したり、計算したり、データを転送したりといったことができる<ref name="Alexander and Sadiku">{{Cite journal|title=Fundamentals of Electric Circuits|author=Charles Alexander and Matthew Sadiku|publisher=McGraw-Hill|year=2004}}</ref>。回路は個々の電子部品を電気伝導体のワイヤで相互接続することで構築できるが、近年では一般に[[プリント基板]]に[[フォトリソグラフィ]]で配線を作り、そこに[[はんだ]]で電子部品を固定することで回路を構築する。 [[集積回路]]では、[[ケイ素]]などの半導体でできた基板上に素子と配線を形成する<ref name="Jaeger">{{Cite journal|title=Microelectronic Circuit Design|author=Richard Jaeger|publisher=McGraw-Hill|year=1997}}</ref>。集積回路も電子回路の一種だが、この記事ではもっぱら集積回路は不可分な一個部品として扱う。集積回路の内部の電子回路については[[集積回路]]の記事を参照のこと。 プリント基板は試作には向いていないため、新規設計の評価には[[ブレッドボード]]、[[ユニバーサル基板]]などを一般に使用する。それらは開発途中で素早く回路に変更を加えることができる。 プリント基板が多用されるようになる以前は、[[ワイヤラッピング]]配線や、[[ラグ板]]などを利用した空中配線により、電子回路は作られていた。 == 種類 == 大きく[[アナログ回路]]・[[デジタル回路]]([[論理回路]])・アナログとデジタルの混合信号回路([[アナログ-デジタル変換回路]]、[[デジタル-アナログ変換回路]]など)に分けられる。取り扱う[[周波数]]により、[[低周波回路]]・[[高周波回路]]という分け方をする場合もある。 === アナログ回路 === {{Main|アナログ回路}} [[ファイル:Common Base amplifier.png|right|thumb|アナログ回路(増幅回路)の[[回路図]]]] [[アナログ回路]]は、表現している情報に対応して電流または[[電圧]]が時と共に連続的に変化する電子回路である。アナログ回路の基本構成として[[直列回路と並列回路|直列回路]]と[[直列回路と並列回路|並列回路]]がある。直列回路では、同じ電流経路上に電子部品が並んでいる。例えば、クリスマスのイルミネーションで使用する電球が並んだ線がある。この場合、電球のどれか1つが切れると全部の電球が消える。<!-- と英語版にはあったが、クリスマスイルミネーションって単純な直列ではないような気がする(訳者) -->並列回路では、それぞれの電子部品に同じ電圧がかかり、各部品の電気抵抗値に応じて電流が分配される。 [[ファイル:Simple electrical schematic with Ohms law.png|right|thumb|200px|配線、抵抗器、電源の概念図]] アナログ回路の基本構成部品として、[[配線]]、[[抵抗器]]、[[コンデンサ]]、[[コイル]]、[[ダイオード]]、[[トランジスタ]]がある(最近では、[[メモリスタ]]も基本素子の1つとして加わっている)。配線を直線で表し、各部品を記号で表した[[回路図]]で表現するのが一般的である。アナログ回路の解析には[[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]]を利用する。すなわち、ある節点(配線が交わる点)での全電流の総和は常に0であり、閉路を形成する配線上の電圧の総和は0になるというものである。配線は一般に[[電気抵抗]]がなく電圧がかからない理想的な電気伝導体とみなす。[[電気抵抗]]や[[リアクタンス]]を付与するには、明示的に[[抵抗器]]や[[コイル]]のような[[受動素子]]を追加する。トランジスタなどの[[能動素子]]は、制御された[[電流源]]または[[電圧源]]として扱われることが多い。例えば[[電界効果トランジスタ]]はソース・ドレイン間の電流源としてモデル化でき、その電流はゲート・ソース間の電圧で制御される。 回路の大きさとその回路が扱う信号周波数の波長が近い場合、より洗練された手法を使用しなければならない。配線は[[伝送線路]]として扱われ、一定の特性[[インピーダンス]]を持つことが望ましい。始点と終点におけるインピーダンスから伝送される波と反射波が決定される。このような考慮は扱う周波数がGHz以上の場合に重要となる。集積回路は配線が短いため、10GHzぐらいまでは素子の集まりとして扱える。 代替となるモデルとして、基本電子ユニットとして独立電源と[[電磁誘導]]を採用することがある。この場合、二次電子部品として周波数に依存した[[負性抵抗]]、[[ジャイレータ]]、[[負性インピーダンス変換回路]]などを扱える。 === デジタル回路 === {{Main|デジタル回路}} [[デジタル回路]]では電気信号が離散値をとるものとし、それらが[[真理値]]や数値を表す<ref name="Hayes">{{Cite journal|title=Introduction to Digital Logic Design|author=John Hayes|publisher=Addison Wesley|year=1993}}</ref>。それらの値が処理すべき情報を表している。ほとんどの場合二値に符号化し、1つの電圧(一般に高い方の電圧)が[[二進数]]の '1' を表し、もう1つの電圧(一般に接地電位 0V)が二進数の '0' を表す。デジタル回路は論理素子を多用して[[論理回路]]を構成し、[[ブール論理]]の関数である[[ANDゲート|AND]]、[[ORゲート|OR]]、[[NOTゲート|NOT]]やそれらの可能な組み合わせを実装する。[[ポジティブフィードバック]]を提供する形でトランジスタを相互接続すると[[ラッチ回路]]や[[フリップフロップ]]が構成でき、回路は2つ以上の準安定状態をとるようになり、外部からの入力が変化するまで1つの状態を保持し続ける。したがってデジタル回路は[[論理回路|論理]]とメモリを提供でき、任意の計算機能を構成できる。フリップフロップを使ったメモリを[[Static Random Access Memory|SRAM]]と呼ぶ。よく使われている[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]はコンデンサに電荷を蓄えるメモリである。 デジタル回路は個々の論理ゲートが信号を再生成しているため、減衰や利得やオフセット電圧などのアナログ設計で考慮すべきところを無視でき、同程度の複雑さ(部品数)ならアナログ回路よりも設計が容易である。結果として、単一のシリコンチップ上に多数の論理素子を集積した複雑なデジタル回路を低価格で大量生産できる。そのようなデジタル集積回路は、電卓、携帯電話、コンピュータなどの現代の電子機器で広く使われている。 デジタル回路は[[マイクロプロセッサ]]などの汎用計算チップや[[ASIC]]などの特定用途向けの論理回路で使われている。工場出荷後に論理回路構成を変更できる[[FPGA]]なども広く使われている。 === 混合信号回路 === 混合信号回路またはハイブリッド回路は、アナログ回路の要素とデジタル回路の要素を同時に含んでいる。例えば、[[コンパレータ]]、[[マルチバイブレータ]]、[[位相同期回路]] (PLL)、ADC([[アナログ-デジタル変換回路]])、DAC([[デジタル-アナログ変換回路]])などがある。最近の無線回路や通信回路は混合信号回路を使っている。例えば受信機では、アナログ回路で信号の増幅と周波数変換を行い、それをデジタルに変換した後はデジタル回路で処理を進める。 == 構成要素 == * [[配線部品]] * [[能動素子]] :増幅・整流などの能動動作を行う素子。 ** [[半導体素子]]([[ダイオード]]、[[トランジスタ]]、[[サイリスタ]]など、[[集積回路]]) ** [[電子管]] * [[センサ]] * [[アクチュエータ]] * [[受動素子]](部品。[[抵抗器]]、[[コイル]]、[[コンデンサ]]など) == 雑音 == * 抵抗の量子雑音 * 抵抗の[[熱雑音]] * [[白色雑音]] * [[有色雑音]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Electrical symbols|回路記号}} * [[電気回路]] * [[電子工学]]・[[半導体工学]]・[[電気工学]] * [[エレクトロニクス用語一覧]] == 外部リンク == * [http://www.jpca.net/jp/index.html 日本電子回路工業会] * [http://www.mech.tohoku-gakuin.ac.jp/rde/contents/course/mechatronics/basicelec.html 電子回路の基礎] - 東北学院大学 * [https://ednjapan.com/ 電子設計の基本と応用がわかる] - EDN Japan {{半導体}} {{電気電力}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:てんしかいろ}} [[Category:電子工学]] [[category:電気回路]] [[es:Circuito eléctrico]]
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山崎の戦い
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。 天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・徳川家康の動静は次の通りであった。 羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・清水宗治の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は6月3日に本能寺の変の報を入手し、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は4日に堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌5日から6日にかけて撤兵すると、6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城、11日には尼崎(尼崎市)に達し、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行した。 秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった。もし彼らが光秀方に与し足止めを受ければ、短期決戦に持ち込みたいと考えた羽柴軍の計画に狂いが生じる。折しも、本能寺の変の報せを入手した摂津衆の一人・中川清秀から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様(信忠)は危難を切り抜け膳所に下る。これに従う福富秀勝は比類なき功績を打ち立てた」という旨の返書を清秀に出した(6月5日付)。この返書は虚報であったが、光秀が大坂方面を重要視しなかったこともあり清秀・高山右近を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。四国の長宗我部征伐のために大坂に集結していた神戸信孝(織田信孝)・丹羽長秀は徳川家康の接待のために軍を離れており、本能寺の変の噂を伝え聞いた雑兵の多くは逃亡してしまったが、4千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。 羽柴軍は12日に富田で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場と想定した作戦部署を決定した。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・津田信澄を自刃に追い込んでいる。 一方、光秀は変後の京の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土城の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる。数日内に近江は瀬田城(山岡景隆・景佐兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、瀬田橋を焼き落として抵抗の構えを見せた後、一時甲賀方面に退避)、日野城(蒲生賢秀・賦秀父子居城)などを残し平定された。その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。また、筒井順慶はこれに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に加担することにし9日までに居城の大和郡山城で籠城の支度を開始した( →「成句「洞ヶ峠」」)。 こうした状況下で光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなった。 両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。 局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり( →「成句「天王山」」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、攻防が続いた。 戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川(旧流域)沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。光秀は戦線後方の勝龍寺城に退却を余儀なくされるが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど打撃を受けた。 一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝龍寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀は勝龍寺城の北門を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられる( →「成句「三日天下」)。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒された。 翌日に勝龍寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊は14日に光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍を打出の浜で迎え撃ち撃破した。300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃した。中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、光秀の息子明智光慶を自刃させ城を占拠。ここに明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに16日に長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの逃亡または降伏によって近江を平定。17日には斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首あるいは磔刑に処された。 秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。 光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと、周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。 現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。 秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、増田長盛、仙石秀久、田中吉政といった顔ぶれもいた。 『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りである。 その他、小川祐忠、進士貞連、可児吉長、四王天政孝、津田信春(=津田平蔵とする説あり)妻木広忠、などが参加していた。なお、明智五宿老のうち、光秀の従兄弟の明智光忠のみが、二条城攻撃時の負傷のため合戦に参加できなかった。 二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」という(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いが、正しい使い方でない)。権力を極めて短い期間のみ握ることを「三日天下(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する成句である。ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・徳川家康の動静は次の通りであった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・清水宗治の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は6月3日に本能寺の変の報を入手し、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は4日に堀尾吉晴・蜂須賀正勝を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌5日から6日にかけて撤兵すると、6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城、11日には尼崎(尼崎市)に達し、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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"一方、光秀は変後の京の治安維持に当たった後、武田元明・京極高次らの軍を近江に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である坂本城や織田家の本拠地であった安土城の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる。数日内に近江は瀬田城(山岡景隆・景佐兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、瀬田橋を焼き落として抵抗の構えを見せた後、一時甲賀方面に退避)、日野城(蒲生賢秀・賦秀父子居城)などを残し平定された。その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。また、筒井順慶はこれに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に加担することにし9日までに居城の大和郡山城で籠城の支度を開始した( →「成句「洞ヶ峠」」)。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "こうした状況下で光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなった。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり( →「成句「天王山」」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、攻防が続いた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川(旧流域)沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。光秀は戦線後方の勝龍寺城に退却を余儀なくされるが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど打撃を受けた。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝龍寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀は勝龍寺城の北門を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられる( →「成句「三日天下」)。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "翌日に勝龍寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊は14日に光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍を打出の浜で迎え撃ち撃破した。300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、溝尾茂朝、明智光忠と共に自刃した。中川・高山両隊は丹波亀山城に向かい、光秀の息子明智光慶を自刃させ城を占拠。ここに明智氏は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに16日に長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征・貞大父子、山崎片家らの逃亡または降伏によって近江を平定。17日には斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首あるいは磔刑に処された。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと、周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。", "title": "経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "秀吉本隊中には他に直番衆として加藤清正、福島正則、大谷吉継、山内一豊、増田長盛、仙石秀久、田中吉政といった顔ぶれもいた。", "title": "両軍の参戦武将" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りである。", "title": "両軍の参戦武将" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その他、小川祐忠、進士貞連、可児吉長、四王天政孝、津田信春(=津田平蔵とする説あり)妻木広忠、などが参加していた。なお、明智五宿老のうち、光秀の従兄弟の明智光忠のみが、二条城攻撃時の負傷のため合戦に参加できなかった。", "title": "両軍の参戦武将" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「天王山(てんのうざん)」という(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いが、正しい使い方でない)。権力を極めて短い期間のみ握ることを「三日天下(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する成句である。ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している。", "title": "成句" } ]
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い。 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。
{{脚注の不足|date=2018年3月}} {{Battlebox |battle_name=天王山の戦い |campaign= 豊臣秀吉の戦闘 |image= [[ファイル:Yamazaki04.jpg|300px|山崎合戦の地 石碑]] |caption= 山崎合戦の地 石碑(京都府大山崎町) |conflict=[[安土桃山時代]] |date=[[天正]]10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1582年]][[7月2日]]) |place=山崎([[摂津国]]と[[山城国]]の境)から勝龍寺城一帯 |result=羽柴軍の勝利 |combatant1=[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|20px]]羽柴軍 |combatant2=[[ファイル:Tokikikyo.svg|25x20px]] 明智軍 |commander1=[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|20px]] [[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]<br/>[[ファイル:Goshichi no kiri inverted.svg|20px]] [[豊臣秀長|羽柴秀長]]<br/>[[ファイル:Kuroda Fuji(No background and Black color drawing).svg|20px]] [[黒田孝高]]<br/>[[ファイル:Oda emblem.svg|25x20px]] [[織田信孝]]<br/>[[ファイル:Japanese Crest Bizenn Chou.svg|25x20px]] [[池田恒興]]<br/>[[ファイル:Mon Niwa.svg|25x20px]] [[丹羽長秀]]<br/>[[ファイル:Japanese Crest Shichiyoumon.svg|18px]] [[高山右近]]<br />[[ファイル:Japanese crest Nakagawa Kasiwa.svg|18px]] [[中川清秀]] |commander2=[[ファイル:Tokikikyo.svg|25x20px]] [[明智光秀]] {{KIA}} <br>[[ファイル:Nadeshiko inverted.jpg|25x20px]] [[斎藤利三]]{{Executed}}<br>[[ファイル:Japanese crest mukai Chou.svg|25x20px]] [[伊勢貞興]]{{KIA}}<br/>[[松田政近]]{{KIA}}<br/>[[並河易家]]<br/>[[阿閉貞征]]{{Executed}}<br/>[[阿閉貞大]]{{Executed}}<br/>[[溝尾茂朝]]<br/>[[小川祐忠]]<br/>[[諏訪盛直]]<br/>[[御牧兼顕]] |strength1=20,000 - 40,000 |strength2=10,000 - 16,000 |casualties1=3,300 |casualties2=3,000 |}} '''山崎の戦い'''(やまざきのたたかい)は、[[天正]]10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]の[[本能寺の変]]を受け、6月13日(西暦[[7月2日]])に[[摂津国]]と[[山城国]]の境に位置する山崎([[京都府]][[大山崎町|乙訓郡大山崎町]])から[[勝竜寺城|勝龍寺城]]([[京都府]][[長岡京市]])一帯で、[[高松城 (備中国)|備中高松城]]の攻城戦から引き返してきた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の軍と、[[織田信長]]を討った[[明智光秀]]の軍勢が激突した戦い。 古来'''天王山の戦い'''と呼ばれてきた合戦の現代的表現で、'''山崎合戦'''とも呼ばれる。 == 経緯 == === 背景・合戦まで === [[天正]]10年6月2日の[[本能寺の変]]勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・[[徳川家康]]の動静は次の通りであった。 * [[柴田勝家]] - [[越中国|越中]][[魚津城]]で[[上杉氏|上杉]]勢と交戦中([[魚津城の戦い]]) * [[滝川一益]] - [[上野国|上野]][[前橋城|厩橋城]]で[[後北条氏|北条]]勢を牽制 * [[織田信孝]]、[[丹羽長秀]] - 大坂・[[堺市|堺]]で[[四国征伐]]軍編成中 * 羽柴秀吉 - 備中高松城近辺で[[毛利氏|毛利]]勢と交戦中([[中国攻め]]、[[備中高松城の戦い]]) * 徳川家康 - 堺で近習数名と見物中(帰国途路の[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]([[四條畷市]])付近で凶報に接する) 羽柴秀吉は[[高松城 (備中国)|高松城]]に篭る毛利軍を包囲していたが、守将・[[清水宗治]]の申し出を受諾し、近日中に高松城は宗治の自刃によって開城されるはずであった。しかし秀吉は[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]に本能寺の変の報を入手し{{Efn|[[原平内]]なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した<ref>{{Cite book|和書|series=歴史群像シリーズ|title=織田信長 天下一統の謎|publisher=学研|year=1989|page=134}}</ref>。}}、ただちに毛利軍との和議を結ぶ。秀吉は[[6月4日 (旧暦)|4日]]に[[堀尾吉晴]]・[[蜂須賀正勝]]を立会人にして宗治の自刃の検分を行い、翌[[6月5日 (旧暦)|5日]]から[[6月6日 (旧暦)|6日]]にかけて撤兵すると、6日に沼([[岡山城]]東方)、[[6月7日 (旧暦)|7日]]に[[姫路城]]、[[6月11日 (旧暦)|11日]]には尼崎([[尼崎市]])に達し、いわゆる「[[中国大返し]]」と言われる機敏さで[[畿内]]へ急行した。 秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった。もし彼らが光秀方に与し足止めを受ければ、短期決戦に持ち込みたいと考えた羽柴軍の計画に狂いが生じる。折しも、本能寺の変の報せを入手した摂津衆の一人・[[中川清秀]]から書状が舞い込み、秀吉は「上様(信長)・殿様([[織田信忠|信忠]])は危難を切り抜け[[大津市|膳所]]に下る。これに従う[[福富秀勝]]は比類なき功績を打ち立てた」という旨の返書を清秀に出した(6月5日付)。この返書は虚報であったが、光秀が大坂方面を重要視しなかったこともあり清秀・[[高山右近]]を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方する。四国の[[長宗我部氏|長宗我部]]征伐のために大坂に集結していた[[織田信孝|神戸信孝]](織田信孝)・丹羽長秀は徳川家康の接待のために軍を離れており、本能寺の変の噂を伝え聞いた雑兵の多くは逃亡してしまったが、4千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。 羽柴軍は[[6月12日 (旧暦)|12日]]に[[富田 (高槻市)|富田]]で軍議を開き、秀吉は総大将に長秀、次いで信孝を推したが、逆に両者から望まれて自身が事実上の盟主となり(名目上の総大将は信孝)、山崎を主戦場と想定した作戦部署を決定した。なお、長秀と信孝は軍議に先立ち、光秀に内通の疑いがあった光秀の女婿・[[津田信澄]]を自刃に追い込んでいる。 一方、光秀は変後の京の治安維持に当たった後、[[武田元明]]・[[京極高次]]らの軍を[[近江国|近江]]に派遣し、京以東の地盤固めを急いだ。これは光秀の居城である[[坂本城]]や織田家の本拠地であった[[安土城]]の周辺を押さえると共に、当時の織田家中で最大の力を持っていた柴田勝家への備えを最優先したためと考えられる。数日内に近江は[[瀬田城]]([[山岡景隆]]・[[山岡景佐|景佐]]兄弟居城。山岡兄弟は光秀の誘いを拒絶し、[[瀬田橋]]を焼き落として抵抗の構えを見せた後、一時[[甲賀市|甲賀]]方面に退避)、[[日野城]]([[蒲生賢秀]]・[[蒲生氏郷|賦秀]]父子居城)などを残し平定された。その傍ら、有力組下大名に加勢を呼びかけたが、縁戚であった[[細川幽斎|細川藤孝]]・[[細川忠興|忠興]]父子は3日に「喪に服す」として剃髪、中立の構えを見せることで婉曲的にこれを拒んだ。奥丹後の領主・一色氏は、明智光秀に味方したので、南丹後の細川氏は軍勢を動かせない状態だった。また、[[筒井順慶]]はこれに応じ配下を山城に派遣していたが、秘密裏に秀吉側に加担することにし9日までに居城の[[郡山城 (大和国)|大和郡山城]]で籠城の支度を開始した( →「[[#成句|成句「洞ヶ峠」]]」)。 こうした状況下で光秀は[[6月10日 (旧暦)|10日]]に秀吉接近の報を受け、急いで[[淀古城|淀城]]・[[勝竜寺城|勝龍寺城]]の修築に取り掛かり、[[男山]]に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなった。 === 合戦経過 === 両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、[[池田恒興]]らが右翼に、[[黒田孝高]]、[[豊臣秀長|羽柴秀長]]、[[神子田正治]]らが[[天王山]](標高270m)山裾の[[西国街道|旧西国街道]]に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の[[宝積寺]]に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣{{Efn|光秀の本陣は従来大山崎町下植野の境野古墳群にあったと考えられており、現地には大山崎町の設置した「光秀本陣跡」の説明板もある。しかし、2011年に大山崎町に隣接する長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘で大規模な堀跡が見つかり、同市埋蔵文化財センターは、光秀の本陣跡であることがほぼ確実になったとしている<ref>{{cite news |title= 「光秀本陣跡」決定的に 秀吉軍防御?の堀跡発見 |author= |newspaper= [[朝日新聞]]|date= 2011-8-4|url= http://www.asahi.com/culture/update/0804/OSK201108040109.html|accessdate=2011-9-16}}</ref>。}}の前面に[[斎藤利三]]、[[阿閉貞征]](貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。 局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた[[伊勢貞興]]隊が襲い掛かり( →「[[#成句|成句「天王山」]]」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から[[堀秀政]]の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた[[松田政近]]・[[並河易家]]両隊と交戦し、攻防が続いた。 戦局が大きく動いたのは一刻後、[[淀川]](旧流域)沿いを北上した池田恒興・[[池田元助|元助]]父子と[[加藤光泰]]率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して[[津田信春]]を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。[[御牧兼顕]]隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。光秀は戦線後方の勝龍寺城に退却を余儀なくされるが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど打撃を受けた。 一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝龍寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀は勝龍寺城の北門を密かに脱出して居城[[坂本城]]<!--([[大津市]])-->を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪([[京都市]][[伏見区]]、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の[[落ち武者狩り]]に遭い竹槍で刺されて殺害された{{Sfn|松永|1989|p=123}}とも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられる( →「[[#成句|成句「三日天下」]])<!--(実際には11日ないし12日間)-->。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒された。 [[ファイル:Yamazaki03.jpg|thumb|旗立松(6代目)]] === 戦後の経過 === 翌日に勝龍寺城に入り体勢を整えた秀吉は堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣し、堀隊は[[6月14日 (旧暦)|14日]]に光秀の後詰のために急遽出兵した[[明智秀満]]の軍を[[大津市|打出の浜]]で迎え撃ち撃破した。300余の兵を討ち取られ敗走した秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、[[溝尾茂朝]]、[[明智光忠]]と共に自刃した。中川・高山両隊は[[丹波国|丹波]][[亀山城 (丹波国)|亀山城]]に向かい、光秀の息子[[明智光慶]]を自刃させ城を占拠。ここに[[明智氏]]は僧籍にいた者などを除いて滅んだ。京に入った羽柴軍はさらに[[6月16日 (旧暦)|16日]]に[[長浜城 (近江国)|長浜城]]の[[妻木範賢]]、[[佐和山城]]の[[荒木行重]]、山本山城の阿閉貞征・[[阿閉貞大|貞大]]父子、[[山崎片家]]らの逃亡または降伏によって近江を平定。[[6月17日 (旧暦)|17日]]には斎藤利三が潜伏先の[[堅田 (大津市)|堅田]]<!--(大津市堅田)-->で生け捕りにされ、[[六条河原]]で[[斬首]]あるいは[[磔刑]]に処された。 秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、[[清洲会議]]を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の[[京極竜子|竜子]](松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。 光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと、周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたことなど様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える。 現在の天王山山中には「秀吉旗立ての松」が残っている他、合戦の経過を解説する石板などが設置されている。 == 両軍の参戦武将 == * 羽柴軍(約4万0000) ** 高山右近・[[木村重茲]]:2000 ** 中川清秀:2500 ** 池田恒興・池田元助・加藤光泰:5000 ** 丹羽長秀:3000(秀吉本隊の中に入れる資料もある) ** 織田信孝:4000(秀吉本隊の中に入れる資料もある) ** 秀吉本隊(羽柴秀長・黒田孝高・蜂須賀正勝・堀秀政・[[中村一氏]]・堀尾吉晴・神子田正治・[[蜂屋頼隆]]・[[伊東祐兵]]など):20000 秀吉本隊中には他に直番衆として[[加藤清正]]、[[福島正則]]、[[大谷吉継]]、[[山内一豊]]、[[増田長盛]]、[[仙石秀久]]、[[田中吉政]]といった顔ぶれもいた。 『太閤記』による光秀軍の構成は、以下の通りである。 * 明智軍(約1万6000) ** 美濃衆 斎藤利三・斎藤利康・齋藤利宗・[[柴田勝定]]{{Efn|柴田勝定は柴田勝家の重臣{{Sfn|藤田|2003|p=170}}。}}:2000 ** 近江衆 阿閉貞征・阿閉貞大・溝尾茂朝(明智茂朝)・[[山崎長徳]]・[[木村吉清]]:3000 ** 山城・丹波衆 [[津田重久]]・[[松田政近]]・並河易家:2000 ** 旧足利幕臣 伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕:2000 ** 河内衆 [[津田正時]]:2000 ** 光秀本隊 明智秀満 明智光近 [[安田国継]] [[藤田行政]]など:5000 その他、[[小川祐忠]]、進士貞連、[[可児吉長]]、[[四王天政孝]]、津田信春(=津田平蔵とする説あり)[[妻木広忠]]、などが参加していた。なお、明智五宿老のうち、光秀の従兄弟の[[明智光忠]]のみが、二条城攻撃時の負傷のため合戦に参加できなかった。 [[ファイル:Yamazaki02.jpg|thumb|center|700px|天王山から見下ろす山崎合戦之地。現在の[[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]](写真中央左)あたりを挟んで両軍が対陣したと言われている。]] == 他の諸将の動き == ;柴田勝家 :上杉対策を[[前田利家]]、[[佐々成政]]らに託し京に向かったが、越前・近江国境の[[北陸道|柳ヶ瀬峠]]に到達したところで合戦の報が入り、そのまま[[清洲城]]に向かった。 ;滝川一益 :織田信長・信忠の死に乗じて北条軍が上野に侵攻(一説には[[北条氏政]]から変についての情報がもたらされ、「北条は手出ししない」という声明もあったが一益はこれを偽計と判断)し、[[神流川の戦い]]に至る。第一次合戦で北条勢を退けるものの第二次合戦で大敗し、[[碓氷峠]]から本拠地・伊勢に7月に帰還。[[清洲会議]]にも参加できず、以後零落の一途をたどる。 ;徳川家康 :いわゆる[[伊賀越え|神君伊賀越え]]を経て[[岡崎城]]から光秀討伐に向かったが、[[緑区 (名古屋市)|鳴海]](一説に[[熱田区|熱田]]。[[酒井忠次]]は北伊勢まで進出していた)に到達したところで合戦の情報が入り反転。以後、空白地帯となった甲斐・信濃の領土化を目指し、同じく甲斐・信濃の領土化を目指した北条氏と[[天正壬午の乱]]で戦う。 == 成句 == 二大勢力が争っているときに、有利な方へ味方しようと日和見することを「'''洞ヶ峠'''(ほらがとうげ)」という。ものごとの勝敗を決める正念場や運命の分かれ目のことを「'''天王山'''(てんのうざん)」という(「天下分け目の天王山」と呼ばれる場合も多いが、正しい使い方でない)。権力を極めて短い期間のみ握ることを「'''三日天下'''(みっかてんが/みっかでんか)」という。これらはいずれもこの山崎の戦いに由来する[[:Category:日本語の成句|成句]]である。ただし必ずしも史実に即したものではなく、むしろその伝説に由来している。 ;「洞ヶ峠」 :筒井順慶が[[洞ヶ峠]]に布陣したということについては、良質の史料では全く確認することができない{{Sfn|高柳|1958|p=247}}。『太閤記』のような俗書でも光秀が布陣して順慶を待ったと書かれている。『増補筒井家記』には、順慶は[[島清興|島左近]]の勧めで洞ヶ峠に布陣したと書かれているが{{Sfn|高柳|1958|p=247}}、この本は誤謬充満の悪本であり、この説は誤りである{{Sfn|高柳|1958|p=248}}。ただ日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、それはこの際における順慶の態度を表現している{{Sfn|高柳|1958|p=248}}。 ;「天王山」 :山崎の戦いは、天王山の占拠が勝敗を決めたとされ、『太閤記』や『川角太閤記』に書かれていることで、『竹森家記』ではこの説を過剰に主張し、[[黒田孝高]]が天王山を早く占拠した方が勝利を得るに相違ないと主張したとか{{Sfn|高柳|1958|p=249}}、『永源師檀紀年録』には[[細川忠興]]が天王山の西の尾崎を占領したとか、戦闘に参加していない人名までも書かれている。この天王山の争奪戦は良質な史料では全く確認できないものである{{Sfn|高柳|1958|p=250}}。つまり天王山の争奪戦が勝敗を決めたというのは作り話であって、事実ではない{{Sfn|高柳|1958|p=250}}。天王山での戦闘があったことが具体的に記された一次資料は確認されず、かつて広く使われた「天王山の戦い」は現在では「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ばれるようになっている。 ;「三日天下」 :肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、その中で光秀は変の後参内し、[[従三位]]・[[中将]]に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれている。この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、変後の政局が光秀を中心として展開したことは間違いない。光秀の天下は「三日天下」と比喩されるが、実際には本能寺の変の天正10年6月2日から山崎の戦いの同月13日であり、11日ないし12日間の期間であった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 帝国陸軍参謀本部編『日本戦史 山崎役』村田書店、1920年/1979年 * {{Cite book|和書|author=高柳光寿|authorlink=高柳光寿|title=明智光秀|series=人物叢書|publisher=[[吉川弘文館]]|year=1958|ref={{SfnRef|高柳|1958}}}} * {{Citation|和書|author=河野豊|authorlink=河野豊|chapter=疾風怒濤の大返し―山崎の合戦|series=歴史群像シリーズ|title=羽柴秀吉怒濤の天下取り|publisher=学研|year=1987}} * {{Citation|和書|author=桐野作人|authorlink=桐野作人|chapter=大軍で制した天下取りの起点―山崎の戦い|series=歴史群像シリーズ|title=豪壮秀吉軍団|publisher=学研|year=1992}} * {{Citation|和書|author=谷口克広|authorlink=谷口克広|chapter=中川清秀 野心家、最後に秀吉の囮とさる|series=歴史群像シリーズ|title=豪壮秀吉軍団|publisher=学研|year=1992}} * {{Cite book|和書|author=藤田達生|authorlink=藤田達生|title=謎とき 本能寺の変|series=講談社現代新書|publisher=[[講談社]]|year=2003|month=10|isbn=4-06-149685-9|ref={{SfnRef|藤田|2003}}}} * {{Citation |和書 |last=松永 |first=義弘 |author-link=松永義弘 |year=1989|title=合戦 -歴史の流れを変えた十のドラマ-|publisher=PHP文庫|isbn=4-569-56218-3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Battle of Yamazaki}} * [[山崎城 (山城国)]] * [[勝竜寺城]] * [[中国大返し]] == 外部リンク == *[https://tsutsuidouzoku.amebaownd.com/pages/3494877/page_202001082339 反明智光秀を明言していた大和の筒井順慶] * {{Kotobank}} {{豊臣政権}} {{authority control}} {{デフォルトソート:やまさきのたたかい}} [[Category:安土桃山時代の戦い]] [[Category:豊臣秀吉|戦やまさき]] [[Category:明智光秀]] [[Category:高山右近]] [[Category:山城国|戦やまさき]] [[Category:摂津国|戦やまさき]] [[Category:島本町の歴史]] [[Category:大山崎町の歴史]] [[Category:1582年の日本]] 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15,692
三角ベース
三角ベース(さんかくベース)は、子供の遊びの一種。ロングベースボールなどとともに簡易野球の一種に分類される。二塁がなく、本塁・一塁・三塁の三角形を設定するのが特徴である。三角ベースボールともいう。 ワンバウンド野球はその一種。狭い空き地などで少人数で遊ぶために工夫されている。 少人数なので、キャッチャー、ピッチャーその他野手を置かないケースや、敵味方の区別なく、参加者全員が順番でバッターになるケース他、様々な特殊ルールがある。 走者が出た場合、実際に人間を走者として塁に置かず、いると仮定した状態でゲームを行う。走者の進塁は次打者の走塁に押される形となる。透明ランナーはアウトにはならない。 高校野球の特別規則に規定されている臨時代走に似ているが、こちらは打者の代わりに実際に人間を置き、アウトなどの各種記録も残る(この場合全て元の選手の記録となる)。 守備側が塁間で走者、または打者走者(バッターランナー=バッターとして打った後、一塁に向かって走る者)へ向かってボールを投げ、走者や打者走者の体に命中した場合アウトになるというルール。地方によって「ぶつけあり」、「投げアウト」などと呼ばれる。 原則的に、体に当たっても危険性の低い柔らかいボール(ソフトテニス(軟式テニス)用の球や、玩具用のゴムボールなど)を使用した場合に適用される。実際の野球の軟式球使用時は危険なため、適用しなかったり、腰から下にぶつける、下手投げでぶつける、などのローカルルールやバリエーションもある。 通常の(二塁ベースのある)野球において、一塁走者がいる時に外野フライが上がり、走者が二塁を回った後で捕球された場合、走者は二塁を踏んでから一塁に戻らなければならないが、この時誤って二塁を踏まずに一塁に戻ってしまった場合、その走者はアピールがあればアウトとなる(野球規則7.02,7,10b)。 二塁が存在しないように振舞ってしまうミスであることから、このミスのことを俗に三角ベースと呼ぶことがある(正式な用語ではない)。 プロ野球では長嶋茂雄が3度記録、相手方のそれを3度発見している。
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三角ベース(さんかくベース)は、子供の遊びの一種。ロングベースボールなどとともに簡易野球の一種に分類される。二塁がなく、本塁・一塁・三塁の三角形を設定するのが特徴である。三角ベースボールともいう。 ワンバウンド野球はその一種。狭い空き地などで少人数で遊ぶために工夫されている。 少人数なので、キャッチャー、ピッチャーその他野手を置かないケースや、敵味方の区別なく、参加者全員が順番でバッターになるケース他、様々な特殊ルールがある。
'''三角ベース'''(さんかくベース)は、[[子供]]の[[遊び]]の一種。[[ロングベースボール]]などとともに簡易[[野球]]の一種に分類される<ref name="yuugidaijiten_p275">中島海編 『遊戯大事典』 p.275 1957年</ref>。二塁がなく、本塁・一塁・三塁の三角形を設定するのが特徴である<ref>https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%A7%92%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9-513007</ref>。三角ベースボールともいう<ref name="yuugidaijiten_p275"/>。 ワンバウンド野球はその一種。狭い空き地などで少人数で遊ぶために工夫されている。 少人数なので、[[捕手|キャッチャー]]、[[投手|ピッチャー]]その他野手を置かないケースや、敵味方の区別なく、参加者全員が順番で[[打者|バッター]]になるケース他、様々な特殊ルールがある。 == 主な特殊ルール == === 透明ランナー === 走者が出た場合、実際に人間を走者として塁に置かず、いると仮定した状態でゲームを行う。走者の進塁は次打者の走塁に押される形となる。透明ランナーはアウトにはならない。 高校野球の特別規則に規定されている臨時代走に似ているが、こちらは打者の代わりに実際に人間を置き、アウトなどの各種記録も残る(この場合全て元の選手の記録となる)。 === 投げ当て === 守備側が塁間で走者、または打者走者(バッターランナー=バッターとして打った後、一塁に向かって走る者)へ向かってボールを投げ、走者や打者走者の体に命中した場合アウトになるというルール。地方によって「ぶつけあり」、「投げアウト」などと呼ばれる。 原則的に、体に当たっても危険性の低い柔らかいボール([[ソフトテニス]](軟式テニス)用の球や、玩具用のゴムボールなど)を使用した場合に適用される。実際の野球の[[ボール (野球)#軟式球|軟式球]]使用時は危険なため、適用しなかったり、腰から下にぶつける、下手投げでぶつける、などのローカルルールやバリエーションもある。 == 野球用語としての三角ベース == 通常の(二塁ベースのある)野球において、一塁走者がいる時に外野フライが上がり、走者が二塁を回った後で捕球された場合、走者は二塁を踏んでから一塁に戻らなければならないが、この時誤って二塁を踏まずに一塁に戻ってしまった場合、その走者はアピールがあればアウトとなる([[公認野球規則|野球規則]]7.02,7,10b)。 二塁が存在しないように振舞ってしまうミスであることから、このミスのことを俗に'''三角ベース'''と呼ぶことがある(正式な用語ではない)。 [[プロ野球]]では[[長嶋茂雄]]が3度記録、相手方のそれを3度発見している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[こどもの文化]] * [[野球の概要]] == 外部リンク == * [http://www.handhitball.org/ IHA:国際三角ベースボール協会] * [http://jcbldata.fc2web.com/cbl_index.html JCBL:日本カラーボール野球連盟] {{球技}} {{DEFAULTSORT:さんかくへえす}} [[Category:球技]] [[Category:野球の派生競技]]
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エンジェルメイク
エンジェルメイクとは、病院などで患者が死亡した際に、顔色や表情などを看護師などがメイキャップで手直しする行為を指す。「死後の処置」の言い換えではあるが、正式な専門用語ではない。"angel"のカナ表記の揺らぎの影響で「エンゼルメイク」ともいうが、用語の統一はされていない。 苦悶の表情など、遺族にとって痛ましい表情に対してはこれを行うことが肝心であるとされる。病院によっては、そのための処置に予算が配分されているところもあるが、そうでない場合は、看護師が私物のメイキャップ用品を用いる事が少なくない。 また、医薬品・診療材料メーカーにて「エンジェルキット」(死後処置セット)を用意している。
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'''エンジェルメイク'''とは、[[病院]]などで患者が死亡した際に、顔色や表情などを[[日本の看護師|看護師]]などがメイキャップで手直しする行為を指す。「死後の処置」の言い換えではあるが、正式な専門用語ではない。"angel"の[[カナ表記]]の揺らぎの影響で「エンゼルメイク」ともいうが、用語の統一はされていない。 苦悶の表情など、遺族にとって痛ましい表情に対してはこれを行うことが肝心であるとされる。病院によっては、そのための処置に予算が配分されているところもあるが、そうでない場合は、看護師が私物のメイキャップ用品を用いる事が少なくない。 また、[[医薬品]]・診療材料メーカーにて「エンジェルキット」(死後処置セット)を用意している。 == 参考資料 == * 青木新門『納棺夫日記』文春文庫 1996年 * 永井結子『今日のご遺体』祥伝社黄金文庫 2009年 == 関連項目 == * [[納棺師]] * [[湯灌]] * [[ターミナルケア]] * [[死に化粧]] * [[エンバーミング]] {{デフォルトソート:えんしえるめいく}} {{Medical-stub}} [[Category:死に関する慣習]] [[category:看護学]]
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看護大学
看護大学(かんごだいがく)は、4年制看護教育を行っている大学の通称である。 看護学部看護学科のみの単科大学から総合大学の医学部保健学科、医学部看護学科など看護教育を行っている4年制大学にはさまざまな形態があるため、看護系大学などと称されることもある。 日本赤十字看護大学のように、看護師等養成課程のみを有し「看護大学」の語が大学の名称に含まれている単科大学だけでなく、総合大学もしくは医科大学において、看護学科・保健学科看護学専攻を設置しているものについても看護大学と通称される。 これまで全ての看護大学で看護師・保健師統合プログラムが採用され、卒業時に看護師と保健師の国家試験受験資格が得られたが、近年、大学の増加に伴う保健師の養成過多を背景に、保健師養成課程を選択制としている大学が増え、看護師国家試験受験資格のみを得て卒業する学生の割合が増えてきている。助産師についても、学生が在学中に所定の科目(実習を含む)を選択することで、受験資格が得られる(通常、定員の1割程度)大学もあるが、こちらも教育内容の充実などを背景に学部卒業後の助産学専攻科や大学院などに養成が移行しつつある。なお、法律上、男性はこれらの養成課程を修了しても助産師になることはできない。 なお、厚生労働省所管の国立看護大学校や防衛省所管の防衛医科大学校は、学校教育法に定める大学ではないため、看護大学には当たらない。これらは看護大学と同じ機能を有するが、「学士 (看護学)」の学位は単に卒業しただけでは取得できず、大学改革支援・学位授与機構への申請により得られる点が異なっている。 看護師不足、受験生の多い希望、看護教育の高度化などから、多くの大学において看護学科の設置が相次いでいる。短期大学からの昇格および新規設置がともにある。
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看護大学(かんごだいがく)は、4年制看護教育を行っている大学の通称である。 看護学部看護学科のみの単科大学から総合大学の医学部保健学科、医学部看護学科など看護教育を行っている4年制大学にはさまざまな形態があるため、看護系大学などと称されることもある。
{{出典の明記|date=2021年11月}} '''看護大学'''(かんごだいがく)は、4年制[[看護教育]]を行っている[[大学]]の通称である。 看護学部看護学科のみの[[単科大学]]から[[総合大学]]の[[医学部]]保健学科、医学部看護学科など看護教育を行っている4年制大学にはさまざまな形態があるため、'''看護系大学'''などと称されることもある。 == 概要 == [[日本赤十字看護大学]]のように、看護師等養成課程のみを有し「看護大学」の[[語]]が大学の[[名前|名称]]に含まれている単科大学だけでなく、[[総合大学]]もしくは[[医科大学]]において、看護学科・保健学科看護学専攻を設置しているものについても看護大学と通称される。 これまで全ての看護大学で看護師・保健師統合プログラムが採用され、卒業時に[[看護師]]と[[保健師]]の国家試験受験資格が得られたが、近年、大学の増加に伴う保健師の養成過多を背景に、保健師養成課程を選択制としている大学が増え、看護師国家試験受験資格のみを得て卒業する学生の割合が増えてきている。[[助産師]]についても、学生が在学中に所定の科目(実習を含む)を選択することで、受験資格が得られる(通常、定員の1割程度)大学もあるが、こちらも教育内容の充実などを背景に学部卒業後の助産学専攻科や大学院などに養成が移行しつつある。なお、法律上、男性はこれらの養成課程を修了しても助産師になることはできない。 なお、[[厚生労働省]]所管の[[国立看護大学校]]や防衛省所管の[[防衛医科大学校]]は、[[学校教育法]]に定める大学ではないため、看護大学には当たらない。これらは看護大学と同じ機能を有するが、「学士 (看護学)」の学位は単に卒業しただけでは取得できず、[[大学改革支援・学位授与機構]]への申請により得られる点が異なっている。 看護師不足、受験生の多い希望、看護教育の高度化などから、多くの大学において看護学科の設置が相次いでいる。短期大学からの昇格および新規設置がともにある。 == 関連項目 == * [[看護学]] * [[看護学部]] * [[日本看護系大学協議会]] * [[看護師等養成課程を持つ日本の大学一覧]] * [[看護師養成課程を持つ日本の短期大学一覧]] * [[看護]] * [[看護専門学校]] * [[看護高等学校]] == 外部リンク == *[http://www.janpu.or.jp/ 一般社団法人日本看護系大学協議会] {{看護}} {{デフォルトソート:かんこたいかく}} [[Category:日本の大学種別|かんこ]] [[Category:日本の医療教育]] [[Category:看護学]] [[Category:看護大学|*]] {{univ-stub}}
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ボーリング
ボーリング(英語:boring, 英語発音: [ˈbɔrɪŋ])とは、円筒状の穴を穿つ(bore)こと。またドリルで開けられた穴を大きくする過程のこと。 機械加工の用語としては、日本語では中ぐりとも言う。機械加工では通常、単刃(シングルポイントカッティングツール)が用いられる。一例として大砲の内筒のくりぬきがあげられる。穴の径をより正確にするためや、テーパー状の穴にするため、などといった加工を指す場合もある(en:Boring (manufacturing). 内燃機関のボーリング加工についてはボアアップも参照)。 トンネルや井戸など主に地中に円筒状の穴を掘削する作業を指す用語としては、日本語では試錐(しすい)もしくは鑿井(さくせい)などと言うこともある。地質調査、農業、水文学、土木工学、石油、天然ガスなど産業、学術のさまざまな目的で行われている(en:Boring (earth))。この、土壌の掘削について本項で述べる。 油田や温泉を目的とした掘削、地質やそれに含まれるものの調査を目的とした「ボーリング調査」が広く行われている。その他にも、主に学術調査の目的で、掘削船による深海底(深海掘削計画、ODP)や、極地や高緯度地帯の氷や凍土を対象としたボーリングなども行われている。穴を開けること自体が目的のものもあれば、円筒状のカッターにより円柱状の試料を採取することが目的のものもある。 細長い筒状の掘削機器で大地に錐のように穴(bore)を開けることから、この名がある。一般には、ボーリング調査、ボーリング試掘、などという。 ボーリング調査の際には、地表から到達点までの土壌をまるごと掘削機器内のパイプ(コアバレル、サンプラー、スプリットサンプラー、スプリットバレル、などと言う)に円筒状に取り込むこともできる。そのサンプルをボーリングコアとも言う。土壌サンプルから作られたその地点の地質断面図を、柱状図と呼ぶ。 地面にねじ込む手動式の装置(オーガ)から、無限軌道を装着した大型自走式装置まで多様な機種が存在しているが、原理的には圧力や打撃もしくは回転力により掘削するものである。
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ボーリングとは、円筒状の穴を穿つ(bore)こと。またドリルで開けられた穴を大きくする過程のこと。 機械加工の用語としては、日本語では中ぐりとも言う。機械加工では通常、単刃(シングルポイントカッティングツール)が用いられる。一例として大砲の内筒のくりぬきがあげられる。穴の径をより正確にするためや、テーパー状の穴にするため、などといった加工を指す場合もある。 トンネルや井戸など主に地中に円筒状の穴を掘削する作業を指す用語としては、日本語では試錐(しすい)もしくは鑿井(さくせい)などと言うこともある。地質調査、農業、水文学、土木工学、石油、天然ガスなど産業、学術のさまざまな目的で行われている(en:Boring )。この、土壌の掘削について本項で述べる。
{{Otheruses|穴開け加工(boring)|球技(bowling)|ボウリング|クリケットにおける投球|ボウリング (クリケット)}} {{出典の明記|date=2011年6月}} '''ボーリング'''({{lang-en|[[wikt:boring|boring]]}}、{{IPA-en|ˈbɔrɪŋ}})とは、円筒状の[[穴]]を穿つ({{lang-en-short|[[wikt:bore#動詞|bore]]}})こと。また[[ドリル (工具)|ドリル]]で開けられた穴を大きくする過程のこと。 [[機械加工]]の用語としては、日本語では'''中ぐり'''とも言う。機械加工では通常、単刃(シングルポイントカッティングツール)が用いられる。一例として[[大砲]]の内筒のくりぬきがあげられる。穴の径をより正確にするためや、[[テーパー]]状の穴にするため、などといった加工を指す場合もある([[:en:Boring (manufacturing)]]。内燃機関のボーリング加工については[[ボアアップ]]も参照)。 [[トンネル]]や[[井戸]]など主に[[地中]]に円筒状の穴を[[掘削]]する作業を指す用語としては、日本語では'''試錐'''(しすい)もしくは'''鑿井'''(さくせい)などと言うこともある<ref>{{kotobank|試錐|2=日本国語大辞典、デジタル大辞泉、百科事典マイペディア、日本大百科全書(ニッポニカ)、世界大百科事典内言及}}</ref>。[[地質調査]]、[[農業]]、[[水文学]]、[[土木工学]]、[[石油]]、[[天然ガス]]など産業、学術のさまざまな目的で行われている([[:en:Boring (earth)]])。この、土壌の掘削について本項で述べる。 == 概要 == [[油田]]や[[温泉]]を目的とした掘削、地質やそれに含まれるものの調査を目的とした「ボーリング調査」が広く行われている。その他にも、主に学術調査の目的で、[[掘削船]]による深海底([[深海掘削計画]]、ODP)や、極地や高緯度地帯の氷や凍土を対象としたボーリングなども行われている。穴を開けること自体が目的のものもあれば、円筒状のカッターにより円柱状の試料を採取することが目的のものもある。 == 由来 == 細長い筒状の掘削機器で大地に錐のように穴(bore)を開けることから、この名がある。一般には、ボーリング調査、ボーリング試掘などという。 == コアの採取 == [[File:Boring core.jpg|thumb|right|220px|ケースに収められたボーリングコア]] ボーリング調査の際には、地表から到達点までの土壌をまるごと掘削機器内のパイプ(コアバレル、サンプラー、スプリットサンプラー、スプリットバレル、などと言う)に円筒状に取り込むこともできる。そのサンプルを'''ボーリングコア'''とも言う。[[土壌]]サンプルから作られたその地点の地質断面図を、[[柱状図]]と呼ぶ。 == ボーリングマシン == 地面にねじ込む手動式の装置([[アースオーガー|オーガ]])から、[[無限軌道]]を装着した大型自走式装置まで多様な機種が存在しているが、原理的には圧力や打撃もしくは回転力により掘削するものである。 ; ロータリー・ボーリングマシン : 主に、地質調査を目的としてコアの採取を行う際に用いる。 : ロッドの先を回転させ、注水を行いながら掘削を行う。 ; パーカッション・ボーリングマシン : 深度が浅く、[[砂岩]]や[[泥岩]]など比較的柔らかい岩質に用いる。 : 先端にビットが付いたロッドを打撃して掘削するため、コアの採取はできない。主に[[グラウト]]注入などの用途に用いられる。 : 打撃音([[騒音]])が生じるため、都市部や住宅街では避けられることがある。 ; ロータリー・パーカッション・ボーリングマシン : パーカッション・ボーリングマシンのロッドに回転力を加え、より掘削が容易になるよう改良されたマシンである。 : 深部や硬い基岩を掘削する場合に用いる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * Robert P. Multhauf 著、[[市場泰男]] 訳 『塩の世界史』 (第8章、p.250〜p.281) 平凡社 1989年11月24日発行 ISBN 4-582-40803-6 *住まいの安心研究所「[https://www.j-shield.co.jp/sumaken/geological_survey_spt/ ボーリング調査とは?地盤強度を測る目的と調査結果の見方、費用]」 ジャパンホームシールド株式会社 2019年3月26日掲載 == 関連項目 == {{Div col}} * [[ボーリングマシン運転者]] * {{仮リンク|検層|en|well logging|}} * [[標準貫入試験]] - [[N値 (ボーリング調査)]] * [[採掘]] * [[検土杖]] * [[上総掘り]] * [[BH工法]] * [[トンネルボーリングマシン]] * [[地質学]] * [[地盤調査]] * [[土質力学]] * [[油田]] * [[中ぐり盤]](中刳盤、boring machine) * [[削岩機]] * [[掘削機]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{wiktionary}} * {{kotobank|ボーリング(試錐)}} * {{kotobank}} * [http://www.kunijiban.pwri.go.jp/ 国土地盤情報検索サイト「KuniJiban」] {{DEFAULTSORT:ほおりんく}} [[Category:掘削技術]] [[Category:地質調査]] [[Category:地盤工学]]
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脚本家
脚本家(きゃくほんか)は、主に映画・テレビドラマ・アニメ・漫画・ゲーム・舞台・ラジオドラマなどの脚本を書く人のことを指す。シナリオライターとも言う。 テレビ番組やラジオ番組の進行台本を書く放送作家のことも脚本家と呼ぶ場合もある。ただし、職業上の自称や業界内部としては、これらは放送作家とする場合がほとんどであるため、一般に脚本家と言えば、狭義に「映画、テレビドラマ、アニメーション、漫画の脚本を書く人」を意味している場合が多い。日本映画においては、伝統的に映画監督が脚本を執筆する場合が少なくない。テレビドラマにおいては映画同様に監督が兼任することもあるが脚本家は独立した職能として扱われる場合が多い。テレビアニメーション、漫画、特撮においては基本的にテレビドラマと同じであるが長期シリーズになることが多いためシリーズ構成というポジションが作られている。 漫画においては、ライトノベルなどの原作がある場合は、原作を脚色しながら仕上げるためネーム原稿担当者を脚本家と呼ぶ。この場合、漫画家、脚本家、小説家の3名が携わり、編集者が最終的に編集業務の調整・統括を担当する。原作がない場合は、ネーム原稿担当者が原作者兼任の脚本家となる。いずれにしろ長期シリーズには、読者に飽きられないためにも脚本家の存在は必要不可欠となる。 テレビドラマにおいては、担当する脚本家は通常は1名のみである。これは、複数の目を通して書き直している時間的余裕がないことのほかに、脚本家が書き上げた脚本がそのまま現場に持ち込まれることは少なく、通常はプロデューサーやディレクター、広告代理店の担当者等の目を通すことで、事実上の共同執筆状態になっているためでもあるといわれる。 これに対し、映画においては複数の脚本家による共同執筆の形が取られることも多い。が、その分担方法は映画によって異なり、おおむね次のような形に分類できる。ただし、それぞれの分類に冠した語は、ここでの説明の便のために付けたものであって、一般的用語ではない。 これは、演技やバラエティなどの面で視聴者にアピールする仕事ではなく、執筆した作品を通して視聴者と接触することによるからで、脚本家においては執筆した作品が視聴者に披露する題材となる。よって、顔を知れ渡らせる必要はなく、作品を知れ渡らせることに意義が置かれる。
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脚本家(きゃくほんか)は、主に映画・テレビドラマ・アニメ・漫画・ゲーム・舞台・ラジオドラマなどの脚本を書く人のことを指す。シナリオライターとも言う。
{{出典の明記|date=2018年8月}} '''脚本家'''(きゃくほんか)は、主に[[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[漫画]]・[[ゲーム]]・[[演劇|舞台]]・[[ラジオドラマ]]などの[[脚本]]を書く人のことを指す。シナリオライターとも言う。 == 概要 == [[テレビ番組]]や[[ラジオ番組]]の進行台本を書く[[放送作家]]のことも脚本家と呼ぶ場合もある。ただし、職業上の自称や業界内部としては、これらは放送作家とする場合がほとんどであるため、一般に脚本家と言えば、狭義に「映画、テレビドラマ、アニメーション、漫画の脚本を書く人」を意味している場合が多い。[[日本映画]]においては、伝統的に[[映画監督]]が脚本を執筆する場合が少なくない。テレビドラマにおいては映画同様に監督が兼任することもあるが脚本家は独立した[[職能]]として扱われる場合が多い。テレビアニメーション、漫画、[[特撮]]においては基本的にテレビドラマと同じであるが長期シリーズになることが多いため[[シリーズ構成]]というポジションが作られている。 漫画においては、[[ライトノベル]]などの[[原作]]がある場合は、原作を脚色しながら仕上げるため[[ネーム]]原稿担当者を脚本家と呼ぶ。この場合、[[漫画家]]、脚本家、[[小説家]]の3名が携わり、[[編集者]]が最終的に編集業務の調整・統括を担当する。原作がない場合は、ネーム原稿担当者が原作者兼任の脚本家となる。いずれにしろ長期シリーズには、読者に飽きられないためにも脚本家の存在は必要不可欠となる。 テレビドラマにおいては、担当する脚本家は通常は1名のみである。これは、複数の目を通して書き直している時間的余裕がないことのほかに、脚本家が書き上げた脚本がそのまま現場に持ち込まれることは少なく、通常は[[プロデューサー]]やディレクター、[[広告代理店]]の担当者等の目を通すことで、事実上の共同執筆状態になっているためでもあるといわれる。 これに対し、映画においては複数の脚本家による共同執筆の形が取られることも多い。が、その分担方法は映画によって異なり、おおむね次のような形に分類できる。ただし、それぞれの分類に冠した語は、ここでの説明の便のために付けたものであって、一般的用語ではない。 ; 共同執筆(狭義) : 黒澤明が好んで採用した方式であり、複数の脚本家が合宿体制を取り、議論しながら脚本を練り上げていく形である。 ; 垂直分担方式 : 最初に1名で脚本を書き上げ(初稿)、それを元にして次の者が仕上げていく形(さらに三段重ねや四段重ねになる場合もある)である。多くは「師匠と弟子」の関係にある脚本家同士を組み合わせて行われるが、仕上げに回る方が師匠でその弟子が初稿を担当する場合と、師匠が全体を書き上げた後に弟子が現場との打ち合わせを受けて微調整していく場合とがある。 ; 水平分担方式 : あらかじめ決定されている[[プロット]]や[[脚本#ハコ書き|ハコ書き]]を元に、部分ごとに執筆者を分ける方法である。同時進行が可能な分だけ執筆時間を短縮出来るが、分担決定時の打ち合わせが不十分だったり、最終段階での全体でのすり合わせに失敗すると、映画の前半と後半とで登場人物の性格が(物語上の必然性がないまま)変わっているなどの弊害も発生する。 ; 未完成方式 : これは、最初から意図して行われる方式ではないが、何らかの事情で脚本家が降板を申し出たため(まれに脚本家自身の死亡ということもある)、未完成の脚本を他の脚本家が引き継いで完成させるという形が取られる場合がある。 ; 色づけ方式 : 以上の形と並行してほぼ完成した脚本に対し、いわゆる「決めセリフ」や「笑いを取るセリフ」等を付け加えるだけのために、別の脚本家に依頼するという例である。 == 顔出し == これは、演技やバラエティなどの面で視聴者にアピールする仕事ではなく、執筆した作品を通して視聴者と接触することによるからで、脚本家においては執筆した作品が視聴者に披露する題材となる。よって、顔を知れ渡らせる必要はなく、作品を知れ渡らせることに意義が置かれる。 == 関連項目 == *[[脚本家一覧]] *[[作家]] *[[シリーズ構成]] *[[ゲームシナリオライター]] *[[劇作家]] *[[スクリプトドクター]] *[[日本]]の脚本家の[[業界団体]] **[[日本シナリオ作家協会]] **[[日本脚本家連盟]] **[[日本劇作家協会]] *[[全米脚本家組合]] == 外部リンク == {{Wiktionary|脚本家}} *[http://www.j-writersguild.org 日本シナリオ作家協会] *[http://www.writersguild.or.jp/wgj/index.html 日本脚本家連盟] *[http://www.jpwa.jp/contents/index.html 日本劇作家協会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きやくほんか}} [[Category:脚本家|*]] [[Category:脚本]] [[Category:アニメ製作の手法と役職]] [[Category:映画スタッフ]] [[Category:放送関連の職業]] [[Category:メディア関連の職業]]
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富山地方鉄道
富山地方鉄道株式会社(とやまちほうてつどう、英: TOYAMACHIHO RAILROAD CO.,LTD.)は、富山県富山市に本社をおき、同市から富山県東部を基盤とする中規模私鉄である。通称は地鉄(ちてつ、英称:Chitetsu)ないしは富山地鉄。 富山地方鉄道を中心に富山地鉄グループ(地鉄グループ)を形成している。本項では、これについても合わせて述べる。 1943年1月1日に「陸上交通事業調整法」に基づき、1930年設立の富山電気鉄道を母体に富山県内のすべての私営・公営の鉄軌道・バス会社を合併して発足した。このような経緯より富山県なども資本参加しており、形式的には第三セクターである。ただし、自治体の出資比率が低いこともあり一般的には第三セクター鉄道には分類されない。合併に参加した鉄軌道会社は以下の6社である。なお、駅名は現在のものである。 それ以前に、富山電気鉄道は以下の3社を合併している。 なお、路線のうち起点からごく一部の区間が富山県内にあったものの、その大部分が岐阜県内に存在していた三井鉱山の軌道(通称・神岡軌道)は統合から除外された。 また、バス事業者は事前に運輸通信省通達により、上記各社が兼営していた路線を除いて下記の4社に集約されていたものを、1946年10月10日富山地方鉄道が一括譲受して統合を完了した(なお、戦時中から経営傘下化は行われていた)。 富山県の交通一元化は、富山電気鉄道の創業者で後に富山地方鉄道会長となった佐伯宗義の富山県下を「一市街地化」するという構想の下に進められたものであり、結果的には戦時統合という形でそれがほぼ実現することになった。 富山地方鉄道発足直後の1943年6月1日、富岩線が買収・国有化され鉄道省富山港線となった。 1950年に、加越能三国(富山県・石川県)を結ぶ鉄道を作る計画を遂行するために加越能鉄道を設立し、富山県西部の鉄軌道・バス事業を譲渡した。後に新線計画は中止。加越能鉄道は2002年に鉄軌道事業から撤退し、2012年に加越能バスに社名変更した。 現在の本社ビルは1965年11月に着工し、1966年11月28日に竣工した鉄筋造地下1階、地上5階、塔屋3階建て、延床面積8,257mの建築物である。 航空事業では、全日空富山地区総代理店として業務を受託、子会社の富山地鉄サービスで実際のハンドリングを行っている。 2000年代中期頃から新規納入された路線バス車両、軌道線車両およびワンマン改造が実施された鉄道車両の運賃表示器には北陸地方では初めて、視認性に優れた液晶ディスプレイに表示する方式が採用された。鉄道車両については後に撤去され、一般的なデジタル方式のものに換装されている。 2010年3月14日より、軌道線にIC乗車カード「ecomyca(えこまいか)」が導入され、同時に富山ライトレールの「passca(パスカ)」とも相互利用を開始した。なお同カードは2011年3月5日よりバス路線にも拡大導入され、2012年3月17日から、鉄道線でも利用可能になった。さらに、2021年10月10日よりICOCAを始めとする全国相互利用交通系ICカードも軌道線に限り利用可能となった(片利用扱いのためecomycaおよびpasscaは引き続きICOCAエリアなどでは利用不可)。 2019年2月9日より富山軌道線の各停留場 に、翌3月16日より鉄道線の各駅にナンバリングを導入した。各路線ごとに色分けし、軌道線はC01から、鉄道線はT01から始まる番号を振り分ける。 2020年2月22日には、同年3月21日に予定されている富山駅南北接続事業完成に先立って、かつて富山地方鉄道の富岩線であった富山港線を運営する富山ライトレールを吸収合併した。 2023年(令和5年)4月11日、保線作業をしていた男性社員が列車と接触し、死亡する事故が発生した。これを受け、北陸信越運輸局は4月17日、富山地方鉄道に保安監査に入った。5月26日、辻川徹社長の辞任が発表された。 現有路線の総延長距離は2020年2月22日現在、108.3 km。富山地方鉄道発足時は100kmを超える路線網を持ち、1965年には日本全国の地方中小私鉄2位の規模である総延長139km(鉄道128.3 km、軌道10.7 km)の営業キロ数を有していた ものの、その後は路線の譲渡や廃止により100kmを下回っていた。2009年12月23日に富山軌道線を環状線化する0.9kmの新線(富山都心線)が開業し、再び保有路線が100kmを超えた。 鉄道線は以下の路線からなる。詳細は各項目を参照。 富山港線は富岩鉄道 - 富山電気鉄道富岩線 - 富山地方鉄道富岩線 - 鉄道省富山港線 - 国鉄富山港線 - JR西日本富山港線 - 富山ライトレール富山港線 - 富山地方鉄道富山港線と幾度も経営母体が変わり、国有化された路線が自社路線に戻るという歴史を辿っている。詳細は富岩鉄道の概要および富山港線の歴史を参照。 富山港線以外の鉄道線の運転系統は、おおむね以下の4系統となっている。富山港線は後述する軌道線との直通運転を行っており、路面電車型の車両によって運行されている(軌道線区間を含む総距離は7.6 km)。 2010年度の各路線の輸送密度は以下のとおり。 本線と不二越・上滝線によって形成される環状線区間では、迂回乗車をした場合は乗車駅と降車駅の最短距離で運賃を計算する。 運転系統によって「市内電車」または「環状線」と呼称される。また、(*)を付けた線区は富山市が軌道整備事業者として線路を保有している。 富山ライトレール合併前の2020年1月時点および合併後の2021年1月時点では0時過ぎまで電車が運行されていたが、その後終電が繰り上がり、2022年1月時点では23時台で電車の運行が終了している。 加越能鉄道への譲渡路線が多くあるが、一度にまとめてではなく、徐々に譲渡されている。 鉄道線には大正時代から昭和時代初期に建てられたモダンな木造駅舎が多く現存しており、岩峅寺駅は映画のロケに使用された。 1971年1月1日に当時の日本では珍しかった定期券用の自動改札機を電鉄富山駅に導入していたが、経済性に乏しく修理保守に問題があることから1981年4月に撤去された。2012年3月17日に同社発行のICカード「ecomyca」が鉄道線で供用開始したことに伴い、有人駅である電鉄富山、稲荷町、東新庄、越中荏原、越中舟橋、寺田、上市、中滑川、電鉄魚津、新魚津、電鉄黒部、宇奈月温泉、五百石、岩峅寺、立山、南富山、上滝の17駅にICカード専用の改札機が導入された。機能はあいの風とやま鉄道などに導入されている簡易IC改札機と同一であるが、形状は自動改札機から扉を取り除いたものにやや近い。なお、無人駅および前述の有人17駅でも無人時間帯においては車内のICリーダーでの精算となる。新黒部駅は一部時間帯にアテンダントが駐在するものの、公式には無人駅扱いのため改札機は設置されていない。 2008年9月に同社本線中加積駅で、同駅を出発直後の列車が脱線する事故が発生。事故原因について、運輸安全委員会は翌2009年4月24日に、同駅構内の線路の枕木が腐ったまま放置され、また、犬釘が折れたまま放置していたためなどとして、同社の保守管理の杜撰さを指摘した。 運賃のみで乗れる一般列車の種別は「普通」「急行」「快速急行」の3種ある。ただし急行や快速急行の運行本数は少ない。速達列車・長距離需要の主力は後述の要料金の特急が担っていた。 急行は本線系統の一部時間帯に運行されており、快速急行は立山線系統で電鉄富山駅発立山駅行きの列車が早朝に1本運転される。 不二越・上滝線は普通列車のみ運転されている。 特急列車は2022年4月15日のダイヤ改正で全て設定がなくなったが、2023年4月15日のダイヤ改正で1年ぶりに特急の運転が復活した。 以下の列車が設定されている。詳しくは各路線・各列車記事を参照。 宇奈月温泉、黒部峡谷鉄道本線、立山黒部アルペンルートといった沿線観光地へのアクセス需要の主力は特急列車が担っている。乗車には乗車券の他に特急券が必要となるが、最遠210円(指定席料金含まず)と安く、企画乗車券の中には特急料金が含まれているものもあり、他社でいう快速列車の役割も併せ持っている。 それぞれ運行本数は少ないが、観光旅程に適した時間帯に絞って運行されており、「アルペン特急」に至ってはアルペンルートと温泉を二度の方向転換を行ってまで直通させることによって観光回遊性を創出するとともに自社線利用を伸ばす設定となっている。 国鉄時代(1970年 - 1983年)には大阪駅発の急行「立山」や名古屋(名鉄名古屋駅)方面からの特急「北アルプス」などが国鉄富山駅から地鉄線に乗り入れていた。JRとなってからも(1990年 - 1999年)大阪方面から特急「スーパー雷鳥」や「サンダーバード」などが、JR富山駅から地鉄線に乗り入れていた。 富山地方鉄道の車両形式番号は鉄道線の電動車(モハ)の場合、5桁のうち上3桁が電動機出力をHP(英馬力)で表示し、下2桁が形式番号を表示するという他社では見られない独特の付番方法が採られている(「鉄道の車両番号」も参照)。このため、電動機を持たない制御車(クハ)および付随車(サハ)は形式番号のみとなり電動車とは車号の桁数が大きく異なっている。百位の数字は制御車が1、付随車が2となっている。なお、軌道線の車両では電動車の形式記号は「デ」、4桁のうち上2桁が電動機出力になっている。電動車の「モハ」と「デ」の区別は、元々は鉄道線・軌道線でなく架線電圧1500V用をモハ、600V用をデとしたものである。岩峅寺 - 立山間・電鉄黒部 - 宇奈月温泉間の長い急勾配区間での電動機の負担を軽減させるため、ほとんどの編成がオール電動車となっている。 10030形などの車両は黄と緑のツートンカラーに塗装されており「かぼちゃ電車」の愛称がある(ただし一部編成は車両譲渡前のカラーに復元されている)。また、白を基調とした雷鳥カラーに塗装されている一部車両には「だいこん電車」の愛称がある。 以下は特記なき限り電車である。 富山県東部のほぼ全域で路線バスを運行するほか、貸切バス事業も行っている。なお、1965年当時の路線バスの営業キロ数は1128.4kmであった。 富山県氷見市・富山市と東京都豊島区・渋谷区を結ぶ高速バス路線。西武バスと共同運行。 名古屋 - 金沢線同様に北陸の都市間高速バスの草分け的存在で、2012年12月に開業25周年を迎えた。昼行便と夜行便が設定されている。かつては基本的にワンマン運行で、降雪や凍結を伴う冬期はツーマン運行だったが、2012年4月の関越自動車道高速バス居眠り運転事故に伴う安全規制の見直しもあり、通年で夜行便はツーマン運行となった。2017年5月15日、従来西武バスと加越能バスが運行してきた東京 - 高岡・氷見線と統合し、一部の便は氷見・高岡地区発着となった。加越能バスは2023年8月1日ダイヤ改正と同時に運行を終了する。 阪急観光バスと共同運行。 名鉄バスと共同運行。 富山県富山市と新潟県新潟市を結ぶ高速バス路線。新潟交通と共同運行。1日4往復で両社それぞれ2往復ずつ担当。 富山県富山市と石川県金沢市を結ぶ高速バス路線。北鉄金沢バスと共同運行。 2004年3月6日運行開始。富山市中心部・郊外と金沢市の片町・香林坊など中心繁華街が乗り換えなしでダイレクトで結ばれたこと、2014年4月1日現在片道930円という格安運賃、2時間ごとに1本という運行間隔が奏効し、開業当初から好評を博している。 なお、開業にあたっては、当時のJR北陸本線と直接競合することや、かつて運行された高速バス「金沢 - 高岡線」(2020年現在は経路を変えて運行中)の失敗から、需要への懸念も少なくなかった。 砺波以南のJR城端線沿線から富山市内への通勤・通学需要に特化した高速バスである(定期券設定あり)。 平日朝は富山駅前方向のみ4本運転、平日夕は城端方向のみ4本運転(土休日は2本)。 富山県富山市と岐阜県高山市の高山駅前を結ぶ高速バス路線。1日6往復で、そのうち富山地方鉄道が4往復(うち1往復は白川郷止)濃飛乗合自動車が2往復担当する共同運行。以前富山 - 高山間を神岡経由の一般道を利用し結んでいた特急バスの復活ではなく、この路線は北陸自動車道、東海北陸自動車道を利用し、途中白川郷を経由する高速バスである。 濃飛乗合自動車と共同運行。 西武観光バス・東急トランセと共同運行。夏季期間運行路線。 富山県富山市と長野県長野市を結んでいた高速バス路線。1日2往復で子会社の富山地鉄北斗バスと長電バスの共同運行。 富山県高岡市と宮城県仙台市との間を結んでいた夜行高速バス路線。宮城交通と共同運行。 石川県金沢市から富山県富山市を経由して、山形県山形市と宮城県仙台市との間を結んでいた夜行高速バス路線。北陸鉄道と共同運行。 富山県富山市と岐阜県高山市の平湯温泉を結ぶ特急バス路線。濃飛乗合自動車と共同運行。高速道路を経由しないため高速バスではなく特急バスとされており、予約不要。富山駅前 - 猪谷間のみの乗車はできない。他の高速路線と異なり、地鉄担当便では中型観光タイプの車両のほか、9人乗りの小型車両が用いられる。この小型車はタクシーと同様の普通二種免許で運転可能なことから、他業種からの転職者や事務担当社員を活用し、運行に必要な乗務員の確保を目的に導入された。 もとは路線バスの[ 30 ] 神岡行。路線車で県境を越えて岐阜県まで足を伸ばす富山地鉄最長の一般路線だった。当時から濃飛バスとの共同運行が行われており、特に濃飛担当便は当時から中型観光タイプの車で富山県内では停車する停留所を絞る「特急」バスとして運行されていた。2005年7月10日、高速バスに準ずる現在の形態での運行を開始。2008年4月1日にはいったん全便が高山行に変更となる。平湯温泉方面へは代替として、途中の濃飛バス神岡営業所から奥飛騨温泉郷方面への路線バスに接続する形をとった。2010年4月より、富山 - 高山線の一部便の行先を変更することで、かつて実施されていた奥飛騨温泉郷方面へのバスの直通を復活させた。前述の神岡営業所からは高山方面への路線バスが接続する。2012年4月1日に、富山 - 高山線については廃止し、富山 - 神岡間と富山 - 平湯温泉間の運行となった。 2020年4月1日に、富山 - 平湯温泉間2往復(地鉄・濃飛各1往復)運行となったのち、2021年4月1日のダイヤ改正で濃飛バス担当便を含め路線廃止となった。 路線バス網は2005年4月1日の合併前の富山市の市域のほぼ全体をカバーしており、一部の路線は旧市域の外へも伸びている。そのネットワークは富山駅正面口(南口)を中心としている。富山駅以外を発着する富山市および周辺市町村の路線バスはほとんどが公営バス・コミュニティバスになったが、一部の系統が地鉄バスの路線として残っている。 車体側面及び後部には平仮名で「せ」や「と」といった一文字が書かれているが、これは車両の所属する営業所を示したもので、前者は西部自動車営業所(同市牛島本町)、後者は東部自動車営業所(同市双代町)を指す。ほかに黒部自動車営業所「く」、八尾自動車営業所「や」がある。現在富山市の両営業所は統合し、東部が名前を改める形で富山自動車営業所となっているが、現在も車体の表記は変わっていない。 路線名は運賃表によるが、発地や一部の経由地は省略している。23、31、67系統は、他の路線の運行が終了した平日23時に富山駅前発の「スターライトバス」(深夜料金不要)を運行していた路線である。 富山駅前を発着または経由する各路線には2桁(またはかつては1桁)の系統番号が付されており、行き先が富山駅から見た方位により番号の十の位が決まる。一の位は今の系統システムが導入された際に路線の長い順等で決められたが、現在は路線の改廃が進んでいるため新規路線には廃止で欠番となった番号が充てられている。 以下に各番台の分類について述べる。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 全ての系統が学休日運休。 牛岳温泉健康センターまで運行していた時代も、冬季には全便が山田行政センター折り返しとなっていた。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 富山駅前ロータリーの6番乗り場より出て、有沢を経由し南西に向かう路線。 西部営業所の管轄である。 西部営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山空港へは富山駅前ロータリー6番乗り場より直行便・各停便の2種類がほぼ半々の割合で発着する。直行便は2012年に東京空港交通より転籍した専用車両で運行される。各停便は富山空港経由総合運動公園・防災センター線と富山空港・成子経由八尾線である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 月岡西緑町停留所ではデマンドバス方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に、パソコンや停留所の端末で予約をすることで、43・44系統にも乗車可能である。 富山営業所の管轄である。 全便が月岡団地経由の「月岡団地経由福沢線」として運行されている。 月岡西緑町停留所ではデマンドバス方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に43・44系統にも乗車可能である。 富山営業所の管轄である。 88系統となるのは興人団地行きのみで、国立高専前発の富山駅前止まりは46系統である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 65系統は大半の便が大場経由で「65・66系統」として運行される。 富山営業所の管轄である。 富山駅前8番乗り場より出て、石金を経由し南東へ向かう路線。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 富山営業所の管轄である。 一部ケアハウスとやま前を経由する便がある。 富山営業所の管轄である。 永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は62系統を掲示する。 永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は62系統を掲示する。 朝に豊田本町1丁目始発、夜に豊若町終着便あり。 富山営業所の管轄である。 かつては富山地鉄北斗バス担当、合併後は西部営業所の管轄である。 富山港線の蓮町(馬場記念公園前)駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバス2路線を運行している。 富山県東部の各市町村でも移管・廃線が進んでいるが、電鉄魚津駅・電鉄黒部駅を発着する以下の系統が存在する。2011年10月1日より運行社会実験として一部路線のルート変更が行われている。 夏季限定で運行される、登山・行楽客をターゲットとした路線。 富山駅から射水市・氷見市を結ぶ観光路線バス。北陸新幹線開業に先立って2013年10月5日に実証運行を開始、運行時期によっては富山空港発着便も設定された。基本的に観光バスタイプの車両で運行されるが、予約の少ない日は小型車両で運行されることがある。ぶりかにバス専用のフリーきっぷが設定されていて、指定店舗での買い物優待を受けることができる。終点のひみ番屋街では加越能バス「わくライナー」(高岡 - 和倉温泉)に乗り継ぐことができる。 2022年4月1日から当面の間、休止。 2018年より冬期を除いて日の丸自動車興業「スカイバス東京」のオープントップバスをスポットで借り入れて運行している。「SKY BUS TOYAMA」とも称する。 射水コースは世界で最も美しい湾クラブに加盟する富山湾の魅力を発信する取り組みの一つとして企画され、2018年10月12日から10月16日にネオプラン・スカイライナーを借り入れて射水市の新湊きっときと市場 - 新湊大橋を往復するコースで運行された。富山市内コース設定後は10月の特定日に運行され、2019年10月13日から22日、2020年10月22日から25日、2021年10月21日から24日、2022年10月20日から23日、2023年10月19日から22日に運行された。 富山市内コースは2019年5月23日に富山県内で開催された日台観光サミットの開幕に併せて5月22日より6月30日まで富山市内を周回する定期観光バスとして運行、8月9日から9月3日、10月9日から31日にも再度運行され、以降2023年まで毎年運行されている。2020年は9月18日から11月1日、2021年は4月23日から6月13日、10月1日から10月31日に運行され、2022年は4月22日から6月21日、9月16日から10月30日に運行された。(車両整備、射水コース運行、富山マラソン開催に伴う運休日あり)。2023年4月22日から6月11日、9月15日から10月29日まで運行された。 アルペンルートコースは2021年の立山黒部アルペンルート50周年を記念して企画され、5月21日より5月30日まで運行。車窓から雪の大谷を楽しむコンセプトで、立山町にある立山有料道路の室堂ターミナルから国見駐車場を往復した。前日の5月20日には送り込みを兼ねて富山駅→室堂ターミナル、最終日の5月30日には戻り便として室堂ターミナル→富山駅でも営業運転を行った。富山市内コースと運行期間が重なるため、アルペンルートコース専用にネオプラン・スペースライナーを借り入れた。2022年は5月13日から22日までの運行に加えて夏にも設定され、8月5日から14日まで運行された。 2023年は5月12日から21日まで運行された。 このほか下記のような期間限定コースが運行された。 2016年度より富山国際大学付属高等学校のスクールバスを運行。専ら生徒の登下校に合わせたダイヤだが、学校以外の各停留所間の運賃も設定されており、学校関係者以外の利用を排除しているわけではない。富山市、射水市、高岡市の各地域を起点として運行。 以前はUDトラックス(旧:日産ディーゼル工業)・三菱・日野の3社体制だった。日野の大型車「ブルーリボン」および1980年代に導入された中型車「レインボー」については富士重工業がボディーを架装していて、前者は1996年式まで採用された。2008年にいすゞ自動車製が導入され、現在は4社体制となっている。 1997年までは原則新車のみ導入してきたが、1998年以降は大手事業者からの中古車も導入されている。1998年から2000年にかけては高速バスの共同運行相手の西武バスや京阪バスから大量に導入していたが、最近は廃車などで少なくなっている。なお、西武バスからの譲渡車については2010年より再び導入されている。 2004年以降は神戸市営バス・大阪市営バス・姫路市営バス・高槻市営バス・横浜市営バスなどからも導入していたが、2010年後半以降は一部を除き神奈川中央交通からの中古車が大量に導入されている。2008年には、姫路市営バスからいすゞ・エルガミオノンステップが移籍してきたこのため、富山地鉄では久々にいすゞ路線車が登場した。子会社の富山地鉄中央バスにも1台導入されたほか、同時に日産ディーゼル・RMノンステップ1台も増備されている。なお、2007年より統合車種である日野・レインボーIIノンステップも増備されているが、ヘッドライトが2灯式になっているため外観での区別は可能である。 大型車のサイズは10.2mクラスが多いが、1990年代には10.7m車も導入されている。西武バスからの中古車では10.7m車中心に導入され、かつては11m車も活躍していた。中型車は1980年代後半より黒部自動車営業所を中心に導入され、90年代以降は富山地区にも大型車と平行して本格的に増備された。 1997年ごろまで東部・黒部両自動車営業所が三菱車、西部自動車営業所が日野車、八尾自動車営業所が日産ディーゼル車に統一されていたが、中古車の導入や勤務ローテーションの変更などにより崩れている。 低床型バスは1997年より積極的に導入している。同年より三菱ふそう・エアロスターワンステップ3台、1999年には日野・レインボーワンステップ2台を増備した。2000年よりノンステップバスの導入が開始され、2010年現在、子会社の富山地鉄中央バスを含みコミュニティバスを除くと41台を保有している。また、2006年の新車より液晶パネル式運賃表(レシップ製)を採用している。 1996年に導入された新車より採用されているカラーは都営バスのカラー(ノンステップバス導入以前のもの)を前後逆にしたものである。また、それ以前に1972年から1995年まで採用されていた白と水色のストライプ調の塗装も、日野・ブルーリボンのカタログ車両のカラーリングを参考にしており、それがほぼそのまま採用されていた。 2009年2月に新規納入された大型ノンステップバス2台(日産ディーゼル・スペースランナーRA 八尾自動車営業所所属)が富山イメージリーダーバス(以下、TILB)と称して立山の新雪と若い樹木をイメージした、白地に黄緑色の円が描かれた新しいデザインで登場している。2010年3月にも前者およびUDトラックスからのOEM車種である三菱ふそう・エアロスター-S(AA系)がそれぞれ1台ずつ、2011年3月には三菱ふそうからのOEM車種であるUDトラックス・スペースランナーA(AP系)が導入されたが、2012年以降は三菱ふそう・エアロスターを増備している。先述のTILBに加え通常カラーの車両も導入されているほか、八尾自動車営業所に続き富山自動車営業所にもTILBが導入されるようになった。 路線バスの方向幕は系統によってそれぞれの塗り分けがなされているためか、LED式の方向幕を装備した車両は導入されていなかったが、2012年度の新車より採用された。ただし、高速バスには2004年の新車より採用している。また、子会社の加越能鉄道では1999年に導入された新車よりLED式方向幕を採用している。 長らく日産ディーゼルに統一されていたが、2008年以降は日野・セレガや2012年以降からは三菱ふそう・エアロエースも導入されている。 いすゞを除く3メーカーを保有しており、日産ディーゼルを中心とした構成となっている。また、1985年にネオプラン・スカイライナーを富山地鉄観光と各1台、1992年から1999年にかけてボルボ・アステローペも大量に保有していたが2012年3月をもって全廃となった。子会社の富山観光バスではいすゞ車も保有していて、2008年には新型ガーラSHDも導入している。 三菱車は1992年式まで呉羽自動車製ボディーで導入されていた。エアロバスKとキュービックスタイルのサンシャインデッカーも活躍していたが、全車引退している。子会社の加越能鉄道でもエアロバスKやキュービックスタイルのサンシャインデッカーを導入していたが、後者は富山地鉄とほぼ同じ頃に全車引退している。 日産ディーゼル車は長年、富士重工業または西日本車体工業製ボディーで導入されていた。車種はスペースアローをメインに同ショートタイプおよびスペースウイングを導入している。特に、2003年に富士重工がバス事業撤退のときに高速路線車とともに最終生産分を導入している。2009年には三菱ふそうからのOEM車種であるスペースアローA・同ショートタイプが導入されている。同時に三菱ふそう・エアロエース1台も導入され、外観での区別は困難であるが、ステアリングのマークで区別できる。 貸切バスの塗装はブラウンとオレンジの帯が配されたカラーリングが、若干の意匠変更がありながらも、1982年から採用され続けてきた。車両側面のロゴは当初「TOYAMA CHITETSU KANKO」になっていたが、1993年の新車より子会社の加越能鉄道と同じ筆記体表記となるとともにラインの細部が変更された。さらに、1997年の新車より大文字の「TOYAMA」のロゴに変更され現在の新グループ共通カラーにも採用されている。 2008年4月にグループ会社の加越能鉄道、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同時期に新規納入された貸切バス(車両は三菱ふそう・エアロクイーン2台)からは、白色と桃色を基調とした新グループ共通カラーが採用された。車両後部のロゴも「富山地鉄観光」から「TOYAMA」に変更されている。このような塗装変更は約28年ぶりである。同時に富山(旧東部)自動車営業所内に富山地鉄グループ観光バスセンターが設けられた。 今後、既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年をめどにすべての車両の塗り替えを完了させる予定である。なお、高速バス車両はこれまでの塗装を引き続き採用している。 このほか、「富山ぶりかにバス」や「ぐるっとBUS」などで運用されるトヨタ・ハイエースを保有する。 2020年3月21日現在。詳細は、公式サイトの「乗車券一覧(鉄道・バス)」を参照。 富山地方鉄道を中心とした富山地鉄グループ(地鉄グループ)各社で、『おでかけ』『遊ぶ・楽しむ』『暮らしと安心』『泊まる』『グルメ・ショッピング』の5領域において交通事業やレジャー・観光事業、不動産事業などを網羅している。 以下を除き、全て富山地方鉄道の連結子会社である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "富山地方鉄道株式会社(とやまちほうてつどう、英: TOYAMACHIHO RAILROAD CO.,LTD.)は、富山県富山市に本社をおき、同市から富山県東部を基盤とする中規模私鉄である。通称は地鉄(ちてつ、英称:Chitetsu)ないしは富山地鉄。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "富山地方鉄道を中心に富山地鉄グループ(地鉄グループ)を形成している。本項では、これについても合わせて述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1943年1月1日に「陸上交通事業調整法」に基づき、1930年設立の富山電気鉄道を母体に富山県内のすべての私営・公営の鉄軌道・バス会社を合併して発足した。このような経緯より富山県なども資本参加しており、形式的には第三セクターである。ただし、自治体の出資比率が低いこともあり一般的には第三セクター鉄道には分類されない。合併に参加した鉄軌道会社は以下の6社である。なお、駅名は現在のものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "それ以前に、富山電気鉄道は以下の3社を合併している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、路線のうち起点からごく一部の区間が富山県内にあったものの、その大部分が岐阜県内に存在していた三井鉱山の軌道(通称・神岡軌道)は統合から除外された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、バス事業者は事前に運輸通信省通達により、上記各社が兼営していた路線を除いて下記の4社に集約されていたものを、1946年10月10日富山地方鉄道が一括譲受して統合を完了した(なお、戦時中から経営傘下化は行われていた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "富山県の交通一元化は、富山電気鉄道の創業者で後に富山地方鉄道会長となった佐伯宗義の富山県下を「一市街地化」するという構想の下に進められたものであり、結果的には戦時統合という形でそれがほぼ実現することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "富山地方鉄道発足直後の1943年6月1日、富岩線が買収・国有化され鉄道省富山港線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1950年に、加越能三国(富山県・石川県)を結ぶ鉄道を作る計画を遂行するために加越能鉄道を設立し、富山県西部の鉄軌道・バス事業を譲渡した。後に新線計画は中止。加越能鉄道は2002年に鉄軌道事業から撤退し、2012年に加越能バスに社名変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在の本社ビルは1965年11月に着工し、1966年11月28日に竣工した鉄筋造地下1階、地上5階、塔屋3階建て、延床面積8,257mの建築物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "航空事業では、全日空富山地区総代理店として業務を受託、子会社の富山地鉄サービスで実際のハンドリングを行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2000年代中期頃から新規納入された路線バス車両、軌道線車両およびワンマン改造が実施された鉄道車両の運賃表示器には北陸地方では初めて、視認性に優れた液晶ディスプレイに表示する方式が採用された。鉄道車両については後に撤去され、一般的なデジタル方式のものに換装されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2010年3月14日より、軌道線にIC乗車カード「ecomyca(えこまいか)」が導入され、同時に富山ライトレールの「passca(パスカ)」とも相互利用を開始した。なお同カードは2011年3月5日よりバス路線にも拡大導入され、2012年3月17日から、鉄道線でも利用可能になった。さらに、2021年10月10日よりICOCAを始めとする全国相互利用交通系ICカードも軌道線に限り利用可能となった(片利用扱いのためecomycaおよびpasscaは引き続きICOCAエリアなどでは利用不可)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2019年2月9日より富山軌道線の各停留場 に、翌3月16日より鉄道線の各駅にナンバリングを導入した。各路線ごとに色分けし、軌道線はC01から、鉄道線はT01から始まる番号を振り分ける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2020年2月22日には、同年3月21日に予定されている富山駅南北接続事業完成に先立って、かつて富山地方鉄道の富岩線であった富山港線を運営する富山ライトレールを吸収合併した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)4月11日、保線作業をしていた男性社員が列車と接触し、死亡する事故が発生した。これを受け、北陸信越運輸局は4月17日、富山地方鉄道に保安監査に入った。5月26日、辻川徹社長の辞任が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現有路線の総延長距離は2020年2月22日現在、108.3 km。富山地方鉄道発足時は100kmを超える路線網を持ち、1965年には日本全国の地方中小私鉄2位の規模である総延長139km(鉄道128.3 km、軌道10.7 km)の営業キロ数を有していた ものの、その後は路線の譲渡や廃止により100kmを下回っていた。2009年12月23日に富山軌道線を環状線化する0.9kmの新線(富山都心線)が開業し、再び保有路線が100kmを超えた。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "鉄道線は以下の路線からなる。詳細は各項目を参照。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "富山港線は富岩鉄道 - 富山電気鉄道富岩線 - 富山地方鉄道富岩線 - 鉄道省富山港線 - 国鉄富山港線 - JR西日本富山港線 - 富山ライトレール富山港線 - 富山地方鉄道富山港線と幾度も経営母体が変わり、国有化された路線が自社路線に戻るという歴史を辿っている。詳細は富岩鉄道の概要および富山港線の歴史を参照。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "富山港線以外の鉄道線の運転系統は、おおむね以下の4系統となっている。富山港線は後述する軌道線との直通運転を行っており、路面電車型の車両によって運行されている(軌道線区間を含む総距離は7.6 km)。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2010年度の各路線の輸送密度は以下のとおり。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "本線と不二越・上滝線によって形成される環状線区間では、迂回乗車をした場合は乗車駅と降車駅の最短距離で運賃を計算する。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "運転系統によって「市内電車」または「環状線」と呼称される。また、(*)を付けた線区は富山市が軌道整備事業者として線路を保有している。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "富山ライトレール合併前の2020年1月時点および合併後の2021年1月時点では0時過ぎまで電車が運行されていたが、その後終電が繰り上がり、2022年1月時点では23時台で電車の運行が終了している。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "加越能鉄道への譲渡路線が多くあるが、一度にまとめてではなく、徐々に譲渡されている。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "鉄道線には大正時代から昭和時代初期に建てられたモダンな木造駅舎が多く現存しており、岩峅寺駅は映画のロケに使用された。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1971年1月1日に当時の日本では珍しかった定期券用の自動改札機を電鉄富山駅に導入していたが、経済性に乏しく修理保守に問題があることから1981年4月に撤去された。2012年3月17日に同社発行のICカード「ecomyca」が鉄道線で供用開始したことに伴い、有人駅である電鉄富山、稲荷町、東新庄、越中荏原、越中舟橋、寺田、上市、中滑川、電鉄魚津、新魚津、電鉄黒部、宇奈月温泉、五百石、岩峅寺、立山、南富山、上滝の17駅にICカード専用の改札機が導入された。機能はあいの風とやま鉄道などに導入されている簡易IC改札機と同一であるが、形状は自動改札機から扉を取り除いたものにやや近い。なお、無人駅および前述の有人17駅でも無人時間帯においては車内のICリーダーでの精算となる。新黒部駅は一部時間帯にアテンダントが駐在するものの、公式には無人駅扱いのため改札機は設置されていない。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年9月に同社本線中加積駅で、同駅を出発直後の列車が脱線する事故が発生。事故原因について、運輸安全委員会は翌2009年4月24日に、同駅構内の線路の枕木が腐ったまま放置され、また、犬釘が折れたまま放置していたためなどとして、同社の保守管理の杜撰さを指摘した。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "運賃のみで乗れる一般列車の種別は「普通」「急行」「快速急行」の3種ある。ただし急行や快速急行の運行本数は少ない。速達列車・長距離需要の主力は後述の要料金の特急が担っていた。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "急行は本線系統の一部時間帯に運行されており、快速急行は立山線系統で電鉄富山駅発立山駅行きの列車が早朝に1本運転される。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "不二越・上滝線は普通列車のみ運転されている。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "特急列車は2022年4月15日のダイヤ改正で全て設定がなくなったが、2023年4月15日のダイヤ改正で1年ぶりに特急の運転が復活した。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "以下の列車が設定されている。詳しくは各路線・各列車記事を参照。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "宇奈月温泉、黒部峡谷鉄道本線、立山黒部アルペンルートといった沿線観光地へのアクセス需要の主力は特急列車が担っている。乗車には乗車券の他に特急券が必要となるが、最遠210円(指定席料金含まず)と安く、企画乗車券の中には特急料金が含まれているものもあり、他社でいう快速列車の役割も併せ持っている。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "それぞれ運行本数は少ないが、観光旅程に適した時間帯に絞って運行されており、「アルペン特急」に至ってはアルペンルートと温泉を二度の方向転換を行ってまで直通させることによって観光回遊性を創出するとともに自社線利用を伸ばす設定となっている。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国鉄時代(1970年 - 1983年)には大阪駅発の急行「立山」や名古屋(名鉄名古屋駅)方面からの特急「北アルプス」などが国鉄富山駅から地鉄線に乗り入れていた。JRとなってからも(1990年 - 1999年)大阪方面から特急「スーパー雷鳥」や「サンダーバード」などが、JR富山駅から地鉄線に乗り入れていた。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "富山地方鉄道の車両形式番号は鉄道線の電動車(モハ)の場合、5桁のうち上3桁が電動機出力をHP(英馬力)で表示し、下2桁が形式番号を表示するという他社では見られない独特の付番方法が採られている(「鉄道の車両番号」も参照)。このため、電動機を持たない制御車(クハ)および付随車(サハ)は形式番号のみとなり電動車とは車号の桁数が大きく異なっている。百位の数字は制御車が1、付随車が2となっている。なお、軌道線の車両では電動車の形式記号は「デ」、4桁のうち上2桁が電動機出力になっている。電動車の「モハ」と「デ」の区別は、元々は鉄道線・軌道線でなく架線電圧1500V用をモハ、600V用をデとしたものである。岩峅寺 - 立山間・電鉄黒部 - 宇奈月温泉間の長い急勾配区間での電動機の負担を軽減させるため、ほとんどの編成がオール電動車となっている。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "10030形などの車両は黄と緑のツートンカラーに塗装されており「かぼちゃ電車」の愛称がある(ただし一部編成は車両譲渡前のカラーに復元されている)。また、白を基調とした雷鳥カラーに塗装されている一部車両には「だいこん電車」の愛称がある。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下は特記なき限り電車である。", "title": "鉄・軌道事業" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "富山県東部のほぼ全域で路線バスを運行するほか、貸切バス事業も行っている。なお、1965年当時の路線バスの営業キロ数は1128.4kmであった。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "富山県氷見市・富山市と東京都豊島区・渋谷区を結ぶ高速バス路線。西武バスと共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "名古屋 - 金沢線同様に北陸の都市間高速バスの草分け的存在で、2012年12月に開業25周年を迎えた。昼行便と夜行便が設定されている。かつては基本的にワンマン運行で、降雪や凍結を伴う冬期はツーマン運行だったが、2012年4月の関越自動車道高速バス居眠り運転事故に伴う安全規制の見直しもあり、通年で夜行便はツーマン運行となった。2017年5月15日、従来西武バスと加越能バスが運行してきた東京 - 高岡・氷見線と統合し、一部の便は氷見・高岡地区発着となった。加越能バスは2023年8月1日ダイヤ改正と同時に運行を終了する。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "阪急観光バスと共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "名鉄バスと共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "富山県富山市と新潟県新潟市を結ぶ高速バス路線。新潟交通と共同運行。1日4往復で両社それぞれ2往復ずつ担当。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "富山県富山市と石川県金沢市を結ぶ高速バス路線。北鉄金沢バスと共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2004年3月6日運行開始。富山市中心部・郊外と金沢市の片町・香林坊など中心繁華街が乗り換えなしでダイレクトで結ばれたこと、2014年4月1日現在片道930円という格安運賃、2時間ごとに1本という運行間隔が奏効し、開業当初から好評を博している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、開業にあたっては、当時のJR北陸本線と直接競合することや、かつて運行された高速バス「金沢 - 高岡線」(2020年現在は経路を変えて運行中)の失敗から、需要への懸念も少なくなかった。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "砺波以南のJR城端線沿線から富山市内への通勤・通学需要に特化した高速バスである(定期券設定あり)。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "平日朝は富山駅前方向のみ4本運転、平日夕は城端方向のみ4本運転(土休日は2本)。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "富山県富山市と岐阜県高山市の高山駅前を結ぶ高速バス路線。1日6往復で、そのうち富山地方鉄道が4往復(うち1往復は白川郷止)濃飛乗合自動車が2往復担当する共同運行。以前富山 - 高山間を神岡経由の一般道を利用し結んでいた特急バスの復活ではなく、この路線は北陸自動車道、東海北陸自動車道を利用し、途中白川郷を経由する高速バスである。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "濃飛乗合自動車と共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "西武観光バス・東急トランセと共同運行。夏季期間運行路線。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "富山県富山市と長野県長野市を結んでいた高速バス路線。1日2往復で子会社の富山地鉄北斗バスと長電バスの共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "富山県高岡市と宮城県仙台市との間を結んでいた夜行高速バス路線。宮城交通と共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "石川県金沢市から富山県富山市を経由して、山形県山形市と宮城県仙台市との間を結んでいた夜行高速バス路線。北陸鉄道と共同運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "富山県富山市と岐阜県高山市の平湯温泉を結ぶ特急バス路線。濃飛乗合自動車と共同運行。高速道路を経由しないため高速バスではなく特急バスとされており、予約不要。富山駅前 - 猪谷間のみの乗車はできない。他の高速路線と異なり、地鉄担当便では中型観光タイプの車両のほか、9人乗りの小型車両が用いられる。この小型車はタクシーと同様の普通二種免許で運転可能なことから、他業種からの転職者や事務担当社員を活用し、運行に必要な乗務員の確保を目的に導入された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "もとは路線バスの[ 30 ] 神岡行。路線車で県境を越えて岐阜県まで足を伸ばす富山地鉄最長の一般路線だった。当時から濃飛バスとの共同運行が行われており、特に濃飛担当便は当時から中型観光タイプの車で富山県内では停車する停留所を絞る「特急」バスとして運行されていた。2005年7月10日、高速バスに準ずる現在の形態での運行を開始。2008年4月1日にはいったん全便が高山行に変更となる。平湯温泉方面へは代替として、途中の濃飛バス神岡営業所から奥飛騨温泉郷方面への路線バスに接続する形をとった。2010年4月より、富山 - 高山線の一部便の行先を変更することで、かつて実施されていた奥飛騨温泉郷方面へのバスの直通を復活させた。前述の神岡営業所からは高山方面への路線バスが接続する。2012年4月1日に、富山 - 高山線については廃止し、富山 - 神岡間と富山 - 平湯温泉間の運行となった。 2020年4月1日に、富山 - 平湯温泉間2往復(地鉄・濃飛各1往復)運行となったのち、2021年4月1日のダイヤ改正で濃飛バス担当便を含め路線廃止となった。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "路線バス網は2005年4月1日の合併前の富山市の市域のほぼ全体をカバーしており、一部の路線は旧市域の外へも伸びている。そのネットワークは富山駅正面口(南口)を中心としている。富山駅以外を発着する富山市および周辺市町村の路線バスはほとんどが公営バス・コミュニティバスになったが、一部の系統が地鉄バスの路線として残っている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "車体側面及び後部には平仮名で「せ」や「と」といった一文字が書かれているが、これは車両の所属する営業所を示したもので、前者は西部自動車営業所(同市牛島本町)、後者は東部自動車営業所(同市双代町)を指す。ほかに黒部自動車営業所「く」、八尾自動車営業所「や」がある。現在富山市の両営業所は統合し、東部が名前を改める形で富山自動車営業所となっているが、現在も車体の表記は変わっていない。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "路線名は運賃表によるが、発地や一部の経由地は省略している。23、31、67系統は、他の路線の運行が終了した平日23時に富山駅前発の「スターライトバス」(深夜料金不要)を運行していた路線である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "富山駅前を発着または経由する各路線には2桁(またはかつては1桁)の系統番号が付されており、行き先が富山駅から見た方位により番号の十の位が決まる。一の位は今の系統システムが導入された際に路線の長い順等で決められたが、現在は路線の改廃が進んでいるため新規路線には廃止で欠番となった番号が充てられている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "以下に各番台の分類について述べる。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。 全ての系統が学休日運休。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "牛岳温泉健康センターまで運行していた時代も、冬季には全便が山田行政センター折り返しとなっていた。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "富山駅前ロータリーの6番乗り場より出て、有沢を経由し南西に向かう路線。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 富山空港へは富山駅前ロータリー6番乗り場より直行便・各停便の2種類がほぼ半々の割合で発着する。直行便は2012年に東京空港交通より転籍した専用車両で運行される。各停便は富山空港経由総合運動公園・防災センター線と富山空港・成子経由八尾線である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 月岡西緑町停留所ではデマンドバス方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に、パソコンや停留所の端末で予約をすることで、43・44系統にも乗車可能である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 全便が月岡団地経由の「月岡団地経由福沢線」として運行されている。 月岡西緑町停留所ではデマンドバス方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に43・44系統にも乗車可能である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "88系統となるのは興人団地行きのみで、国立高専前発の富山駅前止まりは46系統である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 65系統は大半の便が大場経由で「65・66系統」として運行される。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 富山駅前8番乗り場より出て、石金を経由し南東へ向かう路線。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。 一部ケアハウスとやま前を経由する便がある。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は62系統を掲示する。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は62系統を掲示する。 朝に豊田本町1丁目始発、夜に豊若町終着便あり。 富山営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "かつては富山地鉄北斗バス担当、合併後は西部営業所の管轄である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "富山港線の蓮町(馬場記念公園前)駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバス2路線を運行している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "富山県東部の各市町村でも移管・廃線が進んでいるが、電鉄魚津駅・電鉄黒部駅を発着する以下の系統が存在する。2011年10月1日より運行社会実験として一部路線のルート変更が行われている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "夏季限定で運行される、登山・行楽客をターゲットとした路線。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "富山駅から射水市・氷見市を結ぶ観光路線バス。北陸新幹線開業に先立って2013年10月5日に実証運行を開始、運行時期によっては富山空港発着便も設定された。基本的に観光バスタイプの車両で運行されるが、予約の少ない日は小型車両で運行されることがある。ぶりかにバス専用のフリーきっぷが設定されていて、指定店舗での買い物優待を受けることができる。終点のひみ番屋街では加越能バス「わくライナー」(高岡 - 和倉温泉)に乗り継ぐことができる。 2022年4月1日から当面の間、休止。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2018年より冬期を除いて日の丸自動車興業「スカイバス東京」のオープントップバスをスポットで借り入れて運行している。「SKY BUS TOYAMA」とも称する。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "射水コースは世界で最も美しい湾クラブに加盟する富山湾の魅力を発信する取り組みの一つとして企画され、2018年10月12日から10月16日にネオプラン・スカイライナーを借り入れて射水市の新湊きっときと市場 - 新湊大橋を往復するコースで運行された。富山市内コース設定後は10月の特定日に運行され、2019年10月13日から22日、2020年10月22日から25日、2021年10月21日から24日、2022年10月20日から23日、2023年10月19日から22日に運行された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "富山市内コースは2019年5月23日に富山県内で開催された日台観光サミットの開幕に併せて5月22日より6月30日まで富山市内を周回する定期観光バスとして運行、8月9日から9月3日、10月9日から31日にも再度運行され、以降2023年まで毎年運行されている。2020年は9月18日から11月1日、2021年は4月23日から6月13日、10月1日から10月31日に運行され、2022年は4月22日から6月21日、9月16日から10月30日に運行された。(車両整備、射水コース運行、富山マラソン開催に伴う運休日あり)。2023年4月22日から6月11日、9月15日から10月29日まで運行された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "アルペンルートコースは2021年の立山黒部アルペンルート50周年を記念して企画され、5月21日より5月30日まで運行。車窓から雪の大谷を楽しむコンセプトで、立山町にある立山有料道路の室堂ターミナルから国見駐車場を往復した。前日の5月20日には送り込みを兼ねて富山駅→室堂ターミナル、最終日の5月30日には戻り便として室堂ターミナル→富山駅でも営業運転を行った。富山市内コースと運行期間が重なるため、アルペンルートコース専用にネオプラン・スペースライナーを借り入れた。2022年は5月13日から22日までの運行に加えて夏にも設定され、8月5日から14日まで運行された。 2023年は5月12日から21日まで運行された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "このほか下記のような期間限定コースが運行された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2016年度より富山国際大学付属高等学校のスクールバスを運行。専ら生徒の登下校に合わせたダイヤだが、学校以外の各停留所間の運賃も設定されており、学校関係者以外の利用を排除しているわけではない。富山市、射水市、高岡市の各地域を起点として運行。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "以前はUDトラックス(旧:日産ディーゼル工業)・三菱・日野の3社体制だった。日野の大型車「ブルーリボン」および1980年代に導入された中型車「レインボー」については富士重工業がボディーを架装していて、前者は1996年式まで採用された。2008年にいすゞ自動車製が導入され、現在は4社体制となっている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1997年までは原則新車のみ導入してきたが、1998年以降は大手事業者からの中古車も導入されている。1998年から2000年にかけては高速バスの共同運行相手の西武バスや京阪バスから大量に導入していたが、最近は廃車などで少なくなっている。なお、西武バスからの譲渡車については2010年より再び導入されている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2004年以降は神戸市営バス・大阪市営バス・姫路市営バス・高槻市営バス・横浜市営バスなどからも導入していたが、2010年後半以降は一部を除き神奈川中央交通からの中古車が大量に導入されている。2008年には、姫路市営バスからいすゞ・エルガミオノンステップが移籍してきたこのため、富山地鉄では久々にいすゞ路線車が登場した。子会社の富山地鉄中央バスにも1台導入されたほか、同時に日産ディーゼル・RMノンステップ1台も増備されている。なお、2007年より統合車種である日野・レインボーIIノンステップも増備されているが、ヘッドライトが2灯式になっているため外観での区別は可能である。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "大型車のサイズは10.2mクラスが多いが、1990年代には10.7m車も導入されている。西武バスからの中古車では10.7m車中心に導入され、かつては11m車も活躍していた。中型車は1980年代後半より黒部自動車営業所を中心に導入され、90年代以降は富山地区にも大型車と平行して本格的に増備された。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1997年ごろまで東部・黒部両自動車営業所が三菱車、西部自動車営業所が日野車、八尾自動車営業所が日産ディーゼル車に統一されていたが、中古車の導入や勤務ローテーションの変更などにより崩れている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "低床型バスは1997年より積極的に導入している。同年より三菱ふそう・エアロスターワンステップ3台、1999年には日野・レインボーワンステップ2台を増備した。2000年よりノンステップバスの導入が開始され、2010年現在、子会社の富山地鉄中央バスを含みコミュニティバスを除くと41台を保有している。また、2006年の新車より液晶パネル式運賃表(レシップ製)を採用している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1996年に導入された新車より採用されているカラーは都営バスのカラー(ノンステップバス導入以前のもの)を前後逆にしたものである。また、それ以前に1972年から1995年まで採用されていた白と水色のストライプ調の塗装も、日野・ブルーリボンのカタログ車両のカラーリングを参考にしており、それがほぼそのまま採用されていた。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2009年2月に新規納入された大型ノンステップバス2台(日産ディーゼル・スペースランナーRA 八尾自動車営業所所属)が富山イメージリーダーバス(以下、TILB)と称して立山の新雪と若い樹木をイメージした、白地に黄緑色の円が描かれた新しいデザインで登場している。2010年3月にも前者およびUDトラックスからのOEM車種である三菱ふそう・エアロスター-S(AA系)がそれぞれ1台ずつ、2011年3月には三菱ふそうからのOEM車種であるUDトラックス・スペースランナーA(AP系)が導入されたが、2012年以降は三菱ふそう・エアロスターを増備している。先述のTILBに加え通常カラーの車両も導入されているほか、八尾自動車営業所に続き富山自動車営業所にもTILBが導入されるようになった。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "路線バスの方向幕は系統によってそれぞれの塗り分けがなされているためか、LED式の方向幕を装備した車両は導入されていなかったが、2012年度の新車より採用された。ただし、高速バスには2004年の新車より採用している。また、子会社の加越能鉄道では1999年に導入された新車よりLED式方向幕を採用している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "長らく日産ディーゼルに統一されていたが、2008年以降は日野・セレガや2012年以降からは三菱ふそう・エアロエースも導入されている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "いすゞを除く3メーカーを保有しており、日産ディーゼルを中心とした構成となっている。また、1985年にネオプラン・スカイライナーを富山地鉄観光と各1台、1992年から1999年にかけてボルボ・アステローペも大量に保有していたが2012年3月をもって全廃となった。子会社の富山観光バスではいすゞ車も保有していて、2008年には新型ガーラSHDも導入している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "三菱車は1992年式まで呉羽自動車製ボディーで導入されていた。エアロバスKとキュービックスタイルのサンシャインデッカーも活躍していたが、全車引退している。子会社の加越能鉄道でもエアロバスKやキュービックスタイルのサンシャインデッカーを導入していたが、後者は富山地鉄とほぼ同じ頃に全車引退している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "日産ディーゼル車は長年、富士重工業または西日本車体工業製ボディーで導入されていた。車種はスペースアローをメインに同ショートタイプおよびスペースウイングを導入している。特に、2003年に富士重工がバス事業撤退のときに高速路線車とともに最終生産分を導入している。2009年には三菱ふそうからのOEM車種であるスペースアローA・同ショートタイプが導入されている。同時に三菱ふそう・エアロエース1台も導入され、外観での区別は困難であるが、ステアリングのマークで区別できる。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "貸切バスの塗装はブラウンとオレンジの帯が配されたカラーリングが、若干の意匠変更がありながらも、1982年から採用され続けてきた。車両側面のロゴは当初「TOYAMA CHITETSU KANKO」になっていたが、1993年の新車より子会社の加越能鉄道と同じ筆記体表記となるとともにラインの細部が変更された。さらに、1997年の新車より大文字の「TOYAMA」のロゴに変更され現在の新グループ共通カラーにも採用されている。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "2008年4月にグループ会社の加越能鉄道、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同時期に新規納入された貸切バス(車両は三菱ふそう・エアロクイーン2台)からは、白色と桃色を基調とした新グループ共通カラーが採用された。車両後部のロゴも「富山地鉄観光」から「TOYAMA」に変更されている。このような塗装変更は約28年ぶりである。同時に富山(旧東部)自動車営業所内に富山地鉄グループ観光バスセンターが設けられた。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "今後、既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年をめどにすべての車両の塗り替えを完了させる予定である。なお、高速バス車両はこれまでの塗装を引き続き採用している。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "このほか、「富山ぶりかにバス」や「ぐるっとBUS」などで運用されるトヨタ・ハイエースを保有する。", "title": "バス事業" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2020年3月21日現在。詳細は、公式サイトの「乗車券一覧(鉄道・バス)」を参照。", "title": "企画乗車券" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "富山地方鉄道を中心とした富山地鉄グループ(地鉄グループ)各社で、『おでかけ』『遊ぶ・楽しむ』『暮らしと安心』『泊まる』『グルメ・ショッピング』の5領域において交通事業やレジャー・観光事業、不動産事業などを網羅している。", "title": "富山地鉄グループ" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "以下を除き、全て富山地方鉄道の連結子会社である。", "title": "富山地鉄グループ" } ]
富山地方鉄道株式会社は、富山県富山市に本社をおき、同市から富山県東部を基盤とする中規模私鉄である。通称は地鉄ないしは富山地鉄。 富山地方鉄道を中心に富山地鉄グループ(地鉄グループ)を形成している。本項では、これについても合わせて述べる。
{{大言壮語|date=2023年11月}} {{基礎情報 会社 |社名 = 富山地方鉄道株式会社 |英文社名 = TOYAMACHIHO RAILROAD CO.,LTD. |ロゴ = [[File:Chitetsu logomark.svg|150px|富山地方鉄道社章]] |画像 = [[ファイル:Chitetsu bldg with a streetcar.JPG|250px|富山地方鉄道本社]] |画像説明 = 富山地方鉄道本社(地鉄ビル) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = [[監査役会設置会社]] |市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> |略称 = 地鉄、富山地鉄 |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 930-8636 |本社所在地 = [[富山県]][[富山市]]桜町1丁目1番36号 |本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 41|本社緯度秒 = 58.1|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 137|本社経度分 = 12|本社経度秒 = 56.9|本社E(東経)及びW(西経) = E |本社地図国コード = JP |設立 = [[1930年]][[2月11日]]<br />(富山電気鉄道株式会社)<ref name="history">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?page_id=718|title=企業情報 - 沿革|publisher=富山地方鉄道|date=|accessdate=2020-03-09}}</ref> |業種 = 5050 |事業内容 = 旅客鉄道事業、自動車事業、不動産事業 ほか |代表者 = 代表取締役社長 中田邦彦 |資本金 = * 15億5700万円 (2023年3月31日現在)<ref name="financial">{{Cite report |和書 |author=富山地方鉄道株式会社 |date=2023-06-28 |title=第140期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |発行済株式総数 = * 3115万4344株 (2023年3月31日現在)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |売上高 = * 連結: 91億0500万円 * 単独: 55億8300万円 (2023年3月期)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = * 連結: △5億1500万円 * 単独: △3億4500万円 (2023年3月期)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = * 連結: △4億5700万円 * 単独: △3億4000万円 (2023年3月期)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = * 連結: 5億1800万円 * 単独: 9600万円 (2023年3月期)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = * 連結: 85億3400万円 * 単独: 54億4600万円 (2023年3月31日現在)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産 = * 連結: 227億2500万円 * 単独: 169億5000万円 (2023年3月31日現在)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数 = * 連結: 851人 * 単独: 510人 (2023年3月31日現在)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |決算期 = [[3月31日]] |会計監査人 = [[太陽有限責任監査法人]]<ref name="financial" /> |主要株主 = {{Plainlist| * [[立山黒部貫光]] 11.05% * [[富山県]] 3.56% * [[北陸電力]] 2.97% * [[みずほ銀行]] 1.74% * [[北日本放送]] 0.90% * [[関西電力]] 0.74% * [[日新火災海上保険]] 0.60% * [[損害保険ジャパン]] 0.49% * [[北陸銀行]] 0.48% * [[富山市]] 0.27% * (2023年3月31日現在)<ref name="financial" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください --> }} |主要子会社 = {{Plainlist| * 富山地鉄ホテル 100% * 富山地鉄建設 100% * [[加越能バス]] 80%<ref name="financial" /> }} |関係する人物 = [[佐伯宗義]] |外部リンク = https://www.chitetsu.co.jp/ <!-- テンプレートは貼付しないこと --> |特記事項 = [[1943年]][[1月1日]]、富山地方鉄道株式会社に社名変更<ref name="history" /> }} '''富山地方鉄道株式会社'''(とやまちほうてつどう、{{Lang-en-short|''TOYAMACHIHO RAILROAD CO.,LTD.''}}<ref name="financial" /><ref group="注">公式サイト下部には「TOYAMA CHIHOU TETSUDOU.INC」、英語版公式サイト冒頭には「TOYAMA CHIHOU RAILWAY」、西武から譲渡を受けた特急型車両<!-- 20020形と16010形の2車種 -->には「TOYAMA REGIONAL RAILWAY」とそれぞれ表記されている。</ref>)は、[[富山県]][[富山市]]に[[本社]]をおき、同市から富山県東部を基盤とする<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://tetsukidou-toyama.com/list/chitetsu/ |title=富山地方鉄道 |access-date=2023年4月22日 |publisher=富山県 交通政策局 広域交通・新幹線政策課 |website=鉄軌道王国とやま}}</ref>中規模[[私鉄]]である。[[通称]]は'''地鉄'''(ちてつ、英称:Chitetsu)ないしは'''富山地鉄'''。 富山地方鉄道を中心に'''富山地鉄グループ'''('''地鉄グループ''')を形成している。本項では、これについても合わせて述べる。 == 歴史 == [[1943年]][[1月1日]]に「[[陸上交通事業調整法]]」に基づき、[[1930年]]設立の富山電気鉄道を母体に<ref name=":1" />富山県内のすべての私営・公営の鉄軌道・バス会社を合併して発足した。このような経緯より富山県なども資本参加しており、形式的には[[第三セクター]]である。ただし、自治体の出資比率が低いこともあり一般的には[[第三セクター鉄道]]には分類されない。合併に参加した鉄軌道会社は以下の6社である。なお、駅名は現在のものである。 * 富山電気鉄道(本線 電鉄富山 - 電鉄黒部間・立山線 寺田 - 岩峅寺間) * 加越鉄道(加越線) * 富山県営鉄道(上滝線、立山線 岩峅寺 - 立山間) * 黒部鉄道(本線 電鉄黒部 - 宇奈月温泉間) * 越中鉄道(射水線) * 富山市営軌道(富山軌道線) それ以前に、富山電気鉄道は以下の3社を合併している。 * 立山鉄道(立山線 五百石 - 岩峅寺間) * 富南鉄道(不二越線) * [[富岩鉄道]](富岩線) なお、路線のうち起点からごく一部の区間が富山県内にあったものの、その大部分が岐阜県内に存在していた三井鉱山の軌道(通称・[[神岡軌道]])は統合から除外された。 また、バス事業者は事前に運輸通信省通達により、上記各社が兼営していた路線を除いて下記の4社に集約されていたものを、[[1946年]][[10月10日]]富山地方鉄道が一括譲受して統合を完了した(なお、戦時中から経営傘下化は行われていた)。<ref>『写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み』178ページより。</ref> * 富山合同乗合(富山地区、1944年4月に経営傘下に入る) * 高岡合同自動車(高岡地区、1943年9月に経営傘下に入る) * 下新川乗合自動車(新川地区、1944年4月に経営傘下に入る) * 全礪乗合自動車(砺波地区) 富山県の交通一元化は、富山電気鉄道の創業者で後に富山地方鉄道会長となった[[佐伯宗義]]の富山県下を「一市街地化」するという構想の下に進められたものであり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1911/22/news030_3.html |title=90年前にMaaSの思想があった! 富山に根付く「どこからでも市街地へ」の精神 |page=3 |access-date=2023-11-07 |publisher=アイティメディア |date=2019-11-22 |website=ITmediaビジネス}}</ref>、結果的には戦時統合という形でそれがほぼ実現することになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1911/22/news030_4.html |title=90年前にMaaSの思想があった! 富山に根付く「どこからでも市街地へ」の精神 |page=4 |access-date=2023-11-07 |publisher=アイティメディア |date=2019-11-22 |website=ITmediaビジネス}}</ref>。 富山地方鉄道発足直後の1943年6月1日、富岩線が[[戦時買収私鉄|買収・国有化]]され鉄道省富山港線となった。 [[1950年]]に、加越能三国(富山県・[[石川県]])を結ぶ鉄道を作る計画を遂行するために[[加越能バス|加越能鉄道]]を設立し、富山県西部の鉄軌道・バス事業を譲渡した。後に新線計画は中止。加越能鉄道は2002年に鉄軌道事業から撤退し、2012年に[[加越能バス]]に社名変更した。 現在の本社ビルは[[1965年]]11月に着工し、[[1966年]][[11月28日]]に竣工した鉄筋造地下1階、地上5階、塔屋3階建て、延床面積8,257m<sup>2</sup>の建築物である<ref>『富山市史 第四巻』(1969年12月20日、富山市発行)855頁。</ref>。 航空事業では、[[全日本空輸|全日空]]富山地区総代理店として業務を受託、子会社の富山地鉄サービスで実際のハンドリングを行っている。 [[2000年]]代中期頃から新規納入された路線バス車両、軌道線車両および[[ワンマン運転|ワンマン]]改造が実施された鉄道車両の[[運賃表示器]]には[[北陸地方]]では初めて、視認性に優れた[[液晶ディスプレイ]]に表示する方式が採用された。鉄道車両については後に撤去され、一般的なデジタル方式のものに換装されている。 [[2010年]]3月14日より、軌道線にIC[[乗車カード]]「'''[[ecomyca]]'''(えこまいか)」が導入され、同時に[[富山ライトレール]]の「[[passca]](パスカ)」とも相互利用を開始した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000117489.pdf |title=富山地方鉄道沿線地域公共交通活性化協議会 |access-date=2023年4月22日 |publisher=国土交通省 |format=PDF}}</ref>。なお同カードは[[2011年]]3月5日よりバス路線にも拡大導入され、[[2012年]][[3月17日]]から、鉄道線でも利用可能になった<ref name="chitetsu-ic-pres-224">{{Cite press release|和書|title=ICカード「ecomyca」(えこまいか)の鉄道線でのサービス開始について |publisher=富山地方鉄道 |date=2012-02-24 |url=http://www.chitetsu.co.jp/ic/ic-pres-224.pdf |format=PDF |accessdate=2016-02-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120322142437/http://www.chitetsu.co.jp/ic/ic-pres-224.pdf |archivedate=2012年3月22日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。さらに、2021年10月10日より[[ICOCA]]を始めとする[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用交通系ICカード]]も軌道線に限り利用可能となった(片利用扱いのためecomycaおよびpasscaは引き続きICOCAエリアなどでは利用不可)<ref>{{Cite press release|和書|title=10月10日からの市内電車での全国交通系ICカードのご利用について|publisher=富山地方鉄道|date=2021-09-24|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=58195|accessdate=2021-10-11}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210910_08_icoca_toyama.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210910033442/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210910_08_icoca_toyama.pdf|format=PDF|title=市内電車でICOCA等の全国交通系ICカードが利用できるようになります|publisher=富山地方鉄道/富山市/西日本旅客鉄道|date=2021-09-10|accessdate=2021-10-11|archivedate=2021-09-10}}</ref>。 [[2019年]]2月9日より[[富山地方鉄道富山軌道線|富山軌道線]]の各[[路面電車停留場|停留場]]<ref name="response20190218">{{Cite web|和書|url = https://response.jp/article/2019/02/18/319250.html|title = 富山地鉄が駅・停留場ナンバリングを導入…鉄道線はT、軌道線はCの頭文字 2-3月|website=レスポンス|publisher = イード|date = 2019-02-18|accessdate = 2019-03-16}}</ref> に、翌3月16日より鉄道線の各駅に[[駅ナンバリング|ナンバリング]]を導入した<ref name="response20190218"/>。各路線ごとに色分けし、軌道線はC01から、鉄道線はT01から始まる番号を振り分ける<ref>『路線別に色分け 富山地鉄ナンバリング』北日本新聞 2019年2月9日33面</ref>。 [[2020年]]2月22日には、同年3月21日に予定されている富山駅南北接続事業完成に先立って、かつて富山地方鉄道の富岩線であった[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]を運営する[[富山ライトレール]]を吸収合併した<ref name="nikkei20200221">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55944650R20C20A2LB0000/ |title=富山ライトレール、2月22日に富山地鉄が吸収合併|newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社|date=2020-02-21|accessdate=2020-02-23}}</ref><ref name="nikkei20190425">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44203960V20C19A4LB0000/|title = 富山地鉄とライトレールが合併 路面電車を一体運行|newspaper = 日本経済新聞|publisher = 日本経済新聞社|date = 2019-04-25|accessdate = 2019-05-28}}</ref><ref name="mynavi20190502">{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/railwaynews-171/|title = 富山地方鉄道・富山ライトレール合併、富山港線が77年ぶり地鉄に|website=マイナビニュース|publisher = マイナビ|date = 2019-05-02|accessdate = 2019-05-28}}</ref><ref name="日テレ20200222">{{Cite news | title=ライトレールを吸収し富山地鉄 合併初日を迎える | url=http://www.news24.jp/nnn/news8696497.html | newspaper=NNNニュース (日テレニュース24) | publisher=NNN | date=2020-02-22 | archiveurl=https://archive.is/HYhK9 | archivedate=2020-02-25}}</ref>。 [[2023年]](令和5年)[[4月11日]]、[[保線]]作業をしていた男性社員が[[列車]]と接触し、死亡する事故が発生した<ref name=":2">{{Cite news|和書 |title=運輸局 男性社員死亡事故受け富山地方鉄道に保安監査 |newspaper=富山NEWS WEB |date=2023年4月17日 |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/toyama/20230417/3060013108.html | publisher=日本放送協会 |access-date=2023年4月22日}}</ref>。これを受け、[[北陸信越運輸局]]は[[4月17日]]、富山地方鉄道に保安監査に入った<ref name=":2" />。[[5月26日]]、辻川徹社長の辞任が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=地鉄の辻川社長が引責辞任 4月の社員死亡事故受け「続ける選択ない」|北日本新聞webunプラス |url=https://webun.jp/articles/-/403444 |website=地鉄の辻川社長が引責辞任 4月の社員死亡事故受け「続ける選択ない」|北日本新聞webunプラス |access-date=2023-05-27}}</ref>。 == 鉄・軌道事業 == === 路線 === 現有路線の総延長距離は[[2020年]]2月22日現在、108.3&nbsp;km。富山地方鉄道発足時は100kmを超える路線網を持ち、[[1965年]]には日本全国の地方中小私鉄2位の規模である総延長139km(鉄道128.3&nbsp;km、軌道10.7&nbsp;km)の営業キロ数を有していた<ref name="70nen">『富山地方鉄道70年史 -この20年のあゆみ-』(2000年9月、富山地方鉄道発行)10ページ</ref> ものの、その後は路線の譲渡や廃止により100kmを下回っていた。2009年12月23日に富山軌道線を[[放射線・環状線|環状線]]化する0.9kmの新線([[富山地方鉄道富山軌道線#富山都心線の開業(環状線の復活)|富山都心線]])が開業し、再び保有路線が100kmを超えた。<!-- 新設距離はhttp://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20060603001.htm http://www7.city.toyama.toyama.jp/policy/plan/shigai/all.pdf のp.56 などによる。--> [[File:Toyama Chiho Railroad Linemap.svg|551px|thumb|none|路線図(2020年3月現在)]] ==== 現有路線 ==== ===== 鉄道線 ===== [[ファイル:Unazuki-Onsen-STA.jpg|thumb|250px|right|宇奈月温泉駅]] [[ファイル:Tateyama Station (Toyama), ekisha.jpg|thumb|250px|right|立山駅]] 鉄道線は以下の路線からなる。詳細は各項目を参照。 * [[富山地方鉄道本線|本線]] ([[富山駅|電鉄富山駅]] - [[宇奈月温泉駅]] 53.3&nbsp;km) * [[富山地方鉄道立山線|立山線]] ([[寺田駅 (富山県)|寺田駅]] - [[立山駅]] 24.2&nbsp;km) * [[富山地方鉄道不二越線|不二越線]] ([[稲荷町駅 (富山県)|稲荷町駅]] - [[南富山駅]] 3.3&nbsp;km) * [[富山地方鉄道上滝線|上滝線]] (南富山駅 - [[岩峅寺駅]] 12.4&nbsp;km) * [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]] ([[奥田中学校前駅]] - [[岩瀬浜駅]] 6.5&nbsp;km) 富山港線は富岩鉄道 - 富山電気鉄道富岩線 - 富山地方鉄道富岩線 - 鉄道省富山港線 - 国鉄富山港線 - JR西日本富山港線 - 富山ライトレール富山港線 - 富山地方鉄道富山港線と幾度も経営母体が変わり、国有化された路線が自社路線に戻るという歴史を辿っている。詳細は[[富岩鉄道#概要|富岩鉄道の概要]]および[[富山地方鉄道富山港線#歴史|富山港線の歴史]]を参照。 富山港線以外の鉄道線の運転系統は、おおむね以下の4系統となっている。富山港線は後述する軌道線との直通運転を行っており、路面電車型の車両によって運行されている(軌道線区間を含む総距離は7.6&nbsp;km)。 * 本線 ** 電鉄富山駅 - 宇奈月温泉駅 53.3&nbsp;km * 立山線 ** 電鉄富山駅 - 寺田駅 - 岩峅寺駅 - 立山駅 34.0&nbsp;km ** 電鉄富山駅 - 寺田駅 - 岩峅寺駅 20.0&nbsp;km * [[不二越・上滝線]] ** 電鉄富山駅 - 稲荷町駅 - 南富山駅 - 岩峅寺駅 17.3&nbsp;km 2010年度の各路線の[[輸送密度]]は以下のとおり。 * 本線 2,217人 * 立山線 729人 * 不二越・上滝線 968人 本線と不二越・上滝線によって形成される環状線区間では、迂回乗車をした場合は乗車駅と降車駅の最短距離で運賃を計算する。 ===== 軌道線 ===== 運転系統によって「市内電車」または「環状線」と呼称される。また、(*)を付けた線区は富山市が軌道整備事業者として線路を保有している。 * [[富山地方鉄道富山軌道線|富山軌道線]](富山市内軌道線) 7.5&nbsp;km ** 本線([[南富山駅|南富山駅前停留場]] - [[富山駅#電鉄富山駅・エスタ前停留場|電鉄富山駅・エスタ前停留場]] 3.6&nbsp;km) ** 支線(電鉄富山駅・エスタ前停留場 - [[丸の内停留場]] 1.0&nbsp;km) ** 安野屋線(丸の内停留場 - [[安野屋停留場]] 0.6&nbsp;km) ** 呉羽線(安野屋停留場 - [[富山大学前停留場]] 1.2&nbsp;km) ** 富山都心線(*)(丸の内停留場 - [[西町停留場]] 0.9&nbsp;km)環状線の一部であり、一方通行の単線。 ** 富山駅南北接続線(*)(支線接続点 - [[富山駅#富山駅停留場|富山駅停留場]] 0.2&nbsp;km) * [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]](*)([[富山駅停留場]] - 奥田中学校前駅 1.2&nbsp;km) 富山ライトレール合併前の2020年1月時点および合併後の2021年1月時点では0時過ぎまで電車が運行<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2020年3月号、p.817(市内電車 1月27日現在 平日時刻)</ref><ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2021年3月号、p.817(市内電車 1月27日現在 平日時刻)</ref>され<!--日本一終電が遅い路面電車事業者となっ-->ていたが、その後終電が繰り上がり、2022年1月時点では23時台で電車の運行が終了している<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』2022年3月号、p.817(市内電車 1月27日現在 平日時刻)</ref>。 ==== 譲渡・廃止路線 ==== 加越能鉄道への譲渡路線が多くあるが、一度にまとめてではなく、徐々に譲渡されている。 ; 鉄道線 :* 石田線 - 1940年廃止。 :* 上市支線 - 1943年廃止。 :* [[富山地方鉄道富山港線|富岩線]] - 1943年に[[鉄道省]]へ譲渡([[戦時買収私鉄|戦時買収]])され富山港線となり、その後国鉄、JR西日本、富山ライトレールを経て2020年2月より富山地方鉄道の路線に復帰<ref name="nikkei20190425"/><ref name="mynavi20190502"/>。なお、現在の富山港線のうち旧富岩線区間を引き継いでいるのは奥田中学校前 - 岩瀬浜間のみであり、それ以外の区間は2006年までに廃止されている。 :* [[加越能鉄道加越線|加越線]] - 1950年に加越能鉄道へ譲渡(1972年廃止)。 :* [[富山地方鉄道射水線|射水線]] - 1966年に[[六渡寺駅|新湊]](現・六渡寺) - [[越ノ潟駅|越ノ潟]]間を加越能鉄道へ譲渡(2002年から[[万葉線 (企業)|万葉線]])。残区間は1980年廃止。 :* 黒部支線 - 1969年廃止。 :* [[富山地方鉄道笹津線|笹津線]] - 1975年廃止。 ; 軌道線 :* 宮下線 - 1964年廃止。 :* 東部線 - 1984年廃止。 :* 山室線 - 1984年廃止。 :* [[万葉線高岡軌道線|高岡軌道線]] - 1959年に加越能鉄道へ譲渡(2002年から万葉線)。 :* [[加越能鉄道伏木線|伏木線]] - 1959年に加越能鉄道へ譲渡(1971年廃止)。 ==== 未成線 ==== * [[富山地方鉄道海岸線|海岸線]](富山 - 東岩瀬 - 中滑川) * [[富山地方鉄道速星線|速星線]](新富山 - 速星) * [[富山地方鉄道本線|大岩線]](上市 - 大岩) * 砺波線(稲荷町 - 津沢)<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/11955610 |chapterurl={{NDLDC|11955610/133}}|title=富山地方鉄道五十年史|publisher=富山地方鉄道|date=1983-03|chapter=第4章富山地方鉄道の成長 第2節砺波線、海岸線建設計画|pages=231-233}}</ref> * 桜町 - 岩瀬浜<ref name="history50-365">{{Cite book|和書|doi=10.11501/11955610 |chapterurl={{NDLDC|11955610/200}}|title=富山地方鉄道五十年史|publisher=富山地方鉄道|date=1983-03|chapter=第5章難局 第3節戦時下の疲弊 3.計画路線の申請却下|pages=365-368}}</ref> * 藪波 - [[金沢市|金沢]]<ref name="history50-365" /> * 富山北口 - 富山駅<ref name="history50-365" /> <!--* [[加越能バス#加越能高速鉄道計画|加越能高速鉄道計画]](富山 - 高岡 - 金沢) →子会社ではあるが、加越能鉄道自身が申請して免許を取得したので富山地方鉄道の未成線ではない。--> === 施設・設備 === [[ファイル:Iwakuraji stn.jpg|thumb|250px|right|岩峅寺駅]] 鉄道線には[[大正|大正時代]]から[[昭和|昭和時代]]初期に建てられたモダンな[[木造駅舎]]が多く現存しており、[[岩峅寺駅]]は映画のロケに使用された。 [[1971年]][[1月1日]]に当時の日本では珍しかった定期券用の[[自動改札機]]を電鉄富山駅に導入していたが、経済性に乏しく修理保守に問題があることから1981年4月に撤去された<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/11955610 |chapterurl={{NDLDC|11955610/284}}|title=富山地方鉄道五十年史|publisher=富山地方鉄道|date=1983-03|chapter=第8章展開 第2節基盤整備の展開 1.高速鉄道的運営路線(本線、立山線)の整備 (9)乗車券自動販売機の導入|pages=532-533}}</ref>。[[2012年]][[3月17日]]に同社発行の[[ICカード]]「[[ecomyca]]」が鉄道線で供用開始したことに伴い、有人駅である[[電鉄富山駅|電鉄富山]]、[[稲荷町駅 (富山県)|稲荷町]]、[[東新庄駅|東新庄]]、[[越中荏原駅|越中荏原]]、[[越中舟橋駅|越中舟橋]]、[[寺田駅 (富山県)|寺田]]、[[上市駅|上市]]、[[中滑川駅|中滑川]]、[[電鉄魚津駅|電鉄魚津]]、[[新魚津駅|新魚津]]、[[電鉄黒部駅|電鉄黒部]]、[[宇奈月温泉駅|宇奈月温泉]]、[[五百石駅|五百石]]、[[岩峅寺駅|岩峅寺]]、[[立山駅|立山]]、[[南富山駅|南富山]]、[[上滝駅|上滝]]の17駅にICカード専用の改札機が導入された<ref name="chitetsu-ic-pres-224" /><ref name="chunichi20120301">[http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2012030102000103.html 富山地鉄31年ぶり 自動改札機復活へ 17日からICカード導入]{{リンク切れ|date=2019年3月}} - 中日新聞、2012年3月1日</ref>。機能は[[あいの風とやま鉄道]]などに導入されている簡易IC改札機と同一であるが、形状は自動改札機から扉を取り除いたものにやや近い。なお、無人駅および前述の有人17駅でも無人時間帯においては車内のICリーダーでの精算となる。[[新黒部駅]]は一部時間帯にアテンダントが駐在するものの、公式には無人駅扱いのため改札機は設置されていない。 [[2008年]]9月に同社[[富山地方鉄道本線|本線]][[中加積駅]]で、同駅を出発直後の列車が脱線する[[鉄道事故|事故]]が発生。事故原因について、[[運輸安全委員会]]は翌[[2009年]][[4月24日]]に、同駅構内の[[線路 (鉄道)|線路]]の[[枕木]]が腐ったまま放置され、また、[[犬釘]]が折れたまま放置していたためなどとして、同社の保守管理の杜撰さを指摘した<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2009-4-1.pdf|title = 富山地方鉄道株式会社 本線中加積駅構内 列車脱線事故|publisher = 運輸安全委員会|date = 2009-04-24|accessdate = 2019-05-28|format = PDF}}</ref><ref>「枕木腐りクギ折れて脱線?…富山地方鉄道、ずさん管理」読売新聞 2009年4月24日</ref>。 === 列車 === ==== 一般列車(普通・急行・快速急行) ==== 運賃のみで乗れる一般列車の[[列車種別|種別]]は「[[普通列車|普通]]」「[[急行列車|急行]]」「[[快速急行]]」の3種ある。ただし急行や快速急行の運行本数は少ない。速達列車・長距離需要の主力は後述の要料金の特急が担っていた。 急行は本線系統の一部時間帯に運行されており、快速急行は立山線系統で電鉄富山駅発立山駅行きの列車が早朝に1本運転される。 不二越・上滝線は普通列車のみ運転されている。 ==== 特急列車 ==== 特急列車は2022年4月15日のダイヤ改正で全て設定がなくなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/117259 |title=富山地鉄 特急が全廃へ 最後の1本「宇奈月→立山」運転取りやめ コロナ影響 |access-date=2022-04-17 |publisher=[[メディア・ヴァーグ]] |date=2022-04-01 |website=乗りものニュース}}</ref>が、2023年4月15日のダイヤ改正で1年ぶりに特急の運転が復活した<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/125076 |title=「特急復活」富山地方鉄道 立山・宇奈月方面へ 新幹線最終便との接続列車も |date=2023-03-30 |access-date=2023-04-16 |website=乗りものニュース |publisher=メディア・ヴァーグ }}</ref>。 以下の列車が設定されている。詳しくは各路線・各列車記事を参照。 * [[富山地方鉄道本線|本線]] **「[[富山地方鉄道本線#特急「うなづき」|うなづき]]」:電鉄富山駅 - 宇奈月温泉駅間(12月1日 - 4月14日運転) ** 「[[富山地方鉄道本線#特急「くろべ」|くろべ]]」:電鉄黒部駅 - 宇奈月温泉駅間 * [[富山地方鉄道立山線|立山線]] **「立山」:電鉄富山駅 - 立山駅間(季節運転) * 本線・立山線直通 **「[[アルペン特急]]」:宇奈月温泉駅 - 寺田駅 - 立山駅間(4月15日 - 11月30日運転) [[宇奈月温泉]]、[[黒部峡谷鉄道本線]]、[[立山黒部アルペンルート]]といった沿線観光地へのアクセス需要の主力は特急列車が担っている。乗車には乗車券の他に特急券が必要となるが、最遠210円(指定席料金含まず)と安く、企画乗車券の中には特急料金が含まれているものもあり、他社でいう快速列車の役割も併せ持っている。 それぞれ運行本数は少ないが、観光旅程に適した時間帯に絞って運行されており、「アルペン特急」に至ってはアルペンルートと温泉を二度の方向転換を行ってまで直通させることによって観光回遊性を創出するとともに自社線利用を伸ばす設定となっている。 国鉄時代(1970年 - 1983年)には[[大阪駅]]発の急行「[[サンダーバード (列車)|立山]]」や名古屋([[名鉄名古屋駅]])方面からの特急「[[名鉄特急#高山本線直通列車|北アルプス]]」などが国鉄[[富山駅]]から地鉄線に乗り入れていた。JRとなってからも(1990年 - 1999年)大阪方面から特急「[[サンダーバード (列車)|スーパー雷鳥]]」や「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」などが、JR富山駅から地鉄線に乗り入れていた。 === 車両 === 富山地方鉄道の車両形式番号は鉄道線の[[動力車|電動車]](モハ)の場合、5桁のうち上3桁が[[電動機]]出力をHP([[馬力|英馬力]])で表示し、下2桁が形式番号を表示するという他社では見られない独特の付番方法が採られている(「[[鉄道の車両番号]]」も参照)。このため、電動機を持たない[[制御車]](クハ)および[[付随車]](サハ)は形式番号のみとなり電動車とは車号の桁数が大きく異なっている。百位の数字は制御車が1、付随車が2となっている<ref group="注">ただし正式なサハは10020形のサハ220形のみ。16010形の付随車クハ110形は形式上は制御車に分類されているが、実態は付随車であった。また10030形のうち唯一の付随車サハ31は、百位の数字を省略した2桁の形式番号を称している。</ref>。なお、軌道線の車両では電動車の形式記号は「デ」、4桁のうち上2桁が電動機出力になっている。電動車の「モハ」と「デ」の区別は、元々は鉄道線・軌道線でなく架線電圧1500V用をモハ、600V用をデとしたものである。岩峅寺 - 立山間・電鉄黒部 - 宇奈月温泉間の長い急勾配区間での電動機の負担を軽減させるため、ほとんどの編成がオール電動車となっている。 10030形などの車両は黄と緑のツートンカラーに塗装されており「かぼちゃ電車」の愛称がある(ただし一部編成は車両譲渡前のカラーに復元されている)<ref>{{Cite web|和書|title=京阪特急「テレビカー」時代の姿に戻った富山地方鉄道100030形|url=https://news.mynavi.jp/article/trainphoto-16/|work=マイナビニュース|date=2012-11-13|accessdate=2021-12-01}}</ref>。また、白を基調とした[[ライチョウ|雷鳥]]カラーに塗装されている一部車両には「だいこん電車」の愛称がある<ref>{{Cite web|和書|title=「だいこん電車」古参4両引退へ 富山地鉄、親しまれ60年|url=https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000021226|work=北陸・信越観光ナビ|date=2019-09-07|accessdate=2021-12-01}}</ref>。 ==== 現有車両 ==== 以下は特記なき限り[[電車]]である。 ===== 鉄道線 ===== * [[富山地方鉄道20020形電車|20020形]](元[[西武鉄道|西武]][[西武10000系電車|10000系]]) * [[東急8090系電車#富山地方鉄道|17480形]](元[[東急電鉄|東急]][[東急8090系電車|8590系]]) * [[富山地方鉄道16010形電車|16010形]](元[[西武鉄道|西武]][[西武5000系電車|5000系]]) - 一部は「アルプスエキスプレス」。 * [[京阪3000系電車 (初代)#富山地方鉄道10030形電車|10030形]](元[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪3000系電車 (初代)|3000系]]) - 一部は「ダブルデッカーエキスプレス」。 * [[富山地方鉄道14760形電車|14760形]] * [[富山地方鉄道クハ170形電車#クハ175(→クハ175形)|クハ175形]] * [[富山地方鉄道デキ12020形電気機関車|デキ12020形]] - 入替・工事用[[電気機関車]]。 * DL形 - 除雪用[[ディーゼル機関車]]。国鉄の[[ラッセル車|ラッセル]]式除雪[[モーターカー]]TMC100BSと同形機。 * DL10形 - 除雪用ディーゼル機関車。小型で[[ロータリー車|ロータリー]]/ラッセル兼用タイプの機関車。 * DL13形 - 除雪用ディーゼル機関車。国鉄のロータリー/ラッセル式除雪モーターカーMCR-4Aと同形機。 * [[国鉄ホキ800形貨車|ホキ80形]] - 保線用[[貨車]]([[ホッパ車]])。 <gallery> Toyama-chihou-railway 221 20220811.jpg|20020形 Toyama Series17486 Main-Line.jpg|17480形 Toyama-chihou-railway 16014 20220811.jpg|16010形(アルプスエキスプレス) Toyama-Chitetsu Series10030-100040.jpg|10030形 Toyama-chitetsu Series-14760 14771F.jpg|14760形 Chitetsu175-2018-9-9.jpg|クハ175形 Toyamachitetsu12021-amid.jpg|デキ12020形 </gallery> ===== 軌道線・富山港線 ===== * [[富山地方鉄道7000形電車|7000形]] - 富山港線乗り入れ不可。 * [[富山地方鉄道8000形電車|8000形]] - 富山港線乗り入れ不可。 * [[富山地方鉄道9000形電車|9000形]](セントラム) * [[富山地方鉄道T100形電車|T100形]](サントラム) * [[富山ライトレールTLR0600形電車|0600形]](ポートラム) - [[富山ライトレール]]から継承。 <gallery> ファイル:201403Toyama tram No7022.jpg|7000形(レトロ電車) ファイル:Toyama Chiho Railway 8002.jpg|8000形 ファイル:Toyama Chiho Railway Centram 9002 04.jpg|9000形 ファイル:Toyama Chihō Railway T101 Santram 02.jpg|T100形 ファイル:PORTRAM-0606.jpg|0600形 </gallery> ==== 過去の保有車両 ==== ===== 鉄道線 ===== * [[富山地方鉄道14710形電車|14710形]] * [[富山地方鉄道14750形電車|14750形]] * [[富山地方鉄道14790形電車|14790形]](登場当時は14770形) * [[富山地方鉄道14780形電車|14780形]] * [[富山地方鉄道10020形電車|10020形]] * [[富山地方鉄道14720形電車|14720形]] * [[庄川水力電気庄水3号形電気機関車|デキ6500形・デキ8100形]] * デキ8000形 * [[富山地方鉄道デキ14730形電気機関車|デキ14730形]] * [[三岐鉄道ED45形電気機関車|デキ19040形]] * モハ7540形・モハ10040形(元富山電気鉄道モハ500形) *: 1936年(昭和11年)日本車輌製、18m級2扉の大型車。両運転台車で前面は緩くカーブした半流線形だった。モハ501・502は1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ7540形モハ7541・7542となり、モハ503は1939年(昭和14年)にモーターを75kW×4に交換し出力を増強、1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ10040形モハ10043となった。モハ7540形は1980年(昭和55年)に、モハ10040形は1981年(昭和56年)に廃車された。 * クハ1010形→モハ7510形 *: 1948年(昭和23年)、日本鉄道自動車製で1形式1両。1949年(昭和24年)に電装されてモハ7510形となり、1969年(昭和44年)に廃車された。 * モハ7520形(元富山電気鉄道モハ200形) *: 1931年(昭和6年)、日本車輌製の15m級中型車でモハ201 - モハ203・モハ205・モハ206の5両(モハ204は欠番)があった。1969年(昭和44年)〜1971年(昭和46年)に廃車された。 * クハ120形(元富山電気鉄道モハ100形・モハニ110形・クハ1000形) *: 富山電気鉄道開業時からのグループで、モハ100形は12m級小型車。モハニ110形は荷物室合造車で1938年(昭和13年)に荷物室を撤去し電装解除、クハ109に改番した。富山電鉄系の車両でも小型の部類に入るが、これは区間列車向けを{{要出典範囲|企図していた|date=2023年11月}}ため。1957年(昭和32年)に車体を17m級に延長している。 * モハ7530形(元富山電気鉄道モハ210形・モハ220形) *: 1941年(昭和16年)、日本車輌製の16m級中型車。モハ210形とモハ220形で搭載する電動機が異なっていた。両運転台で片側の前面は貫通式、非貫通側の前面はごく緩い後退角を持つ3枚窓の平面だった。 * モニ6570形(元富山電気鉄道モハ300形・モニ310形) *: 元は[[光明電気鉄道]]が1928年の開業時に製造した16m級木造車で、同社の経営破綻で1935〜36年に富山電気鉄道に売却されたものがそのまま合併後の富山地方鉄道に引き継がれた。モハ2両、モニ1両があったが、1949年(昭和24年)に富山市の日本海ドックで簡易鋼体化改造されて全車に荷物室が設置され、以降はモニ6570形と総称された。機関車代用や荷物電車として使用され、1969年(昭和44年)に廃車された。なお、この荷物室と客室の仕切りは着脱自在で、荷物室部分には折り畳み収納の可能なロングシートの座席と網棚が設けられており、客室としても使えるようになっていた。 * モハ10050形(元富山県営鉄道デニハ5形・デハ6形) *: 富山県営鉄道が発注し、1937年(昭和12年)に運用を開始したクロスシート車、汽車会社製のデニハ5形、日本車輛製のデハ6形<ref>{{Cite book|和書|editor=大山の歴史編集委員会|title=大山町の歴史|publisher=大山町|date=1990-03-31|page=584}}</ref> で、1949年(昭和24年)の一斉改番で10050形モハ10055・10056となった。共に17m級車でモハ10055が3扉、モハ10056が2扉だった。後にロングシート化されており、1980年(昭和55年)に廃車された。 * モハ8060形(元富山県営鉄道デニハ4形) *: 1927年(昭和2年)、日立製作所製。一段下降窓で窓位置が高く、合併に参加した鉄道からの引き継ぎ車で最も古典的なスタイルだった。 * モハ8020形・クハ110形(元富山県営鉄道デハ1形) *: 1927年(昭和2年)、日本車輌製。 * モハ8040形・モハ13140形(元黒部鉄道デ31形) *: 1916年(大正5年)製の木造車を1951年(昭和26年)に鋼体化改造した車両。重厚なスタイルで、立山線で使用された。 * モハ12510形(元黒部鉄道デ51形) *: 1937年(昭和12年)川崎車輌製の両運転台車で2両あった。運転台の車掌台側のスペースを車掌が扱う荷物置き場にしており、このため車掌台側の乗務員扉は幅800mmと大きく取られていた。1980年(昭和55年)に廃車された。 * クハ90形 *: 1962年(昭和37年)富士重工業製の制御車で2両あった。[[国鉄72系電車]]の近代化改造車に似た[[ウィンドウ・シル/ヘッダー|ノーシルノーヘッダー]]で切妻前面3枚窓のスタイル、戸袋窓なしの両開き3扉構造が特徴。台車は[[近鉄名古屋線]]の1435mm改軌(1959年)で発生した中古品の日本車輛D16。戦前製手動加速制御電動車と組んでのラッシュ時増結用に用いられたが、元名鉄の14710形の大量導入で在来型電動車の廃車が進んだため運用しにくくなり、車齢9年で1971年(昭和46年)に廃車された。 * [[富山地方鉄道射水線#車両|クハ100形]](元越中鉄道デハ100形) *: 1930年(昭和5年)、日本車輌製。射水線の前身・越中鉄道からの引き継ぎ車で2両あった。射水線の低床化で本線に転属、1951年(昭和26年)に電装解除、1963年(昭和38年)に片運化され、1968年(昭和43年)に廃車された。 * [[富山地方鉄道射水線#車両|クハ130形]](元越中鉄道デハ1形) *: 越中鉄道からの引き継ぎ車で2両あった(軌道線の項目も参照)。1923年(大正12年)日本車輌製の木造ボギー電車で、後に鋼体化された。 * クハ140形(登場当時はハフ11形) *: 1944年(昭和19年)、新潟鉄工所製で2両あった。元は工場の工員輸送用の客車で1946年(昭和21年)に購入、制御車化した。国鉄モハ63系に似た切妻前面3枚窓で前面幕板部にヘッドライトをつけており、ノーシルノーヘッダーのスタイルが特徴。台車はクハ145がTR23系、クハ146がTR10系と2両で異なっていた。 * [[富岩鉄道の電車|クハ150形]](2代目・元富岩鉄道セミボ30形) *: 元は富岩鉄道開業時に用意された木造の2軸車2両(モハ10形10・11、元名古屋鉄道)。富岩線の戦時買収の際も富山地方鉄道に残留した。この2両を接合して富岩線用半鋼製ボギー車へ改造する工事が日本鉄道自動車で行われセミボ30形となり、1944年の合併で富山地方鉄道モハ30形モハ30へ改称、その後電装解除・制御車化されクハ150形クハ151となった。 * クハ160形 *: 1948年(昭和23年)に射水線用モハ1201・クハ1301として登場、射水線の低床化で本線に転属。1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ1201→デハ12053、クハ1301→クハ151(初代)に改番、さらにデハ12053は1951年(昭和26年)に電装解除されてクハ151ともどもクハ161・162(2代目・初代は14750形の制御車)に改番した。1956年(昭和31年)に片運化や制御装置などの換装を行って14750形専属の増結用車両となり、1980年(昭和55年)に廃車された。 <gallery> ファイル:Toyamachitetsu14720-amid.jpg|14720形 </gallery> ===== 軌道線 ===== * [[富山地方鉄道3530形電車|3530形]] - 末期は事業用車として使用されていた。 * [[富山地方鉄道デ5010形電車|デ5000形]] * [[富山地方鉄道デ5010形電車|デ5010形]] - 射水線・笹津線用(市内線にも乗り入れ実績あり) * [[富岩鉄道の電車|ボ1形]] *: 富岩線の戦時買収で一旦鉄道省所属となった後、1948年(昭和23年)に富山地方鉄道に譲渡され、後に除雪用に転用された。 * [[富山地方鉄道射水線#車両|デハ1形]] *: 越中鉄道からの引き継ぎ車でデハ1 - 3・5(4は欠番)の4両があり、上記のボ1形に酷似したスタイル。木造車だったが後に鋼体化され、デハ1→デハ7511、デハ2・5→クハ131・132(車体延長)、デハ3→モハ9401となった。 * デ3510形・デ2510形 *: 3530形とほぼ同様のスタイルの戦災復旧車で、電動機の出力の違いで区分されていた。1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけて製造された半鋼製車でドア間窓が7枚と3530形よりも1枚多く、側面の腰板は木板の短冊張りだった。 ==== 車両数の変遷 ==== {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:90%;" |+鉄道線 |- !年 !14790形 !モハ14780形<br />クハ180形 !14760形 !14750形 !14720形 !モハ14710形<br />クハ10形 !10020形 !クハ170形 !10030形 !16010形 !17480形 !計(冷房車) |- |1982-<br />1986||2||6||14||4||2||14||6||5|||| |||53(15) |- |1987||2||6||14||4||2||14||6||5|||| |||53(18) |- |1988||2||6||14||4||2||14||6||5|||| |||53(21) |- |1989||2||6||14||4||2||14||6||5|||| |||53(25) |- |1990||2||6||14||4||2||14||6||5|||| |||53(25) |- |1991||2||6||14||2||2||14||6||5||2|| |||53(27) |- |1992||2||6||14||2||2||6||6||5||12|| |||55(40) |- |1993||2||6||14||2||2||2||6||5||14|| |||53(45) |- |1994||2||6||14||2||2||||6||5||16|| |||53(47) |- |1995||2||6||14||||2||||6||5||16|| |||51(47) |- |1996||1||6||14||||2||||6||5||16||3 |||53(50) |- |1997-<br />1999||||2||14||||2||||6||5||16||6 |||51(51) |- |2000-<br />2004||||||14||||2||||6||5||16||6 |||49(49) |- |2005-<br />2010||||||14||||2||||4||5||16||6 |||47(47) |- |2011||||||14||||2||||4||5||16||5 |||46(46) |- |2016 | | |14 | |1 | |2 |1 |17 |5 |4 |44(44) |} *1982・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在 *『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール === 運賃 === ==== 鉄道線 ==== * 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)2019年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=44261 |title=消費税率改定に伴う鉄軌道の運賃改定実施について|富山地方鉄道株式会社 |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2023-09-01}}</ref>。 ** ICカード運賃(現金の1割引)は[[ecomyca]]・[[ecomyca|passca]]利用のみに適用。ICOCA・Suicaなどの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国交通系ICカード]]は利用できない。 :{| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !rowspan="2"|キロ程!!colspan="2"|運賃(円) |- !切符購入!!ICカード |- |初乗り3km||210||190 |- |4-6||320||290 |- |7-9||420||380 |- |10-12||530||480 |- |13-15||640||580 |- |16-18||740||670 |- |19-21||840||760 |- |22-24||940||850 |- |25-27||1040||940 |- |28-30||1130||1020 |- |31-33||1230||1110 |- |34-36||1330||1200 |- |37-39||1430||1290 |- |40-42||1520||1370 |- |43-45||1610||1450 |- |46-48||1700||1530 |- |49-51||1780||1600 |- |52-54||1880||1690 |- |55-57||1930||1740 |- |58-60||1980||1780 |- |61-63||2040||1840 |- |64-66||2090||1880 |- |67-68||2140||1930 |} * 特定運賃 ** 本線を中心として通常より安価な特定区間運賃が多数設定されている。特定運賃区間内にある任意の2駅間を利用する場合で、乗降する区間の正規運賃が、計算上特定区間運賃より高くなった場合でも、特定区間運賃が採用される。 :{| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !rowspan="2"|区間!!colspan="2"|運賃(円) |- !切符購入!!ICカード |- |[[電鉄富山駅]]-[[新宮川駅]]・[[五百石駅]]||610||550 |- |電鉄富山駅-[[滑川駅]]||620||560 |- |電鉄富山駅-[[早月加積駅]]||720||650 |- |電鉄富山駅-[[新魚津駅]]||780||700 |- |電鉄富山駅-[[経田駅]]||870||780 |- |電鉄富山駅-[[電鉄黒部駅]]||920||830 |- |電鉄富山駅-[[東三日市駅]]||980||880 |- |電鉄富山駅-[[荻生駅]]||1050||950 |- |電鉄富山駅-[[長屋駅]]||1130||1020 |- |電鉄富山駅-[[舌山駅]]||1200||1080 |- |電鉄富山駅-[[若栗駅]]||1280||1150 |- |電鉄富山駅-[[栃屋駅]]||1360||1220 |- |電鉄富山駅-[[浦山駅]]||1430||1290 |- |電鉄富山駅-[[下立駅]]||1470||1320 |- |電鉄富山駅-[[愛本駅]]||1560||1400 |- |電鉄富山駅-[[内山駅]]||1660||1490 |- |[[稲荷町駅 (富山県)|稲荷町駅]]-[[音沢駅]]||1700||1530 |- |電鉄富山駅-音沢駅||1740||1570 |} ==== 軌道線・富山港線 ==== *現金・全国交通系ICカード210円、ecomyca・passca180円の均一運賃。 == バス事業 == {{更新|date=2022年7月|section=1}} 富山県東部のほぼ全域で[[路線バス]]を運行するほか、[[貸切バス]]事業も行っている。なお、1965年当時の路線バスの営業キロ数は1128.4kmであった<ref name="70nen" />。 === 高速・特急バス === ==== 富山 - 東京線 ==== [[ファイル:U-RA530RBN-Chitetsu-Highway.jpg|200px|right|thumb|東京 - 富山線(富山地方鉄道)4列シート時代の車両]] [[ファイル:TOYAMA-CHITETSU INTER-CITY 707.JPG|200px|right|thumb|東京 - 富山線(富山地方鉄道)[[日野・セレガ]]3列シート車。蓮台寺PAで休憩中]] [[富山県]][[氷見市]]・[[富山市]]と[[東京都]][[豊島区]]・[[渋谷区]]を結ぶ[[高速バス]]路線。[[西武バス]]と共同運行。 [[名古屋 - 福井・金沢線|名古屋 - 金沢線]]同様に北陸の都市間高速バスの草分け的存在で、2012年12月に開業25周年を迎えた。昼行便と夜行便が設定されている。かつては基本的にワンマン運行で、降雪や凍結を伴う冬期はツーマン運行だったが、2012年4月の[[関越自動車道高速バス居眠り運転事故]]に伴う安全規制の見直しもあり、通年で夜行便はツーマン運行となった。[[2017年]][[5月15日]]、従来西武バスと加越能バスが運行してきた[[東京 - 高岡・氷見線]]と統合し、一部の便は氷見・高岡地区発着となった<ref name="tokyo">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=26727|title= 高速バス東京線の運行改編について|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2017-04-18}}</ref>。[[加越能バス]]は2023年8月1日ダイヤ改正と同時に運行を終了する。 ; 運行経路 :* 氷見営業所 - 加越能バス本社前 - [[高岡駅]]前 - [[イオンモール高岡|イオンモール口]] - [[砺波駅]]南 - [[富山駅|富山駅前]] - [[総曲輪]] - [[滑川インターチェンジ#滑川バスストップ|滑川]] - [[魚津インターチェンジ#魚津バスストップ|魚津]] - [[黒部インターチェンジ#黒部バスストップ|黒部]] ⇔ [[川越的場バスストップ|川越的場]] - [[練馬駅]]([[練馬区役所]]前) - [[下落合駅]] - [[池袋駅]]東口 - [[バスタ新宿]] :* 夜行便:氷見営業所 -(中略) - 砺波駅南 - 高岡高速BT - 小杉 - 富山大学前 - 富山駅前 - (中略) - バスタ新宿 ; 運行回数 :* 1日4往復(昼行便3往復、夜行便1往復)。このほか金曜 - 日曜・祝日や繁忙期に定期増発便を1往復運行(夜行便のみ)。氷見営業所 - 富山駅前間、池袋駅東口 - バスタ新宿間は一部の便のみ運行。 ; 路線沿革 :* [[1987年]](昭和62年)[[12月23日]] - 1日2往復(昼・夜各1)で運行開始<ref>{{Cite news |title=高速バス時代が本格到来 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-04-20 |page=3 }}</ref>。 :* [[1988年]](昭和63年)[[7月20日]] - [[北陸自動車道]]の全線開通にともない経路変更。 :* 1988年(昭和63年)[[8月8日]] - 昼行便を1往復増便。1日3往復となる。 :* [[2004年]](平成16年)10月 - [[新潟県中越地震]]の影響で関越自動車道が通行止めのため一時期[[上信越自動車道]]を迂回運行、後にこのルートが正式ルートとなる。 :* [[2006年]](平成18年)[[4月21日]] - 使用車両を原則3列シート車に変更、運行経路を関越自動車道から上信越自動車道に変更。同時に昼行便を1往復増便し1日4往復となる。富山駅前での乗降客向けにパーク&ライドサービスを開始。 :* [[2007年]](平成19年)[[8月1日]] - [[サンシャインシティ|サンシャイン]][[プリンスホテル]]乗り入れ廃止。 :* [[2010年]](平成22年)[[4月24日]] - 魚津バス停を新設。[[魚津インターチェンジ]]内に新設されるバス停が完成するまでの約8か月間は[[魚津市総合体育館]]前にバス停を設置していた。 :* 2010年(平成22年)[[12月10日]] - 魚津インターチェンジ内に新設のバス停が供用開始。 :* [[2016年]](平成28年)[[4月4日]] - 新宿での乗り場を[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]](西武バスのりば)からバスタ新宿に変更。 :* [[2017年]](平成29年)[[5月15日]] - 西武バス・加越能バス運行の東京 - 高岡・氷見線と統合、併せて停留所の新設を実施<ref name="tokyo" />。 :* [[2019年]]([[令和]]元年)[[6月21日]] - 運賃改定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibubus.co.jp/news/post-36.html|title=高速乗合バス 運賃改定のお知らせ|publisher=西武バス|date=2019-06-19|accessdate=2019-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=41939|title=高速バス「東京線」運賃改定について|publisher=富山地方鉄道|date=2019-05-15|accessdate=2019-06-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaetsunou.co.jp/7320/|title=高速バス東京線の運賃改定について|publisher=加越能バス|date=2019-05-16|accessdate=2019-06-30}}</ref>。 :* [[2020年]](令和2年)[[4月11日]] - [[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響により、この日より当面の間全便運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=48505|title=高速バス東京線の全便運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 :* [[2023年]](令和5年)[[8月1日]] - ダイヤ改正と同時に加越能バスが運行終了。 ; 使用車両 :* ハイデッカーの独立3列シート車(地鉄が[[日野・セレガ]]、西武が[[いすゞ・ガーラ]])が使用される。ただし[[続行便]]については4列シート車が使用される場合がある。 ==== 富山 - 大阪線 ==== {{Main|富山 - 大阪線}} [[阪急観光バス]]と共同運行。 ==== 富山 - 名古屋線 ==== {{Main|東海北陸道高速バス}} [[名鉄バス]]と共同運行。 ==== 富山 - 新潟線 ==== [[ファイル:Toyama chitetsubus 730.JPG|200px|right|thumb|高速バス(新潟線)]] 富山県富山市と[[新潟県]][[新潟市]]を結ぶ高速バス路線。[[新潟交通]]と共同運行。1日4往復で両社それぞれ2往復ずつ担当。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - 総曲輪 - 滑川 - 魚津 - 黒部 ⇔ [[木田バスストップ|木田(上越)]] - [[長岡北バスストップ|長岡北]] - [[栄パーキングエリア#栄バスストップ|栄]] - [[三条燕インターチェンジ#三条燕バスストップ|三条燕]] - [[巻潟東インターチェンジ#巻潟東バスストップ|巻潟東]] - [[鳥原バスストップ|鳥原]] - [[新潟駅]]前 - [[万代シテイバスセンター]] ; 路線沿革 :* [[2003年]](平成15年)[[10月1日]] - 運行開始。 :* [[2007年]](平成19年)7月 - [[新潟県中越沖地震]]の影響で[[北陸自動車道]]が通行止めのため一時期一般道を迂回運行。 :* [[2010年]](平成22年)[[8月1日]] - 長岡北・栄での乗降取り扱いを開始。 :* 2010年(平成22年)[[12月10日]] - [[魚津インターチェンジ#魚津バスストップ|魚津]]での乗降取り扱いを開始。 :* [[2011年]](平成23年)8月1日 - 木田(上越)での乗降取り扱いを開始。 :* 2020年(令和2年)[[4月15日]] - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により、この日より当面の間一部便(各社1往復ずつ)を運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=48510|title=高速バス新潟線の一部運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-04-07|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 :* 2022年(令和4年)4月29日 - [[上市スマートインターチェンジ|上市スマートIC]]付近のバスターミナル(上市町中江上204-8)に上市停留所を新設。 ; 使用車両 :* 原則として化粧室付き4列シート定員40名車両で運行。 ==== 富山 - 金沢線 ==== [[File:Toyama Chitetsu Bus 761.jpg|right|thumb|200px|高速バス(金沢線)]] 富山県富山市と[[石川県]][[金沢市]]を結ぶ高速バス路線。[[北鉄金沢バス]]と共同運行。 [[2004年]][[3月6日]]運行開始。富山市中心部・郊外と金沢市の[[片町 (金沢市)|片町]]・[[香林坊]]など中心繁華街が乗り換えなしでダイレクトで結ばれたこと、2014年4月1日現在片道930円という格安運賃、2時間ごとに1本という運行間隔が奏効し、開業当初から好評を博している。 なお、開業にあたっては、当時のJR[[北陸本線]]と直接競合することや、かつて運行された高速バス「[[加越能バス#金沢 - 高岡線|金沢 - 高岡線]]」(2020年現在は経路を変えて運行中)の{{要出典範囲|失敗から、需要への懸念|date=2023年11月}}も少なくなかった。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - 富山市役所 - 総曲輪 - 西中野口 - 富山市民病院 - 西上袋 ⇔ 高柳 - [[金沢東警察署]]前 - [[金沢駅バスターミナル|金沢駅東口]] - 武蔵ヶ辻 - 南町 - 香林坊 - 広坂 - [[兼六園|兼六園下]] ; 路線沿革 :* [[2004年]](平成16年)[[3月6日]] - 運行開始。 :* [[2005年]](平成17年)3月末 - 1日16往復(1時間ヘッド)に増便。 :* [[2009年]](平成21年)[[7月4日]] - 土・日曜日及び祝日に4往復増便。1日20往復の運行となる。 :* [[2013年]](平成25年)[[12月1日]] - 西中野口(富山市内)、南町(金沢市内)の各バス停を追加<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=10313|title=高速バス「金沢線」に停留所の追加!|publisher=富山地方鉄道|date=2013-11-12|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 :* 2020年(令和2年)[[4月16日]] - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により、この日より当面の間一部便(地鉄便は平日3往復、土日祝日4往復)を運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=48597|title=高速バス金沢線の一部運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 ; 使用車両 :* 地鉄が[[三菱ふそう・エアロエース]]、北鉄金沢バスが三菱ふそう・エアロエースまたは[[日野・セレガ]]で運行する。ともにコンセントを備えている(増発・代車などによりコンセントなしの車両も使用される)。 ; その他 :* 10枚綴り回数券(7,700円)が発売されている。 ==== 富山 - 城端線 ==== 砺波以南のJR城端線沿線から富山市内への通勤・通学需要に特化した高速バスである(定期券設定あり)。 平日朝は富山駅前方向のみ4本運転、平日夕は城端方向のみ4本運転(土休日は2本)。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - [[富山市役所]]前 - 総曲輪 - [[富山市立富山市民病院|富山市民病院]]前 - 西上袋 - (北陸自動車道) - [[砺波駅]]南 - [[東野尻駅|東野尻]] - [[高儀駅|高儀]] - [[福野町]] - [[福光駅]]前 - [[城端駅]]前 - [[城端町|城端]]行政センター前 ==== 富山 - 高山線 ==== 富山県富山市と[[岐阜県]][[高山市]]の[[高山駅]]前を結ぶ高速バス路線。1日6往復で、そのうち富山地方鉄道が4往復(うち1往復は白川郷止)濃飛乗合自動車が2往復担当する共同運行。以前富山 - 高山間を神岡経由の一般道を利用し結んでいた特急バスの復活ではなく、この路線は[[北陸自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]を利用し、途中[[白川郷]]を経由する高速バスである。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - (富山空港 -) 白川郷 - [[高山濃飛バスセンター]] ; 路線沿革 :* [[2015年]](平成27年)[[12月1日]] - 運行開始。 :* [[2016年]](平成28年)[[10月1日]] - 白川郷のバス停をせせらぎ公園から白川郷バスターミナルへ移設。 :* [[2020年]](令和2年)[[4月1日]] - 2往復の増便と富山きときと空港経由便の新設を実施<ref>北國新聞2020年3月4日号朝刊</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=47531|title=高速バス高山線の増便と富山空港経由について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-02-28|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 :* 2020年(令和2年)[[4月8日]] - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により、この日より当面の間全便(一部便(2往復)は同年[[4月5日]]から)を運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=48500|title=高速バス高山線の全便運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 ==== 富山きときと空港 - 高山線 ==== {{Main|富山空港連絡バス}} 濃飛乗合自動車と共同運行。 ==== 立山(室堂) - 東京線 ==== {{main|東京 - 立山(室堂)線}} [[ファイル:ChitetsuBus for MURODOH.jpeg|thumb|right|立山室堂行きとなる高速バス]] [[西武観光バス]]・[[東急トランセ]]と共同運行。夏季期間運行路線。 === 高速・特急バス廃止路線 === ==== 富山 - 長野線 ==== 富山県富山市と長野県長野市を結んでいた高速バス路線。1日2往復で子会社の富山地鉄北斗バスと長電バスの共同運行。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - [[富山市役所]]前 - 総曲輪 - [[富山市立富山市民病院|富山市民病院]]前 - 西上袋 - 滑川 - 魚津 - 黒部 - [[柏原バスストップ|柏原]] - [[豊田バスストップ (長野県)|豊田]] - [[中野バスストップ|中野]] - [[小布施バスストップ|小布施]] - [[須坂バスストップ|須坂]] - [[高田 (長野市)|高田]] - [[長野駅]]前 - [[昭和通り (長野市)#路線バス|昭和通り]] - [[権堂駅#バス路線|権堂]] ; 路線沿革 :* [[2013年]](平成25年)[[9月14日]] - 運行開始。 :* [[2016年]](平成28年)[[10月31日]] - 運行終了。 ==== 富山 - 仙台線 ==== [[ファイル:Toyama-Chitetsu-701.jpg|200px|right|thumb|高速バス(仙台線)]] 富山県[[高岡市]]と[[宮城県]][[仙台市]]との間を結んでいた夜行高速バス路線。[[宮城交通]]と共同運行。 ; 運行経路 :* 高岡駅前 - [[小杉駅 (富山県射水市)|小杉]] - 富山大学前 - 富山駅前 - 総曲輪 - 滑川 - 魚津 - 黒部 ⇔ 山形県庁前 - 仙台駅前 - 仙台駅東口 ; 路線沿革 :* [[2008年]](平成20年)[[4月20日]] - 富山地方鉄道の1社運行で運行開始。 :* [[2009年]](平成21年)[[4月24日]] - この日より宮城交通が運行に参加。 :* [[2010年]](平成22年)[[12月10日]] - [[魚津インターチェンジ#魚津バスストップ|魚津]]での乗降取り扱いを開始。 :* [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - この日発生した[[東日本大震災]]のため、同月20日まで運休。運行が再開された[[3月21日|同月21日]]以降も、宮城交通側の体制が整わないため、富山地方鉄道による隔日運行。 :* 2011年(平成23年)[[4月8日]] - この日の仙台出発便(富山出発便は翌[[4月9日]])から宮城交通が運行を再開。毎日運行に戻る<ref>{{PDFlink|[http://www.chitetsu.co.jp/bus_b/sendaisaikai.pdf 高速バス「富山-仙台線」の通常運行再開について]}}(富山地方鉄道プレスリリース 2011年4月1日)</ref>。 :* 2011年(平成23年)[[8月1日]] - 運行起点を富山から高岡に変更および小杉・富山大学前・山形県庁前に停留所を追加。 :* [[2017年]](平成29年)[[3月31日]] - 「金沢・富山 - 山形・仙台線」(後述)運行開始に伴い廃止<ref name="170401sendai">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=22269|title=高速バス「金沢・富山-山形・仙台線」運行開始のご案内|publisher=富山地方鉄道|date=2017-03-02|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 ; 使用車両 :* 独立3列シート・トイレ付き車両を使用していた。 ==== 金沢・富山 - 山形・仙台線 ==== [[石川県]][[金沢市]]から富山県富山市を経由して、[[山形県]][[山形市]]と[[宮城県]][[仙台市]]との間を結んでいた夜行高速バス路線。[[北陸鉄道]]と共同運行。 ; 運行経路 :* 金沢駅東口 - 高岡高速バスターミナル - 富山駅前 - 富山市役所前 - 総曲輪 - 富山市民病院前 - 西上袋 - 滑川 - 魚津 - 黒部 ⇔ [[山交ビル]]バスターミナル - [[山形県庁]]前 - 仙台駅前 - [[仙台駅のバス乗り場#仙台駅東口|仙台駅東口]] ; 路線沿革 :* [[2017年]](平成29年)4月1日 - 「富山 - 仙台線」(前述)と「金沢 - 仙台線」(北陸鉄道運行)を統合の上運行開始。高岡高速バスターミナルに新たに停車、高岡駅前、小杉、富山大学前の各バス停を廃止<ref name="170401sendai" />。 :* [[2020年]](令和2年)4月1日 - 山交ビルバスターミナル停留所を新設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=47214|title=高速バス「仙台・山形線」バス停留所の増設について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-02-14|accessdate=2020-03-14}}</ref>。 :* 2020年(令和2年)[[4月19日]] - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により、富山地方鉄道便はこの日より(北陸鉄道便は同年4月25日出発便より)当面の間全便運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=48628|title=高速バス仙台線の全便運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-04-16|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 :* 2020年(令和2年)[[7月17日]] - この日の金沢発の便より運行再開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=50264|title=高速バス仙台・山形線の運行再開について|publisher=富山地方鉄道|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-22}}</ref>。 :* [[2021年]](令和3年) [[1月18日]] - この日の出発便より土日祝日のみの運行となる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.miyakou.co.jp/cms/news/desc/1/1659/#target|title=【富山・金沢線】1月18日以降の運行について|publisher=宮城交通|date=2021-01-13|accessdate=2021-04-04}}</ref>。 :* 2021年(令和3年)3月31日 - この日の金沢発の便(富山地方鉄道担当便)より(仙台発は翌4月1日出発便より)8月30日の出発便(仙台発は翌31日の出発便)まで運休<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=55187|title=高速バス「仙台・山形線」の全便運休について|publisher=富山地方鉄道|date=2021-03-15|accessdate=2021-04-04}}</ref>。 :* 2021年(令和3年)8月31日 - 路線廃止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=57502|title=高速バス「仙台・山形線」の路線廃止について|publisher=富山地方鉄道|date=2021-08-10|accessdate=2021-08ー10}}</ref>。なお、先述の通り同年3月31日(仙台発は翌4月1日)の出発便より運休していたため、同年3月30日(仙台発は翌31日)の出発便が事実上の最終運行となった<ref name=":0" />。 ; 使用車両 :* 独立3列シート・トイレ付き車両を使用していた。 ==== 富山 - 平湯温泉線 ==== 富山県富山市と[[岐阜県]][[高山市]]の[[平湯温泉]]を結ぶ特急バス路線。[[濃飛乗合自動車]]と共同運行。高速道路を経由しないため高速バスではなく'''特急バス'''とされており、予約不要。富山駅前 - 猪谷間のみの乗車はできない。他の高速路線と異なり、地鉄担当便では中型観光タイプの車両のほか、9人乗りの小型車両が用いられる。この小型車は[[タクシー]]と同様の[[第二種運転免許|普通二種免許]]で運転可能なことから、他業種からの転職者や事務担当社員を活用し、運行に必要な乗務員の確保を目的に導入された<ref name="nagoya">{{Cite web|和書|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO46017230S9A610C1962M00 |publisher=[[日本経済新聞社]] |title=北陸の高速バス快走 「直通」武器に集客、訪日客にも人気 |date=2019-06-13 |accessdate=2020-03-09}}</ref>。 もとは路線バスの[ 30 ] 神岡行。路線車で県境を越えて岐阜県まで足を伸ばす富山地鉄最長の一般路線だった。当時から濃飛バスとの共同運行が行われており、特に濃飛担当便は当時から中型観光タイプの車で富山県内では停車する停留所を絞る「特急」バスとして運行されていた。[[2005年]][[7月10日]]、高速バスに準ずる現在の形態での運行を開始。[[2008年]]4月1日にはいったん全便が高山行に変更となる。平湯温泉方面へは代替として、途中の濃飛バス神岡営業所から[[奥飛騨温泉郷]]方面への路線バスに接続する形をとった。[[2010年]]4月より、富山 - 高山線の一部便の行先を変更することで、かつて実施されていた奥飛騨温泉郷方面へのバスの直通を復活させた。前述の神岡営業所からは高山方面への路線バスが接続する。[[2012年]][[4月1日]]に、富山 - 高山線については廃止し、富山 - 神岡間と富山 - 平湯温泉間の運行となった<ref name="chitetsu_haishi">{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.chitetsu.co.jp/bus_a/240401_haisi.pdf |title=路線バスの運行系統廃止について |publisher=富山地方鉄道 |date=2012-03-01 |accessdate=2012-03-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120509074438/http://www.chitetsu.co.jp/bus_a/240401_haisi.pdf |archivedate=2012年3月9日 |deadlinkdate=2020年3月}}</ref>。 2020年4月1日に、富山 - 平湯温泉間2往復(地鉄・濃飛各1往復)運行となったのち、2021年4月1日のダイヤ改正で濃飛バス担当便を含め路線廃止となった<ref>{{Cite web|和書|title=令和3年4月1日(木)乗合バスダイヤ改正【3/23追記】 {{!}} 富山地方鉄道株式会社 |url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=55011 |website=www.chitetsu.co.jp |accessdate=2022-02-02}}</ref>。 ; 運行経路 :* 富山駅前 - 総曲輪 - 富山市民病院前 - 西上袋 - [[富山空港]]前 - 笹津 - 猪谷 - [[茂住駅|茂住]] - 濃飛バス神岡営業所 - 旧[[奥飛騨温泉口駅]] - [[栃尾温泉]] - [[新穂高ロープウェイ]] - 栃尾温泉 - [[平湯バスターミナル|平湯温泉]] === 路線バス === <div style="text-align:right;float:right"> [[ファイル:Toyama-chitetsu bus 1.jpg|thumb|200px|none|新塗色]] [[ファイル:Toyama-chitetsu bus 2.jpg|thumb|200px|none|旧塗色(両側)と新塗色]] </div> 路線バス網は[[2005年]][[4月1日]]の合併前の[[富山市]]の市域のほぼ全体をカバーしており、一部の路線は旧市域の外へも伸びている。そのネットワークは[[富山駅]]正面口(南口)を中心としている。富山駅以外を発着する富山市および周辺市町村の路線バスはほとんどが公営バス・コミュニティバスになったが、一部の系統が地鉄バスの路線として残っている。 車体側面及び後部には平仮名で「せ」や「と」といった一文字が書かれているが、これは車両の所属する営業所を示したもので、前者は西部自動車営業所(同市牛島本町)、後者は東部自動車営業所(同市双代町)を指す。ほかに[[黒部市|黒部]]自動車営業所「く」、[[八尾町|八尾]]自動車営業所「や」がある。現在富山市の両営業所は統合し、東部が名前を改める形で富山自動車営業所となっているが、現在も車体の表記は変わっていない。 路線名は運賃表<ref name="fare">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?page_id=12557 |title=路線バス:運賃の検索 |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2022-07-07}}</ref>によるが、発地や一部の経由地は省略している。23、31、67系統は、他の路線の運行が終了した平日23時に富山駅前発の「スターライトバス」(深夜料金不要)を運行していた路線である。 ==== 系統番号 ==== 富山駅前を発着または経由する各路線には2桁(またはかつては1桁)の系統番号が付されており、行き先が富山駅から見た方位により番号の十の位が決まる。一の位は今の系統システムが導入された際に路線の長い順等で決められたが、現在は路線の改廃が進んでいるため新規路線には廃止で欠番となった番号が充てられている。 以下に各番台の分類について述べる。 * {{Bgcolor|yellow|10}}:富山大学前方面 * {{Bgcolor|orange|20}}:有沢方面 * {{Font color|white|green|30}}:市民病院方面 * {{Color|green|40}}:南富山方面 * {{Color|red|50}}:大泉駅前方面 * {{Font color|white|black|60}}:石金方面 * {{Color|blue|70}}:荒町経由(西町経由は色が反転する) * {{Color|orange|80}}:永楽町方面 ** [[富山ライトレール]]の開業に伴い廃止となった並行路線の浜黒崎東口線、[[蓮町(馬場記念公園前)駅|蓮町]]・四方線も80番台に属した。 * 90:石坂方面 ==== 高岡線 ==== * {{Bgcolor|yellow|10}}:富山駅前 - [[富山大学]]前 - 呉羽 - [[富山短期大学]]前 - 小杉 - 大門口 - 高岡駅前 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 小杉線 ==== * {{Bgcolor|yellow|10}}:富山駅前 - 富山大学前 - 呉羽 - 富山短期大学前 - [[小杉駅 (富山県射水市)|小杉駅前]] 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 小杉経由新湊線 ==== * {{Bgcolor|yellow|11}}:富山駅前 - 富山大学前 - 小杉 - 作道 - 姫野 - [[新湊市|新湊]]車庫前(平日朝上り1便は、富山短期大学経由) ==== 布目経由新港東口線 ==== * {{Bgcolor|yellow|14}}:赤十字病院←富山駅前 - 富山大学前 - 布目 - 四方口 - 練合 - [[新港東口駅|新港東口]] ** 富山地鉄北斗バス担当であった。 ** 赤十字病院への乗り入れは午前中に運行される富山駅方面の一部便のみ。 ** 2022年4月1日:国立高専射水経由新港東口線を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 国立高専射水線 ==== * {{Bgcolor|yellow|14}}:富山駅前 - 富山大学前 - 布目 - 四方口 - 国立高専射水 ** 2022年4月1日:前述の国立高専射水経由新港東口線に代わる形で新設<ref name="220401kaisei"/>。 * 富山駅北口 - 中島 - 東富山駅前 - 草島 - 田町 - 国立高専射水(富山駅北口-国立高専射水線) ==== 布目経由四方線 ==== * {{Bgcolor|yellow|14}}:富山駅前 - 富山大学前 - 布目 - 四方口 - 四方神明町 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 北代循環線 ==== 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 * {{Bgcolor|yellow|15}}:富山駅前→富山大学前→北代→長岡公民館前→石坂→富山駅前→音羽町→中央病院(富山大学前から94) * 94:中央病院→音羽町→富山駅前→石坂→長岡公民館前→北代→富山大学前→富山駅前(長岡公民館前から{{Bgcolor|yellow|15}}) ** 94系統を掲示する代わりに、9系統(音羽町を経由していた廃止路線の番号)を掲示する場合がある。 ==== 富大附属病院・朝日循環線 ==== * {{Bgcolor|yellow|16}}:富山駅前 - 富山大学前 - 金屋 - [[富山市ファミリーパーク|ファミリーパーク]] - [[富山大学附属病院|富大附属病院]] - 朝日 - 金屋 - 富山大学前 - 富山駅前(←午後/午前→) 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 五福経由ファボーレ線 ==== * {{Bgcolor|yellow|17}}:富山駅前←富山大学前←金屋←ファボーレ ** 2019年10月1日:新設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=38434 |title=令和元年10月1日(火)路線バスのダイヤ改正について |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2022-07-07}}</ref>。 ** 2023年5月1日:廃止。 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 富山短期大学線 ==== * {{Bgcolor|yellow|19}}:富山駅前 - 富山大学前 - 呉羽山公園 - 追分口 - 呉羽 - [[富山短期大学]] * 富山駅前→石坂→百塚→富山短期大学(石坂経由富山短期大学線) * 小杉駅前 - 小杉 - 老田口 - 富山短期大学(小杉~富山短期大学線) 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 全ての系統が学休日運休。 ==== 山田線 ==== * {{Bgcolor|orange|21}}:富山駅前 - 有沢 - [[速星駅|速星]] - 長沢 - [[山田村 (富山県婦負郡)|山田]]行政センター ** 2022年4月1日:牛岳温泉健康センター線を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 牛岳温泉健康センターまで運行していた時代も、冬季には全便が山田行政センター折り返しとなっていた。 ==== 熊野経由八尾線 ==== * {{Bgcolor|orange|23}}:富山駅前 - 有沢 - 速星 - 熊野 - 黒田 - [[八尾町|八尾]]鏡町 ==== 堤防経由八尾線 ==== * {{Bgcolor|orange|24}}:富山駅前 - 有沢 - 轡田 - 萩の島口 - 黒田 - 八尾鏡町 ==== 速星線 ==== * {{Bgcolor|orange|26}}:富山駅前 - 有沢 - [[フューチャーシティ・ファボーレ|ファボーレ]]前 - 速星(ファボーレ経由速星線) * {{Bgcolor|orange|27}}:富山駅前 - 有沢 - 下轡田 - 速星 - 速星二区 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 国立富山病院線 ==== * {{Bgcolor|orange|28}}:富山駅前 - 有沢 - 速星 - 長沢 - 国立富山病院 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 萩の島線 ==== * {{Bgcolor|orange|29}}:赤十字病院 - 富山県美術館 - 富山駅前 - 有沢 - ファボーレ前 - 蔵島 - 熊野 - 富山駅前 - 富山県美術館 - 赤十字病院(ファボーレ経由萩の島線) ** 2022年4月1日:全便を赤十字病院まで延伸<ref name="220401kaisei"/>。 富山駅前ロータリーの6番乗り場より出て、有沢を経由し南西に向かう路線。 ==== 猪谷線 ==== * {{Font color|white|green|31}}:富山駅前 - 富山市民病院前 - 最勝寺 - 上大久保 - 笹津 - [[猪谷駅|猪谷]] ** 2022年4月1日:赤十字病院−猪谷線を廃止<ref name="220401kaisei">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=60201 |title=令和4年4月1日(金)乗合バスダイヤ改正 |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2022-07-07}}</ref>。 ==== 笹津線 ==== * {{Font color|white|green|31}}:富山駅前 - [[富山市立富山市民病院|富山市民病院]]前 - 最勝寺 - 上大久保 - 笹津 ** 2022年4月1日:赤十字−笹津線を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 笹津春日温泉線 ==== * {{Font color|white|green|32}}:赤十字病院 - 富山県美術館 - 富山駅前 - 富山市民病院前 - 最勝寺 - 上大久保 - [[笹津駅]]前 - 笹津春日温泉 ** 赤十字病院への乗り入れに伴い、一部便を除いて「赤十字病院-笹津春日温泉線」として運行されている。 ==== 富山空港経由総合運動公園・防災センター線 ==== * {{Font color|white|green|36}}:富山駅前 - 富山市民病院前 - 富山空港前 - 中坪口 - 総合運動公園 - 富山県広域消防防災センター ** 2022年4月1日:健康パーク経由総合運動公園線・健康パーク経由防災センター線を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 富山空港・成子経由八尾線 ==== * {{Font color|white|green|36}}:富山駅前 - 富山市民病院前 - 富山空港前 - 中坪口 - 吉倉 - 成子 - 八尾鏡町 西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 富山空港線 ==== {{Main|富山空港連絡バス#富山駅・富山市中心部発着便}} 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 富山空港へは富山駅前ロータリー6番乗り場より直行便・各停便の2種類がほぼ半々の割合で発着する。直行便は2012年に[[東京空港交通]]より転籍した専用車両で運行される。各停便は富山空港経由総合運動公園・防災センター線と富山空港・成子経由八尾線である。 ==== 坂本二区線 ==== * {{Font color|white|green|38}}:富山駅前 - 富山市民病院前 - 最勝寺 - 上大久保 - [[富山市立大沢野中学校|大沢野中学校]]口 - 坂本二区 ** 2022年4月1日:赤十字病院−坂本二区線を廃止し、新たに富山−坂本二区線を設定<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 新保企業団地線 ==== * {{Font color|white|green|39}}:富山駅前 - 市民病院前 - 西上袋 - 最勝寺 - 安養寺 - 新保企業団地 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 若竹町経由笹津線 ==== * {{Color|green|40}}:富山駅前 - 富山市民病院口 - [[南富山駅]]前 - 上袋 - 若竹町 - 上大久保 - 笹津 ==== 辰尾団地線 ==== * {{Color|green|41}}:富山駅前 - 富山市民病院口 - 南富山駅前 - 上袋 - 若竹町 - 宮保 - 辰尾団地(一部の便は富山市民病院経由) 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 富山国際大学線 ==== * {{Color|green|43}}:富山駅前 - 富山市民病院口 - 南富山駅前 - 下堀 - [[開発駅]]前 - 開発 - 福沢口 - [[富山国際大学]](一部の便は富山市民病院経由) 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 月岡西緑町停留所では[[デマンドバス]]方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に、パソコンや停留所の端末で予約をすることで、43・44系統にも乗車可能である。 ==== 福沢線 ==== * {{Color|green|44}}:富山駅前 - 富山市民病院口 - 南富山駅前 - 下堀 - 開発駅前 - 月岡団地 - 月岡小学校前 - 福沢口 - 福沢 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 全便が月岡団地経由の「月岡団地経由福沢線」として運行されている。 月岡西緑町停留所では[[デマンドバス]]方式を導入している。同停留所発着の45系統以外に43・44系統にも乗車可能である。 ==== 月岡西緑町線 ==== * {{Color|green|45}}:富山駅前 - 富山市民病院口 - 南富山駅前 - 下堀 - 開発駅前 - 月岡団地 - 月岡小学校前 - 月岡西緑町 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 興人団地〜国立高専線 ==== * {{Color|green|46}}:興人団地→富山駅前 - 市民病院口 - [[朝菜町駅]]前 - 堀 - [[富山高等専門学校|国立高専]]前 * {{Color|green|47}}:興人団地→富山駅前→市民病院口→下堀→堀→国立高専前(休日は運休) * {{Color|orange|88}}:興人団地←富山駅前←市民病院口←[[朝菜町駅]]前←堀←[[富山高等専門学校|国立高専]]前 {{Color|orange|88}}系統となるのは興人団地行きのみで、国立高専前発の富山駅前止まりは{{Color|green|46}}系統である。 ==== 大泉経由五百石線 ==== * {{Color|red|50}}:富山駅前 - 大泉西部 - [[大泉駅 (富山県)|大泉駅]]前 - 高原西口 - 日置 - [[五百石駅]]前 ==== 高原〜不二越線 ==== * {{Color|red|51}}:富山駅前 - 西公文名 - 大泉駅前 - 高原西口 - 不二越12丁目 - 東長江 * {{Font color|white|black|61}}:高原西口→不二越12丁目→東長江→石金→富山駅前 ==== 不二栄町線 ==== * {{Color|red|52}}:富山駅前→西公文名→大泉駅前→不二栄町→山室→大泉駅前→西公文名→富山駅前(不二栄町循環) ** 2020年4月1日:不二栄町−赤十字病院線を廃止し、富山駅前発着となる<ref name="200401kaisei">{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=47883 |title=2020年4月1日(水)乗合バスダイヤ改正について |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2022-07-07}}</ref>。 ==== 石金経由五百石線 ==== * {{Font color|white|black|60}}:富山駅前 - 石金 - 町村 - 大島 - 日置 - 五百石駅前 ==== 石坂〜中央病院線 ==== * {{Font color|white|black|62}}:石坂 - 畑中 - 富山駅前 - 石金 - 中央病院 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 流杉線 ==== * {{Font color|white|black|64}}:赤十字病院 - 富山県美術館 - 富山駅前 - 石金 - 不二越正門前 - 高原西口 - 山室荒屋 - 流杉病院 ** 2022年4月1日:赤十字病院−流杉病院線を新設、一部便を除いて赤十字病院まで乗り入れ<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 西の番線 ==== * {{Font color|white|black|65}}:富山駅前 - 石金 - 高原西口 - 太田 - 城村 - [[富山霊園富山市斎場|富山斎場]]前 * {{Font color|white|black|66}}:富山駅前 - 石金 - 高原西口 - 太田 - 城村 - 大場(大場線) * {{Font color|white|black|65}}・{{Font color|white|black|66}}:富山駅前 - 石金 - 高原西口 - 太田 - 城村 - 大場 - 富山斎場前(大場経由西の番線) 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 65系統は大半の便が大場経由で「65・66系統」として運行される。 ==== 藤の木循環線 ==== * {{Font color|white|black|67}}:富山駅前→石金→町村→金代→藤の木小学校前→町村→富山駅前 ** 2020年4月1日:藤の木循環−赤十字病院線を廃止し、富山駅前発着となる<ref name="200401kaisei"/>。 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 富山駅前8番乗り場より出て、石金を経由し南東へ向かう路線。 ==== 水橋経由滑川線 ==== * {{Color|blue|71}}:富山駅前 - [[荒町停留場|荒町]] - [[東新庄駅|新庄]]新町 - [[水橋駅|水橋]]口 - [[中滑川駅|中滑川]] - [[滑川駅]]前 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 水橋東部団地線 ==== * {{Color|blue|72}}:富山駅前 - 荒町 - 新庄新町 - 針原新町 - 水橋口 - 水橋東部団地 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 荏原線 ==== * {{Font color|white|blue|73}}:富山駅前→西町→新庄新町→[[越中荏原駅|荏原]]→新庄新町→富山駅前(循環) 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 上飯野団地経由東高校線 ==== * {{Font color|white|blue|76}}:富山駅前 - 西町 - 新庄新町 - 上飯野団地 - [[済生会]]病院 - [[富山県立富山東高等学校|東高校]]前 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 荒町経由ケアハウス線 ==== * {{Color|blue|77}}:富山駅前←荒町←新庄新町←向新庄口←針原新町←宮成口←ケアハウスとやま前 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 西町経由針原線 ==== * {{Font color|white|blue|77}}:富山駅前 - 西町 - 新庄新町 - 向新庄口 - 針原新町 - 針原 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== ケアハウス経由済生会病院線 ==== * {{Font color|white|blue|78}}:富山駅前 - 西町 - 新庄新町 - 向新庄口 - [[富山県運転教育センター|運転教育センター]] - 済生会病院 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 一部ケアハウスとやま前を経由する便がある。 ==== 済生会病院経由水橋東部団地線 ==== * {{Font color|white|blue|79}}:富山駅前 - 西町 - 新庄新町 - 向新庄口 - 運転教育センター - 済生会病院 - 水橋東部団地 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 中央病院〜リハビリセンター線 ==== * {{Color|orange|81}}:中央病院 - 富山駅前 - 下赤江 - 豊若町 - 済生会病院 - 県リハビリセンター 永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は{{Font color|white|black|62}}系統を掲示する。 ==== 下赤江経由東高校線 ==== * {{Color|orange|82}}:富山駅前←荒町←稲荷元町←下赤江←豊若町←東高校前 ==== 中央病院〜犬島米田線 ==== * {{Color|orange|84}}:中央病院→富山駅前→下赤江→豊田本町一丁目→米田すずかけ台→豊若町→下赤江→富山駅前→中央病院(米田すずかけ台からは{{Color|orange|80}}系統) 永楽町→富山駅前→中央病院・中央病院→清水町間は{{Font color|white|black|62}}系統を掲示する。 朝に豊田本町1丁目始発、夜に豊若町終着便あり。 富山営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 八幡経由四方線 ==== * 90:四方神明町→八幡→追分→石坂→五福末広町→富山駅前 * 90:富山まちなか病院 - 総曲輪 - 富山駅前 - 畑中 - 石坂 - 追分 - 八幡 - 四方神明町(富山まちなか病院-八幡経由四方線) ** 2022年4月1日:総曲輪−八幡経由四方線を廃止<ref name="220401kaisei"/>。 ==== 八幡経由草島線 ==== * 90:草島→八幡→追分→石坂→五福末広町→富山駅前 ==== 布目・石坂経由新湊東口線 ==== * 91:新港東口→四方口→布目→百塚→石坂→五福末広町→富山駅前→赤十字病院 * 91:新港東口→四方口→布目→百塚→石坂→畑中→富山駅前→総曲輪 ==== 布目・石坂経由四方線 ==== * 91:四方神明町→布目→百塚→石坂→五福末広町→富山駅前 かつては富山地鉄北斗バス担当、合併後は西部営業所の管轄である<ref name="fare"/>。 ==== 新桜谷町線 ==== * 92:新桜谷町 - [[富山大学教育学部附属中学校|附属学園]]前 - 畑中 - 富山駅前 - 石金 - 中央病院 ==== 呉羽山老人センター ==== * 92:呉羽山老人センター - [[富山大学教育学部附属中学校|附属学園]]前 - 畑中 - 富山駅前 - 石金 - 中央病院(五艘〜中央病院線) ==== 不二越〜石坂線 ==== * 93:高原西口→不二越12丁目→石金→富山駅前→畑中→石坂 ==== フィーダーバス ==== [[ファイル:Iwasehama-sta_and_feeder-bus.jpg|right|thumb|200px|フィーダーバスと電車(2008年5月10日 [[岩瀬浜駅]])]] 富山港線の[[蓮町(馬場記念公園前)駅]]・[[岩瀬浜駅]]に接続するフィーダーバス2路線を運行している。 * 四方・草島ルート:[[蓮町(馬場記念公園前)駅|蓮町]] - 草島 - 荒屋 - 四方神明町 * 岩瀬・大広田・浜黒崎ルート:[[岩瀬浜駅|岩瀬浜駅前]] - 日方江 - 浜黒崎浜通り - 水橋漁港前 ** 2006年4月の富山港線の移管開業に合わせて、富山市が試験的に運行を開始した。 ** 2007年4月から本格運行となり、運行主体が[[富山ライトレール]]に移管された。なお、実際の運行は一貫して、富山地方鉄道に委託されていた。 ** 2020年2月に富山ライトレールを吸収合併し、運行主体も富山地方鉄道となった。 ==== 国際大付属高校線 ==== * 八尾コース:八尾駅 - 国立富山病院口 - 速星 - イノベーションパーク - 国際大付属高校 * 杉原コース:大杉 - 萩の島 - 速星 - イノベーションパーク - 国際大付属高校 * 南富山ルート:本郷町五区 - 南富山駅前 - 富山市民病院口 - 旅篭町 - 富山大学前 - 呉羽 - 国際大付属高校 * 大沢野ルート:大沢野行政センター前 - 最勝寺 - 富山市民病院前 - 総曲輪 - 富山大学前 - 呉羽 - 国際大付属高校 * 東富山ルート:米田すずかけ台 - 岩瀬浜駅前 - 草島 - 四方口 - 布目 - 八町口 - 国際大付属高校 * 高岡ルート:新高岡駅 - 井口本江 - 大門総合会館前 - 小杉駅前 - 国際大付属高校 ==== 歌の森小学校線 ==== * 北野 - 黒河 - [[射水市立歌の森小学校|歌の森小学校]]前 * 太閤山東住宅前→歌の森小学校前(射水市)※片道運行 ==== 八尾高校線 ==== * 最勝寺→安養寺→塩→[[富山県立八尾高等学校|八尾高校]](富山市) * 大沢野行政センター→塩→八尾高校 * 最勝寺←安養寺←大沢野行政センター←塩←八尾高校 ==== 大森線 ==== * 五百石駅前 - 大清水 - 西大森 - 一夜泊(立山町) ==== 蔵本団地線 ==== * 五百石駅前←[[立山町立雄山中学校|雄山中学校]]前←[[富山県立雄山高等学校|雄山高校]]前←蔵本新(立山町) ==== 黒部営業所の路線 ==== 富山県東部の各市町村でも移管・廃線が進んでいるが、[[電鉄魚津駅]]・[[電鉄黒部駅]]を発着する以下の系統が存在する。[[2011年]][[10月1日]]より運行社会実験として一部路線のルート変更が行われている。 ===== 桜井高校線 ===== * 黒部駅前 - [[富山県立桜井高等学校|桜井高校]] ===== 池尻線 ===== * 黒部駅前 - 電鉄黒部駅前 - メルシー - 田家新 - 尾山 - 池尻 ===== 東蔵線 ===== * 電鉄魚津駅前 - [[魚津駅]]前 - [[富山労災病院|労災病院]]前 - 横枕 - 東蔵 ===== 黒沢・大沢線 ===== * 電鉄魚津駅前 - 魚津駅前 - [[富山県立新川みどり野高等学校|新川みどり野高校]] - [[金太郎温泉]]前 - 黒沢 - 大沢 ===== 生地循環線 ===== *1 電鉄黒部駅前→生地駅→電鉄黒部駅前→黒部駅前 *2 黒部駅前→電鉄黒部駅前→生地駅→電鉄黒部駅前→黒部駅前→道の駅KOKOくろべ *3 道の駅KOKOくろべ→黒部駅前→電鉄黒部駅前→生地駅→電鉄黒部駅前→黒部駅前→道の駅KOKOくろべ *4 黒部駅前→電鉄黒部駅前→たなかや前→生地駅→たなかや前→電鉄黒部駅前→黒部駅前 *5 黒部駅前→電鉄黒部駅前→たなかや前→生地駅→たなかや前→電鉄黒部駅前 *6 道の駅KOKOくろべ→黒部駅前→電鉄黒部駅前→たなかや前→生地駅→たなかや前→電鉄黒部駅前→黒部駅前→KOKOくろべ ** 2022年4月1日:道の駅KOKOくろべまで延伸<ref name="220401kaisei"/>。 ===== 南北循環線 ===== * 黒部駅前 - メルシー - 電鉄黒部駅前 - 金屋 - 生地駅 * 黒部駅前 - 電鉄黒部駅前 - 中新 - 生地駅 ===== 新幹線市街地線 ===== * 黒部駅前 - 電鉄黒部駅前 - 三日市 - コラーレ前 - [[黒部宇奈月温泉駅]] ==== 夏山バス ==== 夏季限定で運行される、登山・行楽客をターゲットとした路線。 * 富山駅前 - [[有峰口駅|有峰口]] - 亀谷温泉 - 有峰記念館 - 折立 * 富山駅前 - 富山空港 - [[室堂駅|室堂]] ==== 市内周遊ぐるっとBUS ==== {{Main|ぐるっとBUS}} * 富山市市街地の[[美術館]]・[[博物館]]・観光施設を巡る有料周遊バス([[2015年]]4月1日より運行) * 周遊ルートは北西回りルート・南回りルートの2ルートがあるが一体で循環運行されており、[[富山駅]](南口)前を起点に、1時間間隔で各ルート毎日計6便運行。 ==== 富山ぶりかにバス ==== [[ファイル:Toyama Chitetsu Bus Toyama Buri Kani Bus HIACE H200.jpg|200px|right|thumb|富山ぶりかにバスのハイエース]] * 富山駅南口 - (新湊大橋) - [[新湊きっときと市場]] - 川の駅新湊 - ([[雨晴海岸]]) - 氷見漁港 - ひみ番屋街([[道の駅氷見]]) 富山駅から射水市・氷見市を結ぶ観光路線バス。北陸新幹線開業に先立って2013年10月5日に実証運行を開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.toyama.jp/cms_pfile/00012985/01001868.pdf|format=PDF|title=観光路線バス「富山ぶりかにバス」「世界遺産バス」の運行について|publisher=富山県観光課|date=2013-08-21|accessdate=2019-07-03}}</ref>、運行時期によっては富山空港発着便も設定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toyama-airport.jp/421|title=空港発着「富山ぶりかにバス」運行~富山湾の冬の味覚を味わおう!|publisher=富山空港ターミナルビル|date=2015-09-24|accessdate=2019-07-03}}</ref>。基本的に観光バスタイプの車両で運行されるが、予約の少ない日は小型車両で運行されることがある。ぶりかにバス専用のフリーきっぷが設定されていて、指定店舗での買い物優待を受けることができる。終点のひみ番屋街では加越能バス「わくライナー」(高岡 - 和倉温泉)に乗り継ぐことができる。 2022年4月1日から当面の間、休止<ref name="220401kaisei"/>。 {{-}} ==== スカイバス富山 ==== [[ファイル:Hinomaru-Toyama Chitetsu OP-21 Sky Bus Toyama and Shinminato Bridge 2018.jpg|200px|right|thumb|スカイバス富山・射水コース(2018年運行当時)]] [[ファイル:Hinomaru-Toyama Chitetsu OP-21 Sky Bus Toyama and Toyama Castle Park 2019.jpg|200px|right|thumb|スカイバス富山・富山市内コース(2019年運行当時)]] [[ファイル:Hinomaru-Toyama Chitetsu OP-06 Sky Bus Toyama at Alpen Route snow wall 2023.jpg|200px|right|thumb|スカイバス富山・アルペンルートコース(2023年運行当時)]] 2018年より冬期を除いて[[日の丸自動車興業]]「スカイバス東京」の[[オープントップバス]]をスポットで借り入れて運行している。「SKY BUS TOYAMA」とも称する<ref name=":3">{{Cite news|和書 |title=オープンバス 春風が運ぶよ 富山地鉄が運行 |newspaper=中日新聞 |date=2023年4月22日 |author=鈴木捗太 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/676771 |access-date=2023年4月22日}}</ref>。 '''射水コース'''は[[世界で最も美しい湾クラブ]]に加盟する富山湾の魅力を発信する取り組みの一つとして企画され、2018年10月12日から10月16日に[[ネオプラン・スカイライナー]]を借り入れて射水市の新湊きっときと市場 - [[新湊大橋]]を往復するコースで運行された<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36133940U8A001C1LB0000/|title=オープンバス富山湾体感 富山地鉄、12日から運行|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2018-10-04|accessdate=2019-08-11}}</ref>。富山市内コース設定後は10月の特定日に運行され、2019年10月13日から22日、2020年10月22日から25日、2021年10月21日から24日、2022年10月20日から23日、2023年10月19日から22日に運行された。 '''富山市内コース'''は2019年5月23日に富山県内で開催された日台観光サミットの開幕に併せて5月22日より6月30日まで富山市内を周回する[[定期観光バス]]として運行<ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000019316|title = 地鉄が5、6月にオープンバス 富山市内を周遊|newspaper= 北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ|agency=北日本新聞 |date=2019-04-28|accessdate = 2019-08-11}}</ref>、8月9日から9月3日、10月9日から31日にも再度運行され、以降2023年まで毎年運行されている。2020年は9月18日から11月1日<ref>{{Cite news|url=https://webun.jp/item/7695150|title=普段と違う富山の風景満喫「スカイバス富山」運行開始|newspaper=北日本新聞|date=2020-09-18|accessdate=2020-09-18}}</ref>、2021年は4月23日から6月13日、10月1日から10月31日に運行され<ref>{{Cite news|url=https://webun.jp/item/7750651|title=スカイバス 眺め最高 富山市中心部で運行開始|newspaper=北日本新聞|date=2021-04-23|accessdate=2021-05-22}}</ref>、2022年は4月22日から6月21日、9月16日から10月30日に運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2021/09/23ef43c05cfb54a32d14d755eee5d680.pdf|title=スカイバス富山「富山市内コース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|date=2022-04-14|accessdate=2022-04-16}}</ref>。(車両整備、射水コース運行、[[富山マラソン]]開催に伴う運休日あり)。2023年4月22日から6月11日<ref name=":3" />、9月15日から10月29日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2023/09/8d6cf84d2f3546bbc961d8cf51c6535a.pdf|title=スカイバス富山「富山市内コース/射水コース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-09}}</ref>。 '''アルペンルートコース'''は2021年の[[立山黒部アルペンルート]]50周年を記念して企画され、5月21日より5月30日まで運行。車窓から雪の大谷を楽しむコンセプトで、[[立山町]]にある[[立山有料道路]]の[[室堂駅|室堂ターミナル]]から国見駐車場を往復した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/8548890e4d76555cbcf9e58de9a63792.pdf|title=スカイバス富山「アルペンルートコース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2021-05-22}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://webun.jp/item/7755664|title=雪の大谷見上げる 富山地鉄、21日から屋根のないバス運行|newspaper=北日本新聞|date=2021-05-13|accessdate=2021-05-22}}</ref>。前日の5月20日には送り込みを兼ねて富山駅→室堂ターミナル、最終日の5月30日には戻り便として室堂ターミナル→富山駅でも営業運転を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=56383|title=スカイバス富山「富山-室堂直通バス」の運行について|publisher=富山地方鉄道|date=2021-05-10|accessdate=2021-05-22}}</ref>。富山市内コースと運行期間が重なるため、アルペンルートコース専用に[[ネオプラン・スペースライナー]]を借り入れた。2022年は5月13日から22日までの運行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2021/05/9aa2f506f743de9d662c43a5fdf04de3.pdf|title=スカイバス富山「アルペンルートコース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-16}}</ref>に加えて夏にも設定され、8月5日から14日まで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/wp-content/uploads/2022/04/0581db0cd2bc85b4e38b6d6f302d5bfe.pdf|title=スカイバス富山「アルペンルートコース」|format=PDF|publisher=富山地方鉄道|date=2022-07-21|accessdate=2022-07-27}}</ref>。 2023年は5月12日から21日まで運行された<ref>{{Cite tweet|author=スカイバス東京(日の丸自動車興業株式会社)|user=SKYBUS_TOKYO|number=1650687085513420800|title=令和5年5月12日(金)~5月21日(日) 期間で今年もアルペンルートでのスカイバスの運行決定!|date=2023-04-25|accessdate=2023-05-16}}</ref>。 このほか下記のような期間限定コースが運行された。 * 夕涼みスカイバス:2019年7月1日より8月5日まで平日の夕方に富山市内を周回。[[企画旅行#募集型企画旅行|募集型企画旅行]]扱いで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=42472|title=夕涼みスカイバス|publisher=富山地方鉄道|date=2019-06-21|accessdate=2019-07-02}}</ref>。 * ハイウェイ☆スカイバス:2019年7月8日から7月25日の平日日中に富山市内のショッピングモール「[[フューチャーシティ・ファボーレ]]」を基点に北陸自動車道の富山西インターチェンジ - 富山インターチェンジを経由する周回コースで運行された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=428012|title=ハイウェイ☆スカイバス|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2019-08-05}}</ref>。 * スカイバスde富山新港花火大会:2019年7月28日に開催された[[富山新港花火大会]]に併せて富山駅北口から新湊大橋経由で海王丸パークまで往復した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=42717|title=スカイバスde富山新港花火大会|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2019-08-05}}</ref>。 * スカイバスdeしんきろうロード:2019年7月29日から8月2日の日中に魚津市の[[魚津水族館]]を基点に[[富山県道2号魚津生地入善線]]「[[しんきろうロード]]」を走行した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chitetsu.co.jp/?p=42728|title=スカイバスdeしんきろうロード|publisher=富山地方鉄道|accessdate=2019-08-05}}</ref>。 === 運行受託 === ==== コミュニティバス ==== ; 現在の受託路線(2020年時点) : いずれも富山市内の路線。 :* [[まいどはや (バス)|まいどはや]] :* [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]][[富山ライトレール#バス事業|フィーダーバス]](2020年2月から直営化{{Refnest|group="注"|運行主体が富山ライトレール<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.toyama.toyama.jp/katsuryokutoshisouzoubu/kotsuseisakuka/chiikijishuunkobasu.html |title=地域自主運行バス |publisher=富山市 |accessdate=2020-08-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190523183351/https://www.city.toyama.toyama.jp/katsuryokutoshisouzoubu/kotsuseisakuka/chiikijishuunkobasu.html |archivedate=2019-05-23}}</ref>から富山地方鉄道<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.toyama.toyama.jp/katsuryokutoshisouzoubu/kotsuseisakuka/chiikijishuunkobasu.html |title=地域自主運行バス |publisher=富山市 |accessdate=2020-08-12}}</ref>に変更されている。}}) :* 堀川南地域コミュニティバス<ref>[https://www.city.toyama.toyama.jp/katsuryokutoshisouzoubu/kotsuseisakuka/horikawaminamichiikibasu.html 堀川南地域コミュニティバス] - 富山市活力都市創造部交通政策課</ref> :* 婦中コミュニティバス<ref>[https://www.city.toyama.toyama.jp/katsuryokutoshisouzoubu/kotsuseisakuka/fuchukomyuniti_2_2.html 婦中コミュニティバス] - 富山市活力都市創造部交通政策課</ref> :* [[呉羽いきいきバス]](富山地鉄北斗バスが運行) ; 過去の受託路線 : いずれも受託を取りやめ、事業者や運行形態が変更となっている。 :* [[射水市コミュニティバス]]([[射水市]]) :* [[魚津市民バス]]市街地巡回ルート([[魚津市]]) :* [[のらんマイ・カー]]([[下新川郡]][[入善町]]) ==== スクールバス ==== 2016年度より[[富山国際大学付属高等学校]]のスクールバスを運行。専ら生徒の登下校に合わせたダイヤだが、学校以外の各停留所間の運賃も設定されており、学校関係者以外の利用を排除しているわけではない。富山市、射水市、高岡市の各地域を起点として運行。 === 車両 === ==== 一般路線車 ==== [[File:Toyama Chitetsu Bus 162.jpg|right|thumb|200px|現行塗装]] [[File:Toyama Chitetsu Bus 540.jpg|right|thumb|200px|富山イメージリーダーバス、車体には略称のTLIBが記載されている。]] 以前は[[UDトラックス]](旧:日産ディーゼル工業)・[[三菱ふそうトラック・バス|三菱]]・[[日野自動車|日野]]の3社体制だった。日野の大型車「[[日野・ブルーリボン|ブルーリボン]]」および1980年代に導入された中型車「[[日野・レインボー|レインボー]]」については[[SUBARU|富士重工業]]がボディーを架装していて、前者は1996年式まで採用された。2008年に[[いすゞ自動車]]製が導入され、現在は4社体制となっている<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2019-07-29|title=バスマガジン vol.96|publisher=講談社・講談社ビーシー|pages=68}}</ref>。 1997年までは原則新車のみ導入してきたが、1998年以降は大手事業者からの[[中古車]]も導入されている。1998年から2000年にかけては高速バスの共同運行相手の[[西武バス]]や[[京阪バス]]から大量に導入していたが、最近は廃車などで少なくなっている。なお、西武バスからの譲渡車については2010年より再び導入されている。 2004年以降は[[神戸市営バス]]・[[大阪市営バス]]・[[姫路市企業局交通事業部|姫路市営バス]]・[[高槻市営バス]]・[[横浜市営バス]]などからも導入していたが、2010年後半以降は一部を除き[[神奈川中央交通]]からの中古車が大量に導入されている。2008年には、姫路市営バスから[[いすゞ・エルガミオ]][[ノンステップバス|ノンステップ]]が移籍してきたこのため、富山地鉄では久々に[[いすゞ自動車|いすゞ]]路線車が登場した。子会社の富山地鉄中央バスにも1台導入されたほか、同時に日産ディーゼル・RMノンステップ1台も増備されている。なお、2007年より統合車種である日野・レインボーIIノンステップも増備されているが、ヘッドライトが2灯式になっているため外観での区別は可能である。 大型車のサイズは10.2mクラスが多いが、1990年代には10.7m車も導入されている。西武バスからの中古車では10.7m車中心に導入され、かつては11m車も活躍していた。中型車は1980年代後半より黒部自動車営業所を中心に導入され、90年代以降は富山地区にも大型車と平行して本格的に増備された。 1997年ごろまで東部・黒部両自動車営業所が三菱車、西部自動車営業所が日野車、八尾自動車営業所が日産ディーゼル車に統一されていたが、中古車の導入や勤務ローテーションの変更などにより崩れている。 低床型バスは1997年より積極的に導入している。同年より[[三菱ふそう・エアロスター]]ワンステップ3台、1999年には日野・レインボーワンステップ2台を増備した。2000年よりノンステップバスの導入が開始され、2010年現在、子会社の富山地鉄中央バスを含みコミュニティバスを除くと41台を保有している。また、2006年の新車より液晶パネル式運賃表([[レシップ]]製)を採用している。 1996年に導入された新車より採用されているカラーは[[都営バス]]のカラー<ref group="注">[[:ファイル:Tobus T-X454 aerostar-K.jpg|参考画像]]</ref>(ノンステップバス導入以前のもの)を'''前後逆'''にしたものである。また、それ以前に[[1972年]]から[[1995年]]まで採用されていた白と水色の[[ストライプ]]調の塗装も、日野・ブルーリボンのカタログ車両のカラーリングを参考にしており、それがほぼそのまま採用されていた<ref name="busmaga96-46">{{Cite book|和書|author=|date=2019-07-29|title=バスマガジン vol.96|publisher=講談社・講談社ビーシー|pages=46}}</ref>。 2009年2月に新規納入された大型[[ノンステップバス]]2台(日産ディーゼル・スペースランナーRA 八尾自動車営業所所属)が富山イメージリーダーバス(以下、TILB)と称して[[立山]]の新雪と若い樹木をイメージした、白地に黄緑色の円が描かれた新しいデザインで登場している<ref name="busmaga96-46"/>。2010年3月にも前者およびUDトラックスからのOEM車種である三菱ふそう・エアロスター-S(AA系)がそれぞれ1台ずつ、2011年3月には三菱ふそうからのOEM車種であるUDトラックス・スペースランナーA(AP系)が導入されたが、2012年以降は三菱ふそう・エアロスターを増備している。先述のTILBに加え通常カラーの車両も導入されているほか、八尾自動車営業所に続き富山自動車営業所にもTILBが導入されるようになった。 路線バスの方向幕は系統によってそれぞれの塗り分けがなされているためか、[[発光ダイオード|LED]]式の方向幕を装備した車両は導入されていなかったが、2012年度の新車より採用された。ただし、高速バスには2004年の新車より採用している。また、子会社の加越能鉄道では1999年に導入された新車よりLED式方向幕を採用している。 ==== 高速路線車 ==== 長らく日産ディーゼルに統一されていたが、2008年以降は[[日野・セレガ]]や2012年以降からは[[三菱ふそう・エアロエース]]も導入されている。 ==== 貸切車 ==== いすゞを除く3メーカーを保有しており、日産ディーゼルを中心とした構成となっている。また、1985年にネオプラン・スカイライナーを富山地鉄観光と各1台<ref>{{Cite book|和書|author=|date=|title=富山地方鉄道70年史-この20年のあゆみ-|publisher=富山地方鉄道|pages=21}}</ref>、1992年から1999年にかけて[[ボルボ・アステローペ]]も大量に保有していたが2012年3月をもって全廃となった。子会社の富山観光バスではいすゞ車も保有していて、2008年には新型[[いすゞ・ガーラ|ガーラSHD]]も導入している。 三菱車は1992年式まで呉羽自動車製ボディーで導入されていた。エアロバスKとキュービックスタイルのサンシャインデッカーも活躍していたが、全車引退している。子会社の加越能鉄道でもエアロバスKやキュービックスタイルのサンシャインデッカーを導入していたが、後者は富山地鉄とほぼ同じ頃に全車引退している。 日産ディーゼル車は長年、富士重工業または[[西日本車体工業]]製ボディーで導入されていた。車種は[[日産ディーゼル・スペースアロー|スペースアロー]]をメインに同ショートタイプおよびスペースウイングを導入している。特に、2003年に富士重工がバス事業撤退のときに高速路線車とともに最終生産分を導入している。2009年には三菱ふそうからの[[OEM]]車種であるスペースアローA・同ショートタイプが導入されている。同時に三菱ふそう・エアロエース1台も導入され、外観での区別は困難であるが、ステアリングのマークで区別できる。 貸切バスの塗装はブラウンとオレンジの帯が配されたカラーリングが、若干の意匠変更がありながらも、[[1982年]]から採用され続けてきた。車両側面のロゴは当初「TOYAMA CHITETSU KANKO」になっていたが、1993年の新車より子会社の加越能鉄道と同じ[[筆記体]]表記となるとともにラインの細部が変更された。さらに、1997年の新車より大文字の「TOYAMA」のロゴに変更され現在の新グループ共通カラーにも採用されている。 [[2008年]]4月にグループ会社の[[加越能バス|加越能鉄道]]、富山観光バスと共に貸切バス受注部門を統合したことを契機に、同時期に新規納入された貸切バス(車両は[[三菱ふそう・エアロクイーン]]2台)からは、白色と桃色を基調とした新グループ共通カラーが採用された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chitetsu.co.jp/bus_c/index.html |title=貸切バス 車両紹介 |publisher=富山地方鉄道 |accessdate=2016-02-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081006155441/http://www.chitetsu.co.jp/bus_c/index.html |archivedate=2008年10月6日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。車両後部のロゴも「富山地鉄観光」から「TOYAMA」に変更されている。このような塗装変更は約28年ぶりである。同時に富山(旧東部)自動車営業所内に富山地鉄グループ観光バスセンターが設けられた。 今後、既存の車両も順次塗り替えを進め、2011年をめどにすべての車両の塗り替えを完了させる予定である。なお、高速バス車両はこれまでの塗装を引き続き採用している。 このほか、「富山ぶりかにバス」や「ぐるっとBUS」などで運用される[[トヨタ・ハイエース]]を保有する<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2019-07-29|title=バスマガジン vol.96|publisher=講談社・講談社ビーシー|pages=47}}</ref>。 == 企画乗車券 == 2020年3月21日現在。詳細は、公式サイトの「[https://www.chitetsu.co.jp/?page_id=897 乗車券一覧(鉄道・バス)]」を参照。 === 自社で発売する乗車券 === ; 鉄道線・市内電車1日フリーきっぷ : 地鉄電車全線([[富山地方鉄道富山軌道線|富山軌道線]]も含む)が1日乗り放題になる乗車券で、乗車期間によって夏季([[4月1日]]から[[11月30日]]まで)と冬季([[12月1日]]から[[3月31日]]まで)の2種類がある(販売価格が期間により異なる)。これとは別に地鉄電車が2日間乗り放題になる'''鉄道線・市内電車2日フリーきっぷ'''もある。このフリーきっぷには自由席特急料金も販売価格に含まれる。 ; 地鉄観光列車フリーきっぷ : 富山地方鉄道が運行する観光列車の乗車を目的にした乗車券。富山軌道線・[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]全線と[[富山地方鉄道本線|本線]]の電鉄富山駅 - [[上市駅]]間、[[富山地方鉄道立山線|立山線]]の[[寺田駅 (富山県)|寺田駅]] - [[岩峅寺駅]]間、[[富山地方鉄道不二越線|不二越]]・[[富山地方鉄道上滝線|上滝線]]の[[稲荷町駅 (富山県)|稲荷町駅]] - 岩峅寺駅間が1日乗り放題になる。自由席特急料金が販売価格に含まれる。 ; 富山軌道線が1日乗り放題になるフリーきっぷ : 富山軌道線・富山港線と富山駅前からのバス280円区間が乗り放題になる'''市内電車・バス1日ふりーきっぷ'''がある。2020年3月20日までは市内電車・バス1日ふりーきっぷでは富山港線は利用不可で、富山港線も乗り放題になる'''富山まちなか岩瀬1日ふりーきっぷ'''が別途発売されていた<ref>[https://chitetsu.exblog.jp/240182221/ 一部のフリーきっぷのデザインが新しくなります] - 富山地鉄の鉄道アテンダント日誌、2020年3月18日</ref>。またこれら以外にも、富山軌道線・富山港線全線が1日乗り放題で、[[鱒寿司|ます寿し]](8分の1切れ)・富山名物の[[和菓子]](一部)と交換できるクーポン2枚が付いた'''ぐるっとグルメぐりクーポン'''、クーポン5枚が付いた'''ぐるっとグルメぐりクーポンプラス'''も販売されている。 ; 年末年始ふりーきっぷ : {{See|年末年始ふり〜きっぷ}} ; 富山地方鉄道・アルペンルート5日間フリー乗車券 : 地鉄電車全線と[[立山黒部アルペンルート]]の[[立山駅]] - [[黒部湖駅]]間が5日間乗り放題になる乗車券で、立山黒部アルペンルートの運行期間に限って販売される。 ; くろワンきっぷ(黒部ワンコイン・フリーきっぷ)<ref>[http://www.kurowan.com/ くろワンきっぷ(黒部ワンコイン フリー切符)]</ref> : 黒部市内区間の利用促進を目的とした乗車券で、[[2007年]]から毎年春期と秋期に発売されている<ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000006346|title = 「くろワン」で黒部満喫 地鉄電車500円乗り放題|publisher = 北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2016-03-13|accessdate = 2018-10-08}}</ref>。1枚500円(大人)で、実施期間の土日祝日1日に限り黒部市内の[[電鉄石田駅]] - [[宇奈月温泉駅]]間と市内を走る一部の路線バスが乗り放題になる(利用できる路線バスは実施時期によって変動あり)。なお、[[2016年]]の秋期から実施日以外の平日のみ<ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000008445|title = 500円で一日乗り放題 黒部市の地鉄電車やバス|publisher = 北陸新幹線で行こう! 北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2016-09-30|accessdate = 2018-10-08}}</ref>、[[電鉄黒部駅]]と宇奈月温泉駅などで前売り販売する方式に変更している。 ; 宇奈月満喫きっぷ : 2023年に発売された地鉄電車とバスが30時間利用できるデジタルチケットで、スマートフォン[[アプリケーションソフトウェア|アプリ]]「my route」から購入が可能<ref name=":4">{{Cite news|和書 |title=デジタルチケットで宇奈月巡り 「満喫きっぷ」発売  |newspaper=中日新聞 |date=2023年4月21日 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/676107 |author=平井剛 |access-date=2023年4月22日}}</ref>。鉄道線全線が利用できる全線版と、鉄道線は新魚津駅 - 宇奈月温泉駅間のみが利用できる魚津・黒部版の2種類があり、いずれも黒部市内の路線バスが利用できる<ref name=":4" />。さらに一部施設では[[QRコード決済|QRクーポン]]や特典が利用可能となる<ref name=":4" />。 === 他社が販売する乗車券 === ; 立山黒部アルペンきっぷ<ref>[https://www.alpen-route.com/access_new/recommend-tickets/advance02.html 立山黒部アルペンルート アルペンきっぷ]</ref> : [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<ref>{{Cite press release|和書|url = https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/03/page_13984.html|title = 「立山黒部アルペンきっぷ」の発売について|publisher = 西日本旅客鉄道|date = 2019-03-13|accessdate = 2019-08-11}}</ref> と[[東海旅客鉄道]](JR東海)<ref>[https://railway.jr-central.co.jp/tickets/otoku_tateyamakurobe/ 立山黒部アルペンきっぷ] - 東海旅客鉄道</ref>が販売する乗車券で、いずれも立山黒部アルペンルートの運行期間に限って販売される。かつては[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)でも発売されていた。 : 発売箇所・経由路線・販売価格に違いはあるが、利用開始日から8日間乗り放題となる([[ゴールデンウィーク]]・[[お盆]]期間は利用不可)。富山地方鉄道での適用区間は、アルペンルートの一部となっている電鉄富山駅 - 立山駅<ref group="注">途中の稲荷町駅 - 岩峅寺駅間は寺田駅経由(本線・立山線)と南富山駅経由(不二越・上滝線)の2ルートがあるが、双方とも利用可能。</ref>の区間が対象となる。以前は寺田駅 - 宇奈月温泉駅間もフリー区間であったが、現在は電鉄富山・寺田・立山・宇奈月温泉の各駅でのアルペンきっぷ提示で同区間の往復乗車券の2割引販売となっている。 == 富山地鉄グループ == 富山地方鉄道を中心とした富山地鉄グループ(地鉄グループ)各社で、『おでかけ』『遊ぶ・楽しむ』『暮らしと安心』『泊まる』『グルメ・ショッピング』の5領域において交通事業やレジャー・観光事業、不動産事業などを網羅している。 以下を除き、全て富山地方鉄道の[[連結子会社]]である。 * 立山貫光ターミナル・[[立山黒部貫光]] - 富山地方鉄道の[[持分法]]適用[[関連会社]] === おでかけ === * 鉄道・市内電車・バス - 富山地方鉄道 === 遊ぶ・楽しむ === * 貸切バス - 富山地鉄グループ(富山地方鉄道・[[加越能バス]]) * 国内旅行・海外旅行 - 富山地鉄サービス・加越能バス * 航空旅行 - 富山地鉄サービス([[全日本空輸|ANA]]富山地区総代理店) * [[立山黒部アルペンルート]] - [[立山黒部貫光]] * [[黒部峡谷]] - 黒部観光開発([[黒薙温泉]]) * [[ボウリング]] - 富山地方鉄道([[富山地鉄ゴールデンボウル]]) * [[スポーツクラブ]] - 加越能バス(スポーツドーム・エアーズ) === 暮らしと安心 === * [[不動産]]販売・賃貸 - 富山地方鉄道 * [[生命保険]]・[[損害保険]] - 富山地鉄サービス・加越能バス・金沢ファミリー * [[車検]]・車両整備 - 富山地鉄自動車整備・加越能自動車整備 * [[建設]]・[[建築]] - 富山地鉄建設 * [[広告代理店]] - 富山地鉄サービス === 泊まる === * [[富山駅|電鉄富山駅]]前 - [[富山地鉄ホテル]] * 立山黒部アルペンルート - 立山黒部貫光(弥陀ヶ原ホテル・ホテル立山) * 黒部峡谷 - 黒部観光開発(黒薙温泉) === グルメ・ショッピング === * [[グルメ]] - 富山地鉄サービス(『旬和席 いちいち つう』) * ショッピング - 富山地方鉄道(電鉄富山駅ビル『エスタ』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み』(富山地方鉄道、1979年) * 『[[バスマガジン]] vol.96』([[講談社]]・[[講談社ビーシー]]、2019年) == 関連項目 == {{Commonscat |ページ名=Toyama Chiho Railway |タイトル=富山地方鉄道 |追加1=Toyama Chitetsu Bus |タイトル1=富山地鉄バス }} * [[ecomyca]] * [[RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ]] - 富山地方鉄道を舞台とした作品で、[[2011年]]に公開された。 * [[ビバ!クイズ]] - [[北日本放送]]のクイズ番組。富山地方鉄道が長年「地鉄グループ各社」のクレジットで協賛していた。 * [[宇奈月温泉事件]] * [[品川グループ]] - 戦前運営していたバス事業を旧富山電鉄自動車へ譲渡。 * [[名古屋鉄道]] - 1960年代に中古車の譲渡や特急「北アルプス号」の乗り入れなどを行なった。<!-- 「資本参加を持ち掛け、名鉄グループへの取り込みを画策していた」は要出典 --> * [[ひたちなか海浜鉄道]] - 富山地鉄出身者が社長を務める。 == 外部リンク == * [https://www.chitetsu.co.jp/ 富山地方鉄道株式会社]<!-- 「公式サイト」と表示するテンプレートは貼付しないこと --> * {{YouTube|channel=UCRgRu4yXUlnaHM0y6uchPqg|富山地方鉄道株式会社}} * {{twitter|t_chitetsu_ad|富山地鉄アテンダント}} * {{twitter|chitetsu_bus|地鉄バス}} {{ICOCA}} {{日本の路面電車}} {{戦時買収私鉄}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とやまちほうてつとう}} [[Category:富山地方鉄道|*]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:中部地方の乗合バス事業者]] [[Category:中部地方の貸切バス事業者]] [[Category:富山市の企業]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]<!-- 一部の路線が--> [[Category:株主コミュニティ組成企業]] [[Category:1943年設立の企業]]
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真庭郡
真庭郡(まにわぐん)は、1900年に成立した岡山県の郡。日本の郡で最も人口が少ない。 人口749人、面積67.11km2、人口密度11.2人/km2。(2023年6月1日、推計人口) 以下の1村を含む。 1900年(明治33年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1村のほか、下記の区域にあたる。
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真庭郡(まにわぐん)は、1900年に成立した岡山県の郡。日本の郡で最も人口が少ない。 人口749人、面積67.11km²、人口密度11.2人/km²。(2023年6月1日、推計人口) 以下の1村を含む。 新庄村(しんじょうそん)
{{Pathnav|日本|中国地方|岡山県|frame=1}} [[画像:Okayama Maniwa-gun.png|frame|岡山県真庭郡の位置(緑:新庄村 薄黄・後に他郡に編入された区域)]] '''真庭郡'''(まにわぐん)は、1900年に成立した[[岡山県]]の[[郡]]。日本の郡で最も人口が少ない。 {{郡データ換算|岡山県|新庄村}} 以下の1村を含む。 * [[新庄村]](しんじょうそん) == 郡域 == [[1900年]]([[明治]]33年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1村のほか、下記の区域にあたる。 * [[真庭市]]の大部分(阿口、五名、山田、宮地以南<ref>旧・[[上房郡]][[北房町]]。</ref>を除く) * [[久米郡]][[美咲町]](西) == 歴史 == * 明治33年([[1900年]])[[4月1日]] - [[郡制]]の施行のため、[[真島郡]]・[[大庭郡]]の区域をもって発足。以下の町村が所属。(3町28村) ** 旧・真島郡(2町19村) - '''[[勝山町 (岡山県)|勝山町]]'''、'''[[川西村 (岡山県)|川西村]]'''、'''[[月田村]]'''、'''[[一宮村 (岡山県真庭郡)|一宮村]]'''、'''[[落合町 (岡山県)|落合町]]'''、'''[[瀬田河村]]'''、'''[[天津村 (岡山県)|天津村]]'''、'''[[鹿田村 (岡山県真庭郡)|鹿田村]]'''、'''[[下方村 (岡山県)|下方村]]'''(現・真庭市)、'''[[船津村 (岡山県)|船津村]]'''(現・真庭市、久米郡美咲町)、'''[[上田村 (岡山県真庭郡)|上田村]]'''、'''[[美原村 (岡山県)|美原村]]'''、'''[[関川村 (岡山県)|関川村]]'''、'''[[富山村 (岡山県真庭郡)|富山村]]'''、'''[[井原村 (岡山県)|井原村]]'''、'''[[美甘村]]'''(現・真庭市)、'''[[新庄村]]'''('''現存''')、'''[[二川村 (岡山県)|二川村]]'''、'''[[川南村 (岡山県)|川南村]]'''、'''[[茅部村]]'''、'''[[八幡村 (岡山県)|八幡村]]'''(現・真庭市) ** 旧・大庭郡(1町9村) - '''[[久世町]]'''、'''[[徳田村 (岡山県)|徳田村]]'''、'''[[中和村 (岡山県)|中和村]]'''、'''[[県村 (岡山県)|県村]]'''、'''[[神湯村]]'''、'''[[樫野村]]'''、'''[[米来村]]'''、'''[[河内村 (岡山県)|河内村]]'''、'''[[大庭村 (岡山県)|大庭村]]'''、'''[[河陽村]]'''(現・真庭市) * 明治34年([[1901年]])4月1日(3町27村) ** 鹿田村・下方村が合併して'''[[木山村 (岡山県)|木山村]]'''が発足。 ** 久世町の一部(山久世)が一宮村に編入。 * 明治35年([[1902年]])4月1日(3町25村) ** 富山村・井原村が合併して'''[[富原村 (岡山県)|富原村]]'''が発足。 ** 徳田村および茅部村の一部(本茅部・西茅部・東茅部)が合併して'''[[川上村 (岡山県)|川上村]]'''が発足。 ** 県村および茅部村の残部(下見)が合併して'''[[八束村 (岡山県)|八束村]]'''が発足。 * 明治37年([[1904年]])[[6月1日]](3町19村) ** 川南村が久世町に編入。 ** 落合町・瀬田河村・天津村が合併し、改めて'''落合町'''が発足。 ** 船津村・上田村が合併して'''[[津田村 (岡山県真庭郡)|津田村]]'''が発足。 ** 美原村・関川村が合併して'''[[美川村 (岡山県真庭郡)|美川村]]'''が発足。 ** 八幡村・神湯村が合併して'''[[湯原町|湯原村]]'''が発足。 * 明治38年([[1905年]])[[9月1日]](3町17村) ** 樫野村・米来村が合併して'''[[美和村 (岡山県真庭郡)|美和村]]'''が発足。 ** 大庭村・河陽村が合併して'''[[川東村 (岡山県)|川東村]]'''が発足。 * 明治40年([[1907年]])[[5月1日]] - 勝山町・川西村・月田村・一宮村が合併し、改めて'''勝山町'''が発足。(3町14村) * [[大正]]12年([[1923年]])4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 * 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 * [[昭和]]15年([[1940年]])[[11月3日]] - 湯原村が町制施行して'''[[湯原町]]'''となる。(4町13村) * 昭和24年([[1949年]])4月1日 - 勝山町の一部(月田)が分立して'''[[月田村]]'''が発足。(4町14村) * 昭和30年([[1955年]]) ** [[1月1日]] - 落合町・津田村・木山村・美川村・河内村・川東村が合併し、改めて'''落合町'''が発足。(4町9村) ** 4月1日 - 勝山町・月田村・富原村が合併し、改めて'''勝山町'''が発足。(4町7村) ** [[4月29日]] - 久世町・美和村が合併し、改めて'''久世町'''が発足。(4町6村) * 昭和31年([[1956年]])[[9月30日]] - 湯原町・二川村が合併し、改めて'''湯原町'''が発足。(4町5村) * 昭和36年([[1961年]])[[10月1日]] - 落合町の一部(吉の一部<ref>現・久米郡美咲町西。</ref>)が[[久米郡]][[旭町 (岡山県)|旭町]]に編入。 * [[平成]]17年([[2005年]])[[3月31日]] - 勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村が[[上房郡]][[北房町]]と合併して'''[[真庭市]]'''が発足。(1村) === 変遷表 === {{hidden begin |title = 自治体の変遷 |titlestyle = background:lightgrey; }} {| class="wikitable" style="font-size:x-small" |- ! colspan="2" |明治33年4月1日 !明治33年 - 明治39年 !明治40年 - 昭和20年 !昭和21年 - 昭和29年 !昭和30年 - 昭和35年 !昭和36年 - 昭和63年 !平成1年 - 現在 !現在 |- | rowspan=10 | 旧[[真島郡]] | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | 新庄村 | style="background-color:#9cf;" | [[新庄村]] |- | style="background-color:#6ff;" | 落合町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 明治37年6月1日<br />落合町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 落合町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 落合町 | rowspan=12 style="background-color:#6ff;" | 昭和30年1月1日<br />落合町 | 昭和36年10月1日<br />久米郡<br />[[旭町 (岡山県)|旭町]]に編入 | | [[久米郡]]<br />[[美咲町]] |- | style="background-color:#9cf;" | 天津村 | rowspan=11 style="background-color:#6ff;" | [[落合町 (岡山県)|落合町]] | rowspan="31" | 平成17年3月31日<br />真庭市 | rowspan="31" | [[真庭市]] |- | style="background-color:#9cf;" | 瀬田河村 |- | style="background-color:#9cf;" | 下方村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治34年4月1日<br />木山村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 木山村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 木山村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鹿田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 美原村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治37年6月1日<br />美川村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 美川村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 美川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 関川村 |- | style="background-color:#9cf;" | 船津村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治37年6月1日<br />津田村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 津田村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 津田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 上田村 |- | rowspan="3" | 旧[[大庭郡]] | style="background-color:#9cf;" | 河陽村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治38年9月1日<br />川東村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 川東村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 川東村 |- | style="background-color:#9cf;" | 大庭村 |- | style="background-color:#9cf;" | 河内村 | style="background-color:#9cf;" | 河内村 | style="background-color:#9cf;" | 河内村 | style="background-color:#9cf;" | 河内村 |- | rowspan=7 | 旧真島郡 | style="background-color:#9cf;" | 美甘村 | style="background-color:#9cf;" | 美甘村 | style="background-color:#9cf;" | 美甘村 | style="background-color:#9cf;" | 美甘村 | style="background-color:#9cf;" | 美甘村 | style="background-color:#9cf;" | [[美甘村]] |- | style="background-color:#9cf;" | 富山村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治35年4月1日<br />富原村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 富原村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 富原村 | rowspan=7 style="background-color:#6ff;" | 昭和30年4月1日<br />勝山町 | rowspan=7 style="background-color:#6ff;" | [[勝山町 (岡山県)|勝山町]] |- | style="background-color:#9cf;" | 井原村 |- | style="background-color:#6ff;" | 勝山町 | style="background-color:#6ff;" | 勝山町 | rowspan="5" style="background-color:#6ff;" | 明治40年5月1日<br />勝山町 | rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | 勝山町 |- | style="background-color:#9cf;" | 川西村 | style="background-color:#9cf;" | 川西村 |- | style="background-color:#9cf;" | 月田村 | style="background-color:#9cf;" | 月田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 一宮村 | style="background-color:#9cf;" | 一宮村 |- | rowspan="2" | 旧大庭郡 | rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 久世町 | style="background-color:#9cf;" | (山久世)<br />明治34年4月1日<br />一宮村に編入 | style="background-color:#9cf;" | 昭和24年4月1日<br />分立<br />月田村 |- | style="background-color:#6ff;" | 久世町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 久世町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 久世町 | rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | 昭和30年4月29日<br />久世町 | rowspan="4" style="background-color:#6ff;" | [[久世町]] |- | 旧真島郡 | style="background-color:#9cf;" | 川南村 | style="background-color:#6ff;" | 明治37年6月1日<br />久世町に編入 |- | rowspan="3" | 旧大庭郡 | style="background-color:#9cf;" | 樫野村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治38年9月1日<br />美和村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 美和村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 美和村 |- | style="background-color:#9cf;" | 米来村 |- | style="background-color:#9cf;" | 神湯村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治37年6月1日<br />湯原村 | rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 昭和15年11月3日<br />湯原町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff;" | 湯原町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | 昭和31年9月30日<br />湯原町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff;" | [[湯原町]] |- | rowspan="2" | 旧真島郡 | style="background-color:#9cf;" | 八幡村 |- | style="background-color:#9cf;" | 二川村 | style="background-color:#9cf;" | 二川村 | style="background-color:#9cf;" | 二川村 | style="background-color:#9cf;" | 二川村 |- | 旧大庭郡 | style="background-color:#9cf;" | 県村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治35年4月1日<br />八束村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 八束村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 八束村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 八束村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | [[八束村 (岡山県)|八束村]] |- | rowspan="2" | 旧真島郡 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 茅部村 |- | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 明治35年4月1日<br />川上村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 川上村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 川上村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | 川上村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf;" | [[川上村 (岡山県)|川上村]] |- | rowspan="2" | 旧大庭郡 | style="background-color:#9cf;" | 徳田村 |- | style="background-color:#9cf;" | 中和村 | style="background-color:#9cf;" | 中和村 | style="background-color:#9cf;" | 中和村 | style="background-color:#9cf;" | 中和村 | style="background-color:#9cf;" | 中和村 | style="background-color:#9cf;" | [[中和村 (岡山県)|中和村]] |} {{hidden end}} == 行政 == ;歴代郡長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |1|| ||明治33年([[1900年]])[[4月1日]]|| || |- | || || ||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1989|date=1989-06-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=33 岡山県|isbn=4040013301|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1989}}}} {{s-start}} {{s-bef|before=[[真島郡]]・[[大庭郡]]|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷|years=[[1900年]] - }} {{s-aft|after=(現存)|表記=次}} {{end}} {{岡山県の郡}} {{岡山県の自治体}} 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万葉線 (企業)
万葉線株式会社(まんようせん)は、富山県高岡市と同県射水市において万葉線を運営する第三セクター方式の鉄道会社である。 万葉線は、正式には高岡駅停留場から六渡寺駅までが軌道法による軌道である高岡軌道線、六渡寺駅から越ノ潟駅までが鉄道事業法による鉄道である新湊港線の2路線に分かれているが、一体の直通路線「万葉線」として運行されている。 かつて越中国守として高岡の伏木に赴任した大伴家持が、『万葉集』の編集をはじめ、数多くの歌を残したことにちなんで、高岡軌道線・新湊港線を加越能鉄道(現在の加越能バス)が経営していた時代の1980年(昭和55年)に「万葉線」という愛称が付けられた。 加越能鉄道が、利用客の著しい減少と経営環境の悪化を理由に廃止とバス代替の意向を示したため、存続を願う高岡市と旧新湊市が中心となって2001年(平成13年)に第三セクター会社の「万葉線株式会社」を設立した。2002年(平成14年)2月に、加越能鉄道から事業譲渡され、同年4月1日から新会社にて正式に運行が開始された。路面電車運営のための第三セクター方式の会社設立は日本初であった。 2004年(平成16年)1月21日より、新形の超低床車両「MLRV1000形」を導入した。 観光客を主とした乗客誘致のため、2008年7月から土・日・祝日は沿線の新湊出身の落語家である立川志の輔の声で車内アナウンスと沿線案内を行っており、ユニークなアナウンスを聞くことができる。なお、このアナウンスは「ドラえもんトラム」(後述)では放送されない。 また、2018年からトミーテックの鉄道むすめとのタイアップにも取り組み、地元以外から鉄道ファンや萌え系愛好者の集客にも役立てている。イメージキャラクターに設定されている「吉久こしの」の等身大イラストが、万葉線本社の窓口にあるほか、スタンプラリーやグッズ販売なども実施している。 ほぼすべての列車が高岡軌道線と新湊港線を相互直通しており、高岡駅 - 越ノ潟間全線を運行する系統が15分(早朝夜間は30分)間隔で設定されている。朝夕ラッシュ時には米島口発着列車や朝と夜に米島口 - 中新湊間および高岡駅 - 中新湊間の区間列車が設定されている。高岡駅発23時の最終は日曜日運休である。 2018年10月より金曜シンデレラ便が新設され、金曜日のみ終電を繰り下げた。上りは越ノ潟22:52発→高岡駅23:35着、下りは高岡駅0:00発→中新湊0:37着となり日付が変わる0時を過ぎて運行されている。 万葉線の輸送実績を下表に記す。輸送量は激減しているが、第三セクター化後は下げ止まっている。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)より抜粋 万葉線の営業成績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 万葉線に在籍している車両および過去に在籍した車両は以下の通り。*印は冷房車。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "万葉線株式会社(まんようせん)は、富山県高岡市と同県射水市において万葉線を運営する第三セクター方式の鉄道会社である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "万葉線は、正式には高岡駅停留場から六渡寺駅までが軌道法による軌道である高岡軌道線、六渡寺駅から越ノ潟駅までが鉄道事業法による鉄道である新湊港線の2路線に分かれているが、一体の直通路線「万葉線」として運行されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつて越中国守として高岡の伏木に赴任した大伴家持が、『万葉集』の編集をはじめ、数多くの歌を残したことにちなんで、高岡軌道線・新湊港線を加越能鉄道(現在の加越能バス)が経営していた時代の1980年(昭和55年)に「万葉線」という愛称が付けられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "加越能鉄道が、利用客の著しい減少と経営環境の悪化を理由に廃止とバス代替の意向を示したため、存続を願う高岡市と旧新湊市が中心となって2001年(平成13年)に第三セクター会社の「万葉線株式会社」を設立した。2002年(平成14年)2月に、加越能鉄道から事業譲渡され、同年4月1日から新会社にて正式に運行が開始された。路面電車運営のための第三セクター方式の会社設立は日本初であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)1月21日より、新形の超低床車両「MLRV1000形」を導入した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "観光客を主とした乗客誘致のため、2008年7月から土・日・祝日は沿線の新湊出身の落語家である立川志の輔の声で車内アナウンスと沿線案内を行っており、ユニークなアナウンスを聞くことができる。なお、このアナウンスは「ドラえもんトラム」(後述)では放送されない。 また、2018年からトミーテックの鉄道むすめとのタイアップにも取り組み、地元以外から鉄道ファンや萌え系愛好者の集客にも役立てている。イメージキャラクターに設定されている「吉久こしの」の等身大イラストが、万葉線本社の窓口にあるほか、スタンプラリーやグッズ販売なども実施している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ほぼすべての列車が高岡軌道線と新湊港線を相互直通しており、高岡駅 - 越ノ潟間全線を運行する系統が15分(早朝夜間は30分)間隔で設定されている。朝夕ラッシュ時には米島口発着列車や朝と夜に米島口 - 中新湊間および高岡駅 - 中新湊間の区間列車が設定されている。高岡駅発23時の最終は日曜日運休である。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2018年10月より金曜シンデレラ便が新設され、金曜日のみ終電を繰り下げた。上りは越ノ潟22:52発→高岡駅23:35着、下りは高岡駅0:00発→中新湊0:37着となり日付が変わる0時を過ぎて運行されている。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "万葉線の輸送実績を下表に記す。輸送量は激減しているが、第三セクター化後は下げ止まっている。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)より抜粋", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "万葉線の営業成績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "万葉線に在籍している車両および過去に在籍した車両は以下の通り。*印は冷房車。", "title": "車両" } ]
万葉線株式会社(まんようせん)は、富山県高岡市と同県射水市において万葉線を運営する第三セクター方式の鉄道会社である。
{{基礎情報 会社 |社名 = 万葉線株式会社 |英文社名 = Many&#333;sen Co., Ltd. |ロゴ = |画像 = [[ファイル:Manyosen office 20140913.jpg|center|250px|本社]] |画像説明 = 本社(2014年9月) |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |郵便番号 = 933-0073 |本社所在地 = [[富山県]][[高岡市]]荻布字川西68番地 | 本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 46|本社緯度秒 = 22.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 137|本社経度分 = 2|本社経度秒 = 19.9|本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP |設立 = [[2001年]]([[平成]]13年)[[3月30日]](登記は4月5日) |業種 = 5050 |事業内容 = 鉄軌道事業 |代表者 = 代表取締役社長 中村 正治 |資本金 = 4億9900万円(2018年3月31日時点<!-- 現在ではない -->)<ref name="fy">{{Cite web|和書|date= 2018-06-01|url=http://www.city.imizu.toyama.jp/appupload/EDIT/069/069717.pdf |title=市の出資等に係る法人の経営状況に関する説明書 |format=PDF |publisher=射水市 |accessdate=2019-01-12}}</ref><ref name="fy2">第17期決算公告、2019年(平成31年)1月10日付「官報」(号外第5号)63頁。</ref> |売上高 = 1億9395万円(2018年3月期)<ref name="fy" /> |営業利益 = △1億3099万円(2018年3月期)<ref name="fy" /> |経常利益 = △1億2978万円(2018年3月期)<ref name="fy" /> |純利益 = △2932万円(2018年3月期)<ref name="fy" /><ref name="fy2" /> |純資産 = 4億3275万円(2018年3月31日時点<!-- 現在ではない -->)<ref name="fy" /><ref name="fy2" /> |総資産 = 6億9879万円(2018年3月31日時点<!-- 現在ではない -->)<ref name="fy" /><ref name="fy2" /> |従業員数 = 34人<ref>[https://www.manyosen.co.jp/about/ 会社情報] - 万葉線</ref> |決算期 = 3月31日 |主要株主 = 高岡市 30.06%<br/>射水市 30.06%<br/>富山県 30.06%<br />(2019年3月31日時点<!-- 現在ではない --><ref>令和元年度鉄道要覧{{要ページ番号|date=2021年3月}}</ref>) |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = https://www.manyosen.co.jp/ |特記事項 = }} '''万葉線株式会社'''(まんようせん)は、[[富山県]][[高岡市]]と同県[[射水市]]において[[万葉線]]を運営する[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。 == 概要 == [[万葉線]]は、正式には[[高岡駅|高岡駅停留場]]から[[六渡寺駅]]までが[[軌道法]]による軌道である'''高岡軌道線'''、六渡寺駅から[[越ノ潟駅]]までが[[鉄道事業法]]による鉄道である'''新湊港線'''の2路線に分かれているが、一体の直通路線「万葉線」として運行されている。 かつて[[越中国|越中]][[国守]]として高岡の伏木に赴任した[[大伴家持]]が、『[[万葉集]]』の編集をはじめ、数多くの歌を残したことにちなんで<ref name="mynavi20190425">{{Cite news|url =https://news.mynavi.jp/article/20190425-814931/|title=万葉線、改元の記念企画で万葉「令和」号 - レトロ車にラッピング|publisher = [[マイナビニュース]]|date = 2019-04-25|accessdate=2019-08-10}}</ref>、高岡軌道線・新湊港線を加越能鉄道(現在の[[加越能バス]])が経営していた時代の[[1980年]]([[昭和]]55年)に「'''万葉線'''」という愛称が付けられた。 加越能鉄道が、利用客の著しい減少と経営環境の悪化を理由に廃止とバス代替の意向を示したため、存続を願う高岡市と旧[[新湊市]]が中心となって[[2001年]]([[平成]]13年)に第三セクター会社の「'''万葉線株式会社'''」を設立した<ref name="mynavi20190425"/>。[[2002年]](平成14年)2月に、加越能鉄道から事業譲渡され、同年[[4月1日]]から新会社にて正式に運行が開始された<ref>{{Cite journal|和書 |journal=RAIL FAN |date=2002-08-01 |issue = 8 |volume = 49 |publisher=鉄道友の会 |page=15 }}</ref>。路面電車運営のための第三セクター方式の会社設立は日本初であった。 [[2004年]](平成16年)[[1月21日]]より、新形の超低床車両「[[万葉線MLRV1000形電車|MLRV1000形]]」を導入した。 観光客を主とした乗客誘致のため、[[2008年]]7月から土・日・祝日は沿線の新湊出身の[[落語家]]である[[立川志の輔]]の声で車内アナウンスと沿線案内を行っており、ユニークなアナウンスを聞くことができる<ref name="shinosuke">{{Cite web|和書|url =https://www.takaoka.or.jp/news/archives/3265|title = 万葉線の土日祝の立川志の輔さんの車内放送に新湊大橋の説明が加わりました。|website=高岡市観光ポータルサイト|date=2013-01-08|accessdate = 2019-02-24}}</ref>。なお、このアナウンスは「[[ドラえもん]]トラム」([[#現有車両|後述]])では放送されない<ref name="shinosuke"/>。 また、2018年から[[トミーテック]]の[[鉄道むすめ]]とのタイアップにも取り組み、地元以外から鉄道ファンや[[萌え]]系愛好者の集客にも役立てている。イメージキャラクターに設定されている「[[鉄道むすめの登場人物#koshino|吉久こしの]]」の等身大イラストが、万葉線本社の窓口にあるほか、スタンプラリーやグッズ販売なども実施している。 == 路線 == * [[万葉線|高岡軌道線]]:[[高岡駅]] - [[六渡寺駅|六渡寺]]、8.0km * [[万葉線|新湊港線]]:[[越ノ潟駅|越ノ潟]] - 六渡寺、4.9km [[File:Manyōsen Linemap.svg|500px|thumb|none|路線図]] === 運行形態 === ほぼすべての列車が高岡軌道線と新湊港線を相互直通しており、高岡駅 - 越ノ潟間全線を運行する系統が15分(早朝夜間は30分)間隔で設定されている。朝夕ラッシュ時には米島口発着列車や朝と夜に米島口 - 中新湊間および高岡駅 - 中新湊間の区間列車が設定されている。高岡駅発23時の最終は日曜日運休である。 2018年10月より金曜シンデレラ便が新設され、金曜日のみ終電を繰り下げた。上りは越ノ潟22:52発→高岡駅23:35着、下りは高岡駅0:00発→中新湊0:37着となり日付が変わる0時を過ぎて運行されている<ref>{{Cite web|和書|title=時刻表・運賃表 |url=https://www.manyosen.co.jp/timetable/ |publisher=万葉線株式会社 |access-date=2023-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.manyosen.co.jp/files/newsrelease/sinyabin.pdf |format=PDF |title=金曜シンデレラ便 |access-date=2023-11-05 |publisher=万葉線}}</ref>。 == 利用状況 == === 輸送実績 === <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead">年度別輸送実績</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> 万葉線の輸送実績を下表に記す。輸送量は激減しているが、第三セクター化後は下げ止まっている。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;" |- ! rowspan="2"|運 営<br />主 体 ! rowspan="2"|年度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/1日 ! rowspan="2"|特記事項 |- |通勤定期 |通学定期 |定 期 外 |合  計 |- !rowspan="26" style="width:1em; padding:1em;"|加越能鉄道 ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) | style="background-color: #ffcccc;"|110.0 | style="background-color: #ffcccc;"|92.1 | style="background-color: #ffcccc;"|176.1 | style="background-color: #ffcccc;"|'''378.2''' |3,640 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |89.1 |64.0 |146.2 |'''299.3''' |3,265 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |75.4 |48.1 |120.8 |'''244.5''' |3,133 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |77.6 |56.9 |139.7 |'''274.3''' |2,956 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |73.1 |56.1 |140.1 |'''269.4''' |2,855 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |68.1 |48.8 |139.0 |'''256.0''' |2,842 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |62.3 |45.5 |125.6 |'''233.4''' |2,591 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |55.5 |36.6 |118.8 |'''210.8''' |2,327 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |54.6 |35.4 |124.1 |'''214.1''' |2,366 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |49.6 |33.2 |113.0 |'''195.8''' |2,171 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |47.3 |34.0 |110.5 |'''191.8''' |2,147 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |43.4 |31.5 |105.1 |'''180.0''' |2,024 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |39.7 |33.7 |100.9 |'''174.3''' |1,969 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |35.7 |32.4 |96.8 |'''164.9''' |1,870 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |33.2 |28.8 |91.7 |'''153.7''' |1,724 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成{{0}}2年) |31.7 |29.9 |90.0 |'''151.6''' |1,706 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成{{0}}3年) |29.7 |28.3 |87.2 |'''145.2''' |1,682 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成{{0}}4年) |27.8 |25.8 |83.5 |'''137.1''' |1,603 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成{{0}}5年) |30.5 |24.8 |89.3 |'''144.6''' |1,699 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成{{0}}6年) |28.2 |24.8 |84.1 |'''137.1''' |1,637 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成{{0}}7年) |26.0 |26.9 |87.4 |'''140.3''' |1,655 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成{{0}}8年) |25.7 |27.5 |85.3 |'''138.5''' |1,644 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成{{0}}9年) |23.4 |23.3 |75.5 |'''122.2''' |1,446 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |22.0 |21.2 |72.5 |'''115.7''' |1,363 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |19.6 |18.3 |70.5 |'''108.4''' |1,264 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |18.0 |17.5 |67.8 |'''103.3''' |1,205 |&nbsp; |- !rowspan="20" style="width:1em; padding:1em;"|万葉線 ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |15.5 |17.5 |65.8 |'''98.8''' |1,154 | style="text-align:left;"|万葉線株式会社による運営開始 |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |14.2 |16.7 |69.4 |'''100.3''' |1,158 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |13.6 |16.9 |73.1 |'''103.6''' |1,188 | style="text-align:left;"|新形の超低床車両導入 |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |14.3 |18.9 |73.4 |'''106.6''' |1,237 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |13.9 |23.3 |75.8 |'''113.0''' |1,331 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |14.7 |25.8 |74.3 |'''114.8''' |1,369 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |14.5 |27.1 |73.1 |'''114.7''' |1,372 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |15.1 |26.9 |72.0 |'''114.0''' |1,370 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |14.4 |30.1 |70.5 |'''115.0''' |1,413 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) | | | | |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |15.4 |37.4 |70.2 |'''123.0''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |15.4 |37.9 |71.1 |'''124.4''' |4,534 | style="text-align:left;"|輸送密度は明らかに誤記(旅客人キロを365日12.9kmで除すと1,535) |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |15.8 |36.4 |72.6 |'''124.8''' |7,311 | style="text-align:left;"|輸送密度は明らかに誤記(旅客人キロを365日12.9kmで除すと1,531) |- ! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年) |15.8 |35.4 |74.1 |'''125.3''' |7,142 | style="text-align:left;"|輸送密度は明らかに誤記(旅客人キロを365日12.9kmで除すと1,534) |- ! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年) |16.2 |30.3 |72.0 |'''118.5''' |3,766 | style="text-align:left;"|輸送密度は明らかに誤記(旅客人キロを366日12.9kmで除すと1,427) |- ! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年) |15.3 |29.2 |71.0 |'''115.5''' |3,661 | style="text-align:left;"|輸送密度は明らかに誤記(旅客人キロを365日12.9kmで除すと1,391) |- ! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年) |17.5 |31.6 |70.4 |'''119.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年) |20.2 |29.4 |69.6 |'''119.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |'''113.6'''<ref name="toyama20210605" /> |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2020年(令和{{0}}2年) |style="background-color: #ccffff;" colspan="2"|37.4<ref name="toyama20210605" /> |style="background-color: #ccffff;"|43.2<ref name="toyama20210605" /> |style="background-color: #ccffff;"|'''80.4'''<ref name="toyama20210605">{{Cite news|url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/tym/431762|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210605002431/https://www.hokkoku.co.jp/articles/tym/431762|title=万葉線乗客 最少80万人 20年度 前年比33万人減 コロナ影響 初の100万人割れ|newspaper=富山新聞|date=2021-06-05|accessdate=2021-06-05|archivedate=2021-06-05}}</ref> |&nbsp; |&nbsp; |} 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 </div></div> 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)より抜粋<ref> [https://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/railroad/yusoujisseki.html 管内鉄軌道事業者輸送実績] </ref> === 営業成績 === <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead">年度別営業成績</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> 万葉線の営業成績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;" |- ! rowspan="2"|運 営<br />主 体 ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度 ! rowspan="2"|営業収益<br />千円/年度 ! rowspan="2"|営業経費<br />千円/年度 ! rowspan="2"|営業損益<br />千円/年度 ! rowspan="2"|営業<br />係数 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合  計 |- !rowspan="26" style="width:1em; padding:1em;"|加越能鉄道 ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) |87,429 |←←←← |126,021 | style="background-color: #ffcccc;"|''2,319'' |'''215,769''' |7,233 |'''223,002''' |'''231,438''' |'''△8,436''' |103.8 |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |88,053 |←←←← |120,866 |''1,762'' |'''210,681''' | style="background-color: #ccffcc;"|5,137 |'''215,818''' |'''251,732''' |'''△35,914''' |116.6 |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |79,969 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|113,264 |''1,989'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''195,223''' |5,254 | style="background-color: #ccffcc;"|'''200,478''' |'''252,380''' |'''△51,902''' |125.9 |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |102,292 |←←←← |155,151 |''2,183'' |'''259,627''' |5,988 |'''265,616''' |'''328,774''' |'''△63,158''' |123.8 |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |102,037 |←←←← |162,284 |''2,139'' |'''266,460''' |7,201 |'''273,662''' |'''379,159''' |'''△105,496''' |138.6 |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |105,387 |←←←← |175,996 |''1,539'' |'''282,922''' |6,441 |'''289,363''' |'''330,142''' |'''△40,778''' |114.1 |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |99,969 |←←←← |167,557 |''1,296'' |'''268,822''' |8,978 |'''277,801''' |'''324,243''' |'''△46,442''' |116.7 |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |96,293 |←←←← |174,971 |''853'' |'''272,117''' |9,469 |'''281,586''' |'''326,352''' |'''△44,766''' |115.9 |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |97,808 |←←←← | style="background-color: #ffcccc;"|192,314 |''39'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''290,161''' |9,202 | style="background-color: #ffcccc;"|'''299,363''' |'''307,202''' |'''△7,839''' |102.6 |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |96,299 |←←←← |186,122 | style="background-color: #ccffff;"|― |'''282,421''' |9,520 |'''291,941''' |'''302,888''' |'''△10,947''' |103.7 |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |97,198 |←←←← |189,769 |― |'''286,967''' |9,075 |'''296,042''' |'''311,417''' |'''△15,375''' |105.2 |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |94,097 |←←←← |188,785 |― |'''282,882''' |8,774 |'''291,656''' |'''314,289''' |'''△22,633''' |107.8 |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) | style="background-color: #ffcccc;"|55,605 |38,055 |186,977 |― |'''280,637''' |8,335 |'''288,972''' |'''311,608''' |'''△22,636''' |107.8 |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |52,098 |37,787 |186,707 |― |'''276,592''' |7,814 |'''284,406''' |'''308,836''' |'''△24,430''' |108.6 |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |48,484 |34,325 |176,772 |― |'''259,581''' |9,445 |'''269,026''' |'''300,249''' |'''△31,223''' |111.6 |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |47,961 |37,637 |180,774 |― |'''266,372''' |10,005 |'''276,377''' |'''310,837''' |'''△34,460''' |112.5 |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |45,036 |35,801 |175,240 |― |'''256,077''' |13,440 |'''269,517''' |'''310,649''' |'''△41,132''' |115.3 |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |44,118 |34,150 |175,594 |― |'''253,862''' |9,237 |'''263,099''' |'''297,326''' |'''△34,227''' |113.0 |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |50,534 | style="background-color: #ccffcc;"|32,947 |188,111 |― |'''271,592''' |12,071 |'''283,663''' |'''324,303''' |'''△40,640''' |114.3 |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |48,932 |34,743 |183,551 |― |'''267,226''' |11,032 |'''278,258''' |'''310,188''' |'''△31,929''' |111.5 |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |45,009 |37,143 |189,892 |― |'''272,044''' |11,780 |'''283,824''' |'''320,437''' |'''△36,613''' |112.9 |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |44,640 | style="background-color: #ffcccc;"|38,285 |185,360 |― |'''268,285''' |14,388 |'''282,673''' |'''320,672''' |'''△37,999''' |113.4 |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |42,721 |33,580 |169,438 |― |'''245,739''' | style="background-color: #ffcccc;"|14,562 |'''260,301''' |'''314,958''' |'''△54,657''' |121.0 |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |39,808 |30,583 |161,559 |― |'''231,950''' |9,680 |'''241,630''' |'''304,339''' |'''△62,709''' |126.0 |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |35,281 |26,266 |154,562 |― |'''216,109''' |7,778 |'''223,887''' |'''302,404''' |'''△78,517''' |135.1 |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |32,176 |24,982 |143,932 |― |'''201,090''' |7,378 |'''208,468''' |'''275,854''' |'''△67,386''' |132.3 |- !rowspan="9" style="width:1em; padding:1em;"|万葉線 ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |28,202 |25,331 |138,675 |― |'''192,208''' | style="background-color: #ccffff;"|5,850 |'''198,058''' |'''264,085''' |'''△66,027''' |133.3 |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |24,611 |21,439 |145,985 |― |'''192,035''' |8,139 |'''200,174''' |'''236,500''' |'''△36,326''' |118.1 |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) | style="background-color: #ccffff;"|20,643 | style="background-color: #ccffff;"|16,918 |126,366 |― | style="background-color: #ccffff;"|'''163,927''' |12,386 | style="background-color: #ccffff;"|'''176,313''' |'''255,810''' |'''△79,497''' |145.1 |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |22,113 |18,727 |128,812 |― |'''169,652''' |10,439 |'''180,091''' |'''255,088''' |'''△74,997''' |141.6 |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |21,153 |22,113 |132,554 |― |'''175,820''' |10,170 |'''185,990''' |'''259,638''' |'''△73,648''' |139.6 |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |21,818 |24,090 |129,933 |― |'''175,841''' |15,962 |'''191,803''' |'''258,768''' |'''△66,965''' |134.9 |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |21,554 |24,973 |126,967 |― |'''173,493''' |17,545 |'''191,038''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |22,299 |25,354 |125,195 |― |'''172,848''' |20,498 |'''193,346''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |20,784 |27,035 | style="background-color: #ccffff;"|122,130 |― |'''169,949''' |19,468 |'''189,417''' |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修)より抜粋 </div></div> == 車両 == 万葉線に在籍している車両および過去に在籍した車両は以下の通り。*印は冷房車。 === 現有車両 === *[[加越能鉄道デ7000形電車|デ7070形]] **デ7071*、デ7073*、デ7074*、デ7075*、デ7076* *:[[1967年]]製造。7000形や7060形とほぼ同じだが、設計の変更で側面中間部の車掌小窓がなくなり、すっきりした窓配置になっている。デ7073は[[2009年]][[12月26日]]から2016年夏まで車体正面に[[ネコ]]、側面に[[十二支]]の動物の絵が描かれた「アニマル電車」として運行<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/209607?page=3 森口将之『2月22日は「猫の日」全国各地を走るネコ列車』] - 東洋経済オンライン、2018年2月22日</ref>。その後[[2017年]]公開の映画『[[ナラタージュ]]』の撮影のため旧加越能鉄道カラーに塗り替えられ<ref>[https://www.takaoka.or.jp/news/archives/7400 映画「ナラタージュ」のロケ地マップはこちらです!] - 高岡市観光ポータルサイト「たかおか道しるべ」、2017年9月25日</ref>、2020年4月5日まで走行した<!--公式サイトトップより(まだアーカイブがない)-->。この間[[2019年]]5月から10月まで、[[令和]]改元記念を施した万葉「令和」号として運行していた<ref name="mynavi20190425"/><ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000019294|title = 万葉線に「令和」ラッピング 30日高岡駅出発イベント|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2019-04-27|accessdate = 2019-08-10}}</ref>。 *:デ7071、デ7073、デ7074、デ7075、デ7076の全車が2023年までに冷房化改造を終了した。 *[[万葉線MLRV1000形電車|MLRV1000形]](アイトラム) **MLRV1001-a・b*、MLRV1002-a・b*、MLRV1003-a・b*、MLRV1004-a・b*、MLRV1005-a・b*、MLRV1006-a・b* *:[[2003年]] - [[2004年]]と[[2006年]] - [[2009年]]製造。超低床構造の2車体連接車。2012年から1編成が「[[万葉線MLRV1000形電車#ドラえもんトラム|ドラえもんトラム]]」として運行されている<ref>{{Cite web|和書|url = https://weblog.hochi.co.jp/arukulove/2014/12/post-4087.html|title = 報知あるくLove ドラえもんが生まれた町|publisher = スポーツ報知|date = 2014-12-15|accessdate = 2019-08-10}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32562150T00C18A7LB0000/|title = ドラえもんのトラム3年延長 富山の万葉線|publisher = 日本経済新聞|date = 2018-07-03|accessdate = 2019-08-10}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1811/30/news149.html|title = これはかわいい!! 万葉線の名物路面電車「ドラえもんトラム」がプラレールに|publisher = ねとらぼ|date = 2018-11-30|accessdate = 2019-08-10}}</ref>。 *[[万葉線6000形ディーゼル機関車|6000形]](MCP300)(プラウ除雪車) **6000 *:[[2012年]]に[[新潟トランシス]]で製造。凸型をした[[内燃機関]]動力車であり、ディーゼルエンジンを越ノ潟側に搭載している。本形式の導入に伴い、一部の運転士が軌道線での運転免許である「乙種内燃車」の[[動力車操縦者|動力車操縦者運転免許]]を取得している。 <gallery> ファイル:DE7071_normal.jpg|デ7070(2008年12月) ファイル:Itram.jpeg|MLRV1000形 アイトラム(2005年8月) ファイル:ドラえもんトラム 1.jpg|MLRV1000形 ドラえもんトラム(2015年12月) ファイル:Manyosen 6000 MCP300 20140913.jpg|6000形 プラウ除雪車 (2014年9月) </gallery> === 除籍車両 === *[[加越能鉄道デ7000形電車|デ7000形]] **デ7051、デ7052、デ7053 *:[[1961年]]製造。[[富山地方鉄道7000形電車]]とほぼ同型だが、乗降扉が車端にある。設計を流用したため、中央扉を最後部に移設しただけのような外観で、車掌小窓もそのまま残された感じになっている。なお、当形式の番号が50番台から始まっているのは、当時[[富山地方鉄道射水線]]との乗り入れを行っていたことから先の7000形と番号が被らないようにしたためである。「7050形」と記述されることもある。 *[[加越能鉄道デ7000形電車|デ7060形]] **デ7061、デ7062 *:[[1965年]]製造。富山地方鉄道7000形電車とほぼ同型だが、かつては射水線乗り入れ時に連結運用するための連結器があり、[[総括制御]]可能であったことから区別されている。 *[[加越能鉄道デ7000形電車|デ7070形]] **デ7072 *:[[1967年]]製造。初代アニマル電車。加越能鉄道時代の1994年に存廃問題で揺れていた渦中に、一般応募で、当時小学校5年生の女の子が描いた十二支とネコの作品が選ばれ、夢のある存続のシンボルとして運行された。 *[[富山地方鉄道デ5010形電車|デ5010形]] **デ5022 *:[[1950年]]製造<ref name="hokushin">{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000016280|title = 県内駆け60年、路面電車復元 高岡|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北日本新聞)|date = 2018-09-15|accessdate = 2019-02-24}}</ref>。かつては射水線の主力車両でもあり、高岡駅前から富山市内まで直通運転していた。[[1966年]]射水線切断時に5022も含む14両が加越能籍で移っていたが、[[1967年]]デ7070形6両が竣工すると、デ5027 - 30、37 - 40の8両が富山地方鉄道に戻り、5021 - 26の6両が加越能鉄道に残った。[[1971年]]に[[加越能鉄道伏木線|伏木線]]が廃止されると余剰となり、5022を除き全車廃車となった。残された5022は同年に除雪専用車に改造され<ref name="hokushin"/>、電動機を2基追加して出力を38kW×4基と増強、車内に凍結防止剤([[塩化カルシウム]])を散布する機械を設置、前後に[[スノープロウ]]を装着した。[[1992年]]に車両としては車籍廃車となり移動機械の扱いとなっていたが、車齢が製造から60年以上経っていることから老朽化は避けられず、[[2012年]]の稼働が最後となった。しかし最後のデ5010形の生き残りであることから産業遺産として保存されることが決まり、復元工事ののち[[2018年]][[10月13日]]より高岡市吉久の『TEKリトルパーク』に展示されることになった<ref name="hokushin"/><ref>北日本新聞 2018年9月15日付32面『県内駆け60年「デ5022号」復元 唯一の車両 来月展示 高岡市衛生公社 公園整備』より。</ref>。 <gallery> ファイル:DE7072_neko.jpg|デ7072「アニマル電車」(2008年) ファイル:DE5010_5022_snowremoval.jpg|デ5010 除雪用でラッセルヘッドを装備(2008年) </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 『万葉線開業10周年記念誌 万葉線物語』(万葉線株式会社 [[2012年]]) * 鉄道統計年報(国土交通省鉄道局監修) == 関連項目 == * [[ひたちなか海浜鉄道]] - 元社員(地鉄出身)が社長を務める。 == 外部リンク == {{Commonscat|Manyosen}} * [https://www.manyosen.co.jp/ 万葉線株式会社] * {{Twitter|Manyosen|万葉線株式会社}} {{日本の路面電車}} {{DEFAULTSORT:まんようせん}} [[Category:万葉線|*]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:日本の軌道事業者]] [[Category:第三セクター鉄道]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:高岡市の企業]] [[Category:高岡市の交通]] [[Category:2001年設立の企業]]
2003-09-08T04:58:01Z
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