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ドラムマシン
ドラムマシン (drum machine) は、ドラムパートを自動的に演奏させるために開発された電子楽器の一種。シンセサイザー、サンプラー、ならびにドラム、パーカッションなどのサンプリング音を再生する機能を有したシーケンサー。同様の機材にはリズムボックス、リズムマシンがある。 歴史的に言うと、アナログ音源で、タイミング(時間軸)は円盤にリズムパターンがアナログで、起動条件がデジタル(ON/OFFの接点)でハードコーディングされており、それを選択して演奏するタイプがリズムボックスと呼ばれており、ローランド社のローランド・TR-808によって利用者によるリズムのプログラムができるようになると、それを総称してリズムマシンと呼ばれた。LinnDrumなどのサンプリング方式のリアルな音源が使われるようになって、リズムマシンとの区別から"ドラムマシン"と呼ばれるようになる。 京王技術研究所(現コルグ)により商品化されたドンカマチックが日本産初のリズムボックスであり、現在も音楽業界で各種のリズム演奏機械や演奏時に聴くクリックを指して用いられる「ドンカマ」という呼称はここから生まれた。 テクノポップやデトロイト・テクノなどのテクノミュージックの初期、ニュー・ウェイヴやブラック・コンテンポラリーなどにおいて、安価でかつリズムパターンのループを容易に作れるドラムマシンは多用された。同様の理由でサンプリングが可能なドラムマシンのAKAIのMPC-60やE-MUのSP1200はヒップホップにおける定番機材となった。
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ドラムマシン は、ドラムパートを自動的に演奏させるために開発された電子楽器の一種。シンセサイザー、サンプラー、ならびにドラム、パーカッションなどのサンプリング音を再生する機能を有したシーケンサー。同様の機材にはリズムボックス、リズムマシンがある。 歴史的に言うと、アナログ音源で、タイミング(時間軸)は円盤にリズムパターンがアナログで、起動条件がデジタル(ON/OFFの接点)でハードコーディングされており、それを選択して演奏するタイプがリズムボックスと呼ばれており、ローランド社のローランド・TR-808によって利用者によるリズムのプログラムができるようになると、それを総称してリズムマシンと呼ばれた。LinnDrumなどのサンプリング方式のリアルな音源が使われるようになって、リズムマシンとの区別から"ドラムマシン"と呼ばれるようになる。 京王技術研究所(現コルグ)により商品化されたドンカマチックが日本産初のリズムボックスであり、現在も音楽業界で各種のリズム演奏機械や演奏時に聴くクリックを指して用いられる「ドンカマ」という呼称はここから生まれた。 テクノポップやデトロイト・テクノなどのテクノミュージックの初期、ニュー・ウェイヴやブラック・コンテンポラリーなどにおいて、安価でかつリズムパターンのループを容易に作れるドラムマシンは多用された。同様の理由でサンプリングが可能なドラムマシンのAKAIのMPC-60やE-MUのSP1200はヒップホップにおける定番機材となった。
[[File:Joseph Schillinger and the Rhythmicon.jpg|thumb|最初期のドラムマシンであるリズミコンとその発明者である[[ヨーゼフ・シリンガー|ジョセフ・シリンガー]]]] '''ドラムマシン''' ({{lang|en|''drum machine''}}) は、[[ドラムセット|ドラム]][[声部|パート]]を自動的に[[演奏]]させるために開発された[[電子楽器]]の一種。[[シンセサイザー]]、[[サンプラー]]、ならびに[[ドラムセット|ドラム]]、[[パーカッション]]などの[[サンプリング]]音を再生する機能を有した[[ミュージックシーケンサー|シーケンサー]]。同様の機材には[[リズムボックス]]、リズムマシンがある。 歴史的に言うと、アナログ音源で、タイミング(時間軸)は円盤に[[リズム]][[パターン]]がアナログで、起動条件がデジタル(ON/OFFの接点)で[[ハードコーディング]]されており、それを選択して演奏するタイプが[[リズムボックス]]と呼ばれており、[[ローランド]]社の[[ローランド・TR-808]]によって利用者によるリズムのプログラムができるようになると、それを総称してリズムマシンと呼ばれた。LinnDrumなどの[[サンプリング]]方式のリアルな音源が使われるようになって、リズムマシンとの区別から"ドラムマシン"と呼ばれるようになる。 京王技術研究所(現[[コルグ]])により商品化された、[[ドンカマチック]]が日本産初のリズムボックスであり、現在も音楽業界で各種のリズム演奏機械や演奏時に聴くクリックを指して用いられる「ドンカマ」という呼称はここから生まれた。 [[テクノポップ]]や[[デトロイト・テクノ]]などの[[テクノポップ|テクノ]]ミュージックの初期、[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]や[[ブラック・コンテンポラリー]]などにおいて、安価でかつリズムパターンのループを容易に作れるドラムマシンは多用された。同様の理由でサンプリングが可能なドラムマシンの[[AKAI professional|AKAI]]のMPC-60やE-MUのSP1200は[[ヒップホップ]]における定番機材となった。 == 関連項目 == * [[AKAI professional]] * [[ドンカマチック]] * [[ローランド・TR-909]] * [[ローランド・TR-808]] * [[ヤマハ・RXシリーズ]] * [[ヤマハ・RYシリーズ]] * [[コルグ・ELECTRIBEシリーズ]] * [[ギブソン (楽器メーカー)|Gibson]] Maestro Rhythm King MRK-2[http://www.youtube.com/watch?v=UsUQCjxOlV4&feature=related] {{ドラムス}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とらむましん}} [[Category:電子楽器]]
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テルミン
テルミン(ロシア語:Терменвоксチルミンヴォークス)は、1920年にロシアの発明家レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンが発明した世界初の電子楽器である。ロシア語や英語では「テルミンの声」という意味のテルミンヴォクス(Терменвокс;Thereminvox)とも呼ばれる。英語ではThereminあるいはTheraminとつづられる。これは発明者が用いたフランス語風の表記に由来しており、「テレミン」もしくは「セレミン」のように発音される。日本語においては、音楽書で「テレミン」の表記が長く用いられてきており。2000年ごろから竹内正実などが独自に「テルミン」との表記を行うようになり、2001年公開の同名の映画によってもこの表記が広まった。 テルミンの最大の特徴は、テルミン本体に手を接触させず、空間中の手の位置によって音高と音量を調節することである。 テルミンはコンデンサをもつ高周波発振器を2つ内蔵している。このうち片方の発振周波数は固定されているが、もう一方の周波数は可変である。 楽器正面に向かって右側から垂直方向に伸びたアンテナは音高を決める「ピッチアンテナ」であり、左側面から水平方向に伸びたアンテナは音量を決める「ボリュームアンテナ」である。ピッチアンテナに右手を近づけたり遠ざけたりすると、演奏者とアンテナとの間に蓄えられる静電容量が変化し、これに伴って可変なほうの発振器の発振周波数が変動する。2つの発振器の周波数差からうなりを起こして可聴周波数を抽出し、アンプとスピーカーを介して発音させる。ボリュームアンテナに左手を近づけると音量が減少し、遠ざけると音量が増大する。また、左手を素早く上下動させることで、ある程度スタッカート奏法が可能である。 わずかな静電容量の違いを演奏に利用するため、演奏者自身の体格・装身具などによる静電容量の違いをはじめ、演奏環境に依存する部分が大きく、演奏前に綿密なチューニングを必要とするなど、安定した狙った音を出すには奏者の高い技量が要求され、演奏には熟練を要する。 一般的なテルミンの音色は純粋な正弦波に近いため(正弦波を出力する電子発振器で音を出している為に当然のことである)、ミュージックソーに似ている。恐怖映画やSF映画の効果音としても使われてきた。 ロシアにおける半導体技術の権威、アブラム・ヨッフェの招聘により、1920年からペトログラード物理工科大学に勤務していたレフ・テルミンは、温度や圧力の変化によってガス誘電率がどう変化するかを測定する装置の開発に従事していた。あるとき、測定装置の計器にヘッドホンを接続してみたところ、ガスにかかる圧力や温度変化に応じて、ヘッドホンから聴こえる音の高さが変化した。コンデンサ容量の変化に応じて音高が変化することを発見した彼は、これを楽器に応用することを思いつき、可変コンデンサーにおける電極の片方をアンテナに、もう一方を人間に置き換えてコンデンサー容量を制御する「楽器」を開発した。また、同時にこの技術の電子警報装置への応用も行なった。1920年に完成したこの楽器は、上司ヨッフェを魅了し、同年11月、ペトログラード技術工科大学機械科の学生が主催する夜会で、初めて一般聴衆の前でデモンストレーション演奏を行なった。 1921年10月5日にモスクワで行なわれた、第8回全ロシア電気技術会議において、テルミンの開発した世界初の電子楽器が公式に発表された。独創的なフォルムをもつこの楽器は、全国の電化を推進するロシア電化委員会にとって、プロパガンダ政策に利用できる価値を持つものであり、ソ連共産党機関紙『プラウダ』紙上でも、テルミンの論文と電子楽器のデモンストレーションが紹介された。ソ連政府機関紙『イズベスチヤ』の記者により、この世界初の電子楽器は「Терменвоксチルミンヴォークス」と命名された。なお、テルミン自身はこの発明を「陰極管による音楽装置」と名付けて1921年7月に特許を出願しており、1924年8月にこの名称で登録された。 1922年に、レフ・テルミンは、ソ連の指導者ウラジーミル・レーニンの前でテルミンの演奏を披露した。レーニンは非常に感銘を受けて奏法に興味を示し、最終的にはレフ・テルミンの補助なしでグリンカの歌曲を演奏した。レーニンの発注で600台のテルミンが製造されソビエト連邦各地に販売され、テルミン自身も、ソ連の最新技術と電子音楽の誕生を披露するために世界各地へ派遣された。ヨーロッパ各地で詰め掛けた観衆の前で演奏を披露する公演旅行の後、テルミンはアメリカ合衆国へと向かい、1928年に特許を取得し、大手電機会社RCAにテルミンの製造販売権を売った。 RCAが製造した「RCA Thereminvox」はアメリカを含む世界の聴衆を魅了したが、1929年から始まった世界恐慌の影響もあり商業的には成功せず、数百台しか販売されなかった。この時期のテルミン奏者としては、クララ・ロックモア(Clara Rockmore)が知られる。彼女は全米で公演し、しばしばポール・ロブスンとも共演した。1938年にはテルミン博士はアメリカを去りソ連に戻ったが、この理由については望郷説と誘拐説があり今も不明である。以後テルミンは強制労働に従事したり軍事研究に従事したりと数奇な人生を送り、ペレストロイカ後にようやくアメリカを再訪しクララ・ロックモアらとも再会している。 第二次世界大戦後にはテルミンは次第に忘れ去られた。1960年代以降はモーグ・シンセサイザーなど新たな電子楽器の登場もあってテルミンの忘却に拍車をかけた。その一方で、アルフレッド・ヒッチコック監督の1945年のサイコスリラー『白い恐怖』、ロバート・ワイズ監督の1951年のSF映画『地球の静止する日』など、恐怖映画やSF映画の音楽に不安定なテルミンが起用されている。ソ連では1935年のSF映画『機械人間 感覚の喪失(ロシア語版)』でロボットを操縦するギミックとしてテルミンは登場している。また後述するようにレッド・ツェッペリンによる使用などで、効果音を出す装置としてテルミンは使われ続けた。 1990年代以降、テルミンは再び見直されモーグによりテルミン製造が再開された。テルミン博士の生涯を描いたドキュメンタリー映画の公開、プロやアマチュアによる演奏の機会の増加、様々な形態のテルミンの製造販売などテルミンは静かに広まり続けている。日本でも人気があり、日本人奏者による独自の進化を遂げてきた。 テルミン専門の演奏家は数少ないものの、熱心な愛好者が存在する。シンセサイザーのパイオニアであるモーグ社でもテルミンを開発・販売を行っている。 ポピュラー音楽では、トッド・ラングレンやマーキュリー・レヴ、コーネリアス(小山田圭吾)、高野寛、今井寿などのミュージシャンにもしばしば利用されている。また、レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」の間奏で使われている。ビーチ・ボーイズの「グッド・ヴァイブレーション」で使われたテルミンの音のような楽器は、ポール・タナーにより作られた「エレクトロテルミン(タナリンとも)」である。また、菊池俊輔は『仮面ライダー』などのTV番組の楽曲にテルミンを使用している。 クラシック音楽での使用例は多くないが、この楽器を用いた初期の例としてショスタコーヴィチの映画音楽「女ひとり」、エドガー・ヴァレーズの「エクアトリアル」(実用度の高いオンド・マルトノで代用される場合が多い)、チャールズ・アイヴズの「交響曲第4番」、パーシー・グレインジャーの「フリーミュージック第1番」(4つのテルミンのための)、「フリーミュージック第2番」(6つのテルミンのための)、アニス・フレイハンの「テルミン協奏曲」などが挙げられる。 21世紀に作曲された作品には、カレヴィ・アホの「テルミン協奏曲『八季』」、ファジル・サイの「交響曲第2番『メソポタミア』」、クリストファー・タルノフによるテルミンとピアノのためのソナタ及び間奏曲がある。 アルバム『電子音』は中村八大、冨田勲のカバーを中心に、モーグ社製Etherwave Theremin Proの音色制作者のひとりでもある井伊英理が日米で発表。モーグ・テルミンとモーグ・シンセサイザーだけで制作された。この作品はCDに加えて、テルミン楽曲として世界初となる着うたでの配信も行なわれている。
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テルミン(ロシア語:Терменвоксチルミンヴォークス)は、1920年にロシアの発明家レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンが発明した世界初の電子楽器である。ロシア語や英語では「テルミンの声」という意味のテルミンヴォクス(Терменвокс;Thereminvox)とも呼ばれる。英語ではThereminあるいはTheraminとつづられる。これは発明者が用いたフランス語風の表記に由来しており、「テレミン」もしくは「セレミン」のように発音される。日本語においては、音楽書で「テレミン」の表記が長く用いられてきており。2000年ごろから竹内正実などが独自に「テルミン」との表記を行うようになり、2001年公開の同名の映画によってもこの表記が広まった。
{{Otheruses|楽器|漫画家|闇鍋テルミン}} [[ファイル:Layans-project.jpg|thumb|200px|テルミンの演奏 <small>(Lana Aksyonova)</small>]] '''テルミン'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Терменвокс}}'''<small>チルミンヴォークス</small>)は、[[1920年]]に[[ロシア帝国|ロシア]]の発明家[[レフ・テルミン|レフ・セルゲーエヴィチ・テルミン]]が発明した世界初の[[電子楽器]]である<ref name="Glinsky">{{Cite book |last=Glinsky |first=Albert |title=Theremin: Ether Music and Espionage |location=Urbana, Illinois | publisher=University of Illinois Press |year=2000 |isbn=978-0-252-02582-2 |page=26 |url=https://books.google.com/?id=6DHlQJcMpBQC&printsec=frontcover |ref= Glinsky}}</ref><ref name="Nesturkh">{{Cite journal |last = Nesturkh |first=Natalia |year=1996 |title=The Theremin and Its Inventor in Twentieth-Century Russia |journal = Leonardo Music Journal |volume=6 |pages=57-60 |issn=1531-4812 |url=https://muse.jhu.edu/article/585356/summary}}</ref>。ロシア語や[[英語]]では「テルミンの声」という意味の'''テルミンヴォクス'''('''{{lang|ru|Терменвокс}}''';'''{{lang|en|Thereminvox}}''')とも呼ばれる。英語では'''{{lang|en|Theremin}}'''あるいは'''Theramin'''とつづられる。これは発明者が用いた[[フランス語]]風の表記に由来しており、「テレミン」もしくは「セレミン」のように発音される。日本語においては、音楽書で「テレミン」の表記が長く用いられてきており<ref name="テレミン">「標準音楽辞典 補遺」p.244(音楽之友社、1973刊)、「西洋音楽史-印象派以後」(柴田南雄著、音楽之友社、1967刊)その他。</ref>。{{要出典範囲|2000年ごろから竹内正実などが独自に「テルミン」との表記を行うようになり、2001年公開の同名の映画によってもこの表記が広まった|date=2023年9月}}。 {{試聴|filename=Epro theremin middle bach.ogg|title=テルミンの音}}<!-- 説明文=Moog Etherwave Pro --> == テルミンの原理と特徴 == [[File:Etherwave Theremin Kit.jpg|thumb|250px|[[モーグ・シンセサイザー|モーグ社]]製テルミン MOOG Etherwave]] [[File:Moog Theremin Bausatz.jpg|thumb|250px|モーグ社製テルミンのキット]] テルミンの最大の特徴は、テルミン本体に手を接触させず、空間中の手の位置によって[[音高]]と[[音量]]を調節することである。 テルミンは[[コンデンサ]]をもつ[[高周波]][[発振器]]を2つ内蔵している。このうち片方の発振[[周波数]]は固定されているが、もう一方の周波数は可変である<ref name="名前なし-1">竹内、34ページ。</ref>。 楽器正面に向かって右側から垂直方向に伸びたアンテナは音高を決める「ピッチアンテナ」であり、左側面から水平方向に伸びたアンテナは音量を決める「ボリュームアンテナ」である<ref name="名前なし-2">竹内、33ページ。</ref>。ピッチアンテナに右手を近づけたり遠ざけたりすると、演奏者とアンテナとの間に蓄えられる[[静電容量]]が変化し、これに伴って可変なほうの発振器の発振周波数が変動する<ref name="名前なし-1"/>。2つの発振器の周波数差から[[うなり]]を起こして可聴周波数を抽出し、[[アンプ (楽器用)|アンプ]]と[[スピーカー]]を介して発音させる<ref>竹内、35ページ。</ref>。ボリュームアンテナに左手を近づけると音量が減少し、遠ざけると音量が増大する<ref name="名前なし-2"/>。また、左手を素早く上下動させることで、ある程度[[スタッカート]]奏法が可能である<ref name="名前なし-3">同上。</ref>。 わずかな静電容量の違いを演奏に利用するため、演奏者自身の体格・装身具などによる静電容量の違いをはじめ、演奏環境に依存する部分が大きく、演奏前に綿密なチューニングを必要とするなど、安定した狙った音を出すには奏者の高い技量が要求され、演奏には熟練を要する。 一般的なテルミンの音色は純粋な[[正弦波]]に近いため({{要出典範囲|正弦波を出力する電子発振器で音を出している為に当然のことである|date=2020年9月}})、[[ミュージックソー]]に似ている。恐怖映画やSF映画の効果音としても使われてきた。 == テルミンの歴史 == {{main|レフ・テルミン}} [[ファイル:Leon Theremin.jpg|thumb|200px|テルミンを演奏するレフ・テルミン(1924年)]] ロシアにおける[[半導体]]技術の権威、アブラム・ヨッフェの招聘により、[[1920年]]から[[ペトログラード]]物理工科大学に勤務していたレフ・テルミンは、温度や圧力の変化によってガス誘電率がどう変化するかを測定する装置の開発に従事していた<ref>竹内、25ページ。</ref>。あるとき、測定装置の計器にヘッドホンを接続してみたところ、ガスにかかる圧力や温度変化に応じて、ヘッドホンから聴こえる音の高さが変化した<ref>竹内、26ページ。</ref>。コンデンサ容量の変化に応じて音高が変化することを発見した彼は、これを楽器に応用することを思いつき、可変コンデンサーにおける電極の片方をアンテナに、もう一方を人間に置き換えてコンデンサー容量を制御する「楽器」を開発した。また、同時にこの技術の電子警報装置への応用も行なった<ref name="名前なし-3"/>。1920年に完成したこの楽器は、上司ヨッフェを魅了し、同年11月、ペトログラード技術工科大学機械科の学生が主催する夜会で、初めて一般聴衆の前でデモンストレーション演奏を行なった<ref name="名前なし-4">竹内、29ページ。</ref>。 [[1921年]][[10月5日]]に[[モスクワ]]で行なわれた、第8回全ロシア電気技術会議において、テルミンの開発した世界初の電子楽器が公式に発表された<ref name="名前なし-4"/>。独創的なフォルムをもつこの楽器は、全国の電化を推進するロシア電化委員会にとって、プロパガンダ政策に利用できる価値を持つものであり、[[ソ連共産党]]機関紙『[[プラウダ]]』紙上でも、テルミンの論文と電子楽器のデモンストレーションが紹介された<ref name="名前なし-3"/>。ソ連政府機関紙『[[イズベスチヤ]]』の記者により、この世界初の電子楽器は「Терменвокс<small>チルミンヴォークス</small>」と命名された<ref>竹内、30ページ。</ref>。なお、テルミン自身はこの発明を「陰極管による音楽装置」と名付けて[[1921年]]7月に特許を出願しており、[[1924年]]8月にこの名称で登録された<ref name="名前なし-3"/>。 [[1922年]]に、レフ・テルミンは、ソ連の指導者[[ウラジーミル・レーニン]]の前でテルミンの演奏を披露した<ref name="time-az"/>。レーニンは非常に感銘を受けて奏法に興味を示し、最終的にはレフ・テルミンの補助なしで[[ミハイル・グリンカ|グリンカ]]の歌曲を演奏した<ref>竹内、43ページ。</ref>。レーニンの発注で600台のテルミンが製造され[[ソビエト連邦]]各地に販売され、テルミン自身も、ソ連の最新技術と電子音楽の誕生を披露するために世界各地へ派遣された。ヨーロッパ各地で詰め掛けた観衆の前で演奏を披露する公演旅行の後、テルミンは[[アメリカ合衆国]]へと向かい、[[1928年]]に特許を取得し、大手電機会社RCAにテルミンの製造販売権を売った。 RCAが製造した「RCA Thereminvox」はアメリカを含む世界の聴衆を魅了したが、[[1929年]]から始まった世界恐慌の影響もあり商業的には成功せず、数百台しか販売されなかった。この時期のテルミン奏者としては、[[クララ・ロックモア]](Clara Rockmore)が知られる。彼女は全米で公演し、しばしば[[ポール・ロブスン]]とも共演した。[[1938年]]にはテルミン博士はアメリカを去りソ連に戻ったが、この理由については望郷説と誘拐説があり今も不明である。以後テルミンは強制労働に従事したり軍事研究に従事したりと数奇な人生を送り、[[ペレストロイカ]]後にようやくアメリカを再訪しクララ・ロックモアらとも再会している。 [[第二次世界大戦]]後にはテルミンは次第に忘れ去られた。[[1960年代]]以降は[[モーグ・シンセサイザー]]など新たな電子楽器の登場もあってテルミンの忘却に拍車をかけた。その一方で、[[アルフレッド・ヒッチコック]]監督の1945年のサイコスリラー『[[白い恐怖]]』、[[ロバート・ワイズ]]監督の[[1951年]]のSF映画『[[地球の静止する日]]』など、恐怖映画やSF映画の音楽に不安定なテルミンが起用されている。ソ連では1935年のSF映画『{{仮リンク|機械人間 感覚の喪失|ru|Гибель сенсации}}』で[[ロボット]]を操縦するギミックとしてテルミンは登場している。また後述するように[[レッド・ツェッペリン]]による使用などで、効果音を出す装置としてテルミンは使われ続けた。 1990年代以降、テルミンは再び見直されモーグによりテルミン製造が再開された。テルミン博士の生涯を描いたドキュメンタリー映画の公開、プロやアマチュアによる演奏の機会の増加、様々な形態のテルミンの製造販売などテルミンは静かに広まり続けている。[[日本]]でも人気があり、日本人奏者による独自の進化を遂げてきた<ref>{{Cite news |title= ロシア大使館でTheremin Day(テルミンの日)!|date= 2014-09-17|url= http://japanese.ruvr.ru/2014_09_17/277412230/|accessdate= 2014-09-19|publisher= [[VOICE OF RUSSIA]]|language= 日本語}}</ref>。 == テルミンを使った音楽 == [[File:Lydia kavina.jpg|thumb|250px|ロシアのテルミン奏者[[リディア・カヴィーナ]]。テルミン博士の姪(従兄弟の孫)で博士から直々に演奏方法を伝授された。]] テルミン専門の演奏家は数少ないものの、熱心な愛好者が存在する。[[シンセサイザー]]のパイオニアであるモーグ社でもテルミンを開発・販売を行っている。 ポピュラー音楽では、[[トッド・ラングレン]]や[[マーキュリー・レヴ]]、コーネリアス([[小山田圭吾]])、[[高野寛]]、[[今井寿]]などのミュージシャンにもしばしば利用されている。また、[[レッド・ツェッペリン]]の「[[胸いっぱいの愛を]]」の間奏で使われている。[[ザ・ビーチ・ボーイズ|ビーチ・ボーイズ]]の「[[グッド・ヴァイブレーション]]」で使われたテルミンの音のような楽器は、[[ポール・タナー]]により作られた「エレクトロテルミン(タナリンとも)」である。また、[[菊池俊輔]]は『[[仮面ライダー]]』などのTV番組の楽曲にテルミンを使用している。 クラシック音楽での使用例は多くないが、この楽器を用いた初期の例として[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]の映画音楽「女ひとり」、[[エドガー・ヴァレーズ]]の「エクアトリアル」(実用度の高い[[オンド・マルトノ]]で代用される場合が多い)、[[チャールズ・アイヴズ]]の「[[交響曲第4番_(アイヴズ)|交響曲第4番]]」<ref>楽譜では「エーテル・オルガン」と表記されており、これがテルミンを指すのかは議論あり。詳細は当該記事参照。</ref>、[[パーシー・グレインジャー]]の「フリーミュージック第1番」(4つのテルミンのための)、「フリーミュージック第2番」(6つのテルミンのための)、[[アニス・フレイハン]]の「テルミン協奏曲」などが挙げられる。 21世紀に作曲された作品には、[[カレヴィ・アホ]]の「テルミン協奏曲『八季』」、[[ファジル・サイ]]の「交響曲第2番『メソポタミア』」、[[クリストファー・タルノフ]]によるテルミンとピアノのためのソナタ及び間奏曲がある。 アルバム『電子音』は[[中村八大]]、[[冨田勲]]のカバーを中心に、モーグ社製Etherwave Theremin Proの音色制作者のひとりでもある井伊英理が日米で発表。モーグ・テルミンとモーグ・シンセサイザーだけで制作された。この作品はCDに加えて、テルミン楽曲として世界初となる着うたでの配信も行なわれている。 == テルミンの機種 == ;現在、日本国内で入手可能なテルミン * TAK THEREMIN LAB EWINDS-S * MOOG ETHERWAVE * [[学研ホールディングス|学習研究社]] ** [https://otonanokagaku.net/magazine/bs/06/ 大人の科学マガジン BESTSELECTION06 テルミンmini] ** [https://otonanokagaku.net/products/living/theremin/detail.html テルミンPremium](2023年1月現在完売) {{clear|right}} ;過去の代表的機種 <dl><gallery perrow="6" widths="90px"> ファイル:Leon Theremin.jpg| Thereminvox <br/><small>(1920s)</small> ファイル:Theremin At The Musical Museum, Brentford, London.jpg|RCA <small>Model AR-1264<br/> (1930s)</small> ファイル:Noimage.svg| R.A.Moogテルミン <br/><small>(1954-1960s)</small> ファイル:Big Briar series 91.jpg| Big Briar <small>Model 91A<br/> (1991-1997)</small> ファイル:Epro theremin.jpg| Moog Etherwave Pro <small>(2004-?)</small> </gallery></dl> ;その他のテルミン <dl><gallery perrow="6" heights="90px"> ファイル:Barbara Buchholz playing TVox.jpg| tVOX tour <br /><small>(ロシア製)</small> ファイル:Subscope theremin - Pilotshop live @ Schüssel, Braunschweig.jpg| subscope theremin voice T3 <small>(ドイツ製)</small> ファイル:Jaycar Theremin MkII.jpg| [[w:en:Jaycar|Jaycar]] Theremin MkII <br /><small>(組み立てキット)</small> ファイル:Theremin music stand - demo session 1.jpg| 譜面台テルミン <br /><small>(NIME 2007 <ref>[http://www.nime.org/2007/ NIME 2007 - New Interfaces for Musical Expression], New York, June 6-10, 2007</ref> デモ) </small> ファイル:Theremin constructed with three transistor radios.jpg| スーパーテレミン ラジオ3台によるテルミン<ref name="kiwi19990208">{{Cite web |url= http://www3.kiwi-us.com/~tomoyaz/higa9902.html#990228|title= 今日の必ずトクする一言|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year= |month= |format= |work= [[kiwiインターネット]]|publisher= [[kiwiインターネット(企業)|株式会社KIWI]]|accessdate= 2022-01-20|date=1999-02-08}}</ref> </gallery></dl> ;テルミンと類似した機構を持つ楽器/エフェクター類 <dl><gallery perrow="6" heights="90px"> ファイル:Alesis AirFX.jpg| [[w:en:Alesis|Alesis]] AirFX <small>(エフェクト)</small> ファイル:Z.Vex Fuzz Probe.jpg| [[w:en:Z.Vex Effects|Z.VEX]] Fuzz Probe <br/><small>(プローブ付き[[ファズ (音響機器)|ファズ]])</small> ファイル:Air Piano.jpg| [[w:en:Air piano#Air piano|Air Piano]] <small>(コントローラ)</small> ファイル:My finished Drawdio!.jpg| Drawdio <ref>Jay Silver, ''[http://web.media.mit.edu/~silver/drawdio/ Drawdio: A Pencil that Lets You Draw Music]'', [[MITメディアラボ]]</ref><br/><small>(鉛筆式トラウトニウム) </small> ファイル:Quintron + drum buddy.jpg| Quintron [[w:en:Drum Buddy|Drum Buddy]] <br/><small>(光学テルミン系ドラムマシン)</small> </gallery></dl> ==著名なテルミン演奏家 == *[[竹内正実]]([[1967年]] - 、[[日本]]) *[[やの雪]](同) *[[ザ・ぷー|街角マチコ]] *生方ノリタカ *[[クララ・ロックモア]] *[[リディア・カヴィナ]]([[ロシア]]) *[[イレーニ・コティツァ]]([[ハンガリー]])- ヴァイオリニストであるが、テルミンの演奏でも知られる。 == 備考 == [[ファイル:Matryomin - Theremin in a Matryoshka (small).jpg|thumb|200px|マトリョミンの演奏]] ; テルミン(''{{lang|en|Theremin &mdash; An Electronic Odyssey}}'' ) : [[1993年]]公開の、スティーヴン・マーティン監督によるドキュメンタリー映画。晩年のレフ・テルミンが出演している。 ; ザ・デルマトロン :電子音楽家[[ブルース・ハーク]] ([[w:en:Bruce Haack|Bruce Haack]]) が使用した楽器。自分と相手に電極をつけて、皮膚に触れることによって演奏する。 ; {{Anchors|マトリョミン}}マトリョミン : 世界的テルミン奏者である[[竹内正実]]が開発した小型テルミン<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.asahi.com/articles/ASL585QBRL58OIPE01X.html |title = ロシアの民芸品っぽい「マトリョミン」 その正体は? |publisher = 朝日新聞 |date = 2018-05-29 |accessdate = 2018-08-14 }}</ref>。[[マトリョーシカ人形]]にテルミン、およびスピーカを内蔵する。ボリュームアンテナが無く休符の表現ができない事から海外ではテルミンに属した楽器ではないと議論されている。[[2013年]]7月には[[浜松市]]で「最大のテルミンアンサンブル」に挑戦し272人が演奏して[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref name="time-az">{{Cite web|和書|url= http://time-az.com/main/detail/40980#aboutus|title= 2013年07月20日 テレミンの世界記録は、日本でセットされた。|accessdate= 2014-09-19|publisher= Digital Creators Conference}}</ref><ref>{{cite video |date= 2013-07-20|title= 272人でテルミン合奏 「最多人数」ギネス記録|url= http://www.youtube.com/watch?v=Zor5IozGNe0|medium= インターネット番組|publisher= [[共同通信]]|accessdate= 2014-09-19}}</ref>。 ; SP-555 : [[ローランド]]社製の[[サンプラー]]。モノフォニック[[シンセサイザー]]とDビーム・コントローラ(光学的に手とセンサーの距離を検出する機構)を採用しており、テルミンのように演奏する事が可能。 ; {{lang|en|Simple Media Spook Keys}}シリーズ : [[ソフトウェア・シンセサイザー]]テルミンが[[フリーウェア]]として入手可能。[[タッチパッド]]や[[マウス (コンピュータ)|マウス]]で操作するほか、通常のMIDIキーボードでも演奏可能。また、ゲームパッドからMIDIメッセージを送信できるソフトウェアによってUSBゲームパッドや[[ネジコン]](※対応している変換機器が必要)などのゲームパッドでも演奏が可能である。 [[ファイル:Gakken Theremin mini.jpg|thumb|180px|学研テルミンmini]] ; スーパーテレミン : 欧米名はthree radio theremin。1999年に[[山本智矢]]によって考案された。一台目のラジオは1600 kHzを受信、二台目のラジオは1145 kHz付近を受信しその局部発振器から漏れる1600kHzが一台目のラジオに受信されるように調節する。三台目のラジオも1145 kHz付近を受信しその局部発振器の1600 kHzが二台目の局部発振器とビートを生じ、それが一台目のラジオに受信されるように調節する。演奏は三台目のラジオのバーアンテナと手の距離を調節し局部周波数を変化させることによって行う<ref name="koala19990208"/>。 ; [[大人の科学マガジン]] : [[学研ホールディングス|学習研究社]]が刊行している付録つき雑誌。2007年9月28日発売のVol.17で「テルミンmini」が付録として発売された。 ; [[のだめカンタービレ]] : クラシック音楽界を題材にした[[二ノ宮知子]]作のコミック。第18巻に「ハンガリー人の女性音楽大生[[のだめカンタービレの登場人物#パリのアパルトマンの仲間|ヤドヴィガ]]」がテルミンを演奏するシーンがある。 ; [[BLACK OUT]] : [[テレビ朝日]]系にて放送されたSF犯罪ドラマ。ほぼ毎回、劇中で主人公(演:[[椎名桔平]])がテルミンを演奏するシーンがあり、据置型・携帯型の2種類が登場する。 == 参考文献 == *『テルミン <small>エーテル音楽と20世紀ロシアを生きた男</small>』([[竹内正実]]著、岳陽舎、2000年)ISBN 4-907737-15-7 == 脚注 == {{reflist|refs= <ref name="koala19990208">{{Cite web|和書|url= http://www3.coara.or.jp/~tomoyaz/higa9902.html#990228|title= 今日の必ずトクする一言|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |year= |month= |format= |work= [[天神コアラ]]|publisher= [[コアラ (企業)|株式会社コアラ]]|accessdate= 2014-09-19|date=1999-02-08}}</ref> }} == 外部リンク == {{Commons|Category:Theremin}} * [https://www.youtube.com/watch?v=xPHfl4FrN3c Peter Theremin plays thereminvox] * [https://www.workroom.co.jp/theremin/ フレンズ・オブ・テルミン] * [https://www.moogmusic.com/ モーグ・ミュージック] * {{Wayback|url=http://www13.ocn.ne.jp/~tak/e-winds/tokutyou.html |title=E-WINDS |date=20040405212816}} * [https://web.archive.org/web/20061031105932/http://lombaxomba.blogspot.com/2006/08/serj-tankian-tocando-um-theremin.html Video] * [http://youtube.com/results?search_query=rupert+theremin&search=Search チャペル] - テルミン * [http://www.thereminworld.com ThereminWorld.com] * [https://www.thereminvox.com/ ThereminVox.com] * [http://theremin.ca TECI]: Theremin Enthusiasts Club International *[https://ideascosasymas.blogspot.com/2016/03/el-instrumento-que-inicio-el-tecno-y-no.html videos and history of theremin] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てるみん}} [[Category:電子楽器]] [[Category:ソビエト連邦の音楽]] [[Category:ロシアの音楽]] [[Category:エポニム]]
2003-09-05T13:46:09Z
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オクターヴ
オクターヴは、西洋音楽における8度音程であり、周波数比2:1の音程である。 「オクターブ」とも表記される。 西洋音楽で用いられる全音階は、周波数比2:1の音の間を全音間隔5箇所と半音間隔2箇所で分割した七音音階である。 西洋音楽では同度を1度音程として数え始めるため、七音音階で高さの異なる同じ音に辿り着く音程が8度となる。「8番目=8度音程」を意味するラテン語は“octavus”であり、そこからフランス語“octave”、英語“octave”、ドイツ語“Oktave”、など他の各言語へと派生・定着した。 オクターヴが単に8度音程という意味であるため、厳密には重減8度・減8度・完全8度・増8度・重増8度を含むが、一般にオクターヴと表現する際は、完全8度音程やその音程を隔てた音のことを意味する。時には8度音程としての1オクターヴだけでなく、2オクターヴや3オクターヴなど、数オクターヴのことを意味することもある。また、七音音階以外の場合でも周波数比2:1の音程に対してオクターヴという用語が広く適用されることもある。 インドにおいては、オクターヴに相当する用語として、7を意味する“saptak”(サプタカ)という語が使われている。これは、1サプタカに7個の音(Sa, Ri, Ga, Ma, Pa, Dha, Ni)が含まれているためであるが、西洋音楽とは異なり、同度を0度と数える方式によっているためである。 ある音の2倍 (n:整数)の周波数の音は、元の音と同種の音と認識されることが、ヒトに共通する感覚として絶対性を持っている。高さは違うものの、本質的に同じ音として感覚に捉えられる理由として一つに、自然界に存在している多くの音に含まれる倍音の中では、この関係の周波数の音が基礎となって響く点が考えられており、また、オクターヴ違いの2音間の振動数比の単純さが考えられている。 オクターヴの関係にある音が高さの異なる同種の音として聴こえるその性質から多くの文化ではそれが同じ音名として表現されてきた。例えば西洋音楽において、A(ラ)音の1オクターヴ上もA音とされる。インド古典音楽でも同様で、Sa(サ)音の1オクターヴ上はやはりSa音となる。別の場合として、オスマン古典音楽(トルコ)においては、1オクターヴ上の音に同じ名称を与えずに呼び示す。例えば、イェギャハと呼ばれる音の1オクターヴ上の音はネヴァーと呼ばれる。これは古代ギリシャからの音楽理論の伝統を引き継いでいる事と関連している。 オクターヴ以上にわたる音程を、その関係を解りやすくするために、オクターヴ単位で移高した音程として呼び示すことがある。その際、8度以下の音程を単音程と呼び、8度以上にわたる音程のことを複音程と呼ぶ。例えば、17度音程は、単音程で3度音程となる。 8度は単音程とも複音程ともされる。8度を複音程と考えた場合、単音程で1度になる。 西洋音楽の楽譜において、5線譜で標準的に使用される音部記号にとって非常に高い音や低い音を記したい時、加線が多くて見にくくならないよう、オクターヴ移高させる省略記号が使用されてきた。 音楽用語はイタリア語が公用語として普及していたが、 記譜音をオクターヴ移高させて奏する指示もイタリア語で表記される。8 という記号は、「(記譜よりも)1オクターヴ高く(演奏せよ)」という意味であるが、正式には8となる。8 とは ottava の略記であるが、イタリア語におけるottavoの女性型ottavaに、「高い」altoの女性型altaが適用されている。逆に、「(記譜よりも)1オクターヴ低く(演奏せよ)」という指示には、 8 が用いられることがあるが、ロマン派頃から誤解を防ぐためその表記は敬遠されるようになり、その後は8または8 bassaと表記され、これらはottavo bassoの女性型でottava bassaとなっている。 2オクターヴは16度(diciasettesimo)ではなく15度(quindecimo)となる。2オクターヴ移高させる指示の場合には、15または15、15または15 bassaと表記される。ただしメシアンをはじめとする同世代の作曲家たちは、8の2倍の数字としての見やすさを尊重し、あえてこれを16度と表記することもあったが、現代の殆どの作曲家たちは15度として記入する。16度として書き込む場合には、16または16、16または16 bassaとなる。
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オクターヴは、西洋音楽における8度音程であり、周波数比2:1の音程である。 「オクターブ」とも表記される。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{otheruses|[[音楽]]用語|その他の用法|Octave}} '''オクターヴ'''は、[[西洋音楽]]における8度[[音程]]であり、[[周波数]]比2:1の音程である。 「'''オクターブ'''」とも表記される<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/オクターブ/ goo辞書(デジタル大辞泉)]</ref><ref>[https://www.weblio.jp/content/オクターブ weblio辞書(大辞林)]</ref>。 == 用語 == 西洋音楽で用いられる[[全音階]]は、周波数比2:1の音の間を[[全音]]間隔5箇所と[[半音]]間隔2箇所で分割した[[七音音階]]である。 西洋音楽では同度を1度音程として数え始めるため、七音音階で高さの異なる同じ音に辿り着く音程が8度となる。「8番目=8度音程」を意味するラテン語は“octavus”であり、そこからフランス語“octave”、英語“octave”、ドイツ語“Oktave”、など他の各言語へと派生・定着した。 オクターヴが単に8度音程という意味であるため、厳密には重減8度・減8度・完全8度・増8度・重増8度を含むが、一般にオクターヴと表現する際は、完全8度音程やその音程を隔てた音のことを意味する。時には8度音程としての1オクターヴだけでなく、2オクターヴや3オクターヴなど、数オクターヴのことを意味することもある。また、七音音階以外の場合でも周波数比2:1の音程に対してオクターヴという用語が広く適用されることもある。 インドにおいては、オクターヴに相当する用語として、7を意味する“saptak”(サプタカ)という語が使われている。これは、1サプタカに7個の音(Sa, Ri, Ga, Ma, Pa, Dha, Ni)が含まれているためであるが、西洋音楽とは異なり、同度を0度と数える方式によっているためである。 == 理論 == {{Main|音高#トーンクロマ}}ある音の2<sup>±n</sup>倍 (n:[[整数]])の周波数の音は、元の音と同種の音と認識されることが、[[ホモ・サピエンス|ヒト]]に共通する感覚として絶対性を持っている。高さは違うものの、本質的に同じ音として感覚に捉えられる理由として一つに、自然界に存在している多くの音に含まれる[[倍音]]の中では、この関係の周波数の音が基礎となって響く点が考えられており、また、オクターヴ違いの2音間の振動数比の単純さが考えられている{{誰2|date=2020年8月}}。 オクターヴの関係にある音が高さの異なる同種の音として聴こえるその性質から多くの文化ではそれが同じ音名として表現されてきた。例えば西洋音楽において、A(ラ)音の1オクターヴ上もA音とされる。インド古典音楽でも同様で、Sa(サ)音の1オクターヴ上はやはりSa音となる。別の場合として、オスマン古典音楽(トルコ)においては、1オクターヴ上の音に同じ名称を与えずに呼び示す。例えば、イェギャハと呼ばれる音の1オクターヴ上の音はネヴァーと呼ばれる。これは古代ギリシャからの音楽理論の伝統を引き継いでいる事と関連している。 == 単音程と複音程の境界における問題 == オクターヴ以上にわたる音程を、その関係を解りやすくするために、オクターヴ単位で移高した音程として呼び示すことがある。その際、8度以下の音程を単音程と呼び、8度以上にわたる音程のことを複音程と呼ぶ。例えば、17度音程は、単音程で3度音程となる。 8度は単音程とも複音程ともされる。8度を複音程と考えた場合、単音程で1度になる。 == 記譜上の移高記号 == {{Image frame|content=<score lang="lilypond"> { \relative c''' { \clef treble \time 4/4 \key c \major c4 e g2 \ottava #1 c,4 e g2 \ottava #2 c,4 e g2 } } </score>|width=310|caption=''8<sup>va</sup>''、''15<sup>ma</sup>''の記譜例}} {{Image frame|content=<score lang="lilypond"> { \relative c' { \clef treble \time 4/4 \key c \major c4 e g2 \ottava #-1 c,4 e g2 \ottava #-2 c,4 e g2 } } </score>|width=310|caption=''8<sup>vb</sup>''、''15<sup>mb</sup>''の記譜例}} 西洋音楽の[[楽譜]]において、5線譜で標準的に使用される[[音部記号]]にとって非常に高い音や低い音を記したい時、[[加線]]が多くて見にくくならないよう、オクターヴ移高させる省略記号が使用されてきた。 音楽用語はイタリア語が公用語として普及していたが、 記譜音をオクターヴ移高させて奏する指示もイタリア語で表記される。''8<sup>va</sup>'' という[[演奏記号|記号]]は、「(記譜よりも)1オクターヴ高く(演奏せよ)」という意味であるが、正式には''8<sup>va alta</sup>''となる。''8<sup>va</sup>'' とは ''ottava'' の略記であるが、イタリア語における''ottavo''の女性型''ottava''に、「高い」''alto''の女性型''alta''が適用されている。逆に、「(記譜よりも)1オクターヴ低く(演奏せよ)」という指示には、 ''8<sup>va</sup>'' が用いられることがあるが、ロマン派頃から誤解を防ぐためその表記は敬遠されるようになり、その後は''8<sup>vb</sup>''または''8<sup>va</sup> bassa''と表記され、これらは''ottavo basso''の女性型で''ottava bassa''となっている。 2オクターヴは16度(diciasettesimo)ではなく15度(quindecimo)となる。2オクターヴ移高させる指示の場合には、''15<sup>ma alta</sup>''または''15<sup>ma</sup>''、''15<sup>ma b</sup>''または''15<sup>ma</sup> bassa''と表記される。ただし[[メシアン]]をはじめとする同世代の作曲家たちは、8の2倍の数字としての見やすさを尊重し、あえてこれを16度と表記することもあったが、現代の殆どの作曲家たちは15度として記入する。16度として書き込む場合には、''16<sup>ma alta</sup>''または''16<sup>ma</sup>''、''16<sup>ma b</sup>''または''16<sup>ma</sup> bassa''となる。 <!-- その他、デカートという単位もあり、1デカートは10オクターヴのことを意味する。 →周波数が10倍の「デカード」のことか? --> {| id="toc" style="margin: 0 2em 0 2em;" ! colspan="7" style="background:#ccccff" | オクターヴ(八度) |- align=center | [[半音]] | [[インターバルクラス]] | [[平均律]]における[[セント (音楽)|セント]] | [[全音階]]に基づく名前 | [[純正律]]における振動数比 | 純正律におけるセント | 平均律と純正律のセント差 |- align=center | 12 || 0 || 1200 cents || 八度 || 1:2 || 1200 || 0 cents |- align=center | colspan="7" bgcolor=ccccff|そのほかの音程 |- align=center | colspan="7" |[[一度]] - [[短二度]] - [[長二度]] - [[短三度]] - [[長三度]] - [[完全四度]] - [[増四度]] - [[完全五度]] - [[短六度]] - [[長六度]] - [[短七度]] - [[長七度]] - '''八度''' |} ==出典== <references /> == 関連項目 == {{Wiktionary|オクターヴ}} *[[オクターヴ奏法]] *[[ディケード (単位)]] {{Musical notation}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おくたあう}} [[Category:音程]] [[Category:音の単位]] [[Category:音楽用語]] [[Category:対数スケールの単位]]
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ウェブディレクトリ
ウェブディレクトリ (英: web directory)またはリンクディレクトリ (英: link directory)は、ウェブサイトの目録、リンク集、索引集のこと。つまり、ワールドワイドウェブのディレクトリのことを指す。歴史的に、「ディレクトリ」は、人名や企業名とその連絡先情報を一覧にしたものであった。このようなディレクトリは今日でも使われる。同様に「ウェブディレクトリ」には、ウェブサイト名、説明、リンクが、分類別に編成されている。殆どのウェブディレクトリでは、ウェブサイト内の各ページ (ディープリンク)ではなく、ウェブサイトのトップページのみを扱い、含められる分類数に制限をかけている。 ウェブで情報を見つけるには、検索または参照の2つの方法がある。 ウェブディレクトリは、構造化されたリストにリンクを提供して、ブラウジングを容易にする。多くのウェブディレクトリは、ディレクトリを検索するための検索エンジン (ディレクトリ型検索エンジン) を提供することにより、検索とブラウジングを組み合わせている。 ウェブクローラーによって自動的に収集されたエントリのデータベースに基づいて結果を表示するロボット型検索エンジンとは異なり、殆どのウェブディレクトリは人間の編集者によって手動で作成される。多くのウェブディレクトリでは、サイトの所有者が自分のサイトを申請することができる。 ウェブディレクトリは、取り扱われる範囲が全般にわたる場合もあれば、特定の主題、領域に限定されている場合もある。掲載申請は無料/有料のいずれの場合もある。 RSSディレクトリはウェブディレクトリに似ているが、ウェブサイトへのリンクではなく、 RSSフィードへのリンク一覧が掲載される。 ウェブの黎明期に、 ティム・バーナーズ=リーによって編集され、CERNウェブサーバーでホストされているウェブサーバーの一覧があった。 1992年の歴史的なスナップショットが1つ残っている。 彼はまた、最も古いウェブディレクトリであるWorld Wide Web仮想ライブラリ(英語版)を作成した。 全般の内容を扱っているウェブディレクトリは、幅広いカテゴリ、地域、言語のウェブサイトが一覧表示される。一方、ニッチなウェブディレクトリは、一部の地域、単一言語、または特定の専門分野に焦点を当てたウェブサイトの一覧を表示する。多数のサイトが存在するニッチディレクトリの一種に、ショッピングディレクトリ(英語版)がある。ショッピングディレクトリは、小売eコマースサイトのリストを専門としている。 よく知られている一般的なウェブディレクトリの例はYahoo!ディレクトリ (米国では2014年末に廃止、日本では同等のサービスYahoo!カテゴリが2018年3月末に廃止)とDMOZ (2017年3月14日に廃止)である。 DMOZは、分類が広範囲に渡り多数のリストが登録されていること、および他のディレクトリや検索エンジンに無料でシンジケートできるという意味において特筆すべきサービスであった。DMOZは特定分野の専門家からなるボランティアによって編集されていた。しかし、そのため申請の承認が大幅に遅れたり、ボランティア編集者間の論争があったりするために批判を受けることがあった。 これらの批判に応えて、ボランティアが編集したディレクトリの中には、ディレクトリの編集に幅広いコミュニティが参加できるようにするためにウィキ方式を採用するものもある。しかし、品質が低くなり、客観性の低いエントリが増えるリスクがある。 ディレクトリやデータベースの内容の品質については議論が続いていた。そこで、検索エンジンはODPのコンテンツを統合せず、クラスタリングを使用した実験も行われていた。 ウェブディレクトリには、掲載が無料の場合と有料の場合があり、有料の場合は追加の機能がある場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウェブディレクトリ (英: web directory)またはリンクディレクトリ (英: link directory)は、ウェブサイトの目録、リンク集、索引集のこと。つまり、ワールドワイドウェブのディレクトリのことを指す。歴史的に、「ディレクトリ」は、人名や企業名とその連絡先情報を一覧にしたものであった。このようなディレクトリは今日でも使われる。同様に「ウェブディレクトリ」には、ウェブサイト名、説明、リンクが、分類別に編成されている。殆どのウェブディレクトリでは、ウェブサイト内の各ページ (ディープリンク)ではなく、ウェブサイトのトップページのみを扱い、含められる分類数に制限をかけている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ウェブで情報を見つけるには、検索または参照の2つの方法がある。 ウェブディレクトリは、構造化されたリストにリンクを提供して、ブラウジングを容易にする。多くのウェブディレクトリは、ディレクトリを検索するための検索エンジン (ディレクトリ型検索エンジン) を提供することにより、検索とブラウジングを組み合わせている。 ウェブクローラーによって自動的に収集されたエントリのデータベースに基づいて結果を表示するロボット型検索エンジンとは異なり、殆どのウェブディレクトリは人間の編集者によって手動で作成される。多くのウェブディレクトリでは、サイトの所有者が自分のサイトを申請することができる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウェブディレクトリは、取り扱われる範囲が全般にわたる場合もあれば、特定の主題、領域に限定されている場合もある。掲載申請は無料/有料のいずれの場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "RSSディレクトリはウェブディレクトリに似ているが、ウェブサイトへのリンクではなく、 RSSフィードへのリンク一覧が掲載される。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ウェブの黎明期に、 ティム・バーナーズ=リーによって編集され、CERNウェブサーバーでホストされているウェブサーバーの一覧があった。 1992年の歴史的なスナップショットが1つ残っている。 彼はまた、最も古いウェブディレクトリであるWorld Wide Web仮想ライブラリ(英語版)を作成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "全般の内容を扱っているウェブディレクトリは、幅広いカテゴリ、地域、言語のウェブサイトが一覧表示される。一方、ニッチなウェブディレクトリは、一部の地域、単一言語、または特定の専門分野に焦点を当てたウェブサイトの一覧を表示する。多数のサイトが存在するニッチディレクトリの一種に、ショッピングディレクトリ(英語版)がある。ショッピングディレクトリは、小売eコマースサイトのリストを専門としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "よく知られている一般的なウェブディレクトリの例はYahoo!ディレクトリ (米国では2014年末に廃止、日本では同等のサービスYahoo!カテゴリが2018年3月末に廃止)とDMOZ (2017年3月14日に廃止)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "DMOZは、分類が広範囲に渡り多数のリストが登録されていること、および他のディレクトリや検索エンジンに無料でシンジケートできるという意味において特筆すべきサービスであった。DMOZは特定分野の専門家からなるボランティアによって編集されていた。しかし、そのため申請の承認が大幅に遅れたり、ボランティア編集者間の論争があったりするために批判を受けることがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらの批判に応えて、ボランティアが編集したディレクトリの中には、ディレクトリの編集に幅広いコミュニティが参加できるようにするためにウィキ方式を採用するものもある。しかし、品質が低くなり、客観性の低いエントリが増えるリスクがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ディレクトリやデータベースの内容の品質については議論が続いていた。そこで、検索エンジンはODPのコンテンツを統合せず、クラスタリングを使用した実験も行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ウェブディレクトリには、掲載が無料の場合と有料の場合があり、有料の場合は追加の機能がある場合がある。", "title": "事業モデル" } ]
ウェブディレクトリまたはリンクディレクトリは、ウェブサイトの目録、リンク集、索引集のこと。つまり、ワールドワイドウェブのディレクトリのことを指す。歴史的に、「ディレクトリ」は、人名や企業名とその連絡先情報を一覧にしたものであった。このようなディレクトリは今日でも使われる。同様に「ウェブディレクトリ」には、ウェブサイト名、説明、リンクが、分類別に編成されている。殆どのウェブディレクトリでは、ウェブサイト内の各ページ (ディープリンク)ではなく、ウェブサイトのトップページのみを扱い、含められる分類数に制限をかけている。 ウェブで情報を見つけるには、検索または参照の2つの方法がある。 ウェブディレクトリは、構造化されたリストにリンクを提供して、ブラウジングを容易にする。多くのウェブディレクトリは、ディレクトリを検索するための検索エンジン (ディレクトリ型検索エンジン) を提供することにより、検索とブラウジングを組み合わせている。 ウェブクローラーによって自動的に収集されたエントリのデータベースに基づいて結果を表示するロボット型検索エンジンとは異なり、殆どのウェブディレクトリは人間の編集者によって手動で作成される。多くのウェブディレクトリでは、サイトの所有者が自分のサイトを申請することができる。 ウェブディレクトリは、取り扱われる範囲が全般にわたる場合もあれば、特定の主題、領域に限定されている場合もある。掲載申請は無料/有料のいずれの場合もある。 RSSディレクトリはウェブディレクトリに似ているが、ウェブサイトへのリンクではなく、 RSSフィードへのリンク一覧が掲載される。
{{複数の問題|出典の明記=2023-4|独自研究=2023-4|更新=2023-4}} '''ウェブディレクトリ''' ([[英語|英]]: web directory)または'''リンクディレクトリ''' ([[英語|英]]: link directory)は、[[ウェブサイト]]の[[目録]]、[[リンク集]]、[[索引]]集のこと。つまり、[[ワールドワイドウェブ]]のディレクトリのことを指す。歴史的に、「ディレクトリ」は、人名や企業名とその連絡先情報を一覧にしたものであった。このようなディレクトリは今日でも使われる。同様に「ウェブディレクトリ」には、ウェブサイト名、説明、リンクが、分類別に編成されている<ref>{{Cite web|title=Web directory|url=http://dictionary.reference.com/browse/web+directory|publisher=Dictionary|accessdate=30 August 2013}}</ref><ref name="about.com">{{Cite web|url=http://websearch.about.com/od/enginesanddirectories/a/subdirectory.htm|title=What is a Web Directory|accessdate=2010-02-25|publisher=About.com|author=Wendy Boswell}}</ref><ref>{{Cite web|title=Web Directory Or Directories|url=http://www.yourmaindomain.com/web-articles/what-is-web-directory.asp|publisher=yourmaindomain|accessdate=30 August 2013}}</ref>。殆どのウェブディレクトリでは、ウェブサイト内の各ページ ([[ディープリンク]])ではなく、ウェブサイトのトップページのみを扱い、含められる分類数に制限をかけている。 ウェブで情報を見つけるには、[[検索エンジン|検索]]または参照の2つの方法がある。 ウェブディレクトリは、構造化されたリストにリンクを提供して、ブラウジングを容易にする。多くのウェブディレクトリは、ディレクトリを検索するための検索エンジン ('''[[検索エンジン#ディレクトリ型検索エンジン|ディレクトリ型検索エンジン]]''') を提供することにより、検索とブラウジングを組み合わせている。 [[クローラ|ウェブクローラー]]によって自動的に収集されたエントリのデータベースに基づいて結果を表示する'''[[検索エンジン#ロボット型検索エンジン|ロボット型検索エンジン]]'''とは異なり、殆どのウェブディレクトリは人間の編集者によって手動で作成される。多くのウェブディレクトリでは、サイトの所有者が自分のサイトを申請することができる。 ウェブディレクトリは、取り扱われる範囲が全般にわたる場合もあれば、特定の主題、領域に限定されている場合もある。掲載申請は無料/有料のいずれの場合もある。 '''RSSディレクトリ'''はウェブディレクトリに似ているが、ウェブサイトへのリンクではなく、 [[RSS]]フィードへのリンク一覧が掲載される。 == 歴史 == ウェブの黎明期に、 [[ティム・バーナーズ=リー]]によって編集され、[[欧州原子核研究機構|CERN]]ウェブサーバーでホストされている[[ウェブサーバー]]の一覧があった。 1992年の歴史的なスナップショットが1つ残っている<ref>{{Cite web|url=http://www.w3.org/History/19921103-hypertext/hypertext/DataSources/WWW/Servers.html|title=World-Wide Web Servers|publisher=W3.org|accessdate=2012-05-14}}</ref>。 彼はまた、最も古いウェブディレクトリである{{仮リンク|World Wide Web仮想ライブラリ|en|World Wide Web Virtual Library}}を作成した<ref name="searchenginehistory.com">{{Cite web|url=http://www.searchenginehistory.com/|title=History of Search Engines: From 1945 to Google Today|accessdate=2017-05-16|publisher=Search Engine History|author=Aaron Wall}}</ref>。 === ディレクトリで扱われる範囲 === 全般の内容を扱っているウェブディレクトリは、幅広いカテゴリ、地域、言語のウェブサイトが一覧表示される。一方、ニッチなウェブディレクトリは、一部の地域、単一言語、または特定の専門分野に焦点を当てたウェブサイトの一覧を表示する。多数のサイトが存在するニッチディレクトリの一種に、{{仮リンク|ショッピングディレクトリ|en|Shopping directory}}がある。ショッピングディレクトリは、小売[[eコマース]]サイトのリストを専門としている。 よく知られている一般的なウェブディレクトリの例は[[Yahoo!ディレクトリ]] (米国では2014年末に廃止、日本では同等のサービスYahoo!カテゴリが2018年3月末に廃止)と[[DMOZ]] (2017年3月14日に廃止)である。 DMOZは、分類が広範囲に渡り多数のリストが登録されていること、および他のディレクトリや検索エンジンに[[フリーコンテント|無料]]でシンジケートできるという意味において特筆すべきサービスであった<ref name="newscom">Paul Festa (December 27, 1999), [http://www.news.com/2100-1023-234893.html Web search results still have human touch], ''CNET News.com'', retrieved September 18, 2007</ref>。DMOZは特定分野の専門家からなる[[ボランティア]]によって編集されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kensapo.com/odp.html|title=Open Directory Project (ODP) 登録方法|publisher=|date=2011-04-03|access-date=2021-03-20}}</ref><ref name="dmozfaq">{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/dmozjp/faq|title=Open Directory Project (ODP) / dmoz 日本語FAQ|publisher=|date=|access-date=2021-03-20}}</ref>。しかし、そのため申請の承認が大幅に遅れたり、ボランティア編集者間の論争があったりするために批判を受けることがあった。 これらの批判に応えて、ボランティアが編集したディレクトリの中には、ディレクトリの編集に幅広いコミュニティが参加できるようにするために[[ウィキ]]方式を採用するものもある。しかし、品質が低くなり、客観性の低いエントリが増えるリスクがある<ref name="Ascii20170605">{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/001/494/1494336/|title=グーグル、検索結果の説明文作成に DMOZ の使用を中止することを正式発表|publisher=ascii.jp|date=2017-06-05|access-date=2021-03-20}}</ref>。 ディレクトリやデータベースの内容の品質については議論が続いていた。そこで、検索エンジンはODPのコンテンツを統合せず<ref name="Ascii20170605"></ref>、[[データ・クラスタリング|クラスタリング]]を使用した実験も行われていた。 == 事業モデル == ウェブディレクトリには、掲載が無料の場合と有料の場合があり、有料の場合は追加の機能がある場合がある。 * 費用 ** 無料申請&nbsp;–申請されたサイトのレビューと掲載を無料で行う。 ** 有料申請&nbsp;–申請されたサイトのレビューと掲載のために1回限りまたは定期的な料金が発生する。無料サービスと併用されている場合は、掲載位置が有利になったり、申請から承認までの速度が早くなる事が多い。一方、あくまで審査料としている場合もある<ref name="impressmoz">{{Cite web|和書|url=https://webtan.impress.co.jp/e/2008/04/28/3024|title=被リンク獲得に外部ディレクトリサイトを使う場合の要注意ポイント|publisher=|date=2008-04-28|access-date=2021-03-20}}</ref>。 * 注目のリスト&nbsp;–リンクは、特別なカテゴリ、またはトップページなどのディレクトリの他の場所で、目立つ位置に掲載される。スポンサーリストと呼ばれることも。 * 掲載位置の入札 - 掲載位置を入札で決定し、高額の費用を支払ったサイトがよりよい位置に掲載される。 * [[成功報酬型広告|アフィリエイトリンク]]&nbsp;–顧客がディレクトリからウェブサイトを見つけて売上が上がった場合、紹介顧客のコミッションを獲得する。 * 相互リンク&nbsp;–ディレクトリに掲載されるためには、申請されたサイトのどこかにディレクトリへのリンクを追加する。この戦略は、サイトのSEO対策のために盛んに行われていたが、検索エンジンのアルゴリズム変更によりウェブディレクトリに対する評価が下がったことで人気が低下し、価値が低下したり、逆効果になるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://webmaster-ja.googleblog.com/2012/04/blog-post_25.html|title=良質なサイトをより高く評価するために|publisher=Googleウェブマスター向け公式ブログ|date=2012-04-25|access-date=2021-03-20|quote=掲載順位を上げることやトラフィックを増やすことを追求する中で、まったくユーザーのためにならない裏技や抜け道のような手法を使用してそのサイトに本来適切な掲載順位より高い掲載順位を得ようとしているようなサイトのことです。私たちは、サイトの掲載順位を少しでも高く操作するために行われる キーワードの詰め込み や リンクプログラムへの参加 など、様々なウェブスパムを毎日確認しています。[...]今回の変更では、Google の 品質に関するガイドライン に違反しているサイトについて、その掲載順位を下げるような対策を実施します。}}</ref><ref> {{Cite web|url=http://searchengineland.com/what-everyone-needs-to-know-about-good-bad-bland-links-129186|title=What Everyone Needs To Know About Good, Bad & Bland Links|author=Schmitz|first=Tom|date=August 2, 2012|website=searchengineland.com|publisher=Third Door Media|accessdate=April 21, 2017|quote="Reciprocal links may not help with competitive keyword rankings, but that does not mean you should avoid them when they make sound business sense. What you should definitely avoid are manipulative reciprocal linking schemes like automated link trading programs and three-way links or four-way links."}} </ref>。 == 多言語のウェブディレクトリ == * [[Yahoo! Directory]] - 廃止 * [[Open Directory Project]] (DMOZ) - 廃止、後継の[[Curlie]]に移行 * [[LookSmart]] - 廃止 * [[AboutUs.org]] == 関連項目 == * {{仮リンク|ウェブディレクトリの一覧|en|List of web directories}} * [[検索エンジンの一覧]] * [[検索エンジンインデックス]] * {{仮リンク|記事ディレクトリ|en|Article directory}} * {{仮リンク|ビジネスディレクトリ|en|Business directory}} * {{仮リンク|ウェブグラフィー|en|Webography}} * [[ウェブリング]] * {{仮リンク|ショッピングディレクトリ|en|Shopping directory}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20160304201852/http://dir.yahoo.co.jp/Computers_and_Internet/Internet/World_Wide_Web/Searching_the_Web/Web_Directories/ Yahoo!Japan「ディレクトリサービス」カテゴリ] - [[ウェイバックマシン]](2016年3月4日アーカイブ分)<sup>[''[[wikipedia:出典を明記する#%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%88%87%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%9B%9E%E9%81%BF%E3%81%A8%E4%BF%AE%E5%BE%A9|リンク切れ]]'']</sup>(日本語、[[Yahoo! JAPAN]]) * [https://web.archive.org/web/20170309044214/http://dmoz.org/World/Japanese/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88/%E6%A4%9C%E7%B4%A2/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA/ dmoz Open Directory Project日本語「ディレクトリ」カテゴリ]- [[ウェイバックマシン]](2017年3月9日アーカイブ分)<sup>[''[[wikipedia:出典を明記する#%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E5%88%87%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%9B%9E%E9%81%BF%E3%81%A8%E4%BF%AE%E5%BE%A9|リンク切れ]]'']</sup>(日本語、[[Open Directory Project]]) * {{Curlie|Computers/Internet/Searching/Directories/|Web directories}} {{DEFAULTSORT:うえふていれくとり}} [[Category:ウェブディレクトリ|*]] [[Category:検索エンジン最適化]]
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ドルアーガの塔
『ドルアーガの塔』(ドルアーガのとう、The Tower of Druaga)は、ナムコが開発し、1984年7月に稼働されたアーケードゲーム用アクションRPGおよびゲームの舞台となった塔の名前。『バビロニアン・キャッスル・サーガ』の第1作。略称は『TOD』。 バビリム王国の王子であるギルを操作し、悪魔ドルアーガを倒してブルークリスタルロッドの奪還および恋人のカイを救出する事を目的としたゲーム。アクションロールプレイングゲームの草分け的存在でもある。ゲーム・デザインは遠藤雅伸、音楽は小沢純子、キャラクター・デザインは篠崎雄一郎が担当している。 ファミリーコンピュータをはじめとしたゲーム機、MSXをはじめとする各種パソコン(Windowsを含む)や携帯電話など、また単体パッケージとして以外にもナムコのレトロアーケードゲームのカップリング作品『ナムコミュージアム』にも度々収録されており、きわめて多数のプラットフォームに移植されている。 カバヤ食品の食玩「ゲーム伝説」には一部ステージがプレイできるWindows版CD-ROMが同梱されていた。また、2003年12月5日にナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)から発売されたニンテンドーゲームキューブ用のRPG『バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海』の予約特典として、ファミリーコンピュータ版が復刻されている。 後に続編となるアーケードゲーム『イシターの復活』(1986年)が稼働され、以後シリーズ化された。 『ゼビウス』(1983年)で知られる遠藤雅伸がゲームデザインを担当した本作は、主人公ギルが悪魔・ドルアーガの住まう60階建ての塔を攻略する内容である。制限時間内に各種のモンスターを倒しつつ、迷路状の各フロア(ステージ)に配された鍵を取得し扉を開けて次のフロアに進むことを繰り返すというもの。各フロアにはギルの戦いを有利にするアイテムの入った宝箱も隠されている。最終的な目標は平和のシンボルでもあるクリスタルロッドの奪回とドルアーガの打倒、そして最上階に囚われている巫女のカイの救出である。 ドルアーガを倒しカイを助けるためには、各種のアイテムを取得してギルを強化しなければならない。宝箱を出現させるにはフロア毎に設定された条件を満たす必要がある。出現条件としては「特定の敵を数匹倒す」「ギルを特定位置に移動させる」等のほか、「スタートボタンを押す」「レバーを各方向に特定回数ずつ入力する」といった風変わりなものも設定されている。アイテムの中にはギルにとって不利となるものもあり、また宝箱が出現しないフロアも存在する。 4方向レバーと1ボタンを使用して主人公のギルを操作する。ギルは迷路の壁沿いにしか移動できないが、アイテムの一つであるマトック(つるはし)や、敵キャラクターが発する呪文などを利用し壁を壊すことで壁のあった場所も通過可能となる。 攻撃には主に剣を使う。ボタンを押すと剣を抜き、押している間は前方に構える。剣を構えた状態で敵の方向に移動(交差)することでダメージを与えられ、スライム等は一撃で倒せるがナイト等は1回の交差では体力を奪うのみであり、倒すためには交差を繰り返す必要がある。ボタンを離すと剣をしまう。剣を抜く・しまう動作中は防御も出来ない無防備な状態となる。 マジシャン等が出す呪文は、盾で受け止め防ぐことができる。盾は剣をしまった状態ではギルの正面、剣を抜いた状態では左側を向く。これを応用し、剣を出したまま呪文を受け止めることも可能であり、この動作を行わないと出現しない重要アイテムも存在する。この方式は本ゲームに限らず、ゼルダの伝説シリーズでも採用されている。 マトックを入手している場合は、壁に向かって停止した状態でボタンを押すと壁を壊すことが可能である。この際にボタンを使用するため、同時に剣も抜き差しされる。ただし外周の壁は壊せず、マトックの方が破損してしまう。 各フロアには原則として1つの宝箱が用意されている。フロア開始時は隠されており、ギルの行動やそれによる結果が、フロアごとに設定された特定の条件を満たした場合に出現する。ギルが宝箱に接触すると、フロアごとに決まったアイテムを取得することができる。アイテムにはゲームの進行を支援(阻害)するもの、直接的なパワーアップ(ダウン)をもたらすもの、物語の完結に必要なもの、他のアイテムに影響を与えるものなどがあり、取得することで様々な効果を発揮する。 各カテゴリに属するアイテムは排他装備であり、上位アイテムの取得によって下位のアイテムは消滅する。同じカテゴリであれば、原則として緑→赤→青の順に上位となる。ただしファミリーコンピュータ(以下FC)版では配色に制限があり、白・赤とその逆の配色、青・黄の3通りしかない。 ドルアーガ打倒のために最低限必要なアイテムは最上位の剣・篭手・鎧・楯・兜とブルークリスタルロッド、ルビーメイスだが、これらを取得するために必要なアイテムが連鎖的に存在する。上記のバランスもこのためのもので、クリスタルロッドとルビーメイス以外のすべてに必要。 RPG的要素の一つとして、ギルや一部の敵が固有の体力値を持つことが挙げられる。体力値が設定された敵に対しては繰り返し攻撃することで倒せるが、ギルも敵の攻撃で体力がなくなるとミスになる。ゲーム画面からはギルや敵の体力値に関する情報が一切与えられないため、プレイヤーはデータ収集やプレイ経験からギルの体力値の余裕を推定する必要がある。フロア開始時にはギルの体力値が最大値まで回復する。 本作では以下の要因によりスコアが加算される。ただし本作ではコンティニューボーナスが不当に高すぎるため、スコアが腕前と一致していない。当時ハイスコア集計「CHALLENGE HIGH SCORE!」を掲載していた『マイコンBASICマガジン』誌も、本作については「60階クリア」の人数のみ集計された。後に遠藤が掲示板で語ったところによると、当時の過剰なスコアアタック至上主義に対する皮肉の意味合いがあったという。 59・60階で本来の目的から外れる行動を取ると、「YOU ZAPPED TO ...」と表示され、取得済みアイテムのいくつかを没収された状態で遥か下の階(6 - 18階でランダム)へ落とされる(ZAP)。ドルアーガ打倒に不可欠なアイテムの多くも失われるため、このままではゲームクリア不可能となりゲームそのものが成立しなくなるため、クリアのためには5階の宝を取り直さなければならない。ZAPの発生条件は「59階でドルアーガを倒さないまま鍵を開けて扉を抜ける」「60階で壁を壊す、イシターやカイを剣で刺す、タイムオーバー等でミスになる」である。カイを刺した場合はすぐにZAPとはならず、クリアできなくなりタイムオーバーで結果的にZAPとなる。 ZAP後クリアは不可能となるが、59階までは到達できるため、意図的に何度もZAPを起こしスコアを伸ばす永久パターンが可能である。ハイスコアランキングを提示しているゲームセンターによっては「ZAP禁止」の貼紙を出す店舗すら現れた。 ギルをすべて失うとゲームオーバーとなるが、このゲームにはエンディングがあるため、60階をクリアした場合も強制的に終了(ゲームオーバー)となる。 以下の条件で1ミスとなる。 ゲームオーバー後のコイン投入時に剣ボタンを押したままスタートボタンを押すと、1階からそれまで進んだ階までの範囲でスタートする階を選んでコンティニューすることができる。この時、ゲームオーバー時に所持していたアイテムはすべて持ち越される。ただし前回のプレイが60階クリアだった場合は無効であり、1階からのスタートとなる。同様にZAPだった時は1階から転落先のフロアまでの範囲となる。取り忘れや消失した宝をコンティニュープレイで取り直すことは可能であるが、3階のポーション・オブ・ヒーリングについては初めて使用したものだけが有効で、その後取り直したものには効果が無い。 広大なユーフレイト河のほとりに位置する小国バビリム王国は、天の神アヌが授けたブルークリスタルロッドの輝きにより栄えていた。しかし、その噂を聞きつけた隣国のスーマール帝国はバビリム王国を蹂躙し、天に掲げられたロッドを奪うべくバビリムの民を奴隷にして天高くそびえる塔を作らせていた。これを知った神王アヌは怒りの雷を落とし、塔を破壊する。しかし時すでに遅く、塔によってロッドの光が遮られたことにより、王国の守護神である女神イシターとの戦いに敗れロッドに封じられていた悪魔ドルアーガが復活を果たしていた。ドルアーガは魔力を用いて塔を修復して天上界からブルークリスタルロッドを盗み出して塔内に立てこもる。イシターの巫女のカイはロッド奪還のため塔に挑むもドルアーガの魔力に敗れて石に変えられ、囚われてしまった。 バビリム王国の王子であるギルは、ドルアーガを倒してロッドを奪還し囚われた恋人のカイを救うべく、アヌ神より授かった黄金の鎧を身にまといドルアーガの塔に挑む。 ゼリー状のモンスター。止まっている時に剣で刺せば一撃で倒せるが、接触するとギルの体力値に関わらずミスとなる。 また、本作のスライムは移動中に攻撃判定を持ったままやられ判定が消える時間、つまり無敵攻撃が存在するため、ギルがどれほど強化されていても攻撃のタイミングが悪いと一方的に負ける。更に、上級のものになると活発に動き回り、様々な呪文を使う。そのため、他のモンスターと戦っている最中にスライムが接近してくると大きな脅威となる。 ドルアーガの魔力により作られた騎士。フロアを常に歩き回り立ち止まることはない。固有の体力値を持ち、ギルが剣を出して移動している状態(足踏み状態も可)で数回交差しなければ倒せない。交差中はギルもダメージを受ける。ギルが剣を出していても立ち止まった状態でナイトと交差すると、大ダメージを受けた後やられてしまう。同時に固有のリカバリーポイントを持っており、倒すことによってギルの体力値がその分回復する。リカバリーポイントはギルが持っている剣により異なるが、初期装備およびホワイトソード(5階の剣)では倒した敵の最大体力値とおおむね同値、ドラゴンスレイヤー(18階)やエクスカリバー(45階)ではその半分程度となる。 突然現れて呪文を放ち、またたく間に姿を消す神出鬼没の魔法使い。呪文は盾で防ぐことができ、姿を消す前に剣で刺すと一撃で倒せるが剣を出さずに触れるとミスになるので注意。出現位置は縦・横共通してギルの座標から1ブロック隔てて向こう2ブロック、またはチェスのナイトのようにギルの座標から八方に位置したブロックに出現する。ギルがフロアの柱と柱の間、または外周での柱と外壁の間で止まっている時は出現することはなく、ギルが移動している時や通路上で止まった時に出現 → 呪文発射 → 消滅を繰り返す。各マジシャンとも呪文を放つ方向によって杖を持ち替えている。 死んだマジシャンの亡霊。ギルを執拗に追跡し、ワープで壁を通過する。6階他3ヶ所で取得可能なキャンドル(ろうそく)がなければ、ワープ時以外は姿を見ることができない。頻繁に呪文を放ちながら移動し、画面外から呪文を飛ばしてくることもあるがゴースト自身には接触してもミスにはならない。壁で2ブロックに区切られた空間に入ると内側にはスペルを吐かなくなるため、倒すには2ブロックゾーンに誘い込む戦法が有効である。止まったまま進行方向に対して横から剣を伸ばして倒すことも可能である。 初期装備の剣およびホワイトソードで攻撃すると1フレームあたり1、ドラゴンスレイヤーでは2、エクスカリバーでは3のダメージを与えることができる。ゴーストは剣のパワーアップを最も感じさせる相手ではあるが、FC版の裏ドルアーガ等では宝箱の出現条件にゴーストを倒さないことが含まれているフロアが複数あるため、耐久力の低さが逆の意味で脅威となる。 イソギンチャクのように多数の触手を持つ怪物で、剣を出して交差するとギルの体力値を消耗する。その結果、ローパーと接触した後にナイト系の敵と戦うと、体力不足でミスになることがある。剣を出さずに交差すると体力が最低値になるが、この接触でギルが死ぬことはない。 ナイト系と同様、リカバーポイントを持つ。色による能力差はないが、同色でも倒した時の得点が異なる場合はある。ダメージを与えるにはドラゴンスレイヤー以上の剣が必要となる。 この他にファミコン版では、オールグリーンローパー(ALL-GREEN ROPER)とオールレッドローパー(ALL-RED ROPER)も登場するがこれはファミコンの表示色数の関係上キャラクター用パレット不足が原因で色が変わってしまっているのを当時の攻略本編集者が便宜上呼称したもの。 翼を持つ竜。元々はクォックスと呼ばれるブルークリスタルロッドの光から生まれた善良なドラゴンだったが、ドルアーガの魔力によってクリスタルロッドがブルー、レッド、グリーンの3つに分割された際に、シルバードラゴン、ブラックドラゴンに分かたれた末に操られた。。ゆっくりと歩き、曲がり角や分岐点に着くと首を左右に振ってから方向転換する。同軸上にギルがいると壁を壊しながら向かってくる。時折り翼をはためかせてから、進行方向に長大なファイヤーブレス(炎)を吐く。ブレスは方向転換と同時や、壁を突き破るのと同時に吐く場合もある。ギルがブレスに接触するとミスになるが、青いネックレスを取得すると通過可能になる。また、パールというアイテムがあれば一定範囲内にいるドラゴン系の動きを止められる。ダメージを与えるにはドラゴンスレイヤー以上の剣が必要となる。正面からの攻撃ではダメージを与えられない。剣を収めたままでもドラゴンを通過できるが、剣を出した時と同様に体力が減るので注意。 ドラゴン系が出現するフロアでは専用のBGMが用いられる。 *1 体力値は攻略書籍等による値。プログラム上では58に設定されている。 フロアの残り時間が60秒(表示が赤くなる)を切った時に登場する火の玉。フロアによっては始めから登場する。倒すことはできず、接触するとミスになるが指輪系アイテムの取得で通過が可能になる。緩やかに動くタイプと、非常に早い動きをするタイプがある。移動パターンでは以下の2種類があり、それぞれの特徴を理解すれば壁を壊すことによって同じルートを回らせ回避することも可能。 この節では発売当時の社名で記載(一部の長い社名のみ、略記する場合あり)。 FC版には、宝箱の出現条件が通常版とは異なる「アナザー・ドルアーガの塔」と呼ばれるバージョンがあり、選択するとタイトル文字の色が灰色から濃緑に切り替わる。以後に発表された移植版でも、それぞれのプラットフォームオリジナルの特別版、いわゆる「裏ドルアーガ」が収録されることが多い。 特にPlayStation版(『ナムコミュージアムVol. 3』収録)には、裏ドルアーガとは別に「闇ドルアーガ」もあり、宝箱の出現条件の他にフロアのマップや獲得するアイテムそのものが通常版と異なっていた。PlayStation版で闇ドルアーガを呼び出すと、プログラムされているが本編では使われていないファンファーレが鳴り闇ドルアーガモードに突入する。表ドルアーガではあり得ない、サイズ2倍のスライムが出現したり、宝箱の中身が「数十万ポイント分のスコア」というものがあったりと、新たな要素が加えられている。 以下はFC版の特徴で、オリジナルであるアーケード版では異なるか起こらない現象である。 また、FC版では攻略本が出版されたが、アイテムの出現方法が違う内容で記載されていたり、60Fのクリア方法は全く違う内容が記載されていた。 ゲームボーイ版はナムコではなくエンジェルから発売された。発売日は1990年12月31日。 体力値が画面に数字で表示されており、スライムの体当たりやマジシャン等の呪文を受けてもダメージを受けるだけで済む。基本的にどのモンスターに対して剣を出しての交差で5の減少、剣を出さない場合や呪文の被弾で10の減少となる。鎧等のアイテムは最大HPの上昇に割り当てられており、取得せずともクリアが可能。各階層をクリアしてもHPは固定値回復のみとなる。 残機(プレイヤーストック)の概念がなく体力が尽きるとその場でゲームオーバーになるが、パスワードによる継続機能があったりとゲームシステムがアレンジされている。一部のフロアでは宝箱の出現方法がオリジナル仕様になっている。また、一部フロアに関しては迷路ではなく大部屋でのボス戦に差し替えられている。 のちに発売された『ナムコギャラリーVOL.2』にも収録された。 PCエンジン版は1992年6月25日に発売された。メディアはHuカード。 画面が俯瞰(斜め上からの見下ろし)であったりアイテムを好きな時に使用できるといった改変がなされた。遠藤は「オリジナルの迷路は長方形で塔らしくなくて嫌だったが、基板の問題でどうしようもなかった。PCエンジン版の正方形の迷路が本当にやりたかった『ドルアーガの塔』の迷路だった」と語っている。 『カイの冒険』同様にフロアごとにイシターが登場して宝箱の出現条件のヒントを教えてくれるほか、ビジュアルシーンによるキャラクターのセリフが追加され設定上でしか語られなかったストーリー要素がゲームに反映されている。また、タイトル画面でFC版の隠しコマンドを入力すると「ウラめんなんてありませんよ」などといったメッセージが表示されたりと、過去の移植版をもじった要素もある。以下に主だった変更点について記す。 電波新聞社より、FM-7/77版、FM77AV専用版、MZ-1500版、MZ-2500版、X1シリーズ版が、それぞれ発売された。一部の移植作品には、宝箱の出し方が異なる「裏ドルアーガ」が存在する。 MSX版はナムコよりナムコットシリーズとしてROMカートリッジで発売された。ハードウェアスペックの限界から「キャラクターは単色」「スクロールは8ドット単位」など、FC版をさらにダウンスケールさせたような内容となっている。 また、1989年にはユーザーによる非公式のX68000版が作成され、主に草の根BBSを通して配布された。 2002年より、フィーチャーフォン用アプリケーションとしてNTTドコモ、au、ソフトバンクの各キャリア向けに移植された。これらは宝箱の出し方を記した「攻略ウィンドウ」や、最初から宝箱が出現した「EASYモード」を搭載している。また、下位機種向けに全16階構成の『ドルアーガの塔mini』も配信された。 2008年には、F903iなどのディスプレイを90度横に回転させられる機種向けの『ドルアーガの塔 WIDE版』が登場。ステージを横長のディスプレイいっぱいに表示し、横スクロールがほぼ抑えられている。 さらに2011年2月17日頃 - 5月16日、携帯SNSサイト「モバゲータウン」にて、『ドルアーガの塔 for モバゲー』を無料配信。本作のみ「SHORT」というスコアアタックモードが用意されていた。 DSの特徴である2画面を使って、ゲーム画面以外の別画面にはそのフロアで出現する宝箱アイテム、宝箱の出し方やアイテム解説などが表示されるお手軽攻略「プレイナビ」機能が搭載されており、攻略本や攻略サイトに頼らなくても全フロアの宝箱出現方法が分かる。また縦画面モードにも対応している。 「こだわり設定」で起動画面の表示、ゲームスピードの調整、原作挙動の再現、メッセージテキストの原作再現、体力とマトック数と宝物出現通知の表示の設定が可能。ただし、原作挙動の再現はゲームの進行が不可能になる場合がある。また、「ボタン設定」にて「マップ情報の表示」をボタンに割り当てると、ゲーム中にフロアのマップや宝物の出し方などの情報を見る事ができる。ZAPした場合、オンラインランキング登録にてスコアの横にZAPの表示が付く。 開発者の遠藤雅伸によれば、本ゲーム開発の際の大きな目的の一つは「当時稼働率の下がっていた『マッピー』の基板のROM交換で、開発コストを下げる」ことであった(縦長の画面で横スクロールするなど、両ゲームの共通点は多い)。つまり、元々大ヒットを狙っていたわけではなく、2000枚のROMが償却できればプロジェクト的には成功であった。 また、『ゼビウス』をはじめとする当時のアーケードゲームは、残機がある限り延々と遊ぶことができたため、難易度を高くした上でコンティニューを誘発したり、プレイヤーが達成感を味わいながらエンディングにたどり着くための仕組みがとられた。 現在と同じく、当時も本作の難易度に対して「万人向けでない」「攻略本を前提としているかのようなゲーム設定は、アーケードゲームとして妥当か」という批判がなされたが、これは予想外に人気が出たための副作用であった。皮肉なことに本作の人気のため、当初想定していたROM交換だけでは需要に追いつかず、基板の再生産も行われた。 基板の再生産にあたりいくつかのバグが修正されている。この区別のため、『マッピー』のROM交換基板を「OLDバージョン」、再生産された基板を「NEWバージョン」と表現することもある。 開発に当たり、遠藤はTRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)から着想を得、『D&D』および同時期に日本に輸入された『ウィザードリィ』を参考にした。 例えば本作におけるスライムは、『ウィザードリィ』のイメージを踏襲してスライムを序盤から登場する弱い敵として設定され、デザインもシンプルでかわいらしいものとなった。 迷路を舞台とした本作では、1体のモンスターにつき4方向分のグラフィックを用意する必要があった一方、シンプルなデザインのスライムは方向を示すグラフィックが不要であることから容量と工数の節約に役立ったほか、節約した分をアニメーションに割り振ることもできた。 また、ラスボスであるドルアーガは『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』のサプリメントである"Deities & Demigods"をヒントに誕生した。 塔の階数は、当時日本で一番高いビルとされていた東京・池袋にあるサンシャイン60にちなんで60階に決められた。 本作は、日本におけるスライムのキャラクター性を大きく認知させた一方、『D&D』などにおける「剣で攻撃できない強敵」というイメージを払拭した。日本国内で「スライムは弱い」という印象を与えた一因を担っていることにより、遠藤は「日本版スライムA級戦犯」を自称している。 詳細はリンク先を参照。 バンダイナムコエンターテインメントの「カタログIPオープン化プロジェクト」企画による公式の二次創作作品。 『ドルアーガの塔 Tower of Defender』のタイトルで、スマートフォン用のアプリとしてRPG+女性向け恋愛シミュレーションゲーム版が、2017年12月8日にCUCURIから配信された。 『TSQ×ドルアーガの塔 TAMAARI SUPER QUEST vol.3 ドルアーガの謎』のタイトルで、2019年4月13日・14日にさいたまスーパーアリーナで開催された。主催・企画・制作:TAMAARI SUPER QUEST実行委員会。参加団体はTumbleweed、NAZO×NAZO劇団、クロネコキューブ、K-dush2(K-dush2はエクストラコンテンツの謎解きを制作)で、制作協力としてクレジットされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ドルアーガの塔』(ドルアーガのとう、The Tower of Druaga)は、ナムコが開発し、1984年7月に稼働されたアーケードゲーム用アクションRPGおよびゲームの舞台となった塔の名前。『バビロニアン・キャッスル・サーガ』の第1作。略称は『TOD』。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "バビリム王国の王子であるギルを操作し、悪魔ドルアーガを倒してブルークリスタルロッドの奪還および恋人のカイを救出する事を目的としたゲーム。アクションロールプレイングゲームの草分け的存在でもある。ゲーム・デザインは遠藤雅伸、音楽は小沢純子、キャラクター・デザインは篠崎雄一郎が担当している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ファミリーコンピュータをはじめとしたゲーム機、MSXをはじめとする各種パソコン(Windowsを含む)や携帯電話など、また単体パッケージとして以外にもナムコのレトロアーケードゲームのカップリング作品『ナムコミュージアム』にも度々収録されており、きわめて多数のプラットフォームに移植されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "カバヤ食品の食玩「ゲーム伝説」には一部ステージがプレイできるWindows版CD-ROMが同梱されていた。また、2003年12月5日にナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)から発売されたニンテンドーゲームキューブ用のRPG『バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海』の予約特典として、ファミリーコンピュータ版が復刻されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "後に続編となるアーケードゲーム『イシターの復活』(1986年)が稼働され、以後シリーズ化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『ゼビウス』(1983年)で知られる遠藤雅伸がゲームデザインを担当した本作は、主人公ギルが悪魔・ドルアーガの住まう60階建ての塔を攻略する内容である。制限時間内に各種のモンスターを倒しつつ、迷路状の各フロア(ステージ)に配された鍵を取得し扉を開けて次のフロアに進むことを繰り返すというもの。各フロアにはギルの戦いを有利にするアイテムの入った宝箱も隠されている。最終的な目標は平和のシンボルでもあるクリスタルロッドの奪回とドルアーガの打倒、そして最上階に囚われている巫女のカイの救出である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ドルアーガを倒しカイを助けるためには、各種のアイテムを取得してギルを強化しなければならない。宝箱を出現させるにはフロア毎に設定された条件を満たす必要がある。出現条件としては「特定の敵を数匹倒す」「ギルを特定位置に移動させる」等のほか、「スタートボタンを押す」「レバーを各方向に特定回数ずつ入力する」といった風変わりなものも設定されている。アイテムの中にはギルにとって不利となるものもあり、また宝箱が出現しないフロアも存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "4方向レバーと1ボタンを使用して主人公のギルを操作する。ギルは迷路の壁沿いにしか移動できないが、アイテムの一つであるマトック(つるはし)や、敵キャラクターが発する呪文などを利用し壁を壊すことで壁のあった場所も通過可能となる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "攻撃には主に剣を使う。ボタンを押すと剣を抜き、押している間は前方に構える。剣を構えた状態で敵の方向に移動(交差)することでダメージを与えられ、スライム等は一撃で倒せるがナイト等は1回の交差では体力を奪うのみであり、倒すためには交差を繰り返す必要がある。ボタンを離すと剣をしまう。剣を抜く・しまう動作中は防御も出来ない無防備な状態となる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マジシャン等が出す呪文は、盾で受け止め防ぐことができる。盾は剣をしまった状態ではギルの正面、剣を抜いた状態では左側を向く。これを応用し、剣を出したまま呪文を受け止めることも可能であり、この動作を行わないと出現しない重要アイテムも存在する。この方式は本ゲームに限らず、ゼルダの伝説シリーズでも採用されている。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "マトックを入手している場合は、壁に向かって停止した状態でボタンを押すと壁を壊すことが可能である。この際にボタンを使用するため、同時に剣も抜き差しされる。ただし外周の壁は壊せず、マトックの方が破損してしまう。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "各フロアには原則として1つの宝箱が用意されている。フロア開始時は隠されており、ギルの行動やそれによる結果が、フロアごとに設定された特定の条件を満たした場合に出現する。ギルが宝箱に接触すると、フロアごとに決まったアイテムを取得することができる。アイテムにはゲームの進行を支援(阻害)するもの、直接的なパワーアップ(ダウン)をもたらすもの、物語の完結に必要なもの、他のアイテムに影響を与えるものなどがあり、取得することで様々な効果を発揮する。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "各カテゴリに属するアイテムは排他装備であり、上位アイテムの取得によって下位のアイテムは消滅する。同じカテゴリであれば、原則として緑→赤→青の順に上位となる。ただしファミリーコンピュータ(以下FC)版では配色に制限があり、白・赤とその逆の配色、青・黄の3通りしかない。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ドルアーガ打倒のために最低限必要なアイテムは最上位の剣・篭手・鎧・楯・兜とブルークリスタルロッド、ルビーメイスだが、これらを取得するために必要なアイテムが連鎖的に存在する。上記のバランスもこのためのもので、クリスタルロッドとルビーメイス以外のすべてに必要。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "RPG的要素の一つとして、ギルや一部の敵が固有の体力値を持つことが挙げられる。体力値が設定された敵に対しては繰り返し攻撃することで倒せるが、ギルも敵の攻撃で体力がなくなるとミスになる。ゲーム画面からはギルや敵の体力値に関する情報が一切与えられないため、プレイヤーはデータ収集やプレイ経験からギルの体力値の余裕を推定する必要がある。フロア開始時にはギルの体力値が最大値まで回復する。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本作では以下の要因によりスコアが加算される。ただし本作ではコンティニューボーナスが不当に高すぎるため、スコアが腕前と一致していない。当時ハイスコア集計「CHALLENGE HIGH SCORE!」を掲載していた『マイコンBASICマガジン』誌も、本作については「60階クリア」の人数のみ集計された。後に遠藤が掲示板で語ったところによると、当時の過剰なスコアアタック至上主義に対する皮肉の意味合いがあったという。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "59・60階で本来の目的から外れる行動を取ると、「YOU ZAPPED TO ...」と表示され、取得済みアイテムのいくつかを没収された状態で遥か下の階(6 - 18階でランダム)へ落とされる(ZAP)。ドルアーガ打倒に不可欠なアイテムの多くも失われるため、このままではゲームクリア不可能となりゲームそのものが成立しなくなるため、クリアのためには5階の宝を取り直さなければならない。ZAPの発生条件は「59階でドルアーガを倒さないまま鍵を開けて扉を抜ける」「60階で壁を壊す、イシターやカイを剣で刺す、タイムオーバー等でミスになる」である。カイを刺した場合はすぐにZAPとはならず、クリアできなくなりタイムオーバーで結果的にZAPとなる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ZAP後クリアは不可能となるが、59階までは到達できるため、意図的に何度もZAPを起こしスコアを伸ばす永久パターンが可能である。ハイスコアランキングを提示しているゲームセンターによっては「ZAP禁止」の貼紙を出す店舗すら現れた。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ギルをすべて失うとゲームオーバーとなるが、このゲームにはエンディングがあるため、60階をクリアした場合も強制的に終了(ゲームオーバー)となる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "以下の条件で1ミスとなる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ゲームオーバー後のコイン投入時に剣ボタンを押したままスタートボタンを押すと、1階からそれまで進んだ階までの範囲でスタートする階を選んでコンティニューすることができる。この時、ゲームオーバー時に所持していたアイテムはすべて持ち越される。ただし前回のプレイが60階クリアだった場合は無効であり、1階からのスタートとなる。同様にZAPだった時は1階から転落先のフロアまでの範囲となる。取り忘れや消失した宝をコンティニュープレイで取り直すことは可能であるが、3階のポーション・オブ・ヒーリングについては初めて使用したものだけが有効で、その後取り直したものには効果が無い。", "title": "ゲーム内容" 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"ドルアーガの魔力により作られた騎士。フロアを常に歩き回り立ち止まることはない。固有の体力値を持ち、ギルが剣を出して移動している状態(足踏み状態も可)で数回交差しなければ倒せない。交差中はギルもダメージを受ける。ギルが剣を出していても立ち止まった状態でナイトと交差すると、大ダメージを受けた後やられてしまう。同時に固有のリカバリーポイントを持っており、倒すことによってギルの体力値がその分回復する。リカバリーポイントはギルが持っている剣により異なるが、初期装備およびホワイトソード(5階の剣)では倒した敵の最大体力値とおおむね同値、ドラゴンスレイヤー(18階)やエクスカリバー(45階)ではその半分程度となる。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "突然現れて呪文を放ち、またたく間に姿を消す神出鬼没の魔法使い。呪文は盾で防ぐことができ、姿を消す前に剣で刺すと一撃で倒せるが剣を出さずに触れるとミスになるので注意。出現位置は縦・横共通してギルの座標から1ブロック隔てて向こう2ブロック、またはチェスのナイトのようにギルの座標から八方に位置したブロックに出現する。ギルがフロアの柱と柱の間、または外周での柱と外壁の間で止まっている時は出現することはなく、ギルが移動している時や通路上で止まった時に出現 → 呪文発射 → 消滅を繰り返す。各マジシャンとも呪文を放つ方向によって杖を持ち替えている。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "死んだマジシャンの亡霊。ギルを執拗に追跡し、ワープで壁を通過する。6階他3ヶ所で取得可能なキャンドル(ろうそく)がなければ、ワープ時以外は姿を見ることができない。頻繁に呪文を放ちながら移動し、画面外から呪文を飛ばしてくることもあるがゴースト自身には接触してもミスにはならない。壁で2ブロックに区切られた空間に入ると内側にはスペルを吐かなくなるため、倒すには2ブロックゾーンに誘い込む戦法が有効である。止まったまま進行方向に対して横から剣を伸ばして倒すことも可能である。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 28, 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"翼を持つ竜。元々はクォックスと呼ばれるブルークリスタルロッドの光から生まれた善良なドラゴンだったが、ドルアーガの魔力によってクリスタルロッドがブルー、レッド、グリーンの3つに分割された際に、シルバードラゴン、ブラックドラゴンに分かたれた末に操られた。。ゆっくりと歩き、曲がり角や分岐点に着くと首を左右に振ってから方向転換する。同軸上にギルがいると壁を壊しながら向かってくる。時折り翼をはためかせてから、進行方向に長大なファイヤーブレス(炎)を吐く。ブレスは方向転換と同時や、壁を突き破るのと同時に吐く場合もある。ギルがブレスに接触するとミスになるが、青いネックレスを取得すると通過可能になる。また、パールというアイテムがあれば一定範囲内にいるドラゴン系の動きを止められる。ダメージを与えるにはドラゴンスレイヤー以上の剣が必要となる。正面からの攻撃ではダメージを与えられない。剣を収めたままでもドラゴンを通過できるが、剣を出した時と同様に体力が減るので注意。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ドラゴン系が出現するフロアでは専用のBGMが用いられる。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "*1 体力値は攻略書籍等による値。プログラム上では58に設定されている。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フロアの残り時間が60秒(表示が赤くなる)を切った時に登場する火の玉。フロアによっては始めから登場する。倒すことはできず、接触するとミスになるが指輪系アイテムの取得で通過が可能になる。緩やかに動くタイプと、非常に早い動きをするタイプがある。移動パターンでは以下の2種類があり、それぞれの特徴を理解すれば壁を壊すことによって同じルートを回らせ回避することも可能。", "title": "登場キャラクター" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この節では発売当時の社名で記載(一部の長い社名のみ、略記する場合あり)。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "FC版には、宝箱の出現条件が通常版とは異なる「アナザー・ドルアーガの塔」と呼ばれるバージョンがあり、選択するとタイトル文字の色が灰色から濃緑に切り替わる。以後に発表された移植版でも、それぞれのプラットフォームオリジナルの特別版、いわゆる「裏ドルアーガ」が収録されることが多い。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "特にPlayStation版(『ナムコミュージアムVol. 3』収録)には、裏ドルアーガとは別に「闇ドルアーガ」もあり、宝箱の出現条件の他にフロアのマップや獲得するアイテムそのものが通常版と異なっていた。PlayStation版で闇ドルアーガを呼び出すと、プログラムされているが本編では使われていないファンファーレが鳴り闇ドルアーガモードに突入する。表ドルアーガではあり得ない、サイズ2倍のスライムが出現したり、宝箱の中身が「数十万ポイント分のスコア」というものがあったりと、新たな要素が加えられている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "以下はFC版の特徴で、オリジナルであるアーケード版では異なるか起こらない現象である。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、FC版では攻略本が出版されたが、アイテムの出現方法が違う内容で記載されていたり、60Fのクリア方法は全く違う内容が記載されていた。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ゲームボーイ版はナムコではなくエンジェルから発売された。発売日は1990年12月31日。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "体力値が画面に数字で表示されており、スライムの体当たりやマジシャン等の呪文を受けてもダメージを受けるだけで済む。基本的にどのモンスターに対して剣を出しての交差で5の減少、剣を出さない場合や呪文の被弾で10の減少となる。鎧等のアイテムは最大HPの上昇に割り当てられており、取得せずともクリアが可能。各階層をクリアしてもHPは固定値回復のみとなる。 残機(プレイヤーストック)の概念がなく体力が尽きるとその場でゲームオーバーになるが、パスワードによる継続機能があったりとゲームシステムがアレンジされている。一部のフロアでは宝箱の出現方法がオリジナル仕様になっている。また、一部フロアに関しては迷路ではなく大部屋でのボス戦に差し替えられている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "のちに発売された『ナムコギャラリーVOL.2』にも収録された。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "PCエンジン版は1992年6月25日に発売された。メディアはHuカード。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "画面が俯瞰(斜め上からの見下ろし)であったりアイテムを好きな時に使用できるといった改変がなされた。遠藤は「オリジナルの迷路は長方形で塔らしくなくて嫌だったが、基板の問題でどうしようもなかった。PCエンジン版の正方形の迷路が本当にやりたかった『ドルアーガの塔』の迷路だった」と語っている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "『カイの冒険』同様にフロアごとにイシターが登場して宝箱の出現条件のヒントを教えてくれるほか、ビジュアルシーンによるキャラクターのセリフが追加され設定上でしか語られなかったストーリー要素がゲームに反映されている。また、タイトル画面でFC版の隠しコマンドを入力すると「ウラめんなんてありませんよ」などといったメッセージが表示されたりと、過去の移植版をもじった要素もある。以下に主だった変更点について記す。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "電波新聞社より、FM-7/77版、FM77AV専用版、MZ-1500版、MZ-2500版、X1シリーズ版が、それぞれ発売された。一部の移植作品には、宝箱の出し方が異なる「裏ドルアーガ」が存在する。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "MSX版はナムコよりナムコットシリーズとしてROMカートリッジで発売された。ハードウェアスペックの限界から「キャラクターは単色」「スクロールは8ドット単位」など、FC版をさらにダウンスケールさせたような内容となっている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、1989年にはユーザーによる非公式のX68000版が作成され、主に草の根BBSを通して配布された。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2002年より、フィーチャーフォン用アプリケーションとしてNTTドコモ、au、ソフトバンクの各キャリア向けに移植された。これらは宝箱の出し方を記した「攻略ウィンドウ」や、最初から宝箱が出現した「EASYモード」を搭載している。また、下位機種向けに全16階構成の『ドルアーガの塔mini』も配信された。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2008年には、F903iなどのディスプレイを90度横に回転させられる機種向けの『ドルアーガの塔 WIDE版』が登場。ステージを横長のディスプレイいっぱいに表示し、横スクロールがほぼ抑えられている。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "さらに2011年2月17日頃 - 5月16日、携帯SNSサイト「モバゲータウン」にて、『ドルアーガの塔 for モバゲー』を無料配信。本作のみ「SHORT」というスコアアタックモードが用意されていた。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "DSの特徴である2画面を使って、ゲーム画面以外の別画面にはそのフロアで出現する宝箱アイテム、宝箱の出し方やアイテム解説などが表示されるお手軽攻略「プレイナビ」機能が搭載されており、攻略本や攻略サイトに頼らなくても全フロアの宝箱出現方法が分かる。また縦画面モードにも対応している。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「こだわり設定」で起動画面の表示、ゲームスピードの調整、原作挙動の再現、メッセージテキストの原作再現、体力とマトック数と宝物出現通知の表示の設定が可能。ただし、原作挙動の再現はゲームの進行が不可能になる場合がある。また、「ボタン設定」にて「マップ情報の表示」をボタンに割り当てると、ゲーム中にフロアのマップや宝物の出し方などの情報を見る事ができる。ZAPした場合、オンラインランキング登録にてスコアの横にZAPの表示が付く。", "title": "他機種版" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "開発者の遠藤雅伸によれば、本ゲーム開発の際の大きな目的の一つは「当時稼働率の下がっていた『マッピー』の基板のROM交換で、開発コストを下げる」ことであった(縦長の画面で横スクロールするなど、両ゲームの共通点は多い)。つまり、元々大ヒットを狙っていたわけではなく、2000枚のROMが償却できればプロジェクト的には成功であった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、『ゼビウス』をはじめとする当時のアーケードゲームは、残機がある限り延々と遊ぶことができたため、難易度を高くした上でコンティニューを誘発したり、プレイヤーが達成感を味わいながらエンディングにたどり着くための仕組みがとられた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "現在と同じく、当時も本作の難易度に対して「万人向けでない」「攻略本を前提としているかのようなゲーム設定は、アーケードゲームとして妥当か」という批判がなされたが、これは予想外に人気が出たための副作用であった。皮肉なことに本作の人気のため、当初想定していたROM交換だけでは需要に追いつかず、基板の再生産も行われた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "基板の再生産にあたりいくつかのバグが修正されている。この区別のため、『マッピー』のROM交換基板を「OLDバージョン」、再生産された基板を「NEWバージョン」と表現することもある。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "開発に当たり、遠藤はTRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)から着想を得、『D&D』および同時期に日本に輸入された『ウィザードリィ』を参考にした。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "例えば本作におけるスライムは、『ウィザードリィ』のイメージを踏襲してスライムを序盤から登場する弱い敵として設定され、デザインもシンプルでかわいらしいものとなった。 迷路を舞台とした本作では、1体のモンスターにつき4方向分のグラフィックを用意する必要があった一方、シンプルなデザインのスライムは方向を示すグラフィックが不要であることから容量と工数の節約に役立ったほか、節約した分をアニメーションに割り振ることもできた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、ラスボスであるドルアーガは『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』のサプリメントである\"Deities & Demigods\"をヒントに誕生した。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "塔の階数は、当時日本で一番高いビルとされていた東京・池袋にあるサンシャイン60にちなんで60階に決められた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "本作は、日本におけるスライムのキャラクター性を大きく認知させた一方、『D&D』などにおける「剣で攻撃できない強敵」というイメージを払拭した。日本国内で「スライムは弱い」という印象を与えた一因を担っていることにより、遠藤は「日本版スライムA級戦犯」を自称している。", "title": "反響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "詳細はリンク先を参照。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "バンダイナムコエンターテインメントの「カタログIPオープン化プロジェクト」企画による公式の二次創作作品。 『ドルアーガの塔 Tower of Defender』のタイトルで、スマートフォン用のアプリとしてRPG+女性向け恋愛シミュレーションゲーム版が、2017年12月8日にCUCURIから配信された。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "『TSQ×ドルアーガの塔 TAMAARI SUPER QUEST vol.3 ドルアーガの謎』のタイトルで、2019年4月13日・14日にさいたまスーパーアリーナで開催された。主催・企画・制作:TAMAARI SUPER QUEST実行委員会。参加団体はTumbleweed、NAZO×NAZO劇団、クロネコキューブ、K-dush2(K-dush2はエクストラコンテンツの謎解きを制作)で、制作協力としてクレジットされている。", "title": "関連作品" } ]
『ドルアーガの塔』は、ナムコが開発し、1984年7月に稼働されたアーケードゲーム用アクションRPGおよびゲームの舞台となった塔の名前。『バビロニアン・キャッスル・サーガ』の第1作。略称は『TOD』。 バビリム王国の王子であるギルを操作し、悪魔ドルアーガを倒してブルークリスタルロッドの奪還および恋人のカイを救出する事を目的としたゲーム。アクションロールプレイングゲームの草分け的存在でもある。ゲーム・デザインは遠藤雅伸、音楽は小沢純子、キャラクター・デザインは篠崎雄一郎が担当している。 ファミリーコンピュータをはじめとしたゲーム機、MSXをはじめとする各種パソコン(Windowsを含む)や携帯電話など、また単体パッケージとして以外にもナムコのレトロアーケードゲームのカップリング作品『ナムコミュージアム』にも度々収録されており、きわめて多数のプラットフォームに移植されている。 カバヤ食品の食玩「ゲーム伝説」には一部ステージがプレイできるWindows版CD-ROMが同梱されていた。また、2003年12月5日にナムコから発売されたニンテンドーゲームキューブ用のRPG『バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海』の予約特典として、ファミリーコンピュータ版が復刻されている。 後に続編となるアーケードゲーム『イシターの復活』(1986年)が稼働され、以後シリーズ化された。
{{otheruseslist|コンピュータゲーム及びその舞台|[[ゲームブック]]|ドルアーガの塔 (ゲームブック)|ボードゲーム|ドルアーガの塔 (ボードゲーム)|[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]|ドルアーガの塔 (テレビアニメ)|テーマパークのアトラクション|ドルアーガの塔 (アトラクション)|[[オンラインゲーム]]|ドルアーガの塔 〜the Phantom of GILGAMESH〜}} {{複数の問題 |出典の明記=2014年1月 |独自研究=2014年1月 |内容過剰=2018年9月 }} {{コンピュータゲーム | Title = ドルアーガの塔<br />THE TOWER OF DRUAGA | image = | Genre = [[アクションゲーム]]<ref name="anatatowatashi">{{Cite web|和書|url=http://www.bandainamcogames.co.jp/gallery/namcoden/pdf/namcoden05.pdf |title=ナムコ創立50周年記念企画「アナタとワタシのナムコ伝」 |publisher=バンダイナムコエンターテインメント |format=PDF |accessdate=2017-11-05}}</ref><br /> [[アクションロールプレイングゲーム|アクションRPG]]<ref>[http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/list/namco_museum_vol2/druaga/ バンダイナムコゲームス ナムコミュージアム vol2(PSP版)紹介ページ]</ref><ref>[http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/list/namcomuseum_nds/masterpiece/ バンダイナムコゲームス ナムコミュージアムDS 紹介ページ]</ref><br /> [[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]<ref> [http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/download/virtual_consolearcade/detail/detail50/50.html バンダイナムコゲームス Wii バーチャルコンソール アーケード 紹介ページ]</ref><br /> [[アドベンチャーゲーム]]<ref>ナムコプロモーションビデオ ドルアーガの塔より。</ref> | Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]] (AC){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[MZ-1500]] (MZ15)<br />[[MZ-2500]] (MZ25)<br />[[FM-7#FM77AV|FM77AV]]専用版 (FM7)<br />[[X1 (コンピュータ)|X1/turbo]] (X1)<br />[[MSX]]<br />FM-7/77<br />[[ゲームボーイ]] (GB)<br />[[PCエンジン]] (PCE)<br />[[Microsoft Windows|Windows]] (Win)<br />[[Yahoo!ケータイ|Jスカイ]]<br />[[iアプリ]]<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]<br />[[PlayStation 4]] (PS4)<br />[[Nintendo Switch]] (NSW)}} | Dev = [[ナムコ]] | Pub = ナムコ | distributor = | producer = | director = | designer = [[遠藤雅伸]] | writer = | programmer = 内藤智 | composer = [[小沢純子]] | artist = 篠崎雄一郎 | license = | series = [[バビロニアン・キャッスル・サーガ]] | Ver = | Play = 1 - 2人(交互プレイ) | Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]]<br />(61.53[[キロバイト]]) |Date = '''AC'''<br />{{vgrelease new|INT|1984年6月|JP|1984年7月20日{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=26|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-08-06}}'''MZ15'''<br />{{vgrelease new|JP|October 1985}}'''MZ25,FM7,X1'''<br />{{vgrelease new|JP|1986年夏}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1986-10-27}}'''FM-7/77'''<br />{{vgrelease new|JP|June 1987}}'''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-12-31}}'''PCE'''<br />{{vgrelease new|JP|1992-06-25}}'''Win'''<br />{{vgrelease new|JP|2001-09-05}}'''Jスカイ'''<br />{{vgrelease new|JP|2002-11-01}}'''iアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-02-21}}'''Wii(FC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-09-27}}'''iアプリ(WIDE版)'''<br />{{vgrelease new|JP|2008-04-22}}'''Wii(AC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|NA|2009-03-25|PAL|2009-03-25|JP|2009-05-12}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2012-12-19}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-08-21}}'''PS4/NSW(AC版の移植)'''<br />{{vgrelease new|JP|2022-06-02}}}} | Rating = {{CERO-A}}<br />[[国際年齢評価連合|IARC]]:7+ | ContentsIcon = | Download content = | Device = 4方向レバー<br />1ボタン | Spec = | Engine = | aspect ratio = | resolution = | cabinet = | Arcade system = | cpu = [[MC6809]] (@ 1.536 Mhz) | sound = MC6809 (@ 1.536 Mhz)<br />Namco WSG (@ 1.536 MHz) | display = [[ラスタースキャン]]<br />縦モニター<br />288×224[[ピクセル]]<br />60.61[[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />パレット32色 | Sale = | ArcOnly = 1 | OnlineGame = | etc = }} 『'''ドルアーガの塔'''』(ドルアーガのとう、''The Tower of Druaga'')は、[[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]が開発し、[[1984年]][[7月]]に稼働された[[アーケードゲーム]]用[[アクションロールプレイングゲーム|アクションRPG]]およびゲームの舞台となった[[塔]]の名前。『[[バビロニアン・キャッスル・サーガ]]』の第1作。略称は『'''TOD'''』。 バビリム王国の王子であるギルを操作し、悪魔ドルアーガを倒してブルークリスタルロッドの奪還および恋人のカイを救出する事を目的としたゲーム。[[アクションロールプレイングゲーム]]の草分け的存在でもある<ref>[https://web.archive.org/web/20140812204319/http://druaga-mmo.com/top/information_detail.action?id=10265 MMOドルアーガ お知らせ]</ref>。ゲーム・デザインは[[遠藤雅伸]]、音楽は[[小沢純子]]、キャラクター・デザインは篠崎雄一郎が担当している。 [[ファミリーコンピュータ]]をはじめとした[[ゲーム機]]、[[MSX]]をはじめとする各種[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]([[Microsoft Windows|Windows]]を含む)や[[携帯電話]]など、また単体パッケージとして以外にもナムコのレトロアーケードゲームのカップリング作品『[[ナムコミュージアム]]』にも度々収録{{efn|[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版のVol. 3、[[PlayStation Portable]]版のVol. 2、[[ニンテンドーDS]]版、[[Xbox 360]]版、[[Nintendo Switch]]版。}}されており、きわめて多数の[[ゲーム機|プラットフォーム]]に移植されている。 [[カバヤ食品]]の[[食玩]]「ゲーム伝説」には一部ステージがプレイできるWindows版CD-ROMが同梱されていた{{efn|全5種のNo.2、生産終了。}}。また、2003年12月5日にナムコ(現:[[バンダイナムコエンターテインメント]])から発売された[[ニンテンドーゲームキューブ]]用のRPG『[[バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海]]』の予約特典として、ファミリーコンピュータ版が復刻されている。 後に続編となるアーケードゲーム『[[イシターの復活]]』([[1986年]])が稼働され、以後シリーズ化された。 == 概要 == 『[[ゼビウス]]』([[1983年]])で知られる[[遠藤雅伸]]がゲームデザインを担当した本作は、主人公ギルが悪魔・ドルアーガの住まう60階建ての塔を攻略する内容である。制限時間内に各種のモンスターを倒しつつ、迷路状の各フロア([[ステージ (コンピュータゲーム)|ステージ]])に配された鍵を取得し扉を開けて次のフロアに進むことを繰り返すというもの。各フロアにはギルの戦いを有利にするアイテムの入った宝箱も隠されている。最終的な目標は平和のシンボルでもあるクリスタルロッドの奪回とドルアーガの打倒、そして最上階に囚われている巫女のカイの救出である。 ドルアーガを倒しカイを助けるためには、各種のアイテムを取得してギルを強化しなければならない。宝箱を出現させるにはフロア毎に設定された条件を満たす必要がある。出現条件としては「特定の敵を数匹倒す」「ギルを特定位置に移動させる」等のほか、「スタートボタンを押す」「レバーを各方向に特定回数ずつ入力する」といった風変わりなものも設定されている。アイテムの中にはギルにとって不利となるものもあり、また宝箱が出現しないフロアも存在する。 == ゲーム内容 == === システム === 4方向[[レバー (操作機具)|レバー]]と1[[開閉器|ボタン]]を使用して主人公のギルを操作する。ギルは迷路の壁沿いにしか移動できないが、アイテムの一つであるマトック([[つるはし]])や、敵[[キャラクター]]が発する呪文などを利用し壁を壊すことで壁のあった場所も通過可能となる。 攻撃には主に[[剣]]を使う。ボタンを押すと剣を抜き、押している間は前方に構える。剣を構えた状態で敵の方向に移動(交差)することでダメージを与えられ、スライム等は一撃で倒せるがナイト等は1回の交差では体力を奪うのみであり、倒すためには交差を繰り返す必要がある。ボタンを離すと剣をしまう。剣を抜く・しまう動作中は防御も出来ない無防備な状態となる。 [[魔法使い|マジシャン]]等が出す呪文は、盾で受け止め防ぐことができる。盾は剣をしまった状態ではギルの正面、剣を抜いた状態では左側を向く。これを応用し、剣を出したまま呪文を受け止めることも可能であり、この動作を行わないと出現しない重要アイテムも存在する<ref name="muri200">マイウェイ出版『死ぬ前にクリアしたい200の無理ゲー ファミコン&スーファミ』 (ISBN 9784865119855、2018年10月10日発行)、5ページ</ref>。この方式は本ゲームに限らず、[[ゼルダの伝説シリーズ]]でも採用されている{{efn|こちらは同シリーズの主人公である[[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]]が[[左利き]]のため、剣を出した状態では盾が右側を向いている。}}。 マトックを入手している場合は、壁に向かって停止した状態でボタンを押すと壁を壊すことが可能である。この際にボタンを使用するため、同時に剣も抜き差しされる。ただし外周の壁は壊せず、マトックの方が破損してしまう。 === アイテム === 各フロアには原則として1つの宝箱が用意されている。フロア開始時は隠されており、ギルの行動やそれによる結果が、フロアごとに設定された特定の条件を満たした場合に出現する。ギルが宝箱に接触すると、フロアごとに決まったアイテムを取得することができる。アイテムにはゲームの進行を支援(阻害)するもの、直接的なパワーアップ(ダウン)をもたらすもの、物語の完結に必要なもの、他のアイテムに影響を与えるものなどがあり、取得することで様々な効果を発揮する。 各[[カテゴリ]]に属するアイテムは排他装備であり、上位アイテムの取得によって下位のアイテムは消滅する。同じカテゴリであれば、原則として緑→赤→青の順に上位となる。ただし[[ファミリーコンピュータ]](以下FC)版では配色に制限があり、白・赤とその逆の配色、青・黄の3通りしかない。 ; ソード(剣) : ゲーム開始時のもの以外に3種類存在。ギルの攻撃力に影響を与える。下位の剣を持っていないと上位の剣は出現しない。最上位装備([[エクスカリバー]])は[[トラップ]]となる宝箱{{efn|フロア開始時から出現している。}}に変えられており、取得するには先に対応アイテム(アンチドート)を出現させる必要がある。 ; ガントレット(篭手) : ゲーム開始時のもの以外に2種類存在。ギルの剣捌き(抜き差しの速さ)に影響を与える。最上位装備以外は単体での効果はないが、下位の篭手を持っていないと上位の篭手は出現しない。 ; アーマー(鎧) : ゲーム開始時のもの以外に2種類存在。ギルの対呪文耐性に影響を与える。下位の鎧を持っていないと上位の鎧は出現しない。 ; シールド(楯) : ゲーム開始時のもの以外に2種類存在。ギルの対呪文回避力(呪文を受け止められる間合い)に影響を与える。下位の楯を持っていないと上位の楯は出現しない。 ; ヘルメット(兜) : ゲーム開始時のもの以外に1種類のみ存在。ギルの最大体力値に影響を与える。 ; バランス(天秤) : 装備の真贋を見分ける。最上位装備が得られる階の直前階に出現。バランスを取得せずに最上位装備を取得した場合は例外なく偽の装備となり、本来の効果が発揮されない上、ゲーム進行に致命的な障害をもたらし基本的にクリア不能となる。1個までストック可能。 ; ポーション(薬) : 全8種類が存在。一時的にギルのステータスを変動させるもの、他フロアで宝箱の開封に必要となるもの、トラップとなるものもある。複数回出現する種も多い。 : 効果を発揮すると直ちに消滅するが、特定のフロアで強制的に消滅するものもある。上位・下位はないが排他取得となり、新たな[[ポーション]]を得ると同時に、以前のポーションは効果を発揮しなくても消滅する。実際には種類によってすべて色が異なるが、FC版では配色制限のため、[[ヒーリング]](白)以外の3種類ずつが同色(赤か青)となる。 ; マトック(つるはし) : 特定の回数だけ、フロアの迷路を構成する壁を破壊できる。銅・銀・金の3種類が存在し、それぞれ使用可能回数が異なる{{efn|金は1フロア255回まで使用可能で事実上無制限。}}。ミスするか宝箱を取得するとマトックの使用回数はリセットされる。 : 回数をオーバーするか、外周の壁に対して使用すると消滅してしまう。 ; キャンドル(蝋燭) : 姿を消しているゴーストの姿を可視化する。効果が短期的なもの(赤い炎)、恒常的に続くもの(青い炎)の2種類が存在。 ; ブック(書物) : 暗闇のフロアや、見えなくなった扉・鍵をそれぞれ可視化する。全4種類が存在。下位互換性があり、上位のブックは下位のブックの効果も併せて発揮する{{efn|最上位のブックのみを取得した場合でも、下位のブックの全効果が有効になる。}}。 ; ネックレス(首飾り) : 主に火炎に対する耐性に影響を与える。緑・赤・青の3種類が存在し、下位の首飾りを持っていないと上位の首飾りは出現しない。最下位装備は単体での効果はない。上位の首飾りは下位互換性がある。 ; リング(指環) : [[ウィルオウィスプ|ウィスプ]]に対する耐性に影響を与える。緑・赤・青の3種類が存在。下位の[[指環]]を持っていないと上位の指環は出現しない。赤い指輪に下位互換性はなく、取得すると緑色の指環の効果は消える。青い指輪は緑・赤の効果を併せ持つ。 ; クリスタルロッド : 物語を進める上で、ドルアーガを封印するために必要とされるアイテム。目的の一つにロッドの奪還がある。 : 緑・赤・青の3種類が存在。これらはプログラムの処理上、排他取得となっているが、物語上では下位のロッドも保持していることになっている。その都合上、下位のロッドを持っていないと上位のロッドが出現しない。 ; メイス : ドルアーガの力の源であるアイテム。奪取することでドルアーガの魔力を大幅に弱めるという設定がなされている。 : サファイヤ・ルビーの2種類が存在。プログラムの処理上で排他取得となっているが、物語上では2本とも保持していることになっている。 ; その他アイテム : ギルの歩行速度を2倍にする「ジェットブーツ」、フロア開始時に画面外に配置された鍵の方向を音で知らせる「チャイム」、一定範囲内のドラゴンを足止めできる「パール」が存在する。フロアによっては空の宝箱が出現する。 ドルアーガ打倒のために最低限必要なアイテムは最上位の剣・篭手・鎧・楯・兜とブルークリスタルロッド、ルビーメイスだが、これらを取得するために必要なアイテムが連鎖的に存在する。上記のバランスもこのためのもので、クリスタルロッドとルビーメイス以外のすべてに必要。 === 体力値の概念 === RPG的要素の一つとして、ギルや一部の敵が固有の体力値を持つことが挙げられる。体力値が設定された敵に対しては繰り返し攻撃することで倒せるが、ギルも敵の攻撃で体力がなくなるとミスになる。ゲーム画面からはギルや敵の体力値に関する情報が一切与えられないため、プレイヤーはデータ収集やプレイ経験からギルの体力値の余裕を推定する必要がある。フロア開始時にはギルの体力値が最大値まで回復する{{efn|アイテムにより一時的に体力が高くなっている場合も、本来の上限まで戻される}}。 === スコアの概念 === 本作では以下の要因により[[得点#コンピュータゲームにおける得点|スコア]]が加算される。ただし本作ではコンティニューボーナスが不当に高すぎるため、スコアが腕前と一致していない。当時ハイスコア集計「CHALLENGE HIGH SCORE!」を掲載していた『[[マイコンBASICマガジン]]』誌も、本作については「60階クリア」の人数のみ集計された<ref>{{Cite journal ja-jp|author=マイコンBASICマガジン編集部|year=[[1984年]]|title=CHALLENGE HIGH SCORE!|journal=[[マイコンBASICマガジン]]|volume=3|issue=10|serial=1984年10月号別冊付録「スーパーソフトマガジン」|publisher=[[電波新聞社]]|page=19}}</ref>。後に遠藤が掲示板で語ったところ{{Full citation needed|date=2020年10月}}によると、当時の過剰なスコアアタック至上主義に対する[[皮肉]]の意味合いがあったという。 * 敵を倒す(0 - 5000) * 敵の呪文を楯や鎧で受ける(10 - 40) * 鍵を取る(100) * フロアをクリアした時のタイマーの値(10 - 20000)がそのまま点数として加算される ** 一度タイマーがゼロになり、タイマーの数値が赤くなった場合は加算されない ** 60階クリア時は加算されない * 60階をクリアする(500000) * [[ゲームオーバー#コンティニューについて|コンティニュー]]で再開したフロアをクリアする((階数 - 1)× 20000) === ZAP === 59・60階で本来の目的から外れる行動を取ると、「'''YOU ZAPPED TO ...'''」と表示され、取得済みアイテムのいくつかを没収された状態で遥か下の階(6 - 18階でランダム{{efn|各種攻略書籍による値。プログラムでは10 - 17階の範囲となっている。}})へ落とされる([[ZAP (ゲーム)|ZAP]])。ドルアーガ打倒に不可欠なアイテムの多くも失われるため、このままではゲームクリア不可能となりゲームそのものが成立しなくなるため、クリアのためには5階の宝を取り直さなければならない。ZAPの発生条件は「59階でドルアーガを倒さないまま鍵を開けて扉を抜ける」「60階で壁を壊す、イシターやカイを剣で刺す、タイムオーバー等でミスになる」である。カイを刺した場合はすぐにZAPとはならず、クリアできなくなりタイムオーバーで結果的にZAPとなる。 ZAP後クリアは不可能となるが、59階までは到達できるため、意図的に何度もZAPを起こしスコアを伸ばす[[永久パターン]]が可能である。ハイスコアランキングを提示している[[ゲームセンター]]によっては「ZAP禁止」の貼紙を出す店舗すら現れた。 === ゲームオーバー === ギルをすべて失うと[[ゲームオーバー]]となるが、このゲームには[[エンディングデモ|エンディング]]があるため、60階をクリアした場合も強制的に終了(ゲームオーバー)となる。 以下の条件で1ミスとなる。 * ギルが剣を出していない状態で敵に触れる。ただし以下の例外がある。 ** ゴーストは触れてもミスにならず、体力の消耗もない。これはゴーストが「マジシャンの亡霊」であり、実体がないことによる。 ** ドラゴンは直ちにミスとはならない。ただし体力は減らされるため、接触を続けるとミスになる。 ** ローパーおよびドルアーガに触れると体力を最低値にされるが、剣を出さない限り何度触れてもミスにはならない。 ** サッカバスは触れても直ちにミスとはならないが、接触後は体力が急激に減ってミスとなる(後述)。 * 移動中のスライムに体ごと突っ込む。ギルが剣を出していてもミスになる。 * マジシャン等が放つ呪文を盾以外の場所で受ける{{efn|ただし、52階の青い鎧を入手すると、1回だけ耐えられるが体力は最低値になる。}}。 * ファイアーエレメントによる炎やドラゴン系の吐く炎に触れる{{efn|ただし、前者は27階、後者は46階のネックレスを入手すると、触れてもミスにならなくなる}}。 * ウィル・オー・ウィスプに触れる{{efn|ただし、21・39・54階の指環を入手すると、対応するウィスプに触れてもミスにならなくなる。}}。 * 剣を出した状態で敵と交差中にギルの体力がなくなる。 * タイムが「赤字で」0になる{{efn|フロア開始時は白字で20000から始まり、一旦ゼロになると赤字で60から始まる。}}。 * 60階でZAPの条件を満たす{{efn|59階のZAP条件ではミス扱いにならない。}}。 ゲームオーバー後のコイン投入時に剣ボタンを押したままスタートボタンを押すと、1階からそれまで進んだ階までの範囲でスタートする階を選んで[[ゲームオーバー#コンティニューについて|コンティニュー]]することができる。この時、ゲームオーバー時に所持していたアイテムはすべて持ち越される。ただし前回のプレイが60階クリアだった場合は無効であり、1階からのスタートとなる。同様にZAPだった時は1階から転落先のフロアまでの範囲となる。取り忘れや消失した宝をコンティニュープレイで取り直すことは可能であるが、3階のポーション・オブ・ヒーリングについては初めて使用したものだけが有効で、その後取り直したものには効果が無い。 == ストーリー == 広大なユーフレイト河のほとりに位置する小国バビリム王国は、天の神アヌが授けたブルークリスタルロッドの輝きにより栄えていた。しかし、その噂を聞きつけた隣国のスーマール帝国はバビリム王国を蹂躙し、天に掲げられたロッドを奪うべくバビリムの民を奴隷にして天高くそびえる塔を作らせていた。これを知った神王アヌは怒りの雷を落とし、塔を破壊する。しかし時すでに遅く、塔によってロッドの光が遮られたことにより、王国の守護神である女神イシターとの戦いに敗れロッドに封じられていた悪魔ドルアーガが復活を果たしていた。ドルアーガは魔力を用いて塔を修復して天上界からブルークリスタルロッドを盗み出して塔内に立てこもる。イシターの巫女のカイはロッド奪還のため塔に挑むもドルアーガの魔力に敗れて石に変えられ、囚われてしまった。 バビリム王国の王子であるギルは、ドルアーガを倒してロッドを奪還し囚われた恋人のカイを救うべく、アヌ神より授かった黄金の鎧を身にまといドルアーガの塔に挑む<ref name="natsukashiGB">M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 (ISBN 9784866400259)、57ページ</ref>。 == 登場キャラクター == === 味方キャラクター === ; ギル / プリンス・ギルガメス(GIL / PRINCE-GILGAMESH) : 本作の主人公。アヌ神から与えられた勇気を力に変える黄金の鎧を身にまとい、ドルアーガが操る様々なモンスターと戦いながら塔の最上階を目指す。名前の由来は古代[[メソポタミア]]の[[叙事詩]]の主人公[[ギルガメシュ|ギルガメッシュ]]から<ref name="anatatowatashi" />。 ; カイ(KI) : イシターに仕える王国の巫女でギルの恋人。最上階で石に変えられている。名前の由来はメソポタミアの地母神[[キ (メソポタミア神話)|キ]]から<ref name="anatatowatashi" />。 ; イシター(ISHTAR) : 最上階で出現する女神の幻影。名前の由来はメソポタミアの性愛と戦の神[[イシュタル]]から<ref name="anatatowatashi" />。 === 敵キャラクター === ==== スライム系(SLIME) ==== ゼリー状のモンスター。止まっている時に剣で刺せば一撃で倒せるが、接触するとギルの体力値に関わらずミスとなる。 また、本作のスライムは移動中に[[当たり判定|攻撃判定]]を持ったままやられ判定が消える時間、つまり無敵攻撃が存在するため、ギルがどれほど強化されていても攻撃のタイミングが悪いと一方的に負ける。更に、上級のものになると活発に動き回り、様々な呪文を使う。そのため、他のモンスターと戦っている最中にスライムが接近してくると大きな脅威となる。 ; グリーンスライム(GREEN SLIME) : 1階から出現。動きは一番遅く、呪文も放たない。 ; ブラックスライム(BLACK SLIME) : 呪文は放たないが、グリーンスライムより動きが活発。 ; レッドスライム(RED SLIME) : 動きはグリーンスライムと同程度だが、壁に当たると消える白色の呪文を放つ。 ; ブルースライム(BLUE SLIME) : 性格はレッドスライムと同様だが、壁を壊す力のある青色の呪文を放つ。 ; ダークグリーンスライム(DARKGREEN SLIME) : さらに活発に動く上、壁を貫通する緑色の呪文を放つ。呪文攻撃の面では全スライム中最強で、特に画面外から呪文を放って来る場合は危険。 ; ダークイエロースライム(DARKYELLOW SLIME) : 白・青・緑および[[#fireElement|ファイヤーエレメント]]に変化する赤い呪文をランダムに放つ。動きもスライム系中、最も活発で放つ呪文が一定でないため、呪文攻撃はダークグリーンスライムほど安定しないが、近くに居る場合は体当たりの攻撃が脅威となる。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 呪文 ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | グリーンスライム | - | 30 | '''1''' 2 3 5 11 15 22 '''43''' |太字はアイテム出現条件に関与するフロア(以下同様 ) |- | ブラックスライム | - | 50 | '''2''' 4 8 12 18 29 '''43''' | |- | レッドスライム | 白 | 60 | 7 '''10''' 14 19 25 33 '''43''' 51 | |- | ブルースライム | 青 | 40 | '''13''' 17 '''23''' 31 39 '''43''' 50 | |- | ダークグリーンスライム | 緑 | 70 | 28 32 35 '''43''' 48 52 | |- | ダークイエロースライム | すべて | 90 | '''43''' 46 54 | |} ==== ナイト系(KNIGHT) ==== ドルアーガの魔力により作られた[[騎士]]{{efn|『[[カイの冒険]]』のエンディングでは、「ブルークリスタルロッドの力で封印されたスーマール帝国の騎士達が蘇ったもの」とされている。}}。フロアを常に歩き回り立ち止まることはない。固有の体力値を持ち、ギルが剣を出して移動している状態(足踏み状態も可)で数回交差しなければ倒せない。交差中はギルもダメージを受ける。ギルが剣を出していても立ち止まった状態でナイトと交差すると、大ダメージを受けた後やられてしまう。同時に固有のリカバリーポイントを持っており、倒すことによってギルの体力値がその分回復する。リカバリーポイントはギルが持っている剣により異なるが、初期装備およびホワイトソード(5階の剣)では倒した敵の最大体力値とおおむね同値、[[ドラゴンスレイヤー]](18階)や[[エクスカリバー]](45階)ではその半分程度となる。 ; ブルーナイト(BLUE KNIGHT) : 青いナイトで最も弱く、初期装備のギルでも倒せる。 ; ブラックナイト(BLACK KNIGHT) : 黒いナイトで赤い剣を持つ。ブルーナイトよりやや強く、初期装備のギルとほぼ互角。「闇から作られた暗黒の騎士」という設定があり、本編以外のシリーズでも特別な役目を担わされることがある。 ; ミラーナイト(MIRROR KNIGHT) : 銀色のナイト。鏡に写ったギルの姿から作られたものという設定があり、「ミラー」の名はこれに由来する。耐久力はブラックナイト並みだが、ギルと同じ速度で移動する(ジェットブーツを取得していると素早く動き、取得しない状態で出遭うと通常のナイトと同じ速度になる)。PS版では「ジェットブーツなしクリア」が評価要素のひとつとなっている。FC版では白黒2色で配色。 ; ハイパーナイト(HYPER KNIGHT) : ブラックナイトより強いナイトでドルアーガの親衛隊的な扱いでもあり、シリーズによってはレッドナイトより強いハイパーナイトも登場する。45階のみ配色が異なっている。 ; リザードマン(LIZARD MAN) : 直立したトカゲの姿で黄緑色の剣を持つ。多くのRPGに使われる設定を踏襲し、ナイト系で唯一の[[左利き]]。 : 左利きによる攻撃は楯で防ぎにくいというRPGの設定に則り、単位時間にギルが受けるダメージが他のナイトの2倍となっている。一方で倒した際の得点は非常に低い。 ; レッドナイト(RED KNIGHT) : 塔内で最も強いとされる赤いナイトで、「'''イビルソード'''」と呼ばれる青色の剣を持つ。体力値はドルアーガに匹敵する上、リカバリーポイントが他のナイトに比べて格段に少ないため連戦は禁物。リカバリーポイントの低さは後のシリーズにも受け継がれている。AC版及びFC版では宝箱の出現条件に一切関わらないため無視されることが多いが、PS版の裏ドルアーガ及び闇ドルアーガでは特定の階で宝箱を出現させるために倒す必要がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント*1 ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | ブルーナイト | 24 | 24 / 9 | 1000 | '''3''' 7 '''15''' 27 '''45''' | |- | ブラックナイト | 48 | 48 / 21 | 1000 | 6 10 15 '''20''' 32 '''45''' 57 | |- | ミラーナイト | 48 | 48 / 21 | 2000 | 16 21 27 '''34''' '''45''' 53 57 | *2 |- | ハイパーナイト | 96 | 96 / 48 | 3000 | 26 30 37 '''45''' 49 53 57 59 | |- | リザードマン | 96 | 96 / 48 | 200 | 36 40 '''45''' 49 55 '''57''' 58 | *3 |- | レッドナイト | 144 | 24 / 9 | 1200 | 39 44 45 53 58 | |} # 初期装備およびホワイトソードで倒した時は前者、それ以降の剣では後者がギルの体力値に加算される。 # 歩行速度がその時点のギルと同じ。 # ギルに与えるダメージが他のナイト族の2倍(1フレームあたり-2)。 ==== マジシャン系(MAGICIAN) ==== 突然現れて呪文を放ち、またたく間に姿を消す神出鬼没の魔法使い。呪文は盾で防ぐことができ、姿を消す前に剣で刺すと一撃で倒せるが剣を出さずに触れるとミスになるので注意。出現位置は縦・横共通してギルの座標から1ブロック隔てて向こう2ブロック、または[[チェス]]のナイトのようにギルの座標から八方に位置したブロックに出現する。ギルがフロアの柱と柱の間、または外周での柱と外壁の間で止まっている時は出現することはなく、ギルが移動している時や通路上で止まった時に出現 → 呪文発射 → 消滅を繰り返す。各マジシャンとも呪文を放つ方向によって杖を持ち替えている。 ; [[メイジ]](MAGE) : 紫色の[[ローブ]]をまとった姿。壁に当たると消える白色の呪文を放つ。 ; [[魔法使い|ソーサラー]](SORCERER) : 緑色のローブ姿。ファイヤー[[エレメント]]に変化する赤色の呪文を放つ。 :; <span id="fireElement">ファイヤーエレメント</span> :: 赤色の呪文が壁に突き当たるか、進行方向に対し右または左の壁が切れる場所に到達した時、通路を塞ぐ炎に変化したもの。ギルはこの炎に接触するとミスになるが、赤いネックレスを取得すると通過が可能。数秒で自然消滅するが、そばに近づき剣を振ると早く消すことが可能になる。 ; [[ドルイド]](DRUID) : 灰色のローブ姿で顎鬚がない。壁を壊す青色の呪文を放つ。迷路の壁を壊すので、結果的にギルの道を作ってくれることにもなる。フロア序盤は有効に利用できるが、ソーサラーと同フロアに登場する場合はファイヤーエレメントも出現させやすくなる。また、ドルイドやメイジの呪文と重なっている場合は壁を突き破って呪文が飛んでくるという奇襲を受けてしまう。 ; [[魔法使い|ウィザード]](WIZARD) : 橙色のローブ姿。壁を通り抜ける緑色の呪文を発する。四方から囲まれると対処が困難。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 呪文 ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | メイジ | 白 | 50 | 4 '''5''' 8 11 16 24 33 40 '''44''' | |- | ソーサラー | 赤 | 70 | 6 9 '''13''' 18 22 30 '''36''' '''44''' 51 | |- | ドルイド | 青 | 90 | 9 '''12''' 17 '''20''' '''26''' 35 '''44''' 52 57 | |- | ウィザード | 緑 | 100 | 14 19 '''23''' 25 31 34 '''38''' 41 '''44''' '''49''' 50 55 '''56''' 59 | |} ==== ゴースト系(GHOST) ==== 死んだマジシャンの亡霊。ギルを執拗に追跡し、ワープで壁を通過する。6階他3ヶ所で取得可能なキャンドル([[ろうそく]])がなければ、ワープ時以外は姿を見ることができない。頻繁に呪文を放ちながら移動し、画面外から呪文を飛ばしてくることもあるがゴースト自身には接触してもミスにはならない。壁で2ブロックに区切られた空間に入ると内側にはスペルを吐かなくなるため、倒すには2ブロックゾーンに誘い込む戦法が有効である{{efn|壁を抜けて侵入した瞬間だけは吐かれる場合がある。}}。止まったまま進行方向に対して横から剣を伸ばして倒すことも可能である。 初期装備の剣およびホワイトソードで攻撃すると1フレームあたり1、ドラゴンスレイヤーでは2、エクスカリバーでは3のダメージを与えることができる。ゴーストは剣のパワーアップを最も感じさせる相手ではあるが、FC版の裏ドルアーガ等では宝箱の出現条件にゴーストを倒さないことが含まれているフロアが複数あるため、耐久力の低さが逆の意味で脅威となる。 ; メイジゴースト(MAGE GHOST) : 橙色の装束。メイジと同じ白色の呪文を放つ。 ; ドルイドゴースト(DRUID GHOST) : 紫色の装束。ドルイドと同じ壁を破壊する青色の呪文を放つ。進行方向の壁を破壊しつつ進むので、このゴーストが往復したあとには一直線に歩ける長い通路ができることになる。 ; ウィザードゴースト(WIZARD GHOST) : 灰色の装束。ウィザードと同じ壁を通り抜ける緑色の呪文を放つ。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 呪文 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | メイジゴースト | 白 | 24 | 0 | 150 | 9 12 '''17''' 24 39 52 | |- | ドルイドゴースト | 青 | 24 | 0 | 250 | 14 18 '''20''' 28 33 '''37''' 46 48 | |- | ウィザードゴースト | 緑 | 24 | 0 | 350 | 21 29 33 42 | |} ==== ローパー系(ROPER) ==== [[イソギンチャク]]のように多数の触手を持つ怪物で、剣を出して交差するとギルの体力値を消耗する。その結果、[[ローパー_(架空の生物)|ローパー]]と接触した後にナイト系の敵と戦うと、体力不足でミスになることがある。剣を出さずに交差すると体力が最低値になるが、この接触でギルが死ぬことはない。 ナイト系と同様、リカバーポイントを持つ。色による能力差はないが、同色でも倒した時の得点が異なる場合はある。ダメージを与えるにはドラゴンスレイヤー以上の剣が必要となる。 ; グリーンローパー(GREEN ROPER) ; レッドローパー(RED ROPER) ; ブルーローパー(BLUE ROPER) {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | グリーンローパー | 48 | 21 | 1000~15000 | 25 28 30 '''35''' '''40''' 46 51 | |- | レッドローパー | 48 | 21 | 1000~15000 | '''37''' '''47''' 51 | |- | ブルーローパー | 48 | 21 | 1000~15000 | 50 51 54 56 | |} この他にファミコン版では、'''オールグリーンローパー(ALL-GREEN ROPER)'''と'''オールレッドローパー(ALL-RED ROPER)'''も登場するがこれはファミコンの表示色数の関係上キャラクター用パレット不足が原因で色が変わってしまっているのを当時の攻略本編集者が便宜上呼称したもの。 ==== ドラゴン系(DRAGON) ==== 翼を持つ竜。元々はクォックスと呼ばれるブルークリスタルロッドの光から生まれた善良なドラゴンだったが、ドルアーガの魔力によってクリスタルロッドがブルー、レッド、グリーンの3つに分割された際に、シルバードラゴン、ブラックドラゴンに分かたれた末に操られた。<ref>[[スーパーファミコン]]ソフト『[[ザ・ブルークリスタルロッド]]』デモ画面より。</ref>。<br>ゆっくりと歩き、曲がり角や分岐点に着くと首を左右に振ってから方向転換する。同軸上にギルがいると壁を壊しながら向かってくる。時折り翼をはためかせてから、進行方向に長大なファイヤーブレス(炎)を吐く。ブレスは方向転換と同時や、壁を突き破るのと同時に吐く場合もある。ギルがブレスに接触するとミスになるが、青いネックレスを取得すると通過可能になる。また、[[真珠|パール]]というアイテムがあれば一定範囲内にいる[[ドラゴン]]系の動きを止められる。ダメージを与えるにはドラゴンスレイヤー以上の剣が必要となる。正面からの攻撃ではダメージを与えられない。剣を収めたままでもドラゴンを通過できるが、剣を出した時と同様に体力が減るので注意。 ドラゴン系が出現するフロアでは専用の[[背景音楽|BGM]]が用いられる。 ; クォックス(QUOX) : 緑色のドラゴン。名前の由来は[[オズ・シリーズの一覧|『オズの魔法使い』シリーズ]]の『[[オズのチクタク]]』に登場する竜クオックスより。本来は善良な生物で、本作ではドルアーガに操られている。ドルアーガが倒されると正気に戻り塔を去って行った。バビロニアンキャッスルサーガ作品では、敵として登場するのは本作のみ<ref group="注釈">例外的に『[[イシターの復活]]』のROOM77に登場し、Sleepの呪文を使わない限り触れるとミスになる。</ref>。耐久力はギルの通過3回分。 ; シルバードラゴン(SILVER DRAGON) : 白銀色のドラゴン。クォックスよりやや強く、耐久力はギルの通過5回分。 ; ブラックドラゴン(BLACK DRAGON) : 黒色のドラゴン。シルバードラゴンよりさらに強く、耐久力はギルの通過7回分。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | クオックス | 48 | 0 | 3000 | 15 19 22 26 30 32 '''41''' 48 58 |*1 |- | シルバードラゴン | 80 | 0 | 3000 | '''33''' 38 42 52 | |- | ブラックドラゴン | 112 | 0 | 3000 | 46 50 52 | |} <nowiki>*</nowiki>1 {{要出典範囲|体力値は攻略書籍等による値。プログラム上では58に設定されている。|date=2017-07}}<!--攻略書籍の名前を記載して下さい。また、上記の表では48ですが、58で良いのですか?--> ==== ウィル・オー・ウィスプ系(WILL-O-WISP) ==== フロアの残り時間が60秒(表示が赤くなる)を切った時に登場する火の玉。フロアによっては始めから登場する。倒すことはできず、接触するとミスになるが指輪系アイテムの取得で通過が可能になる。緩やかに動くタイプと、非常に早い動きをするタイプがある。移動パターンでは以下の2種類があり、それぞれの特徴を理解すれば壁を壊すことによって同じルートを回らせ回避することも可能。 ; ブルー・ウィル・オー・ウィスプ(BLUE WILL-O-WISP) : 青い火の玉。進行方向の左側の壁に沿って動く。 ; レッド・ウィル・オー・ウィスプ(RED WILL-O-WISP) : 赤い火の玉。進行方向の右側の壁に沿って動く。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 始めから登場するフロア ! 備考 |- | ブルー・ウィル・オー・ウィスプ | 21 24 '''27''' 29 31 34 38 42 47 54 56 | |- | レッド・ウィル・オー・ウィスプ | 39 41 '''42''' 54 56 | |} ==== 悪魔(DEMONS) ==== ; ドルアーガ(DRUAGA)<!--(HP=96・ただし単位時間ごとに与えられるダメージが半分)--> : ブルークリスタルロッドの力で封印されていた[[悪魔]]。8本の腕と4本の足を持ち、緑色の鱗に覆われた姿。人間によって築かれた塔の影でクリスタルロッドの力が弱まり、封印が解かれた。神の雷によって破壊された塔を魔力で修復し、内部に多数のモンスターを放って「'''ドルアーガの塔'''」とした。壁を通り抜ける緑色の呪文を放ちながら走り。ギルと縦・横軸が合致した場合ゴーストのようにワープする。耐久力はギルの通過10数回分。必須アイテムが一つでも欠けていると倒せない。ベースはインド神話の[[ドゥルガー]] / [[カーリー]]<ref name="anatatowatashi" />。 : 59階に登場するが、ドルアーガ本体を出現させるためには他モンスターに擬態した分身を順番に倒す必要がある(PCエンジン版では変身態が下記と異なる)。このフロアでは専用のBGMが用いられる。 :; 擬態ハイパーナイト(ハイパーナイト・スーパー) :: 最初の分身でフロア開始時から登場する。ジェットブーツを持ったギルと同じ速度で動きまわり、ミラーナイトと異なり、ジェットブーツの有無を問わず高速移動する。ギルと縦・横軸を合わせるように移動するアルゴリズムをもち、軸線が合った時にギルに向かっていき壁にぶつかると、その場で足踏みする。 :; 擬態ウィザード(ウィザード・スーパー) :: 2番目の分身で4体同時に出現する。実体を持つのは1体のみで他の3体には攻撃が無効。実体を倒すとすべて消滅する。 :; 擬態クォックス(クォックス・スーパー) :: 3番目の分身でパールの効果を受け付けない。ルビーメイスを取得していれば一撃で倒せるが、なければ絶対に倒せない。倒すとドルアーガ本体が出現する。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント *1 ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | 擬態ハイパーナイト | 96 | 48 / 48 | 3000 | 59 | *2 |- | ドルアーガ | ?<!--96--> | (不可) / 0 | 0 | 59 | *2 *3 |} # 初期装備およびホワイトソードで倒した時は前者、それ以降の剣では後者がギルの体力値に加算される # ギルの速度に関係なく高速移動する # エクスカリバーで与えられるフレーム当たりのダメージが0.5(通常の敵は2ないし3) ; [[サキュバス|サッカバス]](SUCCUBUS) : 57階で出現する悪魔。イシターの姿に化け、偽のブルークリスタルロッドを持つ。フロア開始時には石の姿をしており、鍵を持たずに扉を通過するとイシターの姿になる。剣の一撃で倒せるが、剣を出さずに触れると偽のクリスタルロッドを渡され、体力が急激に減り続ける状態になり、まもなくミスになる{{efn|扉がごく近くにあればミスになる前に次の階へ進めるが、クリアに必須なアイテムを取得できなくなる。}}。57階では60階と同じBGMが用いられる。 : [[PCエンジン]]版では自らの正体を見破ったギルに問いかけ、ギルの真意を見極めた上でブルークリスタルロッドを差し出す描写が加えられた。これはドルアーガが改心することを願うサッカバスの愛情の表れであり、シリーズを通しての公式ストーリーとして採用されている。 : 名称は厳密に統一されておらず、「'''サキュバス'''」と呼ばれることもある。『[[テイルズ オブ デスティニー]]』での復刻の際には、ナムコミュージアム館長の判断で「'''ニセイシター'''」と名乗らされている。<!--[[ザ・ブルークリスタルロッド]]では「サキュバス」と表記--> {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 名前 ! 体力値 ! リカバリー <br>ポイント ! 点数 ! 出現フロア ! 備考 |- | サッカバス | ? | ? | 500 | 57 | |} == 他機種版 == この節では発売当時の社名で記載(一部の長い社名のみ、略記する場合あり)。 {| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%" ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 備考 ! 出典 |- | style="text-align:right" |1 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|1985-08-06}} | [[ファミリーコンピュータ]] | ナムコ | ナムコ | 320[[キロビット]][[ロムカセット]]<ref name="famimaga120">{{Cite journal |和書 |author = |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |naid = |pages = 120 - 121 |url = |ref = harv}}</ref> | NTD-4900 | | |- | style="text-align:right" |2 !| ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|October 1985}} | [[MZ-1500]] | [[マイコンソフト]] | [[電波新聞社]] | [[クイックディスク]] | DP-3201208 | | |- | style="text-align:right" |3 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|1986年夏}} | [[MZ-2500]]<br />[[FM-7#FM77AV|FM77AV]]専用版<br />[[X1 (コンピュータ)|X1/turbo]] | マイコンソフト | 電波新聞社 | '''MZ25:'''3.5インチ2DD[[フロッピーディスク]]<br />'''FM77AV:'''3.5インチ2Dフロッピーディスク<br />'''X1:'''[[コンパクトカセット|カセットテープ]]/5.25インチ2D | - | | |- | style="text-align:right" |4 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|1986-10-27}} | [[MSX]] | ナムコ | ナムコ | ロムカセット | 12 | | |- | style="text-align:right" |5 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|June 1987}} | FM-7/77 | マイコンソフト | 電波新聞社 | 5.25インチ2Dフロッピーディスク | - | | |- | style="text-align:right" |6 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|1990-12-31}} | [[ゲームボーイ]] | エンジェル | エンジェル | 1メガビットロムカセット<ref name="famimaga145">{{Cite journal |和書 |author = |title = 5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ |date = 1991-05-24 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 10 |naid = |page = 145 |ref = harv}}</ref> | DMG-ADA | | |- | style="text-align:right" |7 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|1992-06-25}} | [[PCエンジン]] | [[ゲームスタジオ]] | ナムコ | 4[[メガビット]][[HuCARD]]<ref name="pcfan21">{{Cite journal |和書 |author = |title = 10月号特別付録 PCエンジンオールカタログ'93 |date = 1993-10-01 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[PC Engine FAN]] |volume = 6 |number = 10 |naid = |page = 21 |ref = harv}}</ref> | NC92003 | リメイク版 | |- | style="text-align:right" |8 ! [[ナムコミュージアム|ナムコミュージアムVOL.3]] | {{vgrelease new|JP|1996-06-21|NA|1997-01-31|EU|1997-02-12}} | [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]] | [[ナウプロダクション]] | ナムコ | [[CD-ROM]] | {{vgrelease new|JP|SLPS-00390|NA|SLUS-00398|EU|SCES-00268}} | アーケード版の移植 | |- | style="text-align:right" |9 ! ナムコギャラリーVOL.2 | {{vgrelease new|JP|1996-11-29}} | ゲームボーイ | ナムコ | ナムコ | ロムカセット | DMG-AN2J-JPN | ゲームボーイ版の移植 | |- | style="text-align:right" |10 ! ナムコヒストリーVOL.2 | {{vgrelease new|JP|1997-11-28}} | [[Microsoft Windows|Windows]] | ナムコ | ナムコ | CD-ROM | - | アーケード版の移植 | |- | style="text-align:right" |11 ! ナムコミュージアムVOL.3<br />''PlayStation the Best'' | {{vgrelease new|JP|1999-10-28}} | PlayStation | ナウプロダクション | ナムコ | CD-ROM | SLPS-91160 | 廉価版 | |- | style="text-align:right" |12 ! Ultra 2000<br />ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2001-09-05}} | Windows | ナムコ | [[メディアカイト]] | CD-ROM | - | | <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2001-08-29 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0108/29/news06.html |title=ドルアーガの塔がWin用低価格シリーズで復活! |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2019-11-09}}</ref> |- | style="text-align:right" |13 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2002-11-01}} | [[Yahoo!ケータイ|Jスカイ]]<br />([[S!アプリ|Javaアプリ]]) | ナムコ | ナムコ | ダウンロード<br />(ナムコアプリキャロットJ) | - | | <ref name="keitaiwatch20021031">{{Cite web|和書|author=津田啓夢 |date=2002-10-31 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/11525.html |title=「ドルアーガの塔」がJ-スカイのJavaアプリで登場 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2019-03-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2002-10-31 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/games/gsnews/0210/31/news14.html |title=ついに「ドルアーガの塔」がJ-PHONEに建立! |website=SOFTBANK GAMES NEWS INDEX |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2019-03-17}}</ref> |- | style="text-align:right" |14 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2003-02-21}} | [[504i]]<br />([[iアプリ]]) | ナムコ | ナムコ | ダウンロード<br />(アプリキャロットナムコ) | - | | <ref>{{Cite web|和書|author=津田啓夢 |date=2003-02-21 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/12896.html |title=ナムコ、名作「ドルアーガの塔」の504i向けiアプリ配信 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2019-03-17}}</ref> |- | style="text-align:right" |15 ! ドルアーガの塔(復刻版) | {{vgrelease new|JP|2003-12-05}} | [[ニンテンドーゲームキューブ|ゲームキューブ]] | ナムコ | ナムコ | 8センチ光ディスク | - | ファミリーコンピュータ版の移植<br/>『[[バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海|バテン・カイトス]]』先行予約特典(非売品) | |- | style="text-align:right" |16 ! {{vgrelease new|NA|Namco Museum Battle Collection|EU|Namco Museum Battle Collection|JP|[[ナムコミュージアム (PSP)|ナムコミュージアム Vol.2]]}} | {{vgrelease new|NA|2005-08-23|EU|2005-12-09|JP|2006-02-23}} | [[PlayStation Portable]] | ナムコ | ナムコ | [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]] | {{vgrelease new|NA|ULUS-10035|EU|UCES-00116|JP|ULJS-00047}} | 日本国外版は『VOL.1』と『VOL.2』が統合されている | |- | style="text-align:right" |17 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2007-09-27}} | [[Wii]] | ナムコ | ナムコ | ダウンロード<br />([[バーチャルコンソール]]) | - | ファミリーコンピュータ版の移植<br />2019年1月31日 配信・発売終了 | |- | style="text-align:right" |18 ! ナムコミュージアムDS | {{vgrelease new|JP|2007-10-11}} | [[ニンテンドーDS]] | ナムコ | ナムコ | DSカード | - | アーケード版の移植 | |- | style="text-align:right" |19 ! ドルアーガの塔 WIDE版 | {{vgrelease new|JP|2008-04-22}} | [[F903i]]、[[F903iX]]、[[F904i]]<br />[[F905i]]、[[P905i]]、[[SH905iTV]]<br />(iアプリ) | バンナム | バンナム | ダウンロード<br />(ナムコ・ゲームス) | - | アーケード版の移植 | <ref name="itmedia20080422">{{Cite web|和書|author= |date=2008-04-22 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0804/22/news154.html |title=横向きワイド画面対応に──iアプリ「ドルアーガの塔WIDE版」登場 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2019-03-17}}</ref><ref name="keitaiwatch20080422">{{Cite web|和書|author=太田亮三 |date=2008-04-22 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/39567.html |title=バンダイナムコ、「ドルアーガの塔」に横画面対応版 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2019-03-17}}</ref><ref name="inside20080422">{{Cite web|和書|author= |date= 2008-04-22 |url=https://www.inside-games.jp/article/2008/04/22/28612.html |title=『マッピー』に続き、iアプリ『ドルアーガの塔 WIDE版』も配信開始 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2019-01-13}}</ref> |- | style="text-align:right" |20 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|NA|2009-03-25|PAL|2009-03-25|JP|2009-05-12}} | Wii | ナムコ | ナムコ | ダウンロード<br />(バーチャルコンソールアーケード) | - | アーケード版の移植<br />2019年1月31日 配信・発売終了 | <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2009-05-11|url=http://dengekionline.com/elem/000/000/157/157058/ |title=迷宮の扉が再び開く――『ドルアーガの塔』VCアーケードに登場 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2019-03-17}}</ref> |- | style="text-align:right" |21 ! ナムコミュージアム バーチャルアーケード | {{vgrelease new|JP|2009-11-05}} | [[Xbox 360]] | バンナム | バンナム | DVD-ROM | - | | |- | style="text-align:right" |22 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2012-12-19}} | [[ニンテンドー3DS]] | ナムコ | バンナム | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | ファミリーコンピュータ版の移植 <br />2023年3月28日 配信・発売終了 | <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2012-12-12 |url=https://www.inside-games.jp/article/2012/12/12/62154.html |title=ナムコの名作アクションRPG『ドルアーガの塔』3DSバーチャルコンソールで配信決定 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2019-11-09}}</ref> |- | style="text-align:right" |23 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2013-08-21}} | [[Wii U]] | ナムコ | バンナム | ダウンロード<br />(バーチャルコンソール) | - | ファミリーコンピュータ版の移植 <br />2023年3月28日 配信・発売終了 | <ref>{{Cite web|和書|author=津久井箇人 a.k.a. そそそ |authorlink=津久井箇人 |date=2013-08-09 |url=https://www.inside-games.jp/article/2013/08/09/69392.html |title=Wii Uバーチャルコンソール8月21日配信タイトル ― 『はじまりの森』『ドルアーガの塔』の2本 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2019-11-09}}</ref> |- | style="text-align:right" |24 ! ナムコミュージアムVOL.3 | {{vgrelease new|JP|2013-12-11}} | [[PlayStation 3]]<br />PlayStation Portable<br />([[PlayStation Network]]) | ナウプロダクション | バンナム | ダウンロード<br />([[ゲームアーカイブス]]) | - | アーケード版の移植 | |- | style="text-align:right" |25 ! ナムコミュージアム | {{vgrelease new|NA|2017-07-28|EU|2017-07-28|JP|2017-07-28}} | [[Nintendo Switch]] | バンナム | バンナム | ダウンロード | - | アーケード版の移植 | |- | style="text-align:right" |26 ! [[ナムコットコレクション]] | {{vgrelease new|JP|2020-06-18}} | Nintendo Switch | [[B.B.スタジオ]]<br />[[M2 (ゲーム会社)|エムツー]] | バンナム | Switch専用ゲームカード<br />ダウンロード | - | ファミリーコンピュータ版の移植 | |- | style="text-align:right" |27 ! [[ナムコットコレクション|NAMCO MUSEUM ARCHIVES Vol.1]] | {{vgrelease new|INT|2020-06-18}} | Nintendo Switch(日本国外)<br />[[PlayStation 4]]<br />[[Xbox One]]<br />[[Windows]]([[Steam]]) | B.B.スタジオ<br />エムツー | バンナム | ダウンロード | - | ファミリーコンピュータ版を収録 | |- | style="text-align:right" |28 ! ドルアーガの塔 | {{vgrelease new|JP|2022-06-02}} | PlayStation 4<br />Nintendo Switch | ナムコ | [[ハムスター (ゲーム会社)|ハムスター]] | ダウンロード<br />([[アーケードアーカイブス]]) | - | アーケード版の移植 | <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202206/01263423.html |title=Switch/PS4『アケアカ ドルアーガの塔』が6月2日より配信開始。アイテムを集めて主人公ギルを強化しながら塔を攻略していくアクションRPG |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2022-06-01 |accessdate=2022-06-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=吉田航平 |date=2022-06-01 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1413790.html |title=PS4/SwitchにてアクションRPG「アーケードアーカイブス ドルアーガの塔」が6月2日に配信 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2022-06-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=杉浦 諒 |date=2022-06-01 |url=https://www.4gamer.net/games/634/G063466/20220601027/ |title=「アーケードアーカイブス ドルアーガの塔」が6月2日発売へ。隠されたアイテムを駆使し,塔の最上階を目指すアクションRPG |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2022-06-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/220601t |title=名作アクションRPGの復刻版『アーケードアーカイブス ドルアーガの塔』が6月2日に発売決定。悪魔にさらわれた恋人を救うため巨大な塔を駆けあがれ |website=電ファミニコゲーマー |publisher=Mare |date=2022-06-01 |accessdate=2022-06-04}}</ref> |} === 裏ドルアーガ === FC版には、宝箱の出現条件が通常版とは異なる「アナザー・ドルアーガの塔」と呼ばれるバージョンがあり、選択するとタイトル文字の色が灰色から濃緑に切り替わる。以後に発表された移植版でも、それぞれのプラットフォームオリジナルの特別版、いわゆる「裏ドルアーガ」が収録されることが多い。 特にPlayStation版(『ナムコミュージアムVol. 3』収録)には、裏ドルアーガとは別に「闇ドルアーガ」もあり、宝箱の出現条件の他にフロアのマップや獲得するアイテムそのものが通常版と異なっていた。PlayStation版で闇ドルアーガを呼び出すと、プログラムされているが本編では使われていないファンファーレが鳴り闇ドルアーガモードに突入する。表ドルアーガではあり得ない、サイズ2倍のスライムが出現したり、宝箱の中身が「数十万ポイント分のスコア」というものがあったりと、新たな要素が加えられている。 === ファミリーコンピュータ版 === 以下はFC版の特徴で、オリジナルであるアーケード版では異なるか起こらない現象である。 * 迷路が狭い。 * 一部アイテムの色が違う。詳しくは上記参照。また取得済アイテム欄の配置順が改良され、マトック系とポーションの存在が常に確認できるようになった。 * 敵の配置がアーケード版とは異なるフロアがあり、全体的に敵の数が減っている。 * バランスの効果が「所有しているハイパー系アイテムの効果を正方向にする」と効果が少し異なっている<ref>[[集英社]]の「[[ファミコン神拳]]」単行本では「後に出る装備品の呪いを解く」と公式発表とは別の解釈で掲載されている。</ref>。このため、ハイパーガントレット以外のハイパー系アイテムはコンティニューを使ってバランスを後から取ってもドルアーガを倒すことができる。アーケード版はバランスを後から取ってもイビル系アイテムのままである。 * ゴールドマトックと下位のマトックの2本を同時に所持することができる。このため2本目がシルバーマトックならば、1回までなら外壁に対してマトックを使って壊しても、支障なくゲームを続行できる。アーケード版はゴールドマトックを取得した時点で下位のマトックを失う。 * マジシャン等の放つ呪文の色が、種類にかかわらずすべて白色。 * ドラゴンがブレスを吐いている間はマジシャンがスペルを吐かず、現れても何もせず消える。ただしブレスが消えた瞬間にスペルを吐くようになるので、特殊な時間差攻撃になり得る。 * ドラゴン・ローパーがホワイトソード以下の剣でも倒せる。 * マジシャンと剣を出さずに通過しても即座にミスにはならず、体力が減るのみ。 * ローパーと剣を出さずに通過しても普通にダメージを受けるだけ。 * ドルアーガと剣を出さずに交差することができない。 * 足踏み状態でナイトを倒せない。 * ファイアーエレメントを剣を振っても消せない。 * ダメージを与えたときに音が鳴る、アーケード版と逆。 * 剣の攻撃力とリカバリーポイントがアーケード版と違っている。 * 上位のブックは下位のブックの効果を兼ねない。 * 一部の敵のスコアが違っている。 * ドラゴンとウィスプの移動スピードの変更。 * コンティニューボーナスがない。 * シルバーマトックが各階で3回までは壊れず、4回目で必ず壊れるようになっている。この仕様変更のため、FC版ではゴールドマトックがクリア必須アイテムではなくなっている。 * ドルアーガを倒すのにブルークリスタルロッドは必須ではない。これはロッド系の効果が単なる「ギルの体力が上がる」効果に変更されているためである。よってグリーン・レッド両クリスタルロッドも取る必要はなくなっている<ref>{{cite book|和書|title=裏ワザ大全集 ドルアーガの塔|pages={{要ページ番号|date=2020年4月}}|publisher=[[二見書房]]}}</ref>。 * イビルヘルメットの体力値の変更がハイパーヘルメットと同じ。ただしドルアーガとは戦えない。 * 41Fをクリアしてもポーション系アイテムはなくならない。これはアイテムの格納方式がアーケード版とでは異なり、消す必要がなくなったからである。 * ハイパーアーマーを持っている状態で呪文を受ける等して体力を最低にすると、リング系を所持していてもウィスプ系に触れるとミスになる。 * ポーションオブデスのタイムの減少スピードがアーケード版よりゆるやか。 * 44Fのマジシャンの出方が異なる。画面上で一種類しか出ない。そのため、目当てのマジシャンがいつまで経っても出ないという危険がある。 * イビルソードの攻撃力がエクスカリバーと同じ。ただしドルアーガの分身ウィザードは倒せない。 * 52Fではブラックドラゴンの代わりにクオックスになっているが強さはブラックドラゴンのままである。 * サッカバスを倒しても、扉を通過することで再び現われる。また、サッカバスについては「剣を出さずに触れるとまもなくしてミスとなる」という設定が省略されており、よってダミーのブルークリスタルロッドも持たない。 * 残りタイムが60秒を切って以降に出現するウィスプ系は青と赤1つずつしか出現しない。ここでは赤は残り50秒で、青は残り40秒で、それぞれ現れる。 * 60FでZAPする条件を満たすとすぐにZAPする。 * 60FでタイムオーバーになってもZAPせずそのフロアで再びプレイできる。 * 特定の操作でラウンドセレクトができる。その際に別の操作を組み合わせることで、アイテムの選択もできる。 * ラウンドセレクトをしたうえでZAPして、戻されたフロアをクリアすると、バグ面が現れることがある。面セレクトすると60面よりも上のフロアがセレクトできるのでバグ面となる。 * 裏ドルアーガで一部宝の効果が違っているものがある。 ** サファイアメイス - 持っていないとルビーメイスが取れなくなっている。 ** リング系アイテム - 下位のリングを持っていないと上位のリングは取れなくなっている。 また、FC版では攻略本が出版されたが、アイテムの出現方法が違う内容で記載されていたり、60Fのクリア方法は全く違う内容が記載されていた。 === ゲームボーイ版 === [[ゲームボーイ]]版はナムコではなく[[エンジェル (ゲーム会社)|エンジェル]]から発売された。発売日は[[1990年]][[12月31日]]。 体力値が画面に数字で表示されており、スライムの体当たりやマジシャン等の呪文を受けてもダメージを受けるだけで済む。基本的にどのモンスターに対して剣を出しての交差で5の減少、剣を出さない場合や呪文の被弾で10の減少となる。鎧等のアイテムは最大HPの上昇に割り当てられており<ref>最大HPは400</ref>、取得せずともクリアが可能。各階層をクリアしてもHPは固定値回復のみとなる。 残機([[自機#プレイヤーストック|プレイヤーストック]])の概念がなく体力が尽きるとその場でゲームオーバーになるが、[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]]による継続機能があったりとゲームシステムがアレンジされている<ref name="natsukashiGB"/>。一部のフロアでは宝箱の出現方法がオリジナル仕様になっている<ref name="natsukashiGB"/>。また、一部フロアに関しては迷路ではなく大部屋でのボス戦に差し替えられている。 のちに発売された『[[ナムコギャラリー]]VOL.2』にも収録された。 === PCエンジン版 === [[PCエンジン]]版は[[1992年]][[6月25日]]に発売された。メディアは[[Huカード]]。 画面が俯瞰(斜め上からの見下ろし)であったりアイテムを好きな時に使用できるといった改変がなされた。遠藤は「オリジナルの迷路は長方形で塔らしくなくて嫌だったが、基板の問題でどうしようもなかった。PCエンジン版の正方形の迷路が本当にやりたかった『ドルアーガの塔』の迷路だった」と語っている<ref>{{cite book|和書|publisher=[[メディアファクトリー]]|title=ナムコミュージアムvol.4超研究|pages=110}}</ref>。 『カイの冒険』同様にフロアごとにイシターが登場して宝箱の出現条件のヒントを教えてくれるほか、ビジュアルシーンによるキャラクターのセリフが追加され設定上でしか語られなかったストーリー要素がゲームに反映されている。また、タイトル画面でFC版の[[隠しコマンド]]を入力すると「'''[[裏面 (ゲーム)|ウラめん]]なんてありませんよ'''」などといったメッセージが表示されたりと、過去の移植版をもじった要素もある。以下に主だった変更点について記す。 ;アイテムの装備 :オリジナル版およびそれまでの移植版では手に入れたアイテムはその場で強制的に装備、もしくは効果発動となっていたが、本作ではプレイ中にステータス画面を呼び出して任意に装備や使用アイテムの変更ができるようになった。武器・防具には構えた状態でも正面から呪文を受けられる剣「'''スペルキャンセラー'''」、ギルが全身黒ずくめになり敵に追いかけられなくなる「'''ブラックナイトアーマー'''」、宙に浮いて歩くことで地面に張りついた敵に当たらなくなる「'''レビテイトブーツ'''」など、オリジナル版になかった特殊な効果を持つものもある。 :武器・防具以外にも装備する、もしくは装備して使うことではじめて効果が表れるものが多い。前者は'''装備アイテム'''、後者は'''登録アイテム'''と呼ばれ、それぞれ一度に1つずつ装備可能。 ;宝箱の種類の追加 :主にゲームクリアに必須のアイテムが入った'''メイン宝箱'''のほかに、ゲームをより有利に進められる「'''スペシャルアイテム'''」の入った'''スペシャル宝箱'''が追加された。スペシャルアイテムは基本的に使い捨ての登録アイテムで、背後に壁を作って緊急回避に使える「'''トゥラウアル'''」、使ったその場でフロアを移動できる「'''[[ロープ]]'''」「'''[[シャベル|スコップ]]'''」、特定の敵からダメージを受けなくなる「'''クリスタル'''」、敵全滅など様々な魔法がこめられた[[巻物]]「'''スクロール'''」などの種類がある。またメイン宝箱に関しては、前述の通りフロア開始時にイシターが出現条件のヒントをくれるようになっている(一部難易度を除く)。 ;難易度選択 :難易度が下記の4種類から選べるようになっており、敵の出現数や継続機能の制限などで違いがある。ゲームボーイ版と同じく残機の概念がなく、ミスすると即ゲームオーバーのような扱いとなる。 :*'''イージー''' - 復活の回数は無限で、ゲームオーバーになってもタイトル画面に戻らずすぐに再開となる。またギルのステータス上昇に使える「'''勇気のシンボル'''」がフロアをクリアするだけで手に入り、パスワードコンティニューも可能。制限時間もなく、モンスターのステータスも他のレベルより低い。 :*'''ノーマル''' - 「'''勇気のシンボル'''」がフロア上に落ちているものを回収しないと手に入らないほか、モンスターのステータスがイージーより高い。ほかはイージーと同じ。 :*'''ハード''' - モンスターのステータスがノーマルより高く、出現パターンも上記2つのレベルをベースに数が増えるなど、厳しいものになっている。またオリジナル版のように制限時間がつき、タイムが少なくなるとウィル・オー・ウィスプが出現する。コンティニューには10回の制限がつき、勇気のシンボルは登場せずパスワードも使えない。上記2つのレベルでは画面上にあったマトック残り使用回数の表示もなくなる。 :*'''プロゲーマー''' - ハードの条件に加え、宝箱の出現条件が変わり、イシターがそのヒントをくれなくなる。モンスターのステータスはハードよりも高く、出現パターンもまったく違うものに変化する。また上記3つのレベルで画面上にあった体力値の表示がない。コンティニューは3回のみで、スペシャルアイテムも出現しない。本難易度のみフロア中に発生する会話シーンが省略され、エンディングがアーケード版をもとにした特別なものになる。 ;モンスターの追加 :オリジナル版と比べてモンスターが大幅に追加された{{efn|ただし、ダークグリーンスライムやドルイドゴーストなど、削除されたものもいる。}}。その中には「'''バンパイヤ'''」や「'''ランドアーチン'''」など『'''[[イシターの復活]]'''』に登場するモンスターや「'''ホワイトナイト'''」など[[ドルアーガの塔 (ゲームブック)|ゲームブック]]に登場するモンスターも含まれている。 === パソコン版 === [[電波新聞社]]より、[[FM-7]]/77版、[[FM-7#FM77AV|FM77AV]]専用版、[[MZ-1500]]版、[[MZ-2500]]版、[[X1 (コンピュータ)|X1]]シリーズ版が、それぞれ発売された。一部の移植作品には、宝箱の出し方が異なる「裏ドルアーガ」が存在する。 MSX版はナムコよりナムコットシリーズとしてROMカートリッジで発売された。ハードウェアスペックの限界から「キャラクターは単色」「スクロールは8ドット単位」など、FC版をさらにダウンスケールさせたような内容となっている。 また、[[1989年]]にはユーザーによる非公式の[[X68000]]版が作成され、主に[[草の根BBS]]を通して配布された。 === 携帯アプリ版 === [[2002年]]より、[[フィーチャーフォン]]用アプリケーションとして[[NTTドコモ]]、[[au (携帯電話)|au]]、[[ソフトバンク]]の各キャリア向けに移植された。これらは宝箱の出し方を記した「攻略ウィンドウ」や、最初から宝箱が出現した「EASYモード」を搭載している。また、下位機種向けに全16階構成の『ドルアーガの塔mini』も配信された<ref name="keitaiwatch20021031"/>。 [[2008年]]には、[[F903i]]などのディスプレイを90度横に回転させられる機種向けの『ドルアーガの塔 WIDE版』が登場。ステージを横長のディスプレイいっぱいに表示し、横スクロールがほぼ抑えられている<ref name="itmedia20080422"/><ref name="keitaiwatch20080422"/><ref name="inside20080422"/>。 さらに[[2011年]][[2月17日]]頃 - [[5月16日]]、携帯[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]サイト「[[Mobage|モバゲータウン]]」にて、『ドルアーガの塔 for モバゲー』を無料配信。本作のみ「SHORT」というスコアアタックモードが用意されていた。 === ニンテンドーDS版 === DSの特徴である2画面を使って、ゲーム画面以外の別画面にはそのフロアで出現する宝箱アイテム、宝箱の出し方やアイテム解説などが表示されるお手軽攻略「プレイナビ」機能が搭載されており、攻略本や攻略サイトに頼らなくても全フロアの宝箱出現方法が分かる。また縦画面モードにも対応している。 === アーケードアーカイブス版 === 「こだわり設定」で起動画面の表示、ゲームスピードの調整、原作挙動の再現、メッセージテキストの原作再現、体力とマトック数と宝物出現通知の表示の設定が可能。ただし、原作挙動の再現はゲームの進行が不可能になる場合がある。また、「ボタン設定」にて「マップ情報の表示」をボタンに割り当てると、ゲーム中にフロアのマップや宝物の出し方などの情報を見る事ができる。ZAPした場合、オンラインランキング登録にてスコアの横にZAPの表示が付く。 == 開発 == === 開発背景とバージョン === 開発者の遠藤雅伸によれば、本ゲーム開発の際の大きな目的の一つは「当時稼働率の下がっていた『[[マッピー]]』の[[アーケードゲーム基板|基板]]の[[ROM交換]]で、開発コストを下げる」ことであった(縦長の画面で横スクロールするなど、両ゲームの共通点は多い)。つまり、元々大ヒットを狙っていたわけではなく、2000枚のROMが償却できればプロジェクト的には成功であった。 また、『ゼビウス』をはじめとする当時のアーケードゲームは、残機がある限り延々と遊ぶことができたため、難易度を高くした上でコンティニューを誘発したり、プレイヤーが達成感を味わいながらエンディングにたどり着くための仕組みがとられた<ref name="cakes">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150808210616/https://cakes.mu/posts/10449|title=遠藤雅伸「ゲーム技術の黎明期に、中二病全開でつくったら『ゼビウス』ができた」 |publisher=ピースオブケイク|wokr=cakes|accessdate=2018-10-09|date=2015年8月6日}}</ref>。 現在と同じく、当時も本作の難易度に対して「万人向けでない」「攻略本を前提としているかのようなゲーム設定は、アーケードゲームとして妥当か」という批判がなされたが、これは予想外に人気が出たための副作用であった。皮肉なことに本作の人気のため、当初想定していたROM交換だけでは需要に追いつかず、基板の再生産も行われた。 基板の再生産にあたりいくつかのバグが修正されている{{efn|ナイト系の敵を倒してエクステンドした際の画面表示など。}}。この区別のため、『マッピー』のROM交換基板を「OLDバージョン」、再生産された基板を「NEWバージョン」と表現することもある{{efn|『[[ナムコヒストリー#VOL.2|ナムコヒストリー VOL.2]]』収録の本作では、オプションで「OLD」と「NEW」よりバージョンを選択できる。}}。 === セッティング === 開発に当たり、遠藤はTRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(D&D)から着想を得、『D&D』および同時期に日本に輸入された『[[ウィザードリィ]]』を参考にした<ref>{{Cite web|和書|date=2008-05-12 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080512/dru.htm |title=立命館大学、「ドルアーガの塔」のセミナーを実施 遠藤氏が企画初期の流れを披露。ゴンゾ橋本氏はアニメの狙いを語る |work=GAME Watch |accessdate=2017-11-05}}</ref><ref name="cakes"/>。 例えば本作における[[スライム_(架空の生物)|スライム]]は、『[[ウィザードリィ]]』のイメージを踏襲してスライムを序盤から登場する弱い敵として設定され、デザインもシンプルでかわいらしいものとなった<ref name="animeanime">{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2018/10/08/40629.html|title=スライムはどうして「最弱キャラ」になったのか? イメージを定着させた“戦犯”が告白【「転スラ」特集】|date=2018-10-08|accessdate=2018-10-09|author=乃木章|publisher=イード|work=アニメ!アニメ!}}</ref>。 迷路を舞台とした本作では、1体のモンスターにつき4方向分のグラフィックを用意する必要があった一方、シンプルなデザインのスライムは方向を示すグラフィックが不要であることから容量と工数の節約に役立ったほか、節約した分をアニメーションに割り振ることもできた。 また、ラスボスであるドルアーガは『[[アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ]]』のサプリメントである"Deities & Demigods"をヒントに誕生した<ref>[https://ameblo.jp/evezoo/entry-10111969148.html 遠藤雅伸公式blog「ゲームの神様」 2008年7月4日の記事] 2016年8月5日閲覧</ref>。 塔の階数は、当時日本で一番高いビルとされていた[[東京]]・[[池袋]]にある[[サンシャイン60]]にちなんで60階に決められた<ref>TV番組『[[ゲームセンターCX]]』2004年2月10日放送分・遠藤雅伸インタビューより。</ref>。 === その他 === * デモ画面にて、英文で書かれたストーリーが表示されるが、「黄金の鎧を着た」に当たる部分が "'''WEARED GOLD''' ARMOR" となっており、不規則動詞である "WEAR" が規則動詞として扱われる・"GOLD" が形容詞化されていないという誤りがある。後に発売されたFC版では、"WORE GOLDEN ARMOR" に修正されたが、アーケード版の忠実な移植を目的とする他移植版では "WEARED GOLD" のままにされている。 * 60階クリア後のエンディング画面で「CONGRATU'''R'''ATIONS !!」とのミススペルがある。バグや誤字なども含め完全移植をモットーとする[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版『[[ナムコミュージアム|ナムコミュージアムvol. 3]]』ではそのままになっていたが、[[PlayStation Portable|PSP]]版の『ナムコミュージアムvol. 2』では正しいスペル(「CONGRATU'''L'''ATIONS !!」)となっている。PCエンジン版でプロゲーマー難度をクリアした際も、エンディング画面に同じ誤字があるが、RUNボタンを押している間は正しい文字になる。 * FCなどの家庭用ゲーム機器に移植されるようになると、各フロアの宝箱の出現方法や登場キャラクターなどを解説した「[[攻略本]]」が各出版社から出版されるようになった。 * ポーション・オブ・エナジードレインは、取るとギルの体力が著しく低い値に設定されてしまうが、最低値ではない。剣を出さずにローパーに触れたり、ハイパーアーマー装備時に盾以外で呪文を受けて体力が最低値になった状態でも、同ポーションを取ると若干ながら体力が回復する。 * 各フロアスタート時にギルと敵の位置のセットアップを行っている。ギルの位置は前フロアの扉の位置であるが、敵の位置はランダムで決定される。稀にこの両者が重なることもあり、その場合にはミスではなく「敵がギルに倒された」と処理している。更に偶然が重なると同じ位置に複数の敵が重なるケースもあり、1階などでスタートと同時に宝箱が出ることも起こり得る<ref>{{cite book|和書|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ|ソフトバンク出版事業部]]|title=[[新明解ナム語辞典]]|pages=15}}</ref>。 * 7階でカッパーマトックを持った状態でミスすると宝箱が出る。これはミスと同時に、ギルの持つ宝物のデータがクリアされるため<ref name="名前なし-1">{{cite book|和書|publisher=ソフトバンク出版事業部|title=ナムコミュージアムvol. 3 Perfect Guide|pages=100}}</ref>。 * シルバーマトックの使用可能回数はランダムで決定される。宝箱取得前後のマトックの使用可能回数は、宝箱取得前のマトック使用回数によって、宝箱取得後の使用できる回数に影響を及ぼすことはない。またミスをした場合、再決定される。 ** 宝箱を取る前は2回から4回(GET READY表示時ランダムに決定)壁を破壊できる ** 宝箱を取った後は3回から5回(フロア開始時に決定した回数+1)壁を破壊できる ** カッパーマトックと同様に限界回数まで使用すると消滅する * 25階の宝にはジェットブーツを設定してあるが、出し方がプログラムされていない。25階はこのゲームの開発コードが「V-25」だったことから初めからプログラムされなかったと遠藤が語っている<ref>{{cite book|和書|publisher=[[電波新聞社]]|title=[[ALL ABOUTシリーズ|オールアバウトナムコ]]|pages={{要ページ番号|date=2020年4月}}}}</ref>。 * 60階クリアの50万点が加算されてエクステンド状態(5万点)を超えてもエクステンドされない。 * 59階でドルアーガ出現後にギルをフロア左端の外壁沿いに位置させていると、壁をすり抜けたドルアーガが稀に外壁にめり込んでしまうことがある。この状態でギルを上下に移動させるとリセットがかかり、タイトル画面に戻ってしまう<ref name="名前なし-1"/>。 <!--* アイテムは基本排他装備だが、ポーション系に限り41階だけは特別で、このフロアをクリアした瞬間に、種類にかかわらずポーションは消滅する。41階と45階で手に入るアイテムは名称こそ違うものの、内部的には同じものを使用しており、41階で手に入るアイテムを45階まで持ち越すことにより発生する不具合、すなわちエクスカリバーが簡単に手に入ってしまう現象を回避させるためである。--> == スタッフ == ;アーケード版 :*ゲーム・デザイナー:EVEZOO END([[遠藤雅伸]]) :*プログラマー:SATOSHI KNIGHT(内藤智) :*サウンド・コンポーザー:ZUNKO ODAWA([[小沢純子]]) :*ハードウェア:SINGLE SHIGERU(齋藤茂) :*グラフィック・デザイン:YOU.SHINO(篠崎雄一郎) : ;FC版 :*ディレクター:YAMAMO(やまもとこういち) :*エグゼクティブ・プロデューサー:EVEZOO END(遠藤雅伸) :*プロデューサー:S.NAKAMURA :*ゲーム・デザイナー:EVEZOO END(遠藤雅伸) :*プログラマー:YAMAMO(やまもとこういち) :*オリジナル・キャラクター:EVEZOO END(遠藤雅伸) :*キャラクター・デザイナー:YOU SHINO(篠崎雄一郎) :*キャラクター・コーディング:J.MIZU(水足淳一) :*オリジナル・ストーリー:EVEZOO END(遠藤雅伸) :*サウンド・コンポーザー:ZUNKO ODAWA(小沢純子) :*サウンド・ソフトウェア:[[大野木宜幸]]、FUKASHI.K(大森田不可止) :*サウンド・プログラマー:ZUNKO ODAWA(小沢純子) :*サウンド・チェック:J.MIZU(水足淳一) :*アシスタント・プログラマー:S.KNIGHT(内藤智) :*ソフトウェア・サポート:KEI CROSS([[黒須一雄]])、FUKASHI.K(大森田不可止) :*スペシャル・エフェクト:HAL UDAGAWA(宇田川治久)、[[深谷正一]] :*セット:YAMAMO(やまもとこういち) :*メイク・アップ:J.MIZU(水足淳一)、S.KNIGHT(内藤智) :*エディター:YAMAMO(やまもとこういち)、S.KNIGHT(内藤智) :*カラー・コーディネーター:J.MIZU(水足淳一) :*コスチューム:J.MIZU(水足淳一) :*ハードウェア・アナリシス:HAL UDAGAWA(宇田川治久) :*プロダクション・マネージャー:T.HAZURE :*プロダクション・スーパーバイザー:KEI CROSS(黒須一雄) :*ゲーム・アナライザー:TEZUKA([[手塚一郎]])、OHHORI([[大堀康祐]])、FURUTA : ;FM-7版 :*プログラム・アレンジ:紅林俊彦 : ;PCエンジン版 :*ゲーム・デザイン:[[柴田賀盆]] :*プログラム:みなみたかゆき :*ビジュアル・コンセプト、キャラクター・デザイン:篠崎雄一郎 :*オリジナル・サウンド:小沢純子、ひこのたける :*CGデジタイズ:はやかわたろう、あんざいじゅんこ :*ソフトウェア・サポート:あきんどKNIGHT(内藤智) :*スペシャル・サンクス:つるや、くさの、ちだ、くぼでら :*ディレクト:遠藤雅伸 :*プロデュース:NAMCOT == 反響 == === 社会的影響 === 本作は、日本におけるスライムのキャラクター性を大きく認知させた一方、『D&D』などにおける「剣で攻撃できない強敵」というイメージを払拭した。日本国内で「スライムは弱い」という印象を与えた一因を担っていることにより、遠藤は「日本版スライムA級戦犯」を自称している<ref name="animeanime"/>。 === 雑誌媒体による評価 === {{コンピュータゲームレビュー |title = |Allgame = {{Rating|2|5}} (AC)<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/19625/the-tower-of-druaga/ |title=The Tower of Druaga for Arcade (1984) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-21}}</ref> |EuroG = 4/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/19625/the-tower-of-druaga/ |title=The Tower of Druaga for Wii (2007) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-21}}</ref> |Fam = 21/40点(GB)<ref name="famitsu"/><br />22/40点(PCE)<ref name="famitsu2"/> |IGN = 3/10点 (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/> |NLife = {{Rating|4|10}} (Wii)<ref name="mobygames_Wii"/> |rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |rev1Score = 18.90/30点(GB)<ref name="famimaga145"/> |rev2 = [[月刊PCエンジン]] |rev2Score = 85/100点(PCE) |rev3 = [[マル勝PCエンジン]] |rev3Score = 27/40点(PCE) |rev4 = [[PC Engine FAN]] |rev4Score = 20.62/30点(PCE)<ref name="pcfan21"/><br />(総合292位) |rev5 = [[GAME SIDE|ユーゲー]] |rev5Score = 肯定的 (FC){{Sfn|ユーゲー|2003|p=35|ps= - 上志野雄一郎「アクションRPG部門」より}} |award1Pub = [[ゲーメスト]] |award1 = ザ・ベストゲーム 第13位{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=26|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}} }} {|class="wikitable floatright" style="font-size:70%; text-align:center; width:25%" |+ 「ゲーム通信簿」評価 |- ! 項目 | キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ ! 総合 |- ! GB版 | 3.14 || 3.18 || 3.25 || 3.11 || 3.22 || 3.00 ! 18.90 |- ! PCE版 | 3.68 || 3.30 || 3.65 || 3.60 || 3.37 || 3.02 ! 20.62 |} ;アーケード版 :*ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム』([[1991年]])において、『[[ゲーメスト]]』読者による全アーケードゲームを対象とした人気投票で第13位を獲得{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=26|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}、同誌において編集者の山河悠里は、本作がアーケードゲームにて初めてRPGの要素を取り入れたゲームである事や根強い人気を誇っている事を指摘、面のレイアウトに関しては「その面の難しさに合わせつつうまく敵を配置している」と称賛した{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=27|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}。グラフィック面に関しては「エンディングのカイのグラフィックにはがっかりさせられた人も多かった」と指摘しているが、音楽面に関しては当時としてはかなりの高水準であったと指摘し、「60階を踏破したときのエンディングテーマには感動させられた」と絶賛した{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=27|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}。 :*ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』([[1998年]])では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、同誌においてライターの[[石井ぜんじ]]は本作がメジャーな作品であると同時に異色作である事を指摘し、隠しアイテムである宝箱の存在がマニアの挑戦意欲を高め、多くのプレイヤーを虜にした事に触れた上で「悪魔のような魅力を持った作品」と表現した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=92|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。またファンタジックな世界観やRPGの雰囲気を持つ世界観設定は『[[ドラゴンクエスト]]』([[1986年]])の登場以前にはゲーム界にはほとんど存在していなかった事に触れ、「当時として非常に独創的であった」と革新性に関して肯定的に評価した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=92|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。その他、本作の最大の魅力は宝箱にまつわる謎解きにあるとした上で、「マニアは情報交換のために各地を飛び回り、交流した」、「情報は口コミで沖縄から北海道まで広がった」と当時の影響力の大きさを示唆した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=92|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。 ;ファミリーコンピュータ版 :ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、主人公のギルが徐々にパワーアップしていく様やゲームの世界観設定から本作が同機種において初のRPGであると指摘しているが、後のRPGとは異なるゲームシステムのため、「どちらかといえば面クリアタイプのアクションゲームと思った方が良いだろう」と本作のジャンルを定義している<ref name="famimaga120"/>。ゲーム誌『[[GAME SIDE|ユーゲー]] 2003 No.07』においてゲームライターの上志野雄一郎は、アーケード版が宝箱の出現方法の難易度の高さにより多額のプレイ料金が必要であったことや順番待ちに悩まされたことに触れた上で同機種への移植が朗報であったと述べ、アーケード版とは迷路の構造が異なる点などがあったものの当時のプレイヤーからは絶賛されたと指摘、さらに隠しコマンドによる裏ドルアーガの存在もアーケード版を極めたユーザーに支持され、攻略本の売れ行きも好調となり売り切れ店が続出したと述べ、また音楽に関しても「勇ましくてノリの良いBGM」と肯定的に評価した{{Sfn|ユーゲー|2003|p=35|ps= - 上志野雄一郎「アクションRPG部門」より}}。 ;ゲームボーイ版 :ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」では合計21点(満40点)<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|date= |url= https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=13644&redirect=no |title= ドルアーガの塔(ゲームボーイ)の関連情報 |website= [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate= 2015-06-13}}</ref>、『ファミリーコンピュータMagazine』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は別記の通り18.90点(満30点)となっている<ref name="famimaga145"/>。また、同雑誌1991年5月24日号特別付録の「ゲームボーイ オールカタログ」では、ファミリーコンピュータ版と比較した上で「システムがかなり変更されている」と紹介されている<ref name="famimaga145"/>。 ;PCエンジン版 :ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」では6・4・7・5の合計22点(満40点)<ref name="famitsu2">{{Cite web|和書|date= |url= https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=7397&redirect=no |title= ドルアーガの塔(PCエンジン)の関連情報 |website= [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher= [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate= 2015-11-22}}</ref>、『[[月刊PCエンジン]]』では85・90・90・80・80の平均85点(満100点)、『[[マル勝PCエンジン]]』では8・8・6・5の合計27点(満40点)、『[[PC Engine FAN]]』の読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は別記の通り20.62点(満30点)となっている<ref name="pcfan21"/>。また、この得点はPCエンジン全ソフトの中で292位(485本中、1993年時点)となっている<ref name="pcfan21"/>。同雑誌1993年10月号特別付録の「PCエンジンオールカタログ'93」では本作が他機種において話題となった作品のリメイクである事を指摘した上で、宝箱の出現条件に関して「この条件が何であるかを解き明かすことがゲーム最大の面白みだ」と肯定的に評価した<ref name="pcfan21"/>。 == 関連作品 == 詳細はリンク先を参照<!--発売日準-->。<!--項目名から内容が不明な場合のみ、最小限の説明を。--><!--出典の明記をこころがけて[[独自研究]]を書かないようにしてください。--> * [[ドルアーガの塔 (ボードゲーム)]](1984年) * [[ドルアーガの塔 (ゲームブック)]](1986年) * [[ドルアーガの塔 (アトラクション)]](1990年~2000年) * [[すごろくアドベンチャードルアーガの塔]](2000年) - メダルゲーム機。 * [[ドルアーガの塔 (テレビアニメ)]](2008年) * [[ドルアーガの塔 〜the Phantom of GILGAMESH〜]](2008年) - オンラインゲーム。 === 恋愛シミュレーションゲーム版 === バンダイナムコエンターテインメントの「カタログIPオープン化プロジェクト」企画による公式の二次創作作品<ref name="女性向け"/>。<br> 『'''ドルアーガの塔 Tower of Defender'''』のタイトルで、[[スマートフォン]]用のアプリとして[[ロールプレイングゲーム|RPG]]+[[乙女ゲーム|女性向け恋愛シミュレーションゲーム]]版が、2017年12月8日に[[CUCURI]]から配信された<ref name="女性向け">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/403/G040352/20171208037/|title=女性向け恋愛SLG「ドルアーガの塔 Tower of Defender」,本日配信スタート。モンスターとバトルしながらラブミッションでパートナーとの絆を深めよう|publisher=4gamer.net 女子部(仮)|date=2017-12-08|accessdate=2018-10-05}}</ref>。 ;ストーリー : 悪魔「ドルアーガ」が封印されてから100年後の世界が舞台。平和になったそこではドルアーガの塔に登る事は禁忌とされ、厳重に軍によって守られていた。主人公(女性)は軍から命が下り、モンスターが攻めてくるドルアーガの塔を3ヶ月間守る命令を受ける。配属されたのは男性だらけの第12小隊。癖のある隊員と絆を深め塔を守護し、塔の異変と真実を解き明かそう。 ;キャスト :ウィル・ライト:[[島﨑信長]] :セリル・シャドウ:[[瀬名快伸]] :レスカー:[[松岡禎丞]] :アルトレイド:[[八代拓]] :トト:[[天﨑滉平]] :ザルフィス:[[小西克幸]] :ギル:[[太田悠介]] ;スタッフ :原作/脚本:[[瀬名快伸]] :ラブミッション構成/脚本:樟もな :キャラクター原案:[[緒方剛志]] :キャラクターデザイン:宮本伊織 :音響演出:西村智博 :音響演出補佐:永冨マサキ :音楽:佐々木裕(Smile Company) :開発:D.C.T. :制作:[[株式会社CUCURI]] ;コミカライズ :天月みごにより[[ComicWalker]]([[KADOKAWA]])でコミカライズが2017年12月25日から2018年8月27日にかけて連載された。未単行本化。 === リアル謎解きゲーム版 === 『'''TSQ×ドルアーガの塔 TAMAARI SUPER QUEST vol.3 ドルアーガの謎'''』のタイトルで、2019年4月13日・14日に[[さいたまスーパーアリーナ]]で開催された<ref>{{Cite web|和書|url=http://tamaarisuperquest.com/ |title=TAMAARI SUPER QUEST たまアリスーパークエスト Vol.3 |accessdate=2020-06-23}}</ref>。主催・企画・制作:TAMAARI SUPER QUEST実行委員会。参加団体はTumbleweed、NAZO×NAZO劇団、クロネコキューブ、K-dush2(K-dush2はエクストラコンテンツの謎解きを制作)で、制作協力としてクレジットされている。 == 続編・その他 == * [[イシターの復活]] - 本作の続編で、カイと共に塔からの脱出を図る物語。 * [[カイの冒険]] - 本作の前日談で、カイが塔に乗り込む物語。 * [[ザ・ブルークリスタルロッド]] - シリーズ最終作。取り戻したロッドを天に返還するためのギルとカイの旅が描かれるアドベンチャーゲーム。 * [[ザ・ナイトメア・オブ・ドルアーガ 不思議のダンジョン]] - ローグライクゲームでザ・ブルークリスタルロッドのパラレル的な物語。 * [[太鼓の達人]] - 本作のBGMをテクノアレンジしてメドレーにした『ドルアーガの塔メドレー』が登場。<!--また、『太鼓のマーチ』、『ナムコットメドレー』にもBGMを使用している。またプレイステーション2用ソフト『太鼓の達人 とびっきり!アニメスペシャル』の隠し曲のひとつ『未来への鍵』は、イントロが本作のメインテーマのメロディーをアレンジしたもので、歌詞も本作をイメージさせるものになっている。--> * [[ミスタードリラー|ミスタードリラー ドリルランド]] - ドルアーガの塔のアトラクションという設定のステージ「ドルアーガの穴」が登場。 * [[エースコンバット6 解放への戦火]] - 友軍の地上部隊として「クオックス」隊が登場。 * [[ナムコクロスカプコン]] - ナムコから発売されたSRPG。ギルとカイ、ドルアーガおよびその他多数の敵キャラクターが出演。 * [[攻めCOMダンジョン ドルルルアーガ]] - 本作から数百年後の世界が舞台で、ギルやカイの玄孫やドルアーガが登場。 * [[テイルズ オブ デスティニー]](PS版) - ドルアーガ、イシター、ニセイシターなどが、隠しダンジョン「ドルアーガの塔」に登場。 * [[テイルズ オブ ファンタジア なりきりダンジョン]] - 本編クリア後のエクストラダンジョンとしてドルアーガの塔が出現。フロアアイテムや敵は原作準拠。 * [[バテン・カイトス 終わらない翼と失われた海]] - ダンジョンの一つとして「ドルアーガの塔」が登場。 * [[大乱闘スマッシュブラザーズ for Nintendo 3DS / Wii U]] - 有料追加コンテンツとしてギルのMiiコスチュームが登場。 * [[マリオカート アーケードグランプリDX]] - コース「ナムコサーキット」にて、本作をモチーフしたエリアが登場。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=萩原達也|title=ドルアーガの塔|series=ファミリーコンピュータ・ゲーム必勝法シリーズ 7|date=1985-09|publisher=[[勁文社]]}} *{{Cite book|和書|author=上田英次|title=アナザードルアーガの塔|series=ファミリーコンピュータ・ゲーム必勝法シリーズ 9|date=1985-10|accessdate=|publisher=勁文社}} * {{Cite journal|和書 |title =ザ・ベストゲーム 月刊[[ゲーメスト]]7月号増刊 |journal = [[ゲーメスト]] |volume = 6 |number = 7 |date = 1991-07-01 |publisher = [[新声社]] |id = 雑誌03660-7 |asin = B00BHEECW0 |pages = 26 - 27 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム|1991}}}} * {{Cite journal|和書 |title = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |journal = [[ゲーメスト]] |volume = 5 |number = 4 |date = 1998-01-17 |publisher = [[新声社]] |isbn = 9784881994290 |page = 92 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム2|1998}}}} *{{Cite journal |和書 |author = |title = ユーゲーが贈るファミコン名作ソフト100選 |date = 2003-06-01 |publisher = [[キルタイムコミュニケーション]] |journal = [[GAME SIDE|ユーゲー]] 2003 No.07 |volume = 7 |number = 10 |naid = |page = 35 |id = 雑誌17630-6 |ref = {{SfnRef|ユーゲー|2003}}}} == 関連項目 == * [[ナムコの伝説]] - プロモーションビデオを収録 * [[バンダイナムコエンターテインメント発売のゲームタイトル一覧]] == 外部リンク == * {{Wiiバーチャルコンソール|dru|ドルアーガの塔(ファミリーコンピュータ版)}} * {{3DSバーチャルコンソール|tbqj|ドルアーガの塔(ファミリーコンピュータ版)}} * {{Wii Uバーチャルコンソール|fbkj|ドルアーガの塔(ファミリーコンピュータ版)}} * [http://www.bandainamcogames.co.jp/cs/download/virtual_consolearcade/detail/detail50/50.html バーチャルコンソールアーケード ドルアーガの塔] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/tToDruaga.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ドルアーガの塔(PS4版)] * [http://www.hamster.co.jp/arcadearchives/switch/tToDruaga.htm ハムスターアーケードアーカイブス公式サイト ドルアーガの塔(Nintendo Switch版)] * [https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080512/dru.htm 初代ドルアーガの塔の企画・制作についての遠藤雅伸講演 (GAME Watch 2008/5/12)] * [http://www.druaga-online.jp/archive/tod_1.html THE TOWER OF DRUAGA-ドルアーガの塔-(1984年)]{{リンク切れ|date=2020年9月}} * [http://www.bandainamcoent.co.jp/ バンダイナムコエンターテインメント] * {{MobyGames|id=/19625/the-tower-of-druaga/|name=The Tower of Druaga}} {{バビロニアンキャッスルサーガ}} {{ソウルシリーズ}} {{ナムコット}} {{DEFAULTSORT:とるああかのとう}} [[Category:1984年のアーケードゲーム]] [[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:MZ用ゲームソフト]] [[Category:PCエンジン用ソフト]] [[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:Windows用ゲームソフト]] [[Category:X1用ゲームソフト]] [[Category:アーケードアーカイブス対応ソフト]] [[Category:アクションRPG]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:ゲームボーイ用ソフト]] [[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]] [[Category:バビロニアンキャッスルサーガ]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]] [[Category:王子を主人公としたコンピュータゲーム]]
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サイト
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サイト
{{Wiktionary|サイト}} '''サイト''' ==一覧== '''サイト([[:en:Site|site]])''' * 敷地、用地。[[キャンプ]]サイト。 *[[映画]]の上映施設(英語では「cinema site」)。興行関係の統計で、上映スクリーン(movie screen)との対比で用いられることが多い。米国では2016年現在でもこの分類を使用しているが<ref>{{Cite web |url=http://www.natoonline.org/data/ |title=Exhibition Data and Statistics |publisher=The National Association of Theatre Owners |accessdate=2016-05-30}}</ref>、日本では2014年発表の統計から使われなくなっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eiren.org/toukei/screen.html |title=日本映画産業統計 全国スクリーン数 |publisher=一般社団法人日本映画製作者連盟 |accessdate=2016-05-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130405155604/http://www.eiren.org/toukei/screen.html |archivedate=2013-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eiren.org/toukei/screen.html |title=日本映画産業統計 全国スクリーン数 |publisher=一般社団法人日本映画製作者連盟 |accessdate=2016-05-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140403225053/http://eiren.org/toukei/screen.html |archivedate=2014-04-03}}</ref> * [[コンピュータネットワーク|ネットワーク]][[サーバ]](群)のこと。[[ウェブサイト]] (website)、[[File Transfer Protocol]](FTP)サイトなど * [[Local Area Network]](LAN)における複数のコンピュータなどの管理単位 * [[グロタンディーク位相]]をもった圏 '''サイト''' ('''[[:en:Sight|sight]]''') * 英語で[[視力]]、[[視覚]]の意味 * [[支払サイト]] * [[照準器]] * [[ロッキング・オン]]社の雑誌『[[SIGHT]]』 == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *{{prefix}} *{{intitle}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:さいと}} [[Category:英語の語句]]
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太上天皇
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。 日本の皇室における譲位の初例は皇極天皇であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「大王」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。 その後、大宝令において太上天皇の称号が定められたことで、持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。 日本の皇室には、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、平安時代以降「天皇の崩御」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。醍醐天皇は譲位後8日、一条天皇は10日、後朱雀天皇は3日で崩御している(ただし、こうしたケースの場合、後述される次代の天皇による太上天皇の称号奉上が間に合っていない)。後一条天皇に至ってはその崩御があまりにも急であったためそれさえも間に合わず、その事実を隠したまま譲位の手続きを進め、それが完了してからはじめて崩御を公表するありさまであった。江戸時代の後光明天皇などでも同様のことがあった。後桃園天皇に至っては、正式な在位終了日が崩御日の10日後という異常な状態のままになっている。これは、あくまでも「天皇の崩御」ではなく「上皇の崩御」として取り扱うための便法である。 持統天皇以来、太上天皇の称号は退位した天皇が自動的に称するものであり、特段の儀式は必要なかった。時代が下って嵯峨天皇は、自らの異母弟である淳和天皇への譲位に際し、太上天皇の称号の辞退を申し出た。太上天皇は在位の天皇を親権者として支えることから、天皇と同格の権威と権限を有するものとされていたが、嵯峨天皇の場合、兄に過ぎず親権者ではない平城上皇との間で権力の分掌をめぐって深刻な対立を生じ(薬子の変)、ついにクーデターで兄を排除せざるを得なくなった。このため、二重権力の弊害を避けるために太上天皇を辞退したものである。ただ淳和天皇はこれを受け入れず、最終的には淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を奉上する(淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を宣下する)ことで解決がはかられた。これにより、太上天皇の意味合いは、新天皇から与えられる地位に変化したのである。これを踏まえて歴史学界では、一般に、平城までの太上天皇はそのまま「太上天皇」と呼び、嵯峨天皇以降の太上天皇を「上皇」と呼び分ける慣習となっている。 なお、仁明天皇や後醍醐天皇のように、退位と崩御がほぼ同日だったため、退位後も存命だったにもかかわらず太上天皇の宣下が見送られたケースもある。また淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱の結果として強制的に皇位を追われ、淡路国に流されたまま崩御したことから、「淡路廃帝」と呼ばれて歴代天皇として認められず、尊号は贈られなかった。安徳天皇も弟の後鳥羽天皇の即位により廃帝とみなされた。仲恭天皇は即位の礼も経ないまま位を追われたため、即位の事実自体を認められず「九条廃帝」「後廃帝」と呼ばれてやはり歴代天皇から外され、宣下はなされなかった。なお、 淳仁天皇と仲恭天皇については、明治天皇によって改めて尊号が追号された。 光厳天皇は後醍醐天皇の政権奪取により廃位され、即位の事実自体も否定されたが「皇太子を辞退したことに対する褒賞」として特例で太上天皇の称号を認められた。崇光天皇も観応の擾乱のさなか足利尊氏の南朝への降伏(正平一統)により北朝が一時的に消滅したため廃位となったが、融和策を採った南朝側の配慮で太上天皇とされている。後村上天皇・長慶天皇は南朝により太上天皇とされた可能性があるが、北朝側は承認しなかった。後亀山天皇も北朝側から歴代天皇として認められず、かろうじて太上天皇の称号は得たものの、これは足利義満が朝廷の反対を押し切って独断で決めた強引なものであり、それさえも「天皇になっていない太上天皇」の扱いを受けた。 孝謙天皇は、いったん退位して太上天皇となったのち、後任の淳仁天皇を廃位した上で自ら称徳天皇として重祚し、天皇に復帰した。上皇から天皇に復帰したのは、ほかに後醍醐天皇の例があるが、こちらは元弘の乱に敗れて御謀叛方となった後醍醐天皇側があくまで退位を拒み、京都では光厳天皇が在位し、自らは隠岐に流されている間も「自分が正統な天皇である」と主張し続けた結果であり、本人は最後まで重祚とは認めなかった。江戸時代までの一般的な皇室系図では後醍醐天皇を重祚とした上で便宜上一代とし光厳も歴代天皇となっていたが、明治維新によって南朝正統となった結果、2023年(令和5年)現在の皇統譜は後醍醐側の主張を容認し光厳を歴代外の天皇としている。 その他、天皇としての即位を経ずに太上天皇位を受けた者が2名(後高倉院・後崇光院)おり、薨去後に太上天皇号を贈られた者が2名(誠仁親王、陽光院・閑院宮典仁親王、慶光天皇)いる。足利義満は、後円融上皇の在世中とその没後に治天の権限を代行していたことを踏まえ、死に際して太上天皇の尊号を贈られたが、後継者の足利義持が辞退した。閑院宮典仁親王は生前に尊号が贈られることが決定していたが、幕府の反対により受けることはなかった(尊号一件)。 2019年(平成31年)4月30日の第125代天皇明仁の譲位に際して制定された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」では「太上天皇」の略称である「上皇」を正式称号とした。 明治時代の旧皇室典範起草時、『高輪会議』における伊藤決裁により、「譲位規定を削る」、「太上天皇の規定も削る」とされ、戦後の皇室典範にも引き継がれている。 旧・皇室典範が制定されて以降、第123代大正天皇、第124代昭和天皇、第125代天皇明仁の皇位継承においては「諒闇践祚」、すなわち天皇の崩御後、直ちに皇嗣が践祚し即位する形が採られたため、太上天皇(上皇)の奉上・宣下・譲位はいずれも行われなくなっていた。しかし、2017年(平成29年)に第125代天皇明仁の退位を行うための特例法である天皇の退位等に関する皇室典範特例法(退位特例法)が定められ、2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位し、2019年(令和元年)5月1日に今上天皇(徳仁)が即位した。退位した第125代天皇は、特例法の規定により上皇となった。 天皇を退き上皇となった最年少記録は六条上皇の3歳3か月。最年長記録は明仁の85歳4か月である。 同時に多数の上皇が並立した最多記録は5人。 正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)までの3年5月。この期間に後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇の5名が在位した。 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』には、摂津国島下郡のうち下中条村の一部・鮎川村の一部・吹田村の一部・上野村の全域の計1,896石8斗8升9合が「仙洞御領」として記載されている。
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太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。
{{混同|太上天王}} [[file:Poem-by-Empress-Jito-by-Utagawa-Kuniyoshi.png|thumb|200px|史上初めて上皇となった[[持統天皇|持統上皇]]]] '''太上天皇'''(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、[[譲位]]により[[皇位]]を後継者に譲った[[天皇]]の[[尊号]]<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]]([[平成]]23年))1375頁、1683頁、1684頁及び[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]](平成18年))1226頁参照。</ref>、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の[[皇帝]]が位を退くと「[[太上皇]]」と尊称されたことにある。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、[[嵯峨天皇]]の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。 略称は「[[上皇]]」である。また、[[出家]]した太上天皇を、「'''[[太上法皇]]'''('''法皇''')」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は[[宇多天皇|宇多法皇]]とされており、[[聖武天皇|聖武上皇]]や[[清和天皇|清和上皇]]などそれ以前の退位後に[[出家]]した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。 「'''院'''」とも称され、太上天皇が[[治天の君]]として[[政務]]を執った場合、その政治を'''[[院政]]'''という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮([[后位]])と合わせて「院宮」といい、更に、[[皇族]]や有力[[貴族]]を含めた総称を「[[院宮王臣家]]」といった。院の御所が[[仙洞御所]]と呼ばれたことから、「'''仙洞'''」も上皇の謂として用いられる。 == 概要 == {{出典の明記|date= 2021年1月14日 (木) 15:46 (UTC)|section= 1}} [[File:Hyakuninisshu 002.jpg|thumb|right|200px|日本史上最初の太上天皇となった[[持統天皇]]([[飛鳥時代]])]] [[日本]]の[[皇室]]における譲位の初例は[[斉明天皇|皇極天皇]]であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「[[大王 (ヤマト王権)|大王]]」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「'''皇祖母尊'''」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、[[斉明天皇]]として[[重祚]]している。 その後、[[大宝律令|大宝令]]において太上天皇の称号が定められたことで、[[持統天皇]]11年([[文武天皇]]元年)8月1日([[697年]][[8月22日]])、持統天皇が文武天皇に[[譲位]]し、史上初の太上天皇(上皇)になった。 日本の[[皇室]]には、[[江戸時代|江戸時代後期]][[仁孝天皇]]に[[譲位]]した[[光格天皇|光格上皇]]まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代[[天皇]]のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、[[平安時代]]以降「天皇の[[崩御]]」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。[[醍醐天皇]]は譲位後8日、[[一条天皇]]は10日、[[後朱雀天皇]]は3日で崩御している(ただし、こうしたケースの場合、後述される次代の天皇による太上天皇の称号奉上が間に合っていない)。[[後一条天皇]]に至ってはその崩御があまりにも[[突然死|急であったため]]それさえも間に合わず、その事実を隠したまま譲位の手続きを進め、それが完了してからはじめて崩御を公表するありさまであった。[[江戸時代]]の[[後光明天皇]]などでも同様のことがあった。[[後桃園天皇]]に至っては、正式な在位終了日が崩御日の10日後という異常な状態のままになっている。これは、あくまでも「天皇の崩御」ではなく「上皇の崩御」として取り扱うための便法である。 [[持統天皇]]以来、太上天皇の称号は'''退位した天皇が自動的に称するもの'''であり、特段の儀式は必要なかった。[[時代]]が下って[[嵯峨天皇]]は、自らの異母弟である[[淳和天皇]]への譲位に際し、太上天皇の称号の辞退を申し出た。太上天皇は在位の天皇を親権者として支えることから、'''天皇と同格の権威と権限を有するもの'''とされていたが、[[嵯峨天皇]]の場合、[[兄]]に過ぎず親権者ではない[[平城天皇|平城上皇]]との間で権力の分掌をめぐって深刻な対立を生じ([[薬子の変]])、ついにクーデターで兄を排除せざるを得なくなった。このため、二重権力の弊害を避けるために太上天皇を辞退したものである。ただ淳和天皇はこれを受け入れず、最終的には淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を奉上する(淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を宣下する)ことで解決がはかられた。これにより、太上天皇の意味合いは、'''新天皇から与えられる地位'''に変化したのである。これを踏まえて[[歴史学|歴史学界]]では、一般に、平城までの太上天皇はそのまま「太上天皇」と呼び、嵯峨天皇以降の太上天皇を「上皇」と呼び分ける[[慣習]]となっている。 なお、[[仁明天皇]]や[[後醍醐天皇]]のように、退位と崩御がほぼ同日だったため、退位後も存命だったにもかかわらず太上天皇の宣下が見送られたケースもある。また[[淳仁天皇]]は、[[藤原仲麻呂の乱]]の結果として強制的に皇位を追われ、[[淡路国]]に流されたまま崩御したことから、「淡路[[廃帝]]」と呼ばれて歴代天皇として認められず、尊号は贈られなかった。[[安徳天皇]]も弟の[[後鳥羽天皇]]の即位により廃帝とみなされた。[[仲恭天皇]]は即位の礼も経ないまま位を追われたため、即位の事実自体を認められず「九条廃帝」「後廃帝」と呼ばれてやはり歴代天皇から外され、宣下はなされなかった。なお、 淳仁天皇と仲恭天皇については、[[明治天皇]]によって改めて尊号が追号された。 [[光厳天皇]]は[[後醍醐天皇]]の政権奪取により廃位され、即位の事実自体も否定されたが「[[皇太子]]を辞退したことに対する褒賞」として特例で太上天皇の称号を認められた。[[崇光天皇]]も[[観応の擾乱]]のさなか[[足利尊氏]]の[[南朝 (日本)|南朝]]への降伏([[観応の擾乱#正平一統|正平一統]])により[[北朝 (日本)|北朝]]が一時的に消滅したため廃位となったが、融和策を採った[[南朝 (日本)|南朝側]]の配慮で太上天皇とされている。[[後村上天皇]]・[[長慶天皇]]は南朝により太上天皇とされた可能性があるが、[[北朝 (日本)|北朝側]]は承認しなかった。[[後亀山天皇]]も北朝側から歴代天皇として認められず、かろうじて太上天皇の称号は得たものの、これは足利義満が[[朝廷 (日本)|朝廷]]の反対を押し切って独断で決めた強引なものであり、それさえも「天皇になっていない太上天皇」の扱いを受けた。 [[File:Sakuramachi Emperor Poems.JPG|thumb|right|300px|天皇号が絶えていた時期にも、太上天皇号は変わらず用いられた。右に「曾孫'''太上天皇'''昭仁」とある。「昭仁」は[[桜町天皇]]の[[諱]]で、当時は太上天皇。亡き曽祖父・[[霊元天皇]]に捧げたもの([[江戸時代|江戸時代後期]])]] [[孝謙天皇]]は、いったん退位して太上天皇となったのち、後任の[[淳仁天皇]]を[[廃位]]した上で自ら[[孝謙天皇|称徳天皇]]として重祚し、天皇に復帰した。上皇から天皇に復帰したのは、ほかに[[後醍醐天皇]]の例があるが、こちらは[[元弘の乱]]に敗れて[[天皇御謀叛|御謀叛方]]となった後醍醐天皇側があくまで退位を拒み、京都では光厳天皇が在位し、自らは[[隠岐諸島|隠岐]]に流されている間も「自分が正統な天皇である」と主張し続けた結果であり、本人は最後まで重祚とは認めなかった。江戸時代までの一般的な皇室系図では後醍醐天皇を重祚とした上で便宜上一代とし光厳も歴代天皇となっていたが、明治維新によって[[南北朝正閏論|南朝正統]]となった結果、[[2023年]]([[令和]]5年)[[現在]]の皇統譜は後醍醐側の主張を容認し光厳を歴代外の天皇としている。 その他、天皇としての即位を経ずに太上天皇位を受けた者が2名([[守貞親王|後高倉院]]・[[伏見宮貞成親王|後崇光院]])おり、薨去後に太上天皇号を贈られた者が2名([[誠仁親王|誠仁親王、陽光院]]・[[閑院宮典仁親王|閑院宮典仁親王、慶光天皇]])いる。[[足利義満]]は、[[後円融天皇|後円融上皇]]の在世中とその没後に治天の権限を代行していたことを踏まえ、死に際して太上天皇の尊号を贈られたが、後継者の[[足利義持]]が辞退した。閑院宮典仁親王は生前に尊号が贈られることが決定していたが、幕府の反対により受けることはなかった([[尊号一件]])。 [[2019年]]([[平成]]31年)[[4月30日]]の第125代天皇[[明仁]]の譲位に際して制定された「[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]](平成29年法律第63号)」では「太上天皇」の略称である「'''[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]'''」を正式称号とした。 == 皇室典範制定後の動き == [[明治|明治時代]]の[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]起草時、『高輪会議』における[[伊藤博文|伊藤]]決裁により、「譲位規定を削る」、「太上天皇の規定も削る」とされ<ref>{{Cite web|和書|author=齊藤雅俊|date=2016-07-21|url=http://donttreadonme.blog.jp/archives/1059527019.html|title=明治皇室典範10条(「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」)に関して|accessdate=2021-01-15}} {{ja icon}}</ref><ref>「高輪会議」における『皇室典範再稿([[柳原前光]]内案)』逐条審議、[[伊藤博文|伊藤]]決裁[第十二条([[譲位]])、第十五条(太上天皇)] : 皇室典範、皇族令、草案談話要録 (1887年(明治20年)3月20日) は、梧印文庫研究会編著『[https://www.taisei-shuppan.co.jp/search/detail.html?code=9720 梧陰文庫影印−明治皇室典範制定本史-] {{ja icon}}』([[1986年]]([[昭和]]61年)8月1日発行、[[國學院大學]])、[[国立国会図書館憲政資料室]]所蔵「[http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/kenseimoku/list/kss281.html 憲政史編纂会収集文書] {{リンク切れ|date= 2021年1月}}」に所収。</ref>、戦後の[[皇室典範]]にも引き継がれている。 旧・皇室典範が制定されて以降、第123代[[大正天皇]]、第124代[[昭和天皇]]、第125代[[明仁|天皇明仁]]の皇位継承においては「諒闇践祚」、すなわち天皇の崩御後、直ちに[[皇嗣]]が践祚し即位する形が採られたため、太上天皇(上皇)の奉上・宣下・譲位はいずれも行われなくなっていた。しかし、[[2017年]]([[平成]]29年)に第125代天皇明仁の退位を行うための特例法である[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]](退位特例法)が定められ、[[2019年]](平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が退位し、2019年([[令和]]元年)5月1日に[[徳仁|今上天皇(徳仁)]]が即位した。退位した第125代天皇は、特例法の規定により上皇となった。 == 年少記録と年長記録 == 天皇を退き上皇となった最年少記録は[[六条天皇|六条上皇]]の3歳3か月。最年長記録は[[明仁]]の85歳4か月である。 == 歴代上皇 == {| style="background-color: transparent; width:100%;" | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {| class="wikitable" !代 !名 !上皇となった日(太上天皇宣下日含む) |- | 41||[[持統天皇|持統上皇]] |文武天皇元年(697年)8月22日 |- | 43||[[元明天皇|元明上皇]] |和銅8年/霊亀元年(715年)10月3日 |- | 44||[[元正天皇|元正上皇]] |養老8年/神亀元年(724年)3月3日 |- | 45||[[聖武天皇|聖武上皇]] |天平21年/天平感宝元年(749年)8月19日 |- | 46||[[孝謙天皇|孝謙上皇]] |天平宝字2年(758年)9月7日 |- | 49||[[光仁天皇|光仁上皇]] |宝亀12年/天応元年(781年)4月30日 |- | 51||[[平城天皇|平城上皇]] |大同4年(809年)5月18日 |- | 52||[[嵯峨天皇|嵯峨上皇]] |弘仁14年(823年)5月29日 |- | 53||[[淳和天皇|淳和上皇]] |天長10年(833年)3月22日 |- | 56||[[清和天皇|清和上皇]] |貞観18年(876年)12月 |- | 57||[[陽成天皇|陽成上皇]] |元慶8年(884年)3月4日 |- | 59||[[宇多天皇|宇多上皇]] |寛平9年(897年)8月4日 |- | 61||[[朱雀天皇|朱雀上皇]] |天慶9年(946年)5月29日 |- | 63||[[冷泉天皇|冷泉上皇]] |安和2年(969年)10月9日 |- | 64||[[円融天皇|円融上皇]] |永観2年(984年)10月6日 |- | 65||[[花山天皇|花山上皇]] |寛和3年/永延元年(987年)8月1日 |- | 66||[[一条天皇|一条上皇]] |寛弘8年(1011年)7月11日 |- | 67||[[三条天皇|三条上皇]] |長和5年(1016年)4月5日 |- | 69||[[後朱雀天皇|後朱雀上皇]] |寛徳2年(1045年)2月5日 |- | 71||[[後三条天皇|後三条上皇]] |延久5年(1073年)1月18日 |- | 72||[[白河天皇|白河上皇]] |応徳4年/寛治元年(1087年)1月9日 |- | 74||[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]] |保安4年(1123年)3月1日 |- | 75||[[崇徳天皇|崇徳上皇]] |永治2年/康治元年(1142年)1月5日 |- | 77||[[後白河天皇|後白河上皇]] |保元3年(1158年)9月5日 |- | 78||[[二条天皇|二条上皇]] |長寛3年/永万元年(1165年)8月7日 |- | 79||[[六条天皇|六条上皇]] |仁安3年(1168年)4月8日 |- | 80||[[高倉天皇|高倉上皇]] |治承4年(1180年)3月24日 |- | 82||[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]] |建久9年(1198年)2月27日 |- | 83||[[土御門天皇|土御門上皇]] |承元4年(1210年)12月22日 |- | 84||[[順徳天皇|順徳上皇]] |承久3年(1221年)5月16日 |- | |[[守貞親王|後高倉院]] |承久3年(1221年)9月3日 |- | 86||[[後堀河天皇|後堀河上皇]] |寛喜4年/貞永元年(1232年)11月20日 |- | 88||[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]] |寛元4年(1246年)2月22日 |- | 89||[[後深草天皇|後深草上皇]] |正元2年/文応元年(1260年)1月9日 |- | 90||[[亀山天皇|亀山上皇]] |文永11年(1264年)3月11日 |- | 91||[[後宇多天皇|後宇多上皇]] |弘安10年(1287年)12月21日 |- | 92||[[伏見天皇|伏見上皇]] |永仁6年(1298年)9月9日 |- | 93||[[後伏見天皇|後伏見上皇]] |正安3年(1301年)3月9日 |- | 95||[[花園天皇|花園上皇]] |文保2年(1318年)4月11日 |- | 96||[[後醍醐天皇|後醍醐上皇]] |建武3年/延元元年(1336年)12月5日 |- | 98||[[長慶天皇|長慶上皇]] |弘和3年/永徳3年(1383年)10月 |- | 99||[[後亀山天皇|後亀山上皇]] |元中9年/明徳3年(1392年)11月19日 |- |北1 |[[光厳天皇|光厳上皇]] |元弘4年/建武元年(1334年)1月26日 |- |北2 |[[光明天皇|光明上皇]] |正平3年/貞和4年(1348年)12月16日 |- |北3 |[[崇光天皇|崇光上皇]] |正平6年/観応2年(1351年)12月17日 |- |北4 |[[後光厳天皇|後光厳上皇]] |建徳2年/応安4年(1371年)4月21日 |- |北5 |[[後円融天皇|後円融上皇]] |弘和2年/永徳2年(1382年)6月7日 |- | 100||[[後小松天皇|後小松上皇]] |応永19年(1412年)10月5日 |- | |[[伏見宮貞成親王|後崇光院]] |文安5年(1448年)1月3日 |- | 102||[[後花園天皇|後花園上皇]] |寛正5年(1464年)8月31日 |- | 106||[[正親町天皇|正親町上皇]] |天正14年(1586年)12月17日 |- | |[[誠仁親王|陽光院]] |天正16年(1588年)以前贈 |- | 107||[[後陽成天皇|後陽成上皇]] |慶長16年(1611年)5月19日 |- | 108||[[後水尾天皇|後水尾上皇]] |寛永6年(1629年)12月22日 |- | 109||[[明正天皇|明正上皇]] |寛永20年(1643年)11月23日 |- | 111||[[後西天皇|後西上皇]] |寛文3年(1663年)3月12日 |- | 112||[[霊元天皇|霊元上皇]] |貞享4年(1687年)5月6日 |- | 113||[[東山天皇|東山上皇]] |宝永6年(1709年)7月30日 |- | 114||[[中御門天皇|中御門上皇]] |享保20年(1735年)4月15日 |- | 115||[[桜町天皇|桜町上皇]] |延享4年(1747年)6月14日 |- | 117||[[後桜町天皇|後桜町上皇]] |明和8年(1771年)1月10日 |- | 119||[[光格天皇|光格上皇]] |文化14年(1817年)5月9日 |- | |[[閑院宮典仁親王|慶光院]] |[[明治]]17年(1884年)3月19日贈 |- |125 |[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]][[明仁]] |[[令和]]元年(2019年)5月1日 |} |} == 同時在位 == 同時に多数の上皇が並立した最多記録は5人。 [[正安]]3年1月28日([[1301年]]3月9日)から[[嘉元]]2年7月16日([[1304年]]8月17日)までの3年5月。この期間に[[後深草天皇|後深草上皇]]・[[亀山天皇|亀山上皇]]・[[後宇多天皇|後宇多上皇]]・[[伏見天皇|伏見上皇]]・[[後伏見天皇|後伏見上皇]]の5名が在位した。 * 天皇が上皇と同時に在位していた期間 {| class="wikitable" |+ !年!!天皇!!colspan="5"|上皇 |- | 文武天皇元年(697年)||rowspan="2" |[[文武天皇|文武]]||rowspan="2" |[[持統天皇|持統上皇]] |- | 文武天皇7年(703年) |- ! |||| |- | 和銅8年/霊亀元年(715年)||rowspan="2" |[[元正天皇|元正]]||rowspan="2" |[[元明天皇|元明上皇]] |- | 養老5年(721年) |- ! |||| |- | 養老8年/神亀元年(724年)||rowspan="2" |[[聖武天皇|聖武]]||rowspan="2" |[[元正天皇|元正上皇]] |- | 天平20年(748年) |- ! |||| |- | 天平21年/天平感宝元年(749年)||rowspan="2" |[[孝謙天皇|孝謙]]||rowspan="2" |[[聖武天皇|聖武上皇]] |- | 天平勝宝8年(756年) |- ! |||| |- | 天平宝字2年(758年)||rowspan="2" |[[淳仁天皇|淳仁]]||rowspan="4" |[[孝謙天皇|孝謙上皇]] |- | rowspan="2"|天平宝字8年(764年) |- | rowspan="2" |[[孝謙天皇|称徳]] |- | 神護景雲4年/宝亀元年(770年) |- ! |||| |- | 宝亀12年/天応元年(781年)||rowspan="2" |[[桓武天皇|桓武]]||rowspan="2" |[[光仁天皇|光仁上皇]] |- | 天応2年/延暦元年(782年) |- ! |||||| |- |大同4年(809年)|| rowspan="2" |[[嵯峨天皇|嵯峨]]||rowspan="4" |[[平城天皇|平城上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | 弘仁13年(822年) |- | 弘仁14年(823年)||rowspan="2" |[[淳和天皇|淳和]]||rowspan="5" |[[嵯峨天皇|嵯峨上皇]] |- | rowspan="2"|天長10年(833年) |- | rowspan="3" |[[仁明天皇|仁明]]||rowspan="2" |[[淳和天皇|淳和上皇]] |- | 承和7年(840年) |- | 承和9年(842年)|| style="background-color:#ddf"| |- !|||||| |- | 貞観18年(876年)||rowspan="2" |[[陽成天皇|陽成]]||rowspan="2"|[[清和天皇|清和上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | 元慶5年(881年) |- ! |||||| |- | 元慶8年(884年)||rowspan="2" |[[光孝天皇|光孝]]||rowspan="11"|[[陽成天皇|陽成上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="4" | |- |rowspan="2"| 仁和3年(887年) |- | rowspan="2" |[[宇多天皇|宇多]] |- | rowspan="2"|寛平9年(897年) |- | rowspan="2" |[[醍醐天皇|醍醐]]|| rowspan="4" |[[宇多天皇|宇多上皇]] |- |rowspan="2"| 延長8年(930年) |- |rowspan="3" | [[朱雀天皇|朱雀]] |- | 延長9年/承平元年(931年) |- | rowspan="2"|天慶9年(946年)||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="3" |[[村上天皇|村上]]|| rowspan="3" |[[朱雀天皇|朱雀上皇]] |- | 天暦3年(949年) |- | 天暦6年(952年)||style="background-color:#ddf" | |- | 安和2年(969年)||rowspan="2" |[[円融天皇|円融]]||rowspan="9"|[[冷泉天皇|冷泉上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | rowspan="2"|永観2年(984年) |- |rowspan="2" | [[花山天皇|花山]]||rowspan="4"|[[円融天皇|円融上皇]] |- | rowspan="2"|寛和3年/永延元年(987年) |- |rowspan="4"| [[一条天皇|一条]]||rowspan="3"|[[花山天皇|花山上皇]] |- | 正暦2年(991年) |- | 寛弘5年(1008年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | rowspan="3" |寛弘8年(1011年) |- | rowspan="2" | [[三条天皇|三条]]||[[一条天皇|一条上皇]] |- |style="background-color:#ddf" | || style="background-color:#ddf" rowspan="3" | |- | 長和5年(1016年)||rowspan="2"|[[後一条天皇|後一条]]||rowspan="2"|[[三条天皇|三条上皇]] |- | 長和6年/寛仁元年(1017年) |- !|||||| |- | 寛徳2年(1045年)||[[後冷泉天皇|後冷泉]]||[[後朱雀天皇|後朱雀上皇]]||style="background-color:#ddf" | |- !|||||| |- | 延久5年(1073年)||[[白河天皇|白河]]||[[後三条天皇|後三条上皇]]||style="background-color:#ddf" | |- !|||||| |- | 応徳4年/寛治元年(1087年)||rowspan="2"|[[堀河天皇|堀河]]||rowspan="6"|[[白河天皇|白河上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="4" | |- | 嘉承2年(1107年) |- | 嘉承3年/天仁元年(1108年)||rowspan="2"|[[鳥羽天皇|鳥羽]] |- | rowspan="2"|保安4年(1123年) |- |rowspan="3"|[[崇徳天皇|崇徳]]||rowspan="7"|[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]] |- | 大治4年(1129年) |- | rowspan="2"|1142||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="2"| [[近衛天皇|近衛]]||rowspan="7"|[[崇徳天皇|崇徳上皇]] |- | rowspan="2" |久寿2年(1155年) |- | rowspan="3"|[[後白河天皇|後白河]] |- | 久寿3年/保元元年(1156年) |- |rowspan="2" | 1158||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="3"|[[二条天皇|二条]]||rowspan="13"|[[後白河天皇|後白河上皇]] |- | 長寛2年(1164年) |- |rowspan="2" | 長寛3年/永万元年(1165年)||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="2"| [[六条天皇|六条]]||[[二条天皇|二条上皇]] |- |rowspan="2" | 仁安3年(1168年)|| |- |rowspan="3"| [[高倉天皇|高倉]]||rowspan="2"|[[六条天皇|六条上皇]] |- | 安元2年(1176年) |- |rowspan="2" | 治承4年(1180年)||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="3"| [[安徳天皇|安徳]]||rowspan="2"|[[高倉天皇|高倉上皇]] |- | 治承5年(1181年) |- | 治承6年(1182年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="4" | |- | 治承7年(1183年)|| rowspan="3"|[[後鳥羽天皇|後鳥羽]] |- | 建久3年(1192年) |- |rowspan="2" | 建久9年(1198年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="3" | |- | rowspan="2"| [[土御門天皇|土御門]]||rowspan="11"|[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]] |- |rowspan="2" | 承元4年(1210年) |- | rowspan="2" | [[順徳天皇|順徳]]||rowspan="5"|[[土御門天皇|土御門上皇]] |- | rowspan="3" |承久3年(1221年) |- | [[仲恭天皇|仲恭]]||rowspan="8"|[[順徳天皇|順徳上皇]] |- | rowspan="3"|[[後堀河天皇|後堀河]] |- | 寛喜3年(1231年) |- |rowspan="2" | 寛喜4年/貞永元年(1232年)||style="background-color:#ddf" | |- | rowspan="4"| [[四条天皇|四条]]||rowspan="2"|[[後堀河天皇|後堀河上皇]] |- | 天福2年/文暦元年(1234年) |- | 暦仁2年/延応元年(1239年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | 仁治3年(1242年)||style="background-color:#ddf" | |- ! |||||||| |- | 寛元4年(1246年) | rowspan="2" |[[後深草天皇|後深草]]||rowspan="4"|[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]||style="background-color:#ddf" rowspan="2" | || style="background-color:#ddf" rowspan="7" | |- | rowspan="2" |正元2年/文応元年(1260年) |- | rowspan="3"|[[亀山天皇|亀山]]|| rowspan="11" |[[後深草天皇|後深草上皇]] |- | 文永9年(1272年) |- | rowspan="2" |文永11年(1264年)||style="background-color:#ddf" | |- | rowspan="2"| [[後宇多天皇|後宇多]]|| rowspan="9" |[[亀山天皇|亀山上皇]] |- | rowspan="2" |弘安10年(1287年) |- | rowspan="2"|[[伏見天皇|伏見]]|| rowspan="13" |[[後宇多天皇|後宇多上皇]] |- | rowspan="2" |永仁6年(1298年) |- | rowspan="2"|[[後伏見天皇|後伏見]]|| rowspan="8" |[[伏見天皇|伏見上皇]] |- |rowspan="2" | 正安3年(1301年) |- | rowspan="4" | [[後二条天皇|後二条]]|| rowspan="12" |[[後伏見天皇|後伏見上皇]] |- | 嘉元2年(1304年) |- | 嘉元3年(1305年) | style="background-color:#ddf" rowspan="7" | |- |rowspan="2" | 徳治3年/延慶元年(1308年) | style="background-color:#ddf" rowspan="4" | |- | rowspan="3"| [[花園天皇|花園]] |- | 正和6年/文保元年(1317年) |- |rowspan="2" | 文保2年(1318年)|| rowspan="6" style="background-color:#ddf" | |- | rowspan="4"| [[後醍醐天皇|後醍醐]]||rowspan="9"|[[花園天皇|花園上皇]] |- | 元亨4年/正中元年(1324年) |- | 元弘4年/建武元年(1334年)||rowspan="10"|[[光厳天皇|光厳上皇]] ([[北朝 (日本)|北朝]]) |style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | 建武2年(1335年) |- | 建武3年/延元元年/建武3年(1336年)|| rowspan="3" | ||rowspan="4"|[[後醍醐天皇|後醍醐上皇]] |- | 延元2年/建武4年(1337年) |- | 延元3年/建武5年/暦応元年(1338年) |- | 延元4年/暦応2年(1339年)|| rowspan="6"|[[後村上天皇|後村上]] |- | rowspan="2" |正平3年/貞和4年(1348年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | rowspan="8"|[[光明天皇|光明上皇]] (北朝) |- | 正平6年/観応2年(1351年)||rowspan="16"|[[崇光天皇|崇光上皇]] (北朝) |- | 正平19年/貞治3年(1364年) |- | rowspan="2" |正平23年/貞治7年/応安元年(1368年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | rowspan="7"| [[長慶天皇|長慶]] |- | 建徳2年/応安4年(1371年)||rowspan="2"|[[後光厳天皇|後光厳上皇]] |- | 文中3年/応安7年(1374年) |- | 天授6年/康暦2年(1380年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="4" | |- | 天授7年/弘和元年/康暦3年/永徳元年(1381年)||style="background-color:#ddf" | |- | 弘和2年/永徳2年(1382年)||rowspan="6"|[[後円融天皇|後円融上皇]] (北朝) |- |rowspan="2" | 弘和3年/永徳3年(1383年) |- | rowspan="2"| [[後亀山天皇|後亀山]]||rowspan="5"|[[長慶天皇|長慶上皇]] |- | rowspan="2" |元中9年/明徳3年(1392年) |- | rowspan="5"| [[後小松天皇|後小松]] |- | 明徳4年(1393年)||rowspan="6"|[[後亀山天皇|後亀山上皇]] |- | 明徳5年/応永元年(1394年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="3" | |- | 応永5年(1398年)||style="background-color:#ddf" rowspan="7" | |- | rowspan="2" |応永19年(1412年)|| style="background-color:#ddf" rowspan="6" | |- | rowspan="3" | [[称光天皇|称光]]||rowspan="5"|[[後小松天皇|後小松上皇]] |- | 応永32年(1425年) |- |rowspan="2" | 応永35年/正長元年(1428年) |- |rowspan="2"| [[後花園天皇|後花園]] |- | 永享5年(1433年) |- ! |||| |- | 寛正5年(1464年)||rowspan="2"|[[後土御門天皇|後土御門]]||rowspan="2"|[[後花園天皇|後花園上皇]] |- | 文明3年(1471年) |- ! |||| |- | 天正14年(1586年)||rowspan="2"|[[後陽成天皇|後陽成]]||rowspan="2"|[[正親町天皇|正親町上皇]] |- | 天正20年/文禄元年(1593年) |- ! |||| |- | 慶長16年(1611年)||rowspan="2"|[[後水尾天皇|後水尾]]||rowspan="2"|[[後陽成天皇|後陽成上皇]] |- | 元和3年(1617年) |- ! |||||| |- | 寛永6年(1629年)||rowspan="2"|[[明正天皇|明正]]||rowspan="8"|[[後水尾天皇|後水尾上皇]]|| style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- | rowspan="2" |寛永20年(1643年) |- | rowspan="2"|[[後光明天皇|後光明]]||rowspan="10"|[[明正天皇|明正上皇]] |- | 承応3年(1654年) |- | 承応4年/明暦元年(1655年)||rowspan="2"|[[後西天皇|後西]] |- | rowspan="2" |寛文3年(1663年) |- |rowspan="4"| [[霊元天皇|霊元]]||rowspan="3"|[[後西天皇|後西上皇]] |- | 延宝8年(1680年) |- | 貞享2年(1685年)||style="background-color:#ddf" rowspan="2" | |- |rowspan="2" | 貞享4年(1687年) |- |rowspan="3"| [[東山天皇|東山]]||rowspan="6"|[[霊元天皇|霊元上皇]] |- | 元禄9年(1696年) |- | rowspan="2" |宝永6年(1709年)||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="4"| [[中御門天皇|中御門]]||rowspan="2"|[[東山天皇|東山上皇]] |- | 宝永7年(1710年) |- | 享保17年(1732年) |- |rowspan="2" | 享保20年(1735年)||style="background-color:#ddf" | |- |rowspan="3"| [[桜町天皇|桜町]]||rowspan="3"|[[中御門天皇|中御門上皇]] |- | 享保21年/元文元年(1736年) |- | 元文2年(1737年) |- ! |||| |- | 延享4年(1747年)||rowspan="4"|[[桃園天皇|桃園]]||rowspan="4"|[[桜町天皇|桜町上皇]] |- | 延享5年/寛延元年(1748年) |- | 寛延2年(1749年) |- | 寛延3年(1750年) |- ! |||| |- 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退位した天皇の退位理由一覧]|260&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} {{ja icon}} == 関連項目 == * [[院政]] * [[太上王]] * [[准太上天皇]] * [[太閤]]、[[大御所]] * [[朝覲]] {{Navboxes |title= 皇室 |list= {{天皇項目}} {{歴代天皇一覧}} {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{日本の歴代太皇太后一覧}} {{日本の皇位継承権者}} }} {{DEFAULTSORT:たいしようてんのう}} [[Category:日本の皇室]] [[Category:院政]] [[Category:尊号]] [[Category:君主号]] [[Category:日本の上皇|*2]]
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二酸化硫黄
二酸化硫黄(にさんかいおう、英: sulfur dioxide)は、化学式SO2の無機化合物である。常温では刺激臭を有する気体。気体は別名亜硫酸ガス。化石燃料の燃焼などで大量に排出される硫黄酸化物の一種であり、きちんとした処理を行わない排出ガスは大気汚染や環境問題の一因となる。 二酸化硫黄は火山活動や工業活動により産出される。石炭や石油は多量の硫黄化合物を含んでおり、この硫黄化合物が燃焼することで発生する。火山活動でも発生する。二酸化硫黄は二酸化窒素などの存在下で酸化され硫酸となり、酸性雨の原因となる。空気よりも重い。 二酸化硫黄は硫黄の完全燃焼により発生する。 硫化水素や他の有機硫黄化合物の燃焼においても似たような反応が進行し、二酸化硫黄が発生する。 黄鉄鉱や閃亜鉛鉱、辰砂鉱石などの硫化鉱の加熱によっても発生する。 セメント製造の際には、無水硫酸カルシウムをコークスと加熱しケイ酸カルシウムを生産するが、二酸化硫黄が副生成物として発生する。 熱濃硫酸と銅とを反応させると、二酸化硫黄を発生させることができる。 この他にもチオ硫酸ナトリウムと酸の反応、亜硫酸ナトリウムと硫酸の反応、亜硫酸水素ナトリウムの熱分解などによっても発生する。 水と反応し、亜硫酸を生成する。 二酸化窒素との酸化還元反応により、一酸化窒素と三酸化硫黄が生成する。 過酸化水素との反応では硫酸が生成する。 二酸化硫黄はC2v対称の折れ線形構造である。電子に着目すると、硫黄原子の形式酸化数は+4、電荷は0で、5つの電子対を持っている。分子軌道法の点から見ると多くの電子対が結合に関与しており、典型的な超原子価化合物であると言われていたが、実際にはオゾン類似の比較的単純な結合構造であることが判明している。 硫黄酸化物の一酸化硫黄と二酸化硫黄のS-O結合長は、一酸化硫黄SO (148.1 pm)、二酸化硫黄SO2 (143.1 pm) とOの数が増えるにつれて短くなっているが、酸素の同素体の二酸素とオゾンのO-O結合長は、二酸素O2 (120.7 pm)、オゾンO3 (127.8 pm) と長くなっている。さらに、結合解離エネルギーが一酸化硫黄と二酸化硫黄ではSO (524 kJ mol)、SO2 (548 kJ mol) と大きくなっているのに対し、二酸素とオゾンではO2 (490 kJ mol)、O3 (297 kJ mol) と小さくなっている。これに関しては、オゾンの各O-O結合が1.5重結合であるのに対し、二酸化硫黄の場合はd軌道の混成による超原子価構造によりS=O二重結合となっている証拠であると説明された時代もあった(現在でもその誤った説明がなされている書籍などもある)。しかしながら硫黄を含む超原子価化合物(と呼ばれていた分子)の場合、理論計算(自然結合軌道を用いる)ではd軌道の結合への寄与は無視出来る程度に小さいことが少なくとも1980年代には判明しており、この解釈が誤りなのは明らかである。つまり、硫黄原子の3d軌道は結合に関与するにはエネルギー的に高すぎであり、2本のS-O σ結合とO-S-O鎖を繋ぐ三中心四電子π結合からなるルイス構造が最適な描写である(この結果S-O結合の結合次数は1.5となる)。近年の実験により、二酸化硫黄のS-O結合はオゾンと同じように1.5重結合であるが、電気陰性度の違いにより硫黄原子が+2価、酸素原子が-1に近くなる事による両者の間のイオン結合的な力が働き、これが加算されることで2重結合なみの結合エネルギーとなっている事が判明している。 二酸化硫黄には抗菌作用があるため、食品添加物として酒やドライフルーツの保存料、漂白剤、酸化防止剤に使われている。腐敗を防ぐためというより、見た目を保つために用いられることが多い。ドライフルーツは独特の風味を持つが、二酸化硫黄もその一因となっている。ワイン製造にも重要な役割を果たしており、ワイン中にもppm単位で存在している。抗菌剤や酸化防止剤の役割を果たし、雑菌の繁殖や酸化を防ぎ、酸性度を一定に保つ手助けをしている。 二酸化硫黄は還元剤としても用いられる。水の存在下で還元的な脱色作用を示すため、紙や衣服などの漂白剤として用いられる。しかし空気中の酸素により再酸化が起こるため、この漂白作用は長くは続かない。 二酸化硫黄は硫酸の生産にも用いられる。この場合二酸化硫黄の酸化により三酸化硫黄を合成し、ここから硫酸が合成される。この方法は接触法として知られている。 クロード・リブ(Claude Ribbe) の『ナポレオンの犯罪 The Crime of Napoleon』によると、二酸化硫黄は19世紀の初めまで、フランス皇帝によりハイチの奴隷の反乱の鎮圧に用いられていた。 二酸化硫黄は肺の伸縮に関する受容体の信号を止め、ヘーリング・ブロイエル反射を止める。 フロンの開発に先立ち、二酸化硫黄は家庭用冷蔵庫の冷媒に用いられていた。 昆虫の標本を作る際、酢酸エチルを使うと体毛がぬれたり体色が変化したり油が染みでたりすることのある昆虫の殺虫剤として用いられている。 アメリカ合衆国のEPAが2002年に報告したデータによると、アメリカ合衆国の二酸化硫黄排出量の変遷は以下のようになっている(単位:S/T)。 主にEPAの酸性雨対策プログラムの主導により、アメリカ合衆国の二酸化硫黄排出量は1983年から2002年の間で約33%減少した。これは排気ガスの脱硫技術が進み、硫黄を含む燃料を燃焼させても硫黄酸化物を回収できるようになったためである。特に酸化カルシウムは二酸化硫黄と反応し、亜硫酸カルシウムになることで二酸化硫黄を吸着する。 2006年現在、中華人民共和国が世界で最も二酸化硫黄を排出している国である。2005年の排出量は2549万トンであった。この排出量を2000年のものと比較すると約27%増加しており、アメリカ合衆国の1980年の排出量に相当する。 火山自体や噴火の規模にもよるが、火口などからは相当量の二酸化硫黄が放出される。日本の桜島は、2011年12月に125回も爆発的な噴火を記録する活発な時期を迎えていたが、この際に観測された平均放出量は日量1,800tから2,900tと推計されている。 1991年に発生したフィリピンのピナツボ山の噴火では1500万から2千万トンの二酸化硫黄が放出された。成層圏に達した二酸化硫黄は硫酸エアロゾルを形成し、長期間にわたり地表の日射量を減少させ穀物の収穫量に影響を与える(例:夏のない年、1993年米騒動)こともある。影響が出始める量は500万トン以上と推計されている。 二酸化硫黄は呼吸器を刺激し、せき、気管支喘息、気管支炎などの障害を引き起こす。 0.5 ppm 以上でにおいを感じ、30-40 ppm 以上で呼吸困難を引き起こし、100 ppm の濃度下に50〜70分以上留まると危険。400 ppm 以上の場合、数分で生命に危険が及ぶ。500 ppm を超えると嗅覚が冒され、むしろ臭気を感じなくなる。高濃度の地域に短時間いるよりも、低濃度地域に長時間いる場合の被害のほうが多い。 代表的な例として、日本における第二次世界大戦後の四大公害事件とされ、1961年頃より発生した四日市ぜんそくがあげられる。1960〜70年代に高濃度の汚染を日本各地に引き起こしたが、工場等の固定発生源や石油の使用による発生も脱硫装置により対策が進められた結果、汚染が改善された。また足尾銅山鉱毒事件も有名である。海外では1952年に数週間で一万人以上が死亡したロンドンスモッグがある。 19世紀半ばのクリミア戦争ではセバストーポリの戦いでイギリス軍が化学兵器として使用したのではないかとも言われている。 2007年現在、日本では二酸化硫黄の環境基準は1時間値の1日平均が 0.04 ppm 以下であり、かつ1時間値が 0.1 ppm 以下であることとされている。
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と小さくなっている。これに関しては、オゾンの各O-O結合が1.5重結合であるのに対し、二酸化硫黄の場合はd軌道の混成による超原子価構造によりS=O二重結合となっている証拠であると説明された時代もあった(現在でもその誤った説明がなされている書籍などもある)。しかしながら硫黄を含む超原子価化合物(と呼ばれていた分子)の場合、理論計算(自然結合軌道を用いる)ではd軌道の結合への寄与は無視出来る程度に小さいことが少なくとも1980年代には判明しており、この解釈が誤りなのは明らかである。つまり、硫黄原子の3d軌道は結合に関与するにはエネルギー的に高すぎであり、2本のS-O σ結合とO-S-O鎖を繋ぐ三中心四電子π結合からなるルイス構造が最適な描写である(この結果S-O結合の結合次数は1.5となる)。近年の実験により、二酸化硫黄のS-O結合はオゾンと同じように1.5重結合であるが、電気陰性度の違いにより硫黄原子が+2価、酸素原子が-1に近くなる事による両者の間のイオン結合的な力が働き、これが加算されることで2重結合なみの結合エネルギーとなっている事が判明している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "二酸化硫黄には抗菌作用があるため、食品添加物として酒やドライフルーツの保存料、漂白剤、酸化防止剤に使われている。腐敗を防ぐためというより、見た目を保つために用いられることが多い。ドライフルーツは独特の風味を持つが、二酸化硫黄もその一因となっている。ワイン製造にも重要な役割を果たしており、ワイン中にもppm単位で存在している。抗菌剤や酸化防止剤の役割を果たし、雑菌の繁殖や酸化を防ぎ、酸性度を一定に保つ手助けをしている。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "二酸化硫黄は還元剤としても用いられる。水の存在下で還元的な脱色作用を示すため、紙や衣服などの漂白剤として用いられる。しかし空気中の酸素により再酸化が起こるため、この漂白作用は長くは続かない。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": 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"2006年現在、中華人民共和国が世界で最も二酸化硫黄を排出している国である。2005年の排出量は2549万トンであった。この排出量を2000年のものと比較すると約27%増加しており、アメリカ合衆国の1980年の排出量に相当する。", "title": "排出量" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "火山自体や噴火の規模にもよるが、火口などからは相当量の二酸化硫黄が放出される。日本の桜島は、2011年12月に125回も爆発的な噴火を記録する活発な時期を迎えていたが、この際に観測された平均放出量は日量1,800tから2,900tと推計されている。", "title": "排出量" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1991年に発生したフィリピンのピナツボ山の噴火では1500万から2千万トンの二酸化硫黄が放出された。成層圏に達した二酸化硫黄は硫酸エアロゾルを形成し、長期間にわたり地表の日射量を減少させ穀物の収穫量に影響を与える(例:夏のない年、1993年米騒動)こともある。影響が出始める量は500万トン以上と推計されている。", "title": "排出量" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "二酸化硫黄は呼吸器を刺激し、せき、気管支喘息、気管支炎などの障害を引き起こす。", "title": "毒性" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "0.5 ppm 以上でにおいを感じ、30-40 ppm 以上で呼吸困難を引き起こし、100 ppm の濃度下に50〜70分以上留まると危険。400 ppm 以上の場合、数分で生命に危険が及ぶ。500 ppm を超えると嗅覚が冒され、むしろ臭気を感じなくなる。高濃度の地域に短時間いるよりも、低濃度地域に長時間いる場合の被害のほうが多い。", "title": "毒性" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": 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二酸化硫黄(にさんかいおう、英: sulfur dioxide)は、化学式SO2の無機化合物である。常温では刺激臭を有する気体。気体は別名亜硫酸ガス。化石燃料の燃焼などで大量に排出される硫黄酸化物の一種であり、きちんとした処理を行わない排出ガスは大気汚染や環境問題の一因となる。 二酸化硫黄は火山活動や工業活動により産出される。石炭や石油は多量の硫黄化合物を含んでおり、この硫黄化合物が燃焼することで発生する。火山活動でも発生する。二酸化硫黄は二酸化窒素などの存在下で酸化され硫酸となり、酸性雨の原因となる。空気よりも重い。
{{Chembox | Name = 二酸化硫黄 | ImageFile1 = Sulfur-dioxide-2D.svg | ImageSize1 = 150px | ImageFile2 = Sulfur-dioxide-3D-vdW.png | ImageSize2 = 150px | ImageFile3 = Sulfur-dioxide-ve-B-2D.png | ImageSize3 = 150px | OtherNames = 酸化硫黄(IV)<br />亜硫酸ガス | Section1 = {{Chembox Identifiers | CASNo = 7446-09-5 | ChemSpiderID = 1087 | RTECS = WS4550000 | EINECS = 231-195-2 | UNNumber = 1079, 2037 | SMILES = O=S=O | StdInChI = 1S/O2S/c1-3-2 | StdInChIKey = RAHZWNYVWXNFOC-UHFFFAOYSA-N }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = SO<sub>2</sub> | MolarMass = 64.07 g mol<sup>-1</sup> | Appearance = 無色気体 | Density = 2.551 g/L{{要出典|date=2022年1月}}, 気体<br />1.354 g/cm<sup>3</sup> (-30 ℃){{要出典|date=2022年1月}}, 液体<br />1.434 g/cm<sup>3</sup> (-10 ℃)<ref name="KayeLaby1995_SO2">{{Cite web |url=http://www.kayelaby.npl.co.uk/chemistry/3_2/3_2d.html |title=3.2 Properties of inorganic compounds ; Part 4: Silicon - Zirconium|at=Sulphur ; Oxide, di-, SO2 |accessdate=2022-01-18 |publisher=[[イギリス国立物理学研究所]] |year=1995 |website=Kaye and Laby Online (based on 16th edition (published 1995)) |language=en |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170620174836/http://www.kayelaby.npl.co.uk/chemistry/3_2/3_2d.html#S |archivedate=2017-06-20 |deadlinkdate=2022-01-18}}</ref>, 液体 | Solubility = 9.4 g/100 mL (25 ℃) | MeltingPt = -72.4 ℃ (200.75 K){{要出典|date=2022年1月}} | BoilingPt = -10 ℃ (263 K)<ref name="KayeLaby1995_SO2" /> | VaporPressure = -10 ℃ : 1013 hPa<br />20 ℃ : 3300 hPa<br />40 ℃ : 4400 hPa | pKa = 1.81 }} | Section3 = {{Chembox Structure | MolShape = [[折れ線形]](O-S-O 結合角は120度)<ref>[http://chemed.chem.purdue.edu/genchem/topicreview/bp/ch8/table.php Table of Geometries based on VSEPR<!-- Bot generated title -->]</ref> | Dipole = 1.63 [[デバイ|D]] }} | Section7 = {{Chembox Hazards | GHSPictograms = {{GHSp|GHS05}}{{GHSp|GHS06}} | GHSSignalWord = Warning <!--旧規格のため、隠しました。--><!--| EU分類 = {{Hazchem C}} 腐食性<br/ >{{Hazchem T}} 有毒 | RPhrases = {{R23}} {{R34}} | SPhrases = {{S1/2}} {{S9}} {{S26}} {{S36/37/39}} {{S45}} | 主な危険性 = | IngestionHazard = あり。 | InhalationHazard = あり。 | 眼への危険性= あり。 | 皮膚への危険性= あり。--> | HPhrases = {{H-phrases|314|331}} | PPhrases = {{P-phrases|260|261|264|271|280|301+330+331|303+361+353|304+340|305+351+338|310|311|321|363|403+233|405|501}} | NFPA-H = 3 | NFPA-F = 0 | NFPA-R = 0 | 引火点 = 不燃性 | JP-PDSCL = 分類されていない <!-- JP-PDSCL の項目が何故か表示されないようです。修復出来ないでしょうか? --> }} | Section8 = {{Chembox Related | OtherCpds = [[三酸化硫黄]]<br />[[亜硫酸]]<br />[[硫酸]] }} }} '''二酸化硫黄'''(にさんかいおう、{{lang-en-short|sulfur dioxide}})は、化学式SO<sub>2</sub>の[[無機化合物]]である。常温では[[刺激臭]]を有する[[気体]]。気体は別名'''亜硫酸ガス'''<ref name="岩波理化学辞典_二酸化イオウ">{{Cite encyclopedia|title=二酸化イオウ|page=974|encyclopedia=岩波理化学辞典|edition=第3版増補版第3刷|publisher=岩波書店|date=1982-11-05}}</ref>。[[化石燃料]]の[[燃焼]]などで大量に排出される[[硫黄酸化物]]の一種であり、きちんとした処理を行わない[[排出ガス]]は[[大気汚染]]や[[環境問題]]の一因となる。 二酸化硫黄は[[火山活動]]や[[工業]]活動により産出される。[[石炭]]や[[石油]]は多量の[[硫黄]]化合物を含んでおり、この硫黄化合物が[[燃焼]]することで発生する。また、火山活動でも発生する。二酸化硫黄は[[二酸化窒素]]などの存在下で[[酸化]]され[[硫酸]]となり、[[酸性雨]]の原因となる<ref>Dr. Mike Thompson, Winchester College, UK http://www.chm.bris.ac.uk/motm/so2/so2h.htm</ref>。空気よりも重い。 == 合成 == 二酸化硫黄は硫黄の[[燃焼|完全燃焼]]により発生する。 :<chem> S(s) + O2(g) -> SO2(g)</chem> [[硫化水素]]や他の[[有機硫黄化合物]]の燃焼においても似たような反応が進行し、二酸化硫黄が発生する。 :<chem> 2H2S(g) + 3O2(g) -> 2H2O(g) + 2SO2(g)</chem> [[黄鉄鉱]]や[[閃亜鉛鉱]]、[[辰砂|辰砂鉱石]]などの[[硫化物|硫化鉱]]の加熱によっても発生する。 :<chem> 4FeS2(s) + 11O2(g) -> 2Fe2O3(s) + 8SO2(g)</chem> :<chem> 2ZnS(s) + 3O2(g) -> 2ZnO(s) + 2SO2(g)</chem> :<chem> HgS(s) + O2(g) -> Hg(g) + SO2(g)</chem> [[セメント]]製造の際には、無水[[硫酸カルシウム]]を[[コークス]]と加熱し[[ケイ酸カルシウム]]を生産するが、二酸化硫黄が副生成物として発生する。 :<chem> 2CaSO4(s) + 2SiO2(s) + C(s) -> 2CaSiO3(s) + 2SO2(g) + CO2(g)</chem> 熱濃硫酸と[[銅]]とを反応させると、二酸化硫黄を発生させることができる。 :<chem> Cu(s) + 2H2SO4(aq) -> CuSO4(aq) + SO2(g) + 2H2O(l)</chem> この他にも[[チオ硫酸ナトリウム]]と[[酸]]の反応、[[亜硫酸ナトリウム]]と[[硫酸]]の反応、[[亜硫酸水素ナトリウム]]の[[熱分解]]などによっても発生する。 == 反応 == [[水]]と反応し、[[亜硫酸]]を生成する。 :<chem>H2O + SO2 -> H2SO3</chem> [[二酸化窒素]]との[[酸化還元]]反応により、[[一酸化窒素]]と[[三酸化硫黄]]が生成する。 :<chem>NO2 + SO2 -> NO + SO3</chem> [[過酸化水素]]との反応では[[硫酸]]が生成する。 :<chem>H2O2 + SO2 -> H2SO4</chem> == 構造 == [[File:Sulfur-dioxide-2D.png|thumb|200px|二酸化硫黄の構造]] [[ファイル:Sulfur-dioxide-resonance-2D.svg|350px|thumb|二酸化硫黄の2つの[[共鳴理論|共鳴構造]]]] 二酸化硫黄は[[分子対称性|C<sub>2v</sub>対称]]の[[折れ線形]]構造である。[[電子]]に着目すると、硫黄原子の[[酸化数|形式酸化数]]は+4、[[電荷]]は0で、5つの[[電子対]]を持っている。[[分子軌道法]]の点から見ると多くの電子対が結合に関与しており、典型的な[[超原子価化合物]]であると言われていたが、実際にはオゾン類似の比較的単純な結合構造であることが判明している。 [[硫黄酸化物]]の[[一酸化硫黄]]と二酸化硫黄のS-O結合長は、一酸化硫黄SO (148.1 pm)、二酸化硫黄SO<sub>2</sub> (143.1 pm) とOの数が増えるにつれて短くなっているが、酸素の[[同素体]]の[[酸素|二酸素]]と[[オゾン]]のO-O結合長は、二酸素O<sub>2</sub> (120.7 pm)、オゾンO<sub>3</sub> (127.8 pm) と長くなっている。さらに、[[結合解離エネルギー]]が一酸化硫黄と二酸化硫黄ではSO (524 kJ mol<sup>-1</sup>)、SO<sub>2</sub> (548 kJ mol<sup>-1</sup>) と大きくなっているのに対し、二酸素とオゾンではO<sub>2</sub> (490 kJ mol<sup>-1</sup>)、O<sub>3</sub> (297 kJ mol<sup>-1</sup>) と小さくなっている。これに関しては、オゾンの各O-O結合が1.5重結合<ref name=Greenwood>{{Greenwood&Earnshaw}} p. 700</ref>であるのに対し、二酸化硫黄の場合は[[d軌道]]の混成による超原子価構造によりS=O二重結合となっている証拠であると説明された時代もあった(現在でもその誤った説明がなされている書籍などもある)。しかしながら硫黄を含む超原子価化合物(と呼ばれていた分子)の場合、理論計算([[自然結合軌道]]を用いる)ではd軌道の結合への寄与は無視出来る程度に小さいことが少なくとも1980年代には判明しており<ref>{{cite journal|author=Kutzelnigg, W.|title=Chemical Bonding in Higher Main Group Elements||journal=[[Angew. Chem. Int. Ed.]]|volume=23|pages= 272-295||year=1984|doi=10.1002/anie.198402721}}</ref><ref>{{cite journal|author=Reed, A. E.; Weinhold, F.|title=On the role of d orbitals in sulfur hexafluoride|journal= [[J. Am. Chem. Soc.]]|volume=108|pages= 3586-3593 |year=1986|doi=10.1021/ja00273a006}}</ref><ref>{{cite journal| author=Mezey, P. G.; Haas, E. C.|title= The propagation of basis set error and geometry optimization in ab initio calculations. A statistical analysis of the sulfur d‐orbital problem |journal=J. Chem. Phys.|volume=77|pages= 870 |year=1982|doi=10.1063/1.443903 }}</ref><ref>{{cite journal| author=Gilheany, D. G.|title= Ylides, phosphoniumNo d Orbitals but Walsh Diagrams and Maybe Banana Bonds: Chemical Bonding in Phosphines, Phosphine Oxides, and Phosphonium Ylides|journal=Chem. Rev.|volume= 94|pages= 1339-1374 |year=1994|doi=10.1021/cr00029a008}}</ref><ref>{{cite journal|author=Dobado, J. A.; Martinez-Garcia, H.; Molina, J. M.; Sundberg, M. R.|title=Chemical Bonding in Hypervalent Molecules Revised. 3. Application of the Atoms in Molecules Theory to Y<sub>3</sub>X-CH<sub>2</sub> (X = N, P, or As; Y = H or F) and H<sub>2</sub>X-CH<sub>2</sub> (X = O, S, or Se) Ylides|journal=J. Am. Chem. Soc.|volume=122|pages= 1144-1149||year=2000|doi=10.1021/ja992672z}}</ref>、この解釈が誤りなのは明らかである。つまり、硫黄原子の3d軌道は結合に関与するにはエネルギー的に高すぎであり<ref name=Stefan>{{cite journal|author=Stefan, T.; Janoschek, R.|title=How relevant are S=O and P=O Double Bonds for the Description of the Acid Molecules H<sub>2</sub>SO<sub>3</sub>, H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>, and H<sub>3</sub>PO<sub>4</sub>, respectively?|journal=J. Mol. Model.| volume= 6|issue= 2|year= 2000|pages= 282-288|doi=10.1007/PL00010730}}</ref>、2本のS-O [[σ結合]]とO-S-O鎖を繋ぐ[[三中心四電子結合|三中心四電子]][[π結合]]からなるルイス構造が最適な描写である(この結果S-O結合の[[結合次数]]は1.5となる)<ref name="Greenwood"/>。近年の実験により、二酸化硫黄のS-O結合はオゾンと同じように1.5重結合であるが、電気陰性度の違いにより硫黄原子が+2価、酸素原子が-1に近くなる事による両者の間のイオン結合的な力が働き、これが加算されることで2重結合なみの結合エネルギーとなっている事が判明している<ref>{{Cite journal|author= Powers, D.; Olson, H. G.|title=Determination of S-O bond order in sulfur dioxide and dimethyl sulfite using a low‐energy particle‐accelerator technique |journal=J. Chem. Phys.|volume=73|pages= 2271 |year=1980|doi=10.1063/1.440376 }}</ref><ref>{{cite journal|author=Jürgensen, A.; Cavell, R. G.|journal=Chem. Phys.|volume=257|pages= 123 |year=2000|title=A comparison of the oxygen 1s photoabsorption spectra of SO<sub>2</sub> and NO<sub>2</sub>|doi=10.1016/S0301-0104(00)00147-6}}</ref><ref>{{cite journal|author=Grabowsky, S.; Luger, P.; Buschmann, J.; Schneider, T.; Schirmeister, T.; Sobolev, A. N.; Jayatilaka, D.|title=The Significance of Ionic Bonding in Sulfur Dioxide: Bond Orders from X-ray Diffraction Data|journal=Angew. Chem. Int. Ed.|volume= 51|pages= 6776-6779 |year=2012|doi= 10.1002/anie.201200745}}</ref>。 ==用途== {{出典の明記|section=1|date=2020年5月}} 二酸化硫黄には抗菌作用があるため、[[食品添加物]]として[[酒]]や[[ドライフルーツ]]の[[保存料]]、[[漂白剤]]、[[酸化防止剤]]に使われている。[[腐敗]]を防ぐためというより、見た目を保つために用いられることが多い。ドライフルーツは独特の風味を持つが、二酸化硫黄もその一因となっている。[[ワイン]]製造にも重要な役割を果たしており、ワイン中にもppm単位で存在している。[[抗菌剤]]や酸化防止剤の役割を果たし、雑菌の繁殖や酸化を防ぎ、[[酸性|酸性度]]を一定に保つ手助けをしている。 二酸化硫黄は[[還元剤]]としても用いられる。水の存在下で還元的な脱色作用を示すため、紙や衣服などの[[漂白剤]]として用いられる。しかし空気中の[[酸素]]により再酸化が起こるため、この漂白作用は長くは続かない。 二酸化硫黄は硫酸の生産にも用いられる。この場合二酸化硫黄の酸化により[[三酸化硫黄]]を合成し、ここから硫酸が合成される。この方法は[[接触法]]として知られている。 [[クロード・リブ]]([[:fr:Claude Ribbe|Claude Ribbe]]) の『ナポレオンの犯罪 ''The Crime of Napoleon''』によると、二酸化硫黄は19世紀の初めまで、フランス皇帝により[[ハイチ]]の奴隷の反乱の鎮圧に用いられていた。 二酸化硫黄は[[肺]]の伸縮に関する受容体の信号を止め、[[ヘーリング・ブロイエル反射]]を止める。 [[フロン]]の開発に先立ち、二酸化硫黄は家庭用[[冷蔵庫]]の[[冷媒]]に用いられていた。 昆虫の標本を作る際、[[酢酸エチル]]を使うと体毛がぬれたり体色が変化したり油が染みでたりすることのある昆虫の[[殺虫剤]]として用いられている。 ==排出量== ===人為的なもの=== [[アメリカ合衆国]]の[[アメリカ合衆国環境保護局|EPA]]が[[2002年]]に報告したデータ<ref name=EPA2002>{{Cite web|和書|url=http://www.epa.gov/air/airtrends/sulfur.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年12月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081225152908/http://www.epa.gov/air/airtrends/sulfur.html |archivedate=2008年12月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>によると、アメリカ合衆国の二酸化硫黄排出量の変遷は以下のようになっている(単位:[[:en:Short_ton|S/T]])。 {| class="wikitable" border=1 !年!!排出量 |- |1970年 |31,161 |- |1980年 |25,905 |- |1990年 |23,678 |- |1996年 |18,859 |- |1997年 |19,363 |- |1998年 |19,491 |- |1999年 |18,867 |} 主にEPAの酸性雨対策プログラムの主導により、アメリカ合衆国の二酸化硫黄排出量は[[1983年]]から2002年の間で約33%減少した。これは排気ガスの[[脱硫装置|脱硫技術]]が進み、硫黄を含む燃料を燃焼させても硫黄酸化物を回収できるようになったためである。特に[[酸化カルシウム]]は二酸化硫黄と反応し、[[亜硫酸カルシウム]]になることで二酸化硫黄を吸着する。 : <chem>CaO + SO2 -> CaSO3</chem> [[2006年]]現在、[[中華人民共和国]]が世界で最も二酸化硫黄を排出している国である。[[2005年]]の排出量は2549万トンであった。この排出量を[[2000年]]のものと比較すると約27%増加しており、アメリカ合衆国の[[1980年]]の排出量に相当する。 ===自然発生的なもの=== [[火山]]自体や[[噴火]]の規模にもよるが、[[火口]]などからは相当量の二酸化硫黄が放出される。日本の[[桜島]]は、[[2011年]]12月に125回も爆発的な噴火を記録する活発な時期を迎えていたが、この際に観測された平均放出量は日量1,800tから2,900tと推計されている<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/monthly_v-act_doc/fukuoka/10m01/506_10m01.pdf 桜島の火山活動解説資料(平成22年1月)]福岡管区気象台火山監視・情報センター,鹿児島地方気象台</ref>。 [[1991年]]に発生した[[フィリピン]]の[[ピナツボ山]]の噴火では1500万から2千万トンの二酸化硫黄が放出された。成層圏に達した二酸化硫黄は硫酸エアロゾルを形成し、長期間にわたり地表の日射量を減少させ穀物の収穫量に影響を与える(例:[[夏のない年]]、[[1993年米騒動]])こともある。影響が出始める量は500万トン以上と推計されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/42895?page=2 |title=トンガ噴火は日本に「令和の米騒動」引き起こすか? 米教授が指摘する“圧倒的に少ない”物質とは |publisher=AERA.com |date=2022-01-20 |accessdate=2022-01-24}}</ref>。 ==水への溶解度の温度依存性== {| class="wikitable" border=1 style="text-align:right" !温度!!溶解度 |- |0 ℃||22 g/100ml |- |10 ℃||15 g/100ml |- |20 ℃||11 g/100ml |- |25 ℃||9.4 g/100ml |- |30 ℃||8 g/100ml |- |40 ℃||6.5 g/100ml |- |50 ℃||5 g/100ml |- |60 ℃||4 g/100ml |- |70 ℃||3.5 g/100ml |- |80 ℃||3.4 g/100ml |- |90 ℃||3.5 g/100ml |- |100 ℃||3.7 g/100ml |} ==毒性== 二酸化硫黄は[[呼吸器]]を刺激し、[[咳|せき]]、[[気管支喘息]]、[[気管支炎]]などの障害を引き起こす<ref>[http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/kankyoho/env/taiki/so2.html 大気中の二酸化硫黄(SO2),浜松市]</ref>。 0.5 [[ppm]] 以上でにおいを感じ、30-40 ppm 以上で呼吸困難を引き起こし、100 ppm の濃度下に50〜70分以上留まると危険。400 ppm 以上の場合、数分で生命に危険が及ぶ。500 ppm を超えると嗅覚が冒され、むしろ臭気を感じなくなる。高濃度の地域に短時間いるよりも、低濃度地域に長時間いる場合の被害のほうが多い。 代表的な例として、日本における第二次世界大戦後の[[四大公害事件]]とされ、1961年頃より発生した[[四日市ぜんそく]]があげられる。[[1960年|1960]]〜[[1970年|70年]]代に高濃度の汚染を日本各地に引き起こしたが、工場等の[[固定発生源]]や[[石油]]の使用による発生も[[脱硫装置]]により対策が進められた結果、汚染が改善された。また[[足尾銅山鉱毒事件]]も有名である。海外では1952年に数週間で一万人以上が死亡した[[ロンドンスモッグ]]がある。 19世紀半ばの[[クリミア戦争]]では[[セバストーポリ]]の戦いで[[イギリス軍]]が[[化学兵器]]として使用したのではないかとも言われている。 2007年現在、日本では二酸化硫黄の[[環境基準]]は[[1時間値]]の1日平均が 0.04 ppm 以下であり、かつ1時間値が 0.1 ppm 以下であることとされている。 ==参考文献== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==関連項目== *[[硫黄酸化物]] *[[硫酸]] *[[酸性雨]] *[[光化学オキシダント]] == 外部リンク == * [http://www.daisetsu.net/gas.htm 有毒ガス(お鉢平・有毒温泉)]([http://www.daisetsu.net/ 大雪山物語]) * [https://web.archive.org/web/20081225152908/http://www.epa.gov/air/airtrends/sulfur.html United States Environmental Protection Agency Sulfur Dioxide page] * [https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0074&p_version=2 International Chemical Safety Card 0074] * [http://www-cie.iarc.fr/htdocs/monographs/vol54/02-sulfur-dioxide.htm IARC Monograph "Sulfur Dioxide and some Sulfites, Bisulfites and Metabisulfites"] * [http://www.cdc.gov/niosh/npg/npgd0575.html NIOSH Pocket Guide to Chemical Hazards] * [http://www.fedupwithfoodadditives.info/factsheets/Factsulphites.htm Food Intolerance Network] - Sulfite factsheet * [http://www.chm.bris.ac.uk/motm/so2/so2h.htm Sulfur Dioxide, Molecule of the Month] * {{Kotobank}} {{硫黄の化合物}} {{公害}} {{大気汚染}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にさんかいおう}} [[Category:酸化物]] [[Category:硫黄の化合物]] [[Category:火山学]] [[Category:有毒ガス]] [[Category:大気汚染]] [[Category:環境化学]] [[Category:還元剤]] [[Category:ジョゼフ・プリーストリー]]
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イーディス・パージター
イーディス・パージター(Edith Mary Pargeter、1913年9月28日 - 1995年10月14日)は、イギリスの女性小説家。チェコ語の翻訳家としても著名である。 本名で歴史小説を書く一方、エリス・ピーターズ (Ellis Peters) の筆名で「フェルス一家シリーズ」「修道士カドフェルシリーズ」などの推理小説を執筆した。1944年に大英帝国勲章を受章。 The Brothers of Gwynedd 四部作 Jim Benison a.k.a. World War 2 三部作
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イーディス・パージターは、イギリスの女性小説家。チェコ語の翻訳家としても著名である。 本名で歴史小説を書く一方、エリス・ピーターズ の筆名で「フェルス一家シリーズ」「修道士カドフェルシリーズ」などの推理小説を執筆した。1944年に大英帝国勲章を受章。
{{Portal|文学}} [[File:Ellis Peters.jpg|thumb|イーディス・パージター]] '''イーディス・パージター'''(Edith Mary Pargeter、[[1913年]][[9月28日]] - [[1995年]][[10月14日]])は、[[イギリス]]の女性[[小説家]]。[[チェコ語]]の[[翻訳家]]としても著名である。 本名で[[歴史小説]]を書く一方、'''エリス・ピーターズ''' (Ellis Peters) の筆名で「フェルス一家シリーズ」「[[修道士カドフェル]]シリーズ」などの[[推理小説]]を執筆した。1944年に[[大英帝国勲章]]を受章。 ==著作リスト== ===イーディス・パージターとして=== ====The Heaven Tree 三部作==== *The Heaven Tree (1960) *The Green Branch (1962) *The Scarlet Seed (1963) '''The Brothers of Gwynedd 四部作''' * ''Sunrise in the West'' (1974) * ''The Dragon at Noonday'' (1975) * ''The Hounds of Sunset'' (1976) * ''Afterglow and Nightfall'' (1977) '''Jim Benison a.k.a. World War 2 三部作''' * ''The Eighth Champion of Christendom'' (1945) * ''Reluctant Odyssey'' (1946) * ''Warfare Accomplished'' (1947) ===エリス・ピーターズとして===<!-- ×名義(意味が異なります)--> ====フェルス一家シリーズ==== * カマフォード村の哀惜(''Fallen into the Pit)'' (1951) * 死と陽気な女 (Death and the Joyful Woman)(1961) ※1963年[[エドガー賞 長編賞]]受賞 * ''Flight of a Witch'' (1964) * 納骨堂の多すぎた死体 (A Nice Derangement of Epitaphs)(1965) * ''The Piper on the Mountain'' (1966) * ''Black is the Colour of my True Love's Heart'' (1967) * ''The Grass-Widow's Tale'' (1968) * ''The House of Green Turf'' (1969) * ''Mourning Raga''(1969) * ''The Knocker on Death's Door'' (1970) * ''Death to the Landlords!'' (1972) * ''City of Gold and Shadows'' (1973) * ''Rainbow's End'' (1978) ====修道士カドフェルシリーズ==== * 聖女の遺骨求む (A Morbid Taste for Bones) * 死体が多すぎる (One Corpse Too Many) * 修道士の頭巾 (Monk's Hood) * 聖ペテロ祭の殺人 (Saint Peter's Fair) * 死への婚礼 (The Leper of Saint Giles) * 氷の中の処女 (The Virgin in the Ice) * 聖域の雀 (The Sanctuary Spallow) * 悪魔の見習い修道士 (The Devil's Novice) * 死者の身代金 (Dead Man's Ransom) * 憎しみの巡礼 (The Pilgrim of Hate) * 秘跡 (An Excellent Mystery) * 門前通りのカラス (The Raven in the Foregate) * 代価はバラ一輪 (The Rose Rent) * アイトン・フォレストの隠者 (The Hermit of Eyton Forest) * ハルイン修道士の告白 (The Confession of Brother Haluin) * 異端の徒弟 (The Heretic's Apprentice) * 陶工の畑 (The Potter's Field) * デーン人の夏 (The Summer of the Danes) * 聖なる泥棒 (The Holly Thief) * 背教者カドフェル (Brother Cadfael's Penance) * 修道士カドフェルの出現 (A Rare Benedictine、短編集) {{ダイヤモンド・ダガー賞の受賞者}} {{Normdaten}} {{writer-stub}} {{DEFAULTSORT:はあしたあ いいていす}} [[Category:20世紀イングランドの小説家]] [[Category:イングランドの女性小説家]] [[Category:イギリスの歴史小説家]] [[Category:イギリスの女性推理作家]] [[Category:イングランドの推理作家]] [[Category:女性歴史小説家]] [[Category:イングランドの翻訳家]] [[Category:テルフォード・アンド・リーキン出身の人物]] [[Category:大英帝国勲章受章者]] [[Category:ダイヤモンド・ダガー賞の受賞者]] [[Category:1913年生]] [[Category:1995年没]]
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1620年
1620年(1620 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
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1620年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1620}} {{year-definition|1620}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元和 (日本)|元和]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2280年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]48年、[[泰昌]]元年8月 - *** [[李文]] : [[天真混|真混]]元年(万暦47年12月) ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天命 (後金)|天命]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3953年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永祚 (黎朝)|永祚]]2年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]28年 * [[仏滅紀元]] : 2162年 - 2163年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1029年 - 1030年 * [[ユダヤ暦]] : 5380年 - 5381年 * [[ユリウス暦]] : 1619年12月22日 - 1620年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1620}} == できごと == * [[7月17日]](元和6年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[徳川秀忠]]の娘・[[徳川和子|和子]](東福門院)が[[後水尾天皇]]の[[女御]]として入内。 * [[9月16日]] - [[ピルグリム・ファーザーズ]]を乗せた[[メイフラワー号]]が[[プリマス]]出航。 * [[11月20日]] - [[ボヘミア]]で[[白山の戦い|白山(ビーラー・ホラ)の戦い]]起こる。 * [[12月21日]] - ピルグリム・ファーザーズが、現在プリマス・ロックとして知られる岩に上陸。 * [[12月26日]] - メイフラワー号、[[マサチューセッツ州]][[プリマス (マサチューセッツ州)|プリマス]]に上陸。 * 猿楽(現・能楽)シテ方の名手[[喜多七太夫長能]]が[[金剛座]]より独立し、[[喜多流]]を創設。 * [[イギリス]]人発明家[[コルネリウス・ドレベル]]、世界初の[[潜水艦]]を建造。 * [[フランス]]で[[ユグノー]]による反乱(-[[1629年]]) == 誕生 == {{see also|Category:1620年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月16日]] - [[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]、[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](+ [[1688年]]) * [[7月21日]] - [[ジャン・ピカール]]、[[天文学者]](+ [[1682年]]) * [[10月31日]] - [[ジョン・イーヴリン]]、[[イングランド]]の政治家・[[日記]]作家(+ [[1706年]]) * 月日不明 - [[エドム・マリオット]]、[[司祭]]、[[物理学者]](+ [[1684年]]) * 月日不明 - [[アヴァクーム]]、[[ロシア]]の[[司祭]](+ [[1682年]])([[1621年]]生まれ説あり) == 死去 == {{see also|Category:1620年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月23日]](元和5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[直江兼続]]、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、上杉氏の家老(* [[1560年]]) * [[3月27日]](元和6年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[小松姫]]、[[信濃国]][[松代藩]]藩主・[[真田信之]]の妻(* [[1573年]]) * [[4月17日]] - [[尚久王|尚久]]、[[琉球王国]]国王・[[尚豊王|尚豊]]の父(* [[1560年]]) * [[5月11日]](元和6年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]) - [[渡辺守綱]]、[[徳川十六神将]]の一人に数えられた[[武将]](* [[1542年]]) * [[5月16日]](元和6年[[4月24日 (旧暦)|4月24日]]) - [[ウィリアム・アダムス]](三浦按針)、日本へ漂着したイギリス人航海士(* [[1564年]]) * [[8月18日]] - [[万暦帝]]、明の第14代皇帝(* [[1563年]]) * [[9月26日]] - [[泰昌帝]]、明の第15代皇帝(* [[1582年]]) * [[10月14日]] - [[尚寧王|尚寧]]、琉球王国国王(* [[1564年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1620}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1620ねん}} [[Category:1620年|*]]
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ブルセラ
ブルセラとは、ブルマーとセーラー服の混成語(造語)である。 高度経済成長から20世紀末期頃まで、日本の学校教育機関で多く体育授業用として採用されていた「ブルマー」を意味する「ブル」と、学校教育機関で制服・標準服として採用されることのある「セーラー服」を意味する「セラ」を単純に結合した混成語(造語)であるが、教育現場では使用されておらず、俗語としての性質が強い。『熱烈投稿』という雑誌 (1985年創刊)に創刊号より掲載されている「月刊ブル・セラ新聞」という連載記事がルーツである。 1990年代より、成人向けの雑誌グラビアの衣装としてもブルマーとセーラー服は多く用いられるようになり、1992年には『クリーム』が創刊し、いわゆる「お菓子系」の先駆けとなる。『ワッフル』『ホイップ』などとともに、ブルセラのグラビアを多く掲載した。 また中古制服を取り扱うブルセラショップも全国に開業した。 ブルセラが社会現象となった1990年代には、ブルマーやルーズソックスが女子高生の象徴的なアイテムとなっていたこともあり、21世紀に入った今日でもコスプレやファッションなどで用いられている。 ブルセラショップは、女子高生の中古の制服や体操服、ソックスなどを取り扱う店舗である。 この店は、単に制服を販売する制服販売店や体操服等を販売するスポーツ用品店とは異なる。在庫の制服等は流通業者等から仕入れるほか女子高生や卒業生から直接買い取ったりし、これを主に男性客に販売して利益を得る。AV制作会社や飲食店等が女子高生の制服を調達するのに利用することもある。 通常、以下のような着用済み衣類である。 ブルセラショップでは取引形態は、買受形態、受託・あっせん形態の二類型に分類される。 ブルセラショップは、女子中高生から商品を買い受ける。女子中高生は最終消費者(ブルセラショップの顧客)との取引には関与せず、商品売約の有無にかかわらず代金を手にすることができる。買取価格の一例として「パンツ1枚1340円、制服1着1-10万円」という記録が残っている。 顧客の立場から見ると、本当にその子が着用したのか証明が存在しない、また使用済みでない商品を偽装して販売している可能性があり、商品の価値を見誤る可能性がある(女子中高生の写真 やビデオ を商品に 添付することも行われた)。また女子中高生としては、本来客との直接交渉で得られる価値よりも低い価格でショップに買い受けられるリスクがある。しかし、ブルセラは性的な商品を取引するものであることから、学校や両親に不埒な行為を知られる危険性が常にあるものであり、ショップを経由することでそれを減らしている側面もある。 この形態では、女子中高生から商品を買い受けることはしない。女子中高生に販売する場を提供したり、購買する客を女子中高生に紹介したりすることで、売買取引をあっせんすることになる。 女子中高生に販売する場を提供する場合は、女子中高生が店舗内で直接あるいは写真を通じて客に姿を見せたりして、客はどの女子中高生の商品を購入するかを意思決定することが多い。このとき、客は女子中高生に商品の代金を支払い、店舗内で商品の引渡しを受けることになる。そして、ショップは女子高生が客から受けた代金の中から一定の金額を貰い、販売の場を提供したことの対価を受ける。これについて、鈴木涼美の証言が残っている。「マジックミラーの向こう側に4桁の番号と値段を書いた名札を付けた少女たちがいる。顧客は気に入った子がいれば、番号を指定する。少女はその場で脱いで、専用の受け渡し場所で商品を手渡す。売り上げの一定割合をショップに支払う」 また、購買する客を女子中高生に紹介する場合は、女子中高生が店舗内で客に姿を見せたか否かに関わらず、どの女子中高生の商品を購入するかを意思決定した客が、店舗外で商品の代金の支払いと商品の引渡しを受けるものである。店舗は、あらかじめ女子中高生からあっせん料の支払いを受けている。 いずれの場合にせよ、受託あっせん形態において特徴的なのは、女子中高生が客と直接取引に立つ点と、女子中高生は売買契約成立が無い場合の危険を負担する点である。この取引形態であれば、客はどの女子中高生の商品であるのかを直接知ることができて、買受形態のように商品の価値を見誤ることは少ない。例えば、商品がショーツであれば客はその女子中高生が直接脱ぐ姿を見ることができる(ショーツの下にTバックを穿いている場合もあり、この場合は狭義の生とは言えない)。また、女子中高生が客と直接取引関係に立つことで、商品価値を客と交渉することができる。これは客としても、女子中高生本人と接触したり、制服・下着・体操服を脱ぐ姿を見ることができる点で高い価値があると考えることができて、より高い代金の支払いをする動機付けとなる。 女子中高生がブルセラショップで取引する目的は、専ら安易な経済的手段としてである。 自らの有する衣類等をショップに販売することで利益を上げ、その利益を娯楽やファッション等のために使用することが多い。つまり、利益を貯蓄することはなく、短期的に多額を学業以外の目的に使用することが多い(例外も存在する)。 最初のブルセラショップが、正確にいつ誕生したのか?について、定説はない。大塚英志は、自らの記憶をたどり「使用済の下着を売る店は1985年ころからある。これは『女子高生はなぜ下着を売ったのか?―社会事件にまでなったブルセラ女子高生を追った14ヵ月間 』(藤井良樹、JICC出版局、1993)を読んだ記憶とも矛盾しない」と言う。ただし、当時はブルセラ(ショップ)という言葉はなかった。 初めて「ブルセラショップ」という名称で営業したのは、東京都新宿区高田馬場の「ロペ」である。 白川充は、1991-1992年にブルセラショップが多数誕生したと言う。この頃にはブルセラショップという言葉が使われている。宮台真司によると、本物の素人女子高生が下着や制服を売る現象は、正確に1992年から始まっている(それまでは主婦やOLが下着を売っていた)。 これを新聞記事を通じて社会に広めた結果、宮台は「ブルセラ社会学者」の称号を賜る。 1993年、ブルセラ・ブームが発生したとする文献もある。ブルマ―が直接に性欲と結びつき、ブルマ―(を身に着けた女子生徒)が性的なまなざしに晒されたことが、学校教育からブルマ―消滅した理由であるという説もある。なお、ブルマーが大量に盗難されたという報道が90年代以降増加するが、これはブルセラショップ、つまり換金可能なマーケットの存在と符合する。この年、『宝島』『マルコポーロ』『BOX』『SPA!』などがブルセラの記事で盛り上がる。これら雑誌が、ブルセラが広く一般に知られるきっかけとなった。 ブルセラショップ誕生を「1996年」とする文献もある。 地理的拡散について述べると、東京・横浜などの関東圏、大阪・神戸・京都などの関西圏、名古屋などの中京圏を中心とした大都市に始まり、後に仙台・札幌・福岡の地方都市に広がって行った。 この産業は、 したために、急速に繁栄した。 宮台真司によると、1993年のブルセラ・ブームは、1986-87年の第1次テレクラ・ブーム、1991年の第2次テレクラ・ブームの存在を前提とする。割のいいアルバイトとして情報が拡散される背景には、電話風俗で培った経験がある。ダイヤルQ2を利用すれば顧客と連絡を取ることも容易であった。なお、ダイヤルQ2は2014年(平成26年)2月28日でサービスを終了しており、現在は0990から始まる電話番号が災害時の募金に用途を限定した 災害募金サービス として使われている。 その他、「ブルセラを大きく取り上げる社会学者もいるが、なぜブルマーがいいのか、という問いかけは蔑ろにされている」と言う社会学者もいる。 1993年(平成5年)8月、警視庁は初めてブルセラショップを摘発した。容疑は古物営業法 および職業安定法 違反。ビデオに出演していた少女110人も補導された。 ブルセラが社会現象となっていたものの、この時点で18歳未満の下着売買を直接規制する法令はなかったため、別の既存の法律を適用しての摘発となった。なお、店内で少女らに直接販売させる場合、店は「場所を提供してるだけ」なので古物営業法の適用はできない。 ブルセラショップ自体に法令で対処するため、大都市圏の各自治体は、18歳未満の青少年が着用済み下着等(自治体によっては水着、唾液、糞尿、体毛なども対象とし、また青少年が着用済みに該当すると称した下着等も対象としている)を買受・売却受託・売却あっせんを禁止し、違反者に刑事罰を規定するように『青少年保護育成条例』を改正した。東京都では2004年3月31日、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」にブルセラ規制の文言が盛り込まれ、2004年6月施行。18歳未満が店頭で直接、脱ぎたての下着や唾液などを提供する「生セラ」と呼ばれる営業形態が問題視されていたことも背景にある。 これにより、大都市圏において18歳未満の人物が、下着を古物商業者に持ち込み買い取らせるということが困難となり、18歳未満が、着用済みの下着に絡むブルセラショップは衰退した。但しこの条例は18歳未満の者から只で下着を貰うことや18歳未満の者の親から18歳未満の者の下着を買うことは禁止していないザル法である。一度不要品として保護者に下着の所有権を移してから18歳未満の者が下着を出品するという手法を用いて条例違反を回避するブルセラショップも存在する。 2014年の報道によると、マニアに支持される少数の店舗がひっそりと営業しているに過ぎない。 ブルセラショップの中には、コスプレショップやアダルトショップに転換して営業を継続した店舗もある。また、コスプレなどのサブカルチャーの大衆化により、コスプレ用の既製品も多く市場に出回るようになり、ブルセラショップは過去の遺産となっている。コスプレ用のものが多く流通している現代においても、本物の制服は一部のマニアからは人気が高く、インターネットを利用して直接取引されることもある。2015年の報道によると、出会い系サイトなどで隠語を使って売買したり、TwitterやLINEなどを使った隠密取引も行われている。 また、ヤフオクやメルカリなどでの中古制服の販売規制により、近年ではミアコスなどに代表される新品の 有名校レプリカ制服 の販売が盛んになっている。但し、ブルセラではなく本来の用途で再利用するための中古制服の販売は安定的に行われており、オークションサイトやフリマサイトで在学生向けに販売されている中古制服を目的外で狙う者は後を絶たない状況にある。正規の学用品店やリユースショップでは制服の購入で入学・在学を証明する書類が必要であるなど、関係者以外には制服を利用させない工夫が行われている。 ブルセラがブームとなった時期に、中学生・高校生の時期であった人は「ブルセラ世代」と呼ばれることもある。 店舗型のブルセラショップは衰退したものの、個人のウェブサイトやSNS上で使用済みの下着を販売する、「売り子」と称される女性が出現した。 最も初期のものは2002年3月から営業開始した個人経営型のウェブサイト『FETISH★NET 見習いシスターRYOKOの部屋』であり、RYOKOと名乗る女性が不特定多数の客を相手に個人のブルセラショップを経営していた。このサイトでは管理人の使用済み下着の他にもポートレート画像なども販売していた。ただし、こうした営業形態はウェブサイトを立ち上げるコストを売り子側が負担しなければならいため、一般の女性はほとんど参入しなかった。 2005年以降は、アダオク、ギャルマ、ホワイトムーンをはじめ、売り子対客の個人取引(C to C)を総合的に扱うフリーマーケット型のプラットフォームが出現し、売り子を行うハードルが極端に下げられたことで、市場に参入する一般女性の数が急速に拡大した。販売形態としては、売り子が着用済みの下着に対して客が入札するオークション形式や、客が売り子に対して着用方法を指定できるオーダーメイド形式がある。前者では使用済み下着という適正価格が分かりにくい商品に対して客同士の競売により最適な価格決定が行われること、後者では決済までの時間を短縮できる他、客が売り子に対して着用日数、体液の付加(膣分泌液、尿、汗、唾液、生理血液、糞)、着用画像や動画などをフォームを利用して細かく指定できることが特徴である。 法律上は、インターネット販売のブルセラはデリバリーヘルスなどの無店舗型性風俗店営業、ライブチャットなどの映像送信型性風俗店営業およびリサイクルショップなどの古物商営業にあたり、経営にはこれらすべての届け出が必要である。また、店舗型と同様に18歳未満は下着の販売を禁止されているため、主に女子大生やセクシー女優が売り子として参加している。 インターネット販売では、店舗型と比較してそれぞれ次のような利点と課題がある。
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"初めて「ブルセラショップ」という名称で営業したのは、東京都新宿区高田馬場の「ロペ」である。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "白川充は、1991-1992年にブルセラショップが多数誕生したと言う。この頃にはブルセラショップという言葉が使われている。宮台真司によると、本物の素人女子高生が下着や制服を売る現象は、正確に1992年から始まっている(それまでは主婦やOLが下着を売っていた)。 これを新聞記事を通じて社会に広めた結果、宮台は「ブルセラ社会学者」の称号を賜る。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1993年、ブルセラ・ブームが発生したとする文献もある。ブルマ―が直接に性欲と結びつき、ブルマ―(を身に着けた女子生徒)が性的なまなざしに晒されたことが、学校教育からブルマ―消滅した理由であるという説もある。なお、ブルマーが大量に盗難されたという報道が90年代以降増加するが、これはブルセラショップ、つまり換金可能なマーケットの存在と符合する。この年、『宝島』『マルコポーロ』『BOX』『SPA!』などがブルセラの記事で盛り上がる。これら雑誌が、ブルセラが広く一般に知られるきっかけとなった。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ブルセラショップ誕生を「1996年」とする文献もある。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "地理的拡散について述べると、東京・横浜などの関東圏、大阪・神戸・京都などの関西圏、名古屋などの中京圏を中心とした大都市に始まり、後に仙台・札幌・福岡の地方都市に広がって行った。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この産業は、", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "したために、急速に繁栄した。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "宮台真司によると、1993年のブルセラ・ブームは、1986-87年の第1次テレクラ・ブーム、1991年の第2次テレクラ・ブームの存在を前提とする。割のいいアルバイトとして情報が拡散される背景には、電話風俗で培った経験がある。ダイヤルQ2を利用すれば顧客と連絡を取ることも容易であった。なお、ダイヤルQ2は2014年(平成26年)2月28日でサービスを終了しており、現在は0990から始まる電話番号が災害時の募金に用途を限定した 災害募金サービス として使われている。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その他、「ブルセラを大きく取り上げる社会学者もいるが、なぜブルマーがいいのか、という問いかけは蔑ろにされている」と言う社会学者もいる。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)8月、警視庁は初めてブルセラショップを摘発した。容疑は古物営業法 および職業安定法 違反。ビデオに出演していた少女110人も補導された。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ブルセラが社会現象となっていたものの、この時点で18歳未満の下着売買を直接規制する法令はなかったため、別の既存の法律を適用しての摘発となった。なお、店内で少女らに直接販売させる場合、店は「場所を提供してるだけ」なので古物営業法の適用はできない。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ブルセラショップ自体に法令で対処するため、大都市圏の各自治体は、18歳未満の青少年が着用済み下着等(自治体によっては水着、唾液、糞尿、体毛なども対象とし、また青少年が着用済みに該当すると称した下着等も対象としている)を買受・売却受託・売却あっせんを禁止し、違反者に刑事罰を規定するように『青少年保護育成条例』を改正した。東京都では2004年3月31日、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」にブルセラ規制の文言が盛り込まれ、2004年6月施行。18歳未満が店頭で直接、脱ぎたての下着や唾液などを提供する「生セラ」と呼ばれる営業形態が問題視されていたことも背景にある。 これにより、大都市圏において18歳未満の人物が、下着を古物商業者に持ち込み買い取らせるということが困難となり、18歳未満が、着用済みの下着に絡むブルセラショップは衰退した。但しこの条例は18歳未満の者から只で下着を貰うことや18歳未満の者の親から18歳未満の者の下着を買うことは禁止していないザル法である。一度不要品として保護者に下着の所有権を移してから18歳未満の者が下着を出品するという手法を用いて条例違反を回避するブルセラショップも存在する。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2014年の報道によると、マニアに支持される少数の店舗がひっそりと営業しているに過ぎない。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ブルセラショップの中には、コスプレショップやアダルトショップに転換して営業を継続した店舗もある。また、コスプレなどのサブカルチャーの大衆化により、コスプレ用の既製品も多く市場に出回るようになり、ブルセラショップは過去の遺産となっている。コスプレ用のものが多く流通している現代においても、本物の制服は一部のマニアからは人気が高く、インターネットを利用して直接取引されることもある。2015年の報道によると、出会い系サイトなどで隠語を使って売買したり、TwitterやLINEなどを使った隠密取引も行われている。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、ヤフオクやメルカリなどでの中古制服の販売規制により、近年ではミアコスなどに代表される新品の 有名校レプリカ制服 の販売が盛んになっている。但し、ブルセラではなく本来の用途で再利用するための中古制服の販売は安定的に行われており、オークションサイトやフリマサイトで在学生向けに販売されている中古制服を目的外で狙う者は後を絶たない状況にある。正規の学用品店やリユースショップでは制服の購入で入学・在学を証明する書類が必要であるなど、関係者以外には制服を利用させない工夫が行われている。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ブルセラがブームとなった時期に、中学生・高校生の時期であった人は「ブルセラ世代」と呼ばれることもある。", "title": "ブルセラショップ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "店舗型のブルセラショップは衰退したものの、個人のウェブサイトやSNS上で使用済みの下着を販売する、「売り子」と称される女性が出現した。", "title": "インターネット販売" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最も初期のものは2002年3月から営業開始した個人経営型のウェブサイト『FETISH★NET 見習いシスターRYOKOの部屋』であり、RYOKOと名乗る女性が不特定多数の客を相手に個人のブルセラショップを経営していた。このサイトでは管理人の使用済み下着の他にもポートレート画像なども販売していた。ただし、こうした営業形態はウェブサイトを立ち上げるコストを売り子側が負担しなければならいため、一般の女性はほとんど参入しなかった。", "title": "インターネット販売" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2005年以降は、アダオク、ギャルマ、ホワイトムーンをはじめ、売り子対客の個人取引(C to C)を総合的に扱うフリーマーケット型のプラットフォームが出現し、売り子を行うハードルが極端に下げられたことで、市場に参入する一般女性の数が急速に拡大した。販売形態としては、売り子が着用済みの下着に対して客が入札するオークション形式や、客が売り子に対して着用方法を指定できるオーダーメイド形式がある。前者では使用済み下着という適正価格が分かりにくい商品に対して客同士の競売により最適な価格決定が行われること、後者では決済までの時間を短縮できる他、客が売り子に対して着用日数、体液の付加(膣分泌液、尿、汗、唾液、生理血液、糞)、着用画像や動画などをフォームを利用して細かく指定できることが特徴である。", "title": "インターネット販売" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "法律上は、インターネット販売のブルセラはデリバリーヘルスなどの無店舗型性風俗店営業、ライブチャットなどの映像送信型性風俗店営業およびリサイクルショップなどの古物商営業にあたり、経営にはこれらすべての届け出が必要である。また、店舗型と同様に18歳未満は下着の販売を禁止されているため、主に女子大生やセクシー女優が売り子として参加している。", "title": "インターネット販売" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "インターネット販売では、店舗型と比較してそれぞれ次のような利点と課題がある。", "title": "インターネット販売" } ]
ブルセラとは、ブルマーとセーラー服の混成語(造語)である。 高度経済成長から20世紀末期頃まで、日本の学校教育機関で多く体育授業用として採用されていた「ブルマー」を意味する「ブル」と、学校教育機関で制服・標準服として採用されることのある「セーラー服」を意味する「セラ」を単純に結合した混成語(造語)であるが、教育現場では使用されておらず、俗語としての性質が強い。『熱烈投稿』という雑誌 (1985年創刊)に創刊号より掲載されている「月刊ブル・セラ新聞」という連載記事がルーツである。 1990年代より、成人向けの雑誌グラビアの衣装としてもブルマーとセーラー服は多く用いられるようになり、1992年には『クリーム』が創刊し、いわゆる「お菓子系」の先駆けとなる。『ワッフル』『ホイップ』などとともに、ブルセラのグラビアを多く掲載した。 また中古制服を取り扱うブルセラショップも全国に開業した。 ブルセラが社会現象となった1990年代には、ブルマーやルーズソックスが女子高生の象徴的なアイテムとなっていたこともあり、21世紀に入った今日でもコスプレやファッションなどで用いられている。
{{Otheruses|性風俗用語|細菌感染症|ブルセラ症|樹木の種類|:en:Bursera}} {{性的}} '''ブルセラ'''とは、[[ブルマー]]と[[セーラー服]]の[[混成語]]([[造語]])である。 [[高度経済成長]]から[[20世紀]]末期頃まで、日本の学校教育機関で多く体育授業用として採用されていた「[[ブルマー]]」を意味する「ブル」と、学校教育機関で制服・標準服として採用されることのある「[[セーラー服]]」を意味する「セラ」を単純に結合した[[混成語]](造語)であるが、教育現場では使用されておらず、俗語としての性質が強い。『熱烈投稿』という雑誌 (1985年創刊)に創刊号より掲載されている「月刊ブル・セラ新聞」という連載記事がルーツである<ref name="POST">{{Cite journal|和書|author= |title=昭和・平成 エロ本全史|date=2019-07-08|publisher=小学館|journal=週刊ポスト|volume=51|issue=25|naid= |pages=169-176}}</ref>。 [[1990年代]]より、成人向けの雑誌グラビアの衣装としてもブルマーとセーラー服は多く用いられるようになり、1992年には『[[クリーム (雑誌)|クリーム]]』が創刊し、いわゆる「[[お菓子系]]」の先駆けとなる。『[[ワッフル (雑誌)|ワッフル]]』『[[ホイップ (雑誌)|ホイップ]]』などとともに、ブルセラのグラビアを多く掲載した<ref name="POST"/>。 また中古制服を取り扱うブルセラショップも全国に開業した。 ブルセラが社会現象となった1990年代には、ブルマーや[[ルーズソックス]]が[[女子高生]]の象徴的なアイテムとなっていたこともあり、[[21世紀]]に入った今日でも[[コスプレ]]やファッションなどで用いられている。 == ブルセラショップ == ブルセラショップは、女子高生の中古の制服や[[体操着|体操服]]、ソックスなどを取り扱う店舗である。 この店は、単に制服を販売する制服販売店や体操服等を販売するスポーツ用品店とは異なる。在庫の制服等は流通業者等から仕入れるほか女子高生や卒業生から直接買い取ったりし、これを主に男性客に販売して利益を得る。AV制作会社や飲食店等が女子高生の制服を調達するのに利用することもある。 === 販売されている物 === 通常、以下のような着用済み衣類である。 * 「ブルセラ」の語源であるブルマーやセーラー服のみならず、[[体操着]]や[[ブレザー]]の制服や、水泳授業で用いられる[[スクール水着]]([[ハイレグ|ハイレグ型競泳水着]]を含む)・水着インナーが販売される。 * また、これらの学校教育機関で用いられる衣類のみならず、日常生活で[[女子高生|女子中高生]]が着用する[[パンティー|ショーツ]]・[[ブラジャー]]などの[[下着]](シミ付き)や、[[ルーズソックス]]などの[[靴下]]、[[スニーカー]]や[[上履き]]などの[[靴]]、普段着や外出着などの衣類も販売される。また衣類でも、着用済み衣類でないものが販売される場合もある。 * [[化粧品]]・[[香水]]・[[文房具|筆記用具]]・[[鞄]]など日用品が販売される場合もある。 === 取引形態 === ブルセラショップでは取引形態は、買受形態、受託・あっせん形態の二類型に分類される。 ==== 買受形態 ==== ブルセラショップは、女子中高生から商品を買い受ける。女子中高生は最終消費者(ブルセラショップの顧客)との取引には関与せず、商品売約の有無にかかわらず代金を手にすることができる。買取価格の一例として「パンツ1枚1340円、制服1着1-10万円」という記録が残っている<ref name="BOOK-8"/>。 顧客の立場から見ると、本当にその子が着用したのか証明が存在しない、また使用済みでない商品を偽装して販売している可能性があり、商品の価値を見誤る可能性がある(女子中高生の写真<ref name="NEWS-11">{{Cite web|和書|author= |date=2019-03-29|url=https://archive.is/8n5Lt|title=「生脱ぎパンツ1万円」東大院卒・元AV女優が語る、ブルセラ&キャバ嬢ブームの光と闇|website=msn.com|accessdate=2019-08-02}}</ref> やビデオ<ref name="NEWS-12">{{Cite web|和書|author=藤井良樹|date=2015-02-02|url=http://tokyokirara.com/tsuji/819 |title=猥褻するは我にあり~〝帝王〞辻幸雄の犯と罰~ 第3回 『ワイセツの基準を教えてくれ』|website=tokyokirara.com|publisher= |accessdate=2019-08-02}}</ref> を商品に 添付することも行われた)。また女子中高生としては、本来客との直接交渉で得られる価値よりも低い価格でショップに買い受けられるリスクがある。しかし、ブルセラは性的な商品を取引するものであることから、学校や両親に不埒な行為を知られる危険性が常にあるものであり、ショップを経由することでそれを減らしている側面もある。 ==== 受託あっせん形態 ==== この形態では、女子中高生から商品を買い受けることはしない。女子中高生に販売する場を提供したり、購買する客を女子中高生に紹介したりすることで、売買取引をあっせんすることになる。 女子中高生に販売する場を提供する場合は、女子中高生が店舗内で直接あるいは写真を通じて客に姿を見せたりして、客はどの女子中高生の商品を購入するかを意思決定することが多い。このとき、客は女子中高生に商品の代金を支払い、店舗内で商品の引渡しを受けることになる。そして、ショップは女子高生が客から受けた代金の中から一定の金額を貰い、販売の場を提供したことの対価を受ける。これについて、鈴木涼美の証言が残っている。「マジックミラーの向こう側に4桁の番号と値段を書いた名札を付けた少女たちがいる。顧客は気に入った子がいれば、番号を指定する。少女はその場で脱いで、専用の受け渡し場所で商品を手渡す。売り上げの一定割合をショップに支払う」<ref name="NEWS-11"/> また、購買する客を女子中高生に紹介する場合は、女子中高生が店舗内で客に姿を見せたか否かに関わらず、どの女子中高生の商品を購入するかを意思決定した客が、店舗外で商品の代金の支払いと商品の引渡しを受けるものである。店舗は、あらかじめ女子中高生からあっせん料の支払いを受けている。 いずれの場合にせよ、受託あっせん形態において特徴的なのは、女子中高生が客と直接取引に立つ点と、女子中高生は売買契約成立が無い場合の危険を負担する点である。この取引形態であれば、客はどの女子中高生の商品であるのかを直接知ることができて、買受形態のように商品の価値を見誤ることは少ない。例えば、商品がショーツであれば客はその女子中高生が直接脱ぐ姿を見ることができる(ショーツの下にTバックを穿いている場合もあり、この場合は狭義の生とは言えない<ref name="NEWS-11"/>)。また、女子中高生が客と直接取引関係に立つことで、商品価値を客と交渉することができる。これは客としても、女子中高生本人と接触したり、制服・下着・体操服を脱ぐ姿を見ることができる点で高い価値があると考えることができて、より高い代金の支払いをする動機付けとなる。 === 女子中高生が利益を上げる目的 === 女子中高生がブルセラショップで取引する目的は、専ら安易な経済的手段としてである。 自らの有する衣類等をショップに販売することで利益を上げ、その利益を娯楽やファッション等のために使用することが多い。つまり、利益を貯蓄することはなく、短期的に多額を学業以外の目的に使用することが多い(例外も存在する)。 === 時代の変遷 === ==== ブルセラ産業の繁栄 ==== 最初のブルセラショップが、正確にいつ誕生したのか?について、定説はない。大塚英志は、自らの記憶をたどり「使用済の下着を売る店は1985年ころからある。これは『女子高生はなぜ下着を売ったのか?―社会事件にまでなったブルセラ女子高生を追った14ヵ月間 』(藤井良樹、JICC出版局、1993)を読んだ記憶とも矛盾しない」と言う。ただし、当時はブルセラ(ショップ)という言葉はなかった<ref name="BOOK-3">{{Cite book|和書|author=大塚英志|date=2004-02-20|title=「おたく」の精神史―一九八〇年代論|publisher=講談社|series=講談社現代新書1703 |pages=372-379|isbn=4-06-149703-0}}</ref>。 初めて「ブルセラショップ」という名称で営業したのは、[[東京都]][[新宿区]][[高田馬場]]の「ロペ」である<ref name="SHOP-001">{{Cite web|和書|url=http://www.rope-baba.com|title=東京高田馬場ではじめた元祖ブルセラのロペ|website=rope-baba.com|publisher=有限会社ロペ商事|accessdate=2019-08-02}}</ref>。 白川充は、1991-1992年にブルセラショップが多数誕生したと言う。この頃にはブルセラショップという言葉が使われている<ref name="BOOK-6">{{Cite book|和書|author=白川充|date=2007-08-31|title=昭和 平成 ニッポン性風俗史――売買春の60年|publisher=展望社|page=227|isbn=978-4-88546-180-4}}</ref>。[[宮台真司]]によると、本物の素人女子高生が下着や制服を売る現象は、'''正確に1992年から'''始まっている(それまでは主婦や[[OL]]が下着を売っていた)<ref name="RONBUN-20">{{Cite web|和書|author=宮台真司|date=2009-06-28|url=http://www.miyadai.com/index.php?itemid=755|title=『調査情報』2009年7-8月号(489号)に次著を予告する長文を掲載しました|website=miyadai.com|accessdate=2019-08-02}}</ref>。 これを新聞記事を通じて社会に広めた結果、宮台は「ブルセラ社会学者」の称号を賜る。 1993年、ブルセラ・ブームが発生したとする文献もある<ref name="BOOK-5">{{Cite book|和書|author1=高橋一郎|author2=萩原美代子|author3=谷口雅子|author4=掛水通子|author5=角田聡美|date=2005-04-15|title=ブルマーの社会史 女子体育へのまなざし|publisher=青弓社|series=青弓社ライブラリー36|page=239|isbn=4-7872-3242-8}}</ref>。ブルマ―が直接に[[性欲]]と結びつき、ブルマ―(を身に着けた女子生徒)が性的なまなざしに晒されたことが、学校教育からブルマ―消滅した理由であるという説もある<ref name="BOOK-5"/>。なお、ブルマーが'''大量に'''盗難されたという報道が90年代以降増加するが、これはブルセラショップ、つまり換金可能なマーケットの存在と符合する<ref name="BOOK-7">{{Cite book|和書|author=山本雄二|date=2017-01-06|title=ブルマーの謎 <女子の身体>と戦後日本|publisher=青弓社|pages=148-150|isbn=978-4-7872-3410-0}}</ref>。この年、『宝島』『マルコポーロ』『BOX』『SPA!』などがブルセラの記事で盛り上がる<ref name="BOOK-8">{{Cite book|和書|author=宮台真司|date=1994-11-25|title=制服少女たちの選択|publisher=講談社|pages=25-54|isbn=}}</ref>。これら雑誌が、ブルセラが広く一般に知られるきっかけとなった<ref name="BOOK-4">{{Cite book|和書|author1=井上俊|author2=上野千鶴子|author3=大澤真幸|author4=見田宗介|author5=吉見俊哉|year=1996|title=セクシュアリティーの社会学|publisher=岩波書店|series=岩波講座現代社会学|pages=203-222|isbn=978-4-00010-700-6}}</ref>。 ブルセラショップ誕生を「1996年」とする文献もある<ref name="BOOK-1">{{Cite book|和書|author=SWASH|date=2018-09-30|title=セックスワーク・スタディーズ 当事者視点で考える性と労働|publisher=日本評論社|pages=240-242|isbn=978-4-535-58724-3}}</ref>。 地理的拡散について述べると、[[東京都区部|東京]]・[[横浜市|横浜]]などの[[関東地方|関東圏]]、[[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]]・[[京都市|京都]]などの[[関西圏]]、[[名古屋市|名古屋]]などの[[中京圏]]を中心とした大都市に始まり、後に[[仙台市|仙台]]・[[札幌市|札幌]]・[[福岡市|福岡]]の地方都市に広がって行った。 この産業は、 # 本来価値の希薄な商品を高額で販売できるいう店の利害 # 比較的容易に入手した自らの持ち物を高値で販売できるという女子中高生の利害 # 普段接触できない青少年と接触したりショーツなどに価値を見出す顧客の利害が合致 したために、急速に繁栄した。 ==== 社会学 ==== 宮台真司によると、1993年のブルセラ・ブームは、1986-87年の第1次テレクラ・ブーム、1991年の第2次テレクラ・ブームの存在を前提とする。割のいいアルバイトとして情報が拡散される背景には、電話風俗で培った経験がある。[[ダイヤルQ2]]を利用すれば顧客と連絡を取ることも容易であった<ref name="BOOK-4"/>。なお、ダイヤルQ2は[[2014年]](平成26年)[[2月28日]]でサービスを終了しており、現在は'''0990'''から始まる電話番号が[[災害]]時の[[募金]]に用途を限定した '''災害募金サービス''' として使われている。 その他、「ブルセラを大きく取り上げる社会学者もいるが、なぜブルマーがいいのか、という問いかけは蔑ろにされている」と言う社会学者もいる<ref name="BOOK-2">{{Cite book|和書|author= |date=2012-12-15|title=現代社会学事典|publisher=弘文堂|page=772|isbn=978-4-335-55148-2}}</ref>。 ==== 検挙・法規制 ==== [[1993年]](平成5年)8月、[[警視庁]]は初めてブルセラショップを摘発した。容疑は[[古物営業法]]<ref>{{Cite book|和書|author=上野千鶴子(編)|year=1996|title=色と欲|publisher=小学館|series=現代の世相Ⅰ|page=151}}</ref> および[[職業安定法]]<ref name="BOOK-8"/> 違反。ビデオに出演していた少女110人も補導された<ref>{{Cite news|和書|title=ブルセラビデオ製作業者逮捕。出演していた女子高生など110人補導、都内ブルセラショップも摘発|newspaper=日本経済新聞|location= |date=1993-08-11|author= }}</ref>。 ブルセラが社会現象となっていたものの、この時点で18歳未満の下着売買を直接規制する法令はなかったため、別の既存の法律を適用しての摘発となった。なお、店内で少女らに直接販売させる場合、店は「場所を提供してるだけ」なので古物営業法の適用はできない<ref name="TO-JOUREI"/>。 ブルセラショップ自体に法令で対処するため、大都市圏の各自治体は、18歳未満の青少年が着用済み下着等(自治体によっては水着、唾液、糞尿、体毛なども対象とし、また青少年が着用済みに該当すると称した下着等も対象としている)を買受・売却受託・売却あっせんを禁止し、違反者に刑事罰を規定するように『[[青少年保護育成条例]]』を改正した<ref name="TO-JOUREI">{{Cite web|和書|date=2004-01-10 | url = http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00000006-kyodo-soci | archiveurl = https://web.archive.org/web/20040215035923/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00000006-kyodo-soci | archivedate = 2004-02-15 |title=少女の下着買い取り規制へ 都青少年条例で答申案|website=headlines.yahoo.co.jp|accessdate=2004-02-15}}</ref>。東京都では2004年3月31日、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」にブルセラ規制の文言が盛り込まれ<ref name="BOOK-1"/>、2004年6月施行<ref name="N-SPO">{{Cite web|和書|date=2015-12-27|url=https://archive.is/UeQDk|title=潜在人口多く今後も続発必至/最近のブルセラ事情|website=nikkansports.com|publisher=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2015-12-27}}</ref>。18歳未満が店頭で直接、脱ぎたての下着や唾液などを提供する「生セラ」と呼ばれる営業形態が問題視されていたことも背景にある<ref name="NEWS-10">{{Cite web|和書|date=2017-01-24|url=https://archive.is/UIMhV|title=また出現〝唾くれおじさん〟女子中生を毒牙に 「生セラ」規制条例であえなく御用「においきついと興奮」|website=産経WEST|publisher=株式会社産業経済新聞社|accessdate=2019-08-02}}</ref>。 これにより、大都市圏において18歳未満の人物が、下着を古物商業者に持ち込み買い取らせるということが困難となり、18歳未満が、着用済みの下着に絡むブルセラショップは衰退した。但しこの条例は18歳未満の者から只で下着を貰うことや18歳未満の者の親から18歳未満の者の下着を買うことは禁止していない[[ザル法]]である。一度不要品として保護者に下着の所有権を移してから18歳未満の者が下着を出品するという手法を用いて条例違反を回避するブルセラショップも存在する。<ref>[https://sailorz.jp/info/info.cgi?mode=kiyaku ブルセラショップ セーラーズ]</ref> === 近年の状況 === 2014年の報道によると、マニアに支持される少数の店舗がひっそりと営業しているに過ぎない<ref name="N-SPA">{{Cite web|和書|date=2014-12-02|url=https://archive.is/MjIXK|title=ひっそりと営業を続ける「ブルセラ」ショップの今|website=日刊SPA!|publisher=株式会社扶桑社|accessdate=2019-07-30}}</ref>。 ブルセラショップの中には、[[コスプレショップ]]や[[アダルトショップ]]に転換して営業を継続した店舗もある。また、[[コスプレ]]などのサブカルチャーの大衆化により、コスプレ用の既製品も多く市場に出回るようになり、ブルセラショップは過去の遺産となっている。コスプレ用のものが多く流通している現代においても、本物の制服は一部のマニアからは人気が高く、インターネットを利用して直接取引されることもある。2015年の報道によると、出会い系サイトなどで隠語を使って売買したり、[[Twitter]]や[[LINE (アプリケーション)|LINE]]などを使った隠密取引も行われている<ref name="N-SPO"/>。 また、ヤフオクやメルカリなどでの中古制服の販売規制により、近年ではミアコスなどに代表される新品の [http://mia.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=2075909&sort=p 有名校レプリカ制服] の販売が盛んになっている。 ブルセラがブームとなった時期に、中学生・高校生の時期であった人は「ブルセラ世代」と呼ばれることもある。 == インターネット販売 == 店舗型のブルセラショップは衰退したものの、個人のウェブサイトやSNS上で使用済みの下着を販売する、「売り子」と称される女性が出現した。 最も初期のものは[[2002年]]3月から営業開始した個人経営型のウェブサイト『FETISH★NET 見習いシスターRYOKOの部屋』であり、RYOKOと名乗る女性が不特定多数の客を相手に個人のブルセラショップを経営していた<ref>{{Cite web|和書|title=FETISH★NET ~見習いシスターRYOKOの部屋~ | url = http://www.fetish-net.jp/ | archiveurl = https://web.archive.org/web/20050906042253/http://www.fetish-net.jp/ | archivedate = 2005-09-06 |date=2005-09-06|accessdate=2020-09-14}}</ref>。このサイトでは管理人の使用済み下着の他にもポートレート画像なども販売していた。ただし、こうした営業形態はウェブサイトを立ち上げるコストを売り子側が負担しなければならいため、一般の女性はほとんど参入しなかった。 [[2005年]]以降は、[[アダオク]]、[[ギャルマ]]、[[ホワイトムーン]]をはじめ、売り子対客の個人取引([[C to C]])を総合的に扱う[[フリーマーケット]]型のプラットフォームが出現し、売り子を行うハードルが極端に下げられたことで、市場に参入する一般女性の数が急速に拡大した。販売形態としては、売り子が着用済みの下着に対して客が入札する[[オークション]]形式や、客が売り子に対して着用方法を指定できる[[オーダーメイド]]形式がある。前者では使用済み下着という適正価格が分かりにくい商品に対して客同士の競売により最適な[[競売|価格決定]]が行われること、後者では決済までの時間を短縮できる他、客が売り子に対して着用日数、[[体液]]の付加([[膣分泌液]]、[[尿]]、[[汗]]、[[唾液]]、[[月経|生理血液]]、[[糞]])、着用画像や動画などを[[フォーム (曖昧さ回避)|フォーム]]を利用して細かく指定できることが特徴である。 法律上は、インターネット販売のブルセラは[[デリバリーヘルス]]などの[[無店舗型性風俗特殊営業|無店舗型性風俗店営業]]、[[ライブチャット]]などの[[映像送信型性風俗店営業]]および[[古物商|リサイクルショップ]]などの[[古物営業法|古物商営業]]にあたり、経営にはこれらすべての届け出が必要である。また、店舗型と同様に18歳未満は下着の販売を禁止されているため、主に[[女子大生]]や[[AV女優|セクシー女優]]が売り子として参加している。 インターネット販売では、店舗型と比較してそれぞれ次のような利点と課題がある。 === 利点 === * 地理的に離れた不特定多数の売り子と客同士が取引できる。 * 客が商品の質に対して注文を付けられる。(オーダーメイド型の場合) * 価格決定が店舗ではなく売り子や客の裁量で決定できる。 * 売り子の身辺の安全が保証される。 === 課題 === * 売り子に[[なりすまし]]て下着を販売している男性なども少なくはなく、客が詐欺に遭うなどの被害も発生している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/uramarvelous/entry-12606741220.html|title=2020年 詐欺容疑 飯田敏和の詐欺事件 使用済み下着販売|accessdate=2020-9-10|publisher=}}</ref>([[ネカマ]]問題)。そのため、一部のサイトでは売り子の登録時に[[身分証明書]]の提出を求め、[[本人確認]]を実施している。 * 購入時に商品の発送先として本名や住所などの個人情報を開示する必要があり、[[プライバシー]]上のリスクを客が負担する必要が生じる。 * 商品の注文から納品まで最低でも1日以上かかる。 * 輸送中に付着した体液が[[腐敗]]したり、[[カビ]]が生えるなど変質してしまうことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.w-moon.net/sp/houto-6.html|title=気温が高い時期、湿度の高い時期には、極稀に汚れが変質する可能性があります。- ホワイトムーン|accessdate=2020-9-10|publisher=}}</ref>。一部のサイトでは、[[クール宅急便]]などの利用を推奨したり、体液そのものの販売を自粛している。 == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[コスプレショップ]] * [[古物商]] * [[体操着]] * [[女子高生]] * [[下着フェティシズム]] {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふるせら}} [[Category:ファッションに関するフェティシズム]] [[Category:性風俗関連特殊営業]] [[Category:日本の性風俗産業]] [[Category:造語]]
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北鮮
北鮮(ほくせん、朝鮮語: 북선) は、朝鮮半島に関して次のような意味で用いられる:
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北鮮(ほくせん、朝鮮語: 북선) は、朝鮮半島に関して次のような意味で用いられる: 竹駕嶺地溝帯ないしは楸哥嶺地溝帯を境界として南・北鮮に区分されたもののうち北半分。 日本統治時代においては、北・西・中・南鮮に区界されたもののうち、咸鏡南道・咸鏡北道。 第二次世界大戦後においては北朝鮮を指す。差別用語とされることもある。
'''北鮮'''(ほくせん、{{Lang-ko|북선}}) は、[[朝鮮半島]]に関して次のような意味で用いられる: * 竹駕嶺地溝帯<ref name="朝鮮總督府416">朝鮮總督府『調査資料第三十八輯 生活状態調査 (其五) 朝鮮の聚落前篇』昭和八年三月三十日發行、四一六頁。</ref>ないしは{{仮リンク|楸哥嶺地溝帯|ko|추가령구조곡}}<ref name="下中 (1938)">下中彌三郎編輯『東洋歷史大辭典 第六巻』平凡社、昭和十三年一月二十五日 初版第一刷發行、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918856/88 一六四頁]。</ref>を境界として南・北鮮に区分された<ref name="朝鮮總督府416"/>もののうち北半分<ref name="下中 (1938)"/>。 * [[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代]]においては、北・西・中・南鮮に区界されたもののうち、[[咸鏡南道 (日本統治時代)|咸鏡南道]]・[[咸鏡北道 (日本統治時代)|咸鏡北道]]<ref name="下中 (1938)"/><ref>伊藤正愨編輯『朝鮮に於ける家庭工業調査』京城商工会議所、昭和十二年三月丗一日發行、[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906149/13 一七~一九頁]。</ref>。 * 第二次世界大戦後においては[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を指す。[[差別用語]]とされることもある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[南鮮]] * [[北鮮海流]] * [[東鮮暖流]] * [[平徳線|西鮮中央鉄道]] {{aimai}} {{デフォルトソート:ほくせん}}
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ユリカモメ
ユリカモメ (百合鴎、学名:Chroicocephalus ridibundus)は、チドリ目カモメ科に分類される鳥類の一種である。 ユーラシア大陸北部やイギリス、アイスランドなどで繁殖し、冬は南下しヨーロッパ、アフリカ、インド、東南アジアへ渡りをおこない越冬する。北アメリカ東海岸に渡るものもいる。 日本では冬鳥として、北海道から南西諸島まで広く渡来し、小型のカモメ類の大半が本種である。ただし、北海道では厳冬期にはほとんど見られなくなる。主に、全国の海岸や河川、沼地などに普通に渡来する。 国際自然保護連合(IUCN)により、軽度懸念(LC)の指定を受けている。1992年に多摩動物公園が、ユリカモメで繁殖賞を受賞した。 全長は約40 cm。翼開張は約93 cm。足とくちばしは赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。ズグロカモメと似ているが、ズグロカモメのくちばしは黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できる。 海岸、内陸の湖沼や河川に比較的大規模な群を作り生活する。大きな河川では河口から10 km以上も遡る。夜は海に戻り、沖合のいかだなどを塒とする。京都市の鴨川でも多くの個体が観察される。鴨川のものは比叡山上空を通過し、琵琶湖で夜を過ごす。基本的にはカモメ科と同じく魚や甲殻類、オキアミを食べるが、カモメ科としては珍しく様々な環境に対応できるので雑食性で、近くに水草が生えている河川や池では昆虫や雑草の種子などを食べ、港では不要な捨てられた魚を食べ、時には人の食べ物や売られている魚を横取りすることも少なくない。その他に市街地や農村では人のゴミをあさるので同じく餌場にいるカラスなどの他の鳥と取り合いなどの喧嘩をすることもある。昼間は常に餌場近くにおり、夜間はこれとは異なる海上や湖で過ごす。 栃木県では、1974年以降、本種の記録が著しく増加している。宇都宮市と真岡市鬼怒川の記録によると、渡来時期は主に4月と10-11月であり、渡りのときには内陸部を通過しているものと思われる。 夏に繁殖するため、日本では基本的に営巣しない。 日本の古典文学に登場する「都鳥」は、現在の和名がミヤコドリ (Haematopus ostralegus) である鳥ではなく、ユリカモメを指すとする説が有力である。 その根拠として、『伊勢物語』の「九段 東下り」が示される。 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。 このように、「都鳥」は「隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥」とされているが、この条件に当てはまる鳥としてはユリカモメが最も近い。そのため、「都鳥=ユリカモメ」と推定されている。なお、ミヤコドリは嘴と脚が赤いものの体色は黒(腹部を除く)であり、英語名(Oystercatcher)の通り、食性はカキなどの貝類を食べる。このように両者は異なる。 なお、現在の京都ではユリカモメは鴨川などで普通に見られるありふれた鳥であるが、鴨川に姿を見せるようになったのは、1974年のことである。それ以前は「京には見えぬ鳥」であった。 以下の自治体が「自治体の鳥」に定めている。
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ユリカモメ は、チドリ目カモメ科に分類される鳥類の一種である。
{{Otheruses|鳥類|その他|ゆりかもめ}} {{生物分類表 |省略=鳥綱 |名称=ユリカモメ |画像=[[ファイル:Lachm%C3%B6we_%28Larus_ridibundus%29_4.jpg|250px|ユリカモメ、冬羽]]<br>冬羽のユリカモメ |status = LC |status_ref = <ref name="IUCN">{{Cite web |url=http://www.iucnredlist.org/apps/redlist/details/106003240/0 |title=IUCN 2011. IUCN Red List of Threatened Species. Version 2011.2. (''Larus ridibundus'') |publisher=[[IUCN]] |accessdate=2012-01-02 |language=英語 }}</ref> |目 = [[チドリ目]] {{Sname||Charadriiformes}} |科 = [[カモメ科]] {{Sname||Laridae}} |属 = ''{{Sname||Chroicocephalus}}'' |種 = '''ユリカモメ''' ''C. ridibundus'' |学名 = ''Chroicocephalus ridibundus''<br />{{AU|Linnaeus}}, [[1766年|1766]]<ref>{{Cite web |url=http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=176835 |title=''Chroicocephalus ridibundus'' Linnaeus, 1766 |publisher=[[ITIS]] |language=英語 |accessdate=2012-03-25}}</ref> |和名 = ユリカモメ(百合鴎) |英名 = [[w:Black-headed Gull|Black-headed Gull]] |生息図 = [[ファイル:Black-headed Gull ebird data map.png|250px]] |生息図キャプション = <div style="text-align:left"> {{legend|#f1f53d|繁殖地}} {{legend|#00D6EE|越冬地}} {{legend|#00D300|周年生息地}} </div>}} [[ファイル:Black-headed Gulls (Larus ridibundus) (W1CDR0001402 BD19).ogg|サムネイル|Larus ridibundus]] '''ユリカモメ''' (百合鴎、学名:''Chroicocephalus ridibundus'')は、[[チドリ目]][[カモメ科]]に分類される[[鳥類]]の一種である。 == 分布 == [[ユーラシア大陸]]北部や[[イギリス]]、[[アイスランド]]などで繁殖し、冬は南下し[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[インド]]、[[東南アジア]]へ[[渡り]]をおこない越冬する。[[北アメリカ]]東海岸に渡るものもいる。 [[日本]]では[[渡り鳥#渡り鳥の種類|冬鳥]]として、[[北海道]]から[[南西諸島]]まで広く渡来し、小型のカモメ類の大半が本種である。ただし、北海道では厳冬期にはほとんど見られなくなる。主に、全国の[[海岸]]や[[河川]]、[[沼地]]などに普通に渡来する。 [[国際自然保護連合]](IUCN)により、[[軽度懸念]](LC)の指定を受けている<ref name="IUCN" />。1992年に[[多摩動物公園]]が、ユリカモメで[[繁殖賞]]を受賞した。 == 形態 == 全長は約40 [[センチメートル|cm]]。[[翼幅|翼開張]]は約93 cm<ref name="ひと目でわかる野鳥">{{Cite book|和書 |editor=中川雄三(監修) |date=2010-01 |title=ひと目でわかる野鳥 |publisher=成美堂出版 |isbn=978-4415305325 |pages=38}}</ref>。足と[[くちばし]]は赤色。[[夏羽]]は頭部が黒褐色になる(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。[[ズグロカモメ]]と似ているが、ズグロカモメの[[くちばし]]は黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できる。 <gallery widths="150" heights="120"> ファイル:Yuri-kamome(Larus ridibundus) white-black headed in Ohori park 2007.JPG|夏羽と冬羽が混じった状態。4月、福岡市[[大濠公園]]にて ファイル:Lachmöwe.jpg|夏羽、営巣地にて ファイル:Chroicocephalus ridibundus in flight (adult in summer plumage).JPG|飛ぶ姿(夏羽) ファイル:Black-headed_Gulls,_London.jpg|飛ぶ姿(冬羽) </gallery> == 生態 == 海岸、内陸の[[湖沼]]や河川に比較的大規模な群を作り生活する。大きな河川では河口から10 [[キロメートル|km]]以上も遡る。夜は海に戻り、沖合のいかだなどを塒とする。[[京都市]]の[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]でも多くの個体が観察される。鴨川のものは[[比叡山]]上空を通過し、[[琵琶湖]]で夜を過ごす。基本的にはカモメ科と同じく[[魚]]や[[甲殻類]]、[[オキアミ]]を食べるが、カモメ科としては珍しく様々な環境に対応できるので雑食性で、近くに水草が生えている河川や池では[[昆虫]]や雑草の[[種子]]などを食べ、港では不要な捨てられた魚を食べ、時には人の食べ物や売られている魚を横取りすることも少なくない。その他に市街地や農村では人のゴミをあさるので同じく餌場にいるカラスなどの他の鳥と取り合いなどの喧嘩をすることもある。昼間は常に餌場近くにおり、夜間はこれとは異なる海上や湖で過ごす。 [[栃木県]]では、1974年以降、本種の記録が著しく増加している。[[宇都宮市]]と[[真岡市]]鬼怒川の記録によると、渡来時期は主に4月と10-11月であり、[[渡り]]のときには内陸部を通過しているものと思われる<ref>平野敏明 「栃木県におけるユリカモメの観察記録」『[[Strix]]』1巻、[[日本野鳥の会]]、1982年、19-23頁</ref>。 [[夏]]に[[繁殖]]するため、日本では基本的に営巣しない。 <gallery widths="150" heights="120"> Chroicocephalus ridibundus MHNT.ZOO.2010.11.128.1.jpg |卵 </gallery> == 「都鳥」 == 日本の古典文学に登場する「都鳥」は、現在の[[和名]]が[[ミヤコドリ]] (''Haematopus ostralegus'') である鳥ではなく、ユリカモメを指すとする説が有力である。 その根拠として、『[[伊勢物語]]』の「九段 東下り」が示される。 <blockquote> なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、<span style="text-decoration:underline;">白き鳥の嘴と脚と赤き、[[シギ|しぎ]]の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ</span>。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。 </blockquote> [[ファイル:Haematopus ostralegus He.jpg|thumb|right|200px|ミヤコドリ]] このように、「都鳥」は「[[隅田川]]にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥」とされているが、この条件に当てはまる鳥としてはユリカモメが最も近い。そのため、「'''都鳥=ユリカモメ'''」と推定されている。なお、<span style="text-decoration:underline;">ミヤコドリは嘴と脚が赤いものの[[体色]]は黒</span>(腹部を除く)であり、[[英語]]名([[:en:Oystercatcher|Oystercatcher]])の通り、食性はカキなどの[[貝類]]を食べる。このように両者は異なる。 なお、現在の[[京都]]ではユリカモメは[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]などで普通に見られるありふれた鳥であるが、鴨川に姿を見せるようになったのは、[[1974年]]のことである<ref>[https://web.archive.org/web/20180624193301/http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/meisyo/31.html 冬の使者 楽園に舞う  31. ユリカモメ - 当世-京都名所図会:京都新聞]</ref>。それ以前は「京には見えぬ鳥」であった。 {{-}} == 自治体の鳥 == 以下の自治体が「自治体の鳥」に定めている。 * [[東京都]] ** 東京都[[品川区]] * [[埼玉県]][[春日部市]] * [[静岡県]][[焼津市]] * [[三重県]][[四日市市]] ** 三重県[[楠町 (三重県)|楠町]] - 四日市市に編入され消滅。 * [[福井県]][[敦賀市]] * [[滋賀県]][[大津市]] * [[徳島県]][[那賀川町]] - [[阿南市]]に編入され消滅。 * [[福岡県]][[福岡市]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{Sisterlinks |species=Chroicocephalus ridibundus |commonscat=Chroicocephalus ridibundus |commons=Chroicocephalus ridibundus |wikt=ユリカモメ|b=no|q=no|s=no|n=no|v=no |d=Q25634 }} * [[ミナミユリカモメ]] * [[日本の野鳥一覧]] * [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ(新交通システム)]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆりかもめ}} [[Category:カモメ科]] [[Category:東京都の象徴]] [[Category:冬の季語]]
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多言語
多言語(たげんご、英: multilingual)とは、複数の言語が並存すること。また、一個の人間、国家、社会、文書、コンピュータ、ウェブサイトやソフトウェアなどが、複数個の言語に直面したり対応したりすること。多重言語ともいう。 複数の言語を使用可能な人間を、多言語話者、マルチリンガル、ポリグロットと呼ぶ。人間は6言語以上の習得から難易度が高くなり、11言語以上の話者をハイパーポリグロット(Hyperpolyglot)と呼ぶ。 以下に、多言語の例を列挙する。 多言語話者(マルチリンガル(英: multilingual)、ポリグロット(英: polyglot))とは、二種類以上の言語(同じ言語の方言は含まない場合が多い)能力を持っている人のことである。そのうち、二言語話者をバイリンガル(英: bilingual)、三言語話者をトリリンガル(英: trilingual)、四言語以上の話者をマルチリンガル(英: multilingual)と呼ぶ。 しかし、言語をどの程度まで扱える場合に「多言語話者」と定義されるのか(生活に支障がないレベルで十分なのか、母語話者と丁々発止の議論を遣り合える程度なのか、母語習得期に複数の言語を浴びていたのか)は非常に曖昧である。かつ、何をもって一つの言語と数えるのかの議論も輻輳している。 マルチリンガルは、状況・話題・聞き手などに応じて言語を使い分けているのが普通である。もっとも、この現象は、複数方言の話者でも行われているので、多「言語」話者にのみ特徴的なこととは言えない。ポリグロット同士の一連の会話で複数の言語を織り交ぜる現象(コードスイッチング)が観察され、それに関する研究も盛んである。 言語は満8歳(7歳説、5歳説も)まででないと母語としての習得は難しいとされる(臨界期仮説)ため、「外国語の習得には若い方がよい」という主張もあるが、単純に過ぎ、有力な反論も多い。また、幼いうちに外国語を身に付けさせると母語の確立が遅れかねないというジレンマがある上、長じても母語の表現力が貧弱なままでとどまったり(「セミリンガル」)、外国語を習得した人材が相次いで国外流出してしまうといった深刻な社会問題に発展する可能性も高い。 自ら外国語を学習して多言語話者となる以外で多言語話者になる要因としては、個人的なものと社会的なものの2つがある。前者の例としては、日本のような圧倒的なモノリンガル社会にやってきた移民や出稼ぎ労働者が当てはまる。後者の事例としては、スイスやベルギーなど複数の言語共同体が共存している場合である。 しかし、こういった多言語状態を政府は嫌うのが常で、言語政策・言語計画の名の下に「標準語」の策定・普及を推し進め、方言・少数(移民)民族の言語を抑圧し排除されるケースが多々見られる。また、ドイツ語圏やアラビア語圏のように同言語の標準語(公共・教育など)と地方方言(日常生活など)に機能的優劣が付けられた社会も存在し、ダイグロシアと呼ばれる。 ちなみに、一言語のみ習得している者はモノリンガル(英: monolingual)、二言語の環境で育ち、その両言語において年齢に応じたレベルに達していない者はセミリンガルと呼ばれる。近年は、セミリンガルという言葉が否定的だという意見が増え、ダブル・リミテッド(ダブルリミテッド)という名称が広まりつつある。一方、市川力は、外国語で教育された者だけでなく母語だけで教育された者も「セミリンガル」になる可能性はある、母語だけで教育されれば無条件で「モノリンガル」になるという感覚はおかしい、という考えから敢えて「セミリンガル」という単語を使用している(2004年時点)。ダブル・リミテッドは、日本においては帰国子女や日本に住む外国人児童の間に散見されるため、特に教育関係者の懸案事項となっており、言語学や教育学の専門家による研究が広く行われている。 言語獲得は環境および年齢差・個人差が大きい上に、日常会話能力(BICS)はバイリンガルであっても、抽象思考や学習のための言語能力(CALP)がダブル・リミテッドの状態にあり教科学習に支障をきたす者もいる。何をもってバイリンガル、何をもってダブル・リミテッドと判断するのかは未だ曖昧である。 アフリカでは、大多数の国々が2つ以上の公用語を有する。この他、公用語ではないが、多種多様な言語が用いられている国や地域がいくつもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "多言語(たげんご、英: multilingual)とは、複数の言語が並存すること。また、一個の人間、国家、社会、文書、コンピュータ、ウェブサイトやソフトウェアなどが、複数個の言語に直面したり対応したりすること。多重言語ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "複数の言語を使用可能な人間を、多言語話者、マルチリンガル、ポリグロットと呼ぶ。人間は6言語以上の習得から難易度が高くなり、11言語以上の話者をハイパーポリグロット(Hyperpolyglot)と呼ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "以下に、多言語の例を列挙する。", "title": "例" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多言語話者(マルチリンガル(英: multilingual)、ポリグロット(英: polyglot))とは、二種類以上の言語(同じ言語の方言は含まない場合が多い)能力を持っている人のことである。そのうち、二言語話者をバイリンガル(英: bilingual)、三言語話者をトリリンガル(英: trilingual)、四言語以上の話者をマルチリンガル(英: multilingual)と呼ぶ。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "しかし、言語をどの程度まで扱える場合に「多言語話者」と定義されるのか(生活に支障がないレベルで十分なのか、母語話者と丁々発止の議論を遣り合える程度なのか、母語習得期に複数の言語を浴びていたのか)は非常に曖昧である。かつ、何をもって一つの言語と数えるのかの議論も輻輳している。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "マルチリンガルは、状況・話題・聞き手などに応じて言語を使い分けているのが普通である。もっとも、この現象は、複数方言の話者でも行われているので、多「言語」話者にのみ特徴的なこととは言えない。ポリグロット同士の一連の会話で複数の言語を織り交ぜる現象(コードスイッチング)が観察され、それに関する研究も盛んである。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "言語は満8歳(7歳説、5歳説も)まででないと母語としての習得は難しいとされる(臨界期仮説)ため、「外国語の習得には若い方がよい」という主張もあるが、単純に過ぎ、有力な反論も多い。また、幼いうちに外国語を身に付けさせると母語の確立が遅れかねないというジレンマがある上、長じても母語の表現力が貧弱なままでとどまったり(「セミリンガル」)、外国語を習得した人材が相次いで国外流出してしまうといった深刻な社会問題に発展する可能性も高い。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "自ら外国語を学習して多言語話者となる以外で多言語話者になる要因としては、個人的なものと社会的なものの2つがある。前者の例としては、日本のような圧倒的なモノリンガル社会にやってきた移民や出稼ぎ労働者が当てはまる。後者の事例としては、スイスやベルギーなど複数の言語共同体が共存している場合である。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、こういった多言語状態を政府は嫌うのが常で、言語政策・言語計画の名の下に「標準語」の策定・普及を推し進め、方言・少数(移民)民族の言語を抑圧し排除されるケースが多々見られる。また、ドイツ語圏やアラビア語圏のように同言語の標準語(公共・教育など)と地方方言(日常生活など)に機能的優劣が付けられた社会も存在し、ダイグロシアと呼ばれる。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ちなみに、一言語のみ習得している者はモノリンガル(英: monolingual)、二言語の環境で育ち、その両言語において年齢に応じたレベルに達していない者はセミリンガルと呼ばれる。近年は、セミリンガルという言葉が否定的だという意見が増え、ダブル・リミテッド(ダブルリミテッド)という名称が広まりつつある。一方、市川力は、外国語で教育された者だけでなく母語だけで教育された者も「セミリンガル」になる可能性はある、母語だけで教育されれば無条件で「モノリンガル」になるという感覚はおかしい、という考えから敢えて「セミリンガル」という単語を使用している(2004年時点)。ダブル・リミテッドは、日本においては帰国子女や日本に住む外国人児童の間に散見されるため、特に教育関係者の懸案事項となっており、言語学や教育学の専門家による研究が広く行われている。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "言語獲得は環境および年齢差・個人差が大きい上に、日常会話能力(BICS)はバイリンガルであっても、抽象思考や学習のための言語能力(CALP)がダブル・リミテッドの状態にあり教科学習に支障をきたす者もいる。何をもってバイリンガル、何をもってダブル・リミテッドと判断するのかは未だ曖昧である。", "title": "話者" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アフリカでは、大多数の国々が2つ以上の公用語を有する。この他、公用語ではないが、多種多様な言語が用いられている国や地域がいくつもある。", "title": "2つ以上の公用語、準公用語が存在する国" } ]
多言語とは、複数の言語が並存すること。また、一個の人間、国家、社会、文書、コンピュータ、ウェブサイトやソフトウェアなどが、複数個の言語に直面したり対応したりすること。多重言語ともいう。 複数の言語を使用可能な人間を、多言語話者、マルチリンガル、ポリグロットと呼ぶ。人間は6言語以上の習得から難易度が高くなり、11言語以上の話者をハイパーポリグロット(Hyperpolyglot)と呼ぶ。
{{WikipediaPage||Wikipedia:多言語プロジェクトとしてのウィキペディア}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{社会言語学}} [[ファイル:10 Rupees (Obverse).jpg|サムネイル|多言語で書かれたインドの紙幣]] '''多言語'''(たげんご、{{lang-en-short|multilingual}})とは、複数の[[言語]]が並存すること。また、一個の[[人間]]、[[国家]]、[[社会]]、[[文書]]、[[コンピュータ]]、[[ウェブサイト]]や[[ソフトウェア]]などが、複数個の言語に直面したり対応したりすること。'''多重言語'''ともいう。 複数の言語を使用可能な人間を、多言語話者、マルチリンガル、ポリグロットと呼ぶ。人間は6言語以上の習得から難易度が高くなり、11言語以上の話者をハイパーポリグロット(Hyperpolyglot)と呼ぶ。 == 例 == 以下に、多言語の例を列挙する。 * 地球規模で展開する[[インターネット]]は、多言語の[[国際組織]]のような[[多言語社会]]である。 ** 多言語社会がある地域に存在し、国家単位をなすとき、基準となる言語がひとつまたは複数存在する。そのような国家を[[多言語国家]]と呼ぶ。そのうち、公務に使われることを[[法令]]で定めた言語を[[公用語]]、その他、多くの人が使うものを[[共通語]]と呼ぶ。 ** インターネットでは初め英語が多く用いられていたが、近年では多言語化が目覚ましい。[[検索エンジン]]などのサービスは多言語に対応したものが多い。また機械翻訳エンジンも多く提供されている。 * 多言語対応(多言語化、m17n:multilingualization) *: [[ソフトウェア]]の「[[多言語化]]」を「[[国際化と地域化|国際化]]」と対比して述べる場合、「多言語化」ではソフトウェアが扱う内容に注目し、一つのソフトウェアが複数の[[文字]]、[[言語]]や[[文化的]]慣習を一度に混在させて扱えるようにすることを指す。一方「国際化」ではソフトウェアの利用者に注目し、利用者がもとめる言語や文化的慣習などの要求に応じて、たくさんの言語の中から切り替えて一度には一つだけを使えるようにすることを指す。この場合、多言語化と国際化は補完関係にあり、多言語化されていないが国際化されているソフトウェア(例:国際化された英文[[ワードプロセッサ]])や多言語化されているが国際化されていないソフトウェア(例:操作体系が英語だけで多言語を表示できる[[ウェブブラウザ]])もあり得る。ただし、「国際化」と対比しない場合は、多言語を切り替えて利用できるだけの場合も「多言語化」と言う場合がある。 ** [[World Wide Web]](WWW)上において複数の言語に対応するサイトを[[多言語サイト]]と呼ぶ(例:[[ウィキペディア]])。 ** [[パーソナルコンピュータ]](パソコン)や[[サーバ]]の一般向け[[オペレーティングシステム]](OS)は、[[1990年代]]は概ね多言語用に別ソフトウェア追加や特殊な操作をする必要があったが、[[2000年代]]以後はユーザーがOSを自分で設定して、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]・[[フォント]]・言語に沿った日付表示方式などの多言語処理をできるようになってきた。 ** 世界中で事業を行う組織の職員情報や顧客情報を扱う[[ディレクトリ・サービス]]や[[データベース]]では、人名などをそのまま登録できるように多言語を一度に混在して扱える。 ** 外国語の辞典では、二つ以上の言語をそれぞれ正しい表現で扱える必要がある。 == 話者 == [[File:Bilingualism boosts grades at Treorchy Comprehensive.webm|thumb|ウェールズの多言語主義に関するウェールズ政府の諮問ビデオ、日本語字幕付き]] 多言語話者(マルチリンガル({{lang-en-short|multilingual}})、ポリグロット({{lang-en-short|polyglot}}))とは、二種類以上の[[言語]](同じ言語の[[方言]]は含まない場合が多い)能力を持っている人のことである。そのうち、二言語話者を'''バイリンガル'''({{lang-en-short|bilingual}})、三言語話者を'''トリリンガル'''({{lang-en-short|trilingual}})、四言語以上の話者を'''マルチリンガル'''({{lang-en-short|multilingual}})と呼ぶ。 しかし、[[自然言語|言語]]をどの程度まで扱える場合に「多言語話者」と定義されるのか([[生活]]に支障がないレベルで十分なのか、母語話者と丁々発止の議論を遣り合える程度なのか、母語習得期に複数の言語を浴びていたのか)は非常に曖昧である。かつ、何をもって一つの言語と数えるのかの議論も輻輳している。{{main|[[方言連続体]]}} マルチリンガルは、状況・話題・聞き手などに応じて言語を使い分けているのが普通である。もっとも、この現象は、複数方言の話者でも行われているので、多「言語」話者にのみ特徴的なこととは言えない。ポリグロット同士の一連の会話で複数の言語を織り交ぜる現象([[コードスイッチング]])が観察され、それに関する研究も盛んである。 言語は満8歳(7歳説、5歳説も)まででないと母語としての習得は難しいとされる([[臨界期仮説]])ため、「[[外国語]]の習得には若い方がよい」という主張もあるが、単純に過ぎ、有力な反論も多い。また、幼いうちに外国語を身に付けさせると母語の確立が遅れかねないというジレンマがある上、長じても母語の表現力が貧弱なままでとどまったり(「[[セミリンガル]]」)、[[外国語]]を習得した人材が相次いで国外流出してしまうといった深刻な社会問題に発展する可能性も高い。 自ら外国語を学習して多言語話者となる以外で多言語話者になる要因としては、個人的なものと社会的なものの2つがある。前者の例としては、日本のような圧倒的な[[モノリンガル]]社会にやってきた移民や出稼ぎ労働者が当てはまる。後者の事例としては、[[スイス]]や[[ベルギー]]など複数の言語共同体が共存している場合である。 しかし、こういった多言語状態を政府は嫌うのが常で、[[言語政策]]・[[言語計画]]の名の下に「[[標準語]]」の策定・普及を推し進め、[[方言]]・少数(移民)民族の言語を抑圧し排除されるケースが多々見られる。また、[[ドイツ語圏]]や[[アラビア語]]圏のように同言語の[[標準語]](公共・教育など)と地方方言(日常生活など)に機能的優劣が付けられた社会も存在し、'''[[ダイグロシア]]'''と呼ばれる。 ちなみに、一言語のみ習得している者は'''モノリンガル'''({{lang-en-short|monolingual}})、二言語の環境で育ち、その両言語において年齢に応じたレベルに達していない者は'''セミリンガル'''と呼ばれる<ref>[https://bilingualscience.com/english/%E3%80%8C%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%94%A8%E8%AA%9E/ 「セミリンガル」という差別用語]</ref><ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2020/03281100/?all=1&page=2 英語の早期教育、本当に必要? 中途半端な「セミリンガル」を生む恐れ 韓国の二の舞に]</ref><ref>[https://kodomo-eigonavi.net/archives/48 幼児英語教育のデメリット(セミリンガル)を心配するあなたへ]</ref>。近年は、セミリンガルという言葉が否定的だという意見が増え、'''ダブル・リミテッド'''(ダブルリミテッド)という名称が広まりつつある<ref>[https://www.joylingual.com/double-limited/ ダブルリミテッドに関する誤解。子どもの早期英語教育に弊害はない]</ref><ref>[https://gendai.media/articles/-/54131?page=2 日本育ちの子をインターナショナルスクールに入れるのは愚の骨頂だ]</ref>。一方、[[市川力]]は、外国語で教育された者だけでなく母語だけで教育された者も「セミリンガル」になる可能性はある、母語だけで教育されれば無条件で「モノリンガル」になるという感覚はおかしい、という考えから敢えて「セミリンガル」という単語を使用している(2004年時点)<ref>市川力『英語を子供に教えるな』(中公新書ラクレ、2004年) pp.81-82</ref>。ダブル・リミテッドは、日本においては[[帰国子女]]や日本に住む外国人児童の間に散見されるため、特に教育関係者の懸案事項となっており、言語学や教育学の専門家による研究が広く行われている<ref>[http://www.colorado.edu/ealld/atj/SIG/heritage/fujiyama.html コロラド大学内 日本語教師会 『語彙獲得達成レベルにおける第一言語と第二言語の相関性:継承日本語の観点からの考察』]</ref><ref>[http://www.mhb.jp/2006/02/post_4.html 母語・継承語・バイリンガル研究会『事例4. 帰国生徒教育の現場から』](Word形式ファイル)</ref>。 [[言語獲得]]は環境および年齢差・個人差が大きい上に、日常会話能力(BICS)はバイリンガルであっても、抽象思考や学習のための言語能力(CALP)がダブル・リミテッドの状態にあり教科学習に支障をきたす者もいる。何をもってバイリンガル、何をもってダブル・リミテッドと判断するのかは未だ曖昧である。 == 2つ以上の公用語、準公用語が存在する国 == === 北米 === * [[アメリカ合衆国]]:国家レベルでは法定の公用語はないものの国の起こりがイギリスの植民地であったことから[[英語]]が事実上の公用語である。また[[州]]レベルでは公用語が規定されている場合がある。[[ニューメキシコ州]]の[[スペイン語]]、[[ハワイ州]]の[[ハワイ語]]など、州によっては別の言語が英語と併せて公用語指定を受けている。アメリカ全域においては、[[現金自動預け払い機|ATM]]など公共の場でスペイン語が併記されていることが多く、スペイン語学習者も多いことから、スペイン語が事実上アメリカ国内における第二言語(英語の母語話者にとっては第一外国語)と化している。これは、近年増加している[[ヒスパニック]]の影響と推定される。[[コモンウェルス (米国自治連邦区)|コモンウェルス]]である[[プエルトリコ]]は、[[1902年]]の[[フォラカー法]]によりスペイン語と英語が公用語となっているが、住人の大多数は英語はほとんど使わず、スペイン語しか話さない。 * [[カナダ]]:元々、イギリスの植民地であったことから英語が優勢であるものの、連邦政府としては英語と[[フランス語]]の二言語を[[公用語]]として平等に扱うことが明文化されている。なお、[[フランス系カナダ人]]住民が大半を占める[[ケベック州]]ではフランス語のみが公用語として指定されている。 === 中南米 === * [[ニカラグア]]:[[スペイン語]]が公用語であるが、[[カリブ海]]側の[[先住民]]・[[ミスキート族]]は[[英語]]と[[ミスキート語]]を話すため、[[コントラ戦争|ニカラグア内戦]]中の憲法改正により、この二語が[[大西洋]]岸の2[[自治州]]において公用語に定められた。 * [[ペルー]]:征服時からの事情により、スペイン語が主な公用語であるが、人口の半数近い[[インディオ]]住人のため、[[ケチュア語]]、[[アイマラ語]]も公用語になっている。 * [[ボリビア]]:ペルーと同じくスペイン語の他にケチュア語、アイマラ語、[[グアラニー語]]が公用語である。 * [[パラグアイ]]:人口の約80%が[[グアラニー族]]との[[メスティーソ]]であり、バイリンガルであるため、スペイン語と共にグアラニー語が公用語となっている。 * [[アルゼンチン]]:パラグアイ国境付近の[[メソポタミア (アルゼンチン)|メソポタミア地方]]の[[コリエンテス州]]においてはスペイン語と共にグアラニー語も公用語である。 === アジア === * [[インド]]:[[ヒンディー語]]の他、英語など多数あり、その数は21にも及ぶ([[インドの公用語の一覧]]・[[インドの言語]]参照)。 * [[パキスタン]]:[[ウルドゥー語]](国家語、母語率7.57%)、英語(公用語)。話者が最も多いのは、[[パンジャーブ語]](母語率44.15%)で、その他[[パシュトー語]](母語率15.42%)、[[シンド語]](母語率14.10%)、[[サライキ語]](母語率10.53%)など、ウルドゥー語を母語とする話者より話者の集団が多い言語がある他、語族が異なる民族も存在する。憲法において将来ウルドゥー語を公用語とする旨定められており、初中等教育はウルドゥー語でなされるため、母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることは多いが、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強く、全ての法令や、公文書は英語で書かれ、高等教育も英語でなされている。ただし、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。 * [[中華人民共和国]]:[[北京語]]音を基本とする標準[[中国語]]([[普通話]]と呼称)であるが、各地域に数多くの方言(有名な例として[[上海語]]・[[閩語|福建語]]・[[広東語]]など)があり、これらの話者間の相互理解は難しい。そのため、標準語である普通話が存在する。[[内モンゴル自治区]]、[[新疆ウイグル自治区]]、[[チベット自治区]]、[[広西チワン族自治区]]においては、各々[[モンゴル語]]、[[ウィグル語]]、[[チベット語]]、[[チワン語]]が普通話とともに併用公用語となっており、さらに、下位の[[中国の少数民族|少数民族]]による[[民族区域自治|区域自治単位]]においては各々の少数民族の言語が公用語として普通話と併用されている。 * [[香港]](中華人民共和国):中国語・広東語・英語 * [[マカオ]](中華人民共和国):中国語・広東語・[[ポルトガル語]] * [[マレーシア]]:[[マレー語|マレーシア語]]・英語・中国語(広東語、少数ながら中華人民共和国の普通話、[[客家語]]、福建語等)・[[タミル語]] * [[シンガポール]]:中国語(中華人民共和国の普通話、少数ながら[[閩南語]]・広東語等)・英語・マレーシア語・タミル語 * [[台湾]]([[中華民国]]):中国語(北京語音を基本とする[[国語 (中国語)|國語]])・[[台湾語]]・[[客家語]]・[[台湾諸語|原住民諸語]]等 * [[馬祖]](中華民国):[[台湾華語|中国語]]・馬祖語([[閩東語]]) * [[フィリピン]]:[[フィリピン語]]・英語・スペイン語(1986年まで) * [[スリランカ]]:[[シンハラ語]]・タミル語 * [[東ティモール]]:[[テトゥン語]]とポルトガル語の他、インドネシア語、英語、多数の[[部族語]]がある * [[ブルネイ]]:マレーシア語・英語・中国語(広東語) * [[パラオ]]:[[パラオ語]]・英語。その他、州憲法で州公用語が規定されることもある([[アンガウル州]]における日本語など) * [[アフガニスタン]]:[[パシュトゥー語]]、[[ダリー語]] * [[中央アジア]]諸国:旧[[ソビエト連邦]]だった関係で、[[ロシア語]]と現地語、またはその話者の[[母語]]等 **[[カザフスタン]]:[[カザフ語]](国家語、識語率64.4%)、ロシア語(公用語、識語率95%) **[[キルギス]]:[[キルギス語]](国家語、母語話者55.2%)、ロシア語(公用語、母語話者34.0%) **[[タジキスタン]]:[[タジク語]](公用語、母語話者約80%)、ロシア語([[第二言語]]) **[[トルクメニスタン]]:[[トルクメン語]](公用語、母語話者55.2%)、ロシア語 **[[ウズベキスタン]]:[[ウズベク語]](公用語、母語話者74.3%)、ロシア語 === ヨーロッパ === {{See also|欧州連合の言語}} * [[アイルランド]]:[[アイルランド語]]([[ケルト語]])・英語 * [[イギリス]]:英語の他、[[ウェールズ]]で[[ウェールズ語]]、[[スコットランド]]で[[スコットランド・ゲール語]]と[[スコットランド語]]、[[北アイルランド]]でアイルランド語と[[アルスター・スコットランド語]]、[[マン島]]で[[マン島語]]、[[チャネル諸島]]でフランス語がそれぞれ公用語になっている * [[スイス]]:[[ドイツ語]]・フランス語・[[イタリア語]]・[[ロマンシュ語]]。ロマンシュ語の話者は非常に少ないとされている * [[スペイン]]:スペイン語(カスティーリャ語)の他に、[[カタルーニャ語]]([[バレンシア語]])、[[アラン語]]、[[バスク語]]、[[ガリシア語]]が州公用語となっている * [[フィンランド]]:[[フィンランド語]]・[[スウェーデン語]]。[[オーランド諸島]]と呼ばれる地域では、[[スウェーデン]]系の住民が多く住むため、スウェーデン語が島の公用語として主に話されている * [[ベルギー]]:[[オランダ語]]([[フラマン語]])、フランス語([[ワロン語]])、ドイツ語 * [[マルタ]]:英語・[[マルタ語]] * [[ロシア]]:[[ロシア語]]が公用語であるが、各[[ロシアの共和国|民族共和国]]では併用公用語が制定されている。 === アフリカ === {{See also|アフリカの言語}} * [[南アフリカ]]:英語や[[アフリカーンス語]]など公用語は11にも及ぶ。 * [[ルワンダ]]:英語・フランス語・[[ルワンダ語]] * [[ウガンダ]]:英語・[[ガンダ語]]など [[アフリカ]]では、大多数の国々が2つ以上の[[公用語]]を有する。この他、公用語ではないが、[[自然言語|多種多様な言語]]が用いられている[[国]]や[[地域]]がいくつもある。 {{See also|各国の公用語の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連書籍 == * Crystal, David(2003), ''A Dictionary of Linguistics & Phonetics'', 5th edition, Blackwell. p. 51 {{ISBN2| 0631226648}} * Columbia University Press(2004), [http://www.bartleby.com/65/bi/bilingism.html bilingualism] in ''The Columbia Encyclopedia'', 6th edition, Columbia University Press. * Trask, R. L.(1998), ''Key Concepts in Language and Linguistics'', Routledge. pp. 30 - 1 {{ISBN2| 0415157420}} * JACETバイリンガリズム研究会[編](2003)、『日本のバイリンガル教育』、[[三修社]]。{{ISBN2| 4384040067}} * [[唐須教光]](2002)、『なぜ子どもに英語なのか』、日本放送出版協会。{{ISBN2| 4140019565}} * [[中島和子]](1998) 『バイリンガル教育の方法』、アルク(増補改訂版、2001)、{{ISBN2| 9784757402829}} * [[山本雅代]] ** (1991)、『バイリンガル』、大修館書店。{{ISBN2| 4469243078}} ** (1996)、『バイリンガルはどのようにして言語を習得するのか』、[[明石書店]]。{{ISBN2| 4750308846}} ** (2000)、『日本のバイリンガル教育』、明石書店。{{ISBN2| 4750313246}} * [[角山富雄]]、[[上野直子]][編](2003)、『バイリンガルと言語障害』、[[学苑社]]。{{ISBN2| 4761403047}} * [[櫛田健児]](2006)、『[[バイカルチャー]]と日本人』、[[中公新書]]ラクレ。 {{ISBN2| 4121502124}} == 関連項目 == * [[Unicode]] * [[ISO/IEC 10646]] * [[ISO/IEC 2022]] * [[国際化と地域化]] * [[相互理解可能性]] * [[国際補助語]] * [[国際母語デー]] * [[欧州言語の日]] * [[CJKV]] * [[縦書きと横書き]] * [[複雑なテキスト配置]] * [[キー配列]] * [[インプットメソッド]] * [[コーダ (聴者)]] == 外部リンク == * [https://savannah.nongnu.org/projects/m17n/ m17n library ホーム] * [http://www.ibm.com/developerworks/jp/linux/library/l-m17n/index.html m17nを使って世界中にコードを移植する] * [http://www.clair.or.jp/tagengo/ 多言語生活情報] * [https://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/ictseisaku/ictriyou/tagengohonyaku_fukyusokushin/index.html 多言語翻訳の普及推進] * [https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/jigyounushi/tagengoyougosyu/index.html 雇用管理に役立つ多言語用語集] * [https://www.ta-gengo.com/ 多言語辞典] * [https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/multilingual.html 多言語表記の地図] * [https://www.meti.go.jp/policy/economy/distribution/shh_tagengo.html 商品情報多言語化対応|経済産業省] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たけんこ}} [[Category:多言語| ]] [[Category:社会言語学]] [[Category:言語獲得]] [[Category:教育問題]]
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京急700形電車 (2代)
京急700形電車(けいきゅう700がたでんしゃ)はかつて京浜急行電鉄に在籍した通勤形電車である。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけて4両21編成、84両が製造された。 本項では、京急本線上で南側を「浦賀方」または「浦賀寄り」、北側を「品川方」または「品川寄り」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)を、「400形」は1966年(昭和41年)の改番以降の400形(2代)を指す。 自社線内普通列車用として設計・製造され、高度経済成長を背景に混雑が激しくなったラッシュ時の停車時分を短縮するため、京急初の片側4扉車とされた。 全車電動車の1000形に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣ってコストダウンを目的に編成の半分の車両を非電動車とし、先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が付随車サハ770形となった。出力150 kWのモータを採用、粘着性能向上のため電動車の車長を付随車より1 m長くする構造が採られた。1000形の2両1ユニットに対し、700形では電動車はユニットを組まないが、電動発電機、空気圧縮機などの一部補器は付随車に搭載されている。全車電動車の1000形4両編成に対して、付随車を編成中に組み込んだことで製造コストが編成あたり同じ4両編成で800万円安価であったとされている。 当時の京急の発注方針に基づき、車体、台車、主要機器は2社に分けて発注され、最終製造車を除いて東急車輛製造(以下、東急)製の車体には東急製の台車、東洋電機製造(以下、東洋)製主要機器の組み合わせ、川崎車輌(以下、川車、1969年(昭和44年)から川崎重工業の一部、以下、川重)製の車体には三菱電機製(以下、三菱)主要機器の組み合わせで製造された。また、最終製造車を除いて両者が1:1となるよう発注されたため、浦賀方2両と品川方2両で製造者が異なる編成が3編成あった。最終製造車では1971年(昭和46年)以降製造の1000形などと同様機器ごとに各社が分担して製造する方式に変更された。1953年(昭和28年)以降、京急では車体製造者が設計した台車を採用していたが、700形では車体製造者に関わらず共通設計の台車が採用されている。 本項では、落成当時の仕様について述べる。 正面貫通式、1,200 mm幅の片開き片側4扉、ドア間窓2枚、車端部窓1枚、運転台後部窓1枚の窓配置が採られた。ドア間窓2枚のうち1枚は戸袋窓であり、Hゴム支持の固定式である。もう1枚は上下の窓が同一寸法の2段上昇式となり、全開できる構造となったため、保護棒が設置された。700形設計時に横浜駅で8ミリカメラを用いて乗降にかかる時間を測定し、片開き扉と両開き扉では乗降にかかる時間に大差がないことが確認されたこと、片開き扉には重量低減、補修費削減の効果があるうえ、製造コストが1両あたり製造時の価値で100万円下がることから、700形では片開き扉が採用された。 側窓は取り付け高さを1000形より50 mm高くし、高さ900 mm 、幅900 mmとなった。窓高さ1,000 mmの1000形に対し、2段上昇式の窓すべてを幕板部に収納することで窓を全開できるようにしたため、窓上辺高さが50 mm低くなっている。1967年(昭和42年)製造車は窓開口部の大きさを戸袋窓とそれ以外の窓で併せたため、外側から見ると窓枠分戸袋窓がそれ以外の窓より小さくなった。扉窓は最終製造車以外その他の窓に併せて1000形より天地寸法が小さなものが採用されたが、最終製造車は1000形と同じ扉窓となった。 電動車の全長は付随車より1 m長くされ、電動車と付随車の客室面積をほぼ同じにするとともに、電動車の重量を重くすることで粘着性能の向上がはかられた。 正面は1967年(昭和42年)製が高運転台構造とされ、運転室・車掌室窓は横長の縦670 mm × 横750 mmとなった。運転室の床全体を上げると乗務員の乗降に支障するため、床高さは客室と同一とし、踏み台が運転席に設けられた。正面は上から見て半径4,000 mmの曲面で構成され、貫通扉も同じ曲率に仕上げられているが、ガラスは平面ガラスとされた。前照灯は無塗装のカバーを付けたシールドビーム埋め込み式とされ、交換が車内からできるよう前照灯位置が下げられたほか、貫通路を非常用と位置付けたため、貫通幌枠、渡り板は設けられなかった。中間部妻面には1000形と同様幅1,100 mmの貫通路が設けられた。 1000形に比べ中間連結面後退角の縮小など工作が簡略化されている。1000形で採用されていた上屋根は廃止され、FRP製の狭幅のカバーが設けられた。この2つの設計変更は1968年(昭和43年)以降の1000形にも反映されている。 当時の京急標準色である赤に白帯に塗装されたが、窓下辺に白帯上縁を併せたため、1000形より帯が50 mm上になっている。 1969年(昭和44年)製以降製造車は高運転台構造をやめ、 1000形と同一のガラスを使用したため、前面形状がことなる。側窓も外側から見た大きさが一致するよう、戸袋窓が若干大きくなるとともに、角に丸みが設けられた。 内装色は1000形などと同様に壁が灰緑色、天井が白、座席が青、床色が薄緑となった。座席は1人当たりの幅が400 mmのロングシート で、立ち席面積を広く取るため奥行きが1000形より50 mm浅い500 mm、座面は1000形より30 mm高い450 mmとされた。荷棚は1000形より50 mm低い位置に設けられ、天井は丸屋根で換気装置は1000形のファンデリアに対し、首振り扇風機となった。 運転台は1000形とほぼ同一の左手でマスコン、右手でブレーキ弁を操作するレイアウトが採用された。 主制御装置はデハ700形に搭載され、東洋製はES-763A主制御装置(直列10段、並列8段、弱め界磁4段)、 TDK-819系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 V、電流224 A、定格回転数2,000 rpm)に中空軸撓み板式軸型継手が組み合わされ、歯車比は84:17 (4.94) とされた。 三菱製はCB-26C-10主制御装置(制御段数は東洋製と同じ)、MB-3070系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 V、電流224 A、定格回転数1,800 rpm)、撓み歯車型軸継手が採用され、定格回転数の違いから歯車比は82:19 (4.32) となった。 昭和37年に西日本鉄道の600形に搭載されたMB-3070 150 kW電動機の採用により、MTTM編成の低速域では摩擦限界から1000形より性能が劣るが、高速性能は1000形を上回る。MTM編成であれば起動加速度も1000形と同じとなるため、全速度域で1000形以上の走行性能を発揮することができた。 東洋製PT-43系菱形パンタグラフがその他機器の製造者に関わらず採用され、デハ700形の連結面寄りに装備された。制動装置はデハ700形が発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ (HSC-D)、サハ770形が電磁直通ブレーキ (HSC) とされた。 1000形などでは車体メーカーが設計した台車をそれぞれの車体に採用していたが、700形では川崎車輌設計を基本とする鋼板溶接ウイングばね式TH-700形台車を東急車輛、川崎車輌の両者が製造した。製造コスト抑制のため空気ばねは採用されなかった。電動車用、付随車用はばね定数が異なるが同一形式とされた。駆動方式の相違による主電動機装架方法の違いのため、東急車輛製はTH-700T、川車/川重製はTH-700Kと製造者の頭文字のサフィクス(接尾辞、拡張子)で区分されている。 サハ770形全車に出力交流7.5 kVAの電動発電機1台とAR-2回転翼式電動空気圧縮機1台(容量2,000リットル/分)が搭載された。電動発電機は隣に連結された電動車の機器メーカーに併せ、東洋製TDK-365、三菱製MG-131が採用された。最終製造車の電動発電機は全車東洋製とされた。 1967年製造車には電気笛が取り付けられていたが、1980年(昭和55年)ごろに撤去され、同じころ705編成と707編成にそれぞれ異なる仕様のものが取り付けられた。705編成と同仕様のものはその後全営業車両に採用された。 700形は全車電動車の1000形に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣って全車電動車方式をやめ、コストダウンを目的に中間車を付随車とした車種構成となった。先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が付随車サハ770形である。「デ」は 電動車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。 700形設計当時、京急本線の普通列車は朝夕ラッシュ時には計26分の停車時間がダイヤ上設定されており、3扉車を4扉車で置き換えることで停車時間が2割、5分程度短縮できると見込まれていた。700形に続いて500形の更新車、800形で4扉が採用されている。ラッシュ時はMTM(制御電動車 – 付随車 – 制御電動車)の3両編成2本で、日中はMTM 3両編成で普通列車に運用する設計構想だったが、1967年(昭和42年)にMTTM(制御電動車 - 付随車 - 付随車 - 制御電動車)の4両編成で最初の5本(20両)が製造された。登場後数年で設計構想通りMTM編成となる予定とされていたが、終始MTTM編成のままで1971年(昭和46年)までに21編成(84両)が製造された。設計構想と異なる状態で製造、運用されたのは駅ホーム延伸などの対応が遅れていたこと、吊り掛け式駆動車もまだ普通列車に多数運用されていた当時の状況では700形MTM編成に見合ったランカーブを採用出来なかったことが理由とされている。 主制御装置を搭載する制御電動車である。奇数番号が浦賀寄り、偶数番号が品川寄りに連結され、両者とも運転台とは反対側にパンタグラフを搭載する。ドアは全車運転台と反対側に向いて開く。浦賀方、品川方の先頭車で車体は反転しているが、床下機器は反転していない。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてデハ701 - デハ742の42両が製造された。 京急で初めて付随車として製造された形式である。電動発電機、空気圧縮機を搭載し、編成中間に2両が組み込まれたが、3両編成の中間車として設計されているため、電動発電機、空気圧縮機は3両分の容量をもち、2両とも同一設計である。サハ770形には速度に応じて制動力を切り替える装置が設けられ、空気制動を常用するため一体圧延車輪が採用された。ドアは全車浦賀方に向かって開く。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてサハ771 - サハ799、サハ770、サハ761 - サハ769、サハ760、サハ751・752の42両が製造された。形式番号はMTM編成とした場合のデハとサハの両数比率を反映して付与されたため、変則的なものとなっている。 700形で最初に製造されたグループである。正面が高運転台で窓が小窓であること、側面開閉窓隅のRがないことが特徴である。当初ATS、列車無線が装備されていなかったが、1970年(昭和45年)に設置されている。補助警笛として電気笛が装備されていたが、1980年(昭和55年)ごろまでに撤去されている。705編成の扉部には枕木方向につり革が試験的に設置された。 1968年(昭和43年)は700形の製造はなく、1年あけた1969年(昭和44年)に製造が再開された。高運転台をやめて通常の運転台構造となったため前面窓が下方に100 mm拡大され、外観の印象が変わっている。運転席腰掛の高さが3段階に変更できるようになった。前面窓は1000形と共通のものとされたため、貫通扉窓の天地寸法が他の2枚よりも大きくなった。開閉側窓隅にRが設けられるとともに戸袋窓の天地寸法が拡大され、車体外側から見た窓開口部の大きさが開閉側窓と同一となった。乗務員室扉・正面貫通扉がステンレス製に変更された。車内では座席下蹴込がステンレス無塗装となり、 運転台仕切り部の遮光幕がアルミ製遮光板となった。高運転台車に装備されていた電気笛は採用されなかった。製造時からATS、列車無線を装備している。寒冷時の保温対策として、中央部2か所のドアを閉め切る戸閉半減装置が設けられた。 1969年(昭和44年)11月に川崎車輌が川崎重工の一部門となったため、1970年(昭和45年)製造車から製造者名が変更されている。1970年(昭和45年)製造車では車内の難燃化推進のための設計変更が行われた。サハ770形の番号が799に達したため、30両目は770、31両目以降は760番台に附番された。733編成はドア部レール方向につり革を増設した。 711・713編成ではシート表布にビニールレザーが採用されたが、汗でべたつくことからすぐに一般的なモケットに変更されている。 700形の最終製造車であり、全車川崎重工で製造された。サハ770形は751・752・760・769と付番された。今回の製造車では主制御装置が三菱電機製、主電動機、駆動装置、電動発電機が東洋電機製とされた。各機器の形式は前回までの製造車と同一である。同時期製造の1000形同様、耐候性鋼板が外板などに採用された。客用ドアが1000形と同じものに変更され、窓の天地寸法が拡大された。室内では乗務員室仕切扉がステンレス製に変更されたが、客室側は壁と同色に塗装された。乗務員室仕切り扉下部の通風口が廃止され、仕切り扉の遮光幕がアルミ合金製の遮光板に変更された。製造後すぐにドア部につり革が増設された。 1974年(昭和49年)10月のダイヤ改正で朝ラッシュ時にもっとも混雑する普通列車に700形6両編成が投入され、同時にオイルショックに対応した節電ダイヤで日中に3両編成の普通列車が設定されたため、これに運用される700形3両編成が組まれた。1974年10月・11月に729・731・739・741の各編成からサハ770形偶数車が外され、編成から外されたサハ770形は久里浜工場に留置されたが、車両が痛むため、後に金沢検車区に移動している。1975年5月に727・733編成も3両化され、1975年6月にはずされたサハ770形6両が2両ずつ1000形1013(770 - 798組込)・1021(752 - 760組込)・1009(762 - 764組込)の各編成の3両目・4両目に組み込まれ、6両編成となった。浦賀方に連結されたサハ752・762・770の電動発電機、電動空気圧縮機は取り外された。 1000形4両にサハ770形2両を組み込んだ6両編成では加速度が著しく低下し、扉数が異なることから都営地下鉄1号線乗入運用にも充当できないため、1975年9月に1009編成が1025編成から転用された1139 - 1140を、11月に1013編成が1041編成から転用された1217 - 1214を品川寄りから3・4両目に組み込んで8両編成となり、8両編成の浦賀寄りから5・6両目にサハ770形が組み込まれるよう変更された。1021編成に組み込まれたサハ752・サハ760は1978年3月に編成から外され、1000形サハ770形混成の6両編成は消滅した。6両編成時の加速度は弱め界磁率を25 %から20 %に変更した状態で0.58 m/s、同じ条件の8両編成で0.67 m/sだった。 8両編成は組み込まれる1000形編成を何回か入れ替え、サハ770形も入れ替わりながら本数を増減させ、1980年2月まで運用された。サハ770形は800形の増備とともに原編成に復帰し、1980年2月までに全編成が製造時の編成に戻っている。 MTM3両編成は3両編成及び2本組み合わせた6両編成として運用されたほか、1976年(昭和51年)3月から1979年(昭和54年)7月まで3両編成で空港線でも運用された。 1980年(昭和55年)から1988年(昭和63年)にかけて冷房改造が行われた。冷房能力12.2 kW(10,500 kcal/h)の三菱CU-126系冷房装置を各車3基搭載、FRP製通風機が撤去された。冷房機を均等に搭載するため、先頭車の誘導無線アンテナが非冷房時代の運転台側に受信用、中央側に送信用から前後逆配置に変更され、パンタグラフ脇のヒューズも車両中央側から車端側に移設された。サハ770形の冷房装置は品川方に寄って搭載された。側面に電動式種別幕・方向幕が取り付けられるとともに正面各幕の電動化が行われ、各幕の指令装置は品川方先頭車車掌台に設けられた。幕が取り付けられた部分は上段窓が固定化されたが、そのほかの側窓は全開する構造のままとされたため、窓の保護棒は残された。妻窓が上下段上昇から上段下降、下段固定に変更され、窓の保護棒が撤去された。 冷房改造によりデハ700形の全高が4,050 mm、自重が35.0 tに、サハ770形がそれぞれ4,005 mm、28.5 tとなった。デハ700形の車輪が一体波打車輪に交換されている。 品川寄りに連結されるサハ770形偶数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機と電動空気圧縮機を撤去、かわって800形と同一の容量100 kVAのブラシレス電動発電機、東洋製TDK-3320Aが1台搭載され、編成全車の冷房用電源と、品川寄り2両の低圧電源とされた。浦賀寄りに連結されるサハ770形奇数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機は残され、浦賀寄り2両の低圧電源用とされるとともに、偶数車から外された電動空気圧縮機も奇数車に搭載され、2台搭載となった。この機器配置の変更により、サハ770形1両を外した3両編成とすることができなくなった。7.5 kVA電動発電機は三菱製に統一されている。 天井は高さ2,200 mmの平天井となった。非冷房時代と同様に1両に5台首振り式扇風機が設置されたが、1000形冷房改造車の様に回転速度を落とす改造は行われず、非冷房時代と同じ回転数とされた。暖房用電源は直流1,500 Vから交流200 Vに変更されている。内装は全面的に張り替えられたが、色彩は変更されていない。扉類、蹴込板などがステンレス化されていなかった車両についてはステンレス化が行われた。 当初は朝ラッシュ時の特急増結用として1980年(昭和55年)、1981年(昭和56年)に711 - 721の6編成のみが改造され、のち1984年(昭和59年)に729編成が追加改造された。1985年(昭和60年)10月冷房改造出場の707編成から本格的な工事が始まり、行先表示器SPC方式化に伴う地色の黒色化、電気連結器付き密着連結器取り付け準備の実施、先頭車山側の冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の廃止、電子警笛の設置などの仕様変更が行われた。 701 - 709編成は高運転台から標準の運転台に改造され、711編成以降と同様の前面窓配置となった。側面窓形状は変更されていない。 1988年(昭和63年)度改造分は車側灯がLED光源に交換され、1988年(昭和63年)9月出場の735編成で工事は完了した。 ATS故障時やATSがない構内で速度超過防止のため、1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)にかけて速度超過防止装置が設置された。1982年(昭和57年)から1985年にかけて、保安ブレーキを取り付ける改造が行われた。いずれも、一部編成は冷房改造と同時の施工である。耐雪ブレーキを設置する改造が1998年(平成10年)に施工されたが、同年に廃車された715・717編成には施工されなかった。 連結作業の省力化のため、1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が行われた。冷房改造時に連結器交換準備工事が行われなかった編成についても準備工事が順次施工された。715・717・721・729の各編成は準備工事を行わず、直接連結器交換工事が行われた。品川方先頭車のジャンパ栓受は交換後の定期検査入場時に撤去されたが、のちの事故復旧工事の際にジャンパ栓受け跡を撤去した706以外、ジャンパ栓受跡は全編成に残っていた。1000形では非常用中間連結器は先頭部海側床下に搭載されたが、700形では側面海側床下に搭載された。 1996年(平成8年)8月に発生した踏切事故でデハ706の台車が損傷したため、同年10月から翌年7月までの間サハ776に1000形廃車発生品のOK-18台車 を取り付け、サハ776用の台車を電装の上デハ706に転用していた。復旧工事と同時にデハ706のジャンパ栓跡が撤去されている。705編成はOK-18台車装備中、主に大師線で運用された。 登場当初は4両編成で普通列車に運用されたが、1977年(昭和52年)6月から朝ラッシュ時は1000形特急列車の増結用にも使用された。都営地下鉄1号線乗り入れ特急に増結される場合は、当初700形非冷房車には泉岳寺以北の駅名の行き先表示が組み込まれていなかったため、行き先を表示せずに運転された。1978年(昭和53年)6月のダイヤ改正で普通列車のランカーブが400形から700形MTMに変更され、朝ラッシュ時の普通列車での運用が困難となったこと、同じ改正で朝ラッシュ時の一部特急が8両編成で都営線に乗り入れるようになり、品川止まりの特急(C特急)用として運用されていた1000形8両編成を乗り入れ特急(H特急)に回す必要があったことから、700形はラッシュ時の普通列車運用からはずされ、700形だけの12両編成でC特急として運用されるようになった。それまで普通列車で運用されていた吊り掛け式駆動車は急行に転用された。海水浴輸送対応の夏季ダイヤでは品川に到着した700形特急も折り返し三浦海岸行きとして運転された。 1970年代に存在したMTM編成は2本つないだ6両編成で朝ラッシュ時の普通列車・急行に、3両編成で日中の本線普通列車に運用されたほか、一時期は空港線でも運用された。1981年(昭和56年)の通勤快特運転開始時から700形4両3編成をつないだ列車も設定された。 1978年(昭和53年)の正月ダイヤから吊り掛け式駆動車に交じって大師線での運用が始まり、当初は吊り掛け式駆動車と共用されたが、吊り掛け式駆動車の3両編成化の進行により1979年(昭和54年)に大師線は700形に統一された。 1978年の正月輸送から大師線ではヘッドマークが取り付けられるようになり、700形には運用から外れる2005年(平成17年)まで毎年ヘッドマークが出され、1981年(昭和56年)から始まった干支をモチーフにしたマークは2周したことになる。何度か6両編成化の話はあったが、結局廃車まで実現されなかった。 1998年(平成10年)から下記の順に廃車が開始された。 1999年(平成11年)8月のダイヤ改正で本線普通列車運用から、本線運用からは2003年(平成15年)7月のダイヤ改正で外れ、2005年(平成17年)11月28日の大師線沿線の幼稚園児の大師線内貸切運転で営業運転を終了した。 廃車となった700形のうち、2002年以降の11編成は中間車のみ廃車、先頭車22両は高松琴平電気鉄道(琴電)へ譲渡され、1200形となった。 京急時代の番号と譲渡後の番号の対照は下表のとおり。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京急700形電車(けいきゅう700がたでんしゃ)はかつて京浜急行電鉄に在籍した通勤形電車である。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけて4両21編成、84両が製造された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では、京急本線上で南側を「浦賀方」または「浦賀寄り」、北側を「品川方」または「品川寄り」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)を、「400形」は1966年(昭和41年)の改番以降の400形(2代)を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "自社線内普通列車用として設計・製造され、高度経済成長を背景に混雑が激しくなったラッシュ時の停車時分を短縮するため、京急初の片側4扉車とされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全車電動車の1000形に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣ってコストダウンを目的に編成の半分の車両を非電動車とし、先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が付随車サハ770形となった。出力150 kWのモータを採用、粘着性能向上のため電動車の車長を付随車より1 m長くする構造が採られた。1000形の2両1ユニットに対し、700形では電動車はユニットを組まないが、電動発電機、空気圧縮機などの一部補器は付随車に搭載されている。全車電動車の1000形4両編成に対して、付随車を編成中に組み込んだことで製造コストが編成あたり同じ4両編成で800万円安価であったとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当時の京急の発注方針に基づき、車体、台車、主要機器は2社に分けて発注され、最終製造車を除いて東急車輛製造(以下、東急)製の車体には東急製の台車、東洋電機製造(以下、東洋)製主要機器の組み合わせ、川崎車輌(以下、川車、1969年(昭和44年)から川崎重工業の一部、以下、川重)製の車体には三菱電機製(以下、三菱)主要機器の組み合わせで製造された。また、最終製造車を除いて両者が1:1となるよう発注されたため、浦賀方2両と品川方2両で製造者が異なる編成が3編成あった。最終製造車では1971年(昭和46年)以降製造の1000形などと同様機器ごとに各社が分担して製造する方式に変更された。1953年(昭和28年)以降、京急では車体製造者が設計した台車を採用していたが、700形では車体製造者に関わらず共通設計の台車が採用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本項では、落成当時の仕様について述べる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正面貫通式、1,200 mm幅の片開き片側4扉、ドア間窓2枚、車端部窓1枚、運転台後部窓1枚の窓配置が採られた。ドア間窓2枚のうち1枚は戸袋窓であり、Hゴム支持の固定式である。もう1枚は上下の窓が同一寸法の2段上昇式となり、全開できる構造となったため、保護棒が設置された。700形設計時に横浜駅で8ミリカメラを用いて乗降にかかる時間を測定し、片開き扉と両開き扉では乗降にかかる時間に大差がないことが確認されたこと、片開き扉には重量低減、補修費削減の効果があるうえ、製造コストが1両あたり製造時の価値で100万円下がることから、700形では片開き扉が採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "側窓は取り付け高さを1000形より50 mm高くし、高さ900 mm 、幅900 mmとなった。窓高さ1,000 mmの1000形に対し、2段上昇式の窓すべてを幕板部に収納することで窓を全開できるようにしたため、窓上辺高さが50 mm低くなっている。1967年(昭和42年)製造車は窓開口部の大きさを戸袋窓とそれ以外の窓で併せたため、外側から見ると窓枠分戸袋窓がそれ以外の窓より小さくなった。扉窓は最終製造車以外その他の窓に併せて1000形より天地寸法が小さなものが採用されたが、最終製造車は1000形と同じ扉窓となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "電動車の全長は付随車より1 m長くされ、電動車と付随車の客室面積をほぼ同じにするとともに、電動車の重量を重くすることで粘着性能の向上がはかられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "正面は1967年(昭和42年)製が高運転台構造とされ、運転室・車掌室窓は横長の縦670 mm × 横750 mmとなった。運転室の床全体を上げると乗務員の乗降に支障するため、床高さは客室と同一とし、踏み台が運転席に設けられた。正面は上から見て半径4,000 mmの曲面で構成され、貫通扉も同じ曲率に仕上げられているが、ガラスは平面ガラスとされた。前照灯は無塗装のカバーを付けたシールドビーム埋め込み式とされ、交換が車内からできるよう前照灯位置が下げられたほか、貫通路を非常用と位置付けたため、貫通幌枠、渡り板は設けられなかった。中間部妻面には1000形と同様幅1,100 mmの貫通路が設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1000形に比べ中間連結面後退角の縮小など工作が簡略化されている。1000形で採用されていた上屋根は廃止され、FRP製の狭幅のカバーが設けられた。この2つの設計変更は1968年(昭和43年)以降の1000形にも反映されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当時の京急標準色である赤に白帯に塗装されたが、窓下辺に白帯上縁を併せたため、1000形より帯が50 mm上になっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)製以降製造車は高運転台構造をやめ、 1000形と同一のガラスを使用したため、前面形状がことなる。側窓も外側から見た大きさが一致するよう、戸袋窓が若干大きくなるとともに、角に丸みが設けられた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "内装色は1000形などと同様に壁が灰緑色、天井が白、座席が青、床色が薄緑となった。座席は1人当たりの幅が400 mmのロングシート で、立ち席面積を広く取るため奥行きが1000形より50 mm浅い500 mm、座面は1000形より30 mm高い450 mmとされた。荷棚は1000形より50 mm低い位置に設けられ、天井は丸屋根で換気装置は1000形のファンデリアに対し、首振り扇風機となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "運転台は1000形とほぼ同一の左手でマスコン、右手でブレーキ弁を操作するレイアウトが採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主制御装置はデハ700形に搭載され、東洋製はES-763A主制御装置(直列10段、並列8段、弱め界磁4段)、 TDK-819系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 V、電流224 A、定格回転数2,000 rpm)に中空軸撓み板式軸型継手が組み合わされ、歯車比は84:17 (4.94) とされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "三菱製はCB-26C-10主制御装置(制御段数は東洋製と同じ)、MB-3070系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 V、電流224 A、定格回転数1,800 rpm)、撓み歯車型軸継手が採用され、定格回転数の違いから歯車比は82:19 (4.32) となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "昭和37年に西日本鉄道の600形に搭載されたMB-3070 150 kW電動機の採用により、MTTM編成の低速域では摩擦限界から1000形より性能が劣るが、高速性能は1000形を上回る。MTM編成であれば起動加速度も1000形と同じとなるため、全速度域で1000形以上の走行性能を発揮することができた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "東洋製PT-43系菱形パンタグラフがその他機器の製造者に関わらず採用され、デハ700形の連結面寄りに装備された。制動装置はデハ700形が発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ (HSC-D)、サハ770形が電磁直通ブレーキ (HSC) とされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1000形などでは車体メーカーが設計した台車をそれぞれの車体に採用していたが、700形では川崎車輌設計を基本とする鋼板溶接ウイングばね式TH-700形台車を東急車輛、川崎車輌の両者が製造した。製造コスト抑制のため空気ばねは採用されなかった。電動車用、付随車用はばね定数が異なるが同一形式とされた。駆動方式の相違による主電動機装架方法の違いのため、東急車輛製はTH-700T、川車/川重製はTH-700Kと製造者の頭文字のサフィクス(接尾辞、拡張子)で区分されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "サハ770形全車に出力交流7.5 kVAの電動発電機1台とAR-2回転翼式電動空気圧縮機1台(容量2,000リットル/分)が搭載された。電動発電機は隣に連結された電動車の機器メーカーに併せ、東洋製TDK-365、三菱製MG-131が採用された。最終製造車の電動発電機は全車東洋製とされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1967年製造車には電気笛が取り付けられていたが、1980年(昭和55年)ごろに撤去され、同じころ705編成と707編成にそれぞれ異なる仕様のものが取り付けられた。705編成と同仕様のものはその後全営業車両に採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "700形は全車電動車の1000形に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣って全車電動車方式をやめ、コストダウンを目的に中間車を付随車とした車種構成となった。先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が付随車サハ770形である。「デ」は 電動車を、「サ」は付随車を、「ハ」は普通座席車を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "700形設計当時、京急本線の普通列車は朝夕ラッシュ時には計26分の停車時間がダイヤ上設定されており、3扉車を4扉車で置き換えることで停車時間が2割、5分程度短縮できると見込まれていた。700形に続いて500形の更新車、800形で4扉が採用されている。ラッシュ時はMTM(制御電動車 – 付随車 – 制御電動車)の3両編成2本で、日中はMTM 3両編成で普通列車に運用する設計構想だったが、1967年(昭和42年)にMTTM(制御電動車 - 付随車 - 付随車 - 制御電動車)の4両編成で最初の5本(20両)が製造された。登場後数年で設計構想通りMTM編成となる予定とされていたが、終始MTTM編成のままで1971年(昭和46年)までに21編成(84両)が製造された。設計構想と異なる状態で製造、運用されたのは駅ホーム延伸などの対応が遅れていたこと、吊り掛け式駆動車もまだ普通列車に多数運用されていた当時の状況では700形MTM編成に見合ったランカーブを採用出来なかったことが理由とされている。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "主制御装置を搭載する制御電動車である。奇数番号が浦賀寄り、偶数番号が品川寄りに連結され、両者とも運転台とは反対側にパンタグラフを搭載する。ドアは全車運転台と反対側に向いて開く。浦賀方、品川方の先頭車で車体は反転しているが、床下機器は反転していない。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてデハ701 - デハ742の42両が製造された。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "京急で初めて付随車として製造された形式である。電動発電機、空気圧縮機を搭載し、編成中間に2両が組み込まれたが、3両編成の中間車として設計されているため、電動発電機、空気圧縮機は3両分の容量をもち、2両とも同一設計である。サハ770形には速度に応じて制動力を切り替える装置が設けられ、空気制動を常用するため一体圧延車輪が採用された。ドアは全車浦賀方に向かって開く。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてサハ771 - サハ799、サハ770、サハ761 - サハ769、サハ760、サハ751・752の42両が製造された。形式番号はMTM編成とした場合のデハとサハの両数比率を反映して付与されたため、変則的なものとなっている。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "700形で最初に製造されたグループである。正面が高運転台で窓が小窓であること、側面開閉窓隅のRがないことが特徴である。当初ATS、列車無線が装備されていなかったが、1970年(昭和45年)に設置されている。補助警笛として電気笛が装備されていたが、1980年(昭和55年)ごろまでに撤去されている。705編成の扉部には枕木方向につり革が試験的に設置された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)は700形の製造はなく、1年あけた1969年(昭和44年)に製造が再開された。高運転台をやめて通常の運転台構造となったため前面窓が下方に100 mm拡大され、外観の印象が変わっている。運転席腰掛の高さが3段階に変更できるようになった。前面窓は1000形と共通のものとされたため、貫通扉窓の天地寸法が他の2枚よりも大きくなった。開閉側窓隅にRが設けられるとともに戸袋窓の天地寸法が拡大され、車体外側から見た窓開口部の大きさが開閉側窓と同一となった。乗務員室扉・正面貫通扉がステンレス製に変更された。車内では座席下蹴込がステンレス無塗装となり、 運転台仕切り部の遮光幕がアルミ製遮光板となった。高運転台車に装備されていた電気笛は採用されなかった。製造時からATS、列車無線を装備している。寒冷時の保温対策として、中央部2か所のドアを閉め切る戸閉半減装置が設けられた。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)11月に川崎車輌が川崎重工の一部門となったため、1970年(昭和45年)製造車から製造者名が変更されている。1970年(昭和45年)製造車では車内の難燃化推進のための設計変更が行われた。サハ770形の番号が799に達したため、30両目は770、31両目以降は760番台に附番された。733編成はドア部レール方向につり革を増設した。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "711・713編成ではシート表布にビニールレザーが採用されたが、汗でべたつくことからすぐに一般的なモケットに変更されている。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "700形の最終製造車であり、全車川崎重工で製造された。サハ770形は751・752・760・769と付番された。今回の製造車では主制御装置が三菱電機製、主電動機、駆動装置、電動発電機が東洋電機製とされた。各機器の形式は前回までの製造車と同一である。同時期製造の1000形同様、耐候性鋼板が外板などに採用された。客用ドアが1000形と同じものに変更され、窓の天地寸法が拡大された。室内では乗務員室仕切扉がステンレス製に変更されたが、客室側は壁と同色に塗装された。乗務員室仕切り扉下部の通風口が廃止され、仕切り扉の遮光幕がアルミ合金製の遮光板に変更された。製造後すぐにドア部につり革が増設された。", "title": "新製時のバリエーション" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)10月のダイヤ改正で朝ラッシュ時にもっとも混雑する普通列車に700形6両編成が投入され、同時にオイルショックに対応した節電ダイヤで日中に3両編成の普通列車が設定されたため、これに運用される700形3両編成が組まれた。1974年10月・11月に729・731・739・741の各編成からサハ770形偶数車が外され、編成から外されたサハ770形は久里浜工場に留置されたが、車両が痛むため、後に金沢検車区に移動している。1975年5月に727・733編成も3両化され、1975年6月にはずされたサハ770形6両が2両ずつ1000形1013(770 - 798組込)・1021(752 - 760組込)・1009(762 - 764組込)の各編成の3両目・4両目に組み込まれ、6両編成となった。浦賀方に連結されたサハ752・762・770の電動発電機、電動空気圧縮機は取り外された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1000形4両にサハ770形2両を組み込んだ6両編成では加速度が著しく低下し、扉数が異なることから都営地下鉄1号線乗入運用にも充当できないため、1975年9月に1009編成が1025編成から転用された1139 - 1140を、11月に1013編成が1041編成から転用された1217 - 1214を品川寄りから3・4両目に組み込んで8両編成となり、8両編成の浦賀寄りから5・6両目にサハ770形が組み込まれるよう変更された。1021編成に組み込まれたサハ752・サハ760は1978年3月に編成から外され、1000形サハ770形混成の6両編成は消滅した。6両編成時の加速度は弱め界磁率を25 %から20 %に変更した状態で0.58 m/s、同じ条件の8両編成で0.67 m/sだった。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "8両編成は組み込まれる1000形編成を何回か入れ替え、サハ770形も入れ替わりながら本数を増減させ、1980年2月まで運用された。サハ770形は800形の増備とともに原編成に復帰し、1980年2月までに全編成が製造時の編成に戻っている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "MTM3両編成は3両編成及び2本組み合わせた6両編成として運用されたほか、1976年(昭和51年)3月から1979年(昭和54年)7月まで3両編成で空港線でも運用された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)から1988年(昭和63年)にかけて冷房改造が行われた。冷房能力12.2 kW(10,500 kcal/h)の三菱CU-126系冷房装置を各車3基搭載、FRP製通風機が撤去された。冷房機を均等に搭載するため、先頭車の誘導無線アンテナが非冷房時代の運転台側に受信用、中央側に送信用から前後逆配置に変更され、パンタグラフ脇のヒューズも車両中央側から車端側に移設された。サハ770形の冷房装置は品川方に寄って搭載された。側面に電動式種別幕・方向幕が取り付けられるとともに正面各幕の電動化が行われ、各幕の指令装置は品川方先頭車車掌台に設けられた。幕が取り付けられた部分は上段窓が固定化されたが、そのほかの側窓は全開する構造のままとされたため、窓の保護棒は残された。妻窓が上下段上昇から上段下降、下段固定に変更され、窓の保護棒が撤去された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "冷房改造によりデハ700形の全高が4,050 mm、自重が35.0 tに、サハ770形がそれぞれ4,005 mm、28.5 tとなった。デハ700形の車輪が一体波打車輪に交換されている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "品川寄りに連結されるサハ770形偶数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機と電動空気圧縮機を撤去、かわって800形と同一の容量100 kVAのブラシレス電動発電機、東洋製TDK-3320Aが1台搭載され、編成全車の冷房用電源と、品川寄り2両の低圧電源とされた。浦賀寄りに連結されるサハ770形奇数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機は残され、浦賀寄り2両の低圧電源用とされるとともに、偶数車から外された電動空気圧縮機も奇数車に搭載され、2台搭載となった。この機器配置の変更により、サハ770形1両を外した3両編成とすることができなくなった。7.5 kVA電動発電機は三菱製に統一されている。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "天井は高さ2,200 mmの平天井となった。非冷房時代と同様に1両に5台首振り式扇風機が設置されたが、1000形冷房改造車の様に回転速度を落とす改造は行われず、非冷房時代と同じ回転数とされた。暖房用電源は直流1,500 Vから交流200 Vに変更されている。内装は全面的に張り替えられたが、色彩は変更されていない。扉類、蹴込板などがステンレス化されていなかった車両についてはステンレス化が行われた。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "当初は朝ラッシュ時の特急増結用として1980年(昭和55年)、1981年(昭和56年)に711 - 721の6編成のみが改造され、のち1984年(昭和59年)に729編成が追加改造された。1985年(昭和60年)10月冷房改造出場の707編成から本格的な工事が始まり、行先表示器SPC方式化に伴う地色の黒色化、電気連結器付き密着連結器取り付け準備の実施、先頭車山側の冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の廃止、電子警笛の設置などの仕様変更が行われた。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "701 - 709編成は高運転台から標準の運転台に改造され、711編成以降と同様の前面窓配置となった。側面窓形状は変更されていない。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)度改造分は車側灯がLED光源に交換され、1988年(昭和63年)9月出場の735編成で工事は完了した。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ATS故障時やATSがない構内で速度超過防止のため、1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)にかけて速度超過防止装置が設置された。1982年(昭和57年)から1985年にかけて、保安ブレーキを取り付ける改造が行われた。いずれも、一部編成は冷房改造と同時の施工である。耐雪ブレーキを設置する改造が1998年(平成10年)に施工されたが、同年に廃車された715・717編成には施工されなかった。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "連結作業の省力化のため、1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が行われた。冷房改造時に連結器交換準備工事が行われなかった編成についても準備工事が順次施工された。715・717・721・729の各編成は準備工事を行わず、直接連結器交換工事が行われた。品川方先頭車のジャンパ栓受は交換後の定期検査入場時に撤去されたが、のちの事故復旧工事の際にジャンパ栓受け跡を撤去した706以外、ジャンパ栓受跡は全編成に残っていた。1000形では非常用中間連結器は先頭部海側床下に搭載されたが、700形では側面海側床下に搭載された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)8月に発生した踏切事故でデハ706の台車が損傷したため、同年10月から翌年7月までの間サハ776に1000形廃車発生品のOK-18台車 を取り付け、サハ776用の台車を電装の上デハ706に転用していた。復旧工事と同時にデハ706のジャンパ栓跡が撤去されている。705編成はOK-18台車装備中、主に大師線で運用された。", "title": "改造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "登場当初は4両編成で普通列車に運用されたが、1977年(昭和52年)6月から朝ラッシュ時は1000形特急列車の増結用にも使用された。都営地下鉄1号線乗り入れ特急に増結される場合は、当初700形非冷房車には泉岳寺以北の駅名の行き先表示が組み込まれていなかったため、行き先を表示せずに運転された。1978年(昭和53年)6月のダイヤ改正で普通列車のランカーブが400形から700形MTMに変更され、朝ラッシュ時の普通列車での運用が困難となったこと、同じ改正で朝ラッシュ時の一部特急が8両編成で都営線に乗り入れるようになり、品川止まりの特急(C特急)用として運用されていた1000形8両編成を乗り入れ特急(H特急)に回す必要があったことから、700形はラッシュ時の普通列車運用からはずされ、700形だけの12両編成でC特急として運用されるようになった。それまで普通列車で運用されていた吊り掛け式駆動車は急行に転用された。海水浴輸送対応の夏季ダイヤでは品川に到着した700形特急も折り返し三浦海岸行きとして運転された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1970年代に存在したMTM編成は2本つないだ6両編成で朝ラッシュ時の普通列車・急行に、3両編成で日中の本線普通列車に運用されたほか、一時期は空港線でも運用された。1981年(昭和56年)の通勤快特運転開始時から700形4両3編成をつないだ列車も設定された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)の正月ダイヤから吊り掛け式駆動車に交じって大師線での運用が始まり、当初は吊り掛け式駆動車と共用されたが、吊り掛け式駆動車の3両編成化の進行により1979年(昭和54年)に大師線は700形に統一された。 1978年の正月輸送から大師線ではヘッドマークが取り付けられるようになり、700形には運用から外れる2005年(平成17年)まで毎年ヘッドマークが出され、1981年(昭和56年)から始まった干支をモチーフにしたマークは2周したことになる。何度か6両編成化の話はあったが、結局廃車まで実現されなかった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)から下記の順に廃車が開始された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)8月のダイヤ改正で本線普通列車運用から、本線運用からは2003年(平成15年)7月のダイヤ改正で外れ、2005年(平成17年)11月28日の大師線沿線の幼稚園児の大師線内貸切運転で営業運転を終了した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "廃車となった700形のうち、2002年以降の11編成は中間車のみ廃車、先頭車22両は高松琴平電気鉄道(琴電)へ譲渡され、1200形となった。", "title": "譲渡" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "京急時代の番号と譲渡後の番号の対照は下表のとおり。", "title": "譲渡" } ]
京急700形電車(けいきゅう700がたでんしゃ)はかつて京浜急行電鉄に在籍した通勤形電車である。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけて4両21編成、84両が製造された。 本項では、京急本線上で南側を「浦賀方」または「浦賀寄り」、北側を「品川方」または「品川寄り」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)を、「400形」は1966年(昭和41年)の改番以降の400形(2代)を指す。
{{鉄道車両 | 車両名 = 京急700形電車(2代) | 背景色 = #CC1144 | 文字色 = #FFFFFF | 画像 = Keikyu713shimbamba.JPG | 画像説明 = 2代目700形<br />(1995年7月 [[新馬場駅]]) | 運用者 = [[京浜急行電鉄]] | 製造所 = [[東急車輛製造]]<br />[[川崎車両|川崎車輛/川崎重工業]] <ref name="RP380p155"/><ref name="RP380p156"/> | 製造年 = 1967年 - 1971年 | 製造数 = 21編成84両 | 廃車 = 2005年 | 編成 = 3・4両<ref name="RP380p155"/> | 軌間 = 1,435 mm<ref name="RF73p56"/> | 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500V<br />([[架空電車線方式]])<ref name="RF73p56"/> | 最高運転速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]] <ref name="佐藤2004p26"/> | 設計最高速度 = 120 km/h<ref name="吉村1989p89"/> | 起動加速度 = 4両編成: 0.75 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]<br/>3両編成: 0.97 m/s<sup>2</sup> <ref name="RF73p56"/> | 常用減速度 = 1.11 m/s<sup>2</sup> <ref name="RF73p57"/> | 非常減速度 = 1.25 m/s<sup>2</sup> <ref name="佐藤2004p25"/> | 編成定員 = | 車両定員 = 140人<br />座席定員 48人<ref name="RF73p56"/> | 自重 = 先頭車 34.5 [[トン|t]] <ref name="RF73p56"/><br/>中間車 26.5 t<ref name="RF73p57"/> | 編成重量 = | 全長 = 先頭車18,500 [[ミリメートル|mm]] <ref name="RF73p56"/><br />中間車17,500 mm<ref name="RF73p57"/> | 全幅 = 2,798 mm<ref name="RF73p56"/> | 全高 = パンタグラフ付 4,000 mm<ref name="RF73p56"/><br/>パンタグラフ無 3,700 mm<ref name="RF73p57"/> | 車体長 = 先頭車18,000 mm<ref name="RF73p56"/><br />中間車17,000 mm<ref name="RF73p57"/> | 車体幅 = 2,798 mm<ref name="RF73p56"/> | 車体高 = | 車体材質 = [[炭素鋼|普通鋼]] <ref name="RP243p30"/> | 台車 = 鋼板溶接ウイングばね式<ref name="RP380p75"/> | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] <ref name="佐藤2004p107"/> | 主電動機出力 = 150 kW(端子電圧750 [[ボルト (単位)|V]]) × 4基 / 両<ref name="RF73p56"/> | 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸撓み板式軸型継手]]または[[WN駆動方式|撓み歯車型軸継手]] <ref name="RP243p30"/> | 歯車比 = 84:17 (4.94) または82:19 (4.32) <ref name="RP243p30"/> | 編成出力 = 1,200 k[[ワット|W]] <ref name="RP501p177"/> | 定格引張力 = 35,280 [[ニュートン (単位)|N]]<ref name="RP380p75"/> | 制御方式 = 電動カム軸式直並列複式 [[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]] <ref name="RP380p75"/> | 制御装置 = | 制動装置 = [[発電ブレーキ]]併用[[電磁直通ブレーキ]]([[応荷重装置]]付き)<ref name="RP243p30"/> | 保安装置 = [[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]] <ref name="RP243p24"/> | 備考 = 非冷房時のデータ | 備考全幅 = }} {{Sound|keikyu tsuukinkaitoku 708 keihinkawasaki.ogg|京浜急行708の走行音(通勤快特)|(1986年2月25日 京急本線 横浜-京浜川崎)}} '''京急700形電車'''(けいきゅう700がたでんしゃ)はかつて[[京浜急行電鉄]]に在籍した[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である<ref name="RF73p56"/>。[[1967年]]([[昭和]]42年)から[[1971年]](昭和46年)にかけて4両21編成、84両が製造された<ref name="RP501p19" />。 本項では、京急本線上で南側を「[[浦賀駅|浦賀]]方」または「浦賀寄り」、北側を「[[品川駅|品川]]方」または「品川寄り」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は[[1959年]](昭和34年)登場の[[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]]、「800形」は1978年(昭和53年)登場の[[京急800形電車 (2代)|800形(2代)]]を、「400形」は[[1966年]](昭和41年)の改番以降の[[京急400形電車 (2代)|400形(2代)]]を指す。 == 概要 == [[File:Keikyu 707 198510 Horinouchi.jpg|200px|thumb|right|700形の前面]] 自社線内[[普通列車]]用として設計・製造され、[[高度経済成長]]を背景に混雑が激しくなった[[ラッシュ時]]の停車時分を短縮するため、京急初の片側4扉車とされた<ref name="RP243p28"/><ref name="RP774p104"/>。 全車[[動力車|電動車]]の[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣って<ref name="RP501p162"/>コストダウンを目的に編成の半分の車両を非電動車とし、先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が[[付随車]]サハ770形となった<ref name="RF73p56"/><ref name="RF73p57"/>。出力150 k[[ワット|W]]の[[電動機|モータ]]を採用、粘着性能向上のため電動車の車長を付随車より1 [[メートル|m]]長くする構造が採られた<ref name="RP243p28"/><ref name="RP380p155"/>。1000形の2両1ユニットに対し、700形では電動車はユニットを組まないが、[[電動発電機]]、[[圧縮機|空気圧縮機]]などの一部補器は付随車に搭載されている<ref name="RF73p56"/><ref name="RP501p177"/>。全車電動車の1000形4両編成に対して、付随車を編成中に組み込んだことで製造コストが編成あたり同じ4両編成で800万円安価であったとされている<ref name="RF73p57"/>。 当時の京急の発注方針に基づき、車体、台車、主要機器は2社に分けて発注され、最終製造車を除いて[[東急車輛製造]](以下、東急)製の車体には東急製の台車、[[東洋電機製造]](以下、東洋)製主要機器の組み合わせ、[[川崎車輌]](以下、川車、[[1969年]](昭和44年)から[[川崎重工業]]の[[川崎重工業車両カンパニー|一部]]、以下、川重)製の車体には[[三菱電機]]製(以下、三菱)主要機器の組み合わせで製造された<ref name="RP656p229"/><ref name="RP656p230"/>。また、最終製造車を除いて両者が1:1となるよう発注されたため、浦賀方2両と品川方2両で製造者が異なる編成が3編成あった<ref name="RP656p229"/><ref name="RP656p230"/>。最終製造車では[[1971年]](昭和46年)以降製造の1000形などと同様機器ごとに各社が分担して製造する方式に変更された<ref name="RP656p230"/>。[[1953年]](昭和28年)以降、京急では車体製造者が設計した[[鉄道車両の台車|台車]]を採用していた{{refnest|group="注"|1953年(昭和28年)から[[1958年]](昭和33年)にかけて製造された[[京急600形電車 (初代)|初代600形(後の400形の一部)]]では東急製にTS-K系台車、川車製に[[川崎車輌OK形台車|OK-8系台車]] <ref name="RP243p83"/>が、[[1956年]](昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけて製造された[[京急700形電車 (初代)|初代700形(後の600形)]]では東急製にTS-303、およびTS-310系台車、川車製にOK-18系台車<ref name="RP243p86"/>が、1958年(昭和33年)製造の初代800形(後の1095 - 1098)、[[1959年]](昭和34年)から[[1968年]](昭和43年)にかけて製造された[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]では東急製にTS-310系台車、川車製にOK-18系が採用されていた<ref name="RP243p86"/><ref name="RP243p87"/>。}}が、700形では車体製造者に関わらず共通設計の台車が採用されている<ref name="RF73p56"/>。 == 車両概説 == 本項では、落成当時の仕様について述べる。 === 外観 === [[ファイル:Keikyu701 Jimmuji 1985.JPG|thumb|240px|right|700形外観<br/>正面窓が小さい1967年製造車の例<br/>(1985年3月 [[神武寺駅]])]] [[File:Keikyu 700 windows.jpg|thumb|240px|right|1967年製造車(左)とそれ以外(右)の窓の違い<br/>1967年製造車は開閉窓の角が角ばっており、戸袋窓と開閉窓の下辺高さがそろっていない]] 正面貫通式、1,200 [[ミリメートル|mm]]幅の片開き片側4扉、ドア間窓2枚、車端部窓1枚、運転台後部窓1枚の窓配置が採られた<ref name="RP243p88"/>。ドア間窓2枚のうち1枚は[[戸袋]]窓であり、Hゴム支持の固定式である<ref name="RP774p105"/>。もう1枚は上下の窓が同一寸法の2段上昇式となり、全開できる構造となったため<ref name="RF73p57"/>、保護棒が設置された<ref name="RP656p231"/>。700形設計時に横浜駅で[[8ミリ映画|8ミリカメラ]]を用いて乗降にかかる時間を測定し、片開き扉と両開き扉では乗降にかかる時間に大差がないことが確認されたこと、片開き扉には重量低減、補修費削減の効果があるうえ、製造コストが1両あたり製造時の価値で100万円下がることから、700形では片開き扉が採用された<ref name="RF73p56"/><ref name="RP380p118"/><ref name="佐藤2011p48"/>。 側窓は取り付け高さを1000形より50 mm高くし<ref name="RP774p107"/>、高さ900 mm 、幅900 mmとなった<ref name="RP774p106"/>。窓高さ1,000 mmの1000形に対し、2段上昇式の窓すべてを幕板部に収納することで窓を全開できるようにしたため、窓上辺高さが50 mm低くなっている<ref name="RF73p57"/>。1967年(昭和42年)製造車は窓開口部の大きさを戸袋窓とそれ以外の窓で併せたため、外側から見ると窓枠分戸袋窓がそれ以外の窓より小さくなった<ref name="RP774p107"/>。扉窓は最終製造車以外その他の窓に併せて1000形より天地寸法が小さなものが採用されたが、最終製造車は1000形と同じ扉窓となった<ref name="佐藤2004p40"/>。 電動車の全長は付随車より1 m長くされ、電動車と付随車の客室面積をほぼ同じにするとともに、電動車の重量を重くすることで粘着性能の向上がはかられた<ref name="花沢1986p41"/>。 正面は1967年(昭和42年)製が高運転台構造とされ、運転室・車掌室窓は横長の縦670 mm × 横750 mmとなった<ref name="RF73p57"/>。運転室の床全体を上げると乗務員の乗降に支障するため、床高さは客室と同一とし、踏み台が運転席に設けられた<ref name="RP774p106"/>。正面は上から見て半径4,000 mmの曲面で構成され、貫通扉も同じ曲率に仕上げられているが、ガラスは平面ガラスとされた<ref name="佐藤2004p41"/>。[[前照灯]]は無塗装のカバーを付けたシールドビーム埋め込み式とされ<ref name="RP243p88"/><ref name="RP501p179"/>、交換が車内からできるよう前照灯位置が下げられたほか<ref name="RF73p57"/>、貫通路を非常用と位置付けたため、[[貫通幌]]枠、渡り板は設けられなかった<ref name="RF73p57"/>。中間部妻面には1000形と同様幅1,100 mmの貫通路が設けられた<ref name="佐藤2004p37"/><ref name="佐藤2004p38"/>。 1000形に比べ中間連結面後退角の縮小など工作が簡略化されている<ref name="RP774p108"/>。1000形で採用されていた上屋根は廃止され、FRP製の狭幅のカバーが設けられた<ref name="RP656p229"/>。この2つの設計変更は[[1968年]](昭和43年)以降の1000形にも反映されている<ref name="RP774p108"/>。 当時の京急標準色である赤に白帯に塗装されたが、窓下辺に白帯上縁を併せたため、1000形より帯が50 mm上になっている<ref name="RP380p147"/><ref name="RP501p164"/>。 [[1969年]](昭和44年)製以降製造車は高運転台構造をやめ、 [[京急1000形電車 (初代)|1000形]]と同一のガラスを使用したため、前面形状がことなる<ref name="RP656p230"/>。側窓も外側から見た大きさが一致するよう、戸袋窓が若干大きくなるとともに、角に丸みが設けられた<ref name="RP656p182"/>。 === 内装 === [[File:Keikyu 700 cab.JPG|thumb|250px|right|700形運転台<br/>冷房改造後の写真だが、改造前後で大差はなかった。]] 内装色は1000形などと同様に壁が灰緑色、天井が白、座席が青、床色が薄緑となった<ref name="RP656p229"/>。座席は1人当たりの幅が400 mmの[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]] <ref name="RF73p57"/>で、立ち席面積を広く取るため奥行きが1000形より50 mm浅い500 mm、座面は1000形より30 mm高い450 mmとされた<ref name="RP774p107"/>。荷棚は1000形より50 mm低い位置に設けられ<ref name="RF73p57"/>、天井は丸屋根で換気装置は1000形のファンデリアに対し、首振り[[扇風機]]となった<ref name="花沢1986p40"/>。 運転台は1000形とほぼ同一の左手で[[マスター・コントローラー|マスコン]]、右手でブレーキ弁を操作するレイアウトが採用された<ref name="RP501p125"/><ref name="花沢1986p123"/>。 === 主要機器 === 主制御装置はデハ700形に搭載され<ref name="RP243p30" />、東洋製はES-763A主制御装置<ref name="RP656p229" />(直列10段、並列8段、[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱め界磁]]4段)<ref name="佐藤2004p105" />、 TDK-819系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 [[ボルト (単位)|V]]、電流224 [[アンペア|A]]、定格回転数2,000 [[rpm (単位)|rpm]])<ref name="佐藤2004p107" />に[[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸撓み板式軸型継手]]が組み合わされ、[[歯車比]]は84:17 (4.94) とされた<ref name="RP656p229" />。 三菱製はCB-26C-10主制御装置(制御段数は東洋製と同じ)<ref name="佐藤2004p105"/>、MB-3070系主電動機(1時間定格出力150 kW、端子電圧750 V、電流224 A、定格回転数1,800 rpm)<ref name="佐藤2004p107"/>、[[WN駆動方式|撓み歯車型軸継手]]が採用され、定格回転数の違いから歯車比は82:19 (4.32) となった<ref name="RP656p229"/>。 昭和37年に西日本鉄道の600形に搭載されたMB-3070 150 kW電動機の採用により、MTTM編成の低速域では摩擦限界から1000形より性能が劣るが、高速性能は1000形を上回る。MTM編成であれば起動加速度も1000形と同じとなるため、全速度域で1000形以上の走行性能を発揮することができた<ref name="RF73p57"/><ref name="RP656p229"/>。 東洋製PT-43系菱形[[集電装置|パンタグラフ]]がその他機器の製造者に関わらず採用され<ref name="佐藤2004p112"/>、デハ700形の連結面寄りに装備された<ref name="RP774p104"/>。制動装置はデハ700形が発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ ([[HSC]]-D)、サハ770形が電磁直通ブレーキ (HSC) とされた<ref name="RP243p30"/>。[[File:TH-700 bogie truck.jpg|240px|thumb|TH-700形台車]] 1000形などでは車体メーカーが設計した台車をそれぞれの車体に採用していたが、700形では川崎車輌設計を基本とする鋼板溶接ウイングばね式TH-700形台車を東急車輛、川崎車輌の両者が製造した<ref name="RP774p107"/>。製造コスト抑制のため[[空気ばね]]は採用されなかった<ref name="RF73p56"/>。電動車用、付随車用は[[ばね定数]]が異なるが同一形式とされた<ref name="RP656p229"/>。駆動方式の相違による主電動機装架方法の違いのため、東急車輛製はTH-700T、川車/川重製はTH-700Kと製造者の頭文字のサフィクス(接尾辞、[[拡張子]])で区分されている<ref name="RP774p107"/>。 サハ770形全車に出力交流7.5 k[[ボルトアンペア|VA]]の電動発電機1台とAR-2回転翼式電動空気圧縮機1台(容量2,000[[リットル]]/分)が搭載された<ref name="RP380p75"/>。電動発電機は隣に連結された電動車の機器メーカーに併せ、東洋製TDK-365、三菱製MG-131が採用された<ref name="RP774p106"/>。最終製造車の電動発電機は全車東洋製とされた<ref name="RP774p109"/>。 1967年製造車には電気笛が取り付けられていたが、[[1980年]](昭和55年)ごろに撤去され、同じころ705編成と707編成にそれぞれ異なる仕様のものが取り付けられた<ref name="RP776p97" />。705編成と同仕様のものはその後全営業車両に採用された<ref name="RP656p230" />。 == 形式 == 700形は全車[[動力車|電動車]]の[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]に対し、製造当時の私鉄各社の趨勢に倣って全車電動車方式をやめ<ref name="RP501p162"/>、コストダウンを目的に中間車を付随車とした車種構成となった<ref name="RP656p228"/>。先頭車が制御電動車デハ700形、中間車が[[付随車]]サハ770形である<ref name="RP656p228"/>。「デ」は [[動力車|電動車]]を、「サ」は[[付随車]]を、「ハ」は[[普通車 (鉄道車両)|普通座席車]]を指す略号であり、形式名の前のカタカナ2文字はこれらを組み合わせたものである<ref name="佐藤2004p18"/>。 700形設計当時、京急本線の[[普通列車]]は朝夕ラッシュ時には計26分の停車時間がダイヤ上設定されており、3扉車を4扉車で置き換えることで停車時間が2割、5分程度短縮できると見込まれていた<ref name="RF73p56" />。700形に続いて[[京急500形電車|500形]]の更新車、800形で4扉が採用されている<ref name="吉川1983p40" />。ラッシュ時はMTM([[動力車|制御電動車]] – [[付随車]] – 制御電動車)の3両編成2本で、日中はMTM 3両編成で[[普通列車]]に運用する設計構想だったが、1967年(昭和42年)にMTTM(制御電動車 - 付随車 - 付随車 - 制御電動車)の4両編成で最初の5本(20両)が製造された<ref name="RP501p178" /><ref name="RP501p179" />。登場後数年で設計構想通りMTM編成となる予定とされていた<ref name="RF73p56" />が、終始MTTM編成のままで1971年(昭和46年)までに21編成(84両)が製造された<ref name="RP380p74" /><ref name="RP380p155" />。設計構想と異なる状態で製造、運用されたのは駅[[プラットホーム|ホーム]]延伸などの対応が遅れていたこと<ref name="RP501p179" />、[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式駆動]]車もまだ普通列車に多数運用されていた当時の状況では700形MTM編成に見合った[[運転曲線|ランカーブ]]を採用出来なかった{{refnest|group="注"|京急のいわゆる[[新性能電車]]の両数が吊り掛け式駆動車の両数を超えたのは[[1970年]](昭和45年)であり<ref name="RP774p105"/>、[[1978年]](昭和53年)までは吊り掛け式駆動車も普通列車で運用されていた<ref name="RP380p12"/>。}}ことが理由とされている。 === デハ700形 === 主制御装置を搭載する制御電動車である<ref name="RP243p30"/>。奇数番号が浦賀寄り、偶数番号が品川寄りに連結され、両者とも運転台とは反対側にパンタグラフを搭載する<ref name="RP380p76"/>。ドアは全車運転台と反対側に向いて開く<ref name="RF73p56"/><ref name="RP656p228"/>。浦賀方、品川方の先頭車で車体は反転しているが、床下機器は反転していない<ref name="RP656p228"/>。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてデハ701 - デハ742の42両が製造された<ref name="RP380p155"/>。 === サハ770形 === 京急で初めて付随車として製造された形式である<ref name="RP380p156"/>。[[電動発電機]]、[[圧縮機|空気圧縮機]]を搭載し、編成中間に2両が組み込まれたが、3両編成の中間車として設計されているため、電動発電機、空気圧縮機は3両分の容量をもち、2両とも同一設計である<ref name="RP380p156"/><ref name="佐藤2004p38"/>。サハ770形には速度に応じて制動力を切り替える装置が設けられ<ref name="RP380p74"/>、空気制動を常用するため一体圧延車輪が採用された<ref name="RP501p178"/>。ドアは全車浦賀方に向かって開く。1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)にかけてサハ771 - サハ799、サハ770、サハ761 - サハ769、サハ760、サハ751・752の42両が製造された<ref name="RP380p155"/><ref name="RP380p156"/>。形式番号はMTM編成とした場合のデハとサハの両数比率を反映して付与されたため<ref name="RF73p56" />、変則的なものとなっている。 == 新製時のバリエーション == === 高運転台車 === [[File:Keikyu 704 198601.jpg|thumb|240px|right|703編成(1986年1月 [[港町駅]]付近)]] {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="4"|{{TrainDirection|[[浦賀駅|浦賀]]|[[品川駅|品川]]}} |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|製造<br/>メーカー<ref name="RP656p229"/> |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP656p229"/> |- !形式 | '''デハ700'''|| '''サハ770''' || '''サハ770''' || '''デハ700''' |- !style="border-bottom:solid 3px #c14;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Mu|| style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T || style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Ms |- !車両番号<ref name="RP656p229"/> | '''701'''<br/>'''703'''<br/>'''705'''<br/>'''707'''<br/>'''709''' || '''771'''<br/>'''773'''<br/>'''775'''<br/>'''777'''<br/>'''779''' || '''772'''<br/>'''774'''<br/>'''776'''<br/>'''778'''<br/>'''780''' || '''702'''<br/>'''704'''<br/>'''706'''<br/>'''708'''<br/>'''710''' ||川車<br/>川車<br/>川車/東急<br/>東急<br/>東急||1967年6月 |- !搭載機器<ref name="RP656p229"/> |CON,PT|| CP<br/>MG7.5 ||CP<br/>MG7.5|| CON,PT||rowspan="3"| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF73p56"/> <ref name="RF73p57"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 34.5 [[トン|t]]||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|26.5 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 26.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.5 t |- !定員<ref name="RP677p64"/> | 140|| 140|| 140|| 140 |} * 凡例 ** Mu …浦賀方制御電動車{{refnest|group="注"|京急では[[1985年]](昭和60年)の[[京急1500形電車|1500形]]登場時から車種略称を変更し、制御電動車の略称はMcとなった<ref name="RP518p62"/>が、本稿では1984年以前の略称で統一した。}} ** Ms …品川方制御電動車 ** T …[[付随車]] {{refnest|group="注"|冷房改造前のサハ770形の略称は奇数番号、偶数番号ともTとする例<ref name="RF73p57"/>、奇数番号をTu、偶数番号をTsとする記載方法がある<ref name="RP501p178"/>が、冷房改造前は奇数番号、偶数番号で共通設計だったため、本稿ではTとした。 }} ** Tu …浦賀方付随車 ** Ts …品川方付随車 ** CON …[[制御装置|主制御装置]] ** MG …電動発電機 ** BMG …ブラシレス電動発電機 *** 電動発電機の右の数字は容量、単位kVA ** CP …電動空気圧縮機 ** PT …[[集電装置]](連結面寄り) ** 製造者名が複数記載されている場合、最初の会社が浦賀方2両、後ろの会社が品川方2両を製造したことを示す。以下同じ。 700形で最初に製造されたグループである<ref name="RP501p178"/><ref name="RP501p179"/>。正面が高運転台で窓が小窓であること、側面開閉窓隅のRがないことが特徴である<ref name="RP501p179"/>。当初ATS、列車無線が装備されていなかったが、[[1970年]](昭和45年)に設置されている<ref name="花沢1986p44"/>。補助警笛として電気笛が装備されていたが、[[1980年]](昭和55年)ごろまでに撤去されている<ref name="RP776p97"/>。705編成の扉部には枕木方向に[[つり革]]が試験的に設置された<ref name="RP380p155"/>。 === 1969年・1970年製造車 === [[ファイル:Keikyu731 Hakkei 1985.JPG|thumb|240px|right|731編成(1985年3月 [[金沢八景駅]])]] {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="4"|{{TrainDirection|浦賀|品川}} |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|製造<br/>メーカー<ref name="RP501p179"/> |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP501p179"/> |- !形式 | '''デハ700'''|| '''サハ770''' || '''サハ770''' || '''デハ700''' |- !style="border-bottom:solid 3px #c14;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Mu|| style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T || style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Ms |- !車両番号 | '''711'''<br/>'''713'''<br/>'''715'''<br/>'''717'''<br/>'''719'''<br/>'''721'''<br/>'''723'''<br/>'''725'''<br/>'''727'''<br/>'''729'''<br/>'''731'''<br/>'''733'''<br/>'''735'''<br/>'''737''' || '''781'''<br/>'''783'''<br/>'''785'''<br/>'''787'''<br/>'''789'''<br/>'''791'''<br/>'''793'''<br/>'''795'''<br/>'''797'''<br/>'''799'''<br/>'''761'''<br/>'''763'''<br/>'''765'''<br/>'''767''' || '''782'''<br/>'''784'''<br/>'''786'''<br/>'''788'''<br/>'''790'''<br/>'''792'''<br/>'''794'''<br/>'''796'''<br/>'''798'''<br/>'''770'''<br/>'''762'''<br/>'''764'''<br/>'''766'''<br/>'''768''' || '''712'''<br/>'''714'''<br/>'''716'''<br/>'''718'''<br/>'''720'''<br/>'''722'''<br/>'''724'''<br/>'''726'''<br/>'''728'''<br/>'''730'''<br/>'''732'''<br/>'''734'''<br/>'''736'''<br/>'''738''' ||東急<br/>東急<br/>東急/川車<br/>川車<br/>川車<br/>川重<br/>川重<br/>川重/東急<br/>東急<br/>東急<br/>東急<br/>東急<br/>川重<br/>川重||1969年6月<br/>1969年6月<br/>1969年7月<br/>1969年6月<br/>1969年6月<br/>1970年3月<br/>1970年3月<br/>1970年3月<br/>1970年2月<br/>1970年2月<br/>1970年6月<br/>1970年6月<br/>1970年6月<br/>1970年6月 |- !搭載機器<ref name="RP656p229"/> |CON,PT|| CP<br/>MG7.5 ||CP<br/>MG7.5|| CON,PT||rowspan="3"| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF73p56"/> <ref name="RF73p57"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 34.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|26.5 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 26.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.5 t |- !定員<ref name="RP677p64"/> | 140|| 140|| 140|| 140 |} [[1968年]](昭和43年)は700形の製造はなく、1年あけた[[1969年]](昭和44年)に製造が再開された<ref name="RP656p230"/>。高運転台をやめて通常の運転台構造となったため前面窓が下方に100 mm拡大され、外観の印象が変わっている<ref name="RP774p108"/>。運転席腰掛の高さが3段階に変更できるようになった<ref name="RP774p108"/>。前面窓は1000形と共通のものとされたため、貫通扉窓の天地寸法が他の2枚よりも大きくなった<ref name="RP656p230"/>。開閉側窓隅にRが設けられるとともに戸袋窓の天地寸法が拡大され、車体外側から見た窓開口部の大きさが開閉側窓と同一となった<ref name="RP656p182"/>。乗務員室扉・正面貫通扉が[[ステンレス鋼|ステンレス]]製に変更された<ref name="RP774p108"/>。車内では座席下蹴込がステンレス無塗装となり、 運転台仕切り部の遮光幕がアルミ製遮光板となった<ref name="RP656p230"/>。高運転台車に装備されていた電気笛は採用されなかった<ref name="RP656p230"/>。製造時からATS、列車無線を装備している<ref name="RP656p230"/>。寒冷時の保温対策として、中央部2か所のドアを閉め切る戸閉半減装置が設けられた<ref name="RP774p109"/>。 [[1969年]](昭和44年)11月に川崎車輌が川崎重工の一部門となったため、[[1970年]](昭和45年)製造車から製造者名が変更されている<ref name="RP501p179"/>。1970年(昭和45年)製造車では車内の難燃化推進のための設計変更が行われた<ref name="RP774p109"/>。サハ770形の番号が799に達したため、30両目は770、31両目以降は760番台に附番された<ref name="RP774p109"/>。733編成はドア部レール方向につり革を増設した<ref name="RP774p109"/>。 711・713編成ではシート表布にビニールレザーが採用されたが、汗でべたつくことからすぐに一般的なモケットに変更されている<ref name="RP774p108"/>。 === 1971年製造車 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="4"|{{TrainDirection|浦賀|品川}} |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|製造<br/>メーカー<ref name="RP656p230"/> |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|竣工時期<ref name="RP656p230"/> |- !形式 | '''デハ700'''|| '''サハ770''' || '''サハ770''' || '''デハ700''' |- !style="border-bottom:solid 3px #c14;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Mu|| style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #c14;"| T || style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Ms |- !車両番号 | '''739'''<br/>'''741''' || '''769'''<br/>'''751''' || '''760'''<br/>'''752''' || '''740'''<br/>'''742''' ||川重||1971年6月 |- !搭載機器 |CON,PT|| CP<br/>MG7.5 ||CP<br/>MG7.5|| CON,PT||rowspan="3"| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RF73p56"/> <ref name="RF73p57"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 34.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|26.5 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 26.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|34.5 t |- !定員<ref name="RP677p64"/> | 140|| 140|| 140|| 140 |} [[File:Keikyu 741 198601.jpg|thumb|240px|right|741編成<br/>1986年1月[[京急川崎駅|京浜川崎]] - [[港町駅|港町]]間にて]] 700形の最終製造車であり、全車川崎重工で製造された<ref name="RP501p180"/>{{refnest|group="注"|1971年製造分の1000形18両は東急製である<ref name="RP380p159"/>。}}。サハ770形は751・752・760・769と付番された<ref name="RP501p180"/>。今回の製造車では主制御装置が三菱電機製、主電動機、駆動装置、電動発電機が東洋電機製とされた<ref name="RP656p230"/>。各機器の形式は前回までの製造車と同一である<ref name="RP656p229"/>。同時期製造の1000形同様、耐候性鋼板が外板などに採用された<ref name="RP774p109"/>。客用ドアが1000形と同じものに変更され、窓の天地寸法が拡大された<ref name="佐藤2004p40"/>。室内では乗務員室仕切扉がステンレス製に変更されたが、客室側は壁と同色に塗装された。乗務員室仕切り扉下部の通風口が廃止され、仕切り扉の遮光幕がアルミ合金製の遮光板に変更された<ref name="RP774p109"/>。製造後すぐにドア部につり革が増設された<ref name="RP656p230"/>。 == 改造 == === MTM化および1000形編成へのサハ770形の挿入 === [[1974年]](昭和49年)10月のダイヤ改正で朝ラッシュ時にもっとも混雑する普通列車に700形6両編成が投入され<ref name="RP501p180"/>、同時に[[オイルショック]]に対応した[[節電]]ダイヤで日中に3両編成の普通列車が設定され<ref name="RP775p106"/>たため、これに運用される700形3両編成が組まれた<ref name="RP501p180"/>。1974年10月・11月に729・731・739・741の各編成からサハ770形偶数車が外され<ref name="RP775p110"/>、編成から外されたサハ770形は[[京急ファインテック#久里浜事業所|久里浜工場]]に留置された<ref name="RP656p232"/><ref name="花沢1986p45"/>が、車両が痛むため、後に[[金沢検車区]]に移動している<ref name="RP776p35"/>。1975年5月に727・733編成も3両化され、1975年6月にはずされたサハ770形6両が2両ずつ1000形1013(770 - 798組込)・1021(752 - 760組込)・1009(762 - 764組込)の各編成の3両目・4両目に組み込まれ、6両編成となった<ref name="RP775p110"/>。浦賀方に連結されたサハ752・762・770の電動発電機、電動空気圧縮機は取り外された<ref name="RP775p107"/>。 1000形4両にサハ770形2両を組み込んだ6両編成では加速度が著しく低下し、扉数が異なることから都営地下鉄1号線乗入運用にも充当できないため<ref name="RP774p107"/>、1975年9月に1009編成が1025編成から転用された1139 - 1140を、11月に1013編成が1041編成から転用された1217 - 1214を品川寄りから3・4両目に組み込んで8両編成となり、8両編成の浦賀寄りから5・6両目にサハ770形が組み込まれるよう変更された<ref name="RP775p110"/>。1021編成に組み込まれたサハ752・サハ760は1978年3月に編成から外され、1000形サハ770形混成の6両編成は消滅した<ref name="RP775p111"/>。6両編成時の加速度は[[抵抗制御#弱界磁(弱め界磁)制御|弱め界磁]]率を25 %から20 %に変更した状態で0.58 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]、同じ条件の8両編成で0.67 m/s<sup>2</sup>だった<ref name="RP380p156"/>。 8両編成は組み込まれる1000形編成を何回か入れ替え、サハ770形も入れ替わりながら本数を増減させ、1980年2月まで運用された<ref name="RP775p112"/>。サハ770形は800形の増備とともに原編成に復帰し、1980年2月までに全編成が製造時の編成に戻っている<ref name="RP775p108"/><ref name="RP775p112"/>。 MTM3両編成は3両編成及び2本組み合わせた6両編成として運用された<ref name="RP775p106"/>ほか、[[1976年]](昭和51年)3月から[[1979年]](昭和54年)7月まで3両編成で空港線でも運用された<ref name="RP775p108"/>。 === 冷房改造 === [[File:Keikyu 729 198408.jpg |thumb|240px|right|初期に冷房改造された車両の例(1984年8月 [[逸見駅]])]] [[File:Keikyu 707 198510 Hemi.jpg|thumb|240px|right|通常の運転台に改造された旧高運転台車(1985年10月)逸見駅]] [[1980年]](昭和55年)から[[1988年]](昭和63年)にかけて冷房改造が行われた<ref name="RP656p231"/>。冷房能力12.2 kW(10,500 kcal/h)の三菱CU-126系冷房装置を各車3基搭載、FRP製通風機が撤去された<ref name="RP501p180"/>。冷房機を均等に搭載するため、先頭車の誘導無線アンテナが非冷房時代の運転台側に受信用、中央側に送信用から前後逆配置に変更され、パンタグラフ脇のヒューズも車両中央側から車端側に移設された<ref name="花沢1986p48"/>。サハ770形の冷房装置は品川方に寄って搭載された<ref name="佐藤2004p39"/>。側面に電動式種別幕・方向幕が取り付けられるとともに正面各幕の電動化が行われ<ref name="RP380p156"/>、各幕の指令装置は品川方先頭車車掌台に設けられた<ref name="RP501p180"/>。幕が取り付けられた部分は上段窓が固定化されたが、そのほかの側窓は全開する構造のままとされたため、窓の保護棒は残された<ref name="RP775p109"/><ref name="RP775p112"/>。妻窓が上下段上昇から上段下降、下段固定に変更され、窓の保護棒が撤去された<ref name="RP775p112"/>。 冷房改造によりデハ700形の全高が4,050 mm、自重が35.0 tに、サハ770形がそれぞれ4,005 mm、28.5 tとなった<ref name="RP501p193"/>。デハ700形の車輪が一体波打車輪に交換されている<ref name="RP380p156"/>。 品川寄りに連結されるサハ770形偶数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機と電動空気圧縮機を撤去<ref name="RP501p180"/>、かわって800形と同一の<ref name="佐藤2004p110"/>容量100 kVAのブラシレス[[電動発電機]]、東洋製TDK-3320Aが1台搭載され、編成全車の冷房用電源と、品川寄り2両の低圧電源とされた<ref name="RP656p231"/>。浦賀寄りに連結されるサハ770形奇数車に搭載されていた7.5 kVA電動発電機は残され、浦賀寄り2両の低圧電源用とされるとともに、偶数車から外された電動空気圧縮機も奇数車に搭載され、2台搭載となった<ref name="RP501p180"/>。この機器配置の変更により、サハ770形1両を外した3両編成とすることができなくなった<ref name="RP656p231"/>。7.5 kVA電動発電機は三菱製に統一されている<ref name="RP775p112"/>。 [[File:Keikyu 723 air duct.JPG|thumb|240px|right|デハ700形パンタグラフ下の冷気吹き出し口]] 天井は高さ2,200 mmの平天井となった<ref name="RP775p109"/>。非冷房時代と同様に1両に5台首振り式扇風機が設置された<ref name="RP775p109"/>が、1000形冷房改造車の様に回転速度を落とす改造は行われず、非冷房時代と同じ回転数とされた<ref name="RP380p156"/>。暖房用電源は直流1,500 Vから交流200 Vに変更されている。内装は全面的に張り替えられたが、色彩は変更されていない<ref name="RP775p109"/>。扉類、蹴込板などがステンレス化されていなかった車両についてはステンレス化が行われた<ref name="RP775p112"/>。 当初は朝ラッシュ時の特急増結用として1980年(昭和55年)、[[1981年]](昭和56年)に711 - 721の6編成のみが改造され、のち[[1984年]](昭和59年)に729編成が追加改造された<ref name="RP656p231"/>。[[1985年]](昭和60年)10月冷房改造出場の707編成から本格的な工事が始まり、[[方向幕|行先表示器]]SPC方式化に伴う地色の黒色化、電気連結器付き[[連結器#密着連結器|密着連結器]]取り付け準備の実施、先頭車山側の冷房指令・自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の廃止、電子[[警笛]]の設置などの仕様変更が行われた<ref name="RP501p173"/><ref name="RP656p231"/>。 701 - 709編成は高運転台から標準の運転台に改造され、711編成以降と同様の前面窓配置となった<ref name="RP656p231"/>。側面窓形状は変更されていない<ref name="佐藤2004p40"/>。 [[1988年]](昭和63年)度改造分は[[車側灯]]が[[発光ダイオード|LED]]光源に交換され、1988年(昭和63年)9月出場の735編成で工事は完了した<ref name="RP656p231"/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |- |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|&nbsp; |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;" colspan="4"|{{TrainDirection|浦賀|品川}} |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|改造年月<ref name="RP656p231"/> |style="border-bottom:solid 3px #c14;" rowspan="3"|備考<ref name="RP656p231"/> |- !形式 | '''デハ700'''|| '''サハ770''' || '''サハ770''' || '''デハ700''' |- !style="border-bottom:solid 3px #c14;"|区分 |style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Mu|| style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Tu ||style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Ts || style="border-bottom:solid 3px #c14;"| Ms |- !車両番号 | '''701'''<br/>'''703'''<br/>'''705'''<br/>'''707'''<br/>'''709'''<br/>'''711'''<br/>'''713'''<br/>'''715'''<br/>'''717'''<br/>'''719'''<br/>'''721'''<br/>'''723'''<br/>'''725'''<br/>'''727'''<br/>'''729'''<br/>'''731'''<br/>'''733'''<br/>'''735'''<br/>'''737'''<br/>'''739'''<br/>'''741''' || '''771'''<br/>'''773'''<br/>'''775'''<br/>'''777'''<br/>'''779'''<br/>'''781'''<br/>'''783'''<br/>'''785'''<br/>'''787'''<br/>'''789'''<br/>'''791'''<br/>'''793'''<br/>'''795'''<br/>'''797'''<br/>'''799'''<br/>'''761'''<br/>'''763'''<br/>'''765'''<br/>'''767'''<br/>'''769'''<br/>'''751''' || '''772'''<br/>'''774'''<br/>'''776'''<br/>'''778'''<br/>'''780'''<br/>'''782'''<br/>'''784'''<br/>'''786'''<br/>'''788'''<br/>'''790'''<br/>'''792'''<br/>'''794'''<br/>'''796'''<br/>'''798'''<br/>'''770'''<br/>'''762'''<br/>'''764'''<br/>'''766'''<br/>'''768'''<br/>'''760'''<br/>'''752''' || '''702'''<br/>'''704'''<br/>'''706'''<br/>'''708'''<br/>'''710'''<br/>'''712'''<br/>'''714'''<br/>'''716'''<br/>'''718'''<br/>'''720'''<br/>'''722'''<br/>'''724'''<br/>'''726'''<br/>'''728'''<br/>'''730'''<br/>'''732'''<br/>'''734'''<br/>'''736'''<br/>'''738'''<br/>'''740'''<br/>'''742''' ||1987年3月<br/>1987年6月<br/>1987年8月<br/>1985年10月<br/>1986年7月<br/>1981年5月<br/>1980年5月<br/>1980年6月<br/>1982年3月<br/>1981年9月<br/>1981年2月<br/>1987年4月<br/>1986年12月<br/>1987年10月<br/>1984年7月<br/>1988年4月<br/>1988年6月<br/>1988年9月<br/>1988年8月<br/>1988年2月<br/>1987年12月|| &nbsp;<br/><br/><br/><br/><br/>白地幕<br/>白地幕<br/>白地幕<br/>白地幕<br/>白地幕<br/>白地幕<br/>車側灯LED試用<br/><br/><br/>白地幕<br/>車側灯LED<br/>車側灯LED<br/>車側灯LED<br/>車側灯LED<br/>車側灯LED<br/>&nbsp; |- !搭載機器 |CON,PT|| BMG100 ||CP CP<br/>MG7.5|| CON,PT||rowspan="3"| &nbsp;||rowspan="3"| &nbsp; |- !style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重<ref name="RP677p64"/> |style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 35.0 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|28.5 t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.5 t||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|35.0 t |- !定員 | 140|| 140|| 140|| 140 |} === ブレーキ系の諸改造 === ATS故障時やATSがない構内で速度超過防止のため、[[1981年]](昭和56年)から[[1985年]](昭和60年)にかけて速度超過防止装置が設置された<ref name="RP776p97"/>。[[1982年]](昭和57年)から1985年にかけて、[[保安ブレーキ]]を取り付ける改造が行われた<ref name="RP776p97"/>。いずれも、一部編成は冷房改造と同時の施工である<ref name="RP776p97"/>。[[鉄道のブレーキ#耐雪ブレーキ|耐雪ブレーキ]]を設置する改造が[[1998年]](平成10年)に施工されたが、同年に廃車された715・717編成には施工されなかった<ref name="RP776p98"/>。 === 連結器交換 === 連結作業の省力化のため、[[1988年]](昭和63年)から[[1989年]](平成元年)にかけて電気連結器付き廻り子式密着連結器 (CSD-90) への交換が行われた<ref name="RP656p214"/>。冷房改造時に連結器交換準備工事が行われなかった編成についても準備工事が順次施工された<ref name="RP776p97"/>。715・717・721・729の各編成は準備工事を行わず、直接連結器交換工事が行われた<ref name="RP776p101"/>。品川方先頭車のジャンパ栓受は交換後の定期検査入場時に撤去された<ref name="RP776p97"/>が、のちの事故復旧工事の際にジャンパ栓受け跡を撤去した706以外、ジャンパ栓受跡は全編成に残っていた<ref name="RP776p36"/>。1000形では非常用中間連結器は先頭部海側床下に搭載されたが、700形では側面海側床下に搭載された<ref name="佐藤2004p42"/>。 === 台車交換 === [[1996年]](平成8年)8月に発生した踏切事故でデハ706の台車が損傷したため、同年10月から翌年7月までの間サハ776に1000形廃車発生品の[[川崎車輌OK形台車|OK-18台車]] を取り付け、サハ776用の台車を電装の上デハ706に転用していた<ref name="RP656p231"/><ref name="RP656p232"/>。復旧工事と同時にデハ706のジャンパ栓跡が撤去されている<ref name="RP776p36"/>。705編成はOK-18台車装備中、主に大師線で運用された<ref name="RP656p232"/>。 === その他 === *[[1976年]](昭和51年)ごろに車内広告吊が増設された<ref name="RP774p109" />。車内の車号板が広告で隠れるため、車号板が妻面に向かって左側に移設されている<ref name="RP774p109" />。 *[[1977年]](昭和52年)にブレーキシューの摩耗粉で車内が汚れたため、全車の車内が再塗装された<ref name="RP501p180" /><ref name="RP656p230" />。 *[[1986年]](昭和60年)から[[1988年]](昭和63年)の定期検査入場時に冷房車を対象にドア部分につり革を増設する工事が施された<ref name="RP776p97" />。一部編成は冷房改造と同時に施工された<ref name="RP776p97" />。 *[[2003年]](平成15年)以降残存した8本(32両)は[[京急蒲田駅]]付近の[[連続立体交差]]化工事(直上高架方式)の安全対策として同年4月に側窓下段が固定された<ref name="RP776p99" />。700形が本線で運用されたのは2003年7月までであり、短期間のための工事となった<ref name="RP776p99" />。 == 運用 == [[File:Keikyu 715B 1986.jpg|240px|thumb|right|通勤快特で運用される700形<br/>1986年京浜川崎駅にて]] [[File:908A 198408.jpg|240px|thumb|right|通勤快特の折り返しを営業運転した夏季の臨時快特<br/>1984年8月[[北久里浜駅]]付近にて]] 登場当初は4両編成で普通列車に運用されたが、[[1977年]](昭和52年)6月から朝ラッシュ時は1000形[[特別急行列車|特急]]列車の増結用にも使用された<ref name="RP775p108" />。都営地下鉄1号線乗り入れ特急に増結される場合は、当初700形非冷房車には泉岳寺以北の駅名の行き先表示が組み込まれていなかったため、行き先を表示せずに運転された<ref name="RP380p129" />。[[1978年]](昭和53年)6月のダイヤ改正で普通列車のランカーブが[[京急400形電車 (2代)|400形]]から700形MTMに変更され、朝ラッシュ時の普通列車での運用が困難となったこと、同じ改正で朝ラッシュ時の一部特急が8両編成で都営線に乗り入れるようになり、品川止まりの特急(C特急)用として運用されていた1000形8両編成を乗り入れ特急(H特急)に回す必要があったことから、700形はラッシュ時の普通列車運用からはずされ、700形だけの12両編成でC特急として運用されるようになった<ref name="吉本1999p193" /><ref name="吉本1999p194" />。それまで普通列車で運用されていた吊り掛け式駆動車は[[急行列車|急行]]に転用された<ref name="RP380p12" />。海水浴輸送対応の夏季ダイヤでは品川に到着した700形特急も折り返し[[三浦海岸駅|三浦海岸]]行きとして運転された<ref name="RP776p35" />。 1970年代に存在したMTM編成は2本つないだ6両編成で朝ラッシュ時の普通列車・急行に、3両編成で日中の本線普通列車に運用されたほか<ref name="RP775p106"/>、一時期は[[京急空港線|空港線]]でも運用された<ref name="RP775p108"/>。[[1981年]](昭和56年)の[[京急本線#通勤快特|通勤快特]]運転開始時から700形4両3編成をつないだ列車も設定された<ref name="RP776p36"/>。 [[1978年]](昭和53年)の正月ダイヤから吊り掛け式駆動車に交じって[[京急大師線|大師線]]での運用が始まり、当初は吊り掛け式駆動車と共用されたが、吊り掛け式駆動車の3両編成化の進行により[[1979年]](昭和54年)に大師線は700形に統一された<ref name="RP775p108"/><ref name="RP775p109"/>。 1978年の正月輸送から大師線ではヘッドマークが取り付けられるようになり<ref name="RP776p34"/>、700形には運用から外れる[[2005年]](平成17年)まで毎年ヘッドマークが出され、[[1981年]](昭和56年)から始まった[[干支]]をモチーフにしたマークは2周したことになる<ref name="RP775p109"/>。何度か6両編成化の話はあったが<ref name="RP677p60"/>、結局廃車まで実現されなかった。 === 廃車 === [[1998年]](平成10年)から下記の順に[[廃車 (鉄道)|廃車]]が開始された<ref name="RP776p99" /><ref name="RP776p101" />。 *[[1998年]](平成10年)3月31日 715・717編成<ref name="RP776p101" /> *1998年(平成10年)12月16日 711・713・719・721編成<ref name="RP776p99" /><ref name="RP776p101" /> * [[2000年]](平成12年)3月10日 707・709・725・729編成<ref name="RP776p99" /><ref name="RP776p101" /> * [[2002年]](平成14年)7月26日 705・727・731編成<ref name="RP776p99" /><ref name="RP776p101" /> * [[2003年]](平成15年)8月15日 733編成<ref name="RP776p101" /> * [[2004年]](平成16年)3月5日 737編成<ref name="RP776p101" /> * [[2005年]](平成17年)3月10日 701・703・723編成<ref name="RP776p99" /><ref name="RP776p101" /> * 2005年(平成17年)11月30日 735・739・741編成<ref name="RP776p101" /> [[1999年]](平成11年)8月のダイヤ改正で本線普通列車運用から<ref name="RP677p53" />、[[京急本線|本線]]運用からは[[2003年]](平成15年)7月のダイヤ改正で外れ、2005年(平成17年)[[11月28日]]の大師線沿線の[[幼稚園]]児の大師線内[[団体専用列車|貸切運転]]で営業運転を終了した<ref name="Keikyu20051110">[https://web.archive.org/web/20051125072358/http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051110_2.html 京急電車「700形」の引退にともない「さよなら700形」イベントを開催します。「さよなら700形記念入場券」発売と「さよなら運転」](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref><ref name="Keikyu20051125">[https://web.archive.org/web/20051130023745/http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051125_1.html 京急電車700形「さよなら運転」実施にともない「引退セレモニー」を開催します「引退セレモニー」と「イベント列車」の展示](京浜急行リリース(報道発表資料)・インターネットアーカイブ・2005年時点の版)</ref><ref name="RP776p37" />。 == 譲渡 == [[File:Keikyu 724 2050103.jpg|thumb|240px|right|最後の正月輸送につく723編成<br />2005年1月[[東門前駅]]にて]] [[File:Kotoden-1200-1201F-20100804.jpg|thumb|right|240px|譲渡後の高松琴平電気鉄道1200形電車]] 廃車となった700形のうち、2002年以降の11編成は中間車のみ廃車、先頭車22両は[[高松琴平電気鉄道]](琴電)へ譲渡され、[[高松琴平電気鉄道1200形電車|1200形]]となった。 {{Main|高松琴平電気鉄道1200形電車}}京急時代の番号と譲渡後の番号の対照は下表のとおり。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" |- !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;" |京急車番 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;" |京急除籍日<ref name="RP776p99"/><ref name="RP776p101"/> !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;" |琴電車番 !style="border-bottom:solid 3px #ffd400;" |琴電入籍日<ref 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{{Reflist|25em|refs= <ref name="RF73p56">[[#鉄道ファン73|『鉄道ファン』通巻73号 p56]]</ref> <ref name="RF73p57">[[#鉄道ファン73|『鉄道ファン』通巻73号 p57]]</ref> <ref name="RP243p24">[[#1970保安|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p24]]</ref> <ref name="RP243p28">[[#1970概況|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p28]]</ref> <ref name="RP243p30">[[#1970概況|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p30]]</ref> <ref name="RP243p83">[[#1970めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p83]]</ref> <ref name="RP243p86">[[#1970めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p86]]</ref> <ref name="RP243p87">[[#1970めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p87]]</ref> <ref name="RP243p88">[[#1970めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻243号 p88]]</ref> <ref name="RP380p12">[[#1980運転|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p12]]</ref> <ref name="RP380p74">[[#1980総説|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p74]]</ref> <ref name="RP380p75">[[#1980総説|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p75]]</ref> <ref name="RP380p76">[[#1980総説|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p76]]</ref> <ref name="RP380p118">[[#1980質問|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p118]]</ref> <ref name="RP380p129">[[#1980各説|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p129]]</ref> <ref name="RP380p147">[[#1980めぐり|『鉄道ピクトリアル』通巻380号 p147]]</ref> <ref 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サイコロ
サイコロ(骰子、賽子)、または賽(さい)、ダイス (単:die、複:dice) は主として卓上遊戯や賭博等に用いる小道具で、乱数を発生させるために使うものである。 多くは正六面体で、転がりやすいように角が少し丸くなっている。各面にその面の数を示す1個から6個の小さな点が記されていて、対面の点の数の和は必ず7となる。この点は“目”、または“ピップ” (pip)、“スポット” (spot)、まれに“ドット” (dot) とも呼ばれる。日本製の場合、1の面の目は赤く着色されていることが多い。ピップではなく算用数字が記されているものもある。 各面に表示される数も“目”と呼ばれ、サイコロを振った結果表示される数を“出目”と呼ぶ。複数のダイスを同時に振ってすべて揃った出目を“ゾロ目”と表現し、特にすべてが1の目が揃った場合のことを“ピンゾロ”と表現する。 最も原始的な形態の“サイコロ”は、宝貝や表裏を塗り分けた木の実などを投げ、それが表か裏かを見るというものである。このような投げ棒型のサイコロは古代インドで良く用いられ、近・現代においてもアメリカ・インディアンの文化などで使われている。しかしながら「サイコロ型」、つまり正六面体のサイコロも古代より出土しており、その成立は大変古いものであることが分かっている。 アジアでは、古いものではインダス文明のハラッパー遺跡などからも出土しており、中国やインドでも古くから存在していたことが知られる。これらの出土品は必ずしも立方体ではなかった。投げ棒型の他に、棒状四角柱で転がして使うもの、三角錐のものなどがあった。 こういった正六面体でないサイコロの中でも独特なのが、牛や羊などの距骨(後ろ足の踝の骨)を用いるものである。距骨は一見すると六面体にも見えるが、どちらかといえばいびつな四角柱に近い形状であり、4種の出目を無作為に得ることができる(ただし、各面の確率は明らかに不均等である)。サイコロとして遊戯に用いる様子は古代ギリシア・ローマの彫刻や絵画にも描かれている。また、距骨は古代エジプトの副葬品にも見られ、他の形態と比べても古くから用いられていたことが分かる。紀元前のモンゴルの遺跡からも発見されており、地理的にも広く使われていた。このタイプのサイコロは、現在でもモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」を意味するシャガイ(en:shagai)という名前で使用されている。 距骨を使ったサイコロこそが現在のサイコロの起源であるとする説も唱えられている。少なくとも、以下のように複数の言語でサイコロは骨と関連付けられている。 正六面体のサイコロの発祥地は古代インドとも古代エジプトとも言われる。現在と同じように1の裏が6であり、反対面を足すと7になるサイコロの最古のものは、紀元前8世紀頃のアッシリアの遺跡から発掘されたものである。 この他、古代ローマ時代には正二十面体のサイコロも作られており、現在イギリスの大英博物館に収蔵されている。ただし、これは各面に記号を刻んだものであり遊具ではなく占い専用の道具であった可能性が高い。 古代メソポタミアの遺跡からは、4面のサイコロが出土したが、当初はゲームのコマと考えられた。 古代ギリシアでは、3個、時に2個のサイコロを使った賭博が非常に盛んに行われており、特に上流階級の酒宴(シュンポシオン、ギリシア語:συμποσιον)の席では、欠かせないものとなっていた。またギリシア神話には、パラメーデースがサイコロを発明したとの記述がある。 日本へは、奈良時代に中国から伝来した。当初は、棒状のものと正六面体のものの両方が用いられていたようである。 サイコロの目の確率は人智では予想ができないものと考えられていたため、サイコロの動きを、神の意志と捉えて宗教儀式などに用いられる事があった。特にサイコロ発祥の地の一つとされているインドの神話を集録した『マハーバーラタ』にはサイコロ賭博の場面が多く登場する。これは、サイコロ賭博そのものが元々、物事の吉凶についてサイコロに託して占った結果を他者と比較した事に由来するからだとも言われている。日本でも平安時代に藤原師輔が親王誕生を祈願してサイコロを振った故事(『大鏡』)があり、院政全盛期に絶大な権力を誇った白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(鴨川の水の流れ方、双六のサイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵、私の思い通りにならぬものはこれ)と述べたという記載が平家物語にある。また江戸時代には航海の安全を祈ってサイコロを船に祀るということが広く行われていた(船霊参照)。 中世以前のヨーロッパで使われていたサイコロは重心や形が不揃いで、理論として確率を予測することは困難だった。13世紀にヨーロッパ各地で均質なサイコロの生産が始まり、サイコロのデザインが標準化されることで、出目のパターンを予測する事が可能となった。サイコロの出目の確率を数学によって解き明かしたのは、1564年に数学者ジェロラモ・カルダーノの著した『運のゲームの本』というギャンブル指南書が最初と言われる。 サイコロの目は、もとの六面体を凹ませることで作るため、目の分だけ各面から質量が取り除かれることになり、重心に偏りを生ませる。特に、最も数の差が大きい1の面と6の面が向かい合っているため、目の大きさが全て同一のサイコロは1の面側に重心が偏り、転がした際に6の面がもっとも上になりやすく、乱数発生に不都合が生じる。そのため、このことを考慮したサイコロでは、各面に刻む目の容積をその数に反比例させ、1の目が最も大きく、2はその半分、3は3分の1、...6は6分の1、という具合に徐々に小さくなるようにし、各面が失う質量を等しくすることにより、重心の偏りを避ける工夫がなされている。ただし、市販のサイコロの大部分はそこまで行わず、1の面の目だけが大きく他は同じ大きさといった程度である。この場合、最も上になりやすいのは5の面である。 また、各々の面において目の配置が点対称あるいは左右対称なのも、配置による重心の偏りをなくすための工夫である。 さらに、カジノゲームのクラップスや競技バックギャモンで使われるダイスでは、少しでも重心の偏りをなくすため、目を凹ませた後に素材と同比重の塗料(もしくは本体と同材質異色の材料)で埋めてある。また角も丸められてはいない。これらをプレシジョン・ダイス(precision dice、精密ダイス)という。 また、各目に穴を空けずに塗装するだけのサイコロもある。もちろん、このようなサイコロには重心の偏りが少ない。 逆に、わざと重心を偏らせて特定の目が出やすいようにしたものをグラサイと呼ぶ。 中国には紀元前よりダイスゲームに相当するものがあったが、秦始皇帝陵から出土したサイコロは14面であった。漢代になると18面のサイコロが使われるようになった。南北朝時代にはこのようなサイコロを「煢(けい)」と呼んだ。ほかに棒や木板を複数投げることもあった。その後、西域から双六が伝来・流行するとともに、正六面体のサイコロが使われるようになった。 中国のサイコロの特徴として、1と4の目が赤いことがあげられる。また2の目のつき方が西洋のものと異なる。全体的に目と目の間隔が狭い。4の目が赤い理由について、もとは1だけが赤かったのを、唐の玄宗皇帝が楊貴妃とダイスゲームをしていて、4の目で勝てたのを喜んで、4を赤く塗らせたという伝説があるが、真偽不明である。同様の話が平治物語(13世紀)にも見えるが、こちらでは3と4の目を赤くしたとある。 朝鮮のサイコロは中国の影響が強く、伝統的なサイコロはやはり1と4の目が赤い。中国の煢と同様の、新羅時代の14面(切頂八面体を変形して各面の面積をほぼ同じにした形状で、正方形6面、六角形8面から成る)のサイコロが慶州市の雁鴨池から出土している。酒令用なので酒令具と呼ばれ、各目にはその目が出たときにする行為(罰ゲーム)が記されている。この酒令具の出土品(本物)は水分を取り除く保存処理のためオーブンに入れていたところ、温度が高すぎて燃えてしまったため現存しておらず、複製品だけが現存している。近くからは六面体のサイコロも出土している。 板状のサイコロは現在もユンノリで使用されている。刻み目をつけた5面の棒状のサイコロはユンモク(輪木)と呼ばれ、スンギョンド(陞卿図)という出世すごろくの一種で使われる。 1の目を「ピン」と呼ぶ場合も多い。 「1926年に和歌山県の業者が天を示す1の目を赤く塗った。他社との差別化のためだったという。これが広まって日本製のサイコロの1の目は赤く塗られるようになった。」と言われているが、これを裏付ける根拠は見つかっていない。他にも、日の丸を元にしたとする説もある。 また、遊戯用は1の目が赤く、賭博用は1の目が黒いとも言われているが、これはまったく事実とは異なる。任侠映画に長く携わってきた東映京都撮影所でも、「時代考証から云っても黒です。」としている。 カリフォルニアなどに住んでいたチュマシュ族(英語版)は、クルミの実の殻にアスファルトを詰めて個数を決めた貝殻のかけらを入れて目を作った。 サイコロの目の割り振りは、ほぼ「天一地六東五西二南三北四」(雌サイコロ)と決まっている。これは、日本だけの特徴ではなく、世界的な共通点である。ただし、「南三」でなく「北三」になっているサイコロもあり、「南三」を雌サイコロ、「北三」を雄サイコロと呼ぶこともある(異性)。サイコロの雌雄の見分け方は、1・2・3の面が集まる頂点を正面に置き、1→2→3の順に見たときに時計回りになるのが雄サイコロ、反時計回りになるのが雌サイコロである。舟になぞらえて「天一地六表三艫四面舵二取舵五」ともいう。 普通のサイコロは乱数の範囲が1〜6に限られるため、用途によっては不適当である。そのため、立方体ではない形状のサイコロも存在しており、これを多面ダイス、または多面体ダイスと呼ぶ。ちなみに、これらと併せて用いる場合、通常のサイコロは六面ダイスなどと呼ばれる。目の数が多くなる程サイコロの形が球体に近づき止まりにくくなるため、出る目を判定できるようになるまで時間がかかる。 通常これらの多面ダイスでは目は算用数字で記されているため、6と9とを混同しないよう付点(6.と9.)や下線(6と9)が併記されている。 これらの各種多面体ダイスは、頻繁に乱数処理を行うテーブルトークRPGに代表される卓上ゲームに多用されることから、ホビーショップなどで入手可能な場合が多い。 多面体ダイスが一般に流布する以前の西洋では、一部のギャンブルゲームや兵棋演習にTeetotum(ティートータム)を独楽式の乱数生成器として用いるものがあった。また、ユダヤ教の祝祭、ハヌカーで子供達に配られるDreidel(ドレイドル)は同じく独楽式の四面ダイスである。インドやネパールでも古い形態のサイコロである投げ棒(ロット)式のサイコロが現在でも使われている。 14面、16面、24面、30面、60面、120面などのダイスも稀に見られる。いずれもサイコロに適した形状をしているため、実用に向く。ただし、ホビー用のサイコロはそれほど精度が高くない。 なお、玩具として、「各面の面積や形状が異なる」「各面が不均等な配置」などのものも売られているが、出目は統計的に好ましくなく、実用的ではない。正角柱で底面も使用するものや、ゾッキヘドロン(Zocchihedron)と呼ばれる100面ダイスなどが挙げられる。メビウスの輪の1面ダイスに至っては、「1」の目が出る確率が100%であり、ジョークグッズとなっている。また、完全に球状のサイコロで、内部にくぼみが設けられた空洞があり、振ると空洞内に入れられた鉄球がくぼみに入って目が出るような物もある。 ただし、各出目の出現確率が不均等である点を逆手に取り、特定の「出にくい目」などの効果を狙う使用法もある。たとえばまわり将棋では出目に大きく差がある将棋の駒をサイコロ代わりに使う。 また、特に球を元に作られたものを「ゴルフボール形ダイス」という場合があり、以下に示す画像では、11面、32面、50面、100面のサイコロがこれに相当する。 前述の新羅時代の朝鮮半島の14面のサイコロ(酒令具)も、各面の面積や投げた場合の出る確率はほぼ同じであるが、正方形6面、六角形8面から成っているため、全ての面が同じ形状となっているわけではない。 『マジック:ザ・ギャザリング』や類するトレーディングカードゲームで用いられる「スピンダウン式ライフカウンター」は一見では通常の20面体ダイスだが、面に振ってある数字が散らされておらず、隣接する値(例えば19に対して18と20)がすぐ探せるようになっている。重心や形状に偏りがあった場合に統計的な影響が大きく出るため、乱数生成には理想的でない。 普通のサイコロは、6面体なら1〜6、20面体なら1〜20と、各面に1からそのサイコロの面数までの数を示す目を持つが、それとは異なる目を持つサイコロも存在している。 市販の6面ダイスに限っても、以下の目を持つサイコロなどが存在する。 数以外を目に持つサイコロも各種存在しており、非常にバリエーションも豊富である。 易占専用に作られたサイコロも存在する。これは、主に略筮法を模擬するもので、 以上の組み合わせから成る。中筮法を模擬するため、8面ダイスが6個使われることもある。入れたままでサイコロを振ることができる、専用の箱も市販されている。なお、八卦にはそれぞれ数字が配当されているため、通常の8面ダイスの数字を適宜読み替えて使用することも可能であるが、利便性は若干劣る。 麻雀では、一般的には通常のサイコロを2つ同時に振り、開門個所(最初に牌を取る場所)を決定する。しかし、出目の関係から開門する場所に偏り(東家から順に8/36・9/36・10/36・9/36の確率)があり、また全自動麻雀卓がまだ普及していなかった時代は積み込みが横行していたため、それらを解決するためにパッコロと呼ばれる麻雀専用のサイコロが考案された。これは2種類の正十二面体のサイコロがセットになったものである。これらは、以下の目を持つ。 パッコロを採用したルール(立方体のサイコロ2個の2度振りも選択できる)もあるが、実際にはほとんど普及していない。 立方体のサイコロ2個の1度振りでも開門する場所に偏りが出ない方法も考案されている。5の目を4に変え、1・2・3・4・4・6の目を持つサイコロと普通のサイコロを1個ずつ使用することによって、各家ともに9/36(1/4)の確率となる。 遊戯に用いるものではないが、サイコロ型の万年カレンダーが発売されている。4個の立方体で構成されており、月を表すサイコロ1個、日を表すサイコロ2個、曜日を表すサイコロ1個で構成されている。日を表すサイコロは一方に0・1・2・3・4・5、もう一方に0・1・2・6・7・8が書かれており、9は6を上下逆に置くことにより1日から31日までの日付がすべて表現できる。観光地の土産物として売られていることがある。 賭博(主として丁半)で八百長が行われる際には、特定の数字が出る確率を高くし、胴元の勝率が高くなるように細工したサイコロが使われる。これを不正ダイス、またはイカサマサイ、グラ賽などと呼ぶ。重心の偏りによって特定の数字が出る確率を高くする場合が多い。博徒が仕掛けを見破ってサイコロを噛んで割り、中の仕込みを露見させるという、映画などにおける道具立てとしてもよく知られている。 不正には、主に次の2種類の手法が良く知られている。 この他にも、蝋や水銀などを内部に仕込み、重心を自由に操作できるようにしたヴァリアブル・ローデッド・ダイス(variable loaded dice)、サイコロ内部に磁石を、テーブル内部にはコイル等の電磁石を仕込み、電磁石に通電させることで磁石を反応させ、出目を操作できるようにしたマグネット・ダイス(magnet dice)など様々なものが考案されてきた。 水晶・ガラス・プラスチックといった透明な材質を用いたサイコロには、このような仕掛けがないことを示す役割もある。特にカジノでは、透明なプラスチック製のサイコロが用いられる。材質が透明であれば、一部に比重の違う素材を使っても、透かし見た際に屈折率の違いによって向こうが歪んで見えるため、すぐにわかってしまう。 サイコロとして適している立体図形としては、以下の条件が挙げられる。 最後の条件は、地面に固定されたときに真上に来る面が目を定めるためのものである。例えば、正四面体はこの条件に当てはまらないため、4面ダイスは目が読みにくい。 具体的な図形としては以下のものが挙げられる。 双角錐ダイスとねじれ双角錐ダイスとを総称して、そろばん珠形ダイス、または双錐体ダイスと言う。 二つの底面間の距離が十分に長いのであれば、正角柱や正反角柱もサイコロとして適している。ちょうど、鉛筆を転がすようなものと思えば把握しやすい。これらの形状のサイコロも実際に市販されている。 角柱ダイスと反角柱ダイスとを総称して、麺棒形ダイス、または柱体ダイスと言う。 逆に、正角柱・円柱の側面を十分に短くすると、2つの底面を使った「2面サイコロ」ができる。ちょうど、硬貨を投げてコイントスをするようなものである。ただし、一般にはこれをサイコロとは呼ばない。 また以下のように、細長い正角柱や正反角柱のような立体図形ではないが、多面体のうち特定の面積の狭い面を目として用いず、残りの目として用いる面について全て合同な多角形となっているような物もある。 そろばん珠形ダイスと麺棒形ダイスの場合、理論上では面数は無限に増やせるが、面数が増えるほど、そろばん珠形は双円錐に、麺棒形は円柱にそれぞれ近付くので、サイコロとして機能しなくなってくる。実際に機能するのは、最大でも双角錐で48面(正双二十四角錐)、ねじれ双角錐で50面(正ねじれ双二十五角錐)、角柱で25面(正二十五角柱)、反角柱で24面(正反十二角柱)程度と考えられる。市販のサイコロでは最大で、そろばん珠形では50面のもの(正ねじれ双二十五角錐)が、麺棒形では20面のもの(正反十角柱)がそれぞれ存在する。 任意の面数を持つサイコロを、任意の回数ないし個数振る際の各種の値は、振る回数ないし個数を f(ただし f ∈ Z {\displaystyle f\in \mathbb {Z} } かつ 0 ≤ f)、面数を p(ただし p ∈ Z {\displaystyle p\in \mathbb {Z} } かつ 1 ≤ p)とし、各回の出目の和を合計値とすると、一般に以下の式で求められる。例として、3D6 (f = 3, p = 6) の場合の値を添えた。 最小の合計値は、回数に等しい。 最大の合計値は、回数と面数の積に等しい。 合計値の分布範囲は、最大値と最小値の差に等しく、回数と面数-1の積に等しい。 合計値が取り得る値の数は、分布範囲に1を加えた値に等しい。 サイコロの出目の合計値を考えた場合、その中点値(mid-range)は、全種類の合計値の算術平均に等しく、また必ず期待値に一致する。このため、各合計値の確率を計算せずとも、中点値を求めることで、極めて平易に期待値を知ることができる。具体的には、最大値と最小値の和を2で割った値であり、回数と面数+1の積を2で割った値に等しい。 出目の順列の総数は、p 種類の出目から重複を許して f 回並べる重複順列となる。 任意の合計値となる出目の順列の数は、パスカルの三角形を応用し、 ( ∑ i = 0 p − 1 x i ) f {\displaystyle \left(\sum 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サイコロは古くから運命をつかさどるものと看做されることが多く、例えば浄土宗の開祖・法然上人も六面に南無阿弥陀佛と記されたサイコロを使って占いをしたと文献に記されている。またチベット仏教でも、サイコロ占いの手引書がラマ僧によって著されるなど仏教の根本的な思想との関わりが深い。 また、比喩として引用されることも多い。有名なものでは以下のものなどが挙げられる。 また、時にサイコロは一般的な形状から立方体、あるいは漠然と四角形を比喩することがある。調理法の賽の目切り(サイコロのように立方体に切っていくこと。サイコロステーキやミックス・ベジタブルなどに見られる)などはその例である。欧米においても同様の切り方を「Diced」(Diceは英語でサイコロのこと)と呼ぶ。 算数の教科書では「さいころ」と表記している。国語辞典の見出しや、第一法規『用字用語 新表記辞典』でも同じく平仮名で表す。外来語ではないので、本来は片仮名で書く理由がないが、前後に平仮名が続く場合には読みにくいので、現在は片仮名での表記「サイコロ」が用いられることが多い。 「さいころ」の「さい」は、「塞」または「簺」の音読みであり、双六に似たゲーム、もしくはそれに使うサイコロのことである。それに接尾辞「ころ」が付いて、「さいころ」となった。 「采・賽」は当て字である。
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"古代ギリシアでは、3個、時に2個のサイコロを使った賭博が非常に盛んに行われており、特に上流階級の酒宴(シュンポシオン、ギリシア語:συμποσιον)の席では、欠かせないものとなっていた。またギリシア神話には、パラメーデースがサイコロを発明したとの記述がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本へは、奈良時代に中国から伝来した。当初は、棒状のものと正六面体のものの両方が用いられていたようである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "サイコロの目の確率は人智では予想ができないものと考えられていたため、サイコロの動きを、神の意志と捉えて宗教儀式などに用いられる事があった。特にサイコロ発祥の地の一つとされているインドの神話を集録した『マハーバーラタ』にはサイコロ賭博の場面が多く登場する。これは、サイコロ賭博そのものが元々、物事の吉凶についてサイコロに託して占った結果を他者と比較した事に由来するからだとも言われている。日本でも平安時代に藤原師輔が親王誕生を祈願してサイコロを振った故事(『大鏡』)があり、院政全盛期に絶大な権力を誇った白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(鴨川の水の流れ方、双六のサイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵、私の思い通りにならぬものはこれ)と述べたという記載が平家物語にある。また江戸時代には航海の安全を祈ってサイコロを船に祀るということが広く行われていた(船霊参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中世以前のヨーロッパで使われていたサイコロは重心や形が不揃いで、理論として確率を予測することは困難だった。13世紀にヨーロッパ各地で均質なサイコロの生産が始まり、サイコロのデザインが標準化されることで、出目のパターンを予測する事が可能となった。サイコロの出目の確率を数学によって解き明かしたのは、1564年に数学者ジェロラモ・カルダーノの著した『運のゲームの本』というギャンブル指南書が最初と言われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "サイコロの目は、もとの六面体を凹ませることで作るため、目の分だけ各面から質量が取り除かれることになり、重心に偏りを生ませる。特に、最も数の差が大きい1の面と6の面が向かい合っているため、目の大きさが全て同一のサイコロは1の面側に重心が偏り、転がした際に6の面がもっとも上になりやすく、乱数発生に不都合が生じる。そのため、このことを考慮したサイコロでは、各面に刻む目の容積をその数に反比例させ、1の目が最も大きく、2はその半分、3は3分の1、...6は6分の1、という具合に徐々に小さくなるようにし、各面が失う質量を等しくすることにより、重心の偏りを避ける工夫がなされている。ただし、市販のサイコロの大部分はそこまで行わず、1の面の目だけが大きく他は同じ大きさといった程度である。この場合、最も上になりやすいのは5の面である。", "title": "目と重心" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、各々の面において目の配置が点対称あるいは左右対称なのも、配置による重心の偏りをなくすための工夫である。", "title": "目と重心" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "さらに、カジノゲームのクラップスや競技バックギャモンで使われるダイスでは、少しでも重心の偏りをなくすため、目を凹ませた後に素材と同比重の塗料(もしくは本体と同材質異色の材料)で埋めてある。また角も丸められてはいない。これらをプレシジョン・ダイス(precision dice、精密ダイス)という。", "title": "目と重心" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、各目に穴を空けずに塗装するだけのサイコロもある。もちろん、このようなサイコロには重心の偏りが少ない。", "title": "目と重心" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "逆に、わざと重心を偏らせて特定の目が出やすいようにしたものをグラサイと呼ぶ。", "title": "目と重心" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中国には紀元前よりダイスゲームに相当するものがあったが、秦始皇帝陵から出土したサイコロは14面であった。漢代になると18面のサイコロが使われるようになった。南北朝時代にはこのようなサイコロを「煢(けい)」と呼んだ。ほかに棒や木板を複数投げることもあった。その後、西域から双六が伝来・流行するとともに、正六面体のサイコロが使われるようになった。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国のサイコロの特徴として、1と4の目が赤いことがあげられる。また2の目のつき方が西洋のものと異なる。全体的に目と目の間隔が狭い。4の目が赤い理由について、もとは1だけが赤かったのを、唐の玄宗皇帝が楊貴妃とダイスゲームをしていて、4の目で勝てたのを喜んで、4を赤く塗らせたという伝説があるが、真偽不明である。同様の話が平治物語(13世紀)にも見えるが、こちらでは3と4の目を赤くしたとある。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "朝鮮のサイコロは中国の影響が強く、伝統的なサイコロはやはり1と4の目が赤い。中国の煢と同様の、新羅時代の14面(切頂八面体を変形して各面の面積をほぼ同じにした形状で、正方形6面、六角形8面から成る)のサイコロが慶州市の雁鴨池から出土している。酒令用なので酒令具と呼ばれ、各目にはその目が出たときにする行為(罰ゲーム)が記されている。この酒令具の出土品(本物)は水分を取り除く保存処理のためオーブンに入れていたところ、温度が高すぎて燃えてしまったため現存しておらず、複製品だけが現存している。近くからは六面体のサイコロも出土している。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "板状のサイコロは現在もユンノリで使用されている。刻み目をつけた5面の棒状のサイコロはユンモク(輪木)と呼ばれ、スンギョンド(陞卿図)という出世すごろくの一種で使われる。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1の目を「ピン」と呼ぶ場合も多い。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「1926年に和歌山県の業者が天を示す1の目を赤く塗った。他社との差別化のためだったという。これが広まって日本製のサイコロの1の目は赤く塗られるようになった。」と言われているが、これを裏付ける根拠は見つかっていない。他にも、日の丸を元にしたとする説もある。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、遊戯用は1の目が赤く、賭博用は1の目が黒いとも言われているが、これはまったく事実とは異なる。任侠映画に長く携わってきた東映京都撮影所でも、「時代考証から云っても黒です。」としている。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "カリフォルニアなどに住んでいたチュマシュ族(英語版)は、クルミの実の殻にアスファルトを詰めて個数を決めた貝殻のかけらを入れて目を作った。", "title": "各国のサイコロ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "サイコロの目の割り振りは、ほぼ「天一地六東五西二南三北四」(雌サイコロ)と決まっている。これは、日本だけの特徴ではなく、世界的な共通点である。ただし、「南三」でなく「北三」になっているサイコロもあり、「南三」を雌サイコロ、「北三」を雄サイコロと呼ぶこともある(異性)。サイコロの雌雄の見分け方は、1・2・3の面が集まる頂点を正面に置き、1→2→3の順に見たときに時計回りになるのが雄サイコロ、反時計回りになるのが雌サイコロである。舟になぞらえて「天一地六表三艫四面舵二取舵五」ともいう。", "title": "サイコロの雌雄" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "普通のサイコロは乱数の範囲が1〜6に限られるため、用途によっては不適当である。そのため、立方体ではない形状のサイコロも存在しており、これを多面ダイス、または多面体ダイスと呼ぶ。ちなみに、これらと併せて用いる場合、通常のサイコロは六面ダイスなどと呼ばれる。目の数が多くなる程サイコロの形が球体に近づき止まりにくくなるため、出る目を判定できるようになるまで時間がかかる。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "通常これらの多面ダイスでは目は算用数字で記されているため、6と9とを混同しないよう付点(6.と9.)や下線(6と9)が併記されている。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これらの各種多面体ダイスは、頻繁に乱数処理を行うテーブルトークRPGに代表される卓上ゲームに多用されることから、ホビーショップなどで入手可能な場合が多い。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "多面体ダイスが一般に流布する以前の西洋では、一部のギャンブルゲームや兵棋演習にTeetotum(ティートータム)を独楽式の乱数生成器として用いるものがあった。また、ユダヤ教の祝祭、ハヌカーで子供達に配られるDreidel(ドレイドル)は同じく独楽式の四面ダイスである。インドやネパールでも古い形態のサイコロである投げ棒(ロット)式のサイコロが現在でも使われている。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "14面、16面、24面、30面、60面、120面などのダイスも稀に見られる。いずれもサイコロに適した形状をしているため、実用に向く。ただし、ホビー用のサイコロはそれほど精度が高くない。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、玩具として、「各面の面積や形状が異なる」「各面が不均等な配置」などのものも売られているが、出目は統計的に好ましくなく、実用的ではない。正角柱で底面も使用するものや、ゾッキヘドロン(Zocchihedron)と呼ばれる100面ダイスなどが挙げられる。メビウスの輪の1面ダイスに至っては、「1」の目が出る確率が100%であり、ジョークグッズとなっている。また、完全に球状のサイコロで、内部にくぼみが設けられた空洞があり、振ると空洞内に入れられた鉄球がくぼみに入って目が出るような物もある。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ただし、各出目の出現確率が不均等である点を逆手に取り、特定の「出にくい目」などの効果を狙う使用法もある。たとえばまわり将棋では出目に大きく差がある将棋の駒をサイコロ代わりに使う。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、特に球を元に作られたものを「ゴルフボール形ダイス」という場合があり、以下に示す画像では、11面、32面、50面、100面のサイコロがこれに相当する。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "前述の新羅時代の朝鮮半島の14面のサイコロ(酒令具)も、各面の面積や投げた場合の出る確率はほぼ同じであるが、正方形6面、六角形8面から成っているため、全ての面が同じ形状となっているわけではない。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『マジック:ザ・ギャザリング』や類するトレーディングカードゲームで用いられる「スピンダウン式ライフカウンター」は一見では通常の20面体ダイスだが、面に振ってある数字が散らされておらず、隣接する値(例えば19に対して18と20)がすぐ探せるようになっている。重心や形状に偏りがあった場合に統計的な影響が大きく出るため、乱数生成には理想的でない。", "title": "立方体でないサイコロ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "普通のサイコロは、6面体なら1〜6、20面体なら1〜20と、各面に1からそのサイコロの面数までの数を示す目を持つが、それとは異なる目を持つサイコロも存在している。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "市販の6面ダイスに限っても、以下の目を持つサイコロなどが存在する。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "数以外を目に持つサイコロも各種存在しており、非常にバリエーションも豊富である。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "易占専用に作られたサイコロも存在する。これは、主に略筮法を模擬するもので、", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以上の組み合わせから成る。中筮法を模擬するため、8面ダイスが6個使われることもある。入れたままでサイコロを振ることができる、専用の箱も市販されている。なお、八卦にはそれぞれ数字が配当されているため、通常の8面ダイスの数字を適宜読み替えて使用することも可能であるが、利便性は若干劣る。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "麻雀では、一般的には通常のサイコロを2つ同時に振り、開門個所(最初に牌を取る場所)を決定する。しかし、出目の関係から開門する場所に偏り(東家から順に8/36・9/36・10/36・9/36の確率)があり、また全自動麻雀卓がまだ普及していなかった時代は積み込みが横行していたため、それらを解決するためにパッコロと呼ばれる麻雀専用のサイコロが考案された。これは2種類の正十二面体のサイコロがセットになったものである。これらは、以下の目を持つ。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "パッコロを採用したルール(立方体のサイコロ2個の2度振りも選択できる)もあるが、実際にはほとんど普及していない。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "立方体のサイコロ2個の1度振りでも開門する場所に偏りが出ない方法も考案されている。5の目を4に変え、1・2・3・4・4・6の目を持つサイコロと普通のサイコロを1個ずつ使用することによって、各家ともに9/36(1/4)の確率となる。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "遊戯に用いるものではないが、サイコロ型の万年カレンダーが発売されている。4個の立方体で構成されており、月を表すサイコロ1個、日を表すサイコロ2個、曜日を表すサイコロ1個で構成されている。日を表すサイコロは一方に0・1・2・3・4・5、もう一方に0・1・2・6・7・8が書かれており、9は6を上下逆に置くことにより1日から31日までの日付がすべて表現できる。観光地の土産物として売られていることがある。", "title": "目の異なるサイコロ" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "賭博(主として丁半)で八百長が行われる際には、特定の数字が出る確率を高くし、胴元の勝率が高くなるように細工したサイコロが使われる。これを不正ダイス、またはイカサマサイ、グラ賽などと呼ぶ。重心の偏りによって特定の数字が出る確率を高くする場合が多い。博徒が仕掛けを見破ってサイコロを噛んで割り、中の仕込みを露見させるという、映画などにおける道具立てとしてもよく知られている。", "title": "不正なサイコロ" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "不正には、主に次の2種類の手法が良く知られている。", "title": "不正なサイコロ" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この他にも、蝋や水銀などを内部に仕込み、重心を自由に操作できるようにしたヴァリアブル・ローデッド・ダイス(variable loaded dice)、サイコロ内部に磁石を、テーブル内部にはコイル等の電磁石を仕込み、電磁石に通電させることで磁石を反応させ、出目を操作できるようにしたマグネット・ダイス(magnet dice)など様々なものが考案されてきた。", "title": "不正なサイコロ" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "水晶・ガラス・プラスチックといった透明な材質を用いたサイコロには、このような仕掛けがないことを示す役割もある。特にカジノでは、透明なプラスチック製のサイコロが用いられる。材質が透明であれば、一部に比重の違う素材を使っても、透かし見た際に屈折率の違いによって向こうが歪んで見えるため、すぐにわかってしまう。", "title": "不正なサイコロ" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "サイコロとして適している立体図形としては、以下の条件が挙げられる。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "最後の条件は、地面に固定されたときに真上に来る面が目を定めるためのものである。例えば、正四面体はこの条件に当てはまらないため、4面ダイスは目が読みにくい。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "具体的な図形としては以下のものが挙げられる。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "双角錐ダイスとねじれ双角錐ダイスとを総称して、そろばん珠形ダイス、または双錐体ダイスと言う。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "二つの底面間の距離が十分に長いのであれば、正角柱や正反角柱もサイコロとして適している。ちょうど、鉛筆を転がすようなものと思えば把握しやすい。これらの形状のサイコロも実際に市販されている。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "角柱ダイスと反角柱ダイスとを総称して、麺棒形ダイス、または柱体ダイスと言う。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "逆に、正角柱・円柱の側面を十分に短くすると、2つの底面を使った「2面サイコロ」ができる。ちょうど、硬貨を投げてコイントスをするようなものである。ただし、一般にはこれをサイコロとは呼ばない。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また以下のように、細長い正角柱や正反角柱のような立体図形ではないが、多面体のうち特定の面積の狭い面を目として用いず、残りの目として用いる面について全て合同な多角形となっているような物もある。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "そろばん珠形ダイスと麺棒形ダイスの場合、理論上では面数は無限に増やせるが、面数が増えるほど、そろばん珠形は双円錐に、麺棒形は円柱にそれぞれ近付くので、サイコロとして機能しなくなってくる。実際に機能するのは、最大でも双角錐で48面(正双二十四角錐)、ねじれ双角錐で50面(正ねじれ双二十五角錐)、角柱で25面(正二十五角柱)、反角柱で24面(正反十二角柱)程度と考えられる。市販のサイコロでは最大で、そろばん珠形では50面のもの(正ねじれ双二十五角錐)が、麺棒形では20面のもの(正反十角柱)がそれぞれ存在する。", "title": "サイコロに適する図形" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "任意の面数を持つサイコロを、任意の回数ないし個数振る際の各種の値は、振る回数ないし個数を f(ただし f ∈ Z {\\displaystyle f\\in \\mathbb {Z} } かつ 0 ≤ f)、面数を p(ただし p ∈ Z {\\displaystyle p\\in \\mathbb {Z} } かつ 1 ≤ p)とし、各回の出目の和を合計値とすると、一般に以下の式で求められる。例として、3D6 (f = 3, p = 6) の場合の値を添えた。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "最小の合計値は、回数に等しい。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "最大の合計値は、回数と面数の積に等しい。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "合計値の分布範囲は、最大値と最小値の差に等しく、回数と面数-1の積に等しい。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "合計値が取り得る値の数は、分布範囲に1を加えた値に等しい。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "サイコロの出目の合計値を考えた場合、その中点値(mid-range)は、全種類の合計値の算術平均に等しく、また必ず期待値に一致する。このため、各合計値の確率を計算せずとも、中点値を求めることで、極めて平易に期待値を知ることができる。具体的には、最大値と最小値の和を2で割った値であり、回数と面数+1の積を2で割った値に等しい。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "出目の順列の総数は、p 種類の出目から重複を許して f 回並べる重複順列となる。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "任意の合計値となる出目の順列の数は、パスカルの三角形を応用し、 ( ∑ i = 0 p − 1 x i ) f {\\displaystyle \\left(\\sum _{i=0}^{p-1}x^{i}\\right)^{f}} の係数を求めることで算出可能である。任意の合計値を s(ただし s ∈ N {\\displaystyle s\\in \\mathbb {N} } かつ f ≤ s ≤ fp)とすると、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "まず前述の式を変形し、パスカルの三角形の母関数を導き出す。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "これを展開して、各項の係数を取り出し整理すると、上記の式となる。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "任意の合計値が出る確率は、上記の任意合計値順列数を総順列数で割った値となる。", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "すべて同じ目が出る確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "f ≥ p の時に、全種類の目が少なくとも1回以上出る確率は(ここで { f p } {\\displaystyle \\{{\\begin{smallmatrix}f\\\\p\\end{smallmatrix}}\\}} は第二種スターリング数)、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "f = p の時に、全種類の目が1回ずつ出る確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "f = p + 1 の時に、全種類の目が少なくとも1回以上出る確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "特定の目が少なくとも1回以上出る確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "特定の目が1回のみ出る確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "特定の目が1回も出ない、つまり特定の目以外の目しか出ない確率は、", "title": "出目に関する各種の値" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "遊戯の道具としては将棋の祖であるチャトランガで使われていたという説もあるなど(ただし、初期のチャトランガがどのようなゲームであったかについては論争もある。詳細は「チャトランガ」を参照)歴史は古い。サイコロは最も一般的な乱数発生器と言える。", "title": "サイコロと遊戯" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "特に、シミュレーションゲームやテーブルトークRPGはさまざまなパターンの乱数を必要とするため、前述の多面ダイスも含めて多彩な種類・数のサイコロを使用する。これらのゲームではよく、数字と「D(または d )」を組み合わせた「nDm」(m,n は数字)という表記で使用するサイコロを表す。これは m 面のサイコロを同時に n 個振った(または m 面のサイコロ 1 個を n 回振った)際の合計値を意味する。例えば「2D6」は 2 個の 6 面体サイコロを振った出目の合計という意味である。また、修正値 x を含めた「nDm+x」という表記や、複数の種類のサイコロを組み合わせた「nDm + qDp」という表記もある。これらの表記を「ダイス・ノーテーション(dice notation)」と言う(日本語では「ダイス・コード」とも言う)。", "title": "サイコロと遊戯" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "サイコロは古くから運命をつかさどるものと看做されることが多く、例えば浄土宗の開祖・法然上人も六面に南無阿弥陀佛と記されたサイコロを使って占いをしたと文献に記されている。またチベット仏教でも、サイコロ占いの手引書がラマ僧によって著されるなど仏教の根本的な思想との関わりが深い。", "title": "サイコロと文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、比喩として引用されることも多い。有名なものでは以下のものなどが挙げられる。", "title": "サイコロと文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "また、時にサイコロは一般的な形状から立方体、あるいは漠然と四角形を比喩することがある。調理法の賽の目切り(サイコロのように立方体に切っていくこと。サイコロステーキやミックス・ベジタブルなどに見られる)などはその例である。欧米においても同様の切り方を「Diced」(Diceは英語でサイコロのこと)と呼ぶ。", "title": "サイコロと文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "算数の教科書では「さいころ」と表記している。国語辞典の見出しや、第一法規『用字用語 新表記辞典』でも同じく平仮名で表す。外来語ではないので、本来は片仮名で書く理由がないが、前後に平仮名が続く場合には読みにくいので、現在は片仮名での表記「サイコロ」が用いられることが多い。", "title": "日本語での表記" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "「さいころ」の「さい」は、「塞」または「簺」の音読みであり、双六に似たゲーム、もしくはそれに使うサイコロのことである。それに接尾辞「ころ」が付いて、「さいころ」となった。 「采・賽」は当て字である。", "title": "日本語での表記" } ]
サイコロ(骰子、賽子)、または賽(さい)、ダイス (単:die、複:dice) は主として卓上遊戯や賭博等に用いる小道具で、乱数を発生させるために使うものである。 多くは正六面体で、転がりやすいように角が少し丸くなっている。各面にその面の数を示す1個から6個の小さな点が記されていて、対面の点の数の和は必ず7となる。この点は“目”、または“ピップ” (pip)、“スポット” (spot)、まれに“ドット” (dot) とも呼ばれる。日本製の場合、1の面の目は赤く着色されていることが多い。ピップではなく算用数字が記されているものもある。 各面に表示される数も“目”と呼ばれ、サイコロを振った結果表示される数を“出目”と呼ぶ。複数のダイスを同時に振ってすべて揃った出目を“ゾロ目”と表現し、特にすべてが1の目が揃った場合のことを“ピンゾロ”と表現する。
{{Otheruses|小道具のサイコロ|投資指標のサイコロ|サイコロジカルライン}} [[ファイル:Dice.jpg|thumb|right|250px|サイコロ(ピップ)]] [[ファイル:Transparent dice.jpg|thumb|right|250px|サイコロ(算用数字)]] '''サイコロ'''('''骰子'''、'''賽子''')、または'''賽'''(さい)、'''[[ダイス]]''' (単:die、複:dice<ref>通例2個を一緒につかうので日本ではdiceが良く知られているが、サイコロの1個はone of the diceあるいはa dieと表現する。weblio「die」[https://ejje.weblio.jp/content/die]「dice」[https://ejje.weblio.jp/content/dice]</ref>) は主として[[ゲーム|卓上遊戯]]や[[賭博]]等に用いる小道具で、[[乱数]]を発生させるために使うものである。 多くは[[正六面体]]で、転がりやすいように角が少し丸くなっている。各面にその面の数を示す1個から6個の小さな点が記されていて、対面の点の数の[[加法|和]]は必ず7となる。この点は“目”、または“ピップ” (pip)、“スポット” (spot)、まれに“ドット” (dot) とも呼ばれる。日本製の場合、1の面の目は赤く着色されていることが多い。ピップではなく[[算用数字]]が記されているものもある。 各面に表示される数も“目”と呼ばれ、サイコロを振った結果表示される数を“出目”と呼ぶ。複数のダイスを同時に振ってすべて揃った出目を“[[ぞろ目|ゾロ目]]”と表現し、特にすべてが1の目が揃った場合のことを“ピンゾロ”と表現する。 == 歴史 == [[ファイル:Tali.JPG|thumb|right|距骨]] [[ファイル:Historical dice.jpg|thumb|right|アジアの古いサイコロ]] [[ファイル:Shagai.jpg|サムネイル|右|『シャガイ』四面サイコロで各面ラクダ、ウマ、ヒツジ、ヤギと呼ばれる]] [[File:Witte zeskantige dobbeltol met zwarte ogen, objectnr 66324.JPG|thumb|{{ill2|サイコロゴマ|en|Teetotum}}(ティートータム)。このような形式のサイコロは古代ギリシアなどから見られる。]] 最も原始的な形態の“サイコロ”は、[[タカラガイ|宝貝]]や表裏を塗り分けた木の実などを投げ、それが表か裏かを見るというものである。このような投げ棒型のサイコロは古代[[インド]]で良く用いられ、近・現代においても[[インディアン|アメリカ・インディアン]]の文化などで使われている。しかしながら「サイコロ型」、つまり正六面体のサイコロも古代より出土しており、その成立は大変古いものであることが分かっている。 [[アジア]]では、古いものでは[[インダス文明]]の[[ハラッパー]]遺跡などからも出土しており、[[中国]]やインドでも古くから存在していたことが知られる。これらの出土品は必ずしも立方体ではなかった。投げ棒型の他に、棒状四角柱で転がして使うもの、三角錐のものなどがあった。 こういった正六面体でないサイコロの中でも独特なのが、牛や羊などの[[距骨]](後ろ足の踝の骨)を用いるものである。距骨は一見すると六面体にも見えるが、どちらかといえばいびつな四角柱に近い形状であり、4種の出目を無作為に得ることができる(ただし、各面の確率は明らかに不均等である)。サイコロとして遊戯に用いる様子は古代ギリシア・ローマの彫刻や絵画にも描かれている。また、距骨は[[古代エジプト]]の[[副葬品]]にも見られ、他の形態と比べても古くから用いられていたことが分かる。紀元前の[[モンゴル]]の遺跡からも発見されており、地理的にも広く使われていた。このタイプのサイコロは、現在でもモンゴル語で「家畜のくるぶしの骨」を意味するシャガイ([[:en:shagai]])という名前で使用されている。 距骨を使ったサイコロこそが現在のサイコロの起源であるとする説も唱えられている。少なくとも、以下のように複数の言語でサイコロは骨と関連付けられている。 *英語では、古くは「動物の距骨」の意味の複数形「astragali」をサイコロの意でも用いていた。また現代英語でも「骨」の複数形「bones」をサイコロを指すスラングとして用いている。 *中国語および日本語では「骰子」と表記するが、この「骰」は「投げる骨」の意の[[会意]]兼[[形声]]文字である。 正六面体のサイコロの発祥地は古代インドとも古代エジプトとも言われる。現在と同じように1の裏が6であり、反対面を足すと7になるサイコロの最古のものは、[[紀元前8世紀]]頃の[[アッシリア]]の[[遺跡]]から発掘されたものである。 この他、[[古代ローマ]]時代には[[正二十面体]]のサイコロも作られており、現在[[イギリス]]の[[大英博物館]]に収蔵されている。ただし、これは各面に記号を刻んだものであり遊具ではなく占い専用の道具であった可能性が高い。 古代メソポタミアの遺跡からは、4面のサイコロが出土したが、当初はゲームのコマと考えられた。 [[古代ギリシア]]では、3個、時に2個のサイコロを使った賭博が非常に盛んに行われており、特に上流階級の酒宴(シュンポシオン、[[ギリシア語]]:{{lang|el|συμποσιον}})の席では、欠かせないものとなっていた。また[[ギリシア神話]]には、[[パラメーデース]]がサイコロを発明したとの記述がある。 日本へは、[[奈良時代]]に中国から伝来した。当初は、棒状のものと正六面体のものの両方が用いられていたようである。 サイコロの目の確率は人智では予想ができないものと考えられていたため、サイコロの動きを、[[神]]の意志と捉えて宗教儀式などに用いられる事があった。特にサイコロ発祥の地の一つとされている[[インド神話|インドの神話]]を集録した『[[マハーバーラタ]]』にはサイコロ賭博の場面が多く登場する。これは、サイコロ賭博そのものが元々、物事の吉凶についてサイコロに託して占った結果を他者と比較した事に由来するからだとも言われている。日本でも[[平安時代]]に[[藤原師輔]]が[[親王]]誕生を祈願してサイコロを振った故事(『[[大鏡]]』)があり、[[院政]]全盛期に絶大な権力を誇った[[白河天皇|白河法皇]]が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」([[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の水の流れ方、双六のサイコロの目、[[比叡山]][[延暦寺]]の[[僧兵]]、私の思い通りにならぬものはこれ)と述べたという記載が[[平家物語]]にある。また[[江戸時代]]には航海の安全を祈ってサイコロを船に祀るということが広く行われていた([[船霊]]参照)。 中世以前のヨーロッパで使われていたサイコロは重心や形が不揃いで、理論として確率を予測することは困難だった。[[13世紀]]にヨーロッパ各地で均質なサイコロの生産が始まり、サイコロのデザインが標準化されることで、出目のパターンを予測する事が可能となった。サイコロの出目の確率を数学によって解き明かしたのは、[[1564年]]に数学者[[ジェロラモ・カルダーノ]]の著した『運のゲームの本』というギャンブル指南書が最初と言われる<ref name="Johnson">スティーブン・ジョンソン 『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語:新・人類進化史』 太田直子訳 朝日新聞出版 2017年 ISBN 978-4-02-331632-4 pp.277-284.</ref>。 == 目と重心 == サイコロの目は、もとの六面体を凹ませることで作るため、目の分だけ各面から[[質量]]が取り除かれることになり、[[重心]]に偏りを生ませる。特に、最も数の差が大きい1の面と6の面が向かい合っているため、目の大きさが全て同一のサイコロは1の面側に重心が偏り、転がした際に6の面がもっとも上になりやすく、乱数発生に不都合が生じる。そのため、このことを考慮したサイコロでは、各面に刻む目の[[容積]]をその数に[[反比例]]させ、1の目が最も大きく、2はその半分、3は3分の1、…6は6分の1、という具合に徐々に小さくなるようにし、各面が失う質量を等しくすることにより、重心の偏りを避ける工夫がなされている。ただし、市販のサイコロの大部分はそこまで行わず、1の面の目だけが大きく他は同じ大きさといった程度である。{{要出典|この場合、最も上になりやすいのは5の面である。|date=2022年3月}} また、各々の面において目の配置が点対称あるいは左右対称なのも、配置による重心の偏りをなくすための工夫である。 さらに、[[カジノ]]ゲームの[[クラップス]]や競技[[バックギャモン]]で使われるダイスでは、少しでも重心の偏りをなくすため、目を凹ませた後に素材と同比重の塗料(もしくは本体と同材質異色の材料)で埋めてある。また角も丸められてはいない。これらを'''プレシジョン・ダイス'''(precision dice、精密ダイス)という。 また、各目に穴を空けずに塗装するだけのサイコロもある。もちろん、このようなサイコロには重心の偏りが少ない。 逆に、わざと重心を偏らせて特定の目が出やすいようにしたものをグラサイと呼ぶ。 == 各国のサイコロ == === 中国のサイコロ === [[Image:dice01.jpg|frame|right|上から西洋式・中国式・カジノ用のダイス]] 中国には紀元前よりダイスゲームに相当するものがあったが、[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|秦始皇帝陵]]から出土したサイコロは14面であった。[[前漢|漢]]代になると18面のサイコロが使われるようになった。[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]時代にはこのようなサイコロを「[[煢]](けい)」と呼んだ<ref>[[顔之推]]『[[顔氏家訓]]』[[s:zh:顏氏家訓/卷第7|卷第七・雑芸]]「比世所行、一煢十二棋」</ref>。ほかに棒や木板を複数投げることもあった。その後、西域から[[すごろく|双六]]が伝来・流行するとともに、正六面体のサイコロが使われるようになった。 [[Image:18-sided_dice_from_tomb_of_Dou_Wan.jpg|thumb|150px|漢代中国の18面ダイス(煢)]] 中国のサイコロの特徴として、1と4の目が赤いことがあげられる。また2の目のつき方が西洋のものと異なる。全体的に目と目の間隔が狭い。4の目が赤い理由について、もとは1だけが赤かったのを、[[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗皇帝]]が[[楊貴妃]]とダイスゲームをしていて、4の目で勝てたのを喜んで、4を赤く塗らせたという伝説がある<ref>呂種玉『言鯖』に見える。『[[和漢三才図会]]』の「雙陸」の項にも同じ話がある</ref>が、真偽不明である。同様の話が[[平治物語]](13世紀)にも見えるが、こちらでは3と4の目を赤くしたとある。 === 朝鮮のサイコロ === [[Image:Korean14dice2.JPG|thumb|150px|新羅時代の14面ダイス(酒令具・複製品)]] 朝鮮のサイコロは中国の影響が強く、伝統的なサイコロはやはり1と4の目が赤い。中国の煢と同様の、[[新羅]]時代の14面([[切頂八面体]]を変形して各面の面積をほぼ同じにした形状で、正方形6面、六角形8面から成る)のサイコロが[[慶州市]]の雁鴨池から出土している。[[妓女#酒令|酒令]]用なので[[酒令具]]と呼ばれ、各目にはその目が出たときにする行為(罰ゲーム)が記されている。この酒令具の出土品(本物)は水分を取り除く保存処理のためオーブンに入れていたところ、温度が高すぎて燃えてしまったため現存しておらず、複製品だけが現存している<ref>灰になった新羅時代の14面体のサイコロ[http://www.chosunonline.com/article/20071014000009 上]・[http://www.chosunonline.com/article/20071014000010 下]([[朝鮮日報]])</ref>。近くからは六面体のサイコロも出土している。 板状のサイコロは現在も[[ユンノリ]]で使用されている。刻み目をつけた5面の棒状のサイコロはユンモク(輪木)と呼ばれ、スンギョンド([[陞卿図]])という出世すごろくの一種で使われる。 === 日本のサイコロ === 1の目を「ピン」と呼ぶ場合も多い。 「[[1926年]]に[[和歌山県]]の業者が天を示す1の目を赤く塗った。他社との差別化のためだったという。これが広まって日本製のサイコロの1の目は赤く塗られるようになった。」と言われているが、これを裏付ける根拠は見つかっていない。他にも、[[日本の国旗|日の丸]]を元にしたとする説もある。 また、遊戯用は1の目が赤く、賭博用は1の目が黒いとも言われているが、これはまったく事実とは異なる。任侠映画に長く携わってきた[[東映京都撮影所]]でも、「時代考証から云っても黒です。」としている。 === アメリカ先住民 === カリフォルニアなどに住んでいた{{仮リンク|チュマシュ族|en|Chumash people}}は、クルミの実の殻にアスファルトを詰めて個数を決めた貝殻のかけらを入れて目を作った<ref>{{Cite video |title=Walnut dice game |url=https://www.youtube.com/watch?v=gNoZsbqTnYE |accessdate=2023-08-19 |language=ja-JP}}</ref>。 == サイコロの雌雄 == [[ファイル:Sixsided Dice inJapan.jpg|thumb|right|日本製のサイコロ(天一地六東五西二'''北三'''南四: '''雄''')]] サイコロの目の割り振りは、ほぼ「天一地六東五西二南三北四」(雌サイコロ)と決まっている<!--て、方角を示す道具としても使われる(つまり1の目がある面が上である)-->。これは、日本だけの特徴ではなく、世界的な共通点である。ただし、「南三」でなく「北三」になっているサイコロもあり、「南三」を'''雌'''サイコロ、「北三」を'''雄'''サイコロと呼ぶこともある([[異性体|異性]])。サイコロの雌雄の見分け方は、1・2・3の面が集まる頂点を正面に置き、1→2→3の順に見たときに[[時計回り]]になるのが雄サイコロ、反時計回りになるのが雌サイコロである。舟になぞらえて「天一地六表三艫四面舵二取舵五」ともいう。 == 立方体でないサイコロ == [[File:Prehistoric_Times_of_Bohemia,_Moravia_and_Slovakia_-_NM_Prague_30.JPG|thumb|{{ill2|ロングダイス|en|Long dice}}のコレクション。]] 普通のサイコロは乱数の範囲が1〜6に限られるため、用途によっては不適当である。そのため、立方体ではない形状のサイコロも存在しており、これを'''多面ダイス'''、または'''多面体ダイス'''と呼ぶ。ちなみに、これらと併せて用いる場合、通常のサイコロは'''六面ダイス'''などと呼ばれる。目の数が多くなる程サイコロの形が[[球体]]に近づき止まりにくくなるため、出る目を判定できるようになるまで時間がかかる。 通常これらの多面ダイスでは目は算用数字で記されているため、6と9とを混同しないよう付点(6.と9.)や下線(<u>6</u>と<u>9</u>)が併記されている。 これらの各種多面体ダイスは、頻繁に乱数処理を行う[[テーブルトークRPG]]に代表される卓上ゲームに多用されることから、ホビーショップなどで入手可能な場合が多い。 多面体ダイスが一般に流布する以前の西洋では、一部のギャンブルゲームや[[兵棋演習]]に[[:en:Teetotum|Teetotum]](ティートータム)を[[独楽]]式の乱数生成器として用いるものがあった。また、[[ユダヤ教]]の祝祭、[[ハヌカー]]で子供達に配られる{{ill2|ドレイドル|en|Dreidel}}([[:en:Dreidel|Dreidel]])は同じく独楽式の四面ダイスである。インドや[[ネパール]]でも古い形態のサイコロである投げ棒(ロット)式のサイコロが現在でも使われている。 === 一般的な多面ダイス === [[ファイル:Dados 4 a 20 caras.jpg|thumb|right|各種ダイス(4面〜20面)]] [[ファイル:Wuerfel5.jpg|thumb|right|サイコロの数々]] [[ファイル:DnD Dice Set.jpg|450px|thumb|none|各種ダイス(左から四面、六面、八面、十二面、二十面、十面、十面(二桁))]] *四面ダイス - 形状は[[正四面体]]。1〜4の目を出す。四面体の性質上、上を向く面はない。数値の読み方に二つのタイプがある。 **各面の中央付近に3つの出目が振ってあり、そのうち床に接している数値を読むタイプ。 **頂点の周囲に数字が振ってある。上の画像で手前に見えている面には、3つの数字1、2、4が書いてあり、このうち上の頂点に書いてある4が出目である。画像上背後に隠れて見えない面でも、上の頂点の脇には4と書いてある。このタイプのほうが後発であった。 *八面ダイス - 形状は[[正八面体]]。1〜8の目を出す。 *十面ダイス - [[十進法|十進数]]の[[乱数]]を発生させるためのもの。1〜10の目を出すものもあるが、0〜9の目を出すものほうがより普及している。後者を自然数を生成する用途で用いる場合は、一般的に0を10と読み替える。 **正[[ねじれ双角錐|ねじれ双五角錐]]と呼ばれる、二つの五角錐を半分ずらして底面で貼り合わせたような形状。ホビーショップで通常手に入るものはこちらである。なお、[[#サイコロに適する図形|後述]]のように、正ねじれ双角錐の形状により、さらに面の個数を増やした双錐体ダイスを作ることができる。 ***この形状で00, 10, 20...と目が振ってある二桁の十面ダイスも今日普及している。これは一桁の十面ダイスと組みで振る事で、90の目と0の目が出れば90、00の目と0の目が出れば100と読むなどし、1〜100までの自然数を生成するために用いられる。 **[[双四角錐台]]のもの(下節[[#非実用的な多面ダイス]]の画像を参照)。面の形状・面積が一様でなく乱数生成には適切でない。ゲーマーの間では「変わりD10」、「ダメD10」などと呼ばれる。このタイプが日本である程度普及しているのは「さんすうセット」教材に含まれている為である。 **正二十面体の面に0〜9の目が二つずつ向かい合うよう割り振った、上述2種よりも良い一様性が期待される「統計用乱数賽」が用いられることもある。しかし、ゲームの分野においては二十面ダイスとの混同を避ける為に独特の形状が好まれ、あえてこの形状のものを避ける傾向もある。 *十二面ダイス - 形状は[[正十二面体]]。1〜12の目を出す。 *二十面ダイス - 形状は[[正二十面体]]。1〜20の目を出す。 *:過去には上述の「統計用乱数賽」で代用される事もあった。この場合、出目0〜9の片方に着色するなどし、無着色の0は10、着色の1〜9は11から19、着色の0は20、とそれぞれ読み替える。 === 稀な多面ダイス === 14面、16面、24面、30面、60面、120面などのダイスも稀に見られる。いずれもサイコロに適した形状をしているため、実用に向く。ただし、ホビー用のサイコロはそれほど精度が高くない。 <gallery> 画像:D12_rhombic_dodecahedron.JPG|12面ダイス([[菱形十二面体]]) 画像:14面体ダイス.jpg|14面ダイス([[ねじれ双角錐|ねじれ双七角錐]]) 画像:D16 dice.JPG|16面ダイス([[双角錐|正双八角錐]]) 画像:D24 deltoidal icositetrahedron.JPG|24面ダイス([[凧形二十四面体]]) 画像:D24.jpg|24面ダイス([[四方六面体]]) 画像:D24_triakis_octahedron_dice.JPG|24面ダイス([[三方八面体]]) 画像:D24 pentagonal icositetrahedron dice.JPG|24面ダイス([[五角二十四面体]]) 画像:D30.jpg|30面ダイス([[菱形三十面体]]) 画像:D48_dice.JPG|48面ダイス([[六方八面体]]) 画像:D60_60men-saikoro.JPG|60面ダイス([[凧形六十面体]]) 画像:D60_pentakis_dodecahedron_dice.JPG|60面ダイス([[五方十二面体]]) 画像:D60_triakis_icosahedron_dice.JPG|60面ダイス([[三方二十面体]]) 画像:D60_pentagonal_hexecontahedron_dice.JPG|60面ダイス([[五角六十面体]]) 画像:D120.jpg|120面ダイス([[六方二十面体]]) </gallery> === 非実用的な多面ダイス === なお、玩具として、「各面の面積や形状が異なる」「各面が不均等な配置」などのものも売られているが、出目は統計的に好ましくなく、実用的ではない。正[[角柱]]で底面も使用するものや、[[ゾッキヘドロン]]([[:en:Zocchihedron|Zocchihedron]])と呼ばれる100面ダイスなどが挙げられる。メビウスの輪の1面ダイスに至っては、「1」の目が出る確率が100%であり、[[ジョークグッズ]]となっている。また、完全に球状のサイコロで、内部にくぼみが設けられた空洞があり、振ると空洞内に入れられた鉄球がくぼみに入って目が出るような物もある。 ただし、各出目の出現確率が不均等である点を逆手に取り、特定の「出にくい目」などの効果を狙う使用法もある。たとえば[[まわり将棋]]では出目に大きく差がある将棋の駒をサイコロ代わりに使う。 また、特に[[ボール|球]]を元に作られたものを「[[ゴルフボール]]形ダイス」という場合があり、以下に示す画像では、11面、32面、50面、100面のサイコロがこれに相当する。 前述の[[新羅]]時代の[[朝鮮半島]]の14面のサイコロ([[酒令具]])も、各面の面積や投げた場合の出る確率はほぼ同じであるが、正方形6面、六角形8面から成っているため、全ての面が同じ形状となっているわけではない。 『[[マジック:ザ・ギャザリング]]』や類する[[トレーディングカードゲーム]]で用いられる「スピンダウン式ライフカウンター」は一見では通常の20面体ダイスだが、面に振ってある数字が散らされておらず、隣接する値(例えば19に対して18と20)がすぐ探せるようになっている。重心や形状に偏りがあった場合に統計的な影響が大きく出るため、乱数生成には理想的でない。 <gallery> 画像:D1_dice.JPG|1面ダイス([[メビウスの輪]]) 画像:D05.jpg|5面ダイス([[三角柱]]) 画像:D07.jpg|7面ダイス([[五角柱]]) 画像:D10_truncated.jpg|10面ダイス([[双四角錐台]]) 画像:D11_dice.JPG|11面ダイス 画像:D22_dice.JPG|22面ダイス 画像:D32.jpg|32面ダイス 画像:D50_sphere.jpg|50面ダイス 画像:Zocchihedron2.jpg|100面ダイス([[ゾッキヘドロン]]) 画像:D144_dice_2.JPG|144面ダイス 画像:D06_sphere.jpg|球体ダイス 画像:D06_sphere_cut_open.jpg|球体ダイスの断面 </gallery> == 目の異なるサイコロ == 普通のサイコロは、6面体なら1〜6、20面体なら1〜20と、各面に1からそのサイコロの面数までの数を示す目を持つが、それとは異なる目を持つサイコロも存在している。 === 数の範囲が異なるサイコロ === 市販の6面ダイスに限っても、以下の目を持つサイコロなどが存在する。 [[ファイル:Frac_dice_d6.JPG|thumb|right|分数ダイス]] *0, 1, 2, 3, 4, 5 *1, 1, 2, 2, 3, 3 *4, 4, 5, 5, 6, 6 *0, 0, 0, 1, 1, 1 *1, 1, 1, 2, 2, 2 *-1, -2, -3, -4, -5, -6 *1, -2, 3, -4, 5, -6 *-1, 2, -3, 4, -5, 6 *1/6, 1/3, 1/2, 2/3, 5/6, 1 *1, 1/2, 1/3, 1/4, 1/5, 1/6 *5, 6, 7, 8, 9, 10 *7, 8, 9, 10, 11, 12 *11, 12, 13, 14, 15, 16 *13, 14, 15, 16, 17, 18 *19, 20, 21, 22, 23, 24 *25, 26, 27, 28, 29, 30 *2, 4, 8, 16, 32, 64(ダブリングキューブ [[バックギャモン]]での倍率表示用) *I(1), V(5), X(10), L(50), C(100), D(500)([[ローマ数字]]) === 数以外を示すサイコロ === [[File:White Fudge Dice.jpg|right|thumb| [[テーブルトークRPG]]の"[[:en:Fudge (role-playing game system)|Fudge]]"で用いられるダイス]] 数以外を目に持つサイコロも各種存在しており、非常にバリエーションも豊富である。 *When, Where, Who, What, Why, How(5W1H。6面) *+, -, ×, ÷, =, >(算術記号。6面) *N, NE, E, SE, S, SW, W, NW(方位。8面) *Sun, Moon, Mercury, Venus, Mars, Jupiter, Saturne, Uranus, Neptune, Pluto(天体。10面) *January から December まで(12カ月。12面) *白羊宮から双魚宮まで([[黄道十二宮]]。12面) *子(ね)から亥(い)まで、もしくは鼠から猪まで ([[十二支]]。12面) === 占術用サイコロ === [[易経|易占]]専用に作られたサイコロも存在する。これは、主に[[筮竹#使用法|略筮法]]を模擬するもので、 * 8面ダイス2個(数字の代わりに、[[八卦|乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤]]の8文字が彫られている) * 6面ダイス1個(同じく、[[爻|初・二・三・四・五・上]]の6文字) 以上の組み合わせから成る。中筮法を模擬するため、8面ダイスが6個使われることもある。入れたままでサイコロを振ることができる、専用の[[箱]]も市販されている。なお、八卦にはそれぞれ数字が配当されているため、通常の8面ダイスの数字を適宜読み替えて使用することも可能であるが、利便性は若干劣る。 === 麻雀用サイコロ === {{see also|配牌#パッコロ}} [[麻雀]]では、一般的には通常のサイコロを2つ同時に振り、開門個所(最初に牌を取る場所)を決定する。しかし、出目の関係から開門する場所に偏り(東家から順に8/36・9/36・10/36・9/36の確率)があり、また[[全自動麻雀卓]]がまだ普及していなかった時代は[[麻雀の不正行為#積み込み|積み込み]]が横行していたため、それらを解決するために'''パッコロ'''と呼ばれる麻雀専用のサイコロが考案された。これは2種類の正十二面体のサイコロがセットになったものである。これらは、以下の目を持つ。 * 開門用黒サイコロ *: [[漢数字]]で一〜十二の目を持つ。 * 場決め用赤サイコロ *: 東南西北がそれぞれ3つずつの目を持つ。 パッコロを採用したルール(立方体のサイコロ2個の2度振りも選択できる)もあるが、実際にはほとんど普及していない。 立方体のサイコロ2個の1度振りでも開門する場所に偏りが出ない方法も考案されている。5の目を4に変え、1・2・3・4・4・6の目を持つサイコロと普通のサイコロを1個ずつ使用することによって、各家ともに9/36(1/4)の確率となる<ref>[http://oak.zero.ad.jp/~zaf93998/m20.htm 公平なサイコロを作ってみよう]</ref>。 === カレンダー用サイコロ === 遊戯に用いるものではないが、サイコロ型の万年[[カレンダー]]が発売されている。4個の立方体で構成されており、月を表すサイコロ1個、日を表すサイコロ2個、曜日を表すサイコロ1個で構成されている。日を表すサイコロは一方に0・1・2・3・4・5、もう一方に0・1・2・6・7・8が書かれており、9は6を上下逆に置くことにより1日から31日までの日付がすべて表現できる。[[観光地]]の[[土産|土産物]]として売られていることがある。 == 不正なサイコロ == 賭博(主として[[丁半]])で[[八百長]]が行われる際には、特定の数字が出る確率を高くし、胴元の勝率が高くなるように細工したサイコロが使われる。これを'''不正ダイス'''、または'''イカサマサイ'''、'''グラ賽'''などと呼ぶ。重心の偏りによって特定の数字が出る確率を高くする場合が多い。博徒が仕掛けを見破ってサイコロを噛んで割り、中の仕込みを露見させるという、映画などにおける道具立てとしてもよく知られている。 不正には、主に次の2種類の手法が良く知られている。 ;ローデッド・ダイス(loaded dice) :内部にサイコロ自体の素材より比重の高い金属などを仕込み、重心を偏らせたもの。 ;シェイヴド・ダイス(shaved dice) :本来立方体であるべきものを、高さだけをわずかに短くすることにより、重心を偏らせたもの。 この他にも、[[蝋]]や[[水銀]]などを内部に仕込み、重心を自由に操作できるようにしたヴァリアブル・ローデッド・ダイス(variable loaded dice)、サイコロ内部に磁石を、テーブル内部にはコイル等の電磁石を仕込み、電磁石に通電させることで磁石を反応させ、出目を操作できるようにしたマグネット・ダイス(magnet dice)など様々なものが考案されてきた。 [[水晶]]・[[ガラス]]・[[プラスチック]]といった透明な材質を用いたサイコロには、このような仕掛けがないことを示す役割もある。特にカジノでは、透明なプラスチック製のサイコロが用いられる。材質が透明であれば、一部に比重の違う素材を使っても、透かし見た際に屈折率の違いによって向こうが歪んで見えるため、すぐにわかってしまう。 == サイコロに適する図形 == === 全面使用するサイコロの条件 === サイコロとして適している[[立体図形]]としては、以下の条件が挙げられる。 *[[凸多面体]]であること。 *全ての面が合同な凸多角形であること。 *全ての面が重心から等距離であること。 *全ての面が向かい合う平行面を持つこと。 最後の条件は、地面に固定されたときに真上に来る面が目を定めるためのものである。例えば、正四面体はこの条件に当てはまらないため、4面ダイスは目が読みにくい。 ==== 具体例 ==== 具体的な図形としては以下のものが挙げられる。 *[[正多面体]](プラトンの立体)から4種。 {| class="wikitable" |+ 正多面体 |- ! 図形 !! 名称 !! 面数 |- | [[ファイル:Hexahedron.gif|60px|立方体]] || [[立方体]] || 6 |- | [[ファイル:Octahedron.gif|60px|正八面体]] || [[正八面体]] || 8 |- | [[ファイル:Dodecahedron.gif|60px|正十二面体]] || [[正十二面体]] || 12 |- | [[ファイル:Icosahedron.gif|60px|正二十面体]] || [[正二十面体]] || 20 |} * [[カタランの立体]]([[半正多面体]](アルキメデスの立体)の[[双対多面体|双対]])から10種。 {| class="wikitable" |+ カタランの立体 |- ! 図形 !! 名称 !! 面数 |- | [[ファイル:Rhombicdodecahedron.jpg|60px|菱形十二面体]] || [[菱形十二面体]] || 12 |- | [[ファイル:Triakisoctahedron.jpg|60px|三方八面体]] || [[三方八面体]] || 24 |- | [[ファイル:Tetrakishexahedron.jpg|60px|四方六面体]] || [[四方六面体]] || 24 |- | [[ファイル:Deltoidalicositetrahedron.jpg|60px|凧形二十四面体]] || [[凧形二十四面体]] || 24 |- | [[ファイル:Rhombictriacontahedron.jpg|60px|菱形三十面体]] || [[菱形三十面体]] || 30 |- | [[ファイル:Disdyakisdodecahedron.jpg|60px|六方八面体]] || [[六方八面体]] || 48 |- | [[ファイル:Triakisicosahedron.jpg|60px|三方二十面体]] || [[三方二十面体]] || 60 |- | [[ファイル:Pentakisdodecahedron.gif|60px|五方十二面体]] || [[五方十二面体]] || 60 |- | [[ファイル:Deltoidalhexecontahedron.jpg|60px|凧形六十面体]] || [[凧形六十面体]] || 60 |- | [[ファイル:Disdyakistriacontahedron.gif|60px|六方二十面体]] || [[六方二十面体]] || 120 |} *正[[双角錐]](正[[角柱]]の双対)のうち赤道面が偶数角形のもの。無限種。 *:具体的には、nを1以上の整数として、正双2n+2角錐(正2n+2角柱の双対)であり、4n+4面体。つまり、n=1: 正双四角錐/8面体、n=2: 正双六角錐/12面体、n=3: 正双八角錐/16面体、n=4: 正双十角錐/20面体など。特に正双四角錐で、8つの正三角形からなるものは[[正八面体]]となる。 {| class="wikitable" |+ 正双角錐 |- ! 図形 !! 名称 !! 面数 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:Square bipyramid.png|40px|正双四角錐]] || 正双四角錐 || 8 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:Hexagonale bipiramide.png|40px|正双六角錐]] || 正双六角錐 || 12 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:Octagonal bipyramid.png|60px|正双八角錐]] || 正双八角錐 || 16 |} *正[[ねじれ双角錐]](正[[反角柱]]の双対)のうち双対となる反角柱の底面が奇数角形のもの。無限種。 *:具体的には、nを1以上の整数として、正ねじれ双2n+1角錐(正反2n+1角柱の双対)であり、4n+2面体。つまり、n=1: 正ねじれ双三角錐/6面体、n=2: 正ねじれ双五角錐/10面体、n=3: 正ねじれ双七角錐/14面体、n=4: 正ねじれ双九角錐/18面体など。正ねじれ双三角錐は各面が[[菱形]]の[[平行六面体]]であり、特に6つの[[正方形]]からなるものは[[立方体]]となる。 {| class="wikitable" |+ 正ねじれ双角錐 |- ! 図形 !! 名称 !! 面数 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:TrigonalTrapezohedron.svg|25px|正ねじれ双三角錐]] || 正ねじれ双三角錐 || 6 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:Pentagonal trapezohedron.svg|40px|正ねじれ双五角錐]] || 正ねじれ双五角錐 || 10 |- | style="text-align:center;" | [[ファイル:Heptagonal trapezohedron.png|60px|正ねじれ双七角錐]] || 正ねじれ双七角錐 || 14 |} 双角錐ダイスとねじれ双角錐ダイスとを総称して、'''そろばん珠形ダイス'''、または'''双錐体ダイス'''と言う。 === 一部の面を使用するサイコロ === 二つの底面間の距離が十分に長いのであれば、正角柱や正反角柱もサイコロとして適している。ちょうど、鉛筆を転がすようなものと思えば把握しやすい<ref>[[バトルえんぴつ]]のように、転がして使うことを意識した鉛筆も発売されている。</ref>。これらの形状のサイコロも実際に市販されている。 *正角柱。無限種。 *正反角柱。無限種。 角柱ダイスと反角柱ダイスとを総称して、'''麺棒形ダイス'''、または'''柱体ダイス'''と言う。 逆に、正角柱・円柱の側面を十分に短くすると、2つの底面を使った「2面サイコロ」ができる。ちょうど、硬貨を投げて[[コイントス]]をするようなものである。ただし、一般にはこれをサイコロとは呼ばない。 また以下のように、細長い正角柱や正反角柱のような立体図形ではないが、多面体のうち特定の面積の狭い面を目として用いず、残りの目として用いる面について全て合同な多角形となっているような物もある。 <gallery> 画像:d8 truncated octahedron.JPG|8面ダイス([[切頂八面体]]、ただし正方形の面は目として用いない) 画像:D18 rhombicuboctahedron.JPG|18面ダイス([[斜方立方八面体]]。ただし正三角形の面は目として用いない) </gallery> === 多面化の問題点 === そろばん珠形ダイスと麺棒形ダイスの場合、理論上では面数は無限に増やせるが、面数が増えるほど、そろばん珠形は[[双円錐]]に、麺棒形は[[円柱 (数学)|円柱]]にそれぞれ近付くので、サイコロとして機能しなくなってくる。実際に機能するのは、最大でも[[双角錐]]で48面(正双二十四角錐)、[[ねじれ双角錐]]で50面(正ねじれ双二十五角錐)、[[角柱]]で25面(正二十五角柱)、[[反角柱]]で24面(正反十二角柱)程度と考えられる。市販のサイコロでは最大で、そろばん珠形では50面のもの(正ねじれ双二十五角錐)が、麺棒形では20面のもの(正反十角柱)がそれぞれ存在する。 <gallery> 画像:Dados rodillo.jpg|麺棒形ダイス 画像:D34_trapezohedron_dice.JPG|34面ダイス([[ねじれ双角錐|ねじれ双十七角錐]]) 画像:D50_trapezohedron_dice.JPG|50面ダイス([[ねじれ双角錐|ねじれ双二十五角錐]]) </gallery> == 出目に関する各種の値 == 任意の面数を持つサイコロを、任意の回数ないし個数振る際の各種の値は、振る回数ないし個数を ''f''(ただし <math>f \in \mathbb{Z}</math> かつ 0 ≤ ''f'')、面数を ''p''(ただし <math>p \in \mathbb{Z}</math> かつ 1 ≤ ''p'')とし、各回の出目の和を合計値とすると、一般に以下の式で求められる。例として、3D6 (''f'' = 3, ''p'' = 6) の場合の値を添えた。 === 合計値 === ==== 最小値 ==== 最小の合計値は、回数に等しい。 ::(最小値)= ''f'' :例:3 ==== 最大値 ==== 最大の合計値は、回数と面数の積に等しい。 ::(最大値)= ''fp'' :例:3×6 = 18{{sub|(10)}} = 30{{sub|(6)}} ==== 分布範囲 ==== 合計値の分布範囲は、最大値と最小値の差に等しく、回数と面数-1の積に等しい。 ::(分布範囲)= ''fp''-''f'' = ''f''(''p''-1) :例:3×6-3 = 3(6-1) = 15{{sub|(10)}} = 23{{sub|(6)}} ==== 合計値の数 ==== 合計値が取り得る値の数は、分布範囲に1を加えた値に等しい。 ::(合計値数)= ''fp''-''f''+1 = ''f''(''p''-1)+1 :例:3×6-3+1 = 3(6-1)+1 = 16{{sub|(10)}} = 24{{sub|(6)}} ==== 中点値 ==== サイコロの出目の合計値を考えた場合、その中点値([[:en:Mid-range|mid-range]])は、全種類の合計値の[[平均|算術平均]]に等しく、また必ず[[期待値]]に一致する。このため、各合計値の確率を計算せずとも、中点値を求めることで、極めて平易に期待値を知ることができる。具体的には、最大値と最小値の和を2で割った値であり、回数と面数+1の積を2で割った値に等しい。 ::(中点値)= <math>\frac{fp + f}{2} = \frac{f ( p + 1 )}{2}</math> :例:<math>\frac{3 \times 6 + 3}{2} = \frac{3 (6 + 1)}{2} =</math> 10.5{{sub|(10)}} = 14.3{{sub|(6)}} ==== 総順列数 ==== 出目の順列の総数は、''p'' 種類の出目から重複を許して ''f'' 回並べる[[順列|重複順列]]となる。 ::(総順列数)= <sub>''p''</sub>Π<sub>''f''</sub> = ''p''<sup>''f''</sup> :例:<sub>6</sub>Π<sub>3</sub> = 6<sup>3</sup> = 216{{sub|(10)}} = 1000{{sub|(6)}} ==== 任意の合計値の順列数 ==== 任意の合計値となる出目の順列の数は、[[パスカルの三角形]]を応用し、<math>\left( \sum_{i = 0}^{p - 1} x^i \right)^f</math> の[[二項定理|係数を求める]]ことで算出可能である。任意の合計値を ''s''(ただし <math>s \in \mathbb{N}</math> かつ ''f'' ≤ ''s'' ≤ ''fp'')とすると、 ::(任意合計値順列数)= <math>\sum_{i = 0}^{\left \lfloor \frac{s - f}{p} \right \rfloor} {}_{s - pi - 1} \mathrm{C}_{f - 1} \cdot {}_f \mathrm{C}_i \cdot (-1)^i</math> まず前述の式を変形し、パスカルの三角形の母関数を導き出す。 ::<math>\left( \sum_{i = 0}^{p - 1} x^i \right)^f</math> ::= <math>(1 + x + x^2 + x^3 + \cdots + x^{p-1})^f</math> ::= <math>\frac{(1 - x)^f (1 + x + x^2 + x^3 + \cdots + x^{p-1})}{(1-x)^f}</math> ::= <math>\frac{(1 - x^p)^f}{(1 - x)^f}</math> これを展開して、各項の係数を取り出し整理すると、上記の式となる。 :例(任意の合計値を11とした場合):<math>\sum_{i = 0}^{\left \lfloor \frac{11 - 3}{6} \right \rfloor} {}_{11 - 6i - 1} \mathrm{C}_{3 - 1} \cdot {}_3 \mathrm{C}_i \cdot (-1)^i</math> ::= <sub>10</sub>C<sub>2</sub>·<sub>3</sub>C<sub>0</sub>·(-1)<sup>0</sup>+<sub>4</sub>C<sub>2</sub>·<sub>3</sub>C<sub>1</sub>·(-1)<sup>1</sup> ::= 45×1×1+6×3×(-1) ::= 27{{sub|(10)}} = 43{{sub|(6)}} === 確率 === ==== 任意の合計値 ==== 任意の合計値が出る確率は、上記の任意合計値順列数を総順列数で割った値となる。 ::(任意合計値の確率)= <math>\frac{\sum_{i = 0}^{\left \lfloor \frac{s - f}{p} \right \rfloor} {}_{s - pi - 1} \mathrm{C}_{f - 1} \cdot {}_f \mathrm{C}_i \cdot (-1)^i}{p^f}</math> :例(任意の合計値を11とした場合):<math>\frac{27}{216} = \frac{1}{8} = 0.125</math> ==== ゾロ目 ==== すべて同じ目が出る確率は、 ::(ゾロ目の確率)= <math>\frac{p}{p^f} = \frac{1}{p^{f -1}}</math> :例:<math>\frac{6}{6^3} = \frac{6}{216} = \frac{1}{36} \approx 0.0278</math> ==== すべての目が1回以上 ==== ''f'' ≥ ''p'' の時に、全種類の目が少なくとも1回以上出る確率は(ここで<math>\{ \begin{smallmatrix} f \\ p \end{smallmatrix} \}</math>は[[第二種スターリング数]])、 ::(すべての目が1回以上出る確率)= <math>\frac{\left\{ \begin{matrix} f \\ p \end{matrix} \right\} p!}{p^f} = \frac{\displaystyle \sum_{i = 0}^p (-1)^i \binom{p}{i} (p - i)^f}{p^f}</math> ''f'' = ''p'' の時に、全種類の目が1回ずつ出る確率は、 ::(すべての目が1回ずつ出る確率)= <math>\frac{p!}{p^p}</math> ''f'' = ''p'' + 1 の時に、全種類の目が少なくとも1回以上出る確率は、 ::(すべての目が1回以上出る確率)= <math>\frac{f!}{2 \cdot p^p}</math> :例(7D6 の場合):<math>\frac{7!}{2 \cdot 6^6} = \frac{5040}{93312} = \frac{35}{648} \approx 0.054</math> ==== 特定の目が1回以上 ==== 特定の目が少なくとも1回以上出る確率は、 ::(特定の目が1回以上の確率)= <math>1 - \frac{(p - 1)^f}{p^f}</math> ==== 特定の目が1回 ==== 特定の目が1回のみ出る確率は、 ::(特定の目が1回の確率)= <math>\frac{f \cdot (p - 1)^{f - 1}}{p^f}</math> :例:<math>\frac{3 \cdot (6 - 1)^{3 - 1}}{6^3} = \frac{75}{216}</math> ==== 特定の目が0回 ==== 特定の目が1回も出ない、つまり特定の目以外の目しか出ない確率は、 ::(特定の目が出ない確率)= <math>\frac{(p - 1)^f}{p^f}</math> :例:<math>\frac{(6 - 1)^3}{6^3} = \frac{125}{216} \approx 0.5787</math> == サイコロと遊戯 == 遊戯の道具としては[[将棋]]の祖である[[チャトランガ]]で使われていたという説もあるなど(ただし、初期のチャトランガがどのようなゲームであったかについては論争もある<ref>{{Cite book|和書 |author=松田道弘 |authorlink=松田道弘 |origyear=1988 |title=ベストゲーム・カタログ 遊びの新世界をパトロール |date=1993年9月30日 |publisher=[[社会思想社]] |series=[[現代教養文庫]] |isbn=4-390-11482-4 |pages=206-262頁 |chapter=世界最古のシミュレーション・ウォーゲーム「チャトランガ」 }}</ref>。詳細は「[[チャトランガ]]」を参照)歴史は古い。サイコロは最も一般的な乱数発生器と言える。 特に、[[シミュレーションゲーム]]や[[テーブルトークRPG]]はさまざまなパターンの乱数を必要とするため、前述の多面ダイスも含めて多彩な種類・数のサイコロを使用する。これらのゲームではよく、数字と「D(または d )」を組み合わせた「'''nDm'''」(m,n は数字)という表記で使用するサイコロを表す。これは m 面のサイコロを同時に n 個振った(または m 面のサイコロ 1 個を n 回振った)際の合計値を意味する。例えば「2D6」は 2 個の 6 面体サイコロを振った出目の合計という意味である。また、修正値 x を含めた「'''nDm+x'''」という表記や、複数の種類のサイコロを組み合わせた「'''nDm + qDp'''」という表記もある。これらの表記を「ダイス・ノーテーション([[w:en:dice notation|dice notation]])」と言う(日本語では「ダイス・コード」とも言う)。 == サイコロと文化 == サイコロは古くから運命をつかさどるものと看做されることが多く、例えば[[浄土宗]]の開祖・[[法然|法然上人]]も六面に'''南無阿弥陀佛'''と記されたサイコロを使って占いをしたと文献に記されている<ref name="法然上人全集">石井敎道編『昭和新修 法然上人全集』([[浄土宗]]開宗八百年記念出版)平樂寺書店、1955年、1181-1187頁</ref>。また[[チベット仏教]]でも、サイコロ占いの手引書が[[ラマ (チベット)|ラマ僧]]によって著されるなど仏教の根本的な思想との関わりが深い<ref name="ダライ・ラマ法王">[http://www.tibethouse.jp/culture/fotune.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所ホームページ>チベットの占い]「占いと仏教」「さいころによる占い」</ref>。 また、比喩として引用されることも多い。有名なものでは以下のものなどが挙げられる。 *[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が元老院に逆らい、[[ルビコン川]]を越えて南側の[[ガリア・キサルピナ]]に踏み入った時、率いていた軍勢に「[[賽は投げられた]] (alea iacta est)」と述べたとされる。運命の歯車は既に回ってしまった、といった意味で使われる。 *『[[平家物語]]』によれば、[[白河天皇|白河法皇]]が権勢を誇った頃、どうしても自分の思い通りにならない天下の三不如意として「[[鴨川 (淀川水系)|加茂川]]の水、[[双六]]の賽、[[僧兵|山法師]]」の三つを挙げたという。 *[[アルベルト・アインシュタイン]]は[[量子力学]]の確率による世界観に対し、「神はサイコロを振らない」と表現して批判をした。 *いい加減なことを示す「でたらめ」の語源は「出たら目」、すなわち賽の目の通りに行動することが由来とされている。「出'''鱈'''目」と表記される事もあるがこれは当て字。 また、時にサイコロは一般的な形状から[[立方体]]、あるいは漠然と四角形を比喩することがある。[[調理]]法の[[賽の目切り]](サイコロのように立方体に切っていくこと。[[ステーキ|サイコロステーキ]]やミックス・ベジタブルなどに見られる)などはその例である。欧米においても同様の切り方を「Diced」(Diceは英語でサイコロのこと)と呼ぶ。 == 日本語での表記 == 算数の教科書では「さいころ」と表記している。国語辞典の見出しや、第一法規『用字用語 新表記辞典』でも同じく平仮名で表す。外来語ではないので、本来は片仮名で書く理由がないが、前後に平仮名が続く場合には読みにくいので、現在は片仮名での表記「サイコロ」が用いられることが多い。 「さいころ」の「さい」は、「塞」または「簺」の[[音読み]]であり、双六に似たゲーム、もしくはそれに使うサイコロのことである。それに接尾辞「ころ」が付いて、「さいころ」となった。 「采・賽」は当て字である。 == サイコロを主としたゲーム == [[File:Joostens - De Alea, 1642 - 4630507.tif|thumb|[[Paschier Joostens]], ''De Alea'', 1642]] === 卓上ゲーム・アナログゲーム === *[[すごろく]] *[[バックギャモン]] *[[モノポリー]] *[[ブラフ (ゲーム)|ブラフ]] *[[ヤッツィー]] *[[ポーカーダイス]] *[[エース・イン・ザ・ポット]] *[[街コロ]] === 賭博 === *[[クラップス]] *[[大小 (賭博)|大小]] *[[丁半]] *[[チョボイチ]] *[[手本引|賽本引]](さいほんびき) *[[タブ (賭博)|タブ]] *[[チンチロリン]] === コンピュータゲーム === * [[XI (ゲーム)|XI [sái]]] - サイコロを用いたパズルゲーム。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|9856|2680|-|サイコロ1|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9857|2681|-|サイコロ2|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9858|2682|-|サイコロ3|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9859|2683|-|サイコロ4|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9860|2684|-|サイコロ5|font=絵文字フォント}} {{CharCode|9861|2685|-|サイコロ6|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127922|1F3B2|-|サイコロ|font=絵文字フォント}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Sisterlinks | wikt = さいころ | q = サイコロ | v = no }} * [[多面体]] * [[双対多面体]] * [[乱数列]] * [[確率]] * [[ランダム]] * [[六進法]] * [[入曽精密]](それぞれの目の出る確率が世界一近いサイコロを製造) * [[Unicode一覧 2000-2FFF]] - [[Unicode]]にその他の技術用記号として、六面サイコロの目が U+2680 から U+2685 に割り当てられている。 * [[離散一様分布]] - サイコロを1回振ったときの出目の確率分布 * [[乱数生成]]、[[ハードウェア乱数生成器]] * [[縁起物]] * [[采 (曖昧さ回避)]] * {{ill2|アストラガロマンシー|en|Astragalomancy}} - 紀元前500年頃にアストラガルスという動物の骨が素材のサイコロを使った占い {{サイコロ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さいころ}} [[Category:サイコロ|*]] [[Category:玩具]] [[Category:テーブルトークRPGの道具]] [[Category:多面体]] [[Category:組合せ論]] [[Category:確率論]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:乱数]]
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のぞみ
のぞみ
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のぞみ
{{Wiktionary}} '''のぞみ''' ==一覧== * 日本の[[列車愛称]]。以下の2種類が存在する。 **[[新幹線]]「のぞみ」 - [[1992年]]から[[東海道新幹線]]および[[山陽新幹線]]で運行されている[[特別急行列車]]。{{main|[[のぞみ (列車)]]}} **[[急行列車|急行]]「のぞみ」 - 戦前、[[朝鮮]]および[[満州]]で運行されていた。{{main|[[朝鮮総督府鉄道#急行「のぞみ」]]}} * [[のぞみ (探査機)]] - 火星探査機。 * [[群馬県]]議会の会派。 * [[のぞみ (政治)]] - 自民党の議員グループ。 * 日本人の名前のひとつ。男女問わずに付けられる。 * [[のぞみ (たばこ)]] - 第二次世界大戦中に販売されていた刻みタバコ。金鵄([[ゴールデンバット]])に使用されていた葉を原材料としたもの<ref>手巻き用「のぞみ」両切り「朝日」発売(昭和19年10月9日 朝日新聞『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p577 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 == 人名 == * [[ロボットのぞみ]] * [[ノゾミ (アニメポケットモンスター)|ノゾミ]] - アニメ『ポケットモンスター ダイヤモンド&パール』の登場人物。 * [[夢原のぞみ]] - 『[[Yes!プリキュア5]]』の登場人物。 * [[東條希]] - アニメ『[[ラブライブ!]]』の登場人物。 * [[NOZOMI]] - 女子プロレスラー。 * NOZOMI - [[永野希]]の旧芸名。 * [[nozomi*]] - 日本のシンガーソングライター。 * == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== * {{prefix|のぞみ}} * {{prefix|ノゾミ}} * {{intitle|のぞみ}} * {{intitle|ノゾミ}} * [[望み (曖昧さ回避)]] * [[希望 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:のそみ}} [[Category:日本語の女性名]] [[Category:日本語のユニセックスな名前]]
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ODP
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ODP オーバードライブプロセッサ(Over Drive Processor)のこと。 Open Directory Projectのこと。 OpenDocument Presentationのこと。 国際深海掘削計画(Ocean Drilling Program)のこと。 オゾン破壊係数(Ozone Depletion Potential)のこと。 受注生産方式またはその生産物(On Demand Product)のこと。 ISOでは、Open Distributed Processingのこと。 洋上管制データ表示システム(Oceanic Air Traffic Control Data Processing System)のこと。 合法出国計画(Orderly Departure Program)のこと。(※インドシナ難民参照)
'''ODP''' * [[オーバードライブプロセッサ]]('''O'''ver '''D'''rive '''P'''rocessor)のこと。 * [[Open Directory Project]]のこと。 * [[OpenDocument]] Presentationのこと。 * [[国際深海掘削計画]]('''O'''cean '''D'''rilling '''P'''rogram)のこと。 * [[オゾン破壊係数]]('''O'''zone '''D'''epletion '''P'''otential)のこと。 * [[受注生産方式]]またはその生産物('''O'''n '''D'''emand '''P'''roduct)のこと。 * [[国際標準化機構|ISO]]では、[[Open Distributed Processing]]のこと。 * 洋上管制データ表示システム('''O'''ceanic Air Traffic Control '''D'''ata '''P'''rocessing System)のこと。 * 合法出国計画(Orderly Departure Program)のこと。(※[[インドシナ難民]]参照) {{aimai}}
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新幹線100系電車
新幹線100系電車(しんかんせん100けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車である。国鉄分割民営化後は東海旅客鉄道(JR東海)に継承されその後増備したほか、西日本旅客鉄道(JR西日本)では100N系として新製投入した。 東海道・山陽新幹線の本格的モデルチェンジ車として、1985年から1992年までに16両編成66本の計1,056両が製造・投入された。近畿日本鉄道のビスタカーや欧米各地の鉄道で導入されていた2階建車両を国鉄車両および新幹線電車で初めて組み込み、座席数の増加やサービスの向上など新幹線の宣伝やイメージアップにつながった。内装や技術面で、これ以降生産される新幹線車両に搭載されることとなった設備・技術も数多い。 編成定員・車両の製造費は0系と同等のものとし、地上設備の改良を最小限に抑えつつ、到達時間の短縮を行うことを念頭に置いている。また、「国鉄改革の象徴」を意識して開発されており、開発目標としては「お客様第一。乗務員は二の次」が掲げられていた。 国鉄時代末期からJR発足にかけての東海道・山陽新幹線における主力車種として活躍したが、後継車両の登場により2003年9月16日に東海道新幹線から、2012年3月16日に山陽新幹線での運用から撤退した(#運用および#外部リンク参照)。 1970年代になると、1964年の東海道新幹線開業時から運用されていた0系の一部には経年劣化が生じ始めた。その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度によって運行する新幹線の運行形態そのものにあった。0系では快適性のために気密構造を採用したが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力の繰り返しによって、金属疲労のために車体の気密性が保てなくなった。0系が初めて設計された営業用の新幹線車両であることや新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものであった。この状況に合わせ、国鉄は0系の廃車基準を製造後13年と設定し、古い0系は新造した0系によって置き換えられた。 この時点で新形式の投入が行われなかったのには、国鉄の経営状況悪化や労使問題などが影響した。それに加え、当時0系は車両の経年数が揃っていない編成が運用されており、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮された。このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もあった。 新幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきた一方で、0系の基本となるデザイン・内装は1964年の登場当初のままであったため、何度かマイナーチェンジを経たとはいえ、陳腐化の印象は否めなくなった。こうした背景に加え、新幹線博多開業の際に編成単位で大量増備された車両の取換準備車両が必要となることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まった。そこで、0系の設計を改めたモデルチェンジ車の検討が1980年頃から始まった。その後、1984年5月14日に国鉄常務会において、後にX0編成となる新幹線試作車の製作を決定した。 デザインについては、前述のように0系のイメージが陳腐化し、後発の欧州の高速鉄道であるTGVなどに比べても見劣りしたため、新たな造形が模索された。それにあたって、国鉄車両設計事務所内に車両デザイン専門委員会が設けられ、そのメンバーには手銭正道、松本哲夫、木村一男が参画した。デザイン提案は各車両メーカーが行い、それを車両デザイン専門委員会が検討して採用する形が採られた。 先代である0系との違いは、「シャークノーズ」と呼ばれたそのフロントマスクと、2階建車両の存在である。 フロントマスクは、騒音と空気抵抗の低減を図るために、鋭角にした前頭部から徐々に断面積を大きくしていく「流線型」とし、標識灯内のライト配置を0系の縦2灯から横2灯に変更して、横に細長い形に変えた。このデザインは近畿車両が提案したものが採用された。前部標識灯の際はそのまま点灯し、後部標識灯の際には赤色のフィルターが自動的に装着されて赤く点灯しているように見える。 運転台の窓と車体の段差は極力小さくなり、0系では開閉可能であった側窓も固定化することで極力平滑化された。これにより、走行抵抗を0系比70%に軽減することができた。なお、試作車は前照灯に角度がついているためツリ目形状であったが、量産車は角度が小さくなっている。これらの形状から「シャークノーズ」と呼ばれる。前照灯の間にある中央の丸い部分は、非常用の連結器が収納されている。足元はスカートで覆われ、その内部には何重ものアルミ板を重ねた排障器がある。また、空調装置の室外機は200系と同様に天井車端に一括配置された。 材質は0系と同じく1.6 mm厚の耐候性鋼を主体に、屋根部分はコルゲートステンレス鋼を使用した一体構造となっている。構体重量は、0系より0.2 t軽い10.3 tである。 側窓は試作車のみ0系1000・2000番台と同じく小窓だったが、量産車は0系0番台と同じく2列に1つの窓である大窓となっている。大窓の採用理由は、破損すると交換が面倒であるものの、眺望が良くなる方を優先したためである。 窓の大きさは、普通車が1,660 mm×610 mm、グリーン車が1,870 mm×610 mmで、グリーン車の窓は0系0番台と同じ大きさである。窓ガラスの板厚と構成を見直し、強度をアップさせている。 オリジナルの塗装は、車体は0系よりも明るい白3号■を地色に、窓周りが青20号■の塗りわけである。また、ブルー塗装の下には、ピンストライプが追加されている。 0系から地色を変更した理由は、100系が「国鉄改革の象徴」であり、0系に使われたクリーム10号よりも、白3号の方が汚れが目立つので、「車両をきちんと清掃する」との意識を職員に植え付けるためだった。 JR西日本所属のK・P編成の塗装の変更については#K・P編成を参照。 国鉄時代には「ニュー新幹線」の愛称を与えられ、2階建車両の車体にこれを意匠した赤色のマークが標記されていた。X1編成のみ、海側は青帯と同じ大きさで、山側がそれよりも大きく描かれていた。比較検討の結果、量産車では、X1編成の山側と同じく若干青帯より大きい方が採用された。 1987年の国鉄分割民営化後は、代わりにJRマークが貼付された。なお、JR東海所属車については、16両G編成は落成時から1・8・15→16号車の車両番号横にJR東海のコーポレートカラーであるオレンジ色の小さなJRマークが張り付けられ、分割民営化前に落成していたX編成は同様に貼り替えられた。JR西日本所属車はX編成と同様に1・15号車のトイレ区画、8号車のNSマークが標記されていた箇所にJRマークが貼付されていたが、幾分小さくなっている。 編成番号は運転台下端・先頭車乗務員扉・乗務員扉下部のスカート部分に記されるが、JR東海所属車は、1999年から運転台上端に編成番号を記載するように変更された。 平屋車両の場合、グリーン車は博多方車端の1か所に、普通車は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお食堂車として製造された168形には車端にデッキがあり、客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。また、グリーン・カフェテリア合造車として製造された148形には、東京方のデッキに客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。 内装については、長時間ゆったりと乗ってもらうため、前述した「お客様第一。乗務員は二の次」以外にも、「アットホームな車内の雰囲気」が重視されている。これは、100系の車体・艤装設計担当の池田憲一郎の意向である。開発当時の鉄道車両の車内は、無機質な樹脂製の壁や金属製のつなぎ目、ネジなどが目立つものであったが、自宅の部屋は木材や布など柔らかい素材に囲まれていることに気づき、このことを内装設計に反映させている。 壁などは、内装の工事が容易に行えるように、布ベースのフィルムシートが貼られ、金属色を見せないようにねじが隠されている。フィルムシートには騒音吸収効果もあったが、布ベースのシートだったためコーヒーなどをこぼされると交換が面倒という難点もあり、新幹線での採用例は100系のみとなった。 普通車は通路を挟んで3列+2列に座席を配置しているが、前後間隔(シートピッチ)を0系2000番台の980 mmから1,040 mmに広げ、リクライニング角度を、0系の17 - 22度から6 - 31度まで拡大。また、リクライニング機構を変更し、背面のテーブルを座席下部から棒で支えるタイプに変更、座席の土台の厚みを薄くすることによって、3人席においても回転・リクライニングを可能とした。 シートピッチを拡大して、回転・リクライニング可能な3人席を導入した結果、0系よりも1両辺り5人分(16両編成では65人分)の普通席が足りなくなったが、乗務員用個室の削減および運転台の折りたたみ座席の設置、その他様々な機器を小型化することで、0系と同等の座席数を確保した。100系で採用された、普通席のシートピッチ1,040 mmは、その後の東海道・山陽新幹線の標準となった。 奇数号車がブルー系、偶数号車がブラウン系の配色となり、シートモケットやカーテンなどのデザインが異なっている。肘掛先端にはリクライニング用のレバーと灰皿(喫煙席のみ)が設置されている。 グリーン車は通路を挟んで2列+2列に配置している。開放式座席がほとんどであるが、X・G編成9号車には#個室も設置された。グリーン車には新幹線車両として初めて間接照明が採用された、荷棚の下に読書灯が各席毎に設置された。 座席間の肘掛部分にオーディオサービス用機器が埋め込まれ、喫煙車の座席には端側の肘掛に灰皿が設置されている。肘掛内部にはインアームテーブルが備えられ、取り出して使用できる。初期の座席には、座席背面のテーブルが設置されていない。 ミュージックサービスとNHKラジオ第1放送の送信を始めた。普通車では手持ちのFMラジオで、グリーン車内では備え付けのイヤホンで聴くことができる。このサービスは、以降新製される東海道・山陽新幹線の16両編成の全車両に装備されている。 LED式(単色、V編成は2色)の電光掲示板が装備された。電光掲示板の上部にはデジタル式の時計、右側に次の停車駅までの距離を7セグメントで表示する装置が配され、通常走行時はLCXから送信されたニュースを表示した。X編成では当初速度表示もなされていたが後に取りやめとなっている。G32 - G50編成では電光掲示板の文字を大きくし、時計と距離表示は省略された。後者の電光掲示板は、300系で同じタイプのものが搭載され、以降のすべての新幹線車両に標準搭載されている。 回線数が増えたことから、車内公衆電話は2両に1箇所設置することが可能となった 。また、それまでの車内電話は列車内発信時にはオペレータを通し、沿線の都市のみが通話可能エリアであったが、1989年4月より日本全国へのダイヤル通話ができるようになった。 便所は2両に1箇所(奇数号車の東京方)に設置されており、大便所2箇所(洋式便器1箇所+和式便器1箇所)と小便所1箇所、洗面所2箇所という構成である。また、冷水機の位置・仕様も大幅に変更され、0系では冷水機はデッキの近くで紙コップも封筒式だったのに対し、100系では洗面所の脇にセットされ、紙コップも円筒式になった。 空調機器は0系同様のヒートポンプ式である集約分散式の AU83 (冷房能力25000 kcal/h、暖房能力17000 kcal/h)を1両あたり2基搭載とし、0系ではやや不足気味であった暖房能力の強化を図った。 運転台は右手操作のマスコンハンドル(力行 1 - 11ノッチ・後述のV編成のみ12ノッチまで。ただし、東海道新幹線内では12ノッチは機能しない)、左手操作のブレーキ設定器は常用1 - 7段・非常位置から構成される。ブレーキ設定器は、0系新幹線ではブレーキハンドルを挿入する必要があったが、100系ではキー1本でロックが解除される。 100系では運転台スペースを有効活用するため、速度計は機械式からLEDを使用したものとなり、別構成であった主速度計と補助速度計は1つにまとめられた。主速度計はバーグラフ式(速度が上がるにつれて、赤色のLEDが右に向かって点灯していく)とバーニヤ速度表示から、補助速度計は下部にデジタル表示によるATC信号と速度が表示される(デジタルメーター)。表示盤は一体形であるが、電気的には主速度計、補助速度計は完全に独立している。 運転台右側には、200系と同じくCRTモニターによるモニタ支援装置を装備している。モニタ支援装置は200系で採用したMON1型モニタ装置を進化させたMON2型モニタ装置と呼ばれるものである。主な機能は以下のとおり。 先頭車にモニタ中央装置と運転台モニタ表示器、中間車にモニタ端末器を搭載しており、車両間の伝送ケーブルは光ファイバーを使用しており、伝送速度は200系の2倍となる19.2 kbpsに向上した。運転台モニター表示器は8色カラー表示の10インチCRTモニターとなり、視認性が大幅に向上した。表示画面の操作は、現在のようなタッチパネルで操作するものではなく、ファンクションキー(運転・記録・故障・メニューなどのキー)やテンキー(0 - 9)で行う。このほか、車掌室には車掌用のモニタ表示器があり、運転士用のCRTモニターとは異なるが、ドア開閉状態、非常ブザー(非常通報器操作)、空調装置状態、便所ブザー操作、水タンク残量表示がLEDランプで表示される。 その他にも、点検作業効率化の観点から機器の配置見直しなども行われ、保守の省力化を図っている。 また、0系に存在した乗務員用の個室が無くなった代わりとして、運転台に折りたたみ式の座席を設けている。これは、後述する普通車用の回転・リクライニングシートを、0系2000番台より前後を広げたうえで、1編成辺りの普通席を従来の0系と同数配置するべく、客室スペースを増やすために行われた設計のひとつである。旧国鉄の車両設計事務所で、100系の車体・艤装の設計を担当した池田憲一郎によれば、池田が飛行機のコックピットに同乗させてもらった際、同種の席を見つけたことからヒントを得ている。 東北・上越新幹線向けとして開発されていた200系の機構をベースにコストパフォーマンス面から改良を進めた構造となっている。 主に制御機器・主電動機の軽量化・高性能化により、0系の16両全電動車方式から16両中4両が付随車となった。モーターの高出力化により、電動車を4両減らしても0系とほぼ同等の出力を得ることができる。 0系と同じくMM'ユニットを採用し、M車(121形・125形)には主制御器と抵抗器が、M'車(122形・126形)には主変圧器・整流装置・補助電源装置・電動空気圧縮機・集電装置が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器の横幅が2,400 mmに揃えられた上で機器類の隙間を塞ぐ機器間塞ぎ板方式を採用しており、走行中の走行風による騒音を低減させている。電機品は試作車(X0 → X1編成)の場合、三菱電機、日立製作所、東芝、東洋電機製造、富士電機の5社が製作している。 主制御器は電動カム軸方式の CS56 を採用する。車両の前進力行、後進力行、前進ブレーキ、後進ブレーキの切替、搭載する抵抗器を用いて、発電ブレーキ回路を構成し発電ブレーキを掛けることを主な機能としており、それを行うための転換カム軸と抵抗カム軸を搭載している。ブレーキ抵抗制御の段数は22段であり、カム接触器の数を減らすため、逆転、力行、ブレーキ切替用のカム接触器の一部に双頭カム SR38 を採用している。重量は940 kgである。 力行制御は0系の低圧タップ制御に替えて、架線からの交流25 kVを主変圧器の二次巻線を分割し、それぞれにサイリスタとダイオードで構成されるブリッジ(整流回路)を取付けて分割構成としたサイリスタ・ダイオード混合ブリッジとし、それにより整流・制御された直流電源で主電動機を駆動するサイリスタ位相制御が採用されている。これは200系とほぼ同等の制御方式である。主シリコン制御整流装置はさらなる軽量化とコスト削減を図った RS203 を搭載する。素子の耐圧を200系の2,500 Vから4,000 Vまで上昇させ、二次巻線の分割を200系では不等6分割だったのが100系では等4分割にしてブリッジの数を減らし、素子数の削減と軽量化(200系:RS202重量比62 %)とコスト削減を図っている。また、整流ユニットを車側からも取り出せるように工夫されており、整備性の向上が図られている。 主変圧器は外鉄形強制風冷式の TM203 を採用する。定格容量は2,500 kVAの容量を備えるが、二次巻線側(主回路)の利用率を勘案し、一次巻線容量は二次巻線と三次巻線(補機類)の容量和よりも小さくなっており、鉄心の磁束密度を4 %増加させている。シリコーン油とポリアミド絶縁物を主体とする特別A種絶縁の採用、付属品の改良を行うことで、TM201A(0系)と比べて容量で152 %の増加を達成しつつ、総重量は76 %に削減されている。 補助電源装置には静止形インバータSC202が採用され、電動発電機と比べてカーボンブラシの交換などの検査の省力化を図っている。補助変圧器、定電圧装置、整流装置で構成されており、主変圧器の三次巻線(単相交流440 V・60 Hz)を電源とする。供給する電源としては、温水器などで使用される低圧交流電源交流100 V、冷水機や汚物処理装置などで使用される低圧安定化交流電源交流100 V、セクション通過時の停電を防ぐために使用される無停電交流安定化電源交流100 V、制御・ブレーキ電源、蛍光灯などで使用されている直流100 Vの4種類がある。加えて、東京方先頭車ボンネット内にインバータ SC18 を備え、直流100 Vを交流100 V・60 Hzに変換する。停電時には、一部交流機器に電源供給を行う。 電動空気圧縮機は MH1091-TC2000 を搭載する。圧縮機部 TC2000 は水平対向4気筒を有する往復単動二段式で1分間定格出力2,063 Lであり、全閉自冷式であるかご形単相誘導電動機 MH1091 は主変圧器の三次巻線である単相交流440 V・60 Hzで駆動される。0系16両編成では1,000 L級を8基搭載していたが、騒音源の減少とコスト削減を進めるために1基当たり吐出し量を倍増させ、編成中の搭載台数を半減させた。空気圧縮機の大容量化を進めることは騒音増大につながるが、騒音対策を施すことで低騒音化を達成している。 機器冷却用の電動送風機は主変圧器の三次巻線を電源とした主整流装置用 MH1092-FK156 と主変圧器用 MH1093-FK157 を搭載する。0系では主整流装置・主変圧器共用で1台の電動送風機が搭載されていたが、個別に設計した電動送風機を使用することで小型軽量化を図った。 主電動機は直流直巻式の MT202 を電動車両1両あたり4基搭載している。0系に比べて編成中の電動車数が減少すること、起動時の引張力を増大させて加速性能を向上させたことから、0系に比べて高出力(連続定格出力230 kW)となった。端子電圧は625 V、定格回転数は2,900 rpmに増強され、重量は825 kgである。構造的特徴として、他力通風方式の採用で鉄心長を増加させて出力向上を図り、H種絶縁の採用や冷却用排風覆いの簡素化で軽量化が図られるとともに、長尺ブラシを使用してブラシ摩耗代を長くし、軸受構造に第2グリース室を設けて潤滑寿命を長くして、無保守走行距離の延長を図っている点 は MT201(200系)と同じである。 電動車台車はDT202、付随車台車はTR7000と呼称され(いずれもJR西日本の場合は頭に「W」を付す)、0系のDT200と同じくIS式軸箱支持装置、枕バネを採用している。コスト削減のため、DT202とTR7000の台車枠は共通のものが用いられ、車輪径は910 mm、輪距は2,500 mm、重量は9,800 kg(DT202)9,225 kg(TR7000)となっている。 230 km/h - 260 km/hでの乗り心地向上を目指し、DT200と比較して、左右の振動の減衰に関係してくる空気ばねの横剛性は1.33倍、左右動ダンパー減衰係数も1.5倍となっている。また、踏面形状を1/40勾配から円弧踏面に変更し、軸箱の強度もDT200の2倍とすることで、フランジの磨耗を防いでいる。 システムとしては200系と同様、制御応答性に優れる発電ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ方式を採用する。高速域からの減速は、抵抗器を使用した発電ブレーキを用い、制動力が不足する場合には空気ブレーキによる補足が入る。速度が25 km/h以下になると、発電ブレーキから空気ブレーキに完全に切り替えられる。 新幹線で初めて設定された付随車のブレーキには、渦電流ブレーキ(ECB)を各車軸あたり2台設置する。コイルの励磁電流は、隣接するM車から供給されている。以降製造された東海道・山陽新幹線の新幹線車両のうち300系と700系の付随車に採用された。 集電装置は0系から引き続き下枠交差型パンタグラフが採用された。PS202と呼称される。基本構造は 0系のPS200Aと同一であるが、200系のPS201と同様に集電舟(架線と接触する部分)を三元系ばね機構を採用して可動式となった微動すり板を採用したことにより架線追従性が向上し、0系に比べて離線率が20 %減少された。また、パンタグラフ半減に対応し、走行時に立ち上がることを防ぐためにかぎ装着部を二重ロックとしている。 当初は各電動車ユニットごと、16両編成で6基のパンタグラフを使用していたが、1991年3月の東海道新幹線のAT饋電化により3基に半減された。これは天井に這わせた高圧ケーブルによる特高圧引き通しを実施し、パンタグラフのないユニットへの主電動機への電力供給も可能になったため、この方法は以降新製される新幹線全車両に採用されている。 列車無線装置はバージョンアップされ、本系列では0系で使用していたVHFによる方式に代わり、線路のそばに敷設された漏洩同軸ケーブル (LCX) に流れた情報を先頭車(1号車)の足元に設置されたアンテナが受信して通信をやり取りする方式を採用。東海道区間ではJR化後の1989年3月から、山陽区間では2000年3月から岡山まで、2004年3月から全線で本格運用を始めた。 東海道新幹線の利用客は1976年をピークに減少傾向をたどり、列車の削減が行われた。そのような経緯から、100系では客室(サービス面)を中心としたモデルチェンジが指向された。そしてより明るく快適な新幹線として、話題性を高めイメージアップを図るべく、新幹線としてはじめて2階建て車両が組み込まれた。またコスト削減の観点から、0系の全電動車構成を改め付随車を導入することになった影響の副産物という側面もある。 基本的に階上は、車窓が良いことや乗客の通り抜けがないことからグリーン席や食堂、階下は普通車指定席、カフェテリアもしくは個室が設定された。詳細は#各編成の概要を参照。 客席部分を最大限使用するため、電動機などの機器を搭載することができず付随車となった。また、空調設備は1階機器室に搭載された室内機と屋根上の室外機を分離したセパレート方式とし、客室内には空調用のラインフローが設けられ、グリーン席にはスポット空調を採用している。 2階建て車両は、平屋車両との段差が大きくなるために空気抵抗が増加することや車体重心が高くなることから、車高はできるだけ低い方が望ましい。しかし、2階建て車両投入によるイメージアップも重要なテーマであることから床面をレール面上200 mmまで下げ、屋根高さを平屋車両と比べて500 mm高い位置の4490 mmまで持ってくるなど、車両限界を有効利用して設計されており、それにより各階の天井高さを1945 mmとし、十分な高さを確保している。V編成「グランドひかり」の場合、室内高さは、1階部分が1982 mm、2階部分が1986 mmとなっている。なお、車体重心をできるだけ下げるため、1階部分の車体構造が強化され、厚い鋼板が張られている。 東海道・山陽新幹線区間では、300系以降で車両軸重を11.4 t以下にすることを目標に設定したことや定員の相違による互換性の面での支障、速度向上のために車両の軽量化や走行抵抗の軽減が求められた結果、2階建て車両の新造はされていない。 16両編成の中央に連結された2階建て車両のうち、8号車にはカフェテリアもしくは食堂といった供食設備が置かれた。 東京駅 - 博多駅間の長距離運用向けに製造されたX・V編成には8号車の1階に厨房・売店と通路が、見晴らしの良い2階には食堂が設置された。なお、現場のコックの要望で、厨房内に客室入口を映し出すTVモニターを設置している。X編成とV編成では、車両外観は同じだったが、内装は全く違った。 X編成は、食堂出入り階段付近に設置された東海道・山陽本線を駆け抜けた代表列車のエッチングによる装飾が大きな特徴である。このエッチングは、元国鉄の黒岩保美が製作したものである。この中には100系もあるが、9000番台(X1編成)では小窓で描かれていた100系は、0番台(X2 - X7編成)では大窓で描かれている。 V編成は、入り口付近の装飾や壁面に大きな飾り花が設置されたのが特徴である。1階の厨房から料理を2階に運ぶために料理用エレベータが設置された。 G編成は、グリーン席の増加と短距離運用中心のため、8号車の2階席をグリーン席にあて、1階部分にカフェテリアを設置した。山側に通路が、海側にショーケースと簡易厨房が設けられていた。製造次によって、床模様や柱の本数・デザインが異なっている。 食堂車の営業は2000年3月10日で終了したが、その後も食堂車自体は連結されたままだった。カフェテリアの営業は100系による定期「ひかり」運用が消滅した2003年8月22日まで続けられた。 9号車の階下(1階部分)と、X1編成の10号車(1986年まで。こちらは2階建て車両ではない)にはグリーン個室が設置され、1〜4人用の4タイプ(10号車の個室を含めれば6タイプ)の個室が存在した。詳細は#各編成の概要を参照。 本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。 基本的に電動車は奇数形式と偶数形式でペアを組んでMM'ユニットを構成し、16両編成の場合は6組のMM'ユニットと4両のT車(X・G編成は1・8・9・16号車、V編成は7・8・9・10号車)で、6両および4両編成の場合はすべてMM'ユニットで組成される。 番台としては、試作編成でもあったX0(後にX1編成に改造)編成は9000番台、それ以外のX・G編成は0番台を、V編成とK・P編成の中間車は3000番台を、K・P編成の先頭車は5000番台を名乗る。 1985年から1987年に落成した100系初の編成。先頭車と2階建車両各2両の計4両が付随車である。2階建車両は8号車と9号車に組み込まれ、8号車は食堂車、9号車は階上がグリーン車・階下がグリーン個室(1人用5室、2人用3室、3人用1室)である。 試作車である9000番台X0編成(1985年3月27日落成・1986年8月から10月にかけて量産化改造を実施し、X1に改番)は、量産車とは以下にあげる違いが見られた。 1985年3月27日に公式試運転を東京駅 - 三島駅間で行った。その後、直ちに営業運転に使用せず、4月には東京駅 - 博多駅間で営業速度での試験を実施した。さらに、9月まで速度向上試験を実施し米原駅 - 京都駅間で230 km/hを、小郡駅(現・新山口駅) - 新下関駅間で260 km/hを記録した。 1985年10月1日から「ひかり3号」(東京8:00発博多行き)と折り返し「ひかり28号」(博多15:45発東京行き)の1往復(いずれもWひかり。ただし後者は基本停車駅に小郡駅を追加)で営業運転を開始した。食堂車の担当は日本食堂。当日は、営業運転開始に当たって東京駅で出発式が行われた。ただし、1編成しか在籍していなかったため、検査日は0系が代走した。 なお、当編成は0系37・38次車よりも先に落成している。反対に、100系の最終増備編成であるG46編成は300系の量産車第1号であるJ2編成より後に落成したが、G46編成の方が先に廃車になった。 1986年落成の量産車である1次車(4編成48両)は2階建車両のない12両編成(暫定G編成・G1 - G4)として搬入され、6月13日から東京 - 新大阪間の「こだま」12本(下り7本・上り5本)に運用された。これは、100系が既に登場した当時、「こだま」用車両の置き換えとして0系を製造するのも今更どうかということになったためである。車椅子対応設備・多目的室は「ひかり」用編成が11号車なのに対して、「こだま」用編成ということで0系12両編成と同じ5号車となった。 12両G編成は、2次車(中間車のみ・12両)が組込まれて16両編成化され、編成番号をX2 - X5に変更した。11月からは「ひかり」として営業運転を開始した。同時に、最高速度が220 km/hに向上された。分割民営化直前の1987年3月に3次車2本 (X6・X7編成)が落成され、X編成の増備は終了した。 分割民営化時にJR西日本にX6編成とX7編成を継承する案もあったが、結果X1 - X7の全編成がJR東海に承継された。 東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に運用されており、運用によっては1日の走行距離が2,500 km以上にも達し、7編成しかないことから0系H編成のように走行距離を平滑化するのは難しく、検査周期も他の編成に比べて極端に短かった。1998年10月2日の「ひかり126号」(新大阪発東京行き:X1編成)を最後にX編成の食堂車営業と「ひかり」運用が終了し、以降は東海道区間の「こだま」のみとなった。総走行距離が車齢に比して多かったことから、0系YK編成の撤退半月後である1999年10月1日の「こだま429号」(東京発新大阪行き:X1編成)を最後に定期列車の運用から離脱した。K・P編成へは転用されず、同年8月から2000年11月にかけて全車が廃車となった。 1987年から1992年までに落成した編成で、製造当初はJR東海のみ所有していた。「100'(ダッシュ)系」とも呼称される。車両番号のハイフン以下の数字はX編成からの通し番号だった。 X編成と同じく先頭車と8号車と9号車に組み込まれる2階建車両各2両が付随車である。2階建車両のうち9号車はX編成と同じくグリーン車とグリーン個室であるが、「ひかり」の利用客が増加傾向にあったことや東京駅 - 新大阪駅間で重点的に運用することを念頭におき、0系と比べて個室を除いたグリーン車定員が少ない ことから、8号車については食堂車の設定をやめ、階上にグリーン車・階下にカフェテリアを設け、グリーン車の定員を増やした。16両1編成の製造価格は31億円とされており、後継車両である300系と比べると2 - 3割小さい。 1編成に対して1社が製造を担当したが、技術力の向上とコスト削減を目的として、6両(G30・G37・G50編成の12・13号車)が浜松工場で製造された。車両製造のため、浜松工場の従業員22名が日本車輌製造豊川製作所で8か月もしくは10か月の間研修を受けている。なお、該当編成の残り14両は豊川製作所が担当した。 G編成としての最初の編成であるが、X編成から連続して扱われたため4次車となっている。山陽新幹線博多開業用として増備された0系16・17次車置き換え用として、1988年2月から3月にかけて3編成48両(G1 - G3編成)が落成した。 新製時、8号車が食堂車(168形)からカフェテリア・グリーン合造車(148形)に変更された以外はX編成と同様であった。1989年1月から2月にかけて、5次車以降と個室配置を統一するための工事(1人用2室を4人用1室に変更)を実施した。それに伴い、車両番号の変更が行われた(149-7, 8, 9 → 149-101, 102, 103)。 山陽新幹線博多開業用として増備された0系16 - 20次車置き換え用として、1988年12月から1989年3月にかけて12編成192両(G4 - G15編成)が落成した。 落成時から個室配置が、1人用3室、2人用3室、3人用・4人用各1室となっている。 0系16 - 20次車置き換え用として、6次車として1989年4月から9月にかけて5編成80両(G16 - G20編成)が、7次車として1989年7月から1990年3月にかけて11編成176両(G21 - G31編成)が落成した。 普通車座席に足掛けとバケット形状の座席が採用され、カフェテリア通路部分のポールの本数が5本から4本に減らされている。また、東海道区間のATき電化への準備としてパンタカバー設置と特高圧引き通し準備工事が施された。 0系16 - 20次車置き換え用として、1990年4月から1991年2月にかけて10編成160両(G32 - G41編成)が落成した。 視認性を向上させるため、電光掲示板の文字の拡大と行先表示器への蛍光灯内蔵、2・3人用個室のデザイン変更が行われた。このため、電光掲示板の時計と距離表示は省略された。電光掲示板の改良は既存編成には行われていない。 「ひかり」運用の増加に対応するため、9次車として1991年1月から3月にかけて4編成64両(G42 - G45編成)が、10次車として1991年5月から1992年2月にかけて5編成80両(G46 - G50編成)が落成した。1992年2月26日落成のG46編成が100系の最終増備編成である。 落成時から特高圧引き通しの実施と集電装置の削減(2・6・12号車のみ搭載)、集電装置すり板の改良(すり板幅を25 mmから40 mmに拡大)が行われた。既存編成には追工事の形で対応がなされた。 1988年3月13日改正で、東京駅 – 新大阪駅間3往復の「ひかり」で運転を開始。当初は東京駅 - 新大阪駅間の「ひかり」のみ使われていたが、増備が進むにつれて運転区間が拡大し、1989年3月11日改正で広島駅まで、1993年3月18日改正で博多駅まで運転区間を拡大した。それでも、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」はX編成やV編成などを使用していたことからG編成が使用されることは少なかったが、X編成が「こだま」へ転用された後は本数が増えた。一方では300系の増備と0系の廃車が進んだために1995年ごろから「こだま」にも充当されるようになっていた。 2003年9月16日の「ひかり309号」(東京発新大阪行き:G49編成)を最後に東海道新幹線での運用から離脱、2004年3月1日のG50編成の廃車を最後にJR東海所属のG編成は消滅した。 山陽新幹線においては、2003年9月15日の「ひかり556号」(博多発新大阪行き:G2編成)を最後に16両編成の営業運転を終了する予定であったが、2004年1月22日に代替編成として使用され、「こだま651号」(岡山発博多行き:G7編成)が最後の営業列車であった。2004年3月30日にG7編成が廃車となったことでG編成は消滅した。これによって16両編成の100系も消滅した。 1996年にG1 - G3・G6の4本、1997年にG4・G5・G7の3本、7編成の計112両がJR西日本へ譲渡された。当時JR西日本保有の16両編成のほとんどは0系で、走行距離精算のために東京直通「ひかり」にもJR西日本保有の0系を充てる状況であった。しかし、それでは0系の運転曲線を基準にしたダイヤを組まなくてはならないため、これを問題視したJR東海がJR西日本に譲渡したものである。また、JR西日本も阪神・淡路大震災で山陽区間に閉じ込めとなったG編成の検査経験があることから譲渡が実現した。JR西日本に譲渡されたG1 - G7編成は、0系のNH編成の運用をそのまま置き換えたため、運輸上の区別では「N編成」と称されていた。譲渡後は東海道直通だけでなく、車両の東海道新幹線内への送り込みと博多総合車両所への返しを兼ねて山陽区間のみの「ひかり」にも使用された。そのG編成のうち、1999年11月9日付けでG6編成の9両、2000年2月7日付けでG2編成の3両、同年3月27日付けでG6編成の1両 が廃車となり、残った車両で新G2編成を組成した。なお、このとき組成から外れたG6編成の3両 は保留車となり、K・P編成組成時に使用された。なおこの後もJR西日本は700系でJR東海から16両編成の譲渡を受けている。 2000年以降、JR西日本が所有することとなった「こだま」用のK・P編成を製作する際に必要な先頭車(121形・122形)と車椅子スペース設置車(125形3700番台)が不足するため、JR東海所有のG編成のうちG9・G10・G15・G19・G30・G43編成 が、8両に減車(1/2/11/12/13/14/15/16号車)されて浜松工場から博多総合車両所まで自力回送された。回送された車両のうち、両先頭車(123形・124形)と車椅子スペース設置車(125形700番台)がJR西日本に譲渡され、譲渡されなかった車両は博多総合車両所で廃車・解体された。 JR西日本が1989年から1991年にかけて製造した。投入当初より各所で100N系と呼称され、「グランドひかり」の愛称を持つ。 JR西日本が新設計した車両のため、鉄道事業法に基づき新たに運輸省に車両確認申請書を提出している。このため書類上国鉄・JR東海100系とは別形式である。 山陽新幹線のシェア拡大を図るために到達時分短縮とアコモデーションの改善を中心に設計・投入されており、X・G編成とは異なる点が多い。また当初は国鉄・JR東海100系と先頭形状を変える案もあったが、結果的に同様の先頭形状に落ち着いている。 V編成による将来の270 km/h運転を見据え、270 km/hが可能な走行性能が与えられた。具体的には、 また、山陽新幹線区間230 km/h走行を行うため、ATCの220信号を230に読み替えるトランスポンダ車上子を搭載する。通常のATC信号はATC受電器が受信するが、220信号の時のみ、トランスポンダ地上子が230 km/h走行を許可するか否かの信号に変換してトランスポンダ車上子に送信する。 環境対策として230 km/h走行時の騒音レベルを0系220 km/h走行時の騒音レベル以下に抑えるため、2階建て車両を重点的に以下の騒音対策が行われた。 将来さらなる新型車が登場した際に短編成化して運用することを見据え、先頭車を制御電動車とした。それに伴い付随車は2階建車両4両(7 - 10号車)に充てた。 7・9・10号車の3両のうち、階上はX・G編成と共通のグリーン席とした。一般客の通り抜けをなくして静かな環境を提供し、座席ごとに液晶モニターが設置され、山陽区間ではビデオソフトの視聴ができた。階下は普通車指定席でありながら、横4列配置のゆったりとしたサイズの座席(WRK206形)が配置されており、この配置はその後の山陽新幹線向け車両でも踏襲されることとなる。7号車にはビデオスクリーンが、9・10号車には28インチのモニタディスプレイが設置され、ビデオの視聴ができた。東京駅 - 博多駅間の長距離を運転することが基本であったため、8号車は食堂車とされたが、内装は大きく変更され、階下の売店は面積が2倍に拡大された。 非常連結器の下に、空気取り入れ口が設けられた。これは、先頭車が電動車となったため、主電動機を冷却するものである。中間電動車は床下から冷却風を取り入れていたが、制御車では排障器(スカート)があり、走行風を取り込みにくいため、この部分から取り入れることになった。 出入口付近に設置してある行先表示器を字幕式から3色LED式に変更し、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。これは、JR西日本で新製投入された300系以外の全新幹線車両 に採用されている。 1989年2月から3月にかけて2編成32両(V1・V2編成)が落成した。 V1編成が270 km/h走行対応編成、V2編成は270 km/h走行準備工事編成である。 2次車として1989年6月に1編成16両(V3編成)が、3次車として1989年12月に1編成16両(V4編成)が落成した。 1990年7月から12月にかけて2編成32両(V5・V6編成)が、5次車として1991年2月に1編成16両(V7編成)が落成した。 グリーン席に新たに5インチの液晶テレビが搭載される。既存編成にも追工事の形で行われている。また、大便器の構成が和式便所2か所から洋式便所1か所+和式便所1か所に改められ、洗面所の内装が変更されている。 6次車として1991年7月から12月にかけて2編成32両(V8・V9編成)が落成した。 東海道新幹線のAT饋電化完了後に落成したため、落成時から集電装置の削減(4・6・12・14号車のみ搭載で、6号車のものは予備扱い。)が行われている。 1989年3月11日改正から「ひかり」で運用を開始した。主に朝に山陽新幹線エリアを出発し午後に東京駅に到着する列車、夕方に東京駅を出発し山陽新幹線エリアに到着する列車に運用した。最盛期には1日16本(うち東京 - 博多間運転は13本)を運転していた。 その後1993年3月18日ダイヤ改正で300系「のぞみ」が1時間1本で運転するようになると需要の減少に伴い100N系の博多乗り入れを順次削減、主に東京 - 広島間の運転に短縮した。その後2000年3月10日をもって食堂車の営業は休止、山陽新幹線博多開業前年の1974年から始まった新幹線食堂車の歴史は終了した。その後、700系7000番台の増備により順次置き換えられ、2002年5月18日で定期列車の運用を終了。同年11月23日の「ひかり563号」(新大阪発博多行き:V2編成)の運転をもって営業運転から離脱した。そして11月25日にV2編成が編成名削除となり、V編成が消滅した。 運用は東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に使われ、東海道新幹線内運行の「こだま」には最後まで使われなかった。 経年が20年 と老朽化が進行していた「こだま」用0系R編成の大半とQ編成を置き換えるため、長距離運用から離脱した100N系(V編成)に2000年から2005年にかけて短編成化・車両延命工事を実施したものである。なお改造元は100N系であるが、短編成化したK編成・P編成を100N系として記述することはなく、100系の一種として扱われている。 全車がJR西日本に所属し、6両編成はK編成、4両編成はP編成と呼称される。P編成は2000年から2001年と2003年から2005年に、K編成は2002年から2003年に組成されている。 P編成は2000年10月4日(P1編成)から、K編成は2002年2月12日(K51編成)から 営業運転に充当されている。全車普通車で構成されている。 前述のとおり、P編成は2011年3月12日のダイヤ改正で運用離脱した。同年6月8日付のP7編成の廃車をもって、P編成は消滅した。 100N系(V編成)のうち付随車の2階建車両を外し、平屋の電動車108両全てを対象に行った。 16両編成では10号車(116形もしくは178形)に車掌室が設置されていたが、短編成化によってグリーン車と2階建て車両が編成から排除された結果、新たに車掌室を設置する必要が生じたため、P編成は両先頭車乗務員室出入り台に案内用設備を取り付け、K編成は4号車に車掌室を設置した。 短編成化において、V編成の車両だけでは先頭車(121・122形)と車椅子対応設備設置車(125形3700番台/3号車に組み込み)が不足するため、G編成車体を接合した改造車両(121・122形5050番台、125形3750番台)がK52・K55・K57・K60・P3 - P5・P7 - P12編成の計13本26両に組み込まれる。この改造車両は車両番号の下2桁が50番台で区別されている。なおこの先頭車改造に用いたG編成は既にJR西日本に移籍していた7編成のほか、JR東海で廃車となった6編成を譲り受けている。 V編成では東京方先頭車(16号車・122形)のパンタグラフは撤去されていたが、K・P編成組成時に再設置され、2・6号車(K編成)2・4号車(P編成)に搭載し、高圧引き通し線も設置されている。また先頭車が電動車であることから、元G編成先頭車に対してもV編成同様に非常連結器の下に主電動機冷却用の空気取り入れ口が設けられている。 V編成の先頭車には230 km/h走行用トランスポンダ車上子を搭載していたが、G編成を元車とする先頭車には設置がなかったため、車両性能を合わせるために短編成化改造時にトランスポンダ車上子を撤去している。これにより最高速度は220 km/hとなっていた。 短編成化改造において新たに発生した番台区分は以下に記す。 最終的にV編成の電動車108両のうち、102両がK・P編成に改造された。残りの6両はG編成(西日本車)から改造したため、改造から漏れた以下の6両は2004年度末までに廃車・解体された。 125-3001(元V1編成)2003年5月21日廃車 125-3803(元V3編成)2003年11月9日廃車 125-3804(元V4編成)2003年11月9日廃車 125-3802(元V2編成)2004年6月7日廃車 125-3010(元V4編成)2004年10月29日廃車 125-3004(元V2編成)2005年3月22日廃車 P1 - P3編成は当初、V編成普通車の2列+3列のものを流用していたが、K編成とP4 - P12編成は登場当初から2列+2列の座席を使用していた。これには、0系「ウエストひかり」普通席仕様の座席、100系G・V編成のグリーン席、100系V編成2階建て車両1階席の4種類を再利用している。元グリーン席にはフットレストなどの付帯設備を取り外して普通席と同じシートピッチにする方法で、「ひかりレールスター」の指定席並みの座席にグレードアップした普通車として改造された。ウエストひかりからの流用車の一部(肘掛けのやや大きいもの)は肘掛内蔵テーブルが存置されている。一方、グリーン車から流用した座席では、背面テーブルのある座席は肘掛内蔵テーブルが撤去されているが、背面テーブルのない座席では肘掛内蔵テーブルが存置されている。後に全編成が前述の2列+2列シートに交換された。なお、座席の変更に伴う車両番号の改番はされていない。 元ウエストひかり普通車と元V編成DD1階席はシート自体の形が酷似しているが、シートの足の部分(箱型のものが元V編成1階席のもの、そうでないものが元ウエストひかり普通車)で区別ができる。ただし、3号車の車椅子対応の1人掛け座席は、K編成とP7 - P12編成には元V編成、それ以外の編成は元ウエストひかり用のものに車椅子固定用金具が装着された物が設置されている。モケットの色は奇数車両が赤系、偶数車両が青系に統一されている。 奇数号車 偶数号車 客室扉は、種車が2列+3列の座席配置であったため座席の配置とずれているが、車椅子対応設備が設置されている3号車新大阪方と車掌室を挿入したK編成4号車博多方の扉は車両の中心にあるため、座席とのずれはない。 登場当初のK51 - K53・P1 - P6編成は従来の白地に青帯を配したものであった。2002年8月に出場したK54編成からは、「こだま」のアコモデーション改善(2列+2列座席化)を認知しやすいように塗装が変更された。「新緑や若草など新たな誕生の息吹」をイメージして、ライトグレー■を基調に、窓部分にフレッシュグリーン■とダークグレー■の帯を配した。スカートも濃いグレーに、車内のカラースキームもシルバー系に変更した。この塗装変更に伴い、車両側面に配されていた大型のJRマークが撤去され、車両番号横の小さいJRマークに変更された。従来塗装車も全検時に塗り替えられた。 2009年4月以降、デッキにある車両案内板が新型に交換されている。従来のものは0系R・WR編成と共通であったが、案内板上部に「100系6両編成」もしくは「100系4両編成」と書かれた、500系V編成と同等のものに変更された。 2010年7月2日、K編成のうち3編成を旧塗色(白地に青帯)に戻すことを発表した。6月から塗り替え作業が行われ、7月15日にK53編成が、8月にはK54編成が、9月にはK55編成が旧塗色に変更され、営業運転についている。なお、塗色変更1本目であるK53編成は、新塗色であったK54編成と並べられて、7月12日に博多総合車両所で公開された。 P編成は信号システムの都合上新大阪駅に入線できないため、博多駅 - 岡山駅(以前は姫路駅)間の限定運用とされていた。姫路駅および相生駅にはP編成が停車していた名残として4両編成用の停止標識が現在も残っている。 P2編成は、かつての訓練車であった0系元Q3編成に代わり、2009年2月8日未明に新下関乗務員訓練センターに訓練車として自力回送された。翌日の2月9日付けで廃車扱いとなり、以降は車籍のない訓練用機械として乗務員の訓練に供用されていたが、2013年4月に訓練内容が車両の運転からシミュレーションに切り替わるため、同年3月末をもって訓練車としての役目を終えた。 お召し列車としては1986年(昭和61年)5月以降は100系が使われた。 100系に特別な装飾がされないのは、運行責任者である国鉄やJRおよび警備側が無線連絡をとることで通常の列車とお召し列車の区別がつくようになったためである。新型車両として300系や500系、700系が主流となってもしばらくの間は100系が使われていた。これは、100系にある個室や2階建てグリーン車の方が警備上都合が良い(1階に警備員を配置できるので同じ車両で警備することができる)ためである。 ※各年4月1日現在 V編成完成前の1988年10月、JR西日本がJR東海所属のX7編成を借用しトランスポンダ車上子を仮設し確認試験を行った。 この際に先頭車の主電動機が十分に冷却できないことが発覚したため、100N系では空気取り込み口としてパンチング穴を空けている。 なおグランドひかり登場時のポスターは、パンチング穴を空ける前の100N系を使用している。 1990年から高速試験が実施される。ライバルである航空機に対抗するため、新大阪駅 - 博多駅間を2時間30分前後で結ぶことを念頭に目標速度は275 km/hに設定された。「We try 275」とマーキングされ、騒音源となるパンタグラフを6個から3個に減らしたV編成は、同年2月10日に277.2 km/hを達成した。 しかし、試験走行の結果、255 km/h付近から騒音が急激に増加し、275 km/hでは騒音値が環境基準 をクリアできなかったため、また、ATCに速度段を追加するほどの時間短縮効果が得られないことから、最高速度は230 km/hのまま営業運転が続けられた。 100系は、300系から採用されているボルスタレス台車の試験車としても活躍した。 試作台車として製作されたDT9023A, B, C, D, E, Fの6種類が試験で使用された。 A, Bは0系用ボルスタレス試作台車のDT9022の改良版で1985年に製作された。同年に925形に搭載されて270 km/h試験、翌1986年にX編成での210 km/h走行試験が実施され、100系用のDT202よりも乗り心地の改善と横圧の減少が確認された。 C, Dが乗り心地の改良版で輪軸、駆動装置、軸箱支持装置をA, Bから流用している。1987年に製作され、翌1988年から100系に搭載されて営業運転で使用、30万kmの走行を行った。 E, Fは1989年に製作された300系仕様のプロトタイプであった。220 km/hでの走行試験を実施後、C, Dと同じく営業運転での30万kmの走行を行った。1991年にはV編成を使用して275 km/hでの走行試験を行った。 軸箱支持方式は、主にJR東海が「円錐積層ゴム式」と「円筒積層ゴムコイルばね併用式」を、JR西日本がV編成を使用して「軸はり式」を試験走行を実施した。「円錐積層ゴムコイルばね併用式」が300系、700系(JR東海保有分)、N700系(16両編成)に、「軸はり式」が500系、700系(JR西日本保有分)、N700系(8両編成)に採用された。 1986年12月15日、博多発東京行き「ひかり12号」で発生した。 岡山駅発車後、ブレーキ装置の故障によりブレーキが緩まなくなったため相生で運転を打ち切り、大阪第一運転所に回送した。 この際に翌日の運用に同編成を充当するため、故障した2両を編成から外し東京に回送、翌16日に14両編成で営業運転を行った。 1991年9月30日、東京発新大阪行き最終列車となる「ひかり291号」で発生した。 東京駅を発車して300 m地点で、運転台に車輪固着を知らせる警報が作動。15号車新大阪方の台車のうち、東京方の車軸が固着していた。21時00分に東京を発車して、21時25分に浜松町駅付近を通過するまでに計8回もの警報が鳴ったにもかかわらず警報のリセットを繰り返し、車輪が固着したまま三島駅(東京から約100 km)まで走行した。 浜松町駅で8回目の警報が作動した後、運転士はCTCセンターの指令員に停止する旨を伝えると、指令員は運転継続を指示した。運転士は、新横浜駅の駅員と、付近の上り新幹線の運転士に床下から火花が出ているかどうか確認してほしいと連絡を入れた。そして、固着が起きている15号車の床下から火花が出ていることが確認されたため、運転士は指令員に列車の停止を伝えると、指令員からは運転継続が指示された。「ひかり291号」が新大阪行きの最終列車であったことや、三島駅なら、隣接する三島車両所から予備の編成を用意し、故障した編成を引き込んで点検も出来るためである。さらに、定刻から20分遅れであったため、上限速度ギリギリ(ATCの頭打ち速度である225 km/h)での運行も指示された。そのため、東京駅基準で41 km地点と78 km地点(いずれも新横浜駅〜小田原駅間)の計2度、ATCブレーキがかかっているが、その時も指令員は運転継続を指示していた。 三島駅に到着後、車両を交換して全体を検査したところ、前述の15号車の新大阪方から2番目の車輪が長さ30 cm、深さ3 cmにわたって削られ、2つの車輪をあわせて約6 kgもの金属が消滅していた。また、車輪が削られたことでフランジ部分が下がり、ATC信号を流すレールボンドが損傷した。 その後の調査で、このトラブルの原因は車軸の駆動用モータ脇に設置されている駆動装置が、油が漏れたことによって破損したために車輪が固着したものであることがわかった。該当列車に充当された編成は、1991年7月2日実施の台車検査時に油を交換したが2日後には油が完全に抜けてしまっていた。故障前日の仕業検査時にも3 Lの油漏れが見つかったため、不足分を補給するために給油栓を開けると油が霧状になって噴出した。歯車箱内が異常な高温状態になっていたためと考えられる。なお、通常の補給量は0.5 L程度である。 従来の点検マニュアルでは、車輪固着の警報が作動したときには、ブレーキの固着と車軸の過熱による「軸焼け」の点検が定められているが、車軸の固着の点検については記載がなかった。この事故後、JR東海は点検マニュアルに「列車を車転2回転分だけゆっくりと動かし、車輪の回転状態を確認する」という項目を追加した。 なお、1992年6月15日に100系V3編成11号車 の博多方の車軸付近から大量の油漏れが発見された。軸受に使用していたベアリングが異常磨耗を起こして脱落していたことが原因であったが、前述の1991年9月30日に車輪固着を起こした車両のベアリングと同種類のものを使用していたため、その事故原因もベアリング破損による油漏れである。 2007年9月にK54編成 の鉄製骨組みやステンレス製屋根から、2009年6月にもK53編成2号車の鉄製骨組みからひびが発見されるなど、老朽化によるものとみられるトラブルが発生した。 1985年10月1日から、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」1往復(X0編成)で営業運転を開始した。X編成の量産車は1986年夏から「こだま」で順次営業を開始し、同年11月のダイヤ改正から食堂車を組み込んだフル編成となり、順次運用列車が増やされた。 国鉄分割民営化後の1988年3月13日からは、食堂車に代わってカフェテリアを組み込んだG編成が、東京 - 新大阪駅間の「ひかり」3往復で運用を開始した。1989年3月11日からは、食堂車を含む2階建て車両を4両組み込んだV編成が、東京 - 博多間の「ひかり」4往復で運用を開始した。また、G編成が新大阪以西でも運用されるようになった。100系を「ひかり」運用に投入したことで、0系H・NH・N編成を淘汰した。 1992年3月14日改正までに16両編成66本が揃った。その後300系が「ひかり」運用でも使用されるようになってからは「こだま」運用にシフトされ、東海道区間に残る0系を淘汰した。 2000年10月1日改正では、JR東海所有のG編成が定期「ひかり」から撤退し、臨時「ひかり」と「こだま」で運用されるようになる。また、山陽区間で「こだま」として運転されるP編成(4両編成)が登場した。P編成の当初の運用区間は姫路駅 - 博多間であった。 2003年8月22日の「ひかり179号」で定期「ひかり」運用から撤退した。同年9月16日の「ひかり309号」(G47編成)をもって100系は東海道新幹線から完全に撤退した。ただし、新大阪駅 - 鳥飼基地間の回送列車は2010年3月12日まで走行していた。2003年度中にJR東海所属の100系はすべて廃車になった。 2003年10月1日改正以降、100系の定期運用は山陽区間における「こだま」のみとなった。K編成は新大阪 - 博多間で運用されるが、P編成の運用区間が岡山駅 - 博多間に縮小された。 0系引退に伴う2008年12月1日のダイヤ修正以後、500系V編成の投入や「こだま」自体の減少によって一部編成に廃車が出ていたが、2011年3月12日改正で運用区間を岡山 - 博多間に縮小し、P編成は運用を離脱した。なお、鳥飼基地での夜間滞泊運用は2010年3月13日改正で消滅している。2011年12月1日にはさらに運用が縮小され、朝晩を中心に5本のみで運用された。 最末期は山陽新幹線で運転される「こだま」と博多南線「特急」に充当されていた。具体的には、JTBパブリッシング発行の時刻表では「100系」、交通新聞社発行の場合は「6両編成グリーン車なし」、JR発行の無料時刻表の場合は、6両編成の列車のうち、全席禁煙でない列車に充当されていた。 2012年3月14日をもって定期運用から離脱し、同月16日のさよなら運転「ひかり445号」(K55編成)をもって営業運転から撤退した。 のぞみ型車両と呼ばれる300系のほか、500系、700系が登場した1990年代には新幹線の高速化が進み、走行性能的に0系と大差ないレベルの100系は高速ダイヤに対応することができなくなった。また、山陽新幹線区間単独での運用の場合、16両編成では1編成当たりの輸送量が過剰なため、V編成を中心に短編成化が進められた。そのため、車両自体の寿命を迎える前に大量淘汰を受けることとなった。 以下、2003年5月以降のG編成は運用離脱状況を記す。5月1日時点で15本(G1 - G5, G7, G24, G32, G36, G40, G42, G44, G46 - G50編成)が在籍しており、ひかり1往復(名古屋駅 - 博多駅間)、こだま11往復(東京駅 - 新大阪駅間4往復、東京駅 - 名古屋駅間6往復、名古屋駅 - 新大阪駅間1往復)に充当されていたが、300系に置き換わる形で徐々に運用が減少していった。 2003年8月31日に東海道新幹線での定期運用を終了した100系が、同年9月13日・15日・16日の3日間、以下の臨時「ひかり」として東海道新幹線区間で運転された(始発駅出発時刻順)。 当該列車には、さよなら運転初日の2003年9月13日時点で在籍していたG42, G44, G46, G47, G49, G50編成の中からG46, G47, G49, G50編成が準備され(各編成の車番についてはG編成の節を参照)、G47編成以外の4本が使用された。このうち16日の最終列車に使用されたG49編成は、先頭車と中間車の一部にさよなら100系の特別装飾が施された。また、G47編成は、G49編成の予備として先頭車のみに特別装飾が施され、東京第二車両所にて待機していた。 東海道新幹線区間では2003年9月をもって運用終了した100系だが、山陽新幹線区間では短編成化されたK編成(6両編成)、P編成(4両編成)による「こだま」運用が続けられた。なお、いずれも2階建て車両は連結されずに運用された。しかし、前述の走行性能差の問題があることや、経年劣化が進行していることに加え、「のぞみ」のN700系化に伴い、余剰となった500系の8両化改造・「こだま」転用が2008年12月から行われ、さらに2011年3月12日の山陽・九州新幹線直通列車「みずほ」「さくら」 への専用車両となるN700系7000番台・8000番台投入により余剰となった700系7000番台を「こだま」で運用したことにより、運用は縮小した。 P編成については2011年3月12日改正で運用離脱(上述)したが、残る100系K編成も2010年12月17日のプレスリリース で2011年度中に全廃する予定であることが発表された。2010年7月2日に、6両編成(K編成)3本を落成当時の白3号と青20号の車体塗装に復元することがJR西日本から発表された。 2011年12月16日、この発表日の次のダイヤ改正日である2012年3月17日において、300系とともに運用終了となることが発表された。 2012年3月14日のこだま766号をもって定期運用を終了し、3月16日に最終列車として臨時列車のひかり445号(岡山→博多)が運行され、100系の運用がすべて終了した。 定期運転終了後の2012年3月16日にさよなら運転が実施された。 車内放送用メロディーが2003年9月まで使用されていたものに戻され、岡山 - 広島間で記念乗車券の配布が行われた。また、岡山では同日に行われた300系さよなら運転「のぞみ609号」と並ぶ演出がなされた。 このさよなら運転では万が一運行不能になった際に備え、K54編成が岡山支所に待機していた。 2013年4月1日時点ではK54編成6号車の122-5003のみが車籍を有しており、博多総合車両所で保存されていたが、京都鉄道博物館に展示のため、2015年に車籍が抹消され、廃系列となった。 最終的に本系列として実現する0系後継車の構想は1981年ごろには既に存在し、今後の国鉄車両の方向性を示すものの一つとして各種メディアや『鉄道ファン』などの鉄道雑誌に取り上げられた。当時公表された構想図のうち、先頭部形状や塗色については大まかな概念図が主であったが、アコモデーションのそれは2階建食堂車のレイアウトやグリーン個室など、この時点で後年の実車にかなり近いものであった。また、実現しなかったものでは2階部分をフリースペースのラウンジとした案もあった。これらの案に基づいて、浜松工場では2階建て車両のモックアップが制作された。 また、V編成「グランドひかり」以外の編成による「ひかり」の通称として「スーパーひかり」が使われることがあった。この呼称は、前述の構想とは別の、300系列車およびその源流の超高速運転構想における仮称が転用されたものである。 本形式の個室は1~4人室の4種類用意されたが、これは設計時に2階建ての1階部分の利用方法が見いだせず、窮余の策として制作したとのエピソードが残されている。作家の景山民夫が夫人と2人用個室を利用した際、その使い勝手の悪さを当時『週刊朝日』で連載していたコラム内で書いたところ、後日景山の事務所にJR東海の社員が訪れ、前述の実情を話したことを景山が明かしている(なお、景山はこの日事務所を留守にしており、応対したアシスタントからこの話を聞いたという)。 本形式は、鉄道ファンが新幹線に興味をむけるきっかけになったという意見もある。それまで新幹線車両は0系が20年以上継続生産されており、基本的な形態の変化がなかったこと、200系もメカニズムは新規ながら外見はほぼ0系と同じであったため、新幹線電車は鉄道趣味の対象にならないという認識であったが、本形式の接客設備やスタイルが一般に注目されるものであったことから、徐々にカメラを向けるファンが増えたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新幹線100系電車(しんかんせん100けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車である。国鉄分割民営化後は東海旅客鉄道(JR東海)に継承されその後増備したほか、西日本旅客鉄道(JR西日本)では100N系として新製投入した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東海道・山陽新幹線の本格的モデルチェンジ車として、1985年から1992年までに16両編成66本の計1,056両が製造・投入された。近畿日本鉄道のビスタカーや欧米各地の鉄道で導入されていた2階建車両を国鉄車両および新幹線電車で初めて組み込み、座席数の増加やサービスの向上など新幹線の宣伝やイメージアップにつながった。内装や技術面で、これ以降生産される新幹線車両に搭載されることとなった設備・技術も数多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "編成定員・車両の製造費は0系と同等のものとし、地上設備の改良を最小限に抑えつつ、到達時間の短縮を行うことを念頭に置いている。また、「国鉄改革の象徴」を意識して開発されており、開発目標としては「お客様第一。乗務員は二の次」が掲げられていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国鉄時代末期からJR発足にかけての東海道・山陽新幹線における主力車種として活躍したが、後継車両の登場により2003年9月16日に東海道新幹線から、2012年3月16日に山陽新幹線での運用から撤退した(#運用および#外部リンク参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年代になると、1964年の東海道新幹線開業時から運用されていた0系の一部には経年劣化が生じ始めた。その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度によって運行する新幹線の運行形態そのものにあった。0系では快適性のために気密構造を採用したが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力の繰り返しによって、金属疲労のために車体の気密性が保てなくなった。0系が初めて設計された営業用の新幹線車両であることや新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものであった。この状況に合わせ、国鉄は0系の廃車基準を製造後13年と設定し、古い0系は新造した0系によって置き換えられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この時点で新形式の投入が行われなかったのには、国鉄の経営状況悪化や労使問題などが影響した。それに加え、当時0系は車両の経年数が揃っていない編成が運用されており、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮された。このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきた一方で、0系の基本となるデザイン・内装は1964年の登場当初のままであったため、何度かマイナーチェンジを経たとはいえ、陳腐化の印象は否めなくなった。こうした背景に加え、新幹線博多開業の際に編成単位で大量増備された車両の取換準備車両が必要となることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まった。そこで、0系の設計を改めたモデルチェンジ車の検討が1980年頃から始まった。その後、1984年5月14日に国鉄常務会において、後にX0編成となる新幹線試作車の製作を決定した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "デザインについては、前述のように0系のイメージが陳腐化し、後発の欧州の高速鉄道であるTGVなどに比べても見劣りしたため、新たな造形が模索された。それにあたって、国鉄車両設計事務所内に車両デザイン専門委員会が設けられ、そのメンバーには手銭正道、松本哲夫、木村一男が参画した。デザイン提案は各車両メーカーが行い、それを車両デザイン専門委員会が検討して採用する形が採られた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "先代である0系との違いは、「シャークノーズ」と呼ばれたそのフロントマスクと、2階建車両の存在である。 フロントマスクは、騒音と空気抵抗の低減を図るために、鋭角にした前頭部から徐々に断面積を大きくしていく「流線型」とし、標識灯内のライト配置を0系の縦2灯から横2灯に変更して、横に細長い形に変えた。このデザインは近畿車両が提案したものが採用された。前部標識灯の際はそのまま点灯し、後部標識灯の際には赤色のフィルターが自動的に装着されて赤く点灯しているように見える。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "運転台の窓と車体の段差は極力小さくなり、0系では開閉可能であった側窓も固定化することで極力平滑化された。これにより、走行抵抗を0系比70%に軽減することができた。なお、試作車は前照灯に角度がついているためツリ目形状であったが、量産車は角度が小さくなっている。これらの形状から「シャークノーズ」と呼ばれる。前照灯の間にある中央の丸い部分は、非常用の連結器が収納されている。足元はスカートで覆われ、その内部には何重ものアルミ板を重ねた排障器がある。また、空調装置の室外機は200系と同様に天井車端に一括配置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "材質は0系と同じく1.6 mm厚の耐候性鋼を主体に、屋根部分はコルゲートステンレス鋼を使用した一体構造となっている。構体重量は、0系より0.2 t軽い10.3 tである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "側窓は試作車のみ0系1000・2000番台と同じく小窓だったが、量産車は0系0番台と同じく2列に1つの窓である大窓となっている。大窓の採用理由は、破損すると交換が面倒であるものの、眺望が良くなる方を優先したためである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "窓の大きさは、普通車が1,660 mm×610 mm、グリーン車が1,870 mm×610 mmで、グリーン車の窓は0系0番台と同じ大きさである。窓ガラスの板厚と構成を見直し、強度をアップさせている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オリジナルの塗装は、車体は0系よりも明るい白3号■を地色に、窓周りが青20号■の塗りわけである。また、ブルー塗装の下には、ピンストライプが追加されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "0系から地色を変更した理由は、100系が「国鉄改革の象徴」であり、0系に使われたクリーム10号よりも、白3号の方が汚れが目立つので、「車両をきちんと清掃する」との意識を職員に植え付けるためだった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "JR西日本所属のK・P編成の塗装の変更については#K・P編成を参照。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "国鉄時代には「ニュー新幹線」の愛称を与えられ、2階建車両の車体にこれを意匠した赤色のマークが標記されていた。X1編成のみ、海側は青帯と同じ大きさで、山側がそれよりも大きく描かれていた。比較検討の結果、量産車では、X1編成の山側と同じく若干青帯より大きい方が採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1987年の国鉄分割民営化後は、代わりにJRマークが貼付された。なお、JR東海所属車については、16両G編成は落成時から1・8・15→16号車の車両番号横にJR東海のコーポレートカラーであるオレンジ色の小さなJRマークが張り付けられ、分割民営化前に落成していたX編成は同様に貼り替えられた。JR西日本所属車はX編成と同様に1・15号車のトイレ区画、8号車のNSマークが標記されていた箇所にJRマークが貼付されていたが、幾分小さくなっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "編成番号は運転台下端・先頭車乗務員扉・乗務員扉下部のスカート部分に記されるが、JR東海所属車は、1999年から運転台上端に編成番号を記載するように変更された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "平屋車両の場合、グリーン車は博多方車端の1か所に、普通車は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお食堂車として製造された168形には車端にデッキがあり、客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。また、グリーン・カフェテリア合造車として製造された148形には、東京方のデッキに客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "内装については、長時間ゆったりと乗ってもらうため、前述した「お客様第一。乗務員は二の次」以外にも、「アットホームな車内の雰囲気」が重視されている。これは、100系の車体・艤装設計担当の池田憲一郎の意向である。開発当時の鉄道車両の車内は、無機質な樹脂製の壁や金属製のつなぎ目、ネジなどが目立つものであったが、自宅の部屋は木材や布など柔らかい素材に囲まれていることに気づき、このことを内装設計に反映させている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "壁などは、内装の工事が容易に行えるように、布ベースのフィルムシートが貼られ、金属色を見せないようにねじが隠されている。フィルムシートには騒音吸収効果もあったが、布ベースのシートだったためコーヒーなどをこぼされると交換が面倒という難点もあり、新幹線での採用例は100系のみとなった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "普通車は通路を挟んで3列+2列に座席を配置しているが、前後間隔(シートピッチ)を0系2000番台の980 mmから1,040 mmに広げ、リクライニング角度を、0系の17 - 22度から6 - 31度まで拡大。また、リクライニング機構を変更し、背面のテーブルを座席下部から棒で支えるタイプに変更、座席の土台の厚みを薄くすることによって、3人席においても回転・リクライニングを可能とした。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "シートピッチを拡大して、回転・リクライニング可能な3人席を導入した結果、0系よりも1両辺り5人分(16両編成では65人分)の普通席が足りなくなったが、乗務員用個室の削減および運転台の折りたたみ座席の設置、その他様々な機器を小型化することで、0系と同等の座席数を確保した。100系で採用された、普通席のシートピッチ1,040 mmは、その後の東海道・山陽新幹線の標準となった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "奇数号車がブルー系、偶数号車がブラウン系の配色となり、シートモケットやカーテンなどのデザインが異なっている。肘掛先端にはリクライニング用のレバーと灰皿(喫煙席のみ)が設置されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "グリーン車は通路を挟んで2列+2列に配置している。開放式座席がほとんどであるが、X・G編成9号車には#個室も設置された。グリーン車には新幹線車両として初めて間接照明が採用された、荷棚の下に読書灯が各席毎に設置された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "座席間の肘掛部分にオーディオサービス用機器が埋め込まれ、喫煙車の座席には端側の肘掛に灰皿が設置されている。肘掛内部にはインアームテーブルが備えられ、取り出して使用できる。初期の座席には、座席背面のテーブルが設置されていない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ミュージックサービスとNHKラジオ第1放送の送信を始めた。普通車では手持ちのFMラジオで、グリーン車内では備え付けのイヤホンで聴くことができる。このサービスは、以降新製される東海道・山陽新幹線の16両編成の全車両に装備されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "LED式(単色、V編成は2色)の電光掲示板が装備された。電光掲示板の上部にはデジタル式の時計、右側に次の停車駅までの距離を7セグメントで表示する装置が配され、通常走行時はLCXから送信されたニュースを表示した。X編成では当初速度表示もなされていたが後に取りやめとなっている。G32 - G50編成では電光掲示板の文字を大きくし、時計と距離表示は省略された。後者の電光掲示板は、300系で同じタイプのものが搭載され、以降のすべての新幹線車両に標準搭載されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "回線数が増えたことから、車内公衆電話は2両に1箇所設置することが可能となった 。また、それまでの車内電話は列車内発信時にはオペレータを通し、沿線の都市のみが通話可能エリアであったが、1989年4月より日本全国へのダイヤル通話ができるようになった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "便所は2両に1箇所(奇数号車の東京方)に設置されており、大便所2箇所(洋式便器1箇所+和式便器1箇所)と小便所1箇所、洗面所2箇所という構成である。また、冷水機の位置・仕様も大幅に変更され、0系では冷水機はデッキの近くで紙コップも封筒式だったのに対し、100系では洗面所の脇にセットされ、紙コップも円筒式になった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "空調機器は0系同様のヒートポンプ式である集約分散式の AU83 (冷房能力25000 kcal/h、暖房能力17000 kcal/h)を1両あたり2基搭載とし、0系ではやや不足気味であった暖房能力の強化を図った。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "運転台は右手操作のマスコンハンドル(力行 1 - 11ノッチ・後述のV編成のみ12ノッチまで。ただし、東海道新幹線内では12ノッチは機能しない)、左手操作のブレーキ設定器は常用1 - 7段・非常位置から構成される。ブレーキ設定器は、0系新幹線ではブレーキハンドルを挿入する必要があったが、100系ではキー1本でロックが解除される。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "100系では運転台スペースを有効活用するため、速度計は機械式からLEDを使用したものとなり、別構成であった主速度計と補助速度計は1つにまとめられた。主速度計はバーグラフ式(速度が上がるにつれて、赤色のLEDが右に向かって点灯していく)とバーニヤ速度表示から、補助速度計は下部にデジタル表示によるATC信号と速度が表示される(デジタルメーター)。表示盤は一体形であるが、電気的には主速度計、補助速度計は完全に独立している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "運転台右側には、200系と同じくCRTモニターによるモニタ支援装置を装備している。モニタ支援装置は200系で採用したMON1型モニタ装置を進化させたMON2型モニタ装置と呼ばれるものである。主な機能は以下のとおり。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "先頭車にモニタ中央装置と運転台モニタ表示器、中間車にモニタ端末器を搭載しており、車両間の伝送ケーブルは光ファイバーを使用しており、伝送速度は200系の2倍となる19.2 kbpsに向上した。運転台モニター表示器は8色カラー表示の10インチCRTモニターとなり、視認性が大幅に向上した。表示画面の操作は、現在のようなタッチパネルで操作するものではなく、ファンクションキー(運転・記録・故障・メニューなどのキー)やテンキー(0 - 9)で行う。このほか、車掌室には車掌用のモニタ表示器があり、運転士用のCRTモニターとは異なるが、ドア開閉状態、非常ブザー(非常通報器操作)、空調装置状態、便所ブザー操作、水タンク残量表示がLEDランプで表示される。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その他にも、点検作業効率化の観点から機器の配置見直しなども行われ、保守の省力化を図っている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、0系に存在した乗務員用の個室が無くなった代わりとして、運転台に折りたたみ式の座席を設けている。これは、後述する普通車用の回転・リクライニングシートを、0系2000番台より前後を広げたうえで、1編成辺りの普通席を従来の0系と同数配置するべく、客室スペースを増やすために行われた設計のひとつである。旧国鉄の車両設計事務所で、100系の車体・艤装の設計を担当した池田憲一郎によれば、池田が飛行機のコックピットに同乗させてもらった際、同種の席を見つけたことからヒントを得ている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "東北・上越新幹線向けとして開発されていた200系の機構をベースにコストパフォーマンス面から改良を進めた構造となっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "主に制御機器・主電動機の軽量化・高性能化により、0系の16両全電動車方式から16両中4両が付随車となった。モーターの高出力化により、電動車を4両減らしても0系とほぼ同等の出力を得ることができる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "0系と同じくMM'ユニットを採用し、M車(121形・125形)には主制御器と抵抗器が、M'車(122形・126形)には主変圧器・整流装置・補助電源装置・電動空気圧縮機・集電装置が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器の横幅が2,400 mmに揃えられた上で機器類の隙間を塞ぐ機器間塞ぎ板方式を採用しており、走行中の走行風による騒音を低減させている。電機品は試作車(X0 → X1編成)の場合、三菱電機、日立製作所、東芝、東洋電機製造、富士電機の5社が製作している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "主制御器は電動カム軸方式の CS56 を採用する。車両の前進力行、後進力行、前進ブレーキ、後進ブレーキの切替、搭載する抵抗器を用いて、発電ブレーキ回路を構成し発電ブレーキを掛けることを主な機能としており、それを行うための転換カム軸と抵抗カム軸を搭載している。ブレーキ抵抗制御の段数は22段であり、カム接触器の数を減らすため、逆転、力行、ブレーキ切替用のカム接触器の一部に双頭カム SR38 を採用している。重量は940 kgである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "力行制御は0系の低圧タップ制御に替えて、架線からの交流25 kVを主変圧器の二次巻線を分割し、それぞれにサイリスタとダイオードで構成されるブリッジ(整流回路)を取付けて分割構成としたサイリスタ・ダイオード混合ブリッジとし、それにより整流・制御された直流電源で主電動機を駆動するサイリスタ位相制御が採用されている。これは200系とほぼ同等の制御方式である。主シリコン制御整流装置はさらなる軽量化とコスト削減を図った RS203 を搭載する。素子の耐圧を200系の2,500 Vから4,000 Vまで上昇させ、二次巻線の分割を200系では不等6分割だったのが100系では等4分割にしてブリッジの数を減らし、素子数の削減と軽量化(200系:RS202重量比62 %)とコスト削減を図っている。また、整流ユニットを車側からも取り出せるように工夫されており、整備性の向上が図られている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "主変圧器は外鉄形強制風冷式の TM203 を採用する。定格容量は2,500 kVAの容量を備えるが、二次巻線側(主回路)の利用率を勘案し、一次巻線容量は二次巻線と三次巻線(補機類)の容量和よりも小さくなっており、鉄心の磁束密度を4 %増加させている。シリコーン油とポリアミド絶縁物を主体とする特別A種絶縁の採用、付属品の改良を行うことで、TM201A(0系)と比べて容量で152 %の増加を達成しつつ、総重量は76 %に削減されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "補助電源装置には静止形インバータSC202が採用され、電動発電機と比べてカーボンブラシの交換などの検査の省力化を図っている。補助変圧器、定電圧装置、整流装置で構成されており、主変圧器の三次巻線(単相交流440 V・60 Hz)を電源とする。供給する電源としては、温水器などで使用される低圧交流電源交流100 V、冷水機や汚物処理装置などで使用される低圧安定化交流電源交流100 V、セクション通過時の停電を防ぐために使用される無停電交流安定化電源交流100 V、制御・ブレーキ電源、蛍光灯などで使用されている直流100 Vの4種類がある。加えて、東京方先頭車ボンネット内にインバータ SC18 を備え、直流100 Vを交流100 V・60 Hzに変換する。停電時には、一部交流機器に電源供給を行う。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "電動空気圧縮機は MH1091-TC2000 を搭載する。圧縮機部 TC2000 は水平対向4気筒を有する往復単動二段式で1分間定格出力2,063 Lであり、全閉自冷式であるかご形単相誘導電動機 MH1091 は主変圧器の三次巻線である単相交流440 V・60 Hzで駆動される。0系16両編成では1,000 L級を8基搭載していたが、騒音源の減少とコスト削減を進めるために1基当たり吐出し量を倍増させ、編成中の搭載台数を半減させた。空気圧縮機の大容量化を進めることは騒音増大につながるが、騒音対策を施すことで低騒音化を達成している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "機器冷却用の電動送風機は主変圧器の三次巻線を電源とした主整流装置用 MH1092-FK156 と主変圧器用 MH1093-FK157 を搭載する。0系では主整流装置・主変圧器共用で1台の電動送風機が搭載されていたが、個別に設計した電動送風機を使用することで小型軽量化を図った。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主電動機は直流直巻式の MT202 を電動車両1両あたり4基搭載している。0系に比べて編成中の電動車数が減少すること、起動時の引張力を増大させて加速性能を向上させたことから、0系に比べて高出力(連続定格出力230 kW)となった。端子電圧は625 V、定格回転数は2,900 rpmに増強され、重量は825 kgである。構造的特徴として、他力通風方式の採用で鉄心長を増加させて出力向上を図り、H種絶縁の採用や冷却用排風覆いの簡素化で軽量化が図られるとともに、長尺ブラシを使用してブラシ摩耗代を長くし、軸受構造に第2グリース室を設けて潤滑寿命を長くして、無保守走行距離の延長を図っている点 は MT201(200系)と同じである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "電動車台車はDT202、付随車台車はTR7000と呼称され(いずれもJR西日本の場合は頭に「W」を付す)、0系のDT200と同じくIS式軸箱支持装置、枕バネを採用している。コスト削減のため、DT202とTR7000の台車枠は共通のものが用いられ、車輪径は910 mm、輪距は2,500 mm、重量は9,800 kg(DT202)9,225 kg(TR7000)となっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "230 km/h - 260 km/hでの乗り心地向上を目指し、DT200と比較して、左右の振動の減衰に関係してくる空気ばねの横剛性は1.33倍、左右動ダンパー減衰係数も1.5倍となっている。また、踏面形状を1/40勾配から円弧踏面に変更し、軸箱の強度もDT200の2倍とすることで、フランジの磨耗を防いでいる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "システムとしては200系と同様、制御応答性に優れる発電ブレーキ併用電気指令式空気ブレーキ方式を採用する。高速域からの減速は、抵抗器を使用した発電ブレーキを用い、制動力が不足する場合には空気ブレーキによる補足が入る。速度が25 km/h以下になると、発電ブレーキから空気ブレーキに完全に切り替えられる。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "新幹線で初めて設定された付随車のブレーキには、渦電流ブレーキ(ECB)を各車軸あたり2台設置する。コイルの励磁電流は、隣接するM車から供給されている。以降製造された東海道・山陽新幹線の新幹線車両のうち300系と700系の付随車に採用された。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "集電装置は0系から引き続き下枠交差型パンタグラフが採用された。PS202と呼称される。基本構造は 0系のPS200Aと同一であるが、200系のPS201と同様に集電舟(架線と接触する部分)を三元系ばね機構を採用して可動式となった微動すり板を採用したことにより架線追従性が向上し、0系に比べて離線率が20 %減少された。また、パンタグラフ半減に対応し、走行時に立ち上がることを防ぐためにかぎ装着部を二重ロックとしている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "当初は各電動車ユニットごと、16両編成で6基のパンタグラフを使用していたが、1991年3月の東海道新幹線のAT饋電化により3基に半減された。これは天井に這わせた高圧ケーブルによる特高圧引き通しを実施し、パンタグラフのないユニットへの主電動機への電力供給も可能になったため、この方法は以降新製される新幹線全車両に採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "列車無線装置はバージョンアップされ、本系列では0系で使用していたVHFによる方式に代わり、線路のそばに敷設された漏洩同軸ケーブル (LCX) に流れた情報を先頭車(1号車)の足元に設置されたアンテナが受信して通信をやり取りする方式を採用。東海道区間ではJR化後の1989年3月から、山陽区間では2000年3月から岡山まで、2004年3月から全線で本格運用を始めた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東海道新幹線の利用客は1976年をピークに減少傾向をたどり、列車の削減が行われた。そのような経緯から、100系では客室(サービス面)を中心としたモデルチェンジが指向された。そしてより明るく快適な新幹線として、話題性を高めイメージアップを図るべく、新幹線としてはじめて2階建て車両が組み込まれた。またコスト削減の観点から、0系の全電動車構成を改め付随車を導入することになった影響の副産物という側面もある。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "基本的に階上は、車窓が良いことや乗客の通り抜けがないことからグリーン席や食堂、階下は普通車指定席、カフェテリアもしくは個室が設定された。詳細は#各編成の概要を参照。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "客席部分を最大限使用するため、電動機などの機器を搭載することができず付随車となった。また、空調設備は1階機器室に搭載された室内機と屋根上の室外機を分離したセパレート方式とし、客室内には空調用のラインフローが設けられ、グリーン席にはスポット空調を採用している。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2階建て車両は、平屋車両との段差が大きくなるために空気抵抗が増加することや車体重心が高くなることから、車高はできるだけ低い方が望ましい。しかし、2階建て車両投入によるイメージアップも重要なテーマであることから床面をレール面上200 mmまで下げ、屋根高さを平屋車両と比べて500 mm高い位置の4490 mmまで持ってくるなど、車両限界を有効利用して設計されており、それにより各階の天井高さを1945 mmとし、十分な高さを確保している。V編成「グランドひかり」の場合、室内高さは、1階部分が1982 mm、2階部分が1986 mmとなっている。なお、車体重心をできるだけ下げるため、1階部分の車体構造が強化され、厚い鋼板が張られている。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "東海道・山陽新幹線区間では、300系以降で車両軸重を11.4 t以下にすることを目標に設定したことや定員の相違による互換性の面での支障、速度向上のために車両の軽量化や走行抵抗の軽減が求められた結果、2階建て車両の新造はされていない。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "16両編成の中央に連結された2階建て車両のうち、8号車にはカフェテリアもしくは食堂といった供食設備が置かれた。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "東京駅 - 博多駅間の長距離運用向けに製造されたX・V編成には8号車の1階に厨房・売店と通路が、見晴らしの良い2階には食堂が設置された。なお、現場のコックの要望で、厨房内に客室入口を映し出すTVモニターを設置している。X編成とV編成では、車両外観は同じだったが、内装は全く違った。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "X編成は、食堂出入り階段付近に設置された東海道・山陽本線を駆け抜けた代表列車のエッチングによる装飾が大きな特徴である。このエッチングは、元国鉄の黒岩保美が製作したものである。この中には100系もあるが、9000番台(X1編成)では小窓で描かれていた100系は、0番台(X2 - X7編成)では大窓で描かれている。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "V編成は、入り口付近の装飾や壁面に大きな飾り花が設置されたのが特徴である。1階の厨房から料理を2階に運ぶために料理用エレベータが設置された。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "G編成は、グリーン席の増加と短距離運用中心のため、8号車の2階席をグリーン席にあて、1階部分にカフェテリアを設置した。山側に通路が、海側にショーケースと簡易厨房が設けられていた。製造次によって、床模様や柱の本数・デザインが異なっている。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "食堂車の営業は2000年3月10日で終了したが、その後も食堂車自体は連結されたままだった。カフェテリアの営業は100系による定期「ひかり」運用が消滅した2003年8月22日まで続けられた。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "9号車の階下(1階部分)と、X1編成の10号車(1986年まで。こちらは2階建て車両ではない)にはグリーン個室が設置され、1〜4人用の4タイプ(10号車の個室を含めれば6タイプ)の個室が存在した。詳細は#各編成の概要を参照。", "title": "2階建て車両" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "基本的に電動車は奇数形式と偶数形式でペアを組んでMM'ユニットを構成し、16両編成の場合は6組のMM'ユニットと4両のT車(X・G編成は1・8・9・16号車、V編成は7・8・9・10号車)で、6両および4両編成の場合はすべてMM'ユニットで組成される。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "番台としては、試作編成でもあったX0(後にX1編成に改造)編成は9000番台、それ以外のX・G編成は0番台を、V編成とK・P編成の中間車は3000番台を、K・P編成の先頭車は5000番台を名乗る。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1985年から1987年に落成した100系初の編成。先頭車と2階建車両各2両の計4両が付随車である。2階建車両は8号車と9号車に組み込まれ、8号車は食堂車、9号車は階上がグリーン車・階下がグリーン個室(1人用5室、2人用3室、3人用1室)である。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "試作車である9000番台X0編成(1985年3月27日落成・1986年8月から10月にかけて量産化改造を実施し、X1に改番)は、量産車とは以下にあげる違いが見られた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1985年3月27日に公式試運転を東京駅 - 三島駅間で行った。その後、直ちに営業運転に使用せず、4月には東京駅 - 博多駅間で営業速度での試験を実施した。さらに、9月まで速度向上試験を実施し米原駅 - 京都駅間で230 km/hを、小郡駅(現・新山口駅) - 新下関駅間で260 km/hを記録した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1985年10月1日から「ひかり3号」(東京8:00発博多行き)と折り返し「ひかり28号」(博多15:45発東京行き)の1往復(いずれもWひかり。ただし後者は基本停車駅に小郡駅を追加)で営業運転を開始した。食堂車の担当は日本食堂。当日は、営業運転開始に当たって東京駅で出発式が行われた。ただし、1編成しか在籍していなかったため、検査日は0系が代走した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお、当編成は0系37・38次車よりも先に落成している。反対に、100系の最終増備編成であるG46編成は300系の量産車第1号であるJ2編成より後に落成したが、G46編成の方が先に廃車になった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1986年落成の量産車である1次車(4編成48両)は2階建車両のない12両編成(暫定G編成・G1 - G4)として搬入され、6月13日から東京 - 新大阪間の「こだま」12本(下り7本・上り5本)に運用された。これは、100系が既に登場した当時、「こだま」用車両の置き換えとして0系を製造するのも今更どうかということになったためである。車椅子対応設備・多目的室は「ひかり」用編成が11号車なのに対して、「こだま」用編成ということで0系12両編成と同じ5号車となった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "12両G編成は、2次車(中間車のみ・12両)が組込まれて16両編成化され、編成番号をX2 - X5に変更した。11月からは「ひかり」として営業運転を開始した。同時に、最高速度が220 km/hに向上された。分割民営化直前の1987年3月に3次車2本 (X6・X7編成)が落成され、X編成の増備は終了した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "分割民営化時にJR西日本にX6編成とX7編成を継承する案もあったが、結果X1 - X7の全編成がJR東海に承継された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に運用されており、運用によっては1日の走行距離が2,500 km以上にも達し、7編成しかないことから0系H編成のように走行距離を平滑化するのは難しく、検査周期も他の編成に比べて極端に短かった。1998年10月2日の「ひかり126号」(新大阪発東京行き:X1編成)を最後にX編成の食堂車営業と「ひかり」運用が終了し、以降は東海道区間の「こだま」のみとなった。総走行距離が車齢に比して多かったことから、0系YK編成の撤退半月後である1999年10月1日の「こだま429号」(東京発新大阪行き:X1編成)を最後に定期列車の運用から離脱した。K・P編成へは転用されず、同年8月から2000年11月にかけて全車が廃車となった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1987年から1992年までに落成した編成で、製造当初はJR東海のみ所有していた。「100'(ダッシュ)系」とも呼称される。車両番号のハイフン以下の数字はX編成からの通し番号だった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "X編成と同じく先頭車と8号車と9号車に組み込まれる2階建車両各2両が付随車である。2階建車両のうち9号車はX編成と同じくグリーン車とグリーン個室であるが、「ひかり」の利用客が増加傾向にあったことや東京駅 - 新大阪駅間で重点的に運用することを念頭におき、0系と比べて個室を除いたグリーン車定員が少ない ことから、8号車については食堂車の設定をやめ、階上にグリーン車・階下にカフェテリアを設け、グリーン車の定員を増やした。16両1編成の製造価格は31億円とされており、後継車両である300系と比べると2 - 3割小さい。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1編成に対して1社が製造を担当したが、技術力の向上とコスト削減を目的として、6両(G30・G37・G50編成の12・13号車)が浜松工場で製造された。車両製造のため、浜松工場の従業員22名が日本車輌製造豊川製作所で8か月もしくは10か月の間研修を受けている。なお、該当編成の残り14両は豊川製作所が担当した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "G編成としての最初の編成であるが、X編成から連続して扱われたため4次車となっている。山陽新幹線博多開業用として増備された0系16・17次車置き換え用として、1988年2月から3月にかけて3編成48両(G1 - G3編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "新製時、8号車が食堂車(168形)からカフェテリア・グリーン合造車(148形)に変更された以外はX編成と同様であった。1989年1月から2月にかけて、5次車以降と個室配置を統一するための工事(1人用2室を4人用1室に変更)を実施した。それに伴い、車両番号の変更が行われた(149-7, 8, 9 → 149-101, 102, 103)。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "山陽新幹線博多開業用として増備された0系16 - 20次車置き換え用として、1988年12月から1989年3月にかけて12編成192両(G4 - G15編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "落成時から個室配置が、1人用3室、2人用3室、3人用・4人用各1室となっている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "0系16 - 20次車置き換え用として、6次車として1989年4月から9月にかけて5編成80両(G16 - G20編成)が、7次車として1989年7月から1990年3月にかけて11編成176両(G21 - G31編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "普通車座席に足掛けとバケット形状の座席が採用され、カフェテリア通路部分のポールの本数が5本から4本に減らされている。また、東海道区間のATき電化への準備としてパンタカバー設置と特高圧引き通し準備工事が施された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "0系16 - 20次車置き換え用として、1990年4月から1991年2月にかけて10編成160両(G32 - G41編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "視認性を向上させるため、電光掲示板の文字の拡大と行先表示器への蛍光灯内蔵、2・3人用個室のデザイン変更が行われた。このため、電光掲示板の時計と距離表示は省略された。電光掲示板の改良は既存編成には行われていない。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "「ひかり」運用の増加に対応するため、9次車として1991年1月から3月にかけて4編成64両(G42 - G45編成)が、10次車として1991年5月から1992年2月にかけて5編成80両(G46 - G50編成)が落成した。1992年2月26日落成のG46編成が100系の最終増備編成である。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "落成時から特高圧引き通しの実施と集電装置の削減(2・6・12号車のみ搭載)、集電装置すり板の改良(すり板幅を25 mmから40 mmに拡大)が行われた。既存編成には追工事の形で対応がなされた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1988年3月13日改正で、東京駅 – 新大阪駅間3往復の「ひかり」で運転を開始。当初は東京駅 - 新大阪駅間の「ひかり」のみ使われていたが、増備が進むにつれて運転区間が拡大し、1989年3月11日改正で広島駅まで、1993年3月18日改正で博多駅まで運転区間を拡大した。それでも、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」はX編成やV編成などを使用していたことからG編成が使用されることは少なかったが、X編成が「こだま」へ転用された後は本数が増えた。一方では300系の増備と0系の廃車が進んだために1995年ごろから「こだま」にも充当されるようになっていた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2003年9月16日の「ひかり309号」(東京発新大阪行き:G49編成)を最後に東海道新幹線での運用から離脱、2004年3月1日のG50編成の廃車を最後にJR東海所属のG編成は消滅した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "山陽新幹線においては、2003年9月15日の「ひかり556号」(博多発新大阪行き:G2編成)を最後に16両編成の営業運転を終了する予定であったが、2004年1月22日に代替編成として使用され、「こだま651号」(岡山発博多行き:G7編成)が最後の営業列車であった。2004年3月30日にG7編成が廃車となったことでG編成は消滅した。これによって16両編成の100系も消滅した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1996年にG1 - G3・G6の4本、1997年にG4・G5・G7の3本、7編成の計112両がJR西日本へ譲渡された。当時JR西日本保有の16両編成のほとんどは0系で、走行距離精算のために東京直通「ひかり」にもJR西日本保有の0系を充てる状況であった。しかし、それでは0系の運転曲線を基準にしたダイヤを組まなくてはならないため、これを問題視したJR東海がJR西日本に譲渡したものである。また、JR西日本も阪神・淡路大震災で山陽区間に閉じ込めとなったG編成の検査経験があることから譲渡が実現した。JR西日本に譲渡されたG1 - G7編成は、0系のNH編成の運用をそのまま置き換えたため、運輸上の区別では「N編成」と称されていた。譲渡後は東海道直通だけでなく、車両の東海道新幹線内への送り込みと博多総合車両所への返しを兼ねて山陽区間のみの「ひかり」にも使用された。そのG編成のうち、1999年11月9日付けでG6編成の9両、2000年2月7日付けでG2編成の3両、同年3月27日付けでG6編成の1両 が廃車となり、残った車両で新G2編成を組成した。なお、このとき組成から外れたG6編成の3両 は保留車となり、K・P編成組成時に使用された。なおこの後もJR西日本は700系でJR東海から16両編成の譲渡を受けている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2000年以降、JR西日本が所有することとなった「こだま」用のK・P編成を製作する際に必要な先頭車(121形・122形)と車椅子スペース設置車(125形3700番台)が不足するため、JR東海所有のG編成のうちG9・G10・G15・G19・G30・G43編成 が、8両に減車(1/2/11/12/13/14/15/16号車)されて浜松工場から博多総合車両所まで自力回送された。回送された車両のうち、両先頭車(123形・124形)と車椅子スペース設置車(125形700番台)がJR西日本に譲渡され、譲渡されなかった車両は博多総合車両所で廃車・解体された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "JR西日本が1989年から1991年にかけて製造した。投入当初より各所で100N系と呼称され、「グランドひかり」の愛称を持つ。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "JR西日本が新設計した車両のため、鉄道事業法に基づき新たに運輸省に車両確認申請書を提出している。このため書類上国鉄・JR東海100系とは別形式である。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "山陽新幹線のシェア拡大を図るために到達時分短縮とアコモデーションの改善を中心に設計・投入されており、X・G編成とは異なる点が多い。また当初は国鉄・JR東海100系と先頭形状を変える案もあったが、結果的に同様の先頭形状に落ち着いている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "V編成による将来の270 km/h運転を見据え、270 km/hが可能な走行性能が与えられた。具体的には、", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また、山陽新幹線区間230 km/h走行を行うため、ATCの220信号を230に読み替えるトランスポンダ車上子を搭載する。通常のATC信号はATC受電器が受信するが、220信号の時のみ、トランスポンダ地上子が230 km/h走行を許可するか否かの信号に変換してトランスポンダ車上子に送信する。 環境対策として230 km/h走行時の騒音レベルを0系220 km/h走行時の騒音レベル以下に抑えるため、2階建て車両を重点的に以下の騒音対策が行われた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "将来さらなる新型車が登場した際に短編成化して運用することを見据え、先頭車を制御電動車とした。それに伴い付随車は2階建車両4両(7 - 10号車)に充てた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "7・9・10号車の3両のうち、階上はX・G編成と共通のグリーン席とした。一般客の通り抜けをなくして静かな環境を提供し、座席ごとに液晶モニターが設置され、山陽区間ではビデオソフトの視聴ができた。階下は普通車指定席でありながら、横4列配置のゆったりとしたサイズの座席(WRK206形)が配置されており、この配置はその後の山陽新幹線向け車両でも踏襲されることとなる。7号車にはビデオスクリーンが、9・10号車には28インチのモニタディスプレイが設置され、ビデオの視聴ができた。東京駅 - 博多駅間の長距離を運転することが基本であったため、8号車は食堂車とされたが、内装は大きく変更され、階下の売店は面積が2倍に拡大された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "非常連結器の下に、空気取り入れ口が設けられた。これは、先頭車が電動車となったため、主電動機を冷却するものである。中間電動車は床下から冷却風を取り入れていたが、制御車では排障器(スカート)があり、走行風を取り込みにくいため、この部分から取り入れることになった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "出入口付近に設置してある行先表示器を字幕式から3色LED式に変更し、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。これは、JR西日本で新製投入された300系以外の全新幹線車両 に採用されている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1989年2月から3月にかけて2編成32両(V1・V2編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "V1編成が270 km/h走行対応編成、V2編成は270 km/h走行準備工事編成である。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2次車として1989年6月に1編成16両(V3編成)が、3次車として1989年12月に1編成16両(V4編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1990年7月から12月にかけて2編成32両(V5・V6編成)が、5次車として1991年2月に1編成16両(V7編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "グリーン席に新たに5インチの液晶テレビが搭載される。既存編成にも追工事の形で行われている。また、大便器の構成が和式便所2か所から洋式便所1か所+和式便所1か所に改められ、洗面所の内装が変更されている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "6次車として1991年7月から12月にかけて2編成32両(V8・V9編成)が落成した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "東海道新幹線のAT饋電化完了後に落成したため、落成時から集電装置の削減(4・6・12・14号車のみ搭載で、6号車のものは予備扱い。)が行われている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1989年3月11日改正から「ひかり」で運用を開始した。主に朝に山陽新幹線エリアを出発し午後に東京駅に到着する列車、夕方に東京駅を出発し山陽新幹線エリアに到着する列車に運用した。最盛期には1日16本(うち東京 - 博多間運転は13本)を運転していた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "その後1993年3月18日ダイヤ改正で300系「のぞみ」が1時間1本で運転するようになると需要の減少に伴い100N系の博多乗り入れを順次削減、主に東京 - 広島間の運転に短縮した。その後2000年3月10日をもって食堂車の営業は休止、山陽新幹線博多開業前年の1974年から始まった新幹線食堂車の歴史は終了した。その後、700系7000番台の増備により順次置き換えられ、2002年5月18日で定期列車の運用を終了。同年11月23日の「ひかり563号」(新大阪発博多行き:V2編成)の運転をもって営業運転から離脱した。そして11月25日にV2編成が編成名削除となり、V編成が消滅した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "運用は東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に使われ、東海道新幹線内運行の「こだま」には最後まで使われなかった。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "経年が20年 と老朽化が進行していた「こだま」用0系R編成の大半とQ編成を置き換えるため、長距離運用から離脱した100N系(V編成)に2000年から2005年にかけて短編成化・車両延命工事を実施したものである。なお改造元は100N系であるが、短編成化したK編成・P編成を100N系として記述することはなく、100系の一種として扱われている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "全車がJR西日本に所属し、6両編成はK編成、4両編成はP編成と呼称される。P編成は2000年から2001年と2003年から2005年に、K編成は2002年から2003年に組成されている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "P編成は2000年10月4日(P1編成)から、K編成は2002年2月12日(K51編成)から 営業運転に充当されている。全車普通車で構成されている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "前述のとおり、P編成は2011年3月12日のダイヤ改正で運用離脱した。同年6月8日付のP7編成の廃車をもって、P編成は消滅した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "100N系(V編成)のうち付随車の2階建車両を外し、平屋の電動車108両全てを対象に行った。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "16両編成では10号車(116形もしくは178形)に車掌室が設置されていたが、短編成化によってグリーン車と2階建て車両が編成から排除された結果、新たに車掌室を設置する必要が生じたため、P編成は両先頭車乗務員室出入り台に案内用設備を取り付け、K編成は4号車に車掌室を設置した。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "短編成化において、V編成の車両だけでは先頭車(121・122形)と車椅子対応設備設置車(125形3700番台/3号車に組み込み)が不足するため、G編成車体を接合した改造車両(121・122形5050番台、125形3750番台)がK52・K55・K57・K60・P3 - P5・P7 - P12編成の計13本26両に組み込まれる。この改造車両は車両番号の下2桁が50番台で区別されている。なおこの先頭車改造に用いたG編成は既にJR西日本に移籍していた7編成のほか、JR東海で廃車となった6編成を譲り受けている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "V編成では東京方先頭車(16号車・122形)のパンタグラフは撤去されていたが、K・P編成組成時に再設置され、2・6号車(K編成)2・4号車(P編成)に搭載し、高圧引き通し線も設置されている。また先頭車が電動車であることから、元G編成先頭車に対してもV編成同様に非常連結器の下に主電動機冷却用の空気取り入れ口が設けられている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "V編成の先頭車には230 km/h走行用トランスポンダ車上子を搭載していたが、G編成を元車とする先頭車には設置がなかったため、車両性能を合わせるために短編成化改造時にトランスポンダ車上子を撤去している。これにより最高速度は220 km/hとなっていた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "短編成化改造において新たに発生した番台区分は以下に記す。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "最終的にV編成の電動車108両のうち、102両がK・P編成に改造された。残りの6両はG編成(西日本車)から改造したため、改造から漏れた以下の6両は2004年度末までに廃車・解体された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "125-3001(元V1編成)2003年5月21日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "125-3803(元V3編成)2003年11月9日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "125-3804(元V4編成)2003年11月9日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "125-3802(元V2編成)2004年6月7日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "125-3010(元V4編成)2004年10月29日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "125-3004(元V2編成)2005年3月22日廃車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "P1 - P3編成は当初、V編成普通車の2列+3列のものを流用していたが、K編成とP4 - P12編成は登場当初から2列+2列の座席を使用していた。これには、0系「ウエストひかり」普通席仕様の座席、100系G・V編成のグリーン席、100系V編成2階建て車両1階席の4種類を再利用している。元グリーン席にはフットレストなどの付帯設備を取り外して普通席と同じシートピッチにする方法で、「ひかりレールスター」の指定席並みの座席にグレードアップした普通車として改造された。ウエストひかりからの流用車の一部(肘掛けのやや大きいもの)は肘掛内蔵テーブルが存置されている。一方、グリーン車から流用した座席では、背面テーブルのある座席は肘掛内蔵テーブルが撤去されているが、背面テーブルのない座席では肘掛内蔵テーブルが存置されている。後に全編成が前述の2列+2列シートに交換された。なお、座席の変更に伴う車両番号の改番はされていない。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "元ウエストひかり普通車と元V編成DD1階席はシート自体の形が酷似しているが、シートの足の部分(箱型のものが元V編成1階席のもの、そうでないものが元ウエストひかり普通車)で区別ができる。ただし、3号車の車椅子対応の1人掛け座席は、K編成とP7 - P12編成には元V編成、それ以外の編成は元ウエストひかり用のものに車椅子固定用金具が装着された物が設置されている。モケットの色は奇数車両が赤系、偶数車両が青系に統一されている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "奇数号車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "偶数号車", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "客室扉は、種車が2列+3列の座席配置であったため座席の配置とずれているが、車椅子対応設備が設置されている3号車新大阪方と車掌室を挿入したK編成4号車博多方の扉は車両の中心にあるため、座席とのずれはない。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "登場当初のK51 - K53・P1 - P6編成は従来の白地に青帯を配したものであった。2002年8月に出場したK54編成からは、「こだま」のアコモデーション改善(2列+2列座席化)を認知しやすいように塗装が変更された。「新緑や若草など新たな誕生の息吹」をイメージして、ライトグレー■を基調に、窓部分にフレッシュグリーン■とダークグレー■の帯を配した。スカートも濃いグレーに、車内のカラースキームもシルバー系に変更した。この塗装変更に伴い、車両側面に配されていた大型のJRマークが撤去され、車両番号横の小さいJRマークに変更された。従来塗装車も全検時に塗り替えられた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2009年4月以降、デッキにある車両案内板が新型に交換されている。従来のものは0系R・WR編成と共通であったが、案内板上部に「100系6両編成」もしくは「100系4両編成」と書かれた、500系V編成と同等のものに変更された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2010年7月2日、K編成のうち3編成を旧塗色(白地に青帯)に戻すことを発表した。6月から塗り替え作業が行われ、7月15日にK53編成が、8月にはK54編成が、9月にはK55編成が旧塗色に変更され、営業運転についている。なお、塗色変更1本目であるK53編成は、新塗色であったK54編成と並べられて、7月12日に博多総合車両所で公開された。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "P編成は信号システムの都合上新大阪駅に入線できないため、博多駅 - 岡山駅(以前は姫路駅)間の限定運用とされていた。姫路駅および相生駅にはP編成が停車していた名残として4両編成用の停止標識が現在も残っている。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "P2編成は、かつての訓練車であった0系元Q3編成に代わり、2009年2月8日未明に新下関乗務員訓練センターに訓練車として自力回送された。翌日の2月9日付けで廃車扱いとなり、以降は車籍のない訓練用機械として乗務員の訓練に供用されていたが、2013年4月に訓練内容が車両の運転からシミュレーションに切り替わるため、同年3月末をもって訓練車としての役目を終えた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "お召し列車としては1986年(昭和61年)5月以降は100系が使われた。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "100系に特別な装飾がされないのは、運行責任者である国鉄やJRおよび警備側が無線連絡をとることで通常の列車とお召し列車の区別がつくようになったためである。新型車両として300系や500系、700系が主流となってもしばらくの間は100系が使われていた。これは、100系にある個室や2階建てグリーン車の方が警備上都合が良い(1階に警備員を配置できるので同じ車両で警備することができる)ためである。", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "※各年4月1日現在", "title": "各編成の概要" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "V編成完成前の1988年10月、JR西日本がJR東海所属のX7編成を借用しトランスポンダ車上子を仮設し確認試験を行った。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "この際に先頭車の主電動機が十分に冷却できないことが発覚したため、100N系では空気取り込み口としてパンチング穴を空けている。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "なおグランドひかり登場時のポスターは、パンチング穴を空ける前の100N系を使用している。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "1990年から高速試験が実施される。ライバルである航空機に対抗するため、新大阪駅 - 博多駅間を2時間30分前後で結ぶことを念頭に目標速度は275 km/hに設定された。「We try 275」とマーキングされ、騒音源となるパンタグラフを6個から3個に減らしたV編成は、同年2月10日に277.2 km/hを達成した。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "しかし、試験走行の結果、255 km/h付近から騒音が急激に増加し、275 km/hでは騒音値が環境基準 をクリアできなかったため、また、ATCに速度段を追加するほどの時間短縮効果が得られないことから、最高速度は230 km/hのまま営業運転が続けられた。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "100系は、300系から採用されているボルスタレス台車の試験車としても活躍した。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "試作台車として製作されたDT9023A, B, C, D, E, Fの6種類が試験で使用された。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "A, Bは0系用ボルスタレス試作台車のDT9022の改良版で1985年に製作された。同年に925形に搭載されて270 km/h試験、翌1986年にX編成での210 km/h走行試験が実施され、100系用のDT202よりも乗り心地の改善と横圧の減少が確認された。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "C, Dが乗り心地の改良版で輪軸、駆動装置、軸箱支持装置をA, Bから流用している。1987年に製作され、翌1988年から100系に搭載されて営業運転で使用、30万kmの走行を行った。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "E, Fは1989年に製作された300系仕様のプロトタイプであった。220 km/hでの走行試験を実施後、C, Dと同じく営業運転での30万kmの走行を行った。1991年にはV編成を使用して275 km/hでの走行試験を行った。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "軸箱支持方式は、主にJR東海が「円錐積層ゴム式」と「円筒積層ゴムコイルばね併用式」を、JR西日本がV編成を使用して「軸はり式」を試験走行を実施した。「円錐積層ゴムコイルばね併用式」が300系、700系(JR東海保有分)、N700系(16両編成)に、「軸はり式」が500系、700系(JR西日本保有分)、N700系(8両編成)に採用された。", "title": "試験走行" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "1986年12月15日、博多発東京行き「ひかり12号」で発生した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "岡山駅発車後、ブレーキ装置の故障によりブレーキが緩まなくなったため相生で運転を打ち切り、大阪第一運転所に回送した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "この際に翌日の運用に同編成を充当するため、故障した2両を編成から外し東京に回送、翌16日に14両編成で営業運転を行った。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "1991年9月30日、東京発新大阪行き最終列車となる「ひかり291号」で発生した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "東京駅を発車して300 m地点で、運転台に車輪固着を知らせる警報が作動。15号車新大阪方の台車のうち、東京方の車軸が固着していた。21時00分に東京を発車して、21時25分に浜松町駅付近を通過するまでに計8回もの警報が鳴ったにもかかわらず警報のリセットを繰り返し、車輪が固着したまま三島駅(東京から約100 km)まで走行した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "浜松町駅で8回目の警報が作動した後、運転士はCTCセンターの指令員に停止する旨を伝えると、指令員は運転継続を指示した。運転士は、新横浜駅の駅員と、付近の上り新幹線の運転士に床下から火花が出ているかどうか確認してほしいと連絡を入れた。そして、固着が起きている15号車の床下から火花が出ていることが確認されたため、運転士は指令員に列車の停止を伝えると、指令員からは運転継続が指示された。「ひかり291号」が新大阪行きの最終列車であったことや、三島駅なら、隣接する三島車両所から予備の編成を用意し、故障した編成を引き込んで点検も出来るためである。さらに、定刻から20分遅れであったため、上限速度ギリギリ(ATCの頭打ち速度である225 km/h)での運行も指示された。そのため、東京駅基準で41 km地点と78 km地点(いずれも新横浜駅〜小田原駅間)の計2度、ATCブレーキがかかっているが、その時も指令員は運転継続を指示していた。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "三島駅に到着後、車両を交換して全体を検査したところ、前述の15号車の新大阪方から2番目の車輪が長さ30 cm、深さ3 cmにわたって削られ、2つの車輪をあわせて約6 kgもの金属が消滅していた。また、車輪が削られたことでフランジ部分が下がり、ATC信号を流すレールボンドが損傷した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "その後の調査で、このトラブルの原因は車軸の駆動用モータ脇に設置されている駆動装置が、油が漏れたことによって破損したために車輪が固着したものであることがわかった。該当列車に充当された編成は、1991年7月2日実施の台車検査時に油を交換したが2日後には油が完全に抜けてしまっていた。故障前日の仕業検査時にも3 Lの油漏れが見つかったため、不足分を補給するために給油栓を開けると油が霧状になって噴出した。歯車箱内が異常な高温状態になっていたためと考えられる。なお、通常の補給量は0.5 L程度である。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "従来の点検マニュアルでは、車輪固着の警報が作動したときには、ブレーキの固着と車軸の過熱による「軸焼け」の点検が定められているが、車軸の固着の点検については記載がなかった。この事故後、JR東海は点検マニュアルに「列車を車転2回転分だけゆっくりと動かし、車輪の回転状態を確認する」という項目を追加した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "なお、1992年6月15日に100系V3編成11号車 の博多方の車軸付近から大量の油漏れが発見された。軸受に使用していたベアリングが異常磨耗を起こして脱落していたことが原因であったが、前述の1991年9月30日に車輪固着を起こした車両のベアリングと同種類のものを使用していたため、その事故原因もベアリング破損による油漏れである。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "2007年9月にK54編成 の鉄製骨組みやステンレス製屋根から、2009年6月にもK53編成2号車の鉄製骨組みからひびが発見されるなど、老朽化によるものとみられるトラブルが発生した。", "title": "車両不具合" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "1985年10月1日から、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」1往復(X0編成)で営業運転を開始した。X編成の量産車は1986年夏から「こだま」で順次営業を開始し、同年11月のダイヤ改正から食堂車を組み込んだフル編成となり、順次運用列車が増やされた。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "国鉄分割民営化後の1988年3月13日からは、食堂車に代わってカフェテリアを組み込んだG編成が、東京 - 新大阪駅間の「ひかり」3往復で運用を開始した。1989年3月11日からは、食堂車を含む2階建て車両を4両組み込んだV編成が、東京 - 博多間の「ひかり」4往復で運用を開始した。また、G編成が新大阪以西でも運用されるようになった。100系を「ひかり」運用に投入したことで、0系H・NH・N編成を淘汰した。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "1992年3月14日改正までに16両編成66本が揃った。その後300系が「ひかり」運用でも使用されるようになってからは「こだま」運用にシフトされ、東海道区間に残る0系を淘汰した。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "2000年10月1日改正では、JR東海所有のG編成が定期「ひかり」から撤退し、臨時「ひかり」と「こだま」で運用されるようになる。また、山陽区間で「こだま」として運転されるP編成(4両編成)が登場した。P編成の当初の運用区間は姫路駅 - 博多間であった。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "2003年8月22日の「ひかり179号」で定期「ひかり」運用から撤退した。同年9月16日の「ひかり309号」(G47編成)をもって100系は東海道新幹線から完全に撤退した。ただし、新大阪駅 - 鳥飼基地間の回送列車は2010年3月12日まで走行していた。2003年度中にJR東海所属の100系はすべて廃車になった。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "2003年10月1日改正以降、100系の定期運用は山陽区間における「こだま」のみとなった。K編成は新大阪 - 博多間で運用されるが、P編成の運用区間が岡山駅 - 博多間に縮小された。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "0系引退に伴う2008年12月1日のダイヤ修正以後、500系V編成の投入や「こだま」自体の減少によって一部編成に廃車が出ていたが、2011年3月12日改正で運用区間を岡山 - 博多間に縮小し、P編成は運用を離脱した。なお、鳥飼基地での夜間滞泊運用は2010年3月13日改正で消滅している。2011年12月1日にはさらに運用が縮小され、朝晩を中心に5本のみで運用された。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "最末期は山陽新幹線で運転される「こだま」と博多南線「特急」に充当されていた。具体的には、JTBパブリッシング発行の時刻表では「100系」、交通新聞社発行の場合は「6両編成グリーン車なし」、JR発行の無料時刻表の場合は、6両編成の列車のうち、全席禁煙でない列車に充当されていた。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "2012年3月14日をもって定期運用から離脱し、同月16日のさよなら運転「ひかり445号」(K55編成)をもって営業運転から撤退した。", "title": "運用の推移" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "のぞみ型車両と呼ばれる300系のほか、500系、700系が登場した1990年代には新幹線の高速化が進み、走行性能的に0系と大差ないレベルの100系は高速ダイヤに対応することができなくなった。また、山陽新幹線区間単独での運用の場合、16両編成では1編成当たりの輸送量が過剰なため、V編成を中心に短編成化が進められた。そのため、車両自体の寿命を迎える前に大量淘汰を受けることとなった。", "title": "東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "以下、2003年5月以降のG編成は運用離脱状況を記す。5月1日時点で15本(G1 - G5, G7, G24, G32, G36, G40, G42, G44, G46 - G50編成)が在籍しており、ひかり1往復(名古屋駅 - 博多駅間)、こだま11往復(東京駅 - 新大阪駅間4往復、東京駅 - 名古屋駅間6往復、名古屋駅 - 新大阪駅間1往復)に充当されていたが、300系に置き換わる形で徐々に運用が減少していった。", "title": "東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "2003年8月31日に東海道新幹線での定期運用を終了した100系が、同年9月13日・15日・16日の3日間、以下の臨時「ひかり」として東海道新幹線区間で運転された(始発駅出発時刻順)。", "title": "東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "当該列車には、さよなら運転初日の2003年9月13日時点で在籍していたG42, G44, G46, G47, G49, G50編成の中からG46, G47, G49, G50編成が準備され(各編成の車番についてはG編成の節を参照)、G47編成以外の4本が使用された。このうち16日の最終列車に使用されたG49編成は、先頭車と中間車の一部にさよなら100系の特別装飾が施された。また、G47編成は、G49編成の予備として先頭車のみに特別装飾が施され、東京第二車両所にて待機していた。", "title": "東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "東海道新幹線区間では2003年9月をもって運用終了した100系だが、山陽新幹線区間では短編成化されたK編成(6両編成)、P編成(4両編成)による「こだま」運用が続けられた。なお、いずれも2階建て車両は連結されずに運用された。しかし、前述の走行性能差の問題があることや、経年劣化が進行していることに加え、「のぞみ」のN700系化に伴い、余剰となった500系の8両化改造・「こだま」転用が2008年12月から行われ、さらに2011年3月12日の山陽・九州新幹線直通列車「みずほ」「さくら」 への専用車両となるN700系7000番台・8000番台投入により余剰となった700系7000番台を「こだま」で運用したことにより、運用は縮小した。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "P編成については2011年3月12日改正で運用離脱(上述)したが、残る100系K編成も2010年12月17日のプレスリリース で2011年度中に全廃する予定であることが発表された。2010年7月2日に、6両編成(K編成)3本を落成当時の白3号と青20号の車体塗装に復元することがJR西日本から発表された。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "2011年12月16日、この発表日の次のダイヤ改正日である2012年3月17日において、300系とともに運用終了となることが発表された。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "2012年3月14日のこだま766号をもって定期運用を終了し、3月16日に最終列車として臨時列車のひかり445号(岡山→博多)が運行され、100系の運用がすべて終了した。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "定期運転終了後の2012年3月16日にさよなら運転が実施された。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "車内放送用メロディーが2003年9月まで使用されていたものに戻され、岡山 - 広島間で記念乗車券の配布が行われた。また、岡山では同日に行われた300系さよなら運転「のぞみ609号」と並ぶ演出がなされた。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "このさよなら運転では万が一運行不能になった際に備え、K54編成が岡山支所に待機していた。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "2013年4月1日時点ではK54編成6号車の122-5003のみが車籍を有しており、博多総合車両所で保存されていたが、京都鉄道博物館に展示のため、2015年に車籍が抹消され、廃系列となった。", "title": "山陽新幹線からの引退" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "最終的に本系列として実現する0系後継車の構想は1981年ごろには既に存在し、今後の国鉄車両の方向性を示すものの一つとして各種メディアや『鉄道ファン』などの鉄道雑誌に取り上げられた。当時公表された構想図のうち、先頭部形状や塗色については大まかな概念図が主であったが、アコモデーションのそれは2階建食堂車のレイアウトやグリーン個室など、この時点で後年の実車にかなり近いものであった。また、実現しなかったものでは2階部分をフリースペースのラウンジとした案もあった。これらの案に基づいて、浜松工場では2階建て車両のモックアップが制作された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "また、V編成「グランドひかり」以外の編成による「ひかり」の通称として「スーパーひかり」が使われることがあった。この呼称は、前述の構想とは別の、300系列車およびその源流の超高速運転構想における仮称が転用されたものである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "本形式の個室は1~4人室の4種類用意されたが、これは設計時に2階建ての1階部分の利用方法が見いだせず、窮余の策として制作したとのエピソードが残されている。作家の景山民夫が夫人と2人用個室を利用した際、その使い勝手の悪さを当時『週刊朝日』で連載していたコラム内で書いたところ、後日景山の事務所にJR東海の社員が訪れ、前述の実情を話したことを景山が明かしている(なお、景山はこの日事務所を留守にしており、応対したアシスタントからこの話を聞いたという)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "本形式は、鉄道ファンが新幹線に興味をむけるきっかけになったという意見もある。それまで新幹線車両は0系が20年以上継続生産されており、基本的な形態の変化がなかったこと、200系もメカニズムは新規ながら外見はほぼ0系と同じであったため、新幹線電車は鉄道趣味の対象にならないという認識であったが、本形式の接客設備やスタイルが一般に注目されるものであったことから、徐々にカメラを向けるファンが増えたという。", "title": "その他" } ]
新幹線100系電車(しんかんせん100けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が開発した東海道・山陽新幹線の第2世代新幹線電車である。国鉄分割民営化後は東海旅客鉄道(JR東海)に継承されその後増備したほか、西日本旅客鉄道(JR西日本)では100N系として新製投入した。
{{鉄道車両 | 車両名 = 新幹線100系電車 | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Shinkansen100.jpg | 画像説明 = 100系新幹線電車([[2003年]]撮影) | 運用者 = {{Plainlist| * [[日本国有鉄道]] * [[東海旅客鉄道]] * [[西日本旅客鉄道]] }} | 製造所 = {{Plainlist| * [[川崎車両|川崎重工業]] * [[日本車輌製造]] * [[日立製作所]] * [[近畿車輛]] * [[東急車輛製造]] * [[東海旅客鉄道浜松工場]] }} | 製造年 = [[1985年]] - [[1992年]] | 製造数 = 66編成1,056両 | 運用開始 = [[1985年]][[10月1日]] | 運用終了 = [[2012年]][[3月14日]](定期運転) | 引退 = {{Plainlist| * 1999年10月1日(X編成) * 2002年11月23日(V編成) * 2003年9月16日(東海道新幹線) * 2004年1月22日(G編成) * 2011年3月11日(P編成) * 2012年3月16日(K編成) }} | 廃車 = [[2015年]]10月1日 | 投入先 = [[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]] | 編成 ={{Plainlist| * 16両編成(12M4T) * 12両編成(10M2T) * 6両編成(6M) * 4両編成(4M) }} | 軌間 = 1,435 mm | 電気方式 = [[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]] | 最高運転速度 = | 設計最高速度 = | 起動加速度 = | 常用減速度 = 2.6 km/h/s | 非常減速度 = | 編成定員 = | 車両定員 = | 自重 = {{Plainlist| * 51.6 - 55.4 t(平屋電動車両)<ref group="**" name="RM238_20_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.20]]</ref> * 46.1 - 49.5 t(平屋付随車両)<ref group="**" name="RM238_20_2" /> * 54.3 - 56.5 t(2階建て車両)<ref group="**" name="RM238_20_2" /> }} | 全長 = {{Plainlist| * 26,050 mm(先頭車)<ref group="**" name="100 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=33|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> * 25,000 mm(中間車)<ref group="**" name="100 spec" /> }} | 全幅 = 3,380 mm<ref group="**" name="100 spec" /> | 全高 = 4,490 mm | 車体長 = {{Plainlist| * 25,800 mm(先頭車) * 24,500 mm(中間車) }} | 車体幅 = | 車体高 = {{Plainlist| * 4,000 mm(平屋車両)<ref group="**" name="100 spec" /> * 4,490 mm(2階建て車両) }} | 車体材質 = [[普通鋼]] | 台車 = IS式ダイレクトマウント空気ばね台車 | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] <ref group="**" name="RM238_26_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref> | 主電動機出力 = 230 kW | 駆動方式 = [[WN駆動方式]] | 歯車比 = | 制御方式 = [[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]]<ref group="**" name="100 spec2" /> | 制御装置 = | 制動装置 = {{Plainlist| * [[発電ブレーキ]](チョッパ連続制御)併用粘着パターン制御<ref group="**" name="100 spec2">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=86|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> * [[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[電動車]]・[[付随車]]とも)<ref group="**" name="100 spec" /> * [[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ]]併用粘着パターン制御<ref group="**" name="100 spec2" /> }} | 保安装置 = [[自動列車制御装置#ATC-1型(東海道・山陽型)|ATC-1型]] | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = }} '''新幹線100系電車'''(しんかんせん100けいでんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が開発した[[東海道・山陽新幹線]]の第2世代[[新幹線車両|新幹線]][[電車]]である。[[国鉄分割民営化]]後は[[東海旅客鉄道]](JR東海)に継承されその後増備したほか、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)では'''100N系'''として新製投入した。 == 概要 == 東海道・山陽新幹線の本格的モデルチェンジ車として、[[1985年]]から[[1992年]]までに16両編成66本の計1,056両が製造・投入された。[[近畿日本鉄道]]の[[ビスタカー]]や欧米各地の鉄道で導入されていた[[2階建車両]]を国鉄車両および新幹線電車で初めて組み込み、座席数の増加やサービスの向上など新幹線の宣伝やイメージアップにつながった<ref name="RFN707_3" /><ref name="RFN707_4">[[新幹線100系電車#レイルファン707_1|『RAIL FAN』通巻707号、p.4]]</ref>。内装や技術面で、これ以降生産される新幹線車両に搭載されることとなった設備・技術も数多い。 編成定員・車両の製造費は0系と同等のものとし、地上設備の改良を最小限に抑えつつ、到達時間の短縮を行うことを念頭に置いている。また、「[[国鉄改革]]の象徴」を意識して開発されており、開発目標としては「お客様第一。乗務員は二の次」が掲げられていた<ref name="trendy120227">[https://web.archive.org/web/20120302141356/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20120227/1039834/ 2階建て、食堂車、グリーン個室--開発陣が語る「100系新幹線」誕生秘話] - 日経トレンディネット・2012年2月27日([[インターネットアーカイブ]])</ref>。 国鉄時代末期からJR発足にかけての東海道・山陽新幹線における主力車種として活躍したが、後継車両の登場により2003年9月16日に東海道新幹線から、[[2012年]][[3月16日]]に山陽新幹線での運用から撤退した([[#運用]]および[[#外部リンク]]参照)。 === 開発経緯 === [[1970年代]]になると、[[1964年]]の[[東海道新幹線]]開業時から運用されていた[[新幹線0系電車|0系]]の一部には経年劣化が生じ始めた。その原因は、安全・快適な高速走行のための技術的特徴が盛り込まれた車両を、高速かつ高頻度によって運行する新幹線の運行形態そのものにあった。0系では快適性のために気密構造を採用したが、列車同士のすれ違いやトンネルの出入りで生じる圧力の繰り返しによって、[[金属疲労]]のために車体の気密性が保てなくなった。0系が初めて設計された営業用の新幹線車両であることや新幹線自体が高速列車を長期間運用した最初の事例でもあったことから、予期しがたいものであった。この状況に合わせ、国鉄は0系の[[廃車 (鉄道)|廃車]]基準を製造後13年と設定し、古い0系は新造した0系によって置き換えられた。 この時点で新形式の投入が行われなかったのには、国鉄の経営状況悪化や労使問題などが影響した。それに加え、当時0系は車両の経年数が揃っていない編成が運用されており、既存の車両と混成・編成替えを行う場面における互換性に対して配慮された。このような経年数の不揃いな編成が生じたのは、開業以来0系の増備が続いたという導入初期特有の事情もあった。 新幹線車両に起こりうる事象が0系の運用経験からある程度把握できるようになってきた一方で、0系の基本となるデザイン・内装は1964年の登場当初のままであったため、何度かマイナーチェンジを経たとはいえ、陳腐化の印象は否めなくなった。こうした背景に加え、[[1975年3月10日国鉄ダイヤ改正|新幹線博多開業]]の際に編成単位で大量増備された車両の取換準備車両が必要となることも契機となり、モデルチェンジの機運が高まった<ref name="RFN707_3">[[#レイルファン707_1|『RAIL FAN』通巻707号、p.3]]</ref>。そこで、0系の設計を改めたモデルチェンジ車の検討が[[1980年]]頃から始まった<ref name="RFN707_3" />。その後、[[1984年]][[5月14日]]に国鉄常務会において、後にX0編成となる新幹線試作車の製作を決定した<ref>{{Cite book|和書|editor=石川幸孝ほか9名|title=幻の国鉄車両 夢の広軌化計画と、未成の機関車・客車・気動車・電車|year=2007|publisher=JTBパブリッシング|page=56|id=ISBN 9784533069062}}</ref>。 デザインについては、前述のように0系のイメージが陳腐化し、後発の欧州の高速鉄道である[[TGV]]などに比べても見劣りしたため、新たな造形が模索された。それにあたって、国鉄車両設計事務所内に車両デザイン専門委員会が設けられ、そのメンバーには手銭正道、松本哲夫、木村一男が参画した。デザイン提案は各車両メーカーが行い、それを車両デザイン専門委員会が検討して採用する形が採られた<ref name="RF 200112 3036">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2011年12月号、[[交友社]]、2011年、pp.30 - 36</ref>。 == 車両概説 == === 車体 === [[File:Shinkansen 100 (8086236279).jpg|240px|thumb|シャープなフロントマスク]] 先代である0系との違いは、「'''[[シャークノーズ]]'''」と呼ばれたそのフロントマスクと、2階建車両の存在である。 フロントマスクは、騒音と空気抵抗の低減を図るために、鋭角にした前頭部から徐々に断面積を大きくしていく「流線型」とし、標識灯内のライト配置を0系の縦2灯から横2灯に変更して、横に細長い形に変えた<ref name="RM238_11">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.11]]</ref>。このデザインは近畿車両が提案したものが採用された<ref name="RF 200112 3036" />。[[前照灯|前部標識灯]]の際はそのまま点灯し、[[尾灯|後部標識灯]]の際には赤色のフィルターが自動的に装着されて赤く点灯しているように見える<ref name="RM238_16">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.16]]</ref>。 運転台の窓と車体の段差は極力小さくなり、0系では開閉可能であった側窓も固定化することで極力平滑化された<ref name="RM238_16" />。これにより、走行抵抗を0系比70%に軽減することができた。なお、試作車は前照灯に角度がついているためツリ目形状であったが、量産車は角度が小さくなっている。これらの形状から「シャークノーズ」と呼ばれる。前照灯の間にある中央の丸い部分は、非常用の[[連結器]]が収納されている。足元はスカートで覆われ、その内部には何重ものアルミ板を重ねた[[排障器]]がある。また、[[エア・コンディショナー|空調装置]]の室外機は200系と同様に天井車端に一括配置された。 材質は0系と同じく1.6&nbsp;[[ミリメートル|mm]]厚の[[耐候性鋼]]を主体に、屋根部分はコルゲート[[ステンレス鋼]]を使用した一体構造となっている<ref name="RF389_16">[[#鉄道ファン389_1|『鉄道ファン』通巻389号、p.16]]</ref>。構体重量は、0系より0.2&nbsp;[[トン|t]]軽い10.3&nbsp;tである<ref name="RF389_16" />。 側窓は試作車のみ0系1000・2000番台と同じく小窓だったが、量産車は0系0番台と同じく2列に1つの窓である大窓となっている。大窓の採用理由は、破損すると交換が面倒であるものの、眺望が良くなる方を優先したためである<ref name="trendy120227" />。 窓の大きさは、普通車が1,660&nbsp;mm×610&nbsp;mm、グリーン車が1,870&nbsp;mm×610&nbsp;mmで、グリーン車の窓は0系0番台と同じ大きさである<ref name="RM238_20">[[新幹線100系電車#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.20]]</ref>。窓ガラスの板厚と構成を見直し、強度をアップさせている<ref name="RM238_20" />。 ==== 塗装 ==== オリジナルの塗装は、車体は0系よりも明るい[[白3号]]{{Color|#e7e7e8|■}}を地色に、窓周りが[[青20号]]{{Color|#003f6c|■}}の塗りわけである<ref name="RM238_11" />。また、ブルー塗装の下には、ピンストライプが追加されている<ref name="RM238_11" />。 0系から地色を変更した理由は、100系が「国鉄改革の象徴」であり、0系に使われたクリーム10号よりも、白3号の方が汚れが目立つので、「車両をきちんと清掃する」との意識を職員に植え付けるためだった<ref name=trendy120227/>。 JR西日本所属のK・P編成の塗装の変更については[[#K・P編成]]を参照。 [[File:100 series shinkansen NS logo.jpg|200px|thumb|NSマーク]] 国鉄時代には「'''ニュー新幹線'''」の愛称を与えられ<ref group="注">民営化後も、JR東海の広告では「ニュー新幹線」という愛称が長らく使用されていた。その後、東海道・山陽新幹線では500系を皮切りに、過去の車両も含めて形式名を広告宣伝で使うようになり、700系登場時のJR東海のテレビCMで東海道・山陽新幹線の歴代車両が順に映されるシーンで本形式が映された際、「ニュー新幹線」ではなく「100系」と記されている。また、鉄道玩具の[[プラレール]]が本形式を製品化した際は当初「ニュー新幹線」という商品名だったが、[[1990年代|90年代]]中盤以降は「新幹線」となり、[[2002年]]のリニューアルに際して商品名は「100系新幹線」に改められている。</ref>、2階建車両の車体にこれを意匠した赤色のマークが標記されていた<ref group="注">このNSマークは冊子型鉄道[[時刻表]]で「2階建て車両連結」を意味することとなり(分割民営化後も使用)、新幹線車内の[[温度計]]にも標記された。</ref><ref name="RM238_16">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.16]]</ref>。X1編成のみ、海側は青帯と同じ大きさで、山側がそれよりも大きく描かれていた<ref name="RM238_16" /><ref name="RM238_17">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.17]]</ref>。比較検討の結果、量産車では、X1編成の山側と同じく若干青帯より大きい方が採用された<ref name="RM238_21">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.21]]</ref>。 [[1987年]]の国鉄分割民営化後は、代わりにJRマークが貼付された<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-07 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 8 |page = 119 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>。なお、JR東海所属車については、16両G編成は落成時から1・8・15→16号車の[[鉄道の車両番号|車両番号]]横にJR東海の[[コーポレートカラー]]であるオレンジ色の小さなJRマークが張り付けられ、分割民営化前に落成していたX編成は同様に貼り替えられた<ref name="RP497_63">[[#鉄道ピクトリアル497|『鉄道ピクトリアル』通巻497号、p.63]]</ref>。JR西日本所属車はX編成と同様に1・15号車のトイレ区画、8号車のNSマークが標記されていた箇所にJRマークが貼付されていたが、幾分小さくなっている。 編成番号は運転台下端・先頭車乗務員扉・乗務員扉下部のスカート部分に記されるが、JR東海所属車は、[[1999年]]から運転台上端に編成番号を記載するように変更された。 平屋車両の場合、グリーン車は博多方車端の1か所に、普通車は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお食堂車として製造された168形には車端にデッキがあり、客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。また、グリーン・カフェテリア合造車として製造された148形には、東京方のデッキに客用扉と同様の扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。 === 車内 === 内装については、長時間ゆったりと乗ってもらうため、[[#構造|前述]]した「お客様第一。乗務員は二の次」以外にも、「アットホームな車内の雰囲気」が重視されている。これは、100系の車体・艤装設計担当の池田憲一郎の意向である。開発当時の鉄道車両の車内は、無機質な樹脂製の壁や金属製のつなぎ目、ネジなどが目立つものであったが<ref group="注">これについて、池田は「列車に乗ると普段の居住空間と違う」と感じていた。</ref>、自宅の部屋は木材や布など柔らかい素材に囲まれていることに気づき、このことを内装設計に反映させている<ref name="trendy120227" />。 壁などは、内装の工事が容易に行えるように、布ベースのフィルムシートが貼られ、金属色を見せないようにねじが隠されている<ref name="RM238_12">[[新幹線100系電車#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.12]]</ref>。フィルムシートには騒音吸収効果もあったが、布ベースのシートだったためコーヒーなどをこぼされると交換が面倒という難点もあり、新幹線での採用例は100系のみとなった<ref name="trendy120227" />。 ==== 普通車 ==== [[普通車 (鉄道車両)|普通車]]は通路を挟んで3列+2列に[[鉄道車両の座席|座席]]を配置しているが、前後間隔(シートピッチ)を0系2000番台の980&nbsp;mmから1,040&nbsp;mmに広げ、リクライニング角度を、0系の17 - 22度から6 - 31度まで拡大<ref name="RM238_12" />。また、リクライニング機構を変更し、背面のテーブルを座席下部から棒で支えるタイプに変更、座席の土台の厚みを薄くすることによって、3人席においても回転・リクライニングを可能とした<ref name="trendy120227" />。 シートピッチを拡大して、回転・リクライニング可能な3人席を導入した結果、0系よりも1両辺り5人分(16両編成では65人分)の普通席が足りなくなったが、乗務員用個室の削減および[[#運転台|運転台の折りたたみ座席]]の設置、その他様々な機器を小型化することで、0系と同等の座席数を確保した。100系で採用された、普通席のシートピッチ1,040&nbsp;mmは、その後の東海道・山陽新幹線の標準となった<ref name="trendy120227" />。 奇数号車がブルー系、偶数号車がブラウン系の配色となり、シートモケットやカーテンなどのデザインが異なっている<ref name="RM238_12" />。肘掛先端にはリクライニング用のレバーと灰皿(喫煙席のみ)が設置されている。 ==== グリーン車 ==== [[File:TEC-148-inside.jpg|thumb|200px|100系のグリーン車の車内(148形2階席)]] [[グリーン車]]は通路を挟んで2列+2列に配置している。開放式座席がほとんどであるが、X・G編成9号車には[[#個室]]も設置された。グリーン車には新幹線車両として初めて間接照明が採用された<ref name="RM238_13">[[新幹線100系電車#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.13]]</ref>、荷棚の下に読書灯が各席毎に設置された<ref name="RM238_13" />。 座席間の肘掛部分にオーディオサービス用機器が埋め込まれ<ref name="RM238_12" />、喫煙車の座席には端側の肘掛に灰皿が設置されている。肘掛内部にはインアームテーブルが備えられ、取り出して使用できる。初期の座席には、座席背面のテーブルが設置されていない。 ==== 車内サービス ==== ミュージックサービスと[[NHKラジオ第1放送]]の送信を始めた。普通車では手持ちの[[FMラジオ]]で、グリーン車内では備え付けのイヤホンで聴くことができる。このサービスは、以降新製される東海道・山陽新幹線の16両編成の全車両に装備されている。 [[発光ダイオード|LED]]式(単色、V編成は2色)の[[車内案内表示装置|電光掲示板]]が装備された。電光掲示板の上部にはデジタル式の時計、右側に次の停車駅までの距離を[[7セグメントディスプレイ|7セグメント]]で表示する装置が配され<ref group="注">残り距離表示は当初は15&nbsp;[[キロメートル|km]]手前からだったが、電光ニュースが表示されるようになってからは停車駅到着予告のアナウンス後・5&nbsp;km手前からとされた。</ref>、通常走行時はLCXから送信された[[ニュース]]を表示した<ref group="注">東海道新幹線内は[[1989年]]3月から、V編成・山陽新幹線内では[[2000年]]3月から実施。</ref>。X編成では当初速度表示もなされていたが後に取りやめとなっている。G32 - G50編成では電光掲示板の文字を大きくし、時計と距離表示は省略された。後者の電光掲示板は、300系で同じタイプのものが搭載され、以降のすべての新幹線車両に標準搭載されている。 回線数が増えたことから、[[列車電話|車内公衆電話]]は2両に1箇所設置することが可能となった<ref group="注">そのための準備工事は事前に実施されていた。</ref> 。また、それまでの車内電話は列車内発信時には[[電話交換機#概要|オペレータ]]を通し、沿線の都市のみが通話可能エリアであったが、1989年4月より日本全国へのダイヤル通話ができるようになった。 [[列車便所|便所]]は2両に1箇所(奇数号車の東京方)に設置されており、大便所2箇所([[便器#腰掛大便器(洋式・洋風大便器)|洋式便器]]1箇所+[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式便器]]1箇所)と小便所1箇所、[[洗面器#取付用洗面器|洗面所]]2箇所という構成である。また、[[冷水機]]の位置・仕様も大幅に変更され、0系では冷水機はデッキの近くで[[紙コップ]]も封筒式だったのに対し、100系では洗面所の脇にセットされ、紙コップも円筒式になった。 空調機器は0系同様の[[ヒートポンプ|ヒートポンプ式]]である[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]の AU83 ([[冷凍能力|冷房能力]]25000&nbsp;[[冷凍能力|kcal/h]]、暖房能力17000&nbsp;kcal/h)を1両あたり2基搭載とし、0系ではやや不足気味であった暖房能力の強化を図った。 ==== 運転台 ==== 運転台は右手操作の[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]([[力行]] 1 - 11ノッチ・後述のV編成のみ12ノッチまで。ただし、東海道新幹線内では12ノッチは機能しない<ref name="Fan1993-9-48">交友社『鉄道ファン』1993年9月号特集「100系新幹線電車」pp.44 - 49。</ref>)、左手操作のブレーキ設定器は常用1 - 7段・[[非常ブレーキ|非常位置]]から構成される<ref name="Fan1993-9-48"/>。ブレーキ設定器は、0系新幹線ではブレーキハンドルを挿入する必要があったが、100系ではキー1本でロックが解除される<ref name="Fan1993-9-48"/>。 100系では運転台スペースを有効活用するため、[[速度計]]は機械式から[[発光ダイオード|LED]]を使用したものとなり、別構成であった主速度計と補助速度計は1つにまとめられた<ref name="Cyber1985-11">日本鉄道サイバネティクス協議会『鉄道サイバネ・シンポジウム論文集』第22回「100系新幹線電車用モニタ表示器及び速度計の視認性」論文番号716。</ref>。主速度計はバーグラフ式(速度が上がるにつれて、赤色のLEDが右に向かって点灯していく)と[[バーニヤ]]速度表示から、補助速度計は下部にデジタル表示によるATC信号と速度が表示される<ref name="Cyber1985-11"/>([[デジタルメーター]])。表示盤は一体形であるが、電気的には主速度計、補助速度計は完全に独立している<ref name="TOSHIBA1985-10-993">東芝『東芝レビュー』1985年10月号「100系新幹線電車の電気機器」pp.991 - 994。</ref>。 運転台右側には、200系と同じく[[ブラウン管|CRTモニター]]による[[鉄道車両のモニタ装置|モニタ支援装置]]を装備している<ref name="JRMA1992-6">日本鉄道車両機械協会1992年6月号保全「車両モニター装置の活用」pp.32 - 38。</ref>。モニタ支援装置は200系で採用したMON1型モニタ装置を進化させたMON2型モニタ装置と呼ばれるものである<ref name="TOSHIBA1985-10"/><ref name="HITACHI1986-3"/>。主な機能は以下のとおり<ref name="Cyber22nd-438">日本鉄道サイバネティクス協議会「鉄道サイバネ・シンポジウム論文集」第22回(1985年)「100系新幹線電車用モニタ装置と光伝送システム」論文番号438。</ref><ref name="JRMA1992-6">日本鉄道車両機械協会1992年6月号保全「車両モニター装置の活用」pp.32 - 38。</ref>。 * キロ程情報の表示(通常の画面) ** この画面では、現在時刻、キロ程、ATC信号、現在速度、力行・ブレーキノッチ表示、ブレーキ種別などが表示される<ref name="JRMA1992-6"/> * 機器の動作情報の表示 * 車両故障情報の表示(機器故障発生時の号車などを表示する) * 開放情報の表示(故障発生処置後の状態表示) ** この画面では、パンタグラフ開放、[[真空遮断器|VCB]]開放、電源誘導、MM(主電動機)開放、戸閉非連動などが表示される<ref name="JRMA1992-6"/> * 故障データの保存(機器故障発生時の状況を記録する) * 乗客および車掌情報サービス(車内案内表示器や自動放送装置とも連動) * 記録器出力(機器情報を、接続したプリンターへ印字する) * 車両検査の迅速化と簡素化(車両の検査時、地上の検査装置と連携して機器の動作状態を表示する) * モニタ装置の自己診断(電源投入時に[[Read only memory|ROM]]および[[Random Access Memory|RAM]]を自己診断する) 先頭車にモニタ中央装置と運転台モニタ表示器、中間車にモニタ端末器を搭載しており、車両間の伝送ケーブルは[[光ファイバー]]を使用しており、伝送速度は200系の2倍となる19.2 [[ビット毎秒|kbps]]に向上した<ref name="TOSHIBA1985-10"/><ref name="HITACHI1986-3"/>。運転台モニター表示器は8色カラー表示の10インチCRTモニターとなり、視認性が大幅に向上した<ref name="TOSHIBA1985-10"/><ref name="HITACHI1986-3"/>。表示画面の操作は、現在のような[[タッチパネル]]で操作するものではなく、[[ファンクションキー]](運転・記録・故障・メニューなどのキー)や[[テンキー]](0 - 9)で行う<ref name="Cyber22nd-438"/><ref name="JRMA1992-6"/>。このほか、車掌室には車掌用のモニタ表示器があり、運転士用のCRTモニターとは異なるが、ドア開閉状態、非常ブザー(非常通報器操作)、空調装置状態、便所ブザー操作、水タンク残量表示がLEDランプで表示される<ref name="Cyber22nd-211">日本鉄道サイバネティクス協議会「鉄道サイバネ・シンポジウム論文集」第22回(1985年)「100系新幹線電車の情報サービス」論文番号211。</ref>。 その他にも、点検作業効率化の観点から機器の配置見直しなども行われ、保守の省力化を図っている。 また、0系に存在した乗務員用の個室が無くなった代わりとして、運転台に折りたたみ式の座席を設けている。これは、[[#普通車|後述]]する普通車用の回転・リクライニングシートを、0系2000番台より前後を広げたうえで、1編成辺りの普通席を従来の0系と同数配置するべく、客室スペースを増やすために行われた設計のひとつである。旧国鉄の車両設計事務所で、100系の車体・艤装の設計を担当した池田憲一郎によれば、池田が飛行機のコックピットに同乗させてもらった際、同種の席を見つけたことからヒントを得ている<ref name="trendy120227" />。 === 主要機器 === [[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]向けとして開発されていた200系の機構をベースにコストパフォーマンス面から改良を進めた構造となっている<ref name="RF389_16" />。 主に制御機器・主電動機の軽量化・高性能化により、0系の16両全電動車方式から16両中4両が[[付随車]]となった。モーターの高出力化により、電動車を4両減らしても0系とほぼ同等の出力を得ることができる。 ==== 電源・制御機器 ==== {{Sound|JR central 100 hikari No.300 126-157 maibara.ogg|JR東海G編成の走行音|9300A ひかり300号 新大阪駅 - 米原駅間付近 4号車 126-157にて (2000年12月29日収録)}} {{Vertical_images_list |幅= 240px |1= All thyristor phase control 4.png |3= Phase control by 4-thyristors.gif |4= [[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]](4分割)の回路(上)と動作(下)。サイリスタにリッジT1からT4まで順に位相制御し、電圧を連続制御する。 }} 0系と同じく[[動力車#MM'ユニット方式|MM'ユニット]]を採用し、M車(121形・125形)には主制御器と抵抗器が、M'車(122形・126形)には主[[変圧器]]・整流装置・補助電源装置・電動空気[[圧縮機]]<ref group="注">電動空気圧縮機に関しては、16両編成で4基搭載とした関係上、122形および126形の一部(16両編成での4号車)には搭載されていない。</ref>・[[集電装置]]が搭載される<ref name="RM238_17" />。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器の横幅が2,400&nbsp;mmに揃えられた上で機器類の隙間を塞ぐ機器間塞ぎ板方式を採用しており<ref name="RF389_16" />、走行中の走行風による騒音を低減させている。電機品は試作車(X0 → X1編成)の場合、[[三菱電機]]<ref name="MITSUBISHI1987-2">三菱電機『三菱電機技報』1987年2月号「東海道・山陽新幹線向け100系電車用電機品」 pp.61 - 63。</ref>、[[日立製作所]]<ref name="HITACHI1986-3">日立製作所『日立評論』1986年3月号「最新技術を応用した100系新幹線電車の電気品」 pp.23 - 28。</ref>、[[東芝]]<ref name="TOSHIBA1985-10">東芝『東芝レビュー』1985年10月号「100系新幹線電車の電気機器」 pp.901 - 904。主変圧器、主シリコン制御整流装置、主電動機、渦電流ブレーキ装置、主制御器、主抵抗器、静止形変換装置、インバータ装置のほか、ATC制御装置、速度計、MON2形モニタ装置、空調装置を納入している。</ref>、[[東洋電機製造]]<ref name="TOYODENKI162">東洋電機製造『東洋電機技報』第62号(1985年3月)「59年総集編」pp.7 - 20。主電動機、主制御器、断流器、主幹制御器、静止形変換装置、集電装置などを納入している。</ref>、[[富士電機]]<ref>富士電機『富士時報』1985年5月号「日本国有鉄道100系新幹線電車用電気機器」pp.32 - 36</ref>の5社が製作している。 主制御器は電動カム軸方式の CS56 を採用する<ref name="Fuji5808_35">[[新幹線100系電車#富士時報5805|『富士時報』第58巻第5号、p.35]]</ref>。車両の前進力行、後進力行、前進ブレーキ、後進ブレーキの切替、搭載する抵抗器を用いて、発電ブレーキ回路を構成し発電ブレーキを掛けることを主な機能としており、それを行うための転換カム軸と抵抗カム軸を搭載している。ブレーキ抵抗制御の段数は22段であり、カム接触器の数を減らすため、逆転、力行、ブレーキ切替用のカム接触器の一部に双頭カム SR38 を採用している<ref name="Fuji5808_35" />。重量は940&nbsp;kgである<ref name="Fuji5808_35" />。 力行制御は0系の[[電気車の速度制御#タップ制御|低圧タップ制御]]に替えて、架線からの交流25&nbsp;[[キロボルト|kV]]を主変圧器の二次巻線を分割し、それぞれにサイリスタとダイオードで構成されるブリッジ(整流回路)を取付けて分割構成としたサイリスタ・ダイオード混合ブリッジとし、それにより整流・制御された直流電源で主電動機を駆動する[[電気車の速度制御#サイリスタによる連続位相制御|サイリスタ位相制御]]が採用されている<ref name="RM238_7">[[新幹線100系電車#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.7]]</ref>。これは200系とほぼ同等の制御方式である。主シリコン制御整流装置はさらなる軽量化とコスト削減を図った RS203 を搭載する<ref name="RP201107 69">『鉄道ピクトリアル』2011年7月号、電気車研究会、2011年、p.69</ref>。素子の耐圧を200系の2,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]から4,000&nbsp;Vまで上昇させ<ref name="Fuji5808_34">[[新幹線100系電車#富士時報5805|『富士時報』第58巻第5号、p.34]]</ref>、二次巻線の分割を200系では不等6分割だったのが100系では等4分割にしてブリッジの数を減らし<ref name="RM238_7" />、素子数の削減と軽量化(200系:RS202重量比62&nbsp;%<ref name="Fuji5808_34" />)とコスト削減を図っている<ref name="RP201107 69" />。また、整流ユニットを車側からも取り出せるように工夫されており、整備性の向上が図られている<ref name="Fuji5808_34" />。 主変圧器は外鉄形強制風冷式の TM203 を採用する<ref name="Fuji5808_33">[[新幹線100系電車#富士時報5805|『富士時報』第58巻第5号、p.33]]</ref>。定格容量は2,500&nbsp;[[キロボルトアンペア|kVA]]の容量を備えるが、二次巻線側(主回路)の利用率を勘案し、一次巻線容量は二次巻線と三次巻線(補機類)の容量和よりも小さくなっており<ref group="注">二次巻線の容量は2,510&nbsp;kVA、三次巻線の容量は510&nbsp;kVAである。</ref><ref name="Fuji5808_33" />、鉄心の[[磁束密度]]を4&nbsp;%増加させている。シリコーン油とポリアミド絶縁物を主体とする特別A種絶縁の採用、付属品の改良を行うことで、TM201A(0系)と比べて容量で152&nbsp;%の増加を達成しつつ、総重量は76&nbsp;%に削減されている<ref name="Fuji5808_33" />。 補助電源装置には[[静止形インバータ]]SC202が採用され、[[電動発電機]]と比べてカーボンブラシの交換などの検査の省力化を図っている<ref name="Dengensouti">{{Cite book|和書|editor=南谷 昌二郎|editor-link=南谷昌二郎|title=山陽新幹線 関西・中国・北九州を結ぶ大動脈|year=2005|publisher=JTBパブリッシング|page=89|id=ISBN 9784533058820}}</ref>。補助変圧器、定電圧装置、整流装置で構成されており、主変圧器の三次巻線(単相交流440&nbsp;V・60&nbsp;[[ヘルツ (単位)|Hz]])を電源とする<ref name="RM238_12" />。供給する電源としては、温水器などで使用される低圧交流電源交流100&nbsp;V、冷水機や汚物処理装置などで使用される低圧安定化交流電源交流100&nbsp;V、セクション通過時の停電を防ぐために使用される無停電交流安定化電源交流100&nbsp;V、制御・ブレーキ電源、蛍光灯などで使用されている直流100&nbsp;Vの4種類がある<ref name="RP201107 70">『鉄道ピクトリアル』2011年7月号、電気車研究会、2011年、p.70</ref>。加えて、東京方先頭車ボンネット内にインバータ SC18 を備え、直流100&nbsp;Vを交流100&nbsp;V・60&nbsp;Hzに変換する<ref name="RP201107 70" />。停電時には、一部交流機器に電源供給を行う<ref name="RP201107 70" />。 電動空気圧縮機は MH1091-TC2000 を搭載する<ref name="SK198709_15">[[新幹線100系電車#車両と機械0109|『車両と機械』第1巻第9号、p.15]]</ref>。圧縮機部 TC2000 は水平対向4気筒を有する往復単動二段式で1分間定格出力2,063&nbsp;[[リットル|L]]であり<ref name="RM238_12" />、全閉自冷式であるかご形単相誘導電動機 MH1091 は主変圧器の三次巻線である単相交流440&nbsp;V・60&nbsp;Hzで駆動される<ref name="SK198709_16">[[新幹線100系電車#車両と機械0109|『車両と機械』第1巻第9号、p.16]]</ref>。0系16両編成では1,000 L級を8基搭載していたが、騒音源の減少とコスト削減を進めるために1基当たり吐出し量を倍増させ、編成中の搭載台数を半減させた<ref name="SK198709_15" />。空気圧縮機の大容量化を進めることは騒音増大につながるが、騒音対策を施すことで低騒音化を達成している<ref name="SK198709_16" />。 機器冷却用の電動送風機は主変圧器の三次巻線を電源とした主整流装置用 MH1092-FK156 と主変圧器用 MH1093-FK157 を搭載する<ref name="Fuji5808_36">[[新幹線100系電車#富士時報5805|『富士時報』第58巻第5号、p.36]]</ref>。0系では主整流装置・主変圧器共用で1台の電動送風機が搭載されていたが、個別に設計した電動送風機を使用することで小型軽量化を図った<ref name="Fuji5808_36" />。 ==== 主電動機 ==== [[主電動機]]は[[直巻整流子電動機|直流直巻式]]の MT202 を電動車両1両あたり4基搭載している。0系に比べて編成中の電動車数が減少すること、起動時の引張力を増大させて加速性能を向上させたことから、0系に比べて高出力(連続定格出力230&nbsp;kW)となった<ref name="Fuji5808_35" />。端子電圧は625&nbsp;V、定格回転数は2,900&nbsp;rpmに増強され<ref name="RFN707_14">[[新幹線100系電車#レイルファン707_2|『RAIL FAN』通巻707号、p.14]]</ref>、重量は825 kgである<ref name="RF532_92">[[新幹線100系電車#鉄道ファン532_2|『鉄道ファン』通巻532号、p.92]]</ref>。構造的特徴として、他力通風方式の採用で鉄心長を増加させて出力向上を図り、H種絶縁の採用や冷却用排風覆いの簡素化で軽量化が図られるとともに、長尺ブラシを使用してブラシ摩耗代を長くし、軸受構造に第2グリース室を設けて潤滑寿命を長くして、無保守走行距離の延長を図っている点<ref name="Fuji5506_61">[[新幹線100系電車#富士時報5506|『富士時報』第55巻第6号、p.61]]</ref> は MT201(200系)と同じである<ref name="Fuji5808_35" /><ref name="Fuji5808_36" />。 ==== 台車 ==== [[File:JRW WDT202 Shinkansen series 100.jpg|300px|thumb|WDT202(122-5005・K53編成)]] 電動車台車はDT202、付随車台車はTR7000と呼称され(いずれもJR西日本の場合は頭に「W」を付す)、0系のDT200と同じくIS式軸箱支持装置、枕バネを採用している。コスト削減のため、DT202とTR7000の台車枠は共通のものが用いられ、車輪径は910&nbsp;mm、輪距は2,500&nbsp;mm、重量は9,800&nbsp;kg(DT202)9,225&nbsp;kg(TR7000)となっている<ref name="RM238_9">[[新幹線100系電車#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.9]]</ref>。 230&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]] - 260&nbsp;km/hでの乗り心地向上を目指し<ref name="RFN707_14" />、DT200と比較して、左右の振動の減衰に関係してくる空気ばねの横剛性は1.33倍、左右動ダンパー減衰係数も1.5倍となっている<ref name="RM238_9" />。また、踏面形状を1/40勾配から円弧踏面に変更し<ref name="RFN707_14" />、軸箱の強度もDT200の2倍とすることで、[[フランジ]]の磨耗を防いでいる<ref name="RM238_9" />。 ==== ブレーキ ==== システムとしては200系と同様、制御応答性に優れる[[発電ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]方式を採用する<ref name="RFN707_13">[[新幹線100系電車#レイルファン707_2|『RAIL FAN』通巻707号、p.13]]</ref>。高速域からの減速は、抵抗器を使用した<ref>日本鉄道車両工業会 車両技術1985年10月 車両技術第172号 望月旭著 東海道・山陽新幹線用100系(量産先行)電車(その2)</ref>発電ブレーキを用い、制動力が不足する場合には空気ブレーキによる補足が入る<ref name="RFN707_13" />。速度が25&nbsp;km/h以下になると、発電ブレーキから空気ブレーキに完全に切り替えられる<ref name="RFN707_13" />。 新幹線で初めて設定された付随車のブレーキには、[[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ(ECB)]]を各車軸あたり2台設置する<ref name="RM238_7" />。コイルの励磁電流は、隣接するM車から供給されている<ref name="RFN707_13" />。以降製造された東海道・山陽新幹線の新幹線車両のうち300系と700系の付随車に採用された。 ==== 集電装置 ==== [[File:JRW Shinkansen Series 100 K58 Pantograph.jpg|250px|thumb|PS202型パンタグラフと特高圧引き通し線(K58編成)]] 集電装置は0系から引き続き下枠交差型パンタグラフが採用された。PS202と呼称される。基本構造は 0系のPS200Aと同一であるが、200系のPS201と同様に集電舟(架線と接触する部分)を三元系ばね機構を採用して可動式となった微動すり板を採用したことにより架線追従性が向上し、0系に比べて離線率が20&nbsp;%減少された<ref name="RM238_11" />。また、パンタグラフ半減に対応し、走行時に立ち上がることを防ぐためにかぎ装着部を二重ロックとしている<ref name="Fuji5808_32">[[新幹線100系電車#富士時報5805|『富士時報』第58巻第5号、p.32]]</ref>。 当初は各電動車ユニットごと、16両編成で6基のパンタグラフを使用していたが、[[1991年]]3月の東海道新幹線の[[AT饋電方式|AT饋電]]化により3基に半減された。これは天井に這わせた高圧ケーブルによる[[特高圧引通線|特高圧引き通し]]を実施し、パンタグラフのないユニットへの主電動機への電力供給も可能になったため、この方法は以降新製される新幹線全車両に採用されている。 ==== 列車無線 ==== [[列車無線]]装置はバージョンアップされ、本系列では0系で使用していたVHFによる方式に代わり、線路のそばに敷設された[[漏洩同軸ケーブル]] (LCX) に流れた情報を先頭車(1号車)の足元に設置されたアンテナが受信して通信をやり取りする方式を採用。東海道区間ではJR化後の[[1989年]]3月から、山陽区間では[[2000年]]3月から岡山まで、[[2004年]]3月から全線で本格運用を始めた。 == 2階建て車両 == [[File:100 ns mark.JPG|thumb|240px|100系X1編成の2両の2階建て車両 8号車168-9001(前)と9号車149-9001(後)(1985年撮影)]] 東海道新幹線の利用客は[[1976年]]をピークに減少傾向をたどり<ref group="注">[[1976年]]秋に国鉄は運賃・料金の大幅な値上げを実施し、以後も短期間での運賃・料金改定を繰り返した。航空機との運賃・料金格差が縮み、東京・福岡間を中心に輸送シェアを奪われていた(参考・『運輸白書』昭和55年版「[https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa55/ind020201/frame.html 第1節 国民生活の向上と旅客輸送]」)。</ref>、列車の削減が行われた。そのような経緯から、100系では客室(サービス面)を中心としたモデルチェンジが指向された。そしてより明るく快適な新幹線として、話題性を高めイメージアップを図るべく、新幹線としてはじめて2階建て車両が組み込まれた<ref>雑誌『鉄道ファン』2004年10月号 No.522 P73</ref>。またコスト削減の観点から、0系の全電動車構成を改め付随車を導入することになった影響の副産物という側面もある<ref name=trendy120227 />。 基本的に階上は、車窓が良いことや乗客の通り抜けがないことからグリーン席や食堂、階下は普通車指定席、カフェテリアもしくは個室が設定された。詳細は[[#各編成の概要]]を参照。 客席部分を最大限使用するため、電動機などの機器を搭載することができず付随車となった。また、空調設備は1階機器室に搭載された室内機と屋根上の室外機を分離したセパレート方式とし<ref>『鉄道ファン』2003年6月号、交友社、2003年、p.52</ref>、客室内には空調用のラインフローが設けられ、グリーン席にはスポット空調を採用している。 2階建て車両は、平屋車両との段差が大きくなるために空気抵抗が増加することや車体重心が高くなることから、車高はできるだけ低い方が望ましい。しかし、2階建て車両投入によるイメージアップも重要なテーマであることから床面をレール面上200&nbsp;mmまで下げ、屋根高さを平屋車両と比べて500&nbsp;mm高い位置の4490&nbsp;mmまで持ってくるなど<ref name="RF389_13">[[#鉄道ファン389_1|『鉄道ファン』通巻389号、p.13]]</ref>、車両限界を有効利用して設計されており<ref name="RF200311 58">『鉄道ファン』2003年11月号、交友社、2003年、p.58</ref>、それにより各階の天井高さを1945&nbsp;mmとし、十分な高さを確保している。V編成「[[グランドひかり]]」の場合、室内高さは、1階部分が1982&nbsp;mm、2階部分が1986&nbsp;mmとなっている<ref name="RF200311 58" />。なお、車体重心をできるだけ下げるため、1階部分の車体構造が強化され、厚い鋼板が張られている<ref name="RF389_13" />。 東海道・山陽新幹線区間では、300系以降で車両軸重を11.4&nbsp;t以下にすることを目標に設定したことや定員の相違による互換性の面での支障、速度向上のために車両の軽量化や走行抵抗の軽減が求められた結果、2階建て車両の新造はされていない<ref>『鉄道ファン』2003年11月号、交友社、2003年、pp.52, 58</ref>。 === カフェテリア・食堂車 === [[File:Shinkansen 168-9001-inside-2F.jpg|thumb|220px|168-9001の食堂車全景]] 16両編成の中央に連結された2階建て車両のうち、8号車には[[カフェテリア]]もしくは[[食堂車|食堂]]といった供食設備が置かれた。 東京駅 - 博多駅間の長距離運用向けに製造されたX・V編成には8号車の1階に厨房・売店と通路が、見晴らしの良い2階には食堂が設置された。なお、現場のコックの要望で、厨房内に客室入口を映し出すTVモニターを設置している<ref name=trendy120227 />。X編成とV編成では、車両外観は同じだったが、内装は全く違った。 X編成は、食堂出入り階段付近に設置された東海道・山陽本線を駆け抜けた代表列車のエッチングによる装飾が大きな特徴である。このエッチングは、元国鉄の[[黒岩保美]]が製作したものである<ref>{{Cite book|和書|title=名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車 |year=2000|publisher=[[イカロス出版]]|page=68|id= ISBN 4-87149-296-6}}</ref>。この中には100系もあるが、9000番台(X1編成)では小窓で描かれていた100系は、0番台(X2 - X7編成)では大窓で描かれている。 V編成は、入り口付近の装飾や壁面に大きな飾り花が設置されたのが特徴である。1階の厨房から料理を2階に運ぶために料理用エレベータが設置された。 G編成は、グリーン席の増加と短距離運用中心のため、8号車の2階席をグリーン席にあて、1階部分にカフェテリアを設置した。山側に通路が、海側にショーケースと簡易厨房が設けられていた。製造次によって、床模様や柱の本数・デザインが異なっている。 食堂車の営業は[[2000年]][[3月10日]]で終了したが、その後も食堂車自体は連結されたままだった。カフェテリアの営業は100系による定期「ひかり」運用が消滅した[[2003年]][[8月22日]]まで続けられた。 === 個室 === {{Double image aside|right|Only one person compartment of 100 Series Shinkansen.jpg|120|Shinkansen100-koshitu4.jpg|120|1人用個室|4人用個室}} 9号車の階下(1階部分)と、[[新幹線100系電車#X編成|X1編成の10号車]](1986年まで。こちらは2階建て車両ではない)にはグリーン個室が設置され、1〜4人用の4タイプ(10号車の個室を含めれば6タイプ)の個室が存在した。詳細は[[#各編成の概要]]を参照。 == 形式および車種 == 本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり<ref>{{Cite book|和書|title=名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車|date=2000-9|year=2000|publisher=[[イカロス出版]]|pages=94-95|id= ISBN 4-87149-296-6}}</ref>。 基本的に電動車は奇数形式と偶数形式でペアを組んでMM'ユニットを構成し、16両編成の場合は6組のMM'ユニットと4両のT車(X・G編成は1・8・9・16号車、V編成は7・8・9・10号車)で、6両および4両編成の場合はすべてMM'ユニットで組成される。 {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" |+100系 ユニット構成 |style="background-color:#ccc;"| |colspan="16" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- !号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !rowspan="2"|X編成 |123形<br /> (Tc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M5) |168形<br /> (T'dd) |149形<br /> (Tsd) |116形<br /> (M's) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |124形<br /> (T'c) |- |colspan="3"|1ユニット |colspan="2"|2ユニット |colspan="3"|3ユニット |colspan="3"|4ユニット |colspan="2"|5ユニット |colspan="3"|6ユニット |- !rowspan="2"|G編成 |123形<br /> (Tc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M5) |148形<br /> (T'sbd) |149形<br /> (Tsd) |116形<br /> (M's) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |124形<br /> (T'c) |- |colspan="3"|1ユニット |colspan="2"|2ユニット |colspan="3"|3ユニット |colspan="3"|4ユニット |colspan="2"|5ユニット |colspan="3"|6ユニット |- !rowspan="2"|V編成 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M8) |126形<br /> (M') |179形<br /> (Tsd) |168形<br /> (T'dd) |179形<br /> (Tsd) |178形<br /> (T'sd) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |- |colspan="2"|1ユニット |colspan="2"|2ユニット |colspan="4"|3ユニット |colspan="4"|4ユニット |colspan="2"|5ユニット |colspan="2"|6ユニット |- !rowspan="2"|K編成 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |colspan="10" rowspan="2"|全席2列+2列シート |- |colspan="2"|1ユニット |colspan="2"|2ユニット |colspan="2"|3ユニット |- !rowspan="2"|P編成 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M7) |122形<br /> (M'c) |colspan="12" rowspan="2"|全席2列+2列シート |- |colspan="2"|1ユニット |colspan="2"|2ユニット |} 番台としては、試作編成でもあったX0(後にX1編成に改造)編成は9000番台、それ以外のX・G編成は0番台を、V編成とK・P編成の中間車は3000番台を、K・P編成の先頭車は5000番台を名乗る。 === 新製車両 === ==== 形式詳細 ==== *東海道・山陽新幹線上での新幹線車両における前位とは車両の博多方、後位とは東京方のことである。 ;116形 (M's) :グリーン席を備える中間電動車。X・G編成10号車として125形とペアを組んで使用される。前位に車掌室を備え、集電装置・主変圧器・整流装置・電動空気圧縮機などを搭載する。9000番台は当初、1人用個室と客用扉が2箇所あったが、量産化改造を経て1人用個室は撤去され客用扉も1箇所になった。 :1991年にパンタグラフ半減工事が実施され、集電装置は撤去された。 [[File:100 V9 Grand Hikari Tokyo 199701.jpg|240px|thumb|121形 (121-3009)]] ;121形 (Mc) :普通席を備える制御電動車。V編成1号車として126形とペアを組んで使用される。前位に博多向き運転台、後位に便所・洗面所を備え、主制御器・抵抗器・補助電源装置・蓄電池・LCXアンテナなどを搭載する。0番台は存在しない。 ;122形 (M'c) :普通席を備える制御電動車。V編成16号車として125形とペアを組んで使用される。後位に東京向き運転台を備え、集電装置・主変圧器・整流装置・運転用[[インバータ]]装置などを搭載する。0番台は存在しない。 :1990年3月にパンタグラフ半減工事が実施され、集電装置は撤去された。ただし、3008, 3009の2両は新製時から集電装置を搭載していなかった<ref name="RF389_34">[[#鉄道ファン389_2|『鉄道ファン』通巻389号、p.34]]</ref>。 [[File:X2 123-1 Hamamatsu Works Open Day 20100725.jpg|240px|thumb|123形 (123-1)]] ;123形 (Tc) :普通席を備える[[制御車]]。X・G編成1号車として使用される。前位に博多向き運転台、後位に便所・洗面所を備え、LCXアンテナなどを搭載する。 ;124形 (T'c) :普通席を備える制御車。X・G編成16号車として使用される。後位に東京向き運転台を備え、運転用インバータ装置などを搭載する。 {{-}} ;125形 (M) :普通席を備える中間電動車。116形・122形・126形とペアを組んで使用される。 [[File:JRW Shinkansen Series 100 K53 sets 125-3014.jpg|240px|thumb|125形3000番台 (125-3014)]] :;0, 3000, 9000番台 ::X・G編成3・5・13・15号車、V編成3・13・15号車、K編成5号車として使用される。後位に便所・洗面所を備え、主制御器・抵抗器・補助電源装置・蓄電池などを搭載する。 :;500, 9500番台 ::X・G編成7号車として使用される。後位に便所・洗面所・業務用室・多目的室・電話室を備え、主制御器・抵抗器・補助電源装置・蓄電池などを搭載する。 [[File:JRW Shinkansen Series 100 K53 sets 125-3705.jpg|240px|thumb|125形3700番台 (125-3705)]] :;700, 3700, 9700番台 ::X・G・V編成11号車、K・P編成3号車として使用される。後位に便所・洗面所・車内販売準備室・車椅子対応設備・多目的室を備え、主制御器・抵抗器・補助電源装置・蓄電池などを搭載する。 :;3800番台 ::V編成5号車として使用される。後位に便所・洗面所・車販準備室・多目的室を備え、主制御器・抵抗器・補助電源装置・蓄電池などを搭載する。 ;126形 (M') [[File:JRW Shinkansen Series 100 K53 sets 126-3025.jpg|240px|thumb|126形 (126-3025)]] :普通席を備える中間電動車。X・G・V編成2・4・6・12・14号車、K編成2号車、P編成2号車として121形もしくは125形とペアを組んで使用される。集電装置・主変圧器・整流装置・電動空気圧縮機などを搭載する。 {{-}} ;148形 (T'sbd) :グリーン席とカフェテリアを併設する2階建て中間付随車。G編成8号車として使用される。1階にはカフェテリアが、2階にはグリーン席が設置された。 ;149形 (Tsd) :グリーン席を備える2階建て中間付随車。1階にグリーン個室、2階にグリーン席が設置された。 :;0番台 ::X・G編成9号車として使用される。グリーン個室は1人用5室、2人用3室、3人用1室が設置された。G1 - G3編成には当初0番台が連結されていたが、グリーン個室の配置を見直したことにより100番台に改番された。 :;100番台 ::G編成9号車として使用される。グリーン個室は1人用3室、2人用3室、3人用1室、4人用1室が設置された。 :;9000番台 ::X0 → X1編成9号車として使用される。 [[File:Shinkansen 168-9001.JPG|240px|thumb|168形 (168-9001)]] ;168形 (T'dd) :売店(1階)と食堂(2階)を備える2階建て中間付随車。 :;0, 9000番台 ::X編成8号車として使用される。この形式のみ、9000番台も大窓仕様である。 :;3000番台 ::V編成8号車として使用される。車端部分が両側とも[[切妻造|切妻]]になっている。 ;178形 (T'sd) :普通席(1階)、グリーン席(2階)を備える2階建て中間付随車。V編成10号車として使用される。博多方に車掌室を備え、[[音響・映像機器|AV機器]]用インバータ装置を搭載する。0番台は存在しない。 ;179形 (Tsd) :普通席(1階)、グリーン席(2階)を備える2階建て中間付随車。0番台は存在しない。 :;3000番台 ::V編成7号車として使用される。業務用室を備える。 :;3100番台 ::V編成9号車として使用される。電話室を備える。 ==== 主要諸元 ==== {|class="wikitable" style="font-size:85%;" !形式!!車両番号!!定員!!重量!!製造数!!総数!!備考 |- |rowspan="2"| 116 || 1 - 56 || 68名 || 54.3&nbsp;t || 56両 || rowspan="2"| 57両 || |- |9001 || 60 → 68名 || 55.3&nbsp;t || 1両 || 小窓、個室撤去による定員の増加 |- |121 || 3001 - 3009 || 65名 || 54.3&nbsp;t || 9両 || 9両 || |- |122 || 3001 - 3009 || 65名 || 54.9&nbsp;t || 9両 || 9両 || |- |rowspan="2"| 123 || 1 - 56 || rowspan="2"|80名 || 49.0&nbsp;t || 56両 || rowspan="2"| 57両 || |- |9001 || 49.5&nbsp;t || 1両 || 小窓、車内設備は0番台と同様 |- |rowspan="2"| 124 || 1 - 56 || rowspan="2"|80名 || 46.1&nbsp;t || 56両 || rowspan="2"| 57両 || |- |9001 || 48.0&nbsp;t || 1両 || 小窓、車内設備は0番台と同様 |- |rowspan="9"| 125 || 1 - 224 || 90名 || 52.3&nbsp;t || 224両 || rowspan="9"| 387両 || |- |501 - 556 || 80名 || 52.9&nbsp;t || 56両 || 多目的室付き |- |701 - 756 || 73名 || 52.7&nbsp;t || 56両 || 車椅子対応設備、多目的室、車販準備室付き |- |3001 - 3027 || 90名 || 51.6&nbsp;t || 27両 || 車内設備は0番台と同様 |- |3701 - 3709 || 73名 || 52.3&nbsp;t || 9両 || 車内設備は700番台と同様 |- |3801 - 3809 || 80名 || 52.0&nbsp;t || 9両 || 多目的室、車販準備室付き |- |9001 - 9004 || 90名 || 53.0&nbsp;t || 4両 || 小窓、車内設備は0番台と同様 |- |9501 || 80名 || 54.1&nbsp;t || 1両 || 小窓、車内設備は500番台と同様 |- |9701 || 73名 || 53.7&nbsp;t || 1両 || 小窓、車内設備は700番台と同様 |- |rowspan="3"| 126 || 1 - 280 || 100名 || 52.3&nbsp;t || 280両 || rowspan="3"| 330両 || |- |3001 - 3045 || 100名 || 52.1&nbsp;t || 45両 || 車内設備は0番台と同様 |- |9001 - 9005 || 100名 || 54.6&nbsp;t || 5両 || 小窓、車内設備は0番台と同様 |- |148 || 1 - 50 || 85名 || 57.0&nbsp;t || 50両 || 50両 || |- |rowspan="3"| 149 || 1 - 9 || 56名 || 56.2&nbsp;t || 9両 || rowspan="3"| 57両 || 後に7, 8, 9は101, 102, 103に改番された。 |- |104 - 150 || 58名 || 56.2&nbsp;t || 47両 || |- |9001 || 64 → 56名 || 56.2&nbsp;t || 1両 || 小窓、個室配置を1人用3室と3人用6室から、1人用4室、2人用3室と3人用1室に変更。 |- |rowspan="3" | 168 || 1 - 6 || (44名) || 56.3&nbsp;t || 6両 || rowspan="3" | 16両 || |- |9001 || (44名) || 56.5&nbsp;t || 1両 || 車内設備は0番台と同様 |- |3001 - 3009 || (40 → 44名) || 55.1&nbsp;t || 9両 || |- |178 || 3001 - 3009 || 43名 || 56.3&nbsp;t || 9両 || 9両 || |- |rowspan="2" | 179 || 3001 - 3009 || 40名 || 56.3&nbsp;t || 9両 || rowspan="2" | 18両 || |- |3101 - 3109 || 40名 || 56.3&nbsp;t || 9両 || |} === 編成一覧表 === {| class="wikitable" |+100系0番台(X編成) !編成 !落成 !編成名削除 !備考 !次車区分 |- |X1 |1985年3月27日 |2000年3月15日 |量産先行試作車 | |- |X2 |1986年7月16日 |2000年5月1日 | | rowspan="4" |1・2次車 |- |X3 |1986年6月12日 |2000年1月27日 | |- |X4 |1986年8月4日 |2000年8月21日 | |- |X5 |1986年6月30日 |1999年7月30日 | |- |X6 |1987年3月18日 |2000年10月7日 | | rowspan="2" |3次車 |- |X7 |1987年3月24日 |2000年11月10日 | |} {| class="wikitable" |+100系0番台(G編成) !編成 !落成 !編成名削除 !備考 !次車区分 |- |G1 |1988年2月17日 |2003年9月1日 | rowspan="7" |のちにJR西日本に転属 | rowspan="3" |4次車 |- |G2 |1988年2月9日 |2003年11月27日 |- |G3 |1988年3月9日 |2002年12月3日 |- |G4 |1988年12月7日 |2004年1月20日 | rowspan="12" |5次車 |- |G5 |1989年1月10日 |2003年7月15日 |- |G6 |1989年2月13日 |2001年1月22日 |- |G7 |1988年12月2日 |2004年3月31日 |- |G8 |1989年1月9日 |2002年8月8日 | |- |G9 |1989年2月10日 |2001年3月14日 | |- |G10 |1989年3月9日 |2001年12月3日 | |- |G11 |1989年1月18日 |2003年2月25日 | |- |G12 |1989年2月22日 |2000年12月11日 | |- |G13 |1989年2月8日 |2001年1月15日 | |- |G14 |1989年3月8日 |2001年2月15日 | |- |G15 |1989年3月7日 |2002年2月4日 | |- |G16 |1989年4月21日 |2001年3月12日 | | rowspan="5" |6次車 |- |G17 |1989年6月14日 |2001年5月31日 | |- |G18 |1989年7月31日 |2001年9月21日 | |- |G19 |1989年9月6日 |2001年7月5日 | |- |G20 |1989年8月31日 |2002年4月23日 | |- |G21 |1989年10月11日 |2002年1月27日 | | rowspan="11" |7次車 |- |G22 |1990年1月24日 |2001年8月26日 | |- |G23 |1990年3月7日 |2002年7月8日 | |- |G24 |1989年7月12日 |2003年6月18日 | |- |G25 |1989年8月9日 |2001年4月27日 | |- |G26 |1989年9月13日 |2001年6月29日 | |- |G27 |1990年2月10日 |2002年4月30日 | |- |G28 |1989年11月1日 |2002年3月28日 | |- |G29 |1989年12月25日 |2001年11月5日 | |- |G30 |1990年3月10日 |2002年7月4日 | |- |G31 |1990年1月28日 |2001年12月6日 | |- |G32 |1990年11月14日 |2003年8月11日 | | rowspan="10" |8次車 |- |G33 |1990年4月25日 |2003年4月23日 | |- |G34 |1990年7月25日 |2003年3月25日 | |- |G35 |1990年6月8日 |2002年9月11日 | |- |G36 |1990年6月14日 |2003年5月22日 | |- |G37 |1991年2月8日 |2003年1月27日 | |- |G38 |1990年6月27日 |2002年10月11日 | |- |G39 |1990年4月5日 |2002年5月23日 | |- |G40 |1990年7月7日 |2003年7月16日 | |- |G41 |1990年7月3日 |2002年11月25日 | |- |G42 |1991年3月27日 |2003年10月9日 | | rowspan="4" |9次車 |- |G43 |1991年1月30日 |2002年11月5日 | |- |G44 |1991年1月9日 |2003年12月4日 | |- |G45 |1991年3月4日 |2002年12月21日 | |- |G46 |1992年2月26日 |2003年11月6日 | | rowspan="5" |10次車 |- |G47 |1991年9月11日 |2004年2月2日 | |- |G48 |1992年1月22日 |2003年9月9日 | |- |G49 |1991年5月17日 |2004年1月7日 | |- |G50 |1992年1月13日 |2004年3月1日 | |} {| class="wikitable" |+100N系(V編成) !編成 !落成 !編成名削除 !短編成化改造 !次車区分 |- |V1 |1989年3月7日 |2000年7月3日 |P1・P4・P7 | rowspan="2" |1次車 |- |V2 |1989年2月10日 |2002年11月25日 |K59・P10 |- |V3 |1989年6月29日 |2002年5月27日 |K54・P8・P12 |2次車 |- |V4 |1989年12月18日 |2002年6月25日 |K56・P9 |3次車 |- |V5 |1990年7月5日 |2002年2月12日 |K53・K57 | rowspan="2" |4次車 |- |V6 |1990年12月14日 |2000年8月24日 |P2・P3・P5 |- |V7 |1991年3月26日 |2001年11月9日 |K51・K55 |5次車 |- |V8 |1991年7月5日 |2001年9月30日 |P6・K52・P11 | rowspan="2" |6次車 |- |V9 |1991年12月12日 |2002年9月25日 |K58・K60 |} {| class="wikitable" |+100系5000番台(P編成) !編成 !竣工 !編成名削除 !元編成 |- |P1 |2000年8月25日 |2010年7月6日 |V1 |- |P2 |2000年10月10日 |2009年2月9日 |V6 |- |P3 |2001年3月8日 |2011年5月25日 |V6 |- |P4 |2001年8月21日 |2011年4月4日 |V1 |- |P5 |2001年11月23日 |2011年2月7日 |V6 |- |P6 |2001年12月7日 |2011年3月16日 |V8 |- |P7 |2003年8月29日 |2011年6月8日 |V1 |- |P8 |2004年1月9日 |2011年3月1日 |V3 |- |P9 |2004年4月16日 |2011年4月15日 |V4 |- |P10 |2004年7月31日 |2010年4月19日 |V2 |- |P11 |2004年12月14日 |2010年5月18日 |V8 |- |P12 |2005年3月31日 |2010年8月10日 |V3 |} {| class="wikitable" |+100系5000番台(K編成) !編成 !竣工 !編成名削除 !元編成 |- |K51 |2002年1月10日 |2009年4月1日 |V7 |- |K52 |2002年4月1日 |2011年12月1日 |V8 |- |K53 |2002年4月18日 |2012年4月9日 |V5 |- |K54 |2002年8月6日 |2012年4月23日 |V3 |- |K55 |2002年8月22日 |2012年3月21日 |V7 |- |K56 |2002年9月26日 |2011年5月9日 |V4 |- |K57 |2002年12月10日 |2011年9月12日 |V5 |- |K58 |2003年1月9日 |2011年10月13日 |V9 |- |K59 |2003年4月14日 |2011年12月26日 |V2 |- |K60 |2003年8月5日 |2011年11月9日 |V9 |} == 各編成の概要 == === X編成 === {{鉄道車両 | 車両名 = X編成 | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = JR tokai shinkansen 100kei.jpg | 画像説明 = X3編成「ひかり」([[1987年]]撮影) | 運用者 = {{Plainlist| * [[日本国有鉄道]] * [[東海旅客鉄道]] }} | 製造年 = [[1985年]] - [[1987年]] | 製造数 = 7編成 112両 | 運用開始 = 1985年10月1日 | 運用終了 = 1999年10月1日 | 廃車 = [[2000年]] | 編成 = {{Plainlist| * 16両([[MT比|12M4T]] / X編成) * 12両(10M2T / 暫定G編成) }} | 最高運転速度 = 220 km/h | 設計最高速度 = | 起動加速度 = 1.6 km/h/s<ref group="**" name="100 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=33|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 常用減速度 = | 非常減速度 = | 減速度 = | 編成定員 = {{Plainlist| * X編成:計1,277名(124名) * 暫定G編成:計1,031名(68名) * ()内はグリーン車 }} | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 838.5 t | 編成長 = {{Plainlist| * 402.1 m(X編成)<ref group="**" name="100 spec" /> * 302.1 m(暫定G編成) }} | 台車 = IS式ダイレクトマウント空気ばね台車{{Plainlist| * DT202(電動車) * TR7000(付随車) }} | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] MT202<ref group="**" name="RM238_26_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref> | 主電動機出力 = 230 kW × 4 | 歯車比 = 2.41<ref group="**" name="100 spec" /> | 編成出力 = 11,040 kW<ref group="**" name="100 spec2">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=86|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = {{ローレル賞|26|1986|link=no}} }} [[1985年]]から[[1987年]]に落成した100系初の編成。先頭車と2階建車両各2両の計4両が付随車である。2階建車両は8号車と9号車に組み込まれ、8号車は食堂車、9号車は階上がグリーン車・階下がグリーン個室(1人用5室、2人用3室、3人用1室)である。 ==== 試作車(X0 → X1編成) ==== 試作車である9000番台X0編成(1985年3月27日落成・1986年8月から10月にかけて量産化改造を実施し、X1に改番)は、量産車とは以下にあげる違いが見られた。 * 前照灯の角度が大きめであり、16号車(124-9001)の窓下の桟がV字型となっている。 * 食堂車である8号車の168形を除いて小窓である。 * 9号車の東京方に出入り口はなく、10号車の博多方には出入り口があった<ref name="100 X0" />。 ** 量産化改造を経て、9号車の荷物室の位置に出入り口が新たに設置され、10号車のそれは撤去されて新たに荷物室となった<ref name="100 X0" />。 * 9号車1階部分はグリーン個室の仕様が決定していなかったことから何も設置されず<ref name="RF389_21">[[#鉄道ファン389_1|『鉄道ファン』通巻389号、p.21]]</ref>、平屋構造の10号車(116-9001)博多方に個室(1人用2室・2人用1室)が設置されていた。 ** 後に9号車の1階部分にも個室(1人用4室・3人用6室)が設置された<ref name="100 X0">{{Cite book|和書|editor=須田寛 |title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|page=102|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>。量産車との設備統一を目的として[[1986年]]に、10号車の個室は撤去され、9号車の個室の配置を量産車にあわせた。 * 貫通路の高さが0系と同じ1,800&nbsp;mm(量産車は1,900&nbsp;mm)である<ref name="RF389_21" />。 * 特高圧引き通し準備工事の実施(X2編成以降はコスト削減のために未実施)<ref name="RM238_21" />。 1985年3月27日に公式試運転を東京駅 - 三島駅間で行った<ref name="RM238_17" />。その後、直ちに営業運転に使用せず、4月には東京駅 - 博多駅間で営業速度での試験を実施した<ref name="RM238_17" />。さらに、9月まで速度向上試験を実施し[[米原駅]] - [[京都駅]]間で230&nbsp;km/hを、小郡駅(現・[[新山口駅]]) - [[新下関駅]]間で260&nbsp;km/hを記録した<ref name="RM238_17" />。 1985年10月1日から「ひかり3号」(東京8:00発博多行き)と折り返し「ひかり28号」(博多15:45発東京行き)の1往復(いずれもWひかり。ただし後者は基本停車駅に小郡駅を追加)で営業運転を開始した<ref name="RF389_21" />。食堂車の担当は日本食堂。当日は、営業運転開始に当たって東京駅で出発式が行われた<ref>{{Cite book|和書|editor=須田寛 |title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|page=47|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>。ただし、1編成しか在籍していなかったため、検査日は0系が代走した。 なお、当編成は0系37・38次車<ref group="注">38次車が0系の最終増備車両である。</ref>よりも先に落成している。反対に、100系の最終増備編成であるG46編成は[[新幹線300系電車|300系]]の量産車第1号であるJ2編成より後に落成した{{refnest|group="注"|J2編成の各車両は[[1992年]][[2月5日]]、100系G46編成の各車両は[[2月28日]]落成<ref>交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1992年8月号 No.376 P.83</ref>。}}が、G46編成の方が先に廃車になった。 ==== 1 - 3次車 ==== [[1986年]]落成の量産車である1次車(4編成48両)は2階建車両のない12両編成(暫定'''G'''編成・G1 - G4)として搬入され、[[6月13日]]から東京 - 新大阪間の「こだま」12本(下り7本・上り5本)に運用された<ref>{{Cite book|和書|editor=須田寛 |title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|page=170|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>{{Sfn|福原|2021|p=120}}。これは、100系が既に登場した当時、「こだま」用車両の置き換えとして0系を製造するのも今更どうかということになったためである<ref name="RF389_21" />。車椅子対応設備・多目的室は「ひかり」用編成が11号車なのに対して、「こだま」用編成ということで0系12両編成と同じ5号車となった。<ref>鉄道ファン 1986年9月号 新車ガイド1、鉄道ジャーナル 1986年9月号 100系電車量産車</ref> {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+暫定G編成(12両) 編成表 |colspan="2" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="12" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|新大阪|東京}} |- !colspan="2"|号車 | 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 || 11 || 12 |- !colspan="2"|形式 |123形<br /> (Tc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M5) |116形<br /> (M's) |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |124形<br /> (T'c) |- !rowspan="4"|編成 !G1 | 1 || 1 || 1 || 2 || 701 || 3 || 501 || 1 || 2 || 4 || 3 || 1 |- !G2 | 2 || 5 || 4 || 6 || 702 || 7 || 502 || 2 || 5 || 8 || 6 || 2 |- !G3 | 3 || 9 || 7 || 10 || 703 || 11 || 503 || 3 || 8 || 12 || 9 || 3 |- !G4 | 4 || 13 || 10 || 14 || 704 || 15 || 504 || 4 || 11 || 16 || 12 || 4 |} [[File:168-9001 Hamamatsu 20010804.jpg|thumb|220px|食堂車168-9001(一般公開時)]] 12両G編成は、2次車(中間車のみ・12両)が組込まれて16両編成化され<ref group="注">G編成5号車と9号車を交換し7・8号車間に新8・9号車となる2階建て車両〈168形・149形〉と9・10号車間に新12・13号車となる平屋車両〈126形・125形〉を挿入。</ref>、編成番号をX2 - X5に変更した。11月からは「ひかり」として営業運転を開始した。同時に、最高速度が220&nbsp;km/hに向上された。分割民営化直前の[[1987年]]3月に3次車2本 (X6・X7編成)が落成され、X編成の増備は終了した。 分割民営化時にJR西日本にX6編成とX7編成を継承する案もあったが{{Sfn|福原|2021|p=158}}、結果X1 - X7の全編成がJR東海に承継された。 ==== 運用推移 ==== 東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に運用されており、運用によっては1日の走行距離が2,500&nbsp;km以上にも達し<ref group="注">後に300系で3,000&nbsp;km/日の運用が出現した。</ref>、7編成しかないことから0系H編成のように走行距離を平滑化するのは難しく<ref group="注">閑散期はJR西日本の0系H編成で代走する時もあった。</ref>、検査周期も他の編成に比べて極端に短かった。[[1998年]][[10月2日]]の「ひかり126号」(新大阪発東京行き:X1編成)を最後にX編成の食堂車営業と「ひかり」運用が終了し、以降は東海道区間の「こだま」のみとなった。総走行距離が車齢に比して多かったことから、0系Y{{small|K}}編成の撤退半月後である1999年10月1日の「こだま429号」(東京発新大阪行き:X1編成)を最後に定期列車の運用から離脱した。K・P編成へは転用されず、同年8月から[[2000年]]11月にかけて全車が廃車となった<ref>{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=新幹線電車データブック2011 |year=2011 |publisher=交通新聞社 |pages=109-112|id=ISBN 9784330198118}}</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+X編成 編成表 |colspan="2" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="16" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !colspan="2"|形式 |123形<br /> (Tc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M5) |style="background-color:#ff9;"|168形<br /> (T'dd) |style="background-color:#cf9;"|149形<br /> (Tsd) |style="background-color:#cf9;"|116形<br /> (M's) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |124形<br /> (T'c) |- !colspan="2"|座席 |colspan="7"|普通車 |style="background-color:#ff9;"|食堂車 |colspan="2" style="background-color:#cf9;"|グリーン車 |colspan="6"|普通車 |- !rowspan="7"|編成 !X1 | 9001 || 9001 || 9001 || 9002 || 9002 || 9003 || 9501 || 9001 || 9001 || 9001 || 9701 || 9004 || 9003 || 9005 || 9004 || 9001 |- !X2 | 1 || 1 || 1 || 2 || 2 || 3 || 501 || 1 || 1 || 1 || 701 || 17 || 13 || 4 || 3 || 1 |- !X3 | 2 || 5 || 4 || 6 || 5 || 7 || 501 || 2 || 2 || 2 || 702 || 18 || 14 || 8 || 6 || 2 |- !X4 | 3 || 9 || 7 || 10 || 8 || 11 || 503 || 3 || 3 || 3 || 703 || 19 || 15 || 12 || 9 || 3 |- !X5 | 4 || 13 || 10 || 14 || 11 || 15 || 504 || 4 || 4 || 4 || 704 || 20 || 16 || 16 || 12 || 4 |- !X6 | 5 || 21 || 17 || 22 || 18 || 23 || 505 || 5 || 5 || 5 || 705 || 24 || 19 || 25 || 20 || 5 |- !X7 | 6 || 26 || 21 || 27 || 22 || 28 || 506 || 6 || 6 || 6 || 706 || 29 || 23 || 30 || 24 || 6 |} === G編成 === {{鉄道車両 | 車両名 = G編成 | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = Shinkansen-100-Hikari.jpg | 画像説明 = G編成「ひかり」([[1991年]]ごろ撮影) | 運用者 = {{Plainlist| * [[東海旅客鉄道]] * [[西日本旅客鉄道]] }} | 製造年 = [[1987年]] - [[1992年]] | 製造数 = 50編成 800両 | 運用開始 = [[1988年]][[3月13日]] | 運用終了 =[[2003年]][[9月16日]](東海道新幹線) | 廃車 = 2004年 | 編成 = 16両([[MT比|12M4T]]) | 最高運転速度 = 220 km/h | 設計最高速度 = | 起動加速度 = 1.6 km/h/s<ref group="**" name="100 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=33|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 常用減速度 = | 非常減速度 = | 編成定員 = 計1,321名(168名)<br />()内はグリーン車 | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 839.2 t | 編成長 = 402.1 m<ref group="**" name="100 spec" /> | 全長 = | 全幅 = | 全高 = | 台車 = IS式ダイレクトマウント空気ばね台車 {{Plainlist| * (W) DT202(電動車) * (W) TR7000(付随車) }} | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] MT202<ref group="**" name="RM238_26_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref> | 主電動機出力 = 230 kW × 4 | 歯車比 = 2.41 | 編成出力 = 11,040 kW<ref group="**" name="100 spec2">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=86|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 制動装置 = | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = }} [[File:100Cafe2.jpg|thumb|220px|G編成末期のカフェテリア]] {{Double image aside|right|Only one person compartment of 100 Series Shinkansen.jpg|120|Shinkansen100-koshitu4.jpg|120|1人用個室|4人用個室}} [[1987年]]から[[1992年]]までに落成した編成で、製造当初はJR東海のみ所有していた。「100'(ダッシュ)系」とも呼称される{{Sfn|福原|2021|p=154}}。車両番号のハイフン以下の数字はX編成からの通し番号だった。 X編成と同じく先頭車と8号車と9号車に組み込まれる2階建車両各2両が付随車である。2階建車両のうち9号車はX編成と同じくグリーン車とグリーン個室であるが、「ひかり」の利用客が増加傾向にあったことや東京駅 - 新大阪駅間で重点的に運用することを念頭におき、0系と比べて個室を除いたグリーン車定員が少ない<ref group="注">100系X編成で110名なのに対し、0系「ひかり」編成は132名であった。</ref> ことから、8号車については食堂車の設定をやめ、階上にグリーン車・階下に[[カフェテリア]]を設け、グリーン車の定員を増やした<ref name="RP497_62">[[#鉄道ピクトリアル497|『鉄道ピクトリアル』通巻497号、p.62]]</ref>。16両1編成の製造価格は31億円とされており、後継車両である300系と比べると2 - 3割小さい<ref>『鉄道ジャーナル』2012年7月号、鉄道ジャーナル社、2012年、p.75</ref><ref>[[葛西敬之]]「国鉄改革の真実」(2007)p.327</ref>。 1編成に対して1社が製造を担当したが、技術力の向上とコスト削減を目的として、6両(G30・G37・G50編成の12・13号車)が浜松工場で製造された<ref>{{Cite book|和書|title=新幹線、国道1号を走る|year=2009|publisher=交通新聞社|editor=梅原淳・東良美季|pages=190-191|id=ISBN 9784330101095}}</ref>。車両製造のため、浜松工場の従業員22名が日本車輌製造豊川製作所で8か月もしくは10か月の間研修を受けている<ref>{{Cite book|和書|title=新幹線、国道1号を走る|year=2009|publisher=交通新聞社|editor=梅原淳・東良美季|page=174|id=ISBN 9784330101095}}</ref>。なお、該当編成の残り14両は豊川製作所が担当した<ref>{{Cite book|和書|title=新幹線、国道1号を走る|year=2009|publisher=交通新聞社|editor=梅原淳・東良美季|page=192|id=ISBN 9784330101095}}</ref>。 ==== 4次車 ==== G編成としての最初の編成であるが、X編成から連続して扱われたため4次車となっている。山陽新幹線博多開業用として増備された0系16・17次車置き換え用として<ref name="100 youto">{{Cite book|和書|editor=須田寛 |title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|page=88|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>、1988年2月から3月にかけて3編成48両(G1 - G3編成)が落成した<ref name="RF389_30">[[#鉄道ファン389_1|『鉄道ファン』通巻389号、p.30]]</ref>。 新製時、8号車が食堂車(168形)からカフェテリア・グリーン合造車(148形)に変更された以外はX編成と同様であった。1989年1月から2月にかけて、5次車以降と個室配置を統一するための工事(1人用2室を4人用1室に変更)を実施した{{Sfn|福原|2021|p=154-155}}。それに伴い、車両番号の変更が行われた(149-7, 8, 9 → 149-101, 102, 103)。 ==== 5次車 ==== 山陽新幹線博多開業用として増備された0系16 - 20次車置き換え用として<ref name="100 youto" />、1988年12月から1989年3月にかけて12編成192両(G4 - G15編成)が落成した<ref name="RF389_30" />。 落成時から個室配置が、1人用3室、2人用3室、3人用・4人用各1室となっている。 ==== 6・7次車 ==== 0系16 - 20次車置き換え用として<ref name="100 youto" />、6次車として1989年4月から9月にかけて5編成80両(G16 - G20編成)が、7次車として1989年7月から1990年3月にかけて11編成176両(G21 - G31編成)が落成した<ref name="RF389_30" />。 普通車座席に足掛けとバケット形状の座席が採用され<ref name="RM238_24">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.24]]</ref>、カフェテリア通路部分のポールの本数が5本から4本に減らされている<ref name="RF389_21" />。また、東海道区間の[[AT饋電方式|ATき電化]]への準備としてパンタカバー設置と特高圧引き通し準備工事が施された<ref name="RM238_25">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.25]]</ref>。 ==== 8次車 ==== 0系16 - 20次車置き換え用として<ref name="100 youto" />、1990年4月から1991年2月にかけて10編成160両(G32 - G41編成)が落成した<ref name="RF389_30" />。 視認性を向上させるため、電光掲示板の文字の拡大と行先表示器への蛍光灯内蔵、2・3人用個室のデザイン変更が行われた。このため、電光掲示板の時計と距離表示は省略された。電光掲示板の改良は既存編成には行われていない。 ==== 9・10次車 ==== 「ひかり」運用の増加に対応するため、9次車として1991年1月から3月にかけて4編成64両(G42 - G45編成)が、10次車として1991年5月から1992年2月にかけて5編成80両(G46 - G50編成)が落成した<ref name="RF389_30" />。1992年2月26日落成のG46編成が100系の最終増備編成である<ref name="RF389_43">[[#鉄道ファン389_3|『鉄道ファン』通巻389号、p.43]]</ref>。 落成時から特高圧引き通しの実施と集電装置の削減(2・6・12号車のみ搭載)、集電装置すり板の改良(すり板幅を25&nbsp;mmから40&nbsp;mmに拡大)が行われた<ref name="RM238_25" />。既存編成には追工事の形で対応がなされた。 ==== 運用推移 ==== 1988年3月13日改正で、東京駅 – 新大阪駅間3往復の「ひかり」で運転を開始<ref name="RM238_24" />。当初は東京駅 - 新大阪駅間の「ひかり」のみ使われていたが、増備が進むにつれて運転区間が拡大し、1989年3月11日改正で[[広島駅]]まで<ref name="100G unntennkukan">{{Cite book|和書|title=名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車|year=2000|publisher=[[イカロス出版]]|page=48|id= ISBN 4-87149-296-6}}</ref>、1993年3月18日改正で博多駅まで運転区間を拡大した<ref name="100G unntennkukan" />。それでも、東京駅 - 博多駅間の「ひかり」はX編成やV編成などを使用していたことからG編成が使用されることは少なかったが、X編成が「こだま」へ転用された後は本数が増えた。一方では300系の増備と0系の廃車が進んだために[[1995年]]ごろから「こだま」にも充当されるようになっていた<ref group="注">「こだま」への充当が本格化される以前には、名古屋駅 - 広島駅間と静岡駅 - 岡山駅間にそれぞれ1往復ずつあった「こだま」に充当されていた。</ref>。 2003年9月16日の「ひかり309号」(東京発新大阪行き:G49編成)を最後に東海道新幹線での運用から離脱<ref name="JR-C200309">[https://web.archive.org/web/20030812132210/http://jr-central.co.jp/news.nsf/frame/2003717-23554 東海道新幹線から100系車両が引退します。](JR東海ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2003年時点の版)。</ref>、2004年3月1日のG50編成の廃車を最後にJR東海所属のG編成は消滅した。 山陽新幹線においては、2003年9月15日の「ひかり556号」(博多発新大阪行き:G2編成)を最後に16両編成の営業運転を終了する予定であったが、2004年1月22日に代替編成として使用され、「こだま651号」(岡山発博多行き:G7編成)が最後の営業列車であった<ref name="JRR 2011 56">{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=新幹線電車データブック2011 |year=2011 |publisher=交通新聞社 |page=56|id=ISBN 9784330198118}}</ref>。2004年3月30日にG7編成が廃車となったことでG編成は消滅した。これによって16両編成の100系も消滅した。 {{main|#東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了}} ==== JR西日本への譲渡 ==== [[File:G1 Kodama 464 Nagoya 20030509.JPG|220px|thumb|JR西日本に譲渡されたG1編成]] [[1996年]]にG1 - G3・G6の4本、[[1997年]]にG4・G5・G7の3本、7編成の計112両がJR西日本へ譲渡された<ref name="JRR 2011 56" />。当時JR西日本保有の16両編成のほとんどは0系で、走行距離精算のために東京直通「ひかり」にもJR西日本保有の0系を充てる状況であった。しかし、それでは0系の[[運転曲線]]を基準にしたダイヤを組まなくてはならないため、これを問題視したJR東海がJR西日本に譲渡したものである。また、JR西日本も[[阪神・淡路大震災]]で山陽区間に閉じ込めとなったG編成の検査経験があることから譲渡が実現した。JR西日本に譲渡されたG1 - G7編成は、0系のN<small>H</small>編成の運用をそのまま置き換えたため、運輸上の区別では「N編成」と称されていた<ref name="RM238_30">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.30]]</ref>。譲渡後は東海道直通だけでなく、車両の東海道新幹線内への送り込みと博多総合車両所への返しを兼ねて山陽区間のみの「ひかり」にも使用された<ref group="注">100系消滅後の300系・700系・N700系でも、JR西日本所属車で同様の運用が組まれており、現在のひかり591・592号に相当する。</ref>。そのG編成のうち、[[1999年]][[11月9日]]付けでG6編成の9両<ref group="注">4 - 9, 12, 13, 15号車/125-46 - 48, 512, 126-56 - 59, 148-6, 149-106</ref><ref name="Hikari 100 G">{{Cite book|和書|title=名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車 |year=2000|publisher=[[イカロス出版]]|page=113|id= ISBN 4-87149-296-6}}</ref>、[[2000年]][[2月7日]]付けでG2編成の3両<ref group="注">5, 10, 14号車/125-30, 116-8, 126-40</ref><ref name="Hikari 100 G" />、同年[[3月27日]]付けでG6編成の1両<ref group="注">2号車/126-56</ref><ref name="Hikari 100 G" /> が廃車となり、残った車両で新G2編成を組成した<ref group="注">G2編成の5, 10, 14号車の位置にG6編成の3, 10, 14号車を連結した。</ref>。なお、このとき組成から外れたG6編成の3両<ref group="注">1, 11, 16号車/123-12, 125-706, 124-12</ref> は保留車となり、K・P編成組成時に使用された。なおこの後もJR西日本は700系でJR東海から16両編成の譲渡を受けている。 [[2000年]]以降、JR西日本が所有することとなった「こだま」用のK・P編成を製作する際に必要な先頭車(121形・122形)と[[車椅子スペース]]設置車(125形3700番台)が不足するため、JR東海所有のG編成のうちG9・G10・G15・G19・G30・G43編成<ref group="注">回送・譲渡日時は、G9:2001年3月14日、G10:2002年2月4日、G15:2001年12月5日、G19:2001年7月5日、G30:2002年7月4日、G43:2002年11月5日。</ref> が、8両に減車(1/2/11/12/13/14/15/16号車)されて浜松工場から博多総合車両所まで自力回送された<ref name="Umehara Toura">{{Cite book|和書|title=新幹線、国道1号を走る|year=2009|publisher=交通新聞社|editor=梅原淳・東良美季|pages=192-193|id=ISBN 9784330101095}}</ref>。回送された車両のうち、両先頭車(123形・124形)と車椅子スペース設置車(125形700番台)がJR西日本に譲渡され<ref>『鉄道ファン』2003年7月号、交友社、2003年、p.91</ref>、譲渡されなかった車両は博多総合車両所で廃車・解体された<ref name="Umehara Toura" />。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+G編成 編成表 !colspan="2" style="background-color:#ccc; width:5em;"|&nbsp; |colspan="16" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !colspan="2"|形式 |123形<br /> (Tc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M5) |style="background-color:#cf9;"|148形<br /> (T'sbd) |style="background-color:#cf9;"|149形<br /> (Tsd) |style="background-color:#cf9;"|116形<br /> (M's) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |124形<br /> (T'c) |- !colspan="2"|座席 |colspan="7"|普通車 |colspan="3" style="background-color:#cf9;"|グリーン車 |colspan="6"|普通車 |- !rowspan="5"|編成 !G1 | 7 || 31 || 25 || 32 || 26 || 33 || 507 || 1 || 101 || 7 || 707 || 34 || 27 || 35 || 28 || 7 |- !G2 | 8 || 36 || 29 || 37 || 30 || 38 || 508 || 2 || 102 || 8 || 708 || 39 || 31 || 40 || 32 || 8 |- !: | : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : |- !G49 | 55 || 271 || 217 || 272 || 218 || 273 || 555 || 49 || 149 || 55 || 755 || 274 || 219 || 275 || 220 || 55 |- !G50 | 56 || 276 || 221 || 277 || 222 || 278 || 556 || 50 || 150 || 56 || 756 || 279 || 223 || 280 || 224 || 56 |} === V編成 === {{鉄道車両 | 車両名 = 新幹線100N系電車(V編成) | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = JR West grand HIKARI V5.jpg | 画像説明 = V5編成「グランドひかり」 | 運用者 = [[西日本旅客鉄道]] | 製造年 = [[1989年]] - [[1991年]] | 製造数 = 9編成 144両 | 運用開始 = [[1989年]][[3月11日]] | 運用終了 = [[2002年]][[11月23日]] | 消滅 = | 編成 = 16両([[MT比|12M4T]]) | 最高運転速度 = 230 [[キロメートル毎時|km/h]] | 設計最高速度 = 270 km/h<ref group="**" name="SyaryoGijutu187_36" /> | 起動加速度 = 1.4 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]<ref group="**" name="SyaryoGijutu187_36">[[#車両技術187|『車両技術』通巻187号、p.36]]</ref> | 常用減速度 = {{Plainlist| * 1.3 - 1.4 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]] <br />(270 - 230&nbsp;km/h) * 1.4 - 2.6 km/h/s <br />(230 - 70&nbsp;km/h) * 2.6 km/h/s <br />(70 - 0&nbsp;km/h)<ref group="**" name="SyaryoGijutu187_36" /> }} | 非常減速度 = | 編成定員 = 計1,285名(116名)<br />()内はグリーン車 | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 851.8 t<ref group="**" name="RM238_23_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.23]]</ref> | 編成長 = 402.1 m<ref group="**" name="100 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=33|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 全長 = | 全幅 = | 台車 = IS式ダイレクトマウント空気ばね台車{{Plainlist| * WDT202(電動車) * WTR7000(付随車) }} | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] WMT202<ref group="**" name="RM238_26_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref> | 主電動機出力 = 230 kW × 4 | 歯車比 = 2.17 | 編成出力 = 11,040 kW<ref group="**" name="100 spec2">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=86|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = }} {{See also|グランドひかり}} JR西日本が[[1989年]]から[[1991年]]にかけて製造した。投入当初より各所で'''100N系'''と呼称され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_15.pdf|title=データで見るJR西日本2020|publisher=JR西日本|accessdate=2021-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902024085322484|title=JR西日本100N系「グランドひかり」の概要|publisher=電気車の科学|accessdate=2021-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mrdimer.com/blog/bt100n30/|title=JR西日本の本気 “グランドひかり”用100N系新幹線(国鉄民営化30周年を振り返る)|publisher=Mr.DIMER|accessdate=2021-10-16}}</ref>{{Sfn|福原|2021|p=160}}、「グランドひかり」の愛称を持つ。 JR西日本が新設計した車両のため、鉄道事業法に基づき新たに運輸省に車両確認申請書を提出している{{refnest|group="**"|JR東海100系やJR東日本205系などの国鉄から継承した車両を引き続き製造する場合には不要であった{{Sfn|福原|2021|p=162-163}}}}{{Sfn|福原|2021|p=162-163}}。このため書類上国鉄・JR東海100系とは別形式である。 山陽新幹線のシェア拡大を図るために到達時分短縮とアコモデーションの改善を中心に設計・投入されており、X・G編成とは異なる点が多い<ref name="SyaryoGijutu187_34">[[#車両技術187|『車両技術』通巻187号、p.34]]</ref>。また当初は国鉄・JR東海100系と先頭形状を変える案もあったが、結果的に同様の先頭形状に落ち着いている{{Sfn|福原|2021|p=161}}。 V編成による将来の270&nbsp;km/h運転を見据え{{refnest|group="注"|こだまタイプでも240&nbsp;km/h走行を見据えていた<ref name="JREA32-4_44-47">太田芳夫「III西日本旅客鉄道株式会社&mdash;新幹線用2階建電車&mdash;」『JREA』32(4),日本鉄道技術協会,1989年4月,pp.44-47.</ref>}}、270&nbsp;km/hが可能な走行性能が与えられた。具体的には、 * 高速化に伴う車体負荷増加を考慮し、構体の耐圧性能を向上<ref name="SyaryoGijutu187_34" />。 * 力行12ノッチを追加し、12ノッチ投入時に速度が235&nbsp;km/h以上になると、主電動機が80&nbsp;[[パーセント|%]][[電気車の速度制御#界磁を制御する方法|弱め界磁制御]]を行う<ref name="Hikari 100">{{Cite book|和書|title=名列車列伝シリーズ13 新幹線ひかり&新幹線100系電車 |year=2000|publisher=[[イカロス出版]]|page=99|id= ISBN 4-87149-296-6}}</ref>。 ** 主電動機が[[電機子]]の温度上昇防止対策(電機子コイル端部に通風孔を設ける<ref name="RF389_28">[[#鉄道ファン389_1|『鉄道ファン』通巻389号、p.28]]</ref>。)を施した WMT202 に変更<ref name="RM238_26">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref>。 ** 主制御器、主整流器と断流器は弱め界磁制御を新たに行うことから、それぞれCS60、WSR203、WLB29に変更<ref name="Hikari 100" />。 ** 主抵抗器は、発電ブレーキ用と力行界磁分路抵抗を一体化した、強制風冷式の WMR205 を新設計<ref name="SyaryoGijutu187_48">[[#車両技術187|『車両技術』通巻187号、p.48]]</ref>。 * 歯車比の高速化(2.41〈X・G編成〉 → 2.17)を実施<ref name="RM238_26" />。 * 放熱性に優れたベンチレーテッド[[ディスクブレーキ]]を[[渦電流ブレーキ]]にも採用(WECB2)<ref name="RM238_26" />。 また、山陽新幹線区間230&nbsp;km/h走行を行うため、[[自動列車制御装置|ATC]]の220信号を230に読み替える[[トランスポンダ]]車上子を搭載する<ref name="RM238_26" />。通常のATC信号はATC受電器が受信するが、220信号の時のみ、トランスポンダ地上子が230&nbsp;km/h走行を許可するか否かの信号に変換してトランスポンダ車上子に送信する<ref name="RM238_26" />。 環境対策として230&nbsp;km/h走行時の騒音レベルを0系220&nbsp;km/h走行時の騒音レベル以下に抑えるため、2階建て車両を重点的に以下の騒音対策が行われた<ref name="JREA32-4_44-47" /><ref name="JREA32-4_18-19">早田哲司「II東海旅客鉄道株式会社」『JREA』32(4),日本鉄道技術協会,1989年4月,pp.18-19.</ref>。 * 2階建て車両屋根端部(2階建て車両同士の連結部<ref group="注">8、9号車の両側と、7号車の8号車側、10号車の9号車側</ref>)へ切妻屋根化段差カバーを設置、および2階建て車両と連結する平屋車両の屋根端部<ref group="注">6号車の7号車側、11号車の10号車側</ref>へ段差カバーを追加 * 2階建て車両屋根端部の空気取入口のルーバーを上下二分割化 将来さらなる新型車が登場した際に短編成化して運用することを見据え、先頭車を制御電動車とした<ref name=trendy120227 />。それに伴い付随車は2階建車両4両(7 - 10号車)に充てた。 7・9・10号車の3両のうち、階上はX・G編成と共通のグリーン席とした<ref name="SyaryoGijutu187_34" />。一般客の通り抜けをなくして静かな環境を提供し<ref name="SyaryoGijutu187_34" />、座席ごとに[[液晶ディスプレイ|液晶モニター]]が設置され、山陽区間では[[ビデオ|ビデオソフト]]の視聴ができた。階下は普通車指定席でありながら、横4列配置のゆったりとしたサイズの座席(WRK206形)が配置されており、この配置はその後の山陽新幹線向け車両でも踏襲されることとなる。7号車にはビデオスクリーンが、9・10号車には28インチのモニタディスプレイが設置され、ビデオの視聴ができた<ref name="RF198905 30">『鉄道ファン』1989年5月号、交友社、1989年、p.30</ref>。東京駅 - 博多駅間の長距離を運転することが基本であったため、8号車は食堂車とされたが、内装は大きく変更され、階下の売店は面積が2倍に拡大された<ref name="RF198905 30" />。 非常連結器の下に、空気取り入れ口が設けられた<ref name="RM238_27" />。これは、先頭車が電動車となったため、主電動機を冷却するものである。中間電動車は床下から冷却風を取り入れていたが、制御車では[[排障器]](スカート)があり、走行風を取り込みにくいため、この部分から取り入れることになった。 出入口付近に設置してある行先表示器を字幕式から3色LED式<ref group="注">在来線の[[JR西日本221系電車|221系]]もLEDの方向幕。</ref>に変更し、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。これは、JR西日本で新製投入された300系以外の全新幹線車両<ref group="注">N700系ではこれを発展させたフルカラーLED方式がJR西日本車とJR東海車に共通で採用されている。300系は短期間で所要編成数を揃える必要があった事から先に登場していたJR東海車からの大幅な設計変更を避けたため、LED式では無くJR東海車と同一の字幕式が採用された。</ref> に採用されている。 ==== 1次車 ==== 1989年2月から3月にかけて2編成32両(V1・V2編成)が落成した<ref name="JRR 2011 54">{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=新幹線電車データブック2011 |year=2011 |publisher=交通新聞社 |page=54|id=ISBN 9784330198118}}</ref>。 V1編成が270&nbsp;km/h走行対応編成、V2編成は270&nbsp;km/h走行準備工事編成である<ref name="SyaryoGijutu187_34" />。 ==== 2・3次車 ==== 2次車として1989年6月に1編成16両(V3編成)が、3次車として1989年12月に1編成16両(V4編成)が落成した<ref name="JRR 2011 54" />。 ==== 4・5次車 ==== 1990年7月から12月にかけて2編成32両(V5・V6編成)が、5次車として1991年2月に1編成16両(V7編成)が落成した<ref name="JRR 2011 54" />。 グリーン席に新たに5インチの液晶テレビが搭載される<ref name="RM238_27">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.27]]</ref>。既存編成にも追工事の形で行われている<ref name="RM238_27" />。また、大便器の構成が和式便所2か所から洋式便所1か所+和式便所1か所に改められ、洗面所の内装が変更されている。 ==== 6次車 ==== 6次車として1991年7月から12月にかけて2編成32両(V8・V9編成)が落成した<ref name="JRR 2011 54" />。 東海道新幹線のAT饋電化完了後に落成したため、落成時から集電装置の削減(4・6・12・14号車のみ搭載で、6号車のものは予備扱い。)が行われている<ref name="JRR 2011 54" />。 ==== 運用の推移 ==== [[File:100 V restaurant car 19990714.jpg|thumb|240px|「グランドひかり」食堂車全景(1999年撮影)]] 1989年3月11日改正から「ひかり」で運用を開始した。主に朝に山陽新幹線エリアを出発し午後に東京駅に到着する列車、夕方に東京駅を出発し山陽新幹線エリアに到着する列車に運用した。最盛期には1日16本(うち東京 - 博多間運転は13本)を運転していた{{Sfn|福原|2021|p=168-171}}。 その後1993年3月18日ダイヤ改正で300系「のぞみ」が1時間1本で運転するようになると需要の減少に伴い100N系の博多乗り入れを順次削減、主に東京 - 広島間の運転に短縮した{{Sfn|福原|2021|p=172}}。その後2000年3月10日をもって食堂車の営業は休止、山陽新幹線博多開業前年の[[1974年]]から始まった新幹線食堂車の歴史は終了した。その後、700系7000番台の増備により順次置き換えられ、[[2002年]][[5月18日]]で定期列車の運用を終了。同年11月23日の「ひかり563号」(新大阪発博多行き:V2編成<ref group="注">ただし、2階建て車両は状態の良かったV9編成のものと差し替えられた。</ref>)の運転をもって営業運転から離脱した。そして[[11月25日]]にV2編成が編成名削除となり、V編成が消滅した。 {{main|グランドひかり#「グランドひかり」さよなら運転}} 運用は東京駅 - 博多駅間の「ひかり」を中心に使われ、東海道新幹線内運行の「こだま」には最後まで使われなかった<ref group="注">山陽新幹線では「グランドひかり」運転開始直前の足慣らしと運用変更時に「こだま」で使用されたことがある。</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+V編成 編成表 |colspan="2" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="16" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !colspan="2"|形式 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M8) |126形<br /> (M') |style="background-color:#cf9;"|179形<br /> (Tsd) |style="background-color:#ff9;"|168形<br /> (T'dd) |style="background-color:#cf9;"|179形<br /> (Tsd) |style="background-color:#cf9;"|178形<br /> (T'sd) |125形<br /> (M7) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |- !colspan="2"|座席 |colspan="6"|普通車 |style="background-color:#cf9;"|グリーン車<br />普通車 |style="background-color:#ff9;"|食堂車 |colspan="2" style="background-color:#cf9;"|グリーン車<br />普通車 |colspan="6"|普通車 |- !rowspan="5"|編成 !V1 | 3001 || 3001 || 3001 || 3002 || 3801 || 3003 || 3001 || 3001 || 3101 || 3001 || 3701 || 3004 || 3002 || 3005 || 3003 || 3001 |- !V2 | 3002 || 3006 || 3004 || 3007 || 3802 || 3008 || 3002 || 3002 || 3102 || 3002 || 3702 || 3009 || 3005 || 3010 || 3006 || 3002 |- !: | : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : || : |- !V8 | 3008 || 3036 || 3022 || 3037 || 3808 || 3038 || 3008 || 3008 || 3108 || 3008 || 3708 || 3039 || 3023 || 3040 || 3024 || 3008 |- !V9 | 3009 || 3041 || 3025 || 3042 || 3809 || 3043 || 3009 || 3009 || 3109 || 3009 || 3709 || 3044 || 3026 || 3045 || 3027 || 3009 |} === K・P編成 === {{鉄道車両 | 車両名 = K・P編成 | 背景色 = #000000 | 文字色 = #ffffff | 画像 = JRW Shinkansen Series 100 K55.jpg | 画像説明 = K55編成「こだま」([[2008年]]撮影) | 運用者 = [[西日本旅客鉄道]] | 種車 = | 改造年 = 2000年 - 2005年 | 改造数 = K編成:10編成60両<br />P編成:12編成48両 | 運用開始 = 2000年10月4日(P編成) | 運用終了 = 2012年3月16日 | 投入先 = [[山陽新幹線]] | 編成 = 4・6両([[MT比|全電動車編成]]) | 最高運転速度 = 220 km/h<br />120 km/h(博多南線) | 設計最高速度 = | 起動加速度 = 1.6 km/h/s<ref group="**" name="100 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|page=33|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 常用減速度 = | 非常減速度 = | 編成定員 = 394名(K編成)<br />250名(P編成) | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 214.6 t(P編成) | 編成長 = 152.1 m(K編成)<ref group="**" name="100 spec" /><br />102.1 m(P編成)<ref group="**" name="100 spec" /> | 全長 = | 全幅 = | 全高 = | 台車 = IS式ダイレクトマウント空気ばね台車<br /> WDT202(電動車) | 主電動機 = [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] WMT202<ref group="**" name="RM238_26_2">[[#レイルマガジン238|『レイルマガジン』通巻238号、p.26]]</ref> | 主電動機出力 = 230 kW × 4 | 歯車比 = 2.17<ref group="**" name="100 spec" /> | 編成出力 = 5,520 kW(K編成)<br />3,680 kW(P編成) | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = }} 経年が20年<ref>[https://web.archive.org/web/20020808192025/http://www.wjr-fukuoka.com/hakasoHP/recycle/resaikuru1.htm リサイクル新幹線〜100系新幹線 先頭車両化改造〜] 西日本旅客鉄道福岡支社(インターネットアーカイブ)</ref> と老朽化が進行していた「こだま」用0系R編成の大半とQ編成を置き換えるため、長距離運用から離脱した100N系(V編成)に2000年から2005年にかけて短編成化・車両延命工事を実施したものである<ref name="RF532_63">[[#鉄道ファン532_1|『鉄道ファン』通巻532号、p.63]]</ref>。なお改造元は100N系であるが、短編成化したK編成・P編成を100N系として記述することはなく、100系の一種として扱われている。 全車がJR西日本に所属し、6両編成はK編成、4両編成はP編成と呼称される。P編成は2000年から2001年と2003年から2005年に、K編成は2002年から2003年に組成されている。 P編成は2000年10月4日(P1編成)から<ref name="100KP">{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '08冬号|year=2007|publisher=ジェー・アール・アール|page=130|id=ISBN 9784882830481}}</ref>、K編成は2002年2月12日(K51編成)から<ref name="100KP" /> 営業運転に充当されている。全車普通車で構成されている。 前述のとおり、P編成は2011年3月12日のダイヤ改正で運用離脱した。同年[[6月8日]]付のP7編成の廃車をもって、P編成は消滅した。 ==== 短編成化改造 ==== 100N系(V編成)のうち付随車の2階建車両を外し、平屋の電動車108両全てを対象に行った{{Sfn|福原|2021|p=187}}。 16両編成では10号車(116形もしくは178形)に車掌室が設置されていたが、短編成化によってグリーン車と2階建て車両が編成から排除された結果、新たに車掌室を設置する必要が生じたため、P編成は両先頭車乗務員室出入り台に案内用設備を取り付け<ref name="RF532_63" /><ref name="RF532_64">[[#鉄道ファン532_1|『鉄道ファン』通巻532号、p.64]]</ref>、K編成は4号車に車掌室を設置した<ref name="RF532_64" />。 短編成化において、V編成の車両だけでは先頭車(121・122形)と車椅子対応設備設置車(125形3700番台/3号車に組み込み)が不足するため、G編成車体を接合した改造車両(121・122形5050番台、125形3750番台)がK52・K55・K57・K60・P3 - P5・P7 - P12編成の計13本26両に組み込まれる。この改造車両は車両番号の下2桁が50番台で区別されている。なおこの先頭車改造に用いたG編成は既にJR西日本に移籍していた7編成のほか、JR東海で廃車となった6編成を譲り受けている{{Sfn|福原|2021|p=188}}。 V編成では東京方先頭車(16号車・122形)のパンタグラフは撤去されていたが、K・P編成組成時に再設置され、2・6号車(K編成)2・4号車(P編成)に搭載し、高圧引き通し線も設置されている。また先頭車が電動車であることから、元G編成先頭車に対してもV編成同様に非常連結器の下に主電動機冷却用の空気取り入れ口が設けられている{{Sfn|福原|2021|p=188}}。 V編成の先頭車には230&nbsp;km/h走行用トランスポンダ車上子を搭載していたが、G編成を元車とする先頭車には設置がなかったため、車両性能を合わせるために短編成化改造時にトランスポンダ車上子を撤去している。これにより最高速度は220&nbsp;km/hとなっていた{{Sfn|福原|2021|p=188}}。 短編成化改造において新たに発生した番台区分は以下に記す<ref>{{Cite book|和書|title = JR全車輌ハンドブック 2008|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2008-8-1|isbn = 978-4777006663|pages = 568-569|ref = harv}}</ref>。{{-}} ===== 形式詳細 ===== ;121形 (Mc) [[File:JRW Shinkansen Series 100 K56 sets 121-5004.jpg|280px|thumb|121形5000番台 (121-5004)]] :;5000番台 ::K・P編成1号車として126形とペアを組んで使用される。種車は121形3000番台で、230&nbsp;km/h走行用トランスポンダ車上子を撤去している<ref name="RF532_63" />。元番号に2000が加算されている。 ::P編成に組み込まれた5001, 5006, 5008には乗務員室出入り台に、業務用電話、旅客指令操作盤などが取り付けられている<ref name="RF532_63" />。 :;5050番台 [[File:JRW Shinkansen Series 100 K55 sets 121-5055.jpg|280px|thumb|121形5050番台 (121-5055)]] ::K・P編成1号車として126形とペアを組んで使用される。V編成の中間車である125形3000番台にG編成123形0番台廃車体の先頭部を切り継いで先頭車化を行なったもの<ref name="K/P Group">{{Cite book|和書|editor=南谷 昌二郎|title=山陽新幹線 関西・中国・北九州を結ぶ大動脈|year=2005|publisher=JTBパブリッシング|pages=166-168|id=ISBN 9784533058820}}</ref>。G編成のATC装置や列車無線など、ほとんどの機器をそのまま流用している<ref name="RJ200201">{{Cite book|和書|title=鉄道ジャーナル2002年1月号|year=2001|publisher=鉄道ジャーナル社|page=39|id=}}</ref>。G編成で使用していたATC装置はV編成のものと歯車比が違うため、速度入力信号の変更を行った<ref name="RJ200201" />。 ::P編成に組み込まれた5051 - 5053, 5058 - 5063には乗務員室出入り台に、業務用電話、旅客指令操作盤などが取り付けられている<ref name="RF532_63" />。 ::車両概観は121形5000番台車両とほぼ同様であるが、運転台側にあるジャッキアップポイント付近の形状や床下機器ふさぎ板の形状が若干異なる。 ::{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" !125形 |3016||3003||3018||3024||3021||3015||3027||3002||3009||3012||3006||3023||3007 |- !121形 |5051||5052||5053||5054||5055||5056||5057||5058||5059||5060||5061||5062||5063 |} ;122形 (M'c) [[File:JRW Shinkansen Series 100 K59 sets 122-5002.jpg|280px|thumb|122形5000番台 (122-5002)]] :;5000番台 ::K編成6号車、P編成4号車として125形とペアを組んで使用される。種車は122形3000番台で、230&nbsp;km/h走行用トランスポンダ車上子を撤去し、新たに空気圧縮機と集電装置を搭載している<ref name="RF532_64" />。元番号に2000が加算されている。 ::P編成に組み込まれた5001, 5006, 5008には乗務員室出入り台に、自動放送装置、列車案内中央装置、業務用電話、旅客指令操作盤などが取り付けられ、車掌室としている<ref name="RF532_64" /> ほか、博多方デッキに公衆電話が設置されている。 :;5050番台 [[File:JRW Shinkansen Series 100 K55 sets 122-5055.jpg|280px|thumb|122形5050番台 (122-5055)]] ::K編成6号車、P編成4号車として125形とペアを組んで使用される。V編成の中間車である126形3000番台にG編成124形0番台廃車体の先頭部を切り継いで先頭車化を行なったもの<ref name="K/P Group" />。G編成のATC装置や列車無線など、ほとんどの機器をそのまま流用している<ref name="RJ200201" />。G編成で使用していたATC装置はV編成のものと歯車比が違うため、速度入力信号の変更を行った<ref name="RJ200201" />。 ::P編成に組み込まれた5051 - 5053, 5058 - 5063には乗務員室出入り台に、自動放送装置、列車案内中央装置、業務用電話、旅客指令操作盤などが取り付けられ、車掌室としている<ref name="RF532_64" /> ほか、博多方デッキに公衆電話が設置されている。 ::車両概観は122形5000番台車両とほぼ同様であるが、運転台側の床下機器ふさぎ板の形状が若干異なる。 ::{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" !126形 |3028||3003||3027||3038||3033||3023||3043||3002||3013||3018||3008||3036||3011 |- !122形 |5051||5052||5053||5054||5055||5056||5057||5058||5059||5060||5061||5062||5063 |} ;125形 (M) :;3750番台 ::K・P編成3号車として126形もしくは122形とペアを組んで使用される。G編成11号車に連結されていた125形700番台の車体とV編成の電装品を組み合わせたもの<ref name="RF532_64" />。125形3700番台にあわせて客室ドアを空気式から電気式に、方向幕を3色LED式に変更している。 ::3751・3758 - 3763がJR西日本所属の、3752 - 3757がJR東海所属のG編成125形700番台の車体を使用しているが、名義上は3751・3758 - 3763は車体を提供したG編成を種車とし、3752 - 3757は電装品を提供したV編成を種車として処理されている。 ::車両概観は125形3700番台と同様。 ::{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" !rowspan="2"|125形(種車) !車体 |'''712'''||colspan="6"|715・716・721・725・736・749||'''709'''||'''711'''||'''707'''||'''708'''||'''713'''||'''710''' |- !電装品 |3806||'''3801'''||'''3017'''||'''3808'''||'''3807'''||'''3805'''||'''3809'''||colspan="6"|3001・3004・3010・3802 - 3804 |- !colspan="2"|125形 |3751||3752||3753||3754||3755||3756||3757||3758||3759||3760||3761||3762||3763 |} ::*太字は名義上の種車 [[File:JRW Shinkansen Series 100 K56 sets 126-3206.jpg|280px|thumb|126形3200番台 (126-3206)]] ;126形 (M') :;3200番台 ::K編成4号車として125形とペアを組んで使用される。種車は126形3000番台で、博多方2列の座席を撤去して車掌室を組み込んだ<ref name="RF532_64" />。集電装置は撤去されている。博多方デッキに公衆電話が設置されている。 ::{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" !126形 |3032||3037||3022||3012||3031||3017||3021||3042||3007||3041 |- !126形 |3201||3202||3203||3204||3205||3206||3207||3208||3209||3210 |} {|class="wikitable" style="font-size:85%;" |- !形式!!車両番号!!定員!!重量!!改造数!!総数!!備考 |- | rowspan="2"| 121 || 5001 - 5009 || rowspan="2"| 52名 || rowspan="2"| 55.7&nbsp;t || 9両 || rowspan="2"| 22両 || 3000番台からの改造 |- | 5051 - 5063 || 13両 || 中間車を先頭車化したもの<br />車内設備は5000番台と同様 |- | rowspan="2"| 122 || 5001 - 5009 || rowspan="2"| 60名 || rowspan="2"| 56.0&nbsp;t || 9両 || rowspan="2"| 22両 || 3000番台からの改造 |- | 5051 - 5063 || 13両 || 中間車を先頭車化したもの<br />車内設備は5000番台と同様 |- | 125 || 3751 - 3763 || 58名 || 52.3&nbsp;t || 13両 || 13両 || 700番台車両の車体と3000, 3800番台の電装品を利用<br />車内設備は700, 3700番台と同様 |- | 126 || 3201 - 3210 || 72名 || 52.1&nbsp;t || 10両 || 10両 || 車掌室付き |} 最終的にV編成の電動車108両のうち、102両がK・P編成に改造された。残りの6両はG編成(西日本車)から改造したため、改造から漏れた以下の6両は2004年度末までに廃車・解体された。 125-3001(元V1編成)2003年5月21日廃車 125-3803(元V3編成)2003年11月9日廃車 125-3804(元V4編成)2003年11月9日廃車 125-3802(元V2編成)2004年6月7日廃車 125-3010(元V4編成)2004年10月29日廃車 125-3004(元V2編成)2005年3月22日廃車 ==== 座席の種類 ==== P1 - P3編成は当初、V編成普通車の2列+3列のものを流用していたが、K編成とP4 - P12編成は登場当初から2列+2列の座席を使用していた。これには、0系「[[ウエストひかり]]」普通席仕様の座席、100系G・V編成のグリーン席、100系V編成2階建て車両1階席の4種類を再利用している{{Sfn|福原|2021|p=188-189}}。元グリーン席にはフットレストなどの付帯設備を取り外して普通席と同じシートピッチにする方法で、「[[ひかりレールスター]]」の指定席並みの座席にグレードアップした普通車として改造された。ウエストひかりからの流用車の一部(肘掛けのやや大きいもの)は肘掛内蔵テーブルが存置されている。一方、グリーン車から流用した座席では、背面テーブルのある座席は肘掛内蔵テーブルが撤去されているが、背面テーブルのない座席では肘掛内蔵テーブルが存置されている。後に全編成が前述の2列+2列シートに交換された。なお、座席の変更に伴う車両番号の改番はされていない。 '''元ウエストひかり普通車'''と'''元V編成DD1階席'''はシート自体の形が酷似しているが、シートの足の部分(箱型のものが元V編成1階席のもの、そうでないものが元ウエストひかり普通車)で区別ができる。ただし、3号車の車椅子対応の1人掛け座席は、K編成とP7 - P12編成には元V編成、それ以外の編成は元ウエストひかり用のものに車椅子固定用金具が装着された物が設置されている。モケットの色は奇数車両が赤系、偶数車両が青系に統一されている<ref name="RF532_63" />。 '''奇数号車''' <gallery> ファイル:Seat of JR West 100 K53 sets Car No.5.jpg|K53編成5号車 座席<br />元V編成グリーン席 ファイル:Seat of JR West 100 K57 sets Car No.5.jpg|K57編成5号車 座席<br />元G編成グリーン席 ファイル:Seat of JR West 100 P sets.jpg|P1 - P5編成 座席<br />元ウエストひかり普通席 ファイル:Inside of JR West 100 P sets.jpg|車内 </gallery> '''偶数号車''' <gallery> ファイル:Seat of JR West 100 K58 sets Car No.6.jpg|K58編成6号車 座席<br />元V編成グリーン席 ファイル:Seat of JR West 100 K59 sets Car No.2.jpg|K59編成2号車 座席<br />元G編成グリーン席 ファイル:Seat of JR West 100 P8 sets Car No.2.jpg|P8編成2号車 座席<br />元V編成DD1階席 ファイル:Shinkansen122-5003shanai.jpg|車内(京都鉄道博物館にて撮影) </gallery> 客室扉は、種車が2列+3列の座席配置であったため座席の配置とずれているが、車椅子対応設備が設置されている3号車新大阪方と車掌室を挿入したK編成4号車博多方の扉は車両の中心にあるため、座席とのずれはない。 ==== 車両塗色など ==== {{Double image aside|right|JRW 100 series shinkansen set K56.jpg|200|K53 Kodama 629 Higashi-Hiroshima 20030719.JPG|200|K56編成新塗色(相生駅)|K53編成旧塗色(東広島駅)}} 登場当初のK51 - K53・P1 - P6編成は従来の白地に青帯を配したものであった。[[2002年]]8月に出場したK54編成からは、「こだま」のアコモデーション改善(2列+2列座席化)を認知しやすいように塗装が変更された。「新緑や若草など新たな誕生の息吹」をイメージして、ライトグレー{{Color|#909090|■}}を基調に、窓部分にフレッシュグリーン{{Color|#3cd200|■}}とダークグレー{{Color|#7e7e7e|■}}の帯を配した<ref>{{Cite book|和書|editor=南谷 昌二郎|title=山陽新幹線 関西・中国・北九州を結ぶ大動脈|year=2005|publisher=JTBパブリッシング|page=100|id=ISBN 9784533058820}}</ref>。スカートも濃いグレーに、車内のカラースキームもシルバー系に変更した。この塗装変更に伴い、車両側面に配されていた大型のJRマークが撤去され、車両番号横の小さいJRマークに変更された。従来塗装車も全検時に塗り替えられた<ref name="100KP" />。 [[2009年]]4月以降、デッキにある車両案内板が新型に交換されている。従来のものは0系R・WR編成と共通であったが、案内板上部に「100系6両編成」もしくは「100系4両編成」と書かれた、500系V編成と同等のものに変更された。 [[2010年]][[7月2日]]、K編成のうち3編成を旧塗色(白地に青帯)に戻すことを発表した<ref>{{cite news |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174875_799.html |title=100系新幹線の塗装変更について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2010-07-02 |accessdate=2011-01-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100706075406/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174875_799.html |archivedate=2010年7月6日}}</ref>。6月から塗り替え作業が行われ、[[7月15日]]にK53編成が<ref>{{cite news|url=http://railf.jp/news/2010/07/15/151000.html|title =100系K53編成が登場時の塗装に |publisher=railf.jp | date = 2010-07-15| accessdate = 2010-08-20}}</ref>、8月にはK54編成が<ref>{{cite news|url=http://railf.jp/news/2010/08/16/175600.html|title =100系K54編成が原色に |publisher=railf.jp | date = 2010-08-16| accessdate = 2010-08-20}}</ref>、9月にはK55編成が旧塗色に変更され、営業運転についている。なお、塗色変更1本目であるK53編成は、新塗色であったK54編成と並べられて、[[7月12日]]に博多総合車両所で公開された<ref>{{Cite web|和書|date=2010-07-12|url=http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071201000636.html|title=100系車両、デビュー時の姿に JR西が報道陣に公開|publisher=47News.com|language=日本語|accessdate=2010-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130514054857/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071201000636.html|archivedate=2013-5-14}}</ref>。 [[File:JRWest Shinkansen Series 100 P2 Training car.jpg|thumb|240px|訓練車 P2編成(新下関駅)]] P編成は信号システムの都合上新大阪駅に入線できないため、博多駅 - 岡山駅(以前は姫路駅)間の限定運用とされていた。姫路駅および相生駅にはP編成が停車していた名残として4両編成用の[[停止位置目標|停止標識]]が現在も残っている。 ==== 訓練車 ==== P2編成は、かつての訓練車であった0系元Q3編成に代わり、[[2009年]][[2月8日]]未明に[[実設訓練センター|新下関乗務員訓練センター]]に訓練車として自力回送された<ref name="100series">{{Cite book|和書|title=鉄道ファン2009年7月号|year=2009|publisher=交友社|page=74|id=}}</ref>。翌日の[[2月9日]]付けで廃車扱いとなり、以降は車籍のない訓練用機械として乗務員の訓練に供用されていたが<ref name="100series" />、[[2013年]]4月に訓練内容が車両の運転からシミュレーションに切り替わるため、同年3月末をもって訓練車としての役目を終えた<ref>[https://web.archive.org/web/20130329031325/http://www.asahi.com/business/update/0328/SEB201303280002.html 100系新幹線、訓練車両も完全引退 JR西、3月末で] - [[朝日新聞]] 2013年3月28日(インターネットアーカイブ)</ref>。 [[File:JRW Shinkansen 100 series K57.jpg|240px|thumb|K57編成(岡山駅 - 相生駅間)]] {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" |+K編成 編成表<ref name="100KP" /><ref name=100series /><ref name="JRR 06 Winter">{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '06冬号|year=2005|publisher=ジェー・アール・アール|page=334|id=ISBN 4-88283-044-2}}</ref><ref name="JRR 06 Summer">{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '06夏号|year=2006|publisher=ジェー・アール・アール|page=391|id=ISBN 4-88283-045-0}}</ref> |colspan="2" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="6" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6 |- !colspan="2"|形式 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |- !colspan="2"|定員 |52名 || 80名 || 58名 || 72名 || 72名 || 60名 |- !rowspan="10"|編成 !K51 |5007 || 3035 || 3707 || 3201 || 3020 || 5007 |- !K52 |5054 || 3039 || 3754 || 3202 || 3022 || 5054 |- !K53 |5005 || 3025 || 3705 || 3203 || 3014 || 5005 |- !K54 |5003 || 3015 || 3703 || 3204 || 3008 || 5003 |- !K55 |5055 || 3034 || 3755 || 3205 || 3019 || 5055 |- !K56 |5004 || 3020 || 3704 || 3206 || 3011 || 5004 |- !K57 |5056 || 3024 || 3756 || 3207 || 3013 || 5056 |- !K58 |5009 || 3045 || 3709 || 3208 || 3026 || 5009 |- !K59 |5002 || 3010 || 3702 || 3209 || 3005 || 5002 |- !K60 |5057 || 3044 || 3757 || 3210 || 3025 || 5057 |} [[File:JRWest Shinkansen Series 100 P11.jpg|240px|thumb|P11編成(新下関駅)]] {|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;" |+P編成 編成表<ref name="100KP" /><ref name=100series /><ref name="JRR 06 Winter" /><ref name="JRR 06 Summer" /> |colspan="2" style="background-color:#ccc;"|&nbsp; |colspan="4" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|岡山・姫路}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4 |- !colspan="2"|形式 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |- !colspan="2"|定員 | 52名 || 80名 || 58名 || 60名 |- !rowspan="12"|編成 ! P1 | 5001 || 3005 || 3701 || 5001 |- ! P2 | 5006 || 3030 || 3706 || 5006 |- ! P3 | 5051 || 3026 || 3751 || 5051 |- ! P4 | 5052 || 3004 || 3752 || 5052 |- ! P5 | 5053 || 3029 || 3753 || 5053 |- ! P6 | 5008 || 3040 || 3708 || 5008 |- ! P7 | 5058 || 3001 || 3758 || 5058 |- ! P8 | 5059 || 3014 || 3759 || 5059 |- ! P9 | 5060 || 3019 || 3760 || 5060 |- ! P10 | 5061 || 3009 || 3761 || 5061 |- ! P11 | 5062 || 3016 || 3762 || 5062 |- ! P12 | 5063 || 3006 || 3763 || 5063 |} === お召し列車用2階建てグリーン車 === [[お召し列車]]としては[[1986年]](昭和61年)5月以降は100系が使われた。 100系に特別な装飾がされないのは、運行責任者である国鉄やJRおよび警備側が無線連絡をとることで通常の列車とお召し列車の区別がつくようになったためである。新型車両として300系や500系、700系が主流となってもしばらくの間は100系が使われていた。これは、100系にある個室や2階建てグリーン車の方が警備上都合が良い(1階に警備員を配置できるので同じ車両で警備することができる)ためである<ref name="Special100">{{Cite book|和書|title=復刻増補版 新幹線0系電車|year=2008|publisher=イカロス出版|page=49|id=ISBN 9784863201231}}</ref>。 === 編成数の変化 === ※各年4月1日現在 {| class="wikitable" |+ ! rowspan="2" |年 ! rowspan="2" |X<br />編成 ! colspan="2" |G編成 ! rowspan="2" |V<br />編成 ! rowspan="2" |P<br />編成 ! rowspan="2" |K<br />編成 ! rowspan="2" |動き |- !東海 !西日本 |- |1985 |1 | | | | | |先行試作車X0編成を新製。 |- |1986 |1 | | | | | | |- |1987 |7 | | | | | |国鉄分割民営化。<br />X2-X7を新製。<br />X編成は全車JR東海へ承継。 |- |1988 |7 |3 | | | | |G1-G3を新製。 |- |1989 |7 |15 | |2 | | |G4-G15・V1・V2を新製<br />グランドひかり運行開始 |- |1990 |7 |31 | |4 | | |G16-G31・V3・V4を新製。 |- |1991 |7 |45 | |7 | | |G32-G45・V5-V7を新製。 |- |1992 |7 |50 | |9 | | |G46-G50・V8・V9を新製。増備終了。 |- |1993 |7 |50 | |9 | | | |- |1994 |7 |50 | |9 | | | |- |1995 |7 |50 | |9 | | | |- |1996 |7 |50 | |9 | | | |- |1997 |7 |45 |5 |9 | | |G1-G4・G6がJR西日本へ移籍。 |- |1998 |7 |43 |7 |9 | | |G5・G7がJR西日本へ移籍。 |- |1999 |7 |43 |7 |9 | | | |- |2000 |4 |43 |6 |9 | | |700系登場に伴い、廃車開始。<br />X編成の運用終了。<br />X3・X5・X7・G6が廃車。 |- |2001 |0 |38 |6 |7 |3 | |X1・X2・X4・X6・G9・G12-G14・G16・V1・V6が廃車。X編成 消滅。<br />山陽こだま向け短編成化改造が開始され、第1陣としてP1-P3編成が落成。 |- |2002 | |25 |6 |4 |6 |2 |G10・G15・G17-G19・G21・G22・G25・G26・G28・G29・G31・V5・V7・V8が廃車。<br />P4-P6・K51・K52編成が改造落成。 |- |2003 | |12 |5 |0 |6 |8 |G3・G8・G11・G20・G23・G27・G30・G35・G37-G39・G41・G45・V2-V4・V9が廃車。<br />グランドひかり廃止。V編成消滅。<br />K53-K58編成が改造落成。ひかりレールスターをベースとした新塗装編成が登場。 |- |2004 | |0 |0 | |8 |10 |東海道新幹線での運用を終了。<br />G1・G2・G4・G5・G7・G24・G32・G33・G36・G40・G42・G44・G46-G50が廃車<br />JR東海から100系全廃。同時にG編成も消滅。<br />K59・K60・P7・P8が改造落成。 |- |2005 | | | | |12 |10 |P9-P12が改造落成。これをもって100系の短編成化改造が終了。 |- |2006 | | | | |12 |10 | |- |2007 | | | | |12 |10 | |- |2008 | | | | |12 |10 | |- |2009 | | | | |11 |9 |P2・K51が廃車。 |- |2010 | | | | |11 |9 | |- |2011 | | | | |4 |9 |P1・P5・P6・P8・P10-P12が廃車。<br />K53-K55がオリジナルカラーに復刻。 |- |2012 | | | | |0 |2 |100系営業運転終了。<br />P3・P4・P7・P9・K52・K55-K60が廃車。 |- |2013 | | | | | |0 |K53・K54が廃車。100系全廃。 |} ==試験走行== === 230&nbsp;km/h試験走行 === V編成完成前の[[1988年]]10月、JR西日本がJR東海所属のX7編成を借用しトランスポンダ車上子を仮設し確認試験を行った{{Sfn|福原|2021|p=163-164}}。 この際に先頭車の主電動機が十分に冷却できないことが発覚したため、100N系では空気取り込み口としてパンチング穴を空けている。 なおグランドひかり登場時のポスターは、パンチング穴を空ける前の100N系を使用している{{Sfn|福原|2021|p=163-164}}。 === 270&nbsp;km/h試験走行 === [[1990年]]から高速試験が実施される。ライバルである航空機に対抗するため、新大阪駅 - 博多駅間を2時間30分前後で結ぶことを念頭に目標速度は275&nbsp;km/hに設定された<ref name="RJ201002">『鉄道ジャーナル』2010年2月号、鉄道ジャーナル社、2010年、p.128</ref>。「We try 275」とマーキングされ、騒音源となるパンタグラフを6個から3個に減らしたV編成は<ref name="RJ201002 2">『鉄道ジャーナル』2010年2月号、鉄道ジャーナル社、2010年、p.129</ref>、同年[[2月10日]]に277.2&nbsp;km/hを達成した<ref>{{Cite book|和書|editor=南谷 昌二郎|title=山陽新幹線 関西・中国・北九州を結ぶ大動脈|year=2005|publisher=JTBパブリッシング|page=172|id=ISBN 9784533058820}}</ref>{{Sfn|福原|2021|p=165-166}}。 しかし、試験走行の結果、255&nbsp;km/h付近から騒音が急激に増加し、275&nbsp;km/hでは騒音値が[[環境基準]]<ref group="注">第2種住宅地区で25&nbsp;[[メートル|m]]離れた地点で75[[ホン]]、あるいはそれ以下に騒音レベルを下げる。</ref> をクリアできなかったため、また、ATCに速度段を追加するほどの時間短縮効果が得られないことから<ref name="RJ201002 2" />、最高速度は230&nbsp;km/hのまま営業運転が続けられた。 === ボルスタレス台車試験走行 === 100系は、300系から採用されている[[ボルスタレス台車]]の試験車としても活躍した。 試作台車として製作されたDT9023A, B, C, D, E, Fの6種類が試験で使用された。 A, Bは0系用ボルスタレス試作台車のDT9022の改良版で[[1985年]]に製作された<ref name="RF532_88">[[#鉄道ファン532_2|『鉄道ファン』通巻532号、p.88]]</ref>。同年に[[新幹線925形電車|925形]]に搭載されて270&nbsp;km/h試験、翌[[1986年]]にX編成での210&nbsp;km/h走行試験が実施され、100系用のDT202よりも乗り心地の改善と横圧の減少が確認された<ref name="RF532_88" />。 C, Dが乗り心地の改良版で輪軸、駆動装置、軸箱支持装置をA, Bから流用している<ref name="RF532_88" />。[[1987年]]に製作され、翌[[1988年]]から100系に搭載されて営業運転で使用、30万kmの走行を行った<ref name="RF532_88" />。 E, Fは[[1989年]]に製作された300系仕様のプロトタイプであった<ref name="RF532_88" />。220&nbsp;km/hでの走行試験を実施後、C, Dと同じく営業運転での30万kmの走行を行った<ref name="RF532_88" />。[[1991年]]にはV編成を使用して275&nbsp;km/hでの走行試験を行った<ref name="RF532_88" />。 軸箱支持方式は、主にJR東海が「円錐積層ゴム式」と「円筒積層ゴムコイルばね併用式」を<ref name="Daisya Shiken">{{Cite book|和書|title=新幹線テクノロジー|editor=佐藤芳彦|year=2004|publisher=[[山海堂 (出版社)|山海堂]]|page=107|id=ISBN 9784381088277}}</ref>、JR西日本がV編成を使用して「軸はり式」を試験走行を実施した<ref name="Daisya Shiken" />。「円錐積層ゴムコイルばね併用式」が300系、700系(JR東海保有分)、N700系(16両編成)に、「軸はり式」が500系、700系(JR西日本保有分)、N700系(8両編成)に採用された。 == 車両不具合 == ===ブレーキ故障=== [[1986年]][[12月15日]]、博多発東京行き「ひかり12号」で発生した{{Sfn|福原|2021|p=130}}。 岡山駅発車後、ブレーキ装置の故障によりブレーキが緩まなくなったため相生で運転を打ち切り、大阪第一運転所に回送した。 この際に翌日の運用に同編成を充当するため、故障した2両を編成から外し東京に回送、翌16日に'''14両編成で営業運転を行った'''{{Sfn|福原|2021|p=130}}。 === 車輪固着・潤滑油漏れ === [[1991年]][[9月30日]]、東京発新大阪行き[[終電|最終列車]]となる「ひかり291号」で発生した。 東京駅を発車して300&nbsp;[[メートル|m]]地点で、運転台に車輪固着を知らせる警報が作動。15号車新大阪方の台車のうち、東京方の車軸が固着していた<ref name="100trouble1">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=31|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。21時00分に東京を発車して、21時25分に[[浜松町駅]]付近を通過するまでに計8回もの警報が鳴ったにもかかわらず警報のリセットを繰り返し、車輪が固着したまま[[三島駅]](東京から約100&nbsp;[[キロメートル|km]])まで走行した<ref name="100trouble">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|pages=32-44|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。 浜松町駅で8回目の警報が作動した後、運転士はCTCセンターの指令員に停止する旨を伝えると、指令員は運転継続を指示した<ref>{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=38|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。運転士は、新横浜駅の駅員と、付近の上り新幹線の運転士に床下から火花が出ているかどうか確認してほしいと連絡を入れた<ref name="100trouble3">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=39|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。そして、固着が起きている15号車の床下から火花が出ていることが確認された<ref name="100trouble3" />ため、運転士は指令員に列車の停止を伝えると、指令員からは運転継続が指示された<ref name="100trouble4">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=40|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。「ひかり291号」が新大阪行きの最終列車であったことや、三島駅なら、隣接する[[三島車両所]]から予備の編成を用意し、故障した編成を引き込んで点検も出来るためである<ref name="100trouble4" />。さらに、定刻から20分遅れであったため、上限速度ギリギリ([[自動列車制御装置|ATC]]の頭打ち速度である225&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]])での運行も指示された<ref name="100trouble4" />。そのため、東京駅基準で41&nbsp;km地点と78&nbsp;km地点(いずれも[[新横浜駅]]〜[[小田原駅]]間)の計2度、ATCブレーキがかかっている<ref name="100trouble5">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=41|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>が、その時も指令員は運転継続を指示していた<ref name="100trouble5" />。 三島駅に到着後、車両を交換して全体を検査したところ、前述の15号車の新大阪方から2番目の車輪が長さ30&nbsp;[[センチメートル|cm]]、深さ3&nbsp;cmにわたって削られ<ref name="100trouble5" />、2つの車輪をあわせて約6&nbsp;kgもの金属が消滅していた<ref name="100trouble5" />。また、車輪が削られたことでフランジ部分が下がり、ATC信号を流すレールボンドが損傷した。 その後の調査で、このトラブルの原因は車軸の駆動用モータ脇に設置されている駆動装置が、油が漏れたことによって破損したために車輪が固着したものであることがわかった<ref name="100trouble" />。該当列車に充当された編成は、1991年7月2日実施の台車検査時に油を交換したが2日後には油が完全に抜けてしまっていた<ref name="100trouble" />。故障前日の仕業検査時にも3&nbsp;Lの油漏れが見つかったため<ref name="100trouble" />、不足分を補給するために給油栓を開けると油が霧状になって噴出した<ref name="100trouble11">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=45|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。歯車箱内が異常な高温状態になっていたためと考えられる<ref name="100trouble11" />。なお、通常の補給量は0.5&nbsp;L程度である<ref name="100trouble" />。 従来の点検マニュアルでは、車輪固着の警報が作動したときには、ブレーキの固着と車軸の過熱による「軸焼け」の点検が定められているが、車軸の固着の点検については記載がなかった。この事故後、JR東海は点検マニュアルに「列車を車転2回転分だけゆっくりと動かし、車輪の回転状態を確認する」という項目を追加した。 なお、1992年6月15日に100系V3編成11号車<ref name="100trouble9">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=60|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref> の博多方の車軸付近から大量の油漏れが発見された<ref name="100trouble8">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=59|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。軸受に使用していたベアリングが異常磨耗を起こして脱落していたことが原因であったが<ref name="100trouble10">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=61|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>、前述の1991年9月30日に車輪固着を起こした車両のベアリングと同種類のものを使用していたため<ref name="100trouble12">{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|page=64|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>、その事故原因もベアリング破損による油漏れである<ref name="100trouble12" />。 === 車体骨組みのヒビ === [[2007年]]9月にK54編成<ref group="注">1989年6月に製造されたのはV3編成。そのV3編成が種車となっているのはK54, P8, P12編成。そのうち6両編成はK54編成のみ。</ref> の鉄製骨組みやステンレス製屋根から<ref name="100Series-Shinkansen's trouble">{{cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/071001/dst0710012146016-n1.htm |title=JR西の新幹線から、ひび計114カ所発見 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2007-10-01 |accessdate=2009-01-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071223191320/http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/071001/dst0710012146016-n1.htm |archivedate=2007年12月23日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>、[[2009年]]6月にもK53編成2号車の鉄製骨組みからひびが発見されるなど、老朽化によるものとみられるトラブルが発生した<ref>{{cite news |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174281_799.html |title=100系車両の側柱キズ入り発見について |publisher=JR西日本プレスリリース |date=2009-06-25 |accessdate=2009-06-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100419234120/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174281_799.html |archivedate=2010年4月19日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 == 運用の推移 == 1985年10月1日から、[[東京駅]] - [[博多駅]]間の「ひかり」1往復(X0編成)で営業運転を開始した。X編成の量産車は1986年夏から「こだま」で順次営業を開始し、[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|同年11月のダイヤ改正]]から食堂車を組み込んだフル編成となり、順次運用列車が増やされた。 国鉄分割民営化後の1988年3月13日からは、食堂車に代わってカフェテリアを組み込んだG編成が、東京 - [[新大阪駅]]間の「ひかり」3往復で運用を開始した。1989年3月11日からは、食堂車を含む2階建て車両を4両組み込んだV編成が、東京 - 博多間の「ひかり」4往復で運用を開始した。また、G編成が新大阪以西でも運用されるようになった。100系を「ひかり」運用に投入したことで、0系H・N{{small|H}}・N編成を淘汰した。 1992年3月14日改正までに16両編成66本が揃った<ref group="注">なお、同改正において[[新幹線300系電車|300系]]が登場している。</ref>。その後300系が「ひかり」運用でも使用されるようになってからは「こだま」運用にシフトされ、東海道区間に残る0系を淘汰した。 2000年10月1日改正では、JR東海所有のG編成が定期「ひかり」から撤退し、臨時「ひかり」と「こだま」で運用されるようになる。また、山陽区間で「こだま」として運転されるP編成(4両編成)が登場した。P編成の当初の運用区間は[[姫路駅]] - 博多間であった。 2003年8月22日の「ひかり179号」で定期「ひかり」運用から撤退した。同年9月16日の「ひかり309号」(G47編成)をもって100系は東海道新幹線から完全に撤退した<ref name="JR-C200309"/>。ただし、新大阪駅 - [[大阪交番検査車両所|鳥飼基地]]間の回送列車は2010年3月12日まで走行していた。2003年度中にJR東海所属の100系はすべて廃車になった。 {{main|#東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了}} 2003年10月1日改正以降、100系の定期運用は山陽区間における「こだま」のみとなった。K編成は新大阪 - 博多間で運用されるが、P編成の運用区間が[[岡山駅]] - 博多間に縮小された。 0系引退に伴う2008年12月1日のダイヤ修正以後、500系V編成の投入や「こだま」自体の減少によって一部編成に廃車が出ていたが、2011年3月12日改正で運用区間を岡山 - 博多間に縮小し、P編成は運用を離脱した。なお、鳥飼基地での夜間滞泊運用は2010年3月13日改正で消滅している。2011年12月1日にはさらに運用が縮小され、朝晩を中心に5本のみで運用された。 最末期は山陽新幹線で運転される「こだま」と[[博多南線]]「特急」に充当されていた。具体的には、JTBパブリッシング発行の時刻表では「100系」、交通新聞社発行の場合は「6両編成グリーン車なし」、JR発行の無料時刻表の場合は、6両編成の列車のうち、全席禁煙でない列車に充当されていた<ref>「JR時刻表」2011年12月号、pp.51 - 61</ref>。 2012年3月14日をもって定期運用から離脱し、同月16日のさよなら運転「ひかり445号」(K55編成)をもって営業運転から撤退した。 {{main|#100系さよなら運転}} == 東海道新幹線からの撤退と16両編成運用の終了 == [[のぞみ (列車)|のぞみ]]型車両と呼ばれる300系のほか、500系、700系が登場した[[1990年代]]には新幹線の高速化が進み、走行性能的に0系と大差ないレベルの100系は高速ダイヤに対応することができなくなった<ref group="注">特に、東海道新幹線区間においては線路容量ぎりぎりのダイヤのため、0系や100系などの低速車両が混在すると[[ダイヤグラム#平行ダイヤ|平行ダイヤ]]を組むことに繋がる。これにより、列車全体の速度や所要時間が遅くなる結果になっていた。</ref>。また、山陽新幹線区間単独での運用の場合、16両編成では1編成当たりの輸送量が過剰なため、V編成を中心に短編成化が進められた。そのため、車両自体の寿命を迎える前に大量淘汰を受けることとなった<ref group="注">新幹線車両の寿命は東海道新幹線の置き換え基準(製造後13年を過ぎた後の検査時期までに廃車)の場合で平均14 - 15年をとされているが、100系の製造打ち切りから東海道新幹線を撤退するまでの期間は約11年(1992年製造打ち切り → 2003年完全撤退)であったため、平均より約3 - 4年も早く淘汰されたことになる。</ref>。 *2000年5月31日、東海道新幹線において2003年10月1日の[[2001年以降のJRダイヤ改正|ダイヤ改正]]で営業全列車の最高速度を270&nbsp;km/hにすることが決定。 *2002年11月23日、V編成の運用が終了し「こだま」用のK・P編成に組み替えられた。V編成の運用の変遷は「[[グランドひかり#運用の変遷|V編成 運用の変遷]]」の項を、さよなら運転は「[[グランドひかり#「グランドひかり」さよなら運転|『グランドひかり』さよなら運転]]」の項を各々参照。 以下、2003年5月以降のG編成は運用離脱状況を記す。5月1日時点で15本(G1 - G5, G7, G24, G32, G36, G40, G42, G44, G46 - G50編成)が在籍しており、ひかり1往復([[名古屋駅]] - 博多駅間)、こだま11往復(東京駅 - 新大阪駅間4往復、東京駅 - 名古屋駅間6往復、名古屋駅 - 新大阪駅間1往復)に充当されていたが、300系に置き換わる形で徐々に運用が減少していった。 *[[2003年]] **[[7月1日]]:こだま5往復10本での運用終了(うち5本は前日までで終了)。こだまは6往復(東京駅 - 新大阪駅間3往復、東京駅 - 名古屋駅間3往復)の運用に。 **[[8月1日]]:こだま4往復8本での運用終了(うち4本は前日までで終了)。こだまは2往復(東京駅 - 新大阪駅間1往復、東京駅 - 名古屋駅間1往復)の運用に。 **[[8月21日]]:ひかり179号(名古屋発博多行き)をもって定期列車における「ひかり」での運用終了。当日はG4編成が充当された。 **[[8月30日]]:こだま402号(新大阪発東京行き)・こだま461号(東京発名古屋行き)での運用終了。 **[[8月31日]]:こだま464号(名古屋発東京行き)・こだま425号(東京発新大阪行き)をもって東海道区間での定期運用終了。当日はG50編成が充当された。 **[[9月16日]]:臨時のひかり309号(東京発新大阪行き)をもって東海道新幹線区間での営業運転終了(詳細後述)。 *[[2004年]] **[[1月22日]]:こだま651号(岡山発博多行き)をもって16両編成による営業運転終了<ref name="JRR 2011 56" /><ref group="注">運用変更による代走。</ref>。 === さよなら東海道新幹線100系 === {{Double image aside|right|Tōkaidō Shinkansen series 100 last run emblem.jpg|200|Tōkaidō Shinkansen series 100 last run Nose.jpg|200|車体側面(左)および前頭部(右)に施された特別装飾(G49編成)}} 2003年8月31日に東海道新幹線での定期運用を終了した100系が、同年9月13日・15日・16日の3日間、以下の臨時「ひかり」として東海道新幹線区間で運転された(始発駅出発時刻順)。 当該列車には、さよなら運転初日の2003年9月13日時点で在籍していたG42, G44, G46, G47, G49, G50編成の中からG46, G47, G49, G50編成が準備され(各編成の車番については[[#G編成|G編成の節]]を参照)、G47編成以外の4本が使用された。このうち16日の最終列車に使用されたG49編成は、先頭車と中間車の一部にさよなら100系の特別装飾が施された。また、G47編成は、G49編成の予備として先頭車のみに特別装飾が施され、[[東京修繕車両所|東京第二車両所]]にて待機していた。{{-}} {|class="wikitable" style="font-size:80%;" !運転日!!列車名!!運転区間(始発・終着時刻)!!途中停車駅!!使用<br />編成!!備考 |- |rowspan="2"|9月13日 |ひかり300号||[[新大阪駅|新大阪]] 8:10発 → [[東京駅|東京]] 11:10着||[[京都駅|京都]]・[[名古屋駅|名古屋]]・[[静岡駅|静岡]]・[[新横浜駅|新横浜]]||G50|| |- |ひかり319号||東京 11:30発 → 新大阪 14:23着||名古屋・京都||G50|| |- |rowspan="4"|9月15日 |ひかり556号||[[博多駅|博多]] 14:13発 → 新大阪 17:47着||[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]・[[新下関駅|新下関]]・[[新山口駅|小郡]]・[[広島駅|広島]]・[[福山駅|福山]]・[[岡山駅|岡山]]・[[新神戸駅|新神戸]]||G2||参考記載:山陽区間における最後の100系16両「ひかり」 |- |ひかり330号||新大阪 15:56発 → 東京 18:50着||京都・名古屋||G46|| |- |ひかり332号||新大阪 16:10発 → 東京 19:10着||京都・名古屋・静岡・新横浜||G50||最後の100系16両「ひかり」(上り) |- |ひかり343号||東京 19:26発 → 新大阪 22:23着||新横浜・名古屋・京都||G50|| |- |9月16日 |ひかり309号||東京 8:30発 → 新大阪 11:23着||名古屋・京都||G49||最後の100系16両「ひかり」(下り) |} == 山陽新幹線からの引退 == 東海道新幹線区間では[[2003年]]9月をもって運用終了した100系だが、山陽新幹線区間では短編成化されたK編成(6両編成)、P編成(4両編成)による「こだま」運用が続けられた。なお、いずれも2階建て車両は連結されずに運用された。しかし、前述の走行性能差の問題があることや、経年劣化が進行していることに加え、「のぞみ」のN700系化に伴い、余剰となった500系の8両化改造・「こだま」転用が[[2008年]]12月から行われ、さらに2011年3月12日の山陽・[[九州新幹線]]直通列車「[[みずほ (列車)|みずほ]]」「[[さくら (新幹線)|さくら]]」<ref group="注">実質的には、一部「[[ひかりレールスター]]」からの置き換え。</ref> への専用車両となるN700系7000番台・8000番台投入により余剰となった700系7000番台を「こだま」で運用したことにより、運用は縮小した。 P編成については2011年3月12日改正で運用離脱(上述)したが、残る100系K編成も[[2010年]][[12月17日]]のプレスリリース<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20101226004649/http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_fukuoka.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - JR西日本福岡支社プレスリリース 2010年12月17日(インターネットアーカイブ)</ref> で2011年度中に全廃する予定であることが発表された。2010年7月2日に、6両編成(K編成)3本を落成当時の白3号と青20号の車体塗装に復元することがJR西日本から発表された<ref name="JRW Press">{{cite news |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174875_799.html |title=100系新幹線の塗装変更について |publisher=JR西日本プレスリリース |date=2010-07-02 |accessdate=2010-07-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100706075406/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174875_799.html |archivedate=2010年7月6日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2010-07-02|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201007020088.html|title=100系新幹線、お別れ前に往年「青白」の勇姿で再登場|publisher=asahi.com|language=日本語|accessdate=2010-07-02}}</ref>。 [[2011年]][[12月16日]]、この発表日の次のダイヤ改正日である2012年3月17日において、300系とともに運用終了となることが発表された<ref name="shuryo">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120131053847/http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_honsya.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年12月16日(インターネットアーカイブ)</ref>。 2012年3月14日のこだま766号をもって定期運用を終了し<ref>[https://web.archive.org/web/20120122094320/http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/01/page_1306.html 100系・300系新幹線営業運転終了に伴うイベントの開催について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2012年1月18日(インターネットアーカイブ)</ref>、3月16日に最終列車として臨時列車のひかり445号(岡山→博多)が運行され、100系の運用がすべて終了した。 === 100系さよなら運転 === 定期運転終了後の2012年3月16日にさよなら運転{{refnest|group="注"|臨時・全席指定だが、指定席券は発売開始からわずか50秒で完売した<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/02/page_1447.html 100系・300系新幹線最終列車および「日本海」「きたぐに」最終列車の発売状況について]</ref>。}}が実施された。 車内放送用メロディーが[[2003年]]9月まで使用されていたものに戻され、岡山 - 広島間で記念乗車券の配布が行われた。また、岡山では同日に行われた300系さよなら運転「のぞみ609号」と並ぶ演出がなされた。 {|class="wikitable" style="font-size:80%;" !運転日!!列車名!!運転区間(始発・終着時刻)!!途中停車駅!!使用編成!!備考 |- |3月16日 |ひかり445号||岡山 11:43発 → 博多 14:29着||広島・徳山・新山口・小倉||K55||最後の100系「ひかり」 |} {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+さよなら100系「ひかり」 編成表 |colspan="2" style="background-color:#ccc;"| |colspan="6" style="background-color:#9cf;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- !colspan="2"|号車 |1||2||3||4||5||6 |- !colspan="2"|形式 |121形<br /> (Mc) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |126形<br /> (M') |125形<br /> (M) |122形<br /> (M'c) |- !colspan="2"|座席 |colspan="6"|普通車 |- !colspan="2"|定員 |52||80||58||72||72||60 |- !rowspan="3"|編成番号<br />車両番号 !K53 |5005||3025||3705||3203||3014||5005 |- !K54 |5003||3015||3703||3204||3008||5003 |- !K55 |5055||3034||3755||3205||3019||5055 |} * 全車普通車指定席、1・6号車は喫煙車両で運行。編成定員394名 このさよなら運転では万が一運行不能になった際に備え、K54編成が岡山支所に待機していた。 2013年4月1日時点ではK54編成6号車の122-5003のみが車籍を有しており、博多総合車両所で保存されていたが、京都鉄道博物館に展示のため、[[2015年]]に車籍が抹消され、廃系列となった。 == 保存車両 == <!--[[File:123-1 Hamamatsu 20010804.jpg|240px|thumb|123-1(元X2編成)]]--> [[File:JNR JR 100 Series Shinkansen 001.jpg|thumb|100系123-1(元X2編成)(リニア・鉄道館 2013)]] [[File:Shinkansen122-5003.jpg|thumb|京都鉄道博物館に保存された122-5003号車]] * 123-1(初代G1→X2編成1号車), 168-9001(X0→X1編成8号車) *: JR東海浜松工場に保管され、同工場のイベントなどで一般公開されていたが、[[2011年]]に開館した[[リニア・鉄道館]]に移設のうえ展示されている。 * 168-3009・179-3009(V9編成) *: JR西日本博多総合車両所内で保管されている。時折イベントなどで公開されている。車籍は[[2010年]][[7月30日]]付で抹消された<ref>{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=JR電車編成表 2011冬 |year=2010 |publisher=交通新聞社|page=349|id=ISBN 9784330184104}}</ref>。 * 122-5003(V3編成16号車→K54編成6号車) *: 博多総合車両所で保管されていたが、[[2016年]]に開館した「[[京都鉄道博物館]]」([[京都市]][[下京区]]観喜寺町)に保存展示されることとなり、[[2014年]][[12月11日]]に500系521-1とともに博多総合車両所から搬出された<ref>[http://railf.jp/news/2014/12/12/140000.html 100系と500系の先頭車が京都鉄道博物館へ] - 『鉄道ファン』鉄道ニュース(交友社) (2014年12月12日). 2014年12月12日閲覧。</ref><ref>[http://railf.jp/news/2014/12/17/110000.html 100系と500系の先頭車が京都へ陸送される] - 『鉄道ファン』鉄道ニュース(交友社) (2014年12月17日). 2014年12月17日閲覧。</ref>。 * 122-5009(V9編成16号車→K58編成6号車) *: 廃車後、[[2011年]][[11月11日]]に博多総合車両所から製造元である[[近畿車輛]]([[東大阪市]]稲田上町)へ搬出され、非公開の形で保存されていたが、[[2022年]]2月に[[徳庵駅]]の線路沿いへと移設され、外観のみ公開の形となった。 == その他 == 最終的に本系列として実現する0系後継車の構想は[[1981年]]ごろには既に存在し、今後の国鉄車両の方向性を示すものの一つとして各種メディアや『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』などの鉄道雑誌に取り上げられた。当時公表された構想図のうち、先頭部形状や塗色については大まかな概念図が主であったが、アコモデーションのそれは2階建食堂車のレイアウトやグリーン個室など、この時点で後年の実車にかなり近いものであった。また、実現しなかったものでは2階部分をフリースペースのラウンジとした案もあった。これらの案に基づいて、浜松工場では2階建て車両の[[木型|モックアップ]]が制作された。 また、V編成「グランドひかり」以外の編成による「ひかり」の通称として「スーパーひかり」が使われることがあった。この呼称は、前述の構想とは別の、300系列車および[[スーパーひかりモデル|その源流の超高速運転構想]]における仮称が転用されたものである。 本形式の個室は1~4人室の4種類用意されたが、これは設計時に2階建ての1階部分の利用方法が見いだせず、窮余の策として制作したとのエピソードが残されている。作家の[[景山民夫]]が夫人と2人用個室を利用した際、その使い勝手の悪さを当時『[[週刊朝日]]』で連載していたコラム内で書いたところ、後日景山の事務所にJR東海の社員が訪れ、前述の実情を話したことを景山が明かしている(なお、景山はこの日事務所を留守にしており、応対したアシスタントからこの話を聞いたという)<ref>{{Cite book|和書|title=だから何なんだ|date=1993年11月|publisher=新潮文庫|page=228|author=景山民夫}}</ref>。 本形式は、[[鉄道ファン]]が新幹線に興味をむけるきっかけになったという意見もある。それまで新幹線車両は0系が20年以上継続生産されており、基本的な形態の変化がなかったこと、200系もメカニズムは新規ながら外見はほぼ0系と同じであったため、新幹線電車は鉄道趣味の対象にならないという認識であったが、本形式の接客設備やスタイルが一般に注目されるものであったことから、徐々にカメラを向けるファンが増えたという<ref>『[[RM MODELS]]』2015年7月号、p.19</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} <references /> == 参考文献 == ;専門記事 * {{Cite journal|和書|author=諸星幸信(富士電機輸送特機事業部技術部)他6名 |year=1982 |month=6 |title=日本国有鉄道200系新幹線電車用電気機器 |journal=富士時報 |volume=55 |issue=6 |pages=57 - 62 |publisher=[[富士電機]] |url= http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/55-06/FEJ-55-06-405-1982.pdf |format=pdf |ref = 富士時報5506}} * {{Cite journal|和書|author=諸星幸信(富士電機電気事業本部輸送特機技術部)他6名 |year=1985 |month=5 |title=日本国有鉄道100系新幹線電車用電気機器 |journal=富士時報 |volume=58 |issue=5 |pages=32 - 36 |publisher=富士電機 |url= http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/58-05/FEJ-58-05-348-1985.pdf |format=pdf |ref = 富士時報5805}} * {{Cite journal|和書|author=森下逸男(JR西日本車両部管理課)他1名 |year=1989 |month=6 |title=JR西日本新幹線旅客電車(100N系) グランドひかり |journal=車両技術 |issue=187 |pages= 34 - 49 |publisher=[[日本鉄道車輌工業会]] |ref = 車両技術187}} * {{Cite journal|和書|author=北山茂(JR東海新幹線鉄道事業本部車両部車両課) |year=1988 |month=6 |title=JR東海 新幹線100系増備車 |journal=鉄道ピクトリアル |issue=497 |pages=34 - 45 |publisher=電気車研究会 |ref = 鉄道ピクトリアル497}} * {{Cite journal|和書|author=高尾忠明 |year=1987 |month=9 |title=電動空気圧縮機の低騒音化 |journal=車両と機械 |volume= 1 |issue= 9 |pages=13 - 18 |publisher= |ref = 車両と機械0109}} ;雑誌記事 * {{Cite journal|和書|author=嘉納修(JR西日本) |year=1988 |month=9 |title=JR西日本100N系「グランドひかり」の概要 |journal=電気車の科学 |issue=42 |pages=37 - 41 |publisher=電気車の研究会 |ref = 電気車の科学42}} * {{Cite journal|和書|author=伊藤順一(JR東海新幹線鉄道事業本部車両部車両課) |year=1993 |month=9 |title=新幹線100系 |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=389 |pages=10 - 33 |publisher=[[交友社]] |ref = 鉄道ファン389_1}} * {{Cite journal|和書|author=編集部 |year=1993 |month=9 |title=新幹線100系全形式全番台 |journal=鉄道ファン |issue=389 |pages=34 - 41 |publisher=交友社 |ref = 鉄道ファン389_2}} * {{Cite journal|和書|author=編集部 |year=1993 |month=9 |title=新幹線100系データバンク |journal=鉄道ファン |issue=389 |pages=42 - 43 |publisher=交友社 |ref = 鉄道ファン389_3}} * {{Cite journal|和書|author=真鍋裕司(京都大学鉄道研究会OB) |year=2005 |month=8 |title=100系新幹線電車の現況 |journal=鉄道ファン |issue=532 |pages=62 - 75 |publisher=交友社 |ref = 鉄道ファン532_1}} * {{Cite journal|和書|author=梓岳志・芦山公佐(フリーランスプロダクツ) |year=2005 |month=8 |title=のぞみの高速化技術 |journal=鉄道ファン |issue=532 |pages=80 - 96 |publisher=交友社 |ref = 鉄道ファン532_2}} * {{Cite journal|和書|author=[[梅原淳]] |year=2003 |month=7 |title=特集TEC100 去りゆく栄光の新幹線100系 |journal=[[レイルマガジン]] |issue=238 |pages= 5 - 33 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |ref = レイルマガジン238}} * {{Cite journal|和書|author=[[須田寬]] |year=2011 |month=10 |title=100系誕生のころ |journal=RAIL FAN |issue=707 |pages=3 - 5 |publisher=鉄道友の会 |ref = レイルファン707_1}} * {{Cite journal|和書|author=真鍋裕司 |year=2011 |month=10 |title=100系のプロフィール |journal=RAIL FAN |issue=707 |pages=6 - 19 |publisher=鉄道友の会 |ref = レイルファン707_2}} ;書籍 * {{Cite book|和書|author=福原俊一 |title=新幹線100系物語|year=2021|month=4|publisher=[[ちくま新書]]|ISBN=978-4480073945|ref={{SfnRef|福原|2021}} }} == 関連項目 == {{commonscat|Shinkansen 100}} * [[グランドひかり]] * [[阿武隈急行8100系電車]] * [[JR東海371系電車]] ; 100系が登場したJR東海の[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]] * [[シンデレラ・エクスプレス (CM)|シンデレラ・エクスプレス]] * [[クリスマス・エクスプレス]] == 外部リンク == * 日立製作所『日立評論』1986年3月号 ** 「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1986/03/1986_03_04.pdf 100系新幹線電車の車両構造]}}」 ** 「{{PDFlink|[https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1986/03/1986_03_05.pdf 最新技術を応用した100系新幹線電車の電気品]}}」 * 三菱電機『三菱電機技報』1987年2月号「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1987(vol61)/Vol61_02.pdf 東海道・山陽新幹線向け100系電車用電機品」]}}」 * [https://web.archive.org/web/20120307221023/http://www.jr-odekake.net/train/kodama_100/index.html 車両案内 新幹線 こだま 100系] - JRおでかけネット([[インターネットアーカイブ]]) * [https://web.archive.org/web/20120229202749/https://www.jr-odekake.net/shinkansen/knowledge/100kei/index.html ありがとう、100系・300系] - JRおでかけネット(インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20110317144705/http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/pro_jrt100.html 製品・サービス JR東海100系電車 概要] - 川崎重工 車両カンパニー(インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20120415133707/http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/jrw100.html 製品・サービス JR西日本100系電車 概要] - 川崎重工 車両カンパニー(インターネットアーカイブ) {{JR東海の車両リスト}} {{JR西日本の車両リスト}} {{日本の新幹線}} {{ローレル賞選定車両一覧}} {{DEFAULTSORT:しんかんせん100けいてんしや}} [[Category:日本国有鉄道の新幹線電車|100]] [[Category:東海旅客鉄道の新幹線電車|100]] [[Category:西日本旅客鉄道の新幹線電車|100]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]] [[Category:1985年製の鉄道車両]] [[Category:日本車輌製造製の新幹線車両|100]] [[Category:川崎重工業製の新幹線車両|100]] [[Category:日立製作所製の新幹線車両|100]] [[Category:近畿車輛製の新幹線車両|100]] [[Category:東急車輛製造製の新幹線車両|100]] [[Category:2階建の鉄道車両]]
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15,292
東関東自動車道
東関東自動車道(ひがしかんとうじどうしゃどう、英: HIGASHI-KANTO EXPWY)は、東京都を起点として茨城県水戸市および千葉県館山市を終点とする国土開発幹線自動車道であり、高速道路(高速自動車国道)である。 また、このうち東京都から茨城県水戸市に至る東関東自動車道水戸線の既開通区間(高谷JCT - 茨城町JCT間)では東日本高速道路による営業路線名としてもこの名称が使用されている。当該区間の略称は東関東道(ひがしかんとうどう)、東関道(とうかんどう)。高速道路ナンバリングによる路線番号は「E51」が割り振られている。 関東地方を東進し、千葉県と茨城県を結ぶ高速道路である。東京都から千葉県北部を横断して茨城県水戸市に至る路線が東関東自動車道水戸線、千葉県内房に沿って館山市に至る路線が東関東自動車道館山線である。東日本高速道路による営業路線名としての東関東自動車道は、一般に水戸線の高谷ジャンクション (JCT) - 茨城町JCT間(首都高速湾岸線から北関東自動車道まで)を指し、館山線は館山自動車道などの別路線名で区別される。水戸線の未開通部分である潮来インターチェンジ (IC) - 鉾田IC間が整備計画区間として現在整備事業が進められている。 当初は新空港自動車道として開通したが、新東京国際空港(現:成田国際空港)開港の翌年(1979年〈昭和54年〉)に「東関東自動車道」に名称変更された。なお新空港自動車道の名称は、成田JCTと成田空港付近の新空港IC間の道路名として現存する。 開通当初の名称である新空港自動車道からも分かる通り、道路の建設目的は、東京都区部から成田国際空港にアクセスするための高速道路である。また、全線開通時には、常磐自動車道のバイパス路線となることも期待されている。 宮野木JCTから京葉道路・館山自動車道(東関東自動車道館山線)、千葉東JCTから千葉東金道路がそれぞれ分岐しており、東金・館山方面の利用もある。 高谷JCT - 成田IC間は、大都市近郊区間に指定されている。 2010年(平成22年)4月9日に、国土交通省から潮来IC - 鉾田IC間が、国が運営する直轄施行方式の無料道路として整備されることが発表されていたが、2017年(平成29年)3月16日、国土交通省は国の社会資本整備審議会事業評価部会で、2017年(平成29年)度から国の直轄事業と併せて有料道路事業も導入し整備を進める方針が決まった。 なお、潮来ICから鹿島港周辺までの延伸も計画されている。 国土開発幹線自動車道建設法においては以下の2路線とされている。 高速自動車国道の路線を指定する政令においては以下の2路線とされている。 東日本高速道路株式会社による事業名・道路名は以下のようになっている。 以下では、東日本高速道路の営業中、事業中の路線としての東関東自動車道について記述する。 東関東自動車道水戸線の潮来 - 水戸間は、1987年(昭和62年)に計画段階の予定路線に位置づけられ、1991年(平成3年)12月に開かれた国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)で、水戸 - 鉾田間の18 kmが計画路線に指定された。さらに1996年(平成8年)12月に開かれた国幹審で、鉾田 - 茨城(北関東自動車道)間の17 kmが整備計画路線に、潮来 - 鉾田間がの28 kmが基本計画路線にそれぞれ昇格した。 高谷JCT - 千葉北IC間は急カーブが連続しているため、最高速度が80 km/hに制限されている。また、湾岸千葉IC以西は海岸沿いを通過するため、横風の影響を受けやすい。道路照明灯は、6車線区間である高谷JCT - 成田IC間に設置されている。未開通区間の潮来IC以北は、暫定2車線で先行整備される。鉾田IC - 茨城空港北IC間は、暫定2車線ながら中央分離帯がコンクリートで整備されていて安全性が保たれていると評価され、最高速度が80 km/hに引き上げられている。 千葉北IC ー 佐原香取IC間は設計速度が120 km/hとなっている。2021年(令和3年)12月1日に四街道IC付近 - 成田JCT付近の最高速度が110 km/hに引き上げられた。さらに2023年(令和5年)7月3日には四街道IC付近 - 成田JCT付近の最高速度が120 km/hに引き上げられた。 東関東道にはパーキングエリア (PA) が4か所設置されており、サービスエリア (SA) は設置されていない。ただし、酒々井PAにガソリンスタンド(上下線とも24時間営業)があるほか、ファーストフードチェーン店(上り線 : モスバーガー、下り線 : 松屋)が設置されており、実質的なSAとして機能している。 佐原PAはトイレと自動販売機のみで、他のPAは何かしらの売店設備を持っている。24時間営業の店舗は、酒々井PA下り線の松屋、大栄PA上下線のセブン-イレブンのみとなっている。 また、東関東道は全線開通すると、佐原PAの次にある休憩施設までの距離が常磐自動車道の友部SAまで約63 kmあることから、途中の休憩施設の整備の必要性が指摘されており、事業連絡調整会議(第2回)では、麻生IC - 北浦IC間の行方市域が新たな休憩施設の設置候補箇所として挙げられた。 その後、事業連絡調整会議(第3回)では休憩施設の候補箇所を2箇所に絞り込まれ、事業連絡調整会議(第4回)では設置位置について、高速道路の休憩施設に加え地域振興施設の併設を見据えた総合的な観点から2箇所の候補箇所について比較を行い、行方市青沼地先(水戸鉾田佐原線の交差箇所)に設置する事が決定した。 24時間交通量(台)道路交通センサス (出典:「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果( 国土交通省関東地方整備局 ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査一般交通量調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 2002年度 日平均交通量(区間平均) 料金収入 東関東道は、元々は成田国際空港へのアクセスを目的に建設されたため、成田ICを境に交通量が大きく異なる特徴がある。なお、千葉北IC以西では各区間10万台前後と全国的に見ても交通量が特に多いが、首都圏の他の放射方向への高速道路とは異なり、事故や通行止めがない限り土休日も含めて20 kmを超える渋滞は滅多に発生しない。 元々、東関東道は法令上、「東関東自動車道鹿島線」として茨城県鹿島郡鹿島町(現・鹿嶋市)を終点とする計画であった。水戸市まで延伸する計画が決まり「東関東自動車道水戸線」に改められた現在でも、国土開発幹線自動車道建設法の別表では、「茨城県鹿島郡鹿島町」が「主たる経過地」とされている。東関東道は、全線開通しても鹿嶋市内を通過しないが、2013年に東関東道を潮来ICから鹿島港周辺(神栖市・鹿嶋市)まで延伸する計画が公表された。
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東関東自動車道は、東京都を起点として茨城県水戸市および千葉県館山市を終点とする国土開発幹線自動車道であり、高速道路(高速自動車国道)である。 また、このうち東京都から茨城県水戸市に至る東関東自動車道水戸線の既開通区間では東日本高速道路による営業路線名としてもこの名称が使用されている。当該区間の略称は東関東道(ひがしかんとうどう)、東関道(とうかんどう)。高速道路ナンバリングによる路線番号は「E51」が割り振られている。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[ファイル:HIGASHI-KANTO EXP(E51).svg|130px|東関東自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E51}} 東関東自動車道 |総距離 = 92.1 [[キロメートル|km]](既開通区間) |制定年 = [[1979年]]([[昭和]]54年) |開通年 = [[1971年]](昭和46年) - |起点 = [[千葉県]][[市川市]]([[高谷ジャンクション|高谷JCT]]) |主な経由都市 = [[習志野市]]、[[千葉市]]<br />[[四街道市]]、[[佐倉市]]、[[成田市]]<br />[[香取市]]、[[潮来市]]、[[鉾田市]] |終点 = [[茨城県]][[東茨城郡]][[茨城町]]([[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]]) |接続する主な道路 = 記事参照 }} '''東関東自動車道'''(ひがしかんとうじどうしゃどう、{{Lang-en-short|HIGASHI-KANTO EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[東京都]]を起点として[[茨城県]][[水戸市]]および[[千葉県]][[館山市]]を終点とする[[国土開発幹線自動車道]]であり、[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。 また、このうち東京都から茨城県水戸市に至る東関東自動車道水戸線の既開通区間([[高谷ジャンクション|高谷JCT]] - [[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]]間)では[[東日本高速道路]]による営業路線名としてもこの名称が使用されている。当該区間の[[略語|略称]]は'''東関東道'''(ひがしかんとうどう)、'''東関道'''(とうかんどう)。[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は「'''E51'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2017-09-02|publisher=国土交通省}}</ref>。 == 概要 == [[画像:SawaraPA-lookout-point,higashi-kanto-expressway,katori-city,japan.JPG|thumb|right|200px|[[利根川橋 (東関東自動車道)|利根川橋]]付近<br />([[佐原香取インターチェンジ|佐原香取IC]] - [[潮来インターチェンジ|潮来IC]]間の[[佐原パーキングエリア|佐原PA]]から)]] [[関東地方]]を東進し、千葉県と茨城県を結ぶ高速道路である。東京都から千葉県北部を横断して茨城県水戸市に至る路線が'''東関東自動車道水戸線'''、千葉県[[内房]]に沿って館山市に至る路線が'''東関東自動車道館山線'''である。[[東日本高速道路]]による営業路線名としての東関東自動車道は、一般に水戸線の[[高谷ジャンクション]] (JCT) - [[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]]間([[首都高速湾岸線]]から[[北関東自動車道]]まで)を指し、館山線は[[館山自動車道]]などの別路線名で区別される。水戸線の未開通部分である[[潮来インターチェンジ]] (IC) - [[鉾田インターチェンジ|鉾田IC]]間が整備計画区間として現在整備事業が進められている。 当初は[[新空港自動車道]]として開通したが、新東京国際空港(現:[[成田国際空港]])開港の翌年([[1979年]]〈[[昭和]]54年〉)に「東関東自動車道」に名称変更された。なお新空港自動車道の名称は、[[成田インターチェンジ|成田JCT]]と成田空港付近の[[新空港インターチェンジ|新空港IC]]間の道路名として現存する。 開通当初の名称である'''新空港自動車道'''からも分かる通り、道路の建設目的は、[[東京都区部]]から成田国際空港にアクセスするための高速道路である。また、全線開通時には、[[常磐自動車道]]の[[バイパス道路|バイパス路線]]となることも期待されている<ref>{{Cite news|url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/353429.html |publisher=Car Watch |title=NEXCO東日本、東関東道 茨城空港北IC〜茨城町JCT間 開通式を開催|date=}}</ref>。 [[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]]から[[京葉道路]]・[[館山自動車道]](東関東自動車道館山線)、[[千葉東ジャンクション|千葉東JCT]]から[[千葉東金道路]]がそれぞれ分岐しており、[[東金市|東金]]・館山方面の利用もある。 [[高谷ジャンクション|高谷JCT]] - 成田IC間は、[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]に指定されている。 2010年(平成22年)4月9日に、[[国土交通省]]から[[潮来インターチェンジ|潮来IC]] - [[鉾田インターチェンジ|鉾田IC]]間が、国が運営する直轄施行方式の無料道路として整備されることが発表されていたが、2017年(平成29年)3月16日、[[国土交通省]]は国の社会資本整備審議会事業評価部会で、2017年(平成29年)度から国の直轄事業と併せて有料道路事業も導入し整備を進める方針が決まった<ref>{{Cite news|url=http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14896714784144 |title=東関道・潮来-鉾田IC 有料道路事業導入へ 国交省、部会で報告|publisher= 茨城新聞 |date=2017-03-17}}</ref>。 なお、潮来ICから[[鹿島港]]周辺までの延伸も計画されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamisu.ibaraki.jp/shisei/kocho/1003099/1003100/1003102.html|title=都市整備へのご意見・ご提案(平成30年度)|accessdate=2020-12-27|publisher=神栖市}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13686282056704/ |title=東関東道、鹿島港まで延伸計画 国予算に調査費計上 |publisher=茨城新聞|date=2013-05-16}}</ref>。 === 路線名・道路名 === [[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]においては以下の2路線とされている。 {| class="wikitable" ! style="white-space:nowrap" | 路線名 ! style="white-space:nowrap" | 起点 ! colspan="2" style="white-space:nowrap" | 主たる経過地 ! style="white-space:nowrap" | 終点 |- ! style="white-space:nowrap" | 館山線 |rowspan="2"|[[東京都]] |rowspan="2"|[[習志野市]] |[[千葉市]]付近 [[木更津市]] | style="white-space:nowrap" | [[館山市]] |- ! style="white-space:nowrap" | 水戸線 |[[茨城県]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]][[鹿嶋市|鹿島町]] |[[水戸市]] |} [[高速自動車国道の路線を指定する政令]]においては以下の2路線とされている。 {| class="wikitable" ! style="white-space:nowrap" | 路線名 ! style="white-space:nowrap" | 起点 ! style="white-space:nowrap" | 重要な経過地 ! style="white-space:nowrap" | 終点 |- ! style="white-space:nowrap" | 千葉富津線 |千葉市 |[[市原市]] [[袖ケ浦市]] [[木更津市]] [[君津市]] |[[富津市]] |- ! style="white-space:nowrap" | 水戸線 |[[東京都]][[練馬区]] |[[和光市]] [[戸田市]] [[さいたま市]] [[川口市]] [[草加市]] [[八潮市]] [[三郷市]] [[松戸市]] [[市川市]] [[船橋市]] 習志野市 千葉市 [[四街道市]] [[佐倉市]] [[富里市]]<br /> [[成田市]] [[香取市]] [[潮来市]] [[行方市]] [[鉾田市]] 茨城県[[東茨城郡]][[茨城町]] |水戸市 |} [[東日本高速道路|東日本高速道路株式会社]]による事業名・道路名は以下のようになっている。 {| class="wikitable" ! 路線名 !! 道路名 !! 区間 !! 備考 |- | rowspan="4" |館山線 | {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]] || [[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]] - [[千葉南ジャンクション|千葉南JCT]] || [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]] |- | {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[館山自動車道]] || 千葉南JCT - [[木更津南インターチェンジ|木更津南IC]]<br/>[[木更津南ジャンクション|木更津南JCT]] - [[富津竹岡インターチェンジ|富津竹岡IC]] || |- | {{Ja Exp Route Sign|CA}} [[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]] || [[木更津ジャンクション|木更津JCT]] - 木更津西JCT || |- | {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[富津館山道路]] || 富津竹岡IC - [[富浦インターチェンジ|富浦IC]] || 高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路 |- | rowspan="2" |水戸線 | {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]] || [[大泉ジャンクション|大泉JCT]] - [[高谷ジャンクション|高谷JCT]] || |- | {{Ja Exp Route Sign|E51}} '''東関東自動車道''' || [[高谷ジャンクション|高谷JCT]] - [[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]] || [[潮来インターチェンジ|潮来IC]] - [[鉾田インターチェンジ|鉾田IC]]は、事業中 |}''' 以下では、東日本高速道路の営業中、事業中の路線としての東関東自動車道について記述する。 == インターチェンジなど == [[画像:東関東湾岸幕張付近0001.jpg|thumb|湾岸習志野IC付近]] * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である部分については道路が供用済みの区間を示している。また、施設名欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。未開通区間の名称は仮称。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 * BSのうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 {{-}} {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|起点<span style="font-size:small"><br />から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="9" style="text-align:center;"|[[File:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|26px]] [[首都高速湾岸線]] |- !style="background-color:#BFB"|1 ||[[高谷ジャンクション|高谷JCT]] ||{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:center"| |東京外環道のJCT番号は「'''92'''」 |rowspan="21" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉県]]}} |rowspan="2" colspan="2"|[[市川市]] |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[湾岸市川インターチェンジ|湾岸市川IC]] |[[国道357号]] |style="text-align:right"|1.0 |style="text-align:center"| |成田方面出入口 |- !style="background-color:#BFB"|2-1 |[[谷津船橋インターチェンジ|谷津船橋IC]] |国道357号<br />[[千葉県道15号千葉船橋海浜線|県道15号千葉船橋海浜線]] |style="text-align:right"|5.5 |style="text-align:center"| |東京方面出入口 |rowspan="3" colspan="2"|[[習志野市]] |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[湾岸習志野インターチェンジ|湾岸習志野IC]] |国道357号 |style="text-align:right"|7.9 |style="text-align:center"| |東京方面出入口 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[習志野本線料金所|習志野TB]] |[[本線料金所]] |style="text-align:right"|8.4 |style="text-align:center"| |通称“習志野バリア” |- !style="background-color:#BFB"|- |[[湾岸幕張パーキングエリア|湾岸幕張PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|8.7 |style="text-align:center"| | |rowspan="5" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉市]]}} |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[美浜区]] |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[湾岸千葉インターチェンジ|湾岸千葉IC]] |国道357号 |style="text-align:right"|11.6 |style="text-align:center"| |成田方面出入口 |- ! style="background-color:#BFB" |-<!-- 4-1 --> | style="background-color:#CCC" |[[検見川・真砂スマートインターチェンジ|検見川・真砂SIC]] | style="background-color:#CCC" |国道357号 | style="background-color:#CCC; text-align:right" |12.5 | style="background-color:#CCC" | | style="background-color:#CCC" |事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><br />東京方面出入口 | |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]] |style="text-align:right"|16.7 |style="text-align:center"| |東京方面からは東金・館山方面のみ接続。<br />京葉道路のJCT番号は「'''7-1'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2017/0901/00008272.html|title=千葉県内での高速道路ナンバリングが始まります。|accessdate=2017-09-02|publisher=東日本高速道路株式会社関東支社}}</ref> |rowspan="2"|[[稲毛区]] |- !style="background-color: #BFB"|6 |[[千葉北インターチェンジ|千葉北IC]] |[[国道16号]] |style="text-align:right"|18.8 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[四街道インターチェンジ|四街道IC]] |[[千葉県道64号千葉臼井印西線|県道64号千葉臼井印西線]] |style="text-align:right"|24.6 |style="text-align:center"| | |colspan="2"|[[四街道市]] |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[佐倉インターチェンジ|佐倉IC]] |[[国道51号]]方面 |style="text-align:right"|30.0 |style="text-align:center"| | |colspan="2"|[[佐倉市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[酒々井パーキングエリア|酒々井PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|35.1 |style="text-align:center"| |唯一の[[ガソリンスタンド|給油所]]設置場所 |rowspan="2" colspan="2"|[[印旛郡]]<br />[[酒々井町]] |- !style="background-color:#BFB"|8-1 |[[酒々井インターチェンジ|酒々井IC]] |[[千葉県道77号富里酒々井線|県道77号富里酒々井線]] |style="text-align:right"|37.0 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[富里インターチェンジ|富里IC]] |[[国道409号]] |style="text-align:right"|39.5 |style="text-align:center"| | |colspan="2"|[[富里市]] |- !style="background-color:#BFB"|9-1<br>10 |[[成田インターチェンジ|成田JCT/IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E65}} [[新空港自動車道]] |style="text-align:right"|44.9 |style="text-align:center"| |[[成田国際空港]]接続口 <br />[[北千葉道路]]との接続計画あり |rowspan="4" colspan="2"|[[成田市]] |- !style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|10-1 |style="background-color:|[[大栄ジャンクション|大栄JCT]] |style="background-color:|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]<ref name="mainichi-np-2015-6-8-i" /><ref name="tokyo-np-2015-6-8" /> |style="text-align:right"|50.5 |style="text-align:center"| |圏央道のJCT番号は「'''90'''」<br />[[東金ジャンクション|東金]]・[[木更津ジャンクション|木更津]]方面は[[2026年]]度開通予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/kisha_00741.pdf|title=首都圏中央連絡自動車道(大栄JCT〜松尾横芝IC)連絡調整会議(第2回)の開催結果について|date=2023-10-13|accessdate=2023-10-13|publisher=国土交通省関東地方整備局 千葉国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |[[大栄パーキングエリア|大栄PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|51.6 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[大栄インターチェンジ|大栄IC]] |[[国道51号]] |style="text-align:right"|56.6 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[佐原香取インターチェンジ|佐原香取IC]] |[[千葉県道55号佐原山田線|県道55号佐原山田線]]<br />[[千葉県道253号香取津之宮線|県道253号香取津之宮線]] |style="text-align:right"|65.9 |style="text-align:center"| | |rowspan="2" colspan="2"|[[香取市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[佐原パーキングエリア|佐原PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|68.5 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[潮来インターチェンジ|潮来IC]] |[[茨城県道50号水戸神栖線|県道50号水戸神栖線]]<br />[[茨城県道・千葉県道101号潮来佐原線|県道101号潮来佐原線]] |style="text-align:right"|74.5 |style="text-align:center"| |鹿島港方面への支線構想あり |rowspan="7" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[茨城県]]}} |colspan="2"|[[潮来市]] |- !style="background-color:#CCC"|- |style="background-color:#CCC"|[[麻生インターチェンジ|麻生IC]] |style="background-color:#CCC"|県道50号水戸神栖線 |style="background-color:#CCC; text-align:right"|85.6 |style="background-color:#CCC"| |rowspan="3" style="background-color:#CCC"|2025年度〜2026年度開通予定<ref name="press20211222">{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000818977.pdf|title=東関道水戸線(潮来〜鉾田)事業連絡調整会議(第5回)開催結果|date=2021-12-22|accessdate=2021-12-22|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所・常陸河川国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref> |rowspan="3" colspan="2"|[[行方市]] |- !style="background-color:#CCC"|- |style="background-color:#CCC"|[[行方パーキングエリア|行方PA]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000829259.pdf|title=令和4年度 常総国道事務所の事業概要 〜東関道、国道6号牛久土浦バイパス等の事業推進〜|date=2022-04-27|accessdate=2022-04-27|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所|format=PDF}}</ref> |style="background-color:#CCC"| |style="background-color:#CCC; text-align:right"|88.1 |style="background-color:#CCC"| |- !style="background-color:#CCC"|- |style="background-color:#CCC"|[[北浦インターチェンジ (茨城県)|北浦IC]] |style="background-color:#CCC"|[[国道354号]] |style="background-color:#CCC; text-align:right"|97.5 |style="background-color:#CCC"| |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[鉾田インターチェンジ|鉾田IC]] |[[茨城県道110号鉾田茨城線|県道110号鉾田茨城線]] |style="text-align:right"|105.4 | |茨城町JCTまで[[暫定2車線]] |colspan="2"|[[鉾田市]] |- !style="background-color:#BFB"|17 |[[茨城空港北インターチェンジ|茨城空港北IC]] |[[茨城県道18号茨城鹿島線|県道18号茨城鹿島線]] |style="text-align:right"|114.2 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[東茨城郡]]<br />[[茨城町]] |- !style="background-color:#BFB"|18 |[[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]] |style="text-align:right"|123.0 | |北関東道のJCT番号は「'''15-1'''」 |} == 歴史 == 東関東自動車道水戸線の潮来 - 水戸間は、[[1987年]](昭和62年)に計画段階の予定路線に位置づけられ、[[1991年]](平成3年)12月に開かれた国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)で、水戸 - 鉾田間の18&nbsp;kmが計画路線に指定された<ref>「水戸へ向かう東関東道」『[[茨城新聞]]』、1992年1月3日付日刊、2面。</ref>。さらに[[1996年]](平成8年)12月<!--27日-->に開かれた国幹審で、鉾田 - 茨城(北関東自動車道)間の17&nbsp;kmが整備計画路線に、潮来 - 鉾田間がの28&nbsp;kmが基本計画路線にそれぞれ昇格した<ref>「東関道 鉾田 - 茨城区間着工へ」『[[茨城新聞]]』、1996年12月28日付日刊、1面〈総合〉。</ref>。 === 年表 === * [[1966年]]([[昭和]]41年)[[7月1日]] : 国幹道の予定路線となる。 * [[1967年]](昭和42年)[[11月22日]] : 千葉市 - 成田市間の基本計画が告示。 * [[1968年]](昭和43年)[[3月6日]] : 千葉市 - 成田市間の整備計画が策定。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[6月8日]] : 市川市 - 千葉市間、成田市 - 潮来市間の基本計画が告示。 ** [[10月27日]] : 新空港自動車道として宮野木JCT - 富里IC間 開通。開通時は4車線。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[6月20日]] : 市川市 - 千葉市間、成田市 - 潮来市間の整備計画が決定。 ** [[8月19日]] : 新空港自動車道として富里IC - 成田IC間 開通。 * [[1978年]](昭和53年)[[5月21日]] : 新空港自動車道の成田IC - 新空港IC間 開通。 * [[1979年]](昭和54年)[[4月1日]] : 新空港自動車道の宮野木JCT - 成田IC間が「東関東自動車道」に名称変更。 * [[1982年]](昭和57年)[[4月27日]] : 首都高速湾岸線浦安出入口 - 高谷JCT - 宮野木JCT間 開通。開通と前後して宮野木JCT - 成田IC間が6車線化。 * [[1985年]](昭和60年)[[2月27日]] : 成田IC - 大栄IC間 開通。 * [[1986年]](昭和61年)[[3月28日]] : 大栄IC - 佐原香取IC間 開通。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[6月30日]] : [[第四次全国総合開発計画]]が[[閣議|閣議決定]]され「'''東関東自動車道木更津線延伸'''」、「'''東関東自動車道鹿島線延伸'''」が高規格幹線道路の構想となる。 ** [[9月1日]] : 国土開発幹線自動車道建設法の改正により館山線、水戸線として国幹道の予定路線となる。 ** [[11月20日]] : 佐原香取IC - 潮来IC間 開通。 * [[1988年]](昭和63年)[[1月]] : 谷津船橋IC(仮称:湾岸船橋IC)が整備計画策定。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[12月20日]] : 鉾田市 - 水戸市間の基本計画が告示。 * [[1997年]](平成9年) ** [[2月5日]] : 潮来市 - 鉾田市間が基本計画決定。 ** [[3月8日]] : 鉾田市 - 茨城町間が整備計画決定。 * [[1998年]](平成10年)[[12月25日]] : 鉾田市 - 茨城町間に施行命令。 * [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] : [[日本道路公団]]の[[民営化]]により、東日本高速道路株式会社の管轄路線となる。 * [[2009年]](平成21年)4月27日 : 潮来市 - 鉾田市間の整備計画が策定。 * [[2010年]](平成22年)3月6日 : 茨城空港北IC - 茨城町JCT間 開通により、北関東自動車道と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2010/0122/00006353.html|title=東関東自動車道 茨城空港北IC〜茨城町JCT間の開通をお知らせします|date=2010-01-22|accessdate=2020-12-22|publisher=東日本高速道路株式会社}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[4月10日]] : 酒々井IC 供用開始<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2014021804231/files/kouhou_2011020203.pdf|title=活力あるまちづくりへ|format=PDF|publisher=千葉県酒々井町|accessdate=2011-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/youchi/koukyouyouchi/shinchoku/douro-kasen/douro.html|title=県土整備部所管の公共事業に係る用地取得の進捗状況等について|publisher=千葉県道路整備課(国道県道室)|accessdate=2011-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2013年1月29日 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2012/documents/houdouhappyousiryou.pdf |title=東関東自動車道 酒々井インターチェンジが開通します!|format=PDF |publisher=千葉県 |coauthors=東日本高速道路株式会社関東支社 |accessdate=2015年5月1日}}</ref>。 ** [[9月20日]] : 谷津船橋IC 供用開始<ref>[https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2013/0806/00007953.html 東関東自動車道 谷津船橋(やつふなばし)インターチェンジが開通します! 〜 この開通により周辺地域の活性化と交通混雑緩和が期待されます 〜] NEXCO東日本 2013年8月6日付</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2013年8月6日 |url=https://www.pref.chiba.lg.jp/dousei/press/2013/documents/yatsufunahoudou.pdf |title=東関東自動車道 谷津船橋インターチェンジが開通します!|format=PDF |publisher=千葉県 |coauthors=東日本高速道路株式会社関東支社|accessdate=2015年5月1日}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[6月7日]] : 大栄JCT開通により、圏央道と接続<ref name="mainichi-np-2015-6-8-i" /><ref name="tokyo-np-2015-6-8" />。 * [[2018年]](平成30年) ** [[2月3日]] : 鉾田IC - 茨城空港北IC間 開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2017/1212/00008309.html|title=E51東関東自動車道(鉾田IC〜茨城空港北IC間)が平成30年2月3日(土)15時に開通します。|date=2017-12-12|accessdate=2017-12-12|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[6月2日]] : 高谷JCTで東京外環自動車道と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h30/0323/pdfs/pdf.pdf|title=東京外かく環状道路(三郷南IC〜高谷JCT) 今年6月2日(土)に開通|date=2018-03-23|accessdate=2018-03-23|publisher=国土交通省関東地方整備局 首都国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[12月1日]] : 四街道IC付近 - 成田JCT付近の上り線約20&nbsp;km、下り線約18.5&nbsp;kmの最高速度を110&nbsp;km/hに引き上げ{{Efn|name="大貨等"|[[日本における速度規制#法定最高速度|法定最高速度]]が80&nbsp;km/hとなっている大型[[貨物自動車]]、大型[[特殊自動車]]、特定中型貨物自動車・三輪の自動車・[[牽引自動車|けん引車]]を除く車両。}}<ref name=Chibakenkei>{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.chiba.jp/kotsukiseika/traffic-safety_revision-speed_limit_toukan.html |title=東関東自動車道(四街道IC付近〜成田JCT付近)の最高速度規制について |publisher=千葉県警察本部 |accessdate=2021-11-01 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20211115/1000072611.html|title=東関東自動車道の千葉県内一部区間 最高速度110キロに|date=2021-11-15|accessdate=2021-11-15|website=NHK首都圏ニュース|publisher=日本放送協会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211115022742/https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20211115/1000072611.html |archivedate=2021-11-15}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[7月3日]] : 四街道IC付近 - 成田JCT付近の上り線約20&nbsp;km、下り線約18.5&nbsp;kmの最高速度を120&nbsp;km/hに引き上げ{{Efn|name="大貨等"|}}<ref name="chibakenkei20230602">{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.chiba.jp/kotsukiseika/traffic-safety_revision-speed_limit_toukan.html|title=東関東自動車道(四街道IC付近〜成田JCT付近)の最高速度規制について|date=2023-06-02|accessdate=2023-07-03|publisher=千葉県警察本部交通規制課}}</ref>。 === 開通予定年度 === * 2025年度〜2026年度 : 潮来IC - 鉾田IC<ref name="press20211222" /> == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- ! rowspan="2" | 区間 ! rowspan="2" | [[車線]]<br />上下線=上り線+下り線 ! colspan="2" | [[最高速度]] ! rowspan="2" | 備考 |- ! style="width:99px" | [[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]] ! 左記を除く車両 |- | 高谷JCT - 千葉北IC | rowspan="4" | 6=3+3 | rowspan="1" | 80&nbsp;km/h<br />(指定) | rowspan="1" | 80&nbsp;km/h<br />(指定) | |- | 千葉北IC - 四街道IC付近 | rowspan="3" | 80&nbsp;km/h<br />(指定) | rowspan="1" | 100&nbsp;km/h<br />(指定) | * |- | 四街道IC付近 - 成田IC/JCT付近 | rowspan="1" | 120&nbsp;km/h<br />(指定) | |- | 成田IC/JCT付近 - 成田IC/JCT | rowspan="1" | 上り: 120&nbsp;km/h(指定)<br />下り: 100&nbsp;km/h(指定) | * |- | 成田IC/JCT - 潮来IC | 4=2+2 | rowspan="1" | 80&nbsp;km/h<br />(法定) | rowspan="1" | 100&nbsp;km/h<br />(法定) | |- | colspan="5" style="background-color:#CCC;" | (潮来IC - 鉾田IC間未開通) |- | 鉾田IC - 茨城空港北IC | 2=1+1<br />(暫定2車線) | 80&nbsp;km/h<br />(指定) | 80&nbsp;km/h<br />(指定) | ※ |- | 茨城空港北IC - 茨城町JCT | 2=1+1<br />(暫定2車線) | 70&nbsp;km/h<br />(指定) | 70&nbsp;km/h<br />(指定) | |} * ※...中央分離帯付き * *...100&nbsp;km/h を越える最高速度指定の準備がなされているが、100&nbsp;km/h 以下の指定最高速度で運用されている。 [[ファイル:東関東道 コンクリート中央分離帯.jpg|サムネイル|中央分離帯がコンクリートで整備された区間(鉾田IC - 茨城空港北IC間)|221x221ピクセル]] 高谷JCT - 千葉北IC間は[[線形 (路線)|急カーブ]]が連続しているため、最高速度が80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]に[[規制|制限]]されている。また、湾岸千葉IC以西は海岸沿いを通過するため、横風の影響を受けやすい。道路照明灯は、6車線区間である高谷JCT - 成田IC間に設置されている。未開通区間の潮来IC以北は、[[暫定2車線]]で先行整備される。鉾田IC - 茨城空港北IC間は、暫定2車線ながら中央分離帯がコンクリートで整備されていて安全性が保たれていると評価され、最高速度が80&nbsp;km/hに引き上げられている。 千葉北IC ー 佐原香取IC間は設計速度が120&nbsp;km/hとなっている。[[2021年]]([[令和]]3年)[[12月1日]]に四街道IC付近 - 成田JCT付近の最高速度が110&nbsp;km/hに引き上げられた{{Efn|name="大貨等"|}}<ref name=Chibakenkei />。さらに[[2023年]](令和5年)[[7月3日]]には四街道IC付近 - 成田JCT付近の最高速度が120&nbsp;km/hに引き上げられた{{Efn|name="大貨等"|}}<ref name="chibakenkei20230602" />。 === サービスエリア・パーキングエリア === 東関東道には[[パーキングエリア]] (PA) が4か所設置されており、[[サービスエリア]] (SA) は設置されていない。ただし、[[酒々井パーキングエリア|酒々井PA]]に[[ガソリンスタンド]](上下線とも24時間営業)があるほか、[[ファーストフード|ファーストフードチェーン店]](上り線 : [[モスバーガー]]、下り線 : [[松屋フーズ|松屋]])が設置されており、実質的なSAとして機能している。 佐原PAは[[便所|トイレ]]と[[自動販売機]]のみで、他のPAは何かしらの売店設備を持っている。24時間営業の店舗は、酒々井PA下り線の松屋、大栄PA上下線の[[セブン-イレブン]]のみとなっている。 また、東関東道は全線開通すると、佐原PAの次にある休憩施設までの距離が[[常磐自動車道]]の[[友部サービスエリア|友部SA]]まで約63&nbsp;kmあることから<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000764833.pdf|title=東関道水戸線(潮来〜鉾田)事業連絡調整会議(第1回)開催結果|date=2019-12-24|accessdate=2021-03-09|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所・常陸河川国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000765886.pdf#search='%E6%9D%B1%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%81%93+%E6%BD%AE%E6%9D%A5%EF%BD%9E%E9%89%BE%E7%94%B0+%E4%BC%91%E6%86%A9%E6%96%BD%E8%A8%AD'|title=(再評価)東関東自動車道水戸線(潮来〜鉾田)|date=2020-01-17|accessdate=2020-12-27|publisher=国土交通省関東地方整備局・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>、途中の休憩施設の整備の必要性が指摘されており、事業連絡調整会議(第2回)では、麻生IC - 北浦IC間の行方市域が新たな休憩施設の設置候補箇所として挙げられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000792520.pdf|title=東関道水戸線(潮来〜鉾田)事業連絡調整会議(第2回)開催結果|date=2020-08-28|accessdate=2020-12-27|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所・常陸河川国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 その後、事業連絡調整会議(第3回)では休憩施設の候補箇所を2箇所に絞り込まれ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000784029.pdf|title=東関道水戸線(潮来〜鉾田)事業連絡調整会議(第3回)開催結果|date=2020-12-25|accessdate=2021-03-09|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所・常陸河川国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>、事業連絡調整会議(第4回)では設置位置について、高速道路の休憩施設に加え地域振興施設の併設を見据えた総合的な観点から2箇所の候補箇所について比較を行い、行方市青沼地先([[茨城県道・千葉県道2号水戸鉾田佐原線|水戸鉾田佐原線]]の交差箇所)に設置する事が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000812771.pdf|title=東関道水戸線(潮来〜鉾田)事業連絡調整会議(第4回)開催結果|date=2021-09-16|accessdate=2021-09-16|publisher=国土交通省関東地方整備局 常総国道事務所・常陸河川国道事務所・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 === 主な橋 === * [[利根川橋 (東関東自動車道)|利根川橋]](佐原PA - 潮来IC) * [[常陸利根川橋]](佐原PA - 潮来IC) === ハイウェイラジオ === * 習志野TB付近(湾岸市川IC - 湾岸習志野IC)<ref name="e-nexco radio">{{Cite web|和書|url=https://ap.salesforce.com/sfc/p/100000001ffs/a/10000000QHEp/kiB5jNvliRRs1Xm6JUbpTa4gVA2EIn8IYBdzySIzC4k|title=ハイウェイラジオ設置箇所一覧(NEXCO東日本エリア)(平成30年3月1日時点)|publisher=東日本高速道路|format=PDF|accessdate=2021-9-23}}</ref> * 千葉北IC付近(千葉北IC - 四街道IC)<ref name="e-nexco radio"/> * 酒々井PA付近(佐倉IC - 富里IC)<ref name="e-nexco radio"/> === 道路管理者 === * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]] [[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 千葉管理事務所 : 高谷JCT - 潮来IC ** 水戸管理事務所 : 鉾田IC - 茨城町JCT === 交通量 === '''24時間交通量'''(台)[[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 高谷JCT - 湾岸市川IC || {{0}}98,056 || {{0}}83,832 || {{0}}83,726 || {{0}}91,792 || {{0}}88,009 |- | 湾岸市川IC - 谷津船橋IC || rowspan="2"| {{0}}112,078 || rowspan="2"| {{0}}99,614 || rowspan="2"| 101,808 || 111,414 || 107,558 |- | 谷津船橋IC - 湾岸習志野IC || 111,414 || {{0}}88,840 |- | 湾岸習志野IC - 湾岸千葉IC || {{0}}81,449 || {{0}}78,239 || {{0}}74,967 || {{0}}75,598 || {{0}}66,914 |- | 湾岸千葉IC - 宮野木JCT || {{0}}97,078 || {{0}}93,702 || {{0}}89,101 || {{0}}89,612 || {{0}}78,466 |- | 宮野木JCT - 千葉北IC || {{0}}100,774 ||{{0}}100,189 || {{0}}98,768 || 102,743 || {{0}}97,181 |- | 千葉北IC - 四街道IC || {{0}}81,698 || {{0}}77,657 || {{0}}75,474 || {{0}}79,483 || {{0}}71,694 |- | 四街道IC - 佐倉IC || {{0}}77,562 || {{0}}71,574 || {{0}}69,547 || {{0}}73,887 || {{0}}65,025 |- | 佐倉IC - 酒々井IC || rowspan="2"|61,440 || rowspan="2" | {{0}}59,412 || rowspan="2" | {{0}}57,223 || {{0}}63,964 || {{0}}56,387 |- | 酒々井IC - 冨里IC || {{0}}58,542 || {{0}}49,103 |- | 富里IC - 成田JCT/IC || {{0}} 48,317 || {{0}}46,904 || {{0}}45,572 || {{0}}49,152 || {{0}}41,827 |- | 成田JCT/IC - 大栄JCT || rowspan="2" |{{0}} 22,292 || rowspan="2" | {{0}}21,031 || rowspan="2" | {{0}}23,593 || {{0}}30,143 || {{0}}29,088 |- | 大栄JCT - 大栄IC || {{0}}23,829 || {{0}}22,367 |- | 大栄IC - 佐原香取IC || {{0}}15,057 || {{0}}14,420 || {{0}}16,475 || {{0}}17,145 || {{0}}16,350 |- | 佐原香取IC - 潮来IC || {{0}} 9,309 || {{00}}9,347 || {{0}}11,618 || {{0}}12,468 || {{0}}12,034 |- | style="background-color:#CCC;" | 潮来IC - 鉾田IC間 || colspan="5" style="background-color:#CCC;" | 未開通 |- | 鉾田IC - 茨城空港北IC || colspan="4"|調査当時未開通 || {{00}}2,617 |- | 茨城空港北IC - 茨城町JCT || colspan="2"|調査当時未開通 || {{00}}1,818 || {{00}}3,287 || {{00}}3,731 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果]([[関東地方整備局| 国土交通省関東地方整備局]] ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査一般交通量調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 2002年度 日平均交通量(区間平均) * 湾岸市川IC - 潮来IC間 : 54,159台(前年度比99.4&nbsp;[[パーセント|%]]) ** 最大 : 湾岸市川IC - 湾岸習志野IC間 : 106,716台(前年度比98.7&nbsp;%) ** 最小 : 佐原香取IC - 潮来IC間 : 10,579台(前年度比100.3&nbsp;%) [[価格|料金]][[収入]] * 年間 : 512億7854万2000[[円 (通貨)|円]](前年度比99.1&nbsp;%) * 日平均 : 1億4048万9000円 東関東道は、元々は成田国際空港へのアクセスを目的に建設されたため、成田ICを境に交通量が大きく異なる特徴がある。なお、千葉北IC以西では各区間10万台前後と全国的に見ても交通量が特に多いが、首都圏の他の放射方向への高速道路とは異なり、事故や通行止めがない限り土休日も含めて20&nbsp;kmを超える渋滞は滅多に発生しない。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[千葉県]] ** [[市川市]] - [[船橋市]] - [[習志野市]] - [[千葉市]]([[美浜区]] - [[花見川区]] - [[稲毛区]]) - [[四街道市]] - [[佐倉市]] - [[印旛郡]][[酒々井町]] - [[富里市]] - [[成田市]] - [[香取市]] - * [[茨城県]] ** [[潮来市]]<!--(開通次第記載) - [[行方市]]-->、[[鉾田市]] - [[東茨城郡]][[茨城町]] 元々、東関東道は法令上、「東関東自動車道鹿島線」として茨城県[[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]鹿島町(現・[[鹿嶋市]])を終点とする計画であった。水戸市まで延伸する計画が決まり「東関東自動車道水戸線」に改められた現在でも、国土開発幹線自動車道建設法の別表では、「茨城県鹿島郡鹿島町」が「主たる経過地」とされている。東関東道は、全線開通しても鹿嶋市内を通過しないが、2013年に東関東道を潮来ICから鹿島港周辺([[神栖市]]・[[鹿嶋市]])まで延伸する計画が公表された。 === 接続する高速道路 === * [[File:Shuto Urban Expwy Sign B.svg|26px]] [[首都高速湾岸線]]([[高谷ジャンクション|高谷JCT]]で直結) * {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]](高谷JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]]([[宮野木ジャンクション|宮野木JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E65}} [[新空港自動車道]]([[成田インターチェンジ|成田JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[大栄ジャンクション|大栄JCT]]で接続<ref name="mainichi-np-2015-6-8-i">蒔田備憲、渡辺暢(2015年6月8日). “圏央道:一部開通 観光や物流、効果に期待 常磐道、東関道つながる”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref><ref name="tokyo-np-2015-6-8">渡辺陽太郎、増井のぞみ(2015年6月8日). “常磐道と東関道つながる 圏央道神崎IC-大栄JCT開通”. [[東京新聞]] (中日新聞社)</ref>) * {{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]]([[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]]で接続) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国土開発幹線自動車道]] * [[高速自動車国道]] * [[関東地方の道路一覧]] * [[ミッシングリンク (日本の高速道路)]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Higashi-Kanto Expressway}} * [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構] * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路株式会社] * [https://www.ktr.mlit.go.jp/ 国土交通省 関東地方整備局] ** [https://www.ktr.mlit.go.jp/jousou/ 常総国道事務所] ** [https://www.ktr.mlit.go.jp/hitachi/ 常陸河川国道事務所] {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{3環状9放射}} {{東関東自動車道}} {{デフォルトソート:ひかしかんとうしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:高速自動車国道]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:関東地方の道路]] [[Category:成田財特法]]
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タレス
タレス(タレース、古希: Θαλής、羅: Thalēs、紀元前624年頃 - 紀元前546年頃)は、古代ギリシアの哲学者。タレスの定理の生みの親である。ミレトスのタレス(古希: Θαλής ὁ Μιλήσιος)とも呼ばれる。 タレスは、ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアの記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。 ソクラテス以前の哲学者の全てがそうであるように、タレス自身が直接書いた著作・記録は残っておらず、古代の著作・記録でタレスに言及したもの(断片、特にディオゲネス・ラエルティオスによる)から、その思想を推察することしかできない。 小アジア、イオニアのミレトスのフェニキア人のテリダイ一族の名門の家系から生まれた。政治活動に従事したのち自然の研究に携わるようになる。彼は多才な人物であったが、特に測量術や天文学に通じており、ヘロドトスによればその知識を用いて日食を予言したといわれている。これは天文学上の計算から紀元前585年5月28日と考えられる。また地面に映った影と自分の身長とを比較して、ピラミッドの高さを測定したとも言われている。 彼の故郷ミレトスは小アジアのエーゲ海沿岸に位置し、ホメロスの活動した土地でもある。イオニアは地理的に東方と西方文化の十字路に位置しており、エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入していたと考えられ、そうした文化的素地がタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらのミレトス学派が発生する母胎となったと考えられている。 彼が「最初の哲学者」に位置付けられるのは、アリストテレス『形而上学』でそう位置付けられたことに由来する。タレスは、それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人物だった。すなわち彼は万物の根源(アルケー)を「水」(ὕδωρ、hydōr)と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして大地は水の上に浮かんでいるとした。世界は水からなり、そして水に帰るという説を唱えたのだった。 最期は体育競技を観戦していて、暑熱と渇き、または老衰によって死亡したとされる。 タレスは「半円に内接する角は直角である」という定理を証明した最初の人物とされる(この定理はタレスの定理と呼ばれる)。タレスの定理自身はいわゆる円周角の定理の特別な場合である。タレスの「幾何学の五定理」ともいわれ、以下の5つで構成される:
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タレス(タレース、古希: Θαλής、羅: Thalēs、紀元前624年頃 - 紀元前546年頃)は、古代ギリシアの哲学者。タレスの定理の生みの親である。ミレトスのタレス(古希: Θαλής ὁ Μιλήσιος)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "タレスは、ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアの記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ソクラテス以前の哲学者の全てがそうであるように、タレス自身が直接書いた著作・記録は残っておらず、古代の著作・記録でタレスに言及したもの(断片、特にディオゲネス・ラエルティオスによる)から、その思想を推察することしかできない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小アジア、イオニアのミレトスのフェニキア人のテリダイ一族の名門の家系から生まれた。政治活動に従事したのち自然の研究に携わるようになる。彼は多才な人物であったが、特に測量術や天文学に通じており、ヘロドトスによればその知識を用いて日食を予言したといわれている。これは天文学上の計算から紀元前585年5月28日と考えられる。また地面に映った影と自分の身長とを比較して、ピラミッドの高さを測定したとも言われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "彼の故郷ミレトスは小アジアのエーゲ海沿岸に位置し、ホメロスの活動した土地でもある。イオニアは地理的に東方と西方文化の十字路に位置しており、エジプトやバビロンの数学や自然科学も流入していたと考えられ、そうした文化的素地がタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらのミレトス学派が発生する母胎となったと考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "彼が「最初の哲学者」に位置付けられるのは、アリストテレス『形而上学』でそう位置付けられたことに由来する。タレスは、それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人物だった。すなわち彼は万物の根源(アルケー)を「水」(ὕδωρ、hydōr)と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして大地は水の上に浮かんでいるとした。世界は水からなり、そして水に帰るという説を唱えたのだった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最期は体育競技を観戦していて、暑熱と渇き、または老衰によって死亡したとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "タレスは「半円に内接する角は直角である」という定理を証明した最初の人物とされる(この定理はタレスの定理と呼ばれる)。タレスの定理自身はいわゆる円周角の定理の特別な場合である。タレスの「幾何学の五定理」ともいわれ、以下の5つで構成される:", "title": "タレスの定理" } ]
タレスは、古代ギリシアの哲学者。タレスの定理の生みの親である。ミレトスのタレスとも呼ばれる。
{{Otheruses|古代ギリシアの哲学者|フランスの企業グループ|タレス・グループ}} {{複数の問題 |出典の明記=2021年2月24日 (水) 01:40 (UTC) |参照方法=2021年2月24日 (水) 01:40 (UTC) }}[[Image:Thales.jpg|thumb|200px|タレス]] '''タレス'''('''タレース'''、{{Lang-grc-short|Θαλής}}、{{Lang-la-short|Thalēs}}、[[紀元前624年]]頃 - [[紀元前546年]]頃)は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]であり数学者。[[タレスの定理]]の生みの親である。'''ミレトスのタレス'''({{Lang-grc-short|Θαλής ὁ Μιλήσιος}})とも呼ばれる。 == 概要 == タレスは、[[ソクラテス以前の哲学者]]の一人で、[[西洋哲学]]において、古代ギリシアの記録に残る最古の(自然)[[哲学者]]であり、[[イオニア]]に発した[[ミレトス学派]]の始祖である。また、[[ギリシャ七賢人]]の一人とされる。 ソクラテス以前の哲学者の全てがそうであるように、タレス自身が直接書いた著作・記録は残っておらず、古代の著作・記録でタレスに言及したもの(断片、特に[[ディオゲネス・ラエルティオス]]による)から、その思想を推察することしかできない。 [[アナトリア半島|小アジア]]、[[イオニア]]の[[ミレトス]]の[[フェニキア]]人のテリダイ一族の名門の家系から生まれた。政治活動に従事したのち自然の研究に携わるようになる。彼は多才な人物であったが、特に測量術や[[天文学]]に通じており、[[ヘロドトス]]によればその知識を用いて[[日食]]を予言したといわれている。これは天文学上の計算から[[紀元前585年]]5月28日と考えられる。また地面に映った影と自分の身長とを比較して、[[ピラミッド]]の高さを測定したとも言われている。 彼の故郷ミレトスは小アジアの[[エーゲ海]]沿岸に位置し、[[ホメロス]]の活動した土地でもある。イオニアは地理的に東方と西方文化の十字路に位置しており、[[エジプト]]や[[バビロン]]の[[数学]]や[[自然科学]]も流入していたと考えられ、そうした文化的素地がタレス、[[アナクシマンドロス]]、[[アナクシメネス]]らのミレトス学派が発生する母胎となったと考えられている。 彼が「最初の哲学者」に位置付けられるのは、[[アリストテレス]]『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』でそう位置付けられたことに由来する<ref>{{Cite web|title=Thales of Miletus {{!}} Internet Encyclopedia of Philosophy|url=https://iep.utm.edu/thales/|accessdate=2021-08-09|language=en-US}}</ref>。タレスは、それまでは[[神話]]的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人物だった。すなわち彼は万物の根源([[アルケー]])を「'''[[水]]'''」({{lang|el|ὕδωρ}}、hydōr)と考え、[[存在]]する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして大地は水の上に浮かんでいるとした。世界は水からなり、そして水に帰るという説を唱えたのだった。 最期は体育競技を観戦していて、暑熱と渇き、または老衰によって死亡したとされる。 == タレスの定理 == {{main|タレスの定理}} タレスは「半円に内接する角は[[直角]]である」という[[定理]]を[[証明 (数学)|証明]]した最初の人物とされる(この定理は[[タレスの定理]]と呼ばれる)。タレスの定理自身はいわゆる[[円周角|円周角の定理]]の特別な場合である。タレスの「幾何学の五定理」ともいわれ、以下の5つで構成される: # 円は中心点を通る直線で二等分される # 二等辺三角形の両底角は等しい # 交差する直線の対頂角は等しい # 三角形は底辺と両底角で定められる # 半円に内接する三角形は直角三角形である == 逸話 == * 貧乏のゆえに[[哲学]]は何の役にも立たぬものであると非難されたタレスは、次の[[オリーブ]]の収穫が豊作であろうことを[[天文学#歴史|天文学]]から予期し、まだ冬の間に[[ミレトス]]([[小アジア]]の西)、[[キオス]](ミレトス沖の島)の全てのオリーブの圧搾機械を借り占めておいた。すると、収穫の時期が来たときに多くの人が彼に機械を貸し出す事を要求したので、莫大な利益を得る事になった。こうしてタレスは、彼が欲するなら金持ちになる事は可能であるが、そのような事は関心にない事を示したという。なお、この逸話は[[デリバティブ]](の一種である[[オプション取引]])の嚆矢とされる。 [[Image:Capernaum_roman_olive_press_by_David_Shankbone.jpg|thumb|300px|[[カペナウム]]にあるオリーブ工場跡にはタレスの買い占めた圧搾機が残っている]] * 母親が彼にむりやり妻を娶らせようとしたとき、「まだその時ではない」と彼は答えた。その後、盛りを過ぎてから迫ると「もうその時ではない」と答えた。 * [[プラトン]]が伝える有名な逸話に、夜空を見上げ天文の観察に夢中になるあまり、溝(あるいは穴)に落ちてしまった、というものがある。そばにいた女性(若い女性とも老婆とも言われる)に、「学者というものは遠い星のことはわかっても自分の足元のことはわからないのか」と笑われたと言う。 * ある日、彼が[[ロバ]]の背に塩を積んで市場に売りに行く途中、川を渡る時にロバがつまずいて転び、塩は川に溶けて流れてしまった。翌日も同様に塩を積んで市場へ向かったが、川を渡る時にロバはまたつまずいた。ロバは川でつまずくと荷が軽くなることを覚え、わざとつまずいたのだった。一計を案じたタレスはその翌日、ロバの背に[[海綿動物|海綿]]を積んで市場へ向かった。今度もロバはつまずいたが、海綿は水を吸って重くなった。それ以後、ロバがつまずくことはなくなったという([[塩を運ぶろば]]参照)。 * 真実と嘘はどれほど隔たっているのかと尋ねられた時、「目と耳の間ほど」と答えた。 * 姦通を犯した男が、自分は姦通していないと誓うべきかどうかと訊ねたのに対して、「偽誓は姦通よりは悪くない」と答えた。 * 何が困難な事かと訊かれ、「自分自身を知る事だ」と答え、何が容易なことかという問いには「他人に忠告する事だ」と答えた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[日下部吉信]]『初期ギリシア自然哲学者断片集1』([[筑摩書房]]) ISBN 4480085963 * ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』[[岩波文庫]]([[岩波書店]]) ISBN 400336631X == 外部リンク == {{IEP|thales|Thales of Miletus}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たれす}} [[Category:タレス|*]] [[Category:紀元前6世紀の哲学者]] [[Category:紀元前の数学者|6240000]] <!--独自ソートキーのため消さないでください--> [[Category:古代ギリシアの天文学者]] [[Category:古代ギリシアの数学者]] [[Category:古代ギリシアの哲学者]] [[Category:古代ギリシアのメタ哲学者]] [[Category:古代ギリシアの形而上学者]] [[Category:ソクラテス以前の哲学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:ギリシャ七賢人]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:ミレトス]] [[Category:紀元前624年生]] [[Category:紀元前540年代没]]
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新幹線300系電車
新幹線300系電車(しんかんせん300けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に東海旅客鉄道(JR東海)が開発した東海道・山陽新幹線の第三世代新幹線電車である。 270 km/h走行を行う「のぞみ」用車両かつ0系置き換え用として開発された。1990年に量産先行試作車が登場し、その後1992年(平成4年)3月14日に営業運転を開始した。量産先行者のデザインは元日産自動車デザイナーであった福田哲夫が中心となり風洞実験の結果をもとに試作段階の形状を練り上げ、量産車のデザインは手銭正道、戸谷毅史、松本哲夫、木村一男が担当した。 その後、1993年(平成5年)3月18日から「のぞみ」の運転区間を博多駅まで延長することが決定し、西日本旅客鉄道でも同仕様の3000番台F編成を9編成製造・投入し、東京駅 - 博多駅間をグランドひかりより43分速い5時間4分で結んだ。JR西日本の本系列は300N系とも呼ばれる。 日本車輌製造・日立製作所・川崎重工業・近畿車輛に発注され、最終的にJ編成61本・976両とF編成9本・144両の合わせて70本・1,120両が製造されたが、J編成の中には500系の製造開始後に落成した編成もあるほか、J52以降の編成は700系の量産先行試作車であるC0→C1編成より後に落成している。また、量産車第1号のJ2編成は、100系G編成の最終増備編成のG46編成より先に落成した。 本系列の登場当時、旅客向けの広告や時刻表などで形式名を使うことが一般的ではなく、500系や700系が登場するまでは「のぞみ型車両」と称されていた。 「のぞみ」の原形である「スーパーひかり」の開発スタートは1988年1月にまでさかのぼる。JR東海内に「新幹線速度向上プロジェクト委員会」が設置され、同年1月28日に1回目の講義がおこなわれた。この委員会では、100系のあとを継ぐ300系の開発について検討する委員会であった。 「のぞみ」の目的はできるだけ速く東京駅 - 新大阪駅間を結ぶことであり、そのライバルとしては航空機があった。羽田空港 - 伊丹空港間の航空機は、飛行時間は1時間ほどで済むが、東京や大阪市の中心部から空港までの移動や搭乗手続きなどで時間を要する場合が多い。この航空機対抗策として2時間30分運転であれば、空の客を取ることができるのではないかという計算があったからである。「のぞみ」の当初のキャッチフレーズは「(午前)9時の会議に間に合う」であった。 これらの事情や、線路設備の面から検討された結果、運転速度は270 km/hに設定された。 初代新幹線である0系は、最高速度が220 km/hで軸重が16 tであった。300系を開発するにあたり、270 km/h走行時で0系220 km/h走行時と同じ、もしくはそれ以下の騒音と振動に抑えるにはどこまで軽量化をすればよいか検討された。そこで、0系の車両から電動機や抵抗器といった走行機器を取り外して軽量化、付随車とした上で編成中央に挟まれてテスト走行が1988年5月24日 - 6月3日の間に浜松駅 - 名古屋駅間で実施された。この即席の付随車の車重は44 tであった。このほかにも、56 tの空車、水などを積んで64 tにした空車などが用いられテストされた。 0系の最高速度は前述のように220 km/hであったため、得られたデータを、270 km/hではどのような値になるかをフィールド試験によって計算すると、軸重にして11.3 t以下であれば、現行の車両の振動値を越さないことがわかった。300系以降、東海道・山陽新幹線を走行する車両は、軸重11.3 t以下を目標に設計されている。 東海道区間に多数存在するR2500のカーブではカント量は180 mmであったが、300系の運転開始に伴い限界までの200 mmに変更された。また、R3000のカーブでも、カント量が150 mmから180 mmに変更された。こうすることで、これらの区間でも最大255 km/hで走行できるようにした。このカント量の変更工事は、東海道新幹線の約1/4である120 km上で実施された。 また、従来の車両と最高速度が異なるため、ATCにも改良が加えられた。まず、ATCを270 km/hにも対応させるため、ATCが2周波数化された。新たに高速側に信号を増やすことになったが、従来の1周波数方式では情報が乗りきらなくなるためである。加えて、閉塞区間の長さを、安全性の面から再検討して従来の10 kmから8.5 kmに短縮した。こうすることで、従来のダイヤに高速化した300系を加えることができるようにした。 その他にも、東海道新幹線の饋電方式を、BT饋電方式からAT饋電方式に変更した。これは、300系は編成内に特高圧引通線を引き通し、そこに3基のパンタグラフを装備して、編成内の各ユニットに架線からの電気を供給するため、BT饋電方式の場合だと、約4 kmごとに架線に挿入されるブースタートランスによってトロリー線にブースターセクションが設けられるため、そこを通過すると、交流周波数の位相差により、パンタグラフの間で特高圧引通線を介して電気が流れトラブルが発生すること、負荷電流が大きいと通過時の一時的な遮断により過大なアークが発生してしまうためであり、1991年までにAT饋電方式に改良された。その結果、沿線に25ヶ所あった変電所が増強も含めて16ヶ所に減らされた。 軽量化の観点から、東海道・山陽新幹線用車両で初のアルミニウム合金を使用したシングルスキン構造の構体を採用した。これにより100系では9.3 tあった構体重量は6.8 tにまで軽量化することが可能になった。 屋根板、側外板、床面には、全長24.5 m、最大幅600 mmのA6N01S-T5部材を、床と外板交差部分にあたる側梁および横梁は強度が必要なことから、中空形材およびA7N01S-T5部材を使用している。また、軽量化の観点から室内床にはアルミハニカムパネルを、騒音防止の観点から主変圧器付近の床下には鋼製パネルを張り付けている。これらの特徴により、車体単体質量を6.0 tと大幅に軽減した。営業用新幹線として初めてのアルミニウム製車体であった200系の8.5 tと比べて2.5 tの軽量化を達成した。 空気抵抗低減のために車体断面を縮小し、車高は100系より約40 cm低くなった。走行時の空力音を軽減するために、運転台周りは滑らかに仕上げられ、スカートと一体構造になっている。さらに低重心化のため、同系列までは天井にあった空調装置を床下に移動した。そのため、窓間の柱内のダクトを経由して送風する構造になった。側窓は再び狭窓となった一方で、窓框高さは100系までの855 mmから一転して710 mmと低くされた。 初期車両は空気抵抗低減のため、ドアを閉めた際に車体との段差のないプラグドアを採用していたが、構造が複雑でトラブルが多かったことに加え、コストのわりに騒音低減効果が少なかったことから、1993(平成5)年度初の増備車であるJ16編成・F6編成より通常の引き戸に変更した。また100系まで屋根の肩に付いていた雨どいは省略され、ドア上部のみに水切りを設置する簡易的なものになった。以降この方式は現在の新幹線車両で主流となっている。 前照灯と尾灯は同一ライトで折り返しの際は色の違うガラス板を切り替えて対応する構造を採用してきたが、この構造は本系列が最後となり、500系以降の新型新幹線車両ではフィラメント構造の前照灯と発光ダイオードの尾灯が完全に分離されている。 架線からの単相交流25 kVを主変圧器で降圧した上で、主変換装置で単相交流から直流、さらに三相交流へと変換して交流電源とした。その交流電源で主電動機を駆動した。 M1+T+M2ユニットを採用し、M1車には主変換装置・補助電源装置が、M2車には主変換装置が、T車には主変圧器・集電装置・空気圧縮機が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器機器類を収納する簡易ふさぎ板が設けられている。電機品は三菱電機、東芝、日立製作所、富士電機の4社が製作している。 主変圧器 は強制風冷式を採用し、2,900 kVAの容量を備える。 主変換装置 は、GTO素子を利用したPWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されている。制御方式は2レベル制御により、電圧・電流波形を交流の正弦波に近い形としている。GTO素子はスイッチング周波数が低いため、発車時と停車時に電動機からの磁励音が目立つ。 主電動機は 、かご形三相誘導電動機を電動車両1両あたり4基搭載する。連続定格出力は300 kWとし、交流モーターの採用により100系の直流モーターと比較して出力は約30 %アップしながら質量は約半分になっており、車両全体の軽量化に寄与している。 VVVFインバータ制御を利用した回生ブレーキも新幹線車両として初めて装備し、ブレーキ性能を強化した。ただしモーターのない付随車は回生ブレーキが装備できないため、渦電流ブレーキを装備する。本系列からブレーキ制御に応荷重装置を追加したが、これは車体の軽量化により編成全体に占める旅客質量の比率が高まったためである。 ただし前述のアルミ合金車体の採用による軽量化は、付随車で渦電流ブレーキ装置の質量がモーターより重く、さらに機器の中で最も質量のある主変圧器を搭載していたことも相まって、モーター装備の電動車よりも付随車の方が重くなる結果になった。その後開発された500系では全車電動車となったことから付随車採用時の質量増は発生せず、700系ではブレーキ装置の軽量化と機器配置の最適化によって電動車と付随車の質量を同等とした。 台車は鉄道総合技術研究所が開発した9023EF形台車をベースとした、新幹線の車両で初採用となる軽量ボルスタレス台車で、軽量で曲線通過性に優れる特徴を持っている。軸箱支持方式は270 km/h走行時の安定性を高めるため、0系以来のIS方式を改良し、軸箱前後にある軸ばねのコイルばね内に円筒積層ゴムを内蔵したウイングばね方式を採用しており、軸箱の上部と台車枠の間には軸ダンパーが装備されている。これは、ウイングばねのコイルばねが上下の荷重を支持して、軸箱の案内を円筒積層ゴムが行うようになっており、摺動部分がないため耐久性に優れる長所を持つ。また、ボルスタレス台車の首振りは枕ばねの撓みの許容により行うため、水平方向の剛性が低くなる特性があり、左右方向の空気ばねの撓みを抑えるための空気ばねストッパーが設けられており、台車枠と車体の中心ピン(牽引装置)との間にも左右動を抑えるダンパが装備されている。その他にも、ボルスタレス台車は蛇行動を起こしやすい特性があるため、その抑制を図るためのアンチヨーダンパが台車枠と車体の間に設けられている。軽量化のため、車輪径が910 mmから860 mmに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となったほか、台車枠端ばりの廃止、台車枠への高張力鋼、軸箱・歯車箱にアルミニウム合金の採用がなされた。駆動装置は100系でも採用されたWN平行カルダン駆動方式である。なお、300系の台車のこれらの装備と機構は、その後の16両編成の700系とN700系の台車にも採用されている。 形式はM車がTDT203形、T車がTTR7001形である。質量はTDT203形が6,689 kg、TTR7001形が6,914 kgで、100系DT202形の9,800 kgやTR7000形の9,225 kgから大幅な軽量化を達成した。 パンタグラフは当初、下枠交差形に大型カバーを組み合わせたものを編成内に3基(6, 9, 12号車博多寄り)搭載していた。また、パンタグラフの離線によるスパークの発生を抑えるために特高圧引通線を屋根に設置して各ユニットを電気的に接続していた。各車両間はケーブルヘッドを介して接続していた。走行中は、騒音低減のため後ろの2基使用で対応したが、トンネル内でパンタグラフカバーの影響により車両が左右に揺さぶられて乗り心地が低下することが判明したため、現車走行試験の結果をもとに1995年8月から1998年9月にかけて編成中央のパンタグラフを撤去、編成前後のカバーは形状が変更された。そして700系登場目前である1998年に落成したJ58 - J61編成は、パンタグラフは引き続き下枠交差式であるが、高圧引き通し線が落成当初から700系と同様の直ジョイントと4両おきのケーブルヘッド式となっている。1999年度からは700系で採用された低騒音化技術を反映して、全編成を対象にシングルアームパンタグラフ、がいしカバー、直ジョイントを搭載する改造を実施している。 J編成とF編成の外観上での見分け方として、パンタグラフカバーとJRロゴの色が異なることに加え、F編成では車体下部にリフティングジャッキをセットするための凹みが追加されている。 16両編成で8 - 10号車がグリーン車、他は普通車である。100系まで存在した2階建車両や個室、食堂車及びカフェテリアはない。 グリーン車は横2列+2列の座席配列で、100系と同様読書灯を各席に設置してイヤホン式のオーディオサービスがある。 普通車は横3+2列の座席配列で、シートピッチ(座席の前後間隔)は100系と同じく1,040 mmと広い。また、本系列量産車からは、3人がけ座席のうち中央列座席(B席)については窓側席と通路側席の座席有効幅430 mmに対して30 mm広い460 mm幅とした。J1編成以外の定員はグリーン車200名と普通車1,123名の計1,323名、この標準定員と1車両毎の座席数の共通化が以降N700S系の途中まで東海道新幹線車両の基本となった。なお、J編成はブラウン系、F編成はグレー系の配色でまとめられている。普通席はおおよそ同一(モケット色違い)だが、グリーン席に関して言うと、ヘッドレストの張り出し、オーディオスイッチ・読書灯スイッチの配置、読書灯のデザイン、背もたれのシートバックポケットのデザインなどがJ編成、F編成の間で異なっている。 食堂車に代わり、7号車の東京寄り、11号車の博多寄りに車内販売準備室を兼ねた「サービスコーナー」を設置し、車内販売を実施していたが、ワゴンサービスの充実と利用率の低下に伴い2003年10月1日のダイヤ改正によりサービスコーナーは廃止され、以降は車販準備室のみとなった。また、奇数号車の洗面台同士の間には冷水器と紙コップが設けられていたが、700系デビュー以降は500系と同様に冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。 車内照明は、間接照明が採用されている。これは車体断面縮小からくる全高の低下にもかかわらず、室内高の拡大(100系との比較で全高は3,800 mmから3,650 mmへ150 mm低下しつつ、室内高は2,100 mmから2,140 mmと40 mm拡大)を実現するための合理的な方法である。 本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。 ユニットは2M1Tの3両を一組とする構成で、1号車(博多寄り先頭車)の323形は1両のみでユニットに属さないTC。2 - 16号車は、質量配分の平均化を狙い2両の電動車 (M) が1両の付随車 (T) の両端を挟む計3両M1+Tp+M2で1ユニットを構成する。この構成は新幹線車両では本系列のみとなっている。 番台としては、試作編成である(J0→)J1編成は9000番台を、J2編成以降は0番台を、F編成は3000番台を名乗る。 「のぞみ」車両の試験車として、1990年3月8日に東京第二車両所に配属された。製造費用は46億円となっており、先代の100系G編成と比較すると15億円高く、500系やN700系と同じである。なお、量産車の製造費用は40億円とされている。 1990年に303 km/hを記録しており、1991年(平成3年)2月28日未明には325.7 km/hを記録し、961形による国内最高速度記録を12年ぶりに更新している。 後に登場した量産車とは違った外見をいくつか持っていた。 それらに加え、登場時の外観は以下のようなものだった。 J0登場当初は東海道新幹線がBT饋電方式を採用していたため、パンタグラフは各ユニットに1台ずつの計5台(3・6・9・12・15号車)に搭載されていたが、1991年にAT饋電方式への切り替えが完了した後は3・15号車のパンタグラフを撤去、残った3台のうち9号車のものは予備として実使用パンタグラフを2台にまで削減した。その後、9号車のパンタグラフを撤去して2台のみとし、最終的に700系タイプのシングルパンタグラフとパンタカバーに変更された。 量産車登場後の1993年3月10日に量産化改造が行われてJ1編成となり営業運転に使用された。外観は量産車に合わされ、帯の色の変更、シンボルマークの消去が行われた。また、15号車の車号が329-9002から329-9501に改番されている。後に、飾り帯にあたる部分が量産車と同じくグレーの塗装となった連結器カバーに交換された。 トランスポンダの関係で、「のぞみ」での営業運転では東海道区間に限定されたが、「ひかり」では岡山・広島発着列車に時折使用された。2001年以降は、再び試験車として使用されることとなり、営業運転からは2000年に離脱した。 N700系に搭載される新型パンタグラフや車体傾斜システム、全周幌のほか、東海道新幹線区間で新たに採用されたデジタルATCの試験にも充当された。 1990年に落成した先行試作車であるJ0編成による長期試験走行の結果、「のぞみ」に充当するため、1992年1月から3月にかけて4編成64両(J2 - J5編成)が落成した。 1993年3月18日ダイヤ改正から行われた「のぞみ」1本/時運転に対応するため、1992年9月から1993年3月にかけて10編成160両(J6 - J15編成)が落成した。また、JR西日本所属のF1 - F5編成も製造された。 東京 - 博多間の長距離運転に対応して水タンク容量が拡大されたほか、車内騒音軽減のために、加速時におけるモータ電流値の変更や防音板の挿入が行われた。 0系置き換え用として、1993年3月から1995年6月にかけて14編成224両(J16 - J29編成)が落成した。また、JR西日本所属のF6 - F9編成も製造された。 客用扉がプラグドアから引き戸に変更された。 老朽車両取り替え用として、1995年8月から1998年3月にかけて28編成448両(J30 - J57編成)が落成した。その間、J51編成とJ52編成の間に700系先行試作車(C1編成)を導入し、ほぼ同時期にJR西日本では500系を9編成導入している。 グリーン席のフットレストが、座席台座に固定される形から座席に固定される形に変更された。 老朽車両取り替え用として、1998年6月から10月にかけて4編成64両(J58 - J61編成)が製造された。J61編成をもって新造投入を終え、700系量産車の製作が始まった。 パンタグラフがシングルアーム形、各車両の特高圧引き通し線接続部分が4両おきのケーブルヘッド式に改められている。既存の編成にも追工事の形で行われた。 営業運転前の試運転が不十分だったため、営業運転開始後は故障が続発し、頻繁に運転打ち切りが発生するなど、のぞみ301号の名古屋飛ばしとともにマスコミから連日クローズアップされることになった。走行不能に陥って運転が打ち切りになるなど深刻な事態に発展するケースもしばしば発生し、連日報道機関から強く非難された。 営業開始から4月25日までの1ヵ月半の間に183件(J2編成:48件〈そのうち主変換装置6件〉、J3編成68件〈そのうち主変換装置29件、ATC3件〉、J4編成55件〈そのうち主変換装置9件、ATC1件〉、J5編成12件〈そのうち主変換装置6件、ATC3件〉)ものトラブルが発生した。 1992年5月6日には名古屋駅 - 三河安城駅間を190 km/hで走行中の「ひかり238号」(新大阪発東京行き・J4編成)で主電動機を固定するボルトが折損し、4時間立ち往生するトラブルが発生した。これは最悪の場合高速走行中にモーターが線路に脱落し、大惨事に繋がる恐れのある重大インシデントであった。 さらに、1993年4月4日に岐阜羽島駅を通過中の「のぞみ号」の風圧で飛散したバラストが上りホームの乗客の右膝に当たり、4月30日には上下線の「のぞみ号」がすれ違い通過中に飛散したバラストが上りホームの乗客の額に当たる事故も発生した。このため、通過駅でバラストの飛散対策防止剤を散布するなどの対策に追われた。 また、この他にもネジの長さが足らずマスコンハンドルが外れたり(川崎重工の施工ミス)、パンタグラフの取り付けボルトの落下、台車の異常を知らせるランプの誤作動など準備不足が原因のトラブルが多数発生した。 軽量化を目的にMT比をそれまでの100系の12M4Tから10M6Tに変更し、電動車を削減したが、付随車に採用した渦電流ブレーキの重量が嵩んだために逆に付随車の方が重くなってしまった。しかし基本仕様を変更するには設計を一からやり直す必要があったため、MT比が変更されることはなかった。 軽量化と低床化のために空調機が床下に納められたことで、天井にある吹き出し口までダクトを延長する必要が生じた。このため長いダクト内で冷気が温められてしまい、冷房能力が不足する欠陥が見られた。 300系のスタイルの決め手となっているレール面から近すぎるノーズポイントも、性能上で不都合を生じさせた。ノーズポイントがレール面から近すぎると、ノーズポイントの上面と下面で大きな圧力差が発生し、空気の流れが剥離することにより後尾車両で"尻振り"と呼ばれる現象が生じ、乗り心地を大きく悪化させる。尻振りはトンネル内で特に顕著に発生したが、300系の開発時にはこの現象が解明されていなかった。このため300系はレール面直上のノーズポイントから屋根まで一筆書きで続く、他の新幹線車両では見られない独特なワンモーションデザインになった。以後の新幹線車両からは尻振り性能を改善するためにノーズポイントが高く設定されるようになり、300系のような形状は見られなくなった。 また、2両に跨がった大きすぎるパンタカバーが仇となってトンネル内での蛇行動も発生し、パンタグラフ周辺の改修などといった対策はとられたが、一方で改修できない車体左側面とトンネル左下壁面との乱流の近接効果による左右動の問題は残されている。 高速化を最優先させるための徹底的な軽量化が仇となり、220 km/hで走行していた100系と比べると高速運転に伴う前後衝動や振動、車内の騒音が増加。導入当初は「座席前のテーブルに置いたコーヒーがこぼれた」「サンドイッチが手も触れていないのに丸ごと床に転落した」等の苦情やクレームが相次いだ。座席のシートも金属ばねによる支持方式から薄いウレタンのみに取って代わられた上、座席の背もたれはかなり低めだったため座り心地は悪化、付随車においては加減速時に補助電源装置からの発生音が大きくなるなどの問題も発生した。 デッキのくず物入れが大人の膝下サイズにまで小型化されたため、投入口からは弁当殻などがあふれ出す状態になってしまった。 空調装置の床下への移設でダクトを壁内に納めたことにより、体感温度が外部の気温変化や直射日光の照射の影響を受けにくかった。これは外壁の薄いシングルスキンに接したダクト内を空気が通ってから室内に吹き出すため、夏は日光に暖められ冷房の効きが悪く、冬は外気温で冷やされて暖房の効きが悪くなるというように、エアコンの負荷効率は悪くなった一方で、壁面温度が先に制御されるので室内にいる人にとっては放射加熱や放射冷却の影響を受けにくくなっているからである。 本系列は新技術を数多く採用・実用化し、新幹線高速化の第一歩となった。そのため技術的には高く評価される車両だが、利用客にとっての居住性という観点からの評価は低いことが多い。これらに対しての反省や教訓から、JR東海では後継車両の700系開発には高速運転性能のみならず居住性を含めた快適性重視の姿勢をとった他、不具合の洗い出しのため営業投入前に40万kmの長期耐久試験の実施が常となった。振動低減や居住快適性アップなど利用者にはその成果を支持されている。これは新幹線に限らず、その後のJR各社の在来線新型特急車両の開発の際にも重視されるようになった。 2004年(平成16年)9月29日にJR東海は、J編成のうち後期に製造された編成を中心とする43編成(J17・J18・J20 - J26・J28編成以降)を対象に、乗り心地向上のためN700系の量産先行試作車で採用した改良型セミアクティブサスペンションを1・6・8 - 10・12・16号車の7両(両先頭車、グリーン車とパンタグラフ搭載車)に、改良型左右動ダンパを残りの9両にそれぞれ搭載し、700系で採用された非線形空気ばねとヨーダンパを全車両に搭載することを発表した。検査入場に合わせて順次施工し、2006年(平成18年)10月までに完了した。 車体間ダンパーは構造上の理由などから設置されなかった。なお、前期に製造されたJ2 - J16、J19、J27編成は、N700系への早期置き換え対象のため施工対象から外された。 川崎重工業製の一部の編成は、阪神・淡路大震災で鳥飼車両基地への陸路が寸断されたため、兵庫運河から堺泉北港まで海上輸送し、堺泉北港から鳥飼車両基地まで陸送して搬入された。 1992年3月14日の導入時には、「のぞみ」2往復(早朝・深夜の各1往復・当時運転されているすべての「のぞみ」であった)と、日中の東京 - 新大阪間「ひかり」1往復(238号・243号)で運用されていた。 なお、導入前の1992年3月8日に試乗会がおこなわれ、同日に新幹線開発史において重要な存在である初代小田急3000形電車のさよなら運転があったので、新旧の節目と報じられた。 1993年3月18日のJRダイヤ改正で、本系列による東京 - 博多間直通運転が始まった。初めて1編成につき全区間を1往復半運用を組むことが可能になり、0系の置き換えのためにJ61編成までの増備を続けつつ、編成数削減による運用合理化を可能にした。 その後、増備が進むにつれて「ひかり」での運用も増えていった。後継車両の500系や700系の導入により2001年10月以降は「のぞみ」の定期運用から離脱し、引き替えに東海道新幹線の昼間の「こだま」にも充当されるようになったが、当時の「こだま」全列車と、「ひかり」のうち名古屋・京都の2駅のみ、または新横浜を加えた3駅停車の列車は100系との共通ダイヤが組まれており、最高速度を220 km/hに抑えて走っていた。そのため、2003年10月の品川駅開業によるダイヤ改正が行われるまでその性能を持て余す状況が長らく続いた。その反面、1996年から1997年には静岡県内停車タイプや名古屋 - 新大阪間各駅停車タイプの定期「ひかり」のほとんどが最高速度が270 km/hに引き上げられ、また2001年には山陽区間に限り270 km/h運転を行う「ひかり」が設定されるなどのダイヤ改正が行われた。これらの列車には300系が限定運用に入ることとなり、その性能が活かされることとなっていった。なおJ1編成はトランスポンダの関係から「のぞみ」での山陽区間への入線ができない時期があった。 前述の乗り心地改善工事が始まってからは、工事を受けていない初期のJ編成(J2 - J16・J19・J27編成)が「のぞみ」「ひかり」運用を追われ「こだま」専用になるなど、新旧の編成間で運用が分かれていた。 2011年3月12日のダイヤ改正でJ編成は山陽新幹線に乗り入れる定期運用が消滅したが、運用調整のためF編成の運用に充当する場合があった。 2007年から当系列の置き換え用として製作されたN700系の投入・増備が始まったことを受け、同年からJR東海所属のJ編成のうち、所定の経年である製造後13年を過ぎたものから運用離脱が始まった。 まず量産先行試作車のJ1編成が同年3月28日に浜松工場へ廃車回送され、3月31日付けで車籍抹消、同年7月21・22日の「新幹線なるほど発見デー」で展示され、16号車 (322-9001) 以外は4月末までに解体された。同編成は2003年以降営業運転から外れ、N700系をはじめとする新技術の開発に資するため試験車として代用されていたが、同系列の量産車登場によってその役割を終えた。 続いて同年7月11日付でJ14編成が廃車となり、量産車初の廃車となった。2007年度はこの後前半にJ2・J19のあわせて3編成が廃車になったのをはじめ、同年度後半にはさらにJ3, J4, J6, J8, J11の5編成が廃車となった。 J編成の廃車はN700系Z編成(後に改造され、現在はX編成)増備の進行と共に順次進められており、2008年度末までには前述の工事を受けていない20編成が廃車となり、2009年4月時点のJ編成の在籍本数は41編成(J20 - J26・J28 - J61編成)となっていた。J編成の全般検査は2010年6月9日に出場したJ61編成をもって終了した。 JR西日本所属のF編成に関しては2010年まで廃車されなかったが、博多総合車両所広島支所に疎開されていたF5編成が2011年7月11日に博多総合車両所広島支所 - 新幹線鳥飼基地間で、翌12日に新幹線鳥飼基地 - 浜松工場間で回送され、14日付で廃車されたのをはじめ、その後8月にF6編成が、9月にF2編成が、10月にF1編成が、11月にF4編成とF3編成が浜松工場に送られた。 2011年11月時点では、JR東海5編成・JR西日本3編成の計8編成まで数を減らした。 2012年3月17日のダイヤ改正において、300系はJR東海所属編成のほかJR西日本所属の9編成についても同社に残留していた100系とともに運用終了となった。JR西日本保有のF編成9編成の代替として、JR東海からJR西日本に同数の700系(C編成)9編成を譲渡した。 東海道新幹線における2012年1月10日以降の定期運用は次の通り。 また、山陽新幹線における2012年1月以降の定期運用は次の通り。 これにより、東海道新幹線での定期運用はJ編成は同年2月1日の「こだま」680号がJ57編成を使用して、F編成は同年3月12日の「ひかり」477号が、山陽新幹線での定期運用は同年3月13日の「こだま」727号がいずれもF8編成を使用してそれぞれ最終となった。 さよなら運転は2012年3月16日に以下の臨時列車により運行された(いずれも全車指定席)。このうち、山陽新幹線で運転された「のぞみ609号」については、同日に営業運転を終了する100系のさよなら列車「ひかり445号」と岡山駅の同一ホームでさよなら列車同士が並ぶ演出が行われた。 J編成はさよなら運転に使用されたJ57編成が2012年3月23日付で廃車をもって、全車廃車された。F編成は2012年度初めの時点でF7編成、F8編成、F9編成が残存していたが、2012年10月20日付でF9編成が廃車され形式消滅した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新幹線300系電車(しんかんせん300けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に東海旅客鉄道(JR東海)が開発した東海道・山陽新幹線の第三世代新幹線電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "270 km/h走行を行う「のぞみ」用車両かつ0系置き換え用として開発された。1990年に量産先行試作車が登場し、その後1992年(平成4年)3月14日に営業運転を開始した。量産先行者のデザインは元日産自動車デザイナーであった福田哲夫が中心となり風洞実験の結果をもとに試作段階の形状を練り上げ、量産車のデザインは手銭正道、戸谷毅史、松本哲夫、木村一男が担当した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、1993年(平成5年)3月18日から「のぞみ」の運転区間を博多駅まで延長することが決定し、西日本旅客鉄道でも同仕様の3000番台F編成を9編成製造・投入し、東京駅 - 博多駅間をグランドひかりより43分速い5時間4分で結んだ。JR西日本の本系列は300N系とも呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本車輌製造・日立製作所・川崎重工業・近畿車輛に発注され、最終的にJ編成61本・976両とF編成9本・144両の合わせて70本・1,120両が製造されたが、J編成の中には500系の製造開始後に落成した編成もあるほか、J52以降の編成は700系の量産先行試作車であるC0→C1編成より後に落成している。また、量産車第1号のJ2編成は、100系G編成の最終増備編成のG46編成より先に落成した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本系列の登場当時、旅客向けの広告や時刻表などで形式名を使うことが一般的ではなく、500系や700系が登場するまでは「のぞみ型車両」と称されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「のぞみ」の原形である「スーパーひかり」の開発スタートは1988年1月にまでさかのぼる。JR東海内に「新幹線速度向上プロジェクト委員会」が設置され、同年1月28日に1回目の講義がおこなわれた。この委員会では、100系のあとを継ぐ300系の開発について検討する委員会であった。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「のぞみ」の目的はできるだけ速く東京駅 - 新大阪駅間を結ぶことであり、そのライバルとしては航空機があった。羽田空港 - 伊丹空港間の航空機は、飛行時間は1時間ほどで済むが、東京や大阪市の中心部から空港までの移動や搭乗手続きなどで時間を要する場合が多い。この航空機対抗策として2時間30分運転であれば、空の客を取ることができるのではないかという計算があったからである。「のぞみ」の当初のキャッチフレーズは「(午前)9時の会議に間に合う」であった。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "これらの事情や、線路設備の面から検討された結果、運転速度は270 km/hに設定された。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初代新幹線である0系は、最高速度が220 km/hで軸重が16 tであった。300系を開発するにあたり、270 km/h走行時で0系220 km/h走行時と同じ、もしくはそれ以下の騒音と振動に抑えるにはどこまで軽量化をすればよいか検討された。そこで、0系の車両から電動機や抵抗器といった走行機器を取り外して軽量化、付随車とした上で編成中央に挟まれてテスト走行が1988年5月24日 - 6月3日の間に浜松駅 - 名古屋駅間で実施された。この即席の付随車の車重は44 tであった。このほかにも、56 tの空車、水などを積んで64 tにした空車などが用いられテストされた。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "0系の最高速度は前述のように220 km/hであったため、得られたデータを、270 km/hではどのような値になるかをフィールド試験によって計算すると、軸重にして11.3 t以下であれば、現行の車両の振動値を越さないことがわかった。300系以降、東海道・山陽新幹線を走行する車両は、軸重11.3 t以下を目標に設計されている。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東海道区間に多数存在するR2500のカーブではカント量は180 mmであったが、300系の運転開始に伴い限界までの200 mmに変更された。また、R3000のカーブでも、カント量が150 mmから180 mmに変更された。こうすることで、これらの区間でも最大255 km/hで走行できるようにした。このカント量の変更工事は、東海道新幹線の約1/4である120 km上で実施された。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、従来の車両と最高速度が異なるため、ATCにも改良が加えられた。まず、ATCを270 km/hにも対応させるため、ATCが2周波数化された。新たに高速側に信号を増やすことになったが、従来の1周波数方式では情報が乗りきらなくなるためである。加えて、閉塞区間の長さを、安全性の面から再検討して従来の10 kmから8.5 kmに短縮した。こうすることで、従来のダイヤに高速化した300系を加えることができるようにした。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その他にも、東海道新幹線の饋電方式を、BT饋電方式からAT饋電方式に変更した。これは、300系は編成内に特高圧引通線を引き通し、そこに3基のパンタグラフを装備して、編成内の各ユニットに架線からの電気を供給するため、BT饋電方式の場合だと、約4 kmごとに架線に挿入されるブースタートランスによってトロリー線にブースターセクションが設けられるため、そこを通過すると、交流周波数の位相差により、パンタグラフの間で特高圧引通線を介して電気が流れトラブルが発生すること、負荷電流が大きいと通過時の一時的な遮断により過大なアークが発生してしまうためであり、1991年までにAT饋電方式に改良された。その結果、沿線に25ヶ所あった変電所が増強も含めて16ヶ所に減らされた。", "title": "開発の経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "軽量化の観点から、東海道・山陽新幹線用車両で初のアルミニウム合金を使用したシングルスキン構造の構体を採用した。これにより100系では9.3 tあった構体重量は6.8 tにまで軽量化することが可能になった。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "屋根板、側外板、床面には、全長24.5 m、最大幅600 mmのA6N01S-T5部材を、床と外板交差部分にあたる側梁および横梁は強度が必要なことから、中空形材およびA7N01S-T5部材を使用している。また、軽量化の観点から室内床にはアルミハニカムパネルを、騒音防止の観点から主変圧器付近の床下には鋼製パネルを張り付けている。これらの特徴により、車体単体質量を6.0 tと大幅に軽減した。営業用新幹線として初めてのアルミニウム製車体であった200系の8.5 tと比べて2.5 tの軽量化を達成した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "空気抵抗低減のために車体断面を縮小し、車高は100系より約40 cm低くなった。走行時の空力音を軽減するために、運転台周りは滑らかに仕上げられ、スカートと一体構造になっている。さらに低重心化のため、同系列までは天井にあった空調装置を床下に移動した。そのため、窓間の柱内のダクトを経由して送風する構造になった。側窓は再び狭窓となった一方で、窓框高さは100系までの855 mmから一転して710 mmと低くされた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "初期車両は空気抵抗低減のため、ドアを閉めた際に車体との段差のないプラグドアを採用していたが、構造が複雑でトラブルが多かったことに加え、コストのわりに騒音低減効果が少なかったことから、1993(平成5)年度初の増備車であるJ16編成・F6編成より通常の引き戸に変更した。また100系まで屋根の肩に付いていた雨どいは省略され、ドア上部のみに水切りを設置する簡易的なものになった。以降この方式は現在の新幹線車両で主流となっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "前照灯と尾灯は同一ライトで折り返しの際は色の違うガラス板を切り替えて対応する構造を採用してきたが、この構造は本系列が最後となり、500系以降の新型新幹線車両ではフィラメント構造の前照灯と発光ダイオードの尾灯が完全に分離されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "架線からの単相交流25 kVを主変圧器で降圧した上で、主変換装置で単相交流から直流、さらに三相交流へと変換して交流電源とした。その交流電源で主電動機を駆動した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "M1+T+M2ユニットを採用し、M1車には主変換装置・補助電源装置が、M2車には主変換装置が、T車には主変圧器・集電装置・空気圧縮機が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器機器類を収納する簡易ふさぎ板が設けられている。電機品は三菱電機、東芝、日立製作所、富士電機の4社が製作している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "主変圧器 は強制風冷式を採用し、2,900 kVAの容量を備える。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "主変換装置 は、GTO素子を利用したPWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されている。制御方式は2レベル制御により、電圧・電流波形を交流の正弦波に近い形としている。GTO素子はスイッチング周波数が低いため、発車時と停車時に電動機からの磁励音が目立つ。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "主電動機は 、かご形三相誘導電動機を電動車両1両あたり4基搭載する。連続定格出力は300 kWとし、交流モーターの採用により100系の直流モーターと比較して出力は約30 %アップしながら質量は約半分になっており、車両全体の軽量化に寄与している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "VVVFインバータ制御を利用した回生ブレーキも新幹線車両として初めて装備し、ブレーキ性能を強化した。ただしモーターのない付随車は回生ブレーキが装備できないため、渦電流ブレーキを装備する。本系列からブレーキ制御に応荷重装置を追加したが、これは車体の軽量化により編成全体に占める旅客質量の比率が高まったためである。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ただし前述のアルミ合金車体の採用による軽量化は、付随車で渦電流ブレーキ装置の質量がモーターより重く、さらに機器の中で最も質量のある主変圧器を搭載していたことも相まって、モーター装備の電動車よりも付随車の方が重くなる結果になった。その後開発された500系では全車電動車となったことから付随車採用時の質量増は発生せず、700系ではブレーキ装置の軽量化と機器配置の最適化によって電動車と付随車の質量を同等とした。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "台車は鉄道総合技術研究所が開発した9023EF形台車をベースとした、新幹線の車両で初採用となる軽量ボルスタレス台車で、軽量で曲線通過性に優れる特徴を持っている。軸箱支持方式は270 km/h走行時の安定性を高めるため、0系以来のIS方式を改良し、軸箱前後にある軸ばねのコイルばね内に円筒積層ゴムを内蔵したウイングばね方式を採用しており、軸箱の上部と台車枠の間には軸ダンパーが装備されている。これは、ウイングばねのコイルばねが上下の荷重を支持して、軸箱の案内を円筒積層ゴムが行うようになっており、摺動部分がないため耐久性に優れる長所を持つ。また、ボルスタレス台車の首振りは枕ばねの撓みの許容により行うため、水平方向の剛性が低くなる特性があり、左右方向の空気ばねの撓みを抑えるための空気ばねストッパーが設けられており、台車枠と車体の中心ピン(牽引装置)との間にも左右動を抑えるダンパが装備されている。その他にも、ボルスタレス台車は蛇行動を起こしやすい特性があるため、その抑制を図るためのアンチヨーダンパが台車枠と車体の間に設けられている。軽量化のため、車輪径が910 mmから860 mmに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となったほか、台車枠端ばりの廃止、台車枠への高張力鋼、軸箱・歯車箱にアルミニウム合金の採用がなされた。駆動装置は100系でも採用されたWN平行カルダン駆動方式である。なお、300系の台車のこれらの装備と機構は、その後の16両編成の700系とN700系の台車にも採用されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "形式はM車がTDT203形、T車がTTR7001形である。質量はTDT203形が6,689 kg、TTR7001形が6,914 kgで、100系DT202形の9,800 kgやTR7000形の9,225 kgから大幅な軽量化を達成した。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パンタグラフは当初、下枠交差形に大型カバーを組み合わせたものを編成内に3基(6, 9, 12号車博多寄り)搭載していた。また、パンタグラフの離線によるスパークの発生を抑えるために特高圧引通線を屋根に設置して各ユニットを電気的に接続していた。各車両間はケーブルヘッドを介して接続していた。走行中は、騒音低減のため後ろの2基使用で対応したが、トンネル内でパンタグラフカバーの影響により車両が左右に揺さぶられて乗り心地が低下することが判明したため、現車走行試験の結果をもとに1995年8月から1998年9月にかけて編成中央のパンタグラフを撤去、編成前後のカバーは形状が変更された。そして700系登場目前である1998年に落成したJ58 - J61編成は、パンタグラフは引き続き下枠交差式であるが、高圧引き通し線が落成当初から700系と同様の直ジョイントと4両おきのケーブルヘッド式となっている。1999年度からは700系で採用された低騒音化技術を反映して、全編成を対象にシングルアームパンタグラフ、がいしカバー、直ジョイントを搭載する改造を実施している。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "J編成とF編成の外観上での見分け方として、パンタグラフカバーとJRロゴの色が異なることに加え、F編成では車体下部にリフティングジャッキをセットするための凹みが追加されている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "16両編成で8 - 10号車がグリーン車、他は普通車である。100系まで存在した2階建車両や個室、食堂車及びカフェテリアはない。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "グリーン車は横2列+2列の座席配列で、100系と同様読書灯を各席に設置してイヤホン式のオーディオサービスがある。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "普通車は横3+2列の座席配列で、シートピッチ(座席の前後間隔)は100系と同じく1,040 mmと広い。また、本系列量産車からは、3人がけ座席のうち中央列座席(B席)については窓側席と通路側席の座席有効幅430 mmに対して30 mm広い460 mm幅とした。J1編成以外の定員はグリーン車200名と普通車1,123名の計1,323名、この標準定員と1車両毎の座席数の共通化が以降N700S系の途中まで東海道新幹線車両の基本となった。なお、J編成はブラウン系、F編成はグレー系の配色でまとめられている。普通席はおおよそ同一(モケット色違い)だが、グリーン席に関して言うと、ヘッドレストの張り出し、オーディオスイッチ・読書灯スイッチの配置、読書灯のデザイン、背もたれのシートバックポケットのデザインなどがJ編成、F編成の間で異なっている。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "食堂車に代わり、7号車の東京寄り、11号車の博多寄りに車内販売準備室を兼ねた「サービスコーナー」を設置し、車内販売を実施していたが、ワゴンサービスの充実と利用率の低下に伴い2003年10月1日のダイヤ改正によりサービスコーナーは廃止され、以降は車販準備室のみとなった。また、奇数号車の洗面台同士の間には冷水器と紙コップが設けられていたが、700系デビュー以降は500系と同様に冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "車内照明は、間接照明が採用されている。これは車体断面縮小からくる全高の低下にもかかわらず、室内高の拡大(100系との比較で全高は3,800 mmから3,650 mmへ150 mm低下しつつ、室内高は2,100 mmから2,140 mmと40 mm拡大)を実現するための合理的な方法である。", "title": "車両概説" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ユニットは2M1Tの3両を一組とする構成で、1号車(博多寄り先頭車)の323形は1両のみでユニットに属さないTC。2 - 16号車は、質量配分の平均化を狙い2両の電動車 (M) が1両の付随車 (T) の両端を挟む計3両M1+Tp+M2で1ユニットを構成する。この構成は新幹線車両では本系列のみとなっている。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "番台としては、試作編成である(J0→)J1編成は9000番台を、J2編成以降は0番台を、F編成は3000番台を名乗る。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「のぞみ」車両の試験車として、1990年3月8日に東京第二車両所に配属された。製造費用は46億円となっており、先代の100系G編成と比較すると15億円高く、500系やN700系と同じである。なお、量産車の製造費用は40億円とされている。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1990年に303 km/hを記録しており、1991年(平成3年)2月28日未明には325.7 km/hを記録し、961形による国内最高速度記録を12年ぶりに更新している。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "後に登場した量産車とは違った外見をいくつか持っていた。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "それらに加え、登場時の外観は以下のようなものだった。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "J0登場当初は東海道新幹線がBT饋電方式を採用していたため、パンタグラフは各ユニットに1台ずつの計5台(3・6・9・12・15号車)に搭載されていたが、1991年にAT饋電方式への切り替えが完了した後は3・15号車のパンタグラフを撤去、残った3台のうち9号車のものは予備として実使用パンタグラフを2台にまで削減した。その後、9号車のパンタグラフを撤去して2台のみとし、最終的に700系タイプのシングルパンタグラフとパンタカバーに変更された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "量産車登場後の1993年3月10日に量産化改造が行われてJ1編成となり営業運転に使用された。外観は量産車に合わされ、帯の色の変更、シンボルマークの消去が行われた。また、15号車の車号が329-9002から329-9501に改番されている。後に、飾り帯にあたる部分が量産車と同じくグレーの塗装となった連結器カバーに交換された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "トランスポンダの関係で、「のぞみ」での営業運転では東海道区間に限定されたが、「ひかり」では岡山・広島発着列車に時折使用された。2001年以降は、再び試験車として使用されることとなり、営業運転からは2000年に離脱した。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "N700系に搭載される新型パンタグラフや車体傾斜システム、全周幌のほか、東海道新幹線区間で新たに採用されたデジタルATCの試験にも充当された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1990年に落成した先行試作車であるJ0編成による長期試験走行の結果、「のぞみ」に充当するため、1992年1月から3月にかけて4編成64両(J2 - J5編成)が落成した。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1993年3月18日ダイヤ改正から行われた「のぞみ」1本/時運転に対応するため、1992年9月から1993年3月にかけて10編成160両(J6 - J15編成)が落成した。また、JR西日本所属のF1 - F5編成も製造された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "東京 - 博多間の長距離運転に対応して水タンク容量が拡大されたほか、車内騒音軽減のために、加速時におけるモータ電流値の変更や防音板の挿入が行われた。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "0系置き換え用として、1993年3月から1995年6月にかけて14編成224両(J16 - J29編成)が落成した。また、JR西日本所属のF6 - F9編成も製造された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "客用扉がプラグドアから引き戸に変更された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "老朽車両取り替え用として、1995年8月から1998年3月にかけて28編成448両(J30 - J57編成)が落成した。その間、J51編成とJ52編成の間に700系先行試作車(C1編成)を導入し、ほぼ同時期にJR西日本では500系を9編成導入している。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "グリーン席のフットレストが、座席台座に固定される形から座席に固定される形に変更された。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "老朽車両取り替え用として、1998年6月から10月にかけて4編成64両(J58 - J61編成)が製造された。J61編成をもって新造投入を終え、700系量産車の製作が始まった。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "パンタグラフがシングルアーム形、各車両の特高圧引き通し線接続部分が4両おきのケーブルヘッド式に改められている。既存の編成にも追工事の形で行われた。", "title": "次車別解説" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "営業運転前の試運転が不十分だったため、営業運転開始後は故障が続発し、頻繁に運転打ち切りが発生するなど、のぞみ301号の名古屋飛ばしとともにマスコミから連日クローズアップされることになった。走行不能に陥って運転が打ち切りになるなど深刻な事態に発展するケースもしばしば発生し、連日報道機関から強く非難された。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "営業開始から4月25日までの1ヵ月半の間に183件(J2編成:48件〈そのうち主変換装置6件〉、J3編成68件〈そのうち主変換装置29件、ATC3件〉、J4編成55件〈そのうち主変換装置9件、ATC1件〉、J5編成12件〈そのうち主変換装置6件、ATC3件〉)ものトラブルが発生した。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1992年5月6日には名古屋駅 - 三河安城駅間を190 km/hで走行中の「ひかり238号」(新大阪発東京行き・J4編成)で主電動機を固定するボルトが折損し、4時間立ち往生するトラブルが発生した。これは最悪の場合高速走行中にモーターが線路に脱落し、大惨事に繋がる恐れのある重大インシデントであった。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "さらに、1993年4月4日に岐阜羽島駅を通過中の「のぞみ号」の風圧で飛散したバラストが上りホームの乗客の右膝に当たり、4月30日には上下線の「のぞみ号」がすれ違い通過中に飛散したバラストが上りホームの乗客の額に当たる事故も発生した。このため、通過駅でバラストの飛散対策防止剤を散布するなどの対策に追われた。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、この他にもネジの長さが足らずマスコンハンドルが外れたり(川崎重工の施工ミス)、パンタグラフの取り付けボルトの落下、台車の異常を知らせるランプの誤作動など準備不足が原因のトラブルが多数発生した。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "軽量化を目的にMT比をそれまでの100系の12M4Tから10M6Tに変更し、電動車を削減したが、付随車に採用した渦電流ブレーキの重量が嵩んだために逆に付随車の方が重くなってしまった。しかし基本仕様を変更するには設計を一からやり直す必要があったため、MT比が変更されることはなかった。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "軽量化と低床化のために空調機が床下に納められたことで、天井にある吹き出し口までダクトを延長する必要が生じた。このため長いダクト内で冷気が温められてしまい、冷房能力が不足する欠陥が見られた。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "300系のスタイルの決め手となっているレール面から近すぎるノーズポイントも、性能上で不都合を生じさせた。ノーズポイントがレール面から近すぎると、ノーズポイントの上面と下面で大きな圧力差が発生し、空気の流れが剥離することにより後尾車両で\"尻振り\"と呼ばれる現象が生じ、乗り心地を大きく悪化させる。尻振りはトンネル内で特に顕著に発生したが、300系の開発時にはこの現象が解明されていなかった。このため300系はレール面直上のノーズポイントから屋根まで一筆書きで続く、他の新幹線車両では見られない独特なワンモーションデザインになった。以後の新幹線車両からは尻振り性能を改善するためにノーズポイントが高く設定されるようになり、300系のような形状は見られなくなった。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また、2両に跨がった大きすぎるパンタカバーが仇となってトンネル内での蛇行動も発生し、パンタグラフ周辺の改修などといった対策はとられたが、一方で改修できない車体左側面とトンネル左下壁面との乱流の近接効果による左右動の問題は残されている。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "高速化を最優先させるための徹底的な軽量化が仇となり、220 km/hで走行していた100系と比べると高速運転に伴う前後衝動や振動、車内の騒音が増加。導入当初は「座席前のテーブルに置いたコーヒーがこぼれた」「サンドイッチが手も触れていないのに丸ごと床に転落した」等の苦情やクレームが相次いだ。座席のシートも金属ばねによる支持方式から薄いウレタンのみに取って代わられた上、座席の背もたれはかなり低めだったため座り心地は悪化、付随車においては加減速時に補助電源装置からの発生音が大きくなるなどの問題も発生した。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "デッキのくず物入れが大人の膝下サイズにまで小型化されたため、投入口からは弁当殻などがあふれ出す状態になってしまった。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "空調装置の床下への移設でダクトを壁内に納めたことにより、体感温度が外部の気温変化や直射日光の照射の影響を受けにくかった。これは外壁の薄いシングルスキンに接したダクト内を空気が通ってから室内に吹き出すため、夏は日光に暖められ冷房の効きが悪く、冬は外気温で冷やされて暖房の効きが悪くなるというように、エアコンの負荷効率は悪くなった一方で、壁面温度が先に制御されるので室内にいる人にとっては放射加熱や放射冷却の影響を受けにくくなっているからである。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "本系列は新技術を数多く採用・実用化し、新幹線高速化の第一歩となった。そのため技術的には高く評価される車両だが、利用客にとっての居住性という観点からの評価は低いことが多い。これらに対しての反省や教訓から、JR東海では後継車両の700系開発には高速運転性能のみならず居住性を含めた快適性重視の姿勢をとった他、不具合の洗い出しのため営業投入前に40万kmの長期耐久試験の実施が常となった。振動低減や居住快適性アップなど利用者にはその成果を支持されている。これは新幹線に限らず、その後のJR各社の在来線新型特急車両の開発の際にも重視されるようになった。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)9月29日にJR東海は、J編成のうち後期に製造された編成を中心とする43編成(J17・J18・J20 - J26・J28編成以降)を対象に、乗り心地向上のためN700系の量産先行試作車で採用した改良型セミアクティブサスペンションを1・6・8 - 10・12・16号車の7両(両先頭車、グリーン車とパンタグラフ搭載車)に、改良型左右動ダンパを残りの9両にそれぞれ搭載し、700系で採用された非線形空気ばねとヨーダンパを全車両に搭載することを発表した。検査入場に合わせて順次施工し、2006年(平成18年)10月までに完了した。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "車体間ダンパーは構造上の理由などから設置されなかった。なお、前期に製造されたJ2 - J16、J19、J27編成は、N700系への早期置き換え対象のため施工対象から外された。", "title": "車両欠陥" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "川崎重工業製の一部の編成は、阪神・淡路大震災で鳥飼車両基地への陸路が寸断されたため、兵庫運河から堺泉北港まで海上輸送し、堺泉北港から鳥飼車両基地まで陸送して搬入された。", "title": "編成表" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1992年3月14日の導入時には、「のぞみ」2往復(早朝・深夜の各1往復・当時運転されているすべての「のぞみ」であった)と、日中の東京 - 新大阪間「ひかり」1往復(238号・243号)で運用されていた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、導入前の1992年3月8日に試乗会がおこなわれ、同日に新幹線開発史において重要な存在である初代小田急3000形電車のさよなら運転があったので、新旧の節目と報じられた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1993年3月18日のJRダイヤ改正で、本系列による東京 - 博多間直通運転が始まった。初めて1編成につき全区間を1往復半運用を組むことが可能になり、0系の置き換えのためにJ61編成までの増備を続けつつ、編成数削減による運用合理化を可能にした。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "その後、増備が進むにつれて「ひかり」での運用も増えていった。後継車両の500系や700系の導入により2001年10月以降は「のぞみ」の定期運用から離脱し、引き替えに東海道新幹線の昼間の「こだま」にも充当されるようになったが、当時の「こだま」全列車と、「ひかり」のうち名古屋・京都の2駅のみ、または新横浜を加えた3駅停車の列車は100系との共通ダイヤが組まれており、最高速度を220 km/hに抑えて走っていた。そのため、2003年10月の品川駅開業によるダイヤ改正が行われるまでその性能を持て余す状況が長らく続いた。その反面、1996年から1997年には静岡県内停車タイプや名古屋 - 新大阪間各駅停車タイプの定期「ひかり」のほとんどが最高速度が270 km/hに引き上げられ、また2001年には山陽区間に限り270 km/h運転を行う「ひかり」が設定されるなどのダイヤ改正が行われた。これらの列車には300系が限定運用に入ることとなり、その性能が活かされることとなっていった。なおJ1編成はトランスポンダの関係から「のぞみ」での山陽区間への入線ができない時期があった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "前述の乗り心地改善工事が始まってからは、工事を受けていない初期のJ編成(J2 - J16・J19・J27編成)が「のぞみ」「ひかり」運用を追われ「こだま」専用になるなど、新旧の編成間で運用が分かれていた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2011年3月12日のダイヤ改正でJ編成は山陽新幹線に乗り入れる定期運用が消滅したが、運用調整のためF編成の運用に充当する場合があった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2007年から当系列の置き換え用として製作されたN700系の投入・増備が始まったことを受け、同年からJR東海所属のJ編成のうち、所定の経年である製造後13年を過ぎたものから運用離脱が始まった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "まず量産先行試作車のJ1編成が同年3月28日に浜松工場へ廃車回送され、3月31日付けで車籍抹消、同年7月21・22日の「新幹線なるほど発見デー」で展示され、16号車 (322-9001) 以外は4月末までに解体された。同編成は2003年以降営業運転から外れ、N700系をはじめとする新技術の開発に資するため試験車として代用されていたが、同系列の量産車登場によってその役割を終えた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "続いて同年7月11日付でJ14編成が廃車となり、量産車初の廃車となった。2007年度はこの後前半にJ2・J19のあわせて3編成が廃車になったのをはじめ、同年度後半にはさらにJ3, J4, J6, J8, J11の5編成が廃車となった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "J編成の廃車はN700系Z編成(後に改造され、現在はX編成)増備の進行と共に順次進められており、2008年度末までには前述の工事を受けていない20編成が廃車となり、2009年4月時点のJ編成の在籍本数は41編成(J20 - J26・J28 - J61編成)となっていた。J編成の全般検査は2010年6月9日に出場したJ61編成をもって終了した。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "JR西日本所属のF編成に関しては2010年まで廃車されなかったが、博多総合車両所広島支所に疎開されていたF5編成が2011年7月11日に博多総合車両所広島支所 - 新幹線鳥飼基地間で、翌12日に新幹線鳥飼基地 - 浜松工場間で回送され、14日付で廃車されたのをはじめ、その後8月にF6編成が、9月にF2編成が、10月にF1編成が、11月にF4編成とF3編成が浜松工場に送られた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2011年11月時点では、JR東海5編成・JR西日本3編成の計8編成まで数を減らした。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2012年3月17日のダイヤ改正において、300系はJR東海所属編成のほかJR西日本所属の9編成についても同社に残留していた100系とともに運用終了となった。JR西日本保有のF編成9編成の代替として、JR東海からJR西日本に同数の700系(C編成)9編成を譲渡した。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "東海道新幹線における2012年1月10日以降の定期運用は次の通り。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "また、山陽新幹線における2012年1月以降の定期運用は次の通り。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "これにより、東海道新幹線での定期運用はJ編成は同年2月1日の「こだま」680号がJ57編成を使用して、F編成は同年3月12日の「ひかり」477号が、山陽新幹線での定期運用は同年3月13日の「こだま」727号がいずれもF8編成を使用してそれぞれ最終となった。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "さよなら運転は2012年3月16日に以下の臨時列車により運行された(いずれも全車指定席)。このうち、山陽新幹線で運転された「のぞみ609号」については、同日に営業運転を終了する100系のさよなら列車「ひかり445号」と岡山駅の同一ホームでさよなら列車同士が並ぶ演出が行われた。", "title": "運用の変遷" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "J編成はさよなら運転に使用されたJ57編成が2012年3月23日付で廃車をもって、全車廃車された。F編成は2012年度初めの時点でF7編成、F8編成、F9編成が残存していたが、2012年10月20日付でF9編成が廃車され形式消滅した。", "title": "運用の変遷" } ]
新幹線300系電車(しんかんせん300けいでんしゃ)は、1990年(平成2年)に東海旅客鉄道(JR東海)が開発した東海道・山陽新幹線の第三世代新幹線電車である。
{{鉄道車両 | 車両名 = 新幹線300系電車 | 背景色 = black | 文字色 = white | 画像 = JRW Shinkansen 300 series F4.jpg | 画像説明 = 300系F4編成<br>(2009年11月 岡山駅 - 相生駅間) | 運用者 = [[東海旅客鉄道]]<br />[[西日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]<small>(J・F編成)</small><br />[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]<small>(J・F編成)</small><br />[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]<small>(J・F編成)</small><br />[[近畿車輛]]<small>(J編成)</small> | 製造年 = [[1990年]](先行試作車)<br />[[1992年]] - [[1998年]] | 製造数 = 70編成1,120両 | 運用開始 = [[1992年]][[3月14日]] | 運用終了 = [[2012年]][[3月13日]](定期運転) | 引退 = [[2012年]][[3月16日]](さよなら運転) | 廃車 = 2012年[[10月20日]] | 投入先 = [[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]] | 編成 = 16両編成 ([[MT比|10M6T]])<ref name="300 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|pages=p.37|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> | 軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] | 電気方式 = 交流25,000 [[ボルト (単位)|V]] 60 [[ヘルツ (単位)|Hz]] | 最高運転速度 = 270 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="300 spec" /> | 設計最高速度 = | 最高速度 = | 起動加速度 = 1.6 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]]<ref name="300 spec" /> | 常用減速度 = | 非常減速度 = | 減速度 = | 編成定員 = 1,323名(200名)<br />括弧内はグリーン車定員 | 車両定員 = | 荷重 = | 車両重量 = | 自重 = | 編成重量 = 710 [[トン|t]]<ref name="300 spec" /> | 編成長 = 402.1 [[メートル|m]]<ref name="300 spec" /> | 全長 = 26,050 mm(先頭車)<ref name="300 spec" /><br />25,000 mm(中間車)<ref name="300 spec" /> | 全幅 = 3,380 mm<ref name="300 spec" /> | 全高 = | 車体長 = | 車体幅 = | 車体高 = 3,650 mm<ref name="300 spec" /><br />3,600 mm(J1編成)<ref name="300 spec" /> | 車体材質 = [[アルミニウム合金]] | 台車 = コイルばね+円錐積層ゴム式[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]<br />TDT203,TTR7001(J編成)<br />WDT203,WTR7001(F編成) | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />TMT3,TMT4,TMT5(J編成)<br />WMT203(F編成) | 主電動機出力 = 300 kW × 4 | 駆動方式 = [[WN駆動方式]] | 歯車比 = 2.96<ref name="300 spec" /> | 編成出力 = 12,000 kW<ref name="300 spec" /> | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]( [[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ素子]]) | 制御装置 = [[東芝]]製TCI1形、またはWPC2形 | 制動装置 = [[回生ブレーキ]]併用[[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]]([[応荷重装置]]付き)、[[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ]] | 保安装置 = [[自動列車制御装置#ATC-1型(東海道・山陽型)(消滅)|ATC-1型]]、[[自動列車制御装置#ATC-NS|ATC-NS]] | 備考 = | 備考全幅 = {{ローレル賞|33|1993|link=no}} }} '''新幹線300系電車'''(しんかんせん300けいでんしゃ)は、[[1990年]]([[平成]]2年)に[[東海旅客鉄道]](JR東海)が開発した[[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]]の第三世代[[新幹線車両|新幹線]][[電車]]である。 == 概要 == 270 [[キロメートル毎時|km/h]]走行を行う「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」用車両かつ[[新幹線0系電車|0系]]置き換え用として開発された。1990年に[[プロトタイプ#鉄道車両|量産先行試作車]]が登場し、その後[[1992年]](平成4年)[[3月14日]]に営業運転を開始した。量産先行者のデザインは元日産自動車デザイナーであった[[福田哲夫]]が中心となり風洞実験の結果をもとに試作段階の形状を練り上げ<ref>SB Creative 新幹線をデザインする仕事 福田哲夫</ref>、量産車のデザインは手銭正道、戸谷毅史、松本哲夫、木村一男が担当した。 その後、[[1993年]](平成5年)3月18日から「のぞみ」の運転区間を博多駅まで延長することが決定し、[[西日本旅客鉄道]]でも同仕様の3000番台F編成を9編成製造・投入し、東京駅 - 博多駅間を[[グランドひかり]]より43分速い5時間4分で結んだ。JR西日本の本系列は'''300N系'''とも呼ばれる<ref name="NihonSharou100th">日本車輌製造「驀進100周年(第2部) - 次代へのインストラクチャー - 」101P記事。</ref>。 [[日本車輌製造]]・[[日立製作所]]・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]・[[近畿車輛]]に発注され、最終的にJ編成61本・976両とF編成9本・144両の合わせて70本・1,120両が製造されたが、J編成の中には[[新幹線500系電車|500系]]の製造開始後に落成した編成もあるほか、J52以降の編成は[[新幹線700系電車|700系]]の量産先行試作車であるC0→C1編成より後に落成している。また、量産車第1号のJ2編成は、[[新幹線100系電車|100系]]G編成の最終増備編成のG46編成より先に落成した{{refnest|group="注"|J2編成の各車両は1992年2月5日、100系G46編成の各車両は同月28日落成<ref>交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1992年8月号 No.376 p.83</ref>。}}。 本系列の登場当時、旅客向けの広告や時刻表などで形式名を使うことが一般的ではなく、500系や700系が登場するまでは「のぞみ型車両」と称されていた。 == 開発の経緯 == 「のぞみ」の原形である「スーパーひかり」の開発スタートは1988年1月にまでさかのぼる<ref name="300J0">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=pp.8 - 9|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。JR東海内に「新幹線速度向上プロジェクト委員会」が設置され、同年[[1月28日]]に1回目の講義がおこなわれた<ref name="300J0" />。この委員会では、100系のあとを継ぐ300系の開発について検討する委員会であった<ref name="300J0" />。 「のぞみ」の目的はできるだけ速く東京駅 - 新大阪駅間を結ぶことであり、そのライバルとしては[[航空機]]があった。[[東京国際空港|羽田空港]] - [[大阪国際空港|伊丹空港]]間の航空機は、飛行時間は1時間ほどで済むが、[[東京]]や[[大阪市]]の中心部から空港までの移動や搭乗手続きなどで時間を要する場合が多い。この航空機対抗策として2時間30分運転であれば、空の客を取ることができるのではないかという計算があったからである<ref>{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=pp.13 - 14|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。「のぞみ」の当初のキャッチフレーズは「(午前)9時の会議に間に合う」であった。 これらの事情や、線路設備の面から検討された結果、運転速度は270 km/hに設定された。 初代新幹線である0系は、最高速度が220 km/hで軸重が16 [[トン|t]]であった<ref name="300J0-2">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=p.20|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。300系を開発するにあたり、270 km/h走行時で0系220 km/h走行時と同じ、もしくはそれ以下の騒音と振動に抑えるにはどこまで軽量化をすればよいか検討された<ref name="300J0-1">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=p.21|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。そこで、0系の車両から電動機や抵抗器といった走行機器を取り外して軽量化、付随車とした上で編成中央に挟まれてテスト走行が[[1988年]][[5月24日]] - [[6月3日]]の間に[[浜松駅]] - [[名古屋駅]]間<ref name="300J0-1" />で実施された<ref name="300J0-1" />。この即席の付随車の車重は44 tであった<ref name="300J0-1" />。このほかにも、56 tの空車、水などを積んで64 tにした空車などが用いられテストされた<ref name="300J0-1" />。 0系の最高速度は前述のように220 km/hであったため、得られたデータを、270 km/hではどのような値になるかをフィールド試験によって計算すると、軸重にして11.3 t以下であれば、現行の車両の振動値を越さないことがわかった<ref name="300J0-3">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=p.22|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。300系以降、東海道・山陽新幹線を走行する車両は、軸重11.3 t以下を目標に設計されている。 === 地上施設の改良 === 東海道区間に多数存在するR2500のカーブでは[[カント (路線)|カント量]]は180 [[ミリメートル|mm]]であったが、300系の運転開始に伴い限界までの200 mmに変更された<ref name="300J0-4">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=pp.125 - 126|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。また、R3000のカーブでも、カント量が150 mmから180 mmに変更された<ref name="300J0-4" />。こうすることで、これらの区間でも最大255 km/hで走行できるようにした<ref name="300J0-4" />。このカント量の変更工事は、東海道新幹線の約1/4である120 [[キロメートル|km]]上で実施された<ref name="300J0-4" />。 また、従来の車両と最高速度が異なるため、[[自動列車制御装置|ATC]]にも改良が加えられた。まず、ATCを270 km/hにも対応させるため、ATCが2周波数化された<ref name="300J0-5">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=pp.133 - 136|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。新たに高速側に信号を増やすことになったが、従来の1周波数方式では情報が乗りきらなくなるためである<ref name="300J0-5" />。加えて、[[閉塞 (鉄道)|閉塞区間]]の長さを、安全性の面から再検討して従来の10 kmから8.5 kmに短縮した<ref name="300J0-5" />。こうすることで、従来のダイヤに高速化した300系を加えることができるようにした<ref name="300J0-5" />。 その他にも、東海道新幹線の饋電方式を、[[BT饋電方式]]から[[AT饋電方式]]に変更した。これは、300系は編成内に特高圧引通線を引き通し、そこに3基のパンタグラフを装備して、編成内の各ユニットに架線からの電気を供給するため、BT饋電方式の場合だと、約4 kmごとに架線に挿入されるブースタートランスによってトロリー線にブースターセクションが設けられるため、そこを通過すると、交流周波数の位相差により、パンタグラフの間で特高圧引通線を介して電気が流れトラブルが発生すること、負荷電流が大きいと通過時の一時的な遮断により過大なアークが発生してしまうためであり、[[1991年]]までにAT饋電方式に改良された。その結果、沿線に25ヶ所あった変電所が増強も含めて16ヶ所に減らされた。 == 車両概説 == === 外観 === 軽量化の観点から、東海道・山陽新幹線用車両で初の[[アルミニウム合金]]を使用した[[シングルスキン構造]]の[[構体 (鉄道車両)|構体]]を採用した。これにより100系では9.3 tあった構体重量は6.8 tにまで軽量化することが可能になった<ref>[http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1991/03/1991_03_02.pdf 特集 交通システムの新しい技術 高速・軽量化車両] 日立製作所</ref>。 屋根板、側外板、床面には、全長24.5 [[メートル|m]]、最大幅600 [[ミリメートル|mm]]のA6N01S-T5部材を、床と外板交差部分にあたる側梁および横梁は[[強度]]が必要なことから、[[押出成形|中空形材]]およびA7N01S-T5部材を使用している<ref name="kobelco Al">{{PDFlink|[http://www.kobelco.co.jp/technology-review/pdf/58_3/055-061.pdf 新幹線車両用アルミニウム合金製押出部材の技術開発]}} 神戸製鋼技報 第58巻第3号(2008年)、神戸製鋼所</ref>。また、軽量化の観点から室内床にはアルミ[[ハニカム構造|ハニカム]]パネルを、[[騒音]]防止の観点から主変圧器付近の床下には鋼製パネルを張り付けている<ref name="kobelco Al" />。これらの特徴により、車体単体質量を6.0 tと大幅に軽減した<ref name="300J0-6">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=pp.58 - 65|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref>。営業用新幹線として初めてのアルミニウム製車体であった[[新幹線200系電車|200系]]の8.5 tと比べて2.5 tの軽量化を達成した<ref name="300J0-6" />。 {{Double image aside|right|West Japan Railway - Series 300-3000 - Door - 01.JPG|150|Central Japan Railway - Series 300-0 - Door - 01.JPG|150|初期車のプラグドア|後期車の引き戸}} [[空気抵抗]]低減のために車体断面を縮小し、車高は100系より約40 [[センチメートル|cm]]低くなった。走行時の空力音を軽減するために、運転台周りは滑らかに仕上げられ、スカートと一体構造になっている。さらに低[[重心]]化のため、同系列までは天井にあった[[エア・コンディショナー|空調装置]]を床下に移動した。そのため、窓間の柱内のダクトを経由して送風する構造になった。側窓は再び狭窓となった一方で、[[框|窓框]]高さは100系までの855 mmから一転して710 mmと低くされた。 初期車両は空気抵抗低減のため、ドアを閉めた際に車体との段差のない[[プラグドア]]を採用していたが、構造が複雑でトラブルが多かったことに加え、コストのわりに騒音低減効果が少なかったことから、[[1993年|1993]](平成5)年度初の増備車であるJ16編成・F6編成より通常の引き戸に変更した。また100系まで屋根の肩に付いていた雨どいは省略され、ドア上部のみに水切りを設置する簡易的なものになった。以降この方式は現在の新幹線車両で主流となっている。 前照灯と尾灯は同一ライトで折り返しの際は色の違うガラス板を切り替えて対応する構造を採用してきたが、この構造は本系列が最後となり、500系以降の新型新幹線車両ではフィラメント構造の前照灯と発光ダイオードの尾灯が完全に分離されている。{{-}} === 主要機器 === ==== 電源・制御機器 ==== {{Sound|JR central 300series hikari 509 315-56 shinosaka.ogg|JR東海 315-56の走行音(509A ひかり509号、8号車)|(東海道新幹線 京都-新大阪間、2011年5月24日)}} {{Sound|JR West 300series hikari 530 315-3004 kyoto.ogg|JR西日本 315-3004の走行音(530A ひかり530号、8号車)|(東海道新幹線 新大阪-京都間、2011年8月18日)}} [[架線]]からの[[単相交流|単相]][[交流電化|交流]]25 [[キロボルト|kV]]を[[変圧器|主変圧器]]で降圧した上で、[[主変換装置]]で単相交流から直流、さらに[[三相交流]]へと変換して交流電源とした。その交流電源で主電動機を駆動した。 M1+T+M2ユニットを採用し、M1車には主変換装置・補助電源装置が、M2車には主変換装置が、T車には主変圧器・集電装置・空気圧縮機が搭載される。床下の平滑化による騒音の低減と着雪障害の防止のため、床下機器機器類を収納する簡易ふさぎ板が設けられている。電機品は[[三菱電機]]、[[東芝]]、[[日立製作所]]、[[富士電機]]の4社が製作している<ref>三菱電機『三菱電機技報』1991年1月号トピックス「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1991(vol65)/Vol65_01.pdf 新幹線電車用電機品」]}}」p.17 (先行車)</ref><ref>三菱電機『三菱電機技報』1993年1月号トピックス「{{PDFlink|[https://www.giho.mitsubishielectric.co.jp/giho/pdf/backnumber/1993(vol67)/Vol67_01.pdf 新幹線電車用電機品 」]}}」p.109(量産車)。</ref><ref>東芝「東芝レビュー」 1990年1月号「東海旅客鉄道(株)納入300系新幹線電車用電気品」p.263。主変換装置、主変圧器、主電動機、渦電流ブレーキ装置・制御装置、補助電源装置、空調装置、モニタ装置を製作した(先行車)。</ref><ref>東芝「東芝レビュー」1992年3月号「300系新幹線量産車の電気品を納入」p.249。主変換装置、主変圧器、主電動機、渦電流ブレーキ装置、補助電源装置、空調装置、モニタ装置などを製作した(量産車)。</ref><ref>日立製作所「日立評論」1991年3月号「{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/64-01/FEJ-64-01-051-1991.pdf 鉄道車両用小型・軽量制御システム」]}}」(先行車)。</ref><ref>富士電機「富士時報」1991年1月号「{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/64-01/FEJ-64-01-051-1991.pdf 東海旅客鉄道(株)300系新幹線電車用電気機器」]}}」p.55(先行車)。</ref><ref>富士電機「富士時報」1992年1月号「{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/65-01/FEJ-65-01-040-1992.pdf  東海旅客鉄道(株)300系新幹線量産車用電気機器」]}}」p.43(量産車)</ref>。 主変圧器 は強制風冷式を採用し、2,900 [[キロボルトアンペア|kVA]]の容量を備える<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/society/traffic/syaryou/suisin/syuhenatuki/henatuki_seihin.html 車両システム・推進制御システム・主変圧器--製品紹介--]三菱電機 車両システム</ref>。 主変換装置 は、[[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]]を利用したPWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されている。制御方式は2レベル制御により、電圧・電流波形を交流の正弦波に近い形としている。GTO素子はスイッチング[[周波数]]が低いため、発車時と停車時に[[かご形三相誘導電動機|電動機]]からの[[磁励音]]が目立つ。 [[主電動機]]は 、[[かご形三相誘導電動機]]を電動車両1両あたり4基搭載する。連続定格出力は300 [[キロワット|kW]]とし、交流モーターの採用により100系の[[直巻整流子電動機|直流モーター]]と比較して出力は約30 [[パーセント|%]]アップしながら質量は約半分になっており、車両全体の軽量化に寄与している。 VVVFインバータ制御を利用した[[回生ブレーキ]]も新幹線車両として初めて装備し、ブレーキ性能を強化した。ただしモーターのない付随車は回生ブレーキが装備できないため、[[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ]]を装備する。本系列からブレーキ制御に[[応荷重装置]]を追加したが、これは車体の軽量化により編成全体に占める旅客質量の比率が高まったためである。 ただし前述のアルミ合金車体の採用による軽量化は、付随車で渦電流ブレーキ装置の質量がモーターより重く、さらに機器の中で最も質量のある主変圧器を搭載していたことも相まって、モーター装備の電動車よりも付随車の方が重くなる結果になった。その後開発された500系では全車電動車となったことから付随車採用時の質量増は発生せず、700系ではブレーキ装置の軽量化と機器配置の最適化によって電動車と付随車の質量を同等とした。 ==== 台車 ==== [[鉄道車両の台車|台車]]は[[鉄道総合技術研究所]]が開発した9023EF形台車をベースとした、新幹線の車両で初採用となる軽量[[ボルスタレス台車]]で、軽量で曲線通過性に優れる特徴を持っている。軸箱支持方式は270 km/h走行時の安定性を高めるため、0系以来のIS方式を改良し、軸箱前後にある軸ばねのコイルばね内に円筒積層ゴムを内蔵したウイングばね方式を採用しており、軸箱の上部と台車枠の間には軸ダンパーが装備されている。これは、ウイングばねのコイルばねが上下の荷重を支持して、軸箱の案内を円筒積層ゴムが行うようになっており、摺動部分がないため耐久性に優れる長所を持つ。また、ボルスタレス台車の首振りは[[枕ばね]]の撓みの許容により行うため、水平方向の[[剛性]]が低くなる特性があり、左右方向の[[空気ばね]]の撓みを抑えるための空気ばねストッパーが設けられており、台車枠と車体の中心ピン(牽引装置)との間にも左右動を抑えるダンパが装備されている。その他にも、ボルスタレス台車は[[蛇行動]]を起こしやすい特性があるため、その抑制を図るための[[ヨーダンパ|アンチヨーダンパ]]が台車枠と車体の間に設けられている<ref>{{Cite book|和書|editor=佐藤芳彦|title=新幹線テクノロジー -進化を続ける新幹線の最新マカニズム-|year=2014|publisher=三栄書房|pages=p.072|id= ISBN 9784779620263}}</ref>。軽量化のため、車輪径が910 mmから860 mmに縮小され、車軸も中グリ軸と呼ばれる中空式となったほか、台車枠端ばりの廃止、台車枠への[[高張力鋼]]、軸箱・歯車箱にアルミニウム合金の採用がなされた<ref>{{Cite book|和書|editor=佐藤芳彦|title=新幹線テクノロジー -0系から800系九州新幹線の高速車両技術-|year=2004|publisher=山海堂|pages=p.117|id= ISBN 9784381088277}}</ref>。駆動装置は100系でも採用された[[WN平行カルダン駆動方式]]である。なお、300系の台車のこれらの装備と機構は、その後の16両編成の700系とN700系の台車にも採用されている<ref group="注">N700系の場合は、車枠と車体の中心ピン(牽引装置)との間に左右動ダンパを比例電磁弁リリーフ方式による無段階減衰力調整式のセミアクティブサスペンションに変更している。</ref>。 形式はM車がTDT203形、T車がTTR7001形である。質量はTDT203形が6,689 [[キログラム|kg]]、TTR7001形が6,914 kgで、100系DT202形の9,800 kgやTR7000形の9,225 kgから大幅な軽量化を達成した。 ==== 集電装置など ==== [[集電装置|パンタグラフ]]は当初、下枠交差形に大型カバーを組み合わせたものを編成内に3基(6, 9, 12号車博多寄り)搭載していた。また、パンタグラフの離線によるスパークの発生を抑えるために[[特高圧引通線]]を屋根に設置して各ユニットを電気的に接続していた。各車両間はケーブルヘッドを介して接続していた。走行中は、騒音低減のため後ろの2基使用で対応したが、トンネル内でパンタグラフカバーの影響により車両が左右に揺さぶられて乗り心地が低下することが判明したため、現車走行試験の結果をもとに[[1995年]]8月から[[1998年]]9月にかけて編成中央のパンタグラフを撤去、編成前後のカバーは形状が変更された<ref>坂東重樹「300系新幹線電車のパンタグラフ数削減」『鉄道ジャーナル』1996年3月号、No.353。</ref>。そして700系登場目前である[[1998年]]に落成したJ58 - J61編成は、パンタグラフは引き続き下枠交差式であるが、高圧引き通し線が落成当初から700系と同様の直ジョイントと4両おきのケーブルヘッド式となっている。[[1999年]]度からは700系で採用された低騒音化技術を反映して、全編成を対象にシングルアームパンタグラフ、[[がいし]]カバー、直ジョイントを搭載する改造を実施している<ref>[https://web.archive.org/web/20000525112324/http://www.jr-central.co.jp/info.nsf/frame/EAFBF59254B665234925682A000377C2 300系新幹線車両の低騒音化技術の開発](JR東海・インターネットアーカイブ・2000年時点の版)。</ref>。 * TPS203型<ref name="300panto">{{Cite book|和書|editor=大朏博善|title=新幹線のぞみ白書|year=1994|publisher=新潮社|pages=p.91|id=ISBN 4-10-400201-1}}</ref> ** 折り畳み高さ:65 mm<ref name="300panto" /> ** 標準作用高さ:575 mm<ref name="300panto" /> ** 標準押上力:5.5 kg<ref name="300panto" /> ** 総組み立て重量:140 kg<ref name="300panto" /> J編成とF編成の外観上での見分け方として、パンタグラフカバー<ref group="注">J編成はグレー、F編成は白。</ref>とJRロゴの色が異なることに加え、F編成では車体下部にリフティングジャッキをセットするための凹みが追加されている。 === 車内設備 === 16両編成で8 - 10号車が[[グリーン車]]、他は[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]である<ref group="注">この車両構成はのちの東海道・山陽新幹線における500系・700系・N700系16両編成でも採用されている。</ref>。100系まで存在した[[2階建車両]]や[[個室]]、[[食堂車]]及び[[カフェテリア]]はない。 グリーン車は横2列+2列の[[アブレスト|座席配列]]で、100系と同様読書灯を各席に設置して[[ヘッドフォン|イヤホン]]式のオーディオサービスがある<ref group="注">100系ではV編成([[グランドひかり]])のみグリーン席に衛星放送受信可能な座席内蔵の液晶テレビが設置されていたが、本系列以降はグリーン席からテレビサービスが廃止されている。</ref>。 普通車は横3+2列の座席配列で、シートピッチ(座席の前後間隔)は100系と同じく1,040 mmと広い。また、本系列量産車からは、3人がけ座席のうち中央列座席(B席)については窓側席と通路側席の座席有効幅430 mmに対して30 mm広い460 mm幅とした<ref>{{Cite book|和書|title=鉄道ジャーナル 1992年4月号|year=1992|publisher=鉄道ジャーナル社|page=p.99}}</ref>。J1編成以外の定員はグリーン車200名と普通車1,123名の計1,323名<ref group="注">500系は1名多い1,324名であり、300系・700系・N700系とは1車両毎の乗車定員が異なる。また、運転席の後側には乗降口は存在しない。</ref>、この標準定員と1車両毎の座席数の共通化が以降[[新幹線N700S系電車|N700S系]]の途中まで東海道新幹線車両の基本となった。なお、J編成はブラウン系、F編成はグレー系の配色でまとめられている。普通席はおおよそ同一(モケット色違い)だが、グリーン席に関して言うと、ヘッドレストの張り出し、オーディオスイッチ・読書灯スイッチの配置、読書灯のデザイン、背もたれのシートバックポケットのデザインなどがJ編成、F編成の間で異なっている。 食堂車に代わり、7号車の東京寄り、11号車の博多寄り<ref group="注">グリーン車の前後に設けることで、普通車利用客によるグリーン車通り抜けを極力防ぐ目的もある。</ref>に車内販売準備室を兼ねた「サービスコーナー」を設置し、[[車内販売]]を実施していたが、[[車内販売|ワゴンサービス]]の充実と利用率の低下に伴い[[2003年]][[10月1日]]のダイヤ改正によりサービスコーナーは廃止され、以降は車販準備室のみとなった。また、奇数号車の洗面台同士の間には[[冷水機|冷水器]]と紙コップが設けられていたが、700系デビュー以降は500系と同様に冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。 [[File:West Japan Railway - Series 300-3000 - Cabin - 01.JPG|240px|thumb|間接照明を採用した普通車(F編成)]] 車内[[照明]]は、間接照明が採用されている。これは車体断面縮小からくる全高の低下にもかかわらず、室内高の拡大(100系との比較で全高は3,800 mmから3,650 mmへ150 mm低下しつつ、室内高は2,100 mmから2,140 mmと40 mm拡大)を実現するための合理的な方法である。<gallery> ファイル:JRC Shinkansen Series 300 Seats of Green car.jpg|J編成 グリーン席 ファイル:300 f green car 01.JPG|F編成 グリーン車 ファイル:300 f green car 02.JPG|F編成 グリーン車 ファイル:JRW Shinkansen Series 300 Seats of Green car.jpg|F編成 グリーン席 ファイル:Seat of JR Central 300.JPG|J編成 普通席 ファイル:300 F standard class seating 20071124.jpg|F編成 普通席 ファイル:300 f green car 03.JPG|F編成 洗面所 ファイル:300 f green car 04.JPG|F編成 男子用トイレ ファイル:300 f green car 05.JPG|F編成 くず物入れ </gallery> == 形式および車種 == 本系列に属する各形式名とその車種は以下のとおり。 ユニットは2M1Tの3両を一組とする構成で、1号車(博多寄り先頭車)の323形は1両のみでユニットに属さないT<small>C</small>。2 - 16号車は、質量配分の平均化を狙い2両の[[動力車|電動車]] (M) が1両の[[付随車]] (T) の両端を挟む計3両M<small>1</small>+T<small>p</small>+M<small>2</small>で1ユニットを構成する。この構成は新幹線車両では本系列のみとなっている。 {| style="text-align:center; border:solid 1px #999;" |- | style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #003f6c;" |300系編成表<ref>{{cite book|title = JR全車輌ハンドブック 2008|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2008-8-1|isbn = 978-4777006663|pages = 571-573|ref = harv}}</ref> |- | style="font-size:80%;" |{{TrainDirection|博多|東京}} |- | {| class="wikitable" style="font-size:80%;" |- ! colspan="2" |号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !形式 !J・F編成 |323形<br /> (Tc) |325形<br /> (M1) |329形<br /> (Tpw) |326形<br /> (M2) |325形<br /> (M1w) |328形<br /> (Tp) |326形<br /> (M2k) | style=" background-color:#cf9;" |315形<br /> (M1s) | style=" background-color:#cf9;" |319形<br /> (Tps) | style=" background-color:#cf9;" |316形<br /> (M2s) |325形<br /> (M1h) |328形<br /> (Tp) |326形<br /> (M2w) |325形<br /> (M1) |329形<br /> (Tpw) |322形<br /> (M'c) |- ! colspan="2" |座席 | colspan="7" |普通車 | colspan="3" style="background-color:#cf9;" |グリーン車 | colspan="6" |普通車 |- ! colspan="2" |定員 |65 |100 |85 |100 |90 |100 |75 |68 |64 |68 |80 |100 |90 |100 |80 |75 |- ! colspan="2" |重量 |40.2 t |37.5 t |40.4 t |40.2 t |38.5 t |40.4 t |40.2 t |38.4 t |41.8 t |38.6 t |39.6 t |40.4 t |39.0 t |37.5 t |40.7 t |39.3 t |- ! colspan="2" |ユニット |&nbsp; | colspan="3" |1ユニット | colspan="3" |2ユニット | colspan="3" |3ユニット | colspan="3" |4ユニット | colspan="3" |5ユニット |} |} 番台としては、試作編成である(J0→)J1編成は9000番台を、J2編成以降は0番台を、F編成は3000番台を名乗る。 ; 315形 (M<small>1S</small>) : [[グリーン車|グリーン席]]を備える中間電動車。8号車として使用。主変換装置などを搭載する。定員68名(2+2シートが17列)。 ; 316形 (M<small>2S</small>) : グリーン席を備える中間電動車。10号車として使用。車掌室を備え、主変換装置などを搭載する。定員68名(2+2シートが17列)。 ; 319形 (T<small>pS</small>) : グリーン席を備える中間付随車。9号車として使用。荷物保管室、業務用室、便所、洗面所を備え、主変圧器などを搭載する。定員64名(2+2シートが16列)。かつて集電装置が搭載されていた。 [[File:JRC_Shinkansen_Series_300_J61_sets_322-60.jpg|240px|thumb|322形先頭車 (322-60) [[姫路駅]]にて]] ; 322形 (M<small>2C</small>) : [[普通車 (鉄道車両)|普通席]]を備える制御電動車。16号車として使用。東京向き運転台を備え、主変換装置などを搭載する。定員75名。 ; 323形 (T<small>C</small>) : 普通席を備え、唯一ユニットに属さない制御付随車。1号車として使用。博多向き運転台、便所、洗面所を備える。定員65名。 ; 325形 : 普通席を備える中間電動車。主変換装置などを搭載する。 :; 0・3000・9000番台 (M<small>1</small>) :: 2・14号車として使用。定員100名。 :; 500・3500・9500番台 (M<small>1w</small>) :: 5号車として使用。便所、洗面所を備える。定員90名。 :; 700・3700・9700番台 (M<small>1h</small>) :: 11号車として使用。便所、多目的室、洗面所、車内販売準備室、車椅子対応設備を備える。定員63名(700・3700番台)73名(9700番台)。 :; 326形 :: 普通席を備える中間電動車。主変換装置などを搭載する。 :; 0・3000・9000番台 (M<small>2</small>) :: 4号車として使用。定員100名。 :; 400・3400・9400番台 (M<small>2k</small>) :: 7号車として使用。便所、洗面所、車内販売準備室を備える。定員75名。 :; 500・3500・9500番台 (M<small>2w</small>) :: 13号車として使用。便所、洗面所を備える。定員90名。 ; 328形 (T<small>p</small>) : 普通席を備える中間付随車。6・12号車として使用。主変圧器、集電装置などを搭載する。定員100名。 ; 329形 (T<small>pw</small>) : 普通席を備える中間付随車。便所、洗面所、車販準備室を備え、主変圧器などを搭載する。 :; 0・3000番台 :: 3号車として使用。定員85名。 :; 9000番台 :: 3号車として使用。かつて集電装置が搭載されていた。定員85名。 :; 500・3500番台 :: 15号車として使用。定員80名。 :; 9500番台 :: 15号車として使用。かつて集電装置が搭載されていた。定員80名。前述の通り、1993年の量産化改造時に9000番台から改番された。300系で唯一、改番を伴う改造を受けた車両である。 == 次車別解説 == === J1編成(登場時:J0編成) === {{画像提供依頼|J0編成の登場時の画像|date=2018年12月|cat=鉄道}} 「のぞみ」車両の[[試験車]]として、[[1990年]]3月8日に[[東京交番検査車両所|東京第二車両所]]に配属された。製造費用は46億円となっており、先代の100系G編成と比較すると15億円高く、500系やN700系と同じである<ref name="RJ201207_75">『鉄道ジャーナル』2012年7月号、鉄道ジャーナル社、2012年、p.75</ref>。なお、量産車の製造費用は40億円とされている<ref name="RJ201207_75" />。 1990年に303 km/hを記録しており、[[1991年]](平成3年)[[2月28日]]未明には325.7 km/hを記録し、[[新幹線961形電車|961形]]による国内最高速度記録を12年ぶりに更新している。 ==== 量産車との相違点 ==== {{Double image aside|right|J1 Hamamatsu 20030428.jpg|240|300 series J31 Hamamatsu 20050521.jpg|240|J1編成(浜松駅)|J31編成(浜松駅)}} 後に登場した量産車とは違った外見をいくつか持っていた。 * 屋根高さが、量産車が3,650 mmに対し、J0は3,600 mm * 前面窓ガラスの形状の違い * 先頭車両側面の台車近くにあるプレスライン(膨らみ) * 前面ライトのガラスの形が角ばっている(量産車は丸みを帯びている) * 前面スカートの分割ラインの違い * 側面窓の高さ * 運転台窓ガラス上部の取っ手(J1は横置きタイプだが、量産車は縦置きタイプ) それらに加え、登場時の外観は以下のようなものだった。 * 連結器カバーに前面ライトと一体化するデザインの銀色の飾り帯がある(量産車は飾り帯のようなグレー塗装)。また、一時期連結器カバーには針状のアンテナのようなものが設置されていた * 帯の色がこれまでの[[青20号]]ではなく水色(量産車は従来どおり青20号) * シンボルマークが側面に描かれている J0登場当初は東海道新幹線がBT饋電方式を採用していたため、パンタグラフは各ユニットに1台ずつの計5台(3・6・9・12・15号車)に搭載されていたが、[[1991年]]にAT饋電方式への切り替えが完了した後は3・15号車のパンタグラフを撤去、残った3台のうち9号車のものは予備として実使用パンタグラフを2台にまで削減した。その後、9号車のパンタグラフを撤去して2台のみとし、最終的に700系タイプのシングルパンタグラフとパンタカバーに変更された。 ==== 量産化改造後 ==== 量産車登場後の1993年[[3月10日]]に量産化改造が行われてJ1編成となり営業運転に使用された。外観は量産車に合わされ、帯の色の変更、シンボルマークの消去が行われた。また、15号車の車号が329-9002から329-9501に改番されている。後に、飾り帯にあたる部分が量産車と同じくグレーの塗装となった連結器カバーに交換された。 [[トランスポンダ]]の関係で、「のぞみ」での営業運転では東海道区間に限定されたが、「ひかり」では岡山・広島発着列車に時折使用された。[[2001年]]以降は、再び試験車として使用されることとなり、営業運転からは[[2000年]]に離脱した。 N700系に搭載される新型パンタグラフや車体傾斜システム、全周幌のほか、東海道新幹線区間で新たに採用されたデジタルATCの試験にも充当された。 === 1次車 === 1990年に落成した先行試作車であるJ0編成による長期試験走行の結果、「のぞみ」に充当するため、1992年1月から3月にかけて4編成64両(J2 - J5編成)が落成した。 === 2次車 === [[File:JRW 300 Series Shinkansen (F1).jpg|220px|thumb|F1編成]] [[1993年]][[3月18日]]ダイヤ改正から行われた「のぞみ」1本/時運転に対応するため、1992年9月から1993年3月にかけて10編成160両(J6 - J15編成)が落成した。また、JR西日本所属のF1 - F5編成も製造された。 東京 - 博多間の長距離運転に対応して水タンク容量が拡大されたほか、車内騒音軽減のために、加速時におけるモータ電流値の変更や防音板の挿入が行われた<ref>{{Cite book|和書|editor=須田寛 |title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|pages=p.106|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>。{{-}} === 3 - 4次車 === [[File:JRW Shinkansen Series 300 F6.jpg|220px|thumb|F6編成]] 0系置き換え用として、1993年3月から1995年6月にかけて14編成224両(J16 - J29編成)が落成した。また、JR西日本所属のF6 - F9編成も製造された。 客用扉がプラグドアから引き戸に変更された。{{-}} === 5 - 9次車 === 老朽車両取り替え用として、1995年8月から1998年3月にかけて28編成448両(J30 - J57編成)が落成した。その間、J51編成とJ52編成の間に700系先行試作車(C1編成)を導入し、ほぼ同時期にJR西日本では500系を9編成導入している。 グリーン席のフットレストが、座席台座に固定される形から座席に固定される形に変更された。 === 10次車 === 老朽車両取り替え用として、1998年6月から10月にかけて4編成64両(J58 - J61編成)が製造された。J61編成をもって新造投入を終え、700系量産車の製作が始まった。 パンタグラフがシングルアーム形、各車両の特高圧引き通し線接続部分が4両おきのケーブルヘッド式に改められている。既存の編成にも追工事の形で行われた。 == 車両欠陥 == === 初期トラブル === 営業運転前の試運転が不十分だったため、営業運転開始後は故障が続発し、頻繁に運転打ち切りが発生するなど、のぞみ301号の[[名古屋飛ばし]]とともにマスコミから連日クローズアップされることになった。走行不能に陥って運転が打ち切りになるなど深刻な事態に発展するケースもしばしば発生し<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/special/shinkansen/p-feature15.html 新幹線半世紀の旅 100+300 珍しい2ショットだけど・・] - [[読売新聞]]、2022年3月23日閲覧</ref>、連日報道機関から強く非難された。 営業開始から[[4月25日]]までの1ヵ月半の間に183件(J2編成:48件〈そのうち主変換装置6件〉、J3編成68件〈そのうち主変換装置29件、ATC3件〉、J4編成55件〈そのうち主変換装置9件、ATC1件〉、J5編成12件〈そのうち主変換装置6件、ATC3件〉)ものトラブルが発生した<ref>{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|pages=p.99|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。 [[1992年]][[5月6日]]には名古屋駅 - [[三河安城駅]]間を190 km/hで走行中の「ひかり238号」(新大阪発東京行き・J4編成)で主電動機を固定するボルトが折損し、4時間立ち往生するトラブルが発生した<ref>{{Cite book|和書|editor=桜井淳|title=新幹線「安全神話」が壊れる日|year=1993|publisher=講談社|pages=pp.70 - 71|id=ISBN 4-06-206313-1}}</ref>。これは最悪の場合高速走行中にモーターが線路に脱落し、大惨事に繋がる恐れのある[[重大インシデント]]であった。 さらに、1993年[[4月4日]]に[[岐阜羽島駅]]を通過中の「のぞみ号」の風圧で飛散したバラストが上りホームの乗客の右膝に当たり<ref>“新幹線「のぞみ」が砕石飛ばしホームの乗客ケガ” [[読売新聞]] ([[読売新聞東京本社]]): p30. (1993年4月5日 朝刊)</ref>、[[4月30日]]には上下線の「のぞみ号」がすれ違い通過中に飛散したバラストが上りホームの乗客の額に当たる事故も発生した<ref>“東海道新幹線「のぞみ」また小石とばし 豊橋駅でホームの人に当たる” 読売新聞 ([[読売新聞中部支社|読売新聞中部本社]]): p23. (1993年5月1日 朝刊)</ref>。このため、通過駅でバラストの飛散対策防止剤を散布するなどの対策に追われた<ref>“東海道新幹線 道床安定化工事急ピッチ あす未明には終了” [[交通新聞]] (交通新聞社): p2. (1993年5月20日)</ref>。 また、この他にもネジの長さが足らず[[マスコン]][[取っ手|ハンドル]]が外れたり(川崎重工の施工ミス)、パンタグラフの取り付けボルトの落下、台車の異常を知らせるランプの誤作動など準備不足が原因のトラブルが多数発生した。 === 構造 === 軽量化を目的に[[MT比]]をそれまでの100系の12M4Tから10M6Tに変更し、電動車を削減したが、付随車に採用した[[渦電流ブレーキ]]の重量が嵩んだために逆に付随車の方が重くなってしまった。しかし基本仕様を変更するには設計を一からやり直す必要があったため、MT比が変更されることはなかった。 軽量化と低床化のために空調機が床下に納められたことで、天井にある吹き出し口までダクトを延長する必要が生じた。このため長いダクト内で冷気が温められてしまい、冷房能力が不足する欠陥が見られた。 300系のスタイルの決め手となっているレール面から近すぎるノーズポイントも、性能上で不都合を生じさせた。ノーズポイントがレール面から近すぎると、ノーズポイントの上面と下面で大きな圧力差が発生し、空気の流れが剥離することにより後尾車両で"尻振り"と呼ばれる現象が生じ、乗り心地を大きく悪化させる<ref>{{Cite journal|和書|author=有田義正|year=20104|title=九州新幹線800系の先頭形状の開発について|journal=JREA|volume=47|issue=12|pages=30526-30528|publisher=[[日本鉄道技術協会]]|ref=harv|naid=10014123615}} </ref>。尻振りはトンネル内で特に顕著に発生したが、300系の開発時にはこの現象が解明されていなかった。このため300系はレール面直上のノーズポイントから屋根まで一筆書きで続く、他の新幹線車両では見られない独特なワンモーションデザインになった。以後の新幹線車両からは尻振り性能を改善するためにノーズポイントが高く設定されるようになり、300系のような形状は見られなくなった。 また、2両に跨がった大きすぎるパンタカバーが仇となってトンネル内での蛇行動も発生し、パンタグラフ周辺の改修などといった対策はとられたが、一方で改修できない車体左側面とトンネル左下壁面との乱流の近接効果による左右動の問題は残されている<ref>[https://web.archive.org/web/20041110184533/http://www.hino.meisei-u.ac.jp/me/miyamoto/about_mm/linkT.htm 新幹線の車両運動・制御研究の歴史と課題] 2003/8 明星大学、理工学部、機械工学科 宮本昌幸([[インターネットアーカイブ]])</ref>。 === 内装 === 高速化を最優先させるための徹底的な軽量化が仇となり、220 km/hで走行していた100系と比べると高速運転に伴う前後衝動や振動、車内の騒音が増加。導入当初は「座席前のテーブルに置いたコーヒーがこぼれた」「サンドイッチが手も触れていないのに丸ごと床に転落した」等の苦情やクレームが相次いだ。座席のシートも金属ばねによる支持方式から薄い[[ウレタン]]のみに取って代わられた上、座席の背もたれはかなり低めだったため座り心地は悪化、付随車においては加減速時に補助電源装置からの発生音が大きくなるなどの問題も発生した<ref group="注">実際、営業中の本系列を使用して撮影されたドラマ「[[新幹線物語'93夏]]」や「[[新幹線'97恋物語]]」では、列車の振動で登場人物がよろける描写が多く存在する。</ref>。 デッキのくず物入れが大人の膝下サイズにまで小型化されたため、投入口からは弁当殻などがあふれ出す状態になってしまった。 空調装置の床下への移設でダクトを壁内に納めたことにより、体感温度が外部の気温変化や直射日光の照射の影響を受けにくかった。これは外壁の薄いシングルスキンに接したダクト内を空気が通ってから室内に吹き出すため、夏は日光に暖められ冷房の効きが悪く、冬は外気温で冷やされて暖房の効きが悪くなるというように、エアコンの負荷効率は悪くなった一方で、壁面温度が先に制御されるので室内にいる人にとっては放射加熱や放射冷却の影響を受けにくくなっているからである。 本系列は新技術を数多く採用・実用化し、新幹線高速化の第一歩となった。そのため技術的には高く評価される車両だが、利用客にとっての居住性という観点からの評価は低いことが多い。これらに対しての[[反省]]や[[教訓]]から、JR東海では後継車両の700系開発には高速運転性能のみならず居住性を含めた快適性重視の姿勢をとった他、不具合の洗い出しのため営業投入前に40万kmの長期耐久試験の実施が常となった。振動低減や居住快適性アップなど利用者にはその成果を支持されている。これは新幹線に限らず、その後の[[JR]]各社の[[在来線]]新型[[特急形車両|特急車両]]の開発の際にも重視されるようになった。 === 乗り心地改良工事 === [[2004年]](平成16年)[[9月29日]]にJR東海は、J編成のうち後期に製造された編成を中心とする43編成(J17・J18・J20 - J26・J28編成以降)を対象に、乗り心地向上のため[[新幹線N700系電車|N700系]]の量産先行試作車で採用した改良型[[セミアクティブサスペンション]]を1・6・8 - 10・12・16号車の7両(両先頭車、グリーン車とパンタグラフ搭載車)に、改良型左右動ダンパを残りの9両にそれぞれ搭載し、700系で採用された非線形[[空気ばね]]とヨーダンパを全車両に搭載することを発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20041209105440/http://www.jr-central.co.jp/news.nsf/news/2004929-14932 300系新幹線車両の「乗り心地の向上」について](JR東海ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref>。検査入場に合わせて順次施工し、[[2006年]](平成18年)10月までに完了した<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '07夏号|year=2007|publisher=ジェー・アール・アール|pages=P.108|id=ISBN 9784882830474}}</ref>。 車体間ダンパーは構造上の理由などから設置されなかった。なお、前期に製造されたJ2 - J16、J19、J27編成は、N700系への早期置き換え対象のため施工対象から外された。 == 編成表 == <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">編成一覧表(J編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:90%" |-style="background:#efefef" !編成名!!落成日!!製造会社!!編成名削除!!備考 |- !J0<br />→J1 |1990年3月8日 |<ref group="注" name="J0編成">J1編成(旧J0編成)は1 - 4号車を川崎重工業、5 - 10号車を日本車輌製造、11 - 16号車を日立製作所が製造した。</ref> |2007年3月30日 |量産先行車(1993年3月10日に量産化改造) |- !J2 |1992年2月5日 |日立製作所 |2007年8月26日 |プラグドア |- !J3 |1992年3月3日 |日本車輌製造 |2008年1月11日 |プラグドア |- !J4 |1992年3月5日 |川崎重工業 |2007年12月6日 |プラグドア |- !J5 |1992年3月30日 |日立製作所 |2008年8月8日 |プラグドア |- !J6 |1992年9月11日 |日立製作所 |2008年2月3日 |プラグドア |- !J7 |1992年9月29日 |日本車輌製造 |2008年5月30日 |プラグドア |- !J8 |1992年10月15日 |川崎重工業 |2008年3月5日 |プラグドア |- !J9 |1992年11月14日 |日本車輌製造 |2008年7月18日 |プラグドア |- !J10 |1992年12月3日 |日立製作所 |2008年10月2日 |プラグドア |- !J11 |1993年1月14日 |川崎重工業 |2007年10月12日 |プラグドア |- !J12 |1993年1月20日 |日本車輌製造 |2008年9月6日 |プラグドア |- !J13 |1993年2月5日 |近畿車輛 |2008年11月6日 |プラグドア |- !J14 |1993年3月4日 |日立製作所 |2007年7月13日 |プラグドア |- !J15 |1993年3月6日 |日本車輌製造 |2008年5月9日 |プラグドア |- !J16 |1993年4月2日 |川崎重工業 |2008年12月6日 | |- !J17 |1993年4月3日 |日本車輌製造 |2009年2月22日 | |- !J18 |1993年4月7日 |日立製作所 |2009年1月31日 | |- !J19 |1993年11月11日 |近畿車輛 |2007年9月14日 | |- !J20 |1993年11月25日 |日立製作所 |2010年7月23日 | |- !J21 |1993年12月4日 |日本車輌製造 |2010年1月27日 |1号車はかつて保存 |- !J22 |1994年6月17日 |川崎重工業 |2011年4月1日 | |- !J23 |1994年7月1日 |日立製作所 |2009年12月20日 | |- !J24 |1994年11月16日 |日本車輌製造 |2009年6月5日 | |- !J25 |1995年2月16日 |日立製作所 |2009年5月11日 | |- !J26 |1995年3月8日 |日本車輌製造 |2009年6月28日 | |- !J27 |1995年3月23日 |日立製作所 |2008年6月29日 | |- !J28 |1995年4月11日 |川崎重工業 |2009年9月17日 | |- !J29 |1995年6月27日 |日本車輌製造 |2009年11月19日 | |- !J30 |1995年8月25日 |川崎重工業 |2011年4月25日 | |- !J31 |1995年9月8日 |日本車輌製造 |2010年3月31日 | |- !J32 |1995年10月21日 |日立製作所 |2010年9月29日 | |- !J33 |1995年11月19日 |日本車輌製造 |2010年5月27日 | |- !J34 |1996年1月25日 |日立製作所 |2010年12月15日 | |- !J35 |1996年2月16日 |日本車輌製造 |2011年3月9日 | |- !J36 |1996年3月7日 |日立製作所 |2010年6月18日 | |- !J37 |1996年6月8日 |川崎重工業 |2010年8月19日 | |- !J38 |1996年7月11日 |日立製作所 |2009年7月23日 | |- !J39 |1996年8月21日 |日本車輌製造 |2009年8月20日 | |- !J40 |1996年11月21日 |日立製作所 |2009年12月5日 | |- !J41 |1996年12月10日 |日本車輌製造 |2009年10月3日 | |- !J42 |1997年1月16日 |川崎重工業 |2009年11月6日 | |- !J43 |1997年2月27日 |川崎重工業 |2009年10月19日 | |- !J44 |1997年3月28日 |日立製作所 |2011年5月14日 | |- !J45 |1997年3月6日 |日本車輌製造 |2010年1月10日 | |- !J46 |1997年5月7日 |川崎重工業 |2010年2月11日 |1号車は保存 |- !J47 |1997年5月22日 |日本車輌製造 |2010年11月3日 | |- !J48 |1997年6月25日 |日立製作所 |2010年9月11日 | |- !J49 |1997年7月8日 |日本車輌製造 |2010年4月17日 | |- !J50 |1997年7月23日 |川崎重工業 |2011年1月10日 | |- !J51 |1997年8月20日 |日本車輌製造 |2010年11月27日 | |- !J52 |1997年10月30日 |日立製作所 |2011年1月29日 | |- !J53 |1997年11月20日 |日本車輌製造 |2011年6月18日 | |- !J54 |1997年12月17日 |近畿車輛 |2012年1月13日 | |- !J55 |1998年1月14日 |日本車輌製造 |2012年3月23日 |ラストラン装飾編成 |- !J56 |1998年2月18日 |日立製作所 |2012年2月11日 | |- !J57 |1998年3月25日 |川崎重工業 |2012年3月23日 |ラストラン装飾編成 |- !J58 |1998年6月3日 |日本車輌製造 |2010年10月16日 | |- !J59 |1998年7月2日 |日立製作所 |2011年2月16日 | |- !J60 |1998年9月17日 |川崎重工業 |2011年10月14日 | |- !J61 |1998年10月20日 |日立製作所 |2011年12月18日 | |- |} 川崎重工業製の一部の編成は、[[阪神・淡路大震災]]で[[鳥飼車両基地]]への陸路が寸断されたため、[[兵庫運河]]から[[堺泉北港]]まで海上輸送し、堺泉北港から鳥飼車両基地まで陸送して搬入された。 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 0px;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">編成一覧表(F編成)</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:90%" |-style="background:#efefef" !編成名!!落成日!!製造会社!!編成名削除!!備考 |- !F1 |1992年12月7日 |川崎重工業 |2011年11月2日 |プラグドア |- !F2 |1992年12月21日 |日立製作所 |2011年9月17日 |プラグドア |- !F3 |1993年1月13日 |日本車輌製造 |2011年11月30日 |プラグドア |- !F4 |1993年2月8日 |川崎重工業 |2011年11月19日 |プラグドア |- !F5 |1993年2月22日 |日立製作所 |2011年7月14日 |プラグドア |- !F6 |1993年5月22日 |川崎重工業 |2011年8月19日 | |- !F7 |1993年6月27日 |日立製作所 |2012年8月8日 |さよなら運転のぞみ609号に使用 |- !F8 |1993年7月27日 |川崎重工業 |2012年5月30日 | |- !F9 |1993年9月27日 |日立製作所 |2012年10月20日 | |} </div></div> == 運用の変遷 == [[File:300nozomi.JPG|200px|thumb|臨時「のぞみ」に充当されることが多かった300系<br />(2007年9月13日 東京)]] [[File:JRC Shinkansen Series 300 J55.jpg|200px|thumb|三原駅 - 東京駅間の「ひかり」に充当されていた300系J55編成<br />(2008年10月8日 岡山 - 相生間)]] [[File:Shinkansen Series 300 Rollsign.JPG|200px|thumb|300系こだま方向幕]] === 導入当初=== 1992年3月14日の導入時には、「のぞみ」2往復(早朝・深夜の各1往復・当時運転されているすべての「のぞみ」であった)と、日中の東京 - 新大阪間「ひかり」1往復(238号・243号)で運用されていた。 なお、導入前の1992年[[3月8日]]に試乗会がおこなわれ、同日に新幹線開発史において重要な存在である初代[[小田急3000形電車 (初代)|小田急3000形電車]]の[[さよなら運転]]があったので、新旧の節目と報じられた<ref>『超高速に挑む』 p. 9</ref>。 === 博多直通後 === 1993年3月18日のJRダイヤ改正で、本系列による東京 - 博多間直通運転が始まった。初めて1編成につき全区間を1往復半運用を組むことが可能になり、0系の置き換えのためにJ61編成までの増備を続けつつ、編成数削減による運用合理化を可能にした。 その後、増備が進むにつれて「ひかり」での運用も増えていった。後継車両の500系や700系の導入により[[2001年]]10月以降は「のぞみ」の定期運用から離脱し、引き替えに東海道新幹線の昼間の「こだま」にも充当されるようになったが、当時の「こだま」全列車と、「ひかり」のうち名古屋・京都の2駅のみ、または[[新横浜駅|新横浜]]を加えた3駅停車の列車は100系との共通ダイヤが組まれており、最高速度を220 km/hに抑えて走っていた。そのため、[[2003年]]10月の[[品川駅]]開業によるダイヤ改正が行われるまでその性能を持て余す状況が長らく続いた。その反面、[[1996年]]から[[1997年]]には静岡県内停車タイプや名古屋 - 新大阪間各駅停車タイプの定期「ひかり」のほとんどが最高速度が270 km/hに引き上げられ、また[[2001年]]には山陽区間に限り270 km/h運転を行う「ひかり」が設定されるなどのダイヤ改正が行われた。これらの列車には300系が限定運用に入ることとなり、その性能が活かされることとなっていった。なおJ1編成はトランスポンダの関係から「のぞみ」での山陽区間への入線ができない時期があった<ref group="注">試験や岡山・広島発着の「ひかり」で入線した実績はある。</ref>。 前述の乗り心地改善工事が始まってからは、工事を受けていない初期のJ編成(J2 - J16・J19・J27編成)が「のぞみ」「ひかり」運用を追われ「こだま」専用になるなど、新旧の編成間で運用が分かれていた。 2011年[[3月12日]]のダイヤ改正でJ編成は山陽新幹線に乗り入れる定期運用が消滅したが、運用調整のためF編成の運用に充当する場合があった。 === 置き換え === [[2007年]]から当系列の置き換え用として製作された[[新幹線N700系電車|N700系]]の投入・増備が始まったことを受け、同年からJR東海所属のJ編成のうち、所定の経年である製造後13年を過ぎたものから運用離脱が始まった。 まず量産先行試作車のJ1編成が同年[[3月28日]]に浜松工場へ[[廃車 (鉄道)|廃車]]回送され、[[3月31日]]付けで車籍抹消、同年7月21・22日の「[[新幹線なるほど発見デー]]」で展示され、16号車 (322-9001) 以外は4月末までに解体された。同編成は[[2003年]]以降営業運転から外れ、N700系をはじめとする新技術の開発に資するため試験車として代用されていたが、同系列の量産車登場によってその役割を終えた。 続いて同年[[7月11日]]付でJ14編成が廃車となり、量産車初の廃車となった。2007年度はこの後前半にJ2・J19のあわせて3編成が廃車になった<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '08冬号|year=2007|publisher=ジェー・アール・アール|pages=p.108|id=ISBN 9784882830481}}</ref>のをはじめ、同年度後半にはさらにJ3, J4, J6, J8, J11の5編成が廃車となった<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '08夏号|year=2008|publisher=ジェー・アール・アール|pages=はしがき|id=ISBN 9784882830498}}</ref>。 J編成の廃車はN700系Z編成(後に改造され、現在はX編成)増備の進行と共に順次進められており、2008年度末までには前述の工事を受けていない20編成が廃車となり<ref>{{Cite book|和書|title=鉄道ジャーナル 2009年6月号|year=2009|publisher=鉄道ジャーナル社|pages=p.27}}</ref>、[[2009年]]4月時点のJ編成の在籍本数は41編成(J20 - J26・J28 - J61編成)となっていた<ref>{{Cite book|和書|title=鉄道ファン 2009年7月号|year=2009|publisher=交友社|pages=p.32|id=}}</ref>。J編成の全般検査は[[2010年]][[6月9日]]に出場したJ61編成をもって終了した<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-11|url=http://railf.jp/news/2010/06/11/143300.html|title=JR東海300系新幹線電車の全般検査が終了|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2010-06-11}}</ref>。 JR西日本所属のF編成に関しては[[2010年]]まで廃車されなかったが、[[博多総合車両所広島支所]]に疎開されていたF5編成が[[2011年]]7月11日に博多総合車両所広島支所 - 新幹線鳥飼基地間で、翌12日に新幹線鳥飼基地 - 浜松工場間で回送され<ref>{{Cite web|和書|date=2011-07-12|url=http://railf.jp/news/2011/07/13/085900.html|title=JR西日本300系F5編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2010-07-13}}</ref>、14日付で廃車されたのをはじめ、その後8月にF6編成<ref>{{Cite web|和書|date=2011-08-18|url=http://railf.jp/news/2011/08/18/133000.html|title=JR西日本300系F6編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2011-10-05}}</ref>が、9月にF2編成<ref name="sep2011">{{Cite web|和書|date=2011-09-16|url=http://railf.jp/news/2011/09/16/135700.html|title=JR西日本300系F2編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2011-10-05}}</ref>が、10月にF1編成<ref name="nov2011">{{Cite web|和書|date=2011-10-30|url=http://railf.jp/news/2011/11/01/190000.html|title=JR西日本300系F1編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2011-11-01}}</ref>が、11月にF4編成<ref name="November2011">{{Cite web|和書|date=2011-11-15|url=http://railf.jp/news/2011/11/16/142500.html|title=JR西日本300系F4編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2011-11-16}}</ref>とF3編成<ref name="railf20111128">{{Cite web|和書|date=2011-11-28|url=http://railf.jp/news/2011/11/29/180000.html|title=300系F3編成が浜松工場へ|work=『鉄道ファン』railf.jp鉄道ニュース|publisher=交友社|language=日本語|accessdate=2011-11-29}}</ref>が浜松工場に送られた。 {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:left; margin:1em 0em 2em 3em;" |+保有状況の推移(各年4月1日時点) !年!!J編成!!F編成!!備考 |- |1990 |1 | |先行試作車 J0編成を新製 |- |1991 |1 | | |- |1992 |5 | |J1-J5を新製 |- |1993 |15 |5 |J6-J15・F1-F5を新製 J0編成は量産化改造によりJ1編成に改番 |- |1994 |21 |9 |J16-J21・F6-F9を新製 |- |1995 |27 |9 |J22-J27を新製 |- |1996 |36 |9 |J28-J36を新製 |- |1997 |45 |9 |J37-J45を新製 |- |1998 |57 |9 |J46-J57を新製 |- |1999 |61 |9 |J58-J61を新製 300系 増備終了 |- |2000 |61 |9 | |- |2001 |61 |9 | |- |2002 |61 |9 |定期のぞみ運用から撤退 |- |2003 |61 |9 | |- |2004 |61 |9 |品川駅開業 東海道新幹線の全列車が270 km/h化 |- |2005 |61 |9 |N700系 試作車完成 |- | 2006 || 61 || 9 || |- | 2007 || 60 || 9 ||J1編成が廃車 |- | 2008 || 52 || 9 || N700系 量産車登場により廃車開始 J2 - J4・J6・J8・J11・J14・J19が廃車 |- | 2009 || 43 || 9 || J5・J7・J9・J10・J12・J13・J15- J18・J27が廃車 JR東海乗り心地改良工事未施行編成全廃<br />JR東海プラグドア仕様編成全廃 |- | 2010 || 25 || 9 ||J21・J24 - J26・J28・J29・J31・J38 - J43・J45・J46が廃車 |- | 2011 || 9 || 9 || J22・J32-J37・J47-J52・J58・J59が廃車 |- |2012 | |3 |300系 営業運転終了 代替としてJR東海から700系9編成を譲渡  J30・J44・J53 - J57・J60・J61・F1 - F6が廃車 J編成消滅 |- |2013 | | |F7 - F9が廃車 形式消滅 |} * === 営業運転終了とさよなら運転 === [[File:Tōkaidō Shinkansen series 300 last run 20120224.jpg|thumb|220px|営業運転終了を記念してJ55・J57編成に施工された車体装飾<ref>鉄道ファン2012年7月号「JR車両ファイル2012」p.10</ref>]] [[File:Tōkaidō Shinkansen series 300 last run Nose.jpg|thumb|220px|ありがとう300系装飾(ヘッドマーク)]] [[File:Tōkaidō Shinkansen series 300 last run emblem.jpg|thumb|220px|ありがとう300系装飾(サイドステッカー、先頭車)]] [[2011年]]11月時点では、JR東海5編成<ref name="November2011" />・JR西日本3編成<ref name="railf20111128" />の計8編成まで数を減らした。 [[2012年]][[3月17日]]の[[ダイヤ改正]]において、300系はJR東海所属編成のほかJR西日本所属の9編成についても同社に残留していた100系とともに<ref name="intai100">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_honsya.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース</ref>運用終了となった<ref name="intai">{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000013152.pdf 東海道・山陽新幹線から来春300系が引退します]}} - 東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道 2011年10月20日</ref>。JR西日本保有のF編成9編成の代替として、JR東海からJR西日本に同数の700系(C編成)9編成を譲渡した<ref name="intai" />。 東海道新幹線における[[2012年]][[1月10日]]以降の定期運用は次の通り<ref>[https://web.archive.org/web/20120119074544/http://300.jr-central.co.jp/schedule/ 運転計画|ありがとう300系] - JR東海「ありがとう300系」スペシャルサイト(インターネットアーカイブ)</ref>。 *「こだま」697号(三島6:50→新大阪9:53、F編成、3月12日まで) *「ひかり」501号(東京6:26→新大阪9:30、J編成、2月1日まで) *「こだま」659号(東京13:26→名古屋16:16、J編成、2月1日まで) *「ひかり」477号(東京15:03→岡山19:17、F編成、3月12日まで) *「こだま」807号(東京20:56→三島21:51、F編成、3月11日まで) *「ひかり」512号(新大阪10:13→東京13:10、J編成、2月1日まで) *「こだま」650号(新大阪10:50→東京14:47、F編成、3月12日まで) *「ひかり」482号(岡山16:26→東京20:40、F編成、3月11日まで) *「こだま」680号(名古屋19:28→東京22:17、J編成、2月1日まで) また、山陽新幹線における2012年1月以降の定期運用は次の通り<ref name="jrwest20120118">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2012/01/page_1306.html 100系・300系新幹線営業運転終了に伴うイベントの開催について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2012年1月18日</ref>。 *「こだま」727号(岡山6:50→博多9:53、F編成、3月13日まで) *「こだま」734号(博多7:10→岡山10:53、F編成、3月11日まで) これにより、東海道新幹線での定期運用はJ編成は同年[[2月1日]]の「こだま」680号がJ57編成を使用して、F編成は同年3月12日の「ひかり」477号が、山陽新幹線での定期運用は同年[[3月13日]]の「こだま」727号がいずれもF8編成を使用してそれぞれ最終となった。 [[File:Nozomi 03.jpg|thumb|220px|記念品が配られるのぞみ329号車内(J57編成)]] [[さよなら運転]]は[[2012年]]3月16日に以下の臨時列車により運行された(いずれも全車指定席)<ref>[https://web.archive.org/web/20120119103000/http://300.jr-central.co.jp/last/ LAST RUN|ありがとう300系] - 東海旅客鉄道「ありがとう300系」スペシャルサイト(インターネットアーカイブ)</ref><ref name="jrwest20120118"/>。このうち、山陽新幹線で運転された「のぞみ609号」については、同日に営業運転を終了する100系のさよなら列車「ひかり445号」と[[岡山駅]]の同一ホームでさよなら列車同士が並ぶ演出が行われた。 * 東海道新幹線:「のぞみ」329号、J57編成、(東京10:47→新大阪13:23) * 山陽新幹線:「のぞみ」609号、F7編成、(新大阪10:52→博多13:28) J編成はさよなら運転に使用されたJ57編成が[[2012年]][[3月23日]]付で廃車<ref>『JR電車編成表』2012夏 ISBN 9784330286129 p.357。</ref>をもって、全車廃車された。F編成は2012年度初めの時点でF7編成、F8編成、F9編成が残存していた<ref>『JR電車編成表』2012夏 p.133。</ref>が、2012年[[10月20日]]付でF9編成が廃車され形式消滅した。 == 保存車両 == [[File:J1 322-9001 Hamamatsu Works Open Day 20100725.jpg|200px|thumb|量産先行試作車 322-9001(J1編成)]] * 322-9001(J1編成16号車) : [[愛知県]][[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]] [[リニア・鉄道館]] *: かつては[[東海旅客鉄道浜松工場|JR東海浜松工場]]に保存されていたが、リニア・鉄道館建設に伴い移設された<ref name="JRC 博物館">[http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/08/10_1.html JR東海博物館(仮称)に0系新幹線搬入。] - 編集長敬白 鉄道ホビダス2010年8月10日</ref>。 *: かつては323-20(J21編成1号車)もリニア・鉄道館で保存展示されていたが、700系(723-9001、C1編成1号車)の搬入に伴い、入れ替わる形で[[2013年]][[12月27日]]をもって展示を終了し<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/nws001330.html 【社長会見】リニア・鉄道館 700系新幹線電車の展示について] - JR東海ニュースリリース</ref>、その後浜松工場に送られて解体された<ref>「鉄道ファン」2014年5月号</ref>。 *: 同じくリニア・鉄道館内には本系列のグリーン車座席や台車、パンタグラフなどが展示されている。 * 323-45(J46編成1号車) : [[関西新幹線サービック]]([[大阪府]]) *: 2010年6月に浜松工場から搬出され、車体を2分割した上で輸送された。通常は清掃作業の訓練用に使われるため非公開だが、福利厚生として公開される事が稀にある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Shinkansen 300}} * [[スーパーひかりモデル]] * [[のぞみ (列車)|のぞみ]] * [[シンデレラ・エクスプレス (CM)|シンデレラ・エクスプレス]] - 唯一300系が登場した「エクスプレス」シリーズのCM。 * [[超特急ヒカリアン]] * [[先鋒号|中国国鉄DJF2型電車]] - 技術移転により300系と同じM1+T+M2ユニットが採用され、[[三菱電機]]製の[[インテリジェントパワーモジュール]]を搭載している == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20120229202749/https://www.jr-odekake.net/shinkansen/knowledge/100kei/index.html ありがとう、100系・300系] - 西日本旅客鉄道 JRおでかけネット([[インターネットアーカイブ]]) * [http://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/pages/jrc300.htm JR東海300系新幹線] - [[日本車輌製造]] * [https://web.archive.org/web/20110317144437/http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/pro_jrt300.html JR東海300系電車] - [[川崎重工業]][[川崎重工業車両カンパニー|車両カンパニー]](インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20120415133728/http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/jrw300.html JR西日本300系電車] - 川崎重工業車両カンパニー(インターネットアーカイブ) * [https://web.archive.org/web/20190525210540/https://www.kinkisharyo.co.jp/ja/products/sh/300.htm JR東海殿 300系] - [[近畿車輛]](インターネットアーカイブ) {{JR東海の車両リスト}} {{JR西日本の車両リスト}} {{日本の新幹線}} {{ローレル賞選定車両一覧}} {{DEFAULTSORT:しんかんせん300けいてんしや}} [[Category:東海旅客鉄道の新幹線電車|300]] [[Category:西日本旅客鉄道の新幹線電車|300]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]] [[Category:1990年製の鉄道車両|しんかんせん300]] [[Category:日本車輌製造製の新幹線車両|300]] [[Category:日立製作所製の新幹線車両|300]] [[Category:川崎重工業製の新幹線車両|300]] [[Category:近畿車輛製の新幹線車両|300]]
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常磐自動車道
常磐自動車道(じょうばんじどうしゃどう、英語: JOBAN EXPWY)は、埼玉県三郷市の三郷ジャンクション (JCT) から、千葉県、茨城県、福島県を経由し宮城県亘理町の亘理インターチェンジ (IC) に至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は常磐道(じょうばんどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、仙台東部道路、仙台北部道路と三陸自動車道の仙台港北IC - 利府JCT間とともに「E6」が割り振られている。 埼玉県三郷市を起点とし、千葉県、茨城県、福島県を経由し、宮城県亘理町へ至る、延長300.4キロメートル (km) の路線である。東北自動車道、関越自動車道・日本海東北自動車道と並んで首都圏と東北地方を結ぶ東日本の大動脈の1つである。終点の亘理ICでは仙台東部道路に直結しており、首都圏と三陸地方を結ぶ最短経路の重要ルートである。 全体的には、関東平野から太平洋側に沿って南北に貫くルートである。茨城県土浦市から宮城県にかけては大部分の区間で国道6号および常磐線とほぼ並走するルートを辿るが、土浦市以南は西に大きく離れ、国道6号・常磐線の経由しない埼玉県を通過する(2005年開業のつくばエクスプレスは概ね常磐道に沿うルートで建設されている)。 広域的に見れば、首都圏 - 仙台間で東北道のバイパス路線として機能することが期待されており、途中で仙台南部道路・東北中央自動車道・磐越自動車道・北関東自動車道・首都圏中央連絡自動車道など数本の道路を介して連絡する。これにより東北道の利用交通量を常磐道に分散させ、高速道路が本来持つ定時性と安定的な輸送体制の確保に寄与している。 また、東北道は那須高原や国見峠といった積雪地帯を通過する一方、太平洋側を結ぶ常磐道は全線にわたり降雪が少なく、雪の影響を受けにくい。さらに、関東方面と東北方面を奥羽山脈に沿って縦断する東北道と比べ、常磐道は関東平野から福島県の浜通りなど、太平洋沿いの平地が続く区間を走ることもあって、山間の急勾配やカーブの区間が少ないのも特徴である。これらの関係性は、鉄道でいう東北本線と常磐線と同じである。加えて、東京日本橋 - 仙台市役所間では、東北自動車道経由より約20 km短く、首都圏と仙台市を結ぶ高速自動車道としては最短経路である。同様に富谷JCTより北の盛岡方面であっても、常磐道ルートの方が短くなる。 このように常磐道は、東京 - 仙台間において東北道ともに、一方に何らかの交通障害が発生した場合でも、もう片方が広域的な迂回路として機能するというリダンダンシー(代替手段)の役割を担うと期待されている。しかしながら、東北道が仙台まで4車線以上である一方、常磐道は福島県広野町以北は暫定2車線区間となっている。 常磐自動車道の当初の終点は、いわき市とされていたが、1987年(昭和62年)の国土開発幹線自動車道建設法改正により、仙台市まで延伸された。いわき中央IC - 亘理ICを高速自動車国道で整備、亘理IC - 富谷JCTについては仙台東部道路・仙台北部道路を常磐道に並行する一般国道自動車専用道路として供用することとなった。 常磐道の全線開通は2015年(平成27年)3月1日で、経緯は#東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響を参照。これに先立つ2010年(平成22年)3月には、仙台北部道路が富谷JCT経由で東北自動車道と直結したことで仙台都市圏自動車専用道路ネットワークが完成しており、当路線全線開通後は仙台以北からいわき・水戸方面へのアクセスが飛躍的に改善した。 国土開発幹線自動車道の常磐自動車道は、以下のとおりとされている。 高速自動車国道の路線を指定する政令では高速自動車国道の常磐自動車道は、以下のとおりとされている。 東京都練馬区 - 埼玉県川口市の区間について東北縦貫自動車道と、東京都練馬区 - 埼玉県三郷市の区間について東関東自動車道と重複している。 本稿では、東日本高速道路(NEXCO東日本)が管理している高速自動車国道の道路名および事業名としての常磐自動車道について述べる。 常磐道は、起点側の三郷ICより先に柏IC以北について工事が進められた。これは、柏市や流山市で住宅密集地を通過するため、住民の道路建設に対する反対運動が激しかったためである。1981年(昭和56年)4月に柏IC - 谷田部ICの初開通を皮切りに、順次開通区間が延伸された。1984年(昭和59年)までに柏IC - 那珂ICがすでに開通していたが、国際科学技術博覧会(科学万博-つくば '85)の開催を控え、柏IC - 千代田石岡ICを6車線化。 三郷IC - 柏ICについては、千葉県庁の後押しもあり、日本道路公団がこの区間を半地下化し環境対策をすることで住民を説得し、1985年(昭和60年)1月24日の開通にこぎつけた。この日、首都高速6号線の小菅IC - 三郷ICを延伸同時開通したことにより常磐道と首都高速が初めて直結され、供用開始前日の23日に、開通を祝って三郷料金所と首都高速八潮料金所で開通式が盛大に執り行われた。 科学万博開催の1985年(昭和60年)は、突貫工事で那珂IC - 日立南太田IC、難所とされた日立南太田IC - 日立北ICと立て続けに開通し、特に日立南太田IC - 日立北ICは、上下合わせて連続する26本のトンネルと34本の橋梁によって結ばれた。そして1988年(昭和63年)3月24日に、当初予定されたいわき中央ICまで全線開通した。 その後、流入交通量は年々増え続け、1987年(昭和62年)は3000万台だったが1990年(平成2年)には1.5倍以上にあたる4850万台まで伸びた。供用開始後に流山市と日立市でのインターチェンジ設置要望の高まりを受けて、地元自治体の負担でICを設置できる開発インターチェンジ制度が始まり、流山ICと日立中央ICがそれぞれ追加された。 第四次全国総合開発計画が1987年(昭和62年)6月30日に閣議決定され、多極分散型国土形成のための交通ネットワークとして、高規格幹線道路網14,000 kmの整備が位置づけられると、1991年(平成3年)12月に開かれた国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)で、未開通のいわき - 富岡間が整備計画路線に、相馬 - 亘理間が基本計画路線に指定され、全線開通に向けて再び動き出した。 三郷IC - 谷田部ICの区間は大都市近郊区間に含まれるため、他の区間に比べて通行料金が割高になっている。 高速道路の中でも全体的に線形がよく、勾配も少ない。三郷JCT - 日立南太田ICの設計速度は120 km/hである。 広野ICから山元ICにかけての80 km以上におよぶ暫定2車線区間では、他の高速道路の暫定供用区間と同様に最高速度が70 km/hに規制されている。2015年(平成27年)の全線開通以降、同区間では通行量が増加し渋滞が多発するようになったことから、2016年(平成28年)3月10日、いわき中央IC - 広野IC、および山元IC - 亘理IC - 岩沼IC(仙台東部道路)の4車線化が認可され、2021年(令和3年)3月6日には山元IC - 亘理IC - 岩沼IC(仙台東部道路)が4車線化され、同年6月13日にはいわき中央IC - 広野ICの全線が4車線化された。 その後、2019年(平成31年)には国土交通省より、全国約1,600 kmの有料高速道路の対面通行区間のうち、およそ半分にあたる約880 kmの4車線化を優先する方針が出され、常磐自動車道の一部がそれに該当した。浪江ICから山元ICの間約56 kmを優先整備区間に選定して、10年から15年で完成を目指す方針が出されたが、広野ICから浪江ICの間約30 kmについては、4車線化を優先する区間に含まれなかった。 だが一転して、国土交通大臣の赤羽一嘉は2021年(令和3年)2月21日に福島県知事の内堀雅雄と福島県庁で会談後、4車線化優先整備区間の対象外だった広野IC - 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南相馬IC(延長32.7 km)、および2012年度(平成24年度)の開設を予定していたならはPAは、施工スケジュールの見直しを余儀なくされ、供用開始は2014年度(平成26年度)までずれこんだ。 同原発から半径20 kmの警戒区域外については震災から約3か月後の2011年5月に建設が再開されたものの、警戒区域内においては、浪江IC - 南相馬IC(延長18.4 km)が1年後、常磐富岡IC - 浪江IC(延長14.3 km)については2年後の工事再開となった。震災前に工事中だった箇所の盛土や構造物は、地震の揺れによる損傷に加えて長期間放置されたことによって雨水による斜面の浸食や鉄筋の錆などの被害が拡大し、急ピッチで復旧作業が進められた。しかし、この頃には常磐道以外でも被災地の復旧工事が本格化したことで慢性的に作業員が不足し、放射能の影響で作業時間の制限や作業員の離脱も相次いで継続的な作業に支障をきたした。またコンクリートなど建設資材も不足し、同じく放射能の懸念から資材搬入が拒否されることもあった。工事再開が最も遅れた羽黒川橋では、打設予定日の悪天候に備えてエアドームや単管パイプでの架設屋根を設置するなどして乗り切った。道路舗装用の砕石は遠く静岡県や三重県から調達し、受け入れ港である相馬港では周辺住民協力のもと稼働時間を延長するなどして対処した。 除染作業は環境省直轄のもと、2012年3月から7月まで先行事業として「常磐自動車道警戒区域内における除染モデル実証事業」が、同年12月3日から2013年(平成25年)6月28日にかけて本格的に「常磐自動車道除染等工事」が実施され、その結果低減率19 - 55%が確認された。この結果について環境省は、2013年度内に開通を目指していた広野IC - 常磐富岡IC(延長16.4 km)については「概ね当初の方針どおり線量を低減」とし、その他の区間についても「一部で線量の高い区間があるものの一定程度低減」としている。 その後、除染の達成状況を確認するため、2014年(平成26年)10月に同省がモニタリングカーによる走行サーベイを実施したところ、浪江IC - 南相馬ICでは2014年10月21日測定時点で平均0.6 - 0.7 μSv/h、広野IC - 常磐富岡ICでは2014年10月29日測定時点で平均1.3 - 1.5 μSv/h、常磐富岡IC - 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浪江ICについて、「4車線化によって災害時の通行止めを防ぎたい」「新年度内の事業化に向けて必要な準備をしっかり進めたい」と述べ、2021年(令和3年)度に4車線化の整備に着手すると表明した。これに対し内堀は「第二期復興・創生期間に避難地域の復興、再生を円滑に進める上で非常に大きな前進だ」と期待を寄せた。結果として、広野町以北の常磐自動車道の全区間が4車線化する見通しとなった。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "相馬IC - 新地IC間は2021年(令和3年)2月13日の福島県沖地震で土砂崩れにより一時寸断されたことを契機に、国交相が早急に4車線化を進める方針を示し、翌3月に先行して同区間の事業許可が行われた。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "売店は田野パーキングエリア (PA)・湯ノ岳PA・ならはPA・鳥の海PA以外の全てのサービスエリア (SA)・パーキングエリアに設置されている。このうち守谷SA・友部SAと、コンビニ化されている千代田PA・日立中央PA・関本PA(下り線)は24時間営業を行っている。レストランは守谷SA(上り線)・友部SA(下り線)に設置されている。また、ガソリンスタンドは全てのサービスエリアに設置されており、全て24時間営業である。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※ 広野IC - 山元ICは対面通行(暫定2車線)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "広野IC - 山元ICは暫定2車線であるため、トンネルの本数は上下線で1本となっている。流山IC - 柏ICは正確には橋(シェルター)扱いとなっている。これは、当該区間が住宅地の中を通過するので騒音防止や、天然記念物のオオタカ保護のため、地面を掘り下げた半地下化構造の上に延長約1.5 kmにわたりトンネル状に蓋をかけ、蓋の上部に公園を設置しているためである。これは、国内高速道路では初となる道路構造となったほか、海抜マイナス2メートルという建設当時としては最も低い場所を通る高速道路となった。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2005年10月の日本道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の営業範囲となっており、いわき勿来ICを境に南側を関東支社が、北側を東北支社がそれぞれ管轄している。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "コールサインは関東支社(三郷 - 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55%が確認された。この結果について環境省は、2013年度内に開通を目指していた広野IC - 常磐富岡IC(延長16.4 km)については「概ね当初の方針どおり線量を低減」とし、その他の区間についても「一部で線量の高い区間があるものの一定程度低減」としている。", "title": "東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その後、除染の達成状況を確認するため、2014年(平成26年)10月に同省がモニタリングカーによる走行サーベイを実施したところ、浪江IC - 南相馬ICでは2014年10月21日測定時点で平均0.6 - 0.7 μSv/h、広野IC - 常磐富岡ICでは2014年10月29日測定時点で平均1.3 - 1.5 μSv/h、常磐富岡IC - 浪江ICでは2014年10月21日測定時点で平均0.5 - 2.4 μSv/hと、同省が常磐道での除染方針の目標で挙げた3.8 μSv/h以下(9.5 μSv/h超の線量の場合はおおむね9.5 μSv/h以下)を下回ることが確認された。", "title": "東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響" } ]
常磐自動車道は、埼玉県三郷市の三郷ジャンクション (JCT) から、千葉県、茨城県、福島県を経由し宮城県亘理町の亘理インターチェンジ (IC) に至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は常磐道(じょうばんどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、仙台東部道路、仙台北部道路と三陸自動車道の仙台港北IC - 利府JCT間とともに「E6」が割り振られている。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[ファイル:JOBAN EXP(E6).svg|130px|常磐自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E6}} 常磐自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map|zoom=7|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=450|frame-lat=36.76509|frame-long=140.70098}} |開通年 = [[1981年]]([[昭和]]56年) - [[2015年]]([[平成]]27年) |起点 = [[埼玉県]][[三郷市]]([[三郷インターチェンジ|三郷IC]]/[[三郷ジャンクション|JCT]]) |主な経由都市 = [[柏市]]、[[つくば市]]、[[土浦市]]、[[水戸市]]、[[日立市]]、[[いわき市]]、[[南相馬市]]<!--規定により7都市まで--> |終点 = [[宮城県]][[亘理郡]][[亘理町]]([[亘理インターチェンジ|亘理IC]])<!-- 概要に記載の通り、法令での「常磐自動車道」と、NEXCOの「常磐自動車道」は別ですので、解釈違いの間違った変更をしないようにお願いします。 --> |接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] |総距離 = 300.4 [[キロメートル|km]] }} '''常磐自動車道'''(じょうばんじどうしゃどう、{{Lang-en|JOBAN EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[埼玉県]][[三郷市]]の[[三郷ジャンクション]] (JCT) から、[[千葉県]]、[[茨城県]]、[[福島県]]を経由し[[宮城県]][[亘理町]]の[[亘理インターチェンジ]] (IC) に至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[略語|略称]]は'''常磐道'''(じょうばんどう){{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-12}}。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[仙台東部道路]]、[[仙台北部道路]]と[[三陸沿岸道路|三陸自動車道]]の[[仙台港北インターチェンジ|仙台港北IC]] - [[利府ジャンクション|利府JCT]]間とともに「'''E6'''」が割り振られている{{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-15}}。 == 概要 == 埼玉県三郷市を起点とし、千葉県、茨城県、福島県を経由し、宮城県亘理町へ至る、延長300.4[[キロメートル]] (km) の路線である。[[東北自動車道]]、[[関越自動車道]]・[[日本海東北自動車道]]と並んで首都圏と東北地方を結ぶ東日本の大動脈の1つである。終点の亘理ICでは[[仙台東部道路]]に直結しており、首都圏と[[三陸地方]]を結ぶ最短経路の重要ルートである。 全体的には、[[関東平野]]から太平洋側に沿って南北に貫くルートである。茨城県[[土浦市]]から宮城県にかけては大部分の区間で[[国道6号]]および[[常磐線]]とほぼ並走するルートを辿るが、土浦市以南は西に大きく離れ、国道6号・常磐線の経由しない埼玉県を通過する(2005年開業の[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]は概ね常磐道に沿うルートで建設されている)。 広域的に見れば、首都圏 - 仙台間で東北道のバイパス路線として機能することが期待されており、途中で[[仙台南部道路]]・[[東北中央自動車道]]・[[磐越自動車道]]・[[北関東自動車道]]・[[首都圏中央連絡自動車道]]など数本の道路を介して連絡する。これにより東北道の利用交通量を常磐道に分散させ、高速道路が本来持つ定時性と安定的な輸送体制の確保に寄与している。 また、東北道は[[那須高原]]や[[国見峠 (宮城県・福島県)|国見峠]]といった積雪地帯を通過する一方、太平洋側を結ぶ常磐道は全線にわたり降雪が少なく、雪の影響を受けにくい。さらに、関東方面と東北方面を[[奥羽山脈]]に沿って縦断する東北道と比べ、常磐道は関東平野から福島県の浜通りなど、[[太平洋]]沿いの平地が続く区間を走ることもあって、山間の急勾配やカーブの区間が少ないのも特徴である。これらの関係性は、鉄道でいう[[東北本線]]と常磐線と同じである。加えて、東京日本橋 - 仙台市役所間では、東北自動車道経由より約20 km短く{{efn|東京日本橋より宝町ランプを経由し、東北道は仙台宮城IC、常磐道ルートは仙台南部道路長町ICを経由すると、東北道ルートが369 kmに対し、常磐道ルートは349 km。}}、首都圏と仙台市を結ぶ高速自動車道としては最短経路である。同様に富谷JCTより北の盛岡方面であっても、常磐道ルートの方が短くなる。 このように常磐道は、東京 - 仙台間において東北道ともに、一方に何らかの交通障害が発生した場合でも、もう片方が広域的な迂回路として機能するというリダンダンシー(代替手段)の役割を担うと期待されている。しかしながら、東北道が仙台まで4車線以上である一方、常磐道は福島県[[広野町]]以北は[[暫定2車線]]区間となっている。 常磐自動車道の当初の終点は、いわき市とされていたが、[[1987年]]([[昭和]]62年)の国土開発幹線自動車道建設法改正により、仙台市まで延伸された。[[いわき中央インターチェンジ|いわき中央IC]] - 亘理ICを高速自動車国道で整備、亘理IC - [[富谷ジャンクション|富谷JCT]]については仙台東部道路・[[仙台北部道路]]を常磐道に[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|並行する一般国道自動車専用道路]]として供用することとなった。 常磐道の全線開通は[[2015年]]([[平成]]27年)[[3月1日]]で、経緯は[[#東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響]]を参照。これに先立つ[[2010年]](平成22年)3月には、仙台北部道路が富谷JCT経由で東北自動車道と直結したことで[[仙台都市圏]]自動車専用道路ネットワークが完成しており、当路線全線開通後は仙台以北からいわき・水戸方面へのアクセスが飛躍的に改善した。 <!--法令に基づく記載内容は、改正後の市町村合併等を反映させないで下さい。--> [[国土開発幹線自動車道]]の'''常磐自動車道'''は、以下のとおりとされている。 {| class="wikitable" |- !起点 !主たる経過地 !終点 |- |[[東京都]] |[[柏市]] [[土浦市]] [[水戸市]] [[日立市]] [[いわき市]] [[相馬市]]付近 |[[仙台市]] |} [[高速自動車国道の路線を指定する政令]]では[[高速自動車国道]]の'''常磐自動車道'''は、以下のとおりとされている。 {| class="wikitable" |- ! style="white-space:nowrap" |起点 ! style="white-space:nowrap" |重要な経過地 ! style="white-space:nowrap" |終点 |- |東京都[[練馬区]] |[[和光市]] [[戸田市]] [[さいたま市]] [[川口市]] [[草加市]] [[八潮市]] [[三郷市]] [[流山市]] 柏市 [[守谷市]] [[つくばみらい市]] つくば市 土浦市 [[かすみがうら市]] [[石岡市]] [[小美玉市]] [[笠間市]] 水戸市 [[那珂市]] [[常陸太田市]] 日立市 [[高萩市]] [[北茨城市]] いわき市 [[南相馬市]] 相馬市 [[宮城県]][[亘理郡]][[亘理町]] [[岩沼市]] [[名取市]] 仙台市 [[多賀城市]] [[黒川郡]][[富谷市|富谷町]] |仙台市 |} 東京都練馬区 - 埼玉県川口市の区間について[[東北縦貫自動車道]]と、東京都練馬区 - 埼玉県三郷市の区間について[[東関東自動車道]]と重複している。 本稿では、[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)が管理している高速自動車国道の道路名および事業名としての常磐自動車道について述べる。 == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未供用施設となる。未供用施設の名称は全て仮称である。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市村道]]。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 * 略字は、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、ICは[[インターチェンジ]]、SICは[[スマートインターチェンジ]]、SAは[[サービスエリア]]、PAは[[パーキングエリア]]、TBは[[本線料金所]]をそれぞれ示す。 {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|[[三郷インターチェンジ|三郷]]<br /><small>から<br />([[キロメートル|km]])</small> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="9" style="text-align:center"|[[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign 6-Misato.svg|26px]] [[首都高速6号三郷線]] |- !style="background-color:#BFB"|1 |[[三郷インターチェンジ|三郷IC]]/[[三郷ジャンクション|JCT]] |[[国道298号]]<br />{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 | |東京外環道のJCT番号は「'''80'''」 |rowspan="2" colspan="3"|[[埼玉県]]<br>[[三郷市]] |- !style="background-color:#BFB"|1-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[三郷料金所|三郷TB/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[埼玉県道・千葉県道52号越谷流山線|県道52号越谷流山線]] |style="text-align:right"|4.2 | |水戸方面出入口のみ<br />三郷IC/JCT方面出入口は[[2024年]]度供用開始予定<ref name="accessdate20220411">{{Cite web|和書|url=http://www.city.misato.lg.jp/10789.htm|title=整備状況|date=|accessdate=2022-04-11|publisher=三郷市}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|1-2 |[[流山インターチェンジ|流山IC]] |[[千葉県道5号松戸野田線|県道5号松戸野田線]] |style="text-align:right"|6.1 | | |rowspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉県]]}} |colspan="2"|[[流山市]] |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[柏インターチェンジ|柏IC]] |[[国道16号]] |style="text-align:right"|10.8 |style="text-align:center"|◆ | |colspan="2"|[[柏市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[守谷サービスエリア|守谷SA<span style="background-color:#CCC">/SIC</span>]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|15.5 | |SICは準備段階調査<ref name="press20230908">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-09|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.moriya.ibaraki.jp/shikumi/project/kukakuseiri/moriyasic.html|title=(仮称)守谷SAスマートIC周辺土地区画整理事業|date=2022-1-27|accessdate=2022-2-4|publisher=守谷市}}</ref> |rowspan="37" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[茨城県]]}} |colspan="2"|[[守谷市]] |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[谷和原インターチェンジ|谷和原IC]] |[[国道294号]](常総拡幅区間) |style="text-align:right"|19.1 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[つくばみらい市]] |- !style="background-color: #BFB;"|- |style="background-color:#CCC"|[[つくばみらいスマートインターチェンジ|つくばみらいSIC]](仮称) |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"|22.8 | |2024年3月末開通予定 |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[谷田部インターチェンジ|谷田部IC]] |[[茨城県道19号取手つくば線|県道19号取手つくば線]] |style="text-align:right"|30.3 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="5" colspan="2"|[[つくば市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|4-1 |[[つくばジャンクション|つくばJCT]] |{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] |style="text-align:right"|34.6 | |圏央道のJCT番号は「'''80'''」 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[谷田部東パーキングエリア|谷田部東PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|36.1 | | |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|5 |rowspan="2"|[[桜土浦インターチェンジ|桜土浦IC]] |rowspan="2"|[[国道354号]] |rowspan="2" style="text-align:right"|38.7 |rowspan="2" style="text-align:center"|◆ |rowspan="2"| |- |colspan="2"|[[土浦市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |colspan="2"|つくば市 |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|土浦SIC(仮称) |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"| |style="text-align:center"| |準備段階調査<ref name="press20230908" /><ref name="press20220218">{{Cite web|和書|url=https://newstsukuba.jp/36713/18/02/|title=スマートIC整備へ予備設計 スクールロイヤー導入 土浦市22年度当初予算案|date=2022-02-18|accessdate=2023-05-18|publisher=NEWS つくば}}</ref> |rowspan="3" colspan="3"|土浦市 |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[土浦北インターチェンジ|土浦北IC]] |[[国道125号]]([[土浦新治バイパス]]) |style="text-align:right"|46.6 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[千代田パーキングエリア|千代田PA<span style="background-color:#CCC">/SIC</span>]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|50.4 | |SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |rowspan="2" colspan="2"|[[かすみがうら市]] |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[千代田石岡インターチェンジ|千代田石岡IC]] |[[国道6号]]<br />([[千代田石岡バイパス]](未事業化)) |style="text-align:right"|54.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[石岡バスストップ|石岡BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|57.9 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="2" colspan="2"|[[石岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|7-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[石岡小美玉スマートインターチェンジ|石岡小美玉SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道355号]]<br />[[茨城県道145号上吉影岩間線|県道145号上吉影岩間線]]([[茨城空港アクセス道路]]) |style="text-align:right"|60.9 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[美野里パーキングエリア|美野里PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|63.2 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[小美玉市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[岩間インターチェンジ|岩間IC]] |[[茨城県道43号茨城岩間線|県道43号茨城岩間線]] |style="text-align:right"|69.1 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="3" colspan="2"|[[笠間市]] |- !style="background-color:#BFB"|8-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[友部サービスエリア|友部SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[茨城県道16号大洗友部線|県道16号大洗友部線]]<br />[[茨城県道52号石岡城里線|県道52号石岡城里線]]<br />(市道経由) |style="text-align:right"|72.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|8-2 |[[友部ジャンクション|友部JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]] |style="text-align:right"|73.9 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[内原バスストップ|内原BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|77.9 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[水戸市]] |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[水戸インターチェンジ|水戸IC]] |[[国道50号]] |style="text-align:right"|82.0 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[田野パーキングエリア|田野PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|85.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|9-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[水戸北スマートインターチェンジ|水戸北SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道123号]]<br />[[茨城県道・栃木県道51号水戸茂木線|県道51号水戸茂木線]]<br />[[茨城県道63号水戸勝田那珂湊線|県道63号水戸勝田那珂湊線]] |style="text-align:right"|87.7 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="3" colspan="2"|[[那珂市]] |- !style="background-color:#BFB"|10 |[[那珂インターチェンジ|那珂IC]] |[[茨城県道65号那珂インター線|県道65号那珂インター線]] |style="text-align:right"|93.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|10-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[東海パーキングエリア|東海PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[茨城県道62号常陸那珂港山方線|県道62号常陸那珂港山方線]] |style="text-align:right"|101.7 | | |colspan="2"|[[那珂郡]]<br>[[東海村]] |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[日立南太田インターチェンジ|日立南太田IC]] |国道6号<br />[[国道293号]] |style="text-align:right"|105.3 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[日立市]] |- !style="background-color: #BFB"|11-1 |[[日立中央インターチェンジ|日立中央IC]]/[[日立中央パーキングエリア|PA]] |[[日立有料道路]] |style="text-align:right"|117.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[日立北インターチェンジ|日立北IC]] |国道6号([[小木津バイパス]])<br />[[茨城県道・福島県道10号日立いわき線|県道10号日立いわき線]] |style="text-align:right"|124.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[高萩インターチェンジ|高萩IC]] |[[茨城県道67号高萩インター線|県道67号高萩インター線]] |style="text-align:right"|135.2 | | |colspan="2"|[[高萩市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[中郷サービスエリア|中郷SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|136.8 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[北茨城市]] |- !style="background-color:#BFB"|14 |[[北茨城インターチェンジ|北茨城IC]] |[[茨城県道69号北茨城インター線|県道69号北茨城インター線]] |style="text-align:right"|142.4 |style="text-align:center"|○ | |- ! style="background-color:#BFB;"|- |[[関本パーキングエリア|関本PA]] | style="text-align:center" | - | style="text-align:right" |150.5 | | |- ! style="background-color:#BFB;"|15 |[[いわき勿来インターチェンジ|いわき勿来IC]] |[[国道289号]] | style="text-align:right" |154.5 | style="text-align:center" |○ | |rowspan="19" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[福島県]]}} |rowspan="8" colspan="2"|[[いわき市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[いわき小名浜インターチェンジ|いわき小名浜IC]](仮称) |style="background-color:#CCC"|[[小名浜道路]](事業中)<br>[[福島県道20号いわき上三坂小野線|県道20号いわき上三坂小野線]](事業中) |style="background-color:#CCC; text-align:right"|161.0 |style="background-color:#CCC; text-align:center"| |style="background-color:#CCC"|[[2024年]]度供用開始予定<ref name="press20200618">{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/4923814.html|title=2024年度にも開通へ 小名浜道路|date=2020-06-18|accessdate=2020-06-20|publisher=[[福島民報]]}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[いわき湯本インターチェンジ|いわき湯本IC]] |[[福島県道14号いわき石川線|県道14号いわき石川線]] |style="text-align:right"|167.1 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[湯ノ岳パーキングエリア|湯ノ岳PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|169.4 | | |- !style="background-color:#BFB"|16-1 |[[いわきジャンクション|いわきJCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]] |style="text-align:right"|171.2 | | |- !style="background-color:#BFB"|17 |[[いわき中央インターチェンジ|いわき中央IC]] |[[国道49号]] |style="text-align:right"|175.5 |style="text-align:center"|○ | |- ! style="background-color:#BFB" |- |[[四倉パーキングエリア|四倉PA]] | style="text-align:center" | - | style="text-align:right" |185.0 | | |- !style="background-color:#BFB"|18 |[[いわき四倉インターチェンジ|いわき四倉IC]] |[[福島県道35号いわき浪江線|県道35号いわき浪江線]] |style="text-align:right"|188.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|19 |[[広野インターチェンジ|広野IC]] |[[福島県道393号上北迫下北迫線|県道393号上北迫下北迫線]] |style="text-align:right"|202.1 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[双葉郡]]}} |[[広野町]] |- !style="background-color:#BFB"|19-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[ならはパーキングエリア|ならはPA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|県道35号いわき浪江線 |style="text-align:right"|207.4 | |この先下り対面通行 |[[楢葉町]] |- !style="background-color:#BFB"|20 |[[常磐富岡インターチェンジ|常磐富岡IC]] |[[福島県道36号小野富岡線|県道36号小野富岡線]] |style="text-align:right"|218.5 | | |[[富岡町]] |- !style="background-color:#BFB"|20-1 |[[大熊インターチェンジ|大熊IC]] |[[福島県道251号小良ヶ浜野上線|県道251号小良ヶ浜野上線]](町道経由) |style="text-align:right"|222.5 | | |[[大熊町]] |- !style="background-color:#BFB"|20-2 |[[常磐双葉インターチェンジ|常磐双葉IC]] |[[福島県道256号井手長塚線|県道256号井手長塚線]] |style="text-align:right"|227.8 | | |[[双葉町]] |- !style="background-color:#BFB"|21 |[[浪江インターチェンジ|浪江IC]] |[[国道114号]] |style="text-align:right"|232.8 | | |[[浪江町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[小高スマートインターチェンジ|小高SIC]](仮称) |style="background-color:#CCC"| |style="background-color:#CCC"| |style="background-color:#CCC"| |style="background-color:#CCC"|事業中<ref name="press20190927">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001310103.pdf |title=高速道路会社への事業許可およびスマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました |date=2019-09-27 |accessdate=2019-09-27 |publisher=国土交通省道路局 |format=PDF}}</ref> |rowspan="3" colspan="2"|[[南相馬市]] |- !style="background-color:#BFB"|22 |[[南相馬インターチェンジ|南相馬IC]] |[[福島県道12号原町川俣線|県道12号原町川俣線]] |251.2 | | |- !style="background-color:#BFB"|22-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[南相馬鹿島サービスエリア|南相馬鹿島SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[福島県道34号相馬浪江線|県道34号相馬浪江線]] |257.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|23 |[[相馬インターチェンジ|相馬IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E13}} [[東北中央自動車道]]([[相馬福島道路]])<br />[[国道115号]] |265.6 | | |colspan="2"|[[相馬市]] |- !style="background-color:#BFB"|24 |[[新地インターチェンジ|新地IC]] |[[国道113号]] |274.1 | | |colspan="2"|[[相馬郡]]<br>[[新地町]] |- !style="background-color:#BFB"|25 |style="background-color:#eda5ff"|[[山元南スマートインターチェンジ|山元南SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[宮城県道44号角田山元線|県道44号角田山元線]] |280.6 | | |rowspan="4" colspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[宮城県]][[亘理郡]]}} |rowspan="2"|[[山元町]] |- !style="background-color:#BFB"|26 |[[山元インターチェンジ|山元IC]] |国道6号<br />[[宮城県道272号角田山下線|県道272号角田山下線]] |style="text-align:right"|288.9 | |この先上り方面 対面通行 |- !style="background-color:#BFB"|27 |style="background-color:#eda5ff"|[[鳥の海パーキングエリア|鳥の海PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[福島県道・宮城県道38号相馬亘理線|県道38号相馬亘理線]](町道経由) |style="text-align:right"|295.0 | | |rowspan="2"|[[亘理町]] |- !style="background-color:#BFB"|28 |[[亘理インターチェンジ|亘理IC]] |[[宮城県道269号亘理インター線|県道269号亘理インター線]] |style="text-align:right"|300.4 | | |- |colspan="9" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E6}} [[仙台東部道路]]に直結 |} == 歴史 == 常磐道は、起点側の三郷ICより先に柏IC以北について工事が進められた。これは、柏市や流山市で住宅密集地を通過するため、住民の道路建設に対する反対運動が激しかったためである<ref name="tachihara9">{{Harvtxt|いばらき建設技術研究会;立原信永|2002|p=9}}</ref>。[[1981年]](昭和56年)4月に柏IC - 谷田部ICの初開通を皮切りに、順次開通区間が延伸された。[[1984年]](昭和59年)までに柏IC - 那珂ICがすでに開通していたが、[[国際科学技術博覧会]](科学万博-つくば '85)の開催を控え、柏IC - 千代田石岡ICを6車線化。 三郷IC - 柏ICについては、[[千葉県庁]]の後押しもあり、[[日本道路公団]]がこの区間を半地下化し環境対策をすることで住民を説得し、[[1985年]](昭和60年)1月24日の開通にこぎつけた<ref name="tachihara9" />。この日、[[首都高速6号三郷線|首都高速6号線]]の小菅IC - 三郷ICを延伸同時開通したことにより常磐道と[[首都高速道路|首都高速]]が初めて直結され、供用開始前日の23日に、開通を祝って三郷料金所と首都高速[[八潮本線料金所|八潮料金所]]で開通式が盛大に執り行われた<ref name="iharaki19850124">「常磐自動車道・首都高速と直結 柏 - 三郷が完成 華やかに開通式」『[[茨城新聞|いはらき]]』[[茨城新聞社]]、1985年1月24日付日刊、1面。</ref>。 科学万博開催の1985年(昭和60年)は、突貫工事で那珂IC - 日立南太田IC、難所とされた日立南太田IC - 日立北ICと立て続けに開通し、特に日立南太田IC - 日立北ICは、上下合わせて連続する26本のトンネルと34本の橋梁によって結ばれた<ref name="iharaki19850120">「常磐自動車道 - 難工事を突破、北へ」いばらき新時代-16-『いはらき』茨城新聞社、1985年1月20日付日刊、1面。</ref>。そして[[1988年]](昭和63年)3月24日に、当初予定されたいわき中央ICまで全線開通した。 その後、流入交通量は年々増え続け、[[1987年]](昭和62年)は3000万台だったが[[1990年]](平成2年)には1.5倍以上にあたる4850万台まで伸びた<ref name="茨城新聞19920103">「常磐道さらに北へ」『[[茨城新聞]]』、1992年1月3日付日刊、2面。</ref>。供用開始後に流山市と日立市でのインターチェンジ設置要望の高まりを受けて、地元自治体の負担でICを設置できる[[開発インターチェンジ]]制度が始まり、流山ICと日立中央ICがそれぞれ追加された<ref name="tachihara2">{{Harvtxt|いばらき建設技術研究会;立原信永|2002|p=2}}</ref>。 [[第四次全国総合開発計画]]が1987年(昭和62年)6月30日に閣議決定され、多極分散型国土形成のための交通ネットワークとして、[[高規格幹線道路]]網14,000 kmの整備が位置づけられると、1991年(平成3年)12月に開かれた国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)で、未開通のいわき - 富岡間が整備計画路線に、相馬 - 亘理間が基本計画路線に指定され、全線開通に向けて再び動き出した<ref name="茨城新聞19920103" />。 {{節スタブ}} === 年表 === [[ファイル:Yatabe-R408 1984.jpg|サムネイル|建設中の谷田部仮出口([[1984年]])。{{国土航空写真}}]] {{Timeline of release years | title = 各年ごとの開通区間 | 1981 = (4月)柏IC - 谷田部IC | 1982 = (3月)谷田部IC - 千代田石岡IC | 1984 = (3月)千代田石岡IC - 那珂IC | 1985 = (1月)三郷IC/JCT - 柏IC<br />(2月)那珂IC - 日立南太田IC<br />(7月)日立南太田IC - 日立北IC | 1988 = (3月)日立北IC - いわき中央IC | 1999 = (3月)いわき中央IC - いわき四倉IC | 2002 = (3月)いわき四倉IC - 広野IC | 2004 = (4月)広野IC - 常磐富岡IC | 2009 = (9月)山元IC - 亘理IC | 2012 = (4月)南相馬IC - 相馬IC | 2014 = (12月)浪江IC - 南相馬IC・相馬IC - 山元IC | 2015 = (3月)常磐富岡IC - 浪江IC }} * [[1966年]](昭和41年)[[7月1日]]:国土開発幹線自動車道の予定路線とされる。 * [[1970年]](昭和45年)[[6月9日]]:三郷JCT - 千代田石岡ICの整備計画決定<ref name="NEXCO2014-12" />。 * [[1981年]](昭和56年)[[4月27日]]:柏IC - 谷田部IC開通<ref name="NEXCO2014-12" />。暫定4車線。 * [[1982年]](昭和57年)[[3月30日]]:谷田部IC - 千代田石岡IC開通。暫定4車線。 * [[1983年]](昭和58年)[[12月22日]]:谷田部IC - 千代田石岡ICが6車線化。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[3月27日]]:千代田石岡IC - 那珂IC開通。水戸IC以南暫定4車線、水戸IC以北完成4車線。 ** [[12月27日]]:柏IC - 谷田部ICが6車線化。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[1月24日]]:三郷IC/JCT - 柏IC開通。完成6車線。三郷JCTで首都高速6号三郷線と接続。 ** [[2月20日]]:那珂IC - 日立南太田IC開通。完成4車線。 ** [[3月17日]]:[[国際科学技術博覧会]](科学万博)開催に伴い、谷田部IC - 桜土浦IC間の33キロポスト付近に谷田部仮出口を設置(下り線のみ、[[9月16日]]まで)。 ** [[7月3日]]:日立南太田IC - 日立北IC開通。完成4車線。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[6月30日]]:[[第四次全国総合開発計画]]が閣議決定され、常磐自動車道延伸が高規格幹線道路に構想。 ** [[9月1日]]:国土開発幹線自動車道建設法が改正され、東京都 - 仙台市が国幹道の予定路線とされる。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月24日]]:日立北IC - いわき中央IC開通(完成4車線)により、最初の全線開通。 * [[1992年]](平成4年) ** [[3月26日]]:流山IC開通。 ** [[11月27日]]:三郷JCTで[[東京外環自動車道]]と接続。 * [[1993年]](平成5年)[[10月20日]]:日立中央IC開通、同時に高鈴PAを日立中央PAと改称。 * [[1995年]](平成7年)[[8月2日]]:いわきJCT開通により、[[磐越自動車道]]と接続。 * [[1996年]](平成8年)12月27日:常磐富岡IC - 相馬ICの整備計画決定<ref name="NEXCO2014-12" />。 * [[1999年]](平成11年)[[3月25日]]:いわき中央IC - いわき四倉IC開通。暫定2車線。 * [[2000年]](平成12年) ** [[2月1日]]:千代田石岡IC - 友部JCTが6車線化。 ** [[3月18日]]:友部JCT開通により[[北関東自動車道]]と接続。 ** [[6月5日]]:友部JCT - 水戸ICが6車線化。 * [[2002年]](平成14年)[[3月23日]]:いわき四倉IC - 広野IC開通。暫定2車線。 * [[2003年]](平成15年)[[3月29日]]:つくばJCT開通により、[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)と接続。 * [[2004年]](平成16年)[[4月14日]]:広野IC - 常磐富岡IC開通。暫定2車線。 * [[2005年]](平成17年) ** [[7月1日]]:友部SA SIC[[社会実験]]開始([[2006年]][[9月30日]]まで。当初の実験期間は2005年[[8月31日]]まで)。 ** [[10月1日]]:[[日本道路公団]]の分割民営化により、東日本高速道路に承継。 * [[2006年]](平成18年) ** [[9月25日]]:水戸北SIC社会実験開始([[2009年]][[3月31日]]まで。当初の実験期間は[[2007年]]3月31日まで)。 ** 10月1日:友部SA SIC供用開始。 * [[2008年]](平成20年)[[12月19日]]:三郷料金所SIC社会実験開始。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月29日]]:東海PA SIC供用開始。 ** [[4月1日]]:三郷料金所SICおよび水戸北SIC供用開始。 ** [[6月30日]]:石岡小美玉SICの連結を許可<ref>{{Cite web|和書|title=報道発表資料:高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について - 国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html |website=www.mlit.go.jp |access-date=2023-02-21 |date=2009-06-30 |publisher=[[国土交通省]]}}</ref>。 ** [[9月12日]]:山元IC - 亘理IC開通。暫定2車線。 * [[2011年]](平成23年) ** 3月11日:[[東北地方太平洋沖地震]]およびそれに伴う[[福島第一原子力発電所事故]]が発生(詳細は[[#東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響|後述]])。 ** 3月24日:石岡小美玉SIC供用開始。 * [[2012年]](平成24年)[[4月8日]]:南相馬IC - 相馬IC開通<ref name="NEXCO2014-12">{{Cite press release|和書|title=常磐自動車道の全線開通について|publisher=東日本高速道路|date=2014-12-25|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2014/1225/00006647.html|accessdate=2016-02-21}}</ref>。暫定2車線。 * [[2014年]](平成26年) ** [[2月22日]]:東日本大震災、東電福島第一原発事故により通行止めとなっていた広野IC - 常磐富岡ICが3年ぶりに再開通<ref name="NEXCO2014-12" />。 ** [[12月6日]]:浪江IC - 南相馬ICおよび相馬IC - 山元IC開通<ref name="NEXCO2014-12" />。いずれも暫定2車線。同時に鳥の海PA供用開始。 [[File:Jōban Expressway Opening ceremony.jpg|thumb|開通式]] * [[2015年]](平成27年) ** [[2月21日]]:南相馬鹿島SA/SIC供用開始<ref name="e-nexco20150130">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/tohoku/2015/0130/00009167.html|title=常磐自動車道 南相馬鹿島SA及びならはPAの開業について|date=2015-01-30|accessdate=2015-01-30|publisher=東日本高速道路株式会社東北支社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=南相馬鹿島スマートインターチェンジの開通について - 南相馬市 |url=http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/6,22364,29,144,html |website= |date=2015-01-30 |access-date=2023-02-21 |publisher=[[南相馬市]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20150130162600/http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/6,22364,29,144,html |archive-date=2015-01-30}}</ref>。 ** [[3月1日]]:常磐富岡IC - 浪江IC開通(暫定2車線)に伴い、'''全線開通'''<ref name="jobando zensen">{{Cite web|和書|title=常磐自動車道の全線開通について {{!}} NEXCO東日本 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2014/1225/00006647.html |website=[[NEXCO東日本]] |access-date=2023-02-21 |language=ja |date=2014-12-25}}</ref>。同時にならはPA供用開始<ref name="e-nexco20150130" />。 ** [[6月12日]]:大熊ICおよび双葉ICを、[[地域活性化インターチェンジ|追加インターチェンジ]]として連結許可<ref name="TsuikaIC">{{Cite web|和書|title=報道発表資料:常磐道の追加インターチェンジの設置について - 国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000522.html |website=www.mlit.go.jp |access-date=2023-02-21 |publisher=[[国土交通省]] |date=2015-06-12}}</ref><ref name="TsuikaIC 2">{{Cite web|和書|title=時事ドットコム:常磐道のIC設置を許可=18、19年度に2カ所-太田国交相 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2015061200312 |website=[[時事ドットコム]] |date=2015-06-12 |access-date=2023-02-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150614064200/http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2015061200312 |archive-date=2015-06-14}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[3月10日]]:いわき中央IC - 広野ICおよび山元IC - 岩沼IC(亘理IC - 岩沼ICは仙台東部道路)を4車線化する方針を国土交通省が公表<ref name="press20160310">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001122700.pdf|title=常磐自動車道の4車線化について|date=2016-03-10|accessdate=2021-02-24|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** [[3月19日]]:鳥の海SIC供用開始<ref name="press20160219">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h28/0219/pdfs/pdf.pdf|title=常磐自動車道 鳥の海スマートIC 営業開始セレモニーの実施について 〜先着5名のお客さま(事前受付が必要)に通行認定証と記念品を贈呈します〜|date=2016-02-19|accessdate=2016-02-20|publisher=東日本高速道路株式会社 東北支社仙台管理事務所|format=PDF}}</ref>。 ** [[6月8日]]:いわき中央IC - 広野ICおよび山元IC - 岩沼IC(亘理IC - 岩沼ICは仙台東部道路)について、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2016/0608/00006715.html |title=常磐自動車道の4車線化について |publisher=東日本高速道路株式会社 |date=2016-06-08 |accessdate=2022-10-26 }}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001134020.pdf |format=PDF |title=常磐自動車道の4車線化について |publisher=国土交通省道路局 |date=2016-06-07 |accessdate=2022-10-26 }}</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[4月1日]]:山元南SIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h29/0306b/pdfs/pdf.pdf|title=常磐自動車道『山元南スマートインターチェンジ』が4月1日(土)15時に開通します。 わかりやすい道路案内の実現に向け、高速道路ナンバリング標識を設置します。|date=2017-03-06|accessdate=2017-03-06|publisher=山元町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[8月3日]]:四倉PA下り線にショッピングコーナー・スナックコーナーがオープン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/head_office/h29/0627/pdfs/pdf.pdf|title=【E6】常磐自動車道 四倉PA(下り線)に商業施設が新規オープン 〜8月3日(木)午前10時〜|date=2017-06-27|accessdate=2017-08-10|publisher=東日本高速道路株式会社・ネクセリア東日本株式会社|format=PDF}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年) ** [[3月21日]]:ならはSIC供用開始<ref name="press20190212">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h31/0212/pdfs/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道『ならはスマートインターチェンジ』が平成31年3月21日(木)15時に開通します|date=2019-02-12|accessdate=2019-02-12|publisher=楢葉町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[3月31日]]:大熊IC供用開始<ref name="press20190212-ookuma">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h31/0212b/pdfs/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道『大熊インターチェンジ』が平成31年3月31日(日)15時に開通します|date=2019-02-12|accessdate=2019-02-12|publisher=大熊町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[9月4日]]:常磐道の暫定2車線区間のうち、浪江IC - 山元ICを10 - 15年後を目処に4車線化する優先整備区間に選定する方針を国土交通省が発表<ref name="press20190904-1">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001305885.pdf|title=暫定2車線区間における優先整備区間選定について|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省|format=PDF|date=2019-9-4}}</ref><ref name="press20190904-2">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001305887.pdf|title=各IC間の課題の評価一覧|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省|format=PDF|month=2019-9-4}}</ref><ref name="toraberu20190906">{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1205656.html|title=国交省、「暫定2車線」を「4車線化」する優先整備区間。道東道、秋田道、常磐道、東海北陸道、東九州道など約880km|date=2019-09-06|accessdate=2021-03-18|publisher=トラベル Watch}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=4車線化優先決まる!磐越道・若松-安田、常磐道・浪江-山元|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20190905-411850.php|website=福島民友新聞社|date=2019-09-05|accessdate=2021-02-22|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190909005913/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20190905-411850.php|archivedate=2021-02-22}}</ref>。 ** [[9月7日]]:水戸北SIC(いわき方面出入口)供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h31/0809/pdfs/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道『水戸北スマートインターチェンジ』が令和元年9月7日(土)17時に「いわき方面も出入り可能」になります|date=2019-08-09|accessdate=2019-08-09|publisher=水戸市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[12月22日]]:相馬ICで東北中央道と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/kisya/kisyah/images/78771_1.pdf|title=東北中央自動車道と常磐自動車道が接続! 東北中央自動車道「相馬IC〜相馬山上IC」間 令和元年12月22日(日)14時30分に開通|date=2019-11-22|accessdate=2019-11-22|publisher=国土交通省東北地方整備局 磐城国道事務所・福島県・相馬市|format=PDF}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** [[3月7日]]:常磐双葉IC供用開始<ref name="press20200130">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/r02/0130/pdfs/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道『常磐双葉インターチェンジ』及び広野IC〜山元IC間の付加車線の一部が令和2年3月7日(土)に完成します|date=2020-01-30|accessdate=2020-01-30|publisher=双葉町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[3月10日]]:常磐道の4車線化優先整備区間のうち浪江IC - 南相馬ICの一部を、2020年度に新たに4車線化事業に着手する候補箇所として国土交通省が選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001332195.pdf|title=高速道路の暫定2車線区間の4車線化について|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF|date=2020-3-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1239858.html|title=国交省、2020年度に4車線化に着手する高速道路の候補選定。15か所、約110km|date=2020-03-10|accessdate=2021-03-18|publisher=トラベル Watch}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/94398|title=暫定2車線高速の4車線化が加速 財政投融資活用15区間 2020年度から事業着手|date=2020-03-10|accessdate=2021-03-18|publisher=乗りものニュース編集部}}</ref>。 ** 3月31日:浪江IC - 南相馬ICの一部において、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001337939.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2020-03-31|accessdate=2020-12-26|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[2月13日]]:[[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]により、相馬IC - 新地IC間で土砂崩れが発生し通行止めとなる([[2月17日]]復旧)。 ** [[2月21日]]:広野IC - 浪江ICについて、2021年度にも4車線化に向けた事業に着手する方針が示される<ref>{{Cite web|和書|title=常磐道、福島県内4車線に 国交相が方針、広野―浪江で事業化へ|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210222-587767.php|website=福島民友新聞社|accessdate=2021-02-26|language=ja}}</ref>。 ** [[3月5日]]:常磐道の4車線化優先整備区間のうち相馬IC - 新地ICを、2021年度に新たに4車線化事業に着手する候補箇所として国土交通省が選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001389465.pdf|title=高速道路の暫定2車線区間の4車線化について|accessdate=2021-03-05|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF|date=2021-03-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1310183.html|title=国交省、2021年度に4車線化に着手する高速道路の候補14か所、86kmを選定|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-18|publisher=トラベル Watch}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/105228|title=暫定2車線高速の4車線化が加速 2021年度から新たに14区間 財政投融資活用|date=2020-03-08|accessdate=2021-03-18|publisher=乗りものニュース}}</ref>。 ** [[3月6日]]:山元IC - 亘理ICが4車線化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/01/29b/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道・仙台東部道路の一部区間が4車線となります いわき中央IC〜いわき四倉IC間の一部区間が2月27日(土)から 山元IC〜岩沼IC間が3月6日(土)に4車線となります|date=2021-01-29|accessdate=2021-01-29|publisher=東日本高速道路株式会社 東北支社|format=PDF}}</ref>。 ** 3月30日:いわき中央IC - いわき四倉ICが4車線化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/03/05a/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道 いわき中央IC〜広野IC間のうち約15kmが3月30日(火)に4車線となります 〜常磐自動車道の付加車線事業2カ所(約4.3km)も完成します〜|date=2021-03-05|accessdate=2021-03-05|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** 3月30日:相馬IC - 新地ICにおいて、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001395972.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2021-03-30|accessdate=2021-03-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** [[6月13日]]:いわき四倉IC - 広野ICが4車線化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/05/27/pdf.pdf|title=E6常磐自動車道 いわき中央IC〜広野IC間が6月13日(日)に全線4車線となります|date=2021-05-27|accessdate=2021-05-27|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref><ref>{{Citenews|title=全線4車線供用開始 常磐道いわき中央-広野IC 事業許可から5年|url=https://nordot.app/777325407756435456|date=2021-06-15|accessdate=2021-06-15|newspaper=福島民報}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月4日]]:常磐道のうち、2022年度に新たに4車線化事業に着手する候補箇所として広野IC - ならはSICを国土交通省が選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001466764.pdf|title=高速道路の暫定2車線区間の4車線化について|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1392825.html|title=国交省、2022年度に4車線化に着手する高速道路の候補7か所を選定|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-04|publisher=トラベル Watch}}</ref>。 ** [[3月16日]]:[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]により被災。新地IC―山元IC間(上り線)では長さ数十メートル・幅約30センチの亀裂が生じるなどした<ref>{{Cite web|和書|title=地震で高速道路に50メートルのひび、1日で復旧できてしまうわけは |url= https://www.asahi.com/articles/photo/AS20220318001740.html?iref=pc_photo_gallery_next_arrow |website= |accessdate=2022-03-18 |language=ja |publisher=[[朝日新聞デジタル]]}}</ref>。南相馬IC - 新地ICなども被災して通行止となったが、同月18日に応急復旧が終了して解除となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20220318/k00/00m/040/125000c|title=常磐道が全線開通 東北の地震で一部通行止め|publisher=毎日新聞|date=2022-03-18|accessdate=2022-03-18}}</ref>。 ** 3月30日:広野IC - ならはSICにおいて、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001473566.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2022-03-30|accessdate=2022-03-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** [[4月29日]]:南相馬鹿島スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/tohoku/2022/0325/00011132.html|title=【E6】常磐自動車道 南相馬鹿島スマートインターチェンジ 令和4年4月29日(金)午前6時から24時間の利用が可能となります|date=2022-03-25|accessdate=2022-04-29|publisher=南相馬市・東日本高速道路株式会社}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[3月28日]]:桜土浦IC - 岩間IC間の[[最高速度]]を110&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]に引き上げ<ref>{{Cite news|title=常磐道一部 速度上限時速110キロに引き上げ 来月28日〜|newspaper=[[日本放送協会]]|date=2023-02-27|accessdate=2023-02-27|url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/mito/20230227/1070020171.html}}</ref>。 === 開通予定 === * [[2023年]](令和5年)度末 ** [[つくばみらいスマートインターチェンジ|つくばみらいSIC]]<ref name="press20191003">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20191003-TGU4MK6N5VOH3KKPHAJE6LOXZY/ |title=谷和原-谷田部間に5年度末にスマートIC新設 |date=2019-10-03 |accessdate=2020-11-11 |publisher=産経ニュース}}</ref> * [[2024年]](令和6年)度 ** [[三郷料金所|三郷料金所SIC]](三郷IC/JCT方面出入口)<ref name="accessdate20220411" /> ** [[いわき小名浜インターチェンジ|いわき小名浜IC]]<ref name="press20200618" /> * 未定 ** [[小高スマートインターチェンジ|小高SIC]] ** 広野IC - ならはSIC 4車線化 ** 相馬IC - 新地IC 4車線化 == 路線状況 == [[三郷インターチェンジ|三郷IC]] - [[谷田部インターチェンジ|谷田部IC]]の区間は[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]に含まれるため、他の区間に比べて通行料金が割高になっている。 === 車線・最高速度 === {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center" |- !rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!!rowspan="2" |備考 |- !上下線||上り線||下り線 ![[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両 |- |三郷JCT - 柏IC||rowspan="4" |6||rowspan="4" |3||rowspan="4" |3||rowspan="9" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]||80 km/h<br />(指定)||100 km/h||※1 |- |柏IC - 桜土浦IC||100 km/h<br />(法定)||rowspan="6" |120 km/h|| |- |桜土浦IC - 岩間IC||110 km/h<br />(指定)|| |- |岩間IC - 友部SA||rowspan="4" |100 km/h<br />(法定)|| |- |友部SA - 友部JCT||8||4||4||※2 |- |友部JCT - 水戸IC||6||3||3|| |- |水戸IC - 日立南太田IC||rowspan="3" |4||rowspan="3" |2||rowspan="3" |2|| |- |日立南太田IC - 日立北IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||※1 ※3 |- |日立北IC - 広野IC||100 km/h<br />(法定)||rowspan="3" |100 km/h||※4 |- |広野IC - 山元IC||2||1||1||colspan="2" |70 km/h<br />(指定)||※5 ※6 |- |山元IC - 亘理IC||4||2||2||80 km/h||100 km/h<br />(法定)|| |} * ※1:トンネル連続区間 * ※2:友部SA - 友部JCTが1 kmほどしかないため。 * ※3:下り線の一部に[[登坂車線]] * ※4:正確には広野IC北方の[[広野町]]・[[楢葉町]]境202.9キロポスト付近まで4車線区間が続く。 * ※5:[[暫定2車線]]・一部区間で4車線 * ※6:浪江IC - 山元ICは[[暫定2車線#4車線化優先整備区間|4車線化優先整備区間]]<ref name="press20190904-1" /><ref name="press20190904-2" /><ref name="toraberu20190906" /> 高速道路の中でも全体的に[[線形 (路線)|線形]]がよく、勾配も少ない。三郷JCT - 日立南太田ICの[[設計速度]]は120 km/hである。 [[広野インターチェンジ|広野IC]]から[[山元インターチェンジ|山元IC]]にかけての80 km以上におよぶ[[暫定2車線]]区間では、他の高速道路の暫定供用区間と同様に最高速度が70 km/hに規制されている。[[2015年]](平成27年)の全線開通以降、同区間では通行量が増加し渋滞が多発するようになったことから、[[2016年]](平成28年)[[3月10日]]、いわき中央IC - 広野IC、および山元IC - 亘理IC - 岩沼IC(仙台東部道路)の4車線化が認可され<ref name="press20160310" />、[[2021年]](令和3年)[[3月6日]]には山元IC - 亘理IC - 岩沼IC(仙台東部道路)が4車線化され<ref>{{Cite web|和書|url=https://joban4.jp/joban4_cms/assets/uploads/2021/03/news-20210306.pdf|title=常磐道(山元IC〜岩沼IC)4車線化の完成について|date=2021-03-06|accessdate=2021-06-27|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>、同年[[6月13日]]にはいわき中央IC - 広野ICの全線が4車線化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://joban4.jp/joban4_cms/assets/uploads/2021/06/news-20210613.pdf|title=常磐道(いわき中央IC〜広野IC)4車線化の完成について|date=2021-06-13|accessdate=2021-06-27|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 その後、[[2019年]](平成31年)には[[国土交通省]]より、全国約1,600 kmの有料高速道路の対面通行区間のうち、およそ半分にあたる約880 kmの4車線化を優先する方針が出され、常磐自動車道の一部がそれに該当した。[[浪江インターチェンジ|浪江IC]]から[[山元インターチェンジ|山元IC]]の間約56 kmを優先整備区間に選定して、10年から15年で完成を目指す方針が出されたが、広野ICから浪江ICの間約30 kmについては、4車線化を優先する区間に含まれなかった<ref name="press20190904-1" /><ref name="press20190904-2" /><ref name=":0" />。 だが一転して、[[国土交通大臣]]の[[赤羽一嘉]]は[[2021年]](令和3年)[[2月21日]]に[[福島県知事一覧|福島県知事]]の[[内堀雅雄]]と[[福島県庁]]で会談後<ref name="press20210222">{{Cite web|和書|title=2021年度4車線化着手 常磐道広野-浪江 国交相表明|url=https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021022283837|date=2021-02-22|accessdate=2021-02-22|website=福島民報|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210222131815/https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021022283837|archivedate=2021-06-27}}</ref>、4車線化優先整備区間の対象外だった広野IC - 浪江ICについて、「4車線化によって災害時の通行止めを防ぎたい」「新年度内の事業化に向けて必要な準備をしっかり進めたい」と述べ<ref>{{Cite web|和書|title=常磐道・広野-浪江も4車線化 国交相、延長を表明|url=https://kahoku.news/articles/20210221khn000033.html|date=2021-02-22|accessdate=2021-02-22|website=河北新報}}</ref><ref name="press20210222" />、2021年(令和3年)度に4車線化の整備に着手すると表明した<ref name="press20210222" />。これに対し内堀は「第二期復興・創生期間に避難地域の復興、再生を円滑に進める上で非常に大きな前進だ」と期待を寄せた<ref name="press20210222" />。結果として、広野町以北の常磐自動車道の全区間が4車線化する見通しとなった。 相馬IC - 新地IC間は2021年(令和3年)[[2月13日]]の[[福島県沖地震 (2021年)|福島県沖地震]]で土砂崩れにより一時寸断されたことを契機に、国交相が早急に4車線化を進める方針を示し<ref>{{Cite news|title=「4車線なら通行止め回避できたのでは」…国交相、地震被害の常磐道で方針|newspaper=[[読売新聞]]|date=2021-02-22|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210222-OYT1T50093/|accessdate=2023-01-06}}</ref>、翌3月に先行して同区間の事業許可が行われた。 === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 売店は[[田野パーキングエリア]] (PA)・[[湯ノ岳パーキングエリア|湯ノ岳PA]]・[[ならはパーキングエリア|ならはPA]]・[[鳥の海パーキングエリア|鳥の海PA]]以外の全てのサービスエリア (SA)・パーキングエリアに設置されている。このうち[[守谷サービスエリア|守谷SA]]・[[友部サービスエリア|友部SA]]と、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]化されている[[千代田パーキングエリア|千代田PA]]・[[日立中央パーキングエリア|日立中央PA]]・[[関本パーキングエリア|関本PA]](下り線)は24時間営業を行っている。[[レストラン]]は守谷SA(上り線)・友部SA(下り線)に設置されている。また、[[ガソリンスタンド]]は全てのサービスエリアに設置されており、全て24時間営業である。 ==== トンネルと橋 ==== {{出典の明記|date=2012年11月11日 (日) 07:59 (UTC)|section=1|ソートキー=道高しようはん}}<!--トンネルと橋梁の延長に対して信頼できる情報源による記述を求めます。--> {{Vertical_images_list |幅=200px |枠幅=200px |1=Joban expressway Misato tunnel 001.jpg |2=三郷トンネル下り線入口 |3=SukegawaTN.JPG |4=助川トンネル上り線入口 }} {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- !トンネル・橋梁名称 !延長 !区間 !備考 |- |三郷トンネル |246 m |三郷JCT - 三郷料金所 | |- |江戸川橋 |415 m<ref name="SAPA1920">昭文社編集部『全国SA・PA道の駅ガイド'19-'20』昭文社、2019年。ISBN 978-4-398-28799-1</ref> |三郷料金所 - 流山IC | |- |利根川橋 |775 m |柏IC - 守谷SA | |- |小貝川橋 |233 m<ref name="SAPA1920" /> |谷和原IC - 谷田部IC | |- |恋瀬川橋 |234 m |千代田石岡IC - 石岡小美玉SIC | |- |涸沼川橋 |169 m |岩間IC - 友部SA | |- |田野高架橋 |454 m |田野PA - 水戸北SIC | |- |那珂川橋 |499 m<ref name="SAPA1920" /> |水戸北SIC - 那珂IC | |- |久慈川橋 |680 m |東海PA - 日立南太田IC | |- |[[日立トンネル]] |上り:2,439 m<br />下り:2,442 m |rowspan = '8'|日立南太田IC - 日立中央IC/PA |常磐道最長のトンネル |- |大久保第一トンネル |上り:99 m<br />下り:216 m | |- |大久保第二トンネル |上り:187 m<br />下り:301 m | |- |大久保第三トンネル |上り:1,004 m<br />下り:1,022 m | |- |諏訪第一トンネル |上り:1,078 m<br />下り:1,090 m | |- |諏訪第二トンネル |上り:221 m<br />下り:268 m | |- |成沢トンネル |上り:850 m<br />下り:881 m | |- |助川トンネル |上り:1,811 m<br />下り:1,764 m | |- |平沢トンネル |上り:129 m<br />下り:185 m |rowspan = '4'|日立中央IC/PA - 日立北IC | |- |大雄院トンネル |上り:595 m<br />下り:527 m | |- |鞍掛トンネル |上り:1,866 m<br />下り:1,846 m | |- |小木津トンネル |上り:203 m<br />下り:195 m | |- |十王トンネル |330 m |日立北IC - 高萩IC | |- |関南トンネル |上り:1,369 m<br />下り:1,365 m |rowspan = '2'|北茨城IC - 関本PA | |- |関本トンネル |上り:208 m<br />下り:211 m | |- |好間トンネル |上り:1,250 m<br />下り:1,236 m |rowspan = '2'|いわき中央IC - 四倉PA | |- |[[夏井川橋#常磐自動車道|常磐夏井川橋]] |444 m | |- |大久トンネル |上り:528 m<br />下り:526 m |いわき四倉IC - 広野IC | |- |[[木戸川橋]] |1,392 m |広野IC - ならはPA | |- |[[熊川橋]] |280 m |常磐富岡IC - 大熊IC | |- |[[高瀬川橋]] |1,440 m |常磐双葉IC - 浪江IC | |- |[[小高川橋]] |500 m |rowspan = '3'|浪江IC - 南相馬IC | |- |[[北鳩原川橋]] |173 m | |- |[[原町トンネル]] |750 m |749.5 m |- |[[新田川橋]] |100 m |rowspan = '3'|南相馬IC - 南相馬鹿島SA | |- |[[笹部川橋]] |149 m | |- |[[上真野川橋]] |500 m | |- |[[真野川橋]] |500 m |rowspan = '3'|南相馬鹿島SA - 相馬IC | |- |[[町場川橋]] |100 m | |- |[[宇多川橋 (常磐自動車道)|宇多川橋]] |200 m | |- |} ※ 広野IC - 山元ICは対面通行(暫定2車線) ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center;" !区間 !上り線 !下り線 |- |三郷JCT - 三郷料金所||1 ||1 |- |三郷料金所 - 流山IC||0 ||0 |- |流山IC - 柏IC||4 ||4 |- |柏IC - 日立南太田IC||0 ||0 |- |日立南太田IC - 日立中央IC||8 ||8 |- |日立中央IC - 日立北IC||4 ||4 |- |日立北IC - 高萩IC||1 ||1 |- |高萩IC - 北茨城IC||0 ||0 |- |北茨城IC - 関本PA||2 ||2 |- |関本PA - いわき中央IC||0 ||0 |- |いわき中央IC - 四倉PA||1 ||1 |- |四倉PA - いわき四倉IC||0 ||0 |- |いわき四倉IC - 広野IC||1 ||1 |- |広野IC - 浪江IC||colspan="2" |0 |- |浪江IC - 南相馬IC||colspan="2" |1 |- |南相馬IC - 山元IC||colspan="2" |0 |- |山元IC - 亘理IC||0 ||0 |- !合計 !23 !23 |} 広野IC - 山元ICは暫定2車線であるため、トンネルの本数は上下線で1本となっている。流山IC - 柏ICは正確には橋(シェルター)扱いとなっている。これは、当該区間が住宅地の中を通過するので騒音防止や、天然記念物の[[オオタカ]]保護のため、地面を掘り下げた半地下化構造の上に延長約1.5 kmにわたりトンネル状に蓋をかけ、蓋の上部に公園を設置しているためである<ref name="iharaki19841225">「柏 - 三郷、一月に開通 常磐自動車道 万博客輸送へ対応」『いはらき』茨城新聞社、1984年12月25日付日刊、1面。</ref>。これは、国内高速道路では初となる道路構造となったほか、海抜マイナス2メートルという建設当時としては最も低い場所を通る高速道路となった。 === 道路管理者 === 2005年10月の日本道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の営業範囲となっており、[[いわき勿来インターチェンジ|いわき勿来IC]]を境に南側を[[東日本高速道路関東支社|関東支社]]が、北側を[[東日本高速道路東北支社|東北支社]]がそれぞれ管轄している。 * NEXCO東日本関東支社 ** 谷和原管理事務所:三郷IC - 岩間IC ** 水戸管理事務所:岩間IC - いわき勿来IC * NEXCO東日本東北支社 ** いわき管理事務所:いわき勿来IC - 新地IC ** 仙台東管理事務所:新地IC - 亘理IC ==== ハイウェイラジオ ==== * 三郷(三郷JCT - 三郷料金所) * 守谷(守谷SA - 谷和原IC) * 桜土浦(桜土浦IC - 土浦北IC) * 石岡(美野里PA - 岩間IC付近) * 水戸(友部JCT - 水戸IC) * いわき湯本(いわき勿来IC - いわき湯本IC) * 四倉(いわき中央IC - いわき四倉IC) * 双葉(大熊IC - 浪江IC) * 新地(新地IC - 山元南SIC) [[識別信号|コールサイン]]は関東支社(三郷 - 水戸)、東北支社(いわき湯本 - 新地)ともに全ての局で「ハイウェイラジオ常磐道○○」(例:三郷であれば「ハイウェイラジオ常磐道三郷」)と放送される。 === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!平成11(1999)年度!!|平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 三郷JCT - 三郷TBSIC || rowspan="2" | 103,089 || rowspan="2" | {{0}}97,122 || 101,208 || 104,146 || 103,498 |- | 三郷TBSIC - 流山IC ||103,058 || 106,871 || 107,235 |- | 流山IC - 柏IC || {{0}}96,530 || {{0}}89,731 || {{0}}94,187 || {{0}}96,842 || {{0}}89,881 |- | 柏IC - 谷和原IC || {{0}}78,052 || {{0}}73,342 || {{0}}79,978 || {{0}}81,283 || {{0}}71,300 |- | 谷和原IC - 谷田部IC || {{0}}55,615 || {{0}}53,890 || {{0}}62,664 || {{0}}65,821 || {{0}}55,661 |- | 谷田部IC - つくばJCT || rowspan="2" | {{0}}49,866 || {{0}}50,506 || {{0}}59,744 || {{0}}62,563 || {{0}}52,557 |- | つくばJCT - 桜土浦IC || {{0}}50,573 || {{0}}60,266 || {{0}}65,574 || {{0}}61,021 |- | 桜土浦IC - 土浦北IC || {{0}}46,815 || {{0}}46,836 || {{0}}59,261 || {{0}}66,277 || {{0}}59,657 |- | 土浦北IC - 千代田石岡IC || {{0}}48,903 || {{0}}49,465 || {{0}}61,065 || {{0}}67,082 || {{0}}59,658 |- | 千代田石岡IC - 石岡小美玉SIC ||rowspan="2" | {{0}}44,757|| rowspan="2"|46,463 || rowspan="2"|{{0}}57,030 || {{0}}63,809 || {{0}}57,349 |- | 石岡小美玉SIC - 岩間IC || {{0}}62,326 || {{0}}54,820 |- | 岩間IC - 友部SASIC || rowspan="3" | {{0}} 35,984 || {{0}}42,382 || {{0}}54,268 || {{0}}59,961 || {{0}}52,364 |- | 友部SASIC - 友部JCT || {{0}}42,044 || {{0}}53,350 || {{0}}58,678 || {{0}}50,847 |- | 友部JCT - 水戸IC || {{0}}29,680 || {{0}}39,301 || {{0}}43,973 || {{0}}37,265 |- | 水戸IC - 水戸北SIC || rowspan="2" | {{0}}26,993 || rowspan="2" | {{0}}24,432 || {{0}}34,278 || {{0}}38,564 || {{0}}32,867 |- | 水戸北SIC - 那珂IC || {{0}}31,164 || {{0}}34,091 || {{0}}30,109 |- | 那珂IC - 東海SIC || rowspan="2" | {{0}}24,963 || rowspan="2" | {{0}}20,996 || {{0}}27,136 || {{0}}30,632 || {{0}}25,795 |- | 東海SIC - 日立南太田IC || {{0}}27,205 || {{0}}30,690 || {{0}}25,521 |- | 日立南太田IC - 日立中央IC || {{0}}22,653 || {{0}}24,267 || {{0}}28,998 || {{0}}31,776 || {{0}}25,743 |- | 日立中央IC - 日立北IC || {{0}}22,142 || {{0}}22,028 || {{0}}24,995 || {{0}}27,680 || {{0}}22,669 |- | 日立北IC - 高萩IC || {{0}}16,973 || {{0}}17,336 || {{0}}19,587 || {{0}}23,017 || {{0}}18,662 |- | 高萩IC - 北茨城IC || {{0}}14,499 || {{0}}14,941 || {{0}}16,853 || {{0}}20,555 || {{0}}16,637 |- | 北茨城IC - いわき勿来IC || {{0}} 12,151|| {{0}}12,409 || {{0}}13,820 || {{0}}17,866 || {{0}}14,281 |- | いわき勿来IC - いわき湯本IC || || {{0}}10,602 || {{0}}11,685 || {{0}}16,861 || {{0}}13,081 |- | いわき湯本IC - いわきJCT || || {{0}}11,943 || {{0}}13,158 || {{0}}20,624 || {{0}}16,042 |- | いわきJCT - いわき中央IC || || {{00}}8,285 || {{00}}9,191 || {{0}}17,985 || {{0}}14,555 |- | いわき中央IC - いわき四倉IC || || {{00}}3,569 || {{00}}3,951 || {{0}}13,047 || {{0}}11,945 |- | いわき四倉IC - 広野IC ||rowspan="3" | 調査当時未開通 || {{00}}3,388 || {{00}}3,957 || {{0}}14,244 || {{0}}14,421 |- | 広野IC - ならはPASIC || rowspan="2"| {{00}}2,135 || rowspan="2"| {{00}}2,715 || rowspan="2"| {{0}}10,379 || {{0}}12,149 |- | ならはPASIC - 常磐富岡IC || {{0}}11,828 |- | 常磐富岡IC - 大熊IC || rowspan="9" colspan="3"|調査当時未開通 || rowspan="3"| {{00}}9,604 || {{0}}10,641 |- | 大熊IC - 常磐双葉IC || {{00}}9,719 |- | 常磐双葉IC - 浪江IC || {{0}}10,267 |- | 浪江IC - 南相馬IC || {{00}}9,057 || {{00}}9,364 |- | 南相馬IC - 南相馬鹿島SASIC || {{0}}12,463 || {{0}}11,640 |- | 南相馬鹿島SASIC - 相馬IC || {{0}}12,764 || {{0}}11,962 |- | 相馬IC - 新地IC || {{0}}11,775 || {{0}}10,341 |- | 新地IC - 山元南SIC || rowspan="2"| {{0}}12,347 || {{0}}10,915 |- | 山元南SIC-山元IC || {{0}}11,223 |- | 山元IC - 鳥の海PASIC || rowspan="2"colspan="2"|調査当時未開通 || rowspan="2" | {{00}}4,528 || rowspan="2" | {{0}}15,512 || {{0}}13,815 |- | 鳥の海PASIC - 亘理IC || {{0}}14,889 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)・[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]・[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]・[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]〈国土交通省ウェブサイト〉より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルスの影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 2002年度 * 区間別日平均交通量 ** 三郷 - 広野IC平均:3万4252台(前年度比92.2%) ** 最大:三郷 - 流山IC 10万<!--0-->633台(前年度比97.7%) ** 最小:いわき四倉IC - 広野IC 2,758台(前年度比83.5%) * 総交通量 ** 年間:6167万2629台(前年度比98.0%) ** 日平均:16万8966台 * 料金収入 ** 年間:7010億729万1000円(前年度比98.3%) ** 日平均:1億9207万5000円 == 東日本大震災、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響 == 東日本大震災、とりわけ福島第一原発事故の影響により工事区間への立ち入りが厳しく制限された関係で、[[2011年]]度(平成23年度)中に開通を予定していた常磐富岡IC - 南相馬IC(延長32.7 km)、および[[2012年]]度(平成24年度)の開設を予定していたならはPAは、施工スケジュールの見直しを余儀なくされ、供用開始は[[2014年]]度(平成26年度)までずれこんだ。 同原発から半径20 kmの[[警戒区域]]外については震災から約3か月後の2011年5月に建設が再開されたものの、警戒区域内においては、浪江IC - 南相馬IC(延長18.4 km)が1年後、常磐富岡IC - 浪江IC(延長14.3 km)については2年後の工事再開となった<ref name="建設通信新聞20141209">{{Cite news|title=東日本復興特報版 -“希望のみち”来春に全線供用-|newspaper=建設通信新聞|publisher=日刊建設通信新聞社|date=2014-12-09}}</ref>。震災前に工事中だった箇所の盛土や構造物は、地震の揺れによる損傷に加えて長期間放置されたことによって雨水による斜面の[[侵食|浸食]]や[[鉄筋]]の[[錆]]などの被害が拡大し、急ピッチで復旧作業が進められた<ref name="建設通信新聞20141209" />。しかし、この頃には常磐道以外でも被災地の復旧工事が本格化したことで慢性的に作業員が不足し、放射能の影響で作業時間の制限や作業員の離脱も相次いで継続的な作業に支障をきたした<ref name="建設通信新聞20141209" />。また[[コンクリート]]など建設資材も不足し、同じく放射能の懸念から資材搬入が拒否されることもあった<ref name="建設通信新聞20141209" />。工事再開が最も遅れた羽黒川橋では、打設予定日の悪天候に備えてエアドームや単管パイプでの架設屋根を設置するなどして乗り切った<ref name="建設通信新聞20141209" />。道路舗装用の砕石は遠く[[静岡県]]や[[三重県]]から調達し、受け入れ港である[[相馬港]]では周辺住民協力のもと稼働時間を延長するなどして対処した<ref name="建設通信新聞20141209" />。 除染作業は[[環境省]]直轄のもと、2012年3月から7月まで先行事業として「常磐自動車道警戒区域内における除染モデル実証事業」が、同年[[12月3日]]から[[2013年]](平成25年)[[6月28日]]にかけて本格的に「常磐自動車道除染等工事」が実施され<ref name="浪江町20131001">{{Cite web|和書|title=常磐自動車道における除染結果について - 浪江町ホームページ |url=http://www.town.namie.fukushima.jp/site/shinsai/namie-1002.html |website= |date=2013-10-01 |access-date=2023-02-21 |publisher=[[浪江町]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20131004220251/http://www.town.namie.fukushima.jp/site/shinsai/namie-1002.html |archive-date=2013-10-04}}</ref>、その結果低減率19 - 55%が確認された。この結果について環境省は、2013年度内に開通を目指していた広野IC - 常磐富岡IC(延長16.4 km)については「概ね当初の方針どおり線量を低減」とし、その他の区間についても「一部で線量の高い区間があるものの一定程度低減」としている<ref name="環境省20130927">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=17181|title=報道発表資料 -常磐自動車道における除染の結果について-|website=環境省公式ウェブサイト|publisher=環境省|date=2013-09-27|accessdate=2014-12-21}}</ref>。 その後、除染の達成状況を確認するため、2014年(平成26年)10月に同省がモニタリングカーによる走行サーベイを実施したところ、浪江IC - 南相馬ICでは2014年10月21日測定時点で平均0.6 - 0.7 [[シーベルト#線量当量率|µSv/h]]、広野IC - 常磐富岡ICでは2014年10月29日測定時点で平均1.3 - 1.5 µSv/h、常磐富岡IC - 浪江ICでは2014年10月21日測定時点で平均0.5 - 2.4 µSv/hと、同省が常磐道での除染方針の目標で挙げた3.8 µSv/h以下(9.5 µSv/h超の線量の場合はおおむね9.5 µSv/h以下)を下回ることが確認された<ref name="環境省20141204">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/press/18975.html|title=報道発表資料 -常磐自動車道(浪江~南相馬)における除染方針の達成状況について-|website=環境省公式ウェブサイト|publisher=環境省|date=2014-12-04|accessdate=2014-12-08}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]]:東北地方太平洋沖地震の発生により全線通行止め。このうち、那珂IC - 水戸ICの上り線の一部区間で本線が崩壊する被害があった。他の地域でも路肩部分の崩壊や余震による崩壊はあったが、本震により本線部分まで被害が出たのは唯一である。 ** [[3月16日]]:三郷IC/JCT - 水戸IC復旧。 ** [[3月21日]]:水戸IC - いわき中央IC復旧。 ** [[3月24日]]:山元IC - 亘理IC復旧。 ** [[4月1日]]:いわき中央IC - いわき四倉IC復旧。 ** [[4月28日]]:いわき四倉IC - 広野IC復旧。これにより広野IC - 常磐富岡ICを除く開通区間が応急復旧完了。 ** [[6月20日]]:東日本大震災の被災者支援、および福島第一原発事故による避難者や復旧・復興支援を目的に、一部車両を対象として[[高速道路無料化#東日本大震災に伴う東北地方の無料措置|通行料金を無料とする措置]]を水戸IC - 広野ICおよび山元IC - 亘理ICで開始。 ** [[8月31日]]:中型車以上の車両について、通行料金を無料とする措置を打ち切り。 ** [[9月5日]]:広野IC - 常磐富岡ICを除く開通区間で東日本大震災の本復旧工事を開始。 ** [[12月1日]]:東日本大震災の復興支援として、全車種について無料通行措置を実施開始。 * [[2012年]](平成24年) ** [[3月31日]]:全車種に対する無料通行措置が終了。 ** 4月1日:福島第一原発事故による警戒区域などからの避難者が乗車する車両([[ETC]]車を除く)の無料措置を実施開始。 ** [[4月8日]]:南相馬IC - 相馬ICが開通。同区間は全車無料措置のため2014年12月6日の相馬IC - 山元IC開通まで無料通行となり<ref>{{Cite web|和書|title=常磐自動車道 南相馬IC~相馬IC間における無料措置の継続について {{!}} NEXCO東日本 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2014/0310/00006605.html |website=NEXCO 東日本 |access-date=2023-02-21 |language=ja}}</ref>、最高速度も60 km/hに規制されていた。 ** [[12月22日]]:広野IC - 常磐富岡ICおよび南相馬IC - 相馬ICを除く開通区間の本復旧工事が完了。 * [[2014年]](平成26年) ** [[2月22日]]:東日本大震災以来通行止めとなっていた広野IC - 常磐富岡ICが3年ぶりに再開通(通行再開)<ref>{{Cite web|和書|title=福島原発周辺の常磐道、2月末に再開通 震災後の通行止め区間なくなる - SankeiBiz(サンケイビズ) |url=http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/140110/cpb1401101210003-n1.htm |website=[[SankeiBiz]] |date=2014-01-10 |access-date=2023-02-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140111100341/http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/140110/cpb1401101210003-n1.htm |archive-date=2014-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=時事ドットコム:2月末までに再開通=震災で通行止めの常磐道 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2014011000422 |website=時事ドットコム |date=2014-01-10 |access-date=2023-02-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140111101754/http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2014011000422 |archive-date=2014-01-11}}</ref>。<!--これにより震災以前の開通区間は全て復旧した。--> ** [[12月6日]]:南相馬IC - 相馬ICの全車無料措置が終了。 * [[2016年]](平成28年)[[3月31日]]:福島第一原発事故警戒区域などからの避難者が乗車する車両の無料措置が終了<ref>{{Cite web|和書|title=原発事故による警戒区域等から避難されている方に対する高速道路の無料措置4月以降の取扱いについて {{!}} NEXCO 西日本 企業情報 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h26/0310/ |website=corp.w-nexco.co.jp |access-date=2023-02-21}}</ref>。 <!--震災と直接関係しない事象については省略--> == 地理 == === 通過する自治体 === * [[埼玉県]] ** [[三郷市]] - [[吉川市]] * [[千葉県]] ** [[流山市]] - [[柏市]] * [[茨城県]] ** [[守谷市]] - [[つくばみらい市]] - [[つくば市]] - [[土浦市]] - つくば市 - 土浦市 - [[かすみがうら市]] - [[石岡市]] - [[小美玉市]] - [[笠間市]] - [[水戸市]] - [[那珂市]] - [[那珂郡]][[東海村]] - [[日立市]] - [[常陸太田市]] - 日立市 - [[高萩市]] - [[北茨城市]] * [[福島県]] ** [[いわき市]] - [[双葉郡]][[広野町]] - 双葉郡[[楢葉町]] - 双葉郡[[富岡町]] - 双葉郡[[大熊町]] - 双葉郡[[双葉町]] - 双葉郡[[浪江町]] - [[南相馬市]] - [[相馬市]] - [[相馬郡]][[新地町]] * [[宮城県]] ** [[亘理郡]][[山元町]] - 亘理郡[[亘理町]] === 接続する高速道路 === * [[ファイル:Shuto Urban Expwy Sign 6-Misato.svg|26px]] [[首都高速6号三郷線]](三郷JCTで直結) * {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]](三郷JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]](つくばJCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]](友部JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]](いわきJCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E13}} [[東北中央自動車道]]([[相馬福島道路]]、相馬ICで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E6}} [[仙台東部道路]](亘理ICで直結) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} === 参考文献 === * {{Cite journal ja-jp|author=いばらき建設技術研究会;立原信永|year= 2002|title=茨城の道路づくり|url= http://www.jsce-ibaraki.com/publication.htm|format= PDF|journal=いばらきの建設文化を語る懇談会 -現場における建設技術の継承を目指して-|publisher=公益社団法人土木学会関東支部茨城会|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|title=設計要領 第五集 交通管理施設|date=2017-07|publisher=株式会社高速道路総合技術研究所|ref=harv}} == 関連項目 == * [[関東地方の道路一覧]] * [[東北地方の道路一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.e-nexco.co.jp/road_info/open_schedule/tohoku/tohoku14.html 常磐自動車道] * [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構] {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{3環状9放射}} {{常磐自動車道}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しようはんしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:高速自動車国道]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:東北地方の道路]] [[Category:関東地方の道路]] [[Category:常磐自動車道|*しようはんしとうしやとう]]
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ひかり (列車)
ひかりは、東海旅客鉄道(JR東海)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道新幹線・山陽新幹線で運転している特別急行列車の愛称である。案内表示では赤色が用いられる。 1964年(昭和39年)10月1日の東海道新幹線が開通した当初から、当時の日本国有鉄道(国鉄)により、東京 - 新大阪間を途中名古屋駅・京都駅のみに停車する“速達型列車”として誕生した。運行開始当時は、各駅に停車する「こだま」とともに「夢の超特急」とも称された。その後1972年(昭和47年)3月15日の山陽新幹線岡山駅開業、1975年(昭和50年)3月10日の山陽新幹線博多駅延伸に応じて運行区間を延ばし自由席も作られ、長く東海道・山陽新幹線の全区間を走行する速達型列車として運転されていた。 その一方で山陽新幹線区間では開業当初から途中の停車駅が多い列車と少ない列車が設定され、本数も「こだま」の運行本数を大きく上回るようになり、列車によってはおなじ「ひかり」でありながら“速達型列車”と“途中駅通過型列車”の二つの側面を持つようになった。一時期は京都 - 博多間が各駅停車となる「ひかり」さえ設定されていたほどである。 国鉄の分割民営化以後は東海道新幹線を担当するJR東海と山陽新幹線を担当するJR西日本との共同運行により、基本的には国鉄時代の運行体勢を維持して運行されてきたが、1992年の「のぞみ」運行開始後は速達型列車の役割を「のぞみ」にシフトさせることとなり、2003年10月以降は速達型列車である「のぞみ」を補完する“途中駅通過型列車”としての役割を主に担うようになっている。2023年現在は東京 - 博多間を直通する「ひかり」は存在せず、東京発着列車は最遠でも広島駅から(上り1本のみ)、博多発着の「ひかり」は最遠でも名古屋駅から(下り1本のみ)の運行となっている(詳細後述)。なお、「ジャパン・レール・パス」および「フルムーン夫婦グリーンパス」では「のぞみ」に乗車できないため、同切符を所持している旅行客にとっては当列車が東海道新幹線における最速達列車として機能している。 上述のように、東海道・山陽新幹線では長きにわたって主力列車の名称として用いられてきたこともあり、かつては「(東海道・山陽)新幹線=『ひかり』」とのイメージが強く、東海道・山陽新幹線の第二世代車両である100系新幹線の俗称、あるいは第三世代車両である300系新幹線開発のために製作されたモックアップ(スーパーひかりモデル)および「のぞみ」の名称決定前の仮称として、いずれも「スーパーひかり」の呼称が用いられていた。 東海道新幹線で運行される特急列車の名称は開業前に公募で選ばれ、応募総数約559,000通のうち、1位が「ひかり」で約20,000票、そして「はやぶさ」、「いなづま」、「はやて」、「富士」、「流星」、「あかつき」、「さくら」、「日本」、「こだま」と続いた。10位から下には現在使用されている「のぞみ」などもあったという。「光」と「木霊」(音)の組み合わせで、列車の速度差を表したとも言われる。光速の次が音速ならペアを組ませるのに丁度良いということもあった。 なお、計画時には列車名は設定せずに個々の列車を航空機のように列車番号だけで区別する予定だったが、「名前が欲しい」という要望が多数来たために列車名を付けることになった。 「ひかり」には国鉄分割民営化以降、山陽新幹線を中心にさまざまなバリエーションが登場している。これらはいずれも「ひかり」の愛称であり、本来の列車名はいずれも「ひかり」である。以下は特記無ければ運転区間は山陽新幹線に限る。 2023年3月18日ダイヤ改正現在のものである。 2020年3月14日のダイヤ改正及び全列車285km/h化に伴う「のぞみ」の増発で、「ひかり」の号数が400号台を廃止しすべて500号台に統一され、500号台の一部が600号台に変更。 東海道区間における日中は1時間あたり東京 - 新大阪間1本(東京33分発、新大阪18分発)と東京 - 岡山間1本(東京03分発、岡山36分発)の計2本が基本となっている。朝の一部に東京・新横浜・名古屋 - 広島間の列車と、名古屋 - 博多間の列車が設定されている。山陽区間では、前述の東海道新幹線直通列車とは別に、8両編成「ひかり」が新下関→岡山間で1本、16両編成「ひかり」が新大阪 - 博多間で1往復設定されている。 なお、2009年3月14日以降、東海道新幹線から山陽新幹線広島以西に直通する「ひかり」は運転されていなかったが、2013年3月16日のダイヤ改正により、朝の名古屋始発広島行きのひかり1本が博多駅までの運転となり、4年ぶりに東海道新幹線から広島以西に直通するひかりが復活した。 東京から福井方面へは、東京 - 新大阪間の「ひかり」が米原駅で特急「しらさぎ」との接続を図っており、北陸新幹線「かがやき」が金沢駅で接続を図っている「しらさぎ」や「ダイナスター」と比較すると、時間的には(乗り継ぎが順調な場合同士を比較すれば)ほぼ同等だが、運賃/料金面では東海道経由の方が安価である。 主要駅間の標準所要時間は以下の通り。途中停車駅の差異や「のぞみ」の待避など、列車ごとの多少の差がある。 車両の配置区所はJR東海所有車が東京交番検査車両所と大阪交番検査車両所、JR西日本所有車が博多総合車両所である。なお、N700系(8両編成)は九州旅客鉄道(JR九州)熊本総合車両所所属の編成が使用されることもある。 過去に以下の特別企画乗車券が発売されていたが、2013年11月現在いずれも廃止されており、取り扱いを行っていない。 乗車日の1か月前から1週間前まで発売される、発売期間・席数限定の「ひかり」指定席専用の片道「割引きっぷ」である。普通車指定席用のほかに、新大阪発着のみグリーン車用がある。こども用はない。予約列車や利用区間の変更・途中下車・乗継割引の適用はできない。 予約した列車に乗り遅れた場合は乗車券のみ有効で、別途特急券を購入する必要がある。ただし当日後続の「ひかり号」「こだま号」の普通車自由席に限り乗車できる。 2013年10月31日をもって取り扱いを終了した。 出発日の3週間前から1週間前に発売される席数限定の「割引きっぷ」であり、2007年7月から2008年3月まで発売された。区間は西明石、新神戸 - 新横浜、東京(品川)であり全区間ともに発売額は往復2万円。すべての「ひかり」と「のぞみ」60号(新神戸駅6:17分発)が利用可能。また「スーパー」の名の通り、エクスプレス予約などを遥かに超える割引率(通常期の約36 - 40%引)が設定されていた。このきっぷが発売された背景には神戸 - 羽田便との競合があった。 第二次世界大戦終結まで、朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)と南満洲鉄道(満鉄)の釜山 - 奉天(現・瀋陽)・新京(現・長春)・ハルビン間に、急行「ひかり」が運行されていた。 毎日南行北行とも各1回運転。947.2kmを約21時間で結んだ。平均時速約45km/h。列車編成は、標準軌用大型荷物車・三等車・三等寝台車・食堂車・二等寝台車・一等寝台展望車の各1両、計6両編成。蒸気機関車が牽引した。最後部に連結された展望車室は長旅を慰めたという。同区間には急行「のぞみ」も運行していた。 戦後、「ひかり」の名は九州を走る準急列車・急行列車の名称として使われた。キハ55系(1961年以降はキハ58系も併用)を使用した気動車による最初の急行として知られる。 新幹線の名前に「ひかり」が採用され、名前を譲ることになった急行「ひかり」は2系統に分けられ、博多・門司港 - 小倉 - 西鹿児島間は「にちりん」、博多 - 大分 - 熊本間は「くさせんり」に改称された。なお「くさせんり」については、2011年現在では「九州横断特急」の一部にあたる。また、当初の運行区間は「ソニック」の一部の区間に相当する。
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ひかりは、東海旅客鉄道(JR東海)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道新幹線・山陽新幹線で運転している特別急行列車の愛称である。案内表示では赤色が用いられる。
{{Otheruses|新幹線の列車|かつて朝鮮および満洲で運行されていた急行列車|朝鮮総督府鉄道#急行「ひかり」 |かつて博多 - 大分間で運行されていた急行列車|にちりん (列車)#観光列車「ひかり」→「にちりん」と周辺列車群}} {{改名提案|ひかり (新幹線)|ひかり (1964年運行開始の列車)|date=2023年12月}} {{Infobox 列車名 |列車名=ひかり |画像=JRC N700 series Z28.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[新幹線N700系電車|N700系]] |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[静岡県]]・[[愛知県]]・[[岐阜県]]・[[滋賀県]]・[[京都府]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[岡山県]]・[[広島県]]・[[山口県]]・[[福岡県]] |前身=特急「[[こだま (列車)|こだま]]」[[つばめ (列車)|「つばめ」「はと」]][[東海道本線優等列車沿革|その他]] |運行開始=[[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月1日]]<ref group="注">運行開始日は、新幹線の愛称としてのものである。</ref> |運行終了= |後継=新幹線「[[さくら (新幹線)|さくら]]」(山陽新幹線内) |運営者=[[東海旅客鉄道]](JR東海)<br />[[西日本旅客鉄道]](JR西日本) |旧運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄) |平均乗客数= |起点=[[東京駅]]ほか多数 |停車地点数= |終点=[[博多駅]]ほか多数 |営業距離=1069.1 [[キロメートル|km]](東京 - 博多間)<ref group="注">実キロ。東京 - 博多間の営業キロは1174.9 [[キロメートル|km]]である。</ref> |平均所要時間= [[#所要時間]]を参照 |運行間隔= |列車番号=号数+A<br/>2000A+号数(山陽新幹線内で運用が完結する列車) |使用路線=JR東海:[[東海道新幹線]]<br />JR西日本:[[山陽新幹線]]<br />([[東海道・山陽新幹線]]) |クラス=[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応=11号車 |座席=グリーン車[[座席指定席|指定席]]<br />普通車指定席<br />普通車[[自由席]] |その他= |車両=[[#使用車両・編成]]を参照 |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]] |最高速度=285 [[キロメートル毎時|km/h]](東海道新幹線)<br />300 km/h(山陽新幹線) |線路所有者= |ルート番号= |備考= }} [[File:Central Japan Railway - Series 700-0 - Destination Sign - 01.JPG|thumb|行先表示機などにおける案内では赤色が用いられる。]] '''ひかり'''は、[[東海旅客鉄道]](JR東海)および[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が[[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]]で運転している[[特別急行列車]]の[[列車愛称|愛称]]である。案内表示では赤色が用いられる<ref name="asahi_20101213">{{Cite news |author=佐藤亜季 |title=車内照明に新幹線表示板… 鉄道もLED化進行中 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2010-12-13 |url=https://www.asahi.com/airtravel/OSK201012080168.html |agency=[[朝日新聞社]] |accessdate=2018-01-21}}</ref>。 == 概要 == [[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月1日]]の[[東海道新幹線]]が開通した当初から、当時の[[日本国有鉄道]](国鉄)により、[[東京駅|東京]] - [[新大阪駅|新大阪]]間を途中[[名古屋駅]]・[[京都駅]]のみに停車する“速達型列車”として誕生した。運行開始当時は、各駅に停車する「[[こだま (列車)|こだま]]」とともに「夢の[[超特急]]」とも称された。その後[[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]の[[山陽新幹線]][[岡山駅]]開業、[[1975年]](昭和50年)[[3月10日]]の山陽新幹線[[博多駅]]延伸に応じて運行区間を延ばし自由席も作られ、長く東海道・山陽新幹線の全区間を走行する速達型列車として運転されていた。 その一方で山陽新幹線区間では開業当初から途中の停車駅が多い列車と少ない列車が設定され、本数も「こだま」の運行本数を大きく上回るようになり、列車によってはおなじ「ひかり」でありながら“速達型列車”と“途中駅通過型列車”の二つの側面を持つようになった。一時期は京都 - 博多間が各駅停車となる「ひかり」さえ設定されていたほどである。 国鉄の分割民営化以後は東海道新幹線を担当するJR東海と山陽新幹線を担当するJR西日本との[[共同運行]]により、基本的には国鉄時代の運行体勢を維持して運行されてきたが、1992年の「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」運行開始後は速達型列車の役割を「のぞみ」にシフトさせることとなり、2003年10月以降は速達型列車である「のぞみ」を補完する“途中駅通過型列車”としての役割を主に担うようになっている。2023年現在は東京 - 博多間を直通する「ひかり」は存在せず、東京発着列車は最遠でも[[広島駅]]から(上り1本のみ)、博多発着の「ひかり」は最遠でも名古屋駅から(下り1本のみ)の運行となっている(詳細後述)。なお、「[[ジャパンレールパス|ジャパン・レール・パス]]」および「[[フルムーン夫婦グリーンパス]]」では「のぞみ」に乗車できないため、同切符を所持している旅行客にとっては当列車が東海道新幹線における最速達列車として機能している。 上述のように、東海道・山陽新幹線では長きにわたって主力列車の名称として用いられてきたこともあり、かつては「(東海道・山陽)新幹線=『ひかり』」とのイメージが強く、東海道・山陽新幹線の第二世代車両である[[新幹線100系電車|100系新幹線]]の俗称、あるいは第三世代車両である[[新幹線300系電車|300系新幹線]]開発のために製作された[[木型|モックアップ]]([[スーパーひかりモデル]])および「のぞみ」の名称決定前の仮称として、いずれも「スーパーひかり」の呼称が用いられていた。 === 列車名の由来 === 東海道新幹線で運行される特急列車の名称は開業前に公募で選ばれ、応募総数約559,000通のうち、1位が「ひかり」で約20,000票、そして「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」、「いなづま」、「[[はやて (列車)|はやて]]」、「富士」、「流星」、「あかつき」、「[[さくら (新幹線)|さくら]]」、「日本」、「[[こだま (列車)|こだま]]」と続いた。10位から下には現在使用されている「のぞみ」などもあったという。「[[光]]」と「[[木霊]]」([[音]])の組み合わせで、列車の速度差を表したとも言われる。[[光速]]の次が[[音速]]ならペアを組ませるのに丁度良いということもあった。 なお、計画時には列車名は設定せずに個々の列車を[[航空機]]のように[[列車番号]]だけで区別する予定だったが、「名前が欲しい」という要望が多数来たために列車名を付けることになった。 === さまざまなバリエーション === 「ひかり」には国鉄分割民営化以降、山陽新幹線を中心にさまざまなバリエーションが登場している。これらはいずれも「ひかり」の愛称であり、本来の列車名はいずれも「ひかり」である。以下は特記無ければ運転区間は山陽新幹線に限る。 ; [[ウエストひかり]] : 0系6両または12両の専用編成により運行された、山陽区間限定運行の「ひかり」。普通車の座席は横2+2配列で、ビュフェを連結、また一時期シネマカーを連結したものもあった。最高速度は220km/h。1988年3月13日に1日4往復で運行を開始し、2000年4月21日に運行を終了した<ref name="交通871222">{{Cite news |title=JR旅客6社と貨物 新列車ダイヤが確定 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-12-22 |page=1 }}</ref>。 ; [[グランドひかり]][[File:Grand-shokudo.jpg|200px|thumb|「グランドひかり」食堂車]] : JR西日本所有の100N系(100系3000番台)を用いた列車で、JR東海所有の100系X・G編成と異なり2階建て車両を中間に4両連結していた。最高速度は東海道区間220[[キロメートル毎時|km/h]]、山陽区間230km/h。新大阪 - 博多間を最短2時間49分(停車駅:岡山駅・広島駅・小倉駅)で結んだ。1989年3月11日に1日2往復で運行を開始し、最盛期には1日8往復まで拡大したものの、2002年11月23日に運行を終了した(食堂車については2000年3月10日をもって営業を休止)。 ; シャトルひかり : 本来は山陽区間用「こだま」に用いられる0系6両R編成を用いた列車。岡山 - 博多間や広島 - 博多間では各駅に停車していた。1991年3月16日に1日2往復で登場し、1997年11月28日に消滅した。 ; ウィークエンドひかり : その名の通り週末の金曜と休日にのみ運転された「ひかり」<ref name="kotsu19920228">{{Cite news |title=92・3ダイヤ 話題を追って(1) JR西日本 ウィークエンドひかり |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-02-28 |page=1 }}</ref>。週末自宅に戻る単身赴任者向けに1992年に登場したもので、全席自由席としていた<ref name="kotsu19920228"/>。車両は0系R編成6両を使用。運行区間は下りの新大阪 → 広島間のみ(一部は博多行き。この場合16両編成が使用されることがあった)。 ; ファミリーひかり : 0系6両R編成のうち、家族向けの改造を施した専用編成(R2, R22, R24編成)を用いた「ひかり」。3号車はビュフェを撤去し、プレイルーム「こどもサロン」を設置した。繁忙期にのみ運転され、全車指定席であった。1995年7月21日に初登場<ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=185 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。 : 登場当初はR22編成の客室を遊戯室「こどもサロン」に改造し、全席指定の臨時「ファミリーひかり」として運用された。R22編成の遊戯室はその後座席復元されたが、1995年12月からはR2, R24編成の2本が正式に「ファミリーひかり」編成となった。この2本はビュフェ室と客室(37形)の一部「こどもサロン」として改造され、[[鉄道の車両番号|車両番号]]も7700番台に変更となった。多客期の臨時には全席指定の「ファミリーひかり」として運行し、その合間は「[[こだま (列車)|こだま]]」にも運用された。また、1997年のアコモ改善の際には「ひかり」であること(ただし、編成番号は「こだま」編成を示すR編成のまま)から優先的にアコモ改善工事が施された。 ; [[ひかりレールスター]] [[File:JR ticket-1.JPG|thumb|ひかり花の万博号の指定席特急券]] : 「ウエストひかり」の後継として2000年3月11日に登場した、700系8両E編成を使用した山陽区間限定運行の「ひかり」。『サルーンシート』と呼ばれる普通車指定席は2+2シートで、他の「ひかり」編成よりもゆとりを持たせてある。4人用コンパートメントもあり、運賃と指定席特急料金のみで利用できる(3・4人利用時)。最高速度は285km/h。最速で新大阪 - 博多間を2時間40分(2009年3月14日以降)で結ぶ。他の派生型「ひかり」と異なり、駅や車内での表示・アナウンスでも「ひかりレールスター」と案内される。 : 九州新幹線全線開業時に700系を置き換える形で運行を開始したN700系8両編成充当列車は「ひかりレールスター」とは案内されず、2023年3月18日現在「ひかりレールスター」自体の本数は上り1本のみにとどまる。 ; 東海道ビジネスひかり : 1980年10月1日ダイヤ改正で登場。当時ひかりは東京 - 新大阪以西での運転かつ東京 - 名古屋間ノンストップが中心だったが、早朝・深夜に東京 - 名古屋間を運転するひかりを静岡・浜松・豊橋にも停車する形で設定するに当たり告知目的で付けられた。その後名称は衰退しているが、2021年現在も早朝・深夜に東京 - 名古屋間を運転する静岡・浜松・豊橋にも停車するひかりは1日2往復の運転がある。 ; ひかり花の万博号 : 1990年に開催された[[国際花と緑の博覧会]]に合わせて、東海道新幹線にてひかり花の万博号が運行された。 == 運行概況 == {{File clip|Shinkansen map 201703 ja.png|width=600|69|12|17|6|w=3100|h=3200|運行区間の路線図}} 2023年3月18日ダイヤ改正現在のものである。 2020年3月14日のダイヤ改正及び全列車285km/h化に伴う「のぞみ」の増発で、「ひかり」の号数が400号台を廃止しすべて500号台に統一され<ref group="注">それは、400号台が東海道新幹線の臨時「のぞみ」に統一したことによる。</ref>、500号台の一部が600号台に変更。 東海道区間における日中は1時間あたり東京 - 新大阪間1本(東京33分発、新大阪18分発)と東京 - 岡山間1本(東京03分発、岡山36分発)の計2本が基本となっている。朝の一部に東京・新横浜・名古屋 - 広島間の列車と、名古屋 - 博多間の列車が設定されている。山陽区間では、前述の東海道新幹線直通列車とは別に、8両編成「ひかり」が新下関→岡山間で1本、16両編成「ひかり」が新大阪 - 博多間で1往復設定されている。 なお、2009年3月14日以降、東海道新幹線から山陽新幹線広島以西に直通する「ひかり」は運転されていなかったが、2013年3月16日のダイヤ改正により、朝の名古屋始発広島行きのひかり1本が博多駅までの運転となり、4年ぶりに東海道新幹線から広島以西に直通するひかりが復活した。 東京から[[福井駅 (福井県)|福井]]方面へは、東京 - 新大阪間の「ひかり」が[[米原駅]]で特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」との接続を図っており、[[北陸新幹線]]「[[かがやき (列車)|かがやき]]」が[[金沢駅]]で接続を図っている「しらさぎ」や「[[ダイナスター (列車)|ダイナスター]]」と比較すると、時間的には(乗り継ぎが順調な場合同士を比較すれば)ほぼ同等だが、運賃/料金面では東海道経由の方が安価である<ref group="注">東海道新幹線の運賃は並行する東海道本線の営業キロと同一になっているのに対し、北陸新幹線の運賃は東京 - 高崎間を除いて新幹線での実キロが用いられることもあって、運賃だけなら北陸経由の方が若干安いが、料金は北陸経由の方が高いため、合計では東海道経由の方が安価となる。</ref><ref group="注">なお、東京から福井を目的地とする場合、東海道新幹線や北陸新幹線による単純な往復以外に、東京都区内発→東京都区内着(北陸新幹線 - 金沢 - 北陸本線 - 福井 - 北陸本線 - 米原 - 東海道新幹線経由。逆方向も可能)の片道(一筆書き一周)乗車券を購入し、途中下車する方法もある([https://kq.hatenablog.com/entry/2015/04/18/151728 参考サイト])。</ref>。 === 停車駅 === {{main2|山陽新幹線で完結する「ひかり(レールスター)」|ひかりレールスター#停車駅}} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+ !号数 !運行本数\駅 !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:1em;"|[[品川駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新横浜駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[小田原駅]] !style="width:1em;"|[[熱海駅]] !style="width:1em;"|[[三島駅]] !style="width:1em;"|[[静岡駅]] !style="width:1em;"|[[浜松駅]] !style="width:1em;"|[[豊橋駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[名古屋駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[岐阜羽島駅]] !style="width:1em;"|[[米原駅]] !style="width:1em;"|[[京都駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新大阪駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新神戸駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[西明石駅]] !style="width:1em;"|[[姫路駅]] !style="width:1em;"|[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] !style="width:1em;"|[[岡山駅]] ![[新倉敷駅]] ! style="width:1em;" |[[福山駅]] ![[新尾道駅]] ![[三原駅]] ![[東広島駅]] ! style="width:1em;" |[[広島駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新下関駅]] !style="width:1em;"|[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] !style="width:1em;"|[[博多駅]] !備考 |- ! rowspan="5" |500 - 522号 !下り5本/上り5本 |●||●||●||-||-||●||●||●||-||●||-||-||●||●||●||●||●||●||● | || | | ||| || || || || |- !下り4本/上り3本 |●||●||●||-||-||-||●||●||-||●||-||-||●||●||●||●||●||●||● | || | | ||| || || || || |- !下り2本/上り2本 |●||●||●||-||●||-||●||●||-||●||-||-||●||●||●||●||●||●||● | || | | ||| || || || || |- !rowspan="2"|上り1本 |●||●||●||←||●||←||●||●||←||●||←||←||●||●||●||●||●||●||● | ●||● |● |● |●||●|| || || |ひかり500号 |- |●||●||●||←||←||←||●||←||●||●||←||←||●||●||●||●||●||●||● | || | | ||| || || |||| |- !531号 !rowspan="3"|下り1本 | || || || || || || || || ||●||●||●||●||●||●||→||●||→||● | →||● |→ |→ |→||●||●||●||●|| | |- !533号 | || ||●||●||→||→||●||→||→||●||→||→||●||●||●||●||●||→||● | →||● |→ |→ |→||●|| || || || |- !535号 | || || || || || || || || ||●||●||●||●||●||●||→||●||●||● | →||● |→ |→ |→||●|| || || || |- ! rowspan="11" |630 - 669号 !下り6本/上り6本 |●||●||●||-||-||-||-||-||●||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- !下り6本/上り6本 |●||●||●||●||-||-||-||-||-||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- !下り1本/上り2本 |●||●||●||-||-||-||●||●||-||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- !下り1本/上り1本 |●||●||●||-||-||●||●||●||-||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- ! rowspan="3" |下り1本 |●||●||●||●||→||→||→||→||●||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- |●||●||●||→||●||→||●||●||→||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- |●||●||●||→||→||→||●||→||→||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- !rowspan="3"|上り1本 |●||●||●||←||←||←||←||●||←||●||●||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- |●||●||●||←||←||←||●||←||←||●||←||●||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- |●||●||●||●||←||←||●||●||←||●||←||←||●||●|| || || || || | || | | ||| || || || || |- !下り3本/上り2本 |●||●||●||-||-||-||●||●||●||●|| || || || || || || || || | || | | ||| || || || ||下り1本は臨時列車 |} * ●:停車 * - ← →:通過 :すべての列車が通過する[[新富士駅 (静岡県)|新富士駅]]、[[掛川駅]]、[[三河安城駅]]、[[厚狭駅]]の4駅と、山陽区間内で完結する「ひかり」のみが停車する[[新岩国駅]]、[[徳山駅]]、[[新山口駅]]の3駅は表中から省略した。 === 所要時間 === 主要駅間の標準所要時間は以下の通り。途中停車駅の差異や「のぞみ」の待避など、列車ごとの多少の差がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0em 0em 1em 1em; font-size:85%; background:transparent;" |+主要駅との標準所要時間表(定期列車) |- !東京 |- |18分 !新横浜 |- |59分||42分 !静岡 |- |1時間44分||1時間25分||45分 !名古屋 |- |2時間38分||2時間19分||1時間35分||36分 !京都 |- |2時間54分||2時間35分||1時間49分||51分||14分 !新大阪 |- |3時間38分||3時間20分||2時間30分||1時間32分||55分||39分 !姫路 |- |4時間16分||3時間57分||3時間9分||2時間10分||1時間33分||1時間17分||33分 !岡山 |- |5時間27分||3時間56分||3時間15分||2時間30分||1時間45分||1時間30分||1時間||39分 !広島 |} === 使用車両・編成 === ; 記号凡例 : {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]] : 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席 : 自=普通車[[自由席]] : S=喫煙ルーム : [[File:Rauchen_Verboten.svg|15px]]=禁煙席 車両の配置区所はJR東海所有車が[[東京交番検査車両所]]と[[大阪交番検査車両所]]、JR西日本所有車が[[博多総合車両所]]である。なお、N700系(8両編成)は[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[熊本総合車両所]]所属の編成が使用されることもある。 {{Tokaido Shinkansen N700 unit|自|指}} ; [[新幹線N700系電車|N700系]]・[[新幹線N700S系電車|N700S系]](16両編成) : 2017年3月4日のダイヤ改正では東海道新幹線の区間はすべてN700系で運転される。このほか運用上の都合でほかの列車にも臨時に充当されることもある。2020年7月より、N700S系も運用についた。 : 2008年3月15日の「ひかり」493号(現・533号、新横浜 → 広島間)で運用を開始。 {{-}} {{Sanyo Kyusyu Shinkansen N700 for Sakura & Mizuho Unit|新大阪||}} ; N700系(8両編成) : 本来は[[九州新幹線]]直通列車「[[みずほ (列車)|みずほ]]」「[[さくら (新幹線)|さくら]]」用だが、間合い運用として2011年3月12日から山陽新幹線内の「ひかり」でも運用開始。 : 2017年3月4日のダイヤ改正から、新大阪 - 博多間の臨時列車運用のみ。 {{-}} {{Sanyo Shinkansen 700 for Hikari Railstar Unit|指}} ; [[新幹線700系電車|700系]](8両編成) : 700系のうち山陽新幹線内でのみ使用される編成で、通称「ひかりレールスター」。全車普通車で、グリーン車は連結していない。以前は4号車に「サイレンスカー」の設定があった。 : 2012年3月16日までは例外として、朝の通勤時間帯に運転される540号は8号車以外自由席。「ひかり」543号は4・5号車も自由席。 : 2012年3月17日のダイヤ改正から、6号車も禁煙車になり、定期列車としては山陽新幹線の上り1本(「ひかり」442号)のみ<ref name="rf615-11" /> で4・5号車も自由席で運用されている<ref name="JTB-Timetable-2013-04-1047" />。 : 2017年3月4日のダイヤ改正から、定期列車としては山陽新幹線の上り2本(「ひかり」440号・442号)、下り1本(「ひかり」443号)のみ。 :また、2023年3月18日のダイヤ改正から、定期列車としては山陽新幹線の上り1本(「ひかり」590号)のみ。 {{-}} <gallery> File:Shinkansen N700 z15.jpg|N700系 </gallery> ==== 過去の車両 ==== ; [[新幹線0系電車|0系]] : 開業時から充当の第一世代車両である。短編成化され山陽新幹線のみの運転(「ウエストひかり」など)となった時期もあった。1964年10月1日の「ひかり」1号・2号(<!--H2編成充当・-->東京 - 新大阪間)で運用を開始し、2000年4月21日の「ひかり」359号(S{{small|K}}9編成充当「ウエストひかり」新大阪 → 博多間)をもって定期運用から撤退した。その後、2008年12月14日の「ひかり」347号(<!--R61編成充当・-->新大阪 → 博多間)をもって臨時運用から撤退して運用を終了した。 ; [[新幹線100系電車|100系]] : 1985年運転開始の第二世代車両で、16両編成の中間に2両連結されていた2階建て車両が特徴であった。派生車種として2階建て車両を4両連結した「[[グランドひかり]]」も存在した。 : 1985年10月1日の「ひかり」3号(<!--X0編成充当・-->東京 → 博多間)で運用を開始し、2003年8月22日の「ひかり」179号(<!--G4編成充当・-->名古屋 → 博多間)をもって2階建て車両は定期運用から撤退した。 : 2000年以降は短編成化され、4両(P編成)・6両(K編成)となって山陽区間の「こだま」で運用された。2011年にはP編成が撤退、K編成も2012年3月16日の「ひかり」445号(岡山 → 博多間)をもって臨時運用から撤退して運用を終了した。 ; [[新幹線300系電車|300系]] : 1992年運転開始の第三世代車両で、新設の「のぞみ」用車両としてデビューした<ref name="kotsu19920316">{{Cite news |title=JR新ダイヤスタート ニューフェース発車 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-16 |page=1 }}</ref>。1992年3月14日の「ひかり」238号(<!--J編成充当・-->新大阪 → 東京間)で運用を開始(「のぞみ」の間合い運用)し、2012年3月12日の「ひかり」477号(東京 → 岡山間)をもって定期運用から撤退して運用を終了した。 ; [[新幹線500系電車|500系]] : W編成(16両編成)は「のぞみ」専用となっていたため先述したダイヤ改正以前において定期列車としての運用実績はないが、臨時列車として使用されたことがある。 : 過去には定期列車の「ひかりレールスター」を多客時に差し替えて使用された。運用に余裕が出てきた2008年以降、定期「ひかり」の代走<ref group="注">2008年3月19日に374・381号、3月20日には366・373号、同年4月17日に374・381号、2009年2月15日に366・373号として300系の代わりに運用されたことがある。</ref> や多客期の臨時「ひかり」に充当されることがあった。 : V編成(8両編成)は2012年3月17日のダイヤ改正から、山陽新幹線の下り1本(「ひかり」441号)のみで運用されていたが<ref name="rf615-11" />、2013年3月16日のダイヤ改正により、運用を外れた。 ; 700系(16両編成) : 2007年以降、300系に代わり充当された。16両編成は東海道区間を中心に使用されていたが、2017年3月4日のダイヤ改正で東海道新幹線の区間はすべてN700系に置き換えられ、山陽新幹線下り441号・上り444号に使用されていたが2020年3月14日のダイヤ改正で定期運用から外れた。下り441号は1〜7号車と13〜15号車は自由席として設定された。 : <gallery> File:JR tokai shinkansen 0kei.jpg|0系 File:JR tokai shinkansen 100kei.jpg|100系 File:Shinkansen300.JPG|300系 File:JRW-500-nozomi.jpg|500系 File:JRW Shinkansen Series 700 B9 set.jpg|700系 </gallery> == 割引きっぷ(廃止) == 過去に以下の[[特別企画乗車券]]が発売されていたが、[[2013年]]11月現在いずれも廃止されており、取り扱いを行っていない。 === ひかり早特きっぷ === 乗車日の1か月前から1週間前まで発売される、発売期間・席数限定の「ひかり」指定席専用の片道「割引きっぷ」である。普通車指定席用のほかに、新大阪発着のみグリーン車用がある。こども用はない。予約列車や利用区間の変更・途中下車・乗継割引の適用はできない。 予約した列車に乗り遅れた場合は乗車券のみ有効で、別途特急券を購入する必要がある。ただし当日後続の「ひかり号」「こだま号」の普通車自由席に限り乗車できる。 2013年10月31日をもって取り扱いを終了した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://jr-central.co.jp/news/release/nws001307.html|title=新幹線回数券等の一部見直しについて|publisher=[[東海旅客鉄道]]|date=2013-09-19|accessdate=2013-09-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130927094145/http://jr-central.co.jp/news/release/nws001307.html|archivedate=2013年9月27日}}</ref>。 === スーパー早特往復きっぷ === 出発日の3週間前から1週間前に発売される席数限定の「割引きっぷ」であり、2007年7月から2008年3月まで発売された。区間は西明石、新神戸 - 新横浜、東京(品川)であり全区間ともに発売額は往復2万円。すべての「ひかり」と「のぞみ」60号(新神戸駅6:17分発)が利用可能。また「スーパー」の名の通り、[[エクスプレス予約]]などを遥かに超える割引率(通常期の約36 - 40%引)が設定されていた。このきっぷが発売された背景には[[東海道新幹線#他の交通機関との競合|神戸 - 羽田便との競合]]があった。 == 在来線優等列車「ひかり」== === 朝鮮総督府鉄道局・南満洲鉄道急行「ひかり」 === {{Main|朝鮮総督府鉄道#急行「ひかり」}} [[File:HIKARI Observation car before 1945.JPG|thumb|200px|朝鮮総督府鉄道・南満洲鉄道急行「ひかり」展望車]] [[第二次世界大戦]]終結まで、[[朝鮮総督府鉄道]](鮮鉄)と[[南満洲鉄道]](満鉄)の[[釜山駅|釜山]] - 奉天(現・[[瀋陽駅|瀋陽]])・新京(現・[[長春駅|長春]])・[[ハルビン駅|ハルビン]]間に、急行「ひかり」が運行されていた。 毎日南行北行とも各1回運転。947.2[[キロメートル|km]]を約21時間で結んだ。平均時速約45km/h。列車編成は、標準軌用大型[[荷物車]]・[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]・[[B寝台|三等寝台車]]・[[食堂車]]・[[二等車|二等]][[寝台車 (鉄道)|寝台車]]・[[一等車|一等]][[寝台車 (鉄道)|寝台]][[展望車]]の各1両、計6両編成。[[蒸気機関車]]が牽引した。最後部に連結された展望車室は長旅を慰めたという。同区間には急行「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」も運行していた。 * [[1923年]]([[大正]]12年)4月:釜山 - 京城(現・[[ソウル駅|ソウル]])間を運転していた急行列車を奉天駅まで延長し、同時に「ひかり」と命名。 * [[1934年]](昭和9年)11月:運行区間を[[満洲国]]の[[首都]]であった新京駅まで延長。 * [[1940年]] - [[1942年]](昭和15年 - 17年)ごろ:運行区間をハルビン駅まで延長。 * [[1945年]](昭和20年)8月:[[ソ連対日参戦|ソ連軍の満洲侵攻により]]、運行不能になって消滅。 === 九州急行・準急「ひかり」 === {{Main|にちりん (列車)#観光列車「ひかり」→「にちりん」と周辺列車群|九州横断特急#快速→準急→急行「火の山」とその周辺列車群}} [[戦後]]、「ひかり」の名は九州を走る[[準急列車]]・急行列車の名称として使われた。[[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]([[1961年]]以降は[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]も併用)を使用した[[気動車]]による最初の急行として知られる。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[4月25日]]:[[鹿児島本線]]・[[日豊本線]]経由で[[博多駅|博多]] - [[別府駅 (大分県)|別府]]間に[[臨時列車|臨時]]急行「ひかり」新設。 ** [[5月1日]]:定期列車となり日豊本線・[[豊肥本線]]経由で博多・[[門司港駅|門司港]] - [[大分駅|大分]] - [[熊本駅|熊本]]間に運行区間を拡大。 ** [[8月1日]]:準急列車に格下げされる。 *** このとき準急への格下げとなった理由は、当時は急行料金が準急料金のほぼ倍額であったため利用率が悪かったことによる。 * [[1959年]](昭和34年)[[9月22日]]:車両の一部を、[[都城駅|都城]]間で延長運転。 * [[1960年]](昭和35年)[[3月10日]]:[[大分駅|大分]] - [[小倉駅 (福岡県)|小倉]] - [[別府駅 (大分県)|別府]]間の「第2ひかり」が設定され、従来の「ひかり」は「第1ひかり」と呼ばれることになる。また、「第1ひかり」の都城行きの車両の運行区間を西鹿児島駅(現在の[[鹿児島中央駅]])まで延長。 * [[1961年]](昭和36年)[[10月1日]]:「第2ひかり」を準急「ひまわり」に改称。「第1ひかり」は「ひかり」に戻る。 * [[1962年]](昭和37年)10月1日:「ひかり」を急行列車に格上げ。 新幹線の名前に「ひかり」が採用され、名前を譲ることになった急行「ひかり」は2系統に分けられ、博多・門司港 - 小倉 - 西鹿児島間は「[[にちりん (列車)|にちりん]]」、博多 - 大分 - 熊本間は「くさせんり」に改称された。なお「くさせんり」については、2011年現在では「[[九州横断特急]]」の一部にあたる。また、当初の運行区間は「[[ソニック (列車)|ソニック]]」の一部の区間に相当する。 == 新幹線「ひかり」の沿革 == === 東海道新幹線開業以降 === {|style="float:right; margin:1em 0em 1em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|「ひかり」 12両編成編成図(1964年10月1日時点)<ref name="須田寛JTB-17-81" /> |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|新大阪|東京}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12 |- |二 |二 |二 |二 |{{small|B}}二 |二 |style="background-color:#cf9;"|一 |style="background-color:#cf9;"|一 |{{small|B}}二 |二 |二 |二 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| ; 記号凡例 *B=[[食堂車|ビュフェ]] * {{bgcolor|#cf9|一}}=[[一等車]][[座席指定席|指定席]] * 二=[[二等車]]指定席 |} * 1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線の速達タイプの列車として登場。東京 - 新大阪間を当初4時間、翌年11月から3時間10分で結び、途中名古屋駅・京都駅に停車。「ひかり」を「[[超特急]]」、「こだま」を「特急」とし、料金に差を設けた。 *: なお京都駅は当初通過予定だったが、[[京都市会]]や地元[[財界]]などの陳情運動を受けて、開業直前の1964年(昭和39年)8月18日に停車駅へ加えられた([[鉄道と政治#京都駅|鉄道と政治]]を参照)<ref>{{Cite book |和書 |publisher = 夕刊京都新聞社|year = 1966|title = 戦後京の二十年|page = 243-244|url = https://dl.ndl.go.jp/pid/3448788/ }}</ref>。 * 1969年(昭和44年)12月8日:16両編成への増強を開始。全編成が増結を完了するまで、6号車と7号車の間に増6号車・増7号車、10号車と11号車の間に増10号車・増11号車とすることで対応した<ref name="須田寛JTB-17-82" />。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月15日]]:山陽新幹線が岡山駅まで開業する。 **# この時から「ひかり」に自由席が設けられ、16両編成で1 - 4号車が自由席となった。 **# また、「ひかり」において用いられた「超特急」の呼称も使われなくなり、東京 - 名古屋間を除いて料金格差もなくなった。<!--またこの時、料金設定をキロ単位から区間個別単位(三角表方式)に改める。--> **# 新大阪 - 岡山間で途中停車駅により、最速達タイプ(Wひかり)、一部通過タイプ(Aひかり)、「こだま」代替タイプ(Bひかり)の3タイプが設けられた。停車駅は[[#停車駅の沿革|後述]] ** [[10月10日]]:[[北陸本線]]の特急列車と接続させるため、3往復の「ひかり」が[[米原駅]]に停車するようになる。初めて「ひかり」の停車駅が追加された。 * [[1974年]](昭和49年)[[9月5日]]:「ひかり」で、新幹線初となる[[食堂車]]の営業を開始。 === 山陽新幹線全線開業以降 === {|style="float:right; margin:1em 0em 1em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|食堂車組み込み「ひかり」 16両編成編成図(1975年3月10日時点) |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- |自 |自 |自 |自 |指 |指 |指 |style="background-color:#ff9;"|D |{{small|B}}指 |指 |style="background-color:#cf9;"|G |style="background-color:#cf9;"|G |指 |指 |指 |指 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| ; 記号凡例 * {{bgcolor|#ff9|D}}=[[食堂車|食堂]] * B=[[食堂車|ビュフェ]] * {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]] * 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席 * 自=普通車自由席 |} * [[1975年]](昭和50年)3月10日:山陽新幹線が[[博多駅]]まで開業する。 ** 山陽新幹線区間では、岡山開業時の流れを継いで日中には「こだま」を設定せず、「ひかり」にその代替を担わせることとしたため、各駅停車の「ひかり」が速達の「ひかり」に追い抜かれるという現象も発生した。国鉄はもっとも停車駅の少ないパターン(下記の「Wひかり」)に「赤いひかり」、それに次ぐもの(下記の「Aひかり」)に「青いひかり」という俗称を与え、駅掲示の時刻表などに反映させた{{refnest|group="注"|「赤いひかり」は速達型の「ひかり」、「青いひかり」は岡山以西各駅停車の「ひかり」とされた。駅の時刻表では、原則として速達型の「ひかり」を赤文字、停車駅の多い「ひかり」を青文字、「こだま」を黒文字で表示していた<ref name="RJ97-49" />。}}が、定着せずに終わる。ただし、最速達パターン専用の赤文字の方向幕はその後も[[新幹線100系電車|100系]]に至るまで長く使用された。「Wひかり」では号数を1 - 2桁としたが、小郡駅停車列車では+20の号数を付与した。 ** 新大阪 - 博多間の途中停車駅によって、Wひかり、Aひかり、Bひかりの3つに分けられた。停車駅は[[#停車駅の沿革|後述]]。 **: この時、東京 - 名古屋間のみ残されていた「ひかり」の料金格差も廃止された。 * [[1976年]](昭和51年)[[7月1日]]:「ひかり」が[[新横浜駅]]と[[静岡駅]]のそれぞれに1日1往復停車するようになる。一部通過タイプ(Aひかり)の停車駅から、[[新倉敷駅]]と[[三原駅]]を除外。これによりAひかりは広島駅以西が各駅停車となる。 * [[1980年]](昭和55年)10月1日:新幹線初の列車削減が行われ、「こだま」が大幅に削られる中、一部の「ひかり」が[[小田原駅]]・[[浜松駅]]・[[豊橋駅]]・[[岐阜羽島駅]]にも停車するようになり、それらの列車は(俗称として一部では)「'''ひだま'''」と呼ばれるようになった。また、1号車が禁煙席となった<ref name="須田寛JTB-17-169" />。なお、小田原駅・浜松駅・豊橋駅・岐阜羽島駅に停車する「ひかり」は、国鉄内部ではちょっと「こだま'''(K)'''」っぽい「ひかり'''(H)'''」という意味で「'''HKひかり'''」と呼称されていた<ref name="イカロスMOOK-13-42" />。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:一部の「ひかり」が[[熱海駅]]・[[三島駅]]にも停車するようになる。各駅の「ひかり」の停車本数は、新横浜駅に毎時2本、静岡駅に毎時1本、小田原駅・熱海駅・三島駅・浜松駅・豊橋駅のうち2駅に毎時1本となる。 ** 10月1日:100系登場に伴い「ひかり」に使用される。 * 1986年(昭和61年)11月1日:国鉄最後のダイヤ改正を実施。最高速度を220km/hに引き上げ、東京 - 新大阪間の「ひかり」を2時間56分運転とする。この時点で初めて東京 - 新大阪間を3時間を切ることとなり、同時に「ひだま」型列車も従来の「ひかり」並みの3時間10分前後での運転が中心となる。 === 国鉄分割民営化以降 === * [[1987年]](昭和62年) **4月:[[国鉄分割民営化]]により「ひかり」の運営者が国鉄から、東海道新幹線内においてJR東海に、山陽新幹線内においてJR西日本へ移行。 **6月:JR東海が「'''スーパーひかりモデル'''」を製作し、東京駅に展示した。しかし、設計はのちに大幅に変更された。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:JR西日本が運営するようになった山陽新幹線で、「ひかり」に使用する0系の設備をグレードアップした「ひかり」(「'''[[ウエストひかり]]'''」)の運行を開始{{R|交通871222}}。当初は1日4往復運転{{R|交通871222}}。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月11日]]:JR西日本が、「ひかり」に使用する100系の中間車両4両を2階建て車両とした「ひかり」(「'''[[グランドひかり]]'''」)を運行開始。当初は1日2往復運転。 * [[1990年]](平成2年):300系9000番台J0編成(のちのJ1編成である試作車)の「'''スーパーひかり'''」落成。 * [[1991年]](平成3年)[[3月16日]]:ダイヤ改正。 *# 山陽新幹線で「こだま」用の0系車両の6両編成による「ひかり」(「'''シャトルひかり'''」)の運行を開始。当初は1日3往復運転。 *# 東京 - 博多間運行の「ひかり」のうち、(京都 - )新大阪 - 博多間各駅停車となる列車(最終期は下り1本・上り2本設定)が消滅。東京 - 博多間運行の列車(一部。以下同じ)は広島 - 博多間、東京 - 広島間運行の列車は岡山 - 広島間、東京 - 岡山間運行の列車は新大阪 - 岡山間各駅停車とするよう系統が再編成される(ただし一部は岡山 - 博多間や新大阪 - 広島間各駅停車の列車も設定)<ref>「JR時刻表」(弘済出版社)1991年1月号pp.41 - 58、1991年3月号pp.42 - 59</ref>。 * [[1992年]](平成4年)3月14日:「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」が登場し、「ひかり」は東海道新幹線の最速列車ではなくなる<ref name="kotsu19920316"/>。一部の「ひかり」は、途中駅で「のぞみ」の通過待ちを行うようになった。その後、300系の増備が進むにつれて300系が順次投入される。 * [[1996年]](平成8年)3月16日:ダイヤ改正。 *# 300系を使用する「ひかり」の一部列車(主に岐阜羽島駅・米原駅に停車するもの)のうち、名古屋 - 新大阪間の最高速度を270km/hに引き上げた([[2003年]]10月1日より全列車、全区間270km/h運転に拡大)。これにより、米原駅のみ停車が岐阜羽島駅・米原駅連続停車となった列車があったが、従前と所要時間の差はほとんどなかった。 *# 東京 - 博多間の「ひかり」は一部に「のぞみ」に抜かれない列車が存在した(当時の53号・34号など)が、本改正後はすべて途中で「のぞみ」に抜かれるようになった。 * [[1997年]](平成9年)[[11月29日]]:ダイヤ改正。 *# 「シャトルひかり」廃止。 *# 山陽新幹線での停車駅を削減し、[[新岩国駅]]・[[東広島駅]]・[[三原駅]]・[[新尾道駅]]・[[新倉敷駅]]・[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]が停車駅から外された。のちに「ひかり」の停車が復活する。 *# 静岡駅に停車する「ひかり」のほとんどに300系が使用され、300系が限定運用に入る列車については名古屋以西の運行区間が最高速度270km/hに引き上げられ、この列車に限り名古屋 - 新大阪間の「のぞみ」との所要時間差はわずか1分となった。それに伴い、東京 - 広島間運行の「ひかり」にも300系を投入。列車号数は130 - 140号台。 * [[1998年]](平成10年)[[3月14日]]:ダイヤ改正で東京 - 博多間を運行する500系の本数増加に伴い、東京 - 博多間運行の「ひかり」にも300系を投入<!--『JTB時刻表』1998年7月号によると東京-博多間の「ひかり」129号・110号が「のぞみ型車両」(300系)-->。 === 2000年代以降の展開 === * [[2000年]](平成12年) ** 3月11日:ダイヤ改正。 **# 山陽新幹線で700系をベースに車内などを大幅に変更した編成を使用して「ひかり」の設備・速度を向上させた「'''[[ひかりレールスター]]'''」の運行を開始。また「ひかりレールスター」新設により「ウエストひかり」が[[4月21日]]の運転(1往復のみ)を最後に廃止され、0系車両を使用する定期の「ひかり」も消滅した。またこの時「グランドひかり」を最後に食堂車の営業が休止され、「ウエストひかり」の廃止に伴ってビュフェ車も営業終了となった。 **#: このころから、東京 - 山陽区間を運行する「ひかり」の本数削減も実施。具体的には、直通列車の定期運行を東京 - 新大阪・姫路・岡山・広島間と名古屋 - 博多間となり、東京 - 博多間は3往復<ref group="注">JR西日本所属の700系B編成の検査を博多総合車両所で行うため。</ref>を除き臨時列車となる。 **# 新大阪 - 博多間の「こだま」のうち、半数が姫路 - 博多間に見直されたのに伴い、西明石駅に1時間に1本の「ひかり」が停車。 ** 10月1日:東海道新幹線の「ひかり」に700系を投入。翌年には山陽新幹線直通列車にも投入される。相生駅の「ひかり」停車が復活。 * [[2001年]](平成13年)10月1日:ダイヤ改正で東京 - 広島間の「ひかり」がスピードアップ(東京 - 新大阪間は従来通り、新大阪 - 広島間で約15分の時間短縮)。300系の限定運用(一部列車は700系で運行)により、山陽新幹線区間内の最高速度を270km/hに引き上げたことによるが、東海道区間は「のぞみ」との格差の兼ね合いで220km/h運転のダイヤとされた。 * [[2002年]](平成14年)[[11月23日]]:この時の[[さよなら運転]]をもって、「グランドひかり」消滅。なお、この日のみ、食堂車の営業が復活した。 * [[2003年]](平成15年) ** [[9月16日]]:「ひかり」309号をもって、東海道新幹線から100系の営業運転終了。同時に、100系車両使用の「ひかり」も消滅。 ** 10月1日:ダイヤ改正。 **# 東海道新幹線[[品川駅]]開業。以後、すべての「ひかり」が新横浜駅・品川駅のうち少なくともいずれかに停車し、すべての「ひかり」が小田原駅、熱海駅、三島駅、静岡駅、浜松駅、豊橋駅、岐阜羽島駅、米原駅のうちから選択停車するようになる。これにより東京 - 新大阪間を走行する列車で同区間内の途中、名古屋駅・京都駅のみに停車する「ひかり」が消滅。 **# 東京 - 名古屋間の停車駅の少ない「ひかり」が「のぞみ」に格上げ。この結果、「のぞみ」と「ひかり」の運転本数が逆転するとともに、東京駅と広島駅・博多駅を結ぶ「ひかり」が消滅(東京 - 広島間運行の「ひかり」は2012年のダイヤ改正で1往復のみであるが復活している)。 **# 東海道新幹線における「ひかり」は、すべて“ひだま”形の列車となり停車駅は増加したものの、全区間での270km/h運転により、東京 - 新大阪間の標準所要時間は従来の「ひかり」と同等の水準(2時間50分 - 3時間)が維持された。東海道新幹線内は1時間2本の設定で東京駅および新大阪駅ではほぼ等間隔に発着しているが、停車パターンが異なるため名古屋駅で前後の「ひかり」が最接近し、同駅においては約10分 - 50分間隔での運転となっている。また、小田原駅・三島駅(6本→12本)・浜松駅(16本→26本)・豊橋駅(6本→16本)の各駅にて「ひかり」の停車本数が増加した。 また、山陽新幹線の姫路 - 博多間の「こだま」が岡山 - 博多間に見直されたことに伴い、相生駅に1時間1本の「ひかり」が停車。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:新大阪 - 広島間の「ひかりレールスター」が上下1本ずつ三原駅に新規停車。三原駅への停車がほぼ10年ぶりに復活。 * [[2007年]](平成19年)[[7月1日]]:ダイヤ改正。 *# 名古屋 - 博多間「ひかり」の山陽区間でのスピードアップと「ひかりレールスター」の時刻が変更された。その結果、1975年の山陽新幹線博多開業以来続いていた「ひかり」が「ひかり」を追い抜く現象が消滅した。 *# 東京 - 新大阪間を2時間49分で運転する列車(「ひかり」427号、品川駅・新横浜駅・静岡駅・浜松駅・豊橋駅・名古屋駅・京都駅に停車)が設定される。この記録は「のぞみ」登場前の下り新大阪行き最終列車(通称:「[[シンデレラ#派生語|シンデレラエクスプレス]]」)とならび歴代1位タイである。主に日曜日のみの運転で、当時の通称「シンデレラエクスプレス」に比較すると品川駅・新横浜駅・静岡駅・浜松駅・豊橋駅にも停車し、浜松駅では「のぞみ」の通過待ちを行う。なお、名古屋 - 新大阪間の所要時間50分は歴代の「ひかり」の中では最速である。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:ダイヤ改正。 *# 東海道新幹線内における「ひかり」運行体系の大幅な見直しを実施。特に静岡地区から山陽新幹線への接続を考慮し、東京 - 岡山間と東京 - 新大阪間に各1本ずつ運転されている「ひかり」(東京・新大阪発着タイプと東京・岡山発着タイプ)の停車駅パターンを入れ替えた。この見直しにより、熱海駅・三島駅・静岡駅・浜松駅に岡山駅発着のひかり再び停車することになった。更に小田原(12本→15本)、静岡(34本→37本)、浜松(26本→34本)、豊橋(16本→18本)の各駅で停車本数が増え、浜松は日中でも1時間に1本が停車となり、静岡県の政令市の玄関駅の静岡駅・浜松駅に「ひかり」の大部分が停車となった。また、「ひかり」・「のぞみ」全列車が品川駅・新横浜駅の両駅に停車するようになる。 *# 山陽新幹線では早朝の上り2本が増発され東広島駅・新尾道駅・新倉敷駅の各駅にて上り1 - 2本の「ひかり」が再び停車するようになった。また、相生駅で再び「ひかり」が「ひかり」を追い抜く現象が見られるようになった。 *# 定期列車としては初めてN700系「ひかり」が下り2本に設定される(このほか10月1日に上り1本に追加)。このうちの1本は初の新横浜始発列車(広島行き)である。 *# 東京 - 新大阪間の上り「ひかり」432号(京都駅・米原駅・名古屋駅・静岡駅・新横浜駅・品川駅に停車)は、「ひかり」の最速達記録となる所要時間2時間47分の列車として設定。下り「ひかり」の東京 - 新大阪間の最速達列車は2時間57分とされたものの、前述の新横浜始発「ひかり」は横浜地区から大阪方面への最速達列車で、東海道新幹線内では日中の「のぞみ」とほぼ同じ所要時間で運行される列車として設定されている。新横浜 - 新大阪間(小田原駅・静岡駅・名古屋駅・京都駅に停車)の所要時間は2時間15分であり、名古屋 - 新大阪間の所要時間は従来より2分短い48分で最速達列車となっている。この「ひかり」は新神戸駅まで後続の「のぞみ」に先着し、西明石駅で新横浜駅を11分後に発車する「のぞみ」を待避する。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:ダイヤ改正 *# N700系を朝の上り始発の「ひかり」と名古屋 - 広島間の1往復に投入しスピードアップ。名古屋 - 広島間の列車は名古屋 - 博多間運行の1往復を短縮したもので、北九州・福岡市内に乗り入れる「ひかりレールスター」以外の定期「ひかり」が消滅。 *# 新大阪 - 広島間運行の下り1本が岡山 - 広島間各駅停車となり、新倉敷駅・新尾道駅・東広島駅の各駅にて下り「ひかり」の停車が復活。 *# ダイヤ改正以後も、N700系が充当される「ひかり」が順次増加([[4月29日]]、[[10月2日]]、[[12月14日]]にそれぞれ1本ずつ増)。 * [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:ダイヤ改正 *# 「ひかりレールスター」の5往復を多客期に運転する臨時列車に変更(定期列車を1日25往復から20往復に削減)。 *# 下り1本をN700系に置き換え、N700系「ひかり」は計7本となる。 *# 東京 - 新大阪間の下り「こだま」1本の運行区間が東京 - 名古屋間に短縮されるのに伴い、岐阜羽島駅と米原駅での停車本数が1本ずつ増加。これにより18時以降に東京駅を出発する下り列車が名古屋・新大阪間各駅停車となる。 === 山陽・九州新幹線の直通運転開始(2011年) === * [[2011年]](平成23年)3月12日:ダイヤ改正 *# 16両編成の「ひかり」の3号車と、8両編成の「ひかりレールスター」の2号車を禁煙車に変更し、「ひかり」「ひかりレールスター」の自由席はすべて禁煙車となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174913_799.html|title=新幹線車両の禁煙拡大について|publisher=[[西日本旅客鉄道]]|date=2010-07-30|accessdate=2010-07-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100731230504/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174913_799.html|archivedate=2010年7月31日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。 *# 「ひかり」495号が福山駅に追加停車。これにより定期の「ひかり」全列車(「レールスター」を含む)が福山駅に停車する。 *# 九州新幹線全線開業による「[[さくら (新幹線)|さくら]]」「[[みずほ (列車)|みずほ]]」運行開始に伴い、「ひかりレールスター」を20往復から10.5往復(上り11本、下り10本)に削減。またサイレンスカーの設定とチャイルドクッションの貸し出しを取り止める。また、この時に号数番号が「さくら」と「ひかり」で通し番号となった。 *# 下りの小倉 → 博多間で実施していた自由席特急券等で普通車指定席に乗車できる特例を廃止。 {{Sound|JR West 500series hikari 441 526-7202 hukuyama.ogg|500系 ひかり441号の走行音(2441A 6号車、526-7202にて)|(山陽新幹線 岡山-福山間、2012年3月17日)}} * [[2012年]](平成24年)3月17日:ダイヤ改正 *# 300系の営業運転を終了。 *# 東京 - 姫路・岡山・三原間で運転されている「ひかり」4本を東京 - 新大阪間の運転に変更。 *# 東京 - 新大阪間で運転されている一部の「ひかり」を2時間53分にて運転。 *# 8両編成の「ひかりレールスター」の6号車を禁煙車に変更し、全車禁煙となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_honsya.pdf|format=PDF|title=平成24年春ダイヤ改正について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2011-12-16|accessdate=2011-12-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111216172516/http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_honsya.pdf|archivedate=2011年12月16日}}</ref>。 *# 東京 - 岡山間で運転されている「ひかり」1往復を東京 - 広島間の運転に変更し、東京 - 広島間運転の「ひかり」が9年ぶりに復活。 *# 朝の下り1本、岡山 - 広島間で運転される「ひかり」に500系を充当。 * [[2013年]](平成25年)3月16日:ダイヤ改正 *# 名古屋 - 広島間で運転されている「ひかり」下り1本を名古屋-博多間の運転に変更し、名古屋 - 博多間運転の「ひかり」が4年ぶりに復活。 *# 山陽新幹線内運転の「ひかり」が1往復増発され、新岩国に停車する「ひかり」が1997年以来、16年ぶりに復活。 *# 「ひかり」の500系充当が終了。 *# 東海道・山陽新幹線を直通する「ひかり」のうち、3本が運行区間を短縮。短縮された1本には広島行きも含まれており、これにより2018年3月のダイヤ改正まで、東京 - 広島間運転の「ひかり」が上りのみとなる。 * [[2014年]](平成26年)3月15日:ダイヤ改正 *# 東京毎時33分発、東京毎時10分着の東京 - 新大阪間「ひかり」をすべてN700系へ統一。日中の標準所要時間は上り2時間54分、下り2時間53分となる。これに伴い、「のぞみ」の1時間当たりの最大運転本数10本体制が終日可能になる。 *# 東京 - 岡山間「ひかり」の内、従来からの468号に加えて465号および476号もN700系運用となる。 *# 東京 - 新大阪間の上り「ひかり」536号(京都駅・米原駅・名古屋駅・静岡駅・新横浜駅・品川駅に停車)が2時間44分運転の設定となり、同区間における「ひかり」の最速達記録を3分短縮。 * [[2015年]](平成27年)3月14日:ダイヤ改正 *# 東京 - 岡山間「ひかり」の内、下り3本、上り2本もN700系運用となる。 *# 新横浜 - 広島間の下り「ひかり」493号の東海道新幹線区間の最高速度を285km/hに引き上げ。 * [[2016年]](平成28年)3月26日:ダイヤ改正 *# 東京 - 岡山間「ひかり」の内、461号・469号・472号・480号の2往復がN700系運用となる。 * [[2017年]](平成29年)3月4日:ダイヤ改正 *# 東海道新幹線区間の全定期列車がN700系運用となる。 *# 東京毎時03分発、東京毎時40分着の東京 - 岡山間「ひかり」の最高速度を、東海道新幹線区間は285km/h、山陽新幹線区間は300km/hに引き上げ<ref group="注">ただし、山陽新幹線区間の最高速度300km/h運行区間は姫路駅東方約5km以西の区間で、新大阪 - 姫路東方約5kmの区間は最高速度275km/h運転となる。</ref>。 * [[2018年]](平成30年)3月17日:ダイヤ改正 *# 東京 - 岡山間で運転されている「ひかり」下り1本を、岡山 - 広島間運転の「こだま」と統合する形で東京 - 広島間の運転に変更。これにより、東京発広島行きの下り「ひかり」が5年ぶりに復活。 * [[2022年]](令和4年)3月12日:ダイヤ改正 *# 東京発広島行きの下り「ひかり」が岡山行きに短縮され、再び上りのみとなる。 *# 博多発岡山行きひかり590号が小倉始発に短縮。新大阪発博多行きひかり593号が廃止。これによりひかりレールスターは上り2本のみとなる。 * [[2023年]](令和5年)3月18日:ダイヤ改正 *# 小倉発岡山行きひかり590号が新下関始発に短縮。博多発新大阪行きひかり592号が廃止。これによりひかりレールスターは上り1本のみとなり、博多〜新下関間、岡山〜新大阪間の定期運行を終了。 === 停車駅の沿革 === ここでは、「ひかり」の停車駅、停車タイプの変遷について述べる。 * 1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線開業、「ひかり」の運行開始。この時点での途中停車駅は名古屋駅・京都駅のみで、基本的に東京駅・新大阪駅を発着した。 *: 「ひかり」は運行開始からしばらくすると、停車駅が追加されていき、途中停車駅が便によって異なる様々なタイプの列車が運行されてきたが、東海道・山陽新幹線の途中駅のうち名古屋駅、京都駅、新大阪駅、岡山駅、広島駅、小倉駅には各区間の開業以来、各区間を走行する全ての「ひかり」が停車している。このため、以下で停車駅を記述する際に、これらの駅および必ず発着駅となる東京駅・博多駅については、記載を省略する。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月15日]]:山陽新幹線が岡山駅まで開業、新大阪駅 - 岡山駅間の停車駅によって、以下の3つのタイプに分けられた。 **# 最速達タイプ(Wひかり)… 岡山駅まで無停車のもの(Wひかり) **# 一部通過タイプ(Aひかり)… 新神戸駅・姫路駅に停車するもの。 **# 各駅停車タイプ(Bひかり)… 山陽新幹線内各駅停車。このタイプは、「こだま」の代替列車の役割も果たすこととなった。 ** [[10月1日]]:1日3往復の「ひかり」が[[米原駅]]に停車するようになる。初めて「ひかり」の停車駅が追加された。 * [[1975年]](昭和50年)3月10日:山陽新幹線が[[博多駅]]まで開業する。 ** 博多開業時の新大阪 - 博多間の基本的な停車パターンは次の3通りであった。〔 〕は一部停車。ただし一部に例外設定の列車あり。 **# 最速達タイプ(Wひかり)… 新大阪駅 - 岡山駅 - [[広島駅]] - 〔小郡駅(現・[[新山口駅]])〕 - 小倉駅 - 博多駅 **# 一部通過タイプ(Aひかり)… 新大阪駅 - 新神戸駅 - 姫路駅 - 岡山駅 - 新倉敷駅 - 福山駅 - 三原駅 - 広島駅 - 新岩国駅 - 徳山駅 - 小郡駅 - 新下関駅 - 小倉駅 - 博多駅(岡山駅 - 博多駅間は各駅停車だったが、後に新倉敷駅と三原駅を停車駅から除外。その後、新岩国駅が除外され、新下関駅と徳山駅が選択停車になる。) **# 各駅停車タイプ(Bひかり)… 山陽新幹線内各駅停車。ただし、博多開業時点では博多発着のBひかりは新大阪 - 岡山間または広島間でWひかりと同一の停車駅とされ、その補完に岡山または広島発着のBひかりを設定する形態となっていた<ref name="イカロスMOOK-13-36" />。 * [[1976年]](昭和51年)[[7月1日]]:「ひかり」が[[新横浜駅]]と[[静岡駅]]に1日1往復停車するようになる。Aひかりの停車駅から、[[新倉敷駅]]と[[三原駅]]を除外。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプを除く)は以下の通りである<ref name="時刻表1976-7" />。途中停車駅は、名古屋駅・京都駅を省略して記載している。また、ここで言う「山陽区間内」とは岡山駅、広島駅、博多駅のいずれかを指す。 **# 米原駅に停車するタイプ。稀に新横浜駅と静岡駅の両駅が停車駅に加わる。東京駅・新大阪駅を発着する。 * [[1980年]](昭和55年)10月1日 ** 一部の「ひかり」が[[小田原駅]]・[[浜松駅]]・[[豊橋駅]]・[[岐阜羽島駅]]にも停車するようになる。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプ)は以下の通りである。途中停車駅は、名古屋駅・京都駅を省略して記載している。また、ここで言う「山陽区間内」とは岡山駅、広島駅、博多駅のいずれかを指す。 **# 東京駅・広島駅発着タイプ … このタイプの基本停車駅は新横浜駅。新横浜駅に停車し、小田原駅に停車または通過するタイプ。東京駅・広島駅を発着し、小田原駅停車便は「Aひかり」として、小田原駅通過便は「Bひかり」として運行した。 **# 東京駅・新大阪駅発着タイプ … このタイプの基本停車駅は米原駅。米原駅に停車し、新横浜駅と静岡駅の両駅に停車または通過するタイプ。東京駅・新大阪駅を発着する。 **# 名古屋駅発着タイプ … 2種類あり、1つは、東京駅・名古屋駅を発着し、静岡駅・浜松駅・豊橋駅に停車するタイプ。もう1つは、名古屋駅・博多駅を発着し岐阜羽島駅に停車し「Wひかり」として運行するタイプ。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:一部の「ひかり」が[[熱海駅]]・[[三島駅]]にも停車するようになる。各駅の「ひかり」の停車本数は、新横浜駅に毎時2本、静岡駅に毎時1本、小田原駅・熱海駅・三島駅・浜松駅・豊橋駅のうち2駅に毎時1本。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプを除く)は以下の通りである<ref name="時刻表1985-3" />。途中停車駅は、名古屋駅・京都駅を省略して記載している。また、ここで言う「山陽区間内」とは岡山駅、広島駅、博多駅のいずれかを指す。 **# 新横浜駅停車タイプ … このタイプの基本停車駅は新横浜駅。新横浜駅に停車し、米原駅(稀に熱海駅、小田原駅のいずれかに変更)に停車または通過するタイプ。このタイプ(米原駅停車パターンを除く)の多くは東京駅・山陽区間内を発着し「Bひかり」として運行、米原駅停車パターンは東京駅・新大阪または岡山駅(「Bひかり」として)を発着した。稀に新横浜駅・米原駅・岐阜羽島駅に停車し、東京駅・新大阪駅を発着するパターンがある。 **# 静岡駅停車タイプ … このタイプの基本停車駅は静岡駅。静岡駅に停車し、熱海駅・三島駅・浜松駅・豊橋駅のいずれかに停車(稀に2駅が停車駅に加わる)するタイプ。東京駅・新大阪駅を発着する。 **# その他 … 米原駅のみに停車するタイプと、三島駅・豊橋駅に停車するタイプが存在する。いずれも東京駅・新大阪駅を発着する。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:[[新尾道駅]]、[[東広島駅]]が開業<ref group="注">同時に[[新富士駅]]、[[掛川駅]]、[[三河安城駅]]が開業しているが、「ひかり」の停車駅にはなっていない。</ref>。 ** この時点で、山陽新幹線内における「ひかり」の停車パターンは以下のように変更されていた。 **# 最速達タイプ (Wひかり)… 一部の「Wひかり」に、新神戸駅または福山駅のいずれかが停車駅に加わる。 **# 一部通過タイプ(Aひかり) … ほとんどの「Aひかり」が新岩国駅・新下関駅を通過するようになる。広島駅 - 博多駅間が各駅停車でなくなる。 **# 各駅停車タイプ(Bひかり)… 新尾道駅・東広島駅を停車駅に追加。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプを除く)は以下の通りである。途中停車駅は、名古屋駅・京都駅を省略して記載している。また、ここで言う「山陽区間内」とは岡山駅、広島駅、博多駅のいずれかを指す。 **# 新横浜駅停車タイプ … このタイプの基本停車駅は新横浜駅。新横浜駅に停車し、小田原駅・米原駅・岐阜羽島駅の3駅のうちいずれかに停車またはいずれにも停車しないタイプ。稀に小田原駅と米原駅の両駅が停車駅になる。山陽区間での運行については、基本的に3駅のうちいずれかに停車するパターンは東京駅・新大阪駅を発着、新横浜駅のみに停車するパターンは「Bひかり」として東京駅・山陽区間内を発着する(稀に東京駅・岡山駅発の「新神戸駅停車型Wひかり」として運行する)。ただし、米原駅または小田原駅に停車するパターンは、稀に東京駅・広島駅を発着し、A・Bいずれかの「ひかり」として運行する。 **# 静岡駅停車タイプ … 以前と同様。ただし、豊橋駅停車パターンは東京駅・新大阪駅を発着し、それ以外は「Aひかり」として東京駅・岡山駅を発着するようになる。 **# その他 … 米原駅のみに停車し、東京駅・広島駅発着の「福山駅停車型Wひかり」として運行するタイプ、岐阜羽島駅のみに停車し東京駅・新大阪駅を発着するタイプ、三島駅・豊橋駅に停車し、「Aひかり」として東京駅・岡山駅を発着するタイプがある。 * [[1989年]](平成元年)[[3月13日]]:この時点で東京駅・博多駅発着の「Aひかり」が徳山駅・新下関のいずれかに選択停車する。 * [[1991年]](平成3年)[[3月16日]]:(京都駅 - )新大阪駅 - 博多駅間各駅停車の「ひかり」が消滅。各駅停車の区間が、岡山駅・広島駅で系統分離。 ** Bひかりが以下の通りタイプが別れる **# 新神戸駅のみ(稀に姫路駅が停車に加わる)に停車し、岡山駅 - 広島駅間が各駅停車となるタイプ。(仮に新神戸駅のみに停車するものをB-1タイプ、新神戸駅・姫路駅の両駅に停車するものをB-2タイプとする) **# 新大阪駅 - 広島駅間が各駅停車となるタイプ。(仮にB-3タイプとする) **# 新大阪駅 - 広島駅間を岡山駅のみに停車し、広島駅 - 博多駅間が各駅停車となるタイプ。(仮にB-4タイプとする) **# 新大阪駅 - 岡山駅間が各駅停車となるタイプ。(仮にB-5タイプとする) * [[1992年]](平成4年)[[3月14日]]:「のぞみ」が登場する。 ** この時点で、山陽新幹線内の「ひかり」の停車パターンが以下のように変更。ただし、途中停車駅については、全列車停車駅を省略して記載している。 **# Wひかり … 一部、新神戸駅、福山駅の両駅に停車する「Wひかり」が運行されるようになる。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプを除く)は以下の通りである。ただし、ここで言う「山陽区間内」とは岡山駅、広島駅、博多駅のいずれかを指す。また、山陽区間内に直通するタイプは、また、途中停車駅については、全列車停車駅を省略して記載している。 **# 新横浜駅停車タイプ … 東海道新幹線内での停車パターンは以前と同様。ただし、稀に新横浜駅・岐阜羽島駅・米原駅の組み合わせで停車するようになる。東京駅・山陽区間内(稀に新大阪駅)を発着する。岡山発着便はB-5タイプ、広島駅発着便はB-1、B-3、新神戸駅・福山駅停車型Wひかりのいずれかのタイプ、博多発着便は「Aひかり」またはB-4として運行する。 **# 静岡駅停車タイプ … 東海道新幹線内での停車パターンは以前と同様。東京駅・広島駅(B-2タイプとして)または岡山駅(「Aひかり」として)を発着する。 **# その他 … 米原駅のみに停車するタイプ、三島駅・豊橋駅に停車し、B-2タイプとして運行するタイプがある。 * [[1993年]](平成5年)[[3月18日]]:「のぞみ」の運行区間が山陽新幹線まで拡大。これにより「ひかり」の運行形態を見直し。 ** Wひかり … 新神戸駅、福山駅、徳山駅、小郡駅の中から選択停車するようになる。 ** 新横浜駅停車タイプ … 新横浜駅のみに停車するパターンの大半が、東京駅・博多駅(稀に広島駅)に発着し、新神戸駅と福山駅・小郡駅のいずれかに停車する(稀に徳山駅が停車に加わる)「Wひかり」として運行。新横浜駅以外にも停車するパターンは、東京駅・岡山駅(B-5タイプ)または新大阪駅を発着する。 ** 静岡駅停車タイプ … 東海道管内の停車パターン、山陽区間での運行形態は基本的に以前と同様。ただし、東京駅・博多駅を発着し、静岡駅・浜松駅・新神戸駅・小郡駅に停車する「Wひかり」として運行するパターン、東京駅・広島駅を発着し静岡駅・豊橋駅・新神戸駅・福山駅に停車する「Wひかり」として運行するパターンが運行される。 * [[1996年]](平成10年)[[3月16日]]:新神戸駅が全ひかり停車駅になる。以降、停車駅を記載する際に同駅を省略する。 * [[1997年]](平成9年)[[11月29日]]:[[新岩国駅]]・[[東広島駅]]・[[三原駅]]・[[新尾道駅]]・[[新倉敷駅]]・[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]が停車駅から除外、のちに「ひかり」の停車が復活。 ** この時点で、東京 - 新大阪間における「ひかり」の停車パターン(最速達タイプを除く)は以下の通りである。ただし、途中停車駅については、全列車停車駅を省略して記載している。 **# 新横浜駅停車タイプ … 東海道区間で、新横浜駅のみに停車するパターン、新横浜駅・岐阜羽島駅・米原駅に停車するパターンの2パターン化される。前者の大半は、福山駅・小郡駅に停車(稀に徳山駅にも停車)する東京駅・博多駅発着の「Wひかり」として運行(稀に東京駅・新大阪駅発着または東京駅・広島駅発着の「Aひかり」となる)、後者の大半は、「Aひかり」として東京駅・広島駅(稀に岡山駅)を発着、若しくは東京駅・新大阪駅を発着する。稀に新横浜駅・小田原駅・岐阜羽島駅・米原駅に停車し、東京駅・新大阪駅を発着するパターン、新横浜駅・小田原駅・米原駅に停車し「Aひかり」として東京駅・岡山駅を発着するパターンがある。 **# 静岡駅停車タイプ … このタイプに当てはまるほとんどの列車が、東京駅・岡山駅を発着する「Aひかり」の運行に統一される。また、東京駅・博多駅を発着し静岡駅・浜松駅に停車する「Wひかり」(前述)については、福山駅が停車駅に加わる。 * [[1999年]](平成11年)[[10月2日]] ** この時点で一部の「ひかり」の停車パターンを僅かに変更。 **# 新横浜駅停車タイプ … 新横浜駅のみに停車するタイプのうち一部が東京駅・博多駅を発着し山陽区間内を福山駅・小郡駅・新下関駅に停車し、姫路駅を停車または通過するタイプとして運行される。また、この時点で、東海道新幹線内においては、新横浜駅のみ停車パターンが「ひかり」の大半を占めており、東海道区間内で名古屋駅・京都駅のみに停車する最速達タイプが少なくなっている。 **# 静岡駅停車タイプ … 静岡駅・豊橋駅・福山駅に停車し、東京駅・広島駅を発着するタイプが運行される。 * [[2000年]](平成12年)10月1日:相生駅の「ひかり」停車が復活。 * [[2001年]](平成13年)10月1日 ** この時点で、東京駅発着の「ひかり」のほとんどが、長い区間でも広島駅発着となる。「ひかり」の運行形態を一部見直し。 **# 新横浜駅停車タイプ … 新横浜駅のみ停車パターンのほとんどが、山陽区間内で途中福山駅のみに停車し(稀に姫路駅にも停車)、広島駅発着(稀に小郡駅にも停車する博多駅発着)となる。新横浜駅・米原駅・岐阜羽島駅に停車するタイプは、新大阪駅発着または、姫路駅と小郡駅に停車し博多駅(稀に岡山駅)発着となる。稀に新横浜駅・小田原駅・米原駅に停車し、姫路駅まで各駅停車で岡山駅を発着するパターン、新横浜駅・小田原駅・岐阜羽島駅・米原駅・に停車し新大阪駅発着または姫路駅・福山駅・徳山駅・小郡駅に停車する博多駅発着のパターンがある。 **# 静岡駅停車タイプ … このタイプにおけるほぼ全てのパターンにおいて、京都駅から姫路駅まで各駅停車となり岡山駅を発着するようになる。ただし、静岡駅・浜松駅に停車し、京都駅から岡山駅が各駅停車となるパターンもある。 **# その他 … 新横浜駅・静岡駅・岐阜羽島駅に停車し新大阪駅を発着するパターン、新横浜駅・静岡駅・岐阜羽島駅に停車し米原駅から姫路駅が各駅停車となり岡山駅を発着するパターンがある。 * [[2003年]](平成15年)10月1日 ** 東海道新幹線[[品川駅]]開業。以後、すべての「ひかり」が新横浜駅・品川駅のうち少なくともいずれかに停車し、すべての「ひかり」が小田原駅、熱海駅、三島駅、静岡駅、浜松駅、豊橋駅、岐阜羽島駅、米原駅のうちから選択停車するようになる。東海道新幹線内で、京都駅・名古屋駅のみに停車する最速達タイプと両駅以外で新横浜駅のみに停車するパターンは「のぞみ」に格上げされる形で消滅。 ** 東京駅と広島駅・博多駅を結ぶ「ひかり」が消滅。 ** 東海道新幹線内の「ひかり」の停車パターンを大幅に見直し。豊橋駅を「静岡駅停車タイプ」の選択停車駅から「新横浜駅停車タイプ」の選択停車駅へ変更、さらに「新横浜駅停車タイプ」から新横浜駅のみ停車パターンを「のぞみ」へ格上げする形で除去。また後述の通り停車パターンを変更。 ** このダイヤ改正により、東海道新幹線全区間を走行する「ひかり」において、当時の同区間内全列車途中停車駅(名古屋駅・京都駅)を除く途中駅の停車パターンについては、主に以下の通りにパターン化された。ただし、いずれのタイプにも当てはまらない変則的な停車パターンの「ひかり」も存在した。 **# 静岡駅停車タイプ … 東京駅・新大阪駅を発着し、品川駅と静岡駅に停車し、浜松駅または三島駅(ごく稀に熱海駅に変更)のいずれか、もしくは両駅に停車するタイプ。 **# 新横浜駅停車タイプ … 東京駅・岡山駅を発着し、新横浜駅と名古屋駅 - 岡山駅間の各駅に停車し、小田原駅・豊橋駅のいずれかに停車(ごく稀に両駅を通過)するタイプ。 * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:三原駅への停車が復活。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]] **「ひかり」の停車パターンを見直し。静岡駅停車タイプと新横浜駅停車タイプの発着駅を入れ替え。 ** 「新横浜駅」と「品川駅」に全てのひかりが停車するようになる ** このダイヤ改正により、新横浜駅が全列車停車駅となったため、「静岡駅停車タイプ」は「東京・岡山発着タイプ」へ、「新横浜駅停車タイプ」は「東京・新大阪発着タイプ」へ変更。東海道新幹線全区間を走行する「ひかり」において、本改正以降の同区間内全列車途中停車駅(品川駅・新横浜駅・名古屋駅・京都駅)を除く途中駅の停車パターンについては、主に以下の通りにパターンが変更された。ただし、いずれのタイプにも当てはまらない変則的な停車パターンの「ひかり」も存在した。 **# 東京・新大阪発着タイプ … 東京駅・新大阪駅を発着し、名古屋駅 - 新大阪駅間の各駅に停車し、小田原駅・豊橋駅のいずれか(ごく稀に両駅)に停車するタイプ。 **# 東京・岡山発着タイプ … 東京駅・岡山駅を発着し、静岡駅・浜松駅と新大阪駅 - 岡山駅間の各駅に停車し、三島駅(ごく稀に熱海駅に変更)に停車または通過するタイプ。 ** 東広島駅・新尾道駅・新倉敷駅の各駅にて上り1 - 2本の「ひかり」の停車が復活。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]] ** 新倉敷駅・新尾道駅・東広島駅の各駅にて下り「ひかり」の停車が復活。 * [[2011年]](平成23年)3月12日 ** 「ひかり」495号が福山駅に停車し、「ひかり」全列車(「レールスター」を含む)が福山駅に停車する。 * [[2013年]](平成25年)3月16日 ** 新岩国に停車する「ひかり」が1997年以来、16年ぶりに復活。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="RJ97-49">[[#RJ97|『鉄道ジャーナル』第97号 p.49]]</ref> <ref name="rf615-11">[[#RF615|『鉄道ファン』通巻615号 p.11]]</ref> <ref name="JTB-Timetable-2013-04-1047">[[#JTB-Timetable-2013-04|『JTB時刻表』2013年4月号 p.1047]]</ref> <ref name="須田寛JTB-17-81">[[#須田寛JTB-17|『東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日』 p.81]]</ref> <ref name="須田寛JTB-17-82">[[#須田寛JTB-17|『東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日』 p.82]]</ref> <ref name="須田寛JTB-17-169">[[#須田寛JTB-17|『東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日』 p.169]]</ref> <ref name="イカロスMOOK-13-36">[[#イカロスMOOK-13|『新幹線ひかり&新幹線100系電車』 p.36]]</ref> <ref name="イカロスMOOK-13-42">[[#イカロスMOOK-13|『新幹線ひかり&新幹線100系電車』 p.42]]</ref> <ref name="時刻表1985-3">国鉄監修 交通公社の時刻表 1985年3月号</ref> <ref name="時刻表1976-7">国鉄監修 交通公社の時刻表 1976年7月号</ref> <!-- <ref name="時刻表1975-3">国鉄監修 交通公社の時刻表 1975年3月号</ref> --> }} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"}} == 参考文献 == === 書籍 === * {{Cite book|和書|author=須田寬|authorlink=須田寬|series=JTBキャンブックス 鉄道 17|title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|date=2000-08-01|publisher=[[JTBパブリッシング]]|pages=81-82,169|isbn=978-4-533-03563-0|ref=須田寛JTB-17}} * {{Cite book|和書|author= |series=イカロスMOOK 名列車列伝シリーズ 13|title=新幹線ひかり&新幹線100系電車|date=2000-09|publisher=[[イカロス出版]]|pages=36,42|isbn=978-4-87149-296-6|ref=イカロスMOOK-13}} === 雑誌記事 === * {{Cite journal|和書|author= |year= |month= |title=特集:50.3白紙ダイヤ改正のすべて|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=第97号(1975年4月号)|pages=p.49|publisher=鉄道ジャーナル社<!--成美堂出版からの発売は2010年3月号から。発行者は以後も鉄道ジャーナル社のまま-->|ref=RJ97}} * {{Cite journal|和書|author= |date=2012-05-21|title=特集:JR車両ファイル2012|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=第615号(2012年7月号)|pages=p.11|publisher=[[交友社]]|ref=RF615}} * {{Cite journal|和書|author= |date=2013-03-19|title= |journal=[[JTB]]時刻表|issue=2013年4月号|pages=p.1047|publisher=JTBパブリッシング|ref=JTB-Timetable-2013-04}} == 関連項目 == * [[日本の列車愛称一覧]] * [[山中恒]] - 新幹線「ひかり」を題材にした[[童謡]]「はしれちょうとっきゅう」を作詞。作曲は[[湯浅譲二]]。 * [[国分寺市]][[光町 (国分寺市)|光町]] - 地名の由来になっている。 == 外部リンク == * [https://www.jr-odekake.net/train/hikari_n700/ ひかり N700系:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 * [https://www.jr-odekake.net/train/hikari_n700_7000/ ひかり N700系(8両編成):JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 {{日本の新幹線}} {{DEFAULTSORT:ひかり}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:東海旅客鉄道の列車]] [[Category:西日本旅客鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:列車愛称 ひ|かり]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]]
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総合格闘技
総合格闘技(そうごうかくとうぎ、英: mixed martial arts、略称:MMA)は、打撃(パンチ、キック)、投げ技、固技(抑込技、関節技、絞め技)などの様々な技術を駆使して勝敗を競う格闘技である。 総合格闘技はその名の通り、世界中のあらゆる格闘技や武術の、さまざまな打撃技、組技、寝技で構成され、ルールによる攻撃手段の制約を最大限排除したうえで競い合う格闘技である。打撃系格闘技の多くでは組技・寝技が、組技系格闘技の多くでは打撃がルールで禁止されているのに対し、総合格闘技ではその両方が認められていることから、実際の試合にあたっては様々な格闘技の技術が使用される。大まかにいえばボクシングやムエタイ、空手などの立った状態からパンチやキックなどの打撃を駆使して戦う「打撃系格闘技」と、レスリングやブラジリアン柔術、柔道など相手と組んだ状態で固め技や投げ技を繰り出して戦う「組技系格闘技」の両方の技術が必要とされる。 競技ルールは、ニュージャージー州アスレチック・コミッション制定の統一ルール(通称:ユニファイドルール)が、北米の他、ヨーロッパ、南米やアジアなど世界で広く標準採用されている。 この統一ルールは、黎明期には無数にあった競技ルールを、各州アスレチック・コミッションや総合格闘技プロモーションが協議を重ねて1つにまとめ、2000年9月にニュージャージー州アスレチック・コミッションがアメリカ合衆国で初めて総合格闘技を認可した際に制定されたもので、2009年7月30日にはボクシング・コミッション協会にて、総合格闘技の統一ルールとなることが承認された。 試合時間はノンタイトル戦で原則5分3ラウンド、タイトルマッチで5分5ラウンド(インターバルはラウンド間に各1分)とされている。 オープンフィンガーグローブ(4~6オンス)、マウスピース、ジョックストラップの着用が義務付けられる他、上半身は裸、下半身には膝上以上のスパッツかトランクスを着用して試合を行う。シューズや膝当て、道着、ロングスパッツの着用は認められない。 「ケージ」(金網かネットのフェンスで囲われた六角形以上または円形の試合場)か「リング」の使用が認められている。広さについては、ケージは、18フィート(5.48m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内、リングは、ロープの内側で20フィート(6.09m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内と規定されている。 試合の勝敗は以下で決着する 判定は3人のジャッジがラウンドごとに採点を行い、優勢だった一方の選手に10ポイント、他方の選手に9ポイント以下を付け、各ラウンドのポイントの合計で勝敗を決するラウンドマスト制を採用している。ただし、僅差のラウンドの場合はジャッジが両選手に10ポイントを付けることもあるので、必ず勝敗がつくマストシステムではなく、引き分け裁定もありうる。 なお、判定の呼称にはユナニマス(Unanimous、3-0)、スプリット(Split、2-1)、マジョリティ(Majority、2-0)、ドロー(Draw、1-1, 1-0, 0-0)がある。 反則が確認された場合には、レフェリーは1ポイント又は2ポイントの減点を課すことができる。また、反則によって選手が試合続行不能になった場合で、反則が選手の故意によるものであった場合には失格、故意でなかった場合にはノーコンテストにすることができる。 ネバダ州アスレチック・コミッションおよびボクシング・コミッション協会が制定する全14階級の統一階級制区分。なお、UFCでは階級の設置を8階級に留めているなど、プロモーションによって採用する階級の数に相違がある。 既に古代には総合格闘技の原型のような格闘技が存在したことが確認されており、古代中国では、中国武術、ボクシング、レスリングが組み合わさった「擂台」、古代ギリシアでは、ボクシングとレスリングが組み合わさった「パンクラチオン」が存在した。 19世紀半ばにはフランスで「サバット」が隆盛し、1852年にサバットとイギリスのベアナックル・ボクシングとの対抗戦が開催された。このような試合は19世紀後半から20世紀半ばにかけても組まれ続け、1905年に柔道家との対戦、1957年にプロボクサーや空手家との対戦などが組まれた。 19世紀後半には、イギリスのレスリングやインド伝統レスリングのぺヘルワニーなど世界の様々なスタイルのレスリングが組み合わさった格闘技で、後世で総合格闘技に多大な影響を与える「キャッチレスリング」が登場。1880年代後半、キャッチレスリングを習得したキャッチレスラー達が、ヨーロッパ各地で開催されたトーナメント戦や、ミュージックホールなどで行われた挑戦者応募試合で戦った。アメリカ合衆国では、1887年にボクサーとキャッチレスラーが近代で初めて対戦し、当時のボクシング世界ヘビー級王者ジョン・L・サリバンとキャッチレスリング王者ウィリアム・マルドゥーンが試合を行った。1890年代後半には、後にボクシング世界ヘビー級王者になるボブ・フィッシモンズがキャッチレスリング欧州王者のアーネスト・ローバーと対戦。1901年9月には、フランク・スラビンとフランク・ゴッチが対戦した。 1899年にはロンドンで、日本で数年間武道を学んだエドワード・ウィリアム・バートン=ライトが、キャッチレスリング、柔道、ボクシング、サバット、柔術、フランス式棒術を組み合わせた「バーティツ」を開発。バーティツはアジアとヨーロッパの格闘技を融合させた最初の格闘技とされている。 1920年代初頭にソビエト連邦で、レスリング、柔道、打撃格闘技などの様々な格闘技を融合せた「サンボ」が開発された。 第一次世界大戦後、キャッチレスリングは、「シュート」と呼ばれる真剣勝負と、現在のプロレスに通じる「ショー」、2つの異なるジャンルに分かれて衰退していった。 1951年10月23日、ブラジルのマラカナン・スタジアムで柔道家の木村政彦と柔術家のエリオ・グレイシーと対戦し、木村が腕がらみで勝利した。 1963年、キャッチレスラーで柔道家のジン・ラベールとプロボクサーのミロ・サベージが対戦。北米で初めてテレビ放送された異種格闘技スタイルの試合となった。 1960年代後半から1970年代初頭にかけて、複数の武術・格闘技を融合させるという概念が、ブルース・リーの創始した「截拳道」によって西洋に広まった。2004年にUFC代表ダナ・ホワイトはブルース・リーのことを「総合格闘技の父」と称えている。 1976年、日本でボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとプロレスラーのアントニオ猪木が対戦し、15ラウンド引き分けとなった。 1988年、ムエタイのチャンプア・ゲッソンリットがキックボクサーのリック・ルーファス対戦。チャンプアは初回にパンチで2度ダウンを喫するも、ローキックを当て続け、レフェリーストップにより逆転勝利を収めたが、この試合は、西洋のファンにローキックの有効性を知らしめた最初の試合とされている。 今日の総合格闘技に大きな影響を与える「ブラジリアン柔術」「バーリトゥード」が始まる。 バーリトゥードは1920年代に始まり、後に「グレイシーチャレンジ」によって有名になった。グレイシーチャレンジはグレイシー一族が様々な格闘技の猛者や道場破りと対戦するもので、カーロス・グレイシーとエリオ・グレイシーによって始められた。 1980年3月20日、アメリカ合衆国で初めてルール化された総合格闘技の大会「タフガイ」が、CVプロモーションによってペンシルバニア州ニューケンジントンで開催された。その後10大会を継続開催したが、全く無関係のボクシング大会「タフマンコンテスト」で死亡事故が起こったことも重なり、1983年にペンシルバニア州上院議会で総合格闘技を事実上禁止する法案が可決された。 1993年、「UFC」が設立。The Ultimate Fighterシーズン1をきっかけに人気を博し、2006年にはPPVの年間販売件数でボクシングを上回った。 1997年、「PRIDE」が設立。 2007年、UFCがPRIDEを買収し統合。 英語では「混合格闘技」を意味するMixed Martial Arts(ミクスド・マーシャル・アーツ)と呼ばれている。実際にこの名称を生み出したのは誰なのか諸説あるが、最初にこの言葉が公に用いられたのは、テレビ評論家のハワード・ローゼンバーグがUFC 1のレビュー記事をロサンゼルス・タイムズで執筆した時とされており、総合格闘技サイトnewfullcontact.comがその言葉を引用したことで広まったとされている。 プロモーションで最初に使用したのは1995年9月のBattlecade Extreme Fightingとされており、UFCではUltimate FightingおよびNo Holds Barred(NHB)と呼ばれていたが、世論からの批判が高まったことで、UFC 17のルールミーティングで、UFCコミッショナーのジェフ・ブラトニックとレフェリーのジョン・マッカーシーが、略称であるMMAの使用を提案したとされている。 1996年8月23日、近代になって初めて州アスレチック・コミッションに認可された総合格闘技の大会がミシシッピ州ビロクシで開催される。ルールは既に認可されていたキックボクシングのルールに、テイクダウンと寝技を認めるルールと、ラウンド廃止が追加され、レフェリーに寝技で膠着した場合に選手を立たせてから再開させる権限が与えられて行われた。 1997年3月、アイオワ州アスレチック・コミッションが、既存のシュートファイティングルールに、3分5ラウンドのラウンド制、シュートファイティンググローブ装着の義務、階級の規定などと、禁止行為の指定(下腹部への攻撃、頭突き、噛みつき、目突き、頭髪を掴む、グランド状態の相手への肘攻撃、後頭部への拳での攻撃、ケイジやロープを掴む等)を加えたルールを策定した上で、総合格闘技を事実上認可し、1997年3月28日にExtreme Fighting 4が開催された。 2000年9月30日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技を認可。総合格闘技の包括的なルールを策定するために、実際に大会を見て情報収集することを認可の事由とした。 2001年4月3日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技の統一ルールを策定する会議を開催。会議に出席した、他州のアスレチック・コミッションや総合格闘技関係者により統一ルールが合意された。 ニュージャージー州アスレチック・コミッションの制定したルールが、北米において事実上の統一ルールとなっていたが、2009年7月30日にボクシング・コミッション協会によって正式に「総合格闘技の統一ルール」として承認された。 日本では、女性による総合格闘技は女子プロレスや男子総合格闘技の中で行われてきたが、1995年に史上初となる女子限定の総合格闘技イベント「L-1」が女子プロレス団体「LLPW」主催で開かれ、同団体エースの神取忍らが出場した。 1997年3月28日、アメリカ合衆国で公式記録として残っている最初の女子総合格闘技の試合がIFC 4で行われた。これに続いて1997年9月5日にルイジアナ州アスレチック・コミッションに認可された女子選手4人参加のトーナメントが開催された。 2001年、日本で女子総合格闘技団体「SMACK GIRL」が設立された。 2009年8月15日、アメリカ合衆国でStrikeforceがメジャープロモーションで初めて女子選手の試合をメインイベントにした大会を開催。クリスチャン・サイボーグとジーナ・カラーノがメインイベントで対戦した。 2012年4月28日、アメリカ合衆国で女子総合格闘技団体「Invicta FC」が設立された。 2013年2月23日、UFCが女子部門を設立し、UFC 157でロンダ・ラウジーがメインイベントを務めた。ラウジーは女子格闘家で初のPPV販売件数100万件を達成、さらにESPY賞を2014年と2015年に2年連続で受賞するなど総合格闘技の枠を超えたスター選手となった。 黎明期の女子総合格闘技では、安全上の理由から、顔面へのパウンド禁止やグラウンドに時間制限がかけられたり、短いラウンド数や試合時間で試合が行われる事があった。 国際総合格闘技連盟(IMMAF)が総合格闘技のアマチュア組織を統括し、世界選手権などのアマチュア国際大会を開催している。 2012年2月29日、国際総合格闘技連盟(IMMAF)が創設される。 2014年6月30日から7月6日の期間でアマチュア総合格闘技世界選手権を初開催。 2018年4月11日、世界総合格闘技協会(WMMAA)との合併を発表。 オーストラリアで総合格闘技は全ての州・準州で認可されている。競技としては認可されていたものの、ケイジの使用が禁止されていた州もあったが、ビクトリア州で2015年に、西オーストラリア州で2017年に使用が許可さたことで全ての州でケイジの使用が解禁された。 バーレーン総合格闘技連盟(BNMMAF)が設立されており、2017年には首都マナーマでIMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権が開催された。中東最大の総合格闘技プロモーション「Brave Combat Federation」が存在する。 ブラジル総合格闘技アスレチック・コミッション(CABMMA)が設立されている。CABMMAはUFC on FX 7から正式に管轄を開始した。 ブルガリア総合格闘技連盟(BFforMMA)が設立されており、元UFC選手のスタニスラブ・ネドコフが代表を務めている。 カナダでは2013年6月5日に各州に総合格闘技を管轄するためのアスレチック・コミッションを設置する権限が与えられる法案が成立した。 それ以前は正式には認可されておらず、一部の州では認可されていたボクシングを拡大解釈し、混合ボクシング(Mixed Boxing)と分類するなどして開催していた。 中華人民共和国で総合格闘技は国家体育総局の武術スポーツ管理センターによって認可されている。 フランスで総合格闘技は2020年1月1日に正式に認可された。認可以前には、総合格闘技のフルコンタクトの試合は禁止されていたため、フランスで行われる総合格闘技の試合は、グラウンドでの打撃攻撃が認められていなかった。 フランス総合格闘技コミッション(CFMMA)が設立されている。 ノルウェーは完全な総合格闘技は禁止されている。ノルウェーでは1981年以降、ノックアウトを伴う全てのスポーツが禁止となっているが、2014年にボクシングは解禁された。総合格闘技は、レガース着用の義務や、肘打ち禁止などの打撃攻撃が規制された「Merkekamper」として政府から認可を受け行われている。 ノルウェー総合格闘技連盟(NMMAF)が設立されている。 スウェーデンで総合格闘技は認可されており、スウェーデン総合格闘技連盟(SMMAF)が設立されている。 2012年にタイ・スポーツ公社(SAT)が、タイ国内で総合格闘技の試合を行うことを禁止した。保守的なムエタイ関係者や政府の高官らが慎重な姿勢を示し、一部では、タイの文化である国技ムエタイを守るために総合格闘技を禁止するべきという反発の声が出ていた。 2016年5月27日、タイ観光・スポーツ省の支援を受けてONE Championshipがバンコクで大会を開催し、総合格闘技が解禁された。 アメリカ合衆国で総合格闘技は州のアスレチック・コミッションにより管轄されている。2011年3月24日にウェストバージニア州、2012年3月8日にワイオミング州、2012年5月4日にバーモント州、2013年10月1日にコネチカット州、2016年4月14日にニューヨーク州で認可され、総合格闘技が全米で解禁となった。 2020年2月20日に総務次官が総合格闘技合法化法案に署名。ベトナム総合格闘技連盟(VNMMAF)が設立されている。 打撃技、投げ技、寝技の技術体系を総合的に網羅した武道は日本拳法など日本にも古くから存在した。 1976年、新日本プロレスのアントニオ猪木がプロレスのリングにおいて「異種格闘技戦」をモハメド・アリ(ボクシング)、ウィリー・ウィリアムス(空手)、ウィレム・ルスカ(柔道)らを相手に行った。 1984年4月、新日本プロレスから離脱した前田日明・藤原喜明・高田延彦らプロレスラーによって第1次UWFが興された。佐山聡(初代タイガーマスク)が加入後、自身が当時考案していた新格闘技(後のシューティング)という現在の総合格闘技ルールの基礎となる理論と概念を持ち込んだ。 猪木の異種格闘技戦もUWFも結局「プロレス」の域を出ることは無かったものの、これが日本の総合格闘技の萌芽となったと言われている(しかし、今日のこれと無関係な世界的総合格闘技の隆盛からむしろ「障害」・「迂路」となったとする意見もある)。 1984年、UWFを脱退した佐山聡が「修斗」(当初は「シューティング」と呼ばれた)を創設。 1988年5月、第2次UWF(新生UWF)が設立され、一大ムーブメントを起こした。第2次UWFには後にパンクラスを立ち上げる船木誠勝が参加している。 1993年、「パンクラス」が設立された。 1993年11月12日、「UFC」の第1回大会UFC 1が開催され、グレイシー一族の一人、ホイス・グレイシーが小兵ながらも巧みなブラジリアン柔術で様々な分野の格闘家を破り優勝。この出来事はいわゆる「グレイシーショック」として日本にも伝播することになる。初期のUFCにはジェラルド・ゴルドー、ケン・シャムロック、大道塾の市原海樹らが参戦。これら日本でもトップクラスの実力者と見なされてきた者たちがホイス・グレイシーに実力差を見せつけられて負けたことも大きな衝撃だった。 1994年、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」が開催され、ホイスの兄でありグレイシー一族最強とされていたヒクソン・グレイシーが参戦。空手格斗術慧舟会の西良典らを破りトーナメント優勝。その翌年開催の「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」にもヒクソンは参戦し、リングスの山本宜久、修斗の中井祐樹らに勝利して二連覇を果たした。 1997年、「PRIDE」が設立。桜庭和志らが活躍し、一大ムーブメントを起こした。2003年の大晦日では同時間帯に3つの格闘技興行K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003、INOKI BOM-BA-YE 2003 が開催され、それぞれTBS、フジテレビ、日本テレビの地上波テレビ3局で中継放送された。 様々な格闘技の選手がそれぞれの格闘技の技術で試合に臨んでいた1990年代初頭は、既に総合格闘技での戦い方を確立していたホイス・グレイシーやヒクソン・グレイシーに代表されるブラジリアン柔術が、ボクシングやキックボクシング、武術、柔道、空手など、総合格闘技においての寝技や関節技、ポジショニングの対応方法を殆ど知らない他格闘技を相手に独り勝ちの状態だった。 1990年代前半よりむしろ後半からは、レスリング出身者が元々持っていたテイクダウンとグラウンドレスリング技術を総合格闘技用に対応させ、さらに総合格闘技で定石となる戦術のグラウンド&パウンドを開発すると、マーク・コールマンやドン・フライ、ダン・スバーン、ランディ・クートゥアといったレスリング出身の選手が優位を占めるようになっていく。PRIDEでは、桜庭和志がグレイシー一族に4連勝。ビクトー・ベウフォートら打撃の強豪も圧倒し、世界から注目された。 2000年代に入ると、レスリングや柔術などのテイクダウンと寝技に対応した、打撃を主体とするスタイルのヴァンダレイ・シウバやミルコ・クロコップなどの選手が活躍するようになる。PRIDEヘビー級王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルもベースにあるのは、投げ技と関節技が特徴のサンボだが、スタンドのパンチと、グラウンド状態での強烈なパウンドを得意とした。 今日の総合格闘技では、それぞれの技術の習得に差はあっても、打撃技、組技、寝技を全て出来なければ勝つのは難しくなっている。 ホイス・グレイシーが、UFC 1、UFC 2、UFC 4と初期UFCを3度制覇。ホイスの兄ヒクソン・グレイシーもVTJ94、VTJ95を2連覇し、総合格闘技でのブラジリアン柔術(以下、柔術)の高い適性を示した。小柄なホイスやヒクソンがヘビー級選手を次々に絞め技や関節技で仕留める様は、総合格闘技において打撃主体の立ち技よりも寝技を主体とした柔術のほうが有用性が高いことを示し、「グレイシーショック」と呼ばれる強いインパクトを格闘技界に与えた。 テイクダウン技術やポジションキープ技術ではレスリングのほうが優れていたが、柔術は不利なポジションからでも関節技や絞め技を極めるまでもっていける多彩な技術を持っており、ホイスはダン・スバーンに、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラはマーク・コールマンに下からの三角絞めで勝利している。他競技がこれを攻略するのは困難を極めたが、ケン・シャムロックはガードポジション内でスイープや絞め、関節技を警戒し、最小限の動きで頭突きをくわえ続けると言う戦術でホイスと引き分けている。また、桜庭和志はホイラー・グレイシー戦で、徹底的にグラウンドを拒否し、猪木アリ状態から相手の脚を蹴り続けたり、スタンドでも距離を取ってローキックを蹴り続ける戦術でダメージを与えて勝利している。エメリヤーエンコ・ヒョードルは下からの三角絞めや腕ひしぎ十字固めを警戒しつつ、ガードポジション内から強烈なパウンドを打ち込むという戦術でホドリゴ・ノゲイラに勝利している。このように柔術攻略も進んだため、初期UFCのように柔術家の独擅場と言うわけには行かなくなったが、ホリオン・グレイシーが「我々もいつか敗れるときが来るだろう。しかし、我々を敗るのは我々の技術だ」と述べていたように、今日の総合格闘技においても柔術は必要不可欠でレスリングとボクシングに並んで非常に重要な技術となっている。 柔術出身選手の主な戦績としては、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが初代PRIDEヘビー級王座、UFC世界ヘビー級暫定王者を獲得。ファブリシオ・ヴェウドゥムがUFC世界ヘビー級王座を獲得、ヒョードルに腕ひしぎ三角固めで勝利している。 グレイシー撤退以後、UFCでは、ダン・スバーン、マーク・コールマン、ドン・フライらが活躍し、レスリング選手黄金期を築き上げた。レスリングにはルール上、関節技・打撃技はないが、テイクダウン技術とポジションキープ技術は圧倒的で、他競技の対戦相手の上をとって動きを制し、そこからパウンドや頭突きなどで勝利を収めた。しかし、他競技の選手がタックルの切り方やテイクダウンされてからの立ち方を覚えるなど、テイクダウンの対策が普及すると、レスリング系の選手がテイクダウンを奪うのが難しくなった。ランディ・クートゥアは、グレコローマンレスリングの技術を応用して相手を金網に押し込んで動きを制し、近距離からショートアッパーやショートフックを打ち込む戦術を得意にした。 総合格闘技の普及と発展に大きな影響を与えたグレイシー柔術は、講道館柔道の前田光世がブラジルに伝えた技術が源流となっている。柔道家の木村政彦は、1951年10月23日にブラジルでエリオ・グレイシーに勝利しており、柔道はUFC以前に唯一グレイシー柔術に勝利を収めた格闘技として評価を高めた。吉田秀彦はDynamite!のジャケットルールマッチでホイス・グレイシーに袖車絞めで勝利し、総合ルールでもドン・フライや田村潔司といった強豪に勝利し、ヴァンダレイ・シウバとも善戦して評価を高めた。一方、柔道金メダリスト石井慧がキックボクサーのジェロム・レ・バンナを極め切れなかったように、総合格闘技において柔道家は必ずしも関節技や絞め技が得意というわけではない。また、瀧本誠は田村潔司に、吉田秀彦はミルコ・クロコップにローキックで攻められて対応できず、ローキックの対処に弱さも見られた。その一方、日本の主要団体の中量・重量級王者に柔道出身者が多く、世界最高のMMA団体UFCでアジア人史上最高の戦績を残した岡見勇信やUFC女子世界バンタム級初代王者ロンダ・ラウジーも柔道出身。 サンボは着衣格闘技だが、投げ技、テイクダウン、グラップリング、関節技のバランスのとれた技術体系を持っており、サンボ選手のエメリヤーエンコ・ヒョードルは、PRIDEヘビー級王座を獲得し、高阪剛戦の偶発性の肘打ちによる流血レフェリーストップ以降、ファブリシオ・ヴェウドゥム戦まで10年間負けなしという驚異的な成績で、人類最強の男と呼ばれた。ハビブ・ヌルマゴメドフはUFC世界ライト級王座を獲得。オレッグ・タクタロフは、UFC 6で優勝、Ultimate Ultimate 1995で準優勝した。 アート・ジマーソンがUFC 1に参戦しているが、ホイス・グレイシーに敗れている。アート・ジマーソンは工夫し、左手のみにグローブを付け、右手は素手のまま登場したが、テイクダウンされたら対処することができず、技を極められていないのにタップしている。元WBF世界クルーザー級王者の西島洋介は、総合格闘技では1勝もできなかった。バタービーンは、ジェームス・トンプソンやズールに勝利している。ボクシングの技術は立った状態でのパンチとパンチに対する防御技術、リング上での位置取りに突出しているために、その他の局面で対処ができず、蹴りやテイクダウンに対する耐性が低かった。 ボクシング単体では総合格闘技への対応は難しいが、パンチはキックよりも隙が少なくフットワークによる位置取り技術もあることからタックルに対応しやすいという利点がある。ほぼ密着状態から拳が届く限界まで様々な位置に対応した打撃とその防御技術(ボクシングの技術)、これらのトレーニング方法が充実していることから、レスリングと同じく応用性が高くメインとなる攻撃方法としては広く使われている。 キックはパンチよりもリーチ・威力において有利だが、キックは隙が大きくなるため、初期は柔術家やレスリング選手にテイクダウンされてしまい実力を充分発揮できなかった。しかしテイクダウン対策を習得すると、総合格闘技で結果を出し始めた。モーリス・スミスはマーク・コールマンを破り、UFC世界ヘビー級王座を獲得。イゴール・ボブチャンチンは『PRIDE GP 2000』で準優勝。ヴァンダレイ・シウバはPRIDEミドル級王座を獲得。ミルコ・クロコップはPRIDE 無差別級グランプリ 2006で優勝している。マーク・ハントは40歳を過ぎてもなお一線級の舞台で活躍を続け結果を残した。ミルコはむしろ「寝技の選手が打撃を練習するよりも、立ち技の選手がタックル切りを覚えるほうが10倍簡単だ」と述べ、立ち技格闘技の選手が総合格闘技に転向した際の優位を指摘している。 競技特性として遠い間合い、先手をとる技術、打撃を捌く技により、打撃をもらいにくく打撃を当てやすい。また、間合いが遠いためタックルをもらいにくい。一方で寝技が無いため対抗するにはレスリングなどの技術を習得する必要がある。伝統派空手出身選手が打投極をある程度できれば、リーチと防御力により、スタンドでのかなりの優位性を発揮する。出身選手として元UFC王者のリョート・マチダ、UFCフライ級3位に上り詰めRIZINバンタム級GPで優勝した堀口恭司などがいる。 総合格闘技で実績を残したプロレスラーは桜庭和志、藤田和之、ジョシュ・バーネット、ブロック・レスナーなど多数存在する。しかし、髙田延彦や永田裕志、高山善廣、ケンドー・カシン、獣神サンダー・ライガーなどメジャーなプロレスラーの多くが総合では結果を残せなかった。プロレスラーとしては比較的マイナーであった桜庭和志や藤田和之、美濃輪育久(ミノワマン)、ジョシュ・バーネット、ダン・スバーンが総合で結果を残したのは、プロレスの技術と言うよりもレスリングやキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術によるものである。トップレスラーとしてプロレス団体WWEで活躍した後に総合へ転向し結果を残したブロック・レスナーも、元々はNCAA全米学生王座を獲得するほどの高いレスリング技術を下地として持っていた。 日本の女子総合格闘技は女子プロレス界が中心となって築き上げた歴史があり、元全日本女子プロレスの高橋洋子は日本初の女子総合格闘家としてスマックガール無差別級王座も獲得した。 日本書紀の記述によれば、古代の相撲は投げ技や関節技の他にも蹴り技やダウンした相手を踏みつけるなど「打投極」がある総合格闘技だったとされる。 UFC 1ではテイラ・トゥリがジェラルド・ゴルドーに敗北し、エマニュエル・ヤーブローも、UFC 3でキース・ハックニーに、PRIDE.3で高瀬大樹で敗れている。また、元横綱の曙太郎も総合ルールでは1勝も上げられなかった。力士は体格と筋肉量では圧倒的だが、致命的にスタミナとフットワークがなく、打撃でも寝技でも決め技に欠けていた。また、テイクダウン耐性が高いと思われていたが、引き込まれたり、つんのめったりして、試合では簡単に倒れた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "総合格闘技(そうごうかくとうぎ、英: mixed martial arts、略称:MMA)は、打撃(パンチ、キック)、投げ技、固技(抑込技、関節技、絞め技)などの様々な技術を駆使して勝敗を競う格闘技である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "総合格闘技はその名の通り、世界中のあらゆる格闘技や武術の、さまざまな打撃技、組技、寝技で構成され、ルールによる攻撃手段の制約を最大限排除したうえで競い合う格闘技である。打撃系格闘技の多くでは組技・寝技が、組技系格闘技の多くでは打撃がルールで禁止されているのに対し、総合格闘技ではその両方が認められていることから、実際の試合にあたっては様々な格闘技の技術が使用される。大まかにいえばボクシングやムエタイ、空手などの立った状態からパンチやキックなどの打撃を駆使して戦う「打撃系格闘技」と、レスリングやブラジリアン柔術、柔道など相手と組んだ状態で固め技や投げ技を繰り出して戦う「組技系格闘技」の両方の技術が必要とされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競技ルールは、ニュージャージー州アスレチック・コミッション制定の統一ルール(通称:ユニファイドルール)が、北米の他、ヨーロッパ、南米やアジアなど世界で広く標準採用されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この統一ルールは、黎明期には無数にあった競技ルールを、各州アスレチック・コミッションや総合格闘技プロモーションが協議を重ねて1つにまとめ、2000年9月にニュージャージー州アスレチック・コミッションがアメリカ合衆国で初めて総合格闘技を認可した際に制定されたもので、2009年7月30日にはボクシング・コミッション協会にて、総合格闘技の統一ルールとなることが承認された。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "試合時間はノンタイトル戦で原則5分3ラウンド、タイトルマッチで5分5ラウンド(インターバルはラウンド間に各1分)とされている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オープンフィンガーグローブ(4~6オンス)、マウスピース、ジョックストラップの着用が義務付けられる他、上半身は裸、下半身には膝上以上のスパッツかトランクスを着用して試合を行う。シューズや膝当て、道着、ロングスパッツの着用は認められない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「ケージ」(金網かネットのフェンスで囲われた六角形以上または円形の試合場)か「リング」の使用が認められている。広さについては、ケージは、18フィート(5.48m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内、リングは、ロープの内側で20フィート(6.09m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内と規定されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "試合の勝敗は以下で決着する", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "判定は3人のジャッジがラウンドごとに採点を行い、優勢だった一方の選手に10ポイント、他方の選手に9ポイント以下を付け、各ラウンドのポイントの合計で勝敗を決するラウンドマスト制を採用している。ただし、僅差のラウンドの場合はジャッジが両選手に10ポイントを付けることもあるので、必ず勝敗がつくマストシステムではなく、引き分け裁定もありうる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、判定の呼称にはユナニマス(Unanimous、3-0)、スプリット(Split、2-1)、マジョリティ(Majority、2-0)、ドロー(Draw、1-1, 1-0, 0-0)がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "反則が確認された場合には、レフェリーは1ポイント又は2ポイントの減点を課すことができる。また、反則によって選手が試合続行不能になった場合で、反則が選手の故意によるものであった場合には失格、故意でなかった場合にはノーコンテストにすることができる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ネバダ州アスレチック・コミッションおよびボクシング・コミッション協会が制定する全14階級の統一階級制区分。なお、UFCでは階級の設置を8階級に留めているなど、プロモーションによって採用する階級の数に相違がある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "既に古代には総合格闘技の原型のような格闘技が存在したことが確認されており、古代中国では、中国武術、ボクシング、レスリングが組み合わさった「擂台」、古代ギリシアでは、ボクシングとレスリングが組み合わさった「パンクラチオン」が存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "19世紀半ばにはフランスで「サバット」が隆盛し、1852年にサバットとイギリスのベアナックル・ボクシングとの対抗戦が開催された。このような試合は19世紀後半から20世紀半ばにかけても組まれ続け、1905年に柔道家との対戦、1957年にプロボクサーや空手家との対戦などが組まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "19世紀後半には、イギリスのレスリングやインド伝統レスリングのぺヘルワニーなど世界の様々なスタイルのレスリングが組み合わさった格闘技で、後世で総合格闘技に多大な影響を与える「キャッチレスリング」が登場。1880年代後半、キャッチレスリングを習得したキャッチレスラー達が、ヨーロッパ各地で開催されたトーナメント戦や、ミュージックホールなどで行われた挑戦者応募試合で戦った。アメリカ合衆国では、1887年にボクサーとキャッチレスラーが近代で初めて対戦し、当時のボクシング世界ヘビー級王者ジョン・L・サリバンとキャッチレスリング王者ウィリアム・マルドゥーンが試合を行った。1890年代後半には、後にボクシング世界ヘビー級王者になるボブ・フィッシモンズがキャッチレスリング欧州王者のアーネスト・ローバーと対戦。1901年9月には、フランク・スラビンとフランク・ゴッチが対戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1899年にはロンドンで、日本で数年間武道を学んだエドワード・ウィリアム・バートン=ライトが、キャッチレスリング、柔道、ボクシング、サバット、柔術、フランス式棒術を組み合わせた「バーティツ」を開発。バーティツはアジアとヨーロッパの格闘技を融合させた最初の格闘技とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1920年代初頭にソビエト連邦で、レスリング、柔道、打撃格闘技などの様々な格闘技を融合せた「サンボ」が開発された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、キャッチレスリングは、「シュート」と呼ばれる真剣勝負と、現在のプロレスに通じる「ショー」、2つの異なるジャンルに分かれて衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1951年10月23日、ブラジルのマラカナン・スタジアムで柔道家の木村政彦と柔術家のエリオ・グレイシーと対戦し、木村が腕がらみで勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1963年、キャッチレスラーで柔道家のジン・ラベールとプロボクサーのミロ・サベージが対戦。北米で初めてテレビ放送された異種格闘技スタイルの試合となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1960年代後半から1970年代初頭にかけて、複数の武術・格闘技を融合させるという概念が、ブルース・リーの創始した「截拳道」によって西洋に広まった。2004年にUFC代表ダナ・ホワイトはブルース・リーのことを「総合格闘技の父」と称えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1976年、日本でボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとプロレスラーのアントニオ猪木が対戦し、15ラウンド引き分けとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1988年、ムエタイのチャンプア・ゲッソンリットがキックボクサーのリック・ルーファス対戦。チャンプアは初回にパンチで2度ダウンを喫するも、ローキックを当て続け、レフェリーストップにより逆転勝利を収めたが、この試合は、西洋のファンにローキックの有効性を知らしめた最初の試合とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "今日の総合格闘技に大きな影響を与える「ブラジリアン柔術」「バーリトゥード」が始まる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "バーリトゥードは1920年代に始まり、後に「グレイシーチャレンジ」によって有名になった。グレイシーチャレンジはグレイシー一族が様々な格闘技の猛者や道場破りと対戦するもので、カーロス・グレイシーとエリオ・グレイシーによって始められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1980年3月20日、アメリカ合衆国で初めてルール化された総合格闘技の大会「タフガイ」が、CVプロモーションによってペンシルバニア州ニューケンジントンで開催された。その後10大会を継続開催したが、全く無関係のボクシング大会「タフマンコンテスト」で死亡事故が起こったことも重なり、1983年にペンシルバニア州上院議会で総合格闘技を事実上禁止する法案が可決された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1993年、「UFC」が設立。The Ultimate Fighterシーズン1をきっかけに人気を博し、2006年にはPPVの年間販売件数でボクシングを上回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1997年、「PRIDE」が設立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2007年、UFCがPRIDEを買収し統合。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "英語では「混合格闘技」を意味するMixed Martial Arts(ミクスド・マーシャル・アーツ)と呼ばれている。実際にこの名称を生み出したのは誰なのか諸説あるが、最初にこの言葉が公に用いられたのは、テレビ評論家のハワード・ローゼンバーグがUFC 1のレビュー記事をロサンゼルス・タイムズで執筆した時とされており、総合格闘技サイトnewfullcontact.comがその言葉を引用したことで広まったとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "プロモーションで最初に使用したのは1995年9月のBattlecade Extreme Fightingとされており、UFCではUltimate FightingおよびNo Holds Barred(NHB)と呼ばれていたが、世論からの批判が高まったことで、UFC 17のルールミーティングで、UFCコミッショナーのジェフ・ブラトニックとレフェリーのジョン・マッカーシーが、略称であるMMAの使用を提案したとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1996年8月23日、近代になって初めて州アスレチック・コミッションに認可された総合格闘技の大会がミシシッピ州ビロクシで開催される。ルールは既に認可されていたキックボクシングのルールに、テイクダウンと寝技を認めるルールと、ラウンド廃止が追加され、レフェリーに寝技で膠着した場合に選手を立たせてから再開させる権限が与えられて行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1997年3月、アイオワ州アスレチック・コミッションが、既存のシュートファイティングルールに、3分5ラウンドのラウンド制、シュートファイティンググローブ装着の義務、階級の規定などと、禁止行為の指定(下腹部への攻撃、頭突き、噛みつき、目突き、頭髪を掴む、グランド状態の相手への肘攻撃、後頭部への拳での攻撃、ケイジやロープを掴む等)を加えたルールを策定した上で、総合格闘技を事実上認可し、1997年3月28日にExtreme Fighting 4が開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2000年9月30日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技を認可。総合格闘技の包括的なルールを策定するために、実際に大会を見て情報収集することを認可の事由とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2001年4月3日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技の統一ルールを策定する会議を開催。会議に出席した、他州のアスレチック・コミッションや総合格闘技関係者により統一ルールが合意された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ニュージャージー州アスレチック・コミッションの制定したルールが、北米において事実上の統一ルールとなっていたが、2009年7月30日にボクシング・コミッション協会によって正式に「総合格闘技の統一ルール」として承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本では、女性による総合格闘技は女子プロレスや男子総合格闘技の中で行われてきたが、1995年に史上初となる女子限定の総合格闘技イベント「L-1」が女子プロレス団体「LLPW」主催で開かれ、同団体エースの神取忍らが出場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1997年3月28日、アメリカ合衆国で公式記録として残っている最初の女子総合格闘技の試合がIFC 4で行われた。これに続いて1997年9月5日にルイジアナ州アスレチック・コミッションに認可された女子選手4人参加のトーナメントが開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2001年、日本で女子総合格闘技団体「SMACK GIRL」が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年8月15日、アメリカ合衆国でStrikeforceがメジャープロモーションで初めて女子選手の試合をメインイベントにした大会を開催。クリスチャン・サイボーグとジーナ・カラーノがメインイベントで対戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2012年4月28日、アメリカ合衆国で女子総合格闘技団体「Invicta FC」が設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2013年2月23日、UFCが女子部門を設立し、UFC 157でロンダ・ラウジーがメインイベントを務めた。ラウジーは女子格闘家で初のPPV販売件数100万件を達成、さらにESPY賞を2014年と2015年に2年連続で受賞するなど総合格闘技の枠を超えたスター選手となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "黎明期の女子総合格闘技では、安全上の理由から、顔面へのパウンド禁止やグラウンドに時間制限がかけられたり、短いラウンド数や試合時間で試合が行われる事があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国際総合格闘技連盟(IMMAF)が総合格闘技のアマチュア組織を統括し、世界選手権などのアマチュア国際大会を開催している。", "title": "アマチュア総合格闘技" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2012年2月29日、国際総合格闘技連盟(IMMAF)が創設される。", "title": "アマチュア総合格闘技" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2014年6月30日から7月6日の期間でアマチュア総合格闘技世界選手権を初開催。", "title": "アマチュア総合格闘技" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2018年4月11日、世界総合格闘技協会(WMMAA)との合併を発表。", "title": "アマチュア総合格闘技" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "オーストラリアで総合格闘技は全ての州・準州で認可されている。競技としては認可されていたものの、ケイジの使用が禁止されていた州もあったが、ビクトリア州で2015年に、西オーストラリア州で2017年に使用が許可さたことで全ての州でケイジの使用が解禁された。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "バーレーン総合格闘技連盟(BNMMAF)が設立されており、2017年には首都マナーマでIMMAFアマチュア総合格闘技世界選手権が開催された。中東最大の総合格闘技プロモーション「Brave Combat Federation」が存在する。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ブラジル総合格闘技アスレチック・コミッション(CABMMA)が設立されている。CABMMAはUFC on FX 7から正式に管轄を開始した。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ブルガリア総合格闘技連盟(BFforMMA)が設立されており、元UFC選手のスタニスラブ・ネドコフが代表を務めている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "カナダでは2013年6月5日に各州に総合格闘技を管轄するためのアスレチック・コミッションを設置する権限が与えられる法案が成立した。 それ以前は正式には認可されておらず、一部の州では認可されていたボクシングを拡大解釈し、混合ボクシング(Mixed Boxing)と分類するなどして開催していた。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中華人民共和国で総合格闘技は国家体育総局の武術スポーツ管理センターによって認可されている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "フランスで総合格闘技は2020年1月1日に正式に認可された。認可以前には、総合格闘技のフルコンタクトの試合は禁止されていたため、フランスで行われる総合格闘技の試合は、グラウンドでの打撃攻撃が認められていなかった。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "フランス総合格闘技コミッション(CFMMA)が設立されている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ノルウェーは完全な総合格闘技は禁止されている。ノルウェーでは1981年以降、ノックアウトを伴う全てのスポーツが禁止となっているが、2014年にボクシングは解禁された。総合格闘技は、レガース着用の義務や、肘打ち禁止などの打撃攻撃が規制された「Merkekamper」として政府から認可を受け行われている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ノルウェー総合格闘技連盟(NMMAF)が設立されている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "スウェーデンで総合格闘技は認可されており、スウェーデン総合格闘技連盟(SMMAF)が設立されている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2012年にタイ・スポーツ公社(SAT)が、タイ国内で総合格闘技の試合を行うことを禁止した。保守的なムエタイ関係者や政府の高官らが慎重な姿勢を示し、一部では、タイの文化である国技ムエタイを守るために総合格闘技を禁止するべきという反発の声が出ていた。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2016年5月27日、タイ観光・スポーツ省の支援を受けてONE Championshipがバンコクで大会を開催し、総合格闘技が解禁された。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国で総合格闘技は州のアスレチック・コミッションにより管轄されている。2011年3月24日にウェストバージニア州、2012年3月8日にワイオミング州、2012年5月4日にバーモント州、2013年10月1日にコネチカット州、2016年4月14日にニューヨーク州で認可され、総合格闘技が全米で解禁となった。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2020年2月20日に総務次官が総合格闘技合法化法案に署名。ベトナム総合格闘技連盟(VNMMAF)が設立されている。", "title": "世界の総合格闘技" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "打撃技、投げ技、寝技の技術体系を総合的に網羅した武道は日本拳法など日本にも古くから存在した。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1976年、新日本プロレスのアントニオ猪木がプロレスのリングにおいて「異種格闘技戦」をモハメド・アリ(ボクシング)、ウィリー・ウィリアムス(空手)、ウィレム・ルスカ(柔道)らを相手に行った。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1984年4月、新日本プロレスから離脱した前田日明・藤原喜明・高田延彦らプロレスラーによって第1次UWFが興された。佐山聡(初代タイガーマスク)が加入後、自身が当時考案していた新格闘技(後のシューティング)という現在の総合格闘技ルールの基礎となる理論と概念を持ち込んだ。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "猪木の異種格闘技戦もUWFも結局「プロレス」の域を出ることは無かったものの、これが日本の総合格闘技の萌芽となったと言われている(しかし、今日のこれと無関係な世界的総合格闘技の隆盛からむしろ「障害」・「迂路」となったとする意見もある)。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1984年、UWFを脱退した佐山聡が「修斗」(当初は「シューティング」と呼ばれた)を創設。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1988年5月、第2次UWF(新生UWF)が設立され、一大ムーブメントを起こした。第2次UWFには後にパンクラスを立ち上げる船木誠勝が参加している。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1993年、「パンクラス」が設立された。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1993年11月12日、「UFC」の第1回大会UFC 1が開催され、グレイシー一族の一人、ホイス・グレイシーが小兵ながらも巧みなブラジリアン柔術で様々な分野の格闘家を破り優勝。この出来事はいわゆる「グレイシーショック」として日本にも伝播することになる。初期のUFCにはジェラルド・ゴルドー、ケン・シャムロック、大道塾の市原海樹らが参戦。これら日本でもトップクラスの実力者と見なされてきた者たちがホイス・グレイシーに実力差を見せつけられて負けたことも大きな衝撃だった。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1994年、「VALE TUDO JAPAN OPEN 1994」が開催され、ホイスの兄でありグレイシー一族最強とされていたヒクソン・グレイシーが参戦。空手格斗術慧舟会の西良典らを破りトーナメント優勝。その翌年開催の「VALE TUDO JAPAN OPEN 1995」にもヒクソンは参戦し、リングスの山本宜久、修斗の中井祐樹らに勝利して二連覇を果たした。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1997年、「PRIDE」が設立。桜庭和志らが活躍し、一大ムーブメントを起こした。2003年の大晦日では同時間帯に3つの格闘技興行K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!、PRIDE SPECIAL 男祭り 2003、INOKI BOM-BA-YE 2003 が開催され、それぞれTBS、フジテレビ、日本テレビの地上波テレビ3局で中継放送された。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "様々な格闘技の選手がそれぞれの格闘技の技術で試合に臨んでいた1990年代初頭は、既に総合格闘技での戦い方を確立していたホイス・グレイシーやヒクソン・グレイシーに代表されるブラジリアン柔術が、ボクシングやキックボクシング、武術、柔道、空手など、総合格闘技においての寝技や関節技、ポジショニングの対応方法を殆ど知らない他格闘技を相手に独り勝ちの状態だった。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1990年代前半よりむしろ後半からは、レスリング出身者が元々持っていたテイクダウンとグラウンドレスリング技術を総合格闘技用に対応させ、さらに総合格闘技で定石となる戦術のグラウンド&パウンドを開発すると、マーク・コールマンやドン・フライ、ダン・スバーン、ランディ・クートゥアといったレスリング出身の選手が優位を占めるようになっていく。PRIDEでは、桜庭和志がグレイシー一族に4連勝。ビクトー・ベウフォートら打撃の強豪も圧倒し、世界から注目された。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると、レスリングや柔術などのテイクダウンと寝技に対応した、打撃を主体とするスタイルのヴァンダレイ・シウバやミルコ・クロコップなどの選手が活躍するようになる。PRIDEヘビー級王者のエメリヤーエンコ・ヒョードルもベースにあるのは、投げ技と関節技が特徴のサンボだが、スタンドのパンチと、グラウンド状態での強烈なパウンドを得意とした。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "今日の総合格闘技では、それぞれの技術の習得に差はあっても、打撃技、組技、寝技を全て出来なければ勝つのは難しくなっている。", "title": "日本における総合格闘技" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ホイス・グレイシーが、UFC 1、UFC 2、UFC 4と初期UFCを3度制覇。ホイスの兄ヒクソン・グレイシーもVTJ94、VTJ95を2連覇し、総合格闘技でのブラジリアン柔術(以下、柔術)の高い適性を示した。小柄なホイスやヒクソンがヘビー級選手を次々に絞め技や関節技で仕留める様は、総合格闘技において打撃主体の立ち技よりも寝技を主体とした柔術のほうが有用性が高いことを示し、「グレイシーショック」と呼ばれる強いインパクトを格闘技界に与えた。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "テイクダウン技術やポジションキープ技術ではレスリングのほうが優れていたが、柔術は不利なポジションからでも関節技や絞め技を極めるまでもっていける多彩な技術を持っており、ホイスはダン・スバーンに、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラはマーク・コールマンに下からの三角絞めで勝利している。他競技がこれを攻略するのは困難を極めたが、ケン・シャムロックはガードポジション内でスイープや絞め、関節技を警戒し、最小限の動きで頭突きをくわえ続けると言う戦術でホイスと引き分けている。また、桜庭和志はホイラー・グレイシー戦で、徹底的にグラウンドを拒否し、猪木アリ状態から相手の脚を蹴り続けたり、スタンドでも距離を取ってローキックを蹴り続ける戦術でダメージを与えて勝利している。エメリヤーエンコ・ヒョードルは下からの三角絞めや腕ひしぎ十字固めを警戒しつつ、ガードポジション内から強烈なパウンドを打ち込むという戦術でホドリゴ・ノゲイラに勝利している。このように柔術攻略も進んだため、初期UFCのように柔術家の独擅場と言うわけには行かなくなったが、ホリオン・グレイシーが「我々もいつか敗れるときが来るだろう。しかし、我々を敗るのは我々の技術だ」と述べていたように、今日の総合格闘技においても柔術は必要不可欠でレスリングとボクシングに並んで非常に重要な技術となっている。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "柔術出身選手の主な戦績としては、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラが初代PRIDEヘビー級王座、UFC世界ヘビー級暫定王者を獲得。ファブリシオ・ヴェウドゥムがUFC世界ヘビー級王座を獲得、ヒョードルに腕ひしぎ三角固めで勝利している。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "グレイシー撤退以後、UFCでは、ダン・スバーン、マーク・コールマン、ドン・フライらが活躍し、レスリング選手黄金期を築き上げた。レスリングにはルール上、関節技・打撃技はないが、テイクダウン技術とポジションキープ技術は圧倒的で、他競技の対戦相手の上をとって動きを制し、そこからパウンドや頭突きなどで勝利を収めた。しかし、他競技の選手がタックルの切り方やテイクダウンされてからの立ち方を覚えるなど、テイクダウンの対策が普及すると、レスリング系の選手がテイクダウンを奪うのが難しくなった。ランディ・クートゥアは、グレコローマンレスリングの技術を応用して相手を金網に押し込んで動きを制し、近距離からショートアッパーやショートフックを打ち込む戦術を得意にした。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "総合格闘技の普及と発展に大きな影響を与えたグレイシー柔術は、講道館柔道の前田光世がブラジルに伝えた技術が源流となっている。柔道家の木村政彦は、1951年10月23日にブラジルでエリオ・グレイシーに勝利しており、柔道はUFC以前に唯一グレイシー柔術に勝利を収めた格闘技として評価を高めた。吉田秀彦はDynamite!のジャケットルールマッチでホイス・グレイシーに袖車絞めで勝利し、総合ルールでもドン・フライや田村潔司といった強豪に勝利し、ヴァンダレイ・シウバとも善戦して評価を高めた。一方、柔道金メダリスト石井慧がキックボクサーのジェロム・レ・バンナを極め切れなかったように、総合格闘技において柔道家は必ずしも関節技や絞め技が得意というわけではない。また、瀧本誠は田村潔司に、吉田秀彦はミルコ・クロコップにローキックで攻められて対応できず、ローキックの対処に弱さも見られた。その一方、日本の主要団体の中量・重量級王者に柔道出身者が多く、世界最高のMMA団体UFCでアジア人史上最高の戦績を残した岡見勇信やUFC女子世界バンタム級初代王者ロンダ・ラウジーも柔道出身。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "サンボは着衣格闘技だが、投げ技、テイクダウン、グラップリング、関節技のバランスのとれた技術体系を持っており、サンボ選手のエメリヤーエンコ・ヒョードルは、PRIDEヘビー級王座を獲得し、高阪剛戦の偶発性の肘打ちによる流血レフェリーストップ以降、ファブリシオ・ヴェウドゥム戦まで10年間負けなしという驚異的な成績で、人類最強の男と呼ばれた。ハビブ・ヌルマゴメドフはUFC世界ライト級王座を獲得。オレッグ・タクタロフは、UFC 6で優勝、Ultimate Ultimate 1995で準優勝した。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "アート・ジマーソンがUFC 1に参戦しているが、ホイス・グレイシーに敗れている。アート・ジマーソンは工夫し、左手のみにグローブを付け、右手は素手のまま登場したが、テイクダウンされたら対処することができず、技を極められていないのにタップしている。元WBF世界クルーザー級王者の西島洋介は、総合格闘技では1勝もできなかった。バタービーンは、ジェームス・トンプソンやズールに勝利している。ボクシングの技術は立った状態でのパンチとパンチに対する防御技術、リング上での位置取りに突出しているために、その他の局面で対処ができず、蹴りやテイクダウンに対する耐性が低かった。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ボクシング単体では総合格闘技への対応は難しいが、パンチはキックよりも隙が少なくフットワークによる位置取り技術もあることからタックルに対応しやすいという利点がある。ほぼ密着状態から拳が届く限界まで様々な位置に対応した打撃とその防御技術(ボクシングの技術)、これらのトレーニング方法が充実していることから、レスリングと同じく応用性が高くメインとなる攻撃方法としては広く使われている。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "キックはパンチよりもリーチ・威力において有利だが、キックは隙が大きくなるため、初期は柔術家やレスリング選手にテイクダウンされてしまい実力を充分発揮できなかった。しかしテイクダウン対策を習得すると、総合格闘技で結果を出し始めた。モーリス・スミスはマーク・コールマンを破り、UFC世界ヘビー級王座を獲得。イゴール・ボブチャンチンは『PRIDE GP 2000』で準優勝。ヴァンダレイ・シウバはPRIDEミドル級王座を獲得。ミルコ・クロコップはPRIDE 無差別級グランプリ 2006で優勝している。マーク・ハントは40歳を過ぎてもなお一線級の舞台で活躍を続け結果を残した。ミルコはむしろ「寝技の選手が打撃を練習するよりも、立ち技の選手がタックル切りを覚えるほうが10倍簡単だ」と述べ、立ち技格闘技の選手が総合格闘技に転向した際の優位を指摘している。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "競技特性として遠い間合い、先手をとる技術、打撃を捌く技により、打撃をもらいにくく打撃を当てやすい。また、間合いが遠いためタックルをもらいにくい。一方で寝技が無いため対抗するにはレスリングなどの技術を習得する必要がある。伝統派空手出身選手が打投極をある程度できれば、リーチと防御力により、スタンドでのかなりの優位性を発揮する。出身選手として元UFC王者のリョート・マチダ、UFCフライ級3位に上り詰めRIZINバンタム級GPで優勝した堀口恭司などがいる。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "総合格闘技で実績を残したプロレスラーは桜庭和志、藤田和之、ジョシュ・バーネット、ブロック・レスナーなど多数存在する。しかし、髙田延彦や永田裕志、高山善廣、ケンドー・カシン、獣神サンダー・ライガーなどメジャーなプロレスラーの多くが総合では結果を残せなかった。プロレスラーとしては比較的マイナーであった桜庭和志や藤田和之、美濃輪育久(ミノワマン)、ジョシュ・バーネット、ダン・スバーンが総合で結果を残したのは、プロレスの技術と言うよりもレスリングやキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術によるものである。トップレスラーとしてプロレス団体WWEで活躍した後に総合へ転向し結果を残したブロック・レスナーも、元々はNCAA全米学生王座を獲得するほどの高いレスリング技術を下地として持っていた。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "日本の女子総合格闘技は女子プロレス界が中心となって築き上げた歴史があり、元全日本女子プロレスの高橋洋子は日本初の女子総合格闘家としてスマックガール無差別級王座も獲得した。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "日本書紀の記述によれば、古代の相撲は投げ技や関節技の他にも蹴り技やダウンした相手を踏みつけるなど「打投極」がある総合格闘技だったとされる。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "UFC 1ではテイラ・トゥリがジェラルド・ゴルドーに敗北し、エマニュエル・ヤーブローも、UFC 3でキース・ハックニーに、PRIDE.3で高瀬大樹で敗れている。また、元横綱の曙太郎も総合ルールでは1勝も上げられなかった。力士は体格と筋肉量では圧倒的だが、致命的にスタミナとフットワークがなく、打撃でも寝技でも決め技に欠けていた。また、テイクダウン耐性が高いと思われていたが、引き込まれたり、つんのめったりして、試合では簡単に倒れた。", "title": "各競技の総合格闘技での実績" } ]
総合格闘技は、打撃(パンチ、キック)、投げ技、固技(抑込技、関節技、絞め技)などの様々な技術を駆使して勝敗を競う格闘技である。
{{出典の明記|date=2013年4月13日 (土) 22:55 (UTC)}} {{ウィキプロジェクトリンク|総合格闘技}} '''総合格闘技'''(そうごうかくとうぎ、{{Lang-en-short|mixed martial arts}}、略称:MMA)は、[[打撃技|打撃]]([[パンチング|パンチ]]、[[蹴り技|キック]])、[[投げ技]]、[[固技]]([[固技|抑込技]]、[[関節技]]、[[絞め技]])などの様々な技術を駆使して勝敗を競う[[格闘技]]である。 == 概要 == 総合格闘技はその名の通り、世界中のあらゆる[[格闘技]]や[[武術]]の、さまざまな[[打撃]]技、組技、[[寝技]]で構成され、ルールによる攻撃手段の制約を最大限排除したうえで競い合う[[格闘技]]である<ref group="注">[[サミング|目突き]]や噛みつき・[[頭突き]]等の特に危険な攻撃は禁止することが多い。</ref>。打撃系格闘技の多くでは組技・寝技が、組技系格闘技の多くでは打撃がルールで禁止されているのに対し、総合格闘技ではその両方が認められていることから、実際の試合にあたっては様々な格闘技の技術が使用される。大まかにいえば[[ボクシング]]や[[ムエタイ]]、[[空手道|空手]]などの立った状態からパンチやキックなどの打撃を駆使して戦う「打撃系格闘技」と、[[アマチュアレスリング|レスリング]]や[[ブラジリアン柔術]]、[[柔道]]など相手と組んだ状態で固め技や投げ技を繰り出して戦う「組技系格闘技」の両方の技術が必要とされる。 == ルール == 競技ルールは、[[ニュージャージー州アスレチック・コントロール・ボード|ニュージャージー州アスレチック・コミッション]]制定の統一ルール(通称:ユニファイドルール)が、北米の他、ヨーロッパ、南米やアジアなど世界で広く標準採用されている。 この統一ルールは、黎明期には無数にあった競技ルールを、各州アスレチック・コミッションや総合格闘技プロモーションが協議を重ねて1つにまとめ、2000年9月にニュージャージー州アスレチック・コミッションが[[アメリカ合衆国]]で初めて総合格闘技を認可した際に制定されたもので、2009年7月30日には[[ボクシング・コミッション協会]]にて、総合格闘技の統一ルールとなることが承認された。 === 試合形式 === 試合時間はノンタイトル戦で原則5分3ラウンド、タイトルマッチで5分5ラウンド(インターバルはラウンド間に各1分)とされている。 === 試合着 === [[オープンフィンガーグローブ]](4~6オンス)、[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]、[[ジョックストラップ]]の着用が義務付けられる他、上半身は[[裸]]、下半身には膝上以上の[[スパッツ]]か[[トランクス]]を着用して試合を行う。[[シューズ]]や膝当て、[[道着]]、ロングスパッツの着用は認められない。 === 試合場 === 「ケージ」(金網かネットのフェンスで囲われた六角形以上または円形の試合場)か「[[リング (格闘技)|リング]]」の使用が認められている。広さについては、ケージは、18フィート(5.48m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内、リングは、ロープの内側で20フィート(6.09m)平方以上32フィート(9.75m)平方以内と規定されている<ref>[https://www.dca.ca.gov/csac/forms_pubs/publications/unified_rules_2017.pdf On December 16, 2016 the California Athletic Commission authorized and approved the revisedUnified Rules of MMA as adopted by the Association of Boxing Commissions and Combative in August 2016. The rules became effective January 1st, 2017. The authority to authorize and approve these rules is below.]Association of Boxing Commissions and Combative Sports 2017年1月1日</ref>。 === 勝敗・判定 === 試合の勝敗は以下で決着する * ノックアウト(KO) * テクニカルノックアウト(TKO:パンチ・キック等の打撃によりレフェリーが試合を止めるレフェリーストップ、医師が試合続行不可能と判断した場合のドクターストップ、コーナーストップ) * サブミッション([[関節技]]や[[絞め技]]、もしくは打撃による[[タップアウト]]及び口頭によるギブアップ、レフェリーによる見込み一本、その他戦意喪失の表明) * 失格、試合放棄、ノーコンテスト * 規定時間内に決着がつかなかった場合のジャッジによる判定 判定は3人のジャッジがラウンドごとに採点を行い、優勢だった一方の選手に10ポイント、他方の選手に9ポイント以下を付け、各ラウンドのポイントの合計で勝敗を決するラウンドマスト制を採用している。ただし、僅差のラウンドの場合はジャッジが両選手に10ポイントを付けることもあるので、必ず勝敗がつくマストシステムではなく、引き分け裁定もありうる。 なお、判定の呼称にはユナニマス(Unanimous、3-0)、スプリット(Split、2-1)、マジョリティ(Majority、2-0)、ドロー(Draw、1-1, 1-0, 0-0)がある。 === 反則 === * 噛み付き * [[眼球]]への攻撃 * [[口腔]]・[[鼻腔]]・[[耳]]等の[[開口部 (人体)|開口部]]に[[指]]を引っ掛ける行為 * [[ローブロー|局部への攻撃]] * 指関節等の小さい関節への攻撃 * [[髪]]を引っ張る行為 * 口腔・鼻腔・耳腔等の開口部や、裂傷した部分に指を入れる行為 * [[喉]]への打撃や喉を掴む行為 * ひっかく、つねる等の行為 * 故意に相手を骨折させる行為 * 相手の[[頭]]や[[首]]をマットに突き立てるように投げ落とす攻撃 * 試合場の外に相手を放り投げる行為 * 相手の着衣やグローブを掴む行為 * 相手につばを吐きかける行為 * 相手の怪我の原因になるようなスポーツマンらしくない行為 * 金網のフェンスを掴む行為(フェンスを掌で押す、蹴る行為は認められている) * 罵声を浴びせる行為 * ブレイク中の相手への攻撃 * レフェリーが対応している間の相手への攻撃 * 終了のブザーが鳴った後の攻撃 * レフェリーの指示を無視すること * 相手との接触を避け続けること、怪我のふりをすること、故意に[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]を落とすこと、などを含む臆病な行為 * コーナーの人間による妨害及び干渉行為 * 不正な優位性を得るために異物を使用すること * 頭突き * [[脊椎]]や後頭部への打撃 * [[肘]]を上から下に垂直に打ち下ろして肘の先端を当てる打撃(斜めに角度を付けて振り下ろす肘は反則にならない) * 試合を止めるためにコーナーがタオルを投入すること(部外者のタオル投入による試合妨害などを避けるため。コーナーが試合を止めたい時にはインスペクターに伝える<ref>[https://www.bloodyelbow.com/2013/11/5/5068852/ufc-keith-kizer-throwing-in-the-towel-remains-a-foul-in-nevada Keith Kizer on why throwing in the towel remains a foul in Nevada] 2013年11月5日</ref>) * グラウンド状態の相手の頭へのキック攻撃([[サッカーボールキック]]、蹴り上げ) * グラウンド状態の相手の頭への膝攻撃(いわゆる4点ポジションの[[膝蹴り]]) * グラウンド状態の相手を踏み付ける行為 * 相手の顔や目に向けて指を伸ばす構え 反則が確認された場合には、レフェリーは1ポイント又は2ポイントの減点を課すことができる。また、反則によって選手が試合続行不能になった場合で、反則が選手の故意によるものであった場合には失格、故意でなかった場合にはノーコンテストにすることができる。 === 医療要件 === * 試合出場選手は、試合ライセンス取得前に健康診断を受ける。 * 試合を管轄するアスレチック・コミッションは、計量を実施・管理する。また、選手とセコンドに向けたルールミーティングを実施・管理することができる。 * 試合出場選手は試合直後に、アスレチック・コミッションが指定した医師の健康診断・検査を受けなければならない。 * 試合後の健康診断・検査を拒否した試合出場選手は、無期限のライセンス停止処分を受ける。 === 禁止物質検査 === * 試合出場選手は、試合前または試合後に、尿検査もしくはアスレチック・コミッションが指定した医師が要求する検査を受けなければならない。検査を拒否した場合には試合失格と無期限のライセンス停止処分を受ける。 * アスレチック・コミッションは、禁止物質検査を実施・管理し、試合前後の検査に加えて、必要と判断した時にいつでも追加の検査を実施することができる。 === 階級 === [[ネバダ州アスレチック・コミッション]]および[[ボクシング・コミッション協会]]が制定する全14階級の[[体重別階級|統一階級制]]区分<ref>[https://www.abcboxing.com/unified-weight-classes-mma/ Unified Weight Classes – MMA] Association of Boxing Commissions and Combative Sports</ref>。なお、[[UFC]]では階級の設置を8階級に留めているなど、プロモーションによって採用する階級の数に相違がある。 {| class="wikitable" !rowspan=2|階級名称!!colspan=2|体重 |- !(lb/ポンド)!!(kg/キログラム) |- |[[スーパーヘビー級]]|| 265 lb超|| 120.2 kg超 |- |[[ヘビー級]]|| 265 lb以下|| 120.2 kg以下 |- |[[クルーザー級]]|| 225 lb以下|| 102.1 kg以下 |- |[[ライトヘビー級]]|| 205 lb以下|| 93.0 kg以下 |- |[[スーパーミドル級]]|| 195 lb以下|| 88.5 kg以下 |- |[[ミドル級]]|| 185 lb以下|| 83.9 kg以下 |- |[[スーパーウェルター級]]|| 175 lb以下|| 79.4 kg以下 |- |[[ウェルター級]]|| 170 lb以下|| 77.1 kg以下 |- |[[スーパーライト級]]|| 165 lb以下|| 74.8 kg以下 |- |[[ライト級]]|| 155 lb以下|| 70.3 kg以下 |- |[[フェザー級]]|| 145 lb以下|| 65.8 kg以下 |- |[[バンタム級]]|| 135 lb以下|| 61.2 kg以下 |- |[[フライ級]]|| 125 lb以下|| 56.7 kg以下 |- |[[ストロー級]]|| 115 lb以下|| 52.2 kg以下 |} == 歴史 == === 古代 === 既に[[古代]]には総合格闘技の原型のような格闘技が存在したことが確認されており、古代中国では、中国武術、ボクシング、レスリングが組み合わさった「擂台」、[[古代ギリシア]]では、ボクシングとレスリングが組み合わさった「パンクラチオン」が存在した。 === 近世 === 19世紀半ばには[[フランス]]で「[[サバット]]」が隆盛し、1852年にサバットと[[イギリス]]の[[ベアナックル・ボクシング]]との対抗戦が開催された。このような試合は19世紀後半から20世紀半ばにかけても組まれ続け、1905年に柔道家との対戦、1957年にプロボクサーや空手家との対戦などが組まれた。 19世紀後半には、イギリスのレスリングやインド伝統レスリングのぺヘルワニーなど世界の様々なスタイルのレスリングが組み合わさった格闘技で、後世で総合格闘技に多大な影響を与える「[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン|キャッチレスリング]]」が登場。1880年代後半、キャッチレスリングを習得したキャッチレスラー達が、ヨーロッパ各地で開催されたトーナメント戦や、[[ミュージックホール]]などで行われた挑戦者応募試合で戦った。アメリカ合衆国では、1887年にボクサーとキャッチレスラーが近代で初めて対戦し、当時のボクシング世界ヘビー級王者[[ジョン・L・サリバン]]とキャッチレスリング王者[[ウィリアム・マルドゥーン]]が試合を行った。1890年代後半には、後にボクシング世界ヘビー級王者になる[[ボブ・フィッシモンズ]]がキャッチレスリング欧州王者の[[アーネスト・ローバー]]と対戦。1901年9月には、フランク・スラビンと[[フランク・ゴッチ]]が対戦した。 1899年にはロンドンで、日本で数年間武道を学んだ[[エドワード・ウィリアム・バートン=ライト]]が、キャッチレスリング、柔道、ボクシング、サバット、[[柔術]]、フランス式[[棒術]]を組み合わせた「[[バーティツ]]」を開発。バーティツはアジアとヨーロッパの格闘技を融合させた最初の格闘技とされている。 1920年代初頭に[[ソビエト連邦]]で、レスリング、柔道、打撃格闘技などの様々な格闘技を融合せた「[[サンボ (格闘技)|サンボ]]」が開発された。 [[第一次世界大戦]]後、キャッチレスリングは、「[[ガチンコ|シュート]]」と呼ばれる真剣勝負と、現在の[[プロレス]]に通じる「ショー」、2つの異なるジャンルに分かれて衰退していった。 1951年10月23日、[[ブラジル]]の[[エスタジオ・ド・マラカナン|マラカナン・スタジアム]]で[[柔道家]]の[[木村政彦]]と[[柔術家]]の[[エリオ・グレイシー]]と対戦し、木村が[[腕緘|腕がらみ]]で勝利した。 1963年、キャッチレスラーで柔道家の[[ジン・ラベール]]とプロボクサーのミロ・サベージが対戦。北米で初めてテレビ放送された異種格闘技スタイルの試合となった。 1960年代後半から1970年代初頭にかけて、複数の武術・格闘技を融合させるという概念が、[[ブルース・リー]]の創始した「[[截拳道]]」によって西洋に広まった。2004年に[[UFC]]代表[[ダナ・ホワイト]]はブルース・リーのことを「総合格闘技の父」と称えている。 1976年、[[日本]]でボクシング世界ヘビー級王者[[モハメド・アリ]]と[[プロレスラー]]の[[アントニオ猪木]]が対戦し、15ラウンド引き分けとなった。 1988年、[[ムエタイ]]の[[チャンプア・ゲッソンリット]]がキックボクサーの[[リック・ルーファス]]対戦。チャンプアは初回にパンチで2度ダウンを喫するも、ローキックを当て続け、レフェリーストップにより逆転勝利を収めたが、この試合は、西洋のファンにローキックの有効性を知らしめた最初の試合とされている。 === 主な出来事 === {| style="margin:0 0 0.5ex 1em; font-size:100%; line-height:100%;" cellspacing="0" cellpadding="1" |- |rowspan="2" | 2000年以上前 !rowspan="2" style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – 擂台 |- | – [[パンクラチオン]] |- |19世紀後半 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン|キャッチレスリング]] |- |1880年代後半 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – 初期NHB |- |1899年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[バーティツ]] |- |1920年代 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – 初期[[バーリトゥード]]、グレイシーチャレンジ |- |1951年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[木村政彦]] 対 [[エリオ・グレイシー]] |- |1960年代–1970年代 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[ブルース・リー]]、[[截拳道]]<br /> |- |1976年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[アントニオ猪木対モハメド・アリ]] |- |1985年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[修斗]]設立 |- |1989年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – 修斗プロ第一戦開催 |- |1993年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[パンクラス]]設立 |- |1993年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[UFC]]設立 |- |1997年–2007年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]・ UFC時代 |- |2000年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[ニュージャージー州アスレチック・コントロール・ボード|ニュージャージー州アスレチック・コミッション]]が統一ルール(通称:ユニファイドルール)を制定 |- |2001年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[ズッファ]]がUFCを買収 |- |2005年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[The Ultimate Fighter]]開始 |- |2006年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – ズッファが[[World Fighting Alliance|WFA]]と[[World Extreme Cagefighting|WEC]]を買収 |- |2006年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[UFC 66]]で総合格闘技初となる [[ペイ・パー・ビュー|PPV]]購買件数100万件達成 |- |2007年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – ズッファがPRIDEを買収 |- |2009年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[Strikeforce: Carano vs. Cyborg]]でメジャープロモーションで初めて女子選手の試合をメインイベントにして開催 |- |2011年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – WECがUFCと統合 |- |2011年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – ズッファが[[Strikeforce]]を買収 |- |2011年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[フォックス放送|FOX]]で放送された[[UFC on FOX 1]]で視聴者数880万人到達 |- |2012年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[国際総合格闘技連盟]](IMMAF)設立 |- |2016年 ! style="background: rgb(12, 201, 12); border: 1px solid black; border-image: none; width: 10px;" | | – [[ウィリアム・モリス・エンデヴァー・エンターテイメント|WMG]]/[[インターナショナル・マネジメント・グループ|WME-IMG]]がUFCを40億ドル(約4400億円)で買収 |} === 近代総合格闘技 === 今日の総合格闘技に大きな影響を与える「[[ブラジリアン柔術]]」「[[バーリトゥード]]」が始まる。 [[バーリトゥード]]は1920年代に始まり、後に「グレイシーチャレンジ」によって有名になった。グレイシーチャレンジは[[グレイシー一族]]が様々な格闘技の猛者や道場破りと対戦するもので、[[カーロス・グレイシー]]と[[エリオ・グレイシー]]によって始められた。 1980年3月20日、アメリカ合衆国で初めてルール化された総合格闘技の大会「タフガイ」が、CVプロモーションによってペンシルバニア州ニューケンジントンで開催された。その後10大会を継続開催したが、全く無関係のボクシング大会「[[タフマンコンテスト]]」で死亡事故が起こったことも重なり、1983年にペンシルバニア州上院議会で総合格闘技を事実上禁止する法案が可決された。 1993年、「[[UFC]]」が設立。[[The Ultimate Fighter]][[The Ultimate Fighter 1|シーズン1]]をきっかけに人気を博し、2006年には[[ペイ・パー・ビュー|PPV]]の年間販売件数で[[ボクシング]]を上回った。 1997年、「[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]」が設立。 2007年、UFCが[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]を買収し統合。 === 名称 === 英語では「混合格闘技」を意味する''Mixed Martial Arts''(ミクスド・マーシャル・アーツ)と呼ばれている。実際にこの名称を生み出したのは誰なのか諸説あるが、最初にこの言葉が公に用いられたのは、テレビ評論家のハワード・ローゼンバーグが[[UFC 1]]のレビュー記事を[[ロサンゼルス・タイムズ]]で執筆した時とされており<ref>[https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1993-11-15-ca-57200-story.html ‘Ultimate’ Fight Lives Up to Name : Television: Pay-Per-View Battle, Instead of Being Merely Gory and Funny, Gets Interesting After the First Two Bouts]ロサンゼルス・タイムズ 1993年11月15日</ref>、総合格闘技サイトnewfullcontact.comがその言葉を引用したことで広まったとされている。 プロモーションで最初に使用したのは1995年9月のBattlecade Extreme Fightingとされており、UFCでは''Ultimate Fighting''および''No Holds Barred(NHB)''と呼ばれていたが、世論からの批判が高まったことで、[[UFC 17]]のルールミーティングで、UFCコミッショナーの[[ジェフ・ブラトニック]]とレフェリーの[[ジョン・マッカーシー (レフェリー)|ジョン・マッカーシー]]が、略称である''MMA''の使用を提案したとされている<ref>[http://www.mixedmartialarts.com/news/Did-LA-reporter-coin-the-term-Mixed-Martial-Arts Did LA reporter coin the term Mixed Martial Arts?]Chris Palmquist 2012年4月2日</ref>。 === ルール変遷 === 1996年8月23日、近代になって初めて州アスレチック・コミッションに認可された総合格闘技の大会が[[ミシシッピ州]][[ビロクシ (ミシシッピ州)|ビロクシ]]で開催される。ルールは既に認可されていたキックボクシングのルールに、テイクダウンと寝技を認めるルールと、ラウンド廃止が追加され、レフェリーに寝技で膠着した場合に選手を立たせてから再開させる権限が与えられて行われた。 1997年3月、アイオワ州アスレチック・コミッションが、既存のシュートファイティングルールに、3分5ラウンドのラウンド制、シュートファイティンググローブ装着の義務、階級の規定などと、禁止行為の指定(下腹部への攻撃、頭突き、噛みつき、目突き、頭髪を掴む、グランド状態の相手への肘攻撃、後頭部への拳での攻撃、ケイジやロープを掴む等)を加えたルールを策定した上で、総合格闘技を事実上認可し、1997年3月28日にExtreme Fighting 4が開催された。 2000年9月30日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技を認可。総合格闘技の包括的なルールを策定するために、実際に大会を見て情報収集することを認可の事由とした。 2001年4月3日、ニュージャージー州アスレチック・コミッションが、総合格闘技の統一ルールを策定する会議を開催。会議に出席した、他州のアスレチック・コミッションや総合格闘技関係者により統一ルールが合意された。 ニュージャージー州アスレチック・コミッションの制定したルールが、北米において事実上の統一ルールとなっていたが、2009年7月30日に[[ボクシング・コミッション協会]]によって正式に「総合格闘技の統一ルール」として承認された。 === 女子総合格闘技 === 日本では、女性による総合格闘技は女子プロレスや男子総合格闘技の中で行われてきたが、1995年に史上初となる女子限定の総合格闘技イベント「L-1」が女子プロレス団体「[[LLPW-X|LLPW]]」主催で開かれ、同団体エースの[[神取忍]]らが出場した。 1997年3月28日、アメリカ合衆国で公式記録として残っている最初の女子総合格闘技の試合がIFC 4で行われた。これに続いて1997年9月5日にルイジアナ州アスレチック・コミッションに認可された女子選手4人参加のトーナメントが開催された。 2001年、日本で女子総合格闘技団体「[[スマックガール|SMACK GIRL]]」が設立された。 2009年8月15日、アメリカ合衆国で[[Strikeforce]]がメジャープロモーションで初めて女子選手の試合をメインイベントにした[[Strikeforce: Carano vs. Cyborg|大会]]を開催。[[クリスチャン・サイボーグ]]と[[ジーナ・カラーノ]]がメインイベントで対戦した。 2012年4月28日、アメリカ合衆国で女子総合格闘技団体「[[Invicta FC]]」が設立された。 2013年2月23日、[[UFC]]が女子部門を設立し、[[UFC 157]]で[[ロンダ・ラウジー]]がメインイベントを務めた。ラウジーは女子格闘家で初のPPV販売件数100万件を達成、さらに[[ESPY賞]]を2014年と2015年に2年連続で受賞するなど総合格闘技の枠を超えたスター選手となった。 ==== ルール ==== 黎明期の女子総合格闘技では、安全上の理由から、顔面へのパウンド禁止やグラウンドに時間制限がかけられたり、短いラウンド数や試合時間で試合が行われる事があった。 == アマチュア総合格闘技 == '''[[国際総合格闘技連盟]]'''(IMMAF)が総合格闘技のアマチュア組織を統括し、[[アマチュア総合格闘技世界選手権|世界選手権]]などのアマチュア国際大会を開催している。 2012年2月29日、[[国際総合格闘技連盟]](IMMAF)が創設される。 2014年6月30日から7月6日の期間で[[アマチュア総合格闘技世界選手権]]を初開催。 2018年4月11日、世界総合格闘技協会(WMMAA)との合併を発表。 == 世界の総合格闘技 == === [[オーストラリア]] === オーストラリアで総合格闘技は全ての州・準州で認可されている。競技としては認可されていたものの、ケイジの使用が禁止されていた州もあったが、[[ビクトリア州]]で2015年に、[[西オーストラリア州]]で2017年に使用が許可さたことで全ての州でケイジの使用が解禁された。 === [[バーレーン]] === バーレーン総合格闘技連盟(BNMMAF)が設立されており、2017年には首都[[マナーマ]]で[[国際総合格闘技連盟|IMMAF]][[アマチュア総合格闘技世界選手権]]が開催された。[[中東]]最大の総合格闘技プロモーション「[[Brave Combat Federation]]」が存在する。 === [[ブラジル]] === ブラジル総合格闘技アスレチック・コミッション(CABMMA)が設立されている。CABMMAは[[UFC on FX 7]]から正式に管轄を開始した。 === [[ブルガリア]] === ブルガリア総合格闘技連盟(BFforMMA)が設立されており、元UFC選手の[[スタニスラブ・ネドコフ]]が代表を務めている。 === [[カナダ]] === カナダでは2013年6月5日に各州に総合格闘技を管轄するためのアスレチック・コミッションを設置する権限が与えられる法案が成立した。 それ以前は正式には認可されておらず、一部の州では認可されていたボクシングを拡大解釈し、混合ボクシング(Mixed Boxing)と分類するなどして開催していた。 === [[中華人民共和国|中国]] === 中華人民共和国で総合格闘技は[[国家体育総局]]の武術スポーツ管理センターによって認可されている。 === [[フランス]] === フランスで総合格闘技は2020年1月1日に正式に認可された。認可以前には、総合格闘技のフルコンタクトの試合は禁止されていたため、フランスで行われる総合格闘技の試合は、グラウンドでの打撃攻撃が認められていなかった。 フランス総合格闘技コミッション(CFMMA)が設立されている。 === [[ノルウェー]] === ノルウェーは完全な総合格闘技は禁止されている。ノルウェーでは1981年以降、ノックアウトを伴う全てのスポーツが禁止となっているが、2014年にボクシングは解禁された。総合格闘技は、レガース着用の義務や、肘打ち禁止などの打撃攻撃が規制された「Merkekamper」として政府から認可を受け行われている。 ノルウェー総合格闘技連盟(NMMAF)が設立されている。 === [[スウェーデン]] === スウェーデンで総合格闘技は認可されており、スウェーデン総合格闘技連盟(SMMAF)が設立されている。 === [[タイ王国|タイ]] === 2012年にタイ・スポーツ公社(SAT)が、タイ国内で総合格闘技の試合を行うことを禁止した。保守的なムエタイ関係者や政府の高官らが慎重な姿勢を示し、一部では、タイの文化である国技ムエタイを守るために総合格闘技を禁止するべきという反発の声が出ていた。 2016年5月27日、[[観光・スポーツ省|タイ観光・スポーツ省]]の支援を受けて[[ONE Fighting Championship|ONE Championship]]が[[バンコク]]で大会を開催し、総合格闘技が解禁された<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3085295 総合格闘技初上陸のタイ、「ムエタイの脅威にはならない」]AFP 2016年4月27日</ref>。 === [[アメリカ合衆国 ]] === アメリカ合衆国で総合格闘技は州のアスレチック・コミッションにより管轄されている。2011年3月24日に[[ウェストバージニア州]]、2012年3月8日に[[ワイオミング州]]、2012年5月4日に[[バーモント州]]、2013年10月1日に[[コネチカット州]]、2016年4月14日に[[ニューヨーク州]]で認可され、総合格闘技が全米で解禁となった。 === [[ベトナム]] === 2020年2月20日に総務次官が総合格闘技合法化法案に署名。ベトナム総合格闘技連盟(VNMMAF)が設立されている。 ==日本における総合格闘技== 打撃技、投げ技、寝技の技術体系を総合的に網羅した武道は[[日本拳法]]など日本にも古くから存在した。 1976年、[[新日本プロレス]]の[[アントニオ猪木]]が[[プロレス]]のリングにおいて「[[異種格闘技戦]]」を[[モハメド・アリ]](ボクシング)、[[ウィリー・ウィリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]](空手)、[[ウィレム・ルスカ]](柔道)らを相手に行った。 [[1984年]]4月、新日本プロレスから離脱した[[前田日明]]・[[藤原喜明]]・[[髙田延彦|高田延彦]]ら[[プロレスラー]]によって第1次[[UWF]]が興された。[[佐山聡]](初代タイガーマスク)が加入後、自身が当時考案していた新格闘技(後の[[修斗|シューティング]])という現在の総合格闘技ルールの基礎となる理論と概念を持ち込んだ。 猪木の異種格闘技戦もUWFも結局「プロレス」の域を出ることは無かったものの、これが日本の総合格闘技の萌芽となったと言われている(しかし、今日のこれと無関係な世界的総合格闘技の隆盛からむしろ「障害」・「迂路」となったとする意見もある)。 1984年、UWFを脱退した佐山聡が「[[修斗]]」(当初は「シューティング」と呼ばれた)を創設。 1988年5月、[[UWF#第2次UWF|第2次UWF]](新生UWF)が設立され、一大ムーブメントを起こした。第2次UWFには後に[[パンクラス]]を立ち上げる[[船木誠勝]]が参加している。 1993年、「[[パンクラス]]」が設立された。 1993年11月12日、「[[UFC]]」の第1回大会[[UFC 1]]が開催され、[[グレイシー一族]]の一人、[[ホイス・グレイシー]]が小兵ながらも巧みなブラジリアン柔術で様々な分野の格闘家を破り優勝。この出来事はいわゆる「グレイシーショック」として日本にも伝播することになる。初期のUFCには[[ジェラルド・ゴルドー]]、[[ケン・シャムロック]]、大道塾の[[市原海樹]]らが参戦。これら日本でもトップクラスの実力者と見なされてきた者たちがホイス・グレイシーに実力差を見せつけられて負けたことも大きな衝撃だった。 1994年、「[[VALE TUDO JAPAN OPEN 1994]]」が開催され、ホイスの兄でありグレイシー一族最強とされていた[[ヒクソン・グレイシー]]が参戦。空手格斗術慧舟会の[[西良典]]らを破りトーナメント優勝。その翌年開催の「[[VALE TUDO JAPAN OPEN 1995]]」にもヒクソンは参戦し、[[リングス]]の[[山本宜久]]、修斗の[[中井祐樹]]らに勝利して二連覇を果たした。 1997年、「[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]」が設立。[[桜庭和志]]らが活躍し、一大ムーブメントを起こした。[[2003年]]の大晦日では同時間帯に3つの格闘技興行[[K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!]]、[[PRIDE SPECIAL 男祭り 2003]]、[[INOKI BOM-BA-YE 2003]] が開催され、それぞれ[[TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[日本テレビ]]の地上波テレビ3局で中継放送された。 === 試合スタイル変遷 === 様々な格闘技の選手がそれぞれの格闘技の技術で試合に臨んでいた1990年代初頭は、既に総合格闘技での戦い方を確立していた[[ホイス・グレイシー]]や[[ヒクソン・グレイシー]]に代表されるブラジリアン柔術が、ボクシングや[[キックボクシング]]、武術、柔道、空手など、総合格闘技においての寝技や関節技、ポジショニングの対応方法を殆ど知らない他格闘技を相手に独り勝ちの状態だった。 1990年代前半よりむしろ後半からは、[[アマチュアレスリング|レスリング]]出身者が元々持っていたテイクダウンとグラウンドレスリング技術を総合格闘技用に対応させ、さらに総合格闘技で定石となる戦術のグラウンド&パウンドを開発すると、[[マーク・コールマン]]や[[ドン・フライ]]、[[ダン・スバーン]]、[[ランディ・クートゥア]]といったレスリング出身の選手が優位を占めるようになっていく。PRIDEでは、[[桜庭和志]]が[[グレイシー一族]]に4連勝。[[ビクトー・ベウフォート]]ら打撃の強豪も圧倒し、世界から注目された。 2000年代に入ると、レスリングや柔術などのテイクダウンと寝技に対応した、打撃を主体とするスタイルの[[ヴァンダレイ・シウバ]]や[[ミルコ・クロコップ]]などの選手が活躍するようになる。PRIDEヘビー級王者の[[エメリヤーエンコ・ヒョードル]]もベースにあるのは、投げ技と関節技が特徴の[[サンボ (格闘技)|サンボ]]だが、スタンドのパンチと、グラウンド状態での強烈な[[グラウンドパンチ|パウンド]]を得意とした。 今日の総合格闘技では、それぞれの技術の習得に差はあっても、打撃技、組技、寝技を全て出来なければ勝つのは難しくなっている。 == 各競技の総合格闘技での実績 == === ブラジリアン柔術 === [[ホイス・グレイシー]]が、[[UFC 1]]、[[UFC 2]]、[[UFC 4]]と初期UFCを3度制覇。ホイスの兄[[ヒクソン・グレイシー]]も[[VALE TUDO JAPAN OPEN 1994|VTJ94]]、[[VALE TUDO JAPAN OPEN 1995|VTJ95]]を2連覇し、総合格闘技での[[ブラジリアン柔術]](以下、柔術)の高い適性を示した。小柄なホイスやヒクソンがヘビー級選手を次々に絞め技や関節技で仕留める様は、総合格闘技において打撃主体の立ち技よりも寝技を主体とした柔術のほうが有用性が高いことを示し、「グレイシーショック」と呼ばれる強いインパクトを格闘技界に与えた。 テイクダウン技術やポジションキープ技術ではレスリングのほうが優れていたが、柔術は不利なポジションからでも関節技や絞め技を極めるまでもっていける多彩な技術を持っており、ホイスは[[ダン・スバーン]]に、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは[[マーク・コールマン]]に下からの三角絞めで勝利している。他競技がこれを攻略するのは困難を極めたが、[[ケン・シャムロック]]はガードポジション内でスイープや絞め、関節技を警戒し、最小限の動きで頭突きをくわえ続けると言う戦術でホイスと引き分けている。また、[[桜庭和志]]は[[ホイラー・グレイシー]]戦で、徹底的にグラウンドを拒否し、[[猪木アリ状態]]から相手の脚を蹴り続けたり、スタンドでも距離を取ってローキックを蹴り続ける戦術でダメージを与えて勝利している。[[エメリヤーエンコ・ヒョードル]]は下からの三角絞めや腕ひしぎ十字固めを警戒しつつ、ガードポジション内から強烈なパウンドを打ち込むという戦術でホドリゴ・ノゲイラに勝利している。このように柔術攻略も進んだため、初期UFCのように柔術家の独擅場と言うわけには行かなくなったが、[[ホリオン・グレイシー]]が「我々もいつか敗れるときが来るだろう。しかし、我々を敗るのは我々の技術だ」と述べていたように、今日の総合格闘技においても柔術は必要不可欠でレスリングとボクシングに並んで非常に重要な技術となっている。 柔術出身選手の主な戦績としては、[[アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ]]が初代PRIDEヘビー級王座、UFC世界ヘビー級暫定王者を獲得。[[ファブリシオ・ヴェウドゥム]]がUFC世界ヘビー級王座を獲得、ヒョードルに腕ひしぎ三角固めで勝利している。 === レスリング === グレイシー撤退以後、UFCでは、ダン・スバーン、マーク・コールマン、[[ドン・フライ]]らが活躍し、レスリング選手黄金期を築き上げた。レスリングにはルール上、関節技・打撃技はないが、テイクダウン技術とポジションキープ技術は圧倒的で、他競技の対戦相手の上をとって動きを制し、そこからパウンドや頭突きなどで勝利を収めた。しかし、他競技の選手がタックルの切り方やテイクダウンされてからの立ち方を覚えるなど、テイクダウンの対策が普及すると、レスリング系の選手がテイクダウンを奪うのが難しくなった。[[ランディ・クートゥア]]は、[[グレコローマンレスリング]]の技術を応用して相手を金網に押し込んで動きを制し、近距離からショートアッパーやショートフックを打ち込む戦術を得意にした。 === 柔道 === 総合格闘技の普及と発展に大きな影響を与えたグレイシー柔術は、講道館柔道の[[前田光世]]がブラジルに伝えた技術が源流となっている。柔道家の[[木村政彦]]は、1951年10月23日にブラジルで[[エリオ・グレイシー]]に勝利しており、柔道はUFC以前に唯一グレイシー柔術に勝利を収めた格闘技として評価を高めた。[[吉田秀彦]]は[[Dynamite!]]のジャケットルールマッチでホイス・グレイシーに[[袖車絞め]]で勝利し、総合ルールでも[[ドン・フライ]]や[[田村潔司]]といった強豪に勝利し、[[ヴァンダレイ・シウバ]]とも善戦して評価を高めた。一方、柔道金メダリスト[[石井慧]]がキックボクサーの[[ジェロム・レ・バンナ]]を極め切れなかったように、総合格闘技において柔道家は必ずしも関節技や絞め技が得意というわけではない。また、[[瀧本誠]]は[[田村潔司]]に、吉田秀彦は[[ミルコ・クロコップ]]にローキックで攻められて対応できず、ローキックの対処に弱さも見られた。その一方、日本の主要団体の中量・重量級王者に柔道出身者が多く、世界最高のMMA団体[[UFC]]でアジア人史上最高の戦績を残した[[岡見勇信]]やUFC女子世界バンタム級初代王者[[ロンダ・ラウジー]]も柔道出身。 === サンボ === サンボは着衣格闘技だが、投げ技、テイクダウン、グラップリング、関節技のバランスのとれた技術体系を持っており、サンボ選手の[[エメリヤーエンコ・ヒョードル]]は、PRIDEヘビー級王座を獲得し、[[高阪剛]]戦の偶発性の肘打ちによる流血レフェリーストップ以降、[[ファブリシオ・ヴェウドゥム]]戦まで10年間負けなしという驚異的な成績で、人類最強の男と呼ばれた。[[ハビブ・ヌルマゴメドフ]]はUFC世界ライト級王座を獲得。[[オレッグ・タクタロフ]]は、[[UFC 6]]で優勝、[[Ultimate Ultimate 1995]]で準優勝した。 === ボクシング === [[アート・ジマーソン]]がUFC 1に参戦しているが、ホイス・グレイシーに敗れている。アート・ジマーソンは工夫し、左手のみにグローブを付け、右手は素手のまま登場したが、テイクダウンされたら対処することができず、技を極められていないのにタップしている。元WBF世界クルーザー級王者の[[西島洋介]]は、総合格闘技では1勝もできなかった。[[バタービーン]]は、[[ジェームス・トンプソン (格闘家)|ジェームス・トンプソン]]や[[ズルジーニョ|ズール]]に勝利している。ボクシングの技術は立った状態でのパンチとパンチに対する防御技術、リング上での位置取りに突出しているために、その他の局面で対処ができず、蹴りやテイクダウンに対する耐性が低かった。 ボクシング単体では総合格闘技への対応は難しいが、パンチはキックよりも隙が少なくフットワークによる位置取り技術もあることからタックルに対応しやすいという利点がある。ほぼ密着状態から拳が届く限界まで様々な位置に対応した打撃とその防御技術([[ボクシングの技術]])、これらのトレーニング方法が充実していることから、レスリングと同じく応用性が高くメインとなる攻撃方法としては広く使われている。 === 立ち技格闘技 === キックはパンチよりもリーチ・威力において有利だが、キックは隙が大きくなるため、初期は柔術家やレスリング選手に[[テイクダウン]]されてしまい実力を充分発揮できなかった。しかしテイクダウン対策を習得すると、総合格闘技で結果を出し始めた。[[モーリス・スミス]]はマーク・コールマンを破り、UFC世界ヘビー級王座を獲得。[[イゴール・ボブチャンチン]]は『PRIDE GP 2000』で準優勝。ヴァンダレイ・シウバはPRIDEミドル級王座を獲得。ミルコ・クロコップはPRIDE 無差別級グランプリ 2006で優勝している。[[マーク・ハント]]は40歳を過ぎてもなお一線級の舞台で活躍を続け結果を残した。ミルコはむしろ「寝技の選手が打撃を練習するよりも、立ち技の選手がタックル切りを覚えるほうが10倍簡単だ」と述べ、立ち技格闘技の選手が総合格闘技に転向した際の優位を指摘している。 === 伝統派空手 === 競技特性として遠い間合い、先手をとる技術、打撃を捌く技により、打撃をもらいにくく打撃を当てやすい。また、間合いが遠いためタックルをもらいにくい。一方で寝技が無いため対抗するにはレスリングなどの技術を習得する必要がある。伝統派空手出身選手が打投極をある程度できれば、リーチと防御力により、スタンドでのかなりの優位性を発揮する。出身選手として元UFC王者の[[リョート・マチダ]]、UFCフライ級3位に上り詰めRIZINバンタム級GPで優勝した[[堀口恭司]]などがいる。 === プロレス === 総合格闘技で実績を残したプロレスラーは[[桜庭和志]]、[[藤田和之]]、[[ジョシュ・バーネット]]、[[ブロック・レスナー]]など多数存在する。しかし、[[髙田延彦]]や[[永田裕志]]、[[高山善廣]]、[[ケンドー・カシン]]、[[獣神サンダー・ライガー]]などメジャーなプロレスラーの多くが総合では結果を残せなかった。プロレスラーとしては比較的マイナーであった桜庭和志や藤田和之、[[ミノワマン|美濃輪育久(ミノワマン)]]、ジョシュ・バーネット、[[ダン・スバーン]]が総合で結果を残したのは、プロレスの技術と言うよりもレスリングや[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]の技術によるものである。トップレスラーとしてプロレス団体[[WWE]]で活躍した後に総合へ転向し結果を残したブロック・レスナーも、元々は[[全米大学体育協会|NCAA]]全米学生王座を獲得するほどの高いレスリング技術を下地として持っていた。 日本の女子総合格闘技は[[女子プロレス]]界が中心となって築き上げた歴史があり、元[[全日本女子プロレス]]の[[高橋洋子 (格闘家)|高橋洋子]]は日本初の女子総合格闘家として[[スマックガール]]無差別級王座も獲得した。 === 相撲 === [[日本書紀]]の記述によれば、古代の[[相撲]]は投げ技や関節技の他にも[[蹴り技]]やダウンした相手を踏みつけるなど「打投極」がある総合格闘技だったとされる。 UFC 1では[[テイラ・トゥリ]]が[[ジェラルド・ゴルドー]]に敗北し、[[エマニュエル・ヤーブロー]]も、[[UFC 3]]でキース・ハックニーに、[[PRIDE.3]]で[[高瀬大樹]]で敗れている。また、元横綱の[[曙太郎]]も総合ルールでは1勝も上げられなかった。力士は体格と筋肉量では圧倒的だが、致命的にスタミナとフットワークがなく、打撃でも寝技でも決め技に欠けていた。また、テイクダウン耐性が高いと思われていたが、引き込まれたり、つんのめったりして、試合では簡単に倒れた。 == 総合格闘技をテーマにした作品 == ; 映画 * [[殴者 NAGURIMONO]](2006年)、出演: [[玉木宏]] - PRIDEを主催していた[[ドリームステージエンターテインメント]]が制作した時代劇と格闘技を融合した異色作で、当時のPRIDE参戦選手が出演している。 * [[ネバー・バックダウン]](2008年)、出演: [[ショーン・ファリス]] ** ネバー・バックダウン2(2011年)、出演: [[マイケル・ジェイ・ホワイト]] - シリーズ第2作。 ** マッド・ウォリアーズ 頂上決戦(2016年)、出演: マイケル・ジェイ・ホワイト - シリーズ第3作。 ** ネバー・バックダウン/自由への反乱(2021年)出演: オリヴィア・ポピカ - シリーズ第4作。 * ブラッド&ボーン 真拳闘魂(2009年)、出演: マイケル・ジェイ・ホワイト * The Hammer(2010年)、出演: ラッセル・ハーバード - [[聴覚障害者|聴覚障害]]を持つ総合格闘家、[[マット・ハミル]]の半生を描いた自伝映画。 * [[ウォーリアー (映画)|ウォーリアー]](2011年)、出演: [[ジョエル・エドガートン]] * フィリーキッド(2012年)、出演: ウェス・チャサム * [[闘魂先生 Mr.ネバーギブアップ]](2012年)、出演: [[ケヴィン・ジェームズ]] - [[UFC]]出場を目指す中年教師が主人公の作品で、UFCリングアナウンサーのブルース・バッファーや多くのUFC参戦選手が出演している。 * 激戦 ハート・オブ・ファイト(2013年)、出演: ニック・チョン * REVIVAL これが日本の総合格闘技だ(2015年)、出演: [[大塚隆史]] - 日本の総合格闘技団体、[[DEEP (格闘技団体)|DEEP]]の裏側を描いたドキュメンタリー作品。 * ストリート ファイターを継ぐ男(2016年)、出演: ボー・キャスパー・スマート * [[ディヴァイン・フューリー/使者]](2019年)、出演: [[パク・ソジュン]] * 因縁のファイター(2020年)、出演: [[スティーヴン・ドーフ]] * 若き見知らぬ者たち(2024年予定)、出演: [[磯村勇斗]] ; ドラマ * バッドパパ(2018年)、出演: [[チャン・ヒョク]] ; 漫画 * [[喧嘩商売]]([[木多康昭]]) ** 喧嘩稼業(木多康昭) - 喧嘩商売の続編。 * [[オールラウンダー廻]]([[遠藤浩輝]]) - [[修斗]]を題材にした作品。 * [[鉄風]]([[太田モアレ]]) * ハナカク-The Last Girl Standing-([[松井勝法]]) * レイトブルーマー(玉屋一心) * レッドブルー([[波切敦]]) * RAWGUY(粂田晃宏) * アスミカケル([[川田 (漫画家)|川田]]) ; 小説 * [[VTJ前夜の中井祐樹]]([[増田俊也]]) - [[中井祐樹]]を題材にしたノンフィクション小説。後に一丸の作画で『七帝柔道記外伝』のタイトルでコミカライズ化された。 * 金網ガール: Cage Girl(稲垣收) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Mixed martial arts}} * [[グラップリング]] * [[グラップラー]] * [[ストライカー (格闘技)|ストライカー]] * [[男子総合格闘家一覧]] * [[女子総合格闘家一覧]] * [[日本の総合格闘技王者一覧]] == 外部リンク == * [https://efight.jp/ eFight] - 日本の格闘技情報サイト * [http://www.boutreview.com/3/ BoutReview] - 日本の格闘技情報サイト * [https://www.mmafighting.com/ MMAFighting] {{en icon}} - アメリカ合衆国の格闘技情報サイト * [https://www.sherdog.com/ SHERDOG] {{en icon}} - 総合格闘家の大規模データベース * [https://www.tapology.com/search TAPOLOGY] {{en icon}} - 総合格闘家のデータベース {{スポーツ一覧}} {{世界の総合格闘技団体}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そうこうかくとうき}} [[Category:総合格闘技|*]] [[Category:格闘技]]
2003-09-06T02:15:31Z
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新幹線500系電車
新幹線500系電車(しんかんせん500けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)に在籍する新幹線電車である。1997年3月22日のダイヤ改正で営業運転を開始した。 JR西日本は、自社の路線である山陽新幹線の航空機に対する競争力強化の一環として、より一層の高速化を目指して「500系」を開発した。車体強度・台車強度・力行性能などすべて320km/h対応として設計・計画され、1996年1月から1998年12月にかけ、16両編成9本合計144両が製造された。 1996年1月に1編成、1997年7月から1998年12月にかけて8編成の全9編成・144両が川崎重工業(旧1 - 6号車)・近畿車輛(旧7・8号車)・日立製作所笠戸事業所(旧9・10・13 - 16号車)・日本車輌製造(旧11・12号車)の各社が製造した。新製時はすべて16両で組成され、編成記号はW。3次に分けて製造された(W1:第1次車(量産先行車)、W2 - W6:第2次車、W7 - W9:第3次車)。 第41回(1998年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。1996年には通商産業省(現・経済産業省)のグッドデザイン商品選定(現在の公益財団法人 日本デザイン振興会・グッドデザイン賞)の商品デザイン部門での選定を受けた。意匠設計はドイツの工業デザイナー、アレクサンダー・ノイマイスターによって行われた。山陽新幹線用となった現在でも人気や知名度は非常に高く日本の鉄道車両とJR西日本を代表する形式の一つ。 JR西日本が保有する新幹線車両のうち、自社単独で開発した車両は2023年現在当形式のみとなっている。 本項では落成当時の仕様について述べる。 高速時のトンネル微気圧波問題のため、先頭車両は全長 (27m) の半分以上の15mにわたり断面を徐々に窄めており、尖ったジェット戦闘機のような外観である。この15mという長さは、320km/h営業運転を前提にして、航空宇宙技術研究所のCFDで解析を行っている。空力上の問題を解決した形状であるものの、先頭車の客席減少や運転席からの視野も限られるなど、マイナス面もある。また、同じく300km/h超での微気圧波対策として、車体高を300系と同等まで維持しつつ車体断面積を縮小するため、客室自体に影響の少ない部分(車体の裾や荷棚部分)を削り、300系比1割減の10.2mまで縮小した。そのため、車体断面も他の車両と一線を画す円形(回転放物面体)である。 運転室のガラスは各種の航空機や電車にガラスを納入している サンゴバン(本社フランス)社の製品を用いている。天井の傾斜により、乗務員室から1・2列目の座席は棚の空間が狭くなるため、座席配置を2-2(C席なし)とし、専用の荷物置きを設置することで対処している。 この構造から先頭車の乗車口は1箇所しか存在しないため、各駅にはその旨を掲示する告知が行われていた。また、東海道新幹線内で「のぞみ」の停車しない駅(小田原駅・熱海駅など)にも非常時対応などのために、Wと表記された500系の停車位置目標が設置されていた。 丸みを帯びた車体、独自の塗装などによって、子どもを含め大きな人気車両となった。 高剛性を保ちつつ軽量化し、車両の防音性能を向上させるため、厚さ30mmのろう付けしたアルミハニカムパネルを側構体と気密床に使用したアルミハニカムパネル構造を採用している。これは、六角形のハニカムコアを2枚のアルミ合金で挟み、ろう付けしてパネルにしたものを組上げて車体を製造する方式で、これにより、1両あたりの車体構体重量は300系より0.6tの軽量化を実現しており、その他にも、制振材付きアルミ押出形材、吸音材、遮蔽板を使用して、従来と比べて1割以上の騒音低減を実現している。しかし、この構造は製造時において使用される炉の関係で大型パネルを製作することができず、結果的には、車体の製造コストが大幅に上昇したため、次に登場した700系はアルミ中空大型押出形材による中空構造の大型アルミパネルを使用して、支柱や垂木を不要とし、製造コストを低減させたアルミダブルスキン構造を採用したため、500系のみの構造となっている。 床下機器は、ユニット化されたものを床面から吊り下げ、車体下側の気流に配慮して、ボディの形状に合わせた点検ふたを兼ねたカバーで車体下半分を覆う構造とした新ボディマウント構造を採用しており、床下機器の配置もそれに応じてパターン化され、メンテナンスが必要な機器を山側に揃えて、メンテナンス性を向上させている。また車体断面も円形に近く、それに伴い側窓も曲面ガラスを用いる。このため、車体とホームに若干の隙間が生じてしまったため、W2編成製造以降に隙間を埋めるための小さなフィンが取り付けられた。これはW1編成でテストを行って騒音値について調べてから装着された。 車体側面の段差をなくし、空気抵抗や騒音を低減するため、旅客乗降用ドアは閉じた時に車体側面との段差を生じないプラグドアを採用し、客室窓のガラス外側にポリカーボネートを張ることで段差を小さくしている。 出入口付近に設置してある行先表示器は100系V編成に引き続き3色LED式を採用。新たに自由/指定席表示部分もLED式に変更された。行先表示器に関しては、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。 2004年に東海道新幹線区間へのデジタルATC導入に備えて、全編成にデジタルATC対応の車上設備が増設されたが外観上の変化はない。 製作費は1両当たり約3億円、1編成46億円と300系よりも6億円弱余分にコストが掛かったため、東京ー博多間の直通のぞみの半分を担うことができる9編成しか製造されなかった。 ライトグレー■を基調に、窓部分にブルー■とダークグレー■の帯を配し、ノーズ上部から天井部分にかけてはグレイッシュブルーで塗装された。この塗装パターンは、一部色を変更のうえで山陽新幹線区間限定列車となる「ひかりレールスター」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとサニーイエローの帯)や「こだま」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとフレッシュグリーンの帯)にも踏襲された。車番表記はデカールで貼り付ける方式になった。 先頭車両の運転席両脇には、“JR500 WEST JAPAN”のロゴが配されている。なお、W1編成落成時には存在していなかった。 内装については、構造上の制約から来る車内空間やシートピッチの減少を和らげるべく配慮されており、カラースキームや照明についても利用客の視覚に優しいものとなっている。 普通車は、瀬戸内海をイメージしたバイオレットでまとめられている。奇数号車の座席にはローズ系の、偶数号車にはブルー系のモケットが使用されている。座席背面にテーブルが設置されている。 グリーン車は、グレイッシュベージュでまとめられている。肘掛け部分にテーブルが内蔵され、取り出して使用することができる。照明は半間接照明が採用された。 旧3号車博多寄り、旧7号車の東京寄り、旧11号車の博多寄り、旧15号車博多寄りには車販準備室が設けられた。そのうち旧7・11号車には車販準備室を兼ねたサービスコーナーを設置していたが、2003年10月のダイヤ改正時に廃止され、車販準備室のみになった。 前述のとおり高速化を追求した円筒形状の車体断面であることから、特に窓際の席の居住空間がやや狭くなっている。反面、インテリアカラー、グリーン車の座席、側窓吹寄せ部の処理などに居住性改善のための工夫がうかがえる。 この形式から車内の電光掲示板の駅名の表示が上から降りてくる形式になっている。これは700系のJR西日本編成(JR東海から移籍した編成を除く)とN700系の8両編成(JR九州所属の編成を含む)でも行われている。 旧偶数号車の博多寄りにはデッキと独立した電話室が設置された。吸音化粧板を使用し、騒音の低減を図っている。携帯電話の普及に伴って一部号車のものは撤去され、最終的に旧2・6・12・16号車まで削減された。 奇数号車にある洗面台と洗面台の間には冷水器と紙コップが設けられていたが、700系には当初から設けられていなかったこともあり、700系デビュー以降は300系とともに冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。 ロングノーズのため運転席を大きく後ろに下げる必要があり、先頭車の乗車定員が300系より12名減少する。このため、JR東海から設計段階で300系の定員(1,323人)を下回らないことが強く要請された。その対策として運転席寄りの客用扉を廃止したり、普通車座席の前後間隔(シートピッチ)を詰めたり(1,040mm → 1,020mm)、洗面所を2箇所から1箇所に減らすことによって300系と同等以上の総座席数(300系より1名多い1,324名)を確保したものの、車両ごとの座席数が300系と異なりダイヤでも他車種と区別する必要が生じたため、ダイヤが乱れた時の運用変更にも問題が生じることになった。両先頭車の客用扉が1ヵ所ずつしかないことは、2003年の「のぞみ」への自由席設定以降は乗降時間面での不利を招いた。 従来の新幹線と同じく、右側にマスコンハンドル、左側にブレーキハンドルが配置されている。ブレーキハンドルは、一般的な新幹線車両の縦軸・水平回転式と異なり、221系電車をはじめとしたJR西日本の在来線車両が主に採用する横軸・前後回転式を採用している。前後回転式のブレーキハンドルを採用しているのは、国内の新幹線車両では500系が唯一である。また、700系の派生形式である台湾高速鉄道700T型も同様のハンドルが採用されている。 また、側窓は天井部分にまで及ぶ曲面となっているため、遮光幕は従来のロールアップ式ではなくアコーディオンカーテンとなっている。運転席の座席には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防する為、レカロ製のセミバケットシート「RECARO 24H OFFICE CHAIR」を採用した。 初代新幹線である0系以来となる、16両全車に主電動機が1両あたり4基ずつ搭載される全電動車方式を採用している。高速走行によって増大する走行抵抗に対応するため、64基の電動機による出力は300系の約1.5倍である18,240kW(約2万5千馬力)(W2編成以降は17,600kW)にも上り、地上を走行する旅客輸送機関として史上空前の動力を備えている。 また、M-M1-Mp-M2の4両を1単位として主変圧器(Mp車に搭載)や主変換装置(M1・M2車に搭載)といった主要機器を各車に集約分散搭載するユニット方式を採用、前述した車体軽量化の努力と合わせて、編成重量も後継となるN700系と同等な700tに抑えられ、車輪駆動方式鉄道車両としては世界最高(最小)の重量出力比を実現している。また、乗客定員1人あたり車体重量も約520kgと、軒並み1tを超えている他国の高速鉄道車両より軽量である。 発車から4分程度で300 km/hに達することが可能な加速力があり、また曲線や駅通過時の減速から素早く加速することによって、他国に比べて線路条件の厳しい山陽新幹線で世界記録となる表定速度を実現した。320 km/hでの運転でも環境面での条件を十分にクリアしていた。しかし、W1編成が完成する前に起きた兵庫県南部地震後に非常制動距離の厳守が必須になったことや、総合的な費用対効果の検討から若干の余裕を見て300 km/hとなった。 架線からの単相交流25kVを主変圧器で降圧した上で、主変換装置で直流に整流、その後三相交流に変換して主電動機を制御するVVVFインバータ制御方式である。 主変圧器 (WTM205) は強制風冷式を採用し、5,400kVAの容量を備える。 主変換装置 (WPC5) は500系900番台のシステムを踏襲し、GTOサイリスタ素子を使用した、PWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されており、制御方式を3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、電流波形がひずむことにより発生するひずみ成分(高調波)の抑制を図っている。M1・M2車に2基ずつ搭載され、各装置が1両分4基の主電動機を制御する1C4M方式である。機器の軽量化を図ることを目的に、主変換装置1台で8基の主電動機を制御する1C8M制御方式も検討されていた。しかし、半導体技術の進歩によるGTO素子の大容量化がなされ、それによってコンバータ・インバータ間の直流電圧を上げることが可能になり、インバータの軽量化を実現した。そのため、1C8M制御方式は採用されなかった。 補機類の電源は主変圧器の3次巻線(単相交流440V 60Hz)である。空気圧縮機、空調装置などはこれを電源とするが、ATC、列車無線、補助空気圧縮機などが利用する電源は定電圧装置、補助変圧器、整流装置などを介して交流100V、直流100Vが供給される。 空調機器 (WAU601) は、効きの悪さを指摘された300系から改善するため、室外機を床下に2台、室内機を天井部分に8台搭載した、マルチエバポレーター・セパレート方式を採用した室内機から客室へのダクトを短くすることで空調の効きの悪さを改善した。 WMT204形かご形三相誘導電動機を1両あたり4基搭載する。W1編成は連続定格出力285kWであったが、W2編成以降は走行抵抗の予想以上の低下により連続定格出力は275kWとなっている。軽量化のため、フレームレス構造、アルミブラット構造を採用した。また、軸受けの電蝕防止のために、セラミックス絶縁軸受けを使用している。 300系に続き主電動機を発電機として用いることでブレーキ力を確保する回生ブレーキを主体としつつ、従来どおりの空気圧動作のディスクブレーキも併用する回生ブレーキ付き電気指令式ブレーキを搭載する。 なおディスクブレーキについては、W1編成による試運転の結果を反映して、セラミック噴射装置を1・8・9・16号車に搭載している。これにより、悪天候時に300km/hで走行している状態からブレーキを掛けても、270km/h走行時の300系と同等の制動距離で停止できる性能を確保している。 台車は直進安定性に優れた走行特性を示す軸梁式の軸箱支持機構を備えたボルスタレス台車である、WDT205を装着する。駆動方式は300系以前と同様、信頼性の高いWNドライブを採用する。 乗り心地の改善を図り、軸箱剛性のアップ、空気ばね左右間隔の拡大、非線形ばねの採用、台車枠と車体の間で連結されているアンチヨーダンパーの減衰係数の変更などを行ってあるが、先頭車両運転台寄りの台車は、先頭形状との兼ね合いで、他の台車に比べて空気ばね間隔が250mm縮小されている。メンテナンスフリー化を図るため、軸受けには密封グリス潤滑円錐ころ軸受を採用している。 両先頭車両とパンタグラフ搭載車両、それにグリーン車の各台車には車体に働く左右方向の振動加速度を抑えるセミアクティブサスペンションが搭載されている。先行量産車のW1編成に関しては、比較検討を行う目的から車両動揺の大きい1・16号車にフルアクティブサスペンション、5・8・9・10・13号車セミアクティブサスペンションが搭載されていたが、営業運転開始を前に全車セミアクティブサスペンションに換装されている。 車輪径、軸距は300系と同じく860mm、2,500mmである。 編成中の2か所(W編成の5・13号車)に設置された集電装置 (WPS204) も騒音低減のため、伝統的な菱形の構造を廃し、公式には「翼型パンタグラフ」と呼ぶ、断面が楕円形の支柱上部に翼型の舟体を設けた構造(T字型)とした。これにはF1で蓄積された空力技術や、音もなく滑空するフクロウの羽根を参考にした騒音低減のためのボルテックスジェネレータも使われている。ホーン部分に5mmの穴を開けることによって、エオルス音と呼ばれるカルマン渦が引き起こす空力音を低減する。これに用いられているダンパーは、F1用ショックアブソーバーの製作で300km/h以上でのデータとノウハウを数多く持つ、ショーワに依頼された。 集電装置の名称に関しては、厳密には「T型パンタグラフ」に「翼型舟体」を組み合わせたのが正解で、「翼型パンタグラフ」は両者が混同されてしまっている、とする資料も存在する。 集電装置からの騒音を低減させた結果、300系で採用されていたパンタグラフ下部まで覆う大型のパンタグラフカバーではなく、碍子のみを覆う小型の碍子カバーが採用された。 ほかの新幹線車両のパンタグラフは金属ばね上昇式であるが、翼型パンタグラフでは空気上昇式を採用している。このため、長時間の停電などにより車両の圧縮空気が減圧した場合には、パンタグラフが自然降下し、保護接地スイッチ (EGS) による架線地絡ができなくなってしまう。そのため、EGS用にばね上昇式の予備シングルアームパンタグラフを碍子カバー内に設けている。 また、東海道・山陽新幹線を走行する車両のうち、0系から300系までは静電アンテナが運転席直上(700系・N700系は先頭車連結面寄り)にあったが、500系では碍子カバー内に設置され、目視確認できなくなった。 落成時のW1編成は9号車516形東京寄りにも集電装置を搭載していたが、試験・予備用としての扱いであったため、後に撤去された。W2編成以降には新製時から搭載されていない。 本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。 奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両の電動車 M+M1+Mp+M2 で1ユニットを構成する。車両の製作・整備費の低減と軸重の分散化を図るため300系より1ユニットあたりの両数が増えている。 2007年にN700系が営業運転を開始と同系の増備により、500系は2010年2月に定期列車の「のぞみ」の運用から離脱し、余剰となった9編成のうち、量産先行車のW1編成を除く8編成(W2 - W9編成)については、2008年から2010年にかけて8両編成の7000番台(V編成)への改造が行われた。このため、V1編成は欠番となっている。 2007年10月20日付の各社報道で、500系を16両から8両に減車(余剰となる中間車は廃車)するとされたが、2007年12月のJR西日本定例社長会見で5編成を順次8両化し、2008年12月以降は山陽新幹線内の「こだま」として運用すると正式発表された。このうち、W3編成が最初に営業運転から離脱し8両化改造工事を受けたのちV3編成を名乗り、2008年3月28日(改造日も同日付)に博多総合車両所で報道公開された。その後、V2, V4 - V9編成も改造工事を終え、試運転を経て営業運転に充当された。 V編成は全車普通車で、4 - 6号車(このうち6号車は元グリーン車516形改造の526形7200番台)は2列+2列の指定席、そのほかの車両は3列+2列の自由席である。V編成を組成する車両はW編成の号車番号によるところの、博多方から1・2・3・4・13・10・11・16号車に当たる。車両番号は元番号+7000(6号車の526形7200番台は元番号+7200)とされた。 カラーリングはW編成時代から変更されていない。なお、組成から外れた車両は廃車となった。 なお、最高運転速度は285km/hとされている。8両編成化に伴い、パンタグラフの変更だけでなく、車体形状によりパンタグラフのカバー側壁の設置がなされなかったことや、短い編成中に重量機器が集中し300km/h運転が環境基準の面で不可能とされたことも最高285km/hに落とされた理由とされている。 V編成は2008年12月1日から運用が開始されたが、このときは主に0系と入れ替わる形になっていた。2009年3月14日改正からは、通勤・通学や帰宅時間帯の朝晩に重点的に運用が組まれた。これは、ほかの「こだま」用車両よりも定員が多いためである。 16両編成から8両編成に改造されたときの主な内容は以下の通り。 8両編成に改造されて以降に行われた改造は以下の通り 山陽新幹線区間の「こだま」として使用されるV編成組成時に、以下の各形式について改造による番台区分が発生している。 上記8編成のうち、V2編成については2014年から一部の車両が改造を受けて特別な編成として運用されている。いずれの編成も新大阪 - 博多間を通して運転するこだま730・741号に限定運用されている。 2014年7月19日より運行を開始した、タカラトミー・パナソニック(初代法人)とのコラボレーション企画による編成。1号車の座席をすべて撤去し、パナソニックの乾電池「EVOLTA」を動力に使用したタカラトミーの鉄道玩具「プラレール」の大型ジオラマ・子供向け運転台・プレイゾーンを設置。また、2号車も一部座席を撤去のうえ、多目的室と大型荷物置き場を設置した。なお、プラレールカーは自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できる。 当初は2015年3月までの運転を予定していたが、好評のため一部リニューアルしたうえで同年8月まで延長された。 2015年11月7日より運行を開始した、山陽新幹線運行開始40周年ならびにテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始20周年記念のコラボレーション企画による編成。エヴァンゲリオンシリーズのメカニックデザインを手掛けた山下いくとがエヴァ新幹線のデザインを担当し、原作・総監督の庵野秀明が監修を務めた。山下は500系新幹線の大ファンで、「エヴァ的カラーリングにするとともに元のデザインを生かして未来からやってきた500系みたいにできたらいいな」と述べている。 外観をエヴァンゲリオン初号機をモチーフとしたカラーリングに全面塗装。1号車にはエヴァンゲリオンの実物大コックピットを再現し、ゲームも楽しめる「展示・体験ルーム」に改装。2号車は肘掛けやカバー、床面や貫通扉などに装飾を施し、作品の世界観を表現した「特別内装車」とした。車内チャイムも従来の「いい日旅立ち・西へ」からアニメ主題歌の「残酷な天使のテーゼ」のオルゴールバージョンに変更されている。また、車内放送も運行期間中盤からは渚カヲル役を演じた石田彰が担当した。 「特別内装車」は自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できるが、「展示・体験ルーム」への入室と「実物大コックピット搭乗体験」利用には、事前の予約が必要。また「特別内装車」の一部は「展示・体験ルーム」入室者向けの待合スペースとなっており、乗車券・特急券のみでは着席できない。2016年3月15日からは、1号車の「実物大コックピット搭乗体験」は引き続き予約が必要だが、「展示・体験ルーム」は予約なしで自由に入室できるようになった(混雑時は制限が掛かる場合がある)。 当初は2017年3月までの運転を予定していたが、好評のため2018年春まで延長されることが発表された。2018年1月19日の春の臨時列車における発表の際に、同年5月13日をもって運転を終了することが公表された。これを受けて同年2月24日から5月7日まで、京都鉄道博物館に保存の521-1(詳細は後述)に本車のラッピングが施された。 2018年6月30日より運行を開始した、サンリオのキャラクター「ハローキティ」とのコラボレーション企画による編成。ハローキティと新幹線という組み合わせに、JR西日本社内では反対する声も一部上がったものの、賛成する声が大半を占め、サンリオ側も山陽新幹線が走行するエリアを中心に8府県をハローキティで盛り上げるというスケールの大きさに「光栄です」と、まったく異論はなかった。 車両デザインはサンリオとJR西日本との共同で実施され、前述のエヴァ新幹線が運行を終了した2018年5月末より改造が行われた。外観は白をベースカラーとし、窓沿いにピンクのリボンをまとったものとされた。1号車はフリースペース「HELLO! PLAZA」として、山陽新幹線沿線及び山陰、奈良の9府県(大阪府・奈良県・兵庫県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県・福岡県)を期間限定の入れ替え制で紹介するコーナーとしており、運行開始時は「山陰デスティネーションキャンペーン」に合わせ、鳥取県と島根県のご当地「ハローキティ」と地域紹介を掲示する。また、物販カウンターが設けられ、ハローキティの限定グッズや地域の特産品が購入できる。2号車は特別内装車「KAWAII! ROOM」として、フォトスペースが設けられる他、枕カバーや日よけなどにハローキティがちりばめられたデザインとなっている。車内チャイムは従来の「いい日旅立ち・西へ」から「ハローキティ新幹線」限定のオリジナルメロディに変更されている。 ハローキティ新幹線の運行は海外メディアでも報じられ、報道公開の模様を、仏女性ファッション誌「ELLE」のウェブサイトが「これだけはいつか乗りたい」と写真付きで紹介したほか、英公共放送のBBCも男性ニュースキャスターが興奮ぎみに報じている。 先行量産車であるW1編成は、1996年2月から1年間に及ぶ性能試験及び長期耐久試験を開始した。320km/hまでの車両性能及び営業運転速度(300km/h)における地上設備との整合性に関わる試験を含んだ長期耐久走行(走行キロは約42.5万km)を行い、営業運転を行うにあたり問題のないことを確認した。 約1年に及ぶ試運転の後、1997年3月22日から山陽新幹線区間で、同年11月29日からは東海道新幹線でも運転を開始した。 徹底して高速性能を追求したために、製造コストや居住性の問題、特に東海道新幹線内での他系列との定員の違いなどの点が運行開始後に問題となった。2007年に最高速度300km/hの高速性能と居住性の両立を目指した後継車両のN700系導入後は徐々に「のぞみ」運用から離脱し、2010年2月28日に定期「のぞみ」運用から離脱した。 山陽新幹線で新大阪駅 - 博多駅間で定期1往復と臨時1往復で営業運転開始。途中、岡山駅・広島駅・小倉駅に停車し、所要時間は山陽新幹線区間最短の2時間17分である。W2編成以降の増備にともない、1往復の臨時列車が夏季に運行された。 W2 - W4編成の増備により、東海道新幹線東京駅までの乗り入れ(東京駅 - 博多駅間3往復と新大阪駅 - 博多駅間1往復の定期「のぞみ」)を開始した。同時に東京第二車両所での夜間滞泊も開始された。 「のぞみ」1・13・18号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 W5・W6編成増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間5往復に増加。 「のぞみ」1・13・14・18・21・30号」は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 さらに3編成(3次車:W7 - W9編成)増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間7往復に増加。 「のぞみ」1・10・13・14・18・21・30号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 東京駅 - 博多駅間の「のぞみ」は700系と2時間おきの運転となった。 さらに、2000年10月1日改正によって、全列車が新横浜駅に停車することとなり、「のぞみ」13・17・21号の東京駅発車時刻が56分から52分に、「のぞみ」10・14・18号の東京駅到着時刻が24分から28分に変更された。 東海道直通「のぞみ」がすべて新神戸駅に停車するようになり、東京駅 - 博多駅間の最短所要時間は4時間53分となった。 品川駅の開業に伴って、東海道直通「のぞみ」のうち1号以外が停車するようになった。更に、これまで新神戸駅を通過していた500・501号が新神戸駅停車に変更されて全列車停車となり、山陽新幹線最速の2時間17分で走る列車が消滅した。また、500・501号を除き、徳山駅もしくは新山口駅のどちらかに停車するようになった。 運転時刻に変更はないが、12・13・20・21号の徳山駅停車を取りやめ新山口駅停車に変更したほか、1号が品川駅停車となった。また、一部の「のぞみ」で時刻の繰り下げと、他の「のぞみ」の設定時刻変更に伴う列車番号の変更が行われた。 2005年に発生したJR福知山線脱線事故に伴い、ダイヤの余裕時分が見直され、山陽新幹線区間は最短で2時間23分で運転されるようになった。また、新山口駅に停車する500系「のぞみ」は2・49・50号のみになったほか、500・501号で設定時刻の変更が行われ、500号は博多発新大阪行き最終列車としての運転に変更された。 N700系の営業運転が開始されたことに伴い、従来500系で運用されていた「のぞみ」3本がN700系となったが、従来700系で運用されていた「のぞみ」3本が500系に変更された。その結果、500系の運用本数に変化はなかったが、運転間隔が2時間毎ではなくなった。また700系から500系に変更になった列車でも、運行ダイヤは700系が運用されていた改正前と同じであった。そのため、所要時間が4時間台の500系のぞみ(従来ののぞみ1号)はなくなった。その後、N700系が増備されるにつれて2007年10月から段階的に置き換えられた。 (※)は、後にN700系に置き換えられた列車。 東京駅 - 博多駅間2往復のみとなった。ただし、ダイヤ改正の前日となった2009年3月13日は、車両運用の関係上「のぞみ」50号はN700系が代走した。 この時期、不定期運用として、通常300系が充当されている「こだま」2本や、多客期の臨時「のぞみ」や「ひかりレールスター」の代走となる臨時「ひかり」に充当されている。 2008年11月30日、0系の最後の定期運用となる「こだま」659号に続行する臨時列車として、「こだま」697号(W8編成を使用)を岡山駅 - 博多駅間で運転した。同列車は、急遽運転を決定したもので、普通車は全車両自由席、グリーン車は当日車内販売というものであった。この列車の送り込みのため、博多駅 - 岡山駅間に回送列車が運転された。 2008年12月1日からは、短編成化改造を済ませたV編成が0系に代わり山陽新幹線内の「こだま」での定期運用(こだま628号・V4編成)を開始し、博多南線への運用も始まった。一部の「こだま」は1日ではなく、翌2日から500系での運転となった。 500系「こだま」運用が開始されたことにより、定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すシーンを、徳山駅と新山口駅で見ることができた。また、臨時500系「のぞみ」が運転された場合、姫路駅でも見ることができた。 ★印の列車は12月1日は100系K編成で、12月2日以降は500系で運転。 W編成(16両)は定期運用では、東京駅 - 博多駅間2往復(2009年11月10日以降は1往復)の「のぞみ」や、繁忙期の臨時の「のぞみ」があったが、2010年2月28日の「のぞみ」29号をもって定期運用を終了し、2010年3月1日からN700系に置き換えられた。該当列車の博多到着時には、さよなら式典が開催された。2010年1月時点では、W編成はW1・W8の2本が営業運転に使用されていた。 ダイヤ改正前まで行われていた東京交番検査車両所での夜間滞泊の運用がなくなり、定期列車に関しては東京駅で直接折り返す運用となった。 V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、臨時に100系K編成(6両)の運用を置き換えることがある。 定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すことはないが、東広島駅では500系「のぞみ」が運用変更となった500系「こだま」を、新尾道駅と姫路駅では臨時の500系「のぞみ」が500系運用の「こだま」を追い越すシーンが見られることがあった。 W編成(16両)は定期運用は設定されていない。V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、2010年5月以降に100系P編成(4両)の運用を置き換えた。山陽新幹線区間の修学旅行や団体専用の「集約輸送臨時列車」に運用されることもあった。 山陽新幹線区間における「こだま」に充当される。 営業最高速度は、山陽新幹線区間(姫路駅以西)における300km/hで、2001年までフランス国鉄 (SNCF) のTGVと並び鉄車輪・鉄軌道方式の鉄道車両では世界最速であった。平坦均衡速度は365 km/hである。また、運転開始時の表定速度(始発から終点までの平均速度)242.5km/hと2停車駅間の平均速度261.8km/hはTGVを上回る世界最速であり、1997年のギネス世界記録に掲載された。また、300km/h走行時には車内案内表示器に「ただいまの速度は300km/hです。We are now travelling at 300km/h.」の表示が流れる。営業運転開始当初の一時期は運転士による300km/h実況アナウンスも行われていた。2007年7月以降はN700系でも最高速度300km/hで運転しているが、山陽新幹線区間の速度種別においては、500系がU49(上り10‰勾配での均衡速度が349km/h)であるのに対しN700系はU43(上り10‰勾配での均衡速度が343km/h)であり、未だ日本最速の営業運転用車両の座を譲ってはいない。 1997年の営業運転開始時の新大阪駅 - 博多駅間の最短の所要時間は2時間17分(停車駅は岡山駅・広島駅・小倉駅。新神戸駅は通過)であったが、2003年10月1日のダイヤ改正で全列車が新神戸駅に停車することになったため、2時間21分に延びた。さらにその後JR福知山線脱線事故の影響によるダイヤの見直しにより、2006年3月18日のダイヤ改正で2分の余裕時分を持たせたことで2時間23分となり、これが定期「のぞみ」で運用されていた時代の最短の所要時間であった。定期「のぞみ」運用から撤退した2010年2月時点での最短の所要時間は、東京駅 - 新大阪駅間で2時間36分、新大阪駅 - 博多駅間で2時間35分(主要駅以外に福山駅・新山口駅にも停車)であった。 N700系の営業運転開始以降は、500系は東京駅 - 博多駅間を4時間台で運転する列車(当時の「のぞみ」1号)には充当されなかった。なお、N700系は登場以来長らく東京駅 - 博多駅間の所要時間は最短で4時間50分であり、500系の最短所要時間であった4時間49分よりも1分遅かったが、2015年3月14日以降は「のぞみ」64号(東京行きの最終)が所要時間4時間47分運転となり500系より2分早くなった。同列車はさらに2017年3月4日より所要時間4時間46分運転となり、1分短縮した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新幹線500系電車(しんかんせん500けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)に在籍する新幹線電車である。1997年3月22日のダイヤ改正で営業運転を開始した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "JR西日本は、自社の路線である山陽新幹線の航空機に対する競争力強化の一環として、より一層の高速化を目指して「500系」を開発した。車体強度・台車強度・力行性能などすべて320km/h対応として設計・計画され、1996年1月から1998年12月にかけ、16両編成9本合計144両が製造された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1996年1月に1編成、1997年7月から1998年12月にかけて8編成の全9編成・144両が川崎重工業(旧1 - 6号車)・近畿車輛(旧7・8号車)・日立製作所笠戸事業所(旧9・10・13 - 16号車)・日本車輌製造(旧11・12号車)の各社が製造した。新製時はすべて16両で組成され、編成記号はW。3次に分けて製造された(W1:第1次車(量産先行車)、W2 - W6:第2次車、W7 - W9:第3次車)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第41回(1998年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。1996年には通商産業省(現・経済産業省)のグッドデザイン商品選定(現在の公益財団法人 日本デザイン振興会・グッドデザイン賞)の商品デザイン部門での選定を受けた。意匠設計はドイツの工業デザイナー、アレクサンダー・ノイマイスターによって行われた。山陽新幹線用となった現在でも人気や知名度は非常に高く日本の鉄道車両とJR西日本を代表する形式の一つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR西日本が保有する新幹線車両のうち、自社単独で開発した車両は2023年現在当形式のみとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本項では落成当時の仕様について述べる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "高速時のトンネル微気圧波問題のため、先頭車両は全長 (27m) の半分以上の15mにわたり断面を徐々に窄めており、尖ったジェット戦闘機のような外観である。この15mという長さは、320km/h営業運転を前提にして、航空宇宙技術研究所のCFDで解析を行っている。空力上の問題を解決した形状であるものの、先頭車の客席減少や運転席からの視野も限られるなど、マイナス面もある。また、同じく300km/h超での微気圧波対策として、車体高を300系と同等まで維持しつつ車体断面積を縮小するため、客室自体に影響の少ない部分(車体の裾や荷棚部分)を削り、300系比1割減の10.2mまで縮小した。そのため、車体断面も他の車両と一線を画す円形(回転放物面体)である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "運転室のガラスは各種の航空機や電車にガラスを納入している サンゴバン(本社フランス)社の製品を用いている。天井の傾斜により、乗務員室から1・2列目の座席は棚の空間が狭くなるため、座席配置を2-2(C席なし)とし、専用の荷物置きを設置することで対処している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この構造から先頭車の乗車口は1箇所しか存在しないため、各駅にはその旨を掲示する告知が行われていた。また、東海道新幹線内で「のぞみ」の停車しない駅(小田原駅・熱海駅など)にも非常時対応などのために、Wと表記された500系の停車位置目標が設置されていた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "丸みを帯びた車体、独自の塗装などによって、子どもを含め大きな人気車両となった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高剛性を保ちつつ軽量化し、車両の防音性能を向上させるため、厚さ30mmのろう付けしたアルミハニカムパネルを側構体と気密床に使用したアルミハニカムパネル構造を採用している。これは、六角形のハニカムコアを2枚のアルミ合金で挟み、ろう付けしてパネルにしたものを組上げて車体を製造する方式で、これにより、1両あたりの車体構体重量は300系より0.6tの軽量化を実現しており、その他にも、制振材付きアルミ押出形材、吸音材、遮蔽板を使用して、従来と比べて1割以上の騒音低減を実現している。しかし、この構造は製造時において使用される炉の関係で大型パネルを製作することができず、結果的には、車体の製造コストが大幅に上昇したため、次に登場した700系はアルミ中空大型押出形材による中空構造の大型アルミパネルを使用して、支柱や垂木を不要とし、製造コストを低減させたアルミダブルスキン構造を採用したため、500系のみの構造となっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "床下機器は、ユニット化されたものを床面から吊り下げ、車体下側の気流に配慮して、ボディの形状に合わせた点検ふたを兼ねたカバーで車体下半分を覆う構造とした新ボディマウント構造を採用しており、床下機器の配置もそれに応じてパターン化され、メンテナンスが必要な機器を山側に揃えて、メンテナンス性を向上させている。また車体断面も円形に近く、それに伴い側窓も曲面ガラスを用いる。このため、車体とホームに若干の隙間が生じてしまったため、W2編成製造以降に隙間を埋めるための小さなフィンが取り付けられた。これはW1編成でテストを行って騒音値について調べてから装着された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "車体側面の段差をなくし、空気抵抗や騒音を低減するため、旅客乗降用ドアは閉じた時に車体側面との段差を生じないプラグドアを採用し、客室窓のガラス外側にポリカーボネートを張ることで段差を小さくしている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "出入口付近に設置してある行先表示器は100系V編成に引き続き3色LED式を採用。新たに自由/指定席表示部分もLED式に変更された。行先表示器に関しては、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2004年に東海道新幹線区間へのデジタルATC導入に備えて、全編成にデジタルATC対応の車上設備が増設されたが外観上の変化はない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "製作費は1両当たり約3億円、1編成46億円と300系よりも6億円弱余分にコストが掛かったため、東京ー博多間の直通のぞみの半分を担うことができる9編成しか製造されなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ライトグレー■を基調に、窓部分にブルー■とダークグレー■の帯を配し、ノーズ上部から天井部分にかけてはグレイッシュブルーで塗装された。この塗装パターンは、一部色を変更のうえで山陽新幹線区間限定列車となる「ひかりレールスター」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとサニーイエローの帯)や「こだま」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとフレッシュグリーンの帯)にも踏襲された。車番表記はデカールで貼り付ける方式になった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "先頭車両の運転席両脇には、“JR500 WEST JAPAN”のロゴが配されている。なお、W1編成落成時には存在していなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "内装については、構造上の制約から来る車内空間やシートピッチの減少を和らげるべく配慮されており、カラースキームや照明についても利用客の視覚に優しいものとなっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "普通車は、瀬戸内海をイメージしたバイオレットでまとめられている。奇数号車の座席にはローズ系の、偶数号車にはブルー系のモケットが使用されている。座席背面にテーブルが設置されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "グリーン車は、グレイッシュベージュでまとめられている。肘掛け部分にテーブルが内蔵され、取り出して使用することができる。照明は半間接照明が採用された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "旧3号車博多寄り、旧7号車の東京寄り、旧11号車の博多寄り、旧15号車博多寄りには車販準備室が設けられた。そのうち旧7・11号車には車販準備室を兼ねたサービスコーナーを設置していたが、2003年10月のダイヤ改正時に廃止され、車販準備室のみになった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "前述のとおり高速化を追求した円筒形状の車体断面であることから、特に窓際の席の居住空間がやや狭くなっている。反面、インテリアカラー、グリーン車の座席、側窓吹寄せ部の処理などに居住性改善のための工夫がうかがえる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この形式から車内の電光掲示板の駅名の表示が上から降りてくる形式になっている。これは700系のJR西日本編成(JR東海から移籍した編成を除く)とN700系の8両編成(JR九州所属の編成を含む)でも行われている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "旧偶数号車の博多寄りにはデッキと独立した電話室が設置された。吸音化粧板を使用し、騒音の低減を図っている。携帯電話の普及に伴って一部号車のものは撤去され、最終的に旧2・6・12・16号車まで削減された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "奇数号車にある洗面台と洗面台の間には冷水器と紙コップが設けられていたが、700系には当初から設けられていなかったこともあり、700系デビュー以降は300系とともに冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ロングノーズのため運転席を大きく後ろに下げる必要があり、先頭車の乗車定員が300系より12名減少する。このため、JR東海から設計段階で300系の定員(1,323人)を下回らないことが強く要請された。その対策として運転席寄りの客用扉を廃止したり、普通車座席の前後間隔(シートピッチ)を詰めたり(1,040mm → 1,020mm)、洗面所を2箇所から1箇所に減らすことによって300系と同等以上の総座席数(300系より1名多い1,324名)を確保したものの、車両ごとの座席数が300系と異なりダイヤでも他車種と区別する必要が生じたため、ダイヤが乱れた時の運用変更にも問題が生じることになった。両先頭車の客用扉が1ヵ所ずつしかないことは、2003年の「のぞみ」への自由席設定以降は乗降時間面での不利を招いた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "従来の新幹線と同じく、右側にマスコンハンドル、左側にブレーキハンドルが配置されている。ブレーキハンドルは、一般的な新幹線車両の縦軸・水平回転式と異なり、221系電車をはじめとしたJR西日本の在来線車両が主に採用する横軸・前後回転式を採用している。前後回転式のブレーキハンドルを採用しているのは、国内の新幹線車両では500系が唯一である。また、700系の派生形式である台湾高速鉄道700T型も同様のハンドルが採用されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、側窓は天井部分にまで及ぶ曲面となっているため、遮光幕は従来のロールアップ式ではなくアコーディオンカーテンとなっている。運転席の座席には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防する為、レカロ製のセミバケットシート「RECARO 24H OFFICE CHAIR」を採用した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "初代新幹線である0系以来となる、16両全車に主電動機が1両あたり4基ずつ搭載される全電動車方式を採用している。高速走行によって増大する走行抵抗に対応するため、64基の電動機による出力は300系の約1.5倍である18,240kW(約2万5千馬力)(W2編成以降は17,600kW)にも上り、地上を走行する旅客輸送機関として史上空前の動力を備えている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、M-M1-Mp-M2の4両を1単位として主変圧器(Mp車に搭載)や主変換装置(M1・M2車に搭載)といった主要機器を各車に集約分散搭載するユニット方式を採用、前述した車体軽量化の努力と合わせて、編成重量も後継となるN700系と同等な700tに抑えられ、車輪駆動方式鉄道車両としては世界最高(最小)の重量出力比を実現している。また、乗客定員1人あたり車体重量も約520kgと、軒並み1tを超えている他国の高速鉄道車両より軽量である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "発車から4分程度で300 km/hに達することが可能な加速力があり、また曲線や駅通過時の減速から素早く加速することによって、他国に比べて線路条件の厳しい山陽新幹線で世界記録となる表定速度を実現した。320 km/hでの運転でも環境面での条件を十分にクリアしていた。しかし、W1編成が完成する前に起きた兵庫県南部地震後に非常制動距離の厳守が必須になったことや、総合的な費用対効果の検討から若干の余裕を見て300 km/hとなった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "架線からの単相交流25kVを主変圧器で降圧した上で、主変換装置で直流に整流、その後三相交流に変換して主電動機を制御するVVVFインバータ制御方式である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "主変圧器 (WTM205) は強制風冷式を採用し、5,400kVAの容量を備える。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "主変換装置 (WPC5) は500系900番台のシステムを踏襲し、GTOサイリスタ素子を使用した、PWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されており、制御方式を3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、電流波形がひずむことにより発生するひずみ成分(高調波)の抑制を図っている。M1・M2車に2基ずつ搭載され、各装置が1両分4基の主電動機を制御する1C4M方式である。機器の軽量化を図ることを目的に、主変換装置1台で8基の主電動機を制御する1C8M制御方式も検討されていた。しかし、半導体技術の進歩によるGTO素子の大容量化がなされ、それによってコンバータ・インバータ間の直流電圧を上げることが可能になり、インバータの軽量化を実現した。そのため、1C8M制御方式は採用されなかった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "補機類の電源は主変圧器の3次巻線(単相交流440V 60Hz)である。空気圧縮機、空調装置などはこれを電源とするが、ATC、列車無線、補助空気圧縮機などが利用する電源は定電圧装置、補助変圧器、整流装置などを介して交流100V、直流100Vが供給される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "空調機器 (WAU601) は、効きの悪さを指摘された300系から改善するため、室外機を床下に2台、室内機を天井部分に8台搭載した、マルチエバポレーター・セパレート方式を採用した室内機から客室へのダクトを短くすることで空調の効きの悪さを改善した。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "WMT204形かご形三相誘導電動機を1両あたり4基搭載する。W1編成は連続定格出力285kWであったが、W2編成以降は走行抵抗の予想以上の低下により連続定格出力は275kWとなっている。軽量化のため、フレームレス構造、アルミブラット構造を採用した。また、軸受けの電蝕防止のために、セラミックス絶縁軸受けを使用している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "300系に続き主電動機を発電機として用いることでブレーキ力を確保する回生ブレーキを主体としつつ、従来どおりの空気圧動作のディスクブレーキも併用する回生ブレーキ付き電気指令式ブレーキを搭載する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なおディスクブレーキについては、W1編成による試運転の結果を反映して、セラミック噴射装置を1・8・9・16号車に搭載している。これにより、悪天候時に300km/hで走行している状態からブレーキを掛けても、270km/h走行時の300系と同等の制動距離で停止できる性能を確保している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "台車は直進安定性に優れた走行特性を示す軸梁式の軸箱支持機構を備えたボルスタレス台車である、WDT205を装着する。駆動方式は300系以前と同様、信頼性の高いWNドライブを採用する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "乗り心地の改善を図り、軸箱剛性のアップ、空気ばね左右間隔の拡大、非線形ばねの採用、台車枠と車体の間で連結されているアンチヨーダンパーの減衰係数の変更などを行ってあるが、先頭車両運転台寄りの台車は、先頭形状との兼ね合いで、他の台車に比べて空気ばね間隔が250mm縮小されている。メンテナンスフリー化を図るため、軸受けには密封グリス潤滑円錐ころ軸受を採用している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "両先頭車両とパンタグラフ搭載車両、それにグリーン車の各台車には車体に働く左右方向の振動加速度を抑えるセミアクティブサスペンションが搭載されている。先行量産車のW1編成に関しては、比較検討を行う目的から車両動揺の大きい1・16号車にフルアクティブサスペンション、5・8・9・10・13号車セミアクティブサスペンションが搭載されていたが、営業運転開始を前に全車セミアクティブサスペンションに換装されている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "車輪径、軸距は300系と同じく860mm、2,500mmである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "編成中の2か所(W編成の5・13号車)に設置された集電装置 (WPS204) も騒音低減のため、伝統的な菱形の構造を廃し、公式には「翼型パンタグラフ」と呼ぶ、断面が楕円形の支柱上部に翼型の舟体を設けた構造(T字型)とした。これにはF1で蓄積された空力技術や、音もなく滑空するフクロウの羽根を参考にした騒音低減のためのボルテックスジェネレータも使われている。ホーン部分に5mmの穴を開けることによって、エオルス音と呼ばれるカルマン渦が引き起こす空力音を低減する。これに用いられているダンパーは、F1用ショックアブソーバーの製作で300km/h以上でのデータとノウハウを数多く持つ、ショーワに依頼された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "集電装置の名称に関しては、厳密には「T型パンタグラフ」に「翼型舟体」を組み合わせたのが正解で、「翼型パンタグラフ」は両者が混同されてしまっている、とする資料も存在する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "集電装置からの騒音を低減させた結果、300系で採用されていたパンタグラフ下部まで覆う大型のパンタグラフカバーではなく、碍子のみを覆う小型の碍子カバーが採用された。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ほかの新幹線車両のパンタグラフは金属ばね上昇式であるが、翼型パンタグラフでは空気上昇式を採用している。このため、長時間の停電などにより車両の圧縮空気が減圧した場合には、パンタグラフが自然降下し、保護接地スイッチ (EGS) による架線地絡ができなくなってしまう。そのため、EGS用にばね上昇式の予備シングルアームパンタグラフを碍子カバー内に設けている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、東海道・山陽新幹線を走行する車両のうち、0系から300系までは静電アンテナが運転席直上(700系・N700系は先頭車連結面寄り)にあったが、500系では碍子カバー内に設置され、目視確認できなくなった。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "落成時のW1編成は9号車516形東京寄りにも集電装置を搭載していたが、試験・予備用としての扱いであったため、後に撤去された。W2編成以降には新製時から搭載されていない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両の電動車 M+M1+Mp+M2 で1ユニットを構成する。車両の製作・整備費の低減と軸重の分散化を図るため300系より1ユニットあたりの両数が増えている。", "title": "形式" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2007年にN700系が営業運転を開始と同系の増備により、500系は2010年2月に定期列車の「のぞみ」の運用から離脱し、余剰となった9編成のうち、量産先行車のW1編成を除く8編成(W2 - W9編成)については、2008年から2010年にかけて8両編成の7000番台(V編成)への改造が行われた。このため、V1編成は欠番となっている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2007年10月20日付の各社報道で、500系を16両から8両に減車(余剰となる中間車は廃車)するとされたが、2007年12月のJR西日本定例社長会見で5編成を順次8両化し、2008年12月以降は山陽新幹線内の「こだま」として運用すると正式発表された。このうち、W3編成が最初に営業運転から離脱し8両化改造工事を受けたのちV3編成を名乗り、2008年3月28日(改造日も同日付)に博多総合車両所で報道公開された。その後、V2, V4 - V9編成も改造工事を終え、試運転を経て営業運転に充当された。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "V編成は全車普通車で、4 - 6号車(このうち6号車は元グリーン車516形改造の526形7200番台)は2列+2列の指定席、そのほかの車両は3列+2列の自由席である。V編成を組成する車両はW編成の号車番号によるところの、博多方から1・2・3・4・13・10・11・16号車に当たる。車両番号は元番号+7000(6号車の526形7200番台は元番号+7200)とされた。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "カラーリングはW編成時代から変更されていない。なお、組成から外れた車両は廃車となった。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なお、最高運転速度は285km/hとされている。8両編成化に伴い、パンタグラフの変更だけでなく、車体形状によりパンタグラフのカバー側壁の設置がなされなかったことや、短い編成中に重量機器が集中し300km/h運転が環境基準の面で不可能とされたことも最高285km/hに落とされた理由とされている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "V編成は2008年12月1日から運用が開始されたが、このときは主に0系と入れ替わる形になっていた。2009年3月14日改正からは、通勤・通学や帰宅時間帯の朝晩に重点的に運用が組まれた。これは、ほかの「こだま」用車両よりも定員が多いためである。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "16両編成から8両編成に改造されたときの主な内容は以下の通り。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "8両編成に改造されて以降に行われた改造は以下の通り", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "山陽新幹線区間の「こだま」として使用されるV編成組成時に、以下の各形式について改造による番台区分が発生している。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "上記8編成のうち、V2編成については2014年から一部の車両が改造を受けて特別な編成として運用されている。いずれの編成も新大阪 - 博多間を通して運転するこだま730・741号に限定運用されている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2014年7月19日より運行を開始した、タカラトミー・パナソニック(初代法人)とのコラボレーション企画による編成。1号車の座席をすべて撤去し、パナソニックの乾電池「EVOLTA」を動力に使用したタカラトミーの鉄道玩具「プラレール」の大型ジオラマ・子供向け運転台・プレイゾーンを設置。また、2号車も一部座席を撤去のうえ、多目的室と大型荷物置き場を設置した。なお、プラレールカーは自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できる。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "当初は2015年3月までの運転を予定していたが、好評のため一部リニューアルしたうえで同年8月まで延長された。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2015年11月7日より運行を開始した、山陽新幹線運行開始40周年ならびにテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始20周年記念のコラボレーション企画による編成。エヴァンゲリオンシリーズのメカニックデザインを手掛けた山下いくとがエヴァ新幹線のデザインを担当し、原作・総監督の庵野秀明が監修を務めた。山下は500系新幹線の大ファンで、「エヴァ的カラーリングにするとともに元のデザインを生かして未来からやってきた500系みたいにできたらいいな」と述べている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "外観をエヴァンゲリオン初号機をモチーフとしたカラーリングに全面塗装。1号車にはエヴァンゲリオンの実物大コックピットを再現し、ゲームも楽しめる「展示・体験ルーム」に改装。2号車は肘掛けやカバー、床面や貫通扉などに装飾を施し、作品の世界観を表現した「特別内装車」とした。車内チャイムも従来の「いい日旅立ち・西へ」からアニメ主題歌の「残酷な天使のテーゼ」のオルゴールバージョンに変更されている。また、車内放送も運行期間中盤からは渚カヲル役を演じた石田彰が担当した。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "「特別内装車」は自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できるが、「展示・体験ルーム」への入室と「実物大コックピット搭乗体験」利用には、事前の予約が必要。また「特別内装車」の一部は「展示・体験ルーム」入室者向けの待合スペースとなっており、乗車券・特急券のみでは着席できない。2016年3月15日からは、1号車の「実物大コックピット搭乗体験」は引き続き予約が必要だが、「展示・体験ルーム」は予約なしで自由に入室できるようになった(混雑時は制限が掛かる場合がある)。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "当初は2017年3月までの運転を予定していたが、好評のため2018年春まで延長されることが発表された。2018年1月19日の春の臨時列車における発表の際に、同年5月13日をもって運転を終了することが公表された。これを受けて同年2月24日から5月7日まで、京都鉄道博物館に保存の521-1(詳細は後述)に本車のラッピングが施された。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2018年6月30日より運行を開始した、サンリオのキャラクター「ハローキティ」とのコラボレーション企画による編成。ハローキティと新幹線という組み合わせに、JR西日本社内では反対する声も一部上がったものの、賛成する声が大半を占め、サンリオ側も山陽新幹線が走行するエリアを中心に8府県をハローキティで盛り上げるというスケールの大きさに「光栄です」と、まったく異論はなかった。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "車両デザインはサンリオとJR西日本との共同で実施され、前述のエヴァ新幹線が運行を終了した2018年5月末より改造が行われた。外観は白をベースカラーとし、窓沿いにピンクのリボンをまとったものとされた。1号車はフリースペース「HELLO! PLAZA」として、山陽新幹線沿線及び山陰、奈良の9府県(大阪府・奈良県・兵庫県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県・福岡県)を期間限定の入れ替え制で紹介するコーナーとしており、運行開始時は「山陰デスティネーションキャンペーン」に合わせ、鳥取県と島根県のご当地「ハローキティ」と地域紹介を掲示する。また、物販カウンターが設けられ、ハローキティの限定グッズや地域の特産品が購入できる。2号車は特別内装車「KAWAII! ROOM」として、フォトスペースが設けられる他、枕カバーや日よけなどにハローキティがちりばめられたデザインとなっている。車内チャイムは従来の「いい日旅立ち・西へ」から「ハローキティ新幹線」限定のオリジナルメロディに変更されている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ハローキティ新幹線の運行は海外メディアでも報じられ、報道公開の模様を、仏女性ファッション誌「ELLE」のウェブサイトが「これだけはいつか乗りたい」と写真付きで紹介したほか、英公共放送のBBCも男性ニュースキャスターが興奮ぎみに報じている。", "title": "8両編成への短縮" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "先行量産車であるW1編成は、1996年2月から1年間に及ぶ性能試験及び長期耐久試験を開始した。320km/hまでの車両性能及び営業運転速度(300km/h)における地上設備との整合性に関わる試験を含んだ長期耐久走行(走行キロは約42.5万km)を行い、営業運転を行うにあたり問題のないことを確認した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "約1年に及ぶ試運転の後、1997年3月22日から山陽新幹線区間で、同年11月29日からは東海道新幹線でも運転を開始した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "徹底して高速性能を追求したために、製造コストや居住性の問題、特に東海道新幹線内での他系列との定員の違いなどの点が運行開始後に問題となった。2007年に最高速度300km/hの高速性能と居住性の両立を目指した後継車両のN700系導入後は徐々に「のぞみ」運用から離脱し、2010年2月28日に定期「のぞみ」運用から離脱した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "山陽新幹線で新大阪駅 - 博多駅間で定期1往復と臨時1往復で営業運転開始。途中、岡山駅・広島駅・小倉駅に停車し、所要時間は山陽新幹線区間最短の2時間17分である。W2編成以降の増備にともない、1往復の臨時列車が夏季に運行された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "W2 - W4編成の増備により、東海道新幹線東京駅までの乗り入れ(東京駅 - 博多駅間3往復と新大阪駅 - 博多駅間1往復の定期「のぞみ」)を開始した。同時に東京第二車両所での夜間滞泊も開始された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "「のぞみ」1・13・18号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "W5・W6編成増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間5往復に増加。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "「のぞみ」1・13・14・18・21・30号」は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "さらに3編成(3次車:W7 - W9編成)増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間7往復に増加。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "「のぞみ」1・10・13・14・18・21・30号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "東京駅 - 博多駅間の「のぞみ」は700系と2時間おきの運転となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "さらに、2000年10月1日改正によって、全列車が新横浜駅に停車することとなり、「のぞみ」13・17・21号の東京駅発車時刻が56分から52分に、「のぞみ」10・14・18号の東京駅到着時刻が24分から28分に変更された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "東海道直通「のぞみ」がすべて新神戸駅に停車するようになり、東京駅 - 博多駅間の最短所要時間は4時間53分となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "品川駅の開業に伴って、東海道直通「のぞみ」のうち1号以外が停車するようになった。更に、これまで新神戸駅を通過していた500・501号が新神戸駅停車に変更されて全列車停車となり、山陽新幹線最速の2時間17分で走る列車が消滅した。また、500・501号を除き、徳山駅もしくは新山口駅のどちらかに停車するようになった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "運転時刻に変更はないが、12・13・20・21号の徳山駅停車を取りやめ新山口駅停車に変更したほか、1号が品川駅停車となった。また、一部の「のぞみ」で時刻の繰り下げと、他の「のぞみ」の設定時刻変更に伴う列車番号の変更が行われた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2005年に発生したJR福知山線脱線事故に伴い、ダイヤの余裕時分が見直され、山陽新幹線区間は最短で2時間23分で運転されるようになった。また、新山口駅に停車する500系「のぞみ」は2・49・50号のみになったほか、500・501号で設定時刻の変更が行われ、500号は博多発新大阪行き最終列車としての運転に変更された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "N700系の営業運転が開始されたことに伴い、従来500系で運用されていた「のぞみ」3本がN700系となったが、従来700系で運用されていた「のぞみ」3本が500系に変更された。その結果、500系の運用本数に変化はなかったが、運転間隔が2時間毎ではなくなった。また700系から500系に変更になった列車でも、運行ダイヤは700系が運用されていた改正前と同じであった。そのため、所要時間が4時間台の500系のぞみ(従来ののぞみ1号)はなくなった。その後、N700系が増備されるにつれて2007年10月から段階的に置き換えられた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "(※)は、後にN700系に置き換えられた列車。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "東京駅 - 博多駅間2往復のみとなった。ただし、ダイヤ改正の前日となった2009年3月13日は、車両運用の関係上「のぞみ」50号はN700系が代走した。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "この時期、不定期運用として、通常300系が充当されている「こだま」2本や、多客期の臨時「のぞみ」や「ひかりレールスター」の代走となる臨時「ひかり」に充当されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2008年11月30日、0系の最後の定期運用となる「こだま」659号に続行する臨時列車として、「こだま」697号(W8編成を使用)を岡山駅 - 博多駅間で運転した。同列車は、急遽運転を決定したもので、普通車は全車両自由席、グリーン車は当日車内販売というものであった。この列車の送り込みのため、博多駅 - 岡山駅間に回送列車が運転された。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2008年12月1日からは、短編成化改造を済ませたV編成が0系に代わり山陽新幹線内の「こだま」での定期運用(こだま628号・V4編成)を開始し、博多南線への運用も始まった。一部の「こだま」は1日ではなく、翌2日から500系での運転となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "500系「こだま」運用が開始されたことにより、定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すシーンを、徳山駅と新山口駅で見ることができた。また、臨時500系「のぞみ」が運転された場合、姫路駅でも見ることができた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "★印の列車は12月1日は100系K編成で、12月2日以降は500系で運転。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "W編成(16両)は定期運用では、東京駅 - 博多駅間2往復(2009年11月10日以降は1往復)の「のぞみ」や、繁忙期の臨時の「のぞみ」があったが、2010年2月28日の「のぞみ」29号をもって定期運用を終了し、2010年3月1日からN700系に置き換えられた。該当列車の博多到着時には、さよなら式典が開催された。2010年1月時点では、W編成はW1・W8の2本が営業運転に使用されていた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ダイヤ改正前まで行われていた東京交番検査車両所での夜間滞泊の運用がなくなり、定期列車に関しては東京駅で直接折り返す運用となった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、臨時に100系K編成(6両)の運用を置き換えることがある。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すことはないが、東広島駅では500系「のぞみ」が運用変更となった500系「こだま」を、新尾道駅と姫路駅では臨時の500系「のぞみ」が500系運用の「こだま」を追い越すシーンが見られることがあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "W編成(16両)は定期運用は設定されていない。V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、2010年5月以降に100系P編成(4両)の運用を置き換えた。山陽新幹線区間の修学旅行や団体専用の「集約輸送臨時列車」に運用されることもあった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "山陽新幹線区間における「こだま」に充当される。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "営業最高速度は、山陽新幹線区間(姫路駅以西)における300km/hで、2001年までフランス国鉄 (SNCF) のTGVと並び鉄車輪・鉄軌道方式の鉄道車両では世界最速であった。平坦均衡速度は365 km/hである。また、運転開始時の表定速度(始発から終点までの平均速度)242.5km/hと2停車駅間の平均速度261.8km/hはTGVを上回る世界最速であり、1997年のギネス世界記録に掲載された。また、300km/h走行時には車内案内表示器に「ただいまの速度は300km/hです。We are now travelling at 300km/h.」の表示が流れる。営業運転開始当初の一時期は運転士による300km/h実況アナウンスも行われていた。2007年7月以降はN700系でも最高速度300km/hで運転しているが、山陽新幹線区間の速度種別においては、500系がU49(上り10‰勾配での均衡速度が349km/h)であるのに対しN700系はU43(上り10‰勾配での均衡速度が343km/h)であり、未だ日本最速の営業運転用車両の座を譲ってはいない。", "title": "最高速度と所要時間" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1997年の営業運転開始時の新大阪駅 - 博多駅間の最短の所要時間は2時間17分(停車駅は岡山駅・広島駅・小倉駅。新神戸駅は通過)であったが、2003年10月1日のダイヤ改正で全列車が新神戸駅に停車することになったため、2時間21分に延びた。さらにその後JR福知山線脱線事故の影響によるダイヤの見直しにより、2006年3月18日のダイヤ改正で2分の余裕時分を持たせたことで2時間23分となり、これが定期「のぞみ」で運用されていた時代の最短の所要時間であった。定期「のぞみ」運用から撤退した2010年2月時点での最短の所要時間は、東京駅 - 新大阪駅間で2時間36分、新大阪駅 - 博多駅間で2時間35分(主要駅以外に福山駅・新山口駅にも停車)であった。", "title": "最高速度と所要時間" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "N700系の営業運転開始以降は、500系は東京駅 - 博多駅間を4時間台で運転する列車(当時の「のぞみ」1号)には充当されなかった。なお、N700系は登場以来長らく東京駅 - 博多駅間の所要時間は最短で4時間50分であり、500系の最短所要時間であった4時間49分よりも1分遅かったが、2015年3月14日以降は「のぞみ」64号(東京行きの最終)が所要時間4時間47分運転となり500系より2分早くなった。同列車はさらに2017年3月4日より所要時間4時間46分運転となり、1分短縮した。", "title": "最高速度と所要時間" } ]
新幹線500系電車(しんかんせん500けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)に在籍する新幹線電車である。1997年3月22日のダイヤ改正で営業運転を開始した。
{{Otheruses|新幹線500系電車の量産型|同じ系列名で'''WIN350'''の愛称を持つ試作・試験車|新幹線500系電車900番台}} {{鉄道車両 | 車両名 = 新幹線500系電車 | 背景色 = #0072bc | 文字色 = #ffffff | 画像 = JRW-500-nozomi.jpg | 画像説明 = 500系W7編成「のぞみ」 | 運用者 = [[西日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[川崎車両|川崎重工業]]<ref group="*">旧1 - 6号車を製造</ref><br />[[近畿車輛]]<ref group="*">旧7・8号車を製造</ref><br />[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]<ref group="*">旧9・10・13 - 16号車を製造</ref><br />[[日本車輌製造]]<ref group="*">旧11・12号車を製造</ref> | 製造年 = 1996年(量産先行車)<br />1997年 - 1998年(量産車) | 製造数 = 144両 | 投入先 = [[山陽新幹線|山陽]]・[[東海道新幹線]] | 編成 = 16両(W編成・[[動力車|全電動車]])<br/>8両(V編成・全電動車) | 軌間 = 1,435 mm | 電気方式 = [[交流電化|交流]] 60Hz 25,000V([[架空電車線方式]]) | 最高運転速度 = 270 km/h(東海道区間)<br/>300 km/h(山陽区間・W編成)<br/>285 km/h(V編成)<br/>120 km/h(博多南線) | 設計最高速度 = 320 km/h(W編成)<br/>305 km/h(V編成)<ref>500 TYPE EVAのパンフレットより</ref> | 起動加速度 = 1.6 km/h/s<br/>1.92 km/h/s(高加速度設定時) | 常用減速度 = 0 - 70km/h時:2.70 km/h/s<br/>120km/h時:2.24 km/h/s<br/>230km/h時:1.45 km/h/s<br/>320km/h時:1.12 km/h/s | 非常減速度 = 0 - 70km/h時:3.64km/h/s<br/>230km/h時:2.03km/h/s<br/>320km/h時:1.57 km/h/s | 編成定員 = W編成:計1,324名[200名]<br/>V編成:計557名(普通車のみ)<br/>[ ]内はグリーン車 | 車両定員 = | 荷重 = | 車両重量 = | 自重 = | 編成重量 = 満車700.0t、自重629.6t(W1編成)<br/>自重350.0t(V編成) | 編成長 = W編成:404 m<br />V編成:204 m | 全長 = 先頭車 27,000 mm<br />中間車 25,000 mm | 全幅 = 3,380 mm | 全高 = 4,490 mm | 車体長 = | 車体幅 = | 車体高 = 3,690 mm | 車体材質 = [[アルミニウム合金]] | 台車 = 軸梁式ボルスタレス台車 (WDT205) | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]WMT204(285kW/275kW) | 主電動機出力 = | 駆動方式 = [[WN駆動方式]] | 歯車比 = 2.79 | 編成出力 = 285kW×64 = 18,240kW(W1編成)<br/>275kW×64 = 17,600kW(W2 - W9編成)<br/>275kW×32 = 8,800kW(V編成) | 制御方式 = [[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]([[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ素子]])(現在一部の編成が[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBTインバーター]]に更新されている。) | 制御装置 = WPC5 (5400kVA) | 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生併用]][[電気指令式ブレーキ|電気指令式空気ブレーキ]](応荷重装置付き) | 保安装置 = [[自動列車制御装置#ATC-1型(東海道・山陽型)|ATC-1型]]、[[自動列車制御装置#ATC-NS|ATC-NS]] | 備考 = 均衡速度は365 km/h。<br/>'''脚注'''<br/><references group="*"/> | 備考全幅 = 出典<ref name="500 spec">{{Cite book |和書 |author=日本機械学会 |authorlink=日本機械学会 |year=1999 |title=高速鉄道物語 -その技術を追う- |publisher=成山堂書店 |page=41 |isbn=4-425-92321-9}}</ref><ref name="RailandTech_199611">{{Cite journal |和書 |author= |title=高速新幹線電車500系車両の概要(5・補遺-主要諸元表) |year=2004 |publisher=レールアンドテック出版 |journal=鉄道車両と技術 |volume=2 |number=11 |page= }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1974 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |journal=[[鉄道ジャーナル]] |issue=2007年9月号 |page=36}}</ref><br />{{ブルーリボン賞 (鉄道)|41|1998}} }} '''新幹線500系電車'''(しんかんせん500けいでんしゃ)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)に在籍する[[新幹線車両|新幹線電車]]である。[[1987年-2000年のJRダイヤ改正|1997年3月22日のダイヤ改正]]で営業運転を開始した。 == 概要 == {{main2|開発の背景|新幹線500系電車900番台#開発の背景}} JR西日本は、自社の路線である[[山陽新幹線]]の航空機に対する競争力強化の一環として、より一層の高速化を目指して「'''500系'''」を開発した。車体強度・台車強度・力行性能などすべて320km/h対応として設計・計画され<ref name="RailandTech_199605">{{Cite journal |和書 |author= |title=高速新幹線電車500系車両の概要(2) |year= |publisher=レールアンドテック出版 |journal=鉄道車両と技術 |volume=2 |number=5 |page= }}</ref>、[[1996年]][[1月]]から[[1998年]][[12月]]にかけ、16両編成9本合計144両が製造された。 1996年1月に1編成、[[1997年]]7月から1998年12月にかけて8編成の全9編成・144両が[[川崎重工業]](旧1 - 6号車)・[[近畿車輛]](旧7・8号車)・[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]](旧9・10・13 - 16号車)・[[日本車輌製造]](旧11・12号車)の各社が製造した。新製時はすべて16両で組成され、編成記号は'''W'''。3次に分けて製造された(W1:第1次車(量産先行車)、W2 - W6:第2次車、W7 - W9:第3次車)。 第41回(1998年)[[鉄道友の会]][[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞。1996年には[[経済産業省|通商産業省]](現・経済産業省)のグッドデザイン商品選定(現在の公益[[財団法人]] [[日本デザイン振興会]]・[[グッドデザイン賞]])の商品デザイン部門での選定を受けた。[[意匠設計]]はドイツの工業デザイナー、[[アレクサンダー・ノイマイスター]]によって行われた。山陽新幹線用となった現在でも人気や知名度は非常に高く日本の鉄道車両とJR西日本を代表する形式の一つ。 JR西日本が保有する新幹線車両のうち、自社単独で開発した車両は2023年現在当形式のみとなっている<ref group="注">後に登場した700系・N700系はJR東海、[[新幹線E7系電車|W7]]系はJR東日本との共同開発である。</ref>。 == 構造 == 本項では落成当時の仕様について述べる。 === 車体 === {{vertical images list |幅=220px |1=Kyoto railway museum main building 1F 521-1 nose 20160508.jpg |2=円形を描く車体断面<br />([[京都鉄道博物館]]保存車) |3=500kei himeji.jpg |4=鋭く尖った500系の先頭形状 }} 高速時の[[トンネル微気圧波]]問題のため、先頭車両は全長 (27m) の半分以上の15mにわたり断面を徐々に窄めており、尖ったジェット[[戦闘機]]のような外観である。この15mという長さは、320km/h営業運転を前提にして、[[航空宇宙技術研究所]]の[[数値流体力学|CFD]]で解析を行っている<ref>{{Cite book|和書|editor= |title=鉄道のテクノロジー Vol.1 新幹線 |volume= |year=2009 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-0534-5 |page= }}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor= |title=鉄道のテクノロジー Vol.5 JR高速特急 振子特急&ディーゼル特急 |volume= |year=2009 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-0715-8 |pages=98-99}}</ref>。空力上の問題を解決した形状であるものの、先頭車の客席減少や[[操縦席|運転席]]からの視野も限られるなど、マイナス面もある<ref>{{cite news |title=泣き笑い |author=JR東海技術開発主幹 伊藤順一 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2002-6-30 |url= |page=12 |accessdate= }}</ref>。また、同じく300km/h超での微気圧波対策として、車体高を300系と同等まで維持しつつ車体断面積を縮小するため、客室自体に影響の少ない部分(車体の裾や荷棚部分)を削り、300系比1割減の10.2[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]まで縮小した。そのため、車体断面も他の車両と一線を画す円形(回転放物面体<ref>[http://www.birdfan.net/fun/etc/shinkansen/ カワセミと500系新幹線電車]</ref>)である。 運転室のガラスは各種の航空機や電車にガラスを納入している [[サンゴバン]](本社[[フランス]])社の製品を用いている。天井の傾斜により、乗務員室から1・2列目の[[鉄道車両の座席|座席]]は[[網棚|棚]]の空間が狭くなるため、座席配置を2-2(C席なし)とし、専用の荷物置きを設置することで対処している。 この構造から先頭車の乗車口は1箇所しか存在しないため、各駅にはその旨を掲示する告知が行われていた。また、東海道新幹線内で「のぞみ」の停車しない駅([[小田原駅]]・[[熱海駅]]など)にも非常時対応などのために、Wと表記された500系の停車位置目標が設置されていた。 丸みを帯びた車体、独自の塗装などによって、子どもを含め大きな人気車両となった<ref>{{Cite book|和書|title=JR特急列車年鑑2021|date=11-30|year=2020|publisher=イカロス出版|page=36}}</ref>。<gallery> 500kei ekikeikoku.jpg|500系の1号車運転席寄りの乗車口がないことを案内する看板<br />(2007年5月 広島駅) JR500 TOKYO STATION.JPG|東京駅の東海道新幹線プラットホーム1号車付近にあった案内板。乗車口がないことを記載<br />(2008年2月) Tokyo sta 17 01.JPG|乗車口がないことを表示する1号車の案内表示<br />(2009年4月 東京駅) </gallery> 高剛性を保ちつつ軽量化し、車両の防音性能を向上させるため、厚さ30mm<ref name="アルミ圧延品ポケットブック2009">{{Cite book|和書|author= |editor= |title=アルミ圧延品ポケットブック2009 |origyear=2009 |url= |format=PDF |accessdate= |publisher=[[日本アルミニウム協会]] |isbn= |page= |chapter=鉄道車両 |chapterurl=https://web.archive.org/web/20160307051138/http://www.aluminum.or.jp/publication/pocket-book/pdf/2_8a.pdf}}</ref>の[[ろう付け]]した[[アルミニウム合金|アルミ]][[ハニカム構造|ハニカム]]パネルを側構体と気密床に使用したアルミハニカムパネル構造を採用している<ref name="500 tetsudo tech">{{Cite book|和書|editor= |title=鉄道のテクノロジー Vol.5 新幹線2010 |volume= |year=2009 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-0818-6 |page=99}}</ref>。これは、六角形のハニカムコアを2枚のアルミ合金で挟み、ろう付けしてパネルにしたものを組上げて車体を製造する方式で、これにより、1両あたりの車体構体重量は300系より0.6tの軽量化を実現しており<ref name="500 tetsudo tech"/>、その他にも、制振材付きアルミ[[押出成形|押出形材]]、吸音材、遮蔽板を使用して、従来と比べて1割以上の騒音低減を実現している<ref name="アルミ圧延品ポケットブック2009"/>。しかし、この構造は製造時において使用される炉の関係で大型パネルを製作することができず、結果的には、車体の製造コストが大幅に上昇したため、次に登場した700系はアルミ中空大型押出形材による中空構造の大型アルミパネルを使用して、支柱や垂木を不要とし、製造コストを低減させたアルミダブルスキン構造を採用したため、500系のみの構造となっている<ref>{{Cite book|和書|editor= |title=鉄道のテクノロジー Vol.16 新幹線2014|volume= |year=2014 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-2026-3|page=66}}</ref>。 床下機器は、ユニット化されたものを床面から吊り下げ、車体下側の気流に配慮して、ボディの形状に合わせた点検ふたを兼ねたカバーで車体下半分を覆う構造とした新ボディマウント構造を採用<ref name="Railf 200508">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2005 |publisher=[[交友社]] |journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=2005年8月号 |page=87}}</ref>しており、床下機器の配置もそれに応じてパターン化され、メンテナンスが必要な機器を山側に揃えて、メンテナンス性を向上させている。また車体断面も円形に近く、それに伴い側窓も曲面ガラスを用いる。このため、車体とホームに若干の隙間が生じてしまったため、W2編成製造以降に隙間を埋めるための小さなフィンが取り付けられた。これはW1編成でテストを行って騒音値について調べてから装着された<ref name="500 1"/>。 車体側面の段差をなくし、空気抵抗や騒音を低減するため、旅客乗降用ドアは閉じた時に車体側面との段差を生じない[[プラグドア]]を採用し、客室窓のガラス外側に[[ポリカーボネート]]を張ることで段差を小さくしている<ref name="Railf 200508"/>。 出入口付近に設置してある行先表示器は[[新幹線100系電車|100系V編成]]に引き続き3色LED式を採用。新たに自由/指定席表示部分もLED式に変更された。行先表示器に関しては、上部に列車名と行先を表示しながら下部での停車駅のスクロール表示などを可能にした。 2004年に[[東海道新幹線]]区間への[[自動列車制御装置#ATC-NS|デジタルATC]]導入に備えて、全編成にデジタルATC対応の車上設備が増設されたが外観上の変化はない。 製作費は1両当たり約3億円、1編成46億円と[[新幹線300系電車|300系]]よりも6億円弱余分にコストが掛かったため、東京ー博多間の直通のぞみの半分を担うことができる9編成しか製造されなかった。 <gallery> Shinkansen-500-joint.JPG|先頭に収納されている連結器 JR West 500 055.JPG|W1編成 側面に対向列車のすれ違い試験時に取付けられたセンサー窓が見られる(JR500ロゴのすぐ前側にある黒丸がセンサー窓) </gallery> ==== 塗装 ==== [[File:Shinkansen and Himeji Station M9 45.jpg|200px|thumb|先頭車両に施される500系のロゴマーク]] ライトグレー{{Color|#afafaf|■}}を基調に、窓部分にブルー{{Color|#2e02eb|■}}とダークグレー{{Color|#7a7a7a|■}}の帯を配し、ノーズ上部から天井部分にかけてはグレイッシュブルーで塗装された。この塗装パターンは、一部色を変更のうえで山陽新幹線区間限定列車となる「[[ひかりレールスター]]」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとサニーイエローの帯)や「[[こだま (列車)|こだま]]」(ライトグレー地に、窓部分がダークグレーとフレッシュグリーンの帯)にも踏襲された。[[鉄道の車両番号#車両への表示|車番表記]]は[[デカール]]で貼り付ける方式になった。 先頭車両の運転席両脇には、“JR500 WEST JAPAN”のロゴが配されている。なお、W1編成落成時には存在していなかった。 === 車内 === 内装については、構造上の制約から来る車内空間やシートピッチの減少を和らげるべく配慮されており、カラースキームや[[照明]]についても利用客の視覚に優しいものとなっている。 普通車は、[[瀬戸内海]]をイメージしたバイオレットでまとめられている<ref name="Railf 199604 3">{{Cite journal |和書 |author=村田渡 |title=新幹線500系電車 |year=1996 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=1996年4月号 |number=162 |page=14}}</ref>。奇数号車の座席にはローズ系の、偶数号車にはブルー系のモケットが使用されている。座席背面にテーブルが設置されている。 グリーン車は、グレイッシュベージュでまとめられている<ref name="Railf 199604 3"/>。肘掛け部分にテーブルが内蔵され、取り出して使用することができる。照明は半間接照明が採用された<ref name="Railf 199604 3"/>。 旧3号車博多寄り、旧7号車の東京寄り、旧11号車の博多寄り、旧15号車博多寄りには車販準備室が設けられた。そのうち旧7・11号車には車販準備室を兼ねたサービスコーナーを設置していたが、2003年10月のダイヤ改正時に廃止され、車販準備室のみになった。 前述のとおり高速化を追求した円筒形状の車体断面であることから、特に窓際の席の居住空間がやや狭くなっている。反面、インテリアカラー、グリーン車の座席、側窓吹寄せ部の処理などに居住性改善のための工夫がうかがえる。 この形式から車内の電光掲示板の駅名の表示が上から降りてくる形式になっている。これは700系のJR西日本編成(JR東海から移籍した編成を除く)とN700系の8両編成(JR九州所属の編成を含む)でも行われている。 旧偶数号車の博多寄りにはデッキと独立した電話室が設置された。吸音化粧板を使用し、騒音の低減を図っている。携帯電話の普及に伴って一部号車のものは撤去され、最終的に旧2・6・12・16号車まで削減された。 奇数号車にある洗面台と洗面台の間には[[冷水機|冷水器]]と紙コップが設けられていたが、700系には当初から設けられていなかったこともあり、700系デビュー以降は300系とともに冷水器は使用停止となり、冷水器の箇所は板で塞がれた。 ロングノーズのため運転席を大きく後ろに下げる必要があり、先頭車の乗車定員が300系より12名減少する。このため、JR東海から設計段階で300系の定員(1,323人)を下回らないことが強く要請された<ref>{{Cite journal |和書 |author=曽根悟 |title=700系 三つの顔 -300系・500系からの技術の流れと特徴 その将来- |year=1999 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=1999年5月号 |pages=76-83}}</ref>。その対策として運転席寄りの客用扉を廃止したり、普通車座席の前後間隔(シートピッチ)を詰めたり(1,040mm → 1,020mm)、洗面所を2箇所から1箇所に減らすことによって300系と同等以上の総座席数(300系より1名多い1,324名)を確保したものの、車両ごとの座席数が300系と異なり[[ダイヤグラム|ダイヤ]]でも他車種と区別する必要が生じたため、ダイヤが乱れた時の運用変更にも問題が生じることになった。両先頭車の客用扉が1ヵ所ずつしかないことは、2003年の「のぞみ」への自由席設定以降は乗降時間面での不利を招いた<ref name="鉄道ジャーナル200805_35">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1996 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年5月号 |issn=0288-2337 |page=35}}</ref>。 <gallery> Blue Seat of JR 500.JPG|普通車座席(青色) Red Seat of JR 500.JPG|普通車座席(赤色) 500 Series Shinkansen inside.jpg|普通車車内 Green Car's Seat of JR 500.JPG|グリーン車座席 500 w green car 01.jpg|グリーン車車内(正面) Shinkansen 500-series First-class-interior.jpg|グリーン車車内(背面) 500kei-no1car inner.jpg|1・16号車内の先頭列にある荷物置き 500系新幹線 300KmH走行時の車内表示.JPG|300km/h走行時の車内表示(2004年8月) </gallery> {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0em;" |+新幹線16両編成 車両定員の比較 !号車 !1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!10!!11!!12!!13!!14!!15!!16!!計 |- !300系・700系・N700系 |65名||100名||85名||100名||90名||100名||75名||68名||64名||68名||63名||100名||90名||100名||80名||75名||1323名 |- !500系 |53名||100名||90名||100名||95名||100名||75名||68名||64名||68名||63名||100名||95名||100名||90名||63名||1324名 |- !定員差 | -12||0|| +5||0|| +5||colspan="7"|0|| +5||0|| +10|| -12|| +1 |} {{-}} ==== 運転台 ==== 従来の新幹線と同じく、右側に[[マスター・コントローラー|マスコンハンドル]]、左側にブレーキハンドルが配置されている。ブレーキハンドルは、一般的な新幹線車両の縦軸・水平回転式と異なり、[[JR西日本221系電車|221系電車]]をはじめとしたJR西日本の在来線車両が主に採用する横軸・前後回転式を採用している。前後回転式のブレーキハンドルを採用しているのは、国内の新幹線車両では500系が唯一である。また、700系の派生形式である[[台湾高速鉄道]][[台湾高速鉄道700T型電車|700T型]]も同様のハンドルが採用されている。 また、側窓は天井部分にまで及ぶ曲面となっているため、遮光幕は従来のロールアップ式ではなくアコーディオンカーテンとなっている。運転席の[[椅子|座席]]には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防する為、[[レカロ]]製の[[バケットシート|セミバケットシート]]「RECARO 24H OFFICE CHAIR」を採用した<ref>[http://www.techno-garage.jp/modify/recaro/OfficeChair/recaro.htm レカロシート] - TECHNO GARAGE テクノ・ガレージ</ref>。 === 主要機器 === 初代新幹線である[[新幹線0系電車|0系]]以来となる、16両全車に主電動機が1両あたり4基ずつ搭載される全[[動力車|電動車]]方式を採用している。高速走行によって増大する走行抵抗に対応するため、64基の電動機による出力は300系の約1.5倍である18,240kW(約2万5千[[馬力]])(W2編成以降は17,600kW)にも上り、地上を走行する旅客輸送機関として史上空前の動力を備えている。 また、M-M1-Mp-M2の4両を1単位として主変圧器(Mp車に搭載)や主変換装置(M1・M2車に搭載)といった主要機器を各車に集約分散搭載するユニット方式を採用、前述した車体軽量化の努力と合わせて、編成重量も後継となるN700系と同等な700tに抑えられ、車輪駆動方式鉄道車両としては世界最高(最小)の重量出力比を実現している。また、乗客定員1人あたり車体重量も約520[[キログラム|kg]]と、{{要出典範囲|軒並み1tを超えている他国の高速鉄道車両|date=2011年2月}}より軽量である。 ==== 性能 ==== {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:1em 0em 2em 2em; float:right;" |+他系列との比較<br/>(新大阪駅 - 博多駅間)<ref name="RJ201005">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2010 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2010年5月号 |page=89}}</ref> |- !&nbsp;!!300系!!500系 |- ![[出力]] |12,000 kW||18,240 kW<br/>17,600 kW |- ![[鉄道の最高速度|最高速度]] |270 km/h||300 km/h |- ![[抗力|走行抵抗]] |100 %||70 % |- ![[消費電力]] |23,000 kWh||20,000 kWh |} 発車から4分程度で300 km/hに達することが可能な加速力があり、また曲線や駅通過時の減速から素早く加速することによって、他国に比べて線路条件の厳しい山陽新幹線で世界記録となる[[表定速度]]を実現した<ref group="注">同様に300 km/h(一部区間では320 km/h)で走行するTGVは[[動力集中方式]]であることから、加速力は500系の半分程度である。</ref>。320 km/hでの運転でも環境面での条件を十分にクリアしていた。しかし、W1編成が完成する前に起きた[[兵庫県南部地震]]後に[[非常ブレーキ|非常制動]]距離の厳守が必須になったことや<ref name="500 Speed">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1974 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年5月号 |issn=0288-2337 |page=45}}</ref>、総合的な[[コストパフォーマンス|費用対効果]]の検討から若干の余裕を見て300 km/hとなった<ref name="500 Speed"/>。{{-}} ==== 電源・制御機器 ==== {{Sound|JR west 500series nozomi 500 518-2 kokura.ogg|518-2の走行音(500A のぞみ500号、旧8号車)|(山陽新幹線 博多-小倉間、2008年3月14日)}} 架線からの[[単相交流|単相]][[交流電化|交流]]25kVを[[変圧器|主変圧器]]で降圧した上で、[[主変換装置]]で直流に整流、その後三相交流に変換して主電動機を制御する[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]方式である。 主変圧器 (WTM205) は強制風冷式を採用し、5,400kVAの容量を備える<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.mitsubishielectric.co.jp/society/traffic/syaryou/suisin/syuhenatuki/henatuki_seihin.html |title=推進制御システム/主変圧器 |work=交通システム |publisher=三菱電機 |accessdate=2012-10-15}}</ref>。 主変換装置 (WPC5) は500系900番台のシステムを踏襲し、[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ素子]]を使用した、PWMコンバータ2基+VVVFインバータ1基で構成されており、制御方式を3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、電流波形がひずむことにより発生するひずみ成分(高調波)の抑制を図っている。M1・M2車に2基ずつ搭載され、各装置が1両分4基の主電動機を制御する1C4M方式である。機器の軽量化を図ることを目的に、主変換装置1台で8基の主電動機を制御する1C8M制御方式も検討されていた<ref name="500 tetsudo tech 2">『鉄道のテクノロジー Vol.5 新幹線 2010』三栄書房、2009年。p.96。{{ISBN2|978-4-7796-0907-7}}。</ref>。しかし、半導体技術の進歩によるGTO素子の大容量化がなされ、それによってコンバータ・インバータ間の直流電圧を上げることが可能になり、インバータの軽量化を実現した<ref name="500 tetsudo tech 2"/>。そのため、1C8M制御方式は採用されなかった。 補機類の電源は主変圧器の3次巻線([[単相交流]]440V 60Hz)である。空気圧縮機、空調装置などはこれを電源とするが、ATC、列車無線、補助空気圧縮機などが利用する電源は定電圧装置、補助変圧器、整流装置などを介して交流100V、直流100Vが供給される。 空調機器 (WAU601) は、効きの悪さを指摘された300系から改善するため、室外機を床下に2台、室内機を天井部分に8台搭載した、マルチ[[エバポレーター]]・セパレート方式を採用した<ref name="Railf 199604 2">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1996 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=1996年4月号 |page=18}}</ref>室内機から客室へのダクトを短くすることで空調の効きの悪さを改善した。 ==== 主電動機 ==== WMT204形[[かご形三相誘導電動機]]を1両あたり4基搭載する。W1編成は連続定格出力285[[ワット|kW]]であったが、W2編成以降は走行抵抗の予想以上の低下により連続定格出力は275kWとなっている<ref name="500 1">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1996 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年5月号 |issn=0288-2337 |page=46}}</ref>。軽量化のため、フレームレス構造、アルミブラット構造を採用した<ref name="Railf 199604 4">{{Cite journal |和書 |author=村田渡 |title=新幹線500系電車 |year=1996 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=1996年4月号 |page=17}}</ref>。また、軸受けの電蝕防止のために、[[セラミックス]]絶縁軸受けを使用している<ref name="Railf 199604 4"/>。 ==== ブレーキ ==== 300系に続き主電動機を発電機として用いることでブレーキ力を確保する[[回生ブレーキ]]を主体としつつ、従来どおりの空気圧動作のディスクブレーキも併用する回生ブレーキ付き電気指令式ブレーキを搭載する。 なおディスクブレーキについては、W1編成による試運転の結果を反映して、[[砂撒き装置|セラミック噴射装置]]を1・8・9・16号車に搭載している。これにより、悪天候時に300km/hで走行している状態からブレーキを掛けても、270km/h走行時の300系と同等の制動距離で停止できる性能を確保している。 ==== 台車 ==== [[File:JRW WDT205 Shinkansen series 500.jpg|thumb|WDT205 台車]] [[鉄道車両の台車|台車]]は直進安定性に優れた走行特性を示す軸梁式の軸箱支持機構を備えたボルスタレス台車である、WDT205を装着する。駆動方式は300系以前と同様、信頼性の高い[[WN駆動方式|WNドライブ]]を採用する。 乗り心地の改善を図り、軸箱剛性のアップ、空気ばね左右間隔の拡大、非線形ばねの採用、台車枠と車体の間で連結されているアンチ[[ショックアブソーバー|ヨーダンパー]]の減衰係数の変更などを行ってあるが、先頭車両運転台寄りの台車は、先頭形状との兼ね合いで、他の台車に比べて空気ばね間隔が250mm縮小されている<ref name="Railf 199604 2"/>。メンテナンスフリー化を図るため、軸受けには密封グリス潤滑円錐[[転がり軸受#ころ軸受|ころ軸受]]を採用している<ref>{{Cite book|和書|editor= |title=鉄道のテクノロジー vol.13 新幹線2012 |volume= |year=2012 |publisher=三栄書房 |isbn=978-4-7796-1389-0 |page=54}}</ref>。 両先頭車両と[[集電装置|パンタグラフ]]搭載車両、それにグリーン車<ref group="注">W編成の1・5・8・9・10・13・16号車、V編成の1・2・7・8号車が該当。</ref>の各台車には車体に働く左右方向の[[振動運動|振動]][[加速度]]を抑える[[セミアクティブサスペンション]]が搭載されている。先行量産車のW1編成に関しては、比較検討を行う目的から車両動揺の大きい1・16号車に[[アクティブサスペンション|フルアクティブサスペンション]]、5・8・9・10・13号車セミアクティブサスペンションが搭載されていたが、営業運転開始を前に全車セミアクティブサスペンションに換装されている<ref>[https://web.archive.org/web/19971022214848/http://www.westjr.co.jp/new/1press/500_02.html 営業運転に向けた車両の改善事項]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年2月10日</ref>。 車輪径、[[ホイールベース|軸距]]は[[新幹線300系電車|300系]]と同じく860[[ミリメートル|mm]]、2,500mmである<ref name="500 spec"/>。 ==== 集電装置 ==== [[File:JR West 500 051.JPG|200px|thumb|翼型パンタグラフ。本体キセ側面にボルテックスジェネレータ、基部キセにショーワのロゴが見える]] 編成中の2か所(W編成の5・13号車)に設置された[[集電装置]] (WPS204) も騒音低減のため、伝統的な菱形の構造を廃し、公式には「'''[[集電装置#翼型|翼型パンタグラフ]]'''」と呼ぶ、断面が楕円形の支柱上部に[[翼型]]の舟体を設けた構造(T字型)とした。これには[[フォーミュラ1|F1]]で蓄積された空力技術や、音もなく滑空する[[フクロウ]]の羽根を参考にした騒音低減のための[[ボルテックスジェネレータ]]も使われている。ホーン部分に5mmの穴を開けることによって、エオルス音と呼ばれるカルマン渦が引き起こす空力音を低減する。これに用いられているダンパーは、F1用ショックアブソーバーの製作で300km/h以上でのデータとノウハウを数多く持つ、[[ショーワ]]に依頼された。 集電装置の名称に関しては、厳密には「T型パンタグラフ」に「翼型舟体」を組み合わせたのが正解で、「翼型パンタグラフ」は両者が混同されてしまっている、とする資料も存在する<ref name="鉄道ジャーナル200805_43">{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1996 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年5月号 |issn=0288-2337 |page=43}}</ref>。 集電装置からの騒音を低減させた結果、300系で採用されていたパンタグラフ下部まで覆う大型のパンタグラフカバーではなく、碍子のみを覆う小型の碍子カバーが採用された。 ほかの新幹線車両のパンタグラフは金属ばね上昇式であるが、翼型パンタグラフでは[[空気ばね|空気上昇式]]を採用している。このため、長時間の停電などにより車両の圧縮空気が減圧した場合には、パンタグラフが自然降下し、[[保護接地スイッチ]] (EGS) による架線地絡ができなくなってしまう。そのため、EGS用にばね上昇式の予備[[集電装置#Z型・シングルアーム型|シングルアームパンタグラフ]]を碍子カバー内に設けている。 また、東海道・山陽新幹線を走行する車両のうち、[[新幹線0系電車|0系]]から300系までは静電アンテナが運転席直上(700系・N700系は先頭車連結面寄り)にあったが、500系では碍子カバー内に設置され、目視確認できなくなった。 落成時のW1編成は9号車516形東京寄りにも集電装置を搭載していた<ref name="Railf 199604">{{Cite journal |和書 |author=村田渡 |title=新幹線500系電車 |year=1974 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=1996年4月号 |page=9}}</ref>が、試験・予備用としての扱いであったため<ref name="Railf 199604"/>、後に撤去された。W2編成以降には新製時から搭載されていない。 == 形式 == [[File:JRW-500 W2 521-2.jpg|thumb|521形(521-2)]] [[File:JRW-500 W2 525-3.jpg|thumb|525形(525-3)]] 本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。 奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両の電動車 M+M1+Mp+M2 で1ユニットを構成する。車両の製作・整備費の低減と軸重の分散化を図るため300系より1ユニットあたりの両数が増えている。 ; 515形 (M<small>S</small>) : [[グリーン車|グリーン席]]を備える中間電動車。W編成9号車として使用。便所・洗面所を備え、[[空気圧縮機]]・補助電源装置・[[セミアクティブサスペンション]]などが搭載されている。定員64名。 : ; 516形 (M<small>1S</small>) : グリーン席を備える中間電動車。W編成10号車として使用。乗務員室・荷物室・公衆電話を備え、主変換装置・補助電源装置・セミアクティブサスペンションなどが搭載されている。定員68名。 : ; 518形 (M<small>2S</small>) : グリーン席を備える中間電動車。W編成8号車として使用。乗務員室、公衆電話を備え、主変換装置・セミアクティブサスペンションなどが搭載されている。定員68名。 : ; 521形 (M<small>C</small>) : [[普通車 (鉄道車両)|普通席]]を備える制御電動車。W編成1号車として使用。博多向き運転台、便所・洗面所を備え、空気圧縮機・補助電源装置、セミアクティブサスペンション(521-1のみ[[アクティブサスペンション]])などが搭載されている。定員53名。 : ; 522形 (M<small>2C</small>) : 普通席を備える制御電動車。W編成16号車として使用。東京向き運転台、公衆電話を備え、主変換装置・セミアクティブサスペンション(522-1のみアクティブサスペンション)などが搭載されている。定員63名。 : ; 525形 (M') : 普通席を備える中間電動車。W編成5・13号車として使用。便所・洗面所を備え、空気圧縮機・補助空気圧縮機・補助電源装置・集電装置・セミアクティブサスペンションなどが搭載されている。定員95名。 : ; 526形 (M<small>1</small>) : 普通席を備える中間電動車。W編成2・6・14号車として使用。公衆電話などを備え、主変換装置などが搭載されている。定員100名。 : ; 527形 : 普通席を備える中間電動車。 :; 0番台 (M<small>p</small>) :: W編成3・15号車として使用。便所・洗面所を備え、主変圧器などが搭載されている。定員90名。 :; 400番台 (M<small>pk</small>) :: W編成7号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室(旧売店)を備え、主変圧器などが搭載されている。定員75名。 :; 700番台 (M<small>pkh</small>) :: W編成11号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室(旧売店)、車椅子対応設備を備え、主変圧器などが搭載されている。定員63名。 : ; 528形 (M<small>2</small>) : 普通席を備える中間電動車。 :; 0番台 :: W編成4号車として使用。公衆電話などを備え、主変換装置などが搭載されている。定員100名。 :; 700番台 :: W編成12号車として使用。公衆電話(車椅子対応のため、0番台よりも入り口が広く、電話台が低くなっている)などを備え、主変換装置などが搭載されている。定員100名。 {|style="text-align:center; border:solid 1px #999;" |- |style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #003f6c;"|500系16両編成(W編成)編成表<ref>{{cite journal|author = 則直久|author2 = 影山真佐富|author3 = 浜辺真篤|title = JR西日本500系新幹線電車|journal = 車両技術|publisher = 日本鉄道車輌工業会|issue = 210|date=1996-6|issn = 0559-7471|doi = 10.11501/3293495|pages = 5}}</ref> |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; float:center; margin:auto;" |- !号車!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!10!!11!!12!!13!!14!!15!!16 |- !形式 |521形<br/>(Mc) |526形<br/>(M1) |527形<br/>(Mp) |528形<br/>(M2) |525形<br/>(M') |526形<br/>(M1) |527形<br/>(Mpk) |style="background-color:#cf9;"|518形<br/>(M2s) |style="background-color:#cf9;"|515形<br/>(Ms) |style="background-color:#cf9;"|516形<br/>(M1s) |527形<br/>(Mpkh) |528形<br/>(M2) |525形<br/>(M') |526形<br/>(M1) |527形<br/>(Mp) |522形<br/>(M'c) |- !座席 |colspan="7"|普通車 |colspan="3" style="background-color:#cf9;"|グリーン車 |colspan="6"|普通車 |- !定員 |53 |100 |90 |100 |95 |100 |75 |68 |64 |68 |63 |100 |95 |100 |90 |63 |- !重量 |38.1t |38.2t |41.0t |37.4t |39.5t |38.5t |42.1t |38.9t |38.3t |38.9t |42.1t |37.5t |39.5t |38.5t |40.9t |39.2t |- !ユニット |colspan="4"|1ユニット |colspan="4"|2ユニット |colspan="4"|3ユニット |colspan="4"|4ユニット |} |} == 8両編成への短縮 == [[File:Himeji 500kei.JPG|thumb|8両に短縮された500系<br/>(V5編成 姫路駅にて)]] {{Sound|JR west 500 series kodama 859 526-7204 hakata.oga|526-7204の走行音(859A こだま859号、6号車)|(山陽新幹線 小倉駅 - 博多駅間 2010年2月27日)}} 2007年にN700系が営業運転を開始と同系の増備により、500系は2010年2月に定期列車の「のぞみ」の運用から離脱し、余剰となった9編成のうち、量産先行車のW1編成を除く8編成(W2 - W9編成)については、2008年から2010年にかけて8両編成の7000番台(V編成)への改造が行われた。このため、V1編成は[[欠番]]となっている。 2007年10月20日付の各社報道で、500系を16両から8両に減車(余剰となる中間車は[[廃車 (鉄道)|廃車]])するとされたが、2007年12月のJR西日本定例社長会見で5編成を順次8両化し、2008年12月以降は山陽新幹線内の「こだま」として運用すると正式発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=2007年12月定例社長会見 |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173458_799.html |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2007-12-20 |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080401082244/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173458_799.html |archivedate=2008-4-1}}</ref>。このうち、W3編成が最初に営業運転から離脱し8両化改造工事を受けたのちV3編成を名乗り<ref group="注">かつては[[新幹線100系電車|100系]]のうち、「[[グランドひかり]]」と呼ばれたJR西日本持ちの編成がV編成を名乗っていた。</ref>、2008年3月28日(改造日も同日付)に博多総合車両所で報道公開された<ref>[[交通新聞]] 2008年4月1日付</ref>。その後、V2, V4 - V9編成も改造工事を終え、試運転を経て営業運転に充当された。 V編成は全車普通車で、4 - 6号車(このうち6号車は元グリーン車516形改造の526形7200番台)は2列+2列の指定席、そのほかの車両は3列+2列の自由席である。V編成を組成する車両はW編成の号車番号によるところの、博多方から1・2・3・4・13・10・11・16号車に当たる。車両番号は元番号+7000(6号車の526形7200番台は元番号+7200)とされた。 カラーリングはW編成時代から変更されていない。なお、組成から外れた車両は廃車となった<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=500系8両化改造中! |year=2008 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=2008年3月号 |pages=44-45}}</ref><ref name="500W"/>。 なお、最高運転速度は285km/hとされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jr-odekake.net/train/kodama_500/index.html |title=こだま 500系 |work=JRおでかけネット |publisher=西日本旅客鉄道 |date= |accessdate=2012-10-31}}</ref>。8両編成化に伴い、パンタグラフの変更だけでなく、車体形状によりパンタグラフのカバー側壁の設置がなされなかったことや、短い編成中に重量機器が集中し300km/h運転が環境基準の面で不可能とされたことも最高285km/hに落とされた理由とされている<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2008 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年6月号 |page=32}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2009 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2009年4月号 |page= }}</ref>。 V編成は2008年12月1日から運用が開始されたが、このときは主に0系と入れ替わる形になっていた。2009年3月14日改正からは、通勤・通学や帰宅時間帯の朝晩に重点的に運用が組まれた。これは、ほかの「こだま」用車両よりも定員が多いためである。 {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+山陽新幹線「こだま」運用編成 車両定員の比較 !号車!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!計 |- !0系(R編成) |56名||84名||48名||76名||76名||60名||&nbsp;||&nbsp; !400名<ref group="注">R67編成は404名。</ref> |- !100系(P編成) |52名||80名||58名||60名||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; !250名 |- !100系(K編成) |52名||80名||58名||72名||72名||60名||&nbsp;||&nbsp; !394名 |- !500系(V編成) |53名||100名||78名||78名<ref group="注">2013年10月から12月にかけて実施された、4列シート(両車端部の2列はC席が欠番)への改造後。改造前は100名(編成全体では600名)。</ref>||74名<ref group="注">2013年10月から12月にかけて実施された、4列シート(両車端部の2列はC席が欠番)への改造後。改造前は95名(編成全体では600名)。</ref>||68名||51名||55名<ref group="注">擬似運転台設置時。設置前は63名(編成全体では608名)。</ref> !557名 |- !700系(E編成) |65名||100名||80名||80名||72名||72名||50名||52名<ref group="注">2012年3月17日ダイヤ改正で、「こだま」運用時ではそれまで指定席だった8号車が自由席となるのに伴い、同車にあるコンパートメント(16席)が閉鎖となるため、同車の実質座席数は36名となり、編成全体では555名となる。</ref> !571名 |- !N700系(S編成,R編成) |60名||100名||80名||80名||72名||60名(普通席36名,グリーン席24名)||38名||56名 !546名 |} === 改造内容 === 16両編成から8両編成に改造されたときの主な内容は以下の通り<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1974 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=2008年6月号 |pages=86-87}}</ref>。 * 内装のリフレッシュと荷棚の交換。 * 全席禁煙化により2両(新3・7号車の博多寄り)に喫煙ルームを設置。なお、[[博多南線]]内は全面禁煙のため、喫煙ルームでも喫煙できない。 ** 仕切り扉位置の関係で喫煙ルーム寄りの座席2列は2列+2列に変更。これらにより定員は減少(3号車:90名→78名、7号車:63名→51名)。 * 元10号車(新6号車)のグリーン車を普通車化。座席の枕とフットレスト、オーディオシステムを撤去。定員は変更なし。 * 元13号車(新5号車)にあったオリジナルの翼型パンタグラフ(編成から外れた車両では元5号車)を撤去し、新2・7号車にシングルアーム型パンタグラフ (WPS208) <ref>東洋電機製造『東洋電機技報』第120号(2009年9月) {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20201225132542/https://www.toyodenki.co.jp/technical-report/pdf/giho120/s12044.pdf 500系新幹線短編成用パンタグラフ ]}}(インターネットアーカイブ)。</ref><ref group="注">従来の翼型パンタグラフを移設しようとすると、折り畳み寸法がシングルアーム型に比べて大きく、屋根構体を切り欠く必要があるため、700系に搭載されている WPS205 をベースに開発された。翼型パンタグラフ (WPS204) から引き続いて翼型舟体と可動すり板が採用されている。</ref>を新設。 * 元8・9号車間のケーブルヘッドを新4・5号車間に移設。 * 元11号車(新7号車)の業務用室の空きスペース<ref group="注">サービスコーナー跡。山陽新幹線の「こだま」では以前から車内販売を行っていないため(末期は一部列車かつ一部区間のみの営業のため時刻表に掲載されず、2009年頃に全廃されたが、明確な時期は不明)、車販準備室は不要である。ただし、『カンセンジャーと行く 新幹線車両基地 日帰り冒険の旅』(2014年5月17日)など、JR西日本と各旅行会社の企画による団体臨時列車に充当された際には車内販売を行った例がある。また、プラレールカー連結列車は、休日を中心に実施日を定めた上で、新大阪〜岡山間で車内販売を実施した。なお、3号車の業務用室が撤去されてフリースペース化されていた100系4連で車内販売を営業した際には、販売員の待機にそのフリースペースが使用されていた。</ref>に、補助変圧器を設置。 * 新2・7号車にセミアクティブサスペンション・静電アンテナ・補助電動空気圧縮機を追加。 * 新2・4・6号車に非常[[梯子|はしご]]を追加。 * ドアチャイムを追加(音は700系の後期車・N700系と同一)。 * 背面テーブルの車内案内図を、[[新幹線N700系電車|N700系]]に準じたデザインに変更。 * [[デッキ]]の照明を[[発光ダイオード#白色発光ダイオード|白色LED]]に変更。 * 列車の速度が時速5km/h以上となると非常用ドアコックをロックする機能を追加。 8両編成に改造されて以降に行われた改造は以下の通り * 子ども用の擬似運転台が設置。(2009年9月19日から8号車の新大阪寄りに、一部座席(12・13番ABDE席)を撤去して設置。ハンドルやスイッチを設置しており、これらを操作することで速度計やATC信号などが対応して点灯する仕組みとなっている。<ref>{{Cite press release|和書|title=新幹線の運転を体感! 500系「こだま号」にお子様向け運転台を設置します |url=http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174361_799.html |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2009-9-4 |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100503131355/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174361_799.html |archivedate=2010-5-3}}</ref>) * 4・5号車の座席を1列5席から、700系E編成の指定席車と同じ1列4席に変更し、座席を700系E編成の指定席車と同等のものに交換(座席は新製<ref>[[鉄道ジャーナル]]、2014年5月号p.18</ref>)<ref>[https://archive.is/20130902181227/http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20130826-OYO1T00769.htm JR西500系こだま ゆったり]([[インターネットアーカイブ]]) - 読売新聞、2013年8月26日付</ref>。(2013年10月から12月にかけて、6号車及び700系E編成とのサービス格差を解消するため、従来より多客期などに指定席に変更されることがあった4・5号車を改造し、6号車との格差はシートピッチ(6号車は1,160mm、4・5号車は1,020mm)を除いて解消した。また仕切り扉位置の変更はないことから、車端部では山側に1人席も誕生した。同年12月19日をもって全編成の改造が完了し、同日より5号車が通年指定席となった<ref>{{Cite press release|和書|title=500系こだま号の4列シート車両の拡充について |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2013/11/page_4839.html |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2013-11-22|accessdate=2013-11-26 }}</ref>。[[2014年]][[3月15日]]のダイヤ改正以降では、4 - 6号車が指定席となっている。) * 車内無料公衆無線LANサービス「Shinkansen Free Wi-Fi」の設置<ref name="RF723_furoku37">[[#鉄道ファン723|『鉄道ファン』通巻723号、付録p.37]]</ref> * 編成中の和式トイレの洋式化<ref name="RF723_furoku37">[[#鉄道ファン723|『鉄道ファン』通巻723号、付録p.37]]</ref> * 制御装置がIGBT-VVVFインバータ装置化(2016年から一部編成のみ) * 行先表示器がフルカラーLED化(2021年から) <gallery> JRW Shinkansen Series 500 V4 set Pantograph.jpg|シングルアームパンタグラフ JRW series500 ordinarycar-inside (Reserved seat).JPG|6号車 JRW series500 ordinarycar-inside (Non-Reserved seat).JPG|5号車<br />(2列+3列時代) JR 528-7006 01.jpg|4号車<br />(2列+2列改造後) JRW series500 smokingroom.JPG|喫煙ルーム JR West 500 giziuntendai2.jpg|500系 擬似運転台<br/>(2009年9月20日) 500 v single seat 01.jpg|再改造で誕生した1人席 </gallery> {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center;" |+500系各編成詳細<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1974 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2009年4月号 |page=40}}</ref><ref name="500W">付録「車両のデータバンク」『鉄道ファン』2008年7月号、交友社、p.45。</ref><ref name="500V">{{Cite book|和書|editor= |title=JR電車編成表 |volume='09冬 |year=2009 |publisher=ジェー・アール・アール |isbn=978-4-88283-050-4 |page=128}}</ref> !W編成!!新製日!!余剰車廃車<br/>編成名抹消!!入場日!!出場日<br/>改造日!!V編成!!擬似運転台取付 !編成名抹消(V編成)!!備考 |- !W1 |1996年1月31日||6両<ref group=注>525-1、526-2、515-1、528-701、526-3、527-2</ref>:2012年1月30日<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=2012 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=2012年7月号 |page= }}</ref><ref name=W1_Shinkansen_EX>{{Cite journal |和書 |author= |title=「確認試験車」とはどのような車両なのか? |year=2018 |publisher=イカロス出版 |journal=新幹線EX |issue=通巻47号 |pages=47}}</ref><br />10両<ref group=注>521-1、526-1、527-1、528-1、527-401、518-1、516-1、527-701、525-2、522-1</ref>:2014年3月28日<ref name=W1_Shinkansen_EX></ref>||改造されず||改造されず||改造されず||改造されず | ||全車廃車 先頭車は保存 |- !W2 |1997年7月3日||2008年9月17日||2008年9月18日||2009年1月14日||V2||2009年9月30日<ref name="500V unntenndai">{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=JR電車編成表 |volume=2010冬 |year=2010 |publisher=[[交通新聞社]] |isbn=978-4-330-11609-9 |page=129}}</ref> | ||行先表示器LED化 |- !W3 |1997年8月30日||2007年11月1日||2007年11月2日||2008年3月28日||V3||2009年10月7日<ref name="500V unntenndai 2">{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=JR電車編成表 |volume=2010夏 |year=2010 |publisher=交通新聞社 |isbn=978-4-330-14310-1 |page=129}}</ref> | ||短編成化第1号 |- !W4 |1997年10月30日||2008年7月18日||2008年7月18日||2008年10月27日||V4||2009年10月15日<ref name="500V unntenndai 2"/> | ||行先表示器LED化 |- !W5 |1997年12月20日||2008年1月10日||2008年2月6日||2008年5月20日||V5||2009年11月7日<ref name="500V unntenndai 2"/> |2022年3月12日|| |- !W6 |1998年1月28日||2008年4月20日||2008年4月23日||2008年9月2日||V6||2009年9月17日<ref name="500V unntenndai"/> |2022年3月12日|| |- !W7 |1998年6月26日||2010年1月13日<ref name="railf 201007">{{Cite journal |和書 |author= |title=車両のデータバンク |year=1974 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=2010年7月号付録 |number=162 |page=43}}</ref><ref name="500V unntenndai 2"/>||||2010年5月10日<ref name="2011winter">{{Cite book|和書|editor=ジェー・アール・アール |title=JR電車編成表 |volume=2011冬 |year=2010 |publisher=交通新聞社 |isbn=978-4-330-18410-4 |page=129}}</ref>||V7||2010年5月10日 | ||行先表示器LED化 |- !W8 |1998年8月28日||2010年3月10日<ref name="railf 201007"/><ref name="500V unntenndai 2"/>||||2010年6月29日<ref name="2011winter"/>||V8||2010年6月29日 | ||行先表示器LED化 |- !W9 |1998年10月18日||2009年11月11日<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |year=1974 |publisher=交通新聞社 |journal=[[鉄道ダイヤ情報]] |issue=2010年3月号 |page=128}}</ref><ref name="500V unntenndai 2"/>||||2010年2月24日<ref name="railf 201007 2">{{Cite journal |和書 |author= |title=車両のデータバンク |year=1974 |publisher=交友社 |journal=鉄道ファン |issue=2010年7月号付録 |number=162 |page=41}}</ref>||V9||2010年2月24日<ref name="500V unntenndai 2"/> | ||行先表示器LED化 |} === 形式 === 山陽新幹線区間の「こだま」として使用されるV編成組成時に、以下の各形式について改造による番台区分が発生している。 ; 521形7000番台 (M<small>C</small>) : [[普通車 (鉄道車両)|普通席]]を備える制御電動車で、1号車として使用。車両番号などを除き、車両外観・車内設備は521形0番台と同様。 : ; 522形7000番台 (M<small>2C</small>) :: 普通席を備える制御電動車で、8号車として使用。2009年9月以降、東京寄りの座席2列を撤去し、お子様用運転台を設置。 : ; 525形7000番台 (M) :: 普通席を備える中間電動車で、5号車として使用。集電装置(翼型パンタグラフ)・補助空気圧縮機・セミアクティブサスペンションが撤去された。後に4列化され、定員が22名減少した。 : ; 526形 (M<small>1</small>) : 普通席を備える中間電動車。 :; 7000番台 :: 2号車として使用。新たに集電装置(シングルアーム型パンタグラフ)・補助空気圧縮機・セミアクティブサスペンションを搭載。 :; 7200番台 :: 6号車として使用。グリーン車である516形を、シートピッチはそのままにオーディオシステムやフットレストなどの付帯設備を撤去して普通車化。 : ; 527形 : 普通席を備える中間電動車。 :; 7000番台 (M<small>p</small>) :: 3号車として使用。博多寄りの座席2列を撤去し、喫煙ルームを設置。 :; 7700番台 (M<small>pkh</small>) :: 7号車として使用。博多寄りの座席2列を撤去し、喫煙ルームを設置。新たに補助変圧器・集電装置(シングルアーム型パンタグラフ)・補助空気圧縮機・セミアクティブサスペンションを搭載。 : ; 528形7000番台 (M<small>2</small>) : 普通席を備える中間電動車。V編成4号車として使用。車両番号などを除き、車両概観・車内設備は528形0番台と同様。5号車とともに後に4列化され、定員が21名減少した。 <gallery> JRW-500 V2 521-7002.jpg|521形7000番台<br/>(521-7002) JRW-500 V2 522-7002.jpg|522形7000番台<br/>(522-7002) JRW-500 V2 525-7004.jpg|525形7000番台<br/>(525-7004) JRW-500 V2 526-7004.jpg|526形7000番台<br/>(526-7004) JRW-500 V2 526-7202.jpg|526形7200番台<br/>(526-7202) JRW-500 V2 527-7003.jpg|527形7000番台<br/>(527-7003) JRW-500 V2 527-7702.jpg|527形7700番台<br/>(527-7702) JRW-500 V2 528-7002.jpg|528形7000番台<br/>(528-7002) </gallery> {|style="text-align:center; border:solid 1px #999;" |- |style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #003f6c;"|500系8両編成(V編成)編成表<ref>{{cite book|title = JR全車輌ハンドブック 2008|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2008-8-1|isbn = 978-4-7770-0666-3|pages = 575-576|ref = harv}}</ref> |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; float:center; margin:auto;" |- !colspan="2"|号車 !1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8 |- !colspan="2"|形式 |521形<br/>(M<small>C</small>) |526形<br/>(M<small>1</small>) |527形<br/>(M<small>p</small>) |528形<br/>(M<small>2</small>) |525形<br/>(M) |526形<br/>(M<small>1</small>) |527形<br/>(M<small>pkh</small>) |522形<br/>(M<small>2C</small>) |- !colspan="2"|番台 |colspan="5"|7000番台 |7200番台 |7700番台 |7000番台 |- !colspan="2"|定員 |53||100||78||100 → 78||95 → 74||68||51||63 → 55 |- !colspan="2"|重量 |39.1t||40.1t||42.1t||37.7t||39.8t||40.0t||49.9t||39.5t |} |} === 特別編成 === 上記8編成のうち、V2編成については2014年から一部の車両が改造を受けて特別な編成として運用されている。いずれの編成も新大阪 - 博多間を通して運転するこだま730・741号に限定運用されている。 ==== プラレールカー ==== 2014年7月19日より運行を開始した<ref>[http://railf.jp/news/2014/07/26/182000.html 500系「プラレールカー」が運転を開始]railf.jp2014年7月26日</ref>、[[タカラトミー]]・[[パナソニックホールディングス|パナソニック(初代法人)]]<ref group="注">パナソニック(初代法人)は2022年4月に[[パナソニックホールディングス]](持株会社体制への移行による)に商号変更した。</ref>とのコラボレーション企画による編成<ref>{{Cite press release|和書|title=「500系こだま」「プラレール」「エボルタ」のコラボレーション この夏、山陽新幹線に特別車両が登場 2014年7月運行開始 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/04/page_5541.html |publisher=西日本旅客鉄道・タカラトミー・パナソニック |date=2014-04-16|accessdate=2014-04-17 }}</ref>。1号車の座席をすべて撤去し、パナソニックの乾電池「[[EVOLTA]]」を動力に使用したタカラトミーの鉄道玩具「[[プラレール]]」の大型ジオラマ・子供向け運転台・プレイゾーンを設置。また、2号車も一部座席を撤去のうえ、多目的室と大型荷物置き場を設置した。なお、プラレールカーは自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できる。 当初は2015年3月までの運転を予定していたが、好評のため一部リニューアルしたうえで同年8月まで延長された<ref>{{Cite press release|和書|title=「500系新幹線こだま」「プラレール」「エボルタ」のコラボレーション山陽新幹線「プラレールカー」の運行期間を延長します サービス内容も一部リニューアル |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014年12月1日 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/12/page_6489.html |language=日本語 |accessdate=2018年5月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141203222608/http://www.westjr.co.jp:80/press/article/2014/12/page_6489.html |archivedate=2014-12-03}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150908090928/http://www.westjr.co.jp/fan/blog/article/2015/07/page_7338.html ありがとう!「プラレールカー」]([[インターネットアーカイブ]]) - 西日本旅客鉄道 > トレナビ(2015年7月7日 火曜日版 / 2015年7月23日閲覧)</ref>。 ==== 新幹線:エヴァンゲリオン プロジェクト「500 TYPE EVA」 ==== [[File:JRW-500 V2 20160320 TYPE EVA in Himeji.jpg|thumb|「500 TYPE EVA」塗装<br/>(姫路駅にて)]] [[2015年]]11月7日より運行を開始した、山陽新幹線運行開始40周年ならびに[[テレビアニメ]]『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』放送開始20周年記念のコラボレーション企画による編成<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/07/page_7409.html 「新幹線:エヴァンゲリオン プロジェクト」始動! 今秋より「500 TYPE EVA」を運転します] - 西日本旅客鉄道 2015年7月23日</ref><ref>[http://www.500type-eva.jp/ 500TYPE EVA PROJECT│新幹線:エヴァンゲリオン プロジェクト│JR西日本]</ref>。エヴァンゲリオンシリーズのメカニックデザインを手掛けた[[山下いくと]]がエヴァ新幹線のデザインを担当し、原作・総監督の[[庵野秀明]]が監修を務めた。山下は500系新幹線の大ファンで、「エヴァ的カラーリングにするとともに元のデザインを生かして未来からやってきた500系みたいにできたらいいな」と述べている<ref name="toyokeizai20151024">{{Cite web|和書|url=http://toyokeizai.net/articles/-/89527|title=徹底解説!エヴァ新幹線はどこがスゴいのか|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2015-10-24|accessdate=2015-12-19}}</ref>。 外観を[[エヴァンゲリオン (架空の兵器)|エヴァンゲリオン初号機]]をモチーフとしたカラーリングに全面塗装{{Refnest|group="注"|高速走行する関係から、近年採用されている[[ラッピング車両]]ではなく全面塗装を採用した<ref name="toyokeizai20151024"/>。また、沿線の屋外広告物条例に適合させるため、エヴァンゲリオンの本編に登場するようなメカやマークなどの意匠は一切描かれていない<ref name="toyokeizai20151024"/>。}}。1号車にはエヴァンゲリオンの実物大コックピットを再現し、ゲームも楽しめる「展示・体験ルーム」に改装。2号車は肘掛けやカバー、床面や貫通扉などに装飾を施し、作品の世界観を表現した「特別内装車」とした<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20151019-a668/|title=JR西日本「500 TYPE EVA」エヴァンゲリオン新幹線が全貌を現す|newspaper=[[マイナビニュース]]|date=2015-10-19|accessdate=2015-12-02}}</ref>。車内チャイムも従来の「[[いい日旅立ち・西へ]]」からアニメ主題歌の「[[残酷な天使のテーゼ]]」のオルゴールバージョンに変更されている。また、車内放送も運行期間中盤からは[[渚カヲル]]役を演じた[[石田彰]]が担当した<ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1020651.html トラベルWatch 渚カヲルが新幹線の車内放送に登場! JR西日本「ボクらは、エヴァに乗る。」キャンペーン、10月17日開始]</ref>。 「特別内装車」は自由席扱いのため、乗車券+自由席特急券のみで利用できるが、「展示・体験ルーム」への入室と「実物大コックピット搭乗体験」利用には、事前の予約が必要。また「特別内装車」の一部は「展示・体験ルーム」入室者向けの待合スペースとなっており、乗車券・特急券のみでは着席できない。2016年3月15日からは、1号車の「実物大コックピット搭乗体験」は引き続き予約が必要だが、「展示・体験ルーム」は予約なしで自由に入室できるようになった(混雑時は制限が掛かる場合がある)<ref>{{Cite press release|和書|title=新幹線 エヴァンゲリオン プロジェクト 「ボクらは、エヴァに乗る。」〜この春、エヴァンゲリオン新幹線 500 TYPE EVA に乗ろう!〜 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2016年3月7日 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/03/page_8426.html |language=日本語 |accessdate=2016年3月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308102433/http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/03/page_8426.html |archivedate=2016年3月8日}}</ref>。 当初は2017年3月までの運転を予定していたが、好評のため2018年春まで延長されることが発表された<ref>{{Cite press release|和書|title=「ボクらは、エヴァに乗る。」キャンペーン開催〜この秋、エヴァンゲリオン新幹線 500 TYPE EVA に乗ろう!〜 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2016年9月16日 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/09/page_9267.html |language=日本語 |accessdate=2017年7月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160919224146/https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/09/page_9267.html |archivedate=2016年9月19日}}</ref>。2018年1月19日の春の臨時列車における発表の際に、同年5月13日をもって運転を終了することが公表された<ref>{{Cite press release|和書|title=2018年 春の臨時列車の運転について |publisher=西日本旅客鉄道 広島支社 |date=2018年1月19日 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180119_00_hiroshima_1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年1月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180120135004/http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180119_00_hiroshima_1.pdf |archivedate=2018年1月20日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=ねとらぼ |date=2018年01月19日 |url=http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1801/19/news117.html |title=エヴァ新幹線「500 TYPE EVA」が5月13日に引退 山陽新幹線こだまの500系特別列車 |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2018年1月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180119164347/http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1801/19/news117.html |archivedate=2018年1月19日 |deadlinkdate= }}</ref>。これを受けて同年2月24日から5月7日まで、[[京都鉄道博物館]]に保存の521-1(詳細は後述)に本車のラッピングが施された<ref>[http://www.kyotorailwaymuseum.jp/event/springevent.pdf 京都鉄博のアニメコラボ] - 京都鉄道博物館(2018年2月26日閲覧)</ref><ref>{{Cite news |date=2018年2月19日 |url=http://digital.asahi.com/articles/ASL256F9KL25PLZB01V.html |title=「エヴァ新幹線」、最後のラッピング? 京都の鉄博で |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |accessdate=2018年2月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180220194825/https://www.asahi.com/articles/ASL256F9KL25PLZB01V.html |archivedate=2018年2月20日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2018年03月23日 |url=https://railf.jp/news/2018/03/23/180000.html |title=京都鉄道博物館で500系新幹線に「500 TYPE EVA」仕様ラッピング |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018年5月21日}}</ref>。 <gallery> EVA521-7002.JPG|1号車<br/>(521-7002) EVA526-7002.JPG|2号車<br/>(526-7004) EVA527-7002.JPG|3号車<br/>(527-7003) EVA528-7002.JPG|4号車<br/>(528-7002) EVA525-7002.JPG|5号車<br/>(525-7004) EVA526-7202.JPG|6号車<br/>(526-7202) EVA527-7702.JPG|7号車<br/>(527-7702) EVA522-7002.JPG|8号車<br/>(522-7002) JRW-500 V2 20160320 TYPE EVA 521-7002 inside Evangelion cockpit.jpg|1号車<br/>実物大コックピット JRW-500 V2 20160320 TYPE EVA 526-7004 waitingseat.jpg|展示・体験ルーム<br/>入室者向け待合席 JRW-500 V2 20160320 TYPE EVA 526-7004 inside.jpg|2号車<br/>「特別内装車」 </gallery> ==== ハローキティ新幹線 ==== [[File:JRW-500 V2 20180701 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|thumb|「ハローキティ新幹線」塗装<br/>(姫路駅にて)]] 2018年6月30日より運行を開始した、[[サンリオ]]のキャラクター「[[ハローキティ]]」とのコラボレーション企画による編成<ref>{{Cite press release|和書|title=ひと、もの、こと。つないで結ぶ「ハローキティ新幹線」6月30日に運行開始!新幹線の旅を楽しんでいただける、さまざまな企画をご紹介します! |publisher=西日本旅客鉄道・サンリオ |date=2018年5月18日 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/05/page_12382.html |language=日本語 |accessdate=2018年5月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180519170239/http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/05/page_12382.html |archivedate=2018年5月19日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2018年05月19日 |url=https://railf.jp/news/2018/05/19/110000.html |title=JR西日本,6月30日から「ハローキティ新幹線」の運行を開始 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018年5月21日}}</ref><ref>[http://www.jr-hellokittyshinkansen.jp/ ハローキティ新幹線 HelloKitty Shinkansen | JR西日本]</ref><ref name="Toyokeizai20180702">{{Cite web|和書|date=2018年7月2日 |accessdate=2018年7月2日|url=https://toyokeizai.net/articles/-/227362?display=b|title=世界が絶賛、「ハローキティ新幹線」の衝撃度 白地にピンク「まるで旅客機」完成への舞台裏|publisher=東洋経済新聞|work=東洋経済オンライン}}</ref>。ハローキティと新幹線という組み合わせに、JR西日本社内では反対する声も一部上がったものの、賛成する声が大半を占め、サンリオ側も山陽新幹線が走行するエリアを中心に8府県をハローキティで盛り上げるというスケールの大きさに「光栄です」と、まったく異論はなかった<ref name="Toyokeizai20180702" />。 車両デザインはサンリオとJR西日本との共同で実施され、前述のエヴァ新幹線が運行を終了した2018年5月末より改造が行われた<ref name="Toyokeizai20180702" />。外観は白をベースカラーとし、窓沿いにピンクのリボンをまとったものとされた<ref name="Toyokeizai20180702" />。1号車はフリースペース「HELLO! PLAZA」として、山陽新幹線沿線及び山陰、奈良の9府県<ref>奈良県は当初入っていなかったが2019年3月に新大阪駅から奈良駅へ直通する[[おおさか東線]]全線開通に合わせて追加された。</ref>(大阪府・奈良県・兵庫県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県・福岡県)を期間限定の入れ替え制で紹介するコーナーとしており、運行開始時は「山陰[[デスティネーションキャンペーン]]」に合わせ、鳥取県と島根県のご当地「ハローキティ」と地域紹介を掲示する<ref>{{Cite press release|和書|title=ひと、もの、こと。つないで、結ぶ「ハローキティ新幹線」登場!ハローキティといっしょに旅しよう! |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018年3月14日 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/03/page_12056.html |language=日本語 |accessdate=2018年3月16日<!-- |archiveurl= |archivedate=-->}}</ref><ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2018年3月14日 |url=https://railf.jp/news/2018/03/14/160000.html |title=JR西日本×サンリオ,2018年夏から「ハローキティー新幹線」を運転 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018年3月16日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018年3月14日 |url=https://trafficnews.jp/post/79962 |title=「ハローキティ新幹線」今夏登場 500系を「おしゃれにかわいく」飾りつけ JR西日本 |publisher=メディア・ヴァーグ |work=乗りものニュース |accessdate=2018年3月16日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180315151327/https://trafficnews.jp/post/79962 |archivedate=2018年3月15日}}</ref>。また、物販カウンターが設けられ、ハローキティの限定グッズや地域の特産品が購入できる<ref name="Toyokeizai20180702" />。2号車は特別内装車「KAWAII! ROOM」として、フォトスペースが設けられる他、枕カバーや日よけなどにハローキティがちりばめられたデザインとなっている。車内チャイムは従来の「いい日旅立ち・西へ」から「ハローキティ新幹線」限定のオリジナルメロディに変更されている。 ハローキティ新幹線の運行は海外メディアでも報じられ、報道公開の模様を、仏女性ファッション誌「[[ELLE (雑誌)|ELLE]]」のウェブサイトが「これだけはいつか乗りたい」と写真付きで紹介したほか、英公共放送の[[英国放送協会|BBC]]も男性ニュースキャスターが興奮ぎみに報じている<ref name="Toyokeizai20180702" />。 <gallery> JRW-500 V2 521-7002 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|1号車<br/>(521-7002) JRW-500 V2 526-7004 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|2号車<br/>(526-7004) JRW-500 V2 527-7003 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|3号車<br/>(527-7003) JRW-500 V2 528-7002 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|4号車<br/>(528-7002) JRW-500 V2 525-7004 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|5号車<br/>(525-7004) JRW-500 V2 526-7202 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|6号車<br/>(526-7202) JRW-500 V2 527-7702 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|7号車<br/>(527-7702) JRW-500 V2 522-7002 HelloKitty Shinkansen in Himeji.jpg|8号車<br/>(522-7002) JRW-500 V2 20180701 HelloKitty Shinkansen seat.jpg|2号車「KAWAII! ROOM」<br/>座席 |2号車「KAWAII! ROOM」<br/>フォトスポット </gallery> == 運用 == 先行量産車であるW1編成は、1996年2月から1年間に及ぶ性能試験及び長期耐久試験を開始した。320km/hまでの車両性能及び営業運転速度(300km/h)における地上設備との整合性に関わる試験を含んだ長期耐久走行(走行キロは約42.5万km)を行い、営業運転を行うにあたり問題のないことを確認した<ref>[https://web.archive.org/web/19971022203240/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970210b.html 500系車両の営業開始までの概要について ](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年2月10日</ref>。 約1年に及ぶ試運転の後、1997年3月22日から山陽新幹線区間で、同年11月29日からは東海道新幹線でも運転を開始した。 徹底して高速性能を追求したために、製造コストや居住性の問題、特に東海道新幹線内での他系列との定員の違いなどの点が運行開始後に問題となった。2007年に最高速度300km/hの高速性能と居住性の両立を目指した後継車両の[[新幹線N700系電車|N700系]]導入後は徐々に「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」運用から離脱し、2010年2月28日に定期「のぞみ」運用から離脱した。 === 1997年3月22日 - 1997年11月28日 === 山陽新幹線で新大阪駅 - 博多駅間で定期1往復と臨時1往復で営業運転開始。途中、岡山駅・広島駅・小倉駅に停車し、所要時間は山陽新幹線区間最短の2時間17分である。W2編成以降の増備にともない、1往復の臨時列車が夏季に運行された。 * 下り ** のぞみ503号 新大阪07:53 →博多10:10 ** のぞみ509号(臨時) 新大阪16:51 → 博多19:09 * 上り ** のぞみ508号(臨時) 博多12:10 → 新大阪14:29 ** のぞみ500号 博多19:21 → 新大阪21:38 === 1997年11月29日 - 1998年3月13日 === W2 - W4編成の増備により、東海道新幹線東京駅までの乗り入れ(東京駅 - 博多駅間3往復と新大阪駅 - 博多駅間1往復の定期「のぞみ」)を開始した。同時に[[東京交番検査車両所|東京第二車両所]]での夜間滞泊も開始された。 「のぞみ」1・13・18号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 {{col| * 下り ** のぞみ505号 新大阪07:53 → 博多 10:10 ** のぞみ1号 東京06:00 → 博多 10:49 ** のぞみ13号 東京11:56 → 博多 16:45 ** のぞみ25号 東京17:52 → 博多 22:45 | * 上り ** のぞみ6号 博多 06:35 → 東京 11:28 ** のぞみ18号 博多 12:35 → 東京 17:24 ** のぞみ24号 博多 15:35 → 東京 20:28 ** のぞみ500号 博多 19:21 → 新大阪 21:38 |}} === 1998年3月14日 - 1998年10月2日 === W5・W6編成増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間5往復に増加。 「のぞみ」1・13・14・18・21・30号」は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 {{col| * 下り ** のぞみ505号 新大阪07:53 → 博多10:10 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:49 ** のぞみ 5号 東京07:52 → 博多12:45 ** のぞみ13号 東京11:56 → 博多16:45 ** のぞみ21号 東京15:56 → 博多20:45 ** のぞみ25号 東京17:52 → 博多22:45 | * 上り ** のぞみ 6号 博多06:35 → 東京11:28 ** のぞみ14号 博多10:35 → 東京15:24 ** のぞみ18号 博多12:35 → 東京17:24 ** のぞみ24号 博多15:35 → 東京20:28 ** のぞみ30号 博多18:35 → 東京23:24 ** のぞみ500号 博多19:21 → 新大阪21:38 |}} === 1998年10月3日 - 1999年3月12日 === さらに3編成(3次車:W7 - W9編成)増備に伴い、300系で運転されていたのぞみ2往復を500系に置き換えて、東京駅 - 博多駅間7往復に増加。 「のぞみ」1・10・13・14・18・21・30号は東京駅 - 博多駅間を最速(2009年現在)の4時間49分で走破した。 {{col| * 下り ** のぞみ505号 新大阪07:53 → 博多10:10 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:49 ** のぞみ 5号 東京07:52 → 博多12:45 ** のぞみ13号 東京11:56 → 博多16:45 ** のぞみ21号 東京15:56 → 博多20:45 ** のぞみ23号 東京16:52 → 博多21:45 ** のぞみ25号 東京17:52 → 博多22:45 ** のぞみ27号 東京18:52 → 博多23:45 | * 上り ** のぞみ 6号 博多06:35 → 東京11:28 ** のぞみ 8号 博多07:35 → 東京12:28 ** のぞみ10号 博多08:35 → 東京13:24 ** のぞみ14号 博多10:35 → 東京15:24 ** のぞみ18号 博多12:35 → 東京17:24 ** のぞみ24号 博多15:35 → 東京20:28 ** のぞみ30号 博多18:35 → 東京23:24 ** のぞみ500号 博多19:21 → 新大阪21:38 |}} === 1999年3月13日 - === 東京駅 - 博多駅間の「のぞみ」は700系と2時間おきの運転となった。 さらに、2000年10月1日改正によって、全列車が新横浜駅に停車することとなり、「のぞみ」13・17・21号の東京駅発車時刻が56分から52分に、「のぞみ」10・14・18号の東京駅到着時刻が24分から28分に変更された。 {{col| * 下り ** のぞみ503号 新大阪07:00 → 博多09:17 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:49 ** のぞみ 5号 東京07:52 → 博多12:45 ** のぞみ 9号 東京09:52 → 博多14:45 ** のぞみ13号 東京11:56 → 博多16:45 ** のぞみ17号 東京13:56 → 博多18:45 ** のぞみ21号 東京15:56 → 博多20:45 ** のぞみ25号 東京17:52 → 博多22:45 | * 上り ** のぞみ 6号 博多06:35 → 東京11:28 ** のぞみ10号 博多08:35 → 東京13:24 ** のぞみ14号 博多10:35 → 東京15:24 ** のぞみ18号 博多12:35 → 東京17:24 ** のぞみ22号 博多14:35 → 東京19:28 ** のぞみ26号 博多16:35 → 東京21:28 ** のぞみ30号 博多18:35 → 東京23:24 ** のぞみ500号 博多20:11 → 新大阪22:28 |}} === 2001年10月1日 - 2003年9月30日 === 東海道直通「のぞみ」がすべて新神戸駅に停車するようになり、東京駅 - 博多駅間の最短所要時間は4時間53分となった。 {{col| * 下り ** のぞみ501号 新大阪07:00 → 博多09:17 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:53 ** のぞみ 5号 東京07:53 → 博多12:49 ** のぞみ 9号 東京09:53 → 博多14:49 ** のぞみ13号 東京11:53 → 博多16:49 ** のぞみ17号 東京13:53 → 博多18:49 ** のぞみ21号 東京15:53 → 博多20:49 ** のぞみ25号 東京17:53 → 博多22:49 | * 上り ** のぞみ 6号 博多06:30 → 東京11:26 ** のぞみ10号 博多08:30 → 東京13:26 ** のぞみ14号 博多10:30 → 東京15:26 ** のぞみ18号 博多12:30 → 東京17:26 ** のぞみ22号 博多14:30 → 東京19:26 ** のぞみ26号 博多16:30 → 東京21:26 ** のぞみ30号 博多18:30 → 東京23:23 ** のぞみ500号 博多20:11 → 新大阪22:28 |}} === 2003年10月1日 - 2005年2月28日 === 品川駅の開業に伴って、東海道直通「のぞみ」のうち1号以外が停車するようになった。更に、これまで新神戸駅を通過していた500・501号が新神戸駅停車に変更されて全列車停車となり、山陽新幹線最速の2時間17分で走る列車が消滅した。また、500・501号を除き、徳山駅もしくは新山口駅のどちらかに停車するようになった<ref group="注">徳山駅停車は11・12・21・22号で、それ以外は新山口駅に停車。</ref>。 {{col| * 下り ** のぞみ501号 新大阪07:00 → 博多09:21 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:58 ** のぞみ 5号 東京07:50 → 博多12:55 ** のぞみ11号 東京09:50 → 博多14:55 ** のぞみ15号 東京11:50 → 博多16:55 ** のぞみ21号 東京13:50 → 博多18:55 ** のぞみ25号 東京15:50 → 博多20:55 ** のぞみ31号 東京17:50 → 博多22:55 | * 上り ** のぞみ 2号 博多06:25 → 東京11:30 ** のぞみ 8号 博多08:25 → 東京13:30 ** のぞみ12号 博多10:25 → 東京15:30 ** のぞみ18号 博多12:25 → 東京17:30 ** のぞみ22号 博多14:25 → 東京19:30 ** のぞみ28号 博多16:25 → 東京21:30 ** のぞみ32号 博多18:25 → 東京23:26 ** のぞみ500号 博多20:05 → 新大阪22:26 |}} === 2005年3月1日 - 2006年3月17日 === 運転時刻に変更はないが、12・13<ref group="注>改正前の11号</ref>・20<ref group="注>改正前の22号</ref>・21号の徳山駅停車を取りやめ新山口駅停車に変更したほか、1号が品川駅停車となった。また、一部の「のぞみ」で時刻の繰り下げと、他の「のぞみ」の設定時刻変更に伴う列車番号の変更が行われた。 {{col| * 下り ** のぞみ501号 新大阪07:00 → 博多09:21 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:58 ** のぞみ 5号 東京07:50 → 博多12:55 ** のぞみ13号 東京09:50 → 博多14:55 ** のぞみ17号 東京11:50 → 博多16:55 ** のぞみ21号 東京13:50 → 博多18:55 ** のぞみ25号 東京15:50 → 博多20:55 ** のぞみ31号 東京17:50 → 博多22:55 | * 上り ** のぞみ 2号 博多06:25 → 東京11:30 ** のぞみ 8号 博多08:25 → 東京13:30 ** のぞみ12号 博多10:25 → 東京15:30 ** のぞみ16号 博多12:25 → 東京17:30 ** のぞみ20号 博多14:25 → 東京19:30 ** のぞみ26号 博多16:25 → 東京21:30 ** のぞみ32号 博多18:26 → 東京23:29 ** のぞみ500号 博多20:07 → 新大阪22:28 |}} === 2006年3月18日 - 2007年6月30日 === 2005年に発生した[[JR福知山線脱線事故]]に伴い、ダイヤの余裕時分が見直され、山陽新幹線区間は最短で2時間23分で運転されるようになった。また、新山口駅に停車する500系「のぞみ」は2・49・50号のみになったほか、500・501号で設定時刻の変更が行われ、500号は博多発新大阪行き最終列車としての運転に変更された。 {{col| * 下り ** のぞみ501号 新大阪07:32 → 博多09:55 ** のぞみ 1号 東京06:00 → 博多10:55 ** のぞみ 9号 東京07:50 → 博多12:52 ** のぞみ17号 東京09:50 → 博多14:52 ** のぞみ25号 東京11:50 → 博多16:52 ** のぞみ33号 東京13:50 → 博多18:52 ** のぞみ41号 東京15:50 → 博多20:52 ** のぞみ49号 東京17:50 → 博多22:57 | * 上り ** のぞみ 2号 博多06:23 → 東京11:30 ** のぞみ10号 博多08:28 → 東京13:30 ** のぞみ18号 博多10:28 → 東京15:30 ** のぞみ26号 博多12:25 → 東京17:30 ** のぞみ34号 博多14:28 → 東京19:30 ** のぞみ42号 博多16:28 → 東京21:30 ** のぞみ50号 博多18:26 → 東京23:29 ** のぞみ500号 博多21:16 → 新大阪23:39 |}} === 2007年7月1日 - 2008年3月14日 === N700系の営業運転が開始されたことに伴い、従来500系で運用されていた「のぞみ」3本がN700系となったが、従来700系で運用されていた「のぞみ」3本が500系に変更された。その結果、500系の運用本数に変化はなかったが、運転間隔が2時間毎ではなくなった。また700系から500系に変更になった列車でも、運行ダイヤは700系が運用されていた改正前と同じであった。そのため、所要時間が4時間台の500系のぞみ(従来ののぞみ1号)はなくなった。その後、N700系が増備されるにつれて2007年10月から段階的に置き換えられた。 (※)は、後にN700系に置き換えられた列車。 {{col| * 下り ** のぞみ501号 新大阪07:32 → 博多09:55 ** のぞみ 5号 東京06:50 → 博多11:57(※) ** のぞみ 9号 東京07:50 → 博多12:52 ** のぞみ17号 東京09:50 → 博多14:52 ** のぞみ33号 東京13:50 → 博多18:52 ** のぞみ41号 東京15:50 → 博多20:52 ** のぞみ49号 東京17:50 → 博多22:58(※) ** のぞみ51号 東京18:50 → 博多23:57(※) | * 上り ** のぞみ 2号 博多06:23 → 東京11:30(※) ** のぞみ10号 博多08:28 → 東京13:30 ** のぞみ18号 博多10:28 → 東京15:30 ** のぞみ30号 博多13:22 → 東京18:30(※) ** のぞみ34号 博多14:28 → 東京19:30 ** のぞみ42号 博多16:28 → 東京21:30 ** のぞみ50号 博多18:25 → 東京23:29(※) ** のぞみ500号 博多21:16 → 新大阪23:39 |}} === 2008年3月15日 - 2009年3月13日 === [[File:JRwest 500 nozomi 29 kodama 697 shiniwakuni.jpg|thumb|「こだま」697号(奥)を追い越す「のぞみ」29号(手前)<br/>(2008年11月30日 [[新岩国駅]] )]] 東京駅 - 博多駅間2往復のみとなった<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=JR3月15日ダイヤ改正の概要 N700増発と寝台列車削減 |year=1974 |publisher=鉄道ジャーナル社 |journal=鉄道ジャーナル |issue=2008年3月号 |page=81}}</ref>。ただし、ダイヤ改正の前日となった2009年3月13日は、車両運用の関係上「のぞみ」50号はN700系が代走した。 * 下り ** のぞみ 9号 東京07:30 → 博多12:45 ** のぞみ29号 東京12:30 → 博多17:40 * 上り ** のぞみ 6号 博多07:00 → 東京12:13 ** のぞみ50号 博多18:00 → 東京23:13 この時期、不定期運用として、通常300系が充当されている「こだま」2本や、多客期の臨時「のぞみ」や「ひかりレールスター」の代走となる臨時「ひかり」に充当されている。 [[2008年]][[11月30日]]、0系の最後の定期運用となる「こだま」659号に続行する臨時列車として、「こだま」697号(W8編成を使用)を岡山駅 - 博多駅間で運転した。同列車は、急遽運転を決定したもので、普通車は全車両自由席、グリーン車は当日車内販売というものであった。この列車の送り込みのため、博多駅 - 岡山駅間に回送列車が運転された。 2008年12月1日からは、短編成化改造を済ませたV編成が0系に代わり山陽新幹線内の「こだま」での定期運用(こだま628号・V4編成<ref name="100Series-Shinkansen's trouble">{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2008/12/02/165100.html |title=500系7000番台,営業運転を開始 |publisher=『鉄道ファン』鉄道ニュース(交友社) |date=2008-12-2 |accessdate=2012-10-15}}</ref>)を開始し、[[博多南線]]への運用も始まった。一部の「こだま」は1日ではなく、翌2日から500系での運転となった。 500系「こだま」運用が開始されたことにより、定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すシーンを、[[徳山駅]]<ref group="注">「のぞみ」29号が「こだま」659号を追い越す。</ref>と[[新山口駅]]<ref group="注">「のぞみ」9号が「こだま」639号を追い越す。</ref>で見ることができた。また、臨時500系「のぞみ」が運転された場合、[[姫路駅]]<ref group="注">「のぞみ」172号が「こだま」628号を追い越す。</ref>でも見ることができた。 {{col| * 下り ** こだま623号 岡山06:16 → 博多09:20★ ** こだま639号 新大阪07:59 → 博多13:09★ ** こだま653号 新大阪11:38 → 岡山13:03 ** こだま659号 岡山14:51 → 博多18:21 ** こだま689号 新大阪22:38 → 岡山23:49 ** こだま769号 小倉18:36 → 博多18:56 | * 上り ** こだま620号 福山06:09 → 新大阪07:47★ ** こだま628号 博多06:12 → 新大阪11:05 ** こだま668号 博多16:50 → 新大阪22:05 ** こだま682号 広島23:15 → 福山23:58 ** こだま724号 博多19:12 → 広島21:20 ** こだま762号 博多18:04 → 小倉18:24 |}} ★印の列車は12月1日は[[新幹線100系電車|100系K編成]]で、12月2日以降は500系で運転。 === 2009年3月14日 - 2010年3月12日 === [[File:JRW 500 series shinkansen set W1.jpg|thumb|「のぞみ」29号<br/>(2010年2月5日 [[米原駅]])]] W編成(16両)は定期運用では、東京駅 - 博多駅間2往復(2009年11月10日以降は1往復<ref>『JR時刻表』2009年9・10月号、交通新聞社。</ref>)の「のぞみ」や、繁忙期の臨時の「のぞみ」があったが、2010年2月28日の「のぞみ」29号をもって定期運用を終了し、2010年3月1日からN700系に置き換えられた。該当列車の博多到着時には、さよなら式典が開催された<ref>{{cite news |title=500系「のぞみ」今月引退 東海道新幹線から姿消す |author= |url=http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021501000538.html |newspaper=47NEWS |agency=[[共同通信]] |date=2010-2-15 |accessdate=2012-10-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140713160446/http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021501000538.html |archivedate=2014年7月13日 }}</ref>。2010年1月時点では、W編成はW1・W8の2本<ref>[https://web.archive.org/web/20100326005723/http://www.jr-odekake.net/navi/500kei_nozomi/about.html#03 JRおでかけネット 500系のぞみ Special site 500系の豆知識]([[インターネットアーカイブ]]) - 西日本旅客鉄道プレスリリース</ref>が営業運転に使用されていた。 ダイヤ改正前まで行われていた[[東京交番検査車両所]]での[[夜間滞泊]]の運用がなくなり、定期列車に関しては東京駅で直接折り返す運用となった。 * '''のぞみ'''(16両・W編成 2010年2月28日まで) ** 東京駅 - 博多駅間:ダイヤ改正時点では以下の2往復で運用。うち1往復(28・51号)は2009年11月10日にN700系での運用に置き換わっていた。 *** のぞみ6号:博多7:00発→東京12:13着 *** のぞみ28号:博多12:00発→東京17:13着 *** のぞみ29号:東京12:30発→博多17:44着 *** のぞみ51号:東京17:30発→博多22:44着 V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、臨時に[[新幹線100系電車|100系]]K編成(6両)の運用を置き換えることがある。 定期列車同士で500系「のぞみ」が500系「こだま」を追い越すことはないが、[[東広島駅]]では500系「のぞみ」が運用変更となった500系「こだま」<ref group="注">「のぞみ」6号が「こだま」730号を追い越す。</ref>を、[[新尾道駅]]と[[姫路駅]]では臨時の500系「のぞみ」が500系運用の「こだま」を追い越すシーンが見られることがあった<ref group="注">新尾道駅で「のぞみ」170号が「こだま」746号を、「のぞみ」183号が「こだま」765号を追い越す。</ref><ref group="注">姫路駅で「のぞみ」154号が「こだま」730号を、「のぞみ」179号が「こだま」765号を、「のぞみ」183号が「こだま」769号を追い越す。</ref>。 * '''こだま'''(8両・V編成) ** 岡山駅 - 博多駅間:下り2本 ** 新大阪駅 - 博多駅間:下り1本・上り3本 ** 新大阪駅 - 広島駅間:下り1本・上り1本 ** 新大阪駅 - 岡山駅:1往復:下り2本 ** 小倉駅 - 博多駅間:下り2本・上り2本 ** [[博多南線]]特急:下り3本・上り4本に運用(いずれも「こだま」との直通運用) === 2010年3月13日- 2011年3月11日 === W編成(16両)は定期運用は設定されていない。V編成(8両)は、定期列車7往復のほか、2010年5月以降に[[新幹線100系電車|100系]]P編成(4両)の運用を置き換えた。山陽新幹線区間の[[修学旅行]]や団体専用の「[[修学旅行列車|集約輸送臨時列車]]」に運用されることもあった。 * '''こだま'''(8両・V編成) ** 新大阪駅 - 博多駅間:下り5本・上り6本 *** 6月30日に上り1本、7月1日に下り1本・上り1本が運用に追加された ** 新大阪駅 - 広島駅間:下り1本 ** 新大阪駅 - 新山口駅間:下り1本(6月30日追加) ** 広島駅 - 博多駅間:下り1本 ** 新山口駅 - 博多駅間:下り1本(7月1日追加) ** 小倉駅 - 博多駅間:下り1本・上り1本 *** 7月1日に下り1本・上り1本が運用に追加された ** 博多南線特急:下り7本・上り5本に運用(いずれも「こだま」との直通運用) *** 7月1日に下り1本・上り3本が運用に追加された(下り1本のみ「こだま」との直通運用) === 2022年3月12日改正時点の運用 === 山陽新幹線区間における「こだま」に充当される。 == 最高速度と所要時間 == [[File:500-n700.jpg|thumb|200px|N700系と500系との比較]] 営業最高速度は、山陽新幹線区間(姫路駅以西)における300km/hで、2001年まで[[フランス国鉄]] (SNCF) の[[TGV]]と並び鉄車輪・鉄軌道方式の[[鉄道車両]]では世界最速であった。平坦[[均衡速度]]は365 km/hである<ref name="500 spec"/>。また、運転開始時の[[表定速度]](始発から終点までの平均速度)242.5km/hと2停車駅間の平均速度261.8km/hはTGVを上回る世界最速であり、[[1997年]]の[[ギネス世界記録]]に掲載された。また、300km/h走行時には[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]に「ただいまの速度は300km/hです。{{lang|en|We are now travelling at 300km/h.}}」の表示が流れる。営業運転開始当初の一時期は[[運転士]]による300km/h実況アナウンスも行われていた。2007年7月以降はN700系でも最高速度300km/hで運転しているが、山陽新幹線区間の[[速度種別]]においては、500系がU49(上り10‰勾配での均衡速度が349km/h)であるのに対しN700系はU43(上り10‰勾配での均衡速度が343km/h)であり、未だ日本最速の営業運転用車両の座を譲ってはいない。 [[1997年]]の営業運転開始時の新大阪駅 - 博多駅間の最短の所要時間は2時間17分(停車駅は岡山駅・広島駅・小倉駅。新神戸駅は通過)であったが、2003年10月1日のダイヤ改正で全列車が[[新神戸駅]]に停車することになったため、2時間21分に延びた。さらにその後[[JR福知山線脱線事故]]の影響によるダイヤの見直しにより、2006年3月18日のダイヤ改正で2分の[[余裕時分]]を持たせたことで2時間23分となり、これが定期「のぞみ」で運用されていた時代の最短の所要時間であった。定期「のぞみ」運用から撤退した2010年2月時点での最短の所要時間は、東京駅 - 新大阪駅間で2時間36分、新大阪駅 - 博多駅間で2時間35分(主要駅以外に福山駅・新山口駅にも停車)であった。 N700系の営業運転開始以降は、500系は東京駅 - 博多駅間を4時間台で運転する列車(当時の「のぞみ」1号)には充当されなかった。なお、N700系は登場以来長らく東京駅 - 博多駅間の所要時間は最短で4時間50分であり、500系の最短所要時間であった4時間49分<ref group="注">ただし、当時「のぞみ」は新神戸駅を通過しており、品川駅はまだ開業していなかった。</ref>よりも1分遅かったが、[[2015年]]3月14日以降は「のぞみ」64号(東京行きの最終)が所要時間4時間47分<ref group="注">山陽新幹線区間の所要時間は従来通り。東海道新幹線区間で最高速度を引き上げて3分短縮することで実現。</ref>運転となり500系より2分早くなった。同列車はさらに[[2017年]][[3月4日]]より所要時間4時間46分運転となり、1分短縮した<ref group="注">山陽新幹線区間で新型のデジタル式ATCを導入したことで実現。</ref>。 == 保存車 == [[File: Shinkansen Series 500 car 521-1 at the Kyoto Railway Museum 2.jpg|thumb|[[京都鉄道博物館]]に収蔵されている500系521形1号車。]] [[File:Shinkansen Series 500 522-1 in Hitachi.jpg|thumb|[[日立製作所笠戸事業所]]で保管されている500系16号車522-1。]] * 521-1(W1編成1号車) *: 廃車後、博多総合車両所で保管されていたが、2014年10月19日の「新幹線ふれあいデー」で展示されたのちに、2016年4月29日に開業の「[[京都鉄道博物館]]」([[京都府]][[京都市]][[下京区]]観喜寺町)に保存展示されることとなり、2014年12月8日、博多総合車両所にて出発式が行われた後、同年12月11日に100系122-5003と共に博多総合車両所から搬出された<ref>[http://railf.jp/news/2014/12/12/140000.html 100系と500系の先頭車が京都鉄道博物館へ] - 『鉄道ファン』鉄道ニュース(交友社) (2014年12月12日). 2014年12月12日閲覧。</ref><ref>[http://railf.jp/news/2014/12/17/110000.html 100系と500系の先頭車が京都へ陸送される] - 『鉄道ファン』鉄道ニュース(交友社) (2014年12月17日). 2014年12月17日閲覧。</ref>。 * 522-1(W1編成16号車) *: 前述の521-1搬出後、残存していた9両のうち、中間車8両は全て解体されたが、当車両のみ博多総合車両所に保管されていた。その後、2015年秋頃に博多総合車両所から[[日立製作所笠戸事業所]]に向けて搬出され、非公開の形で保存されている<ref name=W1_Shinkansen_EX></ref>。2023年現在では、2021年に笠戸事業所100周年を記念して完成した歴史記念館に展示されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/03223f8b42ee3e985a73542e5960b571d9651d8d|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230516192203/https://news.yahoo.co.jp/articles/03223f8b42ee3e985a73542e5960b571d9651d8d|title=台湾の特急「EMU3000」やJR北海道・室蘭線「737系」、普段見られない新型車両を間近で見学 山口県下松市|publisher=中国新聞社|website=Yahoo!ニュース|date=2023-05-14|archivedate=2023-05-16|accessdate=2023-11-02}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 西日本旅客鉄道鉄道本部車両部 村田渡「新幹線500系電車」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年4月号、[[交友社]]、1996年。 * [http://pamph.jr-odekake.net/view_pamph20.php?ci=jrwest&pi=jrdata2013 『データで見るJR西日本』] - 西日本旅客鉄道 * {{Cite journal|和書|author= |year=2021 |month=7 |title=JR旅客会社の車両配置表2021(付録) |journal=鉄道ファン |volume=61 |issue=7号(通巻723号) |pages= |publisher=交友社 |ref = 鉄道ファン723|last=|first=|isbn=}} == 関連項目 == {{commonscat|Shinkansen 500}} * [[新幹線500系電車900番台]] - 本系列の原型となった試作・試験車。愛称「WIN350」 * [[カンセンジャー]] - 本系列をモチーフとした山陽新幹線の公式キャラクター * ジェイファイブ - [[トランスフォーマー カーロボット]]に登場するサイバトロン戦士。ビークルモードは本系列をモチーフとしており、玩具は製品化する際JR西日本から正式許諾を受けている。 * [[勇者王ガオガイガー]] - 500系新幹線をモチーフにしたガオーマシン「ライナーガオー<ref>ガオガイガーの肩部及び腕部に相当。</ref>」が劇中に登場。詳細は[[勇者王ガオガイガーシリーズの登場メカ|こちら]]も参照。 * [[電光超特急ヒカリアン]] * [[新世紀エヴァンゲリオン]] * [[新幹線変形ロボ シンカリオン]] - 7000番台が主人公の父・速杉ホクトの運転するシンカリオンとして、「500 TYPE EVA」が碇シンジの運転するシンカリオンとして、それぞれ登場した<ref>[http://www.eva-info.jp/4461 8月11日(土)放送の「新幹線変形ロボ シンカリオン」にて、500 TYPE EVAがシンカリオンに変形! 運転するのは緒方恵美演じる碇シンジ!] - EVA INFO 2018年7月2日(2018年7月7日閲覧)</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/19971007055607/http://www.westjr.co.jp:80/new/2special/500index.html 500系新型新幹線のすべて]- [[ウェイバックマシン]](1997年10月7日アーカイブ分) * {{外部リンク/JR西日本車両案内|kodama_500|新幹線 こだま|500系}} * [http://www.neumeisterdesign.de/ アレクサンダー・ノイマイスター社](ドイツ語・英語) * [https://www.khi.co.jp/corporate/division/rs/history/ JR西日本500系電車(沿革)] - [[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]](旧1 - 6号車の製作を担当) * [https://www.kinkisharyo.co.jp/ourproducts/?cat=1 JR西日本殿 500系] - [[近畿車輛]](旧7・8号車の製作を担当) * [https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/pages/jrw500.htm JR西日本500系新幹線] - [[日本車輌製造]](旧11・12号車の製作を担当) {{JR西日本の車両リスト}} {{日本の新幹線}} {{ブルーリボン賞選定車両一覧}} {{新世紀エヴァンゲリオン}} {{デフォルトソート:しんかんせん500けいてんしや}} [[Category:西日本旅客鉄道の新幹線電車|500]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]] [[Category:グッドデザイン賞受賞車 (鉄道車両)|500]] [[Category:日本のギネス世界記録]] [[Category:日本車輌製造製の新幹線車両|500]] [[Category:川崎重工業製の新幹線車両|500]] [[Category:日立製作所製の新幹線車両|500]] [[Category:近畿車輛製の新幹線車両|500]] [[Category:1996年製の鉄道車両]] [[Category:鉄道車両関連]]
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新幹線700系電車
新幹線700系電車(しんかんせん700けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道に在籍し、かつて東海旅客鉄道に在籍した、東海道・山陽新幹線用第4世代新幹線電車である。 0系・100系の置き換え用として、適度の製造・保守コストで東海道・山陽新幹線全体の高速化を図るべく、JR東海とJR西日本が共同で開発し、1997年秋に先行試作車1編成16両が落成し、各種試験がなされたのちに1999年(平成11年)に営業運転を開始した。最高速度は285 km/h。また、内外装を山陽新幹線向けに特化させた7000番台も2000年に登場した(詳細は「ひかりレールスター」を参照)。 製造は日本車輌製造・日立製作所笠戸事業所・川崎重工業車両カンパニー・近畿車輛が担当し、91編成、1,328両が製造された。1編成16両の価格は約40億円である。 JR東海が発注したC編成とJR西日本が発注したB編成およびE編成では、走行機器を中心に相違点が存在する。それについては各節で詳述する。 車体についてはアルミニウム合金製で、制振材を挟み込んだダブルスキン構造を採用しており、車内騒音に配慮しつつ軽量かつ低コストな構造となっている。普通車の側窓寸法は天地590 mm×幅700 mm、窓框高さは300系と同じ710 mmである。車体断面は幕板部分が窓上から屋根に向かって緩やかに絞られるようになり、これが客扉窓の高さに関係してくる。制振材は神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」(特許取得)であり、床板、腰板、天井など各部の中空形材内部に充填されており、騒音や振動の大幅な低減が図られている。ただし、神戸製鋼所で特許の使用が認可された同業他社製の制振形材も使用されている。 先頭形状は、500系と同等のトンネル微気圧波対策効果を短いノーズで実現するために、エアロストリーム型という独特の形状を成している(後述)。 先頭車両の連結器カバーは、C18・E15編成までは2段階に分離するようになっており、連結器を使用するときはリング状に開くが、C19編成以降とE16編成、B編成(全編成)では継ぎ目の間隔が短くなった。そのため取り付け部の造作も若干異なる。 行先表示器はC編成が幕式に対し、E・B編成は3色発光ダイオード (LED) を用いた電光式を採用している。編成・車両番号表記の書体はスミ丸ゴシックである、運転席窓ワイパーが停止位置がC編成は斜めであるが、B・E編成は垂直になっていて異なるなど、細部で違いがみられる。 また、先頭車の乗務員室と客室の扉上部にある雨樋が乗務員室用と客室用で分かれていた。しかし増備の途中から雨樋は一体化したものとなり、現在ではすべてのC編成とB4 - B15・E16編成が一体タイプとなっている。B1 - B3・E1 - E15編成は現在まで雨樋は分離している。 初期車は客扉の窓が平面ガラスで位置が若干低く、2001年製造のC29編成から曲面ガラスを使用した。なお、JR西日本所有のB・E編成は一貫して低い。 500系まで乗務員室の外の握り棒は金属の手すりを埋め込んで設置したが、本系列から停車中にはフタが開き握れて、発車後5 km/h以上になるとフタが閉じ走行中の空力抵抗を低減する仕組みになっている。乗務員室内には、その旨を示すステッカーが貼られているのが乗務員室を覗くと見える。ただしE編成には従来同様金属の手すりが設置されている。 1号車である723形の車体上部には、四角い箱状の空間波アンテナが搭載されているが、2004年度以降の増備編成は東海道・山陽新幹線全線のLCX化が完了したため、アンテナは搭載されていない。 0系以降、東海道・山陽新幹線において運転台上にあった屋根上の静電アンテナは、本系列で初めて先頭車両の連結面側に移った。これは、以降の800系やN700系も同様である。 標識灯は、運転席の下に、ヘッドライト2灯とテールライト1灯が両側に配置されている。 塗装は300系までと同じく、車体全体を白■で塗装し、側面に青帯■を配する。この青帯は、300系では(上)細/(下)太だが、本系列では(上)太/(下)細に変更され、N700系でも踏襲された。 C・B編成には形式のロゴマークが貼り付けられており、B編成では運転席脇に青字で「JR700」の文字が表記されている。 新幹線の高速運行と快適性を両立させるための問題の一つとして、トンネル突入時に発生する、トンネル微気圧波による衝撃音の軽減がある。これを解消する方法の一つとしては「ノーズ部分の伸長」という手法があり、JR西日本が独自開発した500系では300 km/hでの営業運転を実現させるため15 mものロングノーズを採用したが、このために先頭車の乗車定員が減少するという欠点があった。また、300系以来問題となっていた、トンネル内などで左右に振られた気流の乱れによって車体が振られるという点も未解決であった。 そこで、700系の先頭形状の開発に当たっては、航空機の設計手法の一つである「エリアルール」を応用し、従来の先頭形状であった楔形の下に車体幅いっぱいに水平の張り出しを設け、これを飛行機の翼に見立てると共に運転席部分の幅を狭めて飛行機の垂直尾翼に見立てた空力設計を採用することで、ノーズの長さを9.2 mにとどめながらトンネル微気圧波を軽減させると共に、トンネル内での車体の動揺を抑えることを実現した。この形状を、新幹線デザインチームの一員として開発に携わった公共デザイナーの福田哲夫らは「エアロストリーム形」と呼称した。 この形状は動物のカモノハシに似ていると称され、トップ・ギアのジェームズ・メイも言及しているが、偶然の一致であるという(500系とカワセミの類似については、開発責任者が言及している)。 しかし、この形状は、最高速を285 km/hに抑えることを前提にノーズが短くなるよう開発されたため、それ以上の速度で走行した場合は想定を上回ることになる。後継車両のN700系では、遺伝的アルゴリズムを採用し、500系と同等の300 km/hを想定しつつもノーズ延長を1.5 mとごくわずかに抑えた「エアロ・ダブルウィング」形状を採用している。 500系の4両1ユニットを継承しつつ1ユニットあたりの電動車両数を減らすことにより、車両製作費や車両整備費の低減と軸重の分散を実現している。4両1ユニットを2組もしくは4組組み合わせて編成を組成する。M車に主変圧器を、M1車に主変換装置1台、M2車に主変換装置2台、T車に補機類を搭載する。 主変換装置は、IGBT素子を利用したPWMコンバータ1基+VVVFインバータ1基で構成されており、富士電機が原設計を担当した。IGBT素子はスイッチング周波数がGTO素子よりも高いため、発車・停車時にGTOサイリスタ装備の300・500系で顕著だった、かご形三相誘導電動機からの磁励音が低減された。また、2.5 kV、1.8 kA級の大容量IGBT素子を採用することで小型軽量化を達成した。制御方式も300系の2レベル制御から3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、ひずみ成分波の抑制を図っている。主変換装置内部には冷却用として、インバータユニット側に主電動送風機、コンバータユニット側に補助電動送風機が搭載されている。E・B編成に搭載されるWPC200は制御方式は同一であるものの、車両基地の設備的相違の観点から車側点検・取り外し方式を採用している。 主変圧器は4,160 kVAの容量を備える。強制風冷式外鉄形であるが、軽量化の観点からアルミコイルとした。主回路用の二次巻線は3分割され、それぞれに主変換装置のコンバータ部が接続される。補助電源用の三次巻線は500 kVAの定格容量を備え、単相交流430 V・60 Hzを出力する。量産先行車C1編成にはTTM3、C編成量産車にはTTM3A、E・B編成にはWTM206が搭載されるが性能は同一である。 補助電源装置は主変圧器の三次巻線を電源とし、直流100 V・36 kW、交流100 V・5 kVAの容量を有するIGBT素子を使用した静止形インバータである。このほかに、補助トランスによる交流100 V・10 kVAを有する。E・B編成では客室内コンセント使用による電源負荷増大を考慮し、C編成と同等の性能を持つWSC209に加えて安定化電源を3基(E編成)もしくは6基(B編成)搭載し、蓄電池も6台から7台に増強した。 空気圧縮機には、静粛性で評価の高いスクロール式を採用する。 主電動機は、かご形三相誘導電動機を電動車1両あたり4基搭載する。300系で実績のあるフレームレス構造、アルミブラケット構造を採用して軽量化を図り、電蝕防止の観点から絶縁軸受を採用した。連続定格出力は275 kWである。 ブレーキについては、300系、500系にひきつづき、電動車には電力回生ブレーキを、付随車には渦電流式ディスクブレーキを採用している。渦電流式ディスクブレーキは、車両重量バランスの改善と電動車の割合が上がったことから300系から半減されて1軸1機とされている。また、緊急制動時の滑走対策として500系に装備されていたセラミック噴射装置を1号車第1軸と16号車(8両編成の場合は8号車)第4軸に採用して制動距離の短縮を図っている。 台車は、C編成にはTDT204、TTR7002を装備する。300系のものをベースとした、コイルばねと円筒積層ゴムを併用したウイングばね式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の上部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されている。 E・B編成は、500系用の台車をベースにした軸梁式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の側端部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されたWDT205A、WTR7002を装備している。円筒コロ軸によるグリス潤滑軸受けが特徴である。WDT205Aは、主電動機の相違以外は500系のものと互換性がある。WTR7002はWDT205Aをベースにモーターを廃し、渦電流式ディスクブレーキ用コイルを搭載した。 歯数比がそれぞれ異なるため、制御装置の特性を変更して加速特性をそろえている。 C19編成以降のグリーン車では駆動装置をWN駆動方式からTD平行カルダン駆動方式に変更した。新幹線車両においてTD平行カルダン駆動方式は本系列が初の採用例となった。従来は高速運転時の耐久性の点からWN駆動方式が採用されてきたが、300系や700系C1編成を用いた試験走行の結果、TDカルダンに用いられるたわみ板の耐久性が向上したことから、保守が容易で静粛性に優れる本方式に変更された。 集電装置は新たに開発されたシングルアームパンタグラフをM1車の内5・12号車に搭載している。パンタグラフは主枠の中にイコライザーアームを通した物となっており、さらにスライダーのホーン部分に小さな穴を開けることで、パンタグラフ自体から発生する騒音を軽減する構造になっている。 前後に設けたスロープ状の碍子カバーと、車体側面に設けた遮音板によって風切り音と空力抵抗の低減を図っている。遮音板はC編成が灰色、E編成、B編成およびJR西日本に転属したC編成は白である。 各ユニット間は特高圧引き通し線によって電気的に接続され、16両編成であるC・B編成は、4 - 5・8 - 9・12 - 13号車間はケーブルヘッドによる、それ以外の箇所は直ジョイントによる接続がなされている。8両編成であるE編成は、E12編成までは全車両間が直ジョイントによる接続であった。しかしE13 - E16編成は、新造時から4 - 5号車間がケーブルヘッドによる接続に改められたため既存編成にもケーブルヘッド化工事が実施された。 300系の導入後、利用客から相次いだ乗り心地に関する苦情を反映し、セミアクティブサスペンションや特性を改善した空気ばね、車体間ダンパなど、随所に乗り心地改善のための工夫が施されている。なお、車体間ダンパは、500系では取り付け部の根元が隠れていたが、本系列は取り付け部までを露出させ、保守作業を容易にしており、これは後継のN700系にも受け継がれている。 また、車両の状態を逐次監視および記録するため32ビットコンピュータを利用したデータモニタ装置を搭載している。得られた走行中の各種データは運転台のモニタディスプレイに表示されるほか、メンテナンス時の参考データとして活用され整備作業の効率化に貢献している。 走行時のエネルギー消費も270 km/h走行時の利用客一人当たりの消費エネルギーが14.7 kWh、300系:16.0 kWh、0系:17.5 kWhと高効率となっている。 16両編成の場合、8 - 10号車がグリーン車、他は普通車で構成されている。 座席配置は300系と共通である。また300系以降、車体軽量化の一環で座席クッションからスプリングを廃し、重ねたポリウレタンを用いている。 内装はC編成とB編成で異なり、号車表示の位置も違う。C編成の普通車は明るい色調で座席モケットが水色であるのに対し、B編成では濃い紺色である。このため乗車した際の印象が異なる。また、座席の形状も異なる。全体的な車内の構造は300系と比較して、普通車が直接照明となり天井の構造が簡略化された他、C編成では壁面および仕切扉のデザインも簡素化されていることなど、コストダウンの影響が現れている。しかし最大天井高さは2,200 mmとなり、視覚面でも居住性が向上している。グリーン車はC・B編成ともに300系の間接照明から、暖色系の蛍光灯を使用した半間接照明となっている。蛍光灯カバーのデザインはC・B編成で異なっている。 300系で問題となった空調装置の効きの悪さは、基本能力の向上だけではなく、ダブルスキン構造による断熱効果の向上と、吹出し口を天井近くから荷物棚下に移設することによるダクト長の短縮などによって大幅に改善されている。 またこの系列から東海道・山陽新幹線の車両に設けられてきた冷水機が廃止され、700系以前の系列の冷水機も開口部が塞がれ使用できなくなった。 2001年度以降に落成したC25編成以降とすべてのB編成では、各車両両端の座席にコンセントと縦に長いテーブルを設けたほか、ユニバーサルデザインの一環として座席肩部の手掛けやドアチャイムが設置されている。グリーン席ではC編成では座席背面のテーブルがあるのに対し、B編成は肘掛収納のテーブルが二段折り畳み式となっている他、読書灯スイッチの位置も異なる。グリーン車の各座席にはオーディオサービス用のコントロールパネルが設置されていたが、2013年春のオーディオサービス終了に伴い撤去され板がはめ込まれた。 なお、車体の軽量化と強度確保のため、窓の寸法は先述の通り300系・500系に比べて小型化されている。 デッキと独立した電話室が2・4・6・8・10・12・14号車博多寄りと15号車東京寄りのそれぞれのデッキに備えられるが、携帯電話の普及に伴い最終的に2・6・12・15号車まで削減された。 8両編成のE編成は、「ひかりレールスター#編成・車内」の項目を参照。 運転席の座席には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防するため、500系でも採用されたレカロ製のセミバケットタイプの事務椅子「RECARO 24H CHAIR」を採用。シートモケットは客室用に合わせている JR東海0番台・初期車 JR東海0番台・後期車 JR西日本3000番台車 本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。 奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両電動車 3両と付随車 /ユニットを構成する。M1車に集電装置を搭載している関係から、C・B編成とE編成ではユニット内の車両連結順が異なる。 量産先行試作編成であるC0編成は9000番台を、量産型C編成は0番台を、B編成は3000番台を、E編成は7000番台を名乗る。 先行試作車のC0編成(9000番台)は1997年秋に完成し、10月3日に浜松工場で報道陣に公開され、10月27日から約1年半にわたって走行実験が行われた。8両編成での走行試験(1・5・6・7・10・11・12・16号車連結)や、東海道新幹線で300 km/h、山陽新幹線で310 km/hの速度向上試験も行われた後、量産化改造を受けてC1編成として1999年秋から営業運転に充当された。 量産編成との差異は以下の通り。 それらに加え、量産化改造を実施する前の外観は以下のようなものだった。 JR東海保有の0系・100系を置き換えるために増備された。2004年には2005年愛・地球博の輸送力増強に備えてC55〜C60編成が増備された。 2003年10月の品川開業ダイヤ改正による「のぞみ」の運転本数大増発により、C編成は主に定期「のぞみ」に充当されていたが、「ひかり」にも使用された。 設計段階から300系と乗車定員の互換性がとられており、臨時の「のぞみ」が時刻表では300系使用となっていたが700系に変更される場合も多かった。 JR東海・JR西日本では2012年3月の300系営業運転終了に関連して、JR西日本に所属する300系F編成を置き換えるため2011年10月20日にJR東海のC編成8本をJR西日本に譲渡予定であることが両社から発表され、この発表以前にもC17編成を皮切りにC11・C12編成が移籍していた。なお、C11・C12編成はJR西日本への入籍日の翌日付でJR東海での除籍が行われており、1日だけ両社の車籍を有していた。その後2012年3月までにC13 - C16・C18編成も移籍し、移籍編成は車体外部車両番号表記横のJRマークの色や車内チャイム・車内ステッカーが変更されている。また、移籍後に全般検査を受けた編成はパンタグラフカバーがグレーから白に変更されていた。JR西日本に転属したC編成はB編成と共通運用とされた。 2011年7月4日付でC4編成が博多総合車両所へ回送され廃車となり、700系初の廃車となった。JR西日本では2015年度下期以降、N700系4000番台F編成の増備に伴いC編成の廃車が始まり、C11編成が2017年2月10日付で廃車されたのを最後に、JR西日本に移籍したC編成は消滅した。 2012年3月17日改正では定期「のぞみ」運用から離脱し、臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用されていたが、2019年3月16日改正以降は定期「こだま」の2.5往復のみの運行となった。 JR東海は、東海道新幹線の車両を2020年(令和2年)春までにN700A系で統一すると発表し、同年3月8日に運転される最終臨時列車「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」をもって、C編成ならびに東海道新幹線における本系列の営業運転を終了することを明らかにし、C編成は2019年(令和元年)12月1日の「こだま636号」を最後に定期運用を終了した。また、JR東海が保有する700系C53・C54編成に、2020年2月12日からヘッドマークおよびサイドステッカーによる車体装飾が行われたが、「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」は新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため運休が決定し、下りは同年2月28日東京発新大阪行のぞみ399号と2月29日団体専用列車、上りは2月28日新大阪発東京行のぞみ406号と3月1日団体専用列車をもって、東海道新幹線における営業運転を終了、C54編成の廃車を最後に本番台は消滅し、解体された。また、これに伴い新幹線車両の方向幕も消滅した。 東海道新幹線での営業運転終了後も、700系を基にした923形「ドクターイエロー」や、JR西日本所属のE編成とB編成の運用は継続されていたが、B編成も2020年3月13日をもって定期運用が終了し、B4編成以外はすべて廃車された。2020年3月改正以降波動用車両としてB4編成が全車禁煙車に改造されたうえで残され、営業運転に使用されたこともあるが、2021年2月28日に廃車され、3000番台は消滅した。その後も923形「ドクターイエロー」の運用は続けられている。7000番台は廃車が発生していない。これにより東海道・山陽新幹線は全列車禁煙となったが、喫煙車を過去1度も運行したことがない九州新幹線も含め、2022年時点でも指定券に「全席禁煙」の表記を続けている。 2001年に、100系V編成グランドひかりを置き換えるために3編成が製造された。当初「ひかり」での運用だったが、2003年10月の品川開業ダイヤ改正で、「のぞみ」の運転本数が大幅に増えたことにより「のぞみ」にも使用された。2011年3月12日改正で定期「のぞみ」運用から離脱し、以後臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用された。 2019年12月20日の上り「のぞみ」180号(充当編成:B6編成)、同年12月22日の下り「のぞみ」189号(充当編成:B14編成)をもって、東京駅 - 博多駅間での「のぞみ」への充当が終了、2020年2月28日の上り「のぞみ」374号、下り「のぞみ」399号(両方ともB4編成が充当)をもって東海道新幹線東京駅 - 新大阪駅間での運用を終了、同年3月13日には山陽新幹線内でも運用(ひかり441号・B4編成)が終了、これをもって全定期運用が終了した。B編成は定期運用終了後波動用車両としてB4編成が残され、B4編成は全般検査を受け、博多総合車両所~新山口間を試運転として走行した。B4編成は喫煙車が廃止されたが、喫煙ルームが設置されず、全車禁煙車に改造された。B4編成は2020年8月8日・9日の500系の代走に使用され、この代走運用がB編成の事実上の最終運用となった。その後は営業運転に就かず、2021年2月28日付で車籍を抹消されて廃車・解体された。 山陽新幹線・博多南線で使用される編成(全車がJR西日本に所属)。当初は2000年3月11日改正で運行を開始した「ひかりレールスター」を中心に投入され、現在では主に山陽新幹線区間内のみを運行する「こだま」と博多南線で運用される。 2011年3月12日ダイヤ改正では九州新幹線博多駅 - 新八代駅間開業により山陽新幹線と九州新幹線の直通が開始されたのと引き替えに「ひかりレールスター」の本数が大幅に削減されたことから「こだま」運用が増加し、老朽化した100系5000番台を淘汰した。2012年3月17日改正ではさらに山陽区間「こだま」の運用が増え、100系5000番台の運用をすべて置き換え、「ひかりレールスター」は上り1本のみとなった。その後「ひかりレールスター」は2013年3月16日ダイヤ改正で1往復が増発され、1.5往復となったが、2022年3月ダイヤ改正で下り列車が廃止され、上り列車2本のみとなり、2023年3月改正では再び上り1本のみとなっている。 2012年3月改正以降、普通個室はこだま運用時は利用できなかったが、2020年8月6日以降一部のこだまで普通個室が利用できるようになった。博多南線では2022年8月17日以降、一部の列車で普通個室が利用できるようになった。 2023年4月1日現在、本系列で車籍を有するのは8両編成の本番台のみである。 2003年10月1日の新幹線品川駅開業に合わせて「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンが開始されるのに伴い、C編成では先頭車の側面ライン中央を切断する形で「AMBITIOUS JAPAN!」のロゴが表記され、300系を含む一部車両の客用ドア横には円形の「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーが貼付された。 このキャンペーンは東海道新幹線の開業40周年、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)開催に合わせて当初の予定より延長されたが、その閉幕に伴って終了となり「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーも2005年9月頃より全般検査などで入場した車両から順次撤去され、同年10月末には全編成の撤去が完了した。 なお、リニア・鉄道館の2019年度冬のイベント、「ありがとう700系新幹線」において、2020年1月8日から3月13日、保存されている700系723-9001に、「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーの装飾が施された。 JR東海では、廃車発生品のアルミニウム車体から不純物を除去し高純度のアルミ合金のみを取得する特許(日本第6786689号、名義は系列企業の東京ステーション開発)を取得しており、子会社のジェイアール東海商事を通じて内装や建材等の形で販売している。 このうち一部は、東京ステーション開発が運営する東京駅一番街の土産物店街「東京ギフトパレット」の外装(店舗の軒先)に再利用している。2021年4月には、同月に名古屋駅近くの高島屋内にオープンする「THE BODY SHOP タカシマヤ ゲートタワーモール店」にて、再生アルミを使用した装飾や什器類を提供している。また、N700S系の内装部品に700系の車体を再利用している。 この他、723-9(C10編成1号車)の先頭部の左半分がジェイアール名古屋タカシマヤの催事に合わせ、同所にて2014年7月から8月にかけて展示されていた。展示終了後の処遇は不明。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新幹線700系電車(しんかんせん700けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道に在籍し、かつて東海旅客鉄道に在籍した、東海道・山陽新幹線用第4世代新幹線電車である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "0系・100系の置き換え用として、適度の製造・保守コストで東海道・山陽新幹線全体の高速化を図るべく、JR東海とJR西日本が共同で開発し、1997年秋に先行試作車1編成16両が落成し、各種試験がなされたのちに1999年(平成11年)に営業運転を開始した。最高速度は285 km/h。また、内外装を山陽新幹線向けに特化させた7000番台も2000年に登場した(詳細は「ひかりレールスター」を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "製造は日本車輌製造・日立製作所笠戸事業所・川崎重工業車両カンパニー・近畿車輛が担当し、91編成、1,328両が製造された。1編成16両の価格は約40億円である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "JR東海が発注したC編成とJR西日本が発注したB編成およびE編成では、走行機器を中心に相違点が存在する。それについては各節で詳述する。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "車体についてはアルミニウム合金製で、制振材を挟み込んだダブルスキン構造を採用しており、車内騒音に配慮しつつ軽量かつ低コストな構造となっている。普通車の側窓寸法は天地590 mm×幅700 mm、窓框高さは300系と同じ710 mmである。車体断面は幕板部分が窓上から屋根に向かって緩やかに絞られるようになり、これが客扉窓の高さに関係してくる。制振材は神戸製鋼所が開発したアルミ制振形材「ダンシェープ」(特許取得)であり、床板、腰板、天井など各部の中空形材内部に充填されており、騒音や振動の大幅な低減が図られている。ただし、神戸製鋼所で特許の使用が認可された同業他社製の制振形材も使用されている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "先頭形状は、500系と同等のトンネル微気圧波対策効果を短いノーズで実現するために、エアロストリーム型という独特の形状を成している(後述)。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "先頭車両の連結器カバーは、C18・E15編成までは2段階に分離するようになっており、連結器を使用するときはリング状に開くが、C19編成以降とE16編成、B編成(全編成)では継ぎ目の間隔が短くなった。そのため取り付け部の造作も若干異なる。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "行先表示器はC編成が幕式に対し、E・B編成は3色発光ダイオード (LED) を用いた電光式を採用している。編成・車両番号表記の書体はスミ丸ゴシックである、運転席窓ワイパーが停止位置がC編成は斜めであるが、B・E編成は垂直になっていて異なるなど、細部で違いがみられる。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、先頭車の乗務員室と客室の扉上部にある雨樋が乗務員室用と客室用で分かれていた。しかし増備の途中から雨樋は一体化したものとなり、現在ではすべてのC編成とB4 - B15・E16編成が一体タイプとなっている。B1 - B3・E1 - E15編成は現在まで雨樋は分離している。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "初期車は客扉の窓が平面ガラスで位置が若干低く、2001年製造のC29編成から曲面ガラスを使用した。なお、JR西日本所有のB・E編成は一貫して低い。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "500系まで乗務員室の外の握り棒は金属の手すりを埋め込んで設置したが、本系列から停車中にはフタが開き握れて、発車後5 km/h以上になるとフタが閉じ走行中の空力抵抗を低減する仕組みになっている。乗務員室内には、その旨を示すステッカーが貼られているのが乗務員室を覗くと見える。ただしE編成には従来同様金属の手すりが設置されている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1号車である723形の車体上部には、四角い箱状の空間波アンテナが搭載されているが、2004年度以降の増備編成は東海道・山陽新幹線全線のLCX化が完了したため、アンテナは搭載されていない。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "0系以降、東海道・山陽新幹線において運転台上にあった屋根上の静電アンテナは、本系列で初めて先頭車両の連結面側に移った。これは、以降の800系やN700系も同様である。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "標識灯は、運転席の下に、ヘッドライト2灯とテールライト1灯が両側に配置されている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "塗装は300系までと同じく、車体全体を白■で塗装し、側面に青帯■を配する。この青帯は、300系では(上)細/(下)太だが、本系列では(上)太/(下)細に変更され、N700系でも踏襲された。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "C・B編成には形式のロゴマークが貼り付けられており、B編成では運転席脇に青字で「JR700」の文字が表記されている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "新幹線の高速運行と快適性を両立させるための問題の一つとして、トンネル突入時に発生する、トンネル微気圧波による衝撃音の軽減がある。これを解消する方法の一つとしては「ノーズ部分の伸長」という手法があり、JR西日本が独自開発した500系では300 km/hでの営業運転を実現させるため15 mものロングノーズを採用したが、このために先頭車の乗車定員が減少するという欠点があった。また、300系以来問題となっていた、トンネル内などで左右に振られた気流の乱れによって車体が振られるという点も未解決であった。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そこで、700系の先頭形状の開発に当たっては、航空機の設計手法の一つである「エリアルール」を応用し、従来の先頭形状であった楔形の下に車体幅いっぱいに水平の張り出しを設け、これを飛行機の翼に見立てると共に運転席部分の幅を狭めて飛行機の垂直尾翼に見立てた空力設計を採用することで、ノーズの長さを9.2 mにとどめながらトンネル微気圧波を軽減させると共に、トンネル内での車体の動揺を抑えることを実現した。この形状を、新幹線デザインチームの一員として開発に携わった公共デザイナーの福田哲夫らは「エアロストリーム形」と呼称した。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この形状は動物のカモノハシに似ていると称され、トップ・ギアのジェームズ・メイも言及しているが、偶然の一致であるという(500系とカワセミの類似については、開発責任者が言及している)。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、この形状は、最高速を285 km/hに抑えることを前提にノーズが短くなるよう開発されたため、それ以上の速度で走行した場合は想定を上回ることになる。後継車両のN700系では、遺伝的アルゴリズムを採用し、500系と同等の300 km/hを想定しつつもノーズ延長を1.5 mとごくわずかに抑えた「エアロ・ダブルウィング」形状を採用している。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "500系の4両1ユニットを継承しつつ1ユニットあたりの電動車両数を減らすことにより、車両製作費や車両整備費の低減と軸重の分散を実現している。4両1ユニットを2組もしくは4組組み合わせて編成を組成する。M車に主変圧器を、M1車に主変換装置1台、M2車に主変換装置2台、T車に補機類を搭載する。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "主変換装置は、IGBT素子を利用したPWMコンバータ1基+VVVFインバータ1基で構成されており、富士電機が原設計を担当した。IGBT素子はスイッチング周波数がGTO素子よりも高いため、発車・停車時にGTOサイリスタ装備の300・500系で顕著だった、かご形三相誘導電動機からの磁励音が低減された。また、2.5 kV、1.8 kA級の大容量IGBT素子を採用することで小型軽量化を達成した。制御方式も300系の2レベル制御から3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、ひずみ成分波の抑制を図っている。主変換装置内部には冷却用として、インバータユニット側に主電動送風機、コンバータユニット側に補助電動送風機が搭載されている。E・B編成に搭載されるWPC200は制御方式は同一であるものの、車両基地の設備的相違の観点から車側点検・取り外し方式を採用している。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "主変圧器は4,160 kVAの容量を備える。強制風冷式外鉄形であるが、軽量化の観点からアルミコイルとした。主回路用の二次巻線は3分割され、それぞれに主変換装置のコンバータ部が接続される。補助電源用の三次巻線は500 kVAの定格容量を備え、単相交流430 V・60 Hzを出力する。量産先行車C1編成にはTTM3、C編成量産車にはTTM3A、E・B編成にはWTM206が搭載されるが性能は同一である。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "補助電源装置は主変圧器の三次巻線を電源とし、直流100 V・36 kW、交流100 V・5 kVAの容量を有するIGBT素子を使用した静止形インバータである。このほかに、補助トランスによる交流100 V・10 kVAを有する。E・B編成では客室内コンセント使用による電源負荷増大を考慮し、C編成と同等の性能を持つWSC209に加えて安定化電源を3基(E編成)もしくは6基(B編成)搭載し、蓄電池も6台から7台に増強した。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "空気圧縮機には、静粛性で評価の高いスクロール式を採用する。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "主電動機は、かご形三相誘導電動機を電動車1両あたり4基搭載する。300系で実績のあるフレームレス構造、アルミブラケット構造を採用して軽量化を図り、電蝕防止の観点から絶縁軸受を採用した。連続定格出力は275 kWである。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ブレーキについては、300系、500系にひきつづき、電動車には電力回生ブレーキを、付随車には渦電流式ディスクブレーキを採用している。渦電流式ディスクブレーキは、車両重量バランスの改善と電動車の割合が上がったことから300系から半減されて1軸1機とされている。また、緊急制動時の滑走対策として500系に装備されていたセラミック噴射装置を1号車第1軸と16号車(8両編成の場合は8号車)第4軸に採用して制動距離の短縮を図っている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "台車は、C編成にはTDT204、TTR7002を装備する。300系のものをベースとした、コイルばねと円筒積層ゴムを併用したウイングばね式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の上部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "E・B編成は、500系用の台車をベースにした軸梁式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の側端部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されたWDT205A、WTR7002を装備している。円筒コロ軸によるグリス潤滑軸受けが特徴である。WDT205Aは、主電動機の相違以外は500系のものと互換性がある。WTR7002はWDT205Aをベースにモーターを廃し、渦電流式ディスクブレーキ用コイルを搭載した。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "歯数比がそれぞれ異なるため、制御装置の特性を変更して加速特性をそろえている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "C19編成以降のグリーン車では駆動装置をWN駆動方式からTD平行カルダン駆動方式に変更した。新幹線車両においてTD平行カルダン駆動方式は本系列が初の採用例となった。従来は高速運転時の耐久性の点からWN駆動方式が採用されてきたが、300系や700系C1編成を用いた試験走行の結果、TDカルダンに用いられるたわみ板の耐久性が向上したことから、保守が容易で静粛性に優れる本方式に変更された。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "集電装置は新たに開発されたシングルアームパンタグラフをM1車の内5・12号車に搭載している。パンタグラフは主枠の中にイコライザーアームを通した物となっており、さらにスライダーのホーン部分に小さな穴を開けることで、パンタグラフ自体から発生する騒音を軽減する構造になっている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "前後に設けたスロープ状の碍子カバーと、車体側面に設けた遮音板によって風切り音と空力抵抗の低減を図っている。遮音板はC編成が灰色、E編成、B編成およびJR西日本に転属したC編成は白である。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "各ユニット間は特高圧引き通し線によって電気的に接続され、16両編成であるC・B編成は、4 - 5・8 - 9・12 - 13号車間はケーブルヘッドによる、それ以外の箇所は直ジョイントによる接続がなされている。8両編成であるE編成は、E12編成までは全車両間が直ジョイントによる接続であった。しかしE13 - E16編成は、新造時から4 - 5号車間がケーブルヘッドによる接続に改められたため既存編成にもケーブルヘッド化工事が実施された。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "300系の導入後、利用客から相次いだ乗り心地に関する苦情を反映し、セミアクティブサスペンションや特性を改善した空気ばね、車体間ダンパなど、随所に乗り心地改善のための工夫が施されている。なお、車体間ダンパは、500系では取り付け部の根元が隠れていたが、本系列は取り付け部までを露出させ、保守作業を容易にしており、これは後継のN700系にも受け継がれている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、車両の状態を逐次監視および記録するため32ビットコンピュータを利用したデータモニタ装置を搭載している。得られた走行中の各種データは運転台のモニタディスプレイに表示されるほか、メンテナンス時の参考データとして活用され整備作業の効率化に貢献している。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "走行時のエネルギー消費も270 km/h走行時の利用客一人当たりの消費エネルギーが14.7 kWh、300系:16.0 kWh、0系:17.5 kWhと高効率となっている。", "title": "車体" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "16両編成の場合、8 - 10号車がグリーン車、他は普通車で構成されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "座席配置は300系と共通である。また300系以降、車体軽量化の一環で座席クッションからスプリングを廃し、重ねたポリウレタンを用いている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "内装はC編成とB編成で異なり、号車表示の位置も違う。C編成の普通車は明るい色調で座席モケットが水色であるのに対し、B編成では濃い紺色である。このため乗車した際の印象が異なる。また、座席の形状も異なる。全体的な車内の構造は300系と比較して、普通車が直接照明となり天井の構造が簡略化された他、C編成では壁面および仕切扉のデザインも簡素化されていることなど、コストダウンの影響が現れている。しかし最大天井高さは2,200 mmとなり、視覚面でも居住性が向上している。グリーン車はC・B編成ともに300系の間接照明から、暖色系の蛍光灯を使用した半間接照明となっている。蛍光灯カバーのデザインはC・B編成で異なっている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "300系で問題となった空調装置の効きの悪さは、基本能力の向上だけではなく、ダブルスキン構造による断熱効果の向上と、吹出し口を天井近くから荷物棚下に移設することによるダクト長の短縮などによって大幅に改善されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "またこの系列から東海道・山陽新幹線の車両に設けられてきた冷水機が廃止され、700系以前の系列の冷水機も開口部が塞がれ使用できなくなった。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2001年度以降に落成したC25編成以降とすべてのB編成では、各車両両端の座席にコンセントと縦に長いテーブルを設けたほか、ユニバーサルデザインの一環として座席肩部の手掛けやドアチャイムが設置されている。グリーン席ではC編成では座席背面のテーブルがあるのに対し、B編成は肘掛収納のテーブルが二段折り畳み式となっている他、読書灯スイッチの位置も異なる。グリーン車の各座席にはオーディオサービス用のコントロールパネルが設置されていたが、2013年春のオーディオサービス終了に伴い撤去され板がはめ込まれた。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお、車体の軽量化と強度確保のため、窓の寸法は先述の通り300系・500系に比べて小型化されている。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "デッキと独立した電話室が2・4・6・8・10・12・14号車博多寄りと15号車東京寄りのそれぞれのデッキに備えられるが、携帯電話の普及に伴い最終的に2・6・12・15号車まで削減された。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "8両編成のE編成は、「ひかりレールスター#編成・車内」の項目を参照。", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "運転席の座席には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防するため、500系でも採用されたレカロ製のセミバケットタイプの事務椅子「RECARO 24H CHAIR」を採用。シートモケットは客室用に合わせている", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "JR東海0番台・初期車", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "JR東海0番台・後期車", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "JR西日本3000番台車", "title": "車内" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両電動車 3両と付随車 /ユニットを構成する。M1車に集電装置を搭載している関係から、C・B編成とE編成ではユニット内の車両連結順が異なる。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "量産先行試作編成であるC0編成は9000番台を、量産型C編成は0番台を、B編成は3000番台を、E編成は7000番台を名乗る。", "title": "形式および車種" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "先行試作車のC0編成(9000番台)は1997年秋に完成し、10月3日に浜松工場で報道陣に公開され、10月27日から約1年半にわたって走行実験が行われた。8両編成での走行試験(1・5・6・7・10・11・12・16号車連結)や、東海道新幹線で300 km/h、山陽新幹線で310 km/hの速度向上試験も行われた後、量産化改造を受けてC1編成として1999年秋から営業運転に充当された。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "量産編成との差異は以下の通り。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "それらに加え、量産化改造を実施する前の外観は以下のようなものだった。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "JR東海保有の0系・100系を置き換えるために増備された。2004年には2005年愛・地球博の輸送力増強に備えてC55〜C60編成が増備された。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2003年10月の品川開業ダイヤ改正による「のぞみ」の運転本数大増発により、C編成は主に定期「のぞみ」に充当されていたが、「ひかり」にも使用された。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "設計段階から300系と乗車定員の互換性がとられており、臨時の「のぞみ」が時刻表では300系使用となっていたが700系に変更される場合も多かった。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "JR東海・JR西日本では2012年3月の300系営業運転終了に関連して、JR西日本に所属する300系F編成を置き換えるため2011年10月20日にJR東海のC編成8本をJR西日本に譲渡予定であることが両社から発表され、この発表以前にもC17編成を皮切りにC11・C12編成が移籍していた。なお、C11・C12編成はJR西日本への入籍日の翌日付でJR東海での除籍が行われており、1日だけ両社の車籍を有していた。その後2012年3月までにC13 - C16・C18編成も移籍し、移籍編成は車体外部車両番号表記横のJRマークの色や車内チャイム・車内ステッカーが変更されている。また、移籍後に全般検査を受けた編成はパンタグラフカバーがグレーから白に変更されていた。JR西日本に転属したC編成はB編成と共通運用とされた。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2011年7月4日付でC4編成が博多総合車両所へ回送され廃車となり、700系初の廃車となった。JR西日本では2015年度下期以降、N700系4000番台F編成の増備に伴いC編成の廃車が始まり、C11編成が2017年2月10日付で廃車されたのを最後に、JR西日本に移籍したC編成は消滅した。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2012年3月17日改正では定期「のぞみ」運用から離脱し、臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用されていたが、2019年3月16日改正以降は定期「こだま」の2.5往復のみの運行となった。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "JR東海は、東海道新幹線の車両を2020年(令和2年)春までにN700A系で統一すると発表し、同年3月8日に運転される最終臨時列車「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」をもって、C編成ならびに東海道新幹線における本系列の営業運転を終了することを明らかにし、C編成は2019年(令和元年)12月1日の「こだま636号」を最後に定期運用を終了した。また、JR東海が保有する700系C53・C54編成に、2020年2月12日からヘッドマークおよびサイドステッカーによる車体装飾が行われたが、「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」は新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため運休が決定し、下りは同年2月28日東京発新大阪行のぞみ399号と2月29日団体専用列車、上りは2月28日新大阪発東京行のぞみ406号と3月1日団体専用列車をもって、東海道新幹線における営業運転を終了、C54編成の廃車を最後に本番台は消滅し、解体された。また、これに伴い新幹線車両の方向幕も消滅した。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東海道新幹線での営業運転終了後も、700系を基にした923形「ドクターイエロー」や、JR西日本所属のE編成とB編成の運用は継続されていたが、B編成も2020年3月13日をもって定期運用が終了し、B4編成以外はすべて廃車された。2020年3月改正以降波動用車両としてB4編成が全車禁煙車に改造されたうえで残され、営業運転に使用されたこともあるが、2021年2月28日に廃車され、3000番台は消滅した。その後も923形「ドクターイエロー」の運用は続けられている。7000番台は廃車が発生していない。これにより東海道・山陽新幹線は全列車禁煙となったが、喫煙車を過去1度も運行したことがない九州新幹線も含め、2022年時点でも指定券に「全席禁煙」の表記を続けている。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2001年に、100系V編成グランドひかりを置き換えるために3編成が製造された。当初「ひかり」での運用だったが、2003年10月の品川開業ダイヤ改正で、「のぞみ」の運転本数が大幅に増えたことにより「のぞみ」にも使用された。2011年3月12日改正で定期「のぞみ」運用から離脱し、以後臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用された。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2019年12月20日の上り「のぞみ」180号(充当編成:B6編成)、同年12月22日の下り「のぞみ」189号(充当編成:B14編成)をもって、東京駅 - 博多駅間での「のぞみ」への充当が終了、2020年2月28日の上り「のぞみ」374号、下り「のぞみ」399号(両方ともB4編成が充当)をもって東海道新幹線東京駅 - 新大阪駅間での運用を終了、同年3月13日には山陽新幹線内でも運用(ひかり441号・B4編成)が終了、これをもって全定期運用が終了した。B編成は定期運用終了後波動用車両としてB4編成が残され、B4編成は全般検査を受け、博多総合車両所~新山口間を試運転として走行した。B4編成は喫煙車が廃止されたが、喫煙ルームが設置されず、全車禁煙車に改造された。B4編成は2020年8月8日・9日の500系の代走に使用され、この代走運用がB編成の事実上の最終運用となった。その後は営業運転に就かず、2021年2月28日付で車籍を抹消されて廃車・解体された。", "title": "東海道・山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "山陽新幹線・博多南線で使用される編成(全車がJR西日本に所属)。当初は2000年3月11日改正で運行を開始した「ひかりレールスター」を中心に投入され、現在では主に山陽新幹線区間内のみを運行する「こだま」と博多南線で運用される。", "title": "山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2011年3月12日ダイヤ改正では九州新幹線博多駅 - 新八代駅間開業により山陽新幹線と九州新幹線の直通が開始されたのと引き替えに「ひかりレールスター」の本数が大幅に削減されたことから「こだま」運用が増加し、老朽化した100系5000番台を淘汰した。2012年3月17日改正ではさらに山陽区間「こだま」の運用が増え、100系5000番台の運用をすべて置き換え、「ひかりレールスター」は上り1本のみとなった。その後「ひかりレールスター」は2013年3月16日ダイヤ改正で1往復が増発され、1.5往復となったが、2022年3月ダイヤ改正で下り列車が廃止され、上り列車2本のみとなり、2023年3月改正では再び上り1本のみとなっている。", "title": "山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2012年3月改正以降、普通個室はこだま運用時は利用できなかったが、2020年8月6日以降一部のこだまで普通個室が利用できるようになった。博多南線では2022年8月17日以降、一部の列車で普通個室が利用できるようになった。", "title": "山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2023年4月1日現在、本系列で車籍を有するのは8両編成の本番台のみである。", "title": "山陽新幹線向けの編成" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2003年10月1日の新幹線品川駅開業に合わせて「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンが開始されるのに伴い、C編成では先頭車の側面ライン中央を切断する形で「AMBITIOUS JAPAN!」のロゴが表記され、300系を含む一部車両の客用ドア横には円形の「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーが貼付された。", "title": "「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンとの連動企画" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "このキャンペーンは東海道新幹線の開業40周年、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)開催に合わせて当初の予定より延長されたが、その閉幕に伴って終了となり「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーも2005年9月頃より全般検査などで入場した車両から順次撤去され、同年10月末には全編成の撤去が完了した。", "title": "「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンとの連動企画" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、リニア・鉄道館の2019年度冬のイベント、「ありがとう700系新幹線」において、2020年1月8日から3月13日、保存されている700系723-9001に、「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーの装飾が施された。", "title": "「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンとの連動企画" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "JR東海では、廃車発生品のアルミニウム車体から不純物を除去し高純度のアルミ合金のみを取得する特許(日本第6786689号、名義は系列企業の東京ステーション開発)を取得しており、子会社のジェイアール東海商事を通じて内装や建材等の形で販売している。", "title": "廃車後" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "このうち一部は、東京ステーション開発が運営する東京駅一番街の土産物店街「東京ギフトパレット」の外装(店舗の軒先)に再利用している。2021年4月には、同月に名古屋駅近くの高島屋内にオープンする「THE BODY SHOP タカシマヤ ゲートタワーモール店」にて、再生アルミを使用した装飾や什器類を提供している。また、N700S系の内装部品に700系の車体を再利用している。", "title": "廃車後" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "この他、723-9(C10編成1号車)の先頭部の左半分がジェイアール名古屋タカシマヤの催事に合わせ、同所にて2014年7月から8月にかけて展示されていた。展示終了後の処遇は不明。", "title": "廃車後" } ]
新幹線700系電車(しんかんせん700けいでんしゃ)は、西日本旅客鉄道に在籍し、かつて東海旅客鉄道に在籍した、東海道・山陽新幹線用第4世代新幹線電車である。
{{混同|新幹線N700系電車|新幹線N700S系電車}} {{鉄道車両 | 車両名 = 新幹線700系電車 | 背景色 = black | 文字色 = white | 画像 = JR Central Shinkansen 700.jpg | 画像説明 = [[静岡県]]内を走行する700系0番台<br />(2008年1月2日 静岡駅 - 掛川駅間) | 運用者 = [[東海旅客鉄道]]<br />[[西日本旅客鉄道]] | 製造所 = [[日本車輌製造]]<br />[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]<br />[[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]<br />[[近畿車輛]]<small>(E・B編成)</small> | 製造年 = 先行試作車: 1997年<br />量産車: 1999年 - 2006年 | 製造数 = 91編成1,328両 | 運用開始 = 1999年3月13日 | 運用終了 = 2019年12月1日(C編成・定期運用)<br /> 2020年3月13日(B編成・定期運用) | 引退 = 2020年3月1日(C編成)<ref name="end" /> <br />2020年8月9日(B編成)<ref name="DJ469-104" /> | 投入先 = [[東海道新幹線]]<br />[[山陽新幹線]]<br />[[博多南線]] | 編成 = 16両([[MT比|12M4T]]<ref group="**" name="700 spec">{{Cite book|和書|editor=日本機械学会|title=高速鉄道物語 -その技術を追う-|year=1999|publisher=成山堂書店|pages=p.45|id= ISBN 4-425-92321-9}}</ref> / C・B編成)<br />8両(6M2T / E編成) | 軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] | 電気方式 = 交流25,000 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]] | 最高運転速度 = 270 [[キロメートル毎時|km/h]]:東海道新幹線<br/>285 km/h:山陽新幹線<ref group="**" name="700 spec" /><br/>120 km/h:博多南線 | 設計最高速度 = 300 km/h(ATC頭打ち速度)<ref group="**" name="RF2001_11_74">『鉄道ファン』2001年11月号、交友社、p.74</ref> | 起動加速度 = 2.0 [[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]] | 常用減速度 = 2.7 km/h/s<ref group="**">初速285 km/h時、ATC</ref> | 編成定員 = C・B編成 - 1,323名(うちグリーン車200名)<br />E編成 - 571名(普通車のみ) | 車両定員 = | 自重 = | 編成重量 = 708 [[トン|t]](16両編成) | 編成長 = 404.7 [[メートル|m]](16両編成)<ref group="**" name="700 spec" /> | 全長 = 27,350 [[ミリメートル|mm]](先頭車)<ref group="**" name="700 spec" /><br />25,000 mm(中間車)<ref group="**" name="700 spec" /> | 全幅 = 3,380 mm<ref group="**" name="700 spec" /> | 全高 = | 車体長 = | 車体幅 = | 車体高 = 3,650 mm<ref group="**" name="700 spec" /> | 車体材質 = [[アルミニウム合金]] | 台車 = TDT204、TTR7002:コイルばね併用円筒積層ゴム式ボルスタレス台車(C編成)<br />WDT205A、WTR7002:軸梁式ボルスタレス台車(E・B編成) | 主電動機 = [[かご形三相誘導電動機]]<br />TMT6,TMT7(C1編成)<br />TMT6A,TMT7A(C2 - C60編成)<br />WMT205(E・B編成) | 主電動機出力 = 275 [[キロワット|kW]]/基 | 駆動方式 = [[WN駆動方式]]<br />[[TD平行カルダン駆動方式]](C19編成以降のグリーン車のみ) | 歯車比 = 2.93(C1編成)<ref group="**" name="700 spec" /><br />2.96(C編成)<ref group="**" name="700 spec" /><br />2.79(E・B編成) | 編成出力 = C・B編成- 13,200 kW<br />E編成 - 6,600 kW | 制御方式 = [[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]<ref group="**" name="700 spec" /> | 制御装置 = | 制動装置 = [[回生ブレーキ|回生併用]][[電気指令式ブレーキ]](応荷重装置付き)<ref group="**" name="700 spec" />、[[渦電流式ディスクブレーキ|渦電流ブレーキ]]<ref group="**" name="700 spec" /> | 保安装置 = [[自動列車制御装置#ATC-1型(東海道・山陽型)|ATC-1型]]、[[自動列車制御装置#ATC-NS|ATC-NS]] | 備考 = {{Reflist|group="**"}} | 備考全幅 = {{ローレル賞|40|2000|link=no}} }} '''新幹線700系電車'''(しんかんせん700けいでんしゃ)は、[[西日本旅客鉄道]]に在籍し、かつて[[東海旅客鉄道]]に在籍した、[[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]]用第4世代[[新幹線車両|新幹線]][[電車]]である。 ==概要== [[新幹線0系電車|0系]]・[[新幹線100系電車|100系]]の置き換え用として、適度の製造・保守コストで[[東海道・山陽新幹線]]全体の高速化を図るべく、JR東海とJR西日本が共同で開発し、[[1997年]]秋に先行試作車1編成16両が落成し、各種試験がなされたのちに[[1999年]](平成11年)に営業運転を開始した。最高速度は285{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]。また、内外装を山陽新幹線向けに特化させた7000番台も2000年に登場した(詳細は「[[ひかりレールスター]]」を参照)。 製造は[[日本車輌製造]]・[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]]・[[川崎車両|川崎重工業車両カンパニー]]・[[近畿車輛]]が担当し、91編成、1,328両<ref group="注">0・9000番台C編成60本、3000番台B編成15本、7000番台E編成16本。</ref>が製造された。1編成16両の価格は約40億円である<ref>{{Cite news |title= 最新型700系車両を公開 |newspaper=[[中日新聞]] |publisher=[[中日新聞社]] |date=1997-10-04 |page=24(朝刊) }}</ref>。 == 車体 == JR東海が発注したC編成とJR西日本が発注したB編成およびE編成では、走行機器を中心に相違点が存在する。それについては各節で詳述する。 === 外観 === [[File:700nozomi.JPG|200px|thumb|left|独特なカーブを描く700系の先頭形状(写真左)<br />(2007年9月11日 東京駅)]] 車体については[[アルミニウム合金]]製で、制振材を挟み込んだ[[ダブルスキン構造]]を採用しており、車内騒音に配慮しつつ軽量かつ低コストな構造となっている。普通車の側窓寸法は天地590 mm×幅700{{nbsp}}mm、窓框高さは300系と同じ710{{nbsp}}mmである。車体断面は幕板部分が窓上から屋根に向かって緩やかに絞られるようになり、これが客扉窓の高さに関係してくる。制振材は[[神戸製鋼所]]が開発したアルミ制振形材「[[ダブルスキン構造#ダンシェープ|ダンシェープ]]」(特許取得)であり、床板、腰板、天井など各部の中空形材内部に充填されており、騒音や振動の大幅な低減が図られている<ref name="KOBECO100">神戸製鋼所『神戸製鋼100年 1905-2005』pp.173・380。</ref><ref name="Nikkan1999-5">日刊工業新聞社『工業材料』1999年5月号あの製品にこの材料「700系 のぞみ の騒音を抑えるアルミ制振形材」p.9。</ref>。ただし、神戸製鋼所で特許の使用が認可された同業他社製の制振形材も使用されている<ref name="Nikkan1999-5"/>。 先頭形状は、500系と同等の[[トンネル微気圧波]]対策効果を短いノーズで実現するために、[[#先頭形状|エアロストリーム]]型という独特の形状を成している(後述)。 先頭車両の連結器カバーは、C18・E15編成までは2段階に分離するようになっており、連結器を使用するときはリング状に開くが、C19編成以降とE16編成、B編成(全編成)では継ぎ目の間隔が短くなった。そのため取り付け部の造作も若干異なる。 [[方向幕|行先表示器]]はC編成が幕式<ref group="注">新製時に幕式タイプの行先表示器を採用した新幹線車両としては最後のものとなる。</ref>に対し、E・B編成は3色[[発光ダイオード]] (LED) を用いた電光式を採用している。編成・[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記の[[書体]]はスミ[[丸ゴシック体|丸ゴシック]]である、運転席窓ワイパーが停止位置がC編成は斜めであるが、B・E編成は垂直になっていて異なるなど、細部で違いがみられる。 <gallery> Central Japan Railway - Series 700-0 - Destination Sign - 01.JPG|C編成<br />行先表示 Central Japan Railway - Series 700-0 - Seat Sign - 01.JPG|C編成<br />指定席表示 West Japan Railway - Series 700-3000 - Destination Sign - 01.JPG|B編成<br />行先表示 700kei shiteiseki.jpg|B編成<br />指定席表示 </gallery> また、先頭車の乗務員室と客室の扉上部にある[[樋 (建築)|雨樋]]が乗務員室用と客室用で分かれていた。しかし増備の途中から雨樋は一体化したものとなり、現在ではすべてのC編成とB4 - B15・E16編成が一体タイプとなっている。B1 - B3・E1 - E15編成は現在まで雨樋は分離している。 初期車は客扉の窓が平面ガラスで位置が若干低く、[[2001年]]製造のC29編成から曲面ガラスを使用した。なお、JR西日本所有のB・E編成は一貫して低い。 500系まで乗務員室の外の握り棒は金属の手すりを埋め込んで設置したが、本系列から停車中にはフタが開き握れて、発車後5{{nbsp}}km/h以上になるとフタが閉じ走行中の空力抵抗を低減する仕組みになっている。乗務員室内には、その旨を示すステッカーが貼られているのが乗務員室を覗くと見える。ただしE編成には従来同様金属の手すりが設置されている。 1号車である723形の車体上部には、四角い箱状の空間波アンテナが搭載されているが、2004年度以降の増備編成は東海道・山陽新幹線全線の[[同軸ケーブル|LCX]]化が完了したため、アンテナは搭載されていない。 0系以降、東海道・山陽新幹線において運転台上にあった屋根上の静電アンテナは、本系列で初めて先頭車両の連結面側に移った。これは、以降の800系やN700系も同様である。 標識灯は、運転席の下に、ヘッドライト2灯とテールライト1灯が両側に配置されている。 塗装は300系までと同じく、車体全体を白{{Color|#f8f8f8|■}}で塗装し、側面に青帯{{Color|#0701c7|■}}を配する。この青帯は、300系では(上)細/(下)太だが、本系列では(上)太/(下)細に変更され、N700系でも踏襲された。 C・B編成には形式の[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が貼り付けられており、B編成では運転席脇に青字で「JR700」の文字が表記されている。 <gallery> Shinkansen Series 700 Symbol.JPG|700系ロゴ JRW Shinkansen Series 700 B12 sets 723-3012.jpg|JR西日本所有(B編成) </gallery> ==== 先頭形状 ==== [[画像:700 series train at Tokyo Station 02.jpg|250px|thumb|right|700系電車の先頭部]] 新幹線の高速運行と快適性を両立させるための問題の一つとして、[[トンネル]]突入時に発生する、トンネル微気圧波による衝撃音の軽減がある。これを解消する方法の一つとしては「ノーズ部分の伸長」という手法があり、JR西日本が独自開発した500系では300{{nbsp}}km/hでの営業運転を実現させるため15{{nbsp}}mものロングノーズを採用したが、このために先頭車の乗車定員が減少するという欠点があった。また、300系以来問題となっていた、トンネル内などで左右に振られた気流の乱れによって車体が振られるという点も未解決であった。 そこで、700系の先頭形状の開発に当たっては、[[航空機]]の設計手法の一つである「[[エリアルール]]」を応用し、従来の先頭形状であった楔形の下に車体幅いっぱいに水平の張り出しを設け、これを飛行機の翼に見立てると共に運転席部分の幅を狭めて飛行機の垂直尾翼に見立てた空力設計を採用することで、ノーズの長さを9250mm<ref>{{Cite book|和書 |title=新幹線車両大全2023-2024 イカロスMOOK |date=2023/3/31 |year=2023 |publisher=イカロス出版 |page=70}}</ref>にとどめながらトンネル微気圧波を軽減させると共に、トンネル内での車体の動揺を抑えることを実現した<ref>{{Cite web|和書|url=https://online.sbcr.jp/2015/09/004108.html|title=揺れを止めた700系新幹線の機能的な"カタチ"――"カモノハシ"生みの親が明かすデザインの秘密|author=金丸信丈|website=SBクリエイティブOnline|date=2015-09-09|accessdate=2020-08-01}}</ref>。この形状を、新幹線デザインチームの一員として開発に携わった公共デザイナーの福田哲夫らは「'''エアロストリーム'''形」と呼称した。 この形状は動物の[[カモノハシ]]に似ていると称され、[[トップ・ギア]]の[[ジェームズ・メイ]]も言及しているが、偶然の一致であるという(500系と[[カワセミ]]の類似については、開発責任者が言及している)。 しかし、この形状は、最高速を285{{nbsp}}km/hに抑えることを前提にノーズが短くなるよう開発されたため、それ以上の速度で走行した場合は想定を上回ることになる。後継車両のN700系では、[[遺伝的アルゴリズム]]を採用し、500系と同等の300{{nbsp}}km/hを想定しつつもノーズ延長を1.5{{nbsp}}mとごくわずかに抑えた「エアロ・ダブルウィング」形状を採用している。 === 走行機器 === ==== 電源・制御装置 ==== {{Sound|JR west 700series hikari 374 railstar 727-7109 kokura.ogg|727-7109の走行音(374A ひかり374号レールスター、5号車)|(山陽新幹線 博多-小倉間、2003年9月27日)}} {{Sound|JR central 700series nozomi 387 717-53 shinosaka.ogg|717-53の走行音(9387A のぞみ387号、10号車)|(東海道新幹線 京都-新大阪間、2011年7月18日)}} [[File:Uzu-brake.JPG|200px|thumb|700系に搭載されている渦電流ブレーキ]] [[ファイル:JR West 700-7000 725-7608 WDT205A.jpg|200px|thumb|700系7000番台の台車WDT205A]] 500系の4両1ユニットを継承しつつ1ユニットあたりの電動車両数を減らすことにより、車両製作費や車両整備費の低減と軸重の分散を実現している。4両1ユニットを2組もしくは4組組み合わせて編成を組成する。M車に主変圧器を、M1車に[[主変換装置]]1台、M2車に主変換装置2台、T車に補機類を搭載する。 主変換装置は、[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]][[半導体素子|素子]]を利用したPWMコンバータ1基+VVVFインバータ1基で構成されており<ref name="Fuji TEC700 IGBT">{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/71-02/FEJ-71-02-123-1998.pdf 大容量車両用・産業用IGBT]}}富士時報 第71巻第2号(1998年)、[[富士電機]]</ref>、富士電機が原設計を担当した<ref name="Fuji TEC700 1998">{{PDFlink|[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/71-01/FEJ-71-01-042-1998.pdf 技術成果と展望 交通システム]}}富士時報 第71巻第1号(1998年)、富士電機</ref>。IGBT素子はスイッチング[[周波数]]がGTO素子よりも高いため<ref group="注">300系では420 Hzであるが、700系では1,500 Hzまで引き上げている。</ref>、発車・停車時に[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]]装備の300・500系で顕著だった、[[かご形三相誘導電動機]]からの[[磁励音]]が低減された。また、2.5{{nbsp}}[[キロボルト|kV]]、1.8{{nbsp}}[[キロアンペア|kA]]級の大容量IGBT素子を採用することで小型軽量化を達成した<ref name="Fuji TEC700 1998" />。制御方式も300系の2レベル制御から3レベル制御にすることにより、電圧・電流波形が交流の正弦波により近い形となり、ひずみ成分波の抑制を図っている<ref name="Fuji TEC700">{{PDFlink|[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/72-02/FEJ-72-02-127-1999.pdf 新幹線車両用主回路システム]}}富士時報 第72巻第2号(1999年)、富士電機</ref>。主変換装置内部には冷却用として、インバータユニット側に主電動送風機、コンバータユニット側に補助電動送風機が搭載されている<ref name="Fuji TEC700" />。E・B編成に搭載されるWPC200は制御方式は同一であるものの、車両基地の設備的相違の観点から車側点検・取り外し方式を採用している<ref name="RF2001_11_76">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2001年11月号、[[交友社]]、2001年、p.76</ref><ref name="RJ2000_04_76">『[[鉄道ジャーナル]]』2000年4月号、鉄道ジャーナル社、2000年、p.76</ref>。 主変圧器は4,160{{nbsp}}[[キロボルトアンペア|kVA]]の容量を備える<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/society/traffic/syaryou/suisin/syuhenatuki/henatuki_seihin.html 車両システム・推進制御システム・主変圧器--製品紹介--][[三菱電機]] 車両システム</ref>。強制風冷式外鉄形であるが、軽量化の観点からアルミコイルとした<ref name="RJ2000_04_76" /><ref name="Fuji TEC700 1998" />。主回路用の二次巻線は3分割され<ref name="Fuji TEC700_2">{{PDFlink|[http://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/72-02/FEJ-72-02-122-1999.pdf 鉄道車両システム]}}富士時報 第72巻第2号(1999年)、富士電機</ref>、それぞれに主変換装置のコンバータ部が接続される<ref name="Fuji TECN700">{{PDFlink|[https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/79-02/FEJ-79-02-110-2006.pdf N700系新幹線車両用主回路システム]}}富士時報 第79巻第2号(2006年)、富士電機</ref>。補助電源用の三次巻線は500{{nbsp}}kVAの定格容量を備え、単相交流430{{nbsp}}[[ボルト (単位)|V]]・60{{nbsp}}[[ヘルツ (単位)|Hz]]を出力する<ref name="Fuji TEC700 1998" />。量産先行車C1編成にはTTM3、C編成量産車にはTTM3A、E・B編成にはWTM206が搭載されるが性能は同一である。 補助電源装置は主変圧器の三次巻線を電源とし、[[直流]]100{{nbsp}}V・36{{nbsp}}[[キロワット|kW]]、[[交流]]100{{nbsp}}V・5{{nbsp}}[[キロボルトアンペア|kVA]]の容量を有するIGBT素子を使用した[[静止形インバータ]]である<ref name="Toyodenki giho 105">{{PDFlink|[http://www.toyodenki.co.jp/html/giho/giho105/s10532b.pdf 総集編・鉄道編 東洋電機技報第105号]}} - [[東洋電機製造]]</ref>。このほかに、補助トランスによる交流100{{nbsp}}V・10{{nbsp}}kVAを有する<ref name="Toyodenki giho 105" />。E・B編成では客室内コンセント使用による電源負荷増大を考慮し、C編成と同等の性能を持つWSC209に加えて安定化電源を3基(E編成)もしくは6基(B編成)搭載し、蓄電池も6台から7台に増強した<ref name="RF2001_11_76" /><ref name="RF2001_09_56">『鉄道ファン』2001年9月号、交友社、2001年、p.56</ref>。 空気[[圧縮機]]には、静粛性で評価の高いスクロール式を採用する。 [[主電動機]]は、かご形三相誘導電動機を電動車1両あたり4基搭載する。300系で実績のあるフレームレス構造、アルミブラケット構造を採用して軽量化を図り、電蝕防止の観点から絶縁軸受を採用した<ref name="Fuji TEC700 1998" />。連続定格出力は275{{nbsp}}[[キロワット|kW]]である<ref name="Fuji TEC700 1998" />。 [[ブレーキ]]については、300系、500系にひきつづき、電動車には電力[[回生ブレーキ]]を、付随車には[[渦電流式ディスクブレーキ]]を採用している。渦電流式ディスクブレーキは、車両重量バランスの改善と電動車の割合が上がったことから300系から半減されて1軸1機とされている。また、緊急制動時の滑走対策として500系に装備されていた[[砂撒き装置|セラミック噴射装置]]を1号車第1軸と16号車(8両編成の場合は8号車)第4軸に採用して制動距離の短縮を図っている<ref name="RJ199905 72">『鉄道ジャーナル』1999年5月号、鉄道ジャーナル社、1999年、p.72</ref>。 ==== 台車 ==== [[鉄道車両の台車|台車]]は、C編成にはTDT204、TTR7002を装備する。300系のものをベースとした、コイルばねと円筒積層ゴムを併用したウイングばね式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の上部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されている<ref name="RF2001_11_76" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.khi.co.jp/rs/product/detail/pro_tdt204.html |title=TDT204 JR東海700系電車用鉄道車両用台車 |work= 製品・サービス |accessdate=2014-12-22 |publisher= 川崎重工業}}</ref>。 E・B編成は、500系用の台車をベースにした軸梁式軸箱支持装置のアンチヨーダンパ付きのボルスタレス台車であり、軸箱の側端部と台車枠の間に軸ダンパーが装備されたWDT205A、WTR7002を装備している。円筒コロ軸によるグリス潤滑軸受けが特徴である<ref name="RF2001_11_76" />。WDT205Aは、主電動機の相違以外は500系のものと互換性がある<ref name="RJ200004 72">『鉄道ジャーナル』1999年5月号、鉄道ジャーナル社、1999年、p.77</ref>。WTR7002はWDT205Aをベースにモーターを廃し、渦電流式ディスクブレーキ用コイルを搭載した<ref name="RJ200004 72" />。 歯数比がそれぞれ異なるため、制御装置の特性を変更して加速特性をそろえている。 C19編成以降の[[グリーン車]]では駆動装置を[[WN駆動方式]]から[[TD平行カルダン駆動方式]]に変更した<ref name="Toyo TEC700">{{PDFlink|[http://www.toyodenki.co.jp/html/giho/giho107/s10731a.pdf 2000年総集編、鉄道編]}}東洋電機技報 第107号(2001年)、東洋電機製造</ref>。新幹線車両においてTD平行カルダン駆動方式は本系列が初の採用例となった。従来は高速運転時の耐久性の点からWN駆動方式が採用されてきたが、300系や700系C1編成を用いた試験走行の結果、TDカルダンに用いられるたわみ板の耐久性が向上したことから、保守が容易で静粛性に優れる本方式に変更された。 ==== 集電装置 ==== [[ファイル:JR Central 700 051.JPG|200px|thumb|パンタグラフとディフレクター]] [[集電装置]]は新たに開発されたシングルアームパンタグラフをM1車の内5・12号車に搭載している。パンタグラフは主枠の中にイコライザーアームを通した物となっており、さらにスライダーのホーン部分に小さな穴を開けることで、パンタグラフ自体から発生する騒音を軽減する構造になっている。 前後に設けたスロープ状の[[碍子]]カバーと、車体側面に設けた遮音板によって風切り音と空力抵抗の低減を図っている。遮音板はC編成が灰色、E編成、B編成およびJR西日本に転属したC編成は白である。 各ユニット間は特高圧引き通し線によって電気的に接続され、16両編成であるC・B編成は、4 - 5・8 - 9・12 - 13号車間はケーブルヘッドによる、それ以外の箇所は直ジョイントによる接続がなされている。8両編成であるE編成は、E12編成までは全車両間が直ジョイントによる接続であった。しかしE13 - E16編成は、新造時から4 - 5号車間がケーブルヘッドによる接続に改められたため既存編成にもケーブルヘッド化工事が実施された。 ==== その他 ==== 300系の導入後、利用客から相次いだ乗り心地に関する苦情を反映し、[[セミアクティブサスペンション]]や特性を改善した[[空気ばね]]、[[連結器#車体間ヨーダンパ|車体間ダンパ]]など、随所に乗り心地改善のための工夫が施されている。なお、車体間ダンパは、500系では取り付け部の根元が隠れていたが、本系列は取り付け部までを露出させ、保守作業を容易にしており、これは後継のN700系にも受け継がれている。 また、車両の状態を逐次監視および記録するため32[[ビット]][[コンピュータ]]を利用した[[鉄道車両のモニタ装置|データモニタ装置]]を搭載している。得られた走行中の各種データは[[操縦席|運転台]]のモニタディスプレイに表示されるほか、[[日本の鉄道車両検査|メンテナンス]]時の参考データとして活用され整備作業の効率化に貢献している。 走行時のエネルギー消費も270 km/h走行時の利用客一人当たりの消費エネルギーが14.7 [[キロワット時|kWh]]、300系:16.0 kWh、0系:17.5 kWhと高効率となっている。[[File:700-df.JPG|200px|thumb|車体間ダンパ]] [[ファイル:C46 test run Tokyo 20030202.JPG|200px|thumb|N700系に使用されている全周幌と台車カバーのテスト]] == 車内 == [[ファイル:700C car 13 interior 20100120.jpg|200px|thumb|C編成車内(後期車)]] [[ファイル:700 c vendor 01.JPG|130px|thumb|営業していた頃の自動販売機]] 16両編成の場合、8 - 10号車がグリーン車、他は[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]で構成されている。 [[鉄道車両の座席|座席]]配置は300系と共通である。また300系以降、車体軽量化の一環で座席クッションから[[ばね|スプリング]]を廃し、重ねた[[ポリウレタン]]を用いている。 内装はC編成とB編成で異なり、号車表示の位置も違う。C編成の普通車は明るい色調で座席モケットが水色であるのに対し、B編成では濃い紺色である。このため乗車した際の印象が異なる。また、座席の形状も異なる。全体的な車内の構造は300系と比較して、普通車が直接照明となり天井の構造が簡略化された他、C編成では壁面および仕切扉のデザインも簡素化されていることなど、コストダウンの影響が現れている<ref group="注">B編成はE編成との部材共通化などを行ったため、その影響は小さい。</ref>。しかし最大天井高さは2,200{{nbsp}}mmとなり、視覚面でも居住性が向上している。グリーン車はC・B編成ともに300系の間接照明から、暖色系の蛍光灯を使用した半間接照明となっている。蛍光灯カバーのデザインはC・B編成で異なっている。 300系で問題となった[[エア・コンディショナー|空調装置]]の効きの悪さは、基本能力の向上だけではなく、ダブルスキン構造による[[断熱材#概要|断熱]]効果の向上と、吹出し口を天井近くから荷物棚下に移設することによる[[ダクト]]長の短縮などによって大幅に改善されている。 またこの系列から東海道・山陽新幹線の車両に設けられてきた[[冷水機]]が廃止され、700系以前の系列の冷水機も開口部が塞がれ使用できなくなった。 2001年度以降に落成したC25編成以降とすべてのB編成では、各車両両端の座席に[[配線用差込接続器|コンセント]]<ref group="注">コンセントのソケット数はC編成が両側左右の妻面に1つずつ(1両で4個)になっているのに対し、B編成では両端席の座席分(1両あたり普通車で10個、グリーン車で8個)用意されているという点でも違いがある。</ref>と縦に長い[[テーブル (家具)|テーブル]]を設けたほか、[[ユニバーサルデザイン]]の一環として座席肩部の手掛け<ref group="注">普通車はC編成はゴム製のグリップを取り付け。B編成とE編成は滑り止めシートを縫い付け。なお、B編成とE16編成は製造当初から縫い付けているが、E1-15編成は後年に後付けで縫い付けた。</ref>や[[ドアチャイム]]が設置されている。グリーン席ではC編成では座席背面のテーブルがあるのに対し、B編成は肘掛収納のテーブルが二段折り畳み式となっている他、読書灯スイッチの位置も異なる。グリーン車の各座席にはオーディオサービス用のコントロールパネルが設置されていたが、[[2013年]]春のオーディオサービス終了に伴い撤去され板がはめ込まれた。 なお、車体の軽量化と強度確保のため、窓の寸法は先述の通り300系・500系に比べて小型化されている。 デッキと独立した電話室が2・4・6・8・10・12・14号車博多寄りと15号車東京寄りのそれぞれのデッキに備えられるが、[[日本における携帯電話|携帯電話]]の普及に伴い最終的に2・6・12・15号車まで削減された。 8両編成のE編成は、「[[ひかりレールスター#編成・車内]]」の項目を参照。 運転席の座席には、長時間の着席に伴う疲労の軽減と腰痛を予防するため、500系でも採用された[[レカロ]]製の[[バケットシート|セミバケットタイプ]]の[[椅子|事務椅子]]「RECARO 24H CHAIR」を採用<ref>[http://www.techno-garage.jp/modify/recaro/OfficeChair/recaro.htm レカロシート] - TECHNO GARAGE テクノ・ガレージ</ref>。シートモケットは客室用に合わせている '''JR東海0番台・初期車''' <gallery> Series700CGreenSeatZ.JPG|グリーン車<br />TR39A形 TEC Series700C GREEN CAR Interior 719-15.jpg|グリーン車車内<br />(C16編成) Series700CNormalSeat3Z.JPG|普通車3人掛け<br />TR75A形 Series700CNormalSeat2Z.JPG|普通車2人掛け<br />TR62A形 </gallery> '''JR東海0番台・後期車''' <gallery> JRCentralSeries700GreenCarSeat.JPG|グリーン車<br />TR39B形 JRCentralSeries700NormalSeat.JPG|普通車3人掛け<br />TR75B形 JRCentralSeries700NormalSeat2.JPG|普通車2人掛け<br />TR62B形 </gallery> '''JR西日本3000番台車''' <gallery> Series700BGreenSeat.JPG|グリーン車<br />WRK239形 Series700BNormalSeat2.JPG|普通車3人掛け<br />WRK307形 Series700BNormalSeat.JPG|普通車2人掛け<br />WRK205形 TEC Series700B Interior 726-3715.jpg|普通車車内 TEC Series700B GREEN CAR Interior 719-3015.jpg|グリーン車車内 </gallery> == 形式および車種 == 本系列に属する各形式名とその車種は以下の通り。 奇数形式と偶数形式2両ずつ、計4両[[動力車|電動車]] 3両と[[付随車]] /ユニットを構成する。M1車に集電装置を搭載している関係から、C・B編成とE編成ではユニット内の車両連結順が異なる。 {| style="text-align:center; border:solid 1px #999;" |- | style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #003f6c;" |700系 編成表<ref>{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '09冬号|year=2008|publisher=ジェー・アール・アール|pages=pp.106-107,126-127|id=ISBN 9784882830504}}</ref> |- | style="font-size:80%;" |{{TrainDirection|博多|東京}} |- | {| class="wikitable" style="font-size:80%;" |+C・B編成 !号車 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- !形式 |723形<br>(Tc)||727形<br>(M2)||726形<br>(Mp)||725形<br>(M1)||725形<br>(M1w)||726形<br>(Mp)||727形<br>(M2k)|| style="background-color:#cf9;" |718形<br>(T's)|| style="background-color:#cf9;" |719形<br>(Ts)|| style="background-color:#cf9;" |717形<br>(M2s)||726形<br>(Mpkh)||725形<br>(M1)||725形<br>(M1w)||726形<br>(Mp)||727形<br>(M2w)||724形<br>(T'c) |- !座席 | colspan="7" |普通車|| colspan="3" style="background-color:#cf9;" |グリーン車|| colspan="6" |普通車 |- !ユニット | colspan="4" |1ユニット|| colspan="4" |2ユニット|| colspan="4" |3ユニット|| colspan="4" |4ユニット |} {| class="wikitable" style="font-size:80%;" |+ E編成 !号車 |1||2||3||4||5||6||7||8 |- !形式 |723形<br>(Tc)||725形<br>(M1)||726形<br>(Mpk)||727形<br>(M2)||727形<br>(M2w)||726形<br>(Mp)||725形<br>(M1kh)||724形<br>(T'c) |- !座席 | colspan="3" |普通車 3+2列|| colspan="4" |普通車 2+2列||普通車 2+2列<br />4人用個室×4 |- !ユニット | colspan="4" |1ユニット|| colspan="4" |2ユニット |} |} 量産先行試作編成であるC0編成は9000番台を、量産型C編成は0番台<ref group="注">300系J編成と同様に、C1編成が量産化改造で編入されたことから編成番号と車両番号にずれが生じている(例として、724-30はC31編成の16号車ということになる)。</ref>を、B編成は3000番台を、E編成は7000番台を名乗る。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 717-54.jpg|thumb|200px|717形(717-54)]] ;717形 :グリーン席を備える中間電動車。C・B編成10号車として使用。車掌室を備え、主変換装置・[[セミアクティブサスペンション]]などを搭載する。定員68名。 ;718形' :グリーン席を備える中間付随車。C・B編成8号車として使用。乗務員室を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員68名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 719-54.jpg|thumb|200px|719形(719-54)]] ;719形 :グリーン席を備える中間付随車。C・B編成9号車として使用。荷物保管室・業務用室・便所・洗面所を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員64名。 ;723形 :普通席を備える制御付随車。C・B・E編成1号車として使用。[[博多駅|博多]]向き運転台・便所・洗面所を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員65名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 724-54.jpg|thumb|200px|724形(724-54)]] ;724形 :普通席を備える制御付随車。 :;0,3000番台 ::C・B編成16号車として使用。[[東京駅|東京]]向き運転台を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員75名。 :;9000番台 ::C1編成16号車として使用。東京向き運転台・[[公衆電話]]を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員75名。 :;7500番台 ::E編成8号車として使用。東京向き運転台・コンパートメント・公衆電話を備え、空気圧縮機・セミアクティブサスペンションなどを搭載する。定員52名。 ;725形 :普通席を備える中間電動車。 :;0,3000,9000番台 ::C・B編成4号車として使用。主変換装置を搭載する。定員100名。 :;300,3300,9300番台 ::C・B編成5号車として使用。便所・洗面所を備え、[[集電装置]]・主変換装置・空気圧縮機・セミアクティブサスペンションを搭載する。定員90名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 725-554.jpg|thumb|200px|725形500番台(725-554)]] :;500,3500,9500番台 ::C・B編成13号車として使用。便所・洗面所を備え、主変換装置を搭載する。定員90名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 725-654.jpg|thumb|200px|725形600番台(725-654)]] :;600,3600,7600,9600番台 ::C・B編成12号車、E編成2号車として使用。集電装置・主変換装置・空気圧縮機・セミアクティブサスペンションを搭載する。定員100名。 :;7700番台 ::E編成7号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室・車椅子対応設備を備え、集電装置・主変換装置を搭載する。定員は50名。 ;726形 :普通席を備える中間電動車。 :;0,3000,9000番台 ::C・B編成6号車として使用。[[変圧器|主変圧器]]を搭載する。定員100名。 :;7000番台<small>p</small> ::E編成6号車として使用。車掌室を備え、主変圧器を搭載する。定員72名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 726-254.jpg|thumb|200px|726形200番台(726-254)]] :;200,3200,9200番台 ::C・B編成14号車として使用。主変圧器・空気圧縮機を搭載する。定員100名。 :;500,3500,7500,9500番台 ::C・B・E編成3号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室を備え、主変圧器・空気圧縮機を搭載する。定員85名(C・B編成)80名(E編成)。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 726-754.jpg|thumb|200px|726形700番台(726-754)]] :;700,3700,9700番台<small>h</small> ::C・B編成11号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室・車椅子対応設備を備え、主変圧器・空気圧縮機を搭載する。定員63名。 ;727形 :普通席を備える中間電動車。 :;0,3000,7000,9000番台<small>2</small> ::C・B編成2号車、E編成4号車として使用。荷物室を備え、主変換装置を搭載する。定員100名(C・B編成)80名(E編成)。 :;7100番台<small>w</small> ::E編成5号車として使用。便所・洗面所を備え、主変換装置を搭載する。定員72名。 :;400,3400,9400番台<small>k</small> ::C・B編成7号車として使用。便所・洗面所・車内販売準備室を備え、主変換装置を搭載する。定員75名。 [[ファイル:JRC Shinkansen Series 700 C55 sets 727-554.jpg|thumb|200px|727形500番台(727-554)]] :;500,3500番台 ::C・B編成15号車として使用。便所・洗面所・公衆電話を備え、主変換装置・空気圧縮機を搭載する。定員80名。 :;9500番台 ::C1編成15号車として使用。便所・洗面所を備え、主変換装置・空気圧縮機を搭載する。定員80名。 == 東海道・山陽新幹線向けの編成 == === C1編成(C0編成) === [[File:Shinkansen Series 700 C0.jpg|thumb|200px|700系C0編成(C1編成の量産化改造前)。乗務員室扉の形状が異なっている。]] [[ファイル:JR tokai shinkansen 700 C1.jpg|200px|thumb|700系C1編成<br />(2010年1月16日 米原駅)]] [[ファイル:700 Series Shinkansen Sink.JPG|200px|thumb|量産車とは洗面台の形状が異なる(2014年12月7日 リニア・鉄道館)]] [[プロトタイプ#鉄道車両|先行試作車]]のC0編成(9000番台)は[[1997年]]秋に完成し、[[10月3日]]に[[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]]で報道陣に公開され、[[10月27日]]から約1年半にわたって走行実験が行われた<ref>{{Cite book|和書|editor=須田寛|title=東海道新幹線 写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日|year=2000|publisher=JTBパブリッシング|pages=p.168|id=ISBN 4-533-03563-9}}</ref>。8両編成での走行試験(1・5・6・7・10・11・12・16号車連結)や<ref>{{Cite book|和書|editor=|title=鉄道ファン1999年4月号|year=1999|publisher=交友社|pages=p.129|id=}}</ref>、東海道新幹線で300{{nbsp}}km/h、山陽新幹線で310{{nbsp}}km/hの速度向上試験も行われた後、量産化改造を受けてC1編成として[[1999年]]秋から営業運転に充当された。 量産編成との差異は以下の通り。 * 先頭車両ノーズ部分はそれ以外の編成のものより70{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]短い8.5{{nbsp}}[[メートル|m]]であり<ref name="RJ199905">{{Cite book|和書|editor=|title=鉄道ジャーナル1999年5月号|year=1999|publisher=鉄道ジャーナル社|pages=p.70|id=}}</ref>、連結器カバー付近に取っ手が付いている。 ** このため、量産車では先頭車の客室割り付けを連結面寄りに移動したほか<ref name="Fan1999-5">交友社『鉄道ファン』1999年5月号新車ガイド1「JR東海700系新幹線量産車」pp.6 - 15。</ref>、運転室をスペースを拡大<ref name="JRMA1999-4">日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1999年4月号研究と開発「JR東海700系量産車両の特徴と新幹線の進歩について」pp.18 - 23。</ref>。 * 先頭車両の雨樋の位置がより上方に取り付けられている。 * 車両間のわたり線ケーブルヘッドカバーの形状変更<ref name="Fan1999-5"/>。 * 側窓の横幅が700 mm、窓間の柱幅が280 mmであるが、量産車では車体剛性向上のため、側窓の横幅を40 mm縮小(740 mm→700 mm)、窓間の柱幅を320 mmに拡大した<ref name="JRMA1999-4"/>。 * 車体の剛性確保のため、11号車の726形700番台のドア配置が量産車とは異なる<ref name="RJ199905" /><ref name="JRMA1999-4"/>。 * 車体と台車カバーの間に40 mmの隙間があったが、量産車ではなくす<ref name="Fan1999-5"/>。 * 歯車比は2.93、騒音低減のため量産車は2.96<ref name="Fan1999-5"/>。 * 加速度は2.0 km/h/sであったが、量産車からは[[トランスポンダ]]により東海道区間は1.6 km/h/s、山陽区間は2.0 km/h/sとなる機能を追加<ref name="Fan1999-5"/>。 * 量産車からは非常ブレーキ減速性能を向上<ref name="Fan1999-5"/>。 * [[公衆電話]]が15号車東京寄りではなく、16号車博多寄りに存在する<ref name="700Series" /><ref name="RJ199905" />。 * 洗面所の洗面台の形状が量産車では楕円形に対し、台形になっている。 それらに加え、量産化改造を実施する前の外観は以下のようなものだった。 * 運転席のワイパーの停止位置は300系と同様、横位置で停止。 * 高速試験車"[[新幹線955形電車|300X]]"で試験が行われた「ワイングラス型パンタグラフカバー」から脚部を省いた形態の改良型カバーとシングルアーム式パンタグラフの組み合わせを採用していた<ref>『Newton』ニュートンプレス社、1998年5月号、P.13</ref>が、パンタグラフカバー自体が騒音の発生源となっていることが試験走行の過程で突き止められ、後に量産車と同様のシングルアームパンタグラフと碍子カバー、車体側面側に設置した遮音板の組み合わせに変更された。 * 乗務員室扉の形状が、300系に似た長方形。 * 乗務員扉脇の手すりは、金属の棒を埋め込み。 === C編成(0番台) === [[ファイル:JRW Shinkansen Series 700 B9 set.jpg|200px|thumb|「のぞみ」16号として運用される、新幹線700系3000番台電車 B9編成<br />(2010年3月3日 岡山 - 相生間)]] [[ファイル:JR 723-13 01.jpg|thumb|200px|JR西日本へ譲渡されたC14編成の連結部]] JR東海保有の0系・100系を置き換えるために増備された。2004年には[[2005年日本国際博覧会|2005年愛・地球博]]の輸送力増強に備えてC55〜C60編成が増備された。 2003年10月の品川開業ダイヤ改正による「のぞみ」の運転本数大増発により、C編成は主に定期「のぞみ」に充当されていたが、「ひかり」にも使用された。 設計段階から300系と乗車定員の互換性がとられており、臨時の「のぞみ」が時刻表では300系使用となっていたが700系に変更される場合も多かった。 JR東海・JR西日本では[[2012年]]3月の300系営業運転終了に関連して、JR西日本に所属する300系F編成を置き換えるため2011年[[10月20日]]にJR東海のC編成8本をJR西日本に譲渡予定であることが両社から発表され<ref name="300intai">{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000013152.pdf 東海道・山陽新幹線から来春300系が引退します]}} - 東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道 2011年10月20日</ref>、この発表以前にもC17編成を皮切りにC11・C12編成が移籍していた。なお、C11・C12編成はJR西日本への入籍日の翌日付でJR東海での除籍が行われており、1日だけ両社の車籍を有していた<ref>『JR電車編成表』2012冬、ジェー・アール・アール、交通新聞社、pp.355, 357。なお、廃車車両一覧ではC5編成の車号があるが、本文ではC4編成が消されているため後者のほうで記載。</ref>。その後[[2012年]]3月までにC13 - C16・C18編成も移籍し<ref>『JR電車編成表』2012夏 {{ISBN2|9784330286129}} p.130。</ref>、移籍編成は車体外部車両番号表記横のJRマークの色や[[車内チャイム]]・車内ステッカーが変更されている。また、移籍後に全般検査を受けた編成はパンタグラフカバーがグレーから白に変更されていた。JR西日本に転属したC編成はB編成と共通運用とされた。 2011年7月4日付でC4編成が[[博多総合車両所]]へ回送され廃車となり、700系初の廃車となった。JR西日本では2015年度下期以降、N700系4000番台F編成の増備に伴いC編成の廃車が始まり、C11編成が2017年2月10日付で廃車されたのを最後に、JR西日本に移籍したC編成は消滅した。 [[2012年]][[3月17日]]改正では定期「のぞみ」運用から離脱し、臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用されていたが、[[2019年]][[3月16日]]改正以降は定期「こだま」の2.5往復のみの運行となった。 JR東海は、東海道新幹線の車両を[[2020年]](令和2年)春までにN700A系で統一すると発表し、同年[[3月8日]]に運転される[[さよなら運転|最終臨時列車]]「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」{{R|700intai}}をもって、C編成ならびに東海道新幹線における本系列の営業運転を終了することを明らかにし、C編成は2019年(令和元年)12月1日の「こだま636号」を最後に定期運用を終了した。また、JR東海が保有する700系C53・C54編成に、2020年[[2月12日]]からヘッドマークおよびサイドステッカーによる車体装飾が行われたが<ref name="700intai">{{Cite press release|和書|title=「ありがとう東海道新幹線700系」引退イベントについて|publisher=東海旅客鉄道|date=2019-12-11|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040169.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-02-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191211102457/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040169.pdf|archivedate=2019-12-11}}</ref><ref>{{Cite news|title=「ここも補修してあげよう」引退せまる東海道新幹線700系に愛の特別装飾 ラストランへ|date=2020-02-12|newspaper=乗りものニュース|url=https://trafficnews.jp/photo/93685#photo27|accessdate=2021-02-28}}</ref>、「ありがとう東海道新幹線700系『のぞみ315号』」は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の感染拡大を防ぐため運休が決定し<ref name="pressJRC20200302">{{Cite press release|和書|title=新型コロナウイルス感染症の影響によるイベント等の中止について|publisher=東海旅客鉄|date=2020-03-02|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040250.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2020-03-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200303064552/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040250.pdf|archivedate=2020-03-03}}</ref>、下りは同年2月28日東京発新大阪行のぞみ399号と2月29日団体専用列車、上りは2月28日新大阪発東京行のぞみ406号と3月1日団体専用列車をもって、東海道新幹線における営業運転を終了、C54編成の廃車を最後に本番台は消滅し、解体された。また、これに伴い新幹線車両の方向幕も消滅した<ref name="end">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200302/k00/00m/040/179000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200303063356/https://mainichi.jp/articles/20200302/k00/00m/040/179000c|title=新幹線700系の8日ラストラン取りやめ 感染拡大防止で 1日が最後の運行に|newspaper=毎日新聞|date=2020-03-02|accessdate=2020-03-03|archivedate=2020-03-03}}</ref>。 東海道新幹線での営業運転終了後も、700系を基にした923形「ドクターイエロー」や、JR西日本所属のE編成とB編成の運用は継続されていた<ref name="2019年10月19日 毎日新聞">{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20191019/k00/00m/040/170000c |title=愛された「カモノハシ」 東海道新幹線700系、来春引退 JR西は運転継続 |publisher=毎日新聞 |accessdate=2020-03-02}}</ref><ref name="鉄道コム2020年2月22日">{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/report/213/2.html |title=700系まもなく引退、6倍に増える「のぞみ」と歩んだ約20年の歴史 |publisher=鉄道コム |accessdate=2020-03-03}}</ref>が、B編成も2020年3月13日をもって定期運用が終了し、B4編成以外はすべて廃車された。2020年3月改正以降波動用車両としてB4編成が全車禁煙車に改造されたうえで残され、営業運転に使用されたこともあるが、2021年2月28日に廃車され、3000番台は消滅した<ref name="DJ469-104">{{Cite journal|和書|author=ジェー・アール・アール|year=2021|title=JR車両のうごき(JR東日本・JR西日本/2021年1月1日~3月31日)|journal=[[鉄道ダイヤ情報]]|volume=50|page=104|publisher=[[交通新聞社]]|serial=通巻469号(2021年6月号)}}</ref>。その後も923形「ドクターイエロー」の運用は続けられている。7000番台は廃車が発生していない。これにより[[東海道・山陽新幹線]]は全列車禁煙となったが、喫煙車を過去1度も運行したことがない[[九州新幹線]]も含め、2022年時点でも指定券に「全席禁煙」の表記を続けている。 <gallery> Series 700 723-53 LAST RUN.jpg|700系C54編成ラストラン装飾 Tōkaidō Shinkansen series 700 last run 20200216.jpg|ありがとう700系装飾(ヘッドマーク) ありがとう700系 先頭側面.jpg|ありがとう700系装飾(サイドステッカー、先頭車) ありがとう700系 中間側面.jpg|ありがとう700系装飾(サイドステッカー、中間車) </gallery> === B編成(3000番台) === 2001年に、100系V編成グランドひかりを置き換えるために3編成が製造された。当初「[[ひかり (列車)|ひかり]]」での運用だったが、2003年10月の品川開業ダイヤ改正で、「のぞみ」の運転本数が大幅に増えたことにより「のぞみ」にも使用された。2011年3月12日改正で定期「のぞみ」運用から離脱し、以後臨時「のぞみ」や定期「ひかり」「こだま」で運用された。 2019年12月20日の上り「のぞみ」180号(充当編成:B6編成)、同年12月22日の下り「のぞみ」189号(充当編成:B14編成)をもって、東京駅 - 博多駅間での「のぞみ」への充当が終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2019/12/22/192500.html |author=大神康二 |title=博多-東京間の“のぞみ”での運転終了 |date=2019-12-22 |publisher=交友社 |website=『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース |accessdate=2021-09-02}}</ref><ref name="JRR 2020s">{{Cite book|和書 |editor=ジェー・アール・アール |editors=太田浩道、発行人 横山裕司 |date=2020-05-15 |title=JR電車編成表 2020夏 |chapter=西日本旅客鉄道 東海道・山陽新幹線編成表 700系 |page=131 |series=ジェー・アール・アール編 |publisher=交通新聞社|isbn=978-4-330-05020-1}}</ref>、2020年2月28日の上り「のぞみ」374号、下り「のぞみ」399号(両方ともB4編成が充当)をもって東海道新幹線東京駅 - 新大阪駅間での運用を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/02/29/203000.html |author=堀江亮 |title=700系B編成の東海道新幹線での運用が終了 |date=2020-02-28 |publisher=交友社 |website=『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース |accessdate=2020-03-02}}</ref>、同年3月13日には山陽新幹線内でも運用(ひかり441号・B4編成)が終了、これをもって全定期運用が終了した<ref name="JRR 2020s" />。B編成は定期運用終了後波動用車両としてB4編成が残され、B4編成は全般検査を受け、博多総合車両所~新山口間を試運転として走行した。B4編成は喫煙車が廃止されたが、喫煙ルームが設置されず、全車禁煙車に改造された<ref name="JRR 2021w">{{Cite book|和書 |editor=ジェー・アール・アール |editors=太田浩道、発行人 横山裕司 | |date=2020-11-18 |title=JR電車編成表 2021冬 |chapter=西日本旅客鉄道 東海道・山陽新幹線編成表 700系 |page=129 |series=ジェー・アール・アール編 |publisher=交通新聞社|isbn=978-4-330-08220-2}}</ref>。B4編成は2020年8月8日・9日の500系の代走に使用され、この代走運用がB編成の事実上の最終運用となった。その後は営業運転に就かず、2021年2月28日付で車籍を抹消されて廃車・解体された<ref name="DJ469-104" />。 == 山陽新幹線向けの編成 == === E編成(7000番台) === <gallery> Shinkansen HIKARI RAIL STAR standard-sized car room seat.JPG|4人用普通個室 Shinkansen HIKARI RAIL STAR standard-sized car room seat 2.JPG|4人用普通個室(通路) JRW series700 ordinarycar-inside (Non-Reserved seat).JPG|自由席 JRW series700 ordinarycar-inside (Reserved seat).JPG|指定席(自由席運用もあり) JRWest TEC series700E seat01.jpg|指定席 </gallery> [[ファイル:Cockpit 724-7509 01.jpg|thumb|200px|E9編成の運転台]] [[ファイル:Shinkansen 700 Rail Star (8086223807).jpg|200px|thumb|JR西日本「ひかりレールスター」用の車両<br />(2010年8月13日 [[西明石駅]])]] {{Anchors|E編成(7000番台)}}山陽新幹線・博多南線で使用される編成(全車がJR西日本に所属)。当初は2000年3月11日改正で運行を開始した「[[ひかりレールスター]]」を中心に投入され、現在では主に山陽新幹線区間内のみを運行する「こだま」と博多南線で運用される。 2011年3月12日ダイヤ改正では九州新幹線博多駅 - 新八代駅間開業により山陽新幹線と九州新幹線の直通が開始されたのと引き替えに「ひかりレールスター」の本数が大幅に削減されたことから「こだま」運用が増加し、老朽化した100系5000番台を淘汰した<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_honsya.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}}西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年12月17日付</ref>。2012年3月17日改正ではさらに山陽区間「こだま」の運用が増え、100系5000番台の運用をすべて置き換え、「ひかりレールスター」は上り1本のみとなった。その後「ひかりレールスター」は2013年3月16日ダイヤ改正で1往復が増発され、1.5往復となったが、2022年3月ダイヤ改正で下り列車が廃止され、上り列車2本のみとなり、2023年3月改正では再び上り1本のみとなっている。 2012年3月改正以降、普通個室はこだま運用時は利用できなかったが、2020年8月6日以降一部のこだまで普通個室が利用できるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200721_00_kodama.pdf |title=一部「こだま」号の コンパートメントのご予約を開始します |accessdate=2020-07-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201020_00_kodama.pdf |title=一部「こだま」号の自由席・指定席号車の 変更を継続します |accessdate=2020-10-20}}</ref>。博多南線では2022年8月17日以降、一部の列車で普通個室が利用できるようになった<ref>{{Cite web|和書|title=博多南線の一部列車のコンパートメントを自由席としてご利用頂けるようにします:JR西日本 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2020/08/page_16444.html |website=www.westjr.co.jp |access-date=2020-08-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201020_00_hakataminamisen.pdf |title=博多南線の一部列車での コンパートメントのご利用を継続します |access-date=2020-10-20}}</ref>。 2023年4月1日現在、本系列で車籍を有するのは8両編成の本番台のみである。 == 「AMBITIOUS JAPAN!」キャンペーンとの連動企画 == [[2003年]]10月1日の新幹線品川駅開業に合わせて「[[AMBITIOUS JAPAN!]]」キャンペーンが開始されるのに伴い、C編成では先頭車の側面ライン中央を切断する形で「'''AMBITIOUS JAPAN!'''」のロゴが表記され、300系を含む一部車両の客用ドア横には円形の「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーが貼付された。 このキャンペーンは東海道新幹線の開業40周年、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)開催に合わせて当初の予定より延長されたが、その閉幕に伴って終了となり「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーも2005年9月頃より[[日本の鉄道車両検査#全般検査|全般検査]]などで入場した車両から順次撤去され、同年10月末には全編成の撤去が完了した。 なお、リニア・鉄道館の2019年度冬のイベント、「ありがとう700系新幹線」において、[[2020年]]1月8日から3月13日、保存されている700系723-9001に、「AMBITIOUS JAPAN!」ステッカーの装飾が施された<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20191127-929635/ リニア・鉄道館、700系に「AMBITIOUS JAPAN!」装飾 - 冬のイベント] マイナビニュース</ref>。 <gallery> Shinkansen 700 Ambitious Japan.jpg|「AMBITIOUS JAPAN!」ロゴ 700-bf.JPG|JR東海所有(C編成)<br />(2004年8月4日 [[京都駅]]) </gallery> == 編成表 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 0番台(C編成) |- ! 編成番号 !! 落成日 ! 製造 !! 廃車 !! 備考 !! 次車区分 |- | C1 || 1997年9月28日 | 日本車輛製造 日立製作所 川崎重工業 || 2013年1月16日 || 量産先行試作車 || |- | C2 || 1999年2月3日 | 日立製作所 || 2013年3月4日 || || rowspan="4" | 1次車 |- | C3 || 1999年2月5日 | 日本車輛製造 || 2013年2月12日 || |- | C4 || 1999年3月2日 | 日本車輛製造 || 2011年7月4日 || JR西日本転属車の部品取りで廃車 |- | C5 || 1999年3月5日 | 川崎重工業 || 2013年3月21日 || |- | C6 || 1999年4月2日 | 日立製作所 || 2013年5月29日 || || rowspan="6" | 2次車 |- | C7 || 1999年5月19日 | 日本車輛製造 || 2013年10月9日 || |- | C8 || 1999年6月27日 | 日本車輛製造 || 2014年1月15日 || |- | C9 || 1999年7月23日 | 川崎重工業 || 2014年2月19日 || |- | C10 || 1999年8月25日 | 日立製作所 || 2014年3月31日 || |- | C11 || 1999年9月8日 | 川崎重工業 || 2017年2月10日 || rowspan="8" | JR東海→<br />JR西日本所属 |- | C12 || 2000年4月5日 | 川崎重工業 || 2016年8月29日 || rowspan="7" | 3次車 |- | C13 || 2000年5月17日 | 日立製作所 || 2015年10月13日 |- | C14 || 2000年6月7日 | 日本車輛製造 || 2017年1月19日 |- | C15 || 2000年6月27日 | 川崎重工業 || 2016年10月6日 |- | C16 || 2000年7月18日 | 日本車輛製造 || 2016年1月16日 |- | C17 || 2000年9月6日 | 日立製作所 || 2016年4月1日 |- | C18 || 2000年9月21日 | 日本車輛製造 || 2016年6月30日 |- | C19 || 2000年11月28日 | 日本車輛製造 || 2013年7月18日 || || rowspan="6" | 4次車 |- | C20 || 2000年12月13日 | 日立製作所 || 2013年11月18日 || |- | C21 || 2001年2月1日 | 日本車輛製造 || 2014年7月23日 || |- | C22 || 2001年2月28日 | 川崎重工業 || 2014年5月14日 || |- | C23 || 2001年3月27日 | 日立製作所 || 2014年11月17日 || |- | C24 || 2001年3月14日 | 日本車輛製造 || 2014年9月9日 || |- | C25 || 2001年5月22日 | 日立製作所 || 2014年10月16日 || || rowspan="8" | 5次車 |- | C26 || 2001年4月20日 | 日本車輛製造 || 2014年12月8日 || |- | C27 || 2001年7月18日 | 日立製作所 || 2015年3月30日 || |- | C28 || 2001年6月19日 | 日本車輛製造 || 2015年2月20日 || |- | C29 || 2001年8月24日 | 川崎重工業 || 2015年8月24日 || |- | C30 || 2001年9月2日 | 日本車輛製造 || 2015年6月2日 || |- | C31 || 2001年10月10日 | 日立製作所 || 2016年1月14日 || |- | C32 || 2001年11月6日 | 日本車輛製造 || 2016年2月5日 || |- | C33 || 2001年12月5日 | 日本車輛製造 || 2016年5月11日 || || rowspan="5" | 6次車 |- | C34 || 2002年1月9日 | 川崎重工業 || 2016年8月26日 || |- | C35 || 2002年1月23日 | 日本車輛製造 || 2017年2月8日 || |- | C36 || 2002年2月13日 | 日立製作所 || 2016年9月23日 || |- | C37 || 2002年3月5日 | 日本車輛製造 || 2017年1月13日 || |- | C38 || 2002年4月25日 | 川崎重工業 || 2017年3月21日 || || rowspan="6" | 7次車 |- | C39 || 2002年4月5日 | 日本車輛製造 || 2016年10月18日 || |- | C40 || 2002年5月15日 | 日本車輛製造 || 2017年5月19日 || |- | C41 || 2002年6月18日 | 日本車輛製造 || 2017年9月29日 || |- | C42 || 2002年8月2日 | 日立製作所 || 2017年8月25日 || |- | C43 || 2002年10月9日 | 川崎重工業 || 2017年10月30日 || |- | C44 || 2002年11月13日 | 日本車輛製造 || 2018年1月5日 || || rowspan="5" | 8次車 |- | C45 || 2002年12月18日 | 日立製作所 || 2017年11月29日 || |- | C46 || 2003年1月15日 | 日本車輛製造 || 2018年9月14日 || |- | C47 || 2003年2月14日 | 日本車輛製造 || 2017年6月27日 || |- | C48 || 2003年3月11日 | 日立製作所 || 2019年1月9日 || |- | C49 || 2003年4月5日 | 日本車輛製造 || 2019年7月11日 || || rowspan="6" | 9次車 |- | C50 || 2003年5月15日 | 日立製作所 || 2019年10月23日 |- | C51 || 2003年5月23日 | 日本車輛製造 || 2019年8月28日 || |- | C52 || 2003年6月27日 | 日本車輛製造 || 2019年12月2日 |- | C53 || 2003年8月2日 | 日本車輛製造 || 2020年3月11日 || ラストラン装飾編成 |- | C54 || 2003年9月10日 | 日本車輛製造 || 2020年3月12日 || ラストラン装飾編成 |- | C55 || 2004年9月9日 | 日本車輛製造 || 2018年5月4日 || || rowspan="6" | 10次車 |- | C56 || 2004年9月18日 | 日立製作所 || 2018年8月20日 || |- | C57 || 2004年10月16日 | 日本車輛製造 || 2018年7月5日 || |- | C58 || 2004年10月27日 | 川崎重工業 || 2018年12月10日 || |- | C59 || 2004年11月25日 | 日本車輛製造 || 2019年3月29日 || |- | C60 || 2004年12月26日 | 日立製作所 || 2019年2月18日 || |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 3000番台(B編成) |- ! 編成番号 !! 落成日 ! 製造 !! 廃車 !! 次車区分 |- | B1 || 2001年6月19日 | 日立製作所 || 2017年11月20日 || rowspan="3" | 1次車 |- | B2 || 2001年7月18日 | 川崎重工業 || 2018年12月4日 |- | B3 || 2001年8月8日 | 近畿車輛 || 2019年8月30日 |- | B4 || 2002年4月12日 | 日立製作所 || 2021年2月28日 || rowspan="4" | 2次車 |- | B5 || 2002年5月17日 | 近畿車輛 || 2020年3月12日 |- | B6 || 2002年6月14日 | 川崎重工業 || 2020年5月19日 |- | B7 || 2002年7月15日 | 日本車輛製造 || 2017年9月8日 |- | B8 || 2003年4月4日 | 近畿車輛 || 2018年10月4日 || rowspan="5" | 3次車 |- | B9 || 2003年5月13日 | 川崎重工業 || 2019年1月29日 |- | B10 || 2003年6月20日 | 川崎重工業 || 2019年5月27日 |- | B11 || 2003年8月7日 | 日立製作所 || 2019年11月8日 |- | B12 || 2003年7月18日 | 川崎重工業 || 2019年7月12日 |- | B13 || 2005年2月23日 | 近畿車輛 || 2018年2月13日 || rowspan="3" | 4次車 |- | B14 || 2005年12月19日 | 近畿車輛 || 2019年12月24日 |- | B15 || 2006年1月25日 | 川崎重工業 || 2019年3月28日 |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ 7000番台(E編成) |- ! 編成番号 !! 落成日 ! 製造 !! 廃車 !! 備考 !! 次車区分 |- | E1 || 1999年12月14日 | 川崎重工業 || || || rowspan="12" | 1次車 |- | E2 || 2000年1月5日 | 川崎重工業 || || |- | E3 || 2000年1月27日 | 川崎重工業 || || |- | E4 || 2000年2月14日 | 川崎重工業 || || |- | E5 || 2000年3月1日 | 川崎重工業 || || |- | E6 || 2000年4月16日 | 川崎重工業 || || |- | E7 || 2000年2月2日 | 近畿車輛 || || |- | E8 || 2000年3月30日 | 近畿車輛 || || |- | E9 || 2000年1月20日 | 日立製作所 || || |- | E10 || 2000年3月8日 | 日立製作所 || || |- | E11 || 2000年2月19日 | 日本車輛製造 || || |- | E12 || 2000年4月9日 | 日本車輛製造 || || |- | E13 || 2001年3月14日 | 日立製作所 || || || rowspan="4" | 2次車 |- | E14 || 2001年4月1日 | 近畿車輛 || || |- | E15 || 2001年4月8日 | 近畿車輛 || || |- | E16 || 2006年3月11日 | 日本車輛製造 || || |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:right;" |+ 保有状況の推移(各年4月1日時点) |- ! rowspan="2" |年!! colspan="2" |C編成!! rowspan="2" |B編成!! rowspan="2" |E編成!! rowspan="2" |備考 |- !東海!!西日本 |- | 1998 || 1 ||&nbsp; || &nbsp; || &nbsp; | style="text-align:left;" |1997年9月28日にC0を新製 |- | 1999 || 5 ||&nbsp; || &nbsp; || &nbsp; | style="text-align:left;" |C2-C5を新製 |- | 2000 || 11 ||&nbsp; || &nbsp; || 10 | style="text-align:left;" |C6-C11,E1-E5,E7-E11を新製、1999年9月28日にC0→C1に改番<ref name="700Series">{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '08冬号|year=2007|publisher=ジェー・アール・アール|pages=P.107|id=ISBN 9784882830481}}</ref> |- | 2001 || 24 ||&nbsp; || &nbsp; || 14 | style="text-align:left;" |C12-C24,E6,E12-E14を新製 |- | 2002 || 37 ||&nbsp; || 3 || 15 | style="text-align:left;" |C25-C37,E15,B1-B3を新製 |- | 2003 || 48 ||&nbsp; || 7 || 15 | style="text-align:left;" |C38-C48,B4-B7を新製 |- | 2004 || 54 ||&nbsp; || 12 || 15 | style="text-align:left;" |C49-C54,B8-B12を新製 |- | 2005 || 60 ||&nbsp; || 13 || 15 | style="text-align:left;" |C55-C60,B13を新製、C編成増備完了 |- | 2006 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |E16,B14,B15を新製、E,B編成増備完了 |- | 2007 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- | 2008 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- | 2009 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- | 2010 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- | 2011 || 60 ||&nbsp; || 15 || 16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- | 2012 || 51 || 8 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C4編成が廃車,C11-C18編成がJR西日本へ移籍 |- | 2013 || 47 || 8 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C1編成(9000番台),C2,C3,C5編成(0番台)が廃車 |- | 2014 || 40 || 8 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C6-C10,C19,20編成が廃車 |- | 2015 || 32 || 8 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C21-28編成が廃車 |- | 2016 || 28 || 6 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C13,C16,C29-C32編成が廃車 |- | 2017 || 21 || 0 || 15 || 16 | style="text-align:left;" |C11,C12,C14,C15,C17,C18,C33-39編成が廃車 |- | 2018 || 14 || || 12 || 16 | style="text-align:left;" |B1,B7,B13,C40-C45,C47,C57編成が廃車 |- | 2019 || 6 ||&nbsp; || 8 || 16 | style="text-align:left;" |B2,B8,B9,B15,C46,C48,C55-60編成が廃車 |- | 2020 || 0 ||&nbsp; || 1 ||16 | style="text-align:left;" |B3,B5,B6,B10-B12,B14,C49-C54編成が廃車 C編成消滅 |- |2021 || ||&nbsp; || 0 ||16 | style="text-align:left;" |B4編成が廃車 B編成消滅 |- |2022 || ||&nbsp; || ||16 | style="text-align:left;" |&nbsp; |- |2023 || ||&nbsp; || ||16 | style="text-align:left;" |&nbsp;    |} == 廃車後 == === 保存車 === * 723-9001(C0→C1編成1号車) *: [[2013年]][[1月16日]]に廃車<ref>{{Cite book|和書|editor=|title=鉄道ファン2013年7月号|year=2013|publisher=交友社|pages=p.46|id=}}</ref>。同年夏に行われた[[新幹線なるほど発見デー]]での公開後、[[リニア・鉄道館]]に300系量産車(323-20)と入れ替わる形で2014年1月2日から展示を開始した<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/nws001330.html 【社長会見】リニア・鉄道館 700系新幹線電車の展示について] - JR東海プレスリリース2013年11月13日</ref>。 === 車体リサイクル === JR東海では、廃車発生品のアルミニウム車体から不純物を除去し高純度のアルミ合金のみを取得する特許(日本第6786689号、名義は系列企業の[[東京ステーション開発]])を取得しており、子会社の[[ジェイアール東海商事]]を通じて内装や建材等の形で販売している<ref>[https://tetsudo-ch.com/11326664.html 引退した東海道新幹線700系の再生アルミを「ザボディショップ」に 店舗内装用建材に初提供] - 鉄道チャンネル・2021年3月27日</ref>。 このうち一部は、東京ステーション開発が運営する[[東京駅一番街]]の土産物店街「東京ギフトパレット」の外装(店舗の軒先)に再利用している<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/17416117/ JR東海「東京ギフトパレット」新幹線700系をリサイクルした装飾も] - ライブドアニュース、2019年11月21日</ref>。2021年4月には、同月に[[名古屋駅]]近くの[[高島屋]]内にオープンする「[[ザ・ボディショップ|THE BODY SHOP]] [[ジェイアール名古屋タカシマヤ|タカシマヤ ゲートタワーモール]]店」にて、再生アルミを使用した装飾や什器類を提供している<ref>[https://raillab.jp/news/article/24364 700系に会える?「THE BODY SHOP」内装に新幹線再生アルミ採用] - レイルラボ・2021年3月29日</ref>。また、N700S系の内装部品に700系の車体を再利用している<ref>{{Cite news|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/news/18/08130/|title=新幹線廃車から回収したAl合金材を新型「N700S」に再利用|newspaper=日経XTECH|date=2020-06-19|accessdate=2020-07-11}}</ref>。 <gallery> TOKYO GIFT PALETTE 02.jpg|東京ギフトパレット Interior of Tokyo Station by Shinkansen 700 recycle body 01.jpg|軒材にリサイクル Shinkansen 700 recycle proof plate.jpg|リサイクルしたことを伝えるプレート </gallery> この他、723-9(C10編成1号車)の先頭部の左半分が[[ジェイアール名古屋タカシマヤ]]の催事に合わせ、同所にて[[2014年]]7月から8月にかけて展示されていた。展示終了後の処遇は不明。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』 ** 1999年5月号新車ガイド1「JR東海700系新幹線量産車」(上林 賢治郎・糸山 雅史・東海旅客鉄道(株)新幹線鉄道事業本部車両部車両課) ** JR西日本鉄道本部車両部新幹線新製改良 「700系3000番台」69 - 76頁 * 鳥居昭彦・吉澤一博(JR東海新幹線鉄道事業本部車両部車両課) 「700系新幹線電車(量産車)」『[[鉄道ジャーナル]]』1999年5月号、鉄道ジャーナル社、1999年、68 - 75頁 * JR西日本車両部新幹線新製改良 「700系7000番台車両の概要」『鉄道ジャーナル』2000年4月号、鉄道ジャーナル社、2000年、72 - 77頁 * 日本鉄道車両機械技術協会『ROLLINGSTOCK&MACHINERY』1999年4月号研究と開発「JR東海700系量産車両の特徴と新幹線の進歩について」 == 外部リンク == {{Commonscat|Shinkansen 700}} *[https://www.jr-odekake.net/train/railstar_700/ ひかりレールスター 700系:JRおでかけネット] *[https://www.jr-odekake.net/train/kodama_700_8/ こだま 700系(8両編成):JRおでかけネット] *[https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/pages/jrc700.htm JR東海殿向け 700系新幹線]([[日本車輌製造]]) {{JR東海の車両リスト}} {{JR西日本の車両リスト}} {{日本の新幹線}} {{ローレル賞選定車両一覧}} {{デフォルトソート:しんかんせん700けいてんしや}} [[Category:東海旅客鉄道の新幹線電車|700]] [[Category:西日本旅客鉄道の新幹線電車|700]] [[Category:日本車輌製造製の新幹線車両|700]] [[Category:川崎重工業製の新幹線車両|700]] [[Category:日立製作所製の新幹線車両|700]] [[Category:近畿車輛製の新幹線車両|700]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]] [[Category:1997年製の鉄道車両]] [[Category:鉄道車両関連]]
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こだま (列車)
こだまは、東海旅客鉄道(JR東海)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道新幹線・山陽新幹線で運転している特別急行列車の愛称である。列車の案内表示では青色が用いられる。 本項では、東海道新幹線開業以前に日本国有鉄道(国鉄)が東京駅 - 大阪駅・神戸駅間を東海道本線経由で運行していた国鉄初の電車特急列車についても記述する。 東海道・山陽新幹線の各駅に停車する列車。停車駅は東海道新幹線駅一覧・山陽新幹線駅一覧を参照。 新幹線の「こだま」は、1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開通した当初から速達タイプの「ひかり」に対して始発駅から終着駅まですべての駅に停車する列車として運行を開始した。もともと「こだま」は東海道本線を走行する“ビジネス特急”として親しまれていた列車であり(詳細は後述)、名称とともにその役割を継承したものである。 1972年(昭和47年)3月15日の山陽新幹線岡山開業、1975年(昭和50年)3月10日の山陽新幹線博多駅延伸で運行区間を延ばしていくが、「ひかり」やその後運行を開始した「のぞみ」が全区間を走行する列車として運転されたのに対し、「こだま」は当初より近距離の都市間輸送や「のぞみ」「ひかり」との乗り継ぎ輸送が主な役割と位置づけられており、岡山延伸以降は廃止系統でも静岡 - 岡山間、名古屋 - 広島間などの区間運転が主体で、東京 - 博多間全区間を通しで運行する列車はない。現在は東海道新幹線では輸送力確保と座席数統一のため全ての列車が16両編成を用いるのに対し、山陽新幹線では8両の短い編成を用いていることもあって、新大阪駅を越える列車は運行されておらず、東京発着の列車は基本的に「東京から名古屋」「東京から新大阪」しかない。ほとんどの駅で「のぞみ」や「ひかり」を待避するため、所要時間は目的地によって異なるが通常より多くかかる。例として東京 - 新大阪間の日中の所要時間は3時間57分(2019年3月ダイヤ改正時点)であるが、同区間を早朝および夜間に走る無待避列車の所要時間の合計が3時間20分程度であり、運転時間のうち35分が待避のための停車時間に割り当てられていることとなる。 また、運行開始当時より「ひかり」「のぞみ」用車両を車両基地最寄り駅(三島駅など)へ回送させる列車を「こだま」として運行している事例もあるほか、新幹線通勤対策で朝晩を中心に、拠点駅ではない途中駅(静岡駅・浜松駅・福山駅・三原駅・新山口駅・新下関駅など)始発・終着となる列車も数多く設定されている。 山陽新幹線で運行される「こだま」の多数は博多駅から博多南線へ乗り入れ、博多南駅まで運行される。但し、博多南線内では列車名のない在来線の特急列車扱いとなる。 東海道新幹線の新富士駅、掛川駅、三河安城駅および山陽新幹線の厚狭駅は、「こだま」のみが停車する。かつては新岩国駅も「こだま」だけが停車していた。 「こだま」の名称は、1958年(昭和33年)、東京 - 大阪間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われたJNRマークやアルファベットの「T」をモチーフとした特急エンブレムが採用されたシンボルマークとともに、一般公募によって決められたものである。東海道新幹線開業に伴う東京 - 大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は1964年9月30日に廃止され、翌日10月1日から新幹線の列車名として使用されている。 1958年5月4日にビジネス特急の完成予想図が新聞発表され、これに合わせて愛称の募集が告知された。既にほかの列車に使用されている愛称、および将来的に使用を予定していた「富士」は避けるという条件が付けられていた。5月20日締め切りで6月上旬発表を予定していたが、応募が殺到したために発表は6月下旬に延期された。 92864票もの応募があり、愛称名の種類は2500種類に上った。1位は5,957票の「はやぶさ」で、「平和」1,076票、「さくら」692票といったほかの候補と比較しても「こだま」は374票と、それほど多い得票ではなかった。最終選考で「こだま」は木霊つまり山彦のことであり、「1日で行って帰ってくることができる」ことから決定されたものといわれる。 なおこの時に佳作として以下のものが発表され、将来の特急名として採用するとされた。 また、のちの新幹線に採用された名前では「のぞみ」が108通、「やまびこ」が291通であった(「ひかり」は当時急行列車に使用されていたため選考対象外)。珍しい応募としては「愛妻」(日帰りできるので浮気を防げるから)・「躍進日本」・「十河」(当時の十河信二国鉄総裁から)・「金田」(国鉄スワローズのエースピッチャー金田正一から)などがあった。 2023年3月18日現在、早朝・深夜を除いて東海道区間では東京発着で名古屋駅まで毎時1本、新大阪駅まで毎時1本が運転されている。山陽区間では新大阪駅または岡山発着で博多駅まで毎時1本程度が運転されている。 車内販売は2012年3月17日のダイヤ改正で全廃された。それ以前は東京 - 名古屋・新大阪間の通し運転列車のみ営業していた。 各駅停車である。停車駅の駅名の詳細は東海道新幹線#駅一覧および山陽新幹線#駅一覧を参照。 東海道・山陽新幹線で現在運用中の全車種が使用されている。なお、車両の配置区所はJR東海所有車が東京交番検査車両所と大阪交番検査車両所、JR西日本所有車が博多総合車両所である。なお、N700系(8両編成)は九州旅客鉄道(JR九州)熊本総合車両所所属の編成が使用されることもある。 700系は、2020年3月14日以降「ひかりレールスター」用である8両編成(E編成)が山陽新幹線区間のみで使用されている。8両編成(E編成)は500系と並んで山陽新幹線における「こだま」の主力車種の一つとなっている。 2000年3月ダイヤ改正から「ひかりレールスター」として運用を開始した当時は、間合い運用の形で広島 - 博多間などの区間列車の一部で運用されていた。2011年3月の九州新幹線全通に伴い、レールスターの一部が「さくら」に置き換えられた影響で、山陽区間において100系の運用を置き換え、700系E編成でのこだま運用が大幅に増えた。一部の列車は全席自由席で運行されている。なお、2012年3月のダイヤ改正以前は、指定席は8号車のみとなっていた。その後、2012年3月ダイヤ改正で指定席が5・6号車に変更され、2014年3月ダイヤ改正から、4号車も一部の列車を除き指定席となった。 2020年3月13日までは、東海道新幹線区間で16両編成が使用されていた。東海道新幹線区間の早朝・夜間に設定されていた一部の区間列車では、平日のみ普通車全車自由席となる。ただし13 - 15号車は修学旅行団体が乗車する列車で指定席となる場合があった。 JR西日本の博多総合車両所に所属する500系8両編成(V編成)が2008年12月1日から山陽新幹線限定で運用開始し、0系運用と100系運用の一部を置き換えている。2011年の九州新幹線全通に伴い、運用がさらに増加した。16両編成(W編成)は2007年の冬以降、通常300系F編成が使用される山陽新幹線の300系運用に不定期で充当されており、東海道新幹線では原則運用されない。 500系8両編成で運転される列車の8号車には、子ども用の疑似運転台が設置されている。ハンドルやスイッチを設置しており、これらを操作することで速度計やATC信号などが対応して点灯する仕組みとなっている。 2009年3月14日から、「こだま指定席往復きっぷ」がJR西日本から発売されており、該当列車は5号車(場合によっては4・5号車)が指定席に変更される。 2013年10月1日 - 12月18日の期間、4号車と5号車について座席配置を「2列×2列」に改める工事を順次実施。翌12月19日より5号車が指定席となり、さらに2014年3月15日のダイヤ改正からは4号車も一部の列車を除き指定席となった。そのため、1編成あたりの定員は8両編成(V編成)化直後の608名から557名へと減少している。 N700系は、東海道新幹線では2009年3月14日から浜松駅の始発の次の列車と三島駅到着最終(東京始発)の上下各1本で定期運用を開始した。2020年3月14日から東海道新幹線「こだま」全列車がN700系に統一され、最高速度も285km/hに引き上げられた。同年7月より、N700S系も充てられている。 山陽新幹線では通常300系充当の「こだま」1往復に不定期で充当されている。2009年3月13日まで朝晩の小倉 - 博多間2往復(朝下り2本上り1本、夜上り1本)に充当されていたが、同改正以降はN700系以外の車両が用いられるようになり、一時的に山陽新幹線内での定期こだま運用は消滅した。2010年3月13日のダイヤ改正でN編成が早朝・深夜の新下関 - 博多間1往復と小倉 - 博多間1往復に再度使用されるようになった。山陽新幹線区間の一部列車はグリーン車を除き全車自由席で、新下関・小倉 - 博多間のみを運転する列車においては車内でのみグリーン券を発売している。 2011年3月12日以降、「さくら」「みずほ」用のS編成(8両編成)が「こだま」として運行されている。この場合、2&2シートの4・7・8号車も自由席としている。また、2012年3月17日からは九州旅客鉄道(JR九州)所有のR編成も使用されている。2014年3月15日ダイヤ改正から、4号車は一部列車を除き指定席となっている。2018年3月17日現在、S編成は新大阪 - 岡山間1往復(朝上り1本、夜下り1本)、小倉 - 博多間朝1.5往復(下り2本、上り1本)、新下関 - 博多間朝上り1本、R編成は新大阪 - 三原間1往復(朝上り1本、夜下り1本)にそれぞれ使用されている。 東海道新幹線では1999年9月18日まで、山陽新幹線では2008年11月30日まで使用された。 0系は、1964年10月1日の東海道新幹線開業当初から運用開始。当初は12両編成で運行していたが、その後16両編成化されたものの、再び12両化(S編成)されたのち、東海道新幹線区間では1989年に16両編成化(Y編成)された。Y編成は指定席車となる9 - 12号車の4両を2+2の4列シートに改造して運用していた。1999年9月18日の「こだま」473号(東京 → 名古屋間)の運行をもって東海道新幹線からは撤退した。 山陽新幹線においては、当初は東海道新幹線と共通運用で12両編成または16両編成で運行されたが、1985年6月に独自の6両編成(R編成)が投入され、その後は4両の短縮編成(Q編成、広島以西限定)も運用された。末期は、2+2の4列シート(旧ウエストひかり普通席用)を使用したWR編成が用いられていた。 11月30日の「こだま」659号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。 東海道「こだま」専用編成は原則的に山陽新幹線内に乗り入れないものとされたため、一部の編成には岡山以西の換気方式に対応しない車両が組み込まれていた。当該編成では識別のため、本来の編成番号に50を足していた。 東海道新幹線では2003年8月31日まで、山陽新幹線では2012年3月14日まで使用された。 100系は、JR西日本の博多総合車両所に所属する6両編成(K編成)が山陽新幹線限定で使用されていたが、2012年の春に運用から撤退すると報じられた。座席は、グリーン席からひじ掛け内蔵テーブルやフットレストを撤去したものが転用された2列+2列シートである。 列車によっては、5・6号車も指定席となる場合や全車自由席(853号)の運用も存在した。 かつて(定期運行としては2003年8月まで)は16両編成(X・G編成など)が東海道新幹線でも用いられていた。また、2011年3月11日までは4両編成(P編成)が山陽新幹線で運用されていたが、信号システムの関係上新大阪駅まで乗り入れることはなく、最大でも姫路 - 博多間で使用された。P編成は、全車両が「ウエストひかり」普通車用や100系グリーン車などから転用した2列+2列座席であった。 2012年3月14日の「こだま」766号(博多 → 岡山間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、300系とともに全車引退した。 300系は、東海道新幹線では700系登場以降主力車種となっていたが、老朽による廃車が進み、「のぞみ」から撤退した700系に置き換えられた。山陽新幹線では、2012年3月13日まで早朝の姫路 → 岡山間で1本、岡山 - 博多間で1往復に使用されていた。東海道新幹線では2012年3月12日の「こだま」650号(新大阪 → 東京間)、山陽新幹線では2012年3月13日の「こだま」727号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。 JRと一部の旅行会社では、「こだま」の利用に特化した旅行商品やトクトクきっぷを、通常発売額(運賃と特急料金等の合算額)と比べて格安な金額にて、販売している。 何れのプランとも、交通手段(新幹線)のみを提供する募集型企画旅行(フリープラン)の形態で販売されているものであり、鉄道事業者(今回の場合はJR)との間で締結された契約に基づいて発行される乗車券類とは異なる。 そのため、実際の取扱(旅行中、旅行中止に伴う払戻など)に際してJRの乗車券類とは異なる点が存在することから、プランを企画した旅行会社ではパンフレットなどで「“きっぷ”ではなく募集型企画旅行である」という旨の文言を記載し、注意を促している。 何れも山陽新幹線区間にて運行されている「こだま」に特化した乗車券類となっており、同線を管轄しているJR西日本が企画・発売している。 片道あたりの金額が通常発売額に比して格安に設定されている一方で、対象となる列車が限定されていること、発売枚数が限定されていること、購入後の変更が出来ないことなどの制約条件が付帯されているのが特徴である。 新幹線としての「こだま」の沿革を記述する。 名古屋駅で当列車にちなんだ駅弁「こだま」が販売されている。発売元は松浦商店。 1988年(昭和63年)9月5日、東京発名古屋行きのこだま485号の指定席で静岡県在住の男性が刺殺される事件が発生した。 詳しくはこだま485号殺人事件を参照 上記の通り、現在は列車の案内表示に青色が用いられ、事実上種別を示す色となっているが、かつては在来線の普通列車と同じく、特に種別を示す色が定められていなかった。 国鉄時代は、反転フラップ式の発車標においてこだまは在来線の普通列車と同じく色を変えずに表現(種別表示以外の部分と同じく黒地に白文字)していた。新幹線のサボではこだまの文字を青色に書いていた。その後採用された新幹線の方向幕では方向幕そのものの背景が青色であったものの、あくまで種別表示部分は背景と同じ色なので、こだまの種別色として青色を使用していたわけではなかった。 JR化以降、JR東海所有の車両では方向幕のデザインが改められ、行先表示部分が白背景となり、「こだま」部分のみが青背景となった。しかし同社が新たに導入した反転フラップ式の発車標では依然としてこだまは色を変えずに黒色で表現されていた。2000年代に入ると同社の発車標はフルカラーLEDに改められ、この頃から徐々にこだまの種別を示す色として青色が定着していく。 一方JR西日本区間ではしばらく国鉄時代の反転フラップ式発車標を用い続けたが、姫路駅・広島駅・博多駅などごく一部の駅では単色また3色LEDの発車標も使われていた。2000年代に入って3色LEDの発車標への更新が増加し、JR西日本所有の車両の方向幕でも3色LEDが採用された。ここではこだまは緑色で表現されていた。しかしJR西日本区間でも2010年代からフルカラーLEDや液晶ディスプレイによる発車標が導入され、青色で表現されるようになった。これ以降、東海・西日本ともに事実上青色がこだまの種別色として定着した。 「こだま」は、日本国有鉄道(国鉄)で初めての電車による有料特急として1958年より東海道本線で運行を開始した。それまで長距離の優等列車は、機関車が客車を牽引する形(動力集中方式)で運転する列車しかなく、騒音が大きく乗り心地の悪い電車は長距離列車には不向きであると考えられていた。 しかし電車の性能は次第に向上し、短距離から中・長距離の輸送へ進出しつつあった。これに空気ばね台車の採用などの乗り心地を改善する新しい技術を組み合わせて、電車による初めての特急列車を運転する計画が打ち出された。機関車方式の列車では機関車の重量が大きいので、大きな出力を持った機関車を製造して高速化しようとすると、さらなる軌道の強化に多大な費用が必要となるため、軽量な電車方式での高速化が有利であるとされたのである。さらに機関車方式では、終点の駅で反対方向に機関車を付け替える手間がかかり、ホームの長時間占有が列車を増発するネックとなっていた。市街地にある駅ではホームの増設(増線)は困難で、電車方式により折り返しの時間を短縮し、これにより列車の増発を実現することも目的であった。 国鉄部内の保守的な勢力の抵抗は強かったが、機関車方式と電車方式とで所要の高速化と列車本数を実現するために必要な費用の試算がなされ、電車方式の圧倒的な優位性が確認されて、1957年(昭和32年)11月12日の国鉄常務理事会で電車方式による特急列車の設定が決定された。 「こだま」のために用意されたのは、新しくこのために開発された20系電車で、のちに改称されて151系電車となった。開発当初よりの仮称である「ビジネス特急」を広告上そのまま用いた。また「こだま」で最初に使用されたため、この車両は「こだま形電車」と呼ばれた。編成は右図のとおり(国鉄181系電車も参照)。 1958年(昭和33年)10月1日に、俗に「サンサントオ」と呼ばれるダイヤ改正が実施され、「あさかぜ」に20系客車が投入された。本来は「こだま」もこれに合わせて運行を開始する予定であったが、新機軸の多い車両のため8月下旬に予定されていた完成が9月にずれ込み、さらに所要の線路側の改良作業の完了は10月直前まで掛かることになった。 そのままでは要員の習熟運転の期間がとれず、湘南電車の運行開始時に故障が相次いで「遭難電車」との汚名を受けた二の舞になるとして、当時運転局総括補佐をしていた齋藤雅男が営業担当の石井昭正常務理事と談判して、運行開始を1か月遅らせることになった。これにより、10月1日のダイヤ改正で「こだま」運転のためのダイヤは用意されるが、1か月は運休とし、試運転のみに充当されることになった。1か月に及ぶ試運転期間に、実際に新機軸として導入された空気ばねの故障やパンタグラフの脱落事故など、数々の初期不良を経験しており、その対策に関係者が奔走することとなった。こうした対策の結果もあって、10月下旬には順調に運転が行われるようになり、1か月の試運転はその役割を果たした。 こうして11月1日から営業列車としての運転が始まった。当日は、東京駅15番ホームで下りの始発列車に対して十河信二国鉄総裁が、神戸駅で上りの始発列車に対して石井昭正常務理事がテープカットを行った。営業初日の車内では、運行開始を記念して20系電車がデザインされ、「ビジネス特急「こだま号」記念」と称された5本入りのピース2000個が乗客に無料で配布された。 運行開始当時の運行区間は東京 - 大阪・神戸間を各1往復運行で、最高速度は110 km/hで東京 - 大阪間は所要6時間50分であった。これは電気機関車牽引による客車特別急行列車「つばめ」・「はと」が7時間30分で結んでいたのに対して40分の短縮であった。東京 - 大阪間の停車駅は客車特急よりさらに絞り込み、横浜・名古屋・京都のみとした。横浜 - 名古屋間300 km超のノンストップとなるため、運転士は安倍川鉄橋上で田町・大垣電車区の交替を行なった。なお、交替運転士は運転台直後の客席で待機し、大垣電車区の運転士は横浜駅での折り返し運用が組まれていた。名古屋以西は宮原電車区が担当していた。 2往復の列車は、「第1こだま」・「第2こだま」と出発順に付番されることとなった。この列車愛称の命名方式は「つばめ」・「はと」など、一列車一愛称が慣例であった特別急行列車では初例であった。ただし、下り「第1こだま」と上り「第1こだま」とが別々に設定されており、現在のように奇数が下り、偶数が上りとの分け方はされていなかった。下り「第1こだま」は東京7時発、大阪13時50分着、「第2こだま」は東京16時発、大阪22時50分着、神戸23時20分着、上り「第1こだま」は神戸6時30分発、大阪7時発、東京13時50分着、「第2こだま」は大阪16時発、東京22時50分着であった。 1959年(昭和34年)9月のダイヤ改正で、線路改良の進展に伴い「こだま」の所要時間は6時間40分に短縮された。また、相変わらず満席が続き、予備車をやりくりして多客期には10両編成に増結するなどしていたが、後述する「つばめ」・「はと」の電車化に伴う増備車両のうち早期に落成した車両を利用して、この年の12月13日から「こだま」が12両編成化された。 運行開始後の集計では、乗車率は平均87 %を記録した。前後の急行・準急列車の乗車が減少していたわけではなかったので、良好なサービスを提供したことによる新規の需要拡大であると判断された。座席指定券は発売開始と同時に売り切れてしまう状態が続き、当初予定していたビジネス客が急用で乗ることができないということから、当日発売席を用意するなど、営業側が対応に追われることになった。「こだま」運行開始にあたって線路の改良と車両の準備に投じた9億円の資本は、運行開始1年で回収された。 「こだま」運行開始後も、「つばめ」・「はと」は引き続き電気機関車牽引の客車列車として運転されていたが、使用している車両の老朽化は激しく、置き換えが行われることになった。「こだま」の人気と実績により、既に電車による優等列車運転に疑問を唱えるものはいなくなり、この置き換えでは「こだま」と同一編成に統一して電車列車とすることになった。「はと」は「つばめ」に統合されることになり、1960年(昭和35年)6月1日のダイヤ改正から上下とも「第1こだま」「第1つばめ」「第2こだま」「第2つばめ」の順で運転されることになった。13億円の投資を行って線路改良をさらに行い、停車駅を2駅増やしつつさらに10分の時間短縮を行って東京 - 大阪間を6時間30分とした。 「つばめ」の電車化により、従来の客車列車に存在した展望車や食堂車の代替が望まれた。従来の「こだま」にはビュフェのみの連結であったが、この改正に合わせて食堂車サシ151形が製造されて連結された。展望車の代替としては、2 m×1 mの大窓を備えた区分室や、通路の両側に1列のみの座席の配置された開放室など、1両の定員が18名という豪華なクロ151形「パーラーカー」が用意された。またダイヤ改正の2か月後の8月から、ビュフェに電話室が設置されて、日本電信電話公社(のちのNTTグループ)と接続した列車電話のサービスが開始された。電話を掛けられる地域は東京・名古屋・大阪限定であったが、上下4往復の列車のためだけに東海道沿線14箇所に基地局を設置して、400 MHz帯のUHF無線通信でつなぐシステムが用意された。パーラーカーでは、パーサーが電話機を持参して自分の席で電話を掛けられるサービスもあった。 ダイヤ改正前日の5月31日には、田町電車区で編成の入れ替え作業が行われた。それまで3編成であったのが6編成に増強されるとともに、食堂車やパーラーカーの組み込みがあり、加えて制御回路の接続の関係から車両の方向転換などもあり、事前によく計画を立てて行われた。5月31日の下りの「第2こだま」は事前に準備してあった新しい編成で運転が行われ、別途回送した新しい編成とともに6月1日の大阪発の列車をまかなった。また5月31日の午後の列車で上京してきた車両は、田町電車区に回送されて深夜に編成の入れ替え作業が行われ、翌朝の東京発の列車から新しい編成で運転された。 「こだま」に使用していた151系電車は予備車が少なく、その故障時には急行形車両の153系電車による代替運行も行われたことがあった。153系電車は接客設備では151系電車にはるかに劣るものの、速度性能は「特急」に使用されても問題ないものであった。153系電車では座席が特急用車両の水準に満たなかったのみならず、三等車はおろか二等車にすら冷房も搭載されていなかったが、この当時は冷房のないおよび座席が特急用車両の水準に満たない車両でも、特急料金を割引く規定が存在していなかったため、通常の特急料金のままであった(運転開始当時は非冷房の客車を使用した特急列車が「はつかり」の三等車などの一部にあり、座席が特急用車両の水準に満たない車両を使用した特急列車も「かもめ」の三等車など、一部に設定されていたことも要因であった)。しかし1961年10月1日の規定の改定で、冷房がない場合、および座席が特急用車両の水準に満たない場合の割引制度が制定されたため、同日以降、153系電車で運行する際は特急料金の半額を返金するようにした。利用者からはこの代替列車は「こだま」をもじって「かえだま」(替え玉)と呼ばれた。「つばめ」の電車化後も151系電車の故障時の予備車不足はまだ生じ、「かえだま」や、157系電車(日光形電車)の代替使用(「新かえだま」)もあった。こうした故障は当時のマスメディアにも取り上げられ、対策として抵抗器の容量増大や主電動機の密封化などの改良が行われて故障も減少するに至った。「かえだま」については、「第一富士」脱線事故も参照のこと。 1961年(昭和36年)10月1日の、サンロクトオと称されるダイヤ改正により、「こだま」は2往復とも大阪発着となった。「こだま」と同じ形式の電車を利用した特急が大幅に増発され、東海道本線を行き交うようになった。さらに1962年(昭和37年)6月1日のダイヤ改正では、広島へ同じ151系による「つばめ」や、派生形式161系による特急「とき」が上野 - 新潟間に設定されるようになった。 1964年(昭和39年)10月1日の、東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正により、東京 - 大阪間在来線特急が廃止となったため、在来線特急としての「こだま」は廃止された。
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新大阪間の日中の所要時間は3時間57分(2019年3月ダイヤ改正時点)であるが、同区間を早朝および夜間に走る無待避列車の所要時間の合計が3時間20分程度であり、運転時間のうち35分が待避のための停車時間に割り当てられていることとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、運行開始当時より「ひかり」「のぞみ」用車両を車両基地最寄り駅(三島駅など)へ回送させる列車を「こだま」として運行している事例もあるほか、新幹線通勤対策で朝晩を中心に、拠点駅ではない途中駅(静岡駅・浜松駅・福山駅・三原駅・新山口駅・新下関駅など)始発・終着となる列車も数多く設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "山陽新幹線で運行される「こだま」の多数は博多駅から博多南線へ乗り入れ、博多南駅まで運行される。但し、博多南線内では列車名のない在来線の特急列車扱いとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東海道新幹線の新富士駅、掛川駅、三河安城駅および山陽新幹線の厚狭駅は、「こだま」のみが停車する。かつては新岩国駅も「こだま」だけが停車していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「こだま」の名称は、1958年(昭和33年)、東京 - 大阪間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われたJNRマークやアルファベットの「T」をモチーフとした特急エンブレムが採用されたシンボルマークとともに、一般公募によって決められたものである。東海道新幹線開業に伴う東京 - 大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は1964年9月30日に廃止され、翌日10月1日から新幹線の列車名として使用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1958年5月4日にビジネス特急の完成予想図が新聞発表され、これに合わせて愛称の募集が告知された。既にほかの列車に使用されている愛称、および将来的に使用を予定していた「富士」は避けるという条件が付けられていた。5月20日締め切りで6月上旬発表を予定していたが、応募が殺到したために発表は6月下旬に延期された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "92864票もの応募があり、愛称名の種類は2500種類に上った。1位は5,957票の「はやぶさ」で、「平和」1,076票、「さくら」692票といったほかの候補と比較しても「こだま」は374票と、それほど多い得票ではなかった。最終選考で「こだま」は木霊つまり山彦のことであり、「1日で行って帰ってくることができる」ことから決定されたものといわれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なおこの時に佳作として以下のものが発表され、将来の特急名として採用するとされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、のちの新幹線に採用された名前では「のぞみ」が108通、「やまびこ」が291通であった(「ひかり」は当時急行列車に使用されていたため選考対象外)。珍しい応募としては「愛妻」(日帰りできるので浮気を防げるから)・「躍進日本」・「十河」(当時の十河信二国鉄総裁から)・「金田」(国鉄スワローズのエースピッチャー金田正一から)などがあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2023年3月18日現在、早朝・深夜を除いて東海道区間では東京発着で名古屋駅まで毎時1本、新大阪駅まで毎時1本が運転されている。山陽区間では新大阪駅または岡山発着で博多駅まで毎時1本程度が運転されている。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "車内販売は2012年3月17日のダイヤ改正で全廃された。それ以前は東京 - 名古屋・新大阪間の通し運転列車のみ営業していた。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "各駅停車である。停車駅の駅名の詳細は東海道新幹線#駅一覧および山陽新幹線#駅一覧を参照。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "東海道・山陽新幹線で現在運用中の全車種が使用されている。なお、車両の配置区所はJR東海所有車が東京交番検査車両所と大阪交番検査車両所、JR西日本所有車が博多総合車両所である。なお、N700系(8両編成)は九州旅客鉄道(JR九州)熊本総合車両所所属の編成が使用されることもある。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "700系は、2020年3月14日以降「ひかりレールスター」用である8両編成(E編成)が山陽新幹線区間のみで使用されている。8両編成(E編成)は500系と並んで山陽新幹線における「こだま」の主力車種の一つとなっている。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2000年3月ダイヤ改正から「ひかりレールスター」として運用を開始した当時は、間合い運用の形で広島 - 博多間などの区間列車の一部で運用されていた。2011年3月の九州新幹線全通に伴い、レールスターの一部が「さくら」に置き換えられた影響で、山陽区間において100系の運用を置き換え、700系E編成でのこだま運用が大幅に増えた。一部の列車は全席自由席で運行されている。なお、2012年3月のダイヤ改正以前は、指定席は8号車のみとなっていた。その後、2012年3月ダイヤ改正で指定席が5・6号車に変更され、2014年3月ダイヤ改正から、4号車も一部の列車を除き指定席となった。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2020年3月13日までは、東海道新幹線区間で16両編成が使用されていた。東海道新幹線区間の早朝・夜間に設定されていた一部の区間列車では、平日のみ普通車全車自由席となる。ただし13 - 15号車は修学旅行団体が乗車する列車で指定席となる場合があった。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "JR西日本の博多総合車両所に所属する500系8両編成(V編成)が2008年12月1日から山陽新幹線限定で運用開始し、0系運用と100系運用の一部を置き換えている。2011年の九州新幹線全通に伴い、運用がさらに増加した。16両編成(W編成)は2007年の冬以降、通常300系F編成が使用される山陽新幹線の300系運用に不定期で充当されており、東海道新幹線では原則運用されない。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "500系8両編成で運転される列車の8号車には、子ども用の疑似運転台が設置されている。ハンドルやスイッチを設置しており、これらを操作することで速度計やATC信号などが対応して点灯する仕組みとなっている。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2009年3月14日から、「こだま指定席往復きっぷ」がJR西日本から発売されており、該当列車は5号車(場合によっては4・5号車)が指定席に変更される。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2013年10月1日 - 12月18日の期間、4号車と5号車について座席配置を「2列×2列」に改める工事を順次実施。翌12月19日より5号車が指定席となり、さらに2014年3月15日のダイヤ改正からは4号車も一部の列車を除き指定席となった。そのため、1編成あたりの定員は8両編成(V編成)化直後の608名から557名へと減少している。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "N700系は、東海道新幹線では2009年3月14日から浜松駅の始発の次の列車と三島駅到着最終(東京始発)の上下各1本で定期運用を開始した。2020年3月14日から東海道新幹線「こだま」全列車がN700系に統一され、最高速度も285km/hに引き上げられた。同年7月より、N700S系も充てられている。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "山陽新幹線では通常300系充当の「こだま」1往復に不定期で充当されている。2009年3月13日まで朝晩の小倉 - 博多間2往復(朝下り2本上り1本、夜上り1本)に充当されていたが、同改正以降はN700系以外の車両が用いられるようになり、一時的に山陽新幹線内での定期こだま運用は消滅した。2010年3月13日のダイヤ改正でN編成が早朝・深夜の新下関 - 博多間1往復と小倉 - 博多間1往復に再度使用されるようになった。山陽新幹線区間の一部列車はグリーン車を除き全車自由席で、新下関・小倉 - 博多間のみを運転する列車においては車内でのみグリーン券を発売している。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2011年3月12日以降、「さくら」「みずほ」用のS編成(8両編成)が「こだま」として運行されている。この場合、2&2シートの4・7・8号車も自由席としている。また、2012年3月17日からは九州旅客鉄道(JR九州)所有のR編成も使用されている。2014年3月15日ダイヤ改正から、4号車は一部列車を除き指定席となっている。2018年3月17日現在、S編成は新大阪 - 岡山間1往復(朝上り1本、夜下り1本)、小倉 - 博多間朝1.5往復(下り2本、上り1本)、新下関 - 博多間朝上り1本、R編成は新大阪 - 三原間1往復(朝上り1本、夜下り1本)にそれぞれ使用されている。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東海道新幹線では1999年9月18日まで、山陽新幹線では2008年11月30日まで使用された。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "0系は、1964年10月1日の東海道新幹線開業当初から運用開始。当初は12両編成で運行していたが、その後16両編成化されたものの、再び12両化(S編成)されたのち、東海道新幹線区間では1989年に16両編成化(Y編成)された。Y編成は指定席車となる9 - 12号車の4両を2+2の4列シートに改造して運用していた。1999年9月18日の「こだま」473号(東京 → 名古屋間)の運行をもって東海道新幹線からは撤退した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "山陽新幹線においては、当初は東海道新幹線と共通運用で12両編成または16両編成で運行されたが、1985年6月に独自の6両編成(R編成)が投入され、その後は4両の短縮編成(Q編成、広島以西限定)も運用された。末期は、2+2の4列シート(旧ウエストひかり普通席用)を使用したWR編成が用いられていた。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "11月30日の「こだま」659号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東海道「こだま」専用編成は原則的に山陽新幹線内に乗り入れないものとされたため、一部の編成には岡山以西の換気方式に対応しない車両が組み込まれていた。当該編成では識別のため、本来の編成番号に50を足していた。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東海道新幹線では2003年8月31日まで、山陽新幹線では2012年3月14日まで使用された。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "100系は、JR西日本の博多総合車両所に所属する6両編成(K編成)が山陽新幹線限定で使用されていたが、2012年の春に運用から撤退すると報じられた。座席は、グリーン席からひじ掛け内蔵テーブルやフットレストを撤去したものが転用された2列+2列シートである。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "列車によっては、5・6号車も指定席となる場合や全車自由席(853号)の運用も存在した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "かつて(定期運行としては2003年8月まで)は16両編成(X・G編成など)が東海道新幹線でも用いられていた。また、2011年3月11日までは4両編成(P編成)が山陽新幹線で運用されていたが、信号システムの関係上新大阪駅まで乗り入れることはなく、最大でも姫路 - 博多間で使用された。P編成は、全車両が「ウエストひかり」普通車用や100系グリーン車などから転用した2列+2列座席であった。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2012年3月14日の「こだま」766号(博多 → 岡山間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、300系とともに全車引退した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "300系は、東海道新幹線では700系登場以降主力車種となっていたが、老朽による廃車が進み、「のぞみ」から撤退した700系に置き換えられた。山陽新幹線では、2012年3月13日まで早朝の姫路 → 岡山間で1本、岡山 - 博多間で1往復に使用されていた。東海道新幹線では2012年3月12日の「こだま」650号(新大阪 → 東京間)、山陽新幹線では2012年3月13日の「こだま」727号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "JRと一部の旅行会社では、「こだま」の利用に特化した旅行商品やトクトクきっぷを、通常発売額(運賃と特急料金等の合算額)と比べて格安な金額にて、販売している。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "何れのプランとも、交通手段(新幹線)のみを提供する募集型企画旅行(フリープラン)の形態で販売されているものであり、鉄道事業者(今回の場合はJR)との間で締結された契約に基づいて発行される乗車券類とは異なる。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "そのため、実際の取扱(旅行中、旅行中止に伴う払戻など)に際してJRの乗車券類とは異なる点が存在することから、プランを企画した旅行会社ではパンフレットなどで「“きっぷ”ではなく募集型企画旅行である」という旨の文言を記載し、注意を促している。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "何れも山陽新幹線区間にて運行されている「こだま」に特化した乗車券類となっており、同線を管轄しているJR西日本が企画・発売している。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "片道あたりの金額が通常発売額に比して格安に設定されている一方で、対象となる列車が限定されていること、発売枚数が限定されていること、購入後の変更が出来ないことなどの制約条件が付帯されているのが特徴である。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "新幹線としての「こだま」の沿革を記述する。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "名古屋駅で当列車にちなんだ駅弁「こだま」が販売されている。発売元は松浦商店。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)9月5日、東京発名古屋行きのこだま485号の指定席で静岡県在住の男性が刺殺される事件が発生した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "詳しくはこだま485号殺人事件を参照", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "上記の通り、現在は列車の案内表示に青色が用いられ、事実上種別を示す色となっているが、かつては在来線の普通列車と同じく、特に種別を示す色が定められていなかった。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "国鉄時代は、反転フラップ式の発車標においてこだまは在来線の普通列車と同じく色を変えずに表現(種別表示以外の部分と同じく黒地に白文字)していた。新幹線のサボではこだまの文字を青色に書いていた。その後採用された新幹線の方向幕では方向幕そのものの背景が青色であったものの、あくまで種別表示部分は背景と同じ色なので、こだまの種別色として青色を使用していたわけではなかった。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "JR化以降、JR東海所有の車両では方向幕のデザインが改められ、行先表示部分が白背景となり、「こだま」部分のみが青背景となった。しかし同社が新たに導入した反転フラップ式の発車標では依然としてこだまは色を変えずに黒色で表現されていた。2000年代に入ると同社の発車標はフルカラーLEDに改められ、この頃から徐々にこだまの種別を示す色として青色が定着していく。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一方JR西日本区間ではしばらく国鉄時代の反転フラップ式発車標を用い続けたが、姫路駅・広島駅・博多駅などごく一部の駅では単色また3色LEDの発車標も使われていた。2000年代に入って3色LEDの発車標への更新が増加し、JR西日本所有の車両の方向幕でも3色LEDが採用された。ここではこだまは緑色で表現されていた。しかしJR西日本区間でも2010年代からフルカラーLEDや液晶ディスプレイによる発車標が導入され、青色で表現されるようになった。これ以降、東海・西日本ともに事実上青色がこだまの種別色として定着した。", "title": "新幹線「こだま」" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「こだま」は、日本国有鉄道(国鉄)で初めての電車による有料特急として1958年より東海道本線で運行を開始した。それまで長距離の優等列車は、機関車が客車を牽引する形(動力集中方式)で運転する列車しかなく、騒音が大きく乗り心地の悪い電車は長距離列車には不向きであると考えられていた。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "しかし電車の性能は次第に向上し、短距離から中・長距離の輸送へ進出しつつあった。これに空気ばね台車の採用などの乗り心地を改善する新しい技術を組み合わせて、電車による初めての特急列車を運転する計画が打ち出された。機関車方式の列車では機関車の重量が大きいので、大きな出力を持った機関車を製造して高速化しようとすると、さらなる軌道の強化に多大な費用が必要となるため、軽量な電車方式での高速化が有利であるとされたのである。さらに機関車方式では、終点の駅で反対方向に機関車を付け替える手間がかかり、ホームの長時間占有が列車を増発するネックとなっていた。市街地にある駅ではホームの増設(増線)は困難で、電車方式により折り返しの時間を短縮し、これにより列車の増発を実現することも目的であった。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "国鉄部内の保守的な勢力の抵抗は強かったが、機関車方式と電車方式とで所要の高速化と列車本数を実現するために必要な費用の試算がなされ、電車方式の圧倒的な優位性が確認されて、1957年(昭和32年)11月12日の国鉄常務理事会で電車方式による特急列車の設定が決定された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「こだま」のために用意されたのは、新しくこのために開発された20系電車で、のちに改称されて151系電車となった。開発当初よりの仮称である「ビジネス特急」を広告上そのまま用いた。また「こだま」で最初に使用されたため、この車両は「こだま形電車」と呼ばれた。編成は右図のとおり(国鉄181系電車も参照)。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)10月1日に、俗に「サンサントオ」と呼ばれるダイヤ改正が実施され、「あさかぜ」に20系客車が投入された。本来は「こだま」もこれに合わせて運行を開始する予定であったが、新機軸の多い車両のため8月下旬に予定されていた完成が9月にずれ込み、さらに所要の線路側の改良作業の完了は10月直前まで掛かることになった。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "そのままでは要員の習熟運転の期間がとれず、湘南電車の運行開始時に故障が相次いで「遭難電車」との汚名を受けた二の舞になるとして、当時運転局総括補佐をしていた齋藤雅男が営業担当の石井昭正常務理事と談判して、運行開始を1か月遅らせることになった。これにより、10月1日のダイヤ改正で「こだま」運転のためのダイヤは用意されるが、1か月は運休とし、試運転のみに充当されることになった。1か月に及ぶ試運転期間に、実際に新機軸として導入された空気ばねの故障やパンタグラフの脱落事故など、数々の初期不良を経験しており、その対策に関係者が奔走することとなった。こうした対策の結果もあって、10月下旬には順調に運転が行われるようになり、1か月の試運転はその役割を果たした。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "こうして11月1日から営業列車としての運転が始まった。当日は、東京駅15番ホームで下りの始発列車に対して十河信二国鉄総裁が、神戸駅で上りの始発列車に対して石井昭正常務理事がテープカットを行った。営業初日の車内では、運行開始を記念して20系電車がデザインされ、「ビジネス特急「こだま号」記念」と称された5本入りのピース2000個が乗客に無料で配布された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "運行開始当時の運行区間は東京 - 大阪・神戸間を各1往復運行で、最高速度は110 km/hで東京 - 大阪間は所要6時間50分であった。これは電気機関車牽引による客車特別急行列車「つばめ」・「はと」が7時間30分で結んでいたのに対して40分の短縮であった。東京 - 大阪間の停車駅は客車特急よりさらに絞り込み、横浜・名古屋・京都のみとした。横浜 - 名古屋間300 km超のノンストップとなるため、運転士は安倍川鉄橋上で田町・大垣電車区の交替を行なった。なお、交替運転士は運転台直後の客席で待機し、大垣電車区の運転士は横浜駅での折り返し運用が組まれていた。名古屋以西は宮原電車区が担当していた。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2往復の列車は、「第1こだま」・「第2こだま」と出発順に付番されることとなった。この列車愛称の命名方式は「つばめ」・「はと」など、一列車一愛称が慣例であった特別急行列車では初例であった。ただし、下り「第1こだま」と上り「第1こだま」とが別々に設定されており、現在のように奇数が下り、偶数が上りとの分け方はされていなかった。下り「第1こだま」は東京7時発、大阪13時50分着、「第2こだま」は東京16時発、大阪22時50分着、神戸23時20分着、上り「第1こだま」は神戸6時30分発、大阪7時発、東京13時50分着、「第2こだま」は大阪16時発、東京22時50分着であった。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)9月のダイヤ改正で、線路改良の進展に伴い「こだま」の所要時間は6時間40分に短縮された。また、相変わらず満席が続き、予備車をやりくりして多客期には10両編成に増結するなどしていたが、後述する「つばめ」・「はと」の電車化に伴う増備車両のうち早期に落成した車両を利用して、この年の12月13日から「こだま」が12両編成化された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "運行開始後の集計では、乗車率は平均87 %を記録した。前後の急行・準急列車の乗車が減少していたわけではなかったので、良好なサービスを提供したことによる新規の需要拡大であると判断された。座席指定券は発売開始と同時に売り切れてしまう状態が続き、当初予定していたビジネス客が急用で乗ることができないということから、当日発売席を用意するなど、営業側が対応に追われることになった。「こだま」運行開始にあたって線路の改良と車両の準備に投じた9億円の資本は、運行開始1年で回収された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "「こだま」運行開始後も、「つばめ」・「はと」は引き続き電気機関車牽引の客車列車として運転されていたが、使用している車両の老朽化は激しく、置き換えが行われることになった。「こだま」の人気と実績により、既に電車による優等列車運転に疑問を唱えるものはいなくなり、この置き換えでは「こだま」と同一編成に統一して電車列車とすることになった。「はと」は「つばめ」に統合されることになり、1960年(昭和35年)6月1日のダイヤ改正から上下とも「第1こだま」「第1つばめ」「第2こだま」「第2つばめ」の順で運転されることになった。13億円の投資を行って線路改良をさらに行い、停車駅を2駅増やしつつさらに10分の時間短縮を行って東京 - 大阪間を6時間30分とした。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "「つばめ」の電車化により、従来の客車列車に存在した展望車や食堂車の代替が望まれた。従来の「こだま」にはビュフェのみの連結であったが、この改正に合わせて食堂車サシ151形が製造されて連結された。展望車の代替としては、2 m×1 mの大窓を備えた区分室や、通路の両側に1列のみの座席の配置された開放室など、1両の定員が18名という豪華なクロ151形「パーラーカー」が用意された。またダイヤ改正の2か月後の8月から、ビュフェに電話室が設置されて、日本電信電話公社(のちのNTTグループ)と接続した列車電話のサービスが開始された。電話を掛けられる地域は東京・名古屋・大阪限定であったが、上下4往復の列車のためだけに東海道沿線14箇所に基地局を設置して、400 MHz帯のUHF無線通信でつなぐシステムが用意された。パーラーカーでは、パーサーが電話機を持参して自分の席で電話を掛けられるサービスもあった。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ダイヤ改正前日の5月31日には、田町電車区で編成の入れ替え作業が行われた。それまで3編成であったのが6編成に増強されるとともに、食堂車やパーラーカーの組み込みがあり、加えて制御回路の接続の関係から車両の方向転換などもあり、事前によく計画を立てて行われた。5月31日の下りの「第2こだま」は事前に準備してあった新しい編成で運転が行われ、別途回送した新しい編成とともに6月1日の大阪発の列車をまかなった。また5月31日の午後の列車で上京してきた車両は、田町電車区に回送されて深夜に編成の入れ替え作業が行われ、翌朝の東京発の列車から新しい編成で運転された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「こだま」に使用していた151系電車は予備車が少なく、その故障時には急行形車両の153系電車による代替運行も行われたことがあった。153系電車は接客設備では151系電車にはるかに劣るものの、速度性能は「特急」に使用されても問題ないものであった。153系電車では座席が特急用車両の水準に満たなかったのみならず、三等車はおろか二等車にすら冷房も搭載されていなかったが、この当時は冷房のないおよび座席が特急用車両の水準に満たない車両でも、特急料金を割引く規定が存在していなかったため、通常の特急料金のままであった(運転開始当時は非冷房の客車を使用した特急列車が「はつかり」の三等車などの一部にあり、座席が特急用車両の水準に満たない車両を使用した特急列車も「かもめ」の三等車など、一部に設定されていたことも要因であった)。しかし1961年10月1日の規定の改定で、冷房がない場合、および座席が特急用車両の水準に満たない場合の割引制度が制定されたため、同日以降、153系電車で運行する際は特急料金の半額を返金するようにした。利用者からはこの代替列車は「こだま」をもじって「かえだま」(替え玉)と呼ばれた。「つばめ」の電車化後も151系電車の故障時の予備車不足はまだ生じ、「かえだま」や、157系電車(日光形電車)の代替使用(「新かえだま」)もあった。こうした故障は当時のマスメディアにも取り上げられ、対策として抵抗器の容量増大や主電動機の密封化などの改良が行われて故障も減少するに至った。「かえだま」については、「第一富士」脱線事故も参照のこと。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)10月1日の、サンロクトオと称されるダイヤ改正により、「こだま」は2往復とも大阪発着となった。「こだま」と同じ形式の電車を利用した特急が大幅に増発され、東海道本線を行き交うようになった。さらに1962年(昭和37年)6月1日のダイヤ改正では、広島へ同じ151系による「つばめ」や、派生形式161系による特急「とき」が上野 - 新潟間に設定されるようになった。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)10月1日の、東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正により、東京 - 大阪間在来線特急が廃止となったため、在来線特急としての「こだま」は廃止された。", "title": "東海道本線電車特急「こだま」" } ]
こだまは、東海旅客鉄道(JR東海)および西日本旅客鉄道(JR西日本)が東海道新幹線・山陽新幹線で運転している特別急行列車の愛称である。列車の案内表示では青色が用いられる。 本項では、東海道新幹線開業以前に日本国有鉄道(国鉄)が東京駅 - 大阪駅・神戸駅間を東海道本線経由で運行していた国鉄初の電車特急列車についても記述する。
{{Infobox 列車名 |列車名=こだま |画像=JRW-500 V2 inHimeji.jpg|画像サイズ=300px |画像説明=「こだま」に使用される500系 |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[東京都]]・[[神奈川県]]・[[静岡県]]・[[愛知県]]・[[岐阜県]]・[[滋賀県]]・[[京都府]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[岡山県]]・[[広島県]]・[[山口県]]・[[福岡県]] |前身=特急「こだま」[[つばめ (列車)|「つばめ」「はと」]][[東海道本線優等列車沿革|その他]] |運行開始=[[1964年]][[10月1日]] |運行終了= |後継= |運営者=[[東海旅客鉄道]](JR東海)<br />[[西日本旅客鉄道]](JR西日本) |旧運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄) |平均乗客数= |起点=[[東京駅]]ほか多数 |停車地点数= |終点=[[博多駅]]ほか多数 |営業距離=1069.1 [[キロメートル|km]](東京 - 博多間)<ref group="注">実キロ。東京 - 博多間の営業キロは1174.9 [[キロメートル|km]]である。</ref> |平均所要時間= |運行間隔=2本/時間(東京 - 名古屋間)<br />1本/時間(名古屋 - 新大阪間)<br />0 - 1本/時間(新大阪 -岡山間)<br />1 - 2本/時間(岡山 - 博多間) |列車番号= |使用路線=JR東海:[[東海道新幹線]]<br />JR西日本:[[山陽新幹線]] |クラス=[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応= |座席=グリーン車[[座席指定席|指定席]]<br />普通車指定席<br />普通車[[自由席]] |娯楽=ラウンジスペース「HELLO! PLAZA」:1号車(842・859号) |その他= |車両=[[#使用車両・編成]]を参照 |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]] |最高速度=285 [[キロメートル毎時|km/h]](東海道新幹線)<br />300 km/h(山陽新幹線) |線路所有者= |ルート番号= |備考=842号・859号は原則として「ハローキティ新幹線」車両で運行 }} [[File:Shinkansen Series 300 Rollsign.JPG|thumb|行先表示機などにおける案内では青色が用いられる。]] '''こだま'''は、[[東海旅客鉄道]](JR東海)および[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が[[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]]で運転している[[特別急行列車]]の[[列車愛称|愛称]]である。列車の案内表示では青色が用いられる<ref name="asahi_20101213">{{Cite news |author=佐藤亜季 |title=車内照明に新幹線表示板… 鉄道もLED化進行中 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2010-12-13 |url=https://www.asahi.com/airtravel/OSK201012080168.html |agency=[[朝日新聞社]] |accessdate=2018-01-21}}</ref>。 本項では、東海道新幹線開業以前に[[日本国有鉄道]](国鉄)が東京駅 - [[大阪駅]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間を[[東海道本線]]経由で運行していた国鉄初の[[電車]]特急列車についても記述する。 == 概要 == {{File clip|Shinkansen map 201703 ja.png|width=600|69|12|17|6|w=3100|h=3200|運行区間の路線図}} 東海道・山陽新幹線の[[各駅停車|各駅に停車する列車]]。停車駅は[[東海道新幹線#駅一覧|東海道新幹線駅一覧]]・[[山陽新幹線#駅一覧|山陽新幹線駅一覧]]を参照。 [[新幹線]]の「こだま」は、[[1964年]]([[昭和]]39年)[[10月1日]]に東海道新幹線が開通した当初から速達タイプの「[[ひかり (列車)|ひかり]]」に対して始発駅から終着駅まですべての駅に停車する列車として運行を開始した。もともと「こだま」は東海道本線を走行する“ビジネス特急”として親しまれていた列車であり(詳細は後述)、名称とともにその役割を継承したものである。 [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]の山陽新幹線[[岡山駅|岡山]]開業、[[1975年]](昭和50年)[[3月10日]]の山陽新幹線博多駅延伸で運行区間を延ばしていくが、「ひかり」やその後運行を開始した「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」が全区間を走行する列車として運転されたのに対し、「こだま」は当初より近距離の都市間輸送<ref group="注">近距離の都市間輸送は新幹線開業前の在来線では特急ではなく[[急行列車]]や[[準急列車]]が担っていた領域である。</ref>や「のぞみ」「ひかり」との乗り継ぎ輸送が主な役割と位置づけられており、岡山延伸以降は廃止系統でも[[静岡駅|静岡]] - [[岡山駅|岡山]]間、[[名古屋駅|名古屋]] - [[広島駅|広島]]間などの区間運転が主体で、東京 - 博多間全区間を通しで運行する列車はない。現在は東海道新幹線では輸送力確保と[[東海道新幹線#編成両数と座席数の統一|座席数統一]]のため全ての列車が16両編成を用いるのに対し、山陽新幹線では8両の短い編成を用いていることもあって、新大阪駅を越える列車は運行されておらず、東京発着の列車は基本的に「東京から名古屋」「東京から新大阪」しかない。ほとんどの駅で「のぞみ」や「ひかり」の接続・通過待ち<ref group="注">山陽新幹線内では「みずほ」「さくら」の待避もあり、場合によっては2列車以上を待避したり、臨時列車の待避も設定されているため、当該列車が運転されない日は単に時間調整のために停車するだけの例もある。</ref>を行うため、所要時間は目的地によって異なるが通常より多くかかる。例として東京 - 新大阪間の日中の所要時間は3時間57分(2019年3月ダイヤ改正時点)であるが、朝晩の列車の所要時間の合計が3時間20分程度<ref group="注">上りの場合、こだま696号(新大阪 - 名古屋間無待避、1時間2分)・こだま694号(名古屋 - 浜松間無待避、40分)・こだま702号(浜松 - 東京間無待避、1時間40分)の所要時間の合計が3時間22分となる。</ref>であり、運転時間のうち35分が接続・通過待ちのための停車時間に割り当てられていることとなる。 また、運行開始当時より「ひかり」「のぞみ」用車両を車両基地最寄り駅([[三島駅]]など)へ回送させる列車を「こだま」として運行している事例もある<ref group="注">このため、東海道新幹線ではJR西日本所属の車両(現在は700系B編成)を使う列車が存在し、また山陽新幹線でも[[2006年]][[3月17日]]までJR東海所属の車両を使った列車が上下各1本(下り:岡山 - [[三原駅|三原]]間、上り:三原 - 新大阪間)存在した。300系J編成が定期運用で岡山以西に乗り入れる唯一の列車でもあったが、改正後はF編成に置き換えられた。その後[[2008年]][[3月15日]]改正で下り1本(岡山 → 三原間)が再び300系J編成で運用されるようになった。また運用上の都合でF編成の運用にJ編成が入ったりその逆もあった。</ref>ほか、[[新幹線通勤]]対策で朝晩を中心に、拠点駅ではない途中駅([[静岡駅]]・[[浜松駅]]・[[福山駅]]・[[三原駅]]・[[新山口駅]]・[[新下関駅]]など)始発・終着となる列車も数多く設定されている。 山陽新幹線で運行される「こだま」の多数は博多駅から[[博多南線]]へ乗り入れ、[[博多南駅]]まで運行される。但し、博多南線内では列車名のない在来線の特急列車扱いとなる。 東海道新幹線の新富士駅、掛川駅、三河安城駅および山陽新幹線の厚狭駅は、「こだま」のみが停車する。かつては新岩国駅も「こだま」だけが停車していた。 === 名称の由来 === 「こだま」の名称は、[[1958年]](昭和33年)、[[東京]] - [[大阪]]間の日帰り可能な電車による「ビジネス特急」新設にあたって、最終的には国鉄末期まで広く使われたJNRマークやアルファベットの「T」をモチーフとした特急エンブレムが採用されたシンボルマークとともに、一般公募によって決められたものである。東海道新幹線開業に伴う東京 - 大阪間在来線特急の廃止により、在来線特急としての「こだま」は[[1964年]][[9月30日]]に廃止され、翌日[[10月1日]]から新幹線の列車名として使用されている。 1958年5月4日にビジネス特急の完成予想図が新聞発表され、これに合わせて愛称の募集が告知された。既にほかの列車に使用されている愛称、および将来的に使用を予定していた「[[富士 (列車)|富士]]」は避けるという条件が付けられていた。5月20日締め切りで6月上旬発表を予定していたが、応募が殺到したために発表は6月下旬に延期された。 92864票<ref name="jrea19585">[{{NDLDC|3255753/1}} JREA 1958年5号 246ページ ニュース ビジネス特急名称外部色などきまる]</ref>もの応募があり、愛称名の種類は2500種類に上った。1位は5,957票の「はやぶさ」で、「平和」1,076票、「さくら」692票といったほかの候補と比較しても「こだま」は374票と、それほど多い得票ではなかった。最終選考で「こだま」は[[木霊]]つまり[[山彦]]のことであり、「1日で行って帰ってくることができる」ことから決定されたものといわれる。 なおこの時に佳作として以下のものが発表され、将来の特急名として採用するとされた。 * 「はやぶさ」:1958年10月1日、東京 - [[鹿児島駅|鹿児島]]間の急行「さつま」特急格上げに伴う改称で採用。詳細は[[はやぶさ (列車)#列車名の由来|「はやぶさ」列車愛称の由来]]を参照。 * 「さくら」:「平和」に[[国鉄20系客車|20系客車]]を投入する際の改称で採用。詳細は[[さくら (列車)#概要|列車愛称について]]を参照。 * 「平和」:東京 - [[長崎駅|長崎]]間の特急「さちかぜ」に、1958年10月1日のダイヤ変更に伴う改称で採用。詳細は[[さくら (列車)#概要|列車愛称について]]を参照。 * 「初雁」(はつかり):1958年10月1日に[[上野駅|上野]] - [[青森駅|青森]]間の新設特急名として採用。詳細は[[東北本線優等列車沿革#列車愛称の由来|「はつかり」列車愛称の由来]]を参照。 また、のちの新幹線に採用された名前では「のぞみ」が108通、「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」が291通であった(「ひかり」は当時急行列車に使用されていたため選考対象外)。珍しい応募としては「愛妻」(日帰りできるので[[wikt:浮気|浮気]]を防げるから)・「躍進日本」・「十河」(当時の[[十河信二]]国鉄総裁から)・「金田」([[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]のエースピッチャー[[金田正一]]から)などがあった<ref>『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.82 - 84</ref>。 == 新幹線「こだま」 == === 運行概況 === [[2023年]][[3月18日]]現在、早朝・深夜を除いて東海道区間では東京発着で名古屋駅まで毎時1本、新大阪駅まで毎時1本<ref group="注">下りの夕方帯のみ新大阪着の設定がなく、その間は名古屋着のこだまと名古屋 - 新大阪間各駅停車のひかりがそれぞれ毎時2本となっている。</ref>が運転されている。山陽区間では新大阪駅または岡山発着で博多駅まで毎時1本程度が運転されている。 [[車内販売]]は2012年3月17日のダイヤ改正で全廃された<ref group="注" name="700_and_N700_16cars_vending_machine_and_kodama_drink_buy">2012年3月17日のダイヤ改正では東海道・山陽新幹線から100系(山陽区間のみで東海道区間は2003年9月16日に引退)・300系が引退したのと700系・N700系16両編成全編成に[[飲料]]の[[自動販売機]]が設置(700系初期車の16両編成はマスコットグッズの自動販売機も設置)されたために「こだま」での車内販売は全廃となり、16両編成の「こだま」の車内では自動販売機のみで飲料のみの購入(700系初期車の16両編成で運転する「こだま」では自動販売機のみでマスコットグッズも購入可)となっていたが、2014年3月15日で700系・N700系16両編成の車内の自動販売機が全廃されたために、現在はN700系8両編成以外の「こだま」の車内では飲料の購入もできない(マスコットグッズはすべての「こだま」の車内で購入できない)。また、N700系8両編成の「こだま」の車内では、現在も自動販売機のみで飲料のみの購入はできる。</ref>。それ以前は東京 - [[名古屋駅|名古屋]]・新大阪間の通し運転列車のみ営業していた。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; margin:1em 0em 2em 3em;" |+ 2023年3月18日改正時点での運行区間 !style="width:1em;"|路線 !号数 !運行区間 !使用車両 !備考 |- !style="width:1em;" rowspan="3"|東海道新幹線 !700 - 755・757号 |東京 - 名古屋・新大阪間 |rowspan="3"|[[新幹線N700系電車|N700系]]<br />[[新幹線N700S系電車|N700S系]] | |- !760 - 768号 |[[三島駅|三島]]・[[静岡駅|静岡]]・名古屋 - 新大阪間 | |- !800 - 816・818・820・822号 |東京 - 三島・静岡・[[浜松駅|浜松]]間 | |- !style="width:1em;" rowspan="2"|山陽新幹線 !830 - 877号 |新大阪 - [[岡山駅|岡山]]・[[広島駅|広島]]・博多間<ref group="*">[[姫路駅|姫路]] → 博多間、[[福山駅|福山]] → 新大阪間、[[新岩国駅|新岩国]] → 新大阪間、新大阪 - [[三原駅|三原]]間、新大阪 → 新山口間</ref><br />岡山 - 広島・博多間<ref group="*">岡山 → 新山口間、博多 → 福山間</ref> |rowspan="2"|[[新幹線500系電車|500系]]<br />[[新幹線700系電車|700系]]<br />N700系 |一部区間運転あり(下記参照) |- !770 - 783・785号 |広島・[[新山口駅|新山口]]・[[新下関駅|新下関]]・小倉 - 博多間 | |} {{reflist|group="*"}} === 停車駅 === 各駅停車である。<br>停車駅の駅名の詳細は[[東海道新幹線#駅一覧]]および[[山陽新幹線#駅一覧]]を参照。 === 使用車両・編成 === 東海道・山陽新幹線で現在運用中の全車種が使用されている。なお、車両の配置区所はJR東海所有車が[[東京交番検査車両所]]と[[大阪交番検査車両所]]、JR西日本所有車が[[博多総合車両所]]である。なお、N700系(8両編成)は[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[熊本総合車両所]]所属の編成が使用されることもある。 ; 記号凡例 : {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]] : 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席 : 自=普通車[[自由席]] : S=喫煙ルーム : [[File:Rauchen_Verboten.svg|15px]]=禁煙席 ==== 700系 ==== {|style="float:right; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #0072bc; text-align:center;"|700系 8両編成編成図 |- |style="font-size:80%; text-align:center;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- |style="text-align:center;"| {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8 |- |自||自||自||指||指||指||自||自 |} |- |style="font-size:80%;"| * [[File:Rauchen_Verboten.svg|17px]] '''全車両禁煙''' * 一部の列車で座席種別が変更する場合ある * 8号車の個室は3往復を除き締切扱い。 * 8号車の個室は3往復のみ普通車指定席として発売。 |} [[新幹線700系電車|700系]]は、2020年3月14日以降「[[ひかりレールスター]]」用である8両編成(E編成)が山陽新幹線区間のみで使用されている。8両編成(E編成)は500系と並んで山陽新幹線における「こだま」の主力車種の一つとなっている。 2000年3月ダイヤ改正から「ひかりレールスター」として運用を開始した当時は、間合い運用の形で広島 - 博多間などの区間列車の一部で運用されていた。2011年3月の九州新幹線全通に伴い、レールスターの一部が「[[さくら (新幹線)|さくら]]」に置き換えられた影響で、山陽区間において100系の運用を置き換え、700系E編成でのこだま運用が大幅に増えた。一部の列車は全席自由席で運行されている。なお、2012年3月のダイヤ改正以前は、指定席は8号車のみとなっていた。その後、2012年3月ダイヤ改正で指定席が5・6号車に変更され、2014年3月ダイヤ改正から、4号車も一部の列車を除き指定席となった。 2020年3月13日までは、東海道新幹線区間で16両編成が使用されていた。東海道新幹線区間の早朝・夜間に設定されていた一部の区間列車では、平日のみ普通車全車自由席となる。ただし13 - 15号車は[[修学旅行列車|修学旅行団体が乗車する列車]]で指定席となる場合があった。 [[ファイル:700 Kodama Jr-west.jpg|左|サムネイル|200x200ピクセル|700系8両編成(E15編成)]] {{-}} ==== 500系 ==== {|style="float:right; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |- |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #0072bc; text-align:center;"|500系 8両編成編成図 |- |style="font-size:80%; text-align:center;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- |style="text-align:center;"| {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8 |- |※||自||自s||指||指||指||s自||自 |} |- |style="font-size:80%;"| * [[File:Rauchen_Verboten.svg|17px]] '''全座席禁煙'''(3・7号車デッキに喫煙ルーム設置) * 1号車の※:842号・859号はフリースペース、それ以外は普通車自由席 |} JR西日本の博多総合車両所に所属する[[新幹線500系電車|500系]]8両編成(V編成)が2008年12月1日から山陽新幹線限定で運用開始し、0系運用と100系運用の一部を置き換えている。2011年の九州新幹線全通に伴い、運用がさらに増加した。16両編成(W編成)は2007年の冬以降、通常300系F編成が使用される山陽新幹線の300系運用に不定期で充当されており、東海道新幹線では原則運用されない。 500系8両編成で運転される列車の8号車には、子ども用の疑似運転台が設置されている<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174361_799.html 新幹線の運転を体感! 500系「こだま号」にお子様向け運転台を設置します] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100503131355/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174361_799.html |date=2010年5月3日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年9月4日</ref>。ハンドルやスイッチを設置しており、これらを操作することで速度計やATC信号などが対応して点灯する仕組みとなっている。 2009年3月14日から、「こだま指定席往復きっぷ」がJR西日本から発売されており、該当列車は5号車(場合によっては4・5号車)が指定席に変更される<ref>[http://www.tetsudo.com/news/305/%E5%B1%B1%E9%99%BD%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A0%BC%E5%AE%89%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%82%92%E7%99%BA%E5%A3%B2/ 山陽新幹線「こだま」の格安きっぷを発売]([https://archive.is/dS8aP →アーカイブ]) - 『鉄道コム』2009年3月12日付け掲載記事</ref>。 2013年10月1日 - 12月18日の期間、4号車と5号車について座席配置を「2列×2列」に改める工事を順次実施。翌12月19日より5号車が指定席となり、さらに2014年3月15日のダイヤ改正からは4号車も一部の列車を除き指定席となった。そのため、1編成あたりの定員は8両編成(V編成)化直後の608名から557名へと減少している。 [[File:Shinkansen 500 (8086233447).jpg|thumb|200px|left|500系8両編成(V4編成)]] {{-}} ==== N700A・N700S ==== {|style="float:right; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|N700系 16両編成編成図 |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|博多|東京}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- |自 |自 |自<small>S</small> |自 |自 |自 |指<small>S</small> |style="background-color:#cf9;"|G |style="background-color:#cf9;"|G |style="background-color:#cf9;"|G<small>S</small> |指 |指 |自 |自 |自<small>S</small> |自 |} |- |style="font-size:80%;"| * [[File:Rauchen Verboten.svg|17px]] 全座席禁煙 |- |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|N700系 8両編成編成図 |- |style="font-size:80%; text-align:center;"|{{TrainDirection|博多|新大阪}} |- |style="text-align:center;"| {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:auto;" |- |1||2||3||4||5||colspan="2"|6||7||8 |- |自 |自 |自<small>S</small> |指 |指 |指 |style="background-color:#cf9;"|G |<small>S</small>自 |自 |} |- |style="font-size:80%;"| * [[File:Rauchen Verboten.svg|17px]] 全座席禁煙 |} [[新幹線N700系電車|N700系]]は、東海道新幹線では2009年3月14日から浜松駅の始発の次の列車と三島駅到着最終(東京始発)の上下各1本で定期運用を開始した。2020年3月14日から東海道新幹線「こだま」全列車がN700系に統一され、最高速度も285km/hに引き上げられた<ref name="jr-central20191213">{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040172.pdf|format=PDF|title=2020年3月ダイヤ改正について|publisher=東海旅客鉄道株式会社|date=2019-12-13|accessdate=2020-04-23}}</ref>。同年7月より、[[新幹線N700S系電車|N700S系]]も充てられている。 山陽新幹線では通常300系充当の「こだま」1往復に不定期で充当されている。2009年3月13日まで朝晩の小倉 - 博多間2往復(朝下り2本上り1本、夜上り1本)に充当されていたが、同改正以降はN700系以外の車両が用いられるようになり、一時的に山陽新幹線内での定期こだま運用は消滅した。2010年3月13日のダイヤ改正でN編成が早朝・深夜の新下関 - 博多間1往復と小倉 - 博多間1往復に再度使用されるようになった。山陽新幹線区間の一部列車はグリーン車を除き全車自由席で、新下関・小倉 - 博多間のみを運転する列車においては車内でのみ[[グリーン券]]を発売している。 2011年3月12日以降、「さくら」「みずほ」用のS編成(8両編成)が「こだま」として運行されている。この場合、2&2シートの4・7・8号車も自由席としている。また、2012年3月17日からは[[九州旅客鉄道]](JR九州)所有のR編成も使用されている。2014年3月15日ダイヤ改正から、4号車は一部列車を除き指定席となっている。2018年3月17日現在、S編成は新大阪 - 岡山間1往復(朝上り1本、夜下り1本)、小倉 - 博多間朝1.5往復(下り2本、上り1本)<ref group="注">上り1本、下り1本は休日運休、下り1本は熊本発小倉行き「つばめ」の折り返し運用。</ref>、新下関 - 博多間朝上り1本<ref group="注">折り返し運用となる新下関発の下り列車は鹿児島中央行き「さくら」として運転。</ref>、R編成は新大阪 - 三原間1往復(朝上り1本、夜下り1本)にそれぞれ使用されている。 [[File:JRC N700 series Z28.jpg|thumb|200px|left|N700系(Z28(現・X28)編成)]] {{-}} ==== 過去の車両 ==== ===== 0系 ===== 東海道新幹線では1999年9月18日まで、山陽新幹線では2008年11月30日まで使用された。 [[新幹線0系電車|0系]]は、1964年10月1日の東海道新幹線開業当初から運用開始。当初は12両編成で運行していたが、その後16両編成化されたものの、再び12両化(S編成)されたのち、東海道新幹線区間では1989年に16両編成化(Y編成)された。Y編成は指定席車となる9 - 12号車の4両を2+2の4列シートに改造して運用していた。1999年9月18日の「こだま」473号(東京 → 名古屋間)の運行をもって東海道新幹線からは撤退した。 山陽新幹線においては、当初は東海道新幹線と共通運用で12両編成または16両編成で運行されたが、1985年6月に独自の6両編成(R編成)が投入され、その後は4両の短縮編成(Q編成、広島以西限定)も運用された。末期は、2+2の4列シート(旧ウエストひかり普通席用)を使用したWR編成が用いられていた。 11月30日の「こだま」659号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。 東海道「こだま」専用編成は原則的に山陽新幹線内に乗り入れないものとされたため、一部の編成には岡山以西の換気方式に対応しない車両が組み込まれていた。当該編成では識別のため、本来の編成番号に50を足していた。 <gallery> File:Shinkansen Type-0 Kodama.jpg|0系16両編成(YK編成) File:0 Q4 Kodama Hakata 19980700.jpg|0系4両編成(Q4編成)<br>山陽新幹線内では輸送需要に合わせ、短縮編成が組成された。 </gallery> {{-}} ===== 100系 ===== 東海道新幹線では2003年8月31日まで、山陽新幹線では2012年3月14日まで使用された。 [[新幹線100系電車|100系]]は、JR西日本の[[博多総合車両所]]に所属する6両編成(K編成)が山陽新幹線限定で使用されていたが、[[2012年]]の春に運用から撤退すると報じられた<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201005290050.html 「シンデレラエクスプレス」100系新幹線12年春引退] - [[朝日新聞]] 2010年5月29日</ref>。座席は、グリーン席からひじ掛け内蔵テーブルやフットレストを撤去したものが転用された2列+2列シートである。 列車によっては、5・6号車も指定席となる場合や全車自由席(853号)の運用も存在した。 かつて(定期運行としては2003年8月まで)は16両編成(X・G編成など)が東海道新幹線でも用いられていた。また、2011年3月11日までは4両編成(P編成)が山陽新幹線で運用されていたが、信号システムの関係上新大阪駅まで乗り入れることはなく、最大でも姫路 - 博多間で使用された。P編成は、全車両が「ウエストひかり」普通車用や100系グリーン車などから転用した2列+2列座席であった。 2012年3月14日の「こだま」766号(博多 → 岡山間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、300系とともに全車引退した。 [[File:K53 Kodama 629 Higashi-Hiroshima 20030719.JPG|thumb|200px|left|100系6両編成(K53編成)]] {{-}} ===== 300系 ===== [[新幹線300系電車|300系]]は、東海道新幹線では700系登場以降主力車種となっていたが、老朽による廃車が進み、「のぞみ」から撤退した700系に置き換えられた。山陽新幹線では、2012年3月13日まで<!-- J編成が -->早朝の[[姫路駅|姫路]] → 岡山間で1本、<!-- F編成が -->岡山 - 博多間で1往復に使用されていた。東海道新幹線では2012年3月12日の「こだま」650号(新大阪 → 東京間)、山陽新幹線では2012年3月13日の「こだま」727号(岡山 → 博多間)の運行をもって新幹線の定期運行から撤退、全車引退した。 [[File:Shinkansen 300 (8086207786).jpg|thumb|200px|left|300系(F9編成)]] {{-}} === 「こだま」に特化した旅行商品・乗車券類 === {{main|新幹線こだま号に特化した旅行商品と乗車券類}} [[JR]]と一部の[[旅行会社]]では、「こだま」の利用に特化した旅行商品や[[特別企画乗車券|トクトクきっぷ]]を、通常発売額([[運賃]]と[[特別急行券|特急料金]]等の合算額)と比べて格安な金額にて、販売している。 ==== 旅行商品 ==== ===== 東海道新幹線区間 ===== * '''ぷらっとこだまエコノミープラン'''([[ジェイアール東海ツアーズ]]) ===== 山陽新幹線区間 ===== * '''バリ得こだま・ひかり号'''([[日本旅行]]) * '''トク得!ひかり・こだま'''([[JTB|ジェイティービー]]) * '''きままにこだま&ひかり'''([[近畿日本ツーリスト]]) * '''こだまっぷ・ひかりっぷ'''(南海国際旅行) 何れのプランとも、交通手段(新幹線)のみを提供する[[企画旅行#募集型企画旅行|募集型企画旅行]]([[フリープラン]])の形態で販売されているものであり、[[鉄道事業者]](今回の場合はJR)との間で締結された契約に基づいて発行される乗車券類とは異なる。 そのため、実際の取扱(旅行中、旅行中止に伴う払戻など)に際してJRの[[乗車券|乗車券類]]とは異なる点が存在することから、プランを企画した旅行会社ではパンフレットなどで「'''“きっぷ”ではなく募集型企画旅行である'''」という旨の文言を記載し、注意を促している。 ==== 特別企画乗車券 ==== * '''こだま指定席往復きっぷ''' * '''こだま指定席きっぷ''' * '''こだま早特往復きっぷ''' * '''こだまスーパー早特きっぷ''' 何れも山陽新幹線区間にて運行されている「こだま」に特化した乗車券類となっており、同線を管轄している[[西日本旅客鉄道株式会社|JR西日本]]が企画・発売している。 片道あたりの金額が通常発売額に比して格安に設定されている一方で、対象となる列車が限定されていること、発売枚数が限定されていること、購入後の変更が出来ないことなどの制約条件が付帯されているのが特徴である。 === 沿革 === 新幹線としての「こだま」の沿革を記述する。 ==== 東海道新幹線特急「こだま」 ==== {|style="float:right; margin:1em 0em 1em 1em; border:1px solid gray;" |+ 1964年10月1日時点の編成図 |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|こだま |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|新大阪|東京}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12 |- |二 |二 |二 |二 |{{small|B}}二 |二 |style="background-color:#cf9;"|一 |style="background-color:#cf9;"|一 |{{small|B}}二 |二 |二 |二 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| ; 記号凡例 : B=[[食堂車|ビュフェ]] : {{bgcolor|#cf9|一}}=[[一等車]][[座席指定席|指定席]] : 二=[[二等車]]指定席 |} * [[1964年]](昭和39年) ** [[1964年10月1日国鉄ダイヤ改正|10月1日]]:在来線の特急の名称を引き継ぎ、東京 - 新大阪間の各駅に停車する列車として運行を開始。ただし「ひかり」が「[[超特急]]」として割高な「[[特別急行券|超特急料金]]」を徴収したのに対し、「こだま」は「特急」として運行された。もちろん「ひかり」よりは遅いものの、東京 - 新大阪間を5時間で結んだ。ともに全車[[座席指定席]]を採用。新幹線列車の名称としては在来線特急「こだま」を引き継ぐものという意味のほかに、超特急を「ひかり」とすることで「光速」と「音速」という速さの対比を付けたとされる。 ** [[12月18日]]:[[普通車 (鉄道車両)|二等車]]に[[自由席]]が設定される。当時は1列車の座席定員の120%程度までで発行を打ち切っており、現在の[[特別急行券#立席特急券|立席特急券]]に近いものとなっている。 * [[1965年]](昭和40年)[[5月12日]]:二等車と同様の発券方式を採用して、[[グリーン車|一等車]]に自由席を設定。 ** [[11月1日]]:路盤の安定により「ひかり」とともにスピードアップし、東京 - 新大阪間を4時間に短縮。以後、新駅開業による停車時間増や車両交代による速度向上を経つつ、同区間の所要時間は4時間強程度で推移する。 * [[1966年]](昭和41年)7月 - 11月:一等車の利用率が低いため、2両のうちの1両を二等車に置き換え。 * [[1969年]](昭和44年):「こだま」の[[食堂車|ビュフェ]]の利用率が低いのと、普通車(1969年5月10日に二等車を普通車に変更)の輸送力を増強するため、2両のうち1両を売店付き普通車に7月以降順次置き換え。 * [[1970年]](昭和45年) ** 3 - 9月:この時期に開催された[[日本万国博覧会]]に伴い、例外的な輸送が実施された([[大阪万博の交通]]も参照)。 *** [[ゴールデンウイーク]]期間中と夏期に、東海道本線上りの大阪 - 三島間を運行する[[臨時列車|臨時]][[夜行列車|夜行]][[急行列車]]として、「'''エキスポこだま'''」が運行された。この列車は三島駅で、同駅始発の東京行き臨時列車「こだま」492号に接続して、東京近郊の東海道本線の通勤輸送に支障を与えることなく東京方面への連絡を図る目的があった<ref>{{Cite|和書|author=須田寛|title=東海道新幹線II 改訂新版|date=2010|pages=32|publisher=JTBパブリッシング|series=キャンブックス|isbn=978-4-533-07896-5}}</ref><ref>{{Cite|和書|title=新幹線50年の時刻表 時刻表でふりかえる新幹線のあゆみ 上巻 |date=2014|pages=30, 48|publisher=交通新聞社|series=トラベルMOOK|isbn=978-4-330-48614-7}}</ref>。 ** 10月1日:万博輸送終了により、[[グリーン車]]の自由席が廃止。 ==== 山陽新幹線開業後 ==== * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月15日]]:[[山陽新幹線]][[岡山駅]]開業。山陽新幹線内でも「ひかり」とともに各駅に停車する列車として運行されることになった。また[[名古屋駅|名古屋]] - 岡山間を運行する「こだま」も設定され、新大阪駅を越える列車も登場した。またそのほかには静岡 - 岡山間の「こだま」も1往復設定された。 *** 山陽新幹線内を各駅に停車する「ひかり」が設定されたことから、同線内での「こだま」は東京発着の「ひかり」運行前・運行終了後の運行が中心となった。 *** 東京発着の「こだま」は新大阪駅までの運行で、それ以西へは運行されていない。ただし[[1991年]][[3月16日]]ダイヤ改正までは[[臨時列車]](または定期列車の延長運転)として、東京 - 岡山間や名古屋 - 博多間を運転する「こだま」が設定されたことはあった<ref>『JR時刻表』(弘済出版社)、1991年1月号pp.41 - 58および1991年3月号pp.42 - 59。晩年は、東京発岡山行の「こだま431号」のみが最多客時に運行されていた。</ref>。 *** 東京 - 名古屋間をのぞき、「ひかり」との[[特別急行券|特急料金]]の区別を廃止。 ** [[6月29日]]:12両編成「こだま」の一部が16両編成に増結、[[1973年]]8月までにすべての「こだま」編成が16両化。 * [[1973年]](昭和48年)10月1日:「こだま」のビュフェを従業員の要員不足と利用客の減少を理由に休止し、売店と車内販売の営業体制に切り替え(その後1976年7月にセルフサービスでビュフェ営業が復活)。 * [[1975年]](昭和50年)3月15日:山陽新幹線[[博多駅]]延伸により、山陽新幹線内の運行区間も拡大。同時に東京 - 名古屋間の「ひかり」との特急料金の格差が廃止。 * [[1976年]](昭和51年)8月20日:「こだま」用編成(0系K編成)で運転される「こだま」の16号車自由席が禁煙になる<ref name="Shinkansen 20 496">『東海道 山陽新幹線二十年史』日本国有鉄道新幹線総局、1985年、p.496。</ref>。[[ファイル:shinkansen_1986_01.jpg|thumb|right|ダイヤ異常時、本線に停車中の「ひかり」を追い越す珍しいシーン<br />(1986年 浜松駅)]] * [[1980年]](昭和55年)[[10月1日]]:利用客が減少した「こだま」の運転本数が削減。自由席・指定席の配置を「ひかり」と同一方向とし、1号車が禁煙になる<ref name="Shinkansen 20 500">『東海道 山陽新幹線二十年史』日本国有鉄道新幹線総局、1985年、p.500。</ref>。 * [[1984年]](昭和59年)[[7月1日]]:禁煙車両が2両に増加<ref name="Shinkansen 20 503">『東海道 山陽新幹線二十年史』日本国有鉄道新幹線総局、1985年、p.503。</ref>。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:「こだま」編成が12両組成に減車。「ひかり」編成で運行される一部の「こだま」をのぞき「こだま」は12両で運行されることとなった。 ** 6月:博多発着列車の一部で6両編成の「こだま」が運行開始。以後、山陽新幹線の各列車に拡大し、同線における「こだま」の本数増加。 * [[1986年]](昭和61年) ** 5月:100系量産車の早期落成車を暫定的に東海道新幹線の「こだま」に充当。2階建て車両非連結の12両編成でG編成と名乗っていた。 ** 11月1日:最高速度が220km/hに引き上げ、東京 - 新大阪間で運転する最速列車は3時間52分となる。 ==== 国鉄分割民営化以降 ==== {|style="float:right; margin:1em 0em 1em 1em; border:1px solid gray;" |+ 1997年3月22日時点の編成図 |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|こだま |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|博多|広島}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |- |1||2||3||4 |- |自 |自 |{{small|B}}自 |指 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| ; 凡例 : B=[[食堂車|ビュフェ]](非営業) : 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]指定席 : 自=普通車自由席 |} * [[1987年]](昭和62年)11月ごろ:東海道新幹線の「こだま」用0系指定席車(9・10号車)の4列シートへのグレードアップ(2&amp;2シート)が行われ始め、翌年[[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]の[[一本列島]]のダイヤ改正までに完了する<ref>{{Cite news |title=JR旅客6社と貨物 新列車ダイヤが確定 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-12-22 |page=1 }}</ref>。 * [[1989年]](平成元年):東海道区間の「こだま」が順次16両組成に増強。0系指定席車の4列シートへのグレードアップが9 - 12号車に拡大。 * [[1990年]](平成2年)[[3月10日]]:姫路 - 広島・博多間の「こだま」が4往復新設。 * [[1996年]](平成8年) ** 東海道新幹線の日中の「こだま」に100系が投入される。 ** [[3月16日]]:これまで東海道新幹線では全区間で日中1時間2本運転されていたが、利用率の低下に伴い1往復を名古屋発着に短縮し、米原駅停車の新大阪行き「ひかり」に接続。米原駅停車の「ひかり」が岐阜羽島駅にも停車(「のぞみ」の通過待ちも岐阜羽島に変更)し、名古屋 - 新大阪間各駅停車で補充。 * [[1997年]](平成9年)3月22日:山陽新幹線に0系4両Q編成の「こだま」が登場<ref>{{Cite news |title=JR6社が秋のダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-07-29 |page=1 }}</ref>。 * [[1999年]](平成11年) ** 9月18日:東海道新幹線「こだま」における唯一の0系運用2往復が100系に置き換え。指定席の4列シートも廃止。 ** [[10月2日]]:同日のダイヤ改正で、静岡 - 岡山間運行の「こだま493・492号」が新大阪駅で系統分割。山陽新幹線岡山駅開業から続いてきた東海道・山陽新幹線直通の「こだま」が消滅<ref>『JR時刻表』(弘済出版社)、1999年7月号pp.34 - 55および1999年10月号pp.34 - 55</ref>。 * [[2000年]](平成12年) ** 3月11日:山陽区間で新大阪駅発着の「こだま」が1時間に2本から1本に削減され、姫路駅での折り返しになる。代わりに「ひかり」の一部が西明石駅に停車し、姫路駅で「こだま」と接続<ref name="jrw_19991217">[https://web.archive.org/web/20000303170640/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991217a.html 平成12年春 ダイヤ改正について]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年12月17日</ref>。 ** 3月18日:元「[[ウエストひかり]]」の車両を利用した0系WR編成(R64編成)が組成される。全車2列+2列シートが採用された。 ** 10月4日:山陽新幹線の「こだま」に100系4両P編成が投入<ref name="100PK">{{Cite book|和書|title=JR電車編成表 '09冬号|year=2008|publisher=ジェー・アール・アール|page=130|isbn=9784882830504}}</ref>。2002年2月12日に6両K編成も営業運転開始<ref name="100PK" />。 * [[2001年]](平成13年) ** 2月:東海道新幹線の日中の「こだま」に300系が投入される。 ** 8月21日:新たに2列+2列シートを採用した100系4両P編成(P4編成)が組成される。 * [[2002年]](平成14年) **1月10日:新たに2列+2列シートを採用した100系6両K編成(K51編成)が組成される。 **6月:FIFA([[国際サッカー連盟]])主催[[2002 FIFAワールドカップ|サッカーワールドカップ]]開催に伴う、以下の[[横浜国際総合競技場]]開催試合に関係した、新横浜始発東京行を設定<ref>[http://shinkansen50.jp/history/history_25.html 【25】日韓W杯を支えた新幹線(2002年)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170802172831/http://shinkansen50.jp/history/history_25.html |date=2017年8月2日 }} - 東海道新幹線50周年記念サイト 新幹線パーフェクトヒストリー</ref>。 ***[[6月9日]]:グループH [[サッカー日本代表|日本]]vs[[サッカーロシア代表|ロシア]] ***[[6月11日]]:グループE [[サッカーアイルランド代表|アイルランド]]vs[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア]] ***[[6月13日]]:グループG [[サッカーエクアドル代表|エクアドル]]vs[[サッカークロアチア代表|クロアチア]] ***[[6月30日]]:[[2002 FIFAワールドカップ・決勝|決勝]] [[サッカードイツ代表|ドイツ]]vs[[サッカーブラジル代表|ブラジル]] ****この日は万一、試合が延長戦・[[PK戦]]にもつれ込んだ場合を想定し、新横浜始発東京行の深夜運行を4本用意していたが、試合は延長戦に突入することなく終了したため、深夜運行することなく大会観客輸送を終えた。 * [[2003年]](平成15年) ** 8月31日:同日の「こだま」2往復を最後に東海道新幹線での100系の定期運用が終了。9月16日の臨時「ひかり」を最後に運用終了。 ** 10月1日:ダイヤ改正により、次のように変更。 **# 東海道新幹線「こだま」の最高速度が270km/hに引き上げ、東京 - 新大阪間の標準所要時間を4時間10分から4時間へ10分短縮。 **# 山陽新幹線の姫路発着の「こだま」が岡山発着に短縮し、代替として「ひかり」の一部が相生駅に停車<ref>[https://web.archive.org/web/20031001163934/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030730b.html 平成15年秋 ダイヤ改正](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年7月30日</ref>。 * [[2005年]](平成17年)3月31日:100系P12編成の組成をもって、山陽新幹線「こだま」用編成(0系R編成、100系K・P編成)の全編成2列+2列シート化、フレッシュグリーン塗色化の完了。[[File:Renewal 100series+0series Okayama.jpg|200px|thumb|山陽新幹線「こだま」用100系+0系<br />(新塗色 岡山駅)]] * [[2006年]](平成18年)[[3月18日]]:ダイヤ改正により、以下のように変更<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20060215012716/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/051222b_01.pdf 平成18年春のダイヤ改正(別紙詳細)]}}(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2005年12月22日</ref>。 *# 山陽新幹線の「こだま」が18本(3本は運行区間の一部)が削減され、岡山 - 博多間で1時間に1本のみ、新大阪 - 岡山間で2時間に1本となる時間帯も発生する。 *# 16両編成の4号車が禁煙になる。 * [[2007年]](平成19年)[[7月1日]]:ダイヤ改正により、山陽新幹線の「こだま」が削減され、新大阪 - 博多間1往復が新大阪 - 広島間1往復と新山口 - 博多間1往復に分割<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20071020114034/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/061222a_03e.pdf 平成年19春ダイヤ改正について]}}(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道福岡支社プレスリリース 2006年12月22日</ref>。毎日運行の臨時列車1往復を運行開始(事実上の増発)。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月15日]]:ダイヤ改正により、次のように変更。 **# 東海道新幹線の「こだま」が新大阪発三島行きで1本増発し、東京発浜松行き1本が名古屋行きに運行区間が延長。 **# 東京 → 新大阪間の標準所要時間を3分短縮し、3時間57分運転とする。 **# 山陽新幹線の「こだま」のうち、一部列車を4・6両編成から16両編成へ増強。利用客の少ない一部の「こだま」が削減(新大阪 - 岡山間2往復、岡山 - 広島間3往復、広島 - 小倉間2往復、小倉 - 博多間5往復が削減)。また小倉 - 博多間の2往復にN700系を投入。 **# 東海道新幹線の日中の「こだま」(東京 - 名古屋間4往復および新大阪発三島行きの上り1本)に700系を投入。 ** [[11月30日]]:山陽新幹線から0系「こだま」の定期運用が終了<ref>[https://web.archive.org/web/20090329094338/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173951_799.html 0系新幹線さよなら式典の実施について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2008年11月19日</ref>。 ** 12月1日:山陽新幹線「こだま」の一部に500系V編成(8両)が投入。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月10日]]:「こだま指定席往復きっぷ」発売開始<ref>[https://web.archive.org/web/20090331104037/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174138_799.html 「こだま指定席往復きっぷ」発売開始!](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース・2009年3月9日付け</ref><ref name="kodama2009asahi">[http://www.asahi.com/travel/rail/news/SEB200903100025.html JR西日本、こだま運賃を最大44%引き。高速に対抗]([https://web.archive.org/web/20090314014538/http://www.asahi.com/travel/rail/news/SEB200903100025.html →アーカイブ]) - 朝日新聞Web版・2009年3月10日付け掲載記事</ref>。 ** [[3月14日]]:ダイヤ改正により、次のように変更。 **# 東海道新幹線で上下1本ずつ(浜松発東京行きおよび東京発三島行き)にN700系が充当されるようになる。これはN700系の東海道新幹線内での初のこだま運用となった。また、夕方の時間帯に東京発三島行き「こだま」が2本増発。 **# 「こだま指定席往復きっぷ」利用期間開始<ref name="kodama2009asahi" /> * [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:ダイヤ改正により、次のように変更。 *# 東海道新幹線「こだま」のうち、夕方の東京発新大阪行き1本が名古屋行きに変更され、引き換えに東京発岡山行き「ひかり」1本が名古屋以西各駅停車に変更。また新たに三島 - 東京間の上り1本にN700系が充当される。 *# 岡山 - 広島間3往復、広島 - 博多間1往復、小倉 - 博多間3往復の「こだま」が削減。また早朝・深夜の新下関・小倉 - 博多間の計2往復にN700系が投入。 * [[2011年]](平成23年)[[3月12日]]:ダイヤ改正により、次のように変更<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_fukuoka.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道福岡支社プレスリリース 2010年12月17日</ref>。 *# 300系・700系16両編成の3号車と700系8両編成の2号車を禁煙車に変更する<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174913_799.html 新幹線車両の禁煙拡大について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20031008083501/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030917a.html |date=2003年10月8日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年7月30日</ref>。 *# 山陽新幹線内で700系(E編成)・500系(V編成)での運用が44本に増発。博多 → 岡山間1本(768号)にN700系8両編成を投入。これにより8両編成での「こだま」が19本から45本に拡大。 *# 100系(P編成・4両)の運用が終了し、100系(K編成・6両)の運用範囲も岡山 - 博多間に縮小。 *# 早朝の小倉発新山口行きの1本と夜間の博多 - 小倉間2往復が削減される。 *# 下りの小倉発博多行きで実施していた自由席特急券などで普通車指定席に乗車出来る特例が廃止<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175177_799.html 山陽新幹線小倉・博多間(下り)の特例扱い廃止について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110523063751/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175177_799.html |date=2011年5月23日 }} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年2月7日</ref>。 *# 朝晩の東京 - 浜松間1往復(702・703号)と名古屋発東京行きの初発列車(630号)にN700系を追加投入。 * [[2012年]](平成24年)[[3月17日]]:ダイヤ改正により、以下のとおり変更<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_honsya.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年12月16日</ref>。 *# 100系・300系車両がダイヤ改正をもって終了し、N700系・700系・500系の3種類となった。 *# 700系8両編成の6号車を禁煙車に変更し、全車禁煙となった。指定席が8号車から5・6号車に変更され、自由席となる8号車のコンパートメント席は閉鎖された。 *# 車内販売を全廃<ref group="注" name="700_and_N700_16cars_vending_machine_and_kodama_drink_buy"/><ref>「JR時刻表」2012年3月号</ref><ref>{{PDFlink|[http://railway.jr-central.co.jp/jikoku/_pdf/shahan-stop.pdf 一部列車の車内販売の取止め及び見直しについて]}}</ref>。 *# 東京 → 新大阪間の標準所要時間を3分短縮し、3時間54分運転となった。 * [[2013年]](平成25年)[[4月5日]]:「こだま早特往復きっぷ」発売開始《4月26日より利用期間開始》<ref>[http://www.kotsu.co.jp/index.php?cID=3613 GW期間なども利用可。JR西日本・山陽新幹線企画きっぷ]([https://archive.is/ARrTb →アーカイブ]) - 交通新聞トピックス・2013年03月26日付け掲載記事</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:ダイヤ改正により、以下のとおり変更。 *# 東京毎時26分発(11時台 - 13時台を除く)と東京毎時17分着(20時台 - 22時台を除く)の東京 - 名古屋間こだまをN700系へ置換えられる。 *# のぞみ1時間当たり最大10本体制を終日拡大し、一部ののぞみスピードアップと東京 - 新大阪間ひかりの内、新横浜 - 名古屋間2分短縮の影響で東京 - 新大阪間直通こだまの標準所要時間が3時間54分から4時間4分へ延びる。 * [[2015年]](平成27年)[[3月1日]]:東京駅を午前中に発車する東海道新幹線の下りの「こだま(平日の631・633・635号を除く)」の13号車を自由席から指定席に変更<ref>{{Cite press release|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025350.pdf|format=PDF|title=一部「こだま」号の指定席の拡大について|publisher=東海旅客鉄道株式会社|date=2015-01-23|accessdate=2020-04-23}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:岡山 - 広島間の夜間に下り1本運転されていた「こだま」が、東京発広島行きの「ひかり」に変更される。 * [[2020年]](令和2年) *#3月14日:東海道新幹線「こだま」全列車がN700Aに統一。7号車の自由席を指定席に、16号車の指定席を自由席に変更。合わせて、朝夕の普通車全車自由席の「こだま」の7号車を自由席から指定席に変更(一部の列車は普通車全車自由席で引き続き運転) *#7月1日:東海道新幹線の一部にN700Sを使用。  * [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:ダイヤ改正により、以下のとおり変更。 *# 東京発新大阪行き最終が19時57分発こだま755号に30分繰り下げ。 *# 山陽新幹線にて「ひかり」と合わせて新大阪〜岡山で1往復、岡山〜広島で2.5往復、広島〜博多で2往復、新下関〜博多で1往復を削減。運転時刻の調整も行い、岡山駅で東京〜岡山の「ひかり」と岡山〜広島・博多の「こだま」を5分以内で乗換出来る時間帯を一部設定するなど一定の利便性向上をはかる。 === 当列車にちなんだ商品 === ====駅弁==== [[名古屋駅]]で当列車にちなんだ[[駅弁]]「こだま」が販売されている<ref>『JR時刻表』(交通新聞社)、2017年3月号p.176欄外</ref>。発売元は松浦商店<ref>[https://www.obento-matsuura.co.jp/products/detail/60 商品一覧>こだま] - 株式会社松浦商店。2021年7月23日閲覧</ref>。 === 事件 === ==== こだま485号殺人事件 ==== 1988年(昭和63年)9月5日、東京発名古屋行きのこだま485号の指定席で静岡県在住の男性が刺殺される事件が発生した。 ''詳しくは[[日本の鉄道に関する事件#こだま485号殺人事件|こだま485号殺人事件]]を参照'' === 種別を示す色について === 上記の通り、現在は列車の案内表示に青色が用いられ、事実上[[日本の鉄道ラインカラー一覧|種別を示す色]]となっているが、かつては在来線の普通列車と同じく、特に種別を示す色が定められていなかった。 国鉄時代は、[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式]]の[[発車標]]においてこだまは在来線の普通列車と同じく色を変えずに表現(種別表示以外の部分と同じく黒地に白文字)していた。新幹線のサボではこだまの文字を青色に書いていた。その後採用された新幹線の方向幕では方向幕そのものの背景が青色であったものの、あくまで種別表示部分は背景と同じ色なので、こだまの種別色として青色を使用していたわけではなかった。 JR化以降、JR東海所有の車両では方向幕のデザインが改められ、行先表示部分が白背景となり、「こだま」部分のみが青背景となった。しかし同社が新たに導入した反転フラップ式の発車標では依然としてこだまは色を変えずに黒色で表現されていた。2000年代に入ると同社の発車標はフルカラーLEDに改められ、この頃から徐々にこだまの種別を示す色として青色が定着していく。 一方JR西日本区間ではしばらく国鉄時代の反転フラップ式発車標を用い続けたが、[[姫路駅]]・[[広島駅]]・[[博多駅]]などごく一部の駅では単色また3色LEDの発車標も使われていた。2000年代に入って3色LEDの発車標への更新が増加し、JR西日本所有の車両の方向幕でも3色LEDが採用された。ここではこだまは緑色で表現されていた。しかしJR西日本区間でも2010年代からフルカラーLEDや液晶ディスプレイによる発車標が導入され、青色で表現されるようになった。これ以降、東海・西日本ともに事実上青色がこだまの種別色として定着した。 == 東海道本線電車特急「こだま」 == {{see also|東海道本線優等列車沿革}} === 電車特急「こだま」の誕生 === [[File:国鉄151系.jpg|thumb|200px|1960年ごろの「こだま」、先頭車がパーラーカー]] 「こだま」は、[[日本国有鉄道]](国鉄)で初めての[[電車]]による[[特別急行券|有料]][[特別急行列車|特急]]<ref>無料の特急電車については、[[1950年]]より[[阪和線]]ですでに運行されていた。</ref>として[[1958年]]より[[東海道本線]]で運行を開始した。それまで長距離の[[優等列車]]は、[[機関車]]が[[客車]]を牽引する形([[動力集中方式]])で運転する列車しかなく、[[騒音]]が大きく乗り心地の悪い電車は[[長距離列車]]には不向きであると考えられていた。 しかし電車の[[性能]]は次第に向上し、短距離から中・長距離の輸送へ進出しつつあった。これに[[空気ばね]][[鉄道車両の台車|台車]]の採用などの乗り心地を改善する新しい技術を組み合わせて、電車による初めての特急列車を運転する計画が打ち出された。機関車方式の列車では機関車の重量が大きいので、大きな出力を持った機関車を製造して[[高速化 (鉄道)|高速化]]しようとすると、さらなる[[軌道 (鉄道)|軌道]]の強化に多大な費用が必要となるため、軽量な電車方式での高速化が有利であるとされたのである。さらに機関車方式では、[[終着駅|終点]]の駅で[[機回し|反対方向に機関車を付け替える]]手間がかかり、[[プラットホーム|ホーム]]の長時間占有が列車を増発する[[ボトルネック|ネック]]となっていた。[[市街地]]にある[[鉄道駅|駅]]ではホームの増設(増線)は困難で、電車方式により折り返しの時間を短縮し、これにより列車の増発を実現することも目的であった。 国鉄部内の[[保守]]的な勢力の抵抗は強かったが、機関車方式と電車方式とで所要の高速化と列車本数を実現するために必要な費用の試算がなされ、電車方式の圧倒的な優位性が確認されて、[[1957年]](昭和32年)[[11月12日]]の国鉄常務理事会で電車方式による特急列車の設定が決定された<ref>『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.10 - 24, 34 - 44</ref>。 {{-}} === 使用車両、編成 === {| style="float:right; margin:1em 0em 2em 3em; border:solid 1px #999;" |+「こだま」登場時編成図<ref>[[星晃]]『回想の旅客車』上、学習研究社、2008年、p.88。</ref> |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|大阪・神戸|東京}} |- | {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em auto; font-size:80%;" |- |1||2||3||4||5||6||7||8 |- |クハ26 |モハ20 |モハシ21 |サロ25 |サロ25 |モハシ21 |モハ20 |クハ26 |} |- |style="font-size:80%;"| * 1959年6月1日から車両の[[形式称号]]が変更。 * 1960年7月1日から[[等級 (鉄道車両)|等級]]区分が変更。 |- | {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:1em auto; font-size:80%;" |+ 車両形式・座席種類対照表 |- !colspan="2"|車両形式 !rowspan="2"|1960年6月まで !rowspan="2"|1960年7月以降 |- !当初の形式 !1959年6月以降 |- |クハ26 |クハ151 |rowspan="2"|[[普通車_(鉄道車両)|三等車]] |rowspan="2"|[[普通車_(鉄道車両)|二等車]] |- |モハ20 |モハ151 |- |モハシ21 |モハシ150 |[[食堂車|ビュフェ]]付<br />三等車 |ビュフェ付<br />二等車 |- |サロ25 |サロ151 |[[特別二等車|二等車]] |[[グリーン車|一等車]] |} |} 「こだま」のために用意されたのは、新しくこのために開発された20系電車で、のちに改称されて151系電車となった。開発当初よりの仮称である「ビジネス特急」を[[広告]]上そのまま用いた。また「こだま」で最初に使用されたため、この車両は「こだま形電車」と呼ばれた。編成は右図のとおり([[国鉄181系電車]]も参照)。 === 運行開始までのエピソード=== [[1958年]](昭和33年)[[10月1日]]に、俗に[[1946年-1960年の国鉄ダイヤ改正#1958年(昭和33年)|「サンサントオ」と呼ばれるダイヤ改正]]が実施され、「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」に[[国鉄20系客車|20系客車]]が投入された。本来は「こだま」もこれに合わせて運行を開始する予定であったが、新機軸の多い車両のため8月下旬に予定されていた完成が9月にずれ込み、さらに所要の線路側の改良作業の完了は10月直前まで掛かることになった。 そのままでは要員の[[習熟運転]]の期間がとれず、[[湘南電車]]の運行開始時に故障が相次いで「[[遭難]]電車」との汚名を受けた二の舞になるとして、当時運転局総括補佐をしていた[[齋藤雅男]]が営業担当の石井昭正[[理事|常務理事]]と談判して、運行開始を1か月遅らせることになった。これにより、10月1日のダイヤ改正で「こだま」運転のためのダイヤは用意されるが、1か月は運休とし、[[試運転]]のみに充当されることになった。1か月に及ぶ試運転期間に、実際に新機軸として導入された空気ばねの故障や[[集電装置|パンタグラフ]]の脱落事故など、数々の[[初期不良]]を経験しており、その対策に関係者が奔走することとなった。こうした対策の結果もあって、10月下旬には順調に運転が行われるようになり、1か月の試運転はその役割を果たした<ref>『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.89 - 105</ref>。 こうして[[11月1日]]から営業列車としての運転が始まった。当日は、東京駅15番ホームで下りの始発列車に対して[[十河信二]]国鉄[[総裁]]が、[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]で上りの始発列車に対して石井昭正常務理事がテープカットを行った。営業初日の車内では、運行開始を記念して20系電車がデザインされ、「'''ビジネス特急「こだま号」記念'''」と称された5本入りの[[ピース (たばこ)|ピース]]2000個が乗客に無料で配布された。 === 運行概況 === 運行開始当時の運行区間は東京 - 大阪・神戸間を各1往復運行で、最高速度は110 [[キロメートル毎時|km/h]]で東京 - 大阪間は所要6時間50分であった。これは[[電気機関車]]牽引による[[客車]]特別急行列車[[つばめ (列車)|「つばめ」・「はと」]]が7時間30分で結んでいたのに対して40分の短縮であった。東京 - 大阪間の停車駅は客車特急よりさらに絞り込み、[[横浜駅|横浜]]・[[名古屋駅|名古屋]]・[[京都駅|京都]]のみとした<ref>当時の客車特急は昼行・[[夜行列車|夜行]]を含めると、ほかに[[熱海駅]]・[[沼津駅]]・[[静岡駅]]・[[浜松駅]]・[[豊橋駅]]・[[岐阜駅]]にも停車する列車があった。</ref>。横浜 - 名古屋間300 km超のノンストップとなるため、[[運転士]]は[[安倍川]]鉄橋上で[[田町車両センター|田町]]・[[大垣車両区|大垣電車区]]の交替を行なった。なお、交替運転士は運転台直後の客席で待機し、大垣電車区の運転士は横浜駅での折り返し[[運用 (鉄道)|運用]]が組まれていた。名古屋以西は[[宮原総合運転所|宮原電車区]]が担当していた。 2往復の列車は、「第1こだま」・「第2こだま」と出発順に付番されることとなった。この[[列車愛称]]の命名方式は「つばめ」・「はと」など、一列車一愛称が慣例であった特別急行列車では初例であった。ただし、下り「第1こだま」と上り「第1こだま」とが別々に設定されており、現在のように奇数が下り、偶数が上りとの分け方はされていなかった。下り「第1こだま」は東京7時発、大阪13時50分着、「第2こだま」は東京16時発、大阪22時50分着、神戸23時20分着、上り「第1こだま」は神戸6時30分発、大阪7時発、東京13時50分着、「第2こだま」は大阪16時発、東京22時50分着であった。 [[1946年-1960年の国鉄ダイヤ改正#1959年(昭和34年)|1959年(昭和34年)9月のダイヤ改正]]で、[[高速化 (鉄道)|線路改良]]の進展に伴い「こだま」の所要時間は6時間40分に短縮された。また、相変わらず満席が続き、予備車をやりくりして多客期には10両編成に増結するなどしていたが、後述する「つばめ」・「はと」の電車化に伴う増備車両のうち早期に落成した車両を利用して、この年の12月13日から「こだま」が12両編成化された<ref name = "kodama_pp.138 - 141">『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.138 - 141</ref>。 運行開始後の集計では、乗車率は平均87 %を記録した。前後の急行・準急列車の乗車が減少していたわけではなかったので、良好な[[サービス]]を提供したことによる新規の[[需要]]拡大であると判断された。[[座席指定券]]は発売開始と同時に売り切れてしまう状態が続き、当初予定していたビジネス客が急用で乗ることができないということから、当日発売席を用意するなど、営業側が対応に追われることになった。「こだま」運行開始にあたって線路の改良と車両の準備に投じた9億円の資本は、運行開始1年で回収された<ref>『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.112 - 114</ref>。 === 「つばめ」・「はと」の電車化 === 「こだま」運行開始後も、「つばめ」・「はと」は引き続き電気機関車牽引の客車列車として運転されていたが、使用している車両の老朽化は激しく、置き換えが行われることになった。「こだま」の人気と実績により、既に電車による優等列車運転に疑問を唱えるものはいなくなり、この置き換えでは「こだま」と同一編成に統一して電車列車とすることになった。「はと」は「つばめ」に統合されることになり、1960年(昭和35年)6月1日のダイヤ改正から上下とも「第1こだま」「第1つばめ」「第2こだま」「第2つばめ」の順で運転されることになった。13億円の投資を行って線路改良をさらに行い、停車駅を2駅増やしつつ<ref group="注">熱海駅・静岡駅・浜松駅・岐阜駅のうちいずれか1駅に停車。</ref>さらに10分の時間短縮を行って東京 - 大阪間を6時間30分とした<ref name = "kodama_pp.138 - 141" />。 「つばめ」の電車化により、従来の客車列車に存在した[[展望車]]や[[食堂車]]の代替が望まれた。従来の「こだま」にはビュフェのみの連結であったが、この改正に合わせて食堂車サシ151形が製造されて連結された。展望車の代替としては、2 m×1 mの大窓を備えた区分室や、通路の両側に1列のみの座席の配置された開放室など、1両の定員が18名という豪華なクロ151形「パーラーカー」が用意された。またダイヤ改正の2か月後の8月から、ビュフェに電話室が設置されて、[[日本電信電話公社]](のちの[[NTTグループ]])と接続した[[列車電話]]のサービスが開始された<ref group="注">映画『[[社長道中記]]』では、[[森繁久彌]]演じる社長の三沢がビュフェの女性スタッフに電話の発信を依頼し(電話室備え付けの電話機にはダイヤルはなく、[[電話交換機|交換手]]に口頭で電話番号を伝えて繋いでもらっていた)、電話室で電話するシーンがある。</ref>。電話を掛けられる地域は東京・名古屋・大阪限定であったが、上下4往復の列車のためだけに東海道沿線14箇所に[[基地局]]を設置して、400 MHz帯の[[極超短波|UHF]][[無線通信]]でつなぐシステムが用意された。パーラーカーでは、[[乗務員|パーサー]]が[[電話機]]を持参して自分の席で電話を掛けられるサービスもあった<ref name = "kodama_pp.141 - 164">『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.141 - 164</ref>。 ダイヤ改正前日の5月31日には、田町電車区で編成の入れ替え作業が行われた。それまで3編成であったのが6編成に増強されるとともに、食堂車やパーラーカーの組み込みがあり、加えて制御回路の接続の関係から車両の方向転換などもあり、事前によく計画を立てて行われた。5月31日の下りの「第2こだま」は事前に準備してあった新しい編成で運転が行われ、別途[[回送]]した新しい編成とともに6月1日の大阪発の列車をまかなった。また5月31日の午後の列車で上京してきた車両は、田町電車区に回送されて深夜に編成の入れ替え作業が行われ、翌朝の東京発の列車から新しい編成で運転された<ref name = "kodama_pp.141 - 164" />。 「こだま」に使用していた151系電車は予備車が少なく、その故障時には[[急行形車両]]の[[国鉄153系電車|153系電車]]による代替運行も行われたことがあった。153系電車は接客設備では151系電車にはるかに劣るものの、速度性能は「特急」に使用されても問題ないものであった。153系電車では座席が特急用車両の水準に満たなかったのみならず、三等車はおろか二等車にすら冷房も搭載されていなかったが、この当時は冷房のないおよび座席が特急用車両の水準に満たない車両でも、特急料金を割引く規定が存在していなかったため、通常の特急料金のままであった(運転開始当時は非冷房の客車を使用した特急列車が「はつかり」の三等車などの一部にあり、座席が特急用車両の水準に満たない車両を使用した特急列車も「かもめ」の三等車など、一部に設定されていたことも要因であった)。しかし1961年10月1日の規定の改定で、冷房がない場合、および座席が特急用車両の水準に満たない場合の割引制度が制定されたため、同日以降、153系電車で運行する際は[[特別急行券|特急料金]]の半額を返金するようにした。利用者からはこの代替列車は「こだま」をもじって「かえだま」(替え玉)と呼ばれた<ref>[[鉄道ファン]]1994年4月号p.50。</ref>。「つばめ」の電車化後も151系電車の故障時の予備車不足はまだ生じ、「かえだま」や、[[国鉄157系電車|157系電車]](日光形電車)の代替使用(「新かえだま」)もあった。こうした故障は当時のマスメディアにも取り上げられ、対策として[[抵抗器#鉄道車両における抵抗器|抵抗器]]の容量増大や[[主電動機]]の密封化などの改良が行われて故障も減少するに至った<ref>『鉄道ピクトリアル』2004年10月号、pp.48 - 49</ref><ref>『ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち』pp.168 - 170</ref>。「かえだま」については、[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#「第一富士」脱線事故|「第一富士」脱線事故]]も参照のこと。 === 東海道新幹線の開業まで === [[1961年]](昭和36年)10月1日の、[[サンロクトオ]]と称されるダイヤ改正により、「こだま」は2往復とも大阪発着となった。「こだま」と同じ形式の電車を利用した特急が大幅に増発され、東海道本線を行き交うようになった。さらに1962年(昭和37年)6月1日のダイヤ改正では、[[広島駅|広島]]へ同じ151系による「つばめ」や、派生形式[[国鉄181系電車#161系|161系]]による特急「[[とき (列車)#特急の誕生と急行の黄金時代|とき]]」が[[上野駅|上野]] - [[新潟駅|新潟]]間に設定されるようになった。 [[1964年]](昭和39年)10月1日の、[[東海道新幹線]]開業に伴うダイヤ改正により、東京 - 大阪間在来線特急が廃止となったため、在来線特急としての「こだま」は廃止された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=福原俊一|authorlink=福原俊一 (電車発達史研究家)|title=ビジネス特急〈こだま〉を走らせた男たち|edition=初版|date=2003-11-01|publisher=[[JTB]]|language=日本語|isbn=4-533-05011-5}} == 関連項目 == === 鉄道関連 === * [[日本の列車愛称一覧]] * [[博多南線]] - 名称なしの特急列車として運行される。 * [[ジェイアール東海ツアーズ]] * [[やまびこ (列車)|やまびこ]] - 東北新幹線の列車。同一の現象を愛称の由来とする。 * [[つばめ (JR九州)|つばめ]] - 九州新幹線の列車。2011年3月以降は「こだま」同様に各駅停車となっている。 === 他に由来する名称 === * [[コダマ (競走馬)]] * [[大木こだま・ひびき]]([[漫才]]) === 映画など === * [[特急にっぽん]] * [[社長道中記]] * [[天国と地獄 (映画)]] * [[ALWAYS 続・三丁目の夕日]] == 外部リンク == * [https://www.jr-odekake.net/train/kodama_700/ こだま 700系:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 * [https://www.jr-odekake.net/train/kodama_500/ こだま 500系:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 * [https://www.jr-odekake.net/train/kodama_n700_7000/ こだま N700系(8両編成):JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 * [https://www.jr-odekake.net/train/kodama_n700/ こだま N700系:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 {{日本の新幹線}} {{DEFAULTSORT:こたま}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:列車愛称 こ|たま]] [[Category:東海旅客鉄道の列車]] [[Category:西日本旅客鉄道の列車]] [[Category:日本国有鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:東海道新幹線]] [[Category:山陽新幹線]] [[Category:東海道本線の列車]]
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銀座一丁目駅
銀座一丁目駅(ぎんざいっちょうめえき)は、東京都中央区銀座一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線の駅である。駅番号はY 19。 銀座柳通りの直下、中央通りから外堀通りの間に位置する。 地上の道幅に駅施設を収めるべく、単式ホーム1面1線の上下2層構造になっている。改札は地下2階にあり、1番線ホーム(新木場方面)は地下3階、2番線ホーム(和光市方面)は地下4階にある。いずれも進行方向の右側にホームが設置されている。地下2階から各のりばへの階段・エスカレーター・エレベーターは独立して設置しており、地下2階から2番線ホーム(地下4階)へは1番線ホーム(地下3階)を経なくても到達できる。同じ有楽町線の麹町駅と同種の構造であるが、当駅には、1番線ホームと2番線ホームを直接行き来できる階段がある点が異なる。 銀座線が当駅の上部を通過しているが駅は設置されていない。計画当時、銀座駅との連絡が検討されたが、付近に銀座線や共同溝等が存在しており通路を新設する空間がないため、地下道での連絡ができない構造となった。中央通り上にある当駅の9番出入口と、銀座駅A13番出入口(銀座線側)は約200メートル、また外堀通り上の当駅の4番出入口と銀座駅C6番出入口(丸ノ内線側)は約300メートルの距離であり、2020年6月6日に両駅が乗換駅となってからは、このルートが乗り換え経路として案内されている。このほか、当駅の2番出入口から直結する東京高速道路下の建物(銀座インズ2・銀座インズ1)を経由することで、ほぼ屋根直下で銀座駅C9番出入口(丸ノ内線側)まで移動することもできる。 西隣の有楽町駅も連絡通路はないが近接しており、有楽町駅D9番出入口と当駅の1番出入口は東京高速道路を挟んで70メートルほどの距離である。 開業当初から中野坂上駅、恵比寿駅とともに自動改札機を設置していた。開業当初の有楽町線では、全駅で磁気化券を発売し、終端駅である銀座一丁目駅と池袋駅の自動改札化に対応したが、他線区から持ち込まれる裏が白い乗車券(非磁気化券)を投入口に入れるトラブルも多発したため、数年で一旦撤去した。その後、1990年からの本格導入時に再設置された。また、2006年4月28日までは定期券売り場を設置していた。 (出典:東京メトロ:構内図) 開業当時は当駅が終点で、ラッシュ時は1番線と2番線の交互に列車が発着し、それ以外の時間帯は1番線のみを使用していた。列車の転線は当駅ではなく、隣の有楽町駅東側にある両渡り線で行っていた。現在でも輸送障害時に、この両渡り線を使用した当駅での折り返し運転が行われる場合がある。 2012年4月14日からスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「花時計」、2番線が「Rolling」(いずれも塩塚博作曲)である。 2022年度の1日平均乗降人員は36,285人であり、東京メトロ全130駅中89位。 近年の1日平均乗降・乗車人員推移は下表の通り。
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銀座一丁目駅(ぎんざいっちょうめえき)は、東京都中央区銀座一丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)有楽町線の駅である。駅番号はY 19。
{{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 銀座一丁目駅 |画像 = Ginza-itchome-station-Exit8.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 8番出入口(2019年5月6日撮影) |よみがな = ぎんざいっちょうめ |ローマ字 = Ginza-itchome |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point|type4=point |marker=rail-metro|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro|marker4=rail-metro |coord={{coord|35|40|27.7|N|139|46|1.3|E}}|marker-color=c1a470|title=銀座一丁目駅 |coord2={{coord|35|40|16|N|139|45|53.5|E}}|marker-color2=ff9500|title2=東京メトロ銀座線 銀座駅 |coord3={{coord|35|40|22.5|N|139|45|49.5|E}}|marker-color3=f62e36|title3=東京メトロ丸ノ内線 銀座駅 |coord4={{coord|35|40|19|N|139|45|50|E}}|marker-color4=b5b5ac|title4=東京メトロ日比谷線 銀座駅 }}左下は銀座駅 |前の駅 = Y 18 [[有楽町駅|有楽町]] |駅間A = 0.5 |駅間B = 0.7 |次の駅 = [[新富町駅|新富町]] Y 20 |電報略号 = キイ |駅番号 = {{駅番号r|Y|19|#c1a470|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#c1a470|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] |キロ程 = 21.7 |起点駅 = [[和光市駅|和光市]] |所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]一丁目7-12 |座標 = {{coord|35|40|27.7|N|139|46|1.3|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線(2層式) |開業年月日 = [[1974年]]([[昭和]]49年)[[10月30日]]<ref name="RJ301_57-60" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />36,285 |統計年度 = 2022年 |乗換 = {{駅番号r|G|09|#ff9500|4}} {{駅番号r|M|16|#f62e36|4}} {{駅番号r|H|09|#b5b5ac|4}}<ref name="tokyosubway"/>[[銀座駅]]<br />([[東京メトロ銀座線]]・[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]・[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]) |備考 = }} '''銀座一丁目駅'''(ぎんざいっちょうめえき)は、[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]一丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)[[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''Y 19'''。 == 歴史 == * [[1974年]]([[昭和]]49年)[[10月30日]]:開業<ref name="RJ301_57-60">{{Cite journal|和書|author=里田啓(帝都高速度交通営団車両部設計課)|title=営団地下鉄有楽町線開通|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1975-01-01|volume=25|issue=第1号(通巻第301号)|pages=57 - 60|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref><ref name="Yurakucho-Const141">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.141。</ref>。当初は終着駅であった。入場用×1基、出場用×1基の自動改札機が設置された<ref name="RJ301_57-60" />。ただし、一部駅施設の完成が遅れており、当初は池袋寄りからホーム中央部までの仮施設(池袋寄りの140&nbsp;[[メートル|m]]強程のホーム)で営業していた<ref name="RJ301_57-60" /><ref name="Yurakucho-Const163">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.163 - 165。</ref><ref name="Yurakucho-Const918">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.753・918。</ref>。 * [[1976年]](昭和51年) ** [[6月18日]]:本設ホームが完成<ref name="Yurakucho-Const1271">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.1271。</ref>。 ** [[6月19日]]:駅冷房を開始<ref>{{Cite news|title=主要十一駅が冷房化|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1976-06-08|page=2}}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)[[3月27日]]:当駅 - 新富町間開業により中間駅となる<ref name="Yurakucho-Const196">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.196。</ref>。 * [[2004年]]([[平成]]16年)[[4月1日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)民営化に伴い、当駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[4月14日]]:[[ホームドア]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190719233649/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130809_k092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=千川駅、豊洲駅、辰巳駅に設置し、有楽町線全駅にホームドアの設置が完了します! 全179駅中84駅にホームドアの設置が完了しホーム上の安全性が向上|publisher=東京地下鉄|date=2013-08-09|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-07-19}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[6月6日]]:東京メトロ銀座線・丸ノ内線・日比谷線[[銀座駅]]との乗り換え業務を開始<ref name="transfer">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514061131/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/5dd3751942166712a7d85b7fa75bf25f_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ線でのお乗換えがさらに便利になります! 新たな乗換駅の設定(虎ノ門駅⇔虎ノ門ヒルズ駅、銀座駅⇔銀座一丁目駅)改札外乗換時間を30分から60分に拡大|publisher=東京地下鉄|date=2020-05-14|accessdate=2020-05-14|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 == 駅構造 == 銀座柳通りの直下、中央通りから外堀通りの間に位置する。 地上の道幅に駅施設を収めるべく、[[単式ホーム]]1面1線の上下2層構造になっている<ref name="Yurakucho-Const788">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、pp.788 - 789。</ref>。[[改札]]は地下2階にあり、1番線ホーム(新木場方面)は地下3階、2番線ホーム(和光市方面)は地下4階にある<ref name="Yurakucho-Const456">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.456。</ref>。いずれも進行方向の右側にホームが設置されている。地下2階から各のりばへの[[階段]]・[[エスカレーター]]・[[エレベーター]]は独立して設置しており、地下2階から2番線ホーム(地下4階)へは1番線ホーム(地下3階)を経なくても到達できる。同じ有楽町線の[[麹町駅]]と同種の構造であるが、当駅には、1番線ホームと2番線ホームを直接行き来できる階段がある点が異なる。 [[東京メトロ銀座線|銀座線]]が当駅の上部を通過しているが駅は設置されていない。計画当時、[[銀座駅]]との連絡が検討されたが、付近に銀座線や[[共同溝]]等が存在しており通路を新設する空間がないため、地下道での連絡ができない構造となった<ref name="Yurakucho-Const456">[[#Yurakucho-Const|東京地下鉄道有楽町線建設史]]、p.456。</ref>。中央通り上にある当駅の9番出入口と、銀座駅A13番出入口(銀座線側)は約200メートル、また外堀通り上の当駅の4番出入口と銀座駅C6番出入口(丸ノ内線側)は約300メートルの距離であり、2020年6月6日に両駅が乗換駅となってからは、このルートが乗り換え経路として案内されている<ref name="transfer"/>。このほか、当駅の2番出入口から直結する[[東京高速道路]]下の建物(銀座インズ2・銀座インズ1)を経由することで、ほぼ屋根直下で銀座駅C9番出入口(丸ノ内線側)まで移動することもできる。 西隣の[[有楽町駅]]も連絡通路はないが近接しており、有楽町駅D9番出入口と当駅の1番出入口は東京高速道路を挟んで70メートルほどの距離である。 開業当初から[[中野坂上駅]]、恵比寿駅とともに[[自動改札機]]を設置していた。開業当初の有楽町線では、全駅で磁気化券を発売し、終端駅である銀座一丁目駅と池袋駅の自動改札化に対応したが<ref name="RJ301_57-60" />、他線区から持ち込まれる裏が白い乗車券(非磁気化券)を投入口に入れるトラブルも多発したため、数年で一旦撤去した。その後、1990年からの本格導入時に再設置された。また、2006年4月28日までは[[定期乗車券|定期券]]売り場を設置していた。 === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 |[[新木場駅|新木場]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ginza-itchome/timetable/yurakucho/a/index.html |title=銀座一丁目駅時刻表 新木場方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[和光市駅|和光市]]・[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園]]・[[飯能駅|飯能]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/ginza-itchome/timetable/yurakucho/b/index.html |title=銀座一丁目駅時刻表 和光市・森林公園・飯能方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ginza-itchome/index.html 東京メトロ:構内図]) 開業当時は当駅が終点で、[[ラッシュ時]]は1番線と2番線の交互に列車が発着し、それ以外の時間帯は1番線のみを使用していた。列車の転線は当駅ではなく、隣の有楽町駅東側にある[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]で行っていた。現在でも輸送障害時に、この両渡り線を使用した当駅での折り返し運転が行われる場合がある。 === 発車メロディ === 2012年4月14日から[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「花時計」、2番線が「Rolling」(いずれも[[塩塚博]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=個人でのソーシャルメディアでの音源使用について|url=http://www.switching.co.jp/news/401|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-10-03|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''36,285人'''であり<ref group="メトロ" name="me2022" />、東京メトロ全130駅中89位<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 近年の1日平均'''乗降'''・[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]推移は下表の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref name="chuo">[https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/syokai/chuopocket.html 中央区ポケット案内] - 中央区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) | |21,104 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |20,123 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |20,019 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |19,408 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | |18,660 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | |18,309 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | |18,241 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | |18,044 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | |18,145 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | |17,410 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | |17,337 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | |17,392 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>35,110 |17,268 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31" />35,051 |17,158 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |35,546 |17,321 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |36,425 |17,616 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |37,263 |17,986 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |37,502 |18,415 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |35,982 |17,671 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |35,099 |17,299 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |34,703 |17,109 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |33,658 |16,556 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |33,836 |16,543 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |34,332 |16,825 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |35,170 |17,181 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |36,708 |17,948 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |37,248 |18,233 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |38,754 |18,978 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |39,250 |19,184 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |39,562 |19,251 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>30,848 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>33,189 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>36,285 | | |} == 駅周辺 == {{See also|銀座|京橋 (東京都中央区)|丸の内|有楽町駅#駅周辺}} * [[東京駅]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東北新幹線]]・[[京葉線]]ほか、[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[東海道新幹線]] * [[有楽町駅]] - 東京メトロ有楽町線、東日本旅客鉄道(JR東日本)[[山手線]]・[[京浜東北線]] * [[銀座駅]] - 東京メトロ[[東京メトロ銀座線|銀座線]]・[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]・[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]](2020年6月6日より乗り換え業務を開始)<ref name="transfer"/> * [[京橋駅 (東京都)|京橋駅]] - 東京メトロ銀座線 * 銀座柳通り * [[国道15号]](中央通り) * [[東京都道405号外濠環状線]](外堀通り) * [[東京駅のバス乗り場#東京駅(八重洲口)鍛冶橋駐車場|東京駅鍛冶橋駐車場]](高速バス乗降場) * 銀座通郵便局 * [[佐賀銀行]]東京支店 * [[メルサ|メルサGinza-2]] * [[伊東屋]]銀座本店 * [[西銀座デパート]] * [[銀座インズ]] * [[ホテル西洋銀座]] ** [[ル テアトル銀座]] * [[八重洲富士屋ホテル]] * [[ホテルモントレ]]銀座 * ホテルモントレ ラ・スールギンザ * [[メルキュールホテル銀座東京]] * [[国際興業]]本社 * [[警察博物館]] * [[東京交通会館]] * [[有楽町センタービル]](有楽町マリオン) ** [[ルミネ|ルミネ有楽町]] ** [[阪急百貨店#阪急メンズ・トーキョー|阪急MEN'S TOKYO]] * [[有楽町イトシア]] ** 有楽町[[丸井#現在の店舗|マルイ]] * [[プランタン銀座]] * [[松屋 (百貨店)#銀座本店|松屋銀座]] * 銀座[[三越]] * [[和光 (商業施設)|銀座和光]] == ギャラリー == <gallery> ファイル:Ginza-Itchome-Sta-Ginzadori-Gate.JPG|銀座通り方面改札(2017年2月11日) ファイル:Ginza-Itchome-Sta-concourse.JPG|地下1階コンコース(2017年2月11日) ファイル:Platfome at Ginza-itchome.JPG|2番線ホーム(2008年12月9日) </gallery> == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|15px|Y]] 有楽町線 :: [[有楽町駅]] (Y 18) - '''銀座一丁目駅 (Y 19)''' - [[新富町駅]] (Y 20) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_yurakucho.html/|date=1996-07-31|title=東京地下鉄道有楽町線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Yurakucho-Const}} == 関連項目 == {{commonscat|Ginza-itchōme Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/ginza-itchome/index.html 銀座一丁目駅/Y19 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{東京メトロ有楽町線}} {{DEFAULTSORT:きんさいつちようめ}} [[Category:東京都中央区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 き|んさいつちようめ]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:1974年開業の鉄道駅]] [[Category:銀座|きんさいつちようめえき]]
2003-09-06T02:45:50Z
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15,303
はやて (列車)
はやては、東日本旅客鉄道(JR東日本)および北海道旅客鉄道(JR北海道)が東北新幹線・北海道新幹線の盛岡駅・新青森駅 - 新函館北斗駅間で運行している特別急行列車の愛称である。 2002年12月1日に、長年盛岡駅を北の終着駅としていた東北新幹線が八戸駅へ延伸されるのにあたり、延伸区間を含む東京駅・仙台駅 - 八戸駅間をE2系10両編成により運行する列車として登場した。首都圏と仙台以北間における速達志向・指定席ニーズに応える形で、東京駅発着列車は全ての列車が大宮駅 - 仙台駅間を全駅通過とし最高速度275km/h運転を行い、かつ全席指定席で運行する東北新幹線の最速達列車として設定された。「はやて」運行開始にあたり、秋田新幹線「こまち」は盛岡駅以南の併結運転対象が「やまびこ」から「はやて」に替わり、「こまち」も全席指定席となった。以後、ダイヤ改正ごとに運行形態に変遷はあったものの、東京駅発着列車については「大宮駅 - 仙台駅間無停車」「275km/h運転」「全席指定席」の原則は守られ、「やまびこ」との差別化の目安とされた。また、盛岡駅以北で運転される列車は運行区間にかかわらず全て「はやて」とされ、仙台駅・盛岡駅発着の列車では自由席も設定された。 大きな転機となったのは2011年春のダイヤ改正時で、新青森駅発着(前年12月に延伸開業)の速達列車に320km/h運転の可能なE5系を投入し、これに「はやて」ではなく「はやぶさ」の名称を与えることとなった。これに伴い、「はやて」は最速達列車である「はやぶさ」を補完する列車との位置づけとなり、運行本数も「はやぶさ」への置き換えにより削減傾向となった。JR東日本は、E5系導入開始直後は東北新幹線のE5系への置き換え完了と同時に「はやて」の列車名を廃止する方針だったが、その後「E5系に複数の名称がつく可能性もある」として「はやぶさ」は最高速度300km/h以上で運行する列車に用い、E6系全編成投入完了以前にE3系と併結して最高速度275km/hで運行する列車には「はやて」を用いるとの見解も示していた(「はやて」と秋田新幹線「こまち」との併結運転は、2014年3月のダイヤ改正で終了している)。その後東京駅発着の定期列車はさらに削減され、2018年3月17日のダイヤ改正では下り1本のみとなり、2019年3月16日のダイヤ改正で東京駅発着「はやて」の定期列車としての設定が無くなった(ただし2019年には最繁忙期などに運行される臨時列車として東京駅・上野駅発着の「はやて」の設定が残っていた)。 2016年3月26日には北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間が開業し、東北新幹線との直通運転が開始され、盛岡・新青森 - 新函館北斗間の区間列車を「はやて」として運行している。 列車名は、運行開始当初、八戸駅で連絡していた「白鳥」・「スーパー白鳥」・「つがる」とともに公募で決定されたが、「はやて」という名称はトップ10に入っておらず、「みちのく」・「はつかり」などが上位であった。また、列車愛称を最初に採り入れた1929年の一般公募時より、東海道新幹線の愛称公募(4位)などで一般公募ランキングにたびたび浮上しながらも採用されなかった愛称を、この場に至って採用したことも論議の対象となった。これまで採用されなかったのは、「はやて(疾風)」が農作物に被害をもたらす風(やませなど)や疫病(赤痢など)の異名でもあるためといわれているが、将来の新青森駅延伸も視野に入れ斬新でスピード感を表す名称として、あえて採用された。 定期列車としては盛岡駅 - 新函館北斗駅間に1往復(93・98号)、新青森駅 - 新函館北斗駅間に1往復(91・100号)が運転されている。どちらも下り列車は早朝、上り列車は深夜にのみ設定されている。 盛岡駅 - 二戸駅 - 八戸駅 - 七戸十和田駅 - 新青森駅 - 奥津軽いまべつ駅 - 木古内駅 - 新函館北斗駅 2021年3月現在、定期全列車で10両編成のE5系が使用されている。北海道新幹線開業時にはJR北海道がE5系とほぼ同仕様で製造したH5系も導入されたが、4編成のみで運用が限られるため、「はやて」での定期運用は設定されなかった。ただしJR北海道のホームページではH5系の使用列車として「はやて」も記載されている。 かつてはE2系が用いられており、定期運用からの撤退後も東北新幹線内で完結する臨時列車には使用されることがあった。「はやて」で使用されるE2系10両編成には、0番台(100番台車両・400番台車両を増結)編成と1000番台編成があるが、いずれもJ編成として共通運用されていた(0番台は2019年3月をもって全廃となり、1000番台のみとなった)。 グリーン車指定席は1両を連結する。グリーン車においては、グリーンアテンダントによるおしぼりとウェルカムドリンクサービスがあったが、2016年3月のダイヤ改正で廃止となった。 普通車は全車座席指定席である。満席の場合に限り立席特急券で利用できる(ただし、号車は指定される)ほか、「はやて」と「はやぶさ」のみが運転される盛岡駅 - 新青森駅間の各駅間に限り、空席に着席することができる特定特急券を発売している。かつては仙台駅以北区間で定期運行される列車に「自由席」も設定されており、さらに仙台駅 - 盛岡駅間のみを利用する場合に限り、自由席特急券で普通車指定席の空席を利用できる特例が設定された。全車座席指定制は2003年10月改正までの東海道・山陽新幹線「のぞみ」と同様であったが、「のぞみ」と異なり、「はやて」「こまち」ではフルムーン夫婦グリーンパス(合計年齢が88歳以上の夫婦を対象とした、新幹線を含むJR全線グリーン車を利用可能な特別企画乗車券)やジャパンレールパス(外国人を対象とした、新幹線を含むJR全線グリーン車あるいは普通車指定席を利用可能な特別企画乗車券)などのJR全線乗り放題の乗車券類が利用可能である(フルムーン夫婦グリーンパスではグリーン車も利用可能)。ジパング倶楽部やレール&レンタカーきっぷなどのような、運賃や特急料金が割り引かれる制度では、「はやて」「こまち」特急料金は割引対象となる(多客期を除く)。併せて、「のぞみ」のような他列車と異なる特急料金も設定されていない(「はやぶさ」では「はやて」や「やまびこ」などと異なる特急料金が設定されている)。 盛岡駅 - 新青森駅間については新幹線定期券「FREX」での利用も可能で、普通車の空席に着席することとなる。
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はやては、東日本旅客鉄道(JR東日本)および北海道旅客鉄道(JR北海道)が東北新幹線・北海道新幹線の盛岡駅・新青森駅 - 新函館北斗駅間で運行している特別急行列車の愛称である。
{{Infobox 列車名 |列車名=はやて |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像=E5系 U19編成.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=E5系で運行される「はやて」<br />(2023年5月28日 [[八戸駅]]) |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[岩手県]]・[[青森県]]・[[北海道]] |前身=新幹線「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」<br />特急[[はつかり (列車)|「はつかり」「スーパーはつかり」]](盛岡 - 八戸間)<br/>特急「[[つがる (列車)|つがる]]」(八戸 - 青森間)<br/>特急[[スーパー白鳥|「スーパー白鳥」「白鳥」]](新青森 - 函館間) |運行開始=[[2002年]][[12月1日]] |運行終了= |後継=新幹線「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」 |運営者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />[[北海道旅客鉄道]](JR北海道) |旧運営者= |平均乗客数= |起点=[[盛岡駅]]・[[新青森駅]] |停車地点数= |終点=[[新函館北斗駅]] |営業距離={{Convert|327.2|km|mi|abbr=on}}(盛岡 - 新函館北斗間) |平均所要時間= |運行間隔=盛岡 - 新函館北斗間、新青森 - 新函館北斗間がそれぞれ1往復ずつ |列車番号=91B・93B・98B・100B |使用路線=JR東日本:[[東北新幹線]]<br />JR北海道:[[北海道新幹線]] |クラス=[[グランクラス]]・[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応=5・9号車 |座席=グランクラス:10号車<br />グリーン車:9号車<br />普通車:1 - 8号車<br />全車[[座席指定席|指定席]] |その他= |車両=[[新幹線E5系電車|E5系電車]](JR東日本新幹線総合車両センター) |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />([[架空電車線方式]]) |最高速度= 260 km/h |線路所有者= |備考= |路線図= |路線図表示=<!--collapsed--> }} '''はやて'''は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)および[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が[[東北新幹線]]・[[北海道新幹線]]の[[盛岡駅]]・[[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]]間で運行している[[特別急行列車]]の[[列車愛称|愛称]]である。 == 概要 == 2002年12月1日に、長年[[盛岡駅]]を北の終着駅としていた東北新幹線が[[八戸駅]]へ延伸されるのにあたり、延伸区間を含む東京駅・[[仙台駅]] - 八戸駅間を[[新幹線E2系電車|E2系]]10両編成により運行する列車として登場した<ref group="JR東" name="jreast20020920">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/index.html|title=2002年12月 ダイヤ改正について|work=|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2002-09-20|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[仙台市|仙台]]以北間における速達志向・指定席ニーズに応える形で、東京駅発着列車は全ての列車が[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[仙台駅]]間を全駅通過とし最高速度275[[キロメートル毎時|km/h]]運転を行い、かつ全席[[座席指定席|指定席]]で運行する東北新幹線の最速達列車として設定された。「はやて」運行開始にあたり、[[秋田新幹線]]「[[こまち (列車)|こまち]]」は盛岡駅以南の併結運転対象が「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」から「はやて」に替わり、「こまち」も全席指定席となった。以後、ダイヤ改正ごとに運行形態に変遷はあったものの、東京駅発着列車については「大宮駅 - 仙台駅間無停車」「275km/h運転」「全席指定席」の原則は守られ、「やまびこ」との差別化の目安とされた。また、盛岡駅以北で運転される列車は運行区間にかかわらず全て「はやて」とされ、仙台駅・盛岡駅発着の列車では[[自由席]]も設定された。 大きな転機となったのは2011年春のダイヤ改正時で、[[新青森駅]]発着(前年12月に延伸開業)の速達列車に320km/h運転の可能な[[新幹線E5系電車|E5系]]を投入し、これに「はやて」ではなく「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」の名称を与えることとなった。これに伴い、「はやて」は最速達列車である「はやぶさ」を補完する列車との位置づけとなり、運行本数も「はやぶさ」への置き換えにより削減傾向となった。JR東日本は、E5系導入開始直後は東北新幹線のE5系への置き換え完了と同時に「はやて」の列車名を廃止する方針だったが、その後「E5系に複数の名称がつく可能性もある」として「はやぶさ」は最高速度300km/h以上で運行する列車に用い、E6系全編成投入完了以前に[[新幹線E3系電車|E3系]]と併結して最高速度275km/hで運行する列車には「はやて」を用いるとの見解も示していた<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2010/20101114105429.asp|title=E5系 こまち連結だと「はやて」|newspaper=[[東奥日報|Web東奥]]|publisher=東奥日報社|date=2010-11-14|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101115042907/http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2010/20101114105429.asp|archivedate=2010年11月15日}}</ref>(「はやて」と秋田新幹線「こまち」との併結運転は、2014年3月のダイヤ改正で終了している)。その後東京駅発着の定期列車はさらに削減され、[[2018年]]3月17日のダイヤ改正では下り1本のみとなり、2019年3月16日のダイヤ改正で東京駅発着「はやて」の定期列車としての設定が無くなった(ただし2019年には最繁忙期などに運行される臨時列車として東京駅・[[上野駅]]発着の「はやて」の設定が残っていた<ref group="JR東" name="jr-morioka20190517">{{Cite press release|和書|url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1558081041_3.pdf|title=夏の臨時列車のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社盛岡支社|date=2019-05-17|accessdate=2019-09-28}}</ref>)。 [[2016年]]3月26日には[[北海道新幹線]]の新青森駅 - [[新函館北斗駅]]間が開業し、東北新幹線との直通運転が開始され、盛岡・新青森 - 新函館北斗間の区間列車を「はやて」として運行している<ref group="JR北" name="jrh press 20141120-1">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2014/141120-1.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線の列車名決定について|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東" name="jreast press 20141120">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141113.pdf|format=PDF|title=北海道新幹線の列車名決定について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2014-11-20|accessdate=2014-11-20|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 === 列車名の由来 === <gallery> はやて93号 側面表示.jpg|車両側面での表示 </gallery> 列車名は、運行開始当初、八戸駅で連絡していた[[スーパー白鳥|「白鳥」・「スーパー白鳥」]]・「[[つがる (列車)|つがる]]」とともに[[公募]]で決定されたが、「はやて」という名称はトップ10に入っておらず、「[[東北本線優等列車沿革#戦後・急行「みちのく」とその周辺列車群|みちのく]]」・「[[はつかり (列車)|はつかり]]」などが上位であった。また、[[列車愛称]]を最初に採り入れた[[1929年]]の一般公募時より、[[東海道新幹線]]の愛称公募(4位)などで一般公募ランキングにたびたび浮上しながらも採用されなかった愛称<ref group="注">旅客列車の愛称としては長らく採用されなかった「はやて」ではあるが、[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]取扱列車の愛称としては[[1960年]]より[[梅田信号場#梅田貨物駅|梅田]] - [[広島駅|広島]]・[[福岡港駅|福岡港]]間の列車に付与された事がある。</ref>を、この場に至って採用したことも論議の対象となった。これまで採用されなかったのは、「[[はやて]](疾風)」が農作物に被害をもたらす風([[やませ]]など)や[[伝染病|疫病]]([[赤痢]]など)の異名でもあるためといわれているが、将来の新青森駅延伸も視野に入れ斬新でスピード感を表す名称として、あえて採用された。 == 運行概況 == 定期列車としては[[盛岡駅]] - [[新函館北斗駅]]間に1往復(93・98号)、[[新青森駅]] - 新函館北斗駅間に1往復(91・100号)が運転されている。どちらも下り列車は早朝、上り列車は深夜にのみ設定されている。 === 停車駅 === [[盛岡駅]] - [[二戸駅]] - [[八戸駅]] - [[七戸十和田駅]] - [[新青森駅]] - [[奥津軽いまべつ駅]] - [[木古内駅]] - [[新函館北斗駅]] * 運行区間内の通過駅は[[いわて沼宮内駅]]のみである。 * 東京駅 - 盛岡駅間の定期列車(101-112号)があった2019年3月までは東京駅・上野駅・大宮駅と仙台駅以北の各駅(仙台駅・[[古川駅]]・[[くりこま高原駅]]・[[一ノ関駅]]・[[水沢江刺駅]]・[[北上駅]]・[[新花巻駅]]・盛岡駅)に停車していた。 === 使用車両・編成 === {|style="float:right; margin:0em 0em 1em 1em; border:1px solid #999;" |+ 2021年3月13日現在の編成図 |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px green; text-align:center;"|はやて |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|東京|新青森・新函館北斗}} |- |{{Shinkansen E5 10cars|Note=}} |- |style="font-size:80%; text-align:left;"| ;座席種別凡例 :{{bgcolor|#cf9|G}}:[[グリーン車]][[座席指定席]] :{{bgcolor|#ffd700|GC}}:[[グランクラス]]座席指定席 :指:[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]座席指定席 |} 2021年3月現在、定期全列車で10両編成の[[新幹線E5系・H5系電車|E5系]]が使用されている。北海道新幹線開業時にはJR北海道がE5系とほぼ同仕様で製造した[[新幹線E5系電車|H5系]]も導入されたが、4編成のみで運用が限られるため、「はやて」での定期運用は設定されなかった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.hakodateshinbun.co.jp/topics/topic_2016_2_17.html|title=上下線7本でH5系運行、ダイヤ判明|publisher=函館新聞社|date=2016-02-17|accessdate=2016-03-26}}</ref>。ただしJR北海道のホームページではH5系の使用列車として「はやて」も記載されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/train/shinkansen.html|title=はやぶさ・はやて(北海道・東北新幹線H5系)|列車ガイド(列車編成・設備など)|駅・鉄道・旅行|JR北海道- Hokkaido Railway Company|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|accessdate=2021-09-26}}</ref>。 [[グランクラス]]および[[グリーン車]]指定席は各1両を連結する。グリーン車においては、グリーンアテンダントによる[[おしぼり]]とウェルカムドリンクサービスがあったが、2016年3月のダイヤ改正で廃止となった。 [[普通車 (鉄道車両)|普通車]]は全車[[座席指定席]]である。満席の場合に限り[[特別急行券|立席特急券]]で利用できる(ただし、号車は指定される)ほか、「はやて」と「はやぶさ」のみが運転される盛岡駅 - 新青森駅間の各駅間に限り、空席に着席することができる[[特別急行券|特定特急券]]を発売している。かつては仙台駅以北区間で定期運行される列車に[[自由席]]も設定されており、仙台駅 - 盛岡駅間のみを利用する場合に限り、自由席特急券で普通車指定席の空席を利用できる特例も設定されていた。全車座席指定制は2003年10月改正までの[[東海道・山陽新幹線]]「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」と同様であったが、「のぞみ」と異なり、「はやて」「こまち」では[[フルムーン夫婦グリーンパス]](合計年齢が88歳以上の夫婦を対象とした、新幹線を含むJR全線[[グリーン車]]を利用可能な特別企画乗車券)や[[ジャパンレールパス]]などのJR全線乗り放題の乗車券類が利用可能である。[[ジパング倶楽部]]や[[レール&レンタカーきっぷ]]などのような[[運賃]]や特急料金が割り引かれる制度では「はやて」「こまち」特急料金は割引対象となっていたが、「のぞみ」のような他列車と異なる特急料金は設定されていない(「はやぶさ」では「はやて」や「やまびこ」などと異なる特急料金が設定されている)。 盛岡駅 - 新青森駅間については[[定期乗車券#新幹線定期乗車券|新幹線定期券「FREX」]]での利用も可能で、普通車の空席に着席することとなる。 かつては[[新幹線E2系電車|E2系]]が用いられており、定期運用からの撤退後も東北新幹線内で完結する臨時列車には使用されることがあった。また盛岡駅以南を運行していた時代は、E2系と[[新幹線E3系電車|E3系]]を併結した16両編成もしくはE5系と[[新幹線E6系電車|E6系]]を併結した17両編成での運行もあった。 <gallery> E2+E3kei0bandai omiya.jpg|E3系の「こまち」と併結して16両編成で運転されるE2系の「はやて」 E2 J60 Hayate 26 Omiya 20110206.jpg|E2系単独の「はやて」 </gallery> === 所要時間 === * 東京駅 - 盛岡駅:2時間55分 - 3時間 * 盛岡駅 - 新函館北斗駅:2時間9分 * 新青森駅 - 新函館北斗駅:1時間6分 == 沿革 == * [[2002年]]([[平成]]14年)[[12月1日]]:東北新幹線の八戸駅延伸により運転開始<ref group="JR東" name="jreast20020920" />。東京駅 - 八戸駅間15往復・仙台駅 - 八戸駅間1往復の運転で、東京駅・上野駅・大宮駅(2号を除く)・仙台駅・盛岡駅と、一部列車が上野駅・古川駅・一ノ関駅・北上駅・いわて沼宮内駅・二戸駅に停車。 * [[2003年]](平成15年):盛岡駅→八戸駅間の「はやて271号」が運転開始。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:ダイヤ改正により、東京駅 - 盛岡駅間の「はやて」が運転開始(速達「やまびこ」を全車指定席にして編入)。日中は「やまびこ」と「はやて」が仙台で乗り継げるダイヤとした<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050915.pdf|format=PDF|title=2005年12月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2005-09-30|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref> * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:全車両禁煙化。 ** [[8月15日]]・16日:仙台駅→上野駅間の臨時「はやて」を運転。上りでの仙台始発の列車は、「はやて」運行開始以来初めて。 ** 12月1日:東京駅→仙台駅間の臨時「はやて」を運転。[[宮城県沖地震#2005年8月16日|宮城県沖地震]]の特例以外では初の運転となった。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:仙台駅→東京駅間の「はやて」が定期運行開始。盛岡駅発の上り1本を臨時列車に変更。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:東京駅→仙台駅間の「はやて」が定期運行開始。また、上り一番列車である2号が大宮駅に停車し、「はやて」は全列車が大宮駅に停車となる。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月13日]];12月3日:仙台駅発東京駅行き「はやて」と盛岡駅始発東京駅行き「やまびこ」が接続するダイヤに変更。 ** [[12月4日]]:東北新幹線八戸駅 - 新青森駅間開業に伴い八戸駅発着の「はやて」を新青森駅まで延伸。盛岡駅発着で仙台駅 - 盛岡駅間各駅停車とした「はやて」を増発し、仙台駅発着の「はやて」1往復を廃止<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2010/20100916.pdf|format=PDF|title=2010年12月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2010-09-16|accessdate=2014-06-19|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2010/100924-1.pdf|format=PDF|title=平成22年12月ダイヤ改正について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2010-09-24|accessdate=2014-06-19|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月5日]]:「はやぶさ」が運転開始。「はやて」の新青森駅発着列車の時間帯を一部変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2010/20101107.pdf|format=PDF|title=東北新幹線 「はやぶさ」 3月5日 デビュー!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2010-11-11|accessdate=2014-09-10|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** [[11月19日]]:「はやて」の東京駅 - 新青森駅間2往復、東京駅 - 盛岡駅間2往復をE5系に置き換え。同時に[[グランクラス]]の営業やE3系「こまち」との併結運転も開始<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110912.pdf|format=PDF|title=東北新幹線「はやぶさ」に投入しているE5系車両を「はやて」「やまびこ」に導入!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2011-09-12|accessdate=2014-09-10|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[3月17日]]:「はやて」の盛岡駅 - 新青森駅間1往復、仙台駅 - 新青森駅間1往復、東京駅 - 新青森駅間5往復をE5系に置き換え<ref group="JR東" name="press111216">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20111211.pdf|format=PDF|title=2012年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2011-12-16|accessdate=2014-09-10|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-sendai.com/doc/20111216b.pdf|format=PDF|title=2012年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2011-12-16|accessdate=2014-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120830212331/http://www.jr-sendai.com/doc/20111216b.pdf|archivedate=2012年8月30日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20111216.pdf|format=PDF|title=2012年3月ダイヤ改正について|publisher=[[東日本旅客鉄道秋田支社]]|date=2011-12-16|accessdate=2014-12-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** [[4月27日]]:「はやて」の東京駅 - 新青森駅間1往復をE5系に置き換え<ref group="JR東" name="press111216" />。 ** [[9月29日]]:「はやて」の東京駅 - 新青森駅間3往復、東京駅 - 盛岡駅間1往復をE5系に置き換え<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120708.pdf|format=PDF|title=2012年9月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2012-07-06|accessdate=2014-12-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/07/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%99%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf|format=PDF|title=2012年9月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2012-07-06|accessdate=2014-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130619171654/http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/07/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%92%E5%B9%B4%EF%BC%99%E6%9C%88%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A4%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf|archivedate=2013年6月19日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[1月26日]]:「はやて」の東京駅 - 新青森駅間2往復をE5系に置き換え<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121112.pdf|format=PDF|title=E5系車両を東北新幹線に追加投入! E2系車両を上越新幹線に投入!|publisher=東日本旅客鉄道|date=2007-11-16|accessdate=2014-08-29|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** [[3月16日]]:ダイヤ改正に伴い、以下の通り変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121215.pdf|format=PDF|title=2013年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2012-12-21|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/12/press_20121221-201303.pdf|format=PDF|title=2013年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2012-12-21|accessdate=2014-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150106053117/http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/12/press_20121221-201303.pdf|archivedate=2015年1月6日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20121221.pdf|format=PDF|title=2013年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2012-12-21|accessdate=2014-12-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 *** 新青森駅発着の定期「はやて」をE5系に統一。これにより、盛岡駅以北におけるE2系の定期運用が終了。 *** 盛岡駅・新青森駅発着の「はやて」4往復を「はやぶさ」に変更。 *** 一部のE5系使用列車で専任アテンダントによる車内サービスが省略され、座席のみの営業となる。これにより、対象列車のグランクラス料金が値下げされた。 ** [[9月28日]]:ダイヤ改正に伴い、以下の通り変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130709.pdf|format=PDF|title=2013年9月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-07-05|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20130705.pdf|format=PDF|title=2013年9月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2013-07-05|accessdate=2014-12-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 *** 新青森駅発着の「はやて」3往復を「はやぶさ」に変更。 *** 盛岡駅発着の「はやて」1往復でE6系の運用を開始。これにより、17両編成の「はやて」が設定される。 *** E2系とE3系0番台の併結による定期運用終了。 * [[2014年]](平成26年)3月15日:ダイヤ改正に伴い、以下の通り変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131217.pdf|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-12-20|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2013/12/201403_daiyakaisei.pdf|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道仙台支社|date=2013-12-20|accessdate=2014-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140422231907/http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2013/12/201403_daiyakaisei.pdf|archivedate=2014年4月22日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1387520243_1.pdf|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|publisher=[[東日本旅客鉄道盛岡支社]]|date=2013-12-20|accessdate=2014-12-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209085057/http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1387520243_1.pdf|archivedate=2014年12月9日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20131220-5.pdf|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2013-12-20|accessdate=2014-12-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** 新青森駅発着の「はやて」を盛岡駅 - 新青森駅間の1往復のみに削減。 ** 東京駅 - 盛岡駅間(仙台駅以北各駅停車)の「はやて」の一部列車を「はやぶさ」に統合。これにより、盛岡駅発着の「はやて」は3.5往復(下り3本・上り4本)のみとなり、E6系による定期運用終了。 ** 秋田新幹線「こまち」との併結運転を終了。 * [[2015年]](平成27年)3月14日:グリーンアテンダントによるサービスを廃止<ref group="JR東" name="jreast 20150116 press">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20150110.pdf|format=PDF|title=一部の新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスと新幹線「グリーンアテンダント」によるサービスの終了について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-01-16|accessdate=2015-01-16}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:ダイヤ改正に伴い、以下の通り変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|format=PDF|title=2016年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-18}}</ref>。 ** 北海道新幹線新青森駅 - 新函館北斗駅間の開業に伴い、盛岡駅・新青森駅 - 新函館北斗駅間の運転を開始。 ** 盛岡発東京行きの「はやて」2本を「はやぶさ」に統合。盛岡駅発着の「はやて」は2.5往復(下り3本・上り2本)となる。 ** 「はやて」98号・93号に設定されていた自由席を廃止。これにより、全ての列車が全車指定席となる。 * [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:ダイヤ改正に伴い、東京駅 - 盛岡駅間の「はやて」2往復を「はやぶさ」に統合。これにより、東京駅 - 盛岡駅間の「はやて」は下り1本のみとなる<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2017/20171213.pdf|format=PDF|title=2018年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-15|accessdate=2017-12-17}}</ref><ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1513313121_1.pdf|format=PDF|title=2018年3月ダイヤ改正|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2017-12-15|accessdate=2017-12-19}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:ダイヤ改正に伴い、以下の通り変更<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2018/20181213.pdf|format=PDF|title=2019年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-12-14|accessdate=2018-12-16}}</ref>。 **東京駅→盛岡駅の「はやて」を「はやぶさ」に統合。これにより、盛岡駅以南の「はやて」定期列車が消滅。 **[[青函トンネル]]内の最高速度を160km/hに引き上げ、所要時間を短縮。 **北海道新幹線区間(新青森駅 - 新函館北斗駅間)で車内販売を廃止<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190222.pdf|format=PDF|title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの一部列車の終了と取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-2-18|accessdate=2019-2-18}}</ref>。東北新幹線区間(東京駅 - 新青森駅駅間)は飲料・菓子類・つまみ類のみの販売に縮小する。 * [[2020年]](令和2年) **[[4月8日]]:JR東日本とJR北海道が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の感染拡大防止のため、同年4月9日から5月31日まで車内販売およびグランクラスの指定席の発売、「はやて」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200408_ho02.pdf|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-08| archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200408_KO_Glan%20class.pdf|title=新幹線の車内サービスの中止について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427070526/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200408_KO_Glan%20class.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[4月14日]]:JR東日本とJR北海道が、COVID-19の感染拡大防止のため、同年6月1日から6月30日までグランクラスの指定席の発売を見合わせることを発表<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|title=6月の「グランクラス」発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-14|accessdate=2020-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427065135/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200414_KO_GlanClass.pdf|title=新幹線の車内サービス等の中止について(4月14日更新)|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-04-14|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427070526/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200414_KO_GlanClass.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[4月27日]]:JR東日本とJR北海道が、COVID-19の感染拡大の影響により、同年5月28日以降の全列車の指定席発売を見合わせることを発表<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|title=新幹線および中央線特急、常磐線特急の指定席発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-27|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427053159/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200427_KO_Shinkansen.pdf|title=東北・北海道新幹線の指定席発売見合わせについて|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-04-27|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427063339/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200427_KO_Shinkansen.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[5月13日]]:JR東日本とJR北海道が、COVID-19の感染拡大防止のため以下の措置の実施を発表。 *** 同年5月21日以降、同年5月28日以降の列車の指定席発売を再開<ref group="JR東" name="jreast/press/20200513_1_ho">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|title=発売見合わせ中の新幹線および在来線特急等の運転計画・指定席発売について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052224/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref><ref group="JR北" name="jrhokkaido/press/20200513_HokkaidoShinkansen">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200513_HokkaidoShinkansen.pdf|title=発売見合わせ中の北海道新幹線の運転計画・指定席発売について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514053333/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200513_HokkaidoShinkansen.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 *** 同年7月1日以降も当面の間、グランクラスの指定席の発売を見合わせ<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|title=6月以降の新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止継続について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052238/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|archivedate=2020-05-13}}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200513_KO_Glanclass.pdf|title=6月以降の新幹線の車内サービスの中止について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514053324/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200513_KO_Glanclass.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 *** 利用客の減少に伴い、同年5月28日以降の定期列車の一部を運休し、臨時ダイヤによる運行を実施<ref group="JR東" name="jreast/press/20200513_1_ho" /><ref group="JR北" name="jrhokkaido/press/20200513_HokkaidoShinkansen" />。 ** [[5月19日]]:JR東日本とJR北海道が、同年5月21日以降の指定席発売を延期することを発表<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の指定席発売の延期について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060709/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref><ref group="JR北">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200519_KO_HokkaidoShinkansen.pdf|title=5月28日以降の北海道新幹線の指定席発売の延期について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060848/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200519_KO_HokkaidoShinkansen.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 ** [[5月22日]]:JR東日本とJR北海道が、国の緊急事態宣言が解除されたことを理由に、同年5月28日以降に計画していた臨時ダイヤによる運行の実施を取りやめ、定期列車の運行を継続することを発表<ref group="JR東" name="press/20200522_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の運転計画変更について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-22|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060722/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref><ref group="JR北" name="press/20200522_KO_ShinkansenSuspendedAfter28May">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200522_KO_ShinkansenSuspendedAfter28May.pdf|title=5月28日以降の北海道新幹線の運休・指定席発売について|format=PDF|publisher=北海道旅客鉄道|date=2020-05-22|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060607/https://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20200522_KO_ShinkansenSuspendedAfter28May.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。ただし、グランクラスのサービス中止は当面の間継続<ref group="JR東" name="press/20200522_ho01" /><ref group="JR北" name="press/20200522_KO_ShinkansenSuspendedAfter28May" />。 ** [[6月19日]]:グランクラスの営業サービスを再開<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの再開について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-6-11|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200611_1_ho.pdf|accessdate=2020-7-25|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 *[[2021年]](令和3年) ** [[1月16日]]:JR東日本とJR北海道が、COVID-19の感染拡大防止のため、同日より当面の間グランクラス指定席の発売、車内販売、「はやて」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-01-13|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|accessdate=2021-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210113140226/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|archivedate=2021-1-13}}</ref>。 ** [[3月13日]]:この日より東京発着の臨時「はやて」のグランクラスがシートのみの営業に変更される<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho04.pdf|title=東北・北海道新幹線のグランクラス料金および一部列車の車内サービスの見直しについて|format=PDF|publisher=JR東日本|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-18}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== ===== JR東日本 ===== {{Reflist|group="JR東"|2}} ===== JR北海道 ===== {{Reflist|group="JR北"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} == 関連項目 == * [[多層建て列車]] * [[日本の列車愛称一覧]] * [[はやて東京フリーきっぷ]] * [[CHEMISTRY]](CMで出演) == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e5.html E5系:JR東日本] - 東日本旅客鉄道 * [https://www.jrhokkaido.co.jp/train/shinkansen.html はやぶさ・はやて(北海道・東北新幹線H5系)|列車ガイド(列車編成・設備など)|駅・鉄道・旅行|JR北海道- Hokkaido Railway Company] - 北海道旅客鉄道 {{日本の新幹線}} {{JR北海道の優等列車}} {{デフォルトソート:はやて}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:列車愛称 は|やて]] [[Category:東日本旅客鉄道の列車]] [[Category:北海道旅客鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:東北新幹線]] [[Category:北海道新幹線]]
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やまびこ (列車)
やまびこは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線で運行している特別急行列車である。「はやぶさ」を除いた、福島駅 - 盛岡駅間を運行区間に含む列車に対してこの愛称が使われている。 本項では、東北新幹線で運行されていた「あおば」および、東北新幹線開業前まで運転されていた在来線特急「やまびこ」についても記述する。 1982年6月の東北新幹線の開業にあわせ、速達型列車として運転を開始した。1994年7月にはE1系「Max」の営業運転が開始されたことにより、この車両を使用する列車は「Maxやまびこ」の列車名で運転されていた。 一方、東北新幹線の各駅停車型列車(東海道・山陽新幹線における「こだま」相当)については「あおば」の名称が与えられた。開業当初、「あおば」は昼間時間帯は大宮駅 - 仙台駅間での運転となり、仙台駅 - 盛岡駅間については「やまびこ」が各駅に停車することで代替とされたため、下りの始発列車と上りの最終列車のみに「あおば」の名称が使われた。1994年のE1系営業運転開始時には「あおば」にも投入され、「Maxあおば」の列車名で運転されていた。 1995年に「あおば」の運行体系が見直され、首都圏の近距離新幹線列車(東京駅 - 那須塩原駅間を各駅停車で運行される系統)が「なすの」「Maxなすの」として分離され、「あおば」の本数が減少。さらに1997年10月の北陸新幹線(高崎駅 - 長野駅間)先行開業に伴うダイヤ改正を期に列車名の体系が見直され、「あおば」「Maxあおば」を「やまびこ」「Maxやまびこ」に統合し、東京駅 - 仙台駅・盛岡駅間を走行する列車は速達・各駅停車タイプを問わずに「やまびこ」として運行されるようになった。その後、2002年12月1日の東北新幹線八戸延伸時に新たな速達列車として「はやて」が、2011年3月5日のE5系投入時にさらなる速達列車として「はやぶさ」が登場している。八戸・新青森方面への延伸を機に、「やまびこ」は「東京駅 - 仙台駅・盛岡駅間を走行する新幹線列車」に列車の性格が改められた。 在来線でも「やまびこ」が運転されていた時期があり、1959年に福島駅 - 盛岡駅間の準急列車として運転が行われ、1961年には青森駅まで運転されていた。1963年に一度廃止されたが、1965年に東北本線盛岡駅まで電化の伸長に伴い、「つばさ」の盛岡駅発着編成を分離して「やまびこ」の名称を与えた。その後、1982年の東北新幹線開業に伴い、「やまびこ」の列車名は新幹線の列車で使用されることになった。一方、「あおば」も1971年から1975年の間、仙台駅 - 秋田駅間を東北本線・北上線・奥羽本線経由で運行する特急列車の名称として用いられてきたことがある。 東京駅 - 福島駅間で「つばさ」と併結運転する列車と、全区間で単独運転を行う列車がある。2002年12月1日に速達列車を最速達列車「はやて」として分離。これにより速達列車に設定されていた「こまち」との併結はなくなった。 2005年12月10日から数年間、日中時間帯の下り列車において、仙台駅で同一ホームにて盛岡行き「やまびこ」と新青森・秋田行き「はやて」「こまち」との乗継ができる緩急接続ダイヤが組まれていた。しかし東北新幹線の高速化や福島駅での平面交差がネックとなり、かつて仙台駅下りホームで行われていた緩急接続は廃止されている。 東京駅、大宮駅、福島駅、仙台駅、古川駅、くりこま高原駅、一ノ関駅、水沢江剌駅、北上駅、新花巻駅、盛岡駅が全定期列車の停車駅となっている。上野駅、宇都宮駅、郡山駅は最速達便を除く全定期列車が停車する。仙台駅 - 盛岡駅間を運行する列車は、定期列車の全列車が同区間の各駅に停車する(ただし、臨時列車ではくりこま高原駅、水沢江刺駅、新花巻駅を通過するものが設定されることもある)。かつては「つばさ」または「こまち」を併結する「やまびこ」で大宮駅を通過する列車も存在したが、現在はすべての「やまびこ」が大宮駅に停車する。 新幹線総合車両センターに所属しているE2系、E5系、JR北海道函館新幹線総合車両所に所属しているH5系および、秋田新幹線車両センターに所属しているE6系の4車種が使用されている。 E5系・H5系は10両編成で、E6系を併結した17両編成で運転される事もある。通常時の最高速度はいずれも275km/hだが、遅延による回復運転をする際には320km/hで走行する場合もある。また、E5系・H5系で運転される列車はグランクラスの営業も行われる。導入当初は、早朝深夜の一部の列車に限り座席のみの営業であったが、後述のとおり2016年3月26日以降は東京駅 - 盛岡駅間直通列車を除き座席のみの営業になり、該当の列車では割安なグランクラス(B)の料金が適用される。2021年3月13日以降は座席のみの営業に統一された。223号のみH5系が使用され、E6系を併結する(ただし、H5系は車両検査や大幅なダイヤの乱れが発生した場合はE5系での運用となることがある)。 E2系は10両編成で、山形新幹線「つばさ」を併結する場合は東京駅 - 福島駅間で17両編成の運転になる。 かつては200系、E1系、E3系、E4系も使われていた。
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やまびこは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線で運行している特別急行列車である。「はやぶさ」を除いた、福島駅 - 盛岡駅間を運行区間に含む列車に対してこの愛称が使われている。 本項では、東北新幹線で運行されていた「あおば」および、東北新幹線開業前まで運転されていた在来線特急「やまびこ」についても記述する。
{{Redirect|あおば (列車)|北上線で運行されていた特急|たざわ (列車)#田沢湖線・北上線・奥羽本線横手駅 - 秋田駅間の昼行優等列車の歴史・沿革}} {{Infobox 列車名 |列車名=やまびこ |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像=Series-E5-U15 Yamabiko-50.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=E5系で運行の「やまびこ」<br />(2022年5月18日 [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]) |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[茨城県]]<ref group="注">設置駅なし</ref>・[[栃木県]]・[[福島県]]・[[宮城県]]・[[岩手県]] |前身=特急「やまびこ」「[[はつかり (列車)|はつかり]]」「[[東北本線優等列車沿革|ひばり]]」<br>新幹線「あおば」「Maxやまびこ」 |運行開始=[[1982年]][[6月23日]] |運行終了= |後継=新幹線「[[はやて (列車)|はやて]]」 |運営者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |旧運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄) |平均乗客数= |起点=[[東京駅]]・[[那須塩原駅]]・[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]・[[仙台駅]] |停車地点数= |終点=仙台駅・[[盛岡駅]] |営業距離=496.5 [[キロメートル|km]](東京駅 - 盛岡駅間)<ref group="注">実キロ。東京駅 - 盛岡駅間の営業キロは535.3 [[キロメートル|km]]である。</ref> |平均所要時間= |運行間隔=2 - 3本/時間(東京 - 仙台間)<br/>1本/時間(仙台 - 盛岡間) |列車番号=号数+B<br/>1000B+号数(100号台のうち「つばさ」と併結しない列車)<br/>6000B+号数(仙台発着で「つばさ」と併結する季節列車) |使用路線=[[東北新幹線]] |クラス=[[グランクラス]]・[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応= |座席=グランクラス[[座席指定席|指定席]]<br />グリーン車指定席<br />普通車指定席<br />普通車[[自由席]] |その他= |車両=[[新幹線E5系・H5系電車|H5系電車]](JR北海道[[函館新幹線総合車両所]])<br/>[[新幹線E2系電車|E2系電車]](JR東日本[[新幹線総合車両センター]])<br/>[[新幹線E5系・H5系電車|E5系電車]](JR東日本新幹線総合車両センター)<br/>[[新幹線E6系電車|E6系電車]](JR東日本[[秋田総合車両センター南秋田センター|秋田新幹線車両センター]]) |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />([[架空電車線方式]]) |最高速度=110[[キロメートル毎時|km/h]](東京 - 上野間)<br />130 km/h(上野 - 大宮間)<br />275 km/h(大宮 - 仙台間)<br />300 km/h(仙台 - 盛岡間) |線路所有者= |備考=一部列車は東京 - 福島間で新幹線「つばさ」と併結 |路線図= |路線図表示=<!--collapsed--> }} '''やまびこ'''は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[東北新幹線]]で運行している[[特別急行列車]]である。「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」を除いた、[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[盛岡駅]]間を運行区間に含む列車に対してこの[[列車愛称|愛称]]が使われている。 本項では、東北新幹線で運行されていた「'''あおば'''」および、東北新幹線開業前まで運転されていた[[在来線]]特急「'''やまびこ'''」についても記述する。 == 概要 == [[1982年]]6月の東北新幹線の開業にあわせ、速達型列車として運転を開始した。[[1994年]]7月には[[新幹線E1系電車|E1系]]「[[Max (鉄道車両)|Max]]」の営業運転が開始されたことにより、この車両を使用する列車は「Maxやまびこ」の列車名で運転されていた。 一方、東北新幹線の各駅停車型列車(東海道・山陽新幹線における「[[こだま (列車)|こだま]]」相当)については「'''あおば'''」の名称が与えられた。開業当初、「あおば」は昼間時間帯は[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[仙台駅]]間での運転となり、仙台駅 - [[盛岡駅]]間については「やまびこ」が各駅に停車することで代替とされたため、下りの始発列車と上りの最終列車のみに「あおば」の名称が使われた。[[1994年]]のE1系営業運転開始時には「あおば」にも投入され、「Maxあおば」の列車名で運転されていた。 [[1995年]]に「あおば」の運行体系が見直され、首都圏の近距離新幹線列車(東京駅 - [[那須塩原駅]]間を各駅停車で運行される系統)が「[[なすの (列車)|なすの]]」「Maxなすの」として分離され、「あおば」の本数が減少<ref group="新聞" name="交通950919">{{Cite news |title=JR東日本が12月1日ダイヤ改正 東北新幹線抜本見直し |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-09-19 |page=1 }}</ref>。さらに[[1997年]]10月の[[北陸新幹線]](高崎駅 - 長野駅間)先行開業に伴うダイヤ改正を期に列車名の体系が見直され、「あおば」「Maxあおば」を「やまびこ」「Maxやまびこ」に統合し、東京駅 - 仙台駅・盛岡駅間を走行する列車は速達・各駅停車タイプを問わずに「やまびこ」として運行されるようになった。その後、[[2002年]][[12月1日]]の東北新幹線[[八戸駅|八戸]]延伸時に新たな速達列車として「[[はやて (列車)|はやて]]」が、2011年3月5日の[[新幹線E5系電車|E5系]]投入時にさらなる速達列車として「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」が登場している。八戸・新青森方面への延伸を機に、「やまびこ」は「東京駅 - 仙台駅・盛岡駅間を走行する新幹線列車」に列車の性格が改められた。 在来線でも「やまびこ」が運転されていた時期があり、[[1959年]]に[[福島駅 (福島県)|福島駅]] - 盛岡駅間の[[準急列車]]として運転が行われ、[[1961年]]には[[青森駅]]まで運転されていた。[[1963年]]に一度廃止されたが、[[1965年]]に[[東北本線]]盛岡駅まで[[鉄道の電化|電化]]の伸長に伴い、「[[つばさ (列車)|つばさ]]」の盛岡駅発着編成を分離して「やまびこ」の名称を与えた。その後、[[1982年]]の東北新幹線開業に伴い、「やまびこ」の列車名は新幹線の列車で使用されることになった。一方、「あおば」も1971年から1975年の間、仙台駅 - [[秋田駅]]間を[[たざわ_(列車)#田沢湖線・北上線・奥羽本線横手駅_-_秋田駅間の昼行優等列車の歴史・沿革|東北本線・北上線・奥羽本線経由で運行する特急列車]]の名称として用いられてきたことがある。 == 運行概況 == 東京駅 - 福島駅間で「つばさ」と併結運転する列車と、全区間で単独運転を行う列車がある。[[2002年]][[12月1日]]に速達列車を最速達列車「はやて」として分離。これにより速達列車に設定されていた「[[こまち (列車)|こまち]]」との併結はなくなった。 [[2005年]][[12月10日]]から数年間、日中時間帯の下り列車において、仙台駅で同一ホームにて盛岡行き「やまびこ」と新青森<ref group="注">2005年12月10日から2010年12月3日までは八戸行き</ref>・秋田行き「はやて」「こまち」との乗継ができる緩急接続ダイヤが組まれていた。しかし東北新幹線の高速化や福島駅での平面交差がネックとなり、かつて仙台駅下りホームで行われていた緩急接続は廃止されている。 === 停車駅 === 東京駅、大宮駅、福島駅、仙台駅、古川駅、くりこま高原駅、一ノ関駅、水沢江剌駅、北上駅、新花巻駅、盛岡駅が全定期列車の停車駅となっている。上野駅、宇都宮駅、郡山駅は最速達便を除く全定期列車が停車する。仙台駅 - 盛岡駅間を運行する列車は、定期列車の全列車が同区間の各駅に停車する(ただし、臨時列車ではくりこま高原駅、水沢江刺駅、新花巻駅を通過するものが設定されることもある)。かつては「つばさ」または「こまち」を併結する「やまびこ」で大宮駅を通過する列車も存在したが、現在はすべての「やまびこ」が大宮駅に停車する。 {|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:85%;" |+2023年3月18日現在(定期列車) !号数 !運行本数\駅 !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:1em;"|[[上野駅]] !style="width:1em;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] !style="width:1em;"|[[小山駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[宇都宮駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[那須塩原駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新白河駅]] !style="width:1em;"|[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] !style="width:1em;"|[[福島駅 (福島県)|福島駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[白石蔵王駅]] !style="width:1em;"|[[仙台駅]] !style="width:1em;"|[[古川駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[くりこま高原駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[一ノ関駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[水沢江刺駅]] !style="width:1em;"|[[北上駅]] !style="width:1em; line-height:1.2em;"|[[新花巻駅]] !style="width:1em;"|[[盛岡駅]] !備考 |- ! rowspan="5" |50-74号 !下り5本/上り5本 |●||●||●||-||●||-||-||●||●||-||●||●||●||●||●||●||●||●||style="text-align:left;"| |- !下り6本/上り5本 |●||●||●||-||●||-||-||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||style="text-align:left;"| |- !下り1本 |● |● |● |● |● |● |● |● |● |→ |● |● |● |● |● |● |● |● | |- !上り1本 |● |● |● |← |● |← |● |● |● |← |● |● |● |● |● |● |● |● | |- !上り2本 |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● |● | |- !94・97・99号 !下り2本/上り1本 | || || || || || || || || || ||●||●||●||●||●||●||●||●|| style="text-align:left;" |やまびこ99号は土曜・休日運休 |- ! rowspan="6" |122-223号 !下り1本/上り1本 |●||-||●||-||-||-||-||-||●||-||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" |最速達列車 |- !下り6本/上り6本 |●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" | |- !下り4本/上り3本 |●||●||●||●||●||●||●||●||●||-||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" | |- !下り4本/上り5本 |●||●||●||-||●||-||-||●||●||●||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" | |- !下り8本/上り7本 |●||●||●||-||●||-||-||●||●||-||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" | |- !上り1本 |● |● |● |● |● |← |● |● |● |● |● | | | | | | | | |- !290・293号 !下り1本/上り1本 | || || || || || || ||●||●||●||●|| || || || || || || || style="text-align:left;" |やまびこ293号は土曜・休日運休 |- !やまびこ291号 !下り1本 | | | | | |● |● |● |● |● |● | | | | | | | | |} * ●:停車 * - →:通過 * 号数は定期列車のみ記す。 === 使用車両・編成 === {|style="float:right; margin:0em 0em 1em 1em; border:1px solid #999;" |- |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px green; text-align:center;"|やまびこ |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|東京|仙台・盛岡}} |- |{{Shinkansen E2 10cars|car=E2系|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|6=自|7=※|8=指|Note=}} |- |{{Shinkansen E5 10cars|car=E5系|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|7=※|Note=「やまびこ」94・97・99・293・290号は<br/>1 - 9号車のみの客扱い、グランクラス非営業。}} |- |{{Shinkansen E2+E3 17cars|7=※|10=指|12=指|13=指|14=指|15=指|Note=}} |- |{{Shinkansen E5+E6 17cars|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|7=※|12=自|13=自|14=自|15=自|16=自|17=自|Note=「やまびこ」223号の1 - 10号車はH5系で運転。}} |- |style="font-size:80%; text-align:left;"| {{JR東日本新幹線座席凡例}} : {{bgcolor|#ffd700|GC}}=[[グランクラス]]指定席 : 7号車の※=平日は普通車指定席兼「TRAIN DESK」、土休日と最繁忙期は通常の普通車指定席 |} [[新幹線総合車両センター]]に所属している[[新幹線E2系電車|E2系]]<ref group="注">[[新潟新幹線車両センター]]に所属する編成が充当される場合もある。</ref>、[[新幹線E5系電車|E5系]]、JR北海道[[函館新幹線総合車両所]]に所属している[[新幹線E5系電車|H5系]]および、[[秋田総合車両センター南秋田センター|秋田新幹線車両センター]]に所属している[[新幹線E6系電車|E6系]]の4車種が使用されている。 E5系・H5系は10両編成で、E6系を併結した17両編成で運転される事もある。通常時の最高速度はいずれも275km/hだが、遅延による回復運転をする際には320km/hで走行する場合もある。また、E5系・H5系で運転される列車<ref group="注">仙台駅 - 郡山駅間のみ運転する290・293号、仙台駅 - 盛岡駅間のみ運転する94・97・99号を除く。</ref>は[[グランクラス]]の営業も行われる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|date=2011-09-12|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110912.pdf|title=東北新幹線「はやぶさ」に投入しているE5系車両を「はやて」「やまびこ」に導入!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2014-03-20}}</ref>。導入当初は、早朝深夜の一部の列車に限り座席のみの営業であったが、後述のとおり2016年3月26日以降は東京駅 - 盛岡駅間直通列車を除き座席のみの営業になり、該当の列車では割安なグランクラス(B)の料金が適用される。2021年3月13日以降は座席のみの営業に統一された。223号のみH5系が使用され、E6系を併結する(ただし、H5系は車両検査や大幅なダイヤの乱れが発生した場合はE5系での運用となることがある)。 E2系は10両編成で、山形新幹線「つばさ」を併結する場合は東京駅 - 福島駅間で17両編成の運転になる。 かつては[[新幹線200系電車|200系]]、[[新幹線E1系電車|E1系]]、[[新幹線E3系電車|E3系]]、[[新幹線E4系電車|E4系]]も使われていた。 <gallery> File:Shinkansen E2-1000.JPG|E2系1000番台 File:Series-E5-U44 Hayabusa-2.jpg|E5系 File:JRH Series-H5 H1.jpg|H5系 File:E6-E5-Coupling in omiya 20130320.jpg|E6系 File:Shinkansen 200kei G45.jpg|2011年まで使用されていた200系 File:Shinkansen 200kei H5 13car.jpg|2005年まで使用されていた200系H編成 File:Shinkansen-e1.jpg|1999年まで使用されていたE1系 File:E4inKumagayaSt1.JPG|2012年まで使用されていたE4系 File:E3 R18-E5 Coupling in omiya 20130608.jpg|2020年まで使用されていたE3系 </gallery> {{-}} == 在来線特急「やまびこ」 == {{Infobox 列車名 |列車名=やまびこ |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像= |画像サイズ= |画像説明= |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[エル特急]]) |現況=廃止 |地域= |前身= |運行開始=[[1965年]][[10月1日]] |運行終了=[[1982年]][[6月23日]] |後継= |運営者=[[日本国有鉄道]](国鉄) |旧運営者= |平均乗客数= |起点=[[上野駅]] |停車地点数= |終点=[[盛岡駅]] |営業距離= |平均所要時間= |運行間隔= |列車番号= |使用路線=[[東北本線]] |クラス=[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応= |座席=グリーン車[[座席指定席|指定席]]<br />普通車指定席<br />普通車[[自由席]] |就寝= |車運車= |食事= |展望= |娯楽= |荷物= |その他= |車両= |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />[[交流電化|交流]]20,000 V・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] |最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]] |線路所有者= |ルート番号= |備考= |路線図= |路線図表示=<!--collapsed--> }} === 停車駅 === ; 1981年10月改正時(列車によって停車駅は異なる) : 上野駅 - 大宮駅 - 宇都宮駅 - 郡山駅 - 福島駅 - 仙台駅 - [[小牛田駅]] - 一ノ関駅 - [[水沢駅]] - 北上駅 - [[花巻駅]] - 盛岡駅 : 大宮駅は1往復が通過。 == 歴史 == === 在来線の「やまびこ」 === {{see also|東北本線優等列車沿革}} * [[1959年]]([[昭和]]34年)2月1日:福島駅 - 盛岡駅間を運行する[[準急列車]]として「'''やまびこ'''」の名称が使用される。 * [[1960年]](昭和35年)6月1日:「やまびこ」の運転区間が[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]まで延長。 * [[1961年]](昭和36年)10月1日:「やまびこ」の運転区間が[[青森駅]]まで延長。 * [[1963年]](昭和38年) ** 10月1日:準急「やまびこ」を廃止。 ** 12月5日:上野駅 - 秋田駅間の特急「[[つばさ (列車)|つばさ]]」に盛岡駅発着編成を併結する。尾久客車区(現・[[尾久車両センター]])の車両が運用された。 * [[1964年]](昭和39年)10月1日:「つばさ」の盛岡駅発着編成が1両増結したことにより、7両編成となる。同時に盛岡駅発着編成の受け持ちが尾久客車区から、盛岡客貨車区(現・[[盛岡車両センター]])へ移管。 * [[1965年]](昭和40年)10月1日:[[東北本線]]盛岡駅まで[[鉄道の電化|電化]]されたことにより、上野駅 - 秋田駅間の「[[つばさ (列車)|つばさ]]」に併結する盛岡駅発着編成を分離して「やまびこ」の名称を与えると同時に、仙台運転所(現・[[仙台車両センター]])所属の[[国鉄485系電車|483系電車]]10両編成を使用して電車化。以後、東北本線上野駅 - 盛岡駅間を走る特急の愛称として定着。 * [[1967年]](昭和42年)10月1日:「やまびこ」[[東京駅]]発着に変更。 * [[1968年]](昭和43年)10月1日:二等車が1両減車され、9両編成に短縮。 * [[1970年]](昭和45年)7月1日:普通車が3両増結され、12両編成となる。 * [[1972年]](昭和47年) ** 3月15日:「やまびこ」の初の増発が行われ、2往復増発。 ** 10月2日:定期1往復・季節1往復が増発されたと同時に、3往復の車両受け持ちが仙台運転所から青森運転所(現・[[青森車両センター]])へ移管。入出庫の兼ね合いから「はつかり」への485系投入まで青森までの季節延長も設定された。 {|style="float:right; margin:0em 0em 1em 1em; border:1px solid gray; text-align:center;" |+ 在来線「やまびこ」編成の変遷 |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #000000;"|在来線「やまびこ」 |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|上野・東京|盛岡}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;" |+ 483系 |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10 |-style="border-top:solid 3px #c00;" |クハ<br />481 |モハ<br />482 |モハ<br />483 |background-color:#cf9;"|サロ<br />481 |background-color:#ff9;"|サシ<br />481 |モハ<br />482 |モハ<br />483 |モハ<br />482 |モハ<br />483 |クハ<br />481 |} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;" |+ 485系(9両編成) |1||2||3||4||5||6||7||8||9 |-style="border-top:solid 3px #c00;" |background-color:#cf9;"|クロ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |background-color:#ff9;"|サシ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |クハ<br />481 |} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;" |+ 485系(12両編成・仙台運転所) |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12 |-style="border-top:solid 3px #c00;" |background-color:#cf9;"|クロ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |background-color:#ff9;"|サシ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |サハ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |クハ<br />481 |} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;" |+ 485系(青森運転所・1978年9月まで) |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11|||12 |-style="border-top:solid 3px #c00;" |クハ<br />481 |background-color:#cf9;"|サロ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |background-color:#ff9;"|サシ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |クハ<br />481 |} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; margin:0em auto;" |+ 485系(青森運転所・1978年10月から) |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11|||12 |-style="border-top:solid 3px #c00;" |クハ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |background-color:#cf9;"|サロ<br />481 |background-color:#ff9;"|サシ<br />481 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |モハ<br />484 |モハ<br />485 |クハ<br />481 |} |style="font-size:80%; text-align:left;"| |} * [[1973年]](昭和48年) ** 4月1日:東京駅新幹線工事に伴い、全列車上野駅 - 盛岡駅間の運転となる。 ** 10月1日:全列車の受け持ちが青森運転所へ移管となる。 * [[1978年]](昭和53年)10月2日:「やまびこ」[[エル特急]]に指定される。1往復が[[青森駅]]まで延長され「'''[[はつかり (列車)|はつかり]]'''」に改称。以降、廃止までこのままとなる。 * [[1982年]](昭和57年)6月22日:東北新幹線[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[盛岡駅]]間開業により廃止され、新幹線の名称として使用されるようになる。 * [[2002年]](平成14年)6月23日:東北新幹線大宮開業20周年に合わせ、[[青森車両センター|青森運転所]][[国鉄485系電車|485系]]8両編成を使用し、盛岡駅 - 上野駅間で臨時特急「思い出のやまびこ」運転<ref group="新聞" name="kotsu020625">{{Cite news |title=東北新幹線開業20周年 |newspaper=[[交通新聞]] |date=2002-06-25 |location=[[東京都]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1}}</ref>。 {{-}} === 新幹線の「やまびこ」 === {|style="float:right; margin:1em 0em 1em 1em; border:1px solid gray;" |+ 1991年6月20日時点での編成図 |style="text-align:center; background-color:#eee; border-bottom:solid 4px #999;"|やまびこ |- |style="text-align:center; font-size:80%;"|{{TrainDirection|東京|盛岡}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:center; margin:0em auto;" |+ 2階建て車両組み込み |1||2||3||4||5||6||7||8||9||10||11||12||13||14||15||16 |- |colspan="8" style="background-color:#ddd;"|&nbsp; |style="background-color:#cf9;"|G |style="background-color:#cf9;"|G |colspan="6" style="background-color:#ddd;"|&nbsp; |- |自 |自 |自 |自 |自 |指 |指 |指 |個 |C |style="background-color:#cf9;"|G |指 |{{small|B}}指 |指 |指 |指 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| ; 凡例 : B=[[食堂車|ビュフェ]] : C=[[カフェテリア]] : {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席|指定席]] : 個=グリーン車・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]個室 : 指=普通車指定席 : 自=普通車自由席 |} {{Anchors|新幹線「やまびこ」}} * [[1982年]](昭和57年)[[6月23日]]:東北新幹線の開業により、速達列車の「やまびこ」と各駅停車タイプの「'''あおば'''」が運転開始。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:東北新幹線の都内(上野駅)乗り入れとともに、「やまびこ」の途中停車駅を、大宮駅・福島駅・仙台駅のみ停車(一部は宇都宮駅・郡山駅にも停車)の速達タイプの列車を運転開始。 ** なお、これらの速達「やまびこ」は『スーパーやまびこ』とも呼ばれた。新幹線の場合、公式には「スーパー」の表記を用いないため、一部から発生した[[通称]]とされるが、東北地方では駅員もこの名前を使用していた。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:途中停車駅を仙台駅のみとした超速達タイプの列車を運転開始。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[6月20日]]:東北新幹線の東京駅乗り入れとともに、超速達タイプ「やまびこ」は上野駅を通過し、東京駅 - 仙台駅間ノンストップ運転になる。また、16両H編成による「やまびこ」が登場。 * [[1992年]](平成4年)[[7月1日]]:山形新幹線開業により、「やまびこ」は東京駅 - 福島駅間で「つばさ」との併結を開始。 * [[1994年]](平成6年)[[7月15日]]:E1系Max営業運転開始。「'''Maxやまびこ'''」「'''Maxあおば'''」新設。 * [[1995年]](平成7年)[[12月1日]]:東京駅 - 那須塩原駅間で[[なすの (列車)|「'''なすの'''」「'''Maxなすの'''」]]が運転開始{{R|交通950919|group="新聞"}}。「あおば」「Maxあおば」を大幅に削減{{R|交通950919|group="新聞"}}。 * [[1997年]](平成9年) **[[3月22日]]:ダイヤ改正により次のように変更。 *** E2系営業運転開始。 *** [[秋田新幹線]]開業に伴い、「やまびこ」の盛岡駅(一部仙台駅)以南で「[[こまち (列車)|こまち]]」の併結を開始。 *** 仙台駅 - 盛岡駅間で運転されていた「あおば」は「やまびこ・こまち」61・62号に変更。 *** 宇都宮駅・福島駅・郡山駅への速達タイプ「やまびこ」の停車を減らし、ほとんどの列車が大宮駅 - 仙台駅間をノンストップ運転とする。 ** [[10月1日]]:北陸新幹線一部先行開業によるダイヤ改正により、仙台発着の「あおば」「Maxあおば」を「やまびこ」「Maxやまびこ」に統合。これに伴い「あおば」「Maxあおば」廃止。 ** [[12月20日]]:E4系Maxが営業運転開始。 [[File:E4+E3 1000 omiya.jpg|200px|thumb|山形新幹線「つばさ」と連結するE4系Max]] * [[1999年]](平成11年) ** [[4月29日]]:E4系Maxと「つばさ」の併結運転を開始。 ** [[12月4日]]:ダイヤ改正により次のように変更。 *** E1系Maxの定期運用終了。 *** 「こまち」の併結車両をE2系に統一。 * [[2000年]](平成12年) ** [[12月2日]]:200系H編成で「トレインマッサージ」の営業開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=東北新幹線でマッサージを |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2000-12-02 |page=39 }}</ref>。 ** [[12月31日]]:盛岡駅 - 東京駅間の最終列車「やまびこ56号」は列車名を「ミレナリオやまびこ56号」に変更して運転。また「ミレナリオやまびこ56号」に先行する同区間の「やまびこ28号」についても併結車両の秋田新幹線の最終列車が「ミレナリオこまち28号」に変更して運転されることから「ミレナリオやまびこ28号」に変更して運転。 * [[2001年]](平成13年)[[9月21日]]:「つばさ」の併結車両をE4系Maxに統一。 * [[2002年]](平成14年) ** [[5月30日]]:この日を最後に200系F編成における[[食堂車|ビュフェ]]営業廃止。 ** [[6月22日]]:東北新幹線大宮駅開業20周年に合わせ、200系F93編成を使用した「想い出のあおば」を運転<ref group="新聞" name="kotsu020625"/>。 ** [[12月1日]]:東北新幹線の[[八戸駅]]延伸により、速達「やまびこ」の大半を八戸駅まで運転区間を延長し、「[[はやて (列車)|'''はやて''']]」として分離。 *** 定期列車としては「やまびこ」は青森県には乗り入れていないが、200系の一部には「やまびこ 八戸」の方向幕が用意されていた。 *** 「こまち」の併結列車を「はやて」に移行。 ***「つばさ」を併結する東京駅 - 福島駅間ノンストップの「やまびこ」が大宮駅停車に変更される。これと「こまち」併結列車変更に伴い、「やまびこ」全列車が大宮駅に停車するようになる。 * [[2003年]](平成15年)[[12月1日]]:200系H編成における「[[カフェテリア]]」・「トレインマッサージ」の営業廃止。 * [[2004年]](平成16年)[[3月13日]]:ダイヤ改正により、200系F・H編成の定期運用廃止。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:ダイヤ改正により次のように変更。 ** 東京駅 - 盛岡駅間の「はやて」を設定。 ** 速達「やまびこ」が消滅。「やまびこ」は仙台駅から先は各駅停車となる。 ** 盛岡駅を発着するE4系「Maxやまびこ」定期列車を廃止。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:全車両禁煙化。 ** 6月23日:東北新幹線大宮開業25周年に合わせ、リニューアル済みの200系K47編成を原色へ塗装変更して運転。 * [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:ダイヤ改正により、東京駅 - 盛岡駅間で「やまびこ」の所要時間が短縮。 * [[2011年]](平成23年)[[11月19日]]:[[新幹線E5系・H5系電車|E5系]]の増備により次のように変更。 ** 一部列車にE5系投入開始。グランクラスの営業やE3系との併結運転を開始。 ** 東北新幹線系統での200系の定期運用終了。 [[File:JReastE2 E3 2000-Coupling Omiya 20120918.jpg|200px|thumb|山形新幹線「つばさ」と連結するE2系]] * [[2012年]](平成24年) ** [[3月17日]]:ダイヤ改正により次のように変更。 *** 「つばさ」を併結する列車の一部をE4系「Maxやまびこ」からE2系「やまびこ」へ置き換え。 *** 「やまびこ」208号を仙台始発、「やまびこ」124号を盛岡始発へそれぞれ変更。 *** 東北新幹線系統におけるE4系16両編成の定期運用終了。 ** 6月23日:東北新幹線大宮開業30周年に伴い、大宮駅 - 盛岡駅間で運転された「やまびこ235号」に200系を充当。 ***停車駅 : [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、[[小山駅]]、[[宇都宮駅]]、[[那須塩原駅]]、[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]、[[福島駅 (福島県)|福島駅]]、[[仙台駅]]、[[古川駅]]、[[一ノ関駅]]、[[北上駅]]、[[盛岡駅]] ** [[9月29日]]:ダイヤ改正により次のように変更。 *** 東北新幹線系統におけるE4系の定期運用を終了し、「Maxやまびこ」廃止。 *** 「つばさ」を併結する列車をE2系に統一。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月16日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|date=2012-12-21|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121215.pdf|title=2013年3月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2014-03-20}}</ref>。 *** 一部列車にE6系投入開始。 *** E5系使用の一部列車でグランクラスの専任アテンダントによる車内サービスを廃止。対象列車はグランクラスが値下げされる。 *** 「やまびこ」290号(仙台駅 - 郡山駅間のみ運転)をE2系からE5系に置き換え。同列車は1 - 9号車のみの客扱いとなり、グランクラスは非営業・締め切り扱いとなる。 ** [[9月28日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|date=2013-07-05|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130709.pdf|title=2013年9月ダイヤ改正について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2013-08-03}}</ref>。 *** E2系とE3系0番台の併結による定期運用終了<ref group="注">繁忙期にはE2系とE3系0番台との併結で運用される場合がある。</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]] : ダイヤ改正により次のように変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2015/20151211.pdf|format=PDF|title=2016年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-12-18|accessdate=2015-12-18}}</ref>。 ** 東京駅 - 仙台駅間運転の列車でグランクラスの専任アテンダントによる車内サービスを廃止し、座席のみの営業となる。 ** [[北海道旅客鉄道|JR北海道]]保有のH5系が運用開始(下り1本:「やまびこ223号」、東京発仙台行きの運転のみ)<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.hakodateshinbun.co.jp/topics/topic_2016_2_17.html|title=上下線7本でH5系運行、ダイヤ判明|publisher=函館新聞社|date=2016-02-17|accessdate=2016-03-26}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年) ** [[3月16日]]:ダイヤ改正により次のように変更 *** 東京~盛岡間運転の「やまびこ」がE5系又はE5系+E3系orE6系に統一される。 <!--- 一部時刻表の表記ではE2系だが所定ダイヤはE5系 *** 盛岡駅発着のE2系 使用の「やまびこ」が仙台~盛岡間の区間列車のみとなる。(やまびこ94・97・99号のみ)---> *** 車内販売を全廃<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190222.pdf|format=PDF|title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの一部列車の終了と取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-2-18|accessdate=2019-2-18}}</ref>。 ** [[4月1日]]:グランクラスのサービスがリニューアルされる。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[4月8日]]:JR東日本が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の感染拡大防止のため、同年4月9日 - 5月31日まで、車内販売およびグランクラスの切符の発売および「やまびこ」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200408_ho02.pdf|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-08| archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[4月14日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のため、同年6月1日 - 6月30日まで、グランクラスの指定席発売を見合わせることを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|title=6月の「グランクラス」発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-14|accessdate=2020-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427065135/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[4月27日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により、同年5月28日以降の全列車の指定席発売を見合わせることを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|title=新幹線および中央線特急、常磐線特急の指定席発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-27|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427053159/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[5月8日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により、同年5月28日以降に運転本数を削減することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線特急、常磐線特急の運転本数削減について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-08|accessdate=2020-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052202/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 ** [[5月13日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止により以下の運転計画および措置の実施を発表。 *** 同年5月21日以降、同年5月28日以降の列車の指定席発売を再開<ref group="報道" name="jreast/press/20200513_1_ho">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|title=発売見合わせ中の新幹線および在来線特急等の運転計画・指定席発売について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052224/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 *** 同年7月1日以降、当面の間、グランクラスの指定席発売を見合わせ<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|title=6月以降の新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止継続について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052238/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|archivedate=2020-05-13}}</ref>。 *** 利用客の減少に伴い、同年5月28日以降の定期列車の一部を運休し、臨時ダイヤによる運行を実施<ref group="報道" name="jreast/press/20200513_1_ho" />。 ** [[5月19日]]:JR東日本が、同年5月21日以降の指定席発売を延期することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の指定席発売の延期について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060709/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 ** [[5月22日]]:JR東日本が、国の緊急事態宣言が解除されたことを理由に、同年5月28日以降に計画していた臨時ダイヤによる運行の実施を取りやめ、定期列車の運行を継続することを発表<ref group="報道" name="press/20200522_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の運転計画変更について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-22|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060722/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。ただし、グランクラスのサービス中止は当面の間継続<ref group="報道" name="press/20200522_ho01" />。 ** [[6月19日]]:グランクラスの営業サービスを再開<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの再開について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-6-11|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200611_1_ho.pdf|accessdate=2020-7-25|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[10月31日]]:利用客の減少に伴い、E3系R編成の定期運用廃止<ref>{{Cite news|title=さらば「初代こまちカラー」 定期運用廃止の元・秋田新幹線E3系 今後どうなる?|date=2020-11-10|newspaper=乗りものニュース|url=https://trafficnews.jp/post/101639|accessdate=2020-11-10}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[1月16日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のため、同日より当面の間、車内販売の中止、グランクラス指定席発売および「やまびこ」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-01-13|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|accessdate=2021-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210113140226/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|archivedate=2021-1-13}}</ref>。 ** [[3月13日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-12-18|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|accessdate=2020-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218071035/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|archivedate=2020-12-18}}</ref>。 *** 上野駅 - 大宮駅間 (埼玉県内のみ) の最高速度を110km/hから130km/hに引き上げ、所要時間を短縮。 *** 「やまびこ」全列車のグランクラスがシートのみの営業に統一<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=東北・北海道新幹線のグランクラス料金および一部列車の車内サービスの見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-12-18|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho04.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218145741/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho04.pdf|archivedate=2020-12-18}}</ref>。 **[[10月9日]] - [[10月10日]]:E4系の定期運行終了に伴い、旅行商品専用列車としてE4系による「サンキューMaxとき&やまびこ」を運行<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=上越新幹線「E4 系 Max 編成」 旅行商品専用列車を運行します!|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|date=2021-07-30|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/niigata/20210730_ni01.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210730030709/https://www.jreast.co.jp/press/2020/niigata/20210730_ni01.pdf|archivedate=2021-06-30}}</ref><ref group="注">当列車は9日に新潟発大宮経由盛岡行き、10日に盛岡発大宮経由新潟行きとして運行した。東北新幹線区間となる大宮 - 盛岡間では「Maxやまびこ」として運行された。</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月12日]]:ダイヤ改正により次のように変更 *** 東京駅 - 仙台駅間運転の「やまびこ」8往復(東京駅 - 福島駅間は山形新幹線「つばさ」と併結)が臨時列車化。 *** 「なすの」284号の運転取りやめに伴い、「やまびこ」72号の郡山駅 - 東京駅が運転時刻変更となる。 *** 東京駅 - 盛岡駅間運転の「はやぶさ」2往復が、東京駅 - 仙台駅間で臨時列車化に伴い、東京駅 - 仙台駅間運転の「やまびこ」2往復が盛岡発着に延長される。 *** グリーン車・グランクラス料金が改定される。 * [[2024年]](令和6年) ** [[3月16日]] : ダイヤ改正により次のように変更(予定)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2024年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2023-12-15|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20231215_ho02.pdf|format=PDF}}</ref> *** 「つばさ」を併結する列車をE5系に統一。これにより、E2系が「つばさ」併結運用から撤退。 *** 東京駅 - 仙台駅間運転の「やまびこ」5往復(東京駅 - 福島駅間は山形新幹線「つばさ」と併結)が臨時列車から定期列車化。 *** 東京駅 - 盛岡駅間運転の「やまびこ」2往復が仙台発着に短縮される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} == 関連項目 == * [[日本の列車愛称一覧]] * [[多層建て列車]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e6.html E6系:JR東日本] * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e5.html E5系:JR東日本] * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e2.html E2系:JR東日本] {{日本の新幹線}} {{DEFAULTSORT:やまひこ}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:列車愛称 や|まひこ]] [[Category:東日本旅客鉄道の列車]] [[Category:日本国有鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:東北新幹線]]
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やまびこ号
やまびこ号(やまびこごう)
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やまびこ号(やまびこごう) 九州地方で運行されている特急バスの愛称。 → やまびこ号 (特急バス) 石川県七尾市のコミュニティバスの愛称。 → 七尾市コミュニティバス#七尾エリア 東北新幹線の列車愛称。 → やまびこ (列車)
'''やまびこ号'''(やまびこごう) *[[九州地方]]で運行されている[[急行バス|特急バス]]の愛称。 → [[やまびこ号 (特急バス)]] *[[石川県]][[七尾市]]の[[コミュニティバス]]の愛称。 → [[七尾市コミュニティバス#七尾エリア]] *[[東北新幹線]]の列車愛称。 → [[やまびこ (列車)]] == 関連項目 == *[[山彦]] *[[やまびこ]] {{aimai|やまひここう}}
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15,307
なすの (列車)
なすのは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線の東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅で運行している特別急行列車の愛称である。 1995年(平成7年)12月1日に、東北新幹線の各駅停車タイプの列車である「あおば」のうち、東京駅 - 那須塩原駅間で運転されていた列車を分離し、近距離新幹線列車として運転を開始した。主な利用客は東京駅 - 小山駅・宇都宮駅間の通勤通学客およびビジネス客である。その後、東北新幹線の運行体系見直しなどにより、日中の一部列車の運行区間が郡山駅まで延長され、現行の運行形態となっている。 列車名は目的地である「那須野が原」にちなみ、史上初の音読みを含む新幹線列車名であった。2階建車両(E4系)のみの編成で運行される場合は「Maxなすの」と呼ばれていた。 新幹線の列車名に採用される以前には、上野駅 - 黒磯駅間を東北本線経由で運行する準急列車として登場し、その後急行列車、新特急(エル特急)の名称としても使用されていた。 東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅間で平日16往復、土曜・休日13往復が運行される。これとは別に、小山駅→東京駅の上り1本が毎日運行される。号数は251号から282号が与えられている。 通常は郡山駅以北では運行されていないが、2011年4月に福島駅まで臨時運行されたことがある。 車内販売は運行開始当初から小山発の上り1本と夜間の一部列車、臨時列車を除いて営業していたが、主に担当していた日本レストランエンタプライズの宇都宮営業支店が廃止された2010年3月以降は郡山駅発着列車(早朝の上り1本を除く)のみの営業に縮小され、2015年3月14日で全廃された。 東海道・山陽新幹線の「こだま」や九州新幹線の「つばめ」と同様に定期列車は全列車が各駅に停車する。 東京駅 - 上野駅 - 大宮駅 - 小山駅 - 宇都宮駅 - 那須塩原駅 - 新白河駅 - 郡山駅 E2系・E3系・E5系・E6系が使用される。E2系もしくはE5系単独の10両編成のほか、E2系とE3系L編成を併結した17両編成、E5系とE6系を併結した17両編成、及びE3系単独の7両編成も運行されている。市販されている時刻表では、E6系が併結される「なすの」に「E6系」の表記がある。 H5系を除く東北新幹線大宮以北で営業運転を行う営業用新幹線車両すべてが充当されている。通常「はやぶさ」+「こまち」および「やまびこ」+「つばさ」で運用されている他車の間合い運用を中心とした運用が行われる。 E5系で運転される列車はグランクラスの営業も実施されるが、専任アテンダントによる車内サービスはなく、「はやぶさ」「はやて」「やまびこ」(一部列車を除く)より割安なグランクラス料金が設定される。 かつてはE1系・400系・200系・E3系R編成・E4系も使用されていた。 平日の東京駅17時台以降に発車する下り列車と9時台以前に東京駅に到着する上り列車は普通車が全車自由席となる。土曜日・休日は小山駅始発の252号を除く全列車に普通車の指定席が設定されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "なすのは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線の東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅で運行している特別急行列車の愛称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)12月1日に、東北新幹線の各駅停車タイプの列車である「あおば」のうち、東京駅 - 那須塩原駅間で運転されていた列車を分離し、近距離新幹線列車として運転を開始した。主な利用客は東京駅 - 小山駅・宇都宮駅間の通勤通学客およびビジネス客である。その後、東北新幹線の運行体系見直しなどにより、日中の一部列車の運行区間が郡山駅まで延長され、現行の運行形態となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "列車名は目的地である「那須野が原」にちなみ、史上初の音読みを含む新幹線列車名であった。2階建車両(E4系)のみの編成で運行される場合は「Maxなすの」と呼ばれていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新幹線の列車名に採用される以前には、上野駅 - 黒磯駅間を東北本線経由で運行する準急列車として登場し、その後急行列車、新特急(エル特急)の名称としても使用されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅間で平日16往復、土曜・休日13往復が運行される。これとは別に、小山駅→東京駅の上り1本が毎日運行される。号数は251号から282号が与えられている。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "通常は郡山駅以北では運行されていないが、2011年4月に福島駅まで臨時運行されたことがある。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "車内販売は運行開始当初から小山発の上り1本と夜間の一部列車、臨時列車を除いて営業していたが、主に担当していた日本レストランエンタプライズの宇都宮営業支店が廃止された2010年3月以降は郡山駅発着列車(早朝の上り1本を除く)のみの営業に縮小され、2015年3月14日で全廃された。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東海道・山陽新幹線の「こだま」や九州新幹線の「つばめ」と同様に定期列車は全列車が各駅に停車する。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東京駅 - 上野駅 - 大宮駅 - 小山駅 - 宇都宮駅 - 那須塩原駅 - 新白河駅 - 郡山駅", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "E2系・E3系・E5系・E6系が使用される。E2系もしくはE5系単独の10両編成のほか、E2系とE3系L編成を併結した17両編成、E5系とE6系を併結した17両編成、及びE3系単独の7両編成も運行されている。市販されている時刻表では、E6系が併結される「なすの」に「E6系」の表記がある。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "H5系を除く東北新幹線大宮以北で営業運転を行う営業用新幹線車両すべてが充当されている。通常「はやぶさ」+「こまち」および「やまびこ」+「つばさ」で運用されている他車の間合い運用を中心とした運用が行われる。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "E5系で運転される列車はグランクラスの営業も実施されるが、専任アテンダントによる車内サービスはなく、「はやぶさ」「はやて」「やまびこ」(一部列車を除く)より割安なグランクラス料金が設定される。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつてはE1系・400系・200系・E3系R編成・E4系も使用されていた。", "title": "運行概況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "平日の東京駅17時台以降に発車する下り列車と9時台以前に東京駅に到着する上り列車は普通車が全車自由席となる。土曜日・休日は小山駅始発の252号を除く全列車に普通車の指定席が設定されている。", "title": "運行概況" } ]
なすのは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が東北新幹線の東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅で運行している特別急行列車の愛称である。
{{Otheruses|東北新幹線の列車|かつて東北本線で運行されていた同名の特急列車|おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ}} {{Infobox 列車名 |列車名=なすの |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像=Series-E5-U7 Nasuno-258.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=E5系で運行の「なすの」<br />(2022年7月 [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]) |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[茨城県]]<ref group="注">設置駅なし</ref>・[[栃木県]]・[[福島県]] |前身=新幹線「[[やまびこ (列車)|あおば]]」「Maxなすの」 |運行開始=[[1995年]][[12月1日]]<ref name="交通950919">{{Cite news |title=JR東日本が12月1日ダイヤ改正 東北新幹線抜本見直し |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-09-19 |page=1 }}</ref> |運行終了= |後継= |運営者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |旧運営者= |平均乗客数= |起点=[[東京駅]] |停車地点数=8駅(起終点駅含む) |終点=[[那須塩原駅]]・[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] |営業距離=226.7 [[キロメートル|km]](東京 - 郡山間)<ref group="注">実キロ。東京 - 郡山間の営業キロは213.9 [[キロメートル|km]]である。</ref> |平均所要時間= |運行間隔= |列車番号=号数+B |使用路線=[[東北新幹線]] |クラス=[[グランクラス]]・[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応= |座席=グランクラス[[座席指定席|指定席]]<br />グリーン車指定席<br />普通車指定席<br />普通車[[自由席]] |その他=グランクラスは座席のみの営業 |車両=[[新幹線E2系電車|E2系電車]]([[新幹線総合車両センター]])<br/> [[新幹線E3系電車|E3系電車]]([[山形新幹線車両センター]])<br/>[[新幹線E5系電車|E5系電車]](新幹線総合車両センター)<br/>[[新幹線E6系電車|E6系電車]]([[秋田総合車両センター南秋田センター|秋田新幹線車両センター]]) |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />([[架空電車線方式]]) |最高速度=275 [[キロメートル毎時|km/h]] |線路所有者= |備考= |路線図= |路線図表示=<!--collapsed--> }} '''なすの'''は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[東北新幹線]]の[[東京駅]] - [[那須塩原駅]]・[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]で運行している[[特別急行列車]]の[[列車愛称|愛称]]である。 == 概要 == [[1995年]]([[平成]]7年)[[12月1日]]に、東北新幹線の各駅停車タイプの列車である「[[やまびこ (列車)|あおば]]」のうち、東京駅 - 那須塩原駅間で運転されていた列車を分離し、近距離新幹線列車として運転を開始した{{R|交通950919}}。主な利用客は東京駅 - 小山駅・宇都宮駅間の通勤通学客およびビジネス客である。その後、東北新幹線の運行体系見直しなどにより、日中の一部列車の運行区間が郡山駅まで延長され、現行の運行形態となっている。 列車名は目的地である「[[那須野が原]]」にちなみ、史上初の[[音読み]]を含む新幹線列車名であった<ref group="注">2015年の「[[はくたか]]」の運転開始までは音読みを含む唯一の新幹線愛称でもあった。</ref>。[[2階建車両]]([[新幹線E4系電車|E4系]])のみの編成で運行される場合は「[[Max (鉄道車両)|Max]]なすの」と呼ばれていた。 新幹線の列車名に採用される以前には、上野駅 - [[黒磯駅]]間を[[東北本線]]経由で運行する[[準急列車]]として登場し、その後[[急行列車]]、[[新特急]]([[エル特急]])の名称としても使用されていた。 == 運行概況 == 東京駅 - 那須塩原駅・郡山駅間で平日16往復、土曜・休日13往復が運行される。これとは別に、小山駅→東京駅の上り1本が毎日運行される。号数は251号から282号が与えられている。 通常は郡山駅以北では運行されていないが、2011年4月に[[福島駅 (福島県)|福島駅]]まで[[臨時列車|臨時]]運行されたことがある。 [[車内販売]]は運行開始当初から小山発の上り1本と夜間の一部列車、臨時列車を除いて営業していた<ref>弘済出版社『JR時刻表』1999年4月号 60-67頁</ref><ref>交通新聞社『JR時刻表』2009年4月号 60-74頁</ref>が、主に担当していた[[日本レストランエンタプライズ]]の宇都宮営業支店が廃止された2010年3月以降は郡山駅発着列車(早朝の上り1本を除く)のみの営業に縮小され<ref>交通新聞社『JR時刻表』2010年4月号 60-74頁</ref>、2015年3月14日で全廃された。 === 停車駅 === [[東海道・山陽新幹線]]の「[[こだま (列車)|こだま]]」や[[九州新幹線]]の「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」と同様に定期列車は全列車が各駅に停車する。 [[東京駅]] - [[上野駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[小山駅]] - [[宇都宮駅]] - [[那須塩原駅]] - [[新白河駅]] - [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%; |+運行本数(定期列車) !運行区間!!下り!!上り!!備考 |- !東京 - 郡山 |5||6|| |- !東京 - 那須塩原 |9||9||下り1本、上り2本は土曜・休日運休 |- !東京 - 小山 |0||1|| |} {{-}} === 使用車両・編成 === {|style="float:right; margin:0em 0em 1em 1em; border:1px solid #999;" |- |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px green; text-align:center;"|なすの |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|東京|小山・那須塩原・郡山}} |- |{{Shinkansen E2 10cars|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|6=自|7=※}} |- |{{Shinkansen E5 10cars|Note=|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|6=自|7=※}} |- |{{Shinkansen E2+E3 17cars|Note=|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|6=自|7=※|12=自|13=自|14=自|15=自|16=自|17=自}} |- |{{Shinkansen E5+E6 17cars|Note=|1=自|2=自|3=自|4=自|5=自|6=自|7=※|12=自|13=自|14=自|15=自|16=自|17=自}} |- |style="font-size:80%; text-align:left;"| {{JR東日本新幹線座席凡例}} : {{bgcolor|#ffd700|GC}}=[[グランクラス]]座席指定席 : 7号車の※=平日はTRAIN DESK、土休日と最繁忙期は普通車指定席 |} [[新幹線E2系電車|E2系]]・[[新幹線E3系電車|E3系]]・[[新幹線E5系電車|E5系]]・[[新幹線E6系電車|E6系]]が使用される。E2系もしくはE5系単独の10両編成のほか、E2系とE3系L編成を併結した17両編成、E5系とE6系を併結した17両編成、及びE3系単独の7両編成<!--2022年3月12日ダイヤ改正以降の「なすの281号」・「なすの266号」-->も運行されている。市販されている[[時刻表]]では、E6系が併結される「なすの」に「E6系」の表記がある。 H5系を除く東北新幹線大宮以北で営業運転を行う営業用新幹線車両すべてが充当されている。通常「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」+「[[こまち (列車)|こまち]]」および「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」+「[[つばさ (列車)|つばさ]]」で運用されている他車の[[間合い運用]]を中心とした運用が行われる。 E5系で運転される列車は[[グランクラス]]の営業も実施されるが、専任アテンダントによる車内サービスはなく、「[[はやぶさ_(新幹線)|はやぶさ]]」「はやて」「やまびこ」(一部列車を除く)より割安なグランクラス料金が設定される<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2011/20111211.pdf 2012年3月 ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2011年12月16日</ref>。 かつては[[新幹線E1系電車|E1系]]・[[新幹線400系電車|400系]]・[[新幹線200系電車|200系]]・E3系R編成・[[新幹線E4系電車|E4系]]も使用されていた。 平日の東京駅17時台以降に発車する下り列車と9時台以前に東京駅に到着する上り列車は[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]が全車[[自由席]]となる。土曜日・休日は小山駅始発の252号を除く全列車に普通車の[[座席指定席|指定席]]が設定されている。 {{-}} == 沿革 == === 在来線 === {{see also|おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ#宇都宮線優等列車沿革}} [[File:JNR 165 nasuno hasuda.jpg|thumb|250px|165系「なすの」]] [[File:JNR 185-200 running Nasuno at 1986.jpg|thumb|250px|185系「新特急なすの」]] * [[1959年]]([[昭和]]34年):多客期に[[上野駅]] - [[黒磯駅]]間を特別準急電車[[国鉄157系電車|「日光形」157系]]で運行される[[臨時列車|不定期]][[準急列車]]「なすの」が運転開始。 * [[1963年]](昭和38年):「なすの」の使用車両が157系から急行形[[国鉄165系電車|165系]]に変更される。「湘南日光」とともに、165系使用列車の第1号となった<ref group="注">この他、上越線などを走る急行の下り「弥彦」と上り「佐渡」も、当初は同じ3月25日から165系電車で運用する予定たったため、同形式を使用した最初の列車群になる予定であったが、架線切断事故の影響で運用開始日が1日遅れたため「なすの」「湘南日光」に最初の座を明け渡した。</ref>。 * [[1966年]](昭和41年):不定期運行ながらも「なすの」は[[急行列車]]に格上げとなる。 * [[1968年]](昭和43年):「しもつけ」が「なすの」に名称変更。「なすの」定期列車となる。同時に下り1本に[[国鉄115系電車|115系電車]]、上り1本に[[国鉄457系電車|455系・457系電車]]が充当され、455系・457系電車の上り1本が[[白河駅]]始発になる。 * [[1985年]](昭和60年):「なすの」が特急列車に格上げされ、「[[新特急]]なすの」<!--市販時刻表での表記-->に名称変更。[[国鉄185系電車#200番台|185系電車(200番台)]]を使用。 * [[1990年]]([[平成]]2年):「新特急なすの」の東京側始発・終着駅を[[新宿駅]]に変更。[[ホームライナー|通勤ライナー]]に近い運行となる。 === 新幹線 === [[File:200 K31 Nasuno 239 Omiya 20020629.jpg|thumb|250px|初代新幹線「なすの」に使用された200系]] [[File:Series-E2 J63 Nasuno-260.jpg|thumb|250px|「なすの」に使用されるE2系とE3系]] * [[1995年]](平成7年)[[12月1日]]:ダイヤ改正で、東北新幹線東京駅 - 那須塩原駅間で運転されていた「あおば」・「Maxあおば」を分離し、近距離新幹線「なすの」・「Maxなすの」となる{{R|交通950919}}<ref name=JRR1996>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。また、在来線特急の名称を[[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ|「おはようとちぎ」・「ホームタウンとちぎ」]](2002年11月までは列車名に「新特急」を冠する)に変更{{R|JRR1996}}。 * [[1997年]](平成9年) ** [[3月22日]]:E2系0番台およびE3系0番台が営業運転開始。E3系0番台は200系およびE2系0番台と併結。 ** [[10月1日]]:東北・上越新幹線の名称を行き先別に整理し、「あおば」・「Maxあおば」を廃止<ref>{{Cite news |title=JR6社が秋のダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-07-29 |page=1 }}</ref>。 ** [[12月20日]]:E4系が営業運転開始。 * [[1998年]](平成10年) ** [[10月26日]] - [[12月7日]]:E3系0番台を1両(14号車)増結し、順次6両編成化。 ** [[12月8日]]:E3系0番台の6両編成化完了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1997_2/19980101/index.html|title=秋田新幹線「こまち」6両化と増発のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道|date=1998-01-08|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1998_1/19980902/tohoku.html|title=ダイヤ改正について 東北・秋田新幹線|publisher=東日本旅客鉄道|date=1998-09-25|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。東京駅 - 那須塩原駅間運転の「なすの」2往復を郡山駅まで延長<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1998_1/19980902/yamagata.html|title=ダイヤ改正について 東北・山形新幹線|publisher=東日本旅客鉄道|date=1998-09-25|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[1999年]](平成11年) ** [[4月29日]]:E4系と400系の併結運転による「なすの」の運転を開始。 ** [[12月4日]]:E1系の定期運用終了。「Maxなすの」はE4系のみの運用となる。E3系1000番台の営業運転開始(E4系と併結)。200系とE3系0番台の併結運転終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1999_1/19991001/shinkan.html|title=平成11年12月 ダイヤ改正について I.新幹線|publisher=東日本旅客鉄道|date=1999-09-24|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[12月2日]]:「なすの」上り2本がE4系「Maxなすの」(8両編成)に変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2000_1/20000906/shinkan.html|title=2000年12月 ダイヤ改正について I.新幹線|publisher=東日本旅客鉄道|date=2000-09-22|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** [[9月20日]]:200系と400系およびE3系1000番台の併結運転終了。 ** 12月1日:早朝時間帯に小山駅 → 東京駅間の「なすの」上り1本増発<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010914/01.html|title=2001年12月 ダイヤ改正について I.新幹線 1|publisher=東日本旅客鉄道|date=2001-09-21|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010914/02.html|title=2001年12月 ダイヤ改正について I.新幹線 2|publisher=東日本旅客鉄道|date=2001-09-21|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2002年]](平成14年) **[[9月10日]] - [[11月30日]]:E2系0番台を8両編成から10両編成に増結<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020811/index.html|title=東北・上越新幹線E2系8両編成の10両編成化について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-08-22|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** 12月1日:E2系1000番台の営業運転開始。200系・E1系の5号車が禁煙となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/index.html|title=2002年12月 ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-09-20|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020913/index.html|title=新幹線の一部の編成で喫煙車を禁煙車に変更いたします|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-09-24|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:一部の「Maxなすの」の運転区間を郡山駅まで延長。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:全車両禁煙になる。 * [[2008年]](平成20年)12月20日:E3系2000番台の営業運転開始(E4系と併結)。 * [[2010年]](平成22年)[[4月18日]]:400系の定期運用終了。 * [[2011年]](平成23年)[[11月19日]]:200系の定期運用終了。 * [[2012年]](平成24年) ** [[3月17日]]:E5系「なすの」の営業運転開始。同時に、グランクラスの営業を開始(座席のみ)。E4系16両編成による「Maxなすの」の定期運用終了。E2系1000番台とE3系1000番台・2000番台の併結運転開始。 ** [[9月29日]]:E4系の定期運用終了。「Maxなすの」を廃止し、列車名を「なすの」に統一。E4系とE3系1000番台・2000番台の併結運用終了。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月16日]]:E6系「なすの」の営業運転開始(E5系と併結)。 ** [[9月28日]]:E2系とE3系0番台の併結運用終了<ref group="注">繁忙期にはE2系とE3系0番台との併結に変更される場合がある。</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:車内販売を全廃<ref group="報道" name="jreast 20150116 press">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20150110.pdf|format=PDF|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|title=一部の新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスと新幹線「グリーンアテンダント」によるサービスの終了について|date=2015-01-16|accessdate=2015-01-16}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) **[[4月8日]]:JR東日本が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の拡大防止のため、同年4月9日 - 5月31日まで車内販売、グランクラスの指定席の発売および「なすの」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200408_ho02.pdf|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-08| archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[4月14日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止のため、同年6月1日 - 6月30日まで、グランクラスの指定席発売を見合わせることを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|title=6月の「グランクラス」発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-14|accessdate=2020-04-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427065135/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200414_ho04.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[4月27日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大の影響により、同年5月28日以降の全列車の指定席発売を見合わせることを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|title=新幹線および中央線特急、常磐線特急の指定席発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-27|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427053159/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[5月8日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大の影響により、同年5月28日以降に運転本数を削減することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線特急、常磐線特急の運転本数削減について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-08|accessdate=2020-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052202/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 ** [[5月13日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大防止により以下の運転計画および措置の実施を発表。 *** 同年5月21日以降、同年5月28日以降の列車の指定席発売を再開<ref group="報道" name="jreast/press/20200513_1_ho">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|title=発売見合わせ中の新幹線および在来線特急等の運転計画・指定席発売について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052224/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 *** 同年7月1日以降、当面の間、グランクラスの指定席発売を見合わせ<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|title=6月以降の新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止継続について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052238/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|archivedate=2020-05-13}}</ref>。 *** 利用客の減少に伴い、同年5月28日以降の定期列車の一部を運休し、臨時ダイヤによる運行を実施<ref group="報道" name="jreast/press/20200513_1_ho" />。 ** [[5月19日]]:JR東日本が、同年5月21日以降の指定席発売を延期することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の指定席発売の延期について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060709/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 ** [[5月22日]]:JR東日本が、国の緊急事態宣言が解除されたことを理由に、同年5月28日以降に計画していた臨時ダイヤによる運行の実施を取りやめ、定期列車の運行を継続することを発表<ref group="報道" name="press/20200522_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の運転計画変更について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-22|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060722/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。ただし、グランクラスのサービス中止は当面の間継続<ref group="報道" name="press/20200522_ho01" />。 ** [[6月19日]]:グランクラスの営業サービスを再開<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの再開について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-6-11|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200611_1_ho.pdf|accessdate=2020-7-25|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[10月31日]]:利用客の減少に伴い、E3系R編成の定期運用を廃止<ref>{{Cite news|title=さらば「初代こまちカラー」 定期運用廃止の元・秋田新幹線E3系 今後どうなる?|date=2020-11-10|newspaper=乗りものニュース|url=https://trafficnews.jp/post/101639|accessdate=2020-11-10}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[1月16日]] : JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止(緊急事態宣言再発令)のため、同日より当面の間、車内販売の中止、グランクラス指定席発売および「なすの」のグランクラスの営業を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|title= 新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-01-13|accessdate=2021-01-13|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[3月13日]]:ダイヤ改正により上野駅 - 大宮駅間 (埼玉県内のみ) の最高速度を110 km/hから130 km/hに引き上げ、所要時間を短縮する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-12-18|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218071035/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|archivedate=2020-12-18}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月12日]] : ダイヤ改正で次のように変更 *** 「なすの」284号が運転取りやめとなる。 *** グリーン車・グランクラスの料金を改定。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} == 関連項目 == * [[日本の列車愛称一覧]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e6.html E6系:JR東日本] * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e5.html E5系:JR東日本] * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e3.html E3系:JR東日本] * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e2.html E2系:JR東日本] {{日本の新幹線}} {{DEFAULTSORT:なすの}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:列車愛称 な|すの]] [[Category:東日本旅客鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:東北新幹線]] [[Category:日本国有鉄道の列車]]
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こまち (列車)
こまちは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が主に東京駅 - 秋田駅間を秋田新幹線(東北新幹線・田沢湖線・奥羽本線)経由で運行している特別急行列車の愛称である。 本稿では、2013年3月16日から2014年3月15日にかけて運転された「スーパーこまち」についても記述する。 「こまち」は、山形新幹線「つばさ」に次ぐ2番目のミニ新幹線方式の列車として、1997年3月に秋田新幹線の開業より運転を開始した。東京都と秋田県を結ぶ役割を担っている。東北新幹線区間は「はやぶさ」と併結して運用され、盛岡駅で増解結を実施する。現在は全ての列車でE6系が使用されている。 東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線を走行し、盛岡駅 - 秋田駅間は在来線の田沢湖線・奥羽本線を直通して走行する。なお、営業上は在来線である盛岡駅 - 秋田駅間は在来線特急の扱いを受ける。新幹線区間の最高速度は320 km/h、在来線区間は130 km/hである。田沢湖線と奥羽本線の境界駅である大曲駅では配線の都合によりスイッチバックを行う。 列車名は一般公募の結果、63,075通の応募があった7,948種類の中から、秋田を連想させ好感があることから第1位の得票数3832票を獲得した「こまち」が選ばれ、1996年7月30日に発表された(2位は「おばこ」、3位は「たざわ」)。秋田県湯沢市小野出身とされる小野小町が由来とされている。運転開始までは「こまち」の名称は秋田支社のジョイフルトレインが使用していたが、こちらは「おばこ」に改名した。 なお、E6系電車が営業運転に投入された2013年3月16日から、秋田新幹線の全列車がE6系に統一となった2014年3月15日の間は、同系列を使用し東北新幹線内で最高速度300 km/h運転を実施する列車を「スーパーこまち」として区別した。なお、新幹線で「スーパー」を列車名に冠した例は2021年現在、当列車が唯一である。 2023年3月18日現在、定期列車は東京駅 - 秋田駅間に15往復、仙台駅 - 秋田駅間に1往復の計16往復が運転されている。東京駅 - 秋田駅間の所要時間は最短で3時間37分。東北新幹線上では最高320 km/h、在来線となる田沢湖線・奥羽本線上では最高130 km/hで走行する。 定期列車は東京駅・仙台駅 - 盛岡駅間は「はやぶさ」と併結し、盛岡駅で増解結を実施する。一部の臨時列車には仙台で増解結を実施するものがある。これは併結車両の「はやぶさ」が仙台以北各駅停車となる便であるため、「こまち」を仙台から先行させ速達性を確保する措置である。 2021年11月8日以降、上り1本(6号)が「はやぶさ」と連結せず、東京まで全区間7両で「こまち」単独運行する列車が設定された。なお、この列車は2022年のダイヤ改正で正式に単独運転となった。 号数は東京駅 - 秋田駅間の列車が1-48号(併結する「はやぶさ」と同じ号数)、仙台駅発着の1往復が95・96号である。 E6系(Z編成)により運転されている。在来線区間も走行することから車体は通常の新幹線より幅が小さい。秋田新幹線開業から2014年3月まではE3系(0番台)も使用されていた。 座席は、2002年(平成14年)以降自由席は設定されておらず、全列車全席指定席で運行されている。なお、盛岡駅 - 秋田駅間の相互間では特定特急券で普通車の空いている席を利用できる。ただし、座席指定券を持っている乗客が来た場合は席を譲る必要があり、当然満席の場合には立席となる。 グリーン車は1両のみで、(東京駅 - 大曲駅間で)東京駅側の先頭車両となる11号車に連結されている。座席配置は1列あたり2+2の4席。フル規格の新幹線のグリーン席と違い横幅が狭いため、簡易スリッパがウェルカムドリンクとともに開業時から2015年3月までサービスしていた。 その他の車両は普通車であり、座席配置はグリーン車と同様に2+2の4席構成であるが、座席幅やシートピッチは異なる。 「こまち」は大曲駅の構造上、東京駅 - 大曲駅間と大曲駅 - 秋田駅間とで進行方向が変わるため、秋田駅発の「こまち」の座席は予め進行方向逆向きにセットされている。 毎年8月最終土曜日に秋田県大仙市で行われる全国花火競技大会では多数の臨時列車が運転されている。このとき、定期列車では運転されていない大曲駅始発・終着の列車も運転されることがある。全国花火競技大会の際には、以下のように大曲駅を発着する運転が行われる。 東北新幹線内では併結車両の「はやぶさ」と同様、大宮 - 盛岡間の乗車に対しては、その他列車に比べて最大520円の加算料金が設定されている。 なお秋田新幹線列車の併結車両が「はやぶさ」となる以前は加算料金の設定はなく、併結車両に加算料金のある「はやぶさ」、加算料金のない「はやて」が混在していた2013年3月16日から2014年3月15日の間は「こまち(旧)」が「はやて」に準じる従来の料金、「スーパーこまち」が「はやぶさ」に準じる加算料金が適用されていた。
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こまちは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が主に東京駅 - 秋田駅間を秋田新幹線(東北新幹線・田沢湖線・奥羽本線)経由で運行している特別急行列車の愛称である。 本稿では、2013年3月16日から2014年3月15日にかけて運転された「スーパーこまち」についても記述する。
{{Infobox 列車名 |列車名=こまち |ロゴ= |ロゴサイズ= |画像=Series-E6 Z14 Komachi.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=[[新幹線E6系電車|E6系]]で運行の「こまち」<br />(2022年5月 [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]) |国={{JPN}} |種類=[[特別急行列車]]([[新幹線]]) |現況=運行中 |地域=[[東京都]]・[[埼玉県]]・[[茨城県]]<ref group="注">設置駅なし</ref>・[[栃木県]]<ref group="注" name="pass">全列車通過。</ref>・[[福島県]]<ref group="注" name="pass" />・[[宮城県]]・[[岩手県]]・[[秋田県]] |前身=特急「[[たざわ (列車)|たざわ]]」「[[たざわ (列車)#特急「秋田リレー」|秋田リレー]]」<br />新幹線「スーパーこまち」 |運行開始=[[1997年]][[3月22日]] |運行終了= |後継= |運営者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |旧運営者= |平均乗客数= |起点=[[東京駅]]・[[仙台駅]] |停車地点数= |終点=[[秋田駅]] |営業距離=623.8&nbsp;[[キロメートル|km]](東京 - 秋田間)<ref group="注">東京 - 盛岡間を実キロとした場合。東京 - 秋田間をすべて営業キロにすると662.6&nbsp;[[キロメートル|km]]である。</ref> |平均所要時間= |運行間隔= |列車番号='''東京 - 盛岡間'''<br />3000B+号数(定期列車)<br />6000B+号数(臨時列車)<br />'''盛岡 - 秋田間'''<br /> 3000M+号数(定期列車)<br />6000M+号数(臨時列車) |使用路線=[[東北新幹線]]・[[田沢湖線]]・[[奥羽本線]]<br />([[秋田新幹線]]<ref name="jerast-official">{{Cite web|和書|title=秋田新幹線:JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/akita.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-09-09|language=ja}}</ref><ref name="stations">[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=73=1=%8fH%93c%90V%8a%b2%90%fc 秋田新幹線の駅] - JR東日本</ref>) |クラス=[[グリーン車]]・[[普通車 (鉄道車両)|普通車]] |身障者対応=11・12号車 |座席=グリーン車:11号車<br />普通車:12 - 17号車<br />(全車[[座席指定席|指定席]]) |その他= |車両=[[新幹線E6系電車|E6系電車]]<br />([[秋田総合車両センター南秋田センター|秋田新幹線車両センター]]) |軌間=1,435&nbsp;[[ミリメートル|mm]] |電化=[[交流電化|交流]]25,000&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]・50&nbsp;[[ヘルツ (単位)|Hz]](東北新幹線)<br />交流20,000&nbsp;V・50&nbsp;Hz(田沢湖線・奥羽本線) |最高速度=320&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]](東北新幹線)<br />130&nbsp;km/h(田沢湖線・奥羽本線) |線路所有者= |備考=6号を除く全列車が東京・仙台 - 盛岡間で新幹線「はやぶさ」と併結 |路線図= |路線図表示=<!--collapsed--> }} '''こまち'''は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が主に[[東京駅]] - [[秋田駅]]間を[[秋田新幹線]]([[東北新幹線]]・[[田沢湖線]]・[[奥羽本線]])<ref name="jerast-official" /><ref name="stations" />経由で運行している[[特別急行列車]]の[[列車愛称|愛称]]である。 本稿では、2013年3月16日から2014年3月15日にかけて運転された「'''スーパーこまち'''」についても記述する。 == 概要 == 「こまち」は、[[山形新幹線]]「[[つばさ (列車)|つばさ]]」に次ぐ2番目の[[ミニ新幹線]]方式の列車として、1997年3月に秋田新幹線の開業より運転を開始した。[[東京都]]と[[秋田県]]を結ぶ役割を担っている。東北新幹線区間は「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」と併結して運用され、[[盛岡駅]]で増解結を実施する。現在は全ての列車で[[新幹線E6系電車|E6系]]が使用されている。 [[東京駅]] - 盛岡駅間は東北新幹線を走行し、盛岡駅 - [[秋田駅]]間は[[在来線]]の田沢湖線・奥羽本線を直通して走行する。なお、営業上は[[在来線]]である盛岡駅 - 秋田駅間は在来線特急の扱いを受ける。新幹線区間の最高速度は320&nbsp;km/h、在来線区間は130&nbsp;km/hである。田沢湖線と奥羽本線の境界駅である[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]では配線の都合により[[スイッチバック]]を行う。 === 列車名の由来 === 列車名は一般公募の結果、63,075通の応募があった7,948種類の中から、秋田を連想させ好感があることから第1位の得票数3832票を獲得した「こまち」が選ばれ<ref name="ayumi78">[[#ayumi|『JR特急10年の歩み』 133頁]]</ref>、1996年7月30日に発表された<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>(2位は「おばこ」<ref name="ayumi78" />、3位は「たざわ」<ref name="ayumi78" />)。[[秋田県]][[湯沢市]]小野出身とされる[[小野小町]]が由来とされている。運転開始までは「こまち」の名称は秋田支社の[[ジョイフルトレイン]]が使用していたが、こちらは「[[おばこ (鉄道車両)|おばこ]]」に改名した。 なお、[[新幹線E6系電車|E6系電車]]が営業運転に投入された[[2013年]][[3月16日]]から、秋田新幹線の全列車がE6系に統一となった[[2014年]][[3月15日]]の間は、同系列を使用し東北新幹線内で最高速度300&nbsp;km/h運転を実施する列車を「'''スーパーこまち'''」として区別した<ref group="報道" name="press121105">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121105.pdf|format=PDF|title=秋田新幹線の新しい列車名等の決定について|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2012-11-05|accessdate=2012-11-06|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="報道" name=":0" /><ref group="報道" name="press131220">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20131217.pdf|format=PDF|title=2014年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-12-20|accessdate=2014-11-01|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。なお、新幹線で「スーパー」を列車名に冠した例は2021年現在、当列車が唯一である<ref group="注">2002年の「[[はやて (列車)|はやて]]」運行開始以前は、現在の「はやぶさ」「はやて」に相当する速達タイプのやまびこは非公式ながら「スーパーやまびこ」とも呼ばれていた。</ref>。 == 運行概況 == 2023年3月18日現在、定期列車は東京駅 - 秋田駅間に15往復、[[仙台駅]] - 秋田駅間に1往復の計16往復が運転されている。東京駅 - 秋田駅間の所要時間は最短で3時間37分。[[東北新幹線]]上では最高320&nbsp;km/h、在来線となる[[田沢湖線]]・[[奥羽本線]]上では最高130&nbsp;km/hで走行する<ref group="報道" name="press121105" />。 定期列車は東京駅・仙台駅 - [[盛岡駅]]間は「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」と併結し、盛岡駅で[[増解結]]を実施する。一部の臨時列車には仙台で増解結を実施するものがある。これは併結車両の「はやぶさ」が仙台以北各駅停車となる便であるため、「こまち」を仙台から先行させ速達性を確保する措置である。 2021年11月8日以降、上り1本(6号)が「はやぶさ」と連結せず、東京まで全区間7両で「こまち」単独運行する列車が設定された。なお、この列車は2022年のダイヤ改正で正式に単独運転となった<ref group="注">それ以前にも、災害の発生などによるイレギュラーダイヤでは単独運転の事例は存在した。また、同じくミニ新幹線の山形新幹線は、開業当時から東京行きの最終列車を単独運行している。</ref>。 号数は東京駅 - 秋田駅間の列車が1-48号(併結する「はやぶさ」と同じ号数)、仙台駅発着の1往復が95・96号である。 === 停車駅 === * ●:停車、ー → : 通過 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:85%; margin:1em 0em 2em 3em;" !運行<br />本数 !{{縦書き|[[東京駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[上野駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]|height=5em}} !… !{{縦書き|[[仙台駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[古川駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[くりこま高原駅]]|height=7em}} !{{縦書き|[[一ノ関駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[水沢江刺駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[北上駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[新花巻駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[盛岡駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[雫石駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[田沢湖駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[角館駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]|height=5em}} !{{縦書き|[[秋田駅]]|height=5em}} !備考 |- !上り1本 |●||←||●||←||●||← |← |← |← |← | ←||●||←||←||←||●||●||こまち6号 |- !下り1本 |●||●||●||→||●||→ |→ |→ |→ |→ | →||●||→||→||→||●||●||こまち45号 |- !10往復 |●||●||●||ー||●||ー |ー |ー |ー |ー | ー||●||ー||●||●||●||●|| |- !4往復 |●||●||●||ー||●||ー |ー |ー |ー |ー | ー||●||●||●||●||●||●|| |- !1往復 | || || || ||●||● |● |● |● |● | ●||●||ー||●||●||●||●||こまち95号<br/>こまち96号 |} * 大宮駅と仙台駅の間にある「…」で括った[[小山駅]]、[[宇都宮駅]]、[[那須塩原駅]]、[[新白河駅]]、[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]、[[福島駅 (福島県)|福島駅]]、[[白石蔵王駅]]の7駅は全列車が通過。 * 仙台駅発着の1往復は仙台駅 - 盛岡駅間の各駅([[古川駅]]、[[くりこま高原駅]]、[[一ノ関駅]]、[[水沢江刺駅]]、[[北上駅]]、[[新花巻駅]])にも停車する。 * [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]の[[ダイヤ改正]]までは[[宇都宮駅]]、[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]、[[福島駅 (福島県)|福島駅]]の各駅にもそれぞれ1往復ずつ停車していた<ref group="注">宇都宮駅、郡山駅、福島駅のいずれかに停車する列車は上野駅を通過していた。</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]のダイヤ改正までは大宮駅を通過する列車も存在した。 * 災害発生時などに盛岡駅や仙台駅発着になる場合もあるほか<ref group="注">一ノ関駅や福島駅まで東北新幹線が運行の場合、前者は盛岡駅、後者は盛岡駅や仙台駅で打ち切りになることが多い。 盛岡駅の場合は新幹線ホームに入らず田沢湖線地上ホームで乗り降りする。</ref>、繁忙期には東京駅発仙台駅行きのはやぶさの連結編成を「こまち」として分割運行したこともある。 === 使用車両・編成 === {|style="text-align:center; float:right; margin:0 0 0 1em; border:1px solid #999;" |+ 2023年3月18日現在の編成図 |style="background-color:#eee; border-bottom:solid 4px green;"|こまち |- |style="font-size:80%;"|{{TrainDirection|東京・仙台/秋田|大曲}} |- | {|class="wikitable" style="font-size:80%; float:center; margin:0em auto;" |- |11||12||13||14||15||16||17 |- |style="background-color:#cf9;"|G||指||指||指||指||指||指 |} |- |style="text-align:left; font-size:80%;"| * 全車禁煙 * 大曲駅 - 秋田駅間、編成逆向き ; 凡例 : {{bgcolor|#cf9|G}}=[[グリーン車]][[座席指定席]] : 指=[[普通車 (鉄道車両)|普通車]]座席指定席 |} E6系(Z編成)により運転されている。在来線区間も走行することから車体は通常の新幹線より幅が小さい。秋田新幹線開業から2014年3月までは[[新幹線E3系電車#秋田新幹線用(0番台)|E3系(0番台)]]も使用されていた。 座席は、[[2002年]](平成14年)以降[[自由席]]は設定されておらず<ref group="注">災害などによる盛岡駅、仙台駅運行打ち切り編成になる場合は自由席が設けられる。券売機では「特定特急券」で購入する。</ref>、全列車全席[[座席指定席|指定席]]で運行されている<ref group="注">区間列車や全国花火競技大会時に秋田駅 - 大曲駅間のみを運転する臨時列車のような場合でも例外はない。ただし、[[東日本大震災]]後に在来線区間でのみ運行再開した際にはグリーン車は締め切り扱いとし、その他の車両を全車自由席で運行した例もある。</ref>。なお、盛岡駅 - 秋田駅間の相互間では[[特別急行券#特定特急券|特定特急券]]で普通車の空いている席を利用できる。ただし、[[座席指定券]]を持っている乗客が来た場合は席を譲る必要があり、当然満席の場合には立席となる。 [[グリーン車]]は1両のみで、(東京駅 - 大曲駅間で)東京駅側の先頭車両となる11号車に連結されている。[[鉄道車両の座席|座席]]配置は1列あたり2+2の4席。フル規格の新幹線のグリーン席と違い横幅が狭いため、簡易[[スリッパ]]がウェルカムドリンクとともに開業時から2015年3月までサービスしていた。 その他の車両は普通車であり、座席配置はグリーン車と同様に2+2の4席構成であるが、座席幅やシートピッチは異なる。 「こまち」は大曲駅の構造上、東京駅 - 大曲駅間と大曲駅 - 秋田駅間とで[[スイッチバック|進行方向が変わる]]ため、秋田駅発の「こまち」の座席は予め進行方向逆向きにセットされている<ref group="注">大曲までの運転となる全国花火競技大会臨時運転時は除く。</ref>。<!-- 座席の向きに関しては、開業前に盛岡支社と秋田支社との協議が行われていた。 --> <gallery> ファイル:JRE E611-8-inside.jpg|E6系グリーン車 ファイル:JRE E625-108-inside.jpg|E6系普通車 </gallery>{{-}} ==== 臨時列車 ==== {{独自研究|section=1|date=2022年5月}} 毎年8月最終土曜日に[[秋田県]][[大仙市]]で行われる[[全国花火競技大会]]では多数の[[臨時列車]]が運転されている。このとき、定期列車では運転されていない大曲駅始発・終着の列車も運転されることがある。全国花火競技大会の際には、以下のように大曲駅を発着する運転が行われる。 * 秋田駅 - 大曲駅間 ** 停車駅は設定せず、通常の「こまち」と同様無停車となる。列車号数は2007年までは850 - 860番台が、2008年は350 - 360番台がつけられる<ref group="注">列車番号とは別につけられている。</ref>。 * 仙台駅・盛岡駅 - 大曲駅間 ** 列車号数は、2007年まで主に270番台が、2008年は盛岡止が360 - 370(下りの一部が310)番台、仙台行きが220番台をつけられることが多い。上りは、田沢湖駅・角館駅を通過する列車が多い。盛岡駅始発・終着列車については、新幹線ホームではなく地上の田沢湖線ホームを使用する。また、大曲駅を深夜に発車する列車は、角館駅・田沢湖駅を通過する。 * 秋田駅‐上野駅間 ** [[2017年]][[3月25日]]に[[新幹線E3系電車|E3系(0番台)]]による[[団体専用列車]]『秋田新幹線開業20周年記念号』が1往復運転され、R21編成が充当された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20170120-2.pdf|format=PDF|publisher=[[東日本旅客鉄道秋田支社]]|title=秋田新幹線開業20周年企画「秋田新幹線開業20周年記念号で行く 東京日帰りの旅」発売決定!|date=2017-01-20|accessdate=2017-05-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2017/03/26/194000.html|title=E3系による「秋田新幹線開業20周年記念号」運転|publisher=交友社 鉄道ファン railf.jp|date=2017-03-26|accessdate=2017-05-20}}</ref>。 === 特急料金 === {{Main|はやぶさ (新幹線)#特急料金}} 東北新幹線内では併結車両の「はやぶさ」と同様、大宮 - 盛岡間の乗車に対しては、その他列車に比べて最大520円の加算料金が設定されている<ref group="報道" name=":0" />。 なお秋田新幹線列車の併結車両が「はやぶさ」となる以前は加算料金の設定はなく、併結車両に加算料金のある「はやぶさ」、加算料金のない「はやて」が混在していた2013年3月16日から2014年3月15日の間は「こまち(旧)」が「はやて」に準じる従来の料金、「スーパーこまち」が「はやぶさ」に準じる加算料金が適用されていた<ref group="報道" name=":0" />。 == 沿革 == {{Main2|路線としての沿革|秋田新幹線||}}{{Main2|秋田新幹線開業以前の田沢湖線の優等列車|たざわ (列車)}} [[File:OuhonsenOmagariAkitaE3.jpg|thumb|在来線区間を走行するE3系こまち 盛岡 - 秋田間]] * [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:田沢湖線・奥羽本線盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間の改軌が完成し、秋田新幹線開業。「'''こまち'''」運転開始。 **当初の運行形態は、従来の特急「[[たざわ (列車)|たざわ]]」のダイヤを踏襲した形で設定され、東京駅 - 秋田駅間13往復、仙台駅 - 秋田駅間に1往復とされた。また、東京駅・仙台駅 - 盛岡駅間で「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」と併結していた。 ** 当時は併結する「やまびこ」に最高速度240&nbsp;km/hの[[新幹線200系電車|200系]]を充当する列車があったため、3往復は盛岡駅ではなく仙台駅で分割併合を行ったが、「やまびこ」は仙台駅 - 盛岡駅間の各駅に停車する一方、「こまち」は仙台駅 - 盛岡駅間をノンストップで運転されたため、東京方面から盛岡までの客が「こまち」に集中し、混雑するという問題があった。また、これらの列車は郡山駅・福島駅に停車し、その一部は宇都宮駅にも停車していた。 * [[1998年]](平成10年) **[[10月26日]] - [[12月7日]]:1両(14号車)増結し、順次6両編成化。この間、増結車両は自由席であった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1998_1/19980902/tohoku.html|title=ダイヤ改正について 東北・秋田新幹線|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=1998-09-25|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** [[12月8日]]:6両編成化が完了し、増結車両を指定席に変更。東京駅 - 秋田駅間に1往復増発<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1997_2/19980101/index.html|title=秋田新幹線「こまち」6両化と増発のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道|date=1998-01-08|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。仙台駅での分割併合を廃止し、全列車東京駅 - 盛岡駅間「やまびこ」併結となる。 * [[1999年]](平成11年)[[12月4日]]:併結車両の「やまびこ」を全列車E2系に統一、宇都宮駅 - 盛岡駅間は最高速度275&nbsp;km/h運転となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1999_1/19991001/shinkan.html|title=平成11年12月 ダイヤ改正について I.新幹線|publisher=東日本旅客鉄道|date=1999-09-24|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[12月31日]]:秋田駅 - 東京駅間の最終列車「こまち28号」は列車名を「ミレナリオこまち28号」に変更して運転。 * [[2001年]](平成13年)[[12月1日]]:それまで半室禁煙としていたグリーン車を全面禁煙化<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010914/01.html|title=2001年12月 ダイヤ改正について I.新幹線 1|publisher=東日本旅客鉄道|date=2001-09-21|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010914/02.html|title=2001年12月 ダイヤ改正について I.新幹線 2|publisher=東日本旅客鉄道|date=2001-09-21|accessdate=2014-12-09|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 *:[[File:Shinkansen E3 R17 20090305.jpg|thumb|right|220px|E2系「はやて」と連結するE3系「こまち」]] * [[2002年]](平成14年)12月1日:東北新幹線盛岡駅 - 八戸駅間開業に伴い、以下のように変更<ref group="報道" name="jreast20020920">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2002_1/20020911/index.html|title=2002年12月 ダイヤ改正について|work=|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=2002-09-20|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** 定期列車の東京駅 - 盛岡駅間の併結車両を新設の「[[はやて (列車)|はやて]]」に変更。ただし、[[臨時列車]]の場合には「やまびこ」との併結もあった。 ** 自由席が設定されなかった「はやて」に合わせ、2両あった自由席を廃止し全車座席指定席に変更<ref group="注">全車指定席に変更した際、それまで自由席であった15・16号車の座席の交換を行わなかったため、12 - 14号車とシートピッチが異なる現象が発生した(12 - 14号車 : 980&nbsp;mm、15・16号車 : 910&nbsp;mm)。その後2002年から2005年にかけてR18 - R26編成が落成するが、全車指定席である関係上、従来編成との定員や設備の共通化を図るために同じ仕様を採用した。</ref>。 ** 宇都宮駅・郡山駅・福島駅の各駅にそれぞれ1往復ずつ停車していたが、併結列車を「はやて」に変更したことにより、定期列車はすべて通過。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:臨時「やまびこ」併結列車を「はやて」との併結に変更し、1往復を定期列車に変更して増発<ref group="報道" name="jreast 20050915">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050915.pdf|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|title=2005年12月ダイヤ改正について|date=2005-09-30|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** [[1月5日]]:[[大雪]]の影響で、終日運休する(秋田新幹線としては開業以来初めての終日運休)。 ** [[2月10日]]:[[志度内信号場]] - 田沢湖駅間の第四生保内川橋梁で、[[n:秋田県仙北市田沢湖で雪崩相次ぐ|「こまち」3号が雪崩の雪に乗り上げ]]、以降の列車が運休し、翌日も除雪と安全確認のため、終日運休した。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:全車両禁煙化。 ** [[4月30日]]・[[5月6日]]:「こまち」26号が全国花火競技大会以外では初となる、大曲駅始発で運転(大曲発15:50 → 東京着19:36) * [[2008年]](平成20年)[[3月31日]]:13号車に設置されていた列車内飲料自動販売機の営業を終了(撤去)。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:「(はやて)・こまち」2号が大宮駅停車開始。これにより「こまち」は全列車が大宮駅停車になる。 * [[2010年]](平成22年)[[12月4日]]:ダイヤ改正により、定期列車の仙台駅における「はやて」との分割併合が廃止される。 *: [[File:E3 R18-E5 Coupling in omiya 20130608.jpg|thumb|E5系「はやて」と連結するE3系「こまち」]] * [[2011年]](平成23年) ** 3月:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響により、東京 - 盛岡間が運休。盛岡 - 秋田間において、普通車全車自由席(グリーン車は指定席)で運転。 ** [[4月29日]]:東京 - 秋田間の全線で臨時ダイヤで運転再開。東京 - 秋田間13往復、仙台 - 秋田間1往復<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20110429.pdf|format=PDF|title=4月29日以降の運転計画について|publisher=[[東日本旅客鉄道秋田支社]]|date=2011-04-29|accessdate=2011-05-09}}</ref>。 ** [[11月19日]]:東北新幹線内の一部の併結車両がE5系になる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110912.pdf|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|title=東北新幹線「はやぶさ」に投入しているE5系車両を「はやて」「やまびこ」に導入!|date=2011-09-12|accessdate=2014-11-02|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[File:Sign of Super-Komachi 19 bound for Akita.jpg|thumb|「スーパーこまち」の列車表示。]] ** 3月2日:[[神宮寺駅]] - [[刈和野駅]]間で、[[日本の鉄道事故 (2000年以降)|下り「こまち25号」の先頭車両が脱線]]。乗客130名には負傷なし。この事故の影響で盛岡駅 - 秋田駅間で3日まで区間運休<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130302/dst13030218500007-n1.htm|newspaper=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|title=秋田新幹線こまちが脱線 乗客130人にけがなし|date=2013-03-02|accessdate=2013-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130302135701/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130302/dst13030218500007-n1.htm|archivedate=2013年3月2日|deadlinkdate=2018年3月}}</ref>。 ** 3月16日:ダイヤ改正によりE6系が営業運転を開始。「こまち」は以下のように変更<ref group="報道" name="press121105" /><ref group="報道" name=":0">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121215.pdf|format=PDF|title=2013年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2012-12-21|accessdate=2013-07-06|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 *** E6系を使用する4往復の愛称を「'''スーパーこまち'''」に変更。 *** 「スーパーこまち」は東京駅 - 盛岡駅間で併結する列車を「はやて」から「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」に変更し、宇都宮駅 - 盛岡駅間の最高速度を300&nbsp;km/hへ引き上げ。 ** [[6月1日]]・15日:「こまち」2往復をE6系に置き換え。運行ダイヤ・愛称はそのまま<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20130318.pdf|format=PDF|title=「こまち」編成変更のお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2013-03-18|accessdate=2013-07-06}}</ref>。 ** [[7月20日]]:「こまち」1往復をE6系に置き換え。この日をもってE3系量産先行車(R1編成)の定期運用を終了。秋田駅にて[[さよなら運転|ラストラン]]のセレモニーが実施された。他にも、6月から8月にかけてE6系で運転する「こまち」を複数設定<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20130516-5.pdf|format=PDF|title=新型車両E6系「こまち」の運転について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2013-05-16|accessdate=2013-08-09}}</ref>。 ** [[9月28日]]:「こまち」3往復にE6系を投入し、「スーパーこまち」に変更。同時に東北新幹線内の併結車両をE5系に統一<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130709.pdf|format=PDF|title=2013年9月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2013-07-05|accessdate=2013-08-03}}</ref>。 ** [[11月15日]]・16日:「こまち」の一部をE6系に置き換え。以後も、2014年(平成26年)2月にかけて、順次E3系の運用をE6系に置き換え<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20131113-1.pdf|format=PDF|title=新型車両E6系「こまち」の運転について|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2013-11-13|accessdate=2013-11-16}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:ダイヤ改正により、次の通りに変更<ref group="報道" name="press131220" />。 ** 秋田新幹線全列車をE6系に置き換え、E3系の定期運用終了<ref group="注">東北新幹線内の定期運用は2014年3月15日以降も継続され、2020年10月31日まで「やまびこ」・「なすの」の増結用として使用された。また、2編成が「つばさ」用に改造された</ref>。列車名を「こまち」に統一。 ** 東北新幹線区間の併結列車を「はやぶさ」に統一。宇都宮駅 - 盛岡駅間の最高速度を320&nbsp;km/hへ引き上げ。 * [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:[[グリーンアテンダント]]・サービスを廃止<ref group="報道" name="jreast 20150116 press">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2014/20150110.pdf|format=PDF|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|title=一部の新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスと新幹線「グリーンアテンダント」によるサービスの終了について|date=2015-01-16|accessdate=2015-01-16}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)[[3月15日]] : 盛岡駅 - 秋田駅間で車内販売を廃止<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190222.pdf|format=PDF|title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの一部列車の終了と取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-2-18|accessdate=2019-2-18}}</ref>。東京駅 - 盛岡駅間は飲料・菓子類・つまみ類のみの販売に縮小する。 * [[2020年]](令和2年) ** [[4月8日]]:JR東日本が、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の感染拡大防止のため、同年4月9日 - 5月31日まで、車内販売を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200408_ho02.pdf|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-08|accessdate=2020-04-08| archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 ** [[4月27日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により、同年5月28日以降の全列車の指定席発売を見合わせることを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|title=新幹線および中央線特急、常磐線特急の指定席発売見合わせについて|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-04-27|accessdate=2020-04-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200427053159/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200427_ho02.pdf|archivedate=2020-04-27}}</ref>。 ** [[5月8日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により、同年5月28日以降に運転本数を削減することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線特急、常磐線特急の運転本数削減について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-08|accessdate=2020-05-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052202/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200508_ho01.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 ** [[5月13日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響により以下の運転計画および措置の実施を発表。 *** 同年5月21日以降、同年5月28日以降の列車の指定席発売を再開<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url= https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_2_ho.pdf|title=6月以降の新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止継続について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13| archiveurl=|archivedate=}}</ref>。 *** 車内販売は同年6月1日以降、当面の間中止継続すると発表。 *** 利用客の減少に伴い、同年5月28日以降の定期列車の一部を運休し、臨時ダイヤによる運行を実施すると発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|title=発売見合わせ中の新幹線および在来線特急等の運転計画・指定席発売について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-13|accessdate=2020-05-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200514052224/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200513_1_ho.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。 ** [[5月19日]]:JR東日本が、同年5月21日以降の指定席発売を延期することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の指定席発売の延期について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-19|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060709/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200519_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 ** [[5月22日]]:JR東日本が、国の緊急事態宣言が解除されたことを理由に、同年5月28日以降に計画していた臨時ダイヤによる運行の実施を取りやめ、定期列車の運行を継続することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|title=5月28日以降の新幹線および中央線・常磐線特急の運転計画変更について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-05-22|accessdate=2020-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522060722/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200522_ho01.pdf|archivedate=2020-05-22}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[1月16日]]:JR東日本が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のため、同日より当面の間、車内販売を中止することを発表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車等の車内サービスの中止について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-01-13|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|accessdate=2021-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210113140226/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20210113_ho02.pdf|archivedate=2021-1-13}}</ref>。 ** [[3月13日]]:ダイヤ改正により、次の通りに変更<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=2021年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-12-18|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|format=PDF|accessdate=2020-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201218071035/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201218_ho01.pdf|archivedate=2020-12-18}}</ref>。 *** 上野駅 - 大宮駅間 (埼玉県内のみ) の最高速度を110&nbsp;km/hから130&nbsp;km/hに引き上げ、所要時間を短縮。 *** 「こまち」45号を上野駅の通過から停車に変更。これにより、上野駅通過は上り1本のみとなる。 ** [[11月8日]]:JR東日本が利用客の減少に伴い、「こまち」2本(9・40号)の定期運転を取りやめ、「こまち」6号を全区間で単独運転に変更する。<ref group="JR東">{{Cite press release|和書|title=東北・秋田新幹線の今後の運転計画について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-9-27|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210927_ho02.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-10-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210927050610/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210927_ho02.pdf|archivedate=2021-9-27}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月12日]]:ダイヤ改正で次の通りに変更 *** 「こまち」9・40号を全区間で臨時列車化(「こまち」9号と連結する「はやぶさ」9号も臨時列車化されたが、「はやぶさ」40号は引き続き定期列車として運転) *** 「はやぶさ」6号が臨時列車化されたことに伴い、「こまち」6号が正式に東北新幹線を含め全区間単独運転となる。 *** グリーン車の料金を改定。 ***「こまち」の特急料金を改定<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211116_s01.pdf |title=山形新幹線の全車指定席化と山形・秋田新幹線の特急料金の改定について |date=2021-11-16|accessdate=2021-11-16 |publisher=東日本旅客鉄道仙台支社・秋田支社}}</ref><ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/akita/20211217_a01.pdf|title=2022年3月ダイヤ改正について|date=2021-12-17 |accessdate=2021-12-17 |publisher=東日本旅客鉄道秋田支社}}</ref>。 ** [[3月16日]]深夜に発生した[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]の影響により、翌17日から東京 - 盛岡間を運休し、盛岡 - 秋田間7往復の臨時ダイヤで運行<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220317AK0007|newspaper=[[秋田魁新報]]|publisher=[[秋田魁新報社]]|title=新幹線、秋田―盛岡間で折り返し運転 在来線で運転見合わせ|date=2022-03-17|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>、また開業25周年を控え予定されていた記念行事が中止された<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220317AK0045|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=こまち開業25周年イベント一部中止|date=2022-03-17|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220322AK0022|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=秋田新幹線こまち開業25周年、地震で記念行事中止|date=2022-03-22|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。東北新幹線の復旧の進捗に合わせ、4月4日から仙台 - 秋田間14往復の運行を再開した<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220404AK0031|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=新幹線こまち、秋田―仙台間の運行再開 1日14往復|date=2022-04-04|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。4月14日から東京 - 秋田全区間での運行を再開(13往復の臨時ダイヤ)、併せて秋田駅では延期されていた開業25周年記念の出発式が行われた<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220414AK0029|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=こまち、約1カ月ぶりに東京と直通 25周年も祝う|date=2022-04-14|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。5月13日から通常ダイヤによる東京 - 秋田間14往復に復帰している<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220513AK0001|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=秋田新幹線こまち、きょう完全復旧 東京間を14往復で運行|date=2022-05-13|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 新聞記事 ==== {{Reflist|group="新聞"}} ==== JR東 ==== {{Reflist|group="JR東"}} == 参考文献 == <!--=== 書籍 ===--> * {{Cite book|和書|title=JR特急10年の歩み |publisher=[[弘済出版社]] |date=1997-05-15 |isbn=4-330-45697-4 |ref=ayumi}} <!--=== 雑誌 ===--> == 関連項目 == * [[日本の列車愛称一覧]] * [[多層建て列車]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/e6.html E6系:JR東日本] {{日本の新幹線}} {{DEFAULTSORT:こまち}} [[Category:日本の特急列車]] [[Category:列車愛称 こ|まち]] [[Category:東日本旅客鉄道の列車]] [[Category:新幹線の列車愛称]] [[Category:秋田新幹線]] [[Category:東北新幹線]] [[Category:小野小町]]
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横井小楠
横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は時存(「ときひろ」「ときあり」)であり、朝臣としての正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。 文化6年(1809年)8月13日、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。 文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校。天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる。下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老の長岡是容の後ろ盾を得る。天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。 しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年(1840年)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された。この間、小楠は朱子学の研究に没頭する。翌天保12年(1841年)頃より、長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会を取り止める。また『時務策』を起草する。 天保14年(1843年)、自宅の一室で私塾(のち弘化4年(1847年)に「小楠堂」と命名)を開く。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。第二の門弟は矢嶋源助であり、のちに嘉悦氏房、長野濬平(長野忠次の父)、河瀬典次、安場保和、竹崎律次郎(竹崎茶堂、竹崎順子の夫)など多くの門弟を輩出する。 嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学び、これにより小楠の名が福井藩に伝わり、のちに福井藩に出仕するきっかけとなる。さらに嘉永5年(1852年)には、福井藩の求めに応じて『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合った。同年11月、ロシア使節応接係川路聖謨に「夷虜応接大意」を送り、有道・無道をわかたずいっさい外国の要求を拒絶することは天地公共の実理に反すると説く。 安政元年(1854年)7月、兄・時明が48歳で病死した。兄の長男・左平太はまだ10歳と幼少だったため、小楠が兄の末期養子として家督を継いだ。この頃、考え方の対立により長岡と絶交することとなった。 安政2年(1855年)5月、農村の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居し、自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とする。坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。 安政4年(1857年)3月、福井藩主・松平春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れ、福井に招聘される。小楠がそれを内諾したため、春嶽は8月に熊本藩主・細川斉護に書状を送り、小楠の福井行きを願い出た。斉護は実学党による藩校の学風批判などから一旦それを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した後にようやく承諾された。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本に帰郷。翌安政6年(1859年)に再度福井藩から招きを受けて福井に滞在。同年12月、実母が危篤との知らせが来たため熊本に帰郷。 万延元年(1860年)2月、福井藩による3回目の招きにより福井に再び赴く。この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたため、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた。文久元年(1861年)4月、江戸に赴き、春嶽と初対面する。この江戸滞在中、勝海舟や大久保忠寛と交流を持った。同年10月、7人の福井の書生を連れ、熊本・沼山津へ帰る。しかし11月26日に狩猟に出掛けた際、藩主専用の鷹狩の場所となっていた沼山津の沼沢地において、残った弾を射ち放したことを咎められ、謹慎処分となった(榜示犯禁事件)。 文久2年(1862年)6月、福井藩から4回目の招きを受けて熊本を発つ。7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草した。8月、大目付・岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べた。この頃、坂本龍馬・岡本健三郎と福井藩邸で会った。 同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意のことであったため小楠は床の間に置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿はなく、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年(1863年)8月まで福井に滞在する。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。 元治元年(1864年)2月に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬も同席している。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と太平を神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した。その後、慶応元年(1865年)5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張し、龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことがなかった)。 慶応2年(1866年)、甥の左平太・太平がアメリカ留学する際に『送別の語』を贈った。 慶応3年(1867年)12月18日、長岡護美と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。藩内では小楠の登用に異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態であることもあって、「小楠は病気なので辞退したい」と朝廷に申し出ており、小楠の門人の登用についても断った。慶応4年(1868年)3月5日、参与となった長岡護美がその辞退を申し出る書を副総裁の岩倉具視に提出したが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めるしかないと決定し、3月20日に小楠および都築黙兵衛(都築四郎)の士席を回復し、3月22日に上京を命じた。 4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には従四位下の位階を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した。 明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った。 殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた)。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として上平主税ら3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。 鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。 小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。 体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。 共和制(大統領制)を「尭舜の世(禅譲)」と評したことでも知られる。 「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」 「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」
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{ "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "共和制(大統領制)を「尭舜の世(禅譲)」と評したことでも知られる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」", "title": "嗜好" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」", "title": "嗜好" } ]
横井 小楠は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は時存(「ときひろ」「ときあり」)であり、朝臣としての正式な名のりは平 時存。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。字は子操。 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 横井 小楠 / 横井 時存 | 画像 = Yokoi Shonan.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = [[文久]]元年([[1861年]])8月、[[鵜飼玉川]]撮影 | 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治時代]] | 生誕 = [[文化 (元号)|文化]]6年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[1809年]][[9月22日]]) | 死没 = [[明治]]2年[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]([[1869年]][[2月15日]]) | 改名 = | 別名 = 平時存、北条時存、平四郎(通称)、畏斎、沼山(号)、子操(字) | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 墓所 = [[京都市]][[左京区]]の[[南禅寺]][[天授庵]] | 官位 = [[従四位下]] | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = [[細川斉護]] → [[細川韶邦]] | 藩 = [[熊本藩]] | 氏族 = [[横井氏]] | 父母 = 父:[[横井時直]]、母:かず | 兄弟 = [[横井時存|時明]]、'''小楠''' | 妻 = 先妻:ひさ(小川吉十郎の娘)<br />後妻:津世子(矢嶋直明の娘) | 子 = [[横井時雄|時雄]]、[[海老名みや]] | 特記事項 = }} '''横井 小楠'''(よこい しょうなん)は、[[日本]]の[[武士]]([[熊本藩|熊本]][[藩士]])、[[儒学者]]。'''横井 時存'''(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。[[本姓]]は[[平氏]]で、[[北条時行]]の子孫を称していた。[[諱]]は{{読み仮名|時存|ときひろ/ときあり}}であり、[[朝臣]]としての正式な名のりは{{読み仮名|'''平 時存'''|たいら の ときひろ/ときあり}}。[[仮名 (通称)|通称]]は平四郎で、'''北条平四郎時存'''、'''北条四郎平時存'''ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、[[楠木正行]](小楠公)にあやかって付けたものとされる<ref name="kumamoto">[http://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=2078&sub_id=2&flid=11205 横井小楠 -その業績と生涯-](熊本市)</ref>。他の号に{{読み仮名|畏斎|いさい}}、{{読み仮名|沼山|しょうざん}}がある<ref name="kumamoto" />。[[字]]は子操<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0-22088 Kotobank]</ref>。 熊本藩において[[藩政改革]]を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、[[福井藩]]の[[松平春嶽]]に招かれ政治顧問となり、[[幕政改革]]や[[公武合体]]の推進などにおいて活躍する。[[明治維新]]後に新政府に[[参与]]として出仕するが暗殺された。 == 生涯 == === 誕生・就学 === 文化6年(1809年)8月13日、[[肥後国]](現在の[[熊本県]])[[熊本城]]下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・[[横井時直]]の次男として生まれる<ref name="kumamoto" />。 [[文化 (元号)|文化]]13年([[1816年]])、8歳で藩校・[[時習館]]に入校<ref name="kumamoto" />。[[天保]]4年([[1833年]])に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年([[1837年]])に時習館居寮長(塾長)となる<ref name="kumamoto" />。下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老の[[長岡是容]]の後ろ盾を得る。天保10年([[1839年]])、藩命により[[江戸]]に遊学、[[林檉宇]]の門下生となり、佐藤一誠、[[松崎慊堂]]らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の[[川路聖謨]]や[[水戸藩]]士の[[藤田東湖]]など、全国の有為の士と親交を結ぶ。 しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年([[1840年]])2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の[[逼塞]]に処された<ref name="kumamoto" />。この間、小楠は[[朱子学]]の研究に没頭する<ref name="kumamoto" />。翌天保12年([[1841年]])頃より、長岡是容、下津久馬、[[元田永孚]]、萩昌国らと研究会を開く。これが「[[実学党]]」となり、筆頭家老の[[松井章之]]を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会を取り止める<ref name="kumamoto" />。また『時務策』を起草する。 === 開塾・福井藩出仕 === 天保14年([[1843年]])、自宅の一室で[[私塾]](のち[[弘化]]4年([[1847年]])に「小楠堂」と命名)を開く。小楠の第一の門弟は[[徳富一敬]]であり、一敬は[[徳富蘇峰]]と[[徳冨蘆花|蘆花]]の父親である。第二の門弟は[[矢嶋源助]]であり、のちに[[嘉悦氏房]]、[[長野濬平]]([[長野忠次]]の父)、[[河瀬典次]]、[[安場保和]]、[[竹崎律次郎]](竹崎茶堂、[[竹崎順子]]の夫)など多くの門弟を輩出する。 [[嘉永]]2年([[1849年]])、[[福井藩]]士・三寺三作が小楠堂に学び、これにより小楠の名が福井藩に伝わり、のちに福井藩に出仕するきっかけとなる。さらに嘉永5年([[1852年]])には、福井藩の求めに応じて『[[学校問答書]]』を、翌嘉永6年([[1853年]])には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月、[[ロシア帝国|ロシア]]軍艦に乗ろうとして[[長崎市|長崎]]に向かっていた[[吉田松陰]]が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合った<ref name="kumamoto" />。同年11月、ロシア使節応接係川路聖謨に「夷虜応接大意」を送り、有道・無道をわかたずいっさい外国の要求を拒絶することは天地公共の実理に反すると説く<ref>横井小楠伝 山崎正董</ref>。 [[安政]]元年([[1854年]])7月、兄・[[横井時明|時明]]が48歳で病死した。兄の長男・左平太はまだ10歳と幼少だったため、小楠が兄の[[末期養子]]として家督を継いだ<ref name="kumamoto" />。この頃、考え方の対立により長岡と絶交することとなった<ref name="kumamoto" />。 安政2年([[1855年]])5月、農村の沼山津(現・[[熊本市]]東区沼山津)に転居し、自宅を「[[四時軒]]」(しじけん)と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とする。[[坂本龍馬]]、[[井上毅]]、[[由利公正]]、[[元田永孚]]など、明治維新の立役者や後の[[明治新政府]]の中枢の多くが後にここを訪問している。 安政4年([[1857年]])3月、福井藩主・[[松平春嶽]]の使者として[[村田氏寿]]が小楠の元を訪れ、福井に招聘される。小楠がそれを内諾したため、春嶽は8月に熊本藩主・[[細川斉護]]に書状を送り、小楠の福井行きを願い出た。斉護は実学党による藩校の学風批判などから一旦それを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した後にようやく承諾された。小楠は翌安政5年([[1858年]])3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校[[明道館]]で講義を行うなどした<ref name="kumamoto" />。同年12月、弟の死去により熊本に帰郷。翌安政6年([[1859年]])に再度福井藩から招きを受けて福井に滞在。同年12月、実母が危篤との知らせが来たため熊本に帰郷<ref name="kumamoto" />。 [[万延]]元年([[1860年]])2月、福井藩による3回目の招きにより福井に再び赴く。この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたため、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた<ref name="kumamoto" />。[[文久]]元年([[1861年]])4月、[[江戸]]に赴き、春嶽と初対面する<ref name="kumamoto" />。この江戸滞在中、[[勝海舟]]や[[大久保一翁|大久保忠寛]]と交流を持った<ref name="kumamoto" />。同年10月、7人の福井の書生を連れ、熊本・沼山津へ帰る。しかし11月26日に狩猟に出掛けた際、藩主専用の[[鷹狩]]の場所となっていた沼山津の沼沢地において、残った弾を射ち放したことを咎められ、謹慎処分となった(榜示犯禁事件)<ref name="kumamoto" />。 文久2年([[1862年]])6月、福井藩から4回目の招きを受けて熊本を発つ。7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、[[江戸幕府]]の[[政事総裁職]]となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『[[国是七条]]』を起草した。8月、[[大目付]]・[[岡部長常]]に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、[[一橋徳川家]]邸では[[徳川慶喜]]に対面して幕政について意見を述べた<ref name="kumamoto" />。この頃、[[坂本龍馬]]・[[岡本健三郎]]と福井藩邸で会った<ref name="kumamoto" />。 同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意のことであったため小楠は床の間に置いた[[大小 (日本刀)|大小]]を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿はなく、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年([[1863年]])8月まで福井に滞在する。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった<ref name="kumamoto" />。 [[元治]]元年([[1864年]])2月に龍馬は[[勝海舟]]の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は『国是七条』を説いた<ref group="注釈">のちの龍馬の[[船中八策]]の原案の一つとなったとも言われる。</ref>。この会談には徳富一敬も同席している{{要出典|date=2014年6月}}。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と[[横井太平|太平]]を[[神戸海軍操練所]]に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した<ref name="kumamoto" />。その後、[[慶応]]元年([[1865年]])5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征討]]の話題となった時、小楠が[[長州藩]]に非があるため征討は正当だと主張し、龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことがなかった)<ref name="kumamoto" />。 慶応2年(1866年)、甥の左平太・太平がアメリカ留学する際に『送別の語』を贈った<ref name="kumamoto" />。 慶応3年([[1867年]])12月18日、[[長岡護美]]と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。藩内では小楠の登用に異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態であることもあって、「小楠は病気なので辞退したい」と朝廷に申し出ており、小楠の門人の登用についても断った<ref name="kumamoto" />。慶応4年([[1868年]])3月5日、[[参与#明治時代の「参与」|参与]]となった長岡護美がその辞退を申し出る書を[[総裁#明治政府|副総裁]]の[[岩倉具視]]に提出したが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めるしかないと決定し、3月20日に小楠および都築黙兵衛(都築四郎)の士席を回復し、3月22日に上京を命じた<ref name="kumamoto" />。 4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には[[従四位下]]の位階を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した<ref name="kumamoto" />。 === 暗殺 === [[ファイル:横井小楠3924.JPG|thumb|200px|横井小楠殉節地、京都市中京区寺町丸太町下る東側]] [[ファイル:横井5110.JPG|thumb|200px|横井小楠之墓、南禅寺天授庵、京都市左京区]] 明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都[[寺町通]][[丸太町通|丸太町]]下ル東側(現在の[[京都市]][[中京区]])で[[十津川郷士]]ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った<ref name="kumamoto" />。 殺害の理由は「横井が開国を進めて日本を[[キリスト教]]化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた<ref name="kumamoto" />)。しかも[[弾正台]]の[[古賀十郎]]ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という[[偽書]]<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2022年4月|仏教学者佐々木憲徳が『天道覚明論』は偽作ではないと論じている。また、横井小楠は安政4年(1857年)に、血統に従って君主の位につくことに対する全面的かつ徹底的な拒否の内容の詩を作っている}}。</ref>を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年([[1870年]])10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として[[上平主税]]ら3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。 == 人物 == [[鎖国体制]]・[[幕藩体制]]を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。 小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「[[講習討論]]」「[[朋友講学]]」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために[[幕府]]・[[藩]]を越えた統一国家の必要性を説いた。 体系的に小楠の国家論が提示された文書として、[[万延]]元年([[1860年]])に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーや[[エフィム・プチャーチン]]への対応についての意見書である嘉永6年([[1853年]])執筆の『[[夷虜応接大意]]』、[[元治]]元年([[1864年]])の井上毅との対話の記録『[[沼山対話]]』、[[慶応]]元年([[1865年]])の元田永孚との対話の記録『[[沼山閑話]]』などがある。 [[共和制]]([[大統領制]])を「[[尭]][[舜]]の世([[禅譲]])」と評したことでも知られる。 *[[徳富一敬]] **「文久二年の頃、江戸で刺客に切り込まれた時も、同輩は二人ながら斬り倒されたが、翁はソレ来たと云うより早く、突と立って刺客とやりちがいに梯子を下りて、無事に逃げられた。また或時宴会の半ば、大力の男某、翁と議論を始め、おのれ横井の小男め、一と掴みと嵩にかかって組み付くと、翁は身を沈まして相手の股下にもぐり込み、相手の睾丸を鷲づかみにして、難なく強敵を挫かれた。また或時某と云う士の不行跡を詰責するに、その士二刀使いの名人で皆々恐れて居ると、翁は平気にその男を呼び寄せ、戸口を入ると飛び掛かってその両刀を引ったくれば、何も無事に済んだが、後この士は同様の詰責を受けて腹を立て、二刀を以て数人に重手を負わせたと云うことである。翁撃剣は新陰流で、随分激しい使い手であった。居合は名人で、竹箸を畳の上にたてて、抜き打ちに竪てに真二つにせられた。で、遭難の時も、病気あがりと云い、七十近い老体でありながら、銃声を聞いて駕籠から飛び出て、短刀に敵の刀痕幾箇をとどむる迄に働かれたのである」<ref name="p50">『青山白雲』P50</ref> **「([[坂本龍馬]]が訪ねてきた時)酒が出て人物論が始まった。大久保は云々、西郷は云々、誰は云々。その時先生は盃右手にとって、『乃公(おれ)は如何だ』。坂本は莞爾と笑ってゆるゆると『先生ァまあ二階に御座って。奇麗な女共に酌でもさして、酒をあがって西郷や大久保共がする芝居を見物なさるがようござる。大久保共が行きつまったりしますと、その時ァちょいと指図をしてやって下さるようございましょう』。先生は呵々と笑って頷かれた」<ref>『青山白雲』P60</ref> == 嗜好 == 「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」<ref>『青山白雲』p51</ref> 「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」<ref name="p54">『青山白雲』P54</ref> == 評価 == *[[勝海舟]] **「はじめて会った時から、途方もない聡明な人だと心中大いに敬服して、しばしば人を以ってその説を聞かしたが、その答えには常に『今日はこう思うけれども、明日になったら違うかもしれない』と申し添えてあった。そこでおれはいよいよ彼の人物に感心したよ」<ref>『海舟全集 第十巻 古今人物談』</ref> **「大抵の人は小楠を取り留めの無い事をいう人だと思った。維新の初めに大久保(利通)すら、小楠を招いたけれど思いの外だといっていた。しかし、小楠はとても尋常の物尺では分らない人物で、且つ一向物に擬態せぬ人だった。それ故に一個の定見と云うものはなかったけれど、機に臨み変に応じて物事を処置するだけの余裕があった。こうして何にでも失敗した者が来て、善後策を尋ねると、其の失敗を利用して、之を都合のよい方に遷らせるのが常であった。おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから色々教えてやったら、一を聞いて十を知るという風で、たちまち彼の国の事情に精通してしまった。小楠は能弁で、南州は訥弁だった。小楠が春嶽公に用いられた時、もちっと手腕を振るうことは出来なかったかという人もあるが、あの時は実際出来なかったのだ。また維新の時に、西郷はなぜ小楠に説き勧めなかったかという人もあるが、これは必要なかったからだ。小楠は毎日の如く芸者や幇間を相手に遊興していた。人に面会するのにも一日に一人二人会うと、もはや疲労したといって断るなど、平生、我儘一辺に暮らしていた。だから春嶽公に用いられても、また内閣へ出ても、一々政治を議するなどはうるさかっただろう。こういう風だから小楠の善い弟子といったら[[安場保和]]一人位のものだろう。つまり小楠は覚られ難い人物であった」<ref>『勝海舟 P68』</ref> **「横井という人は、一見何の異なる所なく、服装なども黒[[縮緬]]の袷[[羽織]]に平[[袴]]で、見たところは大名の御留守役とでもいう風で、人物の円満で、強いて人と争う様な野暮ではなかった。佐久間(象山)などとはまるで反対であった」<ref>『勝海舟言行録』</ref> *[[徳富一敬]] **「身の丈は五尺に足らぬ小男であったが、顔大きく、色黒く、真黒い一の字眉きりりと釣り上がり、眼中きらきら光り、頬骨高く秀でて、口の大きい、活々した風采の人で、眼明手快、非常にすばしこい人であった」<ref name="p50">『青山白雲』P50</ref> **「先生は余程陽気な質で、先生の話声は始終門外に聞こえ、先生が来らるると一座急に賑やかになった。随分癇癪は激しい方であった。併し赫として怒らるると火の出る様であったが、過ぎるとあとは誠にサッぱりして、夕立あがりの様に涼しく叱られても一向苦にならぬ。どんなに敵対する者でも。折れて来ればさっぱりとして腹蔵なく、如何に厳責した者でも改むると先生の喜びは限りなく、行雲流水まことにさらさらとした大快活の人であった。門人を教養するにも、規則がましい事一切なく、おのおのその人々によりて開発の道を授け、楽しんで進む様にせられる。そこで先生の薫陶を受くる者は、欣々然として化すると云う風で、師弟の分ははっきりして居ても至って心易く、碁なんどうっては、互いに相手の手を握って先後を争うと云う風であった」<ref name="p54">『青山白雲』P54</ref> **「先生は真に思想の人であった。厠の中でも、漁に出ても、ふと考えの浮かぶと、必ず十分考えつくすまでは置かぬ。修行心は非常なものであった。門弟が来る、講習する。百姓が来る、作の事を聞く。漁師が来る、商人が来る、媼が来る、それぞれ相手になって話したり聞かせたりせられる。と云う塩梅で、門弟なども故郷から出て先生に逢いに行くときは、色々心しらべして、先生のその地方に関する問いに答うる準備をして行く、と云う位であった。先生は何処に行っても、空しく暮らさぬ。女などと話すには、股引のたち襟足袋のかた、家事の心得何くれと利益になることを注意される。百姓商人に対しても、一々細かに話される。併し時々は鶴の声を雀の仲間に聞かすこともあって、『なァに、天下を取るのは易い事だ』と文盲老爺を捉えて述誡されたこともあった。『人間は白骨にならねば、事は出来ない』と常に云って居られた通り、名利の間は早に越えてしまって光風霽月その胸襟であったのである」<ref name="p54">『青山白雲』P54</ref> **「その風采容貌を申しますと、丈けは十人並より少し低い方で、顔は少し長面で、眉がきりきりと釣り上り、眼光鋭く、英気五[[尺]]の短身に溢るるばかりでありました。右の通り活発でありましたので、少壮の時分は、少しは荒い事もありましたそうです。その資質は聡敏正直、思慮周密、また忠孝節義の事実話を聞きましては、落涙に堪えざるていの人でありました。弁舌なども非常に爽快なもので、故[[木戸孝允]]氏なども評して、横井の舌剣と申した位で、誰でも横井に対すると、話が了然と腹に落ちました。また智術策略ていのことは至って嫌いで、それにまた抱負も中々大きな男でありましたが、一方にはまた中々精細に情愛の濃やかな人で、その老婆の病気の時などは、自身両便の世話から、手足の撫でさすりまでするというような塩梅で、兄時明の看病、兄の子供に対する情愛は、傍らから涙の出つる程でありました。書生の教育なども、決して規則ではならぬならぬと言って、常に人々の性質につれて、自然にこれを誘導する様に致し、ただ利害の考えや、へつらいなどは激しく督責しました」<ref>『逸話文庫 通俗教育 志士の巻』</ref> == 家系 == * 横井家は[[平氏|桓武平氏]][[北条氏]][[嫡流]][[得宗|得宗家]]に発する。[[北条高時]]の遺児・[[北条時行]]の子が[[尾張国]][[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[横江村]]に住し、時行4世孫にあたる[[横江時利]]の子が、横井に改めたのがはじまりとされている。時利の子は[[横井時永]]といい、その子孫は[[横井時勝|時勝]]、[[横井時延|時延]]、[[横井時泰|時泰]]、[[横井時安|時安]]---と続いた。北条氏の子孫として代々祖先の[[通字]]であった「時」の字を名乗りに用いる(写真でも、肩衣に北条氏の家紋である三つ鱗を付けているのがわかる)。 * 小楠の妻は2人おり、先妻は熊本藩士小川吉十郎の娘・ひさ(嘉永6年(1853年)2月結婚、安政3年(1856年)死別)、後妻は小楠の門弟矢嶋源助の妹の津世子(安政3年(1856年)結婚)。津世子との間には、後に[[同志社]]第3代総長や[[衆議院議員]]を務める長男の[[横井時雄]]、[[海老名弾正]]の妻となる長女の[[海老名みや|みや]]が生まれた<ref name="kumamoto" />。 * 津世子の姉には徳富一敬に嫁いだ[[徳富久子]]と[[竹崎順子]]がおり、妹には[[矢嶋楫子]]がいる。惣庄屋矢島忠左衛門直明を父とするこの姉妹は「四賢婦人」と呼ばれ、生地の熊本県[[益城町]]に記念館がある<ref>[https://kumamoto-museum.net/shikenfujin/ 四賢婦人記念館]</ref>。 * [[徳富蘇峰]]は父一敬の影響で自らを小楠の門弟と称し、小楠を生涯の師と仰いでいる。 * [[横井太平]]は小楠の甥で、小楠の兄・時明の次男。兄・横井左平太と共に小楠らの資金を得て米国に密航。病を得て帰国後は熊本に[[熊本洋学校]]を作ろうと努力した。 * 横井左平太の妻が、[[女子美術大学|女子美術学校]]を創立した[[横井玉子]]である。 == 史料・著作 == *横井時雄編『小楠遺稿』、民友社、1889年11月。 *[[山崎正董]]編『横井小楠』上巻伝記篇・下巻遺稿篇、明治書院、1938年5月。 *山崎正董編『横井小楠遺稿』、日新書院、1942年7月。 *[[松浦玲]]編・訳『[[日本の名著]]30 横井小楠・佐久間象山』 中央公論社、1970年7月。のち新版・中公バックス *佐藤昌介・植手通有・山口宗之校注『[[日本思想大系]]55 渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』 岩波書店、1971年6月。 *日本史籍協会編『横井小楠関係史料 1・2』 東京大学出版会、1977年2月・6月。 *花立三郎全訳注『国是三論』 講談社〈講談社学術文庫〉、1986年10月。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2015年1月|section=1}} *石津達也「横井小楠思想と現代」、『環-歴史・環境・文明』第30号、2007年7月。 *岡崎正道「横井小楠の理想主義」、岡崎正道『異端と反逆の思想史-近代日本における革命と維新』、[[ぺりかん社]]、1999年1月。 *苅部直「「利欲世界」と「公共之政」-横井小楠・元田永孚」、『国家学会雑誌』第104巻第1・2号、1991年2月。 *苅部直「「不思議の世界」の公共哲学-横井小楠における「公論」」、佐々木毅・金泰昌編『21世紀公共哲学の地平』(『公共哲学』10)、[[東京大学出版会]]、2002年7月。 *北野雄士「大塚退野、平野深淵、横井小楠-近世熊本における「実学」の一系譜」、『大阪産業大学論集-人文科学編』第107号、2002年6月。 *北野雄士「横井小楠による水戸学批判と蕃山講読-誠意の工夫論を巡って」、『横井小楠研究年報』第2号、2004年9月。 *志村正昭「横井小楠における国家構想の研究-「人情」「交易」「公共」」、『横井小楠研究年報』第2号、2004年9月。 *高浜幸敏「横井小楠伝」、『ドキュメント日本人2-悲劇の先駆者』、學藝書林、1969年6月。 *圭室諦成『横井小楠』(『人物叢書』)、[[吉川弘文館]]、1967年7月。 *徳永新太郎『横井小楠とその弟子たち』(『日本人の思想と行動』43)、評論社、1979年9月。 *中野青史「横井小楠の国家構想と民友社の成立」、西田毅・和田守・山田博光・北野昭彦編『民友社とその時代-思想・文学・ジャーナリズム集団の軌跡』、[[ミネルヴァ書房]]、2003年12月。 *中拂仁「江戸期における「公」観念の推移-荻生徂徠と横井小楠」、[[国士舘大学]]『政経論叢』平成9年第1号(通号第99号)、1997年3月。 *埜上衞「横井小楠の実学思想」、実学資料研究会編『実学史研究』V、[[思文閣出版]]、1988年12月。 *平石直昭「横井小楠研究ノート-思想形成に関する事実分析を中心に」、[[東京大学]]『社会科学研究』第24巻第5・6合併号、1973年3月。 *平石直昭「横井小楠-その「儒教」思想」、相良亨・松本三之介・源了圓編『江戸の思想家たち』下、研究社出版、1979年11月。 *松井康秀『横井小楠研究入門』、松井康秀、1978年11月。 *松浦玲「暗殺 : 明治維新の思想と行動」、辺境社、1979年。 *松浦玲「佐久間象山と横井小楠」、『日本学』第11号、1988年7月。 *松浦玲『横井小楠-儒学的正義とは何か』(増補版.朝日選書645、[[朝日新聞社]]、2000年2月)。ISBN 4-02-259745-3。ちくま学芸文庫、2010年10月 *源了圓「横井小楠の実学-幕末思想史の一断面」、[[京都大学]]『哲学研究』第37巻第11冊(第433号)、1955年7月。 *源了圓「横井小楠の「三代の学」における基本的概念の検討」、『アジア研究』別冊2(魚住昌良編『伝統と近代化-長(武田)清子教授古稀記念論文集』〔『国際基督教大学学報III-A』〕)、国際基督教大学アジア文化研究所、1990年11月。 *源了圓「横井小楠における学問・教育・政治-「講学」と公議・公論思想の形成の問題をめぐって」、『季刊日本思想史』第37号、1991年5月。 *源了圓「東アジア三国における『海国図志』と横井小楠」、『季刊日本思想史』第60号、2002年1月。 *源了圓「横井小楠の国家観」、『環-歴史・環境・文明』第5号、2001年4月<!--集大成で『横井小楠研究』(藤原書店、2013年)にまとまった。--> *山崎正董編『横井小楠伝』上・中・下、日新書院、1942年7月-9月。 *山崎益吉『横井小楠の社会経済思想』、多賀出版、1981年2月。 *山崎益吉「経済学的視点からみた横井小楠の国家観」、『環-歴史・環境・文明』第5号、2001年4月。 *山崎益吉『横井小楠と道徳哲学-総合大観の行方』、高文堂出版社、2003年1月。ISBN 4-7707-0692-8 *山崎益吉「横井小楠の経済思想-節倹論から有効需要論へ」、『自然と実学』第3号、2003年11月。 *山下卓『横井小楠』、熊本日日新聞情報文化センター、1998年3月。 *吉見良三「横井小楠暗殺事件についての一資料」、『霊山歴史館紀要』第11号、1998年4月。 *[[渡辺京二]]「小楠の道義国家像」、『環-歴史・環境・文明』第5号、2001年4月。 *高木不二「横井小楠と松平春岳」 幕末維新の個性2:[[吉川弘文館]]、2005年。 *堤克彦「「公」の思想家 横井小楠」 熊本出版文化会館、2009年。 *源了圓編「別冊環 第16号.横井小楠」 [[藤原書店]]、2009年11月。 *張寅性 //19世紀儒教知識人にみる開国と普偏主義 -横井小楠と金允植(学位論文データベース) *王賓 //近代中日両国における対外認識の比較研究 -郭嵩〓と横井小楠を中心として(学位論文データベース) == 関連項目 == *[[横井小楠記念館]]([[熊本県]][[熊本市]]東区沼山津1丁目25-91) **私塾「四時軒」に隣接して建てられ、小楠に関する史料などが展示されている。 *[[小楠公園]](熊本県熊本市東区沼山津4丁目11) **暗殺された小楠の遺髪を埋葬した場所。記念碑や小楠の[[銅像]]がある。記念碑の碑文は[[徳富蘇峰]]作。 *[[墓前祭]](小楠公園にて2月15日午前10時斎行。斎主は[[浮島神社 (嘉島町)|浮島神社]]) **[http://www.ukishimajinja.com/ 浮島神社](神社公式) ; TVドラマ * 『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』(1968年、NHK大河ドラマ、演:[[菅井一郎]]) * 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』(1976年、NHK大河ドラマ、演:[[林孝一]]) * 『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』(1998年、NHK大河ドラマ、演:[[高橋長英]]) * 『[[龍馬伝]]』(2010年、NHK大河ドラマ、演:[[山崎一]]) ; 舞台 * 『[[つばき、時跳び#舞台|つばき、時跳び]]』(2010年、演:[[勝野洋]]) ; 小説 * [[森鷗外]]『津下四郎左衛門』(暗殺者の一人である津下四郎左衛門の子である津下正高からの聞書き [http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2082_23123.html 青空文庫]) == 外部リンク == {{commonscat|Yokoi Shōnan}} * [https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/64 横井小楠記念館] * {{Kotobank|横井小楠|2=朝日日本歴史人物事典}} * [{{NDLDC|993507/33}} 小楠遺稿] - 近代デジタルライブラリー(国立国会図書館) * [https://web.archive.org/web/20060205010324/http://www.mars.dti.ne.jp/~takefuku/novel1.html 舌剣奔る 小説 横井小楠] - 第1章のみ立ち読み可能 {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:よこい しようなん}} [[Category:横井小楠|*]] [[Category:江戸時代の儒学者]] [[Category:経世論の人物]] [[Category:日本の文明評論家]] [[Category:日本の貿易立国論者]] [[Category:暗殺された政治家]] [[Category:松平春嶽]] [[Category:維新の元勲]] [[Category:19世紀日本の儒学者]] [[Category:19世紀日本の評論家]] [[Category:19世紀日本の教育者]] [[Category:横井小楠家|しようなん]] [[Category:幕末熊本藩の人物]] [[Category:幕末越前福井藩の人物]] [[Category:1809年生]] [[Category:1869年没]]
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伊豆の踊子
『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。 日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。 2022年(令和4年)時点で、新潮文庫版だけでも約338万部を売り上げている。 1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号・新年特別創作号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった。 翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳の英語(英題:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツ語(独題:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中国語(中題:伊豆的舞女、伊豆的舞孃)、ポルトガル語(葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリア語(伊題:La danzatrice di Izu)、韓国語(韓題:이즈의 무희)、スペイン語(西題:La danzarina de Izu)、オランダ語(蘭題:De danseres uit Izu)、ロシア語(露題:Танцовщица из Идзу)、フランス語(仏題:La danseuse d'Izu)、台湾語(台題:繁體中文)など世界各国で出版されている。 20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子に惹かれ、天城峠のトンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。 天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。 「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。 下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。 別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。 船がずっと遠ざかってから、踊子が艀で白いものを振り始めた。伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。 年齢は数え年 ※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。 川端康成が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせた。 踊子の兄とは旅の後も文通があり、「横須賀の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の年賀状(大正7年12月31日消印)が現存している。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている。 川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている。また、旅に出た動機については以下のように語っている。 川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた。 伊豆の旅から4年後の1922年(大正11年)の夏も湯ヶ島に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の寄宿舎での下級生・小笠原義人との同性愛体験を「湯ヶ島での思ひ出」という素稿にまとめた。 これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代(本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった。この原稿用紙107枚の「湯ヶ島での思ひ出」が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった。 ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で眩暈を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が銭湯から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に湯ヶ野温泉で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している(詳細は伊藤初代#一高生・川端康成との出会いを参照)。 川端は最初の伊豆の旅以来、田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地(現・伊豆市湯ヶ島1656-1)にある「湯本館」 に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館「湯川屋」を紹介し、校正をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の淀野隆三らと親しく交流するようになった。 ※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。 『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している。 竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している。 奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している。 そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている。 北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら、「異界」への入り口の象徴である〈峠〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している。 また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』 を引きつつ説明している。 三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している。 勝又浩は、物語の導入部の天城峠の茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花や永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている。 そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している。 橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している。 そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している。 川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している。 なお、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている。 林武志は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿「湯ヶ島での思ひ出」での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている。 また、最終場面で泣いている「私」をマントで包んでくれた受験生の少年の描写も「清野少年のバリエーション」ではないかと林は考察している。 ※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。 主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。 これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている。 そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している。 なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている。 高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている。 三川智央はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、......」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが......」という風に推測的な文言になるはずだとし、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「狂気」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない」と解説しながら、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の自己同一性の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している。 そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「抒情的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている。 浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧天城トンネルを抜けて、河津川に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている。「踊子歩道」は2002年に遊歩百選に選定された。 本谷川(狩野川)沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。...〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた。 そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。...〉の一節が刻まれており、旅館の入口にはブロンズの踊子像もある。 川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している 初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。 1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本)伊豆急行・伊豆箱根鉄道直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が公募により充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。 映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。 ※出典は
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)時点で、新潮文庫版だけでも約338万部を売り上げている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号・新年特別創作号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された。なお、刊行に際しての校正作業は梶井基次郎がおこなった。", "title": "発表経過" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "翻訳版はエドワード・サイデンステッカー訳の英語(英題:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツ語(独題:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中国語(中題:伊豆的舞女、伊豆的舞孃)、ポルトガル語(葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリア語(伊題:La danzatrice di Izu)、韓国語(韓題:이즈의 무희)、スペイン語(西題:La danzarina de Izu)、オランダ語(蘭題:De danseres uit Izu)、ロシア語(露題:Танцовщица из Идзу)、フランス語(仏題:La danseuse d'Izu)、台湾語(台題:繁體中文)など世界各国で出版されている。", "title": "発表経過" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子に惹かれ、天城峠のトンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる無垢で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "船がずっと遠ざかってから、踊子が艀で白いものを振り始めた。伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "年齢は数え年", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "川端康成が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、下田港からの帰京の賀茂丸では、蔵前高工(現・東京工大)の受験生・後藤孟と乗り合わせた。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "踊子の兄とは旅の後も文通があり、「横須賀の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の年賀状(大正7年12月31日消印)が現存している。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている。また、旅に出た動機については以下のように語っている。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "伊豆の旅から4年後の1922年(大正11年)の夏も湯ヶ島に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の寄宿舎での下級生・小笠原義人との同性愛体験を「湯ヶ島での思ひ出」という素稿にまとめた。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これは前年の1921年(大正10年)に、伊藤初代(本郷区本郷元町のカフェ・エランの元女給)との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった。この原稿用紙107枚の「湯ヶ島での思ひ出」が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『少年』(1948年-1949年)へ発展していった。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で眩暈を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が銭湯から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に湯ヶ野温泉で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している(詳細は伊藤初代#一高生・川端康成との出会いを参照)。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "川端は最初の伊豆の旅以来、田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地(現・伊豆市湯ヶ島1656-1)にある「湯本館」 に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館「湯川屋」を紹介し、校正をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の淀野隆三らと親しく交流するようになった。", "title": "作品背景" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、伊藤初代との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "竹西寛子は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "奥野健男は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きなモチーフになっているとし、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "そして芸人が徳川時代に「河原者」と蔑まれた反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、古くから芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、能、狂言、歌舞伎などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "北野昭彦は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人フォークロア」をよく踏まえているものとして敷衍し、漂流者の芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら、「異界」への入り口の象徴である〈峠〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉がトンネルを抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の疑似体験」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の時空を生きながら道連れになっている」と解説している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人のペルソナを外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の袴の裾を払ってくれたり下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味をユングの『コレー像の心理学的位相について』 を引きつつ説明している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "三島由紀夫は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「処女の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的なデッサンによつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的心理主義の感染」を免かれていると考察しつつ、「処女の内面は、本来表現の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "勝又浩は、物語の導入部の天城峠の茶屋で〈到底生物とは思へない山の怪奇〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『雪国』で主人公が〈トンネル〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈暗いトンネル〉を抜けることは「タイムマシンとしての儀式」を暗示させるとして、こういった川端文学の幻想的な一面が泉鏡花や永井荷風とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「稗史的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「まれびと」だとしている。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から合掌で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや、川端の処女作から諸作に至るまで見られる心霊的な要素を鑑みながら、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって人界を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "橋本治は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向ってはしけから一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "川嶋至(細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子(伊藤初代の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "林武志は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で同性愛的愛情を持っていた小笠原義人と文通が続いていたことと、草稿「湯ヶ島での思ひ出」での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「陰画」的に投影されているとしている。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、最終場面で泣いている「私」をマントで包んでくれた受験生の少年の描写も「清野少年のバリエーション」ではないかと林は考察している。", "title": "作品評価・研究" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、主語が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "三川智央はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、......」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが......」という風に推測的な文言になるはずだとし、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「狂気」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならない」と解説しながら、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の自己同一性の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「抒情的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている。", "title": "別れの場面における主語の問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧天城トンネルを抜けて、河津川に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている。「踊子歩道」は2002年に遊歩百選に選定された。", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "本谷川(狩野川)沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりのわさび沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の毛筆書きによる〈道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。...〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製のレリーフも設置されている。この文学碑は、1981年(昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた。", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある湯ヶ野温泉の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の1965年(昭和40年)11月12日に建立された。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。...〉の一節が刻まれており、旅館の入口にはブロンズの踊子像もある。", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "初景滝そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、道の駅天城越えには文学博物館(昭和の森会館)がある。", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本)伊豆急行・伊豆箱根鉄道直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が公募により充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。", "title": "観光資源としての『伊豆の踊子』" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。", "title": "映画化" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "※出典は", "title": "派生作品・オマージュ作品" } ]
『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。孤児根性に歪んでいた青年の自我の悩みや感傷が、素朴で清純無垢な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている。 日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は田中絹代から吉永小百合、山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。 2022年(令和4年)時点で、新潮文庫版だけでも約338万部を売り上げている。
{{基礎情報 文学作品 |題名 = 伊豆の踊子 |訳題 = The Dancing Girl of Izu |画像 = Old Amagi Tunnel.jpg |画像サイズ = 250 |キャプション = [[天城トンネル|旧天城トンネル]]。主人公はこのトンネルの脇にあった[[天城峠|峠]]の[[茶屋]]で、はじめて踊子と会話した。 |作者 = [[川端康成]] |国 = {{JPN}} |言語 = [[日本語]] |ジャンル = [[短編小説]] |シリーズ = |発表形態 = 雑誌掲載 |初出 = 「'''伊豆の踊子'''」-『[[文藝時代]]』[[1926年]]1月号(第3巻第1号) <br />「'''続伊豆の踊子'''」-『文藝時代』1926年2月号(第3巻第2号) |刊行 = |刊行の出版元 =[[金星堂]] |刊行の出版年月日 = [[1927年]]3月20日 |装幀 =[[吉田謙吉]] |収録 = |受賞 = |訳者 = |前作 = |次作 = |portal1 = 文学 }} [[File:Bronze statue of Izu dancer 2003-06-21.jpg|thumb|250px|伊豆の踊子の銅像]] 『'''伊豆の踊子'''』(いずのおどりこ)は、[[川端康成]]の[[短編小説]]。川端の初期の代表作で、[[伊豆半島|伊豆]]を旅した19歳の時の実体験を元にしている<ref name="yugashima">「湯ヶ島での思ひ出」(草稿107枚、1922年夏)。『[[少年 (川端康成)|少年]]』内への引用作品。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=134-135,137-138}}に抜粋掲載</ref><ref name="shounen">「少年」([[人間 (雑誌)|人間]] 1948年5月号-1949年3月号)。{{Harvnb|小説10|1980|pp=141-256}}に所収。{{Harvnb|作家の自伝|1994|pp=}}に第5、6、7、9回分掲載</ref><ref name="hayashi4">「『伊豆の踊子』成立考」({{Harvnb|林武|1976|pp=55-96}}</ref><ref name="album">「[[新感覚派]]――『[[文藝時代]]』の出発」({{Harvnb|アルバム川端|1984|pp=18-31}})</ref>。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、[[修善寺温泉|修善寺]]、[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]、[[天城峠]]を越え[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]、[[下田市|下田]]に向かう[[旅芸人]]一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。[[孤児]]根性に歪んでいた青年の[[自我]]の悩みや感傷が、素朴で清純[[無垢]]な踊子の心によって解きほぐされていく過程と、彼女との悲しい別れまでが描かれている<ref name="hase3">「三 出世作『伊豆の踊子』の慕情」({{Harvnb|愛と美|1978|pp=39-98}})</ref>。 日本人に親しまれている名作でもあり、今までに6回映画化され、[[ヒロイン]]である踊子・薫は[[田中絹代]]から[[吉永小百合]]、[[山口百恵]]まで当時の[[アイドル]]的な女優が演じている<ref name="album"/><ref name="okuno">[[奥野健男]]「解説――鮮やかな感覚表現」({{Harvnb|踊子・集英|1993|pp=254-263}})</ref>。 2022年(令和4年)時点で、[[新潮文庫]]版だけでも約338万部を売り上げている<ref>[https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1071860.html 記者コラム「清流」 「誰も知らない」]、[[静岡新聞|あなたの静岡新聞]]、2022年5月27日。</ref>。 == 発表経過 == [[1926年]](大正15年)、雑誌『[[文藝時代]]』1月号(第3巻第1号・新年特別創作号)に「'''伊豆の踊子'''」、2月号(第3巻第2号)に「'''続伊豆の踊子'''」として分載された<ref name="kaidai2">「解題――伊豆の踊子」({{Harvnb|小説2|1980|pp=591-592}})</ref>。単行本は翌年[[1927年]](昭和2年)3月20日に[[金星堂]]より刊行された<ref name="kaidai2"/><ref name="jiten">[[馬場重行]]「伊豆の踊子」({{Harvnb|事典|1998|pp=49-53}})</ref>。なお、刊行に際しての[[校正]]作業は[[梶井基次郎]]がおこなった<ref name="sonota">「『伊豆の踊子』の装幀その他」(文藝時代 1927年5月号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=29-42}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="kajimo">「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。{{Harvnb|評論1|1982|pp=321-325}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=175-177}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=249-252}}に所収</ref><ref>[[梶井基次郎]]「[[淀野隆三]]宛ての書簡」(昭和2年3月7日付)。{{Harvnb|梶井3巻|1966|pp=243-245}}に所収。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=117-118}}に抜粋掲載</ref><ref name="kajii">「湯ヶ島の日々」({{Harvnb|アルバム梶井|1985|pp=65-83}})</ref>。 翻訳版は[[エドワード・サイデンステッカー]]訳の英語(英題:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳(英題:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、[[ドイツ語]](独題:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、[[中国語]](中題:伊豆的舞女、伊豆的舞孃)、[[ポルトガル語]](葡題:A pequena dançarina de Izu)、[[イタリア語]](伊題:La danzatrice di Izu)、[[韓国語]](韓題:이즈의 무희)、[[スペイン語]](西題:La danzarina de Izu)、[[オランダ語]](蘭題:De danseres uit Izu)、[[ロシア語]](露題:{{lang|ru|Танцовщица из Идзу}})、[[フランス語]](仏題:La danseuse d'Izu)、[[台湾語]](台題:繁體中文)など世界各国で出版されている<ref name="honyaku">「翻訳書目録――伊豆の踊子」({{Harvnb|雑纂2|1983|pp=649-651}})</ref>。 == あらすじ == 20歳の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生の「私」は、自分の性質が[[孤児]]根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、1人[[伊豆]]への旅に出る。「私」は、[[湯ヶ島]]の道中で出会った[[旅芸人]]一座の1人の踊子に惹かれ、[[天城峠]]の[[天城トンネル|トンネル]]を抜けた後、彼らと一緒に[[下田市|下田]]まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、[[伊豆大島|大島]]から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。 天城峠の[[茶屋]]の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。 「私」は、旅芸人一行と素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして、踊子が「私」に寄せる[[無垢]]で純情な心からも、「私」は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。 下田へ着き、「私」は踊子とその兄嫁らを[[活動写真|活動]](映画)に連れて行こうとするが、踊子だけしか都合がつかなくなると、母親(兄嫁の母)は踊子の懇願をふりきり、活動行きを反対した。次の日に東京へ帰らなければならない「私」は、夜1人だけで活動に行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く[[太鼓]]の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。 別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を[[下田港]]の乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。 船がずっと遠ざかってから、踊子が[[艀]]で白いものを振り始めた。[[伊豆半島]]の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。 == 登場人物 == 年齢は[[数え年]] ;私 :20歳。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]の学生。 :学校の制帽で、紺[[絣|飛白]]の着物に[[袴]]をはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。[[修善寺川|湯川]]橋の近くで[[旅芸人]]の一行に出会う。再び[[天城山|天城]]七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。 :[[湯ヶ野温泉|湯ヶ野]]で[[鳥打帽]]を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。 ;踊子(薫) :14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。 :若[[桐]]のように足のよく伸びた白い裸身で[[湯殿]]から無邪気に手をふる。[[五目並べ]]が強い。美しい黒髪。前髪に桃色の[[櫛]]を挿している。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。[[尋常小学校]]2年までは[[甲府市|甲府]]にいたが、家族と[[伊豆大島|大島]]に引っ越す。小犬を旅に同行させている。 ;男(栄吉) :24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の[[波浮港]]からやって来た。 :栄吉は東京で、ある[[新派]]役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を2つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。 ;上の娘(千代子) :19歳。栄吉の妻。 :[[流産]]と[[早産]]で2度子供を亡くした。2度目の子は旅の空で早産し、子は1週間で死去。下田の地でその子の[[四十九日]]を迎える。 ;40女(おふくろ) :40代くらい。千代子の母。栄吉の義母。 :薫に[[三味線]]を教えているが、薫は[[変声|声がわり]]の最中なので、高い声で歌わせない。[[処女|生娘]]の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という[[尋常小学校|尋常]]5年生の息子もいる。 ;中の娘(百合子) :17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。 ;茶屋の婆 :天城七里の山道の茶店の婆さん。 :一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。 ;茶屋の爺 :婆さんの夫。 :長年[[中風]]を患い、全身が不随になっている。[[水死]]人のようにむくみ、瞳は黄色く濁っている。この老人には、川端が『[[十六歳の日記]]』で描いた病身の祖父の心象が投影されていることがしばしば指摘されている<ref name="hayashi5">「『伊豆の踊子』論」({{Harvnb|林武|1976|pp=97-120}}</ref><ref name="katsumata">[[勝又浩]]「人と作品――川端文学の源郷」({{Harvnb|一草一花|1991|pp=351-366}})</ref>。 ;紙屋 :宿で「私」と[[碁]]を打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。 ;鳥屋 :40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。 :踊子たちに[[鳥鍋]]を御馳走する。「[[水戸黄門漫遊記]]」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。 ;土方風の男 :鉱夫。 :帰りの[[霊岸島]]行きの[[下田港]]の乗船場で、「私」に声をかけ、[[水戸市|水戸]]へ帰る老婆を[[上野駅]]まで連れてやってほしいと頼む。 ;老婆 :[[下田温泉 (静岡県)|蓮台寺]]の[[銀山]]で働いていた倅とその嫁を[[スペイン風邪]]で亡くす。残された孫3人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。 ;少年 :[[河津町|河津]]の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。 :一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に[[海苔巻き]]すしをくれ、着ている学生[[マント]]へもぐり込ませ温めてくれる。 == 作品背景 == <small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small> [[川端康成]]が[[伊豆]]に旅したのは、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]入学の翌年[[1918年]]([[大正]]7年)の秋で、[[寮]]の誰にも告げずに出発した約8日(10月30日から11月7日)の初めての一人旅であった<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="album"/><ref name="hase3"/>{{refnest|group="注釈"|川端はその少し前、同級生の氷室吉平(文芸部)から伊豆旅行での湯ヶ島の話を聞かされていたという<ref name="hideko1">「第一章 出会い」({{Harvnb|秀子|1983|pp=5-44}})</ref>。氷室吉平は一高の『校友会雑誌』に何かを投稿してみないかと最初に川端に勧めた人物でもある<ref>「青春を語る―よき師、よき友に恵まれて―」([[長谷川泉]]との対談)(『川端康成集〈現代日本の文学16〉』月報4 [[学習研究社]]、1969年11月)。{{Harvnb|愛と美|1978|pp=193-210}}に所収</ref><ref name="mori15">「第一章 死の影のもとに――〈[[魔界]]〉の淵源 第五節 上京と伊豆への旅」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=40-46}})</ref>。}}。川端はそこで、岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる[[旅芸人]]一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会い、[[下田港]]からの帰京の賀茂丸では、[[蔵前]]高工(現・[[東京工業大学|東京工大]])の受験生・後藤孟と乗り合わせた<ref name="tsuchiya">[[土屋寛]]『天城路慕情――「伊豆の踊子」のモデルを訪ねて』(新塔社、1978年11月)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-161}}、{{Harvnb|小谷野|2013|pp=93-94,100}}</ref><ref name="kaori">[[川端香男里]]「川端康成の青春――未発表資料、書簡、読書帳、『新晴』(二十四枚)による―」([[文學界]] 1979年8月号)。{{Harvnb|森本・上|2014|pp=158-159}}</ref><ref name="taiyonenpu">[[森晴雄]]「川端康成 略年譜」({{Harvnb|太陽|2009|pp=161-165}})</ref><ref name="jitsuroku">「第二章 文壇へのデビュー――出世作『伊豆の踊子』」({{Harvnb|実録|1992|pp=52-55}})。{{Harvnb|文学大系|1990}}に抜粋掲載</ref>。 踊子の兄とは旅の後も[[文通]]があり、「[[横須賀市|横須賀]]の甲州屋方 時田かほる」差出人の川端宛て(一高の寄宿舎・南寮4番宛て)の[[年賀状]](大正7年12月31日消印)が現存している<ref name="kaori"/>。なお、踊子・たみのことは、旅の翌年に書かれた川端の処女作『ちよ』(1919年)の中にも部分的に描かれている<ref name="hase3"/><ref name="mori15"/><ref name="chiyo">「ちよ」(校友会雑誌 1919年6月18日・第277号)。{{Harvnb|小説21|1980|pp=9-26}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=289-309}}に所収</ref><ref name="sato">[[佐藤勝 (国文学者)|佐藤勝]]「『伊豆の踊子』論」({{Harvnb|作品研究|1969-03|pp=65-83}})</ref>。 川端は、旅から約7年経た後に『伊豆の踊子』を書いた。川端は自作について、〈「伊豆の踊子」はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである〉とし、〈私の旅の小説の幼い出発点である〉と述べている<ref name="sakusha">「一草一花――『伊豆の踊子』の作者」(風景 1967年5月-1968年11月号)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=355-409}}、{{Harvnb|評論5|1982|pp=207-264}}、{{Harvnb|一草一花|1991|pp=283-350}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=325-403}}に所収</ref>。また、旅に出た動機については以下のように語っている<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>。 {{Quotation|私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の[[寄宿舎]]と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『[[少年 (川端康成)|少年]]』第14章の中)<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>}} 川端は、幼少期に身内をほとんど失っており、1歳7か月で父親、2歳7か月で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し[[孤児]]となるという生い立ちがあったため、作中に〈孤児根性〉という言葉が出てくる。また当時、[[旅芸人]]は[[河原乞食]]と蔑まれ、作中にも示されているように[[物乞い]]のような身分の賤しいものとみなされていた<ref name="okuno"/><ref name="hashimoto">[[橋本治]]「鑑賞――『恋の垣根』」({{Harvnb|踊子・集英|1993|pp=264-272}})</ref>。しかし、そういった一般的な見方を離れた〈好意と信頼〉が彼らと川端の間に生れた<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>。 {{Quotation|旅情と、また[[大阪平野]]の田舎しか知らない私に、伊豆の田舎の風光とが、私の心をゆるめた。そして踊子に会つた。いはゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野]の匂ひがある正直な好意を私は見せられた。<br /> いい人だと、踊子が言つて、兄嫁が肯つた、一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかつた。いい人かと思つた。さうだ、いい人だと自分に答へた。平俗な意味での、いい人といふ言葉が、私には明りであつた。湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道づれになれたと思ふ、さうなれたことがうれしかつた。|川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/>}} 伊豆の旅から4年後の[[1922年]](大正11年)の夏も[[湯ヶ島温泉|湯ヶ島]]に滞在した川端は、踊子たちとの体験や、大阪府立茨木中学校(現・[[大阪府立茨木高等学校]])の寄宿舎での下級生・小笠原義人との[[同性愛]]体験を「湯ヶ島での思ひ出」という素稿にまとめた<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="atogaki5">「あとがき」(『川端康成全集第5巻 虹』新潮社、1949年3月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=101-128}}に所収</ref><ref name="atogaki6">「あとがき」(『川端康成全集第6巻 [[雪国 (小説)|雪国]]』新潮社、1949年6月)。{{Harvnb|独影自命|1970|pp=129-147}}に所収</ref>。 これは前年の[[1921年]](大正10年)に、[[伊藤初代]]([[本郷区]]本郷元町の[[カフェー (風俗営業)|カフェ]]・エランの元[[女給]])との婚約破談事件で傷ついた川端が、以前自分に無垢な好意や愛情を寄せてくれた懐かしい踊子・加藤たみや小笠原義人を思い出し、初代から受けた失恋の苦しみを癒すためであった<ref name="yugashima"/><ref name="shounen"/><ref name="hayashi5"/><ref name="atogaki6"/>。この原稿用紙107枚の「湯ヶ島での思ひ出」が元となり、『伊豆の踊子』(1926年)、『[[少年 (川端康成)|少年]]』(1948年-1949年)へ発展していった<ref name="shounen"/><ref name="hayashi4"/><ref name="hase3"/><ref name="mori24">「第二章 新感覚派の誕生――[[文壇]]への道 第四節 〈孤児〉からの快癒『伊豆の踊子』」({{Harvnb|森本・上|2014|pp=125-160}})</ref>。 ちなみに、川端はカフェ・エランに通い始めた頃、店で[[眩暈]]を起して奥の部屋で寝かせてもらい、ちょうどその時に伊藤初代が[[銭湯]]から戻り隣室で着替えをする後ろ姿を見て、〈こんなに子供だつたのか〉と、その思いがけない幼い裸身に驚くが、その瞬間、約1年前に[[湯ヶ野温泉]]で見た踊子・加藤たみの〈少女の裸身〉を〈子供なんだ〉と思ったことを想起している<ref name="kagaribi">「篝火」([[新小説]] 1924年3月号)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=83-104}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=100-123}}、{{Harvnb|作家の自伝|1994}}に所収</ref><ref name="nanpokan">「南方の火」(『川端康成全集第2巻 温泉宿』新潮社、1948年8月)。{{Harvnb|小説2|1980|pp=493-544}}、{{Harvnb|初恋小説|2016|pp=35-99}}に所収</ref><ref name="kawashima">[[川嶋至]]「『伊豆の踊子』を彩る女性」(上・下)([[北海道大学]]国文学会 国語国文 第18・19号、20号、1961年3月、12月)。「第三章 精神の傷あと―『みち子もの』と『伊豆の踊子』―」({{Harvnb|川嶋|1969|pp=65-111}})</ref><ref name="kawanishi">[[川西政明]]「解説」({{Harvnb|随筆集|2013|pp=465-481}})</ref>(詳細は[[伊藤初代#一高生・川端康成との出会い]]を参照)。 川端は最初の伊豆の旅以来、[[田方郡]][[上狩野村]]湯ヶ島1656番地(現・[[伊豆市]]湯ヶ島1656-1)にある「[[湯本館]]」<ref>この宿は、2018年現在も存在している。http://www.yumotokan-izu.jp/</ref> に[[1927年]](昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになるが、[[1924年]](大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあった<ref name="atogaki6"/><ref>「伊豆行――落花流水」(風景 1963年6月号)。『落花流水』(新潮社、1966年5月)、{{Harvnb|随筆3|1982|pp=216-219}}、{{Harvnb|随筆集|2013|pp=118-122}}</ref><ref>川端康成「あとがき」({{Harvnb|踊子・岩波|2003|pp=}})。{{Harvnb|評論5|1982|pp=628-636}}</ref>。単行本刊行の際の作業をしている頃、湯ヶ島へ[[転地療養]]に来た[[梶井基次郎]]に旅館「湯川屋」を紹介し、[[校正]]をやってもらったが、それを契機に梶井やその同人の[[淀野隆三]]らと親しく交流するようになった<ref name="sonota"/><ref name="kajimo"/><ref name="kajii"/>。 == 作品評価・研究 == <small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small> 『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る<ref name="jiten"/><ref name="sato"/>。それらの論評は、様々なニュアンスの差異を持ちながら川端の孤児の生い立ちと青春体験の視点、[[伊藤初代]]との婚約破談事件との絡みから論考するものや、主人公の語りの構造の分析から作品世界を論じるものなど多岐にわたっているが、川端という作家を語る際の、この作品の持つ重みや大きさへの認識はみな共通している<ref name="jiten"/><ref name="sato"/>。 [[竹西寛子]]は、『伊豆の踊子』は川端作品の中では比較的爽やかなもので、そこでは「自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解」がかなめになっているとし<ref name="takenishi">[[竹西寛子]]「川端康成 人と作品」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=179-187}})</ref>、この作品が「青春の文学」と言われる理由を、「この和解の切実さ」にあると解説している<ref name="takenishi"/>。そして別れの場面の〈私〉の涙は「感傷」ではなくて、それまであった「過剰な自意識」が吹き払われた表われであり、それゆえに〈私〉が、少年の親切を自然に受け入れ、融け合って感じるような経験を、読者もまた共有できうると考察している<ref name="takenishi"/>。 [[奥野健男]]は、川端が幼くして肉親を次々と亡くし、死者に親しみ、両親の温かい庇護のなかった淋しい孤児の生い立ちがその作風に影響を及ぼしていることを鑑みながら、川端の心にある、「この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情」が、文学の大きな[[話題|モチーフ]]になっているとし<ref name="okuno"/>、そういった川端の要素が顕著な『伊豆の踊子』を、「[[温泉町]]のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている[[芸人]]、その中の[[美少女]]への殆んど[[判官贔屓|判官びいき]]とも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作」と高評している<ref name="okuno"/>。 そして芸人が[[徳川時代]]に「[[河原乞食|河原者]]」と蔑まれた反面、[[白拍子]]を愛でた[[後白河天皇|後白河法皇]]が『[[梁塵秘抄]]』を編纂したように、古くから芸人と上流[[貴族]]とは「不思議な交歓」があり、[[能]]、[[狂言]]、[[歌舞伎]]などが上流階級にとりいられてきた芸能史を奥野は解説しつつ<ref name="okuno"/>、『伊豆の踊子』は、そういった「芸人に対する特別のひいき、さらには憧憬という日本人の古来からの心情」が生かされ、その「秘密の心情」は「日本の美の隠れた源泉」であると論じている<ref name="okuno"/>。 [[北野昭彦]]は、この奥野の論を、数ある『伊豆の踊子』論の中でも日本の芸能史、「旅芸人[[フォークロア]]」をよく踏まえているものとして敷衍し<ref name="kitano">{{Harvnb|北野|2007}}</ref>、漂流者の芸人と定住者との関係性、[[マレビト]]である漂泊芸人の来訪が「[[神]]あるいは[[乞食]]」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた論究を展開しながら<ref name="kitano"/>、「[[異界]]」への入り口の象徴である〈[[峠]]〉や〈橋〉で旅芸人一行(遍歴民)と再会した〈私〉が[[天城トンネル|トンネル]]を抜け、彼らと同行することで「遍歴的人生の[[疑似体験]]」をするが、芸と旅が日常である彼らと、それが非日常である〈私〉とは「別の[[時空]]を生きながら道連れになっている」と解説している<ref name="kitano"/>。 また北野は、この物語が進行するにつれ、主人公が「娘芸人の[[ペルソナ (心理学)|ペルソナ]]を外した少女の〈美〉」自体を語ることが主となり、小説のタイトル通り、踊子像そのものを語る展開になることに触れ<ref name="kitano"/>、踊子の〈私〉に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、〈私〉の[[袴]]の裾を払ってくれたり[[下駄]]を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げながら、踊子の何気ない言葉で、〈私〉が「本来の自己を回復していたこと」に気づくと解説し<ref name="kitano"/>、「〈私〉の踊子像」がその都度「多面的に変容する」ことの意味を[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]の『[[コレー]]像の心理学的位相について』<ref name="jung">[[カール・グスタフ・ユング]]「コレー像の心理学的位相について」(『神話学入門』[[カール・ケレーニイ]]との共著・[[杉浦忠夫]]訳。[[晶文社]]、1975年5月。晶文社オンデマンド選書、2007年1月)。ISBN 9784794910769</ref> を引きつつ説明している<ref name="kitano"/>。 {{Quotation|彼女は、[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]が[[元型]]的形象の一つとしてあげた「[[コレー]]像」に似ている。コレーとは、少女、母、[[花嫁]]の三重の相において現れる永遠の[[女性|乙女]]である。「コレー像は未知の若い少女として登場」し<ref name="jung"/>、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」<ref name="jung"/> とされている。|[[北野昭彦]]「『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生」<ref name="kitano"/>}} [[三島由紀夫]]は、川端の全作品に通じる重要なテーマである「[[処女]]の主題」の端緒があらわれている『伊豆の踊子』において、〈私〉が観察する踊子の様々な描写の「静的な、また動的な[[デッサン]]によつて的確に組み立てられた処女の内面」が「一切読者の想像に委ねられてゐる」性質を指摘し<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子』について」({{Harvnb|踊子・新潮|2003|pp=188-194}})。「『伊豆の踊子』『温泉宿』『[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]』『[[禽獣 (小説)|禽獣]]』について」として{{Harvnb|三島27巻|2003|pp=317-322}}に所収</ref>、この特性のため、川端は同時代の他作家が陥ったような「浅はかな似非近代的[[心理主義]]の感染」を免かれていると考察しつつ<ref name="mishima"/>、「処女の内面は、本来[[表現]]の対象たりうるものではない」として、以下のようにその「処女の主題」を解説している<ref name="mishima"/>。 {{Quotation|処女を犯した男は、決して処女について知ることはできない。処女を犯さない男も、処女について十分に知ることはできない。しからば処女といふものはそもそも存在しうるものであらうか。この[[不可知論|不可知]]の苦い認識、人が川端氏の[[抒情]]といふのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである。<br /> 焦燥であるために一見[[あいまい]]な語法が必要とされる。しかしこのあいまいさは正確なあいまいさだ。ここにいたつて、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の[[形代]](かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる。|[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子』について」<ref name="mishima"/>}} [[勝又浩]]は、物語の導入部の[[天城峠]]の[[茶屋]]で〈到底生物とは思へない山の[[怪物|怪奇]]〉のような醜い老人の姿が描かれる意味を、『[[雪国 (小説)|雪国]]』で主人公が〈[[清水トンネル|トンネル]]〉を抜けて駒子に会うように、『伊豆の踊子』でも踊子に会うために越えなければならなかった「試練」であり、「異界」への入り口である天城峠の〈[[天城トンネル|暗いトンネル]]〉を抜けることは「[[タイムマシン]]としての儀式」を暗示させるとして<ref name="katsumata"/>、こういった川端文学の[[幻想文学|幻想的]]な一面が[[泉鏡花]]や[[永井荷風]]とも異なる点を説明して、幻想世界を伝える「媒介者」(主人公)が、鏡花の場合は物語世界同様「[[野史|稗史]]的なまま」で、荷風は「近代の住人」であり「知識人、全能的存在」だが、川端の場合は川端自身が「異界」の人物であり「幽霊のような人物」「[[まれびと]]」だとしている<ref name="katsumata"/>。 {{Quotation|天下の[[第一高等学校 (旧制)|一高]]生が、たまたま[[鬼]]の番するトンネルを潜り抜けて、遠い島から来た舞姫に邂逅して魂を浄化する物語と読むのが鏡花風だが、世を拗ねた一人の[[インテリ]]が田舎の旅芸人に関心を持って、現代都市では失われた古きよき時代の純朴な娘を発見して旅情を慰めるというのが荷風式、そして川端文学の場合は、異界はむしろ主人公の側にある。<br /> 「私」は、トンネルの向こうの人々にとっては神秘的な[[まれびと]]であって、彼は訪れる先々で歓迎されるが、そのことによって、健気に生きる人々を祝福し、彼自身は、その[[民俗]]的約束に従って、村々の不幸を、汚濁なるものを身に受けて村を去って行かなければならない。それ故『伊豆の踊子』には、その結末に至ってもう一度老人が登場するのであろう。|[[勝又浩]]「人の文学――川端文学の源郷」<ref name="katsumata"/>}} そして勝又は、この小説が表面的には「孤児意識脱却の物語」であるにもかかわらず、最後にまた老人が登場し、3人の孤児を道連れにすることを村人から[[合掌]]で懇願される箇所に、川端の「孤児の宿命」が垣間見えるとし<ref name="katsumata"/>、「〈孤児根性〉、〈息苦しい〉孤児意識からは解放されたかもしれないが、孤児としての宿命そのものは決して彼を解き放ちはしなかったはず」だと解説している<ref name="katsumata"/>。また、三島由紀夫が川端を「永遠の旅人」と称したことや<ref>「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] 1956年4月・51号)。{{Harvnb|三島29巻|2003|pp=204-217}}に所収</ref>、川端の処女作から諸作に至るまで見られる[[心霊主義|心霊的]]な要素を鑑みながら{{refnest|group="注釈"|例えば処女作『ちよ』では、〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と自身を語っている<ref name="katsumata"/><ref name="chiyo"/>。}}、こうした「この世に定住の地を持たない」川端が、トンネルを越え「まれびととなって[[人界]]を訪れ」て、「踊子の純情」をより輝かせられる特異性を考察している<ref name="katsumata"/>。 [[橋本治]]は恋愛的な観点から『伊豆の踊子』を捉え、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、「いやしい旅芸人」と「エリートの卵」という「身分の差」の垣根さえも越え、冷静に相手をじっと観察する余裕もなくなって「ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう、恋という感情」を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりが、遠ざかる船に向って[[艀|はしけ]]から一心に白いハンカチを振る踊子の正直な姿を見て、「プライドの高い〈私〉は、ついに恋という感情を認めた」と解説している<ref name="hashimoto"/>。 そして橋本は、主人公が「ただ彼女といられて幸福だった」という真実の感情を認め、自分と同じエリートコースの少年を「踊子とつながる人間でもあるかのように」思い、その好意に包まれ終わる結末は<ref name="hashimoto"/>、「恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実」を突きつけられ、その「青春の自意識のつらさ」を描いているため『伊豆の踊子』は「永遠の作品」となっていると評している<ref name="hashimoto"/>。 [[川嶋至]](細川皓)は、『伊豆の踊子』の底流に、みち子([[伊藤初代]]の仮名)の「面影」があるとして、初代から婚約解消された川端の動転を綴った私小説『非常』との関連性を看取し<ref name="kawashima"/>、川端が初代の元へ向かう汽車の中で別れの手紙を一心に読み返している時に落とした財布やマントを拾ってくれ、〈寝ずの番〉までしてくれた〈学生〉(高校の受験生)の好意に甘えて身を委ねる場面と、下田港で踊子と別れた帰りの汽船で、〈親切〉な〈少年〉のマントに包まれて素直に泣く共通項を指摘しながら、「一見素朴な青春の淡い思い出」を描いた『伊豆の踊子』は、「実生活における失恋という貴重な体験を代償として生まれた作品」だとして、踊子は、「古風な髪を結い、旅芸人に身をやつした、みち子に他ならなかった」と考察している<ref name="kawashima"/>。 なお、川端本人はこの川嶋至の論考に関し、〈まつたく作者の意識にはなかつた〉として、草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書いた時には伊藤初代のことが〈強く心にあつた〉が、『伊豆の踊子』を書いた時に初代は〈浮んで来なかつた〉としている<ref name="sakusha"/>。そして『非常』での汽車の場面との類似を指摘されたことについては、以下のように語っている<ref name="sakusha"/>。 {{Quotation|「伊豆の踊子」の時、「非常」に受験生の好意を書いたのは忘れてゐた。細川氏(川嶋至)に二つをならべてみせられて、私はこれほどおどろいた批評もめづらしいが、それよりもさらに、これは二つとも事実あつた通りなので、いはば人生の「非常」の時に、二度、偶然の乗合客の受験生が、私をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と私は考えさせられるのである。ふしぎである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}} [[林武志]]は、川端が伊豆で踊子に会った頃には、中学時代の後輩で[[同性愛]]的愛情を持っていた小笠原義人と[[文通]]が続いていたことと、草稿「湯ヶ島での思ひ出」での踊子の記述が、清野少年(小笠原義人)の「序曲」的なものになっていることから、『伊豆の踊子』での「踊子」像には小笠原少年の心象が「[[陰画]]」的に投影されているとしている<ref name="hayashi4"/><ref name="hayashi5"/>。 {{Quotation|事実、川端は多くの作品で、少女あるいはそれに近い女に少年のイメージを探し求めている。それ故、清野少年の俤を心に抱く川端が、大正七年の伊豆での初旅の途中、実在の踊り子に清野少年のイメージを探し求め、大正十一年の「湯ヶ島での思ひ出」執筆時に、清野少年登場の序曲的存在としての踊り子の部分において、「踊子」に清野少年のイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ではない。即ち、[[両性]]混入による「踊子」の一方からの[[Xジェンダー|中性]]化である。|[[林武志]]「『伊豆の踊子』論」<ref name="hayashi5"/>}} また、最終場面で泣いている「私」をマントで包んでくれた受験生の少年の描写も「清野少年のバリエーション」ではないかと林は考察している<ref name="hayashi5"/>。 == 別れの場面における主語の問題 == <small>※川端康成自身の発言や、作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉にしています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。</small> 主人公と踊子が乗船場で別れる場面に以下のような一文があるが、[[主語]]が省かれているため、〈さよなら〉を言おうとして止めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公と踊子のどちらであるのか、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった<ref name="sakusha"/>。 {{Quote|'''私が縄梯子に捉まらうとして振り返つた時、さよならを言はうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。'''|川端康成「伊豆の踊子」}} これについて川端は、主語は〈踊子〉であるとし、以下のように答えている<ref name="sakusha"/>。 {{Quotation|はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の「私」と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか。「もう一ぺんただうなづいた」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}} そして川端は、問題の箇所をよく読み返してみると読者に誤解を与えたのも、主語を省いたため惑わせることになったかもしれないとしながらも、以下のように説明している<ref name="sakusha"/>。 {{Quotation|「さよならを言はうとした」のも、「うなづいた」のも、「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としさうである。「私が」の「が」は、「さよならを言はうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ[[主格]]が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}} なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている<ref name="sakusha"/>。そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、〈不用意な粗悪な文章〉で、〈主格を補ふだけではすまなくて、そこを書き直さねばならぬ〉と思えたことと、『伊豆の踊子』が〈私〉の視点で書かれた物語であることの説明として以下のように語っている<ref name="sakusha"/>。 {{Quotation|「伊豆の踊子」はすべて「私」が見た風に書いてあつて、踊子の[[心理]]や[[感情]]も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、「(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して、」と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である。(中略)<br /> 主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである。|川端康成「『伊豆の踊子』の作者」<ref name="sakusha"/>}} [[高本條治]]は、この踊子の主格問題に関する川端の、〈全体をやぶる表現〉という言及について、〈私〉が見た風に書くという「語りの視点」を全篇通して一貫させるべきだったというのが川端の「反省的自覚」だったとし<ref name="takamoto">{{Harvnb|高本|1997}}</ref>、この小説を軽く読み流すのではなく、〈私〉に同化し感情移入しながら「解釈処理」を続けた読者にとっては、物語の終盤でいきなり、たった一箇所だけ、「[[語彙]]統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、〈私〉以外の人物と同化した視点で語られたと解釈できる部分」が混入しているのは戸惑いであり、その「語りの視点」の不整合性に気づく認知能力を持つ読者にとって、「川端が犯した不用意な視点転換」は、重大な解釈問題として顕在化されると論じている<ref name="takamoto"/>。 [[三川智央]]はこれに比して、やや違った論点からこの視点転換問題をみて、通常の語り手としての〈私〉の次元でならば、問題個所は、「(踊子が)何かを言おうとしたようだが、……」あるいは「別れのことばを言おうとしたようだが……」という風に推測的な文言になるはずだとし<ref name="mikawa">{{Harvnb|三川|1998}}</ref>、川端がほとんど無意識的に〈(踊子は)さよならを言はうとした〉と断定表現したのは、主人公の〈私〉が一種の「[[狂気]]」の状態にあり、「踊子との間に暴力的ともいえる一方的な[[コミュニケーション]]を夢想しているにほかならない」と解説しながら<ref name="mikawa">{{Harvnb|三川|1998}}</ref>、このことは同時に、物語世界内の〈私〉と、「語り手である〈私〉の[[自己同一性]]の崩壊=〈私〉そのものの崩壊」をも意味していると論考している<ref name="mikawa"/>。 そして三川は、この場面では、踊子との「離別」と共に、「まるでそれを阻止するかのように〈私〉と踊子の「心理的な一体化」が示されるとし<ref name="mikawa"/>、それはあくまで「現実世界の解釈コードでは認識不能な『事実』」で、「〈私〉の踊子に対する一方的な一体化の夢想」は「〈私〉の意識の肥大化と『他者』である踊子の抹殺」が前提となっているが、読者側はその〈私〉の「暴力性」を「解釈コードの組み替え」により、「[[抒情]]的空間」といったものとして「物語空間を辛うじて受け入れることになる」と考察しつつ<ref name="mikawa"/>、通常の意味での「語り手」という存在を打ち消してしまう作品自体の不安定な構造を支えている力を、「互いに異なる志向性を帯びた複数の《語り》の葛藤によって生じるダイナミズム=《語り》の力」と呼び、以下のように諭をまとめている<ref name="mikawa"/>。 {{Quotation|少なくとも『伊豆の踊子』は、自己の「過去の事実」を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという一般的な[[一人称]]小説の構造などには還元できない、むしろそのような主体を疎外する「語り」そのものの「力」によって支えられているのであり、多重的な「語り」の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎないのだ。そこでは既に、物語内容の物語言説に対する優位性という仮構は崩壊してしまっている。|[[三川智央]]「『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題」<ref name="mikawa"/>}} == 観光資源としての『伊豆の踊子』 == [[File:Relief of Kawabata Yasunari, Izu, Shizuoka.jpg|thumb|150px|[[天城峠]]にある川端康成のレリーフ]] 浄蓮の滝から本谷川に沿って登り、旧[[天城トンネル]]を抜けて、[[河津川]]に沿って下るルートは「踊子歩道」として整備されている<ref name="tabi">{{Cite web|和書|url= https://izunotabi.com/wp-content/uploads/2018/12/%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E6%95%A3%E7%AD%96%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%A8%EF%BC%91%EF%BC%90%E9%81%B8.pdf |title= 天城の自然10選と探索マップ|publisher= 伊豆の国市観光協会 |accessdate= 2021-12-19}}</ref>。「踊子歩道」は[[2002年]]に[[遊歩百選]]に選定された<ref name="tabi" />。 本谷川([[狩野川]])沿いに杉やブナが繁る林の旧街道をしばらく歩くと踊子橋を過ぎたあたりの[[わさび]]沢の側に文学碑がある。この文学碑には、川端の[[毛筆]]書きによる〈道が[[つづら折れ|つづら折り]]になつて、いよいよ[[天城峠]]に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た。…〉という作品の冒頭部分が刻まれており、左側の碑面に川端の銅版製の[[レリーフ]]も設置されている。この文学碑は、[[1981年]](昭和56年)5月1日に建てられ除幕式が行われた<ref name="hasebun">「『伊豆の踊子』と新文学碑」([[図書新聞]] 1981年5月23日号){{Harvnb|論考|1991|pp=672-674}}に所収</ref>。 そこから天城トンネルを抜け河津川沿いの道を下っていくとある[[湯ヶ野温泉]]の旅館「福田屋」の隣にも文学碑がある。こちらの文学碑は、川端存命中の[[1965年]](昭和40年)11月12日に建立された<ref name="itaga15">「第一編 評伝・川端康成――回帰」({{Harvnb|板垣|2016|pp=97-110}})</ref>。碑には川端の直筆で、〈湯ヶ野までは河津川の[[渓谷]]に沿うて三里余りの下里だつた。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。…〉の一節が刻まれており、旅館の入口には[[ブロンズ像|ブロンズ]]の踊子像もある<ref name="jitsuroku"/><ref name="itaga15"/>。 川端は、この「福田屋」側の文学碑の除幕式で、作中に登場する受験生〈少年〉のモデルだった後藤孟(再会当時65歳)と47年ぶりに再会した<ref name="sakusha"/>。後藤孟は「賀茂丸」で川端と会った当時のことを以下のように述懐している<ref name="jitsuroku"/>{{refnest|group="注釈"|後藤孟は、[[横浜市|横浜]]で[[電子部品|電子工業部品]]を作る会社社長となった<ref name="jitsuroku"/>。}} {{Quotation|機関室の前の狭い部屋で、いろんな話をしました。旅芸人の話が印象的でした。空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当の[[海苔巻き|ノリ巻き]]をすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「[[下宿]]が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、[[刺青|イレズミ]]をした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。|後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)<ref name="jitsuroku"/>}} [[File:JR-Limited-Express-Odoriko.JPG|thumb|150px|特急「踊り子」号。ヘッドマークにも注目。]] [[河津七滝|初景滝]]そばには「踊り子と私」というブロンズ像もあり、[[道の駅天城越え]]には文学博物館(昭和の森会館)がある。 [[1981年]](昭和56年)10月1日より、[[日本国有鉄道|国鉄]](1987年4月1日以降[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[伊豆急行]]・[[伊豆箱根鉄道]]直通[[特別急行列車|特急列車]]の名称に、「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」号の名称が公募により充てられた。また、[[東海自動車]](1999年4月1日以降は[[中伊豆東海バス]])の[[ボンネットバス]]の愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。 == 映画化 == {{ウィキポータルリンク|映画|[[画像:Pictograms-nps-services-theater-2.svg|40px|Portal:映画]]}} 映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。 [[ファイル:Izu no odoriko 1954 poster.jpg|thumb|伊豆の踊子([[1954年]])<br />[[美空ひばり]]と[[石濱朗]]]] *『[[恋の花咲く 伊豆の踊子]]』([[松竹]]) **1933年(昭和8年)2月2日公開。[[モノクローム|白黒]]・[[サイレント映画]] **監督:[[五所平之助]]。脚本:[[伏見晃]]。撮影:[[小原譲治]] **主演:[[田中絹代]]、[[大日方傳]]、[[河村黎吉]]、[[小林十九二]]、[[若水順子]]、[[新井淳]]、ほか **※ 初の映画化作品。昭和8年度の[[キネマ旬報]]ベストテンの第9位<ref name="kai80">「昭和8年」({{Harvnb|80回史|2007|p=21}})</ref><ref name="kai85">「昭和8年」({{Harvnb|85回史|2012|p=24}})</ref>。 *『伊豆の踊子』(松竹) **1954年(昭和29年)公開。[[白黒映画|白黒]]98分。 **監督:[[野村芳太郎]]。製作:[[山本武]]、[[山内静夫 (映画プロデューサー)|山内静夫]]。企画:[[福島通人]]。脚本:[[伏見晁]]。撮影:[[西川亨]]。音楽:[[木下忠司]]。主題歌:[[日本コロムビア|コロンビア]] **出演:[[美空ひばり]]、[[石濱朗]]、[[由美あづさ]]、[[片山明彦]]、[[雪代敬子]]、[[三島耕]]、[[日守新一]]、[[南美江]]、[[松本克平 (俳優)|松本克平]]、[[多々良純]]、[[桜むつ子]] **公開時の惹句は、「椿の花は咲いたけどなぜに咲かない恋の花!」である<ref>「あ行――伊豆の踊子」({{Harvnb|なつかし|1989}})</ref><ref>「美空ひばり――伊豆の踊子」({{Harvnb|なつかし2|1990|p=112}})</ref>。 *『伊豆の踊子』(松竹) **1960年(昭和35年)5月13日公開。カラー87分。 **監督:[[川頭義郎]]。製作:[[小梶正治]]。脚本:[[田中澄江]]。撮影:[[荒野諒一]]。美術:[[岡田要]]。音楽:[[木下忠司]] **出演:[[鰐淵晴子]]、[[津川雅彦]]、[[桜むつ子]]、[[田浦正巳]]、[[城山順子]]、[[瞳麗子]]、ほか *『[[伊豆の踊子 (1963年の映画)|伊豆の踊子]]』([[日活]]) **1963年(昭和38年)6月2日公開。カラー87分。 **監督:[[西河克己]]。脚本:[[井手俊郎]]、西河克己 **出演:[[吉永小百合]]、[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]、[[大坂志郎]]、[[堀恭子 (女優)|堀恭子]]、[[浪花千栄子]]、ほか **※ 映画撮影を見学した川端康成は、踊子姿の吉永小百合に〈なつかしい親しみ〉を感じたという<ref>「『伊豆の踊子』――作者とヒロイン」(別冊小説新潮 1963年7月15日号)。{{Harvnb|評論5|1982|pp=190-191}}に所収</ref><ref>「付録写真」({{Harvnb|踊子・集英|1993}})</ref>。 *『[[伊豆の踊子 (1967年の映画)|伊豆の踊子]]』([[東宝]]) **1967年(昭和42年)2月25日公開。カラー85分。 **監督:[[恩地日出夫]]。脚本:恩地日出夫、[[井手俊郎]] **出演:[[内藤洋子 (女優)|内藤洋子]]、[[黒沢年男]]、[[江原達怡]]、[[田村奈己]]、[[乙羽信子]]、ほか *『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』(東宝) **1974年(昭和49年)12月28日公開。カラー82分。 **監督:[[西河克己]]。脚本:[[若杉光夫]] **出演:[[山口百恵]]、[[三浦友和]]、[[中山仁]]、[[佐藤友美]]、[[一の宮あつ子]]、[[鈴木ヒロミツ]]、[[浦辺粂子]]、[[石川さゆり]]、[[江戸家猫八 (3代目)|江戸家猫八]]、[[千家和也]](特別出演)、[[宇野重吉]](ナレーション)ほか == テレビドラマ化 == *[[連続テレビ小説]]『伊豆の踊り子』([[日本放送協会|NHK]]) **1961年(昭和36年)1月1日 - 3日 日曜日 - 火曜日 22:15 - 22:40 **脚本:[[篠崎博]]。演出:[[畑中庸生]] **出演:[[小林千登勢]]、[[山本勝]]、[[梅野公子]]、[[鈴木瑞穂]] **※ この作品の成功により「連続テレビ小説」の素地が出来上がった。 *[[白雪劇場]]・[[川端康成名作シリーズ]]『伊豆の踊り子』([[関西テレビ放送|KTV]]) **1973年(昭和48年)2月4日、11日(全2回) 日曜日 21:30 - 22:25 **演出:[[岡本五十二]]。提供:[[小西酒造]] **出演:[[栗田ひろみ]]、[[小林芳宏]]、[[ジェリー藤尾]]、[[奈良岡朋子]]、[[神鳥ひろ子]]([[上岡紘子]])、[[松岡きっこ]] *[[青春アニメ全集|青春アニメ]]『伊豆の踊子』([[日本テレビ放送網|NTV]]) **1986年(昭和61年)4月25日 金曜日 19:00 - 19:30 **脚本:[[吉田憲二]]。演出:[[高須賀勝己]]。総監督:[[黒川文男]]。キャラクター監修:[[森康二]]。キャラクターデザイン:[[椛島義夫]]。エンディングイラスト:[[林静一]]。音楽:[[坂田晃一]]。製作:[[本橋浩一]] **声の出演:[[島本須美]]、[[神谷明]]、[[津嘉山正種]]、[[今井和子]]、[[小宮和枝]]、[[緒方賢一]]。語り部:[[木内みどり]] **主題歌:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]「青春は舟」「ため息」(作詞:[[なかにし礼]]。作曲:[[坂田晃一]]。編曲:[[島津秀雄]]) **※『青春アニメ』の第1作。 **※ [[新潮社]]より「アニメ文学館」(全15巻)の第1巻([[伊藤左千夫]]『[[野菊の墓]]』と合わせて)としてビデオ(VHS、DVD)発売。 *『伊豆の踊子』([[TBSテレビ|TBS]]) **1992年(平成4年)2月3日 月曜日 21:00 - 22:54 **製作:[[東宝]]。企画協力:[[オスカープロモーション]] **脚本:[[矢島正雄]]。監督:[[三村晴彦]]。音楽:[[小六禮次郎]] **企画:[[古賀誠一]]、風間健治、[[樋口祐三]]。プロデュース:青木信也、小澤康彦、高橋昇 **出演:[[小田茜]]、[[萩原聖人]]、[[後藤久美子]]、[[布施博]]、[[秋本奈緒美]]、[[越智静香]]、[[小島三児]]、[[小倉一郎]]、[[細川俊之]]、[[高樹沙耶]]([[益戸育江]])、[[吉行和子]]、[[でんでん]]、[[小田薫]]、[[二瓶鮫一]]、[[粟津號]]、[[谷津勲]] ほか *日本名作ドラマ『伊豆の踊子』([[テレビ東京|TX]])月曜日 21:00 - 21:54 **1993年(平成5年)6月14日、21日(全2回) 月曜日 21:00 - 21:54 **脚本:[[井手俊郎]]、[[恩地日出夫]]。演出:恩地日出夫。音楽:[[毛利蔵人]]。制作会社:東北新社クリエイツ、TX。 **出演:[[早勢美里]](早瀬美里)、[[木村拓哉]]、[[加賀まりこ]]、[[柳沢慎吾]]、[[飯塚雅弓]]、[[大城英司]]、[[石橋蓮司]] *[[モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ]]1st story『伊豆の踊子』(TBS) **2002年(平成14年)1月2日 水曜日 21:00 - 23:24 **脚本:[[寺田敏雄]]。演出:[[星田良子]] **制作:[[持田一政]]、[[浅井洋一]]。企画:[[貴島誠一郎]]、[[橋本孝 (プロデューサー)|橋本孝]]。プロデュース:[[鈴木伸太郎]] **出演:[[後藤真希]]、[[小橋賢児]]、[[石黒賢]]、[[片平なぎさ]]、[[保田圭]]、[[辻希美]]、[[国分佐智子]]、[[渡辺いっけい]]、[[大杉漣]]、[[銀粉蝶]]、[[北川智繪]]、[[ト字たかお]]、[[鈴木修平]]、[[三木茂]]、[[西川りな]]、[[石原有菜]]、[[劇団東俳]]、[[テアトルアカデミー]]、伊豆の住民 {{前後番組| 放送局=[[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列| 放送枠=[[白雪劇場]]<br />【[[川端康成名作シリーズ]]】| 番組名=伊豆の踊子<br />(1973年)| 前番組=[[雪国 (小説)|雪国]]| 次番組=[[美しさと哀しみと]]| 2放送局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系| 2放送枠=[[青春アニメ全集]]| 2番組名=伊豆の踊子| 2前番組=(なし)| 2次番組=[[野菊の墓]]| 3放送局=[[テレビ東京]]系| 3放送枠=[[テレビ東京月曜9時枠の連続ドラマ#日本名作ドラマ|日本名作ドラマ]]| 3番組名=伊豆の踊子<br />(1993年)| 3前番組=[[門 (小説)|門]]| 3次番組=[[美徳のよろめき]]| }} == ラジオドラマ化 == *[[ラジオ図書館]]『伊豆の踊子』([[TBSラジオ|TBS]]) **1991年(平成3年)11月9日 日曜日 22:05 - 23:00 **脚色:[[森治美]]。提供:[[霊友会]] **出演:[[増田未亜]]・[[中村彰男]]、[[大島蓉子]]、[[北川智絵]] == 舞台化 == {{ウィキポータルリンク|舞台芸術|[[画像:P culture.svg|36px|Portal:舞台芸術]]}} *新派『伊豆の踊子』 **1957年(昭和32年)[[新橋演舞場]] **脚本:[[北条誠]]。主演:[[光本幸子]] *新派『伊豆の踊子』 **1969年(昭和44年) **主演:光本幸子、[[有田正治]] *『贋作 伊豆の踊子2010』[[劇団ドガドガプラス]]公演 **2010年(平成22年)5月13日 - 19日 [[浅草東洋館]] **脚本・演出:[[望月六郎]] **出演:[[戸田佳世子]]、[[黒沢美香]]、[[浦川奈津子]]、[[kumico]]、[[松本都]]、[[梨本翠子]]、[[奈良坂篤]]、[[櫻井正一]]、[[高原知秀]]、[[J・橋口裕]]、ほか == おもな収録刊行本 == === 単行本 === *『伊豆の踊子』([[金星堂]]、1927年3月20日) **装幀:[[吉田謙吉]](湯本館の一室「山桜」の欄間の図柄の函{{refnest|group="注釈"|函の図柄は、欄間のほか湯本館旅客の歯ブラシや歯磨き入れの丸い缶、湯ヶ島の火の見櫓。表紙・裏表紙には温泉湯や水をとおす筧や水槽、川中島にあるブランコなどが描かれており、踊子の櫛と山女と思われる魚の膳だけが赤に色付けされている。これらは川端滞在時に吉田が湯ヶ島を訪れて一晩でスケッチしたという<ref name="sonota"/>。}})。B6判。函入 **収録作品:「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「[[十六歳の日記]]」「青い海黒い海」「五月の幻」「伊豆の踊子」 *『伊豆の踊子』(金星堂、1928年10月5日) **※ 1927年(昭和2年)刊行本の普及版。 *限定版『伊豆の踊子』(江川書房、1932年6月20日) 限定180部 **装幀:[[小穴隆一]]。[[菊判]]変形。函入。跋:[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]] **収録作品:「伊豆の踊子」 *『抒情哀話 伊豆の踊子』(近代文芸社、1933年4月10日) **口絵写真:[[田中絹代]] **収録作品:「伊豆の踊子」「白い満月」「招魂祭一景」「孤児の感情」「驢馬に乗る妻」「葬式の名人」「犠牲の花嫁」「十六歳の日記」「青い海黒い海」「五月の幻」 *コルボオ叢書『伊豆の踊子』(野田書房、1938年1月31日) 150部限定 **収録作品:「伊豆の踊子」 *細川叢書『伊豆の踊子』(細川書店、1947年5月1日) 2000部限定 **収録作品:「伊豆の踊子」 *東鐵文化読本第7号『伊豆の踊子』(東京鐵道局、1948年5月15日) 非売品 **収録作品:「伊豆の踊子」 *『伊豆の踊子』([[小山書店]]、1949年4月30日) **解説:[[神西清]] **収録作品:「伊豆の踊子」「葬式の名人」「南方の火」「[[抒情歌 (小説)|抒情歌]]」「[[燕の童女]]」「虹」 *『伊豆の踊子』(細川書店、1951年3月15日) **収録作品:「伊豆の踊子」 *『[[雪国 (小説)|雪国]]・伊豆の踊子』([[新潮社]]、1952年8月20日) **表紙カット:[[三岸節子]]。本文カット:[[岡鹿之助]] **収録作品:「伊豆の踊子」「抒情歌」「雪国」「朝雲」 *『伊豆の旅』([[中央公論社]]、1954年10月5日) **装幀:[[恩地孝四郎]]、[[高畠達四郎]]。扉に川端康成の生原稿コピーが印字。 **収録作品:「伊豆序説」「伊豆温泉記」「伊豆湯ヶ島」「[[正月三ヶ日 (小説)|正月三ヶ日]]」「椿」「夏の靴」「[[有難う]]」「処女の祈り」「伊豆の踊子」「伊豆の帰り」「伊豆の思ひ出―『独影自命』より―」 *新潮青春文学叢書『伊豆の踊子』(新潮社、1955年1月31日) **装幀:[[山田申吾]]。あとがき:[[古谷綱武]] **収録作品:「伊豆の踊子」「二十歳」「朝雲」「[[母の初恋]]」 *『伊豆の踊子』([[講談社]]ロマンブックス、1964年5月10日) **装幀:[[高田力蔵]]。解説:[[福永武彦]] **収録作品:「白い満月」「伊豆の踊子」「春景色」「温泉宿」「正月三ヶ日」「夏の靴」「[[有難う]]」 *文庫版『伊豆の踊子』([[三笠書房|三笠文庫]]、1951年10月) **川端康成「あとがき」 *文庫版『伊豆の踊子』([[新潮文庫]]、1950年8月20日。改版2003年5月5日) **カバー装幀:[[宮本順子]]。解説:[[竹西寛子]]「川端康成 人と作品」。[[三島由紀夫]]「『伊豆の踊子について』」。年譜。 **収録作品:「伊豆の踊子」「温泉宿」「抒情歌」「[[禽獣 (小説)|禽獣]]」 *文庫版『伊豆の踊子・禽獣』([[角川文庫]]、1951年7月30日。改版1989年、1999年) **装幀:[[杉浦康平]]。カバー装獲:[[蓬田やすひろ]] **解説:[[進藤純孝]]「川端康成――人と文学」。古谷鋼武「作品解説」。川端康成「『伊豆の踊子について』」。年譜。 **収録作品:「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「驢馬の乗る妻」「禽獣」「慰霊歌」「二十歳」「[[むすめごころ]]」「父母」 *文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』([[岩波文庫]]、1952年2月。改版2003年9月18日) **装幀:[[精興社]]。川端康成「あとがき」。略年譜。 **収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「伊豆の踊子」「青い海黒い海」「春景色」「温泉宿」 *文庫版『伊豆の踊子・花のワルツ 他二編』([[旺文社文庫]]、1965年7月10日) **解説:[[山本健吉]]、[[木俣修]]、[[中里恒子]] **収録作品:「伊豆の踊子」「花のワルツ」「十六歳の日記」「十七歳」 *文庫版『伊豆の踊子・十六歳の日記』([[講談社文庫]]、1972年11月) **解説・年譜作成:[[長谷川泉]] **収録作品:「伊豆の踊子」「十六歳の日記」 *文庫版『伊豆の踊子』([[集英社文庫]]、1977年5月30日。改版1993年6月5日) **解説:[[奥野健男]]「鮮やかな感覚表現」。[[橋本治]]「鑑賞――『恋の垣根』」。年譜。 **※ 2008年新装版より、カバー装画:[[荒木飛呂彦]] **収録作品:「伊豆の踊子」「招魂祭一景」「十六歳の日記」「死体紹介人」「温泉宿」 *文庫版『伊豆の旅』([[中公文庫]]、1981年4月10日。改版2015年11月21日) **解説:[[川端香男里]]「文庫新版によせて」 **収録作品:1954年10月の中央公論社からの単行本と同内容。 *文庫版『伊豆の踊子・[[骨拾ひ|骨拾い]]』([[講談社文芸文庫]]、1999年3月10日) **装幀:[[菊地信義]]。解説:[[羽鳥徹哉]] **収録作品:「骨拾い」「日向」「処女作の祟り」「篝火」「十六歳の日記」「油」「葬式の名人」「孤児の感情」「伊豆の踊子」「父母への手紙」「ちよ」 *英文版『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年) **収録作品:伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)、十六歳の日記(Diary of My Sixteenth Year)、油(Oil)、葬式の名人(The Master of Funerals)、骨拾い(Gathering Ashes)、ほか *ドイツ語版『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』(訳:[[オスカー・ベンル]])(Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke)<ref>{{Cite book|title=Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA08713409|publisher=Carl Hanser|date=1968|language=ja|first=康成|last=川端|first2=Oscar|last2=Benl}}</ref> === 全集 === *『川端康成全集第1巻 伊豆の踊子』(新潮社、1969年5月25日) **カバー題字:[[松井如流]]。[[菊判]]変形。函入。口絵写真2葉:著者小影、大雅軼事([[富岡鉄斎]]) **収録作品:「[[十六歳の日記]]」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「蛙往生」「白い満月」「青い海黒い海」「伊豆の踊子」「春景色」「死者の書」「文科大学挿話」「死体紹介人」「温泉宿」「[[狂つた一頁]]」 *『川端康成全集第2巻 小説2』(新潮社、1980年10月20日) **カバー題字:[[東山魁夷]]。[[四六判]]。函入 **収録作品:「十六歳の日記」「招魂祭一景」「油」「葬式の名人」「篝火」「空に動く灯」「非常」「孤児の感情」「蛙往生」「驢馬に乗る妻」「青い海黒い海」「明日の約束」「白い満月」「伊豆の踊子」「春を見る近眼鏡」「文科大学挿話」「伊豆の帰り」「狂つた一頁」「温泉場の事」「祖母」「犠牲の花嫁」「五月の幻」「霰」「南方の火」「椿」「春景色」 === 映像資料 === *『伊豆の踊子(ビデオ文学館1)』([[NHKサービスセンター]]/[[講談社]]、1986年) **[[ビデオテープ]]([[VHS]])68分。ケース。ブックレット **制作・発行:[[NHKソフトウェア]] **収録内容:伊豆の踊子(朗読:[[江守徹]]。音楽:[[廣瀬量平]]。挿絵:[[風間完]]) **※「ビデオ文学館」全20巻(セット販売)の第1巻目。第1期全5巻セットとして発売。 *『伊豆の踊子(日本文学紀行 名作の風景1)』(VIDEO TWINS、1993年) **ビデオテープ(VHS)61分。ケース。ブックレット **製作:ほりはた+[[クレヨンハウス]] **※「日本文学紀行 名作の風景」全12巻(セット販売)の第1巻目。 *[https://www.amazon.co.jp/dp/B00SV0MRCA/427376005/ 『恋の花咲く 伊豆の踊子』(DVD)1933年製作]/[http://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社] **解説:34分/本編:112分 **モノクロ片面・二層、ハイビジョンテレシネ化 === 漫画 === *ホーム社 MANGA BUNGOシリーズ『伊豆の踊子』([[ホーム社]]、2010年9月10日) **画:[[井出智香恵]] === アンソロジー === *『昭和の文学――ジュニア版 世界の名作8』([[国土社]]、1965年9月15日) **装幀:[[沢田重隆]]。B6判。厚紙装。カバー **編集:[[古谷綱武]] **収録作品:川端康成「伊豆の踊子」、[[横光利一]]「鞭」、[[井伏鱒二]]「鯉」、[[林芙美子]]「風琴と魚の町」、[[尾崎一雄]]「虫のいろいろ」、[[堀辰雄]]「[[ルウベンスの偽画]]」、[[梶井基次郎]]「[[Kの昇天]]」、[[宮沢賢治]]「ざしき童子の話」、[[伊藤整]]「風」、[[上林暁]]「小便小僧」、[[太宰治]]「雪の夜の話」、[[永井龍男]]「黒い御飯」、[[大岡昇平]]「サンホセ野戦病院」、[[井上靖]]「湖の中の川」、[[梅崎春生]]「風早青年」 *英文版『The Izu Dancer』(訳:[[エドワード・G・サイデンステッカー]]、Leon Picon)(Tuttle classics、1964年、2004年) **収録作品:川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、[[井上靖]]「ある偽作家の生涯」(The Counterfeiter)、井上靖「姨捨」(Obasute)、井上靖「満月」(The Full Moon) *英文版『Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford Books of Prose & Verse) 』(編集:Theodore W. Goossen。訳:Jay Rubin)(Oxford and New York: Oxford University Press,、1997年) **収録作品:[[森鷗外]]「[[山椒大夫]]」(Sansho the Steward)、[[芥川龍之介]]「[[藪の中]]」(In a Grove)、[[宮沢賢治]]「[[なめとこ山の熊]]」(The Bears of Nametoko)、[[横光利一]]「[[春は馬車に乗って]]」(Spring Riding in a Carriage)、川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、[[梶井基次郎]]「[[檸檬 (小説)|檸檬]]」(Lemon)、[[坂口安吾]]「[[桜の森の満開の下]]」(In the Forest, Under Cherries in Full Bloom)、[[中島敦]]「[[名人伝]]」(The Expert)、[[安部公房]]「[[賭 (小説)|賭]]」(The Bet)、[[三島由紀夫]]「[[女方 (小説)|女方]]」(Onnagata,)、ほか == 派生作品・オマージュ作品 == ※出典は<ref>[[恒川茂樹]]「川端康成〈転生〉作品年表【引用・オマージュ篇】」({{Harvnb |転生|2022|pp=261-267}})</ref> {{Columns-list|2| *失踪事件([[加田伶太郎]]、1957年4月) *[[天城越え (松本清張)|天城こえ]]([[松本清張]]、1959年11月) **「天城越え」に改題し『[[黒い画集]]2』(1959年12月)に収録。 *天城峠殺人事件([[内田康夫]]、1985年9月) *踊り子の謎 天城峠殺人交差([[深谷忠記]]、1990年10月) *伊豆天城 幻の殺人旅行([[斎藤栄]]、1991年2月) *雪国の踊子([[荻野アンナ]]、1991年3月) *伊豆の踊り子殺人事件([[島田一男]]、1994年9月) *天城大滝温泉殺人事件([[吉村達也]]、1995年6月) *学生([[東郷隆]]、1995年10月) *湯の宿(東郷隆、1996年9月) *伊豆・踊り子列車殺人号([[辻真先]]、2005年5月) *死のスケジュール 天城峠([[西村京太郎]]、2009年5月) *本音で語る「伊豆の踊子」([[菅野春雄]]、2013年1月 - 2014年7月) }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|32em}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1970-10|title=川端康成全集第14巻 独影自命・続落花流水|publisher=[[新潮社]]|id={{NCID|BN04731783}}|ref={{Harvid|独影自命|1970}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-10|title=川端康成全集第2巻 小説2|publisher=新潮社|isbn=978-4106438028|ref={{Harvid|小説2|1980}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-04|title=川端康成全集第10巻 小説10|publisher=新潮社|isbn=978-4106438103|ref={{Harvid|小説10|1980}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1980-06|title=川端康成全集第21巻 小説21|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643821-9|ref={{Harvid|小説21|1980}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-02|title=川端康成全集第28巻 随筆3|publisher=新潮社|isbn=978-4106438288|ref={{Harvid|随筆3|1982}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-09|title=川端康成全集第29巻 評論1|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643829-5|ref={{Harvid|評論1|1982}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1982-05|title=川端康成全集第33巻 評論5|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643833-2|ref={{Harvid|評論5|1982}}}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1983-02|title=川端康成全集第35巻 雑纂2|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-643835-6|ref={{Harvid|雑纂2|1983}}}} *{{Citation|和書|author1=川端康成|author2=[[横光利一]]|editor1=[[長谷川泉]]|editor2=[[神谷忠孝]]|date=1990-09|title=日本近代文学大系42――川端康成・横光利一集|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-572042-0|ref={{Harvid|文学大系|1990}}}} 初版は1972年7月 {{NCID|BN04731444}} *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1993-06|title=伊豆の踊子| edition=改版|publisher=[[集英社]]|series=[[集英社文庫]]|isbn=978-4-08-750001-1|ref={{Harvid|踊子・集英|1993}}}} 初版は1977年5月。 *{{Citation|和書|author=川端康成|date=2003-05|title=伊豆の踊子|edition=改版|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|isbn=978-4-10-100102-9|ref={{Harvid|踊子・新潮|2003}}}} 初版は1950年8月。 *{{Citation|和書|author=川端康成|date=2003-09|title=伊豆の踊子・温泉宿 他四篇|edition=改版|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波文庫]]|isbn=978-4-00-310811-6|ref={{Harvid|踊子・岩波|2003}}}} 初版は1952年2月。 *{{Citation|和書|author=川端康成|date=2015-11|title=伊豆の旅|edition=改版|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=978-4-12-206197-2|ref={{Harvid|伊豆旅|2015}}}} 初版は1981年4月。 *{{Citation|和書|author=川端康成|date=1991-03|title=一草一花|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文芸文庫]]|isbn=978-4-06-196118-0|ref={{Harvid|一草一花|1991}}}} *{{Citation|和書|date=2013-12|title=川端康成随筆集|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=978-4-00-310815-4|ref={{Harvid|随筆集|2013}}}} *{{Citation|和書|date=2016-04|title=川端康成初恋小説集|publisher=新潮社|series=新潮文庫|isbn=978-4101001272|ref={{Harvid|初恋小説|2016}}}} *{{Citation|和書|author=[[板垣信]]|editor=[[福田清人]]|date=2016-08|title=川端康成|publisher=[[清水書院]]|series=Century Books 人と作品20|edition=新装版|isbn=978-4389401092|ref={{Harvid|板垣|2016}}}} 初版は1969年6月 ISBN 978-4389400200 *{{Citation|和書|author=[[川端秀子]]|date=1983-04|title=川端康成とともに|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-346001-5|ref={{Harvid|秀子|1983}}}} *{{Citation|和書|author=[[北野昭彦]]|date=2007-03|title=『伊豆の踊子』の〈物乞ひ旅芸人〉の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生|journal=日本言語文化研究|issue=10|volume=|pages=1-15|publisher=[[龍谷大学]]|naid=110006607894|ref={{Harvid|北野|2007}}}} *{{Citation|和書|author=[[小谷野敦]]|date=2013-05|title=川端康成伝――双面の人|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4-12-004484-7|ref={{Harvid|小谷野|2013}}}} *{{Citation|和書|editor1=[[仁平政人]]|editor2=[[原善]]|editor3=[[藤田祐史]]|date=2022-11|title=〈転生〉する川端康成 1――引用・オマージュの諸相 |publisher=[[文学通信]]|isbn= 978-4909658890 |ref={{Harvid|転生|2022}}}} *{{Citation|和書|editor=[[鈴木貞美]]|date=1985-07|title=新潮日本文学アルバム27 [[梶井基次郎]]|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620627-6|ref={{Harvid|アルバム梶井|1985}}}} *{{Citation|和書|author=[[高本條治]]|date=1997|title=ただうなずいて見せたひと――川端康成『伊豆の踊子』の語用論的分析|journal=[[上越教育大学]]研究紀要|issue=16(2)|volume=|pages=467-483|publisher=上越教育大学|naid=110000530454|ref={{Harvid|高本|1997}}}} *{{Citation|和書|editor=[[長谷川泉]]|date=1969-03|title=川端康成作品研究|series=近代文学研究双書|publisher=[[八木書店]]|id={{NCID|BN01844524}}|ref={{Harvid|作品研究|1969}}}} 増補版1973年1月。 *{{Citation|和書|editor=長谷川泉|date=1978-04|title=川端康成――その愛と美と死|series= Tomo選書|publisher=[[主婦の友社]]|id={{NCID|BN03243150}}|ref={{Harvid|愛と美|1978}}}} *{{Citation|和書|author=長谷川泉|date=1991-12|title=川端康成論考|series=長谷川泉著作選第5巻|publisher=[[明治書院]]|isbn=978-4-625-53105-7|ref={{Harvid|論考|1991}}}} 初版1965年6月、増補版1969年6月、増補三訂版1984年5月。 *{{Citation|和書|author=長谷川泉監修|editor=[[読売新聞社]]文化部|date=1992-10|title=実録川端康成|series=近代作家研究叢書110|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820592099|ref={{Harvid|実録|1992}}}} 原本(読売新聞社)は1969年7月 {{NCID|BN11692830}} *{{Citation|和書|editor=[[羽鳥徹哉]]|date=1994-09|title=作家の自伝15 川端康成|publisher=日本図書センター|isbn=978-4-8205-8016-4|ref={{Harvid|作家の自伝|1994}}}} *{{Citation|和書|editor1=羽鳥徹哉|editor2=原善|date=1998-06|title=川端康成全作品研究事典|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4-585-06008-6|ref={{Harvid|事典|1998}}}} *{{Citation|和書|author=羽鳥徹哉監修|date=2009-02|title=別冊太陽 日本のこころ157 川端康成――蒐められた日本の美|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4-582-92157-1|ref={{Harvid|太陽|2009}}}} *{{Citation|和書|author=[[林武志]]|date=1976-05|title=川端康成研究|publisher=[[桜楓社]]|id={{NCID|BN05075749}}|ref={{Harvid|林武|1976}}}} *{{Citation|和書|author=[[日高靖一]]ポスター提供|date=1989-05|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション――昭和黄金期日本映画のすべて|series=デラックス近代映画|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4764870550|ref={{Harvid|なつかし|1989}}}} *{{Citation|和書|author=日高靖一ポスター提供・監修|date=1990-02|title=なつかしの日本映画ポスターコレクション PART2|edition=永久保存版|publisher=近代映画社|isbn=978-4764816404|ref={{Harvid|なつかし2|1990}}}} *{{Citation|和書|editor=[[保昌正夫]]|date=1984-03|title=新潮日本文学アルバム16 川端康成|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-620616-0|ref={{Harvid|アルバム川端|1984}}}} *{{Citation|和書|author=[[三川智央]]|date=1998-02|title=『伊豆の踊子』再考――葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題|journal=[[金沢大学]]国語国文|issue=23|volume=|pages=229-238|publisher=金沢大学|url= http://www2.ttn.ne.jp/~tomohisa/new_page_6.htm|naid=110000140179|ref={{Harvid|三川|1998}}}} *{{Citation|和書|author=[[森本穫]]|date=2014-09|title=魔界の住人 川端康成――その生涯と文学 上巻|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585290759|ref={{Harvid|森本・上|2014}}}} 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アナクシマンドロス
アナクシマンドロス(Αναξιμανδρος Anaximandros、紀元前610年頃 - 紀元前546年)は、古代ギリシアの哲学者。 アナクシマンドロスは、プラクシアデスを父とするミレトスの人で、哲学者。タレス、アナクシメネスと共にミレトス学派(イオニア学派)の代表とされる。タレスの縁者であり、彼の弟子にして後継者であった。自然哲学について考察し、アルケーを「無限なるもの」(ト・アペイロン)とした。はじめて日時計を使って、夏至・冬至と、春分・秋分を識別したとされる。スパルタで地震が起こることを予言し、実際に地震が起きた、というエピソードも伝わる。ギリシア世界で、人が住まっている全地域を地図に描くことを、はじめてなし遂げた。 主要著作に、『自然について』、『大地周航記』、『彷徨わぬ者たち(恒星)について』、『天球論』などがあったとされるが、いずれも現在に伝わっていない。 存在するものの元のもの(始源・アルケー)が「無限なるもの」(ト・アペイロン, τὸ ἄπειρον)であることを論じた。著作断片には以下のように記されている。 アナクシマンドロスによれば、始源たる無限なるものは単一であり運動するものである。無限なるものから存在する諸事物は生成され、存在する諸事物は無限なるものへと消滅する。ここでの生成消滅は、対立相反しあうものが永遠の動をつづけながら分離することによるのであり、この円環運動は無限の劫初から行われている。そして人間の営みも存在するものの中に含め、生成消滅を罰と償いで説明しようとした。 アナクシマンドロスの宇宙論も同様な枠組みのもとで展開される。宇宙の生成を遠心分離運動と捉え、あらゆるものが無限に廻り、星や大地もその過程で生成されたとした。彼の宇宙論には、始まりという概念がなく、万物は無限から生じ常に生成され続ける、という特徴を持っている。まず、永遠なるものから無限の運動の過程で、熱いもの・冷たいものとを生み出すものが分離した。あらゆる天体は熱いものから分離し、空気に閉じ込められた火の環である。円柱状の大地を取り巻く火の環には筒状の噴出孔があり、そこから見えるものが天体の姿である。日蝕や月蝕は、その孔が塞がることで起こる。月の満ち欠けも同様である。大地での自然現象としては、大地が形成された原初の湿った状態が海であり、風は、極めて軽い蒸気が空気から分離することで生じるか、あるいは、蒸気が凝縮するときに動くことで生じる。雷は、風が雲を引き裂くことで生じ、雨は、大地から蒸発したものが上昇することで起こる。干ばつや雨によって大地に亀裂が広がると、そこに空気が大量に侵入し、その激しい風により大地が震動し、地震が起こる。生物は湿ったものの中から太陽の蒸発作用によって発生する。人間は、魚に似た動物から発生した。その魚の中で成長するまで養育され、じきに分裂し、男女として分かれ生きられるようになった。そしてその時初めて陸に上がったとされる。 現代物理学者であるロヴェッリの評によれば、アナクシマンドロスは「地球」が空に浮いており地球の下側にも空が広がっていること、動物や植物は環境の変化に対応して進化することなど、現代人に共有されている世界を理解するために必要な基本原理を築きあげたと考えられている。 ハイデガーによると、ソクラテス以前の自然哲学(イオニア学派)についての通説的理解は、哲学の未熟な表現とするものが広く見られるが、そうした通説的理解には現代的人間の先入観が混入していると指摘する。ここで言う自然についての概念は、現代では製作(ポイエーシス)として理解されるが、本来は存在そのものとして理解せねばならない。製作とは、人間が自然に手を加えることであり、この自然は、存在と存在者の対比における存在者に区分される。しかし元来、自然とは、存在そのものであり、製作ではなく生成として捉えなければならない、とハイデガーは考える。 ハイデガーは、西洋形而上学が誕生する以前の根源的哲学者として、アナクシマンドロスを評価している。そのことは、『形而上学入門(1953)』および『ヒューマニズムについて(1947)』から窺い知ることができる。『形而上学入門』では、ギリシャ語における自然は、元来、生成や誕生を意味し、自然そのものを存在として捉えていたが、キリスト教の伝統以降で、神による創造/被創造という製作の観点から語られるようになった、と主張される。『ヒューマニズムについて』では、自然を製作する技術とは、本来の自然の故郷喪失であり、こうした現代において、自然=生成という概念を復興させることによって、ヒューマニズム(人間中心主義)を覆すことが試みられた。
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アナクシマンドロスは、古代ギリシアの哲学者。
[[ファイル:Anaximander.jpg|サムネイル]] '''アナクシマンドロス'''({{Lang|el|Αναξιμανδρος}} Anaximandros、[[紀元前610年]]頃 - [[紀元前546年]])は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]。 == 生涯と業績 == アナクシマンドロスは、プラクシアデスを父とする[[ミレトス]]の人で、哲学者。[[タレス]]、[[アナクシメネス]]と共に[[ミレトス学派]]([[イオニア学派]])の代表とされる。タレスの縁者であり、彼の弟子にして後継者であった。[[自然哲学]]について考察し、アルケーを「無限なるもの」(ト・アペイロン)とした。はじめて日時計を使って、夏至・冬至と、春分・秋分を識別したとされる<ref>{{Cite book|和書|author=ディールス-クランツ|authorlink=ヘルマン・ディールス|year=1996|title=ソクラテス以前哲学者断片集|publisher=岩波書店|page=161}}</ref>。スパルタで地震が起こることを予言し、実際に地震が起きた、というエピソードも伝わる。ギリシア世界で、人が住まっている全地域を地図に描くことを、はじめてなし遂げた。 主要著作に、『自然について』、『大地周航記』、『彷徨わぬ者たち(恒星)について』、『天球論』などがあったとされるが、いずれも現在に伝わっていない。 == 学説 == 存在するものの元のもの(始源・[[アルケー]])が「無限なるもの」('''[[アペイロン|ト・アペイロン]]''', τὸ {{lang|el|ἄπειρον}})であることを論じた<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/アナクシマンドロス-26316 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-08-27 }}</ref>。著作断片には以下のように記されている。 {{Quotation|存在する諸事物の元のもの(アルケー)は、無限なるもの(ト・アペイロン)である。・・・・・・存在する諸事物にとってそれから生成がなされる源、その当のものへと、消滅もまた必然に従ってなされる。なぜなら、それらの諸事物は、交互に時の定めに従って、不正に対する罰を受け、償いをするからである。}} アナクシマンドロスによれば、始源たる無限なるものは単一であり運動するものである。無限なるものから存在する諸事物は生成され、存在する諸事物は無限なるものへと消滅する。ここでの生成消滅は、対立相反しあうものが永遠の動をつづけながら分離することによるのであり、この円環運動は無限の劫初から行われている。そして人間の営みも存在するものの中に含め、生成消滅を罰と償いで説明しようとした。 アナクシマンドロスの宇宙論も同様な枠組みのもとで展開される。宇宙の生成を遠心分離運動と捉え、あらゆるものが無限に廻り、星や大地もその過程で生成されたとした。彼の宇宙論には、始まりという概念がなく、万物は無限から生じ常に生成され続ける、という特徴を持っている。まず、永遠なるものから無限の運動の過程で、熱いもの・冷たいものとを生み出すものが分離した。あらゆる天体は熱いものから分離し、空気に閉じ込められた火の環である。円柱状の大地を取り巻く火の環には筒状の噴出孔があり、そこから見えるものが天体の姿である。日蝕や月蝕は、その孔が塞がることで起こる。月の満ち欠けも同様である<ref>{{Cite book|和書|author=ディールス-クランツ|authorlink=ヘルマン・ディールス|year=1996|title=ソクラテス以前哲学者断片集|publisher=岩波書店|page=167}}</ref>。大地での自然現象としては、大地が形成された原初の湿った状態が海であり<ref>{{Cite book|和書|author=ディールス-クランツ|authorlink=ヘルマン・ディールス|year=1996|title=ソクラテス以前哲学者断片集|publisher=岩波書店|page=178}}</ref>、風は、極めて軽い蒸気が空気から分離することで生じるか、あるいは、蒸気が凝縮するときに動くことで生じる。雷は、風が雲を引き裂くことで生じ、雨は、大地から蒸発したものが上昇することで起こる<ref>{{Cite book|和書 |author=ディールス-クランツ |authorlink=ヘルマン・ディールス |year=1996 |title=ソクラテス以前哲学者断片集 |publisher=岩波書店 |page=168}}</ref>。干ばつや雨によって大地に亀裂が広がると、そこに空気が大量に侵入し、その激しい風により大地が震動し、地震が起こる<ref>{{Cite book|和書 |author=ディールス-クランツ |authorlink=ヘルマン・ディールス |year=1996 |title=ソクラテス以前哲学者断片集 |publisher=岩波書店 |page=179}}</ref>。生物は湿ったものの中から太陽の蒸発作用によって発生する。人間は、魚に似た動物から発生した。その魚の中で成長するまで養育され、じきに分裂し、男女として分かれ生きられるようになった。そしてその時初めて陸に上がったとされる<ref>{{Cite book|和書 |author=ディールス-クランツ |authorlink=ヘルマン・ディールス |year=1996 |title=ソクラテス以前哲学者断片集 |publisher=岩波書店 |page=180}}</ref>。 現代物理学者であるロヴェッリの評によれば、アナクシマンドロスは「地球」が空に浮いており地球の下側にも空が広がっていること、動物や植物は環境の変化に対応して進化することなど、現代人に共有されている世界を理解するために必要な基本原理を築きあげたと考えられている<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2017|title=すごい物理学講義|publisher=河出書房|page=18}}</ref>。 == 後世への影響 == ハイデガーによると、ソクラテス以前の自然哲学(イオニア学派)についての通説的理解は、哲学の未熟な表現とするものが広く見られるが、そうした通説的理解には現代的人間の先入観が混入していると指摘する。ここで言う自然についての概念は、現代では製作(ポイエーシス)として理解されるが、本来は存在そのものとして理解せねばならない<ref>{{Cite book|和書|author=ハイデッガー|authorlink=ハイデガー|year=1957|title=アナクシマンドロスの言葉|publisher=理想社|page=117-8}}</ref>。製作とは、人間が自然に手を加えることであり、この自然は、存在と存在者の対比における存在者に区分される。しかし元来、自然とは、存在そのものであり、製作ではなく生成として捉えなければならない、とハイデガーは考える<ref>{{Cite book|和書|author=ハイデッガー|authorlink=ハイデガー|year=1957|title=アナクシマンドロスの言葉|publisher=理想社|page=98}}</ref>。 ハイデガーは、西洋形而上学が誕生する以前の根源的哲学者として、アナクシマンドロスを評価している。そのことは、『形而上学入門(1953)』および『ヒューマニズムについて(1947)』から窺い知ることができる。『形而上学入門』では、ギリシャ語における自然は、元来、生成や誕生を意味し、自然そのものを存在として捉えていたが、キリスト教の伝統以降で、神による創造/被創造という製作の観点から語られるようになった、と主張される<ref>{{Cite book|和書|author=ハイデッガー|authorlink=ハイデガー|year=1960|title=形而上学入門|publisher=理想社|page=22}}</ref>。『ヒューマニズムについて』では、自然を製作する技術とは、本来の自然の故郷喪失であり、こうした現代において、自然=生成という概念を復興させることによって、ヒューマニズム(人間中心主義)を覆すことが試みられた<ref>{{Cite book|和書|author=ハイデッガー|authorlink=ハイデガー|year=1974|title=ヒューマニズムについて|publisher=理想社|page=60-61}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * [[ディオゲネス・ラエルティオス]]『ギリシア哲学者列伝(上)』[[岩波文庫]]([[岩波書店]]) ISBN 400336631X == 関連項目 == * [[原子論]] == 外部リンク == {{Commonscat|Anaximander}} {{IEP|anaximan|Anaximander}} * {{Kotobank}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{Normdaten}} {{Philos-stub}} {{Academic-bio-stub}} {{DEFAULTSORT:あなくしまんとろす}} [[Category:ソクラテス以前の哲学者]] [[Category:紀元前6世紀の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの天文学者]] [[Category:古代ギリシアの形而上学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:紀元前7世紀生]] [[Category:紀元前546年没]] [[Category:ミレトス]]
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地球物理学
地球物理学(ちきゅうぶつりがく、英語: geophysics)は、地球を物理的な手法を用いて研究する学問分野。20世紀後半に大きく発展した。 地球物理学に含まれる分野として、 などがある。 広義では惑星科学も含まれるが、宇宙一般や太陽系外の天体に関する学問は宇宙物理学または単に物理学の範疇に含むことが多い。 なお、日本の高等学校までの教育では「地学」という科目が存在するが、これを以下のように大きく2つに分けることができる。地球物理学はそのうちの1つと考えればよい。 アメリカ合衆国の大学には学部に独立して学ぶ地球物理学部(Department of Geophysics)が存在する。
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地球物理学は、地球を物理的な手法を用いて研究する学問分野。20世紀後半に大きく発展した。
'''地球物理学'''(ちきゅうぶつりがく、{{Lang-en|geophysics}})は、[[地球]]を[[物理]]的な手法を用いて研究する学問分野。<ref>Lowrie, W., & Fichtner, A. (2020). Fundamentals of geophysics. Cambridge University Press.</ref><ref>地球の物理(島津康男 著) - [[裳華房]]</ref><ref>地球物理学入門 (地球科学入門シリーズ 8) シドニー・クラーク、竹内均・河野芳輝(訳)1972年、共立出版。</ref><ref>応用地球物理学の基礎、狐崎長琅、2001年、[[古今書院]]。</ref>[[20世紀]]後半に大きく発展した。 ==概要== 地球物理学に含まれる分野として、 #[[測地学]] - [[地球]]の形状・特性を解明する。衛星を用いた地殻変動の測定、[[重力]]の測定など。<ref>Torge, W., & Müller, J. (2012). Geodesy. Walter de Gruyter.</ref><ref>Vanicek, P., & Krakiwsky, E. J. (2015). Geodesy: the concepts. Elsevier.</ref><ref>萩原 幸男『測地学入門』[[東京大学出版会]]、1982年。</ref> #[[地震学]] - [[地震]]の発生メカニズムの解明、[[地震波]]を用いた地球内部構造の推定など。<ref>Shearer, P. M. (2019). Introduction to seismology. Cambridge University Press.</ref><ref>Bullen, K. E., Bullen, K. E., Bullen, K. A., & Bolt, B. A. (1985). An introduction to the theory of seismology. Cambridge University Press.</ref><ref>地震学 第3版 / 宇津 徳治 著 | [[共立出版]]</ref> #[[火山学]] - [[火山]]の噴火メカニズムの解明、[[物理探査]]による火山体の構造の推定など。<ref>火山学、大谷栄治・長谷川昭・花輪公雄 編集・吉田武義・西村太志・中村美千彦 著、2017年、共立出版。</ref> #[[気象学]] - [[大気|気圏]]の物理学的特性を扱う。[[大気力学]]はどちらかというと並列分野。[[天気予報]]は大きな応用分野。<ref>基礎から学ぶ気象学、佐藤尚毅、2019年、東京学芸大学出版会。</ref> #[[海洋物理学]] - [[水圏]]の物理学的特性を扱う。[[潮汐]]、[[潮流]]の研究など。<ref>Knauss, J. A., & Garfield, N. (2016). Introduction to physical oceanography. Waveland Press.</ref><ref>Talley, L. D. (2011). Descriptive physical oceanography: an introduction. Academic Press.</ref> #[[地球電磁気学]] - [[地球]]の[[電磁気学]]的な現象を扱う。[[地磁気]]、[[古地磁気]]の研究など。<ref>地球電磁気学、力武常次、2012年、[[岩波書店]]。</ref> などがある。 広義では[[惑星科学]]も含まれるが、[[宇宙]]一般や[[太陽系]]外の天体に関する学問は[[宇宙物理学]]または単に[[物理学]]の範疇に含むことが多い。 なお、[[日本]]の[[高等学校]]までの[[教育]]では「[[地学]]」という科目が存在するが、<ref>青木の地学基礎をはじめからていねいに、青木秀紀、2016年、ナガセ。</ref><ref>地学 改訂版(検定教科書)磯崎行雄、川勝均、佐藤薫(編)[[啓林館]]。</ref><ref>もういちど読む数研の高校地学、2014年、[[数研出版]]編集部(編)。</ref>これを以下のように大きく2つに分けることができる。地球物理学はそのうちの1つと考えればよい。 #物理学的手法を用いる学問:地球物理学(場合によっては宇宙物理学も含む) #化学・生物的手法を用いる学問:[[地質学]]、[[岩石学]]、[[鉱物学]]、[[古生物学]]、[[地球化学]]など [[アメリカ合衆国]]の[[大学]]には[[学部]]に独立して学ぶ地球物理学部(Department of Geophysics)が存在する。<ref group="注釈">例えば{{URL|https://geophysics.mines.edu/}}</ref><ref group="注釈">地質学(Geology)と一緒にする学部もある。例えば[[ワイオミング大学]][http://www.uwyo.edu/geolgeophys/]や[[ユタ大学]][https://earth.utah.edu/]など。</ref> ==脚注== ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Geophysics}} * [[地球科学]] * [[宇宙物理学]] * [[物理学]] {{地球科学}} {{Physics-footer}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:ちきゆうふつりかく}} [[Category:地球物理学|*]] [[Category:地球科学の分野]] [[Category:物理学の分野]]
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海洋学
海洋学(かいようがく、英語:oceanography, Marine engineering, oceanographic engineering, oceanic engineering, nautical engineeringとも)は自然科学の一分野であり、海洋を研究する学問である。地球を対象とした地球科学の一分野として、海棲生物やプレートテクトニクス、海流などの海洋の諸現象・変動を様々な自然科学的側面からとらえる。海洋のどの性質を主に解析するかによって、海洋物理学・海洋化学・生物海洋学(海洋生物学)・海洋地質学などの主要分野に分けられる。 海洋を実際に観測する方法として、研究船を用いたもの、商船などの篤志観測船(Voluntary Observing Ship: VOS)によるもの、漂流/定点ブイによるもの、リモートセンシング衛星によるもの(衛星海洋学)などが挙げられる。 研究船による海洋観測では、対象とする海域に設けた観測点において、CTDによる水温、塩分の鉛直プロファイルの観測を行うとともに、CTDとともにフレームに取り付けた溶存酸素計、蛍光光度計、流速計、濁度計の同時観測、採水器による深さごとの採水、現場法、疑似現場法による基礎生産力の測定、様々なネットや採水法によるプランクトンやネクトン、ベントスの採集などが行われる。 海洋の物理的な性質に関する数値解析(シミュレーション)は気象学におけるそれとほぼ同じくらいの歴史を持っており、近年では地球シミュレータの完成などにより、残された課題はまだあるものの現実に近い海流分布の再現なども可能になっている。近年では海洋の化学・生物学的な要素も数値シミュレーションに組み込もうという試みが進んでいる。 海洋についての研究は早くギリシア時代から行われていたが、科学としての形をとるほどにはならなかった。19世紀になって航海の安全を図るため、船員が海上の気象や、海水温、海流などの観測を行って、航海日誌に書き入れ航海の参考とするようになった。1872年から1876年にかけて、チャレンジャー号による海洋観測が行われ(チャレンジャー号探検航海)、これによって海洋学は初めて学問としての形を整えた。1893年から1896年にはナンセンによる北極探検が行われ、その観測結果よりエクマンが吹走流理論を確立した。海洋研究が盛んになるにつれて、これらの研究を国際的に共同に行う必要が生まれて1900年国際海洋開発委員会がコペンハーゲンを本部として設立される。その後各国による南極観測、探検が盛んとなるが、第一次世界大戦中は戦争に加わらなかったノルウェー以外のほとんどの国では海洋観測はとまってしまった。戦後、ドイツの観測船メテオール、アメリカのカーネギー号、アトランティス号、ノーチラス号が各所で観測を行う。第二次世界大戦中は海洋研究は主に軍事上の立場から行われていた。とくに潜水艦作戦のための海中音波の伝播など水中の音響関係の研究が著しく発展した。 日本の海洋研究はイギリス、フランスなどに比べおよそ一世紀遅れて、1870年に初めて海軍で水路作業が実施され、翌年に水路部が創設され、海洋観測が始まった。やがて先進国の事業を取り入れて次第に盛んとなり、太平洋の西半分の南北に渡る大掛かりな観測を行うようになった。1925年には音響測深を取り入れた。日本をめぐる海流の様子を、はっきりとさせるため1883年中央気象台の和田雄治が初めて海流瓶を流して、日本のまわりの海流を明らかにして、親潮、黒潮の様子がはっきりした。その後和田は1913年 - 1917年にかけてさらに大規模な調査を行い、その結果は1922年に「日本環海海流調査業績」として出版された。水産関係では1893年水産調査所が新設され、まもなく廃止されたが水産局の中に水産調査課ができて、岸上鎌吉、北原多作、岡村金太郎らがいろいろな仕事をした。1920年に岡田武松を台長として神戸海洋気象台が創設され、航海者、漁業者、気象関係者のために海洋研究を行い、物理学的、生物学的な海洋研究が始まった。1929年には農林省に水産試験場ができた。1932年から数年にわたって宇田道隆などの指導によって、全国都道府県の水産試験場と協力して、数十隻の調査船により同時に海洋の一斉調査を行った。この当時の日本の海洋観測量は世界的なものであった。1941年に日本海洋学会ができ、終戦後は海軍水路部は運輸省に移った。 1962年に東京大学には海洋研究所が、東海大学には海洋学部が設立され、大学として現代の海洋学教育・研究の先駆けとなった。1967年に国内初大型海洋調査船である東京大学白鳳丸 (初代)が竣工。次いで1972年に東海大学初代望星丸が竣工した。1971年に海洋科学技術センター(現海洋研究開発機構)が設立され、同年には初の海底鉱物資源調査航海が行われている。1960年代から70年代が日本の海洋研究の本格的始動と言える。
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海洋学は自然科学の一分野であり、海洋を研究する学問である。地球を対象とした地球科学の一分野として、海棲生物やプレートテクトニクス、海流などの海洋の諸現象・変動を様々な自然科学的側面からとらえる。海洋のどの性質を主に解析するかによって、海洋物理学・海洋化学・生物海洋学(海洋生物学)・海洋地質学などの主要分野に分けられる。
{{出典の明記|date=2012年1月|ソートキー=学かいよう}} '''海洋学'''(かいようがく、[[英語]]:oceanography, Marine engineering, oceanographic engineering, oceanic engineering, nautical engineeringとも)は[[自然科学]]の一分野であり、[[海洋]]を研究する学問である。[[地球]]を対象とした[[地球科学]]の一分野として、海棲生物や[[プレートテクトニクス]]、[[海流]]などの海洋の諸現象・変動を様々な自然科学的側面からとらえる。海洋のどの性質を主に解析するかによって、[[海洋物理学]]・[[海洋化学]]・[[生物海洋学]]([[海洋生物学]])・[[海洋地質学]]などの主要分野に分けられる。 == 主要分野 == *[[海洋化学]] : 海水の化学的性質やその分布・変動を研究対象とした学問。[[地球化学]]の一分野でもある。 *[[生物海洋学]]([[海洋生物学]]) : 海棲生物(動植物[[プランクトン]]、魚類等)の生態などを研究対象とした学問。[[水産学#水産海洋学|水産海洋学]]との関連も深い。 *[[海洋地質学]] : プレートテクトニクスなど海洋底の地質学的性質や変動を研究対象とした学問。 *[[海洋物理学]] : 海洋の物理的な性質や変動([[海流]]、[[潮汐]]など)を研究対象とした学問。[[地球物理学]]の一分野でもあり、海面を通して接している大気との相互作用が重視されるため[[気象学]]との関連も深い。[[地球温暖化]]のような[[気候変動]]現象の解析にも関わっている。 == 研究手法 == === 海洋観測 === 海洋を実際に観測する方法として、研究船を用いたもの、商船などの篤志観測船(Voluntary Observing Ship: VOS)によるもの、[[海洋気象ブイ|漂流/定点ブイ]]によるもの、[[リモートセンシング衛星]]によるもの([[衛星海洋学]])などが挙げられる。 研究船による海洋観測では、対象とする海域に設けた観測点において、[[CTD]]による水温、塩分の鉛直プロファイルの観測を行うとともに、[[CTD]]とともにフレームに取り付けた溶存酸素計、蛍光光度計、流速計、濁度計の同時観測、採水器による深さごとの採水、現場法、疑似現場法による基礎生産力の測定、様々なネットや採水法による[[プランクトン]]や[[ネクトン]]、[[ベントス]]の採集などが行われる。 === 数値シミュレーション === 海洋の物理的な性質に関する数値解析(シミュレーション)は気象学におけるそれとほぼ同じくらいの歴史を持っており、近年では[[地球シミュレータ]]の完成などにより、残された課題はまだあるものの現実に近い海流分布の再現なども可能になっている。近年では海洋の化学・生物学的な要素も数値シミュレーションに組み込もうという試みが進んでいる。 == 海洋学史 == 海洋についての研究は早く[[ギリシア]]時代から行われていたが、科学としての形をとるほどにはならなかった。[[19世紀]]になって航海の安全を図るため、船員が海上の[[気象]]や、[[海水温]]、海流などの観測を行って、航海日誌に書き入れ航海の参考とするようになった。[[1872年]]から[[1876年]]にかけて、[[チャレンジャー号 (1858)|チャレンジャー号]]による海洋観測が行われ([[チャレンジャー号探検航海]])、これによって海洋学は初めて学問としての形を整えた。[[1893年]]から[[1896年]]には[[フラム号#ナンセンによる探検|ナンセンによる北極探検]]が行われ、その観測結果より[[V・ヴァルフリート・エクマン|エクマン]]が吹走流理論を確立した。海洋研究が盛んになるにつれて、これらの研究を国際的に共同に行う必要が生まれて[[1900年]][[国際海洋開発委員会]]が[[コペンハーゲン]]を本部として設立される。その後各国による[[南極]]観測、探検が盛んとなるが、[[第一次世界大戦]]中は戦争に加わらなかった[[ノルウェー]]以外のほとんどの国では海洋観測はとまってしまった。戦後、ドイツの観測船メテオール、アメリカのカーネギー号、アトランティス号、[[w:en:USS Nautilus|ノーチラス号]]が各所で観測を行う。[[第二次世界大戦]]中は海洋研究は主に軍事上の立場から行われていた。とくに[[潜水艦]]作戦のための海中音波の伝播など水中の音響関係の研究が著しく発展した。 === 日本 === 日本の海洋研究は[[イギリス]]、[[フランス]]などに比べおよそ一世紀遅れて、[[1870年]]に初めて[[大日本帝国海軍|海軍]]で[[水路]]作業が実施され、翌年に[[水路部 (日本海軍)|水路部]]が創設され、海洋観測が始まった。やがて先進国の事業を取り入れて次第に盛んとなり、[[太平洋]]の西半分の南北に渡る大掛かりな観測を行うようになった。[[1925年]]には[[ソナー|音響測深]]を取り入れた。日本をめぐる海流の様子を、はっきりとさせるため[[1883年]][[中央気象台]]の[[和田雄治]]が初めて[[海流瓶]]を流して、日本のまわりの海流を明らかにして、[[親潮]]、[[黒潮]]の様子がはっきりした。その後和田は1913年 - 1917年にかけてさらに大規模な調査を行い、その結果は[[1922年]]に「日本環海海流調査業績」として出版された。水産関係では[[1893年]]水産調査所が新設され、まもなく廃止されたが水産局の中に水産調査課ができて、[[岸上鎌吉]]、[[北原多作]]、[[岡村金太郎]]らがいろいろな仕事をした。[[1920年]]に[[岡田武松]]を台長として[[神戸地方気象台|神戸海洋気象台]]が創設され、航海者、漁業者、気象関係者のために海洋研究を行い、物理学的、生物学的な海洋研究が始まった。[[1929年]]には[[農林省]]に[[水産試験場]]ができた。[[1932年]]から数年にわたって[[宇田道隆]]などの指導によって、全国都道府県の水産試験場と協力して、数十隻の調査船により同時に海洋の一斉調査を行った。この当時の日本の海洋観測量は世界的なものであった。[[1941年]]に[[日本海洋学会]]ができ、終戦後は海軍水路部は[[運輸省]]に移った。 [[1962年]]に[[東京大学]]には海洋研究所が、[[東海大学]]には[[海洋学部]]が設立され、大学として現代の海洋学教育・研究の先駆けとなった。[[1967年]]に国内初大型海洋調査船である東京大学[[白鳳丸 (初代)]]が竣工。次いで1972年に東海大学初代[[望星丸]]が竣工した。[[1971年]]に海洋科学技術センター(現[[海洋研究開発機構]])が設立され、同年には初の海底鉱物資源調査航海が行われている。1960年代から70年代が日本の海洋研究の本格的始動と言える。 == 関連項目 == * [[海]] - [[大洋]] * [[海流]] - [[暖流と寒流]] * [[海洋気象学会]] * [[海洋調査技術学会]] * [[潮汐]] * [[コリオリの力]] * [[メタンハイドレート]] * [[津波]] * [[水産学]] * [[生物地球化学]] * 東海大学[[海洋学部]] * [[東京大学大気海洋研究所]] * [[海洋研究開発機構]] == 文献 == * {{Cite book |和書|author=ルーク カイバース |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |translator1= 武部 俊一 |translator2=石田 裕貴夫 |title=ブルー・リボリューション―海洋の世紀 |publisher=[[朝日新聞社]]|volume= |issue= |date=1990年6月 |pages=|naid= |isbn=9784022561473|asin=}} * {{Cite book |和書|author=臼井 朗 |authorlink= |author2= |authorlink2= |author3= |title=海底鉱物資源 未利用のレアメタルの探査と開発 |publisher=[[オーム社]]|volume= |issue= |date=2010年4月 |pages=|naid= |isbn=|asin=}} == 外部リンク == {{Commonscat|Oceanography}} ;学会 * [http://kaiyo-gakkai.jp/jos/ 日本海洋学会] * [http://www.jsfo.jp/ 水産海洋学会] ;学会誌 * [Oceanography and Marine Biology] * [http://aslo.org/lo/toc/index.html Limnology and Oceanography] * [http://www.agu.org/journals/pa/ Paleoceanography] * [http://www.sciencedirect.com/science/journal/03044203 Marine Chemistry] * [http://www.sciencedirect.com/science/journal/00796611 Progress in Oceanography] * [http://www.ametsoc.org/pubs/journals/jpo/index.html Journal of Physical Oceanography] * [http://www.sciencedirect.com/science/journal/09670637 Deep Sea Research Part I] * [http://www.terrapub.co.jp/journals/JO/index.html Journal of Oceanography] ;その他 *{{Wayback |url=http://www.h5.dion.ne.jp/~komori-n/seaography/|title= 海理学のディレクトリ|date= 20160618083625}} - 海洋学関連の公募情報、大学・研究機関、プロジェクト等のリンク集 {{地球科学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいようかく}} [[Category:海洋学|*]] [[Category:地球科学の分野]]
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ストア派
ストア派(ストアは、希: Στωικισμός、英: Stoicism、ストイシズム)は、ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めの古代ギリシャでゼノンによって始められた。 自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。例えば、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人は、判断の誤りから生まれる破壊的な衝動などに苛まされることはない、と説いている。 ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。 ルキウス・アンナエウス・セネカやエピクテトスのような後期ストア派は、「徳は幸福により十全となる」という信念から、知者は不幸に動じないと主張した。この思想は「ストア的静寂」というフレーズが意味するところに近い。だが、知者は真に自由とされ、あらゆる道徳的腐敗は等しく悪徳であるという「過激倫理的な」ストア派の思想を含意しない。 ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においてはアカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。創始以降、ストア派の思想は古代ギリシアやローマ帝国を通じて非常に流行し、マルクス・アウレリウス・アントニヌスをも信奉者として、哲学の異教的な性格をキリスト教の教義と調和しないものとしてユスティニアヌス1世が全ての学派を廃するまで続いた。 ストア派なる名は、ゼノンがアテナイのアゴラ北面の彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。 多くの古代ギリシャの哲学者が、一神教と似た多神教的な一神教を信じていたが、ストア派や影響を受けた中期・後期プラトン主義についても異教の一神教(pagan monotheism)として分類することがある。 ストア主義者それぞれの考え方は互いに密接に関係している。 ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされるキケロ、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから彼の思想は弟子のアッリアノスの記録による)から推測するしかない。 ストア派は世界の統一的な説明を形式論理学、非二元論的自然学、自然主義的倫理学によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論により関心を示した。 ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある。「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する」 この思想は対人関係のような分野にも適用される; 「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。 ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た。 ヘレニズム世界・ローマ帝国においてストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり、ギルバート・マーレイの言う所によれば、「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が自らをストア主義者だと述べた」 ストア派の起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。 紀元前301年の初めごろ、キティオンのゼノンがストア・ポイキレ(すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た。エピクロス派のような他の学派とは異なり、ゼノンはアテナイのアゴラ(中央広場)を見晴らすコロネードのような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。 ゼノンの思想はソクラテスの弟子アンティステネスを始祖とするキュニコス学派の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのはクリュシッポスで、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。 研究者は大抵ストア派の歴史を三相に分ける: アルバート・アーサー・ロングが述べているように、前二相のストア主義者の著作で完全な形で現存するものは全く無い。後期ストア派のローマ人たちの著作のみが現存している。 ゼノンの師の一人でメガラ派に属するディオドロス・クロノスは、今日命題論理として知られる論理学へのアプローチを初めて導入した哲学者とされる。命題論理とは名辞ではなく命題つまり文に基づいた論理学へのアプローチであり、論理学をアリストテレスの名辞論理とは全く異なったものにした。後にクリュシッポスが、このアプローチをストア論理学として知られることになる体系へと発展させ、アリストテレスの三段論法のライバルとされる演繹体系(ストア三段論法)を導入した。ストア論理学に対する新たな関心が20世紀に起こり、論理学の重要な発展が命題論理に基づいて起こった。「クリュシッポスとゴットロープ・フレーゲの哲学的論理学の強い親近性は非常に印象的である」とズザンネ・ボプツィエンが書いている。 「クリュシッポスは事実上今日論理学に関係しているあらゆる論理学的話題に関する300以上の論理学的著作を著した。その中には言語行為理論、構文分析、単数あるいは複数の表現、述語論理、指標、存在命題、論理演算、否定、和、包含、論理的帰結、妥当性論証の形式、演繹、命題論理、様相論理、時相論理、認識論理、代示論理、命令論理、多義性と論理的パラドックスがある」ともボプツィエンは書いている。 全ての存在(希: ὄντα)は——全てのもの(希: τινά)ではなく——物質的であるとストア派では考えられた。彼らは具体的なものと抽象的なものとの区別は認めたが、純粋に物質的なものが存在するというアリストテレスの主張に関しては否定した。そのため彼らは、物体が熱いならそれは世界中に存在する熱素の一部がその物質の中に入ったからだというアナクサゴラスの主張は(アリストテレスと同じく)認めた。しかしアリストテレスとは違って、あらゆる付帯性をカバーするような思想を発達させた。そのためある物体が赤いならそれは世界中に存在する赤の元素の一部がその物質の中に入ったからだということになる。 四種類の範疇があると彼らは考えた。 ストア派では、知識は理性を使うことで獲得されると信じられた。真理は誤謬とは区別される; 実際には近似が作り出されるだけだとしても。ストア派によれば、感覚器官は常に感覚を受け取っている: そして物体から感覚器官を通じて心へと拍動が伝わり、心において拍動が表象(phantasia)における印象を残す(心に現れる印象はファンタズマと呼ばれる)。 心は印象に対して判断する——賛成もしくは反対する——能力(sunkatathesis)を持ち、実在の正しい表象を間違った表象から区別することができる。印象の中には即座に賛成できるものもあるが、様々な程度の躊躇いがちな賛成に留まり、信念もしくは意見(ドクサ)と呼ばれるものもある。ただ理性を通じてのみ人間は明確な理解・確信(カタレプシス)を得られる。ストア派の知者が獲得できる、確かな、真なる知識(エピステーメー)は確信を仲間の専門知識や人間の判断の集成で確かめることによってのみ得られる。 あるものがその実態において、その裸の状態において、その完全な全体性においてどんな種類のものかを見極めるために、そしてその適切な名前や解決へ向けて混合されたものの名前を分かるために、あなたに表象されたものの定義・記述を自分のためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯において表象された物体を真に系統的に観察し、同時にこの世界がどんな世界であるか、世界の中で万物がどのように働くか、全体との関連の中で個々のものがどんな意味を持つかを見極めるために物事を常に観察することほど、心を練磨する上で生産的なことはないのだから。 —マルクス・アウレリウス・アントニヌス,『自省録』、第III巻第11章 ストア派によれば、世界は物質的で、(一つの)神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる」 運命あるいは普遍的な理性(ロゴス)と呼ばれる能動的な実体は知的なエーテルつまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける: 世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する; それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く; 運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理; さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素; それから太陽、月、星々; これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる —クリュシッポス,キケロ『神々の本性について』第I巻より 万物が運命の法則に従う、というのは世界は自身の本性と一致してのみ活動し、受動的な物質を統べるからである。人間や動物の魂はこの原初の火からの流出物であり、同様に運命に従う: 世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ; そして万物が知覚と、つまりこの一つの生命についての知覚をどうやって持つのかを観察せよ; さらに万物がどのように一つの運動と共同して動くかを観察せよ; それから万物がどのように互いの原因となっているかを見て取れ; 網の構造や紡がれ続ける糸をも観察せよ —マルクス・アウレリウス,『自省録』、第IV巻第40節 個々の魂はその本性上滅びゆくものであり、「世界の種子たる理性(logos spermatikos)に迎え入れられることで炎的な本性をとり、変化・拡散し」うる。正しい理性が人間と世界との基礎なのだから、人生の目的は理性に従って生きること、すなわち自然に従って生きることとなる。 ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。 アスカロンのアンティオコスはアカデメイア、ペリパトス派、ストア派の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している。 ストア派の神学は一神教として分類されることがある。ストア派はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God)』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った。 ストア派によるとゼウスだけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった。ストア派は全ての存在が物質的なものとしゼウス(the God)を活動的な炎と同一視した。世界は理性的な動物であり、周期的に炎に転化する。この炎の状態は世界、世界の理性、ゼウスと完全に一致するものと考えた。 現代において「ストイック」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味で使われるため、ストア学が感情に否定的な見方を示す学派としてしばしば誤解されるが、古代ギリシャ語において「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」、すなわち外的な出来事に「受動的に」反応することだと心にとどめたといったように、現代の用法とは幾分異なることから生んだ誤解である。 ストア学では「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを説いたのみであり、感情を消し去ることを追求したわけではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たるアスケーシスによって感情を変質させようとしたのである。内省、専心、論理的思考などがそういった自己修養の方法とされた。またストア学は先行するキュニコス哲学の論理をも踏まえ、善は魂自体の内部に存するということであったとも唱えた。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険にさらされたときに顔が青ざめ身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様に正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。 その思想はアパテイア(希: ἀπάθεια、心の平安)によって苦痛から解放されるというもので、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される―客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も平静と明確な判断とを保つ事。 ストア派では、「理性」は論理を用いることだけではなく、自然―ロゴス、普遍的理性、万物に内在するものの過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は、 であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。 ソクラテスに従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学―自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定すること―を実践すべきだとされた。 自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に神からの分け御霊であるということを主張) 高潔な生活を送れないような状況下で賢者が自殺することを許すことがストア派では認められた。悪政の下で生きることはストア主義者としてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけるとプルタルコスは考えた。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。 ここでいう「無関心」(indifference)とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無関心であると言われる。無関心(希: ἀδιάφορα、アディアポラ)の理論はストア派において、その対立物たる善と悪(καθήκοντα カテーコンタとἁμαρτήματα ハマルテーマタ、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無関心とみなされた。 結果的に「無関心」の中にさらに三つの下位分類が発達した: 自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの; 自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの; そして狭い意味で無関心なもの 「アディアポラ」の理論はキュニコス学派および懐疑主義とも共通であった。カントによれば、無関心なるものの概念は倫理の範囲外である。無関心なるものの理論はルネサンス期にフィリップ・メランヒトンによって復活させられた。 アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては先述のように自殺も肯定した。 これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。 ストア派にとって哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、禁欲主義を参照)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の東洋の瞑想と同様である)、毎日その日起こった問題とその可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは常に実践と反省を行う動的な過程なのである。 著書『自省録』において、マルクス・アウレリウスはそういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある: 早朝に自分に向って言う: 私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ[...]何者も私を禍に巻き込むことはないから彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない; というのは私たちは協働するために生まれてきたからである[...] アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題(トポス)、つまり判断、欲望、志向を区別している。フランスの哲学者ピエール・アドによれば、エピクテトスはこの三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした。『自省録』において「各格率はこれら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つあるいは二つあるいは三つ全てを発展させる」ものであるとアドは書いている。 Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。。ストア派の魂の鍛錬と近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において長々と詳述されている。また、こうした実践重視の姿勢はソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。 あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(ἀπάθεια/apatheia、語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。その理想としてよくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。 ストア派の顕著な特徴はそのコスモポリタニズムにある: ストア派によれば、全人類は一つの普遍的な霊魂の顕現であり、兄弟愛をもって生き互いに躊躇なく助け合うべきである。『語録』において、エピクテトスが人間の世界に対する関係について述べている: 「各人は第一にはめいめいの所属する共同体の一員である; しかし彼は神と人の偉大な国の一員でもあり、その国ではコピーだけが政治に関心を持つのだ」 この思想はシノペのディオゲネスを模倣したものである。ディオゲネスは「私はアテナイ人でもコリントス人でもなく世界市民である」と述べている。 階級や資産といった外的な差異は社会的関係において何ら重要性を持たないと彼らは考えた。代わりに彼らは人間の兄弟愛と全人類の本性的平等を称揚した。ストア派はギリシアーローマ世界で最も影響力ある学派となり、カトやエピクテトスといった多くの注目に値する著述家・人物を輩出した。 特に、彼らは奴隷に慈悲をかけることを推し進めたことで注目される。セネカは「あなたが自分の奴隷と呼んでいるものはあなたと同根から生じたこと、同じ天に向かって微笑みかけること、あなたと同じ言葉で呼吸し、生き、死ぬことを思いやりをもって覚えておきなさい。」とセネカは勧めている。 ミラノのアンブロジウスの代言では、「声はキリスト教の司教の声だが、訓戒はゼノン(ストア派の創始者)のものである」とした。彼が「神の霊」と呼んだものについて、マクスウェル・スタニフォースはこう書いている。 三位一体について、スタニフォースはこう書いている。 使徒パウロはアテネ滞在中にストア派と会っていたことが、使徒言行録17:16-18で報告されている。パウロはその手紙の中で、ストア派の哲学の知識を大いに活用し、ストア派の用語や比喩を使って、新しい異邦人の改宗者のキリスト教の理解を助けている。ストア派の影響は、アンブロジウス、マルクス・ミヌシウス・フェリックス、テルトゥリアヌスの著作にも見られる。 二つの哲学の大きな違いはストア派が汎神論、つまり神が決して超越的でなくむしろ内在的であるという立場をとることにある。世界を創りだす実在としての神はキリスト教思想においては人格的なものとされるが、ストア派は神を宇宙の総体と同一視した、万物が物質的であるというストア主義の思想はキリスト教と強く対立している。また、ストア派はキリスト教と違って世界の始まりや終わりを措定しないし、個人が死後も存在し続けると主張しない。 ストア主義は教父によって「異教哲学」とみなされたが、それにもかかわらずストア主義の中心的な哲学的概念のなかには初期のキリスト教著述家に利用されたものがある。その例として「ロゴス」、「徳」、「魂」、「良心」といった術語がある。しかも、相似点は用語の共有(あるいは借用)に留まらない。ストア主義もキリスト教も主張した概念として、この世界における所有・愛着の無益性・刹那性だけでなく、外的世界に直面した際の内的自由、自然(あるいは神)と人との近縁性、人間の本性の堕落―あるいは「持続的な悪」―という考え、などがある。各人の人間性の大きな可能性を呼び覚まし発展させるために、情動およびより劣った感情(すなわち渇望、羨望、怒気)に関して禁欲を実践することが奨励された。 マルクス・アウレリウスの『自省録』のようなストア派の著作が時代を超えて多くのキリスト教徒によって高く評価された。ストア派のアパテイアという理想が今日正教会によって完全な倫理的状態として認められている。ミラノのアンブロシウスはストア哲学を自身の神学に適用したことで知られた。 ユストゥス・リプシウスは、古代ストア哲学をキリスト教に適合する形で復活させることを目的とした一連の著作を発表し、1600年に出版されたエピクテトゥスの版の編集者として、フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサスがスペインでストア主義を推進した。その後フランシスコ・デ・ケベードが『ストア派の教義』(1635年)を出版し、ストア派とキリスト教の間のギャップを埋める努力を続けた。 自殺は人間の自由の最高の表現であるとするストア派に対して、キリスト教の考えでは、自殺は「形式的に」自由の表現であるにすぎず、「自由の存立基盤」自体が破壊されてしまうために「内容的にはもっとも不自由な行為」であるとされる。そして個人の肉体はあくまで「神に創られて存在する被造物」であるため、個人は自らの肉体を自由に破壊する権利を有していない、とされる。 「ストイック」という言葉は一般に苦痛・歓喜・強欲・歓楽に無関心な人を指して使われる。「感情を抑え、我慢強く耐える人」という近代の用法は1579年に名詞の形で初めて見られ、1596年には形容詞の形で見られた。「エピクロス主義者」と対照的に、『スタンフォード哲学百科事典』のStoicismの項には「英語の形容詞stoicalがその哲学的起源に対して誤解をもたらすことはない」と述べられている。 ストア派の一般的な教説を示すような、著名なストア派哲学者からの引用を以下に示す。 エピクテトス: マルクス・アウレリウス・アントニヌス: ルキウス・アンナエウス・セネカ: 以下が代表的人物である。なお、キケロはその著『宿命について』において見て取れるように宿命論に拠るところは全くなく、ストア派には含めないが、彼の思想は彼の師や彼の生きた時代から影響を受けてなおストア的である(なお、一般的には彼はアカデメイア学派に分類される)。彼の著作は彼自身の思想でないが、ストア派の思想を知る上で参考になる。
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「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。", "title": "基本的教説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た。", "title": "基本的教説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヘレニズム世界・ローマ帝国においてストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり、ギルバート・マーレイの言う所によれば、「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が自らをストア主義者だと述べた」 ストア派の起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。", "title": "基本的教説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紀元前301年の初めごろ、キティオンのゼノンがストア・ポイキレ(すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た。エピクロス派のような他の学派とは異なり、ゼノンはアテナイのアゴラ(中央広場)を見晴らすコロネードのような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ゼノンの思想はソクラテスの弟子アンティステネスを始祖とするキュニコス学派の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのはクリュシッポスで、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "研究者は大抵ストア派の歴史を三相に分ける:", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アルバート・アーサー・ロングが述べているように、前二相のストア主義者の著作で完全な形で現存するものは全く無い。後期ストア派のローマ人たちの著作のみが現存している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ゼノンの師の一人でメガラ派に属するディオドロス・クロノスは、今日命題論理として知られる論理学へのアプローチを初めて導入した哲学者とされる。命題論理とは名辞ではなく命題つまり文に基づいた論理学へのアプローチであり、論理学をアリストテレスの名辞論理とは全く異なったものにした。後にクリュシッポスが、このアプローチをストア論理学として知られることになる体系へと発展させ、アリストテレスの三段論法のライバルとされる演繹体系(ストア三段論法)を導入した。ストア論理学に対する新たな関心が20世紀に起こり、論理学の重要な発展が命題論理に基づいて起こった。「クリュシッポスとゴットロープ・フレーゲの哲学的論理学の強い親近性は非常に印象的である」とズザンネ・ボプツィエンが書いている。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「クリュシッポスは事実上今日論理学に関係しているあらゆる論理学的話題に関する300以上の論理学的著作を著した。その中には言語行為理論、構文分析、単数あるいは複数の表現、述語論理、指標、存在命題、論理演算、否定、和、包含、論理的帰結、妥当性論証の形式、演繹、命題論理、様相論理、時相論理、認識論理、代示論理、命令論理、多義性と論理的パラドックスがある」ともボプツィエンは書いている。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "全ての存在(希: ὄντα)は——全てのもの(希: τινά)ではなく——物質的であるとストア派では考えられた。彼らは具体的なものと抽象的なものとの区別は認めたが、純粋に物質的なものが存在するというアリストテレスの主張に関しては否定した。そのため彼らは、物体が熱いならそれは世界中に存在する熱素の一部がその物質の中に入ったからだというアナクサゴラスの主張は(アリストテレスと同じく)認めた。しかしアリストテレスとは違って、あらゆる付帯性をカバーするような思想を発達させた。そのためある物体が赤いならそれは世界中に存在する赤の元素の一部がその物質の中に入ったからだということになる。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "四種類の範疇があると彼らは考えた。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ストア派では、知識は理性を使うことで獲得されると信じられた。真理は誤謬とは区別される; 実際には近似が作り出されるだけだとしても。ストア派によれば、感覚器官は常に感覚を受け取っている: そして物体から感覚器官を通じて心へと拍動が伝わり、心において拍動が表象(phantasia)における印象を残す(心に現れる印象はファンタズマと呼ばれる)。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "心は印象に対して判断する——賛成もしくは反対する——能力(sunkatathesis)を持ち、実在の正しい表象を間違った表象から区別することができる。印象の中には即座に賛成できるものもあるが、様々な程度の躊躇いがちな賛成に留まり、信念もしくは意見(ドクサ)と呼ばれるものもある。ただ理性を通じてのみ人間は明確な理解・確信(カタレプシス)を得られる。ストア派の知者が獲得できる、確かな、真なる知識(エピステーメー)は確信を仲間の専門知識や人間の判断の集成で確かめることによってのみ得られる。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "あるものがその実態において、その裸の状態において、その完全な全体性においてどんな種類のものかを見極めるために、そしてその適切な名前や解決へ向けて混合されたものの名前を分かるために、あなたに表象されたものの定義・記述を自分のためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯において表象された物体を真に系統的に観察し、同時にこの世界がどんな世界であるか、世界の中で万物がどのように働くか、全体との関連の中で個々のものがどんな意味を持つかを見極めるために物事を常に観察することほど、心を練磨する上で生産的なことはないのだから。", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "—マルクス・アウレリウス・アントニヌス,『自省録』、第III巻第11章", "title": "ストア論理学" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ストア派によれば、世界は物質的で、(一つの)神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる」 運命あるいは普遍的な理性(ロゴス)と呼ばれる能動的な実体は知的なエーテルつまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける:", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する; それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く; 運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理; さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素; それから太陽、月、星々; これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "—クリュシッポス,キケロ『神々の本性について』第I巻より", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "万物が運命の法則に従う、というのは世界は自身の本性と一致してのみ活動し、受動的な物質を統べるからである。人間や動物の魂はこの原初の火からの流出物であり、同様に運命に従う:", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ; そして万物が知覚と、つまりこの一つの生命についての知覚をどうやって持つのかを観察せよ; さらに万物がどのように一つの運動と共同して動くかを観察せよ; それから万物がどのように互いの原因となっているかを見て取れ; 網の構造や紡がれ続ける糸をも観察せよ", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "—マルクス・アウレリウス,『自省録』、第IV巻第40節", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "個々の魂はその本性上滅びゆくものであり、「世界の種子たる理性(logos spermatikos)に迎え入れられることで炎的な本性をとり、変化・拡散し」うる。正しい理性が人間と世界との基礎なのだから、人生の目的は理性に従って生きること、すなわち自然に従って生きることとなる。", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アスカロンのアンティオコスはアカデメイア、ペリパトス派、ストア派の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している。", "title": "ストア派の自然学・宇宙論" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ストア派の神学は一神教として分類されることがある。ストア派はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God)』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った。", "title": "ストア派の神学" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ストア派によるとゼウスだけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった。ストア派は全ての存在が物質的なものとしゼウス(the God)を活動的な炎と同一視した。世界は理性的な動物であり、周期的に炎に転化する。この炎の状態は世界、世界の理性、ゼウスと完全に一致するものと考えた。", "title": "ストア派の神学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "現代において「ストイック」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味で使われるため、ストア学が感情に否定的な見方を示す学派としてしばしば誤解されるが、古代ギリシャ語において「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」、すなわち外的な出来事に「受動的に」反応することだと心にとどめたといったように、現代の用法とは幾分異なることから生んだ誤解である。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ストア学では「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを説いたのみであり、感情を消し去ることを追求したわけではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たるアスケーシスによって感情を変質させようとしたのである。内省、専心、論理的思考などがそういった自己修養の方法とされた。またストア学は先行するキュニコス哲学の論理をも踏まえ、善は魂自体の内部に存するということであったとも唱えた。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険にさらされたときに顔が青ざめ身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様に正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その思想はアパテイア(希: ἀπάθεια、心の平安)によって苦痛から解放されるというもので、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される―客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も平静と明確な判断とを保つ事。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ストア派では、「理性」は論理を用いることだけではなく、自然―ロゴス、普遍的理性、万物に内在するものの過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は、", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ソクラテスに従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学―自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定すること―を実践すべきだとされた。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に神からの分け御霊であるということを主張)", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "高潔な生活を送れないような状況下で賢者が自殺することを許すことがストア派では認められた。悪政の下で生きることはストア主義者としてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけるとプルタルコスは考えた。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ここでいう「無関心」(indifference)とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無関心であると言われる。無関心(希: ἀδιάφορα、アディアポラ)の理論はストア派において、その対立物たる善と悪(καθήκοντα カテーコンタとἁμαρτήματα ハマルテーマタ、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無関心とみなされた。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "結果的に「無関心」の中にさらに三つの下位分類が発達した: 自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの; 自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの; そして狭い意味で無関心なもの", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "「アディアポラ」の理論はキュニコス学派および懐疑主義とも共通であった。カントによれば、無関心なるものの概念は倫理の範囲外である。無関心なるものの理論はルネサンス期にフィリップ・メランヒトンによって復活させられた。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては先述のように自殺も肯定した。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ストア派にとって哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、禁欲主義を参照)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の東洋の瞑想と同様である)、毎日その日起こった問題とその可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは常に実践と反省を行う動的な過程なのである。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "著書『自省録』において、マルクス・アウレリウスはそういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある:", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "早朝に自分に向って言う: 私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ[...]何者も私を禍に巻き込むことはないから彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない; というのは私たちは協働するために生まれてきたからである[...]", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題(トポス)、つまり判断、欲望、志向を区別している。フランスの哲学者ピエール・アドによれば、エピクテトスはこの三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした。『自省録』において「各格率はこれら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つあるいは二つあるいは三つ全てを発展させる」ものであるとアドは書いている。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。。ストア派の魂の鍛錬と近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において長々と詳述されている。また、こうした実践重視の姿勢はソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(ἀπάθεια/apatheia、語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。その理想としてよくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。", "title": "ストア派の倫理学・道徳論" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ストア派の顕著な特徴はそのコスモポリタニズムにある: ストア派によれば、全人類は一つの普遍的な霊魂の顕現であり、兄弟愛をもって生き互いに躊躇なく助け合うべきである。『語録』において、エピクテトスが人間の世界に対する関係について述べている: 「各人は第一にはめいめいの所属する共同体の一員である; しかし彼は神と人の偉大な国の一員でもあり、その国ではコピーだけが政治に関心を持つのだ」 この思想はシノペのディオゲネスを模倣したものである。ディオゲネスは「私はアテナイ人でもコリントス人でもなく世界市民である」と述べている。", "title": "社会哲学" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "階級や資産といった外的な差異は社会的関係において何ら重要性を持たないと彼らは考えた。代わりに彼らは人間の兄弟愛と全人類の本性的平等を称揚した。ストア派はギリシアーローマ世界で最も影響力ある学派となり、カトやエピクテトスといった多くの注目に値する著述家・人物を輩出した。", "title": "社会哲学" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "特に、彼らは奴隷に慈悲をかけることを推し進めたことで注目される。セネカは「あなたが自分の奴隷と呼んでいるものはあなたと同根から生じたこと、同じ天に向かって微笑みかけること、あなたと同じ言葉で呼吸し、生き、死ぬことを思いやりをもって覚えておきなさい。」とセネカは勧めている。", "title": "社会哲学" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ミラノのアンブロジウスの代言では、「声はキリスト教の司教の声だが、訓戒はゼノン(ストア派の創始者)のものである」とした。彼が「神の霊」と呼んだものについて、マクスウェル・スタニフォースはこう書いている。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "三位一体について、スタニフォースはこう書いている。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "使徒パウロはアテネ滞在中にストア派と会っていたことが、使徒言行録17:16-18で報告されている。パウロはその手紙の中で、ストア派の哲学の知識を大いに活用し、ストア派の用語や比喩を使って、新しい異邦人の改宗者のキリスト教の理解を助けている。ストア派の影響は、アンブロジウス、マルクス・ミヌシウス・フェリックス、テルトゥリアヌスの著作にも見られる。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "二つの哲学の大きな違いはストア派が汎神論、つまり神が決して超越的でなくむしろ内在的であるという立場をとることにある。世界を創りだす実在としての神はキリスト教思想においては人格的なものとされるが、ストア派は神を宇宙の総体と同一視した、万物が物質的であるというストア主義の思想はキリスト教と強く対立している。また、ストア派はキリスト教と違って世界の始まりや終わりを措定しないし、個人が死後も存在し続けると主張しない。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ストア主義は教父によって「異教哲学」とみなされたが、それにもかかわらずストア主義の中心的な哲学的概念のなかには初期のキリスト教著述家に利用されたものがある。その例として「ロゴス」、「徳」、「魂」、「良心」といった術語がある。しかも、相似点は用語の共有(あるいは借用)に留まらない。ストア主義もキリスト教も主張した概念として、この世界における所有・愛着の無益性・刹那性だけでなく、外的世界に直面した際の内的自由、自然(あるいは神)と人との近縁性、人間の本性の堕落―あるいは「持続的な悪」―という考え、などがある。各人の人間性の大きな可能性を呼び覚まし発展させるために、情動およびより劣った感情(すなわち渇望、羨望、怒気)に関して禁欲を実践することが奨励された。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "マルクス・アウレリウスの『自省録』のようなストア派の著作が時代を超えて多くのキリスト教徒によって高く評価された。ストア派のアパテイアという理想が今日正教会によって完全な倫理的状態として認められている。ミラノのアンブロシウスはストア哲学を自身の神学に適用したことで知られた。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ユストゥス・リプシウスは、古代ストア哲学をキリスト教に適合する形で復活させることを目的とした一連の著作を発表し、1600年に出版されたエピクテトゥスの版の編集者として、フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサスがスペインでストア主義を推進した。その後フランシスコ・デ・ケベードが『ストア派の教義』(1635年)を出版し、ストア派とキリスト教の間のギャップを埋める努力を続けた。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "自殺は人間の自由の最高の表現であるとするストア派に対して、キリスト教の考えでは、自殺は「形式的に」自由の表現であるにすぎず、「自由の存立基盤」自体が破壊されてしまうために「内容的にはもっとも不自由な行為」であるとされる。そして個人の肉体はあくまで「神に創られて存在する被造物」であるため、個人は自らの肉体を自由に破壊する権利を有していない、とされる。", "title": "ストア主義とキリスト教" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "「ストイック」という言葉は一般に苦痛・歓喜・強欲・歓楽に無関心な人を指して使われる。「感情を抑え、我慢強く耐える人」という近代の用法は1579年に名詞の形で初めて見られ、1596年には形容詞の形で見られた。「エピクロス主義者」と対照的に、『スタンフォード哲学百科事典』のStoicismの項には「英語の形容詞stoicalがその哲学的起源に対して誤解をもたらすことはない」と述べられている。", "title": "近代の用法" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ストア派の一般的な教説を示すような、著名なストア派哲学者からの引用を以下に示す。", "title": "ストア派の引用" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "エピクテトス:", "title": "ストア派の引用" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "マルクス・アウレリウス・アントニヌス:", "title": "ストア派の引用" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ルキウス・アンナエウス・セネカ:", "title": "ストア派の引用" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "以下が代表的人物である。なお、キケロはその著『宿命について』において見て取れるように宿命論に拠るところは全くなく、ストア派には含めないが、彼の思想は彼の師や彼の生きた時代から影響を受けてなおストア的である(なお、一般的には彼はアカデメイア学派に分類される)。彼の著作は彼自身の思想でないが、ストア派の思想を知る上で参考になる。", "title": "ストア派哲学者" } ]
ストア派は、ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めの古代ギリシャでゼノンによって始められた。 自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。例えば、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人は、判断の誤りから生まれる破壊的な衝動などに苛まされることはない、と説いている。
{{出典の明記|date=2020年8月}} {{otheruseslist|哲学|その他の「ストア」|ストア}} [[File:Zeno of Citium pushkin.jpg|right|thumb|[[キプロス島]]出身の[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]]] '''ストア派'''(ストアは、{{lang-el-short|Στωικισμός}}、{{Lang-en-short|[[w:Stoicism|Stoicism]]}}、ストイシズム)は、[[ヘレニズム哲学]]の一学派で、[[紀元前3世紀]]初めの[[古代ギリシャ]]で[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]によって始められた。 自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した<ref>NHK2019年4月1日放送、100分de名著「マルクス・アウレリウス」『自省録』第1回 自分の「内」を見よ。[[岸見一郎]]</ref>。例えば、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人は、判断の誤りから生まれる破壊的な衝動などに苛まされることはない、と説いている<ref name="Stoicism">[http://plato.stanford.edu/entries/stoicism/ Stoicism], Stanford Encyclopedia of Philosophy.</ref>。 ==概要== ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志([[プロハイレーシス]]と呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた<ref>John Sellars. ''Stoicism'', p. 32.</ref>。 [[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]や[[エピクテトス]]のような後期ストア派は、「徳は幸福により十全となる」という信念から、知者は不幸に動じないと主張した。この思想は「ストア的静寂」というフレーズが意味するところに近い。だが、知者は真に自由とされ、あらゆる道徳的腐敗は等しく悪徳であるという「過激倫理的な」ストア派の思想を含意しない<ref name="Stoicism"/>。 ヘレニズム時代以降の[[古代ギリシア]]・[[古代ローマ|ローマ]]の時代においては[[アカデメイア]]学派、[[逍遥学派]]、[[エピクロス派]]と並んで四大学派とされていた。創始以降、ストア派の思想は[[古代ギリシア]]や[[ローマ帝国]]を通じて非常に流行し、[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]をも信奉者として、哲学の異教的な性格を[[キリスト教]]の教義と調和しないものとして[[ユスティニアヌス1世]]が全ての学派を廃するまで続いた<ref name="Agathias">[[Agathias]]. ''Histories'', 2.31.</ref><ref name="Sedley">{{cite encyclopedia |last=David |first=Sedley |author= |authorlink= |editor=E. Craig |encyclopedia=[[Routledge Encyclopedia of Philosophy]] |title=Ancient philosophy |url=http://www.rep.routledge.com/article/A130 |accessdate=2008-10-18 |edition= |date= |year=1998 |publisher= |volume= |location= |id= |doi= |pages= |quote= }}</ref>。 ストア派なる名は、[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]が[[アテナイ]]の[[アテナイのアゴラ|アゴラ]]北面の彩色[[柱廊]]([[ストア・ポイキレ]])で教授していたことにちなむ。 多くの古代ギリシャの哲学者が、[[一神教]]と似た多神教的な一神教を信じていた<ref name="auto">{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=pBSJNDndGjwC&pg=PA225|title=No Other Gods: Emergent Monotheism in Israel|first=Robert Karl|last=Gnuse|date=1 May 1997|publisher=Sheffield Academic Press|isbn=1-85075-657-0|page=225}}</ref>が、ストア派や影響を受けた中期・後期プラトン主義についても異教の[[一神教]](pagan monotheism)として分類することがある<ref name="Brenk 2016"/>。 == 基本的教説 == {{rquote|right|「哲学は人間が自分の外部にある全てのものを手に入れることを保証しないが、代わりにその適切な主題の中に眠っているものを手に入れるであろう。大工の使う素材は木材や彫刻用青銅であるから、生き方の素材は各人の生である。」|エピクテトス<ref>Epictetus, ''Discourses'' 1.15.2, Robin Hard revised translation.</ref>}} ストア主義者それぞれの考え方は互いに密接に関係している。 ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされる[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから彼の思想は弟子の[[アッリアノス]]の記録による)から推測するしかない。 ストア派は世界の統一的な説明を[[形式論理学]]、[[非二元論的]][[自然学]]、[[自然主義 (哲学)|自然主義]]的[[倫理学]]によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論により関心を示した。 ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある。「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する<ref name="Russell">Russell, Bertrand. ''A History of Western Philosophy'', p. 254.</ref>」 この思想は対人関係のような分野にも適用される; 「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること<ref name="Russell1">Russell, Bertrand. ''A History of Western Philosophy'', p. 264.</ref>」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ<ref name="Russell5">Russell, Bertrand. ''A History of Western Philosophy'', p. 253.</ref>」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。 ストア倫理学では[[決定論]]が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる<ref name="Russell" />」と[[クレアンテス]]は考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福<ref name="Russell1" />」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は後に「[[古典的汎神論]]」と呼ばれ(、[[オランダ]]の哲学者[[バールーフ・デ・スピノザ]]に採用され)た<ref>Charles Hartshorne and William Reese, "Philosophers Speak of God," Humanity Books, 1953 ch 4</ref>。 ヘレニズム世界・ローマ帝国においてストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり<ref>{{cite book | last = Amos | first = H. | title = These Were the Greeks | publisher = Dufour Editions | location = Chester Springs | year = 1982 | isbn = 978-0-8023-1275-4 |oclc=9048254}}</ref>、ギルバート・マーレイの言う所によれば、「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が自らをストア主義者だと述べた<ref>Gilbert Murray, ''The Stoic Philosophy'' (1915), p.25. In Bertrand Russell, ''A History of Western Philosophy'' (1946).</ref>」 ストア派の起源は[[エピクロス派]]と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は[[犬儒学派]]の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。 == 歴史 == [[File:Antisthenes Pio-Clementino Inv288.jpg|right|thumb|アンティステネス、キュニコス学派の創始者]] 紀元前301年の初めごろ、[[キティオンのゼノン]]が[[ストア・ポイキレ]](すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た<ref>{{cite book | last = Becker | first = Lawrence | title = A History of Western Ethics | publisher = Routledge | location = New York | year = 2003 | isbn = 978-0-415-96825-6 |page=27}}</ref>。[[エピクロス派]]のような他の学派とは異なり、ゼノンは[[アテナイ]]の[[アゴラ]](中央広場)を見晴らす[[コロネード]]のような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。 ゼノンの思想は[[ソクラテス]]の弟子[[アンティステネス]]を始祖とする[[キュニコス学派]]の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのは[[クリュシッポス]]で、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。 研究者は大抵ストア派の歴史を三相に分ける: * 前期ストア派、ゼノンによる学派の創設から[[タルススのアンティパトロス|アンティパトロス]]まで。 * 中期ストア派[[パナイティオス]]や[[アパメアのポセイドニオス|ポセイドニオス]]を含む。 * 後期ストア派、[[ガイウス・ムソニウス・ルフス|ムソニウス・ルフス]]、[[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]、[[エピクテトス]]、そして[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]らを含む。 [[アルバート・アーサー・ロング]]が述べているように、前二相のストア主義者の著作で完全な形で現存するものは全く無い。後期ストア派のローマ人たちの著作のみが現存している<ref>A.A.Long, ''Hellenistic Philosophy'', p.115.</ref>。 == ストア論理学 == === 命題論理 === ゼノンの師の一人で[[メガラ派]]に属する[[ディオドロス・クロノス]]は、今日[[命題論理]]として知られる論理学へのアプローチを初めて導入した哲学者とされる。命題論理とは名辞ではなく命題つまり文に基づいた論理学へのアプローチであり、論理学を[[アリストテレス]]の名辞論理とは全く異なったものにした。後にクリュシッポスが、このアプローチをストア論理学として知られることになる体系へと発展させ、アリストテレスの三段論法のライバルとされる演繹体系(ストア三段論法)を導入した。ストア論理学に対する新たな関心が20世紀に起こり、論理学の重要な発展が命題論理に基づいて起こった。「クリュシッポスとゴットロープ・フレーゲの哲学的論理学の強い親近性は非常に印象的である<ref>[http://plato.stanford.edu/entries/logic-ancient/] Stanford Encyclopedia of Philosophy: [[Susanne Bobzien]], ''Ancient Logic''</ref>」と[[ズザンネ・ボプツィエン]]が書いている。 「クリュシッポスは事実上今日論理学に関係しているあらゆる論理学的話題に関する300以上の論理学的著作を著した。その中には[[言語行為]]理論、[[構文分析]]、単数あるいは複数の表現、[[述語論理]]、指標、[[存在記号|存在命題]]、[[論理演算]]、[[否定]]、[[論理和|和]]、[[包含証明|包含]]、[[論理的帰結]]、[[妥当性]]論証の形式、[[演繹]]、[[命題論理]]、[[様相論理]]、[[時相論理]]、[[認識論理]]、[[代示]]論理、[[命令論理]]、多義性と論理的[[パラドックス]]がある<ref>[http://plato.stanford.edu/entries/logic-ancient/#Sto] Stanford Encyclopedia of Philosophy: Susanne Bobzien, ''Ancient Logic''</ref>」ともボプツィエンは書いている。 === ストア範疇論 === 全ての[[存在]]({{lang-el-short|ὄντα}})は——全てのもの({{lang-el-short|τινά}})ではなく——[[物質]]的であるとストア派では考えられた。彼らは具体的なものと[[抽象的対象|抽象的なもの]]との区別は認めたが、純粋に物質的なものが存在するというアリストテレスの主張に関しては否定した。そのため彼らは、物体が熱いならそれは世界中に存在する熱素の一部がその物質の中に入ったからだという[[アナクサゴラス]]の主張は(アリストテレスと同じく)認めた。しかしアリストテレスとは違って、あらゆる[[付帯性]]をカバーするような思想を発達させた。そのためある物体が赤いならそれは世界中に存在する赤の元素の一部がその物質の中に入ったからだということになる。 四種類の[[ストア派の範疇|範疇]]があると彼らは考えた。 ; [[基体]] ({{lang-el|ὑποκείμενον}}) : 物がそれから構成されるところの基本的な物質、形相を持たない実体(''ousia'') ; [[性質 (哲学)|性質づけられた(もの)]] ({{lang-el|ποιόν}}) : 物質が個々の物体を形成する方法; ストア自然学では、物質に形相をもたらす物質的な構成要素(''pneuma'': 気息) ; 何らかの様態にある(もの)({{lang-el|πως ἔχον}}) : 大きさ、形状、行動、体勢といった特定の特徴であり、物体の内部に存するものではない ; 何かとの関係において何らかの様態にあるもの({{lang-el|πρός τί πως ἔχον}}) : 時間・空間内における他の物体との相対的位置のような、他の現象との相対的な特徴 === 認識論 === ストア派では、知識は理性を使うことで獲得されると信じられた。[[真理]]は[[誤謬]]とは区別される; 実際には近似が作り出されるだけだとしても。ストア派によれば、感覚器官は常に感覚を受け取っている: そして物体から感覚器官を通じて心へと拍動が伝わり、心において拍動が表象(phantasia)における印象を残す(心に現れる印象はファンタズマと呼ばれる)<ref>{{cite book | last = Diogenes Laërtius | author-link = Diogenes Laërtius | year = 2000 | title = Lives of eminent philosophers | publisher = [[Harvard University Press]] | location = Cambridge, MA}} VII.49</ref>。 心は印象に対して判断する——賛成もしくは反対する——能力(''sunkatathesis'')を持ち、実在の正しい表象を間違った表象から区別することができる。印象の中には即座に賛成できるものもあるが、様々な程度の躊躇いがちな賛成に留まり、信念もしくは意見([[ドクサ]])と呼ばれるものもある。ただ理性を通じてのみ人間は明確な理解・確信([[カタレプシス]])を得られる。ストア派の知者が獲得できる、確かな、真なる知識([[エピステーメー]])は確信を仲間の専門知識や人間の判断の集成で確かめることによってのみ得られる。 {{bquote|あるものがその実態において、その裸の状態において、その完全な全体性においてどんな種類のものかを見極めるために、そしてその適切な名前や解決へ向けて混合されたものの名前を分かるために、あなたに表象されたものの定義・記述を自分のためになしなさい。なぜなら、あなたの生涯において表象された物体を真に系統的に観察し、同時にこの世界がどんな世界であるか、世界の中で万物がどのように働くか、全体との関連の中で個々のものがどんな意味を持つかを見極めるために物事を常に観察することほど、心を練磨する上で生産的なことはないのだから。|||マルクス・アウレリウス・アントニヌス|『自省録』、第III巻第11章}} == ストア派の自然学・宇宙論 == {{main|{{仮リンク|ストア自然学|en|Stoic physics}}}} ストア派によれば、世界は物質的で、(一つの)神あるいは自然として知られている理性的な実体であり、能動的・受動的の二種類に分けられる<ref name="Brenk 2016">{{cite book |last=Brenk |first=Frederick |date=January 2016 |title="Theism" and Related Categories in the Study of Ancient Religions |chapter=Pagan Monotheism and Pagan Cult |chapter-url=https://classicalstudies.org/annual-meeting/147/abstract/pagan-monotheism-and-pagan-cult |publisher=[[Society for Classical Studies]] ([[University of Pennsylvania]]) |series=[https://samreligions.org/2014/12/30/theism-and-related-categories-in-the-study-of-ancient-religions/ SCS/AIA Annual Meeting] |location=[[Philadelphia]] |volume=75.4 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170506035740/https://classicalstudies.org/annual-meeting/147/abstract/pagan-monotheism-and-pagan-cult |archive-date=6 May 2017 |url-status=live |accessdate=3 August 2021 |quote=Historical authors generally refer to “the divine” (''to theion'') or “the supernatural” (''to daimonion'') rather than simply “God.” [...] The Stoics, believed in a God identifiable with the ''logos'' or ''hegemonikon'' (reason or leading principle) of the universe and downgraded the [[Ancient Greek religion|traditional gods]], who even disappear during the conflagration (''[[ekpyrosis]]''). Yet, the Stoics apparently did not practice a cult to this God. [[Middle Platonism|Middle]] and [[Neoplatonism|Later Platonists]], who spoke of a [[Platonism#Philosophy|supreme God]], in philosophical discourse, generally speak of this God, not the gods, as responsible for the creation and providence of the universe. They, too, however, do not seem to have directly practiced a religious cult to their God.}}</ref>。受動的な実体は物質であり、「何にでも使える実体だが不活性で、何者かによって運動を加えられないと動かないままでいる<ref>Seneca, ''Epistles'', lxv. 2.</ref>」 運命あるいは普遍的な理性([[ロゴス]])と呼ばれる能動的な実体は知的な[[エーテル]]つまり原初の炎であり、受動的な物質に働きかける: {{bquote|世界それ自体が神であり、世界が自身の霊魂を流出する; それは同じ世界を導く原理であり、物の一般的本性やあらゆる物質を包含する全体性とともに心や理性の中で働く; 運命づけられた力と未来の必然性; それにエーテルの炎と原理; さらに水、大地、空気のような本来の状態が流動的・遷移的な諸元素; それから太陽、月、星々; これらと、全てのものが内包されるような普遍的存在が含まれる|||クリュシッポス|キケロ『神々の本性について』第I巻より}} 万物が運命の法則に従う、というのは世界は自身の本性と一致してのみ活動し、受動的な物質を統べるからである。人間や動物の魂はこの原初の火からの流出物であり、同様に運命に従う: {{bquote|世界を一つの実体と一つの魂を備えた一つの生命だと常に見なせ; そして万物が知覚と、つまりこの一つの生命についての知覚をどうやって持つのかを観察せよ; さらに万物がどのように一つの運動と共同して動くかを観察せよ; それから万物がどのように互いの原因となっているかを見て取れ; 網の構造や紡がれ続ける糸をも観察せよ|||マルクス・アウレリウス|『自省録』、第IV巻第40節}} 個々の魂はその本性上滅びゆくものであり、「世界の種子たる理性(''logos spermatikos'')に迎え入れられることで炎的な本性をとり、変化・拡散し<ref>Marcus Aurelius, ''Meditations'', iv. 21.</ref>」うる。正しい理性が人間と世界との基礎なのだから、人生の目的は理性に従って生きること、すなわち[[自然法|自然]]に従って生きることとなる。 ストア派の神についてフレデリック・ブレンクはこう書いている。 {{quote|ストア派は宇宙のロゴスやヘゲモンコン(理性や指導原理)と同一の神を信じ、伝統的な神々を格下げた。しかしストア派はこの一つの神への崇拝を行わなかった。中・後期プラトン主義者の哲学的言説の中で最高の神について、一般的には神々ではなく、この一つの神が宇宙の創造と摂理に責任を持つと語っている<ref name="Brenk 2016"/>。}} [[アスカロンのアンティオコス]]は[[アカデメイア]]、[[ペリパトス派]]、ストア派の3つの学派を説明し、これらの3つの学派が互いに些細な点でしか乖離していないと指摘している{{Sfn | Zeller | 1931 | p = 274}}。 == ストア派の神学 == {{See also|一神教}} ストア派の神学は[[一神教]]として分類されることがある<ref name="auto" /><ref>Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 8. "One way of justifying to themselves and to others their attachment to specific gods was to proclaim that what was really being worshipped under various names and historically sanctioned forms of cult was the one ineffable principle of all things. Unambiguously professed in a sentence like the following: ‘God being one, has many names’,12 this belief permeates Greek religious theory. The Stoic Cleanthes can thus address a fervent hymn to Zeus as a god with a definite historical personality, in which we encounter a monistic view of divinity.13 Indeed this may be the reason why this pagan prayer was selected by Stobaeus, along with a similar Orphic hymn to Zeus, for the anthology that he compiled for his son’s use and education"</ref><ref>Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 19. "Platonists and Aristotelians defined God as absolutely immaterial and therefore transcending the world of the senses, while the Stoics taught that, though incorporeal, God displays a form of materiality, but of a very subtle and literally ethereal nature, and likened him to intelligible light or fire. Yet, as is argued in the second chapter of this volume, both had a monotheistic view, and the Christians, who drew on Greek philosophy for the formulation of their own theology, recognized this. Of the two views on offer orthodox Christianity opted for the first, without however being able to reject the Stoic position altogether, as Tertullian’s rhetorical question testifies: ‘for who will deny that God is a body, though he is a spirit?’48 This ambiguity is even more clearly present in pagan theological literature, which combines belief in a transcendental God with the worship of the Sun seen as the representation of God in this world."</ref><ref name="Brenk 2016"/>。ストア派はキリスト教徒が天使、聖人といった神聖(divine)あるいは神(god)と呼ぶことができる存在を持つように、ある一つの神を特定の神(Godあるいはthe God)と呼び、その特定の神を除いた神々には、最高神を頂点とした階層制よりもはるかに徹底した従属関係(派生関係)をもたせていたと考えられている<ref name="pg-43">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), pp. 43-44. "the Platonists, the Peripatetics, and the Stoics do not just believe in one highest god, they believe in something which they must take to be unique even as a god. For they call it ‘God’ or even ‘the God’, as if in some crucial way it was the only thing which deserved to be called ‘god’. If, thus, they also believe that there are further beings which can be called ‘divine’ or ‘god’, they must have thought that these further beings could be called ‘divine’ only in some less strict, diminished, or derived sense. Second, the Christians themselves speak not only of the one true God, but also of a plurality of beings which can be called ‘divine’ or ‘god’; for instance, the un-fallen angels or redeemed and saved human beings."</ref>。彼らは単なる最高神でなく『特定の神(the God){{efn|ο θεός}}』、それだけが神と呼ぶに値する唯一無二の神かのように特別な名称を使った<ref name="pg-43" />。 ストア派によると[[ゼウス]]だけが神であるための基準を完全に満たし、他の神々はゼウスによって運命づけられ、ゼウスの計画を実行するためだけに存在しており、神々は完全にゼウス(the God)に依存し、不死でさえなかった<ref name="pg-53">Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 53. "Nevertheless, this clearly means that only Zeus satisfies the criterion for being a god fully, whereas all other gods only satisfy the criterion by not insisting on strict indestructibility, but by accepting a weak form of immortality. It is only in this diminished sense that things other than Zeus can be called ‘god’. More importantly, though, these other gods only exist because the God has created them as part of his creation of the best possible world, in which they are meant to play a certain role. The power they thus have is merely the power to do what the God has fated them to do. They act completely in accordance with the divine plan......It is very clear in their case, even more so than in Aristotle’s, that these further divine beings are radically dependent on the God and only exist because they have a place in the divine order of things. Far from governing the universe or having any independent share in its governance, they only share in the execution of the divine plan; they are not even immortal, strictly speaking. Theirs is a rather tenuous divinity."</reF>。ストア派は全ての存在が物質的なものとしゼウス(the God)を活動的な炎と同一視した。世界は理性的な動物であり、周期的に炎に転化する。この炎の状態は世界、世界の理性、ゼウスと完全に一致するものと考えた<ref>Pagan Monotheism in Late Antiquity, Edited by Polymnia Athanassiadi, Michael Frede, CLARENDON PRESS • OXFORD(1999), p. 51. "But the Stoics not only think that all beings are material or corporeal, they also, more specifically, identify God or Zeus with a certain kind of fire which is supposed to be intelligent, active, and creative. So perhaps we have to assume that the Stoics distinguish two aspects of the fiery substance which is Zeus, two aspects, though, which in reality are never separated, namely its divine, creative character, and its material character. Thus God and Zeus are the same to the extent that Zeus is active, creative, intelligent. Now the Stoics also believe that the world is a rational animal that periodically turns entirely into the fiery substance which is Zeus. What happens is that the reason of this animal is itself constituted by this fiery substance, and that this reason slowly consumes and absorbs into itself the soul and the body of the world. Thus, in this state of conflagration, the world, the reason of the world, and Zeus completely coincide."</ref>。 == ストア派の倫理学・道徳論 == 現代において「[[ストア主義#近代の用法|ストイック]]」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味で使われるため、ストア学が感情に否定的な見方を示す学派としてしばしば誤解されるが、[[古代ギリシア語|古代ギリシャ語]]において「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」<ref>{{cite web|url=http://www.merriam-webster.com/dictionary/passion |work=[[Merriam-Webster]] |publisher=Encyclopædia Britannica |title=Passion |accessdate=January 29, 2011}}</ref>、すなわち外的な出来事に「受動的に」反応することだと心にとどめたといったように、現代の用法とは幾分異なることから生んだ誤解である。 ストア学では「[[理性]]」に従うことによって「[[情動]]」から解放されることを説いたのみであり、感情を消し去ることを追求したわけではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たる[[禁欲主義|アスケーシス]]によって感情を変質させようとしたのである<ref>{{cite book |last=Graver |first=Margaret |title=Stoicism and Emotion |publisher=University of Chicago Press |location=Chicago |year=2009 |isbn=978-0-226-30558-5 |oclc=430497127}}</ref>。[[内省]]、[[セルフコントロール|専心]]、[[論理的思考]]などがそういった自己修養の方法とされた。またストア学は先行する[[キュニコス派|キュニコス哲学]]の論理をも踏まえ、[[善]]は魂自体の内部に存するということであったとも唱えた。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険にさらされたときに顔が青ざめ身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様に正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。 その思想は[[アパテイア]]({{lang-el-short|ἀπάθεια}}、[[内なる平和|心の平安]])によって苦痛から解放されるというもので<ref>{{cite book | last = Seddon | first = Keith | title = Epictetus' Handbook and the Tablet of Cebes | publisher = Routledge | location = New York | year = 2005 | isbn = 978-0-415-32451-9 |page=217 |oclc=469313282}}</ref>、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される―客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も平静と明確な判断とを保つ事。 ストア派では、「[[理性]]」は論理を用いることだけではなく、自然―[[ロゴス]]、普遍的理性、万物に内在するものの過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は、 *「[[知恵]]」([[ソピア]]) *「[[勇気]]」([[アンドレイア]]) *「[[正義]]」([[ディカイオシュネー]]) *「[[節制]]」([[ソープロシュネー]]) であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。 [[ソクラテス]]に従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学―自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定すること―を実践すべきだとされた。 自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な[[自由意志]]を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての[[殺人]]は肯定しない。ただし当時の他の哲学と同様に敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に神からの分け御霊であるということを主張) 高潔な生活を送れないような状況下で賢者が[[自殺]]することを許すことがストア派では認められた<ref name="marietta153">Don E. Marietta, (1998), ''Introduction to ancient philosophy'', pages 153-4. Sharpe</ref>。悪政の下で生きることはストア主義者として[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス]]のいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけると[[プルタルコス]]は考えた<ref>{{Cite document|title=Cato's suicide in Plutarch AV Zadorojnyi|publisher=The Classical Quarterly|year=2007|url=http://journals.cambridge.org/abstract_S0009838807000195|postscript=<!-- Bot inserted parameter. Either remove it; or change its value to "." for the cite to end in a ".", as necessary. -->{{inconsistent citations}}}}</ref>。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうる<ref name="marietta153"/>が、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた<ref name="irvine200">William Braxton Irvine, (2009), ''A guide to the good life: the ancient art of Stoic joy'', Oxford University Press, p. 200.</ref>。 === 善悪「無関心」の理論 === ここでいう「無関心」({{lang|en|indifference}})とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無関心であると言われる。無関心({{lang-el-short|ἀδιάφορα}}、[[アディアポラ]])の理論はストア派において、その対立物たる善と悪({{lang|el|καθήκοντα}} [[カテーコンタ]]と{{lang|el|ἁμαρτήματα}} [[ハマルテーマタ]]、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無関心とみなされた。 結果的に「無関心」の中にさらに三つの下位分類が発達した: 自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの; 自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの; そして狭い意味で無関心なもの 「アディアポラ」の理論はキュニコス学派および[[懐疑主義]]とも共通であった。[[イマヌエル・カント|カント]]によれば、無関心なるものの概念は倫理の範囲外である{{Citation needed|date=December 2011}}。無関心なるものの理論は[[ルネサンス]]期に[[フィリップ・メランヒトン]]によって復活させられた。 アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく、「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては先述のように[[自殺]]も肯定した。 === 運命の肯定と自由意志の肯定 === これにより人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。 === 魂の鍛練 === [[File:Marcus Aurelius Metropolitan Museum.png|right|thumb|[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]、ストア主義者の皇帝]] ストア派にとって哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、[[禁欲主義]]を参照)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の[[東洋哲学|東洋]]の[[瞑想]]と同様である)、毎日その日起こった問題とその可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは常に実践と反省を行う動的な過程なのである。 著書『[[自省録]]』において、マルクス・アウレリウスはそういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある: <blockquote>早朝に自分に向って言う: 私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ[...]何者も私を禍に巻き込むことはないから彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない; というのは私たちは協働するために生まれてきたからである[...]</blockquote> アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題([[トポス]])、つまり判断、欲望、志向を区別している<ref>Davidson, A.I. (1995) Pierre Hadot and the Spiritual Phenomenon of Ancient Philosophy, in Philosophy as a Way of Life, Hadot, P. Oxford Blackwells pp. 9-10.</ref>。フランスの哲学者[[ピエール・アド]]によれば、エピクテトスはこの三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした<ref>Hadot, P. (1992) La Citadelle intérieure. Introduction aux Pensées de Marc Aurèle. Paris, Fayard, pp. 106-115.</ref>。『自省録』において「各格率はこれら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つあるいは二つあるいは三つ全てを発展させる<ref>Hadot, P (1987) Exercices spirituels et philosophie antique. Paris, 2nd edn, p. 135.</ref>」ものであるとアドは書いている。 Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。<ref>{{cite journal|author=Mac Suibhne, S.|year=2009|title='Wrestle to be the man philosophy wished to make you': Marcus Aurelius, reflective practitioner|journal=Reflective Practice|volume=10|issue=4|pages=429–436|doi=10.1080/14623940903138266}}</ref>。ストア派の魂の鍛錬と近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において長々と詳述されている<ref name="Robertson_2010">{{Cite book| author=Robertson, D | title=The Philosophy of Cognitive-Behavioral Therapy: Stoicism as Rational and Cognitive Psychotherapy| year=2010| publisher=Karnac| location=London| isbn=978-1-85575-756-1|url=https://books.google.co.uk/books?id=XsOFyJaR5vEC&lpg=&hl=en}}</ref>。また、こうした実践重視の姿勢は[[ソクラテス]]の「ただ生きるのではなく、より善く、いきる」につながる考え方だと思われる。 === 感情からの解放(理性主義) === あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。[[アパテイア]]({{lang|el|ἀπάθεια}}/apatheia、語源的には[[パトス]]pathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も克服の対象と考える。その理想としてよくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。 == 社会哲学 == ストア派の顕著な特徴はその[[コスモポリタニズム]]にある: ストア派によれば、全人類は一つの普遍的な霊魂の顕現であり、兄弟愛をもって生き互いに躊躇なく助け合うべきである。『語録』において、[[エピクテトス]]が人間の世界に対する関係について述べている: 「各人は第一にはめいめいの所属する共同体の一員である; しかし彼は神と人の偉大な国の一員でもあり、その国ではコピーだけが政治に関心を持つのだ<ref>Epictetus, ''Discourses'', ii. 5. 26</ref>」 この思想は[[シノペのディオゲネス]]を模倣したものである。ディオゲネスは「私はアテナイ人でもコリントス人でもなく世界市民である<ref>Epictetus, ''Discourses'', i. 9. 1</ref>」と述べている。 階級や資産といった外的な差異は社会的関係において何ら重要性を持たないと彼らは考えた。代わりに彼らは人間の兄弟愛と全人類の本性的平等を称揚した。ストア派はギリシアーローマ世界で最も影響力ある学派となり、カトやエピクテトスといった多くの注目に値する著述家・人物を輩出した。 特に、彼らは奴隷に慈悲をかけることを推し進めたことで注目される。[[セネカ]]は「あなたが自分の奴隷と呼んでいるものはあなたと同根から生じたこと、同じ天に向かって微笑みかけること、あなたと同じ言葉で呼吸し、生き、死ぬことを思いやりをもって覚えておきなさい<ref>[[Seneca the Younger|Seneca]], [[wikisource:Moral letters to Lucilius/Letter 47|''Moral letters to Lucilius'', Letter 47: ''On master and slave'']], 10, circa 65 AD.</ref>。」とセネカは勧めている。 == ストア主義とキリスト教 == ミラノの[[アンブロジウス]]の代言では、「声はキリスト教の司教の声だが、訓戒は[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]](ストア派の創始者)のものである」とした<ref>{{Cite web|url=http://www.newadvent.org/fathers/3401.htm|title=On the Duties of the Clergy|website=www.newadvent.org|access-date=2017-03-01}}</ref><ref>{{cite book |last=Aurelius |first=Marcus |author-link=Marcus Aurelius| title=Meditations |url=https://archive.org/details/meditations0000marc_m9z0 |url-access=registration |year=1964 |location=London |publisher=[[Penguin Books]] |page=[https://archive.org/details/meditations0000marc_m9z0/page/26 26] |isbn=978-0-140-44140-6}}</ref>。彼が「神の霊」と呼んだものについて、マクスウェル・スタニフォースはこう書いている。 {{quote|{{仮リンク|クレントス|en|Cleanthes}}は[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]の「創造の火」にもっと明確な意味を与えたいと思い、それを表現するために[[プネウマ]](「精神」)という言葉を最初に思いついたのである。この知的な「精神」は、火と同様に、空気の流れや息に似た弱い物質であるが、本質的には温かみのある性質を持っていると考えられていた。それは神としての宇宙に、そして魂と生命を与える原理としての人間に内在していた。ここから、キリスト教神学の「[[聖霊]]」、つまり「命の主であり与え主」に至るまでは、明らかに長い道のりではない。聖霊はペンテコステのときに火の舌として目に見える形で現れ、それ以来、キリスト教でもストア派でも、生命の火や恩恵的な暖かさという考えと結びついてきた<ref name="Marcus Aurelius 1964 25">{{cite book |last=Marcus Aurelius |author-link=Marcus Aurelius| title=Meditations |url=https://archive.org/details/meditations0000marc_m9z0 |url-access=registration |year=1964 |location=London |publisher=[[Penguin Books]] |page=[https://archive.org/details/meditations0000marc_m9z0/page/25 25] |isbn=978-0-140-44140-6}}</ref>。}} [[三位一体]]について、スタニフォースはこう書いている。 {{quote|三位一体の教義においても、父、言葉、[[聖霊]]という教会的な概念は、神の統一性を表すストア派のさまざまな名称にその萌芽を見出している。セネカは、宇宙を形作る最高の力について書いているが、「この力を我々は、あるときはすべてを支配する神と呼び、あるときは体を持たない知恵と呼び、あるときは[[聖霊]]と呼び、あるときは運命と呼ぶ」と述べている。教会は、神の性質についての独自の受け入れ可能な定義に到達するために、これらの用語の最後の部分を拒否するだけでよかった<ref name="Marcus Aurelius 1964 25"/>。}} [[使徒]][[パウロ]]はアテネ滞在中にストア派と会っていたことが、使徒言行録17:16-18で報告されている。パウロはその手紙の中で、ストア派の哲学の知識を大いに活用し、ストア派の用語や比喩を使って、新しい異邦人の改宗者のキリスト教の理解を助けている。ストア派の影響は、[[アンブロジウス]]、マルクス・ミヌシウス・フェリックス、[[テルトゥリアヌス]]の著作にも見られる。 二つの哲学の大きな違いはストア派が[[汎神論]]、つまり神が決して超越的でなくむしろ内在的であるという立場をとることにある。世界を創りだす実在としての神はキリスト教思想においては人格的なものとされるが、ストア派は神を宇宙の総体と同一視した、{{独自研究範囲|万物が物質的であるというストア主義の思想はキリスト教と強く対立している。|date=3 August 2021}}また、ストア派はキリスト教と違って世界の始まりや終わりを措定しない<ref name="ferg" />し、{{要出典|個人が死後も存在し続けると主張しない|date=3 August 2021}}。 ストア主義は[[教父]]によって「異教哲学」とみなされた<ref name="Agathias"/><ref name="Sedley"/>が、それにもかかわらずストア主義の中心的な哲学的概念のなかには初期のキリスト教著述家に利用されたものがある。その例として「[[ロゴス]]」、「[[徳]]」、「[[魂]]」、「[[良心]]」といった術語がある<ref name="ferg">Ferguson, Everett. ''Backgrounds of Early Christianity''. 2003, page 368.</ref>。しかも、相似点は用語の共有(あるいは借用)に留まらない。ストア主義もキリスト教も主張した概念として、この世界における所有・愛着の無益性・刹那性だけでなく、外的世界に直面した際の内的自由、自然(あるいは神)と人との近縁性、人間の本性の堕落―あるいは「持続的な悪」―という考え、などがある<ref name="ferg" />。各人の人間性の大きな可能性を呼び覚まし発展させるために、情動およびより劣った感情(すなわち渇望、羨望、怒気)に関して禁欲を実践することが奨励された。 [[マルクス・アウレリウス]]の『自省録』のようなストア派の著作が時代を超えて多くのキリスト教徒によって高く評価された。ストア派のアパテイアという理想が今日正教会によって完全な倫理的状態として認められている。[[ミラノのアンブロシウス]]はストア哲学を自身の[[神学]]に適用したことで知られた。 [[ユストゥス・リプシウス]]は、古代ストア哲学をキリスト教に適合する形で復活させることを目的とした一連の著作を発表し、1600年に出版されたエピクテトゥスの版の編集者として、[[:en:Francisco Sánchez de las Brozas|フランシスコ・サンチェス・デ・ラス・ブロッサス]]が[[スペイン]]でストア主義を推進した。その後[[フランシスコ・デ・ケベード]]が『ストア派の教義』(1635年)を出版し、ストア派とキリスト教の間のギャップを埋める努力を続けた<ref name="CT911">{{cite book |last1=Grafton |first1=Anthony |last2=Most |first2=Glenn W. |last3=Settis |first3=Salvatore |title=The Classical Tradition |date=2010-10-25 |publisher=Harvard University Press |isbn=978-0-674-03572-0 |page=911 |url=https://books.google.co.uk/books?id=LbqF8z2bq3sC&pg=PA911 |language=en}}</ref>。 === 自殺をめぐる解釈の違い === [[自殺]]は人間の自由の最高の表現であるとするストア派に対して、キリスト教の考えでは、自殺は「形式的に」自由の表現であるにすぎず、「自由の存立基盤」自体が破壊されてしまうために「内容的にはもっとも不自由な行為」であるとされる<ref>{{Cite book |和書 |author=森本あんり |authorlink=森本あんり |year=1998 |title=現代に語りかけるキリスト教 |publisher=日本キリスト教団出版局 |page=79 |id= |isbn=9784818403307 |quote= }}</ref>。そして個人の肉体はあくまで「神に創られて存在する被造物」であるため、個人は自らの肉体を自由に破壊する権利を有していない、とされる<ref>{{Cite book |和書 |author=森本あんり |authorlink=森本あんり |year=1998 |title=現代に語りかけるキリスト教 |publisher=日本キリスト教団出版局 |page=81 |id= |isbn=9784818403307 |quote= }}</ref>。 == 近代の用法 == 「ストイック」という言葉は一般に苦痛・歓喜・強欲・歓楽に無関心な人を指して使われる。「感情を抑え、我慢強く耐える人」という近代の用法は1579年に名詞の形で初めて見られ、1596年には形容詞の形で見られた<ref>{{cite web|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=stoic |title=Online Etymology Dictionary&nbsp;— Stoic |accessdate=2006-09-02|last=Harper |first=Douglas |year=2001 |month=November}}</ref>。「[[エピクロス主義]]者」と対照的に、『[[スタンフォード哲学百科事典]]』のStoicismの項には「英語の形容詞stoicalがその哲学的起源に対して誤解をもたらすことはない<ref>{{cite web |url=http://plato.stanford.edu/entries/stoicism/ |title=Stanford Encyclopedia of Philosophy&nbsp;— Stoicism |accessdate=2006-09-02 |last=Baltzly |first=Dirk |date=2004-12-13}}</ref>」と述べられている。 == ストア派の引用 == ストア派の一般的な教説を示すような、著名なストア派哲学者からの引用を以下に示す。 [[エピクテトス]]: {{quotation| *「自由は人の欲求を満たすことではなく、欲求を除去することで得られる。」|([https://archive.org/stream/epictetus02epicuoft#page/140/mode/2up/search/freedom iv.1.175])}} {{quotation| *「神はどこにいるのか? あなたの心の中に。悪はどこにあるのか? あなたの心の中に。どちらもないのはどこか? 心から独立なものの所である。」|([https://archive.org/stream/epictetus01epicuoft#page/194/mode/2up ii.16.1])}} {{quotation| *「人間は物にかき乱されるのではなく物に対する自分の考えにかき乱されるのだ。」|([http://classics.mit.edu/Epictetus/epicench.html#74 Ench. 5])}} {{quotation| *「それゆえ、もし不幸な人がいたら彼に自分が自分自身の理由で不幸なのだと思い出させよう|([https://archive.org/stream/epictetus02epicuoft#page/84/mode/2up iii.24.2])}} {{quotation| *「私は私の長所に関して自然によって形成された: 私は欠点に関して形成されたわけではない。」|([https://archive.org/stream/epictetus02epicuoft#page/96/mode/2up/search/born iii.24.83])}} {{quotation| *「自分自身以外の何物にも執着してはならない; 自分から引き離された後に苦痛しか残さないようなあなたにならないものに執着してはならない。」|([https://archive.org/stream/epictetus02epicuoft#page/130/mode/2up/search/nothing iv.1.112])}} [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]: {{quotation| *「判断することをやめよ、『私は傷ついた』と考えるのをやめよ、あなたは傷自体を免れているのだ。」|(viii.40)}} {{quotation| *「世界よ、あなたにとって正しいものはすべて私にとっても正しい。あなたにとって時宜に適っているものの内で私にとって早すぎたり遅すぎたりするものなどない。自然よ、あなたの季節がもたらすものは皆私にとって実りある。あなたから全てのものが生まれる、あなたの内に全てのものがある、あなたに向かって全てのものが還帰する。」|(iv.23)}} {{quotation| *「あなたがあなたの前面で働いているなら、あなたが即座にそれを取り戻すことになっているかのように、正しい理性があなたを破壊するようなものはなくあなたの心的な部分は純粋に保ち、真面目に、活発に、静謐に引き続く; もしあなたがそれを保ち、何も期待せず、しかし自然に従った今の生活に満足し、あなたが口にする全ての言葉において英雄的真理を述べるなら、あなたは幸福に暮らせるだろう。そして何者之を妨害できない。」|(iii.12)}} {{quotation| *「人生で起こること全てにいちいち驚くのはなんと馬鹿げていてなんと奇妙なことだろう!」|(xii.13)}} {{quotation| *「外的なものが魂に触れることはない、たとえ最も僅少な程度においても; 魂に入る許可が与えられることもないし、魂を変化させたり動かしたりすることもない; しかし魂は自身を変化・移動させられるのだ。」|(v 19)}} {{quotation| *「あなた自身の強さは役目と同じではないのだから、人の力を超えていると思わないことだ; しかし全てが人の権能・職分であるなら、それがあなた自身の範囲にも含まれることを信じなさい。」|(vi.19)}} {{quotation| *「あるいはあなたを悩ませるものはあなたの名声なのか? しかし私たちがどれだけ早くものを忘れるかをみよ。間断なき奈落が記憶を全てのみこんでしまう。その間隙に拍手が送られる。」|(iv.3)}} [[ルキウス・アンナエウス・セネカ]]: {{quotation| *「問題は、どれだけ長く生きるかではなくどれだけ立派に生きるかである。」|([https://archive.org/stream/adluciliumepistu03seneuoft#page/166/mode/2up Ep. 101.15])}} {{quotation| *「幸福が私たちにもたらさないものを彼女が私たちから取り去ることはできない。」|([https://archive.org/stream/adluciliumepistu01seneuoft#page/422/mode/2up Ep. 59.18])}} {{quotation| *「自然に、彼女が望むままに彼女自身の問題を取り扱わせてみよう; 何があっても勇敢・快活でいよう。滅びゆくもののうち何ものも私たち自身のものではないことをよく考えておこう。」|([https://archive.org/stream/moralessayswithe01seneuoft#page/38/mode/2up De Provid. v.8])}} {{quotation| *「徳とは正しき理性に他ならない。」|([https://archive.org/stream/adluciliumepistu02seneuoft#page/22/mode/2up Ep. 66.32])}} == ストア派哲学者 == 以下が代表的人物である。なお、[[キケロ]]はその著『宿命について』において見て取れるように宿命論に拠るところは全くなく、ストア派には含めないが、彼の思想は彼の師や彼の生きた時代から影響を受けてなおストア的である(なお、一般的には彼はアカデメイア学派に分類される)。彼の著作は彼自身の思想でないが、ストア派の思想を知る上で参考になる。 === 前期 === * [[キティオンのゼノン]] (紀元前332年–紀元前262年)、ストア派及びアテナイのストア・ポイキレの創設者 * [[キオスのアリストン]]、ゼノンの弟子 * [[カルタゴのヘリッロス]] * [[アッソスのクレアンテス]] (紀元前330年–紀元前232年)ストア・ポイキレの第二代学頭 * [[ソロイのクリュシッポス]] (紀元前280年–紀元前204年)ストア・ポイキレの第三代学頭 * [[バビロンのディオゲネス]] (紀元前230年–紀元前150年) * [[タルススのアンティパトロス|タルソスのアンティパトロス]] (紀元前210年–紀元前129年) === 中期 === * [[パナイティオス|ロドスのパナイティオス]] (紀元前185年–紀元前109年) * [[アパメアのポセイドニオス]] (紀元前135年頃– 紀元前51年) * [[ストア派のディオドロス]] {{nowrap|(紀元前120年頃– 紀元前59年)}}、キケロの師 === 後期 === * [[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス]] (紀元前94年–紀元前46年) * [[ルキウス・アンナエウス・セネカ]] {{nowrap|(紀元前4年– 65年)}} * [[ガイウス・ムソニウス・ルフス]] * [[ルベッリウス・プラウトゥス]] * [[プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス]] * [[エピクテトス]] (55年–135年) * [[ヒエロクレス (ストア派)|ヒエロクレス]] (2世紀) * [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]] (121年–180年) == 主な著作 == * [[クリュシッポス]]『論理学研究』(散逸) * セネカ ** 『[[怒りについて]]』(De Ira) ** 『寛容について』(De Clementia) ** 『賢者の不動心について』(De Constantia Sapientiis) ** 『心の平静について』(De Tranquillitate Animi) ** 『人生の短さについて』(De Brevitate Vitae) ** 『幸福な人生について』(De Vita Beata) ** 『神慮について』(De Providentia) ** 『善行について』(De Beneficiis) * [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]『[[自省録]]』 == 注釈 == {{Notelist}} == 出典 == {{reflist|30em}} == 参考文献 == === 一般書 === * [[ライアン・ホリデイ]](金井啓太訳)『ストア派哲学入門』([[パンローリング]]、2017) === 一次文献 === *[[A. A. Long]] and [[David Sedley|D. N. Sedley]], ''The Hellenistic Philosophers'' Cambridge: Cambridge University Press, 1987. * Inwood, Brad & Gerson LLoyd P. (eds.) ''The Stoics Reader: Selected Writings and Testimonia'' Indianapolis: Hackett 2008. *[[George Long (scholar)|Long, George]] ''Enchiridion'' by Epictetus, Prometheus Books, Reprint Edition, January 1955. * Gill C. ''Epictetus, The Discourses'', Everyman 1995. *[[Hadas, Moses]] (ed.), ''Essential Works of Stoicism'' (1961: Bantam) * Harvard University Press ''Epictetus Discourses Books 1 and 2'', Loeb Classical Library Nr. 131, June 1925. * Harvard University Press ''Epictetus Discourses Books 3 and 4'', Loeb Classical Library Nr. 218, June 1928. * Long, George, ''Discourses of Epictetus'', Kessinger Publishing, January 2004. * Lucius Annaeus Seneca the Younger (transl. Robin Campbell), ''Letters from a Stoic: Epistulae Morales Ad Lucilium'' (1969, reprint 2004) ISBN 0-14-044210-3 *[[Marcus Aurelius Antoninus]], ''Meditations'', translated by Maxwell Staniforth; ISBN 0-14-044140-9, or translated by Gregory Hays; ISBN 0-679-64260-9. * Oates, Whitney Jennings, ''The Stoic and Epicurean philosophers, The Complete Extant Writings of Epicurus, Epictetus, Lucretius and Marcus Aurelius'', Random House, 9th printing 1940. === 研究書 === * Bakalis, Nikolaos, ''Handbook of Greek Philosophy: From Thales to the Stoics. Analysis and Fragments'', Trafford Publishing, May 2005, ISBN 1-4120-4843-5 *[[Lawrence C. Becker|Becker, Lawrence C.]], ''A New Stoicism'' (Princeton: Princeton Univ. Press, 1998) ISBN 0-691-01660-7 * Brennan, Tad, ''The Stoic Life'' (Oxford: Oxford University Press, 2005; paperback 2006) * Brooke, Christopher. 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William O., ''Stoic Ethics: Epictetus and Happiness as Freedom'' (London: Continuum, 2007) ISBN 0-8264-9608-3 * Strange, Steven (ed.), ''Stoicism: Traditions and Transformations'' (Cambridge: Cambridge Univ. Press, 2004) ISBN 0-521-82709-4 *[[Eduard Zeller|Zeller, Eduard]]; Reichel, Oswald J., [https://books.google.co.jp/books?id=tfEYAAAAYAAJ&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja ''The Stoics, Epicureans and Sceptics''], Longmans, Green, and Co., 1892 * {{Citation | first = Eduard | last = Zeller | year = 1931 | author-link = Eduard Zeller | title = Outlines of the History of Greek Philosophy | URL = https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.148766 | edition = 13th}}. == 関連項目 == * [[メガラ学派|メガラ派]] * [[孟子#孟子の思想|孟子学派 (儒学)]] * [[エキピロティック宇宙論]] * [[カルネアデスの板]] * [[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]] == 外部リンク == * {{SEP|stoicism|Stoicism|Dirk Baltzly}} * {{IEP|stoicism|Stoicism}} * {{IEP|stoicmind|Stoic Philosophy of Mind|nolink=yes}} * [http://www.ibiblio.org/stoicism/ The Stoic Library] * [http://puffin.creighton.edu/phil/Stephens/rebirth_of_stoicism.htm The Rebirth of Stoicism] * [http://www.ontology.co/logic-stoics.htm Stoic Logic: The Dialectic from Zeno to Chrysippus] * [http://www.ontology.co/biblio/logic-stoics-biblio-one.htm Annotated Bibliography on Ancient Stoic Dialectic] * [http://www.bbc.co.uk/radio4/history/inourtime/inourtime_20050303.shtml BBC Radio 4's In Our Time programme on Stoicism] (requires [[RealAudio]]) * [http://users.hartwick.edu/burringtond/stoics/intro.html An introduction to Stoic Philosophy] * [http://www.newstoa.com/ Online Stoic Community: New Stoa] {{古代ギリシア学派}} {{科学哲学}} {{自然法論のテンプレート}} {{哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すとあは}} [[Category:ストア派|*]]
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メタ検索エンジン
メタ検索エンジン(メタけんさくエンジン)は、入力されたキーワードを複数の検索エンジンに送信し、得られた結果を表示するタイプの検索エンジン。メタサーチエンジン、横断検索エンジンとも呼ぶ。 検索する際に、検索対象サイトを選択する「非統合型」と、検索結果を1つのページに統合して表示する「統合型」とがある。統合型では結果表示に広告が出ないため、GoogleやLycosのように、メタ検索エンジンでの利用を禁止しているところもある。 ウェブ検索以外に、ニュース、翻訳、乗り換え、天気、掲示板などあらゆる検索エンジンから検索ができるものも存在する。検索ボックスにキーワードを入力して検索対象サイトを選ぶと、そのサイトの検索結果が表示されるものが多い。 検索結果を1つにまとめるため、「非統合型メタ検索エンジン」のように、毎回検索対象サイトを選ぶ必要がない。一般的には数多くの検索エンジンで上位表示されるページから順に表示される。また、大手検索エンジンを利用した横断型の検索エンジンも増えてきている。 なお、OTAサービスをまとめた、宿泊・旅行系OTAサイトを横断して検索できるサービスも、メタサーチと呼ばれるようになってきている。 メタ検索エンジン自体は個人でも作れるので、色々なサイトが存在するが、当然その充実度・機能はサイトによって大きく異なる。
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メタ検索エンジン(メタけんさくエンジン)は、入力されたキーワードを複数の検索エンジンに送信し、得られた結果を表示するタイプの検索エンジン。メタサーチエンジン、横断検索エンジンとも呼ぶ。 検索する際に、検索対象サイトを選択する「非統合型」と、検索結果を1つのページに統合して表示する「統合型」とがある。統合型では結果表示に広告が出ないため、GoogleやLycosのように、メタ検索エンジンでの利用を禁止しているところもある。
{{出典の明記|date=2018-12-14}} '''メタ検索エンジン'''(メタけんさくエンジン)は、入力されたキーワードを複数の[[検索エンジン]]に送信し、得られた結果を表示するタイプの検索エンジン。'''メタサーチエンジン'''、'''横断検索エンジン'''とも呼ぶ。 検索する際に、検索対象サイトを選択する「非統合型」と、検索結果を1つのページに統合して表示する「統合型」とがある。統合型では結果表示に広告が出ないため、[[Google]]や[[Lycos]]のように、メタ検索エンジンでの利用を禁止しているところもある。 == 非統合型メタ検索エンジンの特徴 == ウェブ検索以外に、[[ニュース]]、[[翻訳]]、乗り換え、[[天気]]、[[掲示板]]などあらゆる[[検索エンジン]]から[[検索]]ができるものも存在する。検索ボックスにキーワードを入力して検索対象サイトを選ぶと、そのサイトの検索結果が表示されるものが多い。 == 統合型メタ検索エンジンの特徴 == 検索結果を1つにまとめるため、「非統合型メタ検索エンジン」のように、毎回検索対象サイトを選ぶ必要がない。一般的には数多くの検索エンジンで上位表示されるページから順に表示される。また、大手検索エンジンを利用した横断型の検索エンジンも増えてきている。 なお、OTAサービスをまとめた、宿泊・旅行系OTAサイトを横断して検索できるサービスも、メタサーチと呼ばれるようになってきている。 == メタ検索エンジンの例 == メタ検索エンジン自体は個人でも作れるので、色々なサイトが存在するが、当然その充実度・機能はサイトによって大きく異なる。 *[https://searchdesk.com/ 検索デスク] 1996年から提供開始 *[https://skensaku.com/ 最速一括検索] 1997年から提供開始 {{internet-stub}} {{DEFAULTSORT:めたけんさくえんしん}} [[category:検索エンジン]] [[category:メタサーチサイト|*]]
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思想家
思想家(しそうか、英: thinker)は、様々な思想・考えに関する問題を研究し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の知性を使おうと試みる人。日本語では哲学者(philosopher)と同義で使われる場合が多いが、哲学者が「Aとは何か」「AとはBである」など”とは”に軸足を置いて真実を探求する一方で、思想家は「Aはどうあるべきか」「AはBであるべきだ」など”べき”に軸足を置いた主張を展開するという意味で異なる。 『マクミラン英英辞典』によれば、重要なことがらについて考え、新しいアイデアを発展させる人。特にその分野でよく知られた人を指す。
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'''思想家'''(しそうか、{{Lang-en-short|thinker}})は、様々な[[思想]]・考えに関する[[問題]]を[[研究]]し、学び、考察し、熟考し、あるいは問うて答えるために、自分の[[知性]]を使おうと試みる人。日本語では[[哲学者]](philosopher)と同義で使われる場合が多いが、{{要出典範囲|date=2022年5月|哲学者が「Aとは何か」「AとはBである」など”とは”に軸足を置いて真実を探求する一方で、思想家は「Aはどうあるべきか」「AはBであるべきだ」など”べき”に軸足を置いた主張を展開するという意味で異なる}}。 『[[英英辞典|マクミラン英英辞典]]』によれば、重要なことがらについて考え、新しいアイデアを発展させる人。特にその分野でよく知られた人を指す<ref>[https://www.macmillandictionary.com/dictionary/british/thinker macmillan dictionary]</ref>。 == 人物 == {{See|思想家一覧}} == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[知識人]] *[[哲学者]] * [[考える人 (ロダン)]] * [[啓蒙思想|啓蒙思想家]] * [[神秘主義|神秘思想家]] * [[アナキズム|無政府主義者]] {{Philos-stub}} {{デフォルトソート:しそうか}} [[Category:哲学者]] [[Category:思想家|*]]
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15,317
ワールドゲームズ
ワールドゲームズは、オリンピックの補完的な意味をもって行われるスポーツ競技大会である。1981年に始まった。夏季オリンピックの翌年に行われる。 オリンピックは、1980年代以降の商業化にともなって過度に大規模化したため、今日、大会規模の縮小に向けて競技・種目の新規参入を厳しく制限し、従来行われていた競技・種目についても整理するなど、運営の変化を求められている。一方で、オリンピック競技として認められてはいないが世界的に盛んに行われるスポーツも増えてきている。そこでGAISF(一時スポーツアコードを名乗る)加盟競技の中からオリンピックに参加していない競技・種目の競技大会として始まったのがワールドゲームズである。競技によっては、トライアスロンのようにワールドゲームズ競技の中からオリンピック競技へと正式に採用されたものや、綱引きのように過去にオリンピックで行われていたものもある。 ワールドゲームズを主催する都市には、会場を既存のものでまかなうことが求められており、ワールドゲームズのための新しい施設等はこれまで一切建設されなかったが、第8回高雄大会ではメインスタジアムが同大会のために新設された。 ワールドゲームズを主催しているのは国際ワールドゲームズ協会(IWGA)であり、これを国際オリンピック委員会(IOC)が後援している。 ※2021年3月現在 37競技団体 『ワールドゲームズ2013 カリ大会』では31の公式競技と5つの公開競技が実施された。
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ワールドゲームズは、オリンピックの補完的な意味をもって行われるスポーツ競技大会である。1981年に始まった。夏季オリンピックの翌年に行われる。
{{スポーツ大会シリーズ |大会名 =ワールドゲームズ |画像 = |開始年 =1981 |終了年 = |主催 =国際ワールドゲームズ協会 |参加チーム数 = |加盟国 = |前回優勝 = |最多優勝 = |サイト =[https://www.theworldgames.org/ 国際ワールドゲームズ協会] |備考 = }} '''ワールドゲームズ'''は、[[近代オリンピック|オリンピック]]の補完的な意味をもって行われるスポーツ競技大会である。[[1981年]]に始まった。[[夏季オリンピック]]の翌年に行われる。 == 歴史・概略 == オリンピックは、[[1980年代]]以降の商業化にともなって過度に大規模化したため、今日、大会規模の縮小に向けて競技・種目の新規参入を厳しく制限し、従来行われていた競技・種目についても整理するなど、運営の変化を求められている。一方で、オリンピック競技として認められてはいないが世界的に盛んに行われるスポーツも増えてきている。そこで[[GAISF]](一時スポーツアコードを名乗る)加盟競技の中からオリンピックに参加していない競技・種目の競技大会として始まったのがワールドゲームズである。競技によっては、[[トライアスロン]]のようにワールドゲームズ競技の中からオリンピック競技へと正式に採用されたものや、[[綱引き]]のように過去にオリンピックで行われていたものもある。 ワールドゲームズを主催する都市には、会場を既存のものでまかなうことが求められており、ワールドゲームズのための新しい施設等はこれまで一切建設されなかったが、[[ワールドゲームズ2009|第8回高雄大会]]では[[2009ワールドゲームズスタジアム|メインスタジアム]]が同大会のために新設された。 ワールドゲームズを主催しているのは[[国際ワールドゲームズ協会]](IWGA)であり、これを[[国際オリンピック委員会]](IOC)が後援している。 == 大会一覧 == {| class="wikitable" !回!!期間!!開催都市!!開催国 |- ![[ワールドゲームズ1981|1]] |[[1981年]][[7月24日]] - [[8月2日|8月{{0}}2日]]||[[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]||{{USA}} |- ![[ワールドゲームズ1985|2]] |[[1985年]][[7月25日]] - [[8月4日|8月{{0}}4日]]||[[ロンドン]]||{{GBR}} |- ![[ワールドゲームズ1989|3]] |[[1989年]][[7月20日]] - [[7月30日]]||[[カールスルーエ]]||{{FRG}} |- ![[ワールドゲームズ1993|4]] |[[1993年]][[7月22日]] - [[8月1日|8月{{0}}1日]]||[[デン・ハーグ|ハーグ]]||{{NED}} |- ![[ワールドゲームズ1997|5]] |[[1997年]][[8月7日|8月{{0}}7日]] - [[8月17日]]||[[ラハティ]]||{{FIN}} |- ![[ワールドゲームズ2001|6]] |[[2001年]][[8月16日]] - [[8月26日]]||[[秋田県|秋田]]||{{JPN}} |- ![[ワールドゲームズ2005|7]] |[[2005年]][[7月14日]] - [[7月24日]]||[[デュースブルク]]||{{GER}} |- ![[ワールドゲームズ2009|8]] |[[2009年]][[7月16日]] - [[7月26日]]||[[高雄市|高雄]]||{{TWN}} |- ![[ワールドゲームズ2013|9]] |[[2013年]][[7月27日]] - [[8月4日|8月{{0}}4日]]||[[サンティアゴ・デ・カリ|カリ]]||{{COL}} |- ![[ワールドゲームズ2017|10]] |[[2017年]][[7月20日]] - [[7月30日]]||[[ブロツワフ]]||{{POL}} |- ![[ワールドゲームズ2022|11]] |[[2022年]][[7月7日]] - [[7月17日]]||[[バーミングハム (アラバマ州)|バーミングハム]]||{{USA}} |- ![[ワールドゲームズ2025|12]] |[[2025年]]||[[成都市|成都]]||{{CHN}} |} == 加盟競技団体 == ※2021年3月現在 37競技団体 * [[国際合気道連盟]](IAF) - [[合気道]] * [[国際航空連盟]](FAI) - [[スカイスポーツ (競技)|エアースポーツ]]([[パラシュート|パラシューティング]]) * [[世界アーチェリー連盟]](FITA) - [[ワールドゲームズアーチェリー競技|アーチェリー]] * [[世界野球ソフトボール連盟]](WBSC) - [[ワールドゲームズソフトボール競技|ソフトボール]] * {{仮リンク|世界ビリヤード連合|en|World Confederation of Billiard Sports}}(WCBS) - [[ワールドゲームズビリヤード競技|ビリヤード]] * [[国際ボディビルディング・フィットネス連盟|国際ボディビル連盟]](IFBB) - [[ボディビル]] * [[世界ブールスポーツ連合]](CMSB) - [[ブールスポーツ]]([[スポールブール]]、[[ペタンク]]) * [[世界ボウリング連盟]](IBF) - [[ワールドゲームズボウリング競技|ボウリング]] * [[国際カヌー連盟]](FIC) - [[ワールドゲームズカヌー競技|カヌーポロ]] * 国際キャスティングスポーツ連盟(ICSF) - [[キャスティング (スポーツ)|キャスティング]] * [[世界ダンススポーツ連盟]](WDSF) - [[競技ダンス|ダンススポーツ競技]]([[社交ダンス]]、[[ブレイクダンス|ブレイキン]]、[[ロックンロール]]) * {{仮リンク|国際ファウストボール協会|en|International Fistball Association}}(IFA) - [[ファウストボール]] * [[国際フロアボール連盟]](IFF) - [[フロアボール]] * {{仮リンク|世界フライングディスク連盟|en|World Flying Disc Federation}}(WFDF) - [[フライングディスク]] * [[国際体操連盟]](FIG) - [[ワールドゲームズ体操競技|体操競技]]([[新体操]]、[[エアロビクスダンス|エアロビック]]、[[アクロバット#競技アクロバット|スポーツアクロ体操]]、[[トランポリン競技|トランポリン]]、[[タンブリング]]) * [[国際ハンドボール連盟]](IHF) - [[ワールドゲームズビーチハンドボール競技|ビーチハンドボール]] * [[国際ホッケー連盟]](FIH) - [[インドアホッケー]] * [[国際柔術連盟]](JJIF) - [[ヨーロピアン柔術|柔術]] * [[世界空手連盟]](WKF) - [[ワールドゲームズ空手道競技|空手道]] * [[世界キックボクシング団体協会]](WAKO) - [[キックボクシング]] * [[国際コーフボール連盟]](IKF) - [[コーフボール]] * [[ワールドラクロス]] - [[ラクロス]] * [[国際ライフセービング連盟]](ILS) - [[ライフセービング (スポーツ)|ライフセービング]] * [[国際アマチュアムエタイ連盟]](IFMA) - [[ムエタイ]] * 国際ネットボール協会連盟(IFNA) - [[ネットボール]] * [[国際オリエンテーリング連盟]](IOF) - [[ワールドゲームズオリエンテーリング競技|オリエンテーリング]] * {{仮リンク|国際パワーリフティング連盟|en|International Powerlifting Federation}}(IPF) - [[パワーリフティング]] * 国際ラケットボール連盟(IRF) - [[ラケットボール]] * [[ワールドスケート]] - [[ローラースポーツ]](アーティスティック[[ローラースケート]]、[[インラインホッケー]]、[[インラインスピードスケート]]) * [[国際ラグビー評議会]](IRB) - [[ワールドゲームズラグビー競技|7人制ラグビー]] * [[国際スポーツクライミング連盟]](IFSC) - [[フリークライミング|スポーツクライミング]] * [[世界スカッシュ連盟]](WSF) - [[ワールドゲームズスカッシュ競技|スカッシュ]] * [[国際相撲連盟]](IFS) - [[ワールドゲームズ相撲競技|相撲]] * [[国際サーフィン連盟]](ISA) - [[サーフィン]] * {{仮リンク|国際綱引連盟|en|Tug of War International Federation}}(TWIF) - [[ワールドゲームズ綱引競技|綱引き]] * [[世界水中連盟]](CMAS) - 水中スポーツ([[ワールドゲームズフィンスイミング競技|フィンスイミング]]) * [[国際水上スキー&ウェイクボード連盟]](IWWF) - [[水上スキー]]、[[ウェイクボード]] == 実施競技 == {{main|ワールドゲームズ実施競技}} 『[[ワールドゲームズ2013|ワールドゲームズ2013 カリ大会]]』では31の正式競技と5つの公開競技が実施された<ref>{{cite web|url=https://www.worldgames2013.com.co/?option=com_content&view=article&id=115&Itemid=56&lang=en|title=The World Games 2013 Calì - Sports|publisher=worldgames2013.com.co|accessdate=8 June 2012}}</ref>。 === 過去に実施されていたオリンピック競技になっていない競技 === * [[ラクロス]] - [[1989年]]まで{{要出典|date=2008年12月}} * [[サンボ (格闘技)|サンボ]] - 1989年まで === オリンピックの正式競技・正式種目になった競技 === * [[バドミントン]] - [[1992年]][[バルセロナオリンピック]]から * [[野球]] - 1992年バルセロナオリンピックから[[2008年]][[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]までと[[2020年]][[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]](追加種目) * [[ソフトボール]] - [[1996年]][[アトランタオリンピック]]から2008年北京オリンピックまでと2020年東京オリンピック(追加種目)。[[2009年]]高雄大会で[[オリンピック公開競技|公開競技]]として復活 * [[テコンドー]] - [[2000年]][[シドニーオリンピック]]から * [[トランポリン競技|トランポリン]](シングル) - 2000年シドニーオリンピックから。ワールドゲームズでは公開競技だった * [[トライアスロン]] - 2000年シドニーオリンピックから * [[女子]][[重量挙げ]] - 2000年シドニーオリンピックから * [[ラグビーユニオン|ラグビー]]・[[7人制ラグビー]] - [[2016年]][[リオデジャネイロオリンピック]]から。15人制ラグビーは過去にオリンピックで開催されたことがある * [[空手]] - 2020年東京オリンピック(追加種目) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本ワールドゲームズ協会]] * [[ワールドゲームズ実施競技]] == 外部リンク == * [https://www.theworldgames.org/ 国際ワールドゲームズ協会(IWGA)公式サイト] * [https://www.jwga.jp/index.html 日本ワールドゲームズ協会(JWGA)公式サイト] {{ワールドゲームズ}} {{ワールドゲームズ実施競技}} {{Multi-sport events}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:わるとけむす}} [[Category:ワールドゲームズ|*]] [[Category:スポーツの国際総合競技大会]] [[Category:1981年開始のスポーツイベント]]
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パウリの排他原理
パウリの排他原理(パウリのはいたげんり、英: Pauli exclusion principle)とは、2つ以上のフェルミ粒子は、同一の量子状態を占めることはできない、という原理である。1925年にヴォルフガング・パウリによって提唱された。パウリの定理、パウリの排他律、パウリの禁制、パウリの禁則などとも呼ばれる。 パウリの排他原理はフェルミ粒子について成り立つ法則であり、ボース粒子については成り立たない(ボース粒子は、複数の粒子が同一の量子状態を占めることがありうる)。 ナトリウムのD線の実験において、磁場がない場合は単一波長の光が観察されるはずであったが、予想に反してD線が2本に分裂することが発見された。それを受け、1924年にヴォルフガング・パウリは、電子が2値の量子自由度を持つ可能性について言及した。 1925年にウーレンベックとゴーズミットは、この電子の自由度の由来について、電子が自転しているという仮説をたてたため、この自由度はスピンと呼ばれるようになった。しかし、電子が自身のスピンに相当する角運動量を自転によって得るためには、光速を超える速度で自転しなければならず、相対論に反する。そのため、パウリによってこの仮説は否定されたが、スピンという名称は残された。 これまで電子の状態を表す波動関数は、空間座標のみの関数と考え、 と表記してきた。 しかし、電子にはスピンという新たな自由度があることが分かったため、これを新たな座標として加える必要がある。 磁場中において、軌道角運動量は 2 l + 1 {\displaystyle 2{\mathit {l}}+1} 個( l {\displaystyle {\mathit {l}}} : 方位量子数)に分裂することが分かっている。このことから、 l {\displaystyle {\mathit {l}}} に対応した数値を s {\displaystyle {\mathit {s}}} とすると、スピン角運動量も 2 s + 1 {\displaystyle 2{\mathit {s}}+1} 個に分裂していると考えるのが妥当である。 エネルギー準位が2つに分裂していることから、原子内の電子のスピンに対応した準位は 2 つであることが分かる。 よって、 であり、 となる。 また、軌道角運動量の場合には、磁気量子数 m {\displaystyle {\mathit {m}}} の取り得る範囲は − l ≤ m ≤ l {\displaystyle -{\mathit {l}}\leq {\mathit {m}}\leq {\mathit {l}}} である。今、 l {\displaystyle {\mathit {l}}} に対応した数値 s {\displaystyle {\mathit {s}}} が 1 / 2 {\displaystyle 1/2} であることから、スピン磁気量子数 m s {\displaystyle {\mathit {m}}_{s}} のとる値としては、 と考えるのが妥当となる。 以上のことから、スピン座標を σ {\displaystyle \sigma } で表すと、波動関数は、 で書けることとなる。ただし、 σ {\displaystyle \sigma } は − 1 / 2 {\displaystyle -1/2} または 1 / 2 {\displaystyle 1/2} をとる。 同じ種類の粒子は全く同じ質量、電荷、スピンを持つため、同じ種類の粒子を互いに区別することが出来ない。 2個の同種粒子、例として電子を考え、2個の電子を電子1、電子2と呼ぶと、その波動関数は位置座標 r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} とスピン座標 σ {\displaystyle \sigma } を用いて、 と表される。 ここで、電子1と電子2の位置座標とスピン座標を入れ替えると、 となる。 ところが、2個の電子は区別できないため、上記の2つの波動関数は同一の状態を表す波動関数である。 したがって、定数 C {\displaystyle C} で、 と書ける。 さらに2つの電子の変数をもう一度入れ替えると、 という関係が導かれ、 C = − 1 , + 1 {\displaystyle {\mathit {C}}=-1,+1} という条件が得られる。 この C {\displaystyle {\mathit {C}}} の値は、同種粒子の入れ替えによる対称、反対称を意味する。 粒子の具体例として、 が挙げられる。 スピンが 1 / 2 , 3 / 2 , 5 / 2 , ... {\displaystyle 1/2,3/2,5/2,\dots } のような半整数の同種粒子の波動関数は、変数の入れ替えで反対称 ( C = − 1 ) {\displaystyle ({\mathit {C}}=-1)} であり、このような粒子をフェルミ粒子(フェルミオン)と呼ぶ。 対して、スピンが 0 , 1 , 2 , . . . {\displaystyle 0,1,2,...} のような整数の同種粒子の波動関数は、変数の入れ替えで対称 ( C = + 1 ) {\displaystyle ({\mathit {C}}=+1)} であり、このような粒子をボース粒子(ボソン)と呼ぶ。 原子番号 N {\displaystyle N} の原子について考える。簡単のために、位置座標 r {\displaystyle {\boldsymbol {r}}} とスピン座標 σ {\displaystyle \sigma } を ξ {\displaystyle \xi } を用いて表すと、波動関数は と書ける。 ここで、原子の中で N {\displaystyle N} 個の電子は互いに独立に運動する、と考えることが出来るため、電子系の波動関数 Ψ ( ξ 1 , ξ 2 , . . . , ξ N ) {\displaystyle \Psi (\xi _{1},\xi _{2},...,\xi _{N})} を、以下のような積の形で表される規格化された1電子波動関数 で表す近似 を導入する。これをハートリー近似と言う。 ただし、 α ( σ ) {\displaystyle \alpha (\sigma )} はアップ・スピン、 β ( σ ) {\displaystyle \beta (\sigma )} はダウン・スピンを、 a , b , . . . , n {\displaystyle {\mathit {a}},{\mathit {b}},...,{\mathit {n}}} は量子数を意味する。 簡単のために、まず2電子原子系を考える。ハートリー近似をもとに波動関数を考えると、以下のように書ける。 今考えているのは電子であるから、座標の入れ替えによる反対称性(符号の反転)を満足しなければならない。しかし、この波動関数は反対称性を満足していないため、式を書き換える必要がある。 上記の波動関数の座標を入れ替えると、 となる。 この式を考慮に入れ、反対称化して規格化すると、以下の波動関数が得られる。 ここで、この波動関数を行列式で表現することを考えると、 となる。 行列式の性質から、 ということが言える。 2電子原子での波動関数を行列式で表す考え方を拡張すると、原子番号 N {\displaystyle N} の原子の波動関数の行列式は以下となる。 これをスレイター行列式と呼ぶ。 また、以上のように、波動関数を行列式を用いて近似する方法をハートリー・フォック近似と言う。 スレイター行列式は、行列式の性質から、 ということが言える。 この行列式の性質から総じて言えることは ということである。 以上から、ハートリー・フォック近似によるスレイター行列式により、パウリの排他原理は自動的に満たされていることが分かる。
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パウリの排他原理とは、2つ以上のフェルミ粒子は、同一の量子状態を占めることはできない、という原理である。1925年にヴォルフガング・パウリによって提唱された。パウリの定理、パウリの排他律、パウリの禁制、パウリの禁則などとも呼ばれる。 パウリの排他原理はフェルミ粒子について成り立つ法則であり、ボース粒子については成り立たない(ボース粒子は、複数の粒子が同一の量子状態を占めることがありうる)。
'''パウリの排他原理'''(パウリのはいたげんり、{{lang-en-short|Pauli exclusion principle}})とは、2つ以上の[[フェルミ粒子]]は、同一の[[量子状態]]を占めることはできない、という原理である<ref>{{Cite web|和書|title=パウリの原理とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%90%86-113352|website=コトバンク|accessdate=2020-10-15|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,法則の辞典,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,化学辞典|last=第2版}}</ref>。1925年に[[ヴォルフガング・パウリ]]によって提唱された<ref name ="pauli">W. Pauli,“Über den Zusammenhang des Abschlusses der Elektronengruppen im Atom mit der Komplexstruktur der Spektren,” ''Z. Physik'', '''31''', p.765 (1925) {{doi|10.1007/BF02980631}}</ref>。'''パウリの定理'''、'''パウリの排他律'''、'''パウリの禁制'''、'''パウリの禁則'''などとも呼ばれる。 パウリの排他原理はフェルミ粒子について成り立つ法則であり、[[ボース粒子]]については成り立たない(ボース粒子は、複数の粒子が同一の量子状態を占めることがありうる)。 ==スピンの発見と命名== {{main|スピン角運動量#歴史}} [[ナトリウム]]の[[フラウンホーファー線|D線]]の実験において、[[磁場]]がない場合は単一波長の光が観察されるはずであったが、予想に反してD線が2本に分裂することが発見された。それを受け、1924年に[[ヴォルフガング・パウリ]]は、[[電子]]が2値の量子[[自由度]]を持つ可能性について言及した。 1925年に[[ウーレンベック]]と[[ゴーズミット]]は、この電子の自由度の由来について、電子が自転しているという仮説をたてた<ref>{{Cite journal | author = G.E. Uhlenbeck, S. Goudsmit | title = Ersetzung der Hypothese vom unmechanischen Zwang durch eine Forderung bezüglich des inneren Verhaltens jedes einzelnen Elektrons | journal = Naturwissenschaften | volume = 13 | issue = 47 | year = 1925 | pages = 953-954 | doi = 10.1007/BF01558878 }}</ref><ref>{{Cite journal | author = G.E. Uhlenbeck, S. Goudsmit | title = Spinning Electrons and the Structure of Spectra | journal = Nature | volume = 117 | year = 1926 | pages = 264-265 | doi = 10.1038/117264a0 }}</ref>ため、この[[自由度]]は[[スピン角運動量|スピン]]と呼ばれるようになった。しかし、電子が自身のスピンに相当する角運動量を自転によって得るためには、[[光速]]を超える速度で自転しなければならず、[[相対性理論|相対論]]に反する。そのため、パウリによってこの仮説は否定されたが、スピンという名称は残された。 ==スピン座標== これまで電子の状態を表す[[波動関数]]は、空間座標のみの関数と考え、 {{center|<math>\Psi(\mathit{x},\mathit{y},\mathit{z})</math> あるいは <math>\Psi(\mathrm{r},\theta,\phi)</math>}} と表記してきた。 しかし、電子にはスピンという新たな自由度があることが分かったため、これを新たな座標として加える必要がある。 磁場中において、[[軌道角運動量]]は<math>2\mathit{l}+1</math>個(<math>\mathit{l}</math>: [[方位量子数]])に分裂することが分かっている。このことから、<math>\mathit{l}</math>に対応した数値を<math>\mathit{s}</math>とすると、[[スピン角運動量]]も<math>2\mathit{s}+1</math>個に分裂していると考えるのが妥当である。 エネルギー準位が2つに分裂していることから、原子内の電子のスピンに対応した準位は 2 つであることが分かる。 よって、 {{center|<math>2\mathit{s}+1=2</math>}} であり、 {{center|<math>\mathit{s}=\frac{1}{2}</math>}} となる。 また、軌道角運動量の場合には、[[磁気量子数]]<math>\mathit{m}</math>の取り得る範囲は<math>-\mathit{l}\le\mathit{m}\le\mathit{l}</math>である。今、<math>\mathit{l}</math>に対応した数値<math>\mathit{s}</math>が<math>1/2</math>であることから、スピン磁気量子数<math>\mathit{m}_s</math>のとる値としては、 {{center|<math>\mathit{m}_s=-\frac{1}{2},\frac{1}{2}</math>}} と考えるのが妥当となる。 以上のことから、スピン座標を<math>\sigma</math>で表すと、波動関数は、 {{center|<math>\Psi(\mathit{x},\mathit{y},\mathit{z},\sigma)</math>}} で書けることとなる。ただし、<math>\sigma</math>は<math>-1/2</math>または<math>1/2</math>をとる。 ==フェルミ粒子とボース粒子== 同じ種類の粒子は全く同じ質量、電荷、スピンを持つため、同じ種類の粒子を互いに区別することが出来ない。 2個の同種粒子、例として電子を考え、2個の電子を電子1、電子2と呼ぶと、その波動関数は位置座標<math>\boldsymbol{r}</math>とスピン座標<math>\sigma</math>を用いて、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\boldsymbol{r}_1,\sigma_1,\boldsymbol{r}_2,\sigma_2)</math></div> と表される。 ここで、電子1と電子2の位置座標とスピン座標を入れ替えると、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\boldsymbol{r}_2,\sigma_2,\boldsymbol{r}_1,\sigma_1)</math></div> となる。 ところが、2個の電子は区別できないため、上記の2つの波動関数は同一の状態を表す波動関数である。 したがって、定数<math>C</math>で、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\boldsymbol{r}_2,\sigma_2,\boldsymbol{r}_1,\sigma_1)=C\Psi(\boldsymbol{r}_1,\sigma_1,\boldsymbol{r}_2,\sigma_2)</math></div> と書ける。 さらに2つの電子の変数をもう一度入れ替えると、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\boldsymbol{r}_1,\sigma_1,\boldsymbol{r}_2,\sigma_2) = C\Psi(\boldsymbol{r}_2,\sigma_2,\boldsymbol{r}_1,\sigma_1) = C^2\Psi(\boldsymbol{r}_1,\sigma_1,\boldsymbol{r}_2,\sigma_2)</math></div> という関係が導かれ、<math>\mathit{C}=-1,+1</math>という条件が得られる。 この<math>\mathit{C}</math>の値は、同種粒子の入れ替えによる[[対称]]、[[反対称]]を意味する。 粒子の具体例として、 *<math>\mathit{C}=-1</math> の場合・・・電子、陽子、中性子 *<math>\mathit{C}=+1</math> の場合・・・光子 が挙げられる。 スピンが<math>1/2, 3/2, 5/2, \dots</math>のような半整数の同種粒子の波動関数は、変数の入れ替えで反対称<math>(\mathit{C}=-1)</math>であり、このような粒子を'''フェルミ粒子'''([[フェルミオン]])と呼ぶ。 対して、スピンが<math>0,1,2,...</math>のような整数の同種粒子の波動関数は、変数の入れ替えで対称<math>(\mathit{C}=+1)</math>であり、このような粒子を'''ボース粒子'''([[ボソン]])と呼ぶ。 ==多電子原子系== ===ハートリー近似=== 原子番号<math>N</math>の原子について考える。簡単のために、位置座標<math>\boldsymbol{r}</math>とスピン座標<math>\sigma</math>を<math>\xi</math>を用いて表すと、波動関数は <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2,...,\xi_{N})</math></div> と書ける。 ここで、原子の中で<math>N</math>個の電子は互いに独立に運動する、と考えることが出来るため、電子系の波動関数<math>\Psi(\xi_1,\xi_2,...,\xi_{N})</math></p>を、以下のような積の形で表される規格化された1電子波動関数 <div style="text-align:center"><math>\phi_{i}(\xi)=\Psi_{j}(\boldsymbol{r})\alpha(\sigma)</math> または <math>\Psi_{j}(\boldsymbol{r})\beta(\sigma)</math></div> で表す近似 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2,...,\xi_{N})=\phi_\mathit{a}(\xi_1)\phi_\mathit{b}(\xi_2) \dotsb \phi_\mathit{n}(\xi_{N})</math></div> を導入する。これを'''[[ハートリー近似]]'''と言う。 ただし、<math>\alpha(\sigma)</math>はアップ・スピン、<math>\beta(\sigma)</math>はダウン・スピンを、<math>\mathit{a},\mathit{b},...,\mathit{n}</math>は[[量子数]]を意味する。 ===2電子原子=== 簡単のために、まず2電子原子系を考える。ハートリー近似をもとに波動関数を考えると、以下のように書ける。 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2)=\phi_\mathit{a}(\xi_1)\phi_\mathit{b}(\xi_2)</math></div> 今考えているのは電子であるから、座標の入れ替えによる反対称性(符号の反転)を満足しなければならない。しかし、この波動関数は反対称性を満足していないため、式を書き換える必要がある。 上記の波動関数の座標を入れ替えると、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_2,\xi_1)=\phi_\mathit{a}(\xi_2)\phi_\mathit{b}(\xi_1)</math></div> となる。 この式を考慮に入れ、反対称化して[[規格化]]すると、以下の波動関数が得られる。 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2)=\frac{1}{\sqrt{2!}}[\phi_\mathit{a}(\xi_1)\phi_\mathit{b}(\xi_2)-\phi_\mathit{a}(\xi_2)\phi_\mathit{b}(\xi_1)]</math></div> ここで、この波動関数を[[行列式]]で表現することを考えると、 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2)=\frac{1}{\sqrt{2!}}\begin{vmatrix} \phi_\mathit{a}(\xi_1) & \phi_\mathit{b}(\xi_1) \\ \phi_\mathit{a}(\xi_2) & \phi_\mathit{b}(\xi_2) \end{vmatrix}</math></div> となる。 行列式の性質から、 *'''座標 <math>\xi_1,\xi_2</math> を交換すると、行が交換されて行列式の符号が変わる <math>\Rightarrow</math> 反対称性を満足している''' *'''量子数 <math>\mathit{a},\mathit{b}</math> が一致すると、2つの列が一致するため、行列式が0となる <math>\Rightarrow</math> 波動関数が存在しない''' ということが言える。 ===N電子原子=== 2電子原子での波動関数を行列式で表す考え方を拡張すると、原子番号<math>N</math>の原子の波動関数の行列式は以下となる。 <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2,...,\xi_{N})=\frac{1}{\sqrt{N!}}\begin{vmatrix} \phi_\mathit{a}(\xi_1) & \phi_\mathit{b}(\xi_1) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_1) \\ \phi_\mathit{a}(\xi_2) & \phi_\mathit{b}(\xi_2) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_2) \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ \phi_\mathit{a}(\xi_N) & \phi_\mathit{b}(\xi_N) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_N) \\ \end{vmatrix}</math></div> これを'''[[スレイター行列式]]'''と呼ぶ。 また、以上のように、波動関数を行列式を用いて近似する方法を[[ハートリー・フォック近似]]と言う。 ==スレイター行列式による証明== <div style="text-align:center"><math>\Psi(\xi_1,\xi_2,...,\xi_{N})=\frac{1}{\sqrt{N!}}\begin{vmatrix} \phi_\mathit{a}(\xi_1) & \phi_\mathit{b}(\xi_1) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_1) \\ \phi_\mathit{a}(\xi_2) & \phi_\mathit{b}(\xi_2) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_2) \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ \phi_\mathit{a}(\xi_N) & \phi_\mathit{b}(\xi_N) & \cdots & \phi_\mathit{n}(\xi_N) \\ \end{vmatrix}</math></div> スレイター行列式は、行列式の性質から、 *'''2つの行の入れ替え(電子<math>\mathit{i},\mathit{j}</math>の座標<math>\xi_\mathit{i},\xi_\mathit{j}</math>の入れ替え)で行列式は−1倍となる<math>\Rightarrow</math>反対称性を満足している''' *'''量子数が一致し、ある2つの列が同一となると、行列式は0となる<math>\Rightarrow</math>波動関数が存在しない''' ということが言える。 この行列式の性質から総じて言えることは <div style="text-align:center"> '''2つ以上の電子(フェルミ粒子)は、同一の量子状態 <math>(\phi_\mathit{a},\phi_\mathit{b},...)</math> を占めることはできない'''</div> ということである。 以上から、ハートリー・フォック近似によるスレイター行列式により、パウリの排他原理は自動的に満たされていることが分かる。 ==脚注== {{reflist}} ==参考文献== {{参照方法|date=2017年6月|section=1}} *{{Cite|和書 | author = [[朝永振一郎]] | title = スピンはめぐる | publisher = みすず書房 | edition = 新 | pages = | isbn = 978-4-622-07369-7 | date = 2008年7月30日 }} *{{Cite|和書 | author = [[原康夫]] | title = 量子力学 | series = 岩波基礎物理シリーズ 5 | publisher = 岩波書店 | pages = | isbn = 978-4000079259 | date = 2009年11月5日 }} *{{Cite|和書 | author = [[小出昭一郎]] | title = 量子力学 (I) | series = 基礎物理学選書 5A | edition = 改訂 | publisher = 裳華房 | pages = | isbn = 978-4785321321 | date = 2012年2月20日 }} *{{Cite|和書 | author = 村上雅人 | title = なるほど量子力学 (III) | publisher = 海鳴社 | pages = | isbn = 978-4875252498 | date = 2008年2月 }} *{{Cite|和書 | author = 河原林研 | title = 量子力学 | series = 現代物理学叢書 | publisher = 岩波書店 | pages = | isbn = 978-4000067539 | date = 2001年2月15日 }} *{{Cite|和書 | author = [[中嶋貞雄]] | title = 量子力学 II | series = 物理入門コース 6 | publisher = 岩波書店 | pages = | isbn = 978-4000076463 | date = 2009年10月15日 }} == 関連項目 == * [[ハートリー近似]] * [[スレイター行列式]] * [[フントの規則]] * [[フェルミ粒子]] * [[スピノル]] * [[ヴォルフガング・パウリ]] * [[ジョージ・ウーレンベック]] * [[サミュエル・ゴーズミット]] == 外部リンク == * Wolfgang Pauli,“[https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1945/pauli/lecture/ Exclusion Principle and Quantum Mechanics ]”, Nobel Lecture, December 13, 1946; パウリのノーベル物理学賞受賞時の講演。パウリの排他律を発見するに至る経緯が記されている。 {{量子力学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はうりのはいたけんり}} [[Category:自然科学の法則]] [[Category:量子数]] [[Category:ヴォルフガング・パウリ]] [[Category:物理学のエポニム]]
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荻生徂徠
荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。 名は双松()、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む。通称は惣右衛門()。徂徠()と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園()とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物徂徠()」「物茂卿」とも号した。 父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓。 朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。 江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎や林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる蟄居に伴い、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・千葉県茂原市)に移った。 ここで主要な漢籍や和書、仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている(「#徂徠豆腐」参照)。 元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢保明()に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の面識も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。宝永6年(1709年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾()を開いた。やがて徂徠派という一つの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 という俳句がある)。 享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った。追放刑の不可を述べ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆で自ら恃むところ多く、支那趣味を持っており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。墓所は東京都港区三田4丁目の長松寺()にあり、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定された。 荻生家は現代まで東京で続いており、伝来していた自筆稿本は1970年代にマイクロフィルム撮影され全集(後述)校訂に利用された。荻生家は2022年、これら資料約150点を公共の文化財として保存・活用してもらうため東京大学駒場図書館に寄贈した。儒学や経世論以外に、明代漢詩の注釈書『五言絶句百首解』、徂徠が考案したとされる独自ルールの広将棋解説書『広象棋譜面』、琉球王国江戸上り使節の記録『琉球聘使記』などが含まれる。 朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派、日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。 主著『弁名』『弁道』では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代中国の聖人(先王)の時代には儀礼や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を南宋時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「六経」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。 古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。徂徠は農本主義的な思想を説き、武士や町人が帰農することで、市場経済化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。 徂徠は柳沢吉保や第8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。服部南郭をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『孫子』の注釈書と言われている。 直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。大坂の町人が運営した私塾である懐徳堂では朱子学者の中井竹山などが徂徠学を批判した。その中からは富永仲基のような優れた文献学者が輩出されていった。また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。 元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣、浅見絅斎などが主君のための仇討を賛美して助命論を展開したのに対し、徂徠は義士を切腹させるべきだと主張した(後述のように異説あり)。 「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」 と述べている。これは、幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる細川家に伝わる文書だが、真筆であるかは不明。 同じく、浅野家赤穂藩があった兵庫県赤穂市も『徂徠擬律書』は、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、徂徠の「四十七士論」(下記)と徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている。 徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から徂徠の真筆であると思われる。 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、 「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。 「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』という坂」という語句は、この徂徠豆腐のセリフである。 『荻生徂徠全集』は、みすず書房と河出書房新社から出版されたが、ともに未完結である。
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"落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、", "title": "創作での徂徠" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」", "title": "創作での徂徠" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。", "title": "創作での徂徠" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』という坂」という語句は、この徂徠豆腐のセリフである。", "title": "創作での徂徠" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『荻生徂徠全集』は、みすず書房と河出書房新社から出版されたが、ともに未完結である。", "title": "著作" } ]
荻生 徂徠は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。 名は双松、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む。通称は惣右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物徂徠」「物茂卿」とも号した。 父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓。
{{Infobox_学者 |生年月日=<!--{{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}}-->|name = 荻生 徂徠<br />(おぎゅう そらい) |image = Ogyuh_Sorai.jpg |image_size = 200px |alt = <!--(画像の代替説明)--> |caption = 荻生徂徠(『先哲像伝』より) |fullname = 荻生{{ruby|双松|なべまつ}} |other_names = {{ruby|茂卿|もけい}}([[字]])、{{ruby|惣右衛門|そうえもん}}(通称)、{{ruby|蘐園|けんえん}}([[号 (称号)|号]])<ref name="kotobank" /> |birth_date = {{生年月日と年齢|1666|3|21|no}}<ref name="kotobank" /> |birth_place = [[日本]]、[[武蔵国]][[江戸]]<ref name="kotobank" /> |death_date = {{死亡年月日と没年齢|1666|3|21|1728|2|28}}<ref name="kotobank" /> |death_place = <!--死没地--> |era = [[江戸時代]]中期 |region = <!--出身地--> |school_tradition = <!--学派--> |main_interests = [[儒学]]、[[文献学]]者 |workplaces = <!--研究機関--> |alma_mater = <!--母校--> |notable_ideas = [[古文辞学]]の確立 |major_works = <!--主要な作品--> |influences = [[伊藤仁斎]]、[[李攀竜]]、[[王世貞]] |influenced = [[太宰春台]]、[[服部南郭]]、[[安藤東野]]、[[山県周南]]、[[平野金華]] |institution = <!--学会--> |awards = <!--主な受賞歴--> }} '''荻生 徂徠'''(おぎゅう そらい、[[寛文]]6年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1666年]][[3月21日]]) - [[享保]]13年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]([[1728年]][[2月28日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[儒学者]]、[[思想家]]、[[文献学|文献]][[学者]]。 名は{{読み仮名|双松|なべまつ}}、[[字]]・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む{{sfn|髙橋|2011|p=143}}。通称は{{読み仮名|惣右衛門|そうえもん}}{{sfn|髙橋|2011|p=143}}。{{読み仮名|徂徠|そらい}}と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、{{読み仮名|蘐園|けんえん}}とも号した。「徂徠」の号は『[[詩経]]』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに[[松]]に関する名であることが指摘される{{sfn|髙橋|2011|p=143}}。[[本姓]]は[[物部氏]]で、「{{読み仮名|物徂徠|ぶっそらい}}<ref name="kotobank" />」「物茂卿」とも号した{{sfn|髙橋|2011|p=143}}。 父は[[江戸幕府]]第5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の[[侍医]]だった[[荻生景明]]。弟は第8代将軍となる[[徳川吉宗]]の侍医を務め、[[大明律|明律]]の研究で知られた[[荻生北渓]]<ref>その弟の影響を受けて、『{{読み仮名|明律国字解|みんりつこくじかい}}』を著している。</ref>。 == 概要 == [[朱子学]]や[[伊藤仁斎]]の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。古代の言語を全く知らないと[[朱熹]]を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『[[論語]]古義』に見えない場合もある。 == 生涯 == [[江戸]]に生まれる。幼くして学問に優れ、[[林鵞峰|林春斎]]や[[林鳳岡]]に学んだ。しかし[[延宝]]7年([[1679年]])、当時[[館林藩]]主だった[[徳川綱吉]]の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる[[蟄居]]に伴い、14歳にして家族で母の故郷である[[上総国]][[長柄郡]]本納村(現・[[千葉県]][[茂原市]])に移った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mobara-kankou.com/search/history/148.html|title=荻生徂徠勉学の碑|publisher=茂原市|accessdate=2018-12-01}}</ref>。 ここで主要な[[漢籍]]や和書、[[仏典]]を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。[[元禄]]5年([[1692年]])、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。[[芝 (東京都港区)|芝]][[増上寺]]の近くに[[私塾|塾]]を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の[[豆腐屋]]に助けられたといわれている(「[[#徂徠豆腐]]」参照)。 元禄9年([[1696年]])、将軍・綱吉側近で[[江戸幕府|幕府]][[側用人]]・{{読み仮名|[[柳沢吉保|柳沢保明]]|やなぎさわ やすあきら}}<ref name="kotobank" />に抜擢され、吉保の領地の[[川越藩|川越]]で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500[[石 (単位)|石]]取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の面識も得ている。吉保は[[宝永]]元年([[1705年]])に[[甲府藩]]主となり、宝永7年([[1706年]])に徂徠は吉保の命により[[甲斐国]]を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している{{sfn|髙橋|2011|p=143}}。宝永6年([[1709年]])、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]][[茅場町]]に居を移し、そこで私塾・{{読み仮名|[[蘐園塾]]|けんえんじゅく}}を開いた。やがて徂徠派という一つの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して[[宝井其角]]が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 という[[俳句]]がある)。 [[File:OgyuSorai20120204.jpg|200px|right|thumb|荻生徂徠墓(東京都港区)]] [[享保]]7年([[1722年]])以後は8代将軍・[[徳川吉宗]]の信任を得て、その諮問に与った。追放刑の不可を述べ、これに代えて[[自由刑]]とすることを述べた。豪胆で自ら恃むところ多く、[[シノワズリ|支那趣味]]を持っており、[[中国語]]にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、[[享年]]63。[[荻生徂徠墓|墓所]]は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]4丁目の{{読み仮名|長松寺|ちょうしょうじ}}にあり<ref name="kotobank" />、[[昭和]]24年(1949年)に国の[[史跡]]に指定された。 荻生家は現代まで東京で続いており、伝来していた自筆稿本は1970年代に[[マイクロフィルム]]撮影され全集(後述)校訂に利用された<ref name="朝日20220509">[https://www.asahi.com/articles/DA3S15288613.html 「荻生徂徠の資料、子孫が寄贈 独自の将棋ルールブックなど150点 東大駒場図書館」][[朝日新聞デジタル]](2022年5月9日)同日閲覧</ref>。荻生家は2022年、これら資料約150点を公共の文化財として保存・活用してもらうため[[東京大学]]駒場図書館に寄贈した<ref name="朝日20220509"/>。儒学や経世論以外に、[[明]]代[[漢詩]]の注釈書『五言絶句百首解』、徂徠が考案したとされる独自ルールの[[広将棋]]解説書『広象棋譜面』、[[琉球王国]][[江戸上り]]使節の記録『琉球聘使記』などが含まれる<ref name="朝日20220509"/>。 == 思想 == === 徂徠学の成立 === [[朱子学]]を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した[[古典]]解釈を批判し、古代[[中国]]の古典を読み解く方法論としての[[古文辞学]](蘐園学派、日本の儒教学派においては'''[[古学]]'''に分類される)を確立した。[[シノワズリ|支那趣味]]を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。 主著『弁名』『弁道』<ref>以下、子安(2008)</ref>では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代中国の[[聖人#儒教|聖人(先王)]]の時代には[[儀礼]]や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を[[南宋]]時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「[[六経]]」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。 === 経世思想 === 古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。徂徠は[[農本主義]]的な思想を説き、武士や町人が帰農することで、[[市場経済]]化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。 徂徠は柳沢吉保や第8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『[[政談]]』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想([[経世論]])が本格的に生まれてくる。[[服部南郭]]をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の[[太宰春台]]や、孫弟子([[宇佐美灊水]]弟子)の[[海保青陵]]は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。[[兵法]]にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『[[孫子 (書物)|孫子]]』の注釈書と言われている。 === 後世への影響 === 直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。[[大坂]]の[[町人]]が運営した私塾である[[懐徳堂]]では朱子学者の[[中井竹山]]などが徂徠学を批判した<ref>小島(1994)、子安(2000)</ref>。その中からは[[富永仲基]]のような優れた文献学者が輩出されていった。また、[[本居宣長]]は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』研究を行った。徂徠学の影響力は[[幕末]]まで続き、[[西洋哲学]]者の[[西周]]は徂徠学を学んでいた。 == 元禄赤穂事件への見解 == [[赤穂事件|元禄赤穂事件]]における[[赤穂浪士]]の処分裁定論議では、[[林鳳岡]]をはじめ[[室鳩巣]]、[[浅見絅斎]]などが[[主君]]のための[[仇討]]を賛美して助命論を展開したのに対し、徂徠は義士を[[切腹]]させるべきだと主張した(後述のように異説あり)。 * 『徂徠擬律書』と呼ばれる文書において、 {{blockquote| 「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是[[浅野長矩|長矩]]、[[江戸城|殿中]]を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ[[吉良義央|吉良氏]]を以て仇と為し、[[江戸幕府|公儀]]の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、[[上杉綱憲|上杉家]]の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」 }} と述べている。これは、幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる[[細川氏|細川家]]に伝わる文書だが、真筆であるかは不明<ref>[[細川綱利]]は「十七人の勇者共は御屋敷のよき守神」として、[[畳]]を保存し、切腹した義士の[[遺品|遺髪]]を分けて頂き供養塔などを建て、永遠に保存し名所として残す事を命ずる(『堀内伝右衛門覚書』)など[[浅野長矩|浅野]]贔屓であった。のち、諸事情により細川家の態度が変わり、当時の遺構は散逸してしまっている。</ref>。 同じく、浅野家[[赤穂藩]]があった[[兵庫県]][[赤穂市]]も『徂徠擬律書』は、[[徳川幕府|幕府]]に残らず細川家にのみ残っていること、徂徠の「四十七士論」(下記)と徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の[[偽書]]であるとの考察をしている<ref>赤穂市発行『忠臣蔵』第1巻</ref>。 * 一方、『政談』のうち「四十七士論」<ref>著作全集・選集によっては「四十七士の事を論ず」となっている文献もあり。</ref>(宝永2年)では、「[[浅野長矩|内匠頭]]の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じている<ref>[[早稲田大学]]・谷口眞子[https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Rilas04_394-406_Shinko-TANIGUCHI.pdf 近世日本の中期における忠義の観念について-山崎闇斎学派を中心に-]」第二章第一節・51頁『WASEDA RILAS JOURNAL』No.4(2016年10月、早稲田大学総合人文科学研究センター)</ref>。 徂徠の弟子・[[太宰春台]]が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から徂徠の真筆であると思われる<ref>太宰春台『赤穂四十六士論』(享保17年)</ref>。 {{See also|赤穂事件#事件についての学術的な議論}} == 創作での徂徠 == === 徂徠豆腐 === [[落語]]や[[講談]]・[[浪曲]]の演目で知られる『[[徂徠豆腐]]<ref>{{Cite web|title=第130話落語「徂徠豆腐」|url=http://ginjo.fc2web.com/130soraidoufu/sorai_doufu.htm|website=ginjo.fc2web.com|accessdate=2020-03-19}}</ref>』は、将軍の[[御用学者]]となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が[[赤穂浪士]]の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前[[落語]]では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の[[火災|大火]]で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、 {{blockquote| 「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『[[出世払い]]』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 }} と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、[[小刀]]は[[切腹|自らのため]]にある。」と武士の[[道徳]]について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉が[[オチ]]になる。 ==== 三つの坂 ==== 「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』という坂」という語句は、この徂徠豆腐のセリフである。 == 著作 == === 単著 === *『弁道』 *『弁名』 *『擬自律書』 *『太平策』 *『政談』 **{{Cite book|和書 |others=[[辻達也]] 校注 |date=1987-07 |title=政談 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] 青-41 |isbn=978-4-00-330041-1 |ref={{Harvid|荻生|辻|1987}} }} **{{Cite book|和書 |others=[[平石直昭]] 校注 |date=2011-09 |title=政談 服部本 |publisher=[[平凡社]] |series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 811 |isbn=978-4-582-80811-7 |ref={{Harvid|荻生|平石|2011}} }} **{{Cite book|和書 |others=[[尾藤正英]] 抄訳 |date=2013-01 |title=荻生徂徠「政談」 |publisher=講談社 |series=[[講談社学術文庫]] 2149 |isbn=978-4-06-292149-7 |ref={{Harvid|荻生|尾藤|2013}} }} *『学則』 *『[[論語の注釈#日本人儒者による注|論語徴]]』 **{{Cite book|和書 |others=[[小川環樹]] 訳注 |date=1994-03 |title=論語徴 1 |volume= |publisher=平凡社 |series=東洋文庫 575 |isbn=978-4-582-80575-8 |ref={{Harvid|荻生|小川|1994a}} }} - 全2巻。 **{{Cite book|和書 |others=小川環樹 訳注 |date=1994-04 |title=論語徴 2 |volume= |publisher=平凡社 |series=東洋文庫 576 |isbn=978-4-582-80576-5 |ref={{Harvid|荻生|小川|1994b}} }} **{{Cite book|和書 |others=小川環樹 訳注 |date=2009-09 |title=論語徴 1 |volume= |publisher=平凡社 |series=ワイド版東洋文庫 575 |isbn=978-4-256-80575-6 |ref={{Harvid|荻生|小川|2009a}} }} - 全2巻。 **{{Cite book|和書 |others=小川環樹 訳注 |date=2009-09 |title=論語徴 2 |volume= |publisher=平凡社 |series=ワイド版東洋文庫 576 |isbn=978-4-256-80576-3 |ref={{Harvid|荻生|小川|2009b}} }} *『孫子国字解』 **{{Cite book|和書 |others=今倉章 注釈 |date=2016-11 |title=注釈 孫子国字解 上 |volume= |publisher=希望 |isbn=978-4-909001-00-9 |ref={{Harvid|荻生|今倉|2016}} }} - 全2巻。「{{PDFlink|[http://kiboinc.com/Shikei.pdf 第1篇 始計編]}}」。 **{{Cite book|和書 |others=今倉章 注釈 |date=2017-01 |title=注釈 孫子国字解 下 |volume= |publisher=希望 |isbn=978-4-909001-01-6 |ref={{Harvid|荻生|今倉|2017}} }} *『明律国字解』 **{{Cite book|和書 |others=澤井啓一・岡本光生・相原耕作・高山大毅 訳注 |date=2016-11 |title=徂徠集 序類 1 |publisher=平凡社 |series=東洋文庫 877 |volume= |isbn=978-4-582-80877-3 |ref={{Harvid|荻生|澤井ほか|2016}} }} - 全2巻。 **{{Cite book|和書 |others=澤井啓一・岡本光生・相原耕作・高山大毅 訳注 |date=2017-01 |title=徂徠集 序類 2 |publisher=平凡社 |series=東洋文庫 880 |volume= |isbn=978-4-582-80880-3 |ref={{Harvid|荻生|澤井ほか|2017}} }} *『荻生徂徠全詩』 [[荒井健]]・田口一郎 訳注、平凡社〈東洋文庫〉全4巻、2020年3月- === 全集 === 『荻生徂徠全集』は、[[みすず書房]]と[[河出書房新社]]から出版されたが、ともに未完結である<ref>{{Cite web|和書|date=2012|url=http://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000073466-00|title=「峡中紀行」は荻生徂徠全集の何巻に載っているか知りたい。|publisher=国会図書館|accessdate=2018-12-01}}</ref>。 ==== みすず書房版・全集 ==== *{{Cite book|和書 |others=[[島田虔次]] 編輯 |date=1973 |title=荻生徂徠全集 学問論集 |publisher=みすず書房 |volume=第1巻 |isbn=978-4-622-00961-0 |ref={{Harvid|荻生|島田|1973}} }} *{{Cite book|和書 |others=[[戸川芳郎]]・[[神田信夫]] 編輯 |date=1974 |title=荻生徂徠全集 言語篇 |publisher=みすず書房 |volume=第2巻 |isbn=978-4-622-00962-7 |ref={{Harvid|荻生|戸川|神田|1974}} }} *{{Cite book|和書 |others=[[小川環樹]] 編 |date=1977 |title=荻生徂徠全集 経学 Ⅰ |publisher=みすず書房 |volume=第3巻 |isbn=978-4-622-00963-4 |ref={{Harvid|荻生|小川|1977}} }} *{{Cite book|和書 |others=小川環樹 編 |date=1978 |title=荻生徂徠全集 経学 Ⅱ |publisher=みすず書房 |volume=第4巻 |isbn=978-4-622-00964-1 |ref={{Harvid|荻生|小川|1978}} }} *{{Cite book|和書 |others=[[川原秀城]]・[[池田末利]] 編輯 |date=1987 |title=荻生徂徠全集 統治論 Ⅱ |publisher=みすず書房 |volume=第13巻 |isbn=978-4-622-00973-3 |ref={{Harvid|荻生|川原|池田|1987}} }} *{{Cite book|和書 |others=[[西田太一郎]] 編 |date=1976 |title=荻生徂徠全集 随筆 Ⅰ |publisher=みすず書房 |volume=第17巻 |isbn=978-4-622-00977-1 |ref={{Harvid|荻生|西田|1976}} }} *{{Cite book|和書 |others=[[日野龍夫]] 編輯 |date=1983 |title=荻生徂徠全集 随筆 Ⅱ |publisher=みすず書房 |volume=第18巻 |isbn=978-4-622-00978-8 |ref={{Harvid|荻生|島田|1983}} }} ==== 河出書房新社版・全集 ==== *{{Cite book|和書 |others=今中寛司・奈良本辰也 編 |date=1973 |title=荻生徂徠全集 |publisher=河出書房新社 |volume=第1巻 |ref={{Harvid|荻生|今中|奈良本|1973a}} }} - 収録:弁道、弁名、蘐園随筆、蘐園十筆。 *{{Cite book|和書 |others=今中寛司・奈良本辰也 編 |date=1978-07 |title=荻生徂徠全集 |publisher=河出書房新社 |volume=第2巻 |ref={{Harvid|荻生|今中|奈良本|1978b}} }} - 収録:論語徴、大学解、中庸解、孟子識。 *{{Cite book|和書 |others=島田虔次 編輯 |date=1975 |title=荻生徂徠全集 |publisher=河出書房新社 |volume=第3巻 |ref={{Harvid|荻生|島田|1975}} }} - 収録:読荀子、読韓非子、読呂氏春秋、尚書学、孝経識、経子史要覧、論語弁書、原文・校異・解題。 *{{Cite book|和書 |others=島田虔次 編輯 |date=1977-01 |title=荻生徂徠全集 |publisher=河出書房新社 |volume=第5巻 |ref={{Harvid|荻生|島田|1977}} }} - 収録:訳文筌蹄、訓訳示蒙、絶句解、絶句解拾遺、古文矩・文変、詩文国字牘、南留別志、風流使者記。 *{{Cite book|和書 |others=島田虔次 編輯 |date=1973 |title=荻生徂徠全集 |publisher=河出書房新社 |volume=第6巻 |ref={{Harvid|荻生|島田|1973}} }} - 収録:政談、太平策、徂徠先生答問書、蘐録、蘐録外書。 === 選集 === *『荻生徂徠集 日本の思想12』[[金谷治]]編、筑摩書房、1970年 *:現代語訳:学則/弁道/弁名(抄)/論語徴(抄)。 *『荻生徂徠 [[日本思想大系]]36』[[吉川幸次郎]]ほか編、[[岩波書店]]、1973年 *:弁道([[西田太一郎]]校注)/弁名(西田太一郎校注)/学則(西田太一郎校注)  *:政談(辻達也校注)/太平策([[丸山眞男|丸山真男]]校注)/徂徠集(西田太一郎校注) *{{Cite book|和書 |others=[[尾藤正英]] 責任編集 |date=1974 |title=荻生徂徠 [[日本の名著]]16 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series= |isbn=978-4-12-400356-7 |ref={{Harvid|荻生|尾藤ほか|1974}} }} *:現代語訳:[[前野直彬]]訳・学則、弁道、弁名(抄)、徂徠集(抄)、[[中野三敏]]訳・答問書、尾藤訳・政談(抄)。 **{{Cite book|和書 |others= |date=1983年、再版1995年 |title=荻生徂徠 日本の名著 16 |publisher=中央公論社 |series=新装版 中公バックス |isbn=978-4-12-400406-9 |ref={{Harvid|荻生|尾藤ほか|1983}} }} == 門人 == {{Div col}} *[[安藤東野]] *[[亀井昭陽]] *[[住江滄浪]] *[[太宰春台]] *[[服部南郭]] *[[平野金華]] *[[山井崑崙]] *[[山県周南]] *[[宇佐美灊水]]{{Div col end}} ==演じた俳優== *[[岸田森]] - 『[[元禄太平記]]』([[NHK大河ドラマ]]、1975年) *[[辰巳柳太郎]] - 『[[大岡越前 (テレビドラマ)|大岡越前]]』(1975年、TBS) *[[西村晃]] - 『[[年末時代劇スペシャル]] [[忠臣蔵 (1985年のテレビドラマ)|忠臣蔵]]』(1985年、NTV) *[[津嘉山正種]] - 『[[八代将軍吉宗]]』(NHK大河ドラマ、1995年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2|refs= <ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0-17726|title=荻生徂徠 とは|publisher=コトバンク|accessdate=2018-12-01}}</ref> }} == 参考文献 == *{{Citation |和書 |last=尾藤|first=正英|author-link=尾藤正英|chapter=荻生徂徠|editor=[[相良亨]]・[[松本三之介]]・[[源了圓]]|title=江戸の思想家たち|volume=下|publisher=[[研究社|研究社出版]]|date=1979-11|isbn=978-4-327-38410-4}} *{{Cite journal |和書 |author=尾藤正英|title=荻生徂徠の思想――その人間観を中心に|publisher=[[東方学会]]|journal=東方学|volume=第58輯|date=1979-07}} *{{Cite journal |和書 |author=澤井啓一|title=人情不変――徂徠学の基底にあるもの|journal=寺子屋語学・文化研究所論叢|volume=創刊号|publisher=寺小屋語学・文化研究所|date=1982-07}} *{{Citation |和書 |last=髙橋|first=修|chapter=荻生徂徠|title=柳沢吉保と甲府城 山梨県立博物館企画展|publisher=[[山梨県立博物館]]|date=2011-10}} *{{Citation |和書 |last=八木|first=清治|chapter=荻生徂徠と「江戸」の発見|editor=武蔵大学公開講座ワーキング・グループ|title=時代を生きた人々|series=[[武蔵大学]]公開講座|publisher=[[御茶の水書房]]|date=2001-10|isbn=978-4-275-01880-9}} == 関連文献 == *[[丸山眞男]]『[[日本政治思想史研究]]』[[東京大学出版会]]、新版1983年 *[[子安宣邦]]『事件としての「徂徠学」』[[青土社]]、1990年。[[ちくま学芸文庫]]、2000年8月 *子安宣邦『徂徠学講義 『弁名』を読む』岩波書店、2008年7月 *[[野口武彦]]『荻生徂徠』[[中公新書]]、1993年。ISBN 978-4-12-101161-9 *{{Citation |和書 |last=佐藤|first=雅美|author-link=佐藤雅美|title=知の巨人 荻生徂徠伝|publisher=[[KADOKAWA]]|date=2014-04|isbn=978-4-04-110755-3}} **{{Citation |和書 |last=佐藤|first=雅美|title=知の巨人 荻生徂徠伝|publisher=[[角川文庫]]|date=2016-04|isbn=978-4-04-104213-7}}評伝小説 *{{Citation |和書 |last=田尻|first=祐一郎|author-link=田尻祐一郎|series=叢書日本の思想家 15 儒学編|title=荻生徂徠|publisher=[[明徳出版社]]|date=2008-03|isbn=978-4-89619-615-3}} *{{Citation |和書 |last=平石|first=直昭|author-link=平石直昭|title=荻生徂徠年譜考|publisher=[[平凡社]]|date=1984-05|isbn=978-4-582-48802-9}} *{{Citation |和書 |last=吉川|first=幸次郎|authorlink=吉川幸次郎|title=仁斎・徂徠・宣長|publisher=[[岩波書店]]|date=1975-06|isbn=978-4-00-000959-1}} *{{Citation |和書 |last=藍|first=弘岳|title=漢文圏における荻生徂徠 医学・兵学・儒学|publisher=[[東京大学出版会]]|date=2017-12|isbn=978-4-13-036265-8}} *[[中村春作]]『徂徠学の思想圏』ぺりかん社 *『政談』近藤たかし([[漫画|まんが]])、講談社〈講談社まんが学術文庫 0005〉、2018年4月。ISBN 978-4-06-510668-6 *小島康敬『徂徠学と反徂徠』[[ぺりかん社]]、1994年 == 関連項目 == *[[荻生徂徠墓]] *[[日本の儒教]] *[[湯島聖堂]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ogyu_Sorai}} *{{Kotobank|荻生徂徠}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おきゆう そらい}} [[Category:荻生徂徠|*]] [[Category:17世紀日本の歴史家]] [[Category:18世紀日本の歴史家]] [[Category:17世紀日本の儒学者]] [[Category:18世紀日本の儒学者]] [[Category:17世紀日本の教育者]] [[Category:18世紀日本の教育者]] [[Category:17世紀日本の随筆家]] [[Category:18世紀日本の随筆家]] [[Category:17世紀日本のノンフィクション作家]] [[Category:18世紀日本のノンフィクション作家]] [[Category:論語学者]] [[Category:経世論の人物]] [[Category:江戸時代の思想家]] [[Category:江戸時代の儒学者]] [[Category:江戸時代の文人]] [[Category:江戸時代の歴史家]] [[Category:日本の文献学者]] [[Category:物部氏]] [[Category:房総の魅力500選]] [[Category:上総国の人物]] [[Category:川越藩の人物]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1666年生]] [[Category:1728年没]]
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タミヤ
株式会社タミヤ(英: TAMIYA, INC.)は、静岡県静岡市に本社を置く模型・プラモデルメーカー。世界有数の総合模型メーカーである。旧社名は「株式会社田宮模型」。 艦艇、飛行機、AFV、車などのプラモデル、ラジコンカー・ミニ四駆・ダンガンレーサーといった可動模型、「楽しい工作シリーズ」といった工作用パーツ類・キット、プラバンなどの素材、塗料・エアブラシ・コンプレッサーなどの塗装道具と模型に関連する広範囲の商品を扱っている。 「初心者にも分かりやすく作りやすい」をコンセプトに企画から金型製作、ボックスアートまで自社一貫体制で対応しており、日本国内では随一の開発力を持つ。 創業者である田宮義雄は、第二次世界大戦以前運送業を営んでいたが、1945年6月の静岡大空襲で事業基盤の大半を焼失してしまったため、戦後製材業に転じ、1946年に「田宮商事合資会社」を設立。1948年には木製木工部門を設立し、主に船舶や飛行機の木製模型を製作していた。しかし、1951年に漏電が原因で火災が発生。会社社屋や在庫の木材等を焼失したため大きな借金を抱え、材木の仕入れにも支障をきたすようになったため、1953年には一般建築材の製材販売を廃し、模型専業メーカーとなる。 1950年代半ばから日本国外製プラスチックモデルが輸入され始め、木製模型の売上が減少していったことから、プラスチックモデルを製造することが1959年に決定され、翌1960年にタミヤのプラモデル第1作目として1/800スケールの戦艦大和を発売した。しかし、同時期に栃木の模型メーカー・日本模型(略称ニチモ)が同型艦武蔵の1/750スケールキットを350円で発売したため、タミヤも赤字覚悟で同価格に設定したが、売上は届かず惨敗となった。金型製作費の回収ができなかったため、再び木製模型の商品化を行ったが、その間にも当時の模型業界の流れはプラモデルへと主軸が移り始めていた。なお、創業者の田宮義雄の自伝にはタミヤ第一弾プラモデルは武蔵だったと記されているが、「田宮模型全仕事」の編集中に大和が同社第一弾だった事が確認された。 1960年代に入ると、ひょんな事からプラスチック玩具の不要になった金型を借り受けることができ、それを利用して発売したレーシングカーのミニ・キットが幸運にもヒットし、資金的に次のプラモデル製作の目処が立った。第2作目のプラモデルは形状が直線的で金型が作りやすいパンサー戦車に決定し、箱絵はイラストレーター小松崎茂に依頼された。1962年の正月に発売された同キットは、モーターを搭載し、よく走ること、組み立てやすく説明文が丁寧であることから好評となった。 後のミリタリー分野のスケールモデルの定番となる1⁄35という縮尺は、この時に生まれた。このサイズは、戦車内部に単二形乾電池が2本収まることを考えた設計のためであり、当時は正確なスケールを求める模型ファンは少なく、このスケールは偶然の産物である(後述)。 現在金型は自社で製作している。以前は外注しており、外注先の納期遅れや不透明な価格設定に苦労していた。そこで金型職人をスカウトし1964年に金型部が発足した。1966年から社員数人を金型製造工場に出向させ、徐々にノウハウを蓄積し自社で金型製造を行うようになった。現在ではCAD/CAMシステムも導入されている。 同社の金型は極めて精度が高いことで知られ、その精度は組み立てた際の仕上がり具合にも影響する。かつての設計図と金型職人の職人芸によってプラモデルが製造されていた時代には、他社製品が細部のボルトをリベットと同様に単なる半球の突起で表現していた頃に、きちんと小さな六角柱で表現していた。 タミヤがプラモデルを初めて発売するにあたって、田宮俊作(義雄の子、後に社長。現会長)は、新しいマークを当時東京芸術大学デザイン科の学生だった弟の田宮督夫(まさお)に依頼し、誕生したのが「星のマーク(通称ツインスター)」である。当初はマークの周りに英文があしらわれていたが、1966年にデザインが変更されて「★★」となり、現在のものになった。左側の赤い星は「情熱」右側の青い星は「精密」を表している。 初期のタミヤ製品(1961年 - 1967年)は、まだボックスアートを外注で対応しており、主に小松崎茂、高荷義之、上田信、平野光一などが担当した。商品イメージ・世界観を広げる「動きのある構図・絵物語風」な迫力のあるボックスアートが主流を占め、タミヤの商品イメージ向上に大いに貢献したが、1968年発売のスロットレーシングカーから背景を書かず商品だけを描いた白バック「ホワイトパッケージ」が登場して、より精密に書き込まれたボックスアートへの路線変更が行われた。この試みは評判がよく、その後発売されるタミヤ製品は航空機・艦船模型など一部の模型を除きホワイトパッケージに切り替わっていく。初期のタミヤブランドイメージ作りに寄与した小松崎茂のボックスアートは、上記のボックスアート戦略の変更、商品の絶版に伴い現在のタミヤ製品からは殆ど姿を消している。 1970年代以降、欧米においてボックスアートの背景に描かれた「箱に入っていないアイテム」が、「誇大広告」に該当する可能性があると問題になり始め、タミヤ製品も輸出に際して指摘を受け、一部戦車模型の背景のアイテムを加筆修正で消す処理が行われた。箱絵に写真撮影したものを使用しない理由は、写真であると影になり細かな所が潰れてしまうため、精密さを表現するためにも手書きの絵にしている。 リアルな表現のための日本国外での実車取材は、1966年のアメリカ、メリーランド州のアバディーン戦車博物館からスタート。軍事機密等のため撮影もスケッチも不許可で見るだけとなった取材の場合は、現場を出てすぐにスケッチを描き資料としている。この取材は、博物館の展示品や復元した物、ゲートガードに使用されている機材が中心となるため、微妙な個体差によりパッケージの物とキットが異なる(パッケージはXX戦線のAという車両だが、取材した車両を基にしたキットは○○戦線にしかいなかったA'という車両)場合がある。 ちなみに冷戦時代には旧ソ連の戦車の取材は困難を極めたという。過去には旧ソ連製AFVの製品化の際に当時のソビエト大使館を訪れて取材を申し込んだところ、取材を断られた上に大使館を出たところで(日本の)警察の職務質問を受け、その後しばらく公安警察による監視・尾行が付いたこともある。そのため当時はソ連の戦車が取材できると聞くと世界中を飛び回ることが珍しくなく、第三次中東戦争直後にイスラエル軍が鹵獲した旧ソ連のT-34-85型戦車を街頭展示していることを聞きつけてテルアビブに飛んだりしたこともあるという。 博物館での実車取材の際には同時に寄付を行うことが多く、特に1990年にはイギリスのボービントン戦車博物館の新館建設に当たり2000万円を拠出したことから、新館には「タミヤホール」の名が付けられた。またアメリカ・スミソニアン博物館内の国立航空宇宙博物館にて行われていた、日本の水上攻撃機・晴嵐の復元作業にも資金を提供している。 1/16RC戦車レオパルト2A6は、実車の製造元であるクラウス・マッファイ・ヴェグマン社からのオファーで開発され、同社の協力により詳細な取材が行われた。各種サウンドに関してはエンジン音のみならず、砲塔旋回音、砲身俯仰の作動音、さらには主砲発射音、主砲同軸機銃発射音まで実車からのサンプリングが行われている。 また、スポーツカーの模型においても力の入った調査は知られており、ポルシェ・934の模型化において、ポルシェのツッフェンハウゼン工場へ幾度も設計担当者を派遣し、それでも不明だった点はポルシェ・911の実車を購入して完全に分解、元に戻せるわけもなくポルシェのディーラーの整備士に組み直してもらったというエピソードがある。このポルシェはその後1976年のF1日本GPの際に田宮俊作現会長がジョディ・シェクター夫妻を送迎するために使われたり、同社の滝文人がRCカーのイベントに参加する際に社用車代わりに使われたりもした。現在はタミヤ本社ロビーに展示されている。 1960年代のホンダF1(RA273)を皮切りに数多くのF1マシンのプラモデル化を手がけてきた関係から、1991年には当時経営難に陥っていたチーム・ロータスのスポンサーになったこともある。また1976年のティレル・P34からは、F1マシンのモデル化に当たりロイヤルティーをチーム側に支払うようになっている。完成したモデルのクオリティの高さなどもあってF1チームとは概ね良好な関係を築いており、F1チームが機密保持に厳しくなった後も「模型メーカーで唯一タミヤだけはF1マシンの設計図面(CADデータ)を見せてもらえる」と評されるほどだったが、近年ではタミヤといえどチームからの設計図面の提供を受けられなくなり、報道写真等を元にしたモデル化を行わざるを得なくなっている。 長期間F1マシンの新製品が発売されなかったことについて、チーム側からのロイヤルティー条件が厳しくなったためビジネスとして成立させることができなくなったからとしている。実際2003年5月にウィリアムズ・FW24の1/20モデルを発売して以降は過去に発売したキットの再発売が長らく続き、F1マシンの新製品は2009年12月発売のフェラーリ・F60まで約6年半もの間が空いている。 同様の問題は一部の航空機や軍用車両の模型でも発生しており、1/48のB-17は決定版と呼べるほどのキットを出せるだけの資料が集まっているが、ボーイングからのロイヤルティーの要求が厳しいため商品化できない、と、同社社長がイベントで吐露したり、1/48のジープを小型四輪駆動車の名称でフィギュアセットのおまけとして出荷するなど、金銭が絡む問題での商品化の見送りや、単品販売を断念せざるを得ない例が増えている。 ミリタリーミニチュアシリーズ(MM)で採用されている1/35というスケールは、もともと「パンサータンク」を開発した際、モーターライズ用の電池ボックスやギヤボックスを組み込むために偶然発生したもので、後にこれに合わせて1/35戦車シリーズが展開され、MMシリーズに引き継がれ一般化したものである。 タミヤが1/35戦車シリーズを展開し始めた当初は、このクラスの戦車模型には標準的なスケールは存在せず、日本国外のメーカーがそれぞれ1/32 - 1/40スケールでシリーズを展開していた。その後、タミヤが製品群を増やし、組み立てやすさと完成後の姿の良さ、そして部品精度の良さといった理由で好評を得るに従い、このスケールが世界でも受け入れられていった。 ディスプレイ専用のMMシリーズは、当初は1/35戦車シリーズに添えるアクセサリーとして兵士や砲、小型車両のキットを出すだけのものだったが、モーターライズせずにディスプレイ専用に組み立てる方が戦車模型趣味の主流となるにつれ、通常の戦車もこちらのシリーズで発売されることになった。しかしその後もしばらくは、MMシリーズで出る戦車と1/35戦車シリーズで出る戦車は基本的に同一キットで、単にギアボックス等のパーツが同梱されているか否かの差であることが多かった。ただし、モーターライズを前提に設計されていながら、MMシリーズで発売されたのみで戦車シリーズでは出されなかったキットもある。 戦車キットに限らず、製品によっては完成後の見栄えを良くするためのデフォルメも加えられている。2004年からは新たに1/48スケールのシリーズを開始、大戦物アイテムをリリースしている。 2000年代に入ってタイガーI初期型から始まる1/16フルオペレーションRC戦車シリーズをラインナップ。1/16ビッグタンクシリーズと金型を共有してはいるがキットサイズが大きい事もあって、プロポーションを崩すことなくRCメカを組み込むことに成功している。また同シリーズは見た目と同時に音、動き、発光にもリアルさを求めており、エンジン音等現存する実車からサンプリングされている。大戦中のドイツ戦車はすべてフランスのソミュール戦車博物館に現存するキングタイガーからサンプリングされたエンジン音を共用している。 ウォーターラインシリーズは1/700という小さな製品であるが、同社の技術力が遺憾なく発揮されていた。ウオーターラインシリーズの殆どのボックスアートを艦船に造詣の深い上田毅八郎が手がけている。 タミヤは1974年に電動RCモデルの第一弾としてM4シャーマン戦車を発売しラジコンカー市場に参入。当初はドイツのマンモス戦車・マウスをRC化する予定だったが、「マウスよりもシャーマンの方がRCに向いている」という同社の滝文人の進言によりシャーマンに変更されたという。 1976年、電動RCカーの第一弾として「ポルシェ934ターボRSR」を発売したところ、これが初年度に約10万台を売り上げる大ヒットとなる。以後タミヤでは継続してRCカーをリリースし、登場してから40年以上を経た現在では日本国内・国外RC市場で販売され、現在のタミヤの成長を支える大きな収益源の一つにまで成長した。国内外で高いシェアを持つ為、RCカー競技のレギュレーションはタミヤの製品が基準となることが多々あり、RS540サイズモーター、1/12オンロードカー、1/10ツーリングカー等がそれに該当する。日本国内のストックモーターのレギュレーションにおける巻き数23T・メタル軸受けという基準も、タミヤスポーツチューンモーターのスペックを基準にしている。 これまで発売されてきたRCカーで培った技術、経験を生かした「RCカー30周年」を記念したモデルを2006年12月に限定発売した。タミヤラジコン開発史の1ページを飾った「ポルシェターボRSR934レーシング」を現在のタミヤ技術を集めたフラッグシップモデルとして新規に開発。 かつてRCヨットやRCモーターグライダーをリリースしていた時期があったが、基本的には地上RCのみラインナップを揃えており、航空機や船舶のRCモデルは現時点では存在しない。一方、1/16フルオペレーションRC戦車、1/35RC戦車のラインナップが充実している。 タミヤ製RCカーは電動式が圧倒的に多く、エンジンカーは1/10ナイトロフォースやXB-Gシリーズがあり、かつては1/8スケールもあった。1990年代にはイタリアBMT社のGPレーシングカーの輸入代理店業務を行っていたが、BMT社の業績悪化などから現在では輸入されていない。 なお、RCカーの世界では京商とは常にライバル関係にあり、京商ミニッツシリーズに対してはタムテックギアで対抗している。こちらは田宮模型時代の過去モデルを小型化したボディが採用されることが多く、過去これらで遊んでいたファンが所有することが多い。近年では1980年代に一世を風靡したホーネット (タミヤ)やグラスホッパー (タミヤ)、マイティフロッグ、ホットショットが再発売された。 1996年 - 1997年の2年間に、1/43スケールのダイキャスト製ミニカーを展開していた。これは主に日産が1990年代に行ったル・マン24時間レースの参戦に沿った企画である。タミヤは日産チームへのスポンサードを行っていた。一部の商品はバリエーション違いとしてJGTCの各チームの仕様も登場した。この時のミニカーの台座とMMP社の初期のミニカーの台座が一緒である。 2004年には『コレクターズクラブ』というシリーズで1/64サイズのミニカーがリリースされた。 以下の商品がリリースされた。 また同シリーズ第3弾として国産市販車のミニカーが発売された。 ダイキャスト製のコレクターズクラブスペシャルも展開している。 楽しい工作シリーズのような、工作少年が様々な動く玩具・模型を作るための部品や、あるいは簡単なロボットを作るためのキットを発売している。この中には往年のマブチモーター人気商品の水中モーターの継続商品も含まれている。 2011年3月から「デコレーションシリーズ」を発売。粘土細工のようにスイーツ模型を作るもので、女性をメインターゲットにしている。 タミヤはアメリカのパクトラ社と提携し、同社の模型用エナメル塗料をパクトラタミヤというブランドで1971年から国内販売していたが、1984年に提携を解消した後は国産のエナメル塗料をタミヤカラーとして引き続き販売している。また、1981年には水溶性のアクリル塗料を発売している。これらはパクトラタミヤの色番号を継承しており、航空機、艦船、軍用車両等の専用色が充実している。さらに、ラッカー系のスプレー塗料や、ラジコンカーのボディ等のポリカーボネート用の塗料も発売されており、ビン入りのラッカー系を除き、模型用塗料のほぼ全てのタイプが揃えられている。 自社製品に関する情報誌として「タミヤニュース」を月1回発行している。1967年創刊で当初は隔月刊で、臨時増刊号も発行された。長らく一部50円で、のちに100円に値上げされた。独特の細長い判型は、定形郵便物として発送するために封筒に合わせたものである。新製品、模型店、模型クラブの紹介記事のほか、模型改造の記事、有名・無名の模型愛好家の記事などがある。姉妹誌として、ミニ四駆やダンガンレーサーの記事を中心に扱うフリーペーパーの「タミヤ・ジュニアニュース」がある。かつては模型店で20円で販売されていたが、現在はタミヤのサイトからPDF形式ファイルでダウンロード可能である。 その他、模型に関連する刊行物として、自社で行った人形改造コンテスト、情景写真コンテストなどの結果発表用の冊子を発行している。 タミヤでは模型文化の発信と新たな客層の開拓のため、自社ブランド製品の専売店舗「タミヤプラモデルファクトリー」の店舗プロデュースを手掛けている。2008年に神奈川県横浜市のトレッサ横浜店と東京都港区の新橋店の2店舗を開業。トレッサ横浜店では企画協力にセガ、店舗の開発・運営に今関商会が携わり、新橋店では店舗の開発・運営に子会社の「タミヤプラモデルファクトリー株式会社」が携わる。 現在、タミヤ製品の半数以上はフィリピンの工場で製造されている。近年の食玩ブームに見られる「彩色完成品モデル」需要の拡大に着目し、約1,200人の工場の人員を駆使して1/48ミニタリーAFVモデルにウェザリング塗装まで施したモデルや、ダイキャスト製のミニチュアカーなどの完成品モデルを製造、全世界のホビー市場に出荷している。
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1/40スケールでシリーズを展開していた。その後、タミヤが製品群を増やし、組み立てやすさと完成後の姿の良さ、そして部品精度の良さといった理由で好評を得るに従い、このスケールが世界でも受け入れられていった。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ディスプレイ専用のMMシリーズは、当初は1/35戦車シリーズに添えるアクセサリーとして兵士や砲、小型車両のキットを出すだけのものだったが、モーターライズせずにディスプレイ専用に組み立てる方が戦車模型趣味の主流となるにつれ、通常の戦車もこちらのシリーズで発売されることになった。しかしその後もしばらくは、MMシリーズで出る戦車と1/35戦車シリーズで出る戦車は基本的に同一キットで、単にギアボックス等のパーツが同梱されているか否かの差であることが多かった。ただし、モーターライズを前提に設計されていながら、MMシリーズで発売されたのみで戦車シリーズでは出されなかったキットもある。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "戦車キットに限らず、製品によっては完成後の見栄えを良くするためのデフォルメも加えられている。2004年からは新たに1/48スケールのシリーズを開始、大戦物アイテムをリリースしている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2000年代に入ってタイガーI初期型から始まる1/16フルオペレーションRC戦車シリーズをラインナップ。1/16ビッグタンクシリーズと金型を共有してはいるがキットサイズが大きい事もあって、プロポーションを崩すことなくRCメカを組み込むことに成功している。また同シリーズは見た目と同時に音、動き、発光にもリアルさを求めており、エンジン音等現存する実車からサンプリングされている。大戦中のドイツ戦車はすべてフランスのソミュール戦車博物館に現存するキングタイガーからサンプリングされたエンジン音を共用している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ウォーターラインシリーズは1/700という小さな製品であるが、同社の技術力が遺憾なく発揮されていた。ウオーターラインシリーズの殆どのボックスアートを艦船に造詣の深い上田毅八郎が手がけている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "タミヤは1974年に電動RCモデルの第一弾としてM4シャーマン戦車を発売しラジコンカー市場に参入。当初はドイツのマンモス戦車・マウスをRC化する予定だったが、「マウスよりもシャーマンの方がRCに向いている」という同社の滝文人の進言によりシャーマンに変更されたという。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1976年、電動RCカーの第一弾として「ポルシェ934ターボRSR」を発売したところ、これが初年度に約10万台を売り上げる大ヒットとなる。以後タミヤでは継続してRCカーをリリースし、登場してから40年以上を経た現在では日本国内・国外RC市場で販売され、現在のタミヤの成長を支える大きな収益源の一つにまで成長した。国内外で高いシェアを持つ為、RCカー競技のレギュレーションはタミヤの製品が基準となることが多々あり、RS540サイズモーター、1/12オンロードカー、1/10ツーリングカー等がそれに該当する。日本国内のストックモーターのレギュレーションにおける巻き数23T・メタル軸受けという基準も、タミヤスポーツチューンモーターのスペックを基準にしている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これまで発売されてきたRCカーで培った技術、経験を生かした「RCカー30周年」を記念したモデルを2006年12月に限定発売した。タミヤラジコン開発史の1ページを飾った「ポルシェターボRSR934レーシング」を現在のタミヤ技術を集めたフラッグシップモデルとして新規に開発。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "かつてRCヨットやRCモーターグライダーをリリースしていた時期があったが、基本的には地上RCのみラインナップを揃えており、航空機や船舶のRCモデルは現時点では存在しない。一方、1/16フルオペレーションRC戦車、1/35RC戦車のラインナップが充実している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "タミヤ製RCカーは電動式が圧倒的に多く、エンジンカーは1/10ナイトロフォースやXB-Gシリーズがあり、かつては1/8スケールもあった。1990年代にはイタリアBMT社のGPレーシングカーの輸入代理店業務を行っていたが、BMT社の業績悪化などから現在では輸入されていない。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、RCカーの世界では京商とは常にライバル関係にあり、京商ミニッツシリーズに対してはタムテックギアで対抗している。こちらは田宮模型時代の過去モデルを小型化したボディが採用されることが多く、過去これらで遊んでいたファンが所有することが多い。近年では1980年代に一世を風靡したホーネット (タミヤ)やグラスホッパー (タミヤ)、マイティフロッグ、ホットショットが再発売された。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1996年 - 1997年の2年間に、1/43スケールのダイキャスト製ミニカーを展開していた。これは主に日産が1990年代に行ったル・マン24時間レースの参戦に沿った企画である。タミヤは日産チームへのスポンサードを行っていた。一部の商品はバリエーション違いとしてJGTCの各チームの仕様も登場した。この時のミニカーの台座とMMP社の初期のミニカーの台座が一緒である。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2004年には『コレクターズクラブ』というシリーズで1/64サイズのミニカーがリリースされた。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "以下の商品がリリースされた。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また同シリーズ第3弾として国産市販車のミニカーが発売された。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ダイキャスト製のコレクターズクラブスペシャルも展開している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "楽しい工作シリーズのような、工作少年が様々な動く玩具・模型を作るための部品や、あるいは簡単なロボットを作るためのキットを発売している。この中には往年のマブチモーター人気商品の水中モーターの継続商品も含まれている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2011年3月から「デコレーションシリーズ」を発売。粘土細工のようにスイーツ模型を作るもので、女性をメインターゲットにしている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "タミヤはアメリカのパクトラ社と提携し、同社の模型用エナメル塗料をパクトラタミヤというブランドで1971年から国内販売していたが、1984年に提携を解消した後は国産のエナメル塗料をタミヤカラーとして引き続き販売している。また、1981年には水溶性のアクリル塗料を発売している。これらはパクトラタミヤの色番号を継承しており、航空機、艦船、軍用車両等の専用色が充実している。さらに、ラッカー系のスプレー塗料や、ラジコンカーのボディ等のポリカーボネート用の塗料も発売されており、ビン入りのラッカー系を除き、模型用塗料のほぼ全てのタイプが揃えられている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "自社製品に関する情報誌として「タミヤニュース」を月1回発行している。1967年創刊で当初は隔月刊で、臨時増刊号も発行された。長らく一部50円で、のちに100円に値上げされた。独特の細長い判型は、定形郵便物として発送するために封筒に合わせたものである。新製品、模型店、模型クラブの紹介記事のほか、模型改造の記事、有名・無名の模型愛好家の記事などがある。姉妹誌として、ミニ四駆やダンガンレーサーの記事を中心に扱うフリーペーパーの「タミヤ・ジュニアニュース」がある。かつては模型店で20円で販売されていたが、現在はタミヤのサイトからPDF形式ファイルでダウンロード可能である。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その他、模型に関連する刊行物として、自社で行った人形改造コンテスト、情景写真コンテストなどの結果発表用の冊子を発行している。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "タミヤでは模型文化の発信と新たな客層の開拓のため、自社ブランド製品の専売店舗「タミヤプラモデルファクトリー」の店舗プロデュースを手掛けている。2008年に神奈川県横浜市のトレッサ横浜店と東京都港区の新橋店の2店舗を開業。トレッサ横浜店では企画協力にセガ、店舗の開発・運営に今関商会が携わり、新橋店では店舗の開発・運営に子会社の「タミヤプラモデルファクトリー株式会社」が携わる。", "title": "タミヤプラモデルファクトリー" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "現在、タミヤ製品の半数以上はフィリピンの工場で製造されている。近年の食玩ブームに見られる「彩色完成品モデル」需要の拡大に着目し、約1,200人の工場の人員を駆使して1/48ミニタリーAFVモデルにウェザリング塗装まで施したモデルや、ダイキャスト製のミニチュアカーなどの完成品モデルを製造、全世界のホビー市場に出荷している。", "title": "国外子会社" } ]
株式会社タミヤは、静岡県静岡市に本社を置く模型・プラモデルメーカー。世界有数の総合模型メーカーである。旧社名は「株式会社田宮模型」。 艦艇、飛行機、AFV、車などのプラモデル、ラジコンカー・ミニ四駆・ダンガンレーサーといった可動模型、「楽しい工作シリーズ」といった工作用パーツ類・キット、プラバンなどの素材、塗料・エアブラシ・コンプレッサーなどの塗装道具と模型に関連する広範囲の商品を扱っている。 「初心者にも分かりやすく作りやすい」をコンセプトに企画から金型製作、ボックスアートまで自社一貫体制で対応しており、日本国内では随一の開発力を持つ。
{{複数の問題 |参照方法 = 2014年10月 |出典の明記 = 2008年4月 }} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社タミヤ |英文社名 = TAMIYA, INC. |ロゴ = TAMIYA Logo.svg |ロゴサイズ = 180px |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |機関設計 = |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 422-8610 |本社所在地 = [[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]]恩田原3-7 |本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 58|本社緯度秒 = 8.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 138|本社経度分 = 25|本社経度秒 = 9.0|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP-22 |設立 = 1984年3月24日 |業種 = 3800 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = プラスチックモデル、ラジオコントロールモデル、工作キット及び関連製品の製造販売 |代表者 = {{Ubl|[[代表取締役]][[会長]]兼[[社長]] [[田宮俊作]]}} |資本金 = 5000万円 |発行済株式総数 = |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = |純資産 = |総資産 = |従業員数 = 362名(2023年1月) |支店舗数 = |決算期 = |会計監査人 = |所有者 = |主要株主 = |主要部門 = |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{URL|https://www.tamiya.com/}} |特記事項 = }} '''株式会社タミヤ'''({{lang-en-short|TAMIYA, INC.}})は、[[静岡県]][[静岡市]]に本社を置く[[模型]]・[[プラモデル]]メーカー。世界有数{{Sfn|大塚実|2005|p=1}}の総合模型メーカーである。旧社名は「'''株式会社田宮模型'''」{{Sfn|メカライフ学生委員|2001|p=392}}。 [[艦艇]]、[[飛行機]]、[[装甲戦闘車両|AFV]]、[[自動車|車]]などのプラモデル、[[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]・[[ミニ四駆]]・[[ダンガンレーサー]]といった可動模型、「楽しい工作シリーズ」といった工作用パーツ類・キット{{Sfn|大塚実|2005|p=1-2}}{{refnest|group="注"|製品はパーツの精度が良く、コンセプト通り誰にでも組み立てられ、かつ完成度の高い作品を作ることができる{{要出典|date=2015年3月}}。}}、[[プラバン]]などの素材、[[塗料]]・[[エアブラシ]]・[[圧縮機|コンプレッサー]]などの塗装道具と模型に関連する広範囲の商品を扱っている。 「初心者にも分かりやすく作りやすい」をコンセプトに企画から金型製作{{Sfn|メカライフ学生委員|2001|p=393}}{{Sfn|植田紘揮|2007}}、[[ボックスアート]]まで自社一貫体制で対応しており、日本国内では随一の開発力を持つ。 == 会社概要 == === 創業 === [[ファイル:Stone monument of the Birthplace of Tamiya inc.jpg|thumb|静岡市駿河区小鹿にあるタミヤ発祥の地の石碑。(2018年4月撮影)]] 創業者である[[田宮義雄]]は、[[第二次世界大戦]]以前運送業を営んでいたが{{Sfn|Racing on|2008|p=12}}、[[1945年]]6月の[[静岡大空襲]]で事業基盤の大半を焼失してしまったため、戦後製材業に転じ、[[1946年]]に「田宮商事合資会社」を設立{{Sfn|Racing on|2008|p=12}}。[[1948年]]には木製木工部門を設立し、主に[[船舶]]や[[飛行機]]の木製模型を製作していた<ref name="history">{{Cite web|和書|url=https://www.tamiya.com/japan/company/history.html |title=沿革と歴史 |publisher=株式会社タミヤ |accessdate=2020-04-13}}</ref>。しかし、[[1951年]]に漏電が原因で火災が発生。会社社屋や在庫の木材等を焼失したため大きな借金を抱え、材木の仕入れにも支障をきたすようになったため、[[1953年]]には一般建築材の製材販売を廃し、模型専業メーカーとなる{{R|history}}。 === プラスチックモデルへの参入 === [[1950年代]]半ばから日本国外製プラスチックモデルが輸入され始め、木製模型の売上が減少していったことから、プラスチックモデルを製造することが[[1959年]]に決定され、翌[[1960年]]にタミヤの[[プラモデル]]第1作目として1/800[[縮尺|スケール]]の[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]を発売した{{R|history}}。しかし、同時期に栃木の模型メーカー・[[日本模型]](略称ニチモ)が同型艦武蔵の1/750スケールキットを350円で発売したため、タミヤも赤字覚悟で同価格に設定したが、売上は届かず惨敗となった。金型製作費の回収ができなかったため、再び木製模型の商品化を行ったが、その間にも当時の模型業界の流れはプラモデルへと主軸が移り始めていた。なお、創業者の田宮義雄の自伝にはタミヤ第一弾プラモデルは武蔵だったと記されているが、「田宮模型全仕事」の編集中に大和が同社第一弾だった事が確認された。 [[1960年代]]に入ると、ひょんな事からプラスチック玩具の不要になった金型を借り受けることができ、それを利用して発売したレーシングカーのミニ・キットが幸運にもヒットし、資金的に次のプラモデル製作の目処が立った。第2作目のプラモデルは形状が直線的で金型が作りやすい[[V号戦車パンター|パンサー戦車]]に決定し、[[ボックスアート|箱絵]]はイラストレーター[[小松崎茂]]に依頼された。[[1962年]]の正月に発売された同キットは、[[電動機|モーター]]を搭載し、よく走ること、組み立てやすく説明文が丁寧であることから好評となった。 後のミリタリー分野の[[スケールモデル]]の定番となる{{分数|1|35}}という縮尺は、この時に生まれた。このサイズは、戦車内部に単二形乾電池が2本収まることを考えた設計のためであり、当時は正確なスケールを求める模型ファンは少なく、このスケールは偶然の産物である(後述)<ref>{{Cite book|和書|author=西花池 湖南|title=日本プラモデル 世界との激闘史|publisher=河出書房新社|date=2019-12-06|page=72|isbn=978-4-309-25645-0}}</ref>。 === 金型 === 現在[[金型]]は自社で製作している{{Sfn|Racing on|2008|p=28}}。以前は外注しており、外注先の納期遅れや不透明な価格設定に苦労していた。そこで金型職人をスカウトし[[1964年]]に金型部が発足した。[[1966年]]から社員数人を金型製造工場に出向させ、徐々にノウハウを蓄積し自社で金型製造を行うようになった。現在では[[CAD]]/[[CAM]]システムも導入されている。 同社の金型は極めて精度が高いことで知られ{{Sfn|Racing on|2008|p=28}}、その精度は組み立てた際の仕上がり具合にも影響する。かつての設計図と金型職人の職人芸によってプラモデルが製造されていた時代には、他社製品が細部の[[ボルト (部品)|ボルト]]を[[リベット]]と同様に単なる半球の突起で表現していた頃に、きちんと小さな六角柱で表現していた。 === 星のマーク === タミヤがプラモデルを初めて発売するにあたって、[[田宮俊作]](義雄の子、後に社長。現会長)は、新しいマークを当時[[東京芸術大学]]デザイン科の学生だった弟の[[田宮督夫]](まさお)に依頼し、誕生したのが「星のマーク(通称ツインスター<ref>{{Cite web|和書|url=https://logostock.jp/tamiya/ |title=赤と青のツインスター |accessdate=2018-04-29}}</ref>)」である。当初はマークの周りに英文があしらわれていたが、[[1966年]]にデザインが変更されて「{{Colors|#ffffff|#D90000|★}}{{Colors|#ffffff|blue|★}}」となり、現在のものになった。左側の赤い星は「情熱」右側の青い星は「精密」を表している。 [[リチャード・クー]]が「世界中どこに行っても、このマークが店頭に飾ってあれば、その店は模型店以外の何者でもない」「一企業のマークが業界全体を表すシンボルマークとなっており、このような例は他にない」と指摘しているように{{Sfn|田宮俊作|2000|loc=巻末解説}}、現在では日本に留まらず世界的に高い認知度を誇っている。 === ホワイトパッケージの登場 === 初期のタミヤ製品(1961年 - 1967年)は、まだボックスアートを外注で対応しており、主に[[小松崎茂]]、[[高荷義之]]、上田信、平野光一などが担当した。商品イメージ・世界観を広げる「動きのある構図・絵物語風」な迫力のあるボックスアートが主流を占め、タミヤの商品イメージ向上に大いに貢献したが、[[1968年]]発売の[[スロットカー|スロットレーシングカー]]から背景を書かず商品だけを描いた白バック「ホワイトパッケージ{{Sfn|Racing on|2008|p=26}}」が登場して、より精密に書き込まれたボックスアートへの路線変更が行われた。この試みは評判がよく、その後発売されるタミヤ製品は[[航空機]]・[[船|艦船]]模型など一部の模型を除きホワイトパッケージに切り替わっていく。初期のタミヤブランドイメージ作りに寄与した小松崎茂のボックスアートは、上記のボックスアート戦略の変更、商品の絶版に伴い現在のタミヤ製品からは殆ど姿を消している。 1970年代以降、欧米においてボックスアートの背景に描かれた「箱に入っていないアイテム」が、「誇大広告」に該当する可能性があると問題になり始め、タミヤ製品も輸出に際して指摘を受け、一部戦車模型の背景のアイテムを加筆修正で消す処理が行われた。箱絵に写真撮影したものを使用しない理由は、写真であると影になり細かな所が潰れてしまうため、精密さを表現するためにも手書きの絵にしている。 === 取材 === リアルな表現のための日本国外での実車取材は、[[1966年]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[メリーランド州]]の[[アバディーン戦車博物館]]からスタート。軍事機密等のため撮影もスケッチも不許可で見るだけとなった取材の場合は、現場を出てすぐにスケッチを描き資料としている。この取材は、博物館の展示品や復元した物、ゲートガードに使用されている機材が中心となるため、微妙な個体差によりパッケージの物とキットが異なる(パッケージはXX戦線のAという車両だが、取材した車両を基にしたキットは○○戦線にしかいなかったA'という車両)場合がある。 ちなみに[[冷戦]]時代には旧ソ連の戦車の取材は困難を極めたという。過去には旧ソ連製AFVの製品化の際に当時のソビエト大使館を訪れて取材を申し込んだところ、取材を断られた上に大使館を出たところで(日本の)警察の[[職務質問]]を受け、その後しばらく公安警察による監視・尾行が付いたこともある{{Sfn|田宮俊作|2000|p=139-140}}。そのため当時はソ連の戦車が取材できると聞くと世界中を飛び回ることが珍しくなく、[[第三次中東戦争]]直後に[[イスラエル]]軍が鹵獲した旧ソ連の[[T-34]]-85型戦車を街頭展示していることを聞きつけて[[テルアビブ]]に飛んだりしたこともあるという{{Sfn|田宮俊作|2000|p=140-142}}。 博物館での実車取材の際には同時に寄付を行うことが多く、特に[[1990年]]には[[イギリス]]の[[ボービントン戦車博物館]]の新館建設に当たり2000万円を拠出したことから、新館には「タミヤホール」の名が付けられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tamiya.com/japan/company/social.html |title=社会活動 |publisher=株式会社タミヤ |accessdate=2020-04-13}}</ref>。またアメリカ・[[スミソニアン博物館]]内の[[国立航空宇宙博物館]]にて行われていた、日本の水上攻撃機・[[晴嵐]]の復元作業にも資金を提供している。 1/16RC戦車[[レオパルト2]]A6は、実車の製造元であるクラウス・マッファイ・ヴェグマン社からのオファーで開発され、同社の協力により詳細な取材が行われた。各種サウンドに関してはエンジン音のみならず、砲塔旋回音、砲身俯仰の作動音、さらには主砲発射音、主砲同軸機銃発射音まで実車からのサンプリングが行われている。 また、スポーツカーの模型においても力の入った調査は知られており、[[ポルシェ・934]]の模型化において、ポルシェのツッフェンハウゼン工場へ幾度も設計担当者を派遣し、それでも不明だった点は[[ポルシェ・911]]の[[リバースエンジニアリング|実車を購入して完全に分解]]、元に戻せるわけもなく[[ポルシェ]]のディーラーの整備士に組み直してもらったというエピソードがある。このポルシェはその後[[1976年]]のF1[[日本グランプリ (4輪)|日本GP]]の際に田宮俊作現会長が[[ジョディ・シェクター]]夫妻を送迎するために使われたり、同社の滝文人がRCカーのイベントに参加する際に社用車代わりに使われたりもした。現在はタミヤ本社ロビーに展示されている。 [[ファイル:Lotus 102B.jpg|thumb|1991年のロータス102B。この1台はタミヤが所有している]] 1960年代の[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダF1]]([[ホンダ・RA273|RA273]])を皮切りに数多くの[[フォーミュラ1|F1]]マシンのプラモデル化を手がけてきた関係から、[[1991年]]には当時経営難に陥っていた[[チーム・ロータス]]のスポンサーになったこともある{{Sfn|Racing on|2008|loc=ロータスを救ったタミヤ}}。また[[1976年]]の[[ティレル・P34]]からは、F1マシンのモデル化に当たり[[ロイヤルティー]]をチーム側に支払うようになっている{{Sfn|Racing on|2008|loc=Tyrrell P34 はじめてのロイヤリティ}}。完成したモデルのクオリティの高さなどもあってF1チームとは概ね良好な関係を築いており、F1チームが機密保持に厳しくなった後も「模型メーカーで唯一タミヤだけはF1マシンの[[設計]][[図面]]([[CAD]]データ)を見せてもらえる」と評されるほどだったが、近年ではタミヤといえどチームからの設計図面の提供を受けられなくなり、報道写真等を元にしたモデル化を行わざるを得なくなっている。 長期間F1マシンの新製品が発売されなかったことについて、チーム側からのロイヤルティー条件が厳しくなったためビジネスとして成立させることができなくなったからとしている{{Sfn|Racing on|2008|p=15}}。実際[[2003年]]5月に[[ウィリアムズ・FW24]]の1/20モデルを発売して以降は過去に発売したキットの再発売が長らく続き、F1マシンの新製品は[[2009年]]12月発売の[[フェラーリ・F60]]まで約6年半もの間が空いている。 同様の問題は一部の航空機や軍用車両の模型でも発生しており、1/48の[[B-17_(航空機)|B-17]]は決定版と呼べるほどのキットを出せるだけの資料が集まっているが、[[ボーイング]]からのロイヤルティーの要求が厳しいため商品化できない、と、同社社長がイベントで吐露したり、1/48の[[ジープ]]を小型[[四輪駆動]]車の名称でフィギュアセットの[[おまけ]]として出荷するなど、金銭が絡む問題での商品化の見送りや、単品販売を断念せざるを得ない例が増えている。 == 製品 == === プラスチックモデル === ==== ミリタリーミニチュアシリーズ ==== {{main|ミリタリーミニチュアシリーズ}} [[ミリタリーミニチュアシリーズ]](MM)で採用されている1/35というスケールは、もともと「パンサータンク」を開発した際、モーターライズ用の電池ボックスや[[ギヤボックス]]を組み込むために偶然発生したもので、後にこれに合わせて1/35戦車シリーズが展開され、MMシリーズに引き継がれ一般化したものである。 タミヤが1/35戦車シリーズを展開し始めた当初は、このクラスの戦車模型には標準的なスケールは存在せず、日本国外のメーカーがそれぞれ1/32 - 1/40スケールでシリーズを展開していた。その後、タミヤが製品群を増やし、組み立てやすさと完成後の姿の良さ、そして部品精度の良さといった理由で好評を得るに従い、このスケールが世界でも受け入れられていった。 ディスプレイ専用のMMシリーズは、当初は1/35戦車シリーズに添えるアクセサリーとして兵士や砲、小型車両のキットを出すだけのものだったが、モーターライズせずにディスプレイ専用に組み立てる方が戦車模型趣味の主流となるにつれ、通常の戦車もこちらのシリーズで発売されることになった。しかしその後もしばらくは、MMシリーズで出る戦車と1/35戦車シリーズで出る戦車は基本的に同一キットで、単にギアボックス等のパーツが同梱されているか否かの差であることが多かった。ただし、モーターライズを前提に設計されていながら、MMシリーズで発売されたのみで戦車シリーズでは出されなかったキットもある。 戦車キットに限らず、製品によっては完成後の見栄えを良くするための[[デフォルメ]]も加えられている。[[2004年]]からは新たに[[1/48スケール]]のシリーズを開始、大戦物アイテムをリリースしている。 2000年代に入ってタイガーI初期型から始まる1/16フルオペレーションRC戦車シリーズをラインナップ。1/16ビッグタンクシリーズと金型を共有してはいるがキットサイズが大きい事もあって、プロポーションを崩すことなくRCメカを組み込むことに成功している。また同シリーズは見た目と同時に音、動き、発光にもリアルさを求めており、エンジン音等現存する実車からサンプリングされている。大戦中のドイツ戦車はすべてフランスのソミュール戦車博物館に現存するキングタイガーからサンプリングされたエンジン音を共用している。 ==== ウォーターラインシリーズ ==== {{main|ウォーターラインシリーズ}} [[ウォーターラインシリーズ]]は1/700という小さな製品であるが、同社の技術力が遺憾なく発揮されていた。ウオーターラインシリーズの殆どのボックスアートを艦船に造詣の深い[[上田毅八郎]]が手がけている。 ==== 代表的なプラスチックモデル ==== * [[スポーツカーシリーズ]] * [[グランプリコレクション]] * [[オートバイシリーズ]] * [[ミニジェットシリーズ]](2004年からコンバットプレーンシリーズとして一部を再発売) * [[ウォーバードコレクション]] * [[傑作機シリーズ]] ==== かつて存在したプラスチックモデル ==== * [[歴史・人物シリーズ]](赤穂浪士の中から、大石内蔵助をはじめとした4体セットと、大石主税をはじめとした8体セットが発売されていた) ==== 年度別歴代・代表作モデル年表 ==== <!--追加執筆者求めます。田宮模型歴代商品として相応しい名作のみ「吟味」して記載お願いします。単なるリストにならないためにも、要約してのコメントの記載もお願いします。--> * 1960年 - 1/800 戦艦大和 - タミヤ[[プラモデル]]進出第一弾{{R|history}}。半年後同金型の戦艦武蔵発売。 * 1961年 - 1/35 パンサータンク - 戦車模型第一弾。人気イラストレーター小松崎茂による箱絵の迫力もあり大ヒット。 * 1963年 - 1/50 [[零式艦上戦闘機]]52型 - 傑作機シリーズ第一弾。 * 1967年 - 1/12 ホンダF-1 - 実車取材を元に精密な再現で「技術のタミヤ」を印象付ける成功作{{Sfn|Racing on|2008|loc=スピリットは、1/12に凝縮された}}。 * 1968年 - 1/35 ドイツ戦車兵セット - MMシリーズ第一弾。 * 1972年 - 1/35 88ミリ砲Flak36/37 - ジオラマ情景模型向けにタミヤが発売し大きな反響があった意欲作。 * 1976年 - 1/12 ポルシェ934{{R|history}} - 実車ポルシェ911をタミヤ自身で購入し分解、参考にしてまで作り上げた。その後ボディ等一部金型を流用したRCカーが大ヒットした。 * 1986年 - ホットショットJr. - レーサー[[ミニ四駆]]の第一号。ミニ四駆ブームへ繋がるヒット作。 * 1989年 - 1/35 タイガーI後期生産型 - 完全新金型で発売。過去にMMシリーズを作った購買層を呼び戻す起爆剤に。 * 2006年 - [[ポルシェ・934|ポルシェ934]]ターボRSR 30周年記念モデル - タミヤRCカーシリーズ発売30周年を記念した特別仕様モデル。 <!--追加執筆者求めます。田宮模型歴代商品として相応しい名作のみ「吟味」して記載お願いします。単なる商品リストにならないためにも、要約してのコメントの記載もお願いします。--> === RCモデル(ラジオコントロールモデル) === [[Image:Tamiya grasshopper.jpg|thumb|right|280px|タミヤ製RCカーの一例]] [[Image:Tamiya circuit 01.JPG|thumb|right|220px|タミヤサーキットオンロードコース([[静岡市]][[駿河区]])]] [[Image:Tamiya circuit 02.JPG|thumb|right|220px|タミヤサーキットオフロードコース]] {{Main|タミヤのRC製品一覧}} タミヤは[[1974年]]に電動RCモデルの第一弾として[[M4中戦車|M4シャーマン戦車]]を発売し[[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]市場に参入。当初はドイツのマンモス戦車・[[マウス (戦車)|マウス]]をRC化する予定だったが、「マウスよりもシャーマンの方がRCに向いている」という同社の[[滝文人]]の進言によりシャーマンに変更されたという{{Sfn|田宮俊作|2000|p=225}}。 [[1976年]]、電動RCカーの第一弾として「[[ポルシェ・934|ポルシェ934]]ターボRSR」を発売したところ、これが初年度に約10万台を売り上げる大ヒットとなる。以後タミヤでは継続してRCカーをリリースし、登場してから40年以上を経た現在では日本国内・国外RC市場で販売され、現在のタミヤの成長を支える大きな収益源の一つにまで成長した。国内外で高いシェアを持つ為、RCカー競技のレギュレーションはタミヤの製品が基準となることが多々あり、RS540サイズモーター、1/12オンロードカー、1/10ツーリングカー等がそれに該当する。日本国内のストックモーターのレギュレーションにおける巻き数23T・メタル軸受けという基準も、タミヤスポーツチューンモーターのスペックを基準にしている。 これまで発売されてきたRCカーで培った技術、経験を生かした「RCカー30周年」を記念したモデルを[[2006年]]12月に限定発売した。タミヤラジコン開発史の1ページを飾った「ポルシェターボRSR934レーシング」を現在のタミヤ技術を集めたフラッグシップモデルとして新規に開発。 かつてRCヨットやRCモーターグライダーをリリースしていた時期があったが、基本的には地上RCのみラインナップを揃えており、航空機や船舶のRCモデルは現時点では存在しない。一方、1/16フルオペレーションRC戦車、1/35RC戦車のラインナップが充実している。 タミヤ製RCカーは電動式が圧倒的に多く、エンジンカーは1/10ナイトロフォースやXB-Gシリーズがあり、かつては1/8スケールもあった。1990年代にはイタリアBMT社のGPレーシングカーの輸入代理店業務を行っていたが、BMT社の業績悪化などから現在では輸入されていない。 なお、RCカーの世界では[[京商]]とは常にライバル関係にあり、京商[[ミニッツレーサー|ミニッツ]]シリーズに対しては[[タムテックギア]]で対抗している。こちらは田宮模型時代の過去モデルを小型化したボディが採用されることが多く、過去これらで遊んでいたファンが所有することが多い。近年では1980年代に一世を風靡した[[ホーネット (タミヤ)]]や[[グラスホッパー (タミヤ)]]、[[マイティフロッグ]]、[[ホットショット]]が再発売された。 === ミニ四駆 === {{Main|ミニ四駆}} ==== 主な歴代ミニ四駆 ==== * フォード・レインジャー4×4(1982年7月13日:[[ミニ四駆]])初代ミニ四駆、シボレー・ピックアップ4×4と同時発売。 * [[ホンダ・シティ|ホンダシティターボ]](1984年2月25日:コミカルミニ四駆)最初のコミカルミニ四駆。 * ホットショットJr.(1986年6月16日:レーサーミニ四駆)初代レーサーミニ四駆。 * アバンテJr.(1988年12月15日:レーサーミニ四駆)本格的レース用ミニ四駆として初登場、名車と言われている。 * マグナムセイバー(1994年9月7日:フルカウルミニ四駆)初代フルカウルミニ四駆、ソニックセイバーと同時発売。 * ナイトロサンダー(2005年11月18日:ミニ四駆PRO)初代ミニ四駆PRO、ナイトロフォースと同時発売。組み立てキットの他、はじめて完成品も販売された。 * バイソンマグナム(2007年11月23日:ミニ四駆PRO)[[こしたてつひろ]]がデザインを手掛けたミニ四駆25周年記念モデル、ロデオソニックと同時発売。 * エアロアバンテ(2012年7月14日:ミニ四駆REV)ミニ四駆30周年記念モデル、アバンテをベースに空力を意識したデザインとなっている。 ; ケイブとの業務提携 : [[2005年]]3月、ゲーム製作会社の[[ケイブ]]と業務提携し、同年6月より[[携帯電話]]向けコンテンツを展開。同年11月の[[ミニ四駆]]PRO発売に合わせ、10月よりミニ四駆情報サイト「ミニ四駆オンライン」を開設するとともに[[オンラインゲーム]]「[[ミニ四駆オンラインレーサー]]」を発表。当初は[[2006年]]春のサービス開始予定だったが、開発の大幅な遅延のため[[2007年]][[4月20日]]より体験版の配信を開始、同年[[10月31日]]よりベータテストを開始。[[2010年]][[3月24日]]に正式サービスを開始した。2006年[[1月31日]]にはミニ四駆に関するビジネスを展開する子会社「[[ミニ四駆ネットワークス]]株式会社」をケイブと共同出資で設立、同年7月にはミニ四駆に特化した[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]「ミニヨンクラブ」のサービスを開始。 === ダイキャスト製ミニカー === 1996年 - 1997年の2年間に、1/43スケールのダイキャスト製ミニカーを展開していた。これは主に日産が1990年代に行ったル・マン24時間レースの参戦に沿った企画である。タミヤは日産チームへのスポンサードを行っていた。一部の商品はバリエーション違いとしてJGTCの各チームの仕様も登場した。この時のミニカーの台座と[[エムエムピー|MMP]]社の初期のミニカーの台座が一緒である。 * スカイラインGT-R(R33) ** Clarion nismo GT-R LM No.23(1996年ル・マン参戦車) ** Calsonic skyline GT-R No.1(1996年JGTC仕様) ** UNISIA JECS Skyline GT-R NO.3(1996年JGTC仕様) ** KURE SKYLINE GT-R No.556(1996年JGTC仕様) * R390GT-1 ** ロードカー(市販予定車)仕様 ** No.21 M.ブランドル/W.テイラー/J.ミューラー組 ** No.22 鈴木亜久里/R.パトレーゼ/E.ヴェンテポール組 ** No.23 星野一義/影山正彦/E.コマス組 2004年には『コレクターズクラブ』というシリーズで1/64サイズのミニカーがリリースされた。 以下の商品がリリースされた。 * CALSONIC SKYLINE GT-R(2003) * TAKATA DOME NSX-GT(2003) * au CERUMO SUPRA-GT(2003) * DAISHIN SILVIA S15(2003) * RECLESS MR-S(2003) * XANAVI NISMO GT-R(2003) * ESSO ULTRON SUPRA-GT(2003) * RAYBRIG NSX-GT(2003) * SIGMATEC CELICA(2003) * WEDS SPORTS CELICA(2003) * ASUPARA DRINK RE-AMAMIYA RX-7(2003) * Mobil1 NSX(2003) また同シリーズ第3弾として国産市販車のミニカーが発売された。 * [[日産・フェアレディZ_Z33|日産・フェアレディZ(Z33)]] * [[マツダ・ロードスター#初代_NA系(1989年-1998年)|マツダ・ユーノスロードスター]](初代) * [[日産・スカイラインGT-R#5代目_BNR34型(1999年_-_2002年)|日産・スカイラインGT-R(R34)]] * [[ホンダ・S2000]] * [[トヨタ・スープラ#4代目_A80型(1993年-2002年)|トヨタ・スープラ(4代目・日本国内2代目)]] * [[日産・スカイラインGT-R#3代目_BNR32型(1989年_-_1994年)|日産スカイラインGT-R(R32)]] ダイキャスト製のコレクターズクラブスペシャルも展開している。 * フェラーリF50 * ホンダRA272 * フェラーリ・エンツォ * ポルシェ・カレラGT * ホンダCB750 レーシング * フェラーリ288 GTO === 工作キット === {{main|楽しい工作シリーズ}} [[楽しい工作シリーズ]]のような、工作少年が様々な動く[[玩具]]・[[模型]]を作るための部品や、あるいは簡単な[[ロボット]]を作るためのキットを発売している。この中には往年の[[マブチモーター]]人気商品の[[水中モーター]]の継続商品も含まれている。 === デコレーションシリーズ === [[2011年]]3月から「デコレーションシリーズ」を発売。粘土細工のように[[スイーツ]]模型を作るもので、女性をメインターゲットにしている{{Sfn|小柳津心介|2013}}。 === 模型用塗料 === タミヤはアメリカのパクトラ社と提携し、同社の模型用エナメル塗料をパクトラタミヤというブランドで1971年から国内販売していたが、1984年に提携を解消した後は国産のエナメル塗料を[[タミヤカラー]]として引き続き販売している。また、1981年には水溶性のアクリル塗料を発売している。これらはパクトラタミヤの色番号を継承しており、航空機、艦船、軍用車両等の専用色が充実している。さらに、ラッカー系のスプレー塗料や、[[ラジコン模型自動車|ラジコンカー]]のボディ等の[[ポリカーボネート]]用の塗料も発売されており、ビン入りのラッカー系を除き、模型用塗料のほぼ全てのタイプが揃えられている。 === 刊行物 === 自社製品に関する[[情報誌]]として「'''タミヤニュース'''」を月1回発行している。[[1967年]]創刊{{R|history}}で当初は隔月刊で{{Sfn|Racing on|2008|loc=タミヤニュースを飾った17人}}、臨時増刊号も発行された。長らく一部50円で、のちに100円に値上げされた。独特の細長い判型は、定形郵便物として発送するために封筒に合わせたものである。新製品、模型店、模型クラブの紹介記事のほか、模型改造の記事、有名・無名の模型愛好家の記事などがある。姉妹誌として、[[ミニ四駆]]や[[ダンガンレーサー]]の記事を中心に扱う[[フリーペーパー]]の「'''タミヤ・ジュニアニュース'''」がある。かつては模型店で20円で販売されていたが、現在はタミヤのサイトからPDF形式ファイルでダウンロード可能である。 その他、模型に関連する刊行物として、自社で行った人形改造コンテスト、情景写真コンテストなどの結果発表用の冊子を発行している。 == タミヤプラモデルファクトリー == [[ファイル:TAMIYA Plamodel Factory.jpg|thumb|タミヤプラモデルファクトリー新橋店]] タミヤでは模型文化の発信と新たな客層の開拓のため、自社ブランド製品の専売店舗「タミヤプラモデルファクトリー」の店舗プロデュースを手掛けている。2008年に[[神奈川県]][[横浜市]]の[[トレッサ横浜]]店と[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の新橋店<ref name=gazoo>{{Cite web|和書|url= http://gazoo.com/kids_family/pickup/Pages/daily_130913.aspx |author=田島里奈、ノオト|title=ミニ四駆ブームは本当なのか? タミヤプラモデルファクトリーに行ってみた|date=2013-09-13|work=編集部特選記事|publisher=GAZOO.com|accessdate=2015-03-05 |deadlinkdate=2017-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160404235947/http://gazoo.com:80/kids_family/pickup/Pages/daily_130913.aspx |archivedate=2016-04-04}}</ref>の2店舗を開業。トレッサ横浜店では企画協力に[[セガ]]、店舗の開発・運営に[[今関商会]]が携わり、新橋店では店舗の開発・運営に子会社の「[[タミヤプラモデルファクトリー]]株式会社」が携わる。 == 国外子会社 == * Tamiya America, Inc. * Tamiya Philippines, Inc. * Tamiya Hong Kong, LTD * Tamiya Europe, GmbH 現在、タミヤ製品の半数以上は[[フィリピン]]の工場で製造されている。近年の[[食玩]]ブームに見られる「彩色完成品モデル」需要の拡大に着目し、約1,200人の工場の人員を駆使して1/48ミニタリーAFVモデルにウェザリング塗装まで施したモデルや、ダイキャスト製のミニチュアカーなどの完成品モデルを製造、全世界のホビー市場に出荷している。 == 関連項目 == * [[タミヤRCカーグランプリ]] - 同社が主催しているRCカーによるレース大会。及び、[[テレビ東京]]製作、[[TXN|テレビ東京系列]]を中心に全国ネットで放送された冠番組。詳細は当該項を参照のこと。 * [[エッチ・ケー・エス]] - 同社の[[チューニングカー]]用[[エアクリーナー]]「スーパーパワーフロー・リローデッド」の部品がタミヤの金型によって制作されている。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jdm-option.com/archives/opchan/05_12/hks_rsr.html |title=&#x5B;OPTIONムービーチャンネル {{!}} HKS RACING SUCTION Reloaded &#x5D; J.D.M. OPTION INTERNATIONAL |accessdate=2010-01-25}}</ref> * [[静岡ホビースクエア]] - 運営に関与し、常設展示を行っている。 * [[太陽は友だち がんばれ!ソラえもん号]] * [[ゴールデンボンバー (バンド)]] - メンバーの鬼龍院翔がタミヤのTシャツを愛用しており、その売り上げが伸びた。その為タミヤ本社からお礼と共に彼が希望した『[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]』の限定[[ミニ四駆]]がプレゼントされるというやり取りがあった。 * [[ガレージ愛知]] - [[モンスタービートル]]ブラックエディションを、公道走行可能な乗用車として実車化し、タミヤのバックアップの元、[[静岡ホビーショー]]のメインエントランスに展示した。 ===タミヤブランド製品の製造元=== {{独自研究|section=1|date=2023年11月}} ※過去のものも含む。カッコ内は一般向けブランド名 * 工具 ** [[アネックスツール]](Anex) - タミヤブランド工具(主にドライバー類)の製造元としてパッケージに明記されたことがある。 ** [[オルファ]] - タミヤブランド工具の製造元(主にナイフ・鋸類)としてパッケージまたは製品に明記されたことがある。 ** [[京都機械工具]](KTC) - タミヤとKTCのダブルネーム商品(RC用ツールキット)が発売された。 ** [[マルト長谷川工作所]](KEIBA) - ニッパー<ref>{{Cite book|和書|title=タミヤ公式ガイドブック ミニ四駆超速カスタム入門TMFL Ver. |series=Gakken Mook |publisher=学研プラス |year=2016 |isbn=978-4056111774 |pages=71,76}}</ref> ** [[タニタ]] - ミニ四駆スケール ** [[マキタ]] - 電動ドライバー一式。 * パワーソース ** [[マブチモーター]] - ミニ四駆用モーターなど。パッケージにマブチのエンブレムが記されている。 ** [[FDK]]([[富士通]]及び[[eneloop]]) - ミニ四駆用[[ニッケル水素蓄電池]]「ネオチャンプ」、アルカリ乾電池「パワーチャンプFD」。<br>この関係からか公認レース(主にジャパンカップ)では度々スポンサーになっており、他社製品として唯一富士通乾電池の使用が解禁される大会も間々ある。<br>その一例として「ミニ四駆超速ガイド2015」の雑誌広告には「ミニ四駆との並走も、既に26年目となります。」「今年も「ミニ四駆ジャパンカップ2015」の大会公式乾電池に採用されました」とのフレーズがある(※公式ルール上、2015年7月現在原則としてタミヤブランドの電池しか使用できない)。 ** [[ゴールドピーク]] - RCカー用バッテリーの内部セル。 ** [[三洋電機]] - RCカー用バッテリーの内部セル。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 ==<!-- 執筆の参考にした文献のみ。著者、編集者の50音順で掲載。 --> * {{Cite journal|和書|naid=110006546472|doi=10.1299/jsmemag.110.1069_924|title=子供時代の経験|author=植田紘揮|journal=日本機械学会誌|volume=110|number=1069|year=2007|month=12|pages=924-925|ref=harv}} * {{Cite news|url= https://news.mynavi.jp/articles/2005/08/08/tamiya/ |title=MYCOMジャーナルレポート、特別展「田宮模型の仕事」・歴代タミヤ製品の数々が紹介|author=大塚実|date=2005-08-08|newspaper=マイナビニュース|publisher=[[毎日コミュニケーションズ]]|accessdate=2015-03-05|ref=harv}} * {{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/economy/special/list/2013/CK2013022202000220.html|title=(静岡経済 特集)模型王国の挑戦(2) タミヤ|author=小柳津心介|date=2013-02-22|newspaper=CHUNICHI Web|publisher=[[中日新聞]]|accessdate=2015-03-05|ref=harv|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402124715/http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/economy/special/list/2013/CK2013022202000220.html|archivedate=2015年4月2日}} * {{Cite book|和書|author=田宮俊作|title=田宮模型の仕事-木製モデルからミニ四駆まで|publisher=ネスコ|year=1997|month=6|isbn=978-4890369508|ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=田宮俊作|title=田宮模型の仕事|series=[[文春文庫]]|publisher=[[文藝春秋]]|year=2000|month=5|isbn=978-4167257033|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=田宮俊作|title=田宮模型をつくった人々|publisher=文藝春秋|year=2004|month=9|isbn=978-4163662503|ref=harv}} ** {{Cite book|和書|author=田宮俊作|title=伝説のプラモ屋-田宮模型をつくった人々|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|year=2007|month=5|isbn=978-4167257040|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=田宮模型|title=田宮模型全仕事ビジュアル版1 Military Models Army|publisher=文春ネスコ|year=2000|month=5|isbn=978-4890361014|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=田宮模型|title=田宮模型全仕事ビジュアル版2 Car,Motorcycle Models|publisher=文春ネスコ|year=2000|month=7|isbn=978-4890361083|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=田宮模型|title=田宮模型全仕事ビジュアル版3 Ship,Aircraft Models|publisher=文春ネスコ文|year=2000|month=9|isbn=978-4890361137|ref=harv}} * {{Cite book|和書|editor=田宮模型 監修|title=タミヤRC四半世紀の記録-タミヤRCカー25年の歩み|series=立風ベストムック|publisher=[[学研ホールディングス|立風書房]]|year=2001|month=6|isbn=978-4651009087|ref=harv}} * {{Cite book|和書|title=田宮義雄自叙伝-80余年のあゆみ|author=田宮義雄|authorlink=田宮義雄|publisher=田宮商事|year=1987|month=3}} 非売品。 * {{Cite web|和書|url= http://ammo.jp/cursor/0201/index.html |title=シリーズ 写す人 第一回「創造の記憶」株式会社タミヤ社主・田宮俊作氏 |author=中山慶太|date=2002-01|publisher=[[マカロニアンモナイト]]|accessdate=2015-03-05|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|doi=10.1299/jsmemag.104.991_392 |author=メカライフ学生委員|title=(訪問記)夢を育てる模型~タミヤ模型をたずねて~|journal=日本機械学会誌|volume=104|number=991|year=2001|month=6|pages=392-394|ref=harv}} * {{Cite magazine|和書|magazine=[[Racing On|Racing on]] |volume=23 |issue=4 |year=2008 |month=3 |title=タミヤの功績 レーシングマインドを持った世界の匠 |publisher=[[三栄書房]] |pages=10-56 |ref={{Sfnref|Racing on|2008}}}} <!-- * {{Cite book|和書|editor=ル・ボラン別冊編集部|editor-link=ル・ボラン|title=タミヤRC 40年間の全記録|series=Gakken Mook|publisher=[[学研ホールディングス]]|year=2014|month=9|isbn=978-4056106121|ref=harv}} --> == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}}{{ja icon}}{{en icon}} * {{Twitter|tamiyainc|タミヤ}} * {{Facebook|tamiyainc|TAMIYA(タミヤ)}} * {{Instagram|tamiya_inc_jp|タミヤ TAMIYA OFFICIAL}} * {{YouTube|user=TAMIYAINC|TAMIYAINC}} {{模型}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たみや}} [[Category:タミヤ|*]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:日本の模型メーカー]] [[Category:日本の株式会社]] [[Category:駿河区の企業]] [[Category:ロボット関連企業]]
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55(五十五、ごじゅうご、いそいつ、いそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、54の次で56の前の数である。
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55(五十五、ごじゅうご、いそいつ、いそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、54の次で56の前の数である。
{{整数|Decomposition=5 × 11}} '''55'''('''五十五'''、ごじゅうご、いそいつ、いそじあまりいつつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[54]]の次で[[56]]の前の数である。 == 性質 == *55は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[5]], [[11]], 55 である。 **[[約数の和]]は[[72]]。 *19番目の[[半素数]]である。1つ前は[[51]]、次は[[57]]。 *10番目の[[フィボナッチ数]]である。1つ前は[[34]]、次は[[89]]。 **フィボナッチ数かつ三角数である最大の数である。1つ前は[[21]]。({{OEIS|A039595}}) **3番目の半素数のフィボナッチ数である。1つ前は[[34]]、次は[[377]]。({{OEIS|A053409}}) *55 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 + 9 + 10 **10番目の[[三角数]]である。1つ前は[[45]]、次は[[66]]。 *** 三角数において三角数番目で表せる4番目の数である。1つ前は[[21]]、次は[[120]]。({{OEIS|A002817}}) ****この数は ''n'' = 4 のときの {{sfrac|''n''(''n'' + 1)(''n''{{sup|2}} + ''n'' + 2)|8}} の値である。 ***出目が1から10である10面サイコロの目の総和と等しい。 ***三角数が[[四角錐数]]となる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[91]]。 *** 三角数において[[各位の和]]も三角数になる8番目の数である。1つ前は[[28]]、次は[[78]]。({{OEIS|A062099}}) *** ''n'' = 5 のときの ''n'' と ''prime(n)'' との積とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[78]]。 *** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和で表せる4番目の[[三角数]]である。1つ前は[[36]]、次は[[66]]。({{OEIS|A119977}}) ***55 = 10 + 45 ****2つの異なる三角数の和で表せる3番目の三角数である。1つ前は[[36]]、次は[[66]]。({{OEIS|A112352}}) *** 55 = 6 + 21 + 28 ****3つの異なる[[三角数]]の和で表せる4番目の三角数である。1つ前は[[45]]、次は[[66]]。({{OEIS|A112353}}) *5番目の七角数である。5(5 × 5 &minus; 3) / 2 = 55。1つ前は[[34]]、次は[[81]]。 *55 = 1{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} **5番目の[[四角錐数]]である。1つ前は[[30]]、次は[[91]]。 **5連続整数の平方和とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[90]]。ただし自然数の範囲では最小の数である。 *4番目の[[カプレカ数]]である。55{{sup|2}} = 3025 , [[30]] + [[25]] = 55。1つ前は[[45]]、次は[[99]]。 *15番目の[[回文数]]である。1つ前は[[44]]、次は[[66]]。 **1桁の数を除くと5番目の回文数である。 **5が2つ並ぶ[[ゾロ目]]である。ゾロ目でかつ三角数でもある数は他に[[66]]と[[666]]しかないと予想されている。({{OEIS|A045914}}) **[[十進法]]における回文数において[[六進法]]でも回文数となる7番目の数である。ただしどちらにおいても1桁の数を除くと2番目である。1つ前は[[7]]、次は[[111]]。({{OEIS|A029963}}) *** 55{{sub|(10)}} = 131{{sub|(6)}} *{{sfrac|1|55}} = 0.0{{underline|18}}… (下線部は[[循環節]]で長さは2) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が2になる5番目の数である。1つ前は[[44]]、次は[[66]]。({{OEIS|A070022}}) *√{{overline|3000}} に最も近い整数である。√{{overline|3000}} = 54.77225…。54{{sup|2}} = 2916, 55{{sup|2}} = 3025 *[[各位の和]]が10になる5番目の数である。1つ前は[[46]]、次は[[64]]。 *各位の[[立方和]]が250になる最小の数である。次は[[505]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の249は122226、次の251は[[155]]。({{OEIS|A165370}}) * 55 = 1{{sup|3}} + 3{{sup|3}} + 3{{sup|3}} ** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる8番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[62]]。({{OEIS|A025395}}) * 55 = 7{{sup|2}} + 7 &minus; 1 = 8{{sup|2}} &minus; 8 &minus; 1 ** ''n'' = 7 のときの ''n''{{sup|2}} + ''n'' &minus; 1 の値とみたとき1つ前は[[41]]、次は[[71]]。({{OEIS|A028387}}) == その他 55 に関連すること == * [[原子番号]] 55 の元素は[[セシウム]] (Cs) である。 * [[ブラジル]]への[[国際電話番号]]。 * 米プロバスケット[[NBA]]ではリーグの特別の許可が不要である最大の背番号。 * 第55代[[天皇]]は[[文徳天皇]]である。 * 日本の第55代[[内閣総理大臣]]は[[石橋湛山]]である。 * [[大相撲]]の第55代[[横綱]]は[[北の湖敏満]]である。 * 第55代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ボニファティウス2世 (ローマ教皇)|ボニファティウス2世]](在位:[[530年]][[9月22日]]~[[532年]][[10月17日]])である。 * [[易占]]の[[六十四卦]]で第55番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#豊|雷火豊]]。 * [[クルアーン]]における第55番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[慈悲あまねく御方 (クルアーン)|慈悲あまねく御方]]である。 * [[5月5日]]は[[こどもの日]]、[[端午の節句]]。 * [[コント55号]]は[[萩本欽一]]と[[坂上二郎]]による[[コント]]コンビ。 * [[55年体制]] * [[年始]]から数えて55日目は[[2月24日]]。 * [[歌川広重]]による浮世絵木版画の連作『[[東海道五十三次 (浮世絵)]]』は55枚の版画絵からできている。 * [[囲碁]]における初手はその対称性から55通りである。 * [[デジタル]]表示された55の上下を逆にしても55となる。このような2桁の数は [[11]], [[22]], 55, [[69]], [[88]], [[96]] の6つある。({{OEIS|A018846}}) * 55 - [[Official髭男dism]]の楽曲。3rd[[コンパクト盤|ミニアルバム]]『[[レポート (アルバム)|レポート]]』に収録。 * [[1991年のル・マン24時間レース]]で日本車として初優勝を飾った[[マツダ・787|マツダ・787B]]のカーナンバー。 * [[王貞治]]が[[1964年]]に記録した「1シーズンの[[本塁打]]数」の記録は55本である。この記録は[[2013年]]に[[ウラディミール・バレンティン]]に更新されるまで日本のプロ野球における最多記録であった。 == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和55年]]}} *[[5月5日]] {{自然数}}
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15,323
56
56(五十六、ごじゅうろく、いそむ、いそじあまりむつ)は自然数、また整数において、55の次で57の前の数である。
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56(五十六、ごじゅうろく、いそむ、いそじあまりむつ)は自然数、また整数において、55の次で57の前の数である。
{{整数|Decomposition=2{{sup|3}} × 7}} '''56'''('''五十六'''、ごじゅうろく、いそむ、いそじあまりむつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[55]]の次で[[57]]の前の数である。 == 性質 == *56は[[合成数]]であり、正の約数は [[1]], [[2]], [[4]], [[7]], [[8]], [[14]], [[28]], 56 である。 **[[約数の和]]は[[120]]である。 ***11番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[54]]、次は[[60]]。 ****[[ハーシャッド数]]にならない過剰数のうち最小の数である。次は[[66]]。 ***[[約数]]の和が[[倍積完全数]][[120]]になる2番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[87]]。 ***[[約数]]の和が[[倍積完全数]]になる5番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[87]]。 **約数の和の[[平均]]が整数になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[60]]。({{OEIS|A047727}})<br>(1 + 2 + 4 + 7 + 8 + 14 + 28 + 56) ÷ 8 = 120 ÷ 8 = 15 ** [[素数]]を除いて σ(''n'') &minus; ''n'' が[[平方数]]になる7番目の数である。1つ前は[[26]]、次は[[75]]。ただしσは[[約数関数]]。({{OEIS|A048699}}) * 56 = 1 + 3 + 6 + 10 + 15 + 21 **6番目の[[三角錐数]]である。1つ前は[[35]]、次は[[84]]。 ** 56 = 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ***3連続偶数の[[平方和]]で表せる数である。[[自然数]]の範囲では最小、1つ前は[[20]]、次は[[116]]。 *** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる28番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[61]]。({{OEIS|A025321}}) *** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる16番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[59]]。({{OEIS|A025339}}) *** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[288]]。({{OEIS|A074533}}) ***56 = 0{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ****4連続偶数の平方和で表せる数である。[[整数]]の範囲では最小、[[負の数]]を含むと1つ前は[[24]]、次は[[120]]。 *56 = 7 × 8 **7番目の[[矩形数]]である。1つ前は[[42]]、次は[[72]]。 **56 = 7{{sup|1}} + 7{{sup|2}} = 8{{sup|2}} &minus; 8{{sup|1}} ***7の自然数乗の和とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[399]]。 **56 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 **56 = 7 × 2{{sup|3}} *** ''n'' = 3 のときの 7 × 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[112]]。({{OEIS|A005009}}) *8番目の[[フィボナッチ数#テトラナッチ数|テトラナッチ数]]である。1つ前は[[29]]、次は[[108]]。 *連続する6つの[[素数]]の和で表せる2番目の数である。1つ前は[[41]]、次は[[72]]。<br>56 = 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 *56{{sup|2}} + 1 = 3137 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む14番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[66]]。 *{{sfrac|1|56}} = 0.017{{underline|857142}}… (下線部は[[循環節]]で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる11番目の数である。1つ前は[[52]]、次は[[63]]。 *[[九九]]では 7 の段で 7 × 8 = 56 (しちはちごじゅうろく)、8の段で 8 × 7 = 56 (はちしちごじゅうろく) と2通りの表し方がある。 *[[約数の和]]が56になる数は2個ある。([[28]], [[39]]) 約数の和2個で表せる6番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[80]]。 **56は[[完全数]][[28]]の約数の和である。(56 = [[1]] + [[2]] + [[4]] + [[7]] + [[14]] + [[28]]) *** 56 = 28 × 2 **** [[完全数]][[28]]の倍数である。1つ前は[[28]]、次は[[84]]。({{OEIS|A135628}}) ***完全数の約数の和になる2番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[992]]。({{OEIS|A139256}}) ***[[倍積完全数]]の約数の和としては3番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[360]]。 * [[1]]~[[8]]までの[[約数]]の和である。1つ前は[[41]]、次は[[69]]。 *[[各位の和]]が11になる4番目の数である。1つ前は[[47]]、次は[[65]]。 *各位の[[平方和]]が61になる最小の数である。次は[[65]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の60は1137、次の62は[[156]]。({{OEIS|A055016}}) *各位の[[立方和]]が341になる最小の数である。次は[[65]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の340は1233355、次の341は[[156]]。({{OEIS|A165370}}) * 連続[[自然数]]を昇順に並べてできる5番目の数である。1つ前は[[45]]、次は[[67]]。(参照{{OEIS|A035333}}) * 56 = 4{{sup|3}} &minus; 2{{sup|3}} **''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} &minus; 2{{sup|''n''}} = 2{{sup|2''n''}} &minus; 2{{sup|''n''}} = 2{{sup|''n''}}(2{{sup|''n''}} &minus; 1) の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[240]]。({{OEIS|A020522}}) ** 56 = 2{{sup|6}} &minus; 2{{sup|3}} *** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|6}} &minus; ''n''{{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[702]]。({{OEIS|A136006}}) *[[平面]]を10本の[[直線]]で分割するとき最大で56個の[[領域 (解析学)|領域]]に分割することができる。9本では[[46]]、11本では[[67]]。({{OEIS|A000124}}) **この[[:en:Lazy caterer's sequence|領域を表す数]]は[[三角数]]に1を加えた数で一般項は ''a''{{sub|''n''}} = {{sfrac|''n''{{sup|2}} + ''n'' + 2|2}} である。 * ''n'' = 56 のとき ''n'' と ''n'' + 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' + 1 を並べた数が素数になる8番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[62]]。({{OEIS|A030457}}) == その他 56 に関連すること == * [[56年|西暦56年]] * [[紀元前56年]] * [[原子番号]] 56 の元素は[[バリウム]] (Ba)。 * 第56代[[天皇]]は[[清和天皇]]である。 * [[日本]]の第56代[[内閣総理大臣]]は[[岸信介]]である。 * [[大相撲]]の第56代[[横綱]]は[[若乃花幹士 (2代)|若乃花幹士]](2代目)である。 * 第56代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヨハネス2世 (ローマ教皇)|ヨハネス2世]](在位:[[533年]][[1月2日]]~[[535年]][[5月8日]])である。 * [[易占]]の[[六十四卦]]で第56番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#旅|火山旅]]。 * [[クルアーン]]における第56番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[出来事 (クルアーン)|出来事]]である。 * [[2月25日]]は、年始から数えて56日目である。 === 五十六に関連すること === * [[山本五十六]]は日本の軍人。名は、生誕時の父親の[[数え年]]に因む。 * [[西五十六]]は日本の元野球選手。 * [[十三宗五十六派]] == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和56年]] - [[5月6日]]}} {{自然数}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/56
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館山自動車道
館山自動車道(たてやまじどうしゃどう、英語: TATEYAMA EXPWY)は、千葉県千葉市中央区の京葉道路から富津市の富津竹岡インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は館山道(たてやまどう)。館山自動車道と称すが、接続する富津館山道路も含めて館山市内までには入っていない。 高速道路ナンバリングによる路線番号は京葉道路、富津館山道路とともに「E14」が割り振られている。 北側は京葉道路、南側は富津館山道路と接続しており、東京都都心から千葉県の南房総市までを自動車専用道路で結ぶ。キロポスト表示は、京葉道路一之江橋起点から、IC番号も篠崎ICからの通しとなっており、富津館山道路まで続いている。実質的には京葉道路起点から富津館山道路富浦ICまで1つの高速道路としてみなすことができる。また木更津JCTにて東京湾アクアライン連絡道(アクア連絡道)へ分岐し、神奈川県へもアクセスが可能である。2007年(平成19年)3月21日には首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も接続した。 他の高速自動車国道との(予定路線区間等も含めて)直接接続が一切ない珍しい路線である。同様の高速自動車国道は、沖縄県にある沖縄自動車道のみであり、日本本土においては館山道以外にない。また、起点の京葉道路接続部(千葉南JCT)はランプウェイが整備されておらず、同様の例は千葉県内では他に木更津西JCT(アクア連絡道・圏央道接続点)がある程度で、全国的に珍しい。 国土開発幹線自動車道建設法における路線名は「東関東自動車道館山線」であり、高速自動車国道の路線を指定する政令で指定された正式な路線名は「東関東自動車道千葉富津線」となっている。 ここでは、京葉道路 - 木更津南JCT - 富津竹岡ICを本線、木更津南JCT - 木更津南ICを木更津南支線とする。 館山自動車道は総距離が短いこともあり、休憩所は市原サービスエリア (SA) と君津パーキングエリア (PA) の2か所のみである。市原SAはガソリンスタンド、上り線にロッテリアがあり、スナック・ショッピングコーナーも上下線ともに24時間営業となっているが、下り線のガソリンスタンドは深夜営業をしていない。君津PAはトイレと自動販売機のみのPAとなっている。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 総交通量(2008年(平成20年)度) 料金収入(2008年(平成20年)度) 全ての箇所でコールサインは「ハイウェイラジオ館山道○○」と放送される。(例:市原であれば「ハイウェイラジオ館山道市原よりお伝えしました。」) 接続している高速道路はいずれも一般国道の自動車専用道路であり、高速自動車国道とは接続していない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "館山自動車道(たてやまじどうしゃどう、英語: TATEYAMA EXPWY)は、千葉県千葉市中央区の京葉道路から富津市の富津竹岡インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は館山道(たてやまどう)。館山自動車道と称すが、接続する富津館山道路も含めて館山市内までには入っていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は京葉道路、富津館山道路とともに「E14」が割り振られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北側は京葉道路、南側は富津館山道路と接続しており、東京都都心から千葉県の南房総市までを自動車専用道路で結ぶ。キロポスト表示は、京葉道路一之江橋起点から、IC番号も篠崎ICからの通しとなっており、富津館山道路まで続いている。実質的には京葉道路起点から富津館山道路富浦ICまで1つの高速道路としてみなすことができる。また木更津JCTにて東京湾アクアライン連絡道(アクア連絡道)へ分岐し、神奈川県へもアクセスが可能である。2007年(平成19年)3月21日には首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も接続した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "他の高速自動車国道との(予定路線区間等も含めて)直接接続が一切ない珍しい路線である。同様の高速自動車国道は、沖縄県にある沖縄自動車道のみであり、日本本土においては館山道以外にない。また、起点の京葉道路接続部(千葉南JCT)はランプウェイが整備されておらず、同様の例は千葉県内では他に木更津西JCT(アクア連絡道・圏央道接続点)がある程度で、全国的に珍しい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国土開発幹線自動車道建設法における路線名は「東関東自動車道館山線」であり、高速自動車国道の路線を指定する政令で指定された正式な路線名は「東関東自動車道千葉富津線」となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ここでは、京葉道路 - 木更津南JCT - 富津竹岡ICを本線、木更津南JCT - 木更津南ICを木更津南支線とする。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "館山自動車道は総距離が短いこともあり、休憩所は市原サービスエリア (SA) と君津パーキングエリア (PA) の2か所のみである。市原SAはガソリンスタンド、上り線にロッテリアがあり、スナック・ショッピングコーナーも上下線ともに24時間営業となっているが、下り線のガソリンスタンドは深夜営業をしていない。君津PAはトイレと自動販売機のみのPAとなっている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "(出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "総交通量(2008年(平成20年)度)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "料金収入(2008年(平成20年)度)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "全ての箇所でコールサインは「ハイウェイラジオ館山道○○」と放送される。(例:市原であれば「ハイウェイラジオ館山道市原よりお伝えしました。」)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "接続している高速道路はいずれも一般国道の自動車専用道路であり、高速自動車国道とは接続していない。", "title": "地理" } ]
館山自動車道は、千葉県千葉市中央区の京葉道路から富津市の富津竹岡インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は館山道(たてやまどう)。館山自動車道と称すが、接続する富津館山道路も含めて館山市内までには入っていない。 高速道路ナンバリングによる路線番号は京葉道路、富津館山道路とともに「E14」が割り振られている。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[画像:TATEYAMA EXP(E14).svg|130px|館山自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E14}} 館山自動車道 |総距離 = 55.7 [[キロメートル|km]] |開通年 = [[1995年]]([[平成]]7年) - [[2007年]](平成19年) |起点 = [[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]](浜野町) |主な経由都市 = [[市原市]]、[[袖ケ浦市]]<br />[[木更津市]]、[[君津市]] |終点 = 本線は[[富津市]]([[富津竹岡インターチェンジ|富津竹岡IC]])<br />木更津南支線は[[千葉県]][[木更津市]]([[木更津南インターチェンジ|木更津南IC]]) |接続する主な道路 = 記事参照 }} [[File:Aerial view of Kisarazu Minami Junction 01.jpg|thumb|right|250px|手前は[[木更津南ジャンクション|木更津南JCT]]、その奥は[[木更津ジャンクション|木更津JCT]]]] '''館山自動車道'''(たてやまじどうしゃどう、{{Lang-en|TATEYAMA EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[千葉県]][[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]の[[京葉道路]]から[[富津市]]の[[富津竹岡インターチェンジ]] (IC) へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[略語|略称]]は'''館山道'''(たてやまどう)。館山自動車道と称すが、接続する[[富津館山道路]]も含めて[[館山市]]内までには入っていない。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は京葉道路、富津館山道路とともに「'''E14'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2017-09-03|publisher=国土交通省}}</ref>。 == 概要 == 北側は[[京葉道路]]、南側は[[富津館山道路]]と接続しており、[[東京都]]都心から千葉県の[[南房総市]]までを[[自動車専用道路]]で結ぶ。[[キロポスト]]表示は、京葉道路[[一之江橋]]起点から、IC番号も[[篠崎インターチェンジ|篠崎IC]]からの通しとなっており、富津館山道路まで続いている。実質的には京葉道路起点から富津館山道路富浦ICまで1つの高速道路としてみなすことができる。また[[木更津ジャンクション|木更津JCT]]にて[[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]](アクア連絡道)へ分岐し、[[神奈川県]]へもアクセスが可能である。[[2007年]]([[平成]]19年)[[3月21日]]には[[首都圏中央連絡自動車道]](圏央道)も接続した。 他の高速自動車国道との(予定路線区間等も含めて)直接接続が一切ない珍しい路線である。同様の高速自動車国道は、[[沖縄県]]にある[[沖縄自動車道]]のみであり、日本本土においては館山道以外にない。また、起点の京葉道路接続部(千葉南JCT)は[[ランプウェイ]]が整備されておらず、同様の例は千葉県内では他に木更津西JCT(アクア連絡道・圏央道接続点)がある程度で、全国的に珍しい。 [[s:国土開発幹線自動車道|国土開発幹線自動車道建設法]]における路線名は「[[東関東自動車道]]館山線」であり、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で指定された正式な路線名は「東関東自動車道千葉富津線」となっている。 == 歴史 == * [[1995年]]([[平成]]7年)[[4月26日]] : 千葉南JCT - 姉崎袖ケ浦IC開通。 * 1995年(平成7年)[[7月18日]] : 姉崎袖ケ浦IC - 木更津南IC開通<ref name="chibanippo1995719">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = 館山線木更津まで開通 テープカット、渡り初め 千葉から所要時間約半分に | newspaper = [[千葉日報]] | location = | page = {{要ページ番号|date=2016年8月}} | language = | publisher = 千葉日報社 | date = 1995-07-19 | url = | accessdate = }}</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[3月28日]] : 木更津JCT開通により、東京湾アクアライン連絡道と接続<ref name="chibanippo1996329">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = 湾横連絡道が開通 知事らテープカット 木更津JCT - 袖ヶ浦IC間 | newspaper = [[千葉日報]] | location = | page = {{要ページ番号|date=2016年8月}} | language = | publisher = 千葉日報社 | date = 1996-03-29 | url = | accessdate = }}</ref>{{Refnest|group="注釈"|東京湾アクアラインは[[1997年]](平成9年)[[12月18日]]開通<ref name="chibanippo19971219">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = “夢”運ぶ海渡る道 東京湾アクアライン開通 幕開ける“房総新時代” | newspaper = [[千葉日報]] | location = | page = {{要ページ番号|date=2016年8月}} | language = | publisher = 千葉日報社 | date = 1997-12-19 | url = | accessdate = }}</ref>。}}。 * [[2003年]](平成15年)[[4月29日]] : 木更津南JCT - 君津IC開通<ref name="chibanippo2003430">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = 南房総への渋滞緩和 木更津南-君津インターチェンジの延長4キロ開通 館山自動車道」 | newspaper = [[千葉日報]] | location = | page = {{要ページ番号|date=2016年8月}} | language = | publisher = 千葉日報社 | date = 2003-04-30 | url = | accessdate = }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月19日]] : 富津中央IC - 富津竹岡IC開通<ref name="chibanippo2005320">{{Cite news | last = | first = | coauthors = | title = 富津中央 - 竹岡が開通 館山道、残るは1区間 | newspaper = [[千葉日報]] | location = | page = {{要ページ番号|date=2016年8月}} | language = | publisher = 千葉日報社 | date = 2005-03-20 | url = | accessdate = }}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月21日]] : 木更津JCTで首都圏中央連絡自動車道に接続。 * 2007年(平成19年)[[7月4日]] : 君津IC - 富津中央IC開通により、着工から24年目で'''全線開通'''。同時に木更津南JCT - 君津ICが4車線化。 * [[2009年]](平成21年)[[3月29日]] : 君津PAにてスマートインターチェンジの運用開始(千葉県では初のスマートインターチェンジ)。 * [[2015年]](平成27年)[[6月7日]] : 首都圏中央連絡自動車道の神崎IC - 大栄JCT間開通により、京葉道路・東関東自動車道経由で千葉県外の高速自動車国道とも接続。 * [[2019年]](平成31年)[[3月31日]] : 君津IC - 富津中央ICが4車線化<ref name="press20190327">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/h31/0327/pdfs/pdf.pdf|title=E14館山自動車道 君津IC〜富津中央IC間が3月31日(日)に4車線となります|date=2019-03-27|accessdate=2019-03-27|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月6日]] : 富津中央IC - 富津竹岡ICが4車線化<ref name="press20200207">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/kanto/r02/0207/pdfs/pdf.pdf|title=E14館山自動車道 富津中央IC~富津竹岡IC間が3月6日(金)に4車線となります|date=2020-02-07|accessdate=2020-02-07|publisher=東日本高速道路株式会社関東支社|format=PDF}}</ref>。これによりほぼ'''全線4車線化'''<ref name="press20200207" />。ただし、天羽トンネル下り線は1車線。 * [[2023年]](令和5年)[[12月7日]] : 富津中央ICがETC専用に変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2023/11/01/pdf.pdf|title=E14館山自動車道 富津中央IC(出入口)及びE14富津館山道路 富津金谷IC(出入口)が令和5年12月7日(木)0時にETC専用料金所に変わります|date=2023-11-01|accessdate=2023-12-07|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === インターチェンジなど === ここでは、京葉道路 - 木更津南JCT - 富津竹岡ICを'''本線'''、木更津南JCT - 木更津南ICを'''木更津南支線'''とする。 * IC番号欄の背景色が{{Color|#BFB|■}}である部分については道路が供用済みの区間を示す。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) および「ETC専用出入口」は背景色{{Color|#eda5ff|■}}で示す。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。<!--廃止されたバスストップ情報について記述をお願いします。--> * 略字は、ICは[[インターチェンジ]]、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、SAは[[サービスエリア]]、PAは[[パーキングエリア]]をそれぞれ示す。 * IC番号、[[距離標|キロポスト]]は[[京葉道路]][[篠崎インターチェンジ|篠崎IC]]からの通しとなっている。 === 本線 === * 全区間[[千葉県]]内に所在。 {|class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|起点<span style="font-size:small"><br />から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="7" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]] [[船橋インターチェンジ|船橋]] [[篠崎インターチェンジ|篠崎]] [[小松川出入口|小松川]] [[両国ジャンクション|東京]]方面 |- !style="background-color:#BFB"| - |(千葉南JCT)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/kyoutei/k1001_8.pdf|title=高速自動車国道北海道縦貫自動車道函館名寄線等に関する協定 別紙-8 料金の額及びその徴収期間|accessdate=2015-07-07|format=PDF|publisher=独立行政法人日本高速道路保有・債務返済機構}}</ref> | |style="text-align:right"|35.7 | |一般国道16号京葉道路と東関東自動車道千葉富津線の境界<br />一般道との接続なし |[[千葉市]]<br/>[[中央区 (千葉市)|中央区]] |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[市原インターチェンジ|市原IC]] |[[国道297号]]([[市原バイパス]]) |style="text-align:right;"|43.7 |style="text-align:center"| | |rowspan="3"|[[市原市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[市原サービスエリア|市原SA]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|48.1 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|14 |[[姉崎袖ケ浦インターチェンジ|姉崎袖ケ浦IC]] |[[千葉県道24号千葉鴨川線|県道24号千葉鴨川線]] |style="text-align:right;"|53.7 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|15 |[[木更津北インターチェンジ|木更津北IC]] |[[国道409号]]([[房総横断道路]]) |style="text-align:right;"|60.7 |style="text-align: center"| | |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[木更津市]] |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[木更津ジャンクション|木更津JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|CA}} [[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] |style="text-align:right;"|62.5 |style="text-align: center"| |[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]のJCT番号は、「'''110'''」 |- !style="background-color:#BFB"|17 |[[木更津南ジャンクション|木更津南JCT]] |[[木更津南インターチェンジ|木更津南]]・[[富津岬]]方面({{Ja Exp Route Sign|E14}}[[#木更津南支線|木更津南支線]]) |style="text-align:right;"|66.4 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[木更津羽鳥野バスストップ|木更津羽鳥野BS]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|18 |[[君津インターチェンジ (千葉県)|君津IC]] |[[千葉県道92号君津鴨川線|県道92号君津鴨川線]] |style="text-align:right;"|70.4 |style="text-align: center"| | |rowspan="2"|[[君津市]] |- !style="background-color:#bfb;white-space:nowrap;"|18-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[君津パーキングエリア|君津PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|74.7 |style="text-align:center"| |スマートICは6 - 22時 |- !style="background-color:#BFB"|19 |style="background-color:#eda5ff"|[[富津中央インターチェンジ|富津中央IC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道127号]] |style="text-align:right;"|79.6 |style="text-align:center"| | |rowspan="3"|[[富津市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |富津浅間山BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|○ |2019年10月1日供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.futtsu.lg.jp/cmsfiles/contents/0000005/5557/2-7.pdf|title=館山自動車道『富津浅間山バスストップ』が令和元年10月1日(火)から利用できます|date=2019-08-22|accessdate=2020-12-30|publisher=富津市 建設経済部 建設課|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|20 |[[富津竹岡インターチェンジ|富津竹岡IC]] |[[千葉県道91号竹岡インター線|県道91号竹岡インター線]] |style="text-align:right;"|87.1 |style="text-align:center"| | |- |colspan="7" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E14}} [[富津館山道路]] [[富浦インターチェンジ|館山]]方面 |} * 京葉道路は、市原ICから8.0 km先で接続している。 * IC番号・[[距離標|キロポスト]]は、京葉道路から連続している。 === 木更津南支線 === * 全区間[[千葉県]][[木更津市]]内に所在。 {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|起点<span style="font-size:small"><br />から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> |- !style="background-color:#BFB;"|17 |[[木更津南ジャンクション|木更津南JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E14}}[[#本線|本線]] |style="text-align:right"|0.0 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[木更津南インターチェンジ|木更津南料金所]] | |style="text-align:right"| |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|17-1 |[[木更津南インターチェンジ|木更津南IC]] |[[国道127号]] |style="text-align:right"|2.0 |- |[[木更津南インターチェンジ|終点]] |[[国道16号]]([[東京湾岸道路]]) |style="text-align:right"|4.3 |} * キロポストは、木更津南JCTを起点に「支0.3」のように設置されている。 === サービスエリア・パーキングエリア === 館山自動車道は総距離が短いこともあり、休憩所は[[市原サービスエリア]] (SA) と[[君津パーキングエリア]] (PA) の2か所のみである。市原SAは[[ガソリンスタンド]]、上り線に[[ロッテリア]]があり、スナック・ショッピングコーナーも上下線ともに24時間営業となっているが、下り線のガソリンスタンドは深夜営業をしていない。君津PAは[[便所|トイレ]]と[[自動販売機]]のみのPAとなっている。 === 主なトンネル・橋 === * [[天羽トンネル]] **上り線1,271 m **下り線1,255 m ==== トンネルの数 ==== {| class="wikitable" style="text-align: center" !区間!!上り線!!下り線 |- |京葉道路接続部 - 富津中央IC||0||0 |- |富津中央IC - 富津竹岡IC||1||1 |- |木更津南JCT - 木更津南IC||0||0 |- !合計!!1!!1 |} * 富津中央IC - 富津竹岡IC間に1本ある以外、トンネルは存在しない。なお、接続する富津館山道路はトンネルが多い。 === 車線・最高速度 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !colspan="3"|[[車線]]||[[最高速度]] |- |上下線||上り線||下り線||全線 |- !colspan="4"|本線 |- ||4 |2 |2 |100km/h |- |3 |2 |1 |80km/h |- | | | | |- !colspan="4"|木更津南支線 |- ||4||2||2||80&nbsp;km/h |} * 一部を除き全線4[[車線]]供用、木更津南支線を除くほぼ全線が最高速度100㎞/hで運用されている。 *ただし、終点の富津中央ICから南の富津館山道路が暫定2車線かつ富津中央ICがトンネルに囲まれている地形的制約上、天羽トンネルの下り線が1車線運用で、80㎞/hとなっている。 * 君津IC以南から終点までの16.7kmは[[暫定2車線]]だったが、[[2009年]](平成21年)[[4月27日]]の第4回[[国土開発幹線自動車道建設会議]]にて4車線に整備計画が変更されたものの<ref>「[http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=2804 館山道期成同盟会 道路整備の要望活動展開へ]」房日新聞 2009年6月4日</ref>、2009年(平成21年)[[10月]]、政権交代を果たした民主党の公共事業見直しにより[[国土交通省]]が4車線化事業の凍結を決定し、再び4車線化工事は白紙になった<ref>「[https://web.archive.org/web/20091007222846/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009100702000051.html 4車線化凍結『地元の声聞いて』 自治体、建設業者ら反発]」東京新聞 2009年10月7日</ref>。しかし、繁忙期には[[渋滞]]が頻発していたことから、[[2012年]](平成24年)[[4月]]に事業許可を受け、その後2012年(平成24年)10月に測量、土質調査及び工事に向けた設計を開始、[[2015年]](平成27年)[[1月20日]]に着工式が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2015/0109/00008079.html|title=館山自動車道(木更津南JCT〜富津竹岡IC間)4車線化工事着工式の開催について|date=2015-01-09|accessdate=2015-03-24|publisher=東関東自動車道館山線・一般国道127号富津館山道路建設促進期成同盟会 東日本高速道路株式会社関東支社}}</ref>。君津IC - 富津中央IC間は[[2019年]](平成31年)[[3月31日]]に<ref name="press20190327" />、富津中央IC - 富津竹岡IC間は2020年(令和2年)3月6日に4車線化された<ref name="press20200207" />。 === 交通量 === ==== 本線 ==== '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 蘇我IC - 市原IC || 36,974|| 38,437 || 43,092 || 42,324 || 43,752 |- | 市原IC - 姉崎袖ケ浦IC || 26,364 || 27,057 || 33,536 || 34,217 || 34,991 |- | 姉崎袖ケ浦IC - 木更津北IC || 19,985 || 21,335 || 28,511 || 29,873 || 30,149 |- | 木更津北IC - 木更津JCT || 17,315 || 19,524 || 25,602 || 27,004 || 27,330 |- | 木更津JCT - 木更津南JCT || 14,385 || 16,656 || 24,478 || 27,180 || 28,029 |- | 木更津南JCT - 君津IC || 調査当時未開通 || {{0}}5,903 || 14,235 || 15,767 || 17,457 |- | 君津IC - 君津PASIC || rowspan="2"colspan="2"|調査当時未開通 || {{0}}9,891 || 10,742 || 12,429 |- | 君津PASIC - 富津中央IC || {{0}}9,651 || 10,449 || 11,974 |- | 富津中央IC - 富津竹岡IC || 調査当時未開通 || {{0}}4,240 || {{0}}9,101 || {{0}}9,717 || 10,787 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref name="r2tyousa">{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-27|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ==== 木更津南支線 ==== '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!平成11(1999)年度!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 木更津南JCT - 木更津南IC|| 14,385 || 10,921 || 12,853 || 14,605 || 13,526 |- | 木更津南IC - 取付部 || 14,385 || {{0}}4,942 || {{0}}7,385 || {{0}}8,393 || 13,526 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、新型コロナウイルスの影響で延期された<ref name="r2tyousa" />。 総交通量([[2008年]](平成20年)度)<!--NEXCO東日本 会社案内09年度データ集--> * 1日平均 : 6万6827台 料金収入(2008年(平成20年)度) * 1日平均 : 3704万5000円 === 道路管理者 === * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]] [[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 市原管理事務所 : 蘇我IC - 木更津北IC ** 東京湾アクアライン管理事務所 : 木更津北IC - 富津竹岡IC・木更津南JCT - 木更津南IC ==== ハイウェイラジオ ==== * 市原(市原IC - 市原SA) * 姉崎袖ケ浦(姉崎袖ケ浦IC - 木更津北IC) * 木更津(木更津JCT - 木更津南JCT) 全ての箇所で[[識別信号|コールサイン]]は「ハイウェイラジオ館山道○○」と[[放送]]される。(例:市原であれば「ハイウェイラジオ館山道市原よりお伝えしました。」) == 地理 == === 通過する自治体 === * [[千葉県]] ** [[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]] - [[市原市]] - [[袖ケ浦市]] - [[木更津市]] - [[君津市]] - [[富津市]] === 接続する高速道路 === 接続している高速道路はいずれも一般国道の自動車専用道路であり、高速自動車国道とは接続していない。 * {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[京葉道路]](千葉市中央区浜野町本線で直結) * {{Ja Exp Route Sign|CA}} [[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン連絡道]](木更津JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]](木更津JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E14}} [[富津館山道路]](富津竹岡ICで直結) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{ページ番号|date=2016年8月3日 (水) 11:01 (UTC)|section=1}} <references /> == 関連項目 == {{Commons|Category:Tateyama Expressway}} * [[高速自動車国道]] * [[関東地方の道路一覧]] == 外部リンク == * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路] {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{3環状9放射}} {{館山自動車道}} {{DEFAULTSORT:たてやましとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:関東地方の道路]]
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機甲師団シリーズ
機甲師団シリーズ(きこうしだんシリーズ)とは、バンダイが製造・販売していた 1/48スケールのミリタリー模型のシリーズで、通称は「ヨンパチシリーズ」である。 プラスチックモデルのメーカーとしてのバンダイは1980年代初めのガンプラの大ブーム以降急速にキャラクターモデルに特化するが、1970年代にはスケールモデルの開発も積極的に行っていた。本シリーズは1972年に販売が開始されたもので、第二次世界大戦のドイツ戦車のラインナップから始まり、その後アメリカ・英国・ソ連の戦車を中心に大砲、装甲車、兵隊、情景模型用のアクセサリーが販売された。比較的小型の模型ながら、内部構造の再現に挑戦するなど意欲的なシリーズで、他のスケールでも製品化されていないマイナーな車種も含め、1976年頃までに戦車などの車両と火砲が40点以上、ジオラマ用アクセサリーと兵士セットが合わせて20点以上製品化された。しかし、1970年代の半ばはタミヤの1/35スケールミリタリーミニチュアシリーズが大躍進した時期であり、またフジミ模型、日東科学、ハセガワなどからは1/72ないし1/76スケールのミニサイズのミリタリーモデルも多数発売されている。そのため、それらの中間のサイズであった本シリーズはモデラーの十分な支持を得られず、同スケールで追随するメーカーも無かったため、1970年代後半に本シリーズの開発は打ち切られた。シリーズ末期に金型のできあがっていたゴリアテ、ケッテンクラート、ベンツトラックL3000Sは本シリーズとしては販売されず、後に一部が小林源文の劇画とセットになった「狼の砲声」シリーズに含まれたり、他社(モーヴ)の航空機とセットになったり、後述する日本国外のメーカーやバンダイの輸出用パッケージのみでの販売となった。また、イギリス歩兵など日本国外版のみで日本国内販売の全く無い物も存在する。 1980年には、ドイツ軍車両を中心とした20点が箱絵を三面図風に変更して再発売されたが、ガンプラブームの中で程なく姿を消している。1990年代にも何度か再発売されているが、箱に"Made in China"とあるように、こちらは後述のフーマン製を逆輸入したものである。2000年代半ば、タミヤが1/48ミリタリーミニチュアシリーズ の開発を本格化させると、それに合わせてバンダイが本シリーズの再発売を計画中であると模型雑誌等で報じられたが、実現しなかった。 本シリーズは、モーターなどによる走行を考慮していないディスプレイタイプの模型で、車体内部まである程度再現しているのが特徴である。これは、情景模型用のアクセサリー同時に開発している点も含めて、やや遅れてスタートした日東科学の1/76スケールシリーズと同様であり、当時タミヤのパチッ特集号などでジオラマの人気が高まっていたことを受け、ジオラマの製作を強く意識したものといえる。 1/48というスケールは、航空機では標準スケールであり多数の製品が作られていたが、軍用車両は欧米では殆ど作られておらず、オーロラが1950年代から60年代にかけて発売した十数点のキットがほぼ唯一と言ってよい状態だった。日本国内では1/48ないし1/50スケールの戦車は相当数作られていたが、その殆どはモーターやゼンマイでの走行を主目的としたもので、本シリーズに匹敵する精度を持つものは事実上存在していなかった。本シリーズは一部では高く評価されたものの、一社のみの展開という限界のために1/48を戦車模型の標準スケールに押し上げることは出来なかった。 パッケージは、当初は情景用アクセサリーを除き背景が白地の「白箱」仕様で、下部に引かれた赤帯が特徴的であったが、1980年の再発売では三面図風(正確には上面、側面、前面、後面の四面)のものに改められた。1990年代以降の再発売では、後述の日本国外版と同様、両方が混在している。 1980 - 1990年代には韓国のアカデミー科学や、日中合弁企業で、昔のバンダイの通称「バンザイマーク」を社章としたフーマン(福萬=福建省万代)で生産され、特に後者は現在の中国人ミリタリーモデラーの育成に一役買っている。また、一部はシンガポールのHobby Bounties(往年の英国模型メーカーの商標「フロッグ」を買い取った企業。以下「フロッグ」)からも販売された。これらは海賊版であると誤解されることもあるが、ほとんどはバンダイが作ったオリジナル金型を用いた製品である。しかし、フーマン時代に十分なメンテナンスをせずに大量生産を続けたため金型が痛み、全体にモールドが甘くなったり合わせが悪くなった他、(フロッグの社長の談によると)一部は修理不可能なまでに損傷した。またフロッグ版のウィリスジープなどはオリジナル金型からバンダイ本社に無許可(フーマンに対して無許可であるかは定かではない)でコピーしたものであるが、バリの大量に発生したフーマン版(2005年に再発売計画のためにバンダイがチェックした時はそうでもない)よりは良好な状態である。 アカデミー科学とフーマンのパッケージはバンダイのものを基にしており、1980に再発売されたものは三面図版、それ以外は初期のものを使用している。フロッグはパッケージのデザイン、箱絵とも独自のものを使用している。また日本国内版では、ランナーのタグや車体底面にある刻印が、バンダイのマークや社名と"Made in Japan"であったが、フーマン版では、"Made in China"に変更されている。 本シリーズで製品化されているのは、汎用性のある情景用アクセサリーを除けば、全て第二次大戦時の戦車・自走砲等の軍用車両と火砲、兵士などで、第二次大戦後に登場したものは含まれていない。また、ナチスドイツを中心に、それと戦ったアメリカ、イギリス、ソビエトの兵器・兵士に限られ、日本やフランス、イタリアなどのものは含まれていない。このように、本シリーズは第二次大戦時のヨーロッパや北アフリカ戦線などの狭い範囲を対象としている。 本シリーズでは当初「電撃機甲師団シリーズ」としてドイツ軍の兵器がモデル化された。1973年版のカタログに掲載されているのは、ドイツ軍の車両と火砲が12点、情景用アクセサリーが6点、ドイツ軍兵士が5点で、全てドイツ軍で占められている。その後連合国側の車両もモデル化され、シリーズの完成した1975年版のカタログには、車両と火砲はドイツ26点「電撃機甲師団シリーズ(通し番号1番から)」、アメリカ11点「米国機甲師団シリーズ(通し番号100番台)」、イギリス4点「英国機甲師団シリーズ(通し番号200番台)」、ソビエト3点「ソ連機甲師団シリーズ(通し番号300番台)」の計44点、情景アクセサリーが11点、兵士はドイツ7点、アメリカ5点が掲載されている。その後1977年版ではベンツL3000S、1979年版ではゴリアテとケッテンクラートが発売予定として掲載されたが、いずれも旧パッケージの国内版としては発売に至らなかった。パッケージを一新した1980年の再販版は、ドイツの車両と火砲が18点、アメリカの車両が2点だった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "機甲師団シリーズ(きこうしだんシリーズ)とは、バンダイが製造・販売していた 1/48スケールのミリタリー模型のシリーズで、通称は「ヨンパチシリーズ」である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プラスチックモデルのメーカーとしてのバンダイは1980年代初めのガンプラの大ブーム以降急速にキャラクターモデルに特化するが、1970年代にはスケールモデルの開発も積極的に行っていた。本シリーズは1972年に販売が開始されたもので、第二次世界大戦のドイツ戦車のラインナップから始まり、その後アメリカ・英国・ソ連の戦車を中心に大砲、装甲車、兵隊、情景模型用のアクセサリーが販売された。比較的小型の模型ながら、内部構造の再現に挑戦するなど意欲的なシリーズで、他のスケールでも製品化されていないマイナーな車種も含め、1976年頃までに戦車などの車両と火砲が40点以上、ジオラマ用アクセサリーと兵士セットが合わせて20点以上製品化された。しかし、1970年代の半ばはタミヤの1/35スケールミリタリーミニチュアシリーズが大躍進した時期であり、またフジミ模型、日東科学、ハセガワなどからは1/72ないし1/76スケールのミニサイズのミリタリーモデルも多数発売されている。そのため、それらの中間のサイズであった本シリーズはモデラーの十分な支持を得られず、同スケールで追随するメーカーも無かったため、1970年代後半に本シリーズの開発は打ち切られた。シリーズ末期に金型のできあがっていたゴリアテ、ケッテンクラート、ベンツトラックL3000Sは本シリーズとしては販売されず、後に一部が小林源文の劇画とセットになった「狼の砲声」シリーズに含まれたり、他社(モーヴ)の航空機とセットになったり、後述する日本国外のメーカーやバンダイの輸出用パッケージのみでの販売となった。また、イギリス歩兵など日本国外版のみで日本国内販売の全く無い物も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1980年には、ドイツ軍車両を中心とした20点が箱絵を三面図風に変更して再発売されたが、ガンプラブームの中で程なく姿を消している。1990年代にも何度か再発売されているが、箱に\"Made in China\"とあるように、こちらは後述のフーマン製を逆輸入したものである。2000年代半ば、タミヤが1/48ミリタリーミニチュアシリーズ の開発を本格化させると、それに合わせてバンダイが本シリーズの再発売を計画中であると模型雑誌等で報じられたが、実現しなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本シリーズは、モーターなどによる走行を考慮していないディスプレイタイプの模型で、車体内部まである程度再現しているのが特徴である。これは、情景模型用のアクセサリー同時に開発している点も含めて、やや遅れてスタートした日東科学の1/76スケールシリーズと同様であり、当時タミヤのパチッ特集号などでジオラマの人気が高まっていたことを受け、ジオラマの製作を強く意識したものといえる。", "title": "製品の特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1/48というスケールは、航空機では標準スケールであり多数の製品が作られていたが、軍用車両は欧米では殆ど作られておらず、オーロラが1950年代から60年代にかけて発売した十数点のキットがほぼ唯一と言ってよい状態だった。日本国内では1/48ないし1/50スケールの戦車は相当数作られていたが、その殆どはモーターやゼンマイでの走行を主目的としたもので、本シリーズに匹敵する精度を持つものは事実上存在していなかった。本シリーズは一部では高く評価されたものの、一社のみの展開という限界のために1/48を戦車模型の標準スケールに押し上げることは出来なかった。", "title": "製品の特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パッケージは、当初は情景用アクセサリーを除き背景が白地の「白箱」仕様で、下部に引かれた赤帯が特徴的であったが、1980年の再発売では三面図風(正確には上面、側面、前面、後面の四面)のものに改められた。1990年代以降の再発売では、後述の日本国外版と同様、両方が混在している。", "title": "製品の特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1980 - 1990年代には韓国のアカデミー科学や、日中合弁企業で、昔のバンダイの通称「バンザイマーク」を社章としたフーマン(福萬=福建省万代)で生産され、特に後者は現在の中国人ミリタリーモデラーの育成に一役買っている。また、一部はシンガポールのHobby Bounties(往年の英国模型メーカーの商標「フロッグ」を買い取った企業。以下「フロッグ」)からも販売された。これらは海賊版であると誤解されることもあるが、ほとんどはバンダイが作ったオリジナル金型を用いた製品である。しかし、フーマン時代に十分なメンテナンスをせずに大量生産を続けたため金型が痛み、全体にモールドが甘くなったり合わせが悪くなった他、(フロッグの社長の談によると)一部は修理不可能なまでに損傷した。またフロッグ版のウィリスジープなどはオリジナル金型からバンダイ本社に無許可(フーマンに対して無許可であるかは定かではない)でコピーしたものであるが、バリの大量に発生したフーマン版(2005年に再発売計画のためにバンダイがチェックした時はそうでもない)よりは良好な状態である。", "title": "日本以外のメーカーからの販売" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アカデミー科学とフーマンのパッケージはバンダイのものを基にしており、1980に再発売されたものは三面図版、それ以外は初期のものを使用している。フロッグはパッケージのデザイン、箱絵とも独自のものを使用している。また日本国内版では、ランナーのタグや車体底面にある刻印が、バンダイのマークや社名と\"Made in Japan\"であったが、フーマン版では、\"Made in China\"に変更されている。", "title": "日本以外のメーカーからの販売" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本シリーズで製品化されているのは、汎用性のある情景用アクセサリーを除けば、全て第二次大戦時の戦車・自走砲等の軍用車両と火砲、兵士などで、第二次大戦後に登場したものは含まれていない。また、ナチスドイツを中心に、それと戦ったアメリカ、イギリス、ソビエトの兵器・兵士に限られ、日本やフランス、イタリアなどのものは含まれていない。このように、本シリーズは第二次大戦時のヨーロッパや北アフリカ戦線などの狭い範囲を対象としている。", "title": "ラインナップ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本シリーズでは当初「電撃機甲師団シリーズ」としてドイツ軍の兵器がモデル化された。1973年版のカタログに掲載されているのは、ドイツ軍の車両と火砲が12点、情景用アクセサリーが6点、ドイツ軍兵士が5点で、全てドイツ軍で占められている。その後連合国側の車両もモデル化され、シリーズの完成した1975年版のカタログには、車両と火砲はドイツ26点「電撃機甲師団シリーズ(通し番号1番から)」、アメリカ11点「米国機甲師団シリーズ(通し番号100番台)」、イギリス4点「英国機甲師団シリーズ(通し番号200番台)」、ソビエト3点「ソ連機甲師団シリーズ(通し番号300番台)」の計44点、情景アクセサリーが11点、兵士はドイツ7点、アメリカ5点が掲載されている。その後1977年版ではベンツL3000S、1979年版ではゴリアテとケッテンクラートが発売予定として掲載されたが、いずれも旧パッケージの国内版としては発売に至らなかった。パッケージを一新した1980年の再販版は、ドイツの車両と火砲が18点、アメリカの車両が2点だった。", "title": "ラインナップ" } ]
機甲師団シリーズ(きこうしだんシリーズ)とは、バンダイが製造・販売していた 1/48スケールのミリタリー模型のシリーズで、通称は「ヨンパチシリーズ」である。
{{otheruses|[[バンダイ]]が発売した[[プラモデル]]|その他の用法|機甲師団シリーズ (曖昧さ回避)}} [[Image:Valentine overhead.jpg|thumb|right|300px|1/48[[バレンタイン歩兵戦車]](塗装加工作品)]] '''機甲師団シリーズ'''(きこうしだんシリーズ)とは、[[バンダイ]]が製造・販売していた [[1/48スケール]]の[[ミリタリーモデル|ミリタリー模型]]のシリーズで、通称は「'''ヨンパチシリーズ'''」である。 == 概要 == プラスチックモデルのメーカーとしてのバンダイは1980年代初めの[[ガンプラ]]の大ブーム以降急速に[[キャラクターモデル]]に特化するが、1970年代には[[スケールモデル]]の開発も積極的に行っていた。本シリーズは1972年に販売が開始されたもので、[[第二次世界大戦]]の[[ドイツ]]戦車のラインナップから始まり、その後[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス|英国]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]の戦車を中心に大砲、装甲車、兵隊、[[ジオラマ|情景模型]]用のアクセサリーが販売された。比較的小型の模型ながら、内部構造の再現に挑戦するなど意欲的なシリーズで、他のスケールでも製品化されていないマイナーな車種も含め、1976年頃までに戦車などの車両と火砲が40点以上、ジオラマ用アクセサリーと兵士セットが合わせて20点以上製品化された。しかし、1970年代の半ばは[[タミヤ]]の1/35スケール[[ミリタリーミニチュアシリーズ]]が大躍進した時期であり、また[[フジミ模型]]、[[日東科学教材|日東科学]]、[[ハセガワ]]などからは1/72ないし1/76スケールのミニサイズのミリタリーモデルも多数発売されている。そのため、それらの中間のサイズであった本シリーズはモデラーの十分な支持を得られず、同スケールで追随するメーカーも無かったため、1970年代後半に本シリーズの開発は打ち切られた。シリーズ末期に金型のできあがっていた[[ゴリアテ (兵器)|ゴリアテ]]、[[ケッテンクラート]]、ベンツトラックL3000Sは本シリーズとしては販売されず、後に一部が[[小林源文]]の劇画とセットになった「狼の砲声」シリーズに含まれたり、他社(モーヴ)の航空機とセットになったり、後述する日本国外のメーカーやバンダイの輸出用パッケージのみでの販売となった。また、イギリス歩兵など日本国外版のみで日本国内販売の全く無い物も存在する。 1980年には、ドイツ軍車両を中心とした20点が[[ボックスアート|箱絵]]を三面図風に変更して再発売されたが、ガンプラブームの中で程なく姿を消している。1990年代にも何度か再発売されているが、箱に"Made in China"とあるように、こちらは後述のフーマン製を逆輸入したものである。2000年代半ば、タミヤが[[ミリタリーミニチュアシリーズ#1/48 ミリタリーミニチュアシリーズ|1/48ミリタリーミニチュアシリーズ]] の開発を本格化させると、それに合わせてバンダイが本シリーズの再発売を計画中であると模型雑誌等で報じられたが、実現しなかった。 == 製品の特徴 == 本シリーズは、モーターなどによる走行を考慮していないディスプレイタイプの模型で、車体内部まである程度再現しているのが特徴である。これは、情景模型用のアクセサリー同時に開発している点も含めて、やや遅れてスタートした日東科学の1/76スケールシリーズと同様であり、当時タミヤのパチッ特集号などでジオラマの人気が高まっていたことを受け、ジオラマの製作を強く意識したものといえる。 1/48というスケールは、[[航空機]]では標準スケールであり多数の製品が作られていたが、軍用車両は欧米では殆ど作られておらず、[[オーロラ (模型メーカー)|オーロラ]]が1950年代から60年代にかけて発売した十数点のキットがほぼ唯一と言ってよい状態だった。日本国内では1/48ないし1/50スケールの戦車は相当数作られていたが、その殆どはモーターやゼンマイでの走行を主目的としたもので、本シリーズに匹敵する精度を持つものは事実上存在していなかった。本シリーズは一部では高く評価されたものの、一社のみの展開という限界のために1/48を戦車模型の標準スケールに押し上げることは出来なかった。 パッケージは、当初は情景用アクセサリーを除き背景が白地の「白箱」仕様で、下部に引かれた赤帯が特徴的であったが、1980年の再発売では三面図風(正確には上面、側面、前面、後面の四面)のものに改められた。1990年代以降の再発売では、後述の日本国外版と同様、両方が混在している。 == 日本以外のメーカーからの販売 == 1980 - 1990年代には韓国の[[アカデミー科学]]<ref>1985年版のカタログには10点が掲載されている。</ref>や、日中合弁企業で、昔のバンダイの通称「バンザイマーク」を社章としたフーマン(福萬=[[福建省]]万代)で生産され、特に後者は現在の中国人ミリタリーモデラーの育成に一役買っている。また、一部はシンガポールの[[プラモデル製造メーカー一覧#シンガポール|Hobby Bounties]](往年の英国模型メーカーの商標「[[フロッグ (模型メーカー)|フロッグ]]」を買い取った企業。以下「フロッグ」)からも販売された。これらは海賊版であると誤解されることもあるが、ほとんどはバンダイが作ったオリジナル[[金型]]を用いた製品である。しかし、フーマン時代に十分なメンテナンスをせずに大量生産を続けたため金型が痛み、全体にモールドが甘くなったり合わせが悪くなった他、(フロッグの社長の談によると)一部は修理不可能なまでに損傷した。またフロッグ版のウィリスジープなどはオリジナル金型からバンダイ本社に無許可(フーマンに対して無許可であるかは定かではない)でコピーしたものであるが、バリの大量に発生したフーマン版(2005年に再発売計画のためにバンダイがチェックした時はそうでもない)よりは良好な状態である。 アカデミー科学とフーマンのパッケージはバンダイのものを基にしており、1980に再発売されたものは三面図版、それ以外は初期のものを使用している。フロッグはパッケージのデザイン、箱絵とも独自のものを使用している。また日本国内版では、ランナーのタグや車体底面にある刻印が、バンダイのマーク<ref>バンダイのマークは、1983年に「バンザイマーク」から変更されたが、「狼の砲声」第1号(1986年10月発行)に付属するケッテンクラートには、車体底面に「バンザイマーク」が刻印されており、ナースホルンには、さらに一世代前の「バンザイマーク」(目あり)が刻印されている。</ref>や社名と"Made in Japan"であったが、フーマン版では、"Made in China"<ref>1996年12月の再発版で確認。</ref>に変更されている。 == ラインナップ == 本シリーズで製品化されているのは、汎用性のある情景用アクセサリーを除けば、全て第二次大戦時の戦車・自走砲等の軍用車両と火砲、兵士などで、第二次大戦後に登場したものは含まれていない。また、ナチスドイツを中心に、それと戦ったアメリカ、イギリス、ソビエトの兵器・兵士に限られ、日本やフランス、イタリアなどのものは含まれていない。このように、本シリーズは第二次大戦時のヨーロッパや北アフリカ戦線などの狭い範囲を対象としている。 本シリーズでは当初「電撃機甲師団シリーズ」としてドイツ軍の兵器がモデル化された。1973年版のカタログに掲載されているのは、ドイツ軍の車両と火砲が12点、情景用アクセサリーが6点、ドイツ軍兵士が5点で、全てドイツ軍で占められている。その後連合国側の車両もモデル化され、シリーズの完成した1975年版のカタログには、車両と火砲はドイツ26点「電撃機甲師団シリーズ(通し番号1番から)」、アメリカ11点「米国機甲師団シリーズ(通し番号100番台)」、イギリス4点「英国機甲師団シリーズ(通し番号200番台)」、ソビエト3点「ソ連機甲師団シリーズ(通し番号300番台)」の計44点、情景アクセサリーが11点、兵士はドイツ7点、アメリカ5点が掲載されている。その後1977年版ではベンツL3000S、1979年版ではゴリアテとケッテンクラートが発売予定として掲載されたが、いずれも旧パッケージの国内版としては発売に至らなかった。パッケージを一新した1980年の再販版は、ドイツの車両と火砲が18点、アメリカの車両が2点だった。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * 日本プラモデル工業協同組合編 『日本プラモデル50年史』 文藝春秋企画出版部、2008年 ISBN 978-416008063-8 * バンダイ カタログ 1973年版 - 1983年版 * アカデミー科学 カタログ 1985年版 * [http://www.interq.or.jp/tokyo/d-force/Collection-AFV.htm D-FORCE AFV 1(外部サイト)] * [http://www.hobbybounties.com/servlet/ControllerServlet?SERVICE_HANDLER=rpi.user.UserProductList_svchndlr&FUNCTION=DISPLAYPRODUCT&cmbcatlist=7&cmbsubcatlist=23 Hobby Bounties(外部サイト)] {{DEFAULTSORT:きこうしたんしりいす}} [[Category:プラモデル]] [[Category:1970年代の玩具]] {{Entertainment-stub}}
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57(五十七、ごじゅうなな、ごじゅうしち、いそなな、いそじあまりななつ)は自然数、また整数において、56の次で58の前の数である。
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57(五十七、ごじゅうなな、ごじゅうしち、いそなな、いそじあまりななつ)は自然数、また整数において、56の次で58の前の数である。
{{整数|Decomposition=3 × 19}} '''57'''('''五十七'''、ごじゅうなな、ごじゅうしち、いそなな、いそじあまりななつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[56]]の次で[[58]]の前の数である。 == 性質 == *57は[[合成数]]であり、正の約数は [[1]], [[3]], [[19]], 57 である。 **[[約数の和]]は[[80]]。 * 57 = 3 × 19 **20番目の[[半素数]]である。1つ前は[[55]]、次は[[58]]。 ** ''n'' = 1 のときの 19 × 3{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[19]]、次は[[171]]。({{OEIS|A176413}}) *{{sfrac|1|57}} = 0.{{underline|017543859649122807}}… (下線部は[[循環節]]で長さは18) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が18になる3番目の数である。1つ前は[[38]]、次は[[76]]。 *57 × 834 = 47538 であるが、右辺は左辺の数を入れ替えたものである。 *57 = 7{{sup|0}} + 7{{sup|1}} + 7{{sup|2}} ** ''a'' = 7 のときの ''a''{{sup|0}} + ''a''{{sup|1}} + ''a''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[43]]、次は[[73]]。 ** 7の累乗和とみたとき1つ前は[[8]]、次は[[400]]。({{OEIS|A023000}}) *** 57 = {{sfrac|7{{sup|3}} &minus; 1|7 &minus; 1}} = {{sfrac|8{{sup|3}} + 1|8 + 1}} ** [[素数]] ''p'' = 7 のときの ''p''{{sup|0}} + ''p''{{sup|1}} + ''p''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[31]]、次は[[133]]。({{OEIS|A060800}}) *[[約数]]の和が57になる数は1個ある。([[49]]) 約数の和1個で表せる18番目の数である。1つ前は[[44]]、次は[[62]]。 **[[約数]]の和が奇数になる8番目の奇数である。1つ前は[[39]]、次は[[63]]。 * <math> 57^2={\sum_{k=1}^{100} \sigma(k)} - \sum_{k=1}^{100} k </math> (σ は[[約数関数]])。 * [[各位の和]]が12になる3番目の数である。1つ前は[[48]]、次は[[66]]。 *各位の[[平方和]]が74になる最小の数である。次は[[75]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の73は[[38]]、次の75は[[157]]。({{OEIS|A055016}}) *各位の[[立方和]]が468になる最小の数である。次は[[75]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の467は1556、次の469は[[157]]。({{OEIS|A165370}}) * 57 = 7 × 2{{sup|3}} + 1 より10番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[49]]、次は[[65]]。 * 2つの連続素数を並べてできる3番目の数である。1つ前は[[35]]、次は[[711]]。({{OEIS|A045533}}) *57 = 2{{sup|2}} + 2{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる6番目の数である。1つ前は[[51]]、次は[[59]]。({{OEIS|A025322}}) *57 = 2{{sup|5}} + 5{{sup|2}} ** ''n'' = 5 のときの 2{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[32]]、次は[[100]]。({{OEIS|A001580}}) ** ''n'' = 2 のときの 5{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|5}} の値とみたとき1つ前は[[6]]、次は[[368]]。({{OEIS|A001593}}) * 円周上に異なる7つの点をとってそれぞれを結んだとき57個の領域に分けることができる。1つ前の6点は[[31]]、次の8点は[[99]]。({{OEIS|A000127}}) **この数は ''n'' = 7 のときの {{sfrac|''n''{{sup|4}} &minus; 6''n''{{sup|3}} + 23''n''{{sup|2}} &minus; 18''n'' + 24|24}} の値である。 * 57 = 2{{sup|6}} &minus; 2{{sup|3}} + 1 ** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|6}} &minus; ''n''{{sup|3}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[703]]。({{OEIS|A060891}}) == その他 57 に関連すること == *ある種の冗談として、57 は「[[アレクサンドル・グロタンディーク#逸話|グロタンディーク素数]]」と言われる<ref>{{Cite journal| title=Comme Appelé du Néant — As If Summoned from the Void: The Life of Alexandre Grothendieck| author=Allyn Jackson| year=2004| publisher=[[アメリカ数学会|American Mathematical Society]] |journal=Notices of the American Mathematical Society| volume=51| pages=1196-1212| url=http://www.ams.org/notices/200410/fea-grothendieck-part2.pdf| accessdate=2021-06-09}}</ref>。 *年始から数えて57日目は、[[2月26日]]。 *[[原子番号]] 57 の元素は[[ランタン]] (La)。 *第57代[[天皇]]は[[陽成天皇]]である。 *[[日本]]の第57代[[内閣総理大臣]]は[[岸信介]]である。 *[[大相撲]]の第57代[[横綱]]は[[三重ノ海剛司]]である。 *第57代[[教皇|ローマ教皇]]は[[アガペトゥス1世 (ローマ教皇)|アガペトゥス1世]](在位:[[535年]][[5月13日]]~[[536年]][[4月22日]])である。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第57番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#巽|巽為風]]。 *[[クルアーン]]における第57番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[鉄 (クルアーン)|鉄]]である。 *[[国際電話番号の一覧|国際電話番号]]の 57 は、[[コロンビア]]。 *『'''57'''』は、{{仮リンク|キッド・ハープーン|en|Kid Harpoon}}の[[2007年]]の曲。 *『[[パッセンジャー57]]』は、1992年のアメリカの映画。 *[[ギザの大ピラミッド]]の底面の正方形は東西南北に対して 57 × 10{{sup|&minus;3}} 度(3cm)ずれている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和57年]]}} *[[5月7日]] {{自然数}}
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福祉
福祉(ふくし・英: Welfare)は「幸せ」や「豊かさ」を意味する言葉であり全ての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を表す。 社会福祉(social-welfare)とは狭義には基本的人権(特に生存権)の保障の観点から生活困窮者の生活保障や心身に障害等があり支援や介助を必要とする人への援助を行う公的サービスをいう。また、広義には全国民を対象に一般的な生活問題の解決を目指す取り組みをまとめて社会福祉という。 国民の生存権の保障(生活の安定や健康の確保など)を目的とする制度を社会保障制度(social security system)という。社会保障は欧米では所得保障という意味で用いられる事が多い。一方日本では社会保障は社会福祉サービスも含む概念として用いられている。日本では公的扶助・社会福祉・社会保険・公衆衛生及び医療・老人保健を総称して狭義の社会保障とする。さらに狭義の社会保障に恩給及び戦争犠牲者援護を含めて広義の社会保障とする。 社会福祉の供給主体は「家属」「政府」「市場」があり3つに大きく分ける事が出来る。政府以外の担い手としてコミュニティ・企業活動のうち収益活動以外の活動・生活協同組合・労組・社会福祉法人・医療法人・宗教団体・NPO・その他の公益法人・ボランティアなど多様な主体があるが捉え方や位置づけは国によって異なる。アングロサクソン諸国(アメリカ合衆国等)ではそれらは市場の一員とみなされる。公共部門が嫌悪され民間が賛美される風潮がある上に財源が寄附金で賄われているという事も大きい。北欧諸国(ノルディック)ではそれらは政府の役目であるとみなされる。高福祉政策に肯定的な雰囲気と共に財源が政府一般税収に依存していることもある。大陸ヨーロッパ諸国(コンチネンタル)では市民社会の一員であるとされる。福祉の供給の大部分を担っているのは「家族」である。家族や親族・近隣の相互扶助で機能を果たせなくなった部分を制度や機構として政府などが担う。日本では供給を「家族」を中心とする保守主義を中心としながらも「市場」からの自由主義を混合して構成されている。イスラム世界ではザカートやサダカと呼ばれる喜捨により集めた金銭を社会福祉に利用している。イスラム教を国教とする国では宗教団体に代わって政府が制度を運用している。 1980年1月30日、国連は1981年を国際障害者年とする事を決議した。テーマは「完全参加と平等」とされた。障害に対する考え方を「助けるもの」から「自立を支援するもの」への大転換を目指すものであった。1983年から1992年を国連障害者の10年とし、その行動計画を充実させ、さらにアジア・太平洋各国は1993年から2002年までをアジア太平洋地域障害者の10年としてその定着を進めた。この中で、福祉の理念の一つとしてノーマライゼーションという言葉が強調され始めた。その後、インクルージョン(包摂)という言葉が新しい理念として強調され始める。 OECD Social Expenditure Databaseに於いては、社会的支出を以下の9分類にて集計している。 イギリスでは1601年のエリザベス救貧法により個別に実施されていた救貧行政は教区ごとに単位化された。そして貧民に対し労働能力に応じた対応を行った。また扶養義務者のいない児童に対しては徒弟奉公を行うことによって対策を講じた。 1782年、有能貧民の雇用あっせんや院外救済を内容とするギルバート法が制定された。 1834年には新救貧法が制定された。この新救貧法はトマス・ロバート・マルサスの「人口の原理」(1798年)の影響を強く受けており、救済水準の全国一律化、救済方法の限定(ワークハウスへの収容)、劣等処遇の原則などを内容とした。この新救民法による貧困層に対する公的救済の厳しい管理は1948年に国家扶助法が制定されるまで続いた。 アメリカでは1647年にロードアイランドで植民地救貧法が制定された。また1683年にはニューヨークで救貧法が制定された。 1877年、バッファローに慈善組織協会が設立された。 1935年、ニューディール政策の一環として社会保障法が制定された。社会保障法により連邦直営の老齢遺族年金、州営失業保険、公的扶助、福祉事業に対する州政府の補助金などが整備された。 日本の社会福祉の歴史は、聖徳太子が建立し現在もその名が残る「悲田院」などの救済施設まで溯ることができる。また、律令時代には天皇による賑恤(賑給)制度も存在した。 日本において英国の救貧法と同種の初めての統一的法令は、明治7年(1874年)の恤救規則であった。また、昭和4年(1929年)には救護法、戦後には生活保護法が成立し、生存権の法整備が進められた。 八巻正治は自著『聖書とハンディキャップ』の中で「高度に発達した今日のわが国の社会福祉は、それゆえに、ややもすると物質主義に陥ってしまい、それがために内面に位置づく<福祉の心>を次第に軽視しはじめ、逆に、表面的な福祉制度や施策・保障といったものが、それを真に必要としている人々をコントロールしているかのごとき悲しむべき現状があります。」と指摘している。
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福祉(ふくし・英: Welfare)は「幸せ」や「豊かさ」を意味する言葉であり全ての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を表す。
{{Otheruses||学校の教科|福祉 (教科)}} [[File:Social expenditure in OECD.svg|thumb|right|450px|OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(公費および私費)<ref name="socx">{{Cite report|publisher=OECD |title=OECD Social Expenditure Statistics |date=2011 |url=http://www.oecd.org/els/soc/expenditure.htm |doi=10.1787/socx-data-en}}</ref>]] '''福祉'''(ふくし、{{lang-en-short|Welfare}})は「幸せ」や「豊かさ」を意味する言葉であり全ての[[市民]]に最低限の[[幸福]]と[[社会的援助]]を提供するという理念を表す。 == 社会福祉 == '''社会福祉'''(しゃかいふくし、social-welfare)とは狭義には基本的[[人権]](特に[[生存権]])の保障の観点から[[生活困窮者]]の生活保障や心身に障害等があり支援や[[介助]]を必要とする人への援助を行う公的サービスをいう<ref name="standard179">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.197</ref>。また、広義には全国民を対象に一般的な生活問題の解決を目指す取り組みをまとめて社会福祉という<ref name="standard179" />。 国民の生存権の保障(生活の安定や健康の確保など)を目的とする制度を[[社会保障制度]] (social security system) という<ref name="standard188">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.188</ref>。社会保障は欧米では所得保障という意味で用いられる事が多い<ref name="standard187">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.187</ref>。一方日本では社会保障は社会福祉サービスも含む概念として用いられている<ref name="standard187" />。日本では[[公的扶助]]・社会福祉・[[社会保険]]・[[公衆衛生]]及び医療・[[高齢者福祉|老人保健]]を総称して狭義の社会保障とする<ref name="standard187" />。さらに狭義の社会保障に[[恩給]]及び戦争犠牲者援護を含めて広義の社会保障とする<ref name="standard187" />。 === 供給主体 === {{Main|福祉国家論#福祉レジーム論}} 社会福祉の供給主体は「家属」「政府」「市場」があり3つに大きく分ける事が出来る<ref name="MHLWwp">{{Cite report|publisher=厚生労働省 |title=平成24年版厚生労働白書|date=2012 |url=https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/ |pages=81-82}}</ref>。政府以外の担い手としてコミュニティ・企業活動のうち収益活動以外の活動・[[生活協同組合]]・[[労組]]・[[社会福祉法人]]・[[医療法人]]・[[宗教団体]]・[[NPO]]・その他の[[公益法人]]・[[ボランティア]]など多様な主体があるが捉え方や位置づけは国によって異なる。[[アングロサクソン]]諸国([[アメリカ合衆国]]等)ではそれらは市場の一員とみなされる<ref name="MHLWwp" />。公共部門が嫌悪され民間が賛美される風潮がある上に財源が寄附金で賄われているという事も大きい。[[北欧|北欧諸国]](ノルディック)ではそれらは[[政府]]の役目であるとみなされる<ref name="MHLWwp" />。高福祉政策に肯定的な雰囲気と共に財源が政府一般税収に依存していることもある。[[大陸ヨーロッパ]]諸国(コンチネンタル)では[[市民社会]]の一員であるとされる。福祉の供給の大部分を担っているのは「家族」である。家族や親族・近隣の相互扶助で機能を果たせなくなった部分を制度や機構として政府などが担う。[[日本の福祉|日本]]では[https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2013/07/pdf/117-118.pdf 供給を「家族」を中心とする保守主義を中心としながらも「市場」からの自由主義を混合して構成されている]<ref name="MHLWwp" />。[[イスラム世界]]では[[ザカート]]や[[サダカ]]と呼ばれる喜捨により集めた金銭を社会福祉に利用している。イスラム教を国教とする国では宗教団体に代わって政府が制度を運用している。 === 国際的な取り組み === 1980年1月30日、[[国際連合|国連]]は[[1981年]]を[[国際障害者年]]とする事を決議した。テーマは「完全参加と平等」とされた。[[障害]]に対する考え方を「助けるもの」から「自立を支援するもの」への大転換を目指すものであった。[[1983年]]から[[1992年]]を国連障害者の10年とし、その行動計画を充実させ、さらにアジア・太平洋各国は1993年から2002年までをアジア太平洋地域障害者の10年としてその定着を進めた。この中で、福祉の理念の一つとして[[ノーマライゼーション]]という言葉が強調され始めた。その後、[[インクルージョン]](包摂)という言葉が新しい理念として強調され始める。 == 各国の社会福祉 == [[File:OECD Social Expenditure by Braunch.svg|thumb|450px|right|OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(%、種類別)<ref name="socx" />]] OECD Social Expenditure Databaseに於いては、社会的支出を以下の9分類にて集計している<ref name="socx" /><ref>{{Cite report|publisher=[[国立社会保障・人口問題研究所]] |title=社会保障給付費(平成21年度) |date=2011-10 |at=付録、OECD基準の社会支出の国際比較 |url=https://www.ipss.go.jp/ss-cost/j/kyuhuhi-h21/kyuuhu_h21.asp }}</ref>。 ; [[高齢者福祉|高齢者]](Old-age) : 老齢年金、早期退職年金、在宅および施設[[介護]]サービス ; [[遺族]](Survivors) : [[遺族年金]]および葬儀支出 ; [[障害者福祉|障害者]](Incapacity-related benefits) : ケア、障害者援助、[[労災]]傷病援助、[[傷病手当金]] ; [[保健]](Health) : 外来および入院ケア、医療用品、疾病予防 ; [[家族]](Family) : [[児童福祉|児童手当]]と融資、育児支援、育児休業支援、片親支援 ; [[積極的労働政策]](Active labour market policies) : 雇用サービス、職業訓練、障者害就業支援、直接雇用創出、起業支援 ; [[失業]](Unemployment) : [[失業給付]]、早期退職支援 ; [[住宅]](Housing) : [[住宅手当]]、賃貸住宅補助金 ; その他(Other social policy areas) : その他、低収入家庭への補助、食料補助金など {{Wide image|Social expenditure Timeline in OECD.svg|800px|OECD各国の公的および義務的私的支出の推移(GDP比)}} === イギリス === {{Main|イギリスの福祉}} イギリスでは1601年のエリザベス救貧法により個別に実施されていた救貧行政は教区ごとに単位化された<ref name="standard47">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.47</ref>。そして貧民に対し労働能力に応じた対応を行った<ref name="standard47" />。また扶養義務者のいない児童に対しては徒弟奉公を行うことによって対策を講じた<ref name="standard47" />。 1782年、有能貧民の雇用あっせんや院外救済を内容とするギルバート法が制定された<ref name="standard452" />。 1834年には新救貧法が制定された<ref name="standard221">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.221</ref>。この新救貧法は[[トマス・ロバート・マルサス]]の「[[人口論|人口の原理]]」(1798年)の影響を強く受けており、救済水準の全国一律化、救済方法の限定(ワークハウスへの収容)、劣等処遇の原則などを内容とした<ref name="standard221" />。この新救民法による貧困層に対する公的救済の厳しい管理は1948年に国家扶助法が制定されるまで続いた<ref name="standard221" />。 === アメリカ合衆国 === アメリカでは1647年にロードアイランドで植民地救貧法が制定された<ref name="standard452">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.452</ref>。また1683年にはニューヨークで救貧法が制定された<ref name="standard452" />。 1877年、バッファローに[[慈善組織協会]]が設立された<ref name="standard452" />。 1935年、[[ニューディール政策]]の一環として[[社会保障 (アメリカ合衆国)|社会保障法]]が制定された<ref name="standard188">『標準社会福祉用語事典』2006年、p.188</ref>。社会保障法により連邦直営の老齢遺族年金、州営失業保険、公的扶助、福祉事業に対する州政府の補助金などが整備された<ref name="standard188" />。 === 日本 === {{Main|日本の福祉#歴史}} 日本の社会福祉の歴史は、[[聖徳太子]]が建立し現在もその名が残る「[[悲田院]]」などの救済施設まで溯ることができる。また、律令時代には天皇による賑恤([[賑給]])制度も存在した<ref>日本の社会福祉史・時代区分による特徴。2012年8月8日閲覧、http://www.kbc.gr.jp/ai/study/rekishi.htm</ref>。 日本において英国の救貧法と同種の初めての統一的法令は、[[明治]]7年([[1874年]])の[[恤救規則]]であった。また、[[昭和]]4年([[1929年]])には[[救護法]]、戦後には[[生活保護法]]が成立し、[[生存権]]の法整備が進められた<ref>『[[世界大百科事典]]』(1988年版)([[平凡社]])「公的扶助」の項目</ref>。 [[八巻正治]]は自著『聖書とハンディキャップ』の中で「高度に発達した今日のわが国の社会福祉は、それゆえに、ややもすると[[物質主義]]に陥ってしまい、それがために内面に位置づく<福祉の心>を次第に軽視しはじめ、逆に、表面的な福祉制度や施策・保障といったものが、それを真に必要としている人々をコントロールしているかのごとき悲しむべき現状があります。」と指摘している。 === 公的支出 === {{Main|社会保障}} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:right" |+ OECD各国の公的社会的支出のGDP比率%(2011年)<ref name="socx" /> ! !!メキシコ!!韓国!!チリ!!カナダ!!豪州!!米国!!スイス!!OECD平均!!ノルウェー!!英国!!日本!!オランダ!!ドイツ!!スペイン!!スウェーデン!!イタリア!!フィンランド!!デンマーク!!フランス |- |{{rh}}| 高齢者||1.6 ||2.1 ||2.6 ||4.0 ||5.0 ||6.0 ||6.5 ||7.4 ||7.1 ||6.1 ||10.4 ||6.2 ||8.6 ||8.9 ||9.4 ||13.4 ||10.6 ||8.4 ||12.5 |- |{{rh}}| 遺族||0.3 ||0.3 ||0.7 ||0.3 ||0.2 ||0.7 ||0.3 ||1.0 ||0.3 ||0.1 ||1.4 ||0.2 ||2.0 ||2.3 ||0.4 ||2.6 ||0.9 ||0.0 ||1.7 |- |{{rh}}| 障害者||0.1 ||0.5 ||0.8 ||0.8 ||2.6 ||1.4 ||2.6 ||2.2 ||3.9 ||2.5 ||1.0 ||3.3 ||2.0 ||2.6 ||4.3 ||1.8 ||4.0 ||4.7 ||1.7 |- |{{rh}}| 保健||2.8 ||4.0 ||3.2 ||7.2 ||5.8 ||8.0 ||6.5 ||6.2 ||5.6 ||7.7 ||7.7 ||7.9 ||8.0 ||6.8 ||6.7 ||7.0 ||5.7 ||6.7 ||8.6 |- |{{rh}}| 家族||1.1 ||0.9 ||1.3 ||1.2 ||2.8 ||0.7 ||1.4 ||2.2 ||3.1 ||4.0 ||1.4 ||1.6 ||2.2 ||1.4 ||3.6 ||1.5 ||3.2 ||4.0 ||2.9 |- |{{rh}}| 積極的労働政策||0.0 ||0.3 ||0.3 ||0.2 ||0.3 ||0.1 ||0.6 ||0.5 ||0.6 ||0.4 ||0.2 ||1.1 ||0.8 ||0.9 ||1.2 ||0.4 ||1.0 ||2.2 ||0.9 |- |{{rh}}| 失業||N/A||0.3 ||0.0 ||0.7 ||0.5 ||0.8 ||0.6 ||1.0 ||0.4 ||0.4 ||0.3 ||1.5 ||1.2 ||3.5 ||0.4 ||0.8 ||1.7 ||2.2 ||1.6 |- |{{rh}}| 住宅||1.1 ||N/A||1.0 ||0.3 ||0.3 ||0.3 ||0.1 ||0.4 ||0.2 ||1.5 ||0.1 ||0.4 ||0.6 ||0.2 ||0.4 ||0.0 ||0.5 ||0.7 ||0.8 |- |{{rh}}| その他||0.8 ||0.6 ||0.3 ||2.6 ||0.3 ||0.9 ||0.7 ||0.5 ||0.7 ||0.2 ||0.5 ||1.3 ||0.2 ||0.2 ||0.7 ||0.0 ||0.8 ||1.0 ||0.6 |- style="font-weight:bold; background:#ddd;" | 計||7.7 ||9.0 ||10.1 ||17.4 ||17.8 ||19.0 ||19.3 ||21.4 ||21.8 ||22.7 ||23.1 ||23.5 ||25.5 ||26.8 ||27.2 ||27.5 ||28.3 ||30.1 ||31.4 |} === 私的支出 === {{Seealso|慈善活動|慈善団体}} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align:right" |+ OECD各国の私的社会的支出のGDP比率%(2011年)<ref name="socx" /> ! !!メキシコ!!スペイン!!イタリア!!ノルウェー!!スウェーデン!!フィンランド!!韓国!!ドイツ!!イスラエル!!OECD<br>平均!!スウェーデン!!豪州!!日本!!フランス!!カナダ!!デンマーク!!英国!!オランダ!!米国 |- |{{rh}}| 高齢者 ||N/A|| 0 || 0.3 || 0.7 || 0 || 0.2 || 0.1 || 0.8 ||N/A|| 1.6 || 2.6 || 2.1 || 2.7 || 0.1 || 3.3 || 4.7 || 4.5 || 4.3 || 4.5 |- |{{rh}}| 障害者 ||N/A||N/A|| 0 || 0.2 || 0 || 0.7 || 0 || 0.1 ||N/A|| 0.3 || 0.2 ||N/A||N/A|| 0.8 ||N/A|| 0 || 0.4 || 0.4 || 0.3 |- |{{rh}}| 保健 || 0.2 || 0.5 || 0.1 ||N/A|| 0.9 || 0.2 || 0.1 || 1.1 || 0.8 || 0.7 || 0 || 0.8 || 0.2 || 1.5 || 1.3 || 0.2 || 0.3 || 0.6 || 5.8 |- |{{rh}}| その他 ||N/A||N/A|| 0.4 ||N/A|| 0.1 || 0.1 || 1.4 || 0 ||N/A|| 1 || 0 || 0 || 0 || 0.9 || 0 || 0 || 0 || 1.4 || 0 |- style="font-weight:bold; background:#ddd;" | 計 || 0.2 || 0.5 || 0.8 || 0.9 || 1.0 || 1.2 || 1.5 || 2 || 2.1 || 2.2 || 2.8 || 2.9 || 3 || 3.3 || 4.6 || 4.9 || 5.3 || 6.8 || 10.5 |} == 人以外の他の動物の福祉 == {{Main|動物福祉}} == 年表 == {{See also|社会福祉の年表}} * [[6世紀]]:[[聖徳太子]]が[[悲田院]]を設置。[[四天王寺]]に四箇院として施薬院、悲田院・敬田院・療病院を建てた<ref name=kamo>{{PDFlink|[http://www.kamamat.org/yomimono/ronbun/kamo.pdf 日本の社会保障制度の形成]}}加茂直樹、京都女子大学大学院現代社会研究科博士後期課程研究紀要 2 1-27, 2008-03-31 </ref>。 * [[8世紀]]:[[施薬院]]設置 * [[13世紀]]:[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]の[[叡尊]]による[[非人]]救済<ref name=kamo/> * [[1531年]]:[[救貧法]]、[[英国]] * [[1871年]]:[[瓜生岩子]]、[[深川]]の[[佐倉藩]]の孤児老人収容所「救養会所」視察し、救民運動始める * [[1872年]]:[[東京府]][[養育院]] 設立。[[赤帽子三楽]](斎藤芳次郎)、貧民救済始める<ref>{{PDFlink|[https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/12/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A6%8F%E7%A5%89%E3%81%AE%E5%85%88%E9%A7%86%E8%80%85%E3%80%80%E8%B5%A4%E5%B8%BD%E5%AD%90%E4%B8%89%E6%A5%BD%E3%80%80%E6%9C%A8%E6%9D%91%E9%AB%99%E4%B9%85.pdf 社会福祉の先駆者 赤帽子三楽]}}木村高久、横浜歴史研究会、2018/12</ref> * [[1873年]]:小野慈善院(現在:「陽風園」、[[金沢市]]) 設立<ref>http://www.yofuen.com/profile/history.html 陽風園のご案内 / 沿革</ref> * [[1874年]]:[[恤救規則]] * [[1878年]]:[[社会主義者鎮圧法]]、[[ドイツ]] * [[1883年]]:疾病保険、ドイツ * [[1884年]]:災害保険、ドイツ * [[1889年]]:障害老齢保険、ドイツ * [[1890年]]:[[スウェーデン]]、[[高齢化社会]] * [[1892年]]:「陸軍軍人傷痍疾病恩給等差例」(陸軍省陸達第96号) * [[1895年]]:聖ヒルダ養老院<ref>http://www.hiruda.or.jp/outline100.htm 社会福祉法人 聖ヒルダ会</ref> 設立 * [[1919年]]:[[ヴァイマル憲法]]制定 * [[1923年]]:[[恩給法]] * [[1926年]]:[[幼稚園令]] * [[1929年]]:[[救護法]] * [[1938年]]:幼稚園に対する要領 * [[1942年]]:[[ベヴァリッジ報告]]、[[英国]] * [[1946年]]:[[日本国憲法]]公布 * [[1947年]]:[[児童福祉法]]制定 ** [[教育基本法]]制定 ** [[学校教育法]]制定 * [[1948年]]:「[[保育要領]]」[[文部省]] ** [[世界人権宣言]] 採択 ** [[民生委員法]] * [[1949年]]:[[身体障害者福祉法]] * [[1950年]]:「[[保育所運営要領]]」[[厚生省]] ** [[生活保護法]] ** [[精神保健福祉法]] * [[1956年]]:[[幼稚園教育要領]] * [[1960年]]:[[知的障害者福祉法]] * [[1961年]]:[[国民皆保険]] * [[1963年]]:[[老人福祉法]]制定 * [[1964年]]:母子福祉法制定(のちに[[母子及び父子並びに寡婦福祉法]]に改正) * [[1965年]]:[[母子保健法]]改正:[[母子健康手帳]] * [[1970年]]:[[障害者基本法]]制定 * [[1971年]]:[[児童手当法]] * [[1982年]]:スウェーデン、[[高齢社会]]。「社会サービス法(SoL:[[:sv:Socialtjänstlagen|Socialtjänstlagen]])」制定 * [[1983年]]:スウェーデン、「保険・医療サービス法(HsL:[[:sv:Hälso- och sjukvårdslagen|Hälso- och sjukvårdslagen]])」制定 * [[1987年]]:[[社会福祉士及び介護福祉士法]]制定 * [[1989年]]:[[高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略]]([[ゴールドプラン (厚生労働省)|ゴールドプラン]])制定 ** [[児童の権利に関する条約]]採択 * [[1992年]]1月:[[スウェーデン]] [[エーデル改革]] * [[1994年]]:[[ゴールドプラン (厚生労働省)|新ゴールド・プラン]]、[[エンゼル・プラン]] * [[1996年]]:人責任・就労機会調停法('''PRWORA''', [[:en:Personal Responsibility and Work Opportunity Act|Personal Responsibility and Work Opportunity Act]])[[アメリカ合衆国]] * [[1997年]]:[[精神保健福祉士法]]制定 * [[1998年]]:[[特定非営利活動促進法]]制定 * [[1999年]]:[[ゴールドプラン (厚生労働省)|ゴールドプラン21]]、[[新エンゼル・プラン]] ** [[任意後見契約に関する法律]] * [[2000年]]:[[介護保険法]] * [[2001年]]:[[国際生活機能分類]](ICF)、[[世界保健機関]] ** [[待機児童ゼロ作戦]] * [[2002年]]:[[身体障害者補助犬法]]制定 * [[2003年]]:「2015年の高齢者介護<ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/kentou/15kourei/index.html 高齢者介護研究階報告書「2015年の高齢者介護」]厚生労働省老健局総務課企画法令係</ref>」、[[少子化対策プラスワン]] ** [[少子化社会対策基本法]]施行 ** 同年1年次入学生より、[[高等学校]]の[[専門教科]]に「[[福祉 (教科)|福祉]]」が追加される。 * [[2004年]]:[[発達障害者支援法]] ** スウェーデン、ケアの質と技術の開発委員会(Kompetensstegen) * [[2005年]]:[[障害者自立支援法]]制定 ** [[高齢者虐待防止法]] * 2005年 - [[2009年]]:[[子ども・子育て応援プラン]] * [[2006年]]:[[障害者権利条約]]採択 * [[2008年]]:[[新待機児童ゼロ作戦]] * [[2010年]]:[[子ども・子育てビジョン]] * [[2011年]]:[[障害者虐待防止法]] * 2012年:[[障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律|障害者総合支援法]]成立 * 2013年:生活困窮者自立支援法 * 2018年:障害者差別解消法 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Welfare}} {{Refbegin|2}} * [[ベーシックインカム]] * [[w:Bet Tzedek Legal Services – The House of Justice|Bet Tzedek Legal Services – The House of Justice]] * [[w:Cloward–Piven strategy|Cloward–Piven strategy]] * [[人間貧困指数]] * [[w:Jobseeker's Allowance|Jobseeker's Allowance]] * [[w:Lerman ratio|Lerman ratio]] * [[w:List of countries by Social Progress Index|List of countries by Social Progress Index]] * [[w:Nordic model|Nordic model]] * [[十分な生活水準を保持する権利]] * [[社会民主主義]] * [[社会自由主義]] * [[ソーシャルサポート]] * [[失業給付]] * [[w:Welfare's effect on poverty|Welfare's effect on poverty]] * [[福祉国家論]] * [[w:Welfare trap|Welfare trap]] * [[w:Workfare|Workfare]] * [[パンとサーカス]] * [[動物福祉]] {{Refend}} {{ヨーロッパの題材|福祉|mode=3}} {{アジアの題材|福祉|mode=3}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふくし}} [[Category:福祉|*]]
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アマチュア
アマチュア(英: amateur)は、芸術・学問・スポーツなどを、職業ではなく、趣味や余技として行う事であって、素人や愛好家とも言う。よく「アマ」と略される。対義語はプロフェッショナル(professional。金銭を得る人)。 「アマチュア」はラテン語の「amator」(=愛好家)が語源である。スポーツにおいて、「福祉的目的でスポーツを行う者は、アマチュアでなくてはならない」という。あるいは「健康増進としてアマチュア精神に従って行うのがよい」という考え方の主張はアマチュアリズムと呼ばれる。 プロとアマチュアを区分することについて、日本ゴルフ協会は「特別な報酬を目的としない、ゴルフの挑戦に対してプレーするというアマチュアに適切なルールを持たせる。一方でプロフェッショナルとしてゴルフをプレーするプレーヤーを侵害しないことにします」と、その意義を謳っている。 アマチュアやアマチュアリズムは、スポーツの分野で重要な役割を果たしてきた歴史があるが、他の分野でも、人々の無償での参加によって発展している分野は多い。たとえば、アマチュア無線は無線の技術発展に大きく貢献し、アプリケーションソフトウェアの分野では、無償で作られたフリーソフトウェアが、コンピュータプログラムに利用されている。特に、多くの有志が参加する方式でソフトウェア開発を行う「バザール方式」は優れた方法とされる。 その他、昆虫学・天文学といった分野で、アマチュアは一定の役割を果たしてきた。その一方、大半のアマチュアは「プロが積んだ努力を知らず、自分勝手なルールを振りかざす」ので、学術的には「研究ごっこ」に過ぎないとも指摘される。 報酬を目的に競技するのではなく、楽しみながらスポーツを純粋に愛好する人をアマチュアといい、その精神(スピリット)をアマチュアリズムという。 アマチュアリズムが根幹を成しているスポーツや、アマチュアのみによって行われているスポーツ種目などをアマチュア・スポーツと言う。対義語はプロフェッショナルスポーツ。 近代のスポーツ大会はアマチュアリズムによって発展してきた歴史がある。1896年に始まった近代オリンピックは参加資格をアマチュアに限定しており、オリンピック憲章の「アマチュア条項」が設けられた。人々はアマチュアリズムで大会に挑むことを喜びとしていた。各国のオリンピック委員会などの規定でも、国際競技連盟でも(解釈に若干の違いはあるものの)おおむね継承されていた。だが、1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの水準の向上などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなる事態が起きており、ついにはスポーツ界はアマチュア規定緩和の方向へと進み、1962年にはクリケットがアマチュア規定を廃止し、1968年にはテニスのウィンブルドン大会がプロフェッショナルにも開放された。1974年にはついにオリンピック憲章の「アマチュア条項」からもアマチュアに関する規定が削除された。 18世紀のイギリスのスポーツ界では「ジェントルマン」という用語がアマチュアと同義語として使われており、当時は「ジェントルマンでなければアマチュアでない」とされた。 「アマチュア」という言葉がスポーツに初めて取り入れられたのは、1839年にイギリスで行われたボートレースのヘンリー・ロイヤル・レガッタである。この1839年のヘンリー・ロイヤル・レガッタで決められた参加資格が、(成文化こそされなかったものの)世界で初めてのアマチュア規定であった。規定が初めて成文化されたのは、1866年のイギリス陸上競技選手権大会である。(ただし、その内容は、スポーツによって生計を営む者だけでなく、職業をもつすべての労働者もアマチュアから締め出すものであった。イギリスは、階級意識が強く、「スポーツは上流階級の人々同士で行うもの」というのが、当時の(上流階級の)社会通念であった。 だが、海をへだてたアメリカ合衆国では、1868年にアマチュア競技会への参加規定が決められたが、(イギリスのそれとは趣旨が大きく異なり)、プロ野球の創設・発展、多額の賞金や賭博行為の増加・横行などによって腐敗が進み、プロフェッショナル競技者とアマチュア競技者の区別を明確化する必要に迫られたからである。アメリカでは(イギリスのようには)労働者階級を排除する内容はなかった。 イギリスでもその後次第に労働者の社会的地位が向上し、労働者にもスポーツに参加するようになって、スポーツは大衆化へと進んでいった。 近代オリンピックは1896年アテネオリンピックに始まったわけであるが、参加資格をアマチュアに限定していた。国際オリンピック委員会は、1901年に初めて各競技種目共通の規定を作ったが、その内容は次の3つに該当する者はアマチュアとして認めない、というものである。 スポーツ競技で多くの人が競い合う場合、同じような資質を持っている人々では、年月をかけてトレーニングを十分に積んだ人が有利になる傾向がある。貴族や紳士は、領地などからの収入があり、生活に追われ時間を割く必要もないので、ふんだんにトレーニングに時間を割けるわけである。 上述のように、労働者階級もアマチュアとして、つまり趣味として、スポーツを楽しむことができるようになったわけだが、労働者階級の人がスポーツのトレーニングに日々の時間の大半を割こうとするようになると、(領地からの収入が無い労働者の場合)生きるために必要な生活費をどのように得るか、という問題が生じることになる。 スポーツ競技の大規模な大会は、人々の注目を引く。注目が集まる場というのは、大抵 宣伝に利用される。国家権力者はオリンピックに着目し、国家の宣伝の場として利用するようになった。自国から参加させる選手に上位を多くとらせることで、見る人々に、その国の体制が優れている、という印象を植え付けようとした。ナチス・ドイツは、1936年のベルリンオリンピックをプロパガンダの目的に使った。 第二次世界大戦後になると、ソビエト社会主義共和国連邦などの共産主義諸国(東側諸国)がオリンピックを宣伝目的に使い、それに対抗するように、アメリカ合衆国などの資本主義諸国(西側諸国)も行うようになった。 社会主義国では、競技者の生活を補償する必要に迫られ、国家が(トレーニングにだけ集中できる生活環境を無償で提供して)養成する選手(ステート・アマチュア)が登場し、米国では、奨学金によってスポーツに励む選手(スカラシップ・アマチュア)が登場し、他の多く資本主義国でも、スポンサーや企業の援助を受けて(生活環境や道具を整えてもらい)その代償として宣伝に使われる選手(コマーシャル・アマチュア)が誕生した。 たとえば「ステート・アマ」とはスポーツに専念できる環境を国家によって与えられた者であり、トレーニング期間中や競技者でいる期間は金銭は得ていないので一応は「アマチュア」ではあるものの、メダルを獲得すれば将来、競技者を引退後、一般人よりも恵まれた年金を与えられるなど別の形で金銭的見返りがあった。ステート・アマをアマチュアのカテゴリとして捉えてよいのかについては議論の余地が残る。同様にコマーシャル・アマチュアも(現金は得ていない場合でも、実際には貨幣に換算可能な現物を支給されており)アマチュアのカテゴリに入るのか議論の余地が残る。 1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの「水準の向上」(≒尋常でないトレーニング量が要求される質、技)などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなってきていた。(西側世界(資本主義の諸国)では、スポーツ大会やアスリートに対する商業主義の侵食も激しくなった。)ついにはアマチュア規定緩和の方向へと進み、1962年にはクリケットがアマチュア規定を廃止し、1968年にはテニスのウィンブルドン大会がプロフェッショナルにも開放された。 IOCは、ステート・アマに対する西側からの批判、更にプロ選手を出場させる事によって得られそうな経済的な見返りから、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回国際オリンピック委員会総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除し、オリンピックの「オープン化」を図り、アマ/プロの区別なく参加できるようになり、アマチュアからプロへ転向する選手や、プロであることの宣言を行う選手が出るようになった。 日本のスポーツ牽引してきた要素として学校スポーツと企業スポーツがある。これらはいずれもアマチュアスポーツとして発足したが、オリンピックと同じく現状でアマチュアである事に意味が見出せなくなっている。現状でもこれらがアマチュアスポーツであるという理解の仕方は存在するが、アマチュアの定義や学校スポーツ・企業スポーツの現状を無視したものであり、精神的にでクラシカルな認識、定義の方法である。 学校スポーツは高校や大学の体育会系で行われているスポーツである。特に後者については企業スポーツが整備されるまでは日本のスポーツの牽引役を担ってきた歴史がある。柔道などでは形式上企業スポーツに移行した選手でも実体は出身校などの学校スポーツで普段練習しているケースもある。現状においてはこれらのトッププレイヤーはスポーツで活躍する事を期待され入学を許可されていたり、その見返りとして学費や部費の免除が与えられている。これらは「スポーツ特待生制度」などと呼称されるが、これは経済的な見返りではなく、特に私立学校の選手はステート・アマの一種とみなされることもある。 企業スポーツは会社内の同好会やサークルとして始まったものである。1960年代以降全国規模のリーグ戦が実施されるようになって企業アマ(あるいはコーポレート・アマ)と呼ばれる形態が成立し、それ以前の大学スポーツに代わって国内スポーツのけん引役を担うようになった。企業アマとは社員・職員の福利厚生や健康増進、若しくは企業の対外的な宣伝効果を名目として、所属する企業から金銭的支援システムがあった。例えば就業時間内に練習をしても、あるいはスポーツ活動専業で社業に従事していなくても、就業したものと見なして賃金を払ったり、体育館やグランドの整備に会社からの金銭的支援があるという仕組みであった。こうした企業アマについてもステート・アマと同じく「アマチュア」と呼んでいいのかについて議論の余地が存在する。企業によるスポーツ活動はあくまでも企業メセナの一環であり、会社の業績如何、若しくは全体的な好不況の如何によって整理、廃止される事がある。リーグ自体が存在できなくなったという場合も想定できる。 西ヨーロッパで重要な位置を占めているアスレチッククラブ、スポーツクラブなどでの社会スポーツの形態は日本ではレクリエーションスポーツや習い事としては盛んである。チャンピオンスポーツ・トップレベルの選手育成をこの社会スポーツに主流をおいているのは水泳、アーティスティックスイミング、フィギュアスケート、体操、ゴルフなど一部の競技に限定されてきた。1990年代以降になってJリーグはこうしたスポーツクラブの形態を積極的に推奨した。また、バブル崩壊以降の景気後退の局面で、経済的な判断によって企業から放り出されたチームが積極的に企業スポーツから社会スポーツに転換する例も見られるようになった。こうした経緯によって、社会スポーツは既存の学校スポーツや企業スポーツに次ぐ第三のスポーツの場として、日本でも重要度が増してきている。Jリーグにおいては年代別チーム(ユース、ジュニアユース、ジュニア)の所有を義務付けており、また、これ以外にも女子チームやアマチュアチームを所有するクラブが存在する。またサッカーに限らず幅広いスポーツの普及、選手の育成に乗り出すクラブも存在する。Jリーグ主導のクラブは既に収入を得る仕組みを有しているためクラブ財政が許容する範囲で選手に支援する事が可能である。また、これ以外のスポーツクラブについてもトップレベルの選手を商業的に利用したり、クラブがスポンサーからの提供によって運営資金を得ている。この範囲の中で選手にお金をかけるのはJリーグクラブと共通である。また、柔道やレスリング、相撲などを除くマイナー格闘技、マイナー武道や武術の世界はトップレベルの選手育成も含め社会スポーツ中心で古くから行われている。この社会スポーツが「真のアマチュア」と捉えられているが、自らや家族の金銭的支援が多く、貧困層の参加が困難であり、スポーツ界における経済力での差別を生む要因および「スポーツの貴族回帰」との批判がある。 全てのスポーツが程度の差はあるが上記のような現状であると理解して構わない。トップレベルの選手はアマチュアでないことが多いが、アマチュアでなくてもオリンピックやその他国際大会には出場可能である。また国内大会でも国体やインターハイ、インターカレッジも出場可能な方向へ徐々に改められている。このため、アマチュアでないことに対して特段問題になる事はないため選手の実態についても問題にされる事はない。 日本の野球では、日本プロ野球以外のものを総称してアマチュア野球にカテゴライズしている。この解釈は「プロフェッショナル以外は全てアマチュア」という二元論であり、この定義は他のスポーツと比べて極めて特異である。野球以外のスポーツについても学校や企業のスポーツが無条件でアマチュアであるという古典的な理解の仕方がまかり通るのは野球の影響するところが大きい。 この特異さは選手(特にトップレベルの多く)の実態がアマチュアでない(=全国大会で優勝しようものなら高い名声を得て、プロ野球から引く手数多となる)高校野球、大学野球、社会人野球においてしばしば問題化する。選手の実態としてはこれらの野球においても他の競技の学生スポーツ、企業スポーツと変わるところはない。日本の野球が極めて特異なのはこうした選手の実態を完全に無視して「アマチュア」野球であると主張しているところに存在し、これは建前としてはアマチュア野球選手はあくまでも「アマチュア」であると主張するものである。このため実態と建前を分けて理解する必要に迫られる。 さらに特異なのは他のスポーツを掌握する組織の傘下に野球が属していない(高野連は高体連に、日本学生野球協会は日本体育協会に属していない独自の組織)か、属していても対外的な大会に参加するための組織と国内大会に参加するための組織がバラバラであることなどから他のスポーツの基準や潮流が野球に関して全く適用されない事である。「アマチュア」の規定に関して既に日本の野球、独自のローカルルールになっているのは既に述べたとおりである。また、他のスポーツでは最近の潮流として「アマチュアでない」状態が追認されているが、日本のアマチュア野球では歴史的な経緯からプロ野球との明確な差異を求められる事はないが、急激なアマチュアリズムへの回帰が行われることがある。 日本におけるボクシングの「プロフェッショナル」「アマチュア」も特異的な性格を持っている。カテゴライズとしては日本ボクシングコミッション(JBC)及び日本プロボクシング協会(JPBA)が関わるものを「プロボクシング」、日本ボクシング連盟(JABF)が関わるものを「アマチュアボクシング」としているが、JBC/JPBAでは同団体が関係しない競技をすべて「アマチュア」、一方でJABFでは同団体が関係しない競技をすべて「プロフェッショナル」とみなしている。しかし、国内ではJBC/JPBA、JABFいずれも直轄しない競技団体(ザ・おやじファイト、かつての日本女子ボクシング協会など)も存在しているため第三者から見た場合見方によっては「プロフェッショナル」「アマチュア」双方に含まれると言う矛盾も発生している。 また、JBC/JPBAにおいては「プロボクサー」活動での報酬を受け取っていない選手やボクシングジムを所有して所属する選手を「社員」として雇用する企業も存在しており、実態としては他のスポーツにおける「アマチュア」と「プロフェッショナル」が混合しているとされる。 ゴルフの場合、プロゴルファーとしての資格だけでなくアマチュア資格も存在し、日本では日本ゴルフ協会が管理している。ゴルフに関して報酬を受け取るなどの、アマチュア資格規則への違反行為があればアマチュア資格を喪失し、「プロでもアマチュアでもない」状態となる。 将棋においては、日本将棋連盟や日本女子プロ将棋協会などに属する棋士、女流棋士が「プロ」でそれ以外の者が「アマチュア」となっており、いわゆるアマチュア棋戦の参加権は後者に限定されている。ただし、プロを目指して奨励会に入ったもののプロになれなかった元奨励会員がアマチュア棋戦に参加することやアマチュアのトップレベルがプロ棋戦に(棋戦独自の規定により)参加することは普通のことである。かつては将棋連盟所属ではなく賭け将棋によって生計を立てていた真剣師という職業も存在していた(真剣師はアマチュア棋戦に参加した実例があり、アマチュア名人戦優勝者もいる)。現在では真剣師という職業はなくなり、女流棋士の一部を除いてプロ棋士は対局と普及活動によって生計を立てておりかつてのように副業やスポンサーからの支援に頼っている棋士は存在しないため、プロとアマの境界線は「対局で報酬を受け取れる者がプロ、それ以外がアマ」という古典的分類に落ち着いている(棋士の待遇改善や賭け将棋への取り締まりもあって、「プロとアマの境界線が明確になる方向に事態が推移する」という、スポーツとは反対の流れになった)。 ただし、境界線が明確となったことは必ずしも「プロとアマチュアの垣根がある」ことを意味するものではない。81Dojoや将棋倶楽部24などといったネット将棋の普及により、アマチュアとプロが対局できる環境となっており、ネット将棋で腕を上げたアマチュアがプロ入りした例や、奨励会員がネット将棋を練習の場とする例もある。さらに、プロの棋戦にあるアマチュア枠から出場したトップアマがプロ棋士と互角以上の戦いを見せる例もあり、特例として瀬川晶司のプロ編入試験が行われ、さらにはプロ編入試験が制度化されるに至っている。 よって2019年11月現在における一般的解釈では、「日本将棋連盟」または「日本女子プロ将棋協会」に所属する「棋士」・「女流棋士」が「プロ」と定義され、逆説的にそれ以外の者が「アマチュア」と考え得る。 無線通信をアマチュア無線局が開拓・開発していったという歴史的経緯もあって、国際電気通信連合による国際電気通信連合憲章上の無線通信規則や、日本の電波法制上もアマチュア無線が位置づけられており、周波数帯や、国家資格であるアマチュア無線技士による無線従事者免許証制度も、商用の業務無線とは別個に存在する。 電波法に「アマチュア業務」とあるように、行動により区分される。つまり、アマチュア無線かどうかは属人的なものではなく、無線従事者を職業として行う人であっても容認(相手方がアマチュア局)されているものであればアマチュア無線を行うことができる。 また電波法にあるとおり、日本国においてアマチュア無線は業務であり、日本の無線通信においてのアマチュアは非営利無線業務を行うプロフェッショナルである。 アマチュア無線家は災害時に活躍し、たとえば日本では阪神・淡路大震災や東日本大震災など、大規模災害時などにおける非常通信などでは、重要な役割を担っている。 そして日本アマチュア無線連盟(JARL)により、非常通信の支援や、趣味の範疇における無線活動の活性化が行われている。 日本アマチュア無線連盟(JARL)では、「アマチュア」に対して以下の定義を行っている。 以上の5項目を、アマチュア無線家に提唱している。 クラシック音楽の演奏を趣味とするアマチュアの演奏家が自主的に集まって活動する管弦楽団を、アマチュア・オーケストラ(アマオケ)と呼ぶ。 クラシック音楽以外ではアマチュアによるバンド活動(アマチュアバンド)があるほか、吹奏楽団、合唱団、和楽器の演奏など各種の団体・個人が存在する。 いずれも演奏により報酬を得る目的ではないため、活動資金は「団費」として参加者自身が拠出したり、チケットの自主販売や寄付を募る等によって賄う。 日本全国のアマチュア・オーケストラ活動を促進するため、1972年に日本アマチュアオーケストラ連盟が結成されている。
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"概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "報酬を目的に競技するのではなく、楽しみながらスポーツを純粋に愛好する人をアマチュアといい、その精神(スピリット)をアマチュアリズムという。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アマチュアリズムが根幹を成しているスポーツや、アマチュアのみによって行われているスポーツ種目などをアマチュア・スポーツと言う。対義語はプロフェッショナルスポーツ。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "近代のスポーツ大会はアマチュアリズムによって発展してきた歴史がある。1896年に始まった近代オリンピックは参加資格をアマチュアに限定しており、オリンピック憲章の「アマチュア条項」が設けられた。人々はアマチュアリズムで大会に挑むことを喜びとしていた。各国のオリンピック委員会などの規定でも、国際競技連盟でも(解釈に若干の違いはあるものの)おおむね継承されていた。だが、1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの水準の向上などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなる事態が起きており、ついにはスポーツ界はアマチュア規定緩和の方向へと進み、1962年にはクリケットがアマチュア規定を廃止し、1968年にはテニスのウィンブルドン大会がプロフェッショナルにも開放された。1974年にはついにオリンピック憲章の「アマチュア条項」からもアマチュアに関する規定が削除された。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "18世紀のイギリスのスポーツ界では「ジェントルマン」という用語がアマチュアと同義語として使われており、当時は「ジェントルマンでなければアマチュアでない」とされた。 「アマチュア」という言葉がスポーツに初めて取り入れられたのは、1839年にイギリスで行われたボートレースのヘンリー・ロイヤル・レガッタである。この1839年のヘンリー・ロイヤル・レガッタで決められた参加資格が、(成文化こそされなかったものの)世界で初めてのアマチュア規定であった。規定が初めて成文化されたのは、1866年のイギリス陸上競技選手権大会である。(ただし、その内容は、スポーツによって生計を営む者だけでなく、職業をもつすべての労働者もアマチュアから締め出すものであった。イギリスは、階級意識が強く、「スポーツは上流階級の人々同士で行うもの」というのが、当時の(上流階級の)社会通念であった。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "だが、海をへだてたアメリカ合衆国では、1868年にアマチュア競技会への参加規定が決められたが、(イギリスのそれとは趣旨が大きく異なり)、プロ野球の創設・発展、多額の賞金や賭博行為の増加・横行などによって腐敗が進み、プロフェッショナル競技者とアマチュア競技者の区別を明確化する必要に迫られたからである。アメリカでは(イギリスのようには)労働者階級を排除する内容はなかった。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イギリスでもその後次第に労働者の社会的地位が向上し、労働者にもスポーツに参加するようになって、スポーツは大衆化へと進んでいった。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "近代オリンピックは1896年アテネオリンピックに始まったわけであるが、参加資格をアマチュアに限定していた。国際オリンピック委員会は、1901年に初めて各競技種目共通の規定を作ったが、その内容は次の3つに該当する者はアマチュアとして認めない、というものである。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "スポーツ競技で多くの人が競い合う場合、同じような資質を持っている人々では、年月をかけてトレーニングを十分に積んだ人が有利になる傾向がある。貴族や紳士は、領地などからの収入があり、生活に追われ時間を割く必要もないので、ふんだんにトレーニングに時間を割けるわけである。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上述のように、労働者階級もアマチュアとして、つまり趣味として、スポーツを楽しむことができるようになったわけだが、労働者階級の人がスポーツのトレーニングに日々の時間の大半を割こうとするようになると、(領地からの収入が無い労働者の場合)生きるために必要な生活費をどのように得るか、という問題が生じることになる。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スポーツ競技の大規模な大会は、人々の注目を引く。注目が集まる場というのは、大抵 宣伝に利用される。国家権力者はオリンピックに着目し、国家の宣伝の場として利用するようになった。自国から参加させる選手に上位を多くとらせることで、見る人々に、その国の体制が優れている、という印象を植え付けようとした。ナチス・ドイツは、1936年のベルリンオリンピックをプロパガンダの目的に使った。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後になると、ソビエト社会主義共和国連邦などの共産主義諸国(東側諸国)がオリンピックを宣伝目的に使い、それに対抗するように、アメリカ合衆国などの資本主義諸国(西側諸国)も行うようになった。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "社会主義国では、競技者の生活を補償する必要に迫られ、国家が(トレーニングにだけ集中できる生活環境を無償で提供して)養成する選手(ステート・アマチュア)が登場し、米国では、奨学金によってスポーツに励む選手(スカラシップ・アマチュア)が登場し、他の多く資本主義国でも、スポンサーや企業の援助を受けて(生活環境や道具を整えてもらい)その代償として宣伝に使われる選手(コマーシャル・アマチュア)が誕生した。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "たとえば「ステート・アマ」とはスポーツに専念できる環境を国家によって与えられた者であり、トレーニング期間中や競技者でいる期間は金銭は得ていないので一応は「アマチュア」ではあるものの、メダルを獲得すれば将来、競技者を引退後、一般人よりも恵まれた年金を与えられるなど別の形で金銭的見返りがあった。ステート・アマをアマチュアのカテゴリとして捉えてよいのかについては議論の余地が残る。同様にコマーシャル・アマチュアも(現金は得ていない場合でも、実際には貨幣に換算可能な現物を支給されており)アマチュアのカテゴリに入るのか議論の余地が残る。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの「水準の向上」(≒尋常でないトレーニング量が要求される質、技)などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなってきていた。(西側世界(資本主義の諸国)では、スポーツ大会やアスリートに対する商業主義の侵食も激しくなった。)ついにはアマチュア規定緩和の方向へと進み、1962年にはクリケットがアマチュア規定を廃止し、1968年にはテニスのウィンブルドン大会がプロフェッショナルにも開放された。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "IOCは、ステート・アマに対する西側からの批判、更にプロ選手を出場させる事によって得られそうな経済的な見返りから、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回国際オリンピック委員会総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除し、オリンピックの「オープン化」を図り、アマ/プロの区別なく参加できるようになり、アマチュアからプロへ転向する選手や、プロであることの宣言を行う選手が出るようになった。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "日本のスポーツ牽引してきた要素として学校スポーツと企業スポーツがある。これらはいずれもアマチュアスポーツとして発足したが、オリンピックと同じく現状でアマチュアである事に意味が見出せなくなっている。現状でもこれらがアマチュアスポーツであるという理解の仕方は存在するが、アマチュアの定義や学校スポーツ・企業スポーツの現状を無視したものであり、精神的にでクラシカルな認識、定義の方法である。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "学校スポーツは高校や大学の体育会系で行われているスポーツである。特に後者については企業スポーツが整備されるまでは日本のスポーツの牽引役を担ってきた歴史がある。柔道などでは形式上企業スポーツに移行した選手でも実体は出身校などの学校スポーツで普段練習しているケースもある。現状においてはこれらのトッププレイヤーはスポーツで活躍する事を期待され入学を許可されていたり、その見返りとして学費や部費の免除が与えられている。これらは「スポーツ特待生制度」などと呼称されるが、これは経済的な見返りではなく、特に私立学校の選手はステート・アマの一種とみなされることもある。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "企業スポーツは会社内の同好会やサークルとして始まったものである。1960年代以降全国規模のリーグ戦が実施されるようになって企業アマ(あるいはコーポレート・アマ)と呼ばれる形態が成立し、それ以前の大学スポーツに代わって国内スポーツのけん引役を担うようになった。企業アマとは社員・職員の福利厚生や健康増進、若しくは企業の対外的な宣伝効果を名目として、所属する企業から金銭的支援システムがあった。例えば就業時間内に練習をしても、あるいはスポーツ活動専業で社業に従事していなくても、就業したものと見なして賃金を払ったり、体育館やグランドの整備に会社からの金銭的支援があるという仕組みであった。こうした企業アマについてもステート・アマと同じく「アマチュア」と呼んでいいのかについて議論の余地が存在する。企業によるスポーツ活動はあくまでも企業メセナの一環であり、会社の業績如何、若しくは全体的な好不況の如何によって整理、廃止される事がある。リーグ自体が存在できなくなったという場合も想定できる。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西ヨーロッパで重要な位置を占めているアスレチッククラブ、スポーツクラブなどでの社会スポーツの形態は日本ではレクリエーションスポーツや習い事としては盛んである。チャンピオンスポーツ・トップレベルの選手育成をこの社会スポーツに主流をおいているのは水泳、アーティスティックスイミング、フィギュアスケート、体操、ゴルフなど一部の競技に限定されてきた。1990年代以降になってJリーグはこうしたスポーツクラブの形態を積極的に推奨した。また、バブル崩壊以降の景気後退の局面で、経済的な判断によって企業から放り出されたチームが積極的に企業スポーツから社会スポーツに転換する例も見られるようになった。こうした経緯によって、社会スポーツは既存の学校スポーツや企業スポーツに次ぐ第三のスポーツの場として、日本でも重要度が増してきている。Jリーグにおいては年代別チーム(ユース、ジュニアユース、ジュニア)の所有を義務付けており、また、これ以外にも女子チームやアマチュアチームを所有するクラブが存在する。またサッカーに限らず幅広いスポーツの普及、選手の育成に乗り出すクラブも存在する。Jリーグ主導のクラブは既に収入を得る仕組みを有しているためクラブ財政が許容する範囲で選手に支援する事が可能である。また、これ以外のスポーツクラブについてもトップレベルの選手を商業的に利用したり、クラブがスポンサーからの提供によって運営資金を得ている。この範囲の中で選手にお金をかけるのはJリーグクラブと共通である。また、柔道やレスリング、相撲などを除くマイナー格闘技、マイナー武道や武術の世界はトップレベルの選手育成も含め社会スポーツ中心で古くから行われている。この社会スポーツが「真のアマチュア」と捉えられているが、自らや家族の金銭的支援が多く、貧困層の参加が困難であり、スポーツ界における経済力での差別を生む要因および「スポーツの貴族回帰」との批判がある。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "全てのスポーツが程度の差はあるが上記のような現状であると理解して構わない。トップレベルの選手はアマチュアでないことが多いが、アマチュアでなくてもオリンピックやその他国際大会には出場可能である。また国内大会でも国体やインターハイ、インターカレッジも出場可能な方向へ徐々に改められている。このため、アマチュアでないことに対して特段問題になる事はないため選手の実態についても問題にされる事はない。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本の野球では、日本プロ野球以外のものを総称してアマチュア野球にカテゴライズしている。この解釈は「プロフェッショナル以外は全てアマチュア」という二元論であり、この定義は他のスポーツと比べて極めて特異である。野球以外のスポーツについても学校や企業のスポーツが無条件でアマチュアであるという古典的な理解の仕方がまかり通るのは野球の影響するところが大きい。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この特異さは選手(特にトップレベルの多く)の実態がアマチュアでない(=全国大会で優勝しようものなら高い名声を得て、プロ野球から引く手数多となる)高校野球、大学野球、社会人野球においてしばしば問題化する。選手の実態としてはこれらの野球においても他の競技の学生スポーツ、企業スポーツと変わるところはない。日本の野球が極めて特異なのはこうした選手の実態を完全に無視して「アマチュア」野球であると主張しているところに存在し、これは建前としてはアマチュア野球選手はあくまでも「アマチュア」であると主張するものである。このため実態と建前を分けて理解する必要に迫られる。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "さらに特異なのは他のスポーツを掌握する組織の傘下に野球が属していない(高野連は高体連に、日本学生野球協会は日本体育協会に属していない独自の組織)か、属していても対外的な大会に参加するための組織と国内大会に参加するための組織がバラバラであることなどから他のスポーツの基準や潮流が野球に関して全く適用されない事である。「アマチュア」の規定に関して既に日本の野球、独自のローカルルールになっているのは既に述べたとおりである。また、他のスポーツでは最近の潮流として「アマチュアでない」状態が追認されているが、日本のアマチュア野球では歴史的な経緯からプロ野球との明確な差異を求められる事はないが、急激なアマチュアリズムへの回帰が行われることがある。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本におけるボクシングの「プロフェッショナル」「アマチュア」も特異的な性格を持っている。カテゴライズとしては日本ボクシングコミッション(JBC)及び日本プロボクシング協会(JPBA)が関わるものを「プロボクシング」、日本ボクシング連盟(JABF)が関わるものを「アマチュアボクシング」としているが、JBC/JPBAでは同団体が関係しない競技をすべて「アマチュア」、一方でJABFでは同団体が関係しない競技をすべて「プロフェッショナル」とみなしている。しかし、国内ではJBC/JPBA、JABFいずれも直轄しない競技団体(ザ・おやじファイト、かつての日本女子ボクシング協会など)も存在しているため第三者から見た場合見方によっては「プロフェッショナル」「アマチュア」双方に含まれると言う矛盾も発生している。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、JBC/JPBAにおいては「プロボクサー」活動での報酬を受け取っていない選手やボクシングジムを所有して所属する選手を「社員」として雇用する企業も存在しており、実態としては他のスポーツにおける「アマチュア」と「プロフェッショナル」が混合しているとされる。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ゴルフの場合、プロゴルファーとしての資格だけでなくアマチュア資格も存在し、日本では日本ゴルフ協会が管理している。ゴルフに関して報酬を受け取るなどの、アマチュア資格規則への違反行為があればアマチュア資格を喪失し、「プロでもアマチュアでもない」状態となる。", "title": "スポーツにおけるアマチュア" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "将棋においては、日本将棋連盟や日本女子プロ将棋協会などに属する棋士、女流棋士が「プロ」でそれ以外の者が「アマチュア」となっており、いわゆるアマチュア棋戦の参加権は後者に限定されている。ただし、プロを目指して奨励会に入ったもののプロになれなかった元奨励会員がアマチュア棋戦に参加することやアマチュアのトップレベルがプロ棋戦に(棋戦独自の規定により)参加することは普通のことである。かつては将棋連盟所属ではなく賭け将棋によって生計を立てていた真剣師という職業も存在していた(真剣師はアマチュア棋戦に参加した実例があり、アマチュア名人戦優勝者もいる)。現在では真剣師という職業はなくなり、女流棋士の一部を除いてプロ棋士は対局と普及活動によって生計を立てておりかつてのように副業やスポンサーからの支援に頼っている棋士は存在しないため、プロとアマの境界線は「対局で報酬を受け取れる者がプロ、それ以外がアマ」という古典的分類に落ち着いている(棋士の待遇改善や賭け将棋への取り締まりもあって、「プロとアマの境界線が明確になる方向に事態が推移する」という、スポーツとは反対の流れになった)。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ただし、境界線が明確となったことは必ずしも「プロとアマチュアの垣根がある」ことを意味するものではない。81Dojoや将棋倶楽部24などといったネット将棋の普及により、アマチュアとプロが対局できる環境となっており、ネット将棋で腕を上げたアマチュアがプロ入りした例や、奨励会員がネット将棋を練習の場とする例もある。さらに、プロの棋戦にあるアマチュア枠から出場したトップアマがプロ棋士と互角以上の戦いを見せる例もあり、特例として瀬川晶司のプロ編入試験が行われ、さらにはプロ編入試験が制度化されるに至っている。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "よって2019年11月現在における一般的解釈では、「日本将棋連盟」または「日本女子プロ将棋協会」に所属する「棋士」・「女流棋士」が「プロ」と定義され、逆説的にそれ以外の者が「アマチュア」と考え得る。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "無線通信をアマチュア無線局が開拓・開発していったという歴史的経緯もあって、国際電気通信連合による国際電気通信連合憲章上の無線通信規則や、日本の電波法制上もアマチュア無線が位置づけられており、周波数帯や、国家資格であるアマチュア無線技士による無線従事者免許証制度も、商用の業務無線とは別個に存在する。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "電波法に「アマチュア業務」とあるように、行動により区分される。つまり、アマチュア無線かどうかは属人的なものではなく、無線従事者を職業として行う人であっても容認(相手方がアマチュア局)されているものであればアマチュア無線を行うことができる。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また電波法にあるとおり、日本国においてアマチュア無線は業務であり、日本の無線通信においてのアマチュアは非営利無線業務を行うプロフェッショナルである。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アマチュア無線家は災害時に活躍し、たとえば日本では阪神・淡路大震災や東日本大震災など、大規模災害時などにおける非常通信などでは、重要な役割を担っている。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "そして日本アマチュア無線連盟(JARL)により、非常通信の支援や、趣味の範疇における無線活動の活性化が行われている。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本アマチュア無線連盟(JARL)では、「アマチュア」に対して以下の定義を行っている。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以上の5項目を、アマチュア無線家に提唱している。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "クラシック音楽の演奏を趣味とするアマチュアの演奏家が自主的に集まって活動する管弦楽団を、アマチュア・オーケストラ(アマオケ)と呼ぶ。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "クラシック音楽以外ではアマチュアによるバンド活動(アマチュアバンド)があるほか、吹奏楽団、合唱団、和楽器の演奏など各種の団体・個人が存在する。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "いずれも演奏により報酬を得る目的ではないため、活動資金は「団費」として参加者自身が拠出したり、チケットの自主販売や寄付を募る等によって賄う。", "title": "スポーツ以外" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本全国のアマチュア・オーケストラ活動を促進するため、1972年に日本アマチュアオーケストラ連盟が結成されている。", "title": "スポーツ以外" } ]
アマチュアは、芸術・学問・スポーツなどを、職業ではなく、趣味や余技として行う事であって、素人や愛好家とも言う。よく「アマ」と略される。対義語はプロフェッショナル(professional。金銭を得る人)。
{{Otheruses||機械部品(armature)|電機子}} {{出典の明記|date=2011年12月}} '''アマチュア'''({{Lang-en-short|amateur}})は、芸術・学問・スポーツなどを、職業ではなく、趣味や余技として行う事<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アマチュアとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2-27166|website=コトバンク|accessdate=2020-06-10|language=ja|first=大辞林|last=日本国語大辞典,世界大百科事典内言及|publisher=}}</ref>であって、素人や愛好家とも言う。よく「'''アマ'''」と略される。対義語は[[プロフェッショナル]](professional。金銭を得る人)<ref name=":0" />。 == 概説 == 「アマチュア」は、[[ラテン語]]の「{{lang|la|amator}}」(=愛好家)が語源である<ref name="nihondaihyakka_amateurism">小学館『日本大百科全書』「アマチュアリズム」</ref>。スポーツにおいて、「福祉的目的でスポーツを行う者は、アマチュアでなくてはならない」という。あるいは「健康増進を目的としてアマチュア精神に従って行う」という主張は[[アマチュアリズム]]と呼ばれる<ref>{{Cite journal|和書|author=永井康宏|date=1965-02|title=スポーツにおけるアマチュアリズムについて|url=https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/2643|journal=島根大学論集教育科学|issue=14|pages=41-54|publisher=島根大学|ref=harv}}</ref>。 プロとアマチュアを区分することについて、[[日本ゴルフ協会]]は「特別な報酬を目的としない、ゴルフの挑戦に対してプレーするというアマチュアに適した姿勢がある。一方でプロフェッショナルとしてゴルフをプレーするプレーヤーの侵害しないこと」と、その意義を謳っている<ref>{{Cite web|和書|title=ゴルフ規則|url=http://www.jga.or.jp/jga/html/rules/amateur.html|website=www.jga.or.jp|accessdate=2020-06-10}}</ref>。 アマチュアやアマチュアリズムは、スポーツの分野で重要な役割を果たしてきた歴史があるが、他の分野でも、人々の無償での参加によって発展している分野は多い。たとえば、[[アマチュア無線]]は[[無線]]の技術発展に大きく貢献し、[[アプリケーションソフトウェア]]の分野では、無償で作られた[[フリーソフトウェア]]が、[[コンピュータプログラム]]に利用されている。特に、多くの有志が参加する方式でソフトウェア開発を行う「バザール方式」は優れた方法とされる<ref>{{Cite web|和書|title=バザール方式|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/Keyword/20070817/279850/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2020-06-10|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>。 その他、[[昆虫学]]・[[天文学]]といった分野で、アマチュアは一定の役割を果たしてきた<ref>{{Citation|title=昆虫学にはたすアマチュアの役割 |url=https://doi.org/10.20848/kontyu.21.1_70|publisher=一般社団法人 日本昆虫学会|date=2018-03-05|accessdate=2020-06-10|doi=10.20848/kontyu.21.1_70|language=ja|first=康子|last=河上}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/2018_111_11/111-11_776.pdf|author=冨岡啓行|title=アマチュア天文好きの軌跡|publisher=天文月報|date=2018-11|accessdate=2020-06-09}}</ref>。その一方、大半のアマチュアは「プロが積んだ努力を知らず、自分勝手な[[規則|ルール]]をはない」ので、学術的には「研究」に当たるとも指摘される<ref>{{Cite web|和書|title=「研究ごっこ」Q&A|url=http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/qanda.htm##2|website=www.hmt.u-toyama.ac.jp|accessdate=2020-06-10}}</ref>。 == スポーツにおけるアマチュア == {{main|アマチュアリズム#歴史}}報酬を目的に競技するのではなく、楽しみながらスポーツを<u>純粋に愛好する人</u>をアマチュアといい<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />、その[[精神]]([[スピリット]])をアマチュアリズムという<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 アマチュアリズムが根幹を成しているスポーツや、アマチュアのみによって行われているスポーツ種目などをアマチュア・スポーツと言う。対義語は[[プロフェッショナルスポーツ]]。 近代のスポーツ大会はアマチュアリズムによって発展してきた歴史がある。1896年に始まった[[近代オリンピック]]は参加資格をアマチュアに限定しており、[[オリンピック憲章]]の「アマチュア条項」が設けられた。人々はアマチュアリズムで大会に挑むことを喜びとしていた。各国のオリンピック委員会などの規定でも、国際競技連盟でも(解釈に若干の違いはあるものの)おおむね継承されていた。だが、1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの水準の向上などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなる事態が起きており、スポーツ界はアマチュア規定緩和の方向へと進んだ事により、[[1962年]]には[[クリケット]]がアマチュア規定を廃止し、[[1968年]]にはテニスの[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン大会]]がプロフェッショナルにも開放された<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。1974年にはついに[[オリンピック憲章]]の「アマチュア条項」からもアマチュアに関する規定が削除された。 === 歴史 === ; イギリスとアメリカ 18世紀のイギリスのスポーツ界では「[[ジェントルマン]]」という用語がアマチュアと同義語として使われており、当時は「ジェントルマンでなければアマチュアでない」とされた<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 「アマチュア」という言葉がスポーツに初めて取り入れられたのは、[[1839年]]にイギリスで行われたボートレースの[[ヘンリー・ロイヤル・レガッタ]]である<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。この1839年のヘンリー・ロイヤル・レガッタで決められた参加資格が、(成文化こそされなかったものの)世界で初めてのアマチュア規定であった<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。規定が初めて成文化されたのは、[[1866年]]のイギリス陸上競技選手権大会である<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。(ただし、その内容は、スポーツによって生計を営む者だけでなく、職業をもつすべての労働者もアマチュアから締め出すものであった。イギリスは、階級意識が強く、「スポーツは上流階級の人々同士で行うもの」というのが、当時の(上流階級の)社会通念であった<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 [[アメリカ合衆国]]では、[[1868年]]にアマチュア競技会への参加規定が決められたが、(イギリスのそれとは趣旨が大きく異なり)、[[プロ野球]]の創設・発展、多額の賞金や[[賭博]]行為の増加・横行などによって腐敗が進み、プロフェッショナル競技者とアマチュア競技者の区別を明確化する必要に迫られたからである。アメリカでは(イギリスのようには)労働者階級を排除する内容はなかった<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 イギリスでもその後次第に労働者の社会的地位が向上し、労働者にもスポーツに参加するようになって、スポーツは[[大衆化]]へと進んでいった<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 ; 近代オリンピック [[近代オリンピック]]は[[1896年アテネオリンピック]]に始まったわけであるが、参加資格をアマチュアに限定していた。[[国際オリンピック委員会]]は、[[1901年]]に初めて各競技種目共通の規定を作ったが、その内容は次の3つに該当する者はアマチュアとして認めない、というものである<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 # 金銭のためにプレーする者 # プロと一緒にプレーする者 # 講師等もしくはトレーナーとして、金銭を得る者 スポーツ競技で多くの人が競い合う場合、同じような資質を持っている人々では、年月をかけてトレーニングを十分に積んだ人が有利になる傾向がある。貴族や[[紳士]]は、領地などからの収入があり、生活に追われ時間を割く必要もないので、ふんだんにトレーニングに時間を割けるわけである。 上述のように、労働者階級もアマチュアとして、つまり趣味として、スポーツを楽しむことができるようになった事で、労働者階級の人がトレーニングに日々の時間を割く事が増えて、(領地からの収入が無い労働者の場合)生きるために必要な生活費をどのように得るか、という問題が生じることになる。 スポーツ競技の大規模な大会は、人々の注目を引く。注目が集まる場というのは、大抵 宣伝に利用される。国家権力者はオリンピックに着目し、国家の宣伝の場として利用するようになった。自国から参加させる選手に上位を多くとらせることで、見る人々に、その国の体制が優れている、という印象を植え付けようとした。[[ナチス・ドイツ]]は、[[1936年]]の[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]を[[プロパガンダ]]の目的に使った。 [[第二次世界大戦]]後になると、[[ソビエト社会主義共和国連邦]]などの[[共産主義]]諸国([[東側諸国]])がオリンピックを宣伝目的に使い、それに対抗するように、[[アメリカ合衆国]]などの[[資本主義]]諸国([[西側諸国]])も行うようになった。 社会主義国では、競技者の生活を補償する必要に迫られ、国家が(トレーニングにだけ集中できる生活環境を無償で提供して)養成する選手([[ステート・アマチュア]])が登場し、米国では、[[奨学金]]によってスポーツに励む選手(スカラシップ・アマチュア)が登場し、他の多く資本主義国でも、[[スポンサー]]や[[企業]]の援助を受けて(生活環境や道具を整えてもらい)その代償として宣伝に使われる選手([[広告|コマーシャル]]・アマチュア)が誕生した<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 たとえば「[[ステート・アマ]]」とはスポーツに専念できる環境を国家によって与えられた者であり、トレーニング期間中や競技者でいる期間は金銭は得ていないので一応は「アマチュア」ではあるものの、メダルを獲得すれば将来、競技者を引退後、一般人よりも恵まれた[[年金]]を与えられるなど別の形で金銭的見返りがあった。ステート・アマをアマチュアのカテゴリとして捉えてよいのかについては議論の余地が残る。同様にコマーシャル・アマチュアも(現金は得ていない場合でも、実際には貨幣に換算可能な現物を支給されており)アマチュアのカテゴリに入るのか議論の余地が残る。 1945年以降、流動する社会情勢やスポーツの「水準の向上」(≒尋常でないトレーニング量が要求される質、技)などによって、伝統的なアマチュアリズムの考え方では対応しきれなくなってきていた<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。(西側世界(資本主義の諸国)では、スポーツ大会やアスリートに対する[[商業主義]]の侵食も激しくなった。)ついにはアマチュア規定緩和の方向へと進み、[[1962年]]には[[クリケット]]がアマチュア規定を廃止し、[[1968年]]にはテニスの[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン大会]]がプロフェッショナルにも開放された<ref name="nihondaihyakka_amateurism" />。 IOCは、ステート・アマに対する西側からの批判、更にプロ選手を出場させる事によって得られそうな経済的な見返りから、[[1974年]]に[[オーストリア]]首都[[ウィーン]]で開催された第75回[[国際オリンピック委員会総会]]で、[[オリンピック憲章]]からアマチュア条項を削除し<ref>[https://web.archive.org/web/20041130054929/http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/special/monogatari/mo2004012401.htm オリンピック物語第五部 アマとプロ〈4〉読売新聞-2004年1月24日付]</ref>、オリンピックの「オープン化」を図り、アマ/プロの区別なく参加できるようになり、アマチュアからプロへ転向する選手や、プロであることの宣言を行う選手が出るようになった。 === 日本におけるアマチュア競技 === 日本のスポーツ牽引してきた要素として[[学生スポーツ|学校スポーツ]]と[[企業スポーツ]]がある。これらはいずれもアマチュアスポーツとして発足したが、オリンピックと同じく現状でアマチュアである事に意味が見出せなくなっている。現状でもこれらがアマチュアスポーツであるという理解の仕方は存在するが、アマチュアの定義や学校スポーツ・企業スポーツの現状を無視したものであり、精神的にでクラシカルな認識、定義の方法である。 学校スポーツは高校や大学の体育会系で行われているスポーツである。特に後者については企業スポーツが整備されるまでは日本のスポーツの牽引役を担ってきた歴史がある。柔道などでは形式上企業スポーツに移行した選手でも実体は出身校などの学校スポーツで普段練習しているケースもある。現状においてはこれらのトッププレイヤーはスポーツで活躍する事を期待され入学を許可されていたり、その見返りとして学費や部費の免除が与えられている。これらは「スポーツ[[特待生]]制度」などと呼称されるが、これは経済的な見返りではなく、特に私立学校の選手はステート・アマの一種とみなされることもある。 企業スポーツは会社内の同好会やサークルとして始まったものである。1960年代以降全国規模のリーグ戦が実施されるようになって'''企業アマ'''(あるいはコーポレート・アマ)と呼ばれる形態が成立し、それ以前の大学スポーツに代わって国内スポーツのけん引役を担うようになった。企業アマとは社員・職員の福利厚生や健康増進、若しくは企業の対外的な宣伝効果を名目として、所属する企業から金銭的支援システムがあった。例えば就業時間内に練習をしても、あるいはスポーツ活動専業で社業に従事していなくても、就業したものと見なして賃金を払ったり、体育館やグランドの整備に会社からの金銭的支援があるという仕組みであった。こうした企業アマについてもステート・アマと同じく「アマチュア」と呼んでいいのかについて議論の余地が存在する。企業によるスポーツ活動はあくまでも[[企業メセナ]]の一環であり、会社の業績如何、若しくは全体的な好不況の如何によって整理、廃止される事がある。リーグ自体が存在できなくなったという場合も想定できる。 西ヨーロッパで重要な位置を占めているアスレチッククラブ、スポーツクラブなどでの社会スポーツの形態は日本では[[レクリエーション]]スポーツや習い事としては盛んである。チャンピオンスポーツ・トップレベルの選手育成をこの社会スポーツに主流をおいているのは[[水泳]]、[[アーティスティックスイミング]]、[[フィギュアスケート]]、[[体操]]、[[ゴルフ]]など一部の競技に限定されてきた。1990年代以降になって[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]はこうしたスポーツクラブの形態を積極的に推奨した。また、[[バブル景気|バブル]]崩壊以降の景気後退の局面で、経済的な判断によって企業から放り出されたチームが積極的に企業スポーツから社会スポーツに転換する例も見られるようになった。こうした経緯によって、社会スポーツは既存の学校スポーツや企業スポーツに次ぐ第三のスポーツの場として、日本でも重要度が増してきている。Jリーグにおいては年代別チーム(ユース、ジュニアユース、ジュニア)の所有を義務付けており、また、これ以外にも女子チームやアマチュアチームを所有するクラブが存在する。またサッカーに限らず幅広いスポーツの普及、選手の育成に乗り出すクラブも存在する。Jリーグ主導のクラブは既に収入を得る仕組みを有しているためクラブ財政が許容する範囲で選手に支援する事が可能である。また、これ以外のスポーツクラブについてもトップレベルの選手を商業的に利用したり、クラブがスポンサーからの提供によって運営資金を得ている。この範囲の中で選手にお金をかけるのはJリーグクラブと共通である。また、柔道やレスリング、相撲などを除くマイナー格闘技、マイナー武道や武術の世界はトップレベルの選手育成も含め社会スポーツ中心で古くから行われている。この社会スポーツが「真のアマチュア」と捉えられているが、自らや家族の金銭的支援が多く、貧困層の参加が困難であり、スポーツ界における経済力での差別を生む要因および「'''スポーツの貴族回帰'''」との批判がある。 全てのスポーツが程度の差はあるが上記のような現状であると理解して構わない。トップレベルの選手はアマチュアでないことが多いが、アマチュアでなくてもオリンピックやその他国際大会には出場可能である。また国内大会でも[[国民体育大会|国体]]や[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]、[[インターカレッジ]]も出場可能な方向へ徐々に改められている。このため、アマチュアでないことに対して特段問題になる事はないため選手の実態についても問題にされる事はない。 ==== 野球 ==== 日本の野球では、[[日本プロ野球]]以外のものを総称して[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]にカテゴライズしている。この解釈は「プロフェッショナル以外は全てアマチュア」という二元論であり、この定義は他のスポーツと比べて極めて特異である。野球以外のスポーツについても学校や企業のスポーツが無条件でアマチュアであるという古典的な理解の仕方がまかり通るのは野球の影響するところが大きい。 この特異さは選手(特にトップレベルの多く)の実態がアマチュアでない(=全国大会で優勝しようものなら高い名声を得て、プロ野球から引く手数多となる)[[高校野球]]、[[日本の大学野球|大学野球]]、[[社会人野球]]においてしばしば問題化する<ref group="注">[[日本プロ野球]]([[独立リーグ]])の一つである[[関西独立リーグ (2代目)]](旧・BASEBALL FIRST LEAGUE)所属の[[兵庫ブルーサンダーズ]]には、[[芦屋大学]]在学中の選手が所属している。日本野球界の定義によれば、これは「大学生でありながらプロ野球選手」ということであり、芦屋学園とアマチュア球界との間で軋轢を生む原因となっている。[[芦屋学園]]ベースボールクラブはアマチュア球界とは断絶状態にある。BFLそのものも、社会人野球の統括団体である[[日本野球連盟]]との間で所属球団同士の対戦に関する協定を結べておらず、BFL所属球団と社会人チーム・クラブチームとの対戦は不可能な状況である。なお、[[日本野球機構]](NPB)としては、独立リーグ球団所属の大学生について「[[プロ野球ドラフト会議]]での扱いについては『大学生』という身分が独立リーグ所属という立場よりも優先し、次年度を迎えるまでに卒業予定がない場合は指名対象にならない」という立場を取っている([https://www.iza.ne.jp/kiji/sports/news/140128/spo14012818150017-n1.html 独立リーグ・兵庫球団の挑戦 規定の壁、交流戦は出来ず…-独立リーグ・兵庫球団の挑戦 規定の壁、交流戦は出来ず…]産経新聞 2014.1.28付)。アマチュアフィギュアスケートの女子選手がどんなに好成績を挙げていても身分は飽くまで高校生大学生であるのと対照的</ref>。選手の実態としてはこれらの野球においても他の競技の学生スポーツ、企業スポーツと変わるところはない。日本の野球が極めて特異なのはこうした選手の実態を完全に無視して「アマチュア」野球であると主張しているところに存在し、これは建前としてはアマチュア野球選手はあくまでも「アマチュア」であると主張するものである。このため実態と建前を分けて理解する必要に迫られる。 さらに特異なのは他のスポーツを掌握する組織の傘下に野球が属していない([[日本高等学校野球連盟|高野連]]は[[全国高等学校体育連盟|高体連]]に、[[日本学生野球協会]]は[[日本体育協会]]に属していない独自の組織)か、属していても対外的な大会に参加するための組織と国内大会に参加するための組織がバラバラであることなどから他のスポーツの基準や潮流が野球に関して全く適用されない事である。「アマチュア」の規定に関して既に日本の野球、独自の[[ローカルルール]]になっているのは既に述べたとおりである。また、他のスポーツでは最近の潮流として「アマチュアでない」状態が追認されているが、日本のアマチュア野球では歴史的な経緯からプロ野球との明確な差異を求められる事はないが、急激なアマチュアリズムへの回帰が行われることがある。 ==== ボクシング ==== 日本におけるボクシングの「プロフェッショナル」「アマチュア」も特異的な性格を持っている。カテゴライズとしては{{要説明|date=2013年8月}}[[日本ボクシングコミッション]](JBC)及び[[日本プロボクシング協会]](JPBA)が関わるものを「プロボクシング」、[[日本ボクシング連盟]](JABF)が関わるものを「アマチュアボクシング」としているが、JBC/JPBAでは同団体が関係しない競技をすべて「アマチュア」、一方でJABFでは同団体が関係しない競技をすべて「プロフェッショナル」とみなしている。しかし、国内ではJBC/JPBA、JABFいずれも直轄しない競技団体([[ザ・おやじファイト]]、かつての[[日本女子ボクシング協会]]など)も存在しているため第三者から見た場合見方によっては「プロフェッショナル」「アマチュア」双方に含まれると言う矛盾も発生している。 また、JBC/JPBAにおいては「[[プロボクサー]]」活動での報酬を受け取っていない選手や[[ボクシングジム]]を所有して所属する選手を「社員」として雇用する企業も存在しており、実態としては他のスポーツにおける「アマチュア」と「プロフェッショナル」が混合しているとされる。 ==== ゴルフ ==== {{main|プロゴルファー#アマチュア資格}} ゴルフの場合、[[プロゴルファー]]としての資格だけでなくアマチュア資格も存在し、日本では[[日本ゴルフ協会]]が管理している。ゴルフに関して報酬を受け取るなどの、アマチュア資格規則への違反行為があればアマチュア資格を喪失し、「プロでもアマチュアでもない」状態となる<ref>{{PDFLink|[http://www.jga.or.jp/jga/html/rules/image/amateur_qa.pdf アマチュア資格規則 よくある質問]}} 日本ゴルフ協会、2014年3月24日閲覧。</ref>。 == スポーツ以外 == === 将棋 === 将棋においては、[[日本将棋連盟]]や[[日本女子プロ将棋協会]]などに属する[[将棋棋士|棋士]]、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]が「プロ」でそれ以外の者が「アマチュア」となっており、いわゆるアマチュア棋戦の参加権は後者に限定されている。ただし、プロを目指して[[新進棋士奨励会|奨励会]]に入ったもののプロになれなかった元奨励会員がアマチュア棋戦に参加することやアマチュアのトップレベルがプロ棋戦に(棋戦独自の規定により)参加することは普通のことである<ref group="注">奨励会初段以上での退会者は、1年間日本将棋連盟主催・共催等のアマチュア将棋棋戦に復帰できない制約がある。</ref>。かつては将棋連盟所属ではなく賭け将棋によって生計を立てていた[[真剣師]]という職業も存在していた(真剣師はアマチュア棋戦に参加した実例があり、[[将棋のアマチュア棋戦|アマチュア名人戦]]優勝者もいる)。現在では真剣師という職業はなくなり、女流棋士の一部を除いてプロ棋士は対局と普及活動によって生計を立てておりかつてのように副業やスポンサーからの支援に頼っている棋士は存在しないため、プロとアマの境界線は「対局で報酬を受け取れる者がプロ、それ以外がアマ」という古典的分類に落ち着いている(棋士の待遇改善や賭け将棋への取り締まりもあって、「プロとアマの境界線が明確になる方向に事態が推移する」という、スポーツとは反対の流れになった)。 ただし、境界線が明確となったことは必ずしも「プロとアマチュアの垣根がある」ことを意味するものではない。[[81Dojo]]や[[将棋倶楽部24]]などといったネット将棋の普及により、アマチュアとプロが対局できる環境となっており、ネット将棋で腕を上げたアマチュアがプロ入りした例<ref>[https://www.shogi.or.jp/column/2017/03/post_115.html 史上初の外国人女流棋士、カロリーナ女流2級。NARUTOで将棋を知り、ネット将棋で腕を磨く【カロリーナ女流2級紹介前編】] [[日本将棋連盟]]、2017年3月1日(2017年7月15日閲覧)。</ref>や、奨励会員がネット将棋を練習の場とする例<ref>[https://book.mynavi.jp/shogi/detail/id=66116 ドキュメント・藤井聡太四段 ―史上最年少棋士はいかにして生まれたか―] [[マイナビ出版]]、2016年12月21日(2017年7月15日閲覧)。</ref>もある。さらに、プロの棋戦にあるアマチュア枠から出場したトップアマがプロ棋士と互角以上の戦いを見せる例もあり、特例として[[瀬川晶司]]のプロ編入試験が行われ、さらには[[棋士 (将棋)#棋士編入試験制度|プロ編入試験が制度化される]]に至っている。 よって2019年11月現在における一般的解釈では、「日本将棋連盟」または「日本女子プロ将棋協会」に所属する「棋士」・「女流棋士」が「プロ」と定義され、'''逆説的にそれ以外の者が「アマチュア」'''と考え得る。 === 無線 === {{main|アマチュア無線}} [[無線通信]]を[[アマチュア無線局]]が開拓・開発していった<ref group="注">[[長波]]・[[中波]]が活用されていて“電波と言えば中波”の[[1920年代]]に[[短波]]の有用性を実験で証明したのはアマチュアである</ref>という歴史的経緯もあって、[[国際電気通信連合]]による国際電気通信連合憲章上の[[無線通信規則]]や、日本の[[電波法]]制上も[[アマチュア無線]]が位置づけられており、[[アマチュア無線の周波数帯|周波数帯]]や、[[国家資格]]である[[アマチュア無線技士]]による[[無線従事者免許証]]制度も、商用の業務無線とは別個に存在する<ref group="注">ただし、[[日本]]のように、商用の[[無線従事者]]資格でアマチュア業務を行える国もある。</ref>。 [[電波法]]に「アマチュア'''業務'''」とあるように、行動により区分される。つまり、アマチュア無線かどうかは属人的なものではなく、[[無線従事者]]を職業として行う人であっても容認(相手方がアマチュア局)されているものであればアマチュア無線を行うことができる。 また電波法にあるとおり、'''日本国においてアマチュア無線は業務'''であり、日本の'''無線通信においてのアマチュア'''は、無償で無線業務を行う事となる。 [[アマチュア無線家]]は災害時に活躍し、たとえば日本では[[阪神・淡路大震災]]や[[東日本大震災]]など、大規模災害時などにおける非常通信などでは、重要な役割を担っている。 そして[[日本アマチュア無線連盟]](JARL)により、[http://www.jarl.or.jp/Japanese/2_Joho/2-4_Hijou/Hijou.htm 非常通信]の支援や、趣味の範疇における無線活動の活性化が行われている<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.jarl.or.jp/ | title = JARLの公式HP | accessdate = 2011-10-30 }}</ref>。 ==== アマチュアコード ==== 日本アマチュア無線連盟(JARL)では、「アマチュア」に対して以下の定義を行っている。 * アマチュアは、良き社会人であること * アマチュアは、健全であること * アマチュアは、親切であること * アマチュアは、進歩的であること * アマチュアは、国際的であること 以上の5項目を、アマチュア無線家に提唱している。 === 音楽 === {{main|アマチュア・オーケストラ}} [[クラシック音楽]]の演奏を趣味とするアマチュアの演奏家が自主的に集まって活動する[[管弦楽団]]を、[[アマチュア・オーケストラ]](アマオケ)と呼ぶ<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9-676589 デジタル大辞泉「アマチュアオーケストラ」の解説] - コトバンク(2023.02.04閲覧)。</ref>。 クラシック音楽以外ではアマチュアによる[[バンド (音楽)|バンド活動]](アマチュアバンド)があるほか、吹奏楽団、合唱団、和楽器の演奏など各種の団体・個人が存在する。 いずれも演奏により報酬を得る目的ではないため、活動資金は「団費」として参加者自身が拠出したり、チケットの自主販売や寄付を募る等によって賄う<ref>[https://edyclassic.com/5218/ 【アマオケはつらいよ】オーケストラ運営の悩みと対策【運営資金編】] - エディクラシック(2020/02/26掲載、2021/03/24更新)。</ref>。 日本全国のアマチュア・オーケストラ活動を促進するため、1972年に[[日本アマチュアオーケストラ連盟]]が結成されている。 === 関連語 === * [[セミプロ]] * [[ボランティア]] * [[プロボノ]] <!--プロフェッショナルについては「プロフェッショナル」という記事で説明すべき。 アマチュアと正反対に位置する状態がプロフェッショナル(以下プロとする)である。プロとはスポーツを職業としており、かつ報酬を受け取っている選手を指す。これらの中間的な選手もいる。即ちスポーツを職業としていないが、それによって報酬を受け取っている選手である。このようなスポーツ選手はアマチュアとは呼べないため、[[国際サッカー連盟]]などでは'''ノン・プロフェッショナル'''(ノンプロ)と表現する。現在ではオリンピックや大規模な国際大会に参加するトッププレーヤーの多くはプロか、若しくはノンプロとして参加している。これは既に述べた通りアマチュアという形態で参加することにほとんど意味を見出せないためである。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[アマチュアリズム]] * [[近代オリンピック]] * [[将棋のアマチュア棋戦]] * [[囲碁のアマチュア棋戦]] * [[特待生]] * [[マニア]] * [[サブカルチャー]] **[[おたく|おたく文化]] **[[同人誌]] **[[なろう系]] * [[市民ジャーナリズム]] **[[ブログ|ブロガー]] **[[動画共有サービス]] * [[電子掲示板]] **[[まとめサイト]] * [[読者モデル]] * [[はがき職人]] * [[学生新聞]] * [[アマチュア天文学]] * [[ステートアマ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あまちゆあ}} [[Category:職業]] [[Category:スポーツ用語]] [[Category:アマチュア|*]]
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{{整数|Decomposition=2 × 29}} '''58'''('''五十八'''、ごじゅうはち、いそや、いそじあまりやつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[57]]の次で[[59]]の前の数である。 == 性質 == *58は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[29]], 58 である。 **[[約数]]の和は[[90]] 。 *58 = 2 × 29 **21番目の[[半素数]]である。1つ前は[[57]]、次は[[62]]。 **5 + 8 = 2 + 2 + 9 より4番目の[[スミス数]]である。1つ前は[[27]]、次は[[85]]。 *{{sfrac|1|58}} = 0.0{{underline|1724137931034482758620689655}}… (下線部は循環節で長さは28) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が28になる2番目の数である。1つ前は[[29]]、次は[[87]]。 *[[素数#連続素数和|連続素数の和]]で表せる7番目の数である。1つ前は[[41]]、次は[[77]]。<br>58 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 **7連続素数和とみたとき最小の数である。次は[[75]]。 *58{{sup|7}} = 2207984167552 で各位の和は58である。''n''{{sup|7}} の値の各位の和が ''n'' に等しくなる8番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[68]]。({{OEIS|A226971}}) *[[各位の和]]が13になる2番目の数である。1つ前は[[49]]、次は[[67]]。 ** [[偶数]]という条件をつけると各位の和が13になる最小の数である。 *各位の[[平方和]]が89になる最小の数である。次は[[85]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の88は[[466]]、次の90は[[39]]。({{OEIS|A055016}}) *各位の[[立方和]]が637になる最小の数である。次は[[85]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の636は223557、次の638は[[158]]。({{OEIS|A165370}}) * 58 = 3{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる17番目の数である。1つ前は[[53]]、次は[[61]]。({{OEIS|A004431}}) ** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[370]]。({{OEIS|A074608}}) * 58 = 2{{sup|6}} − 6 ** ''n'' = 6 のときの 2{{sup|''n''}} − ''n'' の値とみたとき1つ前は[[27]]、次は[[121]]。({{OEIS|A000325}}) * ''n'' = 58 のとき ''n'' と ''n'' − 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' − 1 を並べた数が素数になる7番目の数である。1つ前は[[42]]、次は[[70]]。({{OEIS|A054211}}) *連続[[フィボナッチ数]]を並べた数である。1つ前は[[35]]、次は[[813]]。({{OEIS|A092778}}) * 58 = 2 + 2 × 4 + 2 × 4 × 6 ** ''n'' = 3 のときの (''2n'')!! の総和とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[442]]。(ただし''n''は[[自然数]]、!!は[[二重階乗]])({{OEIS|A112369}}) == その他 58 に関すること == *[[かりゆし58]]。 *[[原子番号]] 58 の元素は[[セリウム]] (Ce)。 *第58代[[天皇]]は[[光孝天皇]]である。 *[[日本]]の第58代[[内閣総理大臣]]は[[池田勇人]]である。 *[[大相撲]]の第58代[[横綱]]は[[千代の富士貢]]である。 *第58代[[教皇|ローマ教皇]]は[[シルウェリウス (ローマ教皇)|シルウェリウス]](在位:[[536年]][[6月8日]]~[[537年]][[3月]])である。 *[[年始]]から数えて58日目は[[2月27日]]。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第58番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#兌|兌為沢]]。 *[[クルアーン]]における第58番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[抗弁する女 (クルアーン)|抗弁する女]]である。 *[[ブリリアントカット]]は58面体である。 *日本の潜水艦 **[[伊号第五十八潜水艦]](伊58) **[[呂号第五十八潜水艦]](呂58) == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和58年]]}} *[[5月8日]] {{自然数}}
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大杉栄
大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年〈明治18年〉1月17日 - 1923年〈大正12年〉9月16日)は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。 大杉は1885年(明治18年)に愛媛県那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよと結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。容姿や性格は母親似だったと言われる。当初は東京・麹町区の幼稚園に通園するが父・東が近衛師団(近衛連隊)から新潟県新発田市に赴任したため、14歳までの長期間を新発田市で暮らした。日清戦争と日露戦争にも従軍した東から祈りに触れて軍人として仕込まれたこともあって、元帥を目指すという高邁な精神で1899年(明治32年)に名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。ドイツ語科を希望するも定員に満たなかったことからフランス語科に回されたが、これは後の思想家の誕生に役立った。 名古屋陸軍地方幼年学校では武道に熱中するあまり学業の成績は良からぬ点があり、学校内では奔放な生活を送った。同性愛に走って修学旅行では下級生による性的な戯れに対して禁足30日の処分を受けた。「下士官どもの追究が残酷」「尊敬も親愛も感じない上官への服従を盲従」という考えから教官に対して反抗することが増えて憂鬱になり、「(故郷である)新発田の自由な空を思う」ように至ったとの理由から軍医によって脳神経症と診断され、休暇を与えられた。栄は幼年学校の外に出れば快活な少年として過ごせたが学校へ戻ると再び凶暴な少年となり、同期生徒の喧嘩で相手からナイフで刺される騒動を起こし、1901年(明治34年)に在学僅か2年で退学処分となった。退学直前の栄の成績は極端なもので、実科では主席、学科では次席であるにも関わらず、操行では最下位だった。 軍隊生活の窮屈から解放された栄は父親の許しを得ずに文学を志すことを決め、語学研究と称して1902年(明治35年)に上京して順天中学校へ入学した。1903年(明治36年)には東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏文科に入学したが、この頃に母・とよが亡くなり、栄は牛込の下宿先で友人に勧められて「進化論」を原書で読み、足尾鉱毒事件への追及運動に栄と共に下宿していた友人が参加したことに触発され、定価が最も安かった「萬朝報」を購読して軍隊外の社会に目を向けた。幸徳秋水・堺利彦の名もこの頃に知り、彼らの提唱する非戦論に共鳴して平民社の結成を知ると訪れて講演会に参加したり、1904年(明治37年)3月に開催された社会主義研究会に出席した。大杉は次第に社会主義に感化されて頻繁に平民社へ出入りしたり、のちにこの時期を回想して雑誌「改造」に自叙伝として発表したが、この自叙伝は栄の死後に未完ながらも単行本にまとめられた。 1905年(明治38年)3月頃、平民社が発行していた週刊「平民新聞」の後継紙である「直言」に堺が書いた紹介記事によってエスペラントを知り、1905年(明治38年)7月に東京外国語学校仏語学科選科を修了した。その後、翌年にかけて東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開校させ、1906年(明治39年)3月には東京市内電車の運賃値上げに反対する市民大会に関与したとして兇徒聚集罪により逮捕されたが、6月に釈放された。しかし、同年11月には新聞に掲載された「新兵諸君に与ふ」が新聞紙条例違反で起訴され、これ以降は言論活動で社会主義運動に関わっていった。1908年(明治41年)1月17日にはいわゆる屋上演説事件によって治安警察法違反容疑で逮捕された。同年6月22日には東京・神田にあった映画館「錦輝館」で発生した赤旗事件によって再び逮捕され、これまでの量刑も含んで2年6ヶ月にわたって千葉刑務所へ収容された。獄中ではさらに語学を学びながらアナキズムの本も多数読破した。1910年(明治43年)9月には東京監獄に移されて秋水らの大逆事件に関連した取調べを受けるが11月に出所し、堺らと「売文社」を結成する。 1911年(明治44年)1月24日に秋水らが処刑されたことで社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村と共に1912年(大正元年)10月に近代思想、1914年(大正3年)10月に平民新聞を発刊し、定例の社会主義研究会を開催して運動を活発化させようとするが、いずれも発禁処分を受けて経済的な収入が途絶える。この頃にチャールズ・ダーウィンによる「The Origin of Species」を「種の起原」という題名で翻訳出版するが、アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や以前からの同志から反発を受け、復活させた近代思想も1916年(大正5年)初めに廃刊となった。同年には伊藤野枝との恋愛も始まり、大杉は次第に研究会への参加も減っていく。しかし大杉には妻・堀保子との結婚生活も続く状況において、11月9日に以前からの恋愛相手だった神近市子によって刺される日蔭茶屋事件が発生した。大杉は事件によって重傷を負うが世間は市子に同情的だった。その理由として市子は大杉を身を粉にして経済面でサポートしていたためで、野枝を魔性の女や悪魔のように噂していた大杉の評判はあっという間に地に落ち、同志からも完全に孤立した。大杉は野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。また、大杉は自由恋愛論者で、妻・保子との結婚は居候中に強姦したことによる結婚で、当時の保子は深尾韶と婚約していたが破棄となった。さらに大杉は保子と入籍せず、市子に続けて野枝とも愛人関係となって、野枝は長女・魔子(のちに改名して真子)を妊娠した。大杉は女性から常に経済的援助を受けていたが、大杉の愛情が野枝とその子供である魔子に移ったのを嫉妬した市子によって日蔭茶屋事件が発生したのである。事件によって市子は入獄し、大杉は保子と離別したために野枝と家庭を持つが依然として入籍はせず、次女・エマ、三女・エマ、四女・ルイズ、長男・ネストルをもうけた。次女・エマ以外は大杉と野枝の死後に野枝の実家に引き取られ、戸籍を届ける時に改名されたものである。 1917年(大正6年)9月に長女・魔子が誕生し、村木源次郎だけは大杉の家に同居して家事を手伝う。同年末に大杉らは労働者の町として知られた東京・亀戸へ移住し、野枝と文明批評を創刊する。大杉のもとには和田久太郎、久板卯之助が加わり、この件が前年のロシア革命勃発の影響もあって労働運動が盛り上がる機運となった。1918年(大正7年)2月には同志たちとの関係修復を図ろうと研究会も定期的に開催させ、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強めながら九州、関西を周回し、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにした。1919年(大正8年)1月には近藤憲二らが主催し、労働者も参集していた北風会と研究会を統合させて「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。同年9月には「東京労働同盟会」と改称して機関紙「労働運動」を刊行させ、拠点となる労働運動社に仲間が集まる。 1920年(大正9年)の不況下においても労働争議が増加し、次第に大杉の活動は広がっていく。ピョートル・クロポトキンの著作翻訳に加えて演説会の開催や、メーデーを前にしての事前検束も受ける。10月には中華民国・上海で開催された社会主義者の集会に加わって11月に帰国し、12月9日には社会主義者同盟結成に向けて鎌倉にあった大杉の自宅に40名余りが集まる。 1921年(大正10年)1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての労働運動(第二次)を刊行させるが、腸チフスを悪化させて入院する。さらに6月にはボルの井伊らに裏切られて共同路線が破綻し、労働運動紙は僅か13号で廃刊に追い込まれる。それでも同年12月にはアナキストだけで労働運動(第三次)を復刊させる。 1922年(大正11年)2月、大杉は福岡県八幡市(現・福岡県北九州市)での官営八幡製鐵所罷工2周年記念演説会に参加する。ここでは労働運動紙においてソビエト政府のアナキスト達への弾圧を報告し、信友会の有志、労働運動社の同志と労働組合の連合を目指すために全国労働組合総連合会の発足に努力するが、9月30日にサンディカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗となり、アナ・ボル論争は激化した。後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する中浜哲はこのタイミングで大杉に接近し、労働運動紙へ労働争議の現場報告と詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成して新潟と中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴いたほか、10月にはギロチン社を古田大次郎らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加するため再び日本を脱出する。 1923年(大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中国人に偽装して中華民国からフランスに向かった。マフノ運動の中心人物であるネストル・マフノと接触も図る目的もあり、アジアでのアナキストの連合も意図し、上海およびフランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユに到着するが大会が延期となり、フランスから国境を越えるのも困難になる中で大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕される。異国の地で逮捕された大杉はラ・サンテ監獄に送られ、そこで大杉本人と発覚して裁判後に強制退去処分となる。そのままフランスの日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸に乗船し、7月11日に神戸に戻る。その際、大杉はパリにある日本大使館からの反対意見によって、乗船切符が二等船室になったことを恨む記述を「日本脱出記」に書いている。滞在記については滞仏中から発表され、これらも日本脱出記としてまとめられる。かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳(初の日本語訳)したファーブル昆虫記が「昆虫記」の名で出版されたが、これ以降の大杉は東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇する。 関東大震災から僅か2週間後の1923年(大正12年)9月16日、自宅近くから妻の伊藤野枝、甥で6歳の橘宗一と共に憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって殺害され、遺体が井戸に遺棄された(甘粕事件)。38歳没。殺害の実行犯として憲兵大尉の甘粕とその部下が軍法会議にかけられ、有罪判決となった。公判内容は毎回新聞報道された。 震災後、政府は朝鮮と日本のアナキストの連合グループや不逞社の朴烈、金子文子を大逆事件で調査した。その中でメンバーの一人で獄死した新山初代は震災直前の8月に大杉へ勉強会での講師を依頼しており、大杉の呼びかけで開催した集会にも出席していた。これらの事実は警察がまとめた訊問調書に記載され、公判記録としてアナーキズム(『続・現代史資料』3、みすず書房、1988年7月)に収載されている。 12月16日、自由連合派の労働組合とアナキスト各団体が主催となり、殺害された3人の合同葬が行われる。この際、右翼団体大化会のメンバーが弔問客を装って大杉の遺骨を持ち去る事件が起きた(大杉栄遺骨奪取事件)。遺骨は9日後に大化会会長の岩田富美夫が警察に届け出て、翌年5月に警察から遺族に返還された。労働運動社の和田久太郎、村木源次郎はギロチン社の中浜哲、古田大次郎らと共同して殺害への報復を意図し、翌年の一周忌までに政府へ攻撃を企てるが失敗した。 大杉の遺骨は野枝の郷里である福岡県で埋葬されたが、野枝が地域から快く思われていなかったこともあって損壊が相次ぎ、静岡県静岡市の共同墓地に改めて墓が作られた。2023年(令和5年)9月16日、甘粕事件から100年を迎えた節目として墓前祭が行われ、約50人が参列した。 大杉は、家族でも聞き取れない程の重度の吃音に生涯悩まされ続けていた。特にか行の発音では目を瞬きさせて「金魚が麸を飲みこむような口つきになった」という。陸軍幼年学校時代も「下弦の月」とどうしても発言できず、「上弦ではありません」と言ってその場をやり過ごしたり(その代わり「性格がひねくれている」と教官の心証を害したという)、後藤新平のもとへ金を借りに向かったところ、500円を借りる予定だったものが「ゴ」の発音が出ず、仕方なく300円を借りたエピソードもある。 前述のように後藤から300円の資金援助を受けたとされる。1923年(大正12年)12月17日の衆議院予算委員会において後藤が第2次山本内閣の内務大臣として行った答弁によれば、寺内内閣の内務大臣として大杉に2回にわたって計500円を渡しており、大杉への資金提供は「歴代ノ内務大臣ガヤッテ居ッタコトテアル」と述べている。 (いずれも復刻版が刊行されている)
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大杉 栄は、日本の無政府主義者、思想家、作家、ジャーナリスト、翻訳家、社会運動家。エスペランティスト、自由恋愛主義者でもあった。
{{参照方法|date=2014年3月}} {{Infobox 革命家 |名前= {{ruby|大杉|おおすぎ}} {{ruby|榮|さかえ}} |画像= [[image:Sakae Osugi.jpg|240px]] |説明= 雑誌「[[改造 (雑誌)|改造]]」に掲載された大杉(1921年頃)。 |通称= |生年= [[1885年]][[1月17日]] |生地= {{JPN}}・[[愛媛県]][[那珂郡 (香川県)|那珂郡]][[丸亀市|丸亀]] |没年= {{死亡年月日と没年齢|1885|1|17|1923|9|16}} |没地= {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]]麹町区大手町<br/>(現:東京都千代田区大手町)<br/>大日本帝国陸軍憲兵隊司令部 |出身校= [[東京外国語学校]] |組織= |思想= [[アナキズム|無政府主義]] |廟= }} {{アナキズム}} '''大杉 栄'''(おおすぎ さかえ、大杉榮、[[1885年]]〈[[明治]]18年〉[[1月17日]] - [[1923年]]〈[[大正]]12年〉[[9月16日]])は、[[日本]]の[[無政府主義者]]、[[思想家]]、[[作家]]、[[ジャーナリスト]]、[[翻訳|翻訳家]]、[[社会運動家]]。[[エスペランティスト]]、[[自由恋愛主義|自由恋愛主義者]]でもあった。 == 生涯 == === 幼少期 === 大杉は[[1885年]](明治18年)に[[愛媛県]]<ref>[[1876年]](明治9年)の第2次府県統合によって香川県・松山県・宇和島県が統合され、[[1888年]](明治21年)まで愛媛県という1つの県だった。</ref>[[那珂郡 (香川県)|那珂郡]]丸亀(現・[[香川県]][[丸亀市]])で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は[[愛知県]][[海東郡]]越治村(現・愛知県[[津島市]])出身の[[大日本帝国陸軍]][[近衛師団]]の前身である常時陸軍の[[軍人]]で、代々[[庄屋]]の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよと結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。容姿や性格は母親似だったと言われる<ref name="umare">{{Harvnb|村上|1925|loc=p.230}}</ref>。当初は東京・[[麹町区]]の幼稚園に通園するが父・東が近衛師団(近衛連隊)から[[新潟県]][[新発田市]]に赴任したため、14歳までの長期間を新発田市で暮らした。[[日清戦争]]と[[日露戦争]]にも従軍した東から祈りに触れて軍人として仕込まれたこともあって、[[元帥 (日本)|元帥]]を目指すという高邁な精神で[[1899年]](明治32年)に[[名古屋陸軍地方幼年学校]]に入学した。ドイツ語科を希望するも定員に満たなかったことからフランス語科に回されたが、これは後の思想家の誕生に役立った<ref name="umare" />。 === 学生時代~社会主義への接近 === [[名古屋陸軍地方幼年学校]]では[[武道]]に熱中するあまり学業の成績は良からぬ点があり、学校内では奔放な生活を送った。[[同性愛]]に走って<ref>[[中村彝]]の次兄・中村中と恋仲となったと言われるが。中は器械体操の授業で胸を強打したのが原因で急逝している。</ref>[[修学旅行]]では下級生による性的な戯れに対して禁足30日の処分を受けた。「[[下士官]]どもの追究が残酷」「尊敬も親愛も感じない上官への服従を盲従」という考えから教官に対して反抗<ref>{{Harvnb|大杉|1923|loc=pp.110-134}}</ref>することが増えて憂鬱になり、「(故郷である)新発田の自由な空を思う」ように至ったとの理由から[[軍医]]によって[[うつ病|脳神経症]]と診断され、休暇を与えられた。栄は幼年学校の外に出れば快活な少年として過ごせたが学校へ戻ると再び凶暴な少年となり、同期生徒の喧嘩で相手からナイフで刺される騒動を起こし、[[1901年]](明治34年)に在学僅か2年で退学処分となった。退学直前の栄の成績は極端なもので、実科では主席、学科では次席であるにも関わらず、[[操行]]では最下位だった。 軍隊生活の窮屈から解放された栄は父親の許しを得ずに文学を志すことを決め、語学研究と称して[[1902年]](明治35年)に上京して[[順天中学校・高等学校|順天中学校]]へ入学した<ref>{{Harvnb|村上|1925|loc=p.231}}</ref>。[[1903年]](明治36年)には[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])仏文科に入学したが、この頃に母・とよが亡くなり、栄は牛込の下宿先で友人に勧められて「[[進化論]]」を原書で読み、[[足尾鉱毒事件]]への追及運動に栄と共に下宿していた友人が参加したことに触発され、定価が最も安かった「[[萬朝報]]」を購読して軍隊外の社会に目を向けた。[[幸徳秋水]]・[[堺利彦]]の名もこの頃に知り、彼らの提唱する[[非戦論]]に共鳴して[[平民社]]の結成を知ると訪れて講演会に参加したり、[[1904年]](明治37年)3月に開催された社会主義研究会に出席した。大杉は次第に社会主義に感化されて頻繁に平民社へ出入りしたり、のちにこの時期を回想して雑誌「[[改造 (雑誌)|改造]]」に自叙伝として発表したが、この自叙伝は栄の死後に未完ながらも単行本にまとめられた<ref name="os">{{Harvnb|大杉|1923|loc=}}</ref>。 === 社会主義に感化 === [[image:Sakae.jpg|thumb|right|250px|1920年頃]] [[1905年]](明治38年)3月頃、[[平民社]]が発行していた週刊「平民新聞」の後継紙である「直言」に堺が書いた紹介記事によって[[エスペラント]]を知り、[[1905年]](明治38年)7月に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]]仏語学科選科を修了した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949943/17 『官報』第6610号、明治38年7月13日、p.552]</ref>。その後、翌年にかけて[[東京市]][[本郷 (文京区)|本郷]]にある習性小学校に[[エスペラント]]学校を開校させ<ref>『東京外国語学校一覧』には卒業後の職業としてエスペラント学校教師とある。{{Cite|和書|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|813025/57}}|date=1906-11-30|page=100|title=東京外国語学校一覧 従明治39年至明治40年|publisher=東京外国語学校}}</ref>、[[1906年]](明治39年)3月には[[東京市内電車値上げ反対運動|東京市内電車の運賃値上げに反対する市民大会]]に関与したとして兇徒聚集罪により[[逮捕]]されたが、6月に釈放された。しかし、同年11月には新聞に掲載された「新兵諸君に与ふ」が[[新聞紙条例]]違反で起訴され、これ以降は言論活動で[[社会主義]]運動に関わっていった。[[1908年]](明治41年)1月17日にはいわゆる屋上演説事件<ref>平民書房で行われていた[[金曜会]]に対して警察が解散を命じたことに反発し、堺が平民書房の2階から群衆に向けて警官の迫害を訴えた事件。</ref>によって[[治安警察法]]違反容疑で逮捕された。同年6月22日には東京・神田にあった映画館「[[錦輝館]]」で発生した[[赤旗事件]]によって再び逮捕され、これまでの量刑も含んで2年6ヶ月にわたって[[千葉刑務所]]へ収容された。獄中ではさらに語学を学びながら[[アナキズム]]の本も多数読破した。[[1910年]](明治43年)9月には[[市ヶ谷刑務所|東京監獄]]に移されて秋水らの[[大逆事件]]に関連した取調べを受けるが11月に出所し、堺らと「[[売文社]]」を結成する。 [[1911年]](明治44年)[[1月24日]]に秋水らが処刑されたことで社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は[[荒畑寒村]]と共に[[1912年]](大正元年)10月に[[近代思想]]、[[1914年]](大正3年)10月に平民新聞を発刊し、定例の社会主義研究会を開催して運動を活発化させようとするが、いずれも発禁処分を受けて経済的な収入が途絶える。この頃に[[チャールズ・ダーウィン]]による「[[種の起源|The Origin of Species]]」を「種の起原」という題名で翻訳出版するが、アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や以前からの同志から反発を受け、復活させた近代思想も[[1916年]](大正5年)初めに廃刊となった。同年には[[伊藤野枝]]との恋愛も始まり、大杉は次第に研究会への参加も減っていく。しかし大杉には妻・[[堀保子]]<ref>文学者・堀成之の娘で、堺の妻の妹にあたる。</ref>との結婚生活も続く状況において、11月9日に以前からの恋愛相手だった[[神近市子]]によって刺される[[日蔭茶屋事件]]が発生した<ref>[[神奈川県]][[葉山町]]にあった旅館で、現在は「[http://hikage.chaya.co.jp/ 日影茶屋]」の屋号で日本料理店として営業している。[https://www.sankei.com/article/20180806-AEKVL6XACBMXPO7QKHAXUWSXEM/ 【老舗あり】神奈川県葉山町 日影茶屋/葉山とともに歩む名店]『[[産経新聞]]』朝刊2018年8月6日(2018年10月18日閲覧)参照。</ref>。大杉は事件によって重傷を負うが世間は市子に同情的だった。その理由として市子は大杉を身を粉にして経済面でサポートしていたためで、野枝を魔性の女や悪魔のように噂していた大杉の評判はあっという間に地に落ち、同志からも完全に孤立した。大杉は野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。また、大杉は[[自由恋愛主義|自由恋愛論者]]で、妻・保子との結婚は居候中に[[強姦]]したことによる結婚{{疑問点|title=『中央公論』の記述では「脅迫」|date=2023年9月}}<ref>市原正恵「もうひとりの明治社会主義者――深尾韶の生涯」『思想の科学』第75巻、思想の科学社、1977年、83-97頁。</ref>で、当時の保子は[[深尾韶]]と婚約していたが破棄となった。さらに大杉は保子と入籍せず、市子に続けて野枝とも愛人関係となって、野枝は長女・魔子(のちに改名して真子)を妊娠した。大杉は[[ジゴロ|女性から常に経済的援助]]を受けていたが、大杉の愛情が野枝とその子供である魔子に移ったのを嫉妬した市子によって日蔭茶屋事件が発生したのである。事件によって市子は入獄し、大杉は保子と離別したために野枝と家庭を持つが依然として入籍はせず、次女・エマ<ref>のち改名して「幸子」。</ref>、三女・エマ<ref>のちに改名して「笑子」。</ref>、四女・ルイズ<ref>のちに改名して「留意子」。</ref>、長男・ネストル<ref>のちに改名して「栄」。</ref>をもうけた。次女・エマ以外は大杉と野枝の死後に野枝の実家に引き取られ、[[戸籍]]を届ける時に改名されたものである。 [[1917年]](大正6年)9月に長女・[[大杉魔子|魔子]]<ref>誕生前に悪魔と言われたことを逆手にとって命名したもの。大杉は溺愛した。</ref>が誕生し、[[村木源次郎]]だけは大杉の家に同居して家事を手伝う。同年末に大杉らは労働者の町として知られた東京・亀戸へ移住し、野枝と文明批評を創刊する。大杉のもとには[[和田久太郎]]、[[久板卯之助]]が加わり、この件が前年の[[ロシア革命]]勃発の影響もあって[[労働運動]]が盛り上がる機運となった。[[1918年]](大正7年)2月には同志たちとの関係修復を図ろうと研究会も定期的に開催させ、[[サンディカリズム]]の立場で労働運動への影響を強めながら九州、関西を周回し、大阪では[[1918年米騒動|米騒動]]の騒乱を目の当たりにした。[[1919年]](大正8年)1月には[[近藤憲二]]らが主催し、労働者も参集していた北風会と研究会を統合させて「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。同年9月には「東京労働同盟会」と改称して機関紙「労働運動」を刊行させ、拠点となる労働運動社に仲間が集まる。 === 海外での社会主義活動 === [[image:Baibunsha, September 1922.JPG|right|thumb|250px|[[売文社]]のメンバーの集合写真<br/>左の白いシャツの人物から[[新居格]]、大杉、堺、[[山崎今朝弥]]、[[山川均]]、[[近藤栄蔵]]で左奥の人物は不明。]] [[1920年]](大正9年)の不況下においても労働争議が増加し、次第に大杉の活動は広がっていく。[[ピョートル・クロポトキン]]の著作翻訳に加えて演説会の開催や、メーデーを前にしての事前検束も受ける。10月には[[中華民国]]・[[上海市|上海]]で開催された社会主義者の集会に加わって11月に帰国し、12月9日には社会主義者同盟結成に向けて鎌倉にあった大杉の自宅に40名余りが集まる。 [[1921年]](大正10年)1月、[[コミンテルン]]からの資金でアナ・ボル(アナキスト・[[ボルシェヴィキ]])共同の機関紙としての労働運動(第二次)を刊行させるが、[[腸チフス]]を悪化させて入院する。さらに6月にはボルの井伊らに裏切られて共同路線が破綻し、労働運動紙は僅か13号で廃刊に追い込まれる。それでも同年12月にはアナキストだけで労働運動(第三次)を復刊させる。 [[1922年]](大正11年)2月、大杉は福岡県[[八幡市 (福岡県)|八幡市]](現・福岡県[[北九州市]])での[[官営八幡製鐵所]]罷工2周年記念演説会に参加する。ここでは労働運動紙において[[ソビエト連邦|ソビエト政府]]のアナキスト達への弾圧を報告し、信友会の有志、労働運動社の同志と労働組合の連合を目指すために全国労働組合総連合会の発足に努力するが、9月30日に[[サンディカリズム]]派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗となり、アナ・ボル論争は激化した。後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する[[中浜哲]]はこのタイミングで大杉に接近し、労働運動紙へ労働争議の現場報告と詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成して新潟と中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴いたほか、10月にはギロチン社を[[古田大次郎]]らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツの[[ベルリン]]で開かれる予定の国際アナキスト大会に参加するため再び日本を脱出する。 [[1923年]](大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中国人に偽装して中華民国から[[フランス]]に向かった。マフノ運動の中心人物である[[ネストル・マフノ]]と接触も図る目的もあり、アジアでのアナキストの連合も意図し、上海およびフランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日に[[マルセイユ]]に到着するが大会が延期となり、フランスから国境を越えるのも困難になる中で大杉は[[パリ]]近郊の[[サン=ドニ|サン・ドニ]]のメーデーで演説を行い、警察に逮捕される。異国の地で逮捕された大杉は[[サンテ刑務所|ラ・サンテ監獄]]に送られ、そこで大杉本人と発覚して裁判後に[[強制退去]]処分となる。そのままフランスの日本[[領事館]]の手配でマルセイユから箱根丸に乗船し、7月11日に[[神戸市|神戸]]に戻る。その際、大杉はパリにある日本[[大使館]]からの反対意見によって、乗船切符が二等船室になったことを恨む記述を「日本脱出記」に書いている。滞在記については滞仏中から発表され、これらも日本脱出記としてまとめられる。かつて[[豊多摩刑務所]]収監中に翻訳(初の日本語訳)した[[ファーブル昆虫記]]が「昆虫記」の名で出版されたが、これ以降の大杉は東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に[[関東大震災]]に遭遇する。 === 最期 === [[File:Tomb of Sakae Osugi 03.jpg|thumb|250px|right|静岡市葵区沓谷一丁目の市営沓谷霊園にある墓(2019年9月)]] [[関東大震災]]から僅か2週間後の[[1923年]](大正12年)9月16日、自宅近くから妻の[[伊藤野枝]]、甥で6歳の[[橘宗一]]<ref>大杉の妹の長男で、宗一の墓は名古屋の[[覚王山日泰寺|日泰寺]]にある。</ref>と共に憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の[[甘粕正彦]]らによって殺害され、遺体が井戸に遺棄された([[甘粕事件]])。{{没年齢|1885|1|17|1923|9|16}}。殺害の実行犯として[[大尉|憲兵大尉]]の甘粕とその部下が[[軍法会議]]にかけられ、有罪判決となった。公判内容は毎回新聞報道された。{{Main|甘粕事件}} 震災後、政府は朝鮮と日本のアナキストの連合グループや不逞社の[[朴烈]]、[[金子文子]]を[[大逆事件#朴烈事件|大逆事件]]で調査した。その中でメンバーの一人で獄死した[[新山初代]]は震災直前の8月に大杉へ勉強会での講師を依頼しており、大杉の呼びかけで開催した集会にも出席していた。これらの事実は警察がまとめた訊問調書に記載され、公判記録としてアナーキズム(『続・現代史資料』3、[[みすず書房]]、1988年7月)に収載されている。 12月16日、自由連合派の労働組合とアナキスト各団体が主催となり、殺害された3人の合同葬が行われる。この際、右翼団体[[大化会]]のメンバーが弔問客を装って大杉の遺骨を持ち去る事件が起きた([[大杉栄遺骨奪取事件]])。遺骨は9日後に大化会会長の[[岩田富美夫]]が警察に届け出て、翌年5月に警察から遺族に返還された。労働運動社の[[和田久太郎]]、[[村木源次郎]]はギロチン社の[[中浜哲]]、[[古田大次郎]]らと共同して殺害への報復を意図し、翌年の一周忌までに政府へ攻撃を企てるが失敗した。 大杉の遺骨は野枝の郷里である福岡県で埋葬されたが、野枝が地域から快く思われていなかったこともあって損壊が相次ぎ<ref>「無名碑の墓石山中に」『読売新聞』2023年9月9日九州版27面</ref>、静岡県静岡市の共同墓地に改めて墓が作られた<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9H432SL9HUTPB001.html |title=静岡)大杉栄らの墓前祭、色とりどりのバラ献花 |publisher=朝日新聞DIGITAL |date=2019-09-16 |accessdate=2023-09-12}}</ref>。[[2023年]](令和5年)[[9月16日]]、甘粕事件から100年を迎えた節目として墓前祭が行われ、約50人が参列した<ref>{{Cite web |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/1127574/ |title=「権力の横暴は忘れない」甘粕事件から100年 静岡で最後の墓前祭 |publisher=西日本新聞 |date=2023-09-17 |accessdate=2023-09-18}}</ref>。 == 逸話 == 大杉は、家族でも聞き取れない程の重度の[[吃音]]に生涯悩まされ続けていた。特に[[か行]]の発音では目を瞬きさせて「[[金魚]]が麸を飲みこむような口つきになった」という。陸軍幼年学校時代も「[[弦月|下弦の月]]」とどうしても発言できず、「上弦ではありません」と言ってその場をやり過ごしたり(その代わり「性格がひねくれている」と教官の心証を害したという)、[[後藤新平]]のもとへ金を借りに向かったところ、500円を借りる予定だったものが「ゴ」の発音が出ず、仕方なく300円を借りたエピソードもある。 === 後藤新平・内務大臣からの資金援助 === 前述のように後藤から300円の資金援助を受けたとされる。[[1923年]](大正12年)[[12月17日]]の[[衆議院]][[予算委員会]]において後藤が[[第2次山本内閣]]の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]として行った答弁によれば、[[寺内内閣]]の内務大臣として大杉に2回にわたって計500円を渡しており、大杉への資金提供は「歴代ノ内務大臣ガヤッテ居ッタコトテアル」と述べている<ref>駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)223頁。</ref>。 == 著作 == <!--[[一次資料]]、乃至一次資料の復刻版--> === 自叙伝 === * 『獄中記』 1919年 * 『自叙傳』 1923年 * 『日本脱出記』 1923年 === 翻訳 === * 『昆虫記』第1巻 1922年 *[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]『[[相互扶助論|相互扶助論 進化の一要素]]』1924年 === 機関紙誌(大杉栄が編集・刊行に関与) === * 『近代思想』 * 『平民新聞』 * 『文明批評』 * 『労働運動』 (いずれも復刻版が刊行されている) === 論文等 === * 『生の闘争』 1914年、1923年4月30日 * 『社会的個人主義』 1915年[[発禁]] * 『労働運動の哲学』 1916年発禁 * 『乞食の名誉』1920年伊藤野枝との共著 * 『クロポトキン研究』 1920年 * 『正義を求める心』 1921年9月9日 * 『悪戯』1921年 * 『二人の革命家』 1922年伊藤野枝との共著 * 『漫文漫画』 1922年 [[望月桂]]との共著 * 『無政府主義者の見たロシア革命』1922年 === 近藤憲二編集 === * 『随筆集生の闘争』1923年 * 『日本脱出記』 1923年 * 『自叙傳』 1923年 * 『自由の先驅』 1924年 * 『大杉栄全集』アルス版 1925年 - 1926年 === 同志の著作 === * 『死の懺悔』1926年 古田大次郎 [[春秋社]] * 『獄窓から』1930年 和田久太郎 * 『死刑囚の思い出』 1930年発禁 古田大次郎 === 追悼号 === * 『改造』 1923年11月 大杉栄追想号 * 『中央公論』 1923年11月「吾が回想する大杉」佐藤春夫 * 『労働運動』1924年3月大杉栄・伊藤野枝追悼号 * 『祖国と自由』 1925年9月 大杉栄追悼号 === 1960,70年代刊行著作、関連書 === * 『大杉栄全集』全14巻、[[現代思潮社]] * 大澤正道『大杉栄研究』、同成社、1968年7月 * 秋山清『大杉栄評伝』、[[思想の科学社]]、1976年11月 === 1980年以降の出版 === * 『大杉栄訳 ファーブル昆虫記』(ジャン=アンリ ファーブル(著),小原秀雄(著),大杉栄(訳)、明石書店、2005年) * 『日録・大杉栄伝』(大杉豊、社会評論社、2009年) * 『日本脱出記』(大杉豊解説、[http://www.doyosha.com/ 土曜社]、2011年) * 『自叙傳』(大杉豊解説、[http://www.doyosha.com/ 土曜社]、2011年) * 『獄中記』(大杉豊解説、[http://www.doyosha.com/ 土曜社]、2012年) * 『KAWADE道の手帖 大杉栄』([[河出書房新社]]、2012年) * 『大杉栄と仲間たち』(ぱる出版、2013年) * 『新編 大杉栄追想』(大杉豊解説、[http://www.doyosha.com/ 土曜社]、2013年)『改造』 1923年11月大杉栄追想号の復刊 == 関連作品 == === 小説 === * 『美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄』 [[瀬戸内寂聴]]著、岩波現代文庫、2017年 * 『諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上・下)』 [[瀬戸内寂聴]]著、岩波現代文庫、2017年 === 映画 === * 『[[大虐殺 (映画)|大虐殺]]』 - 1960年、演:[[細川俊夫 (俳優)|細川俊夫]] * 『[[エロス+虐殺]]』 - 1970年、演:[[細川俊之]] * 『[[華の乱]]』 - 1988年、演:[[風間杜夫]] * 『[[シュトルム・ウント・ドランクッ]][http://sturm-und-drang13.net/?page_id=68]』 - 2014年、演:[[川瀬陽太]] * 『[[菊とギロチン]]』 - 2018年、演:[[小木戸利光]] === テレビドラマ === * 『[[涙たたえて微笑せよ 明治の息子・島田清次郎]]』 - 1995年、NHK土曜ドラマ、演:[[長谷川和彦]] * 『[[足尾から来た女]]』- 2014年、NHK土曜ドラマ、演:[[玉置玲央]] * 『[[風よあらしよ]]』-2022年、NHK-BSドラマ 演:[[永山瑛太]] === 演劇 === * 『走りながら眠れ』 - 2019年、演:[[青年団]]、作・演出:[[平田オリザ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation |和書| last = 村上| first =計二郎| author-link =|year =1925 |title =列伝偉人の結婚生活 | publisher =日本書院 |url={{NDLDC|983257/127}} 国立国会図書館デジタルコレクション}} * {{Citation |和書| last = 大杉| first =栄| author-link =|year =1923 |title =自叙傳| publisher =[[改造社]]|url={{NDLDC|972070/3}} 国立国会図書館デジタルコレクション}} *駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』南窓社、2007年6月。 {{参照方法|date=2014年3月|section=1}} *市原正恵「静岡市における大杉栄・伊藤野枝・橘宗一追悼の三十年」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。 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*[[幸徳事件]] *[[日本エスペラント協会]] *[[アナ・ボル論争]]<!--日本の社会主義運動で生まれたアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズムの2潮流による思想上の対立--> *[[菅沼五郎]] (次女エマの夫、彫刻家) *[[林倭衛]] * [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]] ==外部リンク== * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person169.html 大杉 栄:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) * [{{NDLDC|832332}} 大杉栄述、堺利彦編『万物の同根一族』有楽社、1908年]([[国会図書館]][[近代デジタルライブラリー]]) * [{{NDLDC|1920457/102}} 日蔭茶屋事件『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』 ([[有恒社]], 1934) ]近代デジタルライブラリー {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おおすき さかえ}} [[Category:大杉栄|*]] [[Category:日本の無政府主義者]] [[Category:日本の反資本主義者]] [[Category:日本の政治運動家]] [[Category:日本の自伝作家]] [[Category:吃音の人物]] [[Category:日本のテロリスト]] [[Category:革命家]] [[Category:日本の社会主義の人物]] [[Category:明治社会主義の人物]] [[Category:20世紀日本の翻訳家]] [[Category:20世紀日本のエスペランティスト]] [[Category:20世紀日本のジャーナリスト]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:殺害されたジャーナリスト]] [[Category:戦前日本の人物]] [[Category:拷問被害者]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:日本のLGBTの著作家]] [[Category:幸徳事件の人物]] [[Category:日本から密出国した人物]] [[Category:東京外国語大学出身の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1885年生]] 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ボウリング
ボウリング(英: bowling)は、スポーツ競技のひとつ。さまざまな種類のボウリングがあるが、日本において単に「ボウリング」と言った場合、そのほとんどはテンピンボウリング(英: ten-pin bowling)のみを指すため、本項ではテンピンボウリングに限定して述べる。漢訳語「十柱戯()」と記述されることもある。 テンピンボウリングは、ワールドゲームズ実施競技、アジア競技大会、国民体育大会の正式競技種目にもなっている。 日本語での表記法については、文化庁の国語施策における「外来語の表記」で、「長音符号の代わりに母音字を添えて書く慣用もある」として、その例に「ボウリング」を挙げている。「ボーリング」と表記した場合、掘削工事を指すことがあるので注意が必要。 レーン上にピンと呼ばれる的が10本、手前に頂点が向く正三角形に整列され並べられ、プレイヤーはピンを狙ってボール(英: bowling ball)を転がし、倒したピンの数の合計を競う。 基本は一人で競技し、対戦はコンペティティブ・ペーシェンスとしてスコアの比較で行う。 1ゲームは10フレームから構成される。通常、ボウリングを行うための施設であるボウリング場で行う。ボウリング場は複数のレーンと、ピンを自動配置するピンセッター(英語版)や、ボールが自動返送されるボールリターンなどを備えている。また競技用ボールや靴などは貸し出しが行われており、手ぶらで楽しめるスポーツである。 「ボウリングをすること」などを意味する「bowl」という英語は、ラテン語で「泡」や「瘤」を意味する「bulla」に由来する。一方、同じ綴りで食器や容器(ボウル)を意味する「bowl」や「球」を意味する「ball」は、ゲルマン語に由来し、本質的に異なる。 もともとボウリングは倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式であった。その歴史は古く、紀元前5000年頃には古代エジプトにおいて、木でできたボールとピンが墓から発掘されたことから、その頃からもボウリングに似たようなものがあったとされている。 しかし倒すピンの数やそれに応じた並べ方も場所や地域によってさまざまであった。それを中世ドイツの宗教革命家として知られるマルティン・ルターが、倒すピンを9本にし、並べ方もひし形にして、ボウリングの基本的なルールを統一したとされ、これが近代ボウリングのルールの原型になっていったと考えられている。9本という決められた数のピンを倒すという行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング(en:Nine-pin bowling)」(九柱戯)という一つのスポーツが派生し、宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えた。九柱戯はいまだにヨーロッパでは比較的メジャーな競技で、愛好者も多い。 17世紀になるとオランダ人が移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになった。しかしナインピン・ボウリングは賭け事に利用されたため1840年代に禁止される。そこで1本ピンを追加して三角形に並べ、ナインピンを禁じる法律を回避したテンピン・ボウリングが誕生することとなった。1895年にはアメリカ・ボウリング協会(American Bowling Congress)が発足される。1950年代初めに全自動式ピンスポッター(ピンを自動で並べる機械)の設置が始まることで急速に普及し、1952年には国際的な統括機関である国際柱技者連盟(Fédération Internationale des Quilleurs, 略称FIQ)が設立された。 日本では、文久元年5月15日(新暦換算:1861年6月22日)、長崎の大浦居留地(長崎居留地)にて、日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設された。1861年7月6日、英字新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー」にインターナショナル・ボウリング・サロンの開設を告げる案内広告が掲載された。この広告に6月22日にインターナショナル・ボウリング・サロンが開設されたと掲載されていた。 これを記念して、日本ボウリング協議会が1971年に6月22日を『ボウリングの日』と定め、ボウリングの普及と振興のための企画などを実施するようになった。2002年からは日本ボウリング場協会がキャンペーンを実施している。 なお、幕末の志士・坂本龍馬が長崎に居留していたイギリス人貿易商グラバーと交流があったことから、後世、日本ボウリング資料館の開館を報じる『ボウリング・マガジン』において、「龍馬が日本人初のボウリングプレイヤーであるかもしれない」という願望を含んだ記事が掲載されたが、そのような事実があったという確たる証拠は一切無い。 1955年(昭和30年)の雑誌には「最近になって日本に入ってきたスポーツで、まだあまり大衆に親しまれていない」とあり、広く親しまれるようになったのは昭和40年代以降と思われる。スポーツ競技と定義されているが、手軽な集団レクリエーション・ゲームとしても浸透しており、あまり経験の無い人も参加しやすい性質を持つといえる。 1970年(昭和45年)前後には、須田開代子と中山律子に代表されるスター・プレイヤーの出現などがきっかけとなって、ボウリング場が数百メートルごとに立ち並ぶほどの一大ブームが到来した。日本国内のボウリング場は1972年(昭和47年)時点で3697箇所を数えた。 その手軽さとルールの簡明さゆえに、国民に馴染みの深いスポーツの一つであったが、ブームが過ぎると集客力も減衰して施設は激減していった。ボウリング場も1980年代からはアーケードゲームを併設し総合娯楽施設として構えていたことが多かった。遊びの多様化によるボウリング競技者人口の減少に加え、先のブーム時に建てられた施設の老朽化が進んで耐震基準を満たさなくなったことが大きく響いて、次々に廃業している。 日本国内のボウリング場は1972年(昭和47年)には最多の3697箇所を数えた。2016年(平成28年)時点で821箇所にまで減っている。2023年(令和5年)9月1日時点で、日本全国の施設数は661となっている。 通常の得点計算においては、上記のような条件のため、ストライクを続けることが高得点の条件となるが、各フレームごとに独立して得点計算を行うCurrent Frame Scoring Systemが導入される大会もあり、日本でも2023年よりio.LEAGUEにて導入されている。 コンピュータの導入により、点数が自動的に計算・表示されるボウリング場が多く、またコンピュータによる計算の普及により計算方法を知り、自身で計算できるようになるプレイヤーが増加した。 近年は専用のボウリング場だけでなく、体育館等に設えた特設のレーンを会場に行うケースも増えている。NHK衛星第1テレビジョンで放送された「ジャパンカップ」の中継によると、専用レーンでは限られた収容人員しか見学できないため、特に注目されるテレビマッチなど、できるだけ多くの観客にボウリングを楽しんでもらいたいという趣旨から、体育館等に特設のレーンを設えて試合を行う「アリーナファイナル」などを行う機会が増えたと説明されている。 ピン(英語版)とは、レーンの先に設置された棒状のもの。手前からピラミッド状に10本設置される。ピンには位置により番号が付けられており、投球者からみて最も手前の先端に当たるピンが1番ピン、以下、2列目左から右へ2番、3番、3列目左から右へ4 - 6番、最終列左から右へ7 - 10番ピンである。この呼び方は、右投げ・左投げに関係なく共通である。1番ピンを「ヘッドピン(またはヘッド)」、5番ピンを「キングピン」、10番ピンを「テンピン」と呼ぶことが多い。 ボウリングのボール(英語版)は以下のような構造を持つ。 ピンセッター(英語版)はレーンの奥にあり、ボウリングの倒れたピンを回収し、自動的にピンをセットする機械。ピンとボールを回収し、ボールとピンを分別、ボールはプレイヤーに戻し、ピンは向きをそろえて立て直す。ボウリングにおいて最も主要な装置であり「ボウリング・マシン」と呼ばれることもある。機械が発明されるまでは、右の写真のように「ピンボーイ」と呼ばれる少年がピンを手でセットし、ボールをプレイヤーに投げ返していた。 日本のボウリング場で使われているピンセッターは、主に次の4つのメーカーのものである。 上記のピンセッターはピンが1本ずつ独立して循環する方式であるが、ピンがピンスポット上部から紐で繋がり、各投球ごとに紐を引き上げてセットする方式もある。この方式のメーカーとして、かつてはSM(シュミット)やLS(ランシング)があった。その後日本国内ではしばらく見られなかったが、2022年にFUNK NORTH AMERICA社のSTRING PINSETTERがファンキーボウル(宮城県大崎市)に導入された。 取り消し付きの数字は倒れたピンの番号を、太字の数字は残りピンの番号を表す。●はスプリットである。下記の残りピンは、右投げを基準にしている。 プロのトーナメントでは、ゲームの合間のアトラクションとして、トリックプレイと呼ばれる余興が披露されることがある。これは、通常ではありえないシチュエーションを人為的にセットし、やはり通常とは異なる投法などでピンを倒すものである。以下は、トリックプレイで見られるセットの一例である。 日本におけるプロボウラーとは、日本プロボウリング協会が行うプロボウラー資格取得テスト(プロテスト)に合格し、プロ資格を所持する同協会の正会員の者である。プロボウラーの証明として、プロワッペンをユニフォームに着用している。 ゴルフのプロゴルファー制度や将棋などの棋士のプロ制度と大きく異なるのは、合格者数に定員が定められていない点である。受験資格があり、実技試験で規定の基準を上回ることができれば、他人の成績に関わらず試験に合格することができる。結果次第でその年に受験した受験生が全員揃ってプロボウラーとなる可能性もある。 一度プロボウラー資格を取得すれば、協会への年会費を支払い続ける限り、成績等によって資格が剥奪されることはない(除名等で剥奪されることはある)。 他のスポーツと同様、プロトーナメントなどに出場し賞金を獲得できる。しかしながら、賞金ランキングトップの選手においても年間総獲得賞金額が1000万円を上回ることは少なく、ボウリング場などに勤務しながら自場でボウリングスクールを行ったり、人気選手は全国のボウリング場を回りアマチュアボウラーとの交流会を行っている。 日本テレビ系「ワールド☆レコーズ」(2004年 - 2005年)で「100本ボウリング」を放映されたことを切っ掛けに、ボウリング場「X-BOWL」(釧路・小田原・松本)に100本ボウリングのレーンが開設された。番組が「300本ボウリング」を放映後、こちらも300本に変更された。X-BOWLでは1人1球のみの挑戦で料金は2005年時点で300円。300本のピンは手作業で並べるため一度セットするのに40分ほどかかる。そのためこのゲーム自体では採算が取れないが、集客効果が上がったといわれる。後に埼玉県の「アイビーボウル」でも導入された。
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ボウリングは、スポーツ競技のひとつ。さまざまな種類のボウリングがあるが、日本において単に「ボウリング」と言った場合、そのほとんどはテンピンボウリングのみを指すため、本項ではテンピンボウリングに限定して述べる。漢訳語「十柱戯」と記述されることもある。 テンピンボウリングは、ワールドゲームズ実施競技、アジア競技大会、国民体育大会の正式競技種目にもなっている。 日本語での表記法については、文化庁の国語施策における「外来語の表記」で、「長音符号の代わりに母音字を添えて書く慣用もある」として、その例に「ボウリング」を挙げている。「ボーリング」と表記した場合、掘削工事を指すことがあるので注意が必要。
{{Otheruses|球技|クリケットにおける投球|ボウリング (クリケット)|穴を開けること(boring。機械加工や、土木工事の先行掘削や学術調査等のための)|ボーリング}} {{Redirect|ボウラー'''」、「'''プロボウラー'''」、「'''マイボール|クリケットで投球を行う選手|ボウリング (クリケット)|プロボウルに選出された[[NFL]]選手|プロボウル|いのうえ空の漫画|マイぼーる!}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = ボウリング | header_align = center | header_background = #ff3333 | footer = | footer_align = center | width = 230 | image1 = Bowling ball release.jpg | width1 = | alt1 = | caption1 = 離れた所に整列させたピンに向けて重い球を転がし、倒した数に連続性も加味して成績を競う。 | image2 = Bowling - albury.jpg | width2 = | alt2 = | caption2 = ピンとボール | image3 = Bowling_Lane.jpg | width3 = | alt3 = | caption3 = レーン(2005年撮影) }} '''ボウリング'''({{lang-en-short|bowling}})は、[[スポーツ]][[競技]]のひとつ。さまざまな種類のボウリングがあるが、日本において単に「ボウリング」と言った場合、そのほとんどは'''テンピンボウリング'''({{lang-en-short|ten-pin bowling}})のみを指すため、本項ではテンピンボウリングに限定して述べる。[[漢訳]]語「{{読み仮名|'''十柱戯'''|じっちゅうぎ}}<ref>『スーパー[[大辞林]] 3.0』([https://jp.sharp/support/dictionary/product/pw-ac880.html 電子辞書PW-AC880]、SHARP、2008年)</ref>」と記述されることもある。 テンピンボウリングは、[[ワールドゲームズ実施競技]]、[[アジア競技大会]]、[[国民体育大会]]の正式競技種目にもなっている。 日本語での表記法については、文化庁の国語施策における「[[外来語の表記]]」で、「長音符号の代わりに母音字を添えて書く慣用もある」として、その例に「ボウリング」を挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gairai/honbun06.html|title=外来語の表記 留意事項その2(細則的な事項)|website=文化庁|access-date=2023-08-09}}</ref>。「[[ボーリング]]」と表記した場合、掘削工事を指すことがあるので注意が必要。 == 概要 == レーン上にピンと呼ばれる的が10本、手前に頂点が向く[[正三角形]]に整列され並べられ、プレイヤーはピンを狙って[[ボール]]({{lang-en-short|bowling ball}})を転がし、倒したピンの数の合計を競う。 基本は一人で競技し、対戦は[[コンペティティブ・ペーシェンス]]としてスコアの比較で行う。 1ゲームは10フレームから構成される。通常、ボウリングを行うための施設であるボウリング場で行う。ボウリング場は複数のレーンと、ピンを自動配置する{{仮リンク|ピンセッター|en|pinsetter}}や、ボールが自動返送されるボールリターンなどを備えている。また競技用ボールや靴などは貸し出しが行われており、手ぶらで楽しめるスポーツである。 == 名称 == 「ボウリングをすること」などを意味する「{{lang|en|bowl}}」という英語は、ラテン語で「[[泡]]」や「[[瘤]]」を意味する「{{lang|la|bulla}}」に由来する。一方、同じ綴りで食器や容器([[ボウル]])を意味する「{{lang|en|bowl}}」や「[[球体|球]]」を意味する「{{lang|en|ball}}」は、[[ゲルマン語]]に由来し、本質的に異なる。 == 歴史 == もともとボウリングは倒すピンを災いや[[悪魔]]に見立てて、それを沢山倒すことが出来たならば、その災いなどから逃れることが出来るという一種の宗教儀式であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160625-NC7KRAG74BNMLF5HNN32U7JQRU/2/|title=中世のボウリングは悪魔退治ゲームだった!ボウリングの知られざる歴史|website=産経新聞|date=2016-06-25|access-date=2023-11-06}}</ref>。その歴史は古く、[[紀元前5000年]]頃には[[古代エジプト]]において、木でできたボールとピンが墓から発掘された{{Efn2|発掘されたボールとピンは、現在(2010年代)では[[イギリス]]の[[ロンドン]]の博物館に展示されている。}}ことから、その頃からもボウリングに似たようなものがあったとされている。 しかし倒すピンの数やそれに応じた並べ方も場所や地域によってさまざまであった。それを[[中世]][[ドイツ]]の宗教革命家として知られる[[マルティン・ルター]]が、倒すピンを9本にし、並べ方も[[ひし形]]にして、ボウリングの基本的なルールを統一したとされ、これが近代ボウリングのルールの原型になっていったと考えられている<ref name="ニッポニカ">{{Cite Kotobank|word=ボウリング|author=赤木恭平|encyclopedia=小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2023-08-09}}</ref>。9本という決められた数のピンを倒すという行為から、やがて「ナインピンズ・ボウリング([[:en:Nine-pin bowling]])」(九柱戯<ref name="Kotobank-九柱戯">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E6%9F%B1%E6%88%AF-52130 |title=九柱戯 |work=『[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』ほか |publisher=コトバンク |accessdate=2018-06-02 }}</ref>)という一つのスポーツが派生し、宗教家の間では人気のあるスポーツとして栄えた。九柱戯はいまだにヨーロッパでは比較的メジャーな競技で、愛好者も多い。 [[17世紀]]になるとオランダ人が移住したことで、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でもボウリングが盛んになった<ref name="ニッポニカ" />。しかしナインピン・ボウリングは賭け事に利用されたため1840年代に禁止される<ref name="ブリタニカ">{{Cite Kotobank|word=ボウリング|author=|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|access-date=2023-08-09}}</ref>。そこで1本ピンを追加して三角形に並べ、ナインピンを禁じる法律を回避したテンピン・ボウリングが誕生することとなった<ref name="ニッポニカ" />{{Efn2|テンピンボウリングが誕生したのは1842年<ref name="ブリタニカ" />、1875年<ref>{{Cite Kotobank|word=九柱戯|author=|encyclopedia=株式会社平凡社百科事典マイペディア|access-date=2023-08-09}}</ref>とする説がある。}}。[[1895年]]にはアメリカ・ボウリング協会([[:en:United States Bowling Congress|American Bowling Congress]])が発足される<ref name="ニッポニカ" />。1950年代初めに全自動式ピンスポッター(ピンを自動で並べる機械)の設置が始まることで急速に普及し、1952年には国際的な統括機関である[[世界ボウリング連盟|国際柱技者連盟]](Fédération Internationale des Quilleurs, 略称FIQ)が設立された<ref name="ニッポニカ" /><ref name="ブリタニカ" />。 <!-- ジェイソン・ベルモンテ([[w:Jason Belmonte|Jason Belmonte]])やオスク・パレルマ([[w:Osku Palermaa|Osku Palermaa]])といった両手投げの選手もいる。 --> === 日本 === ==== ボウリング事始め ==== [[日本]]では、[[文久]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]({{small|[[新暦]]換算}}:[[1861年]][[6月22日]])、[[長崎市|長崎]]の[[大浦 (長崎市)|大浦]]居留地([[外国人居留地#長崎居留地|長崎居留地]])にて、日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設された。1861年7月6日、[[英字新聞]]「[[ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー|ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー]]」にインターナショナル・ボウリング・サロンの開設を告げる案内広告が掲載された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/778757|title=相次ぐボウリング場の閉店…全国各地に“発祥”にまつわる記念碑が存在していた【企画・NAGOYA発】その3|website=中日スポーツ・東京中日スポーツ|date=2023-09-29|access-date=2023-11-06}}</ref>。この広告に6月22日にインターナショナル・ボウリング・サロンが開設されたと掲載されていた{{Sfn|熊野|1997|p=86}}。 これを記念して、[[日本ボウリング協議会]]{{Efn2|後に「日本ボウリング振興協議会」に改名。2007年(平成19年)3月31日に解散した。}}が1971年に6月22日を『ボウリングの日』と定め、ボウリングの普及と振興のための企画などを実施するようになった{{Sfn|熊野|1997|p=93}}<ref>[http://www.glico.co.jp/info/kinenbi/0622.html ボウリングの日 6月22日]{{リンク切れ|date=2023年8月}}([[江崎グリコ]]公式サイト)2014年6月13日閲覧。</ref>。2002年からは[[日本ボウリング場協会]]がキャンペーンを実施している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20160609-5MCTFUHWSFLFTKYLHPERYCJ3PM/|title=ボウリングの日をPR、女子プロの桜井真利子&本間成美が来社「魅力にはまってくれたらうれしい」|website=サンスポ|date=2016-06-09|access-date=2023-11-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/93097|title=スマイレージ「ボウリングの日」PR応援団長に任命|website=音楽ナタリー|date=2013-06-18|access-date=2023-11-06}}</ref><ref>[http://www.bowling.or.jp/event/ イベント情報・テレビ放映]([[日本ボウリング場協会]]公式サイト)2014年6月13日閲覧。</ref>。 なお、幕末の[[志士]]・[[坂本龍馬]]が長崎に居留していた[[イギリス人]]貿易商[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]と交流があったことから、後世、日本ボウリング資料館の開館を報じる『[[ボウリング・マガジン]]』において、「龍馬が日本人初のボウリングプレイヤーであるかもしれない」という願望を含んだ記事が掲載されたが、そのような事実があったという確たる証拠は一切無い{{要出典|date=2023年11月}}。 ==== 普及 ==== [[1955年]](昭和30年)の雑誌には「最近になって日本に入ってきたスポーツで、まだあまり大衆に親しまれていない」<ref>{{Cite |和書 | title = 装苑 新年号付録 服装ハンドブック | date = 1955年1月 | publisher = 文化服装学院出版局 }}</ref>とあり、広く親しまれるようになったのは昭和40年代以降と思われる。スポーツ競技と定義されているが、手軽な集団[[レクリエーション]]・ゲームとしても浸透しており、あまり経験の無い人も参加しやすい性質を持つといえる。 [[1970年]](昭和45年)前後には、[[須田開代子]]と[[中山律子]]に代表されるスター・プレイヤーの出現などがきっかけとなって、ボウリング場が数百メートルごとに立ち並ぶほどの一大[[流行|ブーム]]が到来した。日本国内のボウリング場は[[1972年]](昭和47年)時点で3697箇所を数えた<ref name="BPAJ-report-H27-p.9">{{PDFlink|[http://www.bowling.or.jp/pdf/outline/report_h27.pdf 平成27年度事業報告]}}{{リンク切れ|date=2023年8月}} [[日本ボウリング場協会]]公式サイト、2016年8月23日閲覧。p.9/13。</ref>。 その手軽さとルールの簡明さゆえに、国民に馴染みの深いスポーツの一つであったが、ブームが過ぎると集客力も減衰して施設は激減していった。ボウリング場も1980年代からは[[アーケードゲーム]]を併設し総合娯楽施設として構えていたことが多かった。遊びの多様化によるボウリング競技者人口の減少に加え、先のブーム時に建てられた施設の老朽化が進んで[[耐震]]基準を満たさなくなったことが大きく響いて、次々に廃業している。<!--かつては防音がしっかりしていなかったこともあって、ピンが倒れる音が周期的に筒抜けになることで有名であった。--> 日本国内のボウリング場は[[1972年]](昭和47年)には最多の3697箇所を数えた<ref name="中日20230929">{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/778756|title=なぜボウリング場の閉店が相次ぐのか…プロボウラー1期生・矢島純一さんに聞く【企画・NAGOYA発】その2|website=中日スポーツ・東京中日スポーツ|date=2023-09-29|access-date=2023-11-06}}</ref>。[[2016年]](平成28年)時点で821箇所にまで減っている<ref name="BPAJ-report-H27-p.9" />。[[2023年]](令和5年)9月1日時点で、日本全国の施設数は661となっている<ref name="中日20230929" />。 ==== 日本の年表 ==== * 1861年、[[文久]]元年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]({{small|[[新暦]]換算}}:[[1861年]][[6月22日]]、[[幕末]])、長崎の大浦居留地に初めてのボウリング場がオープン。[[ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー|地元新聞]](日本発の[[英字新聞]])に広告が掲載される。 {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 記念碑 | header_align = center | header_background = gray | footer = | footer_align = center | width = 180 | image1 = The birthplace of bowling in Japan.jpg | width1 = | alt1 = | caption1 = 「わが国ボウリング発祥の地」碑/[[長崎市]][[大浦 (長崎市)|大浦町]]2-25、[[大浦天主堂]]の下から四海楼へ行く途中に所在する。[[1990年]](平成2年)建立。ピンとボールをデザインに組み込んだ背の高い[[石碑]]と[[ステンドグラス]]をあしらった解説板で構成される。 | width2 = | image2 = Bowling-1a.jpg | alt2 = | caption2 = 「近代ボウリング発祥の地」碑/[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]2丁目の[[テピア|TEPIA]]先端技術館にある。[[1994年]](平成6年)建立。 }} * [[1950年]](昭和25年) - [[7月14日]]、日本ボウリング協会が発足。[[秩父宮ラグビー場|明治神宮外苑ラグビー場]]横に競技場を設立<ref>「ボウリングお目見得 神宮外苑に競技場」『日本経済新聞』昭和25年7月15日3面</ref>。 * [[1952年]]([[昭和]]27年) - [[12月20日]]、日本で初めての本格民間ボウリング場 「東京ボウリングセンター」が、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山 (東京都港区)|青山]]に開業した<ref name="highlife">[http://www.hilife.or.jp/pdf/201001.pdf 研究報告書 これからの都市生活を考えていくための新世代コミュニティの研究] 公益財団法人ハイライフ研究所 2011年3月 p17</ref>。所在地は[[外苑前駅|外苑前]]の現在はスポーツ施設「[[テピア]]」となっている場所であった。しかしながら東京ボウリングセンターは開業から1年で経営破綻したことから[[第一ホテル]](当時)が経営権を取得、吉祥寺第一ホテル(東京都[[武蔵野市]])に施設を移設したが、同ホテルの撤退に伴い2022年3月末に閉館。ホテルは吉祥寺エクセルホテル東急に、ボウリング場跡地はディグボウル吉祥寺となり、館内に「わが国近代ボウリング発祥の地」碑がある。 * [[1955年]](昭和30年) - 日本ボウリング連盟(現・[[全日本ボウリング協会]]の前身)の設立。初代会長は、安西正夫。 * [[1961年]](昭和36年) - 日本がボウリングの世界組織である国際柱技者連盟(FIQ 現・[[世界ボウリング連盟]])に加盟する。この頃からボウリングの機械化が進み始める。それまでは、ピンボーイと呼ばれる人が倒れたピンをもとどおりにするという人力に頼ったものだった。 * [[1964年]](昭和39年) - 5月、[[全日本ボウリング協会]] (JBC) の設立。 * [[1965年]](昭和40年) - 4月、[[日本ボウリング場協会]] (BPAJ) の創立。[[日本ボウリング協議会]](NBCJ)が設立される。[[参議院]]地方委員会風俗小委員会にて、深夜営業を行うボウリング場への青少年の出入りが問題視される。このため業界側が午前零時を回る営業の自主規制を行う<ref>「営業取り消しを 警察庁要請 すれすれストリップ」『日本経済新聞』昭和40年9月15日.15面</ref>。 * 1967年(昭和42年) - 1月27日、[[日本プロボウリング協会]]が設立される<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2012/01/27/post_85/|title=【今日は何の日?】日本プロボウリング協会設立|website=スポルティーバ|publisher=集英社|date=2012-01-27|access-date=2023-11-06}}</ref>。 * [[1960年代]]末頃 - スコアをボウラーが計算しなくても済む計算機能を持った機械が実用化され始める。この頃から、日本ではボウリングのブームが始まる。 * [[1971年]](昭和46年) - 日本ボウリング協議会が6月22日を「ボウリングの日」に制定する。4月、テレビドラマ『[[美しきチャレンジャー]]』の放送開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tc-ent.co.jp/products/detail/BFTD-0446|title=美しきチャレンジャー Blu-ray 【ベストフィールド創立20周年記念企画 第1弾 昭和の名作ライブラリー 第111集】|website=TCエンタテインメント|date=|access-date=2023-11-06}}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年) - 日本ボウリング場協会が6月22日を「ボウリングの日」に制定する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/06/07/kiji/20180607s00089000211000c.html|title=22日は「ボウリングの日」女子プロが魅力をアピール|website=スポニチ|date=2018-06-07|access-date=2023-11-06}}</ref>。 * [[1978年]](昭和48年) - 全日本ボウリング協会が[[財団法人]]になる。 * [[1983年]](昭和58年) - 全日本ボウリング協会が[[日本体育協会]]に加盟。 * [[1986年]](昭和61年) - [[1986年アジア競技大会|アジア競技大会]]で([[ソウル特別市|ソウル]]で開催)日本は12種目中6個もの金メダルを獲得する。 * [[1988年]](昭和63年) - [[ソウルオリンピック]]でエキシビションゲームに採択される。 * [[1990年]]([[平成]]2年) - [[6月22日]]<ref>出典は、本碑の碑文。</ref>、[[長崎県]][[長崎市]][[大浦 (長崎市)|大浦町]]に「わが国ボウリング発祥の地」碑の建立/日本ボウリング場協会による。■右列に画像あり。 * [[1993年]](平成5年) - 日本ボウリング場協会が「[[日本ボウリング場協会#ボウリング・マスメディア大賞|ボウリング・マスメディア大賞]]」を開始する<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinagawa.keizai.biz/headline/492/|title=「ボウリング・マスメディア大賞」-グランプリにエド・はるみさん|website=品川経済新聞|date=2009-01-16|access-date=2023-11-06}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年) - [[9月29日]]、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]2丁目に「近代ボウリング発祥の地」碑の建立/東京ボウリング場協会が協会創立30周年を記念して建立。日本初のテンピンボウリング手動式設備を設けた「東京ボウリングセンター」を近代ボウリングの発祥地とする記念碑。■右列に画像あり。 * [[2018年]](平成30年) - [[日本ボウリング機構]] (JBO) が設立される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK20350_U8A810C1000000/|title=国内8団体、日本ボウリング機構を設立 普及など目的|website=日本経済新聞|date=2018-08-14|access-date=2023-11-06}}</ref>。 == 基本的なルール == === 通常の進行方法及び得点計算方法 === *1ゲームは、第1フレームから第10フレームの、10回のフレームから成る。 *1回のフレームに付き、最低1回、最大で2回投球する。ただし、最終第10フレームのみ、最低2回、最大で3回投球する。 *1回のフレームの第1投で10本すべてのピンを倒すことを「ストライク」と呼び、10点を獲得するとともに、第10フレームを除いて、以降2回の投球で倒したピンの数がボーナス得点としてそのフレームの得点に加算される。すべてのピンが倒れなかった場合は、倒れなかったピンを残したまま第2投を投球する。 *第2投で残りのピンをすべて倒すことを「スペア」と呼び、10点を獲得するとともに、第10フレームを除いて、以降1回の投球で倒したピンの数がボーナス得点としてそのフレームの得点に加算される。 *第2投で10本すべてのピンを倒せなかった場合は、2回の投球で倒したピンの合計がそのフレームの得点となる。 *第10フレームでは、ストライクの場合はさらにあと2投、スペアの場合はさらにあと1投を余分に投球することができる。ただし、第10フレームのストライク、またはスペアには、第9フレームまでにあったボーナス得点は適用されず、第10フレームで倒したピンの数の合計のみが得点として加算される。 *ピンが倒れたと判断される要件は、ボールを起点として、ボールや他のピンによって完全に倒された場合を言う。レーン左右の壁(キックバック)や、レーン後方の壁、またデッキ上部に設置されているピンセッター(作動前)にピンが跳ねて戻った結果倒れたピンも有効であり、また立っていてもピンデッキから落ちていれば倒されたとみなされる。ただし、作動し始めた'''ピンセッターに触れて'''倒された場合は倒れたことにならず、公式戦では競技委員によりそのピンが1投目時点にあった位置に立て直して2投目を行う。 **また、ガターに落ちたボールが跳ねて7番または10番ピンを倒すことがあるが、ガターに落ちた段階でその投球で得点が加算されなくなることが確定するため、それが1投目の場合は倒れたピンを戻した状態で2投目を行う。 === Current Frame Scoring System === 通常の得点計算においては、上記のような条件のため、ストライクを続けることが高得点の条件となるが、各フレームごとに独立して得点計算を行う'''Current Frame Scoring System'''が導入される大会もあり、日本でも2023年よりio.LEAGUEにて導入されている。 *ストライクは、その時点で30点が加算される。 *スペアが出たフレームは、そのフレームの1投目の倒ピン数に10点を加えたものをフレームの得点とする。 *第2投で10本すべてのピンを倒せなかった場合は、2回の投球で倒したピンの合計がそのフレームの得点となるのは通常ルールと同様。 *第10フレームにおいても第9フレームと同じようになり、ストライクが出たら1投で終了、その他は2投。 *パーフェクトが300点であることは通常ルールと同様。 === 点数の計算法 === # フレームにおいてスペア・ストライクがない場合(オープンフレームと呼ぶ)、2回の投球で倒したピンの本数がそのフレームの得点となる。 # スペアを出した場合、倒した本数である10点に加え、次の1投球で倒したピンの本数がこのフレームの得点に加算される。 # ストライクを出した場合、倒した本数である10点に加え、続く2投球で倒したピンの本数が加算される。つまり次の投球もストライクだった場合は、さらにその次の投球(2フレーム先の第1投球)で倒したピンの本数まで加算される。 # 第10フレームのみ、スペア・ストライクを出した場合、3投して倒したピンの総数を第10フレームの得点として計算する。 # 各フレームの得点の合計が1ゲームの得点となる。最高得点は300点となる。 [[コンピュータ]]の導入により、点数が自動的に計算・表示されるボウリング場が多く、またコンピュータによる計算の普及により計算方法を知り、自身で計算できるようになるプレイヤーが増加した。 == レーン・器具 == === レーン === [[ファイル:Bowlingbahn.jpg|thumb|ボウリングレーン、材質は楓]] * 材質:[[木|ウッド]](手前側はメイプル([[カエデ|楓]])、奥側がパイン([[マツ|松]])の組み合わせ)、もしくは[[プラスチック]]。ウッドレーンはボールを受けてへこむので、定期的に表面を削って平らにする補修と塗装の塗り直しが必要であり、主流はプラスチックに変わりつつある(シンセティック(合成)レーンとも呼ばれる)。 * レーン幅:41.5インチ(約1054mm)で、1.06インチ(約27mm)幅の板39枚から成る。プラスチックレーンの場合は表面に板目がプリントされている。 * レーン長さ:ファウルラインから1番ピンの中心までは60フィート(約18.29m)、ピンがセットされるピンデッキまで含むと62.86フィート(約19.16m)、助走路(アプローチ)が最低15フィート(約4.57m)以上とされている。 近年は専用のボウリング場だけでなく、体育館等に設えた特設のレーンを会場に行うケースも増えている。[[NHK衛星第1テレビジョン]]で放送された「ジャパンカップ」の中継によると、専用レーンでは限られた収容人員しか見学できないため、特に注目されるテレビマッチなど、できるだけ多くの観客にボウリングを楽しんでもらいたいという趣旨から、体育館等に特設のレーンを設えて試合を行う「アリーナファイナル」などを行う機会が増えたと説明されている。 === ピン === [[ファイル:BowlingR.jpg|thumb|ピン]] {{仮リンク|ピン (ボウリング)|label=ピン|en|Bowling pin}}とは、レーンの先に設置された棒状のもの。手前からピラミッド状に10本設置される。ピンには位置により番号が付けられており、投球者からみて最も手前の先端に当たるピンが1番ピン、以下、2列目左から右へ2番、3番、3列目左から右へ4 - 6番、最終列左から右へ7 - 10番ピンである。この呼び方は、右投げ・左投げに関係なく共通である。1番ピンを「ヘッドピン(またはヘッド)」、5番ピンを「キングピン」、10番ピンを「テンピン」と呼ぶことが多い。 * 中に重量調整のため空洞が設けてあり、これによりボールが当たったときに爽快な音が出る。 * 材質:[[カエデ|楓]] * 高さ:15インチ(約381 mm) * 最大径:4.75インチ(約121 mm) (世界共通の大きさ) * 重さ:3ポンド2オンス(約1,417 g) 以上 3ポンド10オンス(約1,644 g) 以下とされ、最大で8オンス(約226 g)の重量差があるが、ピンデッキに並ぶ10本のピンの重量差は最大で 4オンス(約113 g) 以内であることと定められている。 <!-- --><div style="text-align:center; width:7em; margin-left:1em; font-weight:bold; float:right; clear:right"><!-- --><div style="background:#fd3">ピンの並び方</div><!-- --><div style="background:#a83; color:#fff;">7 8 9 10<br />4 5 6<br />2 3<br />1</div><!-- --></div> * ピン位置による呼称 : [[#特殊な残り方の呼び名]]も参照のこと。 ** ヘッドピン - 投球者から見て一番手前にある1番ピンのこと。ストライクを狙う場合の目印となる。 ** キングピン - ピンを正三角形に並べたとき、その中央にある5番ピンのこと。周囲を他のピンに囲まれているので、側近に守られた王のイメージから名づけられた。 ** キーピン - スペアを取る際に最初にボールが当たるピンのこと。競技者から見て最も手前のピン。 === ボール === [[ファイル:Bowlingball.JPG|thumb|様々なボール]] {{仮リンク|ボウリング玉|label=ボウリングのボール|en|Bowling ball}}は以下のような構造を持つ。 * 直径:8.5インチ(約21.59cm)以上8.595インチ(約21.83 cm)以下。 * 重さ:4ポンド (約1.81 kg) から16ポンド (約7.25 kg)と規定されている。ボウリング場が来場者に貸し出す「ハウスボール」は1ポンド刻みだが、個人で所有する「マイボール」はより細かく、[[ポンド (質量)|ポンド]]、[[オンス]](1ポンドは16オンス)で表される。重いボールはピンに弾かれにくいが、選手にとって重過ぎるボールは球速や回転が減少して球威が落ちてしまうため、体力や技術に合った重さを選ぶのが肝要である。 * カバーストック:ボールの表面素材の層。日本では「シェル」とも呼ばれる。ボールはかつては木製であったが、20世紀初頭に硬質ラバー([[エボナイト]])のボールが発明され、1970年以降[[ポリエステル]]、[[ポリウレタン]]、リアクティブウレタン(ポリウレタンに可塑剤を添加したもの)、パーティクル系(主にレーンとの摩擦を増大させることを目的としてリアクティブウレタンにガラスバルーンや[[カーバイド]]などの粒子を添加したもの)と発達していった。材質によりレーンとの摩擦が異なり、ボールの挙動に大きく影響する。[[2005年]][[エポキシ樹脂]]のボールが発売されたが定着しなかった。その後、2000年代後半にはリアクティブウレタンを改質したオイル吸着リアクティブと呼ばれる素材が台頭し、現在の主流となっている。 * コア:ボール内部の高比重の部分。本来は重量調整のためのものだが、バランス効果を得るため様々な形状や比重のものが使われる。以前は、ほとんど全てが軸対称だったが、1990年代後半から非対称コアを持つボールが次々に発売され、1つの流行になっている。非対称コアの持つ効果はマスバイアス(提唱者である M. ピネルの造語)と呼ばれるが、その有効な利用方法はまだ確立されておらず、力学的な解明が待たれる。 * ウェイトブロック:指穴を開けることによって部分の重量が失われ、ボールの重心に偏りが生じる現象を防ぐ目的で、コアとは別にボール内部に埋め込まれた高比重の部品。ウェイトブロックを利用してバランス効果を得るタイプは1980年代のボールによく見られたが、現在のボールの大半はコアが変形してウェイトブロックの役割を兼ねるタイプであり、安価なポリエステルボールなどに使われるのみとなっている。 * 穴 : 現在のボウリングに用いられるボールには通常3つの穴があり、[[親指]]、[[中指]]、[[薬指]]でグリップするのが一般的。子供用のボールなど、5つの指穴が開けられているものもある。昔は2つ穴であった。なおボールには指穴(最大5つ)、空気穴(各指穴に最大1つ)の他に、バランスホールと呼ばれるエクストラホールを最大1つ空けることがルール上許されている。2020年8月1日からルール改訂となり、エクストラホールは禁止となった。 * その他 : 個人が私的に所有するボールを一般に'''マイボール'''、ボウリング場が来場者への貸し出し用として用意しているボールを'''ハウスボール'''と呼び、区別される。 ** マイボール(和製英語) **: 個人が所有するボールのこと。重量の選択のほか、専用の器具で使用者の手を測定して、指穴の径、指穴の角度(ピッチ)、指穴間の距離(スパン)等を使用者の手に合わせた指穴が開けられる。様々な特色を持ったボールが市場に流通しており、ボールを複数個準備して用途(練習用や試合用、またレーンコンディション別など)によって使い分けることも多い。 ** ハウスボール **: ボウリング場に準備されているボールのこと。通常ボールラックに置かれており、ほとんどの場合来場者に無料で貸し出される。不特定多数の人が使うので、指穴の径は大きめに開けられ、右投げ用、左投げ用の区別もない場合が多いので、競技ボウリングを志す場合はマイボールを所有することが望ましい。 === ピンセッター === [[ファイル:Bowling alley 1908.jpg|thumb|ピンセッターの少年(1908年又は1909年)]] [[ファイル:田町ハイレーン4Fレーン後ろの設備 (16231412064).jpg|thumb|ピンセッター]] {{仮リンク|ピンセッター|en|Pinsetter}}はレーンの奥にあり、ボウリングの倒れたピンを回収し、自動的にピンをセットする機械。ピンとボールを回収し、ボールとピンを分別、ボールはプレイヤーに戻し、ピンは向きをそろえて立て直す。ボウリングにおいて最も主要な装置であり「ボウリング・マシン」と呼ばれることもある。機械が発明されるまでは、右の写真のように「ピンボーイ」と呼ばれる少年がピンを手でセットし、ボールをプレイヤーに投げ返していた。 日本のボウリング場で使われているピンセッターは、主に次の4つのメーカーのものである。 ; Brunswick(ブランズウィック):A-1,A-2,GS-10,GS-92,GS-96,GS-98,GS-Xなど : [[三井物産]]が米国[[ブランズウィック コーポレーション]]社と合弁して[[1961年]]に設立した'''日本ブランズウィック'''が輸入販売を行っていた。主に外国製であるが、A-2ピンセッターは同じく[[三井グループ]]の[[日本製鋼所]]の手によって国内生産されていた。[[2007年]]、日本ブランズウィックの経営不振により合弁は解消され、サンブリッジ<ref>[http://www.sunbridge-group.com/ サンブリッジ]</ref>が代理店となった。 ; AMF(エーエムエフ):82-30,82-70,82-82,82-90,82-90XL,8800など : [[伊藤忠商事]]が米国AMF社と合弁して1961年に設立した'''伊藤忠AMF'''が輸入販売を行っていた。(のちに合弁は解消)外国製。その後は2016年度まで[[ダイフク]]の子会社であるダイフクキュービカAMF(後にダイフクプラスモア ボウリング事業部)が販売を行い<ref>[http://www.dqa.co.jp ダイフクキュービカAMF]{{リンク切れ|date=2023年8月}}</ref>、2017年度からはアメリカンボウリングサービス<ref>[http://www.absbowling.co.jp/ アメリカンボウリングサービス]</ref>が販売を行う。AMF社製のマシンはピンスポッターと呼ぶ。 ; BOWL-MOR(ダイフク):Z-1,Z-2,Z-3,MAGIC-10など : [[ダイフク]](当時、大福機工)が米国ボウル・モアー社と提携し、[[兼松]]の協力を得て[[1963年]]に国産化したもの。近年まで生産が行われていたが、米国AMF社がダイフクと提携していた伊キュービカ社と合併したことにより、自社による生産を中止しダイフク自身はキュービカAMF社の代理店となったが、2016年末をもって代理店契約を解消しボウリング事業から撤退。 ; ODIN(古河鉱業、のちの[[古河機械金属]]):FBM-1,FBM-2,FBM-5など : 古河鉱業が[[髙島屋]]と提携し、[[1960年]]に開発に着手。[[1962年]]に試作ののち、1963年に販売を開始した純国産設計マシン。ピーク期には専門工場の建設(現[[古河ロックドリル]][[吉井町_(群馬県)|吉井]]工場)まで行われたが、その後[[1980年]]に生産が中止された。 上記のピンセッターはピンが1本ずつ独立して循環する方式であるが、ピンがピンスポット上部から紐で繋がり、各投球ごとに紐を引き上げてセットする方式もある。この方式のメーカーとして、かつてはSM(シュミット)やLS(ランシング)があった。その後日本国内ではしばらく見られなかったが、2022年に'''FUNK NORTH AMERICA'''社の'''STRING PINSETTER'''がファンキーボウル(宮城県大崎市)に導入された。 == 用語 == === 主に器具・施設に関するもの === ; レーン([[英語]]:lane) : 広義にはボウリング場全体を指すこともあるが、用語としてはアプローチの先のボールが転がって行く場所、厳密にはファウルラインからピンデッキ後方のテールプランク直前までを指す。後者の場合「アレー」ともいう。 ; {{Anchors|ガター}}ガター(gutter) : レーンの横にある溝。または、ボールがピンに届く前に、横の溝に落ちること。溝にボールが落ちないようにバンパーが設置されているレーンもあり(使用しない場合は収容される)、初心者や小児などが参加する場合にはこれを使用するケースがよく見られる。「ガーター」と呼ばれることもあるが、厳密には誤り。初球で落ちた場合のみ、スコアには「G」(Gutterの頭文字)と記入する<ref>『観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典』1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、73頁。</ref>(2球目に落ちた場合は「-」と記入)。溝にボールが落ちた時点でピンを1本も倒せなくなるが、まれにボールが溝から跳び出てレーンに戻ってピンが倒れることもある。しかし、この場合でピンを倒しても無効で0点とするのが正しい。 : 自動採点(コンピュータボウル)では、加点される場合も有るが、非公式競技(一般客の遊び)では訂正しないことがある、一方で正式競技では必ず訂正して0点にする。 ; アプローチ(approach) : 助走して投球する場所。あるいは、投球のための助走のこと。 ; アプローチドット : アプローチ上に描かれている点(ドット)のこと。スタンディングドット。ファウルラインから12フィートおよび15フィートの地点に、5枚間隔に描かれている。 ; エイムスパット・トライアングルターゲット(アロー) : 一般には'''スパット'''とのみ、一方[[アメリカ合衆国]]では[[アロー]]と呼ぶ。 : レーン上、ファウルラインから約15フィート地点に描かれている7つの三角印のこと。板目5枚間隔に描かれており、これを目印に投球する(つまり、プロボウラーはピンは見ずにスパットを見て投球している)。また、素人が投げる際でもストライクの目安となり易い。 ; オイル : レーンを保護するために塗布されている油。コンディショニングオイル。その分布によりボールの挙動が変化する。投球軌跡や時間の経過等によってオイルの分布は刻々と変化するため、その見極めは難しく、また勝負を左右する重要なポイントの1つでもある。多くのボウリング場ではファウルラインから10~12mまで塗布している。また、プロボウラーは練習時にリターンしたボールの表面に付着したオイルの状態を見て、よりよい投球に役立てている。なお、投球前にボールを布で拭くのはこのオイルを取り除くためであり、高スコアを狙うなら投球前にていねいにボールを拭く必要がある。 ; レーンメンテナンス : レーンの整備のこと。主にデイリーメンテナンスである、クリーニング(古い[[オイル]]や[[ホコリ]]の除去)、オイルドレッシング(新たなオイルの塗布)を指すことが多い。オイルドレッシングのみを指す場合もある。 ; メンテナンスマシン : レーンメンテナンスのために作られた、自走式の機械のこと。[[二次電池|バッテリー]]を内蔵しているもの、左右の動きまで自動で行うもの、クリーニングとオイルドレッシングを同時に行うもの、オイルパターンを自由にプログラムできるものなど、種類は様々。 ; ピンデッキ : レーン上の最奥部で、10本のピンが立てられるエリアのこと。 ; ピット : ピンデッキのさらに奥、ボールや倒れたピンが落ちる箇所で、ボールやピンを回収するための空間。 ; レーキ : ピンセッターの前部にある部品で、この下をボールが通過するとレーン上に降下し、倒れたピン(フレームの2投目では倒せずに残ったピンも含む)を奥のピットへ落とすためのバー。語源は「[[熊手]]」を意味する“Rake”。'''スイープ・バー'''とも呼ぶ。 : ピンデッキと、その左右の[[#ガター|ガター]]に残ったピンやボールをクリアするのが主目的だが、それ以外にもボウラーにピンの再セット作業中であることを視覚的に示し、レーキが上がるまでは投球を抑止させる目的もある。またレーキにはピンセッターのメーカー銘や会場であるボウリング場の名前等が大書されており、テレビ放映される大会では絶好の広告になっている。 ; ボール ; マイボール(和製英語) ; ハウスボール : [[#ボール]]を参照のこと。 ; ピン ; ヘッドピン ; キングピン ; キーピン : [[#ピン]]を参照のこと。 ; ポケット : 1番ピンと3番ピン(左投げなら2番ピン)の間(右投げの場合は右から17.5枚目の板目)のことで、ここにボールを入れるとストライクを取りやすい。ポケットにぴったりボールが入ると「ジャストポケット」と呼ぶことがある。1番ピン寄りなら「厚い」、3番ピン(または2番ピン)寄りなら「薄い」と言う。 ; ブルックリン : 利き手とは逆側のポケット、またはそこにボールが入ること。これでストライクを取っても、あまり好ましいとはされない。 ; シューズ : その名の通り「靴」。ボウリング場では、アプローチに外部の土砂などの汚れが持ち込まれるとレーンが傷む等の様々な不都合が生じるため、プレイ中のボウラーには専用の靴の着用が求められる。ボールと同様に、ボウラーが自分専用として購入し所有する「マイシューズ」と、ボウリング場が準備して利用者にレンタルする「ハウスシューズ」がある。助走の最後の一歩では足を滑らせながら踏み込むため、靴底は適度に滑る材質となっている。ハウスシューズでは右投げ・左投げどちらでも使えるように両方とも滑る靴底となっているが、マイシューズでは本人が投げる手の反対側の足のみが滑るようになっている。そのため、最後の一歩を踏み込む時に、後方に位置する足で床を蹴ってボールにスピードをつけることができる。また、アプローチの滑り具合はボウリング場によって異なるが、自分専用のシューズである場合は靴底に手を加えて滑りを調節することができる。高機能なマイシューズでは靴底が着脱式になっていて、滑り具合の違う靴底に貼り換えられる物もある。ハウスシューズのデザインがカラフルである理由はゲーム後にハウスシューズのまま帰って(盗んで)しまうプレイヤーが続出したため、すぐに気が付くようにカラフルであからさまにダサいデザインとなっている。 ; リスタイ : 利き手に着用して手首や指の関節の余計な動きを制限するもの。 === 主に投球・得点に関するもの === ; アドレス : 助走の開始位置のこと。または助走の開始位置を定める動作を指すこともある。 ; ロフトボール : ボールが手元から放たれる(リリース)時、親指が上手く抜けずに中指薬指とほぼ同時に抜けてしまい、山なりにレーンへと放り出してしまう不正投球。ボールの親指穴とボウラー自身の親指の形状との不適合か、腕と脚とのタイミングが合わない不適切な投球フォームなどが原因。落下の際に大きな音と共にレーンを傷める(床材の修復が必要になる場合もある)だけでなく、ボールの行方次第では周囲の人身に危険が及ぶ。但し、上級者などが行う(先に親指を正しく抜いて)前方へ回転させながら放るロフティングとは異なる。こちらはスパット手前くらいまでの距離ならば、必ずしもマナー違反にはならない。 ; ファウル : 投球姿勢に入ってから次の投球者が投球姿勢に入るまでの間に、体の一部がファウルライン(アプローチとレーンの境界)を超えてレーン等に触れ投球すること(投球しなければファウルとはならないので、再度やり直せばよい)。倒したピン数にかかわらず0点となる。スコアには「F」と記入する。ルール上で明確に規定され、プロの試合およびアマチュア競技団体の公式試合では厳格に適用され、ファウルランプと呼ばれる装置で自動的にファウルが検出される。しかし、アマチュアのレクリエーション(家族連れ、学生グループ、企業の社員懇親会など)の場合は、適用しないことが多い(この場合ファウルランプはオフにされている)。とはいえ、ファウルラインの先にはオイルが塗布されているため、靴にオイルを付着させてアプローチに持ち込むことになるので、ファウルしないことが望ましい。このため、常時ファウルランプをオンにしているボウリング場も一部に見られる。 : ファウルの場合の処理は、1投目でのファウルでは倒した本数に関係なく10本のピンが再セットされて2投目に進む。その2投目で10本全部を倒した場合は、1投目がガターだった場合と同じくスペアとなる。2投目のファウルはミスと同じと判断され、次のフレームに進む。 : ファウルとガター(1投目)またはミス(2投目)が重複した時は、ルールでは特に規定がないが、通常は先に判定されるファウルが採用され、スコアには「F」が記録される。なお、得点はどちらを採用しても同じである。 ; ストレート : 名前通りほとんど曲がらず真直な球筋のこと。狙いがつけやすく基本的な球筋とされる。 ; フック : 右投げの場合、左へ曲がる球筋のこと。左投げの場合は逆に、右へ曲がる球筋をフックボールと呼ぶ。最も一般的な球筋とされる。 ; カーブ : 曲がる球筋のこと。以前は、投球したボールがまっすぐ進んでから曲がるボールをフック、投球後からピンヒットまで弧を描く曲がり方をカーブと区別していたが、2000年前後頃から曲がるボールは全てフックと呼ぶのが一般的となっており、カーブボールという用語は使われなくなっている。 ; バックアップ : フックとは逆に、右投げなら右に、左投げなら左に曲がる球筋のこと。球威を殺ぐ投げ方といわれ一部を除き悪い投げ方とされることが多い。 ; コンベンショナル・グリップ : 中指と薬指を第2関節まで入れる持ち方。最も一般的な持ち方で初心者にも向いている。ハウスボールはほとんどがこの持ち方を想定して穴が開けてある。 : PBAの一部プロ(ロバート・スミス等)はボールの回転数を抑え、コントロールしやすくするために、あえて一部薬指をコンベンショナルにする場合もある。 ; セミフィンガー・グリップ : 中指と薬指を第1関節と第2関節の中間まで入れる持ち方。他の持ち方とは異なり指が曲がらない場所で持つので慣れないと指を痛めることがある。この点の解決のためかセミフィンガー用ボールは穴の入口の親指側が斜めにカットされていることもある。 ; フルフィンガー(フィンガーチップ) : 中指と薬指を第1関節までしか入れない持ち方。マイボールを作成する場合に多く採用される。ボールの保持が難しく中・上級者向け。親指や手首の関節への負担が高く負傷しやすいといわれ扱いの難しい持ち方。 ; {{Anchors|ストライク}}{{仮リンク|ストライク (ボウリング)|label=ストライク|en|Strike (bowling)|preserve=1}} [[File:10-pin-bowling-strike.gif|thumb|ストライク<br />(ボールに当たったピン<赤>)]] : 1投目で10本のピンすべてを倒すこと。 : ストライクとなったフレームは、そのフレームのストライクで倒した本数の10本に加え、次とその次の2投分で倒したピンの本数の合計をボーナス得点として加算する。たとえば第1フレームがストライクの場合、第2フレームの第1投と第2投で、また第2フレームがストライクだった場合は第2フレームの10本と第3フレームの第1投で倒したピンの本数を加算したものが、それぞれ第1フレームの得点となる。 : なお、最終(第10)フレームの第1投がストライクの場合、その後の第2投と第3投は最終フレームのストライクのボーナス得点を決めるためのものである。第9フレームもストライクだった場合の第2投は第9フレームのストライクのボーナス得点を決める役割もある。そのため最終フレームの第1投や第2投でストライクを出しても加算は適用しない。 : スコアシートには、世界的には「X」と記載されることがほとんどであるが、日本ではスコアの枠いっぱいに交差するように斜線を引き、4分割された左のエリアと右のエリアを黒く塗りつぶす書き方が一般的である。 ; {{Anchors|スペア}}{{仮リンク|スペア (ボウリング)|label=スペア|en|Spare (bowling)}} : 1投目で残ったピンを、2投目ですべて倒すこと。 : スペアとなったフレームは、そのフレームの10本に加え、次の1投分で倒したピンの本数をボーナス得点として加算する。たとえば第1フレームがスペアの場合、第2フレームの第1投で倒したピンの本数を加算したものが第1フレームの得点となる。 : なお、最終(第10)フレームの第1投と第2投でスペアを出した場合、その後の第3投は最終フレームのストライクのボーナス得点を決めるためのものである。そのため最終フレームの第1投と第2投でスペアを出しても加算は適用しない。 : スコアシートには、世界的には「/」と記載されることがほとんどであるが、日本ではスコアの枠の右上から左下に斜線を引き、2分割された右下のエリアを黒く塗りつぶす書き方が一般的である。 ; マーク : ストライクまたはスペアのこと。約10点分の意味で、おおむねの点差(1マーク差、など)を表現するために使う。スペアまたはストライクの場合、該当フレームにはまだ得点が記入されないため、途中経過においてマーク数で形勢を判断する。この場合、スペアまたはストライクのマーク数に加えて連続ストライクの二つ目以降一つ毎に+1マーク(ただし第10フレーム3投目を除く)して計算する。あるいはオープンフレームを-1マーク、連続ストライクの二つ目以降を一つ毎に+1マーク(ただし第10フレーム3投目を除く)として計算する。 ; カウント : 1投目で倒したピンの数のこと。対戦においてマークが同じ場合、カウント勝負となる。 ; ダブル : ストライクを2回続けること。 ; {{anchors|ターキー}}ターキー : ストライクを3回続けること。トリプル、3バーガーとも言う。語源は[[シチメンチョウ|七面鳥]](turkey)(“トルコ風”は頭文字が大文字(Turkey))。 : ターキーの後さらにストライクを続けると、フォース(フォーバーガー/ハムボーン)→フィフス(ファイブバーガー/ヤッツィー)→シックスス(シックスパック)→セブンス(セブンパック)→エイトス(エイトパック)→ナインス(ナインインアロー)→テンス(テンインアロー)→イレブンス(イレブンインアロー)→パーフェクトと続く。プロと一緒に投げるイベントなどでは、第1フレームから第9フレームまで連続ストライクを出すと、「○○レーンで○○選手が9フレまでストライク続行中です、頑張ってください」というアナウンスが流れることがあり、これをナインコールと呼ぶ。プレッシャーを与えてしまうため賛否両論の声がある。 : ちなみにPBAツアーで、ラブ(ロブ)・ストーンというアナウンサーが、トリプルには「ターキー」という名前があるのになぜフォースとフィフスにないのか、ということで、ダブルをバックス・トゥ・バック・ジャック、フォースをハムボーン(Hambone:骨付きの豚肉)または4バーガー、フィフスを[[ヤッツィー]](Yahtzee:サイコロ5つを使って行うゲーム)または5バーガーと名付けており、ハムボーンのほうは広まりつつある<ref>DyDo JapanCUP2009の解説者、[[山本幸治]]談。{{出典無効|date=2014-06-12 |title=テレビ番組の内容は検証可能性のある出典と認められません。}}</ref>。 ; ファウンデーション : 第9フレームでストライクを取ること。ここでストライクを取るかオープンにするかで大逆転があり得る{{Efn2|実際、ファウンデーションにより最大で約6マーク差を詰めることができる。第9フレームでストライク、さらに最終フレームでパンチアウトをすれば、4投で60点が加算される。一方、第9および最終フレームをオープンにした場合は同じく4投にもかかわらず0〜18点の加算にとどまり、その差は42〜60点となる。}}ので、試合の時は非常に重要となる。語源は(逆転の)下地または基礎、の意味。このことから第9フレームを「ファウンデーションフレーム」と呼ぶ。 ; パンチアウト : 第10フレームでストライクを3回続けること。 ; オールウェー : 第2フレーム以降のある時点から第10フレーム3投目までストライクを続けること。 ; クリーンゲーム : すべてのフレームを、スペアまたはストライクとすること。ノーミスゲームとも呼ぶ。 ; {{仮リンク|パーフェクトゲーム (ボウリング)|label=パーフェクトゲーム|en|Perfect game (bowling)}} : 1ゲームすべての投球でストライクを達成すること。12回連続ストライクで、得点は120点ではなく満点の300点となる。計算式は、30×10=300(ストライクのみピン数ではなく30点/フレーム、最終フレームは10ピン×3投。) ; ナインスペアゲーム : 9フレームまでの全フレームで、1投目に9本を倒し、2投目でスペアとすること(第10フレームの3投目は9本を倒す)。得点は190点で、これはストライク無しで出せる最高得点である。パーフェクトゲームより困難とされる。 ; ダッチマン : 第1フレームから最終フレームまでストライクとスペアを交互に出し続けること(最終フレームはストライクの後にスペア、もしくはスペアの後にストライクとする)。得点は200点となる。ナインスペアゲーム同様、パーフェクトゲームより困難とされる。 : 後述のアメリカン方式によるゲームでは、一方のレーンではストライクを出せるコースが掴めているが、もう一方のレーンが掴めないといった場合に、ストライクとスペアが交互に出る展開となることがある。 ; ミス : 2投目でピンを1本も倒せなかったこと。'''ブロー'''とも言う。この時ガターに落ちても、ガターとは言わない。スコアには「-」と記入する。 : なお、公式ルールでの「ミス」は、1フレームの2投以内で10本すべてのピンを倒せなかった(ストライクもスペアも取れなかった)ことを指す。この場合は「エラー」と呼ぶこともある。 ; オープンフレーム : ストライクにもスペアにもできなかったフレームのこと。 ; ノーヘッド : 1投目でボールがヘッドピンに当たらないこと。 ; {{仮リンク|スプリット (ボウリング)|label=スプリット|en|Split (bowling)}} : 1投目でヘッドピンが倒れ、残りのピンが隣接しない状態で残ること(4・5や8・9のように同一平面で隣接する場合を含む)。スコアでは、倒したピンの本数を○で囲む。 ; ワッシャー : 1投目がノーヘッドで、3番ピン(左投げなら2番ピン)に当たり、1・2・4・7番ピン(左投げなら1・3・6・10番ピン)が残ってしまうこと(4番ピンや6番ピンが倒れた場合を含むこともある)。ちょうど、斜めに間のピンを洗い流すような形なので「ウォッシュ・アウト (wash out)」とも呼ぶ。 ; タップ : ボールがうまくポケットに入り、ストライクとなるかと思いきや、1本だけ残ってしまうこと。右投げなら10番ピン(左投げなら7番ピン)が残ることが多く、特に10番ピンが残ることを「テンピン・タップ」と呼ぶ。 ; チョップ : スプリットやワッシャーではないフレームの2投目でボールがキーピン(最も手前のピン)に厚く当たり、キーピンより右側(右投げの場合)のピンが残ること。 ; パワーハウス : ストライクを取った時、10本のピンがすべて後部のピットまで落ち、レーンに何も残らない状態になること。または、ピンが壊れるかというほどの強い投球をすること(この場合は、ボールがほとんど回転せず、レーンの上を滑っていくことも多い)。 ; [[ハンデキャップ]] : 対戦相手と技術的に差がある場合に付加される得点のこと。略して、「HDCP」と表記されることが多い。リーグ戦等において参加者個人の平均得点(アベレージ)を元に与えられる場合と、公式競技等で年齢・性別に応じて与えられる場合がある。 ; アメリカン(アメリカ方式) : 1ゲームの中で、2つのレーンを使い、フレームごとに交互に投げる方式。レーンごとにレーンのコンディションが変わるため、公平性を保つために競技ではこの方式で行われることが多い。 ; PBA・TV決勝(マッチプレー方式) : 基本的にアメリカンと同じだが、1フレーム目の第一投球者のみ1フレーム投球し、それ以降は2フレームごと(1フレーム目はAレーン、2フレーム目はBレーンとレーンチェンジは行われる)で投球者が交互に投げる方式。 ; ヨーロピアン(ヨーロッパ方式) : 1ゲームの全フレームを同じレーンで投げる方式。 === 特殊な残り方の呼び名 === <span style="speak:none">取り消し付きの数字は倒れたピンの番号を、太字の数字は残りピンの番号を表す。●はスプリットである。</span>下記の残りピンは、右投げを基準にしている。 {|class=wikitable style="font-size:small" !呼び名!!ピンの状態 |- |'''バケット'''||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <strong>8</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">10</del><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>5</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''インザダーク1'''||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <strong>8</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">10</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''インザダーク2'''||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <strong>9</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">10</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ベビースプリット'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''クリスマスツリー1'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''クリスマスツリー2'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ビッグフォー'''(別名:'''ハッピーバースデイ''')●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <strong>6</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ビッグファイブ'''(別名:'''ギリシャ教会''')●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <strong>9</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <strong>6</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''スネークアイ'''(別名:'''ベッドポッド''')●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ダイムストア1'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <strong>5</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ダイムストア2'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">10</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <strong>5</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''リリー'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <strong>5</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ワッシャー1'''||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <strong>1</strong><span style="display:none">番</span><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ワッシャー2'''||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <strong>1</strong><span style="display:none">番</span><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ワッシャー3'''||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <strong>1</strong><span style="display:none">番</span><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''トラピゾイド'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''トラピゾイド'''(別名:'''グレイド''')●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>8</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>9</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ダイヤモンド'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">7</del> <strong>8</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>9</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">10</del><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <strong>6</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ビートセブン'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">8</del> <strong>9</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">4</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <strong>6</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">2</del> <strong>3</strong><span style="display:none">番、</span><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |- |'''ビートテン'''●<span style="display:none">(これはスプリットである)</span>||style="text-align:center"|<strong>7</strong><span style="display:none">番、</span> <strong>8</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">9</del> <strong>10</strong><span style="display:none">番、</span><br> <strong>4</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">5</del> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">6</del><br> <strong>2</strong><span style="display:none">番、</span> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">3</del><br> <del style="speak:none;color:gray;text-decoration:line-through">1</del><span style="display:none">のピンが残った場合。</span> |} == トリックプレイ == プロのトーナメントでは、ゲームの合間のアトラクションとして、トリックプレイと呼ばれる余興が披露されることがある。これは、通常ではありえないシチュエーションを人為的にセットし、やはり通常とは異なる投法などでピンを倒すものである。以下は、トリックプレイで見られるセットの一例である。 ; トリプルショットガン : 3レーンを使用する大技。ボールをリリースするレーンでは2本、その左右のレーンでは4本ずつのピンを設定。2本のピンを飛ばして左右の合計8ピンを全部倒す。2本のちょうど真ん中を通す為に数ミリのズレが失敗に繋がる。 ; ダブルドラゴンアーチ : 2つのピンロードを作る。このピンロードにボールを当ててはならない。そのピンロードがまるで竜の形に似ていることからこの名が付いた。種類は2種類で左投げタイプは7番を倒し右投げは10番を倒す。 ; アクロバティック・ドルフィン : トリプルショットガン同様に3つのレーンを使用する大技。2つのジャンプを経由して10本のピンを倒す。 ; ホールオーバー : 人間の上をボウリングのボールが飛んで10本のピンを倒す。人間は5・6人程が横に並んで其の上をボールが越す。 ; フライングイーグル : “翔ぶ鷲”の意。2つのレーンを使用してボールをリリースするレーンは2本用意。最初に当てるピンを隣のレーンに飛ばして残りの1本を倒す大技。 ; ツインフライングイーグル : 上のフライングイーグルの進化版。3つのレーンを使用してボールをリリースするレーンには2本用意。最初に当てたピンで右隣の10ピンを/2本目のピンで左隣の7ピンをそれぞれ倒す。 ; スリルホール : レーンにトンネルに成りそうな脚立を用意して2・3人程その上に乗る。ボウラーはボールをその脚立の下を潜らせて倒す。 ; ワイングラスロード : グラスワインの4段ピラミッドを左右に3個ずつ合計6個準備する。真ん中を通して全てのピンを倒す。進路がずれるとグラスピラミッドに当たり崩壊する。 ; ピンボールタッチ : 10本に行く間にピンを2本当てて倒す。トッププロでも攻略は難しいと言われる大技。 == プロボウラー(日本) == 日本におけるプロボウラーとは、日本プロボウリング協会が行うプロボウラー資格取得テスト(プロテスト)に合格し、プロ資格を所持する同協会の正会員の者である。プロボウラーの証明として、プロワッペンをユニフォームに着用している。 ゴルフの[[プロゴルファー]]制度や将棋などの棋士のプロ制度と大きく異なるのは、合格者数に定員が定められていない点である。受験資格があり、実技試験で規定の基準を上回ることができれば、他人の成績に関わらず試験に合格することができる。結果次第でその年に受験した受験生が全員揃ってプロボウラーとなる可能性もある。 一度プロボウラー資格を取得すれば、協会への年会費を支払い続ける限り、成績等によって資格が剥奪されることはない(除名等で剥奪されることはある)。 === プロボウラー試験 === * 受験資格は、試験年度初めにおいて15歳以上の者であり、年齢の上限はない。申し込みには、在籍5年以上のプロボウラー3名の推薦が必要な上、推薦条件として試験受験の前年度の公式戦30ゲーム以上を投球した結果のスコアアベレージ「男子 190・女子 180」以上の公認記録が要求される。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpba1.jp/protest/guide.html|title=プロテスト実施概要|website=日本プロボウリング協会|date=|access-date=2023-11-06}}</ref> * まず、受験の前年に各地区で行われる「プロボウラー資格取得テスト受験者講習(認定2級インストラクター講習相当)」を受講する。 * 1次試験は東日本・西日本に分かれ、それぞれ4日間続けて実技試験を行う{{Efn2|単一会場の場合・複数の会場を転戦する場合と、年度・地区によって異なる}}。男子は1日15ゲーム、女子は1日12ゲームを投げ、4日間トータルでアベレージ男子 200・女子 190以上で1次試験は合格。また前半2日間のアベレージが男子 190・女子 180に満たない場合はその時点で不合格となる。 * 2次試験は全国の受験者が集まり、西日本の会場で2日間、日をおいて東日本の会場で2日間の計4日間の実技試験を行う。1次試験と同じゲーム数・合格基準で実施される。1次試験の得点は2次試験には持ち越さず、試験途中の足切りは2次試験では行わない。また、不合格者で2次試験を4日間完投した受験者は、翌年の1次試験が免除される。 * 3次試験は筆記試験及び面接で、これに合格すればプロボウラーとなれる。なお、正規日程で不合格でも何回か再試験の機会が与えられる。 === プロボウラーの活動 === 他のスポーツと同様、プロトーナメントなどに出場し賞金を獲得できる。しかしながら、賞金ランキングトップの選手においても年間総獲得賞金額が1000万円を上回ることは少なく、ボウリング場などに勤務しながら自場でボウリングスクールを行ったり、人気選手は全国のボウリング場を回りアマチュアボウラーとの交流会を行っている。 == 団体 == * [[世界ボウリング連盟]](IBF) * [[全米プロボウラーズ協会]](PBA) === 日本 === * [[日本ボウリング機構]] (JBO) * [[全日本ボウリング協会]](JBC) * [[日本プロボウリング協会]](JPBA) * [[日本ボウリング場協会]](BPAJ) * [[全日本視覚障害者ボウリング協会]](BBCJ) * [[日本ボウラーズ連盟]](NBF) * [[全国実業団ボウリング連盟]](ABBF) * [[ジャパンレディースボウリングクラブ]](JLBC) * [[日本ボウリング商工会]](BICA) * [[日本ろう者ボウリング協会]](JDBA) == 大会 == * [[全日本プロボウリング選手権大会]](1968年 - ) * [[全日本女子プロボウリング選手権大会]](1970年 - ) * [[ジャパンオープンボウリング選手権]](1977年 - ) * [[MKチャリティカップ]](2006年 - ) * [[KUWATA CUP]](2019年 - ) === 終了した大会 === * [[ジャパンカップ ボウリング]](1985年 - 2014年) * [[DHCレディースボウリングツアー]](2005年 - 2013年) * [[インターナショナル・ボウリング・チャンピオンシップ|インターナショナル・ボウリング・チャンピオンシップ・サポーテッドバイDHC]](2012年 - 2013年) == テレビ番組 == === 放送中 === * [[パーフェクトボウリング (番組)|パーフェクトボウリング]]([[スカイ・エー|スカイA]]) * [[ボウリング革命 P★League]]([[BS日本|BS日テレ]]) * 静岡県ボウリング選手権大会([[静岡放送]]) === 放送終了 === * [[ザ・スターボウリング]]([[テレビ東京|東京12チャンネル、後のテレビ東京]]) * [[お笑いチャンピオンボウリング]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * 中山ボウリング店(テレビ東京) * ボウリングパラダイス(テレビ東京) * [[ゴールデンボウル]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[ストライク・ガール〜ボウリング新時代〜]]([[BS-TBS]]) * [[レディズ・チャレンジボウル]]([[テレビ朝日|NET、後のテレビ朝日]]) * ストライクボウル(NET) * [[ベスト・ペア・ボウル]]([[毎日放送]]) * [[オールスター番組対抗ボウリング大会]](テレビ朝日) * [[志村&amp;鶴瓶のあぶない交遊録#元祖英語禁止ボウリング|志村&鶴瓶のあぶない交遊録 英語禁止ボウリング]](テレビ朝日) - お正月特番 * 日本列島ボウリング頂上決定戦2012 〜BOWLING ナンバー1はどの都道府県だ!?〜([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 年末特番 * [[アゲぽよボウル48]]([[テレビ愛知]]) * 地元芸人開運バトル!新春厄除けボウリング([[東海テレビ放送|東海テレビ]]) - お正月特番 == ボウリングにまつわる作品 == === 音楽 === * [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]には[[ケーゲルシュタット・トリオ]]と呼ばれるピアノ三重奏曲(K498)がある。ケーゲルシュタットは九柱戯とも訳され、ボウリングの前身とされる。この曲はモーツァルトがボウリングをしながら作曲したものという逸話がある(但し、真偽のほどは必ずしも定かではない)。 * 『[[レッツゴーボウリング]]』(2019年、[[桑田佳祐]] & The Pin Boysの楽曲)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2122462/full/|title=桑田佳祐、24年ぶり新ユニット誕生 冠ボウリング大会公式ソングを元日発売|website=オリコン|date=2018-10-30|access-date=2018-10-30}}</ref>。 * 『[[悲しきプロボウラー]]』(2020年、桑田佳祐 & The Pin Boysの楽曲)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/359614|title=桑田佳祐 & The Pin Boys、新曲でプロボウラーの悲哀を歌う|website=音楽ナタリー|date=2019-12-16|access-date=2019-12-16}}</ref> === 論文 === * [[:en:Bowling Alone|Bowling Alone]]([[ロバート・パットナム]](1995). Journal of Democracy, v.6, n.1, pp.65-78)はボウリング・リーグの会員が減っていることに象徴される現代アメリカ社会のコミュニティの崩壊や個人主義化を指摘したもので、メディアで大きな反響を引き起こした他、社会資本(Social Capital)の概念を広め、世界中で関連の調査研究ブームがおこなわれるきっかけともなった。 === 映画 === * 『[[キングピン/ストライクへの道]]』(1996年、ピーター・ファレリー、ボビー・ファレリー監督)はボウラーを扱ったコメディ映画。 * 『[[ビッグ・リボウスキ]]』(1998年、[[ジェフ・ブリッジズ]]主演)はボウリングが唯一の趣味である中年男リボウスキを取り巻くドタバタコメディ。 * 『キューティーガール 美少女ボウラー危機一発』(2003年、[[小倉優子]]主演)は、賭けボウリングをテーマに描いた青春スポ根ムービー<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/film/141418|title=キューティーガール・美少女ボウラー危機一発|website=映画ナタリー|date=|access-date=2023-11-06}}</ref>。 * 『[[俺たちプロボウラー]]』(2007年) === テレビドラマ === * 『[[美しきチャレンジャー]]』(1971年、[[TBSテレビ|TBS]]・[[朝日放送テレビ|ABC]]系列、[[不二家の時間]]枠で放送。[[新藤恵美]]主演) * 『[[ゴールデンボウル]]』(2002年、[[金城武]]主演) === マンガ === * 『俺のマイボール』([[土田世紀]]作)<ref>{{Cite web|和書|url=https://konomanga.jp/guide/35954-2|title=6月22日はボウリングの日 『俺のマイボール』を読もう! 【きょうのマンガ】|website=このマンガがすごい!WEB|date=2015-06-22|access-date=2023-11-06}}</ref> * 『[[ジャストポケット!]]』([[すねやかずみ]]作、[[コミック・ガンボ]]に連載) * 『[[トキワボウルの女神さま]]』([[八神ひろき]]作) == 派生競技 == === 300本ボウリング === [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[ワールド☆レコーズ]]」(2004年 - 2005年)で「100本ボウリング」を放映されたことを切っ掛けに、ボウリング場「X-BOWL」([[釧路市|釧路]]・[[小田原市|小田原]]・[[松本市|松本]])に100本ボウリングのレーンが開設された。番組が「300本ボウリング」を放映後、こちらも300本に変更された。X-BOWLでは1人1球のみの挑戦で料金は2005年時点で300円。300本のピンは手作業で並べるため一度セットするのに40分ほどかかる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/00091112679131/|title=一気に300ピン倒すボウリング|website=exciteニュース|date=2005-04-08|access-date=2023-11-06}}</ref>。そのためこのゲーム自体では採算が取れないが、集客効果が上がったといわれる。後に[[埼玉県]]の「アイビーボウル」でも導入された。 === ボウリングとビリヤードを混ぜた競技 === * [[ビリボー]] - 人間の腰程の高さの台の奥にボウリングピンが立てられており、それをキューでつついた小型のボウリング球で倒す競技。シーディック社が2006年から提供を始めた。 * Knokkers - 巨大なビリヤード盤の上に立ち、ポリウレタン製のボウリング球をビリヤード球に見立てる競技。アメリカ合衆国ミズーリ州のスティーブ・ウィネックが1985年に発案し2011年に完成させた。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.narinari.com/Nd/20110214979.html|title=ビリヤードとボウリングが合体、大きな台の上で球を投げる「Knokkers」。|website=ナリナリドットコム|date=2011-02-02|access-date=2023-11-06}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=熊野晃三|year=1997|title=長崎の外国人居留地におけるスポーツに関する研究―ボウリング場の開設を中心にして―|journal=純心人文研究|volume=3|pages=85-94|url=https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/records/179|ref={{SfnRef|熊野|1997}} }} == 関連項目 == * [[国民体育大会]] * [[全国障害者スポーツ大会]] * [[全国青年大会]] * [[ローンボウルズ]] * [[特定建築物]] - 日本のボウリング施設に適用される環境衛生等に関する規定 * [[スキットル]] * [[日本女子ボウリング機構]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no | v = no }} * [https://www.jpba1.jp/ (公社)日本プロボウリング協会] * [http://www.jlbc-home.com/ ジャパンレディースボウリングクラブ] * [http://www.jbc-bowling.or.jp/ (公財)全日本ボウリング協会] * [https://bowling.or.jp/ (公社)日本ボウリング場協会] * [http://pba.com/ Professional Bowlers Association] {{en icon}} * [http://www.bowl.com/ United States Bowling Congress] {{en icon}} * [https://nageyo.com/ NAGEYO 打てる気がするボウリング webマガジン] * [https://rankseeker.net/ Rankseeker (JPBAオフィシャルメディアパートナー)] {{スポーツ一覧}} {{球技}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほうりんく}} [[Category:コンペティティブ・ペーシェンス]] [[Category:ボウリング|*]] [[Category:球技]]
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メディア王国
メディア王国(メディアおうこく、Media、古代ギリシャ語: Μῆδοι, Mêdoi、古代ペルシア語: 𐎶𐎠𐎭, Māda、アッカド語:Mādāya)はかつて存在した古代イランの王国である。 メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。 主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。 メディアという現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(Μηδία / Mēdía)に由来する。古代ペルシア語ではマーダ(Māda)という語形でハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。 元々の語義は不明であり、名称の由来についても確実な説はない。ポーランドの言語学者ボイチェフ・スカルモフスキ(英語版)はマーダという語はインド・ヨーロッパ祖語の*med(h)(「中心」、「中央に位置する」の意)に関連しているとしている。彼の推定は同様の意味を持つ古インド語(サンスクリット)のmddhya-、アヴェスター語のmaidiia-を参考にしたものである。一方、ロシアの歴史学者ディアコノフはメディア(マーダ)がインド・ヨーロッパ語に由来するかどうかはっきりしないとしている。 ヘロドトスが伝える古代ギリシアの伝説ではメディアという名称は人名から来ている。 ここに登場するアリオイ人はいわゆる「アーリヤ人(アーリア人)」に対応する名称であり、元来はメディア人のみならずイラン高原に住む諸族の通称である。しかし、語源とされる人物メディアはギリシア神話に登場する魔女であり、アテナイ王アイゲウスの妻だったが継子テセウスを殺害しようとして失敗しアリオイ人の下へ逃れたとされている。このため、ヘロドトスの伝える伝説は名称の類似に依ったギリシア人による創作と考えられ、メディア人自身の伝承であるという彼の証言も疑わしい。 また、バビロニアの史料ではメディアは時にウンマン=マンダと呼ばれている。 古代においてメディア(アマダイ / Amadai、マダイ / Madai)と呼ばれた範囲の輪郭は曖昧である。この地名は前9世紀のアッシリアの文書において初めて登場する。楔形文字文書におけるメディアはザグロス山脈地方を指す用語としてペルシアの傍らで頻繁に使用されているが、アッシリアから見たメディアが遥か東の遠隔の地であったために、アッシリア人が具体的にどの地域を「メディア」として認識していたのかを理解することは困難なものになっている 手掛かりとなるのは、ヘロドトスによってメディアの首都とされるエクバタナという都市と、アッシリアの記録でたびたびメディアと共に登場するハルハル(Ḫarḫar)という地名である。エクバタナはアッシリアの記録には登場しないが、この町が現在のイラン領ハマダーン州の州都ハマダーン市にあたることが特定されており、ヘロドトスによればその創建はアッシリア時代まで遡る。故にハマダーン周辺の地域は「メディア」であったと見ることができる。ハルハルはメディアの西側境界に位置する町で、アッシリアの記録では度々メディア遠征時の経路として登場している。その位置は現在のニハーヴァンド地方とも、サナンダジュ地方とも言われ、ザグロス山脈中央部西側のホラーサーン・ロード(英語版)からさほど遠く無い場所に位置していたと考えられる。アッシリア王サルゴン2世の6度目の遠征においては、アッシリア軍はハルハルから進発してメディアの都市ザクルティ(Zakruti )へと進んでいる。ザクルティはマヒダシュトのやや東、恐らくはベヒストゥン(ビーソトゥーン)地域に位置すると見られ、当時(前8世紀末)メディアの西側の境界を成す都市であったと予想される。また、アッシリア人から見た「メディア」は、北側でマンナエと隣接しているという記録があり、南側はエリピ(Ellipi)と隣接しているとされている。しかし、それぞれの具体的な境界の位置はわからない。そしてアッシリアの記録に登場する「ビクニ(Bikni)」という山の同定がその(アッシリア人の知識における)東の境界を定義する。この山は「ラピスラズリ山」とも呼ばれており、恐らくアッシリアによるメディア遠征における最遠の到達地点であった。このビクニ山はかつてはダマーヴァンド山に同定されていたが、より最近の研究ではアルヴァンド山(英語版)と見るべきと考えられている。アルヴァンド山がビクニ山であるという仮定が正しければ、アッシリア人が征服した(知っていた)「メディアの地」は実際の「メディア」のうち、ハマダーンよりも西方の地域に限られていたと思われる。これらの情報から、アッシリアから見た「メディアの地」はホラーサーン・ロード(英語版)沿いの、現在のケルマーンシャー州マヒダシュト(英語版)とアルヴァンド山の間であったと見られる。 現代では、このメディアという名称は古代のイラン高原北西部を指す歴史地理的用語として歴史学者に用いられている。しばしば実際に「メディア」という地域、あるいは名称が誕生するよりも以前の時代に対しても使用され、概ね西はザグロス山脈、北はアラス川とアルボールズ山脈、東はカヴィール砂漠、南はイラン高原の中央部へ向かって流れる川の河谷に沿った線で区切られた領域を指す。 メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派の言語(メディア語)を使用した人々である。ある時期にイラン高原に侵入し、その北西部(現代のハマダーン州)周辺の地域に定着したとされる。イラン高原にはメディア人の到来以前にフルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民が居住していた。ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた。彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世のイラン世界の基層を成す人々が登場する。現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録はギリシア人の文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人が残した断片的な楔形文字文書に限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。 「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。このアマダイはメディアを指す。前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。 同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。 ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。 前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年-前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。 この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。 新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった。キンメリア人やスキタイ人の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王エサルハドン(在位:前681年-前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った。この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された。ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている。このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子アッシュルバニパルに対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している。 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti)、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu)の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている。この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある。この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた。これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない。 同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した。マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した。アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである。 メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている。前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている。ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない。恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、ファールス州周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった。前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムのアンシャンを支配していたペルシア人の王クル1世は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた。メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる。 こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている。当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されているヘロドトスの『歴史』(前5世紀)と、クテシアスの散逸した歴史書『ペルシア史』の断片や抄録が中心となる。しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある。 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている。このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない。少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている。 とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう。ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している。 前652年、アッシリア支配下におけるバビロン(バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は中世ヨーロッパにおいてフランスをローマ帝国時代の呼称でガリアと呼んだような、あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である。「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる。当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう。 アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない。これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない。この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエス(英語版)の攻撃を受け敗れたことを伝えている。アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである。 この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した。スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった。ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという。 前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した(新バビロニア)。ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であったアラプハ(現:イラク領キルクーク)に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した。前614年にはアッシリアの首都ニネヴェ近郊のタルビスを占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した。同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であったアッシュル市を占領した。アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した。なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。 前613年、ナボポラッサルに対する反乱がスフ(英語版)(Suhu)で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした。翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた。公式な意味での最後のアッシリア王シン・シャル・イシュクンは一般にこの戦いで死亡したと考えられている。この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した。アッシリアの残党は西方のハッラーンに集結し、アッシュル・ウバリト2世の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない。 アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった。この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている。いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった。 また、『旧約聖書』「エレミヤ書」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる。ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない。 明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復したエジプト、アナトリア西方のリュディアがそれにあたる。キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる。メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。 メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している。ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア(アンシャン)の王キュロス2世がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとバクトリアの制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる。当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、ヒュルカニア、パルティア、アレイアもメディアの支配下にあったことを示すであろう。アルメニアもまたメディアの下にあったと見られる。 前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。 「メディア人」の部族、またそれらを束ねる首長らが存在したことはアッシリアやバビロニアの史料から明瞭であるが、近年ではハカーマニシュ朝の前身としてのメディア「王国」の存在については懐疑的な見解が有力である。これは、デイオケスによって建国されイラン高原およびその東西の広大な範囲を支配した統一国家メディア「王国」はヘロドトスをはじめとした古代ギリシア人の著作家の記録にのみ登場し、非ギリシア史料や考古資料にその痕跡が一切存在しないことによる。実際、アッシリアの記録に登場するメディア人たちは要塞化された居住地を束ねる複数の首長らからなり、統一的な王の存在は同時代史料からは全く見出されない。これらのことから、メディア王国とは古代ギリシア人の想像の産物に過ぎず、その実態はイラン系遊牧民の部族連合のようなものであったとする見解もある。 この見解がどの程度の妥当性を持つかは議論があるが、メディア「王国」の史実性・実在性について証明可能な史料は存在しない。そのため、ハカーマニシュ朝の前史として描かれ、その制度と領土がハカーマニシュ朝に引き継がれ大きな影響を与えたとされるメディア「王国」についての一般的な説明は見直しを迫られている。 ギリシアの歴史家ヘロドトスはデイオケスが統一したメディア人には複数の部族があるということを記録に残している。そして具体的に以下の6つの部族を挙げている。 しかしこれらの部族の大部分について、アッカド語史料との対応を証明することは不可能である。アリザントイは「東のアリビ(Aribi)」と呼ばれる遊牧民に相当するかもしれない。パレタケノイはアッシリアの史料にパルタッカ(Partakka)、パリタカ(Paritaka)、パリタカーヌ(Paritakānu)という名前で前7世紀から言及されるようになっている。メディアの諸部族の中でアリザントイ(Arizanti、*arya-zantu、「アーリヤ人の血統に連なる」)だけが明確なイラン系言語の名称を持っているが、現代の学者はメディアの諸部族についてほとんど何の情報も持ち合わせていない。それぞれの部族がどの地方に居住していたのかも多くの場合不明である。パレタケノイは明らかに現在のイスファハーン近郊のあたりに暮らし、アリザントイはメディアの砂漠地帯(現在のカーシャーン南東?)で遊牧生活を送っていたと見られる。マゴイは後にイランの祭司階級として確立されるマグ(Magu)と関係があるとされ、メディア人のみならずペルシア人のためにも祭司を務めたとされる。この語はラテン語形のマグス(Magus)の複数形マギ(Magi)という名称で現代でも良く知られている。 メディア人たちが話した言語はメディア語と呼ばれ、インド・ヨーロッパ語族・インド・イラン語派に分類されている。メディア語はその中でも西イラン語の西北イラン語に分類される。メディア語で書かれた文書は一切存在しないため、この言語について知られていることは極わずかであるが、ローマ帝国時代のギリシア人地理学者ストラボンは、メディア語がサカ・スキタイ語および古代ペルシア語と良く似ていたことを証言している。 史料が極僅かとは言え、メディア語と呼ぶことが可能な言語が実際に存在したことはヘロドトスの記録や古代ペルシア語に見られるメディア語からの借用語の存在によって疑いない。ハカーマニシュ朝期に作られた古代ペルシア語の碑文では特に行政・司法・軍事に関わる用語にメディア語形を取る用語が散見される。日本の学者伊藤義教によればメディア語から古代ペルシア語への借用語と予想される用語には具体的に以下のようなものが挙げられる。 このような行政・司法・軍事に関わるメディア語の用語が多数古代ペルシア語に借用されていることは、ハカーマニシュ朝がメディア王国の国家機構から大きな影響を受けた、あるいはそれを引き継いでいたことを示唆するであろう。 その他人名や地名、上に述べたような行政用語や宗教と関わる固有名詞の情報が残されているが、普通名詞は極僅かしか残されていない。以下に提示した単語は黒柳恒男が著書の中で例示したものに依る。 インド・ヨーロッパ語を話す人々(イラン人)の居住は前2千年紀には確立していたと推定され、その中にはペルシア人と共にメディア人もいたであろう。しかし、メディア人を含むイラン人の存在を考古学的に識別する手段は見出されておらず、前9世紀にアッシリア人による記録が現れるまでイラン人の定着の過程を具体的に描き出すことはできない。文書史料に登場するようになった後、メディア王国が統合されたとされる時代に入ってからでさえも、特定の遺跡をメディア王国と確実に結びつけることができない。基本的に鉄器時代3期(the Iron III period、前800年頃-前550年頃)のイラン西部におけるメディアの物質文化の痕跡はメディアの首都エクバタナ(ハマダーン)の周辺に集中するはずである。 この時代についてのイラン西部における考古学的調査は1960年代に入ってから始まった。メディアの痕跡探しは「メディアの三角形(Median triangle)」に集中して実施されている。この三角地帯はハマダーン、マラーイェル(英語版)(ハマダーン州)、カンガーヴァル(英語版)(ケルマーンシャー州)を結ぶ線に区切られた地域として定義されている。 エクバタナ(ハマダーン)そのものへのメディア人の定住に関してはほとんどわかっていない。 1965年からのT・C・ヤング・ジュニア(T. C. Young, Jr)による発掘でカンガーヴァルの13キロメートル東にあるゴディーン・テペ(Godīn Tepe)では青銅器時代の居住の後、500年程の間隔をあけて鉄器時代3期の始まり頃に再定住が行われたことがわかっている。ここでは1つの建物の一部であると推定される一連の記念碑的な泥レンガ製の建造物が発見されており、地元の支配者の建造物と見られる。北東端には向かい合う6つの納戸からなる建造物が見つかっている。それぞれが恐らくアーチ状の天井を持っていた。 マラーイェルの西14キロメートルの地点にはテペ・ヌシ=イ・ジャン(英語版)遺跡が見つかっている。これはコンパクトな遺跡であるが、少なくとも部分的には宗教的な役割を果たしていたと見られる。この遺跡には中央神殿(the central temple)、西神殿(the western temple)、砦(the fort)、列柱ホール(the columned hall)と名付けられた4つの主要建造物があり、恐らくこの順番に建設された。この遺跡は前6世紀前半に何者かによって占領されたが、これらの建造物はこの占領が行われる前の者である可能性が高い。この遺跡のメディア時代の層から発見された土器類は前7世紀後半にメディアがハマダーン近辺で勢力を強めた瞬間と関連しているように思われる。またこの遺跡とその周辺では当時の自然環境についての手掛かりも発見されている。マラーイェルの平野ではオオムギ、エンマーコムギ、パンコムギ、エンドウマメ、レンズマメ、ブドウなどの作物が作られており、また豊富な森林が残されていたため狩猟も行われていた。畜産も重要であったと見られ、ヌシ・イ・ジャンでは9種類の動物骨が発見されており、その中で最も一般的なものはヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシであった。ウマの飼育もまた既に重要な役割を果たしていた。 ヘロドトスが伝えるメディアの王は4名であり、同一の家系に属する。 これら4人の王のうち、アッシリアとバビロニアの楔形文字史料に登場する人物と対応が取れているのはキュアクサレス(古イラン語:ウワフシュトラ / *hUvaxštra、バビロニア語:ウマキシュタル /Umakištar)とアステュアゲス(古イラン語:アルシュティ・ワイガ? / *Ṛšti-vaiga、バビロニア語:イシュトゥメグ / Ištumegu)の2人である。一応、編年の起点となる前550年からヘロドトスの記載に従って各王の絶対編年を割り出す試みがいくつか存在するが、ヘロドトスの記録をそのまま使用した場合、既に確立されている古代オリエントの政治史と整合が取れないため、それを調整する複数の説が出されている。それぞれの説についてはエンサイクロペディア・イラニカを参照されたい。 デイオケスとフラオルテスについては現在のところ楔形文字史料に登場する人物と対応について確実な説は存在しない。 デイオケスはしばしば前8世紀末にウラルトゥとの戦いについてのアッシリアの記録に登場するダイウック(Daiaukku)という人物と同定され、フランスの学者ロマン・ギルシュマンは「このダイウックこそ、ギリシアの歴史家ヘロドトスがメディア王国の建設者と考えたデイオケスにほかならない」と述べる。しかしヘロドトスの記録にあるデイオケスがメディア人を統一し王国を建設した人物であるのに対し、ダイウックはマンナエの下の地方的な支配者として登場し、前715年にはアッシリア王サルゴン2世に捕らえられて家族もろともシリアへ送られており、ヘロドトスの語る人物像とは一致しない。故にデイオケスとダイウックの同定は、現在のところ明確にそれを証明するような真の根拠はなく、あくまでも仮説に過ぎない。あるいは、デイオケスという人名とダイウックという人名は確かに同一の起源(古イラン語:*Dahyu-ka-?)を持っていたが、ヘロドトスと楔形文字史料に登場するデイオケスとダイウックは同名の別人であるという解釈も可能である。 楔形文字史料において恐らくはメディアに実質的な王国を構築した人物であると想定可能なカシュタリティという王(アッシリア人の記録では市長であるが)についても、編年上の仮説と、後世のベヒストゥン碑文を参考にフラオルテスと同一人物であるとする説がある。前6世紀にハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)が残したベヒストゥン碑文には、メディアにおける反乱への言及があり、次のような一節がある。 アメリカの学者、ジョージ・G・キャメロン(George G. Cameron)はこの記述を参考に、「カシュタリティ=フシャスリタ」はキュアクサレスの父親であるフラオルテスの即位名であるという結論を出した。ディアコノフもベヒストゥン碑文を参照し、ヘロドトスの記録は彼への情報提供者の記憶に由来する誤りであるとして次のように述べている。 しかしこれらのような見解には異論もあり、否定的な意見が根強い。フラワルティが自身の即位名としてフシャスリタを採用した理由も明らかにはなっていない。 ハカーマニシュ朝に仕えたギリシア人クテシアスもまた、メディアの王統譜を伝えている。彼の著作『ペルシア史』は散逸して現存していないが、部分的に残された引用・抜粋などによってその内容が知られている。クテシアスによればメディアはアッシリアが滅亡した後、アジアを支配した。アッシリア最後の王サルダナパロス(アッシュルバニパル)を滅ぼしたアルバケスを含め、彼が記録している7人のメディア王は以下の通りである。 クテシアスの記録は物語の詳細も含めヘロドトスの記述と大きく矛盾し、最後の王アステュアゲスについての情報も異なる(ヘロドトスは彼をキュロス2世の母方の祖父とするが、クテシアスは血縁は無いとする)。また、サルダナパロス(アッシュルバニパル)がアッシリアの最後の王であるという物語は現在のアッシリア学の知見において事実ではない(アッシュルバニパルの記事を参照)。一般的にメディアの王統を再構築する際にはヘロドトスのそれが参照される(例えば、エンサイクロペディア・イラニカ等)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メディア王国(メディアおうこく、Media、古代ギリシャ語: Μῆδοι, Mêdoi、古代ペルシア語: 𐎶𐎠𐎭, Māda、アッカド語:Mādāya)はかつて存在した古代イランの王国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "メディアという現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(Μηδία / Mēdía)に由来する。古代ペルシア語ではマーダ(Māda)という語形でハカーマニシュ朝(アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。", "title": "名称と語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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Madai)と呼ばれた範囲の輪郭は曖昧である。この地名は前9世紀のアッシリアの文書において初めて登場する。楔形文字文書におけるメディアはザグロス山脈地方を指す用語としてペルシアの傍らで頻繁に使用されているが、アッシリアから見たメディアが遥か東の遠隔の地であったために、アッシリア人が具体的にどの地域を「メディア」として認識していたのかを理解することは困難なものになっている", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "手掛かりとなるのは、ヘロドトスによってメディアの首都とされるエクバタナという都市と、アッシリアの記録でたびたびメディアと共に登場するハルハル(Ḫarḫar)という地名である。エクバタナはアッシリアの記録には登場しないが、この町が現在のイラン領ハマダーン州の州都ハマダーン市にあたることが特定されており、ヘロドトスによればその創建はアッシリア時代まで遡る。故にハマダーン周辺の地域は「メディア」であったと見ることができる。ハルハルはメディアの西側境界に位置する町で、アッシリアの記録では度々メディア遠征時の経路として登場している。その位置は現在のニハーヴァンド地方とも、サナンダジュ地方とも言われ、ザグロス山脈中央部西側のホラーサーン・ロード(英語版)からさほど遠く無い場所に位置していたと考えられる。アッシリア王サルゴン2世の6度目の遠征においては、アッシリア軍はハルハルから進発してメディアの都市ザクルティ(Zakruti )へと進んでいる。ザクルティはマヒダシュトのやや東、恐らくはベヒストゥン(ビーソトゥーン)地域に位置すると見られ、当時(前8世紀末)メディアの西側の境界を成す都市であったと予想される。また、アッシリア人から見た「メディア」は、北側でマンナエと隣接しているという記録があり、南側はエリピ(Ellipi)と隣接しているとされている。しかし、それぞれの具体的な境界の位置はわからない。そしてアッシリアの記録に登場する「ビクニ(Bikni)」という山の同定がその(アッシリア人の知識における)東の境界を定義する。この山は「ラピスラズリ山」とも呼ばれており、恐らくアッシリアによるメディア遠征における最遠の到達地点であった。このビクニ山はかつてはダマーヴァンド山に同定されていたが、より最近の研究ではアルヴァンド山(英語版)と見るべきと考えられている。アルヴァンド山がビクニ山であるという仮定が正しければ、アッシリア人が征服した(知っていた)「メディアの地」は実際の「メディア」のうち、ハマダーンよりも西方の地域に限られていたと思われる。これらの情報から、アッシリアから見た「メディアの地」はホラーサーン・ロード(英語版)沿いの、現在のケルマーンシャー州マヒダシュト(英語版)とアルヴァンド山の間であったと見られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現代では、このメディアという名称は古代のイラン高原北西部を指す歴史地理的用語として歴史学者に用いられている。しばしば実際に「メディア」という地域、あるいは名称が誕生するよりも以前の時代に対しても使用され、概ね西はザグロス山脈、北はアラス川とアルボールズ山脈、東はカヴィール砂漠、南はイラン高原の中央部へ向かって流れる川の河谷に沿った線で区切られた領域を指す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派の言語(メディア語)を使用した人々である。ある時期にイラン高原に侵入し、その北西部(現代のハマダーン州)周辺の地域に定着したとされる。イラン高原にはメディア人の到来以前にフルリ人や「グティ人」等、様々な言語を話す住民が居住していた。ここにインド・ヨーロッパ語を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた。彼らの中からメディア人やペルシア人など、後世のイラン世界の基層を成す人々が登場する。現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録はギリシア人の文筆家(特にヘロドトス)による記録や『旧約聖書』における言及、そしてアッシリア人が残した断片的な楔形文字文書に限られ、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年または前834年のことである。アッシリア王シャルマネセル3世(在位:前859年-前824年)の黒色オベリスクに残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(Amadai)からハルハル(Ḫarḫar)という土地に攻め入った。このアマダイはメディアを指す。前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。およそ100年後のティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(Madai)を攻撃し略奪したことが記されている。 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同じ頃にメディアと共に近傍のマンナエやペルシア(パルスア)がアッシリア人の記録に登場するようになる。ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない。アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人はオルーミーイェ湖(ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・ハマダーン州周辺)にいたことになる。ハマダーン州のエクバタナ(ハグマターナ、「集会所」の意、現在のハマダーン市)は後のメディア王国の首都とみなされる。ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた。彼はイラン北西部からシリア・フェニキアへと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからはアラム人をイラン高原に移住させたとしている。そしてビート・ハンバン(Bit Ḫamban)とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前8世紀の末、アッシリア王サルゴン2世(在位:前722年-前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(Kišesim)を設置し、メディア西部がそれに加えられた。これらの州はその後、カール・シャルキン(Kar-Šarrukin)とカール・ネルガル(Kar-Nergal)と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この頃、アッシリアの北方の大国であったウラルトゥの王ルサ1世はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する)。しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた。このダイウックはヘロドトスの『歴史』に登場するメディアを統一した王デイオケスに相当するという見解がある。もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である。ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった。キンメリア人やスキタイ人の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王エサルハドン(在位:前681年-前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけてイシュパカイア(Išpakaia)というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った。この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された。ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(Partakku)のウピス(Uppis)、パルトゥッカ(Partukka)のザナサナ(Zanasana)、ウルカザバルヌ(Urukazabarnu)のラマタイア(Ramataia)という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている。このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子アッシュルバニパルに対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(Kišesim)のサグバト(Sagbat)にある都市カール・カッシ(Kār-kašši)の「市長(city lord)」カシュタリティ(Kaštariti)、サパルダ(Saparda)の支配者ドゥサンナ(Dusanna)、メディアの「市長」マミティアルシュ(Mamitiaršu)の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている。この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている。アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある。この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた。これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいはエラムによる訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した。マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した。アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(Birišatri)を捕らえたというものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている。前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている。ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない。恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、ファールス州周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった。前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムのアンシャンを支配していたペルシア人の王クル1世は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた。メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている。当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されているヘロドトスの『歴史』(前5世紀)と、クテシアスの散逸した歴史書『ペルシア史』の断片や抄録が中心となる。しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子フラオルテスに帰せられている。このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない。既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である。しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない。少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう。ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前652年、アッシリア支配下におけるバビロン(バビロニア)の王であったシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。第一にアッカド人・カルデア人・アラム人(即ちバビロニアの住民)、第二にエラム人、そして第三にアムル人・メルッハ・グティ人である。当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は中世ヨーロッパにおいてフランスをローマ帝国時代の呼称でガリアと呼んだような、あるいはビザンツ帝国が周辺の異民族をフン族やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である。「アムル人」はシリア・パレスチナ地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる。当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない。これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、スキタイ人の手によったためであるかもしれない。この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子キュアクサレスが父親の仇を討つため、アッシリアの首都ニネヴェ(ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王マデュエス(英語版)の攻撃を受け敗れたことを伝えている。アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した。スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった。ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した(新バビロニア)。ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であったアラプハ(現:イラク領キルクーク)に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した。前614年にはアッシリアの首都ニネヴェ近郊のタルビスを占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した。同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であったアッシュル市を占領した。アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した。なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった。このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」。ここでキュアクサレスの孫(アステュアゲスの娘)アミティス(Amytis)とナボポラッサルの息子ネブカドネザル(2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "前613年、ナボポラッサルに対する反乱がスフ(英語版)(Suhu)で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした。翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた。公式な意味での最後のアッシリア王シン・シャル・イシュクンは一般にこの戦いで死亡したと考えられている。この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した。アッシリアの残党は西方のハッラーンに集結し、アッシュル・ウバリト2世の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった。この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている。いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、『旧約聖書』「エレミヤ書」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる。ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復したエジプト、アナトリア西方のリュディアがそれにあたる。キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる。メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、ハリュス川での戦闘(日食の戦い)中、日食が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。そしてバビロニアとキリキアの仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子アステュアゲスとリュディア王アリュアッテスの娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる。これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している。ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア(アンシャン)の王キュロス2世がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとバクトリアの制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる。当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、ヒュルカニア、パルティア、アレイアもメディアの支配下にあったことを示すであろう。アルメニアもまたメディアの下にあったと見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ。アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア(アンシャン)の王キュロス2世(クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている。メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王ナボニドゥスの夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘のマンダネが放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た。夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になるとカンビュセス(カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた。ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた。やがてマンダネが息子キュロス(クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下のハルパゴスに命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった。牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした。やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した。やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った。メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した。キュロスはその後、全アジアを征服した(ハカーマニシュ朝/アケメネス朝)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない。キュロスは単に「アンシャン(アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(Ištumegu)と言う名前で「ウンマン=マンダ(Umman-manda、メディア)の王」と呼ばれている。メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王ナボニドゥスの年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した。その後キュロスはアガムタヌ(Agamtanu、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという。キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である。アンシャンの王キュロスは、いわゆるハカーマニシュ朝(アケメネス朝)の建国者とされるキュロス2世(クル2世)にあたる。彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた。この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた。さらにハカーマニシュ朝がバビロニアを征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる。ギリシア人やユダヤ人、エジプト人たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「メディア人」の部族、またそれらを束ねる首長らが存在したことはアッシリアやバビロニアの史料から明瞭であるが、近年ではハカーマニシュ朝の前身としてのメディア「王国」の存在については懐疑的な見解が有力である。これは、デイオケスによって建国されイラン高原およびその東西の広大な範囲を支配した統一国家メディア「王国」はヘロドトスをはじめとした古代ギリシア人の著作家の記録にのみ登場し、非ギリシア史料や考古資料にその痕跡が一切存在しないことによる。実際、アッシリアの記録に登場するメディア人たちは要塞化された居住地を束ねる複数の首長らからなり、統一的な王の存在は同時代史料からは全く見出されない。これらのことから、メディア王国とは古代ギリシア人の想像の産物に過ぎず、その実態はイラン系遊牧民の部族連合のようなものであったとする見解もある。", "title": "メディア「王国」の実在性の問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この見解がどの程度の妥当性を持つかは議論があるが、メディア「王国」の史実性・実在性について証明可能な史料は存在しない。そのため、ハカーマニシュ朝の前史として描かれ、その制度と領土がハカーマニシュ朝に引き継がれ大きな影響を与えたとされるメディア「王国」についての一般的な説明は見直しを迫られている。", "title": "メディア「王国」の実在性の問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ギリシアの歴史家ヘロドトスはデイオケスが統一したメディア人には複数の部族があるということを記録に残している。そして具体的に以下の6つの部族を挙げている。", "title": "部族" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "しかしこれらの部族の大部分について、アッカド語史料との対応を証明することは不可能である。アリザントイは「東のアリビ(Aribi)」と呼ばれる遊牧民に相当するかもしれない。パレタケノイはアッシリアの史料にパルタッカ(Partakka)、パリタカ(Paritaka)、パリタカーヌ(Paritakānu)という名前で前7世紀から言及されるようになっている。メディアの諸部族の中でアリザントイ(Arizanti、*arya-zantu、「アーリヤ人の血統に連なる」)だけが明確なイラン系言語の名称を持っているが、現代の学者はメディアの諸部族についてほとんど何の情報も持ち合わせていない。それぞれの部族がどの地方に居住していたのかも多くの場合不明である。パレタケノイは明らかに現在のイスファハーン近郊のあたりに暮らし、アリザントイはメディアの砂漠地帯(現在のカーシャーン南東?)で遊牧生活を送っていたと見られる。マゴイは後にイランの祭司階級として確立されるマグ(Magu)と関係があるとされ、メディア人のみならずペルシア人のためにも祭司を務めたとされる。この語はラテン語形のマグス(Magus)の複数形マギ(Magi)という名称で現代でも良く知られている。", "title": "部族" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "メディア人たちが話した言語はメディア語と呼ばれ、インド・ヨーロッパ語族・インド・イラン語派に分類されている。メディア語はその中でも西イラン語の西北イラン語に分類される。メディア語で書かれた文書は一切存在しないため、この言語について知られていることは極わずかであるが、ローマ帝国時代のギリシア人地理学者ストラボンは、メディア語がサカ・スキタイ語および古代ペルシア語と良く似ていたことを証言している。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "史料が極僅かとは言え、メディア語と呼ぶことが可能な言語が実際に存在したことはヘロドトスの記録や古代ペルシア語に見られるメディア語からの借用語の存在によって疑いない。ハカーマニシュ朝期に作られた古代ペルシア語の碑文では特に行政・司法・軍事に関わる用語にメディア語形を取る用語が散見される。日本の学者伊藤義教によればメディア語から古代ペルシア語への借用語と予想される用語には具体的に以下のようなものが挙げられる。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "このような行政・司法・軍事に関わるメディア語の用語が多数古代ペルシア語に借用されていることは、ハカーマニシュ朝がメディア王国の国家機構から大きな影響を受けた、あるいはそれを引き継いでいたことを示唆するであろう。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その他人名や地名、上に述べたような行政用語や宗教と関わる固有名詞の情報が残されているが、普通名詞は極僅かしか残されていない。以下に提示した単語は黒柳恒男が著書の中で例示したものに依る。", "title": "言語" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "インド・ヨーロッパ語を話す人々(イラン人)の居住は前2千年紀には確立していたと推定され、その中にはペルシア人と共にメディア人もいたであろう。しかし、メディア人を含むイラン人の存在を考古学的に識別する手段は見出されておらず、前9世紀にアッシリア人による記録が現れるまでイラン人の定着の過程を具体的に描き出すことはできない。文書史料に登場するようになった後、メディア王国が統合されたとされる時代に入ってからでさえも、特定の遺跡をメディア王国と確実に結びつけることができない。基本的に鉄器時代3期(the Iron III period、前800年頃-前550年頃)のイラン西部におけるメディアの物質文化の痕跡はメディアの首都エクバタナ(ハマダーン)の周辺に集中するはずである。", "title": "考古学" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この時代についてのイラン西部における考古学的調査は1960年代に入ってから始まった。メディアの痕跡探しは「メディアの三角形(Median triangle)」に集中して実施されている。この三角地帯はハマダーン、マラーイェル(英語版)(ハマダーン州)、カンガーヴァル(英語版)(ケルマーンシャー州)を結ぶ線に区切られた地域として定義されている。", "title": "考古学" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "エクバタナ(ハマダーン)そのものへのメディア人の定住に関してはほとんどわかっていない。", "title": "考古学" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1965年からのT・C・ヤング・ジュニア(T. C. Young, Jr)による発掘でカンガーヴァルの13キロメートル東にあるゴディーン・テペ(Godīn Tepe)では青銅器時代の居住の後、500年程の間隔をあけて鉄器時代3期の始まり頃に再定住が行われたことがわかっている。ここでは1つの建物の一部であると推定される一連の記念碑的な泥レンガ製の建造物が発見されており、地元の支配者の建造物と見られる。北東端には向かい合う6つの納戸からなる建造物が見つかっている。それぞれが恐らくアーチ状の天井を持っていた。", "title": "考古学" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "マラーイェルの西14キロメートルの地点にはテペ・ヌシ=イ・ジャン(英語版)遺跡が見つかっている。これはコンパクトな遺跡であるが、少なくとも部分的には宗教的な役割を果たしていたと見られる。この遺跡には中央神殿(the central temple)、西神殿(the western temple)、砦(the fort)、列柱ホール(the columned hall)と名付けられた4つの主要建造物があり、恐らくこの順番に建設された。この遺跡は前6世紀前半に何者かによって占領されたが、これらの建造物はこの占領が行われる前の者である可能性が高い。この遺跡のメディア時代の層から発見された土器類は前7世紀後半にメディアがハマダーン近辺で勢力を強めた瞬間と関連しているように思われる。またこの遺跡とその周辺では当時の自然環境についての手掛かりも発見されている。マラーイェルの平野ではオオムギ、エンマーコムギ、パンコムギ、エンドウマメ、レンズマメ、ブドウなどの作物が作られており、また豊富な森林が残されていたため狩猟も行われていた。畜産も重要であったと見られ、ヌシ・イ・ジャンでは9種類の動物骨が発見されており、その中で最も一般的なものはヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシであった。ウマの飼育もまた既に重要な役割を果たしていた。", "title": "考古学" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ヘロドトスが伝えるメディアの王は4名であり、同一の家系に属する。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これら4人の王のうち、アッシリアとバビロニアの楔形文字史料に登場する人物と対応が取れているのはキュアクサレス(古イラン語:ウワフシュトラ / *hUvaxštra、バビロニア語:ウマキシュタル /Umakištar)とアステュアゲス(古イラン語:アルシュティ・ワイガ? / *Ṛšti-vaiga、バビロニア語:イシュトゥメグ / Ištumegu)の2人である。一応、編年の起点となる前550年からヘロドトスの記載に従って各王の絶対編年を割り出す試みがいくつか存在するが、ヘロドトスの記録をそのまま使用した場合、既に確立されている古代オリエントの政治史と整合が取れないため、それを調整する複数の説が出されている。それぞれの説についてはエンサイクロペディア・イラニカを参照されたい。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "デイオケスとフラオルテスについては現在のところ楔形文字史料に登場する人物と対応について確実な説は存在しない。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "デイオケスはしばしば前8世紀末にウラルトゥとの戦いについてのアッシリアの記録に登場するダイウック(Daiaukku)という人物と同定され、フランスの学者ロマン・ギルシュマンは「このダイウックこそ、ギリシアの歴史家ヘロドトスがメディア王国の建設者と考えたデイオケスにほかならない」と述べる。しかしヘロドトスの記録にあるデイオケスがメディア人を統一し王国を建設した人物であるのに対し、ダイウックはマンナエの下の地方的な支配者として登場し、前715年にはアッシリア王サルゴン2世に捕らえられて家族もろともシリアへ送られており、ヘロドトスの語る人物像とは一致しない。故にデイオケスとダイウックの同定は、現在のところ明確にそれを証明するような真の根拠はなく、あくまでも仮説に過ぎない。あるいは、デイオケスという人名とダイウックという人名は確かに同一の起源(古イラン語:*Dahyu-ka-?)を持っていたが、ヘロドトスと楔形文字史料に登場するデイオケスとダイウックは同名の別人であるという解釈も可能である。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "楔形文字史料において恐らくはメディアに実質的な王国を構築した人物であると想定可能なカシュタリティという王(アッシリア人の記録では市長であるが)についても、編年上の仮説と、後世のベヒストゥン碑文を参考にフラオルテスと同一人物であるとする説がある。前6世紀にハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)が残したベヒストゥン碑文には、メディアにおける反乱への言及があり、次のような一節がある。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アメリカの学者、ジョージ・G・キャメロン(George G. Cameron)はこの記述を参考に、「カシュタリティ=フシャスリタ」はキュアクサレスの父親であるフラオルテスの即位名であるという結論を出した。ディアコノフもベヒストゥン碑文を参照し、ヘロドトスの記録は彼への情報提供者の記憶に由来する誤りであるとして次のように述べている。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかしこれらのような見解には異論もあり、否定的な意見が根強い。フラワルティが自身の即位名としてフシャスリタを採用した理由も明らかにはなっていない。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ハカーマニシュ朝に仕えたギリシア人クテシアスもまた、メディアの王統譜を伝えている。彼の著作『ペルシア史』は散逸して現存していないが、部分的に残された引用・抜粋などによってその内容が知られている。クテシアスによればメディアはアッシリアが滅亡した後、アジアを支配した。アッシリア最後の王サルダナパロス(アッシュルバニパル)を滅ぼしたアルバケスを含め、彼が記録している7人のメディア王は以下の通りである。", "title": "歴代王" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "クテシアスの記録は物語の詳細も含めヘロドトスの記述と大きく矛盾し、最後の王アステュアゲスについての情報も異なる(ヘロドトスは彼をキュロス2世の母方の祖父とするが、クテシアスは血縁は無いとする)。また、サルダナパロス(アッシュルバニパル)がアッシリアの最後の王であるという物語は現在のアッシリア学の知見において事実ではない(アッシュルバニパルの記事を参照)。一般的にメディアの王統を再構築する際にはヘロドトスのそれが参照される(例えば、エンサイクロペディア・イラニカ等)。", "title": "歴代王" } ]
メディア王国はかつて存在した古代イランの王国である。 メディア地方は現在のイラン北西部、ハマダーン周辺を中心とする地域であり、前1千年紀にはインド・ヨーロッパ語を話す人々が居住するようになっていた。この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。メディア人は当時の西アジアの大国アッシリアの記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には新バビロニア、エジプト、リュディアと共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。 主としてヘロドトスなどギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。前550年にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)のクル2世(キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。
{{基礎情報 過去の国 |略名 =メディア |日本語国名 =メディア王国 |公式国名 = |建国時期 = 不明 |亡国時期 = [[紀元前550年|前550年]] |先代1 = |先代2 = |次代1 = アケメネス朝 |次旗1 = Standard of Cyrus the Great.svg |国旗画像 = |国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定--> |国旗説明 = |国旗幅 = <!--初期値125px--> |国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない--> |国章画像 = <!--画像ファイル名を入力--> |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = <!--初期値85px--> |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 =Median Empire.svg |位置画像説明 =メディア王国の紀元前600年頃の領域(緑)と他の四大国(黄緑)。 |公用語 = |首都 =[[エクバタナ]] |元首等肩書 = |元首等年代始1 = |元首等年代終1 = |元首等氏名1 =[[デイオケス]] |元首等年代始2 = |元首等年代終2 = |元首等氏名2 =[[フラオルテス]] |元首等年代始3 = |元首等年代終3 = |元首等氏名3 =[[キュアクサレス2世|キュアクサレス]] |元首等年代始4 = |元首等年代終4 =前550年 |元首等氏名4 =[[アステュアゲス]](最後) |元首等年代始5 = |元首等年代終5 = |元首等氏名5 = |面積測定時期1 = |面積値1 = |面積測定時期2 = |面積値2 = |面積測定時期3 = |面積値3 = |面積測定時期4 = |面積値4 = |面積測定時期5 = |面積値5 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |人口測定時期2 = |人口値2 = |人口測定時期3 = |人口値3 = |人口測定時期4 = |人口値4 = |人口測定時期5 = |人口値5 = |変遷1 =建設 |変遷年月日1 =不明 |変遷2 = |変遷年月日2 = |変遷3 = |変遷年月日3 = |変遷4 = |変遷年月日4 = |変遷5 =滅亡 |変遷年月日5 =[[紀元前550年|前550年]] |通貨 = |注記 = }} {{イランの歴史}} '''メディア王国'''(メディアおうこく、''Media''、{{翻字併記|grc|Μῆδοι|''Mêdoi''|n}}、{{翻字併記|peo|𐎶𐎠𐎭|''Māda''|n}}<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>、[[アッカド語]]:''Mādāya''<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>)はかつて存在した古代イランの王国である。 メディア地方は現在の[[イラン]]北西部、[[ハマダーン]]周辺を中心とする地域であり、前1千年紀には[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]を話す人々が居住するようになっていた。この中からメディア人と呼ばれるようになる人々が登場する。メディア人は当時の[[西アジア]]の大国[[アッシリア]]の記録で初めて歴史に登場し、前612年頃のアッシリアの滅亡の後には[[新バビロニア]]、[[エジプト第26王朝|エジプト]]、[[リュディア]]と共に古代オリエント世界の大国を形成したと言われている。 主として[[ヘロドトス]]などギリシア人作家の記録によってメディアの歴史が伝えられているが、メディア人自身による歴史記録が存在せず、考古学的調査も不十分であるため、その実態についてわかっていることは少なく、実際に「王国」と呼べるような組織として成立していたのかどうかも定かではない。前550年に[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)の[[キュロス2世|クル2世]](キュロス2世)によって破られその帝国に組み込まれたと考えられるが、メディア人の制度・文化は後のイラン世界に大きな影響を残したと想定されており、また地名としてのメディアは後の時代まで使用され続けた。 == 名称と語源 == '''メディア'''という現代の名称はギリシア語の史料に登場するメーディアー(''Μηδία'' / ''Mēdía'')に由来する<ref>[[#松原 2010|西洋古典学辞典 2010]], pp. 1266-1267 「メーディアー」の項目より</ref>。古代ペルシア語では'''マーダ'''(''Māda'')という語形で[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝、前550年頃-前330年)時代の碑文に登場する。 元々の語義は不明であり、名称の由来についても確実な説はない。[[ポーランド]]の言語学者{{仮リンク|ボイチェフ・スカルモフスキ|en|Wojciech Skalmowski}}はマーダという語は[[インド・ヨーロッパ祖語]]の*''med(h)''(「中心」、「中央に位置する」の意)に関連しているとしている。彼の推定は同様の意味を持つ古インド語([[サンスクリット]])の''mddhya-''、[[アヴェスター語]]の''maidiia-''を参考にしたものである<ref group="注釈">{{Google books quote|id=kQ6zTASmo6kC|page=27|text=Māda|Tavernier, Jan (2007), Iranica in the Achaemenid Period (ca. 550-330 B.C.): Linguistic Study of Old Iranian Proper Names and Loanwords, Attested in Non-Iranian Texts, p. 27}}</ref><ref name="Tavernier2007p27">[[#Tavernier 2007|Tavernier 2007]], p. 27</ref>。一方、[[ロシア]]の歴史学者ディアコノフはメディア(マーダ)がインド・ヨーロッパ語に由来するかどうかはっきりしないとしている<ref name="Diakonoff1985p57">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 57</ref>。 ヘロドトスが伝える[[古代ギリシア]]の伝説ではメディアという名称は人名から来ている。 {{quote|quote=メディア人部隊もペルシア人と同じ装備で遠征(引用注:[[ペルシア戦争]])に加わった。もともとこの装備の様式はメディアのものであって、ペルシアのものではない。メディア人を指揮するのは、アカイメネス家の一族なるティグラネスであった。メディア人は昔からもアリオイ人の呼称で呼ばれていたが、コルキスの女[[メーデイア|メディア]](メーデイア)がアテナイを逃れてこのアリオイ人の許へきてから、この民族もその名を変えたのである。これはメディア人自身が自国名について伝えているところである<ref name="ヘロドトス巻7§62">[[#ヘロドトス 1972-2|ヘロドトス]], 巻7§62</ref>。|author=ヘロドトス |title=『歴史』|source=巻7§62}} ここに登場するアリオイ人はいわゆる「[[アーリア人|アーリヤ人]](アーリア人)」に対応する名称であり、元来はメディア人のみならずイラン高原に住む諸族の通称である<ref name="ヘロドトス松平訳中51-4">[[#ヘロドトス 1972-2|松平訳]], 下巻注釈51-4 , p. 320</ref>。しかし、語源とされる人物メディアは[[ギリシア神話]]に登場する魔女であり、アテナイ王[[アイゲウス]]の妻だったが継子テセウスを殺害しようとして失敗しアリオイ人の下へ逃れたとされている。このため、ヘロドトスの伝える伝説は名称の類似に依ったギリシア人による創作と考えられ、メディア人自身の伝承であるという彼の証言も疑わしい<ref name="ヘロドトス松平訳中51-5">[[#ヘロドトス 1972-2|松平訳]], 下巻注釈51-5 , p. 321</ref>。 また、バビロニアの史料ではメディアは時にウンマン=マンダと呼ばれている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 == 地理 == === 古代の「メディア」 === {{Location map+|Iran|width=250|float=left|caption={{Center|関係するイランの地名。赤(山)、緑(都市/村落)}}|places= {{Location map~|Iran|lat=34.39|long=48.29|label=アルヴァンド山|label_size=80|position=bottom|mark=Red pog.svg}} {{Location map~|Iran|lat=35.57|long=52.06|label=ダマーヴァンド山|label_size=80|position=top|mark=Red pog.svg}} {{Location map~|Iran|lat=34.48|long=48.31|label=ハマダーン|label_size=80|position=right|mark=Green pog.svg}} {{Location map~|Iran|lat=34.21|long=46.59|label=マヒダシュト|label_size=80|position=top|mark=Green pog.svg}} }} 古代においてメディア(アマダイ / ''Amadai''、マダイ / ''Madai'')と呼ばれた範囲の輪郭は曖昧である。この地名は前9世紀のアッシリアの文書において初めて登場する<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Levine1974p119">[[#Levine 1974|Levine 1974]], p. 119</ref><ref name="フィネガン1983p155"/>。楔形文字文書におけるメディアはザグロス山脈地方を指す用語としてペルシアの傍らで頻繁に使用されているが<ref name="Levine1974p119"/>、アッシリアから見たメディアが遥か東の遠隔の地であったために、アッシリア人が具体的にどの地域を「メディア」として認識していたのかを理解することは困難なものになっている<ref name="Levine1974p119"/> 手掛かりとなるのは、[[ヘロドトス]]によってメディアの首都とされる[[エクバタナ]]という都市と、アッシリアの記録でたびたびメディアと共に登場するハルハル(''Ḫarḫar'')という地名である。エクバタナはアッシリアの記録には登場しないが、この町が現在の[[イラン]]領[[ハマダーン州]]の州都[[ハマダーン]]市にあたることが特定されており、ヘロドトスによればその創建はアッシリア時代まで遡る<ref name="Levine1974p120">[[#Levine 1974|Levine 1974]], p. 120</ref>。故にハマダーン周辺の地域は「メディア」であったと見ることができる<ref name="Levine1974p120"/>。ハルハルはメディアの西側境界に位置する町で、アッシリアの記録では度々メディア遠征時の経路として登場している<ref name="Levine1974p120"/>。その位置は現在の[[ニハーヴァンド]]地方とも、[[サナンダジュ]]地方とも言われ、ザグロス山脈中央部西側の{{仮リンク|ホラーサーン・ロード|en|Khorasan Road}}からさほど遠く無い場所に位置していたと考えられる<ref name="Medvedskaya2003">[[#Medvedskaya 2003|Medvedskaya 2003]]</ref>。アッシリア王[[サルゴン2世]]の6度目の遠征においては、アッシリア軍はハルハルから進発してメディアの都市ザクルティ(''Zakruti '')へと進んでいる。ザクルティはマヒダシュトのやや東、恐らくはベヒストゥン(ビーソトゥーン)地域に位置すると見られ、当時(前8世紀末)メディアの西側の境界を成す都市であったと予想される<ref name="Levine1974p120"/>。また、アッシリア人から見た「メディア」は、北側で[[マンナエ]]と隣接しているという記録があり、南側はエリピ(''Ellipi'')と隣接しているとされている。しかし、それぞれの具体的な境界の位置はわからない<ref name="Levine1974p120"/>。そしてアッシリアの記録に登場する「ビクニ(''Bikni'')」という山の同定がその(アッシリア人の知識における)東の境界を定義する。この山は「ラピスラズリ山」とも呼ばれており、恐らくアッシリアによるメディア遠征における最遠の到達地点であった<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。このビクニ山はかつては[[ダマーヴァンド山]]に同定されていたが、より最近の研究では{{仮リンク|アルヴァンド山|en|Alvand}}と見るべきと考えられている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アルヴァンド山がビクニ山であるという仮定が正しければ、アッシリア人が征服した(知っていた)「メディアの地」は実際の「メディア」のうち、ハマダーンよりも西方の地域に限られていたと思われる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。これらの情報から、アッシリアから見た「メディアの地」は{{仮リンク|ホラーサーン・ロード|en|Khorasan Road}}沿いの、現在の[[ケルマーンシャー州]]{{仮リンク|マヒダシュト|en|Mahidasht}}とアルヴァンド山の間であったと見られる<ref name="Levine1974p120"/>。 === 現代の「メディア」 === 現代では、このメディアという名称は古代のイラン高原北西部を指す歴史地理的用語として歴史学者に用いられている。しばしば実際に「メディア」という地域、あるいは名称が誕生するよりも以前の時代に対しても使用され、概ね西は[[ザグロス山脈]]、北は[[アラス川]]と[[アルボルズ山脈|アルボールズ山脈]]、東は[[カヴィール砂漠]]、南は[[イラン高原]]の中央部へ向かって流れる川の河谷に沿った線で区切られた領域を指す<ref name="Diakonoff1985p36">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 36</ref>。 == 歴史 == === メディア人の登場 === メディア人は古代イランに登場するインド・ヨーロッパ語族の[[インド・イラン語派]]の言語([[メディア語]])を使用した人々である。ある時期に[[イラン高原]]に侵入し、その北西部(現代の[[ハマダーン州]])周辺の地域に定着したとされる。イラン高原にはメディア人の到来以前に[[フルリ人]]や「[[グティ人]]」等、様々な言語を話す住民が居住していた<ref name="Diakonoff1985pp36-41">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], pp. 36-41</ref>。ここに[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]を話す人々がいつ、どのように定着したのか明らかではないが、遅くとも前2千年紀の中頃までにはイラン高原に到達していた<ref name="Diakonoff1985p41">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 41</ref>。彼らの中からメディア人や[[ペルシア人]]など、後世の[[イラン世界]]の基層を成す人々が登場する。現在知られる限り、メディア人の言語であるメディア語は筆記言語として使用されなかったため、彼らの歴史についての記録は[[ギリシア人]]の文筆家(特に[[ヘロドトス]])による記録や『[[旧約聖書]]』における言及、そして[[アッシリア|アッシリア人]]が残した断片的な[[楔形文字]]文書に限られ<ref name="杉1969p274">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 274</ref>、その姿は曖昧な形でしかとらえることができない。 「メディア」という固有名詞が文書史料上に初めて登場するのは前835年<ref name="杉1969p275">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 275</ref>または前834年<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>のことである。アッシリア王[[シャルマネセル3世]](在位:前859年-前824年)の[[黒色オベリスク]]に残された碑文によれば、この時シャルマネセル3世はアマダイ(''Amadai'')からハルハル(''Ḫarḫar'')という土地に攻め入った。このアマダイはメディアを指す<ref name="杉1969p275"/><ref name="ギルシュマン1970p79">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], p. 79</ref><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。前8世紀以降、メディアはアッシリアにとって重要な敵となり、アッシリア王たちはメディアに対して攻撃を繰り返した。およそ100年後の[[ティグラト・ピレセル3世]](在位:前745年-前727年)の記録においてもマダイ(''Madai'')を攻撃し略奪したことが記されている<ref name="杉1969p275"/>。 シャルマネセル3世とティグラト・ピレセル3世の間のアッシリア王たちもメディアへの遠征を行ったことが年名などの記録からわかるが、史料の欠乏により詳細は不明である<ref name="Diakonoff1985p68">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 68</ref>。 同じ頃にメディアと共に近傍の[[マンナエ人|マンナエ]]や[[ペルシア]]([[パルスア]])がアッシリア人の記録に登場するようになる<ref name="ギルシュマン1970p79"/>。ペルシア人の登場はメディア人よりやや早いが、これをもってペルシア人のイラン高原への到来がメディア人に先行するものであると見ることはできない<ref name="ギルシュマン1970p79"/>。アッシリア人の記録を正しいものと仮定するならば、当時ペルシア人は[[オルーミーイェ湖]](ウルミヤ湖)の西から西南にかけて、メディア人はその東南(現代のイラン・[[ハマダーン州]]周辺)にいたことになる<ref name="ギルシュマン1970p79"/>。ハマダーン州の[[エクバタナ]](ハグマターナ、「集会所」の意、現在の[[ハマダーン]]市)は後のメディア王国の首都とみなされる<ref name="フィネガン1983p155"/>。ただしアッシリア人が語るパルスアやアマダイ(マダイ)は必ずしもペルシア人やメディア人という特定の集団を指すものではなく、前9世紀頃から「ペルシア人」や「メディア人」が居住していた地域そのものを指すと考えられる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="ギルシュマン1970p79"/>。 === アッシリアの支配とメディア === ティグラト・ピレセル3世の攻撃は前744年と前737年に行われ、アッシリア軍は「メディアの最も僻遠の地」にまで到達し「塩の荒野の境」と「ビクニ山の際に」までに至るメディアの諸都市の支配者たちに臣礼を取らせた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="フィネガン1983p155">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 155</ref>。彼はイラン北西部から[[歴史的シリア|シリア]]・[[フェニキア]]へと6,500人を強制移住させ、逆にシリアからは[[アラム人]]をイラン高原に移住させたとしている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="ギルシュマン1970p84">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], p. 84</ref>。そしてビート・ハンバン(''Bit Ḫamban'')とパルスア(ペルシア)をアッシリアに併合し、総督と駐屯軍を置いたという<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 前8世紀の末、アッシリア王[[サルゴン2世]](在位:前722年-前705年)は前716年に新たなアッシリアの州としてハルハルとキシェシム(''Kišesim'')を設置し、メディア西部がそれに加えられた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。これらの州はその後、カール・シャルキン(''Kar-Šarrukin'')とカール・ネルガル(''Kar-Nergal'')と改名され、メディアの支配を拡大するために強化された<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 この頃、アッシリアの北方の大国であった[[ウラルトゥ]]の王[[ルサ1世]]はアッシリア攻撃のために周辺諸部族との同盟を試みた。この時ウラルトゥに同調した王の名前としてダイウックというメディア人の名前が登場する(ただし、彼はマンナエの王国の半独立的地方的支配者として登場する<ref name="Diakonoff1985p83">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 83</ref>)。しかし前715年に始まったルサ1世によるアッシリア攻撃は失敗に終わり、ダイウックもまた捕虜となってシリアに送られた<ref name="ギルシュマン1970p85">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], p. 85</ref><ref name="Diakonoff1985p83"/>。このダイウックはヘロドトスの『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』に登場するメディアを統一した王[[デイオケス]]に相当するという見解がある<ref name="ギルシュマン1970p84"/>。もしもこの同定が正しく、ヘロドトスの見解が信頼できるとするならば、ダイウック(デイオケス)は公正な裁判によって名望を高め、メディア人諸部族の推戴を受けて初めて統一されたメディアの王となった人物である<ref name="ヘロドトス巻1§97-98">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§97-98</ref>。ヘロドトスによればデイオケスは首都エクバタナを建設して七重の城壁を張り巡らし、独裁権を確立したとされているが、アッシリアに対する敗北は記録されていない<ref name="ヘロドトス巻1§97-100">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§97-100</ref>。 新たに設置されたアッシリアの東方新属州では反乱が絶えず、サルゴン2世は前708年に再度の遠征を行ったものの、メディアに対する安定的な支配を確立することはできなかった<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。[[キンメリア人]]や[[スキタイ人]]の侵入を受けてアッシリアの北部国境が不安定化すると、アッシリア王[[エサルハドン]](在位:前681年-前669年)はこの問題に対処するべくイラン北西部地方への遠征を行い、前679年から前677年にかけて[[イシュパカイア]](''Išpakaia'')というリーダーに率いられたマンナエ人とスキタイ人を打ち破った<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。この時の遠征ではメディアも奥深くまで攻撃を受け、メディアの首長2人も家族もろともアッシリアへと連行された<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。ダイウック、あるいはデイオケスの業績をどのように評価するかどうかは別として、当時のメディア人が多くの首長を持っていたことはエサルハドンの記録によってわかる。エサルハドンによるこのメディア攻撃の直後、パルタック(''Partakku''{{refnest|group="注釈"|''Partakka''、''Paritakka''、''Paritakānu''とも。後の[[パラエタケネ]]、現在の[[イスファハーン]]近郊<ref name="Diakonoff1985p104">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 104</ref>。}})のウピス(''Uppis'')、パルトゥッカ(''Partukka''{{refnest|group="注釈"|ディアコノフは「[[パルティア]](Parthia)か?」としている<ref name="Diakonoff1985p104"/>。}})のザナサナ(''Zanasana''{{refnest|group="注釈"|古イラン語:''*Zanaxšāna'' か?<ref name="Diakonoff1985p104"/>}})、ウルカザバルヌ(''Urukazabarnu''{{refnest|group="注釈"|対応する地名は不明。間接的な情報から、他の2つの土地からある程度離れた距離にあったものと思われる<ref name="Diakonoff1985p104"/>。}})のラマタイア(''Ramataia''{{refnest|group="注釈"|古イラン語:''*Rāmatavya''<ref name="Diakonoff1985p104"/>。}})という3人のメディアの首長が隣国との戦いのためにエサルハドンに支援を求めている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。このうちラマタイアは前672年にエサルハドンが王太子[[アッシュルバニパル]]に対する忠誠の条約(いわゆるエサルハドン王位継承誓約)を臣下や属国の君主たちに結ばせた際、その調印者の一人として登場している<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 一方で同じ前672年には同盟諸国と共にアッシリアに反乱を起こしたメディア人の首長たちもいた。アッシリアの記録によればこの時反乱を起こしたのはキシェシム州(''Kišesim'')のサグバト(''Sagbat'')にある都市カール・カッシ(''Kār-kašši'')の「市長(city lord)」カシュタリティ(''Kaštariti''{{refnest|group="注釈"|古イラン語:''Xšaθrita''(フシャスリタ)<ref name="Diakonoff1985p105">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 105</ref>}})、サパルダ(''Saparda'')の支配者ドゥサンナ(''Dusanna'')、メディアの「市長」マミティアルシュ(''Mamitiaršu''{{refnest|group="注釈"|古イラン語:''Vabmyatarši''か?<ref name="Diakonoff1985p105"/>}})の3名で、特にカシュタリティが首謀者とみなされている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。この反乱は成功したものと見られ、前669年(この年エサルハドンは死亡した)の文書ではメディアはウラルトゥ、マンナエなどと共に独立した勢力として言及されている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p105"/>。アッシリア人が彼に「市長」以上の称号を付与して記録したことは無いが、カシュタリティはメディア人の統一的な政治勢力を形成した可能性がある<ref name="Diakonoff1985p105"/>。この頃のカシュタリティによるアッシリアへの攻撃はもはや略奪的な襲撃に限られず、アッシリアの要塞に対する包囲が行われるようになっていた<ref name="Diakonoff1985p105"/>。これはメディア人たちがアッシリアやウラルトゥ、あるいは[[エラム]]による訓練を受けた経験があったことを示すかもしれない<ref name="Diakonoff1985p105"/>。 同じ時期にマンナエ人もアッシリアの北方で勢力を拡大したが、アッシリア王となったアッシュルバニパルはマンナエを攻撃し制圧した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。マンナエ人はその後メディア人の勢力拡大を恐れ、アッシリアの滅亡までアッシリアの同盟国として行動した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アッシリアの記録におけるメディアについての最後の情報は前658年頃、アッシリアに背いたメディアの首長ビリシャトリ(''Birišatri'')を捕らえたというものである<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="杉1969p276">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 276</ref>。 === メディア「王国」の勃興と拡大 === [[ファイル:Rhyton media.jpg|thumb|right|メディアで発見された羊頭を象った[[リュトン]]。前7世紀後半から前6世紀初頭]] メディアの王国は前7世紀半ばまでにはエラム、ウラルトゥ、マンナエ、そしてアッシリアとも競合可能な勢力となっていた。前7世紀半ば以降、アッシリアはもはやメディアへの遠征を行わなくなっている<ref name="Diakonoff1985p110">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 110</ref>。前7世紀前半にメディアにとってアッシリアと並ぶ深刻な脅威となっていたのはウラルトゥであったが、この頃にウラルトゥの東方領土にあった主要な拠点全てが破壊と炎上に見舞われ放棄されている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。ウラルトゥ東方の拠点を破壊できるような勢力は当時メディア人しか存在しなかったため、この一連の破壊はメディア王国の拡張の証であるかもしれない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。恐らくウラルトゥの撃破に成功した後、メディア人はペルシア(パルスア、当時のペルシア人は現在のイラン、[[ファールス州]]周辺に移動していた)人の征服に取り掛かった<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。前640年代、アッシリアによるエラム遠征が行われ、当時エラムの[[アンシャン]]を支配していたペルシア人の王[[キュロス1世|クル1世]]は、アッシリア王アッシュルバニパルに貢納を行い人質として息子をアッシリアに差し出していた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。メディア人によるペルシア攻撃はこの直後頃に始められたと見られる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 こうしたメディア王国の勃興・拡大の時期はアッシリアの記録による言及が途絶え、メディア人自身による記録もないために、その歴史を同時代史料によって復元することはできなくなっている<ref name="Diakonoff1985p110"/>。当時について証言する史料はギリシアの著作家たち、取り分け完全な形で残されている[[ヘロドトス]]の『歴史』(前5世紀)と、[[クテシアス]]の散逸した歴史書『[[ペルシア史]]』の断片や抄録が中心となる<ref name="Diakonoff1985p110"/>。しかしながらヘロドトスもクテシアスも空想的な説話の採用、物語的な語り口が後世批判された人物であり、また両者のメディア史についての記述は多くの点で(王名すらも)一致しない。それでもヘロドトスの方の記録はある程度の信頼性を認められているが、彼の情報源がメディア王国の勃興から2、300年後の伝承にのみ基づいている点には常に留意する必要がある<ref name="Diakonoff1985p110"/>。 ヘロドトスの記録では、ペルシアの征服という業績は初代王であるデイオケスの息子[[フラオルテス]]に帰せられている<ref name="ヘロドトス巻1§102">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§102</ref>。このフラオルテスはメディア人の「市長」カシュタリティ(フシャスリタ)に対応するかもしれない<ref name="Diakonoff1985p106">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 106</ref><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。既に述べたようにカシュタリティはアッシリアに対する反乱を成功させており、恐らくは独立したメディア人の「王国」を形成することに成功した人物である<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p114">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 114</ref>。しかしメディアの一部はなおアッシリアの支配下に残されており、カシュタリティ(フラオルテス)によって率いられた独立したメディアの領域は正確にはわからない。特に東側と南側においてどこまで広がっていたのかは、ヘロドトスの語る内容の事実性を含め全く知る術がない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p114"/>。少なくともアッシュルバニパルの即位前に書かれた忠誠の誓約(エサルハドン王位継承誓約文書)において元来メディアの王国はペルシアはおろかメディア全体を含んでいなかったことが示されている<ref name="Diakonoff1985p115">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 115</ref>。 とはいえ、前8世紀以来メディアに割拠していた独立的な小勢力は、前615年頃までにはその多くが「王国」に統合され、その支配者たちは宮廷の「貴族」となっていったであろう<ref name="Diakonoff1985p114"/>。ヘロドトスは建国者デイオケスが元来同等者であった他の貴族に対して自分が卓越した存在であることを認識させようと策を巡らしたことを記しているが<ref name="ヘロドトス巻1§99">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§99</ref>、ディアコノフはこの説話をメディアの王とかつて同格であった君主たちが、王に依存する「貴族」へと変質していく過程を写したものとして参照している<ref name="Diakonoff1985p114"/>。 === アッシリアの内戦とスキタイ人 === 前652年、アッシリア支配下における[[バビロン]]([[バビロニア]])の王であった[[シャマシュ・シュム・ウキン]]がアッシリア王アッシュルバニパルに対して反乱を起こした(両者は兄弟であった)。この反乱においてシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア周辺の諸勢力を味方に引き入れてアッシュルバニパルに対抗しようとした。アッシュルバニパルは後にシャマシュ・シュム・ウキンに与した勢力として3つのグループを挙げている。第一に[[アッカド人]]・[[カルデア人]]・[[アラム人]](即ちバビロニアの住民)、第二に[[エラム|エラム人]]、そして第三に[[アムル人]]・[[メルッハ]]・[[グティ人]]である<ref name="Diakonoff1985p117">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 117</ref>。当時既にアムル人やメルッハ、グティ人は遠い過去の存在であり、この呼称は[[中世ヨーロッパ]]において[[フランス]]を[[ローマ帝国]]時代の呼称で[[ガリア]]と呼んだような<ref name="Diakonoff1985p117"/>、あるいは[[ビザンツ帝国]]が周辺の異民族を[[フン族]]やスキタイ人という古い呼称で呼び続けたのと同じような、一種の文学的な表現である<ref name="Diakonoff1985p117"/>。「アムル人」は[[歴史的シリア|シリア]]・[[パレスチナ]]地方の人々、「メルッハ」はアフリカを、そして「グティ人」はアッシリアから見て東方の山岳地帯の住民を指したと見られる<ref name="Diakonoff1985p117"/>。当時アッシリアの東方に未だ存在していた勢力はメディアのみであったため、この「グティ人」をメディア人と理解することができるであろう<ref name="Diakonoff1985p117"/>。 アッシュルバニパルは前648年にシャマシュ・シュム・ウキンを打倒した。この反乱におけるシャマシュ・シュム・ウキンの破滅はアッシュルバニパルの年代記において詳細に記録されているが、「グティ人」(メディア人)については彼に与したこと以外言及がない<ref name="Diakonoff1985p117"/>。これはシャマシュ・シュム・ウキンの反乱におけるメディア人との戦いはアッシリアが直接従事したのではなく、[[スキタイ人]]の手によったためであるかもしれない<ref name="Diakonoff1985p117"/>。この推測はヘロドトスの記録から導き出せる。ヘロドトスはメディア王フラオルテスが「同盟国が離反して孤立していた」アッシリアを攻撃したものの戦死したこと、さらにその息子[[キュアクサレス2世|キュアクサレス]]が父親の仇を討つため、アッシリアの首都[[ニネヴェ]](ニノス)を包囲した際、スキタイ人の王{{仮リンク|マデュエス|en|Madius}}の攻撃を受け敗れたことを伝えている<ref name="ヘロドトス巻1§102_104">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§102-104</ref><ref name="Diakonoff1985p117"/>。アッシリアとの戦いにおいてメディア軍が打ち破られ、メディアの王が戦死していれば、それがアッシリアの年代記で言及されないことは想定し難く、フラオルテスの死後、メディア人がニネヴェを包囲している最中にスキタイ人の攻撃を受けたというヘロドトスの伝える時系列は誤りである可能性が高い。しかし、基本的な事実についてヘロドトスの記述に従うならば、フラオルテスの死とスキタイ人の侵入の間の時間的隔たりは大きくはなく、同時代の出来事であることは明らかである<ref name="Diakonoff1985p118"/>。 この時、スキタイ人は小アジアとトランスコーカサス地方に覇権を打ち立て、その後間もなくウラルトゥとマンナエもその影響下に置いたが、ウラルトゥやマンナエと共に、メディアの王国もスキタイ人の覇権の下で存続した<ref name="Diakonoff1985p118">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 118</ref>。スキタイ人の支配は恐らく略奪と貢納品の取り立てに終始しており、組織的な国家体系を構築することはなかった<ref name="Diakonoff1985p118"/>。ヘロドトスによれば、スキタイ人によるメディア人の支配は28年間続いたが、キュアクサレスの計略によってスキタイ人を打倒し独立を取り戻すことに成功したという<ref name="ヘロドトス巻1§106">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§106</ref><ref name="Diakonoff1985p118"/><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 === アッシリアの滅亡とメディア「王国」 === [[画像:Median Empire.jpg|300px|サムネイル|メディア王国(黄色) 紀元前600年ごろの版図を示したもの。首都エクバタナ(現在の[[ハマダーン州]]ハマダーン)は地図中央、[[ティグリス川]]・[[ユーフラテス川]]河口と[[カスピ海]]のほぼ中間の位置に建設された]] 前626年頃、アッシリア支配下のバビロニアでカルデア人[[ナボポラッサル]](ナブー・アパル・ウツル)が反乱を起こし、前616年までにバビロニアを完全に制圧して独立勢力を築くことに成功した([[新バビロニア]])<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p119">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 119</ref>。ナボポラッサルの反乱で弱体化したアッシリアに対し、メディアもまた攻撃をかけた。前615年11月、キュアクサレスの指揮の下、メディアはアッシリアの属領であった[[アラプハ]](現:[[イラク]]領[[キルクーク]])に侵攻し、アッシリアの同盟国であったマンナエも征服した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p122">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 122</ref>。前614年にはアッシリアの首都[[ニネヴェ]]近郊の[[タルビス]]を占領し、ニネヴェ自体も包囲したがこの都市の占領には失敗した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。同年、メディアはアッシリアの古都であり「宗教」とイデオロギーの中心であった[[アッシュル]]市を占領した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アッシュル市をメディア軍が占領した後、ナボポラッサル率いるバビロニア軍もアッシュル市に到着した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。なお、彼も前年春にアッシュル市の城壁にまで迫っていたが、この都市を占領することはできなかった<ref name="Diakonoff1985p122"/>。このためアッシュル攻略自体にはバビロニア軍は直接関与していない。この地でキュアクサレスとナボポラッサルは「互い平和と友好を約した」<ref name="Diakonoff1985p123">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 123</ref>。ここでキュアクサレスの孫([[アステュアゲス]]の娘)[[アミティス]](''Amytis'')とナボポラッサルの息子[[ネブカドネザル2世|ネブカドネザル]](2世、ナブー・クドゥリ・ウツル)の結婚も恐らく決定され、両国の外交関係の強化が図られた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p123"/>。 前613年、ナボポラッサルに対する反乱が{{仮リンク|スフム|label=スフ|en|Suhum}}(''Suhu'')で発生し、たちまちバビロニア全域に広がった。メディアとの同盟関係はナボポラッサルがこの危機を乗り切る上で大きな役割を果たした<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。翌、前612年にメディアとバビロニアの連合軍はニネヴェの城壁に到達し、この都市を攻略して事実上アッシリアを滅亡させた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Diakonoff1985p123"/><ref name="杉1969p277">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 277</ref>。公式な意味での最後のアッシリア王[[シン・シャル・イシュクン]]は一般にこの戦いで死亡したと考えられている。この攻略はメディアが中心的な役割を果たし、多くの戦利品を獲得した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アッシリアの残党は西方の[[ハッラーン]]に集結し、[[アッシュル・ウバリト2世]]の下でなお事態の挽回を図ったが、ここでの戦いにメディアが関与したかどうかは史料上明らかではない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 アッシリアの旧領土はメディアと新バビロニアによって分割された。両国の境界がどこにあったのかは議論があり、近年までアッシリア滅亡後のメディアはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)のティグリス川東岸とハッラーン地域を制圧していたという見解が一般的であった<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。この見解は現在再検討されており、アッシリアの中核地帯とハッラーンは前609年以来新バビロニアの支配下にあったと考えられている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。いずれにせよ、国境を巡るメディアと新バビロニアの間の直接的な争いは記録されていないが<ref name="Diakonoff1985p125">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 125</ref>、両国の関係はアッシリア滅亡後明らかに悪化しており、メディアと新バビロニアそれぞれの反乱分子は状況が悪化すると互いの国へと亡命するようになった<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 また、『旧約聖書』「[[エレミヤ書]]」の記載からはアッシリア滅亡後、ウラルトゥ、マンナエの地、スキタイの王国がメディアの支配下にあったこと、そして総督と共になおも複数の「メディアの王」がいたことが読み取れる<ref name="Diakonoff1985p125">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 125</ref>。ヘロドトスはメディア王国の構造を「メディア支配の時代には、諸民族が互いに支配し合ってもいた。メディア人が全体の支配者ではあるが、直接には彼らの最も近くに住む民族だけを支配するのであって、この民族がその隣りの民族を、そしてまたこの民族がその隣接民族を支配するといったやり方であった<ref name="ヘロドトス巻1§134">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§134</ref>。」と述べており、これが複数の「メディアの王」の実態であるかもしれない<ref name="Diakonoff1985p125"/>。 明確な境界や支配の実態は明らかでないにせよ、アッシリア滅亡後のオリエント世界には4つの大国が残されることになったとされている。直接アッシリアを滅ぼしたメディアと新バビロニア、そして一時アッシリアに支配されていたものの独立を回復した[[エジプト第26王朝|エジプト]]、[[アナトリア]]西方の[[リュディア]]がそれにあたる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="杉1969p273">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 273</ref>。キュアクサレスはその後さらに勢力を拡張しようと試み、リュディアを攻撃したものと考えられる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。メディアとリュディアの戦争は5年間続いたが決着がつかず、[[クズルウルマク川|ハリュス川]]での戦闘([[日食の戦い]])中、[[日食]]が発生したことで両軍が恐れおののいたことで和平の機運が高まったという。そしてバビロニアと[[キリキア]]の仲介で、同川を国境としキュアクサレスの息子[[アステュアゲス]]とリュディア王[[アリュアッテス]]の娘アリュエニスの婚姻が決定され、講和を結んだとされる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="杉1969p283">[[#杉 1969|杉 1969]], p. 283</ref><ref name="ヘロドトス巻1§74">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§74</ref>。これが事実とすれば、この日食は前585年5月の出来事である<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="杉1969p283"/>{{refnest|group="注釈"|日食の発生はEncyclopedia Iranicaによれば前585年5月29日<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>、杉 1969によれば前585年5月26日である<ref name="杉1969p283"/>。}}。 メディアの勢力は東方でも拡大した。東方におけるメディアの勢力拡大はギリシア人の著作家の間接的な証言によってのみ知ることができる。メディアについて言及するほぼ全てのギリシア人の歴史家が、メディアの勢力がメディアの遥か向こう側(東側)まで広がっていたことを証言している<ref name="Diakonoff1985p127">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 127</ref>。ただし、征服がいつ行われたのか、それを実施したのはどの王であったのかなど、確実なことはわからない。ヘロドトスによれば、後にペルシア([[アンシャン]])の王[[キュロス2世]]がメディアに反旗を翻した時、中央アジアの遊牧民[[マッサゲタイ]]と[[バクトリア]]の制圧を必要としたことから、これらの地域までメディアの勢力が及んでいたと見られる<ref name="Diakonoff1985p127"/>。当然のことながら、これはバクトリアなどとメディアとの間にある地域、[[ヒュルカニア]]、[[パルティア]]、[[アレイア]]もメディアの支配下にあったことを示すであろう<ref name="Diakonoff1985p127"/>。[[アルメニア]]もまたメディアの下にあったと見られる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 === メディアの滅亡とハカーマニシュ朝 === [[ファイル:Persepolis Apadana noerdliche Treppe Detail.jpg|thumb|right|[[ペルセポリス]]の浮彫に描かれた[[ペルシア人]]兵士(右)とメディア人兵士(左)。前5世紀。]] 前585年にキュアクサレスは死亡し、その息子アステュアゲスが王位を継いだ<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アステュアゲスの長い治世はメディア支配下にあったペルシア([[アンシャン]])の王[[キュロス2世]](クル2世)の反乱と関連付けて記憶されている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。メディアに対するペルシアの反乱については主にヘロドトス、バビロニアの年代記、バビロニア王[[ナボニドゥス]]の夢文書(Dream Text)という3つの史料に記録が残されている。これらは相互の情報に整合性がない場合もあるが、大筋においては合致する<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="山本1997ap108">[[#山本 1997a|山本 1997a]], p. 108</ref>)。 ヘロドトスの記録は明らかにメディアの口承伝承に基づいており<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>、あらすじは以下のようなものである。メディアの王アステュアゲスは娘の[[マンダネ]]が放尿して町中に溢れ、アジア全土に氾濫するという夢を見た<ref name="ヘロドトス巻1§107">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§107</ref>。夢占いの係からこれがマンダネの産む子供がアステュアゲスに代わって王となるという不吉な夢であることを確認したアステュアゲスは、マンダネをメディア人の有力者と結婚させることを避け、彼女が年頃になると[[カンビュセス1世|カンビュセス]](カンブージャ)という名前のペルシア人と結婚させた<ref name="ヘロドトス巻1§107"/>。ところが、結婚の後にもマンダネの陰部からブドウの樹が生え、アジア全土を覆うという夢を見たため、妊娠中だったマンダネを呼び戻し厳重な監視下に置いた<ref name="ヘロドトス巻1§108">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§108</ref>。やがてマンダネが息子[[キュロス1世|キュロス]](クル)を生むと、アステュアゲスはこの赤ん坊の殺害を配下の[[メディアのハルパゴス|ハルパゴス]]に命じたが、ハルパゴスは自らの立場を危ぶんで実行をたらい回しにし、紆余曲折の末キュロスは牛飼いの夫婦の下で育つことになった<ref name="ヘロドトス巻1§113">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§113</ref>。牛飼いの夫婦には死産した子供がおり、この子供とキュロスを入れ替えて追及をごまかした<ref name="ヘロドトス巻1§113"/>。やがてキュロスが成長して死んだはずのマンダネの息子であることが発覚すると、アステュアゲスはハルパゴスが命令を実行しなかったことに怒り、ハルパゴスの息子を殺害してその肉をハルパゴスに食べさせ<ref name="ヘロドトス巻1§119">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§119</ref>、キュロスの方は体裁を取り繕って彼をペルシアのカンビュセス1世の下に送り出した<ref name="ヘロドトス巻1§120_121">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§120-121</ref>。やがてキュロスが長じて才覚を見せると、ハルパゴスはキュロスに取り入ってアステュアゲスに復讐しようと、メディアにおける反乱をお膳立てし、ハルパゴスから反逆を促されたキュロスは元々メディア人の支配を快く思ってなかったペルシア人の支持を得て反乱に踏み切った<ref name="ヘロドトス巻1§125_126">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§125-126</ref>。メディア軍の多くが戦闘中に寝返り、キュロス率いるペルシア軍はメディア軍を大いに破った。2度の戦いの後、アステュアゲスは捕らえられメディア王国は滅亡した<ref name="ヘロドトス巻1§127_130">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§127-130</ref>。キュロスはその後、全アジアを征服した([[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]]/アケメネス朝)<ref name="ヘロドトス巻1§131">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§131</ref><ref name="山本1997bp118 ">[[#山本 1997b|山本 1997b]], p. 118</ref>。 この物語に反し、バビロニアの記録はキュロスがメディア王アステュアゲスの孫であるとは述べておらず、またキュロスがメディア王の臣下であったともしていない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。キュロスは単に「[[アンシャン]](アンザン)の王」と呼ばれており、アステュアゲスはイシュトゥメグ(''Ištumegu'')と言う名前で「ウンマン=マンダ(''Umman-manda''、メディア)の王」と呼ばれている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。メディア軍が「アンシャンの王」キュロスと戦ったことは、新バビロニアの王[[ナボニドゥス]]の年代記(B.M.353782)にも記述があり、それによればナボニドゥス治世6年にメディア王アステュアゲス(イシュトゥメグ)が軍を招集しアンシャンに向けて行軍したが、軍隊が反乱を起こしてアステュアゲスを捕らえキュロスに引き渡した<ref name="フィネガン1983p157">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 157</ref><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。その後キュロスはアガムタヌ(''Agamtanu''、エクバタナ)まで進み、銀、金、その他の戦利品を獲得したという<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。キュロスの出生にまつわるヘロドトスの情報を確かめる術はないが、バビロニアの年代記の記録とヘロドトスの記録はその経過について概ね整合的である<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。アンシャンの王キュロスは、いわゆる[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)の建国者とされる[[キュロス2世]](クル2世)にあたる。彼がメディア王国を征服したのは前550年のことと見られ、メディアの旧領土はハカーマニシュ朝の支配に組み込まれた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。この王朝はペルシア帝国とも呼ばれる。 独立したメディアの歴史叙述は通常ここで終了するが、しかしメディア王国の枠組み自体が完全に解体されたわけではないと考えられる。メディアはハカーマニシュ朝において特権的地位を維持し、メディアの首都エクバタナはハカーマニシュ朝の夏宮が置かれ、この州はペルシアに次ぐ第二の地位を占めていた<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。さらにハカーマニシュ朝が[[バビロニア]]を征服した際、その地に赴任した総督は、ナボニドゥスの年代記でグティ人と呼ばれていることからメディア人であった可能性があり、その他のバビロニアの文書からも、数多くのメディア人がハカーマニシュ朝の重要な官吏、将軍、王宮の兵士として仕えていたことがわかる<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。ギリシア人や[[ユダヤ人]]、[[エジプト人]]たちはしばしばハカーマニシュ朝の支配をメディアの支配の継続とみなし、ペルシア人を「メディア人」とも呼んだ<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。こうして、メディア人はハカーマニシュ朝の歴史に大きな影響を残しつつ、ペルシア人と同化していった。 [[File:Mare Erithrean.jpg|thumb|Mare Erithrean. Medes ]] [[File:Historical Atlas of Iran - Plate No. 04.jpg|thumb|Historical Atlas of Iran -Medes ]] == メディア「王国」の実在性の問題 == 「メディア人」の部族、またそれらを束ねる首長らが存在したことはアッシリアやバビロニアの史料から明瞭であるが、近年ではハカーマニシュ朝の前身としてのメディア「王国」の存在については懐疑的な見解が有力である。これは、デイオケスによって建国されイラン高原およびその東西の広大な範囲を支配した統一国家メディア「王国」はヘロドトスをはじめとした古代ギリシア人の著作家の記録にのみ登場し、非ギリシア史料や考古資料にその痕跡が一切存在しないことによる<ref name="阿部2021p40">[[#阿部 2021|阿倍 2021]], p. 40</ref>。実際、アッシリアの記録に登場するメディア人たちは要塞化された居住地を束ねる複数の首長らからなり、統一的な王の存在は同時代史料からは全く見出されない<ref name="阿部2021p40"/>。これらのことから、メディア王国とは古代ギリシア人の想像の産物に過ぎず、その実態はイラン系遊牧民の部族連合のようなものであったとする見解もある<ref name="阿部2021p41">[[#阿部 2021|阿倍 2021]], p. 41</ref>。 この見解がどの程度の妥当性を持つかは議論があるが、メディア「王国」の史実性・実在性について証明可能な史料は存在しない。そのため、ハカーマニシュ朝の前史として描かれ、その制度と領土がハカーマニシュ朝に引き継がれ大きな影響を与えたとされるメディア「王国」についての一般的な説明は見直しを迫られている<ref name="阿部2021p41"/>。 == 部族 == ギリシアの歴史家[[ヘロドトス]]はデイオケスが統一したメディア人には複数の部族があるということを記録に残している<ref name="ヘロドトス巻1§101">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§101</ref>。そして具体的に以下の6つの部族を挙げている。 * ブサイ (''Busae'') * パレタケノイ (''Paraetaceni'') * ストルカテス (''Stru­khat'') * アリザントイ (''Arizanti'') * ブディオイ (''Budii'') * マゴイ(''Magoi'') しかしこれらの部族の大部分について、アッカド語史料との対応を証明することは不可能である<ref name="Diakonoff1985p74">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 74</ref>。アリザントイは「東のアリビ(Aribi)」と呼ばれる遊牧民に相当するかもしれない<ref name="Diakonoff1985p75">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 75</ref>{{refnest|group="注釈"|ディアコノフは一応(tentatively)アリビという名称は[[エラム語]]の''*ari-pe''(the Arya)から来たものとしている<ref name="Diakonoff1985p75"/>。}}。パレタケノイはアッシリアの史料にパルタッカ(''Partakka'')、パリタカ(''Paritaka'')、パリタカーヌ(''Paritakānu'')という名前で前7世紀から言及されるようになっている<ref name="Diakonoff1985p75"/>。メディアの諸部族の中でアリザントイ(Arizanti、''*arya-zantu''、「アーリヤ人の血統に連なる」)だけが明確なイラン系言語の名称を持っているが、現代の学者はメディアの諸部族についてほとんど何の情報も持ち合わせていない<ref name="Diakonoff1985p75"/><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。それぞれの部族がどの地方に居住していたのかも多くの場合不明である<ref name="Diakonoff1985p75"/>。パレタケノイは明らかに現在の[[イスファハーン]]近郊のあたりに暮らし、アリザントイはメディアの砂漠地帯(現在の[[カーシャーン]]南東?)で遊牧生活を送っていたと見られる<ref name="Diakonoff1985p75"/>。マゴイは後にイランの祭司階級として確立されるマグ(''Magu'')と関係があるとされ、メディア人のみならずペルシア人のためにも祭司を務めたとされる<ref name="ボイス2010p107">[[#ボイス 2010|ボイス 2010]], p. 107</ref><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。この語は[[ラテン語]]形のマグス(''Magus'')の複数形[[マギ]](''Magi'')という名称で現代でも良く知られている<ref name="ボイス2010p107"/>。 == 言語 == メディア人たちが話した言語は[[メディア語]]と呼ばれ、[[インド・ヨーロッパ語族]]・[[インド・イラン語派]]に分類されている<ref name="黒柳1984pp28_29">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], pp. 28-29</ref>。メディア語はその中でも[[西イラン語]]の[[西北イラン語]]に分類される<ref name="黒柳1984p53">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], p. 53</ref><ref name="伊藤1974pix">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. ix まえがき</ref>。メディア語で書かれた文書は一切存在しないため、この言語について知られていることは極わずかであるが<ref name="黒柳1984p33">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], p. 33</ref>、[[ローマ帝国]]時代のギリシア人地理学者[[ストラボン]]は、メディア語が[[サカ・スキタイ語]]および[[古代ペルシア語]]と良く似ていたことを証言している<ref name="黒柳1984p34">[[#黒柳 1984|黒柳 1984]], p. 34</ref>。 史料が極僅かとは言え、メディア語と呼ぶことが可能な言語が実際に存在したことはヘロドトスの記録や古代ペルシア語に見られるメディア語からの借用語の存在によって疑いない<ref name="黒柳1984p33"/>。ハカーマニシュ朝期に作られた古代ペルシア語の碑文では特に行政・司法・軍事に関わる用語にメディア語形を取る用語が散見される<ref name="伊藤1974p54">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. 54</ref>。[[日本]]の学者[[伊藤義教]]によればメディア語から古代ペルシア語への借用語と予想される用語には具体的に以下のようなものが挙げられる。 * ''Xšaθrapā-'':フシャスラパー、クシャスラパー。「王国を守る者」、「知事」「総督」の意。古代ペルシア語形では''Xšassapāvan-''という形を取る。[[古代ギリシア語|ギリシア語]]には''satrapēs''(サトラペス)という形で借用され、それが転訛した[[サトラップ]]という用語は現代でも使用される。他にエクサトラペス、サドラパスなどの形でも借用されている。アッカド語ではアクシャダラパンヌ、[[サンスクリット]]ではクシャトラパ、チャトラパという形で借用されているが、これらは全てメディア語形から借用されている<ref name="伊藤1974p54"/>。 * ''*paridaiza-'':パリダイザ、原義は「まわりに(pari-)積み上げたもの(daiza-)をもつもの」であり、転じて周壁を備えた遊園を指すようになった。ハカーマニシュ朝におけるこの施設は非常に有名であり、ギリシア語''parádaisos''を経て[[英語]]の''paradise''(パラダイス、楽園)の語源ともなった。古代ペルシア語形では''paridaida-''(パリダイダ)となる<ref name="伊藤1974p173">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. 173</ref>。 * ''xšāyaθiya-'':フシャーヤシヤ、クシャーヤシヤ。「王」の意。古代ペルシア語形では''xšāyašiya-''となると伊藤は予測している<ref name="伊藤1974p173"/>。 * ''pati-zbay-'':「布告する」<ref name="伊藤1974p173"/> * ''ganza-bara-'':「財務官」<ref name="伊藤1974p174">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], p. 174</ref> * ''zūra-kara-'':「行詐者」<ref name="伊藤1974p174"/> * ''spāda'':「軍隊」<ref name="伊藤1974p174"/> このような行政・司法・軍事に関わるメディア語の用語が多数古代ペルシア語に借用されていることは、ハカーマニシュ朝がメディア王国の国家機構から大きな影響を受けた、あるいはそれを引き継いでいたことを示唆するであろう<ref name="伊藤1974p54"/>。 その他人名や地名、上に述べたような行政用語や宗教と関わる[[固有名詞]]の情報が残されているが、[[普通名詞]]は極僅かしか残されていない<ref name="黒柳1984p33"/>。以下に提示した単語は[[黒柳恒男]]が著書の中で例示したものに依る。 * ''spaka'':「イヌ」 * ''tigris'':「矢」 * ''tetaros'':「キジ」 == 考古学 == {{Location map+|Iran|width=250|float=left|caption={{Center|メディアの三角形}}|places= {{Location map~|Iran|lat=34.48|long=48.31|label=ハマダーン|label_size=80|position=top|mark=Green pog.svg}} {{Location map~|Iran|lat=34.17|long=48.49|label=マラーイェル|label_size=80|position=right|mark=Green pog.svg}} {{Location map~|Iran|lat=34.30|long=47.57|label=カンガーヴァル|label_size=80|position=left|mark=Green pog.svg}} }} インド・ヨーロッパ語を話す人々(イラン人)の居住は前2千年紀には確立していたと推定され、その中にはペルシア人と共にメディア人もいたであろう<ref name="Stronach1986">[[#Stronach 1986|Stronach 1986]]</ref>。しかし、メディア人を含むイラン人の存在を考古学的に識別する手段は見出されておらず、前9世紀にアッシリア人による記録が現れるまでイラン人の定着の過程を具体的に描き出すことはできない<ref name="Stronach1986"/><ref name="ギルシュマン1970p66">[[#ギルシュマン 1970|ギルシュマン 1970]], p. 66</ref>。文書史料に登場するようになった後、メディア王国が統合されたとされる時代に入ってからでさえも、特定の遺跡をメディア王国と確実に結びつけることができない<ref name="Stronach1986"/>。基本的に鉄器時代3期(the Iron III period、前800年頃-前550年頃)のイラン西部におけるメディアの物質文化の痕跡はメディアの首都エクバタナ(ハマダーン)の周辺に集中するはずである<ref name="Stronach1986"/>。 この時代についてのイラン西部における考古学的調査は1960年代に入ってから始まった。メディアの痕跡探しは「メディアの三角形(Median triangle)」に集中して実施されている。この三角地帯はハマダーン、{{仮リンク|マラーイェル|en|Malayer}}([[ハマダーン州]])、{{仮リンク|カンガーヴァル|en|Kangavar}}([[ケルマーンシャー州]])を結ぶ線に区切られた地域として定義されている<ref name="Stronach1986"/>。 エクバタナ(ハマダーン)そのものへのメディア人の定住に関してはほとんどわかっていない<ref name="Stronach1986"/>。 1965年からのT・C・ヤング・ジュニア(T. C. Young, Jr)による発掘でカンガーヴァルの13キロメートル東にあるゴディーン・テペ(''Godīn Tepe'')では青銅器時代の居住の後、500年程の間隔をあけて鉄器時代3期の始まり頃に再定住が行われたことがわかっている。ここでは1つの建物の一部であると推定される一連の記念碑的な泥レンガ製の建造物が発見されており、地元の支配者の建造物と見られる<ref name="Stronach1986"/>。北東端には向かい合う6つの納戸からなる建造物が見つかっている。それぞれが恐らくアーチ状の天井を持っていた<ref name="Stronach1986"/>。 [[ファイル:Ecbatane - excavated house.jpg|thumb|upright=1|イラン、ハマダーンの古代エクバタナにおける発掘。]] マラーイェルの西14キロメートルの地点には{{仮リンク|テペ・ヌシ=イ・ジャン|en|Noushijan Tappe}}遺跡が見つかっている。これはコンパクトな遺跡であるが、少なくとも部分的には宗教的な役割を果たしていたと見られる<ref name="Stronach1986"/>。この遺跡には中央神殿(the central temple)、西神殿(the western temple)、砦(the fort)、列柱ホール(the columned hall)と名付けられた4つの主要建造物があり、恐らくこの順番に建設された<ref name="Stronach1986"/>。この遺跡は前6世紀前半に何者かによって占領されたが、これらの建造物はこの占領が行われる前の者である可能性が高い<ref name="Stronach1986"/>。この遺跡のメディア時代の層から発見された土器類は前7世紀後半にメディアがハマダーン近辺で勢力を強めた瞬間と関連しているように思われる<ref name="Stronach1986"/>。またこの遺跡とその周辺では当時の自然環境についての手掛かりも発見されている。マラーイェルの平野では[[オオムギ]]、[[エンマーコムギ]]、[[パンコムギ]]、[[エンドウマメ]]、[[レンズマメ]]、[[ブドウ]]などの作物が作られており、また豊富な森林が残されていたため狩猟も行われていた。畜産も重要であったと見られ、ヌシ・イ・ジャンでは9種類の動物骨が発見されており、その中で最も一般的なものは[[ヒツジ]]、[[ヤギ]]、[[ブタ]]、[[ウシ]]であった。[[ウマ]]の飼育もまた既に重要な役割を果たしていた<ref name="Stronach1986"/>。 == 歴代王 == [[ヘロドトス]]が伝えるメディアの王は4名であり、同一の家系に属する<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 * [[デイオケス]]:在位53年間<ref name="ヘロドトス巻1§102"/>。 * [[フラオルテス]]:在位22年間<ref name="ヘロドトス巻1§102"/>。 * [[キュアクサレス2世|キュアクサレス]]:在位40年間<ref name="ヘロドトス巻1§106"/>。 * [[アステュアゲス]]:在位35年間<ref name="ヘロドトス巻1§130">[[#ヘロドトス 1971|ヘロドトス]], 巻1§130</ref>。前550年にキュロス2世によって倒される これら4人の王のうち、アッシリアとバビロニアの楔形文字史料に登場する人物と対応が取れているのはキュアクサレス(古イラン語:ウワフシュトラ / *''hUvaxštra''<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>、[[アッカド語|バビロニア語]]:ウマキシュタル /''Umakištar'')とアステュアゲス(古イラン語:アルシュティ・ワイガ?<ref name="山本1997ap110">[[#山本 1997a|山本 1997a]], p. 110</ref> / *''Ṛšti-vaiga''、バビロニア語:イシュトゥメグ / ''Ištumegu'')の2人である<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。一応、編年の起点となる前550年からヘロドトスの記載に従って各王の絶対編年を割り出す試みがいくつか存在するが、ヘロドトスの記録をそのまま使用した場合、既に確立されている古代オリエントの政治史と整合が取れないため、それを調整する複数の説が出されている<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。それぞれの説についてはエンサイクロペディア・イラニカを参照されたい<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 デイオケスとフラオルテスについては現在のところ楔形文字史料に登場する人物と対応について確実な説は存在しない。 デイオケスはしばしば前8世紀末にウラルトゥとの戦いについてのアッシリアの記録に登場するダイウック(''Daiaukku'')という人物と同定され、フランスの学者ロマン・ギルシュマンは「このダイウックこそ、ギリシアの歴史家ヘロドトスがメディア王国の建設者と考えたデイオケスにほかならない」と述べる<ref name="ギルシュマン1970p85"/>。しかしヘロドトスの記録にあるデイオケスがメディア人を統一し王国を建設した人物であるのに対し、ダイウックはマンナエの下の地方的な支配者として登場し、前715年にはアッシリア王サルゴン2世に捕らえられて家族もろともシリアへ送られており、ヘロドトスの語る人物像とは一致しない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Schmitt1994">[[#Schmitt 1994|Schmitt 1994]]</ref>。故にデイオケスとダイウックの同定は、現在のところ明確にそれを証明するような真の根拠はなく、あくまでも仮説に過ぎない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Schmitt1994"/>。あるいは、デイオケスという人名とダイウックという人名は確かに同一の起源(古イラン語:*''Dahyu-ka-''?)を持っていたが、ヘロドトスと楔形文字史料に登場するデイオケスとダイウックは同名の別人であるという解釈も可能である<ref name="Diakonoff1985p90">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 90</ref><ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/><ref name="Schmitt1994"/>。 楔形文字史料において恐らくはメディアに実質的な王国を構築した人物であると想定可能なカシュタリティという王(アッシリア人の記録では市長であるが)についても、編年上の仮説と、後世の[[ベヒストゥン碑文]]を参考にフラオルテスと同一人物であるとする説がある<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。前6世紀にハカーマニシュ朝の王[[ダレイオス1世|ダーラヤワウ1世]](ダレイオス1世)が残したベヒストゥン碑文には、メディアにおける反乱への言及があり、次のような一節がある。 {{quote|quote=王ダーラヤワウは告げる、フラワルティ(フラオルテス<ref group="注釈">伊藤の訳文ではプラオルテス。記事内の表記を一定とするためここではフラオルテスに変更している。</ref>)というひとりのマーダ(メディア)人 ― かれがマーダに擡頭した。かれは民にこう宣言した「余はウワフシュトラ<ref group="注釈">伊藤の訳文ではウワクシュトラ。記事内の表記を一定とするためここではウワフシュトラに変更している。</ref>(キュアクサレス)の一門のもの、フシャスリタ<ref group="注釈">''Xšaθrita''、伊藤の訳文ではクシャスリタ。記事内の表記を一定とするためここではフシャスリタに変更している。</ref>である」と。すると、王宮にいたマーダ(メディア)の軍 ― それは余から離反しそのフラワルティになびいた。かれはマーダ(メディア)の王となった<ref name="伊藤1974pp29_30">[[#伊藤 1974|伊藤 1974]], pp. 29-30</ref>。|author=|title=|source=ベヒストゥン碑文}} アメリカの学者、ジョージ・G・キャメロン(George G. Cameron)はこの記述を参考に、「カシュタリティ=フシャスリタ」はキュアクサレスの父親であるフラオルテスの即位名であるという結論を出した<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。ディアコノフもベヒストゥン碑文を参照し、ヘロドトスの記録は彼への情報提供者の記憶に由来する誤りであるとして次のように述べている。 {{quote|quote=ヘロドトスによって言及されているメディア王「フラオルテス」はイラン語のフラワルティ(*''Frawarti-'')のギリシア語転訛形である。ダレイオス1世のベヒストゥン碑文ではメディアの僭称者は自分自身の名をキュアクサレス一門のフシャスリタ(''Xšaθrita'')としている。キュアクサレスを創設者とする王朝の王名(または綽名)にフラオルテス=フラワルティが含まれていれば、これは王家の伝統的な名前であるはずで、この僭称者は自分の名前を変更する必要はなかったであろう。明らかにメディア王の系譜の中にフラワルティ(フラオルテス)という王はおらず、しかしフシャスリタという王はいた。ペルシアの僭称者がバルディヤの名を騙り、バビロニアの僭称者がネブカドネザルという名前(両者ともかつての王の名前)を名乗ったようにメディアの僭称者はフシャスリタの名を名乗った。ヘロドトスへの情報提供者の記憶の中では、フラワルティ(フラオルテス)とフシャスリタという名前は密接に結びついていたと思われ、そのために情報提供者は彼らを混同し、(ヘロドトスに対する)話の中でフシャスリタという王がフラワルティ(フラオルテス)に入れ替わったのであろう<ref name="Diakonoff1985p113">[[#Diakonoff 1985|Diakonoff 1985]], p. 117</ref>。|author=Igor Mikhailovich Diakonoff|title=Media|source=The Cambridge History of Iran Vol.2}} しかしこれらのような見解には異論もあり、否定的な意見が根強い<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。フラワルティが自身の即位名としてフシャスリタを採用した理由も明らかにはなっていない<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>。 === クテシアスの記録 === ハカーマニシュ朝に仕えたギリシア人[[クテシアス]]もまた、メディアの王統譜を伝えている。彼の著作『ペルシア史』は散逸して現存していないが、部分的に残された引用・抜粋などによってその内容が知られている。クテシアスによればメディアはアッシリアが滅亡した後、アジアを支配した。アッシリア最後の王[[サルダナパロス]]([[アッシュルバニパル]])を滅ぼした[[アルバケス]]を含め、彼が記録している7人のメディア王は以下の通りである。 * アルバケス:在位28年間<ref name="クテシアス2019pp101_102">[[#クテシアス|クテシアス]], pp. 101-102, 断片4-5, 第32章</ref>。 * マウダケス:在位50年間<ref name="クテシアス2019pp101_102"/>。 * ソサルモス:在位30年間<ref name="クテシアス2019pp101_102"/>。 * アルテュカス:在位50年間<ref name="クテシアス2019pp101_102"/>。 * アルビアネス:在位22年間<ref name="クテシアス2019pp101_102"/>。 * アルタイオス(アスティパラス{{refnest|group="注釈"|日本の学者[[阿部拓児]]によれば、アスティパラスという王名はこの引用を行った[[東ローマ帝国|ビザンツ]]時代の学者の不注意による誤りである可能性が高い<ref name="クテシアス2019p105注釈3">[[#クテシアス|クテシアス]], p. 105, 訳注3</ref>。}}):在位40年間<ref name="クテシアス2019pp101_102"/>。 * アスパンダス(アステュイガス、アステュアゲス)<ref name="クテシアス2019pp104_105">[[#クテシアス|クテシアス]], pp. 104-105, 断片5, 第34章</ref>。 クテシアスの記録は物語の詳細も含めヘロドトスの記述と大きく矛盾し、最後の王アステュアゲスについての情報も異なる(ヘロドトスは彼をキュロス2世の母方の祖父とするが、クテシアスは血縁は無いとする<ref name="クテシアス2019pp138_139">[[#クテシアス|クテシアス]], pp. 138-139, 断片8d</ref>)。また、サルダナパロス(アッシュルバニパル)がアッシリアの最後の王であるという物語は現在のアッシリア学の知見において事実ではない([[アッシュルバニパル]]の記事を参照)。一般的にメディアの王統を再構築する際にはヘロドトスのそれが参照される(例えば、エンサイクロペディア・イラニカ<ref name="DandamayevMedvedskaya2002"/>等)。 == 系図 == {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | |DEI | |DEI='''[[デイオケス]]'''}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |FRA | |FRA='''[[フラオルテス]]'''}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |CY2 | |CY2='''[[キュアクサレス2世|キュアクサレス]]'''}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |AST |y|ARY | |AST='''[[アステュアゲス]]'''|ARY=[[アリュエニス]]}} {{familytree | | | | |!| | | | |}} {{familytree | | | |MAN |y|KA1 | |MAN=[[マンダネ]]|KA1=[[カンビュセス1世]]<br>アンシャン王}} {{familytree | | | | | | |!| | | | |}} {{familytree | | | | | |KU2 | |KU2=[[キュロス2世]]<br>ペルシア王}} {{familytree | | | | | | |:| | | |}} {{familytree | | | | | |HAX | |HAX=[[アケメネス朝]]}} {{familytree/end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="DandamayevMedvedskaya2002">[[#Dandamayev_Medvedskaya|Dandamayev, Medvedskaya 2002]]</ref> }} == 参考文献 == === 史料 === * {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス|authorlink=ヘロドトス |translator=[[松平千秋]] |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref=ヘロドトス 1971 }} * {{Cite book |和書 |author=ヘロドトス |translator=松平千秋 |title=歴史 下 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |date=1972-2 |isbn=978-4-00-334053-0 |ref=ヘロドトス 1972-2 }} * {{Cite book |和書 |author=クテシアス|authorlink=クテシアス |translator=阿部拓児 |title=ペルシア史/インド誌 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=2019-3 |isbn=978-4814001750 |ref=クテシアス }} === Encyclopaedia Iranica === * {{cite encyclopedia |title=Media |last1=Dandamayev |first1=Muhammad |last2=Medvedskaya |first2=Inna|url=http://www.iranicaonline.org/articles/media | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | date=2006 |ref=Dandamayev_Medvedskaya}} * {{cite encyclopedia |title=Archeology ii. Median and Achaemenid |last1=Stronach |first1=David |last2= |first2=|url=http://www.iranicaonline.org/articles/archeology-ii | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | date=1986 |ref=Stronach 1986}} * {{cite encyclopedia |title=Deioces |last1=Schmitt |first1=Rüdiger |last2= |first2=|url=http://www.iranicaonline.org/articles/deioces | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | date=1994 |ref=Schmitt 1994}} * {{cite encyclopedia |title=Ḫarḫar |last1=Medvedskaya |first1=Inna |last2= |first2=|url=http://www.iranicaonline.org/articles/harhar | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | date=2003 |ref=Medvedskaya 2003}} === 書籍・論文(洋書) === *{{cite book|洋書|last=Levine|first=Louis D. |title=Geographical Studies in the Neo-Assyrian Zagros-II|pages=99-124|journal=Iran|publisher=Cambridge University Press|date=1974-1|issn=05786967|jstor=4300506|ref=Levine 1974 }} *{{cite book|洋書|last=Diakonoff|first=Igor Mikhailovich |chapter= Media|title=The Cambridge History of Iran|volume=2|edition=Ilya Gershevitch|pages=36-148|place=Cambridge, England|publisher=Cambridge University Press|date=1985-7|isbn=978-0-521-20091-2|ref=Diakonoff 1985 }} *{{cite book|洋書|last=Tavernier|first=Jan |title=Iranica in the Achaemenid Period (ca. 550-330 B.C.): Linguistic Study of Old Iranian Proper Names and Loanwords, Attested in Non-Iranian Texts|publisher=Peeters Publishers|date=2007|isbn=978-90-429-1833-7|ref=Tavernier 2007 }} === 書籍・論文(和書) === * {{Cite book |和書 |author=阿部拓児|authorlink=阿部拓児 |title=アケメネス朝ペルシア -史上初の世界帝国 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |date=2021-9 |isbn=978-4-12-102661-3 |ref=阿部 2021}} * {{Cite book |和書 |author=伊藤義教|authorlink=伊藤義教 |title=古代ペルシア |publisher=[[岩波書店]] |date=1974-1 |isbn=978-4007301551 |ref=伊藤 1974 }} * {{Cite book |和書 |author=黒柳恒男|authorlink=黒柳恒男 |title=ペルシア語の話 |publisher=[[大学書林]]|date=1984-9|isbn=978-4-475-01736-7 |ref=黒柳 1984}} * {{Cite book |和書 |author=杉勇|authorlink=杉勇 |chapter=二 四国対立時代 |title=[[岩波講座]] 世界歴史7 中世1|date=1969-6 |publisher=[[岩波書店]] |isbn= |ref=杉 1969 }}(旧版) * {{Cite book |和書 |author=松原國師 |title=西洋古典学事典 |date=2010-6 |publisher=京都大学学術出版会 |isbn=978-4-87698-925-6 |ref=松原 2010}} * {{Cite book |和書 |author=山本由美子 |chapter=3 イラン高原とその住民 |title=オリエント世界の発展 |series=世界の歴史4 |publisher=中央公論社 |pages=81-114|date=1997-7 |isbn=978-4-12-403404-2 |ref=山本 1997a }} * {{Cite book |和書 |author=山本由美子|authorlink=山本由美子 (歴史学者) |chapter=4 アケメネス朝ペルシアの成立と発展 |title=オリエント世界の発展 |series=世界の歴史4 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=115-158|date=1997-7 |isbn=978-4-12-403404-2 |ref=山本 1997b }} * {{Cite book |和書 |author=メアリー・ボイス|authorlink=メアリー・ボイス |translator=山本由美子 |title=[[ゾロアスター教]] |publisher=[[講談社学術文庫]] |date=2010-2 |isbn=978-4-06-291980-7 |ref=ボイス 2010}} * {{Cite book |和書 |author=ジャック・フィネガン|authorlink=ジャック・フィネガン |translator=[[三笠宮崇仁]] |title=考古学から見た古代オリエント史 |publisher=[[岩波書店]] |date=1983-12 |isbn=978-4-00-000787-0 |ref=フィネガン 1983 }} * {{Cite book |和書 |author=ロマン・ギルシュマン|authorlink=ロマン・ギルシュマン |translator=[[岡崎敬]]、糸賀昌昭、[[岡崎正孝]]| title=イランの古代文化 |publisher=[[平凡社]] |date=1970-2 |asin=B000J9I12Q |ref=ギルシュマン 1970 }} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{デフォルトソート:めていあ}} [[Category:古代ペルシア]] [[Category:メディア王国|*]] [[Category:紀元前1千年紀]]
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アケメネス朝
アケメネス朝(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš ハカーマニシュ、古代ギリシア語: Ἀχαιμένης アカイメネース)は、古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。アケメネス朝ペルシアまたは単にペルシア帝国とも呼ばれる。インド・ヨーロッパ語族の民族であるペルシア人が建設し、4王国(メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国となったものの、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。 アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネスに由来する。 海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハカーマニシュ朝か、古典ギリシャ語の発音に従ったアカイメネス朝のどちらかを用いている。 この王朝の君主は称号として大王、諸王の王(xšāyaθiya vazraka, xšāyaθiya xšāyaθiyānām)を称した。 単にペルシア王国、ペルシャ王国、またはペルシア帝国、ペルシャ帝国といった場合は、この王朝か、3世紀に興ったサーサーン朝を指すことが多い。 紀元前7世紀の後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の2つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。 紀元前550年に、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人(英語版)とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼした。ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年アルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。 紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプト(エジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。 ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。 ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)は古代ギリシア征服を計画してペルシア戦争(紀元前492年-紀元前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦やプラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後は紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。 ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(紀元前395年から紀元前387年のコリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(紀元前372年-紀元前362年)に悩まされていた。 紀元前404年に、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世と小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。 宦官で大臣のバゴアス(英語版)によりアルタクセルクセス3世とアルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに敗れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラ、パリュサティス(英語版))と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。 アケメネス朝は全国を36の行政区画に分け、各州ごとに行政官としてサトラップ(総督や太守などと訳される)を置いた。また、そのサトラップを監察する目的で、年に一度、中央政府から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。そして、フェニキア人とアラム人の商業を保護する政策も取った。アッシリアが武力で支配したのに対し、アケメネス朝は各地方の民族の文化に対して寛容な政策を取ったため、アッシリアと比べ長期間の支配を行えた。 従来、ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したため、初代からの直系で連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後の王ダレイオス3世も、元々は従前のアケメネス朝とは繋がりのない地方の総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだと言われる。 また、そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオス1世の帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころか王朝との間に全く血縁関係はない可能性も出てくる。この説では、キュロス家の名前(チシュピシュ、クルシュ、カンブジヤ)とゾロアスター教の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前(ダーラヤワウ、クシャヤールシャー、アルタクシャサ)の系統が大きく異なる説明もつくという。 文献に伝わるアケメネス朝の系図。ただし、ダレイオス1世とそれ以前の王との関係については上述の通り疑問視されている。
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アケメネス朝は、古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。アケメネス朝ペルシアまたは単にペルシア帝国とも呼ばれる。インド・ヨーロッパ語族の民族であるペルシア人が建設し、4王国(メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な世界帝国となったものの、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。
{{出典の明記|date=2018年9月}} {{基礎情報 過去の国 |略名 =ペルシア |日本語国名 =アケメネス朝 |公式国名 ='''{{Lang|fa|haxāmanišiya}}''' |建国時期 =[[紀元前550年]] |亡国時期 =[[紀元前330年]] |先代1 = メディア王国 |先代2 = リュディア |先代3 = エラム |先代4 = 新バビロニア |先代5 = エジプト第26王朝 |次代1 = アルゲアス朝 |次旗1 = Vergiasun.svg |国旗画像 =Standard of Cyrus the Great.svg |国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定--> |国旗説明 = |国旗幅 = <!--初期値125px--> |国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない--> |国章画像 = <!--画像ファイル名を入力--> |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = <!--初期値85px--> |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 =Achaemenid Empire, Darius the Great period(BC500).png |位置画像説明 =アケメネス朝の最大版図 |公用語 =[[古代ペルシア語]]、[[古代ギリシア語]]、[[アラム語|帝国アラム語]] |首都 =[[スサ]]、[[ペルセポリス]]、[[パサルガダエ]]、[[エクバタナ]] |元首等肩書 =[[諸王の王]] |元首等年代始1 =[[紀元前550年]] |元首等年代終1 =[[紀元前529年]] |元首等氏名1 =[[キュロス2世]](初代) |元首等年代始2 =[[紀元前521年]] |元首等年代終2 =[[紀元前486年]] |元首等氏名2 =[[ダレイオス1世]](第3代) |元首等年代始3 = |元首等年代終3 = |元首等氏名3 = |元首等年代始4 = |元首等年代終4 = |元首等氏名4 = |元首等年代始5 =[[紀元前336年]] |元首等年代終5 =[[紀元前330年]] |元首等氏名5 =[[ダレイオス3世]](最後) |面積測定時期1 = |面積値1 = |面積測定時期2 = |面積値2 = |面積測定時期3 = |面積値3 = |面積測定時期4 = |面積値4 = |面積測定時期5 = |面積値5 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |人口測定時期2 = |人口値2 = |人口測定時期3 = |人口値3 = |人口測定時期4 = |人口値4 = |人口測定時期5 = |人口値5 = |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =[[紀元前550年]] |変遷2 =[[ペルシア戦争|ギリシャ征伐]] |変遷年月日2 =[[紀元前492年]]〜[[紀元前449年]] |変遷3 = |変遷年月日3 = |変遷4 = |変遷年月日4 = |変遷5 =滅亡 |変遷年月日5 =[[紀元前330年]] |通貨 = |注記 = }} '''アケメネス朝'''([[古代ペルシア語]]: {{lang|peo|𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁}} {{unicode|Haxāmaniš}} <small>ハカーマニシュ</small>、{{lang-grc|Ἀχαιμένης}} <small>アカイメネース)</small>は、[[古代オリエント]]のペルシアに存在した[[王朝]]・[[帝国]]・[[遊牧国家]]。'''アケメネス朝ペルシア'''または単に'''ペルシア帝国'''とも呼ばれる。[[インド・ヨーロッパ語族]]の民族である[[ペルシア人]]が建設し、4王国([[メディア王国|メディア]]、[[リュディア]]、[[新バビロニア]]、[[エジプト第26王朝]])に分立していた[[古代オリエント]]世界を統一した。[[ダレイオス1世]]の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ広大な[[世界帝国]]となったものの、[[紀元前330年]]に[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の遠征軍によって滅ぼされた。 == 名称 == アケメネス朝の名称は、この家祖である[[アケメネス]]に由来する。 海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従った'''ハカーマニシュ朝'''か、古典ギリシャ語の発音に従った'''アカイメネス朝'''のどちらかを用いている。 この王朝の君主は称号として'''大王、諸王の王'''({{unicode|xšāyaθiya vazraka, xšāyaθiya xšāyaθiyānām}})を称した。 単に'''ペルシア王国'''、'''ペルシャ王国'''、または'''ペルシア帝国'''、'''ペルシャ帝国'''といった場合は、この王朝か、[[3世紀]]に興った[[サーサーン朝]]を指すことが多い。 == 歴史 == [[ファイル:Persepolis_1.JPG|left|260px|thumb|首都[[ペルセポリス]]の遺跡<!-- 20世紀末のイラン南西部に位置する-->]] [[ファイル:Persépolis. La Garde.jpg|left|thumb|260px|大王の親衛隊(ペルセポリス)]] <!--[[Image:Persian Bull 5thc Oriental Institute Chicago.jpg|right|180px|thumb|雄牛像(ペルセポリス出土)--ペルセポリスから出土した雄ウシの像--]]--> {{イランの歴史}} [[紀元前7世紀]]の後半、[[ペルシア人]]の長でハカーマニシュの息子[[テイスペス]](チャイシュピ)は、[[アッシリア]]に圧倒され衰退しつつあった[[エラム王国]]の都市[[アンシャン]]を征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族と[[ペルシア]]に残った一族の2つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共に[[メディア王国|メディア王]][[アステュアゲス]](アルシュティ・ワイガ?)は、[[バビロニア]]を除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアは[[メディア王国|メディア]]に服属していた。 [[紀元前550年]]に、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘[[マンダネ (メディア)|マンダネ]]の子)で、{{仮リンク|メディア人|en|Median people}}とペルシア人の混血である[[アンシャン]]王[[キュロス2世]](クル)は反乱を起こし、メディアの将軍[[メディアのハルパゴス|ハルパゴス]]の助けを得てメディアを滅ぼした。[[イラン高原]]を掌握したキュロスは、さらに[[アナトリア半島|小アジア]]の[[リュディア]]、[[エラム]]、[[メソポタミア]]の[[新バビロニア]]を滅ぼした。[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』によれば、キュロスは[[カスピ海]]の東側に住む[[マッサゲタイ]]族との戦いで戦死したとされる。しかし後年[[アルゲアス朝]][[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]([[大王]])のペルシア遠征の時、キュロスが[[パサルガダエ]]に埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。 [[紀元前525年]]にキュロスの息子[[カンビュセス2世]](カンブジャ)は[[エジプト]]([[エジプト第26王朝]])を併合して'''[[古代オリエント]]世界を統一した'''ものの、[[エチオピア]]への侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人の[[マゴス]]、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。 ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。[[寡頭政|寡頭政治]]は国を分裂させる危険を、[[民主政]]は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による[[君主政]]を選択した。最初に選ばれた君主となった総督[[ヒュスタスペス (ダレイオス1世の父)|ヒュスタスペス]](ウィシュタースパ)の息子[[ダレイオス1世]](ダーラヤワウ)は版図を北西[[インド]]から[[マケドニア]]・[[トラキア]]に拡大し、領土を20州に分けて各州に[[サトラップ]](総督、太守)を置いた。なお、この[[スメルディス]](カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の[[暗殺]]に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある{{要出典|date=2020年8月}}<!--ここでは「疑う説もある」とあるのに対し、冒頭では「ほぼ明らかになっている」と書いてあり、普及度にギャップが見られる。その説の実際のところの普及度はどうなのか?-->。 ダレイオス1世とその子[[クセルクセス1世]](クシャヤールシャン)は[[古代ギリシア]]征服を計画して[[ペルシア戦争]]([[紀元前492年]]-[[紀元前449年]])を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍は[[マラトンの戦い]]で[[アテナイ]]・[[プラタイア]]連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征は[[サラミスの海戦]]や[[プラタイアの戦い]]などでの敗北を受け、失敗した。その後は紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王[[アルタクセルクセス1世]]は[[紀元前449年]]の[[カリアスの和約]]で[[講和]]した。 ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都[[ペルセポリス]]での大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、[[ペロポネソス戦争]]([[紀元前431年|前431年]]-[[紀元前404年|前404年]])後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った([[紀元前395年]]から[[紀元前387年]]の[[コリントス戦争]]がその典型である)。 その一方で、内政面では[[紀元前4世紀]]にあい続いた小アジアの{{仮リンク|サトラップの反乱|en|Revolt of the Satraps}}([[紀元前372年]]-[[紀元前362年]])に悩まされていた。 [[紀元前404年]]に、[[ダレイオス2世]]の死後、[[アルタクセルクセス2世]]と[[小キュロス]]の間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の[[退役]]ギリシャ軍人を[[傭兵]]とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。[[クセノポン]]は、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『[[アナバシス]]』に残している。 [[宦官]]で大臣の{{仮リンク|バゴアス|en|Bagoas}}により[[アルタクセルクセス3世]]と[[アルセス]]が相次いで[[暗殺]]され、傍系の[[ダレイオス3世]]が擁立された。[[ダレイオス3世]]の代に[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]との[[ガウガメラの戦い]]に敗れて[[紀元前330年]]に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女([[スタテイラ]]、{{仮リンク|パリュサティス2世|en|Parysatis II|label=パリュサティス}})と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも[[古代エジプト]]を征服した後に[[ファラオ]]を任じていた。 == 年表 == *[[紀元前550年]]:小王国[[アンシャン]]の第7代の王[[キュロス2世]]が[[メディア王国]]を滅ぼし、アケメネス朝を建国する。 *[[紀元前547年]]:キュロス2世が[[リュディア]]を滅ぼす。 *[[紀元前539年]]:キュロス2世が[[新バビロニア]]を滅ぼす。 *[[紀元前525年]]:[[カンビュセス2世]]が[[エジプト]]を併合し[[古代オリエント]]世界を統一する。 *[[紀元前521年]]:[[ダレイオス1世]]が[[パンジャーブ]]・[[シンド]]を征服する。 *[[紀元前520年]]:ダレイオス1世が[[ペルセポリス]]の建設に着手。 *[[紀元前518年]]:ダレイオス1世が[[ガンダーラ]]を征服する。 *[[紀元前500年]]頃:[[ギリシア]]との間で戦争を起こす。 **[[ペルシア戦争]]([[紀元前500年]]-[[紀元前449年]]) *[[紀元前494年]]:[[イオニアの反乱]]を鎮圧。 *[[紀元前490年]]:ペルシア軍がギリシアに遠征。 **[[マラトンの戦い]]でギリシアに敗れる。 *[[紀元前480年]]:[[クセルクセス1世]]によるギリシア侵攻 **[[テルモピュライの戦い]]、[[サラミスの海戦]] *[[紀元前479年]]:[[プラタイアの戦い]]でギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失敗した。 *[[紀元前333年]]:[[ダレイオス3世]]が[[イッソスの戦い]]で[[アレクサンドロス3世]](大王)に敗れる。 *[[紀元前331年]]:ダレイオス3世が[[ガウガメラの戦い]]でアレクサンドロス3世に敗れる。 *[[紀元前330年]]:ダレイオス3世は逃走中に[[バクトリア]][[サトラップ]]の[[ベッソス]]に殺害され、アケメネス朝は滅亡。 == 統治 == === 概要 === アケメネス朝は全国を36の行政区画に分け、各州ごとに行政官として[[サトラップ]](総督や太守などと訳される)を置いた。また、そのサトラップを[[監察]]する目的で、年に一度、中央政府から「[[王の耳]]」・「[[王の目]]」と呼ばれた[[監察官]]が派遣された。さらに「[[王の道]]」と呼ばれる[[国道]]を建設して[[駅伝制|駅伝]]を整備し、[[通貨]]制度を創設した。そして、[[フェニキア人]]と[[アラム人]]の商業を保護する政策も取った。[[アッシリア]]が武力で支配したのに対し、アケメネス朝は各地方の民族の文化に対して寛容な政策を取ったため、アッシリアと比べ長期間の支配を行えたと言われる<ref>帝国書院編集部編『明解世界史図説 エスカリエ 十一訂版』帝国書院、2019年、43ページ</ref>。 === 行政区画 === {{columns-list|colwidth=15em| *[[ペルシア]] *[[エラム]] *[[バビロニア]] *[[メディア王国|メディア]] *[[サカ|サカイ]] *[[イオニア]] *[[パンピュリア]] *{{仮リンク|パフラゴニア|en|Paphlagonia}} *[[カッパドキア]] *[[カリア]] *[[リュディア]] *[[トラキア]] *[[キュプロス]] *[[アルメニア]] *[[アッシリア]] *[[キリキア]] *[[古代エジプト|アイギュプトス]] *{{仮リンク|ヒンドゥシュ|en|Hindush|label=インド}}([[タクシラ]]) *[[ガンダーラ]] *{{仮リンク|ドランギアナ|en|Drangiana}} *{{仮リンク|サッタギュディア|en|Sattagydia}} *{{仮リンク|ゲドロシア (サトラップ)|en|Gedrosia (satrapy)|label=ゲドロシア}} *{{仮リンク|カルマニア (サトラップ)|en|Carmania (satrapy)|label=カルマニア}} *[[マカ]] *{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}} *[[バクトリア]] *[[パルティア]] *{{仮リンク|ハライヴァ (サトラップ)|en|Aria (satrapy)|label=ハライヴァ}}<!-- ギリシャ語で「アレイア」 --> *{{仮リンク|コラスミア (サトラップ)|en|Chorasmia (satrapy)|label=コラスミア}} *[[ソグディアナ]] *[[クシュ]] *[[アラビア]] *{{仮リンク|ヒュルカニア|en|Hyrcania}} *{{仮リンク|マルグ|en|Margu}}([[メルブ遺跡|メルブ]])<!-- ギリシャ語で「マルギアナ」 --> *[[ダアイ]] *[[リビア|リュビア]] *[[:en:Eber-Nari|Eber-Nari]]([[レバント]]) **[[:en:Yehud Medinata|Yehud]] *[[:en:Skudra|Skudra]]([[トラキア]]) }} == 文化 == * [[楔形文字]]を[[表音文字]]化した[[古代ペルシア楔形文字]]を発明した。 * [[公用語]]は[[古代ペルシア語]]と、帝国アラム語 (Imperial Aramaic) ないし公用[[アラム語]] (Official Aramaic) と呼ばれる標準化された[[アラム語]]だった。 **[[エラム語]]や[[アッカド語]]([[バビロニア]]方言)の記録も残されている。 * [[ゾロアスター教]]、またはそれに近い[[宗教]]が王族達の間で信仰された<!--**{{誰範囲|date=2020年8月|この時代にゾロアスター教が成立したとは断定できない(さらに古いとする説も依然として有力である)。}}-->。 == 歴代君主 == 従来、[[ダレイオス1世]]はアケメネス朝の[[傍系]]とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者である[[キュロス2世]]の[[直系]]から、アケメネス朝の4代目とされる[[ダレイオス1世]]が帝位を[[簒奪]]したため、初代からの直系で連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後の王[[ダレイオス3世]]も、元々は従前のアケメネス朝とは繋がりのない地方の総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだと言われる<ref>[[ストラボン]]『ギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎</ref>。 また、そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオス1世の帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころか王朝との間に全く血縁関係はない可能性も出てくる<ref group="注">例えば、青木健『アーリア人』(講談社、2009年、p.117-118)では、ハカーマニシュ家のダーラヤワウ(ダレイオス)一世がクル(キュロス)王家の後継者を抑えてペルシア皇帝に即位し、ハカーマニシュ家の系図の中にクル王家の系図を嵌め込んだとしている。</ref>。この説では、キュロス家の名前(<small>チシュピシュ、クルシュ、カンブジヤ</small>)と[[ゾロアスター教]]の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前(<small>ダーラヤワウ、クシャヤールシャー、アルタクシャサ</small>)の系統が大きく異なる説明もつくという。 ===君主一覧=== ;[[アンシャン]]王の系統 #[[テイスペス]] #[[キュロス1世]] #[[カンビュセス1世]] #[[キュロス2世]](紀元前550年 - 紀元前529年) #[[カンビュセス2世]](紀元前529年 - 紀元前521年) #[[スメルディス]](紀元前521年) ;ダレイオスの先祖 #{{仮リンク|アリアラムネス|en|Ariaramnes}} #{{仮リンク|アルサメス (アケメネス朝)|en|Arsames|label=アルサメス}} ;ダレイオスの王朝 #[[ダレイオス1世]](紀元前521年 - 紀元前486年) #[[クセルクセス1世]](紀元前486年 - 紀元前465年) #[[アルタクセルクセス1世]](紀元前464年 - 紀元前424年) #[[クセルクセス2世]](紀元前424年 - 紀元前423年) #[[ソグディアノス]](紀元前423年) #[[ダレイオス2世]](紀元前422年 - 紀元前404年) #[[アルタクセルクセス2世]](紀元前404年 - 紀元前343年) #[[アルタクセルクセス3世]](紀元前343年 - 紀元前338年) #[[アルセス]](紀元前338年 - 紀元前336年) #[[ダレイオス3世]](紀元前336年 - 紀元前330年) == 系図 == 文献に伝わるアケメネス朝の系図<ref>下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.140</ref><ref>ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.44</ref>。ただし、ダレイオス1世とそれ以前の王との関係については上述の通り疑問視されている。 {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | |AKE | |AKE=[[アケメネス]]}} {{familytree | | |!| | |}} {{familytree | |TEI | |TEI='''[[テイスペス]]'''|boxstyle_TEI=background-color: #fee;}} {{familytree | | |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |}} {{familytree | |CY1 | | | | | | | | | |ARI | |CY1='''[[キュロス1世]]'''|ARI=[[アリアラムネス]]|boxstyle_CY1=background-color: #fee;}} {{familytree | | |!| | | | | | | | | | | |!| | | |}} {{familytree | |CA1 | | | | | | | | | |ARS | |CA1='''[[カンビュセス1世]]'''|ARS=[[アルサメス (アケメネス朝)|アルサメス]]|boxstyle_CA1=background-color: #fee;}} {{familytree 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セレウコス朝
セレウコス朝(セレウコスちょう、古代ギリシア語: Αυτοκρατορία των Σελευκιδών、紀元前312年 - 紀元前63年)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝やアンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家の1つとされる。セレウコス朝シリア、シリア王国とも。 セレウコス朝の始祖セレウコス1世(在位:前305年 - 前281年)はマケドニア王ピリッポス2世(在位:前359年-前336年)の部将アンティオコス(英語版)とその妻ラオディケ(英語版)の間に生まれた。前334年にマケドニア王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年 - 前323年)がハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を打倒すべく東方遠征を開始すると、そのヘタイロイ(幕僚)の一人として参加した。 アレクサンドロス3世は前333年11月のイッソスの戦い、前331年6月のガウガメラの戦いでハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世、在位:前336年-前330年)が率いる軍勢を打ち破り、短期間のうちにその旧領を征服したが、前323年にバビロンで病死した。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。彼らによる一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス、古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった。他、メレアゲルやレオンナトス、アンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、ラゴスの子プトレマイオス(1世)らが有力な将軍として争った。セレウコスはヒュパスピスタイ(楯持ち隊)の指揮官という地位にあったが、当初はまだ役割は限定的なものであった。将軍たちがアレクサンドロス3世の領土分配を話し合ったバビロン会議の際、アンティパトロスが本国マケドニアの守護を任され、アンティゴノスがフリュギアとアナトリアを、カルディアのエウメネスがカッパドキアとパフラゴニアを、ナウクラティスのクレオメネスがエジプトの支配権をそれぞれ承認された。このうちクレオメネスは間もなくプトレマイオスによって排除された。一方、セレウコスは領地を与えられることはなかったが、騎兵隊の指揮権を掌握した。 その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保し、さらにディアドコイたちに対する優位を確立すべく、アレクサンドロス3世の姉妹クレオパトラ(英語版)との結婚を画策した。だが、そのために既に進んでいたアンティパトロスの娘との縁談を破断としなければならず、アンティパトロスとの関係を悪化させた上、他のディアドコイからの警戒を買った。自分に対する敵意の高まりを感じ取ったペルディッカスは自分に忠実だったカルディアのエウメネスに小アジアの本領を任せ、前321年ディアドコイの中でも孤立した立場にあったエジプトの支配者プトレマイオスを討つべくエジプトに進軍した。セレウコスはペルディッカスの配下としてこの遠征に従軍した。しかし、ペルディッカスはエジプトのナイル川の渡河しようとした際の不手際で失敗し多くの死者を出した。この結果セレウコスは他の将軍と共にペルディッカスを見限り彼を暗殺した。恐らくセレウコスはエジプトから撤退するペルディッカスの軍団において指導的役割を果たしていたであろう。その後、アンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、セレウコスはバビロニアを手に入れた。 前319年にアンティパトロスが死亡すると、その後継者ポリュペルコンとアンティゴノスが対立した。ポリュペルコンを支持したカルディアのエウメネスはセレウコスに帰順を要求したが、セレウコスがこれを拒否すると前318年10月にバビロンを占領した。セレウコスは反撃を試みたが失敗し、エウメネスがさらにメディアに向けて進発すると、前317年のはじめに北部バビロニアに進出していたアンティゴノスの助力を得て二度にわたるバビロニア攻撃を行い支配地を奪還し、翌年にはアンティゴノスのエウメネス討伐軍に合流してエウメネスを打倒した。バビロニアを支配するセレウコス1世は、この戦いを通じてディアドコイたちの中で卓越した勢力を持つようになったアンティゴノス1世に疎まれるようになった。前315年にセレウコス1世はバビロニアから追い出され、エジプトのプトレマイオスの下に身を寄せた。 プトレマイオスはカッサンドロスやリュシマコスらと対アンティゴノスの同盟を結ぶと共に、アンティゴノスの勢力をかく乱するためセレウコスに1000人足らずの兵士を与えてバビロニアに送り出した。セレウコスは移動中の住民たちを糾合することに成功し、前311年春にバビロン市を奪還して周辺の支配権を取り戻すことに成功した。セレウコス朝はセレウコスのバビロン帰還を統治の始まりと見なしており、この出来事はセレウコス暦の起点となった。 プトレマイオスとの戦いが順調に行かず、セレウコスの排除にも失敗して苦境に陥ったアンティゴノスは前311年にプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスらと互いの支配地を相互に承認しあう現状追認の協定を締結したが、この協定に加わっていなかったセレウコスはイラン高原方面での勢力拡張を目論んだ。セレウコスは東方の諸属州の支配権を奪回しようとするアンティゴノスの行動を撃退し、イランの支配を確立した。イラン高原よりさらに東におけるセレウコスの征服活動は、インドで勢力を拡張していたマウリヤ朝の建設者チャンドラグプタ1世に阻まれて順調に進まなかった。具体的な経過は詳らかではないものの、インドとの境界地帯での戦いは前303年頃、セレウコスがガンダーラ、ゲドロシア、アラコシアに至る広大な地域がマウリヤ朝の支配下に入ることを承認するという結果に終わった。 この最中、前306年にアンティゴノスが息子のデメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)ともども王を称するようになると、翌前305年にはセレウコスも後に続いて王を名乗り、またプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスも同じく王を名乗った。アンティゴノス1世とデメトリオス1世がギリシアとアナトリアで勢力を拡張すると、前301年にセレウコス1世はリュシマコスと共にアンティゴノス1世を攻撃すべく進軍し、春にイプソス近郊のシュンナダで決戦が行われた(イプソスの戦い)。この戦いでアンティゴノス1世を敗死させたセレウコス1世は、前281年にはリュシマコスの領土を狙ってアナトリア方面に軍を進め、リュディアの旧都サルディス西方のコルペディオンの戦いでリュシマコスを破った。この結果、アレクサンドロス3世の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配するところとなった。 同年、セレウコス1世はさらにマケドニア本国を目指して進軍したが、自らの下に亡命していたプトレマイオス・ケラウノス(エジプト王プトレマイオス1世の息子)によって暗殺された。プトレマイオス・ケラウノスはその後リュシマコスの仇を討ったとして、リュシマコスの遺産獲得に進むこととなる。 セレウコス1世が死亡する前、息子のアンティオコス1世(ソテル)は王の称号とともにセレウコス朝の東方領土(上部サトラペイア)の支配を委ねられていた。父セレウコス1世と息子アンティオコス1世による分担統治の実態はよくわかっておらず、文献史料においてοι άνω τόποιと呼ばれる、また現存する唯一の碑文史料においてοι άνω σατραπείαιと呼ばれる上部サトラペイア地域の正確な範囲はわかっていない。古代の歴史学者の記録はユーフラテス川の東の全てがアンティオコス1世の所管で、帝国の中枢部であったバビロニアをも含んでいたとするアッピアノスや、ティグリス川以東、主としてイラン高原地域をその領域として列挙するシケリアのディオドロスなどがある。いずれにせよ、セレウコス1世の存命中、アンティオコス1世はメディアやバクトリアで多くの時を費やしていた。 281年のセレウコス1世の死を受けて帝国を継承したアンティオコス1世は、ただちに父の本拠地であったシリアでの反乱に直面した。加えて、アナトリアへのガリア人(ケルト人)の侵攻(前278年-前275年)、さらには南部シリア(コイレ・シリアをめぐるプトレマイオス朝との戦争(第1次シリア戦争:前274年-前271年頃)の勃発が重なり、アンティオコス1世の治世初期はこれら西方での諸紛争に忙殺されることとなった。それでも、アンティオコス1世は父親と同じように自分の息子セレウコスを上部サトラペイアの支配者として共同統治者に任命し、少なくとも治世前半には東方領土はまだセレウコス朝の王権に十分服しており、第1次シリア戦争においては銀や象などがバビロン、さらにはバクトリアからシリアへと送付されている。しかし、このセレウコスは前267年に反逆の嫌疑により処刑され、代わって別の息子アンティオコス(2世)が上部サトラペイアの支配者に任命された。その後、アンティオコス1世はアナトリア方面におけるペルガモンへの遠征で敗死し、アンティオコス2世が跡を継いだ。 セレウコス朝の国力と関心が西方に集中している間、そのための負担のみを求められた東部領土の有力者たちは離反の動きを強めた。紀元前250年頃、ディオドトス1世は支配地域のバクトリアを独立させてグレコ・バクトリア王国を建て、さらにアンドラゴラスが支配地域のパルティアナを独立させてパルティアを建てた。中央アジア方面におけるセレウコス朝の領土は大幅に縮小した。 さらに紀元前246年に即位したセレウコス2世カリニコスは、プトレマイオス朝との戦争に加え、兄弟であるアンティオコス・ヒエラクスの反乱に直面し、セレウコス朝の領土縮小に拍車をかけた。 紀元前223年、アンティオコス3世が即位すると、セレウコス朝は再び拡大期に入った。アンティオコス3世は即位するとすぐ国内の反乱勢力の多くを鎮圧した。プトレマイオス朝と戦った第4次シリア戦争(ドイツ語版)では紀元前217年のラフィアの戦いでは一敗地にまみれたものの、紀元前212年に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。まずパルティアへ向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていたアルサケス朝のアルサケス2世を破った。続いてバクトリアへ向かい、アリエ川の戦いでバクトリア王エウテュデモス1世の軍勢を破り、さらにバクトラを2年間にわたって包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝と戦って勝利した(第5次シリア戦争(ドイツ語版))。 これらの業績によって彼は大王と呼ばれる。しかし、間もなく共和政ローマと対立しローマ・シリア戦争が勃発するが、マグネシアの戦いで決戦に及んだが大敗に終わり、アパメイアの和約で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。アンティオコス3世の息子セレウコス4世フィロパトル、アンティオコス4世エピファネスの治世を通じて、ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け、反比例してセレウコス朝の権威は失墜した。 アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れると、すぐにパルティアはセレウコス朝から離反した。アンティオコス4世はパルティアに遠征をして勢力回復を図るも死去し、パルティアはフラーテス1世やミトリダテス1世の下で勢力を拡大し、グレコ・バクトリアを圧迫するとともに紀元前146年にはメディア地方を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。また西部でも紀元前142年にはユダヤ人の独立にも直面した(マカバイ戦争)。 パルティアの攻撃によって紀元前141年にはセレウキアが、紀元前140年にはスサが陥落し、メソポタミアがパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃に出たデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃し、メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。 これによって、彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都アンティオキア周辺のわずかな領域を支配するに過ぎなくなった。 紀元前1世紀にはいると、セレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。紀元前83年、セレウコス朝はアルメニア王ティグラネス2世の支配下に入った。しかし、ティグラネスがローマの仇敵であったポントス王ミトリダテス6世と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官グナエウス・ポンペイウスはシリアをシリア属州とし、セレウコス朝の歴史はここに終了した。 初代セレウコス1世は、息子のアンティオコス1世にユーフラテス川より東の広大な地域(当時は上部サトラペイアと呼ばれた)の統治を任せた。アンティオコス1世はティグリス河畔のセレウキアを拠点にこの領土を治めた。この事実はセレウコス1世による支配の力点が圧倒的に西方、シリアに置かれていたことを示す。アンティオコス1世による東方領土統治の詳細はよくわかっていない。セレウコス1世の政敵であったアンティゴノス1世は、かつてメディアの総督(サトラップ)であったニカノルに上部サトラペイアの統治を任せたといわれており、アンティオコス1世の地位はこれを継承したものであると推定されている。この王族による東西領土の分割統治は、その後も断続的に続いた。 セレウコス朝は征服した領土内で活発な都市建設を行った。これはヘレニズム時代に顕著な特徴であり、とりわけセレウコス1世とアンティオコス1世は熱心に都市建設を実施したことが知られている。この両者によって建設された都市は知られているだけで40以上にのぼり、実際にはさらに多かったと考えられている。 こうした都市建設を熱心に進めた理由は、歩兵を主力としたセレウコス朝にとって連続した都市網の整備が重要であったことや、支配の確立にあたって領内にギリシア人・マケドニア人を定着させる必要があったことである。ただし、多くの場合これらの新都市は既存の都市を拡張、または再整備したものであった。たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市であった。 セレウコス朝の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都アンティオキア(オロンテス河畔のアンティオキア)、軍事の中心となったアパメア(オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市セレウキア(ピエリアのセレウキア)、そしてラオディキア(海に臨むラオディキア)など多数の計画都市が建設された。上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。 都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的なポリスの建設よりはカトイキアと呼ばれた軍事植民地の建設であった。移住する多くのギリシア人たちにとって、自分たちの居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。 カトイキアの中でも最も有名なのはドゥラ・エウロポスである。この計画都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるティグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、警備、および補給拠点として建設された。この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。 マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。ティグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。 近現代の研究者たちによって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えばストラニキアにおけるカリア人など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造ることで、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない)。 現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクスの構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セレウコス朝(セレウコスちょう、古代ギリシア語: Αυτοκρατορία των Σελευκιδών、紀元前312年 - 紀元前63年)は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝やアンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家の1つとされる。セレウコス朝シリア、シリア王国とも。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "セレウコス朝の始祖セレウコス1世(在位:前305年 - 前281年)はマケドニア王ピリッポス2世(在位:前359年-前336年)の部将アンティオコス(英語版)とその妻ラオディケ(英語版)の間に生まれた。前334年にマケドニア王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年 - 前323年)がハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を打倒すべく東方遠征を開始すると、そのヘタイロイ(幕僚)の一人として参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アレクサンドロス3世は前333年11月のイッソスの戦い、前331年6月のガウガメラの戦いでハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世、在位:前336年-前330年)が率いる軍勢を打ち破り、短期間のうちにその旧領を征服したが、前323年にバビロンで病死した。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。彼らによる一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス、古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった。他、メレアゲルやレオンナトス、アンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、ラゴスの子プトレマイオス(1世)らが有力な将軍として争った。セレウコスはヒュパスピスタイ(楯持ち隊)の指揮官という地位にあったが、当初はまだ役割は限定的なものであった。将軍たちがアレクサンドロス3世の領土分配を話し合ったバビロン会議の際、アンティパトロスが本国マケドニアの守護を任され、アンティゴノスがフリュギアとアナトリアを、カルディアのエウメネスがカッパドキアとパフラゴニアを、ナウクラティスのクレオメネスがエジプトの支配権をそれぞれ承認された。このうちクレオメネスは間もなくプトレマイオスによって排除された。一方、セレウコスは領地を与えられることはなかったが、騎兵隊の指揮権を掌握した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保し、さらにディアドコイたちに対する優位を確立すべく、アレクサンドロス3世の姉妹クレオパトラ(英語版)との結婚を画策した。だが、そのために既に進んでいたアンティパトロスの娘との縁談を破断としなければならず、アンティパトロスとの関係を悪化させた上、他のディアドコイからの警戒を買った。自分に対する敵意の高まりを感じ取ったペルディッカスは自分に忠実だったカルディアのエウメネスに小アジアの本領を任せ、前321年ディアドコイの中でも孤立した立場にあったエジプトの支配者プトレマイオスを討つべくエジプトに進軍した。セレウコスはペルディッカスの配下としてこの遠征に従軍した。しかし、ペルディッカスはエジプトのナイル川の渡河しようとした際の不手際で失敗し多くの死者を出した。この結果セレウコスは他の将軍と共にペルディッカスを見限り彼を暗殺した。恐らくセレウコスはエジプトから撤退するペルディッカスの軍団において指導的役割を果たしていたであろう。その後、アンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、セレウコスはバビロニアを手に入れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "前319年にアンティパトロスが死亡すると、その後継者ポリュペルコンとアンティゴノスが対立した。ポリュペルコンを支持したカルディアのエウメネスはセレウコスに帰順を要求したが、セレウコスがこれを拒否すると前318年10月にバビロンを占領した。セレウコスは反撃を試みたが失敗し、エウメネスがさらにメディアに向けて進発すると、前317年のはじめに北部バビロニアに進出していたアンティゴノスの助力を得て二度にわたるバビロニア攻撃を行い支配地を奪還し、翌年にはアンティゴノスのエウメネス討伐軍に合流してエウメネスを打倒した。バビロニアを支配するセレウコス1世は、この戦いを通じてディアドコイたちの中で卓越した勢力を持つようになったアンティゴノス1世に疎まれるようになった。前315年にセレウコス1世はバビロニアから追い出され、エジプトのプトレマイオスの下に身を寄せた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "プトレマイオスはカッサンドロスやリュシマコスらと対アンティゴノスの同盟を結ぶと共に、アンティゴノスの勢力をかく乱するためセレウコスに1000人足らずの兵士を与えてバビロニアに送り出した。セレウコスは移動中の住民たちを糾合することに成功し、前311年春にバビロン市を奪還して周辺の支配権を取り戻すことに成功した。セレウコス朝はセレウコスのバビロン帰還を統治の始まりと見なしており、この出来事はセレウコス暦の起点となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プトレマイオスとの戦いが順調に行かず、セレウコスの排除にも失敗して苦境に陥ったアンティゴノスは前311年にプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスらと互いの支配地を相互に承認しあう現状追認の協定を締結したが、この協定に加わっていなかったセレウコスはイラン高原方面での勢力拡張を目論んだ。セレウコスは東方の諸属州の支配権を奪回しようとするアンティゴノスの行動を撃退し、イランの支配を確立した。イラン高原よりさらに東におけるセレウコスの征服活動は、インドで勢力を拡張していたマウリヤ朝の建設者チャンドラグプタ1世に阻まれて順調に進まなかった。具体的な経過は詳らかではないものの、インドとの境界地帯での戦いは前303年頃、セレウコスがガンダーラ、ゲドロシア、アラコシアに至る広大な地域がマウリヤ朝の支配下に入ることを承認するという結果に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この最中、前306年にアンティゴノスが息子のデメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)ともども王を称するようになると、翌前305年にはセレウコスも後に続いて王を名乗り、またプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスも同じく王を名乗った。アンティゴノス1世とデメトリオス1世がギリシアとアナトリアで勢力を拡張すると、前301年にセレウコス1世はリュシマコスと共にアンティゴノス1世を攻撃すべく進軍し、春にイプソス近郊のシュンナダで決戦が行われた(イプソスの戦い)。この戦いでアンティゴノス1世を敗死させたセレウコス1世は、前281年にはリュシマコスの領土を狙ってアナトリア方面に軍を進め、リュディアの旧都サルディス西方のコルペディオンの戦いでリュシマコスを破った。この結果、アレクサンドロス3世の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配するところとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同年、セレウコス1世はさらにマケドニア本国を目指して進軍したが、自らの下に亡命していたプトレマイオス・ケラウノス(エジプト王プトレマイオス1世の息子)によって暗殺された。プトレマイオス・ケラウノスはその後リュシマコスの仇を討ったとして、リュシマコスの遺産獲得に進むこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "セレウコス1世が死亡する前、息子のアンティオコス1世(ソテル)は王の称号とともにセレウコス朝の東方領土(上部サトラペイア)の支配を委ねられていた。父セレウコス1世と息子アンティオコス1世による分担統治の実態はよくわかっておらず、文献史料においてοι άνω τόποιと呼ばれる、また現存する唯一の碑文史料においてοι άνω 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"アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れると、すぐにパルティアはセレウコス朝から離反した。アンティオコス4世はパルティアに遠征をして勢力回復を図るも死去し、パルティアはフラーテス1世やミトリダテス1世の下で勢力を拡大し、グレコ・バクトリアを圧迫するとともに紀元前146年にはメディア地方を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。また西部でも紀元前142年にはユダヤ人の独立にも直面した(マカバイ戦争)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "パルティアの攻撃によって紀元前141年にはセレウキアが、紀元前140年にはスサが陥落し、メソポタミアがパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃に出たデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃し、メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "これによって、彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都アンティオキア周辺のわずかな領域を支配するに過ぎなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紀元前1世紀にはいると、セレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。紀元前83年、セレウコス朝はアルメニア王ティグラネス2世の支配下に入った。しかし、ティグラネスがローマの仇敵であったポントス王ミトリダテス6世と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官グナエウス・ポンペイウスはシリアをシリア属州とし、セレウコス朝の歴史はここに終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初代セレウコス1世は、息子のアンティオコス1世にユーフラテス川より東の広大な地域(当時は上部サトラペイアと呼ばれた)の統治を任せた。アンティオコス1世はティグリス河畔のセレウキアを拠点にこの領土を治めた。この事実はセレウコス1世による支配の力点が圧倒的に西方、シリアに置かれていたことを示す。アンティオコス1世による東方領土統治の詳細はよくわかっていない。セレウコス1世の政敵であったアンティゴノス1世は、かつてメディアの総督(サトラップ)であったニカノルに上部サトラペイアの統治を任せたといわれており、アンティオコス1世の地位はこれを継承したものであると推定されている。この王族による東西領土の分割統治は、その後も断続的に続いた。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "セレウコス朝は征服した領土内で活発な都市建設を行った。これはヘレニズム時代に顕著な特徴であり、とりわけセレウコス1世とアンティオコス1世は熱心に都市建設を実施したことが知られている。この両者によって建設された都市は知られているだけで40以上にのぼり、実際にはさらに多かったと考えられている。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "こうした都市建設を熱心に進めた理由は、歩兵を主力としたセレウコス朝にとって連続した都市網の整備が重要であったことや、支配の確立にあたって領内にギリシア人・マケドニア人を定着させる必要があったことである。ただし、多くの場合これらの新都市は既存の都市を拡張、または再整備したものであった。たとえば北メソポタミアに建設されたアンティオキア(ミュグドニアのアンティオキア)は旧ニシビスを基盤として拡張された計画都市であった。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "セレウコス朝の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都アンティオキア(オロンテス河畔のアンティオキア)、軍事の中心となったアパメア(オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市セレウキア(ピエリアのセレウキア)、そしてラオディキア(海に臨むラオディキア)など多数の計画都市が建設された。上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的なポリスの建設よりはカトイキアと呼ばれた軍事植民地の建設であった。移住する多くのギリシア人たちにとって、自分たちの居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "カトイキアの中でも最も有名なのはドゥラ・エウロポスである。この計画都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるティグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、警備、および補給拠点として建設された。この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。ティグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近現代の研究者たちによって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えばストラニキアにおけるカリア人など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造ることで、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない)。", "title": "統治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクスの構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。", "title": "統治" } ]
セレウコス朝は、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝やアンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家の1つとされる。セレウコス朝シリア、シリア王国とも。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = シリア |日本語国名 = セレウコス朝 |公式国名 = {{lang|grc|Αυτοκρατορία των Σελευκιδών}} |建国時期 = [[紀元前312年|前312年]] |亡国時期 = [[紀元前63年|前63年]] |先代1 = マケドニア王国 |先旗1 = Vergina Sun WIPO.svg |先代2 = アルゲアス朝 |先旗2 = Vergina Sun WIPO.svg |次代1 = 共和政ローマ |次旗1 = Spqrstone.jpg |次代2 = パルティア |次代3 = バクトリア王国 |国旗画像 = Vergina Sun WIPO.svg |国旗リンク = [[ヴェルギナの太陽]] |国旗説明 = |国旗幅 = <!--初期値125px--> |国旗縁 = no |国章画像 = 201209071746a Berlin Pergamonmuseum, Tetradrachme Seleukos' I, Silber, Pergamon, 281-280 v.u.Z.jpg |国章リンク = 馬、象、および錨がシンボルとされた |国章説明 = |国章幅 = <!--初期値85px--> |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = Seleucid Empire (greatest extent).svg |位置画像説明 =セレウコス朝の最大領土 |公用語 =[[ギリシャ語]] |首都 =[[アンティオキア]] |元首等肩書 =[[バシレウス]] |元首等年代始1 =[[紀元前312年|前312年]] |元首等年代終1 =[[紀元前281年|前281年]] |元首等氏名1 =[[セレウコス1世]](初代) |元首等年代始2 =[[紀元前223年|前223年]] |元首等年代終2 =[[紀元前187年|前187年]] |元首等氏名2 =[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]](第6代) |元首等年代始3 = |元首等年代終3 = |元首等氏名3 = |元首等年代始4 = |元首等年代終4 = |元首等氏名4 = |元首等年代始5 =[[紀元前69年|前69年]] |元首等年代終5 =[[紀元前63年|前63年]] |元首等氏名5 =[[アンティオコス13世]](最後) |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =[[紀元前312年|前312年]] |変遷2 = |変遷年月日2 = |変遷3 = |変遷年月日3 = |変遷4 = |変遷年月日4 = |変遷5 =滅亡 |変遷年月日5 =[[紀元前63年|前63年]] |通貨 = [[ドラクマ]] |注記 = }} '''セレウコス朝'''(セレウコスちょう、{{lang-grc|Αυτοκρατορία των Σελευκιδών}}、[[紀元前312年]] - [[紀元前63年]])は、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の[[ディアドコイ]](後継者)の一人、[[セレウコス1世|セレウコス1世ニカトル]]が[[歴史的シリア|シリア]]、[[バビロニア]]、[[アナトリア]]、[[イラン高原]]、[[バクトリア]]に跨る地域に築いた王国。[[プトレマイオス朝]]や[[アンティゴノス朝]]と共に、いわゆる[[ヘレニズム]]国家の1つとされる。'''セレウコス朝シリア'''、'''シリア王国'''とも。 == 歴史 == === ディアドコイ戦争 === [[ファイル:Ellinistikos Kosmos 300pX el.PNG|thumb|350px|[[紀元前3世紀]]の[[ヘレニズム]]諸国{{legend|#c3b933|'''セレウコス朝'''}}{{legend|#50a249|[[アンティパトロス朝]]}}{{legend|#c38833|[[リュシマコス]]朝}}{{legend|#787cad|[[プトレマイオス朝]]}}]] {{イランの歴史}} セレウコス朝の始祖[[セレウコス1世]](在位:前305年 - 前281年)は[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]](在位:前359年-前336年)の部将{{仮リンク|アンティオコス (セレウコス1世の父)|label=アンティオコス|en|Antiochus (father of Seleucus I Nicator)}}とその妻{{仮リンク|ラオディケ (セレウコス1世の母)|label=ラオディケ|en|Laodice of Macedonia}}の間に生まれた<ref name="松原2010セレウコス">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 703-705 「セレウコス」の項目より</ref>。前334年にマケドニア王[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年 - 前323年)が[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)を打倒すべく東方遠征を開始すると、その[[ヘタイロイ]](幕僚)の一人として参加した<ref name="松原2010セレウコス"/>。 アレクサンドロス3世は前333年11月の[[イッソスの戦い]]、前331年6月の[[ガウガメラの戦い]]でハカーマニシュ朝の王[[ダレイオス3世|ダーラヤワウ3世]](ダレイオス3世、在位:前336年-前330年)が率いる軍勢を打ち破り、短期間のうちにその旧領を征服したが、前323年に[[バビロン]]で病死した<ref name="小川1997pp182-190">[[#小川 1997|小川 1997]], pp. 182-190</ref>。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者([[ディアドコイ]])たるを主張して争った。彼らによる一連の戦いは[[ディアドコイ戦争]]と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相([[千人隊長|キリアルコス]]、{{lang-grc|χιλίαρχος}})の[[ペルディッカス]]、有力な将軍であった[[クラテロス]]、遠征中にマケドニア本国を任されていた[[アンティパトロス]]らであった<ref name="シャムー2011pp59_60">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-60</ref>。他、[[メレアゲル]]や[[レオンナトス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス・モノフタルモス]](隻眼のアンティゴノス)、ラゴスの子[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]](1世)らが有力な将軍として争った<ref name="ウォールバンク1988p62">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 62</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。セレウコスは[[ヒュパスピスタイ]](楯持ち隊)の指揮官という地位にあったが、当初はまだ役割は限定的なものであった<ref name="ウォールバンク1988p62"/>。将軍たちがアレクサンドロス3世の領土分配を話し合った[[バビロン会議]]の際、[[アンティパトロス]]が本国マケドニアの守護を任され、アンティゴノスが[[フリュギア]]と[[アナトリア]]を、[[カルディアのエウメネス]]が[[カッパドキア]]と[[パフラゴニア]]を、[[ナウクラティスのクレオメネス]]が[[古代エジプト|エジプト]]の支配権をそれぞれ承認された。このうちクレオメネスは間もなくプトレマイオスによって排除された<ref name="ウォールバンク1988p138">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 138</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。一方、セレウコスは領地を与えられることはなかったが、騎兵隊の指揮権を掌握した<ref name="シャムー2011pp59_60"/>。 その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄[[ピリッポス3世|アリダイオス]]と遺児[[アレクサンドロス4世]]を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保し、さらにディアドコイたちに対する優位を確立すべく、アレクサンドロス3世の姉妹{{仮リンク|クレオパトラ (アレクサンドロス3世の姉妹)|label=クレオパトラ|en|Cleopatra of Macedon}}との結婚を画策した。だが、そのために既に進んでいたアンティパトロスの娘との縁談を破断としなければならず、アンティパトロスとの関係を悪化させた上、他のディアドコイからの警戒を買った<ref name="シャムー2011p64">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 64</ref>。自分に対する敵意の高まりを感じ取ったペルディッカスは自分に忠実だったカルディアのエウメネスに小アジアの本領を任せ、前321年{{refnest|group="注釈"|ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref>、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。}}ディアドコイの中でも孤立した立場にあったエジプトの支配者プトレマイオスを討つべくエジプトに進軍した<ref name="ウォールバンク1988p66"/><ref name="シャムー2011p64"/>。セレウコスはペルディッカスの配下としてこの遠征に従軍した。しかし、ペルディッカスはエジプトの[[ナイル川]]の渡河しようとした際の不手際で失敗し多くの死者を出した<ref name="シャムー2011p64"/>。この結果セレウコスは他の将軍と共にペルディッカスを見限り彼を暗殺した<ref name="シャムー2011p65">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 65</ref><ref name="ウォールバンク1988p66"/>。恐らくセレウコスはエジプトから撤退するペルディッカスの軍団において指導的役割を果たしていたであろう<ref name="Grainger2015p25">[[#Grainger 2015|Grainger 2015]], p. 25</ref>。その後、アンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、セレウコスはバビロニアを手に入れた<ref name="小川1997p191">[[#小川 1997|小川 1997]], p. 191</ref>。 前319年にアンティパトロスが死亡すると、その後継者[[ポリュペルコン]]とアンティゴノスが対立した。ポリュペルコンを支持したカルディアのエウメネスはセレウコスに帰順を要求したが、セレウコスがこれを拒否すると前318年10月にバビロンを占領した<ref name="マッキーン1976p294">[[#マッキーン 1976|マッキーン 1976]], p. 294</ref>。セレウコスは反撃を試みたが失敗し、エウメネスがさらにメディアに向けて進発すると、前317年のはじめに北部バビロニアに進出していたアンティゴノスの助力を得て二度にわたるバビロニア攻撃を行い支配地を奪還し、翌年にはアンティゴノスのエウメネス討伐軍に合流してエウメネスを打倒した<ref name="マッキーン1976p294"/><ref name="シャムー2011p71">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 71</ref>。バビロニアを支配するセレウコス1世は、この戦いを通じてディアドコイたちの中で卓越した勢力を持つようになったアンティゴノス1世に疎まれるようになった。前315年にセレウコス1世はバビロニアから追い出され、エジプトの[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]の下に身を寄せた<ref name="ウォールバンク1988p68">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 68</ref>。 プトレマイオスは[[カッサンドロス]]や[[リュシマコス]]らと対アンティゴノスの同盟を結ぶと共に、アンティゴノスの勢力をかく乱するためセレウコスに1000人足らずの兵士を与えてバビロニアに送り出した<ref name="シャムー2011p73">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 73</ref>。セレウコスは移動中の住民たちを糾合することに成功し、前311年春にバビロン市を奪還して周辺の支配権を取り戻すことに成功した<ref name="シャムー2011p73"/>。セレウコス朝はセレウコスのバビロン帰還を統治の始まりと見なしており、この出来事は[[セレウコス暦]]の起点となった<ref name="シャムー2011p73"/>。 プトレマイオスとの戦いが順調に行かず、セレウコスの排除にも失敗して苦境に陥ったアンティゴノスは前311年にプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスらと互いの支配地を相互に承認しあう現状追認の協定を締結したが、この協定に加わっていなかったセレウコスは[[イラン高原]]方面での勢力拡張を目論んだ<ref name="シャムー2011p74">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 74</ref>。セレウコスは東方の諸属州の支配権を奪回しようとするアンティゴノスの行動を撃退し、イランの支配を確立した<ref name="シャムー2011p74"/><ref name="ウォールバンク1988p74">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 74</ref>。イラン高原よりさらに東におけるセレウコスの征服活動は、[[インド]]で勢力を拡張していた[[マウリヤ朝]]の建設者[[チャンドラグプタ1世]]に阻まれて順調に進まなかった。具体的な経過は詳らかではないものの、インドとの境界地帯での戦いは前303年頃、セレウコスが[[ガンダーラ]]、[[ゲドロシア]]、[[アラコシア]]に至る広大な地域がマウリヤ朝の支配下に入ることを承認するという結果に終わった<ref name="シャムー2011p75">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 75</ref><ref name="ウォールバンク1988p75">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 75</ref>。 この最中、前306年にアンティゴノスが息子の[[デメトリオス・ポリオルケテス]](都市攻囲者デメトリオス)ともども王を称するようになると、翌前305年にはセレウコスも後に続いて王を名乗り、またプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスも同じく王を名乗った<ref name="シャムー2011p76">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 76</ref>。アンティゴノス1世とデメトリオス1世がギリシアとアナトリアで勢力を拡張すると、前301年にセレウコス1世はリュシマコスと共にアンティゴノス1世を攻撃すべく進軍し、春に[[イプソス]]近郊の[[シュンナダ]]で決戦が行われた([[イプソスの戦い]])<ref name="シャムー2011p81">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 81</ref>。この戦いでアンティゴノス1世を敗死させたセレウコス1世は、前281年にはリュシマコスの領土を狙ってアナトリア方面に軍を進め、リュディアの旧都[[サルディス]]西方の[[コルペディオンの戦い]]でリュシマコスを破った。この結果、アレクサンドロス3世の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配するところとなった<ref name="シャムー2011p93">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 93</ref>。 === 継承 === 同年、セレウコス1世はさらにマケドニア本国を目指して進軍したが、自らの下に亡命していた[[プトレマイオス・ケラウノス]](エジプト王プトレマイオス1世の息子)によって暗殺された<ref name="シャムー2011p93"/>。プトレマイオス・ケラウノスはその後リュシマコスの仇を討ったとして、リュシマコスの遺産獲得に進むこととなる<ref name="シャムー2011p94">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 94</ref>。 セレウコス1世が死亡する前、息子の[[アンティオコス1世ソテル|アンティオコス1世]](ソテル)は王の称号とともにセレウコス朝の東方領土(上部サトラペイア)の支配を委ねられていた<ref name="シャムー2011p110">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 110</ref>。父セレウコス1世と息子アンティオコス1世による分担統治の実態はよくわかっておらず、文献史料においてοι άνω τόποιと呼ばれる、また現存する唯一の碑文史料においてοι άνω σατραπείαιと呼ばれる上部サトラペイア地域の正確な範囲はわかっていない<ref name="Engels2017p116">[[#Engels 2017|Engels 2017]], p. 116</ref>。古代の歴史学者の記録は[[ユーフラテス川]]の東の全てがアンティオコス1世の所管で、帝国の中枢部であった[[バビロニア]]をも含んでいたとする[[アッピアノス]]や、[[ティグリス川]]以東、主として[[イラン高原]]地域をその領域として列挙する[[シケリアのディオドロス]]などがある<ref name="Engels2017p116"/>。いずれにせよ、セレウコス1世の存命中、アンティオコス1世は[[メディア王国|メディア]]や[[バクトリア]]で多くの時を費やしていた<ref name="Engels2017p117">[[#Engels 2017|Engels 2017]], p. 117</ref>。 281年のセレウコス1世の死を受けて帝国を継承したアンティオコス1世は、ただちに父の本拠地であった[[歴史的シリア|シリア]]での反乱に直面した<ref name="Bing_Sievers1986">[[#Bing, Sievers 1986|Bing, Sievers 1986]]</ref>。加えて、[[アナトリア]]への[[ガリア人]]([[ケルト人]])の侵攻(前278年-前275年)、さらには南部シリア([[コイレ・シリア]]をめぐる[[プトレマイオス朝]]との戦争([[第一次シリア戦争|第1次シリア戦争]]:前274年-前271年頃)の勃発が重なり、アンティオコス1世の治世初期はこれら西方での諸紛争に忙殺されることとなった<ref name="シャムー2011p110"/><ref name="Bing_Sievers1986"/>。それでも、アンティオコス1世は父親と同じように自分の息子[[セレウコス (アンティオコス1世の息子)|セレウコス]]を上部サトラペイアの支配者として共同統治者に任命し、少なくとも治世前半には東方領土はまだセレウコス朝の王権に十分服しており、第1次シリア戦争においては銀や象などがバビロン、さらにはバクトリアからシリアへと送付されている<ref name="Bing_Sievers1986"/>。しかし、このセレウコスは前267年に反逆の嫌疑により処刑され、代わって別の息子[[アンティオコス2世テオス|アンティオコス]](2世)が上部サトラペイアの支配者に任命された<ref name="Bing_Sievers1986"/>。その後、アンティオコス1世はアナトリア方面における[[ペルガモン王国|ペルガモン]]への遠征で敗死し、アンティオコス2世が跡を継いだ。 === 東部領土の喪失 === セレウコス朝の国力と関心が西方に集中している間、そのための負担のみを求められた東部領土の有力者たちは離反の動きを強めた。[[紀元前250年]]頃、[[ディオドトス1世]]は支配地域のバクトリアを独立させて[[グレコ・バクトリア王国]]を建て、さらに[[アンドラゴラス]]が支配地域のパルティアナを独立させて[[パルティア]]を建てた。[[中央アジア]]方面におけるセレウコス朝の領土は大幅に縮小した。 さらに[[紀元前246年]]に即位した[[セレウコス2世|セレウコス2世カリニコス]]は、プトレマイオス朝との戦争に加え、兄弟である[[アンティオコス・ヒエラクス]]の反乱に直面し、セレウコス朝の領土縮小に拍車をかけた。 === アンティオコス3世の遠征とローマ === [[紀元前3世紀|紀元前223年]]、[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]が即位すると、セレウコス朝は再び拡大期に入った。アンティオコス3世は即位するとすぐ国内の反乱勢力の多くを鎮圧した。プトレマイオス朝と戦った{{仮リンク|第四次シリア戦争|de|Vierter Syrischer Krieg|label=第4次シリア戦争}}では[[紀元前3世紀|紀元前217年]]の[[ラフィアの戦い]]では一敗地にまみれたものの、[[紀元前212年]]に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。まずパルティアへ向かったアンティオコス3世は、アンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていた[[パルティア|アルサケス朝]]の[[アルサケス2世]]を破った。続いてバクトリアへ向かい、[[アリエ川の戦い]]でバクトリア王[[エウテュデモス1世]]の軍勢を破り、さらに[[バクトラ]]を2年間にわたって包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。東方遠征から戻ったアンティオコス3世は再びプトレマイオス朝と戦って勝利した({{仮リンク|第五次シリア戦争|de|Fünfter Syrischer Krieg|label=第5次シリア戦争}})。 これらの業績によって彼は大王と呼ばれる。しかし、間もなく[[共和政ローマ]]と対立し[[ローマ・シリア戦争]]が勃発するが、[[マグネシアの戦い]]で決戦に及んだが大敗に終わり、[[アパメイアの和約]]で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。アンティオコス3世の息子[[セレウコス4世|セレウコス4世フィロパトル]]、[[アンティオコス4世エピファネス]]の治世を通じて、ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け、反比例してセレウコス朝の権威は失墜した。 === 衰退 === [[ファイル:1stMithritadicwar89BC.png|thumb|280px|紀元前89年頃{{legend|#1fa4b4|'''セレウコス朝'''}}{{legend|#ef0000|[[共和政ローマ]]}}{{legend|#ff8686|ローマ属国}}{{legend|#951bb3|[[パルティア]]}}{{legend|#0938a4|[[アトロパテネ王国]](メディア地域)}}{{legend|#0e3bff|[[ハスモン朝]](ユダヤ)}}{{legend|#ff900e|[[アルメニア王国]]}}{{legend|#3bcc08|[[ポントス王国]]}}{{legend|#6dea41|ポントス属国}}{{legend|#ebcd00|[[プトレマイオス朝]]}}]] アンティオコス3世がローマとの戦いに敗れると、すぐにパルティアはセレウコス朝から離反した。アンティオコス4世はパルティアに遠征をして勢力回復を図るも死去し、パルティアは[[フラーテス1世]]や[[ミトラダテス1世|ミトリダテス1世]]の下で勢力を拡大し、グレコ・バクトリアを圧迫するとともに[[紀元前146年]]には[[メディア王国|メディア]]地方を併合してセレウコス朝の中核地帯に迫った。また西部でも[[紀元前142年]]には[[ユダヤ人]]の独立にも直面した([[マカバイ戦争]])。 パルティアの攻撃によって[[紀元前141年]]には[[セレウキア]]が、[[紀元前140年]]には[[スサ]]が陥落し、[[メソポタミア]]がパルティアの支配下に置かれるに到った。反撃に出た[[デメトリオス2世ニカトル]]は敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦った[[アンティオコス7世シデテス]]はパルティア支配に反発するギリシア人らを糾合してパルティアを攻撃し、メソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め上ったが、そこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。 これによって、彼が回復した領土も再びパルティアの支配下に収まり、セレウコス朝は首都[[アンティオキア]]周辺のわずかな領域を支配するに過ぎなくなった。 === 滅亡 === [[紀元前1世紀]]にはいると、セレウコス朝が政治的に積極的な役割を果たすことは無くなった。[[紀元前83年]]、セレウコス朝は[[アルメニア王国|アルメニア]]王[[ティグラネス2世]]の支配下に入った。しかし、ティグラネスがローマの仇敵であった[[ポントス]]王[[ミトリダテス6世]]と同盟関係にあったため、ローマはアルメニアを攻撃してティグラネスを降伏させた。その後シリアに進駐したローマの司令官[[グナエウス・ポンペイウス]]はシリアを[[シリア属州]]とし、セレウコス朝の歴史はここに終了した。 == 統治 == 初代[[セレウコス1世]]は、息子の[[アンティオコス1世ソテル|アンティオコス1世]]にユーフラテス川より東の広大な地域(当時は[[上部サトラペイア]]と呼ばれた)の統治を任せた。アンティオコス1世は[[ティグリス川|ティグリス]]河畔の[[セレウキア]]を拠点にこの領土を治めた。この事実はセレウコス1世による支配の力点が圧倒的に西方、シリアに置かれていたことを示す。アンティオコス1世による東方領土統治の詳細はよくわかっていない。セレウコス1世の政敵であった[[アンティゴノス1世]]は、かつて[[メディア王国|メディア]]の総督([[サトラップ]])であった[[ニカノル (太守)|ニカノル]]に上部サトラペイアの統治を任せたといわれており、アンティオコス1世の地位はこれを継承したものであると推定されている。この王族による東西領土の分割統治は、その後も断続的に続いた。 === 都市建設 === [[ファイル:Doura Europos Block L27 south part.jpg|thumb|280px|ドゥラ・エウロポス遺跡にある城壁跡]] セレウコス朝は征服した領土内で活発な都市建設を行った。これはヘレニズム時代に顕著な特徴であり、とりわけセレウコス1世とアンティオコス1世は熱心に都市建設を実施したことが知られている。この両者によって建設された都市は知られているだけで40以上にのぼり、実際にはさらに多かったと考えられている。 こうした都市建設を熱心に進めた理由は、歩兵を主力としたセレウコス朝にとって連続した都市網の整備が重要であったことや、支配の確立にあたって領内に[[ギリシア人]]・[[マケドニア人]]を定着させる必要があったことである。ただし、多くの場合これらの新都市は既存の都市を拡張、または再整備したものであった。たとえば北メソポタミアに建設された[[アンティオケイア (ミュグドニア)|アンティオキア]](ミュグドニアのアンティオキア)は旧[[ニシビス]]を基盤として拡張された計画都市であった。 セレウコス朝の都市建設政策の中でもとりわけ重要視されたのはセレウコス朝の中核地域であったシリアであった。この地方には、首都[[アンティオキア]](オロンテス河畔のアンティオキア)、軍事の中心となった[[アパメア]](オロンテス河畔のアパメア)、港湾都市[[セレウキア (ピエリア)|セレウキア]](ピエリアのセレウキア)、そして[[ラタキア|ラオディキア]](海に臨むラオディキア)など多数の計画都市が建設された。上に上げた4都市は、四大都市とよばれ、シリアに建設された都市の中でもとりわけ重要視された。 都市建設の中心をなしたのは、ギリシア的な[[ポリス]]の建設よりは'''[[カトイキア]]'''と呼ばれた軍事植民地の建設であった。移住する多くのギリシア人たちにとって、自分たちの居住すべき土地は当然ポリスでなくてはならなかった。しかし、大規模都市建設は負担が大きく、また領土内の安定を重要視したセレウコス朝は将来のポリスへの昇格を前提としつつ、より簡易なカトイキアの建設を多数行った。カトイキアもまた、しばしば既存の都市を利用して建設されたといわれている。 カトイキアの中でも最も有名なのは[[ドゥラ・エウロポス]]である。この計画都市は西の中心である首都アンティオキアと、東の中心であるティグリス河畔のセレウキアを結ぶ「王の道」の中間に、警備、および補給拠点として建設された。この都市についてセレウコス朝時代のことはほとんど知られていないが、その立地条件はカトイキアの性格の一端を示す。 === マケドニア・ギリシア人と現地人 === マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。ティグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。 近現代の研究者たちによって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えば[[ストラニキア]]における[[カリア人]]など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造ることで、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない)。 現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]が編成した[[ファランクス]]の構成員の過半数がオリエント各地の[[傭兵]]によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。 == 年表 == *[[紀元前305年]]、[[セレウコス1世|セレウコス1世ニカトル]]、王を名乗る。 *[[紀元前304年]]、インド領を放棄 *[[紀元前301年]]、シリアを獲得 *[[紀元前281年]]、小アジアの大半を獲得し、[[ディアドコイ戦争]]は最終的に終結。 *[[紀元前278年]]、マケドニアと和解 *[[紀元前274年]]、[[ガリア]]人の侵入を撃退 *[[紀元前271年]]、[[プトレマイオス朝]]との第一次シリア戦争 *[[紀元前262年]]、[[アッタロス朝]]が独立 *[[紀元前260年]]、第二次シリア戦争 *[[紀元前255年]]頃、[[バクトリア]]が独立。 *[[紀元前247年]]頃、[[パルティア]]が独立。 *[[紀元前246年]]、第三次シリア戦争 *[[紀元前219年]]、第四次シリア戦争 *[[紀元前212年]]、アンティオコス3世東方へ大遠征。 *[[紀元前205年]]、[[パルティア]]、インドなどに対し宗主権を確立 *[[紀元前205年]]、第五次シリア戦争 *[[紀元前190年]]、[[ローマ・シリア戦争]]にて[[共和政ローマ]]に敗北し、[[アルメニア王国|アルメニア]]が独立 *[[紀元前140年]]、[[マカバイ戦争]]に敗北し[[ハスモン朝|ユダヤ人]]の独立を承認 *[[紀元前130年]]、[[パルティア]]との戦争に敗北し、東方の領土を完全に喪失 *[[紀元前64年]]、[[ポンペイウス]]に敗北し滅亡。ローマに併合へ == 歴代君主 == #[[セレウコス1世|セレウコス1世ニカトル]]([[紀元前312年|前312年]] - [[紀元前281年|前281年]]) #[[アンティオコス1世ソテル]](前281年 - [[紀元前261年|前261年]]) #[[アンティオコス2世テオス]](前261年 - [[紀元前246年|前246年]]) #[[セレウコス2世|セレウコス2世カリニコス]](前246年 - [[紀元前226年|前226年]]) #*[[アンティオコス・ヒエラクス]](前240年 - [[紀元前228年|前228年]]) - アナトリアで自立 #[[セレウコス3世|セレウコス3世ケラウノス]](前226年 - [[紀元前223年|前223年]]) #[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]](前223年 - [[紀元前187年|前187年]]) #*[[アカエオス]]([[紀元前220年|前220年]] - [[紀元前213年|前213年]]) #[[セレウコス4世|セレウコス4世フィロパトル]](前187年 - [[紀元前175年|前175年]]) #[[アンティオコス4世エピファネス]](前175年 - [[紀元前164年|前164年]]) #[[アンティオコス5世エウパトル]](前164年 - [[紀元前162年|前162年]]) #[[デメトリオス1世ソテル]](前162年 - [[紀元前150年|前150年]]) #[[アレクサンドロス1世バラス]](前150年 - [[紀元前145年|前145年]]) #[[デメトリオス2世ニカトル]](前145年 - 前138年) - 一時パルティアの捕虜  #*[[アンティオコス6世|アンティオコス6世ディオニュソス]](前145年 - [[紀元前140年|前140年]]?) #*[[ディオドトス・トリュフォン]](前140年? - 前138年) - 簒奪者 #[[アンティオコス7世シデテス]]([[紀元前138年|前138年]] - [[紀元前129年|前129年]]) #デメトリオス2世ニカトル(前129年 - 前126年)、復位 #*[[アレクサンドロス2世ザビナス]]([[紀元前128年|前128年]] - 前122年) - 簒奪者 #[[クレオパトラ・テア]]([[紀元前125年|前125年]] - [[紀元前121年|前121年]]) - アレクサンドロス1世、デメトリオス2世、アンティオコス7世の妃 #*[[セレウコス5世|セレウコス5世フィロメトル]](前126年 - [[紀元前125年|前125年]]) #[[アンティオコス8世|アンティオコス8世グリュポス]](前125年 - [[紀元前96年|前96年]])  #*[[アンティオコス9世|アンティオコス9世キュジケノス]]([[紀元前113年|前113年]] - 前95年) #[[セレウコス6世|セレウコス6世エピファネス・ニカトル]](前96年 - [[紀元前95年|前95年]]) #[[アンティオコス10世|アンティオコス10世エウセベス]](前95年 - 前92年または前83年) #*[[デメトリオス3世エウカエラス]](前95年 - 前88年) #*[[フィリッポス1世フィラデルフォス]](前95年 - 前83年) #*[[アンティオコス11世|アンティオコス11世エピファネス・フィラデルフォス]](前95年 - 前92年) #*[[アンティオコス12世|アンティオコス12世ディオニュソス]](前87年 - [[紀元前84年|前84年]]) #[[ティグラネス2世|ティグラネス1世]](前83年 - [[紀元前69年|前69年]])、アルメニア王 #*[[セレウコス7世|セレウコス7世キビオサクテス]](前83年 - 前69年) #[[アンティオコス13世|アンティオコス13世アジアティクス]](前69年 - 前63年) #*[[フィリッポス2世フィロロマイオス]](前69年 - [[紀元前63年|前63年]]) ==系図== {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | | | | | | | | | | |AP1 |~|y|~|~|SE1 |~|y|~|~|~|~|~|STR | |AP1=[[アパメー|アパメー1世]]|SE1='''[[セレウコス1世]]'''|STR=[[ストラトニケ]]<br>(マケドニア王[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]娘)|boxstyle_SE1 =background-color: #ff9;}} {{familytree | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|^|-|-|.| | | |!| | | | | | |:|}} {{familytree | | | | | | | |!| | | | | | | | |AKA | |FIL |~|AN2 | |:| |AKA=アカイオス|FIL=フィラ|AN2=[[アンティゴノス2世]]<br>マケドニア王}} {{familytree | | | | | | |AN1 |y|~|~|~|~|~|~|~|#|~|~|~|~|~|~|~|~|~|~|J| |AN1='''[[アンティオコス1世ソテル|アンティオコス1世]]'''|boxstyle_AN1 =background-color: #ff9;}} {{familytree | | | | | |,|-|-|-|^|-|-|-|.| | | |)|-|-|-|.| | | | | | | | |}} {{familytree 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Bing |author2=J. Sievers |url=http://www.iranicaonline.org/articles/antiochus-1--thirteen-kings-of-the-seleucid-dynasty | encyclopedia = Encyclopaedia Iranica | date=December 1986 |ref=Bing, Sievers 1986}} * {{Cite book |洋書 |author=デーヴィッド・エングルス(David Engels)|title=Benefactors, Kings, Rulers. Studies on The Seleukid Empire Between East and West |publisher=Peeters Pub & Booksellers |date=2017-07 |isbn=978-90-4293327-9 |ref=Engels 2017}}(ペーパーバック版、原著:1990年) * {{Cite book |和書 |author=松原國師|authorlink=松原國師 |title=西洋古典学事典 |date=2010-6 |publisher=[[京都大学|京都大学出版会]] |isbn=978-4-87698-925-6 |ref=松原 2010}} * {{Cite book |和書 |author=小川英雄|authorlink=小川英雄 |chapter=地中海アジアの隷属 |title=オリエント世界の発展 |pages=159-192 |series=世界の歴史4 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|date=1997-7|isbn=978-4-12-403404-2 |ref=小川 1997}} * {{Cite book |和書 |author=フランソワ・シャムー|authorlink=フランソワ・シャムー |translator=[[桐村泰次]] |title=ヘレニズム文明 |publisher=[[諭創社]] |date=2011-3 |isbn=978-4-8460-0840-6 |ref=シャムー 2011}} * {{Cite book |和書 |author=フランク・ウィリアム・ウォールバンク|authorlink=フランク・ウィリアム・ウォールバンク |translator=[[小河陽]] |title=ヘレニズム世界 |publisher=[[教文館]] |date=1988-1 |isbn=978-4-7642-6606-3 |ref=ウォールバンク 1988}} * {{Cite book |洋書 |author=ジョン・D・グレンジャー(John D. Grainger)|title=Seleukos Nikator Constructing a Hellenistic Kingdom |publisher=Routledge |series=Routledge Revivals |date=2015-5 |isbn= 978-0-41574401-0 |ref=Grainger 2015}}(ペーパーバック版、原著:1990年) *『イランの古代文化』 ([[ロマン・ギルシュマン]] [[岡崎敬]]他2名訳 [[平凡社]] [[1970年]]) *『オリエント史講座3 ―渦巻く諸宗教―』 ([[前嶋信次]]他2名 [[学生社]] [[1982年]]) *『ヘレニズムとオリエント ―歴史の中の文化変容―』 ([[大戸千之]] [[ミネルヴァ書房]] [[1993年]]) *『世界の歴史5 ギリシアとローマ』 ([[桜井万里子]]、[[本村凌二]] 中央公論新社 1997年) *『[[岩波講座世界歴史|岩波講座 世界歴史]] 第2巻 オリエント世界』([[前川和也 (歴史学者)|前川和也]]他10名 [[岩波書店]] [[1998年]]) *『アイハヌム 2003』 ([[加藤九祚]] [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] [[2003年]]) *『NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教』 ([[前田耕作]]他 [[NHK出版]] 2003年) == 関連項目 == * [[シリア戦争 (プトレマイオス朝)]] * [[第三次ミトリダテス戦争]] ==脚注== === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === <references /> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せれうこすちよう}} [[Category:セレウコス朝|*]] [[Category:古代ギリシア]] [[Category:ディアドコイ]] [[Category:シリアの歴史]] [[Category:レバノンの歴史]] [[Category:中東史]]
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源義経
源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸()と言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。 義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。 清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。 後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王()と名乗った。 やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝手をたどった可能性が高い。 『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。 治承4年(1180年)8月17日に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。 寿永2年(1183年)7月、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河院の怒りを買う。そして後白河院が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と中原親能を代官として都へ送った。『玉葉』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。 義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500 - 600騎に過ぎず入京は困難だった。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面武士・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。 この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破し、範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。 一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった。 義経はその後、平氏追討のために西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる。 8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われており、この最中の8月6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。9月、義経は頼朝の周旋により河越重頼の娘を正室に迎えた。 一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得た。 元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。 範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する。 平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。 元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。 一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現神奈川県鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。5月24日、頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が腰越状である。 義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。 特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった。 そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。 結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。9月2日、平時忠が5月20日に配流の決定が出されていたにもかかわらず、義経の舅となった縁によって未だ京に滞在していることにより、頼朝の怒りを買っている。頼朝は京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に断った。 ただし延慶本『平家物語』によれば義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後に京に戻ったとされており、『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとあることから、義経が鎌倉入りを許されなかったというのは『吾妻鏡』の誤伝または曲筆であり、実際には義経は鎌倉入りしているとの説もある。「腰越状」も文体などから後世の偽作であるとの見方が大勢を占めている。また近年の研究では、義経が平氏追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木泰雄は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者決裂の決定的要因であるとしている。一方、本郷和人は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとしている。 10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。11日、義経は後白河法皇に、行家が頼朝に対して反乱を起こし、制止しようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞し、法皇はさらに行家に制止を加えよと命じた。13日、義経は行家に制止を加えたが承知せず、自分も行家に同心したと述べ、その理由として頼朝による伊予国の国務妨害、没官領没収、刺客派遣の噂を挙げ、墨俣の辺で一戦を交え雌雄を決したいと言った。法皇は驚き、重ねて行家を制止せよと命じる。だが16日夜、義経はやはり行家に同心したと述べ、頼朝追討の宣旨を要求した。さらに勅許がなければ身の暇を濃い鎮西に下向すると述べ、天皇・法皇・公家をことごとく連行していくことをほのめかしたため、法皇周辺は騒然となる。17日、土佐坊ら60余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。 なお土佐坊昌俊の派遣および襲撃は『吾妻鏡』『平家物語』に記載されているが、『玉葉』では17日深夜に頼朝郎従の武蔵国住人児玉党30余騎が中人の報告を受けて義経を襲撃するが行家が救援に駆け付けてこれを撃退したとある。義経が院宣を最初に申請したのは、『吾妻鏡』では10月13日、『玉葉』では16日となっていて、17日の土佐坊による襲撃よりも前のことになっている。これに関して河内祥輔は義経が事前に土佐坊の襲撃の情報を入手して院宣を申請し、17日の襲撃では最初から迎撃の態勢を取っていたとする。一方、菱沼一憲は土佐坊を頼朝が派遣した刺客だとするのは義経による朝廷への一方的な主張のみで、『吾妻鏡』『平家物語』が記す頼朝が土佐坊を派遣した経緯を証明する同時代史料はなく、創作された可能性もあるとして、頼朝との対立を深めた義経が先に院宣を得ようとしたところ、在京や畿内周辺の御家人が動揺して頼朝を支持する土佐坊らが義経暗殺を計画したもので、頼朝は少なくともこの襲撃事件には関与していなかったとする。 29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、3日に義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方、25日に義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。 義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた河越重頼とその嫡男重房も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ、さらに義顕と改名させられた。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。一方、『玉葉』で義経の奥州逃亡が確認されるのは文治4年(1188年)正月9日条で、それによると実際の到着は文治3年の9月から10月ごろだったという。 藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。この要請には頼朝の計略があった。義経追討を自身が受け、奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘する怖れがある。朝廷に宣旨を出させて泰衡に要請して義経を追討させることで2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明したのも、頼朝自身が義経を追討することができない表面的な理由としたかったためである。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしているが、翌年の衣川の戦いの結果を踏まえると、敗北した可能性がある。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。この義経の行動に関しては、度重なる追討要請により泰衡との齟齬が激しくなった為に、京都へ脱出(帰京)しようとしていたのではないかとの推測もある。 この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。武蔵坊弁慶を始めとした義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討死、もしくは切腹した。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦わず持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後、自害して果てた。享年31(満30歳没)。 義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。泰衡は同月、義経と通じていたとして、三弟の藤原忠衡を殺害したが、結局、直後の奥州合戦で、源頼朝に攻められ滅亡した。 伝承ではその後、義経の首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされ位牌が荘厳寺にある、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である衣川の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。 なお、頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺になっている。この寺を巡っては『吾妻鏡』宝治2年2月5日条に、左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。 ※日付は旧暦、年齢は数え年、改元の年は改元後の元号に即す 義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、源義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父・源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとする説があるが、義朝の末子であることは確かである。 源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があり、また異父妹も1人いた。 妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平氏滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。 他には源有綱が義経の婿と称していることから、有綱の妻を義経の娘とする説もある。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である。 死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人物の義経評を挙げる。 義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。これは他の歴史上の人物にも共通することで、当時の肖像画の多くは神社仏閣に奉納する目的で描かれたもので、死後に描かれるのが通常である。 身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると147cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かなことは不明である。 義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の家人・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。 『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で『平家物語』をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている。 江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹司義経の印象が定着していった。 下野国の御家人、中村朝定は義経の遺児であったという伝承がある。「藤原秀衡の命を受けた常陸坊海尊は源義経の子、経若(千歳丸)を常陸入道念西(伊達朝宗)に託した。経若(千歳丸)は、後に朝定と名乗った」と、栃木県真岡市の遍照寺の古寺誌や、青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起に残されており、縁も所縁もない遠隔地に於いて同様の伝承がある。朝定の一族、中村氏は現在まで存続している。 以下は物語のみに見られる人物。 講談などで語られるいわゆる「源義経19臣」は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤継信、佐藤忠信、鎌田藤太、鎌田藤次、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、鈴木三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、御厨喜三太、江田源次、江田源三、堀弥太郎、赤井十郎、黒井五郎。 優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになった。 義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との堀川小路から清水観音での出会い。(後世の作品では五条大橋)、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。 また義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。 後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方(北行)伝説」と呼んでいる。そして寛政11年(1799年)に、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。 「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。 またこれらの伝説を強化したと思われる記述として、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)の『続本朝通鑑』がある。記述は「或曰、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今(現訳~義経は衣川の戦で死なず、逃れ蝦夷島に至りその子孫を残す)」とある。 この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。 この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。 このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。 大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。 こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。 現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。 上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している 。 菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書で以下の説を述べている。 また、菱沼は別の著書で以下の説を述べている。 元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。 義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後200年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた。謡曲では30余曲、幸若舞では19曲の「判官物」がある。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸()と言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語』や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王()と名乗った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日桃の節句(上巳)に鏡の宿に泊まって自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝手をたどった可能性が高い。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "治承4年(1180年)8月17日に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・忠信兄弟等およそ数十騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "寿永2年(1183年)7月、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河院の怒りを買う。そして後白河院が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と中原親能を代官として都へ送った。『玉葉』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "義経と親能は11月に近江国に達したが、その軍勢は500 - 600騎に過ぎず入京は困難だった。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、北面武士・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破し、範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった。 義経はその後、平氏追討のために西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる。 8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われており、この最中の8月6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。9月、義経は頼朝の周旋により河越重頼の娘を正室に迎えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得た。 元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現神奈川県鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。5月24日、頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が腰越状である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。9月2日、平時忠が5月20日に配流の決定が出されていたにもかかわらず、義経の舅となった縁によって未だ京に滞在していることにより、頼朝の怒りを買っている。頼朝は京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に断った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ただし延慶本『平家物語』によれば義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後に京に戻ったとされており、『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとあることから、義経が鎌倉入りを許されなかったというのは『吾妻鏡』の誤伝または曲筆であり、実際には義経は鎌倉入りしているとの説もある。「腰越状」も文体などから後世の偽作であるとの見方が大勢を占めている。また近年の研究では、義経が平氏追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木泰雄は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者決裂の決定的要因であるとしている。一方、本郷和人は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。11日、義経は後白河法皇に、行家が頼朝に対して反乱を起こし、制止しようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞し、法皇はさらに行家に制止を加えよと命じた。13日、義経は行家に制止を加えたが承知せず、自分も行家に同心したと述べ、その理由として頼朝による伊予国の国務妨害、没官領没収、刺客派遣の噂を挙げ、墨俣の辺で一戦を交え雌雄を決したいと言った。法皇は驚き、重ねて行家を制止せよと命じる。だが16日夜、義経はやはり行家に同心したと述べ、頼朝追討の宣旨を要求した。さらに勅許がなければ身の暇を濃い鎮西に下向すると述べ、天皇・法皇・公家をことごとく連行していくことをほのめかしたため、法皇周辺は騒然となる。17日、土佐坊ら60余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお土佐坊昌俊の派遣および襲撃は『吾妻鏡』『平家物語』に記載されているが、『玉葉』では17日深夜に頼朝郎従の武蔵国住人児玉党30余騎が中人の報告を受けて義経を襲撃するが行家が救援に駆け付けてこれを撃退したとある。義経が院宣を最初に申請したのは、『吾妻鏡』では10月13日、『玉葉』では16日となっていて、17日の土佐坊による襲撃よりも前のことになっている。これに関して河内祥輔は義経が事前に土佐坊の襲撃の情報を入手して院宣を申請し、17日の襲撃では最初から迎撃の態勢を取っていたとする。一方、菱沼一憲は土佐坊を頼朝が派遣した刺客だとするのは義経による朝廷への一方的な主張のみで、『吾妻鏡』『平家物語』が記す頼朝が土佐坊を派遣した経緯を証明する同時代史料はなく、創作された可能性もあるとして、頼朝との対立を深めた義経が先に院宣を得ようとしたところ、在京や畿内周辺の御家人が動揺して頼朝を支持する土佐坊らが義経暗殺を計画したもので、頼朝は少なくともこの襲撃事件には関与していなかったとする。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、3日に義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方、25日に義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた河越重頼とその嫡男重房も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ、さらに義顕と改名させられた。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。一方、『玉葉』で義経の奥州逃亡が確認されるのは文治4年(1188年)正月9日条で、それによると実際の到着は文治3年の9月から10月ごろだったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。この要請には頼朝の計略があった。義経追討を自身が受け、奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘する怖れがある。朝廷に宣旨を出させて泰衡に要請して義経を追討させることで2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明したのも、頼朝自身が義経を追討することができない表面的な理由としたかったためである。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしているが、翌年の衣川の戦いの結果を踏まえると、敗北した可能性がある。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。この義経の行動に関しては、度重なる追討要請により泰衡との齟齬が激しくなった為に、京都へ脱出(帰京)しようとしていたのではないかとの推測もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。武蔵坊弁慶を始めとした義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討死、もしくは切腹した。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦わず持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後、自害して果てた。享年31(満30歳没)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。泰衡は同月、義経と通じていたとして、三弟の藤原忠衡を殺害したが、結局、直後の奥州合戦で、源頼朝に攻められ滅亡した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "伝承ではその後、義経の首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされ位牌が荘厳寺にある、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である衣川の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺になっている。この寺を巡っては『吾妻鏡』宝治2年2月5日条に、左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "※日付は旧暦、年齢は数え年、改元の年は改元後の元号に即す", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、源義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父・源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとする説があるが、義朝の末子であることは確かである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があり、また異父妹も1人いた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平氏滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "他には源有綱が義経の婿と称していることから、有綱の妻を義経の娘とする説もある。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人物の義経評を挙げる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。これは他の歴史上の人物にも共通することで、当時の肖像画の多くは神社仏閣に奉納する目的で描かれたもので、死後に描かれるのが通常である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると147cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かなことは不明である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の家人・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で『平家物語』をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹司義経の印象が定着していった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "下野国の御家人、中村朝定は義経の遺児であったという伝承がある。「藤原秀衡の命を受けた常陸坊海尊は源義経の子、経若(千歳丸)を常陸入道念西(伊達朝宗)に託した。経若(千歳丸)は、後に朝定と名乗った」と、栃木県真岡市の遍照寺の古寺誌や、青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起に残されており、縁も所縁もない遠隔地に於いて同様の伝承がある。朝定の一族、中村氏は現在まで存続している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "以下は物語のみに見られる人物。", "title": "郎党・従者など" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "講談などで語られるいわゆる「源義経19臣」は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤継信、佐藤忠信、鎌田藤太、鎌田藤次、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、鈴木三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、御厨喜三太、江田源次、江田源三、堀弥太郎、赤井十郎、黒井五郎。", "title": "郎党・従者など" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになった。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との堀川小路から清水観音での出会い。(後世の作品では五条大橋)、陰陽師・鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち蝦夷地に逃れたとする主張を、「義経北方(北行)伝説」と呼んでいる。そして寛政11年(1799年)に、この伝説に基づき、蝦夷地のピラトリ(現・北海道沙流郡平取町)に義経神社が創建された。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、中川郡の本別町には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "またこれらの伝説を強化したと思われる記述として、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)の『続本朝通鑑』がある。記述は「或曰、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今(現訳~義経は衣川の戦で死なず、逃れ蝦夷島に至りその子孫を残す)」とある。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・オキクルミの正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である。", "title": "伝説" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している 。", "title": "近年の研究" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書で以下の説を述べている。", "title": "近年の研究" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、菱沼は別の著書で以下の説を述べている。", "title": "近年の研究" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。", "title": "近年の研究" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後200年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた。謡曲では30余曲、幸若舞では19曲の「判官物」がある。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた。", "title": "フィクションにおける源義経" } ]
源 義経は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と言った。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。
{{Otheruses}} {{Redirect2|牛若丸|遮那王}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 源 義経 | 画像 = Minamoto no Yoshitsune.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 =[[中尊寺]]所蔵の義経像(部分。[[室町時代]]か[[江戸時代]]作)<ref group="注釈">義経肖像としてよく用いられるこの巻物は弁慶の画と対になっており、『[[義経記]]』の藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものである(容姿については[[#容貌・体格]]を参照)。</ref> | 時代 = [[平安時代]]- [[鎌倉時代]] | 生誕 = [[平治]]元年([[1159年]])<ref group="注釈">『[[系図纂要]]』では誕生日を[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]としている。</ref> | 死没 = [[文治]]5年[[閏月|閏]][[4月30日 (旧暦)|4月30日]]([[1189年]][[6月15日]])<br>[[享年]]31(満30歳没) | 改名 = 牛若→遮那王(幼名)→義經・義行・義顕 | 別名 = 九郎、判官、廷尉、豫州(仮名) | 戒名 = 捐館通山源公大居士<ref>[[雲際寺]]の位牌より</ref> | 墓所 = [[宮城県]][[栗原市]][[判官森]](伝胴塚)<br/>[[神奈川県]][[藤沢市]][[白旗神社 (藤沢市)|白旗神社]](伝首塚) | 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[左衛門尉|左衛門少尉]]・[[検非違使|検非違使少尉]]・[[伊予国|伊予]][[国司|守]] | 氏族 = [[清和源氏]][[源為義|為義]]流([[河内源氏]]) | 父母 = 父:[[源義朝]] 母:[[常盤御前]]<br/>養父:''[[一条長成]]'' | 兄弟 = [[源義平|義平]]・[[源朝長|朝長]]・[[源頼朝|頼朝]]・[[源義門|義門]]・[[源希義|希義]]・[[源範頼|範頼]]・[[阿野全成]]・[[義円]]・'''義経'''、[[坊門姫 (一条能保室)|坊門姫]]・女子・<!--以下異父弟妹-->[[廊御方 (平家)|廊御方]]?・[[一条能成]]・女子(一条長成の娘)<!--吾妻鏡文治2年6月6日条より--> | 妻 = 正室:[[河越重頼]]の娘('''[[郷御前]]''')<br/>妾:[[静御前]]・[[平時忠]]の娘([[蕨姫]]) | 子 =<!-- 参考文献で確認できる子供のみ。地方伝承のみの人物は入れない。 -->男児<ref>『吾妻鏡』文治2年閏7月29日条</ref>・女児<ref name="名前なし-20230316125522">『吾妻鏡』文治3年2月10日条</ref>・男児([[中村朝定#源千歳丸|千歳丸]]<ref>『清和源氏系図』続群書類従 第五輯 系図部</ref>)<ref name="名前なし-20230316125522"/>・ 女子([[源有綱]]室?)<ref>『吾妻鏡』文治2年6月28日条</ref> | 特記事項 = | 花押 = Minamoto no Yoshitsune kao.jpg }} [[ファイル:Yoshitsune Minamoto Hatayama.jpeg|thumb|250px|right|[[徳島県]][[小松島市]]の[[旗山]]にある日本最大の騎馬像。]] '''源 義経'''(みなもと の よしつね、'''源 義經''')は、[[平安時代]]の[[日本]]の[[武将]]。[[鎌倉幕府]]初代将軍[[源頼朝]]の[[異母弟]]。[[仮名 (通称)|仮名]]は九郎、[[諱|実名]]は義經(義経)である。 [[河内源氏]]の[[源義朝]]の九男として生まれ、[[幼名]]を{{読み仮名|'''牛若丸'''|うしわかまる}}と言った。[[平治の乱]]で父が敗死したことにより[[鞍馬寺]]に預けられるが、後に[[平泉]]へ下り、[[奥州藤原氏]]の当主・[[藤原秀衡]]の庇護を受ける。 兄・[[源頼朝|頼朝]]が[[伊勢平氏|平氏]][[打倒]]の兵を挙げる([[治承・寿永の乱]])とそれに馳せ参じ、[[一ノ谷の戦い|一ノ谷]]・[[屋島の戦い|屋島]]・[[壇ノ浦の戦い|壇ノ浦]]の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し[[朝敵]]とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ、再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・[[藤原泰衡]]に攻められ、現在の[[岩手県]][[平泉町]]にある[[衣川館]]で自刃した。 その最期は世上多くの人の同情を引き、[[判官贔屓]](ほうがんびいき<ref group="注釈">[[判官]]とは[[四等官|四等官制]]において第三位目の職を指す言葉であり、義経が任じられた左衛門少尉が[[衛門府]]の、検非違使少尉が[[検非違使]]の第三位の職にあたるためこう呼ばれる。通常は「はんがん」だが、『義経』の伝説や[[歌舞伎]]などでは「ほうがん」と読む。</ref>)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ<ref name="文化デジタルライブラリー">[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc24/haikei/sousaku/3a2.html 文楽編・義経千本桜|文化デジタルライブラリー] - [[文化デジタルライブラリー]]</ref>。 == 生涯 == * 文中の( )の年は[[西暦]]、[[ユリウス暦]]、月日は全て[[和暦]]、[[宣明暦]]の長暦による。 義経が確かな歴史に現れるのは、[[黄瀬川]]で頼朝と対面した22歳から31歳で[[自害]]するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『[[吾妻鏡]]』に短く記された記録と、『[[平治物語]]』<ref group="注釈">義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。</ref>や『[[源平盛衰記]]』の[[軍記物語]]、それらの集大成としてより[[虚構]]を加えた物語である『[[義経記]]』などによるものである。 === 誕生 === [[image:Kurama-dera sanmon.jpg|thumb|250px|[[鞍馬寺]]]] [[清和源氏]]の流れを汲む[[河内源氏]]の[[源義朝]]の九男として生まれ、'''牛若丸'''と名付けられる。母・[[常盤御前]]は[[藤原呈子|九条院]]の[[雑仕|雑仕女]]であった。父は[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、[[数え年]]2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・[[阿野全成|今若]]と[[義円|乙若]]と共に逃亡し[[大和国]]([[奈良県]])へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる<ref group="注釈">この時の常盤の逃亡やその後の話は『[[平治物語]]』や『[[義経記]]』などの軍記物に詳しいが、軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。</ref>。 後に常盤は[[公家]]の[[一条長成]]に再嫁し、牛若丸は11歳の時<ref>『[[尊卑分脈]]』</ref>に[[鞍馬寺]]([[京都市]][[左京区]])の[[覚日|覚日和尚]]へ預けられ、稚児名を{{読み仮名|'''遮那王'''|しゃなおう}}と名乗った<ref group="注釈">軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になることを拒否して[[鞍馬山]]を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で[[天狗]]の面を被った落人(=[[鞍馬天狗]])から[[剣術]]の手解きを受けたとされている。</ref>。 やがて遮那王は僧になることを拒否して[[鞍馬寺]]を出奔し、[[承安 (日本)|承安]]4年(1174年)3月3日桃の節句([[上巳]])に鏡の宿に泊まって自らの手で[[元服]]を行い<ref>[http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku.html 滋賀県竜王町「義経元服のいわれ」]</ref>、[[奥州藤原氏]]宗主で[[鎮守府将軍]]の[[藤原秀衡]]を頼って[[平泉]]に下った。秀衡の舅で政治顧問であった[[藤原基成]]は一条長成の従兄弟の子で、その伝手をたどった可能性が高い<ref group="注釈">藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、[[金売吉次]]という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた[[陸奥国|奥州]]と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。</ref>。 『[[平治物語]]』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある[[尾張国]]にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代[[源経基|経基王]]の「経」の字を以って[[諱|実名]]を'''義経'''としたという。 === 治承・寿永の乱 === {{Main|治承・寿永の乱}} [[ファイル:taimenseki.jpg|thumb|250px|[[黄瀬川]]八幡神社にある頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる対面石]] [[治承]]4年([[1180年]])[[8月17日_(旧暦)|8月17日]]に兄・[[源頼朝]]が[[伊豆国]]で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた[[佐藤継信]]・[[佐藤忠信|忠信]]兄弟等およそ数十騎<ref group="注釈">『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。</ref>が同行した。義経は[[富士川の戦い]]で勝利した頼朝と[[黄瀬川]]の陣([[静岡県]][[駿東郡]][[清水町_(静岡県)|清水町]])で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の[[源範頼|範頼]]に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の[[鎌倉]]に腰を据え[[東国]]の経営に専念することになる。 [[寿永]]2年([[1183年]])7月、[[源義仲|木曾義仲]]が[[伊勢平氏|平氏]]を都落ちに追い込み入京する。[[後白河天皇|後白河法皇]]は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し<ref name="gyokuyou730">『[[玉葉]]』7月30日条</ref>、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した[[北陸宮]]を据えることを主張して、後白河院の怒りを買う<ref name="gyokuyou730"/>。そして後白河院が義仲の頭越しに[[寿永二年十月宣旨]]を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は[[閏月|閏]]10月5日に鎌倉を出立するが、[[平頼盛]]から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、義経と[[中原親能]]を代官として都へ送った<ref>『玉葉』11月2日条</ref>。『[[玉葉]]』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。 義経と親能は11月に[[近江国]]に達したが、その軍勢は500 - 600騎に過ぎず入京は困難だった<ref>『玉葉』11月7日条</ref>。そのような中で[[法住寺合戦]]が勃発し、義仲は後白河院を幽閉する。京都の情勢は後白河院の下、[[北面武士]]・[[大江公朝]]らによって、[[伊勢国]]に移動していた義経・親能に伝えられた<ref>『玉葉』12月1日条</ref>。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や[[和泉国|和泉守]]・[[平信兼]]と連携して兵力の増強を図った。義経の[[郎党]]である[[伊勢義盛]]も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年([[1184年]])、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は[[宇治川の戦い]]で[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は[[粟津の戦い]]で討ち取られた。 この間に平氏は[[西国]]で勢力を回復し、[[福原京|福原]]([[兵庫県]][[神戸市]])まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、[[2月4日_(旧暦)|2月4日]]、義経は搦手軍を率いて[[播磨国]]へ迂回し、[[三草山の戦い]]で夜襲によって[[平資盛]]らを撃破し、範頼は大手軍を率いて出征した。[[2月7日_(旧暦)|2月7日]]、[[一ノ谷の戦い]]で義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった<ref group="注釈">『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』による。『[[吾妻鏡]]』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は[[一ノ谷の戦い]]参照。</ref>。上洛の際、[[諱|名前]]も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。 [[image:Minamoto no Yoshitsune,dannoura.jpg|thumb|250px| [[壇ノ浦]][[みもすそ川公園]]。八艘飛びの源義経像と錨を担いだ[[平知盛]]像とが対になっている。(2004年12月製作)]] 一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。[[元暦]]元年([[1184年]])6月、朝廷の[[臨時除目|小除目]]が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が[[国司]]に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった{{Efn|『[[吾妻鏡]]』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある{{Sfn|元木|2007}}。}}。 義経はその後、平氏追討のために[[西国]]に出陣することが予定されていたが[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる{{Efn|なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって[[左衛門尉|左衛門少尉]]と[[検非違使|検非違使少尉]](左衛門府・検非違使の三等官=[[判官]])に任官し、[[従五位下]]に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞することができなかった」と報告。頼朝は「意志に背くことは今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響のためであって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある{{Sfn|元木|2007}}{{Sfn|菱沼|2005}}。}}。 8月、範頼は大軍を率いて[[山陽道]]を進軍して[[九州]]へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われており、この最中の8月6日、後白河法皇より[[衛門府|左衛門少尉]]、[[検非違使]]に任じられた。[[9月_(旧暦)|9月]]、義経は頼朝の周旋により[[郷御前|河越重頼の娘]]を正室に迎えた。 一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河院に西国出陣を申し出てその許可を得た{{Efn|従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある<ref>{{Cite journal|和書|author=宮田敬三|title=元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-|journal=立命館文学|publisher=立命館大学人文学会|issue=554号|year=1998}}</ref>。}}。 元暦2年([[1185年]])2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、[[讃岐国]]の[[瀬戸内海]]沿いにある平氏の拠点[[屋島]]を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた([[屋島の戦い]])。 範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である[[長門国]][[彦島]]に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、[[3月24日_(旧暦)|3月24日]](西暦4月)の[[壇ノ浦の戦い]]で勝利して、ついに平氏を滅ぼした{{Efn|『平家物語』や『源平盛衰記』などの[[軍記物語]]では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られ、[[安田元久]]は「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」<ref>{{Cite book|和書|author=安田元久|series=日本の武将7|title=源義経|publisher=人物往来社|year=1966}}</ref>として、水手と梶取の射殺が壇ノ浦の戦局を決定づけた最大の要因と推測している。なお『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれていて、非戦闘員の射殺が義経の命令によるものか、兵の暴走によるものかは定かでない。}}。 宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える[[勅使]]を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した[[八咫鏡|鏡]][[八尺瓊勾玉|璽]]を奉じて[[4月24日_(旧暦)|4月24日]]京都に凱旋する。 === 頼朝との対立 === [[ファイル:Yoshitsune ukebumi.jpg|thumb|250px|『源義経請文』義経自筆(1184年)]] 平氏を滅ぼした後、義経は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。 [[元暦]]2年(1185年)[[4月15日_(旧暦)|4月15日]]、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、[[平安京|京]]での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また[[4月21日_(旧暦)|4月21日]]、平氏追討で[[侍所]]所司として義経の補佐を務めた[[梶原景時]]から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状<ref group="注釈" name="ex02">「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利したことなので早く関東へ帰りたいと思います」</ref>が頼朝に届いた。 一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた[[平宗盛]]・[[平清宗|清宗]]父子を護送して、[[5月7日_(旧暦)|5月7日]]に京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘[[腰越]](現[[神奈川県]][[鎌倉市]])の[[満福寺 (鎌倉市)|満福寺]]に義経は留め置かれた。[[5月24日_(旧暦)|5月24日]]、頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近[[大江広元]]に託した書状が[[腰越状]]である。 義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた[[梶原景時]]の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。 特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位にない頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、[[安徳天皇]]や[[平時子|二位尼]]を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった{{Efn|頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている<ref>{{Cite journal|和書|author=谷昇|title=後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観|journal=古代文化|volume=60巻|issue=2号|year=2008}}/所収:{{Cite book|和書|author=谷昇|title=後鳥羽院政の展開と儀礼|publisher=思文閣出版|year=2010}}</ref>。}}。 そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった{{Sfn|安田|1966|pp=164 ,178}}。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である[[蕨姫|平時忠の娘]]を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。 結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、[[6月9日_(旧暦)|6月9日]]に頼朝が義経に対し宗盛父子と[[平重衡]]を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした[[東大寺]]へ送った。このような最中、[[8月16日_(旧暦)|8月16日]]には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。[[9月2日_(旧暦)|9月2日]]、[[平時忠]]が[[5月20日_(旧暦)|5月20日]]に配流の決定が出されていたにもかかわらず、義経の舅となった縁によって未だ京に滞在していることにより、頼朝の怒りを買っている。頼朝は京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく[[梶原景時]]の嫡男・[[梶原景季|景季]]を遣わし、かつて義仲に従った叔父・[[源行家]]追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に断った。 ただし延慶本『平家物語』によれば義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後に京に戻ったとされており、『愚管抄』にも義経は鎌倉の館に赴き、京に戻ってきた頃から頼朝に背く心を抱いたとあることから、義経が鎌倉入りを許されなかったというのは『吾妻鏡』の誤伝または曲筆であり、実際には義経は鎌倉入りしているとの説もある。「腰越状」も文体などから後世の偽作であるとの見方が大勢を占めている。また近年の研究では、義経が平氏追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている{{Sfn|上横手|2004a|pp=43-44}}{{Sfn|元木|2007|pp=129-130|loc=[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]}}。『[[玉葉]]』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。[[受領]]就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。[[元木泰雄]]は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者決裂の決定的要因であるとしている{{Sfn|元木|2007|pp=154-156}}。一方、[[本郷和人]]は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとしている<ref>{{Cite book|和書|author=本郷和人|title=武力による政治の誕生|series=[[講談社選書メチエ]]|year=2010}}</ref>。 === 謀叛 === [[ファイル:Kouyou of Yoshinoyama.JPG|thumb|250px|義経の一行が逃げ込んだ[[吉野山]]]] 10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・[[土佐坊昌俊]]を京へ送った。11日、義経は後白河法皇に、行家が頼朝に対して反乱を起こし、制止しようとしたができなかったがどうすべきかと奏聞し、法皇はさらに行家に制止を加えよと命じた。13日、義経は行家に制止を加えたが承知せず、自分も行家に同心したと述べ、その理由として頼朝による[[伊予国]]の国務妨害、没官領没収、刺客派遣の噂を挙げ、墨俣の辺で一戦を交え雌雄を決したいと言った。法皇は驚き、重ねて行家を制止せよと命じる。だが16日夜、義経はやはり行家に同心したと述べ、頼朝追討の宣旨を要求した。さらに勅許がなければ身の暇を濃い鎮西に下向すると述べ、天皇・法皇・公家をことごとく連行していくことをほのめかしたため、法皇周辺は騒然となる。17日、土佐坊ら60余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを[[獄門|梟首]]し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、18日に頼朝追討の[[院宣]]を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。 なお土佐坊昌俊の派遣および襲撃は『吾妻鏡』『平家物語』に記載されているが、『玉葉』では17日深夜に頼朝郎従の[[武蔵国]]住人[[児玉党]]30余騎が中人の報告を受けて義経を襲撃するが行家が救援に駆け付けてこれを撃退したとある。義経が院宣を最初に申請したのは、『吾妻鏡』では10月13日、『玉葉』では16日となっていて、17日の土佐坊による襲撃よりも前のことになっている。これに関して河内祥輔は義経が事前に土佐坊の襲撃の情報を入手して院宣を申請し、17日の襲撃では最初から迎撃の態勢を取っていたとする<ref>{{Cite book|和書|author=河内祥輔|title=頼朝の時代 一一八〇年代の内乱史|publisher=平凡社|year=1990}}</ref>。一方、菱沼一憲は土佐坊を頼朝が派遣した刺客だとするのは義経による朝廷への一方的な主張のみで、『吾妻鏡』『平家物語』が記す頼朝が土佐坊を派遣した経緯を証明する同時代史料はなく、創作された可能性もあるとして、頼朝との対立を深めた義経が先に院宣を得ようとしたところ、在京や畿内周辺の御家人が動揺して頼朝を支持する土佐坊らが義経暗殺を計画したもので、頼朝は少なくともこの襲撃事件には関与していなかったとする<ref>{{Cite journal|和書|author=菱沼一憲|title=源義経の挙兵と土佐房襲撃事件|journal=日本歴史|issue=684号|year=2005}}/所収:{{Citation|和書|editor=菱沼一憲|title=源範頼|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻|publisher=戎光祥出版|year=2015}}</ref>。 [[File:Vase with the Warrior Yoshitsune by Ishikawa Komei.jpg|thumb|荒波の海路を見つめる義経一行を描いた[[象牙]]彫刻([[石川光明]]作、1880年頃、明治時代、[[ウォルターズ美術館]]蔵)]] 29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は[[西国]]で体制を立て直すため九州行きを図った。[[11月1日_(旧暦)|11月1日]]に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、3日に義経らは西国九州の[[緒方惟栄|緒方氏]]を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、[[摂津源氏]]の[[多田行綱]]らの襲撃を受け、これを撃退している([[河尻の戦い]])。6日に一行は[[摂津国]][[大物浦]]([[兵庫県]][[尼崎市]])から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方、25日に義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ<ref group="注釈">宣旨作成者は[[高階泰経]]、同[[高階経仲|経仲]]、同[[高階隆経|隆経]]、[[平親宗]]、[[小槻隆職]]、[[藤原光雅]]。親義経派の腹心として[[難波頼経]]、[[平業忠]]、[[平知康]]。結構衆(企てた者たち)として[[一条能成]]、[[中原信康]]、平業忠(腹心)、藤原章綱([[藤原範綱]])、平知康(腹心)、[[藤原信盛]]、[[藤原信実 (信盛の子)|藤原信実]]、[[藤原時成]]、[[中原信貞]]。</ref>、義経らの追捕のためとして、「[[守護]]・[[地頭]]の設置」を認めさせた([[文治の勅許]])。 義経は[[郎党]]や愛妾の[[白拍子]]・[[静御前]]を連れて[[吉野]]に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の[[貴族]]・[[寺社勢力]]<ref group="注釈">[[藤原範季]]、[[藤原朝方]]、[[興福寺]][[聖弘]]、[[鞍馬寺]][[東光房]]など。</ref>に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の[[文治]]2年([[1186年]])5月に[[和泉国]]で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、[[源有綱]]も[[大和国]]で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達([[佐藤忠信]]、[[伊勢義盛]]等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた[[河越重頼]]とその嫡男[[河越重房|重房]]も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ<ref>『[[玉葉]]』5月10日条</ref>、さらに義顕と改名させられた<ref>『玉葉』11月24日条</ref>。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、[[藤原秀衡]]を頼って奥州へ赴く。『[[吾妻鏡]]』[[文治]]3年([[1187年]])[[2月10日_(旧暦)|2月10日]]の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・[[美濃国|美濃]]を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。一方、『[[玉葉]]』で義経の奥州逃亡が確認されるのは文治4年([[1188年]])正月9日条で、それによると実際の到着は文治3年の9月から10月ごろだったという。 === 最期 === [[ファイル:Gikeidou.JPG|thumb|250px|義経最期の地とされる[[衣川館|衣川館跡]]にある高舘義経堂]] [[藤原秀衡]]は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、[[文治]]3年([[1187年]])[[10月29日_(旧暦)|10月29日]]に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ[[藤原泰衡]]に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。この要請には頼朝の計略があった。義経追討を自身が受け、奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘する怖れがある。朝廷に[[宣旨]]を出させて泰衡に要請して義経を追討させることで2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明したのも、頼朝自身が義経を追討することができない表面的な理由としたかったためである。一方、義経は[[文治]]4年([[1188年]])2月に[[出羽国]]に出没し、鎌倉方と合戦をしているが、翌年の[[衣川の戦い]]の結果を踏まえると、敗北した可能性がある。また[[文治]]5年([[1189年]])1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。この義経の行動に関しては、度重なる追討要請により泰衡との齟齬が激しくなった為に、京都へ脱出(帰京)しようとしていたのではないかとの推測もある。 この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、[[閏月|閏]][[4月30日_(旧暦)|4月30日]]、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を[[藤原基成]]の[[衣川館]]に襲った([[衣川の戦い]])。武蔵坊弁慶を始めとした義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討死、もしくは切腹した。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦わず持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後、自害して果てた。[[享年]]31(満30歳没)。 == 死後 == 義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、[[新田高平|新田冠者高平]]<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2022年6月|義経が泰衡によって討たれ、その首級が鎌倉に届けられることになった際の使者を、『吾妻鏡』では「新田冠者高平」と伝えているが、この人物は泰衡の四弟(秀衡の四男)[[藤原高衡]]のことであった可能性が高い。「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。また、[[奥州合戦]]後に[[大河兼任の乱]]を起こした[[大河兼任]]の兄弟・新田三郎入道とする研究もある。}}</ref>を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年([[1189年]])[[6月13日_(旧暦)|6月13日]]、[[首実検]]が[[和田義盛]]と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。泰衡は同月、義経と通じていたとして、三弟の[[藤原忠衡]]を殺害した<ref group="注釈">さらに『[[尊卑分脈]]』の記述によれば、五弟で忠衡の同母弟とされる[[藤原通衡|通衡]]も共に誅殺している。{{要出典範囲|date=2022年6月|また、忠衡は義経誅殺に反対しており、義経の死後、泰衡に対して反乱を起こした(或いは計画した)ために誅殺されたとも推測されている。通衡も忠衡と同様に義経と通じていた、加えて、反乱(若しくは反乱計画)に関わっていたため、殺害されたと考えることもできる。このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。}}</ref>が、結局、直後の[[奥州合戦]]で、[[源頼朝]]に攻められ滅亡した。 伝承ではその後、義経の首は[[藤沢市|藤沢]]に葬られ祭神として[[白旗神社 (藤沢市)|白旗神社]]に祀られたとされ位牌が[[荘厳寺 (藤沢市)|荘厳寺]]にある、胴体は[[栗原市]]栗駒沼倉の[[判官森]]に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である[[衣川村|衣川]]の[[雲際寺]]には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、[[平成]]20年([[2008年]])8月6日、同寺の火災により焼失した。 なお、頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺になっている。この寺を巡っては『[[吾妻鏡]]』[[宝治]]2年2月5日条に、左親衛([[北条時頼]])が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。 <gallery> ファイル:Yoshitsune Kubiarai-ido, Fujisawa, Kanagawa.jpg|伝義経首洗井戸(藤沢) ファイル:Shirahata shrine's Main hall, Fujisawa, Kanagawa.jpg|白旗神社(藤沢) ファイル:Hanganmori.JPG|判官森の義経胴塚 ファイル:Unsaiji.jpg|雲際寺(衣川) </gallery> == 年譜 == ※日付は旧暦、年齢は[[数え年]]、改元の年は改元後の元号に即す * [[平治]]元年([[1159年]]・1歳)誕生。12月、[[平治の乱]]。 * 平治2年([[1160年]]・2歳)父・[[源義朝|義朝]]敗死。 * [[応保]]2年([[1162年]]・4歳)頃、母・[[常盤御前|常盤]]が[[一条長成]]と再婚。 * [[嘉応]]元年([[1169年]]・11歳)頃、[[鞍馬寺]]で稚児となる。 * [[承安 (日本)|承安]]4年([[1174年]]・16歳)[[3月3日]]桃の節句([[上巳]])、現在の[[滋賀県]][[蒲生郡]][[竜王町]]の鏡の宿にて[[元服]]。<ref group="注釈">義経の元服を伝えるに資料や伝承には、『[[平治物語]]』を初め、現行の能の演目として知られる『烏帽子折』、[[竜王町]]の義経「元服の池」、義経元服の「盥」、「烏帽子屋五郎太夫の屋敷跡」、元服の折に参拝した「鏡神社」(国の重要文化財)、その参道にある「烏帽子掛け松」などがある。</ref> * 承安4年(1174年)頃、鞍馬寺を出奔して金売吉次の案内で[[陸奥国|奥州]][[平泉]]へ下る。 * [[治承]]4年([[1180年]]・22歳)8月、兄・[[源頼朝|頼朝]]が挙兵。平泉を出奔して駆けつけ、10月、[[黄瀬川]]で頼朝と対面。 * [[寿永]]2年([[1183年]]・25歳)11月、頼朝代官として上洛。 * [[元暦]]元年([[1184年]]・26歳) ** 1月、[[源義仲]]を討って入京。 ** 2月、[[一ノ谷の戦い]]。平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う。 ** 7月、[[三日平氏の乱 (平安時代)|三日平氏の乱]]が発生。 ** 8月6日、左衛門少尉・検非違使に任官。乱の鎮圧にあたる。 ** 9月3日、従五位下に叙位。左衛門少尉・検非違使留任。 同月[[河越重頼]]の娘([[郷御前]])と結婚。 * [[文治]]元年([[1185年]]・27歳) ** 正月、平氏追討のため西国へ出陣する。 ** 2月、[[屋島の戦い]]。 ** 3月、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏滅亡。 ** 4月、京へ凱旋。 ** 5月、[[平宗盛]]親子を鎌倉へ護送。頼朝に鎌倉入りを拒否される。[[腰越状]]。 ** 6月、都に戻る。 ** 8月16日、伊予守任官。検非違使・左衛門少尉を兼任。 ** 10月16日、[[後白河天皇|後白河法皇]]に頼朝追討の宣旨を要請。 ** 10月17日、[[土佐坊昌俊]]に襲撃される。 ** 10月18日、頼朝追討の宣旨が下される。 ** 11月3日、都を落ちる。 ** 11月7日、解官。 * [[文治]]3年([[1187年]]・29歳)2月、奥州へ落ち延びる。 * [[文治]]5年([[1189年]])[[閏月|閏]]4月30日、襲撃を受け[[衣川館]]で自害。享年31。 == 人物 == === 系譜 === 義経は九郎の通称([[輩行名]])から明らかなように、[[源義朝]]の九男にあたる。『[[義経記]]』では実は八男だったが武名を馳せた叔父・[[源為朝]]が鎮西八郎という[[仮名_(通称)|仮名]]であったのに遠慮して「九郎」としたとする説があるが、義朝の末子であることは確かである。 [[源義平]]、[[源頼朝]]、[[源範頼]]らは異母兄であり、同母兄として[[阿野全成]](今若)、[[義円]](乙若)がいる。また母が再婚した[[一条長成]]との間に設けた異父弟として[[一条能成]]があり、また異父妹も1人いた。 妻には頼朝の媒酌による正室の[[河越重頼]]の娘([[郷御前]])、[[鶴岡八幡宮]]の舞で有名な愛妾の[[白拍子]]・[[静御前]]、平氏滅亡後に[[平時忠]]が保身のために差し出したとされる時忠の娘([[蕨姫]])がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、[[静御前]]を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく[[由比ヶ浜]]に遺棄された男児が確認される。 他には[[源有綱]]が義経の婿と称していることから、有綱の妻を義経の娘とする説もある{{Sfn|上横手|2004b|loc=[[野口実]]|p=95}}{{Efn|妹の夫を「聟」と称する用法もあることから、義経が京都を離れた後の[[文治]]2年6月6日に常盤とともに捕らえられた義経の異父妹(父は一条長成)を有綱の妻とする保立道久<ref>{{Cite book|和書|author=保立道久|title=義経の登場|publisher=日本放送出版協会|year=2004}}</ref>や細川涼一<ref>{{Cite journal|和書|author=細川涼一|title=常盤―源義経の母―|journal=女性歴史文化研究所紀要|issue=17|publisher=京都橘大学|year=2009}}/所収:{{Cite book|和書|author=細川涼一|title=日本中世の社会と寺社|publisher=思文閣出版|year=2013}}</ref>の説もある。}}。また『清和源氏系図』に[[千歳丸]](ちとせまる)という3歳の男子が奥州[[衣川村|衣川]]で誅されたと記されており、『吾妻鏡』[[文治]]3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が[[千歳丸]]に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である{{Sfn|大三輪|2005|loc=下山忍|p=154}}。 === 人間像 === 死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には[[史料]]に残された義経自身の言動と、直接関わった人物の義経評を挙げる。 [[ファイル:Yoshitsune with benkei.jpg|thumb|250px|『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。源義経(奥)とその家来である[[武蔵坊弁慶]](手前)。[[1885年]](明治18年)刊。[[月岡芳年]]作。]] * 『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留めることを諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。 * 同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日、鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「[[畠山重忠]]や[[佐貫広綱]]がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。 * 『玉葉』によると、[[寿永]]3年(1184年)2月9日の一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平氏一門の首を都大路に引き渡し獄門にかけることを奏聞するため、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平氏が皇室の外戚であるため、獄門にかけることを反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平氏の首は都大路を渡り獄門にかけられた。 * 『[[吉記]]』[[元暦]]2年(1185年)正月8日条によると、平氏の残党を恐れる貴族達は、四国へ平氏追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返すことになれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大なことになります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。『[[吾妻鏡]]』によると、2月16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた[[高階泰経]](後白河院の使者)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「'''殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス'''(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多いことである。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。 * 壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状<ref group="注釈" name="ex02"/>を受けて、『吾妻鏡』は「'''自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ'''(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。その一方で義経の自害の後、景時と[[和田義盛]]ら郎従20騎がその首を検分した時、「'''観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス'''(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面がうかがえる。 * 壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた[[仁和寺]][[御室]]の[[守覚法親王]]の記録『左記』に「彼の源廷尉は、ただの勇士にあらざるなり。[[張良]]・[[三略]]・[[陳平]]・[[六奇]]、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。 * 『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、[[長良川|墨俣]]辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の[[宣旨]]を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の[[宣旨]]を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。 * 追いつめられた義経が平氏や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、[[鎮西]]に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の記主である[[九条兼実]]は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「'''院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし'''(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「'''義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ'''(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。 === 容貌・体格 === 義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した[[史料]]や、生前の義経自身を描いた確かな[[絵画]]は存在しない。これは他の歴史上の人物にも共通することで、当時の肖像画の多くは神社仏閣に奉納する目的で描かれたもので、死後に描かれるのが通常である。 [[身長]]に関しては義経が奉納したとされる[[大山祇神社]]の甲冑を元に推測すると147cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かなことは不明である<ref>甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』小学館、2005年、p.11</ref>。 義経の死後まもない時代に成立したとされる『[[平家物語]]』では、[[平氏]]の家人・[[平盛嗣|越中次郎兵衛盛嗣]]が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである<ref group="注釈">盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。</ref>。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。 『[[義経記]]』では、[[楊貴妃]]や[[松浦佐用姫]]にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で『平家物語』をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『[[源平盛衰記]]』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『[[平治物語]]』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている{{Efn|同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている(『平治物語』京師本)。}}。 [[江戸時代]]には[[猿楽]](現[[能]])や[[歌舞伎]]の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の[[御曹司]]義経の印象が定着していった。 === 子孫伝承 === 下野国の御家人、[[中村朝定]]は義経の遺児であったという伝承がある。「[[藤原秀衡]]の命を受けた[[常陸坊海尊]]は源義経の子、経若(千歳丸)を[[常陸入道念西]]([[伊達朝宗]])に託した。経若(千歳丸)は、後に朝定と名乗った」と、[[栃木県]][[真岡市]]の[[遍照寺 (真岡市)|遍照寺]]の古寺誌<ref>『真岡市史案内』第4号中村城 (真岡市教育委員会発行) 栃木県立図書館蔵書</ref><ref>{{Cite book|和書|title=伊達氏と中村八幡宮|publisher=中村八幡宮|year=1989}}</ref>や、[[青森県]][[弘前市]]新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起<ref>{{Citation|和書|editor=山崎純醒|title=源義経周辺系図解説|publisher=批評社|year=2016|page=42}}</ref>に残されており、縁も所縁もない遠隔地に於いて同様の伝承がある。朝定の一族、[[中村氏 (下野国)|中村氏]]は現在まで存続している。 == 郎党・従者など == [[ファイル:Kuniyoshi Ishiyakushi.jpg|thumb|200px|[[歌川国芳]]画の義経主従(江戸時代)]] * [[一条能成]]…義経の異父弟。 * [[源有綱]]…義経の娘聟(妹聟とする説もある)。 * [[中原信康]]…義経の[[右筆]]。 * [[佐藤継信]]…『[[源平盛衰記]]』における義経四天王の一人。 * [[佐藤忠信]]…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。 * [[伊勢義盛]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 * [[堀景光]]…『[[平治物語]]』では金商人とされる。 * [[堀頼重|深栖頼重]]…『平治物語』で鞍馬寺を出奔した義経を東国で匿う。 * [[亀井重清]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 * [[鈴木重家]]…亀井重清の兄。『義経記』では高館で照井高治を斬り負かす。 * [[片岡常春|片岡経春]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 * [[武蔵坊弁慶]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 以下は物語のみに見られる人物。 * [[常陸坊海尊]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 * [[鷲尾義久]]…『平家物語』の一ノ谷の戦いで現地採用される。 * [[駿河次郎]]…古典や伝承における義経四天王の一人。 * [[鎌田正近]]…『義経記』で義経に出生の秘密を告げる。 * [[鎌田盛政]]…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。 * [[鎌田光政]]…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。 * [[金売吉次]]…『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』における奥州への案内人。堀景光と同一人物である説もある。 * [[十郎権頭兼房]]…『義経記』に登場する老臣で義経正室の守り役。 * [[喜三太]]…『義経記』に登場する下男。 講談などで語られるいわゆる「源義経19臣」は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤継信、佐藤忠信、鎌田藤太、鎌田藤次、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、鈴木三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、御厨喜三太、江田源次、江田源三、堀弥太郎、赤井十郎、黒井五郎。<ref>[{{NDLDC|1918955/7}} 『現今児童重宝記 : 開化実益』]佐藤為三郎編、此村彦助刊、明19.10</ref> == 史跡・祭祀 == ;神社・銅像・祭など。 {{main|[[源義経に関する史跡・祭祀一覧]]}} == 伝説 == 優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して'''判官贔屓'''というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになった。 義経伝説の中でも特に有名な[[武蔵坊弁慶]]との堀川小路から[[清水寺|清水観音]]での出会い。(後世の作品では[[五条大橋]])、[[陰陽師]]・[[鬼一法眼]]の娘と通じて伝家の兵書『[[六韜]]』『[[三略]]』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の[[室町時代]]初期の頃に成立したといわれる『[[義経記]]』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「[[虎の巻]]」と呼ぶようになった。 また義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。 <gallery widths="200" heights="200"> ファイル:Yoshitoshi Sojobo Instructs Yoshitsune in the Sword.jpg|鞍馬寺の大天狗僧正房と剣術修行をする遮那王。[[月岡芳年]]作([[明治時代]]) ファイル:Kuniyoshi Utagawa, Heroes of china and Japan 3.jpg|『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」([[歌川国芳]]作)[[五条大橋]]での戦いを描いた[[江戸時代]]の[[浮世絵]] File:Yoshitoshi - 100 Aspects of the Moon - 61.jpg|弁慶と戦う遮那王。[[月岡芳年]]作『[[月百姿]]』の内「五条橋の月」より File:NDL-DC 1302763-Tsukioka Yoshitoshi-芳年武者无類 源牛若丸・熊坂長範-明治16-crd.jpg|盗賊の[[熊坂長範]]と戦う義経。伝説では、この時、義経は15歳であったという。月岡芳年作『芳年武者无類』より </gallery> === 不死伝説 === 後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。さらに、この伝説に基づいて、実際に義経は北方すなわち[[蝦夷地]]に逃れたとする主張を、「'''義経北方(北行)伝説'''」と呼んでいる{{Sfn|上横手|2004b|loc=[[関俊彦]]|p=258}}。そして寛政11年([[1799年]])に、この伝説に基づき、[[蝦夷地]]のピラトリ(現・北海道[[沙流郡]][[平取町]])に[[義経神社]]が創建された。 「義経北方(北行)伝説」の原型となった話は、[[室町時代]]の[[御伽草子]]に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島(わたりしま)」と呼ばれていた[[北海道]]に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地の[[アイヌ]]に対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神である[[オキクルミ]]は義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。また[[シャクシャイン]]は義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、[[中川郡 (十勝国)|中川郡]]の[[本別町]]には義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。 またこれらの伝説を強化したと思われる記述として、江戸幕府の儒家・林羅山(はやしらざん)の『続本朝通鑑』がある。記述は「或曰、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今(現訳~義経は衣川の戦で死なず、逃れ蝦夷島に至りその子孫を残す)」とある。 === 義経=チンギス・ハーン説 === {{Main|[[義経=ジンギスカン説]]}} この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が[[蝦夷地]]から海を越えて大陸へ渡り、[[チンギス・カン|成吉思汗]](ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。 この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。[[清]]の[[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは[[12世紀]]に栄えた[[金_(王朝)|金]]の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に[[沢田源内]]が発行した『金史別本』の日本語訳が発端である<ref group="注釈">『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。</ref>。 このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し[[女真|女真人]]([[満州|満州人]])になったという風説から、明治期になると義経がチンギス・カンになったという説が唱えられるようになった。[[明治]]に入り、これを記した[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の著書『日本』を留学先の[[ロンドン]]で読んだ[[末松謙澄]]はケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。 [[大正]]に入り、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に学び[[牧師]]となっていた[[小谷部全一郎]]は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰する文化の神・[[オキクルミ]]の正体は義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って[[満州]]・[[モンゴル高原|モンゴル]]を旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・カンであったことを確信し、[[大正]]13年([[1924年]])に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになったことによるものである。 こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられることはなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。 現在では後年の研究の結果や、チンギス・カンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、'''源義経=チンギス・カン説は学術的には完全に否定された説である'''。 == 近年の研究 == === 佐藤進一 === ;鎌倉との関係 :[[佐藤進一]]は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「'''東国独立派'''」と、頼朝側近と京下り官僚ら「'''親京都派'''」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平氏追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平氏を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平氏を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。 === 上横手雅敬 === [[上横手雅敬]]は[[鎌倉幕府]]編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河法皇が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している{{Sfn|上横手|2004a}}{{Sfn|上横手|2004b}} 。 ;任官問題 : 頼朝が義経を平氏追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河院は義経の治安維持活動に期待して[[検非違使]]・[[左衛門尉]]に任じた。しかしその結果、義経は後白河院の側近に編成されたことになり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、'''院御厩司'''に補され院の側近となった義経を利用して後白河院を挑発するためであった。頼朝は後白河院を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつけることに成功したのである。 ;判官贔屓と吾妻鏡 :また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「'''判官贔屓'''」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と[[北条政子|政子]]に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。[[梶原景時の変|景時は北条氏によって幕府から追放された]]人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。 === 菱沼一憲 === [[菱沼一憲]]([[国立歴史民俗博物館]]科研協力員)は著書で以下の説を述べている{{Sfn|菱沼|2005}}。 ;任官問題 :頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年[[8月6日_(旧暦)|8月6日]]、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、[[8月3日_(旧暦)|8月3日]]、頼朝は義経に[[伊勢国]]の[[平信兼]]追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。 ;戦術家として :義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。 :一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平氏の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平氏軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。 :屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平氏勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。 :壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平氏方も応戦するはずである。当時、平氏方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には[[一騎討ち]]や合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。 :義経は頼朝の代官として、平氏追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、'''無断任官問題は『吾妻鏡』の創作'''であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。 また、菱沼は別の著書で以下の説を述べている<ref>{{Cite journal|和書|author=菱沼一憲|title=在京頼朝代官源義経|journal=國史学|issue=179|year=2003}}/所収:{{Cite book|和書|author=菱沼一憲|title=中世地域社会と将軍権力|publisher=汲古書院|year=2011|isbn=9784762942105}}</ref>。 ;頼朝代官としての義経 :まず、頼朝が義経に上洛を命じた段階では、あくまでも後白河法皇に供物を届けることを目的としており、『玉葉』寿永2年11月7日条にも、頼朝代官(義経)が近江到着の時点で兵力は5・600騎しかなく合戦の備えをしていなかったことが記されている。また、同じく10日条には義仲が義経入洛を認める様子を見せている。頼朝が義経を派遣した当初の目的は寿永2年10月宣旨を受けて東海道・東山道地域の治安回復にあたるとともに朝廷との関係を改善することが目的であり、義仲との軍事的対決を意図したものではなかった。それが、法住寺合戦によって頼朝は義仲との対決を決意して範頼率いる義仲討伐軍を別途派遣し、先行していた義経に合流を命じたとする。 :こうした経緯から、頼朝から朝廷との政治交渉の権限を認められていたのは義経のみであった。対義仲戦、続く対平氏戦における主たる将であったのは範頼であったが、後白河法皇への戦勝報告は義経が行い、その後も在京代官として義仲に代わって京都の治安維持に当たったのも義経であった(当時の朝廷の一番の関心は京都の治安問題であった)。頼朝は朝廷との連携を強めて対義仲・平氏戦への軍事作戦や東国支配の確立を円滑に推進するための「事務的代官」として義経を、実際の軍事作戦を行う大将の役割を果たす「軍事的代官」として範頼を置くことで自らの方針を推進しようとしたとみる。 === 元木泰雄 === [[元木泰雄]]は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している{{Sfn|元木|2005}}。 ;頼朝との関係・父子の義 :挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「[[御曹司]]」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「'''父子之義'''」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。 ;頼朝代官として・京都守護 :義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、[[法住寺合戦]]で義仲と敵対した[[京武者]]たちの役割が大きかった。[[一ノ谷の戦い]]も、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。 :合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。 ;決裂と転落・伝説の始まり :頼朝は戦後処理の過程で、義経に'''伊予守推挙'''という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。[[治天の君]]の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。 :義経は頼朝追討の[[院宣]]を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与えることが出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「'''義士'''」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。 :退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である'''[[北条時政]]'''であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。 == フィクションにおける源義経 == 義経に対する人気は高く、代表的な軍記物語である『義経記』が死後200年経ってから編纂されるほどであり、義経もしくは主従を題材とした「義経物」「判官物」と呼ばれる一ジャンルを築いた<ref name="文化デジタルライブラリー" />。[[謡曲]]では30余曲、[[幸若舞]]では19曲の「判官物」がある<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%88%A4%E5%AE%98%E7%89%A9-131864 判官物(ほうがんもの)とは - コトバンク]</ref>。またあまりに人気があったために義経と関係ない演目でも「現れ出たる義経公」という語りとともに義経が登場し、「さしたる用もなかりせば」との語りとともにただ引っ込むという演出も行われていた<ref name="文化デジタルライブラリー" />。 [[ファイル:Mitate setsugetsuka no uchi, Gojō-hashi no tsuki by Nakazawa Toshiaki.jpg|サムネイル|明治時代の浮世絵師[[中澤年章]]『五條橋之月』1897]] === 義経もしくは義経主従を主題にした作品 === ; 軍記 * 『[[義経記]]』(芸能軍記)作者不詳 成立 - 室町初期 ; 御伽草子 * 『[[御曹子島渡]]』作者不詳 成立 - 室町初期 * 『[[天狗の内裏]]』作者不詳 成立 - 室町初期 ; 能 * 『[[八島_(能)|八島]]』作者「[[世阿弥]]」成立 - 室町時代 * 『[[船弁慶]]』作者「[[観世小次郎信光|観世信光]]」成立 - 室町時代 * 『[[安宅 (能)|安宅]]』作者「観世信光か?」成立 - 室町時代 * 『[[鞍馬天狗 (能)|鞍馬天狗]]』作者「[[宮増]]か?」成立 - 室町時代 * 『[[橋弁慶]]』作者不詳 成立 - 室町時代 * 『[[烏帽子折]]』作者不詳 成立 - 室町時代(参考:[https://kotobank.jp/word/%E7%83%8F%E5%B8%BD%E5%AD%90%E6%8A%98-446385 世界百科事典‐第2版「烏帽子折」][http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku/youkyoku-eboshi.html 竜王町「烏帽子折」]) ; 文楽・浄瑠璃・歌舞伎 * 『[[義経千本桜]]』([[文楽|人形浄瑠璃]]・[[歌舞伎]])作者「二代目[[竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]」成立 - 延享4年(1747年) * 『[[一谷嫩軍記]]』(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「[[並木宗輔]]他」成立 - 宝暦元年(1751年) * 『[[勧進帳]]』(歌舞伎)作者「並木五瓶(ごへい)」成立 - 天保11年(1840年) ; 春本 * 『[[壇ノ浦夜合戦記]]』作者「[[頼山陽]]か?」成立 - 江戸時代 ; 大衆文化(現代のドラマ、小説、漫画など) {{main|源義経が登場する大衆文化作品一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=上横手雅敬|editorlink=上横手雅敬|title=源義経 源平内乱と英雄の実像|series=[[平凡社ライブラリー]]|year=2004|origyear=1978|ref={{SfnRef|上横手|2004a}}}} * [[奥富敬之]] 『義経の悲劇』 [[角川学芸出版|角川選書]]、2004年。 ISBN 4047033707 * [[五味文彦]] 『源義経』 [[岩波新書]]、2004年。 * 五味文彦 『[[義経記]] 物語の舞台を歩く』 [[山川出版社]]、2005年。 * [[近藤好和]] 『源義経 後代の佳名を貽す者か』 [[ミネルヴァ書房]]〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年。 * [[高橋富雄]] 『義経伝説 歴史の虚実』 [[中公新書]]、1966年。 * {{Cite book|和書|author=菱沼一憲|authorlink=菱沼一憲|title=源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像|series=角川選書|year=2005|isbn=404703374X|ref={{SfnRef|菱沼|2005}}}} * [[保立道久]] 『義経の登場 王権論の視座から』 [[日本放送協会|NHK]]ブックス:[[日本放送出版協会]] 2004年 * {{Cite book|和書|author=元木泰雄|authorlink=元木泰雄|title=源義経|publisher=[[吉川弘文館]]|series=[[歴史文化ライブラリー]]|year=2007|ref={{SfnRef|元木|2007}}}} * {{Cite book|和書|author=安田元久|authorlink=安田元久|title=源義経|publisher=新人物往来社|origyear=1966|year=2004|ref={{SfnRef|安田|1966}}}} * {{Cite book|和書|author=渡辺保|authorlink=渡辺保 (歴史学者)|title=源義経|series=[[人物叢書]]|publisher=吉川弘文館|origyear=1966|year=1986}} * [[角川源義]]・ 高田実 『源義経』 角川新書、1966年。[[講談社学術文庫]] 2005年。 * 奥富敬之編 『源義経のすべて』 [[新人物往来社]] 初版1993年。 * {{Citation|和書|editor=上横手雅敬|title=源義経 流浪の勇者|publisher=文英堂|year=2004|ref={{SfnRef|上横手|2004b}}}} * {{Citation|和書|editor=大三輪龍彦|editorlink=大三輪龍彦|title=義経とその時代|publisher=山川出版社|year=2005|ref={{SfnRef|大三輪|2005}}}} == 関連項目 == <!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク --> {{Wikisource|義経記}} {{Commonscat|Minamoto no Yoshitsune}} * [[中村氏 (下野国)]] - 清和源氏系図において義経の子とされる千歳丸の後裔の伝承を持つ[[伊達氏]]の祖とされる一族。 * [[膝丸]] - 義経との縁が深いとされる、清和源氏が代々継承した名刀。 * [[大夫黒]] - 義経の愛馬、鵯越の逆落しで騎乗していた。 * [[重源]] - 鞍馬流(義経流)の門人、義経流を陰流に改めた。円明流流祖 武蔵円明流の始祖。 * [[国鉄7100形蒸気機関車]] - 名前が愛称として付された。 * [[今牛若丸]] - 牛若丸に例えて呼ばれた著名人。 * [[義経 (小惑星)]] - 義経の名前にちなんで命名された小惑星である。 == 外部リンク == * [http://www.inarijinja.org/ 斗瑩稲荷神社] * [http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku/youkyoku-eboshi.html 烏帽子折] {{Portal bar|アジア|日本|歴史|戦争|教育|人物伝}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:みなもと の よしつね}} [[Category:源義経|*]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:治承・寿永の乱の人物]] [[Category:源義朝の子女|よしつね]] [[Category:藤原秀衡]] [[Category:藤原泰衡]] [[Category:切腹した人物]] [[Category:日本の神 (人物神 源氏)|よしつね]] [[Category:12世紀日本の人物]] [[Category:1159年生]] [[Category:1189年没]]
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グレコ・バクトリア王国
グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)は、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バルフを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリア王国とする。 バクトリア地方にはアッシリアが滅亡した後、西アジアの主要勢力となった4国の一つであるメディア王国が勢力を伸ばしていた。その後、紀元前518年ごろ、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世の時代に征服され、ペルシア帝国の一部となった。 さらにその後、紀元前328年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服された。大王の死後はセレウコス朝シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。 紀元前256年にサトラップ(総督)の地位にいたギリシア人のディオドトスが反乱を起こし、独立してバクトラ(Baktra、現:アフガニスタン北部、バルフ)を都とするグレコ・バクトリア王国を建国した。このとき、北部のソグディアナ(現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州一帯、フェルガナ盆地にあったソグド人の国家)、西方のマルギアナ(現在のトルクメニスタン)などを征服した。 ディオドトス2世の時代の紀元前228年頃、同じくセレウコス朝より独立したパルティアと同盟を結び、西方を固めた。この同盟は、紀元前189年まで続く。 インドに進出したデメトリオス1世(在位:紀元前200年 - 紀元前180年)は、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南下、ガンダーラを占拠した。さらに北西インドの侵略を続け、アラコシア、ゲドロシア、カチャワール半島まで支配下とした。 デメトリオス1世に続いて、その弟アンティマコス1世(在位:紀元前180年 - 紀元前171年)の治世に入ると、インドにおけるマウリヤ朝の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、タクシラを占領してガンダーラ地方を征服した。しかし紀元前171年頃、 アンティマコス1世は武将の一人であるエウクラティデスによって殺される。ほどなくして、グレコ・バクトリア王国はバクトリアに残存する集団と北西インドの集団(インド・グリーク朝)に分裂した。 エウクラティデス1世(紀元前171年 - 紀元前145年頃)は王位を奪ってからというもの、多くの戦争を遂行したため、グレコ・バクトリアの兵力と国力を衰退させていった。しかし、そんな状況下でもエウクラティデス1世はインド・グリーク朝のデメトリオス2世を倒し、西北インドをふたたび支配下に置くことに成功する。 紀元前145年頃、エウクラティデス1世がインド遠征から帰還する際、王国の共同統治者にしておいた息子のヘリオクレスによって殺され、ヘリオクレスがグレコ・バクトリア王国の君主となった。しかし、ヘリオクレスの治世は長く続かず、紀元前140年〜紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイの4種族に侵攻され、王国は滅ぼされた。 グレコ・バクトリアは商業と手工業の中心で、商業の発展は多数発見されたコインでうかがい知ることができる。その絶頂期にあたるのがデメトリオス1世(在位:前190年 - 前167年)の時代であり、当時のバクトリアには南はインド、東は中国、西はパルティア,エジプト,ローマの商人が集まり、各地のあらゆる商品が取り引きされた。また、当時から絹は西方文明地域の支配階級にとって不可欠な物資となっており、張騫が西域に至るより以前からもシルクロード交易が行われていたことになる。主に取り扱われる商品としては北方の皮革・毛織物,インドの香辛料,甘味料,金銀,宝石,貴石,ガラス,薬品,金属製品,象牙などであり、その商品は一旦バクトリアに集められ、取引された後に各地へ運ばれた。つまりバクトリアは中継市場として機能していたのである。同時代の世界貿易の中心地として、エジプトのアレキサンドリア、西北インドのサガーラが挙げられる。 グレコ・バクトリアのコインの表側には当時の王の横顔が、裏側にはゼウス,ポセイドン,アポロン,アルテミスなどのギリシアの神々や、ヘラクレスなどの英雄の像が刻まれていた。 グレコ・バクトリアの神話は、もともとの古典古代のギリシャ神話と、東方のイラン・インド神話が融合したものとなり、たとえばヘラクレスはウェルトラグと融合し、アポロンはミトラと融合して両神話の神々は同一のものとされた。 ギリシア文化を生かして石材が用いられ、新しい都市は原則として四角形または正方形につくられ、四角形の塔をともなう城壁に取り囲まれていた。また、豪華な植物文入りの柱頭をもつコリント式円柱が好まれた。 アイ・ハヌム遺跡 - タジキスタンとの国境近くにあるアフガニスタン北部で発見されたバクトリア有力都市の遺跡。かつてのアレクサンドリア・オクシアナに比定される。
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グレコ・バクトリア王国は、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バルフを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれるが、地方としてのバクトリアと混同しないよう、ここではグレコ・バクトリア王国とする。
{{基礎情報 過去の国 |略名 = バクトリア |日本語国名 = グレコ・バクトリア王国 |公式国名 = '''{{Lang|fa|}}''' |建国時期 = [[紀元前256年|前256年]]頃 |亡国時期 = [[紀元前130年|前130年]]頃 |先代1 = セレウコス朝 |次代1 = 大月氏 |次代2 = インド・グリーク朝 |位置画像 = Greco-Bactrian Kingdom (greatest extent).svg |位置画像説明 = グレコ・バクトリア王国の最大領域 |公用語 = [[古代ギリシア語]] |首都 = [[バクトラ]](ザリアスパ) |元首等肩書 = [[バシレウス]](王) |元首等年代始1 = [[紀元前256年|前256年]] |元首等年代終1 = [[紀元前240年|前240年]] |元首等氏名1 = [[ディオドトス1世]](初代) |元首等年代始2 = 前240年 |元首等年代終2 = [[紀元前230年|前230年]] |元首等氏名2 = [[ディオドトス2世]] |元首等年代始3 = [[紀元前190年|前190年]] |元首等年代終3 = [[紀元前162年|前162年]] |元首等氏名3 = [[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]] |元首等年代始4 = [[紀元前171年|前171年]] |元首等年代終4 = [[紀元前145年|前145年]] |元首等氏名4 = [[エウクラティデス1世]] |元首等年代始5 = 前145年 |元首等年代終5 = [[紀元前130年|前130年]] |元首等氏名5 = [[ヘリオクレス1世]](最後) |変遷1 = [[セレウコス朝]]から独立 |変遷年月日1 = 前256年頃 |変遷2 = |変遷年月日2 = |変遷3 = |変遷年月日3 = |変遷4 = 北方遊牧民により滅亡 |変遷年月日4 = [[紀元前130年|前130年]]頃 |変遷5 = |変遷年月日5 = |通貨 = |注記 = }} [[Image:Bactria-320BCE.png|right|thumb|350px|バクトリアの位置([[紀元前320年]])]] '''グレコ・バクトリア王国'''([[紀元前255年]]頃 - [[紀元前130年]]頃)は、[[ヒンドゥークシュ山脈]]から[[アム川]]の間(現在の[[アフガニスタン]]北部、[[タジキスタン]]、[[カザフスタン]]の一部)に、[[バルフ]]を中心として建てられた[[ギリシア人]]王国で、代表的な[[ヘレニズム]]国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単に'''バクトリア'''や'''バクトリア王国'''とも呼ばれるが、地方としての[[バクトリア]]と混同しないよう、ここでは'''グレコ・バクトリア王国'''とする。 == 歴史 == === 建国以前 === [[バクトリア]]地方には[[アッシリア]]が滅亡した後、西アジアの主要勢力となった4国<ref>[[リディア]]、[[新バビロニア]](カルデア)、[[メディア王国|メディア]]、[[エジプト]]を指す。</ref>の一つである[[メディア王国]]が勢力を伸ばしていた。その後、[[紀元前518年]]ごろ、[[アケメネス朝]]ペルシアの[[キュロス2世]]の時代に征服され、[[ペルシア帝国]]の一部となった。 さらにその後、[[紀元前328年]]に[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって征服された。大王の死後は[[セレウコス朝]]シリアの一部となり従軍ギリシア人の一部が住み続けた。 === 建国 === [[紀元前256年]]に[[サトラップ]]([[総督]])の地位にいたギリシア人の[[ディオドトス1世|ディオドトス]]が反乱を起こし、独立してバクトラ(Baktra、現:アフガニスタン北部、[[バルフ]])を都とするグレコ・バクトリア王国を建国した。このとき、北部の[[ソグディアナ]](現在の[[ウズベキスタン]]の[[サマルカンド州]]と[[ブハラ州]]、[[タジキスタン]]の[[ソグド州]]一帯、[[フェルガナ盆地]]にあった[[ソグド人]]の国家)、西方の[[メルブ遺跡|マルギアナ]](現在の[[トルクメニスタン]])などを征服した。 [[ディオドトス2世]]の時代の[[紀元前228年]]頃、同じくセレウコス朝より独立した[[パルティア]]と同盟を結び、西方を固めた。この同盟は、[[紀元前189年]]まで続く。 [[Image:AlexanderIndiaMap.jpg|thumb|250px|バクトリアからインドまでの諸都市。]] === 発展と分裂 === インドに進出した[[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]](在位:[[紀元前200年]] - [[紀元前180年]])は、[[ヒンドゥークシュ山脈]]を越えて南下、[[ガンダーラ]]を占拠した。さらに北西インドの侵略を続け、[[アラコシア]]、[[ゲドロシア]]、[[カチャワール半島]]まで支配下とした。 デメトリオス1世に続いて、その弟[[アンティマコス1世]](在位:[[紀元前180年]] - [[紀元前171年]])の治世に入ると、インドにおける[[マウリヤ朝]]の衰勢に乗じて更にインド方面へ勢力を拡大し、[[タキシラ|タクシラ]]を占領して[[ガンダーラ]]地方を征服した。しかし[[紀元前171年]]頃、 アンティマコス1世は武将の一人である[[エウクラティデス1世|エウクラティデス]]によって殺される。ほどなくして、グレコ・バクトリア王国はバクトリアに残存する集団と北西インドの集団([[インド・グリーク朝]])に分裂した。 === 王国の衰退とバクトリア地方の放棄 === エウクラティデス1世([[紀元前171年]] - [[紀元前145年]]頃)は王位を奪ってからというもの、多くの戦争を遂行したため、グレコ・バクトリアの兵力と国力を衰退させていった。しかし、そんな状況下でもエウクラティデス1世はインド・グリーク朝の[[デメトリオス2世 (インド・グリーク王)|デメトリオス2世]]を倒し、西北インドをふたたび支配下に置くことに成功する。 [[紀元前145年]]頃、エウクラティデス1世がインド遠征から帰還する際、王国の共同統治者にしておいた息子の[[ヘリオクレス1世|ヘリオクレス]]<ref>ポンペイウス・トログスの『ピリッポス史』(地中海世界史の一部)では、「王国の共同統治者にしておいた息子によって殺された」としか記されておらず、ヘリオクレスかどうかはわからない。</ref>によって殺され、ヘリオクレスがグレコ・バクトリア王国の君主となった。しかし、ヘリオクレスの治世は長く続かず、[[紀元前140年]]〜[[紀元前130年]]の間に北の遊牧騎馬民族である[[アシイ|アシオイ]],パシアノイ,[[トハラ人|トカロイ]],サカラウロイ<ref>ポンペイウス・トログスの『地中海世界史』では、「サラウカェ族とアシアニ族がバクトリアとソグディアナを占領した」としている。</ref>の4種族に侵攻され、王国は滅ぼされた<ref>護雅夫・岡田英弘編『民族の世界史4.[[中央ユーラシア]]の世界』の64頁、「第1部 イラン系民族」より</ref>。 == 習俗・文化 == [[File:DemetriusCoin.jpg|right|thumb|220px|デメトリオス1世の銀貨]] [[Image:DiodotusGoldCoin.jpg|right|thumb|220px|ディオドトス1世の金貨、BC250年頃]] [[File:CapitalSharp.jpg|thumb|right|200px|[[アイ・ハヌム遺跡]]出土のコリント式の柱頭]] === 商業 === グレコ・バクトリアは商業と手工業の中心で、商業の発展は多数発見された[[コイン]]でうかがい知ることができる。その絶頂期にあたるのが[[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]](在位:[[紀元前190年|前190年]] - [[紀元前167年|前167年]])の時代であり、当時のバクトリアには南は[[古代インド|インド]]、東は[[中国]]、西は[[パルティア]],[[プトレマイオス朝|エジプト]],[[古代ローマ|ローマ]]の商人が集まり、各地のあらゆる商品が取り引きされた。また、当時から絹は西方文明地域の支配階級にとって不可欠な物資となっており、[[張騫]]が[[西域]]に至るより以前からも[[シルクロード]]交易が行われていたことになる。主に取り扱われる商品としては北方の皮革・毛織物,インドの香辛料,甘味料,金銀,宝石,貴石,ガラス,薬品,金属製品,象牙などであり、その商品は一旦バクトリアに集められ、取引された後に各地へ運ばれた。つまりバクトリアは中継市場として機能していたのである。同時代の世界貿易の中心地として、エジプトの[[アレキサンドリア]]、西北インドの[[サガーラ]]が挙げられる。 === コイン === グレコ・バクトリアのコインの表側には当時の王の横顔が、裏側には[[ゼウス]],[[ポセイドン]],[[アポロン]],[[アルテミス]]などのギリシアの神々や、[[ヘラクレス]]などの英雄の像が刻まれていた。 === 神話 === グレコ・バクトリアの神話は、もともとの古典古代の[[ギリシャ神話]]と、東方のイラン・インド神話が融合したものとなり、たとえばヘラクレスは[[ウルスラグナ|ウェルトラグ]]と融合し、アポロンは[[ミスラ|ミトラ]]と融合して両神話の神々は同一のものとされた。 === 建築 === ギリシア文化を生かして石材が用いられ、新しい都市は原則として四角形または正方形につくられ、四角形の塔をともなう城壁に取り囲まれていた。また、豪華な植物文入りの[[柱頭 (建築)|柱頭]]をもつ[[コリント式]]円柱が好まれた。 == 遺跡 == [[アイ・ハヌム遺跡]] - タジキスタンとの国境近くにあるアフガニスタン北部で発見されたバクトリア有力都市の遺跡。かつてのアレクサンドリア・オクシアナに比定される。 == 歴代王 == #[[ディオドトス1世]]([[紀元前250年]]頃 - [[紀元前240年]]頃) #[[ディオドトス2世]](紀元前240年頃 - [[紀元前230年]]頃)…ディオドトス1世の子。 #[[エウテュデモス1世]](紀元前230年頃 - [[紀元前200年]]頃)…ディオドトス朝から王位簒奪 #[[デメトリオス1世 (バクトリア王)|デメトリオス1世]](紀元前200年頃 - [[紀元前180年]]頃)…エウテュデモス1世の子。北西インド進出、タクシラ占領 #*[[エウテュデモス2世]]([[紀元前180年]]代)…デメトリオス1世の子 #[[アンティマコス1世]]([[紀元前185年]]頃 - [[紀元前171年]])…デメトリオス1世の弟 #[[エウクラティデス1世]](紀元前171年 - [[紀元前145年]]頃)…エウテュデモス朝から王位簒奪 #[[プラトン (バクトリア王)|プラトン]](紀元前145年頃)…エウクラティデス1世の子? #*[[エウクラティデス2世]](紀元前145年頃 - [[紀元前140年]]頃)…エウクラティデス1世の子 #[[ヘリオクレス1世]](紀元前145年頃 - [[紀元前130年]]頃)…エウクラティデス1世の子、プラトンの弟? == 参考文献 == *[[前田耕作]]『バクトリア王国の興亡―[[ヘレニズム]]と仏教の交流の原点』([[第三文明社]]「レグルス文庫」、1992年/[[筑摩書房]]「[[ちくま学芸文庫]]」、2019年) ISBN 4480099026 *前田耕作『アジアの原像―歴史は[[ヘロドトス]]とともに』([[NHK出版|日本放送出版協会]]「[[NHKブックス]]」、2003年) ISBN 4140019697 *[[岩村忍]]『文明の十字路=中央アジアの歴史』([[講談社学術文庫]]、2007年) ISBN 4061598031 *[[護雅夫]]・[[岡田英弘]]編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』([[山川出版社]]、1990年) *[[ポンペイウス・トログス]] / [[ユニアヌス・ユスティヌス]]抄録『地中海世界史』(合阪學 訳、[[京都大学学術出版会]]「[[西洋古典叢書]]」、1998年)、ISBN 4876981078 *[[ストラボン]]『[[ギリシア・ローマ世界地誌]]II』(飯尾都人 訳、龍溪書舎、1994年)、ISBN 4844783777 *[[ポリュビオス]]『[[歴史 (ポリュビオス)|世界史]]II』(竹島俊之 訳、龍渓書舎、2007年)、ISBN 9784844754879 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == *[[インド・グリーク朝]] *[[クシャーナ朝]] *[[月氏]] *[[セレウコス朝]] *[[大夏]] *[[トハラ人]] *[[バクトリア]] *[[バクトリア語]] *[[バーミヤーン]] *[[ヘレニズム]] *[[アルフレッド・フーシェ]] *[[加藤九祚]]・[[林俊雄]] {{DEFAULTSORT:くれこはくとりあおうこく}} [[Category:グレコ・バクトリア王国|*]]
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平林初之輔
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。平林は、外電の翻訳に従事し、社会主義・マルクス主義に関心を持ち研究をすすめる。このころ創刊された雑誌『種蒔く人』に関係し、当時勃興しはじめたプロレタリア文学を理論化することに力をつくした。1926年に博文館に入社し、『太陽』誌の編集主幹となる。その後、「政治的価値と芸術的価値」という論文を発表し、芸術作品の価値についての論争の火蓋を切った。 1930年に、帝政ロシア時代の政治家であるセルゲイ・ヴィッテの回顧録を、「個々の事件だけでも、たっぷり大抵の探偵小説位の面白さはある」と高評価している。 フランスに映画研究などのため留学中、出血性膵臓炎のためパリ市内で客死した。戒名は法初院廓林寿輔居士。近年、探偵小説の評論および創作の面でも注目され、新しい読者を獲得している。また、S・S・ヴァン=ダインなどの作品を翻訳して日本に紹介した。
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平林 初之輔は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。
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ロリータ
『ロリータ』(Lolita) は、ロシア生まれのアメリカ合衆国の作家、ウラジーミル・ナボコフの小説。1955年刊。少女性愛者ハンバート・ハンバート(1910年生まれ)と、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズ(1935年1月1日生まれ)との関係を描いた長編で、全体はハンバートの手記の形を取っている。 初版はフランスのパリで出版され、内容をめぐって論争を引き起こしたのち、1958年にアメリカ合衆国で出版され、ベストセラーとなった。出版当時はポルノ文学との評価も受け、5ヵ国で発売禁止処分を受けたが、現在ではアメリカ文学の古典として認知されている。 この作品は、タイム誌が選んだ小説100選、ル・モンド20世紀の100冊、ブックルベン・ワールド・ライブラリー、モダン・ライブラリーが選ぶ最高の小説100、ザ・ビッグ・リードなど、いくつかの最高の文学作品のリストに挙げられている。 ヒロインの愛称である「ロリータ」は、今日でも『魅惑的な少女』の代名詞として使われており、ロリータ・コンプレックスやロリータ・ファッションなど、多くの派生語を生んでいる。 1940年に渡米したナボコフは教職のかたわら、この作品を1948年から書き始め、1953年には完成させた。しかし、性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは5つの出版社から刊行を断られた。ナボコフの代理人はさまざまな出版社に足を運び本を読んでもらい、各出版社の編集者は作品のテーマを見抜いてはいたようだが、そのあまりに難解な内容から、これは読者には「ポルノ」にしかみえないという理由で出版を拒んだ。結果、初版はポルノグラフィの出版社として有名なパリのオリンピア・プレスから1955年に出版されたが、グレアム・グリーンらの紹介により読書界の注目の的となった。アメリカでは1958年に出版されベストセラーになった。イギリスでは、作家らが刊行を促す署名運動を起こし、1959年に出版された。 ソ連では長らく発行できなかったが、1989年になってようやく単行本として刊行された。序文はこの作品の芸術としての正当性を主張する作家のヴィクトル・エロフェーエフが書いた。 『ロリータ』はこれまでにフランスやイギリスなどで発禁処分を受けており、ニコラス・キャロライズなどが編集した「百禁書―聖書からロリータ、ライ麦畑でつかまえてまで」ではロリータに対する批判や発禁処分になった経緯などが書かれている。また、ナボコフ自身による評論「『ロリータ』 について」があり、この作品の本質を見てもらいたいというナボコフの考えや、作品の性的な部分についての自身の考えが書かれている。 日本語版は、1959年に大久保康雄(の名義を借りた高橋豊)訳(河出書房新社→新潮文庫)が、2005年に若島正による新訳(新潮社→新潮文庫)が出された。 作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・ハンバートは、少年時代の1924年夏にアナベル・リー(1910年生まれのハンバートより数か月年下の13歳 - 14歳)と出会い、恋人同士になるが、アナベルは出会いから4か月後に発疹チフスにより死別してしまい、いつまでも忘れられずにいる。一度はヴァレリアという少なくとも20代後半(パスポートすら偽装しており正確な年齢は分からずじまい)の女性と結婚もしたがうまくいかなかった。 1947年、ハンバート(36歳 - 37歳)はアナベルの面影を、あどけない12歳の少女のドローレス・ヘイズ(Dolores; 愛称ロリータ Lolita)に見出して一目惚れをし、彼女に近づく下心を持ってその母親である30代半ばの未亡人シャーロット・ヘイズと結婚する。母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を自動車で逃亡する。しかしロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否した。そして時間と共に成長するロリータに比して、ハンバートは衰えて魅力を失いつつあった。 1949年7月4日、ロリータ(14歳)は突然ハンバート(38歳 - 39歳)の目の前から姿を消す。その消息を追ってハンバートは再び国中を探しまわる。3年後、ロリータからの手紙(1952年9月18日発送、9月22日着)からついに居所を見つけ出すが、17歳になった彼女は若い男と結婚、彼の子供を身ごもっていた。哀しみにくれるハンバート(41歳 - 42歳)は、かつて彼女の失踪を手伝って自分の許から連れ出したのは男性の劇作家クレア・クィルティ(愛称キュー)であったことを知り、遂には彼を殺害する。ハンバートは、しばらく後に逮捕されて獄中で病死し、ロリータも出産時に命を落とす。 前思春期の少女にあらわれる性的な魅力を「ニンフェット」の倒錯した魅力を巧みに規定して、社会に衝撃と影響を残したこの作品は、全体の構成より細部(文体)へと関心が傾けられ、さまざまな引用や巧妙な言葉遊びに満ちている。冒頭は「Lolita, light of my life, fire in my loins.」というLとFの音を重ねた文章となっている。作者の分身ともいえるハンバートによるメタファーを多用した独白調の文章は、晦渋なことでも知られる。 ナボコフは、12歳から14歳まで、及び19歳の女子の身長と体重の統計を創作カードに残している。12歳(147cm、39kg)、13歳(152cm、44kg)、14歳(157cm、49kg)で、ドローレス・ヘイズは12歳(144cm、35kg)、13歳(150cm、39kg)、14歳(152cm、41kg)と、身長は平均よりやや低く、体重はかなり軽くやせ気味という設定である。また、古今東西の法律や文化を調査して、文中で列挙するなど科学的なアプローチを取っている。 知的ではあるが、屈折・鬱屈した自意識に満ちたハンバートに、ヨーロッパ旧世界の象徴を、成熟しつつも素朴な性質のロリータに、アメリカの象徴を読み取ることもできる。 『ロリータ』には原作があると言われ、ドイツの作家で後にナチス系ジャーナリストに転じたハインツ・フォン・リヒベルク(1891年 - 1951年)の1916年の作品『Die verfluchte Gioconda』の中に、Lolitaという少女の出てくる類似のテーマの作品がある。このことはドイツの文芸批評家が発見し、2004年3月に各新聞や文芸誌で報じられた(FAZ.27.03.2004参照)。ナボコフとリヒベルクは15年間を同じベルリンで過ごした同時代人である。文学的本質から言えば、両者は別の文学であるとされる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ロリータ』(Lolita) は、ロシア生まれのアメリカ合衆国の作家、ウラジーミル・ナボコフの小説。1955年刊。少女性愛者ハンバート・ハンバート(1910年生まれ)と、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズ(1935年1月1日生まれ)との関係を描いた長編で、全体はハンバートの手記の形を取っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "初版はフランスのパリで出版され、内容をめぐって論争を引き起こしたのち、1958年にアメリカ合衆国で出版され、ベストセラーとなった。出版当時はポルノ文学との評価も受け、5ヵ国で発売禁止処分を受けたが、現在ではアメリカ文学の古典として認知されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この作品は、タイム誌が選んだ小説100選、ル・モンド20世紀の100冊、ブックルベン・ワールド・ライブラリー、モダン・ライブラリーが選ぶ最高の小説100、ザ・ビッグ・リードなど、いくつかの最高の文学作品のリストに挙げられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ヒロインの愛称である「ロリータ」は、今日でも『魅惑的な少女』の代名詞として使われており、ロリータ・コンプレックスやロリータ・ファッションなど、多くの派生語を生んでいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1940年に渡米したナボコフは教職のかたわら、この作品を1948年から書き始め、1953年には完成させた。しかし、性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは5つの出版社から刊行を断られた。ナボコフの代理人はさまざまな出版社に足を運び本を読んでもらい、各出版社の編集者は作品のテーマを見抜いてはいたようだが、そのあまりに難解な内容から、これは読者には「ポルノ」にしかみえないという理由で出版を拒んだ。結果、初版はポルノグラフィの出版社として有名なパリのオリンピア・プレスから1955年に出版されたが、グレアム・グリーンらの紹介により読書界の注目の的となった。アメリカでは1958年に出版されベストセラーになった。イギリスでは、作家らが刊行を促す署名運動を起こし、1959年に出版された。", "title": "出版の経緯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ソ連では長らく発行できなかったが、1989年になってようやく単行本として刊行された。序文はこの作品の芸術としての正当性を主張する作家のヴィクトル・エロフェーエフが書いた。", "title": "出版の経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『ロリータ』はこれまでにフランスやイギリスなどで発禁処分を受けており、ニコラス・キャロライズなどが編集した「百禁書―聖書からロリータ、ライ麦畑でつかまえてまで」ではロリータに対する批判や発禁処分になった経緯などが書かれている。また、ナボコフ自身による評論「『ロリータ』 について」があり、この作品の本質を見てもらいたいというナボコフの考えや、作品の性的な部分についての自身の考えが書かれている。", "title": "出版の経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語版は、1959年に大久保康雄(の名義を借りた高橋豊)訳(河出書房新社→新潮文庫)が、2005年に若島正による新訳(新潮社→新潮文庫)が出された。", "title": "出版の経緯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・ハンバートは、少年時代の1924年夏にアナベル・リー(1910年生まれのハンバートより数か月年下の13歳 - 14歳)と出会い、恋人同士になるが、アナベルは出会いから4か月後に発疹チフスにより死別してしまい、いつまでも忘れられずにいる。一度はヴァレリアという少なくとも20代後半(パスポートすら偽装しており正確な年齢は分からずじまい)の女性と結婚もしたがうまくいかなかった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1947年、ハンバート(36歳 - 37歳)はアナベルの面影を、あどけない12歳の少女のドローレス・ヘイズ(Dolores; 愛称ロリータ Lolita)に見出して一目惚れをし、彼女に近づく下心を持ってその母親である30代半ばの未亡人シャーロット・ヘイズと結婚する。母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を自動車で逃亡する。しかしロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否した。そして時間と共に成長するロリータに比して、ハンバートは衰えて魅力を失いつつあった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1949年7月4日、ロリータ(14歳)は突然ハンバート(38歳 - 39歳)の目の前から姿を消す。その消息を追ってハンバートは再び国中を探しまわる。3年後、ロリータからの手紙(1952年9月18日発送、9月22日着)からついに居所を見つけ出すが、17歳になった彼女は若い男と結婚、彼の子供を身ごもっていた。哀しみにくれるハンバート(41歳 - 42歳)は、かつて彼女の失踪を手伝って自分の許から連れ出したのは男性の劇作家クレア・クィルティ(愛称キュー)であったことを知り、遂には彼を殺害する。ハンバートは、しばらく後に逮捕されて獄中で病死し、ロリータも出産時に命を落とす。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "前思春期の少女にあらわれる性的な魅力を「ニンフェット」の倒錯した魅力を巧みに規定して、社会に衝撃と影響を残したこの作品は、全体の構成より細部(文体)へと関心が傾けられ、さまざまな引用や巧妙な言葉遊びに満ちている。冒頭は「Lolita, light of my life, fire in my loins.」というLとFの音を重ねた文章となっている。作者の分身ともいえるハンバートによるメタファーを多用した独白調の文章は、晦渋なことでも知られる。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ナボコフは、12歳から14歳まで、及び19歳の女子の身長と体重の統計を創作カードに残している。12歳(147cm、39kg)、13歳(152cm、44kg)、14歳(157cm、49kg)で、ドローレス・ヘイズは12歳(144cm、35kg)、13歳(150cm、39kg)、14歳(152cm、41kg)と、身長は平均よりやや低く、体重はかなり軽くやせ気味という設定である。また、古今東西の法律や文化を調査して、文中で列挙するなど科学的なアプローチを取っている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "知的ではあるが、屈折・鬱屈した自意識に満ちたハンバートに、ヨーロッパ旧世界の象徴を、成熟しつつも素朴な性質のロリータに、アメリカの象徴を読み取ることもできる。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『ロリータ』には原作があると言われ、ドイツの作家で後にナチス系ジャーナリストに転じたハインツ・フォン・リヒベルク(1891年 - 1951年)の1916年の作品『Die verfluchte Gioconda』の中に、Lolitaという少女の出てくる類似のテーマの作品がある。このことはドイツの文芸批評家が発見し、2004年3月に各新聞や文芸誌で報じられた(FAZ.27.03.2004参照)。ナボコフとリヒベルクは15年間を同じベルリンで過ごした同時代人である。文学的本質から言えば、両者は別の文学であるとされる。", "title": "類作の存在" } ]
『ロリータ』と、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズ(1935年1月1日生まれ)との関係を描いた長編で、全体はハンバートの手記の形を取っている。 初版はフランスのパリで出版され、内容をめぐって論争を引き起こしたのち、1958年にアメリカ合衆国で出版され、ベストセラーとなった。出版当時はポルノ文学との評価も受け、5ヵ国で発売禁止処分を受けたが、現在ではアメリカ文学の古典として認知されている。 この作品は、タイム誌が選んだ小説100選、ル・モンド20世紀の100冊、ブックルベン・ワールド・ライブラリー、モダン・ライブラリーが選ぶ最高の小説100、ザ・ビッグ・リードなど、いくつかの最高の文学作品のリストに挙げられている。 ヒロインの愛称である「ロリータ」は、今日でも『魅惑的な少女』の代名詞として使われており、ロリータ・コンプレックスやロリータ・ファッションなど、多くの派生語を生んでいる。
{{Otheruseslist|ナボコフの小説|少女愛|ロリータ・コンプレックス|その他|ロリータ (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2013年10月}} {{基礎情報 文学作品 |題名 = ロリータ |原題 = {{en|Lolita}} |画像 = Lolita 1955.JPG |画像サイズ = 200 |キャプション = 初版のカバー([[1955年]]) |作者 = [[ウラジーミル・ナボコフ]] |国 = {{FRA}} |言語 = [[英語]] |ジャンル = [[長編小説]] |シリーズ = |発表形態 = 書き下ろし |初出 = |刊行 = |刊行の出版元 = [[オリンピア・プレス]](パリ) |刊行の出版年月日 =[[1955年]] |収録 = |受賞 = |訳者 = [[大久保康雄]]([[1959年]])<br />[[若島正]]([[2005年]]) |前作 = |次作 = }} 『'''ロリータ'''』({{lang|en|''Lolita''}}) は、[[ロシア]]生まれの[[アメリカ合衆国]]の[[作家]]、[[ウラジーミル・ナボコフ]]の[[小説]]。[[1955年]]刊。少女性愛者ハンバート・ハンバート([[1910年]]生まれ)と、彼が心惹かれた少女ドロレス・ヘイズ([[1935年]][[1月1日]]生まれ)との関係を描いた長編で、全体はハンバートの手記の形を取っている。 初版は[[フランス]]の[[パリ]]で出版され、内容をめぐって論争を引き起こしたのち、[[1958年]]にアメリカ合衆国で出版され、ベストセラーとなった。出版当時は[[ポルノグラフィ|ポルノ]]文学との評価も受け、5ヵ国で[[発禁|発売禁止]]処分を受けたが、現在ではアメリカ文学の古典として認知されている。 この作品は、[[タイム誌が選んだ小説100選]]、[[ル・モンド20世紀の100冊]]、[[ブックルベン・ワールド・ライブラリー]]、[[モダン・ライブラリーが選ぶ最高の小説100]]、[[ザ・ビッグ・リード]]など、いくつかの最高の文学作品のリストに挙げられている。 ヒロインの愛称である「ロリータ」は、今日でも『魅惑的な少女』の[[代名詞]]として使われており、[[ロリータ・コンプレックス]]や[[ロリータ・ファッション]]など、多くの派生語を生んでいる。 == 出版の経緯 == [[1940年]]に渡米したナボコフは教職のかたわら、この作品を[[1948年]]から書き始め、[[1953年]]には完成させた。しかし、性的に倒錯した主題を扱っているため、アメリカでは5つの出版社から刊行を断られた。ナボコフの代理人はさまざまな出版社に足を運び本を読んでもらい、各出版社の編集者は作品のテーマを見抜いてはいたようだが、そのあまりに難解な内容から、これは読者には「ポルノ」にしかみえないという理由で出版を拒んだ。結果、初版は[[ポルノグラフィ]]の出版社として有名なパリの[[オリンピア・プレス]]から[[1955年]]に出版されたが、[[グレアム・グリーン]]らの紹介により読書界の注目の的となった。アメリカでは[[1958年]]に出版されベストセラーになった。イギリスでは、作家らが刊行を促す署名運動を起こし<ref>[http://www10.plala.or.jp/transparentt/fourloli.pdf 映画Lolita とアメリカ]中田晶子、南山短期大学紀要 27号 1999年</ref>、[[1959年]]に出版された。 [[ソビエト連邦|ソ連]]では長らく発行できなかったが、[[1989年]]になってようやく単行本として刊行された<ref>{{Cite journal|author=沼野充義|date=1993-06|title=ロシア文学は一つになったのか?――亡命文学の再評価に向けて|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3464596/1/6|journal=窓|issue=85|page=8}}</ref>。序文はこの作品の芸術としての正当性を主張する作家の[[ヴィクトル・エロフェーエフ]]が書いた<ref>{{Cite journal|author=和田美香|date=1998-03|title=『ロリ-タ』における視線の諸相--セクシュアリティを読み解く|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/4428038/1/51|journal=ロシア文化研究|issue=5|page=95}}</ref>。 『ロリータ』はこれまでにフランスやイギリスなどで[[発禁]]処分を受けており<ref>{{Cite web|和書|date=2013-10-09 |url=https://kai-you.net/article/1285 |title=発禁処分になった名作10冊とその理由──米国「禁書週間」にあわせて公開 |publisher=KAI-YOU |accessdate=2019-10-23}}</ref>、ニコラス・キャロライズなどが編集した「百禁書―聖書からロリータ、ライ麦畑でつかまえてまで」ではロリータに対する批判や発禁処分になった経緯などが書かれている。また、ナボコフ自身による評論「『ロリータ』 について」があり、この作品の本質を見てもらいたいというナボコフの考えや、作品の性的な部分についての自身の考えが書かれている。 日本語版は、[[1959年]]に[[大久保康雄]](の名義を借りた[[高橋豊 (翻訳家)|高橋豊]])訳{{要出典|date=2013年8月}}([[河出書房新社]]→[[新潮文庫]])が、[[2005年]]に[[若島正]]による新訳([[新潮社]]→新潮文庫)が出された。 == あらすじ == 作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。[[ヨーロッパ]]から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命した中年の大学教授である文学者'''ハンバート・ハンバート'''は、少年時代の[[1924年]]夏に[[アナベル・リー]](1910年生まれのハンバートより数か月年下の13歳 - 14歳)と出会い、恋人同士になるが、アナベルは出会いから4か月後に[[発疹チフス]]により死別してしまい、いつまでも忘れられずにいる。一度はヴァレリアという少なくとも20代後半(パスポートすら偽装しており正確な年齢は分からずじまい)の女性と結婚もしたがうまくいかなかった。 [[1947年]]、ハンバート(36歳 - 37歳)はアナベルの面影を、あどけない12歳の少女の'''ドローレス・ヘイズ'''(Dolores; 愛称'''ロリータ''' Lolita)に見出して一目惚れをし、彼女に近づく下心を持ってその母親である30代半ばの未亡人シャーロット・ヘイズと結婚する。母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を自動車で逃亡する。しかしロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否した。そして時間と共に成長するロリータに比して、ハンバートは衰えて魅力を失いつつあった。 [[1949年]][[7月4日]]、ロリータ(14歳)は突然ハンバート(38歳 - 39歳)の目の前から姿を消す。その消息を追ってハンバートは再び国中を探しまわる。3年後、ロリータからの手紙([[1952年]][[9月18日]]発送、[[9月22日]]着)からついに居所を見つけ出すが、17歳になった彼女は若い男と結婚、彼の子供を身ごもっていた。哀しみにくれるハンバート(41歳 - 42歳)は、かつて彼女の失踪を手伝って自分の許から連れ出したのは男性の劇作家クレア・クィルティ(愛称キュー)であったことを知り、遂には彼を殺害する。ハンバートは、しばらく後に逮捕されて獄中で病死し、ロリータも出産時に命を落とす。 == 解説 == 前思春期の少女にあらわれる性的な魅力を「[[ニンフェット]]」の倒錯した魅力を巧みに規定して、社会に衝撃と影響を残したこの作品は、全体の構成より細部(文体)へと関心が傾けられ、さまざまな引用や巧妙な言葉遊びに満ちている。冒頭は「{{en|Lolita, light of my life, fire in my loins.}}」というLとFの音を重ねた文章となっている。作者の分身ともいえるハンバートによる[[メタファー]]を多用した独白調の文章は、晦渋なことでも知られる。 ナボコフは、12歳から14歳まで、及び19歳の女子の身長と体重の統計を創作カードに残している。12歳(147cm、39kg)、13歳(152cm、44kg)、14歳(157cm、49kg)で、ドローレス・ヘイズは12歳(144cm、35kg)、13歳(150cm、39kg)、14歳(152cm、41kg)と、身長は平均よりやや低く、体重はかなり軽くやせ気味という設定である。また、古今東西の法律や文化を調査して、文中で列挙するなど科学的なアプローチを取っている。 知的ではあるが、屈折・鬱屈した自意識に満ちたハンバートに、ヨーロッパ旧世界の象徴を、成熟しつつも素朴な性質のロリータに、アメリカの象徴を読み取ることもできる。 == 翻案 == ;映画 *[[ロリータ (1962年の映画)]]:[[スタンリー・キューブリック]]監督 *[[ロリータ (1997年の映画)]]:[[エイドリアン・ライン]]監督 ;オペラ *[[ジョシュア・ファインベルク]]作曲による作品 **作曲年:[[2006年]] **音響技術協力:[[IRCAM]] **初演団体:[[アンサンブル・アンテルコンタンポラン]] *[[ロディオン・シチェドリン]]作曲による作品 **作曲年:[[1993年]] **作品番号:Op.84 **委嘱:[[ストックホルム王立歌劇場]] == 類作の存在 == 『ロリータ』には原作があると言われ、[[ドイツ]]の作家で後に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]系[[ジャーナリスト]]に転じた[[ハインツ・フォン・リヒベルク]]([[1891年]] - [[1951年]])の[[1916年]]の作品『''Die verfluchte Gioconda''』の中に、Lolitaという少女の出てくる類似のテーマの作品がある。このことはドイツの文芸批評家が発見し、[[2004年]]3月に各新聞や文芸誌で報じられた(FAZ.27.03.2004参照)。ナボコフとリヒベルクは15年間を同じ[[ベルリン]]で過ごした同時代人である。文学的本質から言えば、両者は別の文学であるとされる。 == 日本語訳 == * {{Cite book|和書|title=ロリータ|author=ウラジーミル・ナボコフ|translator=[[大久保康雄]]|publisher=[[新潮文庫]] |isbn=978-4-10-210501-6}}旧訳版 * {{Cite book|和書|title=ロリータ|author=ウラジーミル・ナボコフ|translator=[[若島正]]|publisher=新潮文庫 |isbn=978-4-10-210502-3}}初刊は[[新潮社]]・単行判 *ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ 魅惑者』若島正・後藤篤訳、新潮社〈ナボコフ・コレクション5〉、2019年。後者は原型となった中篇 == 関連文献 == *ウラジミール・ナボコフ 『[[魅惑者]]』 出淵博訳、河出書房新社、[[1991年]]。ISBN 978-4-309-20158-0 - 本作と同じモチーフを扱った作品で『ロリータ』の原型と言われている。亡命前の作品でロシア語で書かれた。原書は[[1939年]]にパリで出版。 *若島正 『ロリータ、ロリータ、ロリータ』 作品社、[[2007年]]。ISBN 978-4-86182-157-8 - 日本語訳者による『ロリータ』論集。 *Vladimir Nabokov. ''Lolita A Screenplay''. Vintage : 1st Vintage International. 1997. ISBN 978-0-67977255-2 - キューブリック監督の映画化時に、作者が書き起こした脚本。脚本としてナボコフの名がクレジットされているものの、実際の映画には用いられなかった。初版は[[1974年]]。 *Appel, Alfred, Jr. ''The Annotated Lolita'' (revised ed.). New York: Vintage Books. 1991. ISBN 978-0-67972729-3. - 研究者によるメジャーな注釈書。初版は[[1970年]]。 *[http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/tandai/kiyou/No.37/045-067_Nakata.pdf 見えないユダヤ人―半世紀後に読む『ロリータ』―]中田晶子、南山大学紀要第37号、[[2009年]] *[http://www10.plala.or.jp/transparentt/fourloli.pdf 映画 Lolita とアメリカ]南山短期大学紀要 27 号 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[ロリータ・コンプレックス]] *[[ロリータ・シンドローム]] *[[ロリータ・ファッション]] *[[フレンチ・ロリータ]] *[[ニンフェット]] *[[少女愛]] *[[ペドフィリア]](小児性愛、児童性愛) *[[ローの日記]] == 外部リンク == *[http://www.dezimmer.net/LolitaUSA/LoUSpre.htm A geographical scrutiny of Vladimir Nabokov's novel Lolita (1955/1958) by Dieter E. Zimmer] *[http://www.dezimmer.net/LolitaUSA/LoChrono.htm A Chronology of Lolita by Dieter E. Zimmer] {{ロリータ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろりいた}} [[Category:ウラジーミル・ナボコフの小説]] [[Category:アメリカ合衆国の小説]] [[Category:1955年の小説]] [[Category:少女愛]] [[Category:キャラクター類型|ろりいた]] [[Category:文学における小児性愛]] [[Category:児童性的虐待]] [[Category:信頼できない語り手の作品]] [[Category:日記体小説]]
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スクリーントーン
スクリーントーン(Screen-tone)は、イギリスのレトラセット社が生産・販売している、グラフィックデザイン、イラストレーション、漫画などに用いられる画材の商標である。 等間隔に配列された網点やカケアミ、模様柄など用途ごとに様々なパターンが印刷された粘着フィルムを切り抜いて絵に貼りつけ、モノクロ原稿上で色の濃淡や背景・衣服の柄などを表現する。より安価な同種の他社製品が複数発売されており、便宜上それらも含めて「スクリーントーン」もしくは略して「トーン」と呼ばれる。 もともとは新聞紙や建築図に使われたものであるが、日本では1950年代からモノクロ漫画に使用されるようになり、欧米のようにオールカラーの漫画本の伝統が定着しなかったこともあって独自の発達を遂げた。 日本での歴史は、1952年(昭和27年)、当時グラフィックデザイナーとして活動していた関三郎が、アメリカ合衆国のジパトーン(Zip-A-Tone)をヒントにアミトーンを考案したことに始まる。漫画ではなく、自分のグラフィックデザインの仕事に役立てばいいと考えて考案したもので、懇意にしていた京都の印刷会社である東京セロレーベルに制作を依頼した。この最初のトーンは、透明のシートにアミ点を印刷し、マイクロクリスタリンワックスという接着剤を裏面に塗布してあるもので、接着剤の付いている裏側が印刷面であったため、現在のトーンのように柄をカッターなどで削ったりすることはできなかった。 関は同年10月に日本トーンという会社を設立した。当初の使用者はグラフィックデザイナーであったが、1954年(昭和29年)頃、漫画家の永田竹丸が自分の漫画に使用し、これをきっかけとしてまたたく間に漫画業界に広まっていった(永田本人の証言による)。同じ新漫画党に所属していたつのだじろうも、自分が最初にスクリーントーンを使いはじめたと証言している。当初は小さな物しか存在せず、漫画家達は複数枚並べて貼るなどの工夫をしていた。なお、網点などのパターンを使った絵の表現は大正時代からあり、昭和初期から漫画にも使われていたが、これはトーンではなく、印刷所に指定して製版の過程で入れてもらうもので「アミ点」や「地紋」(ぢもん)と呼ばれていた。これらは指定なので細かい注文をすることはできず、その点、手元で加工でき仕上がりの状態を確認できることにトーンの画期性があった。なおアメリカ合衆国ではこれ以前から漫画にもトーンが使われていたという。 日本トーン社はその後、レトラセット社の輸入代理店となり、同社製のインスタントレタリング(シートに文字を転写したもの)を販売。1966年(昭和41年)には、関三郎により新たにレトラセットジャパンが設立され、英レトラセット社のスクリーントーンによく似たシートのレトラトーンやカラートーンの販売などを始めた。柄が表面印刷になったのもこの頃で、これによって削りの技術を使った繊細な表現が可能になり、トーンを緻密に使った日本独自の漫画表現が発達していった。 使用する場合は、原稿の上にトーンフィルムをかぶせ、模様が欲しい部分の形に合わせてカッターナイフで切り取り、台紙からはがし、トーンフィルムの上からトーンヘラやバーニシャー/バーニッシャーと呼ばれる器具でこする事で定着させる。ただし必ずしも器具は必要ではなく、素手でこすり定着させても良い。メーカーや製品によっては、フィルムの粘着力が強く、原稿に軽くかぶせただけで定着してしまうものもあるため、注意が必要である。 貼り付ける際トーンフィルムを直接こすると、印刷されているインクがはがれたり、フィルムが伸びてパターンが崩れるなど、トーンが痛む場合があるため、当て紙(通常はトーンフィルムについている台紙)を用いる必要がある。一度定着したトーンは、ドライヤーなどで熱を加え、糊を軟化させることで容易にはがすことができる。ただし、原稿用紙に糊が残り、その上にはインクが乗りづらく、ホコリなどゴミが付着する原因になるため、再度トーンを貼らない場合は消しゴムや練り消しゴムなどで糊をこすって除去する必要がある。 模様はフィルム表面に印刷されているため、表面のインクのみをカッターの先で削り取る「削り」という手法により、描画したり、グラデーションをかけたりすることも可能。また、砂消しゴムを使って削ることで、カッターナイフとは違う柔らかい感じに仕上げることも出来る。他にもトーンを複数貼りつけることで更に濃くしたり、階調を表現する「重ね貼り」・「パイル」などと呼ばれる手法もある。このとき、並んでいるドットをずらすことでモアレが起きる。モアレは本来歓迎すべきものではないが、逆に効果として利用することもあり、集中線トーンなどではごく一般的な技法である。 トーンの上に更に描画する場合、黒インクやホワイトがはじかれてうまく乗らない場合があるが、その際は軽く消しゴムをかけるか、オリンポス社(2008年〈平成20年〉廃業)製リードパウダーといった撥水性除去剤をはたくときれいに描画できる。 多種多様のスクリーントーンが存在し、模様によって便宜的に数種類に分類・呼称されている。各トーンについている連番については各メーカーが独自に決めており、法則もまちまちであるため、番号を見ただけではどういったトーンなのかわからないし、同種のトーンでも番号が全く異なったりする。初心者が混乱に陥る一因でもある。 近年はパソコンの普及によりデジタルによる漫画製作が増えており、デジタル原稿においてスクリーントーン同様のアミ効果や文様パターン、集中線などの表現を行うソフトウェアが制作されている。 これらのソフトウェアで利用するためのトーンの画像データのみを収録した素材集も発売されている。
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スクリーントーン(Screen-tone)は、イギリスのレトラセット社が生産・販売している、グラフィックデザイン、イラストレーション、漫画などに用いられる画材の商標である。 等間隔に配列された網点やカケアミ、模様柄など用途ごとに様々なパターンが印刷された粘着フィルムを切り抜いて絵に貼りつけ、モノクロ原稿上で色の濃淡や背景・衣服の柄などを表現する。より安価な同種の他社製品が複数発売されており、便宜上それらも含めて「スクリーントーン」もしくは略して「トーン」と呼ばれる。 もともとは新聞紙や建築図に使われたものであるが、日本では1950年代からモノクロ漫画に使用されるようになり、欧米のようにオールカラーの漫画本の伝統が定着しなかったこともあって独自の発達を遂げた。
{{出典の明記|date=2013年6月}} [[画像:Screen tone example.svg|thumb|スクリーントーン]] [[File:Manga screentone.svg|thumb|スクリーントーンを使ったマンガ表現の例。髪、目、首の影にアミトーンが使われている。]] '''スクリーントーン'''(Screen-tone)は、[[イギリス]]のレトラセット社が生産・販売している、[[グラフィックデザイン]]、[[イラストレーション]]、[[漫画]]などに用いられる[[画材]]の[[商標]]である<ref name="Shin-Comi">「[http://shincomi.webshogakukan.com/school/2006/11/1_6.html 初級編第13回 トーンを使おう(1)]」『新コミまんが家養成講座』小学館、2017年11月4日閲覧。</ref>。 等間隔に配列された[[網点]]や[[効果線|カケアミ]]、模様柄など用途ごとに様々な[[パターン]]が印刷された粘着[[フィルム]]を切り抜いて絵に貼りつけ、[[モノクローム|モノクロ]][[原稿]]上で色の濃淡や背景・衣服の柄などを表現する<ref name="Shin-Comi">「[http://shincomi.webshogakukan.com/school/2006/11/1_6.html 初級編第13回 トーンを使おう(1)]」『新コミまんが家養成講座』小学館、2017年11月4日閲覧。</ref>。より安価な同種の他社製品が複数発売されており、便宜上それらも含めて「スクリーントーン」もしくは略して「トーン」と呼ばれる<ref name="Shin-Comi">「[http://shincomi.webshogakukan.com/school/2006/11/1_6.html 初級編第13回 トーンを使おう(1)]」『新コミまんが家養成講座』小学館、2017年11月4日閲覧。</ref><ref name="margaret-how to">「[http://margaret.shueisha.co.jp/contribute/howto.html まんがの作り方 道具をそろえよう!]」『マーガレット公式サイト』集英社、2017年11月4日閲覧。</ref>。 もともとは[[新聞紙]]や[[図面#建築分野における図面|建築図]]に使われたものであるが、日本では[[1950年代]]からモノクロ漫画に使用されるようになり、欧米のようにオールカラーの漫画本の伝統が定着しなかったこともあって独自の発達を遂げた。 == 歴史 == 日本での歴史は、[[1952年]](昭和27年)、当時[[グラフィックデザイナー]]として活動していた関三郎が、アメリカ合衆国のジパトーン(Zip-A-Tone)をヒントにアミトーンを考案したことに始まる。漫画ではなく、自分のグラフィックデザインの仕事に役立てばいいと考えて考案したもので、懇意にしていた京都の印刷会社である東京セロレーベルに制作を依頼した。この最初のトーンは、透明のシートにアミ点を印刷し、マイクロクリスタリンワックスという接着剤を裏面に塗布してあるもので、接着剤の付いている裏側が印刷面であったため、現在のトーンのように柄をカッターなどで削ったりすることはできなかった<ref name="百科26">「スクリーントーン誕生秘話」『スクリーントーン百科』 p.26</ref>。 関は同年10月に日本トーンという会社を設立した。当初の使用者はグラフィックデザイナーであったが、[[1954年]](昭和29年)頃、漫画家の[[永田竹丸]]が自分の漫画に使用し、これをきっかけとしてまたたく間に漫画業界に広まっていった<ref name="百科26"/><ref name="百科2829"/>(永田本人の証言による)。同じ[[新漫画党]]に所属していた[[つのだじろう]]も、自分が最初にスクリーントーンを使いはじめたと証言している<ref>「それを俺が画材屋で見ッけてマンガに使うようになったら、[[トキワ荘]]の連中がスグ食いついてきたわけだ。「お前!ここどうやったんだ!教えろ!」って。それで、トキワ荘の連中が使い始めたら、すぐ次の週には手塚([[手塚治虫]])さんが使い始めてた(笑)」- [[週刊少年チャンピオン]]2019年7号 創刊50周年記念インタビュー</ref>。当初は小さな物しか存在せず、漫画家達は複数枚並べて貼るなどの工夫をしていた。なお、網点などのパターンを使った絵の表現は[[大正|大正時代]]からあり、昭和初期から漫画にも使われていたが、これはトーンではなく、印刷所に指定して製版の過程で入れてもらうもので「アミ点」や「地紋」(ぢもん)と呼ばれていた<ref name="百科2829">永田竹丸 「スクリーントーンと漫画」『スクリーントーン百科』 pp.28-29</ref>。これらは指定なので細かい注文をすることはできず、その点、手元で加工でき仕上がりの状態を確認できることにトーンの画期性があった。なお[[アメリカ合衆国]]ではこれ以前から漫画にもトーンが使われていたという<ref name="百科26"/>。 日本トーン社はその後、レトラセット社の輸入代理店となり、同社製の[[インスタントレタリング]](シートに文字を転写したもの)を販売。[[1966年]](昭和41年)には、関三郎により新たにレトラセットジャパンが設立され、英レトラセット社のスクリーントーンによく似たシートのレトラトーンやカラートーンの販売などを始めた。柄が表面印刷になったのもこの頃で、これによって削りの技術を使った繊細な表現が可能になり、トーンを緻密に使った日本独自の漫画表現が発達していった<ref>「スクリーントーン誕生秘話」『スクリーントーン百科』 p.27</ref>。 == 使用法 == 使用する場合は、原稿の上にトーンフィルムをかぶせ、模様が欲しい部分の形に合わせて[[カッターナイフ]]で切り取り、台紙からはがし、トーンフィルムの上からトーンヘラやバーニシャー/バーニッシャーと呼ばれる器具でこする事で定着させる。ただし必ずしも器具は必要ではなく、素手でこすり定着させても良い。メーカーや製品によっては、フィルムの粘着力が強く、原稿に軽くかぶせただけで定着してしまうものもあるため、注意が必要である。 貼り付ける際トーンフィルムを直接こすると、印刷されているインクがはがれたり、フィルムが伸びてパターンが崩れるなど、トーンが痛む場合があるため、当て紙(通常はトーンフィルムについている台紙)を用いる必要がある。一度定着したトーンは、ドライヤーなどで熱を加え、糊を軟化させることで容易にはがすことができる。ただし、原稿用紙に糊が残り、その上にはインクが乗りづらく、ホコリなどゴミが付着する原因になるため、再度トーンを貼らない場合は[[消しゴム]]や[[練り消しゴム]]などで糊をこすって除去する必要がある。 模様はフィルム表面に印刷されているため、表面のインクのみをカッターの先で削り取る「削り」という手法により、描画したり、グラデーションをかけたりすることも可能。また、[[消しゴム#種類|砂消しゴム]]を使って削ることで、カッターナイフとは違う柔らかい感じに仕上げることも出来る。他にもトーンを複数貼りつけることで更に濃くしたり、階調を表現する「重ね貼り」・「パイル」などと呼ばれる手法もある。このとき、並んでいるドットをずらすことで[[モアレ]]が起きる。モアレは本来歓迎すべきものではないが、逆に効果として利用することもあり、集中線トーンなどではごく一般的な技法である。 トーンの上に更に描画する場合、黒インクやホワイトがはじかれてうまく乗らない場合があるが、その際は軽く消しゴムをかけるか、オリンポス社(2008年〈平成20年〉廃業)製リードパウダーといった撥水性除去剤をはたくときれいに描画できる。 == 種類 == 多種多様のスクリーントーンが存在し、模様によって便宜的に数種類に分類・呼称されている。各トーンについている連番については各メーカーが独自に決めており、法則もまちまちであるため、番号を見ただけではどういったトーンなのかわからないし、同種のトーンでも番号が全く異なったりする。初心者が混乱に陥る一因でもある。 ; アミトーン : 細かな水玉模様のトーンを一般にアミトーンという。最も基本的なスクリーントーンと言っていい。模様の種類を表すために、点の密度を表す[[スクリーン線数|線数]](ライン(L)数)と濃度を示すパーセント(%)数が書き込まれており、例えば、60L10%や40L40%などと書かれる。線数とは、1インチあたりの線や点の列数を表す単位で、「ライン/インチ」(line per inch、lpi)を使って表記することもある。濃度とは1インチ四方の黒い印刷部分と余白の面積の比率を言う。60L30%という表記の場合、1インチの幅の中に60個の点があり、1インチ四方中の黒い部分の濃度が30 %になるということを表している。<!--パーセントはそこからの濃度を示している。例えば10%ならば10ドットのうち1ドットを残すような方法で濃度を決めている。--> しかし、同じ線数・濃度のトーンでも、メーカーが違うとわずかな印刷の差異があるために、重ねた際に模様に乱れの生じる[[モアレ]]を起こすことがある。 : また、水玉ではなく正方形のドットで構成されている物もある。 ; グラデトーン : 正確には「グラデーショントーン」であるが、冗長であるためそう呼ばれることは少ない。広義のアミトーンの一種であるが、全面均一な濃度で印刷されているアミトーンとは異なり、濃度が階調的に印刷されている。普通濃度は1つの点の大きさを変えることで変化させており、[[線数]]は一定のままである。これは重ね貼りの際、[[モアレ]]を起こさないためである。様々な濃度や階調の度合い、幅を持つ多種多様のものが存在する。細い幅のものは「帯グラ」「こまグラ」「ちまグラ」などと呼ばれたりもする。 : 主に金属表現などに用いるが、画面にメリハリを与え、立体感を出す、現実感が出るなど多彩な効果を生むため、作家によって使い方は多岐にわたる。 ; 多線トーン : ライントーン・万線(まんせん)とも呼ぶ。ドットではなく、櫛の歯のように線を規則的に連続して並べて濃淡を表現している物。また多線トーンでかつグラデトーンなものもある。 ; 砂トーン : 砂目とも呼ぶ。皮の表現などによく使われる砂トーンは不規則な形の小さなドットがランダムに配置されることで構成される。濃度パーセントのみが記述されており、アミトーンと違い、モアレを起こさない。砂トーンでかつグラデトーンなものもある。 ; 柄トーン : なんらかの小さなカット・イラスト・模様などが連続して印刷されている物を指す。花柄、キラキラした光を表したものなど非常に多くの種類があり、また日々新しい柄トーンが各社から開発されている。と同時に、人気が無いため絶版になり消えていく柄トーンも多く存在している。 ; CGトーン : イラストや[[写真]]などをコンピュータで網点加工するなどして、印刷した物。技術がないと描画するのが難しい、水・雲・夕日などなどを手軽に原稿上に表現できるが、うまく用いないと違和感を生じる原因にもなる。近年では[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]によって生成した立体物や街並みなどを印刷した物もあり、それらにはバーチャトーンという俗称もある。 ; 背景トーン : 複雑な建物や造形物などが印刷されているトーン。また、構図やモチーフのバリエーションに乏しいことに加え、作者自身の画風によっては馴染みにくく画面に違和感を生じることが多い。 : 時間短縮や技術的に描き慣れない箇所の補助として便利なものだが、初心者にとっては作画技術の鍛錬の放棄にも繋がり得る。 ; 効果トーン : 本来作家が自ら描画する、集中線・カケアミ・流線など、漫画表現に用いる[[効果線]]を印刷してあるトーン全般を指す。主に人の手によって描かれた物だが、なかには[[コンピュータグラフィックス|CG]]によって描かれた物もあり、これらとCGトーンを明確に区別するのは難しい。 : 背景トーン同様、便利だがつけペンに習熟する機会を失うことにも繋がり得る。 <!--[[つけペン]]に習熟する機会を捨てているという点で、背景トーンと同じく諸刃の剣。--> ; ホワイトトーン : 通常のスクリーントーンは透明なフィルムに黒インクで印刷されているが、これは白インクで印刷された物。既に黒インクで描画された絵の上や、比較的濃い通常のトーンの上に貼って用いる。通常のトーンよりも種類は少ない。 ; 転写トーン(転写パターン) : 透明なフィルムに裏面から模様が印刷されており、上からこすった部分のみが原稿に転写されるタイプのもの。[[インスタントレタリング]]と同じ原理。転写トーンを直接絵の上にあて、仕上がりイメージより少し大きめにトーンヘラなどでこすって転写、はみ出した部分はホワイト修正するかメンディングテープにくっつけて取り除く。こすった時のタッチ跡がそのまま出せるので複雑な形の影などに有用。「イラストテックス」などという名称で複数の会社から販売されている。かつてのレトラセットからは「インスタンテックス」という名前で同様の物が出ていたため、使用者層によってはこちらの名前の方が浸透している場合もある。 ; カラートーン : カラーイラストなどに用いる、有色印刷のスクリーントーン。アミトーンなどは存在せず、均一に様々な色が印刷されているのみである。繊細で扱いが難しく、時間経過や光に晒されることでの[[退色]]にも弱く、通常トーンで用いられる削りなどの手法も使いづらい。最近ではパソコンによる着彩及びデータ入稿が浸透してきたため、使用している作家は少なくなり、製品自体も市場から姿を消しつつある。漫画業界では伝統的にカラートーンと呼ばれてはいるが、流通市場ではオーバーレイと呼ぶのが普通である。 ; コピートーン : 製品自体の見た目は、厚めで何も印刷されていない透明のスクリーントーンである。コピー機によって印刷可能なフィルムから出来ており、好みの絵や柄などを印刷して、トーンを自作するためのもの。現在のコピー機の印刷品質を考慮して使用する必要がある。 == ブランド(製造各社) == ; IC SCREEN (株式会社G-Too) :* アイシースクリーン(IC SCREEN)定価528円 :* アイシースクリーンユース(IC SCREEN youth)定価385円 :* アイシースクリーンプレミアム(IC SCREEN Premium)定価660円 : 1970年ごろからスクリーンを販売している、いわゆる「老舗」メーカー。印刷精度の高さと、削り、ボカシなどの加工の容易さから、プロ作家の支持を集め、漫画・同人誌製作の最盛期を支えてきた。 : 約500種類のオーソドックスなラインナップの「アイシースクリーン」と、約230種類でデザインにバリエーションのある「アイシースクリーンユース」と、スクリーンを白と黒の2色で印刷した特殊な「アイシースクリーンプレミアム」がある。ともに印刷精度、長期保存、加工の容易さが重視されていて、品質においては数多くのメーカーがスクリーンを販売するようになった現在でも、高い信頼を集めている。 : 他、トーン自作用のコピーフィルム、初心者向けにブランド推奨の柄をセレクトした「ビギナーズパック」など、漫画製作に必要な画材全般を製造、販売している。 :2019年にJトーンを買い取り、復刻総選挙でユーザーに選ばれた35柄を復刻。 ; DELETER(エスイー株式会社) :* デリータースクリーン 定価473円 :* デリータースクリーンジュニア 定価385円 :* テクノスクリーン 定価262円(製造終了) : 主なラインアップは「デリータースクリーン」「デリータースクリーンジュニア」「テクノスクリーン」。1987年に「デリータースクリーン」の製造を開始した。柄トーン・CGトーンの拡充に力を注いでいる。価格と品質のバランスが良く、アマチュアからプロまで幅広く使われている。初期製品では糊の質が不適切でベタベタしていたが、やがて改善されている。「テクノスクリーン」は「デリータースクリーン」の廉価版だが、価格差はさほどではない。「ジュニア」は半分のB5サイズ。2007年2月21日より、[[原油価格]]高騰の影響から値上げされた。 ; レトラセット :* スクリーントーン 定価649円 :* コミック・スクリーントーン 定価385円 : 主なラインナップは「スクリーントーン」「コミック・スクリーントーン」シリーズ。1980年代中盤頃までは国内のトーン市場を独占しており、商標である「スクリーントーン」は一般的な名称として扱われるほどになった。しかしアイシーやMAXONを初めとする新規参入企業との品質・価格競争に敗れ、国内販売会社の倒産・撤退劇を繰り返し、かつての勢力を失った。「スクリーントーン」の印刷品質は高いが、廉価版・入門者用の「コミック・スクリーントーン」はそれほど品質は良くない。価格も他社より高めで、特に独占市場を形成していた当時はB4サイズのもので1枚860円にも達することもあった。他社が様々な新柄・CGトーンを投入する中、ラインナップの拡充をあまり行わず、印刷業界の進歩に伴う[[タチキリ]]の拡張などへの対応も遅れ、ユーザー離れを引き起こした。 ; MAXON(ホルベイン画材株式会社) :* COMIC PATTERN BIG 定価346円 :* COMIC PATTERN 定価231円 :* MAXON SCREEN 定価473円 : 主なラインナップは「コミックパターン」シリーズ。MAXONはホルベイン画材株式会社のブランドで、レトラセットのトーンが独占市場を築いている中に、インクや原稿用紙、そしてトーンなどを含めた総合漫画用品ブランドとして投入されたもの。「コミックパターン」は「スクリーントーン」に比べてはるかに安価で、購入費の捻出に苦しむ作家達にとって救いの手となった。発売初期はフィルムの粘着力が強力で扱いづらく、描画したインクを紙ごとはがしたという事故も聞かれたが、近年では改善された。しかしそれでも、他社より粘着力が強めである。MAXONの売りは「グラデーショントーンが綺麗に再現される」ことで、その理由は「ドットが四角い(スクエアドット)ので密度が濃くなってもドット同士がくっつかない」ためである。 ; SAMデザイントーン(サム・トレーディング株式会社) :* DESIGN ToNE 定価385円(全種類生産終了) : ラインナップは単に「デザイントーン」と呼ばれることが多い。1994年創業の比較的新しい会社ながら、リーズナブルな価格のトーンを販売しており、認知度が上がってきている。CGを駆使した独特のパターンの制作が目立つ。一部のトーンの柄が、DELETERと重複している。2006年に値下げ。 ; Jトーン(有限会社ジェイ) :* J-トーン 定価363円(全種類生産終了) : 廉価で、かつ手描きものが多いことから、主に少女漫画で使用される。特に大きな花柄の244番は、様々なシーンに対応するため幅広く使われており、目にする機会が多い。2019年アイシー(G-Too)がJトーンを買い取り、復刻総選挙により一部の柄を復刻発売。 : ; オリジナルトーン(赤ブーブー通信社) :* オリジナルトーン 定価200円(全種類生産終了) : [[同人誌即売会]]を主催する業務を行っている会社だが、独自にトーンも製造販売していた。2014年8月全種類生産終了。 ; ラジカルスクリーン(ラジカルアート) :* ラジカルスクリーン 定価308円 : ; TRIART(サンスター文具株式会社) :{{節スタブ}} == ソフトウェア == 近年は[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の普及によりデジタルによる漫画製作が増えており、デジタル原稿においてスクリーントーン同様のアミ効果や文様パターン、集中線などの表現を行うソフトウェアが制作されている。 * [[ComicStudio]]([[CELSYS]]) * [[ComicWorks]](DELETER) * [[アトリエ (ソフトウェア)|アトリエ]] * [[Photoshop]]([[アドビ]])など漫画制作専門ではない画像処理用ソフトウェアの中にも、ある程度のスクリーントーン的な作業が行えるものがあり、[[PowerTone]] (CELSYS) やトーンジェネレーターなどの[[プラグイン]]により更に高度なトーン処理を実現する物もある。 これらのソフトウェアで利用するためのトーンの画像データのみを収録した素材集も発売されている。 == 関連項目 == * [[ベンデイドット]] * [[ディザ]] * [[グレースケール]] * [[ハーフトーン|網点]] * [[点描|点描画]] * [[アイシー (画材製造業)]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 福留朋之編 『漫画テクニック講座 スクリーントーン百科』 美術出版社、1996年 == 外部リンク == * [http://www.letraset.com/ 英レトラセット](2006年現在のレトラセット・ブランドのスクリーントーンの製造会社。輸入取り扱いは[http://www.orient-e.co.jp/ オリエント・エンタプライズ]) * [https://www.icscr.jp 漫画画材のブランド・アイシー] * [http://www.e-maxon.com/ MAXON] * [http://www.deleter.jp/ DELETER] * [http://www.sam-t.co.jp/news サム・トレーディング] * [http://www.j-tone.net/ Jトーン] {{manga-stub}} {{DEFAULTSORT:すくりいんとおん}} [[Category:文房具]] [[Category:画材]] [[Category:漫画制作]] [[Category:イラストレーション]] [[Category:模様]] [[it:Trasferelli#I retini]]
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2023-07-01T09:42:30Z
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ムジカ・ポエティカ
ムジカ・ポエティカ(羅: Musica Poetica)は、カール・オルフの音楽作品群。 1930年代初期、ミュンヘンのギュンターシューレで門下生グニルト・キートマン(Gunild Keetman)と共に音楽の教鞭をとっていたオルフは、教育用の音楽として「シュールヴェルク」(Schulwerk、教育音楽)と題した作品を書いた。その中には声楽や器楽のさまざまな組み合わせによる5巻からなる「子供のための音楽」がある。 共同制作のかたちで、1950年から1954年にかけて、シュールヴェルクをムジカ・ポエティカとしてまとめた。彼の音楽教育についての見解は、世界各国の音楽教育者に受け入れられ、普及している。 子供達は実際の演奏に参加することで、音楽の楽しさを体験しながら成長してゆく必要があること。子供の成育過程では、リズム楽器を重視していくのが賢明な選択と判断していること。しかし、もちろん子供の音楽的発達は、リズム、動作、音色、メロディー、ハーモニーが同時進行して総合的に、行われるような教育によって達成されなければならないこと。その為には、高度な技術が要求されるような、大人の為の楽器は使わず、言葉として発する肉声と身近な打楽器を利用する。子供達は、演奏に参加する事で音楽の楽しさを味わうが、作品の始めの方は、楽器も、音階も少ないため、特別な教育を受けなくても、仲間との合奏に親しむように工夫されている。そして、子供達は、いつの間にか、より技術を要する楽器に魅せられるようになっていく。 この作品群は、子供達と一緒になって出来上がる曲の集大成と言えるものである。どの楽器を使用するかは、国によってあるいは教師によって様々だが、レコードの解説書による楽器とその編成の例をあげる。 楽器だけを使用した曲、言葉(肉声)だけの曲、様々な編成で演奏されるように作られている。どの曲も聴いていて楽しめるものだが、日本で言う「わらべ歌」という感じの易しい作品、古くからのイギリスの伝承童謡《マザー・グースのメロディー》、オーストリアやドイツの民話《子供の魔法の角笛》からのテキスト、あるいは16世紀作者不明の詩、子守唄、その他多数が作品の原典として集められている。
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ムジカ・ポエティカは、カール・オルフの音楽作品群。
{{Portal クラシック音楽}} '''ムジカ・ポエティカ'''<!--[[ラテン語#発音]]や[[Wikipedia:外来語表記法/ラテン語]]によると後者が適切と思われる-->({{Lang-la-short|Musica Poetica}})は、[[カール・オルフ]]の音楽作品群。 == 概要 == 1930年代初期、[[ミュンヘン]]のギュンターシューレで門下生グニルト・キートマン([[:en:Gunild Keetman|Gunild Keetman]])と共に音楽の教鞭をとっていたオルフは、教育用の音楽として「シュールヴェルク」(Schulwerk、教育音楽)と題した作品を書いた。その中には[[声楽]]や[[器楽]]のさまざまな組み合わせによる5巻からなる「子供のための音楽」がある。 共同制作のかたちで、[[1950年]]から[[1954年]]にかけて、シュールヴェルクを'''ムジカ・ポエティカ'''としてまとめた。彼の音楽教育についての見解は、世界各国の音楽教育者に受け入れられ、普及している。 == 基本理念 == 子供達は実際の演奏に参加することで、音楽の楽しさを体験しながら成長してゆく必要があること。子供の成育過程では、リズム楽器を重視していくのが賢明な選択と判断していること。しかし、もちろん子供の音楽的発達は、リズム、動作、音色、メロディー、ハーモニーが同時進行して総合的に、行われるような教育によって達成されなければならないこと。その為には、高度な技術が要求されるような、大人の為の楽器は使わず、言葉として発する肉声と身近な打楽器を利用する。子供達は、演奏に参加する事で音楽の楽しさを味わうが、作品の始めの方は、楽器も、音階も少ないため、特別な教育を受けなくても、仲間との合奏に親しむように工夫されている。そして、子供達は、いつの間にか、より技術を要する楽器に魅せられるようになっていく。 この作品群は、子供達と一緒になって出来上がる<!--作り上げた?-->曲の集大成と言えるものである。どの楽器を使用するかは、国によってあるいは教師によって様々だが、レコードの解説書による楽器とその編成の例をあげる。 *[[太鼓]](drums)…1つの太鼓に対してフェルトを張ったバチを2本使う *[[木琴]](アルト)(Alto xylophone) *木琴(ソプラノ)(soprano xylophone) *木琴(バス)(bass xylophone) *[[トライアングル]] *ハンドドラム(Hand drum) *[[タンブリン]] *[[グロッケンシュピール]](アルト)(Alto glockenspiel)…木琴(アルト)と同じ音域のもの *グロッケンシュピール(ソプラノ)(Soprano glockenspiel) *[[シンバル]](小) *[[スレイベル]]…鈴を複数個つなげたもの *サンドラトル(Sand rattle)…カスタネットのようなカタカタ音がする *[[ウッドブロック]]と硬いフェルトのヘッドのついた棒(hard felt stick) *[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]] …持続低音として主に開放弦(6弦)を使う *[[鉄琴]](Metallophone) *大きなグロッケンシュピール(Large glockenspil)…木琴バス同じ音域 楽器だけを使用した曲、言葉(肉声)だけの曲、様々な編成で演奏されるように作られている。どの曲も聴いていて楽しめるものだが、日本で言う「わらべ歌」という感じの易しい作品、古くからのイギリスの伝承童謡《[[マザー・グース]]のメロディー》、オーストリアやドイツの民話《[[少年の魔法の角笛|子供の魔法の角笛]]》からのテキスト、あるいは16世紀作者不明の詩、子守唄、その他多数が作品の原典として集められている。 == 外部リンク == * [http://www.aosa.org/ アメリカン・オルフ・シュールヴェルク協会](The American Orff-Schulwerk Association) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:むしかほえていか}} [[Category:オルフの楽曲]] [[Category:ドイツの音楽教育]]
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オーガズム
オーガズム(英: orgasm)・オルガスムス(独: Orgasmus)は、 累積的な性的緊張からの突然の解放のことであり、骨盤まわりの筋肉のリズミカルな痙攣を伴い、強い快感を生んだ後に弛緩状態に至るもののことである。 古代ギリシア語: ὀργασμός(オルガズモス、「成熟」「発情」の意)を語源とし、日本語では性的絶頂とも。俗には「アクメ」「エクスタシー」などの語を使う人もいる。 全身の骨格筋の収縮、過度呼吸、心悸亢進、および骨盤まわりの筋肉のリズミカルな収縮を伴い、強い快感を生んだ後に弛緩状態に至る。他方で、心理学的には解放の頂点の主観的経験が見られる。 現在ではすでに古典的な研究とされるマスターズとジョンソン(英語版)の定義した4段階の性反応周期(英語版)では「オーガズム期」は「高原期」と「後退期」の間にあたる、とされた。 またオーガズムは、一面では、喜びを感じ、ゆだねるという心理的な経験であり、その時、心はもっぱら自分の個人的な体験だけに向けられているものである。 オーガズムは不随意もしくは自律的な大脳辺縁系により支配されており、性器と肛門を取り囲む下部骨盤筋群の高速な筋収縮(英語版)のサイクルを伴う。オーガズムの間には脳波のパターンにはっきりとした変化が現れ、このことはオーガズムの反応における辺縁系の重要性を示している。男性と女性の脳はオーガズムの間には類似した変化を見せ、脳活動のスキャンは大脳皮質の大部分での一時的な代謝活動の低下と辺縁系での代謝活動の無変化もしくは増大を示す。 1970年代のマスターズ&ジョンソンの研究では、「生理的な反応の大半は男女共通である」とされたが、男女のオーガズムの生理的な相違点としては射精および射精後不応期(無反応期ともいう)の存在がある。男性においては、オーガズムは一般的に射精へと至り、オーガズム後しばらくは再びオーガズムに到達できない射精後不応期がある。不応期にはしばしばリラックス感(脱力感、虚脱感)が伴い、これは神経ホルモンであるオキシトシンとプロラクチンの放出によるものとされている。男性の不応期のことを、オーガズムに到達できないことやリラックス感から俗に「賢者タイム」という。女性はオーガズムを比較的長時間維持することができ、オーガズム直後の性的刺激により再度オーガズムに戻ることができる。 「オーガズム」は生理学的・医学的には男女ともに生殖器周辺の筋肉の素早くリズミカルで強力な収縮、および心拍数・呼吸数・血圧の増大や瞳孔の拡散などを特徴として定義されている。だが、「オーガズム」の定義にはばらつきがあり、心理的・社会的要素もあるため、一貫した分類をどう行うかのコンセンサスは得られていないと考えられている。例えば学術誌『臨床心理学レビュー』では少なくとも26のオーガズムの定義がリストアップされている。 Gスポットを刺激することにより得られる女性のオーガズムや、数分間やさらには1時間も続く引き延ばされた・連続的なオーガズムといった種類の性感を厳密な意味で「オーガズム」と分類すべきかについては議論がある。この問題はオーガズムの臨床的な定義を軸とするものであるが、こうしたオーガズムの見方が単に生理学的なものである一方で、心理学的・内分泌学的・神経学的な「オーガズム」の諸定義もある。こうしたケースでは、経験される感覚は主観的なものであり、オーガズムの特徴である不随意の収縮は必ずしも関与する必要はない。しかしながら、両性が経験する感覚は極めて快いものであり、しばしば全身で体感され、超越的とも呼ばれる心的状態をもたらし、血管充血(英語版)とそれに結び付いた快感は、収縮を伴う完全なオーガズムのそれと比肩しうるものである。例えば、現代における諸発見は射精と男性のオーガズムを区別することを支持するものとなっている。この理由のため、これらを厳密な意味でオーガズムと定義すべきかを巡っては両方の立場からのさまざまな見解がある。 心理学的・生理学的な性的刺激による静脈の鬱血や筋緊張の増大からの解放としてオーガズムが引き起こされる。男性がオーガズムに到達する最も一般的な方法は陰茎の性的刺激(英語版)、女性のそれは陰核(クリトリス)の刺激である。 陰茎を膣に挿入して行う性交でオーガズムに達する女性は全体のおよそ35%にすぎないという調査もある(後述)。女性は乳首、子宮(子宮オーガズム(英語版))、その他の性感帯の刺激によってもオーガズムが得られることがあるが、これは比較的稀である。 男女ともに、物理的な刺激のほか、夢の中でのように心理的な興奮のみによってもオーガズムに達することがある。男性は射精することなくオーガズムに達すること(「ドライオーガズム」として知られる)も、オーガズムに達することなく射精することもある。夢精、遅漏、無オーガズム症(英語版)の射精などが後者の例である。 女性のオーガズムが、恐らくは人為的に、2つの異なったものとして分類されることがあるために、 女性のオーガズムを巡る議論は複雑なものとなっている――陰核のオーガズムと膣(Gスポット、ポルチオ)のオーガズムである。 膣オーガズムという概念を単独の現象として初めて主張したのはジークムント・フロイトであった。1905年にフロイトは、陰核のオーガズムは純粋に少女期の現象であり、思春期に到達するとすぐに膣オーガズム、すなわち陰核への刺激なしで得られるオーガズムへと移行してゆくのが成熟した女性の適切な反応であると述べた。フロイトはこの基本前提に何ら証拠を示すことはなかったが、この理論の影響は大きなものであった。フロイトの説は男性の陰茎を女性の性的満足の中心に据え、多くの女性たちは陰核への刺激がほとんどもしくは全くなしで膣での性交のみを通じてオーガズムに達することができなかった時に不適切感を覚えるようになった 。 フロイトの見解とは対照的に、女性の大部分は陰核への刺激によって、もしくは何らかの形での陰核刺激の補助によってのみオーガズムに達することができ、その後の研究は陰核の刺激が女性がオーガズムに達する最も簡単な方法であるということを支持している。ゲイル・サルツ(英語版)は「女性はオーガズムに達するまでに平均で20分間の刺激と興奮を必要とする。男性はこれより遥かに短い時間しかかからない。女性は男性よりも幅広いものを刺激として感じ、またどのような刺激が最も良く機能するかを正確に定義するのも困難である。性交だけによってオーガズムに達することができるのは女性のうち20%のみであり、大多数の女性は何らかの直接的な陰核への刺激を必要とする」としている 。これは陰核に6000以上もの神経繊維があるためである。陰核は蹄鉄のような形で膣を取り囲んでおり、陰唇に沿い、肛門の方へと伸びる「脚」(陰核脚)を有している。尿道海綿体(英語版)が膣の「天井」に沿って走っており、膣を介してこれを刺激することが可能であるが、膣そのものには女性に快感やオーガズムを引き起こす機構は存在していないと考えられている。膣に挿入された陰茎、指、張形などと接触するのは陰核の一部、尿道海綿体だけである。「陰核の尖端と、これもまた非常に敏感な部分である小陰唇とは、性交中には直接の刺激は受けない。」 グレフェンベルグ・スポット、通称Gスポットは恥骨の背後にあり尿道を取り巻く小さな領域であり、膣壁の前部(腹側)から触れることができる。このスポットの大きさにはかなりの個人差があるようである。こうした膣の内側の刺激から得られるオーガズムは「膣の」オーガズムと呼ばれる。 1966年に、マスターズとジョンソン(英語版)は性的刺激の段階に関する極めて重要な研究を公刊した。この著作では男女の双方が扱われており、また先行するアルフレッド・キンゼイのもの(1948、1953年)とは異なりオーガズム前後の生理学的な段階を決定しようと試みている。陰核と膣のオーガズムは同じ身体的な段階を持っているとされている。どちらの種類のオーガズムも陰核の刺激が主要な源になっていると夫妻は論じた。陰核の大きさに関する近年の諸発見もまた、陰核の組織が膣の内部に大きく広がっていることを示している。この発見は陰核のオーガズムと膣のオーガズムが別のものであるとする従来の主張を無効化しうる可能性がある。陰核と膣との繋がりは、陰核が女性のオーガズムの「源」であるという見解を補強するものである。今日では、大半の人々が「陰核」という言葉から思い浮かべる小さな目に見える部分よりも遥かに広く陰核の組織が広がっていることが明らかとなっている。これらの研究の中心的な研究者であるオーストラリアの泌尿器科学者ヘレン・オコネルは、膣による性交時の陰核の内部部分への刺激を考慮すると、この絡み合った関係がGスポットとされている部分と膣オーガズム体験に対する生理学的な説明となると主張している。「膣壁は、実のところ、陰核なのです。膣の側壁の表皮を取り除けてみれば、陰核の球状部分が現れます。三角の、三日月形をした勃起性の組織です。」とオコネルは説明する。陰核は亀頭部分だけなのではなく、「小さな丘」だというのである。女性の一部は他の女性に比べより広範囲な陰核組織を持っている可能性があり、それゆえに多くの女性が陰核の外部部分への直接的な刺激によってのみオーガズムに達することが出来る一方で、性交を通じた陰核のより広範な繊維への刺激だけで充分にオーガズムを得られる女性もいるのだと考えられる。 無オーガズム症(英語版)は十二分な性的刺激を受けた後でもオーガズムに達するのが常に困難である状態であり、個人的な悩みの原因となる。これは男性よりも女性に遥かに一般的に見られる。女性の約15%がオーガズムに達するのに困難があると報告しており、またアメリカ合衆国の女性の10%は絶頂に達したことがない 。Sexualhealth.comのロバート・バーチは「標本調査に基づく統計がしばしばそうであるように、女性のオーガズムに関する数字は誰が調査され、誰が報告を行ったかによって結果にばらつきがあります。しかしながら、女性の恐らくは15%ほどは一度もオーガズムを経験したことがなく、最大で10%ほどの女性は一人で自慰をする時にしかオーガズムに達することができないようです。」と述べている。ドリュー・ピンスキー(英語版)はこう述べている―― 女性のオーガズムは平均して約20秒ほど続き、膣、子宮、肛門を含む骨盤領域の筋肉の一連の収縮からなると推測されている。一部の女性では、当人がオーガズムが始まったと報告した直後にこれらの収縮が始まり、約1秒の間隔で、最初は徐々に強く、後には徐々に弱くなりながら継続することがある。規則的な収縮に続いて、不規則な間隔で数回の追加的な収縮もしくは震えが起こる場合もある。オーガズムに達したと報告するが、骨盤領域の収縮は全く観察されない場合もある。 どちらの性においても、アナルセックスなどで見られるように、肛門周辺の神経末端および肛門自体から快感を得ることができる。男性は前立腺の刺激のみによってオーガズムを得ることが可能である。前立腺は直腸に隣接しており、女性のGスポットと関連していると考えられているスキーン腺の男性版の相同物である。ジャック・モーリンは、「肛門オーガズム」は前立腺のオーガズムとしばしば混同されているが無関係のものであると主張している。陰核の「脚部」が陰唇に沿って肛門まで伸びているため、肛門の刺激は一部の女性にとっても快感を伴うものでありうる。 一部の女性は、性交や前戯の間に乳房を刺激されたり、さらにはただ乳房を愛撫されたりするだけで、穏やかなもしくは激しいオーガズムに達する。女性の乳房の刺激が引き金となるが、その他の点では通常の(骨盤領域の)オーガズムと同じであるため、これは「乳房オーガズム」(breast orgasm)と呼ばれている 。女性の大半は乳房の刺激によりこの効果を体験することはない。213名の女性に質問した研究によると、そのうち29%が少なくとも一度は乳房のオーガズムを経験したことがあった。オーガズムは部分的には、性的興奮の際に体内で生産されるオキシトシンというホルモンにより引き起こされると考えられている。男性もしくは女性の乳首が刺激されて勃起するとオキシトシンが発生することが示されている。 オーガズムは、何ら直接的な刺激を受けることなく自然発生的に起こることもある。性的な夢の中でオーガズムが起きることも時折ある。ロビン・ベイカー(英語版)によれば男性の80%が夢精を経験し、女性は20歳までに10%、生涯では40%が夢の中でのオーガズムを経験する。 この種のオーガズムが初めて報告されたのは脊髄損傷(SCI)を持つ人々であった。脊髄損傷はある種の感覚の喪失や自己知覚の変容をもたらすことが非常に多いが、性的興奮や性欲などといった性的感覚が失われるわけではない。ゆえに、一部の人々は心的な刺激のみによってオーガズムを発動させることができるのである。 性的ではない活動によって自然発生的なオーガズムが引き起こされることもある。そのような活動の最良の例としては、サイクリングやエクササイズの際に自転車のサドルが性器と擦れる時のように骨盤筋群が締め付けられている時に意図せずに性器の軽い刺激を引き起こす緊張の解放が挙げられる。 一部の抗うつ薬が副作用として自然発生的な絶頂を引き起こすことがあることも発見されている。患者の大半がその事実を知らせたがらないため、抗うつ薬の投与を受けている患者のうちどのぐらいの数が自然発生的オーガズムを体験しているかの正確なデータはない。 女性や、比較的稀ではあるが男性も、射精後不応期がないかあっても非常に短く、最初のオーガズムを迎えたすぐ後に第2のオーガズムやさらに多くのオーガズムを経験する場合がある。最初のオーガズムに続く連続した絶頂は刺激が蓄積してゆくにつれさらに強烈もしくは快感の強いものになり得る。一部の女性は、絶頂に達した後では陰核と乳首が非常に敏感になるため、さらなる刺激は最初は苦痛ともなる。女性でもオーガズムが1回きりの人もいる。一度オーガズムに達するとクリトリスに触れるのも嫌になる、というタイプの人である。ペニスやクリトリスといった海綿体でのオーガズムでは、プロラクチン(prolactin:乳腺刺激ホルモン)という物質が放出されることがあり、この血中濃度が高い間は、セックスに対する欲求が急速に減退すると言われている。 連続した複数回のオーガズムを、特に射精することなしに経験したと報告する男性たちもいる。射精しないオーガズム(ドライオーガズム)を経験した男性は、不応期が軽減されるためしばしば複数回のオーガズムを迎えることができる。1回に数時間をかけて自慰を続け、数多くのオーガズムを達成できる男性たちもいる。そうした男性の中には、最初から複数回のオーガズムを得られていた人も、訓練によって習得した人もいる。近年では、複数回のオーガズムを達成するためのさまざまな技法を記した書籍も数多く出版されている。複数回のオーガズムを得られる男性たち(とそのパートナーたち)の大半は、射精をしないことでオーガズム後も通常より遥かに精力的でいられると報告している。さらに、こうした男性たちは望むならば通常よりも強力な射精を伴うオーガズムも得ることが出来ると報告している。 射精直前に陰嚢と肛門のほぼ中間に位置する会陰を圧迫することで射精を防止するのが1つの方法である。しかしながらこれは精液が尿道を通って外部へと射出される代わりに膀胱へと流れ込む逆行性射精をもたらす可能性がある。また、長期間に亘り狭いサドルの自転車に乗り続けた男性の報告例と同様に、会陰の神経と血管を圧迫することにより長期的な損傷を引き起こす可能性もある。何らかの理由で前立腺もしくは膀胱の手術を受けた男性もまた逆行性射精のためにドライオーガズムを経験する場合がある。 複数回のオーガズムを迎えることのできる女性たちは、これを得るためにリラックスして「解放する」必要があることを報告しており、これと似たことを男性が行うのがもう1つの方法である。射精に伴う収縮や、先述のような強制的な抑制を行う代わりに、射精前の血管充血と送出を心身両面でコントロールするのである。こうした技法が成功すると、連続的もしくは複数回の「全身の」オーガズムをも得られる場合がある。前立腺、精嚢、輸精管の指による穏やかな刺激により、激しい放出を伴うオーガズムが持続する性的快感を得ることのできる男性もいる。アネロスやエネマグラなど、前立腺の刺激を主目的とした性具も開発されている。 思春期より前に自慰もしくはその他の性的活動を始めた男性の中には射精を伴わない複数回のオーガズムを得られていたと報告する人も多い。思春期以前の男性のオーガズムは「通常の」女性のオーガズム体験と質的に類似したものであることを示す証拠がいくつかあり、このことは思春期におけるホルモンの変化が男性のオーガズムの特質に強い影響を及ぼしていることを窺わせる。 多数の研究が、プロラクチンというホルモンが男性の不応期の原因と推測されるとしている。このため、カベルゴリン(英語版)(製品名のカバサールやドスティネックスとしても知られる)のようなプロラクチンを抑制する薬品に実験的な関心が向けられている。カベルゴリンに関する事例報告は、この薬品が不応期を完全に取り除くことができ、男性たちに立て続けに射精を伴う複数回のオーガズムを経験させられることを示唆している。少なくとも1つの科学的研究もこうした主張を支持している。カベルゴリンはホルモンに変化をきたす薬品であり、数多くの副作用を持つ可能性がある。性機能不全の治療のための使用はまだ承認されていない。不応期の原因としてもう1つ、オキシトシンというホルモンの放出増加も考えられる。さらに、オキシトシンの増加量は不応期の長さにも影響しているかもしれないと考えられている。 1995年にはラトガース大学で科学的研究が行われ、成人男性における自然な、完全に射精する、複数回のオーガズムの実証に成功している。この研究では、36分間に6回の完全に射精するオーガズムが、不応期と見られるものなしに得られた。思春期が進行し成人期へと続く過程の中で不応期が軽減され、さらには完全になくなってしまう事例もあるようである。後には、P・ハーケらがプロラクチンの亢進反応なしに複数回のオーガズムに達した男性を観察している。 マスターズとジョンソンは1960年代初頭に女性382人と男性312人の観察に基づき性的反応周期の先駆的な研究を行った。生殖器へと血液が急速に流れ込むにつれ興奮が起こる興奮期に始まり、生殖器が完全に興奮した状態が継続する高原期に達し、オーガズム(絶頂期)へと至り、最後には血液が生殖器から離れる後退期を迎えるという周期(サイクル)を示した。 1970年代には、ヘレン・シンガー・カプラン(英語版)がこの周期に性欲を付け加え、性欲が性的興奮に先行するのであると主張した。カプランは、不安、防衛、意思疎通の失敗といった感情が性欲を妨げ、従ってオーガズムも妨げることがあることを指摘している。 1980年代後半以降、ローズマリー・バッソンは線形的な進行と大雑把に捉えられていたものにより循環的な代替案を提案している。バッソンのモデルでは性欲が興奮とオーガズムの源となり、今度は逆にオーガズム周期の他の部分から供給を受けるのである。オーガズムは性的経験の頂点なのではなく周期の単なる1つの点にしかすぎず、人間はどの段階においても性的な充足を覚え得るのであるとバッソンは述べ、全ての性的活動の最終目的・地点として絶頂に当てられてきた焦点を緩和している。 男性はオーガズムの際には肛門括約筋、前立腺、および陰茎の諸筋肉の急速でリズミカルな収縮を経験する。精子が精巣から精管を上り前立腺へと輸送され、精嚢からの分泌液と共に精液として知られる液体となる。前立腺は精液の構成要素の1つとなる分泌液を作り出す。括約筋と前立腺の収縮により、蓄えられた精液は陰茎の尿道口から体外へと送り出される。この過程には3-10秒かかり、快感を生み出す。 射精後には通常射精後不応期があり、その間は男性は再度オーガズムに達することはできない。不応期の続く時間は年齢やその他の個人的要因により1分未満から数時間までの幅がある。 陰茎に刺激を受けオーガズムに近付くにつれ男性は、強烈で非常に快い、神経と筋肉の脈動する多幸感を感じる。これらの脈動は肛門括約筋から始まり亀頭へと移動してゆく。オーガズムの接近と共にこれらは速度・強度を増してゆき、最後には数秒間持続する快感の「高原」、すなわちオーガズムへと至る。 オーガズムの間には、通常は精液が射出され、多幸感が徐々に消えていった後も数秒間は射精が続くこともある。「オーガズム」の正確な感覚は男性によって違いがあると考えられている。 典型的な女性のオーガズムは男性のものよりも遥かに長く続く。オーガズムに先立ち、陰核の勃起と膣の開口部の湿潤が起きる。皮膚への血流増加により身体の大部分が赤みを帯びる性的紅潮(英語版)を呈する女性もいる。女性がオーガズムに近付くと、陰核亀頭が内側へと動き陰核包皮の下へと隠れ、小陰唇が黒みを帯びる。オーガズムが間近に迫ると、膣の外側1/3が硬ばり狭窄し、膣全体は長く伸び、広がり、また充血した軟部組織により狭まる。マスターズとジョンソンはこの現象を「テント形成」(英: tenting)と呼んでいる 。膣以外では、乳首と乳輪の複合組織(英語版)の筋線維芽細胞が収縮して乳首の勃起と乳輪半径の縮小を引き起こし、これはオーガズムの開始時に最高潮となる。それから、子宮に3-15回ほどの筋収縮が起こる。子宮、膣、肛門、骨盤に一連のリズミカルな収縮が起きる時、女性は十全なオーガズムを体験する。女性の大部分はこれらの収縮を非常に気持ち良く感じる。 近年オランダのフローニンゲン大学医療センターの研究者たちは、オーガズムの感覚と、骨盤を中心とし肛門で計測される周波数8-13Hzで発生する筋肉の収縮との相関関係を示した。収縮のこの特有の周波数の存在により、これらの諸筋肉の随意の収縮と自然発生的な不随意の収縮とを区別することができ、これは興奮を計量するに過ぎない心拍数などのような他の測定基準よりも正確にオーガズムと相関していると彼らは論じている。「究極において主観的な経験であるところのオーガズムと強い相関を持つ客観的かつ定量的な尺度としては初めてのもの」を見出したと主張している。8-13Hzで発生する収縮の尺度はオーガズムに特有なのだという。この測定基準を用いることで休息、随意の筋収縮、さらには不首尾に終わったオーガズムの試みなどからオーガズムを区別することが出来ることを発見したのである。 文化的な障壁と技術的な困難のため、オーガズムと脳の活動をリアルタイムで関連付ける研究はごく僅かしか行われてこなかった。しかしながら、フローニンゲン大学のGert Holstegeと同僚たちが率いた一連の研究は、脳の活動を含むオーガズムに特有の生理学的特徴および男女間での反応の違いを明らかにした。 ある研究では、パートナーに愛撫されている最中の12人の健康な女性をポジトロン断層法(PET)でスキャンした。休息、性的刺激、演技のオーガズム、実際のオーガズムのそれぞれの状態における脳の変化が観察・比較された。男性と女性では刺激を受けている際の脳の変化に違いが認められた。しかしながら、行動調節、恐怖、不安と結び付いている脳の領域が停止するという男女共通の変化が観測された。こうした変化に関して、Holstegeはロンドン・タイムスでのインタビューで「これは、あらゆる恐怖や不安を非活性化すること、忘れることがオーガズムを得るために最も重要で、必要条件でさえあるのかもしれないということを意味します。」と語っている。 陰核を愛撫されているうちに、恐怖、不安、行動調節を処理する脳の部分がリラックスし活動を低下させ始める。これはオーガズムの時点で最も顕著となり、女性の感情中枢は実質上停止しほぼ昏睡に近い状態が生み出される。Holstegeは欧州人間生殖学会の2005年の会合においてこう語ったという――「オーガズムの瞬間には、女性はいかなる情動的感情も持っていない。」 初期の諸報告では、男性のオーガズムが続く時間が女性のものより遥かに短いためPETスキャンにより男性のオーガズムの影響を観測するのは困難であると示唆していた。しかしながら、Rudie Kortekaasらは「オーガズムの最中では両性の共通性が顕著であった......これらの結果から、性的行為における男女間の脳反応の違いは主に刺激段階(高原期)に関係するものであり、絶頂期そのものに関係するものではないと我々は結論する。」 脳の神経細胞は常に微弱な電気信号を出して体の部位に様々な指令を出している。これが「脳波」と呼ばれるもので、身体や精神の動きは脳の存在のおかげとも言われている。そして人間の一部の営みともなるオーガズムは脳に大きな負荷をかけている。サイエンスライターの石崎正浩氏の著作によると、セックスでオーガズムに達するときの脳波は1000マイクロボルトも電位を生じさせていると言う。これは正常時の100倍近い数値であり、このことから脳内の神経細胞はオーガズムの度に破壊され、IQも低下するリスクもある。逆に顕著な影響はないと主張する専門家もまたいる。 オーガズム、および実際には性行為全体は、数多くの重要な身体組織の努力を必要としうる身体活動である。1997年に『イギリス医師会雑誌』に掲載された、45-59歳の男性918人を対象とした研究によると、10年間の追跡調査で、週に2度以上のオーガズムを得ている男性はそうでない男性に比べ全ての死因で死亡率が半分であった。より明確に循環器の健康に焦点を合わせた2001年の追跡調査では、週に3度以上の性交を行う男性は心臓発作および脳梗塞のリスクが50%低かった。(一般に、相関関係は因果関係を意味しないことに注意。) 男性女性ともに、加齢するに従ってオーガズムに伴う紅潮、筋緊張、直腸の収縮などは衰え、陰茎や膣の収縮の回数も減少する。男性では通常、歳を取るにつれ、射精する精液の量や飛距離が減少し、射精後の不応期も長くなる。 オーガズムを得ることができないことは「オーガズム不全」、「無オーガズム症(英語版)」もしくは「射精無快感症(英語版)」などと呼ばれる。男性が勃起と射精をするがオーガズムが得られない場合、その男性は射精無快感症(英語版)であるとされる。 「不感症 sexual anesthesia」や(性欲自体のない)「冷感症」のような言葉は曖昧なため、今日では包括的に「性障害」「性機能不全」などと呼ばれている。 女性のオーガズム不全の原因の大半は前戯不足のような性的無知もしくは心理的な原因によるものがある。より具体的には情緒不安、性交に対する嫌悪感や恐怖、(異性に興味が無く)同性愛であること、夫婦間の不和の問題などが挙げられる。少し異なったものとしては、過労(精神的な過労も、肉体的な過労も)が挙げられる。心理的な要因や過労といった要因があると、大脳皮質においてドーパミン系機構へ抑制がかかり、オーガズムが抑制されるのだと考えられている。 これには振舞に対するプレッシャーや、パートナーの満足から切り離して快楽を追求することへのためらいが密接に関係しているようだ。しばしば女性はパートナーの快楽のことが気掛かりとなるあまり不安に陥り、これはオーガズムの遅延に対する焦りとなって現れる。この遅延は、オーガズムによる性的満足に到達できないことへの不満へと結び付き得る。精神分析家のヴィルヘルム・ライヒは1927年の著書『オーガズムの機能』において初めてオーガズムを精神衛生の中核的な概念に据え、完全なオーガズムを得る障害という観点からノイローゼを定義した。 心理的な原因によるオーガズム不全の治療を試みる場合は精神療法や心理療法が採用される。つまりカウンセリング(セックス・カウンセリング)やセラピー(セックス・セラピー)が有効となると言われる。上述のように、オーガズム不全の大半は心理的な要素によって起きているが、他にも、生理学的な要素も関与することはある。中枢神経の機能障害によって不感症が起きることがある。このケースならば、ドーパミン系の賦活薬やセロトニン系機構の抑制をもたらす薬剤が効く場合もある。 精神医学で用いられる薬物はほぼ全てが性への作用に関係し、男性の射精障害や女性のオーガズムの阻害・遅延を起こす可能性がある。例えばベンラファキシンやSSRIはセロトニン濃度を上昇させるため男女ともにオーガズムの達成を困難にする 。 なお、特に同時にオーガズムを得ることやそれと類似した営みに関して、多くの性科学者たちは、早漏の問題が、相互のオーガズムが性的関係の目的や性的満足の印として過度に強調されていた20世紀初頭における科学的アプローチにより促された考え方に密接に関係していると主張している。 タントラ・セックスは古代インド・ヒンドゥー教の性の実践における宗教的伝統である(密教のタントラとは別のものである)。タントラにおいては従来的(欧米的)な性への文化的アプローチとは異なり、オーガズムを性交の目的とは考えない。タントラ・セックスの実践者たちは、数多の体位や性技を用いオーガズム以前の状態に長時間留まり続けることで心身の長い恍惚を得ようとし、オーガズムはその1つの区切りに過ぎないと考える。性のエネルギーはオーガズムではなく、至福の悟りへと進むために用いられる。 バグワン・シュリ・ラジニーシのような現代のネオ・タントラ・セックスの唱道者たちは、こうしたアプローチによりオーガズムの感覚が意識的体験の全域へと広がってゆくと主張している。また、西洋文化が絶頂感のオーガズムという目的に焦点を合わせすぎで、性体験での他の時間において深い快楽を味わうことを妨げていると主張しており、これを取り除くことによってより豊かで、十全で、強力なつながりを得ることができると説いている。 古代より、オーガズムは文学において幅広く表現され続けてきた。古典古代では、ギリシア文学やラテン文学もこの主題に取り組んでいた。オウィディウスの『変身物語』はユーピテルとユーノーの交わした議論を再話している。ユーピテル曰く―― ユーノーはこの考えを拒絶する。両者は、女性として7年間を生き「愛を男女両方で知った者」テイレシアースに意見を求める。テイレシアースはユーピテルに同意して女の快感は男の10倍であると答えユーノーの怒りを買い、その場で盲目とされてしまった。ユーピテルはテイレシアースの痛手を和らげるため予言力と長寿を与えた。『変身物語』以前にも、オウィディウスは『愛の技法(英語版)』において2人共に満たすことのできない性交を嫌悪すると宣言している。 ロマン主義とホモエロティシズム(英語版)の時代となってもオーガズムというテーマは描かれ続けた。「並外れた守備範囲と多彩さの翻訳者」と称された詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792–1822)は『フランソワ・ラバイヤックとシャルロット・コルデーの祝婚歌と思われる断片』の中で「いかなる生もかのような死には及ばず」というフレーズを記し、これはオーガズムの暗喩であると考えられており、またこのフレーズの前には「吸ってくれ、吸ってくれ、僕は燃える、僕は燃える!」という明白にフェラチオを仄めかした詩行がある。シェリーにとってオーガズムは「並外れた魅力を持つ人と共にいながら放置された状態でいることによるほとんど不本意な結果」であった 。シェリーの生涯最後の恋の相手であったエドワード・エラーカー・ウィリアムズ(英語版)のことが『セルキオ川の小舟』で回想されており、これは恐らく「文学における最も偉大なオーガズム描写」であろうと見なされている。 シェリーはこの詩においてもまた「恋人たちが愛する死」として死とオーガズムを結び付けている。興味深いことに、フランス文学においては小さな死(英語版)(仏: la petite mort)はオーガズムの有名な婉曲表現となっている――これは人がオーガズムの間は自身のことも世界のことも忘れ去っていることを表しているのである。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスもまた同じ発想から、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」に付けた脚注において、トレーンの教会の中の1つが観念的には「全ての男は、性交時の眩暈のする瞬間には1人の同じ男なのである。シェイクスピアの詩の1行を暗唱する者は全てウィリアム・シェイクスピアなのだ。」と主張していると書いた。シェイクスピアその人もこの考え方には親しかった――「私はあなたの心の中に生き、あなたの膝の上で死に、あなたの瞳の中に葬られましょう」「私は勇敢に死んで行こう、気取った花婿のように」と、『空騒ぎ』のベネディックおよび『リア王』のリア王に繰り返し語らせており、女性の膝で死ぬというくだりは性的なオーガズムを含意すると解釈されている。 精神分析学者のジークムント・フロイトは『自我とエス(ドイツ語版)』(1923)において、オーガズムによる性的満足はエロース(生の本能)を使い果たしタナトス(死の本能)へと場を譲るのではないか、換言すればオーガズムによりエロースはその任務を終えタナトスに取って代わられるのではないかとしている。現代作家たちは隠喩なしでオーガズムを表現することを選んでいる。例えばデーヴィッド・ハーバート・ローレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』(1928)に、カップルの性行為のあからさまな語りを見出すことができる――「彼が動きはじめると、彼女の中で突然でどうすることもできないオーガズムが目覚め奇妙な戦慄が彼女の内側で波紋となって広がっていった......」。 男性のオーガズムと射精が受胎に必要である一方、1770年代にラザロ・スパランツァーニが犬の人工授精に成功するなどして、受胎に女性のオーガズムは必要とされないことが知られるようになって以降、女性の性的快感には生殖上の役割はないと考えられてきたが、生殖過程における女性のオーガズムの役割に関するさまざまな仮説が進化生物学らなどにより提唱されている。 1967年にはデズモンド・モリスがポピュラーサイエンスの著書『裸のサル』において初めて、「女性のオーガズムは男性パートナーとの肉体的な親密さを促進し、つがいの結び付きを強めるために進化したのではないか」と示唆した。「男性に比べ女性がオーガズムに達するのが比較的難しいことで女性は、他の霊長類の配偶者選択において見られるような身体の大きさや攻撃性ではなく、忍耐力、気配り、想像力、知性といった特質を持つ男性を選択するように導かれ、ダーウィン的進化において有利となるのであろう」とモリスは推測・主張した。 モリスはまた「オーガズムが、女性を消耗させ横たわったままにさせることによって精液が漏出してしまうことを防ぎ、受胎を容易にもしている」と主張した。これは「斧仮説」もしくは「ノックアウト仮説」とも呼ばれるが、今日では極めて疑わしいと考えられている。 他の諸理論は女性のオーガズムが繁殖力を高めるのであろうという考えに基づいている。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、オーガズム中の子宮頸部が吸角のように働き精液を吸い寄せて受胎を助けるのではないかと書いた。イギリスの生物学者ベイカーとベリスは女性のオーガズムが食道が食物を嚥下する能力を上下逆にしたような「吸い上げる」動きをし、望ましい精液を保持し受胎の可能性を高めるのではないか、と示唆した。ベイカーらは女性のオーガズムが精子競争(英語版)において役割を持つのではないか、と推測した。1994年にザ・ラーニング・チャンネルで放送された性に関するドキュメンタリー番組では、性交中の女性の膣の中に光ファイバーカメラを挿入し撮影を行った。彼女がオーガズムを迎えると、骨盤筋群が収縮して子宮膣部が反復的に膣円蓋内に溜った精液へと浸り、あたかも精子が外子宮口へと確実に進むようにし受胎の可能性を高めようとするかのような動きを見せた。エリザベス・ロイド(英語版)はこのシーンで流されたナレーションがこれを「精子の吸い上げ」の例であるとしたことを批判し、これは子宮オーガズム(英語版)での通常の収縮に過ぎず、繁殖力へのどのような効果も示されてはいない、とした。マスターズとジョンソンもX線撮影による調査に基づき否定的な見解を示している。 また例えば、オーガズムにより骨盤筋肉の収縮により陰茎を締め付けることで男性のオーガズムと射精を引き起こすとも考えられる。 排卵中には比較的オーガズムに達しやすい傾向があるという観察は、オーガズムが繁殖力の増強に結び付いていることを示唆しているという。 進化生物学者のロビン・ベイカー(英語版)は『精子戦争(英語版)』において、オーガズムの発生とタイミングは全て、進化的により適した男性の精子を受け取り保持するための女性の身体の無意識的な戦略の一部をなすのであると論じている。子宮頸部は精子と病原体に対する自然のフィルタとなっており、性交時のオーガズムはこれを回避させるためのボタンとして機能し、性交前のオーガズムは逆にフィルタを強化するというのである。 ただしその論拠となる子宮頸部による精液の「吸い上げ」についてはマスターズとジョンソンは否定的な見解を示しており、性科学者のイェルト・ドレントも「内容には多少の疑いをもってかかるべきだろう」としている。 陰核は陰茎と相同である――両者は共に同じ胎児構造から発達するのである。スティーヴン・ジェイ・グールドやその他の研究者たちは陰核が女性における痕跡器官であり、女性のオーガズムには進化上の機能は特に有していないと主張している。エリザベス・ロイド(英語版)のようなこの仮説の主唱者たちは、膣での性交を通じて女性がオーガズムに達するのが比較的困難であること、オーガズムの後では受精率が増大することの証拠が乏しいこと、女性がオーガズムに到達できる能力とその女性が性交を行う可能性との間には統計的な相関が見られないことなどを指摘している。 科学ライターのナタリー・アンジェ(英語版)は、この仮説が女性のオーガズムの心理社会的な価値を過小評価していると批判している。キャサリン・ブラックリッジは著書『ヴァギナ:女性器の文化史』においてオーガズムと受胎の成功との間に結び付きがある可能性を示す研究を引用している。ブラックリッジは「女性のオーガズムは痕跡的なもの」とする仮説が、受胎の成功の結果としてもたらされ続けている進化的な利点を無視していると批判している。人類学者・霊長類学者であるサラ・ブラファー・ハーディもまた女性のオーガズムが痕跡的なものであるとする議論を批判し、そのような考え方には性差別の気配があると書いている。 2005年に行われた双生児研究(英語版)は女性の3人に1人は性交(膣に陰茎が入る行為)中にオーガズムに達したことがない、あるいはほとんど達することがなく、性交で常にオーガズムに達するのは10人に1人にしか過ぎないことを明らかにした。一般に心理社会的なものであると考えられている、オーガズムに達する能力のこの個人差は、34-45%が遺伝的なものであると明らかになった。4000人の女性を調査したこの研究は王立協会の学術誌『バイオロジー・レターズ(英語版)』で公表された。エリザベス・ロイドはこれを女性のオーガズムが適応的なものではないことの証拠として引用している。 霊長類では雌雄ともに関係部位の素早くリズミカルで強力な収縮が見られ、メスでは交尾中や自慰中に膣の充血、陰核の勃起、全身の筋肉の緊張、心拍数の増加、体毛の起立などが同時に観察される。霊長類の他でもネズミやウシなど数多くの動物がオーガズム様の反射を示す。 オスのオーガズムの機序は哺乳類の大半でも同様である。一部の哺乳類および、哺乳類以外でもアメリカワニ などには陰核がある。 生殖以外の理由で性交を行っているように思われる種であるイルカの性とオーガズムに関する研究も行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オーガズム(英: orgasm)・オルガスムス(独: Orgasmus)は、 累積的な性的緊張からの突然の解放のことであり、骨盤まわりの筋肉のリズミカルな痙攣を伴い、強い快感を生んだ後に弛緩状態に至るもののことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語: ὀργασμός(オルガズモス、「成熟」「発情」の意)を語源とし、日本語では性的絶頂とも。俗には「アクメ」「エクスタシー」などの語を使う人もいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全身の骨格筋の収縮、過度呼吸、心悸亢進、および骨盤まわりの筋肉のリズミカルな収縮を伴い、強い快感を生んだ後に弛緩状態に至る。他方で、心理学的には解放の頂点の主観的経験が見られる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在ではすでに古典的な研究とされるマスターズとジョンソン(英語版)の定義した4段階の性反応周期(英語版)では「オーガズム期」は「高原期」と「後退期」の間にあたる、とされた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "またオーガズムは、一面では、喜びを感じ、ゆだねるという心理的な経験であり、その時、心はもっぱら自分の個人的な体験だけに向けられているものである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "オーガズムは不随意もしくは自律的な大脳辺縁系により支配されており、性器と肛門を取り囲む下部骨盤筋群の高速な筋収縮(英語版)のサイクルを伴う。オーガズムの間には脳波のパターンにはっきりとした変化が現れ、このことはオーガズムの反応における辺縁系の重要性を示している。男性と女性の脳はオーガズムの間には類似した変化を見せ、脳活動のスキャンは大脳皮質の大部分での一時的な代謝活動の低下と辺縁系での代謝活動の無変化もしくは増大を示す。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1970年代のマスターズ&ジョンソンの研究では、「生理的な反応の大半は男女共通である」とされたが、男女のオーガズムの生理的な相違点としては射精および射精後不応期(無反応期ともいう)の存在がある。男性においては、オーガズムは一般的に射精へと至り、オーガズム後しばらくは再びオーガズムに到達できない射精後不応期がある。不応期にはしばしばリラックス感(脱力感、虚脱感)が伴い、これは神経ホルモンであるオキシトシンとプロラクチンの放出によるものとされている。男性の不応期のことを、オーガズムに到達できないことやリラックス感から俗に「賢者タイム」という。女性はオーガズムを比較的長時間維持することができ、オーガズム直後の性的刺激により再度オーガズムに戻ることができる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「オーガズム」は生理学的・医学的には男女ともに生殖器周辺の筋肉の素早くリズミカルで強力な収縮、および心拍数・呼吸数・血圧の増大や瞳孔の拡散などを特徴として定義されている。だが、「オーガズム」の定義にはばらつきがあり、心理的・社会的要素もあるため、一貫した分類をどう行うかのコンセンサスは得られていないと考えられている。例えば学術誌『臨床心理学レビュー』では少なくとも26のオーガズムの定義がリストアップされている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Gスポットを刺激することにより得られる女性のオーガズムや、数分間やさらには1時間も続く引き延ばされた・連続的なオーガズムといった種類の性感を厳密な意味で「オーガズム」と分類すべきかについては議論がある。この問題はオーガズムの臨床的な定義を軸とするものであるが、こうしたオーガズムの見方が単に生理学的なものである一方で、心理学的・内分泌学的・神経学的な「オーガズム」の諸定義もある。こうしたケースでは、経験される感覚は主観的なものであり、オーガズムの特徴である不随意の収縮は必ずしも関与する必要はない。しかしながら、両性が経験する感覚は極めて快いものであり、しばしば全身で体感され、超越的とも呼ばれる心的状態をもたらし、血管充血(英語版)とそれに結び付いた快感は、収縮を伴う完全なオーガズムのそれと比肩しうるものである。例えば、現代における諸発見は射精と男性のオーガズムを区別することを支持するものとなっている。この理由のため、これらを厳密な意味でオーガズムと定義すべきかを巡っては両方の立場からのさまざまな見解がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "心理学的・生理学的な性的刺激による静脈の鬱血や筋緊張の増大からの解放としてオーガズムが引き起こされる。男性がオーガズムに到達する最も一般的な方法は陰茎の性的刺激(英語版)、女性のそれは陰核(クリトリス)の刺激である。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "陰茎を膣に挿入して行う性交でオーガズムに達する女性は全体のおよそ35%にすぎないという調査もある(後述)。女性は乳首、子宮(子宮オーガズム(英語版))、その他の性感帯の刺激によってもオーガズムが得られることがあるが、これは比較的稀である。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "男女ともに、物理的な刺激のほか、夢の中でのように心理的な興奮のみによってもオーガズムに達することがある。男性は射精することなくオーガズムに達すること(「ドライオーガズム」として知られる)も、オーガズムに達することなく射精することもある。夢精、遅漏、無オーガズム症(英語版)の射精などが後者の例である。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "女性のオーガズムが、恐らくは人為的に、2つの異なったものとして分類されることがあるために、 女性のオーガズムを巡る議論は複雑なものとなっている――陰核のオーガズムと膣(Gスポット、ポルチオ)のオーガズムである。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "膣オーガズムという概念を単独の現象として初めて主張したのはジークムント・フロイトであった。1905年にフロイトは、陰核のオーガズムは純粋に少女期の現象であり、思春期に到達するとすぐに膣オーガズム、すなわち陰核への刺激なしで得られるオーガズムへと移行してゆくのが成熟した女性の適切な反応であると述べた。フロイトはこの基本前提に何ら証拠を示すことはなかったが、この理論の影響は大きなものであった。フロイトの説は男性の陰茎を女性の性的満足の中心に据え、多くの女性たちは陰核への刺激がほとんどもしくは全くなしで膣での性交のみを通じてオーガズムに達することができなかった時に不適切感を覚えるようになった 。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "フロイトの見解とは対照的に、女性の大部分は陰核への刺激によって、もしくは何らかの形での陰核刺激の補助によってのみオーガズムに達することができ、その後の研究は陰核の刺激が女性がオーガズムに達する最も簡単な方法であるということを支持している。ゲイル・サルツ(英語版)は「女性はオーガズムに達するまでに平均で20分間の刺激と興奮を必要とする。男性はこれより遥かに短い時間しかかからない。女性は男性よりも幅広いものを刺激として感じ、またどのような刺激が最も良く機能するかを正確に定義するのも困難である。性交だけによってオーガズムに達することができるのは女性のうち20%のみであり、大多数の女性は何らかの直接的な陰核への刺激を必要とする」としている 。これは陰核に6000以上もの神経繊維があるためである。陰核は蹄鉄のような形で膣を取り囲んでおり、陰唇に沿い、肛門の方へと伸びる「脚」(陰核脚)を有している。尿道海綿体(英語版)が膣の「天井」に沿って走っており、膣を介してこれを刺激することが可能であるが、膣そのものには女性に快感やオーガズムを引き起こす機構は存在していないと考えられている。膣に挿入された陰茎、指、張形などと接触するのは陰核の一部、尿道海綿体だけである。「陰核の尖端と、これもまた非常に敏感な部分である小陰唇とは、性交中には直接の刺激は受けない。」 グレフェンベルグ・スポット、通称Gスポットは恥骨の背後にあり尿道を取り巻く小さな領域であり、膣壁の前部(腹側)から触れることができる。このスポットの大きさにはかなりの個人差があるようである。こうした膣の内側の刺激から得られるオーガズムは「膣の」オーガズムと呼ばれる。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1966年に、マスターズとジョンソン(英語版)は性的刺激の段階に関する極めて重要な研究を公刊した。この著作では男女の双方が扱われており、また先行するアルフレッド・キンゼイのもの(1948、1953年)とは異なりオーガズム前後の生理学的な段階を決定しようと試みている。陰核と膣のオーガズムは同じ身体的な段階を持っているとされている。どちらの種類のオーガズムも陰核の刺激が主要な源になっていると夫妻は論じた。陰核の大きさに関する近年の諸発見もまた、陰核の組織が膣の内部に大きく広がっていることを示している。この発見は陰核のオーガズムと膣のオーガズムが別のものであるとする従来の主張を無効化しうる可能性がある。陰核と膣との繋がりは、陰核が女性のオーガズムの「源」であるという見解を補強するものである。今日では、大半の人々が「陰核」という言葉から思い浮かべる小さな目に見える部分よりも遥かに広く陰核の組織が広がっていることが明らかとなっている。これらの研究の中心的な研究者であるオーストラリアの泌尿器科学者ヘレン・オコネルは、膣による性交時の陰核の内部部分への刺激を考慮すると、この絡み合った関係がGスポットとされている部分と膣オーガズム体験に対する生理学的な説明となると主張している。「膣壁は、実のところ、陰核なのです。膣の側壁の表皮を取り除けてみれば、陰核の球状部分が現れます。三角の、三日月形をした勃起性の組織です。」とオコネルは説明する。陰核は亀頭部分だけなのではなく、「小さな丘」だというのである。女性の一部は他の女性に比べより広範囲な陰核組織を持っている可能性があり、それゆえに多くの女性が陰核の外部部分への直接的な刺激によってのみオーガズムに達することが出来る一方で、性交を通じた陰核のより広範な繊維への刺激だけで充分にオーガズムを得られる女性もいるのだと考えられる。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "無オーガズム症(英語版)は十二分な性的刺激を受けた後でもオーガズムに達するのが常に困難である状態であり、個人的な悩みの原因となる。これは男性よりも女性に遥かに一般的に見られる。女性の約15%がオーガズムに達するのに困難があると報告しており、またアメリカ合衆国の女性の10%は絶頂に達したことがない 。Sexualhealth.comのロバート・バーチは「標本調査に基づく統計がしばしばそうであるように、女性のオーガズムに関する数字は誰が調査され、誰が報告を行ったかによって結果にばらつきがあります。しかしながら、女性の恐らくは15%ほどは一度もオーガズムを経験したことがなく、最大で10%ほどの女性は一人で自慰をする時にしかオーガズムに達することができないようです。」と述べている。ドリュー・ピンスキー(英語版)はこう述べている――", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "女性のオーガズムは平均して約20秒ほど続き、膣、子宮、肛門を含む骨盤領域の筋肉の一連の収縮からなると推測されている。一部の女性では、当人がオーガズムが始まったと報告した直後にこれらの収縮が始まり、約1秒の間隔で、最初は徐々に強く、後には徐々に弱くなりながら継続することがある。規則的な収縮に続いて、不規則な間隔で数回の追加的な収縮もしくは震えが起こる場合もある。オーガズムに達したと報告するが、骨盤領域の収縮は全く観察されない場合もある。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "どちらの性においても、アナルセックスなどで見られるように、肛門周辺の神経末端および肛門自体から快感を得ることができる。男性は前立腺の刺激のみによってオーガズムを得ることが可能である。前立腺は直腸に隣接しており、女性のGスポットと関連していると考えられているスキーン腺の男性版の相同物である。ジャック・モーリンは、「肛門オーガズム」は前立腺のオーガズムとしばしば混同されているが無関係のものであると主張している。陰核の「脚部」が陰唇に沿って肛門まで伸びているため、肛門の刺激は一部の女性にとっても快感を伴うものでありうる。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一部の女性は、性交や前戯の間に乳房を刺激されたり、さらにはただ乳房を愛撫されたりするだけで、穏やかなもしくは激しいオーガズムに達する。女性の乳房の刺激が引き金となるが、その他の点では通常の(骨盤領域の)オーガズムと同じであるため、これは「乳房オーガズム」(breast orgasm)と呼ばれている 。女性の大半は乳房の刺激によりこの効果を体験することはない。213名の女性に質問した研究によると、そのうち29%が少なくとも一度は乳房のオーガズムを経験したことがあった。オーガズムは部分的には、性的興奮の際に体内で生産されるオキシトシンというホルモンにより引き起こされると考えられている。男性もしくは女性の乳首が刺激されて勃起するとオキシトシンが発生することが示されている。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "オーガズムは、何ら直接的な刺激を受けることなく自然発生的に起こることもある。性的な夢の中でオーガズムが起きることも時折ある。ロビン・ベイカー(英語版)によれば男性の80%が夢精を経験し、女性は20歳までに10%、生涯では40%が夢の中でのオーガズムを経験する。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この種のオーガズムが初めて報告されたのは脊髄損傷(SCI)を持つ人々であった。脊髄損傷はある種の感覚の喪失や自己知覚の変容をもたらすことが非常に多いが、性的興奮や性欲などといった性的感覚が失われるわけではない。ゆえに、一部の人々は心的な刺激のみによってオーガズムを発動させることができるのである。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "性的ではない活動によって自然発生的なオーガズムが引き起こされることもある。そのような活動の最良の例としては、サイクリングやエクササイズの際に自転車のサドルが性器と擦れる時のように骨盤筋群が締め付けられている時に意図せずに性器の軽い刺激を引き起こす緊張の解放が挙げられる。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一部の抗うつ薬が副作用として自然発生的な絶頂を引き起こすことがあることも発見されている。患者の大半がその事実を知らせたがらないため、抗うつ薬の投与を受けている患者のうちどのぐらいの数が自然発生的オーガズムを体験しているかの正確なデータはない。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "女性や、比較的稀ではあるが男性も、射精後不応期がないかあっても非常に短く、最初のオーガズムを迎えたすぐ後に第2のオーガズムやさらに多くのオーガズムを経験する場合がある。最初のオーガズムに続く連続した絶頂は刺激が蓄積してゆくにつれさらに強烈もしくは快感の強いものになり得る。一部の女性は、絶頂に達した後では陰核と乳首が非常に敏感になるため、さらなる刺激は最初は苦痛ともなる。女性でもオーガズムが1回きりの人もいる。一度オーガズムに達するとクリトリスに触れるのも嫌になる、というタイプの人である。ペニスやクリトリスといった海綿体でのオーガズムでは、プロラクチン(prolactin:乳腺刺激ホルモン)という物質が放出されることがあり、この血中濃度が高い間は、セックスに対する欲求が急速に減退すると言われている。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "連続した複数回のオーガズムを、特に射精することなしに経験したと報告する男性たちもいる。射精しないオーガズム(ドライオーガズム)を経験した男性は、不応期が軽減されるためしばしば複数回のオーガズムを迎えることができる。1回に数時間をかけて自慰を続け、数多くのオーガズムを達成できる男性たちもいる。そうした男性の中には、最初から複数回のオーガズムを得られていた人も、訓練によって習得した人もいる。近年では、複数回のオーガズムを達成するためのさまざまな技法を記した書籍も数多く出版されている。複数回のオーガズムを得られる男性たち(とそのパートナーたち)の大半は、射精をしないことでオーガズム後も通常より遥かに精力的でいられると報告している。さらに、こうした男性たちは望むならば通常よりも強力な射精を伴うオーガズムも得ることが出来ると報告している。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "射精直前に陰嚢と肛門のほぼ中間に位置する会陰を圧迫することで射精を防止するのが1つの方法である。しかしながらこれは精液が尿道を通って外部へと射出される代わりに膀胱へと流れ込む逆行性射精をもたらす可能性がある。また、長期間に亘り狭いサドルの自転車に乗り続けた男性の報告例と同様に、会陰の神経と血管を圧迫することにより長期的な損傷を引き起こす可能性もある。何らかの理由で前立腺もしくは膀胱の手術を受けた男性もまた逆行性射精のためにドライオーガズムを経験する場合がある。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "複数回のオーガズムを迎えることのできる女性たちは、これを得るためにリラックスして「解放する」必要があることを報告しており、これと似たことを男性が行うのがもう1つの方法である。射精に伴う収縮や、先述のような強制的な抑制を行う代わりに、射精前の血管充血と送出を心身両面でコントロールするのである。こうした技法が成功すると、連続的もしくは複数回の「全身の」オーガズムをも得られる場合がある。前立腺、精嚢、輸精管の指による穏やかな刺激により、激しい放出を伴うオーガズムが持続する性的快感を得ることのできる男性もいる。アネロスやエネマグラなど、前立腺の刺激を主目的とした性具も開発されている。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "思春期より前に自慰もしくはその他の性的活動を始めた男性の中には射精を伴わない複数回のオーガズムを得られていたと報告する人も多い。思春期以前の男性のオーガズムは「通常の」女性のオーガズム体験と質的に類似したものであることを示す証拠がいくつかあり、このことは思春期におけるホルモンの変化が男性のオーガズムの特質に強い影響を及ぼしていることを窺わせる。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "多数の研究が、プロラクチンというホルモンが男性の不応期の原因と推測されるとしている。このため、カベルゴリン(英語版)(製品名のカバサールやドスティネックスとしても知られる)のようなプロラクチンを抑制する薬品に実験的な関心が向けられている。カベルゴリンに関する事例報告は、この薬品が不応期を完全に取り除くことができ、男性たちに立て続けに射精を伴う複数回のオーガズムを経験させられることを示唆している。少なくとも1つの科学的研究もこうした主張を支持している。カベルゴリンはホルモンに変化をきたす薬品であり、数多くの副作用を持つ可能性がある。性機能不全の治療のための使用はまだ承認されていない。不応期の原因としてもう1つ、オキシトシンというホルモンの放出増加も考えられる。さらに、オキシトシンの増加量は不応期の長さにも影響しているかもしれないと考えられている。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1995年にはラトガース大学で科学的研究が行われ、成人男性における自然な、完全に射精する、複数回のオーガズムの実証に成功している。この研究では、36分間に6回の完全に射精するオーガズムが、不応期と見られるものなしに得られた。思春期が進行し成人期へと続く過程の中で不応期が軽減され、さらには完全になくなってしまう事例もあるようである。後には、P・ハーケらがプロラクチンの亢進反応なしに複数回のオーガズムに達した男性を観察している。", "title": "オーガズムへの到達" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "マスターズとジョンソンは1960年代初頭に女性382人と男性312人の観察に基づき性的反応周期の先駆的な研究を行った。生殖器へと血液が急速に流れ込むにつれ興奮が起こる興奮期に始まり、生殖器が完全に興奮した状態が継続する高原期に達し、オーガズム(絶頂期)へと至り、最後には血液が生殖器から離れる後退期を迎えるという周期(サイクル)を示した。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1970年代には、ヘレン・シンガー・カプラン(英語版)がこの周期に性欲を付け加え、性欲が性的興奮に先行するのであると主張した。カプランは、不安、防衛、意思疎通の失敗といった感情が性欲を妨げ、従ってオーガズムも妨げることがあることを指摘している。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1980年代後半以降、ローズマリー・バッソンは線形的な進行と大雑把に捉えられていたものにより循環的な代替案を提案している。バッソンのモデルでは性欲が興奮とオーガズムの源となり、今度は逆にオーガズム周期の他の部分から供給を受けるのである。オーガズムは性的経験の頂点なのではなく周期の単なる1つの点にしかすぎず、人間はどの段階においても性的な充足を覚え得るのであるとバッソンは述べ、全ての性的活動の最終目的・地点として絶頂に当てられてきた焦点を緩和している。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "男性はオーガズムの際には肛門括約筋、前立腺、および陰茎の諸筋肉の急速でリズミカルな収縮を経験する。精子が精巣から精管を上り前立腺へと輸送され、精嚢からの分泌液と共に精液として知られる液体となる。前立腺は精液の構成要素の1つとなる分泌液を作り出す。括約筋と前立腺の収縮により、蓄えられた精液は陰茎の尿道口から体外へと送り出される。この過程には3-10秒かかり、快感を生み出す。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "射精後には通常射精後不応期があり、その間は男性は再度オーガズムに達することはできない。不応期の続く時間は年齢やその他の個人的要因により1分未満から数時間までの幅がある。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "陰茎に刺激を受けオーガズムに近付くにつれ男性は、強烈で非常に快い、神経と筋肉の脈動する多幸感を感じる。これらの脈動は肛門括約筋から始まり亀頭へと移動してゆく。オーガズムの接近と共にこれらは速度・強度を増してゆき、最後には数秒間持続する快感の「高原」、すなわちオーガズムへと至る。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "オーガズムの間には、通常は精液が射出され、多幸感が徐々に消えていった後も数秒間は射精が続くこともある。「オーガズム」の正確な感覚は男性によって違いがあると考えられている。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "典型的な女性のオーガズムは男性のものよりも遥かに長く続く。オーガズムに先立ち、陰核の勃起と膣の開口部の湿潤が起きる。皮膚への血流増加により身体の大部分が赤みを帯びる性的紅潮(英語版)を呈する女性もいる。女性がオーガズムに近付くと、陰核亀頭が内側へと動き陰核包皮の下へと隠れ、小陰唇が黒みを帯びる。オーガズムが間近に迫ると、膣の外側1/3が硬ばり狭窄し、膣全体は長く伸び、広がり、また充血した軟部組織により狭まる。マスターズとジョンソンはこの現象を「テント形成」(英: tenting)と呼んでいる 。膣以外では、乳首と乳輪の複合組織(英語版)の筋線維芽細胞が収縮して乳首の勃起と乳輪半径の縮小を引き起こし、これはオーガズムの開始時に最高潮となる。それから、子宮に3-15回ほどの筋収縮が起こる。子宮、膣、肛門、骨盤に一連のリズミカルな収縮が起きる時、女性は十全なオーガズムを体験する。女性の大部分はこれらの収縮を非常に気持ち良く感じる。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "近年オランダのフローニンゲン大学医療センターの研究者たちは、オーガズムの感覚と、骨盤を中心とし肛門で計測される周波数8-13Hzで発生する筋肉の収縮との相関関係を示した。収縮のこの特有の周波数の存在により、これらの諸筋肉の随意の収縮と自然発生的な不随意の収縮とを区別することができ、これは興奮を計量するに過ぎない心拍数などのような他の測定基準よりも正確にオーガズムと相関していると彼らは論じている。「究極において主観的な経験であるところのオーガズムと強い相関を持つ客観的かつ定量的な尺度としては初めてのもの」を見出したと主張している。8-13Hzで発生する収縮の尺度はオーガズムに特有なのだという。この測定基準を用いることで休息、随意の筋収縮、さらには不首尾に終わったオーガズムの試みなどからオーガズムを区別することが出来ることを発見したのである。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "文化的な障壁と技術的な困難のため、オーガズムと脳の活動をリアルタイムで関連付ける研究はごく僅かしか行われてこなかった。しかしながら、フローニンゲン大学のGert Holstegeと同僚たちが率いた一連の研究は、脳の活動を含むオーガズムに特有の生理学的特徴および男女間での反応の違いを明らかにした。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ある研究では、パートナーに愛撫されている最中の12人の健康な女性をポジトロン断層法(PET)でスキャンした。休息、性的刺激、演技のオーガズム、実際のオーガズムのそれぞれの状態における脳の変化が観察・比較された。男性と女性では刺激を受けている際の脳の変化に違いが認められた。しかしながら、行動調節、恐怖、不安と結び付いている脳の領域が停止するという男女共通の変化が観測された。こうした変化に関して、Holstegeはロンドン・タイムスでのインタビューで「これは、あらゆる恐怖や不安を非活性化すること、忘れることがオーガズムを得るために最も重要で、必要条件でさえあるのかもしれないということを意味します。」と語っている。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "陰核を愛撫されているうちに、恐怖、不安、行動調節を処理する脳の部分がリラックスし活動を低下させ始める。これはオーガズムの時点で最も顕著となり、女性の感情中枢は実質上停止しほぼ昏睡に近い状態が生み出される。Holstegeは欧州人間生殖学会の2005年の会合においてこう語ったという――「オーガズムの瞬間には、女性はいかなる情動的感情も持っていない。」", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "初期の諸報告では、男性のオーガズムが続く時間が女性のものより遥かに短いためPETスキャンにより男性のオーガズムの影響を観測するのは困難であると示唆していた。しかしながら、Rudie Kortekaasらは「オーガズムの最中では両性の共通性が顕著であった......これらの結果から、性的行為における男女間の脳反応の違いは主に刺激段階(高原期)に関係するものであり、絶頂期そのものに関係するものではないと我々は結論する。」", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "脳の神経細胞は常に微弱な電気信号を出して体の部位に様々な指令を出している。これが「脳波」と呼ばれるもので、身体や精神の動きは脳の存在のおかげとも言われている。そして人間の一部の営みともなるオーガズムは脳に大きな負荷をかけている。サイエンスライターの石崎正浩氏の著作によると、セックスでオーガズムに達するときの脳波は1000マイクロボルトも電位を生じさせていると言う。これは正常時の100倍近い数値であり、このことから脳内の神経細胞はオーガズムの度に破壊され、IQも低下するリスクもある。逆に顕著な影響はないと主張する専門家もまたいる。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "オーガズム、および実際には性行為全体は、数多くの重要な身体組織の努力を必要としうる身体活動である。1997年に『イギリス医師会雑誌』に掲載された、45-59歳の男性918人を対象とした研究によると、10年間の追跡調査で、週に2度以上のオーガズムを得ている男性はそうでない男性に比べ全ての死因で死亡率が半分であった。より明確に循環器の健康に焦点を合わせた2001年の追跡調査では、週に3度以上の性交を行う男性は心臓発作および脳梗塞のリスクが50%低かった。(一般に、相関関係は因果関係を意味しないことに注意。)", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "男性女性ともに、加齢するに従ってオーガズムに伴う紅潮、筋緊張、直腸の収縮などは衰え、陰茎や膣の収縮の回数も減少する。男性では通常、歳を取るにつれ、射精する精液の量や飛距離が減少し、射精後の不応期も長くなる。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "オーガズムを得ることができないことは「オーガズム不全」、「無オーガズム症(英語版)」もしくは「射精無快感症(英語版)」などと呼ばれる。男性が勃起と射精をするがオーガズムが得られない場合、その男性は射精無快感症(英語版)であるとされる。 「不感症 sexual anesthesia」や(性欲自体のない)「冷感症」のような言葉は曖昧なため、今日では包括的に「性障害」「性機能不全」などと呼ばれている。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "女性のオーガズム不全の原因の大半は前戯不足のような性的無知もしくは心理的な原因によるものがある。より具体的には情緒不安、性交に対する嫌悪感や恐怖、(異性に興味が無く)同性愛であること、夫婦間の不和の問題などが挙げられる。少し異なったものとしては、過労(精神的な過労も、肉体的な過労も)が挙げられる。心理的な要因や過労といった要因があると、大脳皮質においてドーパミン系機構へ抑制がかかり、オーガズムが抑制されるのだと考えられている。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "これには振舞に対するプレッシャーや、パートナーの満足から切り離して快楽を追求することへのためらいが密接に関係しているようだ。しばしば女性はパートナーの快楽のことが気掛かりとなるあまり不安に陥り、これはオーガズムの遅延に対する焦りとなって現れる。この遅延は、オーガズムによる性的満足に到達できないことへの不満へと結び付き得る。精神分析家のヴィルヘルム・ライヒは1927年の著書『オーガズムの機能』において初めてオーガズムを精神衛生の中核的な概念に据え、完全なオーガズムを得る障害という観点からノイローゼを定義した。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "心理的な原因によるオーガズム不全の治療を試みる場合は精神療法や心理療法が採用される。つまりカウンセリング(セックス・カウンセリング)やセラピー(セックス・セラピー)が有効となると言われる。上述のように、オーガズム不全の大半は心理的な要素によって起きているが、他にも、生理学的な要素も関与することはある。中枢神経の機能障害によって不感症が起きることがある。このケースならば、ドーパミン系の賦活薬やセロトニン系機構の抑制をもたらす薬剤が効く場合もある。 精神医学で用いられる薬物はほぼ全てが性への作用に関係し、男性の射精障害や女性のオーガズムの阻害・遅延を起こす可能性がある。例えばベンラファキシンやSSRIはセロトニン濃度を上昇させるため男女ともにオーガズムの達成を困難にする 。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "なお、特に同時にオーガズムを得ることやそれと類似した営みに関して、多くの性科学者たちは、早漏の問題が、相互のオーガズムが性的関係の目的や性的満足の印として過度に強調されていた20世紀初頭における科学的アプローチにより促された考え方に密接に関係していると主張している。", "title": "医学的側面" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "タントラ・セックスは古代インド・ヒンドゥー教の性の実践における宗教的伝統である(密教のタントラとは別のものである)。タントラにおいては従来的(欧米的)な性への文化的アプローチとは異なり、オーガズムを性交の目的とは考えない。タントラ・セックスの実践者たちは、数多の体位や性技を用いオーガズム以前の状態に長時間留まり続けることで心身の長い恍惚を得ようとし、オーガズムはその1つの区切りに過ぎないと考える。性のエネルギーはオーガズムではなく、至福の悟りへと進むために用いられる。", "title": "タントラ・セックス" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "バグワン・シュリ・ラジニーシのような現代のネオ・タントラ・セックスの唱道者たちは、こうしたアプローチによりオーガズムの感覚が意識的体験の全域へと広がってゆくと主張している。また、西洋文化が絶頂感のオーガズムという目的に焦点を合わせすぎで、性体験での他の時間において深い快楽を味わうことを妨げていると主張しており、これを取り除くことによってより豊かで、十全で、強力なつながりを得ることができると説いている。", "title": "タントラ・セックス" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "古代より、オーガズムは文学において幅広く表現され続けてきた。古典古代では、ギリシア文学やラテン文学もこの主題に取り組んでいた。オウィディウスの『変身物語』はユーピテルとユーノーの交わした議論を再話している。ユーピテル曰く――", "title": "文学におけるオーガズム" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ユーノーはこの考えを拒絶する。両者は、女性として7年間を生き「愛を男女両方で知った者」テイレシアースに意見を求める。テイレシアースはユーピテルに同意して女の快感は男の10倍であると答えユーノーの怒りを買い、その場で盲目とされてしまった。ユーピテルはテイレシアースの痛手を和らげるため予言力と長寿を与えた。『変身物語』以前にも、オウィディウスは『愛の技法(英語版)』において2人共に満たすことのできない性交を嫌悪すると宣言している。", "title": "文学におけるオーガズム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ロマン主義とホモエロティシズム(英語版)の時代となってもオーガズムというテーマは描かれ続けた。「並外れた守備範囲と多彩さの翻訳者」と称された詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(1792–1822)は『フランソワ・ラバイヤックとシャルロット・コルデーの祝婚歌と思われる断片』の中で「いかなる生もかのような死には及ばず」というフレーズを記し、これはオーガズムの暗喩であると考えられており、またこのフレーズの前には「吸ってくれ、吸ってくれ、僕は燃える、僕は燃える!」という明白にフェラチオを仄めかした詩行がある。シェリーにとってオーガズムは「並外れた魅力を持つ人と共にいながら放置された状態でいることによるほとんど不本意な結果」であった 。シェリーの生涯最後の恋の相手であったエドワード・エラーカー・ウィリアムズ(英語版)のことが『セルキオ川の小舟』で回想されており、これは恐らく「文学における最も偉大なオーガズム描写」であろうと見なされている。", "title": "文学におけるオーガズム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "シェリーはこの詩においてもまた「恋人たちが愛する死」として死とオーガズムを結び付けている。興味深いことに、フランス文学においては小さな死(英語版)(仏: la petite mort)はオーガズムの有名な婉曲表現となっている――これは人がオーガズムの間は自身のことも世界のことも忘れ去っていることを表しているのである。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスもまた同じ発想から、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」に付けた脚注において、トレーンの教会の中の1つが観念的には「全ての男は、性交時の眩暈のする瞬間には1人の同じ男なのである。シェイクスピアの詩の1行を暗唱する者は全てウィリアム・シェイクスピアなのだ。」と主張していると書いた。シェイクスピアその人もこの考え方には親しかった――「私はあなたの心の中に生き、あなたの膝の上で死に、あなたの瞳の中に葬られましょう」「私は勇敢に死んで行こう、気取った花婿のように」と、『空騒ぎ』のベネディックおよび『リア王』のリア王に繰り返し語らせており、女性の膝で死ぬというくだりは性的なオーガズムを含意すると解釈されている。", "title": "文学におけるオーガズム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "精神分析学者のジークムント・フロイトは『自我とエス(ドイツ語版)』(1923)において、オーガズムによる性的満足はエロース(生の本能)を使い果たしタナトス(死の本能)へと場を譲るのではないか、換言すればオーガズムによりエロースはその任務を終えタナトスに取って代わられるのではないかとしている。現代作家たちは隠喩なしでオーガズムを表現することを選んでいる。例えばデーヴィッド・ハーバート・ローレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』(1928)に、カップルの性行為のあからさまな語りを見出すことができる――「彼が動きはじめると、彼女の中で突然でどうすることもできないオーガズムが目覚め奇妙な戦慄が彼女の内側で波紋となって広がっていった......」。", "title": "文学におけるオーガズム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "男性のオーガズムと射精が受胎に必要である一方、1770年代にラザロ・スパランツァーニが犬の人工授精に成功するなどして、受胎に女性のオーガズムは必要とされないことが知られるようになって以降、女性の性的快感には生殖上の役割はないと考えられてきたが、生殖過程における女性のオーガズムの役割に関するさまざまな仮説が進化生物学らなどにより提唱されている。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1967年にはデズモンド・モリスがポピュラーサイエンスの著書『裸のサル』において初めて、「女性のオーガズムは男性パートナーとの肉体的な親密さを促進し、つがいの結び付きを強めるために進化したのではないか」と示唆した。「男性に比べ女性がオーガズムに達するのが比較的難しいことで女性は、他の霊長類の配偶者選択において見られるような身体の大きさや攻撃性ではなく、忍耐力、気配り、想像力、知性といった特質を持つ男性を選択するように導かれ、ダーウィン的進化において有利となるのであろう」とモリスは推測・主張した。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "モリスはまた「オーガズムが、女性を消耗させ横たわったままにさせることによって精液が漏出してしまうことを防ぎ、受胎を容易にもしている」と主張した。これは「斧仮説」もしくは「ノックアウト仮説」とも呼ばれるが、今日では極めて疑わしいと考えられている。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "他の諸理論は女性のオーガズムが繁殖力を高めるのであろうという考えに基づいている。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、オーガズム中の子宮頸部が吸角のように働き精液を吸い寄せて受胎を助けるのではないかと書いた。イギリスの生物学者ベイカーとベリスは女性のオーガズムが食道が食物を嚥下する能力を上下逆にしたような「吸い上げる」動きをし、望ましい精液を保持し受胎の可能性を高めるのではないか、と示唆した。ベイカーらは女性のオーガズムが精子競争(英語版)において役割を持つのではないか、と推測した。1994年にザ・ラーニング・チャンネルで放送された性に関するドキュメンタリー番組では、性交中の女性の膣の中に光ファイバーカメラを挿入し撮影を行った。彼女がオーガズムを迎えると、骨盤筋群が収縮して子宮膣部が反復的に膣円蓋内に溜った精液へと浸り、あたかも精子が外子宮口へと確実に進むようにし受胎の可能性を高めようとするかのような動きを見せた。エリザベス・ロイド(英語版)はこのシーンで流されたナレーションがこれを「精子の吸い上げ」の例であるとしたことを批判し、これは子宮オーガズム(英語版)での通常の収縮に過ぎず、繁殖力へのどのような効果も示されてはいない、とした。マスターズとジョンソンもX線撮影による調査に基づき否定的な見解を示している。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また例えば、オーガズムにより骨盤筋肉の収縮により陰茎を締め付けることで男性のオーガズムと射精を引き起こすとも考えられる。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "排卵中には比較的オーガズムに達しやすい傾向があるという観察は、オーガズムが繁殖力の増強に結び付いていることを示唆しているという。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "進化生物学者のロビン・ベイカー(英語版)は『精子戦争(英語版)』において、オーガズムの発生とタイミングは全て、進化的により適した男性の精子を受け取り保持するための女性の身体の無意識的な戦略の一部をなすのであると論じている。子宮頸部は精子と病原体に対する自然のフィルタとなっており、性交時のオーガズムはこれを回避させるためのボタンとして機能し、性交前のオーガズムは逆にフィルタを強化するというのである。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ただしその論拠となる子宮頸部による精液の「吸い上げ」についてはマスターズとジョンソンは否定的な見解を示しており、性科学者のイェルト・ドレントも「内容には多少の疑いをもってかかるべきだろう」としている。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "陰核は陰茎と相同である――両者は共に同じ胎児構造から発達するのである。スティーヴン・ジェイ・グールドやその他の研究者たちは陰核が女性における痕跡器官であり、女性のオーガズムには進化上の機能は特に有していないと主張している。エリザベス・ロイド(英語版)のようなこの仮説の主唱者たちは、膣での性交を通じて女性がオーガズムに達するのが比較的困難であること、オーガズムの後では受精率が増大することの証拠が乏しいこと、女性がオーガズムに到達できる能力とその女性が性交を行う可能性との間には統計的な相関が見られないことなどを指摘している。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "科学ライターのナタリー・アンジェ(英語版)は、この仮説が女性のオーガズムの心理社会的な価値を過小評価していると批判している。キャサリン・ブラックリッジは著書『ヴァギナ:女性器の文化史』においてオーガズムと受胎の成功との間に結び付きがある可能性を示す研究を引用している。ブラックリッジは「女性のオーガズムは痕跡的なもの」とする仮説が、受胎の成功の結果としてもたらされ続けている進化的な利点を無視していると批判している。人類学者・霊長類学者であるサラ・ブラファー・ハーディもまた女性のオーガズムが痕跡的なものであるとする議論を批判し、そのような考え方には性差別の気配があると書いている。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2005年に行われた双生児研究(英語版)は女性の3人に1人は性交(膣に陰茎が入る行為)中にオーガズムに達したことがない、あるいはほとんど達することがなく、性交で常にオーガズムに達するのは10人に1人にしか過ぎないことを明らかにした。一般に心理社会的なものであると考えられている、オーガズムに達する能力のこの個人差は、34-45%が遺伝的なものであると明らかになった。4000人の女性を調査したこの研究は王立協会の学術誌『バイオロジー・レターズ(英語版)』で公表された。エリザベス・ロイドはこれを女性のオーガズムが適応的なものではないことの証拠として引用している。", "title": "生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "霊長類では雌雄ともに関係部位の素早くリズミカルで強力な収縮が見られ、メスでは交尾中や自慰中に膣の充血、陰核の勃起、全身の筋肉の緊張、心拍数の増加、体毛の起立などが同時に観察される。霊長類の他でもネズミやウシなど数多くの動物がオーガズム様の反射を示す。", "title": "ヒト以外の動物" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "オスのオーガズムの機序は哺乳類の大半でも同様である。一部の哺乳類および、哺乳類以外でもアメリカワニ などには陰核がある。", "title": "ヒト以外の動物" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "生殖以外の理由で性交を行っているように思われる種であるイルカの性とオーガズムに関する研究も行われている。", "title": "ヒト以外の動物" } ]
オーガズム・オルガスムスは、 累積的な性的緊張からの突然の解放のことであり、骨盤まわりの筋肉のリズミカルな痙攣を伴い、強い快感を生んだ後に弛緩状態に至るもののことである。 古代ギリシア語: ὀργασμός(オルガズモス、「成熟」「発情」の意)を語源とし、日本語では性的絶頂とも。俗には「アクメ」「エクスタシー」などの語を使う人もいる。
{{性的}} {{Otheruses|性的な心身の現象<!-- ここはシンプルにいきましょう -->それを名称として用いた作品など}} <!-- 訳語メモ intercourse: 「やべゆうき」性行為より狭義で、陰茎を膣に挿入して行うことのみを指しています。 clitoris: 陰核/なちょ penis: 陰茎/ペニス anal/anus: 肛門/アナル …基本的に「肛門」ですが、[[やべゆうき]]などでは「アナル」としました。 このあたりは趣味の範疇。とりあえずリンク先の記事名に合わせています。 「クリトリス」「ペニス」で加筆していただいた部分を一旦「陰核」「陰茎」に統一させていただきましたが、「クリトリス」「ペニス」に統一しても構いません。 --> <!-- 項目名について 「オーガズム」で立項されていますが、各種辞書や事典では独語由来の「オルガスムス」が見出しとなっていることが多いようです。一般に使われているのは「オーガズム」だと思われますが。 --> <!-- 翻訳・加筆TODOメモ (メモはここに残していますが、打ち合わせが必要な場合はノートに場を移しましょう。) * 男性のオーガズムの基本的な記述がなく、マルチプルオーガズムだけが詳細になっています。男性のオーガズムについて加筆し、「両性共通の部分」と「どちらかの性だけに当てはまる部分」の区別も明確にしていった方が良さそうです。 * 文化的側面が西洋(とインド)に偏っています。文化史としてまとめ上げるのはなかなか大変ですが、東洋・日本・イスラーム・アフリカなどにも目配りすべきです。 * 動物のオーガズムやオーガズムの文化に関してはドイツ語版の方が優れています。 * 「現在の知見」と「歴史的経緯」を分離して体系的な記述にまとめ直せるかもしれません。 * 節構成は全体として「科学的→文化的」としたいと思います。将来的には医学的・生理学的→生物学的→社会学的→文化・文学的という流れにし、「人間がオーガズムをどう捉えてきたか」の変遷を追う記述にしていきたいと思っております。 * discovery.com, about.com, 'Go Ask Alice!' などは情報源としてどのくらい信頼できるのか? これらのサイトのみを情報源にする記述は避け、可能ならより信頼できる情報源に置き換えた方が良さそうです。(こうしたサイトの記述の大半は少数の主要な研究の聞き書きや寄せ集めのようです。生理学的な記述はM&J、統計などはキンゼイやハイトのものを直接参照した方が良いでしょう。) * Gスポットと女性の射精(潮吹き)の話を加筆するべきか? {{Harvnb|ドレント|2005|pp=114-119}}にある程度記述があるが、「事実に則した情報は、世界中を探してもそれほど多くはない。」(p.119)とあるので信頼できる記述を作るのは現段階では困難か。 * 「社会がオーガズムをどう考えてきたか」を軸に通時的な記述をする節があると良い。女子割礼、タントラ、中国、ヒステリー治療、バイブレーターの歴史、性革命(キンゼイ報告、M&J、ハイト・リポート)、フェミニズム、エソロジー…… --> '''オーガズム'''({{lang-en-short|orgasm}})・'''オルガスムス'''({{lang-de-short|Orgasmus}})は、 [[累積的]]な[[性的興奮|性的緊張]]からの突然の解放のことであり、骨盤まわりの[[筋肉]]のリズミカルな[[痙攣]]を伴い、強い[[快感]]を生んだ後に弛緩状態に至るもののことである<ref name="health.discovery.com">{{cite web|title=Orgasm| publisher=Health.discovery.com| accessdate=21 April 2010|url=http://health.discovery.com/centers/sex/sexpedia/orgasm.html}}</ref>。 {{lang-grc|ὀργασμός}}(オルガズモス、「成熟」「発情」の意)を語源とし、日本語では'''性的絶頂'''とも。俗には「アクメ」「エクスタシー」などの語を使う人もいる。 == 概説 == 全身の骨格筋の収縮、過度呼吸、心悸亢進、および骨盤まわりの[[筋肉]]のリズミカルな収縮を伴い<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=336-337}}</ref>、強い[[快感]]を生んだ後に弛緩状態に至る<ref name="health.discovery.com">{{cite web|title=Orgasm| publisher=Health.discovery.com| accessdate=21 April 2010|url=http://health.discovery.com/centers/sex/sexpedia/orgasm.html}}</ref>。他方で、心理学的には解放の頂点の主観的経験が見られる<ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|p=750}}</ref>。 現在ではすでに古典的な研究とされる{{仮リンク|マスターズとジョンソン|en|Masters and Johnson}}の定義した4段階の{{仮リンク|ヒトの性反応周期|en|Human sexual response cycle|label=性反応周期}}では「オーガズム期」は「高原期」と「後退期」の間にあたる、とされた<ref name="health.discovery.com" /><ref>{{Harvnb|ドレント|2005|p=91}}</ref>。 またオーガズムは、一面では、喜びを感じ、ゆだねるという[[心理]]的な経験であり、その時、[[心]]はもっぱら自分の個人的な体験だけに向けられているものである<ref name="health.discovery.com" />。 オーガズムは不随意もしくは自律的な[[大脳辺縁系]]により支配されており、[[性器]]<!-- primary sexual organ: 'primary' 訳出せず -->と[[肛門]]を取り囲む下部[[骨盤]]筋群<!-- lower pelvic muscles -->の高速な{{仮リンク|筋収縮|en|muscle contraction|redirect=1}}のサイクルを伴う<ref name=health.discovery.com/>。オーガズムの間には[[脳波]]のパターンにはっきりとした変化が現れ、このことはオーガズムの反応における辺縁系の重要性を示している<ref name=health.discovery.com/>。<!-- オーガズムには他にもしばしば身体の複数部分での筋肉の[[痙攣]]や全身の[[多幸感]]などの不随意運動を伴い、またしばしば体の動きや発声<!- 喘ぎ声 ->も見られる。-->男性と女性の脳は<!-- (パートナーによりもたらされる)-->オーガズムの間には類似した変化を見せ、脳活動のスキャンは[[大脳皮質]]の大部分での一時的な[[代謝]]活動の低下と辺縁系での代謝活動の無変化もしくは増大を示す<ref name="Georgiadis">{{Cite journal|author=Georgiadis JR, Reinders AA, Paans AM, Renken R, Kortekaas R |title=Men versus women on sexual brain function: prominent differences during tactile genital stimulation, but not during orgasm |journal=Human Brain Mapping |volume=30 |issue=10 |pages=3089–101 |year=2009 |month=October |pmid=19219848 |doi=10.1002/hbm.20733}}</ref>。 1970年代のマスターズ&ジョンソンの研究では、「生理的な反応の大半は男女共通である」とされた<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=31,241-247}}</ref>が、男女のオーガズムの生理的な相違点としては[[射精]]および[[射精後不応期]](無反応期ともいう)の存在がある。男性においては、オーガズムは一般的に[[射精]]へと至り<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=191}}</ref>、オーガズム後しばらくは再びオーガズムに到達できない[[射精後不応期]]がある<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=30}}</ref>。不応期にはしばしばリラックス感(脱力感、虚脱感)が伴い、これは[[神経ホルモン]]である[[オキシトシン]]と[[プロラクチン]]の放出によるものとされている<ref>{{Cite journal|author=Exton MS, Krüger TH, Koch M, ''et al.''|month=April|year=2001|title=Coitus-induced orgasm stimulates prolactin secretion in healthy subjects|journal=Psychoneuroendocrinology|volume=26|issue=3|pages=287–94|doi=10.1016/S0306-4530(00)00053-6|pmid=11166491}}</ref>。男性の不応期のことを、オーガズムに到達できないことやリラックス感から俗に「[[賢者タイム]]」という。女性はオーガズムを比較的長時間維持することができ、オーガズム直後の性的刺激により再度オーガズムに戻ることができる<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=129}}</ref>。 [[File:Podkowiński-Szał uniesień-MNK.jpg|thumb|300px|[[ヴワディスワフ・ポドコヴィンスキー]]画『[[歓喜の熱狂|エクスタシー]]』(1894)。{{要出典範囲|オーガズムを描いている。|date=2011-6}}]] === 定義 === 「オーガズム」は生理学的・医学的には男女ともに生殖器周辺の筋肉の素早くリズミカルで強力な収縮、および心拍数・呼吸数・血圧の増大や瞳孔の拡散<!-- 瞳孔の拡散はブラックリッジ、ドレントにあり、『カプラン』にはなし -->などを特徴として定義されている<ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|pp=750-752}}</ref><ref name="名前なし-1">{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=395-397}}</ref><ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=252-253}}<!-- ほか至るところ --></ref>。だが、「オーガズム」の定義にはばらつきがあり、心理的・社会的要素もある<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=126,191}}</ref>ため、一貫した分類をどう行うかのコンセンサスは得られていないと考えられている<ref name=levine_orgasm>{{Cite journal|author=Levine, R.J.|year=2004|title=An orgasm is... who defines what an orgasm is?|journal=Sexual and Relationship Therapy|volume=19|pages=101–107 |doi=10.1080/14681990410001641663}}</ref>。例えば学術誌『臨床心理学レビュー』では少なくとも26のオーガズムの定義がリストアップされている<ref name=mah_&_binik>{{Cite journal|author=Mah K, Binik YM |title=The nature of human orgasm: a critical review of major trends |journal=Clinical Psychology Review |volume=21 |issue=6 |pages=823–56 |year=2001 |month=August |pmid=11497209 |doi=10.1016/S0272-7358(00)00069-6}}</ref>。 [[Gスポット]]を刺激することにより得られる女性のオーガズム<!-- [[潮吹き]]とした方がいいか? -->や、数分間やさらには1時間も続く引き延ばされた・連続的なオーガズム<!-- 略: demonstration of -->といった種類の性感を厳密な意味で「オーガズム」と分類すべきかについては議論がある<ref>{{Cite book| author = Schwartz, Bob | title = The One Hour Orgasm: A New Approach to Achieving Maximum Sexual Pleasure | publisher = Breakthru Publishing | month = May | year = 1992 | isbn = 0942540077}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。この問題はオーガズムの臨床的な定義を軸とするものであるが、こうしたオーガズムの見方が単に生理学的なものである一方で、[[心理学]]的・[[内分泌学]]的・[[神経学]]的な「オーガズム」の諸定義もある<ref name=levine_orgasm/>。こうしたケースでは、経験される感覚は主観的なものであり、オーガズムの特徴である不随意の収縮は必ずしも関与する必要はない。しかしながら、両性が経験する感覚は極めて快いものであり、しばしば全身で体感され、超越的<!-- transcendental: 「小さな死」ですね -->とも呼ばれる心的状態をもたらし、{{仮リンク|血管充血|en|vasocongestion}}とそれに結び付いた快感は、収縮を伴う完全なオーガズムのそれと比肩しうるものである。例えば、現代における諸発見は射精と男性のオーガズムを区別することを支持するものとなっている<ref name=mah_&_binik/>。この理由のため、これらを厳密な意味でオーガズムと定義すべきかを巡っては両方の立場からのさまざまな見解がある。<!-- 段落頭と重複しているので省略していいか? --> == オーガズムへの到達 == <!-- [[ファイル:OrgasmTime.jpg|thumb|right|男女のオーガズムに達するまでの時間の概念的な比較:青い線が男性、赤い線が女性]] この画像自体が独自研究ではないかと思われるためコメントアウト --> === 総論 === <!-- 女性特有の部分については次の「女性のオーガズム」節に再出しますので大幅に簡略化しました。 --> <!-- TODO: === 男性のオーガズム === も作成 -->心理学的・生理学的な性的刺激による静脈の[[鬱血]]や筋緊張の増大からの解放としてオーガズムが引き起こされる<ref name="名前なし-2"/><ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|p=750}}<!-- M&Jを引いています--></ref>。男性がオーガズムに到達する最も一般的な方法は[[陰茎]]の{{仮リンク|性的刺激|en|sexual stimulation}}、女性のそれは[[陰核]](クリトリス)の刺激である<ref name=health.discovery.com/><ref name="O'Connell">{{Cite journal|author=O'Connell HE, Sanjeevan KV, Hutson JM |title=Anatomy of the clitoris |journal=The Journal of Urology |volume=174 |issue=4 Pt 1 |pages=1189–95 |year=2005 |month=October |pmid=16145367 |laysummary=http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/5013866.stm Time for rethink on the clitoris -|laysource=[[BBCニュース|BBC News]] |laydate=11 June 2006 |doi=10.1097/01.ju.0000173639.38898.cd}}</ref><ref name="O'Connell"/><ref name="womenshealth.about.com">{{cite web|first=Tracee|last=Cornforth|title=The Clitoral Truth|publisher=[[About.com]] ([[All About]])|date=17 July 2009|accessdate=21 April 2010|url=https://www.verywellhealth.com/what-is-a-clitoris-and-what-does-the-clitoris-do-3157061}}</ref><ref name="www.sexualhealth.com">{{cite web|first=Robert|last=Birch |title=Did you orgasm?|publisher=Sexualhealth.com|date=16 November 2007|accessdate=21 April 2010|url=http://www.sexualhealth.com/article/read/women-sexual-health/orgasm/486/}}</ref>。<!-- 女性においては[[スキーン腺]]、男性においては[[前立腺]]と呼ばれている内分泌腺も性的刺激において重要であり、これらは[[相同]]構造<!- structures: 「器官」の方がいい? ->である。一般的には、これらの領域は[[Gスポット]]と呼ばれている{{要出典|date=2011年7月}}。: 全ての人に重要なわけではないですし、どの程度重要なのかは検証が必要なので一旦コメントアウトします。 --> 陰茎を膣に挿入して行う性交でオーガズムに達する女性は全体のおよそ35%にすぎないという調査もある<ref name="www.sexualhealth.com" /><!-- TODO: ウェブサイト出典は独自解釈の混じった孫引きのようなものが目立ちます。元となった調査(恐らくハイト・リポート?)を引用した方が良いでしょう。 -->(後述)。女性は[[乳首]]、[[子宮]]({{仮リンク|子宮オーガズム|en|uterine orgasm}})、その他の[[性感帯]]の刺激によってもオーガズムが得られることがあるが、これは比較的稀である<ref name="Otto">Otto, Herbert A. (1988) New Orgasm Options: Expanding Sexual Pleasure.</ref>。 男女ともに、物理的な刺激のほか、夢の中でのように心理的な興奮のみによってもオーガズムに達することがある<ref name=womenshealth.about.com/>。男性は射精することなくオーガズムに達すること(「[[ドライオーガズム]]」として知られる)も、オーガズムに達することなく射精することもある。[[夢精]]、[[遅漏]]、{{仮リンク|無オーガズム症|en|Anorgasmia}}の射精などが後者の例である。 <!-- 情報源がなく、内容もマニュアル的で、記事全体から見ても必然性に乏しいので訳出せず * (特に女性の)オーガズム障害の一番の解決策はマスターベーションという旨の情報源が多く存在するのでその方向で再編成すれば意味のある記述にできるかもしれません。 === オーガズム・コントロール === [[Orgasm control]] by self-practice, or by a partner, is managing the physical stimulation and sensation connected with the emotional and physiologic excitement levels. Through the practice of masturbation, individuals can learn to develop control of their own body's orgasmic response and timing. In partnered stimulation, either partner can control his or her own orgasmic response and timing. With mutual agreement, either partner can similarly learn to control or enhance his or her partner's orgasmic response and timing. Partner stimulation orgasm techniques referred to as [[mutual masturbation]] or orgasm control can be learned and practiced focused on either partner to refine the control of orgasmic response of the other. Partners choose which is in control or in response to the other during mutual masturbation. By learning and practice of the shared orgasmic response between partners, orgasm control can be expanded. Orgasm control is most effectively practiced first by self masturbation, then by partnered non-simultaneous mutual masturbation. A regular practice of mutual masturbation with partner controlled orgasmic response can improve both learned orgasm control and orgasm expansiveness for any sexual interaction. Practiced orgasm control can improve male or female orgasm experience and can improve male ejaculation control. Regular practice of partnered orgasm control allows learning, refining and expanding the orgasmic response of both partners. Techniques stimulating orgasm in either gender include manual genital stroking and/or a vibrator for self stimulation in masturbation. This can be shared with a partner observing or the stimulation can be controlled by a chosen partner of any gender. An example of a safer sex consensual partner manually stroking orgasmic control technique is described in [[expanded orgasm]]. Practiced mindful orgasmic control techniques can help learning, enhancing, and extending our body's natural limbic system orgasmic response. The practice of orgasm control applies to female and male masturbation and any gender partnered combinations. Practiced orgasm control improves learned and natural orgasmic response in most sexual interactions. --> === 女性のオーガズム === <!-- 完全な脊髄損傷の女性が膣と子宮頸部への刺激によりオーガズム反応を起こすという研究もあるようです<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=402-404}}</ref>。 現在の記述は陰核に偏りすぎているかもしれません(膣オーガズムに偏りすぎるよりは良いのですが)。 --> 女性のオーガズムが、恐らくは人為的に、2つの異なったものとして分類されることがあるために、 女性のオーガズムを巡る議論は複雑なものとなっている――[[陰核]]のオーガズムと膣([[Gスポット]]、[[ポルチオ]])のオーガズムである。 膣オーガズムという概念を単独の現象として初めて主張したのは[[ジークムント・フロイト]]であった。1905年にフロイトは、陰核のオーガズムは純粋に少女期の現象であり、思春期<!-- puberty -->に到達するとすぐに膣オーガズム、すなわち陰核への刺激なしで得られるオーガズムへと移行してゆくのが成熟した女性の適切な反応であると述べた。フロイトはこの基本前提に何ら証拠を示すことはなかったが、この理論の影響は大きなものであった。フロイトの説は男性の陰茎を女性の性的満足の中心に据え、多くの女性たちは陰核への刺激がほとんどもしくは全くなしで膣での性交のみを通じてオーガズムに達することができなかった時に不適切感を覚えるようになった<ref name="www.goaskalice">{{cite web|title=Difference between clitoral and vaginal orgasm|publisher=Go Ask Alice!|date=23 December 1994 (Last Updated/Reviewed on 28 March 2008)|accessdate=21 April 2010|url=https://goaskalice.columbia.edu/0469.html}}</ref> <!-- 左の脚注では記述を完全にはカバーせず。ドレントはほぼ全てカバーするが、「1905年」という年号は要確認(『性理論に関する3つのエッセイ』?)--><ref>{{Harvnb|ドレント|2005|pp=162-167}}</ref>。 フロイトの見解とは対照的に、女性の大部分は陰核への刺激によって、もしくは何らかの形での陰核刺激の補助によってのみオーガズムに達することができ、その後の研究<!-- 単に"research"とありますが補いました -->は陰核の刺激が女性がオーガズムに達する最も簡単な方法であるということを支持している<ref name="O'Connell"/><ref name=womenshealth.about.com/><ref name="www.sexualhealth.com"/><ref name="Frank JE">Frank JE, Mistretta P, Will J. Diagnosis and treatment of female [[性機能障害|sexual dysfunction]]. ''American Family Physician''. (2008);77:635. {{PMID|18350761}}</ref><ref name="Chalker">{{cite book |last=Chalker |first=Rebecca |year=2000 |title=The Clitoral Truth |url=https://www.sevenstories.com/Book/index.cfm?GCOI=58322100427350 |publisher=Seven Seas Press |pages=1 |isbn=1-58322-473-4}}</ref><ref name="Big O">{{cite web|title=Dissatisfied, ladies? Tips to reach the Big O Climax is possible for every woman, and men can help them get there!|publisher=[[MSNBC]]|date=November, 02, 2007|accessdate=April 10, 2011|url=http://today.msnbc.msn.com/id/21597671}}</ref><ref name="Shere Hite">{{cite web|author={{仮リンク|シェア・ハイト|en|Shere Hite|label=Shere Hite}}|title=Shere Hite: On female sexuality in the 21st century |publisher=''[[インデペンデント|The Independent]]''|date=April 30, 2006|accessdate=April 10, 2011|url=https://www.independent.co.uk/news/people/profiles/shere-hite-on-female-sexuality-in-the-21st-century-475981.html}}</ref><ref name="Dinitia Smith">{{cite web|first=Dinitia|last=Smith|title=A Critic Takes On the Logic of Female Orgasm|publisher=''[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]''|date=May 17, 2005|accessdate=April 10, 2011|url=https://www.nytimes.com/2005/05/17/science/a-critic-takes-on-the-logic-of-female-orgasm.html}}</ref>。{{仮リンク|ゲイル・サルツ|en|Gail Saltz}}は「女性はオーガズムに達するまでに平均で20分間の刺激と興奮を必要とする。男性はこれより遥かに短い時間しかかからない。女性は男性よりも幅広いものを刺激として感じ、またどのような刺激が最も良く機能するかを正確に定義するのも困難である<!-- 訳語やや固い。いろいろな感じ方があり、どうすれば(されれば)一番気持ち良いかをなかなか把握できないということです。 -->。性交だけによってオーガズムに達することができるのは女性のうち20%のみであり、大多数の女性は何らかの直接的な陰核への刺激を必要とする」としている<ref name="Big O"/> 。これは陰核に6000以上もの[[神経繊維]]があるためである<ref name="Chalker"/>。陰核は[[蹄鉄]]のような形で膣を取り囲んでおり<ref name=womenshealth.about.com/>、陰唇に沿い、肛門の方へと伸びる「脚」(陰核脚)を有している<ref name="WWw.goaskalice">{{cite web|title=Doin' the butt — objects in anus?|publisher=Go Ask Alice!|date=7 October 1994 (Last Updated/Reviewed on 26 March 2010)|accessdate=22 April 2010|url=https://goaskalice.columbia.edu/0195.html}}</ref>。{{仮リンク|尿道海綿体|en|urethral sponge|redirect=1}}が膣の「天井」に沿って走っており、膣を介してこれを刺激することが可能であるが、膣そのものには女性に快感やオーガズムを引き起こす機構は存在していないと考えられている<ref name=womenshealth.about.com/>。<!-- Negating clitoral legs, : 意味を取れず、出典にもないので割愛 -->膣に挿入された陰茎、指、[[張形]]などと接触するのは陰核の一部、尿道海綿体だけである。「陰核の尖端と、これもまた非常に敏感な部分である小陰唇とは、性交中には直接の刺激は受けない。」<ref name=womenshealth.about.com/> [[エルンスト・グレフェンベルグ|グレフェンベルグ]]・スポット、通称[[Gスポット]]は[[恥骨]]の背後にあり[[尿道]]を取り巻く小さな領域であり、膣壁の[[解剖学における方向の表現|前部]](腹側)から触れることができる。このスポットの大きさにはかなりの個人差があるようである。こうした膣の内側の刺激から得られるオーガズムは「膣の」オーガズムと呼ばれる。 1966年に、{{仮リンク|マスターズとジョンソン|en|Masters and Johnson}}は性的刺激の段階に関する極めて重要な研究を公刊した<ref name=M&J>{{Cite book|author=Masters, W.H., & Johnson, V.E.|title=Human Sexual Response|year=1970|publisher=Little, Brown and Company|location=Boston}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。この著作では男女の双方が扱われており、また先行する[[アルフレッド・キンゼイ]]のもの(1948、1953年)とは異なりオーガズム前後の[[生理学]]的な段階を決定しようと試みている。陰核と膣のオーガズムは同じ身体的な段階を持っているとされている<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=70}}</ref>。どちらの種類のオーガズムも陰核の刺激が主要な源になっていると夫妻は論じた<ref>{{cite web| title=Masters and Johnson | url=http://health.discovery.com/centers/sex/sexpedia/mandj.html | publisher=The Discovery Channel | accessdate=28 May 2006 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20060518002107/http://health.discovery.com/centers/sex/sexpedia/mandj.html <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 18 May 2006}}</ref>。陰核の大きさに関する近年の諸発見もまた、陰核の組織が膣の内部に大きく広がっていることを示している。この発見は陰核のオーガズムと膣のオーガズムが別のものであるとする従来の主張を無効化しうる可能性がある<ref name="O'Connell"/>。陰核と膣との繋がりは、陰核が女性のオーガズムの「源」<!-- seat -->であるという見解を補強するものである。今日では、大半の人々が「陰核」という言葉から思い浮かべる小さな目に見える部分よりも遥かに広く陰核の組織が広がっていることが明らかとなっている。これらの研究の中心的な研究者であるオーストラリアの[[泌尿器科学]]者ヘレン・オコネル<!-- /オ[ーゥ]?コー?ン?ネル/ -->は、膣による性交時の陰核の内部部分への刺激を考慮すると、この<!-- 陰核と膣との-->絡み合った関係がGスポットとされている部分<!-- conjectured G-Spot -->と膣オーガズム体験に対する生理学的な説明となると主張している<ref name="O'Connell"/>。「膣壁は、実のところ、陰核なのです。膣の側壁の表皮を取り除けてみれば、陰核の球状部分が現れます。三角の、三日月形<!-- the the bulbs of the clitoris—triangular, crescental masses of erectile tissue: 球状で三角で三日月形…? 要画像 -->をした勃起性の組織です。」とオコネルは説明する。陰核は亀頭部分だけなのではなく、「小さな丘」だというのである<ref name="O'Connell"/>。女性の一部は他の女性に比べより広範囲な陰核組織を持っている可能性があり、それゆえに多くの女性が陰核の外部部分への直接的な刺激によってのみオーガズムに達することが出来る一方で、性交を通じた陰核のより広範な繊維への刺激だけで充分にオーガズムを得られる女性もいるのだと考えられる<ref name="O'Connell"/>。 {{仮リンク|無オーガズム症|en|Anorgasmia}}は十二分な性的刺激を受けた後でもオーガズムに達するのが常に困難である状態であり、個人的な悩み<!-- personal distress -->の原因となる。これは男性よりも女性に遥かに一般的に見られる<ref>{{cite web|url=https://www.mayoclinic.org/diseases-conditions/anorgasmia/symptoms-causes/syc-20369422 |title=Mayo Clinic; Womans Health|publisher=Mayoclinic.com |date= |accessdate=2010-11-23}}</ref>。女性の約15%がオーガズムに達するのに困難があると報告しており、またアメリカ合衆国の女性の10%は絶頂に達したことがない<!-- 15%の方の母集団は? --> <ref name="Frank JE"/><ref>Giustozzi AA. Sexual dysfunction in women. In: Ferri FF. Ferri's Clinical Advisor 2010. St. Louis, Mo.: [[モスビー (出版社)|Mosby]]; 2009. [http://www.mdconsult.com/das/book/body/169332872-5/912912390/2088/600.html#4-u1.0-B978-0-323-05609-0..00028-9--s2040_12318.]</ref>。Sexualhealth.comのロバート・バーチ<!-- 信頼できる情報源? -->は「標本調査に基づく統計がしばしばそうであるように、女性のオーガズムに関する数字は誰が調査され、誰が報告を行ったかによって結果にばらつきがあります。しかしながら、女性の恐らくは15%ほどは一度もオーガズムを経験したことがなく、最大で10%ほどの女性は一人で自慰をする時にしかオーガズムに達することができないようです。」と述べている<ref name="www.sexualhealth.com"/>。{{仮リンク|ドリュー・ピンスキー|en|Drew Pinsky}}はこう述べている<!-- よく合衆国のテレビに出る学者らしい。とりあえず「ですます」で訳しましたが、どんな口調の人なのか確かめて調整したいところです。 -->―― {{Quotation|男性と女性では「配線」が違っていて、さらには女性同士でも互いに違った配線がされているのです。しばしば女性たちは、絶頂のある種の標準に達することができていないために自分に欠陥があるかのように感じるようです。男性たちは、女性を絶頂させる<!-- イかせる -->ために何が必要なのかについて概括的な理解しかしていない<!-- generalize 意訳 -->ためにさらに事態を悪化させています。男性たちはしばしば女性たちが皆同じであると信じていて、何かが1人の女性に対して上手く行ったと思うとその方法を親密になった他の女性全てに適用しようとし、これが大きな問題の1つとなっています。女性たちの50-60%は性交を通じてオーガズムに達したことがなく、絶頂に達するには陰核の刺激を必要とします。30%は性交を通じて安定してオーガズムを得ることができます。10%は性交でオーガズムに達し、さらに連続的なオーガズムも得られる場合があります。5%は真の複数回(マルチプル)のオーガズムを性交を通じてのみ得ることができ、この範疇に入る女性はオーラルセックスを心地良く感じないのが普通です<ref name="Big O"/>。}} <!-- TODO: 調査はなるべく孫引きでなく元の調査を出典とする。それが無理ならできるだけ信頼できる情報源を使用すること。sexualhealth.com出典の記述はできるだけ早くキンゼイやハイトの調査に置き換える。 --> <!-- ピンスキーと重複が多いのでコメントアウトしました。さらに再編を進めても良いと思います。 女性においては、大まかに言えば、多くの女性が陰核への刺激を必要とする<ref name="womenshealth.about.com" />とは言える。だがより詳細に見ると、15%ほどの女性は一度もオーガズムを経験したことがなく<ref name="www.sexualhealth.com" />、10%の女性は独りで[[マスターベーション]]している時にしかオーガズムに達しない<ref name="www.sexualhealth.com" />。女性の過半数が、男性と過ごしつつオーガズムに達しはすると言っても、<-- (それはべつに、自分の膣に男性の陰茎が入った形での性交のおかげというわけではなく) とまでは書いてないようです ->男性が自分の陰核を擦ったり舐めたりしている時、あるいはバイブレータを用いている時にしかオーガズムに達しないのである<ref name="www.sexualhealth.com" />。 膣での性交でオーガズムに達する女性は全体のおよそ35%にすぎず、これはつまり、65%の女性は膣に陰茎が入る性交だけではオーガズムに達することは無い、ということを意味している<ref name="www.sexualhealth.com" />。 (なお陰核への刺激の例としては、[[クンニリングス]]、オナニー、[[ペッティング]]全般、また[[バイブレータ (性具)|バイブレータ]]や{{仮リンク|性的な電気刺激|en|erotic electrostimulation}}などが挙げられる) --> 女性のオーガズムは平均して約20秒ほど続き<ref>{{Cite journal|last=Levin|first=Roy J.|coauthors=Gorm Wagner|title=Orgasm in women in the laboratory—quantitative studies on duration, intensity, latency, and vaginal blood flow|journal=Archives of Sexual Behavior|year=1985|page=439|volume=14|issue=5|doi=10.1007/BF01542004|url=http://www.springerlink.com/content/x7x308040h745x78/|accessdate=10 August 2010}}</ref>、膣、子宮、肛門を含む骨盤領域の筋肉の一連の収縮からなると推測されている。一部の女性では、当人がオーガズムが始まったと報告した直後にこれらの収縮が始まり、約1秒の間隔で、最初は徐々に強く、後には徐々に弱くなりながら継続することがある。規則的な収縮に続いて、不規則な間隔で数回の追加的な収縮もしくは震えが起こる場合もある。オーガズムに達したと報告するが、骨盤領域の収縮は全く観察されない場合もある<ref>{{Cite journal|last=Bohlen|first=Joseph G.|coauthors=James P. Held, Margaret Olwen Sanderson and Andrew Ahlgren|title=The female orgasm: Pelvic contractions|journal=Archives of Sexual Behavior|year=1982|page=367|volume=11|issue=5|doi=10.1007/BF01541570|url=http://www.springerlink.com/content/u2146228wwp46614/|accessdate=10 August 2010}}</ref>。 === 肛門の刺激 === どちらの性においても、[[アナルセックス]]などで見られるように、[[肛門]]周辺の神経末端および肛門自体から快感を得ることができる。男性は[[前立腺]]の刺激のみによってオーガズムを得ることが可能である<ref name="Www.goaskalice">{{cite web|title= The male hot spot — Massaging the prostate|publisher=Go Ask Alice!|date=27 September 2002 |accessdate=21 April 2010|url=https://goaskalice.columbia.edu//2246.html}}</ref>。前立腺は直腸に隣接しており<ref>The G Spot: And Other Discoveries About Human Sexuality by Alice Kahn Ladas, Beverly Whipple, and John D. Perry, pg 57.</ref>、女性のGスポットと関連していると考えられている[[スキーン腺]]の男性版の[[相同]]物である<ref name="www.newscientist.com">{{cite web|first=Nicola|last=Jones|title=Bigger is better when it comes to the G spot|publisher=[[ニュー・サイエンティスト|New Scientist]]|date=July 2002|accessdate=21 April 2010|url=https://www.newscientist.com/article/dn2495-bigger-is-better-when-it-comes-to-the-g-spot/?ignored=irrelevant}}</ref>。ジャック・モーリンは、「肛門オーガズム」は前立腺のオーガズムとしばしば混同されているが無関係のものであると主張している<ref>{{Cite book| author = Morin, Jack | title = Anal Pleasure and Health | edition = 3d | publisher = Down There Press | year = 1998 | isbn = 0-940208-20-2}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。陰核の「脚部」が陰唇に沿って肛門まで伸びているため、肛門の刺激は一部の女性にとっても快感を伴うものでありうる<ref name=WWw.goaskalice/>。 === 乳房と乳首の刺激 === 一部の女性は、性交や[[前戯]]の間に[[乳房]]を刺激されたり、さらにはただ乳房を愛撫されたりするだけで、穏やかなもしくは激しいオーガズムに達する。女性の乳房の刺激が引き金となるが、その他の点では通常の(骨盤領域の)オーガズムと同じであるため、これは「乳房オーガズム」(breast orgasm)と呼ばれている<!-- 日本語では何というのかな? --> <ref>{{Cite book|last=Levay|first=Simon|coauthors=Sharon McBride Valente|title=Human Sexuality, Second Edition|publisher = Sinauer Associates, Inc.|date=15 November 2005|isbn =9780878934652}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。女性の大半は乳房の刺激によりこの効果を体験することはない。213名の女性に質問した研究によると、そのうち29%が少なくとも一度は乳房のオーガズムを経験したことがあった<ref name="Otto"/>。オーガズムは部分的には、[[性的興奮]]の際に体内で生産される[[オキシトシン]]というホルモンにより引き起こされると考えられている。男性もしくは女性の[[乳首]]が刺激されて勃起するとオキシトシンが発生することが示されている<ref>{{Cite journal|author=Levin R, Meston C |title=Nipple/Breast stimulation and sexual arousal in young men and women |journal=The Journal of Sexual Medicine |volume=3 |issue=3 |pages=450–4 |year=2006 |month=May |pmid=16681470 |doi=10.1111/j.1743-6109.2006.00230.x}}</ref>。 === 自然発生 === オーガズムは、何ら直接的な刺激を受けることなく自然発生的に起こる<!-- seeming to: ように見える -->こともある。性的な夢の中でオーガズムが起きることも時折ある。{{仮リンク|ロビン・ベイカー|en|Dr Robin Baker}}によれば男性の80%が[[夢精]]を経験し<ref name="名前なし-3">{{Harvnb|ベイカー|2009|p=268}}</ref>、女性は20歳までに10%、生涯では40%が夢の中でのオーガズムを経験する<ref name="名前なし-3"/>。 <!-- 夢精以外には -->この種のオーガズムが初めて報告されたのは[[脊髄損傷]](SCI)を持つ人々であった。脊髄損傷はある種の感覚の喪失や自己知覚の変容をもたらすことが非常に多いが、[[性的興奮]]や性欲などといった性的感覚<!-- sexual feelings: 「性感」 -->が失われるわけではない。ゆえに、一部の人々は心的な刺激のみによってオーガズムを発動させることができるのである。 性的ではない活動によって自然発生的なオーガズムが引き起こされることもある。そのような活動の最良の例としては、サイクリングやエクササイズの際に自転車のサドルが性器と擦れる時のように[[骨盤底|骨盤筋群]]が締め付けられている時に意図せずに性器の軽い刺激を引き起こす緊張の解放が挙げられる。<!-- FIXME --> 一部の[[抗うつ薬]]が[[副作用]]として自然発生的な絶頂を引き起こすことがあることも発見されている<ref>{{cite web| title=The core of female orgasm | work=Human Sexuality – Orgasm | url=http://sexterms.virtualove.net/human-sexuality/female-orgasm.html | publisher=Sex Terms| accessdate = 2011-05-22}}</ref>。患者の大半がその事実を知らせたがらないため、抗うつ薬の投与を受けている患者のうちどのぐらいの数が自然発生的オーガズムを体験しているかの正確なデータはない。 === 不応期とマルチプル・オーガズム === 女性や、比較的稀ではあるが男性も<ref name=dunn>{{Cite journal|author=Dunn ME, Trost JE |title=Male multiple orgasms: a descriptive study |journal=Archives of Sexual Behavior |volume=18 |issue=5 |pages=377–87 |year=1989 |month=October |pmid=2818169 |doi=10.1007/BF01541970}}</ref>、[[射精後不応期]]がないかあっても非常に短く、最初のオーガズムを迎えたすぐ後に第2のオーガズムやさらに多くのオーガズムを経験する場合がある。最初のオーガズムに続く連続した絶頂は刺激が蓄積してゆくにつれさらに強烈もしくは快感の強いものになり得る。一部の女性は、絶頂に達した後では陰核と乳首が非常に敏感になるため、さらなる刺激は最初は苦痛ともなる。女性でもオーガズムが1回きりの人もいる。一度オーガズムに達するとクリトリスに触れるのも嫌になる、というタイプの人である。ペニスやクリトリスといった海綿体でのオーガズムでは、[[プロラクチン]](prolactin:乳腺刺激ホルモン)という物質が放出されることがあり、この血中濃度が高い間は、セックスに対する欲求が急速に減退すると言われている。 連続した複数回のオーガズムを、特に射精することなしに経験したと報告する男性たちもいる。射精しないオーガズム([[ドライオーガズム]])を経験した男性は、不応期が軽減されるためしばしば複数回のオーガズムを迎えることができる<ref name = "Janssen"/>。1回に数時間をかけて自慰を続け、数多くのオーガズムを達成できる男性たちもいる<ref name="Janssen">{{Cite book| author=Janssen, D.F. | title=Growing Up Sexually – The Sexual Curriculum |month=October | year=2002 | chapter=Volume II: The Sexual Curriculum: The Manufacture and Performance of Pre-Adult Sexualities. | chapterurl=http://www2.rz.hu-berlin.de/sexology/GESUND/ARCHIV/GUS/CHILDORG.HTM}}</ref>。そうした男性の中には、最初から複数回のオーガズムを得られていた人も、訓練によって習得した人もいる<ref name=dunn/>。近年では、複数回のオーガズムを達成するためのさまざまな技法を記した書籍も数多く出版されている。複数回のオーガズムを得られる男性たち(とそのパートナーたち)の大半は、射精をしないことでオーガズム後も通常より遥かに精力的でいられると報告している<ref>Havelock Ellis ''Studies in the Psychology of Sex, vol. vi, p. 552, F. A. Davis Co., 1910, [[Amazon Kindle|Kindle Edition]] ([[Amazon Kindle]]) 2008 ASIN: B0016PEMOS''</ref>。さらに、こうした男性たちは望むならば通常よりも強力な射精を伴うオーガズムも得ることが出来ると報告している。 射精直前に[[陰嚢]]と肛門のほぼ中間に位置する[[会陰]]を圧迫することで射精を防止するのが1つの方法である。しかしながらこれは[[精液]]が[[尿道]]を通って外部へと射出される代わりに[[膀胱]]へと流れ込む[[逆行性射精]]をもたらす可能性がある。また、長期間に亘り狭いサドルの自転車に乗り続けた男性の報告例と同様に、会陰の神経と血管を圧迫することにより長期的な損傷を引き起こす可能性もある<ref>{{cite web|url=https://www.cdc.gov/niosh/updates/upd-06-30-04-2.html | title=NIOSH Update:Bicycle Saddles Without Protruding Noses Reduce Pressure Associated With Erectile Dysfunction Measure | accessdate=2 April 2011 |date=30 June 2004 | last=Blosser | first=Fred | quote=In a 2002 NIOSH report, perineal pressure was associated with genital numbness in a group of bicycle-patrol police officers, and with a decrease in the amount of time that the officers had erections during sleep..}}</ref>。何らかの理由で前立腺もしくは膀胱の手術を受けた男性もまた逆行性射精のためにドライオーガズムを経験する場合がある。 複数回のオーガズムを迎えることのできる女性たちは、これを得るためにリラックスして「解放する」<!-- "let go" -->必要があることを報告しており、これと似たことを男性が行うのがもう1つの方法である。射精に伴う収縮や、先述のような強制的な抑制を行う代わりに、射精前の血管充血と<!--体液の-->送出を心身両面でコントロールするのである。こうした技法が成功すると、連続的もしくは複数回の「全身の」オーガズムをも得られる場合がある<ref>{{cite web|url=http://www.sexuality.org/l/sex/cmo.html | title=Continuous Male Orgasms | quote=Learn to enhance and maintain indefinitely the physiological events and associated pleasure of an absolutely imminent ejaculatory orgasm.| accessdate=2011-05-22}}</ref>。前立腺、精嚢、輸精管の指による穏やかな刺激により、激しい放出を伴うオーガズムが持続する性的快感を得ることのできる男性もいる。[[アネロス]]や[[エネマグラ]]など、前立腺の刺激を主目的とした[[性具]]も開発されている。 思春期より前に自慰もしくはその他の性的活動を始めた男性の中には射精を伴わない複数回のオーガズムを得られていたと報告する人も多い。思春期以前の男性のオーガズムは「通常の」女性のオーガズム体験と質的に類似したものであることを示す証拠がいくつかあり、このことは思春期におけるホルモンの変化が男性のオーガズムの特質に強い影響を及ぼしていることを窺わせる<ref>{{cite web|url=https://themarriagebed.com/pages/sexuality/splay/betterforhim.shtml | title=How to make sex better for him | accessdate=2 November 2006 | last=Byerly | first=Paul & Lori | quote=Boys who discover masturbation before puberty can't ejaculate, but they can have orgasms. They can also have multiple orgasms like women can, but then lose this ability when puberty adds ejaculation to their orgasms. 「思春期以前に自慰を発見した少年たちは射精することはできないが、オーガズムを得ることはできる。彼らはまた女性たちのように複数回のオーガズムを得ることもできるが、思春期になりオーガズムに射精が付け加えられるとこの能力は失われる。」}}</ref>。 多数の研究が、[[プロラクチン]]というホルモンが男性の不応期の原因と推測されるとしている。このため、{{仮リンク|カベルゴリン|en|cabergoline}}(製品名のカバサールやドスティネックスとしても知られる)のようなプロラクチンを抑制する薬品に実験的な関心が向けられている。カベルゴリンに関する事例報告は、この薬品が不応期を完全に取り除くことができ、男性たちに立て続けに射精を伴う複数回のオーガズムを経験させられることを示唆している。少なくとも1つの科学的研究もこうした主張を支持している<ref>{{Cite journal|author=Krüger TH, Haake P, Haverkamp J, ''et al.'' |title=Effects of acute prolactin manipulation on sexual drive and function in males |journal=The Journal of Endocrinology |volume=179 |issue=3 |pages=357–65 |year=2003 |month=December |pmid=14656205 |doi=10.1677/joe.0.1790357}}</ref>。カベルゴリンはホルモンに変化をきたす薬品であり、数多くの副作用を持つ可能性がある。性機能不全の治療のための使用は<!-- どこで? -->まだ承認されていない。不応期の原因としてもう1つ、[[オキシトシン]]というホルモンの放出増加も考えられる。さらに、オキシトシンの増加量は不応期の長さにも影響しているかもしれないと考えられている。 1995年には[[ラトガース大学]]で科学的研究が行われ、成人男性における自然な、完全に射精する、複数回のオーガズムの実証に成功している。この研究では、36分間に6回の完全に射精するオーガズムが、不応期と見られるものなしに得られた<ref>{{Cite journal| first=B. | last=Whipple | coauthors=B. Myers and B. Komisaruk | year=1998 | title=Male Multiple Ejaculatory Orgasms: A Case Study | journal=Journal of Sex Education and Therapy | volume=23 | issue=2 | pages=157–62}}</ref>。思春期が進行し成人期へと続く過程の中で不応期が軽減され、さらには完全になくなってしまう事例もあるようである。後には、P・ハーケらがプロラクチンの亢進反応なしに複数回のオーガズムに達した男性を観察している<ref>{{Cite journal|author=Haake P, Exton MS, Haverkamp J, ''et al.'' |title=Absence of orgasm-induced prolactin secretion in a healthy multi-orgasmic male subject |journal=International Journal of Impotence Research |volume=14 |issue=2 |pages=133–5 |year=2002 |month=April |pmid=11979330 |doi=10.1038/sj.ijir.3900823}}</ref>。 == 医学的側面 == === 生理的反応 === ==== 段階と周期 ==== マスターズとジョンソンは1960年代初頭に女性382人と男性312人の観察に基づき[[ヒトの性的反応周期|性的反応周期]]の先駆的な研究を行った。生殖器へと血液が急速に流れ込むにつれ興奮が起こる興奮期に始まり、生殖器が完全に興奮した状態が継続する高原期に達し、オーガズム(絶頂期)へと至り、最後には血液が生殖器から離れる後退期を迎えるという周期(サイクル)を示した<ref>{{Cite book| publisher = Little, Brown | id = {{ISBN2|0316549878|9780316549875}} | page = 366 | last = Masters | first = William H. | coauthors = Virginia E. Johnson, Reproductive Biology Research Foundation (U.S.) | title = Human Sexual Response | year = 1966}}</ref>。 1970年代には、{{仮リンク|ヘレン・シンガー・カプラン|en|Helen Singer Kaplan}}がこの周期に性欲を付け加え、性欲が性的興奮に先行するのであると主張した。カプランは、不安、防衛、意思疎通の失敗といった感情<!-- 的要素 -->が性欲を妨げ、従ってオーガズムも妨げることがあることを指摘している<ref>{{Cite journal|author=Kaplan HS |title=Hypoactive sexual desire |journal=Journal of Sex & Marital Therapy |volume=3 |issue=1 |pages=3–9 |year=1977 |pmid=864734}}</ref>。 1980年代後半以降、ローズマリー・バッソンは線形的な進行と大雑把に捉えられていたものにより循環的な代替案を提案している<ref>{{Cite news| first=Martin | last=Portner | coauthors= |authorlink= | title=The Orgasmic Mind: The Neurological Roots of Sexual Pleasure | date=15 May 2008 | url =https://www.scientificamerican.com/article/the-orgasmic-mind/ | work =Scientific American | pages = | accessdate = 16 July 2009 | language = }}</ref>。バッソンのモデルでは性欲が興奮とオーガズムの源となり<!-- feeds -->、今度は逆にオーガズム周期の他の部分から供給を受ける<!-- fueled by: 直接目的語がない。エネルギー的なものなのでしょうが… -->のである。オーガズムは性的経験の頂点なのではなく周期の単なる1つの点にしかすぎず、人間はどの段階においても性的な充足を覚え得るのであるとバッソンは述べ、全ての性的活動の最終目的・地点として絶頂に当てられてきた焦点を緩和している<!-- XXX 訳が固い --><ref>{{Cite journal|author=Basson R |title=The female sexual response: a different model |journal=Journal of Sex & Marital Therapy |volume=26 |issue=1 |pages=51–65 |year=2000 |pmid=10693116 |doi=10.1080/009262300278641}}</ref>。 ==== 男性 ==== 男性はオーガズムの際には肛門括約筋、前立腺、および陰茎の諸筋肉の急速でリズミカルな収縮を経験する<ref name="名前なし-1"/>。[[精子]]が[[精巣]]から[[精管]]を上り[[前立腺]]へと輸送され、[[精嚢]]からの分泌液と共に[[精液]]として知られる液体となる。前立腺は精液の構成要素の1つとなる分泌液を作り出す。括約筋と前立腺の収縮により、蓄えられた精液は陰茎の尿道口から体外へと送り出される。この過程には3-10秒かかり、快感を生み出す。 射精後には通常[[射精後不応期]]があり、その間は男性は再度オーガズムに達することはできない。不応期の続く時間は年齢やその他の個人的要因により1分未満から数時間までの幅がある<ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|p=749}}</ref>。 ===== 感覚 ===== 陰茎に刺激を受けオーガズムに近付くにつれ男性は、強烈で非常に快い、{{訳語疑問点範囲|神経と筋肉の|date=2011年5月|neuromuscular|cand_prefix=原文}}脈動する[[多幸感]]を感じる。これらの脈動は肛門括約筋から始まり[[陰茎亀頭|亀頭]]へと移動してゆく。オーガズムの接近と共にこれらは速度・強度を増してゆき、最後には数秒間持続する快感の「高原」、すなわちオーガズムへと至る。 オーガズムの間には、通常は精液が射出され、多幸感が徐々に消えていった後も数秒間は射精が続くこともある。「オーガズム」の正確な感覚は男性によって違いがあると考えられている<ref>{{cite news|url=http://findarticles.com/p/articles/mi_m2372/is_2_39/ai_91475118 |title=Do all orgasms feel alike? |accessdate=5 January 2007 | work=Journal of Sex Research | first=Kenneth | last=Mah | year=2002}}</ref>。 ==== 女性 ==== 典型的な女性のオーガズムは男性のものよりも遥かに長く続く<ref>{{Cite news| title = Women fall into 'trance' during orgasm | work = Mark Henderson | publisher = Times Online | date = 20 June 2005| url = https://www.thetimes.co.uk/tol/life_and_style/health/article535521.ece | accessdate = 7 March 2007 | location=London}}</ref>。オーガズムに先立ち、陰核の勃起と膣の開口部の湿潤が起きる。皮膚への[[血液|血流]]増加により身体の大部分が赤みを帯びる{{仮リンク|紅潮 (生理学)|en|Flushing (physiology)|label=性的紅潮}}を呈する女性もいる。女性がオーガズムに近付くと、[[陰核亀頭]]が内側へと動き[[陰核包皮]]の下へと隠れ、[[小陰唇]]が黒みを帯びる。オーガズムが間近に迫ると、膣の外側1/3が硬ばり狭窄し、膣全体は長く伸び、広がり、また充血した軟部組織により狭まる<ref>{{cite web| title = Anatomic and physiologic changes during female sexual response | work = Clinical Proceedings | publisher = Association of Reproductive Health Professionals | date = | url = http://www.arhp.org/healthcareproviders/cme/onlinecme/NYNCP/changes.cfm | accessdate = 1 February 2007 }}</ref>。マスターズとジョンソンはこの現象を「テント形成」({{lang-en-short|tenting}})と呼んでいる<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=84}}</ref> <!-- 「バルーン現象」?-->。膣以外では、乳首と{{仮リンク|疎性結合組織|en|Loose connective tissue|label=乳輪の複合組織}}の筋線維芽細胞が収縮して乳首の勃起と乳輪半径の縮小を引き起こし、これはオーガズムの開始時に最高潮となる<ref>{{cite journal|journal= Sexual & Relationship Therapy |volume= 21 |issue= 1 |pages= 237–249| url=https://www.ingentaconnect.com/content/routledg/csmt/2006/00000021/00000002/art00011 | title=The Breast/Nipple/Areola Complex and Human Sexuality | accessdate=2 April 2011 |date=2 May 2006 | publisher = Routledge | last=Levin | first=Roy | quote=Areola corrugation immediately after orgasm physically signals that orgasm has occurred}}</ref>。それから、[[子宮]]に3-15回ほどの筋収縮が起こる<ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|p=751}}</ref>。[[子宮]]、膣、肛門、[[骨盤]]に一連のリズミカルな収縮が起きる時、女性は十全なオーガズムを体験する。女性の大部分はこれらの収縮を非常に気持ち良く感じる。 <!-- ここまで細々とwebサイトの出典が付いていますが、結局どれもM&Jの受け売りのような。M&Jを基にしたものに作り直した方が良い? --> 近年<!-- WP:DATED : 脚注から判断するに「2008年」と書き換え可能? -->オランダの[[フローニンゲン大学]]医療センターの研究者たちは、オーガズムの感覚と、骨盤を中心とし肛門で計測される周波数8-13Hzで発生する筋肉の収縮との相関関係を示した。収縮のこの特有の周波数の存在により、これらの諸筋肉の随意の収縮と自然発生的な不随意の収縮とを区別することができ、これは興奮を計量するに過ぎない心拍数などのような他の測定基準よりも正確にオーガズムと相関していると彼らは論じている。「究極において主観的な経験であるところのオーガズムと強い相関を持つ客観的かつ定量的な尺度としては初めてのもの」を見出したと主張している。8-13Hzで発生する収縮の尺度はオーガズムに特有なのだという。この測定基準を用いることで休息、随意の筋収縮、さらには不首尾に終わったオーガズムの試みなどからオーガズムを区別することが出来ることを発見したのである<ref name = "Kortekaas 2008">{{Cite journal|author=van Netten JJ, Georgiadis JR, Nieuwenburg A, Kortekaas R |title=8–13 Hz fluctuations in rectal pressure are an objective marker of clitorally-induced orgasm in women |journal=Archives of Sexual Behavior |volume=37 |issue=2 |pages=279–85 |year=2008 |month=April |pmid=17186125 |doi=10.1007/s10508-006-9112-9}}</ref>。 === 脳 === 文化的な障壁と技術的な困難のため、オーガズムと脳の活動をリアルタイムで関連付ける研究はごく僅かしか行われてこなかった。しかしながら、フローニンゲン大学の[[:en:Gert Holstege|Gert Holstege]]{{訳語疑問点|date=2011年5月}}と同僚たちが率いた一連の研究は、脳の活動を含むオーガズムに特有の生理学的特徴および男女間での反応の違いを明らかにした。 <!-- その中の-->ある研究では、パートナーに愛撫されている最中の12人の健康な女性を[[ポジトロン断層法]](PET)でスキャンした。休息、性的刺激、演技のオーガズム、実際のオーガズムのそれぞれの状態における脳の変化が観察・比較された。男性と女性では刺激を受けている際の脳の変化に違いが認められた。しかしながら、行動調節、恐怖、不安と結び付いている脳の領域が停止するという男女共通の変化が観測された。こうした変化に関して、Holstegeは[[タイムズ|ロンドン・タイムス]]でのインタビューで「これは、あらゆる恐怖や不安を非活性化すること、忘れることがオーガズムを得るために最も重要で、必要条件でさえあるのかもしれないということを意味します。」と語っている<ref>{{Cite news| first=Mark | last=Henderson | coauthors= |authorlink= | title=Women fall into 'trance' during orgasm | date=20 June 2005 | url =https://www.thetimes.co.uk/tol/life_and_style/health/article535521.ece | work =Times Online | pages = | accessdate = 7 July 2009 | language = | location=London}}</ref>。 陰核を愛撫されているうちに、恐怖、不安、行動調節を処理する脳の部分がリラックスし活動を低下させ始める。これはオーガズムの時点で最も顕著となり、女性の感情中枢は実質上停止しほぼ昏睡に近い状態<!-- almost trans-like state: 「恍惚状態」では弱い? -->が生み出される。Holstegeは欧州人間生殖学会の2005年の会合においてこう語ったという――「オーガズムの瞬間には、女性はいかなる情動的感情も持っていない。」<ref>{{Cite news| first= Martin | last=Portner | coauthors= |authorlink= | title=The Orgasmic Mind: The Neurological Roots of Sexual Pleasure | date=15 May 2008 | url = https://www.scientificamerican.com/article/the-orgasmic-mind/ | work =Scientific American | pages = | accessdate = 7 July 2009 | language = }}</ref> 初期の諸報告では、男性のオーガズムが続く時間が女性のものより遥かに短いためPETスキャンにより男性のオーガズムの影響を観測するのは困難であると示唆していた。しかしながら、Rudie Kortekaas{{訳語疑問点|date=2011年5月}}らは「オーガズムの最中では両性の共通性が顕著であった……これらの結果から、性的行為における男女間の脳反応の違いは主に刺激段階(高原期)に関係するものであり、絶頂期そのものに関係するものではないと我々は結論する。」<ref name="Georgiadis"/> <!-- 日本語版の旧版にあった記述のうち、新版にない部分です。TODO: 検証の上で復帰を検討 オーガズム前後では性器以外の[[皮膚感覚]]や[[視覚]]・[[聴覚]]が鈍くなる。さらに、オーガズム中の[[脳]]はθ波と呼ばれる睡眠初期のときに出る[[脳波]]で充満した状態となり <ref>{{Harvnb|大島|2009|pp=185-186}}</ref><!- ←このrefはシータ波についてのみ ->、[[ドーパミン]]や[[セロトニン]]と言った脳内の快楽系神経伝達物質も活性化し、[[ドーパミン作動性ニューロン|A10神経]]も反応を強くする。また近年の近赤外光吸収を使った研究では、[[前頭葉]]の血流の著しい減少が見られる。 --> {{要出典範囲|脳の神経細胞は常に微弱な電気信号を出して体の部位に様々な指令を出している。これが「脳波」と呼ばれるもので、身体や精神の動きは脳の存在のおかげとも言われている。そして人間の一部の営みともなるオーガズムは脳に大きな負荷をかけている。サイエンスライターの石崎正浩氏の著作によると、セックスでオーガズムに達するときの脳波は1000マイクロボルトも電位を生じさせていると言う。これは正常時の100倍近い数値であり、このことから脳内の神経細胞はオーガズムの度に破壊され、IQも低下するリスクもある。逆に顕著な影響はないと主張する専門家もまたいる。 |date=2021年6月}} === 健康 === オーガズム、および実際には性行為全体は、数多くの重要な身体組織の努力<!-- exertion -->を必要としうる身体活動である。1997年に『イギリス医師会雑誌』に掲載された、45-59歳の男性918人を対象とした研究によると<ref>Sex and Death, Are They Related?{{要検証|title=need some more bibliographic info|date=November 2009}}</ref>、10年間の追跡調査で、週に2度以上のオーガズムを得ている男性はそうでない男性に比べ全ての死因で死亡率が半分であった。より明確に[[循環器]]の健康に焦点を合わせた2001年の追跡調査では、週に3度以上の性交を行う男性は[[心筋梗塞|心臓発作]]および[[脳梗塞]]のリスクが50%低かった。(一般に、[[相関関係と因果関係|相関関係は因果関係を意味しない]]ことに注意。) === 加齢 === 男性女性ともに、加齢するに従ってオーガズムに伴う紅潮、筋緊張、直腸の収縮などは衰え、陰茎や膣の収縮の回数も減少する。男性では通常、歳を取るにつれ、射精する精液の量や飛距離が減少し、射精後の不応期も長くなる<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=201-227}}</ref>。<!-- オーガズムもまた短くなる。このことは一般的には快感の強さには影響せず、ただ持続時間だけが短くなるのである{{要出典|date=2011年6月}}。 --> === オーガズム不全 === {{See also|不感症|射精障害}} <!-- TODO: この節は大幅な見直しが必要です: * オーガズム不全全体の話と女性のいわゆる「不感症」固有の話が混線した記述になっており、バランスも崩れています。 ** 少なくとも「オーガズムを得たことがない」「以前は得られていたのに得られなくなった」「(膣の)性交では得られない」の3種類の場合分けが必要なはずです。 ** 上述のフロイト的「膣オーガズム」が得られないことをAnorgasmiaだと思い込むケースについて加筆<ref>{{Harvnb|ドレント|2005|p=294}}</ref>。逆に男性がそれを「早漏のせい」と悩むケースも。 ** 男性のオーガズム障害(anhedonia、早漏、遅漏)を加筆。生理的/心理的/社会的側面に留意。 * 『世界大百科事典』と『日本大百科全書』とで言っていることがかなり違います。小項目百科事典1つだけを出典に記述をまとめるのは危険そうです。全体を医学書出典による記述で置き換えても良いかもしれません。 --> オーガズムを得ることができないことは「オーガズム不全<ref name="h_world_pedia">『世界大百科事典』1988「不感症」</ref>」、「{{仮リンク|無オーガズム症|en|Anorgasmia}}」<!-- 原文にはinorgasmiaもありますが、anorgasmiaとの訳し分けは困難 -->もしくは「射精{{仮リンク|無快感症|en|anhedonia}}」などと呼ばれる。男性が[[勃起]]と[[射精]]をするがオーガズムが得られない場合、その男性は{{仮リンク|性的無快感症|en|Sexual anhedonia|label=射精無快感症}}であるとされる。 「[[不感症]] sexual anesthesia」や(性欲自体のない)「冷感症」のような言葉は曖昧なため、今日では包括的に「性障害」「性機能不全」などと呼ばれている<ref>{{Harvnb|大島|2009|pp=181-182}}</ref><!-- 「性機能不全」の方は大島2009には出現しません。サドック2004で採用されている表記です。 -->。 女性のオーガズム不全の原因<!-- 「その原因」とありましたが、出典は「不感症」のみを扱っていましたので限定します -->の大半は前戯不足のような性的無知<ref name="Nipponica">{{Citation |last=白井|first=將文|year=1996 |date=1996-03-01 |title=日本大百科全書|contribution=不感症|place=東京|language= |publisher=小学館 |contribution-url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%8D%E6%84%9F%E7%97%87/ }}</ref>もしくは心理的な原因によるものがある<!-- 前戯不足が大半なら心理的原因が90%とはならない…定義が曖昧なために生じた矛盾?要チェック -->。より具体的には情緒不安、性交に対する嫌悪感や恐怖、(異性に興味が無く)同性愛であること、[[夫婦]]間の不和の問題などが挙げられる<ref name="h_world_pedia" />。少し異なったものとしては、過労(精神的な過労も、肉体的な過労も)が挙げられる<ref name="h_world_pedia" />。心理的な要因や過労といった要因があると、[[大脳皮質]]において[[ドーパミン]]系機構へ抑制がかかり、オーガズムが抑制されるのだと考えられている<ref name="h_world_pedia" />。 <!--オーガズムが求められている<!- のに得られない ->場合、無オーガズム症は主にリラックスできないこと、もしくは「解き放つ」ことができないことが原因であるとされる。-->これには振舞に対するプレッシャーや、パートナーの満足から切り離して快楽を追求することへのためらいが密接に関係しているようだ。しばしば女性はパートナーの快楽のことが気掛かりとなるあまり不安に陥り、これはオーガズムの遅延に対する焦りとなって現れる。この遅延は、オーガズムによる性的満足に到達できないことへの不満へと結び付き得る。精神分析家の[[ヴィルヘルム・ライヒ]]は1927年の著書『オーガズムの機能』において初めてオーガズムを精神衛生の中核的な概念に据え<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=382-385}}</ref>、完全なオーガズムを得る障害という観点から[[ノイローゼ]]を定義した{{要ページ番号|date=2011年5月}}<!-- ブラックリッジでは「ノイローゼを定義」とまでは書いてないので、別の出典か『オーガズムの機能』そのものが必要? -->。 心理的な原因によるオーガズム不全の治療を試みる場合は[[精神療法]]や[[心理療法]]が採用される<ref name="h_world_pedia" />。つまり[[カウンセリング]](セックス・カウンセリング)や[[セラピー]](セックス・セラピー)が有効となる<ref name="h_world_pedia" />と言われる<!--統計的なデータ、EBMデータが示されていないので、ただの医者の側の宣伝である可能性も否めないので、注意深く中立的に表現したほうがよい ←「心理的な原因が90%」という数字からして怪しいです…無知も心理的原因に含めればそうなるのかもしれませんが。 -->。上述のように、オーガズム不全の大半は心理的な要素によって起きているが、他にも、生理学的な要素も関与することはある。中枢神経の機能障害によって不感症が起きることがある<ref name="h_world_pedia" />。このケースならば、ドーパミン系の賦活薬や[[セロトニン]]系機構の抑制をもたらす薬剤が効く場合もある<ref name="h_world_pedia" />。 精神医学で用いられる薬物はほぼ全てが性への作用に関係し、男性の射精障害や女性のオーガズムの阻害・遅延を起こす可能性がある。例えば[[ベンラファキシン]]や[[選択的セロトニン再取り込み阻害薬|SSRI]]はセロトニン濃度を上昇させるため男女ともにオーガズムの達成を困難にする <ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|p=768}}</ref>。<!--例えば、オーガズムの遅延や未達は数多くの薬品で見られる一般的な副作用である{{要出典|date=2011年5月}}。: より詳しい記述があったので置き換えました。--> なお、特に同時にオーガズムを得ること<!-- 一緒にイクこと -->やそれと類似した営みに関して、多くの性科学者たちは、[[早漏]]の問題が<ref>{{cite web|url=http://www2.hu-berlin.de/sexology/IES/italy.html |title=The International Encyclopedia of Sexuality: Italy |publisher=hu-berlin.de |date=1999-01-01 |accessdate=2010-10-15}}</ref>、相互のオーガズムが性的<!-- intimate -->関係の目的や性的満足の印として過度に強調されていた20世紀初頭における科学的アプローチにより促された考え方に密接に関係していると主張している。 <!-- 一緒にいかないと十全なセックスではないという考え方が蔓延したが、それは正しくないということ。{{Harvnb|ドレント|2005|p=295}}にも出て来ます。 --> == タントラ・セックス == <!-- TODO: 「文化圏別に見たオーガズム観」と、現代的なタントラ解釈(neotantra)とを分離して再編。 最終的には文学・精神分析・エソロジーなどの記述などとも統合して「オーガズム観の変遷と文化」を通説したいところです。 --> [[ネオタントラ|タントラ・セックス]]は古代インド・[[ヒンドゥー教]]の性の実践における宗教的伝統<!-- の現代的アレンジ? -->である([[密教]]のタントラとは別のものである)。[[タントラ]]においては従来的(欧米的)<!-- traditional: 「西洋的」と言っても良い? -->な性への文化的アプローチとは異なり、オーガズムを性交の目的とは考えない。タントラ・セックスの実践者たちは、数多の体位や性技を用いオーガズム以前の状態に長時間留まり続けることで心身の長い恍惚を得ようとし、オーガズムはその1つの区切りに過ぎないと考える<ref>{{Harvnb|ローソン|pp=108-110}}</ref>。性のエネルギーはオーガズムではなく、至福の悟りへと進むために用いられる<ref>{{Harvnb|ローソン|p=42}}</ref>。 [[バグワン・シュリ・ラジニーシ]]のような現代のネオ・タントラ・セックスの唱道者たちは、こうしたアプローチによりオーガズムの感覚が意識的体験の全域へと広がってゆくと主張している<ref>{{Cite book| author = Rajneesh, Bhagwan Shree | title = Tantra, Spirituality, and Sex | year = 1983 | isbn = 0880506962 | publisher = Rajneesh Foundation Internat. | location = Rajneeshpuram, Or.}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref><ref>{{Cite book| author = Chia, Mantak & Abrams, Douglas | title = The Multi-Orgasmic Man | publisher = Harper San Francisco | year = 1996 | isbn = 0-06-251336-2}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。また、西洋文化が絶頂感のオーガズムという目的に焦点を合わせすぎで、性体験での他の時間において深い快楽を味わうことを妨げていると主張しており、これを取り除くことによってより豊かで、十全で、強力な<!-- 2人の -->つながりを得ることができると説いている<ref>{{Cite book| author = Douglas, N & Slinger, P | title = Sexual Secrets: The Alchemy of Ecstasy | publisher = Destiny Books | year = 1979 | isbn = 0892812664}}{{Page needed|date=August 2010}}</ref>。 == 文学におけるオーガズム == <!-- TODO: * 西洋以外の文学、および文学以外の文化領域(特に美術)についても加筆の余地があります。寄せ集めになってもいけないのでどう書くかは難しい部分もありますが。(ドイツ語版の出来が良いようです) * シェリーに偏りすぎ? * 紹介されている作家は全て男性です。女性によるオーガズム描写にも触れるべきです。現代文学だと逆にありすぎて困りますが、二次資料に基づいて定番中の定番を。 --> [[File:Carracci - Jupiter et Junon.jpeg|thumb|『[[ユーピテル]]と[[ユーノー]]』。[[アンニーバレ・カラッチ]]画]] 古代より、オーガズムは[[文学]]において幅広く表現され続けてきた。古典古代では、[[ギリシア文学]]や[[ラテン文学]]もこの主題に取り組んでいた。[[オウィディウス]]の『[[変身物語]]』は[[ユーピテル]]と[[ユーノー]]の交わした議論を再話している。ユーピテル曰く―― {{Quotation|男の快感は遥かに/味気なくつまらない、あなたがた女に較べれば。 <ref>[[オウィディウス]]『[[変身物語]]』 III, 320-21 (translated by Sir Samuel Garth, [[ジョン・ドライデン|John Dryden]], et al, 1717). [[ラテン語]]原文 "''maior vestra profecto est, / quam quae contingit maribus.''</ref>}} ユーノーはこの考えを拒絶する。両者は、女性として7年間を生き「[[愛]]を男女両方で知った者」[[テイレシアース]]に意見を求める<ref>''Met''. III, 323 (translated by A. S. Kline, 2000).</ref>。テイレシアースはユーピテルに同意して女の快感は男の10倍であると答えユーノーの怒りを買い、その場で盲目とされてしまった。ユーピテルはテイレシアースの痛手を和らげるため予言力と長寿を与えた<ref>''Met.'' III, 335.</ref>。『変身物語』以前にも、オウィディウスは『{{仮リンク|愛の技法|en|Ars Amatoria}}』において2人共に満たすことのできない性交を嫌悪すると宣言している<ref>{{pt icon}} ''Jornal de Letras, Artes e Ideias'', Ano XXV/Number 930. May 24 to June 6, 2006.</ref>。 [[ロマン主義]]と{{仮リンク|ホモエロティシズム|en|Homoeroticism}}の時代となってもオーガズムというテーマは描かれ続けた。「並外れた守備範囲と多彩さの翻訳者」と称された詩人[[パーシー・ビッシュ・シェリー]](1792–1822)<ref>Webb, 1976, p. 2.</ref>は『フランソワ・ラバイヤックとシャルロット・コルデーの祝婚歌と思われる断片』の中で「いかなる生もかのような死には及ばず」というフレーズを記し、これはオーガズムの[[メタファー|暗喩]]であると考えられており<ref name="Lauritsen">"[http://paganpressbooks.com/jpl/HHREV3.HTM Hellenism and Homoeroticism in Shelley and his Circle]", by John Lauritsen (2008). Consulted on December 10, 2009.</ref>、またこのフレーズの前には「吸ってくれ、吸ってくれ、僕は燃える、僕は燃える!」という明白に[[フェラチオ]]を仄めかした詩行<!-- a rhythmic urgency of the previous lines: 「先行する詩行のリズム的な緊迫」略 -->がある<ref name="Lauritsen" />。シェリーにとってオーガズムは「並外れた魅力を持つ人と共にいながら放置された状態でいることによるほとんど不本意な結果」であった<!-- "the almost involuntary consequences of a state of abandonment in the society of a person of surpassing attractions." 難解ですが、古代ギリシアの同性愛の文脈で、肛門性交などは行わずただ抱き合ったりそばにいたりするだけ、といったことのようです。 --> <ref>Plato, 2001.</ref>。シェリーの生涯最後の恋の相手であった{{仮リンク|エドワード・エラーカー・ウィリアムズ|en|Edward Ellerker Williams}}のことが『セルキオ川の小舟』<!-- The Boat on the Serchio -->で回想されており、これは恐らく「文学における最も偉大なオーガズム描写」であろうと見なされている<ref name="Lauritsen" />{{要検証|date=2011年5月|title=シェリー研究家による出典1つだけで「文学における最も偉大なオーガズム描写」というのは不安です。}}。 {| style="text-align: left; margin:0 auto" |- | The [[:it:Serchio|Serchio]], twisting forth |セルキオ川は曲がりくねりつつ進む |- |Between the marble barriers which it clove |大理石の両岸をかき分けながら |- | At [[:it:Ripafratta|Ripafratta]], leads through the dread chasm |リパフラッタにて、恐ろしい深淵を貫いて |- |The wave that died the death which lovers love, |恋人たちが愛する死を死んだ波は進む、 |- | Living in what it sought; as if this spasm |求めるものの中に生きながら――この痙攣が |- |Had not yet passed, the toppling mountains cling, |未だ過ぎ去らぬかのように、ぐらつく山々はしがみつくが、 |- | But the clear stream in full enthusiasm |澄んだ流れは熱狂に満ちて |- |Pours itself on the plain.... |平野へと自らを注ぎ込む…… |} <!-- FIXME: ひどい訳! --> シェリーはこの[[詩]]においてもまた「恋人たちが愛する死」として[[死]]とオーガズムを結び付けている<ref name="Lauritsen" />。興味深いことに、[[フランス文学]]においては{{仮リンク|小さな死|en|la petite mort}}<!-- 仏語版は[[:fr:Orgasme]]へのリダイレクト -->({{lang-fr-short|la petite mort}})はオーガズムの有名な[[婉曲法|婉曲表現]]となっている<ref>{{Cite journal|author=Georgiadis J, Kortekaas R, Kuipers R, Nieuwenburg A, Pruim J, Reinders A, Holstege G |title=Regional cerebral blood flow changes associated with clitorally induced orgasm in healthy women |journal=Eur J Neurosci |volume=24 |issue=11 |pages=3305–16 |year=2006 |pmid=17156391 |doi=10.1111/j.1460-9568.2006.05206.x}}</ref>――これは人<!-- man -->がオーガズムの間は自身のことも世界のことも忘れ去っていることを表しているのである。アルゼンチンの作家[[ホルヘ・ルイス・ボルヘス]]もまた同じ発想<!-- vision -->から、「[[トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス]]」に付けた[[脚注]]において、トレーンの教会の中の1つが[[プラトニズム|観念的]]には「全ての男は、性交時の眩暈のする瞬間には1人の同じ男なのである。[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の詩の1行を暗唱する者は全てウィリアム・シェイクスピアなのだ。」と主張していると書いた<ref>Borges, ''Ficciones'', p.28</ref>。シェイクスピアその人もこの考え方には親しかった――「私はあなたの心の中に生き、あなたの膝の上で死に、あなたの瞳の中に葬られましょう」「私は勇敢に死んで行こう、気取った花婿のように」と、『[[空騒ぎ]]』のベネディックおよび『[[リア王]]』のリア王に繰り返し語らせており<ref>''MUCH ADO'', v ii 99–101. & ''Lear'', iv vi 201.</ref>、女性の膝で死ぬというくだりは性的なオーガズムを含意すると解釈されている<ref>Partridge, 2001, p.118.</ref>。 [[精神分析学]]者の[[ジークムント・フロイト]]は『{{仮リンク|自我とエス|de|Das Ich und das Es}}』(1923)<!-- [[:en:The Ego and the Id]] -->において、オーガズムによる性的満足は[[エロース]](生の本能)を使い果たし[[タナトス]](死の本能)へと場を譲るのではないか、換言すればオーガズムによりエロースはその任務を終えタナトスに取って代わられるのではないかとしている<ref>See [[ジークムント・フロイト|Freud, Sigmund]]. "The Ego and the Id". The Hogarth Press Ltd. London, 1949. Quoted by ''Vida Íntima: Enciclopédia do Amor e do Sexo'', Abril Cultural, Vol. 1, 1981, [[サンパウロ|São Paulo]], Brazil, p. 66-67.</ref>。現代作家たちは隠喩なしでオーガズムを表現することを選んでいる。例えば[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス]]の小説『[[チャタレイ夫人の恋人]]』(1928)に、カップルの性行為のあからさまな語りを見出すことができる――「彼が動きはじめると、彼女の中で突然でどうすることもできないオーガズムが目覚め奇妙な戦慄が彼女の内側で波紋となって広がっていった……」<ref>[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|D. H. Lawrence]], New York: Grove Press, 1969, cited by BANKER-RISHKIN; GRANDINETTI, 1997, p.141</ref>。 == 生物学などにおけるオーガズムの機能を巡る諸仮説 == <!-- TODO: * 男性のオーガズムについて加筆。現状は女性に偏りすぎています。 * 古代以降のオーガズムの諸説について順を追って記述すること。懐胎に女性のオーガズムが必要と考えたヒポクラテスの説が18世紀までは支配的であったことなど。 * 動物の行動の観察とそこからなされる人間のオーガズムの洞察を見て取りやすい記述に再編。「人間以外の動物」節とも有機的に繋げられればベスト。 --> 男性のオーガズムと射精が受胎に必要である一方<ref>{{Harvnb|ベイカー|2009|p=258}}</ref>、1770年代に[[ラザロ・スパランツァーニ]]が犬の[[人工授精]]に成功するなどして、受胎に女性のオーガズムは必要とされないことが知られるようになって以降<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|p=371}}</ref>、女性の性的快感には生殖上の役割はないと考えられてきたが<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=90}}</ref><ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|p=409}}</ref><ref>{{Harvnb|ベイカー|2009|p=259}}</ref>、生殖過程における女性のオーガズムの役割に関するさまざまな仮説が進化生物学らなどにより提唱されている。 === つがい形成と性淘汰 === <!-- TODO: つがい形成について加筆――生殖「以外」のコミュニケーション的要素の重要性を知らしめた歴史的意義が大きいので。モリスなどを直接引くだけでなく、重要性を担保するためミュッシャンブレなどの二次資料を用いること。 --> 1967年には[[デズモンド・モリス]]がポピュラーサイエンスの著書『裸のサル』において初めて、「女性のオーガズムは男性パートナーとの肉体的な親密さを促進し、つがいの結び付きを強めるために進化したのではないか」と示唆した<ref>{{Harvnb|モリス|1999|p=86}}</ref>。「男性に比べ女性がオーガズムに達するのが比較的難しいこと<!-- p.61 -->で女性は、他の霊長類の配偶者選択において見られるような身体の大きさや攻撃性ではなく、忍耐力、気配り、想像力、知性といった特質を持つ男性を選択するように導かれ、ダーウィン的進化において有利となるのであろう」とモリスは推測・主張した<!-- 『裸のサル』第2章の要約としてはやや大胆かもしれません。 -->。<!--「{{要出典範囲|男女のオーガズムの差異に導かれ、そのような有利な諸特質が種の中で強められていったのである|date=2011-6}}」。「{{要出典範囲|もし男性たちが女性たちと同じようにしてオーガズムにより動機付けられ耽るようになっていたならば、利己心だけで充分であったろうからそうした有利な特質は不要となっていたであろう。|date=2011-6}}」--> === 繁殖力 === モリスはまた「オーガズムが、女性を消耗させ横たわったままにさせることによって精液が漏出してしまうことを防ぎ、受胎を容易にもしている」と主張した<ref>{{Harvnb|モリス|1999|pp=86-87}}</ref>。これは「斧仮説」もしくは「ノックアウト仮説」とも呼ばれるが、今日では極めて疑わしいと考えられている{{要出典|date=2011年5月}}。 他の諸理論は女性のオーガズムが繁殖力を高めるのであろうという考えに基づいている。古代ギリシアの哲学者[[アリストテレス]]は、オーガズム中の子宮頸部が吸角のように働き精液を吸い寄せて受胎を助けるのではないかと書いた<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=368-369,393}}</ref><!-- TODO: アリストテレスの原典を探す -->。イギリスの生物学者ベイカーとベリスは女性のオーガズムが[[食道]]が食物を嚥下する能力を上下逆にしたような「吸い上げる」動きをし、望ましい精液を保持し受胎の可能性を高めるのではないか、と示唆した<ref>{{Cite journal|doi=10.1006/anbe.1993.1272 |author=Baker, R. R., and Bellis, M. A. |year=1993 |title=Human sperm competition: Ejaculate manipulation by females and a function for the female orgasm |journal=Animal Behavior |volume=46 |issue=5 |pages=887–909}}</ref>。ベイカーらは女性のオーガズムが{{仮リンク|精子競争|en|sperm competition}}において役割を持つのではないか、と推測した。1994年に[[ザ・ラーニング・チャンネル]]で放送された性に関するドキュメンタリー番組<!-- 微妙ですが、監修がモリスなので一応は情報源になるとして残しておきます -->では、性交中の女性の膣の中に光ファイバーカメラを挿入し撮影を行った。彼女がオーガズムを迎えると、[[骨盤底|骨盤筋群]]が収縮して[[ポルチオ|子宮膣部]]が反復的に[[膣円蓋]]内に溜った精液へと浸り、あたかも精子が{{仮リンク|外子宮口|en|external orifice of the uterus}}へと確実に進むようにし受胎の可能性を高めようとするかのような動きを見せた<ref>{{cite video | people=[[デズモンド・モリス|Desmond Morris]] (host) |date=1994 | title=The Human Animal | medium=TV | publisher=The Learning Channel}}</ref>。{{仮リンク|エリザベス・ロイド|en|Elisabeth Lloyd}}はこのシーンで流されたナレーションがこれを「精子の吸い上げ」の例であるとしたことを批判し、これは{{仮リンク|子宮オーガズム|en|uterine orgasm}}での通常の収縮に過ぎず、繁殖力へのどのような効果も示されてはいない、とした<ref>{{cite web|url=http://mypage.iu.edu/%7Eealloyd/Reviews.html#IHaveSeenVideo |title=Reviews |publisher=Mypage.iu.edu |date= |accessdate=2010-10-15}}</ref>。マスターズとジョンソンもX線撮影による調査に基づき否定的な見解を示している<ref name="MJ-notpump">{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=120-122}}</ref>。 また例えば、オーガズムにより骨盤筋肉の収縮により陰茎を締め付けることで男性のオーガズムと射精を引き起こすとも考えられる<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|p=416}}</ref>。 <!-- TODO:「ザ・ラーニング・チャンネル」でなくともこれに関する記述はいくらでもあるので、情報源の置き換えを検討(ただし反論の方も貴重なのでどうまとめるかは思案のしどころです) --> [[排卵]]中には比較的オーガズムに達しやすい傾向があるという観察は、オーガズムが繁殖力の増強に結び付いていることを示唆している<ref>{{Cite news| first=David | last=Adam | url=https://www.theguardian.com/science/2005/jun/08/genetics.research | date=8 June 2005 | title=Female orgasm all in the genes | work=The Guardian | accessdate=28 May 2006 | location=London}}</ref>という。 <!--他の生物学者たち{{誰|date=2011年5月}}は、オーガズムは単純に性交の動機付けとなり、生殖率を高め、それにより進化の過程で選択されてきたのであろうと憶測している。--><!--「典型的には男性の方が女性より早くオーガズムに達し、このことは女性がより頻繁に性交を行おうとする欲望を促すのかもしれず、それにより受胎の可能性が増すのである{{要出典|date=2011年5月}}」という{{誰|date=2011-6}}{{いつ|date=2011-6}}。--><!-- TODO: 要復帰 --> === 精子の選択 === <!-- {{main|精子競争}} TODO: ベイカーの説の詳しい説明は[[精子競争]]でやる --> [[進化生物学]]者の{{仮リンク|ロビン・ベイカー|en|Dr Robin Baker}}は『{{仮リンク|精子戦争|en|Sperm Wars}}』において、オーガズムの発生とタイミングは全て、進化的により適した男性の精子を受け取り保持するための女性の身体の無意識的な戦略の一部をなすのであると論じている。子宮頸部は精子と病原体に対する自然のフィルタとなっており<ref>{{Harvnb|ベイカー|2009|pp=40-44}}</ref>、性交時のオーガズムはこれを回避させるためのボタンとして機能し、性交前の<!-- an orgasm before -->オーガズムは逆にフィルタを強化するというのである<ref>{{Harvnb|ベイカー|2009|pp=254-312}}</ref><!-- ページ範囲が広過ぎですが、分散して書かれていて切り出しにくいので -->。 ただしその論拠となる子宮頸部による精液の「吸い上げ」についてはマスターズとジョンソンは否定的な見解を示しており<ref name="MJ-notpump" />、性科学者のイェルト・ドレントも「内容には多少の疑いをもってかかるべきだろう」としている<ref>{{Harvnb|ドレント|2005|pp=261-265}}</ref>。 === 痕跡説 === [[陰毛|陰]]核は陰茎と[[相同]]である――両者は共に同じ胎児構造から発達するのである<ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|p=62}}</ref>。[[スティーヴン・ジェイ・グールド]]やその他の研究者たちは陰核が女性における[[痕跡器官 (生物)|痕跡器官]]であり、女性のオーガズムには進化上の機能は特に有していないと主張している。{{仮リンク|エリザベス・ロイド|en|Elisabeth Lloyd}}のようなこの仮説の主唱者たちは、膣での性交を通じて女性がオーガズムに達するのが比較的困難であること、オーガズムの後では受精率が増大することの証拠が乏しいこと、女性がオーガズムに到達できる能力とその女性が性交を行う可能性との間には統計的な[[相関]]が見られないことなどを指摘している<ref>{{cite web|url=http://mypage.iu.edu/%7Eealloyd/Reviews.html#IsntItObviousThat |title=Reviews |publisher=Mypage.iu.edu |date= |accessdate=2010-10-15}}</ref>。 科学ライターの{{仮リンク|ナタリー・アンジェ|en|Natalie Angier}}は、この仮説が女性のオーガズムの心理社会的な価値を過小評価していると批判している。キャサリン・ブラックリッジは著書『ヴァギナ:女性器の文化史』においてオーガズムと受胎の成功との間に結び付きがある可能性を示す研究を引用している。ブラックリッジは「女性のオーガズムは痕跡的なもの」とする仮説が、受胎の成功の結果としてもたらされ続けている進化的な利点を無視していると批判している{{要ページ番号|date=2011年5月}}。[[人類学]]者・[[霊長類学]]者である[[サラ・ブラファー・ハーディ]]もまた女性のオーガズムが痕跡的なものであるとする議論を批判し、そのような考え方には[[性差別]]の気配があると書いている<ref>{{cite web| url=http://arlindo-correia.com/241005.html |author=Christopher Shea| title=Orgasmic science| work=[[ボストン・グローブ|The Boston Globe]]| date=24 April 2005| accessdate=2011-05-22}}</ref>。 === 個人差の遺伝的基礎 === <!-- これは実証的な研究のようなので仮説とは少し違いますが --> 2005年に行われた{{仮リンク|双生児研究|en|twin study}}は女性の3人に1人は性交(膣に陰茎が入る行為)中にオーガズムに達したことがない、あるいはほとんど達することがなく、性交で常にオーガズムに達するのは10人に1人にしか過ぎないことを明らかにした。一般に心理社会的なものであると考えられている、オーガズムに達する能力のこの個人差は、34-45%が遺伝的なものであると明らかになった。4000人の女性を調査したこの研究は[[王立協会]]の学術誌『{{仮リンク|バイオロジー・レターズ|en|Biology Letters}}』で公表された<ref>{{Cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/4616899.stm | title=Female orgasm is 'down to genes' | publisher=BBC | date=7 June 2005 | accessdate=28 May 2006}}</ref><ref>{{cite press release | publisher=Primary Care Sciences Research Centre, Keele University | date=7 June 2005 | url=https://www.eurekalert.org/pub_releases/2005-06/rs-sir060605.php | title=Genetic influences on variation in female orgasmic function: a twin study by Dr KM Dunn, Dr LF Cherkas and Prof TD Spector | accessdate=28 May 2006}}</ref>。エリザベス・ロイドはこれを女性のオーガズムが[[適応 (生物学)|適応]]的なものではないことの証拠として引用している<ref>{{cite web|url=http://mypage.iu.edu/%7Eealloyd/Reviews.html#IReadRecentlyThat |title=Reviews |publisher=Mypage.iu.edu |date= |accessdate=2010-10-15}}</ref>。 == ヒト以外の動物 == {{See also|動物の性行動}} {{節スタブ|date=2011年5月}} 霊長類では雌雄ともに関係部位の素早くリズミカルで強力な収縮が見られ、メスでは交尾中や自慰中に膣の充血、陰核の勃起、全身の筋肉の緊張、心拍数の増加、体毛の起立などが同時に観察される。霊長類の他でもネズミやウシなど数多くの動物がオーガズム様の反射を示す<ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=406-407}}</ref>。 オスのオーガズムの機序は哺乳類の大半でも同様である<!-- オーガズムと射精を混同していないか? -->。一部の哺乳類および、哺乳類以外でもアメリカワニ<ref>{{cite web|url=http://www.crocodilian.com/crocfaq/faq-8.html |title=Crocodilian Captive Care FAQ (Caiman, Alligator, Crocodile) |publisher=Crocodilian.com |date=1996-03-05 |accessdate=2010-10-15}}</ref> などには陰核がある。 [[生殖]]以外の理由で性交を行っているように思われる種である[[イルカ]]の性とオーガズムに関する研究も行われている<ref>National Geographic's ''Dolphins: The wild side'' documentary (1999), [https://www.imdb.com/title/tt0386415/ IMDb].「性交はカジュアルかつ頻繁に行われ、絆を強め維持する社会的な道具となっている。しかしこうした調和の裏にはイルカの暗い側面も隠れている。強いオスの集団は若かったり小さかったりする他のイルカをいじめるのである。」 [https://www.nationalgeographic.com/tv/press/990202.html National Geographic website]より([https://web.archive.org/web/20090221164719/http://www.nationalgeographic.com/tv/press/990202.html アーカイブ])</ref>。 <!-- イルカのメスの同性愛的行動についてはブラックリッジ p.409にも記述あり。「オーガズム」と直接結び付けて記載するには難しい内容ですが。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == <!-- FIXME: 男性のオーガズムを中心に扱った文献が用いられていません。 --> * BANKER-RISKIN, Anita; GRANDINETTI, Deborah (1997). ''Simultaneous Orgasm: And Other Joys of Sexual Intimacy''. Hunter House. {{ISBN2|0-89793-221-8|978-0-89793-221-9}}. * PARTRIDGE, Eric (2001). ''Shakespeare's bawdy: Classics Series Routledge classics''. 2nd ed., Routledge. {{ISBN2|0-415-25400-0|9780415254007}}. * [[プラトン|Plato]] (2001). ''The Banquet''. (P.B. Shelley, Trans., J. Lauritsen, Ed., Foreword). Provincetown, MA: Pagan Press. * WEBB, Timothy (1976). ''The violet in the crucible: Shelley and translation'', 1976. Oxford: Clarendon Press. * {{Citation |last=マスターズ |first=ウィリアム・H |last2=ジョンソン |author=ヴァージニア・E |year=1980 |date=1980-06 |title=人間の性反応 |place=東京 |language= |publisher=池田書店 |isbn= }} *: 原書は1970年。謝国権、ロバート・Y・竜岡訳、396ページ。イギリスの女性382人と男性312人を対象に性反応の臨床的調査を行った古典的研究。 * {{Citation |editor-last=J.サドック |editor-first=ベンジャミン |editor2-last=A.サドック |editor2-first=バージニア |year=2004 |date=2004-10 |title=カプラン臨床精神医学テキスト |edition=2 |place=東京 |language= |publisher=メディカル・サイエンス・インターナショナル |isbn=4-89592-384-3 }} *: 1525ページ。[[精神障害の診断と統計マニュアル|DSM-IV-TR]]に基づく大部の教科書。第21章「人間の性」にオーガズムとその不全の医学的な記述。<!-- 記事中に登場するヘレン・シンガー・カプランとは無関係 --> * {{Citation |last=ドレント |first=イェルト |year=2005 |date=2005-05-30 |title=ヴァギナの文化史 |place=東京 |language= |publisher=作品社 |isbn=978-4-87893-689-0 }} *: 塩崎香織訳、522ページ。医学的・社会的見地から見た女性器と女性のセクシュアリティの歴史に厚い。記述の情報源が明記されており、信頼性が高く使いやすい。著者はオランダ性科学者協会代表。 * {{Citation |last=ブラックリッジ |first=キャサリン |year=2005 |date=2005-12-30 |title=ヴァギナ 女性器の文化史 |place=東京 |language= |publisher=河出書房新社 |isbn=4-309-20453-8 }} *: 藤田真利子訳、442ページ。幅広いテーマを扱っているが、生物学的な関心が強め。第7章「オーガズムの働き」(pp.363-426)がオーガズムに割かれている。<!-- 既存研究の紹介をしている部分と、著者の主張や願望が強く出た部分が混在するので情報源としては取り扱いに注意が必要かもしれません。--> * {{Citation |last=モリス |first=デズモンド |author-link=デズモンド・モリス |year=1999 |date=20 |title=裸のサル |series=角川文庫 |place=東京 |language= |publisher=角川書店 |isbn=4-04-325901-8 }} *: 原書は1967年刊。日高敏隆訳、292ページ。[[性革命]]の時代に書かれた、動物行動学者の視点からの人間論。第2章「セックス」(pp.56-114)でヒトの性行動を論じている。第2章の参考文献として『人間の性行動』『キンゼイ報告』が使用されている。 * {{Citation |last=ベイカー |first=ロビン <!-- |author-link=ロビン・ベイカー --> |year=2009 |date=2009-12-20 |title=精子戦争 性行動の謎を解く |place=東京 |language= |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4-309-46328-5 }} *: 原書は1996年刊。秋川百合訳、451ページ。約4000人のイギリス女性からの聞き取り調査と約100組のカップルから採取した精液の調査を基に、[[精子競争]]の観点から人間の性行動を解釈。第8章が「オーガズム」。 * {{Citation |last=ローソン |first=フィリップ |year=2000 |date=2000-07-26 |title=タントラの世界 |place=東京 |language= |publisher=[[青土社]] |isbn=978-4-7917-5829-6 }} *: 本園正興訳、266ページ。ヒンドゥー教タントラの一般向け概説書。 * {{Citation |last=大島 |first=清 |author-link=大島清 (性科学者) |year=2009 |date=2009-09-20 |title=大脳生理学が明かす「女と男のカラダ」 ヒトの快感を操る脳の不思議 |place=東京 |language= |publisher=[[二見書房]] |isbn=978-4-576-09117-4 }} *: 276ページ。1993年刊行のものの改装改訂新版。性科学者による一般向け書籍。<!-- 一定の信頼はできそうですが、通俗書なので情報源がほとんど示されておらず、取り扱いには注意が必要です。 --> <!-- 脚注用パレット <ref>{{Harvnb|マスターズ|ジョンソン|1980|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|J.サドック|A.サドック|2004|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|ブラックリッジ|2005|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|ドレント|2005|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|モリス|1999|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|ベイカー|2009|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|大島|2009|pp=}}</ref> <ref>{{Harvnb|ミュッシャンブレ|2006|pp=}}</ref> --> == 関連文献 == <!-- {{Expand further}} --> <!-- TODO: キンゼイ報告、ハイト・リポート、モア・リポートの3調査は孫引きでなく直接使用すべきです。 --> * Gabriele Froböse, Rolf Froböse, Michael Gross (Translator): ''Lust and Love: Is it more than Chemistry?'' Publisher: Royal Society of Chemistry, ISBN 0-85404-867-7, (2006). * Komisaruk, Barry R.; Beyer-Flores, Carlos; Whipple, Beverly. ''The Science of Orgasm''. Baltimore, MD; London: The Johns Hopkins University Press, 2006 (hardcover, ISBN 0-8018-8490-X).<!-- 邦訳に期待 --> * 『オルガスムの歴史』 ロベール・ミュッシャンブレ(Muchembled, Robert)著 ; 山本規雄訳. -- 作品社, 2006.8 ISBN 4861820960<!-- 「参考文献」とされていましたが実際に使用された形跡はありませんでしたので関連文献としておきます。原題は『オルガスムと西洋』(L'orgasme et l'Occident)で、オーガズムというより西洋におけるセクシュアリティの歴史の本です。西洋におけるオーガズム観の変遷を辿るという観点からは貴重な文献なので、ぜひ用いて加筆してください(その際には「参考文献」節に移してください)。 --> == 関連項目 == <!-- 際限がなく、また{{性}}もあるので関連項目は最低限でお願いします。 --> * [[性行為]] * [[ドライオーガズム]] == 外部リンク == * [https://www.verywellhealth.com/male-orgasm-information-2329076 Men's Health: Male Orgasm] * [https://www.christianitytoday.com/mp/2001/004/3.36.html What Every Woman Needs to Know About Sexual Satisfaction] * [https://www.netdoctor.co.uk/healthy-living/sex-life/a12008/how-to-help-your-female-partner-have-orgasms/ Net Doctor: Female Orgasm] * [https://books.google.co.jp/books?id=7rfLcoQ2koQC&dq=&pg=PP1&ots=wVP5clVxss&sig=cRJ8rsavVqgSAoVHcOvwCmANfq4&prev=http://www.google.com/search%3Fhl%3Den%26q%3D%2522The%2BScience%2Bof%2BOrgasm%2522%2BWhipple%26btnG%3DSearch&sa=X&oi=print&ct=title&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false The Science of Orgasm, by Barry R. Komisarak, Carlos Beyer-Flores, & Beverly Whipple] {{性}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:おおかすむ}} [[Category:性行為]] [[Category:性感]] [[Category:快感]]
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アウトソーシング
アウトソーシング(英語: outsourcing)あるいは外部委託とは、従来は組織内部で行っていた、または新規に必要なビジネスプロセスについて、それを独立した、専門性の高い別の企業等の外部組織(子会社や協力会社、業務請負・人材派遣会社など)に委託して、労働サービスとして購入する契約である。対義語は「インソーシング(内製化)」。 アウトソーシングには、国内・国外の両方が含まれ、後者はオフショアリングとして「企業があるビジネスの機能を選択して国外に移転すること」とされている。 類義語に業務委託、業務請負、外注、外製がある。なお、国立国語研究所の「「外来語」言い換え提案」では、「外部委託」と言い換えるように主張している。 民法上は、請負や委任(準委任)の契約を指し、この二つを総称して一般に業務委託契約(法律用語ではない)という。 この語は外部を意味する「アウト」と、資源利用を意味する「ソーシング」で構成された和製英語であり、字義としては「外部資源利用」または「外部資源の有効活用」である。本来としては単なる「仕事を外に出すこと」よりも「外部の資源やサービスを活用すること」という意味合いが強い。 業務委託契約は、合意された業務内容を委託する側と、受託する側の間で結ばれ、そのサービス対価に対して合意された金額を支払うという形が最も一般的である。 通常は、狭義には、自社の業務過程の一部を外部に委託することを指す。広義には、自社が業務上必要とする資源やサービスを外部から調達することを指す。 アウトソーシングを委託する側は自社の中心業務に集中し、それ以外の業務(外部活用をしたほうが効率的であったり、専門的であるものなど)を外部に委託するのが有効である。多方面にわたる専門的な人材育成から解放されることなどにより業務の効率化が図られる。また、自社内部に設備など専用の資産や運用部門などを持たず、サービスとして提供を受けないので、財務管理上の影響もある。 情報産業では、ITアウトソーシングとも呼ばれ、ハードウェアやソフトウェアやネットワーク製品などの資源提供サービス、それらの保守サービスや運用管理サービス、更にはアプリケーションの構築サービスなどがあり、またこれらを組み合わせてマルチソーシング(マルチ=多方面)と呼ぶこともある。IT業界では業務委託が行われやすいが、様々な問題も抱えている。 アウトソーシングを標榜する業者の中には、実態が委託者から専門性を高く評価されない労働者派遣事業と何ら変わらない業態を取る業者もいる。特に業務請負業者の多くに、製造現場への違法な労働者供給(いわゆる“人貸し”)の傾向が見られ、労使紛争が頻発しており、国が監視を強化しつつある。実際にグッドウィルなどで、このような問題が生じていた。 システム開発業界では、偽装請負は昔から大変盛んである。偽装請負により事業所に派遣された人を、かつては『外注』と呼んでいた。しかし、若干、敬意を表して『協力会社』と呼ぶのが業界での慣行である。 不良品の出荷や納期の遅延などが生じた場合に、発注者もしくは部署もしくは企業と受注した労働者もしくは部署もしくは企業との間で、得てして責任の擦り付け合いが生じる。この場合、発注側による優越的地位の濫用が懸念される。 アウトソーシングは、発注側ではサービスの品質を制御できない。発注側が適切な委託者を選択しなかった場合、以下の問題が生じることがある。理論的にはいずれの場面も委託者側の委託業務内容に関する専門知識の維持と委託者側による受注者側の適切な統制管理でほぼ防ぐことが可能である、とされている。しかし、現実には方法は提示されてもそうした問題を克服するような手段は何一つとして確立されていないのが実情である。 詳細は「Outsourcing」を参照
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アウトソーシングあるいは外部委託(がいぶいたく)とは、従来は組織内部で行っていた、または新規に必要なビジネスプロセスについて、それを独立した、専門性の高い別の企業等の外部組織(子会社や協力会社、業務請負・人材派遣会社など)に委託して、労働サービスとして購入する契約である。対義語は「インソーシング(内製化)」。 アウトソーシングには、国内・国外の両方が含まれ、後者はオフショアリングとして「企業があるビジネスの機能を選択して国外に移転すること」とされている。 類義語に業務委託(ぎょうむいたく)、業務請負(ぎょうむうけおい)、外注(がいちゅう)、外製(がいせい)がある。なお、国立国語研究所の「「外来語」言い換え提案」では、「外部委託」と言い換えるように主張している。 民法上は、請負や委任(準委任)の契約を指し、この二つを総称して一般に業務委託契約(法律用語ではない)という。
{{otheruses||人材派遣会社|アウトソーシング (企業)}}{{混同|労働者派遣事業}} '''アウトソーシング'''({{lang-en|outsourcing}})あるいは<ruby>'''外部委託'''<rp>(</rp><rt>がいぶいたく</rt><rp>)</rp></ruby>とは、従来は組織内部で行っていた、または新規に必要な[[ビジネスプロセス]]について、それを独立した、専門性の高い別の企業等の外部組織([[子会社]]や[[協力会社]]、[[業務請負]]・[[労働者派遣事業|人材派遣]]会社など)に委託して、[[サービス|労働サービス]]として購入する[[契約]]である<ref name="ven">{{cite web|title=Terms and Definitions|work=ventureoutsource.com|url=http://www.ventureoutsource.com/contract-manufacturing/information-center/terms-and-definitions/3/|accessdate=2007-10-05}}</ref>。対義語は「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0-1714111 インソーシング](内製化)」。 アウトソーシングには、国内・国外の両方が含まれ<ref name="Hira, Ron 2008">Hira, Ron, and Anil Hira. Outsourcing America: What's behind Our National Crisis and How We Can Reclaim American Jobs? New York: AMACOM, 2008. Print # 67-96.</ref>、後者は[[オフショアリング]]として「企業があるビジネスの機能を選択して国外に移転すること」とされている<ref>Davies, Paul. What's This India Business?: Offshoring, Outsourcing, and the Global Services Revolution. London: Nicholas Brealey International, 2004. Print.</ref>。 類義語に<ruby>'''業務委託'''<rp>(</rp><rt>ぎょうむいたく</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby>'''[[業務請負]]'''<rp>(</rp><rt>ぎょうむうけおい</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby>'''外注'''<rp>(</rp><rt>がいちゅう</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby>'''外製'''<rp>(</rp><rt>がいせい</rt><rp>)</rp></ruby>がある。なお、[[国立国語研究所]]の「[[「外来語」言い換え提案]]」では、「'''外部委託'''」と言い換えるように主張している。 [[民法 (日本)|民法]]上は、[[b:民法第632条|請負]]や[[b:民法第643条|委任]]([[b:民法第656条|準委任]])の契約を指し、この二つを総称して一般に業務委託契約(法律用語ではない)という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=MkPM9KUZAY0&pp=ygUS5aSW5rOo5aWR57SE44Go44Gv |title=請負、準委任、SES、業務委託、派遣など外注契約の注意点 - YouTube |access-date=令和5年4月17日 |publisher=弁護士中野秀俊のYouTube法律相談所}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.k-society.com/know_how/consign/ |title=業務委託とは?他の契約との違いから契約書作成までのポイントを網羅|バーチャルオフィス・シェアオフィス@東京都千代田区{{!}}ナレッジソサエティ{{!}}起業家におすすめ・法人登記・銀行口座 |access-date=令和5年4月17日 |publisher=株式会社ナレッジソサエティ}}</ref>。 == 概要 == {{出典の明記|section=1|date=2020年8月}} この語は外部を意味する「アウト」と、資源利用を意味する「ソーシング」で構成された[[和製英語]]であり{{要出典|date=2021年2月10日 (水) 07:08 (UTC)}}、字義としては「外部資源利用」または「外部資源の有効活用」である。本来としては単なる「仕事を外に出すこと」よりも「外部の資源やサービスを活用すること」という意味合いが強い。 業務委託契約は、合意された業務内容を委託する側と、受託する側の間で結ばれ、そのサービス対価に対して合意された金額を支払うという形が最も一般的である。 通常は、狭義には、自社の業務過程の一部を外部に委託することを指す。広義には、自社が業務上必要とする資源やサービスを外部から調達することを指す。 アウトソーシングを委託する側は自社の中心業務に集中し、それ以外の業務(外部活用をしたほうが効率的であったり、専門的であるものなど)を{{ruby|外部に委託|アウトソーシング}}するのが有効である。多方面にわたる専門的な人材育成から解放されることなどにより業務の効率化が図られる。また、自社内部に設備など専用の資産や運用部門などを持たず、サービスとして提供を受けないので、財務管理上の影響もある。 [[情報]]産業では、[[ITアウトソーシング]]とも呼ばれ、[[ハードウェア]]や[[ソフトウェア]]や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]製品などの資源提供サービス、それらの[[保守]]サービスや運用管理サービス、更には[[アプリケーション]]の構築サービスなどがあり、またこれらを組み合わせて'''マルチソーシング'''(マルチ=多方面)と呼ぶこともある。IT業界では業務委託が行われやすいが、様々な問題も抱えている。<ref>{{Cite web|和書|title=ITサービスのグローバルな委託に隠された問題|url=https://globalnewsview.org/archives/15945|website=GNV|date=2021-10-07|accessdate=2021-12-06|language=ja}}</ref> == 課題 == === 偽装請負との関係 === {{main2|詳細は[[偽装請負]]、[[グッドウィル (人材派遣会社)#「データ装備費」問題|グッドウィルのデータ装備費問題]]などを}} アウトソーシングを標榜する業者の中には、実態が委託者から専門性を高く評価されない[[労働者派遣事業]]と何ら変わらない業態を取る業者もいる。特に業務請負業者の多くに、製造現場への違法な労働者供給(いわゆる“[[偽装請負|人貸し]]”)の傾向が見られ、労使紛争が頻発しており、国が監視を強化しつつある。実際に[[グッドウィル (人材派遣会社)|グッドウィル]]などで、このような問題が生じていた。 システム開発業界では、[[偽装請負]]は昔から大変盛んである。偽装請負により事業所に派遣された人を、かつては『'''外注'''』と呼んでいた。しかし、若干、敬意を表して『'''協力会社'''』と呼ぶのが業界での慣行である。 === 責任の不明確化 === 不良品の出荷や納期の遅延などが生じた場合に、発注者もしくは部署もしくは企業と受注した労働者もしくは部署もしくは企業との間で、得てして責任の擦り付け合いが生じる。この場合、発注側による[[優越的地位の濫用]]が懸念される。 === 発注側の問題 === アウトソーシングは、発注側ではサービスの品質を制御できない。発注側が適切な委託者を選択しなかった場合、以下の問題が生じることがある。理論的にはいずれの場面も'''委託者側の委託業務内容に関する専門知識の維持'''と'''委託者側による受注者側の適切な統制管理'''でほぼ防ぐことが可能である、とされている。しかし、現実には方法は提示されてもそうした問題を克服するような手段は何一つとして確立されていないのが実情である。<ref>{{Cite web|url=https://spdload.com/blog/how-to-outsource-web-development/|title=Statistics and pricing policies for outsourcing around the world|accessdate=01.17.2020|publisher=}}</ref> ; [[費用対効果]](コストパフォーマンス)の悪化 : アウトソーシングを活用する企業や公共団体の側で、アウトソーシング委託を受ける企業及びスタッフの専門性を評価する能力や意思を手放して丸投げする形を取った場合に、関連費用の節減ができたつもりが、かえって費用対効果の悪い事態となり、委託する前と比べて(不可視になった部分も含めて)関連費用が増大する状態に追い込まれる場合もある。 ; 製品の品質の低下 : 特に製造業のそれにいえることであり、かつ上記の事例にも共通するものがあるが、委託内容に見合った適切な価格を提示しなかった場合、受注側は受注価格に対し[[黒字と赤字|赤字]]を出さないようにするためにその委託内容に関する費用を削ろうとする。それは[[人件費]]や材料費や安全上必要な手続きの省略などである。例えば、人件費を一定以下に削れば受注者側の労働者の意欲が維持できずに手抜きをする可能性が高まる。結果として製品の品質の低下に直結してしまう。ひいては製品[[リコール (一般製品)|リコール]]の確率を高めることにつながるため、いざリコールとなった場合は余計に費用がかさむことになる(ただし[[リコール (自動車)|自動車分野のリコール]]は部品の共通化でリコール対象の範囲が広まりやすくなっていると言う事情も考慮する必要がある)。 ; 内部統制とセキュリティ : さらにアウトソーシングは、[[内部統制]]がしっかり確立していない場合は情報管理の脆弱性をはらみやすい。具体的には(特に日本においては偽装請負業者を使用している場合に言えることだが)[[情報漏洩]]や[[スパイ]]活動の温床となりやすい。{{see also|日本年金機構#委託先の外部業者による違反行為|防衛秘密の漏洩#その他の事案}}これは請負業者側が身元を確認しないで採用活動をする傾向がある上に、雇用者の待遇を低く抑えることが影響している。{{main|ベネッセ個人情報流出事件}} ; 生産拠点の確保 : アウトソーシングが外部委託である以上、生産拠点の確保もまた発注側にとっては頭の痛い問題である。特に限られたパイの中での競争では、受注先がよりよい取引先と契約したり、倒産して拠点を失った場合、次の委託先を探すまで生産停止という状態に陥り、ひいてはそれが販売機会の喪失による損害をもたらすことも考慮しなければならない。この手の問題は国外企業との取引で数多く存在している。 === 失業問題 === 詳細は「[[:en:Outsourcing|Outsourcing]]」を参照 :アウトソーシングは需要と供給さえ一致すれば国外の業者に行うこともできる。そのため今まで国内で業務に携わってきた人々(特に[[情報産業]])の雇用を奪うことにつながっており、深刻な失業者問題が発生している。本件は[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|2004年の米大統領選挙]]の争点のひとつとなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Colbegin}} * [[ビジネス・プロセス・アウトソーシング]] * [[オフショアリング]] * [[クラウドソーシング]] * [[ITアウトソーシング]] * [[インフルエンサー]] * [[研究製造業務受託サービス]] * [[労働者供給事業]] * [[建設業]] - [[建設業法]] * [[業務請負]] - [[偽装請負]] - [[バズマーケティング]] * [[ワーキングプア]] - [[グローバリゼーション]] * [[貧困ビジネス]] * [[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]] * [[委託]] * [[労働者派遣事業]] * [[子会社]] - [[協力会社]] * [[指定管理者]]制度 * [[分業]] {{Colend}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20210524180445/https://www.js-gino.org/ 日本生産技能労務協会](業界団体) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あうとそしんく}} [[Category:アウトソーシング|*]] [[Category:経済問題]] [[Category:貧困]] [[Category:企業間取引]]
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上信越自動車道
上信越自動車道(じょうしんえつじどうしゃどう、英語: JOSHIN-ETSU EXPWY)は、群馬県藤岡市の藤岡ジャンクション (JCT) から長野県長野市を経て新潟県上越市の上越JCTに至る高速道路(高速自動車国道)である。東日本高速道路が管理・営業中である。略称は上信越道(じょうしんえつどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は「E18」が割り振られている。 国道18号や北陸新幹線と並走し、関東地方と長野県北信地方・新潟県上越地方を結ぶ。東京から富山・金沢などの北陸地方西部を結ぶ高速道路の最短ルートともなるため、関東北陸間の物流の動脈としての役割も担う路線である。 北関東自動車道の全線開通後は、東北・北関東方面と東海・関西方面を、東京都内を経由せずに高速道路のみで往来できるルートとして重要度が増した。 藤岡ジャンクション (JCT) - 上越ジャンクション間の全線が4車線で供用済みである。碓氷軽井沢IC - 更埴JCT間は開通以前から4車線化の施行命令が出されていたが、1998年(平成10年)の長野オリンピック開催に間に合わせるために暫定2車線で開通させた経緯がある。 信濃町IC - 上越JCTについては2009年(平成21年)4月27日の第4回国土開発幹線自動車道建設会議にて4車線への整備計画変更が決定したが、民主党の2009年(平成21年)度補正予算の執行見直しにより、信濃町IC - 上越JCTを含む高速道路6路線6区間の4車線化事業が凍結された。その後当該区間の2009年(平成21年)における10キロメートル (km) 以上の渋滞発生回数が19回を数えたことから4車線化の必要性があると判断され、一旦は凍結が解除され、2012年(平成24年)4月には事業を再開することが発表された。 供用予定は当初2018年(平成30年)度であったが、2018年(平成30年)12月7日に区間延長の約8割を完成させ、残りの2割は2019年(令和元年)12月5日に4車線化された。 最高地点の標高は932メートル (m) であり、八風山トンネル内にある。 国土開発幹線自動車道の路線名は関越自動車道上越線であり、上信越自動車道はそのうち藤岡JCT以西の区間の道路名である。また、更埴JCT - 長野IC間は中央自動車道長野線との重複区間となっている。 藤岡JCT-藤岡IC間は、1980年に関越道藤岡支線として開通した。 売店はすべてのサービスエリア (SA) と甘楽パーキングエリア (PA) ・佐久平PA・千曲川さかきPA・松代PA・小布施PAに、レストランは横川SAと東部湯の丸SAに設置されている。また、藤岡PA・佐久平PA・小布施PA・新井PAにはハイウェイオアシスが併設されている。 ガソリンスタンドは横川SA・東部湯の丸SA・松代PAにあり、東部湯の丸SAの下り線が深夜営業をしていない他は24時間営業である。24時間営業の売店は、藤岡PAのハイウェイオアシス(ららん藤岡)・横川SA・東部湯の丸SA・千曲川さかきPA(セブン-イレブン)・新井PAのハイウェイオアシス(道の駅あらい)にある。 トンネル・橋梁・シェッドの延長は、NEXCO資料に基づく。 ※碓氷橋・赤松沢橋・遠入川橋の3橋は、「碓氷三橋」として1992年(平成4年)に土木学会田中賞を受賞している。 ※千曲川さかきPA - 更埴JCTでは長大切土のり面をカルバート化する工事が進行中である。 ※新井PA -上越高田ICの下り線は4車線化工事の際に観音平トンネル・宮内トンネル・鮫ヶ尾トンネル・天神堂トンネルが積雪対策のために、トンネル間にスノーシェルターが取り付けられており、1つの長いトンネルとなっている。 コールサインは「ハイウェイラジオ上信越道○○」と放送される(例: 藤岡であれば「ハイウェイラジオ上信越道藤岡よりお伝えしました。」)。 現在は岩槻管制局から放送されているが、2006年9月30日(日本道路公団時代、および民営化後1年間)までは八王子管制局より放送されていた(八王子管制局は現在は中日本高速道路八王子支社であり、同じ形態の放送が中央自動車道と長野自動車道で2012年3月まで放送されていた)。現行の岩槻管制局に移管されたのは、民営化から1年後の2006年(平成18年)10月のことである。 尚、放送区間は全て関東支社管内であり、新潟支社の区間には存在しない。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要」(北陸地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 区間別日平均交通量(2003年度JH年報) ゴールデンウィークやお盆の時期および観光シーズンになると、最後の暫定2車線区間であった信濃町IC - 新井PA間で渋滞が発生していた。主な渋滞の先頭は妙高高原IC付近、観音平トンネル付近、中郷北BS付近である。この区間では、ICやSA・PA付近で車線減少を繰り返していたほか、上越方面から長野県境までの37.5 kmで600 m以上登る急勾配区間でもあり、冬季には累計で10 mを超える降雪がある交通の難所である。4車線化後にはこれらの交通集中による渋滞のほか、重大事故や通行止めの回数も減少する見込みである。 他区間では、暫定2車線であった群馬・長野県境の八風山トンネルや五里ヶ峯トンネル(坂城IC - 更埴JCT間)でも休日を中心に渋滞が多く発生していたが、4車線化によって少なくなった。 また、土日と祝日には主に午前中を中心に下り(長野方面)が、夕方から上り(関越道方面)が藤岡JCT・藤岡IC・富岡トンネル・甘楽PA・富岡IC・下仁田IC・松井田妙義IC・横川SA・碓氷軽井沢ICの各付近と、佐久IC - 松井田妙義IC間の各トンネルを先頭に5 km以上の渋滞が発生することが多い。他にも関越道上りの花園IC付近を先頭とする渋滞が藤岡JCTを過ぎて上信越道に延びてくる場合もあり、合流地点を先頭に20 km以上の長い渋滞になる場合が多い。
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上信越自動車道は、群馬県藤岡市の藤岡ジャンクション (JCT) から長野県長野市を経て新潟県上越市の上越JCTに至る高速道路(高速自動車国道)である。東日本高速道路が管理・営業中である。略称は上信越道(じょうしんえつどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は「E18」が割り振られている。
{{混同|x1=群馬県渋川市を起点とする地域高規格道路|上信自動車道}} {{出典の明記|date=2014年2月|ソートキー=道しようしんえつしとうしやとう}} {{Infobox road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[File:JOSHIN-ETSU EXP(E18).svg|130px|上信越自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E18}} 上信越自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map | frame-lat = 36.7 | frame-long = 138.6 | frame-width = 300 | frame-height = 300 | zoom = 8 | length = | plain = yes }} |総距離 = 204.3 [[キロメートル|km]] |制定年 = [[1993年]]([[平成]]5年) |開通年 = [[1980年]]([[昭和]]55年) - [[1999年]](平成11年) |起点 = [[群馬県]][[藤岡市]]([[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]) |主な経由都市 = [[富岡市]]、[[安中市]]<br />[[佐久市]]、[[小諸市]]、[[上田市]]<br />[[千曲市]]、[[長野市]]、[[中野市]]<br />[[妙高市]] |終点 = [[新潟県]][[上越市]]([[上越ジャンクション|上越JCT]]) |接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] }} '''上信越自動車道'''(じょうしんえつじどうしゃどう、{{Lang-en|JOSHIN-ETSU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[群馬県]][[藤岡市]]の[[藤岡ジャンクション]] (JCT) から[[長野県]][[長野市]]を経て[[新潟県]][[上越市]]の[[上越ジャンクション|上越JCT]]に至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[東日本高速道路]]が管理・営業中である。[[略語|略称]]は'''上信越道'''(じょうしんえつどう)。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は「'''E18'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2020-11-20|publisher=国土交通省}}</ref>。 == 概要 == [[国道18号]]や[[北陸新幹線]]と並走し、[[関東地方]]と長野県[[北信地方]]・新潟県[[上越地方]]を結ぶ。[[東京都区部|東京]]から[[富山市|富山]]・[[金沢市|金沢]]などの[[北陸地方]]西部を結ぶ高速道路の最短ルートともなるため、関東北陸間の物流の[[動脈]]としての役割も担う路線である。 [[北関東自動車道]]の全線開通後は、東北・北関東方面と[[東海]]・[[関西]]方面を、[[東京都]]内を経由せずに高速道路のみで往来できるルートとして重要度が増した。 [[藤岡ジャンクション]] (JCT) - [[上越ジャンクション]]間の全線が4車線で供用済みである。[[碓氷軽井沢インターチェンジ|碓氷軽井沢IC]] - [[更埴ジャンクション|更埴JCT]]間は開通以前から4車線化の施行命令が出されていたが、[[1998年]]([[平成]]10年)の[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]開催に間に合わせるために[[暫定2車線]]で開通させた経緯がある。 [[信濃町インターチェンジ|信濃町IC]] - 上越JCTについては[[2009年]](平成21年)[[4月27日]]の第4回[[国土開発幹線自動車道建設会議]]にて4車線への整備計画変更が決定したが、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の2009年(平成21年)度[[予算|補正予算]]の執行見直しにより、信濃町IC - 上越JCTを含む高速道路6路線6区間の4車線化事業が凍結された。その後当該区間の2009年(平成21年)における10[[キロメートル]] (km) 以上の渋滞発生回数が19回を数えたことから4車線化の必要性があると判断され、一旦は凍結が解除され<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/region/chubu/niigata/100409/ngt1004092022000-n1.htm |title=上信越道4車線化、国交省が凍結解除 新潟 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date= |archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2011年6月}}</ref>、2012年(平成24年)4月には事業を再開することが発表された<ref>{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012040690195310.html|title=東海北陸道など4車線化再開|newspaper=中日新聞|publisher=中日新聞社|date=2012年4月6日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120409064924/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012040690195310.html|archivedate=2012年4月9日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 供用予定は当初2018年(平成30年)度であったが、2018年(平成30年)12月7日に区間延長の約8割を完成させ<ref name="press20181127">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/niigata/h30/1127b/pdfs/pdf.pdf|title=E18上信越自動車道(信濃町IC〜上越JCT間)の約8割が12月7日(金)に4車線となります 〜新井PA・スマートICから上越JCT間は全て4車線に〜|date=2018-11-27|accessdate=2018-11-27|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>、残りの2割は2019年([[令和]]元年)12月5日に4車線化された<ref name="press20191128">{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/niigata/h31/1128c/pdfs/pdf.pdf|title=E18上信越自動車道(信濃町IC〜上越JCT間) 12月5日(木)に全区間4車線となります|date=2019-11-28|accessdate=2019-11-28|publisher=東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 最高地点の標高は932[[メートル]] (m) であり、[[八風山トンネル]]内にある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.driveplaza.com/area/haikara/shin-etsu/pdf/shin-etsu_06_trivia.pdf |title=高速道路トリビア |accessdate=2016/01/20 |format=PDF |website=E-NEXCO Drive Praza |work=はいからな旅 信越 |publisher=東日本高速道路}}{{リンク切れ|date=2020年12月}}</ref>。 [[国土開発幹線自動車道]]の路線名は[[関越自動車道|関越自動車道上越線]]であり、上信越自動車道はそのうち[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]以西の区間の道路名である。また、更埴JCT - 長野IC間は[[中央自動車道|中央自動車道長野線]]との重複区間となっている。 藤岡JCT-藤岡IC間は、1980年に関越道藤岡支線として開通した。 == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。未開通区間の名称は全て仮称である。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC)は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 * 略字は、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、ICは[[インターチェンジ]]、PAは[[パーキングエリア]]、SAは[[サービスエリア]]、CBはチェーン脱着場(チェーンベース)をそれぞれ示す。 {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|[[藤岡ジャンクション|藤岡]]<span style="font-size:small">から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:center"|- | |rowspan="10" style="width:1em"|[[群馬県]] |rowspan="2"|[[藤岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|1 |[[藤岡インターチェンジ|藤岡IC]]/[[藤岡パーキングエリア|PA]] |[[群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線|県道13号前橋長瀞線]] |style="text-align:right"|1.8 | |藤岡PAは関越道方面<br />[[道の駅ららん藤岡|ハイウェイオアシス]]併設 |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[吉井インターチェンジ (群馬県)|吉井IC]] |[[群馬県道41号神田吉井停車場線|県道41号神田吉井停車場線]] |style="text-align:right"|11.2 |style="text-align:center"| | |[[高崎市]] |- !style="background-color:#BFB"|2-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[甘楽パーキングエリア|甘楽PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|町道甘楽PAスマートIC線 |style="text-align:right"|15.4 |style="text-align:center"| | |[[甘楽郡]]<br />[[甘楽町]] |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[富岡インターチェンジ|富岡IC]] |富岡市道西富岡内匠線 |style="text-align:right"|20.1 |style="text-align:center"|○ | |[[富岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[下仁田インターチェンジ|下仁田IC]] |[[国道254号]]([[下仁田バイパス|馬山バイパス]]) |style="text-align:right"|26.8 |style="text-align:center"|○ | |甘楽郡<br />[[下仁田町]] |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[松井田妙義インターチェンジ|松井田妙義IC]]/[[松井田妙義インターチェンジ#松井田バスストップ|松井田BS]] |[[群馬県道51号松井田下仁田線|県道51号松井田下仁田線]] |style="text-align:right"|37.5 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4"|[[安中市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[横川サービスエリア|横川SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|42.1 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[碓氷軽井沢インターチェンジ|碓氷軽井沢IC]] |[[群馬県道・長野県道92号松井田軽井沢線|県道92号松井田軽井沢線]] |style="text-align:right"|52.5 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color: #BFB"|- |[[碓氷CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|- | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[香坂CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"| | |rowspan="28" style="width:1em"|[[長野県]] |rowspan="3"|[[佐久市]] |- !style="background-color:#BFB"|6-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[佐久平パーキングエリア|佐久平PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|68.3 |style="text-align:center"| |[[佐久平パーキングエリア#概要|ハイウェイオアシス]]併設 |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[佐久インターチェンジ|佐久IC]] |[[長野県道9号佐久軽井沢線|県道9号佐久軽井沢線]] |style="text-align:right"|71.3 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|7-1 |[[佐久小諸ジャンクション|佐久小諸JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]] |style="text-align:right"|72.8 |style="text-align:center"|- | |rowspan="3"|[[小諸市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[小諸高原バスストップ|小諸高原BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|78.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[小諸インターチェンジ|小諸IC]] |[[長野県道79号小諸上田線|県道79号小諸上田線]] |style="text-align:right"|82.1 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[東部湯の丸インターチェンジ|東部湯の丸IC]]/[[東部湯の丸サービスエリア|SA]] |[[長野県道81号丸子東部インター線|県道81号丸子東部インター線]] |style="text-align:right"|88.6 |style="text-align:center"|○ | |[[東御市]] |- !style="background-color:#BFB"|10 |[[上田菅平インターチェンジ|上田菅平IC]] |[[国道144号]] |style="text-align:right"|96.9 |style="text-align:center"|○ | |[[上田市]] |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[坂城インターチェンジ|坂城IC]] |[[長野県道91号坂城インター線|県道91号坂城インター線]] |style="text-align:right"|104.8 |style="text-align:center"| | |rowspan="2"|[[埴科郡]]<br />[[坂城町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[千曲川さかきパーキングエリア|千曲川さかきPA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|106.1 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[屋代バスストップ|屋代BS/<span style="background-color: #CCC">SIC</span>]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|116.9 |style="text-align:center"|○ |SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-08|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |rowspan="2"|[[千曲市]] |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[更埴ジャンクション|更埴JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]] |style="text-align:right"|118.9 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color: #BFB"|- |[[松代パーキングエリア|松代PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|123.3 |style="text-align:center"| | |rowspan="4"|[[長野市]] |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[長野インターチェンジ|長野IC]] |[[長野県道35号長野真田線|県道35号長野真田線]] |style="text-align:right"|124.9 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |若穂BS/<span style="background-color:#CCC">[[若穂スマートインターチェンジ|SIC]]</span> |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|130.2 |style="text-align:center"|○ |SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001369141.pdf|title=高速道路会社への事業許可およびスマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2020-10-23|accessdate=2020-10-23|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|14 |rowspan="2"|[[須坂長野東インターチェンジ|須坂長野東IC]] |rowspan="2"|[[国道403号]] |rowspan="2" style="text-align:right"|134.8 |rowspan="2" style="text-align:center"| |rowspan="2"| |- |rowspan="2"|[[須坂市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[須坂バスストップ|須坂BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|137.3 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|14-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[小布施パーキングエリア|小布施PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[長野県道343号村山小布施停車場線|県道343号村山小布施停車場線]] |style="text-align:right"|141.6 |style="text-align:center"| |[[小布施パーキングエリア#ハイウェイオアシス|ハイウェイオアシス]]併設 |rowspan="2"|[[上高井郡]]<br />[[小布施町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[小布施バスストップ|小布施BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|143.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|15 |[[信州中野インターチェンジ|信州中野IC]] |[[長野県道29号中野豊野線|県道29号中野豊野線]] |style="text-align:right"|146.3 |style="text-align:center"| | |rowspan="5"|[[中野市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[中野バスストップ|中野BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|147.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[替佐CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[豊田飯山インターチェンジ|豊田飯山IC]] |[[国道117号]] |style="text-align:right"|154.0 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[豊田バスストップ (長野県)|豊田BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|154.8 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[黒姫野尻湖パーキングエリア|黒姫野尻湖PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|164.0 |style="text-align:center"| | |rowspan="3"|[[上水内郡]]<br />[[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[柏原バスストップ|柏原BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|166.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|17 |[[信濃町インターチェンジ|信濃町IC]] |[[国道18号]]([[野尻バイパス]]) |style="text-align:right"|167.2 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|18 |[[妙高高原インターチェンジ|妙高高原IC]] |国道18号([[妙高野尻バイパス]]) |style="text-align:right"|172.3 |style="text-align:center"| | |rowspan="8" style="width:1em"|[[新潟県]] |rowspan="3"|[[妙高市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|妙高高原BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[妙高サービスエリア|妙高SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|179.8 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|19 |[[中郷インターチェンジ|中郷IC]] |国道18号([[上新バイパス]]) |style="text-align:right"|184.3 |style="text-align:center"| | |rowspan="2"|[[上越市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|中郷北BS |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|19-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[新井パーキングエリア|新井PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[新潟県道428号西野谷新田新井線|県道428号西野谷新田新井線]] |style="text-align:right"|191.7 |style="text-align:center"|◆ |[[道の駅あらい|ハイウェイオアシス]]併設 |妙高市 |- !style="background-color:#BFB"|20 |[[上越高田インターチェンジ|上越高田IC]] |[[新潟県道85号上越高田インター線|県道85号上越高田インター線]] |style="text-align:right"|198.8 |style="text-align:center"| | |rowspan="2"|上越市 |- !style="background-color:#BFB"|31-1 |[[上越ジャンクション|上越JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]] |style="text-align:right"|204.7 |style="text-align:center"| | |} * 豊田飯山IC - 黒姫野尻湖PAにチェーン脱着場が2箇所ある。そのうち、豊田飯山IC寄りのチェーン脱着場は下り線である。また、上田菅平IC - 坂城ICに上り線のチェーン脱着場が1カ所ある。 * 2018年12月、国土交通省により信濃町IC - 新井PA間が大雪時のチェーン装着義務化区間に指定された。気象庁により大雪[[特別警報]]や大雪に関する特別情報が発令された場合、たとえ[[スタッドレスタイヤ]]装備車であっても同区間ではチェーン装着が義務付けられることとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joetsutj.com/articles/50101259 |title=スタッドレスでもチェーン義務付け 大雪時の規制区間発表 上信越道 新井PA─信濃町IC |access-date=2022-06-21 |publisher=上越タウンジャーナル |date=2018-12-11}}</ref>。 == 歴史 == {{Timeline of release years | title = 各年ごとの開通区間 | 1980 = (7月)藤岡JCT - 藤岡IC | 1993 = (3月)更埴JCT - 須坂長野東IC<br />藤岡IC - 佐久IC | 1995 = (11月)佐久IC - 小諸IC<br />須坂長野東IC - 信州中野IC | 1996 = (11月)小諸IC - 更埴JCT | 1997 = (10月)信州中野IC - 中郷IC | 1999 = (10月)中郷IC - 上越JCT }} [[File:Ueda-Roman Bridge 1.jpg|thumb|[[上田ローマン橋]]<br />東部湯の丸IC - 上田菅平IC間。1996年完成。]] * [[1966年]]([[昭和]]41年)[[7月1日]] : [[東京都]] - [[直江津市]](現・上越市)間 予定路線決定。 * [[1971年]](昭和46年)[[6月8日]] : [[更埴市]](現・千曲市)- 須坂市間 基本計画決定。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月30日]] : 藤岡市 - 長野市間 基本計画決定。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[10月19日]] : 更埴市 - 須坂市間 整備計画・施行命令。 ** [[11月1日]] : 長野市 - 上越市間 基本計画決定。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月2日]] : 藤岡市 - 佐久市間 整備計画・施行命令。 * [[1980年]](昭和55年)[[7月17日]] : 藤岡JCT - 藤岡IC間が関越自動車道の支線(藤岡支線)として開通。 * [[1982年]](昭和57年)[[1月20日]] : 須坂市 - 中野市間 整備計画決定。 * [[1985年]](昭和60年)[[5月16日]] : 須坂市 - 中野市間 施行命令。 * [[1986年]](昭和61年)[[1月21日]] : 佐久市 - 更埴市間・中野市 - [[中郷村 (新潟県)|中郷村]](現・上越市)間 整備計画決定。 * [[1987年]](昭和62年)[[12月8日]] : 佐久市 - 更埴市間 施行命令。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[1月31日]] : 中郷村 - 上越市間 整備計画決定。 ** [[9月22日]] : 中野市 - 中郷村間 施行命令。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[11月19日]]:中郷村 - 上越市間 施行命令<ref>『目で見る 上越・糸魚川の100年』(1992年10月29日、郷土出版社発行)156頁。</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[12月10日]] : 佐久市 - 更埴市間 4車線化施行命令。 * [[1993年]](平成5年) ** [[3月25日]] : 更埴JCT - 須坂長野東IC間開通(接続する長野自動車道豊科IC - 更埴JCT間も同日開通)<ref>{{Cite news |title=3月25日開通決定 道路公団 長野県内の2区間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-13 |page=2 }}</ref>。長野IC - 須坂長野東IC間は暫定2車線。 ** [[3月27日]] : 藤岡IC - 佐久IC間開通<ref>{{Cite news |title=上信越道が3月27日開通 藤岡-佐久間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-17 |page=1 }}</ref>。藤岡JCT - 藤岡IC間が関越自動車道(藤岡支線)から上信越自動車道になる。碓氷軽井沢IC - 佐久平PA間は暫定2車線。 * [[1995年]](平成7年) ** [[11月7日]] : 佐久IC - 小諸IC間開通(当時は暫定2車線)<ref>{{Cite news |title=上信越自動車道 佐久IC~小諸 11月7日開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-09-14 |page=3 }}</ref>。 ** [[11月30日]] : 須坂長野東IC - 信州中野IC間開通<ref name="交通951204">{{Cite news |title=須坂長野東IC~信州中野IC開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-12-04 |page=3 }}</ref>。長野IC - 須坂長野東IC間 4車線化{{R|交通951204}}。 * [[1996年]](平成8年)[[11月14日]] : 小諸IC - 更埴JCT間開通。(当時は暫定2車線) * [[1997年]](平成9年)[[10月16日]] : 信州中野IC - 中郷IC間開通<ref name="交通971020">{{Cite news |title=信州中野-中郷インター間 開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-10-20 |page=3 }}</ref>。(当時は暫定2車線{{R|交通971020}}、妙高SA - 中郷IC間は4車線) * [[1998年]](平成10年)[[12月25日]] : 中野市 - 信濃町間 4車線化整備計画・施行命令。 * [[1999年]](平成11年)[[10月30日]] : 中郷IC - 上越JCT間開通により'''全線開通'''、上越JCTで北陸自動車道と接続<ref>『上越市史 通史編6 現代』(2002年3月31日、上越市発行)年表30頁。</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[4月28日]] : 藤岡PA(藤岡ハイウェイオアシス、関越自動車道方面) 開設。 * [[2002年]](平成14年) ** [[7月26日]] : 佐久IC - 小諸IC間 4車線化。 ** [[12月18日]] : 小諸IC - 上田菅平IC間 4車線化。 * [[2003年]](平成15年)[[12月20日]] : 碓氷軽井沢IC - 佐久IC間 4車線化。 * [[2004年]](平成16年) ** [[7月17日]] : 上田菅平IC - 更埴JCT間 4車線化。 ** 12月18日 : 佐久平PA(佐久平ハイウェイオアシス) スマートIC[[社会実験]]開始(2007年〈平成19年〉[[3月31日]]まで)<ref group="注釈">当初の実験期間は[[2005年]](平成17年)[[3月21日]]まで。</ref>。 * [[2005年]](平成17年) ** [[1月11日]] : 新井スマートIC 社会実験開始(2006年〈平成18年〉3月31日まで)<ref group="注釈">当初の実験期間は2005年(平成17年)[[3月27日]]まで。</ref>。 ** [[4月24日]] : 小布施PA(小布施ハイウェイオアシス) スマートIC社会実験開始(2006年〈平成18年〉3月31日まで)<ref group="注釈">当初の実験期間は2005年(平成17年)[[8月31日]]まで。</ref>。 ** [[4月29日]] : 信州中野IC - 豊田飯山IC間 4車線化。 * [[2006年]](平成18年)[[10月1日]] : 小布施スマートIC・新井スマートIC 供用開始。 * [[2007年]](平成19年)[[4月1日]] : 佐久平スマートIC 供用開始。 * [[2009年]](平成21年) ** [[4月27日]] : 中野市 - 上越市間 4車線化整備計画変更。 ** [[10月9日]] : [[前原誠司]][[国土交通大臣|国土交通相]](当時)が、信濃町IC - 上越JCT間の4車線化事業を凍結すると表明。 ** [[11月19日]] : 豊田飯山IC - 信濃町IC間 4車線化。 * [[2010年]](平成22年)[[4月9日]] : 国土交通省より、一時凍結のあった信濃町IC - 上越JCT間の4車線化事業を再着手すると表明。 * [[2011年]](平成23年)[[3月26日]] : 佐久小諸JCT 開通により中部横断自動車道と接続。 * [[2012年]](平成24年)[[4月6日]] : [[前田武志]]国土交通相(当時)が、信濃町IC - 上越JCT間の4車線化事業を同月中旬より再開すると表明。 * [[2014年]](平成26年) ** [[4月8日]] : 八風山トンネル 長野県側入口付近 (62.4KP) の盛土のり面と管理用道路に亀裂が発見され、その進行が継続しているため、碓氷軽井沢IC - 佐久IC間の上り線が通行止、下り線も車線規制が実施される<ref>{{Cite press release |和書 |title=上信越自動車道 佐久IC&#12316;碓氷軽井沢IC(上り線)の災害通行止めについて |publisher=東日本高速道路関東支社 |date=2014-04-08 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2014/0408/00008020.html}}</ref>。[[4月11日]]に対面通行で暫定開通し、[[4月25日]]に下り線が2車線に戻り、上り線は1車線のみ復旧した。 ** [[7月18日]] : [[4月25日]]より1車線通行規制が行われていた佐久IC - 碓氷軽井沢IC間の上り線が完全復旧<ref>{{Cite press release |和書 |title=上信越自動車道 佐久IC&#12316;碓氷軽井沢IC間(上り線)1車線規制の解除について &#12316;7月18日(金)11時より2車線通行して頂けます&#12316; |publisher=東日本高速道路関東支社 |date=2014-07-14 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2014/0714/00008044.html}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[12月1日]] : 新井スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hrr.mlit.go.jp/takada/wp-content/uploads/2018/11/291122_araiSIC.pdf |title=E18上信越自動車道 新井スマートIC 12月1日(金)から24時間のご利用が可能となります |accessdate=2020-12-30 |date=2017-11-22 |format=PDF |publisher=妙高市}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[12月7日]] : 新井PA/スマートIC - 上越JCT間が4車線化<ref name="press20181127" /><ref>同年[[11月20日]]に先行して上越高田IC - 上越JCT間が4車線化されている。また、12月7日の段階で信濃町IC - 新井PA/SIC間の対面通行区間も短縮されている。</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[12月5日]] : 信濃町IC - 妙高SA、中郷IC - 新井PA/スマートIC間が4車線化<ref name="press20191128" />。これにより'''全線4車線化'''<ref name="press20191128" />。 * [[2023年]](令和5年)[[3月25日]] : 甘楽スマートIC 供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2022/12/27/pdf.pdf|title=E18上信越自動車道 甘楽スマートインターチェンジ 令和5年3月25日(土)に開通します。|date=2022-12-27|accessdate=2022-12-27|publisher=甘楽町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center" |- !rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!rowspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |備考 |- !上下線||上り線||下り線 |- | 藤岡JCT - 藤岡IC||6||3||3||rowspan="2"|100 [[キロメートル毎時|km/h]]|| |- | 藤岡IC - 松井田妙義IC||rowspan="2"|4||rowspan="2"|2||rowspan="2"|2|| |- | 松井田妙義IC - 更埴JCT||80&nbsp;km/h|| |- | 更埴JCT内||3||2||1||70&nbsp;km/h|| |- | 更埴JCT - 信州中野IC||rowspan="3"|4||rowspan="3"|2||rowspan="3"|2||100&nbsp;km/h|| |- | 信州中野IC - 中郷IC||80&nbsp;km/h|| |- | 中郷IC - 上越JCT||100&nbsp;km/h|| |} === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 売店はすべてのサービスエリア (SA) と甘楽パーキングエリア (PA) ・佐久平PA・千曲川さかきPA・松代PA・小布施PAに、[[レストラン]]は横川SAと東部湯の丸SAに設置されている。また、藤岡PA・佐久平PA・小布施PA・新井PAには[[ハイウェイオアシス]]が併設されている。 [[ガソリンスタンド]]は横川SA・東部湯の丸SA・松代PAにあり、東部湯の丸SAの下り線が深夜営業をしていない他は24時間営業である。24時間営業の売店は、藤岡PAのハイウェイオアシス([[道の駅ららん藤岡|ららん藤岡]])・横川SA・東部湯の丸SA・千曲川さかきPA([[セブン-イレブン]])・新井PAのハイウェイオアシス([[道の駅あらい]])にある。 ==== 主なトンネルと橋 ==== トンネル・橋梁・シェッドの延長は、NEXCO資料に基づく<ref name=E-NEXCO_bridge>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/01.pdf |format=PDF |title=【別添】点検計画・修繕計画(橋梁) |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2021-09-14 }}</ref><ref name=E-NEXCO_tunnel>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/02.pdf |title=【別添】点検計画・修繕計画(トンネル) |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2021-09-14 }}</ref><ref name=E-NEXCO_shed>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/02.pdf |title=【別添】点検計画・修繕計画(シェッド) |work=高速道路のインフラ長寿命化計画(行動計画) |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2021-09-14 }}</ref><ref name=E-NEXCO_Saihyoka>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/safety/infrastructure/1912/02.pdf |title=関越自動車道 上越線(信濃町〜上越JCT)(4車線化)【 再評価 】 |publisher=[[東日本高速道路]] |accessdate=2021-09-14 }}</ref>。 {| class="wikitable" |- !rowspan="2"|区間 !rowspan="2"|構造物名 !colspan="2"|延長 !rowspan="2"|備考 |- !上り線 !下り線 |- | rowspan="5" |横川SA - 碓氷軽井沢IC||[[碓氷橋]]||style="text-align:right"|1,227.0&nbsp;m|| style="text-align:right" |1,267.0&nbsp;m |碓氷三橋として[[土木学会田中賞]]受賞<ref name="peshimane">{{Cite web|和書|url=https://www.jsce.or.jp/prize/prize_list/p1992.shtml#s07k|format=HTML|title=土木学会賞平成4年度受賞一覧|publisher=公益社団法人 土木学会|accessdate=2020-06-03}}</ref> |- |赤松沢橋||style="text-align:right"|230.0&nbsp;m||style="text-align:right"|230.0&nbsp;m |碓氷三橋として[[土木学会田中賞]]受賞<ref name="peshimane" /> |- |浅間山トンネル||style="text-align:right"|629&nbsp;m||style="text-align:right"|684&nbsp;m |読みはせんげんやまトンネル |- |遠入川橋||style="text-align:right"|477.0&nbsp;m||style="text-align:right"|439.0&nbsp;m |碓氷三橋として[[土木学会田中賞]]受賞<ref name="peshimane" /> |- |高岩山トンネル||style="text-align:right"|1,019&nbsp;m||style="text-align:right"|1,070&nbsp;m | |- | rowspan="4" |碓氷軽井沢IC - 佐久平PA||大山トンネル||style="text-align:right"|1,722&nbsp;m||style="text-align:right"|1,625&nbsp;m | |- |日暮山トンネル||style="text-align:right"|2,314&nbsp;m||style="text-align:right"|2,051&nbsp;m | |- |[[八風山トンネル]]||style="text-align:right"|3,998&nbsp;m||style="text-align:right"|4,471&nbsp;m | |- |閼伽流山トンネル||style="text-align:right"|1,703&nbsp;m||style="text-align:right"|1,960&nbsp;m |読みはあかるさんトンネル。[[閼伽流山]]を通過。 |- |東部湯の丸IC/SA - 上田菅平IC||[[上田ローマン橋]]||style="text-align:right"|715.0&nbsp;m||style="text-align:right"|715.0&nbsp;m | |- |上田菅平IC - 坂城IC||太郎山トンネル||style="text-align:right"|4,264&nbsp;m||style="text-align:right"|4,303&nbsp;m | |- |rowspan="2"|千曲川さかきPA - 更埴JCT||[[五里ヶ峯トンネル]]||style="text-align:right"|4,518&nbsp;m||style="text-align:right"|4,474&nbsp;m | |- ||森トンネル||style="text-align:right"|1,421&nbsp;m||style="text-align:right"|1,450&nbsp;m | |- |更埴JCT - 松代PA ||薬師山トンネル||style="text-align:right"|1,212&nbsp;m||style="text-align:right"|1,181&nbsp;m | |- |rowspan="3"|信州中野IC - 豊田飯山IC||[[北千曲川橋]]||style="text-align:right"|371.0&nbsp;m||style="text-align:right|375.0&nbsp;m | |- |上今井トンネル||style="text-align:right"|691&nbsp;m|| style="text-align:right" |775&nbsp;m | |- |斑尾川橋||style="text-align:right"|617.0&nbsp;m|| style="text-align:right" |617.0&nbsp;m | |- |rowspan="3"|豊田飯山IC - 黒姫野尻湖PA||[[熊坂トンネル]]||style="text-align:right"|811&nbsp;m||style="text-align:right"|801&nbsp;m | |- |さみずトンネル||style="text-align:right"|1,415&nbsp;m||style="text-align:right"|1,441&nbsp;m | |- |薬師岳トンネル||style="text-align:right"|2,320&nbsp;m||style="text-align:right"|2,362&nbsp;m | |- |信濃町IC - 妙高高原IC||[[れいめい橋]]||style="text-align:right"|514.0&nbsp;m||style="text-align:right"|500.5&nbsp;m |<ref name=reimeibashi>{{Cite journal |和書|author= 東田典雅 |author2= 齋藤正司 |author3= 渋谷智裕 |author4= 小張裕介 |title= れいめい橋(2期線)の計画・設計 : 1・2期線一体基礎を有するラーメン橋 |date= 2016-01 |publisher= [[プレストレストコンクリート工学会]] |journal= プレストレストコンクリート |volume= 58 |issue= 1 |naid= 40020729282 |pages= 25 - 31 }}</ref> |- |妙高高原IC - 妙高SA||[[太田切川橋 (上信越自動車道)|太田切川橋]]||style="text-align:right"|240.0&nbsp;m||style="text-align:right"|259.0&nbsp;m | |- |中郷IC - 新井PA/SIC||あらい高架橋||style="text-align:right"|333.9&nbsp;m||style="text-align:right"|306.1&nbsp;m | |- | rowspan="2" |新井PA/SIC - 上越高田IC |天神堂トンネル||style="text-align:right"|521.0&nbsp;m||style="text-align:right"|2,187&nbsp;m |下りは天神平トンネル・鮫ケ尾トンネル・宮内トンネル・観音平トンネルをスノーシェルターで連結し一体化 |- |観音平トンネル||style="text-align:right"|1,502&nbsp;m||- |上りは鮫ケ尾トンネル・宮内トンネル・観音平トンネルをスノーシェルターで連結し一体化 |- |上越高田IC - 上越JCT||金谷山トンネル||style="text-align:right"|381.9&nbsp;m||style="text-align:right"|370.0&nbsp;m | |- |} ※碓氷橋・赤松沢橋・遠入川橋の3橋は、「碓氷三橋」として1992年(平成4年)に[[土木学会田中賞]]を受賞している<ref name="peshimane" />。 ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center" !区間!!上り線!!下り線 |- |藤岡JCT - 富岡IC||0||0 |- |富岡IC - 下仁田IC||1||1 |- |下仁田IC - 横川SA||0||0 |- |横川SA - 碓氷軽井沢IC||5||5 |- |碓氷軽井沢IC - 佐久平PA||5||4 |- |佐久平PA - 佐久小諸JCT||0||0 |- |佐久小諸JCT - 小諸IC||1||1 |- |小諸IC - 上田菅平IC||0||0 |- |上田菅平IC - 坂城IC||3||3 |- |坂城IC - 千曲川さかきPA||0||0 |- |千曲川さかきPA - 更埴JCT||4||4 |- |更埴JCT - 松代PA||1||1 |- |松代PA - 長野IC||0||0 |- |長野IC - 須坂長野東IC||4||4 |- |須坂長野東IC - 信州中野IC||0||0 |- |信州中野IC - 豊田飯山IC||1||1 |- |豊田飯山IC - 黒姫野尻湖PA||4||5 |- |黒姫野尻湖PA - 新井PA||0 |0 |- |新井PA - 上越高田IC||2||1 |- |上越高田IC - 上越JCT||1||1 |- !合計!!32!!31 |} ※千曲川さかきPA - 更埴JCTでは長大切土のり面をカルバート化する工事が進行中である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2022/0913/00011761.html|title=【E18】上信越自動車道 坂城IC〜更埴JCT間(上下線) 地すべり対策工事による昼夜連続対面通行規制のお知らせ|date=2022-09-13|accessdate=2022-11-02|publisher=東日本高速道路株式会社}}</ref><ref>{{Cite news|title=上信越道「日本初」の工事 通行を可能にしたまま地滑り対策のトンネル造る【長野】|newspaper=テレビ信州|date=2022-11-02|accessdate=2022-11-02|url=https://web.archive.org/web/20221102110929/https://www.tsb.jp/news/nnn/news1163y06v6p8xep1sgaw.html}}</ref>。 ※新井PA -上越高田ICの下り線は4車線化工事の際に観音平トンネル・宮内トンネル・鮫ヶ尾トンネル・天神堂トンネルが積雪対策のために、トンネル間にスノーシェルターが取り付けられており、1つの長いトンネルとなっている。 === 道路管理者 === * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]][[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 高崎管理事務所 : 藤岡JCT - 富岡IC ** 佐久管理事務所 : 富岡IC - 坂城IC ** 長野管理事務所 : 坂城IC - 信濃町IC * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]][[東日本高速道路新潟支社|新潟支社]] ** 上越管理事務所 : 信濃町IC - 上越JCT ==== ハイウェイラジオ ==== * 藤岡(藤岡IC - 吉井IC) * 富岡(富岡IC - 下仁田IC) * 長野(長野IC - 須坂長野東IC) [[識別信号|コールサイン]]は「ハイウェイラジオ上信越道○○」と[[放送]]される(例: 藤岡であれば「ハイウェイラジオ上信越道藤岡よりお伝えしました。」)。 現在は岩槻管制局から放送されているが、2006年9月30日([[日本道路公団]]時代、および民営化後1年間)までは八王子管制局より放送されていた(八王子管制局は現在は[[中日本高速道路八王子支社]]であり、同じ形態の放送が[[中央自動車道]]と[[長野自動車道]]で2012年3月まで放送されていた)。現行の岩槻管制局に移管されたのは、民営化から1年後の2006年(平成18年)10月のことである。 尚、放送区間は全て関東支社管内であり、新潟支社の区間には存在しない。 === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 区間 !!平成11(1999)年度 !! 平成17(2005)年度 !! 平成22(2010)年度 !! 平成27(2015)年度 !!令和3(2021)年度 |- | 藤岡JCT - 藤岡IC ||31,418 || 38,241 || 41,626 || 45,126 || 36,947 |- | 藤岡IC - 吉井IC || 24,541 || 29,811 || 31,765 || 35,790 || 28,590 |- | 吉井IC - 富岡IC || 23,935 || 28,941 || 30,663 || 34,735 || 27,394 |- | 富岡IC - 下仁田IC || 21,037 || 25,235 || 26,412 || 29,908 || 23,943 |- | 下仁田IC - 松井田妙義IC || 18,019 || 22,143 || 23,328 || 27,240 || 21,799 |- | 松井田妙義IC - 碓氷軽井沢IC ||18,556 || 22,121 || 23,167 || 27,585 || 22,187 |- | 碓氷軽井沢IC - 佐久平PASIC || rowspan="2" | 15,032 || 18,734 || 20,215 || 23,694 || 18,718 |- | 佐久平PASIC - 佐久IC || 18,706 || 20,055 || 23,536 || 18,587 |- | 佐久IC - 佐久小諸JCT || rowspan="2" | 14,901 || rowspan="2" | 18,707 || rowspan="2" | 22,066 || 23,618 || 19,025 |- | 佐久小諸JCT - 小諸IC || 26,243 || 21,494 |- | 小諸IC - 東部湯の丸IC || 16,528 || 20,574 || 24,181 || 28,467 || 23,753 |- | 東部湯の丸IC - 上田菅平IC ||17,074 || 21,213 || 25,375 || 29,354 || 24,521 |- | 上田菅平IC - 坂城IC || 18,537 || 22,914 || 27,483 || 31,046 || 25,795 |- | 坂城IC - 更埴JCT ||19,326 || 24,388 || 29,236 || 33,069 || 27,782 |- | 更埴JCT - 長野IC || 27,780 || 32,325 || 36,312 || 39,492 || 35,794 |- | 長野IC - 須坂長野東IC || 18,536 || 22,351 || 24,971 || 27,178 || 25,441 |- | 須坂長野東IC - 小布施PASIC || rowspan="2" | 13,143 || 17,147 || 18,790 || 20,671 || 18,688 |- | 小布施PASIC - 信州中野IC || 16,751 || 17,665 || 18,741 || 16,808 |- | 信州中野IC - 豊田飯山IC || {{0}}9,210 || 12,976 || 13,626 || 14,238 || 12,514 |- | 豊田飯山IC - 信濃町IC || {{0}}7,057 || 10,238 || 10,612 || 11,003 || 10,056 |- | 信濃町IC - 妙高高原IC || {{0}} 6,384 || 10,050 || 10,174 || 10,625 || {{0}}9,745 |- | 妙高高原IC - 中郷IC || {{0}}5,762 || {{0}}9,902 || 10,046 || 10,349 || {{0}}9,710 |- | 中郷IC - 新井PASIC || rowspan="3" | 調査当時未開通 || {{0}}9,518 || {{0}}9,636 || {{0}}9,992 || {{0}}9,271 |- | 新井PASIC - 上越高田IC || {{0}}9,525 || {{0}}9,609 || {{0}}9,768 || {{0}}9,167 |- | 上越高田IC - 上越JCT || {{0}}9,435 || {{0}}9,619 || {{0}}9,829 || {{0}}9,405 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)「[https://www.hrr.mlit.go.jp/road/census/census_h17 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要]」([[北陸地方整備局]]ホームページ)「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-27|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ==== 2002年度 ==== 区間別日平均交通量(2003年度JH年報) * 平均 : 19,346台(区間平均。前年度比99.3%) * 最大 : 藤岡JCT - 藤岡IC 38,525台(100.2%) * 最小 : 上越高田IC - 上越JCT 8,955台(99.1%) ==== 渋滞 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年8月}} [[ゴールデンウィーク]]や[[お盆]]の時期および観光シーズンになると、最後の暫定2車線区間であった信濃町IC - [[新井PA]]間で[[渋滞]]が発生していた。主な渋滞の先頭は[[妙高高原インターチェンジ|妙高高原IC]]付近、観音平トンネル付近、中郷北BS付近である。この区間では、ICやSA・PA付近で車線減少を繰り返していたほか、上越方面から長野県境までの37.5&nbsp;kmで600&nbsp;m以上登る急勾配区間でもあり、冬季には累計で10&nbsp;mを超える降雪がある交通の難所である。4車線化後にはこれらの交通集中による渋滞のほか、重大事故や通行止めの回数も減少する見込みである<ref name="press20181127" />。 他区間では、[[暫定2車線]]であった群馬・長野県境の[[八風山トンネル]]や[[五里ヶ峯トンネル]](坂城IC - 更埴JCT間)でも[[休日]]を中心に渋滞が多く発生していたが、4車線化によって少なくなった。 また、土日と祝日には主に午前中を中心に下り(長野方面)が、夕方から上り(関越道方面)が[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]・[[藤岡インターチェンジ|藤岡IC]]・富岡トンネル・[[甘楽パーキングエリア|甘楽PA]]・[[富岡インターチェンジ|富岡IC]]・[[下仁田インターチェンジ|下仁田IC]]・[[松井田妙義インターチェンジ|松井田妙義IC]]・[[横川サービスエリア|横川SA]]・[[碓氷軽井沢インターチェンジ|碓氷軽井沢IC]]の各付近と、[[佐久インターチェンジ|佐久IC]] - 松井田妙義IC間の各トンネルを先頭に5&nbsp;km以上の渋滞が発生することが多い。他にも関越道上りの[[花園インターチェンジ|花園IC]]付近を先頭とする渋滞が藤岡JCTを過ぎて上信越道に延びてくる場合もあり、合流地点を先頭に20&nbsp;km以上の長い渋滞になる場合が多い。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[群馬県]] ** [[藤岡市]] - [[高崎市]] - [[甘楽郡]][[甘楽町]] - [[富岡市]] - 甘楽郡[[下仁田町]] - 富岡市 - [[安中市]] - 甘楽郡下仁田町 * [[長野県]] ** [[佐久市]] - [[小諸市]] - [[東御市]] - 小諸市 - 東御市 - [[上田市]] - [[埴科郡]][[坂城町]] - [[千曲市]] - [[長野市]] - [[須坂市]] - [[上高井郡]][[小布施町]] - [[中野市]] - [[上水内郡]][[飯綱町]] - 上水内郡[[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]] * [[新潟県]] ** [[妙高市]] - [[上越市]] - 妙高市 - 上越市 - 妙高市 - 上越市 === 接続する高速道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]](藤岡JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]]([[佐久小諸ジャンクション|佐久小諸JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]]([[更埴ジャンクション|更埴JCT]]で接続) *: 開通時期の経緯から[[線形 (路線)|線形]]は上信越道上越方面と長野道が本線で、藤岡方面がそこから分岐するという形になっている。 * {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]](上越JCTで接続) == 関連項目 == * [[高速自動車国道]] * [[関東地方の道路一覧]] * [[中部地方の道路一覧]] * [[関東環状道路]] * [[熊坂トンネル]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Joshin-Etsu Expressway}} * [https://www.e-nexco.co.jp/ NEXCO東日本 オフィシャルサイト] * [https://www.driveplaza.com/dp/SAPAServRes?keiroCodeCSV=&startIcName=&arriveIcName=&arealist=0&HIGHWAY=1810&AREA= 【E18】上信越自動車道のサービスエリア検索結果 | ドラぷら(NEXCO東日本)] {{上信越自動車道}} {{東日本高速道路}} {{日本の高速道路}} {{DEFAULTSORT:しようしんえつしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:関東地方の道路]] [[Category:中部地方の道路]]
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府中市 (東京都)
府中市(ふちゅうし)は、東京都の多摩地域中部に位置する市。 人口は約26万人。東京都のほぼ中央に位置し、旧北多摩郡に属する。市名は律令時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来し、現在も東京多摩地域の拠点都市のひとつとなっている。 当地以外の国府・府中と区別するため武蔵府中と呼ばれることもある(例:武蔵府中郵便局)。 新宿から22km西方、日本橋からは30km西方に位置する。東京都内では東京23区・八王子市・町田市に次ぎ4番目(市町村では3番目)に人口が多い。 「府中」とは「国府所在地」を意味する地名で、武蔵国の国府が置かれた地であることから「府中」と呼ばれており、これが市名の由来である。地名としての「府中」については、府中市および府中の記事も参照のこと。 1954年4月1日に、府中町(府中駅)と多磨村(多摩村とは異なる)および西府村の1町2村が合併して「府中市」が誕生した。 古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。鎌倉時代にも要衝地域となっており、戦後も多摩地域の主要都市として行政機関・病院等の公共機関が数多く集積する。東京競馬場(府中競馬場)や日本最大規模を誇る府中刑務所が所在することでも有名である。 交通網としては、上記の地理的、歴史的な観点から、現在でも東京都区部近郊の交通の重要な拠点として東西南北(区部・東京郊外・神奈川県および埼玉県)を結んでいる。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に発達していったことが影響している。 なお、京王線府中駅からJR線府中本町駅までのエリアは、東京多摩地域有数規模の繁華街・市街地が形成されている。国道20号線・府中街道・小金井街道に挟まれる様に街が広がっている。多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模を誇る。 市内には、行政機関・大企業の研究開発所および工場等の大規模な施設が多く、商業施設や高層住宅は府中駅周辺に多い事からこの一帯の地価は160万円/坪を超える。また、一級河川や雑木林や山があるなど、市域のほとんどが居住に適した平地でありながら、河川に野山、数多くの広い公園や農地緑地など、多くの緑を有している。 夜間人口と昼間人口がほぼ同じなのは、近隣のベッドタウン都市とは違い職住近接した生活環境である事が理由である。歴史がある街の為、地元志向が都心から同距離の国分寺や調布などに比べ高い傾向があり、これらから市民の満足度が高く、市のアンケートでもほぼ全市民が将来も住み続けたい街として回答しており、「生活実感値」満足度都内第1位とされる事もある。 「ほっとするね、緑の府中」がキャッチフレーズとして記載された。 広島県にも同名の府中市が存在する。自治省(現:総務省)の方針では、同一市名は望ましくないとしていた。市制申請は当市が先であったが、その後に広島県府中市が、市制施行の日付を当市の1日前(1954年3月31日)とした市制申請を行ったことにより、同一市名となった。 地震速報では双方を区別するために「東京府中市」、広島県の府中市は「広島府中市」などと区別される。また冒頭記載の通り、郵便局などにおいて「武蔵府中」という名称をとる。 市域全域が武蔵野台地上にある。多摩川中流左岸の河川段丘に広がっており、多摩川対岸に多摩丘陵を望む。市の南辺は多摩川と同じである。北東部に標高約80mの浅間山(せんげんやま)があり、麓からの高さは30m程度である。 市の中央やや南を府中崖線(別名は立川崖線)が、北辺に沿って国分寺崖線が、それぞれ東西に走っている。この崖線(ハケ)の前者の高さは10mから15m、後者は10mから20mである。国分寺市に近い当市武蔵台の一部はこの国分寺崖線上の武蔵野段丘上にある。府中崖線の南側を多摩川低地、両崖線に挟まれた部分を武蔵野台地の立川面、国分寺崖線の北を同じく武蔵野面と呼ぶ。この武蔵野面上の武蔵台3丁目が標高は82mと市内最高標高となっている。 この2本の崖線と浅間山付近を除けば、ほとんどが平坦な土地で可住地面積率は99.7%である。 内陸性気候であり、夏と冬で気温差が激しい。夏は猛暑日が多く2018年に38.8°C、2022年に38.4°Cなどを観測している。冬の快晴日は放射冷却が発生しやすく、最低気温は都心と5°C以上差が出ることもある。2018年1月には-8.4°Cを記録した。 (カッコ内は主な交通手段、順番は鉄道、一般道道路(北から順番に表記)、有料道路) 旧北多摩郡で、大化の改新後武蔵国の国府所在地である事など政治、経済、文化の中心であり、古くから栄えていた事が各資料から判明している。鎌倉時代にも要衝地域として重要な地位を占めており、末期には幕府の存亡をかけた合戦の舞台となった。江戸時代には主要な宿場町として、また近在の物資の集散地として発展する。戦後も多摩地域の主要都市として行政機関、病院群、大企業の研究開発所や工場が数多く集積し、東西南北への複数の鉄道路線が交差している。 1750か所を超える発掘調査が行われており、旧石器時代の尖頭器は若松町一丁目他で発見、縄文時代の土偶も若松町一丁目で発見、分梅町・美好町付近では古墳群が発見されており、旧石器時代の朝日町遺跡や縄文時代の武蔵野公園遺跡・浅間山前山遺跡・天神町遺跡・新町遺跡など数も多い。旧石器時代の礫群も発見されており、加熱調理施設であったと確認された。この時代は狩猟が主であった。 大化の改新後、国司が東国に派遣された際、武蔵国造の根拠地の大宮を避け、比較的早くから屯倉が設置され、古来交通に産業に重要な役割を受持った玉川中流域に面する 府中の地に武蔵国の国府が置かれた。国府は大國魂神社付近であり、発掘調査によって神社東隣に国衙の一部と推定される遺跡を発見、市がその土地を買い取り公開されている。武蔵国の国衙は、8世紀前葉期に建設された事が明らかになってきた。武蔵国の国分寺は国府から約2km、現在の国分寺市内に置かれ、古代の東山道武蔵路は武蔵国府から北上する官道であった。北に向かい川越へ至る「川越道」、鎌倉へ至る「相州道」が南へ続くなど、南北の道路が発達していた。平安時代中期まで武蔵国の中心として機能した。 鎌倉幕府の時代は、古文書の中から重要拠点として記載され、中世の鎌倉街道上道が市内を通る。現在も一部が残り、同名称の街道が併存、新田義貞と鎌倉幕府軍が争った戦場も残る(1333年、分倍河原の戦い)。まいまいず井戸も発見されており、ハケ上に水をもたらし、畑作も行われていた。 江戸時代には甲州街道沿いが整備されて鎌倉街道との交差点周辺を中心とした宿場町として栄えた。周辺の大部分は天領で、川崎定孝(平右衛門)による開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んになる。かつての南北に走る道路にかわり、東西に走る道路が中心となっていく。 明治時代には北多摩郡の郡役所が置かれるなど、中核地を担った。大正時代には複数の鉄道が、昭和には、日本製鋼所東京製作所、東芝府中事業所、日本小型飛行機(株)など相次ぐ設置、軍の施設(府中基地)が置かれ多摩村の一部に掛かる飛行場設置など、かつて盛んであった農業の割合より工業・商業が増えて現代の府中を形作っていった。 第二次大戦後1950年代以後に宅地開発が進み、行政機関、都立病院を含む多くの大病院、日銀を代表とする各銀行の計算センター、大企業の研究開発所および工場の集積も相まって人口が急増し、東京都の拠点都市として発展し続けている。 国府所在地の面影を残し、由緒ある祭りや神社などが残ると共に、国指定・都指定・市指定文化財が多くある。 府中市では、住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されていないため、土地地番を整えて付け直す地番整理による地番となっている。 東京都25市の中で3番目の人口である。 高齢化率20.9%(全国平均25.9%)、子供の割合18.5%(全国平均17.7%) 2010年に夜間人口(居住者)は255,506人であるが、市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は246,380人で昼は夜のおよそ0.964倍の人口になる。通勤者・通学生で見ると市内から市外へ出る通勤者65,001人、市外から市内へ入る通勤者は59,555人と通勤者では市外への通勤者の方がやや多く、また学生でも市外から市内へ入る通学生は7,229人で市内から市外に出る通学生10,942人と学生でも昼は市外へ流出する。国勢調査では年齢不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないため数字の間に誤差は生じる。 一般会計予算額927億1000万円(特別会計を含む予算総額1653億400万5千円)。 平成20年度連結経常行政コスト1890億円(334,000円/市民)、収支△809億円。期末純資産残高4641億円(期間変動88億円)。 歳入における地方交付税の割合0.1%(全国平均16.5%)。 新聞の折り込み、希望宅への配布、設置された配布場所、ホームページなどから入手する事が出来る。 府中駅北第2庁舎、市政情報センター(武蔵府中ル・シーニュ内)、東部出張所(白糸台文化センター内)、西部出張所(西府文化センター内) 管轄地域は市域すべて。東京消防庁第八消防方面本部の管轄下に置かれる。日本の消防は市町村の責任業務であるが、多摩地域の大半の市町村は東京消防庁へ消防業務を委託しており、本市もそれに倣っている。 府中市提供「市内の病院一覧」csv かつては市内全域に1万個以上もの集積型の大きな「ゴミ箱」が配置され、他市民がうらやみ多くの自治体も設置するなど、全国に広がっていった。美化面、無料排出、時間無制限排出の利点があったが、欠点として近隣他市住民が幹線道路沿いの「ゴミ箱」脇に粗大ゴミや無分別を含むをゴミ不法投棄する事件が慢性的に発生し、ゴミ処理費の高止まり、減量の面でも問題が発生した。ゴミ排出量増大、分別不徹底や事業系・市外のゴミの不法投棄を招いているなどの理由により、2010年2月より「ゴミ箱」(ダストボックス)廃止・有料化・個別収集化へ変更した。このダストボックスを廃止し戸別収集へ変更した結果、ゴミ処理費用は5年で約3億4千万円の減額。 府中市が設立した法人・直接関係のある法人 参考 昭和36年旧府中町役場に図書館が作られたあと移転や地区図書館が開設されて、市立図書館の蔵書は平成31年3月末現在、149万冊を超える。 図書検索予約システムがある(京王沿線7市図書館連携事業により登録した者は利用できない) 詳細は府中市公式ホームページを参照。 府中市公共施設予約システムから利用予約できる施設もある。 工業都市としても知られ、1937年の日中戦争をきっかけに日本製鋼所や東芝などの大工場が進出し、第二次世界大戦後もサントリー、日本電気(NEC)など多くの工場が進出している。 主な生産物に、コマツナ、多摩川ナシ、ワケネギ、紫黒米(黒米)等がある。様々な府中産農産物が、マインズ農業協同組合の西府支店、多磨支店、中河原駅前支店の農産物直売所、府中駅前の府中特産品直売所、農家設置の直売所などで販売されている。江戸時代は名産品があり、多摩川の御用鮎、府中御用瓜・鳴子瓜・が献上されていた。戦後までは、水田稲作や養蚕が盛んだった。 2002年現在、耕地率6.9%、水田率25.7%。2000年現在、農家率0.4%。2015年現在、農業従事者数1020人。 都市化や高齢化により産業低下がみられることから、平成27年度より「第3次府中市農業振興計画」を策定して、農地を残し「みどりのある住みよいまち」を引き続き目指している。 日本電気(NEC)の府中事業場、東芝の府中事業所、サントリーの武蔵野ビール工場、読売新聞の府中工場(読売プリントメディア)など、大規模な工場がある。2000年現在、第二次産業就業者数26,005人。 京王線の府中駅近辺には複数のショッピングビルがあり、店鋪が集中している。そのほか、小売店は鉄道各駅や幾つかのバス停留所付近に集中している。また、大東京綜合卸売センター(市場)が市南西部に立地する。また日鋼町の日本製鉄所東京事業所跡にできた府中インテリジェントパークは、日本銀行や各銀行の電算センターや各社の研修センターなどが集積しており、新たな企業拠点となった。公営競技施設では、東京競馬場(府中競馬場)や多摩川競艇場がある。2000年現在、第三次産業就業者数84,594人と多くを占めている。 大國魂神社、郷土の森博物館の花見、ビール工場見学、美術館などに訪れる観光客もいるが、府中市観光情報センターでは、数種類の市内観光ミニツアーを行っている。A:史跡コース、B:自然と仏閣コース、C:伝説コース、D:府中宿コース。また「府中市観光ガイド」を発行 。市役所は 府中観光情報 を提供している。 京王線府中駅周辺エリアは、東京多摩地域有数規模の市街地が広がっている。多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模である。古くは国府所在地として、今でも関東地方の交通の要衝である。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に放射状に交通網が発達していった事が大いに影響している。地理的、歴史的な観点から現在では国道16号圏内と東京都区部までの間における、環状連絡線の要衝結節点として東西南北(区部、東京郊外、神奈川県および埼玉県)を結ぶ。 道路網では甲州街道国道20号、中央高速道等の幹線を介して東西の区部と郊外とを結び、府中街道、鎌倉街道を介して南北の神奈川県(川崎市・相模原市方面)と埼玉県(所沢市方面)を結ぶ。 鉄道網では武蔵野線、南武線、京王線の交差駅を持ち、東京の東西拠点の区部と郊外方面(八王子、立川)を京王線、南武線で結び、南方の神奈川県溝口・川崎方面を南武線で、北方の埼玉・千葉方面(所沢・浦和・越谷・三郷・松戸・船橋)を武蔵野線で結ぶ。また、市内東部地区の南北方向に西武多摩川線が武蔵境駅経由で中央線沿いの市区町村と連絡している。 市内は路線バス網が充実しており、中央線の各駅から府中市方面に向かって、多くの路線が乗り入れている。 京王電鉄京王線と競馬場線、JR南武線、JR武蔵野線、西武鉄道多摩川線が市内を通る。市の北端の一部(西国分寺駅(国分寺市)の西側の武蔵台三丁目)をJR中央本線がかすめているが、駅は無い。但し、先述の武蔵台地区は西国分寺駅が最寄りとなる。 かつては中央本線国分寺駅から分岐する形で市内へ下河原線が存在した(後に一部が武蔵野線となった)。 京王線 競馬場線(全線市内) 南武線 武蔵野線 多摩川線 主要な道路は、市の中心部から東西南北に伸びている。古くは、鎌倉街道、甲州街道が幹線となった。甲州街道は国道20号線となり、バイパスが造られそれらが国道に、かつての道が都道となっていった。更にそのバイパスとして、中央自動車道、東八道路が造られた。 詳細は、市役所ホームページ を参照。 市内は武相地区運賃になるため、一般路線バスの運賃は乗車区間によって異なる(2018年現在初乗り現金180円、IC運賃175円)。このため、後乗り前降り運賃後払い式である(市東部を走行する一部路線とコミュニティバスを除く)。 以前には多摩川の渡し舟(満願寺の渡し(谷保の渡し)、石田の渡し、一宮の渡し、関戸の渡し(中河原の渡し)、是政の渡し(大丸の渡し)、常久河原の渡し)が設けられたが、現在では廃止されている。 隣接する調布市(一部三鷹市)の調布飛行場から伊豆諸島(新島の新島空港、大島の大島空港、神津島の神津島空港)への航空路がある(新中央航空)。 50cc未満の原動機付き自転車へ対して「範馬刃牙(はんまばき)」のご当地ナンバーも配布されている。軽自動車(二輪、四輪)は、軽自動車検査協会より「多摩」ナンバー、それ以外の四輪車と二輪の小型自動車は東京運輸支局の多摩自動車検査登録事務所より「多摩」ナンバー を割り当てられている。 浅間山 : 標高約80m。かつて多摩川によって削られて残った丘。山全体が公園となっており絶滅危惧種ムサシノキスゲが自生している珍しい地域。 日本スペースガード協会が2000年8月に発見した小惑星41484番を「ムサシフチュウ」と名付けた。これは、講演会など天文普及活動で同協会と協力関係にある府中市郷土の森博物館に命名が依頼されたもので、国際天文学連合は2017年4月に公式決定した。 イベントは、大國魂神社、郷土の森、府中公園を中心に市内各地で行われている。(イベントカレンダー(府中観光協会) も参照) 日本一・日本初・大きな出来事や珍しい事柄。 府中市は「ふちゅうロケーションサービス」というフィルム・コミッションを行っており、撮影は各所にて頻繁に行われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "府中市(ふちゅうし)は、東京都の多摩地域中部に位置する市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人口は約26万人。東京都のほぼ中央に位置し、旧北多摩郡に属する。市名は律令時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来し、現在も東京多摩地域の拠点都市のひとつとなっている。 当地以外の国府・府中と区別するため武蔵府中と呼ばれることもある(例:武蔵府中郵便局)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "新宿から22km西方、日本橋からは30km西方に位置する。東京都内では東京23区・八王子市・町田市に次ぎ4番目(市町村では3番目)に人口が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「府中」とは「国府所在地」を意味する地名で、武蔵国の国府が置かれた地であることから「府中」と呼ばれており、これが市名の由来である。地名としての「府中」については、府中市および府中の記事も参照のこと。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1954年4月1日に、府中町(府中駅)と多磨村(多摩村とは異なる)および西府村の1町2村が合併して「府中市」が誕生した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。鎌倉時代にも要衝地域となっており、戦後も多摩地域の主要都市として行政機関・病院等の公共機関が数多く集積する。東京競馬場(府中競馬場)や日本最大規模を誇る府中刑務所が所在することでも有名である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "交通網としては、上記の地理的、歴史的な観点から、現在でも東京都区部近郊の交通の重要な拠点として東西南北(区部・東京郊外・神奈川県および埼玉県)を結んでいる。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に発達していったことが影響している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、京王線府中駅からJR線府中本町駅までのエリアは、東京多摩地域有数規模の繁華街・市街地が形成されている。国道20号線・府中街道・小金井街道に挟まれる様に街が広がっている。多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模を誇る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "市内には、行政機関・大企業の研究開発所および工場等の大規模な施設が多く、商業施設や高層住宅は府中駅周辺に多い事からこの一帯の地価は160万円/坪を超える。また、一級河川や雑木林や山があるなど、市域のほとんどが居住に適した平地でありながら、河川に野山、数多くの広い公園や農地緑地など、多くの緑を有している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "夜間人口と昼間人口がほぼ同じなのは、近隣のベッドタウン都市とは違い職住近接した生活環境である事が理由である。歴史がある街の為、地元志向が都心から同距離の国分寺や調布などに比べ高い傾向があり、これらから市民の満足度が高く、市のアンケートでもほぼ全市民が将来も住み続けたい街として回答しており、「生活実感値」満足度都内第1位とされる事もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「ほっとするね、緑の府中」がキャッチフレーズとして記載された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "広島県にも同名の府中市が存在する。自治省(現:総務省)の方針では、同一市名は望ましくないとしていた。市制申請は当市が先であったが、その後に広島県府中市が、市制施行の日付を当市の1日前(1954年3月31日)とした市制申請を行ったことにより、同一市名となった。 地震速報では双方を区別するために「東京府中市」、広島県の府中市は「広島府中市」などと区別される。また冒頭記載の通り、郵便局などにおいて「武蔵府中」という名称をとる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "市域全域が武蔵野台地上にある。多摩川中流左岸の河川段丘に広がっており、多摩川対岸に多摩丘陵を望む。市の南辺は多摩川と同じである。北東部に標高約80mの浅間山(せんげんやま)があり、麓からの高さは30m程度である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "市の中央やや南を府中崖線(別名は立川崖線)が、北辺に沿って国分寺崖線が、それぞれ東西に走っている。この崖線(ハケ)の前者の高さは10mから15m、後者は10mから20mである。国分寺市に近い当市武蔵台の一部はこの国分寺崖線上の武蔵野段丘上にある。府中崖線の南側を多摩川低地、両崖線に挟まれた部分を武蔵野台地の立川面、国分寺崖線の北を同じく武蔵野面と呼ぶ。この武蔵野面上の武蔵台3丁目が標高は82mと市内最高標高となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この2本の崖線と浅間山付近を除けば、ほとんどが平坦な土地で可住地面積率は99.7%である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "内陸性気候であり、夏と冬で気温差が激しい。夏は猛暑日が多く2018年に38.8°C、2022年に38.4°Cなどを観測している。冬の快晴日は放射冷却が発生しやすく、最低気温は都心と5°C以上差が出ることもある。2018年1月には-8.4°Cを記録した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "(カッコ内は主な交通手段、順番は鉄道、一般道道路(北から順番に表記)、有料道路)", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "旧北多摩郡で、大化の改新後武蔵国の国府所在地である事など政治、経済、文化の中心であり、古くから栄えていた事が各資料から判明している。鎌倉時代にも要衝地域として重要な地位を占めており、末期には幕府の存亡をかけた合戦の舞台となった。江戸時代には主要な宿場町として、また近在の物資の集散地として発展する。戦後も多摩地域の主要都市として行政機関、病院群、大企業の研究開発所や工場が数多く集積し、東西南北への複数の鉄道路線が交差している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1750か所を超える発掘調査が行われており、旧石器時代の尖頭器は若松町一丁目他で発見、縄文時代の土偶も若松町一丁目で発見、分梅町・美好町付近では古墳群が発見されており、旧石器時代の朝日町遺跡や縄文時代の武蔵野公園遺跡・浅間山前山遺跡・天神町遺跡・新町遺跡など数も多い。旧石器時代の礫群も発見されており、加熱調理施設であったと確認された。この時代は狩猟が主であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大化の改新後、国司が東国に派遣された際、武蔵国造の根拠地の大宮を避け、比較的早くから屯倉が設置され、古来交通に産業に重要な役割を受持った玉川中流域に面する 府中の地に武蔵国の国府が置かれた。国府は大國魂神社付近であり、発掘調査によって神社東隣に国衙の一部と推定される遺跡を発見、市がその土地を買い取り公開されている。武蔵国の国衙は、8世紀前葉期に建設された事が明らかになってきた。武蔵国の国分寺は国府から約2km、現在の国分寺市内に置かれ、古代の東山道武蔵路は武蔵国府から北上する官道であった。北に向かい川越へ至る「川越道」、鎌倉へ至る「相州道」が南へ続くなど、南北の道路が発達していた。平安時代中期まで武蔵国の中心として機能した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鎌倉幕府の時代は、古文書の中から重要拠点として記載され、中世の鎌倉街道上道が市内を通る。現在も一部が残り、同名称の街道が併存、新田義貞と鎌倉幕府軍が争った戦場も残る(1333年、分倍河原の戦い)。まいまいず井戸も発見されており、ハケ上に水をもたらし、畑作も行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "江戸時代には甲州街道沿いが整備されて鎌倉街道との交差点周辺を中心とした宿場町として栄えた。周辺の大部分は天領で、川崎定孝(平右衛門)による開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んになる。かつての南北に走る道路にかわり、東西に走る道路が中心となっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "明治時代には北多摩郡の郡役所が置かれるなど、中核地を担った。大正時代には複数の鉄道が、昭和には、日本製鋼所東京製作所、東芝府中事業所、日本小型飛行機(株)など相次ぐ設置、軍の施設(府中基地)が置かれ多摩村の一部に掛かる飛行場設置など、かつて盛んであった農業の割合より工業・商業が増えて現代の府中を形作っていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第二次大戦後1950年代以後に宅地開発が進み、行政機関、都立病院を含む多くの大病院、日銀を代表とする各銀行の計算センター、大企業の研究開発所および工場の集積も相まって人口が急増し、東京都の拠点都市として発展し続けている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国府所在地の面影を残し、由緒ある祭りや神社などが残ると共に、国指定・都指定・市指定文化財が多くある。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "府中市では、住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されていないため、土地地番を整えて付け直す地番整理による地番となっている。", "title": "町名" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東京都25市の中で3番目の人口である。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "高齢化率20.9%(全国平均25.9%)、子供の割合18.5%(全国平均17.7%)", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2010年に夜間人口(居住者)は255,506人であるが、市外からの通勤者と通学生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は246,380人で昼は夜のおよそ0.964倍の人口になる。通勤者・通学生で見ると市内から市外へ出る通勤者65,001人、市外から市内へ入る通勤者は59,555人と通勤者では市外への通勤者の方がやや多く、また学生でも市外から市内へ入る通学生は7,229人で市内から市外に出る通学生10,942人と学生でも昼は市外へ流出する。国勢調査では年齢不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないため数字の間に誤差は生じる。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一般会計予算額927億1000万円(特別会計を含む予算総額1653億400万5千円)。 平成20年度連結経常行政コスト1890億円(334,000円/市民)、収支△809億円。期末純資産残高4641億円(期間変動88億円)。 歳入における地方交付税の割合0.1%(全国平均16.5%)。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新聞の折り込み、希望宅への配布、設置された配布場所、ホームページなどから入手する事が出来る。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "府中駅北第2庁舎、市政情報センター(武蔵府中ル・シーニュ内)、東部出張所(白糸台文化センター内)、西部出張所(西府文化センター内)", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "管轄地域は市域すべて。東京消防庁第八消防方面本部の管轄下に置かれる。日本の消防は市町村の責任業務であるが、多摩地域の大半の市町村は東京消防庁へ消防業務を委託しており、本市もそれに倣っている。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "府中市提供「市内の病院一覧」csv", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "かつては市内全域に1万個以上もの集積型の大きな「ゴミ箱」が配置され、他市民がうらやみ多くの自治体も設置するなど、全国に広がっていった。美化面、無料排出、時間無制限排出の利点があったが、欠点として近隣他市住民が幹線道路沿いの「ゴミ箱」脇に粗大ゴミや無分別を含むをゴミ不法投棄する事件が慢性的に発生し、ゴミ処理費の高止まり、減量の面でも問題が発生した。ゴミ排出量増大、分別不徹底や事業系・市外のゴミの不法投棄を招いているなどの理由により、2010年2月より「ゴミ箱」(ダストボックス)廃止・有料化・個別収集化へ変更した。このダストボックスを廃止し戸別収集へ変更した結果、ゴミ処理費用は5年で約3億4千万円の減額。", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "府中市が設立した法人・直接関係のある法人", "title": "公共機関" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "参考", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "昭和36年旧府中町役場に図書館が作られたあと移転や地区図書館が開設されて、市立図書館の蔵書は平成31年3月末現在、149万冊を超える。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "図書検索予約システムがある(京王沿線7市図書館連携事業により登録した者は利用できない)", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "詳細は府中市公式ホームページを参照。 府中市公共施設予約システムから利用予約できる施設もある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "工業都市としても知られ、1937年の日中戦争をきっかけに日本製鋼所や東芝などの大工場が進出し、第二次世界大戦後もサントリー、日本電気(NEC)など多くの工場が進出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "主な生産物に、コマツナ、多摩川ナシ、ワケネギ、紫黒米(黒米)等がある。様々な府中産農産物が、マインズ農業協同組合の西府支店、多磨支店、中河原駅前支店の農産物直売所、府中駅前の府中特産品直売所、農家設置の直売所などで販売されている。江戸時代は名産品があり、多摩川の御用鮎、府中御用瓜・鳴子瓜・が献上されていた。戦後までは、水田稲作や養蚕が盛んだった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2002年現在、耕地率6.9%、水田率25.7%。2000年現在、農家率0.4%。2015年現在、農業従事者数1020人。 都市化や高齢化により産業低下がみられることから、平成27年度より「第3次府中市農業振興計画」を策定して、農地を残し「みどりのある住みよいまち」を引き続き目指している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本電気(NEC)の府中事業場、東芝の府中事業所、サントリーの武蔵野ビール工場、読売新聞の府中工場(読売プリントメディア)など、大規模な工場がある。2000年現在、第二次産業就業者数26,005人。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "京王線の府中駅近辺には複数のショッピングビルがあり、店鋪が集中している。そのほか、小売店は鉄道各駅や幾つかのバス停留所付近に集中している。また、大東京綜合卸売センター(市場)が市南西部に立地する。また日鋼町の日本製鉄所東京事業所跡にできた府中インテリジェントパークは、日本銀行や各銀行の電算センターや各社の研修センターなどが集積しており、新たな企業拠点となった。公営競技施設では、東京競馬場(府中競馬場)や多摩川競艇場がある。2000年現在、第三次産業就業者数84,594人と多くを占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大國魂神社、郷土の森博物館の花見、ビール工場見学、美術館などに訪れる観光客もいるが、府中市観光情報センターでは、数種類の市内観光ミニツアーを行っている。A:史跡コース、B:自然と仏閣コース、C:伝説コース、D:府中宿コース。また「府中市観光ガイド」を発行 。市役所は 府中観光情報 を提供している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "京王線府中駅周辺エリアは、東京多摩地域有数規模の市街地が広がっている。多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模である。古くは国府所在地として、今でも関東地方の交通の要衝である。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に放射状に交通網が発達していった事が大いに影響している。地理的、歴史的な観点から現在では国道16号圏内と東京都区部までの間における、環状連絡線の要衝結節点として東西南北(区部、東京郊外、神奈川県および埼玉県)を結ぶ。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "道路網では甲州街道国道20号、中央高速道等の幹線を介して東西の区部と郊外とを結び、府中街道、鎌倉街道を介して南北の神奈川県(川崎市・相模原市方面)と埼玉県(所沢市方面)を結ぶ。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "鉄道網では武蔵野線、南武線、京王線の交差駅を持ち、東京の東西拠点の区部と郊外方面(八王子、立川)を京王線、南武線で結び、南方の神奈川県溝口・川崎方面を南武線で、北方の埼玉・千葉方面(所沢・浦和・越谷・三郷・松戸・船橋)を武蔵野線で結ぶ。また、市内東部地区の南北方向に西武多摩川線が武蔵境駅経由で中央線沿いの市区町村と連絡している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "市内は路線バス網が充実しており、中央線の各駅から府中市方面に向かって、多くの路線が乗り入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "京王電鉄京王線と競馬場線、JR南武線、JR武蔵野線、西武鉄道多摩川線が市内を通る。市の北端の一部(西国分寺駅(国分寺市)の西側の武蔵台三丁目)をJR中央本線がかすめているが、駅は無い。但し、先述の武蔵台地区は西国分寺駅が最寄りとなる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "かつては中央本線国分寺駅から分岐する形で市内へ下河原線が存在した(後に一部が武蔵野線となった)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "京王線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "競馬場線(全線市内)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "南武線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "武蔵野線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "多摩川線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "主要な道路は、市の中心部から東西南北に伸びている。古くは、鎌倉街道、甲州街道が幹線となった。甲州街道は国道20号線となり、バイパスが造られそれらが国道に、かつての道が都道となっていった。更にそのバイパスとして、中央自動車道、東八道路が造られた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "詳細は、市役所ホームページ を参照。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "市内は武相地区運賃になるため、一般路線バスの運賃は乗車区間によって異なる(2018年現在初乗り現金180円、IC運賃175円)。このため、後乗り前降り運賃後払い式である(市東部を走行する一部路線とコミュニティバスを除く)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "以前には多摩川の渡し舟(満願寺の渡し(谷保の渡し)、石田の渡し、一宮の渡し、関戸の渡し(中河原の渡し)、是政の渡し(大丸の渡し)、常久河原の渡し)が設けられたが、現在では廃止されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "隣接する調布市(一部三鷹市)の調布飛行場から伊豆諸島(新島の新島空港、大島の大島空港、神津島の神津島空港)への航空路がある(新中央航空)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "50cc未満の原動機付き自転車へ対して「範馬刃牙(はんまばき)」のご当地ナンバーも配布されている。軽自動車(二輪、四輪)は、軽自動車検査協会より「多摩」ナンバー、それ以外の四輪車と二輪の小型自動車は東京運輸支局の多摩自動車検査登録事務所より「多摩」ナンバー を割り当てられている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "浅間山 : 標高約80m。かつて多摩川によって削られて残った丘。山全体が公園となっており絶滅危惧種ムサシノキスゲが自生している珍しい地域。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本スペースガード協会が2000年8月に発見した小惑星41484番を「ムサシフチュウ」と名付けた。これは、講演会など天文普及活動で同協会と協力関係にある府中市郷土の森博物館に命名が依頼されたもので、国際天文学連合は2017年4月に公式決定した。", "title": "自然" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イベントは、大國魂神社、郷土の森、府中公園を中心に市内各地で行われている。(イベントカレンダー(府中観光協会) も参照)", "title": "イベント" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "日本一・日本初・大きな出来事や珍しい事柄。", "title": "日本一・日本初・大きな出来事" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "府中市は「ふちゅうロケーションサービス」というフィルム・コミッションを行っており、撮影は各所にて頻繁に行われている。", "title": "府中を舞台とした作品" } ]
府中市(ふちゅうし)は、東京都の多摩地域中部に位置する市。 人口は約26万人。東京都のほぼ中央に位置し、旧北多摩郡に属する。市名は律令時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来し、現在も東京多摩地域の拠点都市のひとつとなっている。 当地以外の国府・府中と区別するため武蔵府中と呼ばれることもある。
{{Redirect|武蔵府中|小惑星|武蔵府中 (小惑星)}}{{混同|府中市 (広島県)}}{{日本の市 |画像 = File:Keyaki.namiki.dori.fuchu.jpg |画像の説明 = [[馬場大門のケヤキ並木]] |市旗 = [[ファイル:Flag of Fuchu, Tokyo.svg|border|100px]] |市旗の説明 = 府中[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:東京都府中市市章.svg|70px]] |市章の説明 = 府中[[市町村章|市章]] |自治体名 = 府中市 |都道府県 = 東京都 |コード = 13206-3 |隣接自治体 = [[調布市]]、[[稲城市]]、[[多摩市]]、[[日野市]]、[[小金井市]]、[[国分寺市]]、[[国立市]] |木 = [[ケヤキ]] |花 = [[ウメ]] |シンボル名 = 市の鳥 |鳥など = [[ヒバリ]] |郵便番号 = 183-8703 |所在地 = 府中市宮西町二丁目24番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-13|display=inline,title|name=府中市}}<br />[[ファイル:FuchuCityHall2023091.jpg|250px|府中市役所]]<br />{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}} |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|13|206|image=Fuchu in Tokyo Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} |特記事項 = }} '''府中市'''(ふちゅうし)は、[[東京都]]の[[多摩地域]]中部に位置する[[市]]。 [[人口]]は約26万人。東京都のほぼ中央に位置し、旧[[北多摩郡]]に属する。市名は[[律令制|律令]]時代に[[武蔵国]]の[[国府]]が置かれたことに由来し、現在も東京多摩地域の拠点都市のひとつとなっている。 当地以外の国府・府中と区別するため'''武蔵府中'''と呼ばれることもある(例:[[武蔵府中郵便局]])。 == 概要 == [[新宿]]から22km西方、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]からは30km西方に位置する。東京都内では[[東京都区部|東京23区]]・[[八王子市]]・[[町田市]]に次ぎ4番目(市町村では3番目)に[[人口]]が多い。 「[[府中]]」とは「'''[[国府]]所在地'''」を意味する地名で、[[武蔵国]]の[[国府]]が置かれた地であることから「府中」と呼ばれており、これが市名の由来である。地名としての「府中」については、[[府中市 (曖昧さ回避)|府中市]]および[[府中 (曖昧さ回避)|府中]]の記事も参照のこと。 [[1954年]][[4月1日]]に、[[府中町_(東京都)|府中町(府中駅)]]と[[多磨村]]([[多摩村]]とは異なる)および[[西府村]]の1町2村が合併して「府中市」が誕生した<ref>{{Cite book|和書|author=関根恒男|title=新版 武蔵国府のまち府中市の歴史|publisher=府中市教育委員会|date=2006-3|pages=438-439|isbn=}}</ref>。 古代の遺跡が多く、また645年の[[大化の改新]]後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから[[政治]]や[[経済]]と[[文化 (代表的なトピック)|文化]]の中心地として栄えており、[[江戸時代]]は[[甲州街道]]の[[宿場]]の中でも大きな「[[府中宿 (甲州街道)|府中宿]]」があった。[[鎌倉時代]]にも要衝地域となっており、[[戦後]]も多摩地域の主要都市として[[行政機関]]・[[病院]]等の[[公共機関]]が数多く集積する。[[東京競馬場]](府中競馬場)や日本最大規模を誇る[[府中刑務所]]が所在することでも有名である。 [[交通]]網としては、上記の地理的、歴史的な観点から、現在でも東京都区部近郊の交通の重要な拠点として東西南北(区部・[[東京]][[郊外]]・[[神奈川県]]および[[埼玉県]])を結んでいる。これは[[国府]]設置以来中心地にある[[大國魂神社]]を基点に発達していったことが影響している。 なお、[[京王線]][[府中駅 (東京都)|府中駅]]からJR線[[府中本町駅]]までのエリアは、東京多摩地域有数規模の[[繁華街]]・市街地が形成されている。[[国道20号|国道20号線]]・[[府中街道]]・小金井街道に挟まれる様に街が広がっている。多摩地域では[[立川駅|立川]]・[[町田駅|町田]]・[[吉祥寺駅|吉祥寺]]・[[八王子駅]]周辺に次ぐ規模を誇る。 市内には、行政機関・[[大企業]]の研究開発所および[[工場]]等の大規模な施設が多く、[[商業施設]]や高層[[住宅]]は府中駅周辺に多い事からこの一帯の地価は160万円/坪を超える<ref>2011/11/15 the houseのデータによる。</ref>。また、[[一級河川]]や[[雑木林]]や山があるなど、市域のほとんどが[[居住]]に適した[[平地]]でありながら、河川に野山、数多くの広い[[公園]]や農地緑地など、多くの緑を有している。 [[夜間人口]]と[[昼間人口]]がほぼ同じなのは、近隣の[[ベッドタウン]]都市とは違い職住近接した[[生活]][[環境]]である事が理由である。歴史がある街の為、地元志向が都心から同距離の国分寺や調布などに比べ高い傾向があり、これらから[[市民]]の満足度が高く、市の[[アンケート]]でもほぼ全市民が将来も住み続けたい街として回答しており、「生活実感値」満足度都内第1位とされる事もある<ref name="homes">参考:住宅・不動産情報ポータルサイト「HOME’S」調査報告 2008年東京都内生活者実感ランキングベスト20</ref>。 {{Wide_image|Fuchu.fujisan.jpg|1000px|[[府中駅 (東京都)|府中駅]]南側より南西方面パノラマ画像。広がる[[多摩丘陵]]と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]も見える(2017年撮影)}} 「ほっとするね、緑の府中」が[[キャッチフレーズ]]として<ref name="「けやきっ子」及び「広報」紙面2023年令和5年4月21日号第2024号">「けやきっ子」及び「広報ふちゅう 」紙面また封筒など。</ref>記載された。 === 同名市 === [[広島県]]にも同名の[[府中市 (広島県)|府中市]]が存在する。[[自治省]](現:[[総務省]])の方針では、同一市名は望ましくないとしていた。市制申請は当市が先であったが、その後に広島県府中市が、市制施行の日付を当市の1日前([[1954年]][[3月31日]])とした市制申請を行ったことにより、同一市名となった<ref>[http://iwa.que.ne.jp/tokusen/higashifuchu/rekishi/rekishi13.html 特選東府中情報] 府中市発行「府中市政史」及び「グラフ府中」引用{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 [[地震]][[速報]]では双方を区別するために「東京府中市」、広島県の府中市は「広島府中市」などと区別される。また冒頭記載の通り、[[郵便局]]などにおいて「武蔵府中」という名称をとる。 == 地理 == === 地勢 === [[ファイル:府中市の衛星写真001.jpg|thumb|right|200px|府中市域の[[ランドサット]]衛星写真]] 市域全域が[[武蔵野台地]]上にある。[[多摩川]]中流左岸の河川段丘に広がっており、多摩川対岸に[[多摩丘陵]]を望む。市の南辺は多摩川と同じである。北東部に標高約80mの[[浅間山 (東京都)|浅間山]](せんげんやま)があり、麓からの高さは30m程度である。 市の中央やや南を[[府中崖線]](別名は立川崖線)が、北辺に沿って[[国分寺崖線]]が、それぞれ東西に走っている。この崖線([[はけ|ハケ]])の前者の高さは10mから15m、後者は10mから20mである。国分寺市に近い当市武蔵台の一部はこの国分寺崖線上の武蔵野段丘上にある。府中崖線の南側を[[多摩川低地]]、両崖線に挟まれた部分を武蔵野台地の立川面、国分寺崖線の北を同じく武蔵野面と呼ぶ。この武蔵野面上の武蔵台3丁目が標高は82mと市内最高標高となっている。 この2本の崖線と浅間山付近を除けば、ほとんどが平坦な土地で可住地面積率は99.7%である。 === 気候 === [[内陸性気候]]であり、夏と冬で気温差が激しい。夏は猛暑日が多く2018年に38.8℃、2022年に38.4℃などを観測している。冬の快晴日は放射冷却が発生しやすく、最低気温は都心と5℃以上差が出ることもある。2018年1月には-8.4℃を記録した。 {{Fuchu, Tokyo weatherbox}} === 隣接する自治体 === * 東 ** [[調布市]] - ([[京王線]]、[[東八道路]]、[[人見街道]]、[[甲州街道]]([[国道20号]])、[[旧甲州街道]]、[[品川通り]]、[[中央自動車道]]) * 西 ** [[国立市]] - ([[南武線]]、[[多喜窪通り]]経由バス([[府中駅 (東京都)|府中駅]] - [[国立駅]]間、甲州街道(国道20号)) ** [[日野市]] - ([[東京都道20号・神奈川県道525号府中相模原線|都道20号]]バイパス部(府中四谷橋)) * 南 ** [[稲城市]] - (南武線、[[府中街道]]、[[稲城大橋]]) ** [[多摩市]] - (京王線、[[鎌倉街道]]、[[野猿街道]]) * 北 ** [[国分寺市]] - ([[武蔵野線]]、府中街道、旧鎌倉街道、[[東京都道133号小川山府中線|国分寺街道]])) ** [[小金井市]] - ([[西武多摩川線]]、[[東京都道15号府中清瀬線|小金井街道]]、[[東京都道248号府中小平線|新小金井街道]]、[[東八道路]]) (カッコ内は主な交通手段、順番は鉄道、一般道道路(北から順番に表記)、有料道路) === 市勢 === * 面積:29.34[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。 * 人口:260,274人 ** 男:130,327人 ** 女:129,947人 :(2022年9月1日現在、住民基本台帳による) == 歴史 == [[ファイル:Edomeisyozue.v2.p346.jpg|thumb|[[江戸名所図会]] 府中六所宮 [[大國魂神社]]]] 旧[[北多摩郡]]で、[[大化の改新]]後[[武蔵国]]の[[国府]]所在地である事など政治、経済、文化の中心であり、古くから栄えていた事が各資料から判明している。鎌倉時代にも要衝地域として重要な地位を占めており、末期には幕府の存亡をかけた合戦の舞台となった。江戸時代には主要な宿場町として、また近在の物資の集散地として発展する。戦後も多摩地域の主要都市として[[行政機関]]、[[病院]]群、大企業の研究開発所や工場が数多く集積し、東西南北への複数の鉄道路線が交差している。 === 古代 === 1750か所を超える発掘調査が行われており<ref>特別展府中の発掘お宝展2016パンフレット</ref>、[[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]]の[[尖頭器]]は[[若松町 (東京都府中市)|若松町]]一丁目{{efn|1043次調査。}}他で発見、[[縄文時代]]の[[土偶]]も若松町一丁目{{efn|1654次調査。}}で発見、分梅町・美好町付近では[[古墳]]群が発見されており、旧石器時代の朝日町遺跡や縄文時代の武蔵野公園遺跡・浅間山前山遺跡・天神町遺跡・新町遺跡など数も多い。旧石器時代の[[礫群]]も発見されており、加熱調理施設であったと確認された<ref name="itsu">『国府はいつできたのか』府中市郷土の森博物館</ref>。この時代は[[狩猟]]が主であった。 [[大化の改新]]後、国司が東国に派遣された際、[[武蔵国造]]の根拠地の[[さいたま市|大宮]]を避け、比較的早くから屯倉が設置され<ref>『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社2002年)p1072〈府中市〉</ref>、古来交通に産業に重要な役割を受持った玉川中流域に面する<ref>『東大寺と国分寺 日本歴史新書』(石田茂作著 至文堂 1968年) p63</ref> 府中の地に[[武蔵国]]の[[国府]]が置かれた。国府は[[大國魂神社]]付近であり、発掘調査によって神社東隣に[[国衙]]の一部と推定される遺跡を発見、市がその土地を買い取り公開されている。武蔵国の国衙は、8世紀前葉期に建設された事が明らかになってきた<ref name="itsu"/>。武蔵国の[[国分寺]]は国府から約2km、現在の[[国分寺市]]内に置かれ、古代の[[東山道武蔵路]]は武蔵国府から北上する官道であった。北に向かい川越へ至る「川越道」、鎌倉へ至る「相州道」が南へ続くなど、南北の道路が発達していた。平安時代中期まで武蔵国の中心として機能した。 {{seealso|武蔵国}} === 中世 === 鎌倉幕府の時代は、古文書の中から重要拠点として記載され、中世の[[鎌倉街道|鎌倉街道上道]]が市内を通る。現在も一部が残り、同名称の街道が併存、[[新田義貞]]と鎌倉幕府軍が争った戦場も残る(1333年、[[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]])。[[まいまいず井戸]]も発見されており、ハケ上に水をもたらし、畑作も行われていた。 === 近世 === [[江戸時代]]には[[甲州街道]]沿いが整備されて鎌倉街道との交差点周辺を中心とした[[宿場町]]として栄えた。周辺の大部分は[[天領]]で、[[川崎定孝|川崎定孝(平右衛門)]]による開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んになる。かつての南北に走る道路にかわり、東西に走る道路が中心となっていく。 {{seealso|府中宿 (甲州街道)}} [[明治時代]]には[[北多摩郡]]の郡役所が置かれるなど、中核地を担った。[[大正時代]]には複数の鉄道が、昭和には、[[日本製鋼所東京製作所]]、東芝府中事業所、日本小型飛行機(株)など相次ぐ設置、軍の施設(府中基地)が置かれ多摩村の一部に掛かる飛行場設置など、かつて盛んであった農業の割合より工業・商業が増えて現代の府中を形作っていった。 === 現代 === [[ファイル:Fuchu.intelligent.park.nikko2.jpg|thumb|[[日本製鋼所東京製作所]]跡地、府中インテリジェントパーク(Jタワー)周辺。日鋼町。]] 第二次大戦後[[1950年代]]以後に宅地開発が進み、行政機関、[[都立]]病院を含む多くの大病院、日銀を代表とする各銀行の計算センター、大企業の研究開発所および工場の集積も相まって人口が急増し、東京都の拠点都市として発展し続けている。 === 年表 === ==== 古代 - 明治以前 ==== *[[旧石器時代]](約3万年前):武蔵野段丘に居住が始まる(武蔵台遺跡)。 *[[縄文時代]](約4000年前):低地や川沿いに村が出来る(大國魂神社裏遺跡・武蔵野公園遺跡・清水が丘遺跡)。 *[[645年]]:[[大化の改新]]に伴い、[[武蔵国]]の[[国府]]が府中に置かれる。 *[[1590年]]:府中宿本町に[[御殿御茶屋|府中御殿]]造営 *[[1602年]]:[[甲州街道]]が整備され、[[府中宿 (甲州街道)|府中宿]]が置かれる。 ==== 明治時代 - 太平洋戦争終戦 ==== *[[1868年]]:[[韮山県]]設置、市域の南西部が県域になる。残りは[[武蔵知県事]]所管となる。 *[[1869年]]:[[品川県]]設置、市域の南西部を除き、県域となる。 *[[1871年]]:[[廃藩置県]]により順次翌年までに[[神奈川県]]に編入。 *[[1878年]]:[[多摩郡]]が分割され、市域は[[北多摩郡]]域となり、北多摩郡役所が府中の番場宿に置かれる。 *[[1880年]]:市域中心部の4町(新宿町、[[府中本町駅#駅名の由来|本町]]、番場宿町、八幡宿町)と屋敷分村が合併して「府中駅」となる。 *[[1889年]]:市域東部の8村が合併して多磨村に、西部3村が合併して西府村になる。府中駅が名称を変えずに町制施行([[1893年]]に東京府への移管と同時に府中町となる)。 *[[1893年]]:[[多摩地域|三多摩]](北多摩、南多摩、西多摩)郡が[[東京府]]に移管された。 *[[1910年]]:東京砂利鉄道(後の[[日本国有鉄道|国鉄]][[下河原線]])開通。 *[[1913年]]:電話開通。 *[[1916年]]:[[京王電鉄|京王電気軌道]](現:[[京王線]]の一部)開通。 *[[1922年]]:[[多摩鉄道]](現:[[西武多摩川線]])開通。 *[[1925年]]:[[京王電鉄|玉南電気鉄道]](現:京王線の一部)開通。 *[[1929年]]:[[太平洋不動産|南武鉄道]](現:[[東日本旅客鉄道|JR]][[南武線]])開通。 *[[1933年]]:[[東京競馬場]]開場([[目黒競馬場]]が[[目黒区]]より移転したもの) *[[1943年]][[7月1日]]:東京府が[[東京都]]となる。 ==== 終戦 - 1990年代 ==== *[[1954年]][[4月1日]]:[[府中町 (東京都)|府中町]]、[[多磨村]]、[[西府村]]の合併により市制施行(東京都内の市部で6番目)。 *[[1955年]] **[[京王競馬場線]]開通。 **[[平和島競艇場]]での開催施行者となる。 **[[多摩市|多摩村]]連光寺のうち、[[多摩川]]北岸の地区(下川原地区、現在の[[南町 (東京都府中市)|南町]]の一部)を編入。 *[[1956年]]:[[国道20号]]バイパス(新甲州街道) [[東府中駅|東府中]] - 本宿間開通。 *[[1961年]]:国道20号バイパス 東府中 - [[調布市|調布]]間開通。 *[[1965年]]:武蔵台4丁目を[[国分寺市]]へ編入(現在の[[西恋ヶ窪]]、[[日吉町 (国分寺市)|日吉町]]の各一部) *[[1968年]][[12月10日]]:[[三億円強奪事件]]発生(栄町)。 *[[1973年]]:国鉄(当時)[[武蔵野線]]開通。これに伴い[[下河原線]]旅客輸送は[[廃線|廃止]]。 *[[1991年]]:[[府中の森芸術劇場]]を開館 *[[1992年]]:府中インテリジェントパーク(Jタワー)完成 *[[1993年]]:生涯学習センターを開館 *[[1995年]]:[[稲城大橋]]有料道路が開通 *[[1996年]]:[[伊勢丹府中店]]・フォーリス・府中駅南口のペデストリアンデッキがオープン *[[1998年]]:[[東京都道20号・神奈川県道525号府中相模原線|府中四谷橋]]の開通 ==== 2000年代以降 ==== *[[2000年]]:府中市美術館を開館 *[[2004年]]:環境美化推進地区と喫煙禁止路線を指定 *[[2006年]]:税務署跡にいきいきプラザを開館 *[[2007年]] ** ルミエール府中を開館 **[[景観行政団体]]となる(都内では2番目) *[[2008年]] ** 府中市[[景観法|景観条例]]を施行 ** 「国指定天然記念物 馬場大門のケヤキ並木 保護管理計画」を策定(国の天然記念物に指定されたケヤキ並木は日本唯一) *[[2009年]] ** JR南武線[[西府駅]]開業 **[[武蔵国府跡]](大國魂神社境内、武蔵国衙跡)が国の史跡に指定 ** 馬場大門けやき並木が東京都から府中市に移管 ** 景観ガイドライン(屋外広告物)運用開始(都内初) ** 国府祭[[パレード]](第1回「こくふロマン交流祭」)開催 *[[2011年]] ** 府中市[[暴力団排除条例]]を施行(都内市部初) ** 府中市郷土の森物産館(府中市観光物産館)を開館 *[[2016年]] **[[小室哲哉]]を「東京多摩振興 特命 武蔵国 府中大使」<ref>[https://www.musicvoice.jp/news/54221/ Music Voice] 小室哲哉が武蔵国府中大使に任命「文化都市になるよう」。木根尚登もアドバイザーに任命。</ref><ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201612/CK2016120902000162.html 東京新聞] 小室哲哉さんが府中大使に 五輪見据え「世界的音楽イベント開きたい」</ref> に任命。 *[[2017年]] ** 国史跡武蔵国府跡(国司館地区)保存活用整備工事(第1期)着手<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/kekaku/kekaku/bunka/jisshisekkei.html 府中市] 国史跡武蔵国府跡(国司館地区)保存活用整備工事(第1期)実施設計</ref> ** 東京都課長の土橋秀規を2人目の副市長に選任 ** 7月14日:大型複合施設「[[武蔵府中ル・シーニュ]]」の竣工<ref>{{Cite web|和書|title=施設概要|url=https://lesigne.jp/outline/|website=【公式】武蔵府中 LE SIGNE [ル・シーニュ]|accessdate=2020-06-20|publisher=}}</ref> により、[[府中駅南口市街地再開発事業計画]]が完了。 ** 9月1日:新学校給食センター稼働<ref>{{Cite web|和書|title=食べておいしい!見てたのしい!学校給食センター|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kirari/special/kyusyokucenter.html|website=東京都府中市ホームページ|accessdate=2020-06-20|publisher=}}</ref>(国内最大規模) ** 府中市出身の[[代官]]・[[川崎定孝|川崎平右衛門]]の没後250年記念事業を開催 * 2020年 ** 6月2日:市が発注した、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会|東京オリンピック]]の[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]会場となる「浅間町1丁目地内道路新設工事」、[[多摩川]]沿いの[[公園]]「四谷さくら公園(2期)拡張整備工事<ref>{{Cite web|和書|title=四谷さくら公園拡張部分(2期)を開園します|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisetu/kankyo/koen/yotsuyasakura_kaien.html|website=東京都府中市ホームページ|accessdate=2020-06-20|publisher=|date=2020-02-03}}</ref>」の2つの工事において[[カルテル|官製談合]]があったとして、[[入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律|官製談合防止法]]違反の容疑で都市整備部の市職員1名と市議会議員2名などが逮捕され、市役所本庁舎・第2庁舎に[[警視庁]]の[[捜索|家宅捜索]]が入った<ref>{{Cite web|和書|title=府中市職員の逮捕について(お詫び)|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/mayor/shokuin_owabi.html|website=東京都府中市ホームページ|accessdate=2020-06-20|publisher=2020-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=本市職員逮捕を受けた記者会見|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/mayor/kisyakaiken0602.html|website=東京都府中市ホームページ|accessdate=2020-06-20|publisher=|date=2020-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/mayor/kisyakaiken0602.files/kaiken_youshi.pdf|title=府中市職員逮捕を受けた市長会見要旨|accessdate=2020-06-20|publisher=東京都府中市ホームページ|date=2020-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=府中談合事件 市に衝撃「誠に遺憾」 幹部職員ら逮捕 市長が陳謝:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/32926|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2020-06-20|language=ja|publisher=|date=2020-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【ニュースルーペ】府中市官製談合逮捕1週間 市議ら執拗に漏洩迫ったか|url=https://www.sankei.com/affairs/news/200609/afr2006090033-n1.html|website=産経ニュース|date=2020-06-09|accessdate=2020-06-20|language=ja|first=|last=|publisher=}}</ref>。 {{Main|府中市議会 (東京都)#不祥事|高野律雄#不祥事}} == 地域 == === 地域環境 === [[ファイル:Koremasa Bridge-20120721.jpg|thumb|right|200px|[[多摩川]]の河原]] [[ファイル:Pond in Kyodo no Mori Museum.JPG|thumb|right|200px|[[府中市郷土の森博物館]]]] [[ファイル:Musashikokufuato 20191005.jpg|thumb|right|200px|再現された[[武蔵国府跡#国司館地区|武蔵国府国司居館]]]] [[ファイル:Baba-Daimon-Keyaki-Namiki North autumn.jpg|thumb|right|200px|[[馬場大門のケヤキ並木]]]] [[ファイル:Fuchu-Koen-Dori in Fuchu Tokyo Japan.jpg|thumb|right|200px|府中公園通り]] [[ファイル:Tokyo-Racecourse aerial 1989.jpg|thumb|right|200px|[[東京競馬場]]周辺]] * 市の中央部は[[府中駅 (東京都)|府中駅]]を中心に、[[フォーリス]]、[[くるる (東京都府中市)|くるる]]、[[武蔵府中ル・シーニュ]]といった大型施設も立ち並ぶ商業地域<ref>[[府中駅南口市街地再開発事業計画]]による。</ref> となっている。西口は[[馬場大門のケヤキ並木]]から神社周辺の大木が立ち並ぶなど緑が多い。建後多年を経過しつつも設備の充実している市役所は上記けやき並木の南側、神社境内の緑の多い場所に隣接しており、総合医療施設や最新の中央図書館、消防署、府中警察署等は、府中駅より北側に位置している。 * 中心地より少し西側に移ると、[[日本製鋼所東京製作所]]跡地を利用した府中インテリジェントパークがあり、[[日本銀行]]を筆頭に各種金融機関の事務センターが並ぶ。そのすぐ北側に[[東芝府中事業所]]があり、さらに進むと北部には武蔵台緑地に接して[[東京都立多摩総合医療センター]]など病院が集中している。 * 市の南端には[[一級河川]]の[[多摩川]]が流れており、[[府中市郷土の森博物館]]、[[府中市郷土の森公園]](運動施設、遊園、公園など)が広がる。また、[[多摩川サイクリングコース]]が整備されており自転車愛好家の利用も多い。さらに西側に進むと田園地帯が残る。多摩川近隣は、かつて[[砂利]]の採取が盛んであり、[[西武多摩川線]]や旧[[下河原線]]などは、その搬出のために敷設された鉄道で、[[多摩川競艇場]]は採取所の跡地である。 * 市の東部に、旧[[関東村]](元[[陸軍]]・[[関東軍]]の[[軍用飛行場]]。戦後は[[アメリカ合衆国軍|米軍]]の[[キャンプ]])跡地が[[調布市]]、[[三鷹市]]に跨がって広がり、近年、跡地利用が始まった。[[東京外国語大学]]や調布市域の[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]はその一例である。武蔵野の森公園はここにある。 * [[浅間山 (東京都)|浅間山]]を挟み、やや中心近くに[[航空自衛隊]][[府中基地]]、[[航空総隊]]司令部がある。これも[[アメリカ合衆国軍|米軍]][[基地]]としても使われていた所である。司令部のため、現業部門は無い。一部米軍基地の跡地が30年以上手付かずのまま残っている。 * 北東部には[[府中運転免許試験場]]がある。[[東八道路]]を挟んで広大な[[東京都立多磨霊園]]がある。 * 自然環境面では、標高約80mの浅間山(前記)があり、草花が雑木林で覆われている。5月中旬には、絶滅危惧種[[ムサシノキスゲ]]の唯一の自生地として黄色い花が咲く。ここは[[浅間山公園]]として整備され、散策し易くなっている。 * 浅間山を中心に東部には[[武蔵野の森公園]]、少し市の中心地側には[[府中の森公園]]がある。市の北側方面には[[武蔵野公園]]があり、崖線部分には自然のままの[[雑木林]]が古の武蔵野の面影として残っている。 * 企業は市の西部に[[東芝]]、[[日本電気]]、市の南部に[[サントリー]]、[[キユーピー]]、[[東京競馬場]]、[[多摩川競艇場|ボートレース多摩川]]、[[読売新聞東京本社]]、東京多摩郵便局(多摩地域の集配拠点)など多数ある。 * 上記以外は概ね宅地である。大規模な団地としては、北部に晴見町団地、北西部に日鋼団地、南東部に住宅公団(現:[[都市再生機構]])[[車返団地]]がある。 === 文化財・遺跡など === [[国府]]所在地の面影を残し、由緒ある[[祭り]]や神社などが残ると共に、国指定・都指定・市指定文化財が多くある<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/fuchusinogaiyo/bunka/siteibunkazai.html 府中市] 指定文化財 [http://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/fuchusinogaiyo/bunka/siteibunkazai.files/Cultural_assets_2014M.pdf] 2017年2月閲覧</ref>。 * [[大國魂神社]] *: 別名・六所宮と称される東京五社の一つ。参道にあたる[[馬場大門のケヤキ並木]]が国の天然記念物、本殿が東京都指定有形文化財(建造物)、木造狛犬が国の[[重要文化財]](彫刻)に指定、木彫仏像五体、古鏡四面、古写本三種は[[重要美術品]]に認定されている。5月の連休に実施される例大祭([[くらやみ祭り]])は東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)。関東三大奇祭の一つであり特に有名。 * [[武蔵府中熊野神社古墳]] - 国の史跡 * 武蔵国分寺参道口跡 - 国の史跡(「武蔵国分寺跡」の一部) * [[武蔵国府跡]] - 国の史跡 ** [[国司]]館跡 ** [[徳川家康]]府中御殿跡([[御殿御茶屋]]) * [[馬場大門のケヤキ並木]] - 奈良時代〜平安時代 国の天然記念物 * 鉄造阿弥陀如来坐像、鉄造阿弥陀如来立像(善明寺) - 国の重要文化財 * 銅造阿弥陀如来立像(上染屋八幡神社)<ref>{{Cite Journal|和書|author=[[齊藤経生]]|title=多摩のみほとけ 29 府中市上染屋八幡神社 銅造阿弥陀如来立像|pages=84-85|journal=多摩のあゆみ|issue=166|publisher=[[たましん地域文化財団]]|year=2017|issn=09139680|ref=harv}}</ref> - 国の重要文化財 * 南部家文書(個人蔵) - 国の重要文化財 * 薙刀 無銘一文字(個人蔵) - 国の重要文化財 * 武蔵府中の太鼓講の習俗 - 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 * 東京農工大学農学部本館 - 登録有形文化財 * 紙本墨書後柏原天皇宸翰御詠草(個人蔵) - 重要美術品 * 都指定文化財 - 分倍河原古戦場、府中[[高札場]]、[[井田是政]]墓、人見原古戦場、浅野長政隠棲の跡、川崎定孝墓、木曽源太郎墓、依田伊織墓、西園寺実満墓、大國魂神社本殿、蓮華形磬、旧府中町役場庁舎、双盤念仏、旧三岡家長屋門、[[三千人塚]] * 府中囃子(目黒流・船橋流) - 郷土芸能 * 本宿一里塚跡 - 府中市指定文化財 * 市内白糸台の調布飛行場には、[[戦争遺跡]]となっている戦闘機を格納するため造られた[[掩体壕]](えんたいごう)が残っている。 * [[東京農工大学]]農学部本館 - 国の登録有形文化財 * 武蔵府中の太鼓講の習俗 - 国選択記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財 * [[武蔵台遺跡]] - 武蔵国分寺跡西方地区、[[後期旧石器時代]] * [[武蔵野公園遺跡]] - [[後期旧石器時代]] * [[府中市No.29遺跡]] - [[後期旧石器時代]] == 町名== 府中市では、[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されていないため、土地地番を整えて付け直す[[地番#地番整理|地番整理]]による地番となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/tetuduki/sonota/zyuusyo-hyouzi.html |title=住所の表示について |publisher=府中市 |accessdate=2020-01-26 }}</ref>。 ===府中市役所管内=== {|class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+府中市役所管内(106町丁) !style="width:14%"|町名 !style="width:12%"|設置年月日 !style="width:12%"|住居表示実施年月日 !style="width:32%"|住居表示実施直前の町名 !style="width:18%"|備考 |- |{{ruby|'''[[多磨町]]'''|たまちょう}}'''一丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''多磨町二丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''多磨町三丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''多磨町四丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[朝日町 (東京都府中市)|朝日町]]'''|あさひちょう}}'''一丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''朝日町二丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''朝日町三丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[紅葉丘]]'''|rowspan=3 |もみじがおか}}'''一丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''紅葉丘二丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''紅葉丘三丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[白糸台]]'''|rowspan=6 |しらいとだい}}'''一丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''白糸台二丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''白糸台三丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''白糸台四丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''白糸台五丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''白糸台六丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[押立町]]'''|rowspan=6 |おしたてちょう}}'''一丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''押立町二丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''押立町三丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''押立町四丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''押立町五丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |'''押立町六丁目''' |1963年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[小柳町 (東京都府中市)|小柳町]]'''|rowspan=6 |こやなぎちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''小柳町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''小柳町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''小柳町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''小柳町五丁目''' | |未実施 | | |- |'''小柳町六丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[若松町 (東京都府中市)|若松町]]'''|rowspan=5 |わかまつちょう}}'''一丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町二丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町三丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町四丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |'''若松町五丁目''' |1964年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[浅間町 (東京都府中市)|浅間町]]'''|rowspan=4 |せんげんちょう}}'''一丁目''' |1962年4月1日 |未実施 | | |- |'''浅間町二丁目''' |1962年4月1日 |未実施 | | |- |'''浅間町三丁目''' |1962年4月1日 |未実施 | | |- |'''浅間町四丁目''' |1962年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[天神町 (東京都府中市)|天神町]]'''|rowspan=4 |てんじんちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''天神町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''天神町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''天神町四丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[新町 (東京都府中市)|新町]]'''|rowspan=3 |しんまち}}'''一丁目''' |1960年4月1日 |未実施 | | |- |'''新町二丁目''' |1960年4月1日 |未実施 | | |- |'''新町三丁目''' |1960年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[幸町 (東京都府中市)|幸町]]'''|rowspan=3 |さいわいちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''幸町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''幸町三丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[府中町 (東京都府中市)|府中町]]'''|rowspan=3 |ふちゅうちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''府中町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''府中町三丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[緑町 (東京都府中市)|緑町]]'''|rowspan=3 |みどりちょう}}'''一丁目''' |1989年4月1日 |未実施 | | |- |'''緑町二丁目''' |1989年4月1日 |未実施 | | |- |'''緑町三丁目''' |1989年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[宮町 (東京都府中市)|宮町]]'''|rowspan=3 |みやまち}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮町三丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[八幡町 (東京都府中市)|八幡町]]'''|rowspan=3 |はちまんちょう}}'''一丁目''' |1961年3月1日 |未実施 | | |- |'''八幡町二丁目''' |1961年3月1日 |未実施 | | |- |'''八幡町三丁目''' |1961年3月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[清水が丘]]'''|rowspan=3 |しみずがおか}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''清水が丘二丁目''' | |未実施 | | |- |'''清水が丘三丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[分梅町]]'''|rowspan=5 |ぶばいちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''分梅町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''分梅町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''分梅町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''分梅町五丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[住吉町 (東京都府中市)|住吉町]]'''|rowspan=5 |すみよしちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''住吉町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''住吉町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''住吉町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''住吉町五丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[四谷 (東京都府中市)|四谷]]'''|rowspan=6 |よつや}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''四谷二丁目''' | |未実施 | | |- |'''四谷三丁目''' | |未実施 | | |- |'''四谷四丁目''' | |未実施 | | |- |'''四谷五丁目''' | |未実施 | | |- |'''四谷六丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[日吉町 (府中市)|日吉町]]'''|ひよしちょう}} | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[是政]]'''|rowspan=6 |これまさ}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''是政二丁目''' | |未実施 | | |- |'''是政三丁目''' | |未実施 | | |- |'''是政四丁目''' | |未実施 | | |- |'''是政五丁目''' | |未実施 | | |- |'''是政六丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[矢崎町]]'''|rowspan=5 |やざきちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''矢崎町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''矢崎町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''矢崎町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''矢崎町五丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[南町 (東京都府中市)|南町]]'''|rowspan=6 |みなみちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''南町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''南町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''南町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''南町五丁目''' | |未実施 | | |- |'''南町六丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[本町 (東京都府中市)|本町]]'''|rowspan=4 |ほんまち}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''本町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''本町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''本町四丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[片町 (東京都府中市)|片町]]'''|rowspan=3 |かたまち}}'''一丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''片町二丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''片町三丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[宮西町 (東京都府中市)|宮西町]]'''|rowspan=5 |みやにしちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮西町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮西町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮西町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''宮西町五丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[寿町 (東京都府中市)|寿町]]'''|rowspan=3 |ことぶきちょう}}'''一丁目''' |1959年4月1日 |未実施 | | |- |'''寿町二丁目''' |1959年4月1日 |未実施 | | |- |'''寿町三丁目''' |1959年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[日鋼町]]'''|にっこうちょう}} | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[晴見町]]'''|rowspan=4 |はるみちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''晴見町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''晴見町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''晴見町四丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[栄町 (東京都府中市)|栄町]]'''|rowspan=3 |さかえちょう}}'''一丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''栄町二丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''栄町三丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[武蔵台 (東京都府中市)|武蔵台]]'''|rowspan=3 |むさしだい}}'''一丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''武蔵台二丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |'''武蔵台三丁目''' |1961年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[北山町 (東京都府中市)|北山町]]'''|rowspan=4 |きたやまちょう}}'''一丁目''' |1965年4月1日 |未実施 | | |- |'''北山町二丁目''' |1965年4月1日 |未実施 | | |- |'''北山町三丁目''' |1965年4月1日 |未実施 | | |- |'''北山町四丁目''' |1965年4月1日 |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[西原町 (東京都府中市)|西原町]]'''|rowspan=4 |にしはらちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''西原町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''西原町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''西原町四丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[東芝町]]'''|とうしばちょう}} | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[美好町]]'''|rowspan=3 |みよしちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''美好町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''美好町三丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[日新町 (東京都府中市)|日新町]]'''|rowspan=5 |にっしんちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''日新町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''日新町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''日新町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''日新町五丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[本宿町 (東京都府中市)|本宿町]]'''|rowspan=4 |ほんしゅくちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''本宿町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''本宿町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''本宿町四丁目''' | |未実施 | | |- |{{ruby|'''[[西府町]]'''|rowspan=5 |にしふちょう}}'''一丁目''' | |未実施 | | |- |'''西府町二丁目''' | |未実施 | | |- |'''西府町三丁目''' | |未実施 | | |- |'''西府町四丁目''' | |未実施 | | |- |'''西府町五丁目''' | |未実施 | | |- |} == 人口 == 東京都25市の中で3番目の人口である。 {{人口統計|code=13206|name=府中市|image=Population distribution of Fuchu, Tokyo, Japan.svg}} 高齢化率20.9%(全国平均25.9%)、子供の割合18.5%(全国平均17.7%)<ref name="furusato">[https://www.furusato-tax.jp/japan/prefecture/usage/13206 urusato-tax] 総務省のデータを元に算出</ref> ===昼夜間人口=== 2010年に夜間人口(居住者)は255,506人であるが、市外からの[[通勤]]者と[[通学]]生および居住者のうちの市内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は246,380人で[[昼]]は[[夜]]のおよそ0.964倍の人口になる<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2010』https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tyukanj/2010/tj-10index.htm 区市町村別 八王子市、立川市、武蔵野市、三鷹市、青梅市、府中市、昭島市、調布市、町田市、小金井市、小平市、日野市、東村山市の項目より。</ref>。通勤者・通学生で見ると市内から市外へ出る通勤者65,001人、市外から市内へ入る通勤者は59,555人と通勤者では市外への通勤者の方がやや多く、また学生でも市外から市内へ入る通学生は7,229人で市内から市外に出る通学生10,942人と学生でも昼は市外へ流出する<ref>東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行148,149ページ</ref>。国勢調査では年齢不詳の者が東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては[[年齢]]不詳の人物は数字に入っていないため数字の間に誤差は生じる。 == 行政 == 一般会計予算額927億1000万円(特別会計を含む予算総額1653億400万5千円)<ref>府中市「広報ふちゅう」[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/zaise/yosan/yosannnogaiyou.files/20130401.pdf 平成25年度予算の概要4頁目]</ref>。 平成20年度連結経常行政コスト1890億円(334,000円/市民)、収支△809億円。期末純資産残高4641億円(期間変動88億円)<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/saishinkoho/files/100111kouho.pdf 広報ふちゅう] 2009年1月11日版{{リンク切れ|date=2015年2月}}</ref>。 歳入における地方交付税の割合0.1%(全国平均16.5%)<ref name="furusato"/>。 === 市長 === * [[高野律雄]](たかの・のりお)。[[2012年]][[2月10日]]就任。3期目。任期満了日は[[2024年]][[2月9日]]。 === 歴代町長 === * [[岩崎秀三郎]] 1889年5月以前 * [[比留間雄亮]] 1889年5月-1891年5月 * [[石坂信次郎]] 1891年6月-1897年4月 * [[矢島次郎左衛門]] 1897年4月-1900年5月 * 石坂信次郎 1900年5月-1904年5月 * [[吉本則道]] 1904年5月-1905年12月 * [[桑田佑凞]] 1905年12月-1906年8月 * [[芦川六蔵]] 1905年12月-1906年8月 * 石坂信次郎 {{#tag:ref|1905年12月-1906年8月まで以上の3人が町長を務めていた。|group="注釈"|name="Douzi3ninn"}} * [[内藤次左衛門]] 1906年8月-1907年12月 * 石坂信次郎 1907年12月-1911年12月 * [[関田嘉左衛門]] 1911年12月-1912年10月 * [[大津富蔵]] 1912年10月-1916年10月 * [[桑田英之助]] 1916年11月-1928年11月 * [[小川純一]] 1928年11月-1932年年7月 * [[小川喜太郎]] 1932年9月-1936年9月 * [[桑田佑栄]] 1936年9月-1940年9月 * [[矢島健吉]] 1940年9月-1943年8月 * [[大津捷二]] 1944年1月-1946年11月 * [[森谷森三]] 1947年4月-1951年4月 * [[小林茂一郎]] 1951年4月-1954年3月 ==== 歴代市長 ==== * 小林茂一郎 [[1954年]] 4月- [[1962年]]3月 * [[矢部隆治]] 1962年4月- [[1979年]]12月21日 * [[吉野和男]] [[1980年]]2月10日 - [[2000年]]2月 * [[野口忠直]] [[2000年]]2月 - [[2012年]]2月 === 市環境 === * 市の環境方針を制定 - 2001年9月1日 ** 環境マネジメントマニュアルを制定 - 2001年11月8日 ** [[国際標準化機構|国際標準規格]][[ISO 14001]]の認証を取得 - 2002年2月22日 ** 市職員「エコ・アクションプラン」による[[環境負荷]]低減行動。 * 「府中市まちの環境美化[[条例]]」が[[施行]] - 2004年4月1日 ** すべての人に、公共の場所での禁止行為を指定 ** 事業者への禁止行為を指定 ** [[環境]]美化推進地区を設置。自治会、商店会、法人と美化協定締結と自主的環境美化運動の推進。 ** [[喫煙]]禁止路線を指定。パトロール活動。 ** 環境美化に貢献した人や団体に対して顕彰 * 水と緑のネットワーク形成 * 環境保全 ** 地球温暖化対策地域推進計画。太陽光発電システムの設置支援。 * [[景観行政団体]]となる * 府中市[[景観法|景観条例]]を施行 - 2008年 * 景観ガイドライン策定 - 2009年 ** 屋外広告物編・色彩編・緑化編 * 府中市地区計画の区域内における緑地の保全と緑化の推進に関する条例 * 府中市[[暴力団排除条例]]{{refnest|group="注釈"|東京都内初。府中市が締結する公共工事の請負契約、売買。刑務所からの出所者に対する出迎え、興行など<ref>http://www1.tama5cci.or.jp/chamber/admin/topics/pdfTemp/20111003153926.pdf{{リンク切れ|date=2021年11月}}</ref>。}} === 健康 === * 府中市保健計画「健康ふちゅう21」 ** たばこ ** 飲酒 ** 歯と口腔の健康 - 8020運動 ** 健康の自己管理 - みんなでめざせ 元気体重! ** 栄養・食生活 ** 身体活動・運動 ** ストレス ** 地域活動と生きがいづくり === 防犯・防災 === * 「府中市市民生活の安全確保に関する条例」の制定 ** 防犯ガイドマップを配布 ** 防犯情報を発信 ** 防犯パトロールを実施 ** 繁華街などに街頭防犯カメラを設置 ** 犬のお散歩パトロール事業 * 市内タクシー業者との協力 * 水防・防災ステーション * 防災公園 * 防災行政無線放送 * お知らせメール * 緊急速報メール * 市内防犯カメラ(通学路など) === 広報 === 新聞の折り込み、希望宅への配布、設置された配布場所、ホームページなどから入手する事が出来る。 * 広報府中<ref name="koho">[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/kohoshi/saishinkoho.html 府中市] 広報</ref> * けやきっ子<ref name="koho" /> * [https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gikai/dayori/dayorisaishin.html 市議会だより] * [https://twitter.com/fuchu_tokyo 府中市 Twitter] * [https://twitter.com/fuchukoma ふちゅこま Twitter] * [https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/mailhaisin/mailhaisin.html 府中市メール配信サービス] * 観光情報センター(東京観光案内窓口併設) * 国分寺・府中観光アプリ「ぶらり国・府」[https://play.google.com/store/apps/details?id=travel.itours.kokufu&hl=ja] * [https://www.youtube.com/user/fuchucitytokyo/ Youtube 東京都府中市チャンネル] * テレビ広報「まるごと府中」J:COMチャンネル(11チャンネル) * [https://mystery-city-fuchu.jp/ Fuchu Official Visitor Guide] * [https://mystery-city-fuchu.jp/ Fuchu City Tourism PR] === マスコットキャラクター === * ふちゅこま - 大國魂神社の重要文化財である狛犬を由来とし、一対が存在する。自治体ゆるキャラ初のホリプロ[[タレント]] * 古都見ちゃん - 府中観光協会のイメージキャラクター * フーちゃん - 府中市商店街連合会のキャラクター 歴史ある行事の馬がモチーフ<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kirari/special/character.html 府中のキャラクターが大集合 - 府中市役所]</ref> * ピースター - 主催するボートレース平和島のキャラクター。 == 議会 == === 府中市議会 === {{Main|府中市議会 (東京都)}} * 定数:30人 現員:28人 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.senkyo.metro.tokyo.lg.jp/election/schedule/expiration/ |title=任期満了日(定数)一覧 &#x7C; 東京都選挙管理委員会|publisher=東京都選挙管理委員会|date=2019-12-09|accessdate=2019-12-28}}</ref> * 議長:村崎啓二(府中市議会市民フォーラム)(2021年5月17日就任)<ref name=kosei>{{Cite news |url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gikai/dayori/backnumber/r3/305.files/305_Part1.pdf |title=市議会の構成が決まる |newspaper=ふちゅう市議会だより |date = 2021-05-26 |publisher=府中市議会 |accessdate=2021-10-30 }}</ref> * 副議長:西村 陸(公明府中)(2021年5月17日就任)<ref name=kosei/> {|class="wikitable" |+ 会派別名簿(2021年6月17日現在)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fussa.tokyo.jp/assembly/1008639/1008641.html |title=会派 |publisher=府中市議会 |accessdate=2021-10-30}}</ref> !会派名!!議席数!!議員名(◎は代表者) |- |府中市議会市政会||style="text-align: right;"|7||◎比留間利蔵、佐藤新悟、秋山敏行、松村祐樹、増山明香、横田実、市川一徳 |- |府中市議会市民フォーラム||style="text-align: right;"|6||◎西宮幸一、前川浩子、清水勝、稲津憲護、村崎啓二、手塚歳久  |- |[[公明党|公明]]府中||style="text-align: right;"|5||◎福田千夏、高津みどり、西村陸、奈良崎久和、遠田宗雄 |- |[[日本共産党]]府中市議団||style="text-align: right;"|2||◎赤野秀二、竹内祐子        |- |[[東京・生活者ネットワーク|生活者ネットワーク]]||style="text-align: right;"|2||◎西埜真美、奥村幸子 |- |自由クラブ||style="text-align: right;"|2||◎杉村康之、備邦彦 |- |府中市議会[[都民ファーストの会]]||style="text-align: right;"|1|| 渡辺将 |- |市民の風||style="text-align: right;"|1|| 結城亮 |- !計!! style="text-align: right;" | 26 !! |} === 東京都議会 === ;2021年東京都議会議員選挙 * 選挙区:府中市選挙区 * 定数:2人 * 任期:2021年7月23日 - 2025年7月22日 * 投票日:2021年7月4日 * 当日有権者数:213,225人 * 投票率:38.21% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考 |- | 小山有彦 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 45 || [[無所属]] || style="text-align:center" | 現 || 41,037票 |- | 鈴木錦治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 65 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 23,335票 || 2023年6月18日死去 |- | 柄澤地平 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 32 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 15,329票 |} ;2017年東京都議会議員選挙 * 選挙区:府中市選挙区 * 定数:2人 * 任期:2017年7月23日 - 2021年7月22日 * 投票日:2017年7月2日 * 当日有権者数:209,438人 * 投票率:50.72% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 小山有彦 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 41 || [[都民ファーストの会]] || style="text-align:center" | 現 || 38,381票 |- | 藤井晃 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 35 || 都民ファーストの会 || style="text-align:center" | 新 || 27,697票 |- | 鈴木錦治 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 61 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 24,959票 |- | 柄澤地平 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 28 || [[日本共産党]] || style="text-align:center" | 新 || 13,502票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[東京都第18区|東京18区]] ([[武蔵野市]]・[[小金井市]]・府中市) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:444,924人 * 投票率:59.86% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[菅直人]] || align="center" | 75 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 前 || 122,091票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || [[長島昭久]] || align="center" | 59 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 115,881票 || align="center" | ○ |- | || 子安正美 || align="center" | 71 || [[無所属]] || align="center" | 新 || align="right" | 21,151票 || |} == 公共機関 == === 市の出張所 === 府中駅北第2庁舎、市政情報センター(武蔵府中ル・シーニュ内)、東部出張所(白糸台文化センター内)、西部出張所(西府文化センター内) === 警察 === * [[警察庁]][[警察大学校]] - 警察庁の研修施設。 * [[警視庁]][[運転免許]]本部・[[府中運転免許試験場]] - 東京都内の3つの試験場のうちの一つであり、市北東部の[[多磨霊園]]北側に所在する。 * [[警視庁警察学校]] - 警視庁警察官を育成。 * 警視庁第七[[機動隊]] - [[警視庁警備部]]の[[執行隊]]。 * [[府中警察署 (東京都)|警視庁府中警察署]] - 管轄地域は市域すべて。同署は[[警視庁#第八方面|警視庁第八方面本部]]の管轄下に置かれる。 === 消防 === 管轄地域は市域すべて。[[東京消防庁]][[東京消防庁第八消防方面本部|第八消防方面本部]]の管轄下に置かれる。[[日本の消防]]は[[市町村]]の責任業務であるが、多摩地域の大半の市町村は[[東京消防庁]]へ消防業務を委託しており、本市もそれに倣っている。 * [[府中消防署 (東京都)|東京消防庁府中消防署]](寿町1-5) ** 分梅出張所(分梅町5-9-7) ** 朝日出張所(朝日町3-13) ** 是政出張所(是政2-12-5) ** 栄町(栄町3-1-4) === 法務省 === * [[東京法務局]]府中支局 * [[府中刑務所]] === 財務省国税庁 === * 東京国税局武蔵府中税務署 === 厚生労働省 === * 東京労働局府中公共職業安定所 === 防衛省・自衛隊 === * [[航空自衛隊]][[府中基地]] * 航空自衛隊[[航空支援集団]][[司令部]] * 航空自衛隊[[航空開発実験集団]]司令部 === 在日米軍 === * [[府中通信施設]]<ref group="注釈">アメリカ第5空軍第374通信中隊。</ref> === 東京都の機関 === * 東京都府中都税支所 * 東京都多摩建築指導事務所 * 東京都多摩府中保健所 * 東京都北多摩南部建設事務所 * 東京都西部住宅建設事務所 * [[東京都下水道局]]流域下水道本部北多摩一号水再生センター === 医療 === [[ファイル:Hospital.fuchu.tokyo.20161122.pdf|thumb|東京都府中市内の医院・診療所位置情報(平成28年11月22日現在) (CSV:36KB)より作成]] * [[東京都立多摩総合医療センター]](東京ER・府中) * [[東京都立小児総合医療センター]] * [[東京都立神経病院]] * 東京都神経科学総合研究所 * 東京都立府中療育センター * 東京都多摩がん検診センター * 公益財団法人日本心臓血圧研究振興会付属[[榊原記念病院]] * 医療法人社団 共済会 共済会櫻井病院 * 医療法人社団 喜平会 奥島病院 * 医療法人社団 大慈会 慈秀病院 * 医療法人社団 恵仁会 府中恵仁会病院 * 医療法人社団 根岸病院 * 医療法人社団 慈敬会 府中医王病院 * 医療法人財団ㅤ赤光会 斎藤病院 府中市提供「市内の病院一覧」csv<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisetu/ichiran/index.files/byouinshinryoujo28.csv 府中市] 市内の病院一覧</ref> ===福祉===<!--外部リンクをしない--> * ちゅうNet * 就労移行支援事業所LITALICOワークス府中 === 郵便 === [[ファイル:Musashi-fuchu.post.office2.jpg|thumb|[[武蔵府中郵便局]]]] * [[武蔵府中郵便局]] - 集配地域は市域すべて。[[日本の郵便番号|郵便番号]]は183が付与されている。 * [[東京多摩郵便局]] - 多摩地域の集配拠点となる郵便局。 === 上水道 === * [[東京都水道局]] === 下水道 === [[ファイル:Japanese Manhole Covers (10925296965).jpg|thumb|マンホール蓋]] * 府中市環境安全部下水道課 * 多摩川左岸北多摩一号流域下水道 * [[東京都下水道局]]北多摩一号水再生センター === ゴミ処理 === * [[多摩地域#ごみ・し尿処理|多摩川衛生組合]] - 稲城、狛江、国立、及び府中市で構成。稲城市大丸にある「[[稲城市#ゴミ処理|クリーンセンター多摩川]]」を運営する。 * [[二枚橋衛生組合]] - 小金井、府中市及び調布市で構成していた。3市に跨る市境に在ったが、施設の老朽化が著しく、[[2007年]][[3月31日]]に全ての焼却炉が停止され、[[2010年]]3月に組合を解散した。 * 収集方式 ** 個別収集方式を2010年2月22日より採用している。それ以前は集積型の大きな「ゴミ箱」(ダストボックス)を市内全域に配置していた。収集方式変更の大きな理由は、ゴミ処理費用の削減として、民間業者への収集委託、市民に対して有料袋の導入であったが、変更後の目標としては、「ゴミ50%削減」と「リサイクル率日本一」を掲げている。市職員は「エコ・アクションプラン」に取り組み、リサイクル商品の利用に努めている。 ** リサイクル回収は定期的に行われている。 ** 粗大ごみ回収は個別申し込み形式である<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/gomirisaikuru/dashikata/sodaigomidasikata.html 府中市] 粗大ごみ</ref>。 かつては市内全域に1万個以上もの集積型の大きな「ゴミ箱」が配置され、他市民がうらやみ多くの自治体も設置するなど、全国に広がっていった<ref name="dounaru">[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/feature/hachioji1200492343616_02/news/20080116-OYT8T00708.htm どうなる府中市 (上)ごみ問題]{{リンク切れ|date=2015年2月}} [[読売新聞社]]、2008年1月17日 「全国で初導入。多くの自治体が追従」</ref>。美化面、無料排出、時間無制限排出の利点があったが、欠点として近隣他市住民が幹線道路沿いの「ゴミ箱」脇に粗大ゴミや無分別を含むをゴミ不法投棄する事件が慢性的に発生し、ゴミ処理費の高止まり、減量の面でも問題が発生した<ref name="dounaru"/>。ゴミ排出量増大、分別不徹底や事業系・市外のゴミの不法投棄を招いているなどの理由により、2010年2月より「ゴミ箱」(ダストボックス)廃止・有料化・個別収集化へ変更した<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/gomirisaikuru/yuryoukakobetusyuusyuu/index.html ごみ収集方法の見直しについて] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110515202834/http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/gomirisaikuru/yuryoukakobetusyuusyuu/index.html |date=2011年5月15日 }} 府中市、2009年7月23日。市民運動から住民投票による採決の話があったが、議会与党議員が住民投票そのものを否決したことにより、議会での採決によって変更が決定した。</ref>。このダストボックスを廃止し戸別収集へ変更した結果、ゴミ処理費用は5年で約3億4千万円の減額。 * 実施内容 ** 1万トンごみ減量大作戦 ** プラスチック類ゴミの不燃物分別収集による資源化促進 ** ゴミの減量(市民マイバッグ持参運動) ** 資源ゴミの回収(瓶・缶・ペットボトル・古布・古紙) ** 集団回収(時期回、PTA等) ** 店頭回収(民間業者の協力) ** 生ごみの資源循環システム ** リサイクル事業(自転車販売) ** 家庭廃食用油・使い捨てライターの収集 ** 使用済みハガキ・手紙の回収 ** 犬猫の死体回収 ** 粗大ゴミの回収 ** 事業用ゴミ回収 ** 府中市、町田市、西東京市と江東区共同による、[[放置自転車]]の[[カンボジア]]寄贈事業 * ごみの減量 市民からの要望によりゴミ袋に5リットルの容量を用意するなど、ゴミの減量に取り組んだ結果、多摩地域の中で第一位で一年間でごみ減量18%を達成<ref>平成22年度実績 ゴミ報誌より。</ref>。 === 市が設立した法人など === 府中市が設立した法人・直接関係のある法人 * 財団法人[[府中文化振興財団]] - 郷土の森博物館の管理運営、芸術・文化の振興事業など * 財団法人 [http://www.hibarin.jp/ 府中市中小企業勤労者サービス公社] * [https://www.fsc.or.jp/ 公益社団法人府中市シルバー人材センター] * [http://mfjc.net/ むさし府中青年会議所] * [http://www.tama5cci.or.jp/chamber/ むさし府中商工会議所] - 商工まつりの実施など * [http://www.genki365.com/fuchu/bunkaren/ 府中市芸術文化協会](旧称:府中市文化団体連絡協議会) * [http://www.fuchu-public-parking.co.jp/ 府中駐車場管理公社] * [https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kenko/fukushi/tamatiki/tamafukushiyoukou.html 多摩地域福祉有償運送運営協議会] * [http://www.fsyakyo.or.jp/ 社会福祉法人府中市社会福祉協議会] - 心身障害者福祉センター、しみずがおか高齢者在宅サービスセンターの運営など == 姉妹都市・提携都市 == ===日本国内=== ;姉妹都市 *{{Flagicon|長野県}}[[佐久穂町]]([[長野県]][[南佐久郡]]) *:旧[[八千穂村]]と盟約した後、町村合併した佐久穂町と盟約 ;提携都市 *{{Flagicon|愛知県}}[[常滑市]]([[愛知県]]) *:[[1997年]](平成9年)[[3月27日]] 災害時相互応援協定締結 ===海外=== ;友好都市 *{{Flagicon|AUT}}[[ウィーン|ウィーン市]]ヘルナルス区([[オーストリア共和国]][[連邦州]]) == 施設 == === 神社仏閣 === [[ファイル:Ōkunitama Shrine2.jpg|thumb|大國魂神社]] [[ファイル:Tougou-ji.jpg|thumb|right|東郷寺]] * [[安養寺 (東京都府中市)|(叡光山佛乗院)安養寺]] - 「化狸ものがたり」 * [[妙光院 (東京都府中市)|(本覺山真如寺)妙光院]] - 859年創建。[[真言宗]]の[[名刹]]。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の「[[金銅蓮華形磬]]」・徳川家康の石 * [[大國魂神社]](六所宮) - 特に格式の高い「東京五社」の一つとなっている。「[[くらやみ祭]]」と呼ぶ[[国府祭]]が行われる、武蔵国の[[総社]]。六社の祭神を[[合祀]] * [[高安寺 (東京都府中市)|高安寺]](龍門山等持院高安護國禪寺) - 武蔵国[[安国寺利生塔|安国寺]]。[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]]の[[足利尊氏]]が開基。武将の本陣となった * [[武蔵国府八幡宮]](八幡神社、六所八幡神社、府中八幡宮) - [[国府八幡宮]] * (聖将山)[[東郷寺]] - [[黒澤明]]監督の映画「[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]」の舞台。サクラの名所ともなっている。 * (是政山宝珠寺)[[西蔵院 (東京都府中市)|西蔵院]] - 「鼻取り地蔵」 * (大悲山清涼院)[[普門寺 (東京都府中市)|普門寺]] - 「目の薬師様」 * [[浅間山 (東京都)#浅間神社|浅間神社]] * (浅間山)[[慈恵院]] - 附属多摩犬猫霊園は日本最大規模のペット霊園<ref>[https://www.jikeiin.jp/about/ 慈恵院について]</ref> * (悲願山、彼岸山圓養院)[[長福寺 (東京都府中市)|長福寺]] - 1230年創建。八角形の本堂を持つ * (古木山諏訪院)[[善明寺 (東京都府中市)|善明寺]] * [[是政八幡神社]] * [[瀧神社 (東京都府中市)|瀧神社]] * [[小野神社 (東京都府中市)|小野神社]] * (八幡山廣徳院)[[本願寺 (東京都府中市)|本願寺]] * (諸法山相承院)[[称名寺 (東京都府中市)|称名寺]] - [[寛元]]3年(1245年)。日限子育地蔵尊 * [[熊野神社 (東京都府中市)|熊野神社]] === 商業施設など === [[ファイル:Kururu.fuchu.SW.jpg|thumb|くるる]] [[ファイル:20210527_MitteN_Fuchu.jpg|thumb|ミッテン府中]] [[ファイル:Signage.jpg|thumb|武蔵府中ル・シーニュ]] *[[ぷらりと京王府中]](旧:[[京王クラウン街|京王府中ショッピングセンター]])- 府中駅の駅舎および駅ビル **ぷらりと西1階([[京王書籍販売|啓文堂書店]]など)、ぷらりと西2~7階([[京王アートマン]]・[[大創産業|ダイソー]]など)、ぷらりと東2階([[京王ストア|京王ストアエクスプレス]]など) **ぷらりと東1階TSUZUMI(旧:食舞台つづみ) *[[府中駅南口市街地再開発事業計画|府中駅南口再開発ビル]] **[[ミッテン府中]]・[[フォーリス]]([[キーテナント]]の[[伊勢丹府中店]]は閉店、跡地にはノジマが主導のミッテン府中が出店<ref>{{Cite web|和書|url=https://mitten-foris.jp/|title=MitteN府中(ミッテン府中)|accessdate=2021-04-27}}</ref>) **[[くるる (東京都府中市)|くるる]]([[TOHOシネマズ]]府中など) **[[武蔵府中ル・シーニュ]]([[京王ストア]]府中店など) *[[イトーヨーカドー府中店|ROUND1(旧イトーヨーカドー府中店)]]([[府中本町駅]]) *[[MINANO]]([[分倍河原駅]]) *[[オーケー]]西府店([[西府駅]]) *府中ショッピングスクエア([[ヤマダデンキ]]、[[サミットストア]]など) *フレスポ府中(旧:府中クレッセ [[蔦屋書店]]、[[ユニクロ]]など) * {{Anchors|温泉}}縄文の湯(天然温泉施設) === 公園など === [[ファイル:都立武蔵野公園0001.jpg|thumb|right|200px|[[武蔵野公園]] 入り口付近の噴水]] [[ファイル:Tama Cemetery Entrance.jpg|thumb|right|200px|東京都立[[多磨霊園]]]] * 東京都立[[府中の森公園]] * 東京都立[[武蔵野公園]](小金井市と跨っている) * 東京都立[[浅間山公園]] * 東京都立[[武蔵野の森公園]] * 東京都立[[野川公園]](市境が公園に接している) * 東京都立[[多磨霊園]] * [[府中市郷土の森公園]](元:市民健康センター) * [[府中市郷土の森博物館]](広場) 参考<ref>[http://www.kouen.info/yusyukouen-ban/fuchu.html 東京都27市町村別「優秀公園」ベスト版 府中市編]</ref> * 府中市道桜通り・府中公園通り : 中央文化センター前で交叉する府中市道桜通り・府中公園通りは沿道が[[サクラ|桜]]並木である。桜通りは1kmにわたって桜の木が並んでおり、毎年桜の咲き始めから夜間[[ライトアップ]]が行われ、4月初旬ごろには府中公園で「市民桜まつり」が開催される。 === ホール・劇場・映画館 === * [[府中の森芸術劇場]] - ウィーンホールの音響は、高く評価されている。 * [[TOHOシネマズ]]府中 === 博物館・美術館 === [[ファイル:Avenue in Kyodo no Mori Museum.JPG|thumb|[[府中市郷土の森博物館]]]] [[ファイル:Fuchushiritsu.furusato.fuchu.rekishikan.jpg|thumb|府中市立ふるさと府中歴史館]] * [[府中市郷土の森博物館|郷土の森博物館]](日本最大級のプラネタリウム併設) * 府中市立ふるさと府中歴史館 * [[府中市美術館]] * [[日本中央競馬会]](JRA)[[JRA競馬博物館]] === 公営競技場 === * [[競馬]]:[[東京競馬場]](府中競馬場):[[東京優駿|日本ダービー]]など * [[競艇]]:[[多摩川競艇場|ボートレース多摩川]](主催は[[青梅市]]・[[東京都四市競艇事業組合]]) : 府中市は[[平和島競艇場|ボートレース平和島]](東京都[[大田区]]に所在)を主催 === スポーツ施設 === [[ファイル:Fuchu.sport.stadium.jpg|thumb|府中市民陸上競技場。府中市民球場の照明も見える。]] * [[郷土の森総合体育館]](市立総合体育館) * 郷土の森総合プール(市民総合プール)、各地域のプール *[[府中市生涯学習センター|生涯学習センター]](体育館、温水プール、スポーツジム) * 府中市民球場 * 府中市民陸上競技場 * 地域体育館 ** 白糸台体育館、押立体育館、栄町体育館、日吉体育館、本宿体育館、四谷体育館 * 野球場(市内約7か所) * 庭球場(市内約15か所) * サッカー場(市内約4か所) * 多摩川サイクリングロード === 市場 === * 大東京綜合卸売センター : [[1966年]]12月に開場した、当時東京都多摩地域最大の[[卸売市場]]である。[[1973年]]8月には、東京都から地方卸売市場の開設許可を受けた。[[水産物]]、[[食肉]]、[[青果物]]、[[お茶漬け海苔|海苔茶]]、[[惣菜]]、その他[[食品]]、[[雑貨]]を取り扱う店が並ぶ。 === 住宅団地 === * [[都市再生機構]]車返団地 - 昭和53年 : 府中都市計画事業(一団地の住宅施設) * 都市再生機構府中団地- 昭和35年 : 府中都市計画事業(一団地の住宅施設、晴見町 ) * 府中日鋼団地 * 東京都[[住宅供給公社]]府中窓口センター === 社会教育施設・宿泊施設 === [[ファイル:Lumiere-fuchuSW3.jpg|thumb|ルミエール府中(中央図書館・ホール)]] * 府中市立中央文化センター * ルミエール府中(市民会館) * 青少年キャンプ訓練場 * 是政緑地レクリエーション広場(バーベキュー・キャンプ) *[[府中市生涯学習センター|生涯学習センター]]内宿泊施設 * 市民保養所「やちほ」([[長野県]][[南佐久郡]][[佐久穂町]]) - 姉妹都市に建設された宿。 * 八ヶ岳府中山荘([[山梨県]][[北杜市]]高根町[[清里高原|清里]]) - 林間学校施設として建設され、一般の人も利用可能なセルフサービスの宿。 === 図書館 === 昭和36年旧府中町役場に図書館が作られたあと移転や地区図書館が開設されて、市立図書館の蔵書は平成31年3月末現在、149万冊を超える。 図書検索予約システムがある(京王沿線7市図書館連携事業により登録した者は利用できない) {{Col| * 中央図書館(ルミエール府中内) * 白糸台図書館 * 西府図書館 * 武蔵台図書館 * 新町図書館 * 住吉図書館 * 是政図書館 * 紅葉丘図書館 * 押立図書館 * 四谷図書館 * 片町図書館 * 宮西図書館 * 生涯学習センター図書館 * 視聴覚資料室 }}{{clear}} === その他公共施設 === 詳細は府中市公式ホームページを参照。 府中市公共施設予約システムから利用予約できる施設もある。 * 防災広場 * 府中[[非営利団体|NPO]]・ボランティア活動センター * 男女共同参画センター「フチュール」(中河原駅北口再開発ビル「ステーザ府中中河原ビル」4階、旧「スクエア21・女性センター」)<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/shisetu/komyunite/wcenter/danzyokoyoudou.html 男女共同参画センター「フチュール」] 府中市公式サイト</ref> * 国際交流サロン * 振興会館 * [[東京自治会館]] * 多摩交流センター * 府中の森市民聖苑 * 公営 稲城・府中メモリアルパーク<ref>[http://www.if-boenkumiai.jp/ 稲城・府中墓苑組合(稲城市・府中市)]</ref> == 教育 == === 幼稚園 === ;市立 * 矢崎幼稚園、みどり幼稚園、小柳幼稚園 ;私立 * [[明星幼稚園 (東京都)|明星幼稚園]]、[[府中文化幼稚園]]、[[府中白百合幼稚園]]、[[府中つくし幼稚園]]、[[府中白百合第二幼稚園]]、[[府中新町幼稚園]]、[[北山幼稚園]]、[[三光幼稚園]]、[[府中ひばり幼稚園]]、[[府中白糸台幼稚園]]、[[府中わかば幼稚園]]、[[武蔵野学園ひまわり幼稚園]]、[[府中おともだち幼稚園]]、[[府中天神町幼稚園]]、[[府中あおい幼稚園]]、[[府中佼成幼稚園]]、[[あおい第一幼稚園]] === 小学校 === ;市立 {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[府中市立府中第一小学校]] * [[府中市立府中第二小学校]] * [[府中市立府中第三小学校]] * [[府中市立府中第四小学校]] * [[府中市立府中第五小学校]] * [[府中市立府中第六小学校]] * [[府中市立府中第七小学校]] * [[府中市立府中第八小学校]] * [[府中市立府中第九小学校]] * [[府中市立府中第十小学校]] * [[府中市立武蔵台小学校]] {{Col-break}} * [[府中市立住吉小学校]] * [[府中市立新町小学校]] * [[府中市立本宿小学校]] * [[府中市立白糸台小学校]] * [[府中市立矢崎小学校]] * [[府中市立若松小学校]] * [[府中市立小柳小学校]] * [[府中市立南白糸台小学校]] * [[府中市立四谷小学校]] * [[府中市立南町小学校]] * [[府中市立日新小学校]] {{Col-end}} ;私立 * [[明星小学校 (東京都)|明星小学校]] * [[武蔵野学園小学校]] === 中学校 === ;市立 {{Col-begin}} {{Col-break}} *[[府中市立府中第一中学校]] *[[府中市立府中第二中学校]] *[[府中市立府中第三中学校]] *[[府中市立府中第四中学校]] *[[府中市立府中第五中学校]] *[[府中市立府中第六中学校]] {{Col-break}} *[[府中市立府中第七中学校]] *[[府中市立府中第八中学校]] *[[府中市立府中第九中学校]] *[[府中市立府中第十中学校]] *[[府中市立浅間中学校]] {{Col-end}} ;私立 * 高校を併設している場合は高校の項に記す。 === 高等学校 === ;都立 * [[東京都立府中高等学校]] - 元々'''私立'''校として設立されたが、都立に移管したという歴史を持つ。 * [[東京都立府中西高等学校]] * [[東京都立府中東高等学校]] * [[東京都立府中工科高等学校]] * [[東京都立農業高等学校]] ;私立 * [[明星中学校・高等学校 (東京都)|明星中学校・高等学校]] === 特別支援学校 === ; 都立 * 府中けやきの森学園 * 武蔵台学園 === 大学 === [[ファイル:Tokyo University of Foreign Studies Building for lectures and studies.jpg|thumb|right|200px|[[東京外国語大学]]]] [[ファイル:Tokyonoukouuniv.JPG|thumb|right|200px|[[東京農工大学]]]] * [[東京外国語大学]]府中キャンパス * [[東京農工大学]]府中キャンパス === 専修学校 === * 東京都立府中看護専門学校 === 東京都教育機関 === *[[警視庁警察学校]] ===学校教育以外の施設=== ==== 保育所 ==== ;市立 * 南保育所、北保育所、東保育所、西保育所、中央保育所、北山保育所、住吉保育所、朝日保育所、小柳保育所、四谷保育所、八幡保育所、本町保育所、三本木保育所、西府保育所、美好保育所、高倉保育所 ;私立 * 府中愛児園、南分倍保育園、高安寺保育園、千春保育園、是政保育園、晴見保育園、押立保育園、府中保育園、にじのいろ保育園、山手保育園、さくらんぼ保育園、押立第二保育園、わらしこ保育園、第2府中保育園、府中めぐみ保育園、やまびこ保育園、キッズエイド武蔵保育園、分倍保育園 ==== 職業訓練 ==== * [[警察大学校]] * 東京都立多摩職業能力開発センター府中校(旧・府中技術専門校)([[職業能力開発促進法]]に基づく[[職業能力開発校]]) == 経済 == [[ファイル:Toshiba fuchu factory south gate tokyo 2009.JPG|thumb|東芝府中事業所。東芝町。]] [[ファイル:Suntory.musashino.beer.brewery.fuchu.tokyo 01.jpg|thumb|サントリー武蔵野ビール工場。矢崎町。]] 工業都市としても知られ、[[1937年]]の[[日中戦争]]をきっかけに[[日本製鋼所]]や[[東芝]]などの大工場が進出し、[[第二次世界大戦]]後も[[サントリー]]、[[日本電気]](NEC)など多くの工場が進出している。 === 第一次産業 === 主な生産物に、[[コマツナ]]、[[多摩川ナシ]]、[[ワケネギ]]、紫黒米([[黒米]])等がある。様々な府中産[[農産物]]が、[[マインズ農業協同組合]]の西府支店、[[多磨]]支店、[[中河原駅]]前支店の[[農産物直売所]]、府中駅前の[[府中特産品直売所]]、農家設置の直売所などで販売されている。江戸時代は名産品があり、多摩川の御用鮎、[[府中御用瓜]]・鳴子瓜・が献上されていた。戦後までは、[[水田]][[稲作]]や[[養蚕]]が盛んだった。 2002年現在、[[耕地]]率6.9%、水田率25.7%。2000年現在、[[農家]]率0.4%。2015年現在、農業従事者数1020人。 都市化や高齢化により産業低下がみられることから、平成27年度より「第3次府中市農業振興計画」を策定して、農地を残し「みどりのある住みよいまち」を引き続き目指している。 === 第二次産業 === [[日本電気]](NEC)の府中事業場、[[東芝]]の[[東芝府中事業所|府中事業所]]、[[サントリー]]の武蔵野ビール工場、[[読売新聞]]の府中工場(読売プリントメディア)など、大規模な工場がある。2000年現在、第二次産業就業者数26,005人。 === 第三次産業 === [[京王線]]の[[府中駅 (東京都)|府中駅]]近辺には複数のショッピングビルがあり、店鋪が集中している。そのほか、小売店は鉄道各駅や幾つかのバス停留所付近に集中している。また、大東京綜合卸売センター(市場)が市南西部に立地する。また日鋼町の日本製鉄所東京事業所跡にできた[[府中インテリジェントパーク]]は、[[日本銀行]]や各銀行の電算センターや各社の研修センターなどが集積しており、新たな企業拠点となった。[[公営競技]]施設では、[[東京競馬場]](府中競馬場)や[[多摩川競艇場]]がある。[[2000年]]現在、第三次産業就業者数84,594人と多くを占めている。 === 観光・名産 === [[大國魂神社]]、[[府中市郷土の森博物館|郷土の森博物館]]の花見、ビール工場見学、美術館などに訪れる観光客もいるが、府中市観光情報センターでは、数種類の市内観光ミニツアーを行っている。A:史跡コース、B:自然と仏閣コース、C:伝説コース、D:府中宿コース。また「府中市観光ガイド」を発行 [http://www.kankou-fuchu.com/entry-info.html?id=30592]。市役所は [https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kanko/ 府中観光情報] を提供している。 ==== 特産・名産・土産 ==== *六社饅頭(大國魂神社) *あゆ最中(御用鮎) *武蔵野日誌(武蔵野の雑木林)モンドセレクション金賞受賞 <ref name="miyage">[http://www.kankou-fuchu.com/entry-list.html?id=3640 府中観光協会]</ref> - [[青木屋]] *栗まつり(饅頭)<ref name="miyage" /> *古代米(黒米)<ref>[http://www.kankou-fuchu.com/entry.html?id=40340 府中観光協会] 新しい特産:古代米(黒米)</ref> **府中ロマン(黒米焼酎) == 交通 == [[府中駅 (東京都)|京王線府中駅]]周辺エリアは、東京多摩地域有数規模の市街地が広がっている。多摩地域では立川・町田・吉祥寺・八王子駅周辺に次ぐ規模である。古くは国府所在地として、今でも[[関東地方]]の[[交通]]の要衝である。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に放射状に交通網が発達していった事が大いに影響している。地理的、歴史的な観点から現在では[[国道16号]]圏内と東京都区部までの間における、環状連絡線の要衝結節点として東西南北(区部、[[東京]][[郊外]]、[[神奈川県]]および[[埼玉県]])を結ぶ。 道路網では甲州街道[[国道20号]]、中央高速道等の幹線を介して東西の区部と郊外とを結び、府中街道、鎌倉街道を介して南北の神奈川県(川崎市・[[相模原市]]方面)と埼玉県(所沢市方面)を結ぶ。 鉄道網では[[武蔵野線]]、[[南武線]]、[[京王線]]の交差駅を持ち、東京の東西拠点の区部と郊外方面(八王子、立川)を京王線、南武線で結び、南方の神奈川県[[溝口 (川崎市)|溝口]]・[[川崎市|川崎]]方面を南武線で、北方の埼玉・千葉方面([[所沢市|所沢]]・[[さいたま市|浦和]]・[[越谷市|越谷]]・[[三郷市|三郷]]・[[松戸市|松戸]]・[[船橋市|船橋]])を武蔵野線で結ぶ。また、市内東部地区の南北方向に[[西武多摩川線]]が武蔵境駅経由で中央線沿いの市区町村と連絡している。 市内は路線バス網が充実しており、[[中央本線|中央線]]の各駅から府中市方面に向かって、多くの路線が乗り入れている。 === 鉄道 === [[ファイル:Fuchu.station.5.jpg|thumb|府中駅]] [[ファイル:Fuchu-Hommachi_Station_20191005.jpg|thumb|府中本町駅]] [[ファイル:Bubaigawara Station building.jpg|thumb|分倍河原駅]] 京王電鉄京王線と競馬場線、JR南武線、JR武蔵野線、西武鉄道多摩川線が市内を通る。市の北端の一部([[西国分寺駅]]([[国分寺市]])の西側の[[武蔵台 (東京都府中市)|武蔵台]]三丁目)をJR[[中央本線]]がかすめているが、駅は無い。但し、先述の武蔵台地区は西国分寺駅が最寄りとなる。 かつては中央本線[[国分寺駅]]から分岐する形で市内へ[[下河原線]]が存在した(後に一部が武蔵野線となった)。 ; [[京王電鉄]] [[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20x20ピクセル]][[京王線]] : [[武蔵野台駅]] - [[多磨霊園駅]] - [[東府中駅]] - [[府中駅 (東京都)|府中駅]] - [[分倍河原駅]] - [[中河原駅]] [[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|20x20ピクセル]][[京王競馬場線|競馬場線]](全線市内) : 東府中駅 - [[府中競馬正門前駅]] ; [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] [[ファイル:JR JN line symbol.svg|20x20ピクセル]][[南武線]] : [[府中本町駅]] - 分倍河原駅 - [[西府駅]] [[ファイル:JR JM line symbol.svg|20x20ピクセル]][[武蔵野線]] : 府中本町駅 - [[北府中駅]] ; [[西武鉄道]] [[ファイル:SeibuTamagawa.svg|20x20ピクセル]][[西武多摩川線|多摩川線]] : [[多磨駅]] - [[白糸台駅]] - [[競艇場前駅 (東京都)|競艇場前駅]] - [[是政駅]] *代表駅:'''府中駅、府中本町駅'''(市役所最寄駅) *利用者最多駅:'''分倍河原駅''' === 道路 === [[ファイル:National highways and Prefectural roads in Fuchu, Tokyo.png|thumb|right|200px|[20]は国道、( )は都道、ICは中央自動車道のインターチェンジである。]] 主要な道路は、市の中心部から東西南北に伸びている。古くは、[[鎌倉街道]]、[[甲州街道]]が幹線となった。甲州街道は国道20号線となり、[[バイパス道路|バイパス]]が造られそれらが国道に、かつての道が[[都道府県道|都道]]となっていった。更にそのバイパスとして、中央自動車道、[[東八道路]]が造られた。 ==== 高速道路 ==== * {{Ja Exp Route Sign|E20}}[[中央自動車道]]:[[稲城インターチェンジ]](3-1) - [[府中バスストップ]]/[[府中バスストップ#スマートインターチェンジ|府中スマートインターチェンジ]](3-2) ** 稲城インターチェンジは府中市内の一般道に出ることはできるが、府中市内の一般道から中央道に入ることはできない(下り線は稲城インターチェンジより西にある府中スマートインターチェンジから入る事が可能)。 ** [[調布インターチェンジ]](3)は[[調布市]]所在だが、市東部からは近い。 ** [[国立府中インターチェンジ]](4)は一部が市内に跨っているだけで、大半は[[国立市]]に所在する。 ==== 国道 ==== * [[国道20号]] ==== 都道 ==== {{colbegin|2}} * [[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|東京都道9号川崎府中線]] 府中街道(溝口から先は[[国道409号]]となる)、是政橋、[[稲城大橋]] * [[東京都道14号新宿国立線]] 東八道路 * [[東京都道15号府中清瀬線]] 小金井街道 * [[埼玉県道・東京都道17号所沢府中線|東京都道17号所沢府中線]] 府中街道 * [[東京都道18号府中町田線]] 鎌倉街道、関戸橋 * [[東京都道20号府中相模原線]] 府中四谷橋(野猿街道) * [[東京都道110号府中三鷹線]] 人見街道、新小金井街道の一部 * [[東京都道133号小川府中線]] 国分寺街道 * [[東京都道145号立川国分寺線]] 多喜窪通り * [[東京都道229号府中調布線]] 旧甲州街道 * [[東京都道247号府中小金井線]] (府中市内は一部区間を除き未開通) * [[東京都道248号府中小平線]] 新小金井街道 {{colend}} ==== 市道 ==== 詳細は、[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurashi/machi/dourokouen/shidoumeisyoutoninteihukuin.files/ninteimouzu28.3.pdf 市役所ホームページ] を参照。 ==== 古道 ==== {{colbegin|2}} * [[品川通り#品川道|品川道]] * 古甲州街道 * [[東山道武蔵路]] * [[鎌倉街道]](古鎌倉街道、鎌倉街道上道、武蔵大路) * 大山街道(「府中通り大山道」「府中口大山道」) * 府中街道(庚申道) * 府中街道(横街道) * [[人見街道]](大宮街道) * 川越街道 * 内藤道 * 本田道 {{colend}} === 橋 === * [[多摩川橋梁 (京王線)]] * [[関戸橋]] * [[是政橋]] * [[稲城大橋]] === バス === ==== コミュニティバス ==== [[ファイル:KeioBusChuo B20331 ChuBus.jpg|thumb|right|200px|コミュニティバス「ちゅうバス」の車両]] * [[コミュニティバス]]が「[[ちゅうバス]]」の愛称で、[[2003年]]12月から4路線、[[2008年]]3月から2路線、[[2010年]]3月から1路線追加され、計7路線が運行されている。 ==== 路線バス ==== [[ファイル:KeioBusChuo B20613.jpg|thumb|right|200px|京王バスの車両。府中駅北口にて]] 市内は[[武相]]地区運賃になるため、一般路線バスの運賃は乗車区間によって異なる(2018年現在初乗り現金180円、IC運賃175円)。このため、後乗り前降り運賃後払い式である(市東部を走行する一部路線とコミュニティバスを除く)。 * [[京王線]][[府中駅 (東京都)|府中駅]]を中心に、市内各所を結ぶバス路線がある。放射状に[[東日本旅客鉄道|JR]][[中央本線]]沿線[[武蔵小金井駅]]、[[国分寺駅]]、[[国立駅]]各駅からターミナルとしての乗り入れがある([[京王バス府中営業所|京王バス]])。 * 京王線[[東府中駅]]、[[多磨霊園駅]]には、市内間路線以外にもそれぞれ武蔵小金井駅間のバス路線がある([[京王電鉄バス小金井営業所|京王バス]])。 * 市内東部の[[多磨駅]]には、[[飛田給駅]](一部[[調布駅]])を結ぶ路線、JR[[中央本線]][[三鷹駅]]と[[武蔵野台駅]]近くの車返[[団地]]を結ぶ路線が乗り入れている([[京王バス調布営業所|京王バス]]・[[小田急バス武蔵境営業所|小田急バス]])。 * 市内西部には、京王線[[分倍河原駅]]から市内路線に加えてJR[[日野駅 (東京都)|日野駅]]からの路線(分53系統・平日1本のみ)、[[中河原駅]]では市内路線、その他[[聖蹟桜ヶ丘駅]]と国立駅を結ぶ路線がある(京王バス)。 * 市内東南部には、かつて[[西武多摩川線]][[是政駅]]と京王線調布駅を結ぶ路線(調50系統)があったが、ちゅうバス押立町ルートの開通などにともない、[[2010年]]3月いっぱいで廃止された。調50系統の調布駅~車返団地折返場までの区間便(調51系統)は存続しているものの、2018年2月より朝3本のみに大幅減便された(京王バス)。 * [[競艇|ボートレース]]開催日には、[[多摩川競艇場|ボートレース多摩川]]と[[府中本町駅]]、[[多磨霊園駅]]を結ぶ[[シャトルバス|無料送迎バス]]が運行されている。かつては[[西武バス]]が受託運行していたが、2015年度から[[京王自動車]]に変更になった。 ==== 高速バス・空港連絡バス ==== * [[高速バス]]は、中央自動車道の[[府中バスストップ]]が市の東南部にあり、[[飛騨高山]]・[[木曽地域|木曽]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪市|大阪]]方面、比較的短距離の[[山梨県]]([[甲府市|甲府]]・[[富士五湖]])方面とを結んでいる([[中央高速バス]]など)。 * 京王線府中駅と[[東京国際空港|羽田空港]]・[[成田国際空港|成田空港]]を結ぶ[[リムジンバス|空港連絡バス]]が運行されている([[京王電鉄バス|京王電鉄バスグループ]]・[[東京空港交通]]<ref>[https://www.limousinebus.co.jp/platform_searches/index/3/140 リムジンバス]</ref>)。 * [[新宿駅]]西口・[[渋谷駅]]西口から市内各駅への[[深夜バス|深夜急行バス]]が運行されている(京王電鉄バスグループ<ref>[http://www.keio-bus.com/nightbus/shinjuku.html 京王バス 深夜急行バス]</ref>)。 === 航路 === 以前には[[多摩川]]の[[渡し船|渡し舟]](満願寺の渡し(谷保の渡し)、石田の渡し、一宮の渡し、関戸の渡し(中河原の渡し)、是政の渡し(大丸の渡し)、常久河原の渡し)が設けられたが、現在では廃止されている。 === 航空路 === 隣接する調布市(一部三鷹市)の[[調布飛行場]]から[[伊豆諸島]]([[新島]]の[[新島空港]]、[[伊豆大島|大島]]の[[大島空港]]、[[神津島]]の[[神津島空港]])への航空路がある([[新中央航空]])。 === ナンバープレート === 50cc未満の[[原動機付き自転車]]へ対して「[[範馬刃牙]](はんまばき)」のご当地ナンバーも配布されている。軽自動車(二輪、四輪)は、軽自動車検査協会より「多摩」ナンバー、それ以外の四輪車と二輪の小型自動車は[[東京運輸支局]]の[[多摩自動車検査登録事務所]]より「多摩」ナンバー<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/s_tokyo/map_riku.html 多摩自動車検査登録事務所]</ref> を割り当てられている。 == 自然 == === 山 === [[浅間山 (東京都)|浅間山]] : 標高約80m。かつて多摩川によって削られて残った丘。山全体が公園となっており絶滅危惧種[[ゼンテイカ#ゼンテイカ群とその近縁種|ムサシノキスゲ]]が自生している珍しい地域。 === 河川 === ;[[多摩川]] : 市南境に沿って流れている。市章にも取り入れられている。かつては「玉川」と呼ばれており、江戸に至る川の道であり多くの荷物がこの多摩川を行き来した。上流からの木材が運搬や[[年貢]]米の運搬にも使用されており、重要な航路であった。また、一宮の渡し(関戸の渡し)の他にも多くの私設渡しがあり、多くの人の行き来が古い絵画に描かれている。用水が引かれ、[[府中用水]]以外にも「四ッ谷村外二ヶ村用水」、「府中三町外四ヶ村組合用水」、「三ヶ村用水」、「二ヶ村用水」などがあり、農作に多く寄与している。 ;[[野川 (東京都)|野川]] :多摩川の支流の一つであり、市の北東端を流れている ;[[府中用水]](7カ村用水) :府中崖線の南側に沿って流れている全長6kmの農業用水。[[疏水百選]]の一つ。 <!-- ==== 多摩川の橋梁画像 ==== {{gallery |ファイル:府中四谷橋0001.jpg|四谷橋 |ファイル:京王線多摩川鉄橋0001.jpg|[[京王線]]鉄橋 |ファイル:Sekidobashi.fuchu.tokyo 02.jpg|関戸橋 |ファイル:南武線多摩川鉄橋0001.jpg|[[南武線]]鉄橋 |ファイル:Koremasa-Bridge 20120721.jpg|是政橋 |ファイル:Inagiohashi.jpg|[[稲城大橋]] /gallery}} --> === 植物 === [[ファイル:Middendorfii var. esculenta f. musashiensis-01.jpg|thumb|[[ゼンテイカ|ムサシノキスゲ]]]] * [[ムサシノキスゲ]](絶滅危惧種) - [[浅間山 (東京都)|浅間山]] {{main|ゼンテイカ}} * [[大賀蓮]] - 古代蓮。[[大賀一郎]]博士の2000年蓮。([[府中市郷土の森公園]] 修景池。寿中央公園 ひょうたん池。) * [[ケヤキ]] - 大國魂神社の参道のケヤキ並木に由来し、府中市とのつながりは長く深い。 {{seealso|馬場大門のケヤキ並木}} === 惑星 === 日本スペースガード協会が2000年8月に発見した小惑星41484番を「ムサシフチュウ」と名付けた<ref>[http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/event/1000075/1001796.html 府中市郷土の森博物館]「小惑星Musashifuchu(ムサシフチュウ)が誕生しました」</ref>。これは、講演会など天文普及活動で同協会と協力関係にある府中市郷土の森博物館に命名が依頼されたもので、国際天文学連合は2017年4月に公式決定した。 == 府中市に本拠を置くスポーツチーム == * [[東京サントリーサンゴリアス]]([[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]) * [[東芝ブレイブルーパス東京]](JAPAN RUGBY LEAGUE ONE) * [[アルバルク東京]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]]) * [[府中アスレティックフットボールクラブ]]([[日本フットサルリーグ|Fリーグ]]) * [[全府中野球倶楽部]]([[社会人野球]]・[[クラブチーム (社会人野球)|クラブチーム]]) * [[東芝府中硬式野球部]](社会人野球・企業チーム) - 1999年に解散。 == イベント == [[ファイル:Kurayami001.JPG|サムネイル|大國魂神社大鳥居をくぐる大太鼓]] イベントは、大國魂神社、郷土の森、府中公園を中心に市内各地で行われている。([http://www.kankou-fuchu.com/event-list.html?id=3643 イベントカレンダー(府中観光協会)] も参照) ;1月 :出初式(府中公園) :どんど焼き(多摩川) ;2月 :郷土の森梅まつり(郷土の森) :ふちゅうテクノフェア(市民会館ルミエール) :府中駅伝競走大会(多摩川) ;3月 :市民桜まつり(府中公園) ;4月 :多摩川清掃 :グリーンフェスティバル(すずかけ公園) ;5月 :くらやみ祭(大國魂神社) ;6月 :あじさいまつり(郷土の森) :リサイクル&環境フェスタ(府中公園) ;7月 :蓮を見る会(郷土の森) :地域まつり(各文化センター等) ;8月 :商工まつり(大國魂神社) :けやきふぇすた(けやき並木通り周辺など) ;9月 :市民芸術文化祭(市民会館ルミエール他) ;10月 :リサイクルフェスタ(府中公園) :けやき音楽祭JAZZ in FUCHU(けやき並木通り周辺など) ;11月 :農業まつり(郷土の森) :酉の市 (大国魂神社) ;12月 :歳の市(大國魂神社) ;イベントその他 : 国府サミット - 日本全国68箇所の国府所在地自治体が集まるイベント。2009年、東京都府中市において初開催。 == 日本一・日本初・大きな出来事 == 日本一・日本初・大きな出来事や珍しい事柄。 * [[1923年]]、日本初の公園墓地であり日本一広い公園墓地「[[多磨霊園]]」が開設。 * [[1984年]]、東京競馬場に日本初の[[競馬場#大型映像装置|ターフビジョン]]が設置された。また[[2006年]]にリニューアルされたオーロラビジョンは完成当時世界最大の映像スクリーン<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2006/0912.html 三菱電機] 2面設置されたターフビジョンのうち西側ターフビジョンは、縦11.2m×横66.4mの大きさで、世界 最大の映像スクリーンとしてギネス世界記録に認定</ref>。 * [[2003年]]、[[上円下方墳]]最古最大の[[武蔵府中熊野神社古墳]]を発掘。 * [[2007年]]、市立中央図書館にて日本初 [[RFID]](無線ICタグ)を使った図書貸出システム<ref>[http://www.nec.co.jp/library/jirei/fuchu/ NEC] 日本で初めてRFID(無線ICタグ)を活用した予約図書受渡システム(通称「e-棚」)を導入。RFID対応の自動貸出機を設置</ref>。 * 東京都内生活者実感ランキング第1位 : 府中市が居住地市区別での東京都内「生活実感値」満足度の総合トップ<ref name="homes" />。 * [[京王競馬場線]] : [[運賃]]を徴収し通常運行されている複線で、路線距離が0.9 kmと短い。 * 府中郷土の森博物館の[[プラネタリウム]](開館当時は最大。現在も平床式では最大級) * 日本一大きな規模の[[刑務所]](府中刑務所) * [[三億円強奪事件]] : 府中刑務所北側の路上で発生。[[白バイ]]を使った[[未解決事件]]。 * [[東京都青年の家事件|府中青年の家事件]] : 同性愛と人権をめぐる日本初の裁判として知られる<ref name="chuo-u20180627">{{Cite web|和書| author= | url=https://www.chuo-u.ac.jp/academics/faculties/law/news/2018/06/13747/ | title=連続公開講座「LGBTをめぐる法と社会」第一回「LGBTと人権—府中青年の家裁判を振り返る」を開催いたしました | publisher=中央大学 | date=2018-6-27 | accessdate=2023-6-22 }}</ref>。 * [[ムサシノキスゲ]](絶滅危惧種)が唯一自生している - [[浅間山 (東京都)|浅間山]] * 大太鼓(くりぬき胴では日本一) * 市内にトップリーグのチームが2つもある * 府中市[[ゆるキャラ|マスコットキャラクター]]「ふちゅこま」は、全国自治体のゆるキャラ初の大手芸能プロダクション([[ホリプロ]])所属 * 全国最大規模の学校給食センター<ref>広報ふちゅう2017年8月21日号</ref> <ref>[https://www.kentsu.co.jp/sp/feature/kikaku/view.asp?cd=170905000001 【東京都】府中市立学校給食センターが完成~食育の拠点施設としての活用~ 建通新聞社 2023年12月17日午前9時41分閲覧]</ref> * 選挙開票の早さ<ref>[https://web.archive.org/web/20190105022707/http://www.asahi.com/senkyo2007t/news/TKY200704030345.html 朝日新聞デジタル 迅速開票、府中・多摩両市に注目 改善続け全国に刺激 2007年04月04日00時38分]</ref> == 府中を舞台とした作品 == 府中市は「[https://fuchu-ls.com/ ふちゅうロケーションサービス]」という[[フィルム・コミッション]]を行っており、撮影は各所にて頻繁に行われている。 * 『[[中央フリーウェイ]]』 - [[松任谷由実]](発表当時は荒井由実)の曲。中央高速道路から見える、ビール工場、競馬場などの風景が歌われている<ref>[http://hachioji.keizai.biz/headline/1209/ 八王子経済新聞 ユーミン「中央フリーウェイ」の工場がラベルに-中央道全通30周年で2012年09月13日]「稲城インターチェンジ~国立府中インターチェンジ間から眺める事ができるサントリー武蔵野ビール工場(府中市)で製造。「荒井由実さんの曲『中央フリーウェイ』でも登場するなど中央道の風景に入っており、縁もある」(同社担当者)」</ref>。なお、東京競馬場で行われる「フリーウェイステークス」では本馬場入場曲としてこの曲が使用される。 *『[[ちはやふる]]』 - 競技[[かるた]]を題材としており、競技かるたに魅了されてクイーンを目指す少女を主軸に物語は進む。小学校編の主人公たちがいる都市は、東京都府中市がモデルとなっている<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kanko/chihayaful2015.html 「千早と太一が住むまち府中で 漫画複製原画展を開催」] 主人公の綾瀬千早とその幼馴染の真島太一は、府中市に住んでいる設定であることから、作中には府中の風景がたびたび登場します。」</ref> * 『[[ノーサイド・ゲーム]]』 - [[TBSテレビ|TBS]]の[[テレビドラマ]]。[[東芝府中事業所]]やケヤキ並木など市内各所で撮影が行われた<ref>{{Citation|title=日曜劇場『ノーサイド・ゲーム』|url=https://www.tbs.co.jp/noside_game_tbs/|accessdate=2020-10-11|language=ja|last=TBS}}</ref><ref>{{Cite news|title=ドラマ盛り上げ府中PR 「ノーサイド・ゲーム」官民で応援|newspaper=[[産経新聞ニュース#産経ニュース (ウェブ)|産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社|産経新聞社]]|date=2019-07-04|url=https://www.sankei.com/article/20190704-7F4M4U2TMZPFRE6BC73AA45YPQ/|accessdate=2019-07-27}}</ref>。 <!--{{出典の明記|date=2015年11月|section=1}} * 『[[ゲッチューまごころ便]]』 - [[緋采俊樹]]の漫画。『[[週刊少年チャンピオン]]』に1998年36号から2001年49号まで連載。全17巻。主に府中市を舞台とした宅配便コメディ。 * 『[[ウダウダやってるヒマはねェ!]]』 - [[米原秀幸]]の漫画。『週刊少年チャンピオン』で連載。全21巻。[[旧甲州街道]]と[[府中街道]]の交差点付近など、随所に市内の風景が登場。上記の緋采俊樹は米原の弟子にあたる。 * 『おれはキャプテン』 - [[コージィ城倉]]の漫画。『[[週刊少年マガジン]]』に2003年9月から連載。狛江の中学校の野球部が舞台で、府中市民球場での試合シーンが多い。 *『[[Aチャンネル]]』 - るん、トオル、ユー子、ナギの女子高生4人の日常を描いた作品。天然のるんが放つボケを周囲の人間が突っ込むギャグが主な内容。。 *『[[ルーズヴェルト・ゲーム]]』 - [[池井戸潤]]の小説。青島製作所の社屋を構えている(ドラマ版では[[青梅市]])。 : この他、かつて[[大映テレビ]]のスタジオが府中市に所在し、『[[赤いシリーズ]]』や『[[スクール☆ウォーズ]]』などのテレビドラマの撮影に使われた。また、同社制作のドラマロケの大半は府中市内で行われたことが多かった。--> * [[三億円事件]]関連作品については[[三億円事件#事件を扱った主な作品]]を参照。 *『くらやみ祭の小川さん』 - 大國魂神社例大祭の「くらやみ祭」を舞台に、早期退職をして人生をやり直す56歳の平凡な会社員・小川秀治(ひではる)の姿を描いた作品<ref>{{Citation|title=公式ホームページ|url=https://kurayamiogawa.com/|accessdate=2021-04-03}}</ref>。 *『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』 - 物語上に描かれるトレセン学園が府中市に所在し、市内や東京競馬場も現実さながらに描かれているほか、晴見商店街、府中の森公園と見られる場所も登場している。 == 出身有名人等 == === 出身有名人 === {{colbegin|3}} ;五十音順 * [[麻田華子]](元アイドル) * [[浅野洋一郎]](競馬騎手・競走馬調教師) * [[池谷幸雄]](体操指導者・元選手、タレント) - [[大阪府]][[大阪市]][[淀川区]]育ち * [[石川みゆき]]([[フリーアナウンサー]]) * [[石坂晴樹]](元俳優) * [[IZAM]](歌手・タレント) * [[市川準]](映画監督) * [[浦沢直樹]](漫画家) * [[瓜生美咲]](元女優) * [[榎本雄太]](歌手) * [[太田光代]](芸能プロモーター) * [[大久保洋吉]]([[競走馬]][[調教師]]) * [[小川義綏]](日本初の教会長老、プロテスタントの日本初の牧師) * [[小栗さくら]](歴史タレント、歌手、作詞家) * [[魁道康弘]](元力士) * [[河西智美]](タレント、歌手・元AKB48) * [[角口大征]](サッカー選手) * [[金田祐幸]]([[テレビ新広島]]アナウンサー) * [[かぶらぎみなこ]](イラストレーター) * [[河合龍之介]](俳優) * [[川崎定孝|川崎平右衛門定孝]](押立産まれの開拓者) * [[喜多村英梨]]<ref name="アニメイトタイムズ">{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=323|title=喜多村英梨のアニメキャラ・最新情報まとめ|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2020-11-15}}</ref>(声優・歌手) * [[木村拓哉]](俳優・歌手・元SMAP)- 出身地は隣の調布市だが、府中の病院で生まれたと自身のラジオ番組で話している。 * [[国友忠]]([[浪曲師]]) * [[久保田秀次郎]](競馬騎手・日本中央競馬会) * [[黒田寛一]]([[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派]]最高指導者) * [[河内真]]([[高知放送]]アナウンサー) * こば小林(芸人、お笑いコンビ[[がじゅまる]]のメンバー) * [[小林治 (1945年生のアニメ演出家)|小林治]](アニメ演出家) * [[小室哲哉]]-<ref>「府中市公式ホームページ 2016年12月15日更新、2016年東京多摩振興 特命 武蔵国 府中大使 {{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kanko/fuchutaishi/taishi2016.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2023年12月31日 |archiveurl=https://megalodon.jp/2023-1231-0936-35/https://www.city.fuchu.tokyo.jp:443/kanko/fuchutaishi/taishi2016.html |archivedate=2023年12月31日 }}</ref>(府中市出身、市立中学校卒業の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]、[[キーボーディスト]]) * [[坂井学]](政治家) * [[坂口健太郎]](俳優) * [[坂本英三]]([[ミュージシャン]]) * [[佐々木基樹]](ボクシング選手) * [[貞升南]]([[将棋]][[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]) * [[Sascha]](タレント、ラジオDJ) * [[佐藤隆]](歌手、作曲家) * [[佐山善則]](メカニックデザイナー) * [[澤穂希]](元[[女子サッカー|女子サッカー選手]]) * [[三笑亭可龍]]([[落語家]]) * [[三遊亭楽㐂]](落語家) * [[菅野剛士]](プロ野球選手) * [[杉江松恋]]([[書評]]家) * [[杉本竜士]](サッカー選手) * [[鈴木慶]](実業家、[[ソフマップ]]創業者) * [[鈴木康弘]](調教師) * [[関口太郎 (レーサー)|関口太郎]](モーターサイクルレーサー) * [[蒼羽りく]](元[[宝塚歌劇団]][[宙組 (宝塚歌劇)|宙組]]男役) * [[高橋勝浩]]([[稲城市]]長) * [[高野律雄]](府中市長、元保育士・園長) * [[高橋力]](実業家) * [[滝澤邦彦]](プロサッカー選手・[[バンコク・グラスFC]]) * [[武田久子]](ゴルフ選手) * [[武富茂子]]([[1971年]][[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]]) * [[谷中治]](サッカー元[[サッカー日本代表|日本代表]]・元[[フジタ工業サッカー部]]) * [[富樫麗加]](ボートレーサー) * [[豊島花]](女優) * [[長井短]]([[モデル (職業)|モデル]]、[[俳優#性別での分類|女優]]) * [[中倉彰子]]([[将棋]][[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]) * [[中倉宏美]](将棋女流棋士) * [[中村太地 (棋士)|中村太地]]([[将棋]][[棋士 (将棋)|棋士]]) * [[夏希真斗]](俳優) * [[西田裕作]](ドラマー、[[The Cheserasera]]メンバー、元[[クリープハイプ]]メンバー) * [[西牟田恵]](女優) * [[野口忠直]](元府中市長、実業家) * [[橋村龍ジョセフ]](サッカー選手) * [[長谷川香子]](女優) * [[長谷川潤 (野球)|長谷川潤]](元プロ野球選手) * [[浜汐花]](俳優) * [[濱中裕明]](数学者) * [[浜ロン]](お笑い芸人) * [[平野優]](競馬騎手・日本中央競馬会) * [[深津健吾]](ラグビー選手) * [[藤原誠]](歌手) * [[古本新乃輔]](俳優、声優、ラジオ・パーソナリティ) * [[保坂一成]](プロサッカー選手・[[東京ユナイテッドFC]]) * [[細野雄一]](ボクシング選手) * [[堀内敬子]](ミュージカル女優) * [[前田美幸]](プロレスラー) * [[前田喜史]](フットサル選手) * [[松本捨助]](新選組の八番組隊士) * [[松本莉緒]](女優)(旧名:松本恵) * [[松山康久]](調教師) * [[毬藻えり]](元宝塚歌劇団[[星組 (宝塚歌劇)|星組]]トップ娘役) * [[見栄晴]](タレント) * [[美代一貴]](ドラマー、[[The Cheserasera]]メンバー、元[[クリープハイプ]]メンバー) * [[水島朝穂]](憲法学者。[[早稲田大学]][[法学部]]教授) * [[水島精二]](アニメーション監督) * [[水瀬千秋]](俳優) * [[箕輪はるか]](お笑い芸人[[ハリセンボン_(お笑いコンビ)|ハリセンボン]]) * [[宮崎純真]](サッカー選手) * [[宮地佳乃]](バレーボール選手) * [[村上由利子]]([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[村野四郎]](詩人) * [[望月哲也]](声楽家) * [[安めぐみ]]<ref>「府中市広報誌(広報ふちゅう)2009年1月1日号、府中市長野口忠直との新春対談」府中市立小中学校卒業生{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.tokyo.jp/koho/h21kouho/files/090101kouho.pdf |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015年12月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130811090128/http://www.city.fuchu.tokyo.jp/koho/h21kouho/files/090101kouho.pdf |archivedate=2013年8月11日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>(市立小中学校卒業の女優・タレント) * [[山口拓夢]](西洋哲学、神話学者) * [[やまけん]](ラジオディレクター・パーソナリティ) * [[山野辺翔]](プロ野球選手) * [[横山典弘]](競馬騎手・日本中央競馬会) * [[横山賀一]](競馬騎手・日本中央競馬会) * [[若兎馬裕三]](元力士) {{colend}} === ゆかりの人物 === * [[板垣恵介]](漫画家) - 市内在住。2014年に市制60周年を迎えた府中市の[[原動機付き自転車]]オリジナルナンバープレートのデザインに、自身の作品である『[[グラップラー刃牙]]』のキャラクター『[[範馬刃牙]](はんまばき)』が採用された<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/closeup/original_numberplate.html 府中市ホームページ]</ref>。 * [[大賀一郎]] (植物学者) * [[奥平真治]](競走馬調教師) * [[北島三郎]] (歌手) * [[後藤あゆみ]](プロボクサー) - 元ミス府中 * [[酒井一圭]] (歌手)- [[純烈]]のメンバー * [[坂田おさむ]](歌手・[[日本放送協会|NHK]][[おかあさんといっしょ]]第7代[[うたのおにいさん]])- 市制施行60周年記念ソング「きいていたいな 府中の音」手掛ける。 * [[中島啓之]](競馬騎手・日本中央競馬会) * [[羽田圭介]](小説家)-東京都生まれで埼玉県北葛飾郡松伏町育ち。府中で一人暮らしをして過ごした時期があった。「[[幸せ!ボンビーガール]]」にゲスト出演した時、駅前の[[やおさん]]を利用していたなどの一面を明らかにした。 * [[藤川優里]](青森県八戸市議) * [[布施明]](歌手) * [[村野四郎]](詩人) * [[横山賀一]](競馬騎手・日本中央競馬会) - 弟の典弘と違い茨城県生まれではあるが、典弘出産前に府中に引越し学生時代まで過ごしていた。 * [[リーチマイケル]](ラグビー選手) - 市内でカフェを経営していたことがあり、市内に在住している。 * [[渡部建]](お笑いタレント) - 府中市生まれ、八王子市出身。 * [[斎藤茂太]] (精神科医、随筆家) - 府中市浅間町の斎藤病院の院長 === 過去に市内に在学した人物 === * [[菊地英昭]](ギタリスト、[[THE YELLOW MONKEY]]メンバー) * [[黒幕]] - [[テレビ神奈川|tvk]]のテレビ番組『[[saku saku]]』で、司会のパペット(ヴィンセント)を操る人物 * [[坂口健太郎]](モデル、俳優)- 明星中学・高校卒業 * [[高田純次]](俳優、タレント)- 府中高校卒業 * [[高橋惠子]](女優)- 小学校6年生の途中に移住。小学校卒業と同時に相模原市に移住。 * [[野口忠直]](元府中市長) * [[ローラ (モデル)|ローラ]](モデル、タレント)- 府中東高校卒業 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=東京都府中市}} * {{Twitter|fuchu_tokyo|東京都府中市}} * [https://fugis.city.fuchu.tokyo.jp/ がいどまっぷ府中] 市内施設の地図と案内 * [https://machidukuri-fuchu.jp/ まちづくり府中] イベント&お店情報 * [https://www.kankou-fuchu.com/ 府中観光協会] * [http://www.rugbycity-fuchu.jp/ ラグビーのまち府中] 公開終了 * [https://web.archive.org/web/20160423220103/http://members3.jcom.home.ne.jp/tokyo.fuchu/fuchu-hot.htm ほっと府中] {{Geographic Location |Centre = 府中市 |North = [[国分寺市]] [[小金井市]] |Northeast = |East = [[調布市]] |Southeast = |South = [[多摩市]] [[稲城市]] |Southwest = |West = [[日野市]] |Northwest = [[国立市]] |image = }} {{東京都の自治体}} {{多摩地域の市町村}} {{日本100大都市}} {{東京都府中市の町名}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふちゆうし}} [[Category:府中市 (東京都)|*]] [[Category:東京都の市町村]] [[Category:北多摩地域]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%B8%82_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD)
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府中市 (広島県)
府中市(ふちゅうし)は、広島県の南東部に位置する市であり、備後都市圏を構成する市の一つ。2022年12月より「ドローンネイティブシティびんご府中」プロジェクトを掲げ進めている。 「府中」は国府所在地を表す一般名詞で日本各地にあり、東京都には同一市名の府中市(武蔵府中)が、広島県内にも安芸郡府中町(安芸府中)が存在する。広島県府中市は備後国の府中であり、他の府中と区別するために「備後府中」とも呼ばれることがある。また県内では一般的には「府中市」または「備後府中」と「府中町」または「安芸府中」で呼び分けられている。 盆地を形成する市域を、一級河川芦田川が貫流する。中心市街地は隣接のかつて同じ芦品郡だった福山市新市町とは完全に連続して集積しており、旧上下町地区は離れている。 府中市の地に、大化の改新以後、律令時代に備後国の国府が置かれたとする説がありそれに由来する。 同じ名称の市が複数存在する例は、1955年(昭和30年)1月1日に福島県若松市の改称により若松市が一つになってから、2006年(平成18年)1月1日に福島県伊達市が成立し北海道伊達市と同一市名になるまでのあいだは、府中市が全国で唯一であった。 主な組織 - 2019年(平成31年)4月1日時点 府中市議会の慣例で議長と副議長の任期は2年が通例。 2022年12月21日現在 年4回発行(発行:府中市議会議長 / 編集:広報広聴特別委員会)。 第7代伊藤吉和市長が導入した小中一貫教育を全市で推進しており、学習指導要領に基づく9年間を見通したカリキュラムを編成している。初等・中等教育機関は、小中一体型2学園(府中学園・府中明郷学園)、小中併用型1学園(府南学園)および小中連携型1学園(上下学園)の4学園体制となっている。 1970年代より、同和団体による教育への過剰な干渉が広島県で問題となった。府中市は福山市や芦品郡、世羅郡などとともに、それらの問題が激かった地区である。国会で問題視され文部省による是正措置が行われた後は解消しつつある。 以下は市内の教育機関のリストである。 2023年7月13日現在。 内陸工業都市であり、備後都市圏の一翼を担っている。地場産業としての家具づくりには江戸時代からの伝統があり「府中家具」として知られる。特に府中タンスは桐の高級家具とされている。また、「府中味噌」の産地となっている。他は、リョービ、北川鉄工所、ヒロボーなどが当地を発祥とし当地に本社を置く企業も複数ある。また、青山商事、ハローズ、ジーベックの発祥地であるが、この3社は本社を府中市外に移している。 府中は福山城下郊外の手工業地域であった。特に綿作・加工が盛んで、市村に福山藩の木綿運上所が置かれていた。明治~大正期にかけ、煙草製造業・織物製造業・染料工業および家具製造業が興隆し、内陸工業都市への発展につながった。 製造業が盛んで、特に非鉄金属ダイカスト製品、ミーハナイト鋳鉄製品、府中タンス、ラジコンヘリコプター、プリント配線板用大型真空プレス、テルペン樹脂(接着剤)、桐材取扱等ではシェア全国トップクラスの企業が存在する。また福山市新市町と同様、備後絣から始まる繊維工業も盛んで、ユニフォーム、ワーキング、カジュアルウェアのデザイン開発などを扱う企業も集積している。 明治中期以降、製造が盛んになったタンスなどの指物、琴、下駄などの制作には桐材が利用され、部材を順にとっていく一種のコンビナートが結成された。 JA府中総合病院があったが、JAの経営撤退により2012年より地方独立行政法人府中市病院機構府中市民病院と改称となる。また上下町との合併により、国保上下病院が府中北市民病院に組織変更されているが、医師不足のために単独での診療ができなくなり、府中市民病院と一体で医師の派遣を受けて診療体制を維持している。その府中北市民病院も、精神科の病棟廃止、出産の受け入れ中止、眼科・耳鼻科・小児科・外科・精神科の常勤医の退職など診療体制の縮小が続いている。他にも市内に入院可能な病院が存在するが、2011年に北川病院が組織移譲を経て診療所になるなどして入院可能な施設数も減少している。 内陸部における産業集積地であった府中では、1899年(明治32年)に備後銀行が開業し、芦品郡府中町に本店が置かれた。設立当時の資本金20万円払込準備金5万円のうち半額は上下町側が負担したとされる。その後昭和恐慌の影響を受け、1934年(昭和9年)に藝備銀行(現、広島銀行の前身)に吸収合併され解散した。 高度経済成長期からバブル期、特に1970年中頃から1980年中頃に多くの橋梁が建設された。市内を流れる芦田川には幅の狭い橋や老朽化した橋が多く、特に交通事故の多発する扇橋の架け替え工事は府中南北道路の整備とともに、至急の課題とされている。市内には沈下橋もわずかに残存しているが、2018年(平成30年)西日本豪雨により損壊し通行できなくなった落合大橋と鴫谷橋の2橋について、府中市が2020年度以降撤去する方針を固めた。 日本一の石灯籠のデザインマンホールが府中市により発注された後に反対の声が出て設置中止となった。 芸備線対策協議会、福塩線対策協議会、新見市鉄道利用促進協議会の3者が連携して、芸備線・福塩線全70駅の駅カードを製作された(配布期間:2021年10月から2022年3月)。 駅カード発行記念 スタンプラリー - 開催期間に3エリア以上のシール・スタンプを集め応募すると、抽選で駅カードが収納できる特製カードフォルダをプレゼントされた。 長らく、府中市ではマンホールカードの配布は行われたことはなかったが、令和5年12月15日に「マンホールカード」第21弾として「府中焼き」が配布開始される。配布場所は(一社)府中市観光協会(府中町 キテラス府中)。 市外局番は0847(府中MA:市内局番40 - 69)となっている。同一市外局番の世羅町など(甲山MA:市内局番20 - 39)及び神石高原町(東城MA:市内局番80 - 99)は、MAが異なる(隣接区域)ため、市外局番 (0847) が必要である。 郵便物の集配は、以下の局が行っている。2006年10月16日の再編に伴い、変更された。 五十音順で掲載。 ロケ地
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府中市(ふちゅうし)は、広島県の南東部に位置する市であり、備後都市圏を構成する市の一つ。2022年12月より「ドローンネイティブシティびんご府中」プロジェクトを掲げ進めている。 「府中」は国府所在地を表す一般名詞で日本各地にあり、東京都には同一市名の府中市(武蔵府中)が、広島県内にも安芸郡府中町(安芸府中)が存在する。広島県府中市は備後国の府中であり、他の府中と区別するために「備後府中」とも呼ばれることがある。また県内では一般的には「府中市」または「備後府中」と「府中町」または「安芸府中」で呼び分けられている。
{{混同|府中町|府中市 (東京都)}} {{日本の市 | 画像 = 府中公園 Fuchu park - panoramio.jpg|thumb|250px | 画像の説明 = 府中公園 | 市旗 = [[ファイル:Flag of Fuchu city, Hiroshima.svg|100px]] | 市旗の説明 = 府中[[市町村章|市章]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Fuchū City, Hiroshima.svg|75px]] | 市章の説明 = 府中[[市町村章|市章]]<br />[[1954年]][[6月28日]]制定 | 自治体名 = 府中市 | 都道府県 = 広島県 | コード = 34208-4 | 隣接自治体 = [[福山市]]、[[三次市]]、[[尾道市]]、[[庄原市]]、[[世羅郡]][[世羅町]]、[[神石郡]][[神石高原町]] | 木 = [[サクラ|さくら]] | 花 = [[アジサイ|あじさい]] | シンボル名=他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 726-8601 | 所在地=府中市府川町315番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-34|display=inline,title|name=府中市}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Fuchu city office.JPG|250px|center|府中市役所庁舎]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|34|208|image=Fuchu in Hiroshima Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = }} '''府中市'''(ふちゅうし)は、[[広島県]]の南東部に位置する[[市]]であり、[[備後都市圏]]を構成する市の一つ。[[2022年]]12月より「[[無人航空機|ドローン]]ネイティブシティびんご府中」プロジェクトを掲げ進めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/bunka_sports/sports/event/5630.html |title=府中市のドローンに関する取組│広島県府中市 |publisher=広島県府中市 |date=2022-12-06 |accessdate=2023-04-06}}</ref><ref>[https://www.facebook.com/groups/dronefuture DRONE FUTURE(Facebook)]. 2023年5月18日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchu-drone.jp/ |title=府中市ドローンワンストップ窓口 |publisher=ドローンネイティブシティびんご府中推進事務局 |date=2022 |accessdate=2023-05-18}}</ref>。 「[[府中]]」は[[国府]]所在地を表す一般名詞で日本各地にあり、東京都には同一市名の[[府中市 (東京都)|府中市]]([[武蔵国|武蔵]]府中)が、広島県内にも[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]([[安芸国|安芸]]府中)が存在する。広島県府中市は[[備後国]]の府中であり、他の府中と区別するために「'''備後府中'''」とも呼ばれることがある。また県内では一般的には「府中市」または「備後府中」と「府中町」または「安芸府中」で呼び分けられている。 == 地理 == [[File:Fuchu city Hiroshima prefecture center area Aerial photograph.2018.jpg|thumb|300px|府中市中心部周辺の空中写真。<br/>2018年7月18日撮影の10枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 盆地を形成する市域を、[[一級河川]][[芦田川]]が貫流する。中心市街地は隣接のかつて同じ芦品郡だった[[福山市]][[新市町]]とは完全に連続して集積しており、旧[[上下町]]地区は離れている。 [[ファイル:府中市街.JPG|thumb|none|300px|府中市街地]] === 町名一覧 === <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=34&city=1342080&cmp=1|title=郵便番号検索>広島県>府中市|accessdate=2019/07/16|publisher=日本郵便株式会社}}</ref> * 阿字町(あじちょう) * 荒谷町(あらたにちょう) * 鵜飼町(うかいちょう) * 上山町(うやまちょう) * 小国町(おぐにちょう) * 河南町(かなんちょう) * 河佐町(かわさちょう) * 木野山町(きのやまちょう) * 久佐町(くさちょう) * 栗柄町(くりがらちょう) * 河面町(こうもちょう) * 桜が丘(さくらがおか) * 三郎丸町(さぶろうまるちょう) * 篠根町(しのねちょう) * 上下町有福(じょうげちょうありふく) * 上下町井永(じょうげちょういなが) * 上下町岡屋(じょうげちょうおがや) * 上下町小塚(じょうげちょうおづか) * 上下町国留(じょうげちょうくにどめ) * 上下町小堀(じょうげちょうこほり) * 上下町佐倉(じょうげちょうさくら) * 上下町階見(じょうげちょうしなみ) * [[上下町上下]](じょうげちょうじょうげ) * 上下町深江(じょうげちょうふかえ) * 上下町二森(じょうげちょうふたもり) * 上下町松崎(じょうげちょうまつさき) * 上下町水永(じょうげちょうみずなが) * 上下町矢多田(じょうげちょうやただ) * 上下町矢野(じょうげちょうやの) * 僧殿町(そうどのちょう) * 高木町(たかぎちょう) * 父石町(ちいしちょう) * 出口町(でぐちちょう) * 斗升町(とますちょう) * 中須町(なかずちょう) * 土生町(はぶちょう) * 広谷町(ひろたにちょう) * 府川町(ふかわちょう) * 府中町(ふちゅうちょう) * 行縢町(むかばきちょう) * 目崎町(めざきちょう) * 元町(もとまち) * 本山町(もとやまちょう) * 諸毛町(もろけちょう) * 用土町(ようどちょう) === 主要な山岳・河川 === * 主な山岳 - 岳山(標高738.6m) * 主な河川 - 一級河川[[芦田川]]、阿字川、出口川、音無川、砂川、矢多田川、御調川、[[上下川]] === 気候 === {{Weather box|location=府中(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=16.5|Feb record high C=22.2|Mar record high C=25.3|Apr record high C=30.5|May record high C=32.8|Jun record high C=36.0|Jul record high C=38.7|Aug record high C=38.5|Sep record high C=37.6|Oct record high C=31.9|Nov record high C=25.2|Dec record high C=19.4|year record high C=38.7|Jan high C=8.8|Feb high C=10.0|Mar high C=13.9|Apr high C=19.8|May high C=24.7|Jun high C=27.5|Jul high C=31.2|Aug high C=32.9|Sep high C=28.7|Oct high C=22.9|Nov high C=16.8|Dec high C=11.1|year high C=20.7|Jan mean C=3.6|Feb mean C=4.4|Mar mean C=7.8|Apr mean C=13.3|May mean C=18.3|Jun mean C=22.1|Jul mean C=26.1|Aug mean C=27.2|Sep mean C=23.1|Oct mean C=17.0|Nov mean C=10.9|Dec mean C=5.7|year mean C=15.0|Jan low C=-0.7|Feb low C=-0.4|Mar low C=2.2|Apr low C=7.2|May low C=12.5|Jun low C=17.7|Jul low C=22.1|Aug low C=22.9|Sep low C=18.8|Oct low C=12.2|Nov low C=5.9|Dec low C=1.2|year low C=10.1|Jan record low C=-8.0|Feb record low C=-9.9|Mar record low C=-5.0|Apr record low C=-2.4|May record low C=1.5|Jun record low C=9.2|Jul record low C=13.4|Aug record low C=14.9|Sep record low C=6.6|Oct record low C=0.6|Nov record low C=-1.8|Dec record low C=-6.0|year record low C=-9.9|Jan precipitation mm=40.6|Feb precipitation mm=49.5|Mar precipitation mm=88.9|Apr precipitation mm=100.7|May precipitation mm=130.3|Jun precipitation mm=185.1|Jul precipitation mm=210.4|Aug precipitation mm=111.6|Sep precipitation mm=140.6|Oct precipitation mm=93.7|Nov precipitation mm=59.4|Dec precipitation mm=47.1|year precipitation mm=1257.7|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=5.8|Feb precipitation days=7.6|Mar precipitation days=9.5|Apr precipitation days=9.4|May precipitation days=9.3|Jun precipitation days=11.2|Jul precipitation days=10.5|Aug precipitation days=7.5|Sep precipitation days=8.7|Oct precipitation days=6.9|Nov precipitation days=6.4|Dec precipitation days=6.8|year precipitation days=99.5|Jan sun=136.4|Feb sun=139.4|Mar sun=174.3|Apr sun=193.3|May sun=209.4|Jun sun=148.5|Jul sun=167.0|Aug sun=196.5|Sep sun=153.4|Oct sun=167.5|Nov sun=148.3|Dec sun=138.2|year sun=1984.5|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=67&block_no=0951&year=&month=&day=&view= |title=府中 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-10-07 |publisher=気象庁}}</ref>}} * 2023年7月27日、最高気温が府中市観測史上最高の38.6度を記録<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20230727/4000023120.html |title=府中市で最高気温38.6℃ 観測史上最高│NHK広島 NEWS WEB |publisher=NHK |date=2023-07-27 |accessdate=2023-11-02}}</ref>。 * 2023年7月28日、最高気温が38.7度を記録し、2日続けて府中市観測史上最高となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/339230 |title=広島県府中市38・7度、2日連続観測史上最高 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-07-28 |accessdate=2023-11-02}}</ref>。 === 隣接する自治体 === * [[福山市]] * [[尾道市]] * [[神石郡]][[神石高原町]] * [[世羅郡]][[世羅町]] * [[庄原市]] * [[三次市]] === 人口 === * 慢性的な人口減、[[高齢化]]に悩んでおり、[[1990年代]]より毎月50人前後の人口減が継続している<ref>府中市広報 2012年-2013年</ref>。[[2004年]]には人口約6000人の[[上下町]]と合併したが、2018年4月1日には人口が40,007人(前月比106人減)となり<ref>住民基本台帳 広島県府中市 2018年4月1日</ref>、2018年7月には4万人を割り込んだ39,849人となった<ref>住民基本台帳 広島県府中市 2018年7月1日</ref>。特に中山間地域では過疎高齢化が急速に進んでおり生活インフラが崩壊した地域も見られる。2014年には、財政力指数が0.48、および人口減少率が22.5%(昭和60年から平成22年)であり、2014年に市全域が[[過疎地域]]の指定を受け[[過疎地域自立促進特別措置法]]の対象地区とされている<ref>平成30年 府中市議会 第1回定例会(3月1日)</ref>。 * 府中市において、通勤者の数では、「福山市→府中市」の方が、「府中市→福山市」よりも多い(福山市からの流出超過)。しかし、府中市の通勤者の 10% 以上が福山市に通勤しているのに対し、福山市の通勤者の 10% 以上が府中市に通勤しているわけではないので、府中市は[[備後都市圏|福山都市圏]]に入ると見なされる([[工業都市]]である都市圏によく見られる例→[[北九州都市圏]])。備後都市圏内で府中市は[[福山市]]への通勤通学率が25.1%と最も多く(域内で20%を越えているのは府中市と[[岡山県]][[笠岡市]]の21.1%のみである)、福山市への大きな人口の流出が見られる。<ref>{{Cite journal|author=福山市|month=10|year=2015|title=福山市総合戦略|journal=|volume=|page=8}}</ref> {{人口統計|code=34208|name=府中市|image=Population distribution of Fuchu, Hiroshima, Japan.svg}}<br /> == 市名 == === 語源 === 府中市の地に、[[大化の改新]]以後、[[律令制|律令]]時代に[[備後国]]の[[国府]]が置かれたとする説があり<!--定かではない--><ref group="注" name="hiroshima">公益[[財団法人]] ひろしま文化振興財団発表(発掘するも確定出来ず、福山市[[神辺町]]に国分寺がある事から異説がある)</ref><ref name="news">府中ニュース速報 平成16年9月16日掲載『歴史講座 備後国府跡』(広島県教育員会にかわり広島県府中市教育委員会が調査を続けているが、国府とりわけ政庁跡が確定出来ていない)</ref>それに由来する。 === 同名自治体 === * 東京都[[府中市 (東京都)|府中市]](武蔵府中) * 広島県[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]](安芸府中) 同じ名称の市が複数存在する例は、[[1955年]]([[昭和]]30年)[[1月1日]]に[[福島県]]若松市の改称により[[若松市]]が一つになってから、[[2006年]]([[平成]]18年)[[1月1日]]に福島県[[伊達市 (福島県)|伊達市]]が成立し[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]と同一市名になるまでのあいだは、府中市が全国で唯一であった。 == 歴史 == === 府中町成立前 === [[ファイル:Kyuusanyoudou-2017.jpg|thumb|府中市府中町での[[山陽道|旧山陽道]]の発掘作業]] * 奈良・平安時代に[[備後国府]]が現在の府中市中心部付近に置かれた。 * [[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年) : [[徳川家康]]の従兄弟[[水野勝成]]が西国鎮衛の役目を命じられ備後国東南部・[[備中国]]西南部の十万石に転封 現在の市域のうち旧御調郡を除く地域は[[備後福山藩]]領となる。 * [[1698年]]([[元禄]]11年) : 5代藩主[[水野勝岑]]の死去により、無嗣除封。この時に旧甲奴郡分<!--確かな情報で(現在の府中市の一部や府中市上下町分も含む)-->は天領となる。天領支配のため[[上下町上下|上下陣屋]]が設けられる。 * [[1699年]](元禄12年) : [[松平忠雅]]が福山に転封。 * [[1710年]]([[宝永]]7年) ** 松平忠雅が福山から移封。 ** [[阿部正邦]]が福山に転封。 * [[1845年]]([[弘化]]2年) : [[阿部正弘]]が幕府老中首座に就任。 * [[1871年]]([[明治]]4年) ** [[明治維新]]・[[廃藩置県]]により旧福山藩領と[[神石郡]]の一部を持って[[備後福山藩|福山県]]設立。 ** 福山県から[[深津県]]へ名称変更。 * [[1872年]](明治5年) : 深津県と[[倉敷県]]が統合し[[小田県]]設立。それに伴い、県庁は[[笠岡市|笠岡]]に移転。 * [[1875年]](明治8年) : 小田県が[[岡山県]]へ編入。 * [[1876年]](明治9年) : 岡山県より旧備後国[[沼隈郡|沼隈]]、[[深津郡|深津]]、[[安那郡|安那]]、[[品治郡|品治]]、[[芦田郡|芦田]]、[[神石郡|神石]]の6郡が[[広島県]]に移管。 === 市町村制施行以後 === * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] :[[町村制]]施行し、[[芦田郡]]'''府中市村'''が成立。郡役所を府中市村に設置。 * [[1896年]](明治29年)[[6月3日]]:府中市村が町制施行と同時に改称して'''[[府中町 (広島県芦品郡)|府中町]]'''になる。 * [[1898年]](明治31年)[[10月1日]] : [[郡制]]施行に伴い、所属が芦田郡から[[芦品郡]]となり、府中には芦品郡役所が設置される。 * [[1914年]]([[大正]]3年)[[7月21日]] : 両備軽便鉄道(現 : JR[[福塩線]])・両備福山([[1935年]]廃止) - 府中町(現 : [[府中駅 (広島県)|府中]])間が開業。 * [[1923年]](大正12年)4月1日 : 栗生(くりぶ)村土生(はぶ)の一部を編入(現在の府中市土生町の区域)。 * [[1925年]](大正14年)[[2月1日]] : 芦品郡出口町と合併し、改めて'''府中町'''が成立。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[6月25日]] : 両備軽便鉄道・両備福山 - 府中町間が電化される([[中国地方]]の国鉄線では初の電化)。 * [[1938年]](昭和13年)[[7月28日]] : JR福塩線が府中 - [[上下駅|上下]]間の開通をもって全通。 * [[1945年]](昭和20年)[[9月17日]]:[[枕崎台風]]による大水害が発生。 === 府中市成立後 === * [[1954年]](昭和29年)[[3月31日]] : 芦品郡府中町及び[[岩谷村 (広島県)|岩谷村]]・[[栗生村]]・[[国府村 (広島県)|国府村]]・[[下川辺村]]・[[広谷村]]が合併し市制施行、'''府中市'''となる。 * [[1956年]](昭和31年)[[9月30日]] : 芦品郡[[河佐村]]と御調郡[[諸田村]](大字小国・諸毛)、[[御調町]]三郎丸を編入。 * [[1975年]](昭和50年)2月1日 : 芦品郡[[協和村 (広島県)|協和村]]を編入。 * [[1986年]](昭和61年) : 御調採石の採石場(荒谷町)から、カドミウムなどの重金属を含む汚水が出口川に流れ込んでいることが明らかとなる。 {{main|出口川のカドミウム汚染}} * [[1993年]]([[平成]]5年)4月1日 : 市内を通る主要地方道2路線(広島県道24号福山上下線の一部・広島県道49号府中御調線の全線)が[[国道486号]]に昇格する(これにより中国地方全49市〔当時〕に国道が通ることになった)。 * [[2004年]](平成16年)4月1日 : [[甲奴郡]][[上下町]]を編入。 == 行政 == === 市長 === * 市長 - [[小野申人]]([[2018年]][[5月2日]]就任<ref>『全国市町村要覧 令和01年版』(第一法規) p.337</ref>、2期目) ** 副市長 - 平野{{ruby|勝与|かつよ}}(2023年4月1日着任、任期4年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/282227 |title=副市長に平野氏、市議会が選任同意案可決 広島県府中市 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-03-16 |accessdate=2023-03-22}}</ref>)※元・広島県地域政策局総括官(中山間地域振興)2023年度 公益財団法人ふくやま芸術文化財団 理事<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/uploaded/attachment/253812.pdf |title=2023年度(令和5年度)公益財団法人ふくやま芸術文化財団 役員等名簿 |format=PDF |publisher=福山市 |date=2023-06-13 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。 *** 前・副市長 - 村上明雄([[2018年]]6月1日 - 2023年3月31日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/material/files/group/29/20230316press.pdf |title=府中市報道資料 府中市副市長の選任同意について |format=PDF |publisher=広島県府中市 |date=2023-03-16 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。2022年度 公益財団法人ふくやま芸術文化財団 理事<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/uploaded/attachment/226718.pdf |title=2022年度(令和4年度)公益財団法人ふくやま芸術文化財団役員等名簿 2022年(令和4年)6月22日現在 |publisher=福山市 |date=2022-06-22 |accessdate=2022-12-22}}</ref>)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.hiroshima.jp/shisei/koho/koho_fuchu/2879.html|title=広報ふちゅう(平成30年7月1日第1238号)|accessdate=2019/7/16|publisher=府中市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://keizai.info/general-bingo/57125 |title=府中市 新副市長は村上明雄さん 元県地域政策局振興部長 |publisher=経済リポート |date=2018-06-01 |accessdate=2022-07-26}}</ref> →2023年4月1日より広島県[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[坂町]]副町長<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/283641 |title=広島県坂町の新副町長に府中市副市長の村上氏 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-03-20 |accessdate=2023-07-31}}</ref>。 * 教育長 - 荻野雅裕(2021年10月2日着任、任期3年)40歳という前例がない若さでの教育長就任<ref name="chugokunpcojp20210910">{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/107870 |title=府中市教育長に荻野氏を起用へ 文科省出身、広島県内市町で初 |publisher=中国新聞デジタル |date=2021-09-10 |accessdate=2023-05-15}}</ref>。また、広島県内市町で初の[[文部科学省]]出身者の就任となった<ref name="chugokunpcojp20210910" />。 ; 歴代市長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任日!!退任日!!備考 |- | 初代 || 宗藤信夫 || [[1954年]][[5月12日]] || 1958年[[5月11日]] || 1期 |- | 2代 || 北川{{ruby|實夫|じつお}} || [[1958年]]5月12日 || 1966年[[5月1日]] || 2期 |- | 3代 || 青山春雄 || [[1966年]][[5月2日]] || 1970年5月1日 || 1期 |- | 4代 || 北川實夫 || [[1970年]]5月2日 || 1982年5月1日 || 3期 |- | 5代 || 浦上秀男 || [[1982年]]5月2日 || 1986年5月1日 || 1期 |- | 6代 || 橘高{{ruby|泰司|やすし}} || [[1986年]]5月2日 || 2002年5月1日 || 4期 |- | 7代 || [[伊藤吉和]] || [[2002年]]5月2日 || 2014年5月1日 || 3期 |- | 8代 || [[戸成義則]] || [[2014年]]5月2日 || 2018年5月1日 || 1期 |- | 9代 || [[小野申人]] || 2018年5月2日 || 現職(2期目) ||   |} === 国の機関 === * [[法務省]][[広島法務局]] 府中出張所 * 法務省 府中[[区検察庁]] * [[財務省 (日本)|財務省]] 府中[[税務署]](鵜飼町→仮庁舎:府川町143-1<ref name="kohofuchu1302p9">広報ふちゅうNo.1302 令和5年11月1日号 p9. 2023年11月3日閲覧。</ref>)現庁舎業務終了日2023年12月8日(金)→仮庁舎業務開始日2023年12月11日(月)<ref name="kohofuchu1302p9" /> * [[厚生労働省]] 広島社会保険事務所 備後府中事務所(府中町) * 厚生労働省 [[広島労働局]] 府中[[公共職業安定所]](府中町) * 厚生労働省 広島労働局 府中[[労働基準監督署]] * 農林水産省 [[近畿中国森林管理局]] 広島森林管理署 府中森林事務所(鵜飼町) * 農林水産省 近畿中国森林管理局 広島森林管理署 上下森林事務所(上下町) * 府中[[簡易裁判所]](鵜飼町) === 広島県の機関・一部事務組合 === * [[広島県警察]][[府中警察署 (広島県)|府中警察署]](府中市域全域を管轄) * 広島県備北地域事務所建設局上下支局 * 広島県福山家畜保健衛生所 * [[福山地区消防組合]]消防局 [[府中消防署 (広島県)|府中消防署]]・小塚出張所 === 府中市の機関 === 主な組織 - 2019年(平成31年)4月1日時点 * 危機管理監 * 総務部 * 健康福祉部 * 経済観光部 * 建設部 * 会計課 * 議会事務局 * 選挙管理委員会 * 監査事務局 * 農業委員会 * 教育委員会 == 議会 == === 府中市議会 === * 定数:19人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/159008 |title=府中市議19人決まる 投票率は過去最低の54・86% |publisher=中国新聞デジタル |date=2022-04-24 |accessdate=2022-07-26}}</ref>。加納孝彦(現・県議)が辞職した2022年12月より欠員1<ref name="chugokunpcojp20221220" />。 * 任期:2022年5月 - 2026年5月 ; 議長・副議長 府中市議会の慣例で議長と副議長の任期は2年が通例。 * 議長:加藤{{ruby|吉秀|よしひで}}<ref name="cityfuchugicho">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/gikai_jimukyoku/shigikai/gaiyo/641.html |title=議長と副議長/広島県府中市 |publisher=広島県府中市 議会事務局 |date=2022 |accessdate=2022-12-22}}</ref>(創生会)2022年5月 - 2024年5月予定 * 副議長:{{ruby|安友|やすとも}}{{ruby|正章|まさあき}}<ref name="cityfuchugicho" />(創生会)2022年12月20日就任<ref name="chugokunpcojp20221220">{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/251688 |title=府中市議会副議長に安友氏 市議会は欠員1に |publisher=中国新聞デジタル |date=2022-12-20 |accessdate=2022-12-22}}</ref> - 2024年5月予定 *: 前・副議長:加納孝彦(創生会)2022年12月20日に突如、副議長辞任、市議辞職、いこーれふちゅう(府中天満屋2階)で緊急記者会見を開き広島県議会選挙立候補表明<ref name="chugokunpcojp20221220" />。2023年4月9日、県議会議員選挙に当選し県議に転身。 ; 過去の議長・副議長 * 議長:棗田澄子(創生会)任期:2020年5月16日 - 2022年5月15日 <small>※府中市初の女性議員であり府中市初の女性議長となった。</small> * 副議長:{{ruby|三藤|みとう}}{{ruby|毅|つよし}}(創生会)任期:2020年5月16日 - 2022年5月15日 ; 会派 2022年12月21日現在<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/material/files/group/19/202212kaihakousei.pdf |title=府中市議会 会派構成/広島県府中市 |format=PDF |publisher=広島県府中市 議会事務局 |date=2022-12-21 |accessdate=2022-12-22}}</ref> * 創生会 9人(11人いたうち2人が無所属を経て新会派「新しい風」結成<ref name="chugokunpcojp20221221">{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/252126 |title=府中市議会、無所属2人が新会派結成 |publisher=中国新聞デジタル |date=2022-12-21 |accessdate=2022-12-22}}</ref>) * 市民クラブ 3人 * 公明党 2人 * 新しい風 2人(2022年12月21日結成<ref name="chugokunpcojp20221221" />) * 無所属 2人 ; 市議会だより 年4回発行(発行:府中市議会議長 / 編集:広報広聴特別委員会)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/gikai_jimukyoku/shigikai/koho/643.html |title=議会だより│広島県府中市 |publisher=広島県府中市 |date= |accessdate=2023-06-03}}</ref>。 ; 備考 * 2018年4月、市制施行以来初の市議会選無投票<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/28496 |title=広島県府中市議選、新市議20人決まる(無投票)【2018年4月15日】 |publisher=中国新聞デジタル |date=2018-04-16 |accessdate=2023-11-07}}</ref>。 === 広島県議会 === ; 2023年広島県議会議員選挙 * 選挙区:府中市・神石郡選挙区 * 定数:1人 * 告示日:2023年3月31日 * 投票日:2023年4月9日 * 投票率44.16%<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/daabase/touitsu/34/19247/skh53077.html |title=広島県議選 府中市・神石郡 統一地方選挙2023 |publisher=NHK |date=2023-04-09 |accessdate=2023-04-09}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/291902 |title=無所属新人・加納孝彦さん現職破り初当選 広島県議選の府中市・神石郡 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-04-09 |accessdate=2023-04-09}}</ref> {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考 |- | 加納孝彦 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 50 || 無所属 || align="center" | 新 || 8,730票 || 前・府中市議会議員<br />前・府中市議会副議長<br />任期初日から[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]広島県議会議員連盟所属<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/gikai/giin-giin-kai.html |title=会派並びに代表者│広島県議会 |publisher=広島県議会 |date=2023-04-30 |accessdate=2023-05-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/gikai/giin-giin-mei.html |title=議員名簿│広島県議会 |publisher=広島県議会 |date=2023-04-30 |accessdate=2023-05-01}}</ref> |- | 山口康治 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 61 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 現 || 7,889票 ||元・府中市議会議員<br />自由民主党広島県議会議員連盟所属<br />所属推薦:[[公明党]] |} ; 2022年広島県議会議員補欠選挙 * 選挙区:府中市・神石郡選挙区 * 定数:1人 * 任期:2022年3月27日 - 2023年4月29日 * 投票日:2022年3月27日 * 投票率:38.17%<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/local/hiroshima/18325/ |title= 広島県議補選 府中市・神石郡|地方選挙|NHK選挙WEB |publisher=NHK |date=2022 |accessdate=2022-12-22}}</ref> {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考 |- | 山口康治 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 60 || 無所属 || align="center" | 新 || 7,616票 || 前・府中市議会議員 |- | 井上達也 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 41 || 無所属 || style="text-align:center" | 新 || 6,994票 ||NPO法人 ふちゅう大学誘致の会 理事長 |} ; 2019年広島県議会議員選挙 * 選挙区:府中市・神石郡選挙区 * 定数:1人 * 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 * 投票日:2019年4月7日 {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 備考 |- | 岡崎哲夫 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || align="center" | 63 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 現 || 無投票 || 2022年2月10日に辞職<ref name="chugoku20220210">{{cite news |url=https://www.chugoku-np.co.jp/column/article/article.php?comment_id=832065&comment_sub_id=0&category_id=1258 | title=【速報】広島県議の平本英、岡崎、下原の3氏が辞職 河井夫妻事件で「起訴相当」 | newspaper=中国新聞 | date=2022-2-10 | accessdate=2022-2-10 }}</ref>し、政界引退を表明<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220210-EBAJATFYJ5M7NN7FG74DAPS6KA/ |title=広島県議「辞職ドミノ」 参院選の公選法違反事件で |publisher=産経新聞 |date=2022-02-10 |accessdate=2023-07-17}}</ref>。 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[広島県第6区|広島6区]]([[三原市]]の一部、[[尾道市]](旧[[瀬戸田町]]域を除く)、府中市、[[三次市]]、[[庄原市]]、[[世羅郡]]、[[神石郡]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 当日有権者数:294,154人 * 投票率:56.35% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[佐藤公治]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 62 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffc0cb;" | 83,796票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | style="background-color:#ffdddd;" | 比当 || style="background-color:#ffdddd;" | [[小島敏文]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 71 || style="background-color:#ffdddd;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | 前 || style="background-color:#ffdddd;" | 79,158票 || style="background-color:#ffdddd; text-align:center;" | ○ |} == 教育 == 第7代[[伊藤吉和]]市長が導入した[[小中一貫教育]]を全市で推進しており、[[学習指導要領]]に基づく9年間を見通したカリキュラムを編成している。初等・中等教育機関は、小中一体型2学園(府中学園・府中明郷学園)、小中併用型1学園(府南学園)および小中連携型1学園(上下学園)の4学園体制となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.hiroshima.jp/kosodate_kyoiku/kyoiku/ikkankyoiku/index.html|title=小中一貫教育|accessdate=2019/7/27|publisher=府中市}}</ref>。 1970年代より、同和団体による教育への過剰な干渉が広島県で問題となった。府中市は福山市や[[芦品郡]]、[[世羅郡]]などとともに、それらの問題が激かった地区である。国会で問題視され文部省による是正措置が行われた後は解消しつつある。{{main|広島県での同和解放同盟による教育介入}} 以下は市内の教育機関のリストである。 === 高等学校 === * [[広島県立府中高等学校]] * [[広島県立府中東高等学校]] * [[広島県立上下高等学校]] === 中学校 === * [[府中市立第一中学校]] * [[府中市立上下中学校]] === 小中一貫校(義務教育学校) === * 府中市小中一貫教育をイメージしたオリジナルロゴマークを[[安藤雅司]]が手掛けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/kosodate_kyoiku/kyoiku/ikkankyoiku/1967.html |title=府中市が進める小中一貫教育 |publisher=府中市 |date=2018-02-27 |accessdate=2023-05-18}}</ref>。 * 市内の全10小中学・義務教育学校に外国語指導助手(ALT)計12人を配置、10校のうち8校では全ての英語の授業にALTが参加する体制を整える<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/350349 |title=府中市の全10小中学校にALT配置 広島県 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-08-23 |accessdate=2023-09-15}}</ref>。 * [[府中市立府中学園]] **[[2008年]](平成20年)[[4月]]、[[府中市立府中小学校・府中中学校|第二中学校]]とその学区内4小学校([[府中市立東小学校|東小学校]]・西小学校・広谷小学校・岩谷小学校)を統合。[[日本たばこ産業]]府中工場跡地に新校舎を設置し、小中一体型の「[[府中市立府中小学校・府中中学校|府中学園 府中市立府中小学校・府中中学校]]」が開校。[[2017年]](平成29年)に[[義務教育学校]]へ移行。 * [[府中市立府中明郷学園]] **[[2009年]](平成21年)4月、[[府中市立第四中学校|第四中学校]]を第三中学校に、[[府中市立久佐小学校|久佐小学校]]と[[府中市立諸田小学校|諸田小学校]]を明郷小学校にそれぞれ統合。[[2010年]](平成22年)4月、[[府中市立北小学校|北小学校]]を明郷小学校に統合。第三中学校と明郷小学校が校名を「府中明郷中学校」「府中明郷小学校」にそれぞれ変更し、小中一体型の「府中明郷学園」となる。[[2017年]](平成29年)に義務教育学校へ移行。 === 小学校 === ; 第一中学校区「府南学園」構成校 * [[府中市立国府小学校]] * 府中市立栗生小学校 - 1873年(明治6年)創立。イメージキャラクター「クリッティー」。 * 府中市立旭小学校 * 府中市立南小学校 ; 上下中学校区「上下学園」構成校 * 府中市立上下北小学校 * 府中市立上下南小学校 === 閉鎖された教育施設 === ; 「府中学園」に統合され廃止 * [[府中市立東小学校]] - 跡地は古府の森スポーツグラウンドとして利用。 * 府中市立西小学校 - 跡地は出口公民館、および、出口スポーツグラウンドとして利用。 * 府中市立広谷小学校 - 跡地は広谷保育所として利用。 * 府中市立岩谷小学校 - 跡地はリョービ・スポーツスクエアとして利用。 * 府中市立第二中学校 - 跡地は府中学園のグランドとして利用。 ; 「府中明郷学園」に統合され廃止 * 府中市立第三中学校 - 跡地は府中明郷学園として利用。 ** 府中市立第四中学校 - 2009年(平成21年)4月1日、府中市立第三中学校に統合。 ; 移管 * 北川工業高等学校 - 府中市元町。1974年、[[広島県立府中東高等学校|府中市立府中東高等学校]]に移管。 === 大学誘致 === * 2016年に設立された「ふちゅう大学誘致の会」が航空技術大学誘致を目指している<ref>[https://ja-jp.facebook.com/Fuchu.Univ/ COCFU ふちゅう大学誘致の会(Facebook)]. 2023年5月18日閲覧。</ref>。 == 保育サービス == * 一時預かり ** 保育所 5か所 対象年齢:保育所によって違う<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/kennkofukushibu/kosodateouennka/kosodate/hoikujo/7731.html |title=保育サービス/広島県府中市 |publisher=広島県府中市 |date=2023-06-08 |accessdate=2023-07-25}}</ref> ** 府中市子育てステーションちゅちゅ(2023年6月1日より開始)対象年齢:生後6か月~小学校就学前の児童<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchu-chuchu.jp/information/entry-545.html |title=令和5年6月1日から府中市子育てステーションちゅちゅで一時預かりを始めます |publisher=府中市子育て支援サイトちゅちゅ 広島県 |date=2023-05-26 |accessdate=2023-07-25}}</ref> ** 府中市こどもの国ポムポム さくらほいくえん(2018年4月21日より開始)対象年齢:生後6カ月~小学校就学前の児童<ref>{{Cite web|和書|url=https://kodomo-fuchu.com/childcare |title=一時保育について (さくらほいくえん) |publisher=府中市こどもの国 ポムポム |date= |accessdate=2023-07-25}}</ref> * 休日保育 - 保育所が休所となる日曜や祝日 / 対象年齢:<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/material/files/group/39/kyuujituhoiku.pdf |title=休日保育のご案内(令和5年4月改訂) |format=PDF |publisher=広島県府中市 |date=2023 |accessdate=2023-07-25}}</ref> * 病児保育 - 病児保育室(府中市民病院内)対象年齢:<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/material/files/group/39/byoujihoikuchirashi.pdf |title=病児保育のご案内(令和5年4月改訂) |format=PDF |publisher=広島県府中市 |date=2023 |accessdate=2023-07-25}}</ref> == 会議所 など == 2023年7月13日現在。 * 府中商工会議所(広島県府中市元町445-1 府中商工会議所会館) ** 会頭:北川祐治(株式会社[[北川鉄工所]] 代表取締役会長兼社長) ** 副会頭:田中芳昭([[リョービ]]株式会社 顧問) ** 副会頭:岡崎浩二(タカノブ食品株式会社 代表取締役社長) *: ※ 第2代・4代府中市長北川實夫を輩出。 * 府中青年会議所(広島県府中市元町445-1 府中商工会議所会館2階) ** 理事長:貝原祥之(カイハラ株式会社) ** 副理事長:伊豆田浩央(伊豆義株式会社) ** 副理事長:堀内朗(株式会社北川鉄工所) ** 副理事長:宮脇亮平(株式会社みやわき建設) *: ※ 第9代府中市長[[小野申人]]を輩出(同会議所第32代理事長)。 * 府中ライオンズクラブ(広島県府中市元町445-1 府中商工会議所会館2階)<small>※スポンサークラブ:福山ライオンズクラブ</small> ** 府中中央ライオンズクラブ(府中市元町)1982年結成。 *** 会長:橋本昌子(株式会社北川保険センター 代表取締役) *** ライオンズクラブ国際財団(LCIF)コーディネーター:加藤吉秀 *** 第一副会長:寺延佑介(株式会社寺延組) *** 第二副会長:宮崎雄示 **: ※ 府中市議会議長加藤吉秀(同中央ライオンズクラブ前会長)を輩出。 ** 府中明郷ライオンズクラブ(府中市木野山町)1979年11月4日結成。 ** 上下ライオンズクラブ(府中市上下町)1966年4月10日結成。 * 上下町商工会 == 産業 == {{See also|府中家具}} 内陸工業都市であり、[[備後都市圏]]の一翼を担っている。地場産業としての[[家具]]づくりには江戸時代からの伝統があり「[[府中家具]]」として知られる。特に府中タンスは[[桐]]の高級家具とされている。また、「[[府中味噌]]」の産地となっている。他は、[[リョービ]]、[[北川鉄工所]]、[[ヒロボー]]などが当地を発祥とし当地に本社を置く企業も複数ある。また、[[青山商事]]、[[ハローズ]]、[[ジーベック (被服業)|ジーベック]]の発祥地であるが、この3社は本社を府中市外に移している。 === 内陸工業都市への発展 === 府中は福山城下郊外の手工業地域であった。特に綿作・加工が盛んで、市村に福山藩の木綿運上所が置かれていた。明治~大正期にかけ、煙草製造業・織物製造業・染料工業および家具製造業が興隆し、内陸工業都市への発展につながった<ref>{{Cite book|title=図説 福山・府中の歴史|date=2001/3/4|year=2001|publisher=郷土出版社}}</ref>。 * 煙草製造業 - 煙草栽培が明治前期には府中町・出口町で盛んになり、烟開(えんかい)合名会社・芦田莨(たばこ)株式会社など多くの製造所が設立された。[[1904年]](明治37年)に煙草専売法が公布、翌年の[[1905年]](明治38年)に府中に[[専売制]]のもとで[[専売局]]府中煙草製造所が設置された。終戦後の[[1949年]](昭和24年)に[[日本専売公社]]府中支局となり、[[1962年]](昭和37年)に府中工場と改称された。その後JT府中工場と名称を変えるが2002年に閉鎖される。跡地には新たな雇用や賑わいを創出する目的で民間企業の誘致を試みたが不調に終わり府中学園の敷地として転用された。 * 織物製造業 - 明治中期頃から府中町・新市町の織物業者が、周辺農村の手労働に依存した賃織を行い、農家の副業として受容され盛んになった。明治10年頃から木綿織物を主とした織物製造業が現れ、[[1885年]](明治18年)には府中町に女子工員を雇用した清水織物が設置された。この頃、小規模な織物製造業者が次第に増え、上述の民営煙草とともに当時の府中工業の中核となった。また明治中期からの養蚕指導により産繭量が増加したことに伴い、[[1915年]](大正4年)には機械製糸が始められ、同年に内田製糸工場、翌[[1916年]](大正5年)には出口町に合資会社備後製糸所などが設立された。 * 染料工業 - [[1889年]](明治22年)に備後藍協同組合が府中で結成された。[[1914年]](大正3年)に勃発した第一次世界大戦の影響でドイツからの輸入頼りであった染料が窮乏をきたした。染料の内国生産化と経済好転とが相俟って染料工業は著しく発展。府中では帝国染料製造会社(現、[[日本化薬|日本火薬株式会社]])町村分工場をはじめ、硫化染料の製造会社が多く設立された。その後、廃液処理の問題で臨海地帯の[[福山市]]に移転した。 * 家具工業 - [[府中家具]]の名で知られる。江戸時代後期、内田円三(えんぞう)が大坂で箪笥製造技術を習得し帰郷、その弟子たちによって盛んになったといわれている。 === 基幹産業 === 製造業が盛んで、特に非鉄金属ダイカスト製品、ミーハナイト鋳鉄製品、府中タンス、ラジコンヘリコプター、プリント配線板用大型真空プレス、テルペン樹脂(接着剤)、桐材取扱等ではシェア全国トップクラスの企業が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fuchucci.or.jp/area_info/fuchu/industry.html|title=府中市の産業|accessdate=2019/8/4|publisher=府中商工会議所}}</ref>。また福山市新市町と同様、備後絣から始まる繊維工業も盛んで、ユニフォーム、ワーキング、カジュアルウェアのデザイン開発などを扱う企業も集積している<ref>{{Cite web|和書|url=http://e-fuku.info/cgi-bin/navi/appa.cgi?mode=kt&kt=01|title=会員企業一覧|accessdate=2019/08/04|publisher=広島県アパレル工業組合}}</ref>。 ==== 機械製造業 ==== * エールリンクス - 国産[[無人航空機|ドローン]]メーカー * [[北川精機]] - 電子基板製造装置、リフト製造大手([[JASDAQ]]上場) * [[北川鉄工所]] - 工作機器・鋳造([[東京証券取引所|東証1部]]上場)。 * [[京セラインダストリアルツールズ]] - [[リョービ]]の電動工具事業を承継。[[2019年]](平成31年)4月に本社を[[福山市]]に移転<ref>{{Cite web|url=https://www.kyocera-industrialtools.co.jp/company/history.html|title=沿革|accessdate=2019/11/02|publisher=京セラインダストリアルツールズ}}</ref>。 * [[ヒロボー]] - 無線ヘリ製造大手。 * [[リョービ]] - [[ダイカスト]]製品大手(東証1部上場) ==== 化学・ゴム製品製造業 ==== * スピングルカンパニー - [[1997年]](平成9年)4月設立のニチマングループ企業。[[2002年]](平成14年)に誕生した国産スニーカー「スピングルムーヴ」は府中市のふるさと納税返礼品に選ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.citydo.com/furusato/official/hiroshima/fuchu/product/|title=府中市ふるさと寄附金について|accessdate=2019/8/4|publisher=府中市}}</ref>。 * ニチマン - [[1933年]](昭和8年)に日満護謨工業株式会社として設立<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nichiman.co.jp/company/history/|title=企業情報>沿革|accessdate=2019/8/4|publisher=株式会社ニチマン}}</ref>。製靴底用ゴム板の製造に始まり、カジュアルスニーカーや介護向けスニーカーの企画・販売を行っている。 * [[ヤスハラケミカル]] - [[1947年]](昭和22年)創業。テルペン樹脂、化成品、接着剤製造大手(東証2部上場)。 ==== 家具・木材製造業 ==== 明治中期以降、製造が盛んになったタンスなどの[[指物]]、琴、下駄などの制作には桐材が利用され、部材を順にとっていく一種のコンビナートが結成された。 * アイピーシー - 桐箱製造。 * 日本コフィン - 棺桶製造。 ==== 医療 ==== JA府中総合病院があったが、JAの経営撤退により2012年より地方独立行政法人府中市病院機構[[府中市民病院]]と改称となる。また上下町との合併により、国保上下病院が[[府中北市民病院]]に組織変更されているが、[[医師不足]]のために単独での診療ができなくなり、府中市民病院と一体で医師の派遣を受けて診療体制を維持している。その府中北市民病院も、精神科の病棟廃止、出産の受け入れ中止、眼科・耳鼻科・小児科・外科・精神科の常勤医の退職など診療体制の縮小が続いている。他にも市内に入院可能な病院が存在するが、2011年に[[北川鉄工所|北川病院]]が組織移譲を経て診療所になるなどして入院可能な施設数も減少している。 === その他の産業 === ==== 鉱業 ==== * 瀬戸鉱山(岩谷鉱山) - [[亜鉛]]が採掘された。[[1938年]](昭和13年)より開発。[[1944年]](昭和19年)まで操業した。荒谷町。 ==== 金融業 ==== 内陸部における産業集積地であった府中では、[[1899年]](明治32年)に[[備後銀行]]が開業し、芦品郡府中町に本店が置かれた。設立当時の資本金20万円払込準備金5万円のうち半額は上下町側が負担したとされる。その後[[昭和恐慌]]の影響を受け、[[1934年]](昭和9年)に[[藝備銀行 (1920-45年)|藝備銀行]](現、[[広島銀行]]の前身)に吸収合併され解散した<ref>{{Cite book|title=ふるさとの歴史~遺跡と文化財からみた府中~|date=2014/2/28|year=2014|publisher=府中市教育委員会}}</ref>。 * [[両備信用組合]] == ドローン == * 府中市は2022年12月より「ドローンネイティブシティ」プロジェクトを始動し、ドローンの産業、人材、研究機関などが集まる「ドローンのまち」を目指している<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchu-dronefes.com/ |title=ドローンフェス2023in府中 |publisher=広島県府中市 |date=2021 |accessdate=2023-04-06}}</ref>。 * 2018年6月11日、北川鉄工所とヒロボーが共同出資し、産業用ドローン(小型無人機)を開発・製造・販売する、株式会社AileLinX(元町)が設立された<ref>{{Cite web |url=https://ailelinx.co.jp/ |title=AileLinX |publisher=AileLinX |date=2018 |accessdate=2023-05-17}}</ref>。 * 2019年からふちゅう大学誘致の会と広島県ドローン協会が協力し、広島県立府中東高校でドローン操作の授業を実施している。府中東高校周辺は広島県内でもドローンを飛ばせる数少ないエリアである。 * [[道の駅びんご府中]]の交流テラス内にファブスペース「DDD.labo」(3Dプリンター/ドローン)が開設され、土・日・祝:10:00-17:00に活動している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000018905.html |title=ドローン飛行を体験 プログラミングに小学生も大盛り上がり 「ドローンの街」めざす広島・府中市│HIROSIMA NEWS tss |publisher=TSSテレビ新広島 |date=2023-03-24 |accessdate=2023-04-17}}</ref>。 * 釈迦院(土生町)の住職がドローン操縦士であることから、釈迦院の本堂がドローンフェスの会場の1つであるマイクロドローンレース会場となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000019152.html |title=お寺の本堂がドローンのレース会場! 住職は全国レベルの超絶テクニシャン 広島・府中市│HIROSIMA NEWS tss |publisher=TSSテレビ新広島 |date=2023-04-14 |accessdate=2023-04-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/516117 |title=住職は超絶テクニシャン! 由緒正しいお寺がドローンのレース会場に…!?「街づくりに貢献したい」【広島発】 |publisher=FNNプライムオンライン |date=2023-04-21 |accessdate=2023-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fnn.jp/articles/-/527155 |title=“900年の歴史”お寺の本堂がドローンレースの会場に!釈迦如来からスタート!?住職参加もまさかのクラッシュ! 広島・府中 |publisher=FNNプライムオンライン |date=2023-05-14 |accessdate=2023-05-17}}</ref>。また、釈迦院はドローンレースを行った世界初の寺院となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20190115/k00/00m/040/041000c |title=世界初 寺院でドローンレース 19日開催 広島・府中市で |publisher=毎日新聞 |date=2019-01-15 |accessdate=2023-05-17}}</ref>。 * 広島県初の「ドローン教習所」である、ドローン教習所 ツシマエレクトリック校で基礎技能講習・応用技能講習を学ぶことができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tusima.co.jp/10 |title=広島県府中市のドローン講習・スクールはツシマエレクトリック |publisher=ツシマエレクトリック |date= |accessdate=2023-04-06}}</ref>。また、同校代表が広島県ドローン協会理事を務めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://drone-hiroshima.com/page-28/ |title=役員│広島県ドローン協会 |publisher=広島県ドローン協会 |date=2023 |accessdate=2023-04-06}}</ref>。 == 交通 == === 空港(最寄)=== * [[広島空港]] - 道の駅びんご府中から広島空港はバスで往復することができる。道の駅びんご府中から「リードライナー」で高坂バスストップ([[高坂パーキングエリア]]に併設)まで、そこから広島空港までは「福山リムジンバス」に乗り換える。 === 鉄道 === [[File:府中駅(福塩線).JPG|thumb|right|府中駅]] ; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) * [[福塩線]] ** [[高木駅_(広島県)|高木駅]] - [[鵜飼駅_(広島県)|鵜飼駅]] - [[府中駅_(広島県)|府中駅]] - [[下川辺駅]] - [[中畑駅_(広島県)|中畑駅]] - [[河佐駅]] - ([[世羅町]]) - [[備後矢野駅]] - [[上下駅]] * 中心となる駅:府中駅 === 路線バス === ==== 市内・近郊路線 ==== * [[中国バス]]  ** 目崎車庫 - 木ノ山 - 上下 ** 金丸車庫 - 新市 - 府中 - 目崎車庫 - 市 - 如水館線 ** (市内線)諸毛線・栗生線・本山団地(金丸)線・南宮台団地線・府中市循環線 ** <s>([[上下駅]])高蓋線・呉ヶ峠線・太郎丸線</s> ※平成29年9月30日運行をもって路線廃止 → 「おたっしゃ号」 ** 府中ぐるっとバス(府中市循環バス) - 府中市役所発着(右まわり便、左まわり便) ** 上下町 デマンド型乗合タクシー「おたっしゃ号」(※利用にはあらかじめ登録申請を、上下支所、または、まちづくり課に必要)<ref>広報ふちゅう 平成29年10月1日 第1229号 2ページ. 府中市役所</ref> ==== 都市間高速路線 ==== * [[エトワールセト号]](新宿) : [[小田急ハイウェイバス]]・[[中国バス]] * [[びんごライナー]](大阪市) : [[近鉄バス]]・[[中国バス]] * [[神戸ライナー]](神戸市) : [[中国バス]] * [[リードライナー]](広島市 / [[広島空港]]行に連絡) : [[広島交通]]・[[中国バス]] * [[ピースライナー]]([[上下]]・[[矢野温泉]]エリアと広島市を結ぶ) : [[広島交通]]・[[中国バス]] [[ファイル:Ashida-chika-bridge.jpg|thumb|広島県府中市に存在する大型コンクリートパネルを使用した[[沈下橋]]。芦田川中流域には橋の建設が遅れており、このような沈下橋が数多く見られたが、近年は徐々に減少している。]] === 主な宿泊施設 === * 府中第一ホテル(元町)府中市唯一のビジネスホテル。 * 富士旅館(府中町) * 石川旅館(府中町) * 大吉旅館(府中町) * HOTEL KinKi(高木町)閉店。 * あらき旅館(上下町上下) * 寿旅館(上下町上下) * 土田旅館(上下町上下) * 自然の森 M.G.ユースホステル(上下町矢野) * 泊まれる町 家天領上下(上下町上下)1部屋貸のゲストハウス。1棟貸も可。 === 銭湯 === * 寿温泉(府中町)2023年廃業<ref>{{Cite web|和書|url=http://1010hiroshima.jp/newpage1.htm#futyu |title=広島支部の銭湯 |publisher=広島県公衆浴場業生活衛生同業組合 |date=2023 |accessdate=2023-07-30}}</ref>。 * 松乃湯<ref>{{Cite web|和書|url=https://washira.jp/onsen/posts/125456 |title=広島県で「最も入湯困難」な銭湯へ!?│フォトグラファー 中野一行 |publisher=日刊わしら |date=2022-06-11 |accessdate=2023-07-30}}</ref>(府中町)府中市で唯一の銭湯となった。 * 稲荷湯(府中町)平成30年12月廃業。 === 道路 === ==== 高速道路 ==== * 高速道路は市内を通っておらず、市内中心部からの最寄は[[広島県道48号府中松永線]]経由で[[山陽自動車道]]の[[福山西インターチェンジ|福山西IC]]・[[三原久井インターチェンジ|三原久井IC]]または[[尾道自動車道]]の[[尾道北インターチェンジ|尾道北IC]]となる。[[上下町上下|上下町中心部]]からは尾道道[[世羅インターチェンジ|世羅IC]]・[[甲奴インターチェンジ|甲奴IC]]の利便性が高い。 ==== 一般国道 ==== * [[国道432号]](広島県[[竹原市]] 〜 [[島根県]][[松江市]]) * [[国道486号]]([[岡山県]][[総社市]] 〜 広島県[[東広島市]]) - 福山市側より4車線化およびバイパス化が計画され、用地買収と工事が進んでいる<ref name="hutyuutoshi">「広島県府中市都市計画図 2012年」より</ref>。 ==== 県道 ==== * [[広島県道24号府中上下線]] * [[広島県道25号三原東城線]] * [[広島県道26号新市七曲西城線]] * [[広島県道27号吉舎油木線]] * [[広島県道48号府中松永線]] * [[広島県道56号府中世羅三和線]] * [[広島県道218号府中停車場線]] * [[広島県道383号篠根高尾線]] * [[広島県道384号下川辺尾道線]] * [[広島県道388号木野山府中線]] * [[広島県道398号新山府中線]] * [[広島県道399号金丸府中線]] * [[広島県道402号金丸市場線]] * [[広島県道403号別迫上下線]] * [[広島県道417号小畠荒谷線]] * [[広島県道420号木頃井永線]] * [[広島県道421号矢多田阿字線]] * [[広島県道427号宇賀矢野線]] === 橋梁 === 高度経済成長期からバブル期、特に1970年中頃から1980年中頃に多くの橋梁が建設された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.hiroshima.jp/shisei/shisaku/2132.html|title=府中市橋梁長寿命化修繕計画|accessdate=2019/8/4|publisher=府中市}}</ref>。市内を流れる[[芦田川]]には幅の狭い橋や老朽化した橋が多く、特に交通事故の多発する扇橋の架け替え工事は府中南北道路の整備とともに、至急の課題とされている<ref name="hutyuutoshi" />。市内には[[沈下橋]]もわずかに残存しているが、[[2018年]](平成30年)[[平成30年7月豪雨|西日本豪雨]]により損壊し通行できなくなった落合大橋と鴫谷橋の2橋について、府中市が2020年度以降撤去する方針を固めた<ref>{{Cite news|title=芦田川 2潜水橋を撤去|date=2019/7/31|newspaper=中国新聞}}</ref>。 ==== 主な橋梁 ==== * 新大渡橋 - [[国道486号]]が通る。 * 上前原橋 - [[1994年]](平成6年)架設。橋長103.0メートルの[[鋼橋]]。下流の府中新橋までの区間(芦田川右岸線)は[[国道486号]]のバイパス機能を果たしている。 * 前原橋 * 府中新橋 - [[1960年]](昭和35年)架設。橋長150.5メートルの[[プレストレスト・コンクリート橋|RC橋]]。 * 府中大橋 - [[1956年]](昭和31年)架設。橋長138.2メートルのRC橋。 * 府川新橋 - [[1973年]](昭和48年)架設。橋長137.2メートルの[[鋼橋]]。 * 用土橋 - [[1970年]](昭和45年)架設。橋長131.6メートルの[[鋼橋]]。 * 扇橋 - [[広島県道48号府中松永線]]が通り、「府中南北道路」を構成。広島県の道路事業「主要地方道 府中松永線 高木工区」の工区であり、100メートルほど下流に新扇橋が[[2023年]](令和4年度)開通予定で建設中。 * 中須大橋 - [[1979年]](昭和54年)架設。北側(砂川)の第1橋は橋長28.7メートルの[[鋼橋]]、南側(芦田川)の第2橋は橋長132.0メートルの[[鋼橋]]。 == 主な公共施設 == === 市役所・支所 === * 府中市役所(府川町) * 府中市役所上下支所(上下町上下) === 保健・医療施設 === * [[府中市保健福祉総合センター]](リ・フレ)(広谷町) * [[府中市民病院]](鵜飼町) * 上下保健センター(上下町上下) * [[府中北市民病院]](上下町上下) * [[府中市立湯が丘病院]](上下町矢野) === 教育施設(学校除く) === * 府中市教育センター(元町)元・府中市役所。 * 府中市生涯学習センター(TAM)(府中町)旧・文化会館、および、旧・福祉会館。 === スポーツ・研修施設 === * [[府中市立総合体育館|TTCアリーナ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/sportsshinko/567.html |title=府中市総合体育館のネーミングライツパートナー│府中市 |publisher=府中市 |date=2023-01-24 |accessdate=2023-06-01}}</ref>(府中市立総合体育館)(旧愛称:ウッドアリーナ)(土生町) * 府中市[[ブルーシー・アンド・グリーンランド財団|B&G]]海洋センター(土生町) * 府中市勤労青少年体育センター(南の丘体育館)(土生町) * 府中市勤労青少年ホーム(キャンプ in ふちゅう)(用土町) * 府中市月見が丘公園体育施設(本山町)体育館/グランド/屋外プール * 府中市府中公園グラウンド(出口町) * 府中市桜が丘グラウンド(桜が丘) * 府中市鵜飼ランド公園グラウンド(鵜飼町) * 府中市中須グラウンド(中須町) * 府中市中須公園旭グラウンド(中須町) * 府中市武道場(中須町) * 府中市阿字スポーツグラウンド(阿字町) * 府中市木野山スポーツグラウンド(木野山町) * 府中市協和北グラウンド(行縢町) * 上下運動公園(上下町上下)2023年4月、人工芝グラウンド完成。[[日本サッカー協会|JFA]]ロングパイル人工芝公認ピッチ<ref name="cityfuchuhirosihma202305">{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/sportsshinko/sports_event/7571.html |title=上下運動公園人工芝グラウンド OPEN!│府中市 |publisher=府中市 |date=2023-05-24 |accessdate=2023-06-01}}</ref>。 * 清岳多目的広場(上下町水永) * 階見多目的広場(上下町階見) * 吉野多目的広場(上下町小堀) * 上下ゲートボール場(上下町上下) * 上下格闘場(上下町上下) === 文化施設・図書館 === * [[ジーベック (被服業)|ジーベック]]ホール<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/keizaikanko/kankouchiikiburandosuisin/chiikisinko/shisetsu_madoguchi/shisetsu_annai/bunka_shisetsu/1170.html |title=府中市文化センターのネーミングライツパートナーについて│府中市 |publisher=府中市 |date=2023-05-31 |accessdate=2023-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/313182 |title=府中市文化センター、愛称は「ジーベックホール」 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-06-03 |accessdate=2023-06-03}}</ref>([[府中市文化センター]])(府川町) * 府中市立図書館(府中町) * 府中市立図書館 上下分室(上下町上下) * [[府中市歴史民俗資料館]](土生町) * 河面谷民俗資料館(河面町) * 府中市上下歴史文化資料館(上下町上下) === 子育て支援施設等 === * 府中市子育て支援センター(鵜飼町) * 広島県府中市児童館 府中市こどもの国ポムポム(土生町) * 子育てステーションちゅちゅ(府川町 府中天満屋2階 i-coreFUCHU) * 上下地域子育て支援センター(上下町上下) * 子育てステーションふらっと上下(上下町 上下地域共生交流センター) === 斎場 === * 府中・新市斎場「やすらぎ苑」(広谷町) * 上下斎場「翁苑」(上下町) === ゴミ処理施設等 === * 府中市クリーンセンター(鵜飼町) * 府中市環境センター(中須町) * 府中市埋立センター(諸毛町) * 府中市北部クリーンステーション(上下町水永) === その他 === * 府中市学校給食センター(桜が丘) === 公共施設Wi-Fiスポット === * i-coreFUCHU内エリア(府中天満屋2階)[[第5世代移動通信システム|5G]]([[NTTdocomo]])、高速フリーWi-Fi([[Wi-Fi6]])※席のコンセント利用無料 * 道の駅びんご府中(府川町)広島フリーWi-Fi * キテラスふちゅう(府中市地域交流センター)(府中町)広島フリーWi-Fi * 府中市立図書館(府中町)館内フリーWi-Fi 5G/2.4G * 府中市こどもの国ポムポム(土生町)中高生のためのフリーWi-Fi ; 上下エリア * 上下歴史文化資料館(上下町上下)広島フリーWi-Fi * ふらっと上下(上下地域共生交流センター)(上下町上下)フリーWi-fi。 == ケーブルテレビ == * 株式会社ケーブル・ジョイ(元町) *: 府中市議会(定例会、臨時会)を放送している。インターネット接続サービスも提供している。 ** 対象エリア *** 府中市(本山町、出口町、目崎町、府中町、元町、府川町、鵜飼町、広谷町、高木町、中須町、土生町、用土町、栗柄町のほぼ全域) *** 福山市[[新市町]](新市、宮内、戸手、下安井、上安井、常、金丸のほぼ全域、相方の一部) *** [[神石高原町]](全域) == ネーミングライツ == {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! ! 施設名 ! 愛称 ! ネーミングライツパートナー ! 開始日 |- | 1 | 府中市総合体育館 ! TTCアリーナ | 株式会社太陽都市クリーナー | 2022年4月1日から |- | 2 | 府中市児童会館 こどもの国POM ! ポムポム | [[シダックス|シダックス大新東ヒューマンサービス株式会社]] | 2022年4月1日から |- | 3 | [[府中市文化センター]] ! ジーベックホール | [[ジーベック (被服業)|株式会社ジーベック]] | 2023年6月1日から |} == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == [[ファイル:恋しき.JPG|thumb|恋しき]] [[ファイル:Jyouge-ougiza2015.jpg|thumb|上下町の木造芝居小屋の翁座]] [[ファイル:FUCHU-michi-no-eki.jpg|thumb|道の駅びんご府中]] === 名所 === ==== 府中エリア ==== * 安楽寺(目崎町) - 参道・境内におよそ3000本の[[サツキ]]が植えられ、別名「さつき寺」とも呼ばる。 * オオムラサキの里(僧殿町) - 国蝶[[オオムラサキ]]を飼育。毎年7月第1日曜日には放蝶会を開催。 * 河佐峡(諸毛町) - 芦田川上流、[[八田原ダム|八田原ダム(芦田湖)]]のふもとにある峡谷。 * 甘南備神社(出口町) - 三室山山麓に鎮座する神社。延喜式内社で、祭神は[[事代主|事代主命]]と[[大国主|大国主命]]。社伝によると、和同年間([[708年]]~[[715年]])に当地で悪疫が流行した際、出雲より勧進したと伝わっている<ref>{{Cite book|title=備後の歴史散歩<上>|date=1995/11/1|year=1995|publisher=山陽新聞社}}</ref>。 * [[首無地蔵]](出口町) * 恋しき(府中町) - 国の登録有形文化財。[[1872年]](明治5年)創業の旅館で、その後の増改築により独特の外観を持つようになり、府中のシンボル的建物となった。[[揮毫]]を残した[[犬養毅]]のほか、[[岸信介]]、[[吉川英治]]、[[井伏鱒二]]等が宿泊した。現在はさらに改修が施され、お土産・喫茶・庭園公開等の複合的施設となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koishiki.com/|title=心のふるさと 恋しき|accessdate=2019/08/04|publisher=}}</ref>。 * 三郎の滝(三郎丸町) - 滝滑り。 * 十輪院(鵜飼町) - 厄除大師。境内には「珀明洞」と呼ばれる全長約100mの洞窟があり、33体の観音像を安置。 * 神宮寺(栗柄町) - 南宮神社の別当寺。別名「あじさい寺」とも呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ajisainotera.com/|title=あじさいの寺 神宮寺|accessdate=2019/8/15|publisher=神宮寺}}</ref>。 * [[青目寺]](本山町) * [[石見銀山街道|石州街道]]出口通りの町並み・銀山通り - [[石見銀山]]に向かう街道の出口にあたる甘南備神社の門前町。 * 日本一の石灯籠 (府中町)- [[1841年]]([[天保]]12年)に完成した地上総高9[[メートル]]、笠石面積約4畳半の巨大な石灯籠。 * 七ツ池(本山町) - 亀ヶ岳山頂一帯にある七つの池。付近には青目寺の遺構が点在し、また「大蛇伝説」<ref group="注">昔、七ツ池付近に大蛇が棲んでおり、夜な夜な現れては人を飲み込んだので、青目寺の僧侶が爆薬を仕掛けた藁人形を大蛇に飲み込ませ退治したという伝説。4番池(蓮池)の畔は草が一方向になびいた「蛇すり」という箇所があり、かつて大蛇が這った跡とされている。</ref>でも有名。 * 延藤家住宅(出口町) - 国の登録有形文化財。建造物[[1931年]](昭和6年)に別荘として建築。木造建築で、和館部(洞仙荘)とその玄関脇に建つ応接用の洋館部から成る<ref>{{Cite book|title=広島県の歴史散歩|date=2009/3/20|year=2009|publisher=山川出版社}}</ref>。 * 羽高湖(諸毛町) - 野外ステージやテニスコート、キャンプ場を備えた羽高湖森林公園がある。 * [[備後国府]] - 遺跡はすべて埋め戻されており、出土品は資料館に収蔵されている。 * 府中公園(出口町) - [[鯉]]や[[カモ|鴨]]がいる。東京都府中市から贈られた[[大賀ハス]]がある。 * [[道の駅びんご府中]](府川町) - 2016年10月22日開駅。 * 広島県府中市児童館 府中市こどもの国 ポムポム こどもの広場「ふちゅうの木」(土生町) - 2022年5月開設。 * [[夢吊橋]](右岸:諸毛町) - 世界一の吊橋。 ==== 上下エリア ==== * [[上下町上下|白壁のにあうロマンの町並み]](正式名称) * [[矢野温泉]] - [[国民保養温泉地]]。主要施設は[[2016年]](平成28年)12月閉鎖。 * [[久井・矢野の岩海|矢野の岩海]] * [[翁座]] - 大正時代に建設された木造芝居小屋。2020年(令和2年)に国の登録有形文化財に登録<ref>{{Cite web|和書|date=2020-10-02 |url=https://www.asahi.com/articles/ASNB17KGGN9XPITB005.html |title=花道、奈落…芝居小屋「翁座」内部を公開 広島・府中 |publisher=朝日新聞 |accessdate=2020-12-01}}</ref>。 *: 2024年10月に歌舞伎公演開催予定で、[[中村勘九郎 (6代目)|六代目中村勘九郎]]や[[中村七之助 (2代目)|二代目中村七之助]]が出演予定<ref>{{Cite web |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/390715 |title=府中市の翁座、2024年10月に初の歌舞伎公演 中村勘九郎さんたち出演 |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-11-28 |accessdate=2023-11-28}}</ref>。 === 博物館 === * [[府中市歴史民俗資料館]](土生町) - 建物は旧[[芦品郡]]役所を移築して利用。 * [[府中家具木工資料館]](中須町) - 1996年開館、2018年5月31日閉館。 === 催し === * 十輪院 火渡り秘法(鵜飼町) - 毎年2月。 * 天領上下ひなまつり(上下町) - 毎年2月~3月。 * 石州街道出口通りひなまつり(出口町) - 例年3月。 * 府中市花祭り(府中町→出口町) - 毎年4月8日の前後。 * 安楽寺さつき祭り(目崎町) - 毎年5月。 * 首無地蔵 春の大祭(出口町) - 毎年5月。 * 府中☆産業博 - 5月に[[府中市立総合体育館|TTCアリーナ]](府中市立総合体育館)で開催される、地場産品の展示・実演・即売会などのイベント。かつては「府中産業メッセ」と呼ばれていた。隔年開催で2019年は開催された。☆はキラリと読む。 * カヌー教室(芦田川、主催:府中市B&G海洋センター) - 毎年5月。 * ほたる祭り(出口町 夢ほたる公園) - 毎年6月。 * 神宮寺あじさい祭り(栗柄町) - 毎年6月。 * 上下あやめまつり(上下町)- 毎年6月。 * 夢吊橋サマーフェスタ(八田原ダム) - 毎年7月。 * カヌー教室(芦田川、主催:府中市B&G海洋センター) - 毎年7月。 * 備後国府まつり(府中町) - 毎年7月に開催される夏祭り。花火大会やパレードが行なわれる。2012年までは「府中ドレミファフェスティバル」が開催されていた。 ** 備後国府奉納 手筒花火(一西手筒連) - 広島県内で唯一見ることができる[[手筒花火]]は。愛知県[[豊川市]]チームが来府して行われる。ゆるキャラ「[[いなりん]]」が会場に1度来たことがある(2017年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tonichi.net/news/index.php?id=62025 |title=備後国府まつり初参加 いなりん/豊川市PR/一西手筒連も手筒花火奉納 |publisher=東日新聞 |date=2017-08-02 |accessdate=2023-07-30}}</ref>)。 * 鮎のつかみ取り(こどもの国ポムポム河川敷、2022年開始、主催:芦田川府中漁業協同組合) - 例年7月。対象:小学6年生以下。 * 三郎の滝フェスティバル(三郎丸町) - 例年7月。 * オオムラサキを自然に帰す集い(僧殿町) - 例年7月。 * 河佐峡フェスティバル(諸毛町) - 例年7月。 * 諸田のベジタブルなコンサート(サン・ステージ羽高湖) - 例年8月。 * 羽高湖湖畔フェスティバル(サン・ステージ羽高湖) - 9月か10月。 * ハッピーハロウィンin府中(府中町) - 例年10月。 * 上下かかしまつり(上下町) - 例年10月。 * ふれあいウォーキング(発着:お祭り広場 / 主催:ふれあいウォーキング実行委員会)<small>2023年はRCC[[渕上沙紀]]アナウンサーがふれあいコースに参加。</small> * 府中学びフェスタ - 例年10月。 * 備後府中博(お祭り広場) - 例年11月。 * 府中八幡紅葉まつり(出口町 府中八幡神社) - 例年11月。 * ごんぼう祭り(諸毛町 羽高湖) - 例年12月。 === 大会 === * 府中市まちなかマラソン大会<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchumachinakamarathon.com/ |title=府中市まちなかマラソン |publisher=府中市まちなかマラソン大会実行委員会 |date= |accessdate=2023-07-31}}</ref>(2021年11月28日から) * 府中リレーマラソン in 羽高湖(1周1.3kmの羽高湖を20周) * 府中市健脚大会([[備後三川駅]]から府中市生涯学習センターTAMまでの27キロを歩く) * 全日本EV&ゼロハンカーレースin府中(2010年から) ; 過去の大会 * 府中市新春マラソン大会 * ドレミファマラソン === イベント === * 府中ハンドメイドマツリ(会場:[[府中市文化センター|ジーベックホール]] / 主催:チロル)年2回開催 * ドローンフェス ** 2019年1月19日 FPVドローンレース「JDRA TINYWHOOP JAPAN CUP」No.17 in 釈迦院 ** 2019年12月28日 FPVマイクドローンレース(道の駅びんご府中 イルミネーションステージ) ** 2020年2月8日 第2回ドローン寺レース(釈迦院) ** 2021年9月1日 オンラインレース「来年府中で会いま賞」カップ ** 2022年8月21日 JAPAN DRONE LEAGUE 2022 Round5 in Fuchu(会場:府中市立第一中学校 / 主催:一般社団法人ジャパンドローンリーグ) ** 2023年2月19日 ドローンフェス2023in府中 *** メイン会場:i-coreFUCHU(いこーれふちゅう) *** マイクロドローンレース会場:釈迦院「釈迦院 無人航空祭 第3回ドローンレース」 ** 2023年9月17日予定 ドローンフェス2023in府中 *** メイン会場:TTCアリーナ 体育館前広場<ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchu-dronefes.com |title=ドローンフェス2023in府中 |publisher=府中市 |date=2023 |accessdate=2023-09-02}}</ref> *** JAPAN DRONE LEAGUE 2023 Round5(会場:TTCアリーナ屋外多目的広場)<ref>{{Cite web |url=https://www.japandroneleague.com/2023-league/round5 |title=JAPAN DRONE LEAGUE 2023 Round5 |publisher=JAPAN DRONE LEAGUE |date=2023 |accessdate=2023-09-02}}</ref> *** 企業展示会(会場:TTCアリーナ) * 府中ボードゲーム会(会場:府中天満屋2階 i-coreFUCHU 多目的スペース)毎月第3土曜開催 * ふらっと上下ボードゲーム会(会場:ふらっと上下) * Book Swap Bingo(不定期開催 ポムポム児童館前、府中天満屋i-coreFUCHU<s>、ピックライク公園</s>) ; 過去のイベント * [[B1グランプリ]] 関西・中国・四国支部大会(2014年3月21・22日)会場:[[府中市立府中学園|府中学園]]・お祭り広場 * minpic(みんピク)(会場:みんなの公園 / 主催:府中まちなか繁盛隊→みんピク実行委員会 企画:NPO法人府中ノアンテナ) * アマチュア横丁(会場:瀬川百貨店 / 主催:NPO法人アルバトロス) * HAPPY SUNDAY MARKET(会場:道の駅びんご府中 / 主催:府中商工会議所青年部 事務局)2023年度 - 6月・8月・10月開催<ref>{{Cite web |url=https://happy-sunday-market.com/ |title=HAPPY SUNDAY MARKET |publisher=府中商工会議所青年部 |date=2023 |accessdate=2023-12-10}}</ref> === 名物 === [[ファイル:Fuchu-yaki2016.jpg|thumb|広島県府中市のB級グルメ [[府中焼き]]]] {{See also|府中味噌|府中焼き}} * [[府中味噌]] - およそ400年の歴史を持つ味噌。福山藩主が参勤交代で将軍・諸侯に献上したことで全国的に知られるようになったとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fuchu-miso.jp/|title=府中味噌とは|accessdate=2019/7/27|publisher=府中味噌協同組合}}</ref>。市内に金光味噌(明治5年創業)、浅野味噌(明治37年創業)、本家中村屋(昭和21年)の老舗がある。 * [[府中焼き]] - 豚バラ肉ではなくミンチ肉を使用した[[お好み焼き]]。[[町おこし]]の一環として、府中焼きフェスタなどのイベントを開催<ref>[http://www.fuchucci.or.jp/okonomi/ 備後府中焼きを広める会]</ref>。2010年10月「第1回広島てっぱんグランプリ」初代グランプリ受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.nissyoku.co.jp/news/hamaoka20101101010009952 |title=ご当地お好み焼き「第1回広島てっぱんグランプリ」開催 「府中焼き」が優勝│日本食糧新聞 |publisher=日本食糧新聞社 |date=2010-11-05 |accessdate=2023-06-08}}</ref>。[[東京都]][[千代田区]][[神田小川町]]には、府中市の物産[[アンテナショップ]]を兼ねた府中焼き店「NEKI/ネキ」が出店している<ref>[https://www.neki-hiroshimafuchu.com/ 備後府中焼き・広島県府中市アンテナショップ NEKI/ネキ](2017年12月22日閲覧)</ref>。 === デザインマンホール === * [[オオムラサキ]]・[[サツキ]](カラーあり) * [[アヤメ]](カラーあり) * [[府中焼き]](2023年7月11日設置)1枚のみ(カラーのみ)※マンホールカードが2023年12月15日から府中市観光協会(府中町 キテラス府中)で配布開始予定。 ; 幻のデザインマンホール 日本一の石灯籠のデザインマンホールが府中市により発注された後に反対の声が出て設置中止となった。 == キャンプ場 == <ref>{{Cite web|和書|url=https://fuchu-kanko.jp/d/003/camp/ |title=びんご府中市キャンプ場ポータルサイト |publisher=(一社)府中市観光協会 |date= |accessdate=2023-11-02}}</ref> * 羽高湖サン・スポーツランドand森林公園(諸毛町) * 河佐峡キャンプ場(諸毛町) * 矢野温泉公園 四季の里 もみじ谷園 キャンプ場(上下町字矢野) == スポーツ == * スフィーダ備後府中FC *: 2021年に(一社)備後府中スポーツクラブを設立し、2022年2月18日に府中市とNPO法人スフィーダ([[スフィーダ世田谷FC]])とで3者連携協定を結び、3年後の2025年になでしこリーグ2部入りを目指している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www5.targma.jp/js/2022/04/29/post5766/ |title=地方創生の切り札になるスポーツ「行政×女子サッカー(+世田谷)」 3年後のなでしこリーグ2部入りを目指すスフィーダ備後府中│WE Love 女子サッカーマガジン│タグマ! |publisher=ガードかなさる有限会社 |date=2022-04-29 |accessdate=2023-07-07}}</ref>。備後府中TAM-S<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jfa.jp/women/news/00006711/ |title=[女子チームのつくりかた]備後府中TAM-Sで指導にあたる森岡博昭さんに聞きました!│JFA.jp |publisher=公益財団法人 日本サッカー協会 |date=2010-03-03 |accessdate=2023-07-07}}</ref>を母体に再編成された。2022年度広島県女子サッカーリーグの最優秀選手がスフィーダ備後府中FCより選出された。2023年春より[[中国女子サッカーリーグ]]へ昇格<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/259146 |title=スフィーダ備後府中が選手募集 来季から中国リーグ昇格受け |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-01-15 |accessdate=2023-07-10}}</ref>。ホームグラウンドは2023年より、上下運動公園(上下町上下)人工芝グラウンド([[日本サッカー協会|JFA]]ロングパイル人工芝公認ピッチ<ref name="cityfuchuhirosihma202305" />)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanyonews.jp/article/1394025 |title=上下運動公園に人工芝グラウンド 府中市、合宿や試合誘致目指す |publisher=山陽新聞digital |date=2023-05-03 |accessdate=2023-05-16}}</ref>。 == ゆるキャラ == * 備後国府PRマスコットキャラクター 国府まろ君 国府ひめちゃん(府中市教育委員会) * 府中焼きマスコットキャラクター ミンチュー(備後府中焼きを広める会) * あやめちゃん(上下高校美術部) * 府中市立栗生小学校 クリティー・スクール イメージキャラクター クリッティー(府中市立栗生小学校) ; 過去のゆるキャラ * こどもの国POMマスコットキャラクター ふっくん・ちゅうちゃん(旧・こどもの国POM) == ご当地ソング == ; 府中市イメージソング * 2002年『夢の来た道』作詞:[[岡田冨美子]] 作曲:小椋佳 編曲:[[川辺真]] 歌:[[小椋佳]] * 市制60周年『府中に夢中!』作曲:[[田川ヒロアキ]] == カード == ; ダムカード * 八田原ダム(配布場所:中国地方整備局 八田原ダム管理所)平成19年作成、配布開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/hattabara/base/d-card.html |title=ダムカード - 八田原ダム管理所 - 国土交通省 |publisher=国土交通省 |date= |accessdate=2023-07-25}}</ref>。 ; 駅カード(配布終了) 芸備線対策協議会、福塩線対策協議会、新見市鉄道利用促進協議会の3者が連携して、芸備線・福塩線全70駅の駅カードを製作された(配布期間:2021年10月から2022年3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2021/10/21/114000.html |title=鉄道ニュース 芸備線・福塩線の「駅カード」を配布│鉄道ファンrailf.jp |publisher=株式会社交友社 |date=2021-10-21 |accessdate=2023-07-25}}</ref>。 * 府中駅 Aセット(戸手~鵜飼の5駅)13[[高木駅_(広島県)|高木駅]] - 14[[鵜飼駅_(広島県)|鵜飼駅]] * 府中駅 Bセット(府中~河佐の4駅)15[[府中駅_(広島県)|府中駅]] - 16[[下川辺駅]] - 17[[中畑駅_(広島県)|中畑駅]] - 18[[河佐駅]] * 上下まんまる屋(上下駅)Bセット(備後安田~塩町の4駅)20[[備後矢野駅]] - 21[[上下駅]] 駅カード発行記念 スタンプラリー - 開催期間に3エリア以上のシール・スタンプを集め応募すると、抽選で駅カードが収納できる特製カードフォルダをプレゼントされた。 ; マンホールカード 長らく、府中市では[[ご当地マンホールカード|マンホールカード]]の配布は行われたことはなかったが、令和5年12月15日に「マンホールカード」第21弾として「府中焼き」が配布開始される<ref>{{Cite web |url=https://www.gk-p.jp/2023/11/17/7760/ |title=マンホールカード第21弾34種を令和5年12月15日に配布開始 |publisher=下水道広報プラットホーム |date=2023-11-17 |accessdate=2023-11-28}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.gk-p.jp/wp-content/uploads/2023/11/MC21tool1.pdf |title=マンホールカード第21弾! |format=PDF |publisher=下水道広報プラットホーム |date=2023 |accessdate=2023-11-28}} </ref><ref>{{Cite web |url=https://www.gk-p.jp/wp-content/uploads/2023/11/MC21tool2.pdf |title=マンホールカード第21弾 |format=PDF |publisher=下水道広報プラットホーム |date=2023 |accessdate=2023-11-28}} </ref>。配布場所は(一社)府中市観光協会(府中町 キテラス府中)<ref>{{Cite web |url=https://www.gk-p.jp/wp-content/uploads/2023/11/MC21haofu.pdf |title=マンホールカード第21弾 発行自治体・団体 配布場所 |format=PDF |publisher=下水道広報プラットホーム |date=2023 |accessdate=2023-11-28}} </ref>。 == UMA == * [[ツチノコ]](上下町) - [[1988年]]に上下町で目撃情報があったことから、町に大勢のハンターが押し寄せたことがある<ref name="ashitano20230502">{{Cite web|和書|url=https://ashitano.chugoku-np.co.jp/articles/article-15030/ |title=今日のお茶請け/つちのこ饅頭(まんじゅう)とTSUCHINOKOフロランタン│アシタノ |publisher=中国新聞デジタル |date=2023-05-02 |accessdate=2023-05-20}}</ref>。ツチノコのうろこをイメージして1989年に作られ上下町名物となったのがパイ生地のまんじゅう「つちのこ饅頭」(風月堂)である<ref name="ashitano20230502" />。 ** 1989年5月、上下町で捕獲賞金300万円の第1回ツチノコ探検が行われた<ref>山口直樹『幻のツチノコを捕獲せよ!!』(1989年7月 [[学習研究社]] [[ムー (雑誌)|ムー]]・スーパーミステリー・ブックス 監修:[[並木伸一郎]])</ref>。 ** [[1990年]]5月、上下町で捕獲賞金300万円の第2回ツチノコ探検が行われた == その他 == * 府中市内には[[指定暴力団]]の本部はないが、五代目[[浅野組]]光定組が高木町に浅野組府中支部を置く。かつて、地元の篠原組が勢力を誇っていたが、浅野組が府中進出し浅野組桜井組長が府中支部長となった。その後、新市町に浅野組土井組が府中市・新市町をシマとする府中支部を置いたが土井組組長が死去したため、シマを浅野組千田組幹部だった光定組長が引き継いだのである。2023年現在の府中支部長は浅野組光定組若頭。 == コード == === 市外局番 === [[市外局番]]は0847(府中MA:市内局番40 - 69)となっている。同一市外局番の世羅町など(甲山MA:市内局番20 - 39)及び神石高原町(東城MA:市内局番80 - 99)は、[[単位料金区域|MA]]が異なる(隣接区域)ため、市外局番 (0847) が必要である。 * 府中MAの該当区域 ** [[福山市]](新市地区)・府中市・[[三次市]](甲奴地区) === 郵便番号 === 郵便物の集配は、以下の局が行っている。[[2006年]][[10月16日]]の再編に伴い、変更された。 * [[府中郵便局]]:726-00xx、726-85xx、726-86xx、726-87xx、729-32xx<ref group="注">「729-32xx」地域は元・協和郵便局管轄。2006年に協和郵便局の無集配局化に伴って府中郵便局へ移管。</ref> * [[上下郵便局]]:729-34xx * 宇津戸郵便局([[世羅町]]):722-04xx == 著名な出身者 == 五十音順で掲載。 * [[青山五郎]]([[青山商事]]創業者) * [[青山行雄]]([[讀賣テレビ放送]]社長・名誉会長) * Akira TAKAUE (アキラ・タカウエ) ([[建築写真家]]、[[ファインアートフォトグラファー]]) * [[有地好登]]([[版画家]]) * [[安藤雅司]](アニメーター) * 市川洋(画家(可変絵画)) * [[伊原春樹]](元[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]監督、元[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]監督、元[[読売ジャイアンツ]]ヘッドコーチ、上下町出身) * 今城國忠(彫刻家) * [[浦上豊]]([[リョービ]]創業者) * [[岡田冨美子]](作詞家) * [[岡田美知代]](文学者、上下町出身) * [[小野文恵]]([[日本放送協会|NHK]]アナウンサー) * [[片岡光宏]](元[[広島東洋カープ]] 投手→内野手、[[中日ドラゴンズ]]、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]] 内野手、[[宮崎ゴールデンゴールズ]]監督) * [[角弥太郎]]([[日立鉱山]] 第4代所長、[[日立製作所]] 取締役、木野山町出身)※[[角章]]の祖父。 * [[後給鈴菜]](モデル) * [[仙田信吾]](株式会社[[サンフレッチェ広島]] 社長、上下町出身) * [[橘高香純]](NHK高知放送局元契約キャスター、[[愛媛朝日テレビ]]元アナウンサー、[[広島テレビ]]アナウンサー [[ストレイトニュース]] [[テレビ派]]) * [[栗本光明]](プロ野球選手 投手) * [[高橋一三]](元[[読売ジャイアンツ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] 投手) * [[高橋美香 (フォトジャーナリスト)|高橋美香]] (フォトジャーナリスト、高木町出身) * [[田中卓志]]([[アンガールズ]]、 [[お笑い芸人]]、上下町出身) * [[土井茂]](映画監督、府中町出身) * [[萩田詩乃]]([[山陰中央テレビジョン放送]]元アナウンサー、 [[笠岡放送]]アナウンサー) * 林夏輝(俳優) * 原田砂織(彫刻家) * [[臂美恵]](仏教漫画家) * ヒラノトシユキ(イラストレーター) * [[平幹二朗]](俳優、上下町出身) * [[藤野昌言]](明治時代の医師) * [[堀江賢治]](プロ野球選手 内野手) * [[根来広光]](プロ野球選手 捕手) * [[松本英彦]]([[サックス]]奏者) * [[森友嵐士]]([[T-BOLAN]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[シンガーソングライター]]) * [[安田義達]]([[日本海軍]]軍人) * [[柳憂怜]](俳優、[[たけし軍団]]) * [[山代巴]](作家、栗柄町出身) * [[山根温子]]([[安芸高田市議会]]議員 4期目) * [[渡辺礼次郎]](プロ野球選手 内野手) == 名誉市民 == * 北川實夫(府中市名誉市民第1号)第2代・4代府中市長 == 特命大使 == === 府中市ふるさと大使 === * [[アンガールズ]] - [[2015年]]([[平成]]27年)[[4月24日]]に任命。当初任期は翌年3月末であったが、更新され[[2019年]]([[令和]]元年)には就任5周年を迎えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.hiroshima.jp/shisei/shisaku/2014.html|title=府中市ふるさと大使|accessdate=2019/11/02|publisher=府中市}}</ref>。[[2014年|2014年度]](平成26年度)は市政施行60周年記念大使を務めた<ref>{{Cite news |title=府中ふるさと大使にアンガールズ 市が任命、観光や産業の魅力発信 |newspaper=[[山陽新聞]] |publisher=[[山陽新聞社]] |date=2015-04-24 |url=http://www.sanyonews.jp/article/165110/1/ |accessdate=2015-05-04}}</ref>。 === 府中ロマン親善大使 === * [[森友嵐士]] - [[2019年]]([[令和]]元年)6月6日に委嘱<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/chiikishinkoka/4039.html|title=府中ロマン親善大使|accessdate=2019/11/02|publisher=府中市}}</ref>。 == 府中市が登場する作品 == ロケ地 * 映画『[[大帝の剣]]』([[2007年]]、監督:[[堤幸彦]]、主演:[[阿部寛]]) * 映画『[[名医死す〜感染症と闘った藤野昌言物語〜]]』([[2021年]]、監督:[[松村克弥]]、主演:[[濱津隆之]]) * 映画『[[いちばん逢いたいひと]]』([[2023年]][[2月24日]]公開、監督:[[丈 (俳優)|丈]]、主演:[[倉野尾成美]]) == 府中市出身者がモデルの作品 == * 映画『[[ある町の高い煙突]]』(2019年、監督:[[松村克弥]])モデル:[[角弥太郎]](芦品郡[[木野山村]](現・府中市木野山町)出身) - 加屋淳平:[[渡辺大]] == 広報テレビ番組 == * ひろおく便り(2016年 - 、[[広島テレビ放送|広島テレビ]] 毎週月曜18:55-19:00) - 庄原市・府中市・世羅町・神石高原町の広報テレビ番組。 == 広報ラジオ番組 == ; RCCラジオ 中国放送 <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/seisakukikaku/koho_kocho/koho/4127.html |title=RCCラジオ番組 府中に夢中! |publisher=広島県府中市 |date= |accessdate=2023-07-06}}</ref> * 『バリシャキNOW』府中に夢中! 毎週月曜16時30分~16時45分のうち約5分 ; エフエムふくやま レディオBINGO 77.7MHz <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/seisakukikaku/koho_kocho/koho/4054.html |title=府中市のエフエムふくやまラジオ放送(レディオBINGO) |publisher=広島県府中市 |date= |accessdate=2023-07-06}}</ref> * 毎月第2火曜『GO!GO!Bびんご~』こちら情報アンテナ「府中市政いきいきトーク」8時35分頃~ 約5分 * 毎月第4火曜『イブニングステーション』「イブ火掲示板」18時26分頃~ 約8分 * 毎週火曜『イブニングステーション』「広報ふちゅう 情報サラダ」 17時30分頃~ 約5分 * 毎月第1木曜『ラジオdeしあわせさんぽ』コムスタイル「今月の広報ふちゅうの表紙」9時20分~ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{osm box|n|1310431287}} == 関連項目 == * [[福山藩の辻堂]] * [[出口川のカドミウム汚染]] * [[府中家具]] * [[上下町]] == 外部リンク == {{Commonscat|Fuchu, Hiroshima|府中市}} === 行政 === * {{Official website|name=広島県府中市}} * [https://www.youtube.com/@fuchucityhiroshima520/videos 広島県府中市役所公式YouTubeチャンネル] - [[YouTube]] * {{Facebook|city.fuchu.hiroshima}} * {{LINE公式アカウント|fuchucity}} * {{Instagram|fuchucity_hiroshima_official|【公式】広島県府中市}} * [https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/soumubu/johoseisaku/6511.html 府中市公式アプリ『My府中』~暮らしの情報をあなたのポケットに~ - 府中市役所] * [https://kodomo-fuchu.com/ 府中市こどもの国 ポムポム|考え、学び、感じて、遊ぶ場所。] * [https://fuchu-chuchu.jp/ ちゅちゅ 広島県府中市子育て支援サイト] * [https://i-corefuchu.com i-coreFUCHU(いこーれふちゅう 府中天満屋2階)公式サイト] * {{Instagram|icorefuchu_official|i-coreFUCHU(いこーれふちゅう 府中天満屋2階)}} * [https://bingo-fuchu.jp/ 広島県府中市 移住応援サイト FUFUFUCHU ふふふちゅう - by Fu Fu Fuchu City] * [https://www.htv.jp/hirooku/backNumList02.html ミニ広報テレビ番組『ひろおく便り』 府中市バックナンバー - 広島テレビ] === 観光 === * [https://fuchu-kanko.jp/ 府中市観光協会 FUN!FAN!FUCHU !!] * [https://fuchu-kanko.jp/recommended_cat/cath-jyouge/ 上下エリア│府中市観光協会 FUN!FAN!FUCHU !!] * [https://ja-jp.facebook.com/people/%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E5%B8%82%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8D%94%E4%BC%9A/100064452713655/ 府中市観光協会│Fuchu Hiroshima - Facebook] * {{Instagram|bingofuchu|一般社団法人 広島県府中市観光協会}} * [https://www.facebook.com/people/%E6%81%8B%E3%81%97%E3%81%8D/100091914837387/ 恋しき] - 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コマ (映画・漫画)
コマ(齣)は、漫画、映像(動画)などにおいて、1枚の画像が記録されている区画の単位。 漫画において時間の中のある1時点として表現された1枚の絵をコマという。多くは四角形(正方形や長方形とは限らない)の枠線で囲まれていて、これを連続させて時間の流れを表現する。 一般的に1ページに3~15コマで表現するのがちょうど良いとされている。必要に応じて、2ページにまたいでコマを書くこともある。最高に強調する場面や物語の締め等の重要な場面での演出として、1ページ又は見開き2ページをまるごと1コマに使用することもある。 部分のコマの角を丸くしたり、枠線を実線ではなく破線にしたり、枠線の間隔を狭くしたり、枠線の外部を黒く塗り潰したり、コマの中に小さなコマを配したりして、それらをストーリー上で現在流れている時間のコマと区別することもある(回想シーンや想像シーンなど)。演出上枠線を描かなかったり人物を強調させるなどの理由で人物がコマからはみ出ていたりすることもある。 人物が「複数のコマをまたいで」大きく描かれることもある。この手法は、ぶちぬきと呼ばれる。 又、コマの境目の余白部分を物質化し、壁や柱や横棒などとして扱わせる手法もある。 コマの数を基準にして漫画の型式を分類する場合がある。以下は関連項目。 写真フィルムで、1枚の写真を記録する区画をコマまたは英語でフレーム (frame) という。フレームの大きさはフィルムの幅に準じ、画面サイズを決定する。構図を設定するための大枠であり、画角を計算する際に重要な数値となる。 映画フィルムで、1枚の映像を記録する区画をコマという。英語ではフレーム (frame) 、または、テレビのフレームと区別するためにフィルムフレーム (film frame) という。 映画フィルムでは、1秒あたりサイレント時代は16コマ、トーキーでは24コマが使われる。ただし、ごく初期の映画には、さまざまなコマ数のものがあった。実験的な映画の中には、60コマを使うものなどもある。 アニメーションは、実写映像が動作の流れをコマに分割して記録するのに対し、動作を分割した絵をコマ単位で複数描き、映像媒体に連続記録して再生することで動画にする技術である。 多くのテレビ番組がビデオ撮影されるようになってからも、アニメは長く映画フィルムを使って制作されており、1秒24コマで撮影されていた。ただし、日本では、実際に描かれる絵の枚数は動きのあるシーンであっても1秒8~12枚で、1枚の絵を2~3コマ撮影してフレーム数を調整していた(リミテッド・アニメーション)。ディズニーアニメなどは実際に1秒に24枚の絵が描かれている。 現在のアニメ制作はデジタル化されているが、フィルム時代と同様、1秒24コマで「撮影」(実際に撮影するわけではないが用語は残っている)され60フィールドにテレシネされる。ただし、特殊効果や一部のCGはテレシネ後にフレームまたはフィールド単位で加えるため、必ずしも絵の全てがコマを単位としているわけではない。 なお、アニメ制作の現場では、コマを記号「K」で略記することがある。 テレビ以降の動画技術分野では一般に、英単語frameをそのままカタカナにして「フレーム」という語を使う。上記のテレビアニメをはじめとする制作分野や、家電・コンピュータ用ソフトウェアの機能名称などでは「コマ」の語が残っている例がある。 各機器の動画再生機能のうち、コマの1つ1つを確認できる程度の低い速度で再生することをコマ送りと呼ぶ。再生中にコマの一部が表示されないことをコマ落ちまたはコマ飛びと呼ぶ。ストップモーション・アニメーション自体、またはその制作手法をコマ撮りと呼ぶ。
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コマ(齣)は、漫画、映像(動画)などにおいて、1枚の画像が記録されている区画の単位。
{{出典の明記|date=2013年4月}} [[画像:35-APS PICT2214.JPG|thumb|[[写真フィルム]](上:[[135フィルム]] 中:[[アドバンストフォトシステム]](APS) 下:サイズ比較用の[[100円玉]])]] '''コマ'''(齣)は、[[漫画]]、映像([[動画]])などにおいて、1枚の[[画像]]が記録されている[[区画]]の単位。 ==漫画のコマ== {{画像提供依頼|漫画のダイナミックなコマ割り|date=2023年4月}} [[ファイル:Petit Sammy éternue.jpg|thumb|alt=Little Sammy Sneeze strip|270px|right|<span style="font-size:90%;">[[ウィンザー・マッケイ]] 『Little Sammy Sneeze』([[1905年]])</span>]] [[漫画]]において時間の中のある1時点として表現された1枚の絵を'''コマ'''という。多くは四角形(正方形や長方形とは限らない)の枠線で囲まれていて、これを連続させて時間の流れを表現する。 一般的に1ページに3~15コマで表現するのがちょうど良いとされている。必要に応じて、2ページにまたいでコマを書くこともある。最高に強調する場面や物語の締め等の重要な場面での演出として、1ページ又は見開き2ページをまるごと1コマに使用することもある。 部分のコマの角を丸くしたり、枠線を実線ではなく破線にしたり、枠線の間隔を狭くしたり、枠線の外部を黒く塗り潰したり、コマの中に小さなコマを配したりして、それらをストーリー上で現在流れている時間のコマと区別することもある(回想シーンや想像シーンなど)。演出上枠線を描かなかったり人物を強調させるなどの理由で人物がコマからはみ出ていたりすることもある。 人物が「複数のコマをまたいで」大きく描かれることもある。この手法は、'''ぶちぬき'''と呼ばれる。 又、コマの境目の余白部分を物質化し、壁や柱や横棒などとして扱わせる手法もある。 コマの数を基準にして漫画の型式を分類する場合がある。以下は関連項目。 * [[一コマ漫画]] * [[4コマ漫画]] * [[コミック・ストリップ]]/[[バンド・デシネ]] {{clear}} ==写真フィルムのコマ== {{節stub}} [[写真フィルム]]で、1枚の写真を記録する区画を'''コマ'''または[[英語]]で'''フレーム''' (frame) という。フレームの大きさはフィルムの幅に準じ、画面サイズを決定する。[[構図]]を設定するための大枠であり、[[画角]]を計算する際に重要な数値となる。 ==映画フィルムのコマ== {{画像提供依頼|写真フィルムみたいにコマあたり複数の穴があいた映画フィルム|date=2023年4月}} [[Image:Super_16_mm_film.jpg|thumb|映画フィルム(模式図)]] [[映画]][[フィルム]]で、1枚の映像を記録する区画を'''コマ'''という。[[英語]]では'''フレーム''' (frame) 、または、[[テレビ]]のフレームと区別するために'''フィルムフレーム''' (film frame) という。 映画フィルムでは、1[[秒]]あたり[[サイレント映画|サイレント]]時代は16コマ、[[トーキー映画|トーキー]]では24コマが使われる。ただし、ごく初期の映画には、さまざまなコマ数のものがあった。実験的な映画の中には、60コマを使うものなどもある。 ==その他の映像のコマ== ===アニメのコマ=== [[アニメーション]]は、[[実写|実写映像]]が動作の流れをコマに分割して記録するのに対し、動作を分割した[[絵]]をコマ単位で複数描き、映像媒体に連続記録して再生することで動画にする技術である。 多くのテレビ番組がビデオ撮影されるようになってからも、アニメは長く映画フィルムを使って制作されており、1秒24コマで撮影されていた。ただし、[[日本]]では、実際に描かれる絵の枚数は動きのあるシーンであっても1秒8~12枚で、1枚の絵を2~3コマ撮影してフレーム数を調整していた([[リミテッド・アニメーション]])。[[ディズニー]]アニメなどは実際に1秒に24枚の絵が描かれている。 現在のアニメ制作は[[デジタル]]化されているが、フィルム時代と同様、1秒24コマで「撮影」(実際に撮影するわけではないが用語は残っている)され60フィールドに[[テレシネ]]される。ただし、[[特殊効果]]や一部の[[コンピュータグラフィックス|CG]]はテレシネ後にフレームまたはフィールド単位で加えるため、必ずしも絵の全てがコマを単位としているわけではない。 なお、アニメ制作の現場では、コマを記号「K」で略記することがある。 ===現代の用法=== {{see also|フレームレート}} [[テレビ]]以降の[[動画]]技術分野では一般に、英単語frameをそのままカタカナにして「'''フレーム'''」という語を使う。上記の[[テレビアニメ]]をはじめとする制作分野<ref>現在では画像処理でフィルム調の画が作れるようになったこともあり、テレビ番組の製作でフィルム撮影が使われることはまれで、番組は最初からテレビ仕様に合わせてビデオ撮影される([[テレビ映画]]、[[収録]]などを参照。日本の連続ドラマでは[[炎神戦隊ゴーオンジャー]]が最後、残った[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]本編も2013年9月29日を最後にセル画からデジタルに移行し、レギュラー放映される番組でフィルムが使われている番組は消滅した)。</ref>や、家電・コンピュータ用ソフトウェアの機能名称などでは「コマ」の語が残っている例がある。 各機器の動画再生機能のうち、コマの1つ1つを確認できる程度の低い速度で再生することを'''[[コマ送り]]'''と呼ぶ。再生中にコマの一部が表示されないことを'''コマ落ち'''<ref>[https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B3%E3%83%9E%E8%90%BD%E3%81%A1 コマ落ち] [[weblio]] IT用語辞典バイナリ</ref>または'''コマ飛び'''と呼ぶ。[[ストップモーション・アニメーション]]自体、またはその制作手法を'''コマ撮り'''と呼ぶ。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[フレーム]] - 曖昧さ回避ページ ** [[フレームレート]] - フレーム頻度の単位 ** [[フレームシンクロナイザー]] - 主に放送で用いられる映像フレーム調整機器 * [[フィールド]] - 曖昧さ回避ページ {{データ圧縮}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こま}} [[Category:漫画・アニメの表現]] [[Category:映画技法]] [[Category:アニメーションの技法]]
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ギャグ漫画
ギャグ漫画(ギャグまんが)は、読者を笑わせるギャグ描写を中心として描かれる日本の漫画のこと。コメディ漫画と同一視されてもいるが、現代日本においてコメディはほとんどが健全な笑いのイメージで使われ、またギャグは必ずしも笑顔(心の中だけでも)に誘導することは目的としていない。 「ポンチ絵」と呼ばれてきた明治期から、漫画という語が定着するようになった大正期の半ばから昭和に入って以降、長く漫画とは政治や世相を風刺して笑えるものという位置付けであった。大人漫画においても子供漫画においても、ギャグのある漫画と断るまでもなく、漫画にとって笑いは不可分な要素であり、笑いのない漫画は存在しなかったのである。 ところが、子供向け漫画において、1960年代の後半頃より笑いの要素をなくした劇画が登場。同時期に赤塚不二夫の『おそ松くん』『天才バカボン』等、少年誌では笑いに特化した漫画が人気を呼ぶようになった。こうして、1960年代後半から1970年代初めにかけて、漫画が笑いの要素のない劇画とギャグ専門のギャグ漫画に分化。ギャグ漫画というジャンルが成立した。 それまでの漫画の主流であり、依然として笑いと不可分でユーモアやナンセンスの要素を強く持った大人漫画は、青少年向けのストーリー漫画とギャグ漫画に食われる形で、1970年に文藝春秋の大人漫画誌『漫画読本』が休刊するなどジャンル自体が衰退していった。 1980年代に一世を風靡した吉田戦車を「不条理漫画」の祖とすることが多い。しかし、大塚英志はこれに異を唱えており、漫画史的には吾妻ひでおが1978年から1979年にかけて発表した『不条理日記』(第10回星雲賞受賞作品)が不条理ギャグのルーツとみなすべきだと主張している。 ただし「不条理漫画」的な作品は吾妻以前にも、つげ義春『ねじ式』や蛭子能収『愛の嵐』、赤瀬川原平『櫻画報』などガロ系作家による前衛的な漫画作品や、『天才バカボン』などの赤塚不二夫、長谷邦夫、古谷三敏、とりいかずよしらフジオ・プロのギャグ漫画、ないし谷岡ヤスジ、山上たつひこ、鴨川つばめ、ジョージ秋山、秋竜山、みなもと太郎らによるナンセンスギャグ作品などがあり、手塚治虫はそれらをまとめて「不条理ギャグ」として取り上げている。 また必ずしもギャグを意識していない怪奇漫画や少女漫画でも、内容の奇抜さや不条理な展開から、後年になって不条理ギャグの文脈で再評価される事もある。米沢嘉博や竹熊健太郎が監修を務めた太田出版の復刻漫画レーベル「QJマンガ選書」からは徳南晴一郎の『怪談人間時計』(曙出版)をはじめ特殊な作風の貸本漫画が多数復刻された。また押切蓮介は貸本ホラー漫画の「ギャグにしか見えないホラー」という「ひばり系ホラー」のテイストをあえて意識した、ホラーとギャグを融合させた作風で創作を行っていた。 かつて「不条理漫画」的な作品は、1960年代に創刊された青林堂発行のオルタナティヴ・コミック誌『月刊漫画ガロ』(1964年~2002年)をはじめ、1970年代末から1980年代初頭のニューウェーブ期に相次いで創刊された漫画マニア誌、または蛭子能収、根本敬、山野一(ねこぢるの夫)、平口広美、丸尾末広、花輪和一、渡辺和博、山田花子、杉作J太郎、ひさうちみちおら「ガロ系」の作家が執筆していた自販機本やエロ劇画誌、あるいはマニア系のSM誌など、発表の場は極めてアンダーグラウンドなマイナー誌やエロ本に限定されていた。 青林堂創業者で『ガロ』初代編集長の長井勝一も「かつてはガロ系と決めつけて他の出版社では本を出してくれないこともあった」と当時を回顧しており、「不条理漫画はメジャーで通用しない」という共通認識が当時の業界にあったという。 1980年代半ばから、いがらしみきお『ぼのぼの』、相原コージ『コージ苑』、『かってにシロクマ』が人気を博すようになる。相原コージが連載していた『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)では、相原賞が設けられ、ほりのぶゆき、榎本俊二といった後進のギャグ漫画家の輩出に貢献した。 1989年に吉田戦車『伝染るんです。』の連載が開始され、不条理ギャグ漫画というジャンルを象徴する作品となる。『伝染るんです。』の単行本のデザインは祖父江慎が担当し、意図的な誤植を行い、乱丁本と思わせる装丁に仕立てて、単行本の作りそのものから不条理さを滲み出させた。 『伝染るんです。』以降、各青年誌には各誌を代表する不条理漫画家の活躍もあり、不条理ギャグ漫画のブームは定着していくことになる。こうして不条理漫画家は主なフィールドをマイナー誌からメジャー誌へと移していった。 ライターの青木ポンチは高野聖ーナ『パパはニューギニア』をこの時期の「ブームの極致に達したといえる作品」と評している。 「不条理」という面で見れば、不条理ギャグ漫画の代表作に挙げられる『伝染るんです。』よりも、榎本俊二『GOLDEN LUCKY』のほうがより不条理であり、熱狂的なファンも産んだとする見方もあるが、逆に面白さが全く理解できない読者もいたようで、榎本の作風は賛否両論を巻き起こした。 2000年代に入ると、インターネットの普及によって自サイト・漫画投稿サイト・ネタ絵投稿サイト・絵投稿サイト・動画投稿サイトなどでのアマチュアによるギャグ漫画作品の発表が増えている。プロの作品と比べ、2ch原作やパロディ、不条理、ヘタウマ、混沌としたものなどインディーズ的な要素が強い。小林銅蟲、ニャロメロン、高津カリノ、ちょぼらうにょぽみなどのインターネット上でギャグ漫画を公開し、人気を博していたアマチュア漫画家が漫画雑誌に連載するようになるケースが増えてきている。また、出版社の運営するサイトでのギャグ漫画連載が出始めている。例えばガンガンONLINEに連載中の『男子高校生の日常』(山内泰延)や月刊少年シリウスのWeb版に連載中の『魔女っ娘つくねちゃんWEB』(まがりひろあき)などがこれである。
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ギャグ漫画(ギャグまんが)は、読者を笑わせるギャグ描写を中心として描かれる日本の漫画のこと。コメディ漫画と同一視されてもいるが、現代日本においてコメディはほとんどが健全な笑いのイメージで使われ、またギャグは必ずしも笑顔(心の中だけでも)に誘導することは目的としていない。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2018年6月 | 独自研究 = 2018年6月 }} '''ギャグ漫画'''(ギャグまんが)は、読者を笑わせる[[ギャグ]]描写を中心として描かれる[[日本の漫画]]のこと。[[喜劇#コメディ漫画|コメディ漫画]]と同一視されてもいるが、現代日本においてコメディはほとんどが健全な笑いのイメージで使われ、またギャグは必ずしも笑顔(心の中だけでも)に誘導することは目的としていない。 == 歴史 == 「[[ポンチ絵]]」と呼ばれてきた[[明治|明治期]]から、漫画という語が定着するようになった[[大正|大正期]]の半ばから[[昭和]]に入って以降、長く漫画とは政治や世相を[[風刺]]して笑えるものという位置付けであった。大人漫画においても子供漫画においても、ギャグのある漫画と断るまでもなく、漫画にとって笑いは不可分な要素であり、笑いのない漫画は存在しなかったのである。 ところが、子供向け漫画において、[[1960年代]]の後半頃より笑いの要素をなくした[[劇画]]が登場。同時期に[[赤塚不二夫]]の『[[おそ松くん]]』『[[天才バカボン]]』等、少年誌では笑いに特化した漫画が人気を呼ぶようになった。こうして、1960年代後半から[[1970年代]]初めにかけて、漫画が笑いの要素のない[[劇画]]とギャグ専門のギャグ漫画に分化。ギャグ漫画というジャンルが成立した。 それまでの漫画の主流であり、依然として笑いと不可分で[[ユーモア]]や[[ナンセンス]]の要素を強く持った大人漫画は、青少年向けの[[ストーリー漫画]]とギャグ漫画に食われる形で、[[1970年]]に[[文藝春秋]]の大人漫画誌『[[漫画読本]]』が休刊するなどジャンル自体が衰退していった。 === 不条理ギャグ === {{See also|ブラックジョーク|シュルレアリスム}} 1980年代に一世を風靡した[[吉田戦車]]を「不条理<ref>[[シュール (曖昧さ回避)]]</ref>漫画」の祖とすることが多い<ref name="夜の魚">『[[地を這う魚|夜の魚]]―太田COMICS芸術漫画叢書』の[[大塚英志]]による解説『吾妻ひでおを再び「流通」させる理由』</ref>。しかし、[[大塚英志]]はこれに異を唱えており、[[日本の漫画の歴史|漫画史]]的には[[吾妻ひでお]]が[[1978年]]から[[1979年]]にかけて発表した『'''[[不条理日記]]'''』(第10回[[星雲賞]]受賞作品)が[[不条理]][[ギャグ]]のルーツとみなすべきだと主張している{{R|夜の魚}}。 ただし「不条理漫画」的な作品は吾妻以前にも、[[つげ義春]]『[[ねじ式]]』や[[蛭子能収]]『[[地獄に堕ちた教師ども|愛の嵐]]』、[[赤瀬川原平]]『[[櫻画報]]』など[[ガロ系]]作家による[[アバンギャルド|前衛]]的な漫画作品や、『[[天才バカボン]]』などの[[赤塚不二夫]]、[[長谷邦夫]]、[[古谷三敏]]、[[とりいかずよし]]ら[[フジオ・プロダクション|フジオ・プロ]]のギャグ漫画、ないし[[谷岡ヤスジ]]、[[山上たつひこ]]、[[鴨川つばめ]]、[[ジョージ秋山]]、[[秋竜山]]、[[みなもと太郎]]らによる[[ナンセンス]]ギャグ作品などがあり、[[手塚治虫]]はそれらをまとめて「不条理ギャグ」として取り上げている<ref>『マンガの描き方』(光文社カッパ・ホームス 1977年刊)</ref>。 また必ずしもギャグを意識していない[[ホラー漫画|怪奇漫画]]や[[少女漫画]]でも、内容の奇抜さや不条理な展開から、後年になって不条理ギャグの文脈で再評価される事もある。[[米沢嘉博]]や[[竹熊健太郎]]が監修を務めた[[太田出版]]の復刻漫画レーベル「[[¥800本#QJマンガ選書|QJマンガ選書]]」からは[[徳南晴一郎]]の『怪談人間時計』([[曙出版]])をはじめ特殊な作風の[[貸本漫画]]が多数復刻された。また[[押切蓮介]]は[[貸本漫画|貸本]][[ホラー漫画]]の「ギャグにしか見えないホラー」という「[[ひばり書房|ひばり系]]ホラー」のテイストをあえて意識した、ホラーとギャグを融合させた作風で創作を行っていた。 ==== マイナー期 ==== かつて「不条理漫画」的な作品は、[[1960年代]]に創刊された[[青林堂]]発行の[[オルタナティヴ・コミック]]誌『'''[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]'''』([[1964年]]~[[2002年]])をはじめ、[[1970年代]]末から[[1980年代]]初頭の[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]期に相次いで創刊された漫画マニア誌、または[[蛭子能収]]、[[根本敬]]、[[山野一]]([[ねこぢる]]の夫)、[[平口広美]]、[[丸尾末広]]、[[花輪和一]]、[[渡辺和博]]、[[山田花子 (漫画家)|山田花子]]、[[杉作J太郎]]、[[ひさうちみちお]]ら「'''[[ガロ系]]'''」の作家が執筆していた[[自販機本]]や[[エロ劇画誌]]、あるいはマニア系の[[SM (性風俗)|SM]]誌など、発表の場は極めて[[アンダーグラウンド (文化)|アンダーグラウンド]]なマイナー誌や[[エロ本]]に限定されていた。 [[青林堂]]創業者で『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』初代編集長の[[長井勝一]]も「かつては[[ガロ系]]と決めつけて他の出版社では本を出してくれないこともあった」と当時を回顧しており、「不条理漫画はメジャーで通用しない」という共通認識が当時の業界にあったという<ref name="yomiuri1990">{{Cite news|date=1990年9月17日|title=拡大続くマンガ界 最近人気があるのは… おなじみ「ちびまる子ちゃん」ほか|newspaper=読売新聞・東京朝刊|author=幸|page=9}}</ref>。 ==== メジャー期 ==== [[1980年代]]半ばから、[[いがらしみきお]]『'''[[ぼのぼの]]'''』、[[相原コージ]]『'''[[コージ苑]]'''』、『'''[[かってにシロクマ]]'''』が人気を博すようになる。相原コージが連載していた『[[ビッグコミックスピリッツ]]』([[小学館]])では、[[相原コージ#相原賞|相原賞]]が設けられ、[[ほりのぶゆき]]、[[榎本俊二]]といった後進のギャグ漫画家の輩出に貢献した<ref name="青木">{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/11645303/|title=「ギャグ漫画」が主役を張っていた90年代 どんな作品があった?|publisher=チョベリグニュース|date=2016-06-15|author=青木ポンチ|accessdate=2018-06-07}}</ref>。 [[1989年]]に[[吉田戦車]]『'''[[伝染るんです。]]'''』の連載が開始され、不条理ギャグ漫画というジャンルを象徴する作品となる。『伝染るんです。』の単行本のデザインは[[祖父江慎]]が担当し、意図的な誤植を行い、乱丁本と思わせる装丁に仕立てて、単行本の作りそのものから不条理さを滲み出させた{{R|青木}}。 『伝染るんです。』以降、各青年誌には各誌を代表する不条理漫画家の活躍もあり、不条理ギャグ漫画のブームは定着していくことになる{{R|青木}}。こうして不条理漫画家は主なフィールドをマイナー誌からメジャー誌へと移していった{{R|yomiuri1990}}。 ライターの青木ポンチは[[高野聖ーナ]]『[[パパはニューギニア]]』をこの時期の「ブームの極致に達したといえる作品」と評している{{R|青木}}。 「不条理」という面で見れば、不条理ギャグ漫画の代表作に挙げられる『伝染るんです。』よりも、[[榎本俊二]]『[[GOLDEN LUCKY]]』のほうがより不条理であり、熱狂的なファンも産んだとする見方もあるが、逆に面白さが全く理解できない読者もいたようで、榎本の作風は賛否両論を巻き起こした<ref>{{cite book|和書|title=現代マンガの冒険者たち: 大友克洋からオノ・ナツメまで|author=南信長|authorlink=南信長|publisher=[[NTT出版]]|year=2008|isbn=9784757141773|page=217}}</ref>。 ==== インターネット ==== [[2000年代]]に入ると、[[インターネット]]の普及によって自サイト・漫画投稿サイト・ネタ絵投稿サイト・絵投稿サイト・動画投稿サイトなどでのアマチュアによるギャグ漫画作品の発表が増えている。プロの作品と比べ、[[2ちゃんねる|2ch]]原作や[[パロディ]]、[[不条理]]、[[ヘタウマ]]、混沌としたものなど[[インディーズ]]的な要素が強い。[[小林銅蟲]]、[[ニャロメロン]]、[[高津カリノ]]、[[ちょぼらうにょぽみ]]などのインターネット上でギャグ漫画を公開し、人気を博していたアマチュア漫画家が漫画雑誌に連載するようになるケースが増えてきている。また、出版社の運営するサイトでのギャグ漫画連載が出始めている。例えば[[ガンガンONLINE]]に連載中の『[[男子高校生の日常]]』([[山内泰延]])や[[月刊少年シリウス]]のWeb版に連載中の『[[魔女っ娘つくねちゃん|魔女っ娘つくねちゃんWEB]]』([[まがりひろあき]])などがこれである。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考資料 == {{参照方法|date=2018年6月4日 (月) 06:48 (UTC)}} * 石子順造『戦後マンガ史ノート』 紀伊国屋書店、[[1975年]] * 清水勲『漫画の歴史』 [[岩波書店]]、[[1991年]] * [[夏目房之介]]『手塚治虫はどこにいる』 筑摩書房、[[1992年]] * 夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』 [[日本放送出版協会]]、[[1997年]] * 夏目房之介『マンガの力 成熟する戦後マンガ』 晶文社、[[1999年]] == 関連項目 == * [[ストーリー漫画]] * [[赤塚賞]] {{DEFAULTSORT:きやくまんか}} [[Category:漫画のジャンル]] [[Category:ギャグ漫画|*]]
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朴璐美
朴 璐美(ぱく ろみ、박로미、1972年1月22日 - )は、日本の声優、女優、歌手。東京都江戸川区出身。国籍は日本。LAL代表。夫は俳優、声優の山路和弘。 代表作は『∀ガンダム』(ロラン・セアック)、『鋼の錬金術師』(エドワード・エルリック)、『BLEACH』(日番谷冬獅郎)、『NANA』(大崎ナナ)、『進撃の巨人』(ハンジ・ゾエ)など。 1990年に和洋国府台女子高等学校を卒業後、桐朋学園芸術短期大学演劇科に入学し、1992年に卒業。その後の半年間は祖父の母国である韓国の延世大学校 韓国語学堂に留学。1993年に円演劇研究所へ入り、2年後の1995年に演劇集団 円の会員に昇格。 1998年、『ブレンパワード』のカナン・ギモス役で声優デビュー。 2003年、「第26回アニメグランプリ」にて声優部門賞を受賞。 2004年、「東京国際アニメフェア2004」にて声優賞を受賞。 2006年、歌手活動をし始め、CDをリリース。同年度、「第1回声優アワード」で、『NANA』の大崎ナナ役で主演女優賞を受賞。 2013年、第25回東京国際映画祭日本映画・ある視点部門ノミネート『あかぼし』で実写映画に初主演。 2016年、出演予定だった舞台『箱の中身2016』を体調不良のため降板。 2017年11月15日付で22年間在籍した演劇集団 円を退所、芸能・声優事務所LALを設立。 2019年、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』のマダム・テナルディエ役でミュージカルに初出演。 2020年1月22日、俳優・声優の山路和弘と結婚したことを公式サイト・Twitterにて発表した。 趣味や特技はスキューバダイビング、少林寺拳法、ピアノ、水泳、韓国語。 舞台でも声優でも、老若男女幅広い役を演じている。アニメではティーンエイジの少年役に起用されることが多い。吹き替えではヒラリー・スワンク、ミシェル・ロドリゲス、ヘレナ・ボナム・カーター、ルーシー・リューなどが持ち役。ナレーションでは『金曜ロードSHOW!』でサッシャのパートナーとしてナレーターを担当している。 『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリック役はそれまでの集大成であり、運命的なものを感じたという。エドの役は感情の振れ幅が大きかったため、他の役では感情を出し過ぎたことが多々あったり、エドのような演技を求められても、違うキャラクターだからできないというギャップに戸惑った時期もあったという。 尊敬する声優は『シャーマンキング』で共演した高山みなみと林原めぐみ。2人は恩人であり、慣れない少年役で悩んでいたとき、この仕事は一人でやっているわけではなくみんなで作っているんだと教えられ、学生時代に好きだったみんなで作る感覚を思い出させてくれた高山を父、林原を母であると公言している。声優の川上とも子は桐朋学園短大時代の同期生であり、川上が2011年6月に亡くなった際には、自らのブログで彼女への思いを語り、また、通夜に駆け付けた。 2010年から2012年までダイニングカフェ・シーラカンスをゲッターズ飯田と共同経営していた。 2013年からボイススクールstudio Cambria(スタジオ カンブリア)を開校。 在日韓国人として生まれ、後に日本に帰化した韓国系日本人。姉と弟がいる。子供のころは体が弱く、肺炎で死にかけたり、食事もあまり摂らないにもかかわらず、活発に動いて突然倒れることもあった。小学生の頃はのあだ名は「半切りごぼう」。体を鍛えることと箱入り娘に育てるため、少林寺拳法、水泳、ピアノ、書道、公文、そろばん、油絵など習い事をいくつもした。儒教のしきたりで毎週日曜日に祖父母の家を訪ね、学校では日本語、家では日本語と韓国語、祖父母宅では韓国語で過ごす一日で世界が変わる生活は現実感がなく、特に祖父母の家に行くことは鬱陶しく感じていた。家ではだらしないとして流行のファッションをしていると怒られ、父とは20歳になるまで敬語で会話していた。中学は地元の公立校では不良になるとの心配から、母の意向で私立校に通い、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学することを希望するも許されなかった。また中学進学時にも「韓国に行きたい」と言っていた。 元々、演劇に興味を持っていたわけではなく、高校で演劇部に憧れの先輩がいたこと、先輩に誘われたことがきっかけ。両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため、先輩の言葉に乗り、演劇部に入部。演劇部に入ると、みんなで作品を作り上げることが好きになり芝居にのめり込む。当時は学校の演劇部としての活動は、ほどほどだったが、地区大会のようなものには出場していた。顧問の教師からもあまり干渉はされず、自由奔放にしてもらえたという。演劇部の1年目は役をもらえるわけではないため、一番最初は照明を担当していた。当時は演出に興味があった。部活動だったが、芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つかたちで運営していたらである。 脚本は色々で、当時は人気のあった野田秀樹の作品などを上演していた。野田作品の舞台は観たことは一度もなかったが、勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していた。短大生になり始めて夢の遊眠社で野田の演出の舞台を観て、「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していた。 高校3年の時に出場した全国高等学校演劇大会の地区大会で、ミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物を全員女性に改稿して演じていたが、本番で演じている最中に停電になってしまい、上演は中止になった。当時は灰色の女役でちょうど舞台に立っていた時に真っ暗になったため、「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けてしまったという。朴以外の部員も皆、号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていた。 電源が復旧しもう一度最初から演じられることになった時には、冷静になってしまい、灰色の女にしか見えなくなっていた。今まで感じたことのないすごく変な感覚だったが、それを味わってしまったところ演劇のとりこになっていたという。このことを、「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っている。 日常を生きていく上で、現実感がなく、日本の社会に入り、溶け込もうとしても中々そうもいかず、何かしらで必ず自分の中に違和感を感じてしまった。それが演劇の中でやっと一つになれる実感があったんだという。その頃、「自分はもしかしたら精神を病んでしまっているのではないか」と思い、母に病院に連れていってもらったこともあった。その病院の医師が、重度の患者に会わせてくれて、「君は病気じゃないよ」と言ってくれたという。 今まで何に対しても興味が持てなかったが、初めて集中して興味を持てたのが演劇だった。他の表現方法で興味が持てなかったのは、絵は面倒くさく、気にし出すと凝り性な部分があるため、絵の具も全種欲しくなり、全部が手に入らないと悲しかったという。 舞台など、ほとんど観ておらず、基本的には不器用なため、一転集中型だった。2009年時点でもそうだが、一つ集中することがると他のことを一切しなくなってしまう傾向があるという。 大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも、当時の韓国は学生運動が盛んで危険だったこともあり、母から日本での受験を勧められる。その時は進路を決める時期で、中学高校と女子校だったため、「もう女子だけの環境はイヤ!」と思い、エスカレーター式の女子大に進学したくなかったが、両親は大学進学希望だった。母は朴がそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようだったという。朴は、芝居の他にも、ビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っていることが好きだったため、「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い、専門学校の資料を取り寄せたりしていた。演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかったことから、試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験する。最終的には偶々演劇の大学に行ったが、もしアクセサリー関係の大学を知っており、両親が許してくれていたら、「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語る。大学入学後にできた当時の彼氏が立ち上げた劇団に参加。彼の演出は演者を扱うことが上手く、朴は演出家希望だったが、彼の演出家としての才能に圧倒されたことから演出することを断念したという。2年の後期になった時に先生から呼び出され、「このままでは卒業できない」と伝えられていた。それを知った母は「卒業できないなんて朴家の恥!」と大学の先生に直訴しに行き、なんとか卒業できるように手立てを考えようということになった。朴自身は、もうどうでもよくはなっていたが、後期になりある授業に出席した時、前期に全く出席していなかったこともあり、その教授に「何で君がここにいるんだ。帰りなさい!」と言われた。その言葉にカッチーンときて、「この授業に出なくたって絶対卒業してやるよ!!」と強く思い、また逆ギレして、それでなんとか卒業しようと一念発起して、2年の後期だけは、無茶苦茶頑張っていた。出ていなかったのは、一般教養、演劇論のような座学で何言ってるのかさっぱり理解できなかったという。大学入学後も役者になろうとは思わず、卒業後に遂に韓国留学をするが、落ち着ける場所と考えていた「母国」の地は「祖国」であり、いくつかの発見もあったが、日本で得た内なるものと韓国での擦れ違いから失意のうちに帰国、大学時代の劇団仲間から勧められて円演劇研究所に入った。その時に演出家の福沢富夫に出会い、「この人にならすべてを見せられる」と思ったことが同演劇研究所に入ったきっかけである。当時は半年で内緒で帰国してしまったため、実家に帰ることもできず、短期大学の先生のところに泣きながら駆け込んでしまった。3日後には実家にタクシーで連れていかれ、その時が人生の中で自分が抱えてきたものを吐き出さなければならない重要な通過点だったのだと語る。また彼氏が友人とデキちゃっており、ショックのあまり引きこもりのような状態でもあったという。 演劇集団 円に入団後、初めてアルバイトをしており、携帯電話を売るのが天才的に上手く、あらゆる大手電気量販店で携帯電話を売りまくっていた。あとはスーパーの冷凍商品販売で品切れにしたこともあった。それまであれほど反対していた」両親も、認めてくれたという。演劇集団 円に入ってから2年後、役者を辞めようとしていたところに『ブレンパワード』のオーディションの話が来て、マネージャーから「受かるわけないから最後だと思って行って来たら」と言われ、軽い気持ちで参加したが監督の富野由悠季の目に止まって合格した。当時は年に1回、演劇集団 円の先輩だった橋爪功の別荘で、行っている菜の花舞台に富野がみえていた。 オーディションの時、自身はヒロイン役を受けに行ったが、主人公であるロラン・セアックの台詞も読まされた。少年役を演じたのはこのオーディションが初めての経験だったが、収録が始まる1週間前に「ロラン役に決まった」という連絡が来たという。 『ブレンパワード』の時は毎週現場に行くのが楽しかったのに対して、『∀ガンダム』の現場では初めての少年役ということが大きく、戸惑いのようなものがあったという。芝居は真実を映し出すもののはずなのに、自身とは性別が違う「少年」というフィルターをかけて演じなければならないという状況で、自身は本当に嘘をつくことなく演じられているのだろうかと怖くて辛かったといい、他に普段出さないような、叫び声を上げなければいけないシーンも多く、声帯が疲労して、台詞の途中で声が裏返ってしまったこともあり、自身の不甲斐無さに落ち込む毎日だったと語っている。そんな辛さと不甲斐無さで落ち込んでいた時、監督・富野由悠季の「朴璐美が喋ればそれがどんな声であろうと、ロランなんだ」という一言で救われたという。監督は人の心を見透かす方なので、自身の葛藤を見抜いたかもしれない。こんな素晴らしい作品にデビューし、少年役を演じられたことを本当に貴重な経験だったと語っている。 太字はメインキャラクター。 ※はインターネット配信。 ※はインターネット配信。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "朴 璐美(ぱく ろみ、박로미、1972年1月22日 - )は、日本の声優、女優、歌手。東京都江戸川区出身。国籍は日本。LAL代表。夫は俳優、声優の山路和弘。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "代表作は『∀ガンダム』(ロラン・セアック)、『鋼の錬金術師』(エドワード・エルリック)、『BLEACH』(日番谷冬獅郎)、『NANA』(大崎ナナ)、『進撃の巨人』(ハンジ・ゾエ)など。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年に和洋国府台女子高等学校を卒業後、桐朋学園芸術短期大学演劇科に入学し、1992年に卒業。その後の半年間は祖父の母国である韓国の延世大学校 韓国語学堂に留学。1993年に円演劇研究所へ入り、2年後の1995年に演劇集団 円の会員に昇格。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1998年、『ブレンパワード』のカナン・ギモス役で声優デビュー。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2003年、「第26回アニメグランプリ」にて声優部門賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2004年、「東京国際アニメフェア2004」にて声優賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2006年、歌手活動をし始め、CDをリリース。同年度、「第1回声優アワード」で、『NANA』の大崎ナナ役で主演女優賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2013年、第25回東京国際映画祭日本映画・ある視点部門ノミネート『あかぼし』で実写映画に初主演。", "title": "経歴" }, { 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"尊敬する声優は『シャーマンキング』で共演した高山みなみと林原めぐみ。2人は恩人であり、慣れない少年役で悩んでいたとき、この仕事は一人でやっているわけではなくみんなで作っているんだと教えられ、学生時代に好きだったみんなで作る感覚を思い出させてくれた高山を父、林原を母であると公言している。声優の川上とも子は桐朋学園短大時代の同期生であり、川上が2011年6月に亡くなった際には、自らのブログで彼女への思いを語り、また、通夜に駆け付けた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2010年から2012年までダイニングカフェ・シーラカンスをゲッターズ飯田と共同経営していた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2013年からボイススクールstudio Cambria(スタジオ カンブリア)を開校。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "在日韓国人として生まれ、後に日本に帰化した韓国系日本人。姉と弟がいる。子供のころは体が弱く、肺炎で死にかけたり、食事もあまり摂らないにもかかわらず、活発に動いて突然倒れることもあった。小学生の頃はのあだ名は「半切りごぼう」。体を鍛えることと箱入り娘に育てるため、少林寺拳法、水泳、ピアノ、書道、公文、そろばん、油絵など習い事をいくつもした。儒教のしきたりで毎週日曜日に祖父母の家を訪ね、学校では日本語、家では日本語と韓国語、祖父母宅では韓国語で過ごす一日で世界が変わる生活は現実感がなく、特に祖父母の家に行くことは鬱陶しく感じていた。家ではだらしないとして流行のファッションをしていると怒られ、父とは20歳になるまで敬語で会話していた。中学は地元の公立校では不良になるとの心配から、母の意向で私立校に通い、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学することを希望するも許されなかった。また中学進学時にも「韓国に行きたい」と言っていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "元々、演劇に興味を持っていたわけではなく、高校で演劇部に憧れの先輩がいたこと、先輩に誘われたことがきっかけ。両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため、先輩の言葉に乗り、演劇部に入部。演劇部に入ると、みんなで作品を作り上げることが好きになり芝居にのめり込む。当時は学校の演劇部としての活動は、ほどほどだったが、地区大会のようなものには出場していた。顧問の教師からもあまり干渉はされず、自由奔放にしてもらえたという。演劇部の1年目は役をもらえるわけではないため、一番最初は照明を担当していた。当時は演出に興味があった。部活動だったが、芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つかたちで運営していたらである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "脚本は色々で、当時は人気のあった野田秀樹の作品などを上演していた。野田作品の舞台は観たことは一度もなかったが、勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していた。短大生になり始めて夢の遊眠社で野田の演出の舞台を観て、「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高校3年の時に出場した全国高等学校演劇大会の地区大会で、ミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物を全員女性に改稿して演じていたが、本番で演じている最中に停電になってしまい、上演は中止になった。当時は灰色の女役でちょうど舞台に立っていた時に真っ暗になったため、「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けてしまったという。朴以外の部員も皆、号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "電源が復旧しもう一度最初から演じられることになった時には、冷静になってしまい、灰色の女にしか見えなくなっていた。今まで感じたことのないすごく変な感覚だったが、それを味わってしまったところ演劇のとりこになっていたという。このことを、「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っている。", 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"大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも、当時の韓国は学生運動が盛んで危険だったこともあり、母から日本での受験を勧められる。その時は進路を決める時期で、中学高校と女子校だったため、「もう女子だけの環境はイヤ!」と思い、エスカレーター式の女子大に進学したくなかったが、両親は大学進学希望だった。母は朴がそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようだったという。朴は、芝居の他にも、ビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っていることが好きだったため、「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い、専門学校の資料を取り寄せたりしていた。演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかったことから、試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験する。最終的には偶々演劇の大学に行ったが、もしアクセサリー関係の大学を知っており、両親が許してくれていたら、「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語る。大学入学後にできた当時の彼氏が立ち上げた劇団に参加。彼の演出は演者を扱うことが上手く、朴は演出家希望だったが、彼の演出家としての才能に圧倒されたことから演出することを断念したという。2年の後期になった時に先生から呼び出され、「このままでは卒業できない」と伝えられていた。それを知った母は「卒業できないなんて朴家の恥!」と大学の先生に直訴しに行き、なんとか卒業できるように手立てを考えようということになった。朴自身は、もうどうでもよくはなっていたが、後期になりある授業に出席した時、前期に全く出席していなかったこともあり、その教授に「何で君がここにいるんだ。帰りなさい!」と言われた。その言葉にカッチーンときて、「この授業に出なくたって絶対卒業してやるよ!!」と強く思い、また逆ギレして、それでなんとか卒業しようと一念発起して、2年の後期だけは、無茶苦茶頑張っていた。出ていなかったのは、一般教養、演劇論のような座学で何言ってるのかさっぱり理解できなかったという。大学入学後も役者になろうとは思わず、卒業後に遂に韓国留学をするが、落ち着ける場所と考えていた「母国」の地は「祖国」であり、いくつかの発見もあったが、日本で得た内なるものと韓国での擦れ違いから失意のうちに帰国、大学時代の劇団仲間から勧められて円演劇研究所に入った。その時に演出家の福沢富夫に出会い、「この人にならすべてを見せられる」と思ったことが同演劇研究所に入ったきっかけである。当時は半年で内緒で帰国してしまったため、実家に帰ることもできず、短期大学の先生のところに泣きながら駆け込んでしまった。3日後には実家にタクシーで連れていかれ、その時が人生の中で自分が抱えてきたものを吐き出さなければならない重要な通過点だったのだと語る。また彼氏が友人とデキちゃっており、ショックのあまり引きこもりのような状態でもあったという。", 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朴 璐美は、日本の声優、女優、歌手。東京都江戸川区出身。国籍は日本。LAL代表。夫は俳優、声優の山路和弘。 代表作は『∀ガンダム』(ロラン・セアック)、『鋼の錬金術師』(エドワード・エルリック)、『BLEACH』(日番谷冬獅郎)、『NANA』(大崎ナナ)、『進撃の巨人』(ハンジ・ゾエ)など。
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|title=朴ロ美 - 略歴・フィルモグラフィー |work=KINENOTE |publisher=キネマ旬報社 |accessdate=2017-05-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=バトルランナー パラマウント 思い出の復刻版 ブルーレイ|url=https://db2.nbcuni.co.jp/contents/hp0002/list.php?CNo=2&AgentProCon=39785&SP=2|website=db2.nbcuni.co.jp|accessdate=2020-03-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/96238/1|title=橋本環奈&上白石萌音、W主演に意気込み「舞台上で生きられるように」「千尋のように勇敢に」|publisher=クランクイン!|date=2021-11-10|accessdate=2022-03-02}}</ref>。}}、박로미<ref>{{Cite web |url=https://www.joongang.co.kr/article/1655849#home |title="사람의 따뜻함 느껴지는 한국 드라마 좋아" |access-date=2023-01-08 |publisher=[[中央日報]] |date=2006-03-12}}</ref>、[[1972年]][[1月22日]]{{R|excite|databank|真剣121}} - )は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優|女優]]、[[歌手]]。[[東京都]]{{R|真剣121}}[[江戸川区]]出身{{R|excite}}。[[国籍]]は日本<ref name="名前なし-1">[https://twitter.com/romiansaran/status/1279461178159161344 選挙に投票したことを報告] Twitter 2020年7月5日</ref>。[[LAL (芸能事務所)|LAL]]代表<ref name="lal-official">{{Cite web|url=https://www.lal-official.com/about-lal|title=about LAL|work=芸能プロダクションLAL|accessdate=2020-05-25}}</ref>。夫は俳優、声優の[[山路和弘]]<ref name="official200122">{{Cite web|和書|date=2020-01-22 |url=http://fan.pia.jp/romi_park/news/detail/61/ |title=朴璐美より皆様へご報告 |publisher=Romi Park Official Web Site |accessdate=2020-01-24}}</ref>。 代表作は『[[∀ガンダム]]』([[ロラン・セアック]])、『[[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]]』([[エドワード・エルリック]])、『[[BLEACH (アニメ)|BLEACH]]』([[日番谷冬獅郎]])、『[[NANA#テレビアニメ|NANA]]』(大崎ナナ)、『[[進撃の巨人 (アニメ)|進撃の巨人]]』(ハンジ・ゾエ)など{{R|databank}}<ref>[https://fan.pia.jp/romi_park/page/profile/ プロフィール] Romi Park Official Web Site</ref>。{{VOICE Notice Hidden|冒頭部分に記載する代表作は、編集合戦誘発の原因となりますので、多数の出典で確認できるものに限ってください。[[プロジェクト:芸能人#記事の書き方]]にてガイドラインが制定されていますので、そちらも参照して下さい。}} == 経歴 == {{See also|#声優・女優になるまで}} [[1990年]]に[[和洋国府台女子中学校高等学校|和洋国府台女子高等学校]]を卒業後、[[桐朋学園芸術短期大学]]演劇科に入学し、[[1992年]]に卒業<ref name="comprof">{{Wayback|url=http://park-romi.com/prof.html|title=プロフィール - 朴{{JIS2004フォント|璐}}美 旧公式サイト|date=20120712001248}}</ref>{{R|真剣121}}。その後の半年間は祖父の母国である[[大韓民国|韓国]]の[[延世大学校 韓国語学堂]]に[[留学]]{{R|comprof}}。[[1993年]]に円演劇研究所へ入り、2年後の[[1995年]]に[[演劇集団 円]]の会員に昇格{{R|comprof}}<ref name="enprof">{{Cite web|和書|url=http://www.enkikaku.jp/women'sprofile/park-prof.html |title=朴璐美 |publisher=円企画 |accessdate=2017-05-05}}</ref>。 [[1998年]]、『[[ブレンパワード]]』のカナン・ギモス役で声優デビュー{{R|naruniwa25}}。 [[2003年]]、「第26回[[アニメグランプリ]]」にて声優部門賞を受賞。 [[2004年]]、「[[東京国際アニメフェア]]2004」にて声優賞を受賞{{R|enprof|comprof}}。 [[2006年]]、歌手活動をし始め、CDをリリース<ref name="avexnet">[https://web.archive.org/web/20110918075813/http://avexnet.jp/id/bakur/discography/ ディスコグラフィー - エイベックス](2011年9月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。同年度、「第1回[[声優アワード]]」で、『[[NANA#テレビアニメ|NANA]]』の大崎ナナ役で主演女優賞を受賞{{R|enprof|comprof|真剣121}}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seiyuawards.jp/winning/winning_01 |title=第一回声優アワード受賞者 |publisher=声優アワード |accessdate=2017-05-05}}</ref>。 [[2013年]]、[[第25回東京国際映画祭]]日本映画・ある視点部門ノミネート『[[あかぼし]]』で実写映画に初主演<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/movie/77563/ |title=あかぼし : 作品情報 |publisher=映画.com |accessdate=2017-05-05}}</ref>。 [[2016年]]、出演予定だった舞台『箱の中身2016』を体調不良のため降板<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/03/24/kiji/K20160324012272530.html|title=「NANA」声優・パク・ロミ、体調不良で舞台降板「とても舞台に立てる状態では…」|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref>。 [[2017年]][[11月15日]]付で22年間在籍した演劇集団 円を退所、芸能・声優事務所[[LAL (芸能事務所)|LAL]]を設立<ref>[http://www.romi-park.com/posts/3242161 ご報告です],朴 璐美 オフィシャルウェブサイト,2017年11月15日</ref><ref>[https://www.lal-official.com/ LAL]</ref>。 [[2019年]]、[[東宝]][[ミュージカル]]『[[レ・ミゼラブル]]』のマダム・テナルディエ役でミュージカルに初出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://spice.eplus.jp/articles/225919 |title=斎藤司×朴璐美 『レ・ミゼラブル』新テナルディエ夫妻の愉快な対談 |publisher=SPICE |date=2019-02-08 |accessdate=2019-04-12}}</ref>。 [[2020年]][[1月22日]]、俳優・声優の[[山路和弘]]と結婚したことを公式サイト・[[Twitter]]にて発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20200122-7BPM4SI3HZJLFDP522D32FBIV4/ |title=声優、朴ろ美が山路和弘と結婚「役者としても人間としても、尊敬できる方」 |newspaper=SANSPO.COM |publisher=産経デジタル |date=2020-01-22 |accessdate=2020-01-22}}</ref>{{R|official200122}}。 == 人物 == 趣味や特技は[[スクーバダイビング|スキューバダイビング]]、[[少林寺拳法]]、[[ピアノ]]、[[水泳]]、[[朝鮮語|韓国語]]{{R|enprof}}。 舞台でも声優でも、老若男女幅広い役を演じている{{R|paku}}。アニメではティーンエイジの少年役に起用されることが多い<ref name="paku">{{Cite web|和書|url=http://seigura.com/senior/road/paku_seiyudo/2.html |title=朴{{JIS2004フォント|・}}美の声優道 ②作品を通してさまざまな人と知り合った |work=声優グランプリweb |publisher=主婦の友インフォス情報社 |accessdate=2017-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140329125720/http://seigura.com/senior/road/paku_seiyudo/2.html|archivedate=2014-03-23}}</ref>。吹き替えでは[[ヒラリー・スワンク]]、[[ミシェル・ロドリゲス]]、[[ヘレナ・ボナム・カーター]]、[[ルーシー・リュー]]などが持ち役。ナレーションでは『[[金曜ロードSHOW!]]』で[[サッシャ]]のパートナーとしてナレーターを担当している。 『[[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]]』の[[エドワード・エルリック]]役はそれまでの集大成であり、運命的なものを感じたという。エドの役は感情の振れ幅が大きかったため、他の役では感情を出し過ぎたことが多々あったり、エドのような演技を求められても、違うキャラクターだからできないというギャップに戸惑った時期もあったという<ref>声優になるには 15-16ページ</ref>。 尊敬する声優は『[[シャーマンキング]]』で共演した[[高山みなみ]]と[[林原めぐみ]]{{R|seigura}}。2人は恩人であり、慣れない少年役で悩んでいたとき、この仕事は一人でやっているわけではなくみんなで作っているんだと教えられ、学生時代に好きだったみんなで作る感覚を思い出させてくれた高山を父、林原を母であると公言している{{R|seigura}}<ref>声優になるには 15ページ</ref>。声優の[[川上とも子]]は桐朋学園短大時代の同期生であり、川上が2011年6月に亡くなった際には、自らのブログで彼女への思いを語り、また、通夜に駆け付けた<ref>[https://ameblo.jp/romi-nee/entry-10923261111.html ゴメンね] 朴{{JIS2004フォント|・}}美オフィシャルブログ 2011年6月14日付</ref>。 2010年から2012年までダイニングカフェ・シーラカンスを[[ゲッターズ飯田]]と共同経営していた<ref>[https://ameblo.jp/romi-nee/entry-11385852351.html ありがとうございました] 朴{{JIS2004フォント|璐}}美オフィシャルブログ 2012年10月22日付</ref>。 2013年からボイススクールstudio Cambria(スタジオ カンブリア)を開校<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.voice-romi.jp/ |title=・ 2013 studio Cambria (最下部に表記) |publisher=スタジオ カンブリア |accessdate=2017-05-05}}</ref>。 === 声優・女優になるまで === ==== 生い立ち ==== [[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]として生まれ、後に日本に[[帰化]]した韓国系日本人<ref name="名前なし-1"/><ref name="raichosya">{{Cite web|和書|url=http://www.raichosha.co.jp/mm/00495.html |title=声優になる!マガジン |work= |publisher=雷鳥社 |accessdate=2018-09-02}}</ref><!-- この部分の編集を行う方はノートページをご覧ください。 -->。姉と弟がいる{{R|raichosya}}。子供のころは体が弱く、[[肺炎]]で死にかけたり、食事もあまり摂らないにもかかわらず、活発に動いて突然倒れることもあった{{R|raichosya}}。小学生の頃はのあだ名は「半切りごぼう」{{refnest|group=注|「[[ゴボウ|ごぼう]]より細い」という意味であり、体重が常に20数Kgしかなかったという{{R|raichosya}}。}}。体を鍛えることと箱入り娘に育てるため、[[少林寺拳法]]、[[水泳]]、[[ピアノ]]、[[書道]]、[[公文]]、[[そろばん]]、[[油絵]]など習い事をいくつもした{{R|raichosya}}。[[儒教]]のしきたりで毎週日曜日に祖父母の家を訪ね、学校では[[日本語]]、家では日本語と韓国語、祖父母宅では韓国語で過ごす一日で世界が変わる生活は現実感がなく、特に祖父母の家に行くことは鬱陶しく感じていた{{R|raichosya}}。家ではだらしないとして流行の[[ファッション]]をしていると怒られ、父とは20歳になるまで[[敬語]]で会話していた{{R|raichosya}}。中学は地元の公立校では不良になるとの心配から、母の意向で私立校に通い{{R|raichosya}}、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学することを希望するも許されなかった<ref name="naruniwa">声優になるには 11ページ</ref>。また姉は、日本になじめずに、韓国に行っていた時期もあり<ref name="声優になるp81-82">{{Cite book|和書|author1=橋本崇宏|author2= 柳谷杞一郎|editor= 声優になる!マガジン編集部 |title=もっと 声優になる!夢を叶えるためのヒントが見付かる!! 人気声優たちのリアルインタビュー|chapter= interview_05 朴璐美さん|pages=81-82|publisher=[[雷鳥社]]|isbn=978-4-8441-3512-8|date= 2009-02-01}}</ref>、中学進学時にも「韓国に行きたい」と言っていた<ref name="声優になるp85-88">『もっと声優になる!夢を叶えるためのヒントが見付かる!!人気声優たちのリアルインタビュー』、85-88頁</ref>。 元々、演劇に興味を持っていたわけではなく、高校で演劇部に憧れの先輩がいたこと{{R|naruniwa}}、先輩に誘われたことがきっかけ{{R|声優になるp81-82|seigura}}。両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため、先輩の言葉に乗り、演劇部に入部{{R|声優になるp81-82}}。演劇部に入ると、みんなで作品を作り上げることが好きになり芝居にのめり込む{{R|seigura|声優になるp81-82}}。当時は学校の演劇部としての活動は、ほどほどだったが、地区大会のようなものには出場していた{{R|声優になるp81-82}}。顧問の教師からもあまり干渉はされず、自由奔放にしてもらえたという{{R|声優になるp81-82}}。演劇部の1年目は役をもらえるわけではないため、一番最初は照明を担当していた<ref name="声優になるp83-84">『もっと声優になる!夢を叶えるためのヒントが見付かる!!人気声優たちのリアルインタビュー』、85-88頁</ref>。当時は演出に興味があった{{R|seigura}}。部活動だったが、芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つかたちで運営していたらである{{R|声優になるp81-82}}。 脚本は色々で、当時は人気のあった[[野田秀樹]]の作品などを上演していた{{R|声優になるp81-82}}。野田作品の舞台は観たことは一度もなかったが、勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していた{{R|声優になるp81-82}}。短大生になり初めて[[夢の遊眠社]]で野田の演出の舞台を観て、「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していた{{R|声優になるp81-82}}。 高校3年の時に出場した[[全国高等学校演劇大会]]の地区大会で、[[ミヒャエル・エンデ]]の『[[モモ (児童文学)|モモ]]』の登場人物を全員女性に改稿して演じていたが、本番で演じている最中に停電になってしまい、上演は中止になった{{R|seigura}}。当時は灰色の女役でちょうど舞台に立っていた時に真っ暗になったため、「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けてしまったという{{R|seigura}}。朴以外の部員も皆、号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていた{{R|seigura}}。 電源が復旧しもう一度最初から演じられることになった時には、冷静になってしまい、灰色の女にしか見えなくなっていた{{R|seigura}}。今まで感じたことのないすごく変な感覚だったが、それを味わってしまったところ演劇のとりこになっていたという{{R|seigura}}。このことを、「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っている{{R|声優になるp81-82}}。 日常を生きていく上で、現実感がなく、日本の社会に入り、溶け込もうとしても中々そうもいかず、何かしらで必ず自分の中に違和感を感じてしまった{{R|声優になるp81-82}}。それが演劇の中でやっと一つになれる実感があったんだという{{R|声優になるp81-82}}。その頃、「自分はもしかしたら精神を病んでしまっているのではないか」と思い、母に病院に連れていってもらったこともあった{{R|声優になるp81-82}}。その病院の医師が、重度の患者に会わせてくれて、「君は病気じゃないよ」と言ってくれたという{{R|声優になるp81-82}}。 今まで何に対しても興味が持てなかったが、初めて集中して興味を持てたのが演劇だった{{R|声優になるp83-84}}。他の表現方法で興味が持てなかったのは、絵は面倒くさく、気にし出すと凝り性な部分があるため、絵の具も全種欲しくなり、全部が手に入らないと悲しかったという{{R|声優になるp83-84}}。 舞台など、ほとんど観ておらず、基本的には不器用なため、一転集中型だった{{R|声優になるp81-82}}。2009年時点でもそうだが、一つ集中することがると他のことを一切しなくなってしまう傾向があるという{{R|声優になるp81-82}}。 大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも、当時の韓国は学生運動が盛んで危険だったこともあり、母から日本での受験を勧められる<ref name="naruniwa12">声優になるには 12ページ</ref>。その時は進路を決める時期で、中学高校と女子校だったため、「もう女子だけの環境はイヤ!」と思い、エスカレーター式の女子大に進学したくなかったが、両親は大学進学希望だった{{R|seigura}}。母は朴がそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようだったという{{R|声優になるp83-84}}。朴は、芝居の他にも、ビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っていることが好きだったため、「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い、専門学校の資料を取り寄せたりしていた{{R|声優になるp83-84}}。しかし両親が「大学進学以外は絶対に認めない、大学に進学しないなんて朴家の恥だ」と言われた{{R|声優になるp85-88}}。何が何でも大学への進学は嫌で、他の選択肢を考えていなかったため、困っていたという{{R|声優になるp85-88}}。「何とかしよう」と思い、両親に「姉のように韓国へ行かせてくれないか」と頼んでいた{{R|声優になるp85-88}}。その時、「頼むから日本の大学に行ってくれ、今いる上の大学が嫌ならどこでもいいから受験してくれ」と懇願されたという{{R|声優になるp85-88}}。演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかったことから、友人から聞いた試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験する{{R|声優になるp85-88|naruniwa12}}。最終的には偶々演劇の大学に行ったが、もしアクセサリー関係の大学を知っており、両親が許してくれていたら、「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語る{{R|声優になるp85-88}}。大学入学後にできた当時の彼氏{{R|seigura}}が立ち上げた劇団に参加{{R|声優になるp85-88}}。彼の演出は演者を扱うことが上手く、朴は演出家希望だったが、彼の演出家としての才能に圧倒されたことから演出することを断念したという{{R|声優になるp85-88}}。2年の後期になった時に先生から呼び出され、「このままでは卒業できない」と伝えられていた{{R|声優になるp85-88}}。それを知った母は「卒業できないなんて朴家の恥!」と大学の先生に直訴しに行き、なんとか卒業できるように手立てを考えようということになった{{R|声優になるp85-88}}。朴自身は、もうどうでもよくはなっていたが、後期になりある授業に出席した時、前期に全く出席していなかったこともあり、その教授に「何で君がここにいるんだ。帰りなさい!」と言われた{{R|声優になるp85-88}}。その言葉にカッチーンときて、「この授業に出なくたって絶対卒業してやるよ!!」と強く思い、また逆ギレして、それでなんとか卒業しようと一念発起して、2年の後期だけは、無茶苦茶頑張っていた{{R|声優になるp85-88}}。出ていなかったのは、一般教養、演劇論のような座学で何言ってるのかさっぱり理解できなかったという{{R|声優になるp85-88}}。大学入学後も役者になろうとは思わず、卒業後に日本で付いてまわった違和感を「はっきりさせたい」と思い、遂に韓国留学をするが、落ち着ける場所と考えていた「母国」の地は「祖国」であり、いくつかの発見もあったが、日本で得た内なるものと韓国での擦れ違いから失意のうちに帰国、大学時代の劇団仲間から勧められて円演劇研究所に入った{{R|声優になるp85-88|naruniwa12}}<ref name="naruniwa13">声優になるには 13ページ</ref><ref name="声優になるp89-91">『もっと声優になる!夢を叶えるためのヒントが見付かる!!人気声優たちのリアルインタビュー』、89-91頁</ref>。その時に演出家の福沢富夫に出会い、「この人にならすべてを見せられる」と思ったことが同演劇研究所に入ったきっかけである{{R|seigura}}。当時は半年で内緒で帰国してしまったため、実家に帰ることもできず、短期大学の先生のところに泣きながら駆け込んでしまった{{R|声優になるp89-91}}。3日後には実家にタクシーで連れていかれ、その時が人生の中で自分が抱えてきたものを吐き出さなければならない重要な通過点だったのだと語る{{R|声優になるp89-91}}。また彼氏が友人とデキちゃっており、ショックのあまり引きこもりのような状態でもあったという{{R|seigura}}。 ==== デビュー後 ==== [[演劇集団 円]]に入団後、初めてアルバイトをしており、携帯電話を売るのが天才的に上手く、あらゆる大手電気量販店で携帯電話を売りまくっていた{{R|声優になるp89-91}}。あとはスーパーの冷凍商品販売で品切れにしたこともあった{{R|声優になるp89-91}}。それまであれほど反対していた」両親も、認めてくれたという{{R|声優になるp89-91}}。演劇集団 円に入ってから2年後、役者を辞めようとしていたところに『[[ブレンパワード]]』のオーディションの話が来て、マネージャーから「受かるわけないから最後だと思って行って来たら」と言われ、軽い気持ちで参加したが監督の[[富野由悠季]]の目に止まって合格した{{R|naruniwa13|seigura|真剣121}}。当時は年に1回、演劇集団 円の先輩だった[[橋爪功]]の別荘で、行っている[[菜の花舞台]]に富野がみえていた{{R|声優になるp89-91}}。 == エピソード == === ∀ガンダム === オーディションの時、自身はヒロイン役を受けに行ったが、主人公である[[ロラン・セアック]]の台詞も読まされた。少年役を演じたのはこのオーディションが初めての経験だったが、収録が始まる1週間前に「ロラン役に決まった」という連絡が来たという<ref>[[主婦の友社]]『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』朴璐美「体と心と魂が一つになる瞬間」P241-242。</ref>。 『ブレンパワード』の時は毎週現場に行くのが楽しかったのに対して、『∀ガンダム』の現場では初めての少年役ということが大きく、戸惑いのようなものがあったという。芝居は真実を映し出すもののはずなのに、自身とは性別が違う「少年」というフィルターをかけて演じなければならないという状況で、自身は本当に嘘をつくことなく演じられているのだろうかと怖くて辛かったといい、他に普段出さないような、叫び声を上げなければいけないシーンも多く、声帯が疲労して、台詞の途中で声が裏返ってしまったこともあり、自身の不甲斐無さに落ち込む毎日だったと語っている。そんな辛さと不甲斐無さで落ち込んでいた時、監督・[[富野由悠季]]の「朴璐美が喋ればそれがどんな声であろうと、ロランなんだ」という一言で救われたという。監督は人の心を見透かす方なので、自身の葛藤を見抜いたかもしれない。こんな素晴らしい作品にデビューし、少年役を演じられたことを本当に貴重な経験だったと語っている<ref>主婦の友社『声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント』朴璐美「体と心と魂が一つになる瞬間」P242。</ref>。 == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === {{定義リスト2 | 1998年 | * [[ブレンパワード]]('''カナン・ギモス'''{{R|ブレンパワード}}) * [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](1998年 - 2002年、宮崎千夏、海原さおり) | 1999年 | * [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]](二ノ宮朋子) * [[∀ガンダム]](1999年 - 2000年、'''[[ロラン・セアック]]'''{{R|∀ガンダム}}) | 2000年 | * [[おジャ魔女どれみ|おジャ魔女どれみ シリーズ]](2000年 - 2002年、マジョラン、劉向明、若き日の劉浩栄、ババ、魔女) - 3シリーズ{{Ras|第2期『おジャ魔女どれみ♯』(2000年)、第3期『も〜っと!おジャ魔女どれみ』(2001年)、第4期『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』(2002年)}} * [[デジモンアドベンチャー02]](2000年 - 2001年、[[デジモンアドベンチャー02の登場キャラクター#選ばれし子供たち|'''一乗寺賢''' / '''デジモンカイザー''']]、一乗寺治、ローラ、賢と京の息子) | 2001年 | * [[学園戦記ムリョウ]]('''守山那由多''') * [[シャーマンキング]]('''道蓮'''<ref>{{Cite web|和書| url = http://king-cr.jp/special/sharman/staff.html| title = スタッフ&キャスト| publisher = シャーマンキング| accessdate = 2016-06-27}}</ref>) * [[パチスロ貴族 銀]](音無英子〈叔母〉) * [[ポケットモンスター (1997-2002年のアニメ)|ポケットモンスター]](2001年 - 2011年、ツリオ、[[アニメ版ポケットモンスターの登場人物#ジロウ|ジロウ]]) - 4シリーズ{{Ras|『ポケットモンスター』(2001年)、『[[ポケットモンスター サイドストーリー]]』(2002年)、『[[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]]』(2006年)、『[[ポケットモンスター ダイヤモンド&パール]]』(2011年)}} | 2002年 | * [[アソボット戦記五九]](ラリートム) * [[OVERMANキングゲイナー]] * [[GetBackers-奪還屋-]](筧十兵衛〈子供時代〉) * [[サイボーグ009 THE CYBORG SOLDIER]](ミー) * [[デジモンフロンティア]](トレイルモン) * [[天地無用! GXP]](コマチ) * [[ドラゴンドライブ]](2002年 - 2003年、'''大空レイジ''') * [[プリンセスチュチュ]](ウィリの乙女) * [[ペコラ]](ラビさん) * [[ラーゼフォン]](一色真〈子供時代〉) * [[ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト]](エリナ<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20140826232406/http://www.tms-e.co.jp/search/introduction.php?pdt_no=468| title = ルパン三世 EPISODE:0 ファーストコンタクト| newspaper = | publisher = トムス・エンタテインメント| date = | accessdate = 2016-05-02}}</ref>) * [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]](2002年 - 2021年、ハリー、マダムシャーリー) | 2003年 | * [[明日のナージャ]](アラン) * [[宇宙のステルヴィア]](ナジマ・ゲブール、片瀬真人) * [[エアマスター]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/100231/|title=エアマスター : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-01}}</ref>('''相川摩季''') * [[ギャラクシーエンジェル (アニメ)|ギャラクシーエンジェル(第3期)]](ツル) * [[ギルガメッシュ (漫画)|ギルガメッシュ]](姫宮梓〈円梓〉) * [[獣兵衛忍風帖 龍宝玉篇]]('''つぶて''') * [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]](2003年 - 2017年、'''[[テマリ]]''') - 2シリーズ{{Ras|第1期(2003年 - 2007年)、第2期『疾風伝』(2007年 - 2017年)}} * [[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]](2003年 - 2004年、'''[[エドワード・エルリック]]'''<ref>{{Cite web | url = http://www.hagaren.jp/staffcast/| title = STAFF CAST| publisher = TVアニメ「鋼の錬金術師」公式サイト| accessdate = 2016-06-04}}</ref>、アームストロングの母) * [[人間交差点]](中田玲子) * [[魔探偵ロキRAGNAROK]](ヘイムダル、東山和実) * [[無限戦記ポトリス]](看護ポトリス) * [[ヤミと帽子と本の旅人]](ガルガンチュア〈少年〉) | 2004年 | * [[SDガンダムフォース]]('''シュウト''') * [[学園アリス]]('''日向棗'''、蛍の母) * [[機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディション]]([[ニコル・アマルフィ]]) * [[KURAU Phantom Memory]](事務官) * [[SAMURAI 7]]('''岡本カツシロウ'''<ref>{{Cite web | url = http://www.gonzo.co.jp/works/samurai7/| title = SAMURAI 7| publisher = GONZO公式サイト| accessdate = 2016-05-15}}</ref>) * [[とっとこハム太郎 はむはむぱらだいちゅ!]](みみよりくん) * [[遙かなる時空の中で-八葉抄-]](幼少の頼久) * [[ブラック・ジャック (テレビアニメ)|ブラック・ジャック]](幸男) * [[BLEACH (アニメ)|BLEACH]](2004年 - 2012年、'''[[日番谷冬獅郎]]'''<ref>{{Cite web|和書|url= https://pierrot.jp/title/bleach/chara_02.html |title=Character 護廷十三隊 日番谷冬獅郎|publisher=株式会社ぴえろ |work=BLEACH公式サイト |accessdate=2022-12-15}}</ref>) | 2005年 | * [[うえきの法則]]('''[[植木耕助]]'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=うえきの法則|url=https://mv.avex.jp/ueki/cyara.html|title=キャラクター紹介|accessdate=2023-03-16}}</ref>) * [[これが私の御主人様]](中林誠一郎) * [[創聖のアクエリオン]](クルト・クーリック、クロエ・クーリック) * [[BLOOD+]](クララ) * [[舞-乙HiME]](アスワドのおばあさん、男の子) * [[魔豆奇伝パンダリアン]]('''クール''') * [[MONSTER (漫画)|MONSTER]](ヘレーネ) | 2006年 | * [[ああっ女神さまっ それぞれの翼]](川西仙太郎) * [[イノセント・ヴィーナス]](ヒジン) * [[ガラスの艦隊]]('''クレオ'''〈10歳〉) * [[獣王星]](カリム) * [[ゼーガペイン]]('''マオ・ルーシェン''') * [[NANA]]('''大崎ナナ''') * [[プリンセス・プリンセス (漫画)|プリンセス・プリンセス]]('''四方谷裕史郎''') | 2007年 | * [[大江戸ロケット]](お伊勢<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/2007-2006/works_tv_ooedorocket.html| title = 大江戸ロケット| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-05-22}}</ref>) * [[CLAYMORE]]('''テレサ''') * [[GR-GIANT ROBO-]]('''アレックス・マッケンジー''') * [[しおんの王]]('''斉藤歩''') * [[素敵探偵ラビリンス]](古賀幸太) * [[それいけ!アンパンマン]](クロワッサン王子〈初代〉) * [[デビルメイクライ (アニメ)|Devil May Cry]](エレナ) * [[電脳コイル]]('''ハラケン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.madhouse.co.jp/works/2007-2006/works_tv_dennoucoil.html| title = 電脳コイル| publisher = マッドハウス| accessdate = 2016-06-25}}</ref>) * [[BLUE DRAGON (アニメ)|BLUE DRAGON]](2007年 - 2009年、'''ゾラ''') - 2シリーズ{{Ras|第1期(2007年 - 2008年)、第2期『天界の七竜』(2008年 - 2009年)}} * [[魔人探偵脳噛ネウロ]]([[魔人探偵脳噛ネウロ#登場人物|'''怪盗X''' / '''サイ''']]) * [[メイプルストーリー]](ギル) * [[メジャー (アニメ)|メジャー]](2007年 - 2010年、'''清水大河''') - 4シリーズ{{Ras|第3シリーズ(2007年)、第4シリーズ(2008年)、第5シリーズ(2009年)、第6シリーズ(2010年)}} | 2008年 | * [[あまつき]]('''朽葉''') * [[Yes!プリキュア5GoGo!]]('''シロップ''' / '''甘井シロー''') * [[イタズラなKiss]](入江裕樹) * [[ウルトラヴァイオレット コード044]]('''044''') * [[カイバ]]('''ポポ''') * [[機動戦士ガンダム00]](リジェネ・レジェッタ) * [[CLANNAD 〜AFTER STORY〜]](志麻賀津紀) * [[黒執事 (アニメ)|黒執事]](マダムレッド〈アンジェリーナ・ダレス〉) * [[黒塚 KUROZUKA]]('''黒蜜'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20171201030818/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/10650 |title=黒塚 KUROZUKA |publisher=メディア芸術データベース |accessdate=2017-05-05}}</ref>) * [[セキレイ (漫画)|セキレイ]](鴉羽) | 2009年 | * [[青い文学シリーズ]]「[[人間失格]]」(恒子) * [[狼と香辛料II]](エーブ・ボラン) * [[空中ブランコ (小説)#テレビアニメ|空中ブランコ]]('''伊良部一郎〈小〉''') * [[07-GHOST]](ウィーダ) * [[戦国BASARA]](2009年 - 2014年、[[戦国BASARAの登場人物#上杉軍|上杉謙信]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20171201041515/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/11099 |title=戦国BASARA |publisher=メディア芸術データベース |accessdate=2017-05-05}}</ref>) - 3シリーズ{{Ras|第1期(2009年)、第2期『弐』<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20171201033841/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/11760 |title=戦国BASARA弐 |publisher=メディア芸術データベース |accessdate=2017-05-05}}</ref>(2010年)、第3期『Judge End』<ref>{{Cite web|和書|publisher=戦国BASARA Judge End|title=キャスト・スタッフ|url=http://www.ntv.co.jp/basara_je/cast/index.html|accessdate=2014-06-24}}</ref>(2014年)}} * [[蒼天航路]](貂蝉) * [[戦う司書 The Book of Bantorra]]('''ハミュッツ=メセタ''') * [[NEEDLESS]](アダム・ブレイド〈過去〉) * [[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST]](2009年 - 2010年、'''エドワード・エルリック'''<ref>{{Cite web | url = http://www.hagaren.jp/fa/about/staffcast.html| title = STAFF&CAST| publisher = 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST 公式ホームページ| accessdate = 2016-06-04}}</ref>) * [[ヒゲぴよ]]('''ヒゲぴよ''') * [[WHITE ALBUM]](篠塚弥生) * [[RIDEBACK -ライドバック-]]('''片岡珠代''') | 2010年 | * [[スティッチ! 〜ずっと最高のトモダチ〜]]('''デリア''') * [[セキレイ〜Pure Engagement〜]](鴉羽) * [[メタルファイト ベイブレード 爆]](ダミアン) * [[ルパン三世 the Last Job]](摩耶<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20100102071114/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20100212/index.html| title = ルパン三世 the Last Job| newspaper = | publisher = 金曜ロードショー| date = | accessdate = 2016-05-02}}</ref>) * [[RAINBOW-二舎六房の七人-]]('''前田昇''' / '''スッポン''') | 2011年 | * [[ウルヴァリン (アニメ)|ウルヴァリン]]('''雪緒''') * [[ジュエルペット サンシャイン]](ニャンジェリーナ) * [[デッドマン・ワンダーランド]]('''五十嵐丸太''') * [[殿といっしょ|殿といっしょ 〜眼帯の野望〜]](仙桃院) * [[トリコ]]('''小松''') * [[べるぜバブ]](ファバス) * [[Persona4 the ANIMATION]](2011年 - 2014年、'''白鐘直斗'''<ref>{{Cite web|publisher=TVアニメーション「ペルソナ4 ザ・ゴールデン」公式サイト|url=http://www.p4ga.jp/|title=STAFF & CAST|accessdate=2014-05-02}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2011年 - 2012年)、第2期『Persona4 the Golden ANIMATION』(2014年)}} * [[輪るピングドラム]](結城翼) | 2012年 | * [[あらしのよるに 〜ひみつのともだち〜]](幼いガブ) * [[機動戦士ガンダムAGE]](シャナルア・マレン) * [[黒魔女さんが通る!!]](2012年 - 2013年、'''ギュービッド'''、ギューバッド〈過去〉) * [[ZETMAN]](神崎人〈子供時代〉) * [[男子高校生の日常]](ラバーシューター、修一) * [[デジモンクロスウォーズ 〜時を駆ける少年ハンター達〜]](一乗寺賢) * [[NARUTO -ナルト- SD ロック・リーの青春フルパワー忍伝]](テマリ) * [[HUNTER×HUNTER (2011年のアニメ)|HUNTER×HUNTER(第2作)]](パクノダ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ntv.co.jp/hunterhunter/news/index_6.html |title=幻影旅団・声優を発表! |work=HUNTER×HUNTER |accessdate=2017-05-05}}</ref>) * [[めだかボックス]]('''雲仙冥利'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.koepota.jp/news/2012/10/03/0702.html |title=10月10日から放送開始のTVアニメ「めだかボックス アブノーマル」のBD&DVD第1巻が2013年1月30日に発売決定! |work=こえぽた |publisher=MFS |accessdate=2017-05-05}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2012年)、第2期『アブノーマル』(2012年)}} * [[リトル・チャロ〜東北編〜]](ブドリ) * [[ルパン三世 東方見聞録 〜アナザーページ〜]]('''博美'''<ref>{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20121018002408/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20121102/index.html| title = ルパン三世 東方見聞録〜アナザーページ〜| newspaper = | publisher = 金曜ロードSHOW!| date = | accessdate = 2016-05-02}}</ref>) | 2013年 | * [[RDG レッドデータガール]](鈴原紫子<ref>{{Cite web|和書|publisher=角川映画|title=RDG レッドデータガール -キャスト-|url=http://www.kadokawa-pictures.jp/official/rdg/cast.shtml|accessdate=2013-02-21}}</ref>) * [[キルラキル]](鬼龍院羅暁) * [[進撃の巨人 (アニメ)|進撃の巨人]](2013年 - 2023年、'''ハンジ・ゾエ'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=TVアニメ「進撃の巨人」公式サイト|url=https://shingeki.tv/season2/staff/|title=スタッフ・キャスト|accessdate=2017-09-28}}</ref>) - 7シリーズ{{Ras|第1期(2013年)、Season 2(2017年)、Season 3 Part 1<ref>{{Cite web|和書|url=https://shingeki.tv/season3/|title=TVアニメ「進撃の巨人」Season 3|accessdate=2017-11-12}}</ref>(2018年)、Season 3 Part 2(2019年)、The Final Season Part 1<ref>{{Cite web|和書|url=https://shingeki.tv/final/staff/|title=スタッフ・キャスト|work=TVアニメ「進撃の巨人」The Final Season|accessdate=2020-09-24}}</ref>(2021年)、The Final Season Part 2(2022年)、The Final Season 完結編(前編)(2023年)}} | 2014年 | * [[牙狼〈GARO〉-炎の刻印-]]('''エマ・グスマン'''<ref>{{Cite web|publisher=TVアニメ「牙狼〈GARO〉-炎の刻印-」公式サイト|title=STAFF&CAST|url=http://garo-project.jp/ANIME/staff/|accessdate=2014-08-08}}</ref>) * [[テラフォーマーズ]](エレナ・ペレペルキナ<ref>{{Cite web|和書|url=http://terraformars.tv/chara/elena.html |title=CHARACTER エレナ・ペレペルキナ |work=膝丸燈 -アニメ『TERRAFORMARS(テラフォーマーズ)』公式サイト- |accessdate=2014-09-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140904173414/http://terraformars.tv/chara/elena.html |archivedate=2014-09-04}}</ref>) | 2015年 | * [[赤髪の白雪姫]](アトリ) * [[牙狼 -紅蓮ノ月-]](2015年 - 2016年、'''星明'''<ref>{{Cite web|work=「牙狼 -紅蓮ノ月-」GAROアニメシリーズ第2弾!|url=http://garo-project.jp/ANIME2/about/staff.php|title=STAFF & CAST|accessdate=2015-09-01}}</ref>、偽星明、ルドラ) * [[ガンダムビルドファイターズトライ]](ルーカス・ネメシス) * [[進撃!巨人中学校]]('''ハンジ・ゾエ'''<ref>{{Cite web|和書|work=TVアニメ「進撃!巨人中学校」公式サイト|url=https://kyojinchu.tv/staff/|title=スタッフ&キャスト|accessdate=2015-07-31}}</ref>) * [[VENUS PROJECT -CLIMAX-]](紅神明日花<ref>{{Cite web|和書|work=TVアニメ『VENUS PROJECT VENUS PROJECT -CLIMAX-』公式サイト|url=http://vproject.jp/anime/character/|title=キャラクター|accessdate=2015-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150616185748/http://vproject.jp/anime/character/|archivedate=2015年6月16日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>) | 2016年 | * [[うしおととら]](カオリの母) * [[ダンガンロンパ3 -The End of 希望ヶ峰学園-]](終里赤音<ref>{{Cite web|和書|work=ダンガンロンパ3 The End of 希望ヶ峰学園 公式サイト|url=http://www.nbcuni.co.jp/anime/danganronpa3/news/index00110000.html|title=キャスト発表第3弾|date=2016-04-21|accessdate=2016-04-21}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|絶望編(2016年)、希望編(2016年)}} * [[にゃんぼー!]]('''トラ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=4210|title=「にゃんぼー!」9月27日(火)放送開始!メインキャストも決定!|accessdate=2016-08-31|date=2016-08-22|work=NHKアニメワールド|publisher=[[日本放送協会|NHK]]}}</ref>) * [[ハンドレッド (小説)|ハンドレッド]](ヴィタリー・トゥイニャーノフ) * [[ベイブレードバースト]](2016年 - 2018年、'''白鷺城ルイ''') - 3シリーズ{{Ras|第1期(2016年 - 2017年)、第2期『神(ゴッド)』(2017年 - 2018年)、第3期『超ゼツ』(2018年)}} | 2017年 | * [[鬼平 (アニメ)|鬼平]]('''おまさ'''<ref>{{Cite web|和書|work=アニメ「鬼平」公式サイト|url=http://onihei-anime.com/about/character.html|title=キャラクター|accessdate=2017-01-05}}</ref>)<!-- 2017-01-31 --> * [[BORUTO-ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS]](2017年 - 2020年、奈良テマリ)<!-- 2017-04-19 --> * [[GRANBLUE FANTASY The Animation]](2017年 - 2019年、黒騎士) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2017年)<!-- 2017-04-30 -->、第2期『Season 2』(2019年)}} * [[牙狼〈GARO〉-VANISHING LINE-]](2017年 - 2018年、クイーン、マーティン・ヘネス)<!-- 2017-12-02 --> * [[宝石の国]](パパラチア<ref>{{Cite news|publisher=株式会社ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/261327|title=アニメ「宝石の国」11話から登場のパパラチア役は朴ろ美|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-23}}</ref>)<!-- 2017-12-23 --> | 2018年 | * [[伊藤潤二『コレクション』]](女、節子、リルコ)<ref>{{Cite news|publisher=株式会社ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/259464|title=「伊藤潤二『コレクション』」追加キャストに梶裕貴、島崎信長、浪川大輔、朴ろ美ら|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-04}}</ref><!-- 2018-01-19 --> * [[刀使ノ巫女]](真庭紗南 / 新見紗南)<!-- 2018-01-26 --> * [[Fate/EXTRA Last Encore]](レオナルド・ビスタリオ・ハーウェイ)<!-- 2018-01-28 --> * [[Cutie Honey Universe]](直子<ref>{{Cite web|url=http://cutiehoney-u.com/#content_character|title=CHARACTER|work=TVアニメ「Cutie Honey Universe」公式サイト|accessdate=2018-03-24}}</ref>)<!-- 2018-04-08 --> * [[ひそねとまそたん]](樋本貞<ref>{{Cite web|work=TVアニメ『ひそねとまそたん』|url=http://hisomaso.com/contents/hp0002/index00080000.html|title=登場人物|accessdate=2018-02-10}}</ref>)<!-- 2018-04-13 --> * [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第2期)]](ピト<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20180906dog00m200010000c.html|title=ドラえもん:誕生日SPで朴ロ美、茅野愛衣が初出演|newspaper=[[まんたんウェブ]]|date=2018-09-06|accessdate=2018-09-06}}</ref>)<!-- 2018-09-07 --> * [[ラディアン]](2018年 - 2019年、'''アルマ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/anime/radiant/|title=NHK アニメワールド|ラディアン|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2018-03-22}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1シリーズ(2018年 - 2019年)<!-- 2018-10-06 -->、第2シリーズ(2019年)}} * [[学園BASARA]](上杉謙信<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/gakuen_basara/staffcast/|title=スタッフ&キャスト|work=TVアニメ「学園BASARA」公式ホームページ|publisher=TBSテレビ|accessdate=2018-07-09}}</ref>)<!-- 2018-10-12 --> * [[からくりサーカス]](2018年 - 2019年、'''ルシール・ベルヌイユ'''<ref>{{Cite web|url=https://karakuri-anime.com/cast/|title=STAFF/CAST|work=TVアニメ「からくりサーカス」公式サイト|accessdate=2018-09-30}}</ref>)<!-- 2018-10-25 --> | 2019年 | * [[賭ケグルイ××]](×喰零<ref>{{Cite web|和書|work=TVアニメ「賭ケグルイ××」公式サイト|url=https://kakegurui-anime.com/caststaff/|title=キャスト&スタッフ|accessdate=2018-12-06}}</ref>)<!-- 2019-01-09 --> * [[みにとじ]](真庭紗南)<!-- 2019-01-13 --> * [[臨死!!江古田ちゃん]]('''江古田ちゃん'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://ekodachan.com/|title=TVアニメ「臨死‼ 江古田ちゃん」|accessdate=2018-12-14}}</ref>〈第2話〉)<!-- 2019-01-16 --> * [[GO!GO!アトム]](2019年 - 2020年、'''アトム'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/information/smp/2019/09/03/216953.html|title=テレ東木曜夕方枠に、子どもに見せたい良質なアニメをお届けする「プリスクタイム」がスタートします! | テレ東からのお知らせ|publisher=テレビ東京|date=2019-09-03|accessdate=2019-09-04}}</ref>)<!-- 2019-10-03 --> | 2020年 | * [[メジャーセカンド]](清水大河)<!-- 2020-04-25 --> * [[おしりたんてい]](うさゆり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oshiri-tantei.com/character/other.html?char=char-other06|title=キャラクター|work=おしりたんてい アニメ公式ホームページ|accessdate=2022-06-04}}</ref>)<!-- 2020-06-27 --> * [[ゾイドワイルド ZERO]](イレクトラ・ゲイト)<!-- 2020-07-17 --> * [[THE GOD OF HIGH SCHOOL ゴッド・オブ・ハイスクール]]<ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1593762395|title=アニメ『ゴッド・オブ・ハイスクール』配信情報&出演声優陣が解禁! さらに第1話あらすじや放送カウントダウン動画も公開|work=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-03}}</ref>(キム・ウンニョ)<!-- 2020-09-28 --> * [[巨神と氷華の城]]('''天草四郎'''<ref>{{Cite web|url=https://www.ncctv.co.jp/minamishimabara/anime.html|title=CHARACTER |work=巨神と氷華の城│南島原市シティプロモーション|publisher=NCC長崎文化放送|accessdate=2020-08-08}}</ref>)<!-- 2020-12-19 --> | 2021年 | * [[SHAMAN KING]](2021年 - 2022年、'''道蓮'''<ref>{{Cite web|url=https://shamanking-project.com/shamanking/cast|title=CAST|website=TVアニメ『SHAMAN KING』公式サイト|accessdate=2023-03-15}}</ref>)<!-- 2021-04-01 --> * [[ラブライブ!スーパースター!!]](2021年 - 2022年、理事長) - 2シリーズ{{Ras|第1期(2021年)<!-- 2021-07-11 -->、第2期(2022年)<!-- 2022-08-28 -->}} * [[ゲッターロボ アーク]](大女王メルドウサ<ref>{{Cite web|和書|url=https://getterrobot-arc.com/#character|title=キャラ キャスト|work=【公式】アニメ『ゲッターロボ アーク』|accessdate=2021-06-25}}</ref>)<!-- 2021-07-11 --> * [[平穏世代の韋駄天達]]('''ハヤト'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://idaten-anime.com/caststaff/|title=キャスト・スタッフ|work=TVアニメ「平穏世代の韋駄天達」公式サイト|accessdate=2021-05-28}}</ref>)<!-- 2021-07-23 --> * [[ヴァニタスの手記]](2021年 - 2022年、蒼月の吸血鬼) - 2シリーズ{{Ras|第1クール(2021年)<!-- 2021-09-04 -->、第2クール(2022年)<!-- 2022-02-19 -->}} | 2022年 | * [[プラチナエンド]](オガロ<ref>{{Cite web|url=https://anime-platinumend.com/cast_staff/|title=CAST/STAFF|website=TVアニメ「プラチナエンド」公式サイト|accessdate=2022-01-19}}</ref>)<!-- 2022-01-21 --> * [[可愛いだけじゃない式守さん]](式守の母<ref>{{Cite web|和書|url=https://shikimori-anime.com/news/index01000000.html|title=追加キャスト発表!|website=TVアニメ『可愛いだけじゃない式守さん』公式サイト|date=2022-07-03|accessdate=2022-07-03}}</ref>)<!-- 2022-07-03 --> * [[妖怪ウォッチ♪]](ケイゾウ)<!-- 2022-09-23 --> * [[ポプテピピック TVアニメーション作品第二シリーズ]]('''ポプ子'''〈第2話Aパート〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2252401/full/|archive-url=https://web.archive.org/web/20221008185935/https://www.oricon.co.jp/news/2252401/full/|title=『ポプテピピック』ロボットアニメ放送で制作はサンライズ 第2話は朴ロ美&釘宮理恵、檜山修之&森川智之が参加|website=ORICON NEWS|date=2022-10-09|archive-date=2022-10-08|url-status=live|accessdate=2022-10-09}}</ref>)<!-- 2022-10-09 --> * [[BLEACH 千年血戦篇]](2022年 - 2023年、'''日番谷冬獅郎'''<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20211218dog00m200027000c.html|title=BLEACH:10年ぶりテレビアニメ「千年血戦篇」2022年10月スタート 監督に田口智久 菅生隆之がユーハバッハに|newspaper=まんたんウェブ|date=2021-12-18|accessdate=2021-12-18}} {{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/526347|title=「BLEACH 千年血戦篇」第2クールは7月8日開幕、追加キャストに悠木碧や小山剛志|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-28|accessdate=2023-05-28}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第1クール(2022年)<!-- 2022-11-01 -->、第2クール『-訣別譚-』(2023年)<!-- 2023-07-15 -->}} | 2023年 | * [[僕のヒーローアカデミア (アニメ)|僕のヒーローアカデミア]](スターアンドストライプ<ref>{{Cite web|和書|url=https://heroaca.com/news/18746/|title=7期に向けて新キャラ&キャスト解禁!|website=TVアニメ『僕のヒーローアカデミア』|accessdate=2023-05-14}}</ref>)<!-- 2023-03-25 --> * [[ワールドダイスター]](山吹シャモ<ref>{{Cite web|和書|url=https://world-dai-star.com/character/shamo|title=山吹シャモ|website=ワールドダイスター公式サイト|accessdate=2023-05-28}}</ref>)<!-- 2023-04-09 --> * [[青のオーケストラ]](佐伯の祖母)<!-- 2023-06-18 --> * [[でこぼこ魔女の親子事情]]('''リラ'''<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20230513dog00m200033000c.html|title=でこぼこ魔女の親子事情:テレビアニメが10月スタート 追加キャストに土師孝也、朴ロ美 花澤香菜がナレーション|newspaper=まんたんウェブ|publisher=MANTAN|date=2023-05-14|accessdate=2023-05-14}}</ref>)<!-- 2023-10-01 --> * [[ミギとダリ]](一条怜子<ref>{{Cite news2|url=https://natalie.mu/comic/news/538540|title=「ミギとダリ」園山夫妻役に三石琴乃と松山鷹志、追加キャスト7人が一挙明らかに|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date-2023-08-27|accessdate=2023-08-27}}</ref>)<!-- 2023-10-09 --> * [[キボウノチカラ〜オトナプリキュア'23〜]](シロップ<ref>{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20231013dog00m200025000c.html|title=オトナプリキュア:ナッツ、シロップ登場 草尾毅、入野自由、朴ロ美出演|newspaper=MANTANWEB|publisher=MANTAN|date=2023-10-13|accessdate=2023-10-13}}</ref>)<!-- 2023-10-14 --> | 2024年 | * [[SHAMAN KING FLOWERS]]('''道黽'''<ref>{{Cite web|url=https://shamanking-project.com/#StaffCast|title=STAFF&CAST|website=TVアニメ『SHAMAN KING FLOWERS』公式サイト|accessdate=2023-03-15}}</ref>)<!-- 2024-01- --> * [[異修羅]]('''警めのタレン'''<ref>{{Cite web|url=https://ishura-anime.com/staffcast.html|title=STAFF&CAST|website=TVアニメ『異修羅』公式サイト|accessdate=2023-07-16}}</ref>)<!-- 2024-01 --> * [[メカウデ]]('''カガミ'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/532945|title=アニメ「メカウデ」2024年公開 豊永利行、杉田智和、嶋村侑、朴ろ美、中村悠一が出演|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-14|accessdate=2023-07-14}}</ref>)<!-- 2024 --> }} === 劇場アニメ === {{定義リスト2 | 2001年 | * [[デジモンアドベンチャー02|デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲]]('''一乗寺賢''') | 2002年 | * [[∀ガンダム|劇場版∀ガンダムI 地球光]]('''[[ロラン・セアック]]''') * [[∀ガンダム|劇場版∀ガンダムII 月光蝶]]('''ロラン・セアック''') | 2004年 | * [[新暗行御史]](摩利〈マーリ〉) * [[スチームボーイ]] | 2005年 | * [[劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者]]('''[[エドワード・エルリック]]''') | 2006年 | * [[劇場版BLEACH MEMORIES OF NOBODY]]('''[[日番谷冬獅郎]]''') | 2007年 | * [[映画 Yes!プリキュア5 鏡の国のミラクル大冒険!]](シャドウ) * [[創聖のアクエリオン|劇場版 創聖のアクエリオン]](クルト・クーリック、クロエ・クーリック) * [[劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝]]([[テマリ]]) * [[劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸]]('''日番谷冬獅郎''') * [[HIGHLANDER ハイランダー 〜ディレクターズカット版〜]](ダリア) * [[ベクシル 2077日本鎖国]](タカシ) | 2008年 | * [[映画 Yes!プリキュア5GoGo! お菓子の国のハッピーバースディ♪]]('''シロップ''' / '''甘井シロー''') * [[劇場版BLEACH Fade to Black 君の名を呼ぶ]](日番谷冬獅郎) * [[HELLS ANGELS]](りんねママ<ref>{{Cite web2|url=https://www.madhouse.co.jp/hells/|title=「HELLS ANGELS」公式サイト|accessdate=2023-05-26}}</ref>) | 2009年 | * [[映画 プリキュアオールスターズDX みんなともだちっ☆奇跡の全員大集合!]]('''シロップ''') * [[劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者]](テマリ) * [[よなよなペンギン]](悪ガキ三人組) | 2010年 | * [[映画 プリキュアオールスターズDX2 希望の光☆レインボージュエルを守れ!]]('''シロップ''' / '''甘井シロー''') * [[Axis powers ヘタリア|銀幕ヘタリア Axis Powers Paint it, White(白くぬれ!)]](スイス) * [[劇場版BLEACH 地獄篇]](日番谷冬獅郎) * [[劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール 幻影の覇者 ゾロアーク]]('''[[ゾロアーク]]''') | 2011年 | * [[映画 プリキュアオールスターズDX3 未来にとどけ! 世界をつなぐ☆虹色の花]]('''シロップ'''、シャドウ) * [[劇場版 戦国BASARA -The Last Party-]](上杉謙信) * [[劇場版 NARUTO -ナルト- ブラッド・プリズン#短編映画|劇場版 NARUTO -ナルト- 炎の中忍試験! ナルトVS木ノ葉丸!!]](テマリ) * [[ブッダ (漫画)#アニメ映画|手塚治虫のブッダ -赤い砂漠よ!美しく-]](タッタの姉) * [[トリコ 3D 開幕!グルメアドベンチャー!!]]('''小松''') * [[鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星]]('''エドワード・エルリック''') * [[名探偵コナン 沈黙の15分]](遠野みずき) | 2012年 | * [[ハプニングスター|ハプニングスター☆ 〜地球人の知らない冒険〜]]('''キッド''') | 2013年 | * [[トリコ#劇場版|劇場版 トリコ 美食神の超秘宝]]('''小松''') * [[劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影]](パクノダ) * [[ピカチュウとイーブイ☆フレンズ]]([[ゴチルゼル]]) | 2014年 | * [[映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!]]('''ケイゾウ''') * [[進撃の巨人 (アニメ)|劇場版 進撃の巨人 前編〜紅蓮の弓矢〜]]('''ハンジ・ゾエ''') | 2015年 | * [[進撃の巨人 (アニメ)|劇場版 進撃の巨人 後編〜自由の翼〜]]('''ハンジ・ゾエ''') | 2016年 | * [[牙狼〈GARO〉-DIVINE FLAME-]]('''エマ・グスマン''') * [[ゼーガペイン|ゼーガペインADP]](マオ・ルーシェン) | 2017年 | * [[劇場版 黒執事 Book of the Atlantic]](マダム・レッド)<!-- 2017-01-21 --> | 2018年 | * [[進撃の巨人 (アニメ)|劇場版 進撃の巨人 Season2〜覚醒の咆哮〜]]('''ハンジ・ゾエ''')<!-- 2018-01-13 --> * [[劇場版 マジンガーZ / INFINITY]](あしゅら男爵〈女〉)<!-- 2018-01-13 --> * [[薄墨桜 -GARO-]]('''星明'''<ref>{{Cite news|publisher=ナターシャ|work=映画ナタリー|url=https://natalie.mu/eiga/news/286175|title=「薄墨桜 -GARO-」追加キャスト8名発表、桂正和がムビチケ特典描き下ろし|date=2018-06-11|accessdate=2018-06-11}}</ref>)<!-- 2018-10-06 --> | 2021年 | * [[テニスの王子様 (アニメ)#劇場アニメ|リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様]](エメラルド<ref>{{Cite web|url=https://gaga.ne.jp/RYOMA_MOVIE/#character|title=CHARACTER|work=映画『リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』公式サイト|accessdate=2021-03-04}}</ref>)<!-- 2021-09-03 --> | 2022年 | * [[劇場版 BanG Dream! ぽっぴん'どりーむ!]](宇咲宙)<!-- 2022-01-01 --> * [[映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021]]('''パピ'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/453954|title=「映画ドラえもん」に朴ろ美・梶裕貴・諏訪部順一、新たな予告映像公開|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-11-18|accessdate=2021-11-18}}</ref>)<!-- 2022-03-04 --> * [[ぼくらのよあけ]]('''二月の黎明号'''<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/486128|title=劇場アニメ「ぼくらのよあけ」に藤原夏海、岡本信彦、水瀬いのり、戸松遥、朴ろ美|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-07-20|accessdate=2022-07-20}}</ref>)<!-- 2022-10 --> }} === OVA === {{定義リスト2 | 2002年 | * [[マクロス ゼロ]](ケイティ) | 2003年 | * [[アクエリアンエイジSagaII〜Don't forget me…〜]](ステラ・ブラヴァツキ) * [[小説・北斗の拳-呪縛の街-|新・北斗の拳]](ドーハ〈ビスタ〉) | 2004年 | * [[王ドロボウJING in Seventh Heaven 2]](ミント) * [[おジャ魔女どれみナ・イ・ショ]](市川小雪〈若き日のばあや〉) * [[新ゲッターロボ]](源頼光) * [[大YAMATO零号]](アポローニア) | 2006年 | * [[鋼の錬金術師 PREMIUM COLLECTION]]('''エドワード・エルリック''') | 2007年 | * [[創星のアクエリオン]](クルト・クーリック、クロエ・クーリック) * [[MURDER PRINCESS]]('''アリタ=フォーランド'''〈'''ファリス'''〉) * [[魔法少女隊アルス THE ADVENTURE]](ガーナ) | 2009年 | * [[2001夜物語#TO|TO]]('''マリア''') | 2011年 | * [[SUPERNATURAL: THE ANIMATION]](ライル) * [[ブラック・ジャック (OVA)|ブラック・ジャック FINAL]](L<ref>{{Cite news | url = http://www.odessa-e.co.jp/cont/bjfinal/episode.html| title = ブラック・ジャック FINAL EPISODE| newspaper = | publisher = オデッサ・エンタテイメント| date = | accessdate = 2016-05-03}}</ref>) | 2012年 | * [[金田一少年の事件簿 (アニメ)|金田一少年の事件簿]] 「黒魔術殺人事件」(火祀星子)<ref>{{Cite web|和書|publisher=マイコミジャーナル|url=https://news.mynavi.jp/article/20121018-a062/|title=アニメ『金田一少年の事件簿』が5年ぶりに復活!!新キャストに宮野真守ら|accessdate=2012-10-18}}</ref> * [[HELLSING]](ウォルター・C・ドルネーズ〈少年〉) | 2020年 | * [[刀使ノ巫女 刻みし一閃の燈火]](真庭紗南)<!-- 2020-10-25 --> }} === Webアニメ === * [[i-wish you were here- あなたがここにいてほしい]](2001年、タオ) * [[ゼノサーガ エピソードII to III a missing year|Xenosaga II to III a missing year〜U.M.N.に封印されし真実の断片〜]](2006年、ドクトゥス) * [[亡念のザムド]](2008年、クジレイカ<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180302104100/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/14340 |title=亡念のザムド |publisher=メディア芸術データベース |accessdate=2017-05-05}}</ref>) * [[ヘタリア]]シリーズ(2009年 - 2015年、スイス、犬) - 6シリーズ * [[スシニンジャ]](2014年、'''マグロ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1407/14/news150.html|title=声優陣が豪華すぎる謎のCGアニメ「スシニンジャ」始動 水樹奈々さん、梶裕貴さん、宮野真守さんほか|publisher=[[ねとらぼ]]|accessdate=2014-07-14}}</ref>) * [[彼岸島|彼岸島X]](2017年、'''[[彼岸島の登場人物#主人公とその仲間たち|宮本明]]''' 他) * [[ベイブレードバースト スパーキング]](2020年 - 2021年、'''白鷺城ルイ''')<!-- 2020-06-12 --> * [[ぶらどらぶ]](2020年 - 2021年、'''血祭血比呂'''<ref>{{Cite web|url=https://www.vladlove.com/character.html|title=CHARACTER|work=アニメ「ぶらどらぶ」VLADLOVE|accessdate=2020-05-12}}</ref>)<!-- 2020-12-18 --> * [[ベイブレードバースト ダイナマイトバトル]](2021年 - 2022年、'''白鷺城ルイ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.beyblade.jp/teaser_6th/|title=ベイブレードバースト ダイナマイトバトル|accessdate=2021-03-15}}</ref>)<!-- 2021-04-02 --> * [[プラチナエンド#Webアニメ|TVアニメ「プラチナエンド」解説動画 おしえて!てんしーず]](2022年、オガロ)<!-- 2022-02-25 --> * [[雪ほどきし二藍]](2022年、'''シマボシ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pokemon.co.jp/ex/legends_arceus/ja/sp_anime/ |title=オリジナルWEBアニメ 「雪ほどきし二藍」 |work=『Pokémon LEGENDS アルセウス』公式サイト |publisher= ポケモン|accessdate=2022-06-22}}</ref>)<!-- 2022-06-22 --> * [[伊藤潤二『マニアック』]](2023年、'''引摺黄子'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/485513|title=伊藤潤二のアイズナー賞ノミネート作が「マニアック」でアニメ化!櫻井孝宏ら出演|website=[[コミックナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2022-07-15|accessdate=2022-07-15}}</ref>、成実<ref>{{Cite web|website=伊藤潤二『マニアック』|url=https://ji-anime.com/story/08/|title=#08|accessdate=2022-11-19}}</ref>)<!-- 2023-01-19 --> * [[PLUTO]](2023年、ヘレナ<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/539839|title=「PLUTO」お茶の水博士役に古川登志夫、天馬博士役は津田英三 キャスト7人発表|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-09-06|accessdate=2023-09-06}}</ref>)<!-- 2023- --> === ゲーム === {{dl2 | 1999年 | * [[SDガンダム GGENERATION]](1999年 - 2019年、[[ガンダム・センチネル#ALICE|ALICE]]、[[ロラン・セアック]]、[[ニコル・アマルフィ]]〈WORLD - 〉、リジェネ・レジェッタ、[[SDガンダム ムシャジェネレーション|侶蘭]]) - 11作品{{Ras|『ZERO』<!-- 1999-08-12 -->(1999年)、『F』<!-- 2000-08-03 -->(2000年)、『F.I.F』<!-- 2001-05-02 -->(2001年)、『NEO』<!-- 2002-11-28 -->(2002年)、『SEED』<!-- 2004-02-19 -->(2004年)、『PORTABLE』<!-- 2006-08-03 -->(2006年)、『WARS』<!-- 2009-08-06 -->(2009年)、『WORLD』<!-- 2011-02-24 -->『3D』<!-- 2011-12-22 -->(2011年)、『OVER WORLD』<!-- 2012-09-27 -->(2012年)、『CROSSRAYS』<!-- 2019-11-28 -->(2019年)}} | 2001年 | * [[スーパーロボット大戦α外伝]](ロラン・セアック / ローラ・ローラ) * [[デジモンテイマーズ バトルエボリューション]](一乗寺賢) * [[春雨曜日]]('''葉山百合子''') | 2002年 | * [[王子さまLV1]]('''カナン・ルーキウス''') * [[おジャ魔女どれみドッカ〜ン!にじいろパラダイス]](ババ) * シャーマンキング('''道蓮''') ** スピリットオブシャーマンズ ** [[シャーマンキング 超・占事略決3|超・占事略決3]] * [[ジョジョの奇妙な冒険 黄金の旋風]]('''[[ジョルノ・ジョバァーナ]]''') | 2003年 | * [[シャーマンキング ソウルファイト]]('''道蓮''') * [[第2次スーパーロボット大戦α]](カナン・ギモス) * [[夏夢夜話]](ペルソナ) * [[鋼の錬金術師 (アニメ)#コンピューターゲームシリーズ|鋼の錬金術師シリーズ]](2003年 - 2005年、'''[[エドワード・エルリック]]''') - 5作品{{Ras|『[[鋼の錬金術師 翔べない天使|翔べない天使]]』<!-- 2003-12-25 -->(2003年)、『[[鋼の錬金術師 ドリームカーニバル|ドリームカーニバル]]』<!-- 2004-08-26 -->『[[鋼の錬金術師2 赤きエリクシルの悪魔|2 赤きエリクシルの悪魔]]』<!-- 2004-09-22 -->(2004年)、『[[鋼の錬金術師3 神を継ぐ少女]]』『[[鋼の錬金術師 デュアルシンパシー 二人の絆|デュアルシンパシー 二人の絆]]』<!-- 2005-07-21 2作 -->(2005年)}} | 2004年 | * [[宇宙のステルヴィア]](ナジマ・ゲブール) * [[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]](ニコル・アマルフィ<ref>『機動戦士ガンダムSEED DESTINY 完全攻略ガイド』(角川書店)40頁。</ref>)<!-- 2004-11-25 --> * [[シャーマンキング ふんばりスピリッツ]]('''道蓮'''、センジュ) * [[テイルズ オブ リバース]](シャオルーン) * [[NARUTO -ナルト- (ゲーム)|NARUTO -ナルト- 激闘忍者大戦!3]]([[テマリ]]) * [[ブラッドレイン]](レイン) * [[プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂]](ファラ) * [[耽美夢想マイネリーベ|マイネリーベ〜優美なる記憶〜]](オーガスタ) | 2005年 | * [[サクラ大戦V 〜さらば愛しき人よ〜]](黒龍姫) * [[新天魔界ジェネレーションオブカオスV]](久遠) * [[戦国BASARA]]([[戦国BASARAの登場人物#上杉軍|上杉謙信]]) * [[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]](ニコル・アマルフィ) * [[Twelve〜戦国封神伝〜]](セイショウ) * NARUTO -ナルト- 激闘忍者大戦!4(テマリ) * [[半熟英雄#シリーズ作品|半熟英雄4 〜7人の半熟英雄〜]](タガメの錬金術師・エドワード) * BLEACH([[日番谷冬獅郎]]) ** [[BLEACH#ゲーム|GC 黄昏にまみえる死神]] ** [[BLEACH 〜ヒート・ザ・ソウル〜|〜ヒート・ザ・ソウル〜]] - 7作品{{Ras|『〜ヒート・ザ・ソウル』(2005年)<!-- 2005-03-24 -->、『2』(2005年)<!-- 2005-09-01 -->、『3』(2006年)<!-- 2006-07-20 -->、『4』(2007年)<!-- 2007-05-24 -->、『5』(2008年)<!-- 2008-05-15 -->、『6』(2009年)<!-- 2009-05-14 -->、『7』(2010年)<!-- 2010-09-02 -->}} * [[Rhapsodia]]('''キリル''') | 2006年 | * [[あやかしびと -幻妖異聞録-]](逢難) * [[学園アリス|学園アリス 〜きらきら★メモリーキッス〜]]('''日向棗''') * [[カメオ:エレメンツ オブ パワー]](カメオ) * [[CLANNAD (ゲーム)|CLANNAD]](志麻賀津紀) * [[式神の城III]](金美姫) * [[ゼノサーガ エピソードIII[ツァラトゥストラはかく語りき]]](ドクトゥス) * 戦国BASARA2(上杉謙信) * [[ファンタシースターユニバース]](トニオ・リマ) * [[ファンタジーアース ゼロ]](ケイ / NPC) * BLEACH(日番谷冬獅郎) ** Wii 白刃きらめく輪舞曲 ** DS 蒼天に駆ける運命 ** [[BLEACH 〜放たれし野望〜|放たれし野望]] ** ブレイド・バトラーズ * [[ブレイブ・ストーリー|ブレイブストーリー]]('''ミツル''') * [[ルーンファクトリー -新牧場物語-]]('''ラグナ''') * [[R.O.H.A.N]](システムボイス男性ver.) | 2007年 | * [[うわさの翠くん!!|うわさの翠くん!! 夏色ストライカー]](恵比寿仁) * [[ガンダム無双]](ロラン・セアック) * [[シャイニング・フォース イクサ]]('''トウマ''') * 戦国BASARA2 英雄外伝(上杉謙信) * NARUTO -ナルト- 疾風伝(テマリ) ** [[NARUTO -ナルト- ナルティメットヒーロー|ナルティメットアクセル]] ** ナルティメットアクセル2 * [[ファンタシースターユニバース イルミナスの野望]](トニオ・リマ) * BLEACH(日番谷冬獅郎) ** DS 2nd 黒衣ひらめく鎮魂歌 ** ブレイド・バトラーズ2nd | 2008年 | * [[アヴァロンコード]](レンポ) * うわさの翠くん!!2 ふたりの翠!?(恵比寿仁) * [[カラオケJOYSOUND Wii]](ミミ) * [[幻想水滸伝ティアクライス]](クロデキルド) * [[小鳩ヶ丘高校女子ぐろ〜部 Gleam of Force|小鳩ヶ丘高校女子ぐろ〜部]](徳川明日) * [[スーパーロボット大戦Z]](ロラン・セアック) * 戦国BASARA X(上杉謙信) * [[ディシディア ファイナルファンタジー]]('''ジタン・トライバル''') * [[ファンタシースターポータブル]](トニオ・リマ) * BLEACH(日番谷冬獅郎) ** ソウル・カーニバル ** Wii バーサスクルセイド * [[ペルソナ4]]('''白鐘直斗'''、イザナミ) * [[星空のコミックガーデン]](鈴岡蓮) * [[ルーンファクトリー フロンティア]]('''ラグナ''') | 2009年 | * 狼と香辛料 海を渡る風(エーブ) * [[家庭教師ヒットマンREBORN!|家庭教師ヒットマンREBORN!DS フェイトオブヒートII 運命のふたり]](ソルテ) * 戦国BASARA バトルヒーローズ(上杉謙信) * ディシディア ファイナルファンタジー ユニバーサルチューニング ('''ジタン・トライバル''') * [[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST]](2009年 - 2022年、'''エドワード・エルリック''') - 5作品{{Ras|『暁の王子』<!-- 2009-08-13 -->『背中を託せし者』<!-- 2009-10-15 -->『黄昏の少女』<!-- 2009-12-10 -->(2009年)、『約束の日へ』<!-- 2010-05-20 -->(2010年)、『[[鋼の錬金術師 MOBILE|MOBILE]]』<ref>{{Cite web|url=https://www.jp.square-enix.com/hagane-mobile/character/|title=CHARACTER|work=鋼の錬金術師 MOBILE|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|accessdate=2022-01-29}}</ref><!-- 2022-08-04 -->(2022年)}} * [[ファンタシースターポータブル2]](トニオ・リマ) * [[無限航路]](ユーリ) * [[RESISTANCE 〜報復の刻〜]](レーヌ・ブシャール) | 2010年 | * [[キングダム (漫画)|キングダム 一騎闘千の剣]](秦王 嬴政) * [[サモンナイトグランテーゼ 滅びの剣と約束の騎士]]('''ディノ・ディー''') * 戦国BASARA3(上杉謙信) * [[Fate/EXTRA]](レオ・B・ハーウェイ) * [[武装神姫 BATTLE MASTERS]](プロキシマ) * [[Halo:Reach]]('''キャット - S-320''') * [[WHITE ALBUM|WHITE ALBUM -綴られる冬の想い出-]]('''篠塚弥生''') * [[メタルギアソリッド ピースウォーカー|METAL GEAR SOLID PEACE WALKER]]('''アマンダ・バレンシアノ・リブレ''') | 2011年 | * [[Axis powers ヘタリア#ゲーム|学園ヘタリア Portable]](スイス) * 戦国BASARA クロニクルヒーローズ(上杉謙信) * 戦国BASARA3 宴(上杉謙信) * [[第2次スーパーロボット大戦Z|第2次スーパーロボット大戦Z 破界篇]](ロラン・セアック) * [[ディシディア デュオデシム ファイナルファンタジー]]('''ジタン・トライバル''') * [[トリコ グルメサバイバル!]]('''小松''') * [[ファンタシースターポータブル2 インフィニティ]](トニオ・リマ) * [[ポケパーク2 〜Beyond the World〜]] * [[みんなのGOLF 6]](グレース) | 2012年 | * 学園ヘタリア DS(スイス) * [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フルブースト]](ロラン・セアック) * [[機動戦士ガンダムAGE|機動戦士ガンダムAGE ユニバースアクセル / コズミックドライブ]](シャナルア・マレン<ref>{{Cite web|和書|publisher=機動戦士ガンダムAGE ユニバースアクセル / コズミックドライブ|url=http://age-game.channel.or.jp/chara/chara14.php|title=キャラクター シャナルア・マレン|accessdate=2012-07-28}}</ref>) * [[機動戦士ガンダムSEED BATTLE DESTINY]](ニコル・アマルフィ) * Kinect ラッシュ: ディズニー/ピクサー アドベンチャー(ホリー・シフトウェル) * ケイオスリングスII(リーファ) * [[スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園]]('''終里赤音'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201205/31015393.html|title=『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』超高校級の生徒を一挙に紹介!|accessdate=2012-05-30}}</ref>) * 第2次スーパーロボット大戦Z 再世篇(ロラン・セアック) * [[トリコ グルメサバイバル!2]]('''小松''') * [[トリコ グルメモンスターズ!]]('''小松''') * 爆裂軍団レネゲード(ナターシャ) * [[PROJECT X ZONE]](トウマ<ref>{{Cite web|和書|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201204/12012868.html|title=『PROJECT X ZONE(プロジェクト クロスゾーン)』カプコン、セガ、バンダイナムコゲームスの3社が協力して放つ最新作!|accessdate=2012-04-12}}</ref>) * [[ペルソナ4|ペルソナ4 ザ・ゴールデン]]('''白鐘直斗'''<ref>[http://p-atlus.jp/p4g/ 公式サイト]のキャラクターを参照。2011年10月24日閲覧。</ref>、イザナミ) * [[ペルソナ4 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ]]('''白鐘直斗'''<ref>[http://p-atlus.jp/p4u/ 公式サイト]のキャラクターを参照。2011年10月24日閲覧。</ref>) * [[龍が如く5 夢、叶えし者]](朴美麗<ref>{{Cite journal|和書 |editor=[[浜村弘一]] |title= 続報 龍が如く5 夢、叶えし者 |journal=[[週刊ファミ通]]|issue=2012年8月2・9日合併号 |pages=69 |publisher=[[エンターブレイン]] |date=2012-07-19}}</ref>) | 2013年 | * [[The Last of Us]](マーリーン) * [[ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル]](広瀬康一<ref>{{Cite web|publisher=ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル|url=http://mirror.bandaigames.channel.or.jp/list/asb/chara_04diamond3koi.html|title=CHARACTER|accessdate=2013-12-04}}</ref>) * ダンガンロンパ1・2 Reload(終里赤音) * [[トリコ グルメガバトル!]](小松) * NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットストーム3(テマリ) * [[BioShock Infinite]](デイジー・フィッツロイ<ref>{{Cite web|和書|publisher=ファミ通.com|url=http://www.famitsu.com/news/201303/08029936.html|title=『Bioshock Infinite(バイオショック インフィニット)』朴ロ美、飛田展男など脇を固める豪華キャスト陣の情報が公開|accessdate=2013-03-08}}</ref>) * [[HEROES' VS]](∀ガンダム<ref>『[[電撃PlayStation]]』Vol.530 2012年11月8日号{{要ページ番号|date=2017年5月}}</ref>) * [[Fate/EXTRA CCC]](レオ・B・ハーウェイ<ref>{{Cite journal|和書 |editor=浜村弘一 |title= 新着ゲーム通信 フェイト/エクストラ CCC|journal=週刊ファミ通|issue=2012年7月12日号 |pages=296 |publisher=エンターブレイン |date=2012-06-28}}</ref>) * ペルソナ4 ジ・アルティマックス ウルトラスープレックスホールド('''白鐘直斗'''<ref>{{Cite web|publisher=ペルソナ4 ジ・アルティマックス ウルトラスープレックスホールド|url=http://www.arcsystemworks.jp/p4u2/chara/naoto.html|title=COMMAND LIST|accessdate=2013-11-28}}</ref>) * [[メタルギア ライジング リベンジェンス]](ミストラル<ref>{{Cite journal|和書 |editor=浜村弘一 |title= 続報 メタルギア ライジング リベンジェンス|journal=週刊ファミ通|issue=2012年10月4日号 |pages=159 |publisher=エンターブレイン |date=2012-09-20}}</ref>) | 2014年 | * GUNS N' SOULS<ref>{{Cite web |url=http://gunsandsouls.com/ |title=CHARACTER VOICE |publisher=ガンズ アンド ソウル |accessdate=2014-01-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102200951/http://gunsandsouls.com/ |archivedate=2014-01-022}}</ref> * [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス マキシブースト]](ロラン・セアック) * [[グランブルーファンタジー]](2014年 - 2023年、黒騎士<ref>{{Cite web|和書|publisher=Social Game Info|url=https://gamebiz.jp/news/123968|title=Cygames、RPG『グランブルーファンタジー』を発表! キャラクターデザイン:皆葉英夫氏、音楽:植松伸夫氏|accessdate=2014-11-01}}</ref> / アポロニア・ヴァール) * 三国志英歌<ref>{{Cite web|和書|url=http://3594e.jp/ |title=トップページ |publisher=三国志英歌 |accessdate=2014-08-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140904131238/http://3594e.jp/ |archivedate=2014-09-04}}</ref> * [[ザ・クルー]](ゾーイ・ウィンターズ) * 戦国BASARA4(上杉謙信<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ファミ通]]|issue=2013年12月19日号 |page={{要ページ番号|date=2017年5月}}|publisher=エンターブレイン|date=2013-12-05}}</ref>) * [[神撃のバハムート]](ザイン<ref>{{Twitter status|bahamut_cygames|478437940587032577}}</ref>、シモーヌ、フェアリーセイバー) * そうるん('''ユウト'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://souln.nijibox.co.jp/chara.html |title=そうるん キャラクター |publisher=『そうるん』公式サイト |accessdate=2014-01-28 |archiveurl=https://archive.is/20140228133912/http://souln.nijibox.co.jp/chara.html |archivedate=2014-02-28}}</ref>) * NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットストームレボリューション(テマリ<ref>{{Cite web|和書|publisher=NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットストームレボリューション|url=http://www.bandaigames.channel.or.jp/list/naruto_r/character/02_03a.html|title=キャラクター|accessdate=2014-08-29}}</ref>) * [[ペルソナQ シャドウ オブ ザ ラビリンス]]('''白鐘直斗'''<ref>{{Cite journal |和書 |editor=坂本武郎 |title= 続報 ペルソナQ シャドウ オブ ザ ラビリンス |journal=[[週刊ファミ通]] |issue=2014年2月13日号 |page=176 |publisher=[[KADOKAWA]] |date=2014-01-30}}</ref>) * [[龍が如く 維新!]](お登勢<ref>{{Cite web|和書|url=https://ryu-ga-gotoku.com/ishin/cast.html|title=出演|publisher=『龍が如く 維新!』公式サイト|accessdate=2014-01-31}}</ref>) * [[妖怪ウォッチ|妖怪ウォッチ2元祖・本家・真打]]('''ケイゾウ'''、妖怪ガッツK) | 2015年 | * クリスタル クラウン('''ブレイズ'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://crystal.gu3.co.jp/character/ |title=キャラクター |work=Crystal Crown 公式サイト |accessdate=2015-08-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150825030253/http://crystal.gu3.co.jp/character/ |archivedate=2015-08-25}}</ref>) * [[レッドドラゴン (TRPG)|ケイオスドラゴン 混沌戦争]](ツグト・キギス<ref>{{Cite web |url=http://chaosdragon.sega-net.com/state/index.html |title=国家 |work=【公式】ケイオスドラゴン 混沌戦争 |accessdate=2015-07-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150705003108/http://chaosdragon.sega-net.com/state/index.html |archivedate=2015-07-05}}</ref>) * 幻魔郷ワンダラー(森蘭丸<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/312/G031202/20150804026/ |title=朴{{JIS2004フォント|璐}}美さんなど出演の「幻魔郷ワンダラー」,OBT参加者の募集を開始 |work=[[4Gamer.net]] |publisher=Aetas |date=2015-08-04 |accessdate=2017-05-05}}</ref>) * [[ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン]](広瀬康一<ref>{{Cite web|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント]]|work=ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン|url=http://jojogame.bngames.net/character/chr/04/02.html|title=CHARACTER|accessdate=2015-06-26}}</ref>) * [[スーパーロボット大戦BX]](シャナルア・マレン) * 戦国BASARA4 皇('''上杉謙信'''<ref>{{Cite web|和書|work=戦国BASARA4 皇 公式サイト|publisher=[[カプコン]]|url=http://www.capcom.co.jp/basara4sumeragi/chara_kenshin.html|title=登場人物|accessdate=2015-06-18}}</ref>) * Dash!! スシニンジャ(マグロ<ref>{{Cite web|和書|url=http://dash.sushininja.jp/ |title=Dash!! スシニンジャ |publisher=「Dash!! スシニンジャ」の事前登録サイト |accessdate=2015-12-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208224114/http://dash.sushininja.jp/ |archivedate=2015-12-08}}</ref>) * 艶が〜る プレミアム('''沖田総司'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.animate.tv/app/details.php?id=1426852029 |title=石田彰さん、緑川光さん、浪川大輔ら豪華声優がCVを担当! 攻略キャラクター全員にボイスを実装した『艶が〜る プレミアム』がAmebaにてリリース |publisher=アニメイトTV |accessdate=2015-03-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402100848/http://www.animate.tv/app/details.php?id=1426852029 |archivedate=2015-04-02}}</ref>) * [[第3次スーパーロボット大戦Z|第3次スーパーロボット大戦Z 天獄篇]](ロラン・セアック) * BLEACH Brave Souls(日番谷冬獅郎) * [[ペルソナ4 ダンシング・オールナイト]]('''白鐘直斗'''<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊ファミ通]]|issue=2015年4月2・9日合併号 |page={{要ページ番号|date=2017年5月}}|publisher=エンターブレイン|date=2015-03-19}}</ref>) * [[夢王国と眠れる100人の王子様]](リオン<ref>{{Cite web|和書|work=夢王国と眠れる100人の王子様|title=キャスト紹介|url=http://www.yume-100.com/cast/|accessdate=2015-06-06}}</ref>) * [[妖怪ウォッチバスターズ 赤猫団/白犬隊]](妖怪ガッツK) * [[妖怪ウォッチ ぷにぷに]](2015年 - 2021年、妖怪ガッツK、ジタン、道蓮、ハンジ・ゾエ) * [[リング☆ドリーム 女子プロレス大戦]](サモエド) * [[ロストヒーローズ|ロストヒーローズ2]](∀ガンダム) | 2016年 | * [[ArcheAge]](女性ウォーボーン) * [[アドベンチャー・タイム|アドベンチャー・タイム ネームレス王国の3人のプリンセス]](フィン) * [[War Thunder]](ラジオボイス) * [[オーバーウォッチ]]('''ファラ'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/256/1256493/|title=『オーバーウォッチ』日本語版の担当声優が公開。乃村健次さん、伊藤静さん、種田梨沙さんら21名|accessdate=2016-04-15}}</ref>) * [[グリムノーツ]](紅守黒湖<ref>{{Cite web|和書|publisher=アスキー・メディアワークス|work=電撃オンライン|url=http://dengekionline.com/elem/000/001/347/1347631/|title=『グリムノーツ』×『ムルシエラゴ』コラボで主人公・紅守黒湖が入手できるイベント開催|date=2016-08-23|accessdate=2016-09-15}}</ref>、魔女ユリーシャ<ref>{{Cite web|和書|publisher=電撃オンライン|url=https://dengekionline.com/elem/000/001/662/1662627/|title=『グリムノーツ』2周年記念のアンケートガチャに新ストーリーテラー“モリガン”が登場|date=2018-01-16|accessdate=2020-06-13}}</ref>) * [[進撃の巨人]]('''ハンジ・ゾエ'''<ref>{{Cite web|publisher=[[コーエーテクモゲームス]]|work=進撃の巨人|url=https://www.gamecity.ne.jp/shingeki/scout.html|title=CHARACTERS|accessdate=2015-11-29}}</ref>) * [[ストリートファイターV]]([[コーリン (ストリートファイター)|コーリン〈ヘレン〉]]) * 戦国BASARA 真田幸村伝(上杉謙信) * [[チェインクロニクル]](ブリジット<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガゲームス|work=チェンクロ【公式】チェインクロニクル〜絆の新大陸〜|url=https://chronicle.sega-net.com/remless/|title=KADOKAWA×ChainChronicle コラボ外伝「開拓者の島 -レムレス島-」特設サイト|accessdate=2016-03-09}}</ref>、ムニ<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガゲームス|work=チェンクロ【公式】チェインクロニクル〜絆の新大陸〜|url=https://chronicle.sega-net.com/members/info/detail/023223.html|title=薄命チェインストーリーフェス開催!|date=2016-04-12|accessdate=2016-04-12}}</ref>、グレゴリア) * NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットストーム4(テマリ<ref>{{Cite web|和書|work=NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットストーム4|url=http://naruto-game.bngames.net/character/03_05.html|title=キャラクター|accessdate=2015-07-21}}</ref>) * ベイブレードバースト(白鷺城ルイ) * [[ポッ拳 POKKÉN TOURNAMENT]](ノーラ) * 悠久のティアブレイド -Lost Chronicle-(アイナ<ref>{{Cite web|publisher=[[オトメイト]]|work=悠久のティアブレイド -Lost Chronicle-|url=http://www.otomate.jp/tierblade/chara/index8.php|title=Character|accessdate=2016-06-16}}</ref>) | 2017年 | * [[いただきストリート ドラゴンクエスト&ファイナルファンタジー 30th ANNIVERSARY]]('''ジタン'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[KADOKAWA]]|work=ファミ通.com|url=https://www.famitsu.com/news/201702/23127369.html|title=『いただきストリート ドラゴンクエスト&ファイナルファンタジー 30th ANNIVERSARY』登場キャラクターが一部公開! 名場面が見られる“ミュージアム”についても紹介|accessdate=2017-02-22}}</ref>) * [[陰陽師 (ゲーム)|陰陽師 - 本格幻想RPG]](玉藻前) * [[クリスタル オブ リユニオン]](孫尚香) * [[サウザンドメモリーズ]](ベルゼラ) * [[Shadowverse]](シモーヌ、ザイン、フェアリーセイバー) * [[ディシディア ファイナルファンタジー オペラオムニア]](ジタン・トライバル<ref>{{Cite web |url = http://www.jp.square-enix.com/DFFOO/character/09.html|title = CHARACTER|publisher = [[スクウェア・エニックス]]|accessdate = 2016-12-31}}</ref>) * [[フォーオナー]](野武士<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/305/G030582/20170125023/|title=「フォーオナー」,日本語版キャラクターボイスを務める声優陣を発表。新トレイラー「赤き道」の公開も|author=T田|publisher=4Gamer.net|accessdate=2017-01-26|date=2017-01-25}}</ref>)<!-- 2017-02-16 --> * ベイブレードバースト ゴッド(白鷺城ルイ) * LINE BLEACH-PARADAISE LOST-(日番谷冬獅郎) * 悠久のティアブレイド -Fragments of Memory-(アイナ<ref>{{Cite web|publisher=[[オトメイト]]|work=悠久のティアブレイド -Fragments of Memory-|url=http://www.otomate.jp/tierblade/fd/chara/?page=c9|title=Character|accessdate=2017-05-23}}</ref>) * [https://campaign.loas.jp/ League of Angels II - リーグオブエンジェルズ2](ダリア、ミカエラ、エレン、アマリア) | 2018年 | * [[ディシディア ファイナルファンタジー NT]]('''ジタン・トライバル'''<ref>{{Cite web|work=ディシディア ファイナルファンタジー NT|url=http://www.jp.square-enix.com/dffnt/characters/zidane/|title=CHARACTERS|publisher=スクウェア・エニックス|accessdate=2017-11-02}}</ref>)<!-- 2018-01-11 --> * ストリートファイターV アーケードエディション(コーリン〈ヘレン〉)<!-- 2018-01-18 --> * [[ヴァルキリーアナトミア -ジ・オリジン-]](アメリア、エドワード・エルリック)<!-- 2018-02-05 --> * オーディンクラウン(アクセル)<!-- 2018-02-08 --> * [[ドラゴンクエストライバルズ]](デボラ<ref>{{Twitter status|DQ_RIVALS|956107737150119941}}</ref>)<!-- 2018-02下旬予定 --> * 進撃の巨人2('''ハンジ・ゾエ'''<ref>{{Cite web|publisher=コーエーテクモゲームス|work=ゲーム「進撃の巨人2」|url=https://www.gamecity.ne.jp/shingeki2/characters.html#c15|title=CHARACTERS|accessdate=2017-11-22}}</ref>)<!-- 2018-03-15 --> * [[刀使ノ巫女 刻みし一閃の燈火]](真庭紗南)<!-- 2018-03-19 --> * 決戦!平安京(玉藻前) * [[スーパーロボット大戦X-Ω]](ロラン・セアック)<!-- 2018-05-17 --> * [[BLAZBLUE|BLAZBLUE CROSS TAG BATTLE]](白鐘直斗)<!-- 2018-05-31 --> * [[文豪とアルケミスト]](エドワード・エルリック)<!-- 2018-10-17 --> * ベイブレードバースト バトルゼロ(白鷺城ルイ<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[フリュー]]|work=ベイブレードバースト バトルゼロ 公式サイト|url=http://www.cs.furyu.jp/beyblade2018/game/characters/|title=キャラクター&ベイブレード|accessdate=2018-10-12}}</ref>)<!-- 2018-10-25 --> * [[ペルソナQ2 ニュー シネマ ラビリンス]]('''白鐘直斗'''<ref>{{Cite web|publisher=[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]|work=PQ2 - ペルソナQ2 ニュー シネマ ラビリンス|url=http://pq2.jp/character/naoto.html|title=CHARACTER|accessdate=2018-08-24}}</ref>)<!-- 2018-11-29 --> * [[ぷよぷよ!!クエスト]](白鐘直斗<ref>{{Cite web|和書|publisher=セガ|work=ぷよぷよ!!クエスト(ぷよクエ)公式サイト|url=https://puyopuyoquest.sega-net.com/news/181211_60693.html|title=ペルソナQ2コラボイベント「PQ2チャレンジ」開催のお知らせ|date=2018-12-11|accessdate=2020-09-05}}</ref>)<!-- 2018-12-11 --> * 新三國志(黄月英) * 忍者BORUTAGE(テマリ) * [[グリモア〜私立グリモワール魔法学園〜]](我妻梅) * [[奪われし玉座:ウィッチャーテイルズ]]('''メーヴ女王''') * 幻獣姫(アルセーヌ・ルパン) * ゲシュタルト・オーディン(九重クオン<ref>{{Cite web|url=https://official.gestaltodin.jp|title=CHARACTER|work=ゲシュタルト・オーディン|accessdate=2018-10-02}}</ref>) * [[崩壊3rd]](ルシア) | 2019年 | * [[共闘ことばRPG コトダマン]](2019年 - 2022年、コンチェルト、ハンジ・ゾエ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotodaman.jp/info/detail/075207yL5QmeaGbvHM.html|title=進撃の巨人召喚 第1弾|work=【公式】共闘ことばRPG コトダマン|publisher=[[XFLAG]]|date=2021-04-16|accessdate=2022-01-08}}</ref>、エドワード・エルリック<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotodaman.jp/info/detail/075885GuiJ9XUwXrzk.html|title=鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST コラボ開催!!|work=【公式】共闘ことばRPG コトダマン|publisher=[[XFLAG]]|date=2022-01-05|accessdate=2022-01-08}}</ref>)<!-- 2019-02-07 --> * [[スーパーロボット大戦T]](あしゅら男爵〈女〉)<!-- 2019-03-20 --> * [[東京クロノス]]('''神谷才''')<!-- 2019-03-20 --> * [[Days Gone]](アディ・ウォーカー)<!-- 2019-04-26 --> * [[セブンナイツ]](ミューラン)<!-- 2019-06-19 --> * [[キルラキル|キルラキル ザ・ゲーム -異布-]](鬼龍院羅暁<ref>{{Cite web|publisher=[[アークシステムワークス]]|work=キルラキル ザ・ゲーム -異布- 公式サイト|url=http://www.kill-la-kill-game.jp/character/08.php|title=CHARACTER|accessdate=2018-12-26}}</ref>)<!-- 2019-07-25 --> * [[スーパーロボット大戦DD]](ニコル・アマルフィ、マオ・ルーシェン)<!-- 2019-08-21 --> * [[カードファイト!! ヴァンガード|カードファイト!! ヴァンガード エクス]]('''音無ナユタ'''、'''音無シギ'''<ref>{{Cite web|publisher=[[フリュー]]|work=カードファイト!! ヴァンガード エクス|title=Character|url=http://www.cs.furyu.jp/vanguard-ex/character/|accessdate=2019-09-11}}</ref>)<!-- 2019-09-19 --> * League of Angels 3(ミカエラ)<!-- 2019-09-19 --> * [[JUMP FORCE]](日番谷冬獅郎) - DLC追加キャラクター<!-- 2019-11-19 --> | 2020年 | * プロジェクト・シルバーウイング(TAC-50、NOVA<ref>{{Cite web|和書|work=プロジェクト・シルバーウイング|url=http://www.argentwing.net/#file|title=キャラクター|accessdate=2020-02-20}}</ref>)<!-- 2020-02-20 --> * 錬神のアストラル(賀茂憲保<ref>{{Cite web|和書|publisher=GAME Watch|url=https://www.4gamer.net/games/464/G046458/20200309064/|title=「錬神のアストラル」,新シリーズ「京都」の声優サイン色紙キャンペーンが開催|date=2020-03-09|accessdate=2020-06-13}}</ref>)<!-- 2020-03-06 --> * [[けものフレンズ3]](オオフウチョウ<ref>{{Cite web|和書|publisher=4Gamer.net|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1248270.html|title=「けものフレンズ3」、「アライさん隊長日誌」の4章を公開|date=2020-04-20|accessdate=2020-06-13}}</ref>)<!-- 2020-04-20 --> * [[The Last of Us Part II]](マーリーン)<!-- 2020-06-19 --> * [[インディヴィジブル 闇を祓う魂たち]](バオザイ<ref>{{Cite web|和書|work=ファミ通.com|url=https://www.famitsu.com/news/202005/14198133.html|title=『インディヴィジブル』ソラニ(声:田中敦子)やナーガ・ライダー(声:杉田智和)など新キャラクターが続々登場!|accessdate=2020-05-14}}</ref>)<!-- 2020-07-16 --> * ガールズ X バトル2(ルシファー)<!-- 2020-08-16 --> * A.I.M.$ -All you need Is Money-('''マジェスティック・ローズ'''<ref>{{Cite web|work=A.I.M.$ -All you need Is Money-|url=https://app.nhn-playart.com/aims/lp/|title=CHARACTER VOICE|accessdate=2020-10-05}}</ref>)<!-- 2020-11-17 --> * [[サイバーパンク2077]](ローグ) * [[ガーディアンテイルズ]]('''女騎士''') - 日本版とNintendo Switch版を除く | 2021年 | * 世界革命RPG ロードオブヒーローズ(ヘルガ)<!-- 2021-04-21 --> * ガールズコントラクト(ライム<ref>{{Cite web|url=https://garukon.gamehours.jp/|title=CHARACTER|work=《ガールズコントラクト》放置x萌え|accessdate=2021-05-10}}</ref>)<!-- 2021-06-09 --> * [[ウマ娘 プリティーダービー]](樫本理子<ref>{{Cite web|publisher=Cygames|work=ウマ娘 プリティーダービー|url=https://umamusume.jp/character/detail/?name=kashimotoriko|title=CHARACTER|accessdate=2021-08-28}}</ref>)<!-- 2021-08-30 --> * [[クッキーラン: キングダム]](暗黒魔女クッキー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cookierun-kingdom.com/ja/#character|title=キャラクター|work=クッキーラン:キングダム|accessdate=2021-09-04}}</ref>)<!-- 2021-09-02 --> * [[モンスターストライク]](2021年 - 2023年、日番谷冬獅郎<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000197.000025121.html|title=モンスト、『BLEACH』とのコラボ第2弾を開催決定!9月2日(木)12:00より開始|work=PR TIMES|date=2021-08-26|accessdate=2023-03-22}}</ref>、道蓮<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000233.000025121.html|title=モンスト、TVアニメ『SHAMAN KING』との初コラボが決定!11月14日(日)12:00より開催!|work=PR TIMES|date=2021-11-11|accessdate=2023-03-22}}</ref>、ルナ<ref>{{Twitter status2|monst_mixi|1512627624379625473|2022年4月9日|accessdate=2022-04-10}}</ref>、エドワード<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000372.000025121.html|title=モンスト×TVアニメ「鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」コラボ第2弾を2月12日(日)12:00より開催!|work=PR TIMES|date=2023-02-09|accessdate=2023-03-22}}</ref>、ハンジ・ゾエ<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000413.000025121.html|title=「モンスターストライク」×アニメ「進撃の巨人」コラボ第2弾を5月1日(月)0:00より開催!|work=PR TIMES|date=2023-04-29|accessdate=2023-04-30}}</ref>)<!-- 2021-09-02 --> * [[スーパーロボット大戦30]](あしゅら男爵〈女〉)<!-- 2021-10-28 --> * [[真・女神転生V]]('''アブディエル'''<ref>{{Cite web|publisher=[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]|work=真・女神転生V - 公式サイト|url=https://megaten5.jp/story_character/|title=STORY / CHARACTER|accessdate=2021-08-19}}</ref>)<!-- 2021-11-11 --> * パニリヤ・ザ・リバイバル(ヘルゾーミ<ref>{{Cite web|work=『パニリヤ・ザ・リバイバル』好評配信中!|url=https://panilla.rastargames.com/role/guo/|title=CHARACTER|accessdate=2021-12-15}}</ref>)<!-- 2021-11-11 --> | 2022年 | * [[機動戦士ガンダム アーセナルベース]](ニコル・アマルフィ)<!-- 2022-02-24 --> * [[映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021|ゲーム ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021]](パピ)<!-- 2022-03-04 --> * [[ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族 オンライン|ドラゴンクエストX オンライン]](ケイト<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[スクウェア・エニックス|SQUARE ENIX]]|work=ドラゴンクエストX オンライン|url=https://www.dqx.jp/online/promotion/voice/|title=キャラクターボイス一覧|accessdate=2022-08-24}}</ref>)<!-- 2022-08-02 --> * [[SDガンダム バトルアライアンス]](ロラン・セアック<ref>{{cite web|url=https://gba.ggame.jp/character/detail.php?s=turn_a|title=CHARACTER|work=【公式】SDガンダム バトルアライアンス(バトアラ)|バンダイナムコエンターテインメント公式サイト|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント ]]|accessdate=2022-07-02}}</ref>)<!-- 2022-08-25 --> * [[とある魔術の禁書目録 幻想収束]](エドワード・エルリック)<!-- 2022-11-11 --> | 2023年 | * 龍が如く 維新! 極(お登勢<ref>{{Cite web|和書|url=https://ryu-ga-gotoku.com/Ishin_kiwami/cast/|title=出演|work=『龍が如く 維新!極』公式サイト|publisher=[[セガ]]|accessdate=2022-09-14}}</ref>)<!-- 2023-02-22 --> * [[ファイアーエムブレム エンゲージ]](エル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/switch/ayfna/products/sidestory/index.html|title=ファイアーエムブレム エンゲージ エキスパンション・パス 邪竜の章|Nintendo Switch|work=任天堂|accessdate=2023-03-22}}</ref>)<!-- 2023-04-05 --> * WILD HEARTS(セレン) * [[ディアブロIV]](ローグ〈女性〉) * キュービックスターズ(ルナ<ref>{{Twitter status2|cubicstars_mixi|1720757787985055941|2023年11月4日|accessdate=2023-11-04}}</ref>)<!-- 2023-11-08 --> }} === ドラマCD === * [[愛を歌うより俺に溺れろ!]] シリーズ(堂島美咲) * [[青空の見える丘]](今井秀樹) * [[アニメ店長B'店長候補生]]('''福沢一太''') ** アニメ店長B'店長候補生 日常業務 ** アニメ店長B'店長候補生 Drama&Radio Talk Album 研修報告 Vol.1・2 * [[あまつき]] シリーズ('''朽葉''') * [[ALMIGHTY×10]](観月七重) * [[異界繁盛記 ひよこや商店]](澪) * [[イタズラなKiss]] シリーズ(入江裕樹) ** イタズラなKiss 第1章 -卒業編- ** イタズラなKiss 第2章 -プロポーズ編- * [[ヴァイスクロイツ|Wei・kreuz Gl・hen II Theater Of Pain]](ティフォーネ) * [[うえきの法則]] シリーズ('''[[植木耕助]]''') ** うえきの法則 〜容疑者・植木耕助の法則〜 ** うえきの法則 -The Low Of Robert's 10- * [[うわさの翠くん!!]] 二人の王子とハダカ姫の復讐!!(恵比寿仁) * [[エレメンタル ジェレイド]](ラサティ・ティグレス) * [[王家の紋章]](アイシス) * [[王子さまLV1]]シリーズ('''カナン・ルーキウス''') ** [[王子さまLV1]] ** 王子さまLV1 BL盤 スパイメモをチェックせよ ** 王子さまLV1.5 BLUE DISC ** 王子さまLV1.5 GREEN DISC ** 王子さまLV2 * [[学園アリス]] シリーズ('''日向棗''') ** 学園アリス ラブ☆ポーション注意報 ** 学園アリス 物忘れ☆マシーン ** 学園アリス チョコレート☆ホリック ** ドキドキ☆ドラマCD 「学園アリス」 ※[[花とゆめ]]2008年18・19号全員サービス * 勝手にレボリューション!(ミリアム・ピット)※オリジナルドラマCD 2010年10月15日 Fishレーベル初作品 * [[KAMUI]]〜カムイ〜(虎杖丸) * [[牙狼〈GARO〉-炎の刻印-]] SPECIAL DRAMA CD('''エマ・グスマン''') * [[薄墨桜 -GARO-]] 入場者特典 アニメ牙狼クロスオーバードラマCD1('''エマ・グスマン'''、'''クイーン'''、'''マーティン・ヘネス'''、星明''') * [[君と僕。]]〜あきらとこーちゃん編&ひだまり幼稚園編〜(塚原要、園児) * [[CLANNAD (ゲーム)#ドラマCD|CLANNAD 光見守る坂道で]] 第2巻(志麻賀津紀) * [[激☆店]]〜松本家のとん汁〜(星光) * ゴーゴー僕たち(園谷倫) * [[Fate/EXTRA|Sound Drama Fate/EXTRA]](レオナルド・ビスタリオ・ハーウェイ) * [[されど罪人は竜と踊る]](ベルドリト・リヴェ・ラキ) * [[静かなるドン]](理江) * [[仕立屋工房 Artelier Collection]] シリーズ(キリク) * [[シャーマンキング]]('''道蓮''') * [[シャイニング・フォース イクサ]] ドラマCD('''トウマ''') * 第一回[[声優アワード]]記念作品 こゑこひ 〜あなたの声に恋してる〜『Fool's Present』 * [[セキレイ (漫画)|セキレイ]] サウンドステージ01(鴉羽) * SOUND DRAMA 絶対調律士NoA Vol.2(シュバルツ) * [[葬儀屋リドル]]('''ルカ''') * [[ZONE-00]] シリーズ('''弁天''') ** ZONE-00 劇-I section CHERRY ** ZONE-00 劇-II section KNIGHT ** ZONE-00 劇-III * [[ゾンビ屋れい子]](姫園リルカ) * [[高嶺と花]] 単行本第13巻ドラマCD付き限定版(2019年、'''りの'''〈'''猪熊利之'''〉)<!-- 2019-02-20 --> * 探偵青猫(小林虎人) * decade 〜Yukiru Sugisaki 10th Anniversary〜(岩城友紀、峰水綾人) * [[デジモンアドベンチャー02]] シリーズ('''一乗寺賢''') * [[鋼の錬金術師]] シリーズ('''[[エドワード・エルリック]]''') ** 鋼の錬金術師 -偽りの光、真実の影- ** 鋼の錬金術師 -咎人たちの傷跡- ** 鋼の錬金術師 -天上の宝冠- ** 鋼の錬金術師 -霧のオグターレ- * [[八犬伝―東方八犬異聞―]]('''犬塚信乃''') * [[封殺鬼]](滝夜叉) * [[仏ゾーン]](センジュ) * [[BLEACH]]('''日番谷冬獅郎''') * [[冬のソナタ]] シリーズ(オ・チェリン) ** KBS-TV版ドラマCD声優ver. 冬のソナタ VOL.1 運命の人 ** KBS-TV版ドラマCD声優Ver. 冬のソナタ VOL.3 十年目の真実 ** KBS-TV版ドラマCD声優Ver. 冬のソナタ 最終話 冬の終わり * [[ペルソナ4]] シリーズ('''白鐘直斗''') * [[ポーの一族]] 1 - 6('''エドガー''') * [[まほらば]] 旅だ、事件だ、まほらばだ!!('''白鳥隆士''') * [[Rust Blaster]](終夜荊) * レ・ミゼラブル〜ジャン・バルジャンとジャベール〜(ファンティーヌ) * [[ルーンファクトリー3|ルーンファクトリー3 スペシャル]] Dream Collection特典ドラマCD「主人公大集合!オールスタードラマCD」(ラグナ<ref>{{Cite web2|work= 「ルーンファクトリー3スペシャル」公式ホームページ|url=https://runefactory.marv.jp/series/rf3SP/product.html#dream-collection|title=製品情報|accessdate=2023-02-24}}</ref>)<!-- 2023-03-02 --> === ラジオドラマ === * [[FMシアター]]([[NHK-FM]]) ** 昭和二十年それぞれの夏(1995年10月14日) ** ファイティング40、ママはチャンピオン(2016年10月29日) - 山川佳代子 役 ** みちのり(2017年4月22日) - 睦美 役 ** 秋桜の種(2017年9月26日) * [[青春アドベンチャー]](NHK-FM) ** [[イーシャの舟]](2001年5月14日 - 25日) - 加賀山和美 役 ** 太陽の簒奪者(2006年5月8日 - 19日) - 白石亜紀 役 ** レディ・パイレーツ(2012年1月9日 - 2月3日) - ミネルバ・シャープ 役 ** [[嘘の木]](2023年11月20日 - 12月8日) * [[A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜]](2007年、[[文化放送]]) - [[浅野真澄]] 役 * [[ポーの一族#「連続ラジオドラマ ポーの一族」|ポーの一族]](2007年10月6日 - 2008年3月、[[ラジオ関西]]) - エドガー 役 ※アラン役の[[斎賀みつき]]と共にパーソナリティも務める。 * [[師匠シリーズ#ラジオドラマ|師匠シリーズ]](2016年8月・2017年8月、[[JFN]]) - 浦井加奈子 役 * シェイクスピアが教えてくれた『[[ヴェニスの商人]]』(2016年12月23日、[[NHKラジオ第1]]) - ポーシャ 役 === デジタルコミック === * [[VOMIC]] [[終わりのセラフ]]('''百夜優一郎'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|title=鏡貴也×山本ヤマト「終わりのセラフ」朴ロ美らでVOMICに|url=https://natalie.mu/comic/news/83927|accessdate=2013-01-29}}</ref>) * VOMIC [[キングダム (漫画)|キングダム]](秦王 嬴政) * VOMIC [[magico]]('''シオン・エリファス・レヴィ''') * VOMIC ミカド☆ボーイ('''柴田英人'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|title=「ミカド☆ボーイ」がVOMIC化!朴ロ美、立木文彦ら出演|url=https://natalie.mu/comic/news/95801|accessdate=2013-07-25}}</ref>) * モーションコミック [[MURCIELAGO -ムルシエラゴ-]]('''紅守黒湖''') === オーディオブック === * 小説『[[君の名は。]]』 [[Audible]]版 * Audible『Marvel’s・ウェイストランダーズ : HAWKEYE』 === 吹き替え === ==== 担当女優 ==== {{dl2 | [[エヴァ・グリーン]] | * [[シン・シティ 復讐の女神]](エヴァ・ロード) * [[300 〈スリーハンドレッド〉 〜帝国の進撃〜]]('''アルテミシア''') * [[ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち (映画)|ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち]]('''ミス・ペレグリン''') | [[エヴァ・メンデス]] | * [[DENGEKI 電撃]](トリシュ)※ソフト版 * [[プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命]](ロミーナ) * [[レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード]](アヘドレス) * [[ワイルド・スピードX2]]('''モニカ・フェンテス''')※ソフト版 | [[エミリー・モーティマー]] | * [[カーズ2]]('''ホリー・シフトウェル''') * [[ピンクパンサー]](ニコール) ** [[ピンクパンサー2]] | [[キャメロン・ディアス]] | * [[イン・ハー・シューズ]]('''マギー・フェラー''') * [[ホリデイ (映画)|ホリデイ]]('''アマンダ・ウッズ''') * [[わたしのなかのあなた]]('''サラ・フィッツジェラルド''') | [[クレア・デュヴァル]] | * [[アイデンティティー (映画)|アイデンティティー]](ジニー)※テレビ東京版 * [[ゴースト・オブ・マーズ]](バシラ・キンケイド) * [[ノイズ (映画)|ノイズ]](ナン)※[[テレビ朝日]]版 * [[パラサイト (1998年の映画)|パラサイト]](ストークリー・ミッチェル)※フジテレビ版 | [[サルマ・ハエック]] | * [[ソーセージ・パーティー]](テレサ・デル・タコ) * [[バンディダス]]('''サラ・サンドバル''') * [[ワイルド・ワイルド・ウエスト]](リタ・エスコバー)※日本テレビ版 | [[ノーナ・ゲイ]] | * [[トリプルX ネクスト・レベル]](ローラ・ジャクソン)※テレビ朝日版 * マトリックスシリーズ(ジー)※劇場公開版 ** [[マトリックス リローデッド]] ** [[マトリックス レボリューションズ]] | [[ノオミ・ラパス]] | * [[アンロック/陰謀のコード]]('''アリス・ラシーン'''<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.fukikaeru.com/?p=9970| title = アンロック/陰謀のコード| publisher = ふきカエル大作戦!! | date = 2018-08-17| accessdate = 2018-08-17}}</ref>) * [[クロース:孤独のボディーガード]]('''サム・カールソン''') * [[ストックホルム・ケース]]('''ビアンカ'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[ハピネット]]|url=http://www.happinet-p.com/jp3/releases/BIXF-0348|title=ストックホルム・ケース|accessdate=2020-01-22}}</ref>) * [[セブン・シスターズ (映画)|セブン・シスターズ]]('''カレン・セットマン''') * [[チャイルドコール 呼声]]('''アンナ''') * [[LAMB/ラム]]('''マリア''') | [[ヒラリー・スワンク]] | * [[アメリア 永遠の翼]]('''[[アメリア・イアハート]]''') * [[インソムニア (2002年の映画)|インソムニア]]('''エリー・バー''')※[[テレビ東京]]版 * [[ギフト (映画)|ギフト]](ヴァレリー・バークスデイル) * [[ザ・コア]]('''レベッカ・“ベック”・チャイルズ少佐''')※テレビ朝日版 * [[ディア・ブラザー]]('''ベティ・アン・ウォーターズ''') * [[フリーダム・ライターズ]]('''エリン・グルーウェル''') * [[ミリオンダラー・ベイビー]]('''マギー・フィッツジェラルド''')※テレビ東京版 * [[リーピング]]('''キャサリン・ウィンター''') | [[ヘレナ・ボナム=カーター]] | * アリス・イン・ワンダーランドシリーズ('''赤の女王''') ** [[アリス・イン・ワンダーランド (映画)|アリス・イン・ワンダーランド]] ※劇場公開版 ** [[アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20160603/2/|title=深田恭子「アリス」続編で再び白の女王に!平田広明&朴ろ美も続投 |publisher=映画.com |accessdate=2016-06-03}}</ref> * [[シンデレラ (2015年の映画)|シンデレラ]](フェアリー・ゴッドマザー<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.fukikaeru.com/?p=673| title = シンデレラ| publisher = ふきカエル大作戦!! | date = 2015-04-23| accessdate = 2017-05-07}}</ref>) * [[ローン・レンジャー (2013年の映画)|ローン・レンジャー]](レッド・ハリントン) | [[ミシェル・ロドリゲス]] | * [[クライシス (映画)|クライシス]](ギャレット) * [[S.W.A.T.]](クリス・サンチェス)※ソフト版 * [[世界侵略: ロサンゼルス決戦]](エレナ・サントス技能軍曹) * バイオハザードシリーズ(レイン・オカンポ) ** [[バイオハザード (映画)|バイオハザード]] ※ソフト版 ** [[バイオハザードV リトリビューション]] ※劇場公開版 * マチェーテシリーズ(ルース) ** [[マチェーテ (映画)|マチェーテ]] ** [[マチェーテ・キルズ]] * [[レディ・ガイ]]('''フランク・キッチン''') | [[ルーシー・リュー]] | * [[カンフー・パンダ3]](ヘビ) * [[シャザム!〜神々の怒り〜]]('''カリプソ'''<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0135148|title=戸田恵子&朴路美&鬼頭明里が最強の三姉妹役『シャザム!』続編、日本版声優に決定|newspaper=シネマトゥデイ|date=2023-02-14|accessdate=2023-02-14}}</ref>) * [[シャンハイ・ヌーン]](ペペ姫)※テレビ朝日版 * [[セックス・アンド・ザ・シティ]](本人役) * チャーリーズ・エンジェルシリーズ('''アレックス・マンデー''')※テレビ朝日版 ** [[チャーリーズ・エンジェル (2000年の映画)|チャーリーズ・エンジェル]] ** [[チャーリーズ・エンジェル フルスロットル]] * [[バリスティック]]('''シーバー''')※テレビ朝日版 * [[ブラッド (映画)|ブラッド]]('''セイディー・ブレイク''') }} ==== 映画(吹き替え) ==== * [[アート・オブ・ウォー3]](スンイ〈[[イ・スンヒ]]〉) * [[アイアン・カウボーイズ ミーツ・ゴーストライダー]](ロンダ〈ローラ・ファヴァリ〉) * [[アイアン・スカイ]](ヴィヴィアン・ワグナー〈ペータ・サージェント〉) * [[アイズ・ワイド・シャット]](ウェイトレス) *[[アイドル 欲望の餐宴(バンケット)]]('''サラ・シルバー'''〈[[リーリー・ソビエスキー]]〉) * [[アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング]](ジェーン〈[[ビジー・フィリップス]]〉<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=10884|title=アイ・フィール・プリティ! 人生最高のハプニング|publisher=ふきカエル大作戦!!|date=2019-01-11|accessdate=2019-01-20}}</ref>) * [[アクシデント (映画)|アクシデント]](女〈[[ミシェル・イェ]]〉) * [[アナコンダ2]](ゲイル・スターン〈[[サリー・リチャードソン]]〉) * {{仮リンク|アリス・クリードの失踪|en|The Disappearance of Alice Creed}}('''アリス・クリード'''〈[[ジェマ・アータートン]]〉) * [[ある公爵夫人の生涯]](レディ・エリザベス・フォスター〈[[ヘイリー・アトウェル]]〉) * [[家なき子#映画|家なき子 希望の歌声]](ハーパー夫人〈[[ヴィルジニー・ルドワイヤン]]〉<ref>{{Cite web|和書|publisher=TCエンタテインメント株式会社|url=https://www.tc-ent.co.jp//products/detail/TCED-5973|title=家なき子 ~希望の歌声~|accessdate=2021-06-17}}</ref>) * [[移動都市/モータル・エンジン]](アナ・ファン〈ジハエ〉<ref>{{cite news|url=http://mortal-engines.jp/voicecast/|title=VOICE CAST|work=映画「移動都市/モータル・エンジン」公式サイト|accessdate=2019-01-17}}</ref>) * [[ヴァージン・ハンド]](レティシア) * [[ヴァン・ヘルシング (映画)|ヴァン・ヘルシング]](マリーシュカ〈[[ジョジー・マラン]]〉)※DVD版 * [[美しい人 (2005年の映画)|美しい人]](ローナ〈[[エイミー・ブレネマン]]〉) * 裏窓の女‐甘い嘘‐(クレマンス〈[[クリスティーヌ・ボワッソン]]〉) * 永遠のプリンセス・ダイアナ * [[エイリアン2]](ジェニット・バスクエス〈[[ジェニット・ゴールドスタイン]]〉)※アルティメット・エディションDVD版 * [[エネミー・オブ・アメリカ]](カーラ・ディーン〈[[レジーナ・キング]]〉)※[[フジテレビ]]版 * [[エンター・ザ・フェニックス]](ジュリー〈[[カレン・モク]]〉) * [[エンド・オブ・デイズ]] * [[エントラップメント]]('''ジン・ベイカー'''〈[[キャサリン・ゼタ=ジョーンズ]]〉)※テレビ東京版 * [[火山高]](学園五人集の英語教師) * [[カムバック!]](ジュリア〈[[ラシダ・ジョーンズ]]〉) * [[カラー・オブ・ハート]](ペギー・ジェーン) * [[ガルム・ウォーズ|GARMWARS ガルム・ウォーズ]](カラ〈メラニー・サンピエール〉) * [[キリング・ミー・ソフトリー]](ジョアンナ) * [[キャッツ (映画)|キャッツ]](カッサンドラ〈メット・トーレイ〉) * [[華麗なるギャツビー]](マートル・ウィルソン〈[[カレン・ブラック]]〉)※DVD版 * [[キャプテン・ウルフ]] * [[キューティ・ブロンド]](セリーナ〈アラナ・ユーバック〉)※ソフト版 * [[キューブ2]] (サーシャ) ※ソフト版 * [[クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア]](アカーシャ〈[[アリーヤ]]〉) * グリズリー・レイジ(ローレン) * g:mt グリニッジ・ミーン・タイム(シェリー) * クレイジー・ワールド(アナ) * [[クローサー (2002年の映画)|クローサー]]('''コン・ヤッホン刑事'''〈カレン・モク〉)※ソフト版 * [[クローサー・ユー・ゲット]](シボーン〈キャスリーン・ブラッドレイ〉) * [[グロリア (1999年の映画)|グロリア]](アンジー) * ゲット・マネー(パム〈ヴァレリー・レイ・ミラー〉) * [[ゴーストバスターズ (2016年の映画)|ゴーストバスターズ]]('''ジリアン・ホルツマン'''〈[[ケイト・マッキノン]]〉) ** [[ゴーストバスターズ/アフターライフ]](キャリー〈[[キャリー・クーン]]〉<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/462019|title=「ゴーストバスターズ」吹替版に高山みなみ、朴ろ美、木内秀信、日笠陽子|newspaper=映画ナタリー|date=2022-01-18|accessdate=2022-01-18}}</ref>) * [[コールド マウンテン]]('''ルビー・シューズ'''〈[[レネー・ゼルウィガー]]〉)※テレビ東京版 * [[恋は邪魔者]]('''バーバラ・ノヴァク'''〈レネー・ゼルウィガー〉) * [[GODZILLA]] ※テレビ版 * [[コラテラル]](アニー〈[[ジェイダ・ピンケット・スミス]]〉) * [[コンカッション (2015年の映画)|コンカッション]](プリマ〈[[ググ・バサ=ロー]]〉) * [[コンクエスタドール]](レンフリ〈キンガ・イルグナー〉) * [[ザ・スピリット]](シルケン・フロス〈[[スカーレット・ヨハンソン]]〉) * [[ザ・セル]](ジュリア・ヒクソン) * [[ジェクシー! スマホを変えただけなのに]](デニス〈[[ワンダ・サイクス]]〉<ref>{{Cite web|和書|work=アニメイトタイムズ|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1595383650|title=恋する暴走スマホ役は花澤香菜さん/『ジェクシー! スマホを変えただけなのに』超豪華吹替声優陣よりコメントが到着|accessdate=2020-07-22}}</ref>) * [[ジェニファー・ロペス 戦慄の誘惑]](クレア・ペーターソン〈[[ジェニファー・ロペス]]〉)※オンデマンド配信版 * [[ジオストーム (映画)|ジオストーム]](デイナ〈[[ザジー・ビーツ]]〉<ref>{{Cite news|publisher=ふきカエル大作戦!!|title=話題のふきカエ ジオストーム|url=http://www.fukikaeru.com/?p=8486|date=2017-12-20|accessdate=2017-12-20}}</ref>) * [[死ぬまでにしたい10のこと]](美容師〈[[マリア・デ・メデイロス]]〉) * [[ジャスト・マリッジ]]('''サラ・マクナニー'''〈[[ブリタニー・マーフィ]]〉) * [[ジャングル・ブック (2016年の映画)|ジャングル・ブック]](カー<!-- 〈声:スカーレット・ヨハンソン〉 -->) * [[ジャンゴ 繋がれざる者]](ブルームヒルダ〈[[ケリー・ワシントン]]〉) * [[ジャンヌ・ダルク (映画)|ジャンヌ・ダルク]]('''[[ジャンヌ・ダルク]]'''〈[[ミラ・ジョヴォヴィッチ]]〉)※ソフト版 * [[10人の泥棒たち]]('''ペプシ'''〈[[キム・ヘス]]〉) * [[ジュエルに気をつけろ!]](ビンゴの女) * [[ジュラシック・パークIII]](シェリル・ローガン〈サラ・ダニエル・マディソン〉) * 処刑・ドット・コム(チャーリー〈[[ジェニファー・スカイ]]〉) * 情熱の迷走(アリッサ〈[[トレイシー・ゴールド]]〉) * [[処刑人II]](ユーニス・ブルーム〈[[ジュリー・ベンツ]]〉) * [[スカーレット・ディーバ]]('''アンナ・バティスタ'''〈[[アーシア・アルジェント]]〉) * [[スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー]]('''フランキー・クック'''〈[[アンジェリーナ・ジョリー]]〉) * スタートレックシリーズ('''[[ウフーラ]]'''〈[[ニシェル・ニコルズ]]〉)※スペシャル・コレクターズ・エディションDVD版 ** [[スタートレックII カーンの逆襲]] ** [[スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!]] ** [[スタートレックIV 故郷への長い道]] ** [[スタートレックV 新たなる未知へ]] ** [[スタートレックVI 未知の世界]] * [[スティグマータ 聖痕]](ジェニファー〈[[ポーシャ・デ・ロッシ]]〉) * [[ステルス (映画)|ステルス]]('''カーラ・ウェイド大尉'''〈[[ジェシカ・ビール]]〉) * [[ストリート・オブ・ファイヤー]](マッコイ〈[[エイミー・マディガン]]〉)※配信版 * [[スノーホワイト/氷の王国]]('''サラ'''〈[[ジェシカ・チャステイン]]〉) * [[ズーランダー]]([[ウィノナ・ライダー]]) * 世界で一番殺された女(ポーラ・マクサ〈[[アンナ・ムグラリス]]〉) * [[そして、私たちは愛に帰る]](アイテン) * ソフィア・ローレン 母の愛([[ソフィア・ローレン]]〈マーガレット・マデ〉) * [[ダークナイト]](アンナ・ラミレス刑事〈[[モニーク・ガブリエラ・カーネン]]〉)※ソフト版 * [[ターミネーター4]](ブレア・ウィリアムズ〈[[ムーン・ブラッドグッド]]〉) * [[タイムマシン (2002年の映画)|タイムマシン]](マーラ)※DVD版 * [[TAXI NY]]('''ベル・ウィリアムス'''〈[[クィーン・ラティファ]]〉)※ソフト版 * [[堕天使のパスポート]](ジュリエット〈[[ソフィー・オコネドー]]〉) * [[ダンス・レボリューション]](ジーナ〈[[ジョイ・ブライアント]]〉) * [[チーター・ガールズ]]シリーズ(アクア) ** チーター・ガールズ ** チーター・ガールズ2 ** チーター・ガールズ3 in インド * [[チャドルと生きる]](アレズー) * [[沈黙のジェラシー]](リサ〈[[デビ・メイザー]]〉) * [[沈黙のテロリスト]](ベブ) * [[テイキング・ライブス]](イリアナ・スコットFBI捜査官〈アンジェリーナ・ジョリー〉)※テレビ版 * [[D-TOX]](メアリー〈[[ディナ・メイヤー]]〉)※DVD版 * [[デッドコースター|デッドコースター ファイナル・デスティネーション2]](クレア・リバース〈[[アリ・ラーター]]〉)※DVD版 * [[デトネーター]](ナディア・コミンスキー〈[[シルヴィア・コロカ]]〉)※ソフト版 * デルフィーヌの場合(オリビア〈[[ルー・ドワイヨン]]〉) * [[トゥー・ウィークス・ノーティス]]('''ルーシー・ケルソン'''〈[[サンドラ・ブロック]]〉) * [[ドクター・ドリトル (2020年の映画)|ドクター・ドリトル]](ダブダブ<!-- 〈声:[[エマ・トンプソン]]〉 --><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0114072|title=豪華すぎ!『ドクター・ドリトル』吹替版に藤原啓治、小野大輔、杉田智和、大塚明夫ら23名参加|work=シネマトゥデイ|date=2020-02-13|accessdate=2020-02-13}}</ref>) * [[トランスポーター2]](ローラ〈[[ケイト・ノタ]]〉)※ソフト版 * [[トリコロールに燃えて]]('''ミア'''〈[[ペネロペ・クルス]]〉) * ドリフト -TIME AND TIDE-(ジョー〈[[キャンディ・ロー]]〉) * [[名もなき生涯]](ファニ〈ヴァレリー・パフナー〉<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]|url=https://www.disney.co.jp/studio/others/1548.html|title=名もなき生涯|accessdate=2020-06-05}}</ref>) * [[ナルニア国物語/第3章: アスラン王と魔法の島]]('''ユースチス・スクラブ'''〈[[ウィル・ポールター]]〉) * [[ネバー・サレンダー 肉弾凶器]](アンジェラ〈アビゲイル・ビアンカ〉)※テレビ東京版 * [[ハート・オブ・ウーマン]](ローラ〈[[マリサ・トメイ]]〉)※[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版 * [[バービー (映画)|バービー]](変てこバービー〈ケイト・マッキノン〉<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/533334|title=武内駿輔、朴ろ美、小野大輔、斎賀みつきら11名が「バービー」吹替版に参加|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-19|accessdate=2023-07-19}}</ref>)<!-- 2023-08-11 --> * [[パーフェクト・ケア]]('''マーラ・グレイソン'''〈[[ロザムンド・パイク]]〉<ref>{{Cite news|publisher=株式会社ナターシャ|work=映画ナタリー|url=https://natalie.mu/eiga/news/454911|title=朴ろ美、森川智之、濱野大輝が「パーフェクト・ケア」吹替版に参加|date=2021-11-25|accessdate=2021-11-25}}</ref>) * [[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]](マーサ)※ソフト版 * バトルフィールド TOKYO(サラ・サリヴァン〈サラ・リンチ〉) * バニラ・フォグ(クリス〈[[アマンダ・ピート]]〉) * パリの確率(バーバレラ) * [[B型の彼氏]](ボヨン〈[[チョン・リョウォン]]〉) * ピクチャー・クレア(クレア〈[[ジュリエット・ルイス]]〉) * [[ビッグ・トラブル (2002年の映画)|ビッグ・トラブル]](ジェニー・ハーク〈[[ズーイー・デシャネル]]〉) * [[ピノッキオ (映画)|ピノッキオ]](ロザーラ) * [[ヒューマン・ネイチュア]](ガブリエル〈[[ミランダ・オットー]]〉) * [[ファイナル・デスティネーション]](クレア・リバース〈アリ・ラーター〉)※DVD版 * [[ファイナル・レジェンド 呪われたソロモン]](ダリア・バール警部補〈[[ソフィア・ミロス]]〉) * [[プライベートレッスン 青い体験]](ナモク) * [[プリズナーズ]](ナンシー・バーチ〈[[ヴィオラ・デイヴィス]]〉)※[[BSジャパン]]版 * [[ベッドタイム・ストーリー]](ドナ・ハインド〈[[アイシャ・タイラー]]〉) * [[ベティ・サイズモア]](ジョイス〈[[シーラ・ケリー]]〉) * [[僕のワンダフル・ジャーニー]](グロリア〈[[ベティ・ギルピン]]〉<ref>{{Cite news|work=映画『僕のワンダフル・ジャーニー』|url=https://boku-wonderful.jp/news/2019/07/09/journey0709/|title=🐾豪華日本語吹替版キャスト解禁🐾 高木渉が再び生まれ変わる!大塚明夫&松岡洋子も続投!さらに、本作から参加する石川界人・朴璐美・鈴木達央ら 新たな”犬生”を彩る人気実力派声優陣が発表! 吹替版予告映像も解禁!|accessdate=2019-07-09}}</ref>) * [[ホーリー・スモーク]](イボンヌ) * 炎の少女チャーリー:REBORN(ベッキー) * [[ポリス・ストーリー REBORN]](女殺し屋〈テス・ハウブリック〉) * [[ポルカ・キング]](マーラ〈[[ジェニー・スレイト]]〉) * ホワイト・インフェルノ(クレア〈ジェニファー・ジーン・スナイダー〉) * [[マーベル・シネマティック・ユニバース]]('''[[ガモーラ]]'''〈[[ゾーイ・サルダナ]]〉) ** [[ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー (映画)|ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー]] ** [[ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス]] ** [[アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー]]<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=9503|title=話題のふきカエ アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー|newspaper=ふきカエル大作戦!!|date=2018-6-19|accessdate=2018-6-19}}</ref> ** [[アベンジャーズ/エンドゲーム]]<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=11706|title=アベンジャーズ/エンドゲーム|work=ふきカエル大作戦!!|date=2019-05-09|accessdate=2019-05-09}}</ref> ** [[ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3]]<ref>{{Cite 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news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=11952|title=メン・イン・ブラック:インターナショナル|publisher=ふきカエル大作戦!!|date=2019-06-07|accessdate=2019-06-09}}</ref>) * [[容疑者 (2002年の映画)|容疑者]](ジーナ〈[[エリザ・ドゥシュク]]〉) * [[夜に生きる]](エマ・グールド〈[[シエナ・ミラー]]〉) * ラスト・チャンスをあなたに(サイクロプス〈[[ローラ・ハリス]]〉) * [[ラブいぬベンジー はじめての冒険]](コルビー) * [[リトル・ランボーズ]]('''リー・カーター'''〈ウィル・ポールター〉) * [[リンカーン/秘密の書]](ヴァドマ〈[[エリン・ワッソン]]〉) * [[ル・アーヴルの靴みがき]](イドリッサ〈[[ブロンダン・ミゲル]]〉) * [[ルネッサンス (映画)|ルネッサンス]](ビスレーン・タジエフ〈[[キャサリン・マコーマック]]〉) * レッドクリフシリーズ(孫尚香〈[[ヴィッキー・チャオ]]〉) ** [[レッドクリフ#レッドクリフ Part I|レッドクリフ Part I]] ** [[レッドクリフ#レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-|レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-]] * [[レッド・サイレン]](アリス) * [[ロード・トリップ]](ティファニー2〈[[ジェシカ・コーフィール]]〉) ==== ドラマ ==== * [[iCarly]](ピーラフ校長) * [[アメリカン・ホラー・ストーリー|アメリカン・ホラー・ストーリー: ホテル]]('''伯爵夫人'''〈[[レディー・ガガ]]〉) * [[ある結婚の風景]]('''ミラ'''〈ジェシカ・チャステイン〉<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0127660|title=山路和弘&朴路美が夫婦役で共演!「ある結婚の風景」日本語吹替版声優が発表に|newspaper=シネマトゥデイ|date=2021-12-16|accessdate=2021-12-16}}</ref>) * [[ER緊急救命室]] ** シーズン6(メグ・コーウィン〈[[マーサ・プリンプトン]]〉) ** シーズン7(キニーシャ〈トイ・コナー〉) ** シーズン9 #17(モリー〈マリナ・マロタ〉) ** シーズン10 - 12(ケム・リカス〈[[タンディ・ニュートン]]〉) * [[イエロージャケッツ (テレビドラマ)|イエロージャケッツ]](タイッサ〈タウニー・サイプレス、ジャスミン・サヴォイ・ブラウン〉<ref>{{Cite web|和書|work=PR TIMES|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000810.000031998.html|title=遭難した女子サッカーチームの狂気を描くサバイバル・サスペンス『イエロージャケッツ』日本語吹替版に本名陽子、田村ゆかり、小林ゆう、朴璐美、白石涼子。第1話をU-NEXT公式YouTubeにて無料公開|accessdate=2021-11-26}}</ref>) * [[WITHOUT A TRACE/FBI 失踪者を追え!]] ファイナル・シーズン(ナタリア・アンダーソン) * [[ウェイワード・パインズ|ウェイワード・パインズ 出口のない街]](ビバリー〈[[ジュリエット・ルイス]]〉) * [[オデッセイファイブ|オデッセイ5]](サラ・フォーブス) * [[カウボーイビバップ (テレビドラマ)|カウボーイビバップ]](シン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0126465|title=実写版「カウボーイビバップ」吹き替えにオリジナル声優!スパイク役は山寺宏一!|website=シネマトゥデイ|date=2021-10-13|accessdate=2021-10-13}}</ref>) * [[キャシーのbig C -いま私にできること-]](アンドレア〈[[ガボレイ・シディベ]]〉) * [[glee/グリー]](リンジー〈[[リンジー・ローハン]]〉)、(カサンドラ・ジュライ〈[[ケイト・ハドソン]]〉) * [[クリミナル・マインド FBI行動分析課|クリミナル・マインド7 FBI行動分析課]] #23, #24(イジー・“クイーン”・ロジャース〈[[トリシア・エルファー]]〉) * [[グレイズ・アナトミー 恋の解剖学|グレイズ・アナトミー]](アメリア・シェパード〈[[カテリーナ・スコーソン]]〉) * [[コールドケース 迷宮事件簿|コールドケース2]] #22(ビリー・デュセット〈[[テッサ・トンプソン]]〉) * [[ゴシップガール]](ヴァネッサ・エイプラムズ〈[[ジェシカ・ゾア]]〉) * [[ゴッサム・シティ・エンジェル]](ヘレナ・カイル〈[[アシュレイ・スコット]]〉) * [[サード・ウォッチ]](リベット・パウエル) * ザ・ネバーズ(マラディ〈[[エイミー・マンソン]]〉<ref>{{Cite web|和書|work=アニメイトタイムズ|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1623979396|title=U-NEXT独占配信ドラマ『ザ・ネバーズ』日本語吹替版声優として坂本真綾さん、早見沙織さん、小西克幸さんらが出演決定! 声優陣からはコメントも到着!|accessdate=2021-06-18}}</ref>) * [[サブリナ (テレビドラマ)|サブリナ]](リビー・チェスラー〈ジェナ・リー・グリーン〉) * [[ザ・ホスピタル]](グァン・ホア〈ディン・ニン〉) * [[The Last of Us (テレビドラマ)|THE LAST OF US]]('''マーリーン'''〈マール・ダンドリッジ〉<ref>{{Cite news|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1673586058|title=オリジナルドラマ『THE LAST OF US』日本語吹替版制作決定! 2023年2月13日より配信開始! 山寺宏一さん、潘めぐみさんなどゲーム版のキャストが続投!|newspaper=アニメイトタイムズ|publisher=アニメイト|date=2023-01-13|accessdate=2023-01-13}}</ref>)<!-- 2023-02-13 --> * [[CSI:科学捜査班]] #2(ジェイミー) * CSI:2 科学捜査班 #1(ジャニーン・ヘイウッド〈ミッシー・クライダー〉) * [[ジャイアント (テレビドラマ)|ジャイアント]]('''ファン・ジョンヨン'''〈[[パク・チニ]]〉) * ジャック&ジル(オードリー〈[[ジェイミー・プレスリー]]〉) * [[シンデレラ (1997年のテレビ映画)|シンデレラ]]('''シンデレラ'''〈[[ブランディ]]〉) * [[スーパーナチュラル]] シーズン11 #1,#3,#9,#10,#13,#18,#21-#23(ダークネス / アマラ〈[[エミリー・スワロー]]〉) * [[SCORPION/スコーピオン]] シーズン1 #20(マヤ・ヘルナンデス〈ジンジャー・ゴンザーガ〉) * ソロリティΦフォーエバー(ブリジット) * ティーンズ救命隊(ケイティ) * [[デビアスなメイドたち]]('''ロージー・ファルタ'''〈[[ダニア・ラミレス]]〉) * [[天才学級アント・ファーム]](マダムグーグー) * [[ドクター・フー]] シーズン11('''[[ドクター (ドクター・フー)#新シリーズのドクター|13代目ドクター]]'''〈[[ジョディ・ウィテカー]]〉) * [[夏の香り]](オ・ジャンミ〈チョ・ウンスク〉) * [[NUMBERS 天才数学者の事件ファイル]] シーズン3 #1,#2(クリスタル・ホイル〈キム・ディケンズ〉) * [[バフィー 〜恋する十字架〜]](グローリー〈[[クレア・クレイマー]]〉) * ハロー!スーザン(ヴィッキー・グロナー・ルービンスタイン〈[[キャシー・グリフィン]]〉) * [[ヒューマン・ターゲット]] シーズン2 #11(アンジー・アンダーソン〈[[ローレン・ジャーマン]]〉) * フォッシー&ヴァードン 〜ブロードウェイに輝く生涯〜('''[[グウェン・ヴァードン]]'''〈[[ミシェル・ウィリアムズ]]〉<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[WOWOW]]|work=|url=https://www.wowow.co.jp/detail/170381|title=フォッシー&ヴァードン ~ブロードウェイに輝く生涯~|accessdate=2020-10-27}}</ref>) * [[プライベート・プラクティス 迷えるオトナたち|プライベート・プラクティス]](アメリア・シェパード〈カテリーナ・スコーソン〉) * フラッシュポイント -特殊機動隊SRU-(ジュールス) * [[ブルックリン74分署]](ノーナ・バレンタイン巡査〈クレア・スコット〉) * [[プロビデンス (テレビドラマ)|プロビデンス]](ダニエル) * [[ベター・コール・ソウル]]('''キム・ウェクスラー'''〈[[レイ・シーホーン]]〉) * マーズ 火星移住計画(ハナ・スン、ジュン・スン) * [[マードック・ミステリー 〜刑事マードックの捜査ファイル〜]] #8(ミネルバ・フェアチャイルド〈シャーロット・サリヴァン〉) * [[MACGYVER/マクガイバー]] シーズン1 #13(シンシア〈[[ズライ・エナオ]]〉) * [[ミス・マープル|ミス・マープル3 復讐の女神]](ジョージーナ) * [[ミディアム 霊能者アリソン・デュボア|ミディアム6 霊能者アリソン・デュボア]](キラ・ヒューダック) * ミディアム7 最終章(リー・スキャンロン〈少年時代〉、サマンサ・コークリー) * [[名探偵ポワロ|名探偵ポワロ ひらいたトランプ]](ローダ・ドーズ〈ハニーサックル・ウィークス〉) * [[名探偵モンク|名探偵モンク7]](ローラ) * [[UCアンダーカバー 特殊捜査班]](モニカ・デイヴィス〈ブルックリン・ハリス〉) * [[愉快なシーバー家]](ブロンド) * [[リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線]]('''ジェーン・リゾーリ'''〈[[アンジー・ハーモン]]〉) * [[恋・愛・都・市 恋がしたい]]('''リー・ミンラン'''〈[[ナー・イン]]〉) * [[私はラブ・リーガル|私はラブ・リーガル4]] #1-#3,#12(ニッキー・ルプリー〈[[キム・カーダシアン]]〉) * ワン・ミシシッピ〜ママの生きた道、ワタシの生きる道〜(ティグ・ノタロ) ==== アニメ ==== * [[アドベンチャー・タイム]]('''フィン''') * [[アトランティス 失われた帝国|アトランティス 帝国最後の謎]]('''プリンセス・キーダ''') * [[アバローのプリンセス エレナ]](シュリキ) * [[ぎゃあ!!!リアル・モンスターズ]] * [[クルードさんちのはじめての冒険]]('''イープ・クルード'''<!-- 〈声:[[エマ・ストーン]]〉 --><ref>{{Cite web|和書|publisher=[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]|work=ユニバーサル100周年 公式サイト|url=https://www.uni-100.com/catalog/36483/|title=クルードさんちのはじめての冒険|accessdate=2023-05-20}}</ref>) ** [[クルードさんちのあたらしい冒険]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]|work=ユニバーサル100周年 公式サイト|url=https://www.uni-100.com/catalog/52626/|title=クルードさんちのあたらしい冒険|accessdate=2021-11-19}}</ref> * [[シュレック2]](レッドカーペットのアナウンサー) * [[シンデレラII]](メアリー) * [[スパイダーマン (アニメ)|スパイダーマン]](テリー・リー) * [[DC がんばれ!スーパーペット]]([[マーシー・グレイブス]]<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0131465|title=声優界のスーパーヒーロー大集結!『DC がんばれ!スーパーペット』追加声優12名発表|newspaper=シネマトゥデイ|date=2022-07-26|accessdate=2022-07-26}}</ref>) * [[ティーモ・シュプリーモ]]('''キャプテン・クランドル''') * [[ティンカー・ベル シリーズ]](ヴィディア) ** [[ティンカー・ベル (映画)|ティンカー・ベル]] ** [[ティンカー・ベルと妖精の家]] ** [[ティンカー・ベルと輝く羽の秘密]] ** [[ティンカー・ベルとネバーランドの海賊船]] ** [[ティンカー・ベルと流れ星の伝説]] ** [[ピクシー・ホロウ・ゲームズ 妖精たちの祭典]] * [[なかよしおばけ]]('''ジョージ''')※ビデオ版 * [[バイオニクル|BIONICLE -マスク・オブ・ライト- ザ・ムービー]]('''ガーリ''') * [[ハウス・オブ・マウス]]([[クララベル・カウ]]、パーディダ) * [[バットマン ゴッサムナイト]]('''アンナ・ラミレス''') * [[プラウドファミリー]](トゥルーディー・プラウド) * [[ヘイ・アーノルド!#ヘイ・アーノルド! ムービー|ヘイ・アーノルド! ムービー]]('''ジェラルド''') * [[ヘラクレス (TVシリーズ)|ヘラクレス]](ヘカテー 他) * [[ホームムービーズ]](ポーラ・スモール、ペリー) * [[ホワット・イフ...?]](ガモーラ<!-- 〈声:シンシア・マクウィリアムズ〉 --><ref>{{Cite web|和書|url=https://disneyplus.disney.co.jp/news/2021/whatif_voice-actors.html|title=『ホワット・イフ...?』夢の超豪華吹替声優陣決定。再び“アベンジャーズ・アッセンブル”!?|website=Disney+(ディズニープラス)公式|date=2021-08-10|accessdate=2021-08-10}}</ref>)<!-- 2021-10-06 --> * [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (映画)#ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!|ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!]](2023年9月22日公開予定)(シンシア・ユートロム<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/532296|title=宮世琉弥と齊藤京子が「ミュータント・タートルズ」吹替版に参加、佐藤二朗は悪役|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-11|accessdate=2023-07-11}}</ref>)<!-- 2023-09-22 --> * [[ムーミン|ムーミン谷とウィンターワンダーランド]](ムーミンママ、リトルミイなど13役) * [[モンスター・ハウス (映画)|モンスター・ハウス]](ジー<!-- 〈声:[[マギー・ジレンホール]]〉 -->) ==== その他 ==== * [[The Ultimate Fighter|UFC登竜門TUF]] シーズン18([[ミーシャ・テイト]]) * [[ランニング・ワイルド with ベア・グリルス|ランニング・ワイルド WITH ベア・グリルス 2]] <!-- アメリカではシーズン6 -->#6([[ジーナ・カラーノ]]〈本人〉<ref>{{Cite web2|url=https://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2918|title=ランニング・ワイルド WITH ベア・グリルス 2|website=ナショナル ジオグラフィック (TV)|accessdate=2021-09-02}}</ref>) === テレビドラマ === * [[火曜サスペンス劇場]]「正当防衛」(1995年10月3日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[女検事・霞夕子|新・女検事 霞夕子]]「花を捨てる女」(1995年11月21日、日本テレビ) * [[たたかうお嫁さま]] 新婚SP(1996年4月3日、日本テレビ) * [[スーパー戦隊シリーズ]]([[テレビ朝日]]) ** [[侍戦隊シンケンジャー]](2009年) - 薄皮太夫の声 /薄雪 役 ** [[騎士竜戦隊リュウソウジャー]](2019年) - プリシャスの声 役、エラスの声 役 ** [[暴太郎戦隊ドンブラザーズ]](2022年) - 龍虎之戟、虎的盾鑼音声<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei.co.jp/tv/donbrothers/story/1229263_3246.html |title=暴太郎戦隊ドンブラザーズ ドン16話 やみおちスイッチ|accessdate=2022-06-12|website=東映オフィシャルサイト}}</ref>{{Sfn|宇宙船178|2022|pp=68-69|loc=「[インタビュー][[濱野大輝]]」}} * [[サギ師リリ子]](2009年、[[テレビ東京]]) - 久保川朋美 役 * [[古代少女ドグちゃん]](2009年、[[毎日放送]]) - ドキゴローの声 役 * [[雪冤]](2010年9月29日、テレビ東京) - 恭子 役 * [[古代少女隊ドグーンV]](2010年、毎日放送) - シャシャ爺の声 役 * [[コードネームミラージュ]](2017年、テレビ東京) - ロビンの声役 * [[日曜ワイド]]「[[将軍刑事]]」(2018年1月21日、テレビ朝日) - ダイナゴンの声 役 * [[金曜プレミアム]]「[[京都殺人案内|新 京都殺人案内]]」(2018年2月9日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - バリスタ 役 * [[仮面ライダーセイバー]](2021年、テレビ朝日) - ネコメギドの声 役<ref>{{Cite news|publisher=東映|work=仮面ライダーセイバー|仮面ライダーWEB【公式】|url=https://www.kamen-rider-official.com/saber/31|title=第31章「信じる強さ、信じられる強さ。」|accessdate=2021-04-11}}</ref> === 映画 === * [[侍戦隊シンケンジャー 銀幕版 天下分け目の戦]](2009年、薄皮太夫の声) * [[侍戦隊シンケンジャーVSゴーオンジャー 銀幕BANG!!]](2010年、薄皮太夫の声) * [[神☆ヴォイス]](2011年、竹田さゆり) * {{仮リンク|あかぼし|en|Akaboshi (film)}}(2013年、'''園部佳子''') * [[スプリング、ハズ、カム]](2017年、夏川真希子)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/160464|title=E-girls石井杏奈、“部屋探しロードムービー”で落語家・柳家喬太郎とW主演|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2015-09-18|accessdate=2015-09-18}}</ref> * [[ハケンアニメ! (映画)|ハケンアニメ!]](2022年、ナレーション<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/466927|title=映画「ハケンアニメ!」劇中アニメに梶裕貴・高橋李依ら12人が出演、実写パートも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-24|accessdate=2022-02-24}}</ref>)<!-- 2022-05-20 --> === 舞台 === * 赤い鳥の居る風景 * [[演劇集団 円|演劇集団円]]『雨空』(1995年6日 - 11日、ステージ円) - お末 役 * 演劇集団円『ねこ・こんさるたんと』(1996年1月5日 - 14日、[[湘南台文化センター]] 他) * 演劇集団円『[[薔薇と海賊]]』(1996年7月3日 - 8日、[[紀伊國屋ホール]]/7月10日、ピッコロシアター) * [[菜の花舞台]](1997年、伊豆市小土肥) * 飛龍伝〜今蘇る、青春の魂〜(1997年、[[スペース・ゼロ]]) * 花粉熱(1998年、[[博品館劇場]]) - ジャッキー・コーリトン 役 * [[フェードル]](1999年、[[青山円形劇場]]) - イスメーヌ 役 * 彷徨列車(2000年、中野[[ザ・ポケット]]) - マドカ 役 * [[黒柳徹子]]主演シリーズ『レティスとラベッジ』(2000年、[[ル テアトル銀座 by PARCO|ル テアトル銀座]]) - ミス・フレイマー 役 * 演劇集団円『鏡花万華鏡 風流線』(2004年7月16日 - 25日、紀伊國屋ホール) - お龍 役 * 朗読劇『[[電車男]]』(2005年3月12日 - 14日、[[シアターアプル]]/5月9日、[[東京国際フォーラム]] ホールC) - 主演・電車男 役 * [[レインマン]](2006年、[[東京グローブ座]] 他) - スザンナ・パルミエリ 役 * 演劇集団円『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]‐現代人よ!これがファウスト的生き方だ!‐』(2006年7月21日 - 30日、紀伊國屋ホール) * クイックドロウ(2007年、[[シアターアプル]]) - マイラ 役 * フェイドラの恋(2007年、[[シアターΧ]]) - ストローフィ 役 * 演劇集団円『[[オセロー]]』(2007年7月20日 - 29日、紀伊國屋ホール) - [[デズデモーナ]] 役 * 喝采(2007年、[[シアターサンモール]]) - 西園寺飛鳥 役 * 孤独から一番遠い場所(2008年、ステージ円) - 美砂子 役 * 黒柳徹子主演シリーズ『33の変奏曲』(2010年、ル テアトル銀座) - クララ・プラント 役 * 演劇集団円『ホームカミング』(2010年4月12日 - 25日、ステージ円) - ルース 役 * 演劇集団円『死んでみたら死ぬのもなかなか[[四谷怪談]]‐恨‐』(2010年8月8日 - 15日、[[シアタートラム]]/20日 - 22日、台東デザイナービレッジ) - お岩 役 * 朗読劇『[[ラヴ・レターズ (戯曲)|LOVE LETTERS]]』(2010年、[[PARCO劇場]]) - メリッサ 役 * 東日本復興支援リーディング『いのちを詠う‐日本の現代詩から‐』(2011年、[[世田谷パブリックシアター]]) * SOUND THEATRE『Mermaid Blood』(2012年、[[室町東三井ビルディング|日本橋三井ホール]]) - 伽羅、[[北条政子]] 役 * 演劇集団円『胸の谷間に蟻』(2012年4月20日 - 5月2日、ステージ円) - 高森奈々 役 * 燕のいる駅(2012年、三鷹市芸術文化センター 他) - 劇中アナウンス * 即興!!〜ガチとの遭遇〜(2012年、[[TACCS1179]]) * プロデュース『戯伝[[写楽]]‐その男、十郎兵衛‐』(2012年、スペース・ゼロ) * 声優口演SPECIAL『Voice of Chaplin〜ヴォイス・オブ・[[チャップリン]]〜』(2013年、[[TBS赤坂ACTシアター|赤坂ACTシアター]]) * 演劇集団円『[[ワーニャ伯父さん]]』(2013年7月19日 - 28日、[[東京芸術劇場]] シアターウエスト) - エレーナ 役 * 演劇集団円『夏ノ方舟』(2013年9月12日 - 23日、ステージ円) - 潮/セイ 役 * プロデュース『W・[[シェイクスピア]] HUMAN』(2014年、[[本多劇場]]) * 9daysQueen〜九日間の女王〜(2014年、赤坂ACTシアター) - [[キャサリン・パー]] 役 * 演劇集団円『錬金術師』(2014年5月20日 - 6月1日、東京芸術劇場 シアターウエスト) - ドル 役 * つながる音楽劇『麦ふみクーツェ』〜everything is symphony!!〜(2015年、世田谷パブリックシアター・[[シアターBRAVA!]]) * GS近松商店(2015年、[[新歌舞伎座 (大阪)|大阪新歌舞伎座]]) - 玲玉 役 * THEATRICAL LIVE『Relic〜tale of the last ninja〜』(2016年、[[アクアパーク品川#ステラボール|品川ステラボール]]) - [[風魔小太郎]] 役 * 演劇集団円『透明な血』(2016年6月10日 - 16日、すみだパークスタジオ倉) - ニコ 役 * 朗読劇『[[解夏]]』(2016年10月26日・29日・30日、[[六行会ホール]]) - 朝村陽子 役 * 音楽朗読劇『[[BLOOD+]]〜彼女が眠る間に〜』(2017年、[[天王洲 銀河劇場]]) - ルイーズ・ブルジェ、アンジェ・ルヌワール・ド・ビュシエール 役 * Emergency×Emergency『METEORITE』(2017年、[[ワーサルシアター八幡山劇場|ワーサルシアター]]) * LAL STORY『神楽坂怪奇譚‐棲‐』(2018年11月20日 - 25日、神楽坂TheGLEE) - 女 役 ** 体感型配信怪奇譚『神楽坂怪奇譚‐棲‐』(2020年8月15日 - 17日、[[浅草九劇]]・配信) - ナビゲーター<ref>{{Cite news|url=https://spice.eplus.jp/articles/273151|title=声優・俳優18名が贈る怪奇譚 朴璐美プロデュースのLAL STORY『神楽坂怪奇譚「棲」』生配信チケットの早期購入特典が決定|newspaper=SPICE|date=2020-7-31|accessdate=2022-03-16}}</ref> * VOICARION『GHOST CLUB』(2017年 - 2019年、[[シアタークリエ]]、[[明治座]]) - [[シャーロック・ホームズ]] 、デズモンド・クロフト卿 役 * THEATRICAL LIVE『The Black Prince』(2017年、[[舞浜アンフィシアター]]) - [[ジョン・ホークウッド]] 役 * 劇団桟敷童子『標〜shirube〜』(2017年、すみだパークスタジオ) - ワタリ 役 * 『[[蜜蜂と遠雷]]』 リーディング・オーケストラコンサート〜コトダマの音楽会〜(2018年1月5日・6日、[[Bunkamura]] [[オーチャードホール]]/27日・28日、[[森ノ宮ピロティホール]]) - ストーリーテラー * LAL STORY『死と乙女』(2018年、サンモールスタジオ) - ポリーナ・サラス 役 * リーディングドラマ『シスター』(2018年、博品館劇場) - 姉 役 * VOICARION『声歌舞伎〜信長の犬〜』(2018年 - 2021年、[[博多座]]、[[帝国劇場]]、[[御園座]]) - [[織田信長]] 役 * 配信朗読劇『[[予告犯]]』(2018年9月16日 - 17日・22日 - 23日、[[豊島区立舞台芸術交流センター]]) - 吉野絵里香 役 * 音楽朗読会『言奏幻写〜巡る花の記憶〜』(2018年、南青山MANDALA) - 語り手 * LAL STORY『[[東海道四谷怪談]]外伝‐嘘‐』(2019年、[[白金高輪SELENE STUDIO]]) - 若旦那 役 * ミュージカル『[[レ・ミゼラブル (ミュージカル)#日本版キャスト|レ・ミゼラブル]]』(2019年、帝国劇場、御園座、[[梅田芸術劇場]]、博多座・[[札幌文化芸術劇場]]) - マダム・テナルディエ 役 * [[日本音楽集団]]公演『[[竹取物語]]』(2019年、[[川口総合文化センター]]) - 語り手 * 恋を読む『[[逃げるは恥だが役に立つ]]』(2019年、[[ヒューリックホール東京]]、[[名古屋市芸術創造センター]]) - 土屋百合 役 * LAL STORY『さけび』(2019年、サンモールスタジオ) - クレア 役 * KERA CROSS『[[グッド・バイ (小説)|グッドバイ]]』(2020年、かめありリリアホール、シアタークリエ、梅田芸術劇場、[[名古屋市民会館]]、[[山形市民会館]]、[[長岡市立劇場]]、[[JMSアステールプラザ]]、[[パルセいいざか]]) - 大櫛加代 役 * VOICARION『女王がいた客室』(2020年 - 2021年、シアタークリエ) - アレクサンドル・パーレン 役 * TRUMPシリーズ『音楽朗読劇「黑世界 〜リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について〜」』 (2020年、[[サンシャイン劇場]]、[[COOL JAPAN PARK OSAKA]]) - ラッカ、モスカータ 役 * 奈良県観光キャンペーン芸術公演『[[古事記]]』(2020年、[[長谷寺]]) - [[天照大神]] 役 * [[劇団扉座]]40周年記念公演『曲がり角の悲劇』(2020年、紀伊國屋ホール) - 戦士ナギ 役 * 演劇の毛利さん『[[星の王子さま]]』『[[夜間飛行]]』(2021年、[[サンシャイン劇場]]) - 王子さま、飛行士、ファビアン、リヴィエール 役 * VOICARION『歴史絵巻〜孔明最後の一夜〜』(2021年、新歌舞伎座、博多座) - [[姜維]]、[[馬謖]] 役 * ストーリー・コンサート『クララ-愛の物語-』(2021年、[[第一生命ホール]]) - [[クララ・シューマン]] 役 * 恋を読む inクリエ『[[逃げるは恥だが役に立つ#朗読劇|逃げるは恥だが役に立つ]]』(2021年、シアタークリエ) - 土屋百合 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tohostage.com/nigehaji/|title=シアタークリエ 恋を読む inクリエ『逃げるは恥だが役に立つ』|accessdate=2021年6月17日|publisher=東宝}}</ref> * 朗読劇『The Guys 消防士たち~世界貿易センタービルは消えても~』(2021年、下北沢OFF・OFFシアター) - ジョーン 役 *ミュージカル『October Sky〜遠い空の向こうに〜』(2021年、[[シアターコクーン]]、森ノ宮ピロティホール) - エルシー・ヒッカム 役 * 舞台『[[千と千尋の神隠し]]』(2022年、帝国劇場、梅田芸術劇場、博多座、札幌文化芸術劇場、御園座) - 湯婆婆/銭婆 役<ref>{{Cite web|和書|title=舞台『千と千尋の神隠し』第2弾豪華メインキャストが一挙発表!(アニメージュプラス)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/73f5869db1f68ffddf4824ac52af1c5f80b01359|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-07-09|language=ja}}</ref> ** 舞台『千と千尋の神隠しSpirited Away』(2024年、帝国劇場、御園座、博多座、ロンドン・コロシアム、梅田芸術劇場、札幌文化芸術劇場)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/550159|title=「千と千尋の神隠し」2024年の全出演者決定、ハク役新キャストに増子敦貴 ロンドン公演延長も|website=ステージナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-22|accessdate=2023-11-22}}</ref> * VOICARION『スプーンの盾』(2022年 - 2023年、サンケイブリーゼ、シアタークリエ) - [[アントナン・カレーム]]、[[ナポレオン・ボナパルト]]、マリー・グージュ、[[シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール]] 役 * READING HIGH『YOUNG WIZARDS〜Story from 蘆屋道満大内鑑〜』(2022年、パシフィコ横浜国立大ホール) - [[葛の葉]]、[[玉藻前]] 役 * VORLESEN『あの坂の向こう』(2022年、[[四日市市文化会館]]) - [[ヤマトタケル]] 役 * VOICARION『拾弍人目の服部半蔵』(2022年、博多座、新歌舞伎座) - [[岡田以蔵]] 役 * 舞台『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』(2023年、帝国劇場、梅田芸術劇場、博多座、札幌文化芸術劇場) - 紫夏 役(Wキャスト)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tohostage.com/kingdom/|title=帝国劇場 舞台『キングダム』|website=東宝演劇サイト|accessdate=2022-09-05}}</ref> * 舞台『剣聖』(2023年、サンモールスタジオ) - 演出 * 長澤勝俊生誕100年〜長澤勝俊の軌跡〜『竹取物語ー竜女の玉』(2023年、第一生命ホール) - 語り * こえかぶ 朗読で楽しむ歌舞伎~雪の夜道篇~(2023年、[[草月ホール]]) * VORLESEN『北辰に馳せる野馬〜野馬追誕生異聞伝〜』(2023年、[[南相馬市民文化会館]]) - [[相馬重胤]] 役 === テレビ番組 === <!-- 単発のゲスト出演などは不要。レギュラー番組のみ。 --> ※は[[インターネットラジオ|インターネット配信]]。 * [[番宣部長]](2016年、[[アニメシアターX]]) === 映像商品 === * VOICARION『博多座声歌舞伎〜信長の犬〜』 * VOICARION『帝国声歌舞伎〜信長の犬〜』 * VOICARION『大阪歴史絵巻〜孔明最後の一夜〜』 * TRUMPシリーズ『黑世界(日和の章)』 * 演劇の毛利さん『星の王子さま』『夜間飛行』 * THEATRICAL LIVE『The Black Prince』 * THEATRICAL LIVE『Relic〜tale of the last ninja〜』 * 音楽朗読劇『[[BLOOD+|BLOOD+〜彼女が眠る間に〜]]』 * KERA CROSS『グッドバイ』 * 9days Queen〜九日間の女王〜 * [[鋼の錬金術師]] Festival '09 * 鋼の錬金術師FESTIVAL〜Tales of anotherもうひとつの物語〜 * [[BLEACH]] SOUL SONIC 2005 "夏" * BLEACH SOUL SONIC 2006 夏祭 * [[星空のコミックガーデン]] おいでよ! コミット 2009春 * 朗読劇『[[電車男]]』 === ナレーション === {{定義リスト2 | テレビ | * [[おはなしのくに]]『[[かたあしだちょうのエルフ]]』(2008年、[[NHK教育テレビジョン]]) * [[NNNドキュメント]](2008年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[BS熱中夜話]](2009年5月、[[NHK-BS2]]) * [[報道特集 (TBS)|報道特集NEXT]](2010年、[[TBSテレビ]]) * [[地上最大のTV動物園]](2011年7月12日・11月2日、[[フジテレビ]]) * [[オイコノミア]](2012年4月3日 - 2018年3月21日、[[NHK Eテレ]]) * [[NHK高校講座]] 世界史「オリエントとギリシア」(2012年5月2日、NHK Eテレ) * [[金曜ロードSHOW!]](2013年4月12日 - 、日本テレビ) * ザ・ドキュメンタリー カラフルハウス〜多様なる性の家〜(2016年2月21日、[[テレビ東京]]) * [[ニッポンアニメ100]]([[NHK BSプレミアム]]) ** 視聴者投票スタート!アニメ100人くらいに聞きました(2017年1月8日) ** 発表!あなたが選ぶアニメ ベスト100!(2017年5月3日) * 原田龍二の一湯入魂(2017年12月24日、[[BS-TBS]]) * 日テレプッシュ(日本テレビ) ** これで完璧『ハリー・ポッター』みどころSP(2016年11月24日) ** 『おおかみこどもの雨と雪』細田守監督直撃SP(2017年3月24日) ** 『映画ホタルノヒカリ』みどころSP(2017年10月6日) ** 『ハリー・ポッターの秋』みどころSP(2017年10月20日) * しあわせ!もふもふペット(2018年、dTVチャンネル) * 謎の砂漠都市ペトラ〜大国ローマと渡り合った5つの鍵〜(2019年、[[NHK BS4K]]) * 陶王子 2万年の旅 器の来た道(2019年、NHK BSプレミアム) * どすこい!夢の大相撲〜令和元年AI場所〜(2019年、[[NHK総合テレビジョン]]) * 伝説の女性飛行士 アメリアを探して(2020年1月、[[ナショナル ジオグラフィック (テレビチャンネル)|ナショナルジオグラフィックチャンネル]]) * [[クイズプレゼンバラエティー Qさま!!]] 人気声優もアイドルも大集合3時間SP(2020年、[[テレビ朝日]]) * スピルバーグの子どもたち(2021年、WOWOWプライム) * 『[[麒麟がくる]]』いよいよ本能寺スペシャル(2021年、NHK総合) * コワくない。就活 私のES、どこがささったの?(2021年、NHK総合) * いまこそ、シェイクスピア(2021年5月15日、NHK BS4K)<ref>{{Cite web|和書|url=http://sunaoka.com/news/210329_nakajima_01 |title=中嶋朋子 NHK BS4K『いまこそ、シェイクスピア』に出演! |date=2021-03-29 |publisher=砂岡事務所 |archiveurl=https://archive.ph/b0IhB |archivedate=2021-05-16 |accessdate=2021-05-16}}</ref> * [[ワールド極限ミステリー]] UFO・UMA・ホラー・超常現象・オカルトSP(2021年、TBS) * [[報道の日]] 2021(2021年、TBS) * 風磨とチョコプラのふちど~るマップ(2023年、テレビ東京) * ミステリープレイヤーズ(2023年、日本テレビ) | その他 | * 進撃の巨人×JRAコラボ「進撃の有馬記念」(解説) * 進撃の巨人展(音声ガイド) * 鋼の錬金術師展(音声ガイド) * [[モンスターハンター フロンティア オンライン]](シーズン2.0/3.0/4.0PV) * シド・ミード展 PROGRESSIONS TYO 2019(音声ガイド) * 未実装のラスボス達が仲間になりました。(PV)<ref>{{Cite web|和書|publisher=YouTube|work=KADOKAWAanime|url=https://www.youtube.com/watch?v=17PWFrrLL_M|title=『未実装のラスボス達が仲間になりました。』スペシャルPV/朴璐美ナレーション|date=2021-04-08|accessdate=2021-07-19}}</ref> * L'Arc~en~Ciel 30th L'Anniversary(Prime Video) }} === ボイスオーバー === * [[日立 世界・ふしぎ発見!]]「宇宙からの贈り物 隕石が生んだ南ドイツの奇跡」(2013年11月9日、[[TBSテレビ]]) * [[ありえへん∞世界]] 3時間SP(2015年12月29日、[[テレビ東京]]) === CM === * [[スーパーロボット大戦α外伝]] * [[JOYSOUND]] ポケメロ L'Arc〜en〜Ciel * [[コナミ]][[ブルードラゴン]] トレーディングカードゲーム * [[ドラゴンクエストV 天空の花嫁]]([[ニンテンドーDS]]版) * [[スクウェア・エニックス]] 『[[月刊少年ガンガン]]』 * [[グランブルーファンタジー]] 黒騎士&オルキス篇 * [[モンスターストライク]] 鋼の錬金術師コラボ === ラジオ === <!-- 単発のゲスト出演などは不要。レギュラー番組のみ。 --> ※は[[インターネットラジオ|インターネット配信]]。 * [[アニプレックスアワー]] [[鋼の錬金術師 (ラジオ)|ハガレン放送局]](2003年 - 2005年、[[大阪放送|ラジオ大阪]]、[[文化放送]]) * [[鋼の錬金術師 (ラジオ)|ラヂオ錬金術師]](2004年、[[アニメイトTV]]※) * 店長候補生・超電波HYPER WAVE!(2004年 - 2007年、[[A&G 超RADIO SHOW〜アニスパ!〜]]内) * [[森久保・朴のポケ声ナイト!]](2005年 - 2006年、文化放送) * [[BLEACH “B” STATION]](2006年6月度マンスリーパーソナリティ、2007年12月度劇場版SP森田当番、文化放送) * 朴璐美・宮野真守のポケ声ファイト!→[[朴璐美・宮野真守のJOY SOUNDファイト!]](2006年 - 2011年、文化放送) * [[アニプレックス|アニプレックスアワー]]「[[オー!NARUTOニッポン]]」(2006年12月度マンスリーパーソナリティー、文化放送) * [[智一&璐美のラジオ腐りかけ!]](2007年 - 2013年、ラジ友※) * [[鋼の錬金術師 (ラジオ)|鋼の錬金術師・ラジオFA宣言]](2009年 - 2010年、[[音泉]]、アニメイトTV※) * 伊良部一郎の華麗なる一日(2009年 - 2010年、アニメイトTV※) * MFR-Mystery Frontier Reporters!!(2011年 - 2014年、アニメイトTV※) * [[おしゃべりやってまーす]] 第4放送(2012年 - 2013年、[[K'z Station]]、アニメイトTV※) * 音鬼と朴璐美のH話×3(2017年、[[SMART USEN]]) === ラジオ・朗読CD === * VOICARION『GHOST CLUB』 * VOICARION『博多座声歌舞伎〜信長の犬』 * VOICARION『女王がいた客室』 * [[空中ブランコ]] DJCD「伊良部一郎診察日記」 * 少年(朗読CD 原作:[[谷崎潤一郎]]) * 戦国武将物語〜姫編〜(第四話「前田まつ物語」) * DJCD ハガレン放送局 格の違いを見せてやるスペシャル! * [[鋼の錬金術師]] DJCD ハガレン放送局 1 - 6 * [[HONEY BEE]] [[羊でおやすみシリーズ]] Vol.20「いいから横になれよ」 === パチンコ・パチスロ === * [[極楽パロディウス]](タコスケ) * サムライ7(カツシロウ) * CR ANOTHER牙狼〜炎の刻印〜(エマ・グスマン) * CR SAMURAI 7(カツシロウ) * CR戦国双天絵巻〜華恋姫伝〜(濃姫) * CR武神烈伝(濃姫) * CRペルソナ4 the PACHINKO(白鐘直斗) * ゼーガペイン(マオ・ルーシェン) * Persona4 The SLOT(白鐘直斗) * 政宗(伊達政宗) * 政宗2(伊達政宗) * 政宗3(伊達政宗) * 政宗戦極(伊達政宗) * スカイラブ3、4(アメリア・L・ファルコン) * ルパン三世 2000カラットの涙(ダイヤ) === その他コンテンツ === * 機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 / 特別版(マサキ) * [[NHKみんなの手話]](吹き替え) * USJ進撃の巨人・ザ・リアル4-D(ハンジ・ゾエ) * オリジナルアニメ『メカウデ』(耶我廻ジュン) * [[進研ゼミ]]中学講座アニメ「キミを、動かせ。」(さとし) * [[てにをは (音楽家)|てにをは]] アルバム『[[NO BOY]]』初回限定盤ボイスドラマ「ヴィランズ」(2021年、御堂蓮利<ref>{{Cite web|和書|publisher=NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|url=https://nbcuni-music.com/teniwoha/discography/index00040000.html|title=出演|accessdate=2023-11-03}}</ref>)<!-- 2021-08-25 --> == ディスコグラフィ == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! タイアップ |- ! 1st | 2006年1月25日 || '''ボクたちにあるもの''' || AVCA-22550 || テレビアニメ『[[うえきの法則]]』4thエンディングテーマ |- ! 2nd | 2007年2月28日 || '''Naked Flower''' || AVCA-26099 || OVA『[[MURDER PRINCESS]]』エンディングテーマ |} === アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- ! 1st | 2006年2月22日 || '''遠い記憶'''<ref>{{Cite news|url= https://www.aniplex.co.jp/paku/ |title= 朴璐美 初のフルアルバム完成!『遠い記憶』 |newspaper= [[アニプレックス]] |publisher= 株式会社SPE・ミュージックパブリッシング |accessdate= 2019-03-20 }}</ref> || SVWC-7337 |- ! 2nd | 2006年3月1日 || '''ぼくとキミと果てなき空''' || AVCA-22645 |} === キャラクターソング === {{VOICE Notice Hidden| ◆ 「キャラクター(声優名)」で統一すること。 ◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」とすること。 ◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用いる。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}} {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考 |- | 2002年3月27日 || シャーマンキング ボーカルコレクション 〜歌の万辞苑〜 | rowspan="3"|道蓮('''朴璐美''') | 「流露(2002VERSION)」 | rowspan="3"|テレビアニメ『[[シャーマンキング]]』関連曲 |- | 2002年10月23日 || シャーマンキング ドラマ&キャラクターソング集「恐山ル・ヴォワール〜prologue to shaman〜」 | 「無碍」 |- | 2004年3月24日 || S.F.O.V I | 「事理」 |- | rowspan="2" | 2004年8月18日 || rowspan="2" | HAGAREN SONG FILE -EDWARD ELRIC- | エドワード・エルリック('''朴璐美''') | 「明日への場所」<br />「RETURNABLE MEMORIES」 | rowspan="3" | テレビアニメ『[[鋼の錬金術師 (アニメ)|鋼の錬金術師]]』関連曲 |- | エドワード('''朴璐美''')、アルフォンス([[釘宮理恵]])、ウィンリィ([[豊口めぐみ]]) | 「鋼のこころ」 |- | 2005年12月21日 || HAGAREN SONG FILE -BEST COMPILATION- | エドワード('''朴璐美''')、アルフォンス(釘宮理恵)、ウィンリィ(豊口めぐみ)、ロイ([[大川透]])、ヒューズ([[藤原啓治]]) | 「LASTMEETing.」<br />「Good!」 |- | rowspan="3" | {{nobr|2009年10月14日}} || rowspan="2" |Theme of Edward Elric by THE ALCHEMISTS | エドワード・エルリック('''朴璐美''') | 「夢の原石」 | rowspan="4" | テレビアニメ『[[鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST]]』関連曲 |- | エドワード('''朴璐美''')、アルフォンス(釘宮理恵) | 「紅月」 |- | Theme of Alphonse Elric by THE ALCHEMISTS | アルフォンス(釘宮理恵)、エドワード('''朴璐美''') | 「Restore steppin'」 |- | 2010年5月26日 || Theme of Fullmetal Alchemist by THE ALCHEMISTS | エドワード・エルリック('''朴璐美''') | 「Determination」 |- | 2020年12月9日 || MIRACLE DIALIES | オオフウチョウ('''朴璐美''')、カタカケフウチョウ([[八木ましろ]])、カンザシフウチョウ([[菅まどか]]) | 「ゴクラク・ワールド」 | ゲーム『[[けものフレンズ3]]』関連曲 |} * [[Axis powers ヘタリア]]「まるかいて地球」 * [[アニメ店長B'店長候補生]]「宝石」「青空のプレゼント」「Future Scramble」 * [[Yes!プリキュア5GoGo!]]「シロップのドロップ」 * [[うえきの法則]]「Evolution」 * [[CLAYMORE]]「転生」 * [[仕立屋工房 Artelier Collection]]「旅立ちの歌」 * [[シャーマンキング]]「求道」「事理」「無碍」「流露」 * [[素敵探偵☆ラビリンス|素敵探偵ラビリンス]]「太陽のライバル」 * 戦国双天絵巻「Let's get a chance」「OASIS」 * [[デジモンアドベンチャー02]]「ONLY ONE」 * [[デッドマン・ワンダーランド]]「One Reason」「Dash out」 * [[トリコ]]「Let's Cooking!!」 * [[BLEACH]]「This Light I See」「BLEACH THE LIMITATION」「SHINE」「HANABI」 * [[プリンセス・プリンセス (漫画)|プリンセス・プリンセス]]「薔薇の掟」 * [[星空のコミックガーデン]]「Paint in you」 * [[魔探偵ロキ|魔探偵ロキRAGNAROK]]「Get Real」 === その他参加作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考 |- | rowspan="4"|2007年6月13日 || rowspan="2"|THAT'S WATANABE FLOWER SHOW SPECIAL!! | '''朴璐美''' / コーラス:[[松風雅也]]、[[宮野真守]]、[[鈴村健一]]、[[櫻井孝宏]] | 「[[ワタナベフラワー|ミュージックマン]]」 | rowspan="2"| |- | 宮野真守 / コーラス:松風雅也、'''朴璐美'''、関智一、鈴村健一、櫻井孝宏 | 「モーターバイクブギ」 |- | rowspan="2"|Fight! | '''朴璐美'''、宮野真守 | 「Fight!」 | rowspan="2"|ラジオ『[[朴璐美・宮野真守のポケ声ファイト!]]』関連曲 |- | '''朴璐美''' | 「URAHARA」 |- | 2008年1月23日 || [[百歌声爛#女性声優編II|百歌声爛 女性声優編II]] | '''朴璐美''' | 「[[黒い涙]]」<br />「月の繭」<br />「愛の輪郭」<br />「[[READY STEADY GO (L'Arc〜en〜Cielの曲)|READY STEADY GO]]」<br />「いつの日か」<br />「[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]」<br />「哀戦士」<br />「ダンバインとぶ」<br />「[[時には昔の話を]]」<br />「[[キューティーハニー]]」 | |- | {{nobr|2014年4月23日}} || ディズニー 声のドリーム・デュエット | [[三木眞一郎]]、'''朴璐美''' | 「[[ハイスクール・ミュージカル|みんなスター!]]」 | |- | 2023年12月6日 || SID Tribute Album -Anime Songs- | '''朴璐美''' | 「[[嘘 (シドの曲)|嘘]]」 | |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} {{Ras}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="真剣121">{{Harvnb|真剣勝負|2010|pp=121-122|loc=「シンケン声優インタビュー 5番勝負! 朴璐美」}}</ref> <ref name="ブレンパワード">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-03-26 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = CHARACTER[ノヴィス・ノア] | url = http://brainpowered.jp/character/ | website = ブレンパワード アニメ公式サイト}}</ref> <ref name="∀ガンダム">{{Cite web | accessdate = 2022-04-09 | title = character |website = ∀ガンダムWeb |publisher = サンライズ | url = http://www.turn-a-gundam.net/character/01.html }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|date=2010-05-20|title=侍戦隊シンケンジャー公式読本 真剣勝負!|series=グライドメディアムック62|publisher=グライドメディア|isbn=978-4-8130-8062-6|ref={{SfnRef|真剣勝負|2010}}}} * {{Cite journal|和書|date = 2022-10-03|journal=宇宙船|volume=vol.178|issue=(AUTUMN 2022.秋)|publisher=ホビージャパン |isbn=978-4-7986-2945-2|ref={{SfnRef|宇宙船178|2022}}}} == 外部リンク == * {{Official|1=https://www.lal-official.com/parkromi|name=朴璐美 Lal Official}} * {{Official|1=https://fan.pia.jp/romi_park|name=朴{{JIS2004フォント|璐}}美オフィシャルウェブサイト}} * {{Ameba blog|romi-nee|朴{{JIS2004フォント|璐}}美オフィシャルブログ}} * {{Twitter|romiansaran|朴{{JIS2004フォント|璐}}美}} * [http://voice-romi.jp/ スタジオ カンブリア] * [https://thetv.jp/person/0000135567/ 朴&#29840;美のプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン] * [https://seigura.com/directory/1017/ 朴 &#29840;美|声優名鑑 - 声優グランプリweb] * [https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/朴&#29840;美/#person-110062101_ 朴&#29840;美の解説 - goo人名事典] * {{Kinejun name|163260|朴ロ美}} * {{Oricon name|250132|朴ロ美}} * {{Movie Walker name|163282|朴ロ美}} * {{映画.com name|58644|朴ろ美}} {{ガンダムシリーズ主演声優}} {{声優アワード|主演女優賞}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はく ろみ}} [[Category:日本の女性声優]] [[Category:日本の女優]] [[Category:日本のミュージカル女優]] [[Category:日本の女性ポップ歌手]] [[Category:エイベックス・グループのアーティスト]] [[Category:アニプレックスのアーティスト]] [[Category:日本の企業創立者]] [[Category:声優アワード]] [[Category:金曜ロードSHOW!|案]] [[Category:桐朋学園芸術短期大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:日本に帰化した人物]] [[Category:韓国・朝鮮系日本人]] [[Category:1972年生]] [[Category:存命人物]]
2003-09-06T06:22:42Z
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定規とコンパスによる作図
定規とコンパスによる作図(じょうぎとコンパスによるさくず)とは、定規とコンパスだけを有限回使って図形を描くことを指す。ここで、定規は2点を通る直線を引くための道具であり、目盛りがついていても長さを測るのには使わないものとし、コンパスは与えられた中心と半径の円を描くことができる道具である。この文脈における「定規」はしばしば「定木」と表記される。定規とコンパスによる作図可能性(作図不可能性)の問題として有名なものにギリシアの三大作図問題がある。 数学的には、定規とコンパスによる作図で表せるのは二次方程式を繰り返し解いて得られる範囲の数であることが知られている。つまり、いくつかの二次方程式や一次方程式に帰着出来る問題は定規とコンパスのみで作図可能であり、反対に帰着できない問題は作図不可能である。「作図可能な線分の長さ」の集合は一つの体をなしている。 この問題に言う「定規」「コンパス」は現実世界にある実物のそれではなく(参考にはしているが)、可能な作業が決まっている仮想的な存在である。そのため、思考実験の一種としてサイズに関しては現実的にありえない無茶なことも想定できる代わりに、実物にできることのいくつかははっきりと禁止される。 仮に目測や近似を使って何らかの作図ができたと主張しても、それは作図問題に答えたことにはならない。間違いなく確実に決まっていることが必要なのである。もちろん(いくらきちんと点や線が作図できたとしても)、目盛りのある定規を使ったり、変形コンパスや分度器その他の道具、手段を利用してはならない。そのようにして得たものは定規とコンパスを用いた作図問題の解決とは無関係な存在だからである。 これらの条件から、定規とコンパスによる作図でできることは原理的には次に挙げるような作業のみであり、既知の点、直線、円たちからはじめて、それらの作業を有限回組み合わせて繰り返すだけで必要な点や長さを得ることができるならば目的の作図が可能、できなければ目的の作図は不可能であるということになる。 たとえば、相異なる二点が与えられているだけの最低限の仮定からはじめれば、まずひとつの直線と半径の等しい二つの円を描くことができる。交わる二つの円が得られているのでそれらの交点として新たに二つの点を得ることができる。この新たな二点のうちのいずれかと最初の二点とをそれぞれ結べば正三角形の作図が完成する。 これはつまり、作図という幾何学的な問題は、どのような記号(点や直線、円など)を初めに与えて (initial set)、どのような方法で (algorithm)、どのような結果が得られるか (result) という点に係っているということである。このような側面から言えば、作図問題というのは元が点や直線になっただけの公理的な代数学と等価な存在であるといえる。それを現実のものとし、それによっていくつかの作図問題の不可能性を証明したはじめての人はおそらくガウスであろう。後の時代になってヒルベルトが、著書『幾何学基礎論』においてユークリッド幾何学の公理を完全に厳密な形で与えている。 平面内に原点 O ともう一つの基準となる点 P が与えられると、O の座標を (0, 0)、P の座標を (1, 0)とするような xy-座標系を平面上で考えることができる。この二つの点を元に定規とコンパスを使った有限回の操作で点 Q (座標を (q, r) とする)が指定されたとすると、体の二次拡大の塔 が存在して q, r ∈ Kn となっていなければならない。 実際、座標 (a, b) の点を中心として座標 (c, d) の点が円周上にあるような円は という方程式によって表され、座標 (a′, b′)の点と座標 (c′, d′)の点を通る直線は という方程式によって表されている。従って、作図できている点を元にして描いた円や直線の交点として新しい点を求めるという操作はこれら高々二次の方程式を連立させてその解を求めるという問題に帰着される。 とくに Kn の Q 上の拡大次数は 2 であり、Kn の部分体である Q(q) や Q(r) も同様の構造を持っていなければならないことがわかる。したがって Q(p) の次元が 2 の冪にならないような代数的数 p やそもそも代数方程式の根として表せないような超越数 p を座標に持つ点は作図できない。 ギリシアの三大作図問題:ギリシア時代の数学者たちによって次の3つの作図が定規とコンパスによって可能か、という問いが立てられた 現在ではこれらは全て定規とコンパスのみでは作図できないことが証明されている。1837年にヴァンツェルは、角の三等分問題と立方体倍積問題は三次方程式を解かなくてはならないことを示した。非自明な三次方程式の根によって生成される体は拡大次数が 3 になってしまい、そのような数を座標にする点は作図できない。倍積問題はある線分を2の3乗根(無理数)倍に伸ばす方法の導出、円積問題は、方程式 x = πr の解を求めることと同値である(π は円周率)。1882年に、リンデマンにより π が超越数であることが証明され、作図が不可能であることが示された。 なお、不可能であることが示されているにもかかわらず、いまだに角の三等分が作図可能であることを示そうとする人々がおり、角の三等分家 (Trisector) と呼ばれている。定規・コンパス以外の道具を使用したり、定規・コンパスを本来とは異なる使い方で使用することで角の三等分を作図(あるいは工作等)することは可能であるが、当然ながら、これらは元々の「角の三等分問題」に対する解答ではない。また、「任意の角を三等分する」という問題であるのに、これを「少なくとも一つの角を三等分する」問題であると勘違いし、直角などが三等分できたのでこの問題を解けたと速断する人もいる(角度によっては定規とコンパスで、その角度の1/3の角度を作図できる)。 正三角形と正五角形、この2つの正多角形の頂点の数の最小公倍数の値と同じ数の頂点を持つ正十五角形、正方形、およびこれらの頂点の数に2の冪を乗じた数の頂点を持つ正多角形が作図可能である事は古代ギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)が著した『原論』に記されており、よく知られていた。長い間それ以上のことは判明しなかったが、ガウスが1796年3月30日に、正十七角形が作図可能であることを発見した。同時に正五十一角形、正八十五角形、正二百五十五角形、及び17もしくはこれらの頂点の数に2の冪を乗じた数の頂点を持つ正多角形が作図可能であることも発見されたことになる。ガウスはさらに1801年に出版した『整数論の研究』において、正 n 角形が作図可能であるための必要十分条件が、n が2の冪と相異なるフェルマー素数の積、すなわち の形であることを示した。これは 1 の原始 n 乗根 ζn のガロア群の構造が 2 次拡大の繰り返しによって得られることの特徴付けとして得られる。このような n は、小さい順に(50以下のものを)並べると、 である。作図不可能な正多角形はオンライン整数列大辞典の数列 A004169を参照。 円や直線についての情報を含まない、相異なる点だけの情報からなるデータから定規とコンパスのみで作図できるようなものは、実はコンパスのみで作図可能であるというモール-マスケローニの定理が知られている。たとえば定規のみを使って平方根を得ることは不可能であり、同様に定規のみで作図できないものがコンパスを使って作図されるということになるが、ポンスレー-スタイナーの定理によれば、(最初のデータの中に)一つの円とその中心が与えられていれば実は作図できる。 アルキメデスとアポロニウスは目盛りを打つことができる定規を作図問題に取り入れている。これを使えば、1つの線分・2つの直線(または円)・1つの点を与えられたとき、与えられた点を通り与えられた2直線に交わりその2交点の間の距離が与えられた線分と同じである直線を引くといったようなこともできる。これをギリシャ人は直線が点に向かっていくように見えることから「傾向」という意味の ネウシスと呼んだ。 この作図はエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』が扱っている幾何学の範囲を超えるものであり、エウクレイデスの幾何学では neusis に関する公理も定理もそもそもその存在さえも扱われておらず、したがってそれをつかった作図もすることはできない。この広い意味の幾何学では、既知の長さから三次または四次方程式の解として得られる比を持つ長さならば作図できる。これは目盛りの打てる定規とネウシスを使えば角の三等分および立方倍積ができるということである(一方、円積問題についてはやはり不可能なままではあるが)。これによって、正七角形、正九角形などいくつかの正多角形が作図可能となり、ジョン・コンウェイはそのようなもののいくつかについて作図法を与えている。それでも正十一角形など無数に作図不可能なものが存在するのである。 角の三等分のみを許すときの(上で述べた正七角形や正十三角形、正十九角形というようなものを含む)全ての作図可能な正多角形についての完全な記述は既に知られている。無限に多くの素数 p に対する正 p-角形が定規とコンパスと角の三等分器を使って作図可能であるかどうかは知られていない。 同様に、鋏や糊のような道具を使わずに紙をただ折るだけの折り紙を数学的に扱った理論では、いくつかの理由から定規とコンパスを使った作図よりも強力なことができる(折紙の数学、折り紙公理)。この方法で、三次または四次の方程式を解くことができて、それによりギリシャの三大不可能作図題のうち二つを解決することができるのである。 作図可能な点については、折り紙による作図でもコンパスと目盛りつき定規による作図でも同じだけの能力がある(関連項目:ピアポント素数) このような n は、小さい順に(50以下のものを)並べると、 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, 20, 21, 24, 26, 27, 28, 30, 32, 34, 35, 36, 37, 38, 39, 40, 42, 45, 48, ... (オンライン整数列大辞典の数列 A122254) 抽象的な言葉で言えば、折り紙や目盛りつき定規といった便利な道具を使った作図というのは、複素数体の部分体としての作図可能数(可設数)の体をより大きな部分体へ拡大するもので、そこには(定規とコンパスで作図できる)平方根をとる操作に加えて任意の元の立方根をとる操作もあわせて得られるようなものも全て含まれる。作図可能な点についての算術的な話は、この大きな体に関しても三乗根を含めて類似の結果を述べることができる。この新たに作図可能となった点によって生成される体の拡大は、拡大次数が2の冪と3の冪の積となるものであり、これは二次拡大と三次拡大からなる拡大の塔に分解することができる。
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定規とコンパスによる作図(じょうぎとコンパスによるさくず)とは、定規とコンパスだけを有限回使って図形を描くことを指す。ここで、定規は2点を通る直線を引くための道具であり、目盛りがついていても長さを測るのには使わないものとし、コンパスは与えられた中心と半径の円を描くことができる道具である。この文脈における「定規」はしばしば「定木」と表記される。定規とコンパスによる作図可能性(作図不可能性)の問題として有名なものにギリシアの三大作図問題がある。 数学的には、定規とコンパスによる作図で表せるのは二次方程式を繰り返し解いて得られる範囲の数であることが知られている。つまり、いくつかの二次方程式や一次方程式に帰着出来る問題は定規とコンパスのみで作図可能であり、反対に帰着できない問題は作図不可能である。「作図可能な線分の長さ」の集合は一つの体をなしている。
[[File:Regular Hexagon Inscribed in a Circle 240px.gif|thumb|定規とコンパスによる正六角形の作図]] [[File:Pentagon construct.gif|thumb|正五角形の作図]] '''定規とコンパスによる作図'''(じょうぎとコンパスによるさくず)とは、[[定規]]と[[コンパス]]だけを有限回使って[[図形]]を描くことを指す。ここで、定規は2点を通る[[直線]]を引くための道具であり、目盛りがついていても長さを測るのには使わないものとし、コンパスは与えられた中心と半径の[[円 (数学)|円]]を描くことができる道具である。この文脈における「定規」はしばしば「定木」と表記される{{Efn2|「規」はものさしを想起させるので、長さを測ることには用いない、ということを強調するために「定木」と表記する、という考え方がある<ref>[[#大野1993|大野 1993]]{{要ページ番号|date=2023年2月}}</ref>。英語でも定規と定木に相当する {{lang|en|ruler}} と {{lang|en|straight-edge}} のような表記がある。}}。定規とコンパスによる作図可能性(作図不可能性)の問題として有名なものに[[#不可能な作図|ギリシアの三大作図問題]]がある。 [[数学]]的には、定規とコンパスによる作図で表せるのは[[二次方程式]]を繰り返し解いて得られる範囲の数であることが知られている。つまり、いくつかの二次方程式や[[一次方程式]]に帰着出来る問題は定規とコンパスのみで作図可能であり、反対に帰着できない問題は作図不可能である。「作図可能な線分の長さ」の集合は一つの[[可換体|体]]をなしている。 == 定規とコンパスでできる作業 == この問題に言う「定規」「コンパス」は現実世界にある実物のそれではなく(参考にはしているが)、可能な作業が決まっている仮想的な存在である。そのため、[[思考実験]]の一種としてサイズに関しては現実的にありえない無茶なことも想定できる代わりに、実物にできることのいくつかははっきりと禁止される。 * 「コンパス」はいくらでも小さく、またはどこまでも大きく半径を取ることのできる、仮想的なもので、広げて任意の長さを測り取ることもできる。ただし、測り取れるのは既に作図されている二点間の長さとしてだけである。なお、「コンパス」本体に角度を表示する目的などで目盛りなどの印を打つことはできない。また、作図の作業においては軸は既に作図された点に固定されるものとし、定規や線の上を引きずって線を引くような用途には使用できない。 * 「定規」はいくらでも長くまっすぐな線を引くことができる。ただし、「定規」に目盛りを打つことは許されない(目盛りがあっても長さを測るのには使わない)。また「定規」だけで引けるのは同時に一本だけであり、複数の平行線を同時に引くようなことはできない。「定規」でできるのは既知の任意の二点を線分で結ぶこと、およびそれを延長して直線にすることである。 仮に目測や近似を使って何らかの作図ができたと主張しても、それは作図問題に答えたことにはならない。間違いなく確実に決まっていることが必要なのである。もちろん(いくらきちんと点や線が作図できたとしても)、目盛りのある定規を使ったり、変形コンパスや[[分度器]]その他の道具、手段を利用してはならない。そのようにして得たものは定規とコンパスを用いた作図問題の解決とは無関係な存在だからである。 [[Image:Basic-construction-demo.png|thumb|300px|作図の基本となる作業]] これらの条件から、定規とコンパスによる作図でできることは原理的には次に挙げるような作業のみであり、既知の点、直線、円たちからはじめて、それらの作業を有限回組み合わせて繰り返すだけで必要な点や長さを得ることができるならば目的の作図が可能、できなければ目的の作図は不可能であるということになる。 * 既知の二点に対し、それらを通る直線を引く。 * 既知の一点を中心とし、それ以外の既知の点を通るような円を描く。 * 互いに平行でない既知の二直線から、その交点を得る。 * 既知の円と直線から、その高々二個の交点を得る。 * 既知の二つの円から、その高々二個の交点を得る。 たとえば、相異なる二点が与えられているだけの最低限の仮定からはじめれば、まずひとつの直線と半径の等しい二つの円を描くことができる。交わる二つの円が得られているのでそれらの交点として新たに二つの点を得ることができる。この新たな二点のうちのいずれかと最初の二点とをそれぞれ結べば正三角形の作図が完成する。 これはつまり、作図という幾何学的な問題は、どのような記号(点や直線、円など)を初めに与えて {{lang|en|(initial set)}}、どのような方法で {{lang|en|(algorithm)}}、どのような結果が得られるか {{lang|en|(result)}} という点に係っているということである。このような側面から言えば、作図問題というのは元が点や直線になっただけの[[抽象代数学|公理的な代数学]]と等価な存在であるといえる。それを現実のものとし、それによっていくつかの作図問題の不可能性を証明したはじめての人はおそらく[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]であろう{{Efn2|ガウスは1801年に出版した『[[Disquisitiones Arithmeticae|整数論の研究]]』において、定規とコンパスで正''N''角形が作図可能となるための''N''の必要十分条件を示した{{R|ガウス1995_365&366}}。}}。後の時代になって[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]が、著書『[[幾何学基礎論]]』において[[ヒルベルトの公理系|ユークリッド幾何学の公理]]を完全に厳密な形で与えている<ref>[[#ヒルベルト2005|ヒルベルト 2005]]{{要ページ番号|date=2023年2月}}</ref>。 == 作図可能数 == {{main|{{仮リンク|定規とコンパスによる作図可能数|en|constructible number|preserve=1}}}} 平面内に原点 O ともう一つの基準となる点 P が与えられると、O の座標を (0, 0)、P の座標を (1, 0)とするような ''xy''-座標系を平面上で考えることができる。この二つの点を元に定規とコンパスを使った有限回の操作で点 Q (座標を (''q'', ''r'') とする)が指定されたとすると、体の二次拡大の塔 : '''Q''' = ''K''<sub>0</sub> &sub; ''K''<sub>1</sub> &sub; &hellip; &sub; ''K''<sub>''j''</sub> &sub; &hellip; &sub; ''K''<sub>''n''</sub> ([''K''<sub>''j''+1</sub> : ''K''<sub>''j''</sub>] = 2 for any ''j'') が存在して ''q'', ''r'' &isin; ''K''<sub>''n''</sub> となっていなければならない。 実際、座標 (''a'', ''b'') の点を中心として座標 (''c'', ''d'') の点が円周上にあるような円は : (''x'' &minus; ''a'')<sup>2</sup> + (''y'' &minus; ''b'')<sup>2</sup> = (''c'' &minus; ''a'')<sup>2</sup> + (''d'' &minus; ''b'')<sup>2</sup> という方程式によって表され、座標 (''a''′, ''b''′)の点と座標 (''c''′, ''d''′)の点を通る直線は : (''d''′ &minus; ''b''′)(''x'' &minus; ''a''′) + (''c''′ &minus; ''a''′)(''y'' &minus; ''b''′) = 0 という方程式によって表されている。従って、作図できている点を元にして描いた円や直線の交点として新しい点を求めるという操作はこれら[[高々 (数学)|高々]]二次の方程式を連立させてその解を求めるという問題に帰着される。 とくに ''K''<sub>''n''</sub> の '''Q''' 上の[[拡大次数]]は 2<sup>''n''</sup> であり、''K''<sub>''n''</sub> の部分体である '''Q'''(''q'') や '''Q'''(''r'') も同様の構造を持っていなければならないことがわかる。したがって '''Q'''(''p'') の次元が 2 の冪にならないような代数的数 ''p'' やそもそも代数方程式の根として表せないような超越数 ''p'' を座標に持つ点は作図できない。 == 不可能な作図 == {{Anchors|ギリシアの三大作図問題}}ギリシアの三大作図問題:ギリシア時代の数学者たちによって次の3つの作図が定規とコンパスによって可能か、という問いが立てられた # 与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること([[円積問題]]) # 与えられた立方体の体積の 2 倍に等しい体積をもつ立方体を作ること([[立方体倍積問題]],「[[デロス島]]の災難」の問題) # 与えられた角を三等分すること([[角の三等分問題]]) 現在ではこれらは全て定規とコンパスのみでは作図できないことが証明されている。[[1837年]]に[[ピエール・ヴァンツェル|ヴァンツェル]]は、角の三等分問題と立方体倍積問題は[[三次方程式]]を解かなくてはならないことを示した。非自明な三次方程式の根によって生成される体は拡大次数が 3 になってしまい、そのような数を座標にする点は作図できない。倍積問題はある線分を2の3乗根(無理数)倍に伸ばす方法の導出、円積問題は、方程式 ''x''<sup>2</sup> = π''r''<sup>2</sup> の解を求めることと同値である(π は[[円周率]])。[[1882年]]に、[[フェルディナント・フォン・リンデマン|リンデマン]]により π が[[超越数]]であることが証明され、作図が不可能であることが示された。 なお、不可能であることが示されているにもかかわらず、いまだに角の三等分が作図可能であることを示そうとする人々がおり、角の三等分家 (Trisector) と呼ばれている。定規・コンパス以外の道具を使用したり、定規・コンパスを本来とは異なる使い方で使用することで角の三等分を作図(あるいは工作等)することは可能であるが、当然ながら、これらは元々の「角の三等分問題」に対する解答ではない。また、「''任意の''角を三等分する」という問題であるのに、これを「''少なくとも一つの''角を三等分する」問題であると勘違いし、[[直角]]などが三等分できたのでこの問題を解けたと速断する人もいる(角度によっては定規とコンパスで、その角度の1/3の角度を作図できる){{要出典|date=2023年2月}}。 == 作図可能な正多角形 == [[正三角形]]と[[正五角形]]、この2つの正多角形の頂点の数の最小公倍数の値と同じ数の頂点を持つ[[十五角形|正十五角形]]、[[正方形]]、およびこれらの頂点の数に[[2の冪]]を乗じた数の頂点を持つ[[正多角形]]が作図可能である事は[[古代ギリシア]]の数学者[[エウクレイデス]]([[ユークリッド]])が著した『[[原論]]』に記されており、よく知られていた。長い間それ以上のことは判明しなかったが、[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]が[[1796年]][[3月30日]]に、[[十七角形|正十七角形]]が作図可能であることを発見した<ref>[[#高木1995|高木 1995]] p.7</ref><ref>[[#高木1996|高木 1996]] p.1</ref>。同時に正五十一角形、正八十五角形、正二百五十五角形、及び17もしくはこれらの頂点の数に2の冪を乗じた数の頂点を持つ正多角形が作図可能であることも発見されたことになる。ガウスはさらに1801年に出版した『[[Disquisitiones Arithmeticae|整数論の研究]]』において、正 ''n'' 角形が作図可能であるための必要十分条件が、''n'' が2の冪と相異なる[[フェルマー素数]]の積、すなわち : ''n'' = 2<sup>''m''</sup>F<sub>''a''</sub>F<sub>''b''</sub>…F<sub>''c''</sub>(F<sub>''a''</sub> , F<sub>''b''</sub> , … ,F<sub>''c''</sub> は全て異なるフェルマー素数、''m'' は非負整数) の形であることを示した<ref name="ガウス1995_365&366">[[#ガウス1995|ガウス 1995]] 第365条、第366条</ref>。これは 1 の原始 ''n'' 乗根 ζ<sub>''n''</sub> のガロア群の構造が 2 次拡大の繰り返しによって得られることの特徴付けとして得られる。このような ''n'' は、小さい順に(50以下のものを)並べると、<ref>{{OEIS|A3401}}</ref> :[[正三角形|3]], [[正方形|4]], [[五角形|5]], [[六角形|6]], [[八角形|8]], [[十角形|10]], [[十二角形|12]], [[十五角形|15]], [[十六角形|16]], [[十七角形|17]], [[二十角形|20]], [[二十四角形|24]], [[三十角形|30]], [[三十二角形|32]], [[三十四角形|34]], [[四十角形|40]], [[四十八角形|48]], ... ({{OEIS|A003401}}) である<ref>[[#ガウス1995|ガウス 1995]] 第366条</ref>。作図不可能な正多角形は{{OEIS|A004169}}を参照。 == 道具の変更と作図可能性 == === 定規のみ、コンパスのみでの作図 === 円や直線についての情報を含まない、相異なる点だけの情報からなるデータから定規とコンパスのみで作図できるようなものは、実はコンパスのみで作図可能であるという[[モール-マスケローニの定理]]が知られている。たとえば定規のみを使って平方根を得ることは不可能であり、同様に定規のみで作図できないものがコンパスを使って作図されるということになるが、[[ポンスレー-スタイナーの定理]]によれば、(最初のデータの中に)一つの円とその中心が与えられていれば実は作図できる。 === 目盛り付き定規の使用 === [[アルキメデス]]と[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]は目盛りを打つことができる定規を作図問題に取り入れている。これを使えば、1つの線分・2つの直線(または[[円 (数学)|円]])・1つの点を与えられたとき、与えられた点を通り与えられた2直線に交わりその2交点の間の距離が与えられた線分と同じである直線を引くといったようなこともできる。これをギリシャ人は直線が点に向かっていくように見えることから「傾向」という意味の ''[[ネウシス作図|ネウシス]]''と呼んだ<ref>[[#Reference-Mathworld-Neusis Construction|Weisstein]]。</ref>。 この作図は[[エウクレイデス]]([[ユークリッド]])の『[[ユークリッド原論|原論]]』が扱っている幾何学の範囲を超えるものであり、エウクレイデスの幾何学では neusis に関する公理も定理もそもそもその存在さえも扱われておらず、したがってそれをつかった作図もすることはできない。この広い意味の幾何学では、既知の長さから三次または四次方程式の解として得られる比を持つ長さならば作図できる。これは目盛りの打てる定規とネウシスを使えば角の三等分<ref>[http://www.cut-the-knot.org/pythagoras/archi.shtml Archimedes' trisection] 参照。</ref>および立方倍積ができるということである(一方、円積問題についてはやはり不可能なままではあるが)。これによって、[[正七角形]]、[[正九角形]]などいくつかの正多角形が作図可能となり、[[ジョン・コンウェイ]]はそのようなもののいくつかについて作図法を与えている<ref>[[#Conway&Guy1995|Conway&Guy 1995]]{{要ページ番号|date=2023年2月}}。[[#コンウェイ&ガイ2001|コンウェイ&ガイ 2001]]{{要ページ番号|date=2023年2月}}。</ref>。それでも[[正十一角形]]など無数に作図不可能なものが存在するのである。 角の三等分のみを許すときの(上で述べた正七角形や[[正十三角形]]、[[正十九角形]]というようなものを含む)全ての作図可能な正多角形についての完全な記述は既に知られている<ref>[[#Gleason1988|Gleason 1988]]。</ref>。無限に多くの素数 ''p'' に対する正 ''p''-角形が定規とコンパスと角の三等分器を使って作図可能であるかどうかは知られていない。 === 折り紙を利用した作図 === 同様に、鋏や糊のような道具を使わずに紙をただ折るだけの[[折り紙]]を数学的に扱った理論では、いくつかの理由から定規とコンパスを使った作図よりも強力なことができる([[折紙の数学]]、[[折り紙公理]])。この方法で、三次または四次の方程式を解くことができて、それによりギリシャの三大不可能作図題のうち二つを解決することができるのである。 作図可能な点については、折り紙による作図でもコンパスと目盛りつき定規による作図でも同じだけの能力がある(関連項目:[[ピアポント素数]]) このような n は、小さい順に(50以下のものを)並べると、 [[正三角形|3]], [[正方形|4]], [[五角形|5]], [[六角形|6]], [[七角形|7]], [[八角形|8]], [[九角形|9]], [[十角形|10]], [[十二角形|12]], [[十三角形|13]], [[十四角形|14]], [[十五角形|15]], [[十六角形|16]], [[十七角形|17]], [[十八角形|18]], [[十九角形|19]], [[二十角形|20]], [[二十一角形|21]], [[二十四角形|24]], [[二十六角形|26]], [[二十七角形|27]], [[二十八角形|28]], [[三十角形|30]], [[三十二角形|32]], [[三十四角形|34]], [[三十五角形|35]], [[三十六角形|36]], [[三十七角形|37]], [[三十八角形|38]], [[三十九角形|39]], [[四十角形|40]], [[四十二角形|42]], [[四十五角形|45]], [[四十八角形|48]], ... ({{OEIS|A122254}}) === 拡張された作図問題と作図可能数 === 抽象的な言葉で言えば、折り紙や目盛りつき定規といった便利な道具を使った作図というのは、複素数体の部分体としての作図可能数(可設数)の体をより大きな部分体へ[[体の拡大|拡大]]するもので、そこには(定規とコンパスで作図できる)平方根をとる操作に加えて任意の元の立方根をとる操作もあわせて得られるようなものも全て含まれる。作図可能な点についての算術的な話は、この大きな体に関しても三乗根を含めて類似の結果を述べることができる。この新たに作図可能となった点によって生成される体の拡大は、拡大次数が2の冪と3の冪の積となるものであり、これは二次拡大と三次拡大からなる拡大の塔に分解することができる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{脚注の不足|section=1|date=2023年2月15日 (水) 15:23 (UTC)}} *{{Cite book|和書|author=大野栄一|authorlink=大野栄一|date=1993-10-20|title=定木とコンパスで挑む数学 四則演算から作図不能問題まで|publisher=講談社|series=[[ブルーバックス]] 986|isbn=4-06-132986-3|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000138803|ref=大野1993}} *{{Cite book|和書|author=ガウス|authorlink=カール・フリードリヒ・ガウス|others=[[高瀬正仁]]訳|origyear=1801|date=1995-06-20|title=ガウス整数論|publisher=朝倉書店|isbn=4-254-11457-5|chapter=第7章 円の分割を定める方程式|url=http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-11457-7/|ref=ガウス1995}} - 歴史的文献。特に第365条を参照。 *{{Cite book|和書|author=倉田令二朗|authorlink=倉田令二朗|date=1988-11-30|title=ガウス円分方程式論|publisher=河合文化研究所|isbn=4-87999-955-5|url=http://www.kawai-juku.ac.jp/bunkyo/7-2-a.html|ref=倉田1988}} *{{Cite journal|first=Andrew|last=Gleason|title=Angle trisection, the heptagon, and the triskaidecagon|journal=Amer. Math. Monthly|volume=95|issue=3|year=1988|publisher=Mathematical Association of America|pages=pp. 185-194|issn=0002-9890|ref=Gleason1988}} *{{Cite book|last=Conway|first=John H.|authorlink=ジョン・ホートン・コンウェイ|coauthors=[[リチャード・ガイ|Guy, Richard]]|year=1995|month=March|title=The Book of Numbers|publisher=Springer|edition=Corrected |isbn=0-387-97993-X|ref=Conway&Guy1995}} **{{Cite book|和書|author=J.H.コンウェイ|authorlink=ジョン・ホートン・コンウェイ|coauthors=[[リチャード・ガイ]]|others=[[根上生也]]訳|year=2001|month=12|title=数の本|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06207-4|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621062074.html|ref=コンウェイ&ガイ2001}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|authorlink=高木貞治|date=1965-11-25|title=代数学講義|edition=改訂新版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01000-0|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320010000|chapter=§42.初等幾何学の不可能な作図問題|ref=高木1965}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|date=1971-10-15|title=初等整数論講義|edition=第2版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01001-9|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320010017|chapter=§17.1のp乗根,特に17乗根|ref=高木1971}} *{{Cite book|1=和書|author=高木貞治|date=1995-08-18|title=近世数学史談|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=4-00-339391-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3393910.html|chapter=1.正十七角形のセンセーション|ref=高木1995|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130922153709/http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/0/3393910.html|archivedate=2013年9月22日|deadlinkdate=2017年10月}} *{{Cite book|和書|author=高木貞治|date=1996-12-10|title=近世数学史談・数学雑談|edition=復刻版|publisher=共立出版|isbn=4-320-01551-7|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320015517|chapter=1.正十七角形のセンセーション|ref=高木1996}} *{{Cite book|和書|author=田端毅|authorlink=田端毅|coauthors=[[讃岐勝]]・[[礒田正美]]|editor=[[礒田正美]]・[[Maria G. Bartolini Bussi]]編|year=2009|month=12|title=曲線の事典 性質・歴史・作図法|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-01907-2|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320019072|ref=田端&讃岐&礒田2009}} - 定木とコンパスによる作図、よらない作図について参照。 *{{Citation |last1=Hardy |first1=G. H. |author1-link=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ |last2=Wright |first2=E. M. |author2-link=エドワード・メイトランド・ライト |editor1-last=Heath-Brown |editor1-first=Roger |editor1-link=ロジャー・ヒース=ブラウン |editor2-last=Silverman |editor2-first=Joseph |editor2-link=ジョセフ・シルヴァーマン |editor3-last=Wiles |editor3-first=Andrew |editor3-link=アンドリュー・ワイルズ |year=2008 |date=31 July 2008 |title=An Introduction to the Theory of Numbers |edition=sixth |place=USA |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-921986-5 |url=http://ukcatalogue.oup.com/product/9780199219865.do#.UdgOFeaCjIU }} **{{Cite book|和書|author=G・H・ハーディ|authorlink=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|coauthors={{仮リンク|エドワード・メイトランド・ライト|label=E.M.ライト|en|E. M. Wright}}|others=[[示野信一]]・[[矢神毅]]訳|origyear=1979|date=2001-07-01|title=数論入門|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06226-5|url=http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621062265.html|ref=ハーディ&ライト2001|chapter=§5.8 正17角形の作図}} - 原書第5版(1979年)の邦訳。 *{{Cite book|和書|author=ヒルベルト|authorlink=ダフィット・ヒルベルト|others=[[中村幸四郎]]訳|date=2005-12-10|title=幾何学基礎論|series=[[ちくま学芸文庫]]|publisher=筑摩書房|isbn=978-4-480-08953-3|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089533/|ref=ヒルベルト2005}} - 原書第7版(1930年)の邦訳。 *{{Cite book|和書|author=矢野健太郎|authorlink=矢野健太郎 (数学者)|others=[[一松信]]解説|date=2006-07-10|title=角の三等分|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫|isbn=4-480-09003-7|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090034/|ref=矢野&一松2006}} == 関連項目 == *[[折り紙公理]] *[[折紙の数学]] *[[用器画法]] *[[ルーローの三角形]] *[[カーライル円]] == 外部リンク == {{Commonscat|Ruler-and-compass construction}} *{{Cite web|和書 | author = 星野敏司 | url = https://metameta.zatunen.com/misc/math/trisect.html | title = 角の三等分 | website = Meta{{sup|2}}mathematician's HP | date = 2 March 2001 | accessdate = 2021-3-15 }} *[http://www.nikonet.or.jp/spring/origami/origami.htm 折り紙による角の三等分]{{リンク切れ|date=2023年2月}} *{{MathWorld|title=Angle Trisection|urlname=AngleTrisection}} *{{MathWorld|title=Geometric Construction|urlname=GeometricConstruction}} *{{MathWorld|title=Neusis Construction|urlname=NeusisConstruction}} *{{MathWorld|title=Origami|urlname=Origami}} {{多角形}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようきとこんはすによるさくす}} [[Category:代数学]] [[Category:図形]] [[Category:定規]] [[Category:数学に関する記事]] [[eo:Geometrio#Klasikaj problemoj]] [[fa:تثلیث زاویه]]
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年賀状
年賀状(ねんがじょう)とは、新年を祝う挨拶状のことで、一般的には郵便葉書やカードが用いられる。新年を祝う言葉をもって挨拶し、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを、親しい相手への場合などには近況を添えることがある。日本では20世紀以降、新年1月1日(正月)に届くよう送られることが多い。年賀状の価格の一部が年賀寄付金事業の財源となっている。 通常は年末に投函されたものを、1月1日に郵便局から各戸ごとにまとめて一度に配達する。日本郵便からは、この事前作業を確実に行えるよう、12月25日頃までに郵便ポストに投函するようにアナウンスされている。しかし、生活全般の多忙さ、年賀状の生活の中での位置づけの変化、などを前提として、パソコンや家庭用プリンターの普及によって、スピーディに準備が叶うようになった技術要因、書く通数の減少などの様々な理由から投函のピークは遅くなり、2005年が前年12月25日、2006年に至っては前年12月30日が投函のピークと報じた。 通常使用される「はがき」と異なり、年賀状用の「お年玉付郵便はがき」が毎年11月頃から発売されこれを用いる。よく用いられる図柄は新年の干支、宝船や七福神などの縁起物、フキノトウや梅の花など、早春を象徴するものである一方、インターネットの普及により減少傾向にある。 日本郵便では、年賀状は「年賀特別郵便」という一種の特殊取扱として扱う。その取扱期間は2006年の場合12月15日から12月28日であり、その期間に「年賀」と朱記した郵便物を、適当の個数ごとに一束とし、これに「年賀郵便」と記載した付せんを添えて差し出した通常はがきについてあらかじめ区分したうえであて先を管轄する配達局に送付し同局で1月1日まで留め置くサービスである。それ以降も便宜的に受け付けているが年賀特別郵便物の要件、取扱期間内での差出しを満たさないため1月1日に配達される保証はなくなる。通常はがきを使用する場合は「年賀」の朱書きを忘れると一般郵便物として扱われ、年内に届いてしまう場合があるので気を付ける必要がある。 年が明けて受け取った年賀状を見てから、出さなかった人へ返事を出す人も多く、これを「返り年賀」という。お年玉くじ(抽選くじ)のある年賀はがき及び年賀切手の抽選日頃までは年賀状の配達が続く。松の内(基本的に1月7日)の翌日朝のポスト回収分までは日本郵便側における年賀状としての受付・配達となる。これを過ぎて投函すると一般郵便物扱いになるので、消印が押されるようになる。 お年玉付郵便はがきの発行枚数は、2003年用の44億5936万枚がピーク、2007年用の40億2105万枚から、対前年比約+2.9%となった2008年用の41億3684万枚を最後に減少し続け、2015年用の年賀はがき発行枚数は30億2285万枚となった。2019年用は24億枚、2020年用の当初発行枚数は23億5000万枚であった。これは、2003年のほぼ半数、増加途上であった1973年とほぼ同じ枚数となっている。原因として、企業が儀礼廃止の方針を打ち出し職場向けに送らなくなったり、インターネットで年始の挨拶を済ませたりする動きが挙げられる。 総務省統計局の人口推計より、各年の人口を抽出し、その人数で年賀はがき発行部数を割った「もし日本在住者全員が年賀はがきを購入したと仮定した場合、1人当たりの購入枚数は何枚になるのか」という値は、2003年用の34.9枚がピーク、2015年用の発行分は23.8枚となった。 日本では、起源ははっきりとはしないが、奈良時代から新年の年始回りという年始の挨拶をする行事があった。平安時代には貴族・公家にもその風習が広まって、挨拶が直接行えないような遠方などの人への年始回りに代わるものとして、文書による年始挨拶が行われるようになった。 近世には武家社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった。 明治維新後の1871年、郵便制度が確立したが年賀状は書状で送るところがほとんどで、数は決して多くはなかった。1873年に郵便はがきを発行するようになると、年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。 郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に年始の集配度数を減らす対策が講じられた。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。 また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。 そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった。 なお年賀状は本来、元日に書いて投函するのであるがこの特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになった。また、当時はある程度の枚数を束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則であったが、1907年から葉書の表に「年賀」であることを表記すれば枚数にかかわらず郵便ポストへの投函も可能となった。 関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。 年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。 さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止(廃止決定は同年11月6日)。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した 終戦後の1948年(昭和23年)、特別取扱と年賀切手の発行が再開された。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。 お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。 1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(昭和64年)から年賀切手にも「くじ」が付くようになった。 イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。 一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は新たな正月の風物詩となった。 2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。 2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった。 2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している。 一般に「あけましておめでとうございます」・「謹賀新年」等の賀詞、「旧年中はお世話になりました。本年も宜しくお願い致します。」などの添え文、「○○年元旦」など日付から構成される。これに加えて、新年にふさわしいイラストや、差出人の近況を知らせる写真などが入ることが多い。 1949年にお年玉付郵便はがきが初めて発行された。お年玉くじについては、毎年1月に抽せんが行われている。 年賀状は葉書に書いて出すのが基本であるが、写真素材をそのまま電子メールとして送ったり特定のwebページのURLを送ったりする方法で年賀状を出す事もある。 この方法は電子化されたデータとの相性が良い上、より手軽に年賀状を送ることができるため利用が増えていったが、一方で1月1日0時を迎えた瞬間に多くの人が大量の電子メールを送受信するため、通信網に輻輳が起きサーバに多大な負荷をかけるという一面もある。 2000年代までのモバイル回線では携帯電話による年賀メール(あけおめメール)や、新年のあいさつ通話である「おめでとうコール」に耐えられず輻輳が社会問題になり、2000年代から2010年代初めにかけては、携帯電話事業者では大晦日から元日にかけての通信や通話に通信制限を設ける、0時直後の年賀メールの自粛を呼びかける等の措置を行っていた。なお、この規制は携帯電話のネットワークに限られており、一般回線のインターネットにまで及ぶことはなかった。 これらは2010年代に通信網の大容量化により解消され、2018年を最後に自粛要請は無くなった。またSNSの普及で電子メールや電話からSNSへの移行も起きている。 年賀状の作成方法としては、以下の方法がある。 年賀状には、あらかじめ印刷してある年賀はがきを利用する場合がある。年賀状カタログより図柄を選んで業者に注文し、差出人名・社名などを追加で印刷してもらう場合と、あらかじめ図柄・文字のみが印刷してある年賀状を購入し、手書き又はプリンターで残りの内容を加える場合がある。 家族・ペット等の近況を知らせることができる、写真を掲載する年賀状である。写真を専用の印画紙に焼き付けて、専用糊で年賀状に貼り合わせる方式が使われる。 写真店やコンビニエンスストアなどの取扱店の店頭で注文する方法と、インターネットの注文サイトで注文する方法などがある。写真店での注文方法も、カタログ・広告紙による注文方式に加えて、店頭端末機と言われる注文ソフトを利用してデジタルカメラ・携帯電話の写真画像から直接で注文する方式もある。一部の写真店では、葉書貼り機を用いて店内で作製しているケースもあるが、多くはフィルムメーカー系の現像所で集中的に製造される。 印画紙と糊の分だけ通常の年賀状よりも重量が増えるため、基本郵便料金に収めるために、四辺をカットしている。また、表面は、印画紙なので余白に手書きで書き添える場合は、油性ペンが必要。ただし、一部の現像所では、ライタブルペーパーを使用しているデザインがあり、油性ペンでなくても書き込みができる年賀状もある。 パソコン印刷の普及以前には、家庭用の小型簡易印刷機による年賀状の作成が広く行なわれた。簡易印刷機の代表的な製品に理想科学工業のプリントゴッコがあったが、2008年販売終了。 パソコン作成の場合、宛先や7桁の郵便番号などのデータ管理が簡単にできるはがき作成ソフトウェアを使うことが多い。日本郵便は「はがきデザインキット」というソフトを無料で提供している。そのほか、有料のパッケージソフトウェアとして、「筆まめ」「筆王」「筆ぐるめ」「宛名職人」などが市販されている。これらのソフトウェアは年賀状に限らず、暑中見舞い・寒中見舞い・結婚や出産・引越しの通知などにも利用できるよう考慮されている。 またこれらのソフトウェアで利用できる、イラストや写真画像などを有償・無償で提供するウェブサイトやDVD-ROM付きムックもある。 2000年用から官製のお年玉付年賀はがきにインクジェット紙が登場。これは、パソコンを用いてインクジェットプリンターで印刷する人が増えたためである。また、より高画質な写真印刷に対応ができるよう、2004年度は関東地域限定、2005年度から全国で光沢紙のお年玉付年賀はがきを発売。価格は10円高い。 2008年11月、郵政民営化に伴い、郵便事業株式会社とKDDIは、年賀状離れの進む若年層に向け、使い慣れた携帯電話を用いて年賀状を作って送れるサービス「ケータイPOST」を開始した。企画・運営は株式会社サミーネットワークスが行い、年賀状の印刷はマイアルバム株式会社が行っていた。2012年終了。 2010年頃から、AppleのiOSやGoogleのAndroidを搭載したスマートフォンが普及し始め、スマートフォン上で動作するアプリが台頭してきた。年賀状専用の編集アプリも、2010年頃からAppStoreやGoogleマーケットで公開され、スマートフォンで利用できるようになった。 多くの年賀状アプリは、スマートフォンで撮影した写真と、年賀状デザインテンプレートとの合成やスタンプなどの装飾、コメントなどの文字入力機能があり、アプリだけでも簡単にオリジナルな年賀状作成ができるようになっている。 作成した年賀状は自宅のプリンターで印刷できるものや、富士フイルムなどの現像所や印刷会社での出力ができるものがある。一部のアプリでは、編集した年賀状を、デザイン面の印刷だけでなく宛名印刷やポストへの投函まで依頼できるものもあり、スマートフォンだけで年賀状の準備が完了できる。 近年では、日本郵便が「はがきデザインキット」というアプリを、富士フイルムが「フジカラーの年賀状」というアプリを無償で公開している。また、日本郵便のLINE公式アカウント"ぽすくま"に、写真を送ることで年賀状を出力するサービスも提供されている。 神奈川県・東京都を中心に焼売や各種弁当等を販売する食品メーカー崎陽軒が、毎年11月に「シウマイ年賀状」を発売している。 喪に服している人(1年以内に身内を亡くした人)からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を差し控える」旨の葉書を出すことがある。元々は明治・大正期に皇室の大喪に対し年賀欠礼を行っていた習慣が、昭和期に年賀状の普及に伴い、一般家庭の喪中でも年賀欠礼の挨拶状を出すように風習として定着し、現在に至っている。こうした喪中欠礼の挨拶状は、郵便はがきではなく私製はがきに切手(弔事用、花輪やアシの模様など)を貼って出すことが多かったが、最近ではパソコンや家庭用プリンターの普及により、郵便はがきを用いることも多い。また、一般的には印刷業者などに発注する場合も多い。 喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀のあいさつができなくて申し訳ありません」という意味、すなわち年賀状は新年をめでたく迎えたことを祝うための手紙であり、前年に身内が亡くなった=めでたく新年を迎えられなかったからである。喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もおり、一般的には寒中見舞いの葉書を出すことがある。また、喪中の期間中に届いた年賀状に対しても、寒中見舞いとして返信することが一般的である。また、平成末期以降になると家族葬が一般化し、親しい間柄にも拘わらず故人の死を年末になって知るケースが増え、遅い香典を送るより贈答用線香などを送り、弔意を表す人も増加傾向にある。 日本郵便にとっては年賀状の通数が多い事と集中した期間に配達しなければならない(もちろん、一般の郵便物や小包などもある)ので、通常の人員だけでなく学生を中心としたアルバイトなども動員して年末年始の作業をする。 通常の時期は1つの配達区を1人の担当者が受け持っているが、12月にはこの担当者が通常の郵便物の配達順への整理業務を局内で行い、アルバイトが外勤の配達をこなす体制をとることがある。これは、家族の構成や商売上の屋号を熟知した本務者(正規職員)が配達順の整理をするほうが有利なためである。 2007年の郵政民営化以前は窓口担当(保険担当など)が臨時で仕分けを行うこともあったが、民営化当初、郵便局会社と郵便事業会社が分社化されていた時はそのような業務ができなくなった。なお、2012年に両社は合併し、日本郵便株式会社となった。 都市部の局など処理量が多く局舎内で作業ができない場合、年賀状の区分専門の仮設プレハブ局舎や会議室などを利用して12月下旬の区分作業だけを行う。 大晦日の昼頃には元日に配達する年賀状を準備し片づけを行い、年賀状臨時体制は終了し翌日の元日に備える。岡山市の最上稲荷近辺では年明けに参道が参拝客で混雑して配達できないため、1978年より1日繰り上げて大晦日(12月31日)に年賀状を配達している。 1973年から2004年までは、1月2日は年賀状配達は休みであったが、2005年より配達日となった。なお、2017年からは、再び1月2日の配達を休みとしている。 特に希望し、郵便局に申請を行えば年末年始の休暇前にその時点までに届いた年賀状を受け取ることも可能。逆に長期不在にする場合など、郵便ポストに入り切らない事が想定される場合は、不在届の申請を行うことにより配送を遅らせる事が可能である。 韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米においても1900年前後には同様に新年を祝う絵はがきを交換することが行われていたが、現在ではクリスマス・カードやグリーティングカードで「クリスマスと新年の挨拶」を行うことが主であり、新年を祝う習慣としてはチェコやスロバキアに限られる。
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"郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に年始の集配度数を減らす対策が講じられた。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお年賀状は本来、元日に書いて投函するのであるがこの特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになった。また、当時はある程度の枚数を束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則であったが、1907年から葉書の表に「年賀」であることを表記すれば枚数にかかわらず郵便ポストへの投函も可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "関東大震災(1923年)や大正天皇崩御(1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。明治天皇と昭和天皇崩御の年は実施されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、1935年(昭和10年)に私製はがきの貼付用として年賀切手の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により1938年(昭和13年)に年賀切手の発行が中止。 さらに物資の節約のため1941年(昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止(廃止決定は同年11月6日)。この年の東京中央郵便局が集配した年賀状は1/3に減少した", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "終戦後の1948年(昭和23年)、特別取扱と年賀切手の発行が再開された。この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになる。1949年(昭和24年)、お年玉付郵便はがき(年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。1955年(昭和30年)には、アメリカ合衆国による沖縄統治に置かれた沖縄諸島でも琉球郵政庁により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。1961年(昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、1968年(昭和43年)には郵便番号導入により郵便番号枠が追加された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1970年代になるとプリントゴッコの登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、1982年(昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。1989年(昭和64年)から年賀切手にも「くじ」が付くようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イラストやデジタルカメラで撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感がありインクジェットプリンターの印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方で2000年代からはインターネットの普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅住所が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに電子メールなどの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。携帯電話を使った「あけおめメール」による通信混乱は新たな正月の風物詩となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2008年には、郵政民営化を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2010年代になるとスマートフォン、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、インスタントメッセンジャー等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。LINEが運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一般に「あけましておめでとうございます」・「謹賀新年」等の賀詞、「旧年中はお世話になりました。本年も宜しくお願い致します。」などの添え文、「○○年元旦」など日付から構成される。これに加えて、新年にふさわしいイラストや、差出人の近況を知らせる写真などが入ることが多い。", "title": "年賀状の構成" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1949年にお年玉付郵便はがきが初めて発行された。お年玉くじについては、毎年1月に抽せんが行われている。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "年賀状は葉書に書いて出すのが基本であるが、写真素材をそのまま電子メールとして送ったり特定のwebページのURLを送ったりする方法で年賀状を出す事もある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "この方法は電子化されたデータとの相性が良い上、より手軽に年賀状を送ることができるため利用が増えていったが、一方で1月1日0時を迎えた瞬間に多くの人が大量の電子メールを送受信するため、通信網に輻輳が起きサーバに多大な負荷をかけるという一面もある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2000年代までのモバイル回線では携帯電話による年賀メール(あけおめメール)や、新年のあいさつ通話である「おめでとうコール」に耐えられず輻輳が社会問題になり、2000年代から2010年代初めにかけては、携帯電話事業者では大晦日から元日にかけての通信や通話に通信制限を設ける、0時直後の年賀メールの自粛を呼びかける等の措置を行っていた。なお、この規制は携帯電話のネットワークに限られており、一般回線のインターネットにまで及ぶことはなかった。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これらは2010年代に通信網の大容量化により解消され、2018年を最後に自粛要請は無くなった。またSNSの普及で電子メールや電話からSNSへの移行も起きている。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "年賀状の作成方法としては、以下の方法がある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "年賀状には、あらかじめ印刷してある年賀はがきを利用する場合がある。年賀状カタログより図柄を選んで業者に注文し、差出人名・社名などを追加で印刷してもらう場合と、あらかじめ図柄・文字のみが印刷してある年賀状を購入し、手書き又はプリンターで残りの内容を加える場合がある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "家族・ペット等の近況を知らせることができる、写真を掲載する年賀状である。写真を専用の印画紙に焼き付けて、専用糊で年賀状に貼り合わせる方式が使われる。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "写真店やコンビニエンスストアなどの取扱店の店頭で注文する方法と、インターネットの注文サイトで注文する方法などがある。写真店での注文方法も、カタログ・広告紙による注文方式に加えて、店頭端末機と言われる注文ソフトを利用してデジタルカメラ・携帯電話の写真画像から直接で注文する方式もある。一部の写真店では、葉書貼り機を用いて店内で作製しているケースもあるが、多くはフィルムメーカー系の現像所で集中的に製造される。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "印画紙と糊の分だけ通常の年賀状よりも重量が増えるため、基本郵便料金に収めるために、四辺をカットしている。また、表面は、印画紙なので余白に手書きで書き添える場合は、油性ペンが必要。ただし、一部の現像所では、ライタブルペーパーを使用しているデザインがあり、油性ペンでなくても書き込みができる年賀状もある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "パソコン印刷の普及以前には、家庭用の小型簡易印刷機による年賀状の作成が広く行なわれた。簡易印刷機の代表的な製品に理想科学工業のプリントゴッコがあったが、2008年販売終了。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "パソコン作成の場合、宛先や7桁の郵便番号などのデータ管理が簡単にできるはがき作成ソフトウェアを使うことが多い。日本郵便は「はがきデザインキット」というソフトを無料で提供している。そのほか、有料のパッケージソフトウェアとして、「筆まめ」「筆王」「筆ぐるめ」「宛名職人」などが市販されている。これらのソフトウェアは年賀状に限らず、暑中見舞い・寒中見舞い・結婚や出産・引越しの通知などにも利用できるよう考慮されている。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "またこれらのソフトウェアで利用できる、イラストや写真画像などを有償・無償で提供するウェブサイトやDVD-ROM付きムックもある。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2000年用から官製のお年玉付年賀はがきにインクジェット紙が登場。これは、パソコンを用いてインクジェットプリンターで印刷する人が増えたためである。また、より高画質な写真印刷に対応ができるよう、2004年度は関東地域限定、2005年度から全国で光沢紙のお年玉付年賀はがきを発売。価格は10円高い。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2008年11月、郵政民営化に伴い、郵便事業株式会社とKDDIは、年賀状離れの進む若年層に向け、使い慣れた携帯電話を用いて年賀状を作って送れるサービス「ケータイPOST」を開始した。企画・運営は株式会社サミーネットワークスが行い、年賀状の印刷はマイアルバム株式会社が行っていた。2012年終了。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2010年頃から、AppleのiOSやGoogleのAndroidを搭載したスマートフォンが普及し始め、スマートフォン上で動作するアプリが台頭してきた。年賀状専用の編集アプリも、2010年頃からAppStoreやGoogleマーケットで公開され、スマートフォンで利用できるようになった。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "多くの年賀状アプリは、スマートフォンで撮影した写真と、年賀状デザインテンプレートとの合成やスタンプなどの装飾、コメントなどの文字入力機能があり、アプリだけでも簡単にオリジナルな年賀状作成ができるようになっている。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "作成した年賀状は自宅のプリンターで印刷できるものや、富士フイルムなどの現像所や印刷会社での出力ができるものがある。一部のアプリでは、編集した年賀状を、デザイン面の印刷だけでなく宛名印刷やポストへの投函まで依頼できるものもあり、スマートフォンだけで年賀状の準備が完了できる。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "近年では、日本郵便が「はがきデザインキット」というアプリを、富士フイルムが「フジカラーの年賀状」というアプリを無償で公開している。また、日本郵便のLINE公式アカウント\"ぽすくま\"に、写真を送ることで年賀状を出力するサービスも提供されている。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "神奈川県・東京都を中心に焼売や各種弁当等を販売する食品メーカー崎陽軒が、毎年11月に「シウマイ年賀状」を発売している。", "title": "年賀状の種類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "喪に服している人(1年以内に身内を亡くした人)からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を差し控える」旨の葉書を出すことがある。元々は明治・大正期に皇室の大喪に対し年賀欠礼を行っていた習慣が、昭和期に年賀状の普及に伴い、一般家庭の喪中でも年賀欠礼の挨拶状を出すように風習として定着し、現在に至っている。こうした喪中欠礼の挨拶状は、郵便はがきではなく私製はがきに切手(弔事用、花輪やアシの模様など)を貼って出すことが多かったが、最近ではパソコンや家庭用プリンターの普及により、郵便はがきを用いることも多い。また、一般的には印刷業者などに発注する場合も多い。", "title": "喪中欠礼" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀のあいさつができなくて申し訳ありません」という意味、すなわち年賀状は新年をめでたく迎えたことを祝うための手紙であり、前年に身内が亡くなった=めでたく新年を迎えられなかったからである。喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もおり、一般的には寒中見舞いの葉書を出すことがある。また、喪中の期間中に届いた年賀状に対しても、寒中見舞いとして返信することが一般的である。また、平成末期以降になると家族葬が一般化し、親しい間柄にも拘わらず故人の死を年末になって知るケースが増え、遅い香典を送るより贈答用線香などを送り、弔意を表す人も増加傾向にある。", "title": "喪中欠礼" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本郵便にとっては年賀状の通数が多い事と集中した期間に配達しなければならない(もちろん、一般の郵便物や小包などもある)ので、通常の人員だけでなく学生を中心としたアルバイトなども動員して年末年始の作業をする。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "通常の時期は1つの配達区を1人の担当者が受け持っているが、12月にはこの担当者が通常の郵便物の配達順への整理業務を局内で行い、アルバイトが外勤の配達をこなす体制をとることがある。これは、家族の構成や商売上の屋号を熟知した本務者(正規職員)が配達順の整理をするほうが有利なためである。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2007年の郵政民営化以前は窓口担当(保険担当など)が臨時で仕分けを行うこともあったが、民営化当初、郵便局会社と郵便事業会社が分社化されていた時はそのような業務ができなくなった。なお、2012年に両社は合併し、日本郵便株式会社となった。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "都市部の局など処理量が多く局舎内で作業ができない場合、年賀状の区分専門の仮設プレハブ局舎や会議室などを利用して12月下旬の区分作業だけを行う。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大晦日の昼頃には元日に配達する年賀状を準備し片づけを行い、年賀状臨時体制は終了し翌日の元日に備える。岡山市の最上稲荷近辺では年明けに参道が参拝客で混雑して配達できないため、1978年より1日繰り上げて大晦日(12月31日)に年賀状を配達している。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1973年から2004年までは、1月2日は年賀状配達は休みであったが、2005年より配達日となった。なお、2017年からは、再び1月2日の配達を休みとしている。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "特に希望し、郵便局に申請を行えば年末年始の休暇前にその時点までに届いた年賀状を受け取ることも可能。逆に長期不在にする場合など、郵便ポストに入り切らない事が想定される場合は、不在届の申請を行うことにより配送を遅らせる事が可能である。", "title": "日本郵便の配達体制" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "韓国、中国、台湾にも似た風習がある。欧米においても1900年前後には同様に新年を祝う絵はがきを交換することが行われていたが、現在ではクリスマス・カードやグリーティングカードで「クリスマスと新年の挨拶」を行うことが主であり、新年を祝う習慣としてはチェコやスロバキアに限られる。", "title": "海外の類例" } ]
年賀状(ねんがじょう)とは、新年を祝う挨拶状のことで、一般的には郵便葉書やカードが用いられる。新年を祝う言葉をもって挨拶し、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを、親しい相手への場合などには近況を添えることがある。日本では20世紀以降、新年1月1日(正月)に届くよう送られることが多い。年賀状の価格の一部が年賀寄付金事業の財源となっている。
{{複数の問題 | 独自研究 = 2020年1月 | 出典の明記 = 2020年1月 }} [[ファイル:An Instance Of New Year Card In Japan.JPG|thumb|年賀状の一例]] '''年賀状'''(ねんがじょう)とは、新年を祝う挨拶状のことで、一般的には[[はがき|郵便葉書]]やカードが用いられる。新年を祝う言葉をもって挨拶し、旧年中の厚誼の感謝と新しい年に変わらぬ厚情を依願する気持ちを、親しい相手への場合などには近況を添えることがある。日本では20世紀以降、[[新年]][[1月1日]]([[正月]])に届くよう送られることが多い。年賀状の価格の一部が[[年賀寄付金]]事業の財源となっている<ref>{{Cite web|和書|title=年賀寄付金について - 日本郵便 |url=https://www.post.japanpost.jp/kifu/nenga/about.html |website=www.post.japanpost.jp |access-date=2023-02-03}}</ref>。 == 概説 == [[ファイル:New Year card street sale 2006-11-03.jpg|thumb|年賀状用の葉書の街頭販売(2006年11月3日)]] {{Seealso|お年玉付郵便はがき}} 通常は[[年末]]に投函されたものを、[[1月1日]]に[[郵便局]]から各戸ごとにまとめて一度に配達する。[[日本郵便]]からは、この事前作業を確実に行えるよう、12月25日頃までに[[郵便ポスト]]に投函するようにアナウンスされている。しかし、生活全般の多忙さ、年賀状の生活の中での位置づけの変化、などを前提として、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や家庭用[[プリンター]]の普及によって、スピーディに準備が叶うようになった技術要因、書く通数の減少などの様々な理由から投函のピークは遅くなり、2005年が前年12月25日、2006年に至っては前年12月30日が投函のピークと報じた。 通常使用される「[[はがき]]」と異なり、年賀状用の「[[お年玉付郵便はがき]]」が毎年11月頃から発売されこれを用いる。よく用いられる図柄は新年の[[干支]]、宝船や[[七福神]]などの縁起物、[[フキ|フキノトウ]]や[[ウメ|梅]]の花など、早春を象徴するものである一方、インターネットの普及により減少傾向にある。 日本郵便では、年賀状は「年賀特別郵便」という一種の特殊取扱として扱う<ref>[https://www.post.japanpost.jp/about/yakkan/1-1.pdf#page=63 内国郵便約款 第5章 特殊取扱 第13節 年賀特別郵便]‐日本郵便株式会社</ref>。その取扱期間は2006年の場合12月15日から12月28日であり、その期間に「<span style="color:#ff0000">年賀</span>」と朱記した郵便物を、適当の個数ごとに一束とし、これに「年賀郵便」と記載した付せんを添えて差し出した通常はがきについてあらかじめ区分したうえであて先を管轄する配達局に送付し同局で1月1日まで留め置くサービスである。それ以降も便宜的に受け付けているが年賀特別郵便物の要件、取扱期間内での差出しを満たさないため1月1日に配達される保証はなくなる。通常はがきを使用する場合は「年賀」の朱書きを忘れると一般郵便物として扱われ、年内に届いてしまう場合があるので気を付ける必要がある。 年が明けて受け取った年賀状を見てから、出さなかった人へ返事を出す人も多く、これを「返り年賀」という。お年玉くじ(抽選くじ)のある年賀はがき及び年賀切手の抽選日頃までは年賀状の配達が続く。[[松の内]](基本的に1月7日)の翌日朝のポスト回収分までは日本郵便側における年賀状としての受付・配達となる。これを過ぎて投函すると一般郵便物扱いになるので、消印が押されるようになる。 == 発行枚数 == お年玉付郵便はがきの発行枚数は、2003年用の44億5936万枚がピーク、2007年用の40億2105万枚から、対前年比約+2.9%となった2008年用の41億3684万枚を最後に減少し続け、2015年用の年賀はがき発行枚数は30億2285万枚となった。2019年用は24億枚<ref>【見る】平成最後の年賀状『[[読売新聞]]』朝刊2018年12月17日(31面)。</ref>、2020年用の当初発行枚数は23億5000万枚であった<ref name="20191231chunichi">{{Cite news |和書|title=年始のあいさつ、令和で変える? 年賀状離れ、名古屋市内で聞く |newspaper=[[中日新聞]] |date=2019-12-31 |author=今村節 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20191231/CK2019123102000047.html |accessdate=2020-04-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191231095142/https://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20191231/CK2019123102000047.html |archivedate=2019-12-31 }}</ref>。これは、2003年のほぼ半数、増加途上であった1973年とほぼ同じ枚数となっている<ref name="graph">[http://www.garbagenews.net/archives/2114695.html 年賀はがきの発行枚数などをグラフ化してみる(2015年)(最新) - ガベージニュース]</ref>。原因として、企業が儀礼廃止の方針を打ち出し職場向けに送らなくなったり、インターネットで年始の挨拶を済ませたりする動きが挙げられる。 総務省[[統計局]]の[[人口推計]]より、各年の人口を抽出し、その人数で年賀はがき発行部数を割った「もし日本在住者全員が年賀はがきを購入したと仮定した場合、1人当たりの購入枚数は何枚になるのか」という値は、2003年用の34.9枚がピーク、2015年用の発行分は23.8枚となった<ref>[http://www.post.japanpost.jp/about/strategies.html 事業計画 - 日本郵便]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070902214505/http://www.post.japanpost.jp/nenga2007/mame.html 年賀葉書まめ知識]</ref><ref name="graph"/><ref>[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h27/html/nc374130.html 総務省|平成27年版 情報通信白書|引受郵便物等物数]</ref><ref>[https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2015/00_honsha/0514_02.html 2014年度引受郵便物等物数 - 日本郵便]</ref><ref>[https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2015/00_honsha/0101_01.html 2015(平成27)年年賀郵便物元旦配達物数 - 日本郵便]</ref><ref>[https://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2014/00_honsha/1225_01.html 2015(平成27)年用年賀葉書の総発行枚数の確定 - 日本郵便]</ref><ref>[http://www.stat.go.jp/data/jinsui/ 統計局ホームページ/人口推計]</ref>。 == 歴史 == === 近世以前 === 日本では、起源ははっきりとはしないが、[[奈良時代]]から[[新年]]の[[年始回り]]という年始の挨拶をする行事があった。[[平安時代]]には[[貴族]]・[[公家]]にもその風習が広まって、挨拶が直接行えないような遠方などの人への年始回りに代わるものとして、文書による年始挨拶が行われるようになった。 [[近世]]には[[武家]]社会において文書による年始挨拶が一般化したほか、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが年始挨拶に限らず一般的になり、公的郵便手段である[[飛脚]]や使用人を使った私的手段により年始挨拶の文書が運ばれるようになった<ref>[http://www.nengahaku.jp/index.html 年賀状博物館]</ref>。 === 明治時代 === [[明治維新]]後の1871年、郵便制度が確立したが年賀状は書状で送るところがほとんどで、数は決して多くはなかった。1873年に郵便はがきを発行するようになると、年始のあいさつを簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。1887年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。 郵便事業に携わる人の数は限られているため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。その対策として1890年に年始の集配度数を減らす対策が講じられた。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。 また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26から28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。 そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった。年末の一定時期、具体的には12月20日から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製はがきの使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった。 なお年賀状は本来、元日に書いて投函するのであるがこの特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになった。また、当時はある程度の枚数を束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則であったが、1907年から葉書の表に「年賀」であることを表記すれば枚数にかかわらず郵便ポストへの投函も可能となった。 === 大正・戦前の昭和時代 === [[File:Ryukyu New Yea Postcard in 1957.JPG|thumb|150px|琉球郵政庁が発行した1957年2ドル年賀はがき]] [[関東大震災]](1923年)や[[大正天皇]][[崩御]](1926年12月25日)の年は、その年(翌年配達分)の特別取扱が中止された。[[明治天皇]]と[[昭和天皇]]崩御の年は実施されている。 年々取扱量が増えていくと共に私製はがきの取扱量も増えていったため、[[1935年]](昭和10年)に私製はがきの貼付用として[[年賀切手]]の発行が始まった。しかし、時勢の悪化により[[1938年]](昭和13年)に年賀切手の発行が中止。 さらに物資の節約のため[[1941年]](昭和16年)の年賀状から特別取り扱いが廃止<ref>年賀状の特別取り扱い廃止『大阪毎日新聞』(昭和15年11月6日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p761 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>(廃止決定は同年[[11月6日]]<ref>『新聞に見る20世紀の富山 第1巻』(1999年7月30日、北日本新聞発行)251頁。</ref>)。この年の[[東京中央郵便局]]が集配した年賀状は1/3に減少した<ref>年賀郵便は三分の一に減少『朝日新聞』(昭和16年1月11日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p761</ref>。 === 戦後の昭和時代 === 終戦後の[[1948年]](昭和23年)、特別取扱と年賀切手の発行が再開された。この年から年賀切手の図柄が[[干支]]にちなんだ郷土玩具のものになる。[[1949年]](昭和24年)、[[お年玉付郵便はがき]](年賀はがき)が初めて発行され(官製はがきとしては初めての年賀はがき)、大きな話題を呼び大ヒットした。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていった。[[1955年]](昭和30年)には、[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]に置かれた[[沖縄諸島]]でも[[琉球郵政庁]]により年賀はがきが発行され、1956年には年賀切手も発行されている。 {{See also|年賀寄付金}} お年玉付郵便はがきは当初、寄付金付きの葉書にくじが付いていたが1956年に寄付金なしの葉書もくじが付くようになった。[[1961年]](昭和36年)から年賀はがきの消印が省略され額面表示の下に消印に模した丸表示を印刷するようになり、[[1968年]](昭和43年)には[[日本の郵便番号|郵便番号]]導入により郵便番号枠が追加された。 [[1970年代]]になると[[プリントゴッコ]]の登場と相まってで年賀はがきに絵や文字を印刷する年賀状印刷が盛んになり、[[1982年]](昭和57年)から寄付金付きの年賀はがきにの裏面に絵や賀詞が印刷されるようになった。[[1989年]](昭和64年)から年賀切手にも「くじ」が付くようになった。 === 平成・令和時代 === [[File:Carbon offset new year's card カーボンオフセット年賀 (2054349859).jpg|thumb|150px|2007年カーボンオフセット年賀状の200枚包装紙]] イラストや[[デジタルカメラ]]で撮った写真などを家庭のパソコンとプリンターで作成・印刷するスタイルが定着し、手間が減った。2005年からは光沢感があり[[インクジェットプリンター]]の印刷に適したインクジェット写真用年賀はがきが発行されるようになった。 一方で2000年代からは[[インターネット]]の普及が拡大。インターネットと紙を融合した「ネットで届く年賀状」などのサービスも登場したが、年賀状用紙やプリンターが高額、書いたり投函するのが面倒、交流がある人でも自宅[[住所]]が不明であるなどの理由で、年賀状を出さずに[[電子メール]]などの紙以外のオンラインの手段で済ませる人が増加。[[日本における携帯電話|携帯電話]]を使った「あけおめメール」による[[輻輳|通信混乱]]は新たな正月の風物詩となった。 2008年には、[[郵政民営化]]を機に「カーボンオフセット年賀はがき」や「ディズニーキャラクター年賀はがき」などの新商品が出た。 2017年6月1日に郵便料金が値上げされ、通常はがきも52円から62円とされたが、2018年用に限り年賀はがき(1月7日までに年賀状扱いとする場合)は旧料金のまま(52円)とした<ref name="yubin-nenga-20180223">{{Cite press release|和書|title=年賀葉書の料金改定|publisher=日本郵便株式会社|date=2018-02-23|url=http://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2018/00_honsha/0223_01_01.pdf|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180224080039/http://www.post.japanpost.jp/notification/pressrelease/2018/00_honsha/0223_01_01.pdf|archivedate=2018-02-24|accessdate=2018-02-24}}</ref>。年賀はがきの発行枚数の減少を食い止める効果を期待しての値段据え置きであったが、結果として総発行枚数は前年比より5.6%減少したほか、1月8日以降に差し出す場合は差額として10円分の切手を貼り足す必要があったことから、利用者からはわかりづらいと不評の声もあった。この取扱いは1年限りで終了し、翌年から通常はがきと年賀はがきは同一の料金となった<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL2J36Q9L2JULFA00F.html|title=年賀はがき62円に値上げ 19年用からはがきと同額に|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2018-02-16|accessdate=2020-12-23}}</ref>。 2010年代になると[[スマートフォン]]、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]](SNS)、[[インスタントメッセンジャー]]等が普及し、新年の挨拶をオンラインで済ませる人がさらに増えた。[[LINE (企業)|LINE]]が運営する「LINEリサーチ」の2019年のインターネット調査(約59万人対象、複数回答)によると、「葉書を送る」と回答した人は60代以上で71.7%だが、20代は26%であった。一方「SNSで送信する」が30代から60代以上でいずれも60%に達し、20代では72%に上った。IT企業のTB(名古屋市東区)は2017年から、高齢を理由に、今年限りで年始の挨拶をやめること(年賀状じまい)を伝える例文をサイト上で提供している<ref name="20191231chunichi"/>。 == 年賀状の構成 == 一般に「あけましておめでとうございます」・「謹賀新年」等の賀詞、「旧年中はお世話になりました。本年も宜しくお願い致します。」などの添え文、「○○年元旦」など日付から構成される。これに加えて、新年にふさわしい[[イラスト]]や、差出人の近況を知らせる[[写真]]などが入ることが多い。 == 年賀状の種類 == === 形状 === ==== お年玉付郵便はがき ==== [[1949年]]に[[お年玉付郵便はがき]]が初めて発行された。お年玉くじについては、毎年1月に抽せんが行われている。 {{Main|お年玉付郵便はがき}} ==== 電子年賀状・年賀メール ==== 年賀状は葉書に書いて出すのが基本であるが、写真素材をそのまま[[電子メール]]として送ったり特定の[[ウェブページ|webページ]]の[[Uniform Resource Locator|URL]]を送ったりする方法で年賀状を出す事もある。 この方法は電子化されたデータとの相性が良い上、より手軽に年賀状を送ることができるため利用が増えていったが、一方で1月1日0時を迎えた瞬間に多くの人が大量の電子メールを送受信するため、通信網に[[輻輳]]が起き[[サーバ]]に多大な負荷をかけるという一面もある。 2000年代までのモバイル回線では[[日本の携帯電話|携帯電話]]による年賀メール(あけおめメール)や、新年のあいさつ通話である「おめでとうコール」に耐えられず輻輳が社会問題になり、2000年代から2010年代初めにかけては、携帯電話事業者では大晦日から元日にかけての通信や通話に通信制限を設ける、0時直後の年賀メールの自粛を呼びかける等の措置を行っていた。なお、この規制は携帯電話のネットワークに限られており、一般回線の[[インターネット]]にまで及ぶことはなかった。 これらは2010年代に通信網の大容量化により解消され、2018年を最後に自粛要請は無くなった<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1099799.html 「あけおめコールは控えて」呼びかけ、今年は実施せず――3キャリアに背景を聞いた - ケータイ Watch]</ref>。またSNSの普及で電子メールや電話からSNSへの移行も起きている。 === 作成方法別 === [[ファイル:NengajoM1020.jpg|thumb|260px|様々な画材]] [[ファイル:Nenga2.jpg|thumb|220px|年賀用ゴム印版の見本]] 年賀状の作成方法としては、以下の方法がある。 ==== 手作り ==== * 手書き * 色々な図形・模様・文字が書かれた自作・市販品の[[ゴム]]判などを使う。 * [[郵便局]]などに設置されたゴム判の「謹賀新年」などの文字判子を押して使う。 * サツマイモ・ジャガイモ・木片などを[[彫刻刀]]で削った物を用いたイモ判・木判を使う。 * [[木版画]]で作成する。簡易印刷機が登場する前は、一般的な方法であったため、葉書サイズ用の木版画用の木があった。 * [[ウンシュウミカン|みかん]]など、[[柑橘類]]のしぼり汁を用いた[[あぶり出し]]の技法を使う。 ==== 印刷年賀状・印刷済み年賀状 ==== 年賀状には、あらかじめ印刷してある年賀はがきを利用する場合がある。年賀状[[カタログ]]より図柄を選んで業者に注文し、差出人名・社名などを追加で印刷してもらう場合と、あらかじめ図柄・文字のみが印刷してある年賀状を購入し、手書き又は[[プリンター]]で残りの内容を加える場合がある。 ==== 業者注文による写真付年賀状 ==== 家族・ペット等の近況を知らせることができる、写真を掲載する年賀状である。写真を専用の[[印画紙]]に焼き付けて、専用糊で年賀状に貼り合わせる方式が使われる。 [[写真店]]や[[コンビニエンスストア]]などの取扱店の店頭で注文する方法と、インターネットの注文サイトで注文する方法などがある。写真店での注文方法も、カタログ・広告紙による注文方式に加えて、店頭端末機と言われる注文ソフトを利用してデジタルカメラ・携帯電話の写真画像から直接で注文する方式もある。一部の写真店では、葉書貼り機を用いて店内で作製しているケースもあるが、多くはフィルムメーカー系の現像所で集中的に製造される。 印画紙と糊の分だけ通常の年賀状よりも重量が増えるため、基本郵便料金に収めるために、四辺をカットしている。また、表面は、印画紙なので余白に手書きで書き添える場合は、油性ペンが必要。ただし、一部の現像所では、[[ライタブルペーパー]]を使用しているデザインがあり、油性ペンでなくても書き込みができる年賀状もある。 ==== 簡易印刷機による作成、裏面のみ ==== パソコン印刷の普及以前には、家庭用の小型簡易印刷機による年賀状の作成が広く行なわれた。簡易印刷機の代表的な製品に[[理想科学工業]]の[[プリントゴッコ]]があったが、2008年販売終了。 ==== パソコンによる作成 ==== パソコン作成の場合、宛先や[[日本の郵便番号|7桁の郵便番号]]などの[[データ管理]]が簡単にできる[[はがき作成ソフトウェア]]を使うことが多い。[[日本郵便]]は「[[はがきデザインキット]]」というソフトを無料で提供している。そのほか、有料の[[パッケージソフトウェア]]として、「[[筆まめ]]」「[[筆王]]」「[[筆ぐるめ]]」「[[宛名職人]]」<!-- すべてを書くと読みにくいので現行品で代表的なもの数個程度にして「など」で省略しましょう。 ・[[楽々はがき]]・[[筆自慢]]・[[筆休め]]・[[筆楽名人]]・[[筆結び]]・[[はがき作家]]・[[はがきスタジオ]] -->などが市販されている。これらのソフトウェアは年賀状に限らず、[[暑中見舞い]]・[[寒中見舞い]]・結婚や出産・[[引越し]]の通知などにも利用できるよう考慮されている。 またこれらのソフトウェアで利用できる、[[イラストレーション|イラスト]]や写真画像などを有償・無償で提供する[[ウェブサイト]]やDVD-ROM付き[[ムック (出版)|ムック]]もある。 {{Main2|ソフトウェア|はがき作成ソフトウェア}} 2000年用から官製の[[お年玉付郵便はがき|お年玉付年賀はがき]]にインクジェット紙が登場。これは、パソコンを用いて[[インクジェットプリンター]]で印刷する人が増えたためである。また、より高画質な写真印刷に対応ができるよう、2004年度は[[関東]]地域限定、2005年度から全国で光沢紙の[[お年玉付郵便はがき|お年玉付年賀はがき]]を発売。価格は10円高い。 ==== 携帯電話による作成 ==== 2008年11月、[[郵政民営化]]に伴い、[[郵便事業]]株式会社と[[KDDI]]は、年賀状離れの進む若年層に向け、使い慣れた[[携帯電話]]を用いて年賀状を作って送れるサービス「[[ケータイPOST]]」を開始した。企画・運営は株式会社[[サミーネットワークス]]が行い、年賀状の印刷はマイアルバム株式会社が行っていた。2012年終了。 ==== スマートフォンアプリによる作成 ==== 2010年頃から、[[Apple]]の[[iOS]]や[[Google]]の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]を搭載した[[スマートフォン]]が普及し始め、スマートフォン上で動作するアプリが台頭してきた。年賀状専用の編集アプリも、2010年頃から[[AppStore]]や[[Googleマーケット]]で公開され、スマートフォンで利用できるようになった。 多くの年賀状アプリは、スマートフォンで撮影した写真と、年賀状デザインテンプレートとの合成やスタンプなどの装飾、コメントなどの文字入力機能があり、アプリだけでも簡単にオリジナルな年賀状作成ができるようになっている。 作成した年賀状は自宅のプリンターで印刷できるものや、富士フイルムなどの現像所や印刷会社での出力ができるものがある。一部のアプリでは、編集した年賀状を、デザイン面の印刷だけでなく宛名印刷やポストへの投函まで依頼できるものもあり、スマートフォンだけで年賀状の準備が完了できる。 近年では、日本郵便が「はがきデザインキット」というアプリを、[[富士フイルム]]が「フジカラーの年賀状」というアプリを無償で公開している。また、日本郵便の[[LINE (アプリケーション)|LINE]]公式アカウント"ぽすくま"に、写真を送ることで年賀状を出力するサービスも提供されている。 ==== その他 ==== 神奈川県・東京都を中心に[[焼売]]や各種[[弁当]]等を販売する食品メーカー[[崎陽軒]]が、毎年11月に「シウマイ年賀状」<ref>[http://www.kiyoken.com/campaign/13_14shinen/n_index.html 2014年版サイト]</ref>を発売している。 == 喪中欠礼 == [[喪]]に服している人(1年以内に身内を亡くした人)からは年賀状を出さない風習があり、その場合に年内に「喪中であるので年賀のご挨拶を差し控える」旨の[[葉書]]を出すことがある。元々は明治・大正期に皇室の[[大喪]]に対し年賀欠礼を行っていた習慣が、昭和期に年賀状の普及に伴い、一般家庭の喪中でも年賀欠礼の挨拶状を出すように風習として定着し、現在に至っている。こうした喪中欠礼の挨拶状は、郵便はがきではなく私製はがきに[[切手]](弔事用、花輪や[[ヨシ|アシ]]の模様など)を貼って出すことが多かったが、最近ではパソコンや家庭用プリンターの普及により、郵便はがきを用いることも多い。また、一般的には印刷業者などに発注する場合も多い。 喪中の葉書を送ってきた人の家には年賀状を出さない方が良いとされているが、実際には年賀状を送っても失礼には当たらない。これは、喪中「欠礼」という言葉の示すとおり、「年賀の挨拶をお断りします」というよりは、「自分の家は今年は忌中なので年賀のあいさつが'''できなくて申し訳ありません'''」という意味、すなわち年賀状は新年をめでたく迎えたことを祝うための手紙であり、前年に身内が亡くなった=めでたく新年を迎えられなかったからである。喪中の家に年賀状を出すのは失礼という人もおり、一般的には[[寒中見舞い]]の葉書を出すことがある。また、喪中の期間中に届いた年賀状に対しても、寒中見舞いとして返信することが一般的である。また、[[平成]]末期以降になると家族葬が一般化し、親しい間柄にも拘わらず故人の死を年末になって知るケースが増え、遅い香典を送るより贈答用線香などを送り、弔意を表す人も増加傾向にある<ref>[http://www.mochu.info/index.php#index_10 喪中はがきガイド(喪中の相手に年賀状を出してしまった場合)]</ref><ref>[http://www.kmrh.com/mochuu.html 冠婚葬祭の知恵袋ホームページ(こんな場合は、どうする?寒中見舞いの活用他)]</ref><ref>[http://allabout.co.jp/family/housework/closeup/CU20011126A/ All About(こんな時には「寒中見舞い」を。)]</ref><ref>[http://nenga.templatebank.com/manner_mochu/ 年賀状プリント決定版(喪中はがきを送る際のマナー)]</ref>。 == 日本郵便の配達体制 == [[ファイル:Nenga1.jpg|thumb|年賀葉書用の特設郵便ポスト(2004年・大阪城東郵便局で撮影)]] [[日本郵便]]にとっては年賀状の通数が多い事と集中した期間に配達しなければならない(もちろん、一般の郵便物や[[荷物 (日本郵便)|小包]]などもある)ので、通常の人員だけでなく[[在籍者 (学習者)|学生]]を中心とした[[アルバイト]]なども動員して年末年始の作業をする。 通常の時期は1つの配達区を1人の担当者が受け持っているが、12月にはこの担当者が通常の郵便物の配達順への整理業務を局内で行い、アルバイトが外勤の配達をこなす体制をとることがある。これは、家族の構成や商売上の[[屋号]]を熟知した本務者(正規職員)が配達順の整理をするほうが有利なためである。 2007年の郵政民営化以前は窓口担当(保険担当など)が臨時で仕分けを行うこともあったが、民営化当初、[[郵便局 (企業)|郵便局会社]]と[[郵便事業|郵便事業会社]]が分社化されていた時はそのような業務ができなくなった。なお、2012年に両社は合併し、[[日本郵便]]株式会社となった。 都市部の局など処理量が多く局舎内で作業ができない場合、年賀状の区分専門の仮設[[プレハブ工法|プレハブ]]局舎や会議室などを利用して12月下旬の区分作業だけを行う。 [[大晦日]]の昼頃には元日に配達する年賀状を準備し片づけを行い、年賀状臨時体制は終了し翌日の元日に備える。[[岡山市]]の[[最上稲荷]]近辺では年明けに参道が参拝客で混雑して配達できないため、1978年より1日繰り上げて大晦日(12月31日)に年賀状を配達している<ref>{{Cite news |title=岡山 一足早く年賀状を配達 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121231/t10014542071000.html |newspaper=NHKニュース |publisher=日本放送協会 |date=2012-12-31 |accessdate=2013-01-01}}</ref>。 1973年{{要出典|date=2016年9月15日}}から2004年までは、1月2日は年賀状配達は休みであったが、2005年より配達日となった<ref>{{Cite news |title=年賀状の1月2日配達中止へ…人件費負担大きく |url=http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160908-OYT1T50137.html |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞 |date=2016-09-09 |accessdate=2016-09-09}}</ref>。なお、2017年からは、再び1月2日の配達を休みとしている。 特に希望し、郵便局に申請を行えば年末年始の休暇前にその時点までに届いた年賀状を受け取ることも可能。逆に長期不在にする場合など、郵便ポストに入り切らない事が想定される場合は、不在届の申請を行うことにより配送を遅らせる事が可能である<ref>[https://www.post.japanpost.jp/question/115.html 長期間不在とする場合の郵便物等の配達について教えてください]</ref>。 == 海外の類例 == [[大韓民国|韓国]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[中華民国|台湾]]にも似た風習がある。[[欧米]]においても1900年前後には同様に新年を祝う絵はがきを交換することが行われていたが<ref>{{Cite web|和書|title=欧米の100年前の年賀状|url=https://www.post.japanpost.jp/int/ems/greeting/situation/newyear_western.html|publisher=郵便局|accessdate=2021-01-02}}</ref>、現在では[[クリスマス・カード]]や[[グリーティングカード]]で「[[クリスマス]]と新年の挨拶」を行うことが主であり、新年を祝う習慣としては[[チェコ]]や[[スロバキア]]に限られる<ref>{{cite web|title=Novoroční oslavy - Původ, vývoj a význam|url=https://www.abchistory.cz/cl1801739060-novorocni-oslavy---puvod--vyvoj-a-vyznam.htm|publisher=abcHistory.cz|accessdate=2021-01-02}}</ref>。 * [[大韓民国]] - 毎年11月に[[大韓民国郵政事業本部|郵政事業本部]]から年賀状(カードと葉書)が発売される。くじはついていない。[[グリーティングカード]]感覚なので、日本のように形式的に大量に送る習慣はない。 * [[中華人民共和国]] - 昔の上層[[士大夫]]の間で「名帖」(新年の挨拶を書いた簡単な手紙)を出す習俗があった。宋・周輝の「清波雑誌」に「宋元佑年間、新年賀節、往往使用傭仆持名刺代往」と書いている。当時、士大夫の交際が広く全部新年のあいさつをするということは不可能だったので、親友の以外は「梅花箋」という紙で裁った幅2寸、長さ3寸のカードに相手の名前、住所、めでたい言葉を書いて代わりに召使を新年のあいさつをしに行かせる。その名刺は現在の年賀状の起源とされている。現在中国の年賀状は[[春節]]([[旧正月]])向けで、日本の年賀状とそれほど変わりがなく、郵便局でも日本と同じ様なくじ年賀状を販売している。2014年現在では、[[電子メール]]で済ましてしまい、葉書の年賀状を送る人は大幅に少なくなった<ref>{{Cite news | author = 北田 | url = https://www.recordchina.co.jp/b82736-s0-c30-d0052.html | title = 「年賀状」に見る日本人と中国人の決定的な違い―中国ネット | newspaper = [[レコードチャイナ]] | date = 2014-02-02 | accessdate = 2016-10-09 }}</ref>。 * [[キリスト教]]圏 - [[クリスマス・カード]]、[[グリーティングカード]]がある。[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]、[[南アメリカ]]諸国などでは、正月に年賀状を交換するのではなく、[[クリスマス]]前にクリスマス・カードを交わすことが一般的であり、その中で新年のお祝いも述べておく。通常12月25日から年末にかけては、[[週|1週間]]ほどのクリスマス休暇(休日)となり、新年はあくまで1月1日のみが休日で、翌2日より通常の経済活動・社会活動が再開されるためでもある。 <!--ほかにも年賀状がある国、地域がありましたら加筆をお願いします。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|New Year cards}} {{Wikinews|年賀状を「雪の中に隠す」、高校生アルバイト書類送検へ}} * [[お年玉付郵便はがき]] * [[正月]] * [[はがき作成ソフトウェア]] * [[自爆営業]] == 外部リンク == *[https://nenga.yu-bin.jp/ 郵便年賀.jp] *[https://www.post.japanpost.jp/kifu/data/h0811_nenga.pdf 年賀状の歴史と話題 - 郵政研究所附属資料館](平成8年11月) *[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000183091 年賀状の書き方を調べたい | レファレンス協同データベース] *[https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000033830 年賀状を出す意味、なぜ出すようになったのかを調べたい。 | レファレンス協同データベース] *[https://futabanenga.jp/blog/hakubutsukan 年賀状博物館] {{正月}} {{日本郵便のサービス}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ねんかしよう}} [[Category:郵便]] [[Category:日本の年中行事]] [[Category:日本の文化]] [[Category:正月]] [[Category:儀礼]] [[Category:新春の季語]]
2003-09-06T06:34:30Z
2023-12-31T16:06:08Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%B3%80%E7%8A%B6
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あやとり
あやとり(綾取り)は、1本の紐の両端を結んで輪にし、主に両手の指に紐を引っ掛けたり外したりしながら、特定の物の形に見えるようにする伝統的な遊び。地域によっていととり、ちどりなど多くの異称がある。 日本には一人で行うあやとりと二人で行うあやとりがあるが、世界には多人数で行うもの、紐を咥(くわ)えたり手首や足も使う技などさまざまなバリエーションがある。 あやとりは日本のみではなく全世界に存在し、子供の遊びとしてではなく呪術師が占いとして行う地域もある。あやとりの時代的考証について明確にはなっていない。現在ではあやとりは単一の起源を持つ遊びではなく、各地で自然発生したものと考えられている。また世界各地で見られた、文字の発達以前に縄を結んで意思の伝達や記録を行った習慣が関連していた形跡もある。日本では井原西鶴『諸艶大鑑』に「絲どり」としてあやとりの記述がある。 あやとりは19世紀末から文化人類学者の研究対象とされ、現在までに東アジア、オーストラリア、太平洋諸島、南北アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、西インド諸島、極北圏等の全世界からあやとりの形が収集記録されている。古代から続く文化であるあやとりの図形を収集・保存・伝承することを目的として、1978年に日本あやとり協会、1993年に世界組織の International String Figure Association(ISFA : 国際あやとり協会)が結成され、あやとりの普及発展に努めている。 トポロジカルには全て結び目理論のループ(自明な結び目)と相似である。 ・ 流れ星 二人で交互に行うあやとり。普通、対戦形式で行われ、一人がまず両手の間で簡単な型を作ると、次の人間はその型から両手でいくつかの糸を取り、相手の手から外して自分の手の中で張ってみせる。この時形が崩れたりほどけてしまったら負けである。 同じ型でも地域で名前が異なり、また、最初の型も川、山、つり橋など地域で異なる。
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あやとり(綾取り)は、1本の紐の両端を結んで輪にし、主に両手の指に紐を引っ掛けたり外したりしながら、特定の物の形に見えるようにする伝統的な遊び。地域によっていととり、ちどりなど多くの異称がある。
{{Otheruses}} [[ファイル:Cats-cradle.svg|thumb|300px|あやとり]] '''あやとり'''(綾取り)は、1本の[[紐]]の両端を結んで輪にし、主に両手の指に紐を引っ掛けたり外したりしながら、特定の物の形に見えるようにする伝統的な[[遊び]]。地域によって'''いととり'''、'''ちどり'''など多くの異称がある。 ==概要== [[File:MET DP118791.jpg|thumb|260px|あやとりをする少女と女性([[鈴木春信]]画、[[1765年]]頃)]] 日本には一人で行うあやとりと二人で行うあやとりがあるが、世界には多人数で行うもの、紐を咥(くわ)えたり手首や足も使う技などさまざまなバリエーションがある。 あやとりは日本のみではなく全世界に存在し、子供の遊びとしてではなく[[呪術]]師が[[占い]]として行う地域もある。あやとりの時代的考証について明確にはなっていない<ref name="sakai882"> 酒井欣 著 『日本遊戯史』 [[第一書房]] 1983年10月 p.882.</ref>。現在ではあやとりは単一の起源を持つ遊びではなく、各地で自然発生したものと考えられている。また世界各地で見られた、[[文字]]の発達以前に[[ロープ|縄]]を結んで意思の伝達や記録を行った習慣が関連していた形跡もある。日本では[[井原西鶴]]『諸艶大鑑』に「絲どり」としてあやとりの記述がある<ref name="sakai882"/>。 あやとりは[[19世紀]]末から[[文化人類学]]者の研究対象とされ、現在までに[[東アジア]]、[[オーストラリア]]、[[太平洋諸島]]、[[南アメリカ|南]][[北アメリカ]]、[[アフリカ]]、[[ヨーロッパ]]、[[西インド諸島]]、[[北極圏|極北圏]]等の全世界からあやとりの形が収集記録されている。古代から続く文化であるあやとりの図形を収集・保存・伝承することを目的として、[[1978年]]に日本あやとり協会、[[1993年]]に世界組織の International String Figure Association(ISFA : [[国際あやとり協会]])が結成され、あやとりの普及発展に努めている。 [[トポロジー|トポロジカル]]には全て[[結び目理論]]のループ([[自明な結び目]])と相似である。 == 代表的な技 == === 一人あやとり === *東京タワー *ハワイの星 ・ 流れ星 *ゴム *天の川 *銀川 *蛾(ガ) *耳の大きな犬 *昴(すばる) *キツネとクジラ *山の間の日の出 *ハシゴ *ほうき *鉄橋→亀→ゴム→飛行機 *山→田んぼ→川→田んぼ→ダイヤ→つづみ→船→つり橋→山 *田んぼ→小さな田んぼ→7つのダイヤ→蜘蛛の巣 等 === 二人あやとり === 二人で交互に行うあやとり。普通、対戦形式で行われ、一人がまず両手の間で簡単な型を作ると、次の人間はその型から両手でいくつかの糸を取り、相手の手から外して自分の手の中で張ってみせる。この時形が崩れたりほどけてしまったら負けである。 *川→船へ移行 *山→船へ移行 *つり橋→田んぼへ移行 *船(橋)→田んぼへ移行 *田んぼ(網、たすき)→川、船、ダイヤへ移行 *ダイヤ→かえる、つづみ、ダイヤへ移行 *かえる→ダイヤ、船へ移行 *つづみ([[分福茶釜]])→川へ移行 等 同じ型でも地域で名前が異なり、また、最初の型も川、山、つり橋など地域で異なる。 <!-- == あやとりが登場する作品 == === 漫画 === *[[ドラえもん]] :登場人物[[野比のび太]]が非常に得意である。 *真夜中の弥次さん喜多さん しりあがり寿 === アニメーション === *[[機動戦士ガンダムF91]] :主人公[[シーブック・アノー]]が搭乗する[[モビルスーツ]]・[[ガンダムF91]]のバイオコンピュータを起動させる配線に綾取りの技が応用されている。[[フォーミュラ計画]]を参照のこと。 *花右京メイド隊 :第三話『シンシアとグレース』最終回『本当の笑顔』 *ドラえもん のび太の宇宙開拓史 *ドラえもん のび太の太陽王伝説 *機動警察パトレイバー :第6話『ザ・タワーSOS』 *銀河漂流バイファム :第41話『カチュアを撃つな!』 *となりのトトロ === 映画 === *[[ワイルドバンチ]](原題:The Wild Bunch)1969年 アメリカ映画 :“エンジェル”の故郷の村で強盗団の仲間に女性があやとりを教えているシーンがある。 *ローレライ *恋文日和 *僕は天使ぢゃないよ 1974年 *春の雪 *パロディ放送局 UHF アル・ヤンコビック主演 *真夜中の弥次さん喜多さん 宮藤官九郎監督 *クジラの島の少女 *モンタナの風に抱かれて The Horse Whisperer *たそがれ清兵衛 *スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする SPIDER *シベリア超特急5 === DVD === *優香 be 1999年 *green peas 山口あゆみ --> ==脚註== {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{commons cat|String figures}} *[[こどもの文化]] *[[野口廣]] *[[あやとり橋]] *[[野比のび太]] - 最大の特技があやとりという設定。 == 外部リンク == *[http://www.isfa-jp.org/ 国際あやとり協会] {{日本の遊戯}} {{Japan-culture-stub|あやとり}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あやとり}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:冬の季語]]
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人形
人形(にんぎょう、ひとがた)は人間の姿を似せて作られた物をさす。 人形の作成は、古くは先史時代から始まり、いずれの時代でも作られ、人間の文化活動の本質的なものであるといえる。 現代の人形の主な用途は、祭礼などの宗教行事や伝統行事、文楽などの人形劇で使われる他、玩具、土産物、芸術作品など、多分野である。 古来、人形は子供の遊び道具として与えられ、使用された。日本各地に現在も存在する「郷土人形」は幼い子供の玩具として非常に大切にされた。日本では主に木製や土製の素材に胡粉などで着彩をした人形が多いが、工芸品として精巧に作られた物もあり、戦後からは美術品として扱われる郷土人形もある。江戸時代に普及した女児向けの人形に「姉様人形」がある。和紙と千代紙(ちよがみ)で造られた素朴だが優雅な人形は、裕福な武家や商家の子女に大切にされた。代表的な遊び方としては、人形を擬人化して日常生活を再現する「飯事あそび」や、時代がかなり後の近代からは布製の「文化人形」で遊ぶことが普及した。人形の衣服を交換し組み合わせなどを楽しむ「着せ替えあそび」などは、戦後に日本全国で広まった。 西洋では、ルネサンス期のイタリアを起源に、フランスの貴族社会で発展、19世紀半ばから20世紀初頭までヨーロッパの一般庶民に普及した、いわゆる「フランス人形」が代表的である。 現代での「着せ替えあそび」は、合成樹脂製の着せ替え人形で遊ぶ。後述のマネキンと類似し衣服を着せたり、脱衣の状態にできる場合が多い。複数の付属品の衣装があり、それはほぼ現実の人間の衣服に似せている。着脱には背面に付けられたマジックテープやスナップを使う。日本では、1960年代頃から生活の西洋化とともに普及し、製品にはシルバニアファミリーやリカちゃん人形、バービー人形などがある。高度経済成長と相まって、庶民のファッションの隆盛とともに人形の衣服も華やかさを増していった。 女児が母親の立場として育児を前提とする赤ちゃんに擬似した人形(授乳のための「ミルク飲み人形」やおむつ替えのための人形など)もある。 アンティーク・ドールや日本人形のような伝統的な美術工芸品としての価値の高いものや、マトリョーシカやこけしのように造形に特色のある工芸品の人形などは、ガラスケースなどに入れてインテリアとして飾ることもある。 日本では、雛祭りや端午の節句のような伝統的な行事に特別につくられた美術価値の高い、人形を飾ることがならわしである。 古代では、人形は他人に呪いをかけるための呪詛の道具や、人間の身代わりに厄災を引き受けてくれる対象物として使われた。前者の例としては藁人形(わらにんぎょう)やブードゥー教の泥人形、後者の例では和紙の流し雛などが挙げられる。後者のうち、現代でも神道の大祓等で用いられる和紙のものは、通常同じ字で「ひとがた」と呼び分けたり、「形代」(かたしろ)と称したりする。他にも、山車人形のように神などをかたどった人形が象徴として飾られる祭もある。 幸福や商売繁盛などを導くために、七福神や福助人形、ビリケンなどを飾る風習がある。 また、結婚式の結納品として、夫婦円満や長寿を願うために箒(邪気を払う)と熊手(福をかき集める)を持った老夫婦の高砂人形(たかさごにんぎょう)(お前百(=掃く)まで、わしゃ九十九まで(=熊手)、共に白髪(しらが)の生えるまで)などもある。 洋服や呉服などの衣料品を販売する場で、商品を着用させて顧客に着用イメージを伝達する効果を目的にした人形が存在する。これらの衣料品販売店などで使用されるマネキン人形は衣服の展示や紹介を目的とし、美術のデッサンで使用されるデッサン人形などは人間のモデル代わりに用いることで手元でフォルムの確認ができることや、動作のないという利点がある。 また、特定の店舗(多くはチェーン店)のシンボルやメーカーの販促として人形が置かれることもある。不二家の「ペコちゃん」、佐藤製薬の「サトちゃん」、ケンタッキーフライドチキンの「カーネル・サンダース」、くいだおれの「くいだおれ太郎」、ジャパンの「さわやか親父」、すしざんまいの社長の等身大人形など。 農産物生産の現場(田んぼや畑等)で、作物を荒らすスズメやツバメ、カラスを追い払うためかかし人形が使われる。数体規模で立てられている場合が多い。近年はマネキンの流用であったり衣服に工夫が凝らされるなど、艶やかに多様化していて、コンテストを行っている自治体もある。 解剖学などで用いられる人体模型や、人命救助(人工呼吸、AED)や消防の救助隊のための同様の体重の人間を搬送するための訓練用の人形にも使われている。 主に博物館における説明用に、当時の服装を着せたマネキンの役割を果たす人形があり、当時の人々の暮らしがどの様な物か再現する為の人形を使用する事がある。その殆どが等身大である。 考古学における出土遺物としての人形には、祭祀用途の土偶や木製人形(ひとがた)、副葬品としての兵馬俑や埴輪等があげられる。あるいは、火山の噴火で埋没したポンペイなどの都市で遺跡が発掘された際、空洞に石膏を流し込んで噴火当時の遺体の状況を再現する場合などにも用いられる。 戦後に日本で製作・販売された、ビニル製人形やブリキ製の人形などの玩具人形は、ビンテージ品を集めるマニアックな大人のコレクターも存在するなど、今では、価格ともども遊びの域を超える玩具人形がある。希少な人形(フィギュア)である場合、数十万円などの高値で取引される場合もある。 主に自動車の衝突実験等の時に、運転者や同乗者に見立てて車両に人形を乗せて、実験を行う事があり、ダミー人形と呼ばれる。他にも自動車に跳ね飛ばされた場合などに、身体のどの部分に大きなダメージが加わるかを実験する為に利用する事もある。 テレビ番組や映画の撮影において、人体に傷を負うシーンなどは簡単な特殊メイクや特撮でカバーできるが、切断や転落、爆死、溶解などの人体を特撮でカバーできないものについては、ダミーで代用されることもある。 「親善人形」も参照。 他の国や人物と友好を深める目的で寄贈される人形。昭和初期に友情人形(日本では「青い目の人形」と呼ばれることが多い)がアメリカより寄贈され、それに対し答礼の人形が贈られた他、幾つかの事例がある。 財団法人人形美術協会は、日本有数の古人形コレクションである「観方コレクション」を所蔵している。日本画家であり、風俗研究家であった吉川観方が、生涯をかけて蒐集(しゅうしゅう)した古人形の集大成こそ「観方(かんぽう)コレクション」である。 吉川観方により収集された人形コレクションは、宮家や公家・武家等に伝わった古典人形から、一般庶民の暮らしと共にあった素朴な郷土人形など種類も多岐にわたっており、質、量ともに日本随一である。観方コレクションは、儀礼用、愛玩用、装飾用、鑑賞用、美術工芸品というように幾つにも分かれ、平安時代から発展してきて江戸時代に至った、日本の人形の歴史がわかると同時に、人々の生活の歴史や風俗がうかがえる。コレクションは、伝来・製作年代・作者等が明らかなものも多く、人形美術協会ではこの貴重な文化遺産であるコレクションの保存と研究にも力を入れているという。 観方コレクションは、以下の9つの人形カテゴリーに分類収集されている。 以下では「人形に題を取った作品」などを列挙する。「人形を用いたテレビ番組」などについては人形劇の項を参照されたい。
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人形(にんぎょう、ひとがた)は人間の姿を似せて作られた物をさす。 人形の作成は、古くは先史時代から始まり、いずれの時代でも作られ、人間の文化活動の本質的なものであるといえる。 現代の人形の主な用途は、祭礼などの宗教行事や伝統行事、文楽などの人形劇で使われる他、玩具、土産物、芸術作品など、多分野である。
{{Otheruses|人間の形をかたどったもの|その他}} [[File:お雛様-hinamatsuri-dolls-lamp.jpg|サムネイル|[[雛祭り|雛人形]]]] [[File:5Gatsu-Ningyou.jpg|thumb|[[端午#菖蒲の節供|五月人形]](さつきにんぎょう)]] '''人形'''(にんぎょう、ひとがた)は人間の姿を似せて作られた物をさす。 人形の作成は、古くは[[先史時代]]から始まり、いずれの時代でも作られ、人間の文化活動の本質的なものであるといえる。 現代の人形の主な用途は、[[祭礼]]などの宗教行事や[[伝統行事]]、[[文楽]]などの[[人形劇]]で使われる他、[[玩具]]、[[土産物]]、[[芸術作品]]など、多分野である。 == 人形の使用目的 == === 玩具としての用途の人形 === 古来、人形は[[子供]]の遊び[[道具]]として与えられ、使用された。[[日本]]各地に現在も存在する「[[郷土人形]]」は幼い子供の玩具として非常に大切にされた。日本では主に木製や土製の素材に[[胡粉]]などで[[着彩]]をした人形が多いが、[[工芸品]]として精巧に作られた物もあり、戦後からは美術品として扱われる郷土人形もある。江戸時代に普及した女児向けの人形に「姉様人形」がある。[[和紙]]と[[千代紙]](ちよがみ)で造られた素朴だが優雅な人形は、裕福な[[武家]]や[[町屋 (商家)|商家]]の[[子女]]に大切にされた。代表的な遊び方としては、人形を[[擬人化]]して日常生活を再現する「[[ままごと|飯事]]あそび」や、時代がかなり後の[[近代]]からは布製の「[[文化人形]]」で遊ぶことが普及した。人形の衣服を交換し組み合わせなどを楽しむ「着せ替えあそび」などは、[[戦後]]に日本全国で広まった。 西洋では、[[ルネサンス期]]の[[イタリア]]を起源に、[[フランス]]の[[貴族]]社会で発展、19世紀半ばから20世紀初頭までヨーロッパの一般[[庶民]]に普及した、いわゆる「[[フランス人形]]」が代表的である。 現代での「着せ替えあそび」は、[[合成樹脂]]製の[[着せ替え人形]]で遊ぶ。後述の[[マネキン]]と類似し衣服を着せたり、脱衣の状態にできる場合が多い。複数の付属品の衣装があり、それはほぼ現実の人間の衣服に似せている。着脱には背面に付けられた[[マジックテープ]]や[[ホック|スナップ]]を使う。日本では、[[1960年代]]頃から生活の[[西洋化]]とともに普及し、製品には[[シルバニアファミリー]]や[[リカちゃん|リカちゃん人形]]、[[バービー人形]]などがある。[[高度経済成長]]と相まって、庶民の[[ファッション]]の隆盛とともに人形の衣服も華やかさを増していった。 女児が母親の立場として育児を前提とする赤ちゃんに擬似した人形([[授乳]]のための「ミルク飲み人形」やおむつ替えのための人形など)もある。 === 観賞人形 === [[ファイル:Russian-Matroshka2.jpg|thumb|right|200px|[[マトリョーシカ]]]] [[ビスク・ドール|アンティーク・ドール]]や[[日本人形]]のような伝統的な[[美術工芸品]]としての価値の高いものや、[[マトリョーシカ人形|マトリョーシカ]]やこけしのように造形に特色のある工芸品の人形などは、ガラスケースなどに入れて[[インテリア]]として飾ることもある。 日本では、[[雛祭り]]や[[端午の節句]]のような伝統的な行事に特別につくられた美術価値の高い、人形を飾ることがならわしである。 === 祭礼・呪術用途の人形 === [[ファイル:A doll of a festival of Tochigi,kan-u-uncyo,tochigi-city,japan.jpg|thumbnail|left|150px|[[祭礼]]の[[山車]]に飾られる人形([[とちぎ秋まつり]])]] [[ファイル:Hitogata 2.jpg|thumbnail|right|120px|大祓(おおはらえ)の人形(ひとがた)]] 古代では、人形は他人に呪いをかけるための[[呪詛]]の道具や、人間の身代わりに[[厄災]]を引き受けてくれる対象物として使われた。前者の例としては[[藁人形]](わらにんぎょう)や[[ブードゥー教]]の泥人形、後者の例では和紙の[[流し雛]]などが挙げられる。後者のうち、現代でも[[神道]]の[[大祓]]等で用いられる和紙のものは、通常同じ字で「ひとがた」と呼び分けたり、「[[形代]]」(かたしろ)と称したりする。他にも、[[山車人形]]のように神などをかたどった人形が象徴として飾られる祭もある。 === 縁起かつぎとしての人形 === 幸福や商売繁盛などを導くために、[[七福神]]や[[福助人形]]、[[ビリケン]]などを飾る風習がある。 また、結婚式の[[結納]]品として、夫婦円満や長寿を願うために[[箒]](邪気を払う)と[[熊手]](福をかき集める)<ref>[http://e-shirokiya.com/ot_mame_i_taka.html 高砂人形の由来] - 白木屋結納店・白木屋商店HP</ref>を持った老夫婦の高砂人形(たかさごにんぎょう)(お前百(=掃く)まで、わしゃ九十九まで(=熊手)、共に白髪(しらが)の生えるまで)などもある。 === 商業用途の人形 === 洋服や[[呉服]]などの衣料品を販売する場で、商品を着用させて[[顧客]]に着用イメージを伝達する効果を目的にした人形が存在する。これらの衣料品販売店などで使用される''[[マネキン人形]]''は衣服の展示や紹介を目的とし、美術の[[デッサン]]で使用される[[デッサン人形]]などは人間の[[モデル (職業)|モデル]]代わりに用いることで手元でフォルムの確認ができることや、動作のないという利点がある。 また、特定の店舗(多くは[[チェーンストア|チェーン店]])の[[シンボル]]やメーカーの[[販促]]として人形が置かれることもある。[[不二家]]の「[[ペコちゃん]]」、[[佐藤製薬]]の「[[サトちゃん]]」、[[ケンタッキーフライドチキン]]の「[[カーネル・サンダース]]」、[[くいだおれ]]の「[[くいだおれ太郎]]」、[[ジャパン (チェーンストア)|ジャパン]]の「さわやか親父」、[[すしざんまい]]の社長の等身大人形など。 === [[かかし]]人形 === 農産物生産の現場(田んぼや畑等)で、作物を荒らすスズメやツバメ、カラスを追い払うためかかし人形が使われる。数体規模で立てられている場合が多い。近年はマネキンの流用であったり衣服に工夫が凝らされるなど、艶やかに多様化していて、コンテストを行っている自治体もある。 === 交通関連の人形 === [[ファイル:婦警と子供の交通人形.jpg|thumb|right|150px|横断旗入れ(裾)を兼ねた交通安全人形(奈良県)]] * 工事現場では、[[交通誘導]]を促す電気仕掛けの人形があり、ライトを明滅させるだけでなく、腕を半円状に動かすものもある。 * 交通安全キャンペーン ** 歩行者飛び出し注意を促す目的として、児童やアニメ作品の人気[[キャラクター]]を模した人形が使われている事がよくある。道路横断時の横断旗入れを兼ねていることもある。 ** 車の速度注意を促す目的として、[[警察官]]を模した人形が使われる事がよくある。 === 教育・訓練用途の人形 === [[解剖学]]などで用いられる[[人体模型]]や、[[人命救助]]([[人工呼吸]]、[[自動体外式除細動器|AED]])や消防の救助隊のための同様の体重の人間を搬送するための訓練用の人形にも使われている。 === 博物用途の人形 === [[ファイル:King and Queen.jpg|thumb|right|160px|[[博物館]]における[[新羅]]の冠を説明する為の人形]] 主に博物館における説明用に、当時の服装を着せたマネキンの役割を果たす人形があり、当時の人々の暮らしがどの様な物か再現する為の人形を使用する事がある。その殆どが等身大である。 === [[考古学]]における人形 === 考古学における出土[[遺物]]としての人形には、祭祀用途の[[土偶]]や木製人形(ひとがた)、[[副葬品]]としての[[兵馬俑]]や[[埴輪]]等があげられる。あるいは、火山の[[噴火]]で埋没した[[ポンペイ]]などの都市で遺跡が発掘された際、空洞に[[石膏]]を流し込んで噴火当時の遺体の状況を再現する場合などにも用いられる。 === 収集目的の人形 === 戦後に日本で製作・販売された、[[ビニール|ビニル]]製人形や[[ブリキ]]製の人形などの玩具人形は、[[ヴィンテージ|ビンテージ]]品を集めるマニアックな大人のコレクターも存在するなど、今では、価格ともども遊びの域を超える玩具人形がある。希少な人形(フィギュア)である場合、数十万円などの高値で取引される場合もある。 === 実験目的の人形 === 主に自動車の衝突実験等の時に、運転者や同乗者に見立てて車両に人形を乗せて、実験を行う事があり、[[ダミー人形]]と呼ばれる。他にも自動車に跳ね飛ばされた場合などに、身体のどの部分に大きなダメージが加わるかを実験する為に利用する事もある。 === 特撮目的の人形 === [[テレビ番組]]や映画の撮影において、人体に傷を負うシーンなどは簡単な[[特殊メイク]]や[[特撮]]でカバーできるが、切断や転落、爆死、溶解などの人体を特撮でカバーできないものについては、[[ダミー人形|ダミー]]で代用されることもある。 === 友好目的の人形 === ''「[[親善人形]]」も参照。'' 他の国や人物と友好を深める目的で寄贈される人形。昭和初期に友情人形(日本では「[[青い目の人形]]」と呼ばれることが多い)がアメリカより寄贈され、それに対し答礼の人形が贈られた他、幾つかの事例がある。 == 人形に見る歴史(生活・風俗) == 財団法人[[人形美術協会]]は、日本有数の古人形コレクションである「観方コレクション」を所蔵している。[[日本画家]]であり、[[風俗]][[研究家]]であった[[吉川観方]]が、生涯をかけて[[蒐集]](しゅうしゅう)した古人形の集大成こそ「観方(かんぽう)コレクション」である。 吉川観方により収集された人形コレクションは、[[宮家]]や[[公家]]・[[武家]]等に伝わった古典人形から、一般庶民の暮らしと共にあった素朴な郷土人形など種類も多岐にわたっており、質、量ともに日本随一である。観方コレクションは、[[儀礼]]用、[[愛玩]]用、[[装飾]]用、[[鑑賞]]用、[[美術]][[工芸品]]というように幾つにも分かれ、[[平安時代]]から発展してきて[[江戸時代]]に至った、日本の人形の歴史がわかると同時に、人々の生活の歴史や風俗がうかがえる。コレクションは、伝来・製作年代・作者等が明らかなものも多く、人形美術協会ではこの貴重な[[文化遺産]]であるコレクションの保存と研究にも力を入れているという。 観方[[コレクション]]は、以下の9つの人形[[カテゴリー]]に分類収集されている。 # 古代人形(ひとがた) # 御所人形 # 加茂人形 # 奈良人形 # 嵯峨人形 # 衣装人形 # 美女人形と役者人形 # 機巧([[からくり]])人形 # [[土人形]](つちにんぎょう) == 派生事項 == 以下では「人形に題を取った作品」などを列挙する。「人形を用いたテレビ番組」などについては[[人形劇]]の項を参照されたい。 === 地名 === ; [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]] : かつて周辺で[[人形劇|人形芝居]]が行われていた事や、人形を作るのに従事する人も多くいた事による。[[人形焼]]の発祥の地ともされる。 ; [[埼玉県]][[さいたま市]][[岩槻区]] : [[東武野田線]]・[[岩槻駅]]東口を中心として[[雛人形]]を専門とする人形店が集積し、「人形のまち」として全国的に知られる。[[岩槻人形]]の名物としては特に雛人形、[[兜]]などの人形が有名である。これは[[日光東照宮]]造営に関わった[[職人]]が、名水井戸があったためその後岩槻にとどまり、江戸初期に始めたものと言われている。現在も岩槻駅周辺や人形町通り、市宿通りなどに人形店が軒を連ねる。 ; [[埼玉県]][[鴻巣市]][[人形 (鴻巣市)|人形]] : [[鴻巣雛]](ひな人形)製造業者が軒を連ねていたことにちなむ<ref>{{Cite book|和書 |author =「角川日本地名大辞典」編纂委員会 |year = 1980-07-08 |title =[[角川日本地名大辞典]] 11 埼玉県 |publisher =角川書店 |page =1043 |isbn =4040011104 }}</ref>。 ; [[人形峠]] : [[岡山県]]と[[鳥取県]]の[[県境]]に位置する[[峠]]。おとりの人形を使って[[お化け|化け物]]退治をしたという伝説による。 === 文学 === * [[戯曲]] 『[[人形の家]]』([[イプセン]]著) * [[童話]] 『[[ピノキオ]]』([[カルロ・コッローディ]]著) === 音楽 === * [[バレエ音楽]] 『[[コッペリア]]』 ([[レオ・ドリーブ|ドリーブ]]) * バレエ音楽 『[[くるみ割り人形]]』 ([[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]) * バレエ音楽 『[[ペトルーシュカ]]』 ([[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]) * [[管弦楽曲]] 『鉛の兵隊の行進曲』 ([[ガブリエル・ピエルネ|ピエルネ]]) * 管弦楽曲 『[[おもちゃの兵隊の観兵式]]』 ([[レオン・イェッセル|イェッセル]]) * 童謡 『[[人形 (童謡)|人形]]』 ([[文部省唱歌]]) * 童謡 『[[青い眼の人形 (楽曲)|青い眼の人形]]』 ([[野口雨情]]作詞) * 童謡 『[[花嫁人形]]』 ([[蕗谷虹児]]作詞) == 関連項目 == {{wikify|date=2023-08-26}} === 人形の種類 === ==== 伝統的な和人形 ==== [[ファイル:Tchantches2.jpg|thumb|right|チャンチェ(Tchantches)と呼ばれるベルギーの操り人形]] [[ファイル:ナナちゃん人形.jpg|thumb|right|ナナちゃん人形([[名古屋駅]]前・[[名鉄百貨店#本店|名鉄百貨店本店]]ヤング館)]] * 雛人形([[雛祭り]]で飾られる) * [[鍾馗|五月人形]]([[端午]]の節句で飾られる) * [[博多人形]] * [[市松人形]] * 姉様人形(和紙人形)、色紙人形 * [[土人形]](各種のつち人形、伏見人形や佐土原土人形など) * 毛植人形(別名:いと細工) - 江戸時代後代から作られた絹糸などを植えて作られた人形<ref>{{Cite tweet |number=1240183362058194944 |user=kamakura_museum |title=鎌倉国宝館 |access-date=2023.7.11}} [[鎌倉国宝館]]</ref>。 ==== 操り人形 ==== * [[人形浄瑠璃]](文楽) * [[ギニョール]] * [[マリオネット]] * [[パペット]] ** [[ソックパペット]] - 靴下を用いる ** [[マペット]] - マリオネット×パペット <!--* [[ペープサート]] - [[ワヤン・クリ]](インドネシア) - [[カラゴズ]](トルコ)--> ==== 人形の商標 ==== <!---[[Image:Doll in Akihabara window.JPG|right|300px]]---> * [[キューピー]]人形 * [[バービー人形]] - [[リカちゃん|リカちゃん人形]] - [[ジェニー]] * [[ブライス (人形)|ブライス]] - [[プーリップ]] * [[ファービー]] * [[リビングデッド・ドールズ]] * [[スーパードルフィー]] ==== その他特殊な種類の人形など ==== * アンティーク: [[ビスク・ドール]] - [[からくり人形]] - [[オートマタ]] * 民芸品: [[こけし]] - [[だるま]] - [[マトリョーシカ人形|マトリョーシカ]] * [[着せ替え人形]] * [[フィギュア]] - [[ガレージキット]] - [[スーパードルフィー]](フィギュア的人形) - [[球体関節人形]] * [[ダッチワイフ]] - [[ラブドール]] ※性的表現あり * 呪術: [[藁人形]] - [[ブードゥー教|ブードゥー]]人形 - [[てるてる坊主]](雲掃人形) * [[蝋人形]] * [[消しゴム]] - [[キン肉マン消しゴム]] * ほまれ人形 - [[太平洋戦争]]中、[[特別攻撃隊]]が出撃の際に携えていた人形 * [[リボーンドール]] * {{ill2|シャブティ|en|Ushabti}} - エジプトのファラオに仕えさせるために副葬された人形。 === 人形の団体 === * [[人形美術協会]]<ref>[http://www.ningyoubijutsu.or.jp/ 財団法人 人形美術協会]</ref> * [[日本人形協会]]<ref>[https://www.ningyo-kyokai.or.jp/ 一般社団法人日本人形協会]</ref> * 日本人形劇人協会<ref>[https://puppeteerassociation.jimdofree.com/ 日本人形劇人協会]</ref> === 人形のメーカー === *[[:Category:人形メーカー]] === 人形関連のイベント === *[[ワンダーフェスティバル]] - [[ガレージキット]]の展示即売会<ref>[https://wonfes.jp/ ワンダーフェスティバル]</ref> *[[トレジャーフェスタ]] - [[ガレージキット]]、[[フィギュア]]、ドール、中古玩具の即売、コスプレの複合イベント<ref>[https://tfo.hobima.com/ トレジャーフェスタ・オンライン]</ref> *[[ドールズパーティー]] - ドール関連の展示即売会<ref>[https://dollfie.volks.co.jp/event/dolpa/ ドルパポータル | ボークス公式 ドルフィー総合サイト]</ref> *ドールショウ - ドール関連の展示即売会<ref>[http://www.dollshow.net/ ドールショウ公式HP]</ref> *I・Doll - ドール関連の展示即売会<ref>[https://www.idollweb.net/ ドール・フィギュア・ハンドメイド関連の展示即売会”I・Doll(アイドール)]</ref> *ドールワールドフェスティバル - ドール関連の展示即売会<ref>[http://dwf.d.dooo.jp/ ドールワールド]</ref> *クラフトアート創作人形展 - ドール関連の公募展<ref>[http://craft-art-doll.com/concour/ クラフトアート人形 【わたしの人形物語-】]</ref> *AJCクリエイターズコンテスト - 人形部門のある公募展<ref>[https://ajc.jpn.com/ AJCクリエイターズコンテスト]</ref> === 人形を燃やすイベント(関連:[[:en:Effigy]]) === [[File:FunkenOberfallenberg12.jpg|thumb|オーストリアの[[フォアアールベルク州]]で燃やされるFunkenhexeという魔女を模した人形。ドイツ南部の{{ill2|アルゴイ|de|Allgäu}}<ref>{{Cite web |url=https://www.br.de/nachrichten/bayern/funkenhexe-im-allgaeu-brauchtum-oder-makaber-und-kraenkend,TWlHarV |title=Funkenhexe im Allgäu: Brauchtum oder "makaber und kränkend"? |access-date=2023-06-05 |date=2023-02-24 |website={{ill2|BR24|en|BR24}} |language=de}}</ref>などで、冬の期間、[[灰の水曜日]]後の日曜日に行われる{{ill2|フンケンフォイアー|de|Funkenfeuer}}などで行われる。]] * [[左義長]] - 日本の一部地域で古い[[だるま]]などの縁起物を燃やす儀式 * [[松岡の御柱祭|兵庫県の婆々焼祭]] - 藁人形を括り付けた柱を燃やす祭り * [[ウィッカーマン]] - 人形に入れた生贄を焼くドルイドの祭儀 * [[ガイ・フォークス・ナイト]] - イギリスの人形を燃やす祭り * {{ill2|ダシャラー祭|en|Vijayadashami}} - インドの悪神ラーヴァナを象った人形を燃やす祭り * [[火祭り (バレンシア)|火祭り]] - スペインの人形を燃やす祭り * [[マースレニツァ]] - スラヴの藁人形を燃やす祭り * [[:en:Sechseläuten]] - スイスの雪だるまを燃やす祭り * [[:fr:Carnaval des Bolzes]] -スイスの人形を燃やすお祭り * [[イェヴレのヤギ]] - スウェーデンのクリスマスに飾られる藁人形。消防署・関係者らと愉快犯・放火犯らとの攻防が恒例になっていた。もちろん犯罪なので処罰される。 ※祭礼以外にも、[[デモ集会]]などでの抗議のためにある特定の人物を象った人形を焼き討ちにする行為も行われている。 === 人形作家 === {{div col}} * [[与勇輝]] * [[平田郷陽]] * [[川本喜八郎]] * [[辻村寿三郎]] * [[吉田良]](吉田良一) * [[四谷シモン]] * [[天野可淡]] * [[恋月姫]] * [[清水真理]] * [[鈴木千晶]]([[羊毛倉庫]]) * [[石井美千子]] * [[奥田小由女]] {{div col end}} * 宮崎郁子 - [[エゴン・シーレ]]作品を主題に人形を制作している<ref>{{Cite web|和書|url=https://bijutsutecho.com/exhibitions/11408 |title=宮崎郁子“Wally and Egon”エゴン・シーレと共に |publisher=[[美術手帖]] |accessdate=2023-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.museum-haus-kasuya.com/wp-content/uploads/2023/02/2023_miyazaki_cv.pdf |title=宮崎郁子 |website=カスヤの森現代美術館 |accessdate=2023-03-10}}</ref> === 人形に関連する概念 === * [[ままごと]] * [[ぬいぐるみ]] - [[着ぐるみ]] - [[ゆるキャラ]] * [[シルバニアファミリー]] * [[ドールハウス]] * [[ドールアイ]] - 人形の眼 * [[人形劇]] * [[腹話術]] * [[浅草橋]]([[東京都|東京]]の人形[[問屋街]]) - [[松屋町]]([[大阪市|大阪]]の人形問屋街) * 人形供養 - 一部の[[寺社]]に不要になった人形を納め、処分する儀式 * [[クレイアニメ]] * [[人形作家]] * [[原型師]] * [[対物性愛]] * [[ピグマリオンコンプレックス]] === その他周辺概念など === * [[玩具]] - [[食玩]] * [[像]] - [[仏像]] * [[駒]] - [[チェス]]などの[[ボードゲーム]]で使われる人物などを象った小片 * [[キャラクター]] * [[ロボット]] - [[人造人間]] * [[ケーキ|デコレーションケーキ]] - [[メレンゲ]]や[[マジパン]]などを加工して作られた人型の装飾が使用されている場合もある。 * [[埴輪]] - [[土偶]] - [[兵馬俑]] == 人形の美術館・博物館 == {{div col||12em}} * [[阿波十郎兵衛屋敷]] * [[阿波木偶館]] * [[阿波木偶人形会館]] * [[飯田市川本喜八郎人形美術館]] * [[岩槻人形博物館]] * [[紙わらべ資料館]] * [[神戸ドールミュージアム]] * [[創作土人形工房まちなか交流の家]] * [[津軽こけし館]] * [[とらまる人形劇ミュージアム]] * [[流しびなの館]] * [[中津万象園]] * [[日本土人形資料館]] * [[野坂オートマタ美術館]] * [[万協フィギュア博物館]] * [[マリアの心臓]] * [[横浜人形の家]] * [[リカちゃんキャッスル]] {{div col end}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|24em}} == 外部リンク == {{commonscat|Dolls}} *[https://www.kougyo-st.go.jp/category/3252.html 中分類 32-その他の製品 3252:人形|工業統計調査] *[https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900118113/ 〈研究ノート〉近代日本における「人形」の再編成とジェンダー -「フランス人形」を中心に- ] *[https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/bunraku/jp/doll/doll3.html 文楽人形 人形のしくみ - ユネスコ無形文化遺産 文楽への誘い] *[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000261762 世界の人形が載っている本が見たい。なるべく小さめの本が良い。 | レファレンス協同データベース] {{模型}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にんきよう}} [[Category:人形|*]] [[Category:玩具]] [[Category:子供の遊び]] [[Category:美術のジャンル]]
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447年
447年(447 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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{{年代ナビ|447}} {{year-definition|447}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[允恭天皇]]36年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1107年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[宋 (南朝)|宋]] : [[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]24年 ** [[北魏]] : [[太平真君]]8年 ** [[北涼]] : [[承平 (北涼)|承平]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[長寿王]]35年 ** [[百済]] : [[毗有王]]21年 ** [[新羅]] : [[訥祇麻立干|{{lang|ko|訥祇}}王]]31年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2780年 * [[仏滅紀元]] : 990年 - 991年 * [[ユダヤ暦]] : 4207年 - 4208年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=447|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:447年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:447年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|447}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=5|年代=400}} {{デフォルトソート:447ねん}} [[Category:447年|*]]
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北関東自動車道
北関東自動車道(きたかんとうじどうしゃどう、英語: KITA-KANTO EXPWY)は、群馬県高崎市の高崎ジャンクション (JCT) から栃木県の東北自動車道を経由し、茨城県水戸市の水戸南インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。 略称は北関東道(きたかんとうどう)、北関東自動車道建設促進期成同盟会が公募で決めた愛称は北関(きたかん)。群馬県前橋市、栃木県宇都宮市、茨城県水戸市と、利根川以北に当たる北関東3県の県庁所在地を通過している。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、東水戸道路、常陸那珂有料道路とともに「E50」が割り振られている。 国土開発幹線自動車道としての北関東自動車道は以下のとおりとされている。 高速自動車国道の路線を指定する政令による高速自動車国道としての北関東自動車道は下記のとおりとされている。 関越自動車道と東北縦貫自動車道(東北自動車道)、常磐自動車道を結び、北関東の東西軸の強化を目的としている。 水戸南ICからひたちなかICまでの区間は、高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路で一般有料道路の東水戸道路で、国土開発幹線自動車道では北関東自動車道の一部分にあたる。また、政令上の北関東自動車道の終点であるひたちなかICから先は、地域高規格道路の水戸外環状道路が那珂市まで指定されており常陸那珂有料道路が常陸那珂港ICまで開通している。 以下では、東日本高速道路管理の高速自動車国道の道路名としての北関東自動車道(高崎 - 水戸南)について述べる。 国道50号の混雑緩和と代替補完ならびに所要時間短縮の目的を担い、同国道に概ね併走するルートで建設されたが、北関東3県庁所在地を直結する機能を担う目的から、栃木県真岡市 - 佐野市間は国道50号から北部寄りに大きく外れたルートを採り、宇都宮市南部を通過し都賀地域で東北道に接続する。 水戸方面と高崎方面を行き来する場合は岩舟JCT - 栃木都賀JCT間で東北自動車道と道路を重用する。ほかに関越自動車道、常磐自動車道、東関東自動車道の3路線とジャンクションで接続している。宇都宮 - 水戸間は2008年12月20日に全線開通、宇都宮 - 高崎間は2011年3月19日に全線開通した。 主な建設目的は、 の4点である。 全区間開通時から片側2車線で最高速度は100 km/hである。 高崎JCT - 太田桐生IC間と栃木都賀JCT - 真岡IC間は、田園地帯を通過するなだらかな区間である。一方、太田桐生IC - 岩舟JCT間と真岡IC - 友部IC間は、丘陵地帯を通過するため勾配やトンネルが多い。 北関東道は、群馬県から栃木県を経由して茨城県へ至る道路の特性上、上下線との表現ではなく、西行、東行での表現となっている。 北関東道にはパーキングエリア (PA) が5か所(波志江・太田強戸・出流原・壬生・笠間)設けられており、サービスエリア (SA) はない。 波志江PAにはコンビニエンスストアがあり、開業当初は西行(高崎JCT方面)がセーブオン、東行(岩舟JCT方面)がミニストップであったが、2018年8月31日をもってセーブオンとして営業している店舗は全店舗でローソンへの転換が完了し、株式会社セーブオンはローソンのメガフランチャイジーとなった関係で2019年現在、西行きはローソンとなっている。太田強戸PAは商業施設とガソリンスタンドがある。出流原PAはトイレと自動販売機のみの簡素なPAである。壬生PAはパーキングエリア自体は無人だがハイウェイオアシスとして整備されており、隣接する道の駅みぶの各施設が利用出来る。また、笠間PAには2010年12月21日に商業施設および沿線唯一のガソリンスタンドが設置された。太田強戸PAが供用されるまでは北関東道経由で東北道 - 関越道・上信越道を利用する場合は最大で170 km程度給油施設が無い状況となっており、北関東道分岐に近い東北道・関越道・上信越道の各SAの手前や友部IC付近・笠間PA手前には給油を促す看板が設置されていた。 スマートインターチェンジを併設する太田強戸PAについては、以前から計画があったものの建設が凍結され、波志江PAおよび佐野PA(仮称、現:出流原PA)の状況を見て再開か否か検討されることとなった。その後北関東道の交通量が予想を大きく上回り、東日本高速道路も周辺パーキングの混雑状況の調査を開始したことを受けて、群馬県及び太田市は計画を再始動させ、建設再開を要望。2017年度に供用開始予定となったが、後に延期され2018年7月28日に供用開始された。 また、真岡IC - 桜川筑西IC間に五行川PA(仮称)を設置する予定があり、橋桁等の一部施設が着工されたが凍結されている。こちらも栃木県が早期整備を要望している状態である。 コールサインは「ハイウェイラジオ北関東道○○」と放送される(例:上三川であれば「ハイウェイラジオ北関東道上三川」)。 壬生PA内のハイウェイラジオは、高速道路施設上で珍しいミニFM方式を採用している。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) ※当該区間の開通後半年間の24時間平均交通量は27,500台、その他の区間でも大幅に増加。 いずれの区間も新規開通後には、先行開通区間でも顕著に交通量の増加が見られる。 土曜日や日曜日、祝日の夕方には西行きが友部JCTと栃木都賀JCTを先頭に5 km以上も渋滞する場合がある。また、関越道(高崎JCT)・東北道(栃木都賀JCT)・常磐道(友部JCT)の渋滞が北関東道まで延びてくることが多い。 下記の高速バスが北関東自動車道を通行する。
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北関東自動車道は、群馬県高崎市の高崎ジャンクション (JCT) から栃木県の東北自動車道を経由し、茨城県水戸市の水戸南インターチェンジ (IC) へ至る高速道路(高速自動車国道)である。 略称は北関東道(きたかんとうどう)、北関東自動車道建設促進期成同盟会が公募で決めた愛称は北関(きたかん)。群馬県前橋市、栃木県宇都宮市、茨城県水戸市と、利根川以北に当たる北関東3県の県庁所在地を通過している。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、東水戸道路、常陸那珂有料道路とともに「E50」が割り振られている。
{{出典の明記|date=2013年8月|ソートキー=道きたかんとうしとうしやとう}} {{Infobox road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[File:KITA-KANTO EXP(E50).svg|130px|北関東自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E50}} 北関東自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map|zoom=8|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=300|frame-lat=36.3948|frame-long=139.7818}} |総距離 = 135.0 [[キロメートル|km]] |開通年 = [[2000年]]([[平成]]12年) - [[2011年]](平成23年) |起点 = [[群馬県]][[高崎市]]([[高崎ジャンクション|高崎JCT]]) |主な経由都市 = [[前橋市]]、[[伊勢崎市]]、[[太田市]]<br />[[足利市]]、[[栃木市]]、[[宇都宮市]]<br />[[真岡市]]、[[笠間市]] |終点 = [[茨城県]][[水戸市]]([[水戸南インターチェンジ|水戸南IC]]) |接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] }} [[ファイル:20080330KinuGawa.jpg|thumb|200px|right|北関東自動車道、[[鬼怒川]]、[[日産自動車]]栃木工場空撮。[[2008年]][[3月30日]]撮影]] [[ファイル:Kita-Kanto-Expressway and Nikko Sanzan,Ninomiya-town,Tochigi,Japan.JPG|thumb|right|200px|北関東自動車道と[[日光三山]]]] '''北関東自動車道'''(きたかんとうじどうしゃどう、{{Lang-en|KITA-KANTO EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[群馬県]][[高崎市]]の[[高崎ジャンクション]] (JCT) から[[栃木県]]の[[東北自動車道]]を[[経由]]し、[[茨城県]][[水戸市]]の[[水戸南インターチェンジ]] (IC) へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。 [[略語|略称]]は'''北関東道'''(きたかんとうどう)、北関東自動車道建設促進期成同盟会が公募で決めた[[愛称]]は'''北関'''(きたかん)。[[群馬県]][[前橋市]]、[[栃木県]][[宇都宮市]]、[[茨城県]][[水戸市]]と、[[利根川]]以北に当たる[[北関東]]3県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]を通過している。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[東水戸道路]]、[[常陸那珂有料道路]]とともに「'''E50'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2020-11-20|publisher=国土交通省}}</ref>{{efn|[[東北自動車道]]との重複区間を含む}}。 == 概要 == [[国土開発幹線自動車道]]としての北関東自動車道は以下のとおりとされている。 {| class="wikitable" |- ! 起点 ! 主たる経過地 ! 終点 |- |[[高崎市]] |[[前橋市]]付近 [[宇都宮市]]付近 [[水戸市]]付近 |[[那珂湊市]]{{Efn|国土開発幹線自動車道建設法は2003年1月6日施行のもの以降改正されていないため'''那珂湊市'''のままとなっている。現在の'''ひたちなか市'''。}} |} [[高速自動車国道の路線を指定する政令]]による[[高速自動車国道]]としての北関東自動車道は下記のとおりとされている。 {| class="wikitable" |- ! style="white-space:nowrap" |起点 ! style="white-space:nowrap" |重要な経過地 ! style="white-space:nowrap" |終点 |- |高崎市 |前橋市 [[伊勢崎市]] [[太田市]] [[足利市]] [[佐野市]] [[栃木県]][[下都賀郡]][[岩舟町]] [[栃木市]] 同郡[[都賀町]] [[下野市]] 宇都宮市 同県[[河内郡]][[上三川町]] [[真岡市]] [[桜川市]] [[笠間市]] [[茨城県]][[東茨城郡]][[茨城町]] 水戸市 |[[ひたちなか市]] |} [[関越自動車道]]と[[東北縦貫自動車道]]([[東北自動車道]])、[[常磐自動車道]]を結び、[[北関東]]の東西軸の強化を目的としている。 [[水戸南インターチェンジ|水戸南IC]]から[[ひたちなかインターチェンジ|ひたちなかIC]]までの区間は、[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]で[[有料道路|一般有料道路]]の'''[[東水戸道路]]'''で、国土開発幹線自動車道では北関東自動車道の一部分にあたる。また、政令上の北関東自動車道の終点であるひたちなかICから先は、[[地域高規格道路]]の水戸外環状道路が[[那珂市]]まで指定されており[[常陸那珂有料道路]]が[[常陸那珂港インターチェンジ|常陸那珂港IC]]まで開通している。 以下では、[[東日本高速道路]]管理の高速自動車国道の道路名としての北関東自動車道(高崎 - 水戸南)について述べる。 [[国道50号]]の混雑緩和と代替補完ならびに所要時間短縮の目的を担い、同国道に概ね併走するルートで建設されたが、北関東3県庁所在地を直結する機能を担う目的から、栃木県真岡市 - 佐野市間は国道50号から北部寄りに大きく外れたルートを採り、宇都宮市南部を通過し都賀地域で東北道に接続する。 [[水戸市|水戸]]方面と[[高崎市|高崎]]方面を行き来する場合は[[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]] - [[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]間で[[東北自動車道]]と道路を重用する。ほかに関越自動車道、[[常磐自動車道]]、[[東関東自動車道]]の3路線と[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]で接続している。[[宇都宮市|宇都宮]] - 水戸間は[[2008年]][[12月20日]]に全線開通、宇都宮 - 高崎間は[[2011年]][[3月19日]]に全線開通した<ref>[https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/head_office/2010/1125/00006392.html 北関東自動車道が全線開通! 太田桐生インターチェンジ〜佐野田沼インターチェンジ間が平成23年3月19日に開通します] NEXCO東日本 プレスリリース 2010年11月25日発表</ref>。 主な建設目的は、 # [[国道50号]]の混雑緩和(国道50号線のバイパス道路) # [[北関東|関東地方北部]]の東西連絡道路としての機能 # 沿線の[[工業]]を初めとした産業の発展 # 首都・[[東京都|東京]]で重大災害が発生した時の「迂回路」としての機能 の4点である。 全区間開通時から片側2[[車線]]で[[最高速度]]は100&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]である<ref group="注釈">なお、全線が法定速度 (100&nbsp;km/h) となっている他の高速自動車国道に、[[伊勢湾岸自動車道]]がある。</ref>。 高崎JCT - 太田桐生IC間と栃木都賀JCT - 真岡IC間は、田園地帯を通過するなだらかな区間である。一方、太田桐生IC - 岩舟JCT間と真岡IC - 友部IC間は、丘陵地帯を通過するため勾配やトンネルが多い。 北関東道は、群馬県から栃木県を経由して茨城県へ至る道路の特性上、上下線との表現ではなく、西行、東行での表現となっている<ref>「ドライブ モア! ハイウェイウォーカー 2018年9月号 No.88」39ページより</ref>。 == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 * 略字は、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、ICは[[インターチェンジ]]、PAは[[パーキングエリア]]<!--、SAはサービスエリア-->をそれぞれ示す。 {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br>番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green;white-space:nowrap;"|<span style="font-size:small">キロポスト<br />([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|<span style="font-size:small">高崎JCT<br>から<br>(km)</span> !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- !style="background-color:#BFB"|9-2 |[[高崎ジャンクション|高崎JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:right"|0.0 | |rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[群馬県]]}} |[[高崎市]] |- !style="background-color:#BFB"|1 |[[前橋南インターチェンジ|前橋南IC]] |[[群馬県道11号前橋玉村線|県道11号前橋玉村線]](バイパス) |style="text-align:right"|3.0 |style="text-align:right"|3.0 | |rowspan="2"|[[前橋市]] |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[駒形インターチェンジ|駒形IC]] |[[群馬県道2号前橋館林線|県道2号前橋館林線]]([[駒形バイパス]]) |style="text-align:right"|7.5 |style="text-align:right"|7.5 | |- !style="background-color:#BFB"|2-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[波志江パーキングエリア|波志江PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|11.7 |style="text-align:right"|11.7 |[[コンビニエンスストア]]併設 |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[伊勢崎市]] |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[伊勢崎インターチェンジ|伊勢崎IC]] |[[上武道路|国道17号上武道路]] |style="text-align:right"|14.5 |style="text-align:right"|14.5 | |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[太田藪塚インターチェンジ|太田藪塚IC]] |[[群馬県道315号大原境三ツ木線|県道315号大原境三ツ木線]] |style="text-align:right"|19.9 |style="text-align:right"|19.9 | |rowspan="3"|[[太田市]] |- !style="background-color:#BFB"|4-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[太田強戸パーキングエリア|太田強戸PA/SIC]]<ref>[http://mainichi.jp/area/gunma/news/20130517ddlk10040266000c.html 北関東自動車道:太田のスマートIC新設、国交省に申請へ /群馬 毎日新聞]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }} 2013年05月17日</ref> |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|26.6 |style="text-align:right"|26.6 |[[ガソリンスタンド]]併設 |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[太田桐生インターチェンジ|太田桐生IC]] |[[国道122号]]([[太田バイパス (群馬県)|太田バイパス]]) |style="text-align:right"|30.5 |style="text-align:right"|30.5 | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[救急車緊急退出路]] | |style="text-align:right"| | |[[足利赤十字病院]]に接続 |rowspan="15" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[栃木県]]}} |rowspan="3"|[[足利市]] |- !style="background-color: #BFB;"|-<!-- 5-1 --> |style="background-color:#CCC"|[[足利スマートインターチェンジ|足利SIC]] |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"|34.3 |style="text-align:right"|34.3 |事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref><br />2028年度開通予定<ref>{{Cite news|title=スマートIC 壬生PA候補地に 国交省、足利は事業許可|newspaper=小野新聞|date=2022-10-01|accessdate=2022-10-02|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/641297}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[足利インターチェンジ|足利IC]] |[[国道293号]] |style="text-align:right"|40.8 |style="text-align:right"|40.8 | |- !style="background-color:#BFB"|6-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[出流原パーキングエリア|出流原PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[栃木県道175号山形寺岡線|県道175号山形寺岡線]] |style="text-align:right"|47.0 |style="text-align:right"|47.0 | |rowspan="2"|[[佐野市]] |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[佐野田沼インターチェンジ|佐野田沼IC]] |[[栃木県道347号佐野田沼インター線|県道347号佐野田沼インター線]] |style="text-align:right"|49.1 |style="text-align:right"|49.1 | |- !style="background-color:#BFB"|7-1 |[[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]] |style="text-align:right"|54.4 |style="text-align:right"|54.4 |東北自動車道のJCT番号は「'''7-2'''」 |rowspan="4"|[[栃木市]] |- | colspan="6" style="text-align:center" |この間 {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]](重複区間 13.6 km) |- ! style="background-color:#BFB"|8-1 |[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E4}} 東北自動車道 |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:right"|68.0 | |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[都賀インターチェンジ|都賀IC]] |[[栃木県道3号宇都宮亀和田栃木線|県道3号宇都宮亀和田栃木線]] |style="text-align:right"|3.8 |style="text-align:right"|71.8 | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[壬生パーキングエリア|壬生PA/<span style="background-color: #CCC">SIC</span>]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|8.6 |style="text-align:right"|76.6 |[[ハイウェイオアシス]]併設<br />SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-08|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |rowspan="2"|[[下都賀郡]]<br />[[壬生町]] |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[壬生インターチェンジ|壬生IC]] |[[栃木県道340号壬生インター線|県道340号壬生インター線]] |style="text-align:right"|10.1 |style="text-align:right"|78.1 | |- !style="background-color: #BFB;"|- |style="background-color:#CCC"|[[下野スマートインターチェンジ|下野SIC]] |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"|14.3 |style="text-align:right"|82.3 |2025年度末以降供用開始予定<ref>{{Cite news|title=下野スマートIC開通延期 壬生コストコ渋滞緩和に期待|newspaper=[[下野新聞]]|date=2022-05-28|accessdate=2022-05-28|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/593825}}</ref> |[[下野市]] |- !style="background-color:#BFB"|10 |[[宇都宮上三川インターチェンジ|宇都宮上三川IC]] |[[新4号国道]] |style="text-align:right"|18.5 |style="text-align:right"|86.5 |一部は[[上三川町]]に位置<br />[[インターパーク宇都宮南]]に接続 |[[宇都宮市]] |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[真岡インターチェンジ|真岡IC]] |[[国道408号]]([[鬼怒テクノ通り|真岡北バイパス]]) |style="text-align:right"|26.0 |style="text-align:right"|94.0 | |rowspan="2"|[[真岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|五行川PA(仮称) |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"| | |style="text-align:left"|検討中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.moka.lg.jp/material/files/group/1/tosikeikakuMaster.pdf|title=真岡市都市計画マスタープラン 一部改定版(案)|date=2019-01|accessdate=2022-04-16|page=52|publisher=真岡市|format=PDF}}</ref> |- |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[桜川筑西インターチェンジ|桜川筑西IC]] |[[国道50号]] |style="text-align:right"|40.9 |style="text-align:right"|108.9 | |rowspan="9" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[茨城県]]}} |[[桜川市]] |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[笠間西インターチェンジ|笠間西IC]] |[[茨城県道64号土浦笠間線|県道64号土浦笠間線]] |style="text-align:right"|49.8 |style="text-align:right"|117.8 | |rowspan="4"|[[笠間市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[笠間パーキングエリア|笠間PA/<span style="background-color: #CCC">SIC]]</span> |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|57.5 |style="text-align:right"|125.5 |[[笠間パーキングエリア#施設|ガソリンスタンド]]併設<br/>SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001418134.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2021-08-06|accessdate=2021-08-06|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|14 |[[友部インターチェンジ|友部IC]] |[[国道355号]] |style="text-align:right"|58.9 |style="text-align:right"|126.9 | |- !style="background-color:#BFB"|8-2 |[[友部ジャンクション|友部JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E6}} [[常磐自動車道]] |style="text-align:right"|66.3 |style="text-align:right"|134.3 | |- !style="background-color:#BFB"|15 |[[茨城町西インターチェンジ|茨城町西IC]] |[[茨城県道59号玉里水戸線|県道59号玉里水戸線]] |style="text-align:right"|70.4 |style="text-align:right"|138.4 | |rowspan="3"|[[東茨城郡]]<br />[[茨城町]] |- !style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|15-1 |[[茨城町ジャンクション|茨城町JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E51}} [[東関東自動車道]] |style="text-align:right"|72.6 |style="text-align:right"|140.6 |東関東道のJCT番号は「'''18'''」 |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[茨城町東インターチェンジ|茨城町東IC]] |[[国道6号]] |style="text-align:right"|77.2 |style="text-align:right"|145.2 | |- !style="background-color:#BFB; border-bottom:2px"|17 |style="border-bottom:2px"|[[水戸南インターチェンジ|水戸南IC]] |style="border-bottom:2px"|国道6号 |style="text-align:right; border-bottom:2px"|80.6 |style="text-align:right"|148.6 | |[[水戸市]] |- |colspan="8" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[東水戸道路]] [[ひたちなかインターチェンジ|ひたちなか]]方面 |} * [[距離標|キロポスト]]は、[[関越自動車道|関越道]] - [[東北自動車道|東北道]]間は高崎JCTから、東北道 - [[常陸那珂有料道路]]・[[常陸那珂港インターチェンジ|常陸那珂港IC]]間が栃木都賀JCTからとなっているが、区別するため栃木都賀JCTからは同JCTからの距離数値に100を加えたものになっている。 == 歴史 == {{Timeline of release years | title = 各年ごとの開通区間 | 2000 = (3月)友部JCT - 水戸南IC<br />(7月)栃木都賀JCT - 宇都宮上三川IC<br />(12月)友部IC - 友部JCT | 2001 = (3月)高崎JCT - 伊勢崎IC | 2007 = (11月)笠間西IC - 友部IC | 2008 = (3月)伊勢崎IC - 太田桐生IC・宇都宮上三川IC - 真岡IC<br />(4月)桜川筑西IC - 笠間西IC<br />(12月)真岡IC - 桜川筑西IC | 2010 = (4月)佐野田沼IC - 岩舟JCT | 2011 = (3月)太田桐生IC - 佐野田沼IC }} * [[1987年]]([[昭和]]62年) ** [[6月30日]] : [[第四次全国総合開発計画]]が[[閣議決定]]され、'''北関東横断自動車道'''として高規格幹線道路の構想となる。 ** [[9月1日]] : [[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]の改正により、国幹道の予定路線とされる。 * [[1996年]]([[平成]]8年)[[12月27日]] : 国土開発幹線自動車道建設審議会(国幹審)で、上三川 - 友部間(40&nbsp;km)が整備計画路線に昇格<ref>「高速道路982キロ整備区間に・北関東道 友部 - 栃木県境区間も」『[[茨城新聞]]』、1996年12月28日付日刊、1面〈総合〉。</ref>。 * [[2000年]](平成12年) ** [[3月18日]] : 友部JCT - 水戸南IC間開通<ref>{{Cite news |title=来年3月に高速道路5区間が開通、総延長6615&nbsp;kmに |newspaper=[[Response.]] |date=1999.12.17 |url=http://response.jp/article/1999/12/17/595.html |accessdate=2016.4.9 |publisher=株式会社イード }}</ref>により、常磐自動車道と接続。 ** [[7月27日]] : 栃木都賀JCT - 宇都宮上三川IC間開通により、東北自動車道と接続。 ** [[12月2日]] : 友部IC - 友部JCT間開通<ref>{{Cite news |title=高速道路7.4 km延長に7年の歳月と410億円……まあ、便利になるんだから |newspaper=[[Response.]] |date=2000.9.21 |url=http://response.jp/article/2000/09/21/4420.html |accessdate=2016.4.11 |publisher=株式会社イード }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月31日]] : 高崎JCT - 伊勢崎IC間開通により、関越自動車道と接続。 * [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] : [[日本道路公団]][[民営化]]により、東日本高速道路株式会社の所管路線となる。 * [[2007年]](平成19年)[[11月14日]] : 笠間西IC - 友部IC間開通。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月1日]] : 波志江PA開設。 ** [[3月8日]] : 伊勢崎IC - 太田桐生IC間開通。 ** [[3月15日]] : 宇都宮上三川IC - 真岡IC間開通。 ** [[3月29日]] : 波志江PAスマートIC社会実験開始。 ** [[4月12日]] : 桜川筑西IC - 笠間西IC間開通。 ** [[12月20日]] : 真岡IC - 桜川筑西IC間開通(栃木 - 茨城間の全線開通)。壬生PA・笠間PA開設。 * [[2009年]](平成21年)[[4月1日]] : 波志江PAスマートIC供用開始。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月6日]] : 茨城町JCT開通により、東関東自動車道と接続。 ** [[4月17日]] : 佐野田沼IC - 岩舟JCT間開通により、東北自動車道と接続。 * [[2011年]](平成23年)[[3月19日]] : 太田桐生IC - 佐野田沼IC間開通(群馬 - 栃木間の全線開通)。出流原PA開設。これにより'''全線開通'''。当初は15時開通予定だったが、[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震|東日本大震災]]への救援活動を考慮して、12時開通に前倒しされた。また、同大震災のため、開通前に緊急車両や支援物資を輸送する車両に限って開放した。 * [[2018年]](平成30年)[[7月28日]] : 太田強戸PA/スマートIC供用開始<ref name="press20180628">{{Cite web|和書|url=http://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/kanto/h30/0628/pdfs/pdf.pdf|title=E50北関東自動車道『太田強戸パーキングエリア・太田強戸スマートインターチェンジ』が平成30年7月28日(土)15時に同時オープン|date=2018-06-28|accessdate=2018-06-28|publisher=東日本高速道路株式会社・ネクセリア東日本株式会社|format=PDF}}</ref>。 * [[2021年]]([[令和]]3年)[[2月24日]] - [[3月1日]] : 栃木県足利市で発生した[[令和3年足利市山林火災|山火事]]が拡大したため、太田桐生IC - 足利IC間で全面通行止めとなる<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-25|url=https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/275989 |title=足利の山林火災 鎮火見通せず 北関東道が一部通行止めに |publisher=上毛新聞 |accessdate=2021-02-24}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[9月19日]] : 出流原スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2022/08/05a/pdf.pdf|title=E50 北関東自動車道「出流原スマートインターチェンジ」 令和4年9月19日(月)15時に開通します。 〜 正式名称は「出流原スマートインターチェンジ」に決定 〜|date=2022-08-05|accessdate=2022-08-05|publisher=佐野市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center" |- !区間!![[車線]]<br />上下線=西行き+東行き!![[最高速度]] |- | 高崎JCT - 岩舟JCT||rowspan="2" |4=2+2||rowspan="2" |100 [[キロメートル毎時|km/h]] |- | 栃木都賀JCT - 水戸南IC |} === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 北関東道には[[パーキングエリア]] (PA) が5か所(波志江・太田強戸・出流原・壬生・笠間)設けられており、[[サービスエリア]] (SA) はない。 波志江PAには[[コンビニエンスストア]]があり、開業当初は西行(高崎JCT方面)が[[セーブオン]]、東行(岩舟JCT方面)が[[ミニストップ]]であったが、2018年8月31日をもってセーブオンとして営業している店舗は全店舗で[[ローソン]]への転換が完了し、株式会社セーブオンはローソンの[[フランチャイズ|メガフランチャイジー]]となった関係で2019年現在、西行きはローソンとなっている。太田強戸PAは商業施設と[[ガソリンスタンド]]がある。出流原PAは[[トイレ]]と[[自動販売機]]のみの簡素なPAである。壬生PAはパーキングエリア自体は無人だが[[ハイウェイオアシス]]として整備されており、隣接する[[道の駅みぶ]]の各施設が利用出来る。また、笠間PAには2010年12月21日に商業施設および沿線唯一の[[ガソリンスタンド]]が設置された。太田強戸PAが供用されるまでは北関東道経由で東北道 - 関越道・上信越道を利用する場合は最大で170&nbsp;km程度給油施設が無い状況となっており、北関東道分岐に近い東北道・関越道・上信越道の各SAの手前や友部IC付近・笠間PA手前には給油を促す看板が設置されていた。 スマートインターチェンジを併設する太田強戸PAについては、以前から計画があったものの建設が凍結され、波志江PAおよび佐野PA(仮称、現:出流原PA)の状況を見て再開か否か検討されることとなった<ref>[https://archive.is/20120906140024/http://www.pref.gunma.jp/07/n04810026.html はばたけ群馬・県土整備地域プラン(太田地域、桐生・みどり地域、館林・邑楽地域))(案)に関する意見の募集結果について] 群馬県東部県民局 2009年3月27日発表</ref>。その後北関東道の交通量が予想を大きく上回り、東日本高速道路も周辺パーキングの混雑状況の調査を開始したことを受けて、群馬県及び太田市は計画を再始動させ、建設再開を要望<ref>[http://www.raijin.com/news/a/2011/07/12/news01.htm 北関東道・太田薮塚 - 太田桐生間のスマートIC、凍結の計画再始動] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150924084431/http://www.raijin.com/news/a/2011/07/12/news01.htm |date=2015年9月24日 }} 上毛新聞 2011年7月12日</ref>。2017年度に供用開始予定となったが<ref>{{PDFlink|[http://www.jehdra.go.jp/pdf/1162.pdf 高速道路利便施設の連結に関する情報提供(東日本高速道路株式会社管理分)]}}(日本高速道路保有・債務返済機構、2013年12月17日現在、2014年1月2日閲覧)</ref>、後に延期され2018年7月28日に供用開始された<ref name="press20180628" />。 また、真岡IC - 桜川筑西IC間に五行川PA(仮称)を設置する予定があり<ref>[http://www.city.moka.tochigi.jp/gikai/gikaiphp/ippan/hosoya-susumu/kojin.php?no=A45 質問事項と会議録(平成14年3月)] - 真岡市</ref>、橋桁等の一部施設が着工されたが<ref>[http://digital.asahi.com/articles/TKY201310260094.html 高速道路用地89万平米放置、190億円分 検査院調べ] - 朝日新聞、2013年10月26日</ref>凍結されている。こちらも栃木県が早期整備を要望している状態である<ref>[http://www.jcpress.co.jp/wp01/?p=7791 県が国に6項目要望 土屋バイパスの計画検討 3団体が事業進ちょく説明 関東地整と県が連絡協議会] - 日本建設新聞、2012年8月8日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.tochigi.lg.jp/a01/houdou/documents/h26teianyoubou.pdf 平成26年度 国の施策等に関する提案・要望]}} - 栃木県</ref>。 ==== 主なトンネル ==== * 五十部トンネル(太田桐生IC - 足利IC):西行 478 m 東行 460 m * 大岩トンネル(太田桐生IC - 足利IC):西行 914 m 東行 926 m * 北郷トンネル(太田桐生IC - 足利IC):西行 678 m 東行 685 m * 塩坂峠トンネル(足利IC - 出流原PA、足利市・佐野市境を通過する):西行 1,025 m 東行 1,051 m * 出流原トンネル(足利IC - 出流原PA):西行 279 m 東行 188 m * 唐沢山城跡トンネル(佐野田沼IC - 岩舟JCT、佐野市・栃木市(旧・下都賀郡岩舟町)境を通過する):西行 2,165 m 東行 2,151 m * 大政山トンネル(真岡IC - 桜川筑西IC、栃木県真岡市・茨城県桜川市境を通過する):西行 1,610 m 東行 1,598 m * 岩瀬トンネル(桜川筑西IC - 笠間西IC):西行 2,822 m 東行 2,807 m(北関東自動車道最長のトンネル) * 唐桶山トンネル(笠間西IC - 笠間PA):西行 1,070 m 東行 1,064 m ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center" !区間!!上り線!!下り線 |- |高崎JCT - 太田桐生IC||0||0 |- |太田桐生IC - 足利IC||3||3 |- |足利IC - 出流原PA||2||2 |- |出流原PA - 佐野田沼IC||0||0 |- |佐野田沼IC - 岩舟JCT||1||1 |- |栃木都賀JCT - 真岡IC||0||0 |- |真岡IC - 桜川筑西IC||1||1 |- |桜川筑西IC - 笠間西IC||1||1 |- |笠間西IC - 笠間PA||1||1 |- |笠間PA - 水戸南IC||0||0 |- !合計!!9!!9 |} === 道路管理者 === * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]][[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 高崎管理事務所 : 高崎JCT - 太田桐生IC ** 宇都宮管理事務所 : 太田桐生IC - 岩舟JCT、栃木都賀JCT - 桜川筑西IC ** 水戸管理事務所 : 桜川筑西IC - 水戸南IC ==== ハイウェイラジオ ==== [[ファイル:KaminokawaPA-radio.JPG|thumb|right|200px|壬生PA内ハイウェイラジオ案内(現在は86.9MHzで放送されている)]] * 駒形(駒形IC - 伊勢崎IC) * 出流原(出流原PA付近):出流原PA内でも、同一の内容を放送している。 * 上三川(壬生IC - 宇都宮上三川IC)(壬生PA内・[[ミニFM]]局) * 笠間(笠間PA付近) : 笠間PA内でも、同一の内容を放送している。 * 茨城(友部JCT - 茨城町JCT) [[識別信号|コールサイン]]は「[[路側放送|ハイウェイラジオ]]北関東道○○」と[[放送]]される(例:上三川であれば「ハイウェイラジオ北関東道上三川」)。 壬生PA内のハイウェイラジオは、高速道路施設上で珍しい[[ミニFM]]方式を採用している。 === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!|平成17年(2005年)度!!平成22年(2010年)度!!平成27年(2015年)度 |- | 高崎JCT - 前橋南IC || 25,325 || 40,209 || 49,937 |- | 前橋南IC - 駒形IC || 22,813 || 38,588 || 49,160 |- | 駒形IC - 波志江PASIC || rowspan="2"|17,088 || 35,183 || 47,954 |- | 波志江PASIC - 伊勢崎IC || 33,935 || 46,791 |- | 伊勢崎IC - 太田薮塚IC || rowspan="3"|調査当時未開通 || 26,913 || 43,644 |- | 太田薮塚IC - 太田強戸PASIC || rowspan="2"|20,896 || rowspan="2"|39,378 |- | 太田強戸PASIC - 太田桐生IC |- | 太田桐生IC - 足利IC || rowspan="3" colspan="2"|調査当時未開通※ || 31,981 |- | 足利IC - 出流原SIC || rowspan="2" | 33,841 |- | 出流原SIC - 佐野田沼IC |- | 佐野田沼IC - 岩舟JCT || 調査当時未開通 || {{0}}5,815 || 36,320 |- | 栃木都賀JCT - 都賀IC || 13,422 || 25,008 || 29,995 |- | 都賀IC - 壬生IC || 13,121 || 24,457 || 29,701 |- | 壬生IC - 宇都宮上三川IC || 10,466 || 21,476 || 26,512 |- | 宇都宮上三川IC - 真岡IC || rowspan="4"|調査当時未開通 || 13,649 || 18,854 |- | 真岡IC - 桜川筑西IC || 11,445 || 15,624 |- | 桜川筑西IC - 笠間西IC || 16,378 || 20,380 |- | 笠間西IC - 友部IC || 17,375 || 20,869 |- | 友部IC - 友部JCT || {{0}}3,908 || 19,318 || 21,868 |- | 友部JCT - 茨城町西IC || 14,458 || 25,431 || 27,151 |- | 茨城町西IC - 茨城町JCT || rowspan="2"|13,824 || 23,236 || 24,858 |- | 茨城町JCT - 茨城町東IC || 22,340 || 22,959 |- | 茨城町東IC - 水戸南IC || {{0}}8,430 || 15,402 || 15,557 |} <small>(出典:「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ※当該区間の開通後半年間の24時間平均交通量は27,500台、その他の区間でも大幅に増加。 ; 2002年度日平均交通量(2003年度JH年報) * 友部IC - 水戸南IC : 9,707台(前年度比107.8%) * 栃木都賀JCT - 宇都宮上三川IC : 10,095台(110.2%) * 高崎JCT - 伊勢崎IC : 14,749台(123.2%) いずれの区間も新規開通後には、先行開通区間でも顕著に交通量の増加が見られる。 ==== 渋滞 ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年8月}} {{節スタブ}} 土曜日や日曜日、祝日の夕方には西行きが[[友部ジャンクション|友部JCT]]と[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]を先頭に5&nbsp;km以上も渋滞する場合がある。また、[[関越自動車道|関越道]]([[高崎ジャンクション|高崎JCT]])・[[東北自動車道|東北道]](栃木都賀JCT)・[[常磐自動車道|常磐道]](友部JCT)の渋滞が北関東道まで延びてくることが多い。 == 地理 == === 通過する自治体 === * [[群馬県]] ** [[高崎市]] - [[前橋市]] - [[伊勢崎市]] - [[太田市]] * [[栃木県]] ** [[足利市]] - [[佐野市]] - [[栃木市]] - ([[東北自動車道]]) - 栃木市 - [[下都賀郡]][[壬生町]] - [[下野市]] - [[宇都宮市]] - [[河内郡]][[上三川町]] - [[真岡市]] * [[茨城県]] ** [[筑西市]] - [[桜川市]] - [[笠間市]] - [[東茨城郡]][[茨城町]] - [[水戸市]] === 接続する高速道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]](高崎JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E4}} [[東北自動車道]](岩舟JCT、栃木都賀JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E6}} [[常磐自動車道]](友部JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E51}} [[東関東自動車道]](茨城町JCTで接続) == 高速バス == 下記の高速バスが北関東自動車道を通行する。 * 東京 - 茨城県庁・水戸([[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]、[[関東鉄道]]、[[茨城交通]]) * 東京 - 勝田・東海(茨城交通) * 日立・水戸 - 羽田空港(茨城交通) * 常陸太田・勝田 - 茨城空港(茨城交通) * 水戸 - 茨城空港(関東鉄道) * 前橋・高崎 - 大阪([[日本中央バス]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Kita-Kanto Expressway}} * [[国土開発幹線自動車道]] * [[高速自動車国道]] * [[関東地方の道路一覧]] * [[関東環状道路]] * [[国道50号]] * [[東山道]] * [[中山道]] * [[日光例幣使街道]] == 外部リンク == * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路] * [https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/doken/shomu/kansendo/4kosoku/kitakan.html 北関東自動車道] - 茨城県土木部道路建設課 * [http://www.pref.tochigi.lg.jp/h03/town/douro/jyouhou/kitakan.html 北関東自動車道] - 栃木県県土整備部交通政策課 * [https://www.pref.gunma.jp/06/h3410068.html 北関東自動車道] - 群馬県県土整備部道路整備課 {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{北関東自動車道}} {{DEFAULTSORT:きたかんとうしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:高速自動車国道]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:関東地方の道路]]
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カレーパンマン
カレーパンマン(ラテン文字表記:Currypan-man、Currypanman)は、アンパンマン・シリーズに主要なメンバーとして登場する架空のキャラクター。声優は柳沢三千代。 サンリオの雑誌『月刊いちごえほん』に掲載されていた「れんさいまんが アンパンマン」の第15話で、アンパンマンが「おとうとをつくってください」とジャムおじさんに頼んで製造したところ、どういうわけかカレーパンとして誕生(ジャムおじさん自身も味を試食するまで何のパンかわからなかった)。 この初登場話では顔が現在の物と異なり、アンパンマンの顔を上下につぶしたような顔だったが、第22話で再登場してからレモン型の顔に成り、以後はこれが基本になった。 絵本での初出は、1981年(昭和56年)11月初版刊行の、アンパンマンシリーズで最初のクリスマス絵本『アンパンマンのサンタクロース』だった。 映像での初登場は、テレビアニメ第2話Bパート「アンパンマンとカレーパンマン」1988年(昭和63年)10月10日放映(関東エリア)。 頭部がカレーパンで出来ており、原作ではアンパンマン同様に顔を食べさせ、首無し状態で活動する場面もあるが、アニメ版では空腹の者には顔のカレーパンでなく、カレーライスを提供することが通例。ごはんを炊いて、鍋に切った具材と共に顔の中身であるカレーを入れて温める時と、カレーのルーを用意して作る時とがある。 アンパンマンと同じくジャムおじさんによって作られて生まれたが、アンパンマン、メロンパンナ、ロールパンナとは異なり、誕生時のエピソードは漫画版でのみ描かれており、ここでは「アンパンマンの弟」ということになっていたが、これ以後は他媒体含めあまり兄弟という描写はなく、アニメ版では初めて会った際にアンパンマンはカレーパンマンの事を(ジャムおじさん製造の事も含め)一切知らない描写があった。なお、『アンパンマン大研究』には「ジャムおじさんは、アンパンマンを作ったときのノウハウを活かしてカレーパンマンを作った」という旨の記述がある。また、キャラクターソングの歌詞では「生まれたところは知らないが――」と謳っている。あるいはまた、漫画『とべ!アンパンマン』における設定では、「カレー星」から来た宇宙人ということになっている。 前述のとおり、頭部はカレーパンで出来ている。黒目(虹彩)はアニメ初期のころのほうが大きく描かれていて、眼を閉じると茶色の瞼が見られた。胸には、顔をイメージしたマークがある。服はオレンジ色で、黄色の手袋とブーツ、白いベルトを装着している。原作では『月刊いちごえほん』版から登場。現在とは異なり、服の真ん中に「curry」の「C」ではなく、なぜか「K」のマークがデザインされていた。 アンパンマンやメロンパンナなど異なり、パン工場では生活しておらず、普段の生活風景は分かっていないが、「カレーの国」にあるとされる「カレーが丘」で生活している。近年はよく、しょくぱんまんと共に、学校での給食の配達を手伝うこともあるが、特に定まった仕事は見当たらない。草原で昼寝をしている場合もある。放送初期の時はモブキャラクターとして登場して絡みが無かったエピソードも存在する。 原作漫画版の時点からパン系キャラに共通の「顔が汚れたり水にぬれると弱くなる」の他に「カレーが辛いとテンションが上がる」「カレーを吐いて武器にするが出しすぎるとしぼみ、カレー補給で復活」というような特徴があった。 アニメ版ではアンパンマンなどのように顔を食べさせたり交換する場面がほとんどなく、カレーを失った場合にカレーを注いでもらったり(カレーパックを口に入れる場合もある)して復活した後の決めゼリフは「辛さ100倍、カレーパンマン!」(背景には本人の顔を模した花火が打ち上がる)。アンパンマンと同様、顔を殴られるとたんこぶができる。また、本編でアンパンマンの体が泥まみれですぐには洗い落とせない時には服を提供したこともあった。 性格はかなり短気。また、喧嘩っ早く熱血な一方で非常に涙もろい江戸っ子のような性格。アンパンマン同様、弱い者を決して見捨てない優しさと勇気を持っている。粗野な口調が目立つが、ジャムおじさんなどの目上の人には敬語を使う等、ある程度の礼儀は弁えている。一人称は「おれ(俺)」。テレビアニメ初期の頃は「おいら」とも言っていた。稀に「おれさま(俺様)」や「ぼく(僕)」とも言う。落ち込んでいる者を辛口で責め立てて却って深く落ち込ませてしまうこともある。不器用で女性や幼い子への扱いは苦手としているが、人情深く面倒見のいい所もあり子供達からも慕われている。強さとは「辛さ」と考えている。また、「○○くん」「○○ちゃん」まで呼称があるキャラクターは、相手によっては呼び捨てだったり、そのまま呼ぶことがある。ロールパンナやクリームパンダのことはそれぞれ「ちゃん」付けで呼んでいるが、登場当初は呼び捨てにしていた。 カレー料理を作るのが得意で、カレー丼を提供したことがあるが、カレーどんまんのカレー丼には否定的だった。空腹のばいきんまんやドキンちゃんにもカレーを分ける姿勢はあるが、他の料理を振る舞うキャラクター同様に列に並ばない、他人の分を取り上げる、武器で脅かすといった暴挙に出ればあげることを拒む。わざと激辛カレーをあげることもある。 甘い食べ物は苦手で、食べ過ぎると体が弱ってしまう。この体質を利用したばいきんまんに甘いお菓子で脅かされることもある。ジャムおじさんのシチューの製作途中で、しょくぱんまんがカレー粉を入れて無理やり作ったカレーを補給した際には、「頭がクラッとする」とコメントしていた。その一方で、シチューおばさんの作った甘みのあるカレーシチューを食べた時には、「優しい味がする」と気に入って何杯もおかわりをしていた。 アンパンマンの戦い方が甘いと指摘する程、自身は好戦的である。ただし、カレー攻撃の多用でパワーダウンしたり詰めの甘さから形勢が逆転されることも珍しくない。演劇では主に悪役をやらされ、アンパンマンほどではないが、演技は下手で台詞も棒読み。ただし、舞台に立つこと自体は嫌いではないようで、しょくぱんまんと主役の取り合いをすることもある(大抵はしょくぱんまんに役を取られ、脇役か裏方をやらされてしまう)。バレエなど芸術には無関心だったが、「たまにはいい」ということで観劇していた。 しょくぱんまん初登場の時は、彼の気障な言動を不愉快に感じており、彼がかびるんるんに襲われていても見捨てようとしていたが、結局は本人の苦しそうな姿が見ていられずに助け出した。以来、しょくぱんまんとは価値観やセンスの相違による言い争いが多いものの、パトロールやアンパンマンの手助けなどにおいて行動を共にするようになった。しょくぱんまんの助言で問題を解決したこともある。しょくぱんまんが白い物を食パンに譬える台詞を言う時にいつも体を痒がっている。 女性との接触はあまり得意ではないが、これまでいくつかの女性キャラクターと交流があり、さらには好意を抱いているかのような描写も見られる。アニメ初期の頃はシュークリーム姫と両想いの関係にあったが、現在はどうなったかは不明である。TV第1141話A『カレーパンマンとおかしのくに』では、改めて行動を共にしていたが、特別な感情は見られなかった。また、ハッパちゃんにも好意を抱いているかのような描写があり、彼女に絵を贈ったことがある。 スペシャルダブルパンチ。 辛口カレーパンマン(からくちカレーパンマン) 激辛カレーパンマン(げきからカレーパンマン) 映画版では、他のキャラクターを守ったりしてしょくぱんまんと同様に真っ先に変身・固められるパターンが多く、その頻度もしょくぱんまんと並んで多い。 テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』放送30周年特別企画として、アンパンマンシリーズのテレビアニメと映画 (cf. category) に登場した全キャラクターを対象とした人気投票「いちばん すきなの だあれ?」が2018年(平成30年)7月20日から8月20日まで行われた。結果は10月3日の「アンパンマンの日」に発表された。カレーパンマンは第7位(得票数非公表)となり、第12位のしょくぱんまんより上位だった。 原作者やなせたかしは、カレーパンマンの役割について「スパイス役」と語っている。カレーはやなせの学生時代からの好物であり、カレーパンマンの顔のデザインもやなせがよく買っていたカレーパンの形に因んでいる。やなせが作詞したカレーパンマンのテーマ曲『とべ!カレーパンマン』も本人のお気に入りだった。 アンパンマンシリーズの登場キャラクターの姿を象ったオブジェは、日本各地にいくつか点在しており、わずかながらカレーパンマンの像もある。石造りのものに関しては、高知市のものを例外として、大半は同じ規格で作られたもので(2020年時点)、それらの各キャラクターは御影石でできており、高さは約1.2 - 1.4メートル。右に画像で示した「やなせたかしロード」の石像もその一つである。 四国旅客鉄道(JR四国)はJR四国2000系気動車にラッピングを施し、カレーパンマンをテーマにした車両である「カレーパンマン号」(2100形2107)を「予讃線アンパンマン列車」として2001年(平成13年)10月より運行していた。 2000系のアンパンマン列車は大きく予讃線系統と土讃線系統があり、予讃線には11両のアンパンマン列車が配属されていたが、2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正によってJR四国8000系電車で運行されることになり、「ばいきんまん号」を初め、大半の車両が予讃線の2000系アンパンマン列車から引退した。そのような中、予讃線の2000系アンパンマン列車は「予讃線宇和海アンパンマン列車」として3両が存続され、「カレーパンマン号」はそのうちの1両であった。その後「カレーパンマン号」は2019年(令和元年)9月27日を以て「おむすびまん号」(2200形2204)とともに運行を終了しアンパンマン列車から引退、後継として上述の8000系アンパンマン列車に準じた白色をベースに虹が描かれたデザインに変更された「予讃線宇和海アンパンマン列車」を運行している。2001年(平成13年)の運行開始以来何度かデザインが変更され、最終デザインは4代目であった。 アンパンマンシリーズとコラボレーションしている乗り物としては、上述のアンパンマン列車のほかにJR四国バスの「アンパンマンラッピングバス」があるが、カレーパンマンをメインに扱った車両は存在せず、仲間たちの一人として描かれている。
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"頭部がカレーパンで出来ており、原作ではアンパンマン同様に顔を食べさせ、首無し状態で活動する場面もあるが、アニメ版では空腹の者には顔のカレーパンでなく、カレーライスを提供することが通例。ごはんを炊いて、鍋に切った具材と共に顔の中身であるカレーを入れて温める時と、カレーのルーを用意して作る時とがある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アンパンマンと同じくジャムおじさんによって作られて生まれたが、アンパンマン、メロンパンナ、ロールパンナとは異なり、誕生時のエピソードは漫画版でのみ描かれており、ここでは「アンパンマンの弟」ということになっていたが、これ以後は他媒体含めあまり兄弟という描写はなく、アニメ版では初めて会った際にアンパンマンはカレーパンマンの事を(ジャムおじさん製造の事も含め)一切知らない描写があった。なお、『アンパンマン大研究』には「ジャムおじさんは、アンパンマンを作ったときのノウハウを活かしてカレーパンマンを作った」という旨の記述がある。また、キャラクターソングの歌詞では「生まれたところは知らないが――」と謳っている。あるいはまた、漫画『とべ!アンパンマン』における設定では、「カレー星」から来た宇宙人ということになっている。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "前述のとおり、頭部はカレーパンで出来ている。黒目(虹彩)はアニメ初期のころのほうが大きく描かれていて、眼を閉じると茶色の瞼が見られた。胸には、顔をイメージしたマークがある。服はオレンジ色で、黄色の手袋とブーツ、白いベルトを装着している。原作では『月刊いちごえほん』版から登場。現在とは異なり、服の真ん中に「curry」の「C」ではなく、なぜか「K」のマークがデザインされていた。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アンパンマンやメロンパンナなど異なり、パン工場では生活しておらず、普段の生活風景は分かっていないが、「カレーの国」にあるとされる「カレーが丘」で生活している。近年はよく、しょくぱんまんと共に、学校での給食の配達を手伝うこともあるが、特に定まった仕事は見当たらない。草原で昼寝をしている場合もある。放送初期の時はモブキャラクターとして登場して絡みが無かったエピソードも存在する。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "原作漫画版の時点からパン系キャラに共通の「顔が汚れたり水にぬれると弱くなる」の他に「カレーが辛いとテンションが上がる」「カレーを吐いて武器にするが出しすぎるとしぼみ、カレー補給で復活」というような特徴があった。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アニメ版ではアンパンマンなどのように顔を食べさせたり交換する場面がほとんどなく、カレーを失った場合にカレーを注いでもらったり(カレーパックを口に入れる場合もある)して復活した後の決めゼリフは「辛さ100倍、カレーパンマン!」(背景には本人の顔を模した花火が打ち上がる)。アンパンマンと同様、顔を殴られるとたんこぶができる。また、本編でアンパンマンの体が泥まみれですぐには洗い落とせない時には服を提供したこともあった。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "性格はかなり短気。また、喧嘩っ早く熱血な一方で非常に涙もろい江戸っ子のような性格。アンパンマン同様、弱い者を決して見捨てない優しさと勇気を持っている。粗野な口調が目立つが、ジャムおじさんなどの目上の人には敬語を使う等、ある程度の礼儀は弁えている。一人称は「おれ(俺)」。テレビアニメ初期の頃は「おいら」とも言っていた。稀に「おれさま(俺様)」や「ぼく(僕)」とも言う。落ち込んでいる者を辛口で責め立てて却って深く落ち込ませてしまうこともある。不器用で女性や幼い子への扱いは苦手としているが、人情深く面倒見のいい所もあり子供達からも慕われている。強さとは「辛さ」と考えている。また、「○○くん」「○○ちゃん」まで呼称があるキャラクターは、相手によっては呼び捨てだったり、そのまま呼ぶことがある。ロールパンナやクリームパンダのことはそれぞれ「ちゃん」付けで呼んでいるが、登場当初は呼び捨てにしていた。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "カレー料理を作るのが得意で、カレー丼を提供したことがあるが、カレーどんまんのカレー丼には否定的だった。空腹のばいきんまんやドキンちゃんにもカレーを分ける姿勢はあるが、他の料理を振る舞うキャラクター同様に列に並ばない、他人の分を取り上げる、武器で脅かすといった暴挙に出ればあげることを拒む。わざと激辛カレーをあげることもある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "甘い食べ物は苦手で、食べ過ぎると体が弱ってしまう。この体質を利用したばいきんまんに甘いお菓子で脅かされることもある。ジャムおじさんのシチューの製作途中で、しょくぱんまんがカレー粉を入れて無理やり作ったカレーを補給した際には、「頭がクラッとする」とコメントしていた。その一方で、シチューおばさんの作った甘みのあるカレーシチューを食べた時には、「優しい味がする」と気に入って何杯もおかわりをしていた。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アンパンマンの戦い方が甘いと指摘する程、自身は好戦的である。ただし、カレー攻撃の多用でパワーダウンしたり詰めの甘さから形勢が逆転されることも珍しくない。演劇では主に悪役をやらされ、アンパンマンほどではないが、演技は下手で台詞も棒読み。ただし、舞台に立つこと自体は嫌いではないようで、しょくぱんまんと主役の取り合いをすることもある(大抵はしょくぱんまんに役を取られ、脇役か裏方をやらされてしまう)。バレエなど芸術には無関心だったが、「たまにはいい」ということで観劇していた。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しょくぱんまん初登場の時は、彼の気障な言動を不愉快に感じており、彼がかびるんるんに襲われていても見捨てようとしていたが、結局は本人の苦しそうな姿が見ていられずに助け出した。以来、しょくぱんまんとは価値観やセンスの相違による言い争いが多いものの、パトロールやアンパンマンの手助けなどにおいて行動を共にするようになった。しょくぱんまんの助言で問題を解決したこともある。しょくぱんまんが白い物を食パンに譬える台詞を言う時にいつも体を痒がっている。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "女性との接触はあまり得意ではないが、これまでいくつかの女性キャラクターと交流があり、さらには好意を抱いているかのような描写も見られる。アニメ初期の頃はシュークリーム姫と両想いの関係にあったが、現在はどうなったかは不明である。TV第1141話A『カレーパンマンとおかしのくに』では、改めて行動を共にしていたが、特別な感情は見られなかった。また、ハッパちゃんにも好意を抱いているかのような描写があり、彼女に絵を贈ったことがある。", "title": "キャラクター" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スペシャルダブルパンチ。", "title": "能力・得意技" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "辛口カレーパンマン(からくちカレーパンマン)", "title": "変装・変身" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "激辛カレーパンマン(げきからカレーパンマン)", "title": "変装・変身" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "映画版では、他のキャラクターを守ったりしてしょくぱんまんと同様に真っ先に変身・固められるパターンが多く、その頻度もしょくぱんまんと並んで多い。", "title": "変装・変身" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』放送30周年特別企画として、アンパンマンシリーズのテレビアニメと映画 (cf. category) に登場した全キャラクターを対象とした人気投票「いちばん すきなの だあれ?」が2018年(平成30年)7月20日から8月20日まで行われた。結果は10月3日の「アンパンマンの日」に発表された。カレーパンマンは第7位(得票数非公表)となり、第12位のしょくぱんまんより上位だった。", "title": "人気" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "原作者やなせたかしは、カレーパンマンの役割について「スパイス役」と語っている。カレーはやなせの学生時代からの好物であり、カレーパンマンの顔のデザインもやなせがよく買っていたカレーパンの形に因んでいる。やなせが作詞したカレーパンマンのテーマ曲『とべ!カレーパンマン』も本人のお気に入りだった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アンパンマンシリーズの登場キャラクターの姿を象ったオブジェは、日本各地にいくつか点在しており、わずかながらカレーパンマンの像もある。石造りのものに関しては、高知市のものを例外として、大半は同じ規格で作られたもので(2020年時点)、それらの各キャラクターは御影石でできており、高さは約1.2 - 1.4メートル。右に画像で示した「やなせたかしロード」の石像もその一つである。", "title": "オブジェ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "四国旅客鉄道(JR四国)はJR四国2000系気動車にラッピングを施し、カレーパンマンをテーマにした車両である「カレーパンマン号」(2100形2107)を「予讃線アンパンマン列車」として2001年(平成13年)10月より運行していた。", "title": "イメージキャラクター、コラボレーション等" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2000系のアンパンマン列車は大きく予讃線系統と土讃線系統があり、予讃線には11両のアンパンマン列車が配属されていたが、2016年(平成28年)3月26日のダイヤ改正によってJR四国8000系電車で運行されることになり、「ばいきんまん号」を初め、大半の車両が予讃線の2000系アンパンマン列車から引退した。そのような中、予讃線の2000系アンパンマン列車は「予讃線宇和海アンパンマン列車」として3両が存続され、「カレーパンマン号」はそのうちの1両であった。その後「カレーパンマン号」は2019年(令和元年)9月27日を以て「おむすびまん号」(2200形2204)とともに運行を終了しアンパンマン列車から引退、後継として上述の8000系アンパンマン列車に準じた白色をベースに虹が描かれたデザインに変更された「予讃線宇和海アンパンマン列車」を運行している。2001年(平成13年)の運行開始以来何度かデザインが変更され、最終デザインは4代目であった。", "title": "イメージキャラクター、コラボレーション等" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アンパンマンシリーズとコラボレーションしている乗り物としては、上述のアンパンマン列車のほかにJR四国バスの「アンパンマンラッピングバス」があるが、カレーパンマンをメインに扱った車両は存在せず、仲間たちの一人として描かれている。", "title": "イメージキャラクター、コラボレーション等" } ]
カレーパンマンは、アンパンマン・シリーズに主要なメンバーとして登場する架空のキャラクター。声優は柳沢三千代。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Pathnav|アンパンマン|アンパンマンの登場人物一覧|frame=1}} {{Infobox animanga character | name = カレーパンマン | series = [[アンパンマン]]・シリーズ | image = {{File clip2 | Matsuyama Soreike!anpanman Board 1.jpg | width=200 | 57.0 | 72.6 | 25.1 | 14.5 | w=590 | h=520 | align=center | | alt=カレーパンマン }} | caption = | first = 『月刊[[いちごえほん]]』掲載の連載漫画「[[アンパンマン#漫画|アンパンマン]]」({{small|第15話}}) | creator = [[やなせたかし]] | voiced by = [[柳沢三千代]]<br />({{small|1988年10月10日 - 現在}})<br />[[冨永みーな]]<br />({{small|1999年8、9月のみ代役}}) | nickname = | alias = | age = | gender = [[男性]] | species = | nationality = | title = | relatives = | paux1 name = 生年月日 | paux2 name = 出身地 | paux2 = [[アンパンマン#ジャムおじさんのパン工場|ジャムおじさんのパン工場]] | paux3 name = | paux3 = | divider = }} '''カレーパンマン'''({{small|[[ラテン文字]]表記:}}Currypan-man<ref>{{Citation |title=Full Cast & Crew - Soreike! Anpanman |url=https://www.imdb.com/title/tt0367414/fullcredits/?ref_=tt_ov_st_sm |publisher=[[Amazon.com]] |work=[[インターネット・ムービー・データベース|Internet Movie Database]] (IMDb) |language=English |ref={{SfnRef|IMDb}} }}</ref>、Currypanman<ref>{{Citation |title=Currypanman |url=https://anpanman.fandom.com/wiki/Currypanman |publisher=FANDOM TV Community |work=Anpanman Wiki |language=English |ref={{SfnRef|fandam}} }}</ref>)は、[[アンパンマン]]・シリーズに主要なメンバーとして登場する架空の[[キャラクター]]。[[声優]]は[[柳沢三千代]]<ref group="注">1999年8月から10月(関東地区)までの放送話では[[冨永みーな]]が代役。</ref>。 == 初出 == [[サンリオ]]の雑誌『月刊[[いちごえほん]]』に掲載されていた「[[アンパンマン#漫画|れんさいまんが アンパンマン]]」の第15話で、[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]が「おとうとをつくってください」とジャムおじさんに頼んで製造したところ、どういうわけかカレーパンとして誕生(ジャムおじさん自身も味を試食するまで何のパンかわからなかった){{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.32-33}}。 この初登場話では顔が現在の物と異なり、アンパンマンの顔を上下につぶしたような顔だったが、第22話で再登場してからレモン型の顔に成り、以後はこれが基本になった{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.46-47}}。 [[絵本]]での初出は、[[1981年]](昭和56年)11月初版刊行の、アンパンマンシリーズで最初の[[クリスマス]]絵本『アンパンマンのサンタクロース』だった{{Sfnp|『アンパンマンのサンタクロース』|1981}}{{Refnest|group="注"|2013年(平成25年)刊行の『やなせたかし大全』では、[[1983年]](昭和58年)11月初版刊行の『アンパンマンとカレーパンマン・おむすびまん』で初出したと記されているが、これは事実ではない{{Sfnp|『やなせたかし大全』|2013}}{{Sfnp|『アンパンマンとカレーパンマン・おむすびまん』|1983}}。}}。 映像での初登場は、[[テレビアニメ]]第2話Bパート「アンパンマンとカレーパンマン」[[1988年]](昭和63年)[[10月10日]]放映([[関東地方|関東]]エリア)<ref name=30th-history_19881226>{{Harvnb|30th-history|loc="カレーパンマン初登場 アンパンマンがばいきんまんにやられそうになったところを助けたのが最初の出会いでした。その時、とても弱いヤツだと思ったようです。2話「アンパンマンとカレ-パンマン」1988.10.10"}}</ref><ref name="大図鑑_p.5">{{Harvnb|『アンパンマン大図鑑』|2013|p=5}}</ref>。 == キャラクター == === 基本情報 === 頭部が[[カレーパン]]で出来ており、原作ではアンパンマン同様に顔を食べさせ、首無し状態で活動する場面もある{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.46-47・86-87他}}が、アニメ版では空腹の者には顔のカレーパンでなく、[[カレーライス]]を提供することが通例<ref group="注">しかし、テレビアニメ『[[それいけ!アンパンマン]]』第562話Aパート「カレーパンマンとニガウリマン」(2000年〈平成12年〉4月14日)ではカレーパンを提供していた。</ref>。ごはんを炊いて、鍋に切った具材と共に顔の中身である[[カレー]]を入れて温める時と、[[カレー]]のルーを用意して作る時とがある。 アンパンマンと同じく[[アンパンマンの登場人物一覧#ジャムおじさん|ジャムおじさん]]によって作られて生まれたが、アンパンマン、[[アンパンマンの登場人物一覧#メロンパンナ|メロンパンナ]]、[[アンパンマンの登場人物一覧#ロールパンナ|ロールパンナ]]とは異なり、誕生時のエピソードは漫画版でのみ描かれており、ここでは「アンパンマンの弟」ということになっていたが{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.32-33}}、これ以後は他媒体含めあまり兄弟という描写はなく、アニメ版では初めて会った際にアンパンマンはカレーパンマンの事を(ジャムおじさん製造の事も含め)一切知らない描写があった。なお、『アンパンマン大研究』には「ジャムおじさんは、アンパンマンを作ったときのノウハウを活かしてカレーパンマンを作った」という旨の記述がある{{Sfnp|『アンパンマン大研究』|1998|p=94}}。また、[[キャラクターソング]]の歌詞では「生まれたところは知らないが――」と謳っている。あるいはまた、漫画『とべ!アンパンマン』における[[設定 (物語)|設定]]では、「カレー星」から来た[[宇宙人]]ということになっている。 {{File clip | Takamatsu Soreike!anpanman Board 1.JPG | width=150 | 59 | 15 | 4 | 67 | w=600 | h=516 | align=right | カレーパンマン | alt=カレーパンマン }} === 外見 === 前述のとおり、頭部はカレーパンで出来ている。黒目([[虹彩]])はアニメ初期のころのほうが大きく描かれていて、眼を閉じると茶色の[[瞼]]が見られた。胸には、顔をイメージしたマークがある。服はオレンジ色で、黄色の手袋とブーツ、白いベルトを装着している。原作では『月刊いちごえほん』版から登場。現在とは異なり、服の真ん中に「curry」の「C」ではなく、なぜか「K」のマークがデザインされていた{{Sfnp|『やなせ・たかしの世界』|1996|pp=54-55}}。 === 生活・仕事 === アンパンマンや[[アンパンマンの登場人物一覧#メロンパンナ|メロンパンナ]]など異なり、パン工場では生活しておらず、普段の生活風景は分かっていないが、「カレーの国」にあるとされる「カレーが丘」で生活している。近年はよく、[[しょくぱんまん]]と共に、学校での給食の配達を手伝うこともあるが、特に定まった仕事は見当たらない。草原で昼寝をしている場合もある<ref group="注">TV第398話「アンパンマン海賊ロブスター(前編)」(1996年〈平成8年〉10月4日)では雲の上で寝ていた。</ref>。放送初期の時は[[モブキャラクター]]として登場して絡みが無かったエピソードも存在する<ref>TV第6話A「アンパンマンとたこやきまん」(1988年〈昭和63年〉11月7日)</ref>。 === 性格・特徴 === 原作漫画版の時点からパン系キャラに共通の「顔が汚れたり水にぬれると弱くなる{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.50-51・210-213}}」の他に「カレーが辛いとテンションが上がる{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.114-117・210-213}}」「カレーを吐いて武器にするが出しすぎるとしぼみ、カレー補給で復活{{Sfnp|『だれも知らないアンパンマン』|2016 p.172-173}}」というような特徴があった。 アニメ版ではアンパンマンなどのように顔を食べさせたり交換する場面がほとんどなく、カレーを失った場合にカレーを注いでもらったり(カレーパックを口に入れる場合もある)して復活した後の決めゼリフは「辛さ100倍、カレーパンマン!」(背景には本人の顔を模した花火が打ち上がる)。アンパンマンと同様、顔を殴られると[[瘤|たんこぶ]]ができる。また、本編でアンパンマンの体が泥まみれですぐには洗い落とせない時には服を提供したこともあった<ref>TV第11話B「アンパンマンとぴいちくもり」(1988年〈昭和63年〉12月12日)</ref>。 性格はかなり短気<ref name="大図鑑_p.58">{{Harvnb|『アンパンマン大図鑑』|2013|p=58}}</ref>。また、喧嘩っ早く熱血な一方で非常に涙もろい[[江戸っ子]]のような性格。アンパンマン同様、弱い者を決して見捨てない優しさと勇気を持っている。粗野な口調が目立つ<ref group="注">第221話B「アンパンマンとやさしいばいきんまん」(1993年〈平成5年〉3月1日)では、[[アンパンマンの登場人物一覧#バタコさん|バタコさん]]が「ばいきんまんと同じく言葉遣いが悪い」といった趣旨の発言をしている。</ref>が、[[アンパンマンの登場人物一覧#ジャムおじさん|ジャムおじさん]]などの目上の人には敬語を使う等、ある程度の礼儀は弁えている。[[一人称]]は「おれ(俺)」。テレビアニメ初期の頃は「おいら」とも言っていた。稀に「おれさま(俺様)」や「ぼく(僕)」とも言う。落ち込んでいる者を辛口で責め立てて却って深く落ち込ませてしまうこともある。不器用で女性や幼い子への扱いは苦手としているが、人情深く面倒見のいい所もあり子供達からも慕われている。強さとは「辛さ」と考えている。また、「○○くん」「○○ちゃん」まで呼称があるキャラクターは、相手によっては呼び捨てだったり、そのまま呼ぶことがある。[[アンパンマンの登場人物一覧#ロールパンナ|ロールパンナ]]や[[アンパンマンの登場人物一覧#クリームパンダ|クリームパンダ]]のことはそれぞれ「ちゃん」付けで呼んでいるが、登場当初は[[呼び捨て]]にしていた。 カレー料理を作るのが得意で{{r|"大図鑑_p.58"}}、[[カレー丼]]を提供したことがあるが、[[アンパンマンの登場人物一覧 (サブキャラクター)#カレーどんまん|カレーどんまん]]のカレー丼には否定的だった。空腹の[[ばいきんまん]]や[[ドキンちゃん]]にもカレーを分ける姿勢はあるが、他の料理を振る舞うキャラクター同様に列に並ばない、他人の分を取り上げる、武器で脅かすといった暴挙に出ればあげることを拒む。わざと激辛カレーをあげることもある。 甘い食べ物は苦手で、食べ過ぎると体が弱ってしまう。この体質を利用したばいきんまんに甘いお菓子で脅かされることもある<ref name=TV538b>TV第538話B「ばいきんまんとにこにこカレーパンマン」(1999年〈平成11年〉9月17日)</ref>。ジャムおじさんのシチューの製作途中で、しょくぱんまんがカレー粉を入れて無理やり作ったカレーを補給した際には、「頭がクラッとする」とコメントしていた。その一方で、シチューおばさんの作った甘みのあるカレーシチューを食べた時には、「優しい味がする」と気に入って何杯もおかわりをしていた<ref>TV第605話B「カレーパンマンとシチューおばさん」(2001年〈平成13年〉3月30日)</ref>。 アンパンマンの戦い方が甘いと指摘する程、自身は好戦的である。ただし、カレー攻撃の多用でパワーダウンしたり詰めの甘さから形勢が逆転されることも珍しくない。[[演劇]]では主に[[悪役]]をやらされ、アンパンマンほどではないが、演技は下手で台詞も[[棒読み]]。ただし、舞台に立つこと自体は嫌いではないようで、しょくぱんまんと主役の取り合いをすることもある(大抵はしょくぱんまんに役を取られ、脇役か裏方をやらされてしまう)。[[バレエ]]など芸術には無関心だったが、「たまにはいい」ということで観劇していた。 しょくぱんまん初登場の時は、彼の気障な言動を不愉快に感じており{{r|"大図鑑_p.5"}}、彼が[[アンパンマンの登場人物一覧#かびるんるん|かびるんるん]]に襲われていても見捨てようとしていたが、結局は本人の苦しそうな姿が見ていられずに助け出した<ref>TV第3話B「アンパンマンとしょくぱんまん」(1988年〈昭和63年〉10月17日)</ref>。以来、しょくぱんまんとは価値観やセンスの相違による言い争いが多いものの、パトロールやアンパンマンの手助けなどにおいて行動を共にするようになった。しょくぱんまんの助言で問題を解決したこともある。しょくぱんまんが白い物を食パンに譬える台詞を言う時にいつも体を痒がっている。 女性との接触はあまり得意ではないが、これまでいくつかの女性キャラクターと交流があり、さらには好意を抱いているかのような描写も見られる。アニメ初期の頃は[[アンパンマンの舞台別の登場人物一覧 (国の住人)#おかしの国の住人|シュークリーム姫]]と両想いの関係にあったが、現在はどうなったかは不明である。TV第1141話A『カレーパンマンとおかしのくに』では、改めて行動を共にしていたが、特別な感情は見られなかった。また、[[アンパンマンの登場人物一覧#ハッパちゃん|ハッパちゃん]]にも好意を抱いているかのような描写があり、彼女に絵を贈ったことがある<ref>第169話A「アンパンマンとハッパちゃん」</ref>。 == 能力・得意技 == ; カレー攻撃 : 口から激辛で熱いカレーを飛ばす。ばいきんまんを初め、熱いものや辛いものが苦手な敵を怯ませるのに役立つほか、[[バイキンメカ]]等の視界を遮る効果も持つ。しかし、前述のとおり、顔の中身であるカレーを飛ばすため無くなると一度補充しなければならない。 ; {{Anchors|カレーパンチ}}カレーパンチ ; {{Anchors|カレーキック}}カレーキック ; {{Anchors|ケンダマジック}}ケンダマジック ; {{Anchors|ダブルパンチ}}ダブルパンチ : [[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]や[[しょくぱんまん]]との同時技。映画『[[それいけ!アンパンマン とばせ! 希望のハンカチ|とばせ! 希望のハンカチ]]』の[[バイキンメカ#ヨゴスゾウ|ヨゴスゾウ]]戦では[[アンパンマンの登場人物一覧#メロンパンナ|メロンパンナ]]と共に使用した。 ; {{Anchors|トリプルパンチ}}トリプルパンチ : アンパンマン・しょくぱんまんとの同時技で強大な威力を誇る。 '''{{Anchors|スペシャルダブルパンチ}}スペシャルダブルパンチ'''{{r|TV538b}}。 : 「ダブルパンチ」と異なり両手でパンチを繰り出す単独技。 == 変装・変身 == '''{{Anchors|辛口カレーパンマン}}辛口カレーパンマン'''(からくちカレーパンマン) : 初登場回 - TV第124話B「アンパンマンとからくちカレーパンマン」(1991年〈平成3年〉3月11日) : [[ドキンちゃん]]が作った超激辛カレーを[[ばいきんまん]]に注入された状態のカレーパンマン。ばいきんまんの曰く、そのカレーは「[[脳|脳みそ]]がカレーだらけになるほど辛い」。頬の上に赤い[[楕円]]が付き、眼も[[強膜|白目]]の中に白目がある([[虹彩|黒目]]部分が点)になる。山をも砕くほどのパワーを持ち、暴走する。[[アンパンマンの登場人物一覧#ジャムおじさん|ジャムおじさん]]の調合した調味料で元に戻った。 '''{{Anchors|激辛カレーパンマン}}激辛カレーパンマン'''(げきからカレーパンマン) : 初登場回 - TV第623話A「カレーパンマンとスパイス王子」(2001年〈平成13年〉8月24日) : [[アンパンマンの登場人物一覧#バタコさん|バタコさん]]や[[アンパンマンの舞台別の登場人物一覧 (国の住人)#スパイス王子|スパイス王子]]が作った「辛さ100倍カレー」によって、普段より顔が真っ赤になりパワーアップした状態のカレーパンマン。上記の「辛口カレーパンマン」とは違い、普段の彼と性格は変わらないままパワーアップしている。TV第740話B「カレーパンマンとみずうみ姫」(2004年〈平成16年〉2月20日)では、バタコさんが作った特製の辛さ100倍カレーを補給したことで変身し、ばいきんまんの[[吹雪]]攻撃などをものともせずに圧倒しつつ[[アンパンマンの道具一覧#アンパンマン号|アンパンマン号]]を凍らせようとしたばいきんまんを阻止した。 ; {{Anchors|さわやかカレーパンマン}}さわやかカレーパンマン : 初登場回 - TV第866話A「カレーパンマンとミントちゃん」(2006年〈平成18年〉11月10日) : [[アンパンマンの登場人物一覧 (サブキャラクター)#ま行|ミントちゃん]]の[[ミント]]が入ったカレーを食べて爽やかになってしまった状態のカレーパンマン。性格がしょくぱんまんのようになり、言葉遣いも丁寧になってしまい、一人称が「僕」になったりばいきんまんを「君」付けで呼んだりする。 ; {{Anchors|ブラックカレーパンマン}}ブラックカレーパンマン : 初登場回 - 映画第14作『[[それいけ!アンパンマン ロールとローラ うきぐも城のひみつ|ロールとローラ うきぐも城のひみつ]]』(2002年7月13日) : パワーアップした[[アンパンマンの登場人物一覧#メロンパンナ|ブラックロールパンナ]]の力で、悪い心になってしまった状態のカレーパンマン。ばいきんまんの命令に従い、アンパンマンを襲う。黒いカレーで攻撃し、ブラックしょくぱんまんと「ダブルパンチ」を繰り出す。バタコさんと共にバイキン草の雨を浴び、2人とも泥人形になってしまう。「ローラの雨」を浴びて元に戻ったが、顔が完全にふやけてしまった。 === 映画版での強制変身・固め === 映画版では、他のキャラクターを守ったりしてしょくぱんまんと同様に真っ先に変身・固められるパターンが多く、その頻度もしょくぱんまんと並んで多い。 : 第5作『恐竜ノッシーの大冒険』 '''固め'''(石) : 第6作『リリカル☆マジカルまほうの学校』 '''変身'''(かびるんるん) - 「かびるんカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.58"}}。 : 第6作『みんな集まれ! アンパンマンワールド』 '''変身'''(赤ちゃん) - 「あかちゃんカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.58"}}。 : 第8作『空とぶ絵本とガラスの靴』 '''固め'''(ガラス) : 第9作『虹のピラミッド』 '''変身'''([[ピラミッド]]) - 「ピラミッドカレーパンマン」と称する<ref name="大図鑑_p.59">{{Harvnb|『アンパンマン大図鑑』|2013|p=59}}</ref>。 : 第10作『てのひらを太陽に』 '''固め'''(石) : 第11作『勇気の花がひらくとき』 '''変身'''(鉄球) : 第12作『人魚姫のなみだ』 '''変身'''([[ヒトデ]]) - 「ヒトデカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.59"}}。 : 第13作『ゴミラの星』 '''変身'''([[泥]][[人形]]) - 「カレーパンマンの泥人形」と称する{{r|"大図鑑_p.59"}}。 : 第16作『夢猫の国のニャニイ』 '''変身'''([[ネコ]]) - 「ねこカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.59"}}。 : 第17作『ハピーの大冒険』 '''変身'''([[イモムシ]]) - 「カレーパンマンいもむし」と称する{{r|"大図鑑_p.58"}}。 : 第18作『いのちの星のドーリィ』 '''変身'''(かびるんるん) - 「カレーパンマンかびるんるん」と称する{{r|"大図鑑_p.58"}}。 : 第20作『妖精リンリンのひみつ』'''変身'''([[花]]) - 「おはなカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.59"}}。 : 第23作『すくえ! ココリンと奇跡の星』 '''変身'''([[UFO]]) - 「UFOカレーパンマン」と称する{{r|"大図鑑_p.59"}}。 : 第26作『りんごぼうやとみんなの願い』 '''変身'''([[リンゴ]]) : 第27作『ミージャと魔法のランプ』 '''変身'''(魔法の[[オイルランプ|ランプ]]) : 第28作『おもちゃの星のナンダとルンダ』 '''変身'''(ぜんまい式玩具) : 第30作『かがやけ!クルンといのちの星』 '''変身'''(流れ星) : 第31作『きらめけ!アイスの国のバニラ姫』 '''変身'''([[アイスクリーム]])  == テーマソング、キャラクターソング == * {{Anchors|とべ!カレーパンマン}}とべ!カレーパンマン :: [[1989年]](平成元年)3月20日リリース。歌は[[ドリーミング (歌手グループ)|ドリーミング]]が担当。 * {{Anchors|ぼくらはヒーロー}}ぼくらはヒーロー :: [[1996年]](平成8年)7月31日リリース。歌は[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]](声:[[戸田恵子]])、カレーパンマン(声:[[柳沢三千代]])、[[しょくぱんまん]](声:[[島本須美]])ほかが担当。「ほか」というのは、しょくぱんまんの[[ソロ (音楽)|独唱]]パートで入る[[ドキンちゃん]](声:[[鶴ひろみ]])のこと。 * {{Anchors|すすめ!アンパンマン号}}すすめ!アンパンマン号 :: ドリーミングが歌った[[2011年]](平成23年)11月23日リリース版の別バージョンとして、[[2016年]](平成28年)12月20日にリリースされた「[[アンパンマンの登場人物一覧#アンパンマンと仲間たち|アンパンマンと仲間たち]]」バージョン。仲間たちの一人として[[合唱]]に加わっている。 == 人気 == テレビアニメ『[[それいけ!アンパンマン]]』放送30周年特別企画として、アンパンマンシリーズのテレビアニメと映画 (''cf.'' [[:Category:それいけ!アンパンマン映画作品|category]]) に登場した全キャラクターを対象とした人気投票「いちばん すきなの だあれ?」が[[2018年]](平成30年)7月20日から8月20日まで行われた<ref name="30th-vote_20180607">{{Cite web|和書|date=2018-06-07 |title=NEWS 30周年特別企画!キャラクター人気投票開催決定! |url=http://www.anpanman.jp/30th/news/2018/0607_01.html |publisher=[[日本テレビ音楽]]株式会社 |website=それいけ!アンパンマン(ポータルサイト)|accessdate=2018-10-04 }}</ref>。結果は[[10月3日]]の「[[10月3日#記念日・年中行事|アンパンマンの日]]」に発表された{{r|"30th-vote_20180607"}}。カレーパンマンは第7位(得票数非公表)となり、第12位の[[しょくぱんまん]]より上位だった{{Sfn|30th-vote}}。 == その他 == 原作者やなせたかしは、カレーパンマンの役割について「[[香辛料|スパイス]]役」と語っている。カレーはやなせの学生時代からの好物であり、カレーパンマンの顔のデザインもやなせがよく買っていたカレーパンの形に因んでいる。やなせが[[作詞]]したカレーパンマンのテーマ曲『とべ!カレーパンマン』も本人のお気に入りだった{{Sfnp|『それいけ!アンパンマン にんきものだいしゅうごう!キャラクターベスト15』DVD|2002}}。 == オブジェ == [[ファイル:Nankoku Yanase-takashi Road Currypanman Statue 1.jpg|thumb|160px|カレーパンマン像 / やなせたかしロードに設置されている石像の一つ。|alt=カレーパンマン像。やなせたかしロードに設置されている石像の一つ。]] アンパンマンシリーズの登場キャラクターの姿を象った[[オブジェ]]は、日本各地にいくつか点在しており、わずかながらカレーパンマンの像もある。石造りのものに関しては、高知市のものを例外として、大半は同じ規格で作られたもので(2020年時点)、それらの各キャラクターは[[御影石]]でできており、高さは約1.2 - 1.4[[メートル]]{{r|"毎日_20200512"}}。右に画像で示した「やなせたかしロード」の石像もその一つである。 * カレーパンマンの像<!--※この地域になる他の像は「の」付きなので合わせています。--> - [[宮城県]][[仙台市]][[宮城野区]][[榴岡]]2-1-2に所在<ref group=gm>仙台市 カレーパンマン像({{googlemap|仙台市_カレーパンマン像}})</ref>。 * カレーパンマンの像 :: [[高知県]][[香美市]]香北町美良布の美良布商店街(美良布アンパンマン通り)にカレーパンマンの[[繊維強化プラスチック|FRP]]製キャラクター[[人形]]が設置されている{{r|"こじゃん_高知"}}<ref group=gm>香北町美良布 カレーパンマン像({{googlemap|33°39'1.14N133°46'52.84E}})</ref>。この商店街には<!--ばいきんまんや-->[[アンパンマンの登場人物一覧#てんどんまん|てんどんまん]]などのFRP製キャラクター人形も設置されている<!--ほか、アンパンマンキャラクターの小型の石像も随所に設置されている。-->。 * カレーパンマン像 :: 高知県[[南国市]]後免町にある「[[やなせたかしロード]]」(後免町商店街)内、「ごめん・よってこ広場」<ref group=gm>ごめん・よってこ広場({{googlemap|ごめん・よってこ広場}})</ref>(後免町2-3-1)近くに所在。同じ商店街にはアンパンマン像<ref group=gm>後免町 アンパンマン像({{googlemap|後免町_アンパンマン像}})</ref>などもある。石像は全部で7体を数えるが、これらは「やなせたかしロード」の命名に合わせて[[2009年]](平成21年)に設置された{{r|"毎日_20200512"|"こじゃん_後免町"|"南国市商工会_201902"|"こじゃん_高知"}}。 * カレーパンマン像 :: 高知県[[高知市]]の中央街内に所在。中央街にはアンパンマンシリーズのキャラクターの石像が数多く設置されている{{r|"こじゃん_高知"}}。この地域では、標準サイズの像の横か斜め前方に小像を配置している例が多い{{r|"こじゃん_高知"}}。 == イメージキャラクター、コラボレーション等 == {{multiple image | align = right | direction = vertical | footer = (上)[[JR四国2000系気動車|JR四国2000系]] [[予讃線]] 2代目「カレーパンマン号」/ カレーパンマンをメインにデザインされた[[客車]]。2010年撮影。非現存。(下)同じく、4代目「カレーパンマン号」/ 2013年撮影。非現存。 | footer_align = left | width = 230 | image1 = JRS-2000-2107.jpg | alt1 = JR四国2000系予讃線の2代目カレーパンマン号。カレーパンマンをメインにデザインされた客車。 | image2 = カレ-パンマン号.jpg | alt2 = 同じく4代目カレーパンマン号 }} === アンパンマン列車 === [[四国旅客鉄道]](JR四国)は[[JR四国2000系気動車]]にラッピングを施し、カレーパンマンをテーマにした車両である「カレーパンマン号」(2100形2107)を「予讃線アンパンマン列車」として[[2001年]](平成13年)10月より運行していた。 2000系のアンパンマン列車は大きく[[予讃線]]系統と[[土讃線]]系統があり、予讃線には11両のアンパンマン列車が配属されていたが<ref name="JR四国_20051124">{{Cite web|和書|date=2005-11-24 |title=予讃線を走るアンパンマン列車 |url=http://www.jr-eki.com/aptrain/naani/yosantop.html |publisher=四国旅客鉄道 |accessdate=2016-07-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150316152059/http://www.jr-eki.com/aptrain/naani/yosantop.html |archivedate=2015-03-16 |deadlinkdate= }}</ref><ref name="鉄道新聞_20151229">{{Cite news |和書 |author= |date=2015-12-29 |title=JR四国「予讃線8000系アンパンマン列車」2016年春デビューへ |url=http://tetsudo-shimbun.com/article/family/entry-597.html |publisher=鉄道新聞社 |newspaper=鉄道新聞 |accessdate=2016-07-13 }}</ref>、[[2016年]](平成28年)3月26日の[[ダイヤ改正]]によって[[JR四国8000系電車]]で運行されることになり、「ばいきんまん号」を初め、大半の車両が予讃線の2000系アンパンマン列車から引退した<ref name="交友社_20160326">{{Cite web|和書|date=2016-03-26 |title=予讃線アンパンマン列車」,2000系での運用終了 - 鉄道ニュース |url=http://railf.jp/news/2016/03/26/193000.html |publisher=[[交友社]] |work=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] railf.jp |accessdate=2016-07-13 }}</ref>。そのような中、予讃線の2000系アンパンマン列車は「予讃線宇和海アンパンマン列車」として3両が存続され、「カレーパンマン号」はそのうちの1両であった<ref name="JR四国_tour">{{Cite web|和書|date= |title=予讃線を走るアンパンマン列車 |url=http://www.jr-eki.com/aptrain/naani/yosantop_uwakai.html |publisher=四国旅客鉄道 |work=JR四国ツアー |accessdate=2016-07-13 }}</ref>。その後「カレーパンマン号」は2019年([[令和]]元年)9月27日を以て「おむすびまん号」(2200形2204)とともに運行を終了しアンパンマン列車から引退<ref group="注">残りの「ロールパンナ号」(2150形2152)は新たに追加した2100形2117と共にリニューアルを受け、新デザインの「予讃線宇和海アンパンマン列車」に復帰している。</ref>、後継として上述の8000系アンパンマン列車に準じた白色をベースに虹が描かれたデザインに変更された「予讃線宇和海アンパンマン列車」を運行している<ref name="JR四国_20190729">{{Cite press release |和書 |date=2019-07-29 |title=「宇和海アンパンマン列車」が新しいデザインで登場! |url=http://www.jr-shikoku.co.jp/03_news/press/2019%2007%2029%2003.pdf |publisher=四国旅客鉄道 |format=PDF |accessdate=2020-05-26 }}</ref><ref name="交友社_20190729">{{Cite news |和書 |date=2019-07-29 |title=JR四国、9月28日から「宇和海アンパンマン列車」に新デザイン登場 |url=https://railf.jp/news/2019/07/29/200000.html |publisher=交友社 |newspaper=鉄道ファン railf.jp |accessdate=2020-05-26 }}</ref>。2001年(平成13年)の運行開始以来何度かデザインが変更され、最終デザインは4代目であった。 === アンパンマンラッピングバス === アンパンマンシリーズと[[コラボレーション]]している[[乗り物]]としては、上述のアンパンマン列車のほかに[[ジェイアール四国バス|JR四国バス]]の「[[ジェイアール四国バス#アンパンマンラッピングバス|アンパンマンラッピングバス]]」があるが、カレーパンマンをメインに扱った車両は存在せず、仲間たちの一人として描かれている。 == 参考文献 == ; 書籍、ムック、雑誌 * <!--やなせ-->{{Cite book |和書 |author=やなせたかし(作、絵)|authorlink=やなせたかし|date=1981-01-01 |title=アンパンマンのサンタクロース |format=Hardcover |publisher={{spaces}}[[フレーベル館]] |series=新創作絵本 22 |ref={{SfnRef|『アンパンマンのサンタクロース』|1981}} }} :: {{small|{{oclc|918137592}}、ISBN 4-577-00423-2、ISBN 978-4-577-00423-4。}} * {{Cite book |和書 |author=やなせたかし(作、絵)|date=1983-01-01 |title=アンパンマンとカレーパンマン・おむすびまん |format=Hardcover |publisher={{spaces}}フレーベル館 |series=アンパンマン・ミニ・ブックス 10 |ref={{SfnRef|『アンパンマンとカレーパンマン・おむすびまん』|1983}} }} :: {{small|ISBN 4-577-00140-3、ISBN 978-4-577-00140-0。}} * {{Cite book |和書 |author=やなせたかし(作、絵)|date=1996-07-25 |title=やなせ・たかしの世界 |edition=増補版 |publisher=[[サンリオ]] |ref={{SfnRef|『やなせ・たかしの世界』|1996}} }} :: {{small|{{ncid|BN15916306}}、{{oclc|675683044}}、ISBN 4-387-96008-6、ISBN 978-4-387-96008-9、{{国立国会図書館書誌ID|000002520353}}。}} * {{Cite book|和書 |author=やなせたかし(編著)|author2=日本学術振興会鈴木一義<ref>{{Cite web|和書|title=鈴木 一義 |url=https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000070196799/ |publisher=文部科学省、 |website=KAKEN |accessdate=2020-07-21 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=鈴木一義 |url=https://research-er.jp/researchers/view/205758 |publisher=株式会社バイオインパクト |work=日本の研究.com |accessdate=2020-07-21 }}</ref>(編著)|authorlink2=日本学術振興会|date=1998-06-16 |title=アンパンマン大研究 |publisher=フレーベル館 |ref={{SfnRef|『アンパンマン大研究』|1998}} }} :: {{small|{{ncid|BA38122831}}、{{oclc|675762803}}、ISBN 4-577-01898-5、ISBN 978-4-577-01898-9、{{国立国会図書館書誌ID|000002670034}}。}} * {{Cite book |和書 |author1=やなせたかし(原作)|author2=トムス・エンタテインメント(作画)|authorlink2=トムス・エンタテインメント|editor=井口学・水島定昭(監修)|date=2013-06-21 |title=アンパンマン大図鑑─公式キャラクターブック |publisher=フレーベル館 |series=アンパンマンだいずかん |ref={{SfnRef|『アンパンマン大図鑑』|2013}} }} :: {{small|{{ncid|BB13657508}}、{{oclc|849874524}}、ISBN 4-577-04116-2、ISBN 978-4-577-04116-1、{{国立国会図書館書誌ID|024532396}}。}} * {{Cite book |和書 |author=やなせたかし |date=2013-11-01 |title=やなせたかし大全―TAKASHI YANASE ON STAGE |publisher=フレーベル館 |ref={{SfnRef|『やなせたかし大全』|2013}} }} :: {{small|{{oclc|864827050}}、ISBN 4-577-04150-2、ISBN 978-4-577-04150-5。}} * {{Cite book |和書 |author=やなせたかし |date=2016-10-15 |title=だれも知らないアンパンマン─やなせたかし初期作品集 |publisher=フレーベル館、[[復刊ドットコム]] |ref={{SfnRef|『だれも知らないアンパンマン』|2016}} }} :: {{small|{{ncid|BB22564077}}、{{oclc|961806362}}、ISBN 4-8354-5404-9、ISBN 978-4-8354-5404-7、{{国立国会図書館書誌ID|027633775}}。}} <!-- ; パンフレット等 --> ; 映像 * {{Cite video |和書|people=[[戸田恵子]]、[[中尾隆聖]]、[[鶴ひろみ]]、ほか(出演)|date=2002-12-21 |title=それいけ!アンパンマン にんきものだいしゅうごう!キャラクターベスト15 [DVD] |url= |format=Audio DVD |publisher=[[バップ]] |time=60分 |ref={{SfnRef|『それいけ!アンパンマン にんきものだいしゅうごう!キャラクターベスト15』DVD|2002}} }}. {{small|{{asin|B00007B95U}}, {{JAN|4988021116206}}}}. <!-- ; 音響 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注"}} ; Googleマップ : ※該当施設は赤色でスポット表示される。 {{Reflist|2|group=gm}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <!--オブジェ用--> <ref name="毎日_20200512">{{Cite news |和書 |date=2020-05-12 |title=新型コロナ マスク着用しようね ばいきんまんも予防するよ 南国・後免町、アンパンマン像で啓発 /高知 |url=https://mainichi.jp/articles/20200512/ddl/k39/040/412000c |publisher=[[毎日新聞社]] |newspaper=[[毎日新聞]] |accessdate=2020-07-21 }}</ref> <ref name="こじゃん_高知">{{Cite web|和書|title=高知のアンパンマン関連観光まとめ |url=https://www.kojyanto.net/kochi_inf/kanko/anpanmanmatome/index.htm |publisher=有限会社こじゃんとネット |work=高知県観光情報サイト こじゃんとネット |accessdate=2020-07-21 }}</ref> <ref name="こじゃん_後免町">{{Cite web|和書|title=やなせたかしロード(後免町商店街)|url=https://www.kojyanto.net/kochi_inf/kanko/yanasetakashi-road/index.htm |publisher=有限会社こじゃんとネット |work=高知県観光情報サイト こじゃんとネット |accessdate=2020-07-21 }}</ref> <ref name="南国市商工会_201902">{{Cite web|和書|date=2019-02 |title=ごめんの軽トラ市(チラシ)|url=https://www.kochi-shokokai.jp/nankoku/wp-content/uploads/2019/02/軽トラ市チラシ.pdf |publisher=南国市商工会 |format=PDF |accessdate=2020-07-21 }}※一番下に石像群の配置を示した地図がある。</ref> }} == 関連項目 == * [[アンパンマンの登場人物一覧]] ** [[アンパンマン (キャラクター)]] ** [[しょくぱんまん]] ** [[ばいきんまん]] == 外部リンク == * [https://www.anpanman.jp/about/friends/dxf514aipoy5lff7.html カレーパンマン - なかまのしょうかい] {{アンパンマン}} {{デフォルトソート:かれえはんまん}} [[Category:アンパンマンの登場人物]] [[Category:アニメの登場人物]] [[Category:架空の擬人化キャラクター]] [[Category:架空の調理師]] [[Category:食品の擬人化]]
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束縛状態
束縛状態(そくばくじょうたい、Bound state(s))とは、電子などがポテンシャルなどに束縛された状態のこと。束縛されるものは電子だけとは限らない。また、アンダーソン局在のような局在状態とは異なる。但し、束縛状態も空間内で、ポテンシャルなどによって束縛された状態であり、空間的に局在した状態となっている。 束縛状態の例としては、不純物準位の電子(半導体の不純物準位など←比較的束縛は弱い)や、原子の内殻電子も原子核に強く束縛されたものである。
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束縛状態とは、電子などがポテンシャルなどに束縛された状態のこと。束縛されるものは電子だけとは限らない。また、アンダーソン局在のような局在状態とは異なる。但し、束縛状態も空間内で、ポテンシャルなどによって束縛された状態であり、空間的に局在した状態となっている。 束縛状態の例としては、不純物準位の電子(半導体の不純物準位など←比較的束縛は弱い)や、原子の内殻電子も原子核に強く束縛されたものである。
'''束縛状態'''(そくばくじょうたい、Bound state(s))とは、[[電子]]などがポテンシャルなどに束縛された状態のこと。束縛されるものは電子だけとは限らない。また、[[アンダーソン局在]]のような局在状態とは異なる。但し、束縛状態も空間内で、ポテンシャルなどによって束縛された状態であり、空間的に局在した状態となっている。 束縛状態の例としては、[[不純物準位]]の電子(半導体の不純物準位など←比較的束縛は弱い)や、[[原子]]の内殻電子も原子核に強く束縛されたものである。 == 関連項目 == * [[仮想束縛状態]] * [[量子力学]] * [[物性物理学]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そくはくしようたい}} {{Physics-stub}} [[Category:量子力学]]
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オーク
オーク(英: oak、仏: chêne、独: Eiche)は、ブナ科 コナラ属(学名:Quercus)の植物の総称。落葉樹であるナラ(楢)の総称。 模式種のヨーロッパナラ(ヨーロッパオーク、イングリッシュオーク、コモンオーク、英名:common oak、学名:Q. robur)が代表的。 なおアカガシ亜属 Quercus(Cyclobalanopsis)は別属とすることがあるが、オークには含まれる。 あわせて数百種以上が知られ、亜熱帯から亜寒帯まで北半球に広く分布する。日本語では落葉樹の種群はナラ(楢)、常緑樹の種群はカシ(樫)と呼ばれるが、オークはその両方を包含するものである(なお英語では特に常緑樹である樫を指す場合はlive oakと呼ぶ)。ヨーロッパのオークの多くは日本語でナラ(楢)と呼ばれる落葉樹であり、常緑の樫は南ヨーロッパ以外では稀である。明治時代の翻訳家が落葉樹のオークを樫と誤訳した例があり、現在も混同されやすい。 加工しやすい種が多く、ヨーロッパや北アメリカでは家具やフローリング(床材)、ウィスキーやワインの樽の材料などに広く使われる。 木肌は中程度から粗めの堅い木材で、木目がはっきりし、特に柾目面にはそれが美しい模様として現れる。また、虎斑(とらふ)と呼ばれる虎の斑紋を連想させる模様が現れることも特徴。材木用としてヨーロッパ原産のヨーロッパナラなど落葉性のナラ類が代表的である。 ヨーロッパナラ(ヨーロッパ・オーク)の材は材の取り方や生育環境によって特定の呼び名を用いることがある。 日本のミズナラ材はこのヨーロッパナラに匹敵する材質をもつ高級オーク材である。 他に、北アメリカ原産のレッドオーク(ロバタエ節 section Lobatae)やホワイトオーク(クェルクス節 section Quercus)、樹皮をコルクとして用いるコルクガシ(Q. suber)などが有名。北米のホワイトオークはウィスキーの樽として使用される。 ヨーロッパナラの葉はカシワに似た特徴的な形をしており、オークリーフという意匠としてよく知られている。しかし、オークの葉の形は種によってさまざまであり、ヨーロッパナラの葉は一例にすぎない。深く切れこんで先端がとがったもの、細長いものなどもある。また、これはEUの硬貨にも同じような形で存在する。
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オークは、ブナ科 コナラ属の植物の総称。落葉樹であるナラ(楢)の総称。
{{Otheruses|植物|その他}} {{出典の明記|date=2015年12月31日 (木) 14:18 (UTC)}} {{生物分類表 |名称 = オーク 日本名=ナラ(楢) |色 = lightgreen |画像=[[ファイル:Quercus robur AB.jpg|250px]] |画像キャプション = [[ヨーロッパナラ]](コモンオーク) |界 = [[植物界]] [[:w:Plantae|Plantae]] |門階級なし = [[被子植物]] {{Sname||Angiosperms}} |綱階級なし = [[真正双子葉類]] {{Sname||Eudicots}} |亜綱階級なし = [[バラ類]] {{Sname||Rosids}} |目 = [[ブナ目]] [[:w:Fagales|Fagales]] |科 = [[ブナ科]] [[:w:Fagaceae|Fagaceae]] |属 = '''[[コナラ属]]''' ''[[:w:Quercus|Quercus]]'' |英名 = [[w:Oak|Oak]] |和名 = 落葉樹[[ナラ]](楢) |学名 = ''Quercus'' [[カール・フォン・リンネ|L.]] |下位分類名 = 亜属・節 |下位分類 = * [[コナラ亜属]] ''[[w:Quercus|Quercus]]'' ** ''[[w:Quercus|Quercus]]'' *** ''[[w:Quercus ilex|Quercus ilex]]'' (Holm oak) *** ''[[w:Quercus faginea|Quercus faginea]]'' (Portuguese Oak) *** ''[[w:Quercus falcata|Quercus falcata]]'' (Spanish Oak) *** ''[[w:Quercus lusitanica|Quercus lusitanica]]'' (Gall Oak) *** ''[[w:Quercus suber|Quercus suber]]'' (Cork oak) ** ''[[w:Mesobalanus|Mesobalanus]]'' ** ''[[w:Cerris|Cerris]]'' ** ''[[w:Protobalanus|Protobalanus]]'' ** ''[[w:Lobatae|Lobatae]]'' * [[アカガシ亜属]] ''[[w:Cyclobalanopsis|Cyclobalanopsis]]'' }} '''オーク'''({{Lang-en-short|oak}}、{{Lang-fr-short|chêne}}、{{Lang-de-short|Eiche}})は、[[ブナ科]] [[コナラ属]](学名:''Quercus'')の植物の総称。落葉樹である[[ナラ]](楢)の総称。 == 概要 == [[模式種]]の[[ヨーロッパナラ]](ヨーロッパオーク、イングリッシュオーク、コモンオーク、英名:common oak、学名:''Q. robur'')が代表的。 なおアカガシ亜属 ''Quercus''(''Cyclobalanopsis'')は別属とすることがあるが、オークには含まれる。 あわせて数百種以上が知られ、亜熱帯から亜寒帯まで北半球に広く分布する。日本語では落葉樹の種群は[[ナラ]](楢)、常緑樹の種群は[[カシ]](樫)と呼ばれるが、オークはその両方を包含するものである(なお英語では特に常緑樹である樫を指す場合はlive oakと呼ぶ)。ヨーロッパのオークの多くは日本語でナラ(楢)と呼ばれる[[落葉樹]]であり、常緑の樫は南ヨーロッパ以外では稀である。明治時代の翻訳家が落葉樹のオークを樫と誤訳した例があり、現在も混同されやすい。 == 利用 == 加工しやすい種が多く、[[ヨーロッパ]]や[[北アメリカ]]では[[家具]]や[[フローリング]](床材)、[[ウィスキー]]や[[ワイン]]の[[樽]]の材料などに広く使われる。 木肌は中程度から粗めの堅い木材で、木目がはっきりし、特に柾目面にはそれが美しい模様として現れる。また、虎斑(とらふ)と呼ばれる虎の斑紋を連想させる模様が現れることも特徴。材木用として[[ヨーロッパ]]原産のヨーロッパナラなど[[落葉性]]の[[ナラ]]類が代表的である。 === ヨーロッパナラ === ヨーロッパナラ(ヨーロッパ・オーク)の材は材の取り方や生育環境によって特定の呼び名を用いることがある<ref name="kougei">{{Cite book |和書 |author=メヒティル・メルツ |year=2016 |title=日本の木と伝統木工芸 |publisher=海青社 |page=67 }}</ref>。 * ウェインスコット・オーク(シェン・メラ)- ヨーロッパナラ(ヨーロッパ・オーク)を柾目取りした銀杢の模様を持つオーク材<ref name="kougei" /> * ブラウン・オーク - [[カンゾウタケ]]が寄生することで心材が濃い赤みを帯びた茶色に変化したオーク材<ref name="kougei" /> * ボグ・オーク - 泥炭湿地に長く浸っていたため鉄分の濃い色に変化したオーク材<ref name="kougei" /> 日本の[[ミズナラ]]材はこのヨーロッパナラに匹敵する材質をもつ高級オーク材である<ref> [[#鳥飼玖美子 (2004)|鳥飼玖美子 (2004)]], p.158.</ref>。 === 近縁種 === 他に、北アメリカ原産の[[レッドオーク]](ロバタエ節 section ''Lobatae'')や[[ホワイトオーク]](クェルクス節 section ''Quercus'')、樹皮を[[コルク]]として用いる[[コルクガシ]](''Q. suber'')などが有名。北米のホワイトオークは[[ウィスキー]]の樽として使用される。 == オークリーフ == ヨーロッパナラの葉は[[カシワ]]に似た特徴的な形をしており、オークリーフという意匠としてよく知られている。しかし、オークの葉の形は種によってさまざまであり、ヨーロッパナラの葉は一例にすぎない。深く切れこんで先端がとがったもの、細長いものなどもある。また、これはEUの硬貨にも同じような形で存在する。 == ギャラリー == <gallery> ファイル:Quercus robur.jpg|ヨーロッパナラの葉と実 ファイル:Quercus- solid floor.jpg|オークの無垢材フロア </gallery> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=鳥飼玖美子|authorlink=鳥飼玖美子 |title=歴史をかえた誤訳 |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮文庫]] |date=2004-04 |isbn=978-4-10-145921-9 |ref=鳥飼玖美子 (2004) }} ** 上記の初出。鳥飼玖美子 『歴史をかえた誤訳』 新潮社〈新潮OH!文庫〉、2001年5月。ISBN 978-4-10-290095-6。 == 関連項目 == * [[ナラ]] * [[カシ]] * [[ロイヤル・オーク]] * [[イベリコ豚]] == 外部リンク == {{Commonscat|Quercus|コナラ属}} * [http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10800/HiraKi4.html 平井信二 木の事典] - 北海道大学情報基盤センター北館ホームページ * [http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/ES_P_SB6.html ブナとナラとカシ] - 広島大学地球資源論研究室ホームページ {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おおく}} [[Category:木]] [[Category:ブナ科]] [[Category:木材]] [[Category:コナラ属|*]]
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オンドル
オンドル(朝: 온돌)または温突(溫堗、おんとつ)は、朝鮮半島全体、中国東北部の一部にみられる暖房装置。朝鮮半島では、クドゥル(구들)ともいう。中国東北部では炕(カン)または炕床などという。 朝鮮で温突、中国では炕と呼び、温突は床全体を暖めるのに対し、炕は寝床のみ暖めるが、朝鮮は座式、中国は腰掛式という生活様式の違いによる。起源の考察に関しては、村田治郎『温突とカンの起源に関する考』に詳しい。類似の暖房法では古代ローマのハイポコーストがある。 本来の形式は台所の竈で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備。火災の危険を避けるためオンドルを備えた家の土台はすべてクドゥルジャン(구들장)という板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を漆喰で塗り固め、その上に油をしみこませた厚紙を貼る。朝鮮半島においてはすでに三国時代から使用の痕跡が見られ、飛鳥時代の日本に渡来した高句麗や百済出身者もオンドルを備えた家に住んでいたらしい。しかしこの暖房方法は燃料の消費量が多く、湿気が多い地域には向かないことから日本では普及しないまま廃れてしまう。 台所で調理する際の排気を利用した暖房システムだが、炊事を行わない時も暖房用として竈に火を常時入れておく。台所が無い別棟には、暖房目的での焚口を作る。また、暖房の必要が無い夏季はオンドルに繋がらない夏専用の竈を炊事に使用する。しかし床下の殺菌、殺虫目的で半月に一度ほどオンドルに火を入れることもあった。 かつては薪、わらなどを燃料としたが、大量の燃料を使うオンドルは朝鮮半島の森林破壊(はげ山)の元凶となった。韓国では人口増加とともに薪でオンドルの燃料を賄うのが不可能になり、1960年代までには練炭を燃料としたオンドルが主流となった。しかし不完全燃焼により一酸化炭素が床のひび割れや隙間から室内に流入し、一酸化炭素中毒を引き起こす事故が頻発したため、次述「現代のオンドル」に取って代わられることとなる。 現在、特に韓国では中高層アパートの普及に伴い、旧来の方式でのオンドル暖房が構造・安全面から不可能になったため、温水床暖房が一般的に使用されており、「オンドル」といえば温水床暖房の事を指すことが多い。古くからある建物では温水床暖房ではない本来の形のオンドルが残っているが、その燃料は練炭から灯油に切り替わっているものが主流になっており、最近ではガスオンドルや電気オンドルを使用している家庭もある。 冷涼乾燥気候の朝鮮半島では住宅へのオンドル設置は常識であった。同時にオンドルの設置と使用により、生活様式はさまざまな影響を受け、変革された。竈の火で床下を暖めるという構造上、2階以上の床下を暖めることはできない。そのため朝鮮半島では平屋の建築が主流となった。床下に煙が流れ込みやすいよう、竈がある釜屋(プオク・台所)は居室より低い半地下式に作られ、台所の天井裏には高低差を生かして「タラク」という納戸が設けられた。若い嫁が一人で泣けるのは、このタラクの中だけだったという。オンドルで温められる部屋は焚口=台所に近い場所ほど暖かいため、台所に近い場所が上座とされた。熱く乾燥した床に接して木材が狂わないよう、家具は「足つき」のものが主流となった。また、床のぬくもりが人体に伝わりやすいように蒲団や座布団は薄く作られた。 日本列島も朝鮮半島も夏は暑く冬は寒い四季の明瞭な気候だが、寒暖の期間と湿気の有無が異なる。このため日本と朝鮮半島の民家は一見すると似ているようだが、細部では違いがある。近世以降の日本の民家の多くが無暖房住宅(囲炉裏、こたつなどの採暖器具のみ)であり、大きな窓や縁側を設け、部屋も襖や障子を取り払えば風通しの良い大空間が得られるなど、高温多湿の気候に即した造りだった。かたや朝鮮半島の民家の多く、特に北部地域はオンドルを用いて暖房し、窓や出入口を極力小さくして冷気の侵入を防ぐなど、寒冷で乾燥した冬の気候に最適化した閉鎖的な造りになった。ただし、ある程度温暖な朝鮮半島中南部では、民家には縁側(툇마루・トェンマル)や大庁(대청・テチョン)という板張りの空間があり、夏の気候に対応した開放的な造りになっている。 日本の温泉地で、地熱の直接利用や温泉の蒸気を床下に通すことで床下暖房形式にしたものを「オンドル」と呼び、湯治に利用しているケースがある。地熱の直接利用タイプでは、地熱により暖かい地面に直接ゴザを敷いただけ等の簡易な家屋を「オンドル小屋」と呼んでいるケースもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オンドル(朝: 온돌)または温突(溫堗、おんとつ)は、朝鮮半島全体、中国東北部の一部にみられる暖房装置。朝鮮半島では、クドゥル(구들)ともいう。中国東北部では炕(カン)または炕床などという。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "朝鮮で温突、中国では炕と呼び、温突は床全体を暖めるのに対し、炕は寝床のみ暖めるが、朝鮮は座式、中国は腰掛式という生活様式の違いによる。起源の考察に関しては、村田治郎『温突とカンの起源に関する考』に詳しい。類似の暖房法では古代ローマのハイポコーストがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本来の形式は台所の竈で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備。火災の危険を避けるためオンドルを備えた家の土台はすべてクドゥルジャン(구들장)という板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を漆喰で塗り固め、その上に油をしみこませた厚紙を貼る。朝鮮半島においてはすでに三国時代から使用の痕跡が見られ、飛鳥時代の日本に渡来した高句麗や百済出身者もオンドルを備えた家に住んでいたらしい。しかしこの暖房方法は燃料の消費量が多く、湿気が多い地域には向かないことから日本では普及しないまま廃れてしまう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "台所で調理する際の排気を利用した暖房システムだが、炊事を行わない時も暖房用として竈に火を常時入れておく。台所が無い別棟には、暖房目的での焚口を作る。また、暖房の必要が無い夏季はオンドルに繋がらない夏専用の竈を炊事に使用する。しかし床下の殺菌、殺虫目的で半月に一度ほどオンドルに火を入れることもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつては薪、わらなどを燃料としたが、大量の燃料を使うオンドルは朝鮮半島の森林破壊(はげ山)の元凶となった。韓国では人口増加とともに薪でオンドルの燃料を賄うのが不可能になり、1960年代までには練炭を燃料としたオンドルが主流となった。しかし不完全燃焼により一酸化炭素が床のひび割れや隙間から室内に流入し、一酸化炭素中毒を引き起こす事故が頻発したため、次述「現代のオンドル」に取って代わられることとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在、特に韓国では中高層アパートの普及に伴い、旧来の方式でのオンドル暖房が構造・安全面から不可能になったため、温水床暖房が一般的に使用されており、「オンドル」といえば温水床暖房の事を指すことが多い。古くからある建物では温水床暖房ではない本来の形のオンドルが残っているが、その燃料は練炭から灯油に切り替わっているものが主流になっており、最近ではガスオンドルや電気オンドルを使用している家庭もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "冷涼乾燥気候の朝鮮半島では住宅へのオンドル設置は常識であった。同時にオンドルの設置と使用により、生活様式はさまざまな影響を受け、変革された。竈の火で床下を暖めるという構造上、2階以上の床下を暖めることはできない。そのため朝鮮半島では平屋の建築が主流となった。床下に煙が流れ込みやすいよう、竈がある釜屋(プオク・台所)は居室より低い半地下式に作られ、台所の天井裏には高低差を生かして「タラク」という納戸が設けられた。若い嫁が一人で泣けるのは、このタラクの中だけだったという。オンドルで温められる部屋は焚口=台所に近い場所ほど暖かいため、台所に近い場所が上座とされた。熱く乾燥した床に接して木材が狂わないよう、家具は「足つき」のものが主流となった。また、床のぬくもりが人体に伝わりやすいように蒲団や座布団は薄く作られた。", "title": "オンドルと住宅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本列島も朝鮮半島も夏は暑く冬は寒い四季の明瞭な気候だが、寒暖の期間と湿気の有無が異なる。このため日本と朝鮮半島の民家は一見すると似ているようだが、細部では違いがある。近世以降の日本の民家の多くが無暖房住宅(囲炉裏、こたつなどの採暖器具のみ)であり、大きな窓や縁側を設け、部屋も襖や障子を取り払えば風通しの良い大空間が得られるなど、高温多湿の気候に即した造りだった。かたや朝鮮半島の民家の多く、特に北部地域はオンドルを用いて暖房し、窓や出入口を極力小さくして冷気の侵入を防ぐなど、寒冷で乾燥した冬の気候に最適化した閉鎖的な造りになった。ただし、ある程度温暖な朝鮮半島中南部では、民家には縁側(툇마루・トェンマル)や大庁(대청・テチョン)という板張りの空間があり、夏の気候に対応した開放的な造りになっている。", "title": "オンドルと住宅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本の温泉地で、地熱の直接利用や温泉の蒸気を床下に通すことで床下暖房形式にしたものを「オンドル」と呼び、湯治に利用しているケースがある。地熱の直接利用タイプでは、地熱により暖かい地面に直接ゴザを敷いただけ等の簡易な家屋を「オンドル小屋」と呼んでいるケースもある。", "title": "その他のオンドル" } ]
オンドルまたは温突(溫堗、おんとつ)は、朝鮮半島全体、中国東北部の一部にみられる暖房装置。朝鮮半島では、クドゥル(구들)ともいう。中国東北部では炕(カン)または炕床などという。
{{出典の明記|date=2011年4月}} {{韓国の事物 |title=オンドル(温突) |picture=[[File:Korea-Seoul-Namsangol-03.jpg|280px]] |caption=オンドルの煙突 |hangeul=온돌 |hanja=溫堗/溫突 |hiragana=おんとつ |katakana=オンドル |latin=Ondol |}} [[画像:Ondol.png|thumbnail|300px|オンドルの原理を説明したイラスト。台所の竈の煙を居室の床下に導き、部屋を暖める]] [[画像:Baekje Ondol site.jpg|thumb|百済時代のオンドル遺跡]] '''オンドル'''({{Lang-ko-short|온돌}})または'''温突'''(溫堗、おんとつ)は、[[朝鮮半島]]全体、[[中国東北部]]の一部にみられる[[暖房|暖房装置]]<ref>{{Kotobank|温突|[[大辞泉]]}}</ref><ref name="マイペディア"/>。[[朝鮮半島]]では、'''クドゥル'''({{Lang|ko|구들}})ともいう。中国東北部では'''[[火炕|炕]]'''(カン)または'''炕床'''などという<ref name="マイペディア">{{Kotobank|オンドル(温突)|[[マイペディア]]}}</ref>。 == 概要 == === 起源 === 朝鮮で温突、[[中華人民共和国|中国]]では[[火炕|炕]]と呼び、温突は床全体を暖めるのに対し、[[火炕|炕]]は寝床のみ暖めるが、朝鮮は座式、中国は腰掛式という生活様式の違いによる。起源の考察に関しては、[[村田治郎]]『温突とカンの起源に関する考』に詳しい。類似の暖房法では[[古代ローマ]]の[[ハイポコースト]]がある<ref name="日本大百科全書">{{Kotobank|オンドル|[[日本大百科全書]]}}</ref>。 === 方法 === 本来の形式は[[台所]]の[[竈]]で煮炊きしたときに発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体をも暖める設備。火災の危険を避けるためオンドルを備えた家の土台はすべて'''クドゥルジャン'''({{Lang|ko|구들장}})という板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を[[漆喰]]で塗り固め、その上に油をしみこませた厚紙を貼る。朝鮮半島においてはすでに[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]から使用の痕跡が見られ、[[飛鳥時代]]の日本に渡来した[[高句麗]]や[[百済]]出身者もオンドルを備えた家に住んでいたらしい。しかしこの暖房方法は燃料の消費量が多く、湿気が多い地域には向かないことから日本では普及しないまま廃れてしまう。 台所で調理する際の排気を利用した暖房システムだが、炊事を行わない時も暖房用として竈に火を常時入れておく。台所が無い別棟には、暖房目的での焚口を作る。また、暖房の必要が無い夏季はオンドルに繋がらない夏専用の竈を炊事に使用する。しかし床下の殺菌、殺虫目的で半月に一度ほどオンドルに火を入れることもあった。 かつては[[薪]]、[[藁|わら]]などを[[燃料]]としたが、大量の燃料を使うオンドルは朝鮮半島の森林破壊([[はげ山]])の元凶となった。[[大韓民国|韓国]]では人口増加とともに薪でオンドルの燃料を賄うのが不可能になり、[[1960年代]]までには[[練炭]]を燃料としたオンドルが主流となった。しかし[[不完全燃焼]]により[[一酸化炭素]]が床のひび割れや隙間から室内に流入し、[[一酸化炭素中毒]]を引き起こす事故が頻発したため、次述「現代のオンドル」に取って代わられることとなる。 === 現代 === 現在、特に韓国では中高層[[マンション|アパート]]の普及に伴い、旧来の方式でのオンドル暖房が構造・安全面から不可能になったため、[[温水床暖房]]が一般的に使用されており、「オンドル」といえば温水床暖房の事を指すことが多い。古くからある建物では温水床暖房ではない本来の形のオンドルが残っているが、その燃料は練炭から[[灯油]]に切り替わっているものが主流になっており、最近では[[ガス燃料|ガス]]オンドルや[[電気]]オンドルを使用している家庭もある。 == オンドルと住宅構造 == 冷涼乾燥気候の朝鮮半島では住宅へのオンドル設置は常識であった。同時にオンドルの設置と使用により、生活様式はさまざまな影響を受け、変革された。竈の火で床下を暖めるという構造上、2階以上の床下を暖めることはできない。そのため朝鮮半島では平屋の建築が主流となった。床下に煙が流れ込みやすいよう、竈がある釜屋(プオク・台所)は居室より低い半地下式に作られ、台所の天井裏には高低差を生かして「タラク」という納戸が設けられた。若い嫁が一人で泣けるのは、このタラクの中だけだったという。オンドルで温められる部屋は焚口=台所に近い場所ほど暖かいため、台所に近い場所が上座とされた。熱く乾燥した床に接して木材が狂わないよう、家具は「足つき」のものが主流となった。また、床のぬくもりが人体に伝わりやすいように[[蒲団]]や[[座布団]]は薄く作られた。 日本列島も朝鮮半島も夏は暑く冬は寒い四季の明瞭な気候だが、寒暖の期間と湿気の有無が異なる。このため日本と朝鮮半島の民家は一見すると似ているようだが、細部では違いがある。近世以降の日本の民家の多くが無暖房住宅([[囲炉裏]]、[[こたつ]]などの採暖器具のみ)であり、大きな[[窓]]や[[縁側]]を設け、部屋も[[襖]]や[[障子]]を取り払えば風通しの良い大空間が得られるなど、高温多湿の気候に即した造りだった。かたや朝鮮半島の民家の多く、特に北部地域はオンドルを用いて暖房し、窓や出入口を極力小さくして冷気の侵入を防ぐなど、寒冷で乾燥した冬の気候に最適化した閉鎖的な造りになった。ただし、ある程度温暖な朝鮮半島中南部では、民家には縁側({{Lang|ko|툇마루}}・トェンマル)や大庁({{Lang|ko|대청}}・テチョン)という板張りの空間があり、夏の気候に対応した開放的な造りになっている。 == その他のオンドル == 日本の温泉地で、地熱の直接利用や温泉の蒸気を床下に通すことで床下暖房形式にしたものを「オンドル」と呼び、湯治に利用しているケースがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goshougake.com/modules/tinyd0/index.php?id=4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100615142242/http://www.goshougake.com/modules/tinyd0/index.php?id=4|title=湯治のご案内|publisher=[[後生掛温泉]]|accessdate=2013-03-06|archivedate=2010-06-15}}</ref>。地熱の直接利用タイプでは、地熱により暖かい地面に直接ゴザを敷いただけ等の簡易な家屋を「オンドル小屋」と呼んでいるケースもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hikyou.jp/akita/oobuka/oobuka.html|title=大深温泉 【秘境温泉 神秘の湯】|accessdate=2013-03-06}}</ref>。 <gallery> Image:Korea-Gangneung-Seongyojang-02.jpg| Image:Korea-Unhyeongung-06.jpg| Image:Korea-Unhyeongung-03.jpg| </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|朝鮮|[[画像:P Korea2.svg|34px|Portal:朝鮮]]}} *[[ペチカ]] *[[ハイポコースト]] *[[火炕]] *[[永昌大君]] == 外部リンク == {{Commons category|Ondol}} {{DEFAULTSORT:おんとる}} [[Category:空気調和設備]] [[Category:朝鮮の建築]] [[Category:韓国の建築]] [[Category:中国の建築]] [[Category:暖房]] [[Category:冬の季語]]
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15,369
紀元前635年
紀元前635年(きげんぜん635ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元119年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前635年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前635年(きげんぜん635ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元119年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前635年と表記されるのが一般的となった。
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15,370
紀元前543年
紀元前543年(きげんぜんごひゃくよんじゅうさんねん)は、西暦(ローマ暦)による年。 紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元211年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前543年と表記されるのが一般的となった。 南伝(上座部仏教)説では、釈迦入滅の翌年とされ、タイ、カンボジア、ラオスでは、この年を仏滅紀元(仏暦)元年とする。
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紀元前543年(きげんぜんごひゃくよんじゅうさんねん)は、西暦(ローマ暦)による年。 紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元211年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前543年と表記されるのが一般的となった。 南伝(上座部仏教)説では、釈迦入滅の翌年とされ、タイ、カンボジア、ラオスでは、この年を仏滅紀元(仏暦)元年とする。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|560}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|550}} | 10年紀= {{紀元前/年代|540}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|530}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|520}} | 3年前= {{紀元前/年|546}} | 2年前= {{紀元前/年|545}} | 1年前= {{紀元前/年|544}} | 1年後= {{紀元前/年|542}} | 2年後= {{紀元前/年|541}} | 3年後= {{紀元前/年|540}} |}} '''紀元前543年'''(きげんぜんごひゃくよんじゅうさんねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。 [[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降の[[古代ローマ]]においては、[[ローマ建国紀元]]211年として知られていた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前543年と表記されるのが一般的となった。 南伝([[上座部仏教]])説では、[[釈迦]]入滅の翌年とされ、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、[[ラオス]]では、この年を[[仏滅紀元]]([[仏暦]])元年とする<ref>[[ミャンマー]]や[[スリランカ]]では、入滅の年である[[紀元前544年]]を元年とする。</ref>。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[戊午]] * [[日本]] ** [[皇紀]]118年 ** [[安寧天皇]]6年 * [[中国]] ** [[周]] - [[景王 (周)|景王]]2年 ** [[魯]] - [[襄公 (魯)|襄公]]30年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[景公 (斉)|景公]]5年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[平公 (晋)|平公]]15年 ** [[秦]] - [[景公 (秦)|景公]]34年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[郟敖]]2年 ** [[宋 (春秋)|宋]] - [[平公 (宋)|平公]]33年 ** [[衛]] - [[襄公 (衛)|襄公]]元年 ** [[陳 (春秋)|陳]] - [[哀公 (陳)|哀公]]26年 ** [[蔡]] - [[景侯 (蔡)|景侯]]49年 ** [[曹 (春秋)|曹]] - [[武公 (曹)|武公]]12年 ** [[鄭]] - [[簡公 (鄭)|簡公]]23年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[恵公 (燕)|恵公]]2年 ** [[呉 (春秋)|呉]] - [[余祭]]5年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1791年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 2年 * [[ユダヤ暦]] : 3218年 - 3219年 == できごと == === インド === * [[ウィジャヤ]]が[[北インド]]から[[セイロン島]]へ侵攻し、[[シンハラ人]]の王朝が開かれた。 === ギリシア === * [[アテナイ]]の[[僭主]][[ペイシストラトス]]が、[[デロス島]]の[[アポローン]]の神殿近くにあった古い墓地を撤去し、デロス島を聖地として浄化した<ref>{{Cite web|url=http://www.britannica.com/biography/Peisistratus|publisher=Encyclopædia Britannica, Inc.|title=Peisistratus|accessdate=2015-07-05}}</ref>。 === 中国 === * [[余昧]]が、前年に殺された兄王[[余祭]]を継いで、[[呉 (春秋)|呉]]の王に即位した。 * [[鄭]]の[[簡公 (鄭)|簡公]]が大夫たちと盟を結んだ。 * [[蔡]]の[[景侯 (蔡)|景侯]]が子の[[霊侯|姫般]]に殺害された。 * [[宋 (春秋)|宋]]で火災があり、伯姫が焼死した。 * 鄭の良霄が公孫黒の攻撃を受けて許に亡命した。良霄は[[罕虎]](子皮)を頼って帰国したが、駟帯と戦って羊肆で殺害された。 * [[周]]の儋括が[[景王 (周)|景王]]の弟の佞夫の擁立を図った。このため尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成らが佞夫を殺害した。儋括・王子瑕らが[[晋 (春秋)|晋]]に亡命した。 * [[楚 (春秋)|楚]]の[[霊王 (楚)|公子囲]]が[[大司馬]]の蔿掩を殺害した。 * 晋・[[斉 (春秋)|斉]]・宋・[[衛]]・鄭・[[曹 (春秋)|曹]]・莒・[[邾]]・[[滕]]・薛・[[杞]]・小邾が澶淵で会合した。 * 鄭の罕虎が[[子産]]に政務を委譲した。 == 誕生 == * [[子路]] - [[孔門十哲]]のひとり。([[紀元前481年]]没:生没年ともそれぞれ1年後とする説もある) == 死去 == * [[景侯 (蔡)|景侯]] - [[蔡]]の君主 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[年表]] {{デフォルトソート:きけんせん543ねん}} [[Category:紀元前543年|*]]
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15,371
紀元前609年
紀元前609年(きげんぜん609ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元145年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前609年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前609年(きげんぜん609ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元145年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前609年と表記されるのが一般的となった。
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15,372
紀元前547年
紀元前547年(きげんぜん547ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元207年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前547年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前547年(きげんぜん547ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元207年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前547年と表記されるのが一般的となった。
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15,379
1147年
1147年(1147 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1147年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1147}} {{year-definition|1147}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[丁卯]] * [[日本]] ** [[久安]]3年 (久安2年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]] - 久安3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) ** [[皇紀]]1807年 * [[中国]] ** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]17年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[皇統 (金)|皇統]]7年 ** [[西夏]] : [[人慶]]4年 ** [[大理国]] : [[広運 (大理)|広運]]末年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]3480年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[大定 (李朝)|大定]]8年 * [[仏滅紀元]] : 1689年 - 1690年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 542年 - 543年 * [[ユダヤ暦]] : 4907年 - 4908年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1147|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[第2回十字軍]](-[[1149年]]){{要出典|date=2021-04}} * [[ムワッヒド朝]]が[[ムラービト朝]]を滅ぼす。 * [[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]が[[リスボン攻防戦]]で[[リスボン]]をイスラム勢力から奪回([[レコンキスタ]]の一環)。 * [[東京夢華録]]の成立 == 誕生 == {{see also|Category:1147年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月9日]]([[久安]]3年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[源頼朝]]、[[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍]](+ [[1199年]]) * [[イシュトヴァーン3世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン3世]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード王朝]]の国王(+ [[1172年]]) * [[一条能保]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1197年]]) * [[光宗 (宋)|光宗]]、[[南宋]]の第3代[[皇帝]](+ [[1200年]]) * [[上覚]]、平安時代、鎌倉時代の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1226年]]) * [[平宗盛]]、平安時代の[[武将]]、公卿(+ [[1185年]]) * [[ラインバウト・ダウレンガ]]、[[オランジュ]]公、[[オメラス]]公、[[詩人]](+ [[1173年]]) * [[亮子内親王]]、平安時代、鎌倉時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](+ [[1216年]]) * [[和田義盛]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[御家人]](+ [[1213年]]) == 死去 == {{see also|Category:1147年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月16日]](久安3年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[源有仁]]、[[平安時代]]の[[皇族]](* [[1103年]]) * [[10月31日]] - [[グロスター伯ロバート]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の[[庶子]]、[[グロスター伯]](* [[1090年]]?) * [[佐竹昌義]]、平安時代の[[武将]](* [[1081年]]) * [[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]](独眼公)、[[シュヴァーベン大公|スワビア公]](* [[1090年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1147}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1147ねん}} [[Category:1147年|*]]
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1199年
1199年(1199 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1199年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1199}} {{year-definition|1199}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建久]]10年、[[正治]]元年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1859年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[慶元]]5年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[承安 (金)|承安]]4年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]22年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天慶 (西夏)|天慶]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[神宗 (高麗王)|神宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3532年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天資嘉瑞]]14年 * [[仏滅紀元]] : 1741年 - 1742年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 595年 - 596年 * [[ユダヤ暦]] : 4959年 - 4960年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1199|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[2月9日]](建久10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[源頼朝]]が死去する。これにより、頼朝の子である[[源頼家]]が18歳で二代目[[鎌倉殿]]となる。 * [[3月25日]] - [[イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]が戦闘中に肩に矢を受ける。この傷が元で4月6日に死亡。 * [[4月6日]] - イングランドで[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]が国王に即位。 == 誕生 == {{see also|Category:1199年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月20日]](正治元年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[良忠]]、[[鎌倉時代]]の[[浄土宗]]の僧(+ [[1287年]]) * [[ラースロー3世 (ハンガリー王)|ラースロー3世]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード王朝]]の国王(+ [[1205年]]) == 死去 == {{see also|Category:1199年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月23日]] - [[ヤアクーブ・マンスール]]、[[ムワッヒド朝]]の第3代[[アミール]](* [[1160年]]) * [[2月9日]](建久10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]) - [[源頼朝]]、[[鎌倉幕府]]初代将軍(* [[1147年]]) * [[3月3日]](建久10年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[平高清]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[平家]]一門(* [[1173年]]) * [[4月5日]](建久10年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]) - [[足利義兼]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](* [[1154年]]?) * [[4月6日]] - [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]、[[プランタジネット朝]]第2代[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1157年]]) * [[4月29日]](建久10年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[石川基光]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[陸奥石川氏]]の第6代当主(* 生年未詳) * [[7月24日]](正治元年[[6月30日 (旧暦)|6月30日]]) - [[三幡]]、源頼朝と[[北条政子]]の次女(* [[1186年]]) * [[8月10日]](正治元年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[平親宗]]、平安時代、鎌倉時代の[[公卿]](* [[1144年]]) * [[9月4日]] - [[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン・オブ・イングランド]]、[[シチリア王国|シチリア]]王[[グリエルモ2世]]の王妃(* [[1165年]]) * [[9月16日]](正治元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[能円]]、平安時代、鎌倉時代の[[僧]](* [[1140年]]) * [[10月23日]](正治元年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]) - [[伊達朝宗]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1129年]]) * [[西行の娘]]、平安時代、鎌倉時代の[[尼|尼僧]](* [[1137年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1199}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1199ねん}} [[Category:1199年|*]]
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15,381
紀元前550年
紀元前550年(きげんぜん550ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元204年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前550年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前550年(きげんぜん550ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元204年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前550年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|570}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|560}} | 10年紀= {{紀元前/年代|550}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|540}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|530}} | 3年前= {{紀元前/年|553}} | 2年前= {{紀元前/年|552}} | 1年前= {{紀元前/年|551}} | 1年後= {{紀元前/年|549}} | 2年後= {{紀元前/年|548}} | 3年後= {{紀元前/年|547}} |}} '''紀元前550年'''(きげんぜん550ねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降の[[古代ローマ]]においては、[[ローマ建国紀元]]204年として知られていた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前550年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[辛亥]] * [[日本]] ** [[皇紀]]111年 ** [[綏靖天皇]]32年 * [[中国]] ** [[周]] - [[霊王 (周)|霊王]]22年 ** [[魯]] - [[襄公 (魯)|襄公]]23年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[荘公光|荘公]]4年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[平公 (晋)|平公]]8年 ** [[秦]] - [[景公 (秦)|景公]]27年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[康王 (楚)|康王]]10年 ** [[宋 (春秋)|宋]] - [[平公 (宋)|平公]]26年 ** [[衛]] - [[殤公 (衛)|殤公]]9年 ** [[陳 (春秋)|陳]] - [[哀公 (陳)|哀公]]19年 ** [[蔡]] - [[景侯 (蔡)|景侯]]42年 ** [[曹 (春秋)|曹]] - [[武公 (曹)|武公]]5年 ** [[鄭]] - [[簡公 (鄭)|簡公]]16年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (春秋燕)|文公]]5年 ** [[呉 (春秋)|呉]] - [[諸樊]]11年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1784年 * [[ユダヤ暦]] : 3211年 - 3212年 == できごと == === 中国 === * [[楚 (春秋)|楚]]に亡命していた[[陳 (春秋)|陳]]の公子黄が慶虎と慶寅について楚に告発し、楚が慶楽を殺害すると、慶虎と慶寅は陳に拠って叛いた。楚の[[屈建]]と陳の[[哀公 (陳)|哀公]]が陳を包囲した。陳の城壁を修築していた役夫が慶虎と慶寅を殺して開城した。これによって公子黄が楚から陳に帰国した。 * [[晋 (春秋)|晋]]の[[欒盈]]がひそかに曲沃に入り、曲沃の兵を率いて晋の都の絳に攻め入ったが、敗北して曲沃に逃げ帰った。 * [[斉 (春秋)|斉]]が[[衛]]を攻撃し、さらに晋に侵攻したが、晋の[[趙勝 (春秋)|趙勝]]に敗れた。 * [[魯]]の[[叔孫豹]]が軍を率いて[[晋 (春秋)|晋]]を救援し、雍楡に宿営した。 * 魯の[[臧紇]](臧武仲)が[[邾]]に亡命し、さらに斉に逃れた。 * 晋軍が曲沃を攻撃して欒盈を殺害した。欒盈の一族もみな殺されたが、ひとり欒魴が[[宋 (春秋)|宋]]に亡命した。 * 斉が莒を襲撃した。 == 誕生 == == 死去 == * [[孝公 (杞)|孝公]] - [[杞]]の君主 * [[仲孫速]] - [[魯]]の重臣、孟荘子 == 脚注 == {{Reflist}} {{デフォルトソート:きけんせん550ねん}} [[Category:紀元前550年|*]]
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紀元前330年
紀元前330年(きげんぜん330ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前330年(きげんぜん330ねん)は、ローマ暦の年である。
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15,383
ドワーフ
ドワーフ(英語: dwarf [dwˈɔɚf]、ドイツ語: Zwerg、古ノルド語: dvergr)は、人間よりも少し背丈の小さい伝説上の種族。民話、神話、童話、ファンタジー作品などに登場することが多い。高度な鍛冶や工芸技能をもつとされており、外観は男女共に背丈が低いものの力強く屈強で、特に男性はその多くで長い髭をたくわえているとされる。 ドワーフ小人、矮人、侏儒、あるいは単に小人と訳されることもある。 ゲルマン語派において、「とても背の低い人間」「小さきもの」を表す。現代英語の語形dwarfはドイツ語からの借用である。この語の同根語として、歴史的に古フリジア語 dwerch、古ザクセン語 dwerg、古高ドイツ語 twerg、ドイツ語 Zwerg、古ノルド語 dvergrなどがあり、これらをもとにゲルマン祖語の語形*dwerazが再構されている。さらにインド・ヨーロッパ祖語の語形*dhwergwhosも再構されているものの、ゲルマン語派以外の言語では類する単語は見つかっておらず、この語彙のない言語(ロマンス諸語など)では意味的に相当する語(フランス語: nain、イタリア語: nano など)が当てられる。 北欧神話には闇の妖精ドヴェルグがいる。太古の巨人ユミル(Ymir)の死体(=大地)から生じた。生まれた当時はうじ虫だったが、神々の決定により人に似た姿と知性を与えられる。その後も地中を好み、岩穴で暮らす。彼らは信仰の対象ではなく、しばしば神々と対立する立場で登場するが、対価に応じて神々の象徴となる魔力のある武器や宝の制作をする優れた匠としても描かれる。ドヴェルグは太陽の光を浴びると石になる、もしくは体が弾け飛んで死ぬといわれる。 現在残されている資料では地に住まう闇のエルフ、デックアールヴ(døkkálfar)と共通する部分も見られ、古エッダの「巫女の予言(Völuspá)」には名前の接尾に"-álfar"をもつドヴェルグも登場する。 『グリム童話』に収載されたドイツ民話白雪姫に登場する「7人の小人」はドイツ語では「sieben Zwerge」といい、つまりドワーフである。『グリム・ドイツ語辞典(ドイツ語版)」では、ツヴェルク(Zwerge)はもともとゲルマン神話、英雄譚(ドイツ語版)、メルヒェンに登場する小さく超自然的な生き物の名称だった、としている。 民間伝承の中の妖精ドワーフは更に奇怪な姿をしており、その姿は醜く、老人のような皮膚を持ち、立った姿勢のままで腕が地面に付くほど長いとも言われる。3歳で成人し、7歳で老人になるといわれる。また、女性が存在しない為、新しいドワーフは石から作られるともいわれる。 J・R・R・トールキンは、これらの北欧やドイツの伝承をベースとして、自身の想像した架空世界である中つ国に住む種族としてドワーフを導入した。 中つ国におけるドワーフは背の低い頑健な種族であり、女性も含め全員がひげを生やしている。他種族に対して植物や動物を含めてあまり親密とは言えず、植物を愛でることや乗馬などを苦手とし、ホビットに対してはまだ友好的な場合が多いが、エルフに対しては昔から不信感を抱いている。典型的なドワーフは鍛冶や石工を職業としており、かれらが作り出す作品の中にはエルフの作品よりも優れたものもある。 本来、英語における「dwarf」の複数形は「dwarfs」であったが、トールキンが『ホビットの冒険』と『指輪物語』で「dwarves」を使ったことにより、特にファンタジー文学では後者の綴りも多く用いられるようになった。 トールキンによるドワーフの描写は後世の創作に大きな影響を与え、矮躯でありながら屈強、豊かな髭を生やしているといったイメージが共有されるようになった。髭が生えるのは男性だけとするものと女性にも生えるとするものに設定が分かれる。大酒飲みで意地汚いが、手先が器用であり、鉱夫あるいは細工師や鍛冶屋などの職人であると同時に戦士のイメージが強い。 現実世界でも、遺伝子異常により成人で比例的に短躯短肢の人を「ドワーフ」、躯幹は成人と同じで四肢が短い人を「ミゼット」と呼ぶ ことがあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ドワーフ(英語: dwarf [dwˈɔɚf]、ドイツ語: Zwerg、古ノルド語: dvergr)は、人間よりも少し背丈の小さい伝説上の種族。民話、神話、童話、ファンタジー作品などに登場することが多い。高度な鍛冶や工芸技能をもつとされており、外観は男女共に背丈が低いものの力強く屈強で、特に男性はその多くで長い髭をたくわえているとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ドワーフ小人、矮人、侏儒、あるいは単に小人と訳されることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ゲルマン語派において、「とても背の低い人間」「小さきもの」を表す。現代英語の語形dwarfはドイツ語からの借用である。この語の同根語として、歴史的に古フリジア語 dwerch、古ザクセン語 dwerg、古高ドイツ語 twerg、ドイツ語 Zwerg、古ノルド語 dvergrなどがあり、これらをもとにゲルマン祖語の語形*dwerazが再構されている。さらにインド・ヨーロッパ祖語の語形*dhwergwhosも再構されているものの、ゲルマン語派以外の言語では類する単語は見つかっておらず、この語彙のない言語(ロマンス諸語など)では意味的に相当する語(フランス語: nain、イタリア語: nano など)が当てられる。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "北欧神話には闇の妖精ドヴェルグがいる。太古の巨人ユミル(Ymir)の死体(=大地)から生じた。生まれた当時はうじ虫だったが、神々の決定により人に似た姿と知性を与えられる。その後も地中を好み、岩穴で暮らす。彼らは信仰の対象ではなく、しばしば神々と対立する立場で登場するが、対価に応じて神々の象徴となる魔力のある武器や宝の制作をする優れた匠としても描かれる。ドヴェルグは太陽の光を浴びると石になる、もしくは体が弾け飛んで死ぬといわれる。", "title": "北欧におけるドワーフ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現在残されている資料では地に住まう闇のエルフ、デックアールヴ(døkkálfar)と共通する部分も見られ、古エッダの「巫女の予言(Völuspá)」には名前の接尾に\"-álfar\"をもつドヴェルグも登場する。", "title": "北欧におけるドワーフ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『グリム童話』に収載されたドイツ民話白雪姫に登場する「7人の小人」はドイツ語では「sieben Zwerge」といい、つまりドワーフである。『グリム・ドイツ語辞典(ドイツ語版)」では、ツヴェルク(Zwerge)はもともとゲルマン神話、英雄譚(ドイツ語版)、メルヒェンに登場する小さく超自然的な生き物の名称だった、としている。", "title": "ドイツにおけるドワーフ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "民間伝承の中の妖精ドワーフは更に奇怪な姿をしており、その姿は醜く、老人のような皮膚を持ち、立った姿勢のままで腕が地面に付くほど長いとも言われる。3歳で成人し、7歳で老人になるといわれる。また、女性が存在しない為、新しいドワーフは石から作られるともいわれる。", "title": "ドイツにおけるドワーフ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "J・R・R・トールキンは、これらの北欧やドイツの伝承をベースとして、自身の想像した架空世界である中つ国に住む種族としてドワーフを導入した。", "title": "トールキンのドワーフ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "中つ国におけるドワーフは背の低い頑健な種族であり、女性も含め全員がひげを生やしている。他種族に対して植物や動物を含めてあまり親密とは言えず、植物を愛でることや乗馬などを苦手とし、ホビットに対してはまだ友好的な場合が多いが、エルフに対しては昔から不信感を抱いている。典型的なドワーフは鍛冶や石工を職業としており、かれらが作り出す作品の中にはエルフの作品よりも優れたものもある。", "title": "トールキンのドワーフ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本来、英語における「dwarf」の複数形は「dwarfs」であったが、トールキンが『ホビットの冒険』と『指輪物語』で「dwarves」を使ったことにより、特にファンタジー文学では後者の綴りも多く用いられるようになった。", "title": "トールキンのドワーフ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "トールキンによるドワーフの描写は後世の創作に大きな影響を与え、矮躯でありながら屈強、豊かな髭を生やしているといったイメージが共有されるようになった。髭が生えるのは男性だけとするものと女性にも生えるとするものに設定が分かれる。大酒飲みで意地汚いが、手先が器用であり、鉱夫あるいは細工師や鍛冶屋などの職人であると同時に戦士のイメージが強い。", "title": "トールキンのドワーフ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現実世界でも、遺伝子異常により成人で比例的に短躯短肢の人を「ドワーフ」、躯幹は成人と同じで四肢が短い人を「ミゼット」と呼ぶ ことがあった。", "title": "蔑称としてのドワーフ" } ]
ドワーフは、人間よりも少し背丈の小さい伝説上の種族。民話、神話、童話、ファンタジー作品などに登場することが多い。高度な鍛冶や工芸技能をもつとされており、外観は男女共に背丈が低いものの力強く屈強で、特に男性はその多くで長い髭をたくわえているとされる。 ドワーフ小人、矮人、侏儒、あるいは単に小人と訳されることもある。
{{出典の明記|date=2018年10月}} {{独自研究|date=2019年8月13日 (火) 04:08 (UTC)}} {{Otheruses|神話伝説・ファンタジー作品に登場する種族|その他のドワーフ|ドワーフ (曖昧さ回避)}} [[ファイル:Two Völuspá Dwarves by Frølich.jpg|thumb|[[1895年]]に出版された[[19世紀]]版の[[古エッダ]]の詩「[[巫女の予言]]」に描かれている2人のドワーフ([[ローランス・フレーリク]]画)]] '''ドワーフ'''({{Lang-en|{{En|dwarf}}}} {{IPA|dwˈɔɚf}}、{{Lang-de|{{de|Zwerg}}}}、{{Lang-non|{{Lang|non|dvergr}}}})は、[[人間]]よりも少し背丈の小さい[[伝説の生物一覧|伝説上の種族]]。[[民話]]、[[神話]]、[[童話]]、[[ファンタジー]]作品などに登場することが多い。高度な鍛冶や工芸技能をもつとされており、外観は男女共に背丈が低いものの力強く屈強で、特に男性はその多くで長い[[髭]]をたくわえているとされ<!--、しばしばその体型は酒樽に評され-->る。 '''ドワーフ小人'''、'''矮人'''、'''侏儒'''、あるいは単に'''[[小人 (伝説の生物)|小人]]'''と訳されることもある。 == 語源 == [[ゲルマン語派]]において、「とても背の低い人間」「小さきもの」を表す<ref name="ety">"[https://www.etymonline.com/word/dwarf dwarf]", [[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]]</ref>。現代[[英語]]の語形dwarfは[[ドイツ語]]からの借用である。この語の[[同根語]]として、歴史的に[[古フリジア語]] dwerch、[[古ザクセン語]] dwerg、[[古高ドイツ語]] twerg、[[ドイツ語]] Zwerg、[[古ノルド語]] dvergrなどがあり、これらをもとにゲルマン祖語の語形*dwerazが再構されている。さらにインド・ヨーロッパ祖語の語形*dhwergwhosも再構されているものの、ゲルマン語派以外の言語では類する単語は見つかっておらず{{R|ety}}、この語彙のない言語(ロマンス諸語など)では意味的に相当する語({{Lang-fr|nain}}、{{Lang-it|nano}} など)が当てられる。 == 北欧におけるドワーフ == [[北欧神話]]には闇の[[妖精]]'''ドヴェルグ'''がいる。太古の巨人[[ユミル]]({{Lang|non|Ymir}})の死体(=大地)から生じた。生まれた当時はうじ虫だったが、神々の決定により人に似た姿と知性を与えられる。その後も地中を好み、岩穴で暮らす。彼らは信仰の対象ではなく、しばしば神々と対立する立場で登場するが、対価に応じて神々の象徴となる魔力のある武器や宝の制作をする優れた匠としても描かれる。ドヴェルグは[[太陽]]の光を浴びると石になる、もしくは体が弾け飛んで死ぬといわれる。 現在残されている資料{{Full citation needed|date=2019年8月}}では地に住まう闇の[[エルフ]]、デックアールヴ({{Lang|non|døkkálfar}})と共通する部分も見られ、[[古エッダ]]の「[[巫女の予言]]({{Lang|non|Völuspá}})」には名前の接尾に"-álfar"をもつドヴェルグも登場する。 == ドイツにおけるドワーフ == 『[[グリム童話]]』に収載されたドイツ民話[[白雪姫]]に登場する「7人の小人」はドイツ語では「{{De|sieben Zwerge}}」といい、つまりドワーフである{{Sfn|安田|1996|pp=240-248}}。『{{仮リンク|グリム・ドイツ語辞典|de|Deutsches Wörterbuch}}」では、ツヴェルク(Zwerge)はもともと[[ゲルマン神話]]、{{仮リンク|英雄譚|de| Heldensage}}、[[メルヒェン]]に登場する小さく超自然的な生き物の名称だった、としている<ref>{{Cite journal|和書|author=大野寿子 |year=2010 |url=https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/11315 |title=【コラム】「小人」は「妖精」か?-グリム童話を考える③- |journal=東洋通信 |ISSN=18837859 |publisher=東洋大学通信教育部 |volume=46 |issue=10・11 |pages=4-7 |CRID=1050282813457240960}}</ref>。 <!--どこの?--> [[民間伝承]]{{Full citation needed|date=2023年12月}}の中の妖精ドワーフは更に奇怪な姿をしており、その姿は醜く、老人のような皮膚を持ち、立った姿勢のままで腕が地面に付くほど長いとも言われる。3歳で成人し、7歳で老人になるといわれる。また、女性が存在しない為、新しいドワーフは石から作られるともいわれる。<!-- 壊れた刃物や[[農具]]、[[鍋]]釜などの[[道具]]を放っておくと、夜中にドワーフが現れて人知れず直して行くという言い伝えがある。ブラウニーとの混同では?--> == トールキンのドワーフ == {{Main|ドワーフ (トールキン)}} [[J・R・R・トールキン]]は、これらの北欧やドイツの伝承をベースとして、自身の想像した[[架空世界]]である[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]に住む種族としてドワーフを導入した。 中つ国におけるドワーフは背の低い頑健な種族であり、女性も含め全員がひげを生やしている。他種族に対して植物や動物を含めてあまり親密とは言えず、植物を愛でることや乗馬などを苦手とし、[[ホビット]]に対してはまだ友好的な場合が多いが、[[エルフ (トールキン)|エルフ]]に対しては昔から不信感を抱いている。典型的なドワーフは[[鍛冶]]や[[石工]]を職業としており、かれらが作り出す作品の中にはエルフの作品よりも優れたものもある。 本来、[[英語]]における「{{Lang|en|dwarf}}」の複数形は「{{Lang|en|dwarfs}}」であったが、トールキンが『[[ホビットの冒険]]』と『[[指輪物語]]』で「{{Lang|en|dwarves}}」を使ったことにより、特にファンタジー文学では後者の綴りも多く用いられるようになった。 トールキンによるドワーフの描写は後世の創作に大きな影響を与え、矮躯でありながら屈強、豊かな髭を生やしているといったイメージが共有されるようになった。髭が生えるのは男性だけとするものと女性にも生えるとするものに設定が分かれる。大酒飲みで意地汚いが、手先が器用であり、鉱夫あるいは細工師や[[鍛冶屋]]などの職人であると同時に戦士{{Efn2|木を切りまくったり鍛冶を能くすることから斧やハンマーが主武器とされることが多い。}}のイメージが強い{{Sfn|安田|1996|pp=240-248}}。 == 蔑称としてのドワーフ == 現実世界でも、{{要出典範囲|遺伝子異常により成人で比例的に短躯短肢の人を「ドワーフ」、躯幹は成人と同じで四肢が短い人を「ミゼット」と呼ぶ|date=2023年11月}} ことがあった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=安田均|authorlink=安田均 |coauthors=[[グループSNE]] |title=モンスター・コレクション |edition=改訂版 |date=1996-06 |publisher=[[富士見書房]] |location=[[東京]] |series=[[富士見ドラゴンブック]] |isbn=4-8291-4311-8 |volume=中 |ref={{SfnRef|安田|1996}}}} == 関連項目 == {{Commons category|Dwarves in Germanic mythology}} * [[ノーム (妖精)]] * [[ゴブリン]] * [[コボルト]] * [[エルフ]] *[[小人 (伝説の生物)]] * {{仮リンク|ドワーフ (神話)|de| Zwerg (Mythologie)}} {{北欧神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とわあふ}} [[Category:北欧神話のドワーフ|*]] [[Category:ファンタジー]] [[Category:小人 (伝説の生物)]] [[Category:イギリスの伝説の生物]] [[Category:ゲルマンの伝説の生物]]
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1159年
1159年(1159 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 源義経が生まれる
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1159年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1159}} {{year-definition|1159}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己卯]] * [[日本]] ** [[保元]]4年、[[平治]]元年 ** [[皇紀]]1819年 * [[中国]] ** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]29年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[正隆]]4年 ** [[西夏]] : [[天盛]]11年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]13年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3492年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[大定 (李朝)|大定]]20年 * [[仏滅紀元]] : 1701年 - 1702年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 554年 - 555年 * [[ユダヤ暦]] : 4919年 - 4920年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1159|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[2月22日]]([[保元]]4年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[二条天皇]]の后で[[美福門院]]の娘の[[姝子内親王]]が[[中宮]]となる。[[後白河天皇|後白河上皇]]の后・中宮[[藤原忻子]]は皇后となる。 * [[5月9日]](保元4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[平治]]と改元する。 源義経が生まれる == 誕生 == {{see also|Category:1159年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[坊門信清]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1216年]]) * [[平維盛]]、平安時代の[[武将]]、[[公卿]](+ [[1184年]]) * [[源義経]]、平安時代の[[武将]](+ [[1189年]]) * [[源頼隆]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の武将(+ 没年未詳) * [[武藤資頼]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[鎮西奉行]](+ [[1228年]]) * [[僐子内親王]]、平安時代の[[皇族]](+ [[1171年]]) * [[ギー・ド・リュジニャン]]、[[フランス]]の[[騎士]]、[[エルサレム王国|エルサレム国王]](+ [[1194年]]) == 死去 == {{see also|Category:1159年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月22日]](保元4年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[由良御前]]、[[源義朝]]の[[正室]]、[[源頼朝]]の母(* 生年未詳) * [[5月30日]] - [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド大公)|ヴワディスワフ2世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]]、[[シレジア|シロンスク公]](* [[1105年]]) * [[9月1日]] - [[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]]、第169代[[ローマ教皇]](* [[1100年]]) * [[10月11日]] - [[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム1世]]、[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ伯]]、[[サリー (イングランド)|サリー伯]](* [[1137年]]?) * [[ベルタ・フォン・ズルツバッハ]]、[[東ローマ帝国]]皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]の皇后(* 1110年代) * [[源重成]]、[[平安時代]]の[[武将]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1159}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1159ねん}} [[Category:1159年|*]]
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紀元前312年
紀元前312年(きげんぜんさんびゃくじゅうねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「コルウスとムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元446年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前312年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前312年(きげんぜんさんびゃくじゅうねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「コルウスとムスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元446年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前312年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|330}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|320}} | 10年紀= {{紀元前/年代|310}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|300}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|290}} | 3年前= {{紀元前/年|315}} | 2年前= {{紀元前/年|314}} | 1年前= {{紀元前/年|313}} | 1年後= {{紀元前/年|311}} | 2年後= {{紀元前/年|310}} | 3年後= {{紀元前/年|309}} |}} '''[[紀元前]]312年'''(きげんぜんさんびゃくじゅうねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、「コルウスとムスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]446年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前312年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[己酉]] * [[日本]] ** [[皇紀]]349年 ** [[孝安天皇]]81年 * [[中国]] ** [[周]] - [[赧王]]3年 ** [[秦]] - [[恵文王 (秦)|恵文王]]13年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[懐王]]17年 ** [[田斉|斉]] - [[宣王 (斉)|宣王]]8年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[燕王噲]]9年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[武霊王]]14年 ** [[魏 (戦国)|魏]] - [[襄王 (魏)|襄王]]7年 ** [[韓 (戦国)|韓]] - [[宣恵王 (韓)|宣恵王]]21年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]2022年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 233年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === セレウコス朝 === * [[プトレマイオス1世]]と[[バビロニア]]の[[サトラップ|太守]]である[[セレウコス1世]]が、[[シリア]]州を侵略する。[[ガザの戦い (紀元前312年)|ガザの戦い]]の結果は、プトレマイオス1世とセレウコス1世の[[アンティゴノス1世]]の息子の[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]] (「攻城者」))に対する勝利であり、 デメトリオス1世は捕虜となったがすぐに釈放された。セレウコス1世はプトレマイオス1世に仕えることを辞め、以前の領地であるバビロニアへと帰還した。これは10月1日の出来事であり、セレウコス朝時代の始点となった。 === シチリア === * [[シラクサ|シュラクサイ]]人は、[[カルタゴ]]人に、[[僭主]]の[[シュラクサイのアガトクレス|アガトクレス]]に対抗するための援助を求める。カルタゴ人も[[シチリア]]における自身の領地を脅かされており、大軍を島に送る。 === 共和政ローマ === * [[パトリキ]]であり、[[共和政ローマ|ローマ]]の[[ケンソル]]である[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]は、であり、 公職に就くと[[ローマ]]と[[カプア]]間に[[アッピア街道]]の建設を始める。また彼は政治改革のプログラムを開始した。例えば、土地を所有しないものにも各種の役職を選出するための投票権を与えた。当時基本的な政治単位を構成していた部族の、土地を所有しないローマ市民に配分した。 またアッピウスは[[解放奴隷]]の息子に[[元老院 (ローマ)|元老院]]に入ることを認めた。彼はまた解放奴隷が公職に就く権利を主張した。 * ローマ市への最初の水道である[[アッピア水道]]の建設が終了し、初めて綺麗な飲料水をローマは手に入れた。 === 中国 === * [[張儀]]の策謀に嵌った[[楚 (春秋)|楚]]は大軍を発して[[秦]]を侵攻した。秦の軍隊は迎撃して[[淅川県|丹陽]]にて大いに楚軍を破り、8万人を斬った。逆に楚の[[漢中市|漢中]]地方に攻め入り、その地に[[漢中郡]]を設置した。楚の[[懐王]]が再び全国の徴集できる部隊を召集して進攻を発動し、[[藍田県|藍田]]で秦軍と会戦すると、秦軍は再び勝利した(藍田の戦い)。この戦いは楚の衰亡の端緒となった。[[魏 (戦国)|魏]]と[[韓 (戦国)|韓]]はこの機に乗じて、楚に侵攻し、鄧に達した。楚軍はこれを聞いて撤兵し、2城を割譲して秦と講和した。 * [[燕 (春秋)|燕]]の公子職は、[[田斉|斉]]に服属することを条件にして王に即位することを許された。即位した[[昭王 (燕)|昭王]]は燕の再興と斉への復讐を目的にして、臣民と労苦を分かち、富国強兵と人材の登用に励んだ。昭王は[[郭隗]]を師と仰いだ。これが有名な「まず隗より始めよ」の故事であり(郭隗に宮殿を与えて優遇することで郭隗程度でも優遇されるのだからもっと優れた人物はもっと優遇してくれるということ)、郭隗のいうとおりに名将で名高い[[楽毅]]が燕にやって来たのもこの昭王の時代である。[[楽毅]]は魏より、[[劇辛]]は[[趙 (戦国)|趙]]より来た。昭王は楽毅を亜卿に任じ、国政を任せた。 * 韓の[[宣恵王 (韓)|宣恵王]]が死去し、太子倉が即位して、[[襄王 (韓)|襄王]]となる。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前312年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:紀元前312年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ペイトン (アゲノルの子)|ペイトン]] :[[マケドニア]]王[[アレクサンドロス3世]]の家臣で、[[ディアドコイ]]の一人。 * [[ヘラクレイデス]] :[[古代ギリシャ]]の[[哲学者]]。([[紀元前387年]]生) * [[宣恵王 (韓)|宣恵王]]:[[韓 (戦国)|韓]]の君主。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|312 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=4|年代=300|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん312ねん}} [[Category:紀元前312年|*]]
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15,386
紀元前63年
紀元前63年(きげんぜん63ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前63年(きげんぜん63ねん)は、ローマ暦の年である。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 世紀= {{紀元前/世紀|1}} | 次世紀= 1 | 前10年紀2= {{紀元前/年代|80}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|70}} | 10年紀= {{紀元前/年代|60}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|50}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|40}} | 3年前= {{紀元前/年|66}} | 2年前= {{紀元前/年|65}} | 1年前= {{紀元前/年|64}} | 1年後= {{紀元前/年|62}} | 2年後= {{紀元前/年|61}} | 3年後= {{紀元前/年|60}} |}} '''紀元前63年'''(きげんぜん63ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[崇神天皇]]35年 ** [[皇紀]]598年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[前漢]] : [[元康 (漢)|元康]]3年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]2271年 * [[仏滅紀元]] : 481年 * [[ユダヤ暦]] : 3698年 - 3699年 {{Clear}} == できごと == === ローマ === * [[ローマ帝国]]の軍人[[グナエウス・ポンペイウス]]が[[フェニキア]]、[[コイレ・シリア]]、[[ユダヤ]]を征服した。 * [[デカポリス]]の制度の基礎ができた。 * [[ユダヤ]]がローマの[[衛星国]]となり、[[アリストブロス2世]]から[[ヨハネ・ヒルカノス2世]]に王位が移った。 * [[エルサレム]]の[[神殿の丘]]で、ローマ軍により12000人以上の[[ユダヤ人]]が虐殺された。 * [[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[最高神祇官]]に選出された。翌年には[[プラエトル]]にも選出された。 * [[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]が[[執政官]]に就任した。最初の[[ノウス・ホモ]]であった。 * [[マルクス・ポルキウス・カトー・ウティケンシス]]が[[護民官]]に選出された。 * [[ルキウス・セルギウス・カティリナ]]による[[クーデター]]が失敗に終わった。 === ポントス === * [[ファルナケス2世]]が[[ポントス]]王になった。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前63年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月23日]] - [[アウグストゥス]](+ [[14年]]) * [[ストラボン]] - ギリシアの歴史家、地理学者(+ [[24年]]) * [[ディデュモス]] - ギリシアの文法学者(+ [[10年]]) * [[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]] - ローマの軍人、政治家(+ [[紀元前12年]]) == 死去 == {{see also|Category:紀元前63年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ミトリダテス6世]] - ポントス王(* [[紀元前132年]]) * [[クィントゥス・カエキリウス・メテルス・ピウス]]([[:en:Quintus Caecilius Metellus Pius]]) - 最高神祇官(* [[紀元前130年]]/[[紀元前127年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|63 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=1|年代=0|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん63ねん}} [[Category:紀元前63年|*]]
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下北交通
下北交通株式会社(しもきたこうつう)は青森県の下北半島を中心にバス事業を行なっている民間会社である。本社所在地は青森県むつ市金曲1丁目8番12号。 元は下北バスと称し、バス事業のみを行なっていたが、一時期、日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線だった大畑線を引き継いで鉄道事業を行なっていたことがある。鉄道事業は2001年に廃止され再びバス専業に戻ったが、社名は変更されずに継続している。 2021年から2023年にかけて青森県内のバス事業者では相次いでJR東日本のSuicaやSuicaをベースにした地域連携ICカードを導入してきたが、下北交通では導入予定がなく、2023年現在では青森県内の路線バス事業者(コミュニティバスや廃止代替バスのみ運行する事業者を除く)では唯一、地域連携ICカード(IC乗車券)を導入していない事業者となる。 青森県むつ市柳町一丁目2-20にある下北交通専用バスターミナルで、旧称は「下北バスターミナル」である。 構造 むつバスターミナル近隣の他社バス (季節運行) 1981年に国鉄大畑線が第1次特定地方交通線に指定されたのを受けて開催された協議会において、南部縦貫鉄道が引継ぎの意向を示したことから、それに対抗して下北半島に営業基盤をもつ下北バスが大畑線の引継ぎを決断。経営に乗り出すこととなった。下北バスは鉄道経営の経験は無かったが、バス事業でつながりのあった京浜急行電鉄の支援を仰ぎ、1984年2月には社名を下北交通に変更、翌1985年7月に大畑線を引き継いだが、赤字のため2001年3月31日限りで廃止された。
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下北交通株式会社(しもきたこうつう)は青森県の下北半島を中心にバス事業を行なっている民間会社である。本社所在地は青森県むつ市金曲1丁目8番12号。 元は下北バスと称し、バス事業のみを行なっていたが、一時期、日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線だった大畑線を引き継いで鉄道事業を行なっていたことがある。鉄道事業は2001年に廃止され再びバス専業に戻ったが、社名は変更されずに継続している。 2021年から2023年にかけて青森県内のバス事業者では相次いでJR東日本のSuicaやSuicaをベースにした地域連携ICカードを導入してきたが、下北交通では導入予定がなく、2023年現在では青森県内の路線バス事業者(コミュニティバスや廃止代替バスのみ運行する事業者を除く)では唯一、地域連携ICカード(IC乗車券)を導入していない事業者となる。
{{基礎情報 会社 |社名 = 下北交通株式会社 |英文社名 = |ロゴ = [[画像:ShimokitaKotsu No.200-303.jpg|280px]]<br />観光貸切塗装<br />長根運動公園([[青森県]][[八戸市]])にて |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |郵便番号 = 035-0041 |本社所在地 = [[青森県]][[むつ市]]金曲一丁目8番12号 | 本社緯度度 = 41|本社緯度分 = 16|本社緯度秒 = 57.61|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 141|本社経度分 = 12|本社経度秒 = 40.2|本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP |設立 = [[1930年]]6月 |業種 = 陸運業 |事業内容 = 一般乗合旅客自動車運送事業<br />一般貸切旅客自動車運送事業 他 |代表者 = 代表取締役社長 白濱 啓助 |資本金 = |売上高 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = |主要子会社 = 有限会社下北旅行 |関係する人物 = |外部リンク = http://www.0175.co.jp/s/ |特記事項 = }} '''下北交通株式会社'''(しもきたこうつう)は[[青森県]]の[[下北半島]]を中心に[[バス (交通機関)|バス]]事業を行なっている民間会社である。本社所在地は青森県むつ市金曲1丁目8番12号。 元は'''下北バス'''と称し、バス事業のみを行なっていたが、一時期、[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[特定地方交通線]]だった[[下北交通大畑線|大畑線]]を引き継いで[[鉄道事業者|鉄道事業]]を行なっていたことがある。鉄道事業は[[2001年]]に[[廃線|廃止]]され再びバス専業に戻ったが、社名は変更されずに継続している。 2021年から2023年にかけて青森県内のバス事業者では相次いで[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[Suica]]やSuicaをベースにした[[地域連携ICカード]]を導入してきたが<ref>[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]では「Suica」および「AOPASS」、[[青森市営バス]]・[[青森市市バス]]では「AOPASS」、[[八戸市営バス]]・[[南部バス]]では「ハチカ」、[[十和田観光電鉄]]では「Towada SkyBlue Pass」、[[弘南バス]]では「MegoICa」をそれぞれ導入。</ref>、下北交通では導入予定がなく、2023年現在では青森県内の路線バス事業者(コミュニティバスや<!---路線バス--->廃止代替バスのみ運行する事業者<!---鰺ヶ沢町の「あじバス」を運行する事業者など--->を除く)では唯一、地域連携ICカード(IC乗車券)を導入していない事業者となる。 == 沿革 == * [[1920年]] - [[田名部町]](現・むつ市)の白浜友次郎が「下北自動車株式会社」を設立、乗客8人乗りバス1台を使用し大畑〜田名部間などで運行開始(青森県で初めての国認可バス事業)。 * [[1936年]][[6月]] - 白浜友次郎、小原愛吉らが営業権を持ち寄り「下北乗合自動車」設立(本社[[大畑町]]、車両7台、従業員16人)、[[赤川駅]]〜佐井間66.6 km、田名部〜恐山間15 kmの2路線を運行開始。 * [[1952年]] - 社名を「下北バス」とする。 * [[1984年]][[2月]] - 社名を「下北交通」とする。 * [[1985年]][[7月]] - 国鉄から大畑線の営業移管を受ける。 * [[2001年]]3月31日 - 大畑線を廃止、翌4月1日から鉄道代替路線「下北駅線」運行開始。 * [[2004年]]4月1日 - 小湊出張所設置、[[平内町]]から「[[平内町民バス]]」の運行を受託する。 * [[2005年]]4月1日 - 平内町からスクールバスの運行を受託。 == バス事業 == [[画像:ShimokitaKotsu KK-MK23HH No.263.jpg|thumb|220px|中型一般路線車両]] [[画像:ShimokitaKotsu ROSA No.40.jpg|thumb|220px|マイクロ型一般路線車両]] [[画像:ShimokitaKotsu U-MM826H No.1019.jpg|thumb|220px|中型観光貸切車両]] [[画像:ShimokitaKotsu MutsuBusTerminal.jpg|thumb|220px|むつバスターミナル]] [[画像:ShimokitaKotsu MachiaijyoBooth.jpg|thumb|220px|同社はバス停の待合所ブースの設置に積極的であり、このようなブースが各路線の沿線にてほぼ見かける。]] === 営業所・案内所・車庫 === * むつ営業所 ** 所在地:むつ市金曲一丁目8-12(本社併設) ** 担当:平内町民バスを除く全路線、貸切バス *** 車両整備を行う下北整備工場が併設されており、小湊配置車両を含めてここで点検・整備をする。 *** [[国際興業バス]][[しもきた号]]の運行支援業務(乗車券発売・点呼・車両待機等)を実施。  * 大畑出張所 ** 所在地:むつ市大畑町庚申堂60 ** 沿革:大畑出張所・鉄道部大畑駅 ** 担当:むつ営業所管轄路線、大畑町スクールバス、風間浦村コミュニティバス *** 詳細は[[大畑駅 (青森県)|大畑駅]]を参照。 * 小湊出張所 ** 所在地:[[東津軽郡]][[平内町]] ** 沿革:[[青森市営バス]]小湊営業所→青森市営バス東部営業所小湊出張所→ ** 担当:[[平内町民バス]]全路線、平内町スクールバス、野辺地線、六ヶ所線、泊線 * 佐井車庫(むつ営業所佐井在勤) ** 所在地:下北郡佐井村 ** 担当:佐井線、むつ線 * 泊車庫(むつ営業所泊在勤) ** 所在地:上北郡[[六ヶ所村]] ** 担当:泊線、六ヶ所線 * 横浜車庫 ** 所在地:上北郡[[横浜町]] ** 横浜線の折り返し待機のための車庫で以前は乗務員休憩所もあったが、現在は横浜線が廃止されてしまったため駐車場のみとなっている。 * 尻労車庫 ** 所在地:下北郡[[東通村]]尻労下堀川 ** 尻労線の折り返し待機のための車庫で、駐車場のみ現存している。 ==== むつバスターミナル ==== [[青森県]][[むつ市]]柳町一丁目2-20にある'''下北交通'''専用[[バスターミナル]]で、旧称は「'''下北バスターミナル'''」である。 '''構造''' * 3階建ての建物で、1階部分はバスターミナルとなっている(2階と3階はテナント部分)。 * 1階には案内所があり、定期券・回数券を販売しているほか、待合室・売店も設置されている。 * 待合室内には次発車案内の表示幕(3台)が設置されている。 * 乗り場のプラットホームが3列で、各列2台ずつ=計6番線(1〜6番線がある)まで停車可能であるが、5番線・6番線にかかる列には安全地帯がない。 * なおいずれの番線も、路線ごとに対しては決められた停車番線が固定されておらず、時間帯により停車番線が変動される。 *2022年5月31日付けで廃止、解体された。代替としてJRバス『柳町』停留所となりに『むつバスターミナル』停留所が設置され6月1日より供用されている。 '''むつバスターミナル近隣の他社バス''' * [[ジェイアールバス東北|JRバス東北]][[下北本線]]は同ターミナル構内には乗り入れないが、隣接して「柳町」バス停がある。[[2005年]][[4月1日]]にバス停が設置されるまでは、徒歩約3分程度にある「[[田名部駅|田名部]]」バス停(始発地)が最寄であった。 ==== 廃止出張所 ==== * 青森出張所 ** 所在地:[[青森市]]合浦一丁目9-15 *** 2007年に廃止された。末期は出張所としては機能しておらず、青森線や下北交通が受託する[[日本郵政公社]]の郵便線路(輸送トラック)「青森西・むつ線」ドライバーの休憩所となっていた。[[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸]]の専用駐車スペース待機となったのち、現在は十鉄バス([[十和田観光電鉄]])青森総合営業所での待機・休憩となっている。 * 野辺地出張所 ** 所在地:[[上北郡]][[野辺地町]]田名部道43-2 ** 末期の担当路線:野辺地線、六ヶ所線、泊線 *** 2013年3月限りで廃止された。出張所機能は小湊出張所に統合され、敷地は更地となった。特急青森線の休憩場所は十鉄バス野辺地案内所に変更された。 == 現行路線 == === 特急青森線・野辺地線 === ; 運行経路 :* むつバスターミナル - むつ新町 - むつ営業所 - 大曲 - 金谷沢 - 近川 - 横浜 - 横浜車庫 - 中吹越 - 有戸 - 野辺地中央 - [[野辺地駅]]前 - [[まかど温泉]]入口 - 狩場沢 - 狩場沢小学校前 - [[狩場沢駅]]通り - 口広 - 清水川 - 薬師野入口 - 一本松入口 - 堀替 - 浜子 - 夜越山公園入口 - 町営体育館前 - 新あおもり農協平内支店前 - 平内病院通り - スキー工場前 - 藤沢 - 西平内郵便局前 - 平内中野 - 大石平 - 土屋 - 土屋番所跡 - 浅虫水族館通り - [[道の駅浅虫温泉#「道の駅ゆ〜さ浅虫前」停留所|道の駅ゆ〜さ浅虫前]] - '''新あおもり農協本店前 - 後萢通 - 県立中央病院通り - ([[青森県立中央病院|県立中央病院前]]/むつ行のみ) - (保健所前/むつ行のみ) - [[合浦公園]]口 - 栄町一丁目 - 文化会館前 - 市役所前 - 新町二丁目(旧・松木屋前) - [[青森駅|青森駅前]]''' :: ※特急青森線:むつ〜野辺地駅間は各停留所停車のため主要停留所のみ記載、野辺地駅〜青森間は停車停留所を記載('''太字''':青森行では降車専用・むつ行では乗車専用)。 :: : '''沿革''' :* [[1959年]][[11月]] - むつ〜青森間の路線開設を申請する(先行して本田名部〜野辺地間の路線認可が下りる)。<br />このころ、[[青森市営バス]]が青森〜十和田市間、国鉄バスが青森〜野辺地間、[[十和田観光電鉄]]が青森〜十和田市間、東北観光バス(本社:十和田市)が青森〜十和田市・八戸間、[[三八五観光]]が八戸〜青森間を相次いで申請をしたため難航、公聴会を開き十鉄バス青森〜三本木間78.9 kmと下北バス青森〜本田名部間98.9 kmが認可された。 :* [[1960年]] - 横浜線運行開始。 :* [[1963年]][[5月]] - 青森線運行開始。 :* [[1964年]] - 吹越線(田名部〜尾駮間)運行開始。 :* [[19xx年]] - 青森バスセンター発着から青森駅前発着となる。 :* [[1986年]][[4月]] - 青森駅前発着から観光物産館発着となる([[青森県観光物産館アスパム|青森県観光物産館]]開館による)。 :* 1990年代末 - 野辺地駅前経由となる。 :* [[2002年]][[4月1日]] - 青森線を6往復から3往復に減便、青森出張所での宿泊行路廃止。また野辺地線、吹越線、横浜線を廃統合し、野辺地線に一本化。 :* 2002年[[7月1日]] - むつバスターミナル〜野辺地駅間各停留所停車化、野辺地駅での青森方面客扱い開始。 :* [[2003年]][[7月15日]] - 県立中央病院前経由に変更。 :* [[2009年]]4月1日 - 青森線を3往復から2往復に減便。 :* 20xx年 - 青森行が県立中央病院前経由から国道4号直進(南造道)を通る従来のルートに戻る。むつ行は引き続き県立中央病院前経由で運行。 :; 利用状況 :* 運行開始当初…12往復、平均乗車密度27人 :* 2001年度…6往復、平均乗車密度3.9人、年間赤字約6000万円(補助対象路線外) :* 2003年度…3往復、年間赤字約3700万円<br />現在の利用者の多くは青森県立中央病院への通院者である。 : '''青森線のクローズドドア制度について''' :* 青森市内 ::* 青森市内区間(青森〜新あおもり農協本店前)は[[青森市営バス]]の路線と重複しているため、認可された停留所のみで青森行は下車、むつ行は乗車のみとなっている。そのため、この区間のみの利用はできない。 :* 野辺地駅 ::* 1990年代に野辺地駅前へ乗り入れたが、青森行は降車のみ、むつ行は乗車のみとなっていた。現在は撤廃された。 : '''その他''' :* 野辺地折り返し系統に限り、生活交通路線として国・県・沿線自治体の補助を受ける<ref name="hojorosen"/> :* 十鉄バス野辺地案内所で5分休憩がある。 :* 青森線「野辺地駅前」停留所はロータリーではなく、駅前路上停留所停車となる。 :* むつ〜青森間往復乗車券発売、むつバスターミナル・[[大畑駅 (青森県)|大畑駅]]で発売している。 :* 青森行の「合浦公園口」停留所は[[青森市営バス]]・[[弘南バス]]の「岡造道一丁目」と同じ場所にある。 :* むつ行の「合浦公園口」停留所は[[十和田観光電鉄]]の「岡造道一丁目」と同じ[[青森東バイパス]]上の岡造道交差点西側にある。 :* 以前は「新町二丁目」停留所を「松木屋前」停留所と呼んでおり、西口玄関前に「下北交通のりば」と書かれた看板と共に専用バス乗り場があった。 === むつ線 === * 下北駅 - 田名部高校前 - むつバスターミナル - 北関根 - 浜関根 - 川代 - 正津川 - 大畑駅 * むつバスターミナル - 北関根 - 浜関根 - 川代 - 正津川 - 大畑駅 ** 生活交通路線として国・県・沿線自治体の補助を受ける<ref name="hojorosen">{{Cite web|url=http://www.0175.co.jp/s/business-goal.html|title= 欠損補助路線について|publisher=下北交通|accessdate=2020-1-2}}</ref>。 === 佐井線 === * [[下北駅]] - [[青森県立田名部高等学校|田名部高校前]] - むつバスターミナル - 北関根 - 川代 - 正津川 - [[大畑駅 (青森県)|大畑駅]] - 下風呂 - 易国間 - 大間 - 佐井車庫前 * むつバスターミナル - 北関根 - 川代 - 正津川 - 大畑駅 - 下風呂 - 易国間 - 大間 - 佐井車庫前 ** [[1937年]][[10月]] - 佐井線路線バス運行開始<ref>『佐井村史』(佐井村役場・1972年10月10日発行)705頁「年表」</ref> ** [[2001年]][[4月1日]] - 下北交通大畑線廃止代替路線である下北駅線を下北駅〜大畑駅間で運行開始。しばらくは[[田名部駅]]前へも乗り入れていた。 ** [[200x年]]4月1日 - 下北駅線の田名部駅経由を廃止し、むつ線と整理・統合したうえで、一部便が下北駅〜佐井車庫前間の運行となる。 *** 生活交通路線として国・県・沿線自治体の補助を受ける<ref name="hojorosen"/> * 佐井車庫前 → 青年会館前 → 願掛岩 → 磯谷 ** 土曜・日曜・祝日および大間高校休校日は運休。 ** 現在は磯谷まで夜に一便のみで磯谷方向のみ運行、2010年代は少し先の長後まで一日2便で運行していた。 === 尻屋線 === * むつバスターミナル - 最花 - 目名 - 入口 - 野牛口 - 岩屋 - 尻屋( - 尻屋崎) ** 尻屋〜尻屋崎間は毎年5月1日から10月31日の間のみ運行。 ** [[1944年]][[8月3日]] - 田名部〜入口間開業。 ** [[1956年]][[1月18日]] - 入口〜尻屋間開業。 *** 生活交通路線として市町村単独補助を受ける<ref name="hojorosen"/> === 泊線(旧・小田野沢線) === * むつバスターミナル - 上田屋 - 東通村庁舎 - 猿ヶ森 - 小田野沢 - 白糠 - 泊中央 - 泊車庫 ** [[1942年]][[3月1日]] - 田名部〜泊間開業(近川経由)。 ** [[1960年]][[2月2日]] - 田名部〜小田野沢間開業。 ** [[1961年]][[12月12日]] - 小田野沢〜白糠間開業(小田野沢経由)。 ** [[1976年]][[3月16日]] - 近川経由が廃止。 *** 生活交通路線として国・県・沿線自治体の補助を受ける<ref name="hojorosen"/> === 六ヶ所線 === * 野辺地駅前 - 野辺地出張所 - 有戸 - 六ヶ所役場 - 泊中央 - 泊車庫 ** 生活交通路線として市町村単独補助を受ける<ref name="hojorosen"/>。 === むつ市内線 === * むつバスターミナル - [[むつ総合病院]]前 - 合同庁舎前 - 下北駅 - 赤川駅 - 第三小学校前 - むつ営業所 - むつバスターミナル * むつバスターミナル - むつ総合病院前 - 合同庁舎前 - 下北駅 * むつバスターミナル - むつ総合病院前 - 栄町 - 田名部高校前 - むつバスターミナル === むつ病院・中央クリニック循環線 === * むつバスターミナル → むつ総合病院前 → 下北駅前 → 中央クリニック → 合同庁舎前 → むつ総合病院前 → むつバスターミナル ** 土曜・日曜・祝日運休。 === むつ総合病院循環線 === * むつバスターミナル → 本町 → むつ総合病院前 → 本町 → むつバスターミナル ** 日曜・祝日運休。 === 恐山線 === (季節運行) * 下北駅 - むつバスターミナル - 冷水 - [[恐山]] ** [[2002年]][[5月1日]] - 田名部駅発着から下北駅発着となる。 ** 毎年5月1日から10月31日までの運行。恐山大祭期間中は臨時便が運行される<ref name="恐山">[http://www.0175.co.jp/s/s-bus/osorezan-other.pdf 恐山線時刻表]下北交通 2023年10月31日閲覧</ref>。 * 下北駅 - 赤平 - 冷水 - 恐山 ** 毎年5月1日から9月30日までの運行。 === むつバイパス線 === * むつバスターミナル - 女館 - 東横迎町 - むつ営業所 ** 土曜・日曜・祝日およびむつ養護学校休校日は運休<ref name="恐山" />。 ** むつ養護学校線の出入庫を兼ねた路線である。 === むつ養護学校線 === * むつバスターミナル - むつ総合病院前 - 下北駅前 - 赤川駅前 - 金谷沢 - むつ養護学校前 ** 土曜・日曜・祝日および休校日は運休<ref name="恐山" />。 === 平内町民バス === * [[平内町民バス]]を参照 == 廃止路線 == ; 横浜線 * むつバスターミナル - 近川 - 横浜車庫 ** [[2002年]][[4月1日]] - 廃止。 ; 吹越線 * むつバスターミナル - 近川 - 横浜 - 中吹越 - 尾駮 - 六ヶ所役場前 ** 2002年4月1日 - 廃止。 ; 中野沢線 * むつバスターミナル - 近川 - 中野沢開墾 ** 2002年4月1日 - 廃止。 ; 六ヶ所線 * 白糠 - 北滝の尻 ; 川目線 * 佐井車庫前 - 川目 ; 石上線 * むつバスターミナル - 横迎町二丁目 - 品の木 - 石上入口 - 青光運輸前 - 渡部宅前 ; 小湊線 * (野辺地駅前 - 狩場沢 - )東地区館前(清水川) - 平内役場前 - 平内中央病院前 - 浅虫温泉 * (野辺地駅前 - 狩場沢 - )東地区館前(清水川) - 平内役場前 - 平内中央病院前 - 浅虫 - 県立中央病院通り - 観光物産館前 ; むつ市内循環アークスプラザ線 * [[1998年]]4月1日 - 運行開始。 * 2002年4月1日 - 廃止。 ; 松山団地循環線 * むつバスターミナル - むつ総合病院前 - 第二田名部小学校前 - 松山団地 - 市役所前 - むつ総合病院前 - むつバスターミナル ** [[1988年]][[9月1日]] - 運行開始<ref>{{Cite web|url=http://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm/38,1249,c,html/1249/2.pdf|title= 平成20年度第2回むつ市地域公共交通活性化協議会 議事概要|publisher=むつ市|accessdate=2020-1-2}}</ref>。[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]と共同運行(JRバスはのち撤退)。 ** [[2008年]][[12月1日]] - 廃止。 ; 薬研線 * (大畑病院←)大畑駅 - 小目名 - 薬研 - 奥薬研<br />小目名〜奥薬研間は毎年5月1日から10月31日まで運行。 ** [[2009年]]11月1日 - 廃止。薬研地区の旅館等が送迎バスを運行していることに加え、経路中の小目名地区の小学校が統合されて通学者もスクールバスを利用していることによって、本路線の利用者が激減したことによる<ref>{{Cite web|url=http://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/sm/kyokuho/091013.pdf|title=東北運輸局報|date=2009年10月13日|page=1 - 2|publisher=東北運輸局|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101008235041/http://wwwtb.mlit.go.jp/tohoku/sm/kyokuho/091013.pdf|archivedate=2010-10-8|accessdate=2020-1-2}}</ref>。廃止後は代替としてむつ市によるデマンドタクシーが運行されている<ref>{{Cite web|url=https://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm/38,14339,60,html|title=大畑~奥薬研「デマンド型乗合タクシー」|publisher=むつ市|accessdate=2020-1-2}}</ref>。 ; 特急むつ - 七戸十和田駅線 * むつバスターミナル - むつ市役所 - 下北駅 - 横浜 - 野辺地中央 - [[七戸十和田駅]] ** むつバスターミナル - 野辺地中央間は[[クローズドドアシステム|クローズドドア制]](七戸十和田駅行では野辺地中央まで乗車専用、むつ行では野辺地中央より降車専用)<ref>{{PDFlink|[http://www.toutetsu.co.jp/22.12.4mutsu.pdf 七戸十和田駅 - むつ線運行について]|十和田観光電鉄による案内より(2010年12月4日閲覧)}}</ref> : '''概要''' :* [[十和田観光電鉄]]と共同運行していた。1日2往復(各社1往復)。 :* 現金のみの精算で、下北交通・十和田観光電鉄バスの定期券・回数券等は使用できない。また、運賃は並行する両社の一般路線バス運賃とは異なる<ref>{{PDFlink|[http://www.toutetsu.co.jp/img/shichinohe-mutsu23.4.29.pdf 七戸十和田駅発むつ行き時刻表]|十和田観光電鉄公式サイトより}}</ref>。 : '''路線沿革''' :* [[2010年]][[12月4日]] - [[東北新幹線]]全線開業により運行開始(2011年3月31日までの期間運行)。 :* [[2011年]][[4月29日]] - 同年[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]の影響により運休していたが、この日の[[東北新幹線]]全線運行再開に合わせ、本路線も運行を再開(2011年[[11月30日]]までの期間運行)<ref>{{PDFlink|[http://www.toutetsu.co.jp/osirase/20110426_towadashichinohe-mutsu.pdf 七戸十和田駅〜むつバスターミナル線バス運行について]|十和田観光電鉄(2011年4月26日発表)}}</ref><ref>[http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2011/20110427093854.asp?fsn=eb33f76037153e93cde084f7e7644d6f 十鉄・下北交通が新幹線接続バス] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160304141822/http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2011/20110427093854.asp?fsn=eb33f76037153e93cde084f7e7644d6f |date=2016年3月4日 }} [[東奥日報]](2011年4月27日)</ref>。 :* 2011年11月30日 - この日の運行をもって運行終了<ref>[http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2011/10/24/new1110242102.htm 「七戸十和田―むつ」路線バス11月末終了]デーリー東北(2011年10月24日)</ref>。 ; 大畑校舎線・関根橋線 * 大畑駅 - 大畑病院前 - [[青森県立大畑高等学校|大畑高校前]] - 関根橋 ** [[1988年]][[4月1日]] - 大畑駅~大畑高校前間が開業<ref>{{PDFlink|[http://www.city.mutsu.lg.jp/index.cfm/38,1249,c,html/1249/20150412-120305.pdf 平成26年度第2回むつ市地域公共交通活性化協議会 議事概要]}}</ref>。 ** [[1991年]][[4月1日]] - 大畑高校前~関根橋間を延伸。 ** [[2015年]][[3月31日]] - 利用者減少と大畑高校(閉校時は、田名部高校大畑校舎)の閉校に伴い、廃止。 ; 尻労(しつかり)線 * むつバスターミナル - 最花 - 目名 - 入口 - 野牛口 - 尻労 ** [[1972年]][[12月5日]] - 開業。 *** 生活交通路線として市町村単独補助を受ける<ref name="hojorosen"/> ** 2023年3月末 - 廃止<ref name="toonippo20220927">[https://web.archive.org/web/20220927125959/https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1364297 東通のバス4路線 来年3月で廃止/下北交通] 2022年9月27日、東奥日報</ref>。 ; 東通庁舎線 :* むつバスターミナル - 大利 - 高間木 - 石持 - 蒲野沢 - 桑原 - 東通村庁舎 - 野花菖蒲ノ里(大利経由大利線) :* むつバスターミナル - 最花 - 高間木 - 石持 - 蒲野沢 - 桑原 - 東通村庁舎 - 野花菖蒲ノ里(最花経由蒲野沢線) :* むつバスターミナル - 最花 - 高間木 - 石持 - 稲崎平 - 野牛口 - 桑原 - 東通村庁舎 - 野花菖蒲ノ里(野牛経由野牛線) :** [[1989年]][[4月20日]] - 大利経由運行開始。 :** [[1991年]][[4月1日]] - 野牛から蒲野沢・村役場・田屋経由むつ行と入口・目名経由むつ行の運行開始<ref>「停留場まで3キロ→不便やっと解消 住民の期待乗せ東通村野牛地区定期バスしゅっぱ~つ」(東奥日報1991年4月2日朝刊10面記事)</ref>。 :*** 蒲野沢線は生活交通路線として市町村単独補助を受ける<ref name="hojorosen"/> :** 2023年3月末 - 大利線、蒲野沢線、野牛線廃止<ref name="toonippo20220927" />。 == その他 == * 乗降方法は前乗り前降り後払い式のワンマンバスである。 * 保有車両は[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]製が過半数を占める。次は[[いすゞ自動車]]製が多い。 * 最近は中古車両も多く、[[西武バス]]・[[西武総合企画]]・[[川越観光自動車]]・[[川崎市交通局]]・[[西東京バス]]・[[遠鉄バス|遠州鉄道]]・[[南海バス]]・[[淡路交通]]・[[阪急バス]]・[[東濃鉄道]]・妙高ハブネット等から移籍。中扉・後扉はステップを塞いだうえで座席を増設して使用しているが、[[低床バス]]については、中扉を車椅子専用出入口としている。 == 鉄道事業 == 1981年に国鉄[[下北交通大畑線|大畑線]]が第1次特定地方交通線に指定されたのを受けて開催された協議会において、[[南部縦貫|南部縦貫鉄道]]が引継ぎの意向を示したことから、それに対抗して下北半島に営業基盤をもつ下北バスが大畑線の引継ぎを決断。経営に乗り出すこととなった。下北バスは鉄道経営の経験は無かったが、バス事業でつながりのあった[[京浜急行電鉄]]の支援を仰ぎ、1984年2月には社名を下北交通に変更、翌1985年7月に大畑線を引き継いだが、赤字のため[[2001年]][[3月31日]]限りで廃止された。 == その他事業 == * [[日本郵便]]青森・むつ線などの下北地方の[[郵便車#郵便自動車|郵便路線(トラック輸送)]]を受託している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}<references /> == 外部リンク == {{commonscat|Shimokita Kotsu}} * [http://www.0175.co.jp/s/ 下北交通] {{bus-stub}} {{rail-stub}} {{DEFAULTSORT:しもきたこうつう}} [[Category:下北交通|社]] [[Category:東北地方の乗合バス事業者]] [[Category:東北地方の貸切バス事業者]] [[Category:むつ市の企業]] [[Category:青森県の交通]] [[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]] [[Category:1930年設立の企業]]
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ミトコンドリア
ミトコンドリア(英語: mitochondrion、複数形: mitochondria)は、ほとんど全ての真核生物の細胞の中に存在する、細胞小器官の1つである。ヤヌスグリーンによって青緑色に染色される。 ミトコンドリアは脂質二重層でできた外膜と内膜を有し、膜には様々なタンパク質が存在する。ミトコンドリアでは、高エネルギーの電子と酸素分子を利用して、ATPを合成する。すなわち、ミトコンドリアは真核生物における好気呼吸の場である。また、真核生物の細胞が有する核とは別に、ミトコンドリア独自のミトコンドリアDNA(mtDNA)を内部に有し、ある程度ながら自立的にミトコンドリアは細胞内で分裂して、増殖する。このmtDNAは、ミトコンドリア内部だけに限らず、真核生物の細胞全体の生命現象にも関与する。さらに、細胞のアポトーシスにおいても、ミトコンドリアは重要な役割を担っている。 ヒトにおいては、肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には特に多くのミトコンドリアが存在し、細胞質の約40パーセントを占めている。全身の平均では、1細胞中に300個から400個のミトコンドリアが存在し、全身で体重の約1割を占めていると概算されている。単語の「Mitochondrion」はギリシャ語のμίτος, mitos「糸」とχονδρίον, chondrion, 「顆粒」に由来し、糸粒体(しりゅうたい)と和訳される例も見られる。 ミトコンドリアの直径は0.5 μm程度であるが、その形状は、生物種や細胞の置かれている条件によって多様である。球形、円筒形、紐状、網目状など様々な形状のミトコンドリアが存在し、長さが10 μmに達する物も珍しくない。1細胞あたりの数は、1つに維持されている細胞もあるが、多い場合では数千個のミトコンドリアが絶えず分裂と融合を繰り返している場合もある。 ミトコンドリアは外膜と呼ばれる脂質膜に囲まれており、その内側に、もう1枚、内膜と呼ばれる脂質膜を有する。内膜に囲まれた内側をマトリクス、内膜と外膜に挟まれた空間を膜間腔と呼ぶ。なお、内膜はマトリクスに向かって陥入した、クリステ(cristae)と呼ばれる特徴的な構造を取っている。参考までに、この「cristae」とは「櫛」という意味である。 ミトコンドリアは照射された光を強く屈折するため、生きた細胞を位相差顕微鏡で観察すると、ミトコンドリアが明瞭に確認できる。生きた細胞を観察すると、ミトコンドリアが細胞内で、伸縮したり、屈曲したりと、動いている姿も確認できる。 真核生物の細胞膜と同様に、ミトコンドリアの外膜の組成も、タンパク質とリン脂質の重量比が約1:1である。外膜の進化的起源は真核生物の細胞内膜系だと考えられ、現在でも小胞体膜と物理的に関係しており、カルシウムシグナルの伝達や脂質の交換を行っている。 外膜にはポリンと総称される膜タンパク質が大量に存在し、分子量5000以下の分子が、外膜を通過できるようなチャネルを形成している。これより大きなタンパク質は自由に出入できず、タンパク質のペプチド配列中に、特別な移行シグナルが付与されている場合にのみ、細胞質からミトコンドリア内へと取り込まれる。 膜間腔は、ミトコンドリアの外膜と内膜に挟まれた空間である。外膜がポリンによって低分子を自由に透過させる性質を実現しているため、通常の状態において、膜間腔のイオンや糖などの組成の多くは、ほとんど細胞質と同等である。例外は、内膜の直近のプロトンの濃度のように、限られる。その一方で、膜間腔におけるタンパク質の組成は、細胞質と大きく異なっており、外膜が破壊されて膜間腔に存在するタンパク質(シトクロムcなど)が細胞質へと漏れ出すと、細胞のアポトーシスが引き起こされる。 内膜はマトリクスと膜間腔とを隔てており、ミトコンドリアの機能的アイデンティティを担っている。酸化的リン酸化に関わる呼吸鎖複合体などの酵素群が、内膜には規則的に配列している。外膜とは対照的に、基本的に内膜は不透性であり、何らかの物質を内膜を横断して輸送するためには、それぞれの物質に対して特異的な輸送体が必要である。 呼吸鎖複合体は内膜を挟んで、マトリクスからプロトンを膜間腔へと汲み出して、膜間腔の側のプロトンの濃度を高め、濃度勾配が形成される。この濃度勾配が、物質輸送やATP合成に関与している。 また、マトリクスへのタンパク質輸送装置やミトコンドリアの分裂・融合に関わるタンパク質群などが存在し、ミトコンドリアを構成する全タンパク質のおよそ2割(150以上)が含まれている。タンパク質とリン脂質の重量比は3:1ほどである。内膜の進化的起源は共生細菌の細胞膜を由来としており、内膜に特徴的なリン脂質カルジオリピンの存在がその証左と考えられている。 一般的に内膜は内側へ向かって陥入し、クリステと呼ばれる構造を形成している。これによって内膜の表面積の増大、ひいてはATP合成能の増大に寄与している。外膜と内膜の表面積の比は細胞のATP需要と相関しており、肝臓では5倍ほど、骨格筋ではさらに大きな値である。 クリステの形状は生物によって様々であり、平板状、管状、団扇状、などが知られている。多細胞動物や陸上植物ではミトコンドリアの長軸に直交する平板状をしており、日本では、教科書などを通じて広く知られている形状である。しかし、これはむしろ特殊な形状であり、真核生物全体を見渡すと、管状のクリステが一般的である。 さらに、同一個体であっても、組織によってクリステの形状が異なる場合がある。例えば、ヒトの多くの細胞のミトコンドリアのクリステは平板状だが、副腎皮質や精巣や卵巣でステロイドホルモン類を分泌する細胞が有するミトコンドリアのクリステは、管状や小胞状であったりする。他にも、ラットでも、このような組織によって、ミトコンドリアのクリステの形状が異なっていることが確認された。さらには、哺乳類のステロイドホルモン分泌細胞以外でも、平板状だけでなく、管状や小胞状のクリステも有するミトコンドリアが観察される場合もある。これらのように例外も数多い。 内膜に囲まれた内側がマトリクスであり、TCAサイクル(別名:TCA回路・クレブス回路・クエン酸回路・クエン酸サイクル)やβ酸化など、ミトコンドリアの代謝機能に関わる酵素群が数多く存在している。ここにはmtDNAが含まれており、ミトコンドリア独自の遺伝情報が保持されている。その遺伝子発現を担うために、リボソーム、tRNA、転写因子や翻訳因子なども存在している。ミトコンドリア全タンパク質の6割から7割が存在しており、非常にタンパク質濃度の高い区画である。 ミトコンドリアの主要な機能は、解糖系やTCAサイクルなどで生成した産物を利用して、電子伝達系に高エネルギーの電子を送り込み、それを酸素に押し付けながら作り出したプロトンの濃度勾配で、ATP合成酵素を駆動して、ADPを酸化的リン酸化によってATPに変換する機能である。。 もちろん、ミトコンドリアが関与しない解糖系のようなATP産生系も存在するものの、真核生物の細胞の活動に必要なATPの多くは、直接、あるいは間接的にミトコンドリアからATPの形で供給される。さらに、ミトコンドリアで行われる、TCAサイクル自体でも実質上はATPと等価なGTPも産生されるなどするため、比喩的に「真核細胞のエネルギーを作り出す場」などと説明される場合もある。 ただし、ATPやGTPの合成以外にもミトコンドリアは多様な機能を有している。例えば、ステロイドやヘムの合成などを含む様々な代謝、カルシウムや鉄の細胞内濃度の調節、細胞周期やアポトーシスの調節などにも大きく関わっているとされる。しかし、これらの機能を全てのミトコンドリアが担っている訳ではなく、機能によっては、特定の細胞でのみ動いている。 こうした様々な機能には多数の遺伝子が関わっており、それらに関わる遺伝子の変異が発生した細胞が自然免疫で排除されないと、ミトコンドリアの機能低下を招き、ミトコンドリア病を引き起こす場合がある。 ATP産生はミトコンドリアの主たる機能であって、これに関わる多くのタンパク質が内膜やマトリクスに存在している。 細胞質では解糖系が行われ、主にグルコースを代謝して、わずかなATPを合成しながら、ピルビン酸とNADHに分解する。ここで、もし酸素が充分に存在しない場合には、解糖系の産物は嫌気呼吸により代謝される。しかしミトコンドリアで酸素を用いて、これらを酸化する好気呼吸を行えば、嫌気呼吸と比べて効率良くATPを得られる。嫌気性分解では1分子のグルコースから2分子のATPしか得られなかったのに対して、ミトコンドリアによる好気性分解によって、1分子のグルコースから約38分子のATPが合成できる。 また、ミトコンドリアでは、ピルビン酸だけでなく、脂肪酸も利用できる。ミトコンドリアで脂肪酸はβ酸化が行われる。ピルビン酸がアセチルCoAに変換されて、TCAサイクルに入るように、β酸化によって、脂肪酸は炭素鎖が2つずつ切り離されてアセチルCoAが生成され、同じようにTCAサイクルに入るからである。 なお、植物のミトコンドリアは、酸素が無くとも、亜硝酸を利用してある程度のATP産生が可能である。 地球上の全ての生物で解糖系は、その反応が細胞質基質で起こる。これは解糖系が細胞内小器官が発生する以前から存在してきた、最も原始的な代謝系であることを反映しているのだろうと考えられている。 真核生物では、解糖系で得られた物質(ピルビン酸とNADH)を、TCAサイクルや電子伝達系の反応を行うミトコンドリアへ輸送し、好気呼吸を行う。 細胞質の解糖系で生成されたピルビン酸は、ピルビン酸共輸送体(ピルビン酸/H+)により細胞質からミトコンドリアへ輸送される。同じく細胞質で生成されたNADHはリンゴ酸-アスパラギン酸シャトルによりミトコンドリアへ実質的に輸送される。ただし、グリセロリン酸シャトルで輸送される場合もあり、この場合にNADHは、ミトコンドリアのTCAサイクルで発生するFADH2相当に、ミトコンドリアでのATPの産生量は目減りする。 なおADPは、ATP/ADPトランスポーターにより細胞質からミトコンドリアへ輸送される。 また、H2O、O2、CO2、NH3は、そのままミトコンドリア内膜を通過できる。 アセチルCoAは、好気性細胞呼吸の第2段階目である、ピルビン酸がピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体により脱炭酸して生成する。この酵素反応はミトコンドリアのマトリクスで起こる。ここで生成したアセチルCoAは、TCAサイクルに投入される。 解糖系で生じたピルビン酸は内膜を能動輸送によって透過し、マトリクスで酸化され補酵素Aと結合し、二酸化炭素、アセチルCoA、NADHを生じる。アセチルCoAは、TCAサイクルへ入る基質である。TCAサイクルの反応に関わる酵素群は、ほとんどがミトコンドリアのマトリクスに存在している。しかし、コハク酸デヒドロゲナーゼだけは例外で、内膜の内側に付着しており、これが電子伝達系の複合体IIに当たる。TCAサイクルで、コハク酸からフマル酸に変換する際の酸化還元反応では、電子伝達系の複合体Iを動かすほどのエネルギーが無く、複合体IIが動かされる。その後は、いずれも電子伝達系の複合体IIIへとエネルギーが伝達され、ATP産生に寄与する。 なお、TCAサイクルはアセチルCoAを酸化して二酸化炭素を生じ、その過程で3分子のNADHと1分子FADH2、1分子のGTPを生成する。なお、二酸化炭素はミトコンドリア外へ拡散して排出される。 TCAサイクルでは、サイクルの1回転ごとに、全ての中間体(例えば、クエン酸、イソクエン酸、α-ケトグルタル酸、コハク酸、フマル酸、リンゴ酸およびオキサロ酢酸)が再生される。したがって、ミトコンドリアにこれらの中間体のいずれかを追加して加えると、追加された量がTCAサイクル内に保持され、中間体の1つが他方に変換されて順次増加する。よって、それらの中間体のいずれか1つをTCAサイクルに加えれば、補充反応(アナプレロティック反応)効果を示す。逆に、中間体のいずれかの除去すれば、消費反応(カタプレロティック反応)効果を示す。これらの補充反応及び消費反応は、TCAサイクルの回転で、アセチルCoAと結合してクエン酸を形成するために利用可能な、オキサロ酢酸の量を増加または減少させる。この回転量が、ミトコンドリアによるATP製造量と、細胞へのATPの提供量の増減を左右する。要するに、ミトコンドリア内に存在するTCAサイクルの各種中間体の量が、TCAサイクルの反応速度を調節し、ATPの合成量も調節することを意味する。 NADHやFADH2が有する還元力は、内膜にある電子伝達系で数段階を経て、最終的に酸素に渡される。要するに、電子を、電気陰性度の高い酸素に押し付ける形である。 なおNADHは、マトリクスでのTCAサイクルやβ酸化だけでなく、細胞質の解糖系でも生ずる。細胞質で生じたNADHの還元力は、マロン酸-アスパラギン酸対向輸送系や、リン酸グリセロールシャトル系を通じて電子伝達系に供給される。内膜の電子伝達系には、NADH脱水素酵素、シトクロームc還元酵素、シトクロームc酸化酵素が存在しており、プロトン(H)を膜間腔へ汲み出す。この過程は非常に効率的だが、不充分な反応により活性酸素種を生じ得る(活性酸素#活性酸素と人体の関係参照のこと)。これがいわゆる「酸化ストレス」の形態の1つであり、ミトコンドリアの機能低下や老化に関与していると考えられている。 グルコーストランスポーターであるGLUT1を介して、デヒドロアスコルビン酸がミトコンドリアに輸送され、その後アスコルビン酸に還元され、活性酸素によるフリーラジカルの大部分が生成される場所であるミトコンドリアに蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアの脂質膜とmtDNAを、活性酸素による酸化から保護する。 電子伝達系で、複合体Iと複合体IIIと複合体IVは、電子が伝達された際に、ミトコンドリアのマトリクスから膜間腔へとプロトンを汲み出す。このようにしてプロトンが膜間腔へ汲み出された結果、ミトコンドリアの内膜の隔てて、プロトン濃度の差(電気化学的勾配)が生じる。汲み出されたプロトンは、ATP合成酵素を通じてマトリクスへ戻ることができ、この際に、電気化学的勾配のポテンシャルを使って、ADPと無機リン酸(Pi)を、ATPへと変換する。生成されたATPは、ATP/ADPトランスポーターによって、ミトコンドリアから細胞質へ輸送され、細胞の活動エネルギー源として利用される。 この原理を化学浸透説と呼び、これをピーター・ミッチェルが最初に唱えた功績によって、1978年にノーベル化学賞を受賞した。また、ATP合成酵素の反応機構を明らかにしたポール・ボイヤーとジョン・E・ウォーカーには、1997年にノーベル化学賞が授与された。 ミトコンドリアにおける脂肪酸の輸送については、β酸化#脂肪酸の動員及びβ酸化#脂肪酸の活性化とミトコンドリア内への輸送を参照のこと。ミトコンドリアにおけるβ酸化については、β酸化#β酸化反応および酵素群を参照のこと。 なお、このミトコンドリアのマトリクスで行われる脂肪酸のβ酸化によって、1分子のアセチルCoAを生成する反応の際に、1分子のATPを消費するものの、FADH2とNADHと1分子ずつ生成する。このFADH2とNADHは、電子伝達系に使用され、より多くのATPを産生できる。さらに、ミトコンドリアのマトリクスで生成されたアセチルCoAは、同じくマトリクスで行われているTCAサイクルに投入され、さらに、GTPやATPを産生できる。 ミトコンドリアにはアルデヒドデヒドロゲナーゼも発現している。 飲酒などによってエタノールを体内に摂取すると、肝臓などで発現しているアルコールデヒドロゲナーゼなどの作用によって代謝され、アセトアルデヒドが生成する。このアセトアルデヒドを、ミトコンドリアはアルデヒドデヒドロゲナーゼで代謝して、酢酸に変換できる。このミトコンドリアでのアルデヒドデヒドロゲナーゼの活性が遺伝的に低いヒトが、東洋人などの一部に見られ、そのようなヒトはアセトアルデヒドの毒性が強く出やすい。 なお、酢酸とは、炭素鎖2つの脂肪酸である。 速筋線維はミトコンドリアが少なく、グリコーゲンが比較的多いので白く見える。解糖系でATPを産生し、その結果として蓄積したピルビン酸は、乳酸デヒドロゲナーゼで乳酸へと変換されやすい。このような嫌気的な糖分解によるATP産生であれば、わざわざ外部から酸素を取り込む必要もあく、速くATPを作り出せる。このこともあり、乳酸性閾値よりも高い運動強度では、速筋線維が多く使われるようになる。しかしながら、この方法では長時間の運動は続けられないという欠点がある。 これに対して、遅筋線維や心筋は、ミオグロビンが多いので赤く見え、酸素を利用しやすい環境を備えている。赤色の筋肉では、乳酸を作るよりは、解糖系の産物であるピルビン酸をミトコンドリアのTCAサイクルへ、解糖系で生成したNADHもミトコンドリアに渡され、ATPを合成して、運動のために使っている。この方式であれば、乳酸などが蓄積しないので、運動強度が低い場合は遅筋線維が主として働いている。 なお、速筋線維で発生した乳酸は、血液を介して肝臓に運ばれ、コリ回路でATPを消費してグルコースの再生に使われることは、よく知られている。 これ以外に、乳酸デヒドロゲナーゼは、乳酸をピルビン酸に戻す逆反応も触媒できる。遅筋線維や心筋では、外部から取り込んだ乳酸を、ピルビン酸に戻して、ミトコンドリアのTCAサイクルに投入することも行っている。 いずれにしても、主に速筋線維で蓄積しやすい乳酸の代謝には、細胞膜を通過して他の細胞へと乳酸が輸送される必要がある。この乳酸の輸送は、乳酸だけでなくピルビン酸などの輸送にも関わるため、モノカルボン酸の輸送担体(英語: Monocarboxylate Transporter (MCT))と呼ばれている。 ある条件下では、膜間腔のプロトンはATP合成に関与せずに、促進拡散によってマトリクスに戻る場合がある。これは「プロトンのリーク」とか「ミトコンドリアの脱共役」と呼ばれ、これによって蓄積されていた電気化学ポテンシャルは熱として解放される。 サーモジェニン(英語版)などの一群のプロトンチャネル(脱共役タンパク質)が媒介しており、筋肉の震えを伴わない熱産生に関わっている。サーモジェニンは、若齢や冬眠中の哺乳類に見られる褐色脂肪組織のミトコンドリアに多く存在している。 細胞に発生したDNA損傷などのストレスは、アポトーシス誘導分子p53やアポトーシスを調節するBcl-2ファミリータンパク質を介して、ミトコンドリアの膜電位を変化させ、外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖される。なお、ミトコンドリアの外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖されると、ミトコンドリアの機能は低下する。 さらに、ミトコンドリアの膜電位の変化は、ミトコンドリアからのシトクロムcの漏出も発生させ、アポトーシスへとつながる。シトクロムcは、細胞質に存在するApaf-1やカスパーゼ-9と結合して、アポトソーム(英語版)(英語: apoptosome)と呼ばれる集合体を形成する。これによって活性化されたカスパーゼ-9が、下流のエフェクターを活性化する。この後は、DNAが切断されて、細胞は自殺する。 細胞内のカルシウム濃度は様々な機構によって厳密に制御されており、細胞中の情報伝達に重要な役割を果たしている。細胞内のカルシウム濃度の上昇により、セカンドメッセンジャー系が起動されたり、筋肉の収縮が起きたりと、様々な反応が起きる。細胞内におけるカルシウムの貯蔵場所としては小胞体が最も顕著だが、カルシウムの貯蔵に関して、小胞体とミトコンドリアは協調している。 というのも、ミトコンドリアは一過的なカルシウム貯蔵能を有し、細胞におけるカルシウム濃度の恒常性に貢献しているのである。ミトコンドリアは迅速にカルシウムを取り込むことが可能で、カルシウムは内膜のカルシウム輸送体により、マトリクスへと取り込まれる。これの動作は、ミトコンドリアの膜電位に依存している。 こうして取り込んだカルシウムを、ミトコンドリアが後々放出することで、カルシウム濃度の緩衝作用を果たしている。なお、カルシウムの放出は、ナトリウム・カルシウム対向輸送、もしくは、カルシウム依存性カルシウム放出系によって行われる。 ミトコンドリア中には、細胞核とは別に、独自のDNAが存在しており、これをミトコンドリアDNA(mtDNA)と呼ぶ。mtDNAは、細胞核とは異なる独自の遺伝情報を持っている。DNA分子の大きさや形状、codeされている遺伝子の数や種類などは、生物種によって大きく異なる。 ただ、通常はGC含量が低く(20-40%)、基本的なmtDNAは、塩基対が数十kb程度のDNAである。mtDNAには、電子伝達系に関わるタンパク質、リボソームRNAやtRNAなど、数十種類の遺伝子がcodeされている。 ヒトを含む脊椎動物のmtDNAは、真核生物の中ではかなり特殊な性質を多く持っており、研究はよく進んでいるものの、安易な一般化は慎まなければならない。 なお、mtDNAと、それに基づいて合成される産物の一部は、ミトコンドリアだけではなく、細胞表面にも所在し、mtDNAに突然変異が発生している場合には、自然免疫系が特異的に細胞ごと破壊して排除する。mtDNAに突然変異が発生した場合には、ミトコンドリア病を発症する可能性もある。 最も小さなmtDNAを持つ生物はアピコンプレックス門の原虫で、大きさわずか6 kbの線状ゲノムである。電子伝達系に関わる3つのタンパク質遺伝子と、断片化されたリボソームRNA遺伝子群のみが存在している。逆に最も大きなmtDNAは、マスクメロンの持つ2400 kbという巨大なゲノムである。ただし遺伝子数は比較的多いものの、それでも100弱に過ぎず、大量の反復配列やグループ2イントロンなどの非遺伝子領域が大部分を占める。 ヒトを含む多細胞動物のmtDNAはいずれも比較的似通っており、長さ16 kb前後の単一の環状DNAで構成されている。遺伝子は37あり、その内訳は、呼吸鎖複合体とATP合成酵素のサブユニットが13、tRNAが22、rRNAが2である。 遺伝子地図などでは、mtDNAが環状に表現される事例が多い。しかし物理的に環状のmtDNAを持つ生物はごく一部に限られ、多くの生物では環状の基本構造からトイレットペーパーを引き出すかのように連続的に複製されており、その結果mtDNAの大部分は、基本単位が何度も繰り返す線状反復構造を有している。また少数派ではあるものの、常に線状のmtDNAを持つ生物も存在している。 ミトコンドリアゲノムはαプロテオバクテリアから受け継がれており、その遺伝子発現は細菌と共通した特徴を持っており、真核生物の細胞核のDNAとは異なる。例えば、複数の遺伝子がまとめて転写され、それが遺伝子ごとに切断されポリアデニル化されて成熟mRNAとなる点や、翻訳の開始にフォルミル化メチオニンが利用される点、細胞核に存在するようなスプライソソーム型のイントロンが存在しない点、などが挙げられる。 さらに、ミトコンドリアの遺伝暗号表は、細胞核や一般の原核生物で利用されている普遍暗号表と比べて、若干の差が見られる。顕著な例として、細胞核では終止コドンであるはずのUGAが、ミトコンドリアではトリプトファンをコードしている場合が多いことが挙げられるものの、例外も多く、生物種によって少しずつ異なる暗号表を用いているのが実態である。 またミトコンドリアでは、しばしばRNA編集が行われる。例えば高等植物のミトコンドリアでは、DNA配列上のCGGがmRNAの場合は、UGGと編集されてトリプトファンをコードするという例が知られている。 ただ、重要な点として、ミトコンドリアの機能に関わる全ての遺伝子が、mtDNAに存在しているわけではないが挙げられる。ミトコンドリアが持つmtDNA上にcodeされているミトコンドリアゲノムは、細菌のゲノムと比べると、遺伝子数が極端に減少している。一方で、ミトコンドリアが必要とする大多数の遺伝子は、細胞核の側にcodeされており、細胞質の側で転写された情報に基づいて生合成された遺伝子産物が、ミトコンドリアへと輸送される。これは進化の過程で、遺伝子が細胞核へ移動したからだと考えられている。 こうした現象は、比較的よく起きた出来事だと考えられ、マイトソームなどのように全てのDNAを完全に失ったようなミトコンドリアも存在している。 一方で、原生生物のレクリノモナス(Reclinomonas americana)は、他の生物では細胞核から輸送されているようなタンパク質の遺伝子が、mtDNA上に存在しており、比較的原始的なミトコンドリアゲノムを未だに保持していると考えられている。 ミトコンドリアには、呼吸機能に関与する疎水性のタンパク質が存在し、疎水性であるために輸送が難しく、これらをミトコンドリアの内部で作らざるを得ないために、ミトコンドリアに遺伝子が残っている理由の1つと考えられている。 1つのミトコンドリアには、2-10コピーのDNA分子が存在する。その全てが完全に同じ情報を持つわけではなく、複数の異質のDNA分子を含んでいると確認されている。 ミトコンドリアは、リケッチアに近い好気性細菌のαプロテオバクテリアが、真核細胞に入り込んだ結果として獲得されたと考えられている。リン・マーギュリスの細胞内共生説では単に好気性バクテリアが起源とされていたが、その後すぐの1970年代にはすでにミトコンドリアの起源が現在でいうαプロテオバクテリアだという意見が出た。脱窒細菌のParacoccus denitrificansや、暗所好気条件で培養した紅色光合成細菌のRhodobacter sphaeroidesは、呼吸鎖の構成や阻害剤への応答がミトコンドリアと類似しており、特に、シトクロムcがミトコンドリアと互換性を持つ点が注目された。 細胞核DNAにコードされているシトクロムcだけでなく、mtDNAにコードされているリボソームRNAの配列を使った系統解析でもαプロテオバクテリア起源であると示され、1980年代にはミトコンドリアのαプロテオバクテリア起源は受け入れられるようになった。 ただし、初期の解析では高等植物ミトコンドリアのリボソームRNAの配列が、他のミトコンドリアの配列と比べて進化的距離が非常に小さかったため、ミトコンドリアの起源は単独ではなく、高等植物のミトコンドリアは新たに獲得された物だという意見もあった。しかし、こうした意見は現在では否定され、真核生物のミトコンドリアの起源は単一であるとされている。 もっとも、αプロテオバクテリアは非常に多様な細菌を含む分類群であり、その中でどのような細菌がミトコンドリアの起源なのかについては、長く議論が続いている。初期には前述の通り脱窒細菌や光合成細菌が起源だと考えられていたが、シャペロニンHsp60(GroEL)を用いた系統解析によりリケッチアが最も近縁であると示されてからは、これが有力説となった。リケッチアは、細胞内寄生生物である点、TCAサイクルを持ち好気呼吸ができるのに対して解糖系を持たない点、細胞膜にADP/ATP輸送体を持っている点、ゲノムが小さくAT含量が高い点など、ミトコンドリアと共通した特徴が複数見られる。 1998年に発疹チフスを引き起こすリケッチアの1種であるRickettsia prowazekiiのゲノムが解読され、祖先的とされるReclinomonas americanaのミトコンドリアゲノムと共通している遺伝子や、配置順が保存された遺伝子群などが見出され解析された。その多くはミトコンドリアがリケッチアに近縁であるという仮説を支持する結果であったが、ADP/ATP輸送体については、予想に反して起源を異にしていると示された。 20世紀末から21世紀初頭にかけて、世界中の海洋には自由生活性で浮遊性の細菌ペラジバクター(暫定的にCandidatus Pelagibacter ubiqueと命名されている)が存在していることが明らかとなった。ペラジバクターはリケッチア目の中で、最も祖先的な位置から派生したと考えられる生物であり、ミトコンドリアの起源を、ペラジバクターとその他一般的なリケッチアとの間に求められる。 なお、アメーバに似た原生生物であるペロミクサや微胞子虫など、原生生物の中はミトコンドリアを持っていないものもいる。これを、ミトコンドリアが共生する以前の真核生物の生き残りと見る説があった(→アーケゾア仮説)が、後に否定された。 ミトコンドリアの特徴は、動物、植物、菌類にほぼ共通であるが、それ以外の原生動物では、若干異なった形状の物がある。特にクリステの形については、明らかに異なった形状のミトコンドリアが見られる。 ヒトなどの一般のミトコンドリアでは、内膜がひだのように折れ曲がり、クリステは平坦な板のような形をしている。しかし、粘菌類の場合、クリステは内膜から内部へと放射状に入り込む管の形で、管の表面にATP合成酵素の手段が並んでいる。また、内部の中央にDNAを含んだ塊があって、ミトコンドリア核と呼ばれる。このような、管状のクリステを持つミトコンドリアは、繊毛虫やアピコンプレックス類、アメーバ類、クロララクニオン藻類などの原生生物にも見られる。 また、ミドリムシ類とトリパノソーマでは、クリステは団扇型である。これらのミトコンドリアは、細長くて枝分かれをして、細胞内に広がっている。トリパノソーマでは、鞭毛の基部にキネトプラストと呼ばれる袋状の構造が知られており、その中の顆粒にはDNAが含まれているが、これはミトコンドリアの一部である。 1955年にオットー・ワールブルクは、体細胞が長期間低酸素状態に晒されると呼吸障害を引き起こし、通常の酸素濃度の環境下に戻しても、大半の細胞が変性や壊死を起こし、ごく一部の酸素呼吸に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が、ガン細胞になるとの説を発表した。この説では、酸素呼吸よりも、むしろ解糖系によるエネルギー産生に依存する細胞は、下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞がATP産生を酸素呼吸によらず解糖系に依存した結果、細胞が退化してガン細胞が発生するとした。 ガン細胞の発生とmtDNAの突然変異の関与は、古くから指摘されてきた。その理由は特定の発ガン性化学物質が、DNAよりもmtDNAに結合しやすいことと、ガン組織のmtDNAは正常組織よりも高い割合で突然変異の蓄積が観察されたことによる。しかしながら、母性遺伝するガンの存在が確認されていない点や、DNAの影響を排除しmtDNA単独でのガンへの影響を検証する手法が確立されていない点などが、この仮説の証明の障害であった。 ただ、2008年筑波大学の林純一らが、ガンの転移能獲得という、ガン細胞の悪性化に、mtDNAの変異が関与していることを指摘した。マウス肺がん細胞の細胞質移植による細胞雑種の比較により、mtDNAの特殊な病原性突然変異によってガン細胞の転移能獲得の原因になることを発見し、ヒトのガン細胞株でも、mtDNAの突然変異がガン細胞の転移能を誘導し得ることを明らかにし、少なくとも、mtDNAがATP合成以外の生命現象にも関与することを明らかにした。また、林らによるとmtDNAの突然変異には、活性酸素種(ROS)の介在が重要であり、ROSを除去すれば転移能の抑制が可能ではないかと推察した。ただし、ガン細胞の転移能の獲得メカニズムは複雑であり、様々な要因が考えられるので、これはその要因の1つに過ぎない。 また、京都大学の井垣達吏らは、1 Ras遺伝子の活性化とミトコンドリアの機能障害を起こした細胞は、細胞老化を起こして細胞老化関連分泌因子(SASP因子)を放出し、これにより周辺組織のガン化を促進すること、また、2 細胞分裂停止とJNK遺伝子の活性化が互いに増幅し合うことで、細胞内のJNK活性が顕著に増大し、これによりSASP因子の産生が誘導されることを示した。 ミトコンドリアのDNAは、同種交配の場合卵子に入った精子のミトコンドリアが選択的に排除されるため、母親のmtDNAを引き継ぐことを根拠に、現生人類の起源の地が探られた。すなわち、世界中に分布するヒトからmtDNAを調べて、現在の分布地図から現生人類の起源とその移動について推察する作業を実施した。この結果、大昔のアフリカのある女性が、今の人類の全てのミトコンドリアについての「母親」であるとの仮説が発表された。この女性はキリスト教徒の宗教的説話になぞらえて「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている。 しかしながら、この仮説は、その他の遺伝情報について、この女性に全てが由来するという意味ではない。無論、全人類の起源が1人の女性にあると言っているわけでもない。しかも、実験的に異種交配させた受精卵では、精子由来のミトコンドリアを排除するプロセスが失敗する場合があることが知られている。 1995年に第2回日本ホラー小説大賞を受賞した瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』は、ミトコンドリアの共生起源説、および、人類の進化におけるミトコンドリア・イブ説に基づき、現在のミトコンドリアは細胞の支配下にあるが、もしもそれが反乱を起こしたならば、という仮定の物語で話題を呼び、映画やゲーム化も行なわれた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ミトコンドリア(英語: mitochondrion、複数形: mitochondria)は、ほとんど全ての真核生物の細胞の中に存在する、細胞小器官の1つである。ヤヌスグリーンによって青緑色に染色される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアは脂質二重層でできた外膜と内膜を有し、膜には様々なタンパク質が存在する。ミトコンドリアでは、高エネルギーの電子と酸素分子を利用して、ATPを合成する。すなわち、ミトコンドリアは真核生物における好気呼吸の場である。また、真核生物の細胞が有する核とは別に、ミトコンドリア独自のミトコンドリアDNA(mtDNA)を内部に有し、ある程度ながら自立的にミトコンドリアは細胞内で分裂して、増殖する。このmtDNAは、ミトコンドリア内部だけに限らず、真核生物の細胞全体の生命現象にも関与する。さらに、細胞のアポトーシスにおいても、ミトコンドリアは重要な役割を担っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヒトにおいては、肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には特に多くのミトコンドリアが存在し、細胞質の約40パーセントを占めている。全身の平均では、1細胞中に300個から400個のミトコンドリアが存在し、全身で体重の約1割を占めていると概算されている。単語の「Mitochondrion」はギリシャ語のμίτος, mitos「糸」とχονδρίον, chondrion, 「顆粒」に由来し、糸粒体(しりゅうたい)と和訳される例も見られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアの直径は0.5 μm程度であるが、その形状は、生物種や細胞の置かれている条件によって多様である。球形、円筒形、紐状、網目状など様々な形状のミトコンドリアが存在し、長さが10 μmに達する物も珍しくない。1細胞あたりの数は、1つに維持されている細胞もあるが、多い場合では数千個のミトコンドリアが絶えず分裂と融合を繰り返している場合もある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアは外膜と呼ばれる脂質膜に囲まれており、その内側に、もう1枚、内膜と呼ばれる脂質膜を有する。内膜に囲まれた内側をマトリクス、内膜と外膜に挟まれた空間を膜間腔と呼ぶ。なお、内膜はマトリクスに向かって陥入した、クリステ(cristae)と呼ばれる特徴的な構造を取っている。参考までに、この「cristae」とは「櫛」という意味である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアは照射された光を強く屈折するため、生きた細胞を位相差顕微鏡で観察すると、ミトコンドリアが明瞭に確認できる。生きた細胞を観察すると、ミトコンドリアが細胞内で、伸縮したり、屈曲したりと、動いている姿も確認できる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "真核生物の細胞膜と同様に、ミトコンドリアの外膜の組成も、タンパク質とリン脂質の重量比が約1:1である。外膜の進化的起源は真核生物の細胞内膜系だと考えられ、現在でも小胞体膜と物理的に関係しており、カルシウムシグナルの伝達や脂質の交換を行っている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "外膜にはポリンと総称される膜タンパク質が大量に存在し、分子量5000以下の分子が、外膜を通過できるようなチャネルを形成している。これより大きなタンパク質は自由に出入できず、タンパク質のペプチド配列中に、特別な移行シグナルが付与されている場合にのみ、細胞質からミトコンドリア内へと取り込まれる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "膜間腔は、ミトコンドリアの外膜と内膜に挟まれた空間である。外膜がポリンによって低分子を自由に透過させる性質を実現しているため、通常の状態において、膜間腔のイオンや糖などの組成の多くは、ほとんど細胞質と同等である。例外は、内膜の直近のプロトンの濃度のように、限られる。その一方で、膜間腔におけるタンパク質の組成は、細胞質と大きく異なっており、外膜が破壊されて膜間腔に存在するタンパク質(シトクロムcなど)が細胞質へと漏れ出すと、細胞のアポトーシスが引き起こされる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "内膜はマトリクスと膜間腔とを隔てており、ミトコンドリアの機能的アイデンティティを担っている。酸化的リン酸化に関わる呼吸鎖複合体などの酵素群が、内膜には規則的に配列している。外膜とは対照的に、基本的に内膜は不透性であり、何らかの物質を内膜を横断して輸送するためには、それぞれの物質に対して特異的な輸送体が必要である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "呼吸鎖複合体は内膜を挟んで、マトリクスからプロトンを膜間腔へと汲み出して、膜間腔の側のプロトンの濃度を高め、濃度勾配が形成される。この濃度勾配が、物質輸送やATP合成に関与している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、マトリクスへのタンパク質輸送装置やミトコンドリアの分裂・融合に関わるタンパク質群などが存在し、ミトコンドリアを構成する全タンパク質のおよそ2割(150以上)が含まれている。タンパク質とリン脂質の重量比は3:1ほどである。内膜の進化的起源は共生細菌の細胞膜を由来としており、内膜に特徴的なリン脂質カルジオリピンの存在がその証左と考えられている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一般的に内膜は内側へ向かって陥入し、クリステと呼ばれる構造を形成している。これによって内膜の表面積の増大、ひいてはATP合成能の増大に寄与している。外膜と内膜の表面積の比は細胞のATP需要と相関しており、肝臓では5倍ほど、骨格筋ではさらに大きな値である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "クリステの形状は生物によって様々であり、平板状、管状、団扇状、などが知られている。多細胞動物や陸上植物ではミトコンドリアの長軸に直交する平板状をしており、日本では、教科書などを通じて広く知られている形状である。しかし、これはむしろ特殊な形状であり、真核生物全体を見渡すと、管状のクリステが一般的である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらに、同一個体であっても、組織によってクリステの形状が異なる場合がある。例えば、ヒトの多くの細胞のミトコンドリアのクリステは平板状だが、副腎皮質や精巣や卵巣でステロイドホルモン類を分泌する細胞が有するミトコンドリアのクリステは、管状や小胞状であったりする。他にも、ラットでも、このような組織によって、ミトコンドリアのクリステの形状が異なっていることが確認された。さらには、哺乳類のステロイドホルモン分泌細胞以外でも、平板状だけでなく、管状や小胞状のクリステも有するミトコンドリアが観察される場合もある。これらのように例外も数多い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "内膜に囲まれた内側がマトリクスであり、TCAサイクル(別名:TCA回路・クレブス回路・クエン酸回路・クエン酸サイクル)やβ酸化など、ミトコンドリアの代謝機能に関わる酵素群が数多く存在している。ここにはmtDNAが含まれており、ミトコンドリア独自の遺伝情報が保持されている。その遺伝子発現を担うために、リボソーム、tRNA、転写因子や翻訳因子なども存在している。ミトコンドリア全タンパク質の6割から7割が存在しており、非常にタンパク質濃度の高い区画である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアの主要な機能は、解糖系やTCAサイクルなどで生成した産物を利用して、電子伝達系に高エネルギーの電子を送り込み、それを酸素に押し付けながら作り出したプロトンの濃度勾配で、ATP合成酵素を駆動して、ADPを酸化的リン酸化によってATPに変換する機能である。。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "もちろん、ミトコンドリアが関与しない解糖系のようなATP産生系も存在するものの、真核生物の細胞の活動に必要なATPの多くは、直接、あるいは間接的にミトコンドリアからATPの形で供給される。さらに、ミトコンドリアで行われる、TCAサイクル自体でも実質上はATPと等価なGTPも産生されるなどするため、比喩的に「真核細胞のエネルギーを作り出す場」などと説明される場合もある。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、ATPやGTPの合成以外にもミトコンドリアは多様な機能を有している。例えば、ステロイドやヘムの合成などを含む様々な代謝、カルシウムや鉄の細胞内濃度の調節、細胞周期やアポトーシスの調節などにも大きく関わっているとされる。しかし、これらの機能を全てのミトコンドリアが担っている訳ではなく、機能によっては、特定の細胞でのみ動いている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうした様々な機能には多数の遺伝子が関わっており、それらに関わる遺伝子の変異が発生した細胞が自然免疫で排除されないと、ミトコンドリアの機能低下を招き、ミトコンドリア病を引き起こす場合がある。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ATP産生はミトコンドリアの主たる機能であって、これに関わる多くのタンパク質が内膜やマトリクスに存在している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "細胞質では解糖系が行われ、主にグルコースを代謝して、わずかなATPを合成しながら、ピルビン酸とNADHに分解する。ここで、もし酸素が充分に存在しない場合には、解糖系の産物は嫌気呼吸により代謝される。しかしミトコンドリアで酸素を用いて、これらを酸化する好気呼吸を行えば、嫌気呼吸と比べて効率良くATPを得られる。嫌気性分解では1分子のグルコースから2分子のATPしか得られなかったのに対して、ミトコンドリアによる好気性分解によって、1分子のグルコースから約38分子のATPが合成できる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、ミトコンドリアでは、ピルビン酸だけでなく、脂肪酸も利用できる。ミトコンドリアで脂肪酸はβ酸化が行われる。ピルビン酸がアセチルCoAに変換されて、TCAサイクルに入るように、β酸化によって、脂肪酸は炭素鎖が2つずつ切り離されてアセチルCoAが生成され、同じようにTCAサイクルに入るからである。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、植物のミトコンドリアは、酸素が無くとも、亜硝酸を利用してある程度のATP産生が可能である。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "地球上の全ての生物で解糖系は、その反応が細胞質基質で起こる。これは解糖系が細胞内小器官が発生する以前から存在してきた、最も原始的な代謝系であることを反映しているのだろうと考えられている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "真核生物では、解糖系で得られた物質(ピルビン酸とNADH)を、TCAサイクルや電子伝達系の反応を行うミトコンドリアへ輸送し、好気呼吸を行う。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "細胞質の解糖系で生成されたピルビン酸は、ピルビン酸共輸送体(ピルビン酸/H+)により細胞質からミトコンドリアへ輸送される。同じく細胞質で生成されたNADHはリンゴ酸-アスパラギン酸シャトルによりミトコンドリアへ実質的に輸送される。ただし、グリセロリン酸シャトルで輸送される場合もあり、この場合にNADHは、ミトコンドリアのTCAサイクルで発生するFADH2相当に、ミトコンドリアでのATPの産生量は目減りする。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なおADPは、ATP/ADPトランスポーターにより細胞質からミトコンドリアへ輸送される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、H2O、O2、CO2、NH3は、そのままミトコンドリア内膜を通過できる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アセチルCoAは、好気性細胞呼吸の第2段階目である、ピルビン酸がピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体により脱炭酸して生成する。この酵素反応はミトコンドリアのマトリクスで起こる。ここで生成したアセチルCoAは、TCAサイクルに投入される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "解糖系で生じたピルビン酸は内膜を能動輸送によって透過し、マトリクスで酸化され補酵素Aと結合し、二酸化炭素、アセチルCoA、NADHを生じる。アセチルCoAは、TCAサイクルへ入る基質である。TCAサイクルの反応に関わる酵素群は、ほとんどがミトコンドリアのマトリクスに存在している。しかし、コハク酸デヒドロゲナーゼだけは例外で、内膜の内側に付着しており、これが電子伝達系の複合体IIに当たる。TCAサイクルで、コハク酸からフマル酸に変換する際の酸化還元反応では、電子伝達系の複合体Iを動かすほどのエネルギーが無く、複合体IIが動かされる。その後は、いずれも電子伝達系の複合体IIIへとエネルギーが伝達され、ATP産生に寄与する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、TCAサイクルはアセチルCoAを酸化して二酸化炭素を生じ、その過程で3分子のNADHと1分子FADH2、1分子のGTPを生成する。なお、二酸化炭素はミトコンドリア外へ拡散して排出される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "TCAサイクルでは、サイクルの1回転ごとに、全ての中間体(例えば、クエン酸、イソクエン酸、α-ケトグルタル酸、コハク酸、フマル酸、リンゴ酸およびオキサロ酢酸)が再生される。したがって、ミトコンドリアにこれらの中間体のいずれかを追加して加えると、追加された量がTCAサイクル内に保持され、中間体の1つが他方に変換されて順次増加する。よって、それらの中間体のいずれか1つをTCAサイクルに加えれば、補充反応(アナプレロティック反応)効果を示す。逆に、中間体のいずれかの除去すれば、消費反応(カタプレロティック反応)効果を示す。これらの補充反応及び消費反応は、TCAサイクルの回転で、アセチルCoAと結合してクエン酸を形成するために利用可能な、オキサロ酢酸の量を増加または減少させる。この回転量が、ミトコンドリアによるATP製造量と、細胞へのATPの提供量の増減を左右する。要するに、ミトコンドリア内に存在するTCAサイクルの各種中間体の量が、TCAサイクルの反応速度を調節し、ATPの合成量も調節することを意味する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "NADHやFADH2が有する還元力は、内膜にある電子伝達系で数段階を経て、最終的に酸素に渡される。要するに、電子を、電気陰性度の高い酸素に押し付ける形である。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なおNADHは、マトリクスでのTCAサイクルやβ酸化だけでなく、細胞質の解糖系でも生ずる。細胞質で生じたNADHの還元力は、マロン酸-アスパラギン酸対向輸送系や、リン酸グリセロールシャトル系を通じて電子伝達系に供給される。内膜の電子伝達系には、NADH脱水素酵素、シトクロームc還元酵素、シトクロームc酸化酵素が存在しており、プロトン(H)を膜間腔へ汲み出す。この過程は非常に効率的だが、不充分な反応により活性酸素種を生じ得る(活性酸素#活性酸素と人体の関係参照のこと)。これがいわゆる「酸化ストレス」の形態の1つであり、ミトコンドリアの機能低下や老化に関与していると考えられている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "グルコーストランスポーターであるGLUT1を介して、デヒドロアスコルビン酸がミトコンドリアに輸送され、その後アスコルビン酸に還元され、活性酸素によるフリーラジカルの大部分が生成される場所であるミトコンドリアに蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアの脂質膜とmtDNAを、活性酸素による酸化から保護する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "電子伝達系で、複合体Iと複合体IIIと複合体IVは、電子が伝達された際に、ミトコンドリアのマトリクスから膜間腔へとプロトンを汲み出す。このようにしてプロトンが膜間腔へ汲み出された結果、ミトコンドリアの内膜の隔てて、プロトン濃度の差(電気化学的勾配)が生じる。汲み出されたプロトンは、ATP合成酵素を通じてマトリクスへ戻ることができ、この際に、電気化学的勾配のポテンシャルを使って、ADPと無機リン酸(Pi)を、ATPへと変換する。生成されたATPは、ATP/ADPトランスポーターによって、ミトコンドリアから細胞質へ輸送され、細胞の活動エネルギー源として利用される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この原理を化学浸透説と呼び、これをピーター・ミッチェルが最初に唱えた功績によって、1978年にノーベル化学賞を受賞した。また、ATP合成酵素の反応機構を明らかにしたポール・ボイヤーとジョン・E・ウォーカーには、1997年にノーベル化学賞が授与された。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアにおける脂肪酸の輸送については、β酸化#脂肪酸の動員及びβ酸化#脂肪酸の活性化とミトコンドリア内への輸送を参照のこと。ミトコンドリアにおけるβ酸化については、β酸化#β酸化反応および酵素群を参照のこと。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、このミトコンドリアのマトリクスで行われる脂肪酸のβ酸化によって、1分子のアセチルCoAを生成する反応の際に、1分子のATPを消費するものの、FADH2とNADHと1分子ずつ生成する。このFADH2とNADHは、電子伝達系に使用され、より多くのATPを産生できる。さらに、ミトコンドリアのマトリクスで生成されたアセチルCoAは、同じくマトリクスで行われているTCAサイクルに投入され、さらに、GTPやATPを産生できる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアにはアルデヒドデヒドロゲナーゼも発現している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "飲酒などによってエタノールを体内に摂取すると、肝臓などで発現しているアルコールデヒドロゲナーゼなどの作用によって代謝され、アセトアルデヒドが生成する。このアセトアルデヒドを、ミトコンドリアはアルデヒドデヒドロゲナーゼで代謝して、酢酸に変換できる。このミトコンドリアでのアルデヒドデヒドロゲナーゼの活性が遺伝的に低いヒトが、東洋人などの一部に見られ、そのようなヒトはアセトアルデヒドの毒性が強く出やすい。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、酢酸とは、炭素鎖2つの脂肪酸である。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "速筋線維はミトコンドリアが少なく、グリコーゲンが比較的多いので白く見える。解糖系でATPを産生し、その結果として蓄積したピルビン酸は、乳酸デヒドロゲナーゼで乳酸へと変換されやすい。このような嫌気的な糖分解によるATP産生であれば、わざわざ外部から酸素を取り込む必要もあく、速くATPを作り出せる。このこともあり、乳酸性閾値よりも高い運動強度では、速筋線維が多く使われるようになる。しかしながら、この方法では長時間の運動は続けられないという欠点がある。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "これに対して、遅筋線維や心筋は、ミオグロビンが多いので赤く見え、酸素を利用しやすい環境を備えている。赤色の筋肉では、乳酸を作るよりは、解糖系の産物であるピルビン酸をミトコンドリアのTCAサイクルへ、解糖系で生成したNADHもミトコンドリアに渡され、ATPを合成して、運動のために使っている。この方式であれば、乳酸などが蓄積しないので、運動強度が低い場合は遅筋線維が主として働いている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、速筋線維で発生した乳酸は、血液を介して肝臓に運ばれ、コリ回路でATPを消費してグルコースの再生に使われることは、よく知られている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これ以外に、乳酸デヒドロゲナーゼは、乳酸をピルビン酸に戻す逆反応も触媒できる。遅筋線維や心筋では、外部から取り込んだ乳酸を、ピルビン酸に戻して、ミトコンドリアのTCAサイクルに投入することも行っている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "いずれにしても、主に速筋線維で蓄積しやすい乳酸の代謝には、細胞膜を通過して他の細胞へと乳酸が輸送される必要がある。この乳酸の輸送は、乳酸だけでなくピルビン酸などの輸送にも関わるため、モノカルボン酸の輸送担体(英語: Monocarboxylate Transporter (MCT))と呼ばれている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ある条件下では、膜間腔のプロトンはATP合成に関与せずに、促進拡散によってマトリクスに戻る場合がある。これは「プロトンのリーク」とか「ミトコンドリアの脱共役」と呼ばれ、これによって蓄積されていた電気化学ポテンシャルは熱として解放される。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サーモジェニン(英語版)などの一群のプロトンチャネル(脱共役タンパク質)が媒介しており、筋肉の震えを伴わない熱産生に関わっている。サーモジェニンは、若齢や冬眠中の哺乳類に見られる褐色脂肪組織のミトコンドリアに多く存在している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "細胞に発生したDNA損傷などのストレスは、アポトーシス誘導分子p53やアポトーシスを調節するBcl-2ファミリータンパク質を介して、ミトコンドリアの膜電位を変化させ、外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖される。なお、ミトコンドリアの外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖されると、ミトコンドリアの機能は低下する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "さらに、ミトコンドリアの膜電位の変化は、ミトコンドリアからのシトクロムcの漏出も発生させ、アポトーシスへとつながる。シトクロムcは、細胞質に存在するApaf-1やカスパーゼ-9と結合して、アポトソーム(英語版)(英語: apoptosome)と呼ばれる集合体を形成する。これによって活性化されたカスパーゼ-9が、下流のエフェクターを活性化する。この後は、DNAが切断されて、細胞は自殺する。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "細胞内のカルシウム濃度は様々な機構によって厳密に制御されており、細胞中の情報伝達に重要な役割を果たしている。細胞内のカルシウム濃度の上昇により、セカンドメッセンジャー系が起動されたり、筋肉の収縮が起きたりと、様々な反応が起きる。細胞内におけるカルシウムの貯蔵場所としては小胞体が最も顕著だが、カルシウムの貯蔵に関して、小胞体とミトコンドリアは協調している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "というのも、ミトコンドリアは一過的なカルシウム貯蔵能を有し、細胞におけるカルシウム濃度の恒常性に貢献しているのである。ミトコンドリアは迅速にカルシウムを取り込むことが可能で、カルシウムは内膜のカルシウム輸送体により、マトリクスへと取り込まれる。これの動作は、ミトコンドリアの膜電位に依存している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "こうして取り込んだカルシウムを、ミトコンドリアが後々放出することで、カルシウム濃度の緩衝作用を果たしている。なお、カルシウムの放出は、ナトリウム・カルシウム対向輸送、もしくは、カルシウム依存性カルシウム放出系によって行われる。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ミトコンドリア中には、細胞核とは別に、独自のDNAが存在しており、これをミトコンドリアDNA(mtDNA)と呼ぶ。mtDNAは、細胞核とは異なる独自の遺伝情報を持っている。DNA分子の大きさや形状、codeされている遺伝子の数や種類などは、生物種によって大きく異なる。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ただ、通常はGC含量が低く(20-40%)、基本的なmtDNAは、塩基対が数十kb程度のDNAである。mtDNAには、電子伝達系に関わるタンパク質、リボソームRNAやtRNAなど、数十種類の遺伝子がcodeされている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ヒトを含む脊椎動物のmtDNAは、真核生物の中ではかなり特殊な性質を多く持っており、研究はよく進んでいるものの、安易な一般化は慎まなければならない。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、mtDNAと、それに基づいて合成される産物の一部は、ミトコンドリアだけではなく、細胞表面にも所在し、mtDNAに突然変異が発生している場合には、自然免疫系が特異的に細胞ごと破壊して排除する。mtDNAに突然変異が発生した場合には、ミトコンドリア病を発症する可能性もある。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "最も小さなmtDNAを持つ生物はアピコンプレックス門の原虫で、大きさわずか6 kbの線状ゲノムである。電子伝達系に関わる3つのタンパク質遺伝子と、断片化されたリボソームRNA遺伝子群のみが存在している。逆に最も大きなmtDNAは、マスクメロンの持つ2400 kbという巨大なゲノムである。ただし遺伝子数は比較的多いものの、それでも100弱に過ぎず、大量の反復配列やグループ2イントロンなどの非遺伝子領域が大部分を占める。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ヒトを含む多細胞動物のmtDNAはいずれも比較的似通っており、長さ16 kb前後の単一の環状DNAで構成されている。遺伝子は37あり、その内訳は、呼吸鎖複合体とATP合成酵素のサブユニットが13、tRNAが22、rRNAが2である。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "遺伝子地図などでは、mtDNAが環状に表現される事例が多い。しかし物理的に環状のmtDNAを持つ生物はごく一部に限られ、多くの生物では環状の基本構造からトイレットペーパーを引き出すかのように連続的に複製されており、その結果mtDNAの大部分は、基本単位が何度も繰り返す線状反復構造を有している。また少数派ではあるものの、常に線状のmtDNAを持つ生物も存在している。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアゲノムはαプロテオバクテリアから受け継がれており、その遺伝子発現は細菌と共通した特徴を持っており、真核生物の細胞核のDNAとは異なる。例えば、複数の遺伝子がまとめて転写され、それが遺伝子ごとに切断されポリアデニル化されて成熟mRNAとなる点や、翻訳の開始にフォルミル化メチオニンが利用される点、細胞核に存在するようなスプライソソーム型のイントロンが存在しない点、などが挙げられる。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "さらに、ミトコンドリアの遺伝暗号表は、細胞核や一般の原核生物で利用されている普遍暗号表と比べて、若干の差が見られる。顕著な例として、細胞核では終止コドンであるはずのUGAが、ミトコンドリアではトリプトファンをコードしている場合が多いことが挙げられるものの、例外も多く、生物種によって少しずつ異なる暗号表を用いているのが実態である。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "またミトコンドリアでは、しばしばRNA編集が行われる。例えば高等植物のミトコンドリアでは、DNA配列上のCGGがmRNAの場合は、UGGと編集されてトリプトファンをコードするという例が知られている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ただ、重要な点として、ミトコンドリアの機能に関わる全ての遺伝子が、mtDNAに存在しているわけではないが挙げられる。ミトコンドリアが持つmtDNA上にcodeされているミトコンドリアゲノムは、細菌のゲノムと比べると、遺伝子数が極端に減少している。一方で、ミトコンドリアが必要とする大多数の遺伝子は、細胞核の側にcodeされており、細胞質の側で転写された情報に基づいて生合成された遺伝子産物が、ミトコンドリアへと輸送される。これは進化の過程で、遺伝子が細胞核へ移動したからだと考えられている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "こうした現象は、比較的よく起きた出来事だと考えられ、マイトソームなどのように全てのDNAを完全に失ったようなミトコンドリアも存在している。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一方で、原生生物のレクリノモナス(Reclinomonas americana)は、他の生物では細胞核から輸送されているようなタンパク質の遺伝子が、mtDNA上に存在しており、比較的原始的なミトコンドリアゲノムを未だに保持していると考えられている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアには、呼吸機能に関与する疎水性のタンパク質が存在し、疎水性であるために輸送が難しく、これらをミトコンドリアの内部で作らざるを得ないために、ミトコンドリアに遺伝子が残っている理由の1つと考えられている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1つのミトコンドリアには、2-10コピーのDNA分子が存在する。その全てが完全に同じ情報を持つわけではなく、複数の異質のDNA分子を含んでいると確認されている。", "title": "ミトコンドリアゲノム" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアは、リケッチアに近い好気性細菌のαプロテオバクテリアが、真核細胞に入り込んだ結果として獲得されたと考えられている。リン・マーギュリスの細胞内共生説では単に好気性バクテリアが起源とされていたが、その後すぐの1970年代にはすでにミトコンドリアの起源が現在でいうαプロテオバクテリアだという意見が出た。脱窒細菌のParacoccus denitrificansや、暗所好気条件で培養した紅色光合成細菌のRhodobacter sphaeroidesは、呼吸鎖の構成や阻害剤への応答がミトコンドリアと類似しており、特に、シトクロムcがミトコンドリアと互換性を持つ点が注目された。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "細胞核DNAにコードされているシトクロムcだけでなく、mtDNAにコードされているリボソームRNAの配列を使った系統解析でもαプロテオバクテリア起源であると示され、1980年代にはミトコンドリアのαプロテオバクテリア起源は受け入れられるようになった。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ただし、初期の解析では高等植物ミトコンドリアのリボソームRNAの配列が、他のミトコンドリアの配列と比べて進化的距離が非常に小さかったため、ミトコンドリアの起源は単独ではなく、高等植物のミトコンドリアは新たに獲得された物だという意見もあった。しかし、こうした意見は現在では否定され、真核生物のミトコンドリアの起源は単一であるとされている。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "もっとも、αプロテオバクテリアは非常に多様な細菌を含む分類群であり、その中でどのような細菌がミトコンドリアの起源なのかについては、長く議論が続いている。初期には前述の通り脱窒細菌や光合成細菌が起源だと考えられていたが、シャペロニンHsp60(GroEL)を用いた系統解析によりリケッチアが最も近縁であると示されてからは、これが有力説となった。リケッチアは、細胞内寄生生物である点、TCAサイクルを持ち好気呼吸ができるのに対して解糖系を持たない点、細胞膜にADP/ATP輸送体を持っている点、ゲノムが小さくAT含量が高い点など、ミトコンドリアと共通した特徴が複数見られる。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1998年に発疹チフスを引き起こすリケッチアの1種であるRickettsia prowazekiiのゲノムが解読され、祖先的とされるReclinomonas americanaのミトコンドリアゲノムと共通している遺伝子や、配置順が保存された遺伝子群などが見出され解析された。その多くはミトコンドリアがリケッチアに近縁であるという仮説を支持する結果であったが、ADP/ATP輸送体については、予想に反して起源を異にしていると示された。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "20世紀末から21世紀初頭にかけて、世界中の海洋には自由生活性で浮遊性の細菌ペラジバクター(暫定的にCandidatus Pelagibacter ubiqueと命名されている)が存在していることが明らかとなった。ペラジバクターはリケッチア目の中で、最も祖先的な位置から派生したと考えられる生物であり、ミトコンドリアの起源を、ペラジバクターとその他一般的なリケッチアとの間に求められる。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "なお、アメーバに似た原生生物であるペロミクサや微胞子虫など、原生生物の中はミトコンドリアを持っていないものもいる。これを、ミトコンドリアが共生する以前の真核生物の生き残りと見る説があった(→アーケゾア仮説)が、後に否定された。", "title": "起源" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアの特徴は、動物、植物、菌類にほぼ共通であるが、それ以外の原生動物では、若干異なった形状の物がある。特にクリステの形については、明らかに異なった形状のミトコンドリアが見られる。", "title": "生物の系統との関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ヒトなどの一般のミトコンドリアでは、内膜がひだのように折れ曲がり、クリステは平坦な板のような形をしている。しかし、粘菌類の場合、クリステは内膜から内部へと放射状に入り込む管の形で、管の表面にATP合成酵素の手段が並んでいる。また、内部の中央にDNAを含んだ塊があって、ミトコンドリア核と呼ばれる。このような、管状のクリステを持つミトコンドリアは、繊毛虫やアピコンプレックス類、アメーバ類、クロララクニオン藻類などの原生生物にも見られる。", "title": "生物の系統との関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また、ミドリムシ類とトリパノソーマでは、クリステは団扇型である。これらのミトコンドリアは、細長くて枝分かれをして、細胞内に広がっている。トリパノソーマでは、鞭毛の基部にキネトプラストと呼ばれる袋状の構造が知られており、その中の顆粒にはDNAが含まれているが、これはミトコンドリアの一部である。", "title": "生物の系統との関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1955年にオットー・ワールブルクは、体細胞が長期間低酸素状態に晒されると呼吸障害を引き起こし、通常の酸素濃度の環境下に戻しても、大半の細胞が変性や壊死を起こし、ごく一部の酸素呼吸に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が、ガン細胞になるとの説を発表した。この説では、酸素呼吸よりも、むしろ解糖系によるエネルギー産生に依存する細胞は、下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞がATP産生を酸素呼吸によらず解糖系に依存した結果、細胞が退化してガン細胞が発生するとした。", "title": "がんとミトコンドリア" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ガン細胞の発生とmtDNAの突然変異の関与は、古くから指摘されてきた。その理由は特定の発ガン性化学物質が、DNAよりもmtDNAに結合しやすいことと、ガン組織のmtDNAは正常組織よりも高い割合で突然変異の蓄積が観察されたことによる。しかしながら、母性遺伝するガンの存在が確認されていない点や、DNAの影響を排除しmtDNA単独でのガンへの影響を検証する手法が確立されていない点などが、この仮説の証明の障害であった。", "title": "がんとミトコンドリア" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ただ、2008年筑波大学の林純一らが、ガンの転移能獲得という、ガン細胞の悪性化に、mtDNAの変異が関与していることを指摘した。マウス肺がん細胞の細胞質移植による細胞雑種の比較により、mtDNAの特殊な病原性突然変異によってガン細胞の転移能獲得の原因になることを発見し、ヒトのガン細胞株でも、mtDNAの突然変異がガン細胞の転移能を誘導し得ることを明らかにし、少なくとも、mtDNAがATP合成以外の生命現象にも関与することを明らかにした。また、林らによるとmtDNAの突然変異には、活性酸素種(ROS)の介在が重要であり、ROSを除去すれば転移能の抑制が可能ではないかと推察した。ただし、ガン細胞の転移能の獲得メカニズムは複雑であり、様々な要因が考えられるので、これはその要因の1つに過ぎない。", "title": "がんとミトコンドリア" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、京都大学の井垣達吏らは、1 Ras遺伝子の活性化とミトコンドリアの機能障害を起こした細胞は、細胞老化を起こして細胞老化関連分泌因子(SASP因子)を放出し、これにより周辺組織のガン化を促進すること、また、2 細胞分裂停止とJNK遺伝子の活性化が互いに増幅し合うことで、細胞内のJNK活性が顕著に増大し、これによりSASP因子の産生が誘導されることを示した。", "title": "がんとミトコンドリア" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ミトコンドリアのDNAは、同種交配の場合卵子に入った精子のミトコンドリアが選択的に排除されるため、母親のmtDNAを引き継ぐことを根拠に、現生人類の起源の地が探られた。すなわち、世界中に分布するヒトからmtDNAを調べて、現在の分布地図から現生人類の起源とその移動について推察する作業を実施した。この結果、大昔のアフリカのある女性が、今の人類の全てのミトコンドリアについての「母親」であるとの仮説が発表された。この女性はキリスト教徒の宗教的説話になぞらえて「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている。", "title": "「ミトコンドリア・イブ」" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "しかしながら、この仮説は、その他の遺伝情報について、この女性に全てが由来するという意味ではない。無論、全人類の起源が1人の女性にあると言っているわけでもない。しかも、実験的に異種交配させた受精卵では、精子由来のミトコンドリアを排除するプロセスが失敗する場合があることが知られている。", "title": "「ミトコンドリア・イブ」" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1995年に第2回日本ホラー小説大賞を受賞した瀬名秀明の『パラサイト・イヴ』は、ミトコンドリアの共生起源説、および、人類の進化におけるミトコンドリア・イブ説に基づき、現在のミトコンドリアは細胞の支配下にあるが、もしもそれが反乱を起こしたならば、という仮定の物語で話題を呼び、映画やゲーム化も行なわれた。", "title": "フィクション" } ]
ミトコンドリアは、ほとんど全ての真核生物の細胞の中に存在する、細胞小器官の1つである。ヤヌスグリーンによって青緑色に染色される。 ミトコンドリアは脂質二重層でできた外膜と内膜を有し、膜には様々なタンパク質が存在する。ミトコンドリアでは、高エネルギーの電子と酸素分子を利用して、ATPを合成する。すなわち、ミトコンドリアは真核生物における好気呼吸の場である。また、真核生物の細胞が有する核とは別に、ミトコンドリア独自のミトコンドリアDNA(mtDNA)を内部に有し、ある程度ながら自立的にミトコンドリアは細胞内で分裂して、増殖する。このmtDNAは、ミトコンドリア内部だけに限らず、真核生物の細胞全体の生命現象にも関与する。さらに、細胞のアポトーシスにおいても、ミトコンドリアは重要な役割を担っている。 ヒトにおいては、肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には特に多くのミトコンドリアが存在し、細胞質の約40パーセントを占めている。全身の平均では、1細胞中に300個から400個のミトコンドリアが存在し、全身で体重の約1割を占めていると概算されている。単語の「Mitochondrion」はギリシャ語のμίτος, mitos「糸」とχονδρίον, chondrion, 「顆粒」に由来し、糸粒体(しりゅうたい)と和訳される例も見られる。
'''ミトコンドリア'''({{lang-en|mitochondrion}}、複数形: mitochondria)は、ほとんど全ての[[真核生物]]の細胞の中に存在する、[[細胞小器官]]の1つである。[[ヤヌスグリーン]]によって青緑色に染色される。 [[画像:Mitochondria, mammalian lung - TEM.jpg|300px|thumb|right|ミトコンドリアの[[電子顕微鏡]]写真。マトリクスや膜が見える。]] {{Organelle diagram}} <!-- [[画像:Biological cell.svg|300px|thumb|right|典型的な真核生物の細胞の模式図。<br/>(1) [[核小体]](仁)、(2) [[細胞核]]、(3) [[リボソーム]]、(4) [[小胞]]、(5) [[粗面小胞体]]、(6) [[ゴルジ装置]]、(7) [[微小管]]、(8) [[滑面小胞体]]、(9) '''ミトコンドリア'''、(10) [[液胞]]、(11) [[細胞質基質]]、(12) [[リソソーム]]、(13) [[中心体]]]] --> ミトコンドリアは[[脂質二重層]]でできた[[ミトコンドリア外膜|外膜]]と[[ミトコンドリア内膜|内膜]]を有し、膜には様々なタンパク質が存在する。ミトコンドリアでは、高エネルギーの電子と[[酸素分子]]を利用して、[[アデノシン三リン酸|ATP]]を合成する。すなわち、ミトコンドリアは真核生物における[[好気呼吸]]の場である。また、[[細胞核|真核生物の細胞が有する核]]とは別に、ミトコンドリア独自の[[ミトコンドリアDNA]](mtDNA)を内部に有し、ある程度ながら自立的にミトコンドリアは細胞内で分裂して、増殖する。このmtDNAは、ミトコンドリア内部だけに限らず、真核生物の細胞全体の生命現象にも関与する。さらに、細胞の[[アポトーシス]]においても、ミトコンドリアは重要な役割を担っている。 ヒトにおいては、肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には特に多くのミトコンドリアが存在し、細胞質の約40パーセントを占めている。全身の平均では、1細胞中に300個から400個のミトコンドリアが存在し、全身で体重の約1割を占めていると概算されている<ref>ニック・レーン(著)斉藤隆央(訳)『ミトコンドリアが進化を決めた』 p.1、P.16、みすず書房、2007年、ISBN 978-4-622-07340-6</ref>。単語の「Mitochondrion」は[[ギリシャ語]]の{{lang|el|μίτος}}, {{transl|el|mitos}}「糸」と{{lang|el|χονδρίον}}, {{transl|el|chondrion}}, 「顆粒」に由来し<ref name=OnlineEtDict>{{cite web | title = mitochondria | publisher = Online Etymology Dictionary | url = http://www.etymonline.com/index.php?term=mitochondria&allowed_in_frame=0 | accessdate = 2018-11-27 }}</ref>、'''糸粒体'''(しりゅうたい)と和訳される例も見られる。 == 構造 == [[image:Mitochondrie.svg|200px|thumb|right|ミトコンドリアの構造<br />1.内膜 2.外膜 3.クリステ(平板状) 4.マトリクス]] ミトコンドリアの直径は0.5 μm程度であるが、その形状は、生物種や細胞の置かれている条件によって多様である。球形、円筒形、紐状、網目状など様々な形状のミトコンドリアが存在し、長さが10 μmに達する物も珍しくない。1細胞あたりの数は、1つに維持されている細胞もあるが、多い場合では数千個のミトコンドリアが絶えず分裂と融合を繰り返している場合もある。 ミトコンドリアは外膜と呼ばれる脂質膜に囲まれており、その内側に、もう1枚、内膜と呼ばれる脂質膜を有する。内膜に囲まれた内側を'''マトリクス'''<ref group="注釈">ミトコンドリアのマトリクス(mitochondrial matrix)は、'''マトリックス'''と片仮名転記される場合もある。さらに、'''ミトコンドリア基質'''(mitochondrioplasma)とも呼ばれる。ただ、本稿では「マトリクス」の表記で統一する。</ref>、内膜と外膜に挟まれた空間を'''膜間腔'''と呼ぶ。なお、内膜はマトリクスに向かって陥入した、[[クリステ]](cristae)と呼ばれる特徴的な構造を取っている。参考までに、この「cristae」とは「櫛」という意味である<ref name="histology_p50">藤田 尚男・藤田 恒夫 『標準組織学 総論(第3版)』 p.50 医学書院 1988年2月1日発行 ISBN 4-260-10047-5</ref>。 ミトコンドリアは照射された光を強く屈折するため、生きた細胞を[[位相差顕微鏡]]で観察すると、ミトコンドリアが明瞭に確認できる<ref name="histology_p50" />。生きた細胞を観察すると、ミトコンドリアが細胞内で、伸縮したり、屈曲したりと、動いている姿も確認できる<ref name="histology_p50" />。 === 外膜 === 真核生物の[[細胞膜]]と同様に、ミトコンドリアの外膜の組成も、タンパク質とリン脂質の重量比が約1:1である。外膜の進化的起源は真核生物の[[細胞内膜系]]だと考えられ、現在でも[[小胞体]]膜と物理的に関係しており、カルシウムシグナルの伝達や脂質の交換を行っている<ref>{{cite journal | title = MAM: more than just a housekeeper | author1 = Hayashi T. | author2 = Rizzuto R. | author3 = Hajnoczky G. | author4 = Su TP. | journal = Trends Cell Biol. |volume=19 |issue=2 |pages=81-88 |year=2009 |month=February | pmid = 19144519 |doi=10.1016/j.tcb.2008.12.002 |pmc=2750097 }}</ref>。 外膜には[[ポリン (タンパク質)|ポリン]]と総称される膜タンパク質が大量に存在し、分子量5000以下の分子が、外膜を通過できるようなチャネルを形成している。これより大きなタンパク質は自由に出入できず、タンパク質のペプチド配列中に、特別な移行シグナルが付与されている場合にのみ、[[細胞質]]からミトコンドリア内へと取り込まれる<ref name="protein_transport_into_mitochondria">{{cite journal | title = Protein transport into mitochondria | author1 = Herrmann JM. | author2 = Neupert W. | journal = Curr Opin Microbiol | volume=3 | issue=2 | year= 2000 |month=April | pages=210-214 | pmid = 10744987 | doi=10.1016/S1369-5274(00)00077-1 }}</ref>。 === 膜間腔 === {{main|ミトコンドリア膜間腔}} 膜間腔は、ミトコンドリアの外膜と内膜に挟まれた空間である。外膜がポリンによって低分子を自由に透過させる性質を実現しているため、通常の状態において、膜間腔のイオンや糖などの組成の多くは、ほとんど細胞質と同等である。例外は、内膜の直近の[[水素イオン|プロトン]]の濃度のように、限られる。その一方で、膜間腔におけるタンパク質の組成は、細胞質と大きく異なっており、外膜が破壊されて膜間腔に存在するタンパク質([[シトクロムc]]など)が細胞質へと漏れ出すと、細胞の[[アポトーシス]]が引き起こされる<ref name="Chipuk">{{cite journal | title = Mitochondrial outer membrane permeabilization during apoptosis: the innocent bystander scenario | author1 = Chipuk JE. | author2 = Bouchier-Hayes L. | author3 = Green DR. | journal = Cell Death and Differentiation. | year=2006 | volume=13 | issue=8 | pages = 1396-1402 | pmid = 16710362 | doi=10.1038/sj.cdd.4401963 }}</ref>。 === 内膜 === 内膜はマトリクスと膜間腔とを隔てており、ミトコンドリアの機能的アイデンティティを担っている。[[酸化的リン酸化]]に関わる呼吸鎖複合体などの酵素群が、内膜には規則的に配列している。外膜とは対照的に、基本的に内膜は不透性であり、何らかの物質を内膜を横断して輸送するためには、それぞれの物質に対して特異的な輸送体が必要である。 呼吸鎖複合体は内膜を挟んで、マトリクスからプロトンを膜間腔へと汲み出して、膜間腔の側のプロトンの濃度を高め、濃度勾配が形成される。この濃度勾配が、物質輸送やATP合成に関与している。 また、マトリクスへのタンパク質輸送装置やミトコンドリアの分裂・融合に関わるタンパク質群などが存在し、ミトコンドリアを構成する全タンパク質のおよそ2割(150以上)が含まれている。タンパク質とリン脂質の重量比は3:1ほどである。内膜の進化的起源は共生細菌の細胞膜を由来としており、内膜に特徴的なリン脂質[[カルジオリピン]]の存在がその証左と考えられている。 一般的に内膜は内側へ向かって陥入し、[[クリステ]]と呼ばれる構造を形成している。これによって内膜の表面積の増大、ひいてはATP合成能の増大に寄与している。外膜と内膜の表面積の比は細胞のATP需要と相関しており、肝臓では5倍ほど、骨格筋ではさらに大きな値である<ref name="Mannella">{{cite journal | title= Structure and dynamics of the mitochondrial inner membrane cristae | author = Mannella CA | unused_data=journal = Biochimica et Biophysica Acta (BBA) - Mol Cell Res. | journal = Biochimica et biophysica acta | volume=1763 |issue=5-6 |year=2006 | pages=542-548 | doi = 10.1016/j.bbamcr.2006.04.006 | pmid=16730811 }}</ref>。 クリステの形状は生物によって様々であり、平板状、管状、団扇状、などが知られている。[[多細胞動物]]や[[陸上植物]]ではミトコンドリアの長軸に直交する平板状をしており、日本では、教科書などを通じて広く知られている形状である。しかし、これはむしろ特殊な形状であり、真核生物全体を見渡すと、管状のクリステが一般的である<ref name="ミトコンドリアはどこからきたか">黒岩常祥(著)『ミトコンドリアはどこからきたか』 日本放送出版 2000年6月30日第1刷発行 ISBN 4140018879</ref>。 さらに、同一個体であっても、組織によってクリステの形状が異なる場合がある。例えば、ヒトの多くの細胞のミトコンドリアのクリステは平板状だが、副腎皮質や精巣や卵巣でステロイドホルモン類を分泌する細胞が有するミトコンドリアのクリステは、管状や小胞状であったりする<ref>藤田 尚男・藤田 恒夫 『標準組織学 総論(第3版)』 p.50、p.51 医学書院 1988年2月1日発行 ISBN 4-260-10047-5</ref>。他にも、ラットでも、このような組織によって、ミトコンドリアのクリステの形状が異なっていることが確認された<ref>藤田 尚男・藤田 恒夫 『標準組織学 総論(第3版)』 p.52 医学書院 1988年2月1日発行 ISBN 4-260-10047-5</ref>。さらには、哺乳類のステロイドホルモン分泌細胞以外でも、平板状だけでなく、管状や小胞状のクリステも有するミトコンドリアが観察される場合もある<ref>藤田 尚男・藤田 恒夫 『標準組織学 総論(第3版)』 p.51 医学書院 1988年2月1日発行 ISBN 4-260-10047-5</ref>。これらのように例外も数多い。 === マトリクス === 内膜に囲まれた内側がマトリクスであり、[[TCAサイクル]](別名:[[TCA回路]]・[[クレブス回路]]・[[クエン酸回路]]・[[クエン酸サイクル]])や[[β酸化]]など、ミトコンドリアの代謝機能に関わる酵素群が数多く存在している。ここにはmtDNAが含まれており、ミトコンドリア独自の遺伝情報が保持されている。その遺伝子発現を担うために、[[リボソーム]]、[[tRNA]]、[[転写因子]]や[[翻訳因子]]なども存在している。ミトコンドリア全タンパク質の6割から7割が存在しており、非常にタンパク質濃度の高い区画である。 [[File:Mitochondrial electron transport chain—Etc4.svg|500px|thumb|centre|ミトコンドリアのマトリクスと膜間腔と、電子伝達系とTCAサイクルの関係図。TCAサイクルの数箇所で生成したNADHは、電子伝達系の複合体Iに電子を押し付けて、NAD<sup>+</sup>を再生する。一方で、TCAサイクルの途中のコハク酸(succinate)は、複合体IIであるコハク酸デヒドロゲナーゼへ電子を押し付けて、フマル酸(fumarate)に変わる。複合体I、複合体III、複合体IVは、電子を受け取ると、膜間腔へプロトン(H<sup>+</sup>)を汲み出す。ATP合成酵素(ATP Synthase)は、このプロトンの濃度勾配を利用して、ADPにリン酸(Pi)を1つ結合させて、ATPを合成する。]] == 機能 == ミトコンドリアの主要な機能は、解糖系やTCAサイクルなどで生成した産物を利用して、[[電子伝達系]]に高エネルギーの電子を送り込み、それを酸素に押し付けながら作り出したプロトンの濃度勾配で、ATP合成酵素を駆動して、[[アデノシン二リン酸|ADP]]を[[酸化的リン酸化]]によって[[アデノシン三リン酸|ATP]]に変換する機能である。<ref group="注釈">したがって、これが阻害されると、真核生物の細胞は深刻なATP不足に陥り得る。例えば、[[シアン化水素]]や[[硫化水素]]などが毒である理由は、ミトコンドリアの電子伝達系の複合体IVを阻害するためである。他にも、電子伝達系の複合体Iを阻害する[[アモバルビタール]]など、電子伝達系の複合体IIを競合的に阻害する[[マロン酸]]など、電子伝達系の複合体IIIを阻害する[[ジメルカプロール]]など、ATP合成酵素を阻害する{{仮リンク|オリゴマイシン|en|oligomycin}}など、ここに関わる物質は多数存在する。なお、これらとは別に、[[2,4-ジニトロフェノール]]のような、電子伝達系とATP合成酵素の作用を切り離してしまう[[脱共役剤]]と呼ばれる毒物も存在する。ただし、体温を上昇させるために、敢えて生体が制御した脱共役を行うための{{仮リンク|サーモジェニン|en|Thermogenin}}と呼ばれるタンパク質も存在する。つまり、生理的な条件下でも、わざと脱共役が行われる場合もある事が知られている。</ref>。 もちろん、ミトコンドリアが関与しない[[解糖系]]のようなATP産生系も存在するものの、真核生物の細胞の活動に必要なATPの多くは、直接、あるいは間接的にミトコンドリアからATPの形で供給される。さらに、ミトコンドリアで行われる、TCAサイクル自体でも実質上はATPと等価な[[グアノシン三リン酸|GTP]]も産生されるなどするため、比喩的に「真核細胞のエネルギーを作り出す場」などと説明される場合もある<ref group="注釈">しかしながら、これは比喩であって、ミトコンドリアがエネルギーを作り出しているわけではない。あくまで、外来の高エネルギーの物質を、細胞が活動する際に使い易い、ATPやGTPなどの形に変換しているだけである。この際に、ロスも出るため、実質的なエネルギーは、減少している。</ref>。 ただし、ATPやGTPの合成以外にもミトコンドリアは多様な機能を有している。例えば、ステロイドやヘムの合成などを含む様々な代謝、カルシウムや鉄の細胞内濃度の調節、細胞周期や[[アポトーシス]]の調節などにも大きく関わっているとされる。しかし、これらの機能を全てのミトコンドリアが担っている訳ではなく、機能によっては、特定の細胞でのみ動いている。 こうした様々な機能には多数の遺伝子が関わっており、それらに関わる遺伝子の変異が発生した細胞が自然免疫で排除されないと、ミトコンドリアの機能低下を招き、[[ミトコンドリア病]]を引き起こす場合がある。 === ATP産生 === ATP産生はミトコンドリアの主たる機能であって、これに関わる多くのタンパク質が内膜やマトリクスに存在している。 [[細胞質]]では[[解糖系]]が行われ、主に[[グルコース]]を代謝して、わずかなATPを合成しながら、[[ピルビン酸]]と[[ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド|NADH]]に分解する。ここで、もし酸素が充分に存在しない場合には、解糖系の産物は[[嫌気呼吸]]により代謝される。しかしミトコンドリアで酸素を用いて、これらを酸化する[[好気呼吸]]を行えば、嫌気呼吸と比べて効率良くATPを得られる。嫌気性分解では1分子のグルコースから2分子のATPしか得られなかったのに対して、ミトコンドリアによる好気性分解によって、1分子のグルコースから約38分子のATPが合成できる<ref name="ミトコンドリアはどこからきたか"/><ref group="注釈">[[ミトコンドリアのシャトル系]]などの関係で、多少の変動が出る。なお、この1分子のグルコースから、約38分子のATPという比率は、代謝系に阻害が行われておらず、かつ、{{仮リンク|サーモジェニン|en|Thermogenin}}などが動いていない場合の話である。</ref>。 また、ミトコンドリアでは、ピルビン酸だけでなく、[[脂肪酸]]も利用できる。ミトコンドリアで脂肪酸は[[β酸化]]が行われる。ピルビン酸が[[アセチルCoA]]に変換されて、TCAサイクルに入るように、β酸化によって、脂肪酸は炭素鎖が2つずつ切り離されてアセチルCoAが生成され、同じようにTCAサイクルに入るからである。 なお、植物のミトコンドリアは、酸素が無くとも、亜硝酸を利用してある程度のATP産生が可能である<ref name="pmid17333252">{{cite journal | title = Nitrite-driven anaerobic ATP synthesis in barley and rice root mitochondria | author1 = Stoimenova M. | author2 = Igamberdiev AU. | author3 = Gupta KJ. | author4 = Hill RD. | journal = Planta |volume=226 |issue=2 |pages=465-474 |year=2007 |month=July | pmid = 17333252 |doi=10.1007/s00425-007-0496-0 }}</ref>。 [[File:Ja-CellRespiration.svg|500px|thumb|right|細胞質での解糖系と、ミトコンドリアでのピルビン酸の脱炭酸とTCAサイクル。]] ==== 細胞質での解糖系 ==== {{main|解糖系}} 地球上の全ての生物で[[解糖系]]は、その反応が[[細胞質基質]]で起こる。これは解糖系が[[細胞内小器官]]が発生する以前から存在してきた、最も原始的な代謝系であることを反映しているのだろうと考えられている。 [[真核生物]]では、解糖系で得られた物質(ピルビン酸とNADH)を、TCAサイクルや電子伝達系の反応を行うミトコンドリアへ輸送し、好気呼吸を行う<ref>[http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/tca_cycl.htm TCA回路] 講義資料のページ</ref>{{信頼性要検証|date=2012年10月}}。 ==== ミトコンドリアへの輸送 ==== {{Main|リンゴ酸-アスパラギン酸シャトル}} 細胞質の解糖系で生成された[[ピルビン酸]]は、ピルビン酸共輸送体(ピルビン酸/H+)により細胞質からミトコンドリアへ輸送される。同じく細胞質で生成されたNADHは[[リンゴ酸-アスパラギン酸シャトル]]によりミトコンドリアへ実質的に輸送される<ref>{{cite book | title = Molecular Cell Biology, Fifth Edition | authors = Monty Krieger; Matthew P Scott; Matsudaira, Paul T.; Lodish, Harvey F.; Darnell, James E.; Lawrence Zipursky; Kaiser, Chris; Arnold Berk | publisher = W. H. Freeman |location=San Francisco |year= |pages= |isbn=0-7167-4366-3 |oclc= |doi=}}</ref>。ただし、[[グリセロリン酸シャトル]]で輸送される場合もあり、この場合にNADHは、ミトコンドリアのTCAサイクルで発生するFADH<sub>2</sub>相当に、ミトコンドリアでのATPの産生量は目減りする<ref>Robert K. Murray・Daryl K. Granner・Victor W. Rodwell(編集)、上代 淑人(監訳)『Illustrated ハーパー・生化学(原書27版)』 p.123 丸善 2007年1月30日発行 ISBN 978-4-621-07801-3</ref>。 なおADPは、ATP/ADPトランスポーターにより細胞質からミトコンドリアへ輸送される<ref name="atp">真島 英司、寺田 弘、「[https://doi.org/10.2142/biophys.38.245 ATPはいかにして膜を透過するか:ループの協調的スウィングによるミトコンドリアADP/ATPキャリアーの機能発現]」、『生物物理』Vol. 38 (1998) No. 6、P 245-249 </ref>。 また、H<sub>2</sub>O、O<sub>2</sub>、CO<sub>2</sub>、NH<sub>3</sub>は、そのままミトコンドリア内膜を通過できる。 ==== ピルビン酸の脱炭酸 ==== [[アセチルCoA]]は、好気性[[細胞呼吸]]の第2段階目である、[[ピルビン酸]]が[[ピルビン酸デヒドロゲナーゼ複合体]]により[[脱炭酸]]して生成する。この酵素反応はミトコンドリアのマトリクスで起こる。ここで生成したアセチルCoAは、TCAサイクルに投入される<ref>[http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/textbook/mitocho.htm 第5回 5.エネルギーの生産-サイトゾールとミトコンドリア 更新日:2002/04/08] 教養部生物学の資料[http://www.tmd.ac.jp/artsci/biol/sumcell.htm]</ref>{{信頼性要検証|date=2012年10月}}。 ==== TCAサイクル ==== {{main|TCAサイクル}} 解糖系で生じたピルビン酸は内膜を[[能動輸送]]によって透過し、マトリクスで酸化され[[補酵素A]]と結合し、二酸化炭素、[[アセチルCoA]]、NADHを生じる。アセチルCoAは、TCAサイクルへ入る基質である。TCAサイクルの反応に関わる酵素群は、ほとんどがミトコンドリアのマトリクスに存在している。しかし、[[コハク酸デヒドロゲナーゼ]]だけは例外で、内膜の内側に付着しており、これが電子伝達系の複合体IIに当たる。TCAサイクルで、コハク酸からフマル酸に変換する際の酸化還元反応では、電子伝達系の複合体Iを動かすほどのエネルギーが無く、複合体IIが動かされる。その後は、いずれも電子伝達系の複合体IIIへとエネルギーが伝達され、ATP産生に寄与する。 なお、TCAサイクルはアセチルCoAを酸化して二酸化炭素を生じ、その過程で3分子のNADHと1分子FADH<sub>2</sub>、1分子のGTPを生成する。なお、二酸化炭素はミトコンドリア外へ拡散して排出される。 TCAサイクルでは、サイクルの1回転ごとに、全ての中間体(例えば、[[クエン酸]]、[[イソクエン酸]]、[[α-ケトグルタル酸]]、[[コハク酸]]、[[フマル酸]]、[[リンゴ酸]]および[[オキサロ酢酸]])が再生される。したがって、ミトコンドリアにこれらの中間体のいずれかを追加して加えると、追加された量がTCAサイクル内に保持され、中間体の1つが他方に変換されて順次増加する。よって、それらの中間体のいずれか1つをTCAサイクルに加えれば、[[補充反応]](アナプレロティック反応)効果を示す。逆に、中間体のいずれかの除去すれば、消費反応(カタプレロティック反応)効果を示す。これらの補充反応及び消費反応は、TCAサイクルの回転で、アセチルCoAと結合してクエン酸を形成するために利用可能な、オキサロ酢酸の量を増加または減少させる。この回転量が、ミトコンドリアによるATP製造量と、細胞へのATPの提供量の増減を左右する<ref name="stryer">{{cite book | title = In: Biochemistry. |edition= 4 th |chapter= Citric acid cycle. |pages= 509-527, 569-579, 614-616, 638-641, 732-735, 739-748, 770-773 | first1 = Lubert |last1= Stryer | publisher = W.H. Freeman and Company |location= New York |publication-date= 1995 | isbn = 0-7167-2009-4 }}</ref>。要するに、ミトコンドリア内に存在するTCAサイクルの各種中間体の量が、TCAサイクルの反応速度を調節し、ATPの合成量も調節することを意味する。 ==== 電子伝達系 ==== {{main|電子伝達系|酸化的リン酸化}} NADHやFADH<sub>2</sub>が有する還元力は、内膜にある電子伝達系で数段階を経て、最終的に酸素に渡される。要するに、電子を、電気陰性度の高い酸素に押し付ける形である。 なおNADHは、マトリクスでのTCAサイクルやβ酸化だけでなく、細胞質の解糖系でも生ずる。細胞質で生じたNADHの還元力は、マロン酸-アスパラギン酸対向輸送系や、リン酸グリセロールシャトル系を通じて電子伝達系に供給される。内膜の電子伝達系には、[[NADH:ユビキノン還元酵素 (水素イオン輸送型)|NADH脱水素酵素]]、シトクロームc還元酵素、シトクロームc酸化酵素が存在しており、プロトン(H<sup>+</sup>)を膜間腔へ汲み出す。この過程は非常に効率的だが、不充分な反応により[[活性酸素種]]を生じ得る([[活性酸素#活性酸素と人体の関係]]参照のこと)。これがいわゆる「[[酸化ストレス]]」の形態の1つであり、ミトコンドリアの機能低下や老化に関与していると考えられている<ref name="oxidativedamage">{{cite journal | title = The role of oxidative damage in mitochondria during aging: A review | first = K. |last=Huang | coauthor = K. G. Manton | journal = Frontiers in Bioscience |volume=9 |pages=1100-1117 | year = 2004 | pmid = 14977532 | doi=10.2741/1298 }}</ref>。 グルコーストランスポーターである[[GLUT1]]を介して、[[デヒドロアスコルビン酸]]がミトコンドリアに輸送され、その後[[アスコルビン酸]]に還元され、活性酸素による[[フリーラジカル]]の大部分が生成される場所であるミトコンドリアに蓄積される。アスコルビン酸は、ミトコンドリアの脂質膜とmtDNAを、活性酸素による酸化から保護する<ref name="MitoGolde"> {{cite journal | title = Vitamin C enters mitochondria via facilitative glucose transporter 1 (Glut1) and confers mitochondrial protection against oxidative injury | author1 = KC S. | author2 = Carcamo JM. | author3 = Golde DW. | journal = FASEB J |volume=19 |issue=12 |year=2005 |pages=1657-1667 | url = http://www.fasebj.org/cgi/content/full/19/12/1657 | pmid = 16195374 |doi=10.1096/fj.05-4107com }}</ref>。 電子伝達系で、複合体Iと複合体IIIと複合体IVは、電子が伝達された際に、ミトコンドリアのマトリクスから膜間腔へとプロトンを汲み出す。このようにしてプロトンが膜間腔へ汲み出された結果、ミトコンドリアの内膜の隔てて、プロトン濃度の差([[電気化学的勾配]])が生じる。汲み出されたプロトンは、[[ATP合成酵素]]を通じてマトリクスへ戻ることができ、この際に、電気化学的勾配のポテンシャルを使って、ADPと無機リン酸(P<sub>i</sub>)を、ATPへと変換する。生成されたATPは、ATP/ADPトランスポーターによって、ミトコンドリアから細胞質へ輸送され、細胞の活動エネルギー源として利用される<ref name="atp"/>。 この原理を[[化学浸透]]説と呼び、これを[[ピーター・ミッチェル]]が最初に唱えた功績によって、1978年に[[ノーベル化学賞]]を受賞した<ref name="Mitchella">{{cite journal | title = Chemiosmotic hypothesis of oxidative phosphorylation | author1 = Mitchell P. | author2 = Moyle J. | journal=Nature | date= 1967-01-14 | volume=213 | issue=5072 | pages=137-139 | pmid = 4291593 | doi = 10.1038/213137a0 }}</ref><ref name="Mitchellb">{{cite journal | title = Proton current flow in mitochondrial systems | author = Mitchell P. | journal = Nature | date=1967-06-24 | volume = 25 | issue=5095 | pages=1327-1328 | pmid = 6056845 | doi = 10.1038/2141327a0 }}</ref>。また、ATP合成酵素の反応機構を明らかにした[[ポール・ボイヤー]]と[[ジョン・E・ウォーカー]]には、1997年にノーベル化学賞が授与された<ref>{{cite web | title = Chemistry 1997 | publisher = Nobel Foundation | year = 1997 | url = https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1997/summary/ | accessdate = 2007-12-16 }}</ref>。 ==== 脂肪酸の輸送とβ酸化 ==== ミトコンドリアにおける脂肪酸の輸送については、[[β酸化#脂肪酸の動員]]及び[[β酸化#脂肪酸の活性化とミトコンドリア内への輸送]]を参照のこと。ミトコンドリアにおけるβ酸化については、[[β酸化#β酸化反応および酵素群]]を参照のこと。 なお、このミトコンドリアのマトリクスで行われる脂肪酸のβ酸化によって、1分子のアセチルCoAを生成する反応の際に、1分子のATPを消費するものの、FADH<sub>2</sub>とNADHと1分子ずつ生成する。このFADH<sub>2</sub>とNADHは、電子伝達系に使用され、より多くのATPを産生できる。さらに、ミトコンドリアのマトリクスで生成されたアセチルCoAは、同じくマトリクスで行われているTCAサイクルに投入され、さらに、GTPやATPを産生できる。 ==== アセトアルデヒドの酸化 ==== ミトコンドリアには[[アルデヒドデヒドロゲナーゼ]]も発現している<ref name="M_G_R_IdHarperBiochemistry_ed27_p247">Robert K. Murray・Daryl K. Granner・Victor W. Rodwell(編集)、上代 淑人(監訳)『Illustrated ハーパー・生化学(原書27版)』 p.247 丸善 2007年1月30日発行 ISBN 978-4-621-07801-3</ref>。 飲酒などによって[[エタノール]]を体内に摂取すると、肝臓などで発現している[[アルコールデヒドロゲナーゼ]]などの作用によって代謝され、[[アセトアルデヒド]]が生成する。このアセトアルデヒドを、ミトコンドリアは[[アルデヒドデヒドロゲナーゼ]]で代謝して、[[酢酸]]に変換できる。このミトコンドリアでのアルデヒドデヒドロゲナーゼの活性が遺伝的に低いヒトが、東洋人などの一部に見られ、そのようなヒトはアセトアルデヒドの毒性が強く出やすい<ref name="M_G_R_IdHarperBiochemistry_ed27_p247" />。 なお、酢酸とは、炭素鎖2つの脂肪酸である。 ==== 筋肉とミトコンドリア ==== [[速筋]]線維はミトコンドリアが少なく、[[グリコーゲン]]が比較的多いので白く見える。解糖系でATPを産生し、その結果として蓄積したピルビン酸は、[[乳酸デヒドロゲナーゼ]]で乳酸へと変換されやすい。このような嫌気的な糖分解によるATP産生であれば、わざわざ外部から酸素を取り込む必要もあく、速くATPを作り出せる。このこともあり、[[乳酸性閾値]]よりも高い運動強度では、速筋線維が多く使われるようになる。しかしながら、この方法では長時間の運動は続けられないという欠点がある。 これに対して、[[遅筋]]線維や[[心筋]]は、[[ミオグロビン]]が多いので赤く見え、酸素を利用しやすい環境を備えている。赤色の筋肉では、乳酸を作るよりは、解糖系の産物であるピルビン酸をミトコンドリアのTCAサイクルへ、解糖系で生成したNADHも[[ミトコンドリアのシャトル系|ミトコンドリアに渡され]]、ATPを合成して、運動のために使っている。この方式であれば、乳酸などが蓄積しないので、運動強度が低い場合は遅筋線維が主として働いている。 なお、速筋線維で発生した乳酸は、血液を介して肝臓に運ばれ、[[コリ回路]]でATPを消費してグルコースの再生に使われることは、よく知られている。 これ以外に、乳酸デヒドロゲナーゼは、乳酸をピルビン酸に戻す逆反応も触媒できる。遅筋線維や心筋では、外部から取り込んだ乳酸を、ピルビン酸に戻して、ミトコンドリアのTCAサイクルに投入することも行っている。 いずれにしても、主に速筋線維で蓄積しやすい乳酸の代謝には、細胞膜を通過して他の細胞へと乳酸が輸送される必要がある。この乳酸の輸送は、乳酸だけでなくピルビン酸などの輸送にも関わるため、モノカルボン酸の輸送担体({{lang-en|Monocarboxylate Transporter}} (MCT))と呼ばれている<ref name="hatta">[https://doi.org/10.5363/tits.11.10_47 新たな乳酸の見方]、八田 秀雄、学術の動向、Vol. 11 (2006) No. 10</ref>。 ==== 熱産生 ==== ある条件下では、膜間腔のプロトンはATP合成に関与せずに、促進拡散によってマトリクスに戻る場合がある。これは「プロトンのリーク」とか「ミトコンドリアの脱共役」と呼ばれ、これによって蓄積されていた[[電気化学ポテンシャル]]は熱として解放される。 {{仮リンク|サーモジェニン|en|Thermogenin}}などの一群のプロトンチャネル([[脱共役タンパク質]])が媒介しており、筋肉の震えを伴わない熱産生に関わっている<ref name="Mozo">{{cite journal | title = Thermoregulation: What Role for UCPs in Mammals and Birds? | author1 = Mozo J. | author2 = Emre Y. | author3 = Bouillaud F. | author4 = Ricquier D. | author5 = Criscuolo F. | journal = Bioscience Reports. | year=2005 |month=November | volume=25 | issue=3-4 | pages=227-249 | pmid = 16283555 | doi=10.1007/s10540-005-2887-4 }}</ref>。サーモジェニンは、若齢や冬眠中の哺乳類に見られる[[褐色脂肪組織]]のミトコンドリアに多く存在している。 === アポトーシス === [[画像:Apoptosis scheme.png|300px|thumb|right|カスパーゼカスケードとアポトーシス]] {{Main|アポトーシス|カスパーゼ}} 細胞に発生したDNA損傷などのストレスは、アポトーシス誘導分子[[p53]]やアポトーシスを調節する[[Bcl-2ファミリー]]タンパク質を介して、ミトコンドリアの[[膜電位]]を変化させ、外膜の[[電位依存性陰イオンチャネル]]が閉鎖される<ref>{{cite journal | title = Voltage-dependent anion channel (VDAC) as mitochondrial governator--thinking outside the box. | author1 = Lemasters JJ. | author2 = Holmuhamedov E. | journal = Biochim. Biophys. Acta |volume=1762 |issue=2 |pages=181-190 |year=2006 | pmid = 16307870 |doi=10.1016/j.bbadis.2005.10.006 }}</ref>。なお、ミトコンドリアの外膜の電位依存性陰イオンチャネルが閉鎖されると、ミトコンドリアの機能は低下する。 さらに、ミトコンドリアの膜電位の変化は、ミトコンドリアからの[[シトクロムc]]の漏出も発生させ、[[アポトーシス]]へとつながる<ref>{{cite journal | title = アポトーシスの分子機構 | author1 = 太田 成男 | author2 = 石橋 佳朋 | journal = 脳と発達 | year=1999 | volume=31 | issue=2 | pages= | url = https://doi.org/10.11251/ojjscn1969.31.122 | doi = 10.11251/ojjscn1969.31.122 }}</ref>。シトクロムcは、細胞質に存在する[[Apaf-1]]や[[カスパーゼ-9]]と結合して、{{仮リンク|アポトソーム|en|apoptosome}}({{lang-en|apoptosome}})と呼ばれる集合体を形成する。これによって活性化されたカスパーゼ-9が、下流のエフェクターを活性化する。この後は、DNAが切断されて、細胞は自殺する。 === カルシウム貯蔵 === [[Image:Chondrocyte- calcium stain.jpg|300 px|right|thumb|[[軟骨細胞]]の電子顕微鏡像。ミトコンドリア中のカルシウムが強染されている。]] 細胞内のカルシウム濃度は様々な機構によって厳密に制御されており、細胞中の情報伝達に重要な役割を果たしている。細胞内のカルシウム濃度の上昇により、セカンドメッセンジャー系が起動されたり、筋肉の収縮が起きたりと、様々な反応が起きる。細胞内におけるカルシウムの貯蔵場所としては[[小胞体]]が最も顕著だが、カルシウムの貯蔵に関して、小胞体とミトコンドリアは協調している<ref>{{cite journal | title = Mitochondria-endoplasmic reticulum choreography: structure and signaling dynamics | author1 = Pizzo P. | author2 = Pozzan T. | journal = Trends Cell Bio. | volume=17 | issue=10 | year=2007 |month=October | pages=511-517 | doi = 10.1016/j.tcb.2007.07.011 | pmid=17851078 }}</ref>。 というのも、ミトコンドリアは一過的なカルシウム貯蔵能を有し、細胞におけるカルシウム濃度の恒常性に貢献しているのである<ref name="Siegel_Basic_Neurochemistry">{{cite book | title = Basic Neurochemistry | edition=6 | editors = Siegel GJ, Agranoff BW, Fisher SK, Albers RW, Uhler MD. | authors = Editor-in-chief, George J. Siegel; editors, Bernard W. Agranoff... [et al.]; illustrations by Lorie M. Gavulic | publisher = Lippincott Williams & Wilkins | year=1999 | isbn = 0-397-51820-X }}</ref>。ミトコンドリアは迅速にカルシウムを取り込むことが可能で<ref name="Rossier" />、カルシウムは内膜のカルシウム輸送体により、マトリクスへと取り込まれる<ref name="MillerRJ">{{cite journal | title = Mitochondria - the kraken wakes! | author = Miller RJ. | journal = Trends in Neurosci. | volume=21 | issue=3 | year=1998 | pages=95-97 | doi = 10.1016/S0166-2236(97)01206-X }}</ref>。これの動作は、ミトコンドリアの膜電位に依存している<ref name="Siegel_Basic_Neurochemistry" />。 こうして取り込んだカルシウムを、ミトコンドリアが後々放出することで、カルシウム濃度の緩衝作用を果たしている<ref name="Rossier">{{cite journal | title = T channels and steroid biosynthesis: in search of a link with mitochondria | author = Rossier MF. | journal = Cell Calcium. | year=2006 | volume=40 | issue=2 | pages=155-164 | pmid = 16759697 | doi = 10.1016/j.ceca.2006.04.020 }}</ref><ref>{{cite journal | title = Mitochondrial calcium and its role in calcification. | author1 = Brighton, Carl T. | author2 = Robert M. Hunt | journal = Clinical Orthopaedics and Related Research | volume=100 | year=1974 | pages=406-416 }}</ref><ref>{{cite journal | title = The role of mitochondria in growth plate calcification as demonstrated in a rachitic model. | author1 = Brighton, Carl T. | author2 = Robert M. Hunt | journal = Journal of Bone and Joint Surgery | volume=60-A | year=1978 | pages=630-639 }}</ref>。なお、カルシウムの放出は、ナトリウム・カルシウム対向輸送、もしくは、カルシウム依存性カルシウム放出系によって行われる<ref name="MillerRJ" />。 == ミトコンドリアゲノム == {{main|ミトコンドリアDNA}} ミトコンドリア中には、細胞核とは別に、独自のDNAが存在しており、これを[[ミトコンドリアDNA]]('''mtDNA''')と呼ぶ。mtDNAは、細胞核とは異なる独自の遺伝情報を持っている。DNA分子の大きさや形状、codeされている遺伝子の数や種類などは、生物種によって大きく異なる。 ただ、通常はGC含量が低く(20-40%)、基本的なmtDNAは、塩基対が数十kb程度のDNAである。mtDNAには、[[電子伝達系]]に関わるタンパク質、[[リボソームRNA]]や[[転移RNA|tRNA]]など、数十種類の遺伝子がcodeされている。 ヒトを含む脊椎動物のmtDNAは、真核生物の中ではかなり特殊な性質を多く持っており、研究はよく進んでいるものの、安易な一般化は慎まなければならない。 なお、mtDNAと、それに基づいて合成される産物の一部は、ミトコンドリアだけではなく、細胞表面にも所在し、mtDNAに突然変異が発生している場合には、自然免疫系が特異的に細胞ごと破壊して排除する<ref>{{cite journal | title = ミトコンドリアDNAに突然変異をもつ細胞は自然免疫により排除されることを発見 | author = 林純一 | work = 筑波大学生命科学研究科 | journal = Journal of Experimental Medicine (電子版) |volume=2011.Oct.12 |date=2011-10-12 }}</ref>。mtDNAに突然変異が発生した場合には、[[ミトコンドリア病]]を発症する可能性もある。 === mtDNAの塩基対数と形状 === 最も小さなmtDNAを持つ生物は[[アピコンプレックス門]]の原虫で、大きさわずか6 kbの線状ゲノムである。電子伝達系に関わる3つのタンパク質遺伝子と、断片化されたリボソームRNA遺伝子群のみが存在している。逆に最も大きなmtDNAは、[[マスクメロン]]の持つ2400 kbという巨大なゲノムである。ただし遺伝子数は比較的多いものの、それでも100弱に過ぎず、大量の反復配列やグループ2イントロンなどの非遺伝子領域が大部分を占める。 ヒトを含む[[多細胞動物]]のmtDNAはいずれも比較的似通っており、長さ16 kb前後の単一の環状DNAで構成されている。遺伝子は37あり、その内訳は、呼吸鎖複合体とATP合成酵素のサブユニットが13、tRNAが22、rRNAが2である。 遺伝子地図などでは、mtDNAが環状に表現される事例が多い。しかし物理的に環状のmtDNAを持つ生物はごく一部に限られ、多くの生物では環状の基本構造からトイレットペーパーを引き出すかのように連続的に複製されており、その結果mtDNAの大部分は、基本単位が何度も繰り返す線状反復構造を有している。また少数派ではあるものの、常に線状のmtDNAを持つ生物も存在している。 === 遺伝子 === ミトコンドリアゲノムは[[αプロテオバクテリア]]から受け継がれており、その遺伝子発現は[[細菌]]と共通した特徴を持っており、真核生物の細胞核のDNAとは異なる。例えば、複数の遺伝子がまとめて転写され、それが遺伝子ごとに切断されポリアデニル化されて成熟mRNAとなる点や、翻訳の開始にフォルミル化メチオニンが利用される点、細胞核に存在するような[[スプライソソーム]]型の[[イントロン]]が存在しない点、などが挙げられる。 さらに、ミトコンドリアの遺伝暗号表は、細胞核や一般の原核生物で利用されている普遍暗号表と比べて、若干の差が見られる。顕著な例として、細胞核では[[終止コドン]]であるはずのUGAが、ミトコンドリアでは[[トリプトファン]]をコードしている場合が多いことが挙げられるものの、例外も多く、生物種によって少しずつ異なる暗号表を用いているのが実態である<ref>{{cite journal | title = The genetic code in mitochondria and chloroplasts | author1 = Jukes TH. | author2 = Osawa S. | journal = Experientia. | date=1990-12-01 | volume=46 | issue=11-12 | pages = 1117-1126 | pmid = 2253709 | doi = 10.1007/BF01936921 }}</ref>。 またミトコンドリアでは、しばしば[[RNA編集]]が行われる。例えば高等植物のミトコンドリアでは、DNA配列上のCGGがmRNAの場合は、UGGと編集されて[[トリプトファン]]をコードするという例が知られている<ref>{{cite journal | title = RNA editing in plant mitochondria | author1 = Hiesel R. | author2 = Wissinger B. | author3 = Schuster W. | author4 = Brennicke A. | journal = Science. | volume=246 | issue=4937 | pages=1632-1634 | year = 2006 | pmid = 2480644 | doi = 10.1126/science.2480644 }}</ref>。 ただ、重要な点として、ミトコンドリアの機能に関わる全ての遺伝子が、mtDNAに存在しているわけではないが挙げられる。ミトコンドリアが持つmtDNA上にcodeされているミトコンドリアゲノムは、細菌のゲノムと比べると、遺伝子数が極端に減少している。一方で、ミトコンドリアが必要とする大多数の遺伝子は、細胞核の側にcodeされており、細胞質の側で転写された情報に基づいて生合成された遺伝子産物が、ミトコンドリアへと輸送される。これは進化の過程で、遺伝子が細胞核へ移動したからだと考えられている。 こうした現象は、比較的よく起きた出来事だと考えられ、[[マイトソーム]]などのように全てのDNAを完全に失ったようなミトコンドリアも存在している。 一方で、原生生物のレクリノモナス(''Reclinomonas americana'')は、他の生物では細胞核から輸送されているようなタンパク質の遺伝子が、mtDNA上に存在しており、比較的原始的なミトコンドリアゲノムを未だに保持していると考えられている。 ミトコンドリアには、呼吸機能に関与する[[疎水性]]のタンパク質が存在し、疎水性であるために輸送が難しく、これらをミトコンドリアの内部で作らざるを得ないために、ミトコンドリアに遺伝子が残っている理由の1つと考えられている<ref>池田清彦、『不思議な生き物-生命38億年の歴史と謎』 p.203、2013年4月25日、角川学芸出版、ISBN 978-4-04-653275-6</ref>。 === 異数性 === 1つのミトコンドリアには、2-10コピーのDNA分子が存在する<ref name="Wiesner">{{cite journal | title = Counting target molecules by exponential polymerase chain reaction, copy number of mitochondrial DNA in rat tissues | author1 = Wiesner RJ. | author2 = Ruegg JC. | author3 = Morano I. | journal = Biochim Biophys Acta | volume=183 | issue=2 |pages=553-559 |year=1992 | pmid = 1550563 }}</ref>。その全てが完全に同じ情報を持つわけではなく、複数の異質のDNA分子を含んでいると確認されている<ref name="ミトコンドリアはどこからきたか"/>。 == 起源 == ミトコンドリアは、[[リケッチア]]に近い好気性細菌のαプロテオバクテリアが、[[真核細胞]]に入り込んだ結果として獲得されたと考えられている<ref name="ミトコンドリアはどこからきたか"/>。[[リン・マーギュリス]]の[[細胞内共生説]]では単に好気性バクテリアが起源とされていたが、その後すぐの1970年代にはすでにミトコンドリアの起源が現在でいうαプロテオバクテリアだという意見が出た。脱窒細菌の''Paracoccus denitrificans''や、暗所好気条件で培養した[[紅色光合成細菌]]の''Rhodobacter sphaeroides''は、[[呼吸鎖]]の構成や阻害剤への応答がミトコンドリアと類似しており、特に、[[シトクロムc]]がミトコンドリアと互換性を持つ点が注目された<ref>{{cite journal | title = ''Paracoccus denitrificans'' and the evolutionary origin of the mitochondrion. | author1 = John P. | author2 = Whatley FR. | journal = Nature |volume=254 |issue=5500 |pages=495-498 |year=1975 | pmid = 235742 }}</ref>。 細胞核DNAにコードされているシトクロムcだけでなく、mtDNAにコードされている[[リボソームRNA]]の配列を使った系統解析でもαプロテオバクテリア起源であると示され、1980年代にはミトコンドリアのαプロテオバクテリア起源は受け入れられるようになった<ref name="Yang1985">{{cite journal | title = Mitochondrial origins | author1 = Yang D. | author2 = Oyaizu Y. | author3 = Oyaizu H. | author4 = Olsen GJ. | author5 = Woese CR. | journal = Proc Natl Acad Sci |volume=82 |issue=13 |pages=4443-4447 |year=1985 | pmid = 3892535 | url = http://www.pnas.org/content/82/13/4443.full.pdf |format=pdf }}</ref>。 ただし、初期の解析では[[高等植物]]ミトコンドリアのリボソームRNAの配列が、他のミトコンドリアの配列と比べて進化的距離が非常に小さかったため、ミトコンドリアの起源は単独ではなく、高等植物のミトコンドリアは新たに獲得された物だという意見もあった<ref name="Yang1985" />。しかし、こうした意見は現在では否定され、真核生物のミトコンドリアの起源は単一であるとされている<ref name="Viale1994" />。 もっとも、αプロテオバクテリアは非常に多様な細菌を含む分類群であり、その中でどのような細菌がミトコンドリアの起源なのかについては、長く議論が続いている。初期には前述の通り脱窒細菌や光合成細菌が起源だと考えられていたが、[[シャペロニン]]Hsp60(GroEL)を用いた系統解析により[[リケッチア]]が最も近縁であると示されてからは、これが有力説となった。リケッチアは、細胞内寄生生物である点、TCAサイクルを持ち[[好気呼吸]]ができるのに対して[[解糖系]]を持たない点、細胞膜にADP/ATP輸送体を持っている点、ゲノムが小さくAT含量が高い点など、ミトコンドリアと共通した特徴が複数見られる<ref name="Viale1994">{{cite journal | title = The chaperone connection to the origins of the eukaryotic organelles. | author1 = Viale AM. | author2 = Arakaki AK. | journal = FEBS Lett. |volume=341 |issue=2-3 |pages=146-151 |year=1994 | pmid = 7907991 }}</ref>。 1998年に[[発疹チフス]]を引き起こすリケッチアの1種である''Rickettsia prowazekii''のゲノムが解読され、祖先的とされる''Reclinomonas americana''のミトコンドリアゲノムと共通している遺伝子や、配置順が保存された遺伝子群などが見出され解析された。その多くはミトコンドリアがリケッチアに近縁であるという仮説を支持する結果であったが、ADP/ATP輸送体については、予想に反して起源を異にしていると示された<ref>{{cite journal | title = The genome sequence of Rickettsia prowazekii and the origin of mitochondria. | author1 = Andersson SG. | author2 = Zomorodipour A. | author3 = Andersson JO. | author4 = Sicheritz-Ponten T. | author5 = Alsmark UC. | author6 = Podowski RM. | author7 = Naslund AK. | author8 = Eriksson AS. | author9 = Winkler HH. | author10 = Kurland CG. | journal = Nature |volume=396 |issue=6707 |pages=133-140 |year=1998 | pmid = 9823893 }}</ref>。 20世紀末から21世紀初頭にかけて、世界中の海洋には自由生活性で浮遊性の細菌ペラジバクター(暫定的に''Candidatus'' Pelagibacter ubiqueと命名されている)が存在していることが明らかとなった<ref>{{cite journal | title = Cultivation of the ubiquitous SAR11 marine bacterioplankton clade | authors = Rappe et al. | journal = Nature |volume=418 |issue=6898 |pages=630-633 |year=2002 | pmid = 12167859 }}</ref>。ペラジバクターはリケッチア目の中で、最も祖先的な位置から派生したと考えられる生物であり、ミトコンドリアの起源を、ペラジバクターとその他一般的なリケッチアとの間に求められる<ref>{{cite journal | title = A robust species tree for the alphaproteobacteria. | author1 = Williams KP. | author2 = Sobral BW. | author3 = Dickerman AW. | journal = J Bacteriol. |volume=189 |issue=13 |pages=4578-4586 |year=2007 | url = http://jb.asm.org/cgi/reprint/189/13/4578.pdf |format=pdf | pmid = 17483224 }}</ref>。 なお、[[アメーバ]]に似た[[原生生物]]である[[ペロミクサ]]や[[微胞子虫]]など、原生生物の中はミトコンドリアを持っていないものもいる。これを、ミトコンドリアが共生する以前の真核生物の生き残りと見る説があった(→[[アーケゾア|アーケゾア仮説]])が、後に否定された。 == 生物の系統との関係 == ミトコンドリアの特徴は、[[動物]]、[[植物]]、[[菌類]]にほぼ共通であるが、それ以外の[[原生動物]]では、若干異なった形状の物がある。特にクリステの形については、明らかに異なった形状のミトコンドリアが見られる。 ヒトなどの一般のミトコンドリアでは、内膜がひだのように折れ曲がり、クリステは平坦な板のような形をしている。しかし、[[粘菌]]類の場合、クリステは内膜から内部へと放射状に入り込む管の形で、管の表面にATP合成酵素の手段が並んでいる。また、内部の中央にDNAを含んだ塊があって、ミトコンドリア核と呼ばれる。このような、管状のクリステを持つミトコンドリアは、[[繊毛虫]]や[[アピコンプレックス類]]、[[アメーバ]]類、[[クロララクニオン藻]]類などの原生生物にも見られる。 また、[[ミドリムシ]]類と[[トリパノソーマ]]では、クリステは団扇型である。これらのミトコンドリアは、細長くて枝分かれをして、細胞内に広がっている。トリパノソーマでは、[[鞭毛]]の基部にキネトプラストと呼ばれる袋状の構造が知られており、その中の顆粒にはDNAが含まれているが、これはミトコンドリアの一部である。 == がんとミトコンドリア == 1955年に[[オットー・ワールブルク]]は、体細胞が長期間低酸素状態に晒されると呼吸障害を引き起こし、通常の酸素濃度の環境下に戻しても、大半の細胞が変性や壊死を起こし、ごく一部の[[酸素呼吸]]に代わるエネルギー生成経路を昂進させて生存する細胞が、ガン細胞になるとの説を発表した。この説では、酸素呼吸よりも、むしろ[[解糖系]]によるエネルギー産生に依存する細胞は、下等動物や胎生期の未熟な細胞が一般的であり、体細胞がATP産生を酸素呼吸によらず解糖系に依存した結果、細胞が退化してガン細胞が発生するとした<ref>{{cite journal | title = Warburgの「癌細胞の起原」に就いて | author1 = 小野 興作 | author2 = 大島 福造 | author3 = 渡辺 漸 | journal = 岡山医学会雑誌<!--『岡山医学会雑誌』 1958年 70巻 12supplement号 pp.143-154--> |volume=70 |issue=12supplement |pages=143-154 |year=1958 | url = https://doi.org/10.4044/joma1947.70.12supplement_143 | doi = 10.4044/joma1947.70.12supplement_143 }}</ref>。 ガン細胞の発生とmtDNAの突然変異の関与は、古くから指摘されてきた。その理由は特定の発ガン性化学物質が、DNAよりもmtDNAに結合しやすいことと、ガン組織のmtDNAは正常組織よりも高い割合で突然変異の蓄積が観察されたことによる。しかしながら、母性遺伝するガンの存在が確認されていない点や、DNAの影響を排除しmtDNA単独でのガンへの影響を検証する手法が確立されていない点などが、この仮説の証明の障害であった。 ただ、2008年筑波大学の林純一らが、ガンの転移能獲得という、ガン細胞の悪性化に、mtDNAの変異が関与していることを指摘した<ref name="ROS_mtDNAmutation">{{cite journal | title = ROS-generating mitochondrial DNA mutations can regulate tumor cell metastasis | author = Hayashi, J., et. al. | journal = Science |year=2008 |volume=320 |issue=5876 |pages=661-664 | pmid = 18388260}}</ref>。マウス肺がん細胞の細胞質移植による細胞雑種の比較により、mtDNAの特殊な病原性突然変異によってガン細胞の転移能獲得の原因になることを発見し、ヒトのガン細胞株でも、mtDNAの突然変異がガン細胞の転移能を誘導し得ることを明らかにし、少なくとも、mtDNAがATP合成以外の生命現象にも関与することを明らかにした。また、林らによるとmtDNAの突然変異には、活性酸素種(ROS)の介在が重要であり<ref name="ROS_mtDNAmutation" />、ROSを除去すれば転移能の抑制が可能ではないかと推察した。ただし、ガン細胞の転移能の獲得メカニズムは複雑であり、様々な要因が考えられるので、これはその要因の1つに過ぎない。 また、京都大学の井垣達吏らは、① Ras遺伝子の活性化とミトコンドリアの機能障害を起こした細胞は、細胞老化を起こして細胞老化関連分泌因子(SASP因子)を放出し、これにより周辺組織のガン化を促進すること、また、② 細胞分裂停止と[[JNK]]遺伝子の活性化が互いに増幅し合うことで、細胞内のJNK活性が顕著に増大し、これによりSASP因子の産生が誘導されることを示した<ref>{{Cite journal | title = Mitochondrial defects trigger proliferation of neighbouring cells via a senescence-associated secretory phenotype in Drosophila (ショウジョウバエにおいて、ミトコンドリアの障害が、細胞老化関連分泌因子(SASP因子)を介して隣接細胞の増殖のトリガーになる) | author1 = NAKAMURA M. | author2 = OHSAWA S. | author3 = IGAKI T. | journal = Nature Communications | volume=5 | date = 2014-10-17 | doi=10.1038/ncomms6264 | url = https://www.nature.com/articles/ncomms6264 | accessdate = 2020-01-05 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 | title = 井垣達吏教授らの研究成果が、英国科学誌「Nature Communications」に掲載されました。 | publisher = 京都大学 大学院 生命科学研究科 |date=2014-10-28 | url=https://www.lif.kyoto-u.ac.jp/j/?post_type=research&p=4707 | accessdate=2020-01-05 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 | title=細胞間の相互作用で良性腫瘍ががん化する仕組みを解明 | publisher=科学技術振興機構, 神戸大学 |date=2012-10-01 | url=https://www.jst.go.jp/pr/announce/20121001/index.html |format=html | accessdate=2020-01-05 }}</ref>。 == 「ミトコンドリア・イブ」 == {{main|ミトコンドリア・イブ}} ミトコンドリアのDNAは、同種交配の場合卵子に入った精子のミトコンドリアが選択的に排除されるため、母親のmtDNAを引き継ぐことを根拠に、現生人類の起源の地が探られた。すなわち、世界中に分布するヒトからmtDNAを調べて、現在の分布地図から現生人類の起源とその移動について推察する作業を実施した。この結果、大昔のアフリカのある女性が、今の人類の全てのミトコンドリアについての「母親」であるとの仮説が発表された。この女性はキリスト教徒の宗教的説話になぞらえて「'''ミトコンドリア・イブ'''」と呼ばれている。 しかしながら、この仮説は、その他の遺伝情報について、この女性に全てが由来するという意味ではない。無論、全人類の起源が1人の女性にあると言っているわけでもない。しかも、実験的に異種交配させた受精卵では、精子由来のミトコンドリアを排除するプロセスが失敗する場合があることが知られている。 == フィクション == === 小説 === 1995年に第2回日本ホラー小説大賞を受賞した[[瀬名秀明]]の『[[パラサイト・イヴ]]』は、ミトコンドリアの共生起源説、および、人類の進化におけるミトコンドリア・イブ説に基づき、現在のミトコンドリアは細胞の支配下にあるが、もしもそれが反乱を起こしたならば、という仮定の物語で話題を呼び、映画やゲーム化も行なわれた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Sisterlinks | wikt = ミトコンドリア | q = no | n = no | v = no }} * [[ミトコンドリアのシャトル系]] * [[葉緑体]] - ミトコンドリアと同様に、外膜と内膜、さらに、独自のDNAも有する。 * [[カルニチン]] * [[ハプログループF (mtDNA)]] * {{ill2|母の呪い|en|Mother's curse}} * {{ill2|オンコサイト|en|Oncocyte}} {{細胞小器官}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みとこんとりあ}} [[Category:細胞小器官]] [[Category:ミトコンドリア|*]] [[Category:細胞呼吸]]
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伯耆国
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。 同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。 また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。 藤原宮跡から出土した戊戌年(文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという。 明治維新の直前の領域は現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡にあたる。 古墳時代以前には古代出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓が築かれており、『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人大原安綱を輩出した。 国府は久米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府(こう)で見つかっている。倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は1973年(昭和48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、1978年(昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、掘立柱建物・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている。 2012年3月より、地元NPO・行政が連携して「謎の伯耆。(謎のほうきサイト)」(伯耆の国ブランディングサイト)を開設し、再び伯耆の国として売り出して当該地域の認知を促進するキャンペーンを行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "藤原宮跡から出土した戊戌年(文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える。 伯耆国風土記によると手摩乳、足摩乳の娘の稲田姫を八岐大蛇が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという。", "title": "「伯耆」の名称と表記" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治維新の直前の領域は現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡にあたる。", "title": "領域" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古墳時代以前には古代出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓が築かれており、『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人大原安綱を輩出した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国府は久米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府(こう)で見つかっている。倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は1973年(昭和48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、1978年(昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、掘立柱建物・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2012年3月より、地元NPO・行政が連携して「謎の伯耆。(謎のほうきサイト)」(伯耆の国ブランディングサイト)を開設し、再び伯耆の国として売り出して当該地域の認知を促進するキャンペーンを行っている。", "title": "国おこし" } ]
伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 伯耆国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|伯耆国}} |別称 = 伯州(はくしゅう) |所属 = [[山陰道]] |領域 = [[鳥取県]]中部・西部 |国力 = [[上国]] |距離 = [[中国 (令制国)|中国]] |郡 = 6郡48郷 |国府 = 鳥取県[[倉吉市]]([[伯耆国庁跡]]) |国分寺 = 鳥取県倉吉市(伯耆国分寺跡) |国分尼寺 = (推定)鳥取県倉吉市 |一宮 = [[倭文神社 (湯梨浜町)|倭文神社]](鳥取県[[東伯郡]][[湯梨浜町]]) }} '''伯耆国'''(ほうきのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。 == 概要 == 同じ鳥取県に含まれる[[因幡国]]よりも[[島根県]]に含まれる[[出雲国]]と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、[[雲伯]]という地域区分がある。 また、[[中国地方]]最高峰の[[大山 (鳥取県)|大山]]を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。 == 「伯耆」の名称と表記 == [[藤原京|藤原宮]]跡から出土した[[戊戌]]年([[文武天皇]]2年・[[698年]])6月の年月が記された[[木簡]]に、「'''波伯吉'''国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『[[古事記]]』では、これと別の'''伯伎'''国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『[[先代旧事本紀]]』には、'''波伯'''国造が見える<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・22頁。</ref>。 伯耆国風土記によると[[アシナヅチ・テナヅチ|手摩乳、足摩乳]]の娘の稲田姫を[[八岐大蛇]]が喰らおうとしたため、山へ逃げ込んだ。その時母が遅れてきたので姫が「母来ませ母来ませ」と言ったことから母来(ははき)の国と名付けられ、後に伯耆国となったという。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は現在の[[鳥取県]][[米子市]]、[[倉吉市]]、[[境港市]]、[[東伯郡]]、[[西伯郡]]、[[日野郡]]にあたる。 == 沿革 == [[古墳時代]]以前には[[古代出雲]]に特徴的な[[四隅突出型墳丘墓]]が築かれており、『[[出雲国風土記]]』にも当地に聳え立つ霊峰[[伯耆大山]]の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。[[弥生時代]]より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が[[大和政権]]の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり[[伊邪那美神]]の埋葬地「出雲と伯耆の堺の[[比婆山|比婆の山]]」であり、現在の[[島根県]][[安来市]]と鳥取県[[米子市]]の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人[[大原安綱]]を輩出した。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が[[因幡国|因幡]]'''[[鳥取藩]]'''領であった(778村・245,034石余・一部は[[大山寺 (鳥取県大山町)|大山寺]]領など[[寺社領]])。 ** [[河村郡]](108村・28,645石余)、[[久米郡 (鳥取県)|久米郡]](120村・46,044石余)、[[八橋郡]](108村・35,482石余)、[[汗入郡]](75村・27,900石余)、[[会見郡]](185村・70,839石余)、[[日野郡]](182村・36,121石余) * 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鳥取県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''[[島根県]]'''の管轄となる。 * 明治14年([[1881年]])[[9月12日]] - '''鳥取県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == === 国府 === [[国府]]は久米郡にあった。遺跡は現在の[[倉吉市]]国府(こう)で見つかっている。倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は[[1973年]]([[昭和]]48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、[[1978年]](昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、[[掘立柱建物]]・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている<ref>真田廣幸「律令制下の因幡・伯耆」(内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門『鳥取県の歴史』、山川出版社、2003年)50-55ページ。</ref>。 === 国分寺 === ; 伯耆国分寺跡 : 国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺<ref group="注釈">法華寺畑遺跡は国庁跡の北東400メートルに位置する。[[1971年]](昭和46年)から[[1974年]](昭和49年)にかけて発掘調査が行われた。区画の広さは約150メートル四方、四周は幅約1.5メートル・深さ約1メートルの溝で囲まれ、各辺の中央に張り出し、門を設けている。</ref>は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社6座6社が記載されている。大社はない。[[伯耆国の式内社一覧]]を参照。 * [[河村郡]] [[倭文神社 (湯梨浜町)|倭文神社]] ([[東伯郡]][[湯梨浜町]]宮内) * 河村郡 [[波波伎神社]] (倉吉市福庭) * [[久米郡 (鳥取県)|久米郡]] [[倭文神社 (倉吉市)|倭文神社]] (倉吉市志津) * 久米郡 [[国坂神社]] (東伯郡[[北栄町]]国坂) * [[会見郡]] [[胸形神社 (米子市)|胸形神社]] ([[米子市]]宗像) * 会見郡 [[大神山神社]] (米子市尾高) ; [[総社]]・[[一宮]]以下 * 総社 国庁裏神社 - 倉吉市国府。 * 一宮 '''[[倭文神社 (湯梨浜町)|倭文神社]]''' (河村郡) * 二宮 [[大神山神社]]または[[波波伎神社]] * 三宮 [[倭文神社 (倉吉市)|倭文神社]] (久米郡) == 地域 == === 郡 === * [[河村郡]]:東伯東端に位置し、因幡・美作と境を接する。 * [[久米郡 (鳥取県)|久米郡]]:東伯中央部で伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれていた。美作と境を接する。 * [[八橋郡]]:東伯西端に位置。 * [[汗入郡]]:西伯北東部。 * [[会見郡]]:西伯北西部で、出雲と境を接する。 * [[日野郡]]:西伯西南部で、備中・備後・美作と境を接する。 === 荘園 === * [[東郷荘]] * [[矢送荘]] * [[宇多河荘]]:[[汗入郡]](現在の[[米子市]][[淀江町]]東部)を中心とする。 * [[中間荘]]:[[会見郡]](現在の米子市東部) * [[蚊屋荘]]:会見郡(現在の米子市東部) * [[稲積荘 (伯耆国)|稲積荘]] * [[久永御厨]] === 江戸時代の藩 === * [[鳥取藩]]:[[池田氏#美濃池田家|池田家]](32万石→32.5万石) * [[米子藩]]:[[中村一忠|中村家]](17.5万石)→加藤家(6万石)→[[伊予国]][[大洲藩]]に転封・廃藩 * [[倉吉藩]]:[[里見氏|里見家]](3万石)→廃藩 * [[黒坂藩]]:[[関氏#平姓関氏|関家]](5万石)→廃藩 * [[矢橋藩]]:[[市橋氏|市橋家]](2.13万石)→[[越後国]][[三条藩]]に転封・廃藩 == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 伯耆守 ==== *[[山上憶良]] *[[大原宿奈麻呂]]:[[宝亀]]7年([[776年]])任官 *[[良岑秀崇]]:[[寛平]]8年(896年)任官 *[[当麻有業]]:[[延喜]]22年(922年)任官 *[[船実平]]:[[天暦]]元年(947年)任官 *[[藤原公明]]:[[安和]]元年(968年)任官 *[[源頼光]]: *[[藤原隆佐]]:[[寛仁]]元年(1017年)任官 *[[藤原資頼]]:[[治安 (元号)|治安]]2年(1022年)任官 *[[藤原範永]]:[[万寿]]2年(1025年)任官 *[[平忠盛]]:1115年頃 *[[平親範]]:[[久安]]4年(1148年)任官(~[[保元]]元年(1156年)) *[[平基親]]:[[平治]]元年(1159年)任官(~仁安元年(1166年)) *[[平時家]]:[[安元]]2年(1176年) *[[平親宗]]:[[仁安 (日本)|仁安]]2年(1167年)任官 *[[平忠度]]:[[治承]]3年(1179年)任官 *[[源光長]]:[[寿永]]2年(1183年)任官 *[[名和長年]]:[[元弘]]3年(1333年)任官 *[[名和顕興]]:名和長年の孫 ==== 伯耆介 ==== * (権介)[[坂上明兼]]:[[久安]]2年([[1146年]])任官 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *1205年~? - [[金持広親]] *?~1272年 - [[北条時輔]] *1272年~1275年? - [[蘆名経光]] *1275年頃~1285年 - [[三浦頼連]] *?~1333年 - [[北条時益]] ==== 室町幕府 ==== *1336年~1337年 - [[石橋和義]] *1337年~1351年 - [[山名時氏]] *1363年~1371年 - 山名時氏 *1371年~1389年 - [[山名時義]] *1389年~1390年 - [[山名氏之]] *1390年~1391年 - [[山名満幸]] *1392年~1424年 - 山名氏之 *1427年~? - [[山名教之]] *1453年?~1471年 - [[山名豊之]] *1473年~1476年? - [[山名之弘]] *1476年?~? - [[山名元之]] *?~1491年 - [[山名政之]] *1494年~? - [[山名尚之]] *1521年~1524年 - [[山名澄之]] *1524年~? - [[山名豊興]] *1552年~1561年 - [[尼子晴久]] ===国人=== {{節スタブ}} ;河村郡 *[[南条氏]] - [[羽衣石城]]を本拠とする。 *[[越振氏]] - 本拠地は羽合田(現在の[[湯梨浜町]]羽合)付近か。 ;久米郡 *[[小鴨氏]] - [[岩倉城]]を本拠とする。 *[[山田氏 (伯耆国)|山田氏]] - 北條郷。堤城を本拠とする。 *[[長氏 (伯耆国)|長氏]] - 本拠地は[[矢送荘]](現在の[[倉吉市]])付近か。 ;八橋郡 *[[野津氏]] - 本拠地は現在の[[琴浦町]]箆津付近か。 ;汗入郡 *[[福頼氏]] - 本拠地は[[宇多河荘]](現在の[[米子市]][[淀江町]]福頼)付近か。 *[[村上氏]] *淀江氏 ;会見郡 *[[進氏]] - 土着した中央官人[[紀氏]]の一族。 *[[行松氏]] - [[尾高城]]を本拠とする。 ;日野郡 *[[鉢塚氏]] - [[江尾城]]を本拠とする。 *[[日野氏 (伯耆国)|日野氏]] === 戦国大名 === *[[尼子氏]] *[[毛利氏]] ===織豊大名=== *[[南条元続]] - [[中国国分]]により[[八橋]]{{要曖昧さ回避|date=2016年2月}}を除く東三郡を領知。後、八橋も奪取。 *[[毛利輝元]] - 中国国分により西三郡と八橋を領知。[[吉川氏]]が管轄した。 === 武家官位としての伯耆守 === *江戸時代以前 **[[秋山虎繁]](秋山信友): 戦国時代の武将、武田二十四将の一人 **[[石川数正]]: 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。徳川家康、豊臣秀吉に仕える **[[塩谷孝綱]]: [[下野国]]塩谷郡の戦国武将 **[[塩谷義孝]]: 孝綱の子 **[[立花道雪]]: 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将 **[[土岐頼貞]]: 鎌倉時代から南北朝時代の武将、守護大名(美濃守護) **[[南条貞宗]]: は南北朝時代の武将、伯耆国の国人・[[南条氏]]の始祖 **[[南条元続]]: 安土桃山時代の伯耆国の武将 *江戸時代[[青山氏#青山氏 (徳川家臣)|青山家]]宗家 **[[青山忠俊]]: 宗家10代。[[常陸国|常陸]][[江戸崎藩]]第2代藩主、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]藩主、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]主 **[[青山忠朝]]: 宗家15代。[[丹波国|丹波]][[丹波亀山藩|亀山藩]]第3代藩主、丹波[[篠山藩]]初代藩主 **[[青山忠講]]: 宗家17代。篠山藩の第3代藩主 *江戸時代[[本多氏#三弥左衛門家 (正重の家系)|正重系本多家]] **[[本多正永]]: 正重系本多家初代。[[下総国|下総]][[舟戸藩]]、[[上野国|上野]][[沼田藩]]初代藩主 **[[本多正珍]]: 正重系本多家4代。[[駿河国|駿河]][[田中藩]]第2代藩主・老中 **[[本多正温]]: 正重系本多家6代。田中藩第4代藩主 **[[本多正訥]]: 正重系本多家9代。田中藩第7代藩主、[[安房国|安房]][[長尾藩]]初代藩主。 *江戸時代[[丹後国|丹後]][[宮津藩]][[本庄氏|本庄松平家]] **[[松平資俊]]: 本庄松平家2代。常陸[[笠間藩]]第2代藩主、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]]初代藩主 **[[松平資承]]: 本庄松平家6代。丹後[[宮津藩]]第3代藩主 **[[松平宗允]]: 本庄松平家7代。宮津藩第4代藩主 **[[松平宗発]]: 本庄松平家8代。宮津藩第5代藩主 **[[松平宗秀]]: 本庄松平家9代。宮津藩第6代藩主・老中 **[[松平宗武]]: 本庄松平家10代。宮津藩第7代藩主 *江戸時代その他 **[[井伊直朝]]: 遠江[[掛川藩]]第3代藩主 **[[池田綱清]]: 因幡[[鳥取藩]]第2代藩主 **[[杉原長房]]: [[但馬国|但馬]][[豊岡藩]]初代藩主 **[[杉原重長]]: 豊岡藩第2代藩主 **[[立花貞則]]: [[筑後国|筑後]][[柳河藩]]第6代藩主 **[[立花鑑寿]]: 柳河藩第8代藩主 **[[中村一忠]]: 伯耆[[米子藩]]主 **[[福島正之]]: [[福島正則]]の養嗣子 **[[米津政崇]]: 武蔵[[久喜藩]]第4代藩主 == 伯耆国の合戦 == *[[天慶]]10年(947年): [[藤原是助の乱]] *[[治承]]3年(1179年): [[ツホカミ山の戦い]]、[[小鴨基保]]・[[野津蔵人仲吉]] x [[東郷家平]] *[[元弘]]3年=[[正慶]]2年(1333年): [[船上山の戦い]]、[[後醍醐天皇]]方([[名和長年]]) x [[鎌倉幕府]]方([[佐々木清高]]) *[[天文 (元号)|天文]]15年(1546年): [[橋津川の戦い]]、[[武田国信]]・伯耆国人衆(7,000騎) x 尼子軍([[尼子国久]]・[[尼子豊久]]等5,700騎) *[[天正]]13年(1585年): [[河原山城の戦い]]、[[毛利氏|毛利]]方([[末次元康]]・[[福頼氏|福頼元秀]]ら) x [[南条氏|南条]]方([[行松氏]]) ==国おこし== 2012年3月より、地元NPO・行政が連携して「謎の伯耆。(謎のほうきサイト)」(伯耆の国ブランディングサイト)を開設し、再び伯耆の国として売り出して当該地域の認知を促進するキャンペーンを行っている。 == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 31 鳥取県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Hoki Province}} * [[令制国一覧]] * [[雲伯]] == 外部リンク == * [[国立公文書館]][https://www.digital.archives.go.jp/ デジタルアーカイブ] - 「[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000000430.html 天保国絵図 伯耆国]」 * [[鳥取県立図書館]][https://www.library.pref.tottori.jp/kyodo/2005/index2005.html 伯耆国絵図](明治3年、他に[[文政]]年間の伯耆国六郡の絵図もある) * [http://www.npo-mirai.net/nazo/ 謎の伯耆。(謎のほうきキャンペーンサイト)](伯耆の国の地元NPO・行政によるブランディングキャンペーンサイト) * {{osmrelation-inline|9454386}} {{令制国一覧}} {{伯耆国の郡}} {{Japanese-history-stub}} {{デフォルトソート:ほうきのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陰道|国ほうき]] [[Category:鳥取県の歴史]] [[Category:伯耆国|*]]
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2022-09-03T02:25:03Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%80%86%E5%9B%BD
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同和鉱業片上鉄道
片上鉄道(かたかみてつどう)は、かつて岡山県備前市の片上駅から久米郡柵原町(現美咲町)の柵原駅までを結んでいた同和鉱業(現:DOWAホールディングス)の鉄道路線である。1991年6月30日まで営業を行っていた。 柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を吉井川の川舟(高瀬舟)に代わって片上港まで輸送する目的で建設され、1923年1月に片上 - 和気間が開業した。次いで8月に和気 - 備前矢田 - 井ノ口(貨)間が開業。1931年2月、井ノ口 - 柵原間が開業し(井ノ口駅は廃止)全線開通した。柵原鉱山からの鉱石輸送のほかに沿線住民の足として旅客営業も行われていた。尾小屋鉄道や三岐鉄道とともに、陸運統制令の枠外として他社への事業統合を免れ、青梅鉄道や群馬鉄山専用線などと違い国鉄買収の対象にもならなかった。 鉱石輸送が主体であったため交換駅の有効長は長く、しかもPC枕木を使用するなど地方鉄道としては高い規格の線路を有していた。一方で、その高規格の線路の上を戦前生まれの旧型気動車が闊歩する姿はユニークでもあった。 鉄道末期の時点でも車両や施設の保守がよく、現在も整備・動態保存されているキハ303(旧番号キハ3003←国鉄キハ41071)は、現役最後の国鉄キハ41000形としてその名が知られ、唯一動態で保存されているキハ41000形であり、動態保存されている気動車としては日本最古である。また、キハ702(旧番号キハ07 5)は流線形の原型を保った貴重な国鉄キハ42000形である。原型を保ったキハ42000形は現在、全国的に見ても現存車両が2両しかなく、一部を改造(前照灯のシールドビーム化・液体変速機化)されてはいるが、原型で動態のものはキハ702のみであり、動態保存されている気動車の中では日本で2番目に古い。また、自社発注でキハ41000形に似た形態で張上げ屋根・正面2枚窓のキハ312も動態で保存されている。 なお、変わった車両としてワフ100形という形式なのに貨物室が存在せず、一見車掌車「ヨ」に見える有蓋緩急車が存在したが、これはこの車両の前歴が国鉄ワフ22000形であり、1976年に入線後入換時の利便性のため両端にデッキを設け、この際に貨物扉を撤去してこのような外見になったものであった。 和気以北では吉井川に沿い、客車列車(主に混合列車)も運転されていた。地元や鉄道ファンはその客車の色から「ブルートレイン」と呼んでおり、自社発注のホハフ2000形(昭和25年・ナニワ工機製)と国鉄から購入したホハフ3000形(旧オハ35)が使用されていた。乗客が多かったのは和気駅・周匝駅であった。 また、1931年(昭和6年)7月20日に開業した杖谷駅(開業時より無人駅)は、民家の庭先に待合小屋とホームがあるという大変珍しい駅であった。 こうして収入の多くを占めていた柵原鉱山の鉱石輸送は円高などによる国内産硫化鉄鉱の需要減で産出量が減ったため、トラックに切り替えられ、鉄道経営が成り立たなくなってしまった。会社側は肥料輸送や旅客列車の減便などで生き残りを図ったが、沿線は人口が希薄で過疎も進みつつあったため乗客は減り続けた。さらに末期には、当時『時代村』などのレジャー事業も行っていた大新東が経営を引き継ぎ、沿線に建設予定だった備前ヨーロッパ時代村へのアクセス鉄道として再生させるプランが持ち込まれたがバブル崩壊で実現せず、万策尽きる形で1991年7月1日に全線が廃止された。 所在地名などは廃止時点のもの(井ノ口駅廃止時の所在地は和気郡山田村)。全駅岡山県に所在。 廃止後は日生運輸(備前バス)による代替バスに転換された。ただし、和気駅前は狭隘なため、和気始発便のみ駅前から発車し、それ以外は少し離れたところにある富士見橋バス停に発着する体制が続いた。その後、2010年代に入り、駅前広場の拡張が行われてからは全便が駅前に乗り入れるようになった。 備前バスは、1972年7月に同和鉱業片上鉄道のバス部門が日生運輸に譲渡されたものである。片上鉄道の代替バスルートのみが「備前片鉄バス」として運行されている。片上鉄道廃止後は片鉄片上 - 和気駅前 - 矢田 - 周匝 - 高下 - 吉ヶ原 - 柵原病院前で運行され、月曜日 - 金曜日は5往復程度、土曜日は2往復だった。 2007年4月1日より、備前片鉄バスの運行は日曜・祝日・年末年始は全便運休となっている。2011年9月に沿線の美咲町(旧柵原町)が同バスへの補助金を打ち切ったことに伴い、同年9月30日をもって周匝 - 高下 - 吉ヶ原 - 柵原病院前間が路線廃止となった。同区間廃止後は、美咲町が柵原病院前 - 吉ヶ原 - 高下 - 周匝間に備前片鉄バスに接続する「柵原病院 - 周匝」連絡バスの運行を行い、周匝で路線が分断された格好になったが、その連絡バスも2014年3月31日の運行を最後に廃止された。 2015年9月30日限りで日生運輸が路線バス・貸切バス事業から撤退したため、和気 - 周匝間は当面の代替措置として赤磐市と和気町が共同運行する赤磐市広域路線バス(赤磐・和気線)が引き継ぐこととなった。片上 - 和気間は日生運輸の事業撤退の際に代替バスが設定されず交通空白となっていたが、2019年4月1日より備前市営バス、和気町営バスの共同運行路線として復活した。 廃線跡を利用して「片鉄ロマン街道」(岡山県道703号備前柵原自転車道線)が設置された。また吉ヶ原駅周辺には柵原ふれあい鉱山公園が設けられた。車両は動態保存されているものがあり、定期的に展示運転が実施されていたが、新型コロナウイルス感染症流行の影響により現在は実施されていない。 天瀬駅と苦木駅は、「片鉄ロマン街道」開通に伴い改修され、休憩所および鉄道史跡として保存されている。旧備前矢田駅のようにホームや駅標が部分的に残されている駅もある。北側の終点だった柵原駅は解体された。運転上の要であった和気駅はホームの痕跡が僅かに残っているのみである。片上駅跡地では駅前のロータリーと起点を示す0キロポストの2つの施設だけが残されている。吉ヶ原駅舎は、1931年2月の井ノ口 - 柵原間の開業時に建設されたもので、廃止後はバスの待合室として利用されていたため、損傷はほとんど無かった。このため、柵原ふれあい鉱山公園の開園に先駆けて改修され、展示運転で実際に駅舎として使用されている。以前は片上鉄道の資料館にもなっていたが、展示品の一部に盗難が発生したため、2015年現在は一般開放されていない。2006年3月2日には、登録有形文化財に登録された。2014年11月2日には、展示運転路線が約100m延伸され、黄福柵原駅(こうふくやなはらえき)が「開業」した。これは、展示運転路線の延伸及び柵原ふれあい鉱山公園の拡張に伴って駐車場を新設した際に、同時に新設されたトイレを駅舎風にアレンジしたもので、1面2線の駅の形態をとっている。 片上 - 吉ヶ原間の線路跡は、サイクリングロード(岡山県道703号備前柵原自転車道線、通称「片鉄ロマン街道」)として整備され2003年11月24日に開通した。吉井川の河川敷を走行していた区間は、川辺に桜が植樹され春先は桜の名所になっている。同所に設置された陸閘門もそのまま残されており、サイクリングロードのアスファルト舗装の間からレールが少し露出している。峠清水トンネルや天神山トンネル1号・2号は改修され残されている。吉井川に掛かっていた橋梁は全て撤去され国道を迂回するルートとなっている。 廃止後、1998年11月15日に開園した柵原ふれあい鉱山公園に12両の車両が保存されている。そのうちの10両(ディーゼル機関車1両、気動車3両、客車3両、貨車3両)は片上鉄道保存会と片上鉄道OBの手により整備・動態保存され、毎月第1日曜日に旧吉ヶ原駅付近の約400mの区間で展示運転されていた。2011年5月より、ワム1807(旧番号ワム184740)が動態保存車両として登場。この車両は、元は国鉄から購入した国鉄ワム80000形貨車で、以前は片上駅跡地にてワム1805(旧番号ワム184036)、ディーゼル機関車DD13-552と共に静態保存されていた。また、柵原ふれあい鉱山公園の開園時より静態保存されている貨車3両(トラ840・トム519・ワフ102)のうち、トラ840が整備され、2013年9月より、動態保存車両として登場している。これはキハ303の予備部品として、保存されていたものの解体が決まった蒲原鉄道クハ10のTR26台車を譲り受けた際の保管場所捻出のためであったが、現在は撤去されている。 静態保存車両は柵原ふれあい鉱山公園内の貨車2両のほかに、片上駅跡地にDD13-552、和気町の和気交通公園横にワム1805、国道484号沿いの菊ヶ峠ドライブインにキハ311の計5両が静態保存されている。また、2006年3月頃までは佐伯町役場(現・和気町役場佐伯総合支所)にホハフ3001(旧番号オハ35 1058)が保存されていたが、解体された。備前市久々井生崎の備前市浄化センターにはキハ801が保存されていたが、放置状態で整備もされず、老朽化が激しかったため2014年1月までに解体された。菊ヶ峠ドライブインのキハ311はだいぶ荒廃が進んでいたが、近年補修と再塗装が行われた。小坂鉄道には片上鉄道から譲渡されたディーゼル機関車1両 (DD13-556) が予備車両として在籍していたが、2009年4月1日付で小坂鉄道は廃止されたため、今後のDD13-556の去就が注目される。また、小坂鉄道からは余剰となったキハ2100形2両(キハ2108、2102)が1981年に譲渡され、キハ801、802となっている。キハ801は前述の通り静態保存されていたが解体され、キハ802は1995年に片上駅跡地にて解体された。
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片上鉄道(かたかみてつどう)は、かつて岡山県備前市の片上駅から久米郡柵原町(現美咲町)の柵原駅までを結んでいた同和鉱業の鉄道路線である。1991年6月30日まで営業を行っていた。
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{{BS|exENDEe||||}} |} |} '''片上鉄道'''(かたかみてつどう)は、かつて[[岡山県]][[備前市]]の[[片上駅]]から[[久米郡]][[柵原町]](現[[美咲町]])の[[柵原駅]]までを結んでいた[[DOWAホールディングス|同和鉱業]](現:DOWAホールディングス)の[[鉄道路線]]である。[[1991年]][[6月30日]]まで営業を行っていた。 == 概要 == [[柵原鉱山]]で産出される[[硫化鉄鉱]]を[[吉井川]]の川舟([[高瀬舟]])に代わって片上港まで輸送する目的で建設され、1923年1月に片上 - 和気間が開業した。次いで8月に和気 - 備前矢田 - 井ノ口(貨)間が開業。1931年2月、井ノ口 - 柵原間が開業し(井ノ口駅は廃止)全線開通した。柵原鉱山からの鉱石輸送のほかに沿線住民の足として旅客営業も行われていた。[[尾小屋鉄道]]や[[三岐鉄道]]とともに、[[陸運統制令]]の枠外として他社への事業統合を免れ、[[青梅線|青梅鉄道]]や[[吾妻線|群馬鉄山専用線]]などと違い[[戦時買収私鉄|国鉄買収]]の対象にもならなかった。 鉱石輸送が主体であったため[[列車交換|交換駅]]の[[有効長]]は長く、しかも[[プレストレスト・コンクリート|PC]][[枕木]]を使用するなど[[地方鉄道]]としては高い規格の線路を有していた。一方で、その高規格の線路の上を戦前生まれの旧型[[気動車]]が闊歩する姿はユニークでもあった。 鉄道末期の時点でも車両や施設の保守がよく<ref group="*">『鉄道模型趣味』の1984年3月号の記事によると「DL・気動車・客車はいつも美しい姿をしている。」とある([[#私鐡倶楽部1984|(私鐡倶楽部1984)p.45]])</ref>、現在も整備・[[動態保存]]されているキハ303(旧番号キハ3003←国鉄キハ41071)は、現役最後の国鉄[[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]としてその名が知られ、唯一動態で保存されているキハ41000形であり、動態保存されている気動車としては日本最古である。また、キハ702(旧番号キハ07 5)は流線形の原型を保った貴重な国鉄[[国鉄キハ07形気動車|キハ42000形]]である。原型を保ったキハ42000形は現在、全国的に見ても現存車両が2両しかなく、一部を改造(前照灯のシールドビーム化・[[液体変速機]]化)されてはいるが、原型で動態のものはキハ702のみであり、動態保存されている気動車の中では日本で2番目に古い。また、自社発注でキハ41000形に似た形態で張上げ屋根・正面2枚窓のキハ312も動態で保存されている。 なお、変わった車両として'''ワフ100形'''という形式なのに貨物室が存在せず、一見[[車掌車]]「'''ヨ'''」<ref group="*">国鉄の[[国鉄ヨ5000形貨車|ヨ5000]]などに似ているが、窓が3枚で片側にずれている点が異なる。なお、窓のずれている理由は元貨物室だった部位に窓がないため。</ref>に見える[[有蓋車|有蓋]][[緩急車]]が存在したが、これはこの車両の前歴が[[国鉄ワフ22000形貨車|国鉄ワフ22000形]]であり、1976年に入線後入換時の利便性のため両端にデッキを設け、この際に貨物扉を撤去してこのような外見になったものであった<ref>[[#私鐡倶楽部1984|(私鐡倶楽部1984)p.45]]</ref>。 和気以北では吉井川に沿い、[[客車]]列車(主に混合列車)も運転されていた。地元や[[鉄道ファン]]はその客車の色から「[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]」と呼んでおり、自社発注のホハフ2000形(昭和25年・[[アルナ工機#概要|ナニワ工機]]製)と国鉄から購入したホハフ3000形(旧[[国鉄オハ35系客車|オハ35]])が使用されていた。乗客が多かったのは和気駅・周匝駅であった。 また、[[1931年]](昭和6年)[[7月20日]]に開業した杖谷駅(開業時より[[無人駅]])は、民家の庭先に待合小屋とホームがあるという大変珍しい駅であった。 しかし、収入の多くを占めていた柵原鉱山の鉱石輸送は[[円高]]などによる国内産硫化鉄鉱の需要減で産出量が減ったため、トラックに切り替えられ、鉄道経営が成り立たなくなってしまった。会社側は肥料輸送や旅客列車の減便などで生き残りを図ったが、沿線は人口が希薄で過疎も進みつつあったため乗客は減り続けた。末期には、当時『[[時代村]]』などのレジャー事業も行っていた[[大新東]]が経営を引き継ぎ、沿線に建設予定だった備前ヨーロッパ時代村へのアクセス鉄道として再生させるプランが持ち込まれたが[[バブル崩壊]]で実現せず<ref name="交通910523">{{Cite news |title=片上鉄道廃止に“待った” 代替バスのメド立たず 中国運輸局 安全確保対策に遅れ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-05-23 |page=2 }}</ref>、万策尽きる形で1991年7月1日に全線が廃止された。 == 路線データ(廃止時) == * 路線距離: **[[営業キロ]]:33.8km **[[建設キロ]]:33k997m39(線路終点まで 34k257m18、[[マイル]]換算 21マイル21[[チェーン (単位)|チェーン]]) **側線含む総延長:43k303m * [[ダブル・チェイン]]<ref group="*">[[鉄道事業法]]施行規則第12条二にいう距離更正点のうち、更正距離が正の地点。この地点以降(終点方向)の実際の起点からの距離は、[[距離標]]で示されるキロ程より更正距離の絶対値だけ長くなる。</ref>:3か所(9k800m付近、31k000m付近、33k800m付近) * [[ブレイク・チェイン]]<ref group="*">同じく距離更正点のうち、更正距離が負の地点。この地点以降(終点方向)の実際の起点からの距離は、距離標で示されるキロ程より更正距離の絶対値だけ短くなる。</ref>:1か所(11k300m付近) * [[軌間]]:1067mm * 駅数:17駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:なし(全線[[非電化]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:単線自動閉塞式 ([[自動進路制御装置|ARC]]) * [[軌条]]:37kgレール 98.3%、30kgレール 1.7% * [[踏切]]:108か所(うち[[日本の鉄道信号#特殊信号発光機|特殊信号発光機]]設置踏切 27か所) * [[橋|橋梁]]:98か所(総延長 1k244m484) * 最小勾配:0.9[[パーミル|‰]](28k585m97 - 29k068m78 周匝駅付近) * 最大勾配:28.6‰(0k603m05 - 1k750m16、2k031m08 - 3k218m69 片上 - 清水間) * 最小曲線:[[半径]]240m 4か所 * 最大曲線:半径300m 18か所 * [[トンネル|隧道]]:3か所 (総延長:270m061) * [[陸閘]]:1か所 河本 - 備前矢田間 (17k535m - 17k541m) {{clear}} <gallery> 同和鉱業片上鉄道和気駅・キハ303(柵原行).jpg|[[和気駅]]を出発したキハ303(柵原行) 同和鉱業片上鉄道和気駅・キハ702(片上行).jpg|和気駅を出発したキハ702(片上行) Katakami kiha303.jpg|キハ303 Katakami kiha702.jpg|キハ702 Katakami katakami DD13-552 FC.jpg|DD13-552 Masubara STN.jpg|益原駅(1990年) Wake station booking office of Katakami Railway.jpg|和気駅(1990年) Bizen Yata STN.jpg|備前矢田駅(1988年) Mimasaka Yuka STN.jpg|美作飯岡駅(1991年) Katakami kiha802.jpg|同和鉱業小坂鉄道から移籍したキハ802 </gallery> == 歴史 == {{基礎情報 会社 |社名 = 片上鉄道 |ロゴ = [[File:Katakami Railway Logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[岡山県]][[和気郡]][[片上町]]大字西片上1278-4<ref name="NDLDC1184231"/> |設立 = [[1919年]](大正8年)11月27日<ref name="NDLDC1184231"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |事業内容 = 旅客鉄道事業、不動産、娯楽機関経営<ref name="NDLDC1184231"/> |代表者 = 社長 [[坂野鐵次郎]]<ref name="NDLDC1184231"/> |資本金 = 2,000,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184231"/> |特記事項 = 上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在<ref name="NDLDC1184231">[{{NDLDC|1184231/62}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} * [[1919年]]([[大正]]8年) ** [[3月24日]] 片上 - 三石(片上 - 和気 - 吉永 - 三石)間の軽便鉄道(軌間762mm)の免許を鉄道大臣に出願 ** [[7月16日]] 片上 - 三石間の軽便鉄道の免許取得(片上軽便鉄道)<ref>[{{NDLDC|2954199/5}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1919年7月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[11月27日]] '''片上鉄道'''設立<ref>[{{NDLDC|936472/852}} 『日本全国諸会社役員録。 第28回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1190630/80}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道。 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1921年]](大正10年) ** [[6月17日]] 片上恵比寿神社にて起工式 ** [[12月28日]] 和気 - 三石間の免許失効<ref>[{{NDLDC|2954940/15}} 「鉄道免許失効」『官報』1921年12月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1922年]](大正11年)[[4月17日]] 軌間1067mmに変更の上、和気 - 井ノ口間の免許取得<ref>[{{NDLDC|2955029/11}} 「鉄道免許状下付」『官報』1922年4月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1923年]](大正12年) ** [[1月1日]] 片上鉄道により、片上 - 和気間が開業<ref>[{{NDLDC|2955251/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年1月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[8月10日]] 和気 - 備前矢田 - 井ノ口間が開業。旅客営業は片上 - 備前矢田間のみ<ref>[{{NDLDC|2955439/4}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年8月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。柵原鉱山からの鉱石輸送用[[索道]]と井ノ口で連絡 * [[1924年]](大正13年)[[8月31日]] 本和気駅、天瀬駅開業<ref>[{{NDLDC|2955765/4}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1924年9月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1929年]]([[昭和]]4年)[[2月14日]] 井ノ口 - 柵原間の免許取得<ref>[{{NDLDC|2957105/3}} 「鉄道免許状下付」『官報』1929年2月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> * [[1931年]](昭和6年) ** [[2月1日]] 井ノ口 - 柵原間開業し全通。全線で旅客営業開始。井ノ口駅廃止<ref>[{{NDLDC|2957703/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年2月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> ** [[7月20日]] 杖谷駅開業 * [[1950年]](昭和25年)[[6月20日]] '''藤田興業'''が片上鉄道を合併。「藤田興業片上鉄道海運事務所」に改称 * [[1957年]](昭和32年)[[8月1日]] '''同和鉱業'''が藤田興業を合併。「同和鉱業片上鉄道事業所」に改称 * [[1963年]](昭和38年)[[5月1日]] 国鉄[[赤穂線]]に[[西片上駅]]が開業し、当線片上駅の最寄り国鉄駅となる(徒歩3分程度)。 * [[1965年]](昭和40年)[[10月]] 動力車のディーゼル化に着手 * [[1967年]](昭和42年) ** [[12月]] (片上鉄道線)和気駅運転業務を直営化<ref group="*">これ以前は国鉄が(片上鉄道線)和気駅運転業務を行っていた。</ref> ** [[3月1日]] 美作飯岡・備前福田駅業務を外部委託 * [[1968年]](昭和43年)[[9月10日]] [[蒸気機関車]]全廃 * [[1971年]](昭和46年) ** 2月1日 片上 - 天瀬間単線自動閉塞式 (ARC) 化。清水駅無人化実施、本和気駅業務を外部委託 ** [[6月1日]] 美作飯岡駅無人化実施 ** [[10月1日]] 天瀬 - 備前塩田間単線自動閉塞式 (ARC) 化。天瀬・苦木駅無人化実施 * [[1972年]](昭和47年) ** [[9月1日]] 備前塩田 - 柵原間単線自動閉塞式 (ARC) 化。備前塩田駅業務と、片上駅構内の「西片上浜踏切」の看守業務を外部委託 ** 10月 合理化により、車両整備・保線業務を[[同和工営]]に委託 * [[1973年]](昭和48年)10月1日 周匝駅業務を外部委託 * [[1978年]](昭和53年)11月 国鉄と廃車車両の解体工事を請け負う契約が結ばれ工事開始。翌1979年3月頃までにキハ80系10両とスロ54形やマニ60形などの客車20両を片上駅構内にて解体 * [[1983年]](昭和58年)[[1月19日]] [[日本国有鉄道|国鉄]]コンテナの輸送営業を開始 * [[1984年]](昭和59年) ** 2月1日 郵便輸送を廃止 ** [[4月1日]] 本和気・河本・備前塩田・備前福田の4駅の業務委託を解消し、無人化実施 * [[1986年]](昭和61年) ** [[3月]] 日祝日ダイヤ(一部列車の運行休止)を導入 ** [[11月1日]] 国鉄連絡車扱貨物輸送を廃止 * [[1987年]](昭和62年) ** [[8月18日]] 同和鉱業より鉄道廃止の方針が正式発表 ** 11月1日 鉱石輸送をトラック輸送に切替 * [[1988年]](昭和63年) ** [[1月]] 柵原駅無人化実施 ** [[3月13日]] [[JR]]コンテナの輸送営業を廃止 ** [[6月]] [[岡山県]]・沿線町村存続対策協議会・同和鉱業の3者による「片上鉄道の運営に関する覚書」締結。3年間の「存続試行期間」制定 ** [[7月1日]] 貨物営業廃止 * [[1991年]]([[平成]]3年) ** [[1月18日]] 鉄道事業廃止申請書を同和鉱業より運輸大臣に提出{{R|交通910523}} ** [[3月8日]] [[中国運輸局]]より代替バス路線準備の遅れを指摘され、廃止申請を取り下げ{{R|交通910523}}。廃止予定の4月1日より3か月間の廃止延期を発表 ** [[5月10日]] 鉄道事業廃止申請書を再度、運輸大臣に提出{{R|交通910523}} ** 6月30日 最終運行 ** 7月1日 全線廃止 == 駅一覧 == 所在地名などは廃止時点のもの(井ノ口駅廃止時の所在地は和気郡[[山田村 (岡山県和気郡)|山田村]])<ref group="*">廃止時点の所在地のうち和気郡佐伯町は2006年3月1日に和気町に、赤磐郡吉井町は2005年3月7日に[[赤磐市]]に、久米郡柵原町は2005年3月22日に[[美咲町]]となった。</ref>。全駅[[岡山県]]に所在。 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:8em;"|駅名 !style="width:2.5em"|駅間キロ !style="width:2.5em"|営業キロ !style="width:5em"|建設キロ(駅中心) !接続路線・備考 !colspan="2"|所在地 |- |[[片上駅]] |style="text-align:right;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|0k281m64 |西日本旅客鉄道:[[赤穂線]]([[西片上駅]]) |colspan="2"|[[備前市]] |- |[[清水駅 (岡山県)|清水駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|4k355m29 |&nbsp; |rowspan="14" style="width:1em"|{{縦書き|[[和気郡]]|height=4em}} |rowspan="7"|[[和気町]] |- |[[中山駅 (岡山県)|中山駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|5.7 |style="text-align:right;"|5k934m46 |&nbsp; |- |[[和気駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:right;"|8k872m21 |西日本旅客鉄道:[[山陽本線]] |- |colspan="5"|ダブル・チェイン (9k808m856-9k803m444 +5m412) |- |[[本和気駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|10.1 |style="text-align:right;"|10k392m34 |&nbsp; |- |colspan="5"|ブレイク・チェイン (11k312m60-11k314m10 -1m51) |- |[[益原駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|11.6 |style="text-align:right;"|11k882m99 |&nbsp; |- |[[天瀬駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|14.5 |style="text-align:right;"|14k816m02 |&nbsp; |rowspan="7"|[[佐伯町 (岡山県)|佐伯町]] |- |[[河本駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|16.3 |style="text-align:right;"|16k590m32 |&nbsp; |- |[[備前矢田駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|18.3 |style="text-align:right;"|18k567m81 |&nbsp; |- |(貨)井ノ口駅 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|19.4 |&nbsp; |[[1931年]][[2月1日]]廃止 |- |[[苦木駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|22.2 |style="text-align:right;"|22k526m79 |&nbsp; |- |[[杖谷駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|24.2 |style="text-align:right;"|24k482m15 |&nbsp; |- |[[備前塩田駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|25.5 |style="text-align:right;"|25k793m28 |&nbsp; |- |[[備前福田駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|27.2 |style="text-align:right;"|27k439m32 |&nbsp; |colspan="2" rowspan="2"|[[赤磐郡]]<br>[[吉井町 (岡山県)|吉井町]] |- |[[周匝駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|28.5 |style="text-align:right;"|28k775m07 |&nbsp; |- |[[美作飯岡駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|29.6 |style="text-align:right;"|29k873m45 |&nbsp; |colspan="2" rowspan="6"|[[久米郡]]<br>[[柵原町]] |- |colspan="5"|ダブル・チェイン (31k024m773-30k981m944 +42m829) |- |[[吉ヶ原駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|32.5 |style="text-align:right;"|32k689m80 |&nbsp; |- |colspan="5"|ダブル・チェイン (33k807m348-33k798m517 +8m831) |- |[[柵原駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|33.8 |style="text-align:right;"|33k997m39 |&nbsp; |} == 廃線後の状況 == === 代替交通 === 廃止後は[[日生運輸]](備前バス)による代替バスに転換された{{R|交通910523}}。ただし、和気駅前は狭隘なため、和気始発便のみ駅前から発車し、それ以外は少し離れたところにある富士見橋バス停に発着する体制が続いた。その後、2010年代に入り、駅前広場の拡張が行われてからは全便が駅前に乗り入れるようになった。 備前バスは、[[1972年]]7月に同和鉱業片上鉄道のバス部門が日生運輸に譲渡されたものである。片上鉄道の代替バスルートのみが「備前片鉄バス」として運行されている。片上鉄道廃止後は片鉄片上 - 和気駅前 - 矢田 - 周匝 - 高下 - 吉ヶ原 - 柵原病院前で運行され、月曜日 - 金曜日は5往復程度、土曜日は2往復だった。 [[2007年]][[4月1日]]より、備前片鉄バスの運行は日曜・祝日・年末年始は全便運休となっている。[[2011年]]9月に沿線の[[美咲町]](旧[[柵原町]])が同バスへの補助金を打ち切ったことに伴い、同年[[9月30日]]をもって周匝 - 高下 - 吉ヶ原 - 柵原病院前間が路線廃止となった<ref group="*">周匝 - 柵原病院前間は、備前片鉄バス以外にも周匝 - 高下間は[[宇野自動車]](美作線)、高下 - 吉ヶ原 - 柵原病院前間は[[中鉄北部バス]](高下 - 吉ヶ原 - [[津山駅#津山広域バスセンター|津山]] - スポーツセンター線)の路線バスがそれぞれ運行されていて、補助金打ち切りで路線廃止となった場合の代替交通機関が確保されていることも、美咲町が補助金を打ち切った一因となった。</ref>。同区間廃止後は、美咲町が柵原病院前 - 吉ヶ原 - 高下 - 周匝間に備前片鉄バスに接続する[[かめっち。バス#「柵原病院 - 周匝」連絡バス|「柵原病院 - 周匝」連絡バス]]の運行を行い、周匝で路線が分断された格好になったが、その連絡バスも[[2014年]][[3月31日]]の運行を最後に廃止された。 [[2015年]]9月30日限りで日生運輸が路線バス・貸切バス事業から撤退したため、和気 - 周匝間は当面の代替措置として[[赤磐市]]と[[和気町]]が共同運行する[[赤磐市民バス#赤磐市広域路線バス|赤磐市広域路線バス]](赤磐・和気線)が引き継ぐこととなった。片上 - 和気間は日生運輸の事業撤退の際に代替バスが設定されず交通空白となっていたが、[[2019年]]4月1日より[[備前市営バス]]、[[和気町福祉バス|和気町営バス]]の共同運行路線として復活した。 === 施設と車両の状況 === 廃線跡を利用して「片鉄ロマン街道」([[岡山県道703号備前柵原自転車道線]])が設置された。また吉ヶ原駅周辺には[[柵原ふれあい鉱山公園]]が設けられた。車両は[[動態保存]]されているものがあり、定期的に展示運転が実施されていたが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症流行]]の影響により現在は実施されていない。 ==== 駅舎 ==== [[天瀬駅]]と[[苦木駅]]は、「片鉄ロマン街道」開通に伴い改修され、休憩所および鉄道史跡として保存されている。旧[[備前矢田駅]]のようにホームや駅標が部分的に残されている駅もある。北側の終点だった[[柵原駅]]は解体された。運転上の要であった[[和気駅]]はホームの痕跡が僅かに残っているのみである。[[片上駅]]跡地では駅前のロータリーと起点を示す[[距離標|0キロポスト]]の2つの施設だけが残されている。吉ヶ原駅舎は、1931年2月の井ノ口 - 柵原間の開業時に建設されたもので、廃止後はバスの待合室として利用されていたため、損傷はほとんど無かった。このため、[[柵原ふれあい鉱山公園]]の開園に先駆けて改修され、展示運転で実際に駅舎として使用されている。以前は片上鉄道の資料館にもなっていたが、展示品の一部に盗難が発生したため、2015年現在は一般開放されていない。2006年3月2日には、[[登録有形文化財]]に登録された。2014年11月2日には、展示運転路線が約100m延伸され、[[黄福柵原駅]](こうふくやなはらえき)が「開業」した。これは、展示運転路線の延伸及び柵原ふれあい鉱山公園の拡張に伴って駐車場を新設した際に、同時に新設されたトイレを駅舎風にアレンジしたもので、1面2線の駅の形態をとっている。 {{See also|柵原ふれあい鉱山公園}} ==== 線路跡 ==== 片上 - 吉ヶ原間の線路跡は、サイクリングロード([[岡山県道703号備前柵原自転車道線]]、通称「片鉄ロマン街道」)として整備され2003年11月24日に開通した。吉井川の河川敷を走行していた区間は、川辺に桜が植樹され春先は桜の名所になっている。同所に設置された[[陸閘]]門もそのまま残されており、サイクリングロードのアスファルト舗装の間からレールが少し露出している。峠清水トンネルや天神山トンネル1号・2号は改修され残されている。吉井川に掛かっていた橋梁は全て撤去され国道を迂回するルートとなっている。 {{See also|岡山県道703号備前柵原自転車道線}} ==== 車両 ==== 廃止後、[[1998年]][[11月15日]]に開園した[[柵原ふれあい鉱山公園]]に12両の車両が保存されている。そのうちの10両([[ディーゼル機関車]]1両、[[気動車]]3両、[[客車]]3両、[[貨車]]3両)は[[片上鉄道保存会]]と片上鉄道OBの手により整備・動態保存され、毎月第1日曜日に旧[[吉ヶ原駅]]付近の約400mの区間で展示運転されていた<ref group="*">老朽化した保存車両の保守、および鉄道保存施設の改修工事に伴い、[[2008年]]11月から[[2009年]]9月まで展示運転を休止していた。2009年10月4日より展示運転を再開したが、2020年2月で運行を休止している。</ref>。2011年5月より、ワム1807(旧番号ワム184740)が動態保存車両として登場。この車両は、元は国鉄から購入した[[国鉄ワム80000形貨車]]で、以前は片上駅跡地にてワム1805(旧番号ワム184036)、ディーゼル機関車[[国鉄DD13形ディーゼル機関車#譲渡車・同系車|DD13]]-552と共に静態保存されていた。また、柵原ふれあい鉱山公園の開園時より静態保存されている貨車3両(トラ840・トム519・ワフ102)のうち、トラ840が整備され、2013年9月より、動態保存車両として登場している。これはキハ303の予備部品として、保存されていたものの解体が決まった[[蒲原鉄道]][[蒲原鉄道の車両形式|クハ10]]のTR26台車を譲り受けた際の保管場所捻出のためであったが、現在は撤去されている。 [[静態保存]]車両は柵原ふれあい鉱山公園内の貨車2両のほかに、[[片上駅]]跡地にDD13-552、[[和気町]]の和気交通公園横にワム1805、[[国道484号]]沿いの菊ヶ峠ドライブインにキハ311<ref>{{Cite journal|和書 |title=保存車・廃車体一覧3 補遺【第6回】 |journal = RAIL FAN |date = 2002年3月号 |issue = 3 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 19 }}</ref>の計5両が静態保存されている。また、2006年3月頃までは佐伯町役場(現・和気町役場佐伯総合支所)にホハフ3001(旧番号オハ35 1058)が保存されていたが、解体された。備前市久々井生崎の備前市浄化センターにはキハ801が保存されていたが、放置状態で整備もされず、老朽化が激しかった<ref>[https://ameblo.jp/tamaho867/entry-12517163145.html 2013年6月時点のキハ801]</ref>ため2014年1月までに解体された。菊ヶ峠ドライブインのキハ311はだいぶ荒廃が進んでいたが、近年補修と再塗装が行われた<ref>[http://c5557.kiteki.jp/html/katagami-kiha311.htm 2012年6月時点のキハ311]</ref>。[[小坂製錬小坂線|小坂鉄道]]には片上鉄道から譲渡されたディーゼル機関車1両 (DD13-556) が予備車両として在籍していたが、[[2009年]]4月1日付で小坂鉄道は廃止されたため、今後のDD13-556の去就が注目される<ref group="*">片上鉄道廃止後に軌道モーターカーおよび[[マルチプルタイタンパー]]も小坂鉄道へ譲渡されている。</ref>。また、小坂鉄道からは余剰となった[[同和鉱業キハ2100形気動車|キハ2100形]]2両(キハ2108、2102)が[[1981年]]に譲渡され、キハ801、802となっている。キハ801は前述の通り静態保存されていたが解体され、キハ802は[[1995年]]に片上駅跡地にて解体された。 <gallery> KICHIGAHARA Station in Yanahara mine park.jpg|柵原ふれあい鉱山公園の旧吉ヶ原駅舎 Yanahara mine park train.jpg|柵原ふれあい鉱山公園に保存されている車両群 Kichigahara-station-201510182.jpg|吉ヶ原駅ホーム(2015年) Katayama-roman-cyckingroad-201510183.jpg|吉井川並走区間 Amase-station-201510.jpg|天瀬駅と整備された自転車道 Bizen-yada-station20151018.jpg|旧備前矢田駅のホームと自転車道 Katakami-RW Nigaki stn ruin.jpg|苦木駅跡 Katakami-RW Mimasaka-yuuka stn ruin.jpg|美作飯岡駅跡 Amase-station-20151018.jpg|天瀬駅舎 Rikumon-201510.jpg|吉井川に残る陸閘門 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=*}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書 |author =私鐡倶楽部 |date =1984年3月1日|title =私鉄のワフ・トフ・ヨ |journal =鉄道模型趣味 No.441(1984年3月号、雑誌コード 06455-3)|pages =38-45 |publisher =機芸出版社 | ref =私鐡倶楽部1984}} == 関連項目 == {{Commonscat|Dowa Mining Katakami Railway}} * [[国鉄3060形蒸気機関車]] * [[国鉄3300形蒸気機関車]] * [[国鉄C11形蒸気機関車#民間向けの同形機]] * [[国鉄C12形蒸気機関車]] * [[南海C10001形蒸気機関車]] * [[国鉄DD13形ディーゼル機関車]] * [[国鉄キハ04形気動車]] * [[国鉄キハ07形気動車]] * [[国鉄オハ35系客車]] * [[国鉄ワム80000形貨車]] * [[同和鉱業キハ2100形気動車]] * [[コトラ]] - 旧吉ヶ原駅にいる[[ネコ]]の駅長 * [[日生運輸]](備前バス)- 代替バスを引き継いだバス事業者 == 外部リンク == *[http://katatetsu.travel.coocan.jp 片上鉄道保存会] - 旧車両の整備・動態保存を行っている団体 * [http://www.asahi-net.or.jp/~vw7m-nkmt/ 思い出の片上鉄道] - 個人 *1934年時点片上駅前-和気駅前間バス運行[{{NDLDC|1234531/1203}} 『全国乗合自動車総覧』](国立国会図書館デジタルコレクション) {{DEFAULTSORT:とうわこうきようかたかみてつとう}} [[Category:同和鉱業片上鉄道|*]] [[Category:中国地方の鉄道路線 (廃止)]] [[Category:岡山県の交通史]] [[Category:鉱山鉄道]] [[Category:かつて存在した日本のバス事業者]] [[Category:1991年廃止の施設]]
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麻植郡
麻植郡(おえぐん)は徳島県(阿波国)にあった郡。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 『古語拾遺』によれば、神武東征において忌部氏を率いて紀伊国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め阿波国の開拓をし、穀・麻種を植えたことから麻植郡の名になったという。 『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
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麻植郡(おえぐん)は徳島県(阿波国)にあった郡。
{{Pathnavbox| *{{Pathnav|令制国一覧|南海道|阿波国}} *{{Pathnav|日本|四国地方|徳島県}} }} [[File:Tokushima Oe-gun.png|frame|徳島県麻植郡の位置(薄黄:後に他郡に編入された区域 水色:後に他郡から編入した区域)]] '''麻植郡'''(おえぐん)は[[徳島県]]([[阿波国]])にあった[[郡]]。 == 郡域 == [[1879年]]([[明治]]12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 * [[吉野川市]]の大部分([[鴨島町知恵島]]・鴨島町知恵島番外および鴨島町牛島のうち字先須賀ノ一・先須賀ノ二・先須賀ノ三・先須賀ノ四・四ツ屋を除く) * [[美馬市]]の一部(木屋平) == 歴史 == === 古代 === 『[[古語拾遺]]』によれば、[[神武東征]]において[[忌部氏]]を率いて[[紀伊国]]の[[材木]]を採取し、[[畝傍山]]の[[麓]]に[[橿原神宮|橿原宮]]を造営した[[天富命]]が、肥沃な土地を求め阿波国の開拓をし、穀・麻種を植えたことから麻植郡の名になったという。 ==== 式内社 ==== 『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に記される郡内の[[式内社]]。 {{式内社一覧/header}} {{阿波国麻殖郡の式内社一覧}} {{式内社一覧/footer}} === 近世以降の沿革 === * [[明治]]初年時点で、全域が阿波'''[[徳島藩]]'''領であった。「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている村は以下の通り。(32村) : 川田村、瀬詰村、桁山村、森藤村、山路村、麻植塚村、内原村、上浦村、中島村、牛島村、鴨島村、山田村、上下島村、敷地村、飯尾村、喜来村、西麻植村、桑村、児島村、宮ノ島村、川島町、学村、山崎村、三ツ島村、別枝山村、中村山村、三ツ木村、川井村、木屋平村、東山<ref>以下の各村は「旧高旧領取調帳」には記載なし。</ref>、川田山、種野山 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により徳島県(第1次)の管轄となる。 ** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により'''[[名東県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''[[高知県]]'''の管轄となる。 * 明治12年([[1879年]])[[1月4日]]<ref>布達は前年[[12月6日]]だが、本項では実施日とした。</ref> - [[郡区町村編制法]]の高知県での施行により行政区画としての'''麻植郡'''が発足。「阿波麻植郡役所」が川島町に設置され、[[阿波郡]]とともに管轄。 * 明治13年([[1880年]])[[3月2日]] - '''徳島県'''(第2次)の管轄となる。 === 町村制以降の沿革 === [[画像:Tokushima Oe-gun 1889.png|right|frame|1.牛島村 2.森山村 3.鴨島村 4.西尾村 5.桑川村 6.東山村 7.学島村 8.山瀬村 9.川田村 10.三山村 11.中枝村 12.木屋平村 (紫:吉野川市 桃:美馬市)]] * 明治22年([[1889年]])[[10月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の各村が発足。特記以外は全域が現・吉野川市。(12村) ** '''[[牛島村]]''' ← 牛島村、上浦村、麻植塚村 ** '''[[森山村 (徳島県)|森山村]]''' ← 森藤村、山路村、内原村、中島村[大部分] ** '''[[鴨島町|鴨島村]]''' ← 喜来村、上下島村[大部分]、鴨島村、中島村[一部] ** '''[[西尾村 (徳島県)|西尾村]]''' ← 飯尾村、敷地村、西麻植村、上下島村[一部] ** '''[[川島町 (徳島県)|桑川村]]''' ← 川島町、桑村、宮ノ島村、山田村、東山[一部] ** '''[[東山村 (徳島県)|東山村]]'''(東山の大部分が単独村制) ** '''[[学島村]]''' ← 学村、児島村、三ツ島村 ** '''[[山瀬町|山瀬村]]''' ← 山崎村、瀬詰村、川田村[一部] ** '''[[川田町|川田村]]'''(川田村の大部分が単独村制) ** '''[[三山村]]''' ← 川田山、種野山、別枝山村[一部]、桁山村[大部分] ** '''[[中枝村]]''' ← 中村山村(現・吉野川市、美馬市)、別枝山村[大部分]、桁山村[一部](現・吉野川市) ** '''[[木屋平村]]''' ← 木屋平村、川井村、三ツ木村(現・美馬市) * 明治24年([[1891年]])[[4月1日]] - [[郡制]]を施行。 * 明治30年([[1907年]])10月1日 - 桑川村が町制施行・改称して'''[[川島町 (徳島県)|川島町]]'''となる。(1町11村) * 明治31年([[1908年]])[[7月20日]] - 鴨島村が町制施行して'''[[鴨島町]]'''となる。(2町10村) * [[大正]]12年([[1923年]]) ** 4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 ** [[5月5日]] - 山瀬村が町制施行して'''[[山瀬町]]'''となる。(3町9村) * 大正15年([[1926年]])[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 * 昭和3年([[1928年]])[[11月10日]] - 川田村が町制施行して'''[[川田町]]'''となる。(4町8村) * 昭和29年([[1954年]]) ** [[3月20日]] - 牛島村が[[板野郡]][[一条町]]の一部(西条のうち字先須賀・四ツ屋)を編入。 ** [[3月31日]] - 鴨島町・森山村・西尾村・牛島村が合併し、改めて'''鴨島町'''が発足。(4町5村) * 昭和30年([[1955年]]) ** [[1月1日]](3町3村) *** 東山村の一部(字樋山路を除く)・中枝村の一部(中村山のうち字二戸・木中・今丸・南二戸・東野々脇・西野々脇を除く)・三山村の一部(字小竹・品野・中筋・高尾野・川俣・刷石・毛無・土井奥・峠・湯殿)が合併して'''[[美郷村]]'''が発足。 *** 山瀬町・川田町および三山村の残部(字小竹・品野・中筋・高尾野・川俣・刷石・毛無・土井奥・峠・湯殿を除く)が合併して'''[[山川町 (徳島県)|山川町]]'''が発足。 *** 中枝村の残部(中村山のうち字二戸・木中・今丸・南二戸・東野々脇・西野々脇)が木屋平村に編入。 *** 東山村の残部(字樋山路)が鴨島町に編入。 ** [[2月11日]] - 川島町・学島村が合併し、改めて'''川島町'''が発足。(3町2村) * 昭和32年([[1957年]])3月31日 - 鴨島町が[[阿波郡]][[柿島村]]の一部(知恵島)を編入。 * 昭和47年([[1973年]])7月1日 - 木屋平村の所属郡が[[美馬郡]]に変更。(3町1村) * [[平成]]16年([[2004年]])10月1日 - 鴨島町・川島町・山川町・美郷村が合併して'''[[吉野川市]]'''が発足。同日麻植郡消滅。徳島県内では初の郡消滅となった。 == 行政 == ;高知県阿波・麻植郡長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |1||||明治12年(1879年)1月4日|||| |- |||||||明治13年(1880年)3月1日||徳島県に移管 |} ;阿波・麻植郡長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |1||||明治13年(1880年)3月2日|||| |- |||蓮池康太郎||||明治40年(1907年)7月2日<ref name="ko1">{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000003022834|『徳島県警部赤星尋郁外三名徳島県阿波郡長並内務技師群馬技師任免ノ件』}}、明治40年7月5日。</ref>|| |- |||赤星尋郁||明治40年(1907年)7月3日<ref name="ko1"/>||明治43年(1910年)3月15日{{sfn|大植|1935|loc=1154頁|ref=kakocho-meiji}}|| |- |||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1986|date=1986-11-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=36 徳島県|isbn=4040013603|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1986}}}} * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == * [[消滅した郡の一覧]] {{阿波国の郡}} {{徳島県の郡}} {{デフォルトソート:おえくん}} [[Category:麻植郡|*]] [[Category:徳島県の郡 (消滅)]] [[Category:阿波国の郡]] [[Category:吉野川市の歴史]] [[Category:美馬市の歴史]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E6%A4%8D%E9%83%A1