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交野市
交野市(かたのし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。 本項では市制前の名称である交野町(かたのちょう)についても述べる。 市民憲章は「和」一文字(日本で一番短い市民憲章)。一帯は郊外住宅地と田園地帯が混在する。以前は条例により建築が高さ制限されており、4階建て以上の建物がなかったが現在は撤廃され、マンション建設が盛ん。1995年(平成7年)頃までパチンコ店が一軒もなかった市でもある。市役所および市街地が隣接する枚方市の中心部に近いことから、両市間の政治・経済面などにおける交流はかなり盛んである。 大阪府の北東に位置する。市の面積の半分を山林が占め、中央を南北に天野川が流れる。近年、JR東西線、第二京阪道路の開通による電車・自動車両面での交通利便性の向上と、自然環境の良さから人口が増加。市を縦断する片町線の沿線より東側は関西文化学術研究都市の区域に指定されている。 ・2010年(平成22年)交野市イメージキャラクター「おりひめちゃん」 ・2005年(平成17年)交野市星のまち観光協会 観光PRキャラクター「星のあまん」 第二京阪道路が市を縦断することに伴い、立ち退きを迫られる市民の代替土地を確保するために、交野市土地開発公社が近隣の土地を先行して購入していたが、その多くが売却されずに残っており、購入のために借り入れた資金と利息が莫大となり、不況や少子化の影響で市税や固定資産税が減少したことも相まって、市の財政状況は危機的状況に陥った。国や大阪府からも土地開発公社の経営健全化を図るよう強い指導を受けた経緯がある。 当時の交野市長の中田仁公は、あらゆる事業の見直しと聖域なき行財政改革を実行して財政健全化にあたるとしており、実際に交野市財政健全化計画の策定、交野市財政健全化緊急プランの提言、財政健全化推進室の設置、財政健全化推進課を常設するなど、財政再建団体への転落は阻止しなければならないという強い意思の元、財政健全化に向けて取り組んでいる。しかしながら、財政健全化推進室は公式HP上で財政の見通しについて記しており、それによると「新規事業(小中学校の耐震化や土地開発公社の健全化などの継続的事業含む)を一切行なわなくても、平成27年度に4.8億円の累積赤字が見込まれる」としている。なお、府内で交野市より財政状況が悪い泉佐野市は既に早期健全化団体に転落している。 交野市は市民説明会を開いたり、情報誌の発行などを通じて市民に財政状況について説明しているが、こうした危機的状況にもかかわらず、交野市長選や交野市議会議員選挙の投票率は減少傾向にあり、市民の政治・財政に対する関心の低さがうかがえる。 (2023年3月31日現在) なお、指定金融機関はりそなグループ(りそな・関西みらい)2行による輪番制。 (2012年12月現在) ※交野市内各区域の郵便番号は「576-00xx」(交野郵便局の集配担当)となっている。 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.05%増の77,686人であり、増減率は府下43市町村中20位、72行政区域中38位。 現在無し。1993年5月8日に兵庫県五色町(現・洲本市)、富山県山田村(現・富山市)と「トライアングル友好都市」提携を結んでいたが、2005年をもって提携を発展的に解消した。交野市ホームページ トライアングル国内友好都市提携について 河内磐船駅は河内森駅と300mほど離れているが、徒歩4~5分で乗換可能で駅到着時に乗換の放送が流れる。またJR両駅は全ての快速列車が停車する。 この他、北東部は片町線津田駅、南西部は同寝屋川公園駅を最寄りとする地区が存在する。 京阪バスが運行。市内に京阪バス交野営業所がある。2012年4月よりダイレクトエクスプレス直Q京都号(京都交野なんば線)運行開始。京阪交野線交野市駅及び西日本旅客鉄道片町線(学研都市線)河内磐船駅に停留所あり。平日、土曜・休日ともに1時間に1本程度の間隔で運行。一般路線バスについては、梅が枝団地や関西創価高校付近などには路線バスの空白地帯(路線バス自体が運行していない区域)があり、市域の全域で路線バスが運行している訳ではない。 2012年よりスタートしたマラソン大会。交野マラソン実行委員会が主催(主管:交野市体育協会)となり、近畿圏を中心に全国から5,000名を超えるランナーが参加する。コースは1.5km、3km、10kmの3コース。
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交野市(かたのし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。 本項では市制前の名称である交野町(かたのちょう)についても述べる。
{{Otheruses||[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪交野線|交野線]]の駅|交野市駅}} {{Redirect|交野}} {{日本の市 |画像 = 磐船神社拝殿御神体.JPG |画像の説明 = [[磐船神社 (交野市)|磐船神社]] |市旗 = [[ファイル:Flag of Katano, Osaka.svg|100px|border]] |市旗の説明 = 交野[[市町村旗|市旗]] |市章 = [[ファイル:Emblem of Katano, Osaka.svg|90px]] |市章の説明 = 交野[[市町村章|市章]]<br />1963年1月12日制定 |自治体名 = 交野市 |都道府県 = 大阪府 |コード = 27230-2 |隣接自治体 = [[枚方市]]、[[寝屋川市]]、[[四條畷市]]<br />[[奈良県]][[生駒市]] |木 = [[サクラ]] |花 = [[ツツジ]] |郵便番号 = 576-0052 |所在地 = 交野市私部一丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-27|display=inline,title}}<br />[[ファイル:The Katano Cityhall.JPG|250px|交野市役所]]{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=150|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.784|frame-longitude=135.69|text=市庁舎位置}} |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|27|230|image=Katano in Osaka Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} |特記事項 = }} '''交野市'''(かたのし)は、[[大阪府]]の[[北河内 (大阪府)|北河内]]地域に位置する[[市]]。 本項では市制前の名称である'''交野町'''(かたのちょう)についても述べる。 == 概要 == 市民憲章は「和」一文字<ref>[https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2011072700116/ 市のマーク | 交野市]</ref><ref>[https://www.city.katano.osaka.jp/reiki_int/reiki_honbun/k232RG00000005.html 交野市民憲章]</ref>([[日本一の一覧|日本で一番]]短い市民憲章)。一帯は郊外[[住宅地]]と田園地帯が混在する。以前は条例により建築が高さ制限されており、4階建て以上の建物がなかったが現在は撤廃され<ref>[http://www.city.katano.osaka.jp/reiki_int/reiki_honbun/k2320322001.html 交野市景観まちづくり条例]</ref>、[[マンション]]建設が盛ん。1995年(平成7年)頃まで[[パチンコ]]店が一軒もなかった市でもある<ref>[http://www.city.katano.osaka.jp/reiki_int/reiki_honbun/k2320293001.html 交野市風俗営業等に係る特定建築物の建築等の規制に関する条例]</ref>。[[役所|市役所]]および市街地が隣接する[[枚方市]]の中心部に近いことから、両市間の[[政治]]・[[経済]]面などにおける交流はかなり盛んである。 == 地理 == [[ファイル:Katano city center area Aerial photograph.1985.jpg|thumb|270px|交野市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の4枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 大阪府の北東に位置する。市の面積の半分を山林が占め、中央を南北に天野川が流れる。近年、[[JR東西線]]、[[第二京阪道路]]の開通による電車・自動車両面での交通利便性の向上と、自然環境の良さから人口が増加。市を縦断する[[片町線]]の沿線より東側は[[関西文化学術研究都市]]の区域に指定されている。 *[[河川]]: [[天野川 (大阪府)|天野川]](あまのがわ) *山: [[交野山]](こうのざん) === 隣接する自治体 === *{{Flagicon|大阪府}}大阪府 **[[ファイル:Flag of Hirakata, Osaka.svg|25px]][[枚方市]] **[[ファイル:Flag of Neyagawa, Osaka.svg|25px]][[寝屋川市]] **[[ファイル:Flag of Shijōnawate, Osaka.svg|25px]][[四條畷市]] *{{Flagicon|奈良県}}[[奈良県]] **[[ファイル:Flag of Ikoma, Nara.svg|25px]][[生駒市]] == 歴史 == [[ファイル:京阪私市線沿線(050408) 06.JPG|thumb|right|240px|京阪電鉄 交野線沿線]] *[[磐船街道]] *[[東高野街道]] *神宮寺遺跡 *: 市内の東北部、神宮寺にある縄文時代の住居跡遺跡。この遺跡から出土した特徴的な押型文土器は、神宮寺式土器と呼ばれ、近畿地方を中心に各地の遺跡で同様の土器が出土している。 *[[交野ヶ原|交野が原]] *:[[平安時代]]、交野市から[[枚方市]]の一部にかけての丘陵地は「交野が原」と呼ばれ、皇室の[[遊猟地]]で[[サクラ|桜]]の名所であった。 *星田、天野川、八丁三所伝説、[[七夕]]伝説など星にまつわる地名・伝説が多い。 *[[徳川家康]]が[[織田信長|信長]]の死を知って、[[明智光秀]]方からの追討を逃れるために、滞在していた[[堺市|堺]]から本拠の三河に戻る途中に、一時交野の星田に潜伏したとの言い伝えがある。市立妙見坂小学校敷地内の竹やぶに「家康ひそみの藪」という石碑が設立され近隣農民が応対したという文言があるが、近年は宅地開発が進み、一帯の竹やぶは切り払われている。史実でも「堺から山城・近江・伊賀の山中を通って……」となっているため、星田を経由した可能性はある。なお、交野市星田に今でも伝わる平井家(当時の星田の[[里正]]〔村の長〕平井三郎右衛門清貞宅)には、家康伝来の品が保管されている。 *原田式自動織機 明治36年に原田元治郎(はらだ もとじろう 1859―1945)が、綿織物用の自動織機を発明。 "原田は、明治26年頃から開発に着手し、足かけ10年、私財を投じて発明を成功させました。 原田式力織機は全国的にも珍しい全鉄製の力織機でした。これは、輸入物の外国製力織機に触れる機会が多い大阪では鉄製機械が当然のものとされ、地元の機械工業もそれを可能とするほど発達していたためと考えられます。原田はさらに工夫を加え、木製と鉄製の混製にすることで力織機の低価格化を実現させ、原田式は泉州(大阪南西部)では豊田式を上回る普及をみせました。原田はその後も織物業の発展に対応して織機の改良を行い、タオル用織機の開発を進めました。" (公[https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/contents/27.html 文書にみる発明のチカラ- 明治期の産業技術と発明家たち-]より引用) 原田式自動織機は、今治や泉州のタオル産業へ大きく貢献した自動織機であった。 当時は西の原田、東の豊田と呼ばれていたようで、特に泉州地域では原田式の織機が普及していたと言われていたが産業経済の変遷とともに原田式自動織機はその事業の役目を終えた。 * [[1939年]]([[昭和]]14年)3月1日、[[淀川]]をへだてた枚方市の[[禁野火薬庫#大規模爆発(2回目)|陸軍禁野火薬庫で大爆発]]が発生。現在の交野市一帯の[[窓ガラス]]、戸障子などが壊れる被害が及んだ<ref>陸軍倉庫爆発して付近民家に延焼(昭和14年3月2日 大阪毎日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p214 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 === 行政区画の変遷 === * 1939年(昭和14年)[[7月1日]] - [[北河内郡]][[交野村]]・[[磐船村]]が合併して'''交野町'''が発足。 * [[1955年]](昭和30年)[[4月1日]] - 北河内郡交野町・[[星田村]]が合併して、改めて'''交野町'''となる。 * [[1971年]](昭和46年)[[11月3日]] - 北河内郡交野町が市制施行して'''交野市'''となる。大阪府下34番目の市。同日北河内郡消滅。 === 主な出来事 === *[[1967年]] 給食センターができ、給食が始まる。 *[[1968年]] 現・[[交野市立郡津小学校]]ができる。 *[[1971年]] 現・[[交野市立岩船小学校]]ができる。 *[[1972年]] [[交野市立第二中学校]]ができる。 *[[1974年]] [[交野市立倉治小学校]]、[[交野市立妙見坂小学校]]ができる。 *[[1975年]] ブンブン号、野外活動センター、[[交野市立長宝寺小学校]]、[[交野市立第三中学校]]ができる。 *[[1976年]] 青年の家ができる。 *[[1977年]] [[交野市立旭小学校]]ができる。交野駅が交野市駅となる。 *[[1978年]] [[交野市立藤が尾小学校]]ができる。 *[[1980年]] [[交野市立私市小学校]]ができる。 *[[1981年]] 市民憲章「和」を決める。[[カナダ]]のコリングウッド市と[[姉妹都市]]になる。 *[[1983年]] [[交野市立第四中学校]]ができる。 *[[1984年]] 第一回交野まつりの開催。 *[[1987年]] 市民スポーツレクリエーションセンターができる。 *[[1991年]] ゴミの分別回収が始まる。 *[[1992年]] [[いきものふれあいの里]]、[[星の里いわふね・ゆうゆうセンター]]ができる。 *[[1993年]] [[兵庫県]]五色町、[[富山県]]山田村と[[友好都市]]になる。 *[[1994年]] ボランティアセンター、[[こどもゆうゆうセンター]]ができる。 *[[1995年]] リサイクルセンターができる。 *[[1996年]] 倉治図書館ができる。 *[[1997年]] ボランティアセンター、[[いきいきランド]]ができる。 *[[2000年]] ゴミ袋が透明になる。 *[[2010年]] 第二京阪道路開通。 *[[2011年]] 第1回織姫の里天の川まつりの開催。 *[[2012年]] 交野マラソンの開始 *[[2017年]] 粗大ゴミ有料化。 *[[2018年]] 交野マラソン2018の開催 *[[2019年]] 交野マラソン2019の開催 *[[2020年]] 交野マラソン2020 meet On-line in Halloweenの開催(4月の大会は中止) *[[2021年]] 交野マラソン2021 meet On-line in Halloweenの開催(4月の大会は中止) === ご当地キャラクター === ・2010年(平成22年)交野市イメージキャラクター「おりひめちゃん」 ・2005年(平成17年)交野市星のまち観光協会 観光PRキャラクター「星のあまん」 == 行政 == * 市長 : [[山本景]](2022年9月18日 -  1期目) === 歴代首長 === ;旧交野町長 ;交野町長 * 山野清(1955年5月1日 - 1966年8月2日) * 原田誠一(1966年9月18日 - 1971年11月2日) ;交野市長 * [[原田誠一 (政治家)|原田誠一]](1971年11月3日 - 1990年9月17日、初代交野市長、6期) * [[北田輝雄]](1990年9月18日 - 2002年9月17日、3期) * [[中田仁公]](2002年9月18日 - 2014年9月17日、3期) * [[黒田実]](2014年9月18日 - 2022年9月17日、2期) * [[山本景]](2022年9月18日 -  1期目) === 財政 === [[第二京阪道路]]が市を縦断することに伴い、立ち退きを迫られる市民の代替土地を確保するために、交野市土地開発公社が近隣の土地を先行して購入していたが、その多くが売却されずに残っており、購入のために借り入れた資金と利息が莫大となり、不況や少子化の影響で市税や固定資産税が減少したことも相まって、市の財政状況は危機的状況に陥った。国や大阪府からも土地開発公社の経営健全化を図るよう強い指導を受けた経緯がある。 当時の交野市長の中田仁公は、あらゆる事業の見直しと聖域なき行財政改革を実行して財政健全化にあたるとしており、実際に交野市財政健全化計画の策定、交野市財政健全化緊急プランの提言、財政健全化推進室の設置、財政健全化推進課を常設するなど、[[財政再建団体]]への転落は阻止しなければならないという強い意思の元、財政健全化に向けて取り組んでいる。しかしながら、財政健全化推進室は公式HP上で財政の見通しについて記しており、それによると「新規事業(小中学校の耐震化や土地開発公社の健全化などの継続的事業含む)を一切行なわなくても、平成27年度に4.8億円の累積赤字が見込まれる」としている。なお、府内で交野市より財政状況が悪い[[泉佐野市]]は既に[[早期健全化団体]]に転落している。 交野市は市民説明会を開いたり、情報誌の発行などを通じて市民に財政状況について説明しているが、こうした危機的状況にもかかわらず、交野市長選や交野市議会議員選挙の投票率は減少傾向にあり<ref>(市長選 H10は65.34%、H14は47.45%、H18は44.21%、H22は41.13%、H26は45.60%。市議選 H15は58.86%、H18補選は44.18%、H19は57.41%、H23は53.63%)</ref>、市民の政治・財政に対する関心の低さがうかがえる。 ==== 2006年度決算時の財政状況 ==== *標準財政規模 135億6,500万円 *[[財政力指数]] 0.75(全国市町村平均0.55、大阪府市町村平均0.79) *経常収支比率 100.2%(全国市町村平均92.0%、大阪府市町村平均98.5%) - 財政が硬直化 *実質収支 5,300万円 *人口1人あたり地方債現在高 43万5,640円(全国市町村平均44万6,922円、大阪府市町村平均53万9,455円) *実質公債費比率 14.7%(全国市町村平均12.3%、大阪府市町村平均9.1%) *人口1,000人あたりの職員数 6.35人(全国市町村平均7.82人、大阪府市町村平均7.91人) *[[ラスパイレス指数]] 98.8%(全国市平均97.0%、全国町村平均93.2%) === 行政機関 === * [[交野警察署|大阪府交野警察署]] ** [[大阪府警察学校]]交野校が東倉治にあったが、建物老朽化に伴って2013年に[[田尻町]]へ移転し、現存しない。 * [[交野市消防本部]] * 交野女子学院 主に近畿地方(2府4県)と中部地方(6県)の家庭裁判所から保護処分として送致された14歳から20歳未満の女子少年を収容 == 議会 == === 市議会 === {{Main|交野市議会}} *定数:15人 *任期:2019年10月1日 - 2023年9月30日 *議長:友井健二(公明党) *副議長:臼口誠二(大阪維新の会) {| class="wikitable" !会派名!!議席数!!議員名(◎は幹事長) |- || [[大阪維新の会]] | style="text-align: right;" | 3 ||◎岡田伴昌、臼口誠二、伊﨑太陽 |- || [[日本共産党]] | style="text-align: right;" | 3 ||◎藤田茉里、北尾学、皿海ふみ |- || [[公明党]] | style="text-align: right;" | 3 ||◎三浦美代子、中谷政人、友井健二 |- || 市民クラブ | style="text-align: right;" | 2 ||◎野口陽輔、久保田哲 |- || [[無所属]] | style="text-align: right;" | 2 ||松村紘子、片岡弘子 |- !計!! style="text-align: right;" |13!! |} (2023年3月31日現在<ref>[https://katano.gsl-service.net/doc/2019101300023/ 会派別名簿 | 交野市議会]</ref>) === 大阪府議会 === * 選挙区:交野市選挙区 * 定数:1人 * 任期:2023年4月30日 - 2027年4月29日 * 投票日:2023年4月9日 * 当日有権者数:63,933人 * 投票率:50.82% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 美好かほる || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 52 || 大阪維新の会 || style="text-align:center" | 現 || 20,428票 |- | 松本直高 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 50 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 元 || 10,564票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[大阪府第11区|大阪11区]]([[枚方市]]、交野市) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:398,749人 * 投票率:60.57% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[中司宏]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 65 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 105,746票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || [[佐藤ゆかり]] || style="text-align:center;" | 60 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 70,568票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || [[平野博文]] || style="text-align:center;" | 72 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 60,281票 || style="text-align:center;" | ○ |} == 経済 == === 交野市に本社を置く主な企業 === *[[野村工務店]] *山野酒造 *大門酒造 === 金融機関 === *[[りそな銀行]] 交野出張所 *[[京都銀行]] 交野支店 *[[関西みらい銀行]] 交野支店、星田出張所、交野郡津出張所 *[[池田泉州銀行]] 交野支店 *[[京都信用金庫]] 交野支店 *[[枚方信用金庫]] 交野支店 * [[農業協同組合|JA]]北河内 交野中央支店 なお、[[指定金融機関]]は[[りそなホールディングス|りそなグループ]](りそな・関西みらい)2行による輪番制。<!--在阪他都市は「りそな」単独もしくは他の銀行と輪番指定するのが大半で、摂津市のみ「関西みらい」単独指定。--> === 日本郵政グループ === (2012年12月現在) *[[日本郵便|日本郵便株式会社]] **[[交野郵便局]](私部) - 集配局。 **交野幾野(いくの)郵便局(幾野) **交野藤が尾郵便局(藤が尾) **交野倉治(くらじ)郵便局(倉治) **交野星田郵便局(星田) **交野私市郵便局(私市) **郡津(こうづ)駅前郵便局(松塚) *[[ゆうちょ銀行]] **大阪支店 イズミヤ交野店内出張所(私部西)(ATMのみ/ホリデーサービス実施) :その他各郵便局にATMが設置されており、交野・交野藤が尾の各郵便局ではホリデーサービスを実施。 ※交野市内各区域の郵便番号は「'''576-00xx'''」(交野郵便局の集配担当)となっている。 == 地域 == === 人口 === 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.05%増の77,686人であり、増減率は府下43市町村中20位、72行政区域中38位。 {{人口統計|code=27230|name=交野市|image=Population distribution of Katano, Osaka, Japan.svg}} === 教育 === ==== 小学校 ==== *[[交野市立星田小学校]] *[[交野市立交野小学校]] *[[交野市立岩船小学校]] *[[交野市立郡津小学校]] *[[交野市立倉治小学校]] *[[交野市立妙見坂小学校]] *[[交野市立長宝寺小学校]] *[[交野市立旭小学校]] *[[交野市立藤が尾小学校]] *[[交野市立私市小学校]] ==== 中学校 ==== *[[交野市立第一中学校]] *[[交野市立第二中学校]] *[[交野市立第三中学校]] *[[交野市立第四中学校]] *私立[[関西創価中学校・高等学校|関西創価中学校]] ==== 高等学校 ==== *[[大阪府立交野高等学校]] *私立[[関西創価中学校・高等学校|関西創価高等学校]] ==== 大学 ==== *[[大阪公立大学]]附属[[植物園]]([[研究施設]]) ==== 特別支援学校 ==== *[[大阪府立交野支援学校]] == 姉妹都市・提携都市 == === 国内 === 現在無し。[[1993年]][[5月8日]]に[[兵庫県]][[五色町]](現・[[洲本市]])、[[富山県]][[山田村 (富山県婦負郡)|山田村]](現・[[富山市]])と「トライアングル友好都市」提携を結んでいたが、[[2005年]]をもって提携を発展的に解消した。[http://www.city.katano.osaka.jp/kakka/star50010/kaisho.htm 交野市ホームページ トライアングル国内友好都市提携について]{{リンク切れ|date=2019年3月}} === 海外 === * {{flagicon|CAN}} [[カナダ]]&nbsp;[[オンタリオ州]]&nbsp;[[コリングウッド (オンタリオ州)|コリングウッド市]]:&nbsp;[[1981年]]姉妹都市提携 == 交通 == === 鉄道 === *[[京阪電気鉄道]] **[[京阪交野線|交野線]] [[郡津駅]] - [[交野市駅]] - [[河内森駅]] - [[私市駅]] *[[西日本旅客鉄道|JR西日本]] **[[片町線]](学研都市線) [[河内磐船駅]] - [[星田駅]] *中心となる駅:交野市駅 河内磐船駅は河内森駅と300mほど離れているが、徒歩4~5分で乗換可能で駅到着時に乗換の放送が流れる。またJR両駅は全ての快速列車が停車する。 この他、北東部は片町線[[津田駅]]、南西部は同[[寝屋川公園駅]]を最寄りとする地区が存在する。 === バス === [[京阪バス]]が運行。市内に[[京阪バス交野営業所]]がある。2012年4月より[[ダイレクトエクスプレス直Q京都号]](京都交野なんば線)運行開始。京阪交野線交野市駅及び西日本旅客鉄道片町線(学研都市線)河内磐船駅に停留所あり。平日、土曜・休日ともに1時間に1本程度の間隔で運行。一般路線バスについては、梅が枝団地や関西創価高校付近などには路線バスの空白地帯(路線バス自体が運行していない区域)があり、市域の全域で路線バスが運行している訳ではない。 === 道路 === *[[国道168号]] *[[第二京阪道路]] : 第二京阪道路には[[交野北インターチェンジ|交野北IC]]と[[交野南インターチェンジ|交野南IC]]があるが、交野南ICは枚方市に所在する。 **交野北IC・交野南インターチェンジ(交野南IC) == 名所・旧跡・祭事・催事 == === 名所・旧跡 === {{右| [[ファイル:Katano-Sports Hall.jpg|thumb|right|240px|いきいきランド交野]] [[ファイル:源氏の滝P3260021.JPG|thumb|right|240px|源氏の滝]] [[ファイル:Katano Hoshinoburanko.jpg|right|thumb|240px|星のブランコ]]}} *[[源氏の滝]] *[[月の輪滝]] *[[機物神社]] ** [[開元寺 (交野市)|開元寺]](岩倉開元寺)<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_katano.htm s_minaga]</ref> *[[光明院 (交野市)|{{small|遍照山攝取教寺|}}光明院]](倉治) *[[磐船神社 (交野市)|磐船神社]] *[[八葉蓮華寺|{{small|氷室山|}}八葉蓮華寺]] *[[星田神社]] **[[小松神社 (交野市)|星田妙見宮]]([[神禅寺]]) **[[星田寺|{{small|三宅山|}}星田寺]] **[[小松寺 (交野市)|{{small|三宅山|}}小松寺]](河内小松廃寺、及び再興された[[法華宗本門流|本門流]]の寺院) * [[光明寺 (交野市)|{{small|東光山|}}光明寺]] * [[薬師寺 (交野市)|{{small|瑠璃光山|}}薬師寺]] * [[光林寺 (交野市)|{{small|降星山|}}光林寺]] * [[慈光寺 (交野市)|{{small|繁榮山|}}慈光寺]] *[[北田家住宅]](国の[[重要文化財]])[[交野代官所]] *山添家住宅(国の重要文化財) *[[獅子窟寺]]{{small|(普見山)|}}([[国宝]]の木造薬師如来坐像を所蔵) *[[交野城]] === レジャー === *[[くろんど園地|府民の森くろんど園地]] *[[ほしだ園地|府民の森ほしだ園地]] **[[星のブランコ]](人道用の[[吊橋]]としては国内最大級) *[[大阪公立大学附属植物園]] *[[いきいきランド交野]](市立総合体育施設) *山野酒造酒造仕込蔵(酒造工程の全般的な見学及び試飲等・冬季限定) === 祭り === *[[七夕]]祭り(7月) *: 交野市内では、古くから七夕伝説や七夕にまつわる名所などが残されており、毎年7月、[[機物神社]]、[[小松神社 (交野市)|星田妙見宮]]でそれぞれ特徴ある七夕祭が催される。 *織姫の里天の川星まつり(8月) *: 今まで7月7日に行われていた「天の川七夕まつり」と8月に行われていた「交野市民まつり」が統合され、2011年から始まった新しい祭り。市民ステージや模擬店、そして竹や和紙で作られた灯籠のモニュメント、祭りならではのにぎやかさと神秘的な展示が同居する祭りで、市民・市外からの観光客ともども楽しめる内容となっている。2018年現在では再び分割され、7月に「天の川七夕まつり」10月に「かたのにぎわいフェスタ」として開催されている。 *農業まつり(12月) === 交野マラソン === {{宣伝|section=1|date=2022年6月}} 2012年よりスタートしたマラソン大会。交野マラソン実行委員会が主催(主管:交野市体育協会)となり、近畿圏を中心に全国から5,000名を超えるランナーが参加する。コースは1.5km、3km、10kmの3コース。 == 出身有名人 == *[[前田政二]] - 放送作家・タレント *[[沖浦啓之]] - 映画監督・アニメーター *[[大塔正明]] - 元プロ野球選手 *[[石丸清隆]] - 元サッカー選手 *[[林家笑丸]] - 落語家 *[[加藤虎ノ介]] - 俳優 *[[渋谷敦志]] - 写真家 *[[古市貞秀]] - 元大相撲力士  *[[北山高与志]] - キックボクサー *[[プラス・マイナス]](兼光タカシ・岩橋良昌) - 漫才コンビ(吉本興業所属) *[[椎名法子]] - 歌手 *[[松尾依里佳]] - [[ヴァイオリニスト]]、[[タレント]] *[[藤田裕樹|藤田ユウキ]]([[バンビーノ (お笑いコンビ)|バンビーノ]]) - お笑いタレント(吉本興業所属) *[[三島輝史]] - 元プロ野球選手 *[[勢翔太]] - 元大相撲力士 *[[アグー松永|TORU]] - プロレスラー *篠原開 - 元大相撲力士 *[[高杉'Jay'二郎]] - ラジオパーソナリティ * マナブ([[SCREW (バンド)|SCREW]]) - ミュージシャン(ギタリスト) *[[TETSU]]([[少年カミカゼ]]) - ミュージシャン *[[射駒タケシ]] - スロプロ *[[北本亘]] - プロ野球選手 *[[芦田一顕]] - ラグビー選手 * 交野星子 - パフォーマー *[[タイムキーパー (お笑いコンビ)#メンバー|まついあきら]] ([[タイムキーパー (お笑いコンビ)|タイムキーパー]])- お笑いタレント(吉本興業所属) *磯俣愛-インフルエンサー(エーライツ所属) == 関連項目 == * [[大阪みどりの百選]] * [[:Category:大阪府の自然景勝地|大阪府の自然景勝地]] * [[交野の少将]] *[[交野ヶ原]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|name=交野市}} * [http://murata35.chicappa.jp/index.html 星のまち交野<交野の名所案内>] * [https://www.kkr.mlit.go.jp/naniwa/ 国土交通省 浪速国道事務所<第二京阪道路関連>] * [http://katano-kanko.com/ 交野市星のまち観光協会] * [http://www.katano-times.com/ 地域情報サイト「交野タイムズ」] * [https://katano.mypl.net/ 地域ポータルサイト「織姫ねっと」] *[http://katano-marathon.com/ 交野マラソン] {{Geographic Location |Northwest = |North = [[枚方市]] |Northeast = |West = [[寝屋川市]] |Centre = 交野市 |East = |Southwest = |South = [[四條畷市]] |Southeast = [[生駒市]]}} {{大阪府の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かたのし}} [[Category:大阪府の市町村]] [[Category:交野市|*]]
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ジョン・マッケンロー
ジョン・マッケンロー(John McEnroe, 1959年2月16日 - )は、アメリカの男子プロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。ATPツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 グランドスラムではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも年間最終戦優勝3回、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローもプロテニス選手。元妻は女優のテータム・オニール。現在の妻はロックシンガーのパティ・スマイス。 試合中、審判の判定にクレームや暴言を発することが頻繁にあったため、“悪童マッケンロー”と呼ばれた。 1976年から選手生活を始めたマッケンローは、18歳の時に1977年全仏オープン混合ダブルスで幼なじみのメアリー・カリロとペアを組み、初めての4大タイトルを獲得した。続くウィンブルドンで予選からベスト4に進出し(大会史上初)、準決勝で当時の世界1位だったジミー・コナーズに敗れたが、ここで世界的な注目を集めた。その後スタンフォード大学に進学し、1978年にNCAAのタイトルを獲得すると、大学を中退してプロ入りする。翌1979年には早くも全米オープン決勝に進出し、ビタス・ゲルレイティスを 7-5, 6-3, 6-3 で破って、20歳の若さで四大大会初タイトルを獲得する。 1980年、マッケンローはウィンブルドンで初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指すビョルン・ボルグに 6-1, 5-7, 3-6, 7-6, 6-8 で敗れたが、3時間55分に及ぶ戦いはテニス史上に残る名勝負として今なお語り継がれている。とりわけ第4セットはボルグの7つのマッチポイントを凌ぎ、タイブレークを 18-16 という壮絶なスコアでものにして最終セットに持ち込む大激戦となったが、最後は鉄人・ボルグの前に力尽きた。 しかし、同年の全米オープン決勝で同じボルグを 7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 とフルセットの末に破ると、翌1981年のウィンブルドンでは、再び決勝で相まみえたボルグを 4-6, 7-6, 7-6, 6-4 で破り、前年の雪辱を果たして初優勝。こうして、マッケンローがボルグのウィンブルドン「6連覇」を阻止した。続く全米オープンでも2年連続決勝でボルグを破り、同大会で3連覇を達成する。同時にATPランキング1位の座をボルグから奪い取って、マッケンロー時代の幕開けを告げた。 1982年は、ウィンブルドンは決勝でジミー・コナーズ、全米オープンは準決勝でイワン・レンドルに敗れて、4大タイトル無冠に終わる。対レンドル戦は0勝4敗(前年から6連敗)と苦手にしたが、年間ランキング1位は死守する。1983年以降は充実期を迎え、同年のウィンブルドン、1984年はウィンブルドン、全米オープンの2冠を獲得、両年とも年間ランキング1位をキープし、名実共にトッププレーヤーとしてテニス界に君臨する。 絶頂期の1984年は、プレースタイル的に苦手な全仏オープンこそイワン・レンドルに敗れて準優勝に終わったものの、優勝した全米オープンではそのレンドル、ウィンブルドンでは2年前に苦杯をなめたジミー・コナーズを、ともに決勝で圧倒する。ツアーを通じてもレンドルに6勝1敗、コナーズに6勝0敗と、当時のランキング2位・3位である2人を全く寄せ付けず、最終的に全14大会に出場して12大会で優勝、デビスカップでの1敗を合わせても、年間わずかに3敗という圧倒的な戦績を残した。(この年の彼の年間勝率 .965 という記録は、2005年度のロジャー・フェデラーでさえ破れなかった驚異的な記録である。) 1985年に入ると、年明けのマスターズは前年の勢いでイワン・レンドルを一蹴する。当時の4大大会は、年間第1戦が全仏オープンであった。マッケンロー最大の関門である全仏オープンの準決勝でクレー巧者のマッツ・ビランデルに屈すると、5年連続決勝進出中だったウィンブルドンでも、第8シードのビッグサーバー・ケビン・カレンに足をすくわれ、まさかの準々決勝敗退に終わる。唯一決勝に進出した全米オープンもレンドルに前年の雪辱を許し、4大タイトル無冠に終わっただけでなく、ランキング1位もレンドルに奪われる。それ以後、1986年・1987年は背中の故障などもあって出場試合数が激減した。出場した試合でも低迷が続き、ボリス・ベッカーなどの新勢力の台頭もあって、マッケンローのシングルスでの成績やランキングは下降した。 1988年、前年の出場停止処分に端を発した長期休養から、復活を期して4月のジャパン・オープンを復帰戦として選択すると、有明コロシアムで行われた決勝では、新勢力の代表・ステファン・エドベリを 6-2, 6-2 で破って優勝した。(準々決勝では若き松岡修造とも対戦し、マッケンローが順当勝ちした。)5月の全仏オープンでは、当時絶頂期にあったイワン・レンドルに4回戦で敗れ、ウィンブルドンと全米オープンは、ともに2回戦で格下の選手に惨敗する。以後、ツアーでの優勝は散発的にあったものの、4大大会シングルスは1989年・1992年のウィンブルドン、1990年全米オープンのベスト4が最高と、再びタイトルを獲得することはできなかった。 1990年全豪オープンでは、4回戦でハプニングがあった。この時マッケンローはミカエル・ペルンフォルス(スウェーデン)との対戦中に線審を睨み付け、ラケットを地面に叩き付け、主審への暴言などを繰り返したため、第4セットの途中(スコア:6-1, 4-6, 7-5, 2-4 / すなわち、マッケンローがセットカウント 2-1 とリード中)で競技役員との話し合いの末、主審から「失格」を言い渡された。これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。このペルンフォルス戦は、マッケンローの暴言が度を過ぎた試合の最たる例として語り草になっている。 ダブルスでは、ピーター・フレミングの引退後も活躍を続け、オーストラリアのマーク・ウッドフォードとペアを組んだ1989年の全米オープンで優勝する。引退を表明した1992年にも、ドイツのミヒャエル・シュティヒと組んで8年ぶりにウィンブルドンで優勝を飾った後、デビスカップでもピート・サンプラスとペアを組んで、決勝のスイス戦では2セットダウンから逆転勝ちして優勝を決めるなど、最後の活躍を見せている。特にシュティヒとペアを組んでジム・グラブ&リッチー・レネバーグ組(ともにアメリカ)を 5-7, 7-6, 3-6, 7-6, 19-17 で破った決勝の試合時間「5時間1分」は、ウィンブルドン男子ダブルス決勝の史上最長時間記録である。 1992年に33歳で現役を引退した後は、テレビ解説者として活躍する一方、ビョルン・ボルグたちとともにシニアツアーに参加し、来日も果たす。1999年ウィンブルドンでは、シュテフィ・グラフとペアを組んで混合ダブルスに出場している。1999年に国際テニス殿堂入り。2006年には突如ダブルスでツアー復帰を宣言し、ヨナス・ビョルクマンとペアを組んだサンノゼ・SAPオープンで優勝を飾っている。マッケンロー47歳、ビョルクマン33歳ペアの優勝は、記録的にも特筆に値する。 マッケンローは日本でも高い人気を誇り、トヨタ・カローラII(初代)(1982年 - 1986年)、日清サラダ油『マヨドレ』(1982年、ビョルン・ボルグと共に出演)のTVCMに出演する等日本企業のイメージ宣伝に起用されたり、漫才師のギャグネタなどになることもあった。現役引退後の1995年11月には「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演し、明石家さんまとともに「さんま vs. マッケンロー」というエキシビション・マッチを行ったこともある。 機を見てネットに出てボレー等でポイントを決めるネットプレーヤー。サービスゲームではサーブと同時にネットダッシュするサービス&ボレーを基軸とする。(セカンドサーブ時はベースラインにとどまる場合もあり)リターンゲームでも、ストローク戦からネットダッシュするか、場合によってはリターンと同時にネットダッシュするリターン&ネットも見せる。 肩または腰の故障から考え抜かれたとされるほとんど相手に背中を向けた極端なクローズドスタンスから放たれるサーブは強力で、特にアドバンテージコートから左利き特有のバックハンド・サイドに切れていくスライスサーブは、両手打ちバックハンドの為に比較的リーチの狭かったライバル・ビョルン・ボルグとの対戦時は大きな武器となった。ボルグとは対照的に、ガットをぎりぎりまで緩く張ったラケットから絶妙なタッチで繰り出されるボレーは変幻自在で、野獣(Animal)・コナーズ、氷のボルグ(IceBorg : Iceberg(氷山)の変形)に対して、「芸術家(Artist)・マッケンロー」などと称された。 プレースタイル的にはネットプレーヤーであるが、ストロークも決して苦手ではなく、全盛期は各時代・最強のストローカーであるジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、イワン・レンドル、マッツ・ビランデルを、ストロークの打ち合いで翻弄することも多かったため、オールラウンダーと評される場合もある。 彼のストロークの特徴をあらわすキーワードはライジングで、人によっては 『マッケンローのストロークはハーフボレーの延長だ』 などと評するほど、フォア・バックともにほとんどのストロークをバウンドの上がり際(=ライジング)で処理した。これは1970年代末期、ボルグの高く跳ね上がるトップスピンに対して、多くのネットプレーヤーがベースライン後方に押し下げられ、ネットプレーを封じられていたことに対抗するために生まれたと思われる。 ベースラインから下がらずに高い打点で処理することで、より早いタイミングで、しかも角度を付けて返球することが容易になるため、結果的に速い展開で相手を振り回すことが可能となる。相手側から見ると「ボール自体は速くないのに、すぐボールが返ってくる」「強打しても軽くかわされ、ちょっとでもストロークが浅くなると左右に振り回されて、気が付くとネットに出てきてボレーを決められる」という状態になる。 ボルグのマッケンロー評に『彼はコートのあらゆるところから、あらゆるスピンのボールを打つことができる』 とあるように、単純にボールの威力で相手を粉砕するのではなく、コート中に様々な球種を散らし、相手を翻弄して、最後はネットプレーで決めるのが彼のプレースタイルである。その意味では同じライジングでも、高い打点からエースを狙ってハードヒットする現代のライジング打法とは趣を異にする。 ネットプレーヤーとしては異例に、パッシングショットも得意とした。フォア・バックともにストレート・ショートクロスと自在に打ち分け、同じスタイルの相手と対戦する際には非常に有効であった。しかし、絶対的な体力に裏打ちされた粘りのストロークが要求されるクレーコートはやはり苦手とし、絶頂期の1984年でもあと一歩のところで全仏オープンのタイトルには届かなかった。 全体として、ネットプレー・ストロークともに、非常に攻撃的なプレーを行うが、決して勢いにまかせてエース狙いのハードヒットを繰り返すタイプではなかった。彼のトレードマークでもあった、審判の判定に激昂して悪態をつくような場面の後でさえも、プレー自体は頭脳的で、彼以前の“悪童”イリ・ナスターゼ(ルーマニア)やライバルのコナーズ、彼の後に続いたゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)などのように、そのままプレーが乱れる場面は少なかった。 マッケンローはウッド(木製)ラケットとカーボン、グラスファイバー等、新世代の素材を用いたハイテク・ラケットとの交替時期に活躍した選手である。1歳年下のライバル・イワン・レンドルに7連敗を喫していた1983年初頭、それまでのウッドラケット「MAXPLY」から、カーボン製「MAX200G」にラケットを替えたことと相前後して、レンドルとの対戦成績も逆転し、その後の全盛期を迎えた。彼がこのラケット(DUNLOP MAX 200G)に切り替えたのは、弟のパトリック・マッケンローに勧められたからだという。それ以後、現役を引退するまでこのラケットを使い続けた。 マッケンローは、男優ライアン・オニールの娘で女優のテータム・オニールと1986年から1994年まで婚姻関係にあり、ケビン、ジーン、エミリの3人の子供がいる。二人の離婚後、当初は両親に共同親権が認められたが、1997年にマッケンローが単独親権を得た。 1997年にはロック歌手のパティ・スマイスと結婚し、アンナとアヴァの2人の娘をもうけた。 二人の住居は、ニューヨーク・マンハッタンの高級住宅街アッパー・ウエストサイドのデュプレにある。 ※オープン化以降 W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし. ※1979年全米3回戦の不戦勝は通算成績に含めない
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ジョン・マッケンローは、アメリカの男子プロテニス選手。左利き。身長180cm、体重75kg。ATPツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 グランドスラムではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友ピーター・フレミングと組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも年間最終戦優勝3回、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であったドイツ・ヴィースバーデンで生まれる。父親は著名な弁護士で、弟のパトリック・マッケンローもプロテニス選手。元妻は女優のテータム・オニール。現在の妻はロックシンガーのパティ・スマイス。 試合中、審判の判定にクレームや暴言を発することが頻繁にあったため、“悪童マッケンロー”と呼ばれた。
{{存命人物の出典明記|date=2017-02-20}} {{テニス選手 |選手名(日本語)=ジョン・マッケンロー |写真=US Open 2009 4th round 595.jpg |写真サイズ=200px |写真のコメント=ジョン・マッケンロー |選手名(英語)=John McEnroe |フルネーム(英語名)=John Patrick McEnroe |愛称= |国籍={{USA}} |出身地=ドイツ・ヴィースバーデン |居住地= |誕生日={{生年月日と年齢|1959|2|16}} |没年日= |身長=180cm |体重=75kg |利き手=左 |バックハンド=片手打ち |殿堂入り=1999年 |デビュー年=1976年 |引退年=1992年 |ツアー通算=148勝 |シングルス=77勝 |ダブルス=71勝 |生涯通算成績=1411勝301敗 |シングルス通算=881勝198敗 |ダブルス通算=530勝103敗 |生涯獲得賞金=$12,552,132 |全豪オープン=ベスト4(1983) |全仏オープン=準優勝(1984) |ウィンブルドン=優勝(1981・83・84) |全米オープン=優勝(1979-81・84) |優勝回数=7(英3・米4) |全豪オープンダブルス=ベスト4(1989) |全仏オープンダブルス=ベスト8(1992) |ウィンブルドンダブルス=優勝(1979・81・83・84・92) |全米オープンダブルス=優勝(1979・81・83・89) |ダブルス優勝回数=9(英5・米4) |全仏オープン混合ダブルス = 優勝 (1977) |ウィンブルドン混合ダブルス = ベスト4 (1999) |混合ダブルス優勝回数 = 1(仏1) | デビスカップ = 優勝(1978・79・81・82・92) |シングルス最高=1位(1980年3月3日) |ダブルス最高=1位(1979年5月21日) }} '''ジョン・マッケンロー'''('''John McEnroe''', [[1959年]][[2月16日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の男子プロ[[テニス]]選手。左利き。身長180cm、体重75kg。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス77勝、ダブルス71勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界ランキング1位になった数少ない選手のひとりである。 [[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]ではシングルス優勝7回・ダブルス優勝9回・混合ダブルス優勝1回の計17回の優勝を飾った。ダブルスでは旧友[[ピーター・フレミング]]と組んで57個(うち4大大会7勝/同一ペアの優勝記録としては歴代2位)のタイトルを獲得した。 他にも[[ATPワールドツアー・ファイナル|年間最終戦]]優勝3回<ref>フェデラー6回、レンドル/サンプラス5回、ジョコビッチ4回。3回はベッカーと並び歴代5位</ref>、最多タイトル獲得記録(シングルス・ダブルス合計)、シングルス通算世界1位在位記録歴代5位・ダブルス通算世界1位在位記録歴代3位など数々の記録を保持する。 父親の軍務地であった[[ドイツ]]・[[ヴィースバーデン]]で生まれる。父親は著名な弁護士で、弟の[[パトリック・マッケンロー]]もプロテニス選手<ref name="bleacher">{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members#/articles/450073-right-name-wrong-genes-less-athletic-superstar-family-members/page/22 |title=Right Name, Wrong Genes: The Top 50 Less Talented Relatives of Superstars |publisher=bleacherreport.com |date=2010-09-07 |accessdate=2012-03-25 }}</ref>。元妻は女優の[[テータム・オニール]]。現在の妻はロックシンガーの[[パティ・スマイス]]。 試合中、審判の判定にクレームや暴言を発することが頻繁にあったため、“悪童マッケンロー”と呼ばれた。 == 選手経歴 == [[1976年]]から選手生活を始めたマッケンローは、18歳の時に[[1977年全仏オープン]]混合ダブルスで幼なじみの[[メアリー・カリロ]]とペアを組み、初めての4大タイトルを獲得した。続く[[1977年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で予選からベスト4に進出し(大会史上初)、準決勝で当時の世界1位だった[[ジミー・コナーズ]]に敗れたが、ここで世界的な注目を集めた。その後[[スタンフォード大学]]に進学し、[[1978年]]に[[全米大学体育協会|NCAA]]のタイトルを獲得すると、大学を中退してプロ入りする。翌[[1979年]]には早くも[[1979年全米オープン (テニス)|全米オープン]]決勝に進出し、[[ビタス・ゲルレイティス]]を 7-5, 6-3, 6-3 で破って、20歳の若さで四大大会初タイトルを獲得する。 [[1980年]]、マッケンローは[[1980年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で初の決勝進出を果たし、大会5連覇を目指す[[ビョルン・ボルグ]]に 6-1, 5-7, 3-6, 7-6, 6-8 で敗れたが、3時間55分に及ぶ戦いはテニス史上に残る名勝負として今なお語り継がれている。とりわけ第4セットは[[ビョルン・ボルグ|ボルグ]]の7つのマッチポイントを凌ぎ、[[タイブレーク]]を 18-16 という壮絶なスコアでものにして最終セットに持ち込む大激戦となったが、最後は鉄人・ボルグの前に力尽きた。 しかし、同年の[[1980年全米オープン (テニス)|全米オープン]]決勝で同じボルグを 7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 とフルセットの末に破ると、翌[[1981年]]の[[1981年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]では、再び決勝で相まみえたボルグを 4-6, 7-6, 7-6, 6-4 で破り、前年の雪辱を果たして初優勝。こうして、マッケンローがボルグのウィンブルドン「6連覇」を阻止した。続く[[1981年全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも2年連続決勝でボルグを破り、同大会で3連覇を達成する。同時に[[男子プロテニス協会|ATP]]ランキング1位の座をボルグから奪い取って、マッケンロー時代の幕開けを告げた。 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[[1985年]]に入ると、年明けの[[テニス・マスターズ・カップ|マスターズ]]は前年の勢いで[[イワン・レンドル]]を一蹴する。当時の4大大会は、年間第1戦が全仏オープンであった。マッケンロー最大の関門である[[1985年全仏オープン|全仏オープン]]の準決勝でクレー巧者の[[マッツ・ビランデル]]に屈すると、5年連続決勝進出中だった[[1985年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも、第8シードのビッグサーバー・[[ケビン・カレン]]に足をすくわれ、まさかの準々決勝敗退に終わる。唯一決勝に進出した[[1985年全米オープン (テニス)|全米オープン]]も[[イワン・レンドル|レンドル]]に前年の雪辱を許し、4大タイトル無冠に終わっただけでなく、ランキング1位も[[イワン・レンドル|レンドル]]に奪われる。それ以後、[[1986年]]・[[1987年]]は背中の故障などもあって出場試合数が激減した。出場した試合でも低迷が続き、[[ボリス・ベッカー]]などの新勢力の台頭もあって、マッケンローのシングルスでの成績やランキングは下降した。 [[1988年]]、前年の出場停止処分に端を発した長期休養から、復活を期して4月の[[ジャパン・オープン・テニス選手権|ジャパン・オープン]]を復帰戦として選択すると、[[有明コロシアム]]で行われた決勝では、新勢力の代表・[[ステファン・エドベリ]]を 6-2, 6-2 で破って優勝した。(準々決勝では若き[[松岡修造]]とも対戦し、マッケンローが順当勝ちした。)5月の[[1988年全仏オープン|全仏オープン]]では、当時絶頂期にあった[[イワン・レンドル]]に4回戦で敗れ、[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1988年全米オープン (テニス)|全米オープン]]は、ともに2回戦で格下の選手に惨敗する。以後、ツアーでの優勝は散発的にあったものの、4大大会シングルスは[[1989年ウィンブルドン選手権|1989年]]・[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]のウィンブルドン、[[1990年全米オープン (テニス)|1990年全米オープン]]のベスト4が最高と、再びタイトルを獲得することはできなかった。 [[1990年全豪オープン]]では、4回戦でハプニングがあった。この時マッケンローは[[ミカエル・ペルンフォルス]]([[スウェーデン]])との対戦中に線審を睨み付け、ラケットを地面に叩き付け、主審への暴言などを繰り返したため、第4セットの途中(スコア:6-1, 4-6, 7-5, 2-4 / すなわち、マッケンローがセットカウント 2-1 とリード中)で競技役員との話し合いの末、主審から「失格」を言い渡された。これに観客は憤り、試合会場を立ち去ってしまった。このペルンフォルス戦は、マッケンローの暴言が度を過ぎた試合の最たる例として語り草になっている。 ダブルスでは、[[ピーター・フレミング]]の引退後も活躍を続け、[[オーストラリア]]の[[マーク・ウッドフォード]]とペアを組んだ[[1989年]]の[[1989年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で優勝する。引退を表明した[[1992年]]にも、[[ドイツ]]の[[ミヒャエル・シュティヒ]]と組んで8年ぶりに[[1992年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で優勝を飾った後、[[デビスカップ]]でも[[ピート・サンプラス]]とペアを組んで、決勝の[[スイス]]戦では2セットダウンから逆転勝ちして優勝を決めるなど、最後の活躍を見せている。特にシュティヒとペアを組んで[[ジム・グラブ]]&[[リッチー・レネバーグ]]組(ともに[[アメリカ合衆国|アメリカ]])を 5-7, 7-6, 3-6, 7-6, 19-17 で破った決勝の試合時間「5時間1分」は、ウィンブルドン男子ダブルス決勝の史上最長時間記録である。 [[1992年]]に33歳で現役を引退した後は、テレビ解説者として活躍する一方、[[ビョルン・ボルグ]]たちとともにシニアツアーに参加し、来日も果たす。[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]では、[[シュテフィ・グラフ]]とペアを組んで混合ダブルスに出場している。[[1999年]]に[[国際テニス殿堂]]入り。[[2006年]]には突如ダブルスでツアー復帰を宣言し、[[ヨナス・ビョルクマン]]とペアを組んだサンノゼ・SAPオープンで優勝を飾っている。マッケンロー47歳、ビョルクマン33歳ペアの優勝は、記録的にも特筆に値する。 マッケンローは日本でも高い人気を誇り、[[トヨタ・カローラII|トヨタ・カローラⅡ(初代)]](1982年 - 1986年)、[[日清オイリオグループ|日清サラダ油]]『マヨドレ』(1982年、ビョルン・ボルグと共に出演)のTVCMに出演する等日本企業のイメージ宣伝に起用されたり、漫才師のギャグネタなどになることもあった。現役引退後の[[1995年]]11月には「[[明石家さんまのスポーツするぞ!大放送]]」に出演し、[[明石家さんま]]とともに「さんま vs. マッケンロー」という[[エキシビション]]・マッチを行ったこともある。 <!--== ダブルス選手 ==--> <!--フレミングとのこと、まだまだ書けそう--> == プレースタイル == 機を見てネットに出てボレー等でポイントを決めるネットプレーヤー。サービスゲームではサーブと同時にネットダッシュするサービス&ボレーを基軸とする。(セカンドサーブ時はベースラインにとどまる場合もあり)リターンゲームでも、ストローク戦からネットダッシュするか、場合によってはリターンと同時にネットダッシュするリターン&ネットも見せる。 [[File:McEnroe John.jpg|right|thumb|John McEnroe, マドリード・マスターズ Senior 2007]] 肩または腰の故障から考え抜かれたとされるほとんど相手に背中を向けた極端なクローズドスタンスから放たれるサーブは強力で、特にアドバンテージコートから左利き特有のバックハンド・サイドに切れていくスライスサーブは、両手打ちバックハンドの為に比較的リーチの狭かったライバル・[[ビョルン・ボルグ]]との対戦時は大きな武器となった。ボルグとは対照的に、ガットをぎりぎりまで緩く張ったラケットから絶妙なタッチで繰り出されるボレーは変幻自在で、野獣(Animal)・[[ジミー・コナーズ|コナーズ]]、氷のボルグ(IceBorg : Iceberg(氷山)の変形)に対して、「芸術家(Artist)・マッケンロー」などと称された。 プレースタイル的にはネットプレーヤーであるが、ストロークも決して苦手ではなく、全盛期は各時代・最強のストローカーである[[ジミー・コナーズ]]、[[ビョルン・ボルグ]]、[[イワン・レンドル]]、[[マッツ・ビランデル]]を、ストロークの打ち合いで翻弄することも多かったため、オールラウンダーと評される場合もある。 彼のストロークの特徴をあらわすキーワードはライジングで、人によっては 『マッケンローのストロークはハーフボレーの延長だ』 などと評するほど、フォア・バックともにほとんどのストロークをバウンドの上がり際(=ライジング)で処理した。これは1970年代末期、ボルグの高く跳ね上がるトップスピンに対して、多くのネットプレーヤーがベースライン後方に押し下げられ、ネットプレーを封じられていたことに対抗するために生まれたと思われる。 ベースラインから下がらずに高い打点で処理することで、より早いタイミングで、しかも角度を付けて返球することが容易になるため、結果的に速い展開で相手を振り回すことが可能となる。相手側から見ると「ボール自体は速くないのに、すぐボールが返ってくる」「強打しても軽くかわされ、ちょっとでもストロークが浅くなると左右に振り回されて、気が付くとネットに出てきてボレーを決められる」という状態になる。 ボルグのマッケンロー評に『彼はコートのあらゆるところから、あらゆるスピンのボールを打つことができる』 とあるように、単純にボールの威力で相手を粉砕するのではなく、コート中に様々な球種を散らし、相手を翻弄して、最後はネットプレーで決めるのが彼のプレースタイルである。その意味では同じライジングでも、高い打点からエースを狙ってハードヒットする現代のライジング打法とは趣を異にする。 ネットプレーヤーとしては異例に、パッシングショットも得意とした。フォア・バックともにストレート・ショートクロスと自在に打ち分け、同じスタイルの相手と対戦する際には非常に有効であった。しかし、絶対的な体力に裏打ちされた粘りのストロークが要求されるクレーコートはやはり苦手とし、絶頂期の[[1984年]]でもあと一歩のところで[[1984年全仏オープン|全仏オープン]]のタイトルには届かなかった。 全体として、ネットプレー・ストロークともに、非常に攻撃的なプレーを行うが、決して勢いにまかせてエース狙いのハードヒットを繰り返すタイプではなかった。彼のトレードマークでもあった、審判の判定に激昂して悪態をつくような場面の後でさえも、プレー自体は頭脳的で、彼以前の“悪童”[[イリ・ナスターゼ]]([[ルーマニア]])やライバルの[[ジミー・コナーズ|コナーズ]]、彼の後に続いた[[ゴラン・イワニセビッチ]]([[クロアチア]])などのように、そのままプレーが乱れる場面は少なかった。 マッケンローはウッド(木製)ラケットとカーボン、グラスファイバー等、新世代の素材を用いたハイテク・ラケットとの交替時期に活躍した選手である。1歳年下のライバル・[[イワン・レンドル]]に7連敗を喫していた[[1983年]]初頭、それまでのウッドラケット「MAXPLY」から、カーボン製「MAX200G」にラケットを替えたことと相前後して、レンドルとの対戦成績も逆転し、その後の全盛期を迎えた。彼がこのラケット(DUNLOP MAX 200G)に切り替えたのは、弟の[[パトリック・マッケンロー]]に勧められたからだという。それ以後、現役を引退するまでこのラケットを使い続けた。 == 私生活 == マッケンローは、男優[[ライアン・オニール]]の娘で女優の[[テータム・オニール]]と1986年から1994年まで婚姻関係にあり、ケビン、ジーン、エミリの3人の子供がいる。二人の離婚後、当初は両親に共同親権が認められたが、1997年にマッケンローが単独親権を得た。 1997年にはロック歌手の[[パティ・スマイス]]と結婚し、アンナとアヴァの2人の娘をもうけた。 二人の住居は、ニューヨーク・マンハッタンの高級住宅街アッパー・ウエストサイドのデュプレにある。 == 記録 == ※オープン化以降 ;グランドスラム年間勝率「89.9%(62-7)」 :1984年に記録。 ;ウィンブルドン優勝「8」 :1979–1992 シングルス・ダブルス合計 ;ウィンブルドン1大会でのゲーム獲得率「68% (134–63)」 :1984年に記録。 ;全米オープン優勝「8」 :1979–1989 シングルス・ダブルス合計 ;WCTファイナル・Grand Prixタイトル獲得数「8」 ;WCTファイナル・Grand Prix決勝進出「12回」 :[[イワン・レンドル]]とタイ記録。 ;WCTファイナル・Grand Prix 1セットも落とさずに優勝「3回」 :[[イワン・レンドル]]とタイ記録。 ;WCTファイナル優勝「5」 ;WCTファイナル「2連覇」 ;WCTファイナル決勝進出「8回」 ;WCTファイナル連続決勝進出「6連続」 ;WCTツアー決勝「21勝」 ;マスターズGrand Prixダブルス優勝「7回」「7連覇」 :[[ピーター・フレミング]]とタイ記録。 ;タイトル獲得「148」 :1978–1992 シングルス・ダブルス合計 ;年間タイトル獲得数「27」 :1979年。シングルス・ダブルス合計 ;ダブルス年間優勝数「16」 :1979年 ;シングルス年間勝率「96.47% (82–3)」 :1984年 ;ウェンブリー選手権優勝「5」 ;連続タイトル獲得「8」 :1981–1982 ;カーペットコート勝利数「346」 :66連勝、勝率84.18% (346–64)も歴代1位 ;室内コート勝率「85.34% (419–72) 」 ;ダブルス世界ランキング1位「108週」 :1982年-1984年。歴代4位記録 ;シングルス・ダブルス同時に世界ランキング1位 :1984年。 ;シーズンの初めから42連勝 :1984年 ;1シーズンでのダブルスタイトル「14」 :1979年 == 4大大会優勝 == * [[全仏オープン]] 混合ダブルス:1勝(1977年) [男子シングルス準優勝1度:1984年] * [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] 男子シングルス:3勝(1981年、1983年&1984年)/男子ダブルス:5勝(1979年、1981年、1983年&1984年、1992年) [男子シングルス準優勝2度:1980年、1982年] * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] 男子シングルス:4勝(1979年-1981年、1984年)/男子ダブルス:4勝(1979年、1981年、1983年、1989年) [男子シングルス準優勝1度:1985年] {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #CCF;" | [[1979年]] || [[1979年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|United States}} [[ビタス・ゲルレイティス]] || 7-5, 6-3, 6-3 |-style="background: #CCF;" | [[1980年]] || [[1980年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|Sweden}} [[ビョルン・ボルグ]] || 7-6, 6-1, 6-7, 5-7, 6-4 |-style="background: #CF9;" | [[1981年]] || [[1981年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|Sweden}} [[ビョルン・ボルグ]] || 4-6, 7-6, 7-6, 6-4 |-style="background: #CCF;" | [[1981年]] || [[1981年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|Sweden}} [[ビョルン・ボルグ]] || 4-6, 6-2, 6-4, 6-3 |-style="background: #CF9;" | [[1983年]] || [[1983年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|New Zealand}} [[クリス・ルイス]] || 6-2, 6-2, 6-2 |-style="background: #CF9;" | [[1984年]] || [[1984年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{flagicon|United States}} [[ジミー・コナーズ]] || 6-1, 6-1, 6-2 |-style="background: #CCF;" | [[1984年]] || [[1984年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{flagicon|Czech Republic}} [[イワン・レンドル]] || 6-3, 6-4, 6-1 |- |} == 成績 == {{Performance key}} === 4大大会シングルス === {| class="wikitable" ! 大会 !! colspan="2"|1977 !! 1978 !! 1979 !! 1980 !! 1981 !! 1982 !! 1983 !! 1984 !! 1985 !! 1986 !! 1987 !! 1988 !! 1989 !! 1990 !! 1991 !! 1992 !! 通算成績 |- |style="text-align: left; background-color: #efefef;"| [[全豪オープン]] | style="text-align:center;"|A | style="text-align:center;"|A |align="center"|A |align="center"|A |align="center"|A |align="center"|A |align="center"|A |style="text-align:center; background:yellow;"|[[1983年全豪オープン|SF]] |align="center"|A | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1985年全豪オープン|QF]] | style="text-align: center;"|- |align="center"|A |align="center"|A | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1989年全豪オープン|QF]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1990年全豪オープン|4R]] |align="center"|A | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1992年全豪オープン|QF]] | style="text-align: center; background-color: #efefef;"|18–5 |- |style="text-align: left; background-color: #efefef;"| [[全仏オープン]] |colspan="2" style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1977年全仏オープン|2R]] |align="center"|A |align="center"|A | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1980年全仏オープン|3R]] | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1981年全仏オープン|QF]] |align="center"|A | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1983年全仏オープン|QF]] |style="text-align: center; background-color: thistle;"|[[1984年全仏オープン|F]] |style="text-align:center; background:yellow;"|[[1985年全仏オープン|SF]] |align="center"|A | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1987年全仏オープン|1R]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1988年全仏オープン|4R]] |align="center"|A |align="center"|A | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1991年全仏オープン|1R]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1992年全仏オープン|1R]] | style="text-align: center; background-color: #efefef;"|25–10 |- |style="text-align: left; background-color: #efefef;"| [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] |colspan="2" style="text-align: center; background-color: yellow;"|[[1977年ウィンブルドン選手権|SF]] | style="text-align: 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background:yellow;"|[[1992年ウィンブルドン選手権|SF]] | style="text-align: center; background-color: #efefef;"|59–11 |- |style="text-align: left; background-color: #efefef;"| [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1977年全米オープン (テニス)|4R]] |style="text-align:center; background:yellow;"|[[1978年全米オープン (テニス)|SF]] | style="text-align: center; background-color: lime;"|[[1979年全米オープン (テニス)|'''W''']] | style="text-align: center; background-color: lime;"|[[1980年全米オープン (テニス)|'''W''']] | style="text-align: center; background-color: lime;"|[[1981年全米オープン (テニス)|'''W''']] |style="text-align:center; background:yellow;"|[[1982年全米オープン (テニス)|SF]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1983年全米オープン (テニス)|4R]] | style="text-align: center; background-color: lime;"|[[1984年全米オープン (テニス)|'''W''']] |style="text-align: center; background-color: thistle;"|[[1985年全米オープン (テニス)|F]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1986年全米オープン (テニス)|1R]] | style="text-align:center; background:#ffebcd;"|[[1987年全米オープン (テニス)|QF]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1988年全米オープン (テニス)|2R]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1989年全米オープン (テニス)|2R]] |style="text-align:center; background:yellow;"|[[1990年全米オープン (テニス)|SF]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1991年全米オープン (テニス)|3R]] | style="text-align: center; background-color: #afeeee;"|[[1992年全米オープン (テニス)|4R]] | style="text-align: center; background-color: #efefef;"|65–12 |- |} ※1979年全米3回戦の不戦勝は通算成績に含めない === 年間最終戦 === {|class="wikitable" !大会!!1977!!1978!!1979!!1980!!1981!!1982!!1983!!1984!!1985!!1986!!1987!!1988!!1989!!1990!!1991!!1992!!通算成績 |- |bgcolor=#efefef align=left|[[テニス・マスターズ・カップ|マスターズカップ]] | |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=yellow|SF |bgcolor=#afeeee|RR |bgcolor=yellow|SF |bgcolor=thistle|F |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=#afeeee|1R | | | |bgcolor=yellow|SF | | | |19–11 |- |bgcolor=#efefef align=left|WCT Finals | | |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=thistle|F |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=thistle|F |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=lime|'''W |bgcolor=#ffebcd|QF | |bgcolor=thistle|F | |bgcolor=lime|'''W | | | |21–4 |} === 世界ランキング === {|class="wikitable" !-!!1977!!1978!!1979!!1980!!1981!!1982!!1983!!1984!!1985!!1986!!1987!!1988!!1989!!1990!!1991!!1992 |- |最終ランキング |21 |bgcolor=#eee8AA|4 |bgcolor=99ccff|'''3 |bgcolor=#D8BFD8|'''2 |bgcolor=lime|'''1 |bgcolor=lime|'''1 |bgcolor=lime|'''1 |bgcolor=lime|'''1 |bgcolor=#D8BFD8|'''2 |14 |bgcolor=#eee8AA|10 |11 |bgcolor=#eee8AA|4 |13 |28 |20 |} === 4大大会ダブルス === {|class="wikitable" !大会!!1974!!1975!!1976!!1977!!1978!!1979!!1980!!1981!!1982!!1983!!1984!!1985!!1986!!1987!!1988!!1989!!1990!!1991!!1992 |- |align=left|[[全豪オープン]] |A |A |A |A |A |A |A |A |A |bgcolor=#afeeee|2R |A |A |NH |A |A |bgcolor=yellow|SF |A |A |A |- |align=left|[[全仏オープン]] |A |A |A |bgcolor=#afeeee|2R |A |A |A |A |A |A |A |A |A |A |A |A |A |A |bgcolor=#ffebcd|QF |- 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ビョルン・ボルグ<br />{{flagicon|SWE}} ビョルン・ボルグ<br />{{flagicon|USA}} [[ジミー・コナーズ]]<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|TCH}} イワン・レンドル<br />{{flagicon|TCH}} イワン・レンドル<br />{{flagicon|TCH}} イワン・レンドル<br />{{flagicon|TCH}} イワン・レンドル<br />{{flagicon|TCH}} イワン・レンドル }} {{s-ttl|title = 世界ランキング1位|years = 1980年3月3日 – 1980年3月23日<br />1980年8月11日 – 1980年8月17日<br />1981年7月6日 – 1981年7月19日<br />1981年8月3日 – 1982年9月12日<br />1982年11月1日 – 1982年11月7日<br />1982年11月15日 – 1983年1月30日<br />1983年2月7日 – 1983年2月13日<br />1983年6月6日 – 1983年6月12日<br />1983年6月4日 – 1983年10月30日<br />1983年12月12日 – 1984年1月8日<br />1984年3月12日 – 1984年6月10日<br />1984年6月18日 – 1984年7月8日<br />1984年8月13日 – 1984年8月18日<br />1985年8月26日 – 1985年9月8日 }} {{s-aft|after = {{flagicon|SWE}} ビョルン・ボルグ<br />{{flagicon|SWE}} ビョルン・ボルグ<br />{{flagicon|SWE}} ビョルン・ボルグ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br />{{flagicon|USA}} ジミー・コナーズ<br 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ステファン・エドベリ
ステファン・エドベリ(Stefan Edberg スウェーデン語発音: [ˈsteːfan ˈeːd.ˈbɛrj], 1966年1月19日 - )は、スウェーデンのベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「エドバーグ」となっている。端正な容姿から「グラスの貴公子」と呼ばれた。 エドベリは、ビョルン・ボルグやマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例のサーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。エドベリはATPツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。 エドベリは1983年度の4大大会男子ジュニアシングルス部門をすべて制し、ジュニア選手として初めて「年間グランドスラム」を達成した。この記録を残したのは2012年現在、男女ジュニア含めてエドベリただ一人である(キャリアグランドスラムまで対象を広げても達成者は居ない)。同年にプロ転向。18歳の時に、1984年ロサンゼルス五輪の「公開競技」で優勝を果たした。これは、テニスがオリンピック種目に復活する前に21歳以下の選手を対象として行われたものである(同競技の女子では15歳のシュテフィ・グラフが優勝した)。1985年の全豪オープンで同じスウェーデンのマッツ・ビランデルを決勝で破り、4大大会初優勝を達成。1987年の全豪オープン決勝では地元オーストラリアのパット・キャッシュを破り、大会2連覇を果たす。 1988年のウィンブルドンにて、決勝でボリス・ベッカーを破って初優勝を達成。この決勝戦は試合途中の降雨のため、大会最終日の日曜日に終わらず、翌日の月曜日までもつれる異例の展開だった。この年は同国のマッツ・ビランデルがウィンブルドン以外の4大大会3冠を獲得したため、事実上スウェーデン勢が男子の4大大会シングルス・タイトルを独占したことになる。エドベリとベッカーの二人は、1988年 - 1990年の3年連続でウィンブルドン決勝を戦った。1989年はベッカーが勝利を収めている。 1988年のソウル五輪から、テニスはオリンピック競技として正式に復活する。エドベリはソウル五輪にも出場したが、男子シングルスでは準決勝で“スウェーデン・キラー”と呼ばれたミロスラフ・メチージュ(チェコスロバキア代表)に敗れ、アンダース・ヤリードと組んだ男子ダブルスでも準決勝で敗退した。このソウル五輪では、準決勝敗退選手2名(ダブルスは2組)による「銅メダル決定戦」は行わず、両方に銅メダルが授与された。 エドベリは全米オープンでも、1991年と1992年に大会2連覇を達成している。最後の4大大会優勝となった1992年全米オープン決勝では、後に4大大会優勝の男子歴代1位記録保持者となったピート・サンプラスに快勝した。サンプラスは4大大会決勝で14勝4敗の高勝率(78%)を残したが、数少ない準優勝の1つがエドベリ戦の敗北だった。 エドベリは全豪オープン・ウィンブルドン・全米オープンの男子シングルスに2度ずつ優勝を飾った。全仏オープンのみ優勝できず、1989年の大会で当時17歳のマイケル・チャンに敗れた準優勝が自己最高成績である。またエドベリはダブルスの分野でも、1987年に同じスウェーデンのアンダース・ヤリードと組んで全豪オープン・全米オープンの男子ダブルス年間2冠を獲得した。現役最後の年となった1996年には、全豪オープン男子ダブルスでペトル・コルダ(チェコ)と組んで9年ぶり2度目の優勝を挙げた。これでエドベリの4大大会優勝は、男子シングルス6勝・男子ダブルス3勝となった。エドベリは1996年に30歳で現役を引退し、2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした。 エドベリはそのフェアプレーぶりでも有名で、1988年・1989年・1990年・1992年・1995年の5回にわたりATPのスポーツマンシップ賞を受賞している。そのエドベリの功績を称え、ATPのスポーツマンシップ賞が、1996年に“Stefan Edberg Sportsmanship Award”と名づけられた。 また2008年からはアウトバック・チャンピオンズ・シリーズ、ブラックロック・マスターズ・テニス等のシニアツアーへの参戦を開始、世界各地で往年の名選手達と試合を行い、ファンを湧かせている。そして2014年から2015年まで、ロジャー・フェデラーのコーチを務めた。 W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.
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ステファン・エドベリは、スウェーデンのベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「エドバーグ」となっている。端正な容姿から「グラスの貴公子」と呼ばれた。 エドベリは、ビョルン・ボルグやマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例のサーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。エドベリはATPツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。
{{表記揺れ案内|表記1=ステファン・エドバーグ}} {{テニス選手 |選手名(日本語)=ステファン・エドベリ |写真=Stefan Edberg Båstad sweden 20070708.jpg |写真サイズ=230px |写真のコメント=ステファン・エドベリ |選手名(英語)=Stefan Edberg |フルネーム(英語名)=Stefan Bengt Edberg |愛称= |国籍={{SWE}} |出身地=同・ベステルビーク |居住地= |誕生日={{生年月日と年齢|1966|1|19}} |没年日= |身長=188cm |体重=77kg |利き手=右 |バックハンド=片手打ち |殿堂入り=2004年 |デビュー年=1983年 |引退年=1996年 |ツアー通算=59勝 |シングルス=41勝 |ダブルス=18勝 |生涯通算成績=1084勝423敗 |シングルス通算=801勝270敗 |ダブルス通算=283勝153敗 |生涯獲得賞金=$20,630,941 |全豪オープン=優勝(1985・87) |全仏オープン=準優勝(1989) |ウィンブルドン=優勝(1988・90) |全米オープン=優勝(1991・92) |優勝回数=6(豪2・英2・米2) |全豪オープンダブルス=優勝(1987・96) |全仏オープンダブルス=準優勝(1986) |ウィンブルドンダブルス=ベスト4(1987) |全米オープンダブルス=優勝(1987) |ダブルス優勝回数=3(豪2・米1) | デビスカップ = 優勝(1984・85・87・94) |シングルス最高=1位(1990年8月13日) |ダブルス最高=1位(1986年6月9日) | medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[テニス]]}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]}} {{MedalBronze|[[1988年ソウルオリンピック|1988 ソウル]]|シングルス}} {{MedalBronze|1988 ソウル|ダブルス}} }} '''ステファン・エドベリ'''('''Stefan Edberg''' {{IPA-sv|ˈsteːfan ˈeːd.ˈbɛrj}}, [[1966年]][[1月19日]] - )は、[[スウェーデン]]のベステルビーク出身の元男子プロ[[テニス]]選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「'''エドバーグ'''」となっている<ref>外国選手の名前は一般的には[[共同通信社]]が現地読みで統一することになっているが、それについては専門誌が早い段階で「エドバーグ」と報じていた後に、新聞が「エドベリ」と報じるようになったため、通信社の記者がエドベリのもとを訪れて質問したところ、エドベリは「エドバーグ」と呼んでほしいと話していたという。([[武田薫]]『サーブ&ボレーはなぜ消えたのか テニスに見る時代の欲望』p33-34、[[ベースボール・マガジン社]]新書、2007年)</ref>。端正な容姿から「グラスの貴公子」と呼ばれた。 エドベリは、[[ビョルン・ボルグ]]や[[マッツ・ビランデル]]のような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例のサーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。エドベリは[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。 == 来歴 == エドベリは[[1983年]]度の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]男子ジュニアシングルス部門をすべて制し、ジュニア選手として初めて「年間グランドスラム」を達成した。この記録を残したのは2012年現在、男女ジュニア含めてエドベリただ一人である(キャリアグランドスラムまで対象を広げても達成者は居ない)。同年にプロ転向。18歳の時に、[[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年ロサンゼルス五輪]]の「[[オリンピック公開競技|公開競技]]」で優勝を果たした。これは、テニスがオリンピック種目に復活する前に21歳以下の選手を対象として行われたものである(同競技の女子では15歳の[[シュテフィ・グラフ]]が優勝した)。[[1985年]]の[[1985年全豪オープン|全豪オープン]]で同じスウェーデンの[[マッツ・ビランデル]]を決勝で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を達成。[[1987年]]の[[1987年全豪オープン|全豪オープン]]決勝では地元[[オーストラリア]]の[[パット・キャッシュ]]を破り、大会2連覇を果たす<ref>この大会は会場の移転に伴って、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更があった。従って、「1986年全豪オープン」は“開催せず”となっているため、エドベリは大会2連覇を成し遂げた。</ref>。 [[1988年]]の[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]にて、決勝で[[ボリス・ベッカー]]を破って初優勝を達成。この決勝戦は試合途中の降雨のため、大会最終日の日曜日に終わらず、翌日の月曜日までもつれる異例の展開だった。この年は同国の[[マッツ・ビランデル]]がウィンブルドン以外の4大大会3冠を獲得したため、事実上[[スウェーデン]]勢が男子の4大大会シングルス・タイトルを独占したことになる。エドベリとベッカーの二人は、[[1988年ウィンブルドン選手権|1988年]] - [[1990年ウィンブルドン選手権|1990年]]の3年連続でウィンブルドン決勝を戦った。[[1989年ウィンブルドン選手権|1989年]]はベッカーが勝利を収めている。 [[1988年]]の[[1988年ソウルオリンピックのテニス競技|ソウル五輪]]から、テニスはオリンピック競技として正式に復活する。エドベリはソウル五輪にも出場したが、男子シングルスでは準決勝で“スウェーデン・キラー”と呼ばれた[[ミロスラフ・メチージュ]]([[チェコスロバキア]]代表)に敗れ、[[アンダース・ヤリード]]と組んだ男子ダブルスでも準決勝で敗退した。このソウル五輪では、準決勝敗退選手2名(ダブルスは2組)による「銅メダル決定戦」は行わず、両方に銅メダルが授与された。 エドベリは[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]でも、[[1991年全米オープン (テニス)|1991年]]と[[1992年全米オープン (テニス)|1992年]]に大会2連覇を達成している。最後の4大大会優勝となった[[1992年全米オープン 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[準優勝3度:1990年、1992年、1993年] * [[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]:1988年、1990年 [準優勝1度:1989年] * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]:1991年、1992年 : ([[全仏オープン]]準優勝1度:1989年) {| class="wikitable" |- !年!!大会!!対戦相手!!試合結果 |-style="background: #FD5" | [[1985年]] || [[1985年全豪オープン|全豪オープン]] || {{Flagicon|SWE}} [[マッツ・ビランデル]] || 6-4, 6-3, 6-3 |-style="background: #FD5" | [[1987年]] || [[1987年全豪オープン|全豪オープン]] || {{Flagicon|AUS}} [[パット・キャッシュ]] || 6-3, 6-4, 3-6, 5-7, 6-3 |-style="background: #CF9;" | [[1988年]] || [[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{Flagicon|GER}} [[ボリス・ベッカー]] || 4-6, 7-6, 6-4, 6-2 |-style="background: #CF9;" | [[1990年]] || [[1990年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]] || {{Flagicon|GER}} [[ボリス・ベッカー]] || 6-2, 6-2, 3-6, 3-6, 6-4 |-style="background: #CCF;" | [[1991年]] || [[1991年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{Flagicon|USA}} [[ジム・クーリエ]] || 6-2, 6-4, 6-0 |-style="background: #CCF;" | [[1992年]] || [[1992年全米オープン (テニス)|全米オープン]] || {{Flagicon|USA}} [[ピート・サンプラス]] || 3-6, 6-4, 7-6, 6-2 |- |} == 4大大会成績 == {{Performance key}} {|class=wikitable 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テニス
テニス(英: tennis、中: 網球)またはローンテニス(英: lawn tennis)は、二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の庭球(ていきゅう)と呼ばれることもある。 後述の「ジュ・ド・ポーム」のことを「テニス」という場合がある(この場合は本稿のことを「ローンテニス」と呼ぶ)。 複数の人間が1つの球を互いに打ち合うという形式の球技の起源は、紀元前にまで遡ることが出来る。エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。 フランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降には「jeu de paume」(ジュ・ド・ポーム、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。 フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(後ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことから始まったと言われている(「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された12世紀ごろ以降からとされる)。 「テニス」の名称はフランス宮廷で行われたテニスの原型であるジュ・ド・ポム (Jeu de Paume) において、攻守交代の際にサーバーが「トゥネス!」(仏: Tenez!、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意、現代フランス語では「トゥネ」と発音する)と掛け声をしていたことにちなむと一般的に言われる。アラビア史研究の権威フィリップ・K・ヒッティ(Philip Khuri Hitti)は、中世にリンネル織物で有名だったエジプトのデルタ地方の都市で、リンネルで球を作ったと思われる「ティンニース」からきているのだろうと述べている。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達した。 18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス(Royal Tennis、「王家のテニス」の意)、アメリカではコート・テニス(Court Tennis、「宮廷のテニス」の意)とも呼ばれている。 手袋を使うこともある。Jeu de paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。 現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、ギリシア語: σφαιριστική、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール(ソフトテニスボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。1874年、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。 1877年、イギリスのロンドンでアマチュアの大会としては第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。アメリカでは1881年に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の全米テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップがナショナルチームの間で始まった。 試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。 試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、1ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアにバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手の得点)となる。 スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。 2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、...となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。 タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。4大大会の全仏オープンでは最終セットでタイブレークを採用しておらず、2ゲーム差が付くまでセットが続行される。かつてはオリンピック、デビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している。2019年、全豪オープンとウィンブルドン選手権で最終セットのタイブレークが導入された。 2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。 このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。 2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。 同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。 2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。 なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。 公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。 また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。 テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。 四大大会を1年間で全て優勝することを年間グランドスラム(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも))と呼ばれる。 これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた。 グラフの後に達成した選手は、2008年に車いすテニス界において日本人プレーヤーの国枝慎吾が成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。 諸説あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介説が広く流布されているがこれも確たる証拠はないとされ、いまだ詳らかではない。 このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。 軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。 1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。 日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 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終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。 1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。 1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。 しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。 女子では、1975年(昭和50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。そして2018年には、ハイチ出身の男性を父に持つ大坂なおみが全米オープンに優勝、さらに2019年の全豪オープンも制してアジア人として初めてシングルスの世界ランキング1位となり、2020年には再び全米オープンに優勝した。大坂は二重国籍であったが、22歳を前にして日本国籍を選択、選手登録も日本協会である。 前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、ゴム製の手毬(玩具として輸入されていて容易に入手できた)を代用ボールとして使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがあるが、1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。
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paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、ギリシア語: σφαιριστική、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール(ソフトテニスボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。1874年、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1877年、イギリスのロンドンでアマチュアの大会としては第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。アメリカでは1881年に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の全米テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップがナショナルチームの間で始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、1ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアにバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手の得点)となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、...となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。4大大会の全仏オープンでは最終セットでタイブレークを採用しておらず、2ゲーム差が付くまでセットが続行される。かつてはオリンピック、デビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している。2019年、全豪オープンとウィンブルドン選手権で最終セットのタイブレークが導入された。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。", "title": "服装" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。", "title": "服装" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。", "title": "服装" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "四大大会を1年間で全て優勝することを年間グランドスラム(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも))と呼ばれる。", "title": "四大大会" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。1988年に当時19歳のシュテフィ・グラフが達成し、この言葉が作られた。", "title": "四大大会" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "グラフの後に達成した選手は、2008年に車いすテニス界において日本人プレーヤーの国枝慎吾が成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。", "title": "四大大会" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "諸説あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介説が広く流布されているがこれも確たる証拠はないとされ、いまだ詳らかではない。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった坪井玄道が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年(昭和9年)4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年(昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年(昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし、1937年に勃発した日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "女子では、1975年(昭和50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝した。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。そして2018年には、ハイチ出身の男性を父に持つ大坂なおみが全米オープンに優勝、さらに2019年の全豪オープンも制してアジア人として初めてシングルスの世界ランキング1位となり、2020年には再び全米オープンに優勝した。大坂は二重国籍であったが、22歳を前にして日本国籍を選択、選手登録も日本協会である。", "title": "日本" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、ゴム製の手毬(玩具として輸入されていて容易に入手できた)を代用ボールとして使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがあるが、1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。", "title": "ソフトテニス" } ]
テニスまたはローンテニスは、二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の庭球(ていきゅう)と呼ばれることもある。 後述の「ジュ・ド・ポーム」のことを「テニス」という場合がある(この場合は本稿のことを「ローンテニス」と呼ぶ)。
{{otheruses||[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]や[[ゲームボーイ]]の[[ゲームソフト]]|テニス (任天堂)}} {{出典の明記|date=2011年10月}} {{スポーツ | 画像 = [[ファイル:US_Open_2007,_Maria_Sharapova_serving.jpg|300px]] | 見出し = [[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]トーナメントの一つ[[全米オープン (テニス)|全米オープン]] | 競技統括団体 = [[国際テニス連盟]] | 通称 = 庭球 | 起源 = [[19世紀]] | 競技登録者 = | クラブ = | 身体接触 = 無 | 選手 = 2人または4人 | 男女 = 有 | カテゴリ = 屋外競技 | ボール = | オリンピック = [[1896年]]-[[1924年]]、[[1988年]]- }} '''テニス'''({{lang-en-short|tennis}}、{{Lang-zh-short|網球}})または'''ローンテニス'''({{lang-en-short|lawn tennis}})は、二人または二組のプレイヤーが[[網|ネット]]越しに[[テニスラケット|ラケット]]で[[テニスボール|ボール]]を打ち合う[[球技]]。[[夏季オリンピック|オリンピック]]や[[パラリンピック]]で採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の'''庭球'''(ていきゅう)と呼ばれることもある。 後述の「ジュ・ド・ポーム」のことを「テニス」という場合がある(この場合は本稿のことを「ローンテニス」と呼ぶ)。 == 歴史 == [[ファイル:Jeu de paume.jpg|thumb|200px|後のテニスになる「jeu de paume」]] 複数の人間が1つの[[ボール|球]]を互いに打ち合うという形式の球技の起源は、[[紀元前]]にまで遡ることが出来る。[[エジプト]]では宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。 フランス貴族の遊戯として定着をはじめた[[16世紀]]以降には「jeu de paume」('''[[ジュ・ド・ポーム]]'''、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。 フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していた[[イスラム教徒]]([[後ウマイヤ朝]])が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶<!-- ←聖職者というべきか? -->が興味を持ち模倣したことから始まったと言われている(「ラケット」の語源が[[アラビア語]]であることに注意されたい。フランスの僧院<!-- ←修道院というべきか? -->で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された[[12世紀]]ごろ以降からとされる)。 「テニス」の名称はフランス宮廷で行われたテニスの原型であるジュ・ド・ポム (Jeu de Paume) において、攻守交代の際にサーバーが「トゥネス!」({{lang-fr-short|''Tenez!''}}、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意、現代フランス語では「トゥネ」と発音する)と掛け声をしていたことにちなむと一般的に言われる。アラビア史研究の権威フィリップ・K・ヒッティ([[:en:Philip Khuri Hitti|Philip Khuri Hitti]])は、中世にリンネル織物で有名だったエジプトのデルタ地方の都市で、リンネルで球を作ったと思われる「ティンニース」からきているのだろうと述べている<ref>フィリップ・K.ヒッティ (著), 岩永 博 (翻訳) 『アラブの歴史 (上)』 講談社学術文庫、1982年 p687</ref>。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、[[バスク・ペロタ|ペロタ]] (Pelota) などの[[ハンドボール]]から発達した。 [[18世紀]]から[[19世紀]]にかけて[[ヨーロッパ]]の貴族の間で大流行し、多くの[[テニスコート|コート]]が建造されたが、現存するものは少ない。[[イギリス]]では復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス(Royal Tennis、「王家のテニス」の意)、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ではコート・テニス(Court Tennis、「宮廷のテニス」の意)とも呼ばれている。 手袋を使うこともある。Jeu de paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。[[14世紀]]には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだ[[カットグット|ガット]]は張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。 現代の多くの[[スポーツ]]とは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。[[1873年]][[12月]]、[[ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド]]少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、{{lang-el|σφαιριστική}}、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール([[ソフトテニス]]ボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。[[1874年]]、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、[[メアリー・ユーイング・アウターブリッジ]]の家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。 [[1877年]]、イギリスの[[ロンドン]]でアマチュアの大会としては第1回目の[[ウィンブルドン選手権]]が開催された。アメリカでは[[1881年]]に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の[[全米テニス協会]])が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・[[ロードアイランド州]][[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]]で開催され、[[1887年]]には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]の原型である。[[1900年]]には男子国別対抗戦である[[デビスカップ]]がナショナルチームの間で始まった。<!-- 英語版にはもう少し続きがあります。 --> == ルール == 試合形式としては、1人対1人で行う'''シングルス'''と2人対2人で行う'''ダブルス'''、混合ダブルスがある。 試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーが'''サーバー'''、他方が'''レシーバー'''となり、1ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアにバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手の得点)となる。 * サーブを2回続けてフォールト(ダブルフォルト)したとき * サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき * 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき(2回目のバウンドはコート外や設備などでも構わない) * 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる) * 自分のコートに落ちたボールがバウンドしなかったとき * 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外(アウト)だったとき * 打ったボールが審判に命中したとき * ラケット以外の部位がボールに触れたとき * 相手コート内でボールに触れたとき * 体やラケットがプレー中にネットに触れたとき * ラケット以外の持ち物をコート上に2回落としたとき スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「[[デュース]]」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。 2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによっては[[タイブレーク]] (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。 {{要出典範囲|タイブレークは[[1965年]]にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、[[1971年]]に[[ウィンブルドン選手権]]において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、[[1979年]]に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の[[全仏オープン]]では最終セットでタイブレークを採用しておらず、2ゲーム差が付くまでセットが続行される|date=2021-7}}。かつては[[オリンピックのテニス競技|オリンピック]]、[[デビスカップ]]、[[フェドカップ]]でも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/201807140000182.html 死闘戦った両者が最終セットタイブレークなしを非難]日刊スポーツ(2018年7月14日)</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3061302 デビスカップ、16年から第5セットのタイブレーク採用へ]AFPBB(2015年9月26日) 2018年7月14日閲覧</ref>。2019年、[[全豪オープン]]とウィンブルドン選手権で最終セットのタイブレークが導入された<ref group="注釈">全豪オープンは10ポイント先取のタイブレーク。ウィンブルドン選手権はゲームカウントが12-12となった場合に7点先取のタイブレークとなる。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3194005|title=ウィンブルドン、来年から最終セットのタイブレーク制導入|website=afpbb.com|access-date=2019-12-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3203716|title=全豪オープン、19年から最終セットにタイブレーク制導入|website=afpbb.com|access-date=2019-12-08}}</ref>。 [[2005年]]秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、[[#ルール_2|ノーアドバンテージ]]、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。 このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月の[[ジャパン・オープン・テニス選手権|AIGジャパンオープンテニス]]では、日本の[[岩渕聡]]、[[鈴木貴男]]組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。 [[2006年]]の[[ソニー・エリクソン・オープン|ナスダック100オープン]]において、条件つきで判定に異議を唱えられる「[[ビデオ判定#プロテニス|インスタントリプレイシステム]]」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「[[ホークアイ (審判補助システム)|ホークアイ]]」という[[コンピューターグラフィックス]]を用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。 同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。[[2007年]]には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に[[東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント]]において、2010年に[[ジャパン・オープン・テニス選手権]]においてそれぞれ初めて使用された。<!--2011年11月1日[[ホークアイ (審判補助システム)]]より一部コピー--> [[2011年]]のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。 * タイブレークになった場合は、その時のチャレンジの残り回数に1回追加される。すなわち、そのセットでのチャレンジ失敗 (incorrect challenges) の限度が3回だったものが4回に増える。<!--If a set goes to a tiebreak, this limit of incorrect challenges is increased from three to four for the set.--> * 最終セットにおけるチャレンジ失敗の回数の限度は、12ゲームごとに3回にリセットされる。すなわち、 ** ゲームカウントが6-6となった場合は、回数はリセットされ、続く12ゲームの間は3回までとなる。 ** チャレンジの回数は繰り越されず、12ゲームごとに回数がリセットされる。 * 線審がポイント終了時に視界をさえぎられ判定ができなかった場合、主審はインスタント・リプレイを要求してもよい。<!--The Chair Umpire may request an Electronic Review when the Line Umpire was unsighted on a point-ending shot and he/she is unable to make a decision.--> * インスタント・リプレイが何らかの理由で利用できない場合は、元の線審の判定あるいは主審のオーバールールが有効となる<!--If the Electronic Review is unavailable for any reason, then the original line call or overrule will stand.--><ref>[http://2011.wimbledon.com/en_GB/scores/challenge/index.html 「Player Challenge System」](英語)『2011 Wimbledon Championships Website - Official Site by IBM』 [[IBM|IBM Corp.]]、[[オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ|AELTC]]、2011年10月31日閲覧。</ref>。 なお、チャレンジシステムは[[テニスコート#クレーコート (clay court)|クレーコート]]の試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。 == 用具 == [[ファイル:Tennis racket and ball.JPG|thumb|[[テニスラケット]]とボール|100px]] ; ラケット :{{Seealso|テニスラケット|en:Overgrip}} : 棒状のグリップの先が輪になっており、そこに糸状のもの(ストリングスやガットと呼ばれる)が縦横に張られ、この面でボールを打つ道具。材質は、当初は[[木材|木]]を加工していたが、その後、[[鋼|スチール]]、[[アルミニウム|アルミ]]、などの単一素材が使われ進化して行き、近年は[[繊維強化プラスチック]] ([[FRP]])、[[チタン]]などを用いた[[複合材料]]のものが主流となっている。長さ69センチ前後、重さは240〜380グラム程度。 ; ボール : 黄色、表面は[[メルトン]]と呼ばれる[[フェルト]]で覆われている。直径6.35〜6.67センチメートル、重さ56.7〜58.5グラム。保管している缶に1.8気圧が保たれるようになっておりプレッシャー・ボールと呼ばれる。公式球の表面は白のメルトンであったこともある。 : 大気圧のノンプレッシャー・ボールという練習球もあるが公式戦では使用できない。 ; コート {{Seealso|テニスコート|en:Tennis_court}}[[ファイル:Tennis court metric.svg|thumb|[[テニスコート]]の大きさ|100x205px]] : 床面の材質(サーフェス)は天然芝(グラス)、土(真砂土・荒木田土・粘土砂混合土。クレイ)、焼成土([[アンツーカ]])、塗装したコンクリート(ハード)、ウレタン樹脂またはゴム(ウレタン)、砂入り[[人工芝]](グラスサンド)など。縦23.77メートル(78[[フィート]])、横はシングルスでは8.23メートル(27フィート)、ダブルスでは10.97メートル(36フィート)である。 : 床材の専用の製品も普及しており、英国ではグラス(芝生)、北米ではデコ・ターフ、オセアニアではリバウンド・エースという製品が普及している。 : コート上のラインには合成樹脂製のラインテープをラインの線に打ちつけて表示する。 ; ネット : 中央の高さが91.4センチメートル(3フィート、あるいは1[[ヤード]])、またシングルス、ダブルスのコートそれぞれで、ネットポストでの高さが1.07メートル(3フィート6[[インチ]])である。 : ネットポスト(テニスポスト)はコートに予め設置されている埋筒に差し込むか、専用のアンカーで固定して用いられる。そして、ネットのコードをネットポストのウインチ部分に引っ掛け、ハンドルを回して巻き取りながらネットを張るようになっている。 ; シングルス・スティックス (singles sticks) : シングルスの試合において、ネットポストがダブルス用に設置されている状態で、シングルス用の本来のネットポストの位置に立て、ネットを既定の高さに修正する用具。 == 服装 == {{節スタブ}} 公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者の[[モード・ワトソン]]が上下のウェアを白で統一していたことに由来する。 また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。 テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。 == テニス用語 == {{Main|:en:Glossary of tennis terms}} ; テニス (tennis) : 「(球を落とさないように)取ってみろ」という意味の「Tenez!」<!--; z は発音せず もともとは発音していた?-->に由来する。これはロイヤルテニスにおけるサーバー側のプレイヤーの掛け声である。 ; [[チャンスボール]] : 試合中に緩いボールがあがったり、打ちやすく自分にとって有利なボール。 ; [[ボールパーソン]] (ball person; ball boy, ball girl) : 試合中に、ラリーが終了した後のボールを拾ったり、選手にボールを渡したり、ルールに沿って新しいボールに変えたりする人。多くの場合、正式な訓練を受けた子供たちが行う。タオルや、落としたラケットを渡すこともある。 === 用具 === ; ラケット (racquet, racket) : フランス語の「raquette」からきているが、この言葉は「掌」という意味の[[アラビア語]]ラーハ({{lang|ar|راحة}} ({{unicode|rāḥat}}))に由来する。 ; ガット (gut) : ラケットに張る弦。正式にはストリングス (strings) という。ガットは「[[腸]]」を意味する。素材は[[カットグット|ナチュラルガット]](動物の腸)の他、ナイロンやポリエステル等がある。太さは、主に1.10〜1.42mm (15〜18)。 ; テンション (tension) : ガット(ストリングス)をラケットに張る強さ。強さの単位には通常ポンド (pounds, lbs, LBS) が使われる。ガットやラケットは、それぞれ適正張力が推奨されている場合が多く、45〜60ポンドである場合が多い。張り上がりが強いほど硬くなり、コントロール性が良くなる。また弱いとボールスピードが上がる。 ; 振動止め : ゴム状の素材でできており、ラケット全体の振動を軽減させる目的でストリングスの一部に装着して利用する。利用するかどうかは利用者の判断で選択できるが、装着できる位置などに関してルールで定められている。実際には音をミュートするだけで、腕に伝わる衝撃はほとんど変化しない。ただ音による打感の違いは重要でテクニックに少なからず影響する。 ; オーバーグリップ (overgrip, overwrap) : グリップに巻いて利用するテープ。グリップには元々ラバーや合皮等が巻いてある(アンダーグリップ)が、摩擦感や吸汗性などに難点があり、耐久性も低い為、そのまま使用するプレーヤーは少ない。様々な材質(主に、ウレタン、タオル素材)が存在する。 ; ノン・プレッシャライズド・ボール (non-pressurized ball, pressureless ball) : 一般にノンプレッシャーボールと呼ばれる。ボール内の空気圧を外気圧と同じ程度にして作られているため、空気がほぼ抜けないボール。プレッシャライズド・ボールよりも空気圧が低い分、ボールの素材で反発力を補っている。空気抜けの問題はないため、販売時に缶などで高圧で密封する必要はない。 ; ストリング・セーバー(string savers [複数]) : ストリングスが摩耗したり早く切れることを防ぐ目的で、ストリングスが交差する箇所に装着する小さい[[プラスチック]]の用具。 === ルール === ; デュース (deuce) : <!--「両プレイヤーは同点」 (to both is the game、the two players have equal scores) を意味するフランス語の表現、「à deux le jeu」に由来する。-->現在、フランス語では平等・同点を意味するエガリテ ({{lang|fr|égalité}}) が用いられる。 ; ラブ (love) : 無得点をさす。アラビア数字の「0」が卵型をしていることから、卵を意味するフランス語の定形「{{lang|fr|l'œuf}}」に由来するという説がある<ref group="注釈">Oxford English Dictionary(2nd Edition, 1989)『[[オックスフォード英語辞典]]』第二版の「love」の項目に「10. b. 技術が必要なさまざまな競技([[サッカー]]、テニス、[[ホイスト]]、[[バドミントン]]など)で、無得点、ゼロポイントのこと。ゲーム中に「ラブだ(to be love)」と言えば、ポイントをとれなかった、ゼロポイントだ、という意味。love allとは、双方ともにゼロポイント(ポイントなし)のこと」とある(初出の事例は1742年)<!-- 全仏オープンでは、テニスの0点のことをzéroと言う。--></ref>。<ref>『Oxford Dictionary of English, Second Edition Revised』には”play for love"(お金を賭けずに勝負する)という表現から来ているとあり、フランス語のl'œufに由来するという説はfolk etymology(俗説的語源)だとされている。</ref> : 「0」「15」「30」「40」というスコアの数え方は、当初は[[60進法]]で0、15、30、45であったものの45の5が省略されるようになったものだという説が有力である。なお、フランス語では「0」、「15」、「30」、「40」、「アドバンテージ」は、「zéro」、「quinze」、「trente」、「quarante」、「avantage」(アヴァンタージュ、アヴォンタージュ)であり、全仏オープン等で聞くことができる。 ; キープ (keep) : サーバー側がゲームを取得すること。この競技では一般的にサーバー側が有利である。したがって試合に勝利するためには自分のサービスゲームを確実に保守し(keep)、いかに相手のサービスゲームをブレークするかが鍵となる。ただしキープは和製英語。英語圏ではholdという。 ; ホールド (hold [serve]) : サーバー側がゲームを取得すること。 ; ブレーク (break) : レシーバー側がゲームを取得すること。なおブレーク無しで勝利することができるのは、あるセットで自分側と相手側がサービスゲームをすべて取得し、その後のタイブレークでそのセットを取得するという方法で規定のセット数すべてを取得する場合である<!--(取得するセットだけタイブレークが適用されていれば良い)-->。それ以外の場合、試合に勝利するためにはブレークを行う必要がある。 ; ミニ・ブレーク (mini-break) : タイブレークにおいて相手側のサーブ時に取得するポイント。またこのミニ・ブレークが相手よりも最低1つでも多い状態(1ミニ・ブレーク アップ)にならないとセットを取得するまた勝利することが出来ない。 ; フォールト<!--[[特別:固定リンク/39524269#外来語|「Wikipedia:表記ガイド:外来語」『ウィキペディア日本語版』 2011年10月8日 11:07 (UTC)]] に沿って、本項目での表記を「フォールト」で統一。/[[WP:OR]]に該当するためコメントアウト。-->、フォルト(fault) : サーブで打ったボールがサービスエリアに入らなかったときのコール。1ポイント中に2度フォールトすると「ダブルフォールト」となり、サーバーはそのポイントを失う。 ; フットフォールト、フットフォルト (foot fault) : サーブを打つ時に、ラインを踏んだり、ラインを越えて踏むなど、足を着いていた位置が規定の範囲から外に出ていた場合にコールされ、フォールトとしてカウントされる。ボールがラケットから離れた後に足を着く位置は問われない。 ; レット (let) : プレーをやり直すこと。サーブの時、打ったボールがネットに当たってサービスエリア内に入ったり、トスしたボールが着地するまでに打たなかったりした場合、サーバーにはそのサーブをやり直す権利がある。また、プレー中に他のコートからのボールや、その他プレーの妨げとなるものが入ってきたり、身に付けているものや持っているボールを落とした場合などにもコールされ、ファーストサービスからまたはセカンドサービスがレット (let) になった場合はセカンドのやり直しとなる。 ; ネット (net) : サービスで打たれたボールがネットに接触した場合、審判が発するコール。このコールによってボールがネットに接触したことを確認し、その後、そのボールがサービスエリアに収まった場合はレット、収まらなかった場合はフォールトをあらためてコールする。 ; タッチ (touch) : ネットにラケットや体で触れた時、またボールがラケットや体にかすったことで失点となったと判断された場合や、ボールが天井などの構築物に触れたと判断された時などにコールされ、失点となる。 ; ナット・アップ、ノット・アップ (not up) : 打球時にボールがすでに2回バウンドしていた場合の審判によるコール。 ; オーバールール (overrule) : 線審の判定を主審が覆すこと。 ; トス (toss) :# サーブの際にボールを上空に投げ上げる動作。 :# 試合開始前に、初めにサーブを行うプレーヤーを決定するための動作。[[コイントス]]と、ラケットによるトスがある。以下はラケットを使用する場合である。1人のプレーヤーがグリップを軸にしてラケットを回転させ、ラケットが地面に倒れ静止した状態での表裏を、ラケットが回転している間に相手側のプレーヤーが当てることにより行う。このとき、ラケットを回すプレーヤーは、相手側のプレーヤーに対して以下に示すような問いかけを行い、公正を期すため応答がある前にラケットを回す。トスの結果により選択権を得た側が、「サーブを初めに行う」「レシーブを初めに行う」「ネットのいずれかの側のコートに入る」「選択権を相手に譲る」のいずれかを選ぶ。なお、規定の練習が開始されるとコートの状況の確認が可能となるため、トスは規定の練習の前に行われる。 :#; ラフ・オア・スムース (rough or smooth)、またはスムース・オア・ラフ (smooth or rough) :#: かつてのラケットには、飾りガット、あるいは飾り糸と呼ばれる紐が結わえられており、紐が平坦である側が表(スムース)、凹凸がある側が裏(ラフ)と判断される。飾りガットが廃れた一方で、グリップエンドのラケット製造者のマークを用いて表裏を判断するようになった。 :#; アップ・オア・ダウン (up or down) :#: グリップエンドのマークが正しい向きになっている場合は表(アップ)、上下逆になっている場合は裏(ダウン)と判断される。 :#; フィッチ (which) :#: 上2つの選択肢を特に指定せず、単に「どちらか」を答えさせる意味での問いかけ。<!-- 海外では使われない言い回し{{要検証|date=2011年10月}}。 --> ; ノー・アドバンテージ・スコアリング方式 : 試合時間の短縮を図って採用されることのあるルールで、デュースの後1ポイントでそのゲームの取得者を決定する。この1ポイントをディサイディング・ポイント (deciding point) と呼ぶ。略して「ノー・アド」などと呼ばれることがある。 ; レシーバーズ・チョイス (receiver's choice) : ノー・アドバンテージ・スコアリング方式のゲームで採用されることがあり、デュースの後ゲームを1ポイントで決める時に、サーバーが左右どちらからサーブを行うかを、レシーバー側が決めることができる。審判は「Deuce. Deciding point, receiver's choice.」とコールする。 ; リタイアメント (retirement) : 試合中の棄権。 ; ウォークオーバー (walkover) : 相手側が何らかの理由で試合を開始できなかった場合に与えられる不戦勝。 ; ゲーム、セット、アンド マッチ(game, set and match または game, set, and match) : 「ゲーム終了、セット終了、そして試合終了」の意で、試合終了時にコールされる(なお英語では、ゲームセット (game set) という言葉は、[[チェス]]などの[[ゲーム]]用具一式の意を持つ)。 === プレー === ; グリップ(ラケットの握り方) : 主にコンチネンタル、イースタン、ウエスタンの3つの握り方がある。コンチネンタルはボレーやスマッシュに、イースタンはフラット、トップスピン、スライスとどれも打てる。ウエスタンはフラットやトップスピンに適している。 ; ストローク : ボールを打つこと。フォアハンドストロークとバックハンドストロークがある。 :; フラットストローク :: ボールに対してラケットの面(フェイス)をフラットにして打つ。スピードのあるボールが打てる。 :; トップスピンストローク :: ボールに強い順回転をかけることにより、落差の大きい打球となり、高くバウンドする。 :; スライスストローク :: ボールに逆回転をかけることで、バウンドした後に低く滑るような打球となる。 ; ロブ (lob) : 相手の頭上を抜いたり、時間を作るなどの目的でボールを高く打ち上げること。フラット、アンダースピン、トップスピンの3つがある。 ; ボレー (volley) : 相手が打ったボールをバウンドする前に打ち返すこと。ボレーにはミドルボレー、ローボレー、ハイボレー、ハーフボレー、ドロップボレー、アングルボレー、ドライブボレーなどがある。 ; サーブ (serve) : ボールを空中に離し(「トス」と呼ぶ)、そのボールをラケットで打つこと。「サービス」(service) とも言い、サーブを打つ人を「サーバー」と呼ぶ。サーバー側コートのベースライン後方から対角にある相手コートのサービスエリア(サービスボックスとも言う)にサーブを入れる事で、ゲームのポイントが開始される。サーブがサービスエリアに入らなかった場合、前述のように(「ルール」の項を参照)、1ポイントにつき1度のみ失敗(フォールト)が許されており、もう1度サーブを打つことができる。2度目のサーブも失敗した場合、ダブルフォールトとなり、サーバーはそのポイントを失う。トスを上げる場所は特に規定されているわけではないが、多くの場合、頭上に上げる。サービスエリアに入りかつ相手がサーブしたボールに触れる事ができなかった場合、このポイントを「エース」(Ace) と呼ぶ(日本では「サービスエース」と呼ばれる事が多い)。また、かろうじて触れられたものの、エース級のサーブでポイントを取った場合は「サービスウィナー」と呼ぶ。サーブの種類はボールの回転で分類されることが多く、主に「フラットサーブ」、「スライスサーブ」、「スピンサーブ」などと呼ばれる球種が存在する。しかし実際のところ、これらの球種の分類は回転量や回転の方向についてのものであるため、明確な区別が難しく、複数の性質を併せ持つ中間型も多い(「スライスサーブ」と「スピンサーブ」の両方の性質を持つ「トップスライスサーブ」などが知られている)。また、回転ではなく打法における分類としては、ラケットの先端を水平よりも下側に向けた状態から打つサーブを特にアンダーサーブと呼ぶ。 :; フラットサーブ :: ボールの回転量が少なく、軌道の変化に乏しいので、他の回転をかけたサーブに比べるとサービスエリアに入れることは難しいとも言えるが、その分最もスピードを出すことのできるサーブである。スピン系のフラットサーブなど。 :: '''スライスサーブ''' :: ボールに横回転をかけて打つサーブ。回転の効果でボールは横に曲がりながら飛び、バウンド後も切れていく球筋をたどる。安定性も高く、セカンドサーブとして使うのにも適してる<ref>『基本が身につくテニス練習メニュー200』181頁。</ref>。 :: スライスサーブは下から上に回転をかけたり、上から振り下ろすイメージで回転をかけたりといろんなテクニックがあるため注意が必要である。  :: '''スピンサーブ''' :: 前方への回転が主で、落差の大きい軌道を描く。このため、前述のフラットサーブなどよりも比較的サービスエリアに入れることが容易である。バウンド後は回転の影響により他のサーブに比べて高く弾む。サービスエリアに入る確率が高いこと、また高く弾むために攻撃されにくいことからセカンドサービスとして用いられることが多い。回転方向によっては、やや左に跳ねさせたり、逆にやや右に跳ねさせたりといった調節も可能である。「ツイストサーブ」や「キックサーブ」と呼ばれるサーブがあるが、もともとスピンサーブがこのような別名を持っている。一方、これらの呼称をそれぞれ独立したサーブとして差別化しようとする動きもある。 ; リターン (return) : サーブを返球すること。返球したボールがサーバーに触れずにポイントを得た場合「リターンウィナー」と呼ぶ(日本では「リターンエース」と呼ばれることが多いが、「エース」はサーブ側のみに使われる用語であり、厳密には誤りである)。 ; ポーチ (poaching) : ダブルスにおいて、ネット付近にいるプレーヤーが、移動して自分のパートナーの方へ打たれたボールをボレーする攻撃的な動作。 ; ダウン・ザ・ライン(down the line) : 相手のコートへ打たれたボールがサイドラインに沿ってまっすぐであることの表現。 ;コードボール :自分もしくは相手が打ったボールがネットに当たり相手側のコートに入ること。 ;ウィナー :ボレーやドロップショットなどで相手が全く触れずに得点となること。前述の「リターンウィナー」もこれに含まれる。 ; プレイのスタイル<span id="プレイのスタイル"></span> :; アグレッシブベースライナー (Aggressive Baseliner) :: 前に出ることをせず、後方のベースライン付近から強打で攻撃するプレーヤー。 :; カウンターパンチャー (Counter Puncher) :: 自分からは強打せずに相手のショットを拾って粘り、ミスを誘ったり、相手の強打を利用してカウンターを狙うスタイルのプレーヤー。 :; サーブアンドボレーヤー (Serve and Volleyer) :: サーブを打った後すぐにネット付近に移動してボレーやスマッシュを行うプレーを得意とするプレーヤー。 :; オールラウンダー (All-Arounder) :: 万能なプレーを行うことのできるプレーヤー。 ; スプリット・ステップ (split step) : 相手側がボールを打つ直前に小さくジャンプする一つのフットワークの技術。 ; アイ・フォーメーション (I-formation) : ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、サーバーのパートナーがネットの中央付近に位置している陣形。 ; オーストラリアン・フォーメーション (Australian formation) : ダブルスにおいて、ポイントの開始前に、コートを左右に分ける中心線よりも右側か左側のどちらか一方にサーバーとそのパートナーの両方が位置している陣形\。 ; ホットドッグ (hot dog) : プレイヤーがロブをネットから離れる方向へ追っていき、ネットに背中を向けた状態でボールを両足の間で打つプレー。 ; バギー・ウィップ (buggy whip) : フォアハンドでの打球時のフォロー・スルーが、体の前を通って逆側に行かず、低い場所から高い場所へ移動して同じ側で終了する打法。この打法を行う選手としては[[ラファエル・ナダル]]が知られる。名前は馬車の馬を鞭で打つ御者の動作に似ていることに由来する。<!-- なおwhipには、「卵白・クリームなどを泡立てること」という意味もあり、同じ発音である。 --> ;ジャックナイフ (jack knife) :ストローク時にボールにスピン系の回転がかかり高く跳ね上がったときに対応するためにジャンプをしながらバックハンドでスマッシュを打つ方法。主に身長が低い選手が多く用いている。 === その他 === ; [[テニス肘]]、テニス・エルボー (tennis elbow) : プレーヤーの技術やラケットが不適当であるために腕に過度の振動が伝わっていることが原因とされるけが。 ;[[ベーグル]] (bagel) :試合で自分もしくは相手にセットの中で1ゲームも取れないまた取られないことを言う(6-0、6-3 など)。また2セット続けて1ゲームも取れないまた取られない場合はダブルベーグルと呼ぶ。日本のテニス用語では団子とも言われる。 == 四大大会 == * [[全豪オープン]]([[1月]]) * [[全仏オープン]]([[5月]] - [[6月]]) * [[ウィンブルドン選手権]]([[6月]] - [[7月]]) * [[全米オープン (テニス)|全米オープン]]([[8月]] - [[9月]]) 四大大会を1年間で全て優勝することを'''年間[[グランドスラム (テニス)|グランドスラム]]'''(複数年に跨っての達成はキャリア・グランドスラム(生涯グランドスラムとも))と呼ばれる。 これにオリンピックの金メダル獲得をも達成すると「ゴールデン・スラム」と呼ばれ(グランドスラムをオリンピックの開催年(オリンピアード)に達成し、かつオリンピックの金メダルを獲得することを年間ゴールデン・スラムという)、更なる難易度を要するものである。[[1988年]]に当時19歳の[[シュテフィ・グラフ]]が達成し、この言葉が作られた。 グラフの後に達成した選手は、2008年に[[車いすテニス]]界において日本人プレーヤーの[[国枝慎吾]]が成し遂げている(全豪オープン、ジャパンオープン、全英オープン、全米オープン、パラリンピック)が、グラフが達成したのは年間グランドスラムで、国枝の達成したものはキャリア・ゴールデン・スラムである。 == 日本 == === 伝来 === 諸説<ref group="注釈">表孟宏編による『テニスの源流を求めて』には数々の説が紹介されている。</ref>あり、[[1878年]](明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが[[文部省]]の[[体操伝習所]]で紹介説が広く流布されているがこれも確たる証拠はないとされ、いまだ詳らかではない。 このあと、明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて[[ソフトテニス|軟式テニス]]と呼ばれる様になり、体操伝習所の教師であった[[坪井玄道]]が普及に尽力し、伝習所の卒業生が教師となって各地の学校に赴任し伝えることにより<ref>[[タイムスクープハンター]](NHK総合1ch 11:30 - 0:00)2013年4月27日放送分 第4話『打て!大正テニスガール』番組内説明</ref>独自の発展を遂げ、今日の[[ソフトテニス]]に至る。 === 発展 === 軟式テニスで育った[[熊谷一弥]]、[[清水善造]]、[[原田武一]]、[[佐藤次郎]]、[[山岸二郎]]ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。 [[1918年]]([[大正]]7年)、熊谷一弥が[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、[[1920年]](大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していた[[ビル・チルデン]]に肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで[[銀メダル]]を獲得し、ダブルスでも熊谷と[[柏尾誠一郎]]のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、[[準優勝]]に輝いている。 日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には[[原田武一]]が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」で[[ビル・チルデン]]、[[マニュエル・アロンソ]]に次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。 1930年代に入ると、[[佐藤次郎]]が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは[[布井良助]]とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、[[1934年]]([[昭和]]9年)4月に遠征中に[[マラッカ海峡]]で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで[[三木龍喜]]が[[ドロシー・ラウンド]]とペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。 佐藤亡き後は[[山岸二郎]]、[[中野文照]]が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だった[[ジョン・ブロムウィッチ]]を6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、[[1937年]](昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、[[1938年]](昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカの[[ドン・バッジ]]がテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。 しかし、1937年に勃発した[[日中戦争]]は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。[[1939年]]には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。[[1941年]]に日本が[[太平洋戦争]]に突入すると、日本国内は戦時一色となり、[[日本テニス協会]]も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持できないようになってしまい、長期の低迷を迎えることとなる。 === 太平洋戦争後 === 終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、[[1951年]](昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰すると徐々にレベルを回復させるようなる。[[1955年]](昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて[[宮城淳]]、[[加茂公成]]のペアが優勝を成し遂げる。 1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である[[神和住純]](父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だった[[スタン・スミス]]を2度破るなどの活躍を見せた。 [[1995年]](平成7年)には[[松岡修造]]がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。 しかし、[[2008年]](平成20年)に[[錦織圭]]が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、[[2014年]](平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初の[[ATPワールドツアー・ファイナル]]に出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年には[[リオデジャネイロオリンピック]]に男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄[[アンディ・マリー]]にストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得した[[ラファエル・ナダル]]にフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。 女子では、[[1975年]]([[昭和]]50年)のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、[[沢松和子]]と[[アン清村]]のペアが初優勝した。[[1980年代]]から[[1990年代|90年代]]には[[井上悦子]]や[[1989年]]にプロ転向した[[クルム伊達公子|伊達公子]]が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。[[1997年]]には[[平木理化]]が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、[[杉山愛]]が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、[[ダブルス]]としては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。そして2018年には、ハイチ出身の男性を父に持つ[[大坂なおみ]]が全米オープンに優勝、さらに2019年の全豪オープンも制してアジア人として初めてシングルスの世界ランキング1位となり、2020年には再び全米オープンに優勝した。大坂は二重国籍であったが、22歳を前にして日本国籍を選択、選手登録も日本協会である。 == ソフトテニス == 前述したように[[ソフトテニス]](軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、ゴム製の手毬(玩具として輸入されていて容易に入手できた)を代用ボールとして使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。アジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増え、2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であるというイメージがあるが、1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。日本語においては、ソフトテニスと区別して、テニスを硬式テニスと呼ぶこともある。 == テニススクール == {{main|[[テニススクール]]}} == その他 == * [[1998年]]、日本テニス協会や[[日本プロテニス協会]]などが参加する「日本テニス振興協議会」は設立された1998年に[[9月23日]](秋分の日)を「テニスの日」に制定した<ref>[https://www.thetennisdaily.jp/news/contents/national/primary/20150923_0014362.php 「テニスをブームではなく根付かせるために…18年目を迎えた9月23日「テニスの日」」|「国内ニュース」のニュース|THE TENNIS DAILY/テニスデイリー、閲覧2017年7月14日]</ref>。 * [[バドミントン]]などとともに、[[レクリエーション]]や[[レジャー]]としても広く行われる競技である。公園や高原の[[リゾート]]地などには、しばしばテニスコートが見られる。 == テニスを扱った作品 == {{See|Category:テニスを題材とした作品|{{cl|テニス漫画}}|{{cl|テニスゲーム}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[国際テニス連盟]] (ITF) * [[男子プロテニス協会]] (ATP) * [[女子テニス協会]] (WTA) * [[日本テニス協会]] * [[テニス選手一覧]] * [[車いすテニス]] * [[ビーチテニス]] * [[パドルテニス]] * [[フリーテニス]] * [[ジュ・ド・ポーム]] * [[アンダースコート]] * [[エスキーテニス]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Tennis|Tennis}} {{Wiktionary}} {{Wikibooks}} ; 公式 * [https://www.itftennis.com/ ITF] - [[国際テニス連盟]] {{en icon}} * [https://www.atptour.com/ ATP] - [[男子プロテニス協会]] {{en icon}} * [https://www.wtatennis.com/ WTA] - [[女子テニス協会]] {{en icon}} * [https://www.jta-tennis.or.jp/ JTA] - 公益財団法人[[日本テニス協会]] {{ja icon}} ; 大会 * [https://ausopen.com/ 全豪オープン] {{en icon}} * [https://www.rolandgarros.com/ 全仏オープン] {{fr icon}}{{en icon}} * [https://www.wimbledon.com/ ウィンブルドン選手権] {{en icon}} * [https://www.usopen.org/ 全米オープン] {{en icon}} ; その他 * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{スポーツ一覧}} {{球技}} {{デフォルトソート:てにす}} [[Category:テニス|*]] [[Category:オリンピック競技]] [[Category:ラケットスポーツ]]
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三枚おろし
三枚おろし(さんまいおろし、英語: Fillet)は、魚のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいう。「もっとも基本的な魚のおろし方」であるとされる。 頭を切り落とし内臓を取り除いた魚に、背骨に沿って包丁を入れ、左身と右身に分ける。このとき、左身に背骨がついたままになっているが、この状態を二枚おろしという。二枚おろしの状態のまま、料理に用いることもあるが、さらに左身から骨を取り除くと三枚おろしになり、あらゆる料理に用いることができるようになる。 なお、三枚におろす際に頭から尾までを一度に切り離さず、まず、腹側の頭から尾、次に背側の頭から尾という手順で切り離す方法を両面おろしという。 骨の部分は「中落ち」と呼ばれ、料理に用いられることがある。マグロの場合、ここに残る赤身が美味であるとされ、スプーンなどでかき取り、ネギトロ、鉄火巻きなどに用いられる。小型の魚や細長い魚あるいは身が柔らかい魚に対しては、包丁を一気に入れて切り離す大名おろしというさばき方が用いられ、三枚おろしをするときよりも中落ちの部分に身が多くつくこととなる。大名おろしの大名とは、中落ちに身がたくさん残っていて贅沢であるという意味が込められたものである。
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三枚おろしは、魚のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいう。「もっとも基本的な魚のおろし方」であるとされる。
{{Otheruses}} [[File:3mai before.JPG|200px|right|thumb|三枚おろし前]] [[File:3mai after.JPG|250x250px|thumb|三枚おろし後]] '''三枚おろし'''(さんまいおろし、{{Lang-en|Fillet}}{{Sfn|『魚の事典』|p=193}})は、[[魚類|魚]]のさばき方の一種で、右身、左身、中骨の3つの部分に切り分けることをいう{{Sfn|『魚の事典』|p=312}}。「もっとも基本的な魚のおろし方」であるとされる{{Sfn|脇坂|2010|p=117}}。 == 概要 == [[頭]]を切り落とし[[器官|内臓]]を取り除いた魚に、[[背骨]]に沿って[[包丁]]を入れ、左身と右身に分ける。このとき、左身に背骨がついたままになっているが、この状態を'''二枚おろし'''という{{Sfn|『魚の事典』|p=312}}。二枚おろしの状態のまま、[[料理]]に用いることもある{{Sfn|『食材クッキング事典』|p=541}}が、さらに左身から骨を取り除くと三枚おろしになり{{Sfn|『魚の事典』|p=312}}、あらゆる料理に用いることができるようになる{{Sfn|『食材クッキング事典』|p=541}}。 なお、三枚におろす際に頭から[[尾]]までを一度に切り離さず、まず、腹側の頭から尾、次に背側の頭から尾という手順で切り離す方法を'''両面おろし'''という{{Sfn|『魚の目利き食通事典』|p=314}}。 骨の部分は「中落ち」と呼ばれ、料理に用いられることがある{{Sfn|『魚の事典』|p=302}}。[[マグロ]]の場合、ここに残る[[赤肉|赤身]]が美味であるとされ、[[スプーン]]などでかき取り、[[ネギトロ]]、[[鉄火巻き]]などに用いられる{{Sfn|『なるほど、料理のことば』|p=108}}。小型の魚や細長い魚あるいは身が柔らかい魚に対しては{{Sfn|『魚の事典』|p=256}}{{Sfn|『魚の目利き食通事典』|p=315}}、包丁を一気に入れて切り離す'''大名おろし'''というさばき方が用いられ、三枚おろしをするときよりも中落ちの部分に身が多くつくこととなる{{Sfn|『食材クッキング事典』|p=542}}{{Sfn|『魚の目利き食通事典』|p=315}}。大名おろしの大名とは、中落ちに身がたくさん残っていて贅沢であるという意味が込められたものである{{Sfn|『さかな料理指南』|p=38}}。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=改訂新版・素材 de 料理 食材クッキング事典|year=2001|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|isbn=9784054014091|ref=『食材クッキング事典』}} * {{Cite book|和書|title=魚の事典|year=1989|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=9784490102451|ref={{SfnRef|『魚の事典』}}}} * {{Cite book|和書|last=脇坂|first=真吏|title=食材目利き手帖|year=2010|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=9784777807635|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=本山賢司|title=[図解]さかな料理指南|year=2005|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮文庫]]|isbn=9784101420127|ref=『さかな料理指南』}} * {{Cite book|和書|editor=講談社編|title=魚の目利き食通事典|year=2002|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社プラスアルファ文庫]]|ref=『魚の目利き食通事典』}} * {{Cite book|和書|title=改訂新版・素材 de 料理 食材クッキング事典|year=2001|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|isbn=9784054014091|ref=『食材クッキング事典』}} * {{Cite book|和書|title=なるほど、料理のことば|year=2003|publisher=ベターホーム出版局|isbn=9784938508692|ref=『なるほど、料理のことば』}} == 関連項目 == * [[五枚下ろし]] - 扁平な魚に対するさばき方。 * [[魚の開き]] * [[出刃包丁]] - 三枚おろしに適した包丁 * [[さくどり]] {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:さんまいおろし}} [[Category:調理法]]
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三杯酢
三杯酢(さんばいず)とは酢、醤油、砂糖(みりん)を混ぜた、合わせ調味料のこと。 酢、醤油、砂糖(みりん)を1:1:1 の割合で合わせたもの。だしや煮きり酒を使って割ることもある。主に魚介類や野菜、漬け物に用いる。 酢には殺菌力があることが知られているが、三杯酢にも静菌効果が期待できる。ただし、殺菌力は二杯酢、三杯酢、甘酢の順に弱くなる(醤油を使用した合せ酢では、pHの上昇が一要因となり、殺菌力は甘酢、二杯酢、三杯酢の順に弱くなる)。 二杯酢(にはいず)は、本来は酢と醤油を1:1の割合で合わせたもの。ワカメやキュウリを使った酢の物、サラダなどに使われる。
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三杯酢(さんばいず)とは酢、醤油、砂糖(みりん)を混ぜた、合わせ調味料のこと。
'''三杯酢'''(さんばいず)とは[[酢]]、[[醤油]]、[[砂糖]]([[みりん]])を混ぜた、[[合わせ調味料]]のこと。 == 概略 == [[酢]]、[[醤油]]、[[砂糖]]([[みりん]])を1:1:1 の割合で合わせたもの<ref>{{Cite web|和書|title=三杯酢|料理用語事典 - レタスクラブ|url=https://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/99/?sns=fb|website=レタスクラブニュース|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref>。だしや煮きり酒を使って割ることもある。主に魚介類や野菜、漬け物に用いる<ref>{{Citation|title=山口県の家庭調理 副菜の特徴|last3=五島|first8=由美|last7=池田|first7=博子|last6=櫻井|first6=菜穂子|last5=廣田|first5=幸子|last4=福田|first4=翼|first3=淑子|url=https://doi.org/10.11402/ajscs.31.0_227|last2=森永|first2=八江|last=園田|first=純子|language=ja|doi=10.11402/ajscs.31.0_227|accessdate=2020-04-03|date=2019|publisher=日本調理科学会|last8=山本}}</ref><ref>{{Citation|title=静岡県の家庭料理 副菜の特徴|first4=陽子|first9=温子|last8=中川(岩崎)|first8=裕子|last7=清水|first7=洋子|last6=神谷|first6=紀代美|last5=伊藤|first5=聖子|last4=市川|last3=新井|url=https://doi.org/10.11402/ajscs.31.0_210|first3=映子|last2=高塚|first2=千広|last=川上|first=栄子|language=ja|doi=10.11402/ajscs.31.0_210|accessdate=2020-04-03|date=2019|publisher=日本調理科学会|last9=竹下}}</ref><ref>{{Citation|title=香川県の家庭料理 主菜の特徴|url=https://doi.org/10.11402/ajscs.30.0_241|publisher=日本調理科学会|date=2018|accessdate=2020-04-03|doi=10.11402/ajscs.30.0_241|language=ja|first=一代|last=次田|first2=みなみ|last2=村川|first3=ひろ美|last3=渡辺|first4=みゅき|last4=加藤}}</ref>。 酢には殺菌力があることが知られているが、三杯酢にも静菌効果が期待できる<ref>{{Cite journal|和書 |author=米浪直子, 上野綾子 ,成宮博子 ,成宮博子 ,吉野世美子 |title=調理操作がきゅうりの一般生菌数および大腸菌群数に及ぼす影響 |url=https://hdl.handle.net/11173/1758 |date=2009-12 |journal=京都女子大学食物学会誌 |ISSN=02893827 |publisher=京都女子大学食物学会 |issue=64 |pages=17-25 |naid=120005541535 |accessdate=2022-03-01}}</ref>。ただし、殺菌力は二杯酢、三杯酢、[[甘酢]]の順に弱くなる(醤油を使用した合せ酢では、pHの上昇が一要因となり、殺菌力は甘酢、二杯酢、三杯酢の順に弱くなる)<ref>{{Cite journal|和書|author=円谷悦造, 柴田邦彦, 川村吉也, 正井博之 |title=合せ酢の殺菌作用について |journal=日本食品工業学会誌 |publisher=日本食品科学工学会 |year=1981 |volume=28 |issue=7 |pages=387-392 |naid=10008720888 |doi=10.3136/nskkk1962.28.7_387 |url=https://doi.org/10.3136/nskkk1962.28.7_387}}</ref>。 == 二杯酢 == '''二杯酢'''(にはいず)は、本来は酢と醤油を1:1の割合で合わせたもの<ref>{{Cite web|和書|title=二杯酢|料理用語事典 - レタスクラブ|url=https://www.lettuceclub.net/recipe/dictionary-cook/98/?sns=fb|website=レタスクラブニュース|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref>。[[ワカメ]]や[[キュウリ]]を使った[[酢の物]]、[[サラダ]]などに使われる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} {{酢}} {{DEFAULTSORT:さんはいす}} [[category:日本の調味料]] [[Category:酢]] [[Category:醤油]] [[Category:砂糖]] [[Category:日本の名数3|はいす]]
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屋久島
屋久島(やくしま)は、鹿児島県の大隅半島佐多岬南南西約60kmの海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。南方に位置するトカラ列島や奄美群島などとともに南西諸島を構成する。 九州最高峰の山、宮之浦岳(標高1936m)がある。自然が豊かで、屋久島国立公園の中核をなし、世界自然遺産の一つに登録されている。 面積504.29 km、周囲130km(東西約28km、南北24km)。円形に近い五角形をしており、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本の中では本州など4島を除くと面積第9位である。 豊かで美しい自然が残されており、島の90%が森林である。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47 kmがユネスコの世界遺産に登録されている。この世界遺産への登録は1993年、姫路城、法隆寺、白神山地とともに日本からの第一陣であった。 全島が屋久島町の町域であり、直近2020年の推計人口は39,550人。 本島においての発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、安房電気利用組合、種子屋久農協、九州電力送配電、屋久島町の4事業者が分担して供給している。したがって本島では九州電力送配電が電気を供給していない世帯や事業者も存在する。平素、島内の電力は水力発電で賄われており、火力発電は緊急時に限って活用される。 屋久島はほぼ全域が山地であり、1,000mから1,900m級の山々の連なりは八重岳と呼ばれ洋上アルプスの異名もある。屋久島山地と記述した文献もある。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえる。このような中央部の高峰は奥岳と呼ばれ、永田岳を除き海岸部の人里から望むことはできない。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳とされ、山頂に一品宝珠大権現が祀られ古来より嶽参りの対象とされてきたが、『三國名勝図會』の記す栗生嶽は位置的に現在の黒味岳に相当するとする説もある。海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳などがある。また、喜界カルデラを生んだ6,300年前の大噴火の際、屋久島は火砕流によって島の大部分が覆われたことがあるとされている。 地質的には西南日本外帯の四万十帯に属し、島外周部は日向層群(旧称・熊毛層群) の第三紀堆積岩からなり、中央山岳部は直径約25kmの巨大な花崗岩が貫入している。屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後に隆起して形成された。また激しい雨による侵食の結果として残された花崗岩塊が点在し、永田岳の山頂付近に見られるローソク岩のような岩塔が林立する。一般に花崗岩は広い間隔で節理が発達するため巨大な岩塊が生まれる。さらに島の北西-南東方向および、北東-南西方向に発達した渓谷や尾根筋も節理の方向に沿って侵食が進んだ結果である。 屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140にも及ぶ。主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つである。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝、千尋の滝などが良く知られ、宮之浦川には、屋久島最大の竜王滝(3段110m)がある。 国土地理院地図(抄)。陸繋した浜辺や海礁上の小岩、無名の岩を除く。 海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」 と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間降水量は平地で4,000~5,000mm程度、山地では8,000mm~12,000mmにも達する。気象庁の屋久島特別地域気象観測所の平年値4,651.7mm(1991-2020年)は、気象庁の観測地点として全国1位(2位は宮崎県えびの高原アメダスの4,625mm)となっている。 とりわけ山間部の観測点では、淀川登山口で1999年に11,720mm、ヤクスギランドで2012年に11,130mm(平年値10,048mm)を記録するなど、毎年10,000mm前後の降水量が観測されている。これは、世界最多とされるインドのマウシンラム(平年値11,872mm)やチェラプンジ(平年値11,856.8mm)にも迫る、世界屈指の多雨地帯といえる。 また山頂付近の年間平均気温は約6-7°C(北海道札幌市よりも低い)であるために積雪が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている(60cm以上の積雪を観測することがあるほか、3月の彼岸以降でも大雪や路面凍結、また4月以降でも頂上付近ではまだ冠雪が見られる)。こうした条件により、豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれている。また、日本の地質百選にも2007年に選定された。 温帯最南部のほぼ亜熱帯に属する地域にありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されている。 海岸付近の低地はアコウ、ガジュマルなど亜熱帯性の植物相である。このガジュマル林は日本最北端のものとされる。 やや内陸の標高約500mまではシイ、ウラジロガシなど暖帯林、約500mないし600mから1,000mないし1,200mはウラジロガシ、スギおよびイスノキなどの混合林で移行帯となりスギの人工林もあり、約1,000mから1,600mは屋久杉、ヤマグルマおよびモミなどの温帯林となる。約1,600m以上はササに覆われ、ヤクシマシャクナゲなどが点在し、高山的様相を呈する。本州や四国などで落葉広葉樹林帯に相当するブナ林はなく代わりに屋久杉が分布し、同程度の標高である石鎚山脈、剣山地および大峰山脈とは異なり、南海上の島である屋久島はシラビソなどの亜高山帯針葉樹林を欠く。 島の中心部には、日本最南端の高層湿原である花之江河(はなのえごう)、小花之江河(こはなのえごう)が存在する。 ヤクシマの名を冠した植物は極めて数が多く、以下のようなものがある。 また、屋久島の植物にはなぜか他より小さいものが多い。たとえばイッスンキンカ(ベトナム語版)はかつてはアキノキリンソウの変種とされたものだが、せいぜい7cmにしかならない(アキノキリンソウは30cm以上になる)。このようなものは山野草や盆栽としての鑑賞価値が高いため、これらを屋久島ものと呼んで珍重する動きがある。また、これに便乗する形で、他地域産のものでも小柄な姿のものに対して「屋久島○○」と名付けて販売される場合があるという。 野生哺乳類としては、ヤクザルやヤクシカ、コウベモグラ、ジネズミ、ヒメネズミ、コイタチ、コウモリ数種しか生息していない。1990年代から外来種のタヌキが観察されるようになり、定着したものと思われる。沖合は古来、様々な鯨類の回遊路にあたり、大幅に種類が減ってしまった現在でもマッコウクジラやイルカ類等が近海で見られ、2010年代からはザトウクジラの確認も増えており、将来的なホエールウォッチングの可能性の調査を兼ねた陸上からの観察会も行われている。薩摩藩政時代にはジュゴンが、昭和初期にはカワウソ が生息していたことが報告されているが、標本等は残されていない。 ヤクシカは杉の芽や希少植物を食害する面もあるため、捕獲して食肉として加工する屋久島ジビエ加工センターが2017年度に整備された。 爬虫類ではニホントカゲやマムシなどが知られ、日本本土とほぼ共通である。 島北部の永田浜は世界有数のアカウミガメの産卵地であり、ラムサール条約登録湿地となっている(後述)。 上記のように主な動物は日本本土と共通、あるいは関係が深いものである。それに対してこの島以南の南西諸島に見られるアマミノクロウサギやハブなど、南西諸島に独特のものは見られない。そのため、この島の南側に分布境界線として渡瀬線(渡瀬ライン)を認める。 スギ(杉、Cryptomeria japonica)の屋久島に産し、樹齢が1000年を超えるものをヤクスギと呼んでいる。屋久島の強風、多雨、地質、シカの生息などの自然環境に対応して抗菌性を持つ樹脂を多量に分泌し、極めて長寿になる、幼樹の葉が鋭いなど、特徴的な形質を有する。 ヤクスギ、モミ、ツガを主体とする温帯針葉樹林は屋久島の標高600m以上に分布する。600 - 1,200 mは低地を占める照葉樹林との移行帯であり、両方の要素が混交する。 抗菌性が強く耐久性があることが重視され、中世以降、建築材や造船材として開発された。豊臣秀吉による京都の方広寺大仏殿建立の際、石田三成が島津義久に屋久島の木材資源調査を指示しており、実際に木材が薩南海域から大坂へ運ばれた形跡がある。 17世紀に薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化し、明治になるまでにヤクスギの良木のほとんどが伐採された。樹齢1000年程度の巨木は年輪が歪み、山地での製材が不可能であったため放置され、現在も生きているものが多い。伐採跡地にはスギの稚樹が成長し、以来300~400年を経て美しい二次林を形成している。三次林となっている林分も広い。現在は1000年程度の巨木や変形木をヤクスギ(屋久杉)とよび、二次林・三次林をつくる若いスギをコスギ(小杉)と呼ぶ。 明治以降、屋久島の山林の大半は国有林に編入され、大正から昭和にかけて二次林・三次林の伐採が進んだ。1000年以上の「屋久杉」は切り残されることが多かったが、樹齢400年以下の「小杉」は、屋久杉ではないとされ、1955年(昭和30年)にチェーンソーが導入されるとともに、大々的に伐採が進んだ。 現在、原生自然環境保全地域に含まれる小楊枝川流域、国立公園第一種特別地域に含まれる永田川流域、宮之浦川上流域、東部の安房川支流荒川左岸(ヤクスギランド)などがヤクスギの主要な群落として僅かに残されている。 屋久島最大の「縄文杉」はかつてその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ、環境省(当時は環境庁)の環境週間ポスターで「7200歳です」と紹介されたことで、全国的に有名になった。現在では放射性炭素年代測定法で推定樹齢約2000年以上であることが確認されている。またその際に内部組織の年代が入り乱れ、同心円状の年輪を形成していなかったことから合体木であるという説があったが、これに対して数本の大枝から葉をサンプリングして遺伝子分析解析を行った結果、同じ遺伝子の木であることが明らかになった。ただし、杉の場合、木の枝どうしが癒着する接合木、倒木の上に新木が生える更新木といった現象がよく知られており、同じ遺伝子であっても、同じ木からの複数の落ち枝がいわばそれぞれ苗木となって育って合体木となった可能性がある。年代測定を行ったときにも、ウロの中の朽ちた部分にとりわけ古い年代が出たこともあり、既に朽ちたさらに古い木があり、そこからの新木の合体木である可能性が強い。 なお現在までに確認された最古の木は「大王杉」で、やはり放射性炭素年代測定法で樹齢3000年以上とされる。 屋久島が初めて文献に出現するのは、中国の歴史書『隋書』大業3年(607年)、煬帝の代に「夷邪久国」の記述が見えるのが最初である、この「夷邪久」は屋久島を指す説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指す説とがある。 『日本書紀』では推古天皇24年(616年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、舒明天皇元年(629年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載がある。『日本書紀』で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島を指すような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、天武天皇11年(682年)に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からである。 『続日本紀』には、文武3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに多禰国との記述があり、大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」とあり、薩摩国と多禰国が成立する。これ以後、大和朝廷は令制国として一国に準ずる多禰国に国司(嶋司)を派遣する。 多禰国からの税収はとても小さかったが、南島(南西諸島)との交流や、隼人の平定、遣唐使の派遣のため格は中国として扱われていた。実際、天平勝宝5年(753年)12月7日に鑑真、大伴古麻呂、吉備真備らを乗せた遣唐使船の第二船、第三船が屋久島に帰国し、鑑真が来日したは場所は屋久島である。屋久島で11日間の1日の滞在を経て第二船は12月18日に大宰府に向けて出港、20日に秋目、26日に大宰府に到着する。734年(種子島)と753年(屋久島)の二度、遣唐使が多禰国に帰国した。『日本書紀』では7か所に多禰、『続日本紀』では21か所に「多禰」または「多褹」と記述されている) しかし、島民を兵として徴用しても動員が難しく、年貢として取り立ても少ないことから、天長元年(824年)10月1日に多禰嶋司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国'に編入した。 1203年に鎌倉幕府から種子島氏に種子島を初めとした南西諸島が与えられ、屋久島も種子島氏の支配下に置かれることになる。1542年に大隅の禰寝氏が種子島氏の悪政を正すとの名目で屋久島に襲来し、島を占拠。宮之浦に城ケ平城を築城。1544年に種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める。禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる。このとき初めて火縄銃が実戦で使用されたと伝えられている。 1595年、種子島久時のとき、太閤検地に伴う所替えで薩摩国知覧に移され、屋久島は島津家の直轄地となる。また豊臣秀吉が京都方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、島津家にも用材の献上を命じられている。一説にはウィルソン株はその時に切り出された屋久杉の切り株ともいわれている。 江戸時代は薩摩藩の支配下に置かれる。島津光久に招かれ薩摩藩に仕えていた僧侶であり儒学者でもあり、屋久島の安房の生まれであった泊如竹は、島民の困窮を目にし、島民のため屋久杉伐採を藩に願い出る。また屋久杉伐採の指導などを行い島の経済復興に尽力した。このため屋久聖人と呼ばれている。今でも泊如竹の命日である旧暦5月25日に如竹踊りが如竹神社で行われている。 米作、畑作に不向きな屋久島の年貢は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった。男子は年一人当り平木六束(一束は百枚で600枚)を納めることとなっていた。 1708年にキリスト教布教のため、鎖国下の日本に潜入しようとしたジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが、屋久島に上陸している。 明治時代に入り、地租改正により島の山林のほとんどが国有地に編入された。1891年(明治24年)には国有林監視所が設置され、盗伐の取り締まりが強化されたことをきっかけに、明治37年(1904年)には島民が国を相手取って訴訟を起こすに至った。この訴訟は16年に及ぶ長期の係争となったが、関係書類から元々は薩摩藩有であったことが確認されるとして島民側の敗訴となった。だが、この判決には批判が多く、国会議員やマスコミからの追及が高まった。世論を重視した国は大正10年(1921年)に屋久島の国有林を島民一般のためにのみ使用することを旨とする『屋久島国有林経営の大綱』を定めた。この処置は島民から大いに喜ばれ、『屋久島憲法』と呼ばれた。 大正11年(1922年)からは本格的なインフラ整備が開始された。 1992年3月13日に世界遺産条約の国会提出が閣議決定され、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付した。それを受けて、1992年10月1日、屋久島が世界遺産委員会へ推薦された。1993年12月11日、コロンビアのカルタヘナで開催された世界遺産委員会で、世界遺産リストに登録された。姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初である。 登録当時、ユネスコ世界遺産センターのドロステ所長は「自然遺産としての屋久島の価値は、多くの人たちが暮らしていながら、すぐれた自然が残されていることにある。」と語っている。 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 屋久町と上屋久町の両町議会は、世界遺産登録を控えた1993年にその保全を目的として屋久島憲章を制定した。両町が合併して屋久島町となった2007年10月1日、同憲章を改めて決議第一号とした。屋久島の自然環境保護を第一とし、自然環境との共生による島の将来への指針を示している。 前文 地球と人類の宝物である屋久島。 この島は、周囲132km、面積503kmの日本で5番目に大きい島である。 屋久杉を象徴とする森厳な大自然に抱かれ、神々に頭をたれ、流れに身を浄め大海の恵みに日々を委ねて人々が生きた島。 この島は、はるかな昔から人々の魂を揺さぶりつづけ、近世森林の保全と活用で人々が苦しみ葛藤した島である。そして今、物質文明の荒波をようように免れた屋 久島は、その存在そのものが人間に対する啓示であり、地球的テーマそのものである。 この島に住む私たちは、この屋久島の価値と役割を正しくとらえ、自らの信念と生きざまによって、この島の自然と歴史に立脚した確かな歩を始める。そのため、この島の自然と環境を私たちの基本的資産として、この資産の価値を高めながら、うまく活用して生活の総合的な活動の範囲を拡大し、水準を引き上げていくことを原則としたい。 この原則は、行政機関はもちろん、屋久島に係わる全ての人々が守るべき原則でありたい。 国の自然遺産への登録も、鹿児島県の環境文化村構想も、この原則を尊重し、理想へ向けて、その水準を高く100年の計を誤らず推進されることを願うものであり、これを契機として、次のことを目標とし、ここに屋久島憲章を定めます。 条文 1 わたくしたちは、島づくりの指標として、いつでもどこでもおいしい水が飲め、人々が感動を得られるような、水環境の保全と創造につとめ、そのことによって屋久島の価値を問いつづけます。 2 わたくしたちは、自然とのかかわりかたを身につけた子供たちが、夢と希望を抱き世界の子供たちにとって憧れであるような豊かな地域社会をつくります。 3 わたくしたちは、歴史と伝統を大切にし、自然資源と環境の恵みを活かし、その価値を損なうことのない、永続できる島づくりを進めます。 世界遺産登録後の観光客の増大によるゴミ増加、山岳トイレ、登山道とアクセス道路、山小屋の整備の遅れ、観光ガイドの質の低さなどが指摘されている。 特に縄文杉見学の登山客は激増した。2010年の同コースの登山客は約9万人で、それまでの10年間で3倍近くに増えた。一方で登山客の増加は、登山道の劣化、ゴミ処理、山岳トイレ、ガイドの資質等々の地域社会的問題を招いた。 屎尿処理は当初現地に埋設していたが、悪臭や水源汚染の問題が深刻化してきた。 2008年からトイレ利用者から山岳部保全募金(一人一口 500 円)を募るなどして、人力で屎尿搬出を始めた。しかし募金率は40%程度と低く、町の予算から拠出していた山岳トイレの屎尿処理費が約530万円の単年度赤字になるなど、町財政の負担になった。 実際の金額としては山岳部保全募金額は2014年度で約2075万円にものぼったが(屎尿搬出以外にも利用されているため)その財源を使い切った場合はバケツに詰めて留置されることが常態化していた。屋久島山岳部環境保全協力金収受状況(令和3年3月末)によれば、1リットルあたり約1527円(搬出量は計8460リットル)の搬出費となっていた。2016年度末には不足分を他の基金(屋久島町だいすき基金など)で補うこともあった。 また、並行して環境省が主導(2009年試験運用、2010年より開始)して屋久島観光協会が携帯トイレ販売事業を行っており、2018年の販売実績は約478万円(二個入り6777個、一個入り943個)となっている。人力による屎尿搬出の経費負担の削減を大きな目的としており、携帯トイレの回収ボックスを登山口などに設置、その回収費用は年間数十万円で、その費用にあてるため屋久島観光協会が売り上げの一部を山岳部募金に還流している。携帯トイレブースの管理維持費は山岳部が負担、最終的な携帯トイレの廃棄処理(特に大便)には使用を中止していた町の焼却炉を再稼働させて対応している。 バイオマストイレ(2007年12月に阪急交通社、2009年に小林製薬がそれぞれ寄贈、設置から数年のコストも寄贈者が負担)をはじめ、恒久トイレ(浄循環式水洗トイレや土壌処理式のトイレ)の導入も試みているが、故障により修繕維持費がかさむことが問題になっていた。 2017年に山岳部環境保全協力金が制定されるまでの屎尿搬出費の推移(屋久島町公表)は表の通り。 搬出と設備維持費用の増大に観光客の減少が追い討ちをかけており、令和元年に定めた「屋久島町第二次振興計画」においては恒久トイレ(登山道のバイオマストイレや汲み取り式トイレ)から携帯トイレ(と仮設トイレブース)への移行方針が検討されている。また携帯トイレの最終処理に必要不可欠なゴミ焼却施設の新設も計画されている。もともと屋久島は廃棄物処理に再生エネルギーである水力発電も活用した炭化・電気溶融施設を有していたが老朽化し一部故障したままで、目標とするゼロエミッションから後退して、大量のビニール製携帯トイレ処分と通常型の焼却施設を新設することとなる。 このような事態を受け、2011年6月に屋久島町町長の日高十七郎がエコツーリズム全体構想の骨格をなす縄文杉コースの利用制限、永田浜への立ち入り制限などを規定した町条例案を町議会に提出した。具体的には、縄文杉への日帰り登山客を1日360人、宿泊客60人に制限するものであった。しかし6月21日本会議に先がけて行われた特別委員会で出席議員全員の反対で否決された。否決前、「条例案に反対するよう求める」という屋久島観光協会ガイド部会の文書が全町議に送られていた。この動きを踏まえて、「屋久島は危機遺産になったほうがいい」という日本山岳会自然保護委員会世界自然遺産プロジェクトの意見表明まで出た。 また林野庁、環境省及び文化庁は、登山者の増加やヤクシカの増加により、生態系や自然景観に影響を及ぼす恐れが出てきたことから管理計画の見直し、新しい計画案への意見公募を2012年1月27日〜2月26日に行った。その結果を受けて、同年10月1日、林野庁・環境省・文化庁と鹿児島県及び屋久島町は新たな屋久島世界遺産地域管理計画を策定し発表した。その中で、ヤクシカの増加については特定鳥獣保護管理計画及び生態系維持回復事業計画を踏まえた個体数調整及び生態系の維持回復の方針を示し、登山客の増加については登山道や地域毎に利用方針を定めた上で利用の適正化(主に分散化)を図るとともに、エコツーリズムの推進方針を示している。 2011年10月30日に行われた町長選挙で当選した荒木耕治は、当選後、入島料の導入に言及。11月13日に「自然資源の保護が、あらゆる政策に優先する」と所信表明。島の環境保全を目的に来島者から「入島料」を徴収する方針を決めた。早ければ2013年度に導入を目指すとした。しかし、2013年中の「屋久島町入島税等検討会議」で『税の公平原則によって、課税対象、金額等に制約が生じ、賦課徴収コストが大きくなり現時点での導入は難しい。』との認識を共有し入島料(税)ではなく、2014年の同会議にて受益者負担を求める仕組みとして「入山協力金」の採用が確認された。 2017年、環境保全事業の財源として、登山者から徴収する入山協力金制度(山岳部環境保全協力金)を設けた。当初の目論見では9割の協力を得て約7千万円の収入を見込み実際は79%の協力により初年度は6541万円の収入となった。翌年、職員による横領が発覚し補填として繰越金の基金残高をあてたが事業収入は2018年度から2726万円と赤字に転落。更に事件直後は一時的に収納率が大きく悪化し、現在も収納額は減少傾向で不足分を町が負担している。 屋久島の入込者数は昭和後半まで 11~12 万人台で推移し、1989年に高速船トッピー就航で17 万人台に急増。その後、1993年の世界自然遺産登録を経て増加を続け、2003年に30万人台を超え2007年に過去最高の40万人台を記録した後、減少傾向にある。2013年からは 30 万人を下回っており、2016年には2000年と同程度まで減少した。 減少した観光客に加えコロナによる打撃は大きかったが、一方で「環境保全を考えると、40万人は多すぎた」と環境と経済のバランスを考え直す機会ともなった。2016年には35万人に回復させる目標で空港滑走路の延伸など利便性の向上とリピーターを増やすことを目指していたが、現在は通信環境の整備によってワーケーションを誘致し長期滞在型の利用を促進する方向も模索されている。 一周を海に囲まれているが、海岸線は崖や磯になっている部分が多い。そのため、砂浜はごく僅かで、海水浴の為の施設は乏しい。遠浅で海水浴に適しているものとしては、島の北西部にあるアカウミガメ上陸・産卵数日本一で2005年にラムサール条約にも登録された永田浜(前浜・いなか浜)がある。 運行本数は、種子島・屋久島交通が比較的多く、朝から夕方にわたり運行している。一方、まつばんだ交通バスは各路線の運行本数が非常に少ない。※運行本数・運賃・所要時間等の詳細は、公式サイト・観光協会サイトなどを参照。 複数のレンタカー会社があり利用者も多いが、毎年のように交通事故が後を絶たない。西部林道と呼ばれる北西の道路は車同士がすれ違うのが困難な狭い道で、急カーブや急勾配が続くほか、雨の日には土砂崩れや数トンの落石などがあり通行止めとなることもある。なお、島内でのガソリン販売価格は、本土より数十円高くなっている。 旅客営業用ではないが、現存する日本唯一の森林鉄道である安房森林軌道がある。軌道の一部に登山道との供用区間がある。ただし、屋久島電工が管理・運行する区間は全線立入禁止となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "屋久島(やくしま)は、鹿児島県の大隅半島佐多岬南南西約60kmの海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。南方に位置するトカラ列島や奄美群島などとともに南西諸島を構成する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "九州最高峰の山、宮之浦岳(標高1936m)がある。自然が豊かで、屋久島国立公園の中核をなし、世界自然遺産の一つに登録されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "面積504.29 km、周囲130km(東西約28km、南北24km)。円形に近い五角形をしており、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本の中では本州など4島を除くと面積第9位である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "豊かで美しい自然が残されており、島の90%が森林である。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47 kmがユネスコの世界遺産に登録されている。この世界遺産への登録は1993年、姫路城、法隆寺、白神山地とともに日本からの第一陣であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全島が屋久島町の町域であり、直近2020年の推計人口は39,550人。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本島においての発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、安房電気利用組合、種子屋久農協、九州電力送配電、屋久島町の4事業者が分担して供給している。したがって本島では九州電力送配電が電気を供給していない世帯や事業者も存在する。平素、島内の電力は水力発電で賄われており、火力発電は緊急時に限って活用される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "屋久島はほぼ全域が山地であり、1,000mから1,900m級の山々の連なりは八重岳と呼ばれ洋上アルプスの異名もある。屋久島山地と記述した文献もある。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえる。このような中央部の高峰は奥岳と呼ばれ、永田岳を除き海岸部の人里から望むことはできない。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳とされ、山頂に一品宝珠大権現が祀られ古来より嶽参りの対象とされてきたが、『三國名勝図會』の記す栗生嶽は位置的に現在の黒味岳に相当するとする説もある。海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳などがある。また、喜界カルデラを生んだ6,300年前の大噴火の際、屋久島は火砕流によって島の大部分が覆われたことがあるとされている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "地質的には西南日本外帯の四万十帯に属し、島外周部は日向層群(旧称・熊毛層群) の第三紀堆積岩からなり、中央山岳部は直径約25kmの巨大な花崗岩が貫入している。屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後に隆起して形成された。また激しい雨による侵食の結果として残された花崗岩塊が点在し、永田岳の山頂付近に見られるローソク岩のような岩塔が林立する。一般に花崗岩は広い間隔で節理が発達するため巨大な岩塊が生まれる。さらに島の北西-南東方向および、北東-南西方向に発達した渓谷や尾根筋も節理の方向に沿って侵食が進んだ結果である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140にも及ぶ。主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つである。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝、千尋の滝などが良く知られ、宮之浦川には、屋久島最大の竜王滝(3段110m)がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "国土地理院地図(抄)。陸繋した浜辺や海礁上の小岩、無名の岩を除く。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」 と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間降水量は平地で4,000~5,000mm程度、山地では8,000mm~12,000mmにも達する。気象庁の屋久島特別地域気象観測所の平年値4,651.7mm(1991-2020年)は、気象庁の観測地点として全国1位(2位は宮崎県えびの高原アメダスの4,625mm)となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "とりわけ山間部の観測点では、淀川登山口で1999年に11,720mm、ヤクスギランドで2012年に11,130mm(平年値10,048mm)を記録するなど、毎年10,000mm前後の降水量が観測されている。これは、世界最多とされるインドのマウシンラム(平年値11,872mm)やチェラプンジ(平年値11,856.8mm)にも迫る、世界屈指の多雨地帯といえる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また山頂付近の年間平均気温は約6-7°C(北海道札幌市よりも低い)であるために積雪が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている(60cm以上の積雪を観測することがあるほか、3月の彼岸以降でも大雪や路面凍結、また4月以降でも頂上付近ではまだ冠雪が見られる)。こうした条件により、豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれている。また、日本の地質百選にも2007年に選定された。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "温帯最南部のほぼ亜熱帯に属する地域にありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されている。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "海岸付近の低地はアコウ、ガジュマルなど亜熱帯性の植物相である。このガジュマル林は日本最北端のものとされる。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "やや内陸の標高約500mまではシイ、ウラジロガシなど暖帯林、約500mないし600mから1,000mないし1,200mはウラジロガシ、スギおよびイスノキなどの混合林で移行帯となりスギの人工林もあり、約1,000mから1,600mは屋久杉、ヤマグルマおよびモミなどの温帯林となる。約1,600m以上はササに覆われ、ヤクシマシャクナゲなどが点在し、高山的様相を呈する。本州や四国などで落葉広葉樹林帯に相当するブナ林はなく代わりに屋久杉が分布し、同程度の標高である石鎚山脈、剣山地および大峰山脈とは異なり、南海上の島である屋久島はシラビソなどの亜高山帯針葉樹林を欠く。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "島の中心部には、日本最南端の高層湿原である花之江河(はなのえごう)、小花之江河(こはなのえごう)が存在する。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ヤクシマの名を冠した植物は極めて数が多く、以下のようなものがある。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、屋久島の植物にはなぜか他より小さいものが多い。たとえばイッスンキンカ(ベトナム語版)はかつてはアキノキリンソウの変種とされたものだが、せいぜい7cmにしかならない(アキノキリンソウは30cm以上になる)。このようなものは山野草や盆栽としての鑑賞価値が高いため、これらを屋久島ものと呼んで珍重する動きがある。また、これに便乗する形で、他地域産のものでも小柄な姿のものに対して「屋久島○○」と名付けて販売される場合があるという。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "野生哺乳類としては、ヤクザルやヤクシカ、コウベモグラ、ジネズミ、ヒメネズミ、コイタチ、コウモリ数種しか生息していない。1990年代から外来種のタヌキが観察されるようになり、定着したものと思われる。沖合は古来、様々な鯨類の回遊路にあたり、大幅に種類が減ってしまった現在でもマッコウクジラやイルカ類等が近海で見られ、2010年代からはザトウクジラの確認も増えており、将来的なホエールウォッチングの可能性の調査を兼ねた陸上からの観察会も行われている。薩摩藩政時代にはジュゴンが、昭和初期にはカワウソ が生息していたことが報告されているが、標本等は残されていない。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ヤクシカは杉の芽や希少植物を食害する面もあるため、捕獲して食肉として加工する屋久島ジビエ加工センターが2017年度に整備された。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "爬虫類ではニホントカゲやマムシなどが知られ、日本本土とほぼ共通である。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "島北部の永田浜は世界有数のアカウミガメの産卵地であり、ラムサール条約登録湿地となっている(後述)。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上記のように主な動物は日本本土と共通、あるいは関係が深いものである。それに対してこの島以南の南西諸島に見られるアマミノクロウサギやハブなど、南西諸島に独特のものは見られない。そのため、この島の南側に分布境界線として渡瀬線(渡瀬ライン)を認める。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スギ(杉、Cryptomeria japonica)の屋久島に産し、樹齢が1000年を超えるものをヤクスギと呼んでいる。屋久島の強風、多雨、地質、シカの生息などの自然環境に対応して抗菌性を持つ樹脂を多量に分泌し、極めて長寿になる、幼樹の葉が鋭いなど、特徴的な形質を有する。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ヤクスギ、モミ、ツガを主体とする温帯針葉樹林は屋久島の標高600m以上に分布する。600 - 1,200 mは低地を占める照葉樹林との移行帯であり、両方の要素が混交する。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "抗菌性が強く耐久性があることが重視され、中世以降、建築材や造船材として開発された。豊臣秀吉による京都の方広寺大仏殿建立の際、石田三成が島津義久に屋久島の木材資源調査を指示しており、実際に木材が薩南海域から大坂へ運ばれた形跡がある。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "17世紀に薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化し、明治になるまでにヤクスギの良木のほとんどが伐採された。樹齢1000年程度の巨木は年輪が歪み、山地での製材が不可能であったため放置され、現在も生きているものが多い。伐採跡地にはスギの稚樹が成長し、以来300~400年を経て美しい二次林を形成している。三次林となっている林分も広い。現在は1000年程度の巨木や変形木をヤクスギ(屋久杉)とよび、二次林・三次林をつくる若いスギをコスギ(小杉)と呼ぶ。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "明治以降、屋久島の山林の大半は国有林に編入され、大正から昭和にかけて二次林・三次林の伐採が進んだ。1000年以上の「屋久杉」は切り残されることが多かったが、樹齢400年以下の「小杉」は、屋久杉ではないとされ、1955年(昭和30年)にチェーンソーが導入されるとともに、大々的に伐採が進んだ。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現在、原生自然環境保全地域に含まれる小楊枝川流域、国立公園第一種特別地域に含まれる永田川流域、宮之浦川上流域、東部の安房川支流荒川左岸(ヤクスギランド)などがヤクスギの主要な群落として僅かに残されている。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "屋久島最大の「縄文杉」はかつてその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ、環境省(当時は環境庁)の環境週間ポスターで「7200歳です」と紹介されたことで、全国的に有名になった。現在では放射性炭素年代測定法で推定樹齢約2000年以上であることが確認されている。またその際に内部組織の年代が入り乱れ、同心円状の年輪を形成していなかったことから合体木であるという説があったが、これに対して数本の大枝から葉をサンプリングして遺伝子分析解析を行った結果、同じ遺伝子の木であることが明らかになった。ただし、杉の場合、木の枝どうしが癒着する接合木、倒木の上に新木が生える更新木といった現象がよく知られており、同じ遺伝子であっても、同じ木からの複数の落ち枝がいわばそれぞれ苗木となって育って合体木となった可能性がある。年代測定を行ったときにも、ウロの中の朽ちた部分にとりわけ古い年代が出たこともあり、既に朽ちたさらに古い木があり、そこからの新木の合体木である可能性が強い。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお現在までに確認された最古の木は「大王杉」で、やはり放射性炭素年代測定法で樹齢3000年以上とされる。", "title": "生物的環境" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "屋久島が初めて文献に出現するのは、中国の歴史書『隋書』大業3年(607年)、煬帝の代に「夷邪久国」の記述が見えるのが最初である、この「夷邪久」は屋久島を指す説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指す説とがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『日本書紀』では推古天皇24年(616年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、舒明天皇元年(629年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載がある。『日本書紀』で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島を指すような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、天武天皇11年(682年)に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『続日本紀』には、文武3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに多禰国との記述があり、大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」とあり、薩摩国と多禰国が成立する。これ以後、大和朝廷は令制国として一国に準ずる多禰国に国司(嶋司)を派遣する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "多禰国からの税収はとても小さかったが、南島(南西諸島)との交流や、隼人の平定、遣唐使の派遣のため格は中国として扱われていた。実際、天平勝宝5年(753年)12月7日に鑑真、大伴古麻呂、吉備真備らを乗せた遣唐使船の第二船、第三船が屋久島に帰国し、鑑真が来日したは場所は屋久島である。屋久島で11日間の1日の滞在を経て第二船は12月18日に大宰府に向けて出港、20日に秋目、26日に大宰府に到着する。734年(種子島)と753年(屋久島)の二度、遣唐使が多禰国に帰国した。『日本書紀』では7か所に多禰、『続日本紀』では21か所に「多禰」または「多褹」と記述されている)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "しかし、島民を兵として徴用しても動員が難しく、年貢として取り立ても少ないことから、天長元年(824年)10月1日に多禰嶋司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国'に編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1203年に鎌倉幕府から種子島氏に種子島を初めとした南西諸島が与えられ、屋久島も種子島氏の支配下に置かれることになる。1542年に大隅の禰寝氏が種子島氏の悪政を正すとの名目で屋久島に襲来し、島を占拠。宮之浦に城ケ平城を築城。1544年に種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める。禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる。このとき初めて火縄銃が実戦で使用されたと伝えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1595年、種子島久時のとき、太閤検地に伴う所替えで薩摩国知覧に移され、屋久島は島津家の直轄地となる。また豊臣秀吉が京都方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、島津家にも用材の献上を命じられている。一説にはウィルソン株はその時に切り出された屋久杉の切り株ともいわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "江戸時代は薩摩藩の支配下に置かれる。島津光久に招かれ薩摩藩に仕えていた僧侶であり儒学者でもあり、屋久島の安房の生まれであった泊如竹は、島民の困窮を目にし、島民のため屋久杉伐採を藩に願い出る。また屋久杉伐採の指導などを行い島の経済復興に尽力した。このため屋久聖人と呼ばれている。今でも泊如竹の命日である旧暦5月25日に如竹踊りが如竹神社で行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "米作、畑作に不向きな屋久島の年貢は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった。男子は年一人当り平木六束(一束は百枚で600枚)を納めることとなっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1708年にキリスト教布教のため、鎖国下の日本に潜入しようとしたジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが、屋久島に上陸している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "明治時代に入り、地租改正により島の山林のほとんどが国有地に編入された。1891年(明治24年)には国有林監視所が設置され、盗伐の取り締まりが強化されたことをきっかけに、明治37年(1904年)には島民が国を相手取って訴訟を起こすに至った。この訴訟は16年に及ぶ長期の係争となったが、関係書類から元々は薩摩藩有であったことが確認されるとして島民側の敗訴となった。だが、この判決には批判が多く、国会議員やマスコミからの追及が高まった。世論を重視した国は大正10年(1921年)に屋久島の国有林を島民一般のためにのみ使用することを旨とする『屋久島国有林経営の大綱』を定めた。この処置は島民から大いに喜ばれ、『屋久島憲法』と呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大正11年(1922年)からは本格的なインフラ整備が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1992年3月13日に世界遺産条約の国会提出が閣議決定され、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付した。それを受けて、1992年10月1日、屋久島が世界遺産委員会へ推薦された。1993年12月11日、コロンビアのカルタヘナで開催された世界遺産委員会で、世界遺産リストに登録された。姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初である。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "登録当時、ユネスコ世界遺産センターのドロステ所長は「自然遺産としての屋久島の価値は、多くの人たちが暮らしていながら、すぐれた自然が残されていることにある。」と語っている。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "屋久町と上屋久町の両町議会は、世界遺産登録を控えた1993年にその保全を目的として屋久島憲章を制定した。両町が合併して屋久島町となった2007年10月1日、同憲章を改めて決議第一号とした。屋久島の自然環境保護を第一とし、自然環境との共生による島の将来への指針を示している。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "前文 地球と人類の宝物である屋久島。 この島は、周囲132km、面積503kmの日本で5番目に大きい島である。 屋久杉を象徴とする森厳な大自然に抱かれ、神々に頭をたれ、流れに身を浄め大海の恵みに日々を委ねて人々が生きた島。 この島は、はるかな昔から人々の魂を揺さぶりつづけ、近世森林の保全と活用で人々が苦しみ葛藤した島である。そして今、物質文明の荒波をようように免れた屋 久島は、その存在そのものが人間に対する啓示であり、地球的テーマそのものである。 この島に住む私たちは、この屋久島の価値と役割を正しくとらえ、自らの信念と生きざまによって、この島の自然と歴史に立脚した確かな歩を始める。そのため、この島の自然と環境を私たちの基本的資産として、この資産の価値を高めながら、うまく活用して生活の総合的な活動の範囲を拡大し、水準を引き上げていくことを原則としたい。 この原則は、行政機関はもちろん、屋久島に係わる全ての人々が守るべき原則でありたい。 国の自然遺産への登録も、鹿児島県の環境文化村構想も、この原則を尊重し、理想へ向けて、その水準を高く100年の計を誤らず推進されることを願うものであり、これを契機として、次のことを目標とし、ここに屋久島憲章を定めます。 条文 1 わたくしたちは、島づくりの指標として、いつでもどこでもおいしい水が飲め、人々が感動を得られるような、水環境の保全と創造につとめ、そのことによって屋久島の価値を問いつづけます。 2 わたくしたちは、自然とのかかわりかたを身につけた子供たちが、夢と希望を抱き世界の子供たちにとって憧れであるような豊かな地域社会をつくります。 3 わたくしたちは、歴史と伝統を大切にし、自然資源と環境の恵みを活かし、その価値を損なうことのない、永続できる島づくりを進めます。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "世界遺産登録後の観光客の増大によるゴミ増加、山岳トイレ、登山道とアクセス道路、山小屋の整備の遅れ、観光ガイドの質の低さなどが指摘されている。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "特に縄文杉見学の登山客は激増した。2010年の同コースの登山客は約9万人で、それまでの10年間で3倍近くに増えた。一方で登山客の増加は、登山道の劣化、ゴミ処理、山岳トイレ、ガイドの資質等々の地域社会的問題を招いた。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "屎尿処理は当初現地に埋設していたが、悪臭や水源汚染の問題が深刻化してきた。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2008年からトイレ利用者から山岳部保全募金(一人一口 500 円)を募るなどして、人力で屎尿搬出を始めた。しかし募金率は40%程度と低く、町の予算から拠出していた山岳トイレの屎尿処理費が約530万円の単年度赤字になるなど、町財政の負担になった。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "実際の金額としては山岳部保全募金額は2014年度で約2075万円にものぼったが(屎尿搬出以外にも利用されているため)その財源を使い切った場合はバケツに詰めて留置されることが常態化していた。屋久島山岳部環境保全協力金収受状況(令和3年3月末)によれば、1リットルあたり約1527円(搬出量は計8460リットル)の搬出費となっていた。2016年度末には不足分を他の基金(屋久島町だいすき基金など)で補うこともあった。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、並行して環境省が主導(2009年試験運用、2010年より開始)して屋久島観光協会が携帯トイレ販売事業を行っており、2018年の販売実績は約478万円(二個入り6777個、一個入り943個)となっている。人力による屎尿搬出の経費負担の削減を大きな目的としており、携帯トイレの回収ボックスを登山口などに設置、その回収費用は年間数十万円で、その費用にあてるため屋久島観光協会が売り上げの一部を山岳部募金に還流している。携帯トイレブースの管理維持費は山岳部が負担、最終的な携帯トイレの廃棄処理(特に大便)には使用を中止していた町の焼却炉を再稼働させて対応している。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "バイオマストイレ(2007年12月に阪急交通社、2009年に小林製薬がそれぞれ寄贈、設置から数年のコストも寄贈者が負担)をはじめ、恒久トイレ(浄循環式水洗トイレや土壌処理式のトイレ)の導入も試みているが、故障により修繕維持費がかさむことが問題になっていた。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2017年に山岳部環境保全協力金が制定されるまでの屎尿搬出費の推移(屋久島町公表)は表の通り。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "搬出と設備維持費用の増大に観光客の減少が追い討ちをかけており、令和元年に定めた「屋久島町第二次振興計画」においては恒久トイレ(登山道のバイオマストイレや汲み取り式トイレ)から携帯トイレ(と仮設トイレブース)への移行方針が検討されている。また携帯トイレの最終処理に必要不可欠なゴミ焼却施設の新設も計画されている。もともと屋久島は廃棄物処理に再生エネルギーである水力発電も活用した炭化・電気溶融施設を有していたが老朽化し一部故障したままで、目標とするゼロエミッションから後退して、大量のビニール製携帯トイレ処分と通常型の焼却施設を新設することとなる。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "このような事態を受け、2011年6月に屋久島町町長の日高十七郎がエコツーリズム全体構想の骨格をなす縄文杉コースの利用制限、永田浜への立ち入り制限などを規定した町条例案を町議会に提出した。具体的には、縄文杉への日帰り登山客を1日360人、宿泊客60人に制限するものであった。しかし6月21日本会議に先がけて行われた特別委員会で出席議員全員の反対で否決された。否決前、「条例案に反対するよう求める」という屋久島観光協会ガイド部会の文書が全町議に送られていた。この動きを踏まえて、「屋久島は危機遺産になったほうがいい」という日本山岳会自然保護委員会世界自然遺産プロジェクトの意見表明まで出た。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また林野庁、環境省及び文化庁は、登山者の増加やヤクシカの増加により、生態系や自然景観に影響を及ぼす恐れが出てきたことから管理計画の見直し、新しい計画案への意見公募を2012年1月27日〜2月26日に行った。その結果を受けて、同年10月1日、林野庁・環境省・文化庁と鹿児島県及び屋久島町は新たな屋久島世界遺産地域管理計画を策定し発表した。その中で、ヤクシカの増加については特定鳥獣保護管理計画及び生態系維持回復事業計画を踏まえた個体数調整及び生態系の維持回復の方針を示し、登山客の増加については登山道や地域毎に利用方針を定めた上で利用の適正化(主に分散化)を図るとともに、エコツーリズムの推進方針を示している。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2011年10月30日に行われた町長選挙で当選した荒木耕治は、当選後、入島料の導入に言及。11月13日に「自然資源の保護が、あらゆる政策に優先する」と所信表明。島の環境保全を目的に来島者から「入島料」を徴収する方針を決めた。早ければ2013年度に導入を目指すとした。しかし、2013年中の「屋久島町入島税等検討会議」で『税の公平原則によって、課税対象、金額等に制約が生じ、賦課徴収コストが大きくなり現時点での導入は難しい。』との認識を共有し入島料(税)ではなく、2014年の同会議にて受益者負担を求める仕組みとして「入山協力金」の採用が確認された。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2017年、環境保全事業の財源として、登山者から徴収する入山協力金制度(山岳部環境保全協力金)を設けた。当初の目論見では9割の協力を得て約7千万円の収入を見込み実際は79%の協力により初年度は6541万円の収入となった。翌年、職員による横領が発覚し補填として繰越金の基金残高をあてたが事業収入は2018年度から2726万円と赤字に転落。更に事件直後は一時的に収納率が大きく悪化し、現在も収納額は減少傾向で不足分を町が負担している。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "屋久島の入込者数は昭和後半まで 11~12 万人台で推移し、1989年に高速船トッピー就航で17 万人台に急増。その後、1993年の世界自然遺産登録を経て増加を続け、2003年に30万人台を超え2007年に過去最高の40万人台を記録した後、減少傾向にある。2013年からは 30 万人を下回っており、2016年には2000年と同程度まで減少した。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "減少した観光客に加えコロナによる打撃は大きかったが、一方で「環境保全を考えると、40万人は多すぎた」と環境と経済のバランスを考え直す機会ともなった。2016年には35万人に回復させる目標で空港滑走路の延伸など利便性の向上とリピーターを増やすことを目指していたが、現在は通信環境の整備によってワーケーションを誘致し長期滞在型の利用を促進する方向も模索されている。", "title": "世界遺産" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "一周を海に囲まれているが、海岸線は崖や磯になっている部分が多い。そのため、砂浜はごく僅かで、海水浴の為の施設は乏しい。遠浅で海水浴に適しているものとしては、島の北西部にあるアカウミガメ上陸・産卵数日本一で2005年にラムサール条約にも登録された永田浜(前浜・いなか浜)がある。", "title": "観光" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "運行本数は、種子島・屋久島交通が比較的多く、朝から夕方にわたり運行している。一方、まつばんだ交通バスは各路線の運行本数が非常に少ない。※運行本数・運賃・所要時間等の詳細は、公式サイト・観光協会サイトなどを参照。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "複数のレンタカー会社があり利用者も多いが、毎年のように交通事故が後を絶たない。西部林道と呼ばれる北西の道路は車同士がすれ違うのが困難な狭い道で、急カーブや急勾配が続くほか、雨の日には土砂崩れや数トンの落石などがあり通行止めとなることもある。なお、島内でのガソリン販売価格は、本土より数十円高くなっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "旅客営業用ではないが、現存する日本唯一の森林鉄道である安房森林軌道がある。軌道の一部に登山道との供用区間がある。ただし、屋久島電工が管理・運行する区間は全線立入禁止となっている。", "title": "交通" } ]
屋久島(やくしま)は、鹿児島県の大隅半島佐多岬南南西約60kmの海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。南方に位置するトカラ列島や奄美群島などとともに南西諸島を構成する。 九州最高峰の山、宮之浦岳(標高1936m)がある。自然が豊かで、屋久島国立公園の中核をなし、世界自然遺産の一つに登録されている。
{{Pathnav|世界|アジア|東アジア|日本|南西諸島|大隅諸島|frame=1}} {{Infobox 島 | 島名 = 屋久島 | 画像 = [[ファイル:yakushima.jpg|300px]]<br />[[ランドサット]]画像(2002年) | 面積 = 504.88 | 周囲 = | 標高 = 1,936 | 人口 = 39,550(2020年) | 最高峰 = [[宮之浦岳]] | 諸島 = [[大隅諸島]] | 海域 = [[東シナ海]] | 国 = {{JPN}}<br />[[鹿児島県]][[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[屋久島町]] | 地図2 = Japan Kagoshima#Japan }} '''屋久島'''(やくしま)は、[[鹿児島県]]の[[大隅半島]][[佐多岬]]南南西約60[[キロメートル|km]]の海上に位置する[[島]]。[[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[屋久島町]]に属し、近隣の[[種子島]]や[[口永良部島]]などと共に[[大隅諸島]]を形成する。南方に位置する[[トカラ列島]]や[[奄美群島]]などとともに[[南西諸島]]を構成する。 [[九州]]最高峰の山、[[宮之浦岳]]([[標高]]1936[[メートル|m]])がある。自然が豊かで、[[屋久島国立公園]]の中核をなし、[[世界自然遺産]]の一つに登録されている<ref>[https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/wh/toroku.htm 屋久島世界遺産センター] 環境省(2021年4月29日閲覧)</ref>。 == 概要 == [[面積]]504.29[[平方キロメートル|&nbsp;km{{sup|2}}]]<ref>{{PDFlink|[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20141001.pdf 島面積 平成26年10月1日時点]}} 国土地理院{{リンク切れ|date=2021年9月}}</ref>、周囲130km(東西約28km、南北24km)<ref name="yakusugi-museum">{{Cite web|和書|url=http://yakusugi-museum.com/data-yakushima-yakusugi/201-yakushima-gaiyou.html |title=屋久島/概要 |publisher=屋久島町屋久杉自然館 |website=屋久杉自然館 |accessdate=2018-12-19}}</ref>。円形に近い五角形をしており、[[淡路島]]よりやや小さい<ref name="yakusugi-museum" />。[[鹿児島県]]の島としては[[奄美大島]]に次いで2番目、[[日本]]の中では[[本州]]など4島を除くと面積第9位である<ref>国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635<br /> [[択捉島]]-[[国後島]]-[[沖縄本島]]-[[佐渡島]]-[[奄美大島]]-[[対馬]]-[[淡路島]]-[[天草下島]]-'''屋久島'''の順。</ref>。 {{wide image|Yakushima Panorama.jpg|500px|太鼓岩から望む屋久島の山々のパノラマ|230px|right}} 豊かで美しい自然が残されており、島の90%が森林である。島の中央部の[[宮之浦岳]](1936m)を含む[[屋久杉]]自生林や西部[[林道]]付近など、島の面積の約21%にあたる107.47&nbsp;km<sup>2</sup>が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。この世界遺産への登録は[[1993年]]、[[姫路城]]、[[法隆寺]]、[[白神山地]]とともに日本からの第一陣であった。 全島が[[屋久島町]]の町域であり、直近2020年の推計人口は39,550人。 本島においての発電は、[[屋久島電工]]が製錬所の[[自家発電]]のために建設した[[火力発電所]]と[[水力発電所]]からの電気を、安房電気利用組合、種子屋久農協、[[九州電力送配電]]、屋久島町の4事業者が分担して供給している。したがって本島では九州電力送配電が電気を供給していない世帯や事業者も存在する。平素、島内の電力は[[水力発電]]で賄われており、[[火力発電]]は緊急時に限って活用される。 {{clear|left}} == 地理 == {{Location map many | 100x100 | AlternativeMap = Yakushima Relief Map, SRTM.jpg | float = right | width = 360px | caption = 屋久島の地形図 | label1 = {{fontsize|95%|[[永田岳|{{Color|white|永田岳}}]]}} | position1 = top | mark1 = ArrowUp.svg | mark1size = 7 | lat1_deg = 47 | lon1_deg = 44 | label2 = {{fontsize|95%|[[宮之浦岳|{{Color|white|宮之浦岳}}]]}} | position2 = | mark2 = ArrowUp.svg | mark2size = 7 | lat2_deg = 45 | lon2_deg = 47 | label3 = {{fontsize|95%|[[黒味岳|{{Color|white|黒味岳}}]]}} | position3 = left | mark3 = ArrowUp.svg | mark3size = 7 | lat3_deg = 37 | lon3_deg = 48 | label4 = {{fontsize|85%|[[愛子岳|{{Color|white|愛子岳}}]]}} | position4 = bottom | mark4 = ArrowUp.svg | mark4size = 7 | lat4_deg = 57 | lon4_deg = 71 | label5 = {{fontsize|85%|[[国割岳|{{Color|white|国割岳}}]]}} | position5 = top | mark5 = ArrowUp.svg | mark5size = 7 | lat5_deg = 51 | lon5_deg = 24 | label6 = {{fontsize|85%|[[ジンネム高盤岳|{{Color|white|ジンネム<br />高盤岳}}]]}} | position6 = | mark6 = ArrowUp.svg | mark6size = 7 | lat6_deg = 26 | lon6_deg = 49 | label7 = {{fontsize|95%|[[本富岳|{{Color|white|本富岳}}]]}} | position7 = bottom | mark7 = ArrowUp.svg | mark7size = 7 | lat7_deg = 13 | lon7_deg = 62 | label8 = {{fontsize|85%|[[太忠岳|{{Color|white|太忠岳}}]]}} | position8 = | mark8 = ArrowUp.svg | mark8size = 7 | lat8_deg = 38 | lon8_deg = 62 | label9 = {{fontsize|85%|[[七五岳|{{Color|white|七五岳}}]]}} | position9 = left | mark9 = ArrowUp.svg | mark9size = 7 | lat9_deg = 23 | lon9_deg = 44 | label10 = {{fontsize|85%|[[一湊岳|{{Color|white|一湊岳}}]]}} | position10 = top | background10 = | mark10 = ArrowUp.svg | mark10size = 7 | lat10_deg = 79 | lon10_deg = 45 | label11 = {{fontsize|85%|[[吉田岳|{{Color|white|吉田岳}}]]}} | position11 = | background11 = | mark11 = ArrowUp.svg | mark11size = 7 | lat11_deg = 68 | lon11_deg = 40 | label12 = {{fontsize|85%|[[屋久島空港|{{Color|white|屋久島空港}}]]}} | position12 = | background12 = | mark12 = Circlemarker.svg | mark12size = 6 | lat12_deg = 63 | lon12_deg = 87 | label13 = {{fontsize|85%|[[白谷雲水峡|{{Color|white|白谷<br />雲水峡}}]]}} | position13 = top | background13 = | mark13 = Circlemarker.svg | mark13size = 6 | lat13_deg = 61 | lon13_deg = 64 | label14 = {{fontsize|85%|[[縄文杉|{{Color|white|縄文杉}}]]}} | position14 = top | background14 = | mark14 = Circlemarker.svg | mark14size = 6 | lat14_deg = 54 | lon14_deg = 54 }} === 地形・地質 === 屋久島はほぼ全域が[[山地]]であり、1,000mから1,900m級の山々の連なりは'''八重岳'''と呼ばれ'''洋上アルプス'''の異名もある<ref name="Sekaihyakka">「八重岳」『[[世界大百科事典]]』28([[平凡社]]、2009年)p.348</ref>。屋久島山地と記述した文献もある<ref>勝廣光『奄美の稀少生物ガイド I: 植物、哺乳類、節足動物ほか』南方新社、2007年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref><ref>初島住彦『南九州・里の植物: 太陽の贈り物』南方新社、2001年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。中央部には[[日本百名山]]の一つで[[九州地方]]最高峰の[[宮之浦岳]] (1,936m) がそびえる。このような中央部の高峰は奥岳と呼ばれ、永田岳を除き海岸部の人里から望むことはできない。宮之浦岳、[[永田岳]]および[[栗生岳]]は屋久島三岳とされ、山頂に[[益救神社|一品宝珠大権現]]が祀られ古来より嶽参りの対象とされてきたが<ref>太田五雄『屋久島の山岳 近代スポーツ登山65年の歴史と現在』八重岳書房、1993年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>、『[[三国名勝図会|三國名勝図會]]』の記す栗生嶽は位置的に現在の[[黒味岳]]に相当するとする説もある。海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、[[本富岳]]、[[国割岳]]および[[愛子岳]]などがある。また、喜界カルデラを生んだ6,300年前の大噴火の際、屋久島は火砕流によって島の大部分が覆われたことがあるとされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kazan.or.jp/J/QA/topic/topic135.html |title=火山学者に聞いてみよう -トピック編- |access-date=2022-06-21 |publisher=日本火山学会 |author=川辺禎 久}}</ref>。 地質的には[[西南日本]]外帯の[[四万十層群|四万十帯]]に属し、島外周部は日向層群(旧称・熊毛層群)<ref>{{Cite journal |format=PDF |url=http://www.earth-app.co.jp/files/topics_20081024.pdf |author=斎藤眞|author2=川上俊介|author3=小笠原正継|title=始新世放散虫化石の発見に基づく屋久島の四万十帯付加体の帰属 |journal=『地質学雑誌』 |volume=113|issue=6|pages=266-269|year=2007}}</ref> の[[第三紀]][[堆積岩]]からなり、中央山岳部は直径約25kmの巨大な[[花崗岩]]が[[貫入岩|貫入]]している。屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後に[[隆起]]して形成された。また激しい雨による[[侵食]]の結果として残された花崗岩塊が点在し、永田岳の山頂付近に見られるローソク岩のような岩塔が林立する。一般に花崗岩は広い間隔で[[節理]]が発達するため巨大な岩塊が生まれる。さらに島の北西-南東方向および、北東-南西方向に発達した[[渓谷]]や[[尾根]]筋も節理の方向に沿って侵食が進んだ結果である<ref name="tashiro">田代博、藤本一美、清水長正、高田将志『山の地図と地形』[[山と溪谷社]]、1996年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。 屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140にも及ぶ。主な河川は'''安房川'''、'''宮之浦川'''、'''永田川'''、'''栗生川'''の4つである。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で[[滝]]が発達している。[[大川の滝]]、[[千尋の滝]]などが良く知られ、宮之浦川には、屋久島最大の竜王滝(3段110m)がある。 {{multiple image | align = center | image1=Yakushima Mitake.jpg | width1 = 190 | caption1=屋久島三岳とされる[[宮之浦岳]]、[[永田岳]]、[[栗生岳]] | image2=Yodo River (Yakushima) 05.jpg | width2 = 216 | caption2=安房川[[源流]]部の淀川(よどごう)<br>川砂は全て花崗岩 | image3=Ooko Falls 03.jpg | width3 = 216 | caption3=大川の滝(おおこのたき) | image4=Senpiro Fall Yakushima 01.jpg | width4 = 190 | caption4 = 千尋の滝(せんぴろのたき) }} {{clear}} === 小島・岩礁 === [[国土地理院]]地図(抄)。[[陸繋島|陸繋]]した浜辺や[[岩礁|海礁]]上の小岩、無名の岩を除く。 * '''山ノ瀬''' - (屋久島町)小島沖。 === 気候 === <div style="font-size:smaller"> {{climate chart|'''屋久島''' |8.9|14.7|294.6 |9.2|15.5|289.2 |11.3|18.0|387.0 |14.2|21.4|405.5 |17.5|24.5|444.1 |21.0|26.9|860.3 |23.9|30.5|362.4 |24.6|30.9|256.5 |22.8|28.9|450.7 |19.4|25.2|309.9 |15.2|21.2|309.6 |11.0|16.8|281.8 |float=right |source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=88&block_no=47836&year=&month=&day=&view= 気象庁] }} </div> 海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」<ref>林芙美子『浮雲』六興出版社、1951年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref> と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間[[降水量]]は平地で4,000~5,000mm程度、山地では8,000mm~12,000mmにも達する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/kyusyu/yakusima_hozen_c/gaiyou/kisyou/index.html|title=気象モニタリング|website=|publisher=[[林野庁]][[九州森林管理局]]|accessdate=2018-12-19}}</ref>。気象庁の屋久島特別地域気象観測所の平年値4,651.7mm(1991-2020年)は、気象庁の観測地点として全国1位(2位は宮崎県えびの高原アメダスの4,625mm)となっている。 とりわけ山間部の観測点では、淀川登山口で1999年に11,720mm、ヤクスギランドで2012年に11,130mm(平年値10,048mm)を記録するなど、毎年10,000mm前後の降水量が観測されている。これは、世界最多とされるインドのマウシンラム(平年値11,872mm)やチェラプンジ(平年値11,856.8mm)にも迫る、世界屈指の多雨地帯といえる。 また山頂付近の年間平均気温は約6-7℃<ref>{{Cite journal|和書|author=江口傳 |title=第II編 屋久島の生態系の形成と維持 (上) : 森林を中心として |journal=産業経営研究所報 |ISSN=02880059 |publisher=九州産業大学産業経営研究所 |year=2004 |issue=36 |pages=91-101 |naid=110004677855 |url=https://hdl.handle.net/11178/1275}}</ref>(北海道[[札幌市]]よりも低い)であるために[[積雪]]が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている(60cm以上の積雪を観測することがあるほか、3月の[[彼岸]]以降でも大雪や路面凍結、また4月以降でも頂上付近ではまだ冠雪が見られる)。こうした条件により、豊富な流水や湧水に恵まれ、[[1985年]]、宮之浦岳流水は[[名水百選]]に選ばれている。また、[[日本の地質百選]]にも[[2007年]]に選定された。 {{Weather box |location = 屋久島特別地域気象観測所(屋久島町小瀬田、標高37m) |metric first = yes |single line = yes |Jan record high C = 25.3 |Feb record high C = 26.1 |Mar record high C = 29.6 |Apr record high C = 29.8 |May record high C = 31.9 |Jun record high C = 34.8 |Jul record high C = 35.2 |Aug record high C = 35.4 |Sep record high C = 34.7 |Oct record high C = 31.3 |Nov record high C = 30.7 |Dec record high C = 26.6 |year record high C = 35.4 |Jan high C = 14.7 |Feb high C = 15.5 |Mar high C = 18.0 |Apr high C = 21.4 |May high C = 24.5 |Jun high C = 26.9 |Jul high C = 30.5 |Aug high C = 30.9 |Sep high C = 28.9 |Oct high C = 25.2 |Nov high C = 21.2 |Dec high C = 16.8 |year high C = 22.9 |Jan mean C = 11.8 |Feb mean C = 12.3 |Mar mean C = 14.6 |Apr mean C = 17.8 |May mean C = 21.0 |Jun mean C = 23.7 |Jul mean C = 27.0 |Aug mean C = 27.5 |Sep mean C = 25.7 |Oct mean C = 22.2 |Nov mean C = 18.2 |Dec mean C = 13.9 |year mean C = 19.6 |Jan low C = 8.9 |Feb low C = 9.2 |Mar low C = 11.3 |Apr low C = 14.2 |May low C = 17.5 |Jun low C = 21.0 |Jul low C = 23.9 |Aug low C = 24.6 |Sep low C = 22.8 |Oct low C = 19.4 |Nov low C = 15.2 |Dec low C = 11.0 |year low C = 16.6 |Jan record low C = 1.0 |Feb record low C = 0.7 |Mar record low C = 1.5 |Apr record low C = 4.5 |May record low C = 10.1 |Jun record low C = 13.7 |Jul record low C = 18.3 |Aug record low C = 19.6 |Sep record low C = 15.2 |Oct record low C = 9.1 |Nov record low C = 5.6 |Dec record low C = 2.2 |year record low C = 0.7 |Jan precipitation mm = 294.6 |Feb precipitation mm = 289.2 |Mar precipitation mm = 387.0 |Apr precipitation mm = 405.5 |May precipitation mm = 444.1 |Jun precipitation mm = 860.3 |Jul precipitation mm = 362.4 |Aug precipitation mm = 256.5 |Sep precipitation mm = 450.7 |Oct precipitation mm = 309.9 |Nov precipitation mm = 309.6 |Dec precipitation mm = 281.8 |year precipitation mm = 4651.7 |Jan humidity = 68 |Feb humidity = 68 |Mar humidity = 69 |Apr humidity = 71 |May humidity = 76 |Jun humidity = 85 |Jul humidity = 83 |Aug humidity = 82 |Sep humidity = 81 |Oct humidity = 74 |Nov humidity = 71 |Dec humidity = 69 |year humidity = 75 |unit precipitation days = 0.5 mm |Jan precipitation days = 17.2 |Feb precipitation days = 15.2 |Mar precipitation days = 16.2 |Apr precipitation days = 13.5 |May precipitation days = 13.7 |Jun precipitation days = 19.6 |Jul precipitation days = 12.5 |Aug precipitation days = 14.6 |Sep precipitation days = 15.5 |Oct precipitation days = 12.8 |Nov precipitation days = 12.8 |Dec precipitation days = 15.8 |year precipitation days = 179.3 |Jan sun = 74.9 |Feb sun = 83.2 |Mar sun = 117.9 |Apr sun = 146.2 |May sun = 152.7 |Jun sun = 100.0 |Jul sun = 209.9 |Aug sun = 201.3 |Sep sun = 139.8 |Oct sun = 115.9 |Nov sun = 97.3 |Dec sun = 78.8 |year sun = 1515.8 |source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1937年-現在)<ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=88&block_no=47836&year=&month=&day=&view= | title = 平年値ダウンロード |accessdate= 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref><ref> {{Cite web|和書 | url = https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=88&block_no=47836&year=&month=&day=&view= | title = 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値) |accessdate= 2021-06 | publisher = 気象庁}} </ref> }} {{Weather box|location=尾之間(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=24.5|Feb record high C=24.8|Mar record high C=28.8|Apr record high C=27.8|May record high C=30.5|Jun record high C=33.2|Jul record high C=34.7|Aug record high C=34.9|Sep record high C=33.6|Oct record high C=31.5|Nov record high C=28.5|Dec record high C=25.9|year record high C=34.9|Jan high C=16.0|Feb high C=16.6|Mar high C=18.8|Apr high C=21.9|May high C=24.8|Jun high C=27.0|Jul high C=30.5|Aug high C=31.0|Sep high C=29.3|Oct high C=26.1|Nov high C=22.2|Dec high C=18.1|year high C=23.6|Jan mean C=12.7|Feb mean C=13.3|Mar mean C=15.4|Apr mean C=18.5|May mean C=21.6|Jun mean C=24.2|Jul mean C=27.5|Aug mean C=27.9|Sep mean C=26.3|Oct mean C=23.0|Nov mean C=19.1|Dec mean C=14.8|year mean C=20.4|Jan low C=9.7|Feb low C=10.2|Mar low C=12.3|Apr low C=15.4|May low C=18.8|Jun low C=21.9|Jul low C=25.2|Aug low C=25.4|Sep low C=23.8|Oct low C=20.4|Nov low C=16.4|Dec low C=11.9|year low C=17.6|Jan record low C=0.6|Feb record low C=2.0|Mar record low C=2.3|Apr record low C=7.3|May record low C=12.1|Jun record low C=14.0|Jul record low C=18.4|Aug record low C=21.4|Sep record low C=17.0|Oct record low C=12.0|Nov record low C=7.4|Dec record low C=2.7|year record low C=0.6|Jan precipitation mm=140.6|Feb precipitation mm=172.0|Mar precipitation mm=265.9|Apr precipitation mm=328.3|May precipitation mm=393.0|Jun precipitation mm=705.1|Jul precipitation mm=340.5|Aug precipitation mm=242.2|Sep precipitation mm=287.2|Oct precipitation mm=215.5|Nov precipitation mm=177.2|Dec precipitation mm=120.1|year precipitation mm=3399.2|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=10.6|Feb precipitation days=11.4|Mar precipitation days=13.5|Apr precipitation days=13.3|May precipitation days=13.4|Jun precipitation days=19.2|Jul precipitation days=13.0|Aug precipitation days=14.8|Sep precipitation days=13.8|Oct precipitation days=10.3|Nov precipitation days=9.9|Dec precipitation days=9.2|year precipitation days=152.5|Jan sun=136.9|Feb sun=127.2|Mar sun=148.4|Apr sun=153.0|May sun=154.1|Jun sun=86.9|Jul sun=187.1|Aug sun=205.4|Sep sun=161.0|Oct sun=170.2|Nov sun=143.5|Dec sun=139.1|year sun=1817.2|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=88&block_no=0899&year=&month=&day=&view= |title=尾之間 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-16 |publisher=気象庁}}</ref>}} {| class="wikitable" style="margin:0 auto" |- | {| class="wikitable" style="width:40em; background-color:#fff" |- !'''平均気温の推移℃''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 19.1,18.8,19,19.5,19.3,18.6,18.7,18.6,19.4,18.5,19.8,19.1,19.3,19,19.5,19.3,19.7,19.4,19.3,19.1,19.8,19.9,19.6,19.8,19,19.1,19.9,18.9,19.6,19.4,18.7,19.3,18.9,19.3,19.3,19.3,19,18.9,19,19.6,19.5,19.7,19,18.7,18.7,18.9,18.5,18.9,18.8,19.4,19.1,19.3,19.8,19.7,19.3,19,19.6,18.9,19,19.3,20.6,19.6,19.5,19.7,19.6,19.8,20,19.4,20.1,20.3,19.7,19.8,19.7,19.2,19.2,19.7,19.2,19.7,20.3,19.5,19.7,20.2,19.9,19.9,19.9 |y1Title=平均気温℃|colors=#696969}} |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:40em; background-color:#fff" |- !style="background-color:#ffc6c6"|'''最高気温・最低気温・湿度の推移''' |- !'''平均最高気温''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 22.2,21.7,21.6,22.3,22.6,21.9,21.8,21.8,22.5,21.6,22.8,22.1,22,22,22.6,22.3,22.7,22.5,22,22,22.8,22.9,22.6,22.8,22,22.1,22.6,21.9,22.5,22.2,21.6,22.2,21.7,22.1,22.2,22.1,22,21.7,21.8,22.6,22.5,22.8,22,21.7,21.7,21.9,21.3,21.9,22,22.4,22.3,22.5,23,22.7,22.5,22.2,22.9,22.1,22.3,22.5,23.7,22.6,22.8,23.2,22.9,23.1,23.3,22.7,23.5,23.7,23,23.1,23,22.2,22.4,23.1,22.4,22.8,23.5,22.7,22.8,23.2,23.1,23.1,23 |y1Title=平均最高気温|colors=#ffa500}} |- !'''最高気温(最高値)''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 32.4,31.3,32.7,33.9,34.9,31.3,33,33.5,33,32.8,33.4,32.1,31.8,32.8,33.4,34,32.5,32.5,33.5,33.5,34.7,33.1,33.3,33.3,33.2,33.2,32.9,33.4,34.2,33.2,32.5,34.7,33.2,34,34,32.2,33,32.7,32.5,34.3,33.1,34.5,34.2,32.5,31.4,33.2,33.4,32.3,33.9,33,34,32.8,33.3,33.7,33.5,34,34,34.7,34.2,32.5,33.8,32.8,32.9,33.6,32.4,34.7,35.2,35.1,35.4,34.8,34.2,33.9,33.1,32.6,33.1,35.1,32.7,33,35.4,35.1,33.1,33.8,33.6,34,34 |y1Title=最高気温|colors=#dc143c}} |- !'''最高気温(最低値)''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 7.3,6.5,7.1,7.4,6.6,6.9,8.1,6.7,8,7.3,7.3,7.8,8.6,7.4,8.1,7.6,8.5,7.6,7.9,6.6,8.6,6.6,6.5,7.3,7.8,7.3,8.4,7.5,8.5,7,7.4,7.2,6.5,6.8,8.2,9,7.2,8.2,7.1,5.3,7.8,8.7,7.1,5.1,6,6.9,5.9,6.7,7.1,6.6,8.8,9.2,7.6,8.4,9.4,8.6,8.1,8,7.7,8.6,7.5,8,7.9,8.4,10.3,8.1,7.8,8.1,8.3,10.4,8.4,8.2,7.7,7,8,8.1,9.3,7.2,6.4,8.6,6.6,11.7,8.3,5.8,9.3 |y1Title=最高気温|colors=#ff7f50}} |- !'''平均最低気温''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 16.2,16,16.2,16.7,16.1,15.8,15.9,15.8,16.2,15.1,16.3,15.6,16.1,15.7,16.6,16.7,17,16.6,16.4,16.6,17,17.3,17,17.1,16.5,16.6,17.2,15.9,16.6,16.4,15.6,16.1,16.2,16.1,16.1,16.3,15.8,16.2,16.1,16.7,16.6,16.7,15.9,15.5,15.7,16,15.8,16,15.6,16.3,16.1,16.4,16.6,16.8,16.2,15.8,16.4,15.7,15.9,16.1,17.6,16.6,16.5,16.5,16.4,16.8,16.7,16.2,16.9,17,16.7,16.7,16.9,16.5,16.3,16.6,16.2,16.9,17.3,16.5,16.8,17.3,16.9,16.9,17.2 |y1Title=平均最低気温|colors=#4169e1}} |- !'''最低気温(最低値)'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「2014(4.2)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 2.9,2.6,3.6,3.3,4.3,2.6,3.9,3.9,2.7,2.2,3.8,3.7,3.8,2.4,3.2,3.9,3.5,3.2,3.8,3.4,3.5,2.6,3.5,4.1,3.8,2.1,4.9,1.8,3.3,1.6,2,2.7,1.9,2.8,3.6,4.2,2.5,3.4,2.9,1.2,2.9,4.5,2,0.7,1.1,1.4,1.4,2.4,2.1,2.3,4.4,3.1,3,2.4,4.7,3,3.6,3.6,2.7,4.3,3.1,3.9,3,2.9,4.6,3,2.8,1.5,3.9,4.4,4.6,3.4,2.4,2,4.7,4.7,,4.9,1,4.5,1.7,4.3,4.6,2.1,5.8 |y1Title=最低気温|colors=#0000cd}} |- !'''最低気温(最高値)''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 28.6,27.5,28.3,29.3,29.5,25.5,29.1,28.2,26.8,26.6,27.2,27,26.7,27.8,28.1,28.7,27.7,26.2,28,29,29,28.5,28.4,28.1,28,28.5,28.1,27.9,28.5,28.3,26.8,27.1,28.6,27.9,26.8,26.9,28.4,25.8,26.3,26.1,26.3,27.3,26,26.9,25.9,26.3,26.6,26,26.6,27.6,25.7,26,27.1,26.9,26.4,26.5,27.4,27.2,26.5,27,26.4,26,26.6,26.2,26.9,26.9,28,28.4,28.3,27.1,26.8,27.1,27.4,27.1,27,26.8,26.8,26.6,27.2,27.2,27.2,27.1,27.6,26.7,27.5 |y1Title=最低気温|colors=#1e90ff}} |- !'''各階級の日数''' |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020,2021,2022 |y1= 0,0 |y2= 12,26,17,28,35,5,16,19,11,8,12,7,11,10,19,24,21,10,34,30,26,28,33,48,21,34,25,22,35,34,9,20,24,31,12,14,8,7,9,13,25,21,5,19,9,11,10,13,8,12,5,19,25,21,13,5,13,13,15,12,9,12,16,24,13,21,25,22,38,23,18,26,32,37,29,30,16,9,39,37,34,35,15,21,48 |y3= 0,0 |y4= 156,124,135,138,138,147,137,128,137,121,145,125,138,130,148,137,141,135,140,136,145,143,135,158,134,147,143,124,129,144,126,141,136,131,133,136,141,123,127,156,140,143,141,132,135,137,125,133,129,134,144,133,141,146,128,136,154,137,146,149,170,145,156,151,152,156,154,163,166,162,155,144,147,146,141,148,143,148,157,148,148,152,151,153,150 |y5= 47,17,40,33,76,34,60,51,50,67,59,40,19,40,61,58,48,54,72,40,70,68,57,76,56,66,58,52,49,59,23,50,41,62,31,36,42,18,27,51,59,55,51,52,19,45,40,31,60,52,48,42,82,62,35,45,68,70,62,49,84,42,51,66,50,76,67,74,77,89,71,65,62,59,49,72,42,33,77,66,53,53,56,52,76 |y6= 0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,0,1,2,1,0,0,0,0,0,0,1,0,0,1,1,0,0,0,0,0 |y1Title=<0℃(最低)|y2Title=≧25℃(最低)|y3Title=<0℃(最高)|y4Title=≧25℃(最高)|y5Title=≧30℃(最高)|y6Title=≧35℃(最高)|colors=#00ffff,#0000cd,#b2ffd8,#ffd700,#ff8c00,#ff0000}} |- !'''平均湿度の推移'''<ref group="注">以下の数値は資料不足値の為未記載「2003(74),2011(69),2012(77),2017(74),2021(76)」</ref> |- | {{Graph:Chart|width=400|height=100|legend=凡例|type=line|x= 1938,1939,1940,1941,1942,1943,1944,1945,1946,1947,1948,1949,1950,1951,1952,1953,1954,1955,1956,1957,1958,1959,1960,1961,1962,1963,1964,1965,1966,1967,1968,1969,1970,1971,1972,1973,1974,1975,1976,1977,1978,1979,1980,1981,1982,1983,1984,1985,1986,1987,1988,1989,1990,1991,1992,1993,1994,1995,1996,1997,1998,1999,2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006,2007,2008,2009,2010,2011,2012,2013,2014,2015,2016,2017,2018,2019,2020 |y1= 74,74,72,74,77,75,72,74,76,73,77,75,75,74,77,76,79,76,75,73,71,72,72,73,71,72,74,73,73,73,73,68,64,70,73,73,72,78,77,75,76,75,73,72,74,76,76,75,72,75,74,75,75,76,75,76,74,74,74,74,78,77,75,75,73,,74,72,74,72,74,73,74,,,74,75,75,76,,78,79,76, ,76 |y1Title=平均湿度|colors=#66cdaa}} |} |- | 出典:気象庁<ref name="kishou01">{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/annually_s.php?prec_no=88&block_no=47836&year=&month=&day=&view=a2 |title=過去の気象データ |publisher=[[気象庁]] |accessdate=2023-01-02}}</ref> |} ==生物的環境== === 植物相 === [[温帯]]最南部のほぼ[[亜熱帯]]に属する地域にありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から[[亜寒帯]]に及ぶ多様な[[植物相]]が確認されている。 海岸付近の低地は[[アコウ (植物)|アコウ]]、[[ガジュマル]]など亜熱帯性の植物相である。このガジュマル林は日本最北端のものとされる。 やや内陸の標高約500mまでは[[シイ]]、[[ウラジロガシ]]など[[暖帯林]]、約500mないし600mから1,000mないし1,200mはウラジロガシ、[[スギ]]および[[イスノキ]]などの混合林で移行帯となりスギの[[人工林]]もあり、約1,000mから1,600mは[[屋久杉]]、[[ヤマグルマ]]および[[モミ]]などの温帯林となる。約1,600m以上は[[ササ]]に覆われ、[[ヤクシマシャクナゲ]]などが点在し、高山的様相を呈する<ref>日下田紀三『屋久島 森・水・山』八重岳書房、1993年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref><ref name="shinrin">『屋久島の森林』熊本営林局屋久島森林環境保全センター、1996年。{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。[[本州]]や[[四国]]などで[[落葉広葉樹林]]帯に相当する[[ブナ]]林はなく代わりに屋久杉が分布し、同程度の標高である[[石鎚山脈]]、[[剣山地]]および[[大峰山脈]]とは異なり、南海上の島である屋久島は[[シラビソ]]などの[[亜高山帯針葉樹林]]を欠く<ref>足利武三、吉田昭市、瀬尾央 『新版・空撮登山ガイド 四国・九州の山々』山と渓谷社、1996年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。 島の中心部には、日本最南端の[[高層湿原]]である[[花之江河]](はなのえごう)、[[小花之江河]](こはなのえごう)が存在する。 {{multiple image | align = center | image1=Shiratani Unsui Gorge 17.jpg | width1 = 200 | caption1=[[白谷雲水峡]]の[[照葉樹林]]<br>(標高約900m) | image2=Forest in Yakushima 61.jpg | width2 = 200 | caption2=淀川小屋付近の温帯林<br>(標高約1,400m) | image3=Kohananoego Wetland 07.jpg | width3 = 200 | caption3=高層湿原の小花之江河<br>(標高約1,600m) | image4=Forest in Yakushima 67.jpg | width4 = 200 | caption4=[[黒味岳]]におけるヤクシマシャクナゲなどの亜高山植生<br>(標高約1,800m) }} {{clear}} ヤクシマの名を冠した植物は極めて数が多く、以下のようなものがある。 ; [[コケ植物]] : {{仮リンク|ヤクシマホウオウゴケ|en|Fissidens polypodioides}}、{{仮リンク|ヤクシマスギバゴケ|vi|Lepicolea yakusimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマムチゴケ|vi|Bazzania praerupta}}、[[ヤクシマアミバゴケ]]、{{仮リンク|ヤクシマミゾゴケ|vi|Marsupella yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマオヤコゴケ|vi|Schistochila yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマゴケ|vi|Isotachis japonica}}、{{仮リンク|ヤクシマミズゴケモドキ|vi|Pleurozia subinflata}}、{{仮リンク|ヤクシマクサリゴケ|vi|Lejeunea eifrigii}}、{{仮リンク|ヤクシマテングサゴケ|sv|Lobatiriccardia yakusimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマアミゴケ|vi|Syrrhopodon yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマキンモウゴケ|sv|Ulota yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマツガゴケ|sv|Distichophyllum collenchymatosum}}、{{仮リンク|ヤクシマタチゴケ|sv|Atrichum yakushimense}}、ヤクシマナワゴケ、{{仮リンク|ヤクシマヒラツボゴケ|sv|Glossadelphus yakoushimae}} ; [[シダ植物]] : ヤクシマキジノオ、ヤクシマホングウシダ、{{仮リンク|ヤクシマハチジョウシダ|sv|Pteris yakuinsularis}}、{{仮リンク|ヤクシマシダ|vi|Asplenium yakumontanum}}、ヤクシマホウビシダ、{{仮リンク|ヤクシマカナワラビ|vi|Arachniodes cavalerii}}、ヤクシマミゾシダ、ヤクシマショリマ、{{仮リンク|ヤクシマタニイヌワラビ|sv|Athyrium yakusimense}}、ヤクシマタカノハウラボシ、{{仮リンク|ヤクシマウラボシ|sv|Selliguea yakuinsularis}} ; [[双子葉植物]] : {{仮リンク|ヤクシマアオイ|sv|Asarum yakusimense}}、[[ミヤマカラマツ|ヤクシマカラマツ]]、[[サワハコベ|ヤクシマハコベ]]、[[ツバキ|ヤクシマツバキ]]、ヤクシマコオトギリ、[[ヤクシマスミレ]]、[[ヒメミヤマスミレ|ヤクシマミヤマスミレ]]、{{仮リンク|ヤクシマヨウラクツツジ|sv|Rhododendron yakushimense}}、[[アセビ|ヤクシマアセビ]]、[[ヤクシマシャクナゲ]]、[[ヤクシマシャクナゲ|オオヤクシマシャクナゲ]]、[[ホツツジ|ヤクシマホツツジ]]、[[カラタチバナ|ヤクシマタチバナ]]、ヤクシマアジサイ、[[コガクウツギ|ヤクシマガクウツギ]]、ヤクシマショウマ、コヤクシマショウマ、[[ウメバチソウ|ヤクシマウメバチソウ]]、[[ダイモンジソウ|ヤクシマダイモンジソウ]]、[[バライチゴ|ヤクシマバライチゴ]]、{{仮リンク|ヤクシマグミ|sv|Elaeagnus yakusimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマカワゴロモ|vi|Hydrobryum puncticulatum}}、[[シマサルスベリ|ヤクシマサルスベリ]]、{{仮リンク|ヤクシマツチトリモチ|sv|Balanophora yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマカラスザンショウ|sv|Zanthoxylum yakumontanum}}、{{仮リンク|ヤクシマオナガカエデ|sv|Acer morifolium}}、[[ナガバモミジイチゴ|ヤクシマキイチゴ]]、ヤクシマフウロ、{{仮リンク|ヤクシマノダケ|sv|Angelica yakusimensis}}、[[セントウソウ|ヤクシマセントウソウ]]、{{仮リンク|ヤクシマコケリンドウ|sv|Gentiana yakumontana}}、{{仮リンク|ヤクシマリンドウ|sv|Gentiana yakushimensis}}、ヤクシマヘツカリンドウ、ヤクシマトウバナ、{{仮リンク|ヤクシマシソバタツナミ|vi|Scutellaria kuromidakensis}}、[[オオバコ|ヤクシマオオバコ]]、[[ヤクシマムグラ]]、[[ヤマムグラ|ヤクシマヤマムグラ]]、[[ハシカグサ|ヤクシマハシカグサ]]、ヤクシマウスユキソウ、{{仮リンク|ヤクシマノギク|vi|Aster yakushimensis}}、{{仮リンク|ヤクシマアザミ|vi|Cirsium yakusimense}}、{{仮リンク|ヤクシマヒヨドリ|en|Eupatorium yakushimaense}}、{{仮リンク|ヤクシマニガナ|vi|Ixeris parva}}、{{仮リンク|ヤクシマコウモリ|vi|Parasenecio yakusimensis}}、ヤクシマヒゴタイ ; [[単子葉植物]] : [[ヤクシマヒロハテンナンショウ]]、[[カンスゲ|ヤクシマカンスゲ]]、ヤクシマハマスゲ、ヤクシマイトスゲ、ヤクシマノガリヤス、{{仮リンク|ヤクシマダケ|sv|Pseudosasa owatarii}}、[[ノギラン|ヤクシマノギラン]]、ヤクシマイトラッキョウ、[[ヤクシマシライトソウ]]、ヤクシマチャボゼキショウ、{{仮リンク|ヤクシマラン|de|Apostasia nipponica}}、ヤクシマシュスラン、ヤクシマアカシュスラン、{{仮リンク|ヤクシマチドリ|sv|Platanthera amabilis}}、[[ヤマサギソウ|ヤクシマトンボ]]、[[ネジバナ|ヤクシマネジバナ]]、{{仮リンク|ヤクシマネッタイラン|sv|Tropidia nipponica}}、{{仮リンク|ヤクシマヒメアリドオシラン|sv|Kuhlhasseltia yakushimensis}} また、屋久島の植物にはなぜか他より小さいものが多い。たとえば{{仮リンク|イッスンキンカ|vi|Solidago minutissima}}はかつては[[アキノキリンソウ]]の変種とされたものだが、せいぜい7cmにしかならない(アキノキリンソウは30cm以上になる)。このようなものは[[山野草]]や[[盆栽]]としての鑑賞価値が高いため、これらを屋久島ものと呼んで珍重する動きがある。また、これに便乗する形で、他地域産のものでも小柄な姿のものに対して「屋久島○○」と名付けて販売される場合があるという{{sfn|西|1971|p=38}}。 ===動物相=== [[ファイル:Cervus nippon yakushimae 04-2.jpg|thumb|[[ヤクシカ]]]] [[野生]][[哺乳類]]としては、[[ヤクシマザル|ヤクザル]]や[[ヤクシカ]]、[[コウベモグラ]]、[[ジネズミ]]、[[ヒメネズミ]]、[[イタチ|コイタチ]]、[[コウモリ]]数種しか生息していない。1990年代から外来種の[[タヌキ]]が観察されるようになり、定着したものと思われる。沖合は古来、様々な[[鯨類]]の回遊路にあたり、大幅に種類が減ってしまった現在でも[[マッコウクジラ]]や[[イルカ]]類等が近海で見られ、2010年代からは[[ザトウクジラ]]の確認も増えており、将来的な[[ホエールウォッチング]]の可能性の調査を兼ねた陸上からの観察会も行われている<ref>[https://www.town.yakushima.kagoshima.jp/info-living/47861/ 「馬毛島基地(仮称)建設事業に係る環境影響評価準備書に対する環境の保全の見地からの意見について]</ref><ref>[https://yakushima-time.com/5548/ 高田奈央さん/ヤクシマ・クジラ イルカ研究所]</ref>。[[薩摩藩]]政時代には[[ジュゴン]]が<ref>[https://www.env.go.jp/content/900527332.pdf ジュゴンと藻場の広域的調査 - 平成 13 年~17 年度 結果概要 ]</ref>、[[昭和]]初期には[[カワウソ]]<ref>[https://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/publications/pdf_images/newsletter/News%20Letter%20No33.pdf 鹿児島大学総合研究博物館 第13回 特別展 屋久島の自然]</ref>が生息していたことが報告されているが、[[標本]]等は残されていない。 ヤクシカは杉の[[芽]]や希少植物を食害する面もあるため、捕獲して食肉として加工する屋久島[[ジビエ]]加工センターが2017年度に整備された<ref>「鹿児島・屋久島加工センター 国産ジビエ認証取得 離島で初 ヤクシカ利活用へ弾み」『[[日本農業新聞]]』2021年2月12日18面</ref>。 [[爬虫類]]では[[ニホントカゲ]]や[[ニホンマムシ|マムシ]]などが知られ、日本本土とほぼ共通である。 島北部の永田浜は世界有数の[[アカウミガメ]]の産卵地であり、[[ラムサール条約]]登録湿地となっている(後述)。 ===動物相の特徴=== 上記のように主な動物は日本本土と共通、あるいは関係が深いものである。それに対してこの島以南の南西諸島に見られる[[アマミノクロウサギ]]や[[ハブ (動物)|ハブ]]など、[[南西諸島]]に独特のものは見られない。そのため、この島の南側に[[分布境界線]]として[[分布境界線#海峡に設定されたもの|渡瀬線]](渡瀬ライン)を認める<ref>{{Cite web |title=渡瀬線(わたせせん)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B8%A1%E7%80%AC%E7%B7%9A-154134 |website=コトバンク |access-date=2023-12-03 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,世界大百科事典内言及}}</ref>。 === 屋久杉 === [[ファイル:Forest in Yakushima 29.jpg|thumb|200px|ウィルソン株付近の杉林]] {{main|屋久杉}} [[スギ]](杉、{{Snamei|Cryptomeria japonica}})の屋久島に産し、[[樹齢]]が1000年を超えるものをヤクスギと呼んでいる。屋久島の強風、多雨、地質、シカの生息などの自然環境に対応して抗菌性を持つ[[天然樹脂|樹脂]]を多量に分泌し、極めて長寿になる、幼樹の葉が鋭いなど、特徴的な[[形質]]を有する。 ヤクスギ、モミ、[[ツガ]]を主体とする温帯[[針葉樹林]]は屋久島の標高600m以上に分布する。600 - 1,200 mは低地を占める照葉樹林との移行帯であり、両方の要素が混交する。 抗菌性が強く耐久性があることが重視され、[[中世#日本|中世]]以降、建築材や造船材として開発された<ref>山本秀雄編『屋久島歴史小年表』有限会社生命の島、2007年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。[[豊臣秀吉]]による京都の[[方広寺]][[大仏殿]]建立の際、[[石田三成]]が[[島津義久]]に屋久島の木材資源調査を指示しており、実際に木材が薩南海域から[[大坂]]へ運ばれた形跡がある<ref>屋久町郷土史編さん委員会編『屋久町郷土誌 第1巻』1993年3月{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。 17世紀に薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化し、[[明治]]になるまでにヤクスギの良木のほとんどが伐採された。樹齢1000年程度の巨木は[[年輪]]が歪み、山地での製材が不可能であったため放置され、現在も生きているものが多い。伐採跡地にはスギの稚樹が成長し、以来300~400年を経て美しい[[二次林]]を形成している。三次林となっている林分も広い。現在は1000年程度の巨木や変形木をヤクスギ(屋久杉)とよび、二次林・三次林をつくる若いスギをコスギ(小杉)と呼ぶ<ref>屋久杉自然館編『屋久島やくすぎ物語』屋久杉自然館、2004年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。 明治以降、屋久島の山林の大半は[[日本の国有林|国有林]]に編入され、[[大正]]から昭和にかけて二次林・三次林の伐採が進んだ。1000年以上の「屋久杉」は切り残されることが多かったが、樹齢400年以下の「小杉」は、屋久杉ではないとされ、1955年(昭和30年)に[[チェーンソー]]が導入されるとともに、大々的に伐採が進んだ<ref>大澤雅彦・田川日出夫・山極寿一編『世界遺産屋久島 亜熱帯の自然と生態系』[[朝倉書店]]、2006年{{要ページ番号|date=2018-12-20}}</ref>。 現在、[[原生自然環境保全地域]]に含まれる小楊枝川流域、[[国立公園]]第一種特別地域に含まれる永田川流域、宮之浦川上流域、東部の安房川支流荒川左岸(ヤクスギランド)などがヤクスギの主要な[[群落]]として僅かに残されている。 屋久島最大の「[[縄文杉]]」はかつてその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ、[[環境省]](当時は環境庁)の環境週間ポスターで「7200歳です」と紹介されたことで、全国的に有名になった。現在では[[放射性炭素年代測定法]]で推定樹齢約2000年以上であることが確認されている。またその際に内部組織の年代が入り乱れ、同心円状の年輪を形成していなかったことから合体木であるという説があったが、これに対して数本の大枝から葉をサンプリングして[[遺伝子]]分析解析を行った結果、同じ遺伝子の木であることが明らかになった。ただし、杉の場合、木の枝どうしが癒着する接合木、倒木の上に新木が生える更新木といった現象がよく知られており、同じ遺伝子であっても、同じ木からの複数の落ち枝がいわばそれぞれ苗木となって育って合体木となった可能性がある。年代測定を行ったときにも、ウロの中の朽ちた部分にとりわけ古い年代が出たこともあり、既に朽ちたさらに古い木があり、そこからの新木の合体木である可能性が強い。 なお現在までに確認された最古の木は「[[大王杉]]」で、やはり[[放射性炭素年代測定法]]で樹齢3000年以上とされる。 <gallery mode="packed"> Jomon Sugi Panorama.jpg|[[縄文杉]] Okina Sugi 01.jpg|翁杉 Kigen Sugi in Yakushima.jpg|紀元杉 Third Generation Tree Yakushima.jpg|三代杉 Dai-O-Sugi.jpg|大王杉 Meoto Sugi 02.jpg|夫婦杉 Wilson Stump 01.jpg|[[ウイルソン株]] </gallery> == 歴史 == [[ファイル:Yakushima-torokko.JPG|thumb|屋久島の縄文杉登山口へと続く[[トロッコ]]軌道]] 屋久島が初めて文献に出現するのは、中国の歴史書『[[隋書]]』[[大業]]3年(607年)、[[煬帝]]の代に「'''夷邪久'''国」の記述が見えるのが最初である、この「夷邪久」は屋久島を指す説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指す説とがある。 『[[日本書紀]]』では[[推古天皇]]24年(616年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、[[舒明天皇]]元年(629年)には[[ヤマト政権|大和朝廷]]から掖玖に使が派遣されたという記載がある。『日本書紀』で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島を指すような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、[[天武天皇]]11年(682年)に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からである。 『[[続日本紀]]』には、[[文武天皇|文武]]3年(699年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに'''[[多禰国]]'''との記述があり、[[大宝 (日本)|大宝]]2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」とあり、[[薩摩国]]と多禰国が成立する。これ以後、大和朝廷は[[令制国]]として一国に準ずる多禰国に[[国司]](嶋司)を派遣する。 多禰国からの税収はとても小さかったが、[[南島]]([[南西諸島]])との交流や、[[隼人]]の平定、[[遣唐使]]の派遣のため格は[[中国 (令制国)|中国]]として扱われていた。実際、[[天平勝宝]]5年(753年)12月7日に[[鑑真]]、[[大伴古麻呂]]、[[吉備真備]]らを乗せた遣唐使船の第二船、第三船が屋久島に帰国し、鑑真が来日したは場所は屋久島である。屋久島で11日間の1日の滞在を経て第二船は12月18日に[[大宰府]]に向けて出港、20日に秋目、26日に大宰府に到着する。734年(種子島)と753年(屋久島)の二度、遣唐使が多禰国に帰国した。『日本書紀』では7か所に多禰、『続日本紀』では21か所に「多禰」または「多褹」と記述されている) しかし、島民を兵として徴用しても動員が難しく、年貢として取り立ても少ないことから、[[天長]]元年(824年)10月1日に多禰嶋司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して[[大隅国]]'に編入した。 [[1203年]]に[[鎌倉幕府]]から[[種子島氏]]に種子島を初めとした南西諸島が与えられ、屋久島も種子島氏の支配下に置かれることになる。1542年に大隅の[[禰寝氏]]が種子島氏の悪政を正すとの名目で屋久島に襲来し、島を占拠。宮之浦に城ケ平城を築城。1544年に種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める。禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる。このとき初めて[[火縄銃]]が実戦で使用されたと伝えられている<ref>[http://www5.ocn.ne.jp/~miyaura/meisyo_moji.html#mei20 宮之浦城ケ平城跡]</ref>{{要検証|date=2018年12月19日 (水) 08:43 (UTC) |title=リンク切れ。アーカイブはhttps://web.archive.org/web/20150429184147/http://www5.ocn.ne.jp/~miyaura/meisyo_moji.html ですが信頼性不明の個人サイトのように思われます。}}。 1595年、[[種子島久時 (16代)|種子島久時]]のとき、[[太閤検地]]に伴う所替えで薩摩国[[知覧]]に移され、屋久島は[[島津家]]の直轄地となる。また[[豊臣秀吉]]が京都方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、島津家にも用材の献上を命じられている。一説には[[ウィルソン株]]はその時に切り出された屋久杉の切り株ともいわれている。 [[江戸時代]]は[[薩摩藩]]の支配下に置かれる。[[島津光久]]に招かれ薩摩藩に仕えていた僧侶であり儒学者でもあり、屋久島の安房の生まれであった'''泊如竹'''は、島民の困窮を目にし、島民のため屋久杉伐採を藩に願い出る。また屋久杉伐採の指導などを行い島の経済復興に尽力した。このため屋久聖人と呼ばれている。今でも泊如竹の[[命日]]である[[旧暦]]5月25日に如竹踊りが如竹神社で行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www1.ocn.ne.jp/~yakukan/ivent/geinou.htm|title=屋久島観光協会>イベント情報>郷土芸能のご紹介 |publisher=屋久島観光協会 |accessdate=2018-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150429143755/http://www1.ocn.ne.jp/~yakukan/ivent/geinou.htm |archivedate=2015-04-29}}</ref>。 米作、畑作に不向きな屋久島の[[年貢]]は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった。男子は年一人当り平木六束(一束は百枚で600枚)を納めることとなっていた<ref name=re>[http://www002.upp.so-net.ne.jp/hirohouse/InfoYaku/Data/History.htm 屋久島の歴史]</ref>{{要検証|date=2018年12月20日 (木) 00:19 (UTC) |title=リンク切れで、アーカイブはhttps://web.archive.org/web/20130718055940/http://www002.upp.so-net.ne.jp:80/hirohouse/InfoYaku/Data/History.htmにありますが、信頼性不明の個人ウェブサイトと思われます。}}。 [[1708年]]に[[キリスト教]]布教のため、[[鎖国]]下の日本に潜入しようとした[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]が、屋久島に上陸している。 明治時代に入り、[[地租改正]]により島の山林のほとんどが国有地に編入された。1891年(明治24年)には国有林監視所が設置され、盗伐の取り締まりが強化されたことをきっかけに、明治37年(1904年)には島民が国を相手取って[[訴訟]]を起こすに至った。この訴訟は16年に及ぶ長期の係争となったが、関係書類から元々は薩摩藩有であったことが確認されるとして島民側の敗訴となった。だが、この判決には批判が多く、国会議員やマスコミからの追及が高まった。世論を重視した国は大正10年(1921年)に屋久島の国有林を島民一般のためにのみ使用することを旨とする『屋久島国有林経営の大綱』を定めた。この処置は島民から大いに喜ばれ、『屋久島[[憲法]]』と呼ばれた<ref name=re/>。 大正11年(1922年)からは本格的な[[インフラ]]整備が開始された<ref name=re/>。 == 世界遺産 == {{世界遺産概要表 |site_img = ファイル:Jhomonsugi in Yaku Island Japan 001.JPG |site_img_capt = 縄文杉 |site_img_width = 275px |ja_name = 屋久島 |en_name = Yakushima |fr_name = Yakushima |country = 日本 |area = 107.47km<sup>2</sup> |criterion_n = (7),(9) |rg_year = 1993年12月11日 |ex_rg_year = |iucn = II(一部はIa) |remarks = |url_no = 662 |map_img = ファイル:LocMap of WH Yakushima.png |map_img_width = 275px }} === 登録への経緯 === 1992年3月13日に[[世界遺産条約]]の国会提出が[[閣議決定]]され、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付した。それを受けて、1992年10月1日、屋久島が[[世界遺産委員会]]へ推薦された。1993年12月11日、[[コロンビア]]の[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]で開催された世界遺産委員会で、世界遺産リストに登録された。姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初である。 登録当時、ユネスコ[[世界遺産センター]]のドロステ所長は「自然遺産としての屋久島の価値は、多くの人たちが暮らしていながら、すぐれた自然が残されていることにある。」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/kirishima/ywhcc/wh/toroku.htm|title=屋久島~世界自然遺産登録に至る経緯 |publisher=屋久島世界遺産センター |accessdate=2018-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130621012955/https://www.env.go.jp:80/park/kirishima/ywhcc/wh/toroku.htm |archivedate=2013-01-21}}</ref>。 === 世界遺産登録基準 === {{世界遺産基準|7|9}} === 屋久島憲章 === 屋久町と上屋久町の両町議会は、世界遺産登録を控えた1993年<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/wh/arikata/2/170204-4-3-2.pdf|title=屋久島憲章|accessdate=2021-12-17|publisher=環境省|quote=(H19.10.1屋久島町(H5策定))|ref=yakusimakensyo}}</ref>にその保全を目的として'''屋久島憲章'''を制定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://yakushima-kuchinoerabu-br.com/nature-and-living/culture/|title=屋久島・口永良部島ユネスコエコパーク〜屋久島憲章|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町役場観光まちづくり課|quote=平成5年(1993年)に、鹿児島県の屋久島環境文化村構想の策定や世界自然遺産登録に先駆けて当時2町が統一した町づくり理念である屋久島憲章を制定している。その前文には「島の自然と環境を私たちの基本的資産として、この資産価値を高めながら、うまく活用して生活の総合的な活動の範囲を拡大し、水準を引き上げていく」という地域づくりの原則を示し、これまで各種施策に取り組んでいる。}}</ref>。両町が合併して屋久島町となった2007年10月1日<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/wh/arikata/2/170204-4-3-2.pdf|title=屋久島憲章|accessdate=2021-12-17|publisher=環境省|quote=(H19.10.1屋久島町(H5策定))|ref=yakusimakensyo}}</ref>、同憲章を改めて決議第一号'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakushima-town.jp/index.php?page_id=209|title=屋久島憲章|publisher=屋久島町|accessdate=2018-12-20|archiveurl=https://archive.is/q49y3|archivedate=2013-05-01|quote=平成19年10月1日 決議第1号}}</ref>'''とした。屋久島の自然環境保護を第一とし、自然環境との共生による島の将来への指針を示している。 {{Quotation|屋久島憲章<br><br> 前文<br> 地球と人類の宝物である屋久島。<br> この島は、周囲132km、面積503km{{sup|2}}の日本で5番目に大きい島である。<br> 屋久杉を象徴とする森厳な大自然に抱かれ、神々に頭をたれ、流れに身を浄め大海の恵みに日々を委ねて人々が生きた島。<br> この島は、はるかな昔から人々の魂を揺さぶりつづけ、近世森林の保全と活用で人々が苦しみ葛藤した島である。そして今、物質文明の荒波をようように免れた屋 久島は、その存在そのものが人間に対する啓示であり、地球的テーマそのものである。<br> この島に住む私たちは、この屋久島の価値と役割を正しくとらえ、自らの信念と生きざまによって、この島の自然と歴史に立脚した確かな歩を始める。そのため、この島の自然と環境を私たちの基本的資産として、この資産の価値を高めながら、うまく活用して生活の総合的な活動の範囲を拡大し、水準を引き上げていくことを原則としたい。<br> この原則は、行政機関はもちろん、屋久島に係わる全ての人々が守るべき原則でありたい。<br> 国の自然遺産への登録も、鹿児島県の環境文化村構想も、この原則を尊重し、理想へ向けて、その水準を高く100年の計を誤らず推進されることを願うものであり、これを契機として、次のことを目標とし、ここに屋久島憲章を定めます。<br><br> 条文<br> 1 わたくしたちは、島づくりの指標として、いつでもどこでもおいしい水が飲め、人々が感動を得られるような、水環境の保全と創造につとめ、そのことによって屋久島の価値を問いつづけます。<br> 2 わたくしたちは、自然とのかかわりかたを身につけた子供たちが、夢と希望を抱き世界の子供たちにとって憧れであるような豊かな地域社会をつくります。<br> 3 わたくしたちは、歴史と伝統を大切にし、自然資源と環境の恵みを活かし、その価値を損なうことのない、永続できる島づくりを進めます。<br> 4 わたくしたちは、自然と人間が共生する豊かで個性的な情報を提供し、全世界の人々と交流を深めます。|屋久島町、H19.10.1屋久島町(H5策定)|屋久島憲章}} === 登録後の影響(オーバーユース問題等) === 世界遺産登録後の観光客の増大によるゴミ増加、山岳トイレ、登山道とアクセス道路、[[山小屋]]の整備の遅れ、観光ガイドの質の低さなどが指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://jacsekaiisanprj.sakura.ne.jp/admin/media/2/yakushimapropozal2.pdf|title=屋久島への提言 危機遺産にさせないために|author=日本山岳会自然保護委員会 世界自然遺産プロジェクト |format=PDF |accessdate=2018-12-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120519065019/http://jacsekaiisanprj.sakura.ne.jp/admin/media/2/yakushimapropozal2.pdf |archivedate=2012-05-19}}</ref>。 特に縄文杉見学の登山客は激増した。2010年の同コースの登山客は約9万人で、それまでの10年間で3倍近くに増えた<ref name="西日本新聞120126" />。一方で登山客の増加は、登山道の劣化、ゴミ処理、山岳トイレ、ガイドの資質等々の地域社会的問題を招いた。 ==== 屎尿処理の問題 ==== 屎尿処理は当初現地に埋設していたが、悪臭や水源汚染の問題が深刻化してきた。 2008年からトイレ利用者から山岳部保全募金(一人一口 500 円)を募るなどして、人力で屎尿搬出を始めた{{Sfn|市川|2015|p=187}}。しかし募金率は40%程度<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.yamatoilet.jp/mtclean/18th_siryou26.pdf|title=屋久島がおかれているトイレ問題と携帯トイレの活用について|accessdate=2021-12-17|publisher=山のトイレを考える会|author=大嶋 達也(環境省九州地方環境事務所 屋久島自然保護官事務所)|year=2017}}</ref>と低く、町の予算から拠出していた山岳トイレの屎尿処理費が約530万円の単年度赤字になるなど、町財政の負担になった<ref name="西日本新聞120126">[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/286554 「屋久島町が入島料検討へ 世界遺産の保全目的」]『[[西日本新聞]]』2012年1月26日{{リンク切れ|date=2018-12-20}}[https://web.archive.org/web/20120214225429/https://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/286554/ internet archive waybackmachine]</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2601N_W2A120C1CR0000/ 世界遺産の屋久島、入島料を検討 環境保全財源に] 日本経済新聞 2012年1月26日</ref>。 実際の金額としては山岳部保全募金額は2014年度で約2075万円<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2018/03/b50aaa598675a1be5ba90b2bf180f943.pdf|title=世界自然遺産屋久島山岳部環境保全基金(基金残高の推移)|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島町}}</ref>にものぼったが(屎尿搬出以外にも利用されているため)その財源を使い切った場合はバケツに詰めて留置されることが常態化していた{{Sfn|市川|2015|p=20|quote=基本的に搬出料は募金額に応じており、足りない分は小屋の裏にバケツに詰めて置かれている。たとえば2014年度は財源がなくなったために10月からし尿の搬出が止まっているが、11月末の段階で、高塚小屋に90Lバケツが12個、新高塚小屋に90Lバケツ8個、残されていた。}}。屋久島山岳部環境保全協力金<ref group="注">2017年より協力金が導入され、山岳部保全基金から移行。</ref>収受状況(令和3年3月末)によれば、1リットルあたり約1527円(搬出量は計8460リットル)の搬出費となっていた<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/2021/05/12/post-1246/|title=協力金の収支状況について(令和3年2月分・3月分)|accessdate=2021-12-16|publisher=屋久島山岳部保全利用協議会}}</ref>。2016年度末には不足分を他の基金(屋久島町だいすき基金など)で補うこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/tozan/sangaku_kaigi/11/siryou.pdf|title=平成27年度第3回屋久島山岳部利用対策協議会|accessdate=2021-12-21|publisher=環境省|quote=(平成28年2月末)山岳部保全募金の不足により、高塚小屋・新高塚小屋・淀川小屋のトイレにおいて、以下の方法による搬出を予定。 1 屋久島町だいすき基金(1,989千円)を活用した搬出 (高塚小屋 960L、淀川小屋 500L)}}</ref>。 また、並行して環境省が主導(2009年試験運用、2010年より開始)して屋久島観光協会が携帯トイレ販売事業を行っており、2018年の販売実績は約478万円(二個入り6777個、一個入り943個)となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://yakukan.jp/doc/pdf/teijisoukai_2018.pdf|format=PDF|title=平成30年度 公益社団法人屋久島観光協会 定時総会|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島観光協会}}</ref>。人力による屎尿搬出の経費負担の削減を大きな目的としており、携帯トイレの回収ボックスを登山口などに設置、その回収費用は年間数十万円で、その費用にあてるため屋久島観光協会が売り上げの一部を山岳部募金に還流している。携帯トイレブースの管理維持費は山岳部が負担、最終的な携帯トイレの廃棄処理(特に大便)には使用を中止していた町の焼却炉を再稼働させて対応している<ref name=":2" />。 バイオマストイレ(2007年12月に阪急交通社<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu-travel.co.jp/csr/environment.php|title=環境保全活動「環境保全型トイレ」を設置|accessdate=2021-12-17|publisher=阪急交通社}}</ref>、2009年に小林製薬<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kobayashi.co.jp/contribution/society/society_community.html|title=世界遺産へバイオマストイレ寄贈|accessdate=2021-12-17|publisher=小林製薬}}</ref>がそれぞれ寄贈、設置から数年のコストも寄贈者が負担)をはじめ、恒久トイレ(浄循環式水洗トイレや土壌処理式のトイレ)の導入も試みているが、故障により修繕維持費がかさむことが問題になっていた{{Sfn|市川|2015|p=187}}。 2017年に山岳部環境保全協力金が制定されるまでの屎尿搬出費の推移(屋久島町公表)は表の通り。 {| class="wikitable" |+屋久島山岳部し尿搬出の推移 !年度 !搬出費用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2018/09/d3aef3f8052b5621406542506139c88a.pdf|title=屋久島山岳部し尿搬出の推移(2008~2017)|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町}}</ref> !山岳部保全基金の積立金額<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2018/03/b50aaa598675a1be5ba90b2bf180f943.pdf|title=世界自然遺産屋久島山岳部環境保全基金(基金残高の推移)|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島町}}</ref>(募金など) !山岳部保全基金の年度末残高<ref name=":8">{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2018/03/b50aaa598675a1be5ba90b2bf180f943.pdf|title=世界自然遺産屋久島山岳部環境保全基金(基金残高の推移)|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島町}}</ref> !参考)入込者数等<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/wh/arikata/5/171104-2.pdf|title=屋久島への入込者数等の推移|accessdate=2021-12-17|publisher=環境省}}</ref> !関連トピック |- |2007 | - | |0 |406387 |バイオマストイレ寄贈 |- |2008 |3904435 |11899000 |7995000 |385987 |保全募金の開始 |- |2009<ref group="注">「ふるさと雇用再生特別基金事業」を活用して7月~3月分に固定額の支出が加算されている。</ref> |28057500 |24326000 |24429000 |327861 |バイオマストイレ寄贈 |- |2010 |17359964 |17079000 |6812000 |332219 |携帯トイレ販売事業開始 |- |2011 |17481328 |20067000 |6898000 |319736 |入島料の検討へ |- |2012 |19777936 |19832000 |3936000 |327861 | |- |2013 |15861486 |21092000 |5983000 |333219 |協力金の採用を決定 |- |2014 |18172915 |20751000 |3006000 |319736 | |- |2015 |10257223 |14757000 |2290000 |305201 | |- |2016 |14648195 |21173000 |9100000 |299744 | |- |2017 |20964428 |山岳部環境保全基金へ移行 |山岳部環境保全基金へ移行 |284684 |協力金の開始 |} ===== 屎尿処理問題に関する今後の方針 ===== 搬出と設備維持費用の増大に観光客の減少が追い討ちをかけており、令和元年に定めた「屋久島町第二次振興計画<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.yakushima.kagoshima.jp/info-public/23509/|title=屋久島町第二次振興計画|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町|quote=山のトイレを携帯トイレに一本化するように検討します。p61「屋久島町第二次振興計画 第2章 基本構想 (3)基本構想の構成【水と緑を大切にし、人と自然が触れ合う環境づくり】」}}</ref>」においては恒久トイレ(登山道のバイオマストイレや汲み取り式トイレ)から携帯トイレ(と仮設トイレブース)への移行方針が検討されている。また携帯トイレの最終処理に必要不可欠なゴミ焼却施設の新設も計画されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2019/10/shinkou_keikaku2-1.pdf|title=屋久島町第二次振興計画|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町|quote=新たなゴミ処理施設の建設と、屋久島町に相応しく住民が取り組みやすいゴ ミ分別の方法の検討 p62「屋久島町第二次振興計画 第2章 基本構想 (3)基本構想の構成 【水と緑を大切にし、人と自然が触れ合う環境づくり】」}}</ref>。もともと屋久島は廃棄物処理に再生エネルギーである水力発電も活用した炭化・電気溶融施設を有していたが老朽化し一部故障したまま<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2021/01/kihonkeikaku-an-gaiyoban.pdf|title=屋久島町ごみ処理施設整備基本計画(案)[概要版](令和3年2月)|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町|quote=屋久島クリーンサポートセンター炭化・電気溶融施設は、平成18年4月から稼働し14年が経過しています。施設は老朽化が進み、電気溶融施設は、故障の為現在稼働していません。}}</ref>で、目標とするゼロエミッション<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikken-ri.com/forum/112.html#14|title=屋久島憲章とゼロエミッション屋久島モデル|accessdate=2021-12-17|publisher=日建設計総合研究所}}</ref>から後退して、大量のビニール製携帯トイレ処分<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2021/06/83c8b2a54780692843ca40f32063d6cc.pdf|title=令和3年 第1回定例会 屋久島町議会会議録|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町|quote=登山者への負担軽減や、エコツーリズムというのをこの町が抱えて先進地として目指すということにおいて、この大量のビニール袋ごみになる携帯トイレというものに対して、もう少し見直してほしい}}</ref>と通常型の焼却施設を新設することとなる。 ==== 入山制限の検討 ==== このような事態を受け、2011年6月に屋久島町町長の日高十七郎が[[エコツーリズム]]全体構想の骨格をなす縄文杉コースの利用制限、永田浜への立ち入り制限などを規定した町[[条例]]案を町議会に提出した。具体的には、縄文杉への日帰り登山客を1日360人、宿泊客60人に制限するものであった。しかし6月21日本会議に先がけて行われた特別委員会で出席議員全員の反対で否決された<ref name="日本山岳会opinion" />。否決前、「条例案に反対するよう求める」という屋久島観光協会ガイド部会の文書が全町議に送られていた<ref>「危機にある遺産:屋久島からの報告(1) 1日360人制限案、減収不安で反対」『[[毎日新聞]]』西部版朝刊2011年12月24日</ref>。この動きを踏まえて、「屋久島は[[危機にさらされている世界遺産|危機遺産]]になったほうがいい」という[[日本山岳会]]自然保護委員会世界自然遺産プロジェクトの意見表明まで出た<ref name="日本山岳会opinion">{{Cite web|和書|url=http://jacsekaiisanprj.sakura.ne.jp/opinion.php |publisher=日本山岳会|title=意見の広場|世界自然遺産を考えよう!/日本山岳会自然保護委員会世界自然遺産プロジェクト|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120712103757/http://jacsekaiisanprj.sakura.ne.jp:80/opinion.php |archivedate=2012-06-12 |accessdate=2018-12-20}}</ref>。 また林野庁、環境省及び文化庁は、登山者の増加やヤクシカの増加により、生態系や自然景観に影響を及ぼす恐れが出てきたことから管理計画の見直し、新しい計画案への意見公募を2012年1月27日〜2月26日に行った<ref>[http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/hozen/120127.html 『屋久島世界遺産地域管理計画(案)に対する意見公募について』]{{リンク切れ|date=2021年4月}}林野庁 waybackmachineによる[https://web.archive.org/web/20180612140755/http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/hozen/120127.html アーカイブ]</ref>。その結果を受けて、同年10月1日、林野庁・環境省・文化庁と鹿児島県及び屋久島町は新たな'''屋久島世界遺産地域管理計画'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/kyusyu/press/keikaku/pdf/20121001yakushima_kanrikeikaku.pdf|title=屋久島世界遺産地域管理計画|accessdate=2021-12-17|publisher=林野庁}}</ref>を策定し発表した<ref>{{Cite news|title=屋久島保護へ入山制限も 環境省が登山道利用にルール|newspaper=日本経済新聞|date=2012-10-02|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASJC0104Q_R01C12A0ACY000/|accessdate=2021-12-17}}</ref>。その中で、ヤクシカの増加については特定鳥獣保護管理計画及び生態系維持回復事業計画を踏まえた個体数調整及び生態系の維持回復の方針を示し、登山客の増加については登山道や地域毎に利用方針を定めた上で利用の適正化(主に分散化)を図るとともに、エコツーリズムの推進方針を示している。 {{update|date=Dec 2020}} ==== 協力金の徴収へ ==== 2011年10月30日に行われた町長選挙で当選した荒木耕治は、当選後、入島料の導入に言及。11月13日に「自然資源の保護が、あらゆる政策に優先する」と所信表明。島の環境保全を目的に来島者から「入島料」を徴収する方針を決めた。早ければ2013年度に導入を目指すとした<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/286554 屋久島「入島料」 環境保護に知恵を絞ろう]『西日本新聞』朝刊2012年2月10日[[社説]]{{リンク切れ|date=2018-12-20}}</ref>。しかし、2013年中の「屋久島町入島税等検討会議」で『税の公平原則によって、課税対象、金額等に制約が生じ、賦課徴収コストが大きくなり現時点での導入は難しい。』との認識を共有し入島料(税)ではなく、2014年の同会議にて受益者負担を求める仕組みとして「入山協力金」の採用が確認された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/kyusyu/yakusima/pdf/53gono53.pdf|title=屋久島町入島税等検討会議の検討概要について|accessdate=2021-12-16|publisher=林野庁}}</ref>。 2017年、環境保全事業の財源として、登山者から徴収する入山協力金制度<ref>{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/kyouryokukin/|title=協力金について|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島山岳部保全利用協議会|quote=基本額(日帰り入山の場合) 1,000円 山中で宿泊予定の入山の場合 2,000円}}</ref>(山岳部環境保全協力金)を設けた。当初の目論見では9割の協力を得て約7千万円の収入を見込み<ref>{{Cite news|title=屋久島、3月から「入山協力金」を徴収 し尿運搬費用に|newspaper=朝日新聞|date=2017-02-27|url=https://www.asahi.com/articles/ASK2W56M7K2WTLTB00P.html|accessdate=2021-12-16}}</ref>実際は79%の協力により初年度は6541万円の収入<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/t_yakushima/wp-content/uploads/2018/06/98681da830d0bef6ca944cab6d991e18.pdf|title=山岳部環境保全協力金の収受状況|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島町|quote=収入総額 65,411,286円 収受率 79.16%}}</ref>となった。翌年、職員による横領が発覚<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/wp-content/uploads/f98693e937da29929cb7482dd6e48104.pdf|title=屋久島山岳部保全利用協議会での不適切事案について|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島町}}</ref>し補填として繰越金の基金残高をあてた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nacsj.or.jp/2019/11/17907/|title=責任はどこに?屋久島入山協力金横領問題|accessdate=2021-12-20|publisher=日本自然保護協会|quote=被害額は(協議会や町が)補填せず、前年まで使われずに残っていた寄付金2700万円で、損失を補うことを決めた}}</ref>が事業収入は2018年度から2726万円と赤字に転落<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/wp-content/uploads/ce822966a32e4ae73f296cfd8b527951.pdf|format=PDF|title=平成30年度 世界遺産屋久島山岳部環境保全協力金及び基金の決算額|accessdate=2021-12-17|publisher=屋久島山岳部保全利用協議会}}</ref>。更に事件直後は一時的に収納率が大きく悪化<ref>{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/wp-content/uploads/86d7b74ab5112b338d229552464c9c9a-1.pdf|title=屋久島山岳部環境保全協力金収受状況【平成31年4月分】|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島山岳部保全利用協議会|quote=収納率(%)22.75%}}</ref>し、現在も収納額は減少傾向で不足分を町が負担している<ref>{{Cite web|和書|url=https://373news.com/_news/storyid/141301/|title=来島者は増えた。環境は荒れた。地元に落ちる金は少ない…。環境にやさしい観光とは。屋久島の教訓から学ぶ〈未来への提言 奄美・沖縄世界自然遺産〉|accessdate=2021-12-16|publisher=南日本新聞}}</ref>。 {| class="wikitable" |+協力金の収支状況(屋久島町と山岳部の発表による) !年度 !収納率 !協力金収納額 !支出 !収支 !山岳部環境保全基金残高 !トピック |- |2017<ref name=":4" /> |79.16% |65411286 |59656287 |5754999 |27116595 |協力金の導入 |- |2018<ref name=":6" /> | |27261968 |58719008 |△31457040 |914127 |横領<ref>{{Cite news|title=屋久島入山金「2900万円着服」 元会計担当を告訴|newspaper=朝日新聞|date=2019-2-25}}</ref><ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/wp-content/uploads/f98693e937da29929cb7482dd6e48104.pdf|title=屋久島山岳部保全利用協議会での不適切事案について|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島町}}</ref><ref>{{Cite news|title=屋久島の入山協力金3300万円着服容疑 元職員を告訴|newspaper=朝日新聞|date=2019-05-23}}</ref>弁済金5254572 |- |2019<ref>{{Cite web|和書|url=http://yakushima-tozan.com/wp-content/uploads/a40c7a97607104f6b4beac87fc9db6b1.pdf|title=屋久島山岳部環境保全協力金収受状況(令和2年3月末)|accessdate=2021-12-20|publisher=屋久島山岳部保全利用協議会}}</ref> |71.51% |45,489,549 |62,560,043 |△17070494 |△10556367(決算にて残高ゼロ) |横領弁済金5600000 |- |2020<ref name=":3" /> |64.18% |18771112 |47693164 |△28922052 |△27621569 |横領弁済金1300483 |} ==== 観光客の減少 ==== 屋久島の入込者数は昭和後半まで 11~12 万人台で推移し、1989年に高速船トッピー就航で17 万人台に急増。その後、1993年の世界自然遺産登録を経て増加を続け、2003年に30万人台を超え2007年に過去最高の40万人台を記録した後、減少傾向にある。2013年からは 30 万人を下回っており、2016年には2000年と同程度まで減少した<ref name=":7">{{Cite web|和書|url=https://www.env.go.jp/park/yakushima/ywhcc/wh/arikata/5/171104-2.pdf|title=屋久島への入込者数等の推移(1989~2016)|accessdate=2021-12-17|publisher=環境省}}</ref>。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" |+屋久島全体の入込客数の推移<ref name=":7" />(2017年以降は鹿児島県公表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/chiiki/kumage/chiiki/gaikyou/index.html|title=熊毛支庁 > 地域情報 > 地域の概況|accessdate=2021-12-20|publisher=鹿児島県}}</ref>) !年度 !入込客数 !トピック<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.kagoshima.jp/ap01/chiiki/kumage/chiiki/documents/90438_20211007115516-1.pdf|title=熊毛地域年表|accessdate=2021-12-20|publisher=鹿児島県}}</ref> |- |1993 |209,219 |世界遺産登録 |- |1994 |233,489 |屋久島山岳部利用対策協議会が発足し,縄文杉 への立入禁止など決定 |- |1995 |256,645 |「屋久島世界遺産地域管理計画」(環境,林野,文化庁)決定 |- |1996 |252,838 |屋久島森林環境保全センター、屋久島世界遺産センター発足 |- |1997 |263,734 |屋久島の一周道路整備検討委員会設置 |- |1998 |279,735 |屋久杉自然館入館者数 30 万人達成 |- |1999 |260,161 |屋久島観光協会発足(上屋久町,屋久町の観光協会が合併) |- |2000 |263,077 |皇太子・同妃が世界自然遺産会議へ臨席 |- |2001 |286,277 |イルカ 171 頭が長浜海岸に漂着する。約 130 頭を救出 |- |2002 |289,535 |上屋久町・屋久町任意合併協議会設立 |- |2003 |314,757 |屋久島世界自然遺産登録 10 周年シンポジウム |- |2004 |293,832 |屋久島総合自然公園(野生植物園)開園 |- |2005 |316,884 |「JRホテル屋久島」屋久町尾之間にオープン |- |2006 |333,224 |高速船ロケット3隻目就航 |- |2007 |406,387 |過去最高 屋久島町誕生 |- |2008 |385,987 |西之表港中央地区ふ頭供用開始,大型観光客船「飛鳥II」初寄港 |- |2009 |327,861 |今世紀最大の皆既日食観測 |- |2010 |333,219 |翁杉倒れる |- |2011 |319,736 |東北太平洋沖地震発生 |- |2012 |305,201 |屋久島の国立公園地域と口永良部島の全域が「屋久島国立公園」に |- |2013 |299,744 |屋久島世界自然遺産登録 20 周年記念式典 |- |2014 |284,684 |口永良部島新岳 34年ぶりに噴火 |- |2015 |274,095 |口永良部島新岳で爆発的噴火(噴火警戒レベル5)全島避難 |- |2016 |267,364 |口永良部島 全島避難指示解除 |- |2017 |295,972 |屋久島山岳部環境保全協力金制度がスタート |- |2018 |280,336 |マルエーフェリー(株)がフェリー波之上により奄美-屋久島航路開設 |- |2019 |252,965 |屋久島空港の運用時間1時間延長 |} ==== 客数増加思考からの転換 ==== 減少した観光客に加えコロナによる打撃は大きかったが、一方で「環境保全を考えると、40万人は多すぎた」と環境と経済のバランスを考え直す機会ともなった。2016年には35万人に回復させる目標で空港滑走路の延伸など利便性の向上とリピーターを増やすことを目指していたが、現在は通信環境の整備によってワーケーションを誘致し長期滞在型の利用を促進する方向も模索されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://globe.asahi.com/article/13615450|title=世界遺産・屋久島が模索する「経済と環境のバランス」の着地点|accessdate=2021-12-17|publisher=朝日新聞}}</ref>。 == その他の自然保護地域指定 == ; 特別天然記念物 :'''屋久島スギ原始林'''の名称でスギ[[原生林]]が[[1924年]](大正13年)12月9日に[[天然記念物]]、[[1954年]](昭和29年)3月20日に特別天然記念物指定として指定された。 ; 国立公園 :[[1964年]](昭和39年)3月16日、既にあった霧島国立公園に追加編入される形で、隣の[[口永良部島]]と共に[[霧島屋久国立公園]]の「屋久島地域」となった。[[2012年]](平成24年)3月16日には「屋久島地域」を分離して'''[[屋久島国立公園]]'''に指定された。 ; 原生自然環境保全地域 :[[1975年]](昭和50年)5月17日、[[自然環境保全法]]に基づく'''屋久島原生自然環境保全地域'''が指定された。 ; 生物圏保護区 :[[1980年]](昭和55年)、'''屋久島生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)'''としてユネスコの[[生物圏保護区]]に指定された。[[2016年]](平成28年)3月19日に登録範囲が屋久島町全域に拡張され、'''屋久島・口永良部島生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)'''に改称した<ref>{{Cite web |title=Yakushima and Kuchinoerabu Jima Biosphere Reserve, Japan |url=https://en.unesco.org/biosphere/aspac/yakushima-kuchinoerabu-jima |website=UNESCO |date=2020-07 |access-date=2023-01-27 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=屋久島・口永良部島ユネスコエコパークについて |url=https://yakushima-kuchinoerabu-br.com/overview/ |access-date=2023-01-27 |language=ja |publisher=屋久島・口永良部島ユネスコエコパーク}}</ref>。 ; 森林生態系保護地域 :[[1992年]](平成4年)3月30日、[[林野庁]]による'''屋久島森林生態系保護地域'''が指定された。 ; ラムサール条約登録地 :[[2005年]](平成17年)11月8日、島北西部の砂浜である「前浜」「いなか浜」「四ツ瀬浜」を総称して'''屋久島永田浜'''という名称で[[ラムサール条約]]登録湿地となった<ref>{{Cite web |title=Yakushima Nagata-hama {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/1559 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-01-27}}</ref>。 == 観光 == === 海水浴 === 一周を海に囲まれているが、海岸線は[[崖]]や[[磯]]になっている部分が多い。そのため、[[砂浜]]はごく僅かで、[[海水浴]]の為の施設は乏しい。遠浅で海水浴に適しているものとしては、島の北西部にある[[アカウミガメ]]上陸・産卵数日本一で[[2005年]]にラムサール条約にも登録された永田浜(前浜・いなか浜)がある。 == 交通 == === 空港 === [[ファイル:Apron in Yaku-shima Airport Kagoshima,JAPAN.jpg|thumb|[[屋久島空港]]]] * [[屋久島空港]] **[[日本航空]](JAL)<ref>[[日本エアコミューター]]の機材・乗務員による運航</ref> ***[[大阪国際空港]] ***[[福岡空港]] ***[[鹿児島空港]] === 航路 === ; 高速船 * [[種子屋久高速船]] [[ボーイング929|ジェットフォイル]]「トッピー」「ロケット」 **[[鹿児島港]]本港区南埠頭([[鹿児島市]]) - [[指宿港]]([[指宿市]]) - [[種子島]]・[[西之表港]]([[西之表市]])、屋久島・[[宮之浦港 (屋久島町)|宮之浦港]]または[[安房港]] :従来、[[いわさきコーポレーション|いわさきグループ]]の[[鹿児島商船]]が当航路を運航していたが、2004年に[[市丸グループ]]の[[コスモライン (鹿児島県)|コスモライン]]が参入し競合して以降は両社とも採算を度外視した「消耗戦」とも評される熾烈な競争<ref>[http://373news.com/_column/syasetu.php?ym=201204&storyid=39604|title=高速船新会社 経営努力で統合効果を]『[[南日本新聞]]』朝刊2012年4月4日付社説(同年8月26日閲覧){{リンク切れ|date=2018-12-20}}</ref> を行ってきたが、2009年10月より一部便について共同運航となった後、2012年4月より両社の航路を統合した新会社が発足した<ref>{{Cite news |url=http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=39546|title=種子屋久高速船が開業 2社統合、安定経営誓う |newspaper=『南日本新聞』 |date=2012-04-01 |accessdate=2012-08-26|archiveurl=https://archive.is/hQbD |archivedate=2012-07-08}}</ref>。なお、船舶呼称については統合前の各社のものを踏襲している。 :指宿港を寄港しない便がある。また、種子島・屋久島経由の順序が変わるほか、各島への直行便もある。 ; その他 * [[折田汽船]](市丸グループと提携) 「[[フェリー屋久島2]]」 ** 鹿児島港本港区南埠頭 - 屋久島・宮之浦港 * 鹿児島商船・新屋敷商事 [[フェリー]]「[[はいびすかす]]」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.iwasaki-corp.com/marinetp/ferryhibiscus/ |title=フェリー「はいびすかす」 |publisher= いわさきコーポレーション |website= |accessdate=2018-12-20}}</ref> ** 谷山港二区(鹿児島市) - 種子島・西之表港(西之表市) - 屋久島・宮之浦港 :往路(谷山港発)は西之表港に到着後は夜間滞泊し、翌朝に宮之浦港へ向かう<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakushimaferry.com/ |title=フェリーはいびすかす|種子島・屋久島と鹿児島を結ぶ生活航路 |website= |publisher=鹿商海運株式会社 |accessdate=2018-12-20}}</ref>。 * 屋久島町 町営 「[[フェリー太陽]]」 **[[口永良部島]] - 屋久島・宮之浦港 - 種子島・[[島間港]]([[南種子町]]) * [[マルエーフェリー]] 「[[フェリー波之上]]」 **那覇港 → 本部港 → [[与論島]] → 和泊([[沖永良部島]]) → 亀徳([[徳之島]]) → 名瀬港([[奄美大島]]) → 屋久島・宮之浦港 →鹿児島 : ※数日に1回、鹿児島行きのみ寄港。 <center><gallery> Toppy1 JAPAN.jpg|ジェットフォイル「トッピー」 Rocket3 JAPAN.jpg|宮之浦港に停泊中のジェットフォイル「ロケット」 Ferry Yaku-Shima No2 JAPAN.jpg|「フェリー屋久島2」 Hibiscus at Miyanoura Port, -Aug. 2008 a.jpg|フェリー「はいびすかす」 Ferry Taiyo JAPAN.jpg|町営船「フェリー太陽」 </gallery></center> === 路線バス === 運行本数は、[[種子島・屋久島交通]]が比較的多く、朝から夕方にわたり運行している。一方、[[まつばんだ交通バス]]は各路線の運行本数が非常に少ない。''※運行本数・運賃・所要時間等の詳細は、公式サイト・観光協会サイトなどを参照。 <ref>[http://www.refire.jp/pdf/yakubus110301.pdf 屋久島交通バス時刻表] - 種子島・屋久島交通(屋久島観光協会サイト、2011年3月1日改正、同年8月19日閲覧){{リンク切れ|date=2018-12-20}}</ref><ref>[http://www.refire.jp/pdf/matsubanda110301.pdf 路線バス時刻表] - まつばんだ交通バス(屋久島観光協会サイト、2011年3月1日改正、同年8月19日閲覧){{リンク切れ|date=2018-12-20}}</ref> * [[種子島・屋久島交通]](いわさきグループ) * [[まつばんだ交通]] === 自動車 === 複数の[[レンタカー]]会社があり利用者も多いが、毎年のように交通事故が後を絶たない。西部林道と呼ばれる北西の道路は車同士がすれ違うのが困難な狭い道で、急カーブや急勾配が続くほか、雨の日には土砂崩れや数トンの落石などがあり通行止めとなることもある。なお、島内での[[ガソリン]]販売価格は、本土より数十円高くなっている。 === 鉄道 === 旅客営業用ではないが、現存する日本唯一の[[森林鉄道]]である[[安房森林軌道]]がある。軌道の一部に登山道との供用区間がある。ただし、[[屋久島電工]]が管理・運行する区間は全線立入禁止となっている。 == 温泉 == * [[尾之間温泉]] * [[屋久島温泉]] * [[平内海中温泉]] * [[湯泊温泉 (屋久島)|湯泊温泉]] * 大浦の湯{元々温泉であったが、現在は湧き水を沸かした共同風呂の形態を取っている} * 楠川温泉 * ゆのこのゆ * 縄文の宿まんてん 外来入浴 == 出身者 == * AIRI、アイドル、ミュージシャン([[CHERRSEE]]) * [[荒木耕治]](第2代屋久島町長、旧上屋久町出身) * [[木谷隆行]]([[ボッチャ]]選手) * [[髙橋大悟]]([[サッカー]]選手) * [[塚田翔悟]](サッカー選手) * [[寺田菜々海]]([[テレビくまもと]]アナウンサー) * [[日高建男]]([[漫画家]]第1回世界漫画愛読者大賞(2002年)入選)(旧[[屋久町]]安房出身) == 屋久島が登場する作品 == [[ファイル:もののけ姫の森.JPG|thumb|right|『[[もののけ姫]]』の舞台となった森。後に看板は撤去され、「もののけの森」と通称されている。]] * [[恩田陸]]『[[黒と茶の幻想]]』[[講談社]](2001年) * [[林芙美子]]『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』六興出版(1951年)、[[新潮文庫]](2003年) * [[椋鳩十]]『片耳の大シカ』『チビザル兄弟』『ヤクザル大王』『海上アルプス』 * [[連続テレビ小説]]『[[まんてん]]』で、主人公・日高満天の出身地である舟田[[集落]]は吉田集落がモデルとなっている。 * [[山田洋次]]監督の映画『[[学校 (映画)|学校]]』シリーズの一作『十五才 学校IV』は、不登校の少年が東京から[[ヒッチハイク]]で屋久島を目指す物語である。 * 『[[仮面ライダー響鬼]]』(2005年)1話と2話の撮影で[[ロケーション撮影|ロケ地]]として使われている。 * [[デイヴィッド・ミッチェル]](高吉一郎・訳)『[[ナンバー9ドリーム]]』(原題: [[:en:number9dream|number9dream]])新潮クレスト・ブックス(2007年) * 屋久島の自然は、[[スタジオジブリ]]作品『[[もののけ姫]]』の舞台イメージのモデルの一つである。なお[[白谷雲水峡]]に立てられていた「もののけ姫の森」看板は、スタジオジブリが、協力金を徴収している林野庁に対して「営利目的での使用は認めていない」とコメントしたことにより、撤去された<ref>2008年林野庁屋久島森林環境保全センター担当者のコメント</ref>。{{出典無効|date=2018年12月19日 (水) 08:43 (UTC)|title=書誌情報が無いので、どこを見れば確認できるのか不明。}} * 『[[いのちの島]]』([[TBSテレビ|TBS]]、2009年11月23日放送) * 『[[満腹ボクサー徳川。]]』屋久島町出身の漫画家[[日高建男]]原作の[[ボクシング]]漫画。主人公の徳川貴作が屋久島出身という設定であり、島に里帰りするシーンが描かれている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== * {{Cite book |和書 |author=西良祐|title=盆栽入門 鉢物から盆栽へ |publisher=文研出版 |date=1971 |ref={{SfnRef|西|1971}} }} * {{Cite journal|和書|author=市川聡|date=2015|title=屋久島のエコツーリズムとごみ|url=https://doi.org/10.3985/mcwmr.26.183|journal=廃棄物資源循環学会誌|volume=26|issue=3|pages=183-190|doi=10.3985/mcwmr.26.183|publisher=廃棄物資源循環学会|ISSN=1883-5864|naid=130008051468|ref={{Harvid|市川|2015}}}} == 関連項目 == {{Commons&cat|屋久島|Yakushima}} {{Wikivoyage|ja:屋久島}} {{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}} * [[日本の世界遺産]] * [[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産の一覧]] * [[日本の秘境100選]] * [[かおり風景100選]]:屋久島の照葉樹林と鯖節 * [[カルマン渦]] - 同島で冬の訪れに現れる気象現象 * [[屋久島電工]] - 同島で、10送配電事業者によらずに配電を行う、日本では珍しい業者。 == 外部リンク == * [http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/ 屋久島町公式ウェブサイト] * [http://yakukan.jp/ 屋久島観光協会] * [https://www.yakushima.or.jp/ 屋久島環境文化財団] * {{ウィキトラベル インライン|屋久島|屋久島}} * {{osmrelation|4098977}} * {{Googlemap|屋久島}} {{大隅諸島}} {{日本の指定離島}} {{日本の世界遺産}} {{日本のラムサール条約登録湿地}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header= |redirect= 屋久島スギ原始林 |1= 植物天然記念物 |2= 特別天然記念物 |3= 鹿児島県にある国指定の天然記念物 |4= 著名なスギ }} {{DEFAULTSORT:やくしま}} [[Category:屋久島町の地理]] [[Category:大隅諸島]] [[Category:鹿児島県の自然景勝地]] [[Category:日本の海岸景勝地]] [[Category:日本の世界遺産]] [[Category:世界遺産 や行]] [[Category:日本の森林]] [[Category:日本のラムサール条約登録地]] [[Category:日本の生物圏保護区]] [[Category:日本の地質百選]] [[Category:1993年登録の世界遺産]] [[Category:IUCNカテゴリーII]] [[Category:アジアの自然美に関する世界遺産]] [[Category:アジアの生態系に関する世界遺産]]
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塩揉み
塩揉み(しおもみ)とは、調理法の一種で素材に塩をふり、揉み込むこと。転じて、マッサージ法の一種をさす。 食材を揉み込むことによって、余分な水分を取りだし、さらにその水分を搾ることにより脱水できる。 魚介類などは軽く揉むことで、ぬめりや臭みをとることができる。他に塩揉みにする素材として、キャベツ、きゅうりなどがある。塩の浸透圧で野菜の細胞が脱水し張りを失い、さらにしぼることで水分がさらに減り繊維の密度が増し、食べるときにやわらかな口当たりと歯ごたえの両方を感じさせる。 塩を腹部や臀部にすり込みマッサージする方法。脂肪分をもみほぐすことにより、血行の改善やダイエット効果を期待するものであるが、必ずしも塩を用いる意味は無く、オイルやジェル成分を用いることも多い。
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塩揉み(しおもみ)とは、調理法の一種で素材に塩をふり、揉み込むこと。転じて、マッサージ法の一種をさす。
{{出典の明記|date=2023年5月}} '''塩揉み'''('''しおもみ''')とは、[[調理]]法の一種で素材に[[塩]]をふり、揉み込むこと。転じて、[[マッサージ]]法の一種をさす。 == 調理法 == [[食材]]を揉み込むことによって、余分な[[水]]分を取りだし、さらにその水分を搾ることにより脱水できる。 [[魚介類]]などは軽く揉むことで、ぬめりや臭みをとることができる。他に塩揉みにする素材として、[[キャベツ]]、[[きゅうり]]などがある。塩の[[浸透圧]]で野菜の細胞が脱水し張りを失い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zkai.co.jp/saponavi/el/series/31177/ |title=浸透圧で春キャベツをおいしく! |publisher=Z会 |date=2019-03-28 |accessdate=2023-07-09 }}</ref>、さらにしぼることで水分がさらに減り繊維の密度が増し、食べるときにやわらかな口当たりと歯ごたえの両方を感じさせる。 == マッサージ法 == 塩を腹部や臀部にすり込みマッサージする方法。[[脂肪]]分をもみほぐすことにより、[[血行]]の改善や[[ダイエット]]効果を期待するものであるが、必ずしも塩を用いる意味は無く、オイルやジェル成分を用いることも多い。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[下拵え]] {{デフォルトソート:しおもみ}} [[Category:塩化ナトリウム]] [[Category:調理法]] [[Category:健康法]]
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塩茹で
塩茹で(しおゆで)とは調理法のひとつで、湯または水に塩を入れ、食材を茹でること。 葉もの野菜などは、沸騰した湯に少量の塩を入れることで沸点が上がり、湯の温度を下げることもなく、色良く茹で上げることができる。 根菜等は水から塩を入れて茹でることで、均一に下味をつけることができる。一部の野菜は塩を入れて茹でると、茹で上がった時にかたくなったり、皺がよったりする。
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塩茹で(しおゆで)とは調理法のひとつで、湯または水に塩を入れ、食材を茹でること。 葉もの野菜などは、沸騰した湯に少量の塩を入れることで沸点が上がり、湯の温度を下げることもなく、色良く茹で上げることができる。 根菜等は水から塩を入れて茹でることで、均一に下味をつけることができる。一部の野菜は塩を入れて茹でると、茹で上がった時にかたくなったり、皺がよったりする。
'''塩茹で'''(しおゆで)とは[[調理法]]のひとつで、湯または水に[[塩]]を入れ、[[食材]]を[[茹で物|茹でること]]。 葉もの野菜などは、沸騰した湯に少量の塩を入れることで[[沸点]]が上がり、湯の温度を下げることもなく、色良く茹で上げることができる。 [[根菜]]等は水から塩を入れて茹でることで、均一に下味をつけることができる。一部の野菜は塩を入れて茹でると、茹で上がった時にかたくなったり、皺がよったりする。 == 関連項目 == *[[下拵え]] {{food-stub}} {{デフォルトソート:しおゆて}} [[Category:塩化ナトリウム]] [[Category:調理法]]
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湯煎
湯煎(ゆせん)とは、加熱調理や科学実験に用いられる間接的な加熱法。 鍋等に湯を沸かし、その中に一回り小さい容器を入れて、内側の容器中で食材を容器ごと間接的に加熱する調理法のこと。 火で直接加熱するのではなく、湯を使い間接的に加熱を行うので温度が摂氏100度以上にはならず、焦げ付きの心配がない。緩やかに加熱したいときや、保温する時に使われる。 メレンゲの泡立てやチョコレートのテンパリングなど製菓の技法として利用頻度が高い。 レトルト食品や缶詰を鍋で温める際も湯煎で行われる。 科学実験では可燃物の加熱の際に直接火で温めない湯煎や温風による加熱法が用いられる。例えば植物の葉の葉緑体をエタノールで脱色する実験では、エタノールを直接火にかけると引火するおそれがあるため、湯煎で間接的に加熱する。
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湯煎(ゆせん)とは、加熱調理や科学実験に用いられる間接的な加熱法。
[[Image:Bain-marie.JPG|thumb|材料の湯煎]] '''湯煎'''(ゆせん)とは、加熱調理や科学実験に用いられる間接的な加熱法。 == 調理方法 == [[鍋]]等に[[湯]]を沸かし、その中に一回り小さい容器を入れて、内側の容器中で食材を容器ごと間接的に[[加熱]]する[[調理法]]のこと。 [[火]]で直接加熱するのではなく、湯を使い間接的に加熱を行うので[[温度]]が摂氏100度以上にはならず、焦げ付きの心配がない。緩やかに加熱したいときや、保温する時に使われる。 [[メレンゲ]]の泡立てや[[チョコレート]]の[[テンパリング]]など製菓の技法として利用頻度が高い。 [[レトルト食品]]や[[缶詰]]を鍋で温める際も湯煎で行われる。 == 科学実験 == 科学実験では可燃物の加熱の際に直接火で温めない湯煎や温風による加熱法が用いられる<ref name="sapporo">{{Cite web|和書|url=https://www.city.sapporo.jp/kyoiku/shido/documents/3_shorika5-1.pdf |title= 観察、実験時の安全管理・安全指導 |publisher=札幌市 |accessdate=2020-03-18}}</ref>。例えば[[植物]]の葉の[[葉緑体]]を[[エタノール]]で脱色する実験では、エタノールを直接火にかけると引火するおそれがあるため、湯煎で間接的に加熱する<ref name="sapporo" />。 == 脚注 == <references /> {{food-stub}} {{デフォルトソート:ゆせん}} [[Category:調理法]] [[Category:調理容器]] [[Category:チョコレート]] [[Category:加熱]] [[Category:科学実験]]
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湯通し
湯通し(ゆどおし)は 湯通し(ゆどおし)は調理法の一種で、素材に湯をかけたり、短時間茹でたり、湯につけること。 湯をかけて、表面だけ加熱したい時、茹でて灰汁抜きする時、乾物を戻したりする時行う。 肉類、魚介類に湯通しをすると表面近くの蛋白質が熱変成し白っぽくなる。そのため、これを霜に見立てて霜降りとも呼ぶことがある。 これと似た方法で中華料理では「油通し」と呼ばれる技法も存在する。
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湯通し(ゆどおし)は 調理法の一種。後述。 織物を仕上げるための工程。光沢を出すため、お湯に浸して糊を取り除く作業。 湯通し(ゆどおし)は調理法の一種で、素材に湯をかけたり、短時間茹でたり、湯につけること。 湯をかけて、表面だけ加熱したい時、茹でて灰汁抜きする時、乾物を戻したりする時行う。 肉類、魚介類に湯通しをすると表面近くの蛋白質が熱変成し白っぽくなる。そのため、これを霜に見立てて霜降りとも呼ぶことがある。 これと似た方法で中華料理では「油通し」と呼ばれる技法も存在する。
'''湯通し'''(ゆどおし)は * [[調理法]]の一種。後述。 * [[織物]]を仕上げるための工程。光沢を出すため、お湯に浸して[[糊]]を取り除く作業。 ---- '''湯通し'''(ゆどおし)は[[調理法]]の一種で、素材に[[湯]]をかけたり、短時間茹でたり、湯につけること。 湯をかけて、表面だけ加熱したい時、[[茹で物|茹で]]て[[灰汁]]抜きする時、乾物を戻したりする時行う。 [[食肉|肉]]類、[[魚介類]]に湯通しをすると表面近くの[[蛋白質]]が[[熱変成]]し白っぽくなる。そのため、これを霜に見立てて'''[[霜降り]]'''とも呼ぶことがある。 これと似た方法で[[中華料理]]では「[[油通し]]」と呼ばれる技法も存在する。 {{Food-stub}} {{デフォルトソート:ゆとおし}} [[Category:調理法]] [[Category:織物]]
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14,936
下拵え
下拵え(したごしらえ)とは、調理の前準備として食材にさまざまな加工を行うこと。飲食店などで注文を受けてから提供までの時間を短縮するため、途中まで調理しておくことも下拵えという。 具体的には野菜の皮むきや面取り、魚のはらわた(内臓)除去や身の下ろし、スープや出汁をとることなどを指す。水に漬けて豆や乾物など硬い食材を柔らかくしたり、塩蔵品の塩気を減らしたりすること、食材に塩を振ってなじませたり、たれに漬けて味をつけたりすること、更には下茹でや油通しなど、下拵えの手法は幅広い。下拵えのうち、肉のスジや余分な脂肪を取り除く作業を掃除すると表現する場合がある。 魚は下処理をすることで保存性が高くなる。ある程度の大きさのあるアジなどの魚では、うろこ、内臓、血合いの除去が行われる。 つぼ抜きとは魚やイカを下処理する方法である。魚の場合は割り箸を口からえらの外側に通し、えらと内臓を同時に除去する方法を指す。 内臓を除去した魚はその後の料理に合わせた身の加工が行われる。刺身特有の加工方法については刺身#調理法も参照のこと。
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下拵え(したごしらえ)とは、調理の前準備として食材にさまざまな加工を行うこと。飲食店などで注文を受けてから提供までの時間を短縮するため、途中まで調理しておくことも下拵えという。 具体的には野菜の皮むきや面取り、魚のはらわた(内臓)除去や身の下ろし、スープや出汁をとることなどを指す。水に漬けて豆や乾物など硬い食材を柔らかくしたり、塩蔵品の塩気を減らしたりすること、食材に塩を振ってなじませたり、たれに漬けて味をつけたりすること、更には下茹でや油通しなど、下拵えの手法は幅広い。下拵えのうち、肉のスジや余分な脂肪を取り除く作業を掃除すると表現する場合がある。
{{出典の明記|date=2021年12月}} '''下拵え'''(したごしらえ)とは、[[調理]]の前準備として[[食材]]にさまざまな加工を行うこと。[[飲食店]]などで注文を受けてから提供までの時間を短縮するため、途中まで調理しておくことも下拵えという。 具体的には[[野菜]]の皮むきや面取り、[[魚類|魚]]のはらわた(内臓)除去や身の下ろし、[[スープ]]や[[出汁]]をとることなどを指す。水に漬けて[[豆]]や[[乾物]]など硬い食材を柔らかくしたり、[[塩蔵品]]の塩気を減らしたりすること、食材に塩を振ってなじませたり、[[たれ]]に漬けて味をつけたりすること、更には[[下茹で]]や[[油通し]]など、下拵えの手法は幅広い。下拵えのうち、肉のスジや余分な脂肪を取り除く作業を'''掃除する'''と表現する場合がある。 <!-- 記載する加工方法はいったん以下に絞っている 該当しない加工法でも下拵えとして扱っている文献が確認できれば問題なし ただし、肥大化しないよう節分けなどで整理・管理 - 非加熱の状態から行うもの - 加工の結果がそのまま料理として成立しない、または食べられる状態にならない - その後別の調理法を施しすぐに料理とすることが主目的のもの(料理ではなく保存が主目的の塩蔵や冷凍などを除く※逆方向の加工である塩抜きは記載できる) --> == 野菜 == ; 前処理 : 野菜についている土や泥を落として水洗いを行い、必要であれば皮をむく。 ; 切る {{Main|食材の切り方一覧}} ; アク抜き {{Main|灰汁#アクの除去}} ; 板ずり {{Main|板ずり}} {{節stub}} == 肉 == [[File:Flatten pork steaks-01.jpg|thumb|ミートハンマー]] ; 不要部位の除去 : 脂身や筋、皮(鶏もも肉の場合)など食べる際に不要となる部位の除去を行う<ref name="shokuniku_sougou">{{cite web|url=http://www.jmi.or.jp/recipe/cooking/shita_main2.html|title=食肉・内臓の下ごしらえ/食肉の下ごしらえ1 - 公益財団法人日本食肉消費総合センター|accessdate=2022-11-24}}</ref>。 ; 適切なサイズへのカット : 料理に合わせたサイズへのカットを行う<ref name="shokuniku_sougou" />。 ; 筋切り : 一枚肉の場合、焼いた際に筋が縮んで肉が反り返る場合があるため、筋の切断を行う<ref name="shokuniku_sougou" />。 ; たたく : 食感をやわらかく仕上げるため、[[ミートハンマー]]などで肉を叩いておく<ref name="shokuniku_sougou" />。 ; 下味 {{Main|下味}} {{節stub}} == 魚介類 == 魚は下処理をすることで保存性が高くなる。ある程度の大きさのある[[アジ]]などの魚では、[[うろこ]]、内臓、血合いの除去が行われる<ref>{{cite web|url= https://www.pref.kyoto.jp/suiji/1177383498745.html|title=魚の下処理方法(マアジ)/京都府ホームページ|accessdate=2022-11-23}}</ref>。 === つぼ抜き === {{右| {{画像提供依頼|つぼ抜きの画像|date=2022年11月|cat=料理|cat2=動物}} }} つぼ抜きとは魚やイカを下処理する方法である。魚の場合は[[割り箸]]を口から[[えら]]の外側に通し、えらと内臓を同時に除去する方法を指す<ref>{{cite web|url= https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/docs/1976.html|title=つぼ抜き - 山梨県北杜市公式サイト|accessdate=2022-11-23}}</ref>。 === 魚のさばき方 === [[File:3mai after.JPG|thumb|三枚おろし]] 内臓を除去した魚はその後の料理に合わせた身の加工が行われる。刺身特有の加工方法については[[刺身#調理法]]も参照のこと。 ;手開き :手開きとは小さな魚に対する下処理の方法である。うろこや内臓を除去し頭を切断した状態の小魚を用意し、腹に指を入れて腹側から背中まで開いた後、中骨や背骨を除去する<ref>{{cite web|url=https://www.city.toyoake.lg.jp/2558.htm|title=いわしの手開き/豊明市|accessdate=2022-11-23}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/kibinagonosashimi_kagoshima.html|title=きびなごの刺身 鹿児島県 {{!}} うちの郷土料理:農林水産省 |accessdate=2022-11-23}}</ref>。 ;開き :{{main|魚の開き}} ;下ろし :{{main|三枚おろし|五枚下ろし}} ;さくどり :{{main|さくどり}} {{節stub}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[隠し味]] * [[カット野菜]] * [[ジャカード]] {{food-stub}} {{デフォルトソート:したこしらえ}} [[Category:調理法]]
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ダイナブック
ダイナブック(Dynabook)とは、アラン・ケイが提唱した理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)である。 本項では、ダイナブックの一部の機能を実装したコンピュータ環境である暫定ダイナブックについても記述する。 ダイナミックメディア(メタメディア)機能を備えた「本(ブック)」のようなデバイスという意味で、ケイが1972年に著わした「A Personal Computer for Children of All Ages」に登場する(なお、このときの表記は商品化を想定した「DynaBook」。後に一般名詞を意識してDynabookと改められる)。 ケイの構想したダイナブックとは、GUIを搭載したA4サイズ程度の片手で持てるような小型のコンピュータで、ミニコンよりはるかに安く、しかしテレビよりはずっと高い500ドル程度(2018年現在の価値だと3000ドル程度)での実現を目指した。文字のほか映像、音声も扱うことができ、それを用いる人間の思考能力を高める存在であるとした。また、構想の時点ですでに有線・無線のネットワーク機能やビットマップディスプレイを想定したマルチフォントに対応することが必須とされ、実際にその後作られた暫定的な実装(後述)にも、今でこそ一般的だが当時としては斬新なマルチウインドウやメニューなど共にそれらの機能が取り入れられている。1977年の「Personal Dynamic Media」という論文に実現されたその詳細が記されている。 こうしてケイらがゼロックスのパロアルト研究所在籍時に「暫定ダイナブック」と称して開発したのが、Smalltalkを GUIベースのオペレーティングシステムに用いて動作させていたAltoや、より小型・可搬でバッテリ駆動も可能だった NoteTaker(英語版) で、特に前者については 1979年末にこれを見たスティーブ・ジョブズが Lisa 、そしてMacintoshを開発するきっかけとなったとされる。 ダイナブックというと、小型で安価、直感的なUIを持ち、マルチメディアが扱えれば実現可能といった安易な解釈があるが、これらだけでは十分ではない。「A Personal Computer for Children of All Ages」における記述や、その暫定実装においてSmalltalkをオペレーティングシステム (OS) に据えていることからも明らかなように、そのシステムは、エンドユーザーが理解できるシンプルで均一なルール(メッセージング)と要素(オブジェクト)で構成され、このシステム自体をもユーザーが自由な発想で再定義できる柔軟性や可塑性を持ち合わせていることも肝要である。特に最後の条件を完全に満たすOSはまだない。 暫定ダイナブック(ざんていダイナブック、英語:Interim Dynabook)は、アラン・ケイが、自らが1960年代に構想した理想の個人向けコンピュータ「ダイナブック」の一部の機能を実装したコンピュータ環境を、1970年代に入って、当時の技術で実現可能な範囲で試作したもの。具体的には暫定ハードウェアとしての「Alto」と、暫定システム・ソフトウェアとしての「Smalltalk」の組み合わせがそれに当たる。製作はチャック・サッカー(Alto)、ダン・インガルス(Smalltalk)らにより行なわれた。 ダイナブックについては、「たんなる理想像に過ぎず、実装が試されたことはない」という考え方が一般的だが、暫定ダイナブックの存在や実現されたこと(主にGUIの特徴(後述)とオブジェクト指向)が後世に及ぼした多大な影響に鑑みると、こうした認識はまったくの誤りだと分かる。また同時に、パーソナル・コンピュータにおけるGUIの歴史という観点から「Alto」が取りざたされる際には、発言者や記述者が意識できているか否かにかかわらず、この「暫定ダイナブック環境」(さらに言えば、ハードウエアのAltoではなく、OSであるSmalltalkの方)を暗に指していることが多い。なお、Alto向けのGUI OSは暫定ダイナブックシステム以外にもいくつか存在し、互いにその見た目や操作性は異なっていた。たとえば、製品化されたAlto系マシンに搭載されたXerox Starのシステムは、この暫定ダイナブックシステム(Smalltalk)とは系譜から言えばまったくの別物である。 1980年代以降、主にMac OSやWindows搭載機の普及によって広く知られるようになるGUIの特徴の多く、たとえば、オーバーラップするウインドウやその振る舞い(任意の場所への移動、大きさ変更、スクロールバーを用いた隠れた内容の呼び出し、タイトル化による縮退表示)、マウスの第二ボタンクリックでポップアップするメニューによるインタラクティブな操作、カット&ペーストなどに象徴される「範囲選択→操作」というモードレスな編集スタイル(ラリー・テスラーとティム・モットによる)、マルチフォントの扱いや絵の挿入が可能なテキストエディタ、ドット単位の編集まで可能なペイントツール等は、1977年終わりごろにはこの暫定ダイナブック環境上に実現されていた。 iPadは、アラン・ケイのビジョンに近いデバイス。当初のiPadではプログラミングはできなかったが、2014年からはScratchJrが、2016年からはSwift Playgroundsなどが配付されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイナブック(Dynabook)とは、アラン・ケイが提唱した理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では、ダイナブックの一部の機能を実装したコンピュータ環境である暫定ダイナブックについても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ダイナミックメディア(メタメディア)機能を備えた「本(ブック)」のようなデバイスという意味で、ケイが1972年に著わした「A Personal Computer for Children of All Ages」に登場する(なお、このときの表記は商品化を想定した「DynaBook」。後に一般名詞を意識してDynabookと改められる)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ケイの構想したダイナブックとは、GUIを搭載したA4サイズ程度の片手で持てるような小型のコンピュータで、ミニコンよりはるかに安く、しかしテレビよりはずっと高い500ドル程度(2018年現在の価値だと3000ドル程度)での実現を目指した。文字のほか映像、音声も扱うことができ、それを用いる人間の思考能力を高める存在であるとした。また、構想の時点ですでに有線・無線のネットワーク機能やビットマップディスプレイを想定したマルチフォントに対応することが必須とされ、実際にその後作られた暫定的な実装(後述)にも、今でこそ一般的だが当時としては斬新なマルチウインドウやメニューなど共にそれらの機能が取り入れられている。1977年の「Personal Dynamic Media」という論文に実現されたその詳細が記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "こうしてケイらがゼロックスのパロアルト研究所在籍時に「暫定ダイナブック」と称して開発したのが、Smalltalkを GUIベースのオペレーティングシステムに用いて動作させていたAltoや、より小型・可搬でバッテリ駆動も可能だった NoteTaker(英語版) で、特に前者については 1979年末にこれを見たスティーブ・ジョブズが Lisa 、そしてMacintoshを開発するきっかけとなったとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ダイナブックというと、小型で安価、直感的なUIを持ち、マルチメディアが扱えれば実現可能といった安易な解釈があるが、これらだけでは十分ではない。「A Personal Computer for Children of All Ages」における記述や、その暫定実装においてSmalltalkをオペレーティングシステム (OS) に据えていることからも明らかなように、そのシステムは、エンドユーザーが理解できるシンプルで均一なルール(メッセージング)と要素(オブジェクト)で構成され、このシステム自体をもユーザーが自由な発想で再定義できる柔軟性や可塑性を持ち合わせていることも肝要である。特に最後の条件を完全に満たすOSはまだない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "暫定ダイナブック(ざんていダイナブック、英語:Interim Dynabook)は、アラン・ケイが、自らが1960年代に構想した理想の個人向けコンピュータ「ダイナブック」の一部の機能を実装したコンピュータ環境を、1970年代に入って、当時の技術で実現可能な範囲で試作したもの。具体的には暫定ハードウェアとしての「Alto」と、暫定システム・ソフトウェアとしての「Smalltalk」の組み合わせがそれに当たる。製作はチャック・サッカー(Alto)、ダン・インガルス(Smalltalk)らにより行なわれた。", "title": "暫定ダイナブック" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ダイナブックについては、「たんなる理想像に過ぎず、実装が試されたことはない」という考え方が一般的だが、暫定ダイナブックの存在や実現されたこと(主にGUIの特徴(後述)とオブジェクト指向)が後世に及ぼした多大な影響に鑑みると、こうした認識はまったくの誤りだと分かる。また同時に、パーソナル・コンピュータにおけるGUIの歴史という観点から「Alto」が取りざたされる際には、発言者や記述者が意識できているか否かにかかわらず、この「暫定ダイナブック環境」(さらに言えば、ハードウエアのAltoではなく、OSであるSmalltalkの方)を暗に指していることが多い。なお、Alto向けのGUI OSは暫定ダイナブックシステム以外にもいくつか存在し、互いにその見た目や操作性は異なっていた。たとえば、製品化されたAlto系マシンに搭載されたXerox Starのシステムは、この暫定ダイナブックシステム(Smalltalk)とは系譜から言えばまったくの別物である。", "title": "暫定ダイナブック" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1980年代以降、主にMac OSやWindows搭載機の普及によって広く知られるようになるGUIの特徴の多く、たとえば、オーバーラップするウインドウやその振る舞い(任意の場所への移動、大きさ変更、スクロールバーを用いた隠れた内容の呼び出し、タイトル化による縮退表示)、マウスの第二ボタンクリックでポップアップするメニューによるインタラクティブな操作、カット&ペーストなどに象徴される「範囲選択→操作」というモードレスな編集スタイル(ラリー・テスラーとティム・モットによる)、マルチフォントの扱いや絵の挿入が可能なテキストエディタ、ドット単位の編集まで可能なペイントツール等は、1977年終わりごろにはこの暫定ダイナブック環境上に実現されていた。", "title": "暫定ダイナブック" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "iPadは、アラン・ケイのビジョンに近いデバイス。当初のiPadではプログラミングはできなかったが、2014年からはScratchJrが、2016年からはSwift Playgroundsなどが配付されている。", "title": "iPad" } ]
ダイナブック(Dynabook)とは、アラン・ケイが提唱した理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)である。 本項では、ダイナブックの一部の機能を実装したコンピュータ環境である暫定ダイナブックについても記述する。
{{otheruses|アラン・ケイが提唱した理想のコンピュータ像|Dynabook株式会社、および同社製(旧:[[東芝]]製を含む)ノートパソコン「dynabook」|Dynabook (企業)}} [[ファイル:Alan Kay and the prototype of Dynabook, pt. 5 (3010032738).jpg|250px|thumb|ダイナブック(プロトタイプ)の模型を持つアラン・ケイ(2008年)]] '''ダイナブック'''(Dynabook)とは、[[アラン・ケイ]]が提唱した理想の[[パーソナルコンピュータ]](パソコン)である。 本項では、ダイナブックの一部の機能を実装したコンピュータ環境である暫定ダイナブックについても記述する。 == 概要 == '''ダイナ'''ミックメディア(メタメディア)機能を備えた「本('''ブック''')」のようなデバイスという意味で、ケイが[[1972年]]に著わした「A Personal Computer for Children of All Ages」に登場する(なお、このときの表記は商品化を想定した「DynaBook」。後に一般名詞を意識してDynabookと改められる)。 ケイの構想したダイナブックとは、[[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]を搭載したA4サイズ程度の片手で持てるような小型のコンピュータで、ミニコンよりはるかに安く、しかしテレビよりはずっと高い500ドル程度(2018年現在の価値だと3000ドル程度)での実現を目指した。文字のほか映像、[[音声]]も扱うことができ、それを用いる人間の思考能力を高める存在であるとした。また、構想の時点ですでに有線・無線のネットワーク機能やビットマップディスプレイを想定したマルチフォントに対応することが必須とされ、実際にその後作られた暫定的な実装(後述)にも、今でこそ一般的だが当時としては斬新なマルチウインドウやメニューなど共にそれらの機能が取り入れられている。1977年の「Personal Dynamic Media」という論文に実現されたその詳細が記されている。 [[ファイル:The_Dynabook_prototype,_pt._3_(3010043854).jpg|250px|thumb|ダイナブック(プロトタイプ)]] こうしてケイらが[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]]在籍時に「暫定ダイナブック」と称して開発したのが、[[Smalltalk]]を GUIベースの[[オペレーティングシステム]]に用いて動作させていた[[Alto]]や、より小型・可搬でバッテリ駆動も可能だった {{仮リンク|NoteTaker|en|Xerox NoteTaker}} で、特に前者については 1979年末にこれを見た[[スティーブ・ジョブズ]]が [[Lisa (コンピュータ)|Lisa]] 、そして[[Macintosh]]を開発するきっかけとなったとされる。 ダイナブックというと、小型で安価、直感的なUIを持ち、マルチメディアが扱えれば実現可能といった安易な解釈があるが、これらだけでは十分ではない。「A Personal Computer for Children of All Ages」における記述や、その暫定実装においてSmalltalkを[[オペレーティングシステム]] (OS) に据えていることからも明らかなように、そのシステムは、エンドユーザーが理解できるシンプルで均一なルール(メッセージング)と要素(オブジェクト)で構成され、このシステム自体をもユーザーが自由な発想で再定義できる柔軟性や可塑性を持ち合わせていることも肝要である。特に最後の条件を完全に満たすOSはまだない。 == 暫定ダイナブック == [[ファイル:Smalltalk-76 (2).png|サムネイル]] '''暫定ダイナブック'''(ざんていダイナブック、[[英語]]:{{Lang|en|Interim Dynabook}})は、[[アラン・ケイ]]が、自らが[[1960年代]]に構想した理想の個人向けコンピュータ「ダイナブック」の一部の機能を実装したコンピュータ環境を、[[1970年代]]に入って、当時の技術で実現可能な範囲で試作したもの。具体的には暫定[[ハードウェア]]としての「[[Alto]]」と、暫定[[システム・ソフトウェア]]としての「[[Smalltalk]]」の組み合わせがそれに当たる。製作はチャック・サッカー(Alto)、ダン・インガルス(Smalltalk)らにより行なわれた。 ダイナブックについては、「たんなる理想像に過ぎず、実装が試されたことはない」という考え方が一般的だが、暫定ダイナブックの存在や実現されたこと(主に[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]の特徴(後述)と[[オブジェクト指向]])が後世に及ぼした多大な影響に鑑みると、こうした認識はまったくの誤りだと分かる。また同時に、パーソナル・コンピュータにおけるGUIの歴史という観点から「Alto」が取りざたされる際には、発言者や記述者が意識できているか否かにかかわらず、この「暫定ダイナブック環境」(さらに言えば、ハードウエアのAltoではなく、OSであるSmalltalkの方)を暗に指していることが多い。なお、Alto向けのGUI OSは暫定ダイナブックシステム以外にもいくつか存在し、互いにその見た目や操作性は異なっていた。たとえば、製品化されたAlto系マシンに搭載された[[Xerox Star]]のシステムは、この暫定ダイナブックシステム(Smalltalk)とは系譜から言えばまったくの別物である。 1980年代以降、主に[[Mac OS]]や[[Microsoft Windows|Windows]]搭載機の普及によって広く知られるようになるGUIの特徴の多く、たとえば、オーバーラップするウインドウやその振る舞い(任意の場所への移動、大きさ変更、スクロールバーを用いた隠れた内容の呼び出し、タイトル化による縮退表示)、マウスの第二ボタンクリックでポップアップするメニューによるインタラクティブな操作、カット&ペーストなどに象徴される「範囲選択→操作」というモードレスな編集スタイル([[ラリー・テスラー]]とティム・モットによる)、マルチフォントの扱いや絵の挿入が可能なテキストエディタ、ドット単位の編集まで可能なペイントツール等は、1977年終わりごろにはこの暫定ダイナブック環境上に実現されていた。 == iPad == [[iPad]]は、アラン・ケイのビジョンに近いデバイス<ref>{{Cite web|和書|title=パソコンの父によるとiPadは世界を制することになるらしい(動画)|url=https://www.gizmodo.jp/2010/02/ipad_14_alan_kay.html|website=www.gizmodo.jp|date=2010-02-26|accessdate=2021-04-11|language=ja|first=mediagene|last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「アラン・ケイの言語」を拒否したAppleに非難の声|url=https://wired.jp/2010/04/21/「アラン・ケイの言語」を拒否したappleに非難の声/|website=WIRED.jp|accessdate=2021-04-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アラン・ケイのiPadファーストインプレッション|url=https://togetter.com/li/13040|website=Togetter|accessdate=2021-04-11|language=ja}}</ref>。当初のiPadではプログラミングはできなかったが、2014年からは[[Scratch (プログラミング言語)|ScratchJr]]<ref>{{Cite web|title=ScratchJr|url=https://apps.apple.com/us/app/scratchjr/id895485086|website=App Store|accessdate=2021-04-11|language=en-us}}</ref>が、2016年からは[[Swift Playgrounds]]などが配付されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2017-12-8|section=1}} * [https://web.archive.org/web/20101014205350/http://www.computerhistory.org/events/lectures/appleint_10281997/appleint_xscript.shtml Computer History Museum - Lectures - Origins of the Apple Human Interface](Appleの技術者が暫定DynabookのGUIの何をどのように変えて使ったのか) * [[squeak:uploads/400/Smalltalk-76.pdf|The Smalltalk-76 Programming System - Design and Implementation]](1977年当時の暫定Dynabookのスクリーンショットを含む文書) * [https://web.archive.org/web/20111121072607/http://video.google.com/videoplay?docid=-4365247885921962429 Smalltalk 80(1980年代に撮影された暫定Dynabookシステムのオペレーション風景)] - [[Google Video]] * [http://www.folklore.org/StoryView.py?story=Busy_Being_Born.txt Folklore.org: Macintosh Stories: Busy Being Born]([[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]試作機のルック&フィールが暫定Dynabookのコピーから独自性を帯びてゆく過程を撮影したポラロイド群) == 関連項目 == *[[DynaMac]] - メモリーが128KBから512KBに拡張され新機能を乗せる余裕の出来たMacintoshに、漢字ROMボードや[[エルゴソフト]]社の[[EGBRIDGE]]を搭載してJIS第一水準の漢字入力機能を持たせたMacintosh。キヤノン販売が1985年8月20日に898000円で販売した。名前はダイナブックに因む。 *[[dynabook (ブランド)]] - [[東芝]]が1989年7月に発売したノートパソコンJ-3100SSに付けられ、それ以降の東芝製ノートパソコンにも使われているブランド名「DynaBook」および「dynabook」(ダイナブック)も同名だが、本項の「Dynabook」を目指すものとして命名されたのであり、直接的な関係はない。アラン・ケイのダイナブックが日本では雑誌のアスキー社が商標登録していた為に、東芝がアスキーから商標権を購入した経緯があると言われている。また、東芝のダイナブックはアメリカでは商標登録が認められておらず別のブランド名で展開している。一部機種が富士ゼロックスにOEM供給されていた。 *[[Chromebook]] - [[Google]]が2011年6月に発売した[[ChromeOS|Chrome OS]]を載せた[[ノートPC]]。[[グラフィカルユーザインタフェース]]を中心に構成されていること、子どもでも簡単に使えるくらいシンプルで直観的なPCであること、安価であること等、影響を少なからず受けている。また、[[ラリー・エリソン]]が発表した[[ネットワークコンピュータ]]の影響も多大に受けている。 == 外部リンク == * [http://www.mprove.de/diplom/gui/kay72.html A Personal Computer for Children of All Ages] (パーソナルコンピュータとダイナブックの定義) * [http://swikis.ddo.jp/abee/74 あらゆる年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピュータ] (「A Personal Computer for Children of All Ages」の有志による邦訳) * [http://www.newmediareader.com/book_samples/nmr-26-kay.pdf Personal Dynamic Media] (AltoおよびSmalltalkによるダイナブックの暫定実装に関する報告) * [http://amazon.jp/dp/4756101070 アスキー 刊「アラン・ケイ」] (「Personal Dynamic Media」の邦訳を含む書籍) * [http://gagne.homedns.org/~tgagne/contrib/EarlyHistoryST.html The Early History of Smalltalk](ダイナブック暫定的システムであるSmalltalk開発の経緯や進化の過程 {{DEFAULTSORT:たいなふつく}} [[Category:パソコンの歴史]] [[Category:コンピュータのユーザインタフェース]] [[Category:アラン・ケイ]]
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皇族
皇族(こうぞく、英: Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。 天皇、および皇室典範特例法の規定するところの上皇は、皇族には含まれない。天皇および上皇を含む場合は「皇室」という。本項目では特筆のない限り、皇室典範及び皇室典範特例法の規定するところの皇族について記載する。天皇の子を「皇子」(みこ)と呼ぶ。 かつては、竹の園、竹の園生(たけのそのう)梁園・梁苑(りょうえん)、金枝玉葉(きんしぎょくよう)とも呼ばれていた。 現在は、国会が議決した皇室典範によってその範囲は皇統に属する天皇の一族(親族)を皇族と定めている。 このうち、皇后、皇太后、皇太子または皇太孫、皇太子妃(または皇太孫妃)などとその独立していない子女の内廷に属する皇族は「内廷皇族(ないていこうぞく)」と呼ばれ、内廷から独立した宮家に属する皇族は「宮家皇族(みやけこうぞく)」または「内廷外皇族(ないていがいこうぞく)」と呼ばれる。 旧皇室典範と異なり、非嫡出子は皇族とされない。天皇の母方の血族や姻族に関しては特別の規定がなく、民法の規定により、天皇の外戚の内、皇后から3親等内の者が天皇の姻族となる。天皇の姻族は皇族ではないが、民法上は天皇の親族である。このように「皇族=天皇の親族・血族である者全員」というわけではない。皇族以外の親族には下記「#特有事項(一般国民と皇族の差異)」は該当しないが、近親婚の禁止等の規制等は適用される。 天皇または親王・王の嫡出の子女として生まれた者以外が皇族となることができるのは、女子が天皇・親王・王のいずれかと結婚する場合(すなわち皇后・親王妃・王妃になる場合)のみに限られる(皇室典範15条)。 また、各皇族個人に対して用いられる敬称として、「陛下(へいか)」と「殿下(でんか)」の2つがある。 以下、身位別該当者人数は2021年(令和3年)10月26日現在のものである(詳細後述)。 2023年(令和5年)1月1日現在の皇族は、以下の15名である。 なお、徳仁(第126代天皇)及び明仁(上皇)を含む皇室構成員は、17名。 皇族の呼称は、内閣告示、宮内庁告示や官報の皇室事項欄では、歌会始などの特別な場合を除き、次のようになっている。宮号や称号が表記されないことに注意が必要である。 宮内庁のウェブサイトや尊皇関係の書物においての呼称は以下のようになっている。(上記と多少異なる) 班位(はんい)は、すなわち皇族の序列である。皇族身位令(明治43年皇室令第2号。昭和22年皇室令第12号「――及附属法令廃止ノ件」により廃止)において詳細に定められていた。 現皇室典範下で行われた、1947年(昭和22年)10月の11宮家51名(いわゆる旧皇族)より後に臣籍降下(皇籍離脱)した人物の一覧は下表のとおりで、全員が皇室典範第12条の規定を根拠とした離脱である。 2023年(令和5年)1月1日現在、元内親王6名及び元女王2名の計8名の元皇族がいる。 上述の通り、人数は天皇・上皇を除いたものを記載する。 皇統に属する男系の男子(親王・王)は皇位継承(こういけいしょう)資格を有する(日本国憲法第2条・皇室典範第1条)。 皇位継承順位(こういけいしょうじゅんい)は、皇室典範第2条に規定される。 親王妃・王妃を除く成年皇族は摂政(せっしょう)就任資格と国事行為臨時代行(こくじこういりんじだいこう)就任資格を有する(日本国憲法第4条・第5条・皇室典範16条・国事行為の臨時代行に関する法律2条)。 就任委任順序は、皇室典範第17条に規定される。 皇族も、日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である。皇室典範その他の法律により若干の制限はあるものの一般の国民との差異は本来大きいものではない。皇族の参政権は、皇族が戸籍を有しないため(詳細後述)公職選挙法付則により当分の間停止されているだけである。しかし、実態として皇族の権利や自由は大きく制約されている。これは「『皇族という特別な地位にあり、天皇と同じように制限されるべきだ』という考え方が市民の間で根強かったため」であるとされる。このため、一般国民とは異なる取り扱いがなされている面が多くある。 具体的には、事実上、皇族に対しては日本国憲法第3章が一部適用されないということである。 宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族男子を祖とした一家のことである。宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家(じきみやけ)という。 「宮(みや)」とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて皇族の尊称となった。さらに、「○○宮」との称号(宮号)を男系男子孫たる皇族が世襲することが認められるようになった。当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家(せしゅうしんのうけ)という。 そしてこれが「宮家」の源流であり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、宮号の授与と宮家の創立は、必ずしも同時ではない(例:邦憲王は1892年(明治25年)12月17日に「賀陽宮」の称号を賜る→諸王家の一つに列せられたのは1900年(明治33年)5月9日)。 「○○宮」の称号は、近現代では成年や婚姻を機に、親王・王個人の称号として授与されており、本来その家族には冠さない。唯一妃のみが「○○宮妃」と通称される。当主であった親王または王の薨去後、嗣子たる男子がいない場合も、宮家の祭祀を配偶者や女子が引き継ぐが、それも絶えると祭祀を行って絶家となる。 近現代では永世皇族制が採用されているため、嗣子(男系子孫)が絶えない限り、宮家は存続していくこととなる。 皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範第28条以下に定められる。 皇室会議は以下の議員十人でこれを組織する(皇室典範第28条第1項・第2項)。 歴史上、歴代の天皇の男系の血族が皇族としての地位を保持し、皇位継承の担保していた。 そのうえで、当代の天皇と遠縁になった皇族は、一定の基準の元で皇籍離脱(臣籍降下)を行い、皇族の地位を手放す運用がなされるようになる。現行の法制度では、皇籍離脱に関わる具体的な基準としては、女性皇族の婚姻時の皇籍離脱が明文化されている。 大日本帝国憲法下では、1889年(明治22年)制定の旧皇室典範(きゅうこうしつてんぱん)によってその範囲を規定された、皇統に属する天皇の一族を皇族とする。 現在も同様に、天皇は、皇族に含めない。また、天皇と皇族を合わせた全体を皇室といった。 皇族の構成員は、皇后・太皇太后・皇太后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王である(旧・皇室典範第30条)。また、皇室親族令により、姻族の範囲は3親等内と規定された。 律令制の元で皇親と呼ばれていた呼称に変えて、「皇族」という呼称を採用した。また、旧来は皇后といえども臣下の家に生まれた場合には「皇親」とは認められなかったが、この改正によって皇后・妃なども皇族として扱われるようになった。 現行皇室典範との相違点として、四世孫(皇玄孫)までが親王・内親王とされ、五世孫以下が王・女王とされていた(旧皇室典範第31条)。また、非嫡出子も皇族とされた。 旧皇室典範により、成年(皇太子・皇太孫は満18歳、その他の皇族は満20歳)に達した皇族の男子は、皇室内の事項について天皇の諮詢を受ける皇族会議(こうぞくかいぎ)の議員となった。 1888年(明治21年)5月18日の明治天皇による勅命により、成年に達した親王は、枢密院の会議に班列(列席して議事に参加すること)する権利を有した。 貴族院令により、成年に達した皇族の男子は自動的に帝国議会上院の貴族院における皇族議員となった。だが、皇族が政争に関与すべきではないこと、男性皇族(親王および王)は武官(大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に属する皇族軍人)であったことから、登院は極めて稀であった。 皇族身位令によって、身位に基づき叙勲された。 皇族男子が軍人(武官)となることは、1873年(明治6年)12月9日の太政官達を経て、皇族身位令第17条によって、次の区分に従ってその義務が明文化された。 明治天皇の意向で開始された。第二次世界大戦終戦(日本の降伏)後の1945年(昭和20年)11月30日に、根拠規定である皇族身位令第17条が削除され、義務が消滅した。 皇族相互間の民事訴訟については、特別裁判所として皇室裁判所が臨時に必要に応じて置かれ、これが管轄することになっていた。他方、皇族と人民(臣民)の間の民事訴訟については、人民の皇族に対する民事訴訟の第一審と第二審が東京控訴院の管轄に属することとされたこと等のほかは、一般の法令によるものとされた。 皇族の刑事訴訟については、軍法会議の裁判権に属するものを除くほかは、大審院の管轄に属するものとされた。軍法会議の裁判権に属するものについては、高等軍法会議で審判された。 皇族の班位(順位)は、皇族身位令により、次の順序によるものとされた。 また、以上の順序の中でも細かな点については以下のようになっていた。 日本の近代化に伴い、皇族もまた通学により学業を修めるようになった。特に、1877年(明治10年)に創設、1884年(明治17年)に宮内省管轄となった学習院には、男女問わず多数の皇族(後に配偶者となる華族子女も含む。)が多数進学している。ただし、昭和中期以前に修学が一般的でない時代においては、婚姻を機とした中途退学や、昭和天皇・香淳皇后のような専属の学問所での教育受講等も珍しくない。 また、先述の通り、旧皇室典範下において皇族男子には軍人となる義務が課せられていたことから、軍学校(陸軍幼年学校、陸軍士官学校および海軍兵学校)に進学し、さらに陸軍大学校または海軍大学校に進学している者も多数いる。 以下には、生まれながらの皇族(親王、内親王、王、女王)であって、学習院または軍学校以外に進学した者を挙げる(義務教育より後のもの。また降下後の進学、卒業後の海外留学を除く。)。 本節で述べる旧皇族(きゅうこうぞく)とは、北朝第3代崇光天皇の男系(父系)子孫であり、連合国軍被占領期、1947年(昭和22年)にGHQ/SCAPの指令により(形式的には、現皇室典範の規定による自発的な離脱)、皇籍離脱をした11宮家に属する51名のこと。うち一部の宮家は、既に断絶または男系断絶している。ただ、皇籍離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(東久邇家一族は皇族ではないが、女系/母系で明治天皇第9皇女の聡子内親王と昭和天皇第1皇女の成子内親王の血縁を有するために民法上は「天皇の親族」である)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会を通じて、現在でも皇室との親近な交流は継続されている。
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"本節で述べる旧皇族(きゅうこうぞく)とは、北朝第3代崇光天皇の男系(父系)子孫であり、連合国軍被占領期、1947年(昭和22年)にGHQ/SCAPの指令により(形式的には、現皇室典範の規定による自発的な離脱)、皇籍離脱をした11宮家に属する51名のこと。うち一部の宮家は、既に断絶または男系断絶している。ただ、皇籍離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(東久邇家一族は皇族ではないが、女系/母系で明治天皇第9皇女の聡子内親王と昭和天皇第1皇女の成子内親王の血縁を有するために民法上は「天皇の親族」である)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会を通じて、現在でも皇室との親近な交流は継続されている。", "title": "旧皇族" } ]
皇族は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。 天皇、および皇室典範特例法の規定するところの上皇は、皇族には含まれない。天皇および上皇を含む場合は「皇室」という。本項目では特筆のない限り、皇室典範及び皇室典範特例法の規定するところの皇族について記載する。天皇の子を「皇子」(みこ)と呼ぶ。
{{Otheruseslist|[[日本]]の皇族|日本の[[天皇]]・[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]及び皇族の総称|皇室|皇室・皇族を構成する者の身分の総称|身位|諸外国における[[国王]]や[[皇帝]]の親族|王族}} [[ファイル:Japan Kouzoku Flag 16ben.svg|250px|サムネイル|皇族旗 ([[親王]]旗・[[親王妃]]旗・[[内親王]]旗・[[王 (皇族)|王]]旗・[[王妃 (皇族)|王妃]]旗・[[女王 (皇族)|女王]]旗)。{{efn|皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。}}]] '''皇族'''(こうぞく、{{lang-en-short|Imperial Family}})は、[[皇帝]]の一族、あるいは[[日本]]の[[天皇]]の[[親族]]のうち、[[既婚]]の[[女子]]を除く[[男系]]の[[嫡出]]の[[血族]]およびその[[配偶者]]の総称<ref>『大辞林 第三版』三省堂</ref>。すなわち[[皇室典範]]の規定するところの[[三后]]([[皇后]]、[[太皇太后]]、[[皇太后]])、[[親王]]、[[親王妃]]、[[内親王]]、[[王 (皇族)|王]]、[[王妃 (皇族)|王妃]]、[[女王 (皇族)|女王]]、[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]の規定するところの[[上皇后]]の総称である。 天皇、および皇室典範特例法の規定するところの[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]は、皇族には含まれない<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/special/japans-emperor6/articles/articles_emperor_03.html 退位後のお立場|平成から令和へ 新時代の幕開け|NHK NEWS WEB] 2020年1月2日閲覧。</ref>。天皇および上皇を含む場合は「[[皇室]]」という。本項目では特筆のない限り、皇室典範及び皇室典範特例法の規定するところの皇族について記載する。天皇の子を「[[皇子]]」(みこ)と呼ぶ。 == 概要 == {{seealso|身位}}かつては、'''竹の園'''、'''竹の園生'''(たけのそのう)'''梁園'''・'''梁苑'''(りょうえん)、'''金枝玉葉'''(きんしぎょくよう)とも呼ばれていた。 === 現在の定義 === <blockquote {{皇室典範/blockquote@style}}> :; [[日本国憲法第2条|日本国憲法第二条]]:皇位は、[[世襲]]のものであつて、[[国会 (日本)|国会]]の議決した[[皇室典範]]の定めるところにより、これを継承する。 :; [[皇室典範]]第五条 :: [[皇后]]・[[太皇太后]]・[[皇太后]]・[[親王]]・[[親王妃]]・[[内親王]]・[[王 (皇族)|王]]・[[王妃 (皇族)|王妃]]及び[[女王 (皇族)|女王]]を皇族とする。 :; 同第六条 ::[[嫡出]]の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。 :; [[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]第四条 ::上皇の后は、[[上皇后]]とする(第一項)。上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による(第二項)。 </blockquote> 現在は、[[国会 (日本)|国会]]が議決した[[皇室典範]]によってその範囲は皇統に属する[[天皇]]の一族([[親族]])を皇族と定めている。 このうち、皇后、皇太后、[[皇太子]]または皇太孫、[[皇太子妃]](または皇太孫妃)などとその独立していない子女の内廷に属する皇族は「[[内廷皇族]](ないていこうぞく)」と呼ばれ、内廷から独立した宮家に属する皇族は「[[宮家]]皇族(みやけこうぞく)」または「内廷外皇族(ないていがいこうぞく)」と呼ばれる。 旧皇室典範と異なり、非嫡出子は皇族とされない。天皇の母方の血族や[[姻族]]に関しては特別の規定がなく、[[民法 (日本)|民法]]の規定により、天皇の外戚の内、皇后から3親等内の者が天皇の姻族となる。天皇の姻族は皇族ではないが、民法上は天皇の親族である。このように「皇族=天皇の親族・血族である者全員」というわけではない。皇族以外の親族には下記「[[#特有事項]](一般国民と皇族の差異)」は該当しないが、[[近親婚]]の禁止等の規制等は適用される。 天皇または親王・王の嫡出の子女として生まれた者以外が皇族となることができるのは、女子が天皇・親王・王のいずれかと結婚する場合(すなわち皇后・親王妃・王妃になる場合)のみに限られる([[s:皇室典範#第十五条|皇室典範15条]])。 また、各皇族個人に対して用いられる敬称として、「[[陛下]](へいか)」と「[[殿下]](でんか)」の2つがある。 === 身位と構成員 === 以下、身位別該当者人数は2021年(令和3年)10月26日現在のものである([[#現在の皇族一覧|詳細後述]])。 ; [[皇后]](こうごう) : 性別:女 : [[天皇]]の后。 : [[皇室典範]]に定められた敬称は「陛下」(皇室典範第23条)。 : 成人であれば[[摂政]]に就任しうる(第17条)。 : 崩御後は[[陵]]に葬られる(27条)。 : 立后には[[皇室会議]]の議を経ることが必要である([[s:皇室典範#第十条|10条]])。 : すでに[[皇位継承者]]の妃である場合、夫の即位に伴って皇后となる。 : 崩御した際には、「○○皇后」と追号されるのが慣例となっている。これは、存命中の最高班位に基づくものであった{{efn|昭憲皇太后については事情により「皇太后」と追号されている。詳細は「[[昭憲皇太后#追号について]]」を参照。}}。 : 該当者:1名 – [[皇后雅子|雅子]] ; [[太皇太后]](たいこうたいごう) : 性別:女 : 先々代の天皇の皇后。 : 成人であれば摂政に就任しうる(皇室典範第17条)。 : 敬称は「陛下」を用いる(第23条)。 : 太皇太后を葬るところは陵と称する(第27条)。 : 該当者:不在 ; [[皇太后]](こうたいごう) : 性別:女 : 先代の天皇の皇后。 : 敬称は「陛下」を用いる(皇室典範第23条)。 : 皇太后を葬るところは陵と称する(第27条)。 : 成人であれば摂政に就任しうる(第17条)。 : 該当者:不在 ; [[上皇后]](じょうこうごう) : 性別:女 : 上皇の后(天皇の退位等に関する皇室典範特例法第4条第1項)。 : 皇太后の例に倣うため、敬称は「陛下」を用いる。 : 成人であれば摂政に就任しうるものとされる。 : 該当者:1名 – [[上皇后美智子|美智子]] ; [[親王]](しんのう) : 性別:男 : [[皇位継承]]資格を有する([[日本国憲法第2条]]・[[皇室典範]]第1条)。 : [[皇位継承順位]]は皇室典範第2条に定められる。 : 天皇の[[嫡出]]の[[皇子]](正妻の[[皇子]]:皇男子)および天皇の嫡男系嫡出の皇孫男子([[s:皇室典範#第六条|6条]])、または天皇の皇兄弟([[s:皇室典範#第七条|7条]])。[[皇太子]]、[[皇太孫]]も含まれる。 : 敬称は「殿下」。 : 成人であれば摂政に就任しうる(第17条)。 : 天皇・皇太子の息子である場合、さらに「○宮」の[[御称号]]が与えられる。 : 王が皇位を継承したときは、その兄弟たる王を親王とする([[s:皇室典範#第七条|7条]])。 : 該当者:3名 – [[秋篠宮文仁親王]]、[[悠仁親王]]、[[常陸宮正仁親王]] ; [[親王妃]](しんのうひ) : 性別:女 : 親王の妃。[[皇太子妃]]・[[皇太孫妃]]も含まれる。 : 敬称は「殿下」。 : 親王妃は夫である親王が皇位を継承した場合、これに伴って皇后になる。 : 親王妃が成婚前より内親王または女王であった場合は、成婚後も皇后となるまでは、引き続き元来の身位(内親王又は女王)を併存(保持)する。 : 該当者:5名 – [[文仁親王妃紀子]]、[[正仁親王妃華子]]、[[崇仁親王妃百合子]]、[[寬仁親王妃信子]]、[[憲仁親王妃久子]] ; [[内親王]](ないしんのう) : 性別:女 : 天皇の嫡出の[[皇女]]および天皇の嫡男系嫡出の皇孫女子([[s:皇室典範#第六条|第6条]])、または天皇の皇姉妹([[s:皇室典範#第七条|第7条]])。 : 敬称は「殿下」。 : 成人であれば摂政に就任しうる(第17条)。 : 天皇・皇太子の娘である場合、さらに「○宮」の[[御称号]]が与えられる。 : 親王または王と結婚した場合は、成婚後も皇后となるまでは、引き続き元来の身位を併存(保持)する。 : 王が皇位を継承したときは、その姉妹である女王を内親王とする。 : 該当者:2名 – [[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]、[[佳子内親王]] ; [[王 (皇族)|王]](おう) : 性別:男 : [[皇位継承]]資格を有する([[日本国憲法第2条]]・[[皇室典範]][[s:皇室典範#第一条|第1条]])。 : [[皇位継承順位]]は[[s:皇室典範#第二条|皇室典範第2条]]に定められる。 : 天皇の嫡男系嫡出で三[[親等]]以上([[曽孫]]以下)離れた皇族男子(傍系でなく直系尊属の天皇から数える)。 : 敬称は「殿下」。 : 成人であれば摂政に就任しうる(第17条)。 : 王は、皇位の継承によって嫡出の皇子または嫡男系嫡出の皇孫となった場合、あるいは王の兄弟である王が皇位を継承した場合、親王に身位が変更される([[s:皇室典範#第六条|皇室典範第6条]]・[[s:皇室典範#第七条|皇室典範第7条]])。 : 該当者:不在 ; [[王妃 (皇族)|王妃]](おうひ) : 性別:女 : 王の妃。 : 敬称は「殿下」。 : 王妃は夫である王が親王に身位が変更された場合は親王妃に、皇位を継承した場合は皇后になる。 : 王妃が結婚前より内親王または女王であった場合は、結婚後も皇后となるまでは、引き続き元来の身位(内親王又は女王)を併存(保持)する。 : 該当者:不在 ; [[女王 (皇族)|女王]]'''(じょおう)''' : 性別:女 : 天皇の嫡男系嫡出で三親等以上(曽孫以下)離れた皇族女子。 : 敬称は「殿下」。 : 成人であれば摂政に就任しうる。 : 親王または王と結婚した場合は、結婚後も皇后となるまでは、引き続き元来の身位を併存(保持)する。 : 女王は、皇位の継承によって嫡出の皇子または嫡男系嫡出の皇孫となった場合、あるいは女王の兄弟たる王が皇位を継承した場合、内親王に身位が変更される。 : 該当者:3名 – [[彬子女王]]、[[瑶子女王]]、[[承子女王]] === 皇族の身分の離脱 === {{main|臣籍降下|永世皇族制}} * 満15歳以上の内親王・王・女王は、本人の意志に基づき、[[皇室会議]]の承認を得ることにより、皇族の[[身分]]を離脱できる([[s:皇室典範#第十一条|皇室典範11条1項]])。 * 皇太子・皇太孫を除く親王・内親王・王・女王は、やむを得ない特別の事由があるときは、本人の意思にかかわらず、皇室会議の判断で、皇族の身分を離れる([[s:皇室典範#第十一条|皇室典範11条2項]])。 * 皇族女子は、天皇・皇族以外の者と結婚したときは、皇族の身分を離れる([[s:皇室典範#第十二条|皇室典範12条]])。 * (1)皇族の身分を離れる親王・王の妃 (2)皇族の身分を離れる親王・王の子孫 (3)皇族の身分を離れる親王・王の子孫の妃は、その親王・王と同時に皇族の身分を離れる(他の皇族と婚姻した女子とその子孫を除く)。ただし、(2)と(3)の皇族の身分を離れる親王・王の子孫とその妃については、[[皇室会議]]の判断で、皇族の身分を離れないものとすることができる([[s:皇室典範#第十三条|皇室典範13条]])。 * 皇族以外の女子で親王妃または王妃となった者が、その夫を失って未亡人([[寡婦|寡妃]])となったときは、本人の意思により、皇族の身分を離脱できる。また、この場合、やむを得ない特別の事由があるときは、本人の意思にかかわらず、皇室会議の判断で、皇族の身分を離れる([[s:皇室典範#第十四条|皇室典範14条1, 2項]])。なお、皇太后や太皇太后は皇籍離脱をすることができない。 * 皇族以外の女子で親王妃または王妃となった者が、[[離婚]]したときは、皇族の[[身分]]を離れる([[s:皇室典範#第十四条|皇室典範14条3項]])。なお、皇后や上皇后は離婚をすることができない。 * 皇族の身分を離れた親王・王の子孫で他の皇族と結婚した女子が、その夫を失って未亡人となったときは、本人の意思により、皇族の身分を離脱できる。この場合、やむを得ない特別の事由があるときは、本人の意思にかかわらず、皇室会議の判断で、皇族の身分を離れる。また、この者が離婚したときは、皇族の身分を離れる([[s:皇室典範#第十四条|皇室典範14条4項]])。 == 現在の皇族一覧 == {{see also|皇室#構成}} [[2023年]](令和5年)[[1月1日]]現在の皇族は、以下の15名である。 なお、[[徳仁]](第126代[[天皇]])及び[[明仁]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])を含む皇室構成員は、17名。 <div style="overflow: auto; padding: 7px; border:1px solid #AAAAAA;" > {| class="wikitable" style="font-size:80%" ! colspan="2" |名前 !読み ![[御称号]] ![[身位]] !nowrap|[[皇室典範|敬称]] !nowrap|性別 !nowrap|[[世数]] ! [[宮家]] !生年月日 !nowrap|現年齢 !天皇から<br />見た[[続柄]] ![[皇位継承順位|皇位<BR>継承順位]] !nowrap|[[摂政#日本における摂政|摂政<BR>就任順位]] ![[お印]] ! [[勲等]] |- |[[ファイル:Empress Masako at TICAD7.jpg|70ピクセル]] |[[皇后雅子|雅子]] |まさこ | |[[皇后]]<br>([[徳仁|第126代天皇]]后) |[[陛下]] |女性 | |([[内廷皇族|内廷]]) |[[1963年]]<br>(昭和38年)<br>[[12月9日]] |{{年数|1963|12|9}}歳 |妻(配偶者)<br>旧姓:小和田(おわだ) | |第3位 |[[ハマナス]] |nowrap| [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Empress Michiko's arrival in Manila - 2016 (cropped).jpg|70ピクセル]] |nowrap|[[上皇后美智子|美智子]] |みちこ | |[[上皇后]]<br>([[明仁|第125代天皇]]后) |[[陛下]] |女性 | | ([[内廷皇族|内廷]]) |nowrap|[[1934年]]<br>(昭和9年)<BR>[[10月20日]] |{{年数|1934|10|20}}歳 |皇母<br>旧姓:正田(しょうだ) | | 第4位 |[[シラカンバ|白樺]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Aiko_2021_(cropped).jpg|70px]] |[[愛子内親王|愛子]] |あいこ |<sub>としのみや</sub><br />敬宮 |[[内親王]] |[[殿下]] |女性 | 一世 | ([[内廷皇族|内廷]]) |[[2001年]]<br>([[平成]]13年)<br>[[12月1日]] |{{年数|2001|12|1}}歳 |第一皇女子<br>(一女のうち第一子) | | 第5位 |nowrap|[[ゴヨウツツジ]] | [[宝冠大綬章]] |- |[[File:Prince Fumihito Rome 2016 (4).jpg|70ピクセル]] |[[秋篠宮文仁親王|文仁]] |nowrap|ふみひと |nowrap|<sub>あやのみや</sub><br />礼宮 |[[親王]] |[[殿下]] |男性 | 一世 | [[秋篠宮]] |nowrap|[[1965年]]<br>(昭和40年)<br>[[11月30日]] |{{年数|1965|11|30}}歳||皇弟<br>上皇第二皇男子<br>(二男一女のうち第二子) |nowrap|第1位<br>([[皇嗣]]) |第1位 |[[ツガ|栂]] | [[大勲位菊花大綬章]] |- |[[ファイル:Princess Kiko Rome 2016 (1).jpg|70ピクセル]] |[[文仁親王妃紀子|紀子]] ||きこ | |nowrap|[[親王妃]]<br>([[秋篠宮文仁親王]]妃) |[[殿下]] |女性 | | ([[秋篠宮]]) ||[[1966年]]<br>(昭和41年)<br>[[9月11日]] |{{年数|1966|9|11}}歳||義妹<br>旧姓:川嶋(かわしま) | | |[[ヒオウギアヤメ|檜扇菖蒲]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[File:Prince Hisahito of Akishino 20201130.jpg|70ピクセル]] |[[悠仁親王|悠仁]] |ひさひと | |[[親王]] |[[殿下]] |男性 | 二世 |nowrap| ([[秋篠宮]]) |[[2006年]]<br>(平成18年)<br>[[9月6日]] |{{年数|2006|9|6}}歳 |nowrap|皇甥 /<br>文仁親王第一男子<br>(一男二女のうち第三子) |第2位 | |[[コウヤマキ|高野槇]] | |- |[[File:Princess Kako.jpg|70ピクセル]] |[[佳子内親王|佳子]] |かこ | |[[内親王]] |[[殿下]] |女性 | 二世 | ([[秋篠宮]]) |[[1994年]]<br>(平成6年)<br>[[12月29日]] |{{年数|1994|12|29}}歳 |皇姪 /<br>文仁親王第二女子<br>(一男二女のうち第二子) | |第6位 |[[オオハマボウ|ゆうな]] | [[宝冠大綬章]] |- |[[ファイル:Prince Masahito cropped 2 Prince Masahito Prince Albert II Princess Hanako and Yukiya Amano 20100713.jpg|70ピクセル]] |[[常陸宮正仁親王|正仁]] ||まさひと ||<sub>よしのみや</sub><br />義宮 |[[親王]] |[[殿下]] ||男性 | 一世 | [[常陸宮]] |[[1935年]]<br>(昭和10年)<br>[[11月28日]] |{{年数|1935|11|28}}歳|||皇叔父 /<br>[[昭和天皇]]第二皇男子<br>(二男五女のうち第六子)<br>上皇の実弟 |第3位 |第2位 |[[オガタマノキ|黄心樹]] | [[大勲位菊花大綬章]] |- |[[ファイル:Princess Hitachi 2012-1-2.jpg|70ピクセル]] |[[正仁親王妃華子|華子]] ||はなこ || |[[親王妃]]<br>([[常陸宮正仁親王]]妃) |[[殿下]] ||女性 | | ([[常陸宮]]) |[[1940年]]<br>(昭和15年)<br>[[7月19日]] |{{年数|1940|7|19}}歳|||義叔母(上皇の義妹)<br>旧姓:津軽(つがる) | | |[[シャクナゲ|石南花]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess Mikasa 2012-1-2.jpg|70ピクセル]] |[[崇仁親王妃百合子|百合子]] ||ゆりこ | |[[親王妃]]<br>([[三笠宮崇仁親王]]妃) |[[殿下]] ||女性 | | ([[三笠宮]]) |[[1923年]]<br>([[大正]]12年)<br>[[6月4日]] |{{年数|1923|6|4}}歳||義大叔母(昭和天皇の義妹)<br>旧姓:高木(たかぎ) | | |[[キリ|桐]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess_Nobuko_(cropped).jpg|70ピクセル]] |[[寬仁親王妃信子|信子]] ||のぶこ | |[[親王妃]]<br>([[寬仁親王]]妃) |[[殿下]] ||女性 | | ([[三笠宮]]) |[[1955年]]<br>(昭和30年)<br>[[4月9日]] |{{年数|1955|4|9}}歳||義従叔母(上皇の義従妹)<BR>旧姓:麻生(あそう) | | |[[ハナモモ|花桃]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess Akiko cropped 3 The New Year Greeting 2011 at the Tokyo Imperial Palace.jpg|70ピクセル]] |[[彬子女王|彬子]] |あきこ | |[[女王 (皇族)|女王]] |[[殿下]] |女性 | 三世 | ([[三笠宮]]) |[[1981年]]<br>(昭和56年)<br>[[12月20日]] |{{年数|1981|12|20}}歳 |皇再従妹/ [[大正天皇]]皇曾孫<br>/[[寬仁親王]]第一王女子<br>(二女のうち第一子) | |第7位 |[[雪]] | [[勲二等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess Yoko cropped 1 Shimpei Matsushita Hiroshi Hase and Princess Yoko 20160726.png|70ピクセル]] |[[瑶子女王|瑤子]] |ようこ | |[[女王]] |[[殿下]] |女性 | 三世 | ([[三笠宮]]) |[[1983年]]<br>(昭和58年)<br>[[10月25日]] |{{年数|1983|10|25}}歳 ||皇再従妹/ [[大正天皇]]皇曾孫<br>/[[寬仁親王]]第二王女子<br>(二女のうち第二子) | |第8位 |[[星]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}} | [[勲二等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess Takamado and Lieutenant Governor Elizabeth Dowdeswell (cropped).jpeg|70ピクセル]] |[[憲仁親王妃久子|久子]] |ひさこ | |[[親王妃]]<br>([[高円宮憲仁親王]]妃) |[[殿下]] |女性 | | ([[高円宮]]) |[[1953年]]<br>(昭和28年)<br>[[7月10日]] |{{年数|1953|7|10}}歳||義従叔母(上皇の義従妹)<BR>旧姓:鳥取(とっとり) | | |[[扇子|扇]] | [[勲一等宝冠章]] |- |[[ファイル:Princess Tsuguko cropped 3 The New Year Greeting 2011 at the Tokyo Imperial Palace.jpg|70ピクセル]] |[[承子女王|承子]] |つぐこ | |[[女王 (皇族)|女王]] |[[殿下]] |女性 | 三世 | ([[高円宮]]) |[[1986年]]<br>(昭和61年)<br>[[3月8日]] |{{年数|1986|3|8}}歳 |皇再従妹/&nbsp;[[大正天皇]]の皇曾孫<br>/[[高円宮憲仁親王|憲仁親王]]第一王女子<br>(三女のうち第一子) | |第9位 |[[萩]] | [[宝冠牡丹章]] |- | |} </div> * [[宮号]]と[[称号]]は、[[皇統譜]]には登録されない(宮内庁[[告示]]の形式によって[[官報]]で公表はされる)。なお、宮号は[[宮家]]の[[当主]]の親王・王のみが名乗るものであり、当該親王・王の妃や子女等が自らの宮号としてこれを称することはない。ただし、上表では妃や子女等についても便宜のため括弧書きしている。 ===系図=== <div style="overflow: auto; padding: 7px; border:1px solid #AAAAAA;" > {{familytree/start |style=font-size:70%;line-height:100%;}} {{familytree | | | | | | | | |TEN | |KOZ | |KOK | |HOG | |SEI | | | |TEN=現在の<br/>天皇・上皇|KOZ=現在の皇族|KOK=皇籍を離脱し生存する者|HOG=[[崩御]]・薨去した天皇・皇族|SEI=[[皇籍離脱]]後、[[逝去]]した者 |boxstyle_TEN =background-color: #e6b422; |boxstyle_KOZ =background-color: #ffff00; |boxstyle_KOK =background-color: #00ff00; |boxstyle_HOG =background-color: #add8e6; |boxstyle_SEI =background-color: #b0b0b0; }} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | |}} {{familytree |TAI |v|TEI | | | | | | |TAI='''[[大正天皇]]'''|TEI=[[貞明皇后]] |boxstyle_TAI =background-color: #add8e6; |boxstyle_TEI =background-color: #add8e6; }} {{familytree | |,|-|^|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | |}} {{familytree |SHO |v|KOU | |CHI |-|SET | |TAK |-|KIK | | | | | | | | | | | | |MIK |v|YUR | | | | | | | | | | | | | |SHO='''[[昭和天皇]]'''|KOU=[[香淳皇后]]|CHI=[[秩父宮雍仁親王|秩父宮<br/>雍仁親王]]|SET=[[雍仁親王妃勢津子|勢津子]]|TAK=[[高松宮宣仁親王|高松宮<br/>宣仁親王]]|KIK=[[宣仁親王妃喜久子|喜久子]]|MIK=[[三笠宮崇仁親王|三笠宮<br/>崇仁親王]]|YUR=[[崇仁親王妃百合子|百合子]] |boxstyle_SHO =background-color: #add8e6; |boxstyle_KOU =background-color: #add8e6; |boxstyle_CHI =background-color: #add8e6; |boxstyle_SET =background-color: #add8e6; |boxstyle_TAK =background-color: #add8e6; |boxstyle_KIK =background-color: #add8e6; |boxstyle_MIK =background-color: #add8e6; |boxstyle_YUR =background-color: #ffff00; }} {{familytree | |,|-|^|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | |,|^|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | |}} {{familytree |SIG | |SAC | |KAZ | |ATU | |AKI |v|MIC | |HIT |-|HAN | |TAK | |KOY | |TOM |v|NOB | |KAT | |SEM | |TAM |v|HIK | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |SIG=[[東久邇成子|東久邇成子<br/>(照宮)]]|SAC=[[久宮祐子内親王|久宮<br/>祐子内親王]]|KAZ=[[鷹司和子|鷹司和子<br/>(孝宮)]]|ATU=[[池田厚子|池田厚子<br/>(順宮)]]|AKI='''[[明仁]]'''<br/>(上皇)|MIC=[[上皇后美智子|美智子]]|HIT=[[常陸宮正仁親王|常陸宮<br/>正仁親王]]|HAN=[[正仁親王妃華子|華子]]|TAK=[[島津貴子|島津貴子<br/>(清宮)]]|KOY=[[近衞甯子]]|KOT=[[近衞忠煇]]|TOM=[[寬仁親王]]|NOB=[[寬仁親王妃信子|信子]]|KAT=[[桂宮宜仁親王|桂宮<br/>宜仁親王]]|SEM=[[千容子]]|SES=[[千宗室 (16代)|千宗室]]|TAM=[[高円宮憲仁親王|高円宮<br/>憲仁親王]]|HIK=[[憲仁親王妃久子|久子]] |boxstyle_AKI =background-color: #e6b422; |boxstyle_TOM =background-color: #add8e6; |boxstyle_TAM =background-color: #add8e6; |boxstyle_KOY =background-color: #00ff00; |boxstyle_SEM =background-color: #00ff00; |boxstyle_NOB =background-color: #ffff00; |boxstyle_KAT =background-color: #add8e6; |boxstyle_HIK =background-color: #ffff00; |boxstyle_SAC =background-color: #add8e6; |boxstyle_SIG =background-color: #b0b0b0; |boxstyle_MOH =background-color: #00ff00; |boxstyle_KAZ =background-color: 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#e6b422; |boxstyle_MAS =background-color: #ffff00; |boxstyle_AKF =background-color: #ffff00; |boxstyle_AKK =background-color: #ffff00; }} {{familytree | | | |!| | | | | |,|-|^|-|v|-|-|-|.|}} {{familytree | | |AIK | | | |MAK | |KAK | |HIS | | | | | |AIK=[[愛子内親王|敬宮<br/>愛子内親王]]|MAK=[[小室眞子]]|KAK=[[佳子内親王]]|HIS=[[悠仁親王]] |boxstyle_AIK =background-color: #ffff00; |boxstyle_MAK =background-color: #00ff00; |boxstyle_KAK =background-color: #ffff00; |boxstyle_HIS =background-color: #ffff00; }} {{familytree/end}} </div> === 皇族の呼称 === '''皇族の呼称'''は、[[内閣]][[告示]]、[[宮内庁]]告示や[[官報]]の皇室事項欄では、[[歌会始]]などの特別な場合を除き、次のようになっている。宮号や称号が表記されないことに注意が必要である。 * 皇后・太皇太后・皇太后・上皇后:「皇后陛下」「上皇后陛下」- 身位+敬称の順。 * 皇太子:「皇太子徳仁親王殿下」-「皇太子」+名+身位+敬称の順。 * 皇太子妃:「皇太子徳仁親王妃雅子殿下」-「皇太子」+夫の名+夫の身位+「妃」+名+敬称の順。 * 親王・内親王・王・女王:「愛子内親王殿下」、「悠仁親王殿下」、「彬子女王殿下」- 名+身位+敬称の順。 * 親王妃・王妃については、「正仁親王妃華子殿下」と、夫の名+夫の身位+「妃」+名+敬称の順。 * 皇族が[[崩御]]ないし[[崩御#薨去|薨去]]した後は、「故[[皇太后]]」や「故宣仁親王妃喜久子」と、上記に「故」が冠され敬称が省かれる。 * 夫が薨去して[[未亡人]]となった場合でも、親王妃・王妃の呼称については「憲仁親王妃久子殿下」と、夫の名に「故」を冠さない。 ** 法律や叙勲においては、「[[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀|皇太子徳仁親王の結婚の儀]]の行われる日を休日とする法律」など、敬称は省かれる。 宮内庁のウェブサイトや尊皇関係の書物においての呼称は以下のようになっている。(上記と多少異なる) * 皇后・太皇太后・皇太后・上皇后には、身位+敬称で「皇后陛下」や「皇太后陛下」など。 * 皇太子や宮号を持つ男性皇族には、身位か宮号+敬称(「皇太子殿下」や「常陸宮殿下」など)。 * 御称号を有する皇族には、御称号+敬称(「敬宮殿下」など)。 * 宮号などを有さない男性皇族や未婚の女性皇族には、名前+身位+敬称(「悠仁親王殿下」や「瑤子女王殿下」など)。 * 既婚の女性皇族(親王妃・王妃)には、夫の名前+夫の身位+「妃」+敬称(「寬仁親王妃殿下」など)、夫の宮号かそれに値する身位+「妃」+敬称(「皇太子妃殿下」や「常陸宮妃殿下」など)。 * 崩御/薨去した皇族に追号がある場合は「故・皇太后陛下」などではなく「[[香淳皇后]]」となる。 === 班位・席次 === {{seealso|身位#班位}} 班位(はんい)は、すなわち皇族の序列である。[[皇族身位令]](明治43年皇室令第2号。昭和22年皇室令第12号「――及附属法令廃止ノ件」により廃止)において詳細に定められていた。 == 歴史上の男性皇族一覧 == {{main|男性皇族一覧}} ==現在の元皇族の一覧== 現皇室典範下で行われた、1947年(昭和22年)10月の11宮家51名(いわゆる[[旧皇族]])より後に[[臣籍降下]](皇籍離脱)した人物の一覧は下表のとおりで、全員が[[皇室典範]]第12条の規定{{efn|[[皇室典範]](昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」}}を根拠とした離脱である。 2023年(令和5年)1月1日現在、元[[内親王]]6名及び元[[女王 (皇族)|女王]]2名の計8名の元皇族がいる。 {{現在の元皇族の女性}} ==規模の推移 == 上述の通り、人数は天皇・上皇を除いたものを記載する。 {|class="sortable wikitable" style="margin-right:0" |- style="white-space:nowrap" !日時!!class="unsortable"|名!!概要!!増減!!人数 |- style="background:#cce3e6" |1947年(昭和22年)10月14日 |11宮家51名<br>(男性32名、女性19名:詳細は[[旧皇族]]を参照) |[[皇籍離脱]] | -51 |15人 |- style="background:#ffe3fc" |1948年(昭和23年){{0}}2月11日 |宜仁親王([[桂宮宜仁親王]]) |誕生 | +1 |16人 |- style="background:#cce3e6" |1950年(昭和25年){{0}}5月21日 |孝宮和子内親王([[鷹司和子]]) |皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]]) | -1 |15人 |- style="background:#cce3e6" |1951年(昭和26年){{0}}5月17日 |[[貞明皇后]] |[[崩御]] | -1 |14人 |- style="background:#ffe3fc" |1951年(昭和26年)10月23日 |容子内親王([[千容子]]) |誕生 | +1 |15人 |- style="background:#cce3e6" |1952年(昭和27年)10月10日 |順宮厚子内親王([[池田厚子]]) |皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]]) | -1 |14人 |- style="background:#cce3e6" |1953年(昭和28年){{0}}1月{{0}}4日 |[[秩父宮雍仁親王]] |薨去 | -1 |13人 |- style="background:#ffe3fc" |1954年(昭和29年)12月29日 |憲仁親王([[高円宮憲仁親王]]) |誕生 | +1 |14人 |- style="background:#ffe3fc" |1959年(昭和34年){{0}}4月10日 |皇太子明仁親王妃美智子([[上皇后美智子]]、旧姓名:正田美智子) |婚姻 |<nowiki>+1</nowiki> |15人 |- style="background:#ffe3fc" |1960年(昭和35年){{0}}2月23日 |浩宮徳仁親王([[徳仁]]、第126代天皇、今上天皇) |誕生 | +1 |16人 |- style="background:#cce3e6" |1960年(昭和35年){{0}}3月10日 |清宮貴子内親王([[島津貴子]]) |皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]]) | -1 |15人 |- style="background:#ffe3fc" |1964年(昭和39年){{0}}9月{{0}}3日 |[[正仁親王妃華子]](旧姓名:津軽華子) |婚姻 | +1 |16人 |- style="background:#ffe3fc" |1965年(昭和40年)11月30日 |礼宮文仁親王([[秋篠宮文仁親王]]) |誕生 | +1 |17人 |- style="background:#cce3e6" |1966年(昭和41年)12月18日 |甯子内親王([[近衞甯子|近衛甯子]]) |皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]]) | -1 |16人 |- style="background:#ffe3fc" |1969年(昭和44年){{0}}4月18日 |紀宮清子内親王([[黒田清子]]) |誕生 | +1 |17人 |- style="background:#ffe3fc" |1980年(昭和55年)11月{{0}}7日 |[[寬仁親王妃信子]](旧姓名: 麻生信子) |婚姻 | +1 |18人 |- style="background:#ffe3fc" |1981年(昭和56年)12月20日 |[[彬子女王]] |誕生 | +1 |19人 |- style="background:#cce3e6" |1983年(昭和58年)10月14日 |容子内親王([[千容子]]) |皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]]) | -1 |18人 |- style="background:#ffe3fc" |1983年(昭和58年)10月25日 |[[瑶子女王]] |誕生 | +1 |19人 |- style="background:#ffe3fc" |1984年(昭和59年)12月{{0}}6日 |[[憲仁親王妃久子]](旧姓名:鳥取久子) |婚姻 | +1 |20人 |- style="background:#ffe3fc" |1986年(昭和61年){{0}}3月{{0}}8日 |[[承子女王]] |誕生 | +1 |21人 |- style="background:#cce3e6" |1987年(昭和62年){{0}}2月{{0}}3日 |[[高松宮宣仁親王]] |薨去 | -1 |20人 |- style="background:#ffe3fc" |1988年(昭和63年){{0}}7月22日 |典子女王([[千家典子]]) |誕生 | +1 |21人 |- style="background:#e6b422" |1989年(昭和64年){{0}}1月{{0}}7日 |皇太子明仁親王([[明仁]]、第125代天皇、[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]) |[[即位]]([[皇位継承]]) | -1 |20人 |- style="background:#ffe3fc" |1990年(平成{{0}}2年){{0}}6月29日 |[[文仁親王妃紀子]](旧姓名:川嶋紀子) |婚姻 | +1 |21人 |- style="background:#ffe3fc" |1990年(平成{{0}}2年){{0}}9月15日 |絢子女王([[守谷絢子]]) |誕生 | +1 |22人 |- style="background:#ffe3fc" |1991年(平成{{0}}3年)10月23日 |眞子内親王([[小室眞子]]) |誕生 | +1 |23人 |- style="background:#ffe3fc" |1993年(平成{{0}}5年){{0}}6月{{0}}9日 |皇太子徳仁親王妃雅子([[皇后雅子]]、旧姓名:小和田雅子) |婚姻 | +1 |24人 |- style="background:#ffe3fc" |1994年(平成{{0}}6年)12月29日 |[[佳子内親王]] |誕生 | +1 |25人 |- style="background:#cce3e6" |1995年(平成{{0}}7年){{0}}8月25日 |[[雍仁親王妃勢津子]] |薨去 | -1 |24人 |- style="background:#cce3e6" |2000年(平成12年){{0}}6月16日||[[香淳皇后]]||崩御||-1||23人 |- style="background:#ffe3fc" |2001年(平成13年)12月{{0}}1日||[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]||誕生||+1||24人 |- style="background:#cce3e6" |2002年(平成14年)11月21日||高円宮憲仁親王||薨去||-1||23人 |- style="background:#cce3e6" |2004年(平成16年)12月18日||[[宣仁親王妃喜久子]]||薨去||-1||22人 |- style="background:#cce3e6" |2005年(平成17年)11月15日||紀宮清子内親王([[黒田清子]])||皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]])||-1||21人 |- style="background:#ffe3fc" |2006年(平成18年){{0}}9月{{0}}6日||[[悠仁親王]]||誕生||+1||22人 |- style="background:#cce3e6" |2012年(平成24年){{0}}6月{{0}}6日||[[寬仁親王]]||薨去||-1||21人 |- style="background:#cce3e6" |2014年(平成26年){{0}}6月{{0}}8日||[[桂宮宜仁親王]]||薨去||-1||20人 |- style="background:#cce3e6" |2014年(平成26年)10月{{0}}5日||典子女王([[千家典子]])||皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]])||-1||19人 |- style="background:#cce3e6" |2016年(平成28年)10月27日||[[三笠宮崇仁親王]]||薨去||-1||18人 |- style="background:#cce3e6" |2018年(平成30年)10月29日||絢子女王([[守谷絢子]])||皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]])||-1||17人 |- style="background:#e6b422" |2019年(令和元年){{0}}5月{{0}}1日 |皇太子徳仁親王([[徳仁]]、第126代天皇、今上天皇) |即位([[明仁から徳仁への皇位継承|皇位継承]])||-1||16人 |- style="background:#cce3e6" |2021年(令和3年)10月26日||眞子内親王([[小室眞子]])||皇籍離脱([[s:皇室典範|皇室典範第12条]])||-1||15人 |} == 皇位継承 == '''皇統に属する男系の男子'''([[親王]]・[[王 (皇族)|王]])は'''[[皇位継承]]'''(こういけいしょう)資格を有する([[日本国憲法第2条]]・[[皇室典範]][[s:皇室典範#第一条|第1条]])。 '''[[皇位継承順位]]'''(こういけいしょうじゅんい)は、[[s:皇室典範#第二条|皇室典範第2条]]に規定される。 {{皇位継承順位}} == 摂政・国事行為臨時代行 == 親王妃・王妃を除く成年皇族は'''[[摂政]]'''(せっしょう)就任資格と'''[[国事行為臨時代行]]'''(こくじこういりんじだいこう)就任資格を有する([[日本国憲法第4条]]・[[日本国憲法第5条|第5条]]・皇室典範16条・[[国事行為の臨時代行に関する法律]]2条)。 就任委任順序は、皇室典範第17条に規定される。 {{摂政就任順位}} == 一般国民との相違面 == 皇族も、[[日本国憲法第10条]]に規定された[[日本国籍]]を有する「日本国民」である<ref>[[芦部信喜]]『憲法』p86</ref>。[[皇室典範]]その他の法律により若干の制限はあるものの一般の国民との差異は本来大きいものではない。皇族の[[参政権]]は、皇族が戸籍を有しないため(詳細後述)[[公職選挙法]]付則により当分の間停止されているだけである。しかし、実態として皇族の権利や自由は大きく制約されている。これは「『皇族という特別な地位にあり、天皇と同じように制限されるべきだ』という考え方が市民の間で根強かったため」であるとされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN196K0KN19UPQJ00R.html|title=皇族の「人権」どこまで? 目につく「不自由さ」|accessdate=2022-1-20|date=2020-1-20|publisher=[[朝日新聞]]|author=藤田さつき}}</ref>。このため、一般国民とは異なる取り扱いがなされている面が多くある。 具体的には、事実上、皇族に対しては[[日本国憲法第3章]]が一部適用されないということである。 * [[家制度]]があり[[家父長制]]が存在する。 * [[養子縁組|養子]]をすることができない([[s:皇室典範#第九条|皇室典範9条]])。 * 皇族男子の[[結婚]]は、[[皇室会議]]の承認が必要である([[s:皇室典範#第十条|皇室典範10条]])。離婚と皇族女子の結婚は承認不要{{efn|ただし離婚者が出た実例は、旧皇室典範下における1896年(明治29年)の東伏見宮依仁親王のみ。なお、天皇と皇后、上皇と上皇后は離婚をすることができない}}。 * 2022年3月31日まで、皇太子・皇太孫以外の皇族は民法を準用して満20歳で成年となるが、皇太子・皇太孫は満18歳で成年とされ、直系か傍系かという地位により区別されていた(皇室典範22条)。2022年4月1日以降は満18歳で成年とする改正民法が施行され、皇太子・皇太孫とそれ以外の皇族の区別は事実上無くなり全ての皇族が18歳で成年となることとなったが、皇太子・皇太孫は満18歳で成年と規定した皇室典範22条の条文自体はそのまま残っている。成人または婚姻した際に、「皇族身位令」(1947年廃止)を準用して[[勲章 (日本)|叙勲]]される([[身位#日本国憲法下]]を参照)。 * 皇后・太皇太后・皇太后は天皇同様「'''[[陛下]]'''(へいか)」、それ以外の皇族は「'''[[殿下]]'''(でんか)」の[[敬称]]を付する(皇室典範23条)。上皇・上皇后に対しては「陛下」を用いる(天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3・4条)。また[[氏]]を持たない。マスメディアでは[[宮号]]を使って「**宮さま」「**宮妃**さま」「**宮家の**さま」と表現される。これにより、動静は[[最高敬語]]を以て報じられる([[1947年]]〈[[昭和]]22年〉[[8月]]の旧[[宮内省]]と報道各社の取り決めに基づく)。 * 皇后・太皇太后・皇太后(又は上皇后)の死は天皇同様「'''[[崩御]]'''(ほうぎょ)」、それ以外の皇族の死は「'''薨去'''(こうきょ)」と称される。 ** ただし多くのマスメディアにおいては、「ご[[逝去]]」「ご[[死去]]」などの表現も使われる。 * 成年皇族は[[皇室会議]]の議員・予備議員(各2人・任期4年)の互選人となり、当選すれば議員・予備議員に就任することができる(皇室典範28,30,32条)。 * 通常の[[戸籍]]には登録されず、身分に関する事項は'''[[皇統譜]]'''(こうとうふ)に登録される(皇室典範26条)。 * 公職選挙の[[参政権]]([[選挙権]]・[[被選挙権]])が停止されている{{efn|[[公職選挙法]]附則2項および[[地方自治法]]附則抄第20条により「[[戸籍法]]の適用を受けないため、選挙権・被選挙権は当分の間停止されている」という規定が根拠とする見解がある。しかし、前述の法規定は「法施行時に日本国籍を有していた台湾人や朝鮮人を対象としたのであって、天皇や皇族を対象としたのではない」とする見解もある。1992年(平成4年)4月7日の参議院内閣委員会で宮尾盤宮内庁次長(当時)は、「天皇及び皇族の選挙権・被選挙権は、象徴的な立場にある天皇とその一家として『政治的な立場も中立でなければならない』という要請や、『天皇は国政に関する権能を有しない』(憲法4条1項)という規定の趣旨などを根拠として、有していないとされているのであり、公職選挙法の規定が根拠になるわけではない」とする旨の答弁している。なお、1946年(昭和21年)2月に制定された参議院議員選挙法は附則第2条で「皇族は、当分、この法律の規定にかかわらず、選挙権を有する」と規定されて皇族は参院選の選挙権を有していたが、1947年(昭和22年)4月に[[第1回参議院議員通常選挙]]が実施される直前の3月に、同年3月に公布された衆議院議員選挙法改正で参議院議員選挙法附則第2条が削除される形で皇族は参院選の選挙権を有さなくなり、同条文は参議院議員通常選挙で適用されることがなかった。}}。 * [[住民基本台帳]]には記録されない(住民基本台帳法39条・同法施行令33条)。 * 通常の[[旅券]](パスポート)を用いず、皇后を除き、「皇族」という官職名で外交旅券の発給を受ける{{efn|皇后は、天皇を元首として待遇する国際慣習により、元首の配偶者となるため旅券を必要としない}}。 *[[国民健康保険]]に加入する義務・権利がない。民間団体に勤めないと{{efn|彬子女王は立命館大学の研究員なので私学共済に加入している}}[[医療費]]は全額自費負担となる。 * 皇后・太皇太后・皇太后(又は上皇后)を葬る所は天皇同様「'''[[陵]]'''」、その他の皇族を葬る場は「'''[[墓]]'''」と称される(皇室典範27条)。 * 内廷費や、皇族としての品位保持の資に充てるために皇族費が国庫から支出される一方で、財産の賜与(贈与)及び譲受に関して[[日本国憲法]]と[[皇室経済法]]による強い規制がある。生計が政府の丸抱えになるので“極端な形の世襲の国家公務員”だと評する意見がある<ref>[http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2012-04/12/content_25129051_4.htm 日本の天皇はどんな場所に住んでいる?] - 中国網([[2012年]][[4月12日]])</ref>。 * 内廷には[[宮内庁侍従職|侍従職]]・[[宮内庁東宮職|東宮職]]があるほか、各宮家には、宮務官や侍女長といった側近([[家事使用人]])が付けられている。なお、侍従職・東宮職・宮務官・侍女長は[[特別職]][[国家公務員]]である。 * 全ての皇族は、どこに赴く際にも必ず[[ボディーガード|護衛]]が付く。[[皇室財産|皇室関連施設]]内では[[皇宮警察本部]]に属する[[皇宮護衛官]]が、皇室関連施設以外の[[東京都]]内ならば[[警視庁]]の所轄署の[[警察官]]が、東京都(警視庁)以外の46[[道府県]]ではその道府県[[警察本部]]の[[警備部]]が指揮し所轄の警察官が警護する。護衛は皇族の外出先を全て把握し、24時間体制で警護にあたる。東京都から他の46道府県に赴く際は、護衛官がその道府県警察本部の警護担当者に連絡を入れる<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20170529_558990.html 皇族の方々、デートで完全2人になれずNG職種の交際相手も NEWSポストセブン]</ref>。 * 事実上、[[信教の自由]]がない。法的根拠はないが、[[宮中祭祀]]という宗教行事があるために実質上、皇室構成員全員は[[神道]]の信徒である{{efn|[[上皇后美智子]]が聖心女子大学卒ということで、結婚が発表された際「洗礼を受けたクリスチャンなのではないか」とゴシップ的に問題になった}}。 == 宮家・宮号 == {{main|宮家|宮号|世襲親王家|御称号}} '''宮家'''(みやけ)とは、[[日本]]において、[[宮号]]を賜った皇族男子を祖とした一家のことである。宮家のうち[[天皇]]の子女や兄弟が創設した宮家を'''[[直宮家]]'''(じきみやけ)という。 「宮(みや)」とは、元々、[[天皇]]および皇族の邸の事を指し、転じて皇族の尊称となった<ref>{{Cite book |和書 |author=荒木敏夫|authorlink=荒木敏夫|title=日本古代の皇太子|publisher=[[吉川弘文館]] |series=[[古代史研究選書]]|date=1985-10|isbn=978-4642021586|ref=荒木 1985}} p.126</ref>。さらに、「○○宮」との称号(宮号)を男系男子孫たる皇族が[[世襲]]することが認められるようになった。当今の[[天皇]]との血統の遠近にかかわらず、代々[[親王宣下]]を受けることで[[親王]]の[[身位]]を保持し続けた宮家を'''[[世襲親王家]]'''(せしゅうしんのうけ)という。 そしてこれが「宮家」の源流であり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、宮号の授与と宮家の創立は、必ずしも同時ではない(例:[[賀陽宮邦憲王|邦憲王]]は1892年(明治25年)12月17日に「[[賀陽宮]]」の称号を賜る<ref>『官報』第2843号「宮廷録事」、明治25年12月17日({{国立国会図書館デジタルコレクション|2946108/2|format=NDLJP}})</ref>→諸王家の一つに列せられたのは[[1900年]](明治33年)[[5月9日]]<ref>明治33年宮内省達甲第2号(『官報』号外、明治33年5月9日)({{国立国会図書館デジタルコレクション|2948346/10|format=NDLJP}})</ref>)。 「○○宮」の称号は、近現代では成年や婚姻を機に、親王・王個人の[[称号]]として授与されており、本来その家族には冠さない。唯一妃のみが「○○宮妃」と通称される。当主であった親王または王の薨去後、嗣子たる男子がいない場合も、宮家の祭祀を配偶者や女子が引き継ぐが、それも絶えると祭祀を行って絶家となる{{efn|[[宣仁親王妃喜久子|高松宮妃喜久子]]が著した『菊と葵のものがたり』(1998年、中央公論社)中、p.97に[[秩父宮]]家の絶家の様子が紹介されている。}}。 近現代では[[永世皇族制]]が採用されているため、嗣子(男系子孫)が絶えない限り、宮家は存続していくこととなる。 {{宮家}} == 皇室会議 == {{main|皇室会議}} 皇室会議は、[[日本]]の[[皇室]]に関する重要な事項を合議する国の機関である。[[皇室典範]]第28条以下に定められる。 === 婚姻関係 === * 立后および皇族男子([[親王]]、[[王 (皇族)|王]])の婚姻([[s:皇室典範#第十条|皇室典範第10条]])  : 他の事項が皇室会議の「議による」とされるのに対して、これのみ皇室会議の「議を経る」とされる。なお、現皇室典範施行中に独身の[[天皇]]はまだいないので、「立后」が議題になった事はない。 === 皇籍離脱関係 === * 15歳以上の[[内親王]]・[[王 (皇族)|王]]・[[女王 (皇族)|女王]]のその意思に基づく[[臣籍降下|皇籍離脱]]([[s:皇室典範#第十一条|皇室典範第11条1項]]) * [[皇太子]]・[[皇太孫]]を除く[[親王]]・内親王・王・女王のその意思に関わらない皇籍離脱([[s:皇室典範#第十一条|皇室典範第11条2項]]) * 皇籍離脱する親王・王の直系卑属とその妃が、特例として皇族の身分を離れないものとすること([[s:皇室典範#第十三条|皇室典範第13条但書]]) * 皇族以外の女子で[[親王妃]]・[[王妃 (皇族)|王妃]]となり、夫の薨去により未亡人となった者の、その意思に関わらない皇籍離脱([[s:皇室典範#第十四条|皇室典範第14条2項]]) === 議員 === 皇室会議は以下の議員十人でこれを組織する([[皇室典範]]第28条第1項・第2項)。 {{皇室会議議員}} == 役職 == {{更新|date=2021年10月|section=1}} === 現在 === ; <ref>[https://www.kunaicho.go.jp/about/history/history.html 宮内庁 皇室 ご略歴]</ref> ; [[皇后雅子]] * [[日本赤十字社]]名誉総裁 ; [[秋篠宮文仁親王]] * [[皇室会議]] 議員<ref name=":0">[https://www.kunaicho.go.jp/about/seido/koshitsukaigi-meibo.html 皇室会議議員名簿 宮内庁 平成28年10月24日現在]</ref> * [[山階鳥類研究所]]総裁 * [[日本動物園水族館協会]]総裁 * 御寺泉涌寺を護る会 総裁 * 大日本農会 総裁&nbsp; * 大日本山林会 総裁 * 日本植物園協会 総裁 * [[世界自然保護基金|世界自然保護基金ジャパン]][[名誉総裁]] * 日蘭協会 名誉総裁 * 特定非営利活動法人 全日本愛瓢会 名誉総裁 * 日本水大賞委員会 名誉総裁 * 日本ワックスマン財団 名誉総裁 * サイアム・ソサエティ 名誉副総裁 * [[東京農業大学]][[農学部]][[客員教授]] * [[東京大学総合研究博物館]]特招研究員 ; [[文仁親王妃紀子]] * 皇室会議予備議員<ref name=":0" /> * [[公益財団法人]][[結核予防会]][[総裁]] * [[恩賜財団母子愛育会]]総裁 * 大聖寺文化・護友会 名誉総裁&nbsp; * [[日本赤十字社]]名誉副総裁 * 日本学術振興会 名誉特別研究員 ; [[佳子内親王]] * [[公益財団法人]][[日本テニス協会]]名誉総裁 ; [[常陸宮正仁親王]] * [[皇室会議|皇室会議予備]][[議員]]<ref name=":0" /> * [[財団法人]][[日本鳥類保護連盟]][[総裁]] * [[社会福祉法人]]日本肢体不自由児協会総裁 * [[社団法人]][[発明協会]]総裁 * 日本丁抹協会総裁 * [[財団法人]]大日本[[蚕糸]]会総裁 * 財団法人日本障害者リハビリテーション協会総裁 * 財団法人[[日本美術協会]]総裁 * 財団法人[[日本バスケットボール協会]]総裁 * 財団法人東京動物園協会総裁 * 財団法人[[日仏会館]]総裁 * 日本瑞典協会[[名誉総裁]] * 日本ベルギー協会名誉総裁 * 公益財団法人[[がん研究会]]名誉総裁 * [[特定非営利活動法人]]日本[[パスツール]]協会名誉総裁 * [[日本赤十字社]]名誉副総裁 ; [[正仁親王妃華子]] * 皇室会議 議員<ref name=":0" /> * [[日本いけばな芸術協会]]名誉総裁 * [[日本動物福祉協会]]名誉総裁 * [[日本馬術連盟]]名誉総裁 * [[日本・ラテンアメリカ婦人協会]]名誉総裁 * [[日本赤十字社]]名誉副総裁 ; [[崇仁親王妃百合子]] * [[日本赤十字社]]名誉副総裁 ; [[寬仁親王妃信子]] * [[東京慈恵会]]総裁 * [[日本ばら会]]名誉総裁 * [[日本赤十字社]]名誉副総裁  他多数 ; [[彬子女王]] * [[一般社団法人]]心游舎[[総裁]] * [[日本・トルコ協会]]総裁 * [[公益社団法人]][[日本職業スキー教師協会]]総裁 * [[公益財団法人]]中近東文化センター総裁 * [[立命館大学]]衣笠総合研究機構客員協力研究員 * [[法政大学]]国際日本学研究所客員所員 * [[京都市立芸術大学]]芸術資源研究センター[[客員教授]]・特別招聘研究員 * [[京都産業大学]]日本文化研究所専任研究員 * [[國學院大學]]特別招聘教授 ; [[瑶子女王]] * 一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会総裁 * 社会福祉法人友愛十字会総裁 ; [[憲仁親王妃久子]] * [[日本グラススキー協会]] 総裁 * [[日本アマチュアオーケストラ連盟]] 総裁 * いけばなインターナショナル 名誉総裁 * [[全日本軟式野球連盟]] 名誉総裁 * [[全日本アーチェリー連盟]] 名誉総裁 * [[日本フェンシング協会]] 名誉総裁 * [[日本水難救済会]] 名誉総裁 * [[日本ホッケー協会]] 名誉総裁 * [[日本サッカー協会]] 名誉総裁 * 日本スペイン協会 名誉総裁 * 地域伝統芸能活用センター 名誉総裁 * 稲盛財団 名誉総裁 * [[日本セーリング連盟]] 名誉総裁 * [[日本スカッシュ協会]] 名誉総裁 * [[日本海洋少年団連盟]] 名誉総裁 * [[日本学生協会基金]] 名誉総裁 * 日本アジア協会 名誉総裁 * フランス語婦人会 名誉総裁 * 日本・エジプト協会 名誉総裁 * 日加協会 名誉総裁 * [[バードライフ・インターナショナル]] 名誉総裁 * [[国際弓道連盟]] 名誉総裁 * 高円宮記念日韓交流基金 名誉総裁 * 仁和会 名誉総裁 * 中宮寺奉賛会 名誉総裁 * 国際教育振興会賛助会 名誉会長 * [[日本赤十字社]] 名誉副総裁 * [[バードライフインターナショナル]]のレアバード・クラブ 名誉顧問 ; [[承子女王]] * 財団法人[[日本ユニセフ協会]]の[[常勤]]嘱託[[職員]] === 戦前 === * [[大日本水産会]] 会頭 * [[大日本山林会]] 総裁 * [[大日本武徳会]] 総裁 * 高野山興隆会 総裁 * 婦人共立育児会 総裁 *[[恩賜財団母子愛育会|恩賜財団愛育会]] 総裁 * [[東京慈恵会]] 総裁 * [[愛国婦人会]] 総裁 * 大日本婦人衛生会 総裁 * [[高松宮妃癌研究基金]] 名誉総裁 * [[人形美術協会]](全日本人形師範会) 名誉総裁 * 国際教育情報センター 理事長 * 菊医会 名誉会長 * 筆頭門跡尼院大聖寺・煎茶道「永皎流」 副総裁 * 陸海軍将校夫人会 総裁 * [[福田会]] 総裁 * [[結核予防会]] 総裁 == 皇族の範囲の変遷 == {{main|臣籍降下}} 歴史上、歴代の天皇の男系の血族が皇族としての地位を保持し、[[皇位継承]]の担保していた。 そのうえで、当代の天皇と遠縁になった皇族は、一定の基準の元で[[皇籍離脱]]([[臣籍降下]])を行い、皇族の地位を手放す運用がなされるようになる。現行の法制度では、皇籍離脱に関わる具体的な基準としては、女性皇族の婚姻時の皇籍離脱が明文化されている。 == 大日本帝国憲法下での皇族 == {{main|皇室典範 (1889年)}} {{seealso|身位#旧皇室典範}} [[大日本帝国憲法]]下では、[[1889年]](明治22年)制定の'''[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]'''(きゅうこうしつてんぱん)によってその範囲を規定された、皇統に属する'''天皇の一族'''を'''皇族'''とする。 現在も同様に、'''天皇は、皇族に含めない'''。また、天皇と皇族を合わせた全体を'''[[皇室]]'''といった。 皇族の構成員は、[[皇后]]・[[太皇太后]]・[[皇太后]]・[[皇太子]]・[[皇太子妃]]・[[皇太孫]]・皇太孫妃・[[親王]]・[[親王妃]]・[[内親王]]・[[王 (皇族)|王]]・[[王妃 (皇族)|王妃]]・[[女王 (皇族)|女王]]である(旧・皇室典範第30条)。また、[[皇室親族令]]により、[[姻族]]の範囲は3親等内と規定された。 律令制の元で皇親と呼ばれていた呼称に変えて、「皇族」という呼称を採用した。また、旧来は皇后といえども臣下の家に生まれた場合には「皇親」とは認められなかったが、この改正によって皇后・妃なども皇族として扱われるようになった。 現行[[皇室典範]]との相違点として、四世孫(皇玄孫)までが親王・内親王とされ、五世孫以下が王・女王とされていた(旧皇室典範第31条)。また、非嫡出子も皇族とされた。 === 皇族会議 === {{main|皇族会議}} [[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]により、成年(皇太子・皇太孫は満18歳、その他の皇族は満20歳)に達した皇族の男子は、皇室内の事項について天皇の諮詢を受ける'''[[皇族会議]]'''(こうぞくかいぎ)の議員となった。 === 枢密院 === [[1888年]]([[明治]]21年)5月18日の[[明治天皇]]による[[勅命]]により、成年に達した親王は、[[枢密院 (日本)|枢密院]]の会議に[[班列]](列席して議事に参加すること)する権利を有した。 === 貴族院 === 貴族院令により、成年に達した皇族の男子は自動的に[[帝国議会]]上院の[[貴族院 (日本)|貴族院]]における[[皇族議員]]となった。だが、皇族が政争に関与すべきではないこと、男性皇族([[親王]]および[[王 (皇族)|王]])は[[武官]]([[大日本帝国陸軍]]および[[大日本帝国海軍]]に属する[[皇族軍人]])であったことから、登院は極めて稀であった。 === 叙勲 === {{seealso|身位#叙勲}} 皇族身位令によって、身位に基づき[[叙勲]]された。 === 軍人任官 === {{seealso|皇族軍人}} 皇族男子が軍人(武官)となることは、1873年(明治6年)12月9日の太政官達を経て、皇族身位令第17条によって、次の区分に従ってその義務が明文化された。 * 皇太子、皇太孫:満10歳に達した後に、[[大日本帝国陸軍]]''および''[[大日本帝国海軍]]の[[武官]]。 * 親王、王:満18歳に達した後に、原則、大日本帝国陸軍''または''大日本帝国海軍の武官。 [[明治天皇]]の意向で開始された。[[第二次世界大戦]]終戦([[日本の降伏]])後の1945年(昭和20年)11月30日に、根拠規定である皇族身位令第17条が削除され、義務が消滅した。 === 皇族の裁判 === ==== 民事訴訟 ==== 皇族相互間の[[民事訴訟]]については、[[特別裁判所]]として[[皇室裁判所]]が臨時に必要に応じて置かれ、これが[[裁判管轄|管轄]]することになっていた。他方、皇族と人民(臣民)の間の民事訴訟については、人民の皇族に対する民事訴訟の第一審と第二審が東京[[控訴院]]の管轄に属することとされたこと等のほかは、一般の[[法令]]によるものとされた。 ==== 刑事訴訟 ==== 皇族の[[刑事訴訟]]については、[[軍法会議]]の裁判権に属するものを除くほかは、[[大審院]]の管轄に属するものとされた。軍法会議の裁判権に属するものについては、高等軍法会議で審判された。 === 皇族の特有事項 === * 皇族男子([[親王]]および[[王 (皇族)|王]])は、[[皇位継承]]資格を有する。 * [[親王妃]]と[[王妃]]を除く成年に達した皇族は、[[摂政]]就任資格を有する。 * [[皇后]]・[[太皇太后]]・[[皇太后]]は[[陛下]]、それ以外の皇族は[[殿下]]の[[敬称]]を称した(旧・皇室典範第17,18条)。また[[氏]]を持たない。 * 皇族は天皇の監督を受けた(旧・皇室典範第35条)。 * 皇族の後見人は、成年以上の皇族に限られた([[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]第38条)。 * 皇族の結婚は、皇族同士か特に[[勅許]](天皇の許可)を受けた[[華族]]との間に限定され、[[勅|勅許]]を必要とした(旧・皇室典範第39,40条)。また、大正7年([[1918年]])11月28日皇室典範増補により、皇族女子は[[王公族]](旧・韓国皇室)に降嫁することができた。 **※これにより実際、[[1920年]](大正9年)[[4月28日]]に[[方子女王]]([[梨本宮]][[梨本宮守正王|守正王]]第一王女)と[[李垠]](旧[[大韓帝国]]、高宗第七皇子)の婚姻がなされた。 * 皇族の[[養子縁組|養子]]は禁止された(旧・皇室典範第42条)。 * 皇族は住所を東京市内に定め、東京市外への住所移転や国外旅行には[[勅|勅許]]を必要とした(旧・皇室典範第43条)。 * 皇族を[[勾引]]し、[[裁判所]]に召喚するには[[勅|勅許]]を必要とした(旧皇室典範第51条)。 * 皇族が品位を辱める行いをしたり、皇室に対して忠順を欠くときは[[勅旨]]を以って[[懲戒]]を受け、重い場合は皇族特権の停止、剥奪を受け、[[臣籍]]に降されることもあることになっていた(旧・皇室典範第52条・明治40年/[[1907年]]2月11日皇室典範増補第4条)。 * 王は、勅旨または情願によって[[華族]]となることができた([[臣籍降下]])。また、勅許によって華族の[[家督]]を相続することや、家督相続の目的で華族の養子となることができた。(明治40年-[[1907年]]-2月11日皇室典範増補第1,2条) * [[宮家|宮号]]を賜った皇族には、[[別当]]・[[家令]]・家扶・家従といった職員が附属された。また、武官である皇族には、[[侍従武官|皇族附武官]]([[佐官]]・[[尉官]])が附属された。 * 皇族は満6歳から満20歳まで普通教育を受けるものとされ、原則として[[学習院]]または[[女子学習院]]で就学するものとされた([[皇族就学令]])。 * 皇族は商工業を営み、または営利を目的とする社団の社員もしくは役員となることができない(ただし株主となることはできる)。また、任官による場合を除くほか、報酬を受ける職に就くことができない。さらに、公共団体の吏員または議員となることもできない(貴族院議員を除く)。営利を目的としない団体の役員となる場合は勅許を要した(皇族身位令第44,45,46,47条)。 === 皇族の班位 === {{seealso|身位#班位}} 皇族の班位(順位)は、皇族身位令により、次の順序によるものとされた。 # [[皇后]] # [[太皇太后]] # [[皇太后]] # [[皇太子]] # [[皇太子妃]] # [[皇太孫]] # [[皇太孫妃]] # [[親王]]、[[親王妃]]、[[内親王]]、[[王 (皇族)|王]]、[[王妃 (皇族)|王妃]]、[[女王 (皇族)|女王]] また、以上の順序の中でも細かな点については以下のようになっていた。 * '''親王・王'''の班位は、[[皇位継承]]の順序に従う。 : その順序は、以下のとおりである。 # 天皇の長子 # 天皇の長孫 # その他の天皇の長子の子孫 # 天皇の次子およびその子孫 # その他の天皇の子孫 # 天皇の兄弟およびその子孫 # 天皇の伯叔父およびその子孫 # それ以上の皇族 : 以上においては、同等内では、[[嫡出|嫡出子]]およ及びその子孫の系統を先にして、庶出の子([[非嫡出子]])およびその子孫の系統を後にする。また、嫡出子・庶出の子それぞれの中でも、先に生まれた者およびその子孫の系統を優先して、後に生まれた者およびその子孫の系統を後にする。('''嫡庶長幼'''の順) * '''内親王'''、'''女王'''の班位は、'''親王'''、'''王'''の班位に準じる。 * 「親王、内親王、王、女王」で同順位にある者は、男を先にし、女を後にする。('''男女'''の順) * '''親王妃'''、'''王妃'''の班位は、夫の次とする。内親王、女王であって親王妃、王妃となった者も例外としない。 * '''故皇太子の妃'''の班位は、皇太子妃の次とし、故皇太孫の妃の班位は、皇太孫妃の次とする。 * '''親王、王の寡妃'''([[未亡人]])の班位は、夫生存中と同じとする。 * '''[[摂政]]'''に就任している親王、内親王、王、女王の班位は、皇太孫妃の次とする。ただし、故皇太孫の妃があるときは、その次とする。 * 皇太子、皇太孫が'''[[皇位継承]]の順序を変えられたとき'''は、その班位は、皇太孫妃の次とする。ただし、故皇太孫の妃があるときはその次とし、摂政に就任している親王、内親王、王、女王があるときはその次とする。 * 親王、王が[[皇位継承順位]]を変更された場合においても、その班位は、順位変更前と同様にする。 * 本来は王であるが、旧皇室典範制定前に[[親王宣下]]を受けて親王となっている者('''宣下親王''')は、宣下された順序によって、王の上とする。 == 皇族と学業 == {{seealso|学習院|皇族軍人}} 日本の近代化に伴い、皇族もまた通学により学業を修めるようになった。特に、1877年(明治10年)に創設、1884年(明治17年)に宮内省管轄となった[[学習院]]には、男女問わず多数の皇族(後に配偶者となる華族子女も含む。)が多数進学している。ただし、昭和中期以前に修学が一般的でない時代においては、婚姻を機とした中途退学や、[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]のような専属の学問所での教育受講等も珍しくない。 また、先述の通り、旧皇室典範下において皇族男子には[[皇族軍人|軍人となる義務]]が課せられていたことから、軍学校([[陸軍幼年学校]]、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]および[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])に進学し、さらに[[陸軍大学校]]または[[海軍大学校]]に進学している者も多数いる。 以下には、生まれながらの皇族(親王、内親王、王、女王)であって、学習院または軍学校'''以外'''に進学した者を挙げる(義務教育より後のもの。また降下後の進学、卒業後の海外留学を除く。)。 === 旧皇室典範下 === <!--大学--> ;[[東京帝国大学]] *[[山階宮]]家 **[[筑波藤麿|藤麿王]] - 将来、[[伊勢神宮|伊勢の神宮]][[祭主]]となる予定だった ;[[京都帝国大学]] *[[久邇宮]]家(一部が[[京都]]に在住) **[[宇治家彦|家彦王]] - 京都帝大卒業後、海軍に入隊 <!--高等女学校--> ;[[学校法人跡見学園|跡見女学校]]([[載仁親王妃智恵子]]の母校) *[[閑院宮]]家 **[[安藤恭子 (元皇族)|恭子女王]] **[[黒田茂子|茂子女王]] **[[季子女王]] ;[[京都府立鴨沂高等学校|京都府立第一高等女学校]] *[[賀陽宮]]家([[京都]]に在住) **[[武彦王妃佐紀子女王|佐紀子女王]] *[[久邇宮]]家(一部が[[京都]]に在住) **[[大谷智子|智子女王]] **[[二条恭仁子|恭仁子女王]] === 現皇室典範下 === <!--大学--> ;[[早稲田大学]] *[[高円宮家]] **[[承子女王]] ;[[国際基督教大学]](創設に[[高松宮宣仁親王]]が関与) *[[秋篠宮家]] **[[小室眞子|眞子内親王]] **[[佳子内親王]] ;[[城西国際大学]] *[[高円宮家]] **[[守谷絢子|絢子女王]] <!--高校--> ;[[筑波大学附属高等学校]] *[[秋篠宮家]] **[[悠仁親王]] ==旧皇族== {{main|旧皇族}} 本節で述べる'''旧皇族'''(きゅうこうぞく)とは、[[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の男系(父系)子孫であり、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍被占領期]]、[[1947年]]([[昭和]]22年)に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]]の指令により(形式的には、現[[皇室典範]]の規定による自発的な離脱)、[[臣籍降下|皇籍離脱]]をした11[[宮家]]に属する51名のこと。うち一部の宮家は、既に断絶または男系断絶している。ただ、[[臣籍降下|皇籍離脱]]した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく([[東久邇宮|東久邇]]家一族は皇族ではないが、女系/母系で[[明治天皇]]第9皇女の[[東久邇聡子|聡子内親王]]と[[昭和天皇]]第1皇女の[[東久邇成子|成子内親王]]の血縁を有するために民法上は「天皇の親族」である)、皇室の親族が所属する親睦団体の'''[[菊栄親睦会]]'''を通じて、現在でも皇室との親近な交流は継続されている。 == 関連項目 == {{Wikiquote|Category:皇族|皇族}} {{Wiktionary|皇族}} {{columns-list|3| * [[皇室の系図一覧]] * [[菊花紋章]] * [[皇室]] ** [[宮家一覧]] ** [[内廷皇族]] ** [[男性皇族一覧]] * [[旧皇族]] ** [[臣籍降下]](賜姓皇族) * [[皇別摂家]] * [[皇別]] * [[王公族]] * [[皇子]] - [[皇女]] * [[宗室]] * [[陵]] * [[ノブレス・オブリージュ]] }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|1}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=河内静太郎 | author2=| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1089475/1/2 | title=皇族華族名鑑 | year= 1878| publisher=河内静太郎 | series= |ref=harv}} == 外部リンク == * [https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/kosei.html 構成] - [[宮内庁]] {{天皇項目}} {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{日本の歴代太皇太后一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうそく}} [[Category:日本の皇族|*]] [[Category:日本の皇室]]
2003-09-03T21:50:17Z
2023-11-28T21:22:46Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E6%97%8F
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神戸空港
神戸空港(こうべくうこう、英: Kobe Airport)は、兵庫県神戸市中央区の神戸空港島に位置する空港。運営は関西エアポート神戸株式会社が行う。愛称はマリンエア。 大阪市の西約26キロメートル、神戸市の中心部、三宮の南約8キロメートルに位置する地方管理空港。関西国際空港・大阪国際空港(伊丹空港)とともに、関西三空港のひとつに数えられる。海上都市ポートアイランドの沖合約1キロメートルに造成された人工島の神戸空港島に建設され、2006年2月16日に開港。神戸市が設置・管理し、市営空港としては旭川空港・帯広空港に次いで国内3番目、旧第三種空港の中では、市が初めて建設から運営までを手がけた空港である。 開港以来、神戸市が空港運営を行っていたが、民間事業者に運営権を売却。2018年4月1日から、オリックス、ヴァンシ・エアポート、関西エアポートの3社によるコンソーシアムが設立した「関西エアポート神戸株式会社」が運営を開始し、同コンソーシアムが関西三空港を一体的に運営している。今後、空港ターミナルビルの改修や搭乗手続きの効率化、三空港の一体運営を活かした路線誘致などに取り組むことを予定している。 2500メートルの滑走路1本と空港ターミナルビルなどの施設がある。ターミナルビルは、コンパクトで誰もが使いやすいターミナルをコンセプトに設計され、隣接するポートライナー神戸空港駅と数メートルの連絡通路で直結する。三宮までの所要時間は、ポートライナーで18分、バスで22分(新神戸駅まで同じく直通22分)と、神戸市中心部へのアクセス利便性が高い。このほか、神戸-関空ベイ・シャトルが、関西国際空港との間を高速船により約30分で結んでいる。近くのポートライナー沿線には、次世代スーパーコンピュータ「富岳」、神戸医療産業都市、神戸コンベンションコンプレックスなどがあり、「日本一空港に近い」ことを謳っている。 IATA空港コードはUKBで、これはかつて神戸空港開港前に神戸につけられていた都市コードに由来する。現在の都市コードは、関西国際空港、大阪国際空港とともに、大阪を表すOSAを使用しており、航空時刻表や航空会社のWebサイトの予約画面などで「大阪(神戸)」と表記されることがある。 関西三空港の中では「神戸市及びその周辺の国内航空需要に対応する地方空港」と位置づけられており、開港当初より発着回数や運用時間、国際線の就航が制限されている。これに対し、県や市、関西経済界等からは発着規制の緩和や国際線の就航の必要性が訴えられており、2019年には初の規制緩和が実施された。また、2022年9月18日に開かれた第12回関西3空港懇談会で神戸空港の国際化が決まった。大阪・関西万博が開催される2025年までに国際チャーター便を、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指すことになった。 定期便は国内線のみ就航しており、国際線はビジネスユース等のチャーター便に限り運航できる。開港当初より定期便を就航するスカイマークは、東京国際空港と並ぶ拠点空港と位置づけているほか、2019年より就航したフジドリームエアラインズも、名古屋、静岡に次ぐ第3の拠点として就航本数を増やしており、規制緩和とともに各地へ国内路線を展開している。 元のウィキデータクエリを参照してください. 2021年度の着陸回数、旅客数は下記のとおり。全国97空港中、2021年度の着陸回数は第14位、乗降旅客数は第10位であった(地方管理空港内ではいずれも全国54空港中第1位)。 年間の航空機発着回数は約3万回、航空旅客数は約320万人でそれぞれ地方管理空港の中では第1位を誇る。路線別では、旅客数は神戸 - 東京便で 1,086,271人 と全国の発着便の中で第25位、座席利用率は神戸 - 東京便で 82.9% と全国の発着便の中で第16位であった。 また、2019年(暦年)の年間の発着回数は31,410回、国内線旅客数は3,363,237人を記録し暦年として過去最多を記録した。また、搭乗率は 80.4% と前年に引き続き過去最高を記録するなど好調な伸びを示している。 開港当初の旅客数は、2006年度約274万人、2007年度は約297万人と、当初の需要予測の約93%を達成したが、その後は予測と乖離が広がった。これは需要予測の前提条件に「各航空会社が機材を段階的に大型化する」と想定されていたことに対し、実際は全国的に国内線の機材が年々小型化し多頻度運航が主流となったことが原因の1つとされている。さらに、2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件や景気悪化を受け、全国的に航空需要が低迷し始めた時期に開港したことや、2008年度にスカイマークの乗務員不足による大幅欠航、2009年度に神戸市内新型インフルエンザ流行、2010年度に日本航空事実上の倒産(5月に全面撤退)なども影響し、2007年度をピークに2010年度まで旅客数が減少傾向となった。2011年度には約250万人まで回復したものの、2012年3月には関西国際空港で格安航空会社が就航し、これまで神戸空港のスカイマーク便を利用していた乗客がピーチ便に流れ旅客数に大きく影響した。一方で、2009年1月にスカイマークが神戸空港を「関西の拠点」と位置付け神戸空港発着の路線を大幅に増やす中期経営計画を発表、神戸空港の知名度上昇とともに、経営再建が順調に進む同社が後押しし旅客数が再び上昇傾向となった。 運営を引き継ぐ関西エアポート神戸は、2017年7月の運営事業者コンセッションの際、2022年度に300万人を目指すとしていたが、運営権売却直前の2017年には300万人を突破した。ただし、既に当時の発着枠上限である60便(30往復)に達し規制緩和の声が強まっていたものの、一向に緩和されない状況であったため、規制緩和がされない限り旅客数の伸びしろは限られるとみて上方修正はしないとしていた。しかし、想定以上の伸びを示すことから、2018年2月に発表した中期計画(2018-2022年度)で上方修正し、2018年度に313万人、2022年度に327万人の需要予測を発表した。翌年、規制緩和が行われた影響で、2019年9月に再度さらに上方修正した需要予測を発表している。上方修正前の予測である2022年度に327万人を大きく前倒し、2019年度には達成する見込みである。一方、2020年3月には規制緩和後の80便(40往復)が早くも埋まり、増便にはさらなる規制緩和が求められている。 2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により年間利用者数が前年に比べてマイナス52%の163万人と、過去最低水準まで落ち込んだが、2023年度からはコロナ前の水準以上にまで回復している。 この地区の空港建設計画は1946年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場する。具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。この構想では、関西新空港予定地は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていた。 一方、1972年当時は、大阪国際空港の騒音が裁判にもなり、また公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、神戸市会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。翌1973年の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明、空港推進派が推す砂田重民を退けて再選された。このような経緯もあり、翌年に出された答申は泉州沖を最適とした。宮崎市長の反対の背景には、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化を無視できなかったことにある。事実、1970年からの泉州各市と2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議、伊丹市の大阪空港撤去都市宣言(1973年10月)など、この時期は空港そのものに対する反対がかなり強いものであった。泉州沖の答申が出た後でも、例えば1976年の泉州沖の観測塔設置について、「空港の建設を前提としたものではない」と府知事が国と約束するなど、なお根強い反対に配慮する必要があったほどである。このように大阪湾岸の自治体がこぞって反対をしている中で、神戸市は神戸沖に積極的と見られていただけに、神戸の反対は立地を審議する審議会に対する影響が大きく、この経緯が立地選定に決定的だった、とする意見は現在でも多い。しかし同時に、泉州は人口が比較的少なく開発余地が多いことから、当時の視点ではむしろ神戸沖以上の高い評価点を得ていた。 このような反対の中での関西空港の建設は、第一次答申後5年もたった1980年にようやく第2次答申が出るなど長期にわたる。この間、1970年代後半から1980年代になり、空港に対する意識が変化し始め、大阪国際空港周辺では空港存続、神戸では神戸沖の再評価あるいは誘致、泉州では泉州沖促進という方向への政策転換が次第に目立つようになる。神戸においても、1982年、神戸市会が神戸空港の建設を求めて反対決議の転換書を採択、これを受けて宮崎市長自らが運輸省に「神戸沖空港試案」を提出した。泉州11市町でも反対決議が順次取り下げられ、さらには要望決議を採択するように転換してきた。国自身は泉州沖推進の立場を維持しつづけ、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定した。しかし、神戸沖の必要性=泉州沖の問題を指摘する活動は、兵庫県、神戸市を中心として継続し、泉州沖への同意を渋る兵庫県が、関空実施案への同意表明を行ったのとあわせ、地方空港としての神戸空港の調査協力を運輸省から引き出した。ここが、現神戸空港計画のスタートラインとなる。 その後は年表のように、神戸空港の計画そのものは行政レベルでは継続的に進んでいたが、大阪湾の水質汚濁など環境問題、近隣に大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。1990年の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の1つとなった。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。 神戸空港問題が大きな市民活動になったのは、やはり阪神・淡路大震災後である。笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく乖離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発を招いた。しかしこの時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」と明言した。笹山市長の案では、空港埋立地の売却益によって、市税を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、埋め立てを中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的にはバブル崩壊以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった。震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動と発展した。 この間、神戸で震災ボランティアに携わった作家の田中康夫(後に長野県知事、参議院議員、衆議院議員、新党日本代表)が「勝手連的に」、「神戸市民投票を実現する会」を結成、自らがその代表を名乗り市民運動への取り組みを見せ、知名度の高さや神戸を頻繁に訪問するなど積極的に活動を重ね、市民運動の広がりを助けた。そうしてこの運動は、「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例」を求める直接請求運動として展開され、その受け皿として市民団体「神戸空港・住民投票の会」が組織された。 なお、田中康夫は市民サークルとしての「実現する会」とその代表の地位にとどまる一方、直接請求運動の“本体”である「神戸空港・住民投票の会」の「代表世話人」をも兼任する。署名運動はいくつかの団体の連合体として進んだので、このこと自体は問題ではない。しかし、条例案否決以降、運動の後半期には、たくさんの団体たちが統一的に動くことが難しくなり、田中康夫についても、後に市長リコールに対して「市民運動が政治運動化する」という理由から反対したことなどもあり、「運動の分断を招いている」「事実上の分派活動ではないか」との批判が発生することになる。「神戸空港・住民投票運動」において果たした役割が大きいことは言うまでもないが、運輸省・環境省に対する応援署名など、法的効力に乏しい署名運動に熱心だった一方、前述のように市長リコールに反対して運動から事実上降りるなど条例否決後の市民運動が伸び悩んだ。 1998年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は30万7797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。1999年に行われた市議会選挙では、空港反対派の議員が増加したものの、議会構成に影響があるほどの勢力にはなり得なかった(空港反対19 → 23, 推進51 → 49)。その後、市長リコールの直接請求署名運動も行われるが盛り上がらず失敗。また1999年には野党議員によって「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が市議会に提案されるがこれも賛成少数で否決された。2001年の神戸市長選挙では、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選、このとき空港反対派は候補者一本化に失敗した。さらに建設活動や手続きが進むにつれて市民運動としては沈静化に向かい、2003年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、ほぼ震災前の水準に逆戻りした。一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、そのうち一つが2004年に神戸地裁で棄却。2005年大阪高裁。2007年の最高裁と棄却されるなど成功していない。2005年には、小型機用地利用に関する差し止め訴訟も神戸地裁で棄却され、神戸空港を開港前に中止するような方法は困難となった。開港前の最後の選挙である2005年の神戸市長選挙ではまたも候補一本化に失敗し、対立候補の一人は空港反対を争点にしたものの盛り上がらず、現職の矢田候補が再選された。2006年2月16日、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港した。 開港時の便数は、日本航空 (JAL)と全日本空輸 (ANA)がそれぞれ1日10便、スカイマーク (SKY)が1日7便。いずれの航空会社も東京/羽田便が中心になり、SKYの全7便と、JALとANAがそれぞれ2往復で、東京/羽田線は3社計11往復。その他の就航先は札幌/新千歳(3便)、仙台(2便)、新潟(2便)、熊本(1便)、鹿児島(4便)、沖縄/那覇(4便)であり、合計27便で開港した(カッコ内は開港時の設定便数)。しかし、開港前の2005年11月14日に開催された「関西3空港懇談会」で、当時集客・利用促進が課題となっていた関西国際空港に配慮した運用規制が設けられ、発着回数は1日あたり60便(30往復)まで、国際定期便・チャーター便(オウンユースを除く)の運航禁止、運用時間15時間(7時から22時まで)と規制され、海上空港としての機能を活かしきれない状態での出発となった。2006年度の平均搭乗率は60.4%であり、初年度に利用者数の少ない便に関しては、各社撤退や減便を行った。一方で、観光客利用の多い北海道や沖縄への便、ビジネス利用の多い東京(羽田)便に関しては、増便の傾向にあった。また、期待されていたプライベートジェットに関しては、開港時はわずか4機に留まった。 2006年9月28日より『国際ビジネスジェット』が就航したため、税関や入国管理・検疫などを扱う出入国審査室が旅客ターミナルビル1階に設けられた。当初はビジネスジェット到着時に関係職員が臨時的に対応しており、利用申請の締切が2週間前(入国時)までと早く、時間も平日の9時 - 17時のみの対応と限られるなど不便な要素が多かった。当初は植物検疫ができなかったため、機内の生ゴミが捨てられなかったが、2012年4月の植物防疫法施行規則の改正によって、徳島飛行場(徳島空港)とともに「携帯する植物については」輸入可能な海港・空港に指定されたことにより、その状況については問題が解消している。 関西3空港のひとつである神戸空港は関西政界に大きく影響を与えており、各方面で様々な議論が行われている。かつては大阪の政財界には神戸空港不要論があり、南海電気鉄道会長である山中諄関西経済同友会代表幹事は、2009年10月22日の記者会見で「関空の機能強化を目指すなら、神戸を廃止し、伊丹の(主要)機能を関空に移転するのがベターではないか」と述べた。また「神戸空港廃止後は、政府の危機管理向けやヘリポートなどの代替機能を担うべきだ」との見解を示した。また、井戸敏三兵庫県知事、矢田立郎神戸市長(当時)の二人が神戸空港、関西国際空港、大阪国際空港の共存を主張するのに対し、かつては橋下徹大阪府知事(当時)が大阪国際空港の廃港を持論としており、2010年1月27日には神戸空港について「結果から見れば失策」と述べ、伊丹を廃止すればその分、関西、神戸両空港に路線が集まると主張していた。 開港から10年経過した2016年9月13日、神戸市が神戸空港を42年間のコンセッション方式で運営権売却する方針を表明した。開港前から議論されていた関西3空港一体運営を目的としているため、運営権の優先交渉権者は、2016年度より関西国際空港、大阪国際空港の両空港を運営する関西エアポートと密接な関係を有する会社を想定したものとなった。募集には3グループが名乗り出たが、最終的にはオリックス、ヴァンシ・エアポート、関西エアポート3社陣営グループが優先交渉権者に決定。2017年9月26日、関西エアポート神戸株式会社と神戸市の間で「神戸空港特定運営事業等公共施設等運営権実施契約」を締結し、2018年4月1日より、関西エアポートの子会社である「関西エアポート神戸株式会社」による民間運営に完全移行した。 関西エアポート神戸株式会社による運営は、2018年度から2059年度までの42年間(合意延長された場合は2069年度まで)を予定しており、空港用地および空港施設は神戸市が継続して所有し、滑走路等航空系事業およびターミナルビル等非航空系事業双方の運営、維持管理を行う。活性化施策として、機材大型化の働きかけ、ビジネス需要喚起、航空旅客の重複(カニバリゼーション)を抑えた路線誘致、ターミナルビル改修による商業エリアの大幅拡張、旅客誘導改善による店舗への入店率向上、搭乗手続きの効率向上と旅客回遊時間の拡大、神戸らしさ、関西らしさが感じられる特色ある商品構成と店舗でのスピーディーなサービスなどを挙げている。具体的には、関西国際空港・大阪国際空港で採用しているスマートレーンの導入、3空港連携イベントの開催、ブランド店舗の誘致、駐機スポットや到着バゲージコンベアの増設、店舗配置などのレイアウト変更、出発エリアの店舗の増設・拡張などが提案されている。1階到着ロビーや2階搭乗待合室の改修イメージはすでに公開されており、民間移行後早い段階で改修が行われる予定である。関西エアポート神戸の山谷佳之社長は「地方路線を運航したい航空会社を全力で支援する」と述べ、都心に近い神戸空港の優位性を生かし神戸空港の地方路線を拡充させる意向を明らかにした。着陸料等の料金施策は、当初は現行維持を原則とするが、将来的には使用機材と重量による料金体系の見直しや、インセンティブ制度の導入を検討する。また、旅客数は2022年度で300万人とする目標数値を市に提案していたが、運営権売却前の2017年度に前倒しで300万人を突破した。 神戸市は、運営権売却前から規制緩和の働きかけを国に行い続けていたが実現せず、運営権売却を機に関西政財界全体で規制緩和を働きかける動きが広まった。スカイマークの佐山展生会長は「規制緩和されると関西の窓口は神戸になる」と述べ、運用時間が24時間に伸びた場合「大阪国際空港や新幹線と比べて夜間の遅い時間帯に東京-関西を移動でき便利になる」と、規制緩和に期待感を示した。また、吉村洋文大阪市長も2017年7月26日、「足を引っ張るのでなく、規制緩和でお互いを伸ばすべき」として神戸空港の国際化、24時間化に言及した。規制緩和に向けては、運用規制を定めた「関西3空港懇談会(3空港懇)」で議論が必要であるが、2010年4月を最後に開催されておらず、井戸敏三兵庫県知事や松井一郎大阪府知事をはじめ関係者が早期開催を要望していた。 2017年7月、懇談会の座長である関西経済連合会の松本正義会長は運用時間規制などの規制緩和に向けた検討を進める意向を明らかにした。当初規制緩和などには慎重な考えであった同氏だが、同年11月28日には「規制緩和は絶対にやる必要がある」と述べ、2018年中に懇談会を再開させる方針を表明するなど、規制緩和へ機運が高まっていた。 このような中、2018年9月4日に接近・上陸した平成30年台風第21号により、関西国際空港で甚大な被害を被った。1期島のほぼ全域が冠水し、浸水に伴い空港内で停電が発生、さらに関西国際空港連絡橋にタンカーが衝突し空港機能は完全マヒ、数日間閉鎖される事態に陥った。9月5日深夜3時、空港内から出られなくなった空港職員や乗客を対象に、神戸-関西ベイ・シャトルの高速船を利用した関西国際空港→神戸空港の高速船輸送を開始すると発表、早朝6時より15分~20分間隔の高頻度で乗客を無料輸送した。当時は完全に交通機関が寸断されており、関西国際空港から最初に人々を運んだ交通機関となった。その後も9月14日の関空第1ターミナル一部再開に伴い、25日まで定期便に加えて1日最大12往復の臨時便を運航した。 発災直後は関空の復旧目途が全く立っておらず、9月6日には関空機能を神戸空港・伊丹空港で代替できるよう調整に乗り出した。9月10日には国土交通省が市に対し協力依頼を要請し、12日より市が協力受け入れを回答する形で代替受け入れが正式に決定した。国交省からの要請として国際線を含めた1日30便の増便を受け入れ、このほかに松井一郎大阪府知事の要請として運用時間の2時間拡大(7時-22時→6時-23時)に対応する用意があるとした。これをうけ、ターミナルビル1階東側に国内線と国際線の動線を分ける仕切りを設置し、機材置き場を確保するなどの国際線受け入れの準備が整えられたほか、深夜早朝を含めた臨時増便に備え、ポートライナーを運行する神戸新交通はダイヤ改正を検討し代替受け入れの体制を整えた。9月16日・17日には全日本空輸 (ANA) の羽田臨時便4便が運航された。なお、関空の復旧作業が急ピッチで進められたことから、9月21日にはほぼ通常通りの旅客便に戻り、10月11日に代替措置は終了したため、実際に国際線を受け入れることは無く終了した。しかし、関空に依存する危機管理上のリスクも表面化されたことから、これを機にリスク分散がさらに強く訴えられ、規制緩和に向けての動きが加速することとなった。 2018年末に関西3空港懇談会が8年ぶりに再開され、出席した井戸敏三兵庫県知事は夜2時間、早朝1時間の延長と、1日120便の拡大、国際チャーター便の就航を要望した。翌年の2019年5月11日の第9回関西3空港懇談会においては、3空港の方針が取りまとめられ正式に合意された。神戸空港の役割はあくまで関西空港・伊丹空港を補完する機能のままとしながらも、長年実現しなかった規制緩和や国際線を検討する内容が盛り込まれた取りまとめとなっている。概要は以下の通り。 これまでの3空港懇は国土交通省側からの働きかけで開催されていたものであるが、今回初めて関西経済連合から開催を求めており、今後も適宜(原則年1回程度)継続開催するとされていることから、定期的な運用に改められていることがポイントである。懇親会の座長を務める関西経済連合会の松本正義会長は、国際化に関して「ただの検討ではない」として実現に向けての検討を強調しているが、あわせて国際線就航に向けてのターミナルビル拡張やアクセス強化を条件として求めている。なお取りまとめに対しては、久元喜造神戸市長は「関係者の皆さまに感謝したい」と回答し空港アクセスの増強や新ターミナルの建設に向けて検討を急ぐ姿勢を示した。井戸敏三兵庫県知事は「緩和の方向性が明確になったことを評価したい」としつつ「満額回答ではない、値切られた」とし、発着枠拡大分が20便にとどまったことに不満を示した。また、懇談会では仁坂吉伸和歌山県知事が強く反発する場面もあったといい、地域間の利害の不一致が結果に影響した可能性があるとしている。 発着枠の拡大を受けて、スカイマークは7月5日に那覇、長崎、茨城の各路線で増便を実施することを発表。同日に合同記者会見を行ったフジドリームエアラインズも新規就航を検討していると明らかにした。8月1日にスカイマークの増便が実施され、3空港懇から3か月足らずで初の規制緩和運用がスタートした。 10月からはフジドリームエアラインズが新規就航し、松本空港、出雲空港の間で運航を開始した。FDAは団体向けのチャーター便を除いて関西圏の空港初の定期就航となり、神戸空港からの松本、出雲への就航も初となる。新規航空会社の乗り入れは2013年のソラシドエア、エアドゥ以来となった。この後も高知空港、青森空港への新規就航が続き、スカイマークも増便を発表したことから2020年3月29日には早くも規制緩和分の20便(10往復)分を使い切ることとなる。井戸敏三兵庫県知事は、次回の3空港懇でさらなる発着枠の拡大を求めていくとしている。 運用時間の拡大に関しては、管制官の確保のために国の予算措置が必要であるため持ち越しとなっていたが、8月28日には国交省が運用時間延長のための人員増を要求したと報道された。これは、2020年度予算の概算要求で管制官や航空管制技術官など6人の増員を要求したことによるものである。2020年1月24日には、運用時間延長を活用した羽田便がスカイマークの夏ダイヤで運航されることが決定し、2020年3月29日より23時までの運用時間延長が行われる。 2020年11月28日、第10回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、松本正義関経連会長、和田浩一国土交通省航空局長、吉村洋文大阪府知事、井戸敏三兵庫県知事、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した。新型コロナウイルス感染拡大の影響によって関西3空港が危機的状況にあり、収束が見通せない中で、関西空港で働く1万7千人の雇用を維持する必要性を確認し、関西空港の発着枠拡大と神戸空港の国際化の検討を続けることを申し合わせた。また、関西3空港の機能維持・強化を求める国への要望書を決議した。 2021年は新型コロナウイルスの影響で開催が見送られたが、2022年1月13日に第11回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、座長を務める松本正義関経連会長、久保田雅晴国土交通省航空局長、各自治体の首長、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した。関西空港のT1リノベーションや災害対応力強化、伊丹空港の定時運航率向上、神戸空港の国内線発着枠・運用時間の拡大やアクセス改善など、第9回懇談会での「取りまとめ」後の状況について報告され、意見交換が行われた。新型コロナウイルス禍で航空需要の落ち込みが続くなか、コロナ収束を見据えて、関西空港の発着回数上限(年間23万回)引き上げに向けた検証、関西空港の将来航空需要の精査、神戸空港の国際化の検討を着実に進め、両空港の機能を強化していくことが確認された。 2022年9月18日、大阪市内で第12回関西3空港懇談会が開催され、関西3空港および関西空港の容量拡張の目標や神戸空港の国際化などで合意した。関西エアポートから「関西の将来航空需要に関する調査委員会」中間報告、国土交通省から現行空域における最大発着回数の検証結果、関西エアポートと神戸市から神戸空港のあり方に関する検討結果がそれぞれ報告された。これらの報告を踏まえて、「取りまとめ」案について意見交換を行い、全会一致で合意に至った。神戸空港では、万博が開催される2025年までに国際チャーター便を受け入れた上で、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指す。 大阪国際空港・関西国際空港と関連する事項についての詳細は関西三空港の経緯と現状を参照のこと。 神戸空港の主要施設はポートアイランドの南沖約 1km に位置する神戸空港島にある。空港島全域が「神戸空港」の町名を持つ。郵便番号は650-0048。 空港島設置の影響で潮流が変化し、溶存酸素量の低下、青潮の発生など大阪湾の水質汚濁が引き起こされているという指摘が京都学園大学の讃岐田訓などによってなされている。 空港島西側の人工ラグーンでは、漁船の網に掛かるなどして保護されたウミガメ6匹を一時保護し、治療するという試みが行われた。 空港島の土地は、滑走路やエプロン、管制塔などの空港施設部分を除く82.4haを売却する予定であり、定価はおおむね1平方メートル当たり27万円である(旅客ターミナルや駐車場、貨物ターミナル、海上アクセスターミナルはいずれもが土地を購入せず、賃貸で営業している。なお2023年1月現在、貨物ターミナルは当空港での貨物取扱がないため使用されていない)。土地売却を促進するため、工費軽減で浮いた100億円の範囲において、定価の3割引から5割引で処分するという優遇策を2007年度から実施中である。しかしながら、開港から10年が経過した2016年2月時点で売却・賃貸された土地は分譲地全体の13%にとどまっている。ただし、82.4haのうち造成工事が完了し整備済みの面積は約40ha(2017年7月時点)であり、残りはもともと売却できない土地である。 一方で、影響を強く受けたのはポートアイランド第二期であり、空港開港直後より企業進出が急増、ほぼ空き地であった土地が現在ではポートライナー沿線を中心に300社を超える企業が誘致され、次世代スーパーコンピュータ「京」や「富岳」などが誘致されるきっかけともなった。 現在までに売却あるいは売却予定の土地は以下の通りである。 滑走路長は2500mであるが、燃料の搭載量が少なく離陸重量が軽い国内線に限れば、貨客が満載された大型機のボーイング747-400Dやボーイング777でも離着陸可能である。ボーイング777は定期便や代替地着陸などで離着陸の実績がある。なお、大型機で米国西海岸や欧州などの長距離国際線を運航するには、燃料搭載量が増えるなどの理由から3000m以上の滑走路長が必要となる。 駐機場は、1番から10番までの10スポットある。このうち、3番から6番は開港時より固定搭乗橋を備えていたが、7番にも増設され2013年6月1日より共用開始されている。PBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ)は6本(5番搭乗口にはPBBが2本あるため)である。3番搭乗口には開港当初はオープンスポット搭乗階段のみで、PBBは供用開始されていなかったが、開港前の2005年12月より急遽増設が決定し、開港後の2006年7月1日にPBBの供用が開始された。また、2030年度をめどにスポット数を現在の10から21に増設する計画が神戸市側から出されている。 旅客ターミナルビル北側に1,250台分あり、30分以内無料、1時間150円、24時間最大1,500円である(以降1時間150円、24時間最大1,000円。ただし、航空機利用者は最初の24時間無料)。この駐車場は空港駐車場では日本で初めてIBA(登録したETC車載器によるゲート通過、決済)に対応し、空港内の2ヶ所(手荷物受取所出口・2階搭乗待合室内)にIBAカード用の割引認証機が設置されていたが、2015年7月末でサービスを終了している。なお、駐車場が満車となり収容台数が不足することが多く、東側に隣接する空地を臨時駐車場として開放している。島内にはこの駐車場とは別に神戸空港海上アクセスターミナル専用駐車場が設けられている(ベイシャトル利用者は何泊でも料金無料。こちらも臨時駐車場を設けている場合が多い)。 開港時、容量約500klのタンクが2基。JAL・ANA・三愛石油の共同出資による「神戸空港給油施設株式会社」が運営する。2006年度にさらに1基増設し、3基となった(2006年8月に着工、2007年2月1日供用開始)。1日の給油量を約120klと想定し常時4日分の在庫を保有する見込みが、実際には2006年時点で給油量が想定の1.4 - 1.7倍となる1日170 - 200klで推移してフル稼働となっていたためタンクの増設を行った。 安全面においては、半径25 kmの範囲で存在する大阪国際・関西国際・神戸・八尾の4空港は標準計器到着方式や標準計器出発方式、計器進入方式などの飛行経路が接近しているため、国土交通省関西空港事務所において進入・ターミナルレーダー管制を一元的に行うことで対応している。関西空港事務所のターミナル・レーダー管制室にサテライト空港席として神戸空港離着陸機を主に取り扱う管制卓がおかれて、関西国際空港便などと神戸空港便との間のスムーズな管制をはかっている。 神戸空港の運用は、着陸は東向き、離陸は西向きが基本であり、多少の追い風でもこの運用を行っている。IFRの飛行経路は明石海峡側に離着陸するように設定されており、滑走路27から西向きに離陸する場合はそのまま明石海峡上空のMAIKOポイントへと向かう。滑走路09から東向きに離陸する場合は、離陸後に約180度右旋回してMAIKOポイントへ向かう。 IFRでの着陸も明石海峡から進入し、東風の場合にはそのまま滑走路09に降り、西風の強い場合は空港南側を通り六甲沖あたりで180度旋回するサークリングアプローチで滑走路27に着陸する。南北方向の風の影響を受けやすく、同じく東西にそびえる六甲山を越えて吹く風により揺れることがある。また、近傍の大規模な空港に比べて規模は小さいため、ブロックアウトから離陸までのタキシング時間が5分少々であるという利点がある。開港後の定時運航率は、全国平均並となっている。 着陸料は、座席数300席弱の航空機で1回14万円程で、大阪国際空港の半分、東京国際空港(羽田空港)・中部国際空港の3分の2になっている。 開港当初、国土交通省は神戸空港の1日の発着数を安全上の理由から60便(30往復、年間約2万回)に抑えており、国際線は大阪国際空港と同じく、定期便はもとよりオウンユース以外のチャーター便も認めず、ビジネス機などに限定する扱いとした。2019年には規制緩和が実施され、60便→80便/日へと緩和が行われた(規制緩和に向けた動きについては前述)。なお、2020年3月29日より実際の就航数が80便の上限に達するため、さらなる規制緩和が求められており、2022年9月18日に行われた、関西3空港懇談会にて、2025年を目処に発着枠数を80便→120便/日(国内線)とされ、同年を目処に国際線のチャーター便、及び、30年を目処に国際定期便の運行の検討に入った。 神戸空港は神戸港の入口にある海上空港であるために、空港設置時に船舶との干渉が懸念された。ただし、航空法の制限表面の規制は建物や錨泊船など固定物に対する規制であって、移動中の船舶に対する規制はない。 神戸空港の建設にあたっては、航空法の建築物に対する規制をそのまま船舶に援用し、想定する大きさの船のマストの高さがこの規制にかからないよう航路設定等を行った。具体的には、空港に近い旧神戸第2航路を廃止、旧第1航路を拡幅の上で神戸西航路に変更、神戸第3航路(=現神戸中央航路)とは滑走路端から3000m程度離すなどである。 航路から滑走路までの海域では、進入表面にマストがかからないよう安全情報が提供され、船舶が留意して走行するようになっているが、上述の理由から特段の航行禁止は行われていない。航路を逸脱した船舶には注意喚起が行われるものの、制限表面を超えるマスト高の船舶が進入し、かつ航空機が危険であると判断する場合は、航空機が避けるものと整理・解釈されている。 しかし一方で、進入表面などは余裕をもって設定されている。たとえばILS(3度)で進入する場合、滑走路端から3km離れた地点での飛行機の高度は150mであるが、このときの進入表面は高さ60mであり、船舶が制限表面内に進入してきた場合ただちに危険な状態に陥るわけではない。 なお、神戸空港では上述のように航空法の固定物の制限(傾き2%)をそのまま船舶に適用して航路設定等を行ったが、神戸より条件の厳しい羽田空港のD滑走路では、移動物のICAO標準(傾き2.85%)に従うことで、航路が近接している状況での滑走路の新設を可能とした(神戸空港島と神戸中央航路の距離は約2700m、羽田D滑走路と東京第一航路は約1700m)。 2019年5月に発着枠の規制緩和が合意された事により、現在の発着枠上限は80便(40往復)/日となっている。 スカイマークが拠点空港としている他、規制緩和により新規就航したフジドリームエアラインズも当空港を静岡空港、名古屋(小牧)空港に次ぐ第3の拠点空港としている。 航空会社名が2社以上の場合、最前(太字)の航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航(コードシェア)便。 かつての就航路線 以下の路線は神戸空港便としては休廃止となったが、大阪国際空港または関西国際空港には就航している路線 神戸空港はポートアイランドの南沖に位置し、ポートアイランドとは神戸空港島連絡橋(神戸スカイブリッジ、無料)でつながる。市街地三宮から約7km、約15分の位置にあり交通の利便性が良い。これまで大阪国際空港や関西国際空港を利用していた姫路・加古川・高砂・明石・淡路・鳴門・徳島といった神戸以外の旅行客に対しても、その利便性の良さから利用が見込めるとする向きもある。 また、神戸スカイブリッジは鉄道と道路の併用橋であるほか、歩道が併設されているため、徒歩・自転車でのアクセスも可能である。 神戸空港開業に先駆けてポートライナーが延伸され、三宮駅と神戸空港駅を18分で結んでいる。駅舎はターミナルビル2階と直結しており、改札口からそのまま出発ロビーへ入ることができる。三宮駅はJR神戸線、阪神本線、阪急神戸本線、神戸市営地下鉄西神・山手線、神戸市営地下鉄海岸線と接続しており、三宮駅から大阪駅には約20分、姫路駅には約40分、京都駅には約50分で向かうことができる。 現在は神戸空港-関西国際空港間が運航されており、所要時間は約30分と他手段と比較して最も速い。両空港ともに連絡バスでターミナルビルと結ばれている。 神戸市では新たな交通手段 (LRT・BRT) の導入を神戸空港への交通利便性向上などを図るため検討している。2017年7月には、社会実験の一環として三宮 - 神戸空港間で連節バス運行を実施し、BRT 導入の検討を行う。所要時間はポートライナーと同程度を想定し、料金は大人100円。 また、山陽新幹線とのアクセス強化のため、新神戸駅 - 神戸空港間でも連節バスを使用する BRT を導入する方針であり、早ければ2020年度には運行開始される予定。導入の際には専用レーンを設け、優先信号制御を行う本格的な BRT となり、白紙となっていた阪神高速32号新神戸トンネルを神戸港港島トンネルまで直結延伸する計画も進められており、神戸市が2022年度から延伸事業に着手する。導入までに数度社会実験を行いながら他路線も含めて検討が進められる。 リムジンバスは、兵庫県内以外にも徳島方面からの高速バスなどが運行している。 過去には、日本交通の神戸空港線(神戸空港 - 六甲アイランド - 大阪なんば(OCAT))、2007年4月1日休止)、全但バス・阪神電鉄バス(現・阪神バス)(2007年12月1日休止)、神姫バスの西脇急行線(2009年9月30日休止)、神姫バス・淡路交通共同運行3路線(2010年4月1日休止)などが乗り入れしていた。 都心・三宮からは、神戸大橋または神戸港港島トンネルを利用してポートアイランドを経由し、神戸スカイブリッジによりアクセスする。阪神高速5号湾岸線の延伸計画では、ポートアイランドを経由する予定であり、2016年に国の直轄事業として新規事業化、2026年度までに開通予定。タクシー利用者のために、2014年7月1日より、定額運賃タクシーの運行も開始されている 2009年9月に個人所有の軽飛行機が管制官の許可を受けないまま滑走路に進入した上、そのまま離陸するというインシデントがあったことが判明した。パイロットが許可を受けたと勘違いしたことが原因であると報道されている。国土交通省は問題の飛行機のパイロットを厳重注意としたが、「事故の危険性が少なかった」との理由で、翌2010年7月に新聞報道されるまで公表していなかった。 神戸空港は、首都圏に大規模な災害が発生した場合の「被災地外広域搬送拠点」の1つである。2006年(平成18年)9月1日の政府主催総合防災訓練において、神戸空港から自衛隊機C-1にて11医療チーム約55名の医療団が搭乗し、訓練会場である埼玉県入間基地で医療活動を行った後、広域搬送対象患者を収容のうえ、再びC-1輸送機で神戸空港に戻り指定病院へ搬送する訓練を行った。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "神戸空港(こうべくうこう、英: Kobe Airport)は、兵庫県神戸市中央区の神戸空港島に位置する空港。運営は関西エアポート神戸株式会社が行う。愛称はマリンエア。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大阪市の西約26キロメートル、神戸市の中心部、三宮の南約8キロメートルに位置する地方管理空港。関西国際空港・大阪国際空港(伊丹空港)とともに、関西三空港のひとつに数えられる。海上都市ポートアイランドの沖合約1キロメートルに造成された人工島の神戸空港島に建設され、2006年2月16日に開港。神戸市が設置・管理し、市営空港としては旭川空港・帯広空港に次いで国内3番目、旧第三種空港の中では、市が初めて建設から運営までを手がけた空港である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "開港以来、神戸市が空港運営を行っていたが、民間事業者に運営権を売却。2018年4月1日から、オリックス、ヴァンシ・エアポート、関西エアポートの3社によるコンソーシアムが設立した「関西エアポート神戸株式会社」が運営を開始し、同コンソーシアムが関西三空港を一体的に運営している。今後、空港ターミナルビルの改修や搭乗手続きの効率化、三空港の一体運営を活かした路線誘致などに取り組むことを予定している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2500メートルの滑走路1本と空港ターミナルビルなどの施設がある。ターミナルビルは、コンパクトで誰もが使いやすいターミナルをコンセプトに設計され、隣接するポートライナー神戸空港駅と数メートルの連絡通路で直結する。三宮までの所要時間は、ポートライナーで18分、バスで22分(新神戸駅まで同じく直通22分)と、神戸市中心部へのアクセス利便性が高い。このほか、神戸-関空ベイ・シャトルが、関西国際空港との間を高速船により約30分で結んでいる。近くのポートライナー沿線には、次世代スーパーコンピュータ「富岳」、神戸医療産業都市、神戸コンベンションコンプレックスなどがあり、「日本一空港に近い」ことを謳っている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "IATA空港コードはUKBで、これはかつて神戸空港開港前に神戸につけられていた都市コードに由来する。現在の都市コードは、関西国際空港、大阪国際空港とともに、大阪を表すOSAを使用しており、航空時刻表や航空会社のWebサイトの予約画面などで「大阪(神戸)」と表記されることがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "関西三空港の中では「神戸市及びその周辺の国内航空需要に対応する地方空港」と位置づけられており、開港当初より発着回数や運用時間、国際線の就航が制限されている。これに対し、県や市、関西経済界等からは発着規制の緩和や国際線の就航の必要性が訴えられており、2019年には初の規制緩和が実施された。また、2022年9月18日に開かれた第12回関西3空港懇談会で神戸空港の国際化が決まった。大阪・関西万博が開催される2025年までに国際チャーター便を、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指すことになった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "定期便は国内線のみ就航しており、国際線はビジネスユース等のチャーター便に限り運航できる。開港当初より定期便を就航するスカイマークは、東京国際空港と並ぶ拠点空港と位置づけているほか、2019年より就航したフジドリームエアラインズも、名古屋、静岡に次ぐ第3の拠点として就航本数を増やしており、規制緩和とともに各地へ国内路線を展開している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "元のウィキデータクエリを参照してください.", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年度の着陸回数、旅客数は下記のとおり。全国97空港中、2021年度の着陸回数は第14位、乗降旅客数は第10位であった(地方管理空港内ではいずれも全国54空港中第1位)。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "年間の航空機発着回数は約3万回、航空旅客数は約320万人でそれぞれ地方管理空港の中では第1位を誇る。路線別では、旅客数は神戸 - 東京便で 1,086,271人 と全国の発着便の中で第25位、座席利用率は神戸 - 東京便で 82.9% と全国の発着便の中で第16位であった。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、2019年(暦年)の年間の発着回数は31,410回、国内線旅客数は3,363,237人を記録し暦年として過去最多を記録した。また、搭乗率は 80.4% と前年に引き続き過去最高を記録するなど好調な伸びを示している。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開港当初の旅客数は、2006年度約274万人、2007年度は約297万人と、当初の需要予測の約93%を達成したが、その後は予測と乖離が広がった。これは需要予測の前提条件に「各航空会社が機材を段階的に大型化する」と想定されていたことに対し、実際は全国的に国内線の機材が年々小型化し多頻度運航が主流となったことが原因の1つとされている。さらに、2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件や景気悪化を受け、全国的に航空需要が低迷し始めた時期に開港したことや、2008年度にスカイマークの乗務員不足による大幅欠航、2009年度に神戸市内新型インフルエンザ流行、2010年度に日本航空事実上の倒産(5月に全面撤退)なども影響し、2007年度をピークに2010年度まで旅客数が減少傾向となった。2011年度には約250万人まで回復したものの、2012年3月には関西国際空港で格安航空会社が就航し、これまで神戸空港のスカイマーク便を利用していた乗客がピーチ便に流れ旅客数に大きく影響した。一方で、2009年1月にスカイマークが神戸空港を「関西の拠点」と位置付け神戸空港発着の路線を大幅に増やす中期経営計画を発表、神戸空港の知名度上昇とともに、経営再建が順調に進む同社が後押しし旅客数が再び上昇傾向となった。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "運営を引き継ぐ関西エアポート神戸は、2017年7月の運営事業者コンセッションの際、2022年度に300万人を目指すとしていたが、運営権売却直前の2017年には300万人を突破した。ただし、既に当時の発着枠上限である60便(30往復)に達し規制緩和の声が強まっていたものの、一向に緩和されない状況であったため、規制緩和がされない限り旅客数の伸びしろは限られるとみて上方修正はしないとしていた。しかし、想定以上の伸びを示すことから、2018年2月に発表した中期計画(2018-2022年度)で上方修正し、2018年度に313万人、2022年度に327万人の需要予測を発表した。翌年、規制緩和が行われた影響で、2019年9月に再度さらに上方修正した需要予測を発表している。上方修正前の予測である2022年度に327万人を大きく前倒し、2019年度には達成する見込みである。一方、2020年3月には規制緩和後の80便(40往復)が早くも埋まり、増便にはさらなる規制緩和が求められている。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響により年間利用者数が前年に比べてマイナス52%の163万人と、過去最低水準まで落ち込んだが、2023年度からはコロナ前の水準以上にまで回復している。", "title": "統計" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この地区の空港建設計画は1946年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場する。具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。この構想では、関西新空港予定地は神戸沖の他にも、播磨灘、淡路島、泉州沖が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、1972年当時は、大阪国際空港の騒音が裁判にもなり、また公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、神戸市会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。翌1973年の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明、空港推進派が推す砂田重民を退けて再選された。このような経緯もあり、翌年に出された答申は泉州沖を最適とした。宮崎市長の反対の背景には、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化を無視できなかったことにある。事実、1970年からの泉州各市と2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議、伊丹市の大阪空港撤去都市宣言(1973年10月)など、この時期は空港そのものに対する反対がかなり強いものであった。泉州沖の答申が出た後でも、例えば1976年の泉州沖の観測塔設置について、「空港の建設を前提としたものではない」と府知事が国と約束するなど、なお根強い反対に配慮する必要があったほどである。このように大阪湾岸の自治体がこぞって反対をしている中で、神戸市は神戸沖に積極的と見られていただけに、神戸の反対は立地を審議する審議会に対する影響が大きく、この経緯が立地選定に決定的だった、とする意見は現在でも多い。しかし同時に、泉州は人口が比較的少なく開発余地が多いことから、当時の視点ではむしろ神戸沖以上の高い評価点を得ていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このような反対の中での関西空港の建設は、第一次答申後5年もたった1980年にようやく第2次答申が出るなど長期にわたる。この間、1970年代後半から1980年代になり、空港に対する意識が変化し始め、大阪国際空港周辺では空港存続、神戸では神戸沖の再評価あるいは誘致、泉州では泉州沖促進という方向への政策転換が次第に目立つようになる。神戸においても、1982年、神戸市会が神戸空港の建設を求めて反対決議の転換書を採択、これを受けて宮崎市長自らが運輸省に「神戸沖空港試案」を提出した。泉州11市町でも反対決議が順次取り下げられ、さらには要望決議を採択するように転換してきた。国自身は泉州沖推進の立場を維持しつづけ、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定した。しかし、神戸沖の必要性=泉州沖の問題を指摘する活動は、兵庫県、神戸市を中心として継続し、泉州沖への同意を渋る兵庫県が、関空実施案への同意表明を行ったのとあわせ、地方空港としての神戸空港の調査協力を運輸省から引き出した。ここが、現神戸空港計画のスタートラインとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後は年表のように、神戸空港の計画そのものは行政レベルでは継続的に進んでいたが、大阪湾の水質汚濁など環境問題、近隣に大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。1990年の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の1つとなった。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "神戸空港問題が大きな市民活動になったのは、やはり阪神・淡路大震災後である。笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく乖離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発を招いた。しかしこの時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」と明言した。笹山市長の案では、空港埋立地の売却益によって、市税を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、埋め立てを中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的にはバブル崩壊以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった。震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動と発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この間、神戸で震災ボランティアに携わった作家の田中康夫(後に長野県知事、参議院議員、衆議院議員、新党日本代表)が「勝手連的に」、「神戸市民投票を実現する会」を結成、自らがその代表を名乗り市民運動への取り組みを見せ、知名度の高さや神戸を頻繁に訪問するなど積極的に活動を重ね、市民運動の広がりを助けた。そうしてこの運動は、「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例」を求める直接請求運動として展開され、その受け皿として市民団体「神戸空港・住民投票の会」が組織された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、田中康夫は市民サークルとしての「実現する会」とその代表の地位にとどまる一方、直接請求運動の“本体”である「神戸空港・住民投票の会」の「代表世話人」をも兼任する。署名運動はいくつかの団体の連合体として進んだので、このこと自体は問題ではない。しかし、条例案否決以降、運動の後半期には、たくさんの団体たちが統一的に動くことが難しくなり、田中康夫についても、後に市長リコールに対して「市民運動が政治運動化する」という理由から反対したことなどもあり、「運動の分断を招いている」「事実上の分派活動ではないか」との批判が発生することになる。「神戸空港・住民投票運動」において果たした役割が大きいことは言うまでもないが、運輸省・環境省に対する応援署名など、法的効力に乏しい署名運動に熱心だった一方、前述のように市長リコールに反対して運動から事実上降りるなど条例否決後の市民運動が伸び悩んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1998年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は30万7797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。1999年に行われた市議会選挙では、空港反対派の議員が増加したものの、議会構成に影響があるほどの勢力にはなり得なかった(空港反対19 → 23, 推進51 → 49)。その後、市長リコールの直接請求署名運動も行われるが盛り上がらず失敗。また1999年には野党議員によって「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が市議会に提案されるがこれも賛成少数で否決された。2001年の神戸市長選挙では、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選、このとき空港反対派は候補者一本化に失敗した。さらに建設活動や手続きが進むにつれて市民運動としては沈静化に向かい、2003年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、ほぼ震災前の水準に逆戻りした。一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、そのうち一つが2004年に神戸地裁で棄却。2005年大阪高裁。2007年の最高裁と棄却されるなど成功していない。2005年には、小型機用地利用に関する差し止め訴訟も神戸地裁で棄却され、神戸空港を開港前に中止するような方法は困難となった。開港前の最後の選挙である2005年の神戸市長選挙ではまたも候補一本化に失敗し、対立候補の一人は空港反対を争点にしたものの盛り上がらず、現職の矢田候補が再選された。2006年2月16日、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "開港時の便数は、日本航空 (JAL)と全日本空輸 (ANA)がそれぞれ1日10便、スカイマーク (SKY)が1日7便。いずれの航空会社も東京/羽田便が中心になり、SKYの全7便と、JALとANAがそれぞれ2往復で、東京/羽田線は3社計11往復。その他の就航先は札幌/新千歳(3便)、仙台(2便)、新潟(2便)、熊本(1便)、鹿児島(4便)、沖縄/那覇(4便)であり、合計27便で開港した(カッコ内は開港時の設定便数)。しかし、開港前の2005年11月14日に開催された「関西3空港懇談会」で、当時集客・利用促進が課題となっていた関西国際空港に配慮した運用規制が設けられ、発着回数は1日あたり60便(30往復)まで、国際定期便・チャーター便(オウンユースを除く)の運航禁止、運用時間15時間(7時から22時まで)と規制され、海上空港としての機能を活かしきれない状態での出発となった。2006年度の平均搭乗率は60.4%であり、初年度に利用者数の少ない便に関しては、各社撤退や減便を行った。一方で、観光客利用の多い北海道や沖縄への便、ビジネス利用の多い東京(羽田)便に関しては、増便の傾向にあった。また、期待されていたプライベートジェットに関しては、開港時はわずか4機に留まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2006年9月28日より『国際ビジネスジェット』が就航したため、税関や入国管理・検疫などを扱う出入国審査室が旅客ターミナルビル1階に設けられた。当初はビジネスジェット到着時に関係職員が臨時的に対応しており、利用申請の締切が2週間前(入国時)までと早く、時間も平日の9時 - 17時のみの対応と限られるなど不便な要素が多かった。当初は植物検疫ができなかったため、機内の生ゴミが捨てられなかったが、2012年4月の植物防疫法施行規則の改正によって、徳島飛行場(徳島空港)とともに「携帯する植物については」輸入可能な海港・空港に指定されたことにより、その状況については問題が解消している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "関西3空港のひとつである神戸空港は関西政界に大きく影響を与えており、各方面で様々な議論が行われている。かつては大阪の政財界には神戸空港不要論があり、南海電気鉄道会長である山中諄関西経済同友会代表幹事は、2009年10月22日の記者会見で「関空の機能強化を目指すなら、神戸を廃止し、伊丹の(主要)機能を関空に移転するのがベターではないか」と述べた。また「神戸空港廃止後は、政府の危機管理向けやヘリポートなどの代替機能を担うべきだ」との見解を示した。また、井戸敏三兵庫県知事、矢田立郎神戸市長(当時)の二人が神戸空港、関西国際空港、大阪国際空港の共存を主張するのに対し、かつては橋下徹大阪府知事(当時)が大阪国際空港の廃港を持論としており、2010年1月27日には神戸空港について「結果から見れば失策」と述べ、伊丹を廃止すればその分、関西、神戸両空港に路線が集まると主張していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "開港から10年経過した2016年9月13日、神戸市が神戸空港を42年間のコンセッション方式で運営権売却する方針を表明した。開港前から議論されていた関西3空港一体運営を目的としているため、運営権の優先交渉権者は、2016年度より関西国際空港、大阪国際空港の両空港を運営する関西エアポートと密接な関係を有する会社を想定したものとなった。募集には3グループが名乗り出たが、最終的にはオリックス、ヴァンシ・エアポート、関西エアポート3社陣営グループが優先交渉権者に決定。2017年9月26日、関西エアポート神戸株式会社と神戸市の間で「神戸空港特定運営事業等公共施設等運営権実施契約」を締結し、2018年4月1日より、関西エアポートの子会社である「関西エアポート神戸株式会社」による民間運営に完全移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "関西エアポート神戸株式会社による運営は、2018年度から2059年度までの42年間(合意延長された場合は2069年度まで)を予定しており、空港用地および空港施設は神戸市が継続して所有し、滑走路等航空系事業およびターミナルビル等非航空系事業双方の運営、維持管理を行う。活性化施策として、機材大型化の働きかけ、ビジネス需要喚起、航空旅客の重複(カニバリゼーション)を抑えた路線誘致、ターミナルビル改修による商業エリアの大幅拡張、旅客誘導改善による店舗への入店率向上、搭乗手続きの効率向上と旅客回遊時間の拡大、神戸らしさ、関西らしさが感じられる特色ある商品構成と店舗でのスピーディーなサービスなどを挙げている。具体的には、関西国際空港・大阪国際空港で採用しているスマートレーンの導入、3空港連携イベントの開催、ブランド店舗の誘致、駐機スポットや到着バゲージコンベアの増設、店舗配置などのレイアウト変更、出発エリアの店舗の増設・拡張などが提案されている。1階到着ロビーや2階搭乗待合室の改修イメージはすでに公開されており、民間移行後早い段階で改修が行われる予定である。関西エアポート神戸の山谷佳之社長は「地方路線を運航したい航空会社を全力で支援する」と述べ、都心に近い神戸空港の優位性を生かし神戸空港の地方路線を拡充させる意向を明らかにした。着陸料等の料金施策は、当初は現行維持を原則とするが、将来的には使用機材と重量による料金体系の見直しや、インセンティブ制度の導入を検討する。また、旅客数は2022年度で300万人とする目標数値を市に提案していたが、運営権売却前の2017年度に前倒しで300万人を突破した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "神戸市は、運営権売却前から規制緩和の働きかけを国に行い続けていたが実現せず、運営権売却を機に関西政財界全体で規制緩和を働きかける動きが広まった。スカイマークの佐山展生会長は「規制緩和されると関西の窓口は神戸になる」と述べ、運用時間が24時間に伸びた場合「大阪国際空港や新幹線と比べて夜間の遅い時間帯に東京-関西を移動でき便利になる」と、規制緩和に期待感を示した。また、吉村洋文大阪市長も2017年7月26日、「足を引っ張るのでなく、規制緩和でお互いを伸ばすべき」として神戸空港の国際化、24時間化に言及した。規制緩和に向けては、運用規制を定めた「関西3空港懇談会(3空港懇)」で議論が必要であるが、2010年4月を最後に開催されておらず、井戸敏三兵庫県知事や松井一郎大阪府知事をはじめ関係者が早期開催を要望していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2017年7月、懇談会の座長である関西経済連合会の松本正義会長は運用時間規制などの規制緩和に向けた検討を進める意向を明らかにした。当初規制緩和などには慎重な考えであった同氏だが、同年11月28日には「規制緩和は絶対にやる必要がある」と述べ、2018年中に懇談会を再開させる方針を表明するなど、規制緩和へ機運が高まっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このような中、2018年9月4日に接近・上陸した平成30年台風第21号により、関西国際空港で甚大な被害を被った。1期島のほぼ全域が冠水し、浸水に伴い空港内で停電が発生、さらに関西国際空港連絡橋にタンカーが衝突し空港機能は完全マヒ、数日間閉鎖される事態に陥った。9月5日深夜3時、空港内から出られなくなった空港職員や乗客を対象に、神戸-関西ベイ・シャトルの高速船を利用した関西国際空港→神戸空港の高速船輸送を開始すると発表、早朝6時より15分~20分間隔の高頻度で乗客を無料輸送した。当時は完全に交通機関が寸断されており、関西国際空港から最初に人々を運んだ交通機関となった。その後も9月14日の関空第1ターミナル一部再開に伴い、25日まで定期便に加えて1日最大12往復の臨時便を運航した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "発災直後は関空の復旧目途が全く立っておらず、9月6日には関空機能を神戸空港・伊丹空港で代替できるよう調整に乗り出した。9月10日には国土交通省が市に対し協力依頼を要請し、12日より市が協力受け入れを回答する形で代替受け入れが正式に決定した。国交省からの要請として国際線を含めた1日30便の増便を受け入れ、このほかに松井一郎大阪府知事の要請として運用時間の2時間拡大(7時-22時→6時-23時)に対応する用意があるとした。これをうけ、ターミナルビル1階東側に国内線と国際線の動線を分ける仕切りを設置し、機材置き場を確保するなどの国際線受け入れの準備が整えられたほか、深夜早朝を含めた臨時増便に備え、ポートライナーを運行する神戸新交通はダイヤ改正を検討し代替受け入れの体制を整えた。9月16日・17日には全日本空輸 (ANA) の羽田臨時便4便が運航された。なお、関空の復旧作業が急ピッチで進められたことから、9月21日にはほぼ通常通りの旅客便に戻り、10月11日に代替措置は終了したため、実際に国際線を受け入れることは無く終了した。しかし、関空に依存する危機管理上のリスクも表面化されたことから、これを機にリスク分散がさらに強く訴えられ、規制緩和に向けての動きが加速することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2018年末に関西3空港懇談会が8年ぶりに再開され、出席した井戸敏三兵庫県知事は夜2時間、早朝1時間の延長と、1日120便の拡大、国際チャーター便の就航を要望した。翌年の2019年5月11日の第9回関西3空港懇談会においては、3空港の方針が取りまとめられ正式に合意された。神戸空港の役割はあくまで関西空港・伊丹空港を補完する機能のままとしながらも、長年実現しなかった規制緩和や国際線を検討する内容が盛り込まれた取りまとめとなっている。概要は以下の通り。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これまでの3空港懇は国土交通省側からの働きかけで開催されていたものであるが、今回初めて関西経済連合から開催を求めており、今後も適宜(原則年1回程度)継続開催するとされていることから、定期的な運用に改められていることがポイントである。懇親会の座長を務める関西経済連合会の松本正義会長は、国際化に関して「ただの検討ではない」として実現に向けての検討を強調しているが、あわせて国際線就航に向けてのターミナルビル拡張やアクセス強化を条件として求めている。なお取りまとめに対しては、久元喜造神戸市長は「関係者の皆さまに感謝したい」と回答し空港アクセスの増強や新ターミナルの建設に向けて検討を急ぐ姿勢を示した。井戸敏三兵庫県知事は「緩和の方向性が明確になったことを評価したい」としつつ「満額回答ではない、値切られた」とし、発着枠拡大分が20便にとどまったことに不満を示した。また、懇談会では仁坂吉伸和歌山県知事が強く反発する場面もあったといい、地域間の利害の不一致が結果に影響した可能性があるとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "発着枠の拡大を受けて、スカイマークは7月5日に那覇、長崎、茨城の各路線で増便を実施することを発表。同日に合同記者会見を行ったフジドリームエアラインズも新規就航を検討していると明らかにした。8月1日にスカイマークの増便が実施され、3空港懇から3か月足らずで初の規制緩和運用がスタートした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "10月からはフジドリームエアラインズが新規就航し、松本空港、出雲空港の間で運航を開始した。FDAは団体向けのチャーター便を除いて関西圏の空港初の定期就航となり、神戸空港からの松本、出雲への就航も初となる。新規航空会社の乗り入れは2013年のソラシドエア、エアドゥ以来となった。この後も高知空港、青森空港への新規就航が続き、スカイマークも増便を発表したことから2020年3月29日には早くも規制緩和分の20便(10往復)分を使い切ることとなる。井戸敏三兵庫県知事は、次回の3空港懇でさらなる発着枠の拡大を求めていくとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "運用時間の拡大に関しては、管制官の確保のために国の予算措置が必要であるため持ち越しとなっていたが、8月28日には国交省が運用時間延長のための人員増を要求したと報道された。これは、2020年度予算の概算要求で管制官や航空管制技術官など6人の増員を要求したことによるものである。2020年1月24日には、運用時間延長を活用した羽田便がスカイマークの夏ダイヤで運航されることが決定し、2020年3月29日より23時までの運用時間延長が行われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2020年11月28日、第10回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、松本正義関経連会長、和田浩一国土交通省航空局長、吉村洋文大阪府知事、井戸敏三兵庫県知事、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した。新型コロナウイルス感染拡大の影響によって関西3空港が危機的状況にあり、収束が見通せない中で、関西空港で働く1万7千人の雇用を維持する必要性を確認し、関西空港の発着枠拡大と神戸空港の国際化の検討を続けることを申し合わせた。また、関西3空港の機能維持・強化を求める国への要望書を決議した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2021年は新型コロナウイルスの影響で開催が見送られたが、2022年1月13日に第11回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、座長を務める松本正義関経連会長、久保田雅晴国土交通省航空局長、各自治体の首長、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した。関西空港のT1リノベーションや災害対応力強化、伊丹空港の定時運航率向上、神戸空港の国内線発着枠・運用時間の拡大やアクセス改善など、第9回懇談会での「取りまとめ」後の状況について報告され、意見交換が行われた。新型コロナウイルス禍で航空需要の落ち込みが続くなか、コロナ収束を見据えて、関西空港の発着回数上限(年間23万回)引き上げに向けた検証、関西空港の将来航空需要の精査、神戸空港の国際化の検討を着実に進め、両空港の機能を強化していくことが確認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2022年9月18日、大阪市内で第12回関西3空港懇談会が開催され、関西3空港および関西空港の容量拡張の目標や神戸空港の国際化などで合意した。関西エアポートから「関西の将来航空需要に関する調査委員会」中間報告、国土交通省から現行空域における最大発着回数の検証結果、関西エアポートと神戸市から神戸空港のあり方に関する検討結果がそれぞれ報告された。これらの報告を踏まえて、「取りまとめ」案について意見交換を行い、全会一致で合意に至った。神戸空港では、万博が開催される2025年までに国際チャーター便を受け入れた上で、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大阪国際空港・関西国際空港と関連する事項についての詳細は関西三空港の経緯と現状を参照のこと。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "神戸空港の主要施設はポートアイランドの南沖約 1km に位置する神戸空港島にある。空港島全域が「神戸空港」の町名を持つ。郵便番号は650-0048。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "空港島設置の影響で潮流が変化し、溶存酸素量の低下、青潮の発生など大阪湾の水質汚濁が引き起こされているという指摘が京都学園大学の讃岐田訓などによってなされている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "空港島西側の人工ラグーンでは、漁船の網に掛かるなどして保護されたウミガメ6匹を一時保護し、治療するという試みが行われた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "空港島の土地は、滑走路やエプロン、管制塔などの空港施設部分を除く82.4haを売却する予定であり、定価はおおむね1平方メートル当たり27万円である(旅客ターミナルや駐車場、貨物ターミナル、海上アクセスターミナルはいずれもが土地を購入せず、賃貸で営業している。なお2023年1月現在、貨物ターミナルは当空港での貨物取扱がないため使用されていない)。土地売却を促進するため、工費軽減で浮いた100億円の範囲において、定価の3割引から5割引で処分するという優遇策を2007年度から実施中である。しかしながら、開港から10年が経過した2016年2月時点で売却・賃貸された土地は分譲地全体の13%にとどまっている。ただし、82.4haのうち造成工事が完了し整備済みの面積は約40ha(2017年7月時点)であり、残りはもともと売却できない土地である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方で、影響を強く受けたのはポートアイランド第二期であり、空港開港直後より企業進出が急増、ほぼ空き地であった土地が現在ではポートライナー沿線を中心に300社を超える企業が誘致され、次世代スーパーコンピュータ「京」や「富岳」などが誘致されるきっかけともなった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "現在までに売却あるいは売却予定の土地は以下の通りである。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "滑走路長は2500mであるが、燃料の搭載量が少なく離陸重量が軽い国内線に限れば、貨客が満載された大型機のボーイング747-400Dやボーイング777でも離着陸可能である。ボーイング777は定期便や代替地着陸などで離着陸の実績がある。なお、大型機で米国西海岸や欧州などの長距離国際線を運航するには、燃料搭載量が増えるなどの理由から3000m以上の滑走路長が必要となる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "駐機場は、1番から10番までの10スポットある。このうち、3番から6番は開港時より固定搭乗橋を備えていたが、7番にも増設され2013年6月1日より共用開始されている。PBB(パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ)は6本(5番搭乗口にはPBBが2本あるため)である。3番搭乗口には開港当初はオープンスポット搭乗階段のみで、PBBは供用開始されていなかったが、開港前の2005年12月より急遽増設が決定し、開港後の2006年7月1日にPBBの供用が開始された。また、2030年度をめどにスポット数を現在の10から21に増設する計画が神戸市側から出されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "旅客ターミナルビル北側に1,250台分あり、30分以内無料、1時間150円、24時間最大1,500円である(以降1時間150円、24時間最大1,000円。ただし、航空機利用者は最初の24時間無料)。この駐車場は空港駐車場では日本で初めてIBA(登録したETC車載器によるゲート通過、決済)に対応し、空港内の2ヶ所(手荷物受取所出口・2階搭乗待合室内)にIBAカード用の割引認証機が設置されていたが、2015年7月末でサービスを終了している。なお、駐車場が満車となり収容台数が不足することが多く、東側に隣接する空地を臨時駐車場として開放している。島内にはこの駐車場とは別に神戸空港海上アクセスターミナル専用駐車場が設けられている(ベイシャトル利用者は何泊でも料金無料。こちらも臨時駐車場を設けている場合が多い)。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "開港時、容量約500klのタンクが2基。JAL・ANA・三愛石油の共同出資による「神戸空港給油施設株式会社」が運営する。2006年度にさらに1基増設し、3基となった(2006年8月に着工、2007年2月1日供用開始)。1日の給油量を約120klと想定し常時4日分の在庫を保有する見込みが、実際には2006年時点で給油量が想定の1.4 - 1.7倍となる1日170 - 200klで推移してフル稼働となっていたためタンクの増設を行った。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "安全面においては、半径25 kmの範囲で存在する大阪国際・関西国際・神戸・八尾の4空港は標準計器到着方式や標準計器出発方式、計器進入方式などの飛行経路が接近しているため、国土交通省関西空港事務所において進入・ターミナルレーダー管制を一元的に行うことで対応している。関西空港事務所のターミナル・レーダー管制室にサテライト空港席として神戸空港離着陸機を主に取り扱う管制卓がおかれて、関西国際空港便などと神戸空港便との間のスムーズな管制をはかっている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "神戸空港の運用は、着陸は東向き、離陸は西向きが基本であり、多少の追い風でもこの運用を行っている。IFRの飛行経路は明石海峡側に離着陸するように設定されており、滑走路27から西向きに離陸する場合はそのまま明石海峡上空のMAIKOポイントへと向かう。滑走路09から東向きに離陸する場合は、離陸後に約180度右旋回してMAIKOポイントへ向かう。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "IFRでの着陸も明石海峡から進入し、東風の場合にはそのまま滑走路09に降り、西風の強い場合は空港南側を通り六甲沖あたりで180度旋回するサークリングアプローチで滑走路27に着陸する。南北方向の風の影響を受けやすく、同じく東西にそびえる六甲山を越えて吹く風により揺れることがある。また、近傍の大規模な空港に比べて規模は小さいため、ブロックアウトから離陸までのタキシング時間が5分少々であるという利点がある。開港後の定時運航率は、全国平均並となっている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "着陸料は、座席数300席弱の航空機で1回14万円程で、大阪国際空港の半分、東京国際空港(羽田空港)・中部国際空港の3分の2になっている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "開港当初、国土交通省は神戸空港の1日の発着数を安全上の理由から60便(30往復、年間約2万回)に抑えており、国際線は大阪国際空港と同じく、定期便はもとよりオウンユース以外のチャーター便も認めず、ビジネス機などに限定する扱いとした。2019年には規制緩和が実施され、60便→80便/日へと緩和が行われた(規制緩和に向けた動きについては前述)。なお、2020年3月29日より実際の就航数が80便の上限に達するため、さらなる規制緩和が求められており、2022年9月18日に行われた、関西3空港懇談会にて、2025年を目処に発着枠数を80便→120便/日(国内線)とされ、同年を目処に国際線のチャーター便、及び、30年を目処に国際定期便の運行の検討に入った。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "神戸空港は神戸港の入口にある海上空港であるために、空港設置時に船舶との干渉が懸念された。ただし、航空法の制限表面の規制は建物や錨泊船など固定物に対する規制であって、移動中の船舶に対する規制はない。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "神戸空港の建設にあたっては、航空法の建築物に対する規制をそのまま船舶に援用し、想定する大きさの船のマストの高さがこの規制にかからないよう航路設定等を行った。具体的には、空港に近い旧神戸第2航路を廃止、旧第1航路を拡幅の上で神戸西航路に変更、神戸第3航路(=現神戸中央航路)とは滑走路端から3000m程度離すなどである。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "航路から滑走路までの海域では、進入表面にマストがかからないよう安全情報が提供され、船舶が留意して走行するようになっているが、上述の理由から特段の航行禁止は行われていない。航路を逸脱した船舶には注意喚起が行われるものの、制限表面を超えるマスト高の船舶が進入し、かつ航空機が危険であると判断する場合は、航空機が避けるものと整理・解釈されている。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "しかし一方で、進入表面などは余裕をもって設定されている。たとえばILS(3度)で進入する場合、滑走路端から3km離れた地点での飛行機の高度は150mであるが、このときの進入表面は高さ60mであり、船舶が制限表面内に進入してきた場合ただちに危険な状態に陥るわけではない。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、神戸空港では上述のように航空法の固定物の制限(傾き2%)をそのまま船舶に適用して航路設定等を行ったが、神戸より条件の厳しい羽田空港のD滑走路では、移動物のICAO標準(傾き2.85%)に従うことで、航路が近接している状況での滑走路の新設を可能とした(神戸空港島と神戸中央航路の距離は約2700m、羽田D滑走路と東京第一航路は約1700m)。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2019年5月に発着枠の規制緩和が合意された事により、現在の発着枠上限は80便(40往復)/日となっている。", "title": "就航路線" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "スカイマークが拠点空港としている他、規制緩和により新規就航したフジドリームエアラインズも当空港を静岡空港、名古屋(小牧)空港に次ぐ第3の拠点空港としている。", "title": "就航路線" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "航空会社名が2社以上の場合、最前(太字)の航空会社の機材・乗務員で運航する共同運航(コードシェア)便。", "title": "就航路線" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "かつての就航路線", "title": "就航路線" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "以下の路線は神戸空港便としては休廃止となったが、大阪国際空港または関西国際空港には就航している路線", "title": "就航路線" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "神戸空港はポートアイランドの南沖に位置し、ポートアイランドとは神戸空港島連絡橋(神戸スカイブリッジ、無料)でつながる。市街地三宮から約7km、約15分の位置にあり交通の利便性が良い。これまで大阪国際空港や関西国際空港を利用していた姫路・加古川・高砂・明石・淡路・鳴門・徳島といった神戸以外の旅行客に対しても、その利便性の良さから利用が見込めるとする向きもある。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、神戸スカイブリッジは鉄道と道路の併用橋であるほか、歩道が併設されているため、徒歩・自転車でのアクセスも可能である。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "神戸空港開業に先駆けてポートライナーが延伸され、三宮駅と神戸空港駅を18分で結んでいる。駅舎はターミナルビル2階と直結しており、改札口からそのまま出発ロビーへ入ることができる。三宮駅はJR神戸線、阪神本線、阪急神戸本線、神戸市営地下鉄西神・山手線、神戸市営地下鉄海岸線と接続しており、三宮駅から大阪駅には約20分、姫路駅には約40分、京都駅には約50分で向かうことができる。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "現在は神戸空港-関西国際空港間が運航されており、所要時間は約30分と他手段と比較して最も速い。両空港ともに連絡バスでターミナルビルと結ばれている。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "神戸市では新たな交通手段 (LRT・BRT) の導入を神戸空港への交通利便性向上などを図るため検討している。2017年7月には、社会実験の一環として三宮 - 神戸空港間で連節バス運行を実施し、BRT 導入の検討を行う。所要時間はポートライナーと同程度を想定し、料金は大人100円。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、山陽新幹線とのアクセス強化のため、新神戸駅 - 神戸空港間でも連節バスを使用する BRT を導入する方針であり、早ければ2020年度には運行開始される予定。導入の際には専用レーンを設け、優先信号制御を行う本格的な BRT となり、白紙となっていた阪神高速32号新神戸トンネルを神戸港港島トンネルまで直結延伸する計画も進められており、神戸市が2022年度から延伸事業に着手する。導入までに数度社会実験を行いながら他路線も含めて検討が進められる。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "リムジンバスは、兵庫県内以外にも徳島方面からの高速バスなどが運行している。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "過去には、日本交通の神戸空港線(神戸空港 - 六甲アイランド - 大阪なんば(OCAT))、2007年4月1日休止)、全但バス・阪神電鉄バス(現・阪神バス)(2007年12月1日休止)、神姫バスの西脇急行線(2009年9月30日休止)、神姫バス・淡路交通共同運行3路線(2010年4月1日休止)などが乗り入れしていた。", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "都心・三宮からは、神戸大橋または神戸港港島トンネルを利用してポートアイランドを経由し、神戸スカイブリッジによりアクセスする。阪神高速5号湾岸線の延伸計画では、ポートアイランドを経由する予定であり、2016年に国の直轄事業として新規事業化、2026年度までに開通予定。タクシー利用者のために、2014年7月1日より、定額運賃タクシーの運行も開始されている", "title": "空港へのアクセス" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2009年9月に個人所有の軽飛行機が管制官の許可を受けないまま滑走路に進入した上、そのまま離陸するというインシデントがあったことが判明した。パイロットが許可を受けたと勘違いしたことが原因であると報道されている。国土交通省は問題の飛行機のパイロットを厳重注意としたが、「事故の危険性が少なかった」との理由で、翌2010年7月に新聞報道されるまで公表していなかった。", "title": "インシデント" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "神戸空港は、首都圏に大規模な災害が発生した場合の「被災地外広域搬送拠点」の1つである。2006年(平成18年)9月1日の政府主催総合防災訓練において、神戸空港から自衛隊機C-1にて11医療チーム約55名の医療団が搭乗し、訓練会場である埼玉県入間基地で医療活動を行った後、広域搬送対象患者を収容のうえ、再びC-1輸送機で神戸空港に戻り指定病院へ搬送する訓練を行った。", "title": "その他" } ]
神戸空港は、兵庫県神戸市中央区の神戸空港島に位置する空港。運営は関西エアポート神戸株式会社が行う。愛称はマリンエア。
{{統合文字|神}} {{Infobox 空港 | 空港名 = 神戸空港 | 英語名 = Kobe Airport | 画像 =[[File:神戸空港.svg|270px|]] | 画像2 = Kobe Airport06s5s3200.jpg | 画像サイズ2 = 240px | IATA = UKB | ICAO = RJBE | 国 = {{JPN}} | 所在地 = [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]神戸空港 | 母都市 = [[大阪市]]・[[神戸市]] | 種類 = 商業 | 運営者 = [[関西エアポート|関西エアポート神戸]] | 運用時間 = 7:00 - 23:00 | 開港 = [[2006年]][[2月16日]] | 拠点航空会社 = [[スカイマーク]]<br />[[フジドリームエアラインズ]] | 敷地面積 ha = 156.5<ref name="ocab_prof">{{Cite web|和書|url=http://ocab.mlit.go.jp/about/jurisdiction/kobe/ |title=神戸空港 |work=管内空港の現況と出先機関 |format= |publisher=国土交通省大阪航空局 |accessdate=2018-06-03}}</ref> | 標高 m = 5.486<ref name="ocab_prof" /> | 標高 ft = 18 | ウェブサイト = {{plainlist| * {{URL|https://www.kairport.co.jp/}} * {{URL|https://www.kairport.co.jp/eng/index.html}}{{en icon}} }} | 緯度度 = 34 | 緯度分 = 37 | 緯度秒 = 58 | 緯度NS = N | 経度度 = 135 | 経度分 = 13 | 経度秒 = 26 | 経度EW = E | 地図名 = Kobe#Japan Hyogo#Japan Osaka#Japan | 地図ラベル = UKB/RJBE | 地図説明 = 神戸空港の位置 | 滑走路1方向 = 09/27 | 滑走路1ILS = I | 滑走路1長さ m = 2,500 | 滑走路1幅 m = 60 | 滑走路1表面 = [[アスファルト]] | 統計年 = 2022年度 | 旅客数 = 3,109,115人 | 貨物取扱量 = [[トン|t]] | 脚注 = [https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html 航空:空港管理状況 - 国土交通省] |所有者=神戸市 }} '''神戸空港'''(こうべくうこう、{{lang-en-short|Kobe Airport}})は、[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸空港島]]に位置する[[空港]]。運営は[[関西エアポート|関西エアポート神戸]]株式会社が行う。愛称は'''マリンエア'''。 ==概説== [[File:Koube airport aerial photo.jpg|280px|thumb|神戸空港の空中写真(2021年)<br>{{国土航空写真}}]] [[File:神戸空港.png|thumb|近接している環大阪湾地域の空港]] [[大阪市]]の西約26キロメートル{{efn2|大阪市役所から旅客ターミナルビルまでの直線距離}}、神戸市の中心部、[[三宮]]の南約8キロメートルに位置する[[日本の空港#地方管理空港|地方管理空港]]。[[関西国際空港]]・[[大阪国際空港]](伊丹空港)とともに、[[関西三空港]]のひとつに数えられる。海上都市[[ポートアイランド]]の沖合約1キロメートルに造成された[[人工島]]の[[神戸空港島]]に建設され、[[2006年]][[2月16日]]に開港<ref>{{Cite news|title=普段入れない区域を見学 神戸空港12周年で催し|newspaper=神戸新聞|date=2018-2-12|access-date=2020-10-1|author=上田勇紀|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201802/0010976699.shtml|archive-url=https://web.archive.org/web/20180614094324/https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201802/0010976699.shtml|archive-date=2018-6-14}}</ref>。神戸市が設置・管理し、市営空港としては[[旭川空港]]・[[帯広空港]]に次いで国内3番目、旧[[第三種空港]]の中では、市が初めて建設から運営までを手がけた空港である。 開港以来、神戸市が空港運営を行っていたが、民間事業者に運営権を売却。[[2018年]][[4月1日]]から、[[オリックス (企業)|オリックス]]、[[ヴァンシ・エアポート]]、[[関西エアポート]]の3社による[[コンソーシアム]]が設立した「関西エアポート神戸株式会社」が運営を開始し<ref name="運営会社設立と実施契約締結">{{Cite press release |和書 |title=神戸空港特定運営事業等における新運営会社の設立および実施契約の締結について |publisher=関西エアポート |date=2017-09-26 |url=http://www.kansai-airports.co.jp/news/2017/2526/J_170926PressRelease_KobeAirportConcession.pdf |accessdate=2018-02-01}}</ref><ref>{{Cite news |title=神戸空港運営権売却で実施契約 3空港一体運用へ |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2017-09-26 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201709/0010590331.shtml |accessdate=2017-02-01}}</ref>、同コンソーシアムが関西三空港を一体的に運営している。今後、空港ターミナルビルの改修や搭乗手続きの効率化、三空港の一体運営を活かした路線誘致などに取り組むことを予定している。 2500メートルの[[滑走路]]1本と[[空港ターミナルビル]]などの施設がある。ターミナルビルは、コンパクトで誰もが使いやすいターミナルをコンセプトに設計され、隣接する[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]][[神戸空港駅]]と数メートルの連絡通路で直結する。三宮までの所要時間は、ポートライナーで18分、バスで22分([[新神戸駅]]まで同じく直通22分)と、神戸市中心部へのアクセス利便性が高い。このほか、[[神戸-関空ベイ・シャトル]]が、関西国際空港との間を[[高速船]]により約30分で結んでいる。近くのポートライナー沿線には、次世代スーパーコンピュータ「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」、[[神戸医療産業都市]]、[[神戸コンベンションコンプレックス]]などがあり、「日本一空港に近い」ことを謳っている。 [[IATA空港コード]]は'''UKB'''で、これはかつて神戸空港開港前に神戸につけられていた都市コードに由来する。現在の都市コードは、関西国際空港、大阪国際空港とともに、大阪を表す'''OSA'''を使用しており、航空時刻表や航空会社のWebサイトの予約画面などで「'''大阪(神戸)'''」と表記されることがある。 関西三空港の中では「神戸市及びその周辺の国内航空需要に対応する地方空港」と位置づけられており、開港当初より発着回数や運用時間、国際線の就航が制限されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kankeiren.or.jp/project/pdf/3airport.pdf |title=関西3空港の役割分担 |work=関西3空港懇談会合意 |format= |publisher=関西経済連合会 |accessdate=2018-06-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/koku/02_topics/04_kansai/kansai.html |title=関西三空港の在り方について |work= |format= |publisher=国土交通省航空局 |accessdate=2018-06-05}}</ref>。これに対し、県や市、関西経済界等からは発着規制の緩和や国際線の就航の必要性が訴えられており<ref>{{Cite news|title=関西経済浮揚のカギは神戸空港にあり|newspaper=Yahoo!ニュース 個人|date=2017-5-27|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/nakamuratomohiko/20170527-00071362|accessdate=2017-2-1|author=中村智彦}}</ref>、2019年には初の[[神戸空港#規制緩和|規制緩和]]が実施された<ref>{{Cite news |title=神戸空港で増便開始 規制緩和の合意後初 |newspaper=産経新聞 |publisher=産経新聞社 |date=2019-08-01 |url=https://www.sankei.com/article/20190801-UEWSOYNTVRP77JU4ED6MVYQN6Y/ |accessdate=2020-01-26}}</ref>。また、2022年9月18日に開かれた第12回関西3空港懇談会で神戸空港の[[神戸空港#国際化|国際化]]が決まった<ref name=":4" />。[[2025年日本国際博覧会|大阪・関西万博]]が開催される2025年までに国際チャーター便を、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指すことになった<ref name=":5" />。 定期便は国内線のみ就航しており、国際線はビジネスユース等のチャーター便に限り運航できる。開港当初より定期便を就航する[[スカイマーク]]は、[[東京国際空港]]と並ぶ拠点空港と位置づけているほか、2019年より就航した[[フジドリームエアラインズ]]も、[[名古屋飛行場|名古屋]]、[[静岡空港|静岡]]に次ぐ第3の拠点として就航本数を増やしており<ref>{{Cite news |title=神戸空港、第3の拠点に FDAの三輪社長 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2019-10-22 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51240340R21C19A0LKA000/ |accessdate=2020-01-26}}</ref>、規制緩和とともに各地へ国内路線を展開している。 == 統計 == === 利用者数 === {{空港-統計|iata=UKB|début=2008}} {{seealso|日本の空港#統計情報}} <!-- 年度資料は毎年8月頃に発表される「暦年・年度別空港管理状況調書」を利用すること(それ以前の数字は確定していない)--> {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="width:25em; float:right; text-align:right; font-size:90%;" ! colspan="4" | 空港乗降旅客数推移(人)<ref name="空港管理状況">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html |title=航空:空港管理状況 |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-09-20}}</ref> |- ! 年度 !! 国際線 !! 国内線 !! 合計 |- ! 2005年度 | 0 || 353,673 || 353,673 |- ! 2006年度 | 53 || 2,742,951 || 2,743,004 |- ! 2007年度 | 552 || 2,974,431 || 2,974,983 |- ! 2008年度 | 867 || 2,578,807 || 2,579,674 |- ! 2009年度 | 52 || 2,337,428 || 2,337,480 |- ! 2010年度 | 97 || 2,219,790 || 2,219,887 |- ! 2011年度 | 410 || 2,567,674 || 2,568,084 |- ! 2012年度 | 48 || 2,410,295 || 2,410,343 |- ! 2013年度 | 43 || 2,356,284 || 2,356,327 |- ! 2014年度 | 25 || 2,446,430 || 2,446,455 |- ! 2015年度 | 44 || 2,546,547 || 2,546,591 |- ! 2016年度 | 258 || 2,783,378 || 2,783,636 |- ! 2017年度 | 121 || 3,136,073 || 3,136,194 |- ! 2018年度 | 131 || 3,189,959 || 3,190,090 |- !2019年度 | 74 || 3,292,224 || 3,292,298 |- !2020年度 | 0 || 1,213,380 || 1,213,380 |- !2021年度 | 3 || 1,752,626 || 1,752,629 |} 2021年度の着陸回数、旅客数は下記のとおり<ref name="空港管理状況" />。全国97空港中、2021年度の着陸回数は第14位、乗降旅客数は第10位であった(地方管理空港内ではいずれも全国54空港中第1位)。 {| class="wikitable" style="width:30em; text-align:right; font-size:90%;" |- ! || 国際線 || 国内線 || 合計 |- ! 航空機着陸回数 | 2回 || 15,017回 || 15,019回 |- ! 航空乗降旅客数 | 3人 || 1,752,626人 || 1,752,629人 |- |} 年間の[[航空機]]発着回数は約3万回、航空旅客数は約320万人でそれぞれ地方管理空港の中では第1位を誇る。路線別では、旅客数は神戸 - 東京便で 1,086,271人 と全国の発着便の中で第25位、座席利用率は神戸 - 東京便で 82.9% と全国の発着便の中で第16位であった<ref>{{Cite press release |和書 |title=定時就航率・輸送実績に関する情報(平成30年度) |publisher=国土交通省 |date=2019-09-01 |url=https://www.mlit.go.jp/koku/h30zigyo_bf_14.html |accessdate=2020-01-27}}</ref>。 また、2019年(暦年)の年間の発着回数は31,410回、'''国内線'''旅客数は3,363,237人を記録し暦年として過去最多を記録した<ref>{{Cite press release |和書 |title=関西国際空港・大阪国際空港・神戸空港 2019年暦年(1-12 月)利用状況 |publisher=関西エアポート |date=2017-09-26 |url=http://www.kansai-airports.co.jp/news/2019/2791/J_TrafficReport_December2019.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref><ref group="注">関西エアポート神戸調べによるもので、国土交通省発表の「暦年・年度別空港管理状況調書」とは集計方法が異なる。なお、2018年の国内線旅客数は、関西エアポート神戸調べで3,182,187人。</ref>。また、[[搭乗率]]は 80.4% と前年に引き続き過去最高を記録するなど好調な伸びを示している<ref>{{Cite news |title=神戸空港の旅客最多336万人 増便、新規路線で大幅増 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2020-01-25 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/202001/0013060974.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。 開港当初の旅客数は、2006年度約274万人、2007年度は約297万人と、当初の需要予測の約93%を達成したが、その後は予測と乖離が広がった。これは需要予測の前提条件に「各航空会社が機材を段階的に大型化する」と想定されていた<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港の管理収支の見通し(平成18年度~平成27年度) |publisher=神戸市 |date=2006-02 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/img/kanrisyuusi.pdf}}</ref>ことに対し、実際は全国的に国内線の機材が年々小型化し多頻度運航が主流となったことが原因の1つとされている。さらに、2001年に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]や景気悪化を受け、全国的に航空需要が低迷し始めた時期に開港したことや、2008年度にスカイマークの乗務員不足による大幅欠航、2009年度に神戸市内新型インフルエンザ流行、2010年度に日本航空事実上の倒産(5月に全面撤退<ref>[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/122400 『西日本新聞』2009年9月17日]{{リンク切れ|date=2011年3月}}</ref>)なども影響し、2007年度をピークに2010年度まで旅客数が減少傾向となった。2011年度には約250万人まで回復したものの、2012年3月には関西国際空港で[[格安航空会社]]が就航し、これまで神戸空港の[[スカイマーク]]便を利用していた乗客がピーチ便に流れ旅客数に大きく影響した<ref>{{Cite news |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0005293552.shtml |title=神戸空港7月も利用減 関空発着LCCの影響続く |newspaper=神戸新聞NEWS |publisher=神戸新聞社 |date=2012-08-13}}{{リンク切れ|date=2013年6月}}</ref>。一方で、[[2009年]][[1月]]にスカイマークが神戸空港を「関西の拠点」と位置付け神戸空港発着の路線を大幅に増やす中期経営計画を発表、神戸空港の知名度上昇とともに、経営再建が順調に進む同社が後押しし旅客数が再び上昇傾向となった。 運営を引き継ぐ関西エアポート神戸は、2017年7月の運営事業者[[コンセッション方式|コンセッション]]の際、2022年度に300万人を目指す<ref>{{Cite press release |和書 |title=優先交渉権者を選定しました-神戸空港の運営事業者の公募(コンセッション)- |publisher=神戸市 |date=2017-07-25 |url=https://www.city.kobe.lg.jp/a57337/shise/press/press_back/2017/201707/20170725172501.html |accessdate=2019-01-26}}</ref>としていたが、運営権売却直前の2017年には300万人を突破<ref>{{Cite news |title=神戸空港、過去最多307万人 搭乗率79・4% |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-04-12 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201804/0011155834.shtml |accessdate=2017-04-12}}</ref>した。ただし、既に当時の発着枠上限である60便(30往復)に達し規制緩和の声が強まっていた<ref>{{Cite news |title=神戸空港、いばらの10年 発着規制・6年連続赤字… |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2016-02-15 |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ2H3DBZJ28PIHB01K.html |accessdate=2016-03-13}}</ref>ものの、一向に緩和されない状況であったため、規制緩和がされない限り旅客数の伸びしろは限られるとみて上方修正はしないとしていた<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25632050S8A110C1LKA000/ |title=神戸空港、初の300万人超 17年の旅客数 |newspaper=日本経済新聞 |date=2018-01-12 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。しかし、想定以上の伸びを示すことから、2018年2月に発表した中期計画(2018-2022年度)で上方修正し、2018年度に313万人、2022年度に327万人の需要予測を発表した<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港運営 単年度計画および中期計画の提出について |publisher=関西エアポート神戸 |date=2018-02-28 |url=http://www.kansai-airports.co.jp/company-profile/about-us/kobe/file/release_180228.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref><ref>{{Cite news |title=神戸空港 旅客目標を327万人に上方修正 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-02-28 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201802/0011025803.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。翌年、規制緩和が行われた影響で、2019年9月に再度さらに上方修正した需要予測を発表している<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港運営 単年度計画および中期計画の見直しについて |publisher=関西エアポート神戸 |date=2019-09-10 |url=http://www.kansai-airports.co.jp/news/2019/2747/J_190910_Release_KAPKobe.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref>。上方修正前の予測である2022年度に327万人を大きく前倒し、2019年度には達成する見込みである。一方、2020年3月には規制緩和後の80便(40往復)が早くも埋まり<ref name="knp20200124">{{Cite news |title=羽田-神戸便の最終を新幹線最終より遅く スカイマークが1時間繰り下げ |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2020-01-24 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013057978.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>、増便にはさらなる規制緩和が求められている。 2020年は[[新型コロナウイルス]]感染拡大の影響により年間利用者数が前年に比べてマイナス52%の163万人と、過去最低水準まで落ち込んだ<ref>{{Cite web|和書|title=神戸空港開港15周年記念イベント 新型コロナで去年の旅客数は過去最低|url=https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2021/03/19/36186/|website=サンテレビニュース|date=2021-03-19|accessdate=2021-03-19}}</ref>が、2023年度からはコロナ前の水準以上にまで回復している。<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kansai-airports.co.jp/news/2023/3130/J_TrafficReport_April2023_.pdf |title=関西国際空港・大阪国際空港・神戸空港 2023年4月利用状況 |access-date=2023-05-27}}</ref> == 歴史 == === 開港まで === [[ファイル:PortIslandCloseup 2003262.jpg|thumb|建設中の神戸空港]] ==== 空港建設計画の発端 ==== この地区の空港建設計画は[[1946年]]の「市復興基本計画要綱」に初めて登場する。具体的な神戸沖空港建設の計画は、[[1969年]][[5月]]に当時の運輸省の関西新空港構想に始まっている。この構想では、関西新空港予定地は'''神戸沖'''の他にも、'''[[播磨灘]]'''、'''[[淡路島]]'''、'''[[和泉国|泉州]]沖'''が想定されていたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていた。 ==== 建設への反対 ==== 一方、[[1972年]]当時は、[[大阪国際空港]]の騒音が[[大阪空港訴訟|裁判]]にもなり、また公害反対を強く主張する革新勢力に力があった時代でもあったことから、[[神戸市会]]は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決。[[1973年|翌1973年]]の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の[[宮崎辰雄]]市長も神戸沖空港の反対を表明、空港推進派が推す[[砂田重民]]を退けて再選された。このような経緯もあり、翌年に出された答申は泉州沖を最適とした。宮崎市長の反対の背景には、[[高度経済成長]]と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、[[成田国際空港|成田]]・伊丹を契機とする、反騒音・反公害運動の活発化を無視できなかったことにある。事実、[[1970年]]からの泉州各市と2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議、[[伊丹市]]の大阪空港撤去都市宣言([[1973年]][[10月]])など、この時期は空港そのものに対する反対がかなり強いものであった。泉州沖の答申が出た後でも、例えば[[1976年]]の泉州沖の観測塔設置について、「空港の建設を前提としたものではない」と府知事が国と約束するなど、なお根強い反対に配慮する必要があったほどである。このように大阪湾岸の自治体がこぞって反対をしている中で、神戸市は神戸沖に積極的と見られていただけに、神戸の反対は立地を審議する審議会に対する影響が大きく、この経緯が立地選定に決定的だった、とする意見は現在でも多い。しかし同時に、泉州は人口が比較的少なく開発余地が多いことから、当時の視点ではむしろ神戸沖以上の高い評価点を得ていた。 ==== 現神戸空港計画の始まり ==== このような反対の中での関西空港の建設は、第一次答申後5年もたった[[1980年]]にようやく第2次答申が出るなど長期にわたる。この間、[[1970年代]]後半から[[1980年代]]になり、空港に対する意識が変化し始め、大阪国際空港周辺では空港存続、神戸では神戸沖の再評価あるいは誘致、泉州では泉州沖促進という方向への政策転換が次第に目立つようになる。神戸においても、[[1982年]]、神戸市会が神戸空港の建設を求めて反対決議の転換書を採択、これを受けて宮崎市長自らが[[運輸省]]に「神戸沖空港試案」を提出した。泉州11市町でも反対決議が順次取り下げられ、さらには要望決議を採択するように転換してきた。国自身は泉州沖推進の立場を維持しつづけ、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定した。しかし、神戸沖の必要性=泉州沖の問題を指摘する活動は、兵庫県、神戸市を中心として継続し、泉州沖への同意を渋る兵庫県が、関空実施案への同意表明を行ったのとあわせ、地方空港としての神戸空港の調査協力を運輸省から引き出した。ここが、現神戸空港計画のスタートラインとなる。 ==== 全会一致の推進議決 ==== その後は[[#年表|年表]]のように、神戸空港の計画そのものは行政レベルでは継続的に進んでいたが、大阪湾の水質汚濁など環境問題、近隣に大阪国際空港や関西空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人がおり、早期から反対運動が存在した。[[1990年]]の全会一致の推進議決の段階でも、議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の1つとなった。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかしこれらの活動は概して限定的で全市民的な運動とは成り得ていなかった。 ==== 阪神・淡路大震災後 ==== 神戸空港問題が大きな市民活動になったのは、やはり[[阪神・淡路大震災]]後である。笹山市長は引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込んで「防災の拠点」と位置づけた。しかし震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく乖離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発を招いた。しかしこの時、笹山市長は「市民に財政負担は一切かけない」と明言した。笹山市長の案では、空港埋立地の売却益によって、[[市税]]を使うことなく、債務を完済出来るという考えであった。しかし、[[埋め立て]]を中心とした土地開発行政、いわゆる「神戸方式」は実質的には[[バブル崩壊]]以前から行き詰ってきていたが、『一度覚えた成功方式』の転換、修正は困難であった。震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動と発展した。 ==== 住民投票条例案と訴訟 ==== この間、神戸で震災ボランティアに携わった作家の[[田中康夫]](後に[[長野県|長野県知事]]、[[参議院|参議院議員]]、[[衆議院|衆議院議員]]、[[新党日本]]代表)が「[[勝手連]]的に」、「神戸市民投票を実現する会」を結成、自らがその代表を名乗り市民運動への取り組みを見せ、知名度の高さや神戸を頻繁に訪問するなど積極的に活動を重ね、市民運動の広がりを助けた。そうしてこの運動は、「神戸空港建設の是非を問う[[住民投票条例]]」を求める直接請求運動として展開され、その受け皿として市民団体「神戸空港・住民投票の会」が組織された。 なお、田中康夫は市民サークルとしての「実現する会」とその代表の地位にとどまる一方、直接請求運動の“本体”である「神戸空港・住民投票の会」の「代表世話人」をも兼任する。署名運動はいくつかの団体の連合体として進んだので、このこと自体は問題ではない。しかし、条例案否決以降、運動の後半期には、たくさんの団体たちが統一的に動くことが難しくなり、田中康夫についても、後に市長[[リコール (地方公共団体)|リコール]]に対して「市民運動が政治運動化する」という理由から反対したことなどもあり、「運動の分断を招いている」「事実上の分派活動ではないか」との批判が発生することになる。「神戸空港・住民投票運動」において果たした役割が大きいことは言うまでもないが、運輸省・環境省に対する応援署名など、法的効力に乏しい署名運動に熱心だった一方、前述のように市長リコールに反対して運動から事実上降りるなど条例否決後の市民運動が伸び悩んだ。 [[1998年]]、住民投票条例の[[直接請求]]を求める署名運動が展開されて有効署名は30万7797人に達した。この直接請求を受けて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では、大差で否決された。1999年に行われた市議会選挙では、空港反対派の議員が増加したものの、議会構成に影響があるほどの勢力にはなり得なかった(空港反対19 → 23, 推進51 → 49)。その後、市長[[リコール (地方公共団体)|リコール]]の直接請求署名運動も行われるが盛り上がらず失敗。また[[1999年]]には野党議員によって「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が市議会に提案されるがこれも賛成少数で否決された。[[2001年]]の神戸市長選挙では、神戸市[[副市町村長|助役]]で元空港整備本部長だった[[矢田立郎]](無所属)が初当選、このとき空港反対派は候補者一本化に失敗した。さらに建設活動や手続きが進むにつれて市民運動としては沈静化に向かい、[[2003年]]の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、ほぼ震災前の水準に逆戻りした。一部の市民グループによって、空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、そのうち一つが[[2004年]]に神戸地裁で棄却。[[2005年]]大阪高裁。2007年の最高裁と棄却されるなど成功していない。2005年には、小型機用地利用に関する差し止め訴訟も神戸地裁で棄却され、神戸空港を開港前に中止するような方法は困難となった。開港前の最後の選挙である2005年の神戸市長選挙ではまたも候補一本化に失敗し、対立候補の一人は空港反対を争点にしたものの盛り上がらず、現職の矢田候補が再選された。[[2006年]][[2月16日]]、これらの経緯をふまえて神戸空港が開港した。 === 開港 === ==== 市営時代 ==== {{See also|関西三空港の経緯と現状#神戸空港}} 開港時の便数は、[[日本航空|日本航空 (JAL)]]と[[全日本空輸|全日本空輸 (ANA)]]がそれぞれ1日10便、[[スカイマーク|スカイマーク (SKY)]]が1日7便。いずれの航空会社も東京/羽田便が中心になり、SKYの全7便と、JALとANAがそれぞれ2往復で、東京/羽田線は3社計11往復。その他の就航先は札幌/新千歳(3便)、仙台(2便)、新潟(2便)、熊本(1便)、鹿児島(4便)、沖縄/那覇(4便)であり、合計27便で開港した(カッコ内は開港時の設定便数)。しかし、開港前の[[2005年]][[11月14日]]に開催された「関西3空港懇談会」で、当時集客・利用促進が課題となっていた関西国際空港に配慮した運用規制が設けられ、発着回数は1日あたり60便(30往復)まで、国際定期便・[[チャーター便]](オウンユースを除く<ref>{{Cite press release |和書 |title=本邦を発着する国際チャーター便の運航について |publisher=国土交通省 |date=2013-05-16 |url=http://www.anta.or.jp/law/pdf/international_charter_kaisei0516.pdf}}</ref>)の運航禁止、運用時間15時間(7時から22時まで)と規制され、海上空港としての機能を活かしきれない状態での出発となった<ref>{{Cite press release |和書 |title=大阪国際空港及び神戸空港における国際線の取扱いについて・関西3空港の在り方について |publisher=国土交通省 |date=2005-11 |url=https://www.mlit.go.jp/pubcom/05/pubcom72/01.pdf}}</ref>。2006年度の平均搭乗率は60.4%であり、初年度に利用者数の少ない便に関しては、各社撤退や減便を行った。一方で、観光客利用の多い北海道や沖縄への便、ビジネス利用の多い東京(羽田)便に関しては、増便の傾向にあった。また、期待されていたプライベートジェットに関しては、開港時はわずか4機に留まった。 [[2006年]][[9月28日]]より『国際ビジネスジェット』が就航したため、[[税関]]や[[入国管理]]・[[検疫]]などを扱う出入国審査室が旅客ターミナルビル1階に設けられた。当初はビジネスジェット到着時に関係職員が臨時的に対応しており、利用申請の締切が2週間前(入国時)までと早く、時間も平日の9時 - 17時のみの対応と限られるなど不便な要素が多かった。当初は植物検疫ができなかったため、機内の生ゴミが捨てられなかったが、2012年4月の[[植物防疫法]]施行規則の改正によって、[[徳島飛行場]](徳島空港)とともに「携帯する植物については」輸入可能な海港・空港に指定された<ref>{{Cite press release |和書 |title=植物防疫法施行規則の一部を改正する省令 |publisher=農林水産省 |date=2012-04-20 |url=http://www.pps.go.jp/law_active/Notification/basis/4/12/history/1359.pdf}}</ref>ことにより、その状況については問題が解消している。 関西3空港のひとつである神戸空港は関西政界に大きく影響を与えており、各方面で様々な議論が行われている。かつては大阪の政財界には神戸空港不要論があり、[[南海電気鉄道]]会長である[[山中諄]][[関西経済同友会]]代表幹事は、[[2009年]][[10月22日]]の記者会見で「関空の機能強化を目指すなら、神戸を廃止し、伊丹の(主要)機能を関空に移転するのがベターではないか」と述べた。また「神戸空港廃止後は、政府の危機管理向けやヘリポートなどの代替機能を担うべきだ」との見解を示した<ref>{{Cite news|title=神戸空港を廃止し関空強化を 関西同友会の山中代表幹事|newspaper=西日本新聞|date=2009-10-22|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/129889|access-date=2022-8-22|archive-url=https://web.archive.org/web/20091023215259/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/129889|archive-date=2009-10-23}}</ref>。また、[[井戸敏三]][[兵庫県知事]]、[[矢田立郎]][[神戸市|神戸市長]](当時)の二人が神戸空港、関西国際空港、大阪国際空港の共存を主張するのに対し、かつては[[橋下徹]][[大阪府知事]](当時)が大阪国際空港の廃港を持論としており、[[2010年]][[1月27日]]には神戸空港について「結果から見れば失策」と述べ、伊丹を廃止すればその分、関西、神戸両空港に路線が集まると主張していた<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100128-OYT1T00101.htm |title=神戸空港は「結果から見れば失策」…橋下知事 |work=YOMIURI ONLINE |publisher=[[読売新聞社]] |date=2010-01-28 |accessdate=2010-01-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100130143945/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100128-OYT1T00101.htm |archivedate=2010-01-30}}</ref>。 ==== 関西エアポート神戸への運営権売却 ==== 開港から10年経過した[[2016年]][[9月13日]]、神戸市が神戸空港を42年間の[[コンセッション方式]]で運営権売却する方針を表明した<ref name="運営権売却表明" />。開港前から議論されていた関西3空港一体運営を目的としているため、運営権の優先交渉権者は、2016年度より関西国際空港、大阪国際空港の両空港を運営する[[関西エアポート]]と密接な関係を有する会社を想定したものとなった。募集には3グループが名乗り出たが、最終的には[[オリックス (企業)|オリックス]]、[[ヴァンシ・エアポート]]、関西エアポート3社陣営グループが優先交渉権者に決定。[[2017年]][[9月26日]]、関西エアポート神戸株式会社と神戸市の間で「神戸空港特定運営事業等公共施設等運営権実施契約」を締結<ref name="運営会社設立と実施契約締結" />し、[[2018年]][[4月1日]]より、関西エアポートの子会社である「関西エアポート神戸株式会社」による民間運営に完全移行した。 関西エアポート神戸株式会社による運営は、2018年度から2059年度までの42年間(合意延長された場合は2069年度まで)を予定しており、空港用地および空港施設は神戸市が継続して所有し、滑走路等航空系事業およびターミナルビル等非航空系事業双方の運営、維持管理を行う。活性化施策として、機材大型化の働きかけ、ビジネス需要喚起、航空旅客の重複(カニバリゼーション)を抑えた路線誘致、ターミナルビル改修による商業エリアの大幅拡張、旅客誘導改善による店舗への入店率向上、搭乗手続きの効率向上と旅客回遊時間の拡大、神戸らしさ、関西らしさが感じられる特色ある商品構成と店舗でのスピーディーなサービスなどを挙げている<ref name="運営会社設立と実施契約締結" />。具体的には、関西国際空港・大阪国際空港で採用しているスマートレーンの導入、3空港連携イベントの開催、ブランド店舗の誘致、[[エプロン (飛行場)#スポット|駐機スポット]]や到着バゲージコンベアの増設、店舗配置などのレイアウト変更、出発エリアの店舗の増設・拡張などが提案されている<ref name="優先交渉権者の選定" />。1階到着ロビーや2階搭乗待合室の改修イメージはすでに公開されており、民間移行後早い段階で改修が行われる予定である。関西エアポート神戸の山谷佳之社長は「地方路線を運航したい航空会社を全力で支援する」と述べ、都心に近い神戸空港の優位性を生かし神戸空港の地方路線を拡充させる意向を明らかにした<ref>{{Cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201802/0010986587.shtml |title=神戸空港の地方路線拡充へ 運営会社社長が意欲 |newspaper=神戸新聞 |date=2018-02-15 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。着陸料等の料金施策は、当初は現行維持を原則とするが、将来的には使用機材と重量による料金体系の見直しや、[[インセンティブ]]制度の導入を検討する<ref name="優先交渉権者の選定" />。また、旅客数は2022年度で300万人とする目標数値を市に提案していたが、運営権売却前の2017年度に前倒しで300万人を突破した。 ==== 規制緩和 ==== 神戸市は、運営権売却前から規制緩和の働きかけを国に行い続けていたが実現せず、運営権売却を機に関西政財界全体で規制緩和を働きかける動きが広まった。スカイマークの[[佐山展生]]会長は「規制緩和されると関西の窓口は神戸になる」と述べ、運用時間が24時間に伸びた場合「大阪国際空港や新幹線と比べて夜間の遅い時間帯に東京-関西を移動でき便利になる」と、規制緩和に期待感を示した<ref>{{Cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201802/0010949407.shtml |title=神戸空港「規制緩和なら関西の窓口に」スカイ会長 |newspaper=神戸新聞 |date=2018-02-02 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。また、[[吉村洋文]]大阪市長も[[2017年]][[7月26日]]、「足を引っ張るのでなく、規制緩和でお互いを伸ばすべき」として神戸空港の国際化、24時間化に言及した<ref>{{Cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201707/0010404735.shtml |title=神戸空港4月民営化 便数、運用時間の規制緩和へ |newspaper=神戸新聞 |date=2017-07-26 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。規制緩和に向けては、運用規制を定めた「関西3空港懇談会(3空港懇)」で議論が必要であるが、2010年4月を最後に開催されておらず、井戸敏三兵庫県知事や[[松井一郎]]大阪府知事をはじめ関係者が早期開催を要望していた。 2017年7月、懇談会の座長である関西経済連合会の[[松本正義]]会長は運用時間規制などの規制緩和に向けた検討を進める意向を明らかにした<ref>{{Cite news |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201707/0010365710.shtml |title=関経連会長「3空港懇」再開意向 神戸の規制緩和議論へ |newspaper=神戸新聞 |date=2017-07-13 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。当初規制緩和などには慎重な考えであった同氏だが、同年[[11月28日]]には「規制緩和は絶対にやる必要がある」と述べ、[[2018年]]中に懇談会を再開させる方針を表明<ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/article/20171128-6BLADFST5JJJ5AJF46IP753FRQ/ |title=「関西3空港は関空をメーンに」関経連の松本正義会長、関西プレスクラブで講演 |newspaper=産経新聞 |date=2017-11-28 |accessdate=2018-02-17}}</ref>するなど、規制緩和へ機運が高まっていた。 このような中、2018年9月4日に接近・上陸した[[平成30年台風第21号]]により、関西国際空港で甚大な被害を被った。1期島のほぼ全域が冠水し、浸水に伴い空港内で停電が発生、さらに[[関西国際空港連絡橋]]にタンカーが衝突し空港機能は完全マヒ、数日間閉鎖される事態に陥った。9月5日深夜3時、空港内から出られなくなった空港職員や乗客を対象に、神戸-関西ベイ・シャトルの高速船を利用した関西国際空港→神戸空港の高速船輸送を開始すると発表<ref>{{Cite news |title=関西国際空港、緊急交通手段として神戸空港まで高速船を無料臨時運航 |newspaper=トラベルWatch |publisher=Impress Watch |date=2018-09-05 |url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1141543.html |accessdate=2020-01-26}}</ref>、早朝6時より15分~20分間隔の高頻度で乗客を無料輸送した。当時は完全に交通機関が寸断されており、関西国際空港から最初に人々を運んだ交通機関となった<ref>{{Cite news |title=台風21号で「神戸空港」に注目 関空からの「救出作戦」で、関西三空港の在り方にも波紋を与えるか |newspaper=Jタウンネット |publisher=ジェイ・キャスト |date=2018-09-05 |url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1141543.html |accessdate=2020-01-26}}</ref>。その後も9月14日の関空第1ターミナル一部再開に伴い、25日まで定期便に加えて1日最大12往復の臨時便を運航した<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸-関空ベイ・シャトルの臨時便を運航します |publisher=神戸市 |date=2018-09-13 |url=https://www.city.kobe.lg.jp/a57337/shise/press/press_back/2018/press_201809/20180913171003.html}}</ref><ref>{{Cite news |title=神戸-関空ベイ・シャトル24日まで臨時便 1日最大12往復増 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-09-13 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201809/0011637666.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。 発災直後は関空の復旧目途が全く立っておらず、9月6日には関空機能を神戸空港・伊丹空港で代替できるよう調整に乗り出した<ref>{{Cite news |title=台風で被害の関空 神戸、伊丹が機能代替へ調整 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-09-06 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201809/0011615191.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。9月10日には国土交通省が市に対し協力依頼を要請し、12日より市が協力受け入れを回答する形で代替受け入れが正式に決定した<ref>{{Cite press release |和書 |title=関西国際空港の本格運用が開始されるまでの間の代替空港への振替について(回答) |publisher=神戸市 |date=2018-09-12 |url=https://www.city.kobe.lg.jp/a57337/shise/press/press_back/2018/press_201809/20180912171001.html}}</ref><ref>{{Cite news |title=関空便受け入れ 兵庫の2空港が決定 神戸は2時間運用延長し対応 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-09-12 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201809/0011633676.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。国交省からの要請として国際線を含めた1日30便の増便を受け入れ、このほかに松井一郎大阪府知事の要請として運用時間の2時間拡大(7時-22時→6時-23時)に対応する用意があるとした。これをうけ、ターミナルビル1階東側に国内線と国際線の動線を分ける仕切りを設置し、機材置き場を確保するなどの国際線受け入れの準備が整えられたほか、深夜早朝を含めた臨時増便に備え、ポートライナーを運行する神戸新交通はダイヤ改正を検討し代替受け入れの体制を整えた<ref>{{Cite news |title=国内線のみ伊丹と神戸、4日間で44便 関空便振り分け |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2018-09-22 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201809/0011662411.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。9月16日・17日には全日本空輸 (ANA) の羽田臨時便4便が運航された<ref>{{Cite news |title=神戸空港―羽田間に臨時便 全日空、関空台風被害で |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2018-09-16 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35440470W8A910C1LKA000/ |accessdate=2020-01-26}}</ref><ref group="注">なお、代替機能の正式受け入れ前の9月6日にも、関西国際空港の行き先を振り返る形で、[[新石垣空港]]、[[宮古空港]]、[[那覇空港]]からの臨時便3便を受け入れている。</ref>。なお、関空の復旧作業が急ピッチで進められたことから、9月21日にはほぼ通常通りの旅客便に戻り、10月11日に代替措置は終了した<ref>{{Cite news |title=大阪・神戸空港 代替措置11日で終了 関空復旧急ピッチ |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2018-10-10 |url=https://mainichi.jp/articles/20181010/k00/00e/040/258000c |accessdate=2020-01-26}}</ref>ため、実際に国際線を受け入れることは無く終了した。しかし、関空に依存する危機管理上のリスクも表面化されたことから、これを機にリスク分散がさらに強く訴えられ、規制緩和に向けての動きが加速することとなった。 2018年末に関西3空港懇談会が8年ぶりに再開され<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43749710V10C19A4LKA000/ |title=神戸空港、発着1日80回に拡大へ 早期の国際化困難 |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-04-15 |accessdate=2018-02-17}}</ref>、出席した井戸敏三兵庫県知事は夜2時間、早朝1時間の延長と、1日120便の拡大、国際チャーター便の就航を要望した<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/g_kaiken20190415.html |title=知事定例記者会見(2019年4月15日(月曜日) |publisher=神戸市 |accessdate=2020-01-27}}</ref>。翌年の2019年5月11日の第9回関西3空港懇談会においては、3空港の方針が取りまとめられ正式に合意された<ref>{{Cite press release |和書 |title=関西3空港懇談会 取りまとめ概要 |publisher=公益社団法人 関西経済連合会 |date=2019-05-11 |url=http://www.kankeiren.or.jp/material/190511release_gaiyou.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=関西3空港懇談会 取りまとめ ~関西全体の発展に繋がる関西 3 空港の最適活用に向けて~ |publisher=関西経済連合会 |date=2019-05-11 |url=http://www.kankeiren.or.jp/material/190511release.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=関西3空港懇談会の開催について(報告) |publisher=神戸市 |date=2019-05-11 |url=http://www.kankeiren.or.jp/material/190511release.pdf |accessdate=2019-01-26}}</ref>。神戸空港の役割はあくまで関西空港・伊丹空港を補完する機能のままとしながらも、長年実現しなかった規制緩和や国際線を検討する内容が盛り込まれた取りまとめとなっている。概要は以下の通り。 * 2021年頃までの短期の視点に立った取組 ** 国内線発着枠の段階的拡大(最大発着回数60回→80回/日) ** 運用時間を段階的に拡大(運用時間を22時→23時まで延長) ** 空港アクセス強化の検討 ** 国際プライベートジェットの受入推進(必要な[[CIQ]]体制整備等についての関係省庁への協力要請等) ** 3空港の災害対応力向上、発災時の3空港相互支援体制などの整備 * 2025年頃までの中期の視点に立った取組 ** 国際化を含む空港機能のあり方の検討 これまでの3空港懇は国土交通省側からの働きかけで開催されていたものであるが、今回初めて関西経済連合から開催を求めており、今後も適宜(原則年1回程度)継続開催するとされていることから、定期的な運用に改められていることがポイントである。懇親会の座長を務める関西経済連合会の松本正義会長は、国際化に関して「ただの検討ではない」として実現に向けての検討を強調しているが<ref name="sankei20190602">{{Cite news|title=神戸空港 国際化へ一歩 規制緩和で、伊丹は先送り|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2019-06-02|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45516530R30C19A5ML0000/|accessdate=2020-01-26}}</ref>、あわせて国際線就航に向けてのターミナルビル拡張やアクセス強化を条件として求めている。なお取りまとめに対しては、[[久元喜造]]神戸市長は「関係者の皆さまに感謝したい」と回答し空港アクセスの増強や新ターミナルの建設に向けて検討を急ぐ姿勢を示した<ref name="knp20190512">{{Cite news |title=神戸空港規制緩和 知事「満額回答ではない」神戸市長は評価 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2019-05-12 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201905/0012322559.shtml |accessdate=2020-01-26}}</ref>。井戸敏三兵庫県知事は「緩和の方向性が明確になったことを評価したい」としつつ「満額回答ではない、値切られた」とし、発着枠拡大分が20便にとどまったことに不満を示した<ref name="knp20190512" />。また、懇談会では[[仁坂吉伸]]和歌山県知事が強く反発する場面もあったといい、地域間の利害の不一致が結果に影響した可能性があるとしている<ref name="knp20190512" />。 発着枠の拡大を受けて、スカイマークは7月5日に那覇、長崎、茨城の各路線で増便を実施することを発表<ref>{{Cite news |title=スカイマーク、8月から増便 神戸空港の発着規制緩和 |newspaper=産経新聞 |publisher=産経新聞社 |date=2019-07-05 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201908/0012568893.shtml |accessdate=2020-01-27}}</ref>。同日に合同記者会見を行ったフジドリームエアラインズも新規就航を検討していると明らかにした<ref>{{Cite news |title=FDA、神戸空港就航を正式発表 初の関西での拠点 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2019-07-05 |url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO47015080V00C19A7L61000?s=1 |accessdate=2020-01-27}}</ref>。8月1日にスカイマークの増便が実施され、3空港懇から3か月足らずで初の規制緩和運用がスタートした<ref>{{Cite news |title=神戸空港、規制緩和スタート スカイマークが増便 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2019-08-01 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201908/0012568893.shtml |accessdate=2020-01-27}}</ref>。 [[ファイル:Fuji_Dream_Airlines_Embraer_170_red.jpg|thumb|神戸空港での[[フジドリームエアラインズ|FDA]]の[[エンブラエル170]]|240px]] 10月からはフジドリームエアラインズが新規就航し、[[松本空港]]、[[出雲空港]]の間で運航を開始した<ref>{{Cite news|title=神戸空港参入のFDA 松本、出雲に定期便運航へ|newspaper=ひょうご経済+|date=2019-7-26|publisher=神戸新聞社|author=長尾亮太|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012550983.shtml|access-date=2019-8-1|archive-url=https://web.archive.org/web/20201013153735/https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012550983.shtml|archive-date=2020-10-13}}</ref>。FDAは団体向けのチャーター便を除いて関西圏の空港初の定期就航となり、神戸空港からの松本、出雲への就航も初となる。新規航空会社の乗り入れは2013年のソラシドエア、エアドゥ以来となった。この後も[[高知空港]]、[[青森空港]]への新規就航が続き、スカイマークも増便を発表したことから2020年3月29日には早くも規制緩和分の20便(10往復)分を使い切ることとなる。井戸敏三兵庫県知事は、次回の3空港懇でさらなる発着枠の拡大を求めていくとしている<ref>{{Cite news |title=今春の関西3空港懇 神戸空港の増便、時間延長求める |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2020-01-07 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013016255.shtml |accessdate=2020-01-27}}</ref>。 運用時間の拡大に関しては、管制官の確保のために国の予算措置が必要であるため持ち越しとなっていたが、8月28日には国交省が運用時間延長のための人員増を要求したと報道された<ref>{{Cite news |title=神戸空港、運用時間延長で人員増 国交省概算要求 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2019-08-28 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201908/0012648926.shtml |accessdate=2020-01-27}}</ref>。これは、2020年度予算の概算要求で管制官や航空管制技術官など6人の増員を要求したことによるものである。2020年1月24日には、運用時間延長を活用した羽田便がスカイマークの夏ダイヤで運航されることが決定し<ref name="knp20200124" />、2020年3月29日より23時までの運用時間延長が行われる。 ==== 国際化 ==== 2020年11月28日、第10回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、松本正義関経連会長、[[和田浩一]]国土交通省航空局長、[[吉村洋文]]大阪府知事、井戸敏三兵庫県知事、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した<ref>{{Cite press release|和書|title=第10回関西3空港懇談会を開催|publisher=関西経済連合会|date=2020-12-4|url=https://www.kankeiren.or.jp/topics/2020/12/10-5.html|access-date=2022-8-2}}</ref><ref name=":3">{{Cite news|title=関西空港、1万7千人の雇用維持|newspaper=西日本新聞|date=2020-11-28|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/668475/|access-date=2022-2-10}}</ref>。[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響によって関西3空港が危機的状況にあり、収束が見通せない中で、関西空港で働く1万7千人の雇用を維持する必要性を確認し、関西空港の発着枠拡大と神戸空港の国際化の検討を続けることを申し合わせた<ref name=":3" />。また、関西3空港の機能維持・強化を求める国への要望書を決議した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kankeiren.or.jp/topics/201118ikensho.pdf |title=関西3空港の機能維持・強化等に関する要望決議 |accessdate=2022-2-11 |publisher=関西経済連合会 |format=PDF |date=2020-11-28}}</ref>。 # 空港機能維持のための支援措置の延長:航空需要が一定程度回復するまでの間、[[雇用調整助成金]]の特例措置の延長及び要件緩和の継続など、必要な支援措置を講じること。 # 水際対策の強化:関西空港の水際対策について、施設と人員体制の拡充、ICT化を早期に実現すること。出国検査についても、国が必要な体制整備を主導すること。 # 関西空港の第一ターミナル(T1)リノベーションへの支援:世界水準のインバウンド対応機能の実現、旅客処理能力の大幅向上と過密化対策など、[[2025年日本国際博覧会|万博]]開催までに大規模改修が完了するよう、資金面での支援策を講じること。 2021年は新型コロナウイルスの影響で開催が見送られたが、2022年1月13日に第11回関西3空港懇談会が大阪市内で開催され、座長を務める松本正義関経連会長、[[久保田雅晴]]国土交通省航空局長、各自治体の首長、山谷佳之関西エアポート社長らが出席した<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=第11回関西3空港懇談会を開催|publisher=関西経済連合会|date=2020-1-21|url=https://www.kankeiren.or.jp/topics/2022/01/11-2.html|access-date=2022-8-2}}</ref><ref>{{Cite news|title=2年ぶりに関西3空港懇談会 航空需要の回復目指し|newspaper=[[サンテレビ]]|date=2022-1-13|url=https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2022/01/13/47653/|access-date=2022-8-2}}</ref>。関西空港のT1リノベーションや災害対応力強化、伊丹空港の定時運航率向上、神戸空港の国内線発着枠・運用時間の拡大やアクセス改善など、第9回懇談会での「取りまとめ」後の状況について報告され、意見交換が行われた<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.kankeiren.or.jp/topics/220113houkoku.pdf |title=第11回関西3空港懇談会報告 |accessdate=2022-02-05 |publisher=関西経済連合会}}</ref>。新型コロナウイルス禍で航空需要の落ち込みが続くなか、コロナ収束を見据えて、関西空港の発着回数上限(年間23万回)引き上げに向けた検証、関西空港の将来航空需要の精査、神戸空港の国際化の検討を着実に進め、両空港の機能を強化していくことが確認された<ref name=":1" />。 {| class="wikitable" |+第11回関西3空港懇談会の報告内容<ref name=":1" /> !項目 !報告と取組 |- |基本方針 | *新型コロナの収束により、入国規制が解除されるタイミングを捉え、速やかに航空ネットワークや需要を回復させる<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=関西3空港懇談会、関空や神戸空港の機能強化を確認 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF137NA0T10C22A1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-01-13 |accessdate=2022-02-04 |language=ja}}</ref>。 * 2025 年までに、万全な空港受入体制を整えることにより、国家プロジェクトとして、関西一体で取り組む「大阪・関西万博」の成功を期すとともに、さらなる関西の成長へと繋げていく<ref name=":2" />。 * 今年度末に[[関西観光本部]]において策定が予定されている「関西ツーリズムグランドデザイン 2025」などをベースに、迅速に需要回復を図るための取組を準備し、関西の官民が一丸となって進める。 |- |関西空港 | *コロナ収束後を見据え、国際拠点空港として、一層の競争力向上と機能強化を図っていく。 * 新型コロナ発生前の2019年実績等を踏まえ、2025年万博開催時とその後の成長に適切に対応できるよう、現行空域における発着回数上限引き上げに向けた検証を国土交通省に依頼した<ref name=":2" />。 * 調査委員会による将来航空需要の予測については、現時点においても新型コロナの動向等、見極めが困難であることから、次回懇談会への報告に向けて精査を継続する。 |- |伊丹空港 | * 引き続き、都市型空港として、地域社会との共生を基本に、環境改善と利用者の利便性向上に努める。 |- |神戸空港 | * 関空・伊丹を補完する観点からの国際化を含む空港機能のあり方について、関西エアポート及び神戸市による検討を深化させ、次回懇談会で報告を受ける<ref name=":2" />。 |} 2022年9月18日、大阪市内で第12回関西3空港懇談会が開催され、関西3空港および関西空港の容量拡張の目標や神戸空港の国際化などで合意した<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=第12回関西3空港懇談会を開催 {{!}} TOPICS|関西経済連合会 |url=https://www.kankeiren.or.jp/ |website=関西経済連合会 |access-date=2022-09-29 |language=ja}}</ref>。関西エアポートから「関西の将来航空需要に関する調査委員会」中間報告、国土交通省から現行空域における最大発着回数の検証結果、関西エアポートと神戸市から神戸空港のあり方に関する検討結果がそれぞれ報告された<ref name=":4" />。これらの報告を踏まえて、「取りまとめ」案について意見交換を行い、全会一致で合意に至った<ref name=":4" />。神戸空港では、万博が開催される2025年までに国際チャーター便を受け入れた上で、関西空港の混雑が予想される2030年前後に国際定期便を就航させ、1日最大発着回数40回を目指す<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=関西3空港、万博に向けて運用拡張案に合意、関西は1時間処理能力60回に、神戸は国際線就航へ |url=https://www.travelvoice.jp/20220928-152109 |website=トラベルボイス(観光産業ニュース) |access-date=2022-09-29 |language=ja}}</ref>。 === 年表 === 大阪国際空港・関西国際空港と関連する事項についての詳細は[[関西三空港の経緯と現状]]を参照のこと。 * [[1946年]]{{0|00年00日}} 空港建設計画が「市復興基本計画要綱」に初めて登場。 * [[1971年]]{{0}}7月{{0|00日}} 神戸市、[[ポートアイランド]]沖空港試案発表。埋立面積1100ha, 滑走路4000m×4+3200m×2。 * 1971年10月{{0|00日}} 航空審議会 関西国際空港部会設置。 * [[1973年]]{{0}}3月{{0|00日}} 神戸市会で、関空神戸沖案に[[宮崎辰雄]]市長が反対表明。 * 1973年10月{{0|00日}} 神戸市長選挙。革新候補として空港反対の宮崎市長が、空港推進の自民党の[[砂田重民]]候補を破る。 * 1973年10月{{0|00日}} 伊丹市、大阪空港撤去都市宣言。 * ([[1974年]]{{0}}8月{{0|00日}} 関空泉州沖答申) 神戸財界は関空の補助空港としての神戸沖空港誘致をめざす(10月22日。商工会議所計画) * ([[1979年]]{{0}}9月 から1982年4月にかけて 泉州自治体での反対決議の撤回) * [[1980年]]11月{{0|00日}} 石井試案(当時自民党航空対策部会副委員長の[[石井一]]氏私案)の発表。遠くて高コストの泉州沖をやめて阪神沖(神戸沖)に関空を建設という内容。 * [[1981年]]{{0}}4月{{0|00日}} 参議院で社会党議員の石井試案に対する質問に[[塩川正十郎]]運輸大臣答弁。神戸沖は審議会で検討済。その上で泉州が適格と判断したから再検討はない。 * [[1982年]]{{0}}5月{{0|00日}} 神戸市議会が神戸沖空港建設を求める決議(ほぼ同時期に大阪、和歌山で泉州沖要望決議)。 * 1982年{{0}}6月{{0|00日}} 「神戸沖新空港計画試案」(3000m×1、将来拡張して2本)発表。宮崎市長が運輸省に提出。小坂運輸大臣受取り拒否。 * 1982年12月{{0|00日}} 運輸大臣が坂井兵庫県知事と神戸空港に関して会談。新国際空港の必要性で合意。 * [[1984年]]{{0}}6月{{0|00日}} 兵庫県が泉州沖案(三点セット)に合意。このとき兵庫県が要求する神戸空港の実現の調査協力に運輸省が合意。 * (1984年10月{{0|00日}} 関空会社設立) * [[1985年]]{{0}}5月{{0|00日}} 神戸市会、第5次空港整備5箇年計画(5次空整)への神戸空港組み入れ要望を議決。 * [[1986年]]{{0}}6月{{0|00日}} 5次空整へ神戸空港の調査計画が、欄外記載の形で組み入れ。 * [[1990年]]{{0}}3月{{0|00日}} 神戸市会、第6次空港整備5箇年計画(6次空整)への神戸空港組み入れ要望を全会一致で議決。 * (1990年12月{{0|00日}} 大阪国際空港存続決定) * [[1991年]]11月{{0|00日}} 国の6次空整で「予定事業」化。 * [[1993年]]{{0}}8月{{0|00日}} 新規事業へ格上げ。 * [[1994年]]12月{{0|00日}} 着工準備調査費が1995年度政府予算に計上。 * [[1995年]]{{0}}[[1月17日]] [[阪神・淡路大震災]]。 * 1995年{{0}}6月{{0|00日}} 「神戸市復興計画」策定:神戸空港の整備を盛り込む。 * 1995年10月{{0|00日}} 神戸空港及び空港島を含む神戸港の港湾計画の変更の環境アセスメント開始。 * [[1996年]]11月{{0|00日}} 神戸港港湾計画の変更。飛行場許可申請 * [[1997年]]{{0}}[[2月19日]] 国による飛行場設置認可<ref>{{Cite news |title=神戸空港の設置を許可 運輸省 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-02-20 |page=1 }}</ref>。 * 1997年{{0}}3月{{0|00日}} 国による港湾計画の認可。 * 1997年10月{{0|00日}} 神戸市長選挙。オール与党体制から共産党が離脱して推薦した、空港反対の大西和雄候補が22万5千票を集めるものの現職の笹山幸俊候補(27万1千票)に敗れる。 * [[1998年]]{{0}}3月{{0|00日}} 神戸空港・住民投票の会成立。 * 1998年10月{{0|00日}} 埋め立てに係わる[[環境アセスメント]](公有水面埋立)の評価書提出・縦覧。 * 1998年10月{{0|00日}} 住民投票署名 有効署名数30万7797人(市選管発表)。 * 1998年11月{{0|00日}} 臨時市議会:建設の是非を問う住民投票条例案を市議会が否決(議事録は高碕啓子「議会という装置」で発刊)。 [[ファイル:KobeAirportModel.jpg|thumb|完成予想モデル]] * [[1999年]]{{0}}6月{{0|00日}} 空港島の埋立免許取得。 * 1999年{{0}}9月{{0|00日}} 神戸空港島埋立てが着工。 * [[2000年]]{{0}}5月{{0|00日}} [[リコール (地方公共団体)|市長リコール]]署名。有効約8万7000筆で不成立。 * [[2001年]]10月{{0|00日}} 神戸市長選挙。反対派候補が分裂し、推進派の[[矢田立郎]]が約21万票を集め初当選。木村史暁約12万票、吉田順一約6万票、池上徹約4万票、上野泰昭約1万5千。 * [[2004年]]{{0}}3月{{0|00日}} 空港への支出返還訴訟で、神戸地裁が棄却。 * [[2005年]]11月{{0|00日}} JAL、ANA、SKYの航空3社が運航ダイヤを発表、7路線に1日27便(往復)就航が決定。 * [[2006年]]{{0}}[[2月2日|2月{{0}}2日]] [[神戸スカイブリッジ]]一般供用開始、[[ポートライナー]]延伸部分開業。 [[File:Kobe Airport Aerial photograph.2009.jpg|thumb|神戸空港の空中写真。<br/>{{国土航空写真}}。2009年撮影。]] [[ファイル:Marine Air Campaign.JPG|thumb|[[ヨドバシカメラ]][[梅田]]店前で行われた開港記念イベント(2006年2月11日)]] * 2006年{{0}}[[2月16日]] '''開港。午前5時50分に開港式。'''同7時21分に一番機の[[東京国際空港]]行き日本航空ボーイング777-300 (JA752J)が明石海峡方向27に離陸。同8時4分に定期便着陸一番機である羽田空港発の全日空ボーイング767-300 ([[マリンジャンボ|JA8579]])が明石海峡方向09より到着。開港後、数ヶ月の間に多数の見学者が訪れた。見学者数は開港1年で約214万人となった。 * 2006年{{0}}[[9月28日]] C(税関)・I(出入国管理)・Q(検疫)との調整により、初の国際便(セスナ・サイティーションを使ったビジネスジェット)が就航。 * [[2007年]]{{0}}[[5月15日]] 空港駐車場では初となる、IBAサービスを開始。 * 2007年{{0}}[[9月8日|9月{{0}}8日]] 第三種空港としては異例の、旅客機を使った初の国際チャーター便(ANA1791便、767-300ER JA606A パンダジェット)が中華人民共和国・天津に向けて飛び立った。 * 2007年{{0}}[[9月14日]] 外国の航空会社の航空機では初となる国際チャーター便([[海南航空]]HU-7931便、[[長安航空]]737型機を使用)を受け入れた。 * [[2010年]]{{0}}[[6月1日|6月{{0}}1日]] 日本航空グループが撤退。 * 2010年{{0}}[[6月24日]] [[スカイマーク]]が自衛隊主導の運航に反発し神戸 - 茨城線を同年9月から運休させると発表<ref>{{Cite press release |和書 |title=「神戸‐茨城線」の運休について |publisher=スカイマーク |date=2010-06-24 |url=http://www.skymark.co.jp/ja/company/press/press100624.html |accessdate=2016-03-09}}</ref>。 * 2010年{{0}}[[7月20日]] スカイマークは同年9月1日から茨城線を運休し、同年10月1日から再開させると発表<ref>{{Cite press release |和書 |title=「神戸‐茨城線」の運航再開について |publisher=スカイマーク |date=2010-07-20 |url=http://www.skymark.co.jp/ja/company/press/press100720.html |accessdate=2016-03-09}}</ref>。 * 2010年[[10月11日]] 天草エアライン撤退。 * [[2013年]]{{0}}[[6月1日|6月{{0}}1日]] 7番搭乗口・搭乗橋、搭乗口新設に伴うコンコースの延伸部分がそれぞれ供用開始<ref name="Boarding7" /><ref>{{Cite news |title=神戸空港、6月1日から7番搭乗口搭乗橋とコンコースを供用 |newspaper=FlyTeam |date=2013-05-28 |author= |url=http://flyteam.jp/news/article/22937 |accessdate=2016-02-15}}</ref>。 * 2013年{{0}}6月{{0}}1日 スカイネットアジア航空(→[[ソラシドエア]]) 就航開始。 * 2013年{{0}}[[6月21日]] AIRDO 就航開始。 * [[2016年]]{{0}}[[9月13日]] 神戸市が神戸空港を42年間の[[コンセッション方式]]で運営権売却する方針を表明<ref name="運営権売却表明">{{Cite press release |和書 |title=神戸空港の運営(コンセッション)の公募にかかる実施方針(神戸空港特定運営事業等実施方針)の策定 |publisher=神戸市 |date=2016-09-13 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2016/09/20160913172501.html |accessdate=2018-02-01}}</ref>。 * 2016年[[10月11日]] 関西三空港一体運営を目的に、神戸市が最低基準価格を176億円とする募集要項公表<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港特定運営事業等募集要項等の公表について |publisher=神戸市 |date=2016-10-27 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/12.html |accessdate=2018-02-01}}</ref>。 * 2016年[[12月20日]] 入札参加審査で、[[オリックス (企業)|オリックス]]、[[ヴァンシ・エアポート]]、[[関西エアポート]]3社陣営と[[双日]]が審査通過(双日は翌年[[2月13日]]に辞退)。 * [[2017年]]{{0}}[[6月30日]] オリックス陣営が市に運営計画を提出<ref>{{Cite news |title=神戸空港の運営権売却 オリックス陣営が入札書類 |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2017-06-30 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201706/0010328665.shtml |accessdate=2017-02-01}}</ref><ref>{{Cite news |title=神戸空港運営権192億円提案 関西エア子会社が経営へ |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2017-07-01 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201707/0010330733.shtml |accessdate=2017-02-01}}</ref>。 * 2017年{{0}}7月25日 オリックス陣営が優先交渉権者に決定<ref name="優先交渉権者の選定">{{Cite press release |和書 |title=優先交渉権者を選定しました-神戸空港の運営事業者の公募(コンセッション)- |publisher=神戸市 |date=2017-07-25 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2017/07/20170725172501.html |accessdate=2018-02-01}}</ref>。 * 2017年{{0}}[[8月10日]] オリックス陣営が「関西エアポート神戸株式会社」を設立<ref name="運営会社設立と実施契約締結" />。 * 2017年{{0}}[[9月26日]] 関西エアポート神戸株式会社と神戸市の間で「神戸空港特定運営事業等公共施設等運営権実施契約」を締結<ref name="運営会社設立と実施契約締結" />。 * [[2018年]]{{0}}[[4月1日|4月{{0}}1日]] 関西エアポート神戸株式会社による運営に完全移行(2059年度まで)<ref name="運営会社設立と実施契約締結" />。 * [[2019年]]{{0}}[[5月11日]] 関西3空港懇談会にて発着回数の上限の引き上げと運用時間の延長に合意。(発着回数:60回→80回、運用時間:7〜22時→7時〜23時) * 2019年 [[7月4日]] 発着枠拡大を受けてスカイマークが那覇、茨城、長崎の各路線で8月1日からそれぞれ1往復ずつの増便を発表した<ref>{{Cite news|title=神戸空港 那覇、長崎、茨城路線で増便へ 規制緩和でスカイマーク|newspaper=ひょうご経済+|date=2019-7-4|archive-url=https://web.archive.org/web/20190704120212/https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012483513.shtml|archive-date=2019-7-4|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012483513.shtml|access-date=2019-7-4|author=長尾亮太|publisher=神戸新聞社}}</ref>。[[フジドリームエアラインズ]] (FDA)が神戸空港への新規就航を表明、[[松本空港|松本]]、[[高知空港|高知]]の各路線を1日1往復運航すると発表した<ref>{{Cite news|title=FDA神戸空港就航へ 10月、松本と高知に定期便|newspaper=ひょうご経済+|date=2019-7-3|author=長尾亮太|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012480636.shtml|access-date=2019-7-4|archive-url=https://web.archive.org/web/20210127015432/https://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201907/0012480636.shtml|archive-date=2021-1-27}}</ref>。 * 2019年 [[7月26日]] FDAは神戸への定期就航を正式に発表。計画通りの松本線と新たに[[出雲空港|出雲]]線を10月27日からそれぞれ1日1往復ずつ運航予定。当初予定していた高知線含め他都市への路線は10月以降の就航を検討。 * 2019年 [[8月1日]] スカイマークが規制緩和後初の増便運航開始<ref>{{Cite news|title=神戸空港で増便開始 規制緩和の合意後初|newspaper=産経新聞|date=2019-8-1|url=https://www.sankei.com/article/20190801-UEWSOYNTVRP77JU4ED6MVYQN6Y/|access-date=2022-8-2}}</ref>。 * 2019年 [[10月27日]] FDAにより松本線を1日1往復、出雲線を1日2往復運航開始。FDAは日本航空とコードシェアを実施<ref>{{Cite press release |和書 |title=FDA×JAL 神戸空港発着のコードシェア路線を新設 |publisher=日本航空 |date=2019-08-21 |url=https://press.jal.co.jp/ja/release/201908/005273.html |accessdate=2019-08-22}}</ref>。これに伴い、同社が運航するコードシェア便という形でJAL便が約9年ぶりに復活した。 *2019年 12月20日 FDAが出雲線を1日1往復に減便し、就航表明時に発表していた高知線を1日1往復で運航開始。 * 2020年 3月29日 FDAが青森線を1日1往復運航開始、出雲線が需要低下により運休。スカイマークが羽田線を0.5往復、新千歳線を1日1.5往復、那覇線を1日2往復増便。これにより2019年に規制緩和となった1日80便(40往復)の発着枠が埋まることとなった。 *2020年 10月25日 スカイマークが[[下地島空港|宮古(下地島)]]に1日1往復で運航を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=2020年10月25日~2021年3月27日期間の運航について 新路線「羽田-宮古(下地島)線」、「神戸-宮古(下地島)線」 「那覇-宮古(下地島)線」を開設|publisher=スカイマーク株式会社|date=2020-8-19|url=https://www.skymark.co.jp/ja/news/detail/__icsFiles/afieldfile/2020/08/18/20200819_news.pdf|format=PDF|access-date=2022-8-2}}</ref><ref>{{Cite news|title=那覇-下地島開設へ/スカイマーク|newspaper=[[宮古毎日新聞]]|date=2020-8-20|url=https://www.miyakomainichi.com/news/post-132510/|access-date=2022-8-2}}</ref>。羽田発着枠政策コンテストにてトライアル運航を認められた羽田-宮古(下地島)線に合わせ羽田、神戸、那覇の3路線4便を同時に開設した<ref>{{Cite web|和書|title=スカイマーク、下地島就航 羽田・神戸・那覇から、洞社長「三沢に勝てる」|url=https://www.aviationwire.jp/archives/213475|website=Aviation Wire|accessdate=2020-12-13|language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=スカイマークによる羽田・神戸・那覇=宮古(下地島)が就航 ~羽田・神戸は毎日1往復・那覇は毎日2往復~|publisher=下地島エアポートマネジメント株式会社、スカイマーク株式会社|date=2020-10-26|url=https://shimojishima.jp/wp-content/uploads/2020/10/press_20201025.pdf|format=PDF|access-date=2022-8-2}}</ref>。 *2021年 3月28日 FDAが花巻線を1日1往復運航開始し、出雲線を正式に路線運休とした。 *2021年 8月27日 FDAが松本線を1日2往復に増便、松本空港の定期路線として初の夜間発着便となった。 *2022年 9月18日 第12回関西3空港懇談会で神戸空港の国際化が合意された<ref name=":4" /><ref name=":5" />。 *2025年 春頃 サブターミナル開業予定。<ref>{{Cite web|和書|title=神戸市:神戸空港 |url=https://www.city.kobe.lg.jp/a11380/kurashi/access/airport/index.html |website=www.city.kobe.lg.jp |access-date=2023-05-27}}</ref> *2030年頃 国際線定期便就航予定。 == 施設 == === 空港島 === [[ファイル:151229 Kobe Air Port Japan01bs.jpg|thumb|上空から見た神戸空港]] 神戸空港の主要施設はポートアイランドの南沖約 1km に位置する[[神戸空港島]]にある。空港島全域が「神戸空港」の町名を持つ。郵便番号は650-0048。 * 面積:271.6[[ヘクタール|ha]]<!-- (南北.km,東西.km) -->(うち空港施設用地 156.5ha、空港関連用地 115.1ha) * 埋立工期:[[1999年]](平成11年)9月 - [[2013年]](平成25年)[[12月24日]]<ref>{{Cite press release |和書 |title=空港島の埋立に関する工事の竣功認可について |publisher=神戸市 |date=2013-12-24 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2013/12/20131224174401.html |accessdate=2016-03-06}}</ref> * 大阪湾断層(海底活断層)があることが確認され、[[液状化]]対策を兼ねてグラベル・コンパクション工法が採用された。 * 埋立の際には、市内で発生する建設残土や浚渫した底泥(ヘドロ)を空港島で受け入れ、陸や海の環境改善が図られた。 * [[神戸空港島西緑地]]・空港島の西側には、水質浄化のための実験場と市民が親水できる空間を兼ねて海水が出入りすることができる浅い海水池(人工[[ラグーン]])と、それを取り巻く砂浜や磯浜を設けて親水公園として整備されている。潮の干満で海水を調整して多様な生物が生息することで水質浄化も期待できる。この公園は、滑走路に隣接して飛行機の離着陸を間近に体感できる格好の場所となる(2006年9月16日から暫定供用中)。 ==== 環境問題 ==== [[ファイル:神戸空港西緑地 Kobe Airport Lagoon - panoramio.jpg|thumb|[[神戸空港島西緑地]]]] 空港島設置の影響で潮流が変化し、[[溶存酸素]]量の低下、[[青潮]]の発生など大阪湾の水質汚濁が引き起こされているという指摘が[[京都学園大学]]の讃岐田訓などによってなされている<ref>{{Cite news |url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00047892sg200603071000.shtml |title=数字が語る「神戸空港の課題」 開港前 強気と懸念 |newspaper=神戸新聞NEWS |publisher=神戸新聞社 |date=2006-02-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080326191753/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00047892sg200603071000.shtml |archivedate=2008-03-26}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://news.livedoor.com/article/detail/3035837/ |title=「やっぱりアカン神戸空港?廃港し、撤退せよ!」、市民らがデモ行進 |newspaper=livedoorニュース |agency=PJニュース |publisher=ライブドア |date=2007-02-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080408222531/http://news.livedoor.com/article/detail/3035837/ |archivedate=2008-04-08}}</ref>。 空港島西側の人工ラグーンでは、漁船の網に掛かるなどして保護された[[ウミガメ]]6匹を一時保護し、治療するという試みが行われた。 ==== 土地利用・売却計画 ==== 空港島の土地は、滑走路やエプロン、管制塔などの空港施設部分を除く82.4haを売却する予定であり、定価はおおむね1平方メートル当たり27万円である(旅客ターミナルや駐車場、貨物ターミナル、海上アクセスターミナルはいずれもが土地を購入せず、賃貸で営業している。なお2023年1月現在、貨物ターミナルは当空港での貨物取扱がないため使用されていない)。土地売却を促進するため、工費軽減で浮いた100億円の範囲において、定価の3割引から5割引で処分するという優遇策を2007年度から実施中である。しかしながら、開港から10年が経過した2016年2月時点で売却・賃貸された土地は分譲地全体の13%にとどまっている<ref>{{Cite news |title=神戸空港開港10年 頼みの土地売却・賃貸13% |newspaper=神戸新聞NEXT |publisher=神戸新聞社 |date=2016-02-12 |author= |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/201602/0008798178.shtml |accessdate=2016-02-15}}</ref>。ただし、82.4haのうち造成工事が完了し整備済みの面積は約40ha(2017年7月時点)であり、残りはもともと売却できない土地である<ref>{{Cite press release |和書 |title=定例会見 2017年(平成29年)7月27日 神戸空港の運営権売却 |publisher=神戸市 |date=2017-07-27 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/mayor/teireikaiken/h29/290727.html#midashi80563 |accessdate=2018-02-17}}</ref>。 一方で、影響を強く受けたのはポートアイランド第二期であり、空港開港直後より企業進出が急増、ほぼ空き地であった土地が現在ではポートライナー沿線を中心に300社を超える企業が誘致され、次世代[[スーパーコンピュータ]]「[[京 (スーパーコンピュータ)|京]]」や「[[富岳 (スーパーコンピュータ)|富岳]]」などが誘致されるきっかけともなった。 現在までに売却あるいは売却予定の土地は以下の通りである。 [[ファイル:EC-135 (JA135H).jpg|thumb|エアバス・ヘリコプターズ・ジャパン 神戸空港事業所]] * 小型航空機機能用地(固定翼) ** ヒラタ学園 神戸エアセンター(後述) ** [[エアバス・ヘリコプターズ]]・ジャパン 神戸空港事業所(後述) * 小型航空機機能用地(回転翼) ** [[神戸ヘリポート]](建設中) * 総合物流施設用地 ** カツヤマキカイ KOBE Headquarters **: 空港島東部に本社棟・商業棟が位置する。[[2013年]]10月より操業開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港島総合物流施設用地への企業進出 |publisher=神戸市 |date=2012-09-14 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2012/09/20120914171401.html |accessdate=2016-03-09}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=2013年秋に本社及び工場を神戸空港島に移転 |publisher=カツヤマキカイ |date=2012-09-24 |url=http://www.katsuyama.co.jp/topics/120924headquarters.html |accessdate=2016-03-06}}</ref>。本社棟は第27回日経ニューオフィス賞で近畿ニューオフィス奨励賞を受賞している<ref>{{Cite press release |和書 |title=本社棟が「日経ニューオフィス賞」を受賞 |publisher=カツヤマキカイ |date=2014-09-05 |url=http://www.katsuyama.co.jp/topics/140905newoffice.html |accessdate=2016-03-06}}</ref>。 * 保管施設用地 ** 上組神戸空港島ロジスティックセンター (KALC) **: 港湾運送業の[[上組]](神戸市)が神戸空港島に倉庫や事務所を建設し、多目的倉庫機能を備えている。約2haを分譲で取得する予定である。[[2009年]][[12月16日]]に竣工<ref>{{Cite press release |和書 |title=上組神戸空港島ロジスティックセンター本格稼動についてのお知らせ |publisher=上組 |date=2009-12-15 |url=http://www.kamigumi.co.jp/profile/PH21121801.pdf |format=PDF |accessdate=2016-03-09}}</ref>。 ** 上組物流倉庫 **: ロジスティックセンター東側に隣接し、約25,330m<sup>2</sup> の総合物流センターとして稼働している。[[2015年]]11月より操業開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港島への企業進出 |publisher=神戸市 |date=2014-07-10 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2013/07/20130710171401.html |accessdate=2016-03-09}}</ref>。 * 業務施設用地 ** [[トヨタレンタリース]]神戸 神戸空港店 ** トヨタレンタリース兵庫 神戸空港店<ref group="注">神戸空港においては兵庫県を営業区域とするトヨタレンタリース神戸とトヨタレンタリース兵庫の調整がつかず、「トヨタレンタリース神戸空港店」が2つ存在する事態となった。建物自体は同じだが、当然ながら電話番号も異なる。類似のケースは[[新千歳空港]](トヨタレンタリース札幌/新札幌)でも見られるが、「札幌」の店舗は「新千歳空港すずらん店」、「新札幌」の店舗は「新千歳空港ポプラ店」として区別されている。</ref> ** Fレンタカー兵庫 神戸空港店 **: [[レンタカー]]用地。2系列3社に合計 0.3ha を開業時に処分。処分価格は定価の3割引。[[2012年]]にはFレンタカーの敷地が約 500m<sup>2</sup> 拡張された<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港島業務施設用地 買受事業者の決定 |publisher=神戸市 |date=2012-02-15 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2012/02/20120215171401.html |accessdate=2016-03-09}}</ref>。 * 鉄軌道車庫用地 ** 神戸新交通 車両基地(予定) **: 空港開業以来、車両基地新設は白紙となっていたが、2016年の車両増備により、現在の[[中埠頭車両基地]]の最大収容両数に達してしまい今後の増備が不可能なため、近年再び構想が浮上している。元々の新設予定では8両編成に対応した車両基地の建設が計画されていた。 [[ファイル:ラヴィマーナ神戸 RAVIMANA KOBE - panoramio.jpg|thumb|ラヴィマーナ神戸 vistaLATIR]] * 結婚式場 *: 名古屋の結婚式場業者(ワールドブライダル)にラグーン沿いの1.17ha。[[2008年]]11月から「ラヴィマーナ神戸」の名称で開業。0.3haを最初に購入し、残りは10年の期限で賃借。賃借期間中に購入を義務づけ。売却単価はいずれも定価を予定。 * 水素サプライチェーン実証事業施設 *: 空港島北東部に位置する。[[川崎重工業]]、[[岩谷産業]]、[[電源開発]]が行う水素サプライチェーン構築実証事業によるもの<ref>{{Cite press release |和書 |title=水素サプライチェーン構築実証事業の推進 |publisher=神戸市 |date=2016-01-26 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2016/01/20160126190501.html |accessdate=2016-03-06}}</ref>。[[すいそ ふろんてぃあ|液化水素運搬船]]の[[係留施設]]やアンローディングアーム、液化水素貯蔵タンク(容量150トン)等を備える<ref name="khysc">神戸市 「[https://www.city.kobe.lg.jp/a36643/shise/kekaku/kikakuchosekyoku/energy/hydrogen/20190106040301.html?msclkid=62ff69d8bdf311ecaf222c28c1ebfa04 水素スマートシティ神戸構想]」(2022年2月23日閲覧)</ref><ref name="nncs">西宮信幸 『[カーボンニュートラル]水素社会入門』 河出書房新社、2021年、ISBN 978-4-309-50428-5、pp.147-149・pp.161-163</ref>。液化水素の[[オーストラリア]]での製造・日本への海上輸送・荷役・貯蔵の実証事業が行われている<ref name="khysc" /><ref name="nncs" />。 === 飛行場施設 === [[ファイル:Kobe Airport05s5s3200.jpg|thumb|エプロン]] ; 滑走路 : 全長 2,500m × 幅 60m :舗装厚は約87 cm [[ファイル:Marine Air - 神戸空港 ― 管制塔 - panoramio.jpg|thumb|管制塔]] ; [[管制塔]](国土交通省大阪航空局神戸空港出張所) : 旅客ターミナルビルに隣接した西側に位置する。高さは約33 m 滑走路長は2500mであるが、[[燃料]]の搭載量が少なく離陸重量が軽い国内線に限れば、貨客が満載された大型機の[[ボーイング747-400]]Dや[[ボーイング777]]でも離着陸可能である。ボーイング777は定期便や代替地着陸などで離着陸の実績があ<!-- り、まれにではあるが現在でも繁忙期などで定期便の運用があ -->る。なお、大型機で米国西海岸や欧州などの長距離国際線を運航するには、燃料搭載量が増えるなどの理由から3000m以上の滑走路長が必要となる。 駐機場は、1番から10番までの10スポットある。このうち、3番から6番は開港時より固定搭乗橋を備えていたが、7番にも増設され[[2013年]][[6月1日]]より共用開始されている<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港ターミナルビルコンコース等増築工事について |publisher=神戸市 |date=2013-05-18 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2012/05/20120518172501.html |accessdate=2016-03-09}}</ref><ref name="Boarding7">{{Cite press release |和書 |title=神戸空港ターミナル 7番搭乗口搭乗橋・コンコース等供用開始について |publisher=神戸市 |date=2014-05-24 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2013/05/20130524172502.html |accessdate=2016-03-09}}</ref>。PBB([[ボーディング・ブリッジ|パッセンジャー・ボーディング・ブリッジ]])は6本(5番搭乗口にはPBBが2本あるため)である。3番搭乗口には開港当初はオープンスポット搭乗階段のみで、PBBは供用開始されていなかったが、開港前の[[2005年]]12月より急遽増設が決定し、開港後の[[2006年]][[7月1日]]にPBBの供用が開始された<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港旅客ターミナルビル 4 本目の固定搭乗橋の供用開始について |publisher=神戸空港ターミナル |date=2006-06-27 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/img/180627koteikyou.pdf |format=PDF |accessdate=2016-03-09}}</ref>。また、2030年度をめどにスポット数を現在の10から21に増設する計画が神戸市側から出されている。 === 空港ターミナルビル === [[ファイル:Kobe Airport Terminal 20190804.jpg|thumb|ターミナルビル2階出発ロビー]] * 構造・規模 - 鉄骨造り 3階建て(一部4階建て)、東西約135 m、南北約55 m * 延床面積 - 15,200m<sup>2</sup>(うち商業施設床面積1,888m<sup>2</sup>) * 管理・運営 - 神戸空港ターミナル株式会社 * テナント数 - 27(2006年2月16日現在) * 開館時間 - 6:00から23:00 * フロア構成<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kairport.co.jp/terminal |title=館内ご案内 |access-date=2022-8-2 |publisher=神戸空港}}</ref> ** 屋上階、4F - 展望デッキ、スカイラウンジ、レストラン ** 3F - レストラン街、スカイコート ** 2F(出発階) - 搭乗口、出発ロビー、チェックインカウンター、[[空港ラウンジ|カードラウンジ]]「ラウンジ神戸」<!--2009年4月1日より2F出発階の4番搭乗口前に開設。定期契約が満了した神戸スイーツコーナー跡をリニューアル-->。 ** 1F(到着階) - 到着ロビー、手荷物受取所、総合案内所 <gallery> ファイル:Kobe Airport Station03s5s3200.jpg|隣接する神戸空港駅ビル ファイル:Kobe Airport Gate.jpg|空港1Fターミナルビル入口 ファイル:Kobe Airport 02.jpg|空港1Fターミナルビル入口(民営化前) ファイル:Kobe Airport00n4272.jpg|2F出発ロビー ファイル:Kobe Airport 11.jpg|スカイコートから眺める出発ロビー ファイル:Kobe Airport02n4272.jpg|2F搭乗口 ファイル:Kobe Airport 10.jpg|2F4番搭乗口 ファイル:Lounge Kobe Kobe Airport01s3750.jpg|2Fラウンジ神戸 ファイル:KobeAirportObservationDeck.jpg|RF展望デッキ ファイル:JAL Express Boeing 737-4K5.jpg|RF展望デッキから飛行機を見る </gallery> === 駐車場 === 旅客ターミナルビル北側に1,250台分あり、30分以内無料、1時間150円、24時間最大1,500円である(以降1時間150円、24時間最大1,000円。ただし、航空機利用者<ref group="注">保安検査後の搭乗待合室内または到着手荷物受取所内で割引処理を行うことで、航空機利用者を区別する。</ref>は最初の24時間無料)。この駐車場は空港駐車場では日本で初めてIBA(登録した[[ETC]]車載器によるゲート通過、決済)に対応し、空港内の2ヶ所(手荷物受取所出口・2階搭乗待合室内)にIBAカード用の割引認証機が設置されていたが、2015年7月末でサービスを終了している。なお、駐車場が満車となり収容台数が不足することが多く、東側に隣接する空地を臨時駐車場として開放している。島内にはこの駐車場とは別に神戸空港海上アクセスターミナル専用駐車場が設けられている(ベイシャトル利用者は何泊でも料金無料。こちらも臨時駐車場を設けている場合が多い)。 <gallery> ファイル:Kobe airport 01.jpg|駐車場 ファイル:Kobe airport 02.jpg|IBA対応駐車場ゲート<br><small>(現在は利用不可)</small> </gallery> === 給油施設 === 開港時、容量約500klのタンクが2基。JAL・ANA・[[三愛石油]]の共同出資による「神戸空港給油施設株式会社」が運営する。2006年度にさらに1基増設し、3基となった([[2006年]][[8月]]に着工、[[2007年]][[2月1日]]供用開始)。1日の給油量を約120klと想定し常時4日分の在庫を保有する見込みが、実際には2006年時点で給油量が想定の1.4 - 1.7倍となる1日170 - 200klで推移してフル稼働となっていたためタンクの増設を行った<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |date=2006-08-14 |url=https://www.city.kobe.lg.jp/life/access/airport/img/180814kyuuyu.pdf |title=神戸空港給油施設の増強について |publisher=神戸市みなと総局空港事業室 |accessdate=2013-10-16}}</ref>。 === 航空関連施設 === [[File:Skymark Airlines Kobe Airport Hangar.jpg|thumb|220px|スカイマーク格納庫]] * ヒラタ学園神戸エアセンター ** 学校法人ヒラタ学園(大阪府堺市)が約2haを分譲と賃貸で取得し、操縦士や整備士の育成、訓練飛行を行っている。 * [[エアバス・ヘリコプターズ]]・ジャパン(旧ユーロコプター)神戸空港事業所 ** [[2012年]][[4月]]に大阪国際空港から移転<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港島にてユーロコプタージャパン株式会社が操業開始 |publisher=神戸市 |date=2012-04-17 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2012/04/20120417172501.html |accessdate=2016-03-09}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=ユーロコプター、日本で更なる成長をめざし合併と神戸空港新格納庫への移転 |publisher=エアバス・ヘリコプターズ・ジャパン |date=2012-04-16 |url=http://www.airbushelicopters.co.jp/news/164/ |accessdate=2016-03-06}}</ref>。 ** 同施設は空港施設株式会社が建設し、エアバス・ヘリコプターズ側に貸し出す。地上3階建て延床面積8040平方メートル。神戸市は空港施設株式会社に対し、空港島の1万4380平方メートルのうち6850平方メートルを約9億2000万円で分譲し、残りは賃貸する。投資額は土地取得代も含め23億円<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港島 小型航空機機能用地 事業者の新規進出 |publisher=神戸市 |date=2011-01-28 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2011/01/20110128171401.html |accessdate=2016-03-06}}</ref>。 * スカイマーク格納庫<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸空港における格納庫の建設について |publisher=スカイマーク |date=2011-01-25 |url=http://www.skymark.co.jp/ja/company/press/press110125.html |accessdate=2016-03-06}}</ref> ** [[2011年]][[11月30日]]完成。 ** B737-800型機が1機格納できる規模の床面積を想定し、部品を保管することで緊急時に即応できるようにする。 == 運用 == [[ファイル:Kobe Airport 06.jpg|thumb|着陸は東向きが基本。奥に見えるのは[[明石海峡大橋]]]] === 管制 === 安全面においては、半径25 kmの範囲で存在する大阪国際・関西国際・神戸・[[八尾空港|八尾]]の4空港は[[標準到着経路|標準計器到着方式]]や[[標準計器出発方式]]、計器進入方式などの飛行経路が接近しているため、[[国土交通省]]関西空港事務所において[[進入・ターミナルレーダー管制]]を一元的に行うことで対応している。関西空港事務所のターミナル・レーダー管制室にサテライト空港席として神戸空港離着陸機を主に取り扱う管制卓がおかれて、関西国際空港便などと神戸空港便との間のスムーズな管制をはかっている。 神戸空港の運用は、着陸は東向き(滑走路09)、離陸は西向き(滑走路27)が基本であり、多少の追い風でもこの運用を行っている。[[計器飛行方式|IFR]]の飛行経路は[[明石海峡]]側(西側)に離着陸するように設定されており、滑走路27から離陸する場合はそのまま明石海峡上空の[[舞子 (神戸市)|MAIKO]]ポイントへと向かう。滑走路09から離陸する場合は、離陸後に約180度右旋回してMAIKOポイントへ向かう。 IFRでの着陸も明石海峡側から進入し、東風の場合にはそのまま滑走路09に降り、西風の強い場合は空港南側を通り六甲沖あたりで180度旋回する[[サークリングアプローチ]]で滑走路27に着陸する。南北方向の風の影響を受けやすく、同じく東西にそびえる[[六甲山]]を越えて吹く風により揺れることがある。また、近傍の大規模な空港に比べて規模は小さいため、ブロックアウトから離陸までの[[タクシング|タキシング]]時間が5分少々であるという利点がある。開港後の定時運航率は、全国平均並となっている。 着陸料は、座席数300席弱の航空機で1回14万円程で、大阪国際空港の半分、[[東京国際空港]](羽田空港)・[[中部国際空港]]の3分の2になっている。 === 発着数 === 開港当初、国土交通省は神戸空港の1日の発着数を安全上の理由から60便(30往復、年間約2万回)に抑えており、国際線は大阪国際空港と同じく、定期便はもとよりオウンユース以外のチャーター便も認めず、ビジネス機などに限定する扱いとした<ref>{{Cite press release |和書 |title=大阪国際空港及び神戸空港における国際線の取扱いについて |publisher=国土交通省航空局 |date=2005-11 |url=https://www.mlit.go.jp/pubcom/05/pubcom72/01.pdf |format=PDF |accessdate=2016-03-09}}</ref>。2019年には規制緩和が実施され、60便→80便/日へと緩和が行われた(規制緩和に向けた動きについては[[神戸空港#規制緩和|前述]])。なお、2020年3月29日より実際の就航数が80便の上限に達するため、さらなる規制緩和が求められており、2022年9月18日に行われた、関西3空港懇談会にて、2025年を目処に発着枠数を80便→120便/日(国内線)とされ、同年を目処に国際線のチャーター便、及び、30年を目処に国際定期便の運行の検討に入った。 === 航路との関係 === [[ファイル:151229 Kobe Port Japan01bs.jpg|thumb|神戸港の入口にある神戸空港]] 神戸空港は[[神戸港]]の入口にある[[海上空港]]であるために、空港設置時に[[船舶]]との干渉が懸念された。ただし、[[航空法]]の[[制限表面]]の規制は建物や錨泊船など固定物に対する規制であって、移動中の船舶に対する規制はない。 神戸空港の建設にあたっては、航空法の建築物に対する規制をそのまま船舶に援用し、想定する大きさの船の[[マスト]]の高さがこの規制にかからないよう航路設定等を行った。具体的には、空港に近い旧神戸第2航路を廃止、旧第1航路を拡幅の上で神戸西航路に変更、神戸第3航路(=現神戸中央航路)とは滑走路端から3000m程度離すなどである。 航路から滑走路までの海域では、進入表面にマストがかからないよう安全情報が提供され、船舶が留意して航行するようになっているが、上述の理由から特段の航行禁止は行われていない。航路を逸脱した船舶には注意喚起が行われるものの、制限表面を超えるマスト高の船舶が進入し、かつ航空機が危険であると判断する場合は、航空機が避けるものと整理・解釈されている<ref>{{Cite press release |和書 |title=神戸港長との意見交換会 議事概要 |publisher=神戸海上保安部 |date=2005-10-25 |url=http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/kobe/uminoanzenjyouhou/kouwan/ikenkoukankai/gijigaiyou.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090222235557/http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/kobe/uminoanzenjyouhou/kouwan/ikenkoukankai/gijigaiyou.htm |archivedate=2009-02-22}}</ref>。 しかし、進入表面などは余裕をもって設定されている。たとえばILS(3度)で進入する場合、滑走路端から3km離れた地点での航空機の高度は150mであるが、このときの進入表面は高さ60mであり、船舶が制限表面内に進入してきた場合ただちに危険な状態に陥るわけではない。 なお、神戸空港では上述のように航空法の固定物の制限(傾き2%)をそのまま船舶に適用して航路設定等を行ったが、神戸より条件の厳しい羽田空港のD滑走路では、移動物のICAO標準(傾き2.85%)に従うことで、航路が近接している状況での滑走路の新設を可能とした(神戸空港島と神戸中央航路の距離は約2700m、羽田D滑走路と東京第一航路は約1700m)。 == 就航路線 == 2019年5月に発着枠の規制緩和が合意された事により、現在の発着枠上限は80便(40往復)/日となっている。 [[スカイマーク]]が拠点空港としている他、規制緩和により新規就航した[[フジドリームエアラインズ]]も当空港を[[静岡空港]]、[[名古屋飛行場|名古屋(小牧)空港]]に次ぐ第3の拠点空港としている。 [[ファイル:Skymark 737 Kobe.jpg|thumb|right|神戸空港を飛び立つ[[スカイマーク]]の[[ボーイング737]]]] 航空会社名が2社以上の場合、最前('''太字''')の航空会社の機材・乗務員で運航する[[コードシェア便|共同運航(コードシェア)便]]。 {|class="wikitable sortable" style="font-size:90%;width:100%" |- !width="40%"|航空会社 !width="60%", class="unsortable"|就航地 |- |'''[[全日本空輸]] (ANA)'''<ref>[[ANAウイングス]]の機材・乗務員による運航含む。貨物取り扱いは行っていない。</ref> | [[東京国際空港|東京/羽田]]、[[新千歳空港|札幌/新千歳]] |- |style="white-space:nowrap"|'''[[スカイマーク]] (SKY)''' |style="white-space:nowrap"| '''(北海道)''' 札幌/新千歳<br>'''(東北)''' [[仙台空港|仙台]]<br>'''(関東)''' 東京/羽田、[[百里飛行場|茨城]]<br>'''(九州・沖縄)'''[[長崎空港|長崎]]、[[鹿児島空港|鹿児島]]、[[那覇空港|沖縄/那覇]]、[[下地島空港|宮古/下地島]] |- |'''[[エアドゥ]] (ADO)'''<br>''全日本空輸 (ANA)'' | 札幌/新千歳 |- |'''[[ソラシドエア]] (SNJ)'''<br>''全日本空輸 (ANA)'' | 沖縄/那覇 |- |'''[[フジドリームエアラインズ]] (FDA)'''<br>''日本航空 (JAL)'' | [[青森空港|青森]]、[[花巻空港|花巻]]、[[新潟空港|新潟]]、[[松本空港|松本]]、[[高知空港|高知]] |} かつての就航路線 * [[美保飛行場|米子空港]] 以下の路線は神戸空港便としては休廃止となったが、大阪国際空港または関西国際空港には就航している路線 * 大阪国際空港 ** [[旭川空港]](繁忙期臨時増便運航) ** [[成田国際空港]] ** [[出雲空港]] ** [[福岡空港]] ** [[熊本空港]] * 関西国際空港 ** 成田国際空港 ** 福岡空港 ** [[新石垣空港]] {| class="wikitable" style="white-space:nowrap" |+ (神戸空港発)2022年度就航路線別旅客数/順位 <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001616890.pdf |title=航空輸送統計年報の概要 令和 4 年度(2022 年度)分 |access-date=2023-09-26}}</ref> ! 行き先 !! 旅客数 !! 国内線順位 |- ! 東京国際空港 |約67万人|| 上位38位 |- ! 那覇空港 |約59万人|| 上位41位 |- !新千歳空港 |約52万人 |上位46位 |} == 空港へのアクセス == [[ファイル:KobeAirport sta north.jpg|thumb|神戸空港駅ビル]] 神戸空港は[[ポートアイランド]]の南沖に位置し、ポートアイランドとは[[神戸スカイブリッジ|神戸空港島連絡橋]](神戸スカイブリッジ、無料)でつながる。市街地[[三宮]]から約7km、約15分の位置にあり交通の利便性が良い。これまで大阪国際空港や関西国際空港を利用していた[[姫路市|姫路]]・[[加古川市|加古川]]・[[高砂市|高砂]]・[[明石市|明石]]・[[淡路市|淡路]]・[[鳴門市|鳴門]]・[[徳島市|徳島]]といった神戸以外の旅行客に対しても、その利便性の良さから利用が見込めるとする向きもある。 また、神戸スカイブリッジは鉄道と道路の併用橋であるほか、歩道が併設されているため、徒歩・[[自転車]]でのアクセスも可能である。 === 鉄道 === [[ファイル:KNT2000 2114p0809.jpg|thumb|ポートアイランド線(ポートライナー)]] 神戸空港開業に先駆けて[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]]が延伸され、[[三宮駅]]と神戸空港駅を18分で結んでいる。駅舎はターミナルビル2階と直結しており、改札口からそのまま出発ロビーへ入ることができる。三宮駅は[[JR神戸線]]、[[阪神本線]]、[[阪急神戸本線]]、[[神戸市営地下鉄西神・山手線]]、[[神戸市営地下鉄海岸線]]と接続しており、三宮駅から[[大阪駅]]には約20分、[[姫路駅]]には約40分、[[京都駅]]には約50分で向かうことができる。 * [[神戸新交通]][[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]](ポートライナー) ** '''[[神戸空港駅]]''' === 船舶 === [[ファイル:Kobe Airport Sea Access Terminal01s3.jpg|thumb|神戸-関空ベイ・シャトル乗り場]] 現在は神戸空港-関西国際空港間が運航されており、所要時間は約30分と他手段と比較して最も速い。両空港ともに連絡バスでターミナルビルと結ばれている。 * [[神戸空港海上アクセスターミナル]] ** 関西国際空港発着便 - [[神戸-関空ベイ・シャトル]]([[OMこうべ]]海上アクセス事業部が運航) === バス === ==== BRT ==== [[ファイル:Shinki-bus rensetu kairport.jpg|thumb|神戸空港に到着する連節バス]] 神戸市では新たな交通手段 ([[路面電車#LRT|LRT]]・[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]) の導入を神戸空港への交通利便性向上などを図るため検討している<ref name="nikkei170203">{{Cite news |title=三宮―神戸空港でBRT 神戸市、実証実験などに予算 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞 |date=2017-02-03 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO12470630S7A200C1LDA000/ |accessdate=2017-02-03}}</ref>。2017年7月には、[[社会実験]]の一環として三宮 - 神戸空港間で[[連節バス]]運行を実施し<ref name="kobe170704">{{Cite press release |和書 |title=連節バス運行の社会実験を実施します |publisher=神戸市 |date=2017-07-04 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/press/2017/07/20170704161301.html |accessdate=2017-07-14}}</ref>、BRT 導入の検討を行う。所要時間はポートライナーと同程度を想定し、料金は大人100円。 また、[[山陽新幹線]]とのアクセス強化のため、[[新神戸駅]] - 神戸空港間でも連節バスを使用する BRT を導入する方針であり、早ければ2020年度には運行開始される予定<ref>{{Cite news |title=連節バスと専用車線で最短15分、神戸空港-新幹線アクセス強化 3年後にもBRT導入方針 |newspaper=産経WEST |publisher=産経新聞 |date=2017-11-19 |url=https://www.sankei.com/article/20171119-65KF6F3RLFOVRHULQDOUN7DAOQ/ |accessdate=2017-11-28}}</ref>。導入の際には専用レーンを設け、優先信号制御を行う本格的な BRT となり、白紙となっていた[[阪神高速32号新神戸トンネル]]を[[神戸港港島トンネル]]まで直結延伸する計画も進められており、神戸市が2022年度から延伸事業に着手する<ref>{{Cite news|title=新神戸トンネル、ポーアイまで延伸へ 神戸市が事業着手 三宮周辺の渋滞解消、空港アクセス改善|newspaper=神戸新聞|date=2022-2-8|author=三島大一郎|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202202/0015047997.shtml|access-date=2022-8-2}}</ref>。導入までに数度社会実験を行いながら他路線も含めて検討が進められる。 ==== リムジンバス ==== [[リムジンバス]]は、兵庫県内以外にも徳島方面からの高速バスなどが運行している。 * '''[[山陽バス]](2020年11月25日より三宮~神戸空港・海上AT間運行廃止)''' ** 舞子高校線([[垂水区]]方面~三宮~神戸空港・海上AT、1往復のみ) *** 空港行の便は三宮→神戸空港→海上ATの順に停車し、空港発の便は神戸空港→海上AT→三宮の順に停車する。 * '''[[西日本ジェイアールバス]]・[[本四海峡バス]]・[[ジェイアール四国バス]]'''共同運行 ** [[阿波エクスプレス神戸号]]([[徳島駅]]・[[鳴門]]方面~三宮・新神戸~神戸空港、新神戸駅までの区間利用可能) * '''西日本ジェイアールバス・本四海峡バス'''共同運行 ** かけはし洲本温泉号([[洲本バスセンター]]・[[洲本温泉]]) ** かけはしニジゲンノモリ神戸号([[兵庫県立淡路島公園|淡路ハイウェイオアシス(ニジゲンノモリ)]]経由洲本バスセンター) * '''[[神姫バス]]''' ** 新神戸駅・三宮〜神戸空港 ** [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]〜神戸空港 * '''[[大阪バス]]''' ** [[大阪駅]]〜神戸空港 ==== 路線バス ==== * '''神姫バス''' ** [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]〜神戸空港 ** [[特急38系統]]([[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]・[[フラワータウン]]→新神戸・三宮→神戸空港、空港方面行きのみ) ** [[恵比須快速線]]([[三木市|三木]]・[[恵比須駅]]方面→三宮→神戸空港・海上AT、空港方面行きのみ) ** [[有馬温泉]]~新神戸駅~三宮駅前~神戸空港([[阪急バス]]と共同運行、神戸空港乗り入れは朝夕2往復のみ) ** [[神姫バス神戸営業所#シティー・ループ|シティー・ループ]](三宮・北野・ハーバーランド方面、朝は出発のみで、夜は到着のみ) 過去には、[[日本交通 (大阪府)|日本交通]]の神戸空港線(神戸空港 - 六甲アイランド - 大阪なんば([[大阪シティエアターミナル|OCAT]]))、2007年4月1日休止<ref>{{Cite web|和書|date=2007-02-28 |url=http://www.nihonkotsu.co.jp/information/kobe_air_limousine070331.htm |title=神戸空港線の運行休止について |publisher=日本交通 |accessdate=2016-03-09}}</ref>)、[[全但バス]]・阪神電鉄バス(現・[[阪神バス]])(2007年12月1日休止)、神姫バスの[[西脇急行線]](2009年9月30日休止)、神姫バス・[[淡路交通]]共同運行3路線(2010年4月1日休止)などが乗り入れしていた。 === 道路 === [[ファイル:131006 Kobe Biennale 2013 02bs9.jpg|thumb|ハーバーハイウェイ]] 都心・三宮からは、[[神戸大橋]]または神戸港港島トンネルを利用してポートアイランドを経由し、神戸スカイブリッジによりアクセスする。[[阪神高速5号湾岸線]]の延伸計画では、ポートアイランドを経由する予定であり、[[2016年]]に国の直轄事業として新規事業化、2026年度までに開通予定。タクシー利用者のために、[[2014年]][[7月1日]]より、定額運賃タクシーの運行も開始されている<ref>{{Cite web|和書|date=2014-06-30 |url=https://www.kairport.co.jp/information/taxi_charge |title=タクシー定額運賃運行を開始(神戸空港~神戸・阪神間) |publisher=神戸空港ターミナル |accessdate=2016-03-12}}</ref> ; [[阪神高速道路]] * [[阪神高速3号神戸線]] ** [[生田川出入口]](神戸港港島トンネル経由) ** [[京橋出入口 (兵庫県)|京橋出入口]](神戸大橋経由) * [[阪神高速5号湾岸線]] ** ポートアイランド東出入口(予定) ** ポートアイランド西出入口(予定) ; [[ハーバーハイウェイ]] * 新港ランプ == インシデント == [[2009年]]9月に個人所有の[[軽飛行機]]が[[管制官]]の許可を受けないまま滑走路に進入した上、そのまま離陸するという[[インシデント]]があったことが判明した。パイロットが許可を受けたと勘違いしたことが原因であると報道されている。[[国土交通省]]は問題の飛行機のパイロットを厳重注意としたが、「[[航空事故|事故]]の危険性が少なかった」との理由で、翌[[2010年]]7月に新聞報道されるまで公表していなかった<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100715-OYT1T00647.htm |title=「勘違い」自家用機、勝手に離陸…神戸空港 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2010-07-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100716220231/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100715-OYT1T00647.htm |archivedate=2010-07-16}}</ref>。 == 登場作品 == === 映画 === ; 『[[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]]』 : 開港前の当空港の[[滑走路]]や[[管制塔]]にて[[ロケーション撮影|ロケ]]が行われた。また、[[ウルトラマン|初代ウルトラマン]]の人間体・ハヤタが空港長を務めている設定だった。 ; 『[[海猿#映画4作目|BRAVE HEARTS 海猿]]』 : 誘導灯部分が登場。羽田空港の誘導灯として、海上保安庁の巡視船が近づく姿を撮影。 === 小説 === ; 『[[浜村渚の計算ノート]] 7さつめ 悪魔とポタージュスープ』 : 『黒い三角定規』のテロリストに追われる武藤たちが、楡小路ルイの手配で[[東京国際空港|羽田空港]]行きの便に乗り込む<ref group="注">搭乗ゲートが13番ゲートとなっているが、神戸空港に13番ゲートは実在しない。</ref>。 == その他 == === 被災地外広域搬送拠点 === 神戸空港は、首都圏に大規模な災害が発生した場合の「被災地外広域搬送拠点」の1つである。[[2006年]](平成18年)9月1日の政府主催総合防災訓練において、神戸空港から自衛隊機[[C-1 (輸送機)|C-1]]にて11医療チーム約55名の医療団が搭乗し、訓練会場である埼玉県[[入間基地]]で医療活動を行った後、広域搬送対象患者を収容のうえ、再びC-1輸送機で神戸空港に戻り指定病院へ搬送する訓練を行った。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|航空|[[画像:P Airplane violet.png|34px|Portal:航空]]}} * [[関西エアポート]] * [[関西三空港の経緯と現状]] * [[ポートアイランド]] * [[関西国際空港]] * [[大阪国際空港]] * [[関西三空港]] * [[スターフライヤー]] 設立当初は神戸空港への就航を狙っていた == 外部リンク == {{Commons|Category:Kobe Airport}} {{osm box|n|293562145}} * [https://www.kairport.co.jp/ 神戸空港公式サイト] * [https://www.kairport.co.jp/eng/index.html 神戸空港公式サイト]{{en icon}} * [http://www.kansai-airports.co.jp/company-profile/about-us/kobe/ 関西エアポート神戸株式会社] * {{Facebook|KobeAirport|神戸空港マリンエア}} * [https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000461.html 神戸空港] - 国土交通省 {{Airport-info|RJBE}} {{日本の空港}} {{神戸市中央区の地名}} {{Portal bar|アジア|日本|兵庫県|航空|交通}} {{デフォルトソート:こうへくうこう}} [[Category:ポートアイランド]] [[Category:近畿地方の空港]] [[Category:神戸市中央区の建築物]] [[Category:神戸市中央区の交通]] [[Category:兵庫県の島]] [[Category:大阪湾]] [[Category:日本の人工島]] [[Category:神戸市中央区の町名]] [[Category:2006年開業の施設]] [[Category:海上空港]]
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ダッキー
ダッキー (ducky) は、剛性の高いチューブで構成された細長いゴムボート。 市販のものは一人用、二人用が販売されている。 多くのものはダブルブレードパドルで漕ぐが、シングルブレードパドル用もある。 安定性が高い為、(場合によっては)難易度の高い川を走破しやすい。 海用のものはダッキーとは呼ばない。
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ダッキー (ducky) は、剛性の高いチューブで構成された細長いゴムボート。 市販のものは一人用、二人用が販売されている。 多くのものはダブルブレードパドルで漕ぐが、シングルブレードパドル用もある。 安定性が高い為、(場合によっては)難易度の高い川を走破しやすい。 海用のものはダッキーとは呼ばない。
{{Otheruseslist|ゴムボート|NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班の登場人物|NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班#登場人物|アヒル人形の'''ダッキー'''|ラバー・ダック|DASH村にて登場しているアヒル人形(ダッキー)|アヒル隊長}} {{出典の明記|date=2018年8月25日 (土) 14:09 (UTC)}} '''ダッキー''' (ducky) は、剛性の高いチューブで構成された細長い[[ゴムボート]]。 市販のものは一人用、二人用が販売されている。 多くのものは[[ダブルブレードパドル]]で漕ぐが、[[シングルブレードパドル]]用もある。 安定性が高い為、(場合によっては)難易度の高い川を走破しやすい。 海用のものはダッキーとは呼ばない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[パドルスポーツ]] *[[インフレータブル]] *[[カヌー]] {{Sports-stub}} {{DEFAULTSORT:たつきい}} [[Category:構造別の船]] [[Category:ウォータースポーツ]]
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パドル
パドル(英語: Paddle)とはカヌーなどの小型の舟で使用する櫂である。パドルを操ることを「パドリング」と言う。 水をとらえる部分は「ブレード」と呼ばれ、棒の部分は「ロッド」や「シャフト」などと呼ばれる。ブレードが片側だけのシングルブレードパドルと、ロッドの両側にブレードがついているダブルブレードパドルがある。 スポーツ用のものは競技ごとに異なる。スタンドアップパドルボード(SUP)では通常はシングルブレードパドルを使うが、潮流が速い海域や、向かい風が強くなったときにグリップをブレードに交換してダブルブレードパドルにすることができるトランスフォームブレードがある。 船にはユーラシア大陸北部の技術による北方船とエジプト起源のCarvel-builtが海洋の技術として広がった南方船の二つの系譜があり、北方船では推進に車櫂・シングルブレードパドル・ダブルブレードパドルが用いられたのに対し、南方船では推進に櫓(ろ)や櫂(かい)が使用された。 このうち北方船は大型化していったバイキング型と主に一人乗りの川舟から発達したシベリア型があり、シベリア型ではパドルを使用する際に水が船内に入らないように舳艫(じくろ)を尖らせた両頭式船形の形態をとっている。シベリア型では基本的に操船者は座位でシングルブレードパドルかダブルブレードパドルを使って船を推進する。この点で棹など通常は立位で操船に使う道具とは異なるが、ブリヤート人の丸木舟の現地調査では立位と座位の操船方法が統合的に残されていることから、最初から両端にブレードを付けたダブルブレードパドルができたのではなく、片方がブレードで片方を棹とする漕法が出現し、そこからダブルブレードパドルや各種のシングルブレードパドルに発達したとみられている。 シャフトの素材には、アルミニウム、カーボンファイバー、プラスチック、木製などがある。シャフトは硬いものほど力が伝わりやすく、軟らかいものほど体に負担が少ない。 ブレードの素材にはカーボンファイバーや合成樹脂がある。カーボンファイバーは軽いが割れやすく、合成樹脂は丈夫だが比較的重い。 パドルの重さを絶対重量、パドリング時に感じる重さをパドリング・ウェイトという。また、ダブルブレードパドルについては陸上で振った時に感じる重さをスウィング・ウェイトという。 ダブルブレードパドルについてはシャフトの延長上の視点からパドルを見た時に(図の(b)にあたる)、ブレードの角度がズレているものと、一致しているものがある。ズレは「フェザー角」と呼ばれている。10~90度まで様々な角度がある。フェザー角がついているのは、パドリング時に於いて空中に於けるブレードの風の抵抗を最小限に抑えるためである。左右のブレードの角度が横からみて完全に一致しているパドルもあり、これは、フェザー角なしということであり「アンフェザードパドル」と呼ばれている。パドルの扱い方のクセ、好み、使われる状況、体格などに応じて、様々な角度が選ばれている。 パドルはまたお尻叩きにも用いられ、「パドリング」はスパンキングの一種と見なされている。海軍で懲罰に用いられたのが最初と言われる。米国では伝統的に学校や家庭でのお仕置きに使用された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パドル(英語: Paddle)とはカヌーなどの小型の舟で使用する櫂である。パドルを操ることを「パドリング」と言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水をとらえる部分は「ブレード」と呼ばれ、棒の部分は「ロッド」や「シャフト」などと呼ばれる。ブレードが片側だけのシングルブレードパドルと、ロッドの両側にブレードがついているダブルブレードパドルがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スポーツ用のものは競技ごとに異なる。スタンドアップパドルボード(SUP)では通常はシングルブレードパドルを使うが、潮流が速い海域や、向かい風が強くなったときにグリップをブレードに交換してダブルブレードパドルにすることができるトランスフォームブレードがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "船にはユーラシア大陸北部の技術による北方船とエジプト起源のCarvel-builtが海洋の技術として広がった南方船の二つの系譜があり、北方船では推進に車櫂・シングルブレードパドル・ダブルブレードパドルが用いられたのに対し、南方船では推進に櫓(ろ)や櫂(かい)が使用された。", "title": "伝統船" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "このうち北方船は大型化していったバイキング型と主に一人乗りの川舟から発達したシベリア型があり、シベリア型ではパドルを使用する際に水が船内に入らないように舳艫(じくろ)を尖らせた両頭式船形の形態をとっている。シベリア型では基本的に操船者は座位でシングルブレードパドルかダブルブレードパドルを使って船を推進する。この点で棹など通常は立位で操船に使う道具とは異なるが、ブリヤート人の丸木舟の現地調査では立位と座位の操船方法が統合的に残されていることから、最初から両端にブレードを付けたダブルブレードパドルができたのではなく、片方がブレードで片方を棹とする漕法が出現し、そこからダブルブレードパドルや各種のシングルブレードパドルに発達したとみられている。", "title": "伝統船" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シャフトの素材には、アルミニウム、カーボンファイバー、プラスチック、木製などがある。シャフトは硬いものほど力が伝わりやすく、軟らかいものほど体に負担が少ない。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ブレードの素材にはカーボンファイバーや合成樹脂がある。カーボンファイバーは軽いが割れやすく、合成樹脂は丈夫だが比較的重い。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "パドルの重さを絶対重量、パドリング時に感じる重さをパドリング・ウェイトという。また、ダブルブレードパドルについては陸上で振った時に感じる重さをスウィング・ウェイトという。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ダブルブレードパドルについてはシャフトの延長上の視点からパドルを見た時に(図の(b)にあたる)、ブレードの角度がズレているものと、一致しているものがある。ズレは「フェザー角」と呼ばれている。10~90度まで様々な角度がある。フェザー角がついているのは、パドリング時に於いて空中に於けるブレードの風の抵抗を最小限に抑えるためである。左右のブレードの角度が横からみて完全に一致しているパドルもあり、これは、フェザー角なしということであり「アンフェザードパドル」と呼ばれている。パドルの扱い方のクセ、好み、使われる状況、体格などに応じて、様々な角度が選ばれている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パドルはまたお尻叩きにも用いられ、「パドリング」はスパンキングの一種と見なされている。海軍で懲罰に用いられたのが最初と言われる。米国では伝統的に学校や家庭でのお仕置きに使用された。", "title": "トリビア" } ]
パドルとはカヌーなどの小型の舟で使用する櫂である。パドルを操ることを「パドリング」と言う。 水をとらえる部分は「ブレード」と呼ばれ、棒の部分は「ロッド」や「シャフト」などと呼ばれる。ブレードが片側だけのシングルブレードパドルと、ロッドの両側にブレードがついているダブルブレードパドルがある。 スポーツ用のものは競技ごとに異なる。スタンドアップパドルボード(SUP)では通常はシングルブレードパドルを使うが、潮流が速い海域や、向かい風が強くなったときにグリップをブレードに交換してダブルブレードパドルにすることができるトランスフォームブレードがある。
{{Otheruses}} [[画像:Img385B 92年頃.JPG|thumb|220px|手に持っているものがパドル]] '''パドル'''({{lang-en|Paddle}})とは[[カヌー]]などの小型の舟で使用する[[櫂]]である。パドルを操ることを「パドリング」と言う。 水をとらえる部分は「ブレード」と呼ばれ、棒の部分は「ロッド」や「シャフト」などと呼ばれる。ブレードが片側だけのシングルブレードパドルと、ロッドの両側にブレードがついているダブルブレードパドルがある。 スポーツ用のものは競技ごとに異なる。[[スタンドアップパドルボード]](SUP)では通常はシングルブレードパドルを使うが、潮流が速い海域や、向かい風が強くなったときにグリップをブレードに交換してダブルブレードパドルにすることができるトランスフォームブレードがある<ref name="SUP" />。 == 伝統船 == 船には[[ユーラシア大陸]]北部の技術による北方船とエジプト起源のCarvel-builtが海洋の技術として広がった南方船の二つの系譜があり、北方船では推進に車櫂・シングルブレードパドル・ダブルブレードパドルが用いられたのに対し、南方船では推進に[[艪|櫓]](ろ)や[[櫂]](かい)が使用された<ref>{{Cite journal |和書|author=赤羽正春 |url=http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/sympo/report_02_01_11.pdf |title=身体活動の延長上にある北方船の技術 -アムール川のムウとオモロチカ- |journal= 国際シンポジウム報告書II ”モノ”語り -民具・物質文化からみる人類文化- |publisher=国際常民文化研究機構・神奈川大学日本常民文化研究所 |page=81}}</ref>。 このうち北方船は大型化していったバイキング型と主に一人乗りの川舟から発達したシベリア型があり、シベリア型ではパドルを使用する際に水が船内に入らないように舳艫(じくろ)を尖らせた両頭式船形の形態をとっている<ref name="akaba">{{Cite journal |和書|author=赤羽正春 |url=http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/nenpo/cil9hb00000008qh-att/cil9hb00000008un.pdf |title=シベリア型北方船の系譜 -ブリヤート人の事例から- |journal= 神奈川大学国際常民文化研究機構年報 3 |publisher=神奈川大学国際常民文化研究機構 |page=65-80}}</ref>。シベリア型では基本的に操船者は座位でシングルブレードパドルかダブルブレードパドルを使って船を推進する<ref name="akaba" />。この点で棹など通常は立位で操船に使う道具とは異なるが、[[ブリヤート人]]の丸木舟の現地調査では立位と座位の操船方法が統合的に残されていることから、最初から両端にブレードを付けたダブルブレードパドルができたのではなく、片方がブレードで片方を棹とする漕法が出現し、そこからダブルブレードパドルや各種のシングルブレードパドルに発達したとみられている<ref name="akaba" />。 == スポーツ == === 各部 === ; ブレード : 水をキャッチする部分<ref name="JSCA30">日本セーフティカヌーイング協会『JSCA検定会テキストブック2012』30頁</ref>。ブレードの表側をパワーフェイス、裏側をバックフェイスという<ref name="JSCA30" />。またブレードの縁(外縁)をエッヂ、先端をチップという<ref name="JSCA30" />。 : ダブルブレードパドルの形状にはシンメトリーとアシンメトリーがある<ref name="JSCA" />。シングルブレードパドルの形状にはラウンドやスクエア、ビーバーテイルなどがある<ref name="JSCA" />。SUP用のパドルはスクエア型やティアドロップ型などに分類される<ref name="SUP" />。 : また面の湾曲によってフラット、カーブド、カップ(ウイング、スプーン)などの種類がある<ref name="JSCA" />。SUP用のパドルなどで凹面をつけたものはコンケーブという<ref name="SUP" />。 ; シャフト : ダブルブレードパドルではブレードとブレードの間、シングルブレードパドルではブレードとグリップの間をつなぐ棒状の部分<ref name="JSCA30" />。 : シングルブレードパドルでは成型により一体型(ワンピースタイプ)と分割型(ジョイント型、アジャスタブルタイプ)があり、後者は分割できる数によってツーピースタイプ、スリーピースタイプ、フォーピースタイプなどがある<ref name="JSCA" /><ref name="SUP" />。 === 素材 === シャフトの素材には、[[アルミニウム]]、[[炭素繊維|カーボンファイバー]]、プラスチック、木製などがある<ref name="SUP">漕遊編集部『漕遊大全 The Complete Sup Paddler '22』32-33頁</ref>。シャフトは硬いものほど力が伝わりやすく、軟らかいものほど体に負担が少ない<ref name="JSCA" />。 ブレードの素材にはカーボンファイバーや[[合成樹脂]]がある<ref name="SUP" />。カーボンファイバーは軽いが割れやすく、合成樹脂は丈夫だが比較的重い<ref name="SUP" />。 === 特性 === ==== 重量 ==== パドルの重さを絶対重量、パドリング時に感じる重さをパドリング・ウェイトという<ref name="JSCA">日本セーフティカヌーイング協会『JSCA検定会テキストブック2012』31-34頁</ref>。また、ダブルブレードパドルについては陸上で振った時に感じる重さをスウィング・ウェイトという<ref name="JSCA" />。 ==== フェザー角 ==== [[Image:PaddleForKayakTopAndAxisView.svg|thumb|450px|[[カヤック]]のパドル (a)平面図、(b)軸方向から見た図]] ダブルブレードパドルについてはシャフトの延長上の視点からパドルを見た時に(図の(b)にあたる)、ブレードの角度がズレているものと、一致しているものがある。ズレは「フェザー角」と呼ばれている。10~90度まで様々な角度がある<ref name="JSCA" />。フェザー角がついているのは、パドリング時に於いて空中に於けるブレードの風の抵抗を最小限に抑えるためである。左右のブレードの角度が横からみて完全に一致しているパドルもあり、これは、フェザー角なしということであり「アンフェザードパドル」と呼ばれている。パドルの扱い方のクセ、好み、使われる状況、体格などに応じて、様々な角度が選ばれている。 ==トリビア== {{性的|section=1}} パドルはまた[[尻叩き|お尻叩き]]にも用いられ、「[[パドリング (BDSM)|パドリング]]」は[[スパンキング]]の一種と見なされている。[[海軍]]で懲罰に用いられたのが最初と言われる。[[アメリカ合衆国|米国]]では伝統的に学校や家庭でのお仕置きに使用された。 == 出典 == {{Reflist}} {{Sports-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はとる}} [[Category:カヌー]]
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100
100(百、陌、佰、ひゃく、もも)は、自然数、また整数において、99の次で101の前の数である。 漢字の「百」は、単に100を意味する以外に、非常に多いことも表す。「陌」と「佰」は「百」の異体字であり、大字である。日本語では両方が通用し、中国語では「佰」だけが通用する。とは言え、現在ではほとんど用いない。 日本語の「百」は、訓読みでは、100倍を意味する語尾を「お」(歴史的仮名遣では『ほ』)と読む(例:五百〈いお〉、八百〈やお〉)。また、大和言葉では、数としての100を「もも」といい、単位としての100を「お」(歴史的仮名遣では『ほ』)という(例:五百〈いお〉= 5 × 100 、八百〈やお〉= 8 × 100 )。 英語では "hundred(日本語音写例:ハンドゥレド、慣習音写形:ハンドレッド)"" および "one hundred(日本語音写例:ワン ハンドゥレド、慣習音写形:ワンハンドレッド)" と表記され、序数詞では "hundredth(日本語音写例:ハンドゥレッドゥス)"、"100th"、"one-hundredth" と表す。 ラテン語では、"centum(日本語音写例:ケントゥム)" が英語の "a hundred" と同義、 "centēnus(ケンテーヌス)" が "one hundred" と同義である。 「百」は「多数」を意味することが多い(例:百科事典、百獣、百人力、百聞)。そのことから、一つの目標とされる場合もある(例:百人組手、百人抜き、百歳)。百以外で36が百と同じく「多数」として用いられる例もある(例:三十六景、三十六策、三十六峰)。 101 = 素数、双子素数(101,103)、四つ子素数(101,103,107,109)、5つの連続した素数の和(101 = 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、回文数 102 = 2 × 3 × 17、楔数、ハーシャッド数、4つの連続した素数の和(102 = 19 + 23 + 29 + 31) 103 = 素数、双子素数(101,103)、四つ子素数(101,103,107,109) 104 = 2 × 13、原始擬似完全数 105 = 3 × 5 × 7、三角数、楔数、1番目から5番目までの四角錐数の和(105 = 1 + 5 + 14 + 30 + 55) 106 = 2 × 53、半素数 107 = 素数、安全素数、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101, 103, 107, 109)、メルセンヌ素数、エマープ (107 ←→ 701) 108 = 2 × 3、アキレス数、テトラナッチ数、ハーシャッド数 109 = 素数、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101,103,107,109) 110 = 2 × 5 × 11、楔数、ハーシャッド数、矩形数 (110 = 10 × 11)、3つの連続した平方数の和 (110 = 5 + 6 + 7)、警察署の緊急通報用電話番号 111 = 3 × 37、半素数、完全トーシェント数、ハーシャッド数、レピュニット 112 = 2 × 7、七角数、ハーシャッド数、6つの連続した素数の和 (112 = 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29) 113 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、エマープ (113 ←→ 311) 114 = 2 × 3 × 19、楔数、ハーシャッド数、ノントーシェント 115 = 5 × 23、半素数 116 = 2 × 29、連続する3つの偶数の平方数の和 (116 = 4 + 6 + 8) 117 = 3 × 13、五角数、ハーシャッド数 118 = 2 × 59、半素数、ノントーシェント、海上の緊急通報用電話番号、現在発見されている最大の元素(オガネソン)の番号 119 = 7 × 17、半素数、消防署の緊急通報用電話番号 120 = 2 × 3 × 5、階乗数 (5! = 5 × 4 × 3 × 2 × 1 = 120)、高度合成数、三角数、六角数、三角錐数 (120 = 2 + 4 + 6 + 8)、ハーシャッド数 121 = 11、平方数、フリードマン数、半素数、回文数、スミス数、六芒星数 122 = 2 × 61、半素数、ノントーシェント 123 = 3 × 41、半素数、リュカ数 124 = 2 × 31、連続する8つの素数の和 (124 = 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、ノントーシェント 125 = 5、立方数、フリードマン数、ルース=アーロン・ペア (125, 126) 126 = 2 × 3 × 7、フリードマン数、ルース=アーロン・ペア (125, 126)、ハーシャッド数、五胞体数、4つの連続した平方数の和 (126 = 4 + 5 + 6 + 7) 127 = 素数、メルセンヌ素数、ナイスフリードマン数 128 = 2、フリードマン数 129 = 3 × 43、半素数、連続する10個の素数の和 (129 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29) 130 = 2 × 5 × 13、楔数 131 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、回文数、回文素数、連続する3つの素数の和 (131 = 41 + 43 + 47) 132 = 2 × 3 × 11、ハーシャッド数、矩形数 (132 = 11 × 12)、カタラン数 133 = 7 × 19、半素数、ハーシャッド数 134 = 2 × 67、半素数 135 = 3 × 5、ハーシャッド数 136 = 2 × 17、三角数 137 = 素数、双子素数 (137, 139) 138 = 2 × 3 × 23、楔数、連続する4つの素数の和 (138 = 29 + 31 + 37 + 41) 139 = 素数、双子素数 (137, 139) 140 = 2 × 5 × 7、調和数、四角錐数 (140 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7)、ハーシャッド数 141 = 3 × 47、半素数、回文数 142 = 2 × 71、半素数 143 = 11 × 13、半素数、3つの連続する素数の和 (143 = 43 + 47 + 53)、7つの連続する素数の和 (143 = 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) 144 = 2 × 3、平方数 (144 = 12)、フィボナッチ数、ハーシャッド数、高度トーシェント数 145 = 5 × 29、半素数、五角数 146 = 2 × 73、半素数 147 = 3 × 7 148 = 2 × 37、七角数 149 = 素数、双子素数(149,151)、エマープ (149 ←→ 941)、トリボナッチ数、3つの連続した平方数の和 (149 = 6 + 7 + 8) 150 = 2 × 3 × 5、ハーシャッド数 151 = 素数、双子素数(149,151)、オイラー素数、回文数、回文素数 152 = 2 × 19、ハーシャッド数 153 = 3 × 17、ハーシャッド数、三角数、六角数、フリードマン数、ナルシシスト数 154 = 2 × 7 × 11、楔数 155 = 5 × 31、半素数、連続する11個の素数の和 (155 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) 156 = 2 × 3 × 13、矩形数(156 = 12 × 13)、ハーシャッド数、連続する12個の偶数の和(156 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20 + 22 + 24) 157 = 素数 158 = 2 × 79、半素数 159 = 3 × 53、半素数 160 = 2 × 5、連続する11個の素数の和(160 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) 161 = 7 × 23、半素数、回文数 162 = 2 × 3、ハーシャッド数 163 = 素数 164 = 2 × 41 165 = 3 × 5 × 11、三角錐数(165 = 1 + 3 + 5 + 7 + 9)、楔数 166 = 2 × 83、半素数、スミス数 167 = 素数、安全素数 168 = 2 × 3 × 7 169 = 13、平方数、半素数、ペル数 170 = 2 × 5 × 17、楔数 171 = 3 × 19、ハーシャッド数、三角数、回文数 172 = 2 × 43 173 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、連続する3つの素数の和(173 = 53+59+61) 174 = 2 × 3 × 29、楔数、4つの連続した平方数の和(174 = 5 + 6 + 7 + 8) 175 = 5 × 7 176 = 2 × 11、五角数 177 = 3 × 59、半素数 178 = 2 × 89、半素数 179 = 素数、双子素数(179, 181)、ソフィー・ジェルマン素数、安全素数、エマープ(179 ←→ 971)、数字を並べ替えた197、719も素数 180 = 2 × 3 × 5、高度合成数、ハーシャッド数、6つの連続する素数の和(180 = 19 + 23 + 29 + 31 + 37 + 41) 181 = 素数、双子素数 (179, 181)、回文数、回文素数、六芒星数 182 = 2 × 7 × 13、矩形数 (182 = 13 × 14)、連続する13個の偶数の和 (182 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20 + 22 + 24 + 26)、楔数 183 = 3 × 61、半素数、完全トーシェント数 184 = 2 × 23 185 = 5 × 37、半素数 186 = 2 × 3 × 31、楔数 187 = 11 × 17、半素数 188 = 2 × 47 189 = 3 × 7、七角数 190 = 2 × 5 × 19、三角数、六角数、楔数、ハーシャッド数 191 = 素数、双子素数(191,193)、四つ子素数(191,193,197,199)、ソフィー・ジェルマン素数、回文数、回文素数 192 = 2 × 3、ハーシャッド数、3つの連続した偶数の積(192 = 4 × 6 × 8) 193 = 素数、双子素数(191,193)、四つ子素数(191,193,197,199) 194 = 2 × 97、半素数、3つの連続した平方数の和(194 = 7 + 8 + 9) 195 = 3 × 5 × 13、楔数、ハーシャッド数、3つの連続した素数の平方数の和(195 = 5 + 7 + 11) 196 = 2 × 7、平方数(196 = 14) 197 = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、オイラー素数、連続する12個の素数の和(197 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31 + 37) 198 = 2 × 3 × 11、ハーシャッド数 199 = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、エマープ(199 ←→ 991)、リュカ数
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "100(百、陌、佰、ひゃく、もも)は、自然数、また整数において、99の次で101の前の数である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "漢字の「百」は、単に100を意味する以外に、非常に多いことも表す。「陌」と「佰」は「百」の異体字であり、大字である。日本語では両方が通用し、中国語では「佰」だけが通用する。とは言え、現在ではほとんど用いない。", "title": "語" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語の「百」は、訓読みでは、100倍を意味する語尾を「お」(歴史的仮名遣では『ほ』)と読む(例:五百〈いお〉、八百〈やお〉)。また、大和言葉では、数としての100を「もも」といい、単位としての100を「お」(歴史的仮名遣では『ほ』)という(例:五百〈いお〉= 5 × 100 、八百〈やお〉= 8 × 100 )。", "title": "語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "英語では \"hundred(日本語音写例:ハンドゥレド、慣習音写形:ハンドレッド)\"\" および \"one hundred(日本語音写例:ワン ハンドゥレド、慣習音写形:ワンハンドレッド)\" と表記され、序数詞では \"hundredth(日本語音写例:ハンドゥレッドゥス)\"、\"100th\"、\"one-hundredth\" と表す。", "title": "語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ラテン語では、\"centum(日本語音写例:ケントゥム)\" が英語の \"a hundred\" と同義、 \"centēnus(ケンテーヌス)\" が \"one hundred\" と同義である。", "title": "語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "", "title": "その他 100 に関連すること" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「百」は「多数」を意味することが多い(例:百科事典、百獣、百人力、百聞)。そのことから、一つの目標とされる場合もある(例:百人組手、百人抜き、百歳)。百以外で36が百と同じく「多数」として用いられる例もある(例:三十六景、三十六策、三十六峰)。", "title": "100を形容詞とするもの" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "101 = 素数、双子素数(101,103)、四つ子素数(101,103,107,109)、5つの連続した素数の和(101 = 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、回文数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "102 = 2 × 3 × 17、楔数、ハーシャッド数、4つの連続した素数の和(102 = 19 + 23 + 29 + 31)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "103 = 素数、双子素数(101,103)、四つ子素数(101,103,107,109)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "104 = 2 × 13、原始擬似完全数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "105 = 3 × 5 × 7、三角数、楔数、1番目から5番目までの四角錐数の和(105 = 1 + 5 + 14 + 30 + 55)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "106 = 2 × 53、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "107 = 素数、安全素数、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101, 103, 107, 109)、メルセンヌ素数、エマープ (107 ←→ 701)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "108 = 2 × 3、アキレス数、テトラナッチ数、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "109 = 素数、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101,103,107,109)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "110 = 2 × 5 × 11、楔数、ハーシャッド数、矩形数 (110 = 10 × 11)、3つの連続した平方数の和 (110 = 5 + 6 + 7)、警察署の緊急通報用電話番号", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "111 = 3 × 37、半素数、完全トーシェント数、ハーシャッド数、レピュニット", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "112 = 2 × 7、七角数、ハーシャッド数、6つの連続した素数の和 (112 = 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "113 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、エマープ (113 ←→ 311)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "114 = 2 × 3 × 19、楔数、ハーシャッド数、ノントーシェント", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "115 = 5 × 23、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "116 = 2 × 29、連続する3つの偶数の平方数の和 (116 = 4 + 6 + 8)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "117 = 3 × 13、五角数、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "118 = 2 × 59、半素数、ノントーシェント、海上の緊急通報用電話番号、現在発見されている最大の元素(オガネソン)の番号", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "119 = 7 × 17、半素数、消防署の緊急通報用電話番号", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "120 = 2 × 3 × 5、階乗数 (5! = 5 × 4 × 3 × 2 × 1 = 120)、高度合成数、三角数、六角数、三角錐数 (120 = 2 + 4 + 6 + 8)、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "121 = 11、平方数、フリードマン数、半素数、回文数、スミス数、六芒星数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "122 = 2 × 61、半素数、ノントーシェント", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "123 = 3 × 41、半素数、リュカ数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "124 = 2 × 31、連続する8つの素数の和 (124 = 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、ノントーシェント", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "125 = 5、立方数、フリードマン数、ルース=アーロン・ペア (125, 126)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "126 = 2 × 3 × 7、フリードマン数、ルース=アーロン・ペア (125, 126)、ハーシャッド数、五胞体数、4つの連続した平方数の和 (126 = 4 + 5 + 6 + 7)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "127 = 素数、メルセンヌ素数、ナイスフリードマン数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "128 = 2、フリードマン数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "129 = 3 × 43、半素数、連続する10個の素数の和 (129 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "130 = 2 × 5 × 13、楔数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "131 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、回文数、回文素数、連続する3つの素数の和 (131 = 41 + 43 + 47)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "132 = 2 × 3 × 11、ハーシャッド数、矩形数 (132 = 11 × 12)、カタラン数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "133 = 7 × 19、半素数、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "134 = 2 × 67、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "135 = 3 × 5、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "136 = 2 × 17、三角数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "137 = 素数、双子素数 (137, 139)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "138 = 2 × 3 × 23、楔数、連続する4つの素数の和 (138 = 29 + 31 + 37 + 41)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "139 = 素数、双子素数 (137, 139)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "140 = 2 × 5 × 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"149 = 素数、双子素数(149,151)、エマープ (149 ←→ 941)、トリボナッチ数、3つの連続した平方数の和 (149 = 6 + 7 + 8)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "150 = 2 × 3 × 5、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "151 = 素数、双子素数(149,151)、オイラー素数、回文数、回文素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "152 = 2 × 19、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "153 = 3 × 17、ハーシャッド数、三角数、六角数、フリードマン数、ナルシシスト数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "154 = 2 × 7 × 11、楔数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "155 = 5 × 31、半素数、連続する11個の素数の和 (155 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "156 = 2 × 3 × 13、矩形数(156 = 12 × 13)、ハーシャッド数、連続する12個の偶数の和(156 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20 + 22 + 24)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "157 = 素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "158 = 2 × 79、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "159 = 3 × 53、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "160 = 2 × 5、連続する11個の素数の和(160 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "161 = 7 × 23、半素数、回文数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "162 = 2 × 3、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "163 = 素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "164 = 2 × 41", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "165 = 3 × 5 × 11、三角錐数(165 = 1 + 3 + 5 + 7 + 9)、楔数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "166 = 2 × 83、半素数、スミス数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "167 = 素数、安全素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "168 = 2 × 3 × 7", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "169 = 13、平方数、半素数、ペル数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "170 = 2 × 5 × 17、楔数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "171 = 3 × 19、ハーシャッド数、三角数、回文数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "172 = 2 × 43", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "173 = 素数、オイラー素数、ソフィー・ジェルマン素数、連続する3つの素数の和(173 = 53+59+61)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "174 = 2 × 3 × 29、楔数、4つの連続した平方数の和(174 = 5 + 6 + 7 + 8)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "175 = 5 × 7", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "176 = 2 × 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23", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "185 = 5 × 37、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "186 = 2 × 3 × 31、楔数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "187 = 11 × 17、半素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "188 = 2 × 47", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "189 = 3 × 7、七角数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "190 = 2 × 5 × 19、三角数、六角数、楔数、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "191 = 素数、双子素数(191,193)、四つ子素数(191,193,197,199)、ソフィー・ジェルマン素数、回文数、回文素数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "192 = 2 × 3、ハーシャッド数、3つの連続した偶数の積(192 = 4 × 6 × 8)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "193 = 素数、双子素数(191,193)、四つ子素数(191,193,197,199)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "194 = 2 × 97、半素数、3つの連続した平方数の和(194 = 7 + 8 + 9)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "195 = 3 × 5 × 13、楔数、ハーシャッド数、3つの連続した素数の平方数の和(195 = 5 + 7 + 11)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "196 = 2 × 7、平方数(196 = 14)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "197 = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、オイラー素数、連続する12個の素数の和(197 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31 + 37)", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "198 = 2 × 3 × 11、ハーシャッド数", "title": "101 から 199 までの整数" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "199 = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、エマープ(199 ←→ 991)、リュカ数", "title": "101 から 199 までの整数" } ]
100(百、陌、佰、ひゃく、もも)は、自然数、また整数において、99の次で101の前の数である。
{{整数|Decomposition=2<sup>2</sup>×5<sup>2</sup>}} [[ファイル:百-order.gif|thumb|100px|「百」の筆順]] '''100'''('''百'''、'''陌'''、'''佰'''、ひゃく、もも)は、[[自然数]]、また[[整数]]において、[[99]]の次で[[101]]の前の数である。 == 語 == [[漢字]]の「'''[[Wikt:百|百]]'''」は、単に100を意味する以外に、非常に多いことも表す。「'''[[Wikt:陌|陌]]'''」と「'''[[Wikt:佰|佰]]'''」は「百」の[[異体字]]であり、[[大字 (数字)|大字]]である。[[日本語]]では両方が通用し、[[中国語]]では「{{Lang|zh|佰}}」だけが通用する。とは言え、現在ではほとんど用いない。 日本語の「百」は、[[訓読み]]では、100倍を意味する語尾を「お」([[歴史的仮名遣]]では『ほ』)と読む(例:五百〈いお〉、八百〈やお〉)。また、[[大和言葉]]では、数としての100を「もも」といい、[[単位]]としての100を「お」([[歴史的仮名遣]]では『ほ』)という(例:五百〈いお〉= 5 × 100 、八百〈やお〉= 8 × 100 )。 [[英語]]では "'''[[Wikt:en:hundred#English|hundred]]'''({{Small|日本語[[Wikt:音写|音写]]例:ハンドゥレド}}、{{Small|慣習音写形:}}ハンドレッド)"" および "'''[[Wikt:en:one hundred|one hundred]]'''({{Small|日本語音写例:ワン ハンドゥレド}}、{{Small|慣習音写形:}}ワンハンドレッド)" と表記され、[[序数詞]]では "[[Wikt:en:hundredth|hundredth]]({{Small|日本語音写例:ハンドゥレッドゥス}})"、"[[Wikt:en:100th|100th]]"、"[[Wikt:en:one-hundredth|one-hundredth]]" と表す。 [[ラテン語]]では、"'''[[Wikt:en:centum#Latin|centum]]'''({{Small|日本語音写例}}:ケントゥム)" が英語の "a hundred" と[[同義語|同義]]、 "'''[[Wikt:en:centenus|centēnus]]'''(ケンテーヌス)" が "one hundred" と同義である。 == 性質 == * 100 は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[5]], [[10]], [[20]], [[25]], [[50]] と 100 である。 **[[約数の和]]は[[217]]。 *** σ(100) = 217 > 100 × 2 より22番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[96]]、次は[[102]]。(ただし σ は[[約数関数]]) ***[[約数]]の和が奇数になる17番目の数である。1つ前は[[98]]、次は[[121]]。 **約数を9個もつ2番目の数である。1つ前は[[36]]、次は[[196]]。 * 100 = 10<sup>2</sup> ** 10番目の[[平方数]]である。1つ前は[[81]]、次は[[121]]。 *** 4番目の[[三角数]]10からなる平方数である。1つ前は[[36]]、次は[[225]]。({{OEIS|A000537}}) **** 100 = 1<sup>3</sup> + 2<sup>3</sup> + 3<sup>3</sup> + 4<sup>3</sup> *****''n'' = 3 のときの 1{{sup|''n''}} + 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[30]]、次は[[354]]。 *****4連続整数の[[立方和]]とみたとき[[自然数]]の範囲だと最小、整数の範囲だと1つ前は[[36]]、次は[[224]]。 *****100 = 0<sup>3</sup> + 1<sup>3</sup> + 2<sup>3</sup> + 3<sup>3</sup> + 4<sup>3</sup> ******5連続整数の[[立方和]]とみたとき負の数を除くと最小、整数の範囲だと1つ前は[[35]]、次は[[225]]。 *****4つの正の数の[[立方数]]の和で表せる20番目の数である。1つ前は[[93]]、次は[[107]]。({{OEIS|A003327}}) *****異なる4つの正の数の[[立方数]]の和1通りで表せる最小の数である。次は[[161]]。({{OEIS|A025408}}) ******異なる4つの正の数の[[立方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。次の2通りは1036。({{OEIS|A025421}}) *** 平方数が[[ハーシャッド数]]になる6番目の数である。1つ前は[[81]]、次は[[144]]。 ** ''n'' = 2 のときの 10{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[10]]、次は[[1000]]。 ** 100 = (2 × 5){{sup|2}} ***''n'' = 5 のときの (2''n''){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[64]]、次は[[144]]。({{OEIS|A016742}}) ***''n'' = 2 のときの (5''n''){{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[25]]、次は[[225]]。({{OEIS|A016850}}) ***''n'' = 2 のときの {2(2''n'' + 1)}{{sup|2}} の値とみたとき、1つ前は[[36]]、次は[[196]]。({{OEIS|A016826}}) ** 100 = 2{{sup|2}} × 5{{sup|2}} ***2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|2}} × ''q''{{sup|2}} の形で表せる2番目の数である。1つ前は[[36]]、次は[[196]]。({{OEIS|A085986}}) ** 100 = 10{{sup|2}} + 0{{sup|2}} *** 自身の数の並びを変えないで区切った2つの数の[[平方和]]が自身になる2番目の数である。1つ前は[[1]]、次は[[101]]。({{OEIS|A178530}}) **** ただし、1つ前の1は 1 = 0{{sup|2}} + 1{{sup|2}} という形で含めるため、先頭に0を含まない厳密な ''a''{{sup|2}} + ''b''{{sup|2}} の形としたとき最小の数である。 ** 100 = (10 + 0){{sup|2}} *** 自身の数の並びを変えないで区切った2つの数の和の[[自乗|平方]]が自身になる3番目の数である。1つ前は[[81]]、次は[[2025]]。({{OEIS|A102766}}) ** 100 = 1 × 2 × 5 × 10 *** 10 の約数の積で表せる数である。1つ前は[[27]]、次は[[11]]。({{OEIS|A007955}}) * 100 = 6<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる29番目の数である。1つ前は[[97]]、次は[[101]]。({{OEIS|A004431}}) ** 10<sup>2</sup> = 6<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> *** 平方数が異なる2つの平方数の和で表せる2番目の数である。1つ前は[[25]]、次は[[169]]。({{OEIS|A134422}}) **** ここに現れる 6,8,10 は[[ピタゴラス数]]である。 ** ''n'' = 2 のときの 6{{sup|''n''}} + 8{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[728]]。({{OEIS|A074620}}) * [[二十進法|二十進数]]の[[50]]は、[[十進法|十進数]]では100となる。 * [[素数#連続素数和|最初の9つの素数の和]]である。1つ前は[[77]]、次は[[129]]。<br>100 = [[2]] + [[3]] + [[5]] + [[7]] + [[11]] + [[13]] + [[17]] + [[19]] + [[23]] ** 9連続素数和とみたとき最小。次は[[127]]。 * 異なる2つの[[素数]]の和6通りで表せる4番目の数である。1つ前は[[72]]、次は[[106]]。({{OEIS|A066722}})<br>100 = [[3]] + [[97]] = [[11]] + [[89]] = [[17]] + [[83]] = [[29]] + [[71]] = [[41]] + [[59]] = [[47]] + [[53]] * 100 = 2<sup>6</sup> + 6<sup>2</sup> = 4<sup>3</sup> + 6<sup>2</sup> ** 100 = 2{{sup|6}} + 6{{sup|2}} *** ''n'' = 6 のときの 2{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[57]]、次は[[177]]。({{OEIS|A001580}}) *** ''n'' = 2 のときの 6{{sup|''n''}} + ''n''{{sup|6}} の値とみたとき1つ前は[[7]]、次は[[945]]。({{OEIS|A001594}}) * 33番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[90]]、次は[[102]]。 ** 1を基とする3番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[10]]、次は[[1000]]。 * 各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる23番目の数である。1つ前は[[90]]、次は[[122]]。({{OEIS|A175396}}) ** 各位の和と各位の平方和が両方とも平方数になる7番目の数である。1つ前は[[90]]、次は[[400]]。({{OEIS|A197125}}) * 各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる13番目の数である。1つ前は[[90]]、次は[[102]]。({{OEIS|A197039}}) * 100 = 5<sup>3</sup> &minus; 5<sup>2</sup> ** ''n'' = 5 のときの ''n''<sup>3</sup> &minus; ''n''<sup>2</sup> の値とみたとき1つ前は[[48]]、次は[[180]]。({{OEIS|A045991}}) * [[基数]]4の1つ目の[[自己記述数]]である。もう1つは[[136]]。 * {{sfrac|1|100}} = 0.01 ** [[逆数]]が[[有限小数]]になる14番目の数である。1つ前は[[80]]、次は[[125]]。({{OEIS|A003592}}) ** 整数の[[逆数]]の[[小数|有限小数]]のうち小数第2位が最後の桁になるのは他に {{sfrac|1|4}} = 0.25 , {{sfrac|1|20}} = 0.05 , {{sfrac|1|25}} = 0.04 , {{sfrac|1|50}} = 0.02 の4つ。 ** [[割合]]では、[[百分率]]では1[[%]]、[[千分率]]10[[‰]]。 * 1[[アール (単位)|a]] = 10m×10m = '''100'''m<sup>2</sup>(→[[面積の比較]]) ** 1[[ヘクタール|ha]] = '''100'''a = 100m×100m = 10,000m<sup>2</sup> * 次のような表示をもつ(<span style="text-decoration:underline;">下線部</span>は循環節)。 ** <math> 10 = \cfrac{100}{20 + \cfrac{100}{-20 + \cfrac{100}{20 + \cfrac{100}{-20 + \cfrac{100}{\ddots}}}}}</math>(<span style="text-decoration:underline;">20 ,&minus;20</span>。循環節の長さは2) ** <math> 100 = -100 + 20 \sqrt{-100 + 20 \sqrt{-100 + 20 \sqrt{-100 + 20 \sqrt{\ldots}}}}</math>(<span style="text-decoration:underline;">&minus;100, 20</span>。循環節の長さは2) {{Main2|[[連分数]]}} * ''n'' = 100 のとき ''n'' と ''n'' &minus; 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' &minus; 1 を並べた数が素数になる11番目の数である。1つ前は[[88]]、次は[[102]]。({{OEIS|A054211}}) * 次のような[[小町算]]の解答例をもつ。 ** 123 &minus; 45 &minus; 67 + 89 = 100 ** 12 + 3.4 + 5.6 + 7 + 8 × 9 = 100 ** 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 × 9 = 100 ** 1 × 2 × 3 &minus; 4 × 5 + 6 × 7 + 8 × 9 = 100 * 100 = √{{overline|10000}} * 100[[階乗|!]]は158桁の数である。 100! ≒ 9.33262154 × 10<sup>157</sup> == その他 100 に関連すること == * [[国際単位系|SI接頭辞]]では100[[倍]]は[[h]]([[ヘクト]])、1/100は[[c]]([[センチ]])である。 ** 一般に、100の[[接頭辞]]はcenti([[ラテン語|拉]])、hecto, hecato, hecatont([[ギリシア語|希]])。 ** 100倍をcentuple(センタプル)ともいう。 * [[原子番号]]100の[[元素]]は[[フェルミウム]] (Fm) である。 * [[日本の電話番号]] 100 は、オペレータ扱いの通話で、通話料金を案内するサービスである(100番通話)。 * 100年を1[[世紀]]という。 ** 「百年」を、英語では「centennial」、ラテン語では「centennium」という。また、[[英語]]の「centenary」は[[ラテン語]]の「centenarius」に由来し、本来は年に限らず「百個一組」「百個から成る」を意味する。[[ケントゥリア]]も参照のこと。 ** [[閏年]]の判定基準として100がある。 *** [[西暦]]が[[4]]で割り切れれば閏年であるが、100で割り切れても400で割り切れない年数(例:[[1700年]]、[[1800年]]ほか)は[[平年]]となる。 ** 西暦[[100年]] - [[1世紀]]最後の年 * '''[[パーセント|百分率]]''' - 全体を100として例える。 ** [[パーセント|百分率]]の習慣から、「完全」「最高値」「1倍」を意味することが多い。例:[[百点満点]]、百パーセント。 * [[セルシウス度|摂氏]]温度計は、[[水]]の[[融点]]を0度、[[沸点]]を100度としている(記号:°C)。 * 現在日本で発行されている[[硬貨]]のうち2番目に高額なものは[[百円硬貨|100円玉]]である。 * 累代の100 ** 第100代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ウァレンティヌス (ローマ教皇)|ウァレンティヌス]](在位:[[827年]][[9月1日]]~[[9月16日]])である。 ** 第100代[[天皇]]は、[[後小松天皇]](在位:[[1392年]] - [[1412年]])である。 ** [[日本]]の第100代[[内閣総理大臣]]は、[[岸田文雄]]([[2021年]] - 現任)である<ref name=NHK_20211004>{{Cite news |和書 |author= |date=2021-10-04 |title=第100代の首相に自民 岸田文雄氏 衆参本会議の指名選挙で選出 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211004/k10013290151000.html |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |newspaper=[[NHKニュース#|NHK NEWS WEB]] |accessdate=2021-10-04 }}</ref>。 * [[4月10日]] - [[1月1日]]からの数え日数がちょうど100日目である。[[2015年]]4月10日、[[めざましテレビ]]内放送中のアニメ「[[紙兎ロペ]]」にて、この日に関する話題が放送された。 * [[クルアーン]]における第100番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[進撃する馬 (クルアーン)|進撃する馬]]である。 * [[100系]] - 100を形式に持つ[[鉄道車両]]のリスト。 * 百を[[大和言葉|和語]]系[[数詞]]で「もも」と読む。ただし現代日本語では「もも」が数として用いられることはなく、「百恵(ももえ)」「百田(ももた、『ひゃくた』と読むこともある)」のように[[固有名詞]]などの中で痕跡的に現れるに過ぎない。 * 百日を和語系数詞で「ももか」と読む。生後百日目の宮参りを「ももかまいり(百日参り)」と呼ぶが、これ以外に現代日本語で「ももか」が使われることはほとんどない。 * 漢字の「百」は一と100を示す音から採られた白との合字「一+白→百」から産まれた。 * 「百々」と書いて「どど」「どうどう」と読むことがある。百々川(どどかわ)、[[百々目鬼]](どどめき)など。 * [[100メートル競走]]、[[100メートルハードル]]([[陸上競技]]種目)。100m[[自由形]]、100m[[平泳ぎ]]、100m[[バタフライ]]、100m[[背泳ぎ]]([[競泳]])。 * [[100円ショップ]] * [[100m道路]]([[都市計画]]) * [[100円橋]] * [[100円バス]] * [[続柄|百さん]] - 地方によっては[[続柄|曽祖母]]を指す。 * [[百人町]] - [[東京都]][[新宿区]]に所在する町。 * [[クイズ100人に聞きました]] - [[TBSテレビ|TBS]]のクイズ番組。1979年 - 1992年。 * 日本のプロ野球では[[北海道日本ハムファイターズ]]([[大社義規]]初代球団オーナー)の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となっている。[[横浜DeNAベイスターズ]]でも、「球団に対して貢献のある複数の著名人のための番号」として、1997年から2012年まで永久欠番に指定されていた。 * [[センタムシティ]] - 「センタム」はラテン語で100を意味する。 * [[ユーノス・100]] - かつて、[[マツダ]]が[[ユーノス]]ブランドで販売していた[[ハッチバック]]。 * [[大日本帝国陸軍]]において、[[皇紀]]2600年([[昭和]]15年、1940年)に制式化された兵器は一〇〇式と呼ばれる。(例[[一〇〇式司令部偵察機]]など。) * [[機動戦士Ζガンダム]]及び[[機動戦士ガンダムΖΖ]]に登場する[[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]系の[[モビルスーツ]]に'''[[百式 (ガンダムシリーズ)|百式]]'''というものが存在するが、これは型式番号が'''MSN-100'''(正式には'''MSN-00100'''と表記されるのが正しいとされる)であることに由来している。 * [[百識王|百識シリーズ]] - [[井ノ原快彦|イノッチ先生]]が、'''[[Hey! Say! JUMP]]'''や'''[[ジャニーズJr.]]'''の面々に様々なジャンルに関する知識を教えるという番組。[[フジテレビジョン|フジテレビ]] (CX) 系19局と大分放送(TBS系)にて放映中(うちフジテレビと[[仙台放送]]は同時ネット)。 * [[アウディ・100]] - [[ドイツ]](旧[[西ドイツ]])の[[アウディ]]社が生産した乗用車。 * [[トヨタ・センチュリー]] - [[豊田佐吉]]翁の生誕100年(=1世紀)を記念して命名された。 * [[1 vs. 100]] - [[ヨーロッパ]]、[[アメリカ合衆国]]、[[オーストラリア]]、[[大韓民国|韓国]]や[[香港]]など、世界各国で放送されている[[クイズ番組]]。 * [[インド・ヨーロッパ語族]]を[[ケントゥム語派]]と[[サテム語派]]に分ける場合に「百」という単語を用いる。[[ラテン語]]ではケントゥムで[[イラン]]の[[アヴェスター語]]ではサテム。 * [[漫画]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]『[[キン肉マン|キン肉マン キン肉星王位争奪編]]』で、[[キン肉マンマリポーサ]]率いる飛翔(マリポーサ)チームのメンバーにキング・ザ・100トンという超人がいる。 * 100 (one hundred) - 『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』内で、[[ナインティナイン]]([[岡村隆史]]、[[矢部浩之]])と[[中居正広]]([[SMAP]])の3人で結成されたグループ。 * [[R100]] - [[2013年]][[10月5日]]に公開された[[日本映画]]作品。 * [[特撮]]『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』 - 「パワーアニマル」と呼ばれる動物をモデルにした戦闘メカが100体登場する。(劇中及び映画では24体のみの登場であり、その他は名前のみが存在しているが、一部は玩具の発売や図案などが存在しているものもある。) * [[テレビアニメ]]『[[遊☆戯☆王ZEXAL]]』(及びそれを元にアレンジした[[遊☆戯☆王ZEXAL#漫画版|漫画版]]) - 「No.(ナンバーズ)」と呼ばれる100枚のカードをめぐる戦いを題材にしている(『ZEXAL II』では+αが加わった)。 {{Anchors|百を形容詞とするもの}} == 100を形容詞とするもの == 「百」は「多数」を意味することが多い(例:百科事典、百獣、百人力、百聞)。そのことから、一つの目標とされる場合もある(例:[[百人組手]]、百人抜き、百歳)。百以外で36が百と同じく「多数」として用いられる例もある(例:三十六景、三十六策、三十六峰)。 * {{Anchors|ムカデ}}[[ムカデ]] :: [[日本語]]名([[和名]])の最も一般的な漢字表記は、[[当て字]]の「百足」である。[[英語]]でも「100の脚」を意味する "[[Wikt:en:centipede|centipede]]" の名で呼ばれる。 :* 英語名の語源学的解説チャート[ [[英語|en]]: centipede < [[ラテン語|la]]: [[Wikt:en:centi-#Latin|centi-]](100の)+ [[Wikt:en:pede#Latin|pede]]([[Wikt:en:pes#Latin|pēs]]〈[[脚]]〉の[[複数]]形)] :* ただし、実際のムカデはどの種も脚は[[奇数]]対であるため{{Sfnp|Chipman|Arthur|Akam|2004}}、ちょうど100本(50対)の脚をもつムカデは存在しない。 :* なお、[[ヤスデ]]のほうは、英語で "[[Wikt:en:millipede|millipede]]"、すなわち「[[1000]]の脚」と呼ばれている。 * {{Anchors|百聞不如一見|百聞は一見に如かず}}{{Lang|zh|百聞不如一見}} / {{Lang|ja|[[百聞は一見に如かず]]}} ([[Wikt:百聞は一見に如かず|Wikt]]) <ref name="ZHscript_百聞不如一見">{{Cite web|和書 |title=百聞は一見に如かず |url=http://chugokugo-script.net/koji/hyakubun-ikken.html#top |publisher= |website=中国語スクリプト |accessdate=2022-09-09 }}</ref> :: ものごとの実際は、耳で聞くよりも目で見るほうが遙かによく理解できる、ということ{{Sfn|kb 百聞は一見に如かず}}。[[紀元前1世紀]]、[[前漢]]時代の[[中国]]で[[編纂]]された『[[漢書]]』「趙充国伝」に見える[[故事]]に由来する{{Sfn|kb 百聞は一見に如かず}}。[[羌]]族の反乱に対応する策を問われた老将・[[趙充国]]は、「報告を何度聞こうとも実際にその場に行って見るには及びません」と述べ、現場に駆け付けて直接指揮を執りたいと願い出た{{Sfn|kb 百聞は一見に如かず}}。 :* 百聞 - 何度も聞くこと。しばしば耳にすること。数多く聞くこと。「百聞不如一見」に由来する。{{Sfn|kb 百聞}} * {{Anchors|百姓}}[[百姓]] :: 古来の日本語であり、原義は「百の姓」、すなわち、「あらゆる[[姓]][[氏]]を有する[[公民]](国家の民、おおみたから)」を指す{{Sfn|kb-Nipp 百姓}}{{Sfn|kb小学国 百姓}}。[[古代]]においては、公民、すなわち、[[貴族]]や[[官僚]]でないが、[[部民制|部民]]や[[奴婢]]でもない、一般の人を指した{{Sfn|kb-Nipp 百姓}}{{Sfn|kb小学国 百姓}}。[[中世]]には「[[凡下]]を意味するようになった{{Sfn|kb-Nipp 百姓}}{{Sfn|kb小学国 百姓}}。凡下の多くが[[年貢]]の納入義務を負った[[農業]]従事者であったことから、次第にその意味が強くなっていく{{Sfn|kb-Nipp 百姓}}{{Sfn|kb小学国 百姓}}。[[江戸時代]]になると、年貢納入義務を負った[[漁民]]・[[職人]]・[[商人]]・[[農民]]などを指すようになったが、[[人口]]比で農民が大半を占めていたことから、「農民」を指すことが多くなった{{Sfn|kb-Nipp 百姓}}{{Sfn|kb小学国 百姓}}。 :* 百姓[[一揆]] :: ここでの「百姓」は、江戸時代における狭義の「百姓」、すなわち農業従事者のことで、「百姓一揆」は、[[近世]](特に江戸時代)の日本における[[領主]]に対する百姓の集団的反抗運動をいう{{Sfn|kb 百姓一揆}}。 * {{Anchors|百度参り}}[[百度参り]] / お百度参り :: 100回[[参拝]]することを意味する、古来日本に伝わる祈念の様式。最も古い記録は、[[鎌倉時代]]に成立した[[歴史書]]『[[吾妻鏡]]』に所収された[[文治]]5年(西暦[[1189年]])の記述である。 * {{Anchors|百人一首}}[[百人一首]] :: [[名数]]100による[[和歌]]の[[アンソロジー]](詞華集)であり、最も古い『小倉百人一首』は、鎌倉時代中期にあたる13世紀前半に成立したと推定されている。 * {{Anchors|百物語}}[[百物語]] :: 日本の伝統的な[[怪談]]会の様式の一つ。怪談を100話語り終えると本物の[[物の怪]]が現れるとされる。最も古い記録は、[[江戸時代]]前期の[[延宝]]5年([[1677年]])に刊行された怪談集『[[諸国百物語]]』である。 * {{Anchors|百面相}}[[百面相]] :: [[寄席]]演芸の一種{{Sfn|kb-Nipp 百面相}}。顔の表情と簡単な[[変装]]で、様々に[[人相]]を変えてみせる芸である{{Sfn|kb-Nipp 百面相}}。江戸時代中期の[[天明]]年間([[1781年]]-[[1789年]]間)の頃、[[吉原]]の[[幇間]]・目吉が[[アイマスク|目鬘({{Small|めかつら}})]]を使って顔を七通りに変える「七変目」「七ツ目」を演じ、[[座敷芸]]として広めたのが始まり{{Sfn|kb-Nipp 百面相}}。 * {{Anchors|百日咳}}[[百日咳]] :: [[1670年]]に[[ラテン語]]で「激しい[[咳]]」を意味する "{{Lang|la|Pertussis}}" と命名されたこの病気を表わす日本語名として、江戸時代中期の[[文政]]年間([[1818年]]-[[1830年]]間)に「100日にも及ぶ長きに亘って咳が止まない病い」との意図をもって[[造語]]された。 * {{Anchors|百科|百科事典}}百科 - 「種々の[[学科]]」「あらゆる[[科目]]」「様々な[[分野]]」の意。 ** [[百科事典]] :: 百科を紐解くための[[事典]]。日本では、[[西周]]が[[明治3年]]([[1870年]])に『[[百学連環]]』を国内初の百科事典として[[編纂]]している。なお、欧米語では百科事典({{Lang-en-short|[[Wikt:en:encyclopedia|encyclopedia]]}})を100の名数で表わすことはない。英語名は「全般的[[教育]]」を意味する[[新ラテン語]]{{Enlink|New latin}}に由来する語であり、[[古代ギリシア語]]で「芸術と科学のサークルにおける教育」を意味する "{{Lang|grc|ἐγκυκλοπαιδεία}}({{Small|[[ラテン文字化|ラテン翻字]]}}:{{Lang|und-Hant|enkuklopaideía}})" を[[語源]]としている。 * {{Anchors|百葉箱}}[[百葉箱]] :: 日本語「百葉箱」は、[[1886年]](明治19年)に制定公布された[[気象観測法]]で初めて用いられた。百葉箱が日本に持ち込まれたのは[[1874年]](明治7年)のことで、「よろいど箱(鎧戸箱)」と紹介されている。同年中に正式導入されて以降は、英語表現の "{{Lang|en|double louvre boarded box}}" を[[直訳]]した「二重百葉窓の箱」あるいは「板簾」の名が用いられていた。 * {{Anchors|百貨店}}[[百貨店]] :: 日本語「百貨店」の[[Wikt:初出|初出]]時期は未確認。この業態が日本に導入されたのは、[[株式会社]][[三越呉服店]]が[[1905年]](明治38年)[[元旦]]に全国の主要[[新聞]]紙上に全面広告を掲載した、のちに言う「デパートメントストア宣言」が、最初であるとするのが一般的である。 * {{Anchors|百選}}[[百選]]、100選、{{Lang|en|100 selections}} :: 数ある中から名数100で特別なものを選定する[[評価]]。[[1927年]](昭和2年)に選定された[[日本百景]]が<!--※最も?-->古い。日本では、「○○の[[名所]]百選」、[[名水百選]]、[[名湯百選]]、[[日本百名山]]、[[日本名城百選]]、[[都市景観100選]]、[[判例百選]]、[[ふるさとおにぎり百選]]、[[けん玉の技の一覧#けん玉の技百選]]等々、多様かつ数多くの百選が生み出されてきた(''cf.'' [[:Category:日本の百選]])。選定の対象は日本国内に留まらず、[[百選#世界の百選|世界の百選]]や各地域・各国の百選なども生み出されている。また、[[中国語圏]]でもこれに倣った{{Lang|zh|百選}}({{Small|[[簡体字]]}}:{{Lang|zh|百个}})が、日本[[観光]]を主旨としたものを中心に多数生み出されている。 * {{Anchors|百式}}[[百式]]、一〇〇式、100式 :: [[大日本帝国陸軍]]が[[1940年]](昭和15年)に採用した装備(兵器)に付けた型式が最初の例。 == 101 から 199 までの整数 == ===101から120=== ---- '''[[101]]''' = [[素数]]、[[双子素数]](101,103)、[[四つ子素数]](101,103,107,109)、5つの連続した素数の和(101 = 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、回文数 ---- '''[[102]]''' = 2 × 3 × 17、[[楔数]]、[[ハーシャッド数]]、4つの連続した素数の和(102 = 19 + 23 + 29 + 31) ---- '''[[103]]''' = 素数、双子素数(101,103)、四つ子素数(101,103,107,109) ---- '''[[104]]''' = 2<sup>3</sup> × 13、[[擬似完全数|原始擬似完全数]] ---- '''[[105]]''' = 3 × 5 × 7、[[三角数]]、楔数、1番目から5番目までの[[四角錐数]]の和(105 = 1 + 5 + 14 + 30 + 55) ---- '''[[106]]''' = 2 × 53、[[半素数]] ---- '''[[107]]''' = 素数、[[安全素数]]、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101, 103, 107, 109)、[[メルセンヌ素数]]、[[エマープ]] (107 ←→ [[701]]) ---- '''[[108]]''' = 2<sup>2</sup> × 3<sup>3</sup>、[[アキレス数]]、[[テトラナッチ数]]、ハーシャッド数 ---- '''[[109]]''' = 素数、双子素数 (107, 109)、四つ子素数 (101,103,107,109) ---- '''[[110]]''' = 2 × 5 × 11、楔数、ハーシャッド数、[[矩形数]] (110 = 10 × 11)、3つの連続した[[平方数]]の和 (110 = 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup>)、警察署の[[緊急通報用電話番号]] ---- '''[[111]]''' = 3 × 37、半素数、[[完全トーシェント数]]、ハーシャッド数、[[レピュニット]] ---- '''[[112]]''' = 2<sup>4</sup> × 7、[[七角数]]、ハーシャッド数、6つの連続した素数の和 (112 = 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29) ---- '''[[113]]''' = 素数、[[オイラー素数]]、[[ソフィー・ジェルマン素数]]、エマープ (113 ←→ [[311]]) ---- '''[[114]]''' = 2 × 3 × 19、楔数、ハーシャッド数、[[ノントーシェント]] ---- '''[[115]]''' = 5 × 23、半素数 ---- '''[[116]]''' = 2<sup>2</sup> × 29、連続する3つの[[偶数]]の平方数の和 (116 = 4<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup>) ---- '''[[117]]''' = 3<sup>2</sup> × 13、[[五角数]]、ハーシャッド数 ---- '''[[118]]''' = 2 × 59、半素数、ノントーシェント、海上の[[緊急通報用電話番号]]、現在発見されている最大の[[元素]]([[オガネソン]])の番号 ---- '''[[119]]''' = 7 × 17、半素数、消防署の[[緊急通報用電話番号]] ---- '''[[120]]''' = 2<sup>3</sup> × 3 × 5、[[階乗|階乗数]] (5! = 5 × 4 × 3 × 2 × 1 = 120)、[[高度合成数]]、三角数、[[六角数]]、[[三角錐数]] (120 = 2<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup>)、ハーシャッド数 ===121から140=== ---- '''[[121]]''' = 11<sup>2</sup>、[[平方数]]、[[フリードマン数]]、[[半素数]]、[[回文数]]、[[スミス数]]、[[六芒星数]] ---- '''[[122]]''' = 2 × 61、半素数、[[ノントーシェント]] ---- '''[[123]]''' = 3 × 41、半素数、[[リュカ数]] ---- '''[[124]]''' = 2<sup>2</sup> × 31、連続する8つの[[素数]]の和 (124 = 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29)、ノントーシェント ---- '''[[125]]''' = 5<sup>3</sup>、[[立方数]]、フリードマン数、[[ルース=アーロン・ペア]] (125, 126) ---- '''[[126]]''' = 2 × 3<sup>2</sup> × 7、フリードマン数、ルース=アーロン・ペア (125, 126)、[[ハーシャッド数]]、[[五胞体数]]、4つの連続した平方数の和 (126 = 4<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup>) ---- '''[[127]]''' = 素数、[[メルセンヌ素数]]、[[ナイスフリードマン数]] ---- '''[[128]]''' = 2<sup>7</sup>、フリードマン数 ---- '''[[129]]''' = 3 × 43、半素数、連続する10個の素数の和 (129 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29) ---- '''[[130]]''' = 2 × 5 × 13、[[楔数]] ---- '''[[131]]''' = 素数、[[オイラー素数]]、[[ソフィー・ジェルマン素数]]、回文数、[[回文素数]]、連続する3つの素数の和 (131 = 41 + 43 + 47) ---- '''[[132]]''' = 2<sup>2</sup> × 3 × 11、ハーシャッド数、[[矩形数]] (132 = 11 × 12)、[[カタラン数]] ---- '''[[133]]''' = 7 × 19、半素数、ハーシャッド数 ---- '''[[134]]''' = 2 × 67、半素数 ---- '''[[135]]''' = 3<sup>3</sup> × 5、ハーシャッド数 ---- '''[[136]]''' = 2<sup>3</sup> × 17、[[三角数]] ---- '''[[137]]''' = 素数、[[双子素数]] (137, 139) ---- '''[[138]]''' = 2 × 3 × 23、楔数、連続する4つの素数の和 (138 = 29 + 31 + 37 + 41) ---- '''[[139]]''' = 素数、双子素数 (137, 139) ---- '''[[140]]''' = 2<sup>2</sup> × 5 × 7、[[調和数]]、[[四角錐数]] (140 = 1<sup>2</sup> + 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 4<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup>)、ハーシャッド数 ===141から160=== ---- '''[[141]]''' = 3 × 47、[[半素数]]、[[回文数]] ---- '''[[142]]''' = 2 × 71、半素数 ---- '''[[143]]''' = 11 × 13、半素数、3つの連続する[[素数]]の和 (143 = 43 + 47 + 53)、7つの連続する素数の和 (143 = 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) ---- '''[[144]]''' = 2<sup>4</sup> × 3<sup>2</sup>、[[平方数]] (144 = 12<sup>2</sup>)、[[フィボナッチ数]]、[[ハーシャッド数]]、[[高度トーシェント数]] ---- '''[[145]]''' = 5 × 29、半素数、[[五角数]] ---- '''[[146]]''' = 2 × 73、半素数 ---- '''[[147]]''' = 3 × 7<sup>2</sup> ---- '''[[148]]''' = 2<sup>2</sup> × 37、[[七角数]] ---- '''[[149]]''' = 素数、[[双子素数]](149,151)、[[エマープ]] (149 ←→ 941)、[[トリボナッチ数]]、3つの連続した平方数の和 (149 = 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup>) ---- '''[[150]]''' = 2 × 3 × 5<sup>2</sup>、ハーシャッド数 ---- '''[[151]]''' = 素数、双子素数(149,151)、[[オイラー素数]]、回文数、[[回文素数]] ---- '''[[152]]''' = 2<sup>3</sup> × 19、ハーシャッド数 ---- '''[[153]]''' = 3<sup>2</sup> × 17、ハーシャッド数、[[三角数]]、[[六角数]]、[[フリードマン数]]、[[ナルシシスト数]] ---- '''[[154]]''' = 2 × 7 × 11、[[楔数]] ---- '''[[155]]''' = 5 × 31、半素数、連続する11個の素数の和 (155 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) ---- '''[[156]]''' = 2<sup>2</sup> × 3 × 13、[[矩形数]](156 = 12 × 13)、ハーシャッド数、連続する12個の偶数の和(156 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20 + 22 + 24) ---- '''[[157]]''' = 素数 ---- '''[[158]]''' = 2 × 79、半素数 ---- '''[[159]]''' = 3 × 53、半素数 ---- '''[[160]]''' = 2<sup>5</sup> × 5、連続する11個の素数の和(160 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31) ===161から180=== ---- '''[[161]]''' = 7 × 23、[[半素数]]、[[回文数]] ---- '''[[162]]''' = 2 × 3<sup>4</sup>、[[ハーシャッド数]] ---- '''[[163]]''' = [[素数]] ---- '''[[164]]''' = 2<sup>2</sup> × 41 ---- '''[[165]]''' = 3 × 5 × 11、[[三角錐数]](165 = 1<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup>)、[[楔数]] ---- '''[[166]]''' = 2 × 83、半素数、[[スミス数]] ---- '''[[167]]''' = 素数、[[安全素数]] ---- '''[[168]]''' = 2<sup>3</sup> × 3 × 7 ---- '''[[169]]''' = 13<sup>2</sup>、[[平方数]]、半素数、[[ペル数]] ---- '''[[170]]''' = 2 × 5 × 17、楔数 ---- '''[[171]]''' = 3<sup>2</sup> × 19、ハーシャッド数、[[三角数]]、回文数 ---- '''[[172]]''' = 2<sup>2</sup> × 43 ---- '''[[173]]''' = 素数、[[オイラー素数]]、[[ソフィー・ジェルマン素数]]、連続する3つの素数の和(173 = 53+59+61) ---- '''[[174]]''' = 2 × 3 × 29、楔数、4つの連続した平方数の和(174 = 5<sup>2</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup>) ---- '''[[175]]''' = 5<sup>2</sup> × 7 ---- '''[[176]]''' = 2<sup>4</sup> × 11、[[五角数]] ---- '''[[177]]''' = 3 × 59、半素数 ---- '''[[178]]''' = 2 × 89、半素数 ---- '''[[179]]''' = 素数、[[双子素数]](179, 181)、ソフィー・ジェルマン素数、安全素数、[[エマープ]](179 ←→ 971)、数字を並べ替えた[[197]]、[[719]]も素数 ---- '''[[180]]''' = 2<sup>2</sup> × 3<sup>2</sup> × 5、[[高度合成数]]、ハーシャッド数、6つの連続する素数の和(180 = 19 + 23 + 29 + 31 + 37 + 41) ===181から199=== ---- '''[[181]]''' = [[素数]]、[[双子素数]] (179, 181)、[[回文数]]、[[回文素数]]、[[六芒星数]] ---- '''[[182]]''' = 2 × 7 × 13、[[矩形数]] (182 = 13 × 14)、連続する13個の偶数の和 (182 = 2 + 4 + 6 + 8 + 10 + 12 + 14 + 16 + 18 + 20 + 22 + 24 + 26)、[[楔数]] ---- '''[[183]]''' = 3 × 61、[[半素数]]、[[完全トーシェント数]] ---- '''[[184]]''' = 2<sup>3</sup> × 23 ---- '''[[185]]''' = 5 × 37、半素数 ---- '''[[186]]''' = 2 × 3 × 31、楔数 ---- '''[[187]]''' = 11 × 17、半素数 ---- '''[[188]]''' = 2<sup>2</sup> × 47 ---- '''[[189]]''' = 3<sup>3</sup> × 7、[[七角数]] ---- '''[[190]]''' = 2 × 5 × 19、[[三角数]]、[[六角数]]、楔数、[[ハーシャッド数]] ---- '''[[191]]''' = 素数、双子素数(191,193)、[[四つ子素数]](191,193,197,199)、[[ソフィー・ジェルマン素数]]、回文数、回文素数 ---- '''[[192]]''' = 2<sup>6</sup> × 3、ハーシャッド数、3つの連続した偶数の積(192 = 4 × 6 × 8) ---- '''[[193]]''' = 素数、双子素数(191,193)、四つ子素数(191,193,197,199) ---- '''[[194]]''' = 2 × 97、半素数、3つの連続した[[平方数]]の和(194 = 7<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> + 9<sup>2</sup>) ---- '''[[195]]''' = 3 × 5 × 13、楔数、ハーシャッド数、3つの連続した素数の平方数の和(195 = 5<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> + 11<sup>2</sup>) ---- '''[[196]]''' = 2<sup>2</sup> × 7<sup>2</sup>、平方数(196 = 14<sup>2</sup>) ---- '''[[197]]''' = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、[[オイラー素数]]、連続する12個の素数の和(197 = 2 + 3 + 5 + 7 + 11 + 13 + 17 + 19 + 23 + 29 + 31 + 37) ---- '''[[198]]''' = 2 × 3<sup>2</sup> × 11、ハーシャッド数 ---- '''[[199]]''' = 素数、双子素数(197,199)、四つ子素数(191,193,197,199)、[[エマープ]](199 ←→ 991)、[[リュカ数]] == 参考文献 == ; 事辞典 * 百聞は一見に如かず - {{Cite web|和書 |title=百聞は一見に如かず |url=https://kotobank.jp/word/百聞は一見に如かず-612782 |author=[[円満字二郎]]編、[[小学館]]『故事成語を知る辞典』、ほか |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb 百聞は一見に如かず}} }} * 百聞 - {{Cite web|和書 |title=百聞 |url=https://kotobank.jp/word/百聞-612781 |author=小学館『[[大辞泉|デジタル大辞泉]]』、ほか |publisher=コトバンク |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb 百聞}} }} * [[百姓]] ** {{Cite web|和書 |title=百姓 |url=https://kotobank.jp/word/百姓-120955 |author=[[上杉允彦]]、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb-Nipp 百姓}} }} ** {{Cite web|和書 |title=百姓 |url=https://kotobank.jp/word/百姓-120955#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 |author=小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』|publisher=コトバンク |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb小学国 百姓}} }} * 百姓[[一揆]] - {{Cite web|和書 |title=百姓一揆 |url=https://kotobank.jp/word/百姓一揆-120956 |author=保坂智、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』、ほか |publisher=コトバンク |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb 百姓一揆}} }} * [[百面相]] - {{Cite web|和書 |title=百面相 |url=https://kotobank.jp/word/百面相-612802 |author=[[関山和夫]]、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』|publisher=コトバンク |accessdate=2022-09-09 |ref={{SfnRef|kb-Nipp 百面相}} }} <!--; 書籍、ムック ; 雑誌--> ; 論文 * <!--Chipman-->{{Cite journal |last1=Chipman |first1=Ariel D. |author1=Ariel D. Chipman |authorlink1= |last2=Arthur |first2=Wallace |authorlink2=:en:Wallace Arthur |last3=Akam |first3=Michael |authorlink3=:en:Michael Akam |date=27 July 2004 |title=A Double Segment Periodicity Underlies Segment Generation in Centipede Development |url=https://www.cell.com/current-biology/abstract/S0960-9822(04)00518-4 |publisher=[[Cell Press]] |journal=[[カレントバイオロジー|Current Biology]] |volume=14 |issue=14 |pages=1250–1255 |language=en |doi=10.1016/j.cub.2004.07.026 |issn=0960-9822 |pmid=15268854 |ref={{SfnRef|Chipman|Arthur|Akam|2004}} }} <!-- == 関連文献 == ※出典に使わない、または、まだ使ってないが、理解を深めるのに有用な文献。 --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}<!-- === 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} {{Wiktionarypar|100}} {{Wiktionarypar|百}} {{Wiktionarypar|hundred}} {{Wiktionarypar|Ⅽ}} {{Wiktionarypar|ⅽ}} == 関連項目 == * [[数に関する記事の一覧]] * [[0]] [[10]] [[20]] [[30]] [[40]] [[50]] [[60]] [[70]] [[80]] [[90]] '''100''' * '''100''' [[101]] [[102]] [[103]] [[104]] [[105]] [[106]] [[107]] [[108]] [[109]] * '''100''' [[110]] [[120]] [[130]] [[140]] [[150]] [[160]] [[170]] [[180]] [[190]] * '''100''' [[200]] [[300]] [[400]] [[500]] [[600]] [[700]] [[800]] [[900]] * [[10]] '''100''' [[1000]] [[10000]] [[100000]] [[1000000]] [[10000000]] [[100000000]] * [[名数一覧]] {{日本の命数}} {| class="wikitable" |+ 100 から 199 までの整数 ! 100 !! ''[[101]]'' !! [[102]] !! ''[[103]]'' !! [[104]] !! [[105]] !! [[106]] !! ''[[107]]'' !! [[108]] !! ''[[109]]'' |- ! [[110]] !! [[111]] !! [[112]] !! ''[[113]]'' !! [[114]] !! [[115]] !! [[116]] !! [[117]] !! [[118]] !! [[119]] |- ! [[120]] !! [[121]] !! [[122]] !! [[123]] !! [[124]] !! [[125]] !! [[126]] !! ''[[127]]'' !! [[128]] !! [[129]] |- ! [[130]] !! ''[[131]]'' !! [[132]] !! [[133]] !! [[134]] !! [[135]] !! [[136]] !! ''[[137]]'' !! [[138]] !! ''[[139]]'' |- ! [[140]] !! [[141]] !! [[142]] !! [[143]] !! [[144]] !! [[145]] !! [[146]] !! [[147]] !! [[148]] !! ''[[149]]'' |- ! [[150]] !! ''[[151]]'' !! [[152]] !! [[153]] !! [[154]] !! [[155]] !! [[156]] !! ''[[157]]'' !! [[158]] !! [[159]] |- ! [[160]] !! [[161]] !! [[162]] !! ''[[163]]'' !! [[164]] !! [[165]] !! [[166]] !! ''[[167]]'' !! [[168]] !! [[169]] |- ! [[170]] !! [[171]] !! [[172]] !! ''[[173]]'' !! [[174]] !! [[175]] !! [[176]] !! [[177]] !! [[178]] !! ''[[179]]'' |- ! [[180]] !! ''[[181]]'' !! [[182]] !! [[183]] !! 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カヌー
カヌー(Canoe)とは、カリブに先住したアラワク族インディアンの言葉で、カリブ海周辺の小型舟艇の名称である。それから転じて、世界各地の伝統的な舟艇を指して使われる用法が一般化しているが、明確な定義は無い。なお、現代の英語において「カヌー」と呼ばれうる船舶は、地域により「カヌー」「カノア」「カノ」「ワカ」「ワア」「ヴァカ」など様々な名で呼ばれている。 カヌーの定義は多様であり、競技団体による慣習的な定義は例外として、一義には決定できない。パドルで水を掻き、前進する舟全般を指すもの、という考え方もあるが、この定義ではオセアニアで広く用いられている帆走カヌー(Sailing Canoe)や航海カヌー(Voyaging Canoe)は包摂出来ない。船体側にも支点を持たせたオールや艪を使用しない舟艇という考え方もあるが、ミクロネシアで用いられるシングル・アウトリガーの航海カヌーの櫂舵は足で操作するし、ポリネシアで用いられるダブル・カヌー形式の航海カヌーの櫂舵は、ロープで船体に結縛されている。 これはそもそも、カヌーなる用語が近代以降は「ヨーロッパ人の用いる船舶ではないもの」という形で使用されていた歴史から来る必然である。カリブ海周辺の小型船舶の名称を北米大陸から大洋州に至る広大な地域の船舶に応用した時点で、「カヌー」という語の多義性、曖昧性は宿命づけられてしまったと言える。すなわち、「カヌー」という語の内実は、語用論的にしか捉えることが出来ないのである。 なお、日本の競技カヌー界ではカヌーは「カヌー」、アウトリガーカヌーは「アウトリガーカヌー」と呼び、区別している。カヌーやカヤックを使うスポーツ全般をパドルスポーツと呼ぶこともある。 現代における言葉の使い分けとして、「カヌー」は基本的にオープンデッキのタイプを指すのに対して、「カヤック」は基本的にクローズドデッキのタイプを指すが、日本においてはカヌーという言葉の中に広義でカヤックを含める場合もある。 しかし、この定義では船体に樹脂製のパッキンを用いたハッチを装備して密閉し、船体と船体の間にクロスビームを渡してその上にデッキを張るという構造を持つ、ポリネシアのグラスファイバー製航海カヌーは、はたして「カヌー」なのか「カヤック」なのか定義できない。 実際にカヌーやカヤックを漕いでいる人たちの間では、ICF (International Canoe Federation)による定義が一般的になっている。 ICFのCanoe Slalom Competition Rules 2009によれば、カヌーとカヤックの定義は下記のようになっている。(原文は英文) 「カヤックはデッキをもつボートで、選手がその中に腰をかけて坐り、ダブルブレードのパドルで推進するものでなければならない。カナディアンカヌーはデッキをもつボートで、選手がその中に膝をついて坐り、シングルブレードのパドルで推進するものでなければならない。」 上記の定義に基づいて、クローズドデッキのカヌーが存在し、オリンピックのスラローム競技にもなっている。 ICFルールによれば、オープンデッキタイプのカナディアンカヌーについては定義が無い。 現代のレジャー用カヤックはリバーカヤックとシーカヤックに大別される。 一本の丸太を刳り貫いて作る「丸木舟」の場合、丸太を水に浮かべて自然に水面上に出る側を上にして、中を刳り貫いていくことで船の形状を彫り出していく。 さらに地域によっては、吃水より上の部分に板材を重ねばりする事で、大型化したものも作られている(学術的にはタナ発達と呼ばれる)。特に大洋州や東南アジアでは、丸太を削りだした船底にバウやスターン、ガンネルとなる部材を結縛した縫合船が広く用いられている。日本列島においても近世以前にはこうした構造を持つカヌーが数多く用いられていたが、近代以降、木材の払底やFRP船の普及によって姿を消した。 また日本列島においては船底をはぎ合わせる技法が発達した。こうした構造はムダマハギとかシキ構造と呼ばれるものである。一見すると板材を貼り合わせた構造に見える場合もあるが、学術的には「必ず1本の丸太から2つの船底材を削り出し、はぎ合わせる」という点を重視し、刳り船に含めている。さらにこうした削り出しの船底材の間にチョウと呼ばれるセンターピースを挿入する工法も存在している。 主に寒冷地で使われたスキンボートでは、木材などによって構成した骨組みに、防水処置を施した獣皮や布、樹皮(樺の樹皮などがよく使われたらしい)などを張って船体を作る。 近年では合成樹脂、合板+グラスファイバーなどで船体を建造する例も多い。 レジャーでよく使われるリバーカヌーにはロイヤレックス、ポリエチレン製などが多く、軽くて剛性が必要な競技艇では、カーボンやケブラー・カーボンなどの素材が使われる。 使われるパドルの違いで言えば、幅が広めでオープンデッキのカナディアンカヌー系のボートは、水を掻く部分が片側だけに付いたシングルブレードパドルで漕ぐ事が普通で、クローズドデッキで幅が狭い傾向にあるカヤック系のボートでは両端に水掻の付いたダブルブレードパドルを利用する事が一般的である。またオセアニアのパドルは地域により様々な形状がある。 この分類におさまりきらないもの (以上は日本カヌー連盟、国際カヌー連盟が統括する競技) 1998年よりハワイにおいて国際カヌーフェスティヴァルInternational Festival of Canoesが毎年開催され、ポリネシアを中心として世界各国からカヌービルダーが集まって交流を深めている。このイベントには日本からもアイヌのカヌービルダーが参加したことがある(2004年)。 また、4年ごとに各地で開催されている太平洋芸術祭Festival of Pacific Artsでも、カヌー関連のイベントは重要なものとなっており、1992年にクック諸島のラロトンガ島で行われた第6回大会では、大会のテーマそのものが「太平洋諸島民の航海の伝統」とされ、各地から航海カヌーが集結した。 さらに1996年にはニュージーランドのオークランドで、「航海カヌー・シンポジウム」が開催された。
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カヌー(Canoe)とは、カリブに先住したアラワク族インディアンの言葉で、カリブ海周辺の小型舟艇の名称である。それから転じて、世界各地の伝統的な舟艇を指して使われる用法が一般化しているが、明確な定義は無い。なお、現代の英語において「カヌー」と呼ばれうる船舶は、地域により「カヌー」「カノア」「カノ」「ワカ」「ワア」「ヴァカ」など様々な名で呼ばれている。
{{Otheruseslist|小型の舟|舟を使用したスポーツ|カヌースポーツ|ナイジェリアのサッカー選手|ヌワンコ・カヌ}} {{出典の明記|date=2016年10月24日 (月) 05:09 (UTC)}} [[画像:リバーカヤック 。リジッドタイプカヤック386C.JPG|thumbnail|250px|ポリエチレン製カヤック]] '''カヌー'''(Canoe)とは、カリブに先住した[[アラワク族]][[インディアン]]の言葉で、[[カリブ海]]周辺の小型舟艇の名称である。それから転じて、世界各地の伝統的な舟艇を指して使われる用法が一般化しているが、明確な定義は無い。なお、現代の英語において「カヌー」と呼ばれうる船舶は、地域により「カヌー」「カノア」「カノ」「ワカ」「ワア」「ヴァカ」など様々な名で呼ばれている。 == カヌーの定義の難しさ == [[Image:Pirogue_de_la_côte_de_Cameroun.jpg|250px|thumb|1890年にカメルーンで撮影された写真。こうしたアフリカの伝統船もカヌーと見られる場合がある。]] カヌーの定義は多様であり、競技団体による慣習的な定義は例外として、一義には決定できない。'''[[パドル]]で水を掻き、前進する舟全般を指すもの'''、という考え方もあるが、この定義では[[オセアニア]]で広く用いられている[[帆走]]カヌー(Sailing Canoe)や[[航海カヌー]](Voyaging Canoe)は包摂出来ない。'''船体側にも支点を持たせた[[オール]]や[[艪]]を使用しない舟艇'''という考え方もあるが、[[ミクロネシア]]で用いられるシングル・[[アウトリガー]]の航海カヌーの櫂舵は足で操作するし、[[ポリネシア]]で用いられる[[ダブル・カヌー]]形式の航海カヌーの櫂舵は、ロープで船体に結縛されている。 これはそもそも、カヌーなる用語が近代以降は「ヨーロッパ人の用いる船舶ではないもの」という形で使用されていた歴史から来る必然である。カリブ海周辺の小型船舶の名称を[[北米大陸]]から大洋州に至る広大な地域の船舶に応用した時点で、「カヌー」という語の多義性、曖昧性は宿命づけられてしまったと言える。すなわち、「カヌー」という語の内実は、語用論的にしか捉えることが出来ないのである。 なお、日本の競技カヌー界ではカヌーは「カヌー」、[[アウトリガーカヌー]]は「アウトリガーカヌー」と呼び、区別している。カヌーやカヤックを使うスポーツ全般を[[パドルスポーツ]]と呼ぶこともある。 == カヌーとカヤック == [[画像:カナディアンカヌー・レットマン 021.jpg|thumbnail|250px|カナディアンカヌー。カヌーという語は本来、こうしたオープンデッキタイプを指していた。]] 現代における言葉の使い分けとして、「カヌー」は基本的にオープンデッキのタイプを指すのに対して、「[[カヤック]]」は基本的にクローズドデッキのタイプを指すが、日本においてはカヌーという言葉の中に広義でカヤックを含める場合もある。 しかし、この定義では船体に樹脂製のパッキンを用いたハッチを装備して密閉し、船体と船体の間にクロスビームを渡してその上にデッキを張るという構造を持つ、ポリネシアのグラスファイバー製航海カヌーは、はたして「カヌー」なのか「カヤック」なのか定義できない。 実際にカヌーやカヤックを漕いでいる人たちの間では、ICF (International Canoe Federation)による定義が一般的になっている。 ICFのCanoe Slalom Competition Rules 2009によれば、カヌーとカヤックの定義は下記のようになっている。(原文は英文) 「カヤックはデッキをもつボートで、選手がその中に腰をかけて坐り、ダブルブレードのパドルで推進するものでなければならない。カナディアンカヌーはデッキをもつボートで、選手がその中に膝をついて坐り、シングルブレードのパドルで推進するものでなければならない。」 上記の定義に基づいて、クローズドデッキのカヌーが存在し、オリンピックのスラローム競技にもなっている。 ICFルールによれば、オープンデッキタイプのカナディアンカヌーについては定義が無い。 現代のレジャー用[[カヤック]]は[[リバーカヤック]]と[[シーカヤック]]に大別される。 == 地域ごとの特徴 == ; 北アメリカ : [[アメリカ・インディアン]]の用いるカヌーの多くは丸太を刳り抜いた[[丸木舟]]である。[[アメリカ合衆国]]の[[ワシントン州]]から[[カナダ]]、[[アラスカ]]にかけての[[太平洋]]沿岸の[[温帯雨林]]、[[針葉樹林]]に居住するハイダ族、[[トリンギット]]族、[[クワキウトル族]]などは樹高60mにも及ぶ[[ベイスギ]]、[[ベイマツ]]などの針葉樹を加工して[[トーテムポール]]や板葺きの大建築を造り上げてきたが、船の面でも数十人の乗用が可能なカヌーを作り、[[鮭]]や[[鱒]]の漁に用いた。一方、カリフォルニア州の[[チュマシュ族]]だけは複雑な構造を持つ[[縫合船]]を用いており、[[ポリネシア]]のカヌー建造技術が何らかの形で伝播していたのではないかと考える研究者もいる。また[[エスキモー]]や[[イヌイット]]、[[アレウト族]]が使用する[[カヤック]]は、獣骨や木材の骨組みに獣皮を張るという構造であった。カナディアン・カヌーは本来は木材の骨組みに樹皮を張る構造であった。 ; ミクロネシア : ミクロネシアでは[[パンノキ]]を船体にした縫合船のシングル・[[アウトリガーカヌー]]が広く用いられていた。小さいものは[[ラグーン]]内での漁労用であるが、大きなものは十名近い乗員を乗せて数日間以上の外洋航海を行うことが可能な航海カヌーである。[[カロリン諸島]]から[[ヤップ島]]への[[サウェイ貿易]]には、このような航海カヌーが欠かせなかった。また、ヤップ島の[[ヤップ島#石貨|石貨]]の中でも古い時期のものは、航海カヌーによってパラオから運んで来たものと考えられている。 ; 東南アジア : 東南アジアでは、シングル・アウトリガーカヌーの他に、[[ダブル・アウトリガーカヌー]]も用いられている。また[[蛋民]]が用いる[[家船]]は、世帯単位でそこに居住しながら漁労を行う為の大型のカヌーである。現在はエンジンを用いているが、本来は帆走カヌーであった。家船はアウトリガーを持たない。 ; メラネシア : メラネシアには、内水面で用いられる小型のカヌーと、外洋を航海するための大型の航海カヌーが存在している。メラネシアの航海カヌーにはシングル・アウトリガーカヌーとダブル・カヌーの両方がある。特に有名なものは、トロブリアンド諸島の[[クラ (交易)|クラ交易]]で用いられた航海カヌーである。 ; ポリネシア : ポリネシアには、シングル・アウトリガーカヌー、ダブル・カヌー、アウトリガーを持たないカヌーの3種類が存在している。[[マオリ]]のカヌーは殆どがアウトリガーを持たない。ポリネシアの航海カヌーは殆どがダブル・カヌーであるが、[[ポリネシア#域外ポリネシア|域外ポリネシア]]のテ・プケと呼ばれる航海カヌーはシングル・アウトリガーカヌーである。 ; マダガスカル島 : [[マダガスカル島]]の先住民は[[東南アジア島嶼部]]から航海カヌーに乗ってマダガスカル島に移住した人々であり、現在でもシングル・アウトリガーカヌーを漁労等に用いている。 ; 北東アジア : [[日本列島]]には、各種のカヌーが存在していた。かつて[[北海道]]や[[樺太]]、[[千島列島]]で独自の文化を築いていた[[オホーツク文化]]人や[[ウィルタ]]、[[アイヌ]]には、それぞれ独自のカヌーがあったと考えられている。アイヌは[[カツラ (植物)|桂]]や[[ヤチダモ]]の大木を刳り抜いて作ったカヌー「チㇷ゚」を使用していた。チㇷ゚は基本的には湖沼や河川用の船であるが、過去にはチㇷ゚に舷側板を取り付けて大型化し、帆を備えた沿岸航海用のカヌー「[[イタオマチプ|イタオマチㇷ゚]]」([[アイヌ語]]で「板のある船」の意)を作成し、はるかサンタン([[沿海州]])にまで渡り、[[山丹交易]]と呼ばれる交易活動を行っていた。このイタオマチㇷ゚を復元しようと試みるグループも存在し、実際に1989年、[[釧路市]]在住のアイヌ系住民が復元に取り組み、完成させた。また[[小笠原諸島]]には、有史以降最初にこの島に入植した[[ハワイ人]]たちがシングル・アウトリガーカヌーを持ち込んでいる。 === 画像集 === <gallery> Image:Greenland_kayak_seal_hunter_2006.jpg|[[グリーンランド]]の[[イヌイット]]が用いる伝統的な獣皮のカヤック Image:Dugout_canoe_Rennell.jpg|[[ソロモン諸島]]の[[レンネル島]]のカヌー(メラネシア) Image:Piroge.jpg|マダガスカル島のシングルアウトリガー帆走カヌー。 Image:Hawaiki_Nui_Va'a_3.jpg|タヒチで開催されているシングルアウトリガーカヌーの大会「ハヴァイキヌイ・ヴァア」のOC-6。 Image:Marshallese_-_traditional_sailing_canoe.jpg|マーシャル諸島のシングルアウトリガー帆走カヌー(ミクロネシア) Image:Saaduuts_and_canoe_01.jpg|美しく装飾された北米[[ハイダ族]]のカヌー Image:Polynesian_canoe_replica_2.jpg|古代ポリネシアの遠洋航海カヌーのレプリカ「ハヴァイイロア」 Image:Waka_paddling_class.jpg|マオリの戦闘用ワカはアウトリガーや帆を持たない。 Image:Waka_sternpost_close.jpg|マオリのワカの彫刻。今日、ワカ彫刻の職人は芸術家として扱われている。 Image:Pirogue_Madagascar.jpg|マダガスカル島のカヌー。旧フランス植民地ではカヌーはピローグと呼ばれることが多い。 </gallery> == 船体の構造 == 一本の丸太を刳り貫いて作る「[[丸木舟]]」の場合、丸太を水に浮かべて自然に水面上に出る側を上にして、中を刳り貫いていくことで船の形状を彫り出していく。 さらに地域によっては、吃水より上の部分に板材を重ねばりする事で、大型化したものも作られている(学術的にはタナ発達と呼ばれる)。特に大洋州や東南アジアでは、丸太を削りだした船底にバウやスターン、ガンネルとなる部材を結縛した縫合船が広く用いられている。日本列島においても近世以前にはこうした構造を持つカヌーが数多く用いられていたが、近代以降、木材の払底やFRP船の普及によって姿を消した。 また日本列島においては船底をはぎ合わせる技法が発達した。こうした構造はムダマハギとかシキ構造と呼ばれるものである。一見すると板材を貼り合わせた構造に見える場合もあるが、学術的には「必ず1本の丸太から2つの船底材を削り出し、はぎ合わせる」という点を重視し、刳り船に含めている。さらにこうした削り出しの船底材の間にチョウと呼ばれるセンターピースを挿入する工法も存在している。 主に寒冷地で使われたスキンボートでは、木材などによって構成した骨組みに、防水処置を施した獣皮や布、樹皮(樺の樹皮などがよく使われたらしい)などを張って船体を作る。 近年では合成樹脂、合板+グラスファイバーなどで船体を建造する例も多い。 レジャーでよく使われるリバーカヌーにはロイヤレックス、ポリエチレン製などが多く、軽くて剛性が必要な競技艇では、カーボンやケブラー・カーボンなどの素材が使われる。 == シングルブレード・パドルとダブルブレード・パドル == 使われる[[パドル]]の違いで言えば、幅が広めでオープンデッキの[[カナディアンカヌー]]系のボートは、水を掻く部分が片側だけに付いたシングルブレードパドルで漕ぐ事が普通で、クローズドデッキで幅が狭い傾向にある[[カヤック]]系のボートでは両端に水掻の付いたダブルブレードパドルを利用する事が一般的である。またオセアニアのパドルは地域により様々な形状がある。 == 船舶の構造の大まかな分類 == [[画像:Img385B 92年頃.JPG|thumbnail|250px|リバーカヤック [[リジッドタイプカヤック]]]] [[画像:インフレータブル・タイプのカヌー 川旅(リバーツーリング)加古川編 インフレータブル・タイプP9170080.jpg|thumbnail|250px|空気で船体を膨らませるインフレータブル・タイプのカヤック]] [[File:2007-08-13 Sai-River Canoe touring 犀川カヌーツーリング(カヤック壇上晴一)P8138875.jpg|thumb|250px|right|カヤックの技術、リカバリー(ハイ・ブレイス)。]] * [[カナディアンカヌー]] * [[カヤック]] ** [[リバーカヤック]] *** クローズドデッキ *** シットオントップ ** [[シーカヤック]] *** クローズドデッキ *** シットオントップ * シングル・アウトリガー・カヌー(オセアニア、マダガスカル島等に分布) ** 伝統的な木造カヌー ** 競技艇(OC-1/V1、OC-4/V4、OC-6/V6) ** セイリング・カヌー(パドリングではなく帆走によって航行するもの) ** 航海カヌー(セイリング・カヌーの中でも大型で、数名の乗員と数トンの荷物を載せ、数百キロメートル以上の外洋航海が可能なもの。ミクロネシア、メラネシア、域外ポリネシアで主に用いられる。[[マウ・ピアイルック]]によれば、カロリン諸島の航海カヌーは通常、9日間の航海が可能であるとされる。船体、デッキ、ナヴィゲーター・ルームの構造は地域によって大きく異なる) * ダブル・アウトリガー・カヌー(東南アジア島嶼部で広く用いられる) *{{ill2|戦闘用カヌー|en|War canoe}} ‐ アジア、アメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど広い地域で使われた。 ** ワカ・タウア(マオリが用いる長大な戦闘用カヌー。アウトリガーは装着されない。船体に美しい彫刻が施され、この彫刻は近年では芸術の一種と考えられている。また最近ではこの種のカヌーは観光用にも用いられている) ** {{ill2|Kakap|en|Kakap (boat)}} - マレーシア、インドネシア、ブルネイで偵察・補給用などに使われたカヌー * ダブル・カヌー(ほとんどが航海カヌーで、シングル・アウトリガーの航海カヌーよりも乗員数、積載能力、航続距離に優れ、無寄港で一か月強、数千キロメートルの外洋航海を行うことも可能。主にポリネシアで用いられる) この分類におさまりきらないもの * [[サーフスキー]] * [[サーフカヤック]] * [[ポロカヤック]] * [[ラフト]] * [[ダッキー]] === ツーリング === [[画像:川旅(リバーツーリング)加古川編P9170015.jpg|thumbnail|250px|川旅(リバーツーリング)。 風に任せのんびり下る。[[加古川]]]] * [[川旅]] * 遠洋航海 === 競技 === * [[フラットウォーターレーシング|カヌースプリント]] - オリンピック種目(12種目)、パラリンピック種目([[パラカヌー]])<ref>日本パラリンピック委員会は「カヌー」の名称を使用している。</ref> ** オリンピック種目はカヤック部門(K)とカナディアン部門(C)<ref>[http://www.canoe.or.jp/disciplines/sprint/ カヌースプリント] 日本カヌー連盟</ref>。 ** パラリンピック種目はカヤック部門(K)とヴァ―部門(V)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jsad.or.jp/about/referenceroom_data/competition-guide_17.pdf|title=競技紹介 Canoe/カヌー|accessdate=2021-08-24|publisher=日本パラリンピック委員会}}</ref>。 ** 2009年3月末まで「フラットウォーターレーシング」と呼ばれていた * [[カヌースラローム]] - オリンピック種目(4種目) * [[ワイルドウォーター|カヌーワイルドウォーター]] * [[カヌーポロ]] * ドラゴンカヌー * カヌーマラソン * [[フリースタイルカヤック|フリースタイル(カヌー・カヤック)]] * [[ホワイトウォーターロデオ]](フリースタイル)<!-- ロデオは旧名称の為、フリースタイルカヤック・カヌーと近年では呼ばれている。 --> * [[サーフカヤック]] * [[スクウォート]] * [[クリーキング]] * [[ビッグウォーター]] * [[ストライド]] * [[シットオントップ]] * [[セーリングカヌー]] (以上は日本カヌー連盟、国際カヌー連盟が統括する競技) * [[アウトリガーカヌー]](OC-1,OC-2,OC-3,OC-4,OC-6,DC-12あるいはV1,V2,V3,V4,V6,V12) ** アウトリガーカヌー競技はエリア毎に伝統に根ざしたルールでの競技団体が存在する。 ** これらの競技団体の国際的な統括組織として80年のロサンゼルスオリンピックを契機に設立されたのがInternational Polynesian Canoe Federation(現在のInternational Va'a Federation)である。 ** 競技用アウトリガーカヌーは、左側にアマを持つこと、シングルブレードのパドルを用いることが特徴である。 ** 近年、ハワイ、北米といったエリアではOC1またはOC2にラダーを取り付けたものが主流となっているが、国際的にはラダー無しが標準である。 ** 国際ヴァア連盟内では、オセアニアを植民地化し抑圧・搾取を行った欧米文化への抵抗感、さらには単なる競技種目でなく民族固有の文化であるというプライドから、オリンピックを頂点とする国際的なスポーツへの迎合を良しとしない風潮もある。 == 国際交流 == 1998年よりハワイにおいて国際カヌーフェスティヴァルInternational Festival of Canoesが毎年開催され、ポリネシアを中心として世界各国からカヌービルダーが集まって交流を深めている。このイベントには日本からもアイヌのカヌービルダーが参加したことがある(2004年)。 また、4年ごとに各地で開催されている太平洋芸術祭Festival of Pacific Artsでも、カヌー関連のイベントは重要なものとなっており、1992年にクック諸島のラロトンガ島で行われた第6回大会では、大会のテーマそのものが「太平洋諸島民の航海の伝統」とされ、各地から航海カヌーが集結した。 さらに1996年にはニュージーランドのオークランドで、「航海カヌー・シンポジウム」が開催された。 == 著名なカヌー選手 == * [[本田大三郎]] - カヌー競技の日本人初のオリンピック選手。1964年[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]出場。[[日本体育大学]]卒。現カヌースクール経営。 * [[ビルギット・フィッシャー]] - [[ドイツ]]の女子カヌー選手、金メダル8個と銀メダル4個を獲得 * [[井上清登]] - [[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルス五輪]]カナディアンシングル500mで日本人初の6位入賞 * 和泉博幸 - ロス五輪カナディアンペア8位入賞、[[ソウルオリンピック|ソウル五輪]]2大会連続日本代表、日体大卒 * 福里修誠 - ロス五輪カナディアンペア8位入賞 * 丸山小百合-アトランタ五輪代表、シドニー五輪2大会連続日本代表、筑波大卒 * [[竹下百合子]] - [[2008年北京オリンピック|北京五輪]]カヤックシングル4位入賞、早大卒 * [[北本忍]] - [[アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]代表、北京五輪カヤックペア500m5位入賞、武庫川女子大卒 * 竹屋美紀子 - アテネ五輪代表、北京五輪カヤックペア500m5位入賞、日体大卒 * 松下桃太郎 - ロンドン五輪代表。第17回アジア大会男子カヤックペア200メートル優勝。 * 藤嶋大規 - 第17回アジア大会男子カヤックペア200メートル優勝。立命館大卒。 * [[羽根田卓也]] - リオデジャネイロ五輪スラロームカナディアンシングルで日本人初の銅メダル。 == 著名なカヌーイスト == * [[野田知佑]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Canoes}} * [https://www.canoe.or.jp/ 公益社団法人日本カヌー連盟] * [https://mitsuha.tokyo/ 水走-MITSUHA - 国産カヌー開発プロジェクト] {{河川関連}} {{スポーツ一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かぬう}} [[Category:カヌー|*]] [[Category:船舶の歴史]] [[Category:人力の乗り物]] [[Category:オリンピック競技]]
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14,947
リバーカヤック
リバーカヤックは、ダブルブレードパドルで漕ぐカヤック。 アリュートやエスキモーが海で使用していたものを川用に改造。 (海用のシーカヤックはマリンスポーツのカテゴリー) リジッドタイプカヤックと分解できるフォールディングタイプカヤック(ファルトボート)がある。 リジットタイプはFRP製カヤックとポリエチレン製カヤックが多い。 リジットタイプには目的に応じダウンリバー艇・スラローム艇・ワイルドウォーター艇・プレイボート(ロデオ艇)・クリーク艇などがある。
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リバーカヤックは、ダブルブレードパドルで漕ぐカヤック。 アリュートやエスキモーが海で使用していたものを川用に改造。 (海用のシーカヤックはマリンスポーツのカテゴリー) リジッドタイプカヤックと分解できるフォールディングタイプカヤック(ファルトボート)がある。 リジットタイプはFRP製カヤックとポリエチレン製カヤックが多い。 リジットタイプには目的に応じダウンリバー艇・スラローム艇・ワイルドウォーター艇・プレイボート(ロデオ艇)・クリーク艇などがある。
[[画像:ポリエチレン製カヤック(加古川)檀上晴一P9179963.jpg|thumbnail|240px|[[ポリエチレン]]製[[カヤック]]]] '''リバーカヤック'''は、[[ダブルブレードパドル]]で漕ぐ[[カヤック]]。 [[アリュート]]や[[エスキモー]]が[[海]]で使用していたものを川用に改造。 (海用の[[シーカヤック]]は[[マリンスポーツ]]のカテゴリー) [[リジッドタイプカヤック]]と分解できる[[フォールディングタイプカヤック]]([[ファルトボート]])がある。 リジットタイプは[[FRP]]製カヤックと[[ポリエチレン]]製カヤックが多い。 リジットタイプには目的に応じダウンリバー艇・スラローム艇・ワイルドウォーター艇・プレイボート(ロデオ艇)・クリーク艇などがある。 [[Category:カヤック|りはかやつく]]
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14,949
1000
1000(千、阡、仟、一〇〇〇、せん、ち)は、自然数または整数において、999の次で1001の前の数である。略称として1kと表記される。
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1000(千、阡、仟、一〇〇〇、せん、ち)は、自然数または整数において、999の次で1001の前の数である。略称として1kと表記される。
{{整数|Decomposition=2<sup>3</sup>×5<sup>3</sup>}} [[ファイル:千-order.gif|thumb|100px|「千」の筆順]] '''1000'''('''千'''、'''阡'''、'''仟'''、'''一〇〇〇'''、せん、ち)は、[[自然数]]または[[整数]]において、[[999]]の次で[[1001]]の前の数である。略称として'''1[[キロ|k]]'''と表記される。 == 性質 == * 1000は[[合成数]]であり、[[約数]]は [[1]], [[2]], [[4]], [[5]], [[8]], [[10]], [[20]], [[25]], [[40]], [[50]], [[100]], [[125]], [[200]], [[250]], [[500]], 1000 である。 ** [[約数の和]]は2340。 ***246番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[996]]、次は[[1002]]。 * 1000 = 10<sup>3</sup> ** 10番目の[[立方数]]である。1つ前は[[729]]、次は[[1331]]{{refnest|group="注"|name=officialcubicnumber|なお、∀N>3のN進法によって1331を表記しても、1331は必ず立方数になる。これは<math>1\times N^3+3\times N^2+3\times N^{}+1=\left(1\times N+1\right)^{3}</math>であるため。}}。 ** 3番目の[[10の冪|10の累乗数]]である。1つ前は[[100]]、次は[[10000]]。 **[[立方数]]が[[ハーシャッド数]]になる6番目の数である。1つ前は[[512]]、次は[[1728]]。 ** 立方数において[[各位の和]]も立方数になる5番目の数である。1つ前は512、次は1331{{refnest|group="注"|name=officialcubicnumber}}。({{OEIS|A53058}}) ** 1000 = (1 × 10){{sup|3}} ***''n'' = 1 のときの (10''n''){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[0]]、次は[[8000]]。({{OEIS|A017271}}) ** 1000 = (2 × 5){{sup|3}} ***''n'' = 5 のときの (2''n''){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[512]]、次は[[1728]]。({{OEIS|A016743}}) ***''n'' = 2 のときの (5''n''){{sup|3}} の値とみたとき1つ前は[[125]]、次は[[3375]]。({{OEIS|A016851}}) *** 1000 = 2{{sup|3}} × 5{{sup|3}} ****2つの異なる[[素因数]]の積で ''p''{{sup|3}} × ''q''{{sup|3}} の形で表せる2番目の数である。1つ前は[[216]]、次は[[2744]]。({{OEIS|A162142}}) ** 1000 = 10 × 10{{sup|2}} ***''n'' = 10 のときの 10''n''{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[810]]、次は1210。({{OEIS|A033583}}) ***''n'' = 10 のときの 100''n'' の値とみたとき1つ前は[[900]]、次は[[1100]]。({{OEIS|A044332}}) ** 1000 = 1 × 10 × 100 *** 初項 1、公比 10 の[[等比数列]]における第3項までの[[総乗]]である。1つ前は[[10]]、次は[[1000000]]。({{OEIS|A110147}}) **** この値は ''n'' = 3 のときの 10{{sup|{{sfrac|''n''(''n''&minus;1)|2}}}} の値である。 * 213番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[999]]、次は[[1002]]。 ** 1を基とする4番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[100]]、次は[[10000]]。 *各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる76番目の数である。1つ前は962、次は[[1022]]。({{OEIS|A175396}}) **各位の和と各位の平方和が両方とも平方数になる10番目の数である。1つ前は[[900]]、次は[[1111]]。({{OEIS|A197125}}) * 各位の[[立方和]]が[[平方数]]になる47番目の数である。1つ前は[[900]]、次は[[1002]]。({{OEIS|A197039}}) * {{sfrac|1|1000}} = 0.001 **[[百分率]]では 0.1[[パーセント記号|%]]、[[千分率]]では 1‰である。 **[[逆数]]が[[有限小数]]になる28番目の数である。1つ前は[[800]]、次は[[1024]]。({{OEIS|A003592}}) * 1000 = 10<sup>2</sup> + 30<sup>2</sup> = 18<sup>2</sup> + 26<sup>2</sup> ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる293番目の数である。1つ前は[[997]]、次は[[1009]]。({{OEIS|A004431}}) ** 2つの[[平方数]]の和2通りで表せる66番目の数である。1つ前は[[986]]、次は[[1010]]。 * 1000 = 6<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> + 30<sup>2</sup> = 10<sup>2</sup> + 18<sup>2</sup> + 24<sup>2</sup> ** 3つの[[平方数]]の和2通りで表せる188番目の数である。1つ前は[[992]]、次は1027。({{OEIS|A025322}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和2通りで表せる186番目の数である。1つ前は[[996]]、次は1027。({{OEIS|A025340}}) * ''n'' = 1000 のとき ''n'' と ''n'' &minus; 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' &minus; 1 を並べた数が素数になる109番目の数である。1つ前は[[990]]、次は[[1002]]。({{OEIS|A054211}}) ** 連続整数を降順にならべて数を作るとき最短で3個の[[素数]]ができる最小の数である。次は19930。 **:例.1000999, 1000999998997, 1000999998997996995994993 が素数である。(ただし元の数は含めない。) ***連続整数を昇順にならべたときの最短で3個の[[素数]]ができる最小の数は1826。 * 数の中に3桁の[[ゾロ目]]をもつ10番目の数である。1つ前は[[999]]、次は1110。({{OEIS|A033284}}) * 1000 = 35{{sup|2}} &minus; 225 ** ''n'' = 35 のときの ''n''{{sup|2}} &minus; 15{{sup|2}} の値とみたとき1つ前は[[931]]、次は1071。({{OEIS|A132772}}) == その他 1000 に関すること == * [[SI接頭語]]では、1000倍は k([[キロ]])、1/1000は m([[ミリ]])である。 * 1000の[[接頭語]]:milli([[ラテン語|拉]])、kilo,chili([[ギリシア語|希]]) * 1000[[年]]間を[[ミレニアム|千年紀]]([[ミレニアム]]、millennium)という。[[ラテン語]]で1000を表す「mille」と年を表す「annum」が語源。1000年は10[[世紀]]、100[[旬年]]と言い、英語でそれぞれ“ten centuries”(直訳:十世紀), “hundred decades”(直訳:百旬年)である。 * [[パーミル|千分率]]をパーミル(‰)という。 * 英語で、一万(10000)は“ten thousand”(直訳:十千)で、十万(100000)は“one hundred thousand”(直訳:一百千)である。 * 現在日本で発行されている[[日本銀行券]](紙幣)の最低額は1000円である([[1994年]]以降)。 * 慣用表現では、「途方も無く多い」という意味で使われる。例:「[[:wikt:海千山千|海千山千]]」、「[[:wikt:千変万化|千変万化]]」、「[[:wikt:千載一遇|千載一遇]]」 * 自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の希望番号制で「1000」は抽選対象番号だったが、[[2001年]][[1月4日]]に抽選番号から外された。 * [[1000系]](1000を形式名に持つ鉄道車両のリスト) * 多くの[[スレッドフロート型掲示板]]の[[スレッドフロート型掲示板|スレッド]]は1000レス目で書き込めなくなる。 * [[ハリセンボン]]という[[魚]]がいる。名前から針が1000本あると思う人が多いがこれは誤り。実際には400本ほどである。 * [[1000ギニー]]は[[競馬]]の[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]。[[イギリス]]発祥だが各国に同名のレースが存在する。 * 1000 - 8人組ユニット・[[ダウ90000]]の主宰・[[蓮見翔]]とメンバー・園田祥太の2人組でのユニット名。2023年7月に結成し、[[M-1グランプリ2023|同年のM-1グランプリ]]で準々決勝まで進出した<ref>{{Cite news|和書|title=『M-1グランプリ2023』準々決勝進出(東京)86組発表 小籔千豊&ムーディ勝山「サブマごり押し」も【一覧】|newspaper=ORICON NEWS|date=2023-11-09|url=https://www.oricon.co.jp/news/2301928/|accessdate=2023-12-11}}</ref>。 == 1001 から 1999 までの数 == === 1001 から 1100 までの数 === ---- * '''[[1001]]''' = [[7]] × [[11]] × [[13]]、7以上の三つの素数の積で最小の数、[[五角数]]、[[五胞体数]]、[[回文数]]、[[楔数]]。[[15]]までの自然数で[[360]]の約数にない奇数の最小公倍数。 * '''[[1002]]''' - 楔数、[[十進法|十進数]]における4桁の偶数最小の[[ノントーティエント]]。 * '''[[1003]]''' - [[半素数]] * '''[[1007]]''' - 半素数 * '''[[1008]]''' - [[ハーシャッド数]]。 * '''1009''' = 1{{sup|3}} + 2{{sup|3}} + 10{{sup|3}} = 4{{sup|3}} + 9{{sup|3}} + 6{{sup|3}} 、169番目の[[素数]]、4桁では最小の素数、[[エマープ]](1009 ←→ 9001) * '''[[1010]]''' - 楔数、[[2]]を基とする4桁最小のハーシャッド数 * '''[[1011]]''' - 半素数のハーシャッド数 * '''[[1013]]''' - [[ソフィー・ジェルマン素数]]、[[中心つき四角数]] * '''1014''' - ハーシャッド数 * '''[[1015]]''' - 14番目の[[四角錐数]]、''n'' を基とする ''n'' 番目のハーシャッド数(''n'' = 7) * '''[[1016]]''' - ''n'' を基とする ''n'' 番目のハーシャッド数(''n'' = 8) * '''[[1019]]''' - 1021と組で36番目の[[双子素数]]、ソフィー・ジェルマン素数かつ[[安全素数]](8番目)、エマープ(1019 ←→ 9101) * '''1021''' - エマープ(1021 ←→ 1201) * '''1022''' = 2{{sup|10}} &minus; 2 = 2{{sup|1}} + 2{{sup|2}} + 2{{sup|3}} + 2{{sup|4}} + 2{{sup|5}} + 2{{sup|6}} + 2{{sup|7}} + 2{{sup|8}} + 2{{sup|9}} 、[[フリードマン数]] * '''[[1023]]''' = 2<sup>10</sup> &minus; 1 、[[二進法|2進数]]を使った場合の手の指で数えられる最大の数<ref>{{Cite news|url= http://gigazine.net/news/20080512_count_to_31_on_one_hand/|title= 片手だけで数字を31まで数える方法|date= 2008-05-12|accessdate= 2015-09-27|newspaper= GIGAZINE}}</ref> * '''[[1024]]''' = 2<sup>10</sup> = 4<sup>5</sup> = [[32]]<sup>2</sup> 、[[2の冪|2の累乗数]]、フリードマン数(4 &minus; 2){{sup|10}} * '''[[1025]]''' = 5{{sup|2}} × [[41]] * '''1027''' = 2<sup>2</sup> + 3<sup>2</sup> + 5<sup>2</sup> + 7<sup>2</sup> + 11<sup>2</sup> + 13<sup>2</sup> + 17<sup>2</sup> + 19<sup>2</sup> 、最初の8つの素数の2乗の和。 * '''1029''' = 3 × 7{{sup|3}} = 3 × (18{{sup|2}} + 18 + 1) = 4{{sup|5}} + 5 * '''1031''' - 1033と組で37番目の双子素数、ソフィー・ジェルマン素数、[[スーパー素数]]、エマープ(1031 ←→ 1301) * '''1035''' - [[三角数]]、[[六角数]] * '''1036''' = 2{{sup|2}} × 7 × [[37]]。[[六進法]]では 4444{{sub|(6)}} となる[[ゾロ目]]。1つ前の3333{{sub|(6)}}は[[777]]{{sub|(10)}}、次の5555{{sub|(6)}}は1295{{sub|(10)}}。 * '''1044''' - 双子素数の和([[521]] + [[523]]) * '''1049''' - 1051と組で38番目の双子素数、ソフィー・ジェルマン素数 * '''1050''' = [[2]] × [[3]] × [[5]]{{sup|2}} × [[7]] = 5 × [[210]] * '''1051''' - [[中心つき五角数]] * '''[[1053]]''' = 3{{sup|4}} × 13 、 ハーシャッド数、 * '''1056''' = [[32]] × [[33]]、[[矩形数]]、[[約数の和]]5個で表せる4桁最小の数 * '''1057''' = 32{{sup|0}} + 32{{sup|1}} + 32{{sup|2}} * '''1060''' = σ(6) + σ(28) + σ(496) (ただしσは約数関数) 、 最初の25個の素数の合計 * '''1061''' - 1063と組で39番目の双子素数、エマープ(1061 ←→ 1601)、''π''(10000) &minus; ''π''(1000) = 1061 (ただし''π''(''x'')は[[素数計数関数]]) * '''1063''' - スーパー素数 * '''[[1065]]''' = 3 × 5 × 71 * '''1071''' - [[七角数]] * '''1072''' - [[中心つき七角数]] * '''1079''' - 任意の自然数は1,079個以下の10乗数の和で表される<ref>{{OEIS|A002804}}</ref>([[ウェアリングの問題]]の一部)。 * '''[[1080]]''' = 5 × 2{{sup|3}} × 3{{sup|3}} = 5 × [[216]] 、六進法で5000{{sub|(6)}}、3[[度 (角度)|周]](3×[[360]])、五角数。 * '''1081''' - 三角数 * '''1085''' = 18{{sup|2}} + 19{{sup|2}} + 20{{sup|2}} * '''1086''' - [[スミス数]] * '''1087''' - スーパー素数 * '''[[1089]]''' = [[33]]<sup>2</sup>、[[九角数]]、[[中心つき八角数]] * '''[[1090]]''' - ''n'' を基とする ''n'' 番目のハーシャッド数(''n'' = 10) * '''1091''' - 1093と組で40番目の双子素数、エマープ(1091 ←→ 1901) * '''[[1093]]''' - [[六芒星数]]、最小の{{仮リンク|ヴィーフェリッヒ素数|en|Wieferich prime}} * '''1095''' - [[閏年]]を含まないときの3年間の日数 * '''1096''' - 閏年を含むときの3年間の日数 * '''1097''' - エマープ(1097 ←→ 7901) * '''1100''' = 100 × 11 、100の倍数では最小の[[ノントーティエント]] === 1101 から 1200 までの数 === ---- * '''1103''' - ソフィー・ジェルマン素数、エマープ(1103 ←→ 3011)、[[ライフゲーム]]において[[ペントミノ#ライフゲームにおけるペントミノ|Rペントミノ]]が安定するまでにかかる時間 * '''1104''' - {{仮リンク|キース数|en|Keith number}} * '''1105''' - [[カーマイケル数]]、13 × 13 の[[魔方陣]]の[[定和|一列の和]]、[[十角数]]、中心つき四角数 * '''1110''' = 2 × 3 × 5 × 37 = 10{{sup|1}} + 10{{sup|2}} + 10{{sup|3}} * '''[[1111]]''' = 10{{sup|0}} + 10{{sup|1}} + 10{{sup|2}} + 10{{sup|3}} 、4番目の[[レピュニット]]、十進法における111番目の回文数、スミス数 * '''[[1114]]''' = 1{{sup|2}} + 2{{sup|3}} + 3{{sup|4}} + 4{{sup|5}} * '''[[1116]]''' = 2{{sup|2}} × 3{{sup|2}} × 31、日本の女性アイドルグループ・[[THE ポッシボー]]のアルバム。 → [[1116 (アルバム)]]。 * '''1122''' - [[33]] × [[34]]、[[矩形数]] * '''1123''' = 33{{sup|0}} + 33{{sup|1}} + 33{{sup|2}} * '''1124''' = 10{{sup|2}} + 2{{sup|10}} * '''1128''' - 三角数、六角数 * '''[[1134]]''' - [[ハーシャッド数]] * '''1140''' - [[三角錐数]]、双子素数の和([[569]] + [[571]]) * '''[[1143]]''' - ハーシャッド数 * '''[[1151]]''' - 1153と組で41番目の双子素数、1151 = [[229]] + [[922]] 素数を逆順に並べた数を加えても素数になる最小の数、エマープ(1151 ←→ 1511) * '''[[1152]]''' = 2{{sup|7}} × 3{{sup|2}}。[[素因数分解]]形が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} になる数、1つ前は972、次は1296。[[高度トーティエント数]] * '''1153''' - スーパー素数 * '''1155''' = [[3]] × [[5]] × [[7]] × [[11]] 。4連続の最初からの[[奇数]]の[[素数]]の積。1つ前は[[105]]、次は15015。 * '''[[1156]]''' = 34<sup>2</sup>、[[八面体数]]、中心つき五角数 * '''1161''' - 最初の26個の素数の合計 * '''1165''' - スミス数 * '''1171''' - スーパー素数 * '''1176''' - 三角数 * '''1177''' - 七角数 * '''[[1179]]''' = 3<sup>2</sup> × [[131]] * '''1183''' - [[五角錐数]] * '''1184''' - 2つの[[友愛数]] (1184, 1210) の前者 * '''1185''' - ''n'' を基とする ''n'' 番目のハーシャッド数(''n'' = 15) * '''1187''' - 安全素数 * '''1190''' = [[34]] × [[35]]、矩形数 * '''1191''' = 34{{sup|0}} + 34{{sup|1}} + 34{{sup|2}} * '''1196''' = 5<sup>3</sup> + 6<sup>3</sup> + 7<sup>3</sup> + 8<sup>3</sup> * '''1198''' - 中心つき七角数 * '''1199''' = 11{{sup|3}} &minus; 11{{sup|2}} &minus; 11 * '''[[1200]]''' - 双子素数の和(599 + [[601]]) === 1201 から 1300 までの数 === ---- * '''[[1201]]''' - スーパー素数、中心つき四角数、[[エマープ]](1201 ←→ 1021)、[[七進法|七進数]]や四十九進数、そして2401進数における{{仮リンク|独自周期素数|en|Unique prime}} * '''1202''' = 19{{sup|2}} + 20{{sup|2}} + 21{{sup|2}} * '''1210''' = 11<sup>3</sup> &minus; 11<sup>2</sup> 、2つの友愛数 (1184, 1210) の後者 * '''1215''' = 3{{sup|5}} × 5 = 6{{sup|4}} &minus; 3{{sup|4}} = 6{{sup|5}} &minus; 3{{sup|8}} * '''1216''' = 2{{sup|6}} × [[19]]、九角数 * '''1217''' - スーパー素数 * '''1221''' = 3 × [[11]] × [[37]] = [[33]] × 37 = [[11]] × [[111]] 。[[回文数]]、[[六進法]]では 5353{{sub|(6)}} で上二桁と下二桁の列が同じになる。 * '''1223''' - [[ソフィー・ジェルマン素数]] * '''1224''' = 3<sup>3</sup> + 5<sup>3</sup> + 7<sup>3</sup> + 9<sup>3</sup> 、4連続[[奇数]]の[[立方和]]で表せる数、1つ前は[[496]]。 * '''[[1225]]''' = 35{{sup|2}}、三角数、3番目の[[平方三角数]]、六角数、中心つき八角数 * '''1229''' - 1231と組で42番目の[[双子素数]]、ソフィー・ジェルマン素数、エマープ(1229 ←→ 9221)、''π''(10000) = 1229 (ただし''π''(''x'')は[[素数計数関数]]) * '''[[1231]]''' - エマープ(1231 ←→ 1321) * '''1233''' = 12<sup>2</sup> + 33<sup>2</sup> * '''[[1234]]''' - [[レスリー・ファイスト]]の楽曲 * '''1236''' - 双子素数の和([[617]] + [[619]]) * '''1240''' - 四角錐数 * '''1241''' - [[中心つき立方体数]] * '''[[1242]]''' - 十角数 * '''1247''' - 五角数 * '''1250''' = 2 × 5{{sup|4}} 。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} になる数、1つ前は1000、次は[[1280]]。 * '''1255''' = [[251]] × [[5]] 、[[フリードマン数]] * '''[[1259]]''' - エマープ(1259 ←→ 9521) * '''[[1260]]''' = 2{{sup|2}} × 3{{sup|2}} × 5 × 7 = [[35]] × [[36]] 、[[高度合成数]]、[[矩形数]]、最小の[[ヴァンパイア数]]、フリードマン数([[21]] × [[60]])。 * '''1261''' = 35{{sup|0}} + 35{{sup|1}} + 35{{sup|2}} 、六芒星数 * '''1264''' - 最初の27個の素数の合計 * '''1266''' - 中心つき五角数 * '''1275''' - 三角数 * '''1277''' - 1279と組で43番目の双子素数 * '''[[1280]]''' = 2{{sup|8}} × 5 。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} になる数、1つ前は[[1250]]、次は[[1600]]。 * '''[[1283]]''' - 安全素数、エマープ (1283 ←→ 3821) * '''1285''' - [[ノノミノ]]の数、4番目の[[ナイスフリードマン数]]((1 + 2{{sup|8}}) × 5) * '''1288''' - 七角数 * '''1289''' - 1291と組で44番目の双子素数、ソフィー・ジェルマン素数 * '''[[1296]]''' - [[6]]<sup>4</sup> = [[36]]<sup>2</sup> = 2{{sup|4}} × 3{{sup|4}}、[[二重平方数]]。最初の8個の[[立方数]]の和、8×8 の[[チェス]]盤における[[長方形]]の総数。6{{sup|''n''}} の1つ前は[[216]]、次は[[7776]]。素因数が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} になる数、1つ前は[[1152]]、次は[[1458]]。 * '''1297''' - スーパー素数 * '''[[1300]]''' = 1{{sup|5}} + 2{{sup|5}} + 3{{sup|5}} + 4{{sup|5}} === 1301 から 1400 までの数 === ---- * '''1301''' - 1303と組で45番目の双子素数、中心つき四角数、エマープ(1301 ←→ 1031) * '''1306''' = 1<sup>1</sup> + 3<sup>2</sup> + 0<sup>3</sup> + 6<sup>4</sup><ref>{{OEIS|A032799}}</ref> * '''1307''' - 安全素数 * '''1309''' - 連続する3つの自然数が楔数である最小のもの(1309, 1310, 1311) の前者 * '''1310''' - 連続する3つの自然数が楔数である最小のもの(1309, 1310, 1311) の真ん中 * '''1311''' - 連続する3つの自然数が楔数である最小のもの(1309, 1310, 1311) の後者 * '''1319''' - 1321と組で46番目の双子素数、安全素数 * '''[[1320]]''' - 双子素数の和(659 + 661)。10番目の[[三連続積数]]。1つ手前は[[990]]、次は[[1716]]。 * '''1321''' - エマープ(1321 ←→ 1231) * '''1325''' = 20{{sup|2}} + 21{{sup|2}} + 22{{sup|2}} 、[[マルコフ数]] * '''1326''' - 三角数、六角数 * '''1327''' - [[素数#分布|素数のギャップ]]が30を超える最小の素数(1361 - 1327 = 34) * '''1330''' - 三角錐数、[[ルース=アーロン・ペア]] (1330, 1331) の前者 * '''[[1331]]''' = 11<sup>3</sup>、中心つき七角数、ルース=アーロン・ペア (1330, 1331) の後者、回文[[立方数]](∀N>3のN進法によって1331を表記しても、1331は必ず回文立方数になる。これは<math>1\times N^3+3\times N^2+3\times N^{}+1=\left(1\times N+1\right)^{3}</math>であるため) * '''[[1332]]''' = 2{{sup|2}} × 3{{sup|2}} × 37 = 36 × 37、矩形数 * '''1333''' = 36{{sup|0}} + 36{{sup|1}} + 36{{sup|2}}、最小の18-[[ハイパー完全数]] * '''1335''' - 五角数、「待ち望んで'''千三百三十五'''日に至る者は、まことに幸いである。」([[ダニエル書]] 12章 12節) * '''1344''' - 連続してある数に対して[[約数の和]]を求めていった場合42個の数が1344になる。1344より小さい数で42個ある数はない。いいかえると <math>\sigma^m(n)=1344~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が42個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]])<ref>{{OEIS|A241954}}</ref> * '''[[1350]]''' - 九角数 * '''1361''' - 素数のギャップが30を超える最小の素数の組(1361 &minus; 1327 = 34)の中の大きい方 * '''1364''' - [[リュカ数]] * '''1365''' - [[五胞体数]] * '''1367''' - 安全素数 * '''1369''' = 37{{sup|2}}、中心つき八角数 * '''1371''' - 最初の28個の素数の合計 * '''1378''' - 三角数 * '''1379''' - 14 × 14 の魔方陣の一列の和 * '''1381''' - 中心つき五角数、エマープ(1381 ←→ 1831) * '''1387''' - {{仮リンク|超プーレ数|en|super-Poulet number}}、十角数 * '''1395''' = 15 × 93、[[ヴァンパイア数]] * '''1399''' - エマープ(1399 ←→ 9931) === 1401 から 1500 までの数 === ---- * '''1404''' - 七角数 * '''1405''' = 26<sup>2</sup> + 27<sup>2</sup> = 7<sup>2</sup> + 8<sup>2</sup> + ... + 16<sup>2</sup>、26番目の中心つき四角数 * '''[[1406]]''' = 37 × 38、矩形数 * '''1407''' = 37{{sup|0}} + 37{{sup|1}} + 37{{sup|2}} 、この形で表すことのできる3番目の楔数である。一つ前は651、次は2163。 * '''[[1408]]''' * '''1409''' - ソフィー・ジェルマン素数、スーパー素数 * '''1419''' - [[ツァイゼル数]] * '''1426''' - 五角数 * '''1427''' - 1429と組で47番目の[[双子素数]] * '''1430''' - [[カタラン数]] * '''1431''' - 53番目の三角数、六角数 * '''1433''' - スーパー素数 * '''1435''' - ヴァンパイア数(35×41) * '''[[1439]]''' - ソフィー・ジェルマン素数かつ安全素数(9番目)、<math>\sqrt[\pi]{\pi}</math>の数字列からできる最小の素数。({{OEIS|A174277}}) * '''[[1440]]''' - 4[[度 (角度)|周]](4×360)、高度トーティエント数 * '''[[1441]]''' - 六芒星数 * '''[[1444]]''' = 38{{sup|2}}、[[ローマ数字]]表記で[[パンデジタル数]]であるもののうち最小のもの<ref>{{OEIS2C|A105417}}</ref> * '''1447''' - スーパー素数 * '''1451''' - 1453と組で48番目の双子素数、ソフィー・ジェルマン素数 * '''1454''' = 21{{sup|2}} + 22{{sup|2}} + 23{{sup|2}} * '''[[1458]]''' = 2<sup>1</sup> × 3<sup>6</sup> = 2 × [[729]]。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} になる数、1つ前は1296、次は[[1536]]。[[九進法]]では 2000{{sub|(9)}} になる。 * '''1461''' - [[閏年]]を含めたときの4年間の日数 * '''1463''' = 11{{sup|1}} + 11{{sup|2}} + 11{{sup|3}} * '''1464''' = 11{{sup|0}} + 11{{sup|1}} + 11{{sup|2}} + 11{{sup|3}} * '''1469''' - 八面体数 * '''1470''' - 五角錐数 * '''1471''' - スーパー素数、中心つき七角数、エマープ(1471 ←→ 1741)、十進法において、スーパー素数同士のエマープとしては最小。 * '''1480''' - 最初の29個の素数の合計 * '''[[1481]]''' - 1483, 1487, 1489と組で6番目の[[四つ子素数]]、1483と組で49番目の[[双子素数]]、ソフィー・ジェルマン素数 * '''1482''' - 矩形数 * '''[[1483]]''' = 38{{sup|0}} + 38{{sup|1}} + 38{{sup|2}} * '''1485''' - 三角数 * '''1487''' - 安全素数、1489と組で50番目の双子素数である。 * '''1490''' - [[フィボナッチ数#テトラナッチ数|テトラナッチ数]] * '''1491''' - 九角数 * '''1496''' - 四角錐数 * '''1499''' - ソフィー・ジェルマン素数、スーパー素数 === 1501 から 1600 までの数 === ---- * '''1501''' - 中心つき五角数 * '''1511''' - ソフィー・ジェルマン素数、[[エマープ]](1511 ←→ 1151) * '''[[1512]]''' = 2<sup>3</sup> × 3<sup>3</sup> × 7<sup>1</sup> = 6<sup>3</sup> × 7<sup>1</sup> 。連続してある数に対して約数の和を求めていった場合、53個の数が1512になる。1512より小さい数で53個ある数はない。いいかえると <math>\sigma^m(n)=1512~(m\geqq 1)</math> を満たす ''n'' が53個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]]) * '''1513''' - 中心つき四角数 * '''1520''' - 五角数、ルース=アーロン・ペア (1520, [[1521]]) の前者 * '''[[1521]]''' = 39{{sup|2}}、中心つき八角数、ルース=アーロン・ペア (1520, 1521) の後者 * '''1523''' - 安全素数、スーパー素数 * '''1525''' - 七角数 * '''1530''' - ヴァンパイア数(30×51) * '''[[1536]]''' = 2{{sup|9}} × 3 = [[512]] × 3 。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} になる数、1つ前は[[1458]]、次は[[1728]]。[[八進法]]では 3000{{sub|(8)}} になる。 * '''1537''' - キース数 * '''[[1540]]''' - 三角数、六角数、十角数、三角錐数 * '''1555''' = 6{{sup|0}} + 6{{sup|1}} + 6{{sup|2}} + 6{{sup|3}} + 6{{sup|4}} 。[[六進法]]では11111{{sub|(6)}}となり[[回文数]]。 * '''1556''' - 最初の9個の素数の平方の合計 * '''1559''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''1560''' = [[39]] × [[40]] 、[[矩形数]] * '''1561''' = 39{{sup|0}} + 39{{sup|1}} + 39{{sup|2}} * '''1568''' = 28 × σ(28) * '''1572''' = 12{{sup|3}} &minus; 12{{sup|2}} &minus; 12 * '''[[1575]]''' - 奇数の[[過剰数]] * '''1583''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''1584''' = 12<sup>3</sup> &minus; 12<sup>2</sup> = 11 × 12<sup>2</sup> * '''1589''' = 22{{sup|2}} + 23{{sup|2}} + 24{{sup|2}} * '''1593''' - 最初の30個の素数の合計 * '''1596''' - 三角数 * '''1597''' - スーパー素数、[[フィボナッチ数]]、[[マルコフ数]] * '''[[1600]]''' = [[40]]<sup>2</sup> = 2{{sup|6}} × 5{{sup|2}} = [[64]] × [[25]]。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 5{{sup|''j''}} になる数、1つ前は[[1280]]、次は[[2000]]。[[ホワイトハウス]]の番地(ワシントンDCペンシルベニア通り1600番地)、[[SAT (大学進学適性試験)|SAT]]の満点の点数。 === 1601 から 1700 までの数 === ---- * '''1601''' - ソフィー・ジェルマン素数、[[マーク・トウェイン]]の小説『{{仮リンク|1601 (小説)|en|1601 (Mark Twain)}}』、エマープ(1601 ←→ 1061) * '''1602''' - [[ハーシャッド数]] * '''1607''' - 1609と組で51番目の[[双子素数]] * '''1617''' - 五角数 * '''1618''' - 中心つき七角数、1618 × 10{{sup|-3}} = 1.618 は[[黄金比]]の近似値({{OEIS|A001622}}) * '''[[1620]]''' - [[ハミリング数]]、ハーシャッド数、双子素数の和(809 + 811) * '''1619''' - 1621と組で52番目の双子素数、安全素数 * '''1621''' - スーパー素数 * '''1625''' - 中心つき四角数 * '''1626''' - 中心つき五角数 * '''1633''' - 六芒星数 * '''1634''' = 1{{sup|4}} + 6{{sup|4}} + 3{{sup|4}} + 4{{sup|4}} * '''1638''' - [[調和数]] * '''1639''' - 九角数 * '''1640''' - 矩形数 * '''1641''' = 40{{sup|0}} + 40{{sup|1}} + 40{{sup|2}} * '''1644''' - 双子素数の和([[821]] + [[823]]) * '''1649''' = 4{{sup|5}} + 5{{sup|4}} * '''1651''' - 七角数 * '''1653''' - 三角数、六角数 * '''1656''' - 双子素数の和([[827]] + [[829]]) * '''1667''' - 1669と組で53番目の双子素数 * '''1669''' - スーパー素数 * '''1676''' = 1<sup>1</sup> + 6<sup>2</sup> + 7<sup>3</sup> + 6<sup>4</sup> * '''1679''' = 23 × 73 、 [[23]]を基とする最小のハーシャッド数、天文学者[[カール・セーガン]]は1974年に[[アレシボ天文台]]から1679ビットの「E.T.への手紙」([[アレシボ・メッセージ]])を発信した。 * '''[[1680]]''' - 高度合成数 * '''1681''' = [[41]]<sup>2</sup>、中心つき八角数、''n''<sup>2</sup> + ''n'' + 41 の形で最小の[[合成数]]([[素数#素数生成式|素数生成式]]参照) * '''1682''' - ルース=アーロン・ペア (1682, 1683) の前者 * '''1683''' - ルース=アーロン・ペア (1682, 1683) の後者 * '''1695''' - 15 × 15 の魔方陣の一列の和 * '''1697''' - 1699と組で54番目の双子素数 === 1701 から 1800 までの数 === ---- * '''1701''' = [[3]]{{sup|5}} × [[7]]、十角数、『[[スタートレック]]』に登場するU.S.S.エンタープライズの艦番 * '''1705''' - [[フィボナッチ数#トリボナッチ数|トリボナッチ数]] * '''1711''' - 三角数 * '''1716''' - 双子素数の和([[857]] + 859)。11番目の三連続積数。1つ手前は[[1320]]、次は[[2184]]。  * '''1717''' - 五角数 * '''1720''' - 最初の31個の素数の合計 * '''1721''' - 1723と組の55番目の双子素数 * '''1722''' - 矩形数、ジューガ数 * '''1723''' = 41{{sup|0}} + 41{{sup|1}} + 41{{sup|2}} 、 スーパー素数 * '''[[1728]]''' = [[12]]<sup>3</sup> = 2{{sup|6}} × 3{{sup|3}} = [[64]] × [[27]]。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} になる数、1つ前は[[1536]]、次は[[1944]]。[[十二進法]]で1000 、1[[グロス|大グロス]]。 * '''[[1729]]''' = 7 × 13 × 19 。 [[タクシー数]]、カーマイケル数、ツァイゼル数、中心つき立方体数 * '''1730''' = 23{{sup|2}} + 24{{sup|2}} + 25{{sup|2}} * '''1733''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''1741''' - スーパー素数、中心つき四角数、エマープ(1741 ←→ 1471) * '''1756''' - 中心つき五角数 * '''1760''' - 1[[マイル]]=1760[[ヤード]]。[[32]]と[[55]]の最小公倍数。 * '''1764''' = 42{{sup|2}}、双子素数の和(881 + 883)、[[42]]番目の平方数 * '''1770''' - 三角数、六角数、オーストラリアに[[セブンティーンセブンティ]] (1770) という名前の町がある * '''1771''' - 三角錐数 * '''1772''' - 中心つき七角数 * '''1777''' - 下3桁が「777」の素数としては最小 * '''1778''' - <math>\sqrt[4]{10}</math>の近似値 * '''1782''' - 七角数 * '''1785''' - 四角錐数 * '''1787''' - 1789と組の56番目の双子素数、スーパー素数 * '''1794''' - 九角数 * '''[[1800]]''' = 5 × 360、5[[度 (角度)|周]]、五角錐数、7以外の1から10までに加えて25(5{{sup|2}})で割り切れる最小の数。 === 1801 から 1900 までの数 === ---- * '''1806''' - 矩形数 * '''1807''' = 42{{sup|0}} + 42{{sup|1}} + 42{{sup|2}} 、[[シルベスター数列]]の第5項 * '''1811''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''1820''' - 五角数、五胞体数 * '''1823''' - 安全素数、スーパー素数 * '''1827''' - 5番目の[[ヴァンパイア数]](21×87) <!-- * '''1828''' - 6番目の [[:en:meandric number|meandric number]]--> * '''[[1830]]''' - 三角数 * '''1834''' - 八面体数、最初の5個の素数の3乗の合計 * '''1836''' - [[陽子]]と[[電子]]の[[質量]]のおおよその比率 * '''1837''' - 六芒星数 * '''1847''' - スーパー素数 * '''1849''' = 43{{sup|2}}、中心つき八角数 * '''1851''' - 最初の32個の素数の合計 * '''1854''' - [[完全順列|モンモール数]] * '''1861''' - 中心つき四角数 * '''1862''' - ルース=アーロン・ペア (1862, 1863) の前者 * '''1863''' - ルース=アーロン・ペア (1862, 1863) の後者 * '''1865''' - [[六進法]]で 12345 となる。 * '''1867''' - (''p'', ''p'' + 4, ''p'' + 6, ''p'' + 10, ''p'' + 12)が素数になる3番目の素数 ''p'' である。({{OEIS|A022007}}) * '''1870''' - 十角数 * '''1871''' - 1873, 1877, 1879と組で7番目の[[四つ子素数]]、1873と組で57番目の[[双子素数]] * '''1877''' - 1879と組で58番目の双子素数、1877 = 24{{sup|2}} + 25{{sup|2}} + 26{{sup|2}} * '''1884''' = 12{{sup|1}} + 12{{sup|2}} + 12{{sup|3}} * '''1885''' = 12{{sup|0}} + 12{{sup|1}} + 12{{sup|2}} + 12{{sup|3}}、[[十二進法]]で1111、ツァイゼル数 * '''1889''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''1891''' - 三角数、六角数、中心つき五角数 * '''1892''' - 矩形数 * '''1893''' = 43{{sup|0}} + 43{{sup|1}} + 43{{sup|2}} * '''1898''' - [[26]]を基とする最小のハーシャッド数 === 1901 から 1999 までの数 === ---- * '''1901''' - ソフィー・ジェルマン素数、エマープ(1901 ←→ 1091) * '''1907''' - 安全素数 * '''1909''' - 2番目の18-ハイパー完全数 * '''1913''' - スーパー素数 * '''1918''' - 七角数 * '''[[1920]]''' = 2{{sup|7}} × 3 × 5 = [[64]] × [[30]] 、連続してある数に対して約数の和を求めていった場合56個の数が1920になる。1920より小さい数で56個ある数はない。いいかえると <math>\sigma^{m}(n)=1920~\left(m\geqq 1\right)</math> を満たす ''n'' が56個あるということである。(ただし σ は[[約数関数]]) * '''1926''' - 五角数 * '''1931''' - 1933と組で59番目の双子素数、ソフィー・ジェルマン素数 * '''1933''' - 中心つき七角数 * '''1936''' = 44{{sup|2}} * '''[[1943]]''' - 三角数、六角数 * '''[[1944]]''' = 2{{sup|3}} × 3{{sup|5}}。素因数分解形が 2{{sup|''i''}} × 3{{sup|''j''}} (''i'' ≧ 0, ''j'' ≧ 0) になる数、1つ前は[[1728]]、次は[[2048]]。 * '''1949''' - 1951と組で60番目の双子素数 * '''1953''' - 三角数 * '''1956''' - 九角数 * '''[[1960]]''' = 2{{sup|3}} × 5 × 7{{sup|2}} * '''[[1973]]''' - ソフィー・ジェルマン素数 * '''[[1974]]''' - 四素合成数 * '''[[1980]]''' = 2{{sup|2}} × 3{{sup|2}} × 5 × 11 = [[44]] × [[45]] 、[[矩形数]]。 * '''[[1981]]''' = 44{{sup|0}} + 44{{sup|1}} + 44{{sup|2}} * '''[[1985]]''' - 中心つき四角数 * '''[[1987]]''' - 300番目の[[素数]] * '''[[1988]]''' - 最初の33個の素数の合計 * '''[[1997]]''' - [[1999]]と組で61番目の双子素数 * '''[[1998]]''' - [[27]]を基とする2番目の[[ハーシャッド数]] * '''[[1999]]''' - [[十進法]]で下三桁が999の素数としては最小であり、逆数の循環節の長さも999桁。[[六進法]]では13131{{sub|(6)}}で[[回文数]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Wiktionarypar|1000|千|Ⅿ|ⅿ|ↀ}} * [[1 E3]] * [[100]] - [[200]] - [[300]] - [[400]] - [[500]] - [[600]] - [[700]] - [[800]] - [[900]] - '''1000''' * '''1000''' - [[2000]] - [[3000]] - [[4000]] - [[5000]] - [[6000]] - [[7000]] - [[8000]] - [[9000]] * [[10]] - [[100]] - '''1000''' - [[10000]] - [[100000]] - [[1000000]] - [[10000000]] - [[100000000]] * [[1000年|西暦1000年]] * [[千手観音]] * [[千羽鶴]] * [[千日手]] * [[千日前]] - [[千本通]] * [[千本桜]] *[[千]] {| class="wikitable" |+ 1001 から 1999 までの整数 ! 1000 !! [[1001]] !! [[1002]] !! [[1003]] !! [[1004]] !! [[1005]] !! [[1006]] !! [[1007]] !! [[1008]] !! [[1009]] !! [[1010]] !! [[1011]] !! [[1012]] !! [[1013]] !! [[1014]] !! [[1015]] !! [[1016]] !! 1017 !! 1018 !! [[1019]] |- ! [[1020]] !! 1021 !! 1022 !! [[1023]] !! [[1024]] !! [[1025]] !! 1026 !! 1027 !! 1028 !! 1029 !! 1030 !! 1031 !! 1032 !! 1033 !! 1034 !! [[1035]] !! 1036 !! 1037 !! 1038 !! 1039 |- ! 1040 !! 1041 !! 1042 !! 1043 !! 1044 !! 1045 !! 1046 !! 1047 !! 1048 !! 1049 !! 1050 !! 1051 !! 1052 !! [[1053]] !! 1054 !! 1055 !! 1056 !! 1057 !! 1058 !! 1059 |- ! 1060 !! 1061 !! 1062 !! 1063 !! 1064 !! [[1065]] !! 1066 !! 1067 !! 1068 !! 1069 !! 1070 !! 1071 !! 1072 !! 1073 !! 1074 !! 1075 !! 1076 !! 1077 !! 1078 !! 1079 |- ! [[1080]] !! 1081 !! 1082 !! 1083 !! 1084 !! 1085 !! 1086 !! 1087 !! 1088 !! [[1089]] !! [[1090]] !! 1091 !! 1092 !! [[1093]] !! 1094 !! 1095 !! 1096 !! 1097 !! 1098 !! 1099 |- ! 1100 !! 1101 !! 1102 !! 1103 !! 1104 !! 1105 !! 1106 !! [[1107]] !! 1108 !! 1109 !! 1110 !! [[1111]] !! 1112 !! 1113 !! [[1114]] !! 1115 !! [[1116]] !! 1117 !! 1118 !! 1119 |- ! 1120 !! 1121 !! 1122 !! 1123 !! 1124 !! [[1125]] !! 1126 !! 1127 !! 1128 !! 1129 !! 1130 !! 1131 !! 1132 !! 1133 !! [[1134]] !! 1135 !! 1136 !! 1137 !! 1138 !! 1139 |- ! 1140 !! 1141 !! 1142 !! [[1143]] !! 1144 !! 1145 !! 1146 !! 1147 !! 1148 !! 1149 !! 1150 !! [[1151]] !! [[1152]] !! 1153 !! 1154 !! 1155 !! [[1156]] !! 1157 !! 1158 !! 1159 |- ! 1160 !! 1161 !! 1162 !! 1163 !! 1164 !! 1165 !! 1166 !! 1167 !! 1168 !! 1169 !! 1170 !! 1171 !! 1172 !! 1173 !! 1174 !! 1175 !! 1176 !! 1177 !! 1178 !! [[1179]] |- ! 1180 !! 1181 !! 1182 !! 1183 !! 1184 !! 1185 !! 1186 !! 1187 !! 1188 !! 1189 !! 1190 !! 1191 !! 1192 !! 1193 !! 1194 !! 1195 !! 1196 !! 1197 !! 1198 !! 1199 |- ! [[1200]] !! 1201 !! 1202 !! 1203 !! 1204 !! 1205 !! 1206 !! 1207 !! [[1208]] !! 1209 !! 1210 !! 1211 !! [[1212]] !! 1213 !! 1214 !! 1215 !! 1216 !! 1217 !! 1218 !! 1219 |- ! 1220 !! 1221 !! 1222 !! 1223 !! [[1224]] !! [[1225]] !! [[1226]] !! 1227 !! [[1228]] !! 1229 !! 1230 !! [[1231]] !! 1232 !! 1233 !! [[1234]] !! [[1235]] !! 1236 !! 1237 !! 1238 !! 1239 |- ! 1240 !! 1241 !! [[1242]] !! 1243 !! 1244 !! 1245 !! 1246 !! 1247 !! 1248 !! 1249 !! 1250 !! 1251 !! 1252 !! 1253 !! 1254 !! 1255 !! 1256 !! 1257 !! 1258 !! 1259 |- ! [[1260]] !! 1261 !! 1262 !! 1263 !! 1264 !! 1265 !! 1266 !! 1267 !! 1268 !! 1269 !! 1270 !! 1271 !! 1272 !! 1273 !! 1274 !! 1275 !! 1276 !! 1277 !! [[1278]] !! 1279 |- ! [[1280]] !! 1281 !! 1282 !! [[1283]] !! 1284 !! 1285 !! 1286 !! [[1287]] !! 1288 !! 1289 !! 1290 !! 1291 !! 1292 !! 1293 !! 1294 !! 1295 !! [[1296]] !! 1297 !! 1298 !! 1299 |- ! [[1300]] !! 1301 !! 1302 !! 1303 !! 1304 !! 1305 !! 1306 !! 1307 !! 1308 !! 1309 !! 1310 !! 1311 !! 1312 !! 1313 !! [[1314]] !! 1315 !! 1316 !! 1317 !! 1318 !! 1319 |- ! 1320 !! 1321 !! 1322 !! 1323 !! 1324 !! 1325 !! 1326 !! 1327 !! 1328 !! 1329 !! 1330 !! [[1331]] !! [[1332]] !! 1333 !! 1334 !! 1335 !! 1336 !! [[1337]] !! 1338 !! 1339 |- ! 1340 !! 1341 !! 1342 !! 1343 !! 1344 !! 1345 !! 1346 !! 1347 !! 1348 !! [[1349]] !! [[1350]] !! 1351 !! 1352 !! 1353 !! 1354 !! 1355 !! 1356 !! 1357 !! 1358 !! 1359 |- ! 1360 !! 1361 !! 1362 !! 1363 !! 1364 !! 1365 !! 1366 !! 1367 !! 1368 !! 1369 !! 1370 !! 1371 !! 1372 !! 1373 !! 1374 !! 1375 !! 1376 !! 1377 !! 1378 !! 1379 |- ! 1380 !! 1381 !! 1382 !! 1383 !! 1384 !! 1385 !! 1386 !! 1387 !! 1388 !! 1389 !! 1390 !! 1391 !! 1392 !! 1393 !! 1394 !! 1395 !! 1396 !! 1397 !! 1398 !! 1399 |- ! [[1400]] !! 1401 !! 1402 !! 1403 !! 1404 !! 1405 !! [[1406]] !! 1407 !! [[1408]] !! 1409 !! 1410 !! 1411 !! 1412 !! [[1413]] !! 1414 !! 1415 !! [[1416]] !! 1417 !! [[1418]] !! 1419 |- ! 1420 !! 1421 !! 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チューブ
チューブ (tube) 固有名詞
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チューブ (tube) 内部が空洞の円筒・管のこと。ナノチューブなど。→パイプ(硬質なもの)またはホース(軟質なもの) 練り歯磨きや、絵具などの絞り出し式の容器。→チューブ (容器) 波が巻いてできる、波の内側の空洞・トンネルのこと。後述のTUBE(日本のバンド)はこれが名前の由来となっている。 真空管のこと。 真空管であるブラウン管が使われていたテレビ受像機から転じてテレビのこと。そのような用例としてたとえばYouTubeなど。 自動車のタイヤチューブを浮き輪代わりに川下りする道具。チュービングと呼ばれている。 釣りに使うルアーで、ワームの一種。ボールペンのキャップのような外観。 molecular tube - 分子チューブ。ナノチューブのカーボンナノチューブとは異なり分子性のチューブのこと。現在盛んに研究が進められている。 固有名詞 ロンドン地下鉄のこと TUBE - 日本のバンド。 TUBE (アルバム) - 同バンドの27枚目のアルバム。 TUBE (映画) - 韓国の映画作品(튜브)。 ザ・チューブ - 日本のテレビ番組制作プロダクション。 地底帝国チューブ - 光戦隊マスクマンに登場する組織。
{{Wiktionary|チューブ|tube}} '''チューブ''' (tube) * 内部が空洞の円筒・[[管]]のこと。[[ナノチューブ]]など。→[[パイプ]](硬質なもの)または[[ホース]](軟質なもの) * [[歯磨剤|練り歯磨き]]や、[[絵具]]などの絞り出し式の容器。→[[チューブ (容器)]] * 波が巻いてできる、波の内側の空洞・トンネルのこと。後述のTUBE(日本のバンド)はこれが名前の由来となっている。 * [[真空管]]のこと。 ** 真空管である[[ブラウン管]]が使われていた[[テレビ受像機]]から転じて[[テレビ]]のこと。そのような用例としてたとえば[[YouTube]]など。 * [[自動車]]のタイヤチューブを浮き輪代わりに川下りする道具。[[チュービング]]と呼ばれている。 * [[釣り]]に使うルアーで、[[ルアー#ワーム類|ワーム]]の一種。[[ボールペン]]のキャップのような外観。 * [[molecular tube]] - 分子チューブ。ナノチューブの[[カーボンナノチューブ]]とは異なり分子性のチューブのこと。現在盛んに研究が進められている。 '''固有名詞''' * [[ロンドン地下鉄]]のこと * [[TUBE]] - 日本のバンド。 ** [[TUBE (アルバム)]] - 同バンドの27枚目のアルバム。 * [[TUBE (映画)]] - [[大韓民国|韓国]]の映画作品([[:ko:튜브 (영화)|{{lang|ko|튜브(영화)}}]])。 * [[ザ・チューブ]] (The TUBE) - 日本の[[テレビ番組]][[制作プロダクション]]。 * 地底帝国チューブ - [[光戦隊マスクマン]]に登場する組織。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ちゆうふ}} [[Category:同名の作品]]
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安藤忠雄
安藤 忠雄(あんどう ただお、1941年(昭和16年)9月13日 - )は、日本の建築家。一級建築士(登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表。東京大学特別栄誉教授。文化功労者。文化勲章受章。21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。コンクリート打ちっ放し建築を主に住宅や教会、ホテルなど国内外に数々の作品を発表。「住吉の長屋」(1976年)、「光の教会」(1989年)、「ベネッセアートサイト直島」(1992年 - )、「淡路夢舞台」(2000年)、「こども本の森 中之島」(2020年)などの代表作が知られる。 大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。三人兄弟で弟が2人いる。双子の弟は、北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰する北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。一人娘だった母親の実家・安藤家を継ぐため、生前からの約束に従い祖父母の安藤彦一・キクエの養子となる。大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。 大阪府立城東工業高等学校卒業。月給1万円の時代に、4回戦のファイトマネーが4千円という報酬に魅せられ、高校在学中の17歳の時にプロボクサーのライセンスを取得し、フェザー級でデビュー。リングネームは「グレート安藤」。以後、10試合ほど行い6回戦まで行った が、所属ジムに来ていたファイティング原田の練習を見て、身体能力の桁が違うとその才能に圧倒され、1年半ほどでボクシングからは引退する。 もともと、中学生の頃、自宅の建て替えを担当した大工や、中学時代の数学教師からの影響で、建築に興味を持っていたため、卒業後、前衛美術を志向する具体美術協会に興味を持つ。 経済上の理由で大学には通えなかったため建築の専門教育は受けておらず、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して建築士試験に1発で合格した(註:大学の授業は、建築士試験の内容だけを学ぶものではない。一級建築士登録番号より、1968年頃、27歳で取得したと思われる) また、水谷頴介の建築設計事務所でのアルバイトもしていた。 木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から7ヶ月アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インドのボンベイ(現:ムンバイ)で下船する。安藤は“何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が火葬に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。 1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。 1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、寺院・教会などの中小規模の建築の設計が多かった。1990年代以降は、公共建築、美術館建築、海外の仕事も増えている。 2009年10月の第121次IOC総会でブラジル・リオに敗れ、幻に終わった2016年オリンピック構想の「東京オリンピックスタジアム」(想定は都立・国の施設 それぞれの説がある)。当時の都知事・石原慎太郎は、招致委員会の理事でもあった 安藤にメインスタジアムを含めた建設計画を依頼した。 そして安藤(ゼネラルマネジャーとなった)がスタジアム建設地に晴海を選び、日建設計・日本設計・山下設計の協力の下、その全体計画をまとめた。2007年11月時点で安藤は、メインスタジアムの(実際の)設計はコンクール(国際コンペ)を開くべきだと思うとも提案していた。2009年には、「オリンピックは、心のレガシー(遺産)だ」ということも訴えた。 変わって2012年。ラグビーワールドカップ2019の日本開催が2009年7月に決定していたことや、翌2013年に決まる2020年夏季五輪の東京の再立候補を見据え、日本スポーツ振興センター(JSC)らが国立競技場の建て替えを決定。 安藤は前述2016年五輪招致の経験や実績などが考慮されて2020招致委員会の評議会委員でもあり、「国立競技場将来構想有識者会議」メンバーに選出されると共に、「新国立競技場国際デザイン競技」の審査委員長も務めることとなった。応募期間(7月20日 - 9月25日)が短かったため海外の著名建築家らに、安藤自身が直接メールを送ってコンクールを知らせるなど尽力した。募集要項を詰めていた時点の2012年4月10日、「有識者会議」傘下「施設建築ワーキンググループ」第1回で出た70m容認案に対し、「相当な大きさです。(略)景観上の課題がある」と、安藤は難色を示していたという情報もある。 同年11月7日の最終審査(安藤を含め8人が参加)では、3つの案が拮抗していた。安藤は当初「34番」と、中心があり選手・観客が集中できると考えた「17番のザハ案」(ただし構造フレームが落とす影には懸念) との2つで悩み、それを打ち明けた。その後の議論で「34番」の屋根の技術的不安を安藤自身が指摘し、コンサートに用いたい委員からは音漏れを心配する意見も出た。 3つを対象に決選投票を実施したが、またも拮抗。休憩後の議論で安藤は理由を示さずに(当初自身が1位としていた34番を除外し)、「17番」と「2番」の2択に持っていった。そして、誰かから「議論で決まらないなら委員長の判断で決定でしょうか」「委員長を2票としていいのでは」など、委ねるような発言があり、安藤は「日本の技術力のチャレンジ」という精神から17番がいいと思いますと表明。他の審査委員から賛成の声が上がったこともあり、河野理事長が締めた。審査委員長メッセージとして、新国立競技場のあり方を「つくるべきは地球人の未来へと向かう灯台、希望の象徴となれる場所」 と表現していた。その後の11月15日の「有識者会議」(第3回)で安藤は、「最優秀案のほうが、それに日本の技術者が立ち向かっていくという意味ではいいのではないか」などと、選定理由を語った(当初は民主党政権下の会議資料は未公開だったが2015年8月に完全版が公開された)。 2013年9月の第125次IOC総会にて、2020年五輪の開催地に東京が選ばれた。 巨額な新国立建設費に関する問題が世間を賑わせてからマスコミの取材が押し寄せたが、安藤はそれを拒否し続けた。最終的に2520億円の予算が承認された2015年7月7日開催の「有識者会議」にも欠席した(後述の会見で「大阪で講演会があったので欠席した」ことを明かした)。 知り合い であるキャスターの辛坊治郎には「何でこんなに増えてるのか、分からへんねん!」と語っていたという。また、別の友人によると安藤は、文科省と日本スポーツ振興センター(JSC)に対して何度も責任をもって当初案を進めるように水面下で主張してきたという。 下村博文文科相は2015年7月10日に、新国立のデザイン選定理由など「何らかの形で発言してほしい」と述べた。それとの因果は不明だが、16日に都内で記者会見(安藤本人からJSCへの要望で実施)に出席し、記者からの質問に回答した。会見で安藤は「徹底的なコストの議論にはなっていないと思いますよ」とコンペを振り返ったが、一部の委員はコスト面も踏まえて真摯に審査していた。 安藤は9月4日、大阪出身を理由に自身がバッシングを浴び、(東京の新国立プロジェクトから)引きずり下ろそうとされたとの、意識を語った。 9月24日に公表された第三者検証委員会による本人へのヒアリング資料によると、安藤は「経験豊富な国土交通省に参加してもらい文部科学省との共同で行うべき」だと、初期段階で(関係者に)提言したことがあったという。
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安藤 忠雄は、日本の建築家。一級建築士(登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表。東京大学特別栄誉教授。文化功労者。文化勲章受章。21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。コンクリート打ちっ放し建築を主に住宅や教会、ホテルなど国内外に数々の作品を発表。「住吉の長屋」(1976年)、「光の教会」(1989年)、「ベネッセアートサイト直島」、「淡路夢舞台」(2000年)、「こども本の森 中之島」(2020年)などの代表作が知られる。
{{別人|安藤忠恕}} {{Otheruses|建築家|独立混成第62旅団長などを歴任した陸軍軍人|安藤忠雄 (陸軍軍人)}} {{Infobox 建築家 |image = Tadao Ando 2004.jpg |image_size = 220px |caption = [[2004年]]撮影 |name = 安藤 忠雄<br />あんどう ただお |nationality = {{JPN}} |birth_date = {{生年月日と年齢|1941|9|13}} |birth_place = [[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]] |death_date = |death_place = |alma_mater = [[大阪府立城東工科高等学校|大阪府立城東工業高等学校]] |practice_name = 安藤忠雄建築研究所 |significant_buildings= [[住吉の長屋]]<br />[[茨木春日丘教会|光の教会]]<br />[[地中美術館]] |significant_projects = |significant_design = |awards = [[日本建築学会賞]]作品賞(1979年)<br />[[毎日芸術賞]](1987年)<br />[[日本芸術院賞]](1993年)<br />[[プリツカー賞]](1995年)<br />[[高松宮殿下記念世界文化賞]](1996年)<br />[[RIBAゴールドメダル]](1997年)<br />[[AIAゴールドメダル]](2002年)<br />[[京都賞思想・芸術部門]](2002年)<br />[[UIAゴールドメダル]](2005年)<br />[[ジョン・F・ケネディ・センター|ジョン・F・ケネディセンター芸術金賞]](2010年)<br />[[後藤新平賞]](2010年) |website = {{URL|http://www.tadao-ando.com/}} }} [[画像:Ibaraki Kasugaoka Church light cross.jpg|283px|thumb|[[茨木春日丘教会|光の教会]]([[1989年]]竣工)]] '''安藤 忠雄'''(あんどう ただお、[[1941年]]([[昭和]]16年)[[9月13日]] - )は、[[日本]]の[[建築家]]。一級[[建築士]](登録番号第79912号)。安藤忠雄建築研究所代表<ref name="nikkeibp">{{Cite web|和書|date=2020年9月16日|url=https://project.nikkeibp.co.jp/behealth/atcl/column/00014/090800013/|title=大阪にこだわり、世界で活躍し続ける建築家 Vol.06 安藤忠雄氏 安藤忠雄建築研究所代表、建築家|publisher=[[日経BP]]|accessdate=2021-11-24}}</ref>。[[東京大学#特別栄誉教授|東京大学特別栄誉教授]]<ref name=東大特別栄誉教授>[http://www.u-tokyo.ac.jp/index/b01_10_j.html 東京大学特別栄誉教授:平成17年1月1日付称号授与/特別栄誉教授 安藤 忠雄](2023年12月12日閲覧)</ref>。[[文化功労者]]。[[文化勲章]]受章。[[新しい日本をつくる国民会議|21世紀臨調]]特別顧問、[[東日本大震災復興構想会議]]議長代理、[[大阪府庁|大阪府]]・[[大阪市特別顧問]]。[[コンクリート打ちっ放し]]建築を主に[[住宅]]や[[教会]]、[[ホテル]]など国内外に数々の作品を発表。「[[住吉の長屋]]」(1976年)、「[[光の教会]]」(1989年)、「[[ベネッセアートサイト直島]]」(1992年 - )、「[[淡路夢舞台]]」(2000年)、「[[こども本の森 中之島]]」(2020年)などの代表作が知られる<ref name="nikkeibp"/><ref name="">{{Cite web|和書|date=|url=https://webdesignmagazine.net/tadao-ando/|title=建築家の安藤忠雄の建築作品15選。代表作の住吉の長屋や淡路夢舞台など|publisher=DESIGNMAGAZINE|accessdate=2021-11-24}}</ref>。 == 略歴 == [[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]生まれ、同市[[旭区 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転職を決意したきっかけ]」『[[週刊朝日]]』2012年5月18日号/AERAdot.(2012年9月26日)2023年12月12日閲覧</ref>が、所属ジムに来ていた[[ファイティング原田]]の練習を見て、身体能力の桁が違うとその才能に圧倒され、1年半ほどでボクシングからは引退する<ref name="sankei_lif1709260024">{{cite news |title=建築家・安藤忠雄(2) 1カ月でライセンス取得、17歳でプロボクサーデビュー |newspaper=[[産経新聞]] |date=2017-9-26|url=https://www.sankei.com/article/20170926-YX2RYF4HQ5KTXD2PDUN56VXONE/ |accessdate=2019-3-21}}</ref><ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20150731_339143.html?DETAIL 安藤忠雄氏 元プロボクサーで都市空間デザイナーの弟は双子]『[[女性セブン]]』2015年8月13日号/NEWSポストセブン(2015年7月31日)2023年12月12日閲覧</ref>。 もともと、中学生の頃、自宅の建て替えを担当した[[大工]]や、中学時代の[[数学]]教師からの影響で、建築に興味を持っていた<ref name="sankei_lif1709260024"/>。このため卒業後、[[前衛美術]]を志向する[[具体美術協会]]に興味を持つ。 経済上の理由で大学には通えなかったことから[[建築学]]の専門教育は受けておらず、毎日15時間以上独学し、建築科の学生が通常4年かけて学ぶ内容を1年で習得して[[建築士]]試験に1発で合格した<ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message20_03_j.html 平成20年度入学式(学部)祝辞] 東京大学</ref><ref group="注釈">大学の授業は、建築士試験の内容だけを学ぶものではない。一級建築士登録番号より、1968年頃、27歳で取得したと思われる。</ref>。また、[[水谷頴介]]の建築設計事務所でのアルバイトもしていた。 木工[[家具]]の製作で得た資金を手に、24歳の時から7ヶ月、[[欧米]]、[[アフリカ]]、[[アジア]]へ放浪の旅に出る。[[ヨーロッパ]]からの帰路、南仏[[マルセイユ]]で数週間待たされた後、帰国の船に乗り、アフリカの[[象牙海岸]]、[[ケープタウン]]、[[マダガスカル]]に立ち寄り、[[インド]]の[[ボンベイ]](現:[[ムンバイ]])で下船する。安藤は“何かに導かれるように”[[汽車]]に乗り、[[ベナレス]]に向かった。[[ガンジス川]]で[[牛]]が泳ぎ、[[死者]]が[[火葬]]に付される傍らで多くの人々が[[沐浴]]するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く[[大地]]、[[生]]と[[死]]が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、[[ゲリラ]]としての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、[[ルイス・I・カーン]]の作品集などで使われている。 1977年のローズガーデン([[兵庫県]][[神戸市]][[生田区]])等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、[[セツ・モードセミナー]]出身の[[浜野安宏]]が代表を務める浜野商品研究所([[1992年]]、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。 [[1970年代]]には個人住宅などの小規模建築、[[1980年代]]には商業施設、[[仏教]][[寺院]]やキリスト教会などの中小規模の建築の設計が多かった。[[1990年代]]以降は、公共建築、[[美術館]]建築、海外の仕事も増えている。 手掛ける建築では、[[コンクリート]]を多用する。その理由について「コンクリートは[[20世紀]]を代表する[[建築材料|材料]]で、なおかつ誰にでも手に入る材料だ。私は誰にでも手に入る材料をもって、誰にでもない世界を創りたいと思う」と2021年に語っている<ref name="nhk">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_716.html|title=【あの人の健康法】建築家・安藤忠雄 建築と健康 その共通点|publisher=NHK|accessdate=2021-11-24}}</ref>。 == 年表 == *1941年9月13日:大阪市港区に生まれる。 *[[1965年]]:この年より4年間、2度にわたり世界を放浪。[[キューバ]]の革命家[[チェ・ゲバラ]]に傾倒し<ref>安藤忠雄『建築家安藤忠雄』序章「ゲリラの活動拠点」</ref>、ガンジス川の河岸でゲリラ的生き方を決意。 *[[1969年]]:安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。 *[[1976年]]:「[[住吉の長屋]]」(大阪市[[住吉区]])が高く評価され、1979年に[[日本建築学会賞]]を受賞。以降、[[打放しコンクリート|コンクリート打ち放し]]と[[幾何学]]的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。 *[[1980年代]]:[[関西]]周辺(特に、神戸市[[北野町山本通|北野町]]と大阪市[[心斎橋]])での商業施設設計や寺院・教会設計を相次いで建設。 *[[1987年]]:米国[[イェール大学]][[客員教授]]。 *[[1988年]]:米国[[コロンビア大学]]客員教授。 *[[1989年]]:米[[ハーバード大学]]客員教授。[[ベネッセコーポレーション|福武書店(後のベネッセ)]]の[[福武總一郎]]の依頼により、[[直島国際キャンプ場]]をオープン。その後、直島プロジェクトに参画、[[1992年]]の[[ベネッセハウス]]、[[1999年]]の「[[家プロジェクト]]」([[南寺]])へと続いていく。 *[[1991年]]:米国 [[ニューヨーク近代美術館]]にて個展開催。 *[[1993年]]:フランスの[[ポンピドゥー・センター]]にて個展開催。 *[[1997年]]:[[東京大学工学部]]建築学科教授に就任<ref group="注釈">東大教授時代の[[助手 (教育)|助手]]は建築家[[千葉学]]である。</ref>。 *[[2000年]]:[[豊島 (香川県)#豊島事件(産廃不法投棄)|豊島での産廃不法投棄事件]]が起きた[[瀬戸内海]]の環境保護をめざす「瀬戸内オリーブ基金」を[[中坊公平]]らと設立<ref name=瀬戸内オリーブ基金>[https://www.olive-foundation.org/ 瀬戸内オリーブ基金とは](2023年12月12日閲覧)</ref>。。 *[[2002年]]:米国[[南カリフォルニア大学]]客員教授。 *[[2003年]]:東京大学を定年退官して、東京大学[[名誉教授]]の称号を得る。 *[[2005年]] ** 新設された「東京大学特別栄誉教授」の称号を得る<ref name=東大特別栄誉教授/>。 ** 安藤忠雄文化財団を設立<ref group="注釈">2015年7月、アルピニストの[[野口健]]が第一回安藤忠雄文化財団賞を受賞した。出典:野口健公式サイト[http://www.noguchi-ken.com/M/2015/07/post-689.html 2015/07/16 安藤忠雄文化財団賞](2023年12月12日閲覧)。</ref>。 *[[2008年]]:[[大阪府庁|大阪府]]政策アドバイザー(水都・都市景観分野)。 *[[2009年]]:総合アドバイザーを務める「[[花と緑・光と水懇話会|水都大阪2009]]」開催<ref>[https://www.kankeiren.or.jp/keizaijin/pdf/c0809.pdf [クローズアップ]大阪=水都のブランド形成へ―水都大阪2009、来年開催]『経済人』2008年9月号([[関西経済連合会]])</ref>。 *[[2011年]] ** [[東日本大震災復興構想会議]]議長代理。 ** [[ヴェネツィアン・グラス]]のブランドである伊ヴェニーニと[[オブジェ]]を共同制作(2017年までに4回実施)<ref>[https://spur.hpplus.jp/culture/news/201710/10/MGl0M4c/ ヴェニーニと安藤忠雄コラボ第4弾、”空間の秩序”を表現した最新作がヴェールを脱ぐ][[SPUR (雑誌)|SPUR]]サイト(2017年10月10日)</ref>。 *[[2012年]]:[[国立競技場のデザインコンペ (2012年)|国立競技場 国際デザイン・コンクール]]審査委員長。[[国立競技場のデザインコンペ (2012年)#有識者会議|国立競技場将来構想有識者会議]]委員。 *[[2017年]] :国内では初の個展となる'''安藤忠雄展「挑戦」'''を[[国立新美術館]]で開催。 *[[2018年]]:10月10日より、フランス首都[[パリ]]の[[ポンピドゥー・センター]]にて'''安藤忠雄展「挑戦」'''が、日仏友好160周年、日本文化紹介事業「ジャポニスム 2018」の公式企画として開催<ref>[https://www.centrepompidou.fr/cpv/agenda/event.action?param.id=FR_R-adc02dae4259a50377c882cfcab71f1&param.idSource=FR_E-adc02dae4259a50377c882cfcab71f1 ※リンク切れ※]ポンピドゥー・センター公式サイト</ref>。 * [[2019年]]:[[2025年日本国際博覧会]](大阪・関西万博)ロゴマーク選考委員会座長に就任<ref>[https://logo.expo2025.or.jp/entry_detail.html 応募詳細] 大阪・関西万博ロゴマーク公募サイト</ref>。 * [[2020年]]:大阪・関西万博までに2025本の[[桜]]を府内に植樹することを目的に立ち上げた「万博の桜2025」実行委員会委員長に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kensetsunews.com/web-kan/415621 |title=【委員長に安藤忠雄氏】大阪府らが万博の桜2025実行委員会を設立 万博までに2025本の桜を植樹 |date=2020-01-31 |accessdate=2020-08-25 publisher=建設通信新聞}}</ref>。 == 社会活動 == === 環境問題と植樹・緑化 === 大阪市の[[桜之宮公園]]から[[中之島公園]]を結ぶルートに桜を植樹する運動を提唱し、「桜の会・[[平成]]の通り抜け」実行委員長。3000本を植樹し、「[[造幣局]]の通り抜け」とともに「平成の通り抜け」として大阪に新たな桜の名所をつくろうとするもの。 [[東京都庁]]からは「緑の東京募金実行委員会」委員長に任命され、[[東京湾]]の[[埋立地]]に植樹する「海の森」プロジェクト<ref>[https://web.archive.org/web/20160410172212/http://www.uminomori.metro.tokyo.jp/message.html 皆さまへ。「海の森」プロジェクトへの募金のお願い。]「海の森」Umi-no-Mori (Sea Forest)</ref> を、呼びかけ人の一人として推進している。 [[梅田スカイビル]]を建築した[[積水ハウス]]は[[2013年]][[6月17日]]に、安藤の発案で、同ビル内に高さ9[[メートル]]、長さ78メートルに亘って約50種の草木を植樹する内容の「緑の壁」計画を発表した<ref>「[http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20130618-OYT8T00268.htm 梅田スカイビルに緑の壁…安藤忠雄さん発案]{{リンク切れ|date=2023年12月}}」[[読売新聞]](2013年6月18日)</ref>。ビル緑化の取り組みの一つとされていたが、同日にビルの庭園の設計を担当した[[造園家]]の[[吉村元男]]が、当該計画は庭園のデザインの統一性を損ね、かつ[[著作権侵害]]にあたるとして、同月19日に同社に対し、工事中止を求める[[仮処分]]を[[大阪地方裁判所]]に申請した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130618-OYT1T00787.htm 安藤忠雄さん発案「希望の壁」巡り、著作権論争]{{リンク切れ|date=2023年12月}}読売新聞(2013年6月17日)</ref>。 [[2012年]]のインタビューでは、地球の[[資源]]や[[環境]]に関して、建築家が自分の仕事について考える方法は今も昔も同じで、利用可能な資源とエネルギーの使用に取り組む方法に変化や焦点の変化はないが、若い建築家がこれについて考え始めることは重要である旨を語っている<ref>{{Cite web|url=https://archinect.com/features/article/43132544/tadao-ando-interview-20-minutes-with-a-master|title=Archinect Featurees - Tadao Ando Interview: 20 Minutes with a Master|accessdate=2021-11-17}}</ref>。 === 東京オリンピック、関西・大阪万博など === [[石原慎太郎]][[東京都知事]]が推進した[[2016年東京オリンピック構想#役員一覧|2016年東京オリンピック招致委員会の理事]]に任命され、東京[[オリンピック]]デザイナー総監督をも務めることとなった<ref group="注釈">なお実際に東京都が招致に成功したのは、その次の[[2020年東京オリンピック]]で、[[新型コロナ禍]]により開催は1年延期されて2021年になった。</ref>。 === 東日本大震災の被災者支援・復興 === [[東日本大震災]]で親を亡くした子どもたちの学びを支援するため、文化人ら7名と共に遺児育英資金「桃・柿育英会」<ref>[http://momokaki.org/ 桃・柿育英会](2018年3月14日閲覧)</ref> を発足させ、実行委員長を務める。少なくとも10年間は子どもたちの成長を見守り、良好な教育環境の中で学んでいく意欲を支え続けることを主旨として、一口一万円を10年間寄付する支援者を募り、被災地の遺児・孤児へと支給していく。 === 「こども本の森」図書館 === 子供向け[[図書館]]を私費を投じて建設し、各地の自治体に寄贈する「こども本の森」を、大阪市[[中之島 (大阪府)|中之島]]を皮切りに、[[岩手県]][[遠野市]]、兵庫県神戸市、[[北海道大学]]([[札幌市]])構内へと展開している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASRC761M5RC7IIPE001.html 安藤忠雄氏が贈る「こども本の森」、北大に開設 3年後の完成目指す] [[朝日新聞デジタル]](2023年11月7日)2023年12月12日閲覧</ref>。 「こども本の森 中之島」計画は2017年に発表し、大阪市も賛同し、2019年夏頃の開館を目指して寄付を募集した<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000420126.html 「(仮称)こども本の森 中之島」への寄附のご協力をお願いします] 大阪市(2018年3月14日閲覧)</ref>。自らも費用を負担するとともに、大阪財界の企業を回って寄付を募っている。「新聞や本を読まない子が増えており、活字文化の大切さを見直したい」「お金持っては死ねない」との信念に基づく活動であると話している<ref>[[橋本五郎]]/五郎ワールド「お金持っては死ねない」『読売新聞』朝刊2018年3月10日解説面</ref>。なお、同図書館は2020年7月5日に開館した<ref>{{Cite web|和書|title=「主役は子供」 安藤忠雄さん、寄贈図書館への思い|url=https://www.iza.ne.jp/article/20200703-VQDQYHLHOZNJ7CYT6FPOSRRRGY/|work=産經デジタル iza|date=2020-07-03|accessdate=2020-07-03}}</ref><ref>{{Citenews|title=安藤忠雄さん設計「こども本の森 中之島」オープン 「想像力育んで」 大阪|url=https://mainichi.jp/articles/20200705/k00/00m/040/109000c|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2020-07-05|accessdate=2020-07-05}}</ref>。 == 人物・エピソード == * [[野武士]]世代と伝えられている(建築家[[槇文彦]]が命名。)。 * [[阪神タイガース]][[阪神ファン|ファン]]である。 * 安藤に保護され、事務所で飼っていた迷子の子犬を、[[ル・コルビュジエ]]に肖り、コルと名付けた。 * 過保護に育てられているとして「1980年以降に生まれた人たちはダメだ」と大学の講演などで発言し、気概があるのは高齢者ばかりで今の若者はダメ、高齢者が亡くなったあと日本は相当困ると指摘している<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20101229_9060.html?DETAIL 安藤忠雄 若者はダメと指摘し、高齢者死んだ後の日本を心配] - NEWSポストセブン</ref>。 * 事務所は自分のデザインした建築であるが、本人は(関西圏の)一般のマンションに住んでいる<ref>テレビ『コージ魂』安藤による発言</ref>。 === 闘病 === [[2009年]]に[[胆嚢癌|胆のうがん]]と[[十二指腸癌]]の手術ため、[[胆嚢|胆のう]]、[[胆管]]、[[十二指腸]]を摘出<ref>[http://citizen-journal.link/andoutadao/ 安藤忠雄は病気のがんを乗り越えて建築に魂を燃やしている!] CitizenJournal</ref>。[[2014年]]7月には[[膵癌|すい臓がん]]が発見され、[[膵臓]]と[[脾臓]]を全て摘出する手術を受け、2度の手術で5つの臓器を摘出した<ref>「[http://www.bsfuji.tv/primenews/text/txt141212.html 安藤忠雄と日本再建築 大手術から最前線復帰]」BSフジプライムニュース 2014年12月12日放送テキスト</ref>。 『[[読売新聞]]』の取材に応じて、同紙土曜日夕刊「一病息災」で2023年11月に闘病体験が連載された。 [[血糖値]]をコントロールするため、1日6回血糖値を測定し、[[インスリン]]注射を打っている。それ以前は朝10時から夜8時までノンストップで働いていたが、医者に昼食後1時間から1時間半程度休憩するように言われ、実践。今まで読めなかった本に接し、さらに新たなイマジネーションが湧くという<ref name="nhk"/>。 == 作品 == {|style="border-collapse:collapse" |style="vertical-align:top"| {|class="sortable wikitable" style="font-size:95%;line-height:1.4em" |-style="line-height:1.25em;white-space:nowrap" !竣工年!!名称!!所在地!!国!!備考 |- |1969年||JR大阪駅前プロジェクト||{{大阪}}市北区||{{JPN}}||計画案 |- |1971年||スワン商会ビル 小林邸||{{大阪}}市旭区||{{JPN}}||計画案 |- |1972年||ゲリラ 加藤邸||{{大阪}}市旭区||{{JPN}}||計画案 |- |rowspan="2"|1973年||富島邸||{{大阪}}市[[北区 (大阪市)|北区]]||{{JPN}}||現存せず |- |高橋邸||{{兵庫}}県芦屋市||{{JPN}}|| |- |rowspan="5"|1974年||平岡邸||{{兵庫}}県[[宝塚市]]||{{JPN}}|| |- |立見邸||{{大阪}}市||{{JPN}}||現存せず |- |芝田邸||{{兵庫}}県[[芦屋市]]||{{JPN}}|| |- |内田邸||{{京都}}市左京区||{{JPN}}|| |- |宇野邸||{{京都}}市右京区||{{JPN}}|| |- |rowspan="4"|1975年||双生観||{{兵庫}}県宝塚市||{{JPN}}|| |- |松村邸||{{兵庫}}県[[神戸市]]東灘区||{{JPN}}|| |- |Twin Wall||||{{JPN}}||計画案 |- |四軒長屋||{{大阪}}市||{{JPN}}||計画案 |- |rowspan="4"|1976年||'''[[住吉の長屋]]'''||{{大阪}}市[[住吉区]]||{{JPN}}|| |- |貫入 平林邸||{{大阪}}府[[吹田市]]||{{JPN}}|| |- |番匠邸||{{愛知}}県[[みよし市]]||{{JPN}}|| |- |'''帝塚山タワープラザ'''||{{大阪}}市住吉区||{{JPN}}|| |- |rowspan="4"|1977年||ローズガーデン||{{兵庫}}県神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]||{{JPN}}|| |- |帝塚山の家 真鍋邸||{{大阪}}市阿倍野区||{{JPN}}|| |- |領壁の家 松本邸||{{兵庫}}県芦屋市||{{JPN}}||現存せず |- |北野アレイ||{{兵庫}}県神戸市中央区||{{JPN}}|| |- |rowspan="4"|1978年||甲東アレイ||{{兵庫}}県[[西宮市]]||{{JPN}}|| |- |ガラスブロックの家 石原邸||{{大阪}}市[[生野区]]||{{JPN}}|| |- |大楠邸||{{東京}}都[[世田谷区]]||{{JPN}}|| |- |サニーガーデン||{{兵庫}}県西宮市||{{JPN}}|| |- |rowspan="5"|1979年||ガラスブロックウォール 堀内邸||{{大阪}}市住吉区||{{JPN}}||現存せず |- |片山ハウス||{{兵庫}}県西宮市||{{JPN}}||現存せず |- |大西邸||{{大阪}}市住吉区||{{JPN}}|| |- |松谷邸||{{京都}}市伏見区||{{JPN}}|| |- |上田邸||{{岡山}}県[[総社市]]||{{JPN}}|| |- |rowspan="4"|1980年||'''STEP'''||{{香川}}県[[高松市]]||{{JPN}}||現存せず |- |'''松本邸'''||{{和歌山}}県[[和歌山市]]||{{JPN}}|| |- |北野アイビーコート||{{兵庫}}県神戸市中央区||{{JPN}}|| |- |'''福邸'''||{{和歌山}}県和歌山市||{{JPN}}|| |- |rowspan="6"|1981年||リンズギャラリー||{{兵庫}}県神戸市中央区||{{JPN}}|| |- |'''小篠邸'''||{{兵庫}}県芦屋市||{{JPN}}|| |- |'''大淀のアトリエI'''||{{大阪}}市北区||{{JPN}}||富島邸を増改築、現存せず |- |児島の共同住宅||{{岡山}}県[[倉敷市]]||{{JPN}}|| |- |番匠邸増築||{{愛知}}県[[みよし市]]||{{JPN}}|| |- |ファッションライブシアター||{{兵庫}}県[[神戸市]]||{{JPN}}||現存せず |- |rowspan="6"|1982年||サンプレイス(香川相互銀行南新町支店)||{{香川}}県高松市||{{JPN}}|| |- |大淀のアトリエ(2期)||{{大阪}}市北区||{{JPN}}|| |- |石井邸||{{静岡}}県[[浜松市]]||{{JPN}}|| |- |双生観の茶室||{{兵庫}}県宝塚市||{{JPN}}|| |- |赤羽邸||{{東京}}都世田谷区||{{JPN}}|| |- |九条の町屋||{{大阪}}市[[西区 (大阪市)|西区]]||{{JPN}}|| |- |rowspan="5"|1983年||'''六甲の集合住宅I'''||{{兵庫}}県神戸市[[灘区]]||{{JPN}}|| |- |ビギ・アトリエ||{{東京}}都[[渋谷区]]||{{JPN}}|| |- |梅宮邸||{{兵庫}}県神戸市||{{JPN}}|| |- |茂木邸||{{兵庫}}県神戸市||{{JPN}}|| |- |金子邸||{{東京}}都渋谷区||{{JPN}}|| |- |rowspan="10"|1984年||フェスティバル||{{沖縄}}県[[那覇市]]||{{JPN}}||現 ドン・キホーテ国際通り店 |- |植条邸||{{大阪}}府吹田市||{{JPN}}||現存せず |- |太田邸||{{岡山}}県[[高梁市]]||{{JPN}}|| |- |MELROSE||{{東京}}都[[目黒区]]||{{JPN}}|| |- |岩佐邸||{{兵庫}}県芦屋市||{{JPN}}|| |- |南林邸||{{奈良}}県[[生駒市]]||{{JPN}}|| |- |'''TIME'S'''||{{京都}}市[[中京区]]||{{JPN}}|| |- |畑邸||{{兵庫}}県西宮市||{{JPN}}|| |- |'''小篠邸増築'''||{{兵庫}}県芦屋市||{{JPN}}|| |- |心斎橋TO||{{大阪}}市中央区||{{JPN}}|| |- |rowspan="9"|1985年||ジュン・ポートアイランドビル||{{兵庫}}県神戸市中央区||{{JPN}}|| |- |アトリエ・ヨシエ・イナバ||{{東京}}都渋谷区||{{JPN}}||現存せず |- |中山邸||{{奈良}}県[[奈良市]]||{{JPN}}|| |- |モン・プティ・シュ||{{京都}}市左京区||{{JPN}}||現存せず |- |青葉台のアトリエ||{{東京}}都目黒区||{{JPN}}||現存せず |- 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Museum of Literature03s3200.jpg |説明6 = 姫路文学館(1992年) |画像7 = 真言宗本福寺水御堂安藤忠雄建築研究所15.JPG |説明7 = 本福寺水御堂(1992年) |画像8 = Pabellon de japon expo 92.jpg |説明8 = セビリア万博日本館(1992年) |画像9 = 150505 Benesse House Museum Naoshima Kagawa pref Japan01b3s5.jpg |説明9 = ベネッセハウス ミュージアム(1992年) |画像10 = gallerynoda.jpg |説明10 = ギャラリー野田(1993年) |画像11 = Chikatsu asuka museum01s3592.jpg |説明11 = 大阪府立近つ飛鳥博物館(1994年) |画像12 = Suntory Museum1.jpg |説明12 = サントリーミュージアム(1995年) |画像13 = 150505 Benesse House Oval Naoshima Kagawa pref Japan01s3.jpg |説明13 = ベネッセハウス オーバル(1995年) |画像14 = Westin Awaji Island Hotel 06.jpg |説明14 = 淡路夢舞台(2001年) |画像15 = Awaji yumebutai01s3872.jpg |説明15 = 淡路夢舞台 百段苑(2001年) |画像16 = Hyogo prefectural museum of art08s3200.jpg |説明17 = 兵庫県立美術館(2001年) }} {{Vertical_images_list |幅 = 190px |画像1 = Ft Worth Modern 11.jpg |説明1 = フォートワース現代美術館(2001年) |画像2 = 2019 International Library of Children's Literature.jpg |説明2 = 国際子ども図書館増築(2003年) |画像3 = Ando street.jpg |説明3 = [[東京アートミュージアム]]、[[調布市せんがわ劇場]](2005年) |画像4 = Hhstyle.com casa.jpg |説明4 = hhstyle.com/casa(2005年) |画像5 = Omote-sando01s3200.jpg |説明5 = 表参道ヒルズ(2006年) |画像6 = 21 21 DESIGN SIGHT.jpg |説明6 = 21_21 DESIGN SIGHT(2007年) |画像7 = Ryuo Sta 2010071601.jpg |説明7 = 竜王駅(2008年) |画像8 = Shibuya Station Fukutoshin 3.jpg |説明8 = 東急東横線渋谷駅(2008年) |画像9 = |説明9 = TOP GUN(2009年) |画像10 = Lee U-Fan museum 李禹煥美術館 香川県香川郡直島町字倉浦 PC192990.jpg |説明10 = [[李禹煥美術館]](2010年) |画像11 = 2019-08-06 Utsubo-koen-no-jutaku,Tadao Ando (靱公園の住宅,安藤忠雄)DSCF9213☆彡.jpg |説明11 = [[靱公園の住宅]](2010年) |画像12 = Left side of Akita Museum of Art.jpg |説明12 = 秋田県立美術館 平野政吉コレクション(2012年) |画像13 = Asia Museum of Modern Art (2).jpg |説明13 = 亜洲大学 亜洲現代美術館(2013年) |画像14 = Hill of the buddha.jpg |説明14 = [[頭大仏殿]](2016年) }} |} == 新国立競技場関連 == === 前段階・2016年五輪 === [[2009年]]10月の[[第121次IOC総会]]で[[ブラジル]]・[[リオデジャネイロオリンピック|リオ]]に敗れ、幻に終わった[[2016年東京オリンピック構想|2016年オリンピック構想]]の「[[東京オリンピックスタジアム]]」(想定は都立<ref>[http://www.jutaku-s.com/rensai/id/0000000162 【連載】2016年夏季五輪メインスタジアム建設は晴海に 東京オリンピック招致委員会] - 住宅新報web 社説「住宅新報社の提言」、2007年5月30日</ref>・国の施設<ref>[http://www.shochi-honbu.metro.tokyo.jp/reppdf/TOKYO2016_Bid_Report_1_1.pdf#page=22 2 施設整備費(概算)等の公表] - 2016年オリンピック・パラリンピック競技大会 招致活動報告書 第一部</ref> それぞれの説がある)。当時の[[東京都知事|都知事]]・[[石原慎太郎]]は、招致委員会の理事でもあった<ref>[http://www.joc.or.jp/past_news/2007/0558.html 【招致】1,600人が結集!「オリンピックを日本に,2016年!」招致決起集会を開催] - JOC、2007年11月22日</ref> 安藤にメインスタジアムを含めた建設計画を依頼した<ref name="sankei150713">[http://www.sankei.com/politics/print/150713/plt1507130006-c.html 【新国立競技場】石原慎太郎氏が言いたい放題「IOCの白人は傲慢」「安藤忠雄さんに責任ない」「遠藤五輪相は小者すぎ…」] - 産経ニュース、2015年7月13日</ref>。 そして安藤(ゼネラルマネジャーとなった<ref>[http://kstyle.s57.xrea.com/2006/09/2016_2.php 2016年五輪招致の国内立候補都市、東京都に決定] - K STYLE WEBSITE::BLOG</ref>)がスタジアム建設地に[[晴海 (東京都中央区)|晴海]]を選び<ref name="sankei150713"/>、[[日建設計]]・[[日本設計]]・[[山下設計]]の協力の下<ref name="shuchi"/>、その全体計画をまとめた<ref>[http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK2602A_W2A720C1000000 五輪誘致なるか 国立競技場「建て替え案」公募の目算 開閉式の屋根を装備、2019年3月の完成目指す] - 日本経済新聞、2012年7月27日</ref>。2007年11月時点で安藤は、メインスタジアムの(実際の)設計はコンクール(国際コンペ)を開くべきだと思うとも提案していた<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/guntosi/50493452.html 東京五輪招致へ都が決起集会 安藤忠雄氏、メーン競技場に国際コンペ提案] 20071120 建設工業</ref>。2009年には、「オリンピックは、心のレガシー(遺産)だ」ということも訴えた<ref name="shuchi">[http://shuchi.php.co.jp/article/697 世界が驚く東京オリンピック 安藤忠雄(建築家・東京大学名誉教授) 日本人に未来への希望をもたせたい] - PHPオンライン 衆知 2009年6月15日公開</ref>。 === 2020年五輪(コンペ審査) === {{Main|国立競技場のデザインコンペ (2012年)}} 変わって[[2012年]]。[[ラグビーワールドカップ2019]]の日本開催が2009年7月に決定していたことや、翌2013年に決まる[[2020年東京オリンピック構想|2020年夏季五輪]]の[[東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会|東京の再立候補]]を見据え、[[日本スポーツ振興センター]](JSC)らが[[国立競技場の建て替え]]を決定。 安藤は前述2016年五輪招致の経験や実績などが考慮されて<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/guntosi/61359049.html 国立競技場改築検討有識者会議が発足/施設計画検討チーム座長に安藤忠雄氏] 20120308建設工業</ref>[[東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会|2020招致委員会]]の評議会委員でもあり<ref>[https://web.archive.org/web/20120414032843/http://tokyo2020.jp/jp/bid-committee 招致委員会] TOKYO 2020 APPLICANT CITY 2020年、オリンピック・パラリンピックを日本に!(2012年4月14日時点)</ref>、「[[国立競技場のデザインコンペ (2012年)#有識者会議|国立競技場将来構想有識者会議]]」メンバーに選出されると共に、「[[国立競技場のデザインコンペ (2012年)|新国立競技場国際デザイン競技]]」の審査委員長も務めることとなった。応募期間(7月20日 - 9月25日)が短かったため海外の著名建築家らに、安藤自身が直接メールを送ってコンクールを知らせるなど尽力した<ref name="kangaeru"/>。募集要項を詰めていた時点の2012年4月10日、「有識者会議」傘下「施設建築ワーキンググループ」第1回で出た70m容認案に対し、「相当な大きさです。(略)景観上の課題がある」と、安藤は難色を示していたという情報もある<ref name="kangaeru">[http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2014100502000207.html 東京新聞新国立競技場を考える 「施設建築ワーキンググループ」議事録検証] 東京新聞 2014年10月5日</ref>。 同年11月7日の最終審査(安藤を含め8人が参加)では、3つの案が拮抗していた<ref>[http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK1602H_W4A610C1000000 新国立競技場、「ザハ」なぜ選ばれた 審査激論の中身] 日本経済新聞 日経アーキテクチュア ケンプラッツ2014年6月4日付の記事を基に再構成</ref>。安藤は当初「34番<ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=35 1頁] 資料3</ref>」と、中心があり選手・観客が集中できると考えた「17番の[[国立競技場デザインのザハ・ハディド案|ザハ案]]」(ただし構造フレームが落とす影には懸念)<ref>『SANAA 建築の冒険』 NHK 2013年1月19日 放送</ref><ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=36 2頁] 資料3</ref> との2つで悩み、それを打ち明けた<ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=11 7頁<!-- 黒塗り部分長いのは【河野理事長】【安藤委員長】のみ -->] 新国立競技場基本構想国際デザイン競技(第3回)審査委員会 議事録</ref>。その後の議論で「34番」の[[屋根]]の技術的不安を安藤自身が指摘し、[[コンサート]]に用いたい委員からは音漏れを心配する意見も出た<ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=13 9頁] 新国立競技場基本構想国際デザイン競技(第3回)審査委員会 議事録</ref>。 3つを対象に決選投票を実施したが、またも拮抗。休憩後の議論で安藤は理由を示さずに(当初自身が1位としていた34番を除外し)、「17番」と「2番」の2択に持っていった<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/culture_news/CK2014070902100011.html 「新国立」選考の経緯判明 3作同点から委員長一任] 東京新聞、2014年7月9日</ref>。そして、誰かから「議論で決まらないなら委員長の判断で決定でしょうか」「委員長を2票としていいのでは」など、委ねるような発言があり、安藤は「日本の技術力のチャレンジ」という精神から17番がいいと思いますと表明。他の審査委員から賛成の声が上がったこともあり、[[河野一郎 (JOC理事)|河野理事長]]が締めた<ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=25 21頁] 新国立競技場基本構想国際デザイン競技(第3回)審査委員会 議事録</ref>。審査委員長メッセージとして、新国立競技場のあり方を「つくるべきは地球人の未来へと向かう灯台、希望の象徴となれる場所」<ref>[http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/compe/20140530_compereport_7_boshuyoko_1.pdf#page=6 112頁 審査委員長メッセージ 地球人の未来へ向かう灯台] VII 募集要項・質疑応答等</ref><ref name="kyosho">{{Cite news|title=建設費どこ吹く風…新国立「当初案」進めさせた巨匠・安藤忠雄|newspaper=日刊ゲンダイ|date=2015-7-10|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/161593|accessdate=2021-7-25|page=1}}</ref> と表現していた。その後の11月15日の「有識者会議」(第3回)で安藤は、「最優秀案のほうが、それに日本の技術者が立ち向かっていくという意味ではいいのではないか」などと、選定理由を語った(当初は民主党政権下の会議資料は未公開だったが[[2015年]]8月に完全版が公開された)<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2015/08/10/new-national-stadium_n_7963616.html 森喜朗氏発言を削除 コンペ結果の議事録、どこが黒塗りに?(全文)] - ハフィントン・ポスト、2015年8月10日</ref>。 === 2020年五輪(2015年7月の会見など) === [[2013年]]9月の[[第125次IOC総会]]にて、[[2020年夏季オリンピック|2020年五輪]]の開催地に東京が選ばれた。 巨額な新国立建設費に関する問題が世間を賑わせてからマスコミの取材が押し寄せたが、安藤はそれを拒否し続けた。最終的に2520億円の予算が承認された[[2015年]]7月7日開催の「有識者会議」にも欠席した(後述の会見で「大阪で講演会があったので欠席した」ことを明かした<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/news/1508011.html 安藤忠雄氏「我々、選んだ責任はある」/会見(上)] - 日刊スポーツ</ref>)<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2015/07/06/new-national-stadium-and-ando_n_7740894.html 新国立競技場、なぜ2520億円に? 責任者の安藤忠雄氏は会議欠席] ハフィントンポスト 2015年7月7日</ref>。 知り合い<ref name="kazu"/> であるキャスターの[[辛坊治郎]]には「何でこんなに増えてるのか、分からへんねん!」と語っていたという<ref>[http://www.hochi.co.jp/topics/20150711-OHT1T50099.html 安藤忠雄氏「何でこんなに(費用が)増えてるのか、分からへんねん」…新国立問題で初コメント] スポーツ報知 2015年7月11日</ref>。また、別の友人によると安藤は、文科省と[[日本スポーツ振興センター]](JSC)に対して何度も責任をもって当初案を進めるように水面下で主張してきたという<ref name="kyosho"/><ref name="kazu"/>。 [[下村博文]]文科相は2015年7月10日に、新国立のデザイン選定理由など「何らかの形で発言してほしい」と述べた<ref>[https://www.sankei.com/article/20150710-H7RPG6WMWNI5RMZHU6YXJANTNY/ 【新国立競技場問題】下村文科相、欠席の安藤忠雄氏に注文「何らかの形で発言して」] - 産経ニュース、2015年7月10日</ref>。それとの因果は不明だが、16日に都内で記者会見(安藤本人からJSCへの要望で実施)に出席し、記者からの質問に回答した<ref>[http://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_3394/ <新国立競技場>安藤忠雄氏「プロセス承知していない」「説明が求められる」(全文)] 弁護士ドットコムニュース 2015年7月16日</ref>。会見で安藤は「徹底的なコストの議論にはなっていないと思いますよ」とコンペを振り返ったが<ref>[http://www.sankei.com/life/print/150716/lif1507160028-c.html 【新国立・安藤忠雄氏会見】(2)「ゼネコンの人たちも、もうからなくても『日本の国のために頑張る』と言ってほしい」「徹底的なコストの議論にはなっていない」] - 産経ニュース、2015年7月16日</ref>、一部の委員はコスト面も踏まえて真摯に審査していた<ref>[http://2020-tokyo.sakura.ne.jp/_src/sc1191/91e682r89f190r8db888cf88f589ef.pdf#page=15 11頁] 新国立競技場基本構想国際デザイン競技(第3回)審査委員会 議事録</ref>。 安藤は9月4日、[[大阪]]出身を理由に自身がバッシングを浴び、([[東京]]の新国立プロジェクトから)引きずり下ろそうとされたとの、意識を語った<ref>[http://www.hochi.co.jp/topics/20150904-OHT1T50151.html 安藤忠雄氏、新整備案1550億円に「よかったんじゃない」] - スポーツ報知、2015年9月4日</ref>。 9月24日に公表された第三者検証委員会による本人へのヒアリング資料によると、安藤は「経験豊富な[[国土交通省]]に参加してもらい[[文部科学省]]との共同で行うべき」だと、初期段階で(関係者に)提言したことがあったという<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/029/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/09/24/1361947_4.pdf#page=71 新国立競技場整備計画経緯検証委員会による関係者ヒアリングの概要]</ref>。 == 交友関係者 == {{表2列| *[[鈴木博之]] {{small|(安藤を東大に招聘したといわれる)}} *[[鈴木恵一]] {{small|(とび職の親方)}} *[[辛坊治郎]] *[[南部靖之]] *[[やしきたかじん]] {{small|(お別れの会にも出席)}} *[[石原慎太郎]] *[[中坊公平]] *[[稲盛和夫]] | *[[唐十郎]] *[[三宅一生]] *[[岩田弘三]] *[[佐治敬三]] *[[樋口廣太郎]] *[[福武總一郎]] *[[河合隼雄]] *[[向井正也]] *[[瀬戸本淳]] *[[難波和彦]]<ref name="kazu">[https://web.archive.org/web/20150706230349/http://www.kai-workshop.com/diary/diary.cgi?move=201506 2015年06月29日(月)] [[難波和彦]]+界工作舎</ref> }} == 受賞 == *1979年 - [[日本建築学会賞]]([[住吉の長屋]]) *1983年 - 日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか) *1985年 - フィンランドの[[アルヴァ・アールト]]賞 *1986年 ** [[芸術選奨新人賞|芸術選奨文部大臣賞新人賞]] ** [[毎日デザイン賞]] *1987年 - [[毎日芸術賞]] *1988年 - [[吉田五十八賞]](城戸崎邸) *1989年 - フランス建築アカデミー賞 *1993年 - [[日本芸術院賞]] *1994年 - [[日本芸術大賞]]([[大阪府立近つ飛鳥博物館]])、[[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-08-19}}</ref> *1995年 - [[プリツカー賞]] *1996年 - [[高松宮殿下記念世界文化賞]]、国際教会建築賞(フラテソーレ) *1997年 - 大阪キワニス賞、[[RIBAゴールドメダル]] *2002年 - [[京都賞思想・芸術部門]]、[[AIAゴールドメダル]] *2005年 - [[UIAゴールドメダル]] *2010年 - ジョン・F・ケネディーセンター芸術金賞、[[:zh:後藤新平獎|後藤新平賞]] *2012年 - リチャード・ノイトラ賞 *2016年 - 第3回イサム・ノグチ賞<ref>[https://www.sankei.com/photo/daily/news/160511/dly1605110014-n1.html 安藤氏にイサム・ノグチ賞 「広島に平和記念碑を」]</ref> == 栄典 == *1997年 - フランス[[芸術文化勲章]]オフィシエ *2002年 - ローマ大学名誉博士号、同済大学名誉教授 *2003年 - [[文化功労者]]選出<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/10/06102302/001.pdf|title=平成15年度 文化功労者及び文化勲章受章者(五十音順)|format=PDF|publisher=文部科学省|accessdate=2023-06-01|date =2003-11-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110324063702/http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/10/06102302/001.pdf|archivedate=2011-03-24|deadlinkdate=2023-05}}</ref> *2005年 - フランス[[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ *2010年 - [[文化勲章]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/culture/update/1026/TKY201010260095.html|title=安藤忠雄氏らに文化勲章 功労者は王貞治氏ら|accessdate=2023-03-21|publisher=[[asahi.com]]|date = 2010-10-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101029025312/http://www.asahi.com/culture/update/1026/TKY201010260095.html|archivedate=2010-10-29|deadlinkdate=2023-03}}</ref> *2013年 - フランス芸術文化勲章コマンドゥール<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article7090 |title=建築家の安藤忠雄氏が芸術文化勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2014-12-29|accessdate=2021-06-20}}</ref> *2015年 - [[イタリア共和国功労勲章]]グランデ・ウッフィチャーレ *2021年 - フランスレジオンドヌール勲章コマンドゥール<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article16785 |title=安藤忠雄氏がレジオン・ドヌール勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2021-04-30|accessdate=2021-05-30}}</ref> == 文献 == === 著書 === *『建築を語る』[[東京大学出版会]]、1999年、ISBN 4130638009 *『連戦連敗』東京大学出版会、2001年、ISBN 4130638041 *『建築に夢をみた』[[日本放送出版協会]](NHKライブラリー149)、2002年、ISBN 4140841494 *『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』[[新潮社]]、2004年、ISBN 4106021196 *『安藤忠雄 建築手法』二川幸夫企画・編集・インタヴュー<br />エーディーエー・エディタ・トーキョー、2005年、ISBN 4871406636 *『悪戦苦闘 2006年の現場 - 21_21 DESIGN SIGHT』安藤忠雄建築展実行委員会、2007年、ISBN 9784990354503 *『建築家 安藤忠雄』新潮社、2008年、ISBN 4103090510、自伝 *『安藤忠雄 住宅』二川幸夫企画・編集・インタヴュー<br />エーディーエー・エディタ・トーキョー、2011年、ISBN 9784871406727 *『安藤忠雄 都市と建築』二川幸夫企画・編集・インタヴュー<br />エーディーエー・エディタ・トーキョー、2011年、ISBN 9784871406758 *『安藤忠雄 仕事をつくる―[[私の履歴書]]』日本経済新聞出版社、2012年、ISBN 4532168163(『[[日本経済新聞]]朝刊での2011年3月の連載を単行本化) === 作品集、その他 === *『現代の建築家 安藤忠雄』SD編集部編、[[鹿島出版会]]、1982年、ISBN 4306041344 *『安藤忠雄のディテール―原図集 六甲の集合住宅・住吉の長屋』[[彰国社]]、1983年、ISBN 4395110444 *『交感スルデザイン』[[六耀社]]、1985年、ISBN 4897370418 *『安藤忠雄―挑発する箱』[[丸善]]、1986年、ISBN 4621030442 *『GA ARCHITECT 8 TADAO ANDO』[[A.D.A.EDITA Tokyo|エーディーエー・エディタ・トーキョー]]、1987年、ISBN 4871404129 *『旅―インド・トルコ・沖縄』住まいの図書館出版局(住まい学大系20)、1989年、ISBN 4795208808 *『Tadao Ando ; The Yale Studio & Current Works』Rizzoli International Publications, Inc.、1989年 *『安藤忠雄2.1981‐1989』SD編集部編、鹿島出版会、1990年、ISBN 4306042758 *『ARCHITECTURAL Monographs 14 -TADAO ANDO』ACADEMY EDITIONS, London / ST.MARTIN PRESS、1990年 *『安藤忠雄 ディテール集 1-4』二川幸夫企画編集 [[A.D.A.EDITA Tokyo|エーディーエー・エディタ・トーキョー]]<br />1991年-2007年、ISBN 4871405516、ISBN 4871405559、ISBN 4871405567、ISBN 4871405575 *『安藤忠雄の都市彷徨』[[マガジンハウス]]、1992年、ISBN 4838703597 *『安藤忠雄3.アンビルト・プロジェクト (1975-1991)』SD編集部編、鹿島出版会、1993年、ISBN 4306043150 *『GA ARCHITECT 12 TADAO ANDO Vol.2』[[A.D.A.EDITA Tokyo|エーディーエー・エディタ・トーキョー]]、1993年、ISBN 4871404196 *『壁の探究―安藤忠雄論』古山正雄著、鹿島出版会、1994年、ISBN 4306043282 *『Documenti di architettura -Tadao Ando』Electa、1994年、ISBN 8843550241 *『TADAO ANDO COMPLETE WORKS』PHAIDON PRESS LIMITED、1995年、ISBN 0714837172/0714834718 *『サントリーミュージアム天保山』三宅理一共著、鹿島出版会、1995年、ISBN 4306043398 *『安藤忠雄の夢構想―震災復興と大阪湾ベイエリアプロジェクト』朝日新聞社、1995年、ISBN 4022586206 *『家』住まいの図書館出版局(住まい学大系76)、1996年、ISBN 479520876X *『アンドウ―安藤忠雄・建築家の発想と仕事』[[松葉一清]]著、[[講談社]]、1996年、ISBN 4062075938 *『直島コンテンポラリーアートミュージアム』三宅理一共著、鹿島出版会、1996年、ISBN 4306043487 *『Church on the Water, Church of the Light』PHAIDON PRESS LIMITED、1996年、ISBN 0714832685 *『The Colours of Light』PHAIDON PRESS LIMITED、1996年、ISBN 0714833746 *『TADAO ANDO』Taschen GmbH、1997年、ISBN 3822878693/3822867314 *『建築家たちの20代』東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室編 TOTO出版、1999年、ISBN 4887061773 *『淡路夢舞台―千年庭園の記録』[[新建築社]]、2000年、ISBN 4786901547 *『GA ARCHITECT 16 TADAO ANDO Vol.3』[[A.D.A.EDITA Tokyo|エーディーエー・エディタ・トーキョー]]、2000年、ISBN 4871404242 *『光の教会―安藤忠雄の現場』[[平松剛]] 著、建築資料研究社、2000年、ISBN 4874606962 *『EL croquis 44+58 tadao ando 1983-2000』El Croquis Editorial、2000年、ISBN 8488386141 *『Tadao Ando, Architektur der Stille』Birkhäuser-Publishers for the Architecture、2001年、ISBN 3764364483 *『安藤忠雄の美術館・博物館』[[美術出版社]]、2001年、ISBN 4568600308 *『a+u / Architecture and Urbanism no.378』A+U Publishing Co., Ltd.、2002年 *『Tadao Ando : LIGHT AND WATER』Monacelli Press. 2003年、ISBN 1580931138 *『格闘わが建築 安藤忠雄 : Tadao Ando(DVD)』NHKソフトウェア・コロムビアミュージックエンタテインメント、2003年、ISBN 493087338X *『Archipockets/Tadao Ando』teNeues, Loft Publications、2003年、ISBN 3823845381 *『TADAO ANDO LIGHT AND WATER』The Monacelli Press Inc.、2003年、ISBN 1580931138 *『ANDO Complete Works』Taschen GmbH、2004年 *『Tadao Ando at Naoshima』Rizzoli International Publications, Inc.、2006年、ISBN 0847827690 *『TADAO ANDO The Geometry of Human Space』古山正雄著 Taschen GmbH、2006年、ISBN 9783822848951 *『TADAO ANDO The Modern Art Museum of Fort Worth』Rizzoli International Publications, Inc.、2008年、ISBN 9780847830152 *『安藤忠雄の建築 1/ 2/ 3/ 0』 TOTO出版、2007年/2008年/2008年/2010年、ISBN 9784887062771/ ISBN 9784887062863/ ISBN 9784887062962/ ISBN 9784887063099 *『歩きながら考えよう 建築も、人生も』[[PHP研究所]] 2010年 *『Tadao Ando Museums [Musei]』Skira editore S.p.A.、2009年、ISBN 9788861306806/9788861307186 *『Tadao Ando / Venice』Skira Rizzoli International Publications Inc.、2010年、ISBN 9780847834105 *『Documenti di architettura 183 Francesco Dal Co / Tadao Ando Volume 2 1995-2010』Mondadori Electa S.p.A.、2010年、ISBN 978-8837063849 *『Tadao Ando 1995-2010』Prestel Verlag、2010年、ISBN 9783791344546 == テレビ出演 == *『[[視点・論点]]』(2008年9月25日、[[日本放送協会|NHK]]) *『視点・論点』(2009年8月7日、NHK) *『視点・論点』(2010年3月31日、NHK) *『視点・論点』(2010年6月29日、NHK) *『[[情熱大陸]]』(2010年6月13日、[[MBSテレビ|毎日放送]]) *『[[仕事学のすすめ]]』(2012年3月、NHK) *『[[アナザースカイ (テレビ番組)|アナザースカイ]]』(2012年11月30日、日本テレビ) *『安藤忠雄の対論〜この国の行く末〜』(2017年2月26日 - 、BSフジ) *『インタビュー ここから(NHK)』(2020年5月4日 ) *『[[日曜美術館]] 安藤忠雄 魂の建築』(2022年11月20日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/9PK8732NXW/ |title=安藤忠雄 魂の建築 |date=2022-11-20 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221115044038/http://www.nhk.jp/p/nichibi/ts/3PGYQN55NP/episode/te/9PK8732NXW/ | archivedate=2022-11-15 |accessdate=2022-11-15}}</ref> :など多数。 == 安藤忠雄建築研究所出身の建築家 == * [[相坂研介]] *[[芦澤竜一]] *[[貴志雅樹]] *[[藤本寿徳]] *[[山口隆 (建築家)|山口隆]] == 関連項目 == {{Commons|Category:Tadao Ando|安藤忠雄}} *[[日本近代建築史]] *[[1970年代の建築]] - [[1980年代の建築]] - [[1990年代の建築]] - [[2000年代の建築]] *[[コロンビア大学の人物一覧]] *[[ハーバード大学に関係する日本人の一覧]] *[[東京大学の人物一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == *[http://www.tadao-ando.com/ http://www.tadao-ando.com/] (official site)安藤忠雄 Tadao Ando *[https://web.archive.org/web/20110429071401/http://tenplusone.inax.co.jp/archive/ando/ando.html IGARASHI Taro Photo Archives] [[五十嵐太郎]]による安藤忠雄の建築物の写真集 *[https://web.archive.org/web/20110812034048/http://www.artgene.net/interview2.php?IID=4&VID=1 OCNアート アートジェーン 安藤忠雄インタビュー(全Vol.4)] *[https://web.archive.org/web/20101029025312/http://www.asahi.com/culture/update/1026/TKY201010260095.html 安藤忠雄氏らに文化勲章 功労者は王貞治氏ら(asahi.com)] *[https://web.archive.org/web/20200115205556/http://momokaki.org/ 桃・柿育英会 東日本大震災遺児育英資金 公式ホームページ] *{{NHK人物録|D0009071106_00000}} *{{Bijutsutecho artists|777}} {{プリツカー賞受賞者}} {{世界文化賞建築部門}} {{RIBAゴールドメダル}} {{AIAゴールドメダル}} {{UIAゴールドメダル}} {{日本芸術院賞}} {{毎日芸術賞}} {{日本建築学会賞作品賞}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=グレート安藤 |1-1=日本の男子ボクサー }} {{DEFAULTSORT:あんとう たたお}} [[Category:安藤忠雄|*]] [[Category:20世紀日本の建築家]] [[Category:21世紀日本の建築家]] [[Category:日本藝術院賞受賞者]] [[Category:高松宮殿下記念世界文化賞受賞者]] [[Category:プリツカー賞受賞者]] [[Category:京都賞思想・芸術部門受賞者]] [[Category:朝日賞受賞者]] [[Category:文化勲章受章者]] [[Category:文化功労者]] [[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:イタリア共和国功労勲章受章者]] [[Category:イギリス王立芸術院名誉会員]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:コロンビア大学の教員]] [[Category:日本出身の双子]] [[Category:私の履歴書の登場人物]] 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貨客船
貨客船(かきゃくせん)は、旅客輸送と貨物輸送の双方を行う船舶である。国際的には旅客船の範疇で捉えられているが、南太平洋諸国が採択したSRNCVのように定義を設けている例もある。 豪華客船をはじめとする純然たる客船に比べると、貨客船は格落ちの印象を持たれることも少なくない。実際に後述の事情から競争力が低下した古い客船の貨客船落ちもあった。 ただし船舶は、大型になるほど航続性能や、波浪・船体動揺に対する耐性などの点で居住性でも有利である一方、二乗三乗則により大型ほど容積比で外部に接する面積が小さく、船体内部では通気や大出力機関からの振動や騒音、熱などの問題が大きくなる(空母赤城、加賀やヘルシップも参照)。このため客船は高級の船室は上部構造物の窓がある外壁寄りに設けられ、低級の船室や乗員室、外寄りに置く必要のない設備等は下層・内部側に設けられるが、超大型船になると旅客輸送に耐え難い空間が生じてくる。こうした箇所は乗客を詰め込むよりも貨物輸送に充てた方が、食料や用水、設備に要する運行コストも抑制でき経済的である。 史上最大級の海難事故で知られるタイタニック号を代表とするオーシャン・ライナーは一般に豪華客船として知られているが、実態は貨客船であった。第二次世界大戦以前頃まではこうした大洋航路に就く客船は運輸の花形であり、日本も橿原丸級や新田丸級といった豪奢な大型高性能船を建造し海運列強と覇を競っており、これらもやはり貨客船であった。 大戦後、長距離旅客の主流が急速に発展してきたジェット旅客機に移行すると、旅客船の花形も豪奢なイメージを売りにするクルーズ客船に取って代わられ、豪華貨客船は消えていった。 日本では船舶安全法第8条によって旅客定員が12名を超える船舶が旅客船とされている。貨客船は法律で用いられる用語ではないが、旅客定員が12名を超える船舶が旅客船となるため、旅客定員が12名以下で貨物を運ぶ船舶は単に貨物船として扱われる。検疫手続上も船舶安全法などに基づき「貨客船とは旅客定員13名以上の貨物輸送できる船舶」とされている。旅客定員が12名を超える貨客船は法的には旅客船と位置づけられるため、旅客船と同様の救命設備等が必要となる。 なお、海上運送法では、旅客が限定されている場合には、旅客定員が13人以上でも旅客航路事業とは扱われない。 2002年に採択された南太平洋諸国の海事規則であるSafety Regulations for Non-Convention Vessels(SRNCV)は、従来の「貨物船」及び「旅客船」の2分類に加えて「貨客船」を新たに定義した。 SRNCVは南太平洋諸国では独自に内航船の海事規則を起草することが難しいため、国際海事機関(IMO)が後援し、南太平洋諸国及び旧宗主国で構成するSPC(South Pacific Commission)の海事部門が中心となって共通海事規則を審議した。IMOが南太平洋で貨物船での旅客輸送が多い実情に配慮して「貨客船」の分類を加えるよう提起し、SRNCVでは旅客船より緩和された安全基準が規定されている。
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貨客船(かきゃくせん)は、旅客輸送と貨物輸送の双方を行う船舶である。国際的には旅客船の範疇で捉えられているが、南太平洋諸国が採択したSRNCVのように定義を設けている例もある。 豪華客船をはじめとする純然たる客船に比べると、貨客船は格落ちの印象を持たれることも少なくない。実際に後述の事情から競争力が低下した古い客船の貨客船落ちもあった。 ただし船舶は、大型になるほど航続性能や、波浪・船体動揺に対する耐性などの点で居住性でも有利である一方、二乗三乗則により大型ほど容積比で外部に接する面積が小さく、船体内部では通気や大出力機関からの振動や騒音、熱などの問題が大きくなる(空母赤城、加賀やヘルシップも参照)。このため客船は高級の船室は上部構造物の窓がある外壁寄りに設けられ、低級の船室や乗員室、外寄りに置く必要のない設備等は下層・内部側に設けられるが、超大型船になると旅客輸送に耐え難い空間が生じてくる。こうした箇所は乗客を詰め込むよりも貨物輸送に充てた方が、食料や用水、設備に要する運行コストも抑制でき経済的である。 史上最大級の海難事故で知られるタイタニック号を代表とするオーシャン・ライナーは一般に豪華客船として知られているが、実態は貨客船であった。第二次世界大戦以前頃まではこうした大洋航路に就く客船は運輸の花形であり、日本も橿原丸級や新田丸級といった豪奢な大型高性能船を建造し海運列強と覇を競っており、これらもやはり貨客船であった。 大戦後、長距離旅客の主流が急速に発展してきたジェット旅客機に移行すると、旅客船の花形も豪奢なイメージを売りにするクルーズ客船に取って代わられ、豪華貨客船は消えていった。
'''貨客船'''(かきゃくせん)は、[[旅客輸送]]と[[貨物輸送]]の双方を行う[[船舶]]である<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B2%A8%E5%AE%A2%E8%88%B9-459883|title=貨客船|author=[[コトバンク]]|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2015-03-24}}</ref>。国際的には旅客船の範疇で捉えられているが、南太平洋諸国が採択したSRNCVのように定義を設けている例もある<ref name="SRNCV" />。 豪華客船をはじめとする純然たる客船に比べると、貨客船は格落ちの印象を持たれることも少なくない。実際に後述の事情から競争力が低下した古い客船の貨客船落ちもあった。 ただし船舶は、大型になるほど航続性能や、波浪・船体動揺に対する耐性などの点で居住性でも有利である一方、[[二乗三乗則]]により大型ほど容積比で外部に接する面積が小さく、船体内部では通気や大出力機関からの振動や騒音、熱などの問題が大きくなる(空母[[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]や[[ヘルシップ]]も参照)。このため客船は高級の船室は上部構造物の窓がある外壁寄りに設けられ、低級の船室や乗員室、外寄りに置く必要のない設備等は下層・内部側に設けられるが、超大型船になると旅客輸送に耐え難い空間が生じてくる。こうした箇所は乗客を詰め込むよりも貨物輸送に充てた方が、食料や用水、設備に要する運行コストも抑制でき経済的である。 史上最大級の海難事故で知られる[[タイタニック (客船)|タイタニック]]号を代表とする[[オーシャン・ライナー]]は一般に豪華客船として知られているが、実態は貨客船であった。第二次世界大戦以前頃まではこうした大洋航路に就く客船は運輸の花形であり、日本も[[橿原丸級貨客船|橿原丸級]]や[[新田丸級貨客船|新田丸級]]といった豪奢な大型高性能船を建造し海運列強と覇を競っており、これらもやはり貨客船であった。 大戦後、長距離旅客の主流が急速に発展してきたジェット[[旅客機]]に移行すると、旅客船の花形も豪奢なイメージを売りにする[[クルーズ客船]]に取って代わられ、豪華貨客船は消えていった。 == 各地域の貨客船 == === 日本 === 日本では[[船舶安全法]]第8条によって[[旅客]]定員が12名を超える船舶が[[旅客船]]とされている。貨客船は法律で用いられる用語ではないが、旅客定員が12名を超える船舶が旅客船となるため、旅客定員が12名以下で貨物を運ぶ船舶は単に貨物船として扱われる<ref name="kotobank" />。検疫手続上も船舶安全法などに基づき「貨客船とは旅客定員13名以上の貨物輸送できる船舶」とされている<ref>[https://yamanaka-bengoshi.jp/wp-content/uploads/2020/05/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%A4%9C%E7%96%AB%E6%89%80%E3%80%80%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E7%AE%A1%E7%90%86%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%88%E6%9C%AC%E6%96%87%E7%B7%A8%EF%BC%89%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%AC%A1%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88%EF%BC%88%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%92%EF%BC%99%E5%B9%B4%EF%BC%93%E6%9C%88%EF%BC%93%EF%BC%90%E6%97%A5%EF%BC%89.pdf 東京検疫所感染症危機管理マニュアル(本文編)] 厚生労働省東京検疫所、2022年1月16日閲覧。</ref>。旅客定員が12名を超える貨客船は法的には旅客船と位置づけられるため、旅客船と同様の救命設備等が必要となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=340M50000800036|title=船舶救命設備規則|publisher=e-Gov|accessdate=2020-01-27}}</ref>。 なお、[[海上運送法]]では、旅客が限定されている場合には、旅客定員が13人以上でも旅客航路事業とは扱われない<ref>{{Cite web|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/kaiji/file01/.../file01_01_2.pdf|title=海上運送事業の区分|publisher=[[国土交通省]][[九州運輸局]]|format=PDF|accessdate=2015-03-24}}</ref>。 === 南太平洋諸国 === 2002年に採択された南太平洋諸国の海事規則であるSafety Regulations for Non-Convention Vessels(SRNCV)は、従来の「貨物船」及び「旅客船」の2分類に加えて「貨客船」を新たに定義した<ref name="SRNCV">[https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12066247_01.pdf マーシャル国国内海上輸送改善計画準備調査報告書(3-11〜3-12)] 国際協力機構、2022年1月16日閲覧。</ref>。 SRNCVは南太平洋諸国では独自に内航船の海事規則を起草することが難しいため、[[国際海事機関]](IMO)が後援し、南太平洋諸国及び旧宗主国で構成するSPC(South Pacific Commission)の海事部門が中心となって共通海事規則を審議した<ref name="SRNCV" />。IMOが南太平洋で貨物船での旅客輸送が多い実情に配慮して「貨客船」の分類を加えるよう提起し、SRNCVでは旅客船より緩和された安全基準が規定されている<ref name="SRNCV" />。 == ギャラリー == <gallery> File:Hikawa-maruYokohama.jpg|横浜市の[[山下公園]]で保存されている[[氷川丸]]。 File:SS Uganda Helsinki Harbour 1980s.jpg|[[ヘルシンキ]]港碇泊中のウガンダ号。 file:貨客船IMGP1047.JPG|鹿児島市[[谷山港|七ツ島港]]-種子島[[西之表港]]-屋久島[[宮之浦港_(屋久島町)|宮之浦港]]に就航するフェリー[[はいびすかす]]。 File:貨客フェリーIMGP0988.JPG|同左。船首側にコンテナを、船尾側に車両。右は、デリッククレーン。 File:貨客船IMGP0995.JPG|同左。ロールオンロールオフ、デリッククレーン、左舷船尾ランプウェイ。 File:Ogamaru3rd 160629.jpg|竣工記念式典・内覧会のため、[[竹芝埠頭|東京港竹芝桟橋]]碇泊中の三代目[[おがさわら丸]]。 File:RMS St Helena (13986957441).jpg|[[ケープタウン]]碇泊中の[[セントヘレナ_(貨客船)|セントヘレナ号]]。 File:Mangyeongbong.jpg|[[大阪港]]中央突堤に停泊中の[[万景峰号]](1986年)。 </gallery> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=大内健二| authorlink=大内健二 |title=戦う民間船--知られざる勇気と忍耐の記録 |date=2006 |publisher=光人社 |isbn=476982498X |series=光人社NF文庫 |ref=大内2006}} *{{Cite book|和書|author=大内健二| authorlink=大内健二 |title=不沈艦伝説--多彩な運命を背負った30隻の生涯 |date=2007 |publisher=光人社 |isbn=9784769825531 |series=光人社NF文庫 |ref=大内2007}} *{{Cite book|和書|author=土井全二郎| authorlink=土井全二郎 |title=撃沈された船員たちの記録--戦争の底辺で働いた輸送船の戦い |date=2008 |publisher=光人社 |isbn=9784769825692 |series=光人社NF文庫 |ref=土井2008}} == 関連項目 == * [[貨客混載]] * [[旅客船]] * [[貨物船]] * [[貨客混載機]] - 貨客船の航空機版 * [[国際海事機関]] * [[フェリー]] - カーフェリーや[[鉄道連絡船]]は、車両を貨物、乗車者を旅客として運ぶ広義の貨客船である {{商船の種類}} {{DEFAULTSORT:かきやくせん}} [[Category:貨客船|*]] [[Category:フェリー|*かきゃくせん]] [[Category:日本の貨客船|*]]
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秋雨
秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降る長雨のこと。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、薄(すすき)梅雨ともいう。 季節が、夏から秋に移り変わる際、真夏の間本州一帯に猛暑をもたらした太平洋高気圧が南へ退き、大陸の冷たい高気圧が日本海や北日本方面に張り出す。この性質の違う2つの空気がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、秋雨前線が発生する。梅雨前線と同じく、前線を挟んで夏の空気と秋の空気が押し合いをしているため、前線は日本上空を南下したり北上したりする、こうして長雨が続く。 秋雨の原因となる高気圧は主に4つある。1つ目はシベリア高気圧と呼ばれる高気圧である。シベリア高気圧は冷たく乾燥したシベリア気団から構成されていて、高気圧から吹き出される風も冷たく乾燥している。2つ目は秋特有の移動性高気圧と呼ばれる高気圧である。移動性高気圧はやや温かく乾燥した揚子江気団から構成される。3つ目は太平洋高気圧で、温かく湿った小笠原気団から構成される。4つ目はオホーツク海高気圧と呼ばれる高気圧である。オホーツク海高気圧は冷たく湿ったオホーツク海気団から構成される。 オホーツク海気団と小笠原気団のせめぎ合う中で北上する梅雨前線は、平年で8月前半頃には中国の華北地方〜朝鮮半島北部〜北海道付近にまで達し、勢力が弱まって次第に消滅する。そして日本付近は小笠原気団からなる太平洋高気圧、中国大陸は揚子江気団からなる停滞性の高気圧に覆われ、東アジアのほぼ全域で本格的な夏が続く。 一方8月前半頃には、偏西風の強い部分(ジェット気流)が中国北部付近からオホーツク海付近にかけての地域に北上し、流れも弱くなる。しかし、8月後半頃になると、次第に偏西風が南下を始め、秋の空気もそれに伴って南下してくるようになる。 8月後半頃になると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と低気圧が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。 これが秋雨の始まりである。8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から順に寒冷前線が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。 なお、立秋を過ぎて梅雨明けの発表、もしくは梅雨明けが特定できなかった場合は当日を以って梅雨から秋雨へそのまま移行したとされるため、梅雨明けの発表、もしくは梅雨明けの特定はされなくなる。 8月後半頃から9月頃にかけて、北日本から順に寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。 10月前半頃になると、太平洋高気圧は日本の南に完全に後退し、秋雨前線の停滞は主に本州の南となる。9月後半頃以降、北日本から順に偏西風が上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、太平洋側では晴れが増えてくるが、日本海側では低気圧通過後、一時的に西高東低になるために冬に比べると短期間であるが時雨やすくなる。 10月後半頃になると、秋雨前線は日本の南にまで南下し、途切れ途切れになって弱まり、やがて消滅する。 このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、乾燥した晴れ→雨→西高東低(日本海側は時雨、太平洋側は乾燥した晴れ)→乾燥した晴れが短期間で移る典型的な秋の天気となる。 梅雨とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や温暖前線になったり、前線として現れない気圧の谷となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。 特に秋雨の時期は秋の台風シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって湿暖気流が流れ込み、積乱雲が発達して大雨となり、大規模な水害を引き起こす場合がある。また、上空の寒気や風の合流、低気圧や不安定な大気の影響で雨雲や雷雲が発達した場合、大雨になることも少なくない。 また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、真逆(≒正反対)となっている。ただし、四国太平洋側や九州南東部は台風の関係で秋雨も降水量が多くなる特徴がある。 秋雨前線の場合は通過後、一時的に西高東低になった際に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数°C - 十数°C低下して急に冷え込むことがある。また、高山や寒冷地では霙や霰、雪が降ることもある。 梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。 梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、東南アジアから東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺(特に北日本・東日本)にのみ見られる現象である。
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秋雨(あきさめ)とは、日本において8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降る長雨のこと。秋の長雨、秋霖(しゅうりん)、薄(すすき)梅雨ともいう。
{{Redirect|秋雨前線|前線の種類|停滞前線}} [[ファイル:Terra MODIS Stationary front cloud over Japan 5.jpg|thumb|300px|right|秋雨前線の雲を捉えた衛星画像。前線は九州南岸から本州はるか南の小笠原諸島付近まで延びている。2008年9月29日(PD NASA)]] '''秋雨'''(あきさめ)とは、[[日本]]において8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降る長[[雨]]<ref>{{Cite web|和書 |author = 気象庁 |date = |url = https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kisetsu.html#K29 |title = 季節現象 |work = 予報用語 |publisher = |accessdate = 2013-09-02 }}</ref>のこと。'''秋の長雨'''、'''秋霖'''(しゅうりん)、'''[[ススキ|薄]]'''(すすき)'''梅雨'''ともいう。 == 原因とメカニズム == [[季節]]が、[[夏]]から[[秋]]に移り変わる際、真夏の間[[本州]]一帯に[[猛暑]]をもたらした[[太平洋高気圧]]が南へ退き、[[大陸]]の冷たい[[高気圧]]が[[日本海]]や[[北日本]]方面に張り出す。この性質の違う2つの空気がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、'''秋雨前線'''が発生する。[[梅雨前線]]と同じく、[[前線 (気象)|前線]]を挟んで夏の空気と秋の空気が押し合いをしているため、前線は日本上空を南下したり北上したりする、こうして長雨が続く。 秋雨の原因となる高気圧は主に4つある。1つ目は[[シベリア高気圧]]と呼ばれる高気圧である。シベリア高気圧は冷たく乾燥した[[シベリア気団]]から構成されていて、高気圧から吹き出される風も冷たく乾燥している。2つ目は秋特有の[[移動性高気圧]]と呼ばれる高気圧である。移動性高気圧はやや温かく乾燥した[[揚子江気団]]から構成される。3つ目は太平洋高気圧で、温かく湿った[[小笠原気団]]から構成される。4つ目は[[オホーツク海高気圧]]と呼ばれる高気圧である。オホーツク海高気圧は冷たく湿った[[オホーツク海気団]]から構成される。 == 梅雨からすすき梅雨への移行 == オホーツク海気団と小笠原気団のせめぎ合う中で北上する梅雨前線は、平年で8月前半頃には中国の[[華北]]地方〜[[朝鮮半島]]北部〜[[北海道]]付近にまで達し、勢力が弱まって次第に消滅する。そして日本付近は小笠原気団からなる太平洋高気圧、中国大陸は揚子江気団からなる停滞性の高気圧に覆われ、[[東アジア]]のほぼ全域で本格的な夏が続く。 一方8月前半頃には、[[偏西風]]の強い部分([[ジェット気流]])が中国北部付近から[[オホーツク海]]付近にかけての地域に北上し、流れも弱くなる。しかし、8月後半頃になると、次第に偏西風が南下を始め、秋の空気もそれに伴って南下してくるようになる。 8月後半頃になると、太平洋高気圧が日本列島から離れたり近づいたりを繰り返すようになる。また、夏の間周りよりも相対的に気圧が低かった大陸の気圧が上がり始め、移動性高気圧やシベリア高気圧が勢いを増してくる。太平洋高気圧が離れたときには、そこに偏西風が入り込んで移動性高気圧と[[低気圧]]が交互にやってきて、晴れと雨が繰り返すような天気が訪れるようになる。このような天気が次第に増え始め、晴れ続きの夏の天気の間に雨がやってくるようになる。 これが秋雨の始まりである。8月後半頃から9月頃にかけて、[[北日本]]から順に[[寒冷前線]]が南下・東進するようになる。このような天気を経て、次第に低気圧とともに前線が発生し、停滞するようになる。 なお、[[立秋]]を過ぎて梅雨明けの発表、もしくは梅雨明けが特定できなかった場合は当日を以って梅雨から秋雨へそのまま移行したとされるため、梅雨明けの発表、もしくは梅雨明けの特定はされなくなる。 === 秋雨前線の南下から消滅まで === 8月後半頃から9月頃にかけて、[[北日本]]から順に寒冷前線が停滞前線に変わり、停滞するようになる。停滞する期間は長くて数日間で、あまり長続きはしない。天気は周期的に変わることもあるが、全国的にぐずついた天気が多くなる。 10月前半頃になると、太平洋高気圧は日本の南に完全に後退し、秋雨前線の停滞は主に[[本州]]の南となる。9月後半頃以降、北日本から順に偏西風が上空に南下してくるので、ジェット気流が高気圧や低気圧を押し流すことで天気が移り変わりやすくなり、太平洋側では晴れが増えてくるが、日本海側では低気圧通過後、一時的に[[西高東低]]になるために冬に比べると短期間であるが[[時雨]]やすくなる。 10月後半頃になると、秋雨前線は日本の南にまで南下し、途切れ途切れになって弱まり、やがて消滅する。 このころには、日本列島付近を移動性高気圧と低気圧が交互に通過し、乾燥した晴れ→雨→西高東低(日本海側は時雨、太平洋側は乾燥した晴れ)→乾燥した晴れが短期間で移る典型的な秋の天気となる。 == 秋雨の経過とその特徴 == [[ファイル:ClimateSendaiJapan.png|thumb|200px|right|東北地方の太平洋側に位置する[[仙台市]]の雨温図。梅雨に当たる6・7月の雨量は少なく、秋雨に当たる8・9月の雨量が多い。]] [[ファイル:ClimateFukuokaJapan.png|thumb|200px|right|九州北部に位置する[[福岡市]]の雨温図。梅雨にあたる6・7月の雨量が多く、秋雨に当たる9・10月の雨量が少ない。]] [[梅雨]]とは反対に、末期よりも初期の方が雨が強い。基本的に、秋雨前線は梅雨前線よりも弱く、前線が停滞前線ではなく寒冷前線や[[温暖前線]]になったり、前線として現れない[[気圧の谷]]となったりすることも多い。そのため、曇りの天気が続いたり、しとしとという弱い雨が降ることが多い。しかし、大気が極度に不安定となって大雨の条件がそろうと、梅雨をもしのぐ大雨となることがある。 特に秋雨の時期は秋の[[台風]]シーズンと重なっているため、台風から秋雨前線に向かって[[湿暖気流]]が流れ込み、[[積乱雲]]が発達して大雨となり、大規模な[[水害]]を引き起こす場合がある。また、上空の[[寒波|寒気]]や風の合流、低気圧や不安定な大気の影響で雨雲や雷雲が発達した場合、大雨になることも少なくない。 また、梅雨の雨量は西や南に行くほど多くなるのに対して、秋雨の雨量は北や東に行くほど多くなり、真逆(≒正反対)となっている。ただし、[[四国]][[南四国|太平洋側]]や[[九州]]南東部は台風の関係で秋雨も降水量が多くなる特徴がある。 秋雨前線の場合は通過後、一時的に西高東低になった際に寒気がやってくることがあり、通過の前後で気温が数{{℃}} - 十数{{℃}}低下して急に冷え込むことがある。また、[[高山]]や[[寒冷地]]では[[霙]]や[[霰]]、[[雪]]が降ることもある。 梅雨のない北海道でも秋雨はある。これは、秋雨の場合は前線を作るシベリア高気圧や移動性高気圧がはじめからしっかりと勢力を保っているためである。 梅雨と違って、始まり・終わりが明確でないことが多く、梅雨入り・梅雨明けに相当する発表はない。また、[[東南アジア]]から東アジアまでの広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本周辺(特に北日本・東日本)にのみ見られる現象である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> {{Wikinewscat}} * [[梅雨]] * [[天気]] * [[雨]] * [[季節]] * [[季語一覧]] {{デフォルトソート:あきさめ}} [[Category:雨]] [[Category:日本の気候]]
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循環型社会
循環型社会(じゅんかんがたしゃかい)とは、有限である資源を効率的に利用するとともに、循環的な利用(リサイクルなど)を行って、持続可能な形で循環させながら利用していく社会のこと。英語の「サーキュラーエコノミー(循環経済)」が類似の概念として国際的に2015年以降使われるようになってきたが、循環型社会との違いについては諸説存在する。 循環型社会形成推進基本法第2条では、「循環型社会とは、製品等が廃棄物となることが抑制され、並びに製品等が循環資源となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分が確保され、もって天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会をいう」と定義している。 「循環」とは、物事が一ヶ所に留まらずに巡る状態や、姿を変えながらも本質は存在し続けるという考え方を示しているが、特に「循環型社会」という場合は、主に経済活動の途中における資源やエネルギーの損失がないことを理想状態として、「消費→ゴミの生成/汚染物質の排出」という流れで一連の経済活動が終わる状態から、「資源の利用→結果として次の活用資源を生成」となるような、社会システムを構築することを指す。つまり、この場合の「循環型」とは主に天然資源について、「人間が有効に活用出来る状態を保ちつつ状態を遷移させうる、連続的な資源利用システムを成立させること」を意味する。 たとえば、アルミニウムの製錬には原料となる鉱物資源(ボーキサイト)と共に大きなエネルギーを必要とする。一旦アルミニウムとして製錬した資源(飲料缶など)については、次の原料素材として再利用(循環利用)することで、精錬や新たなボーキサイトの採掘にかかるエネルギーを節約することができ、さらなるエネルギーを費やして焼却したり埋め立て資材として廃棄してしまうよりも総合的な環境負荷をはるかに小さくできる。 その一方で、「循環型社会」という表現には、上記よりも幅広い意味が与えられている場合がある。橋本らは、1990年から2003年までの検討会などの文書をもとに、循環という言葉には、経済社会における物質循環や自然の循環のほか、環境と経済の好循環、関係性や命の循環などの意味が込められている場合があるとしている。そのため、循環型社会について議論するときは、その「循環」の意味するところなどを明確にする必要があると指摘している。 当然の事ながら、リサイクル素材の再利用にはエネルギーが必要である。原料からの製錬作業と原産地から消費地までの運搬に費やすエネルギーとを比較したうえで、リサイクルがより環境に負荷を与える場合があり、物質の循環が必ずしも環境面で良いことではないこともある。それが、どのレベルまで実現可能かはさておき、社会に必要な様々な天然資源において、こうした循環を可能にし、再利用の度合いをより高めていこうとする考え方が「循環型社会」という概念である。 つまるところ、循環型社会とは資源の枯渇による破局を回避し、永続性の有る社会を実現するための概念の一つであり、省資源/省エネルギー、3R活動(リデュース/リユース/リサイクル)などの個々の取り組みを促す、人間活動におけるこれからの方向性を示す考え方(ビジョン)といえる。なお、この概念は目指すべき社会への方向性を表したものであり、完全なる循環型社会は自然法則である熱力学第二法則に則り不可能である。 生態系の考えに立てば、物質は元来から循環しているものである。これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなかった。不要物は一方通行的に廃棄され、廃棄物・排出物は自然の循環システム(自然の浄化作用)に任されていた。人間の活動量がさほど大きくない間はよかったが、現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになった。これを、改めて人間の視野に収め、物質循環を助ける事を考えようというのが循環型社会であるともいえる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "循環型社会(じゅんかんがたしゃかい)とは、有限である資源を効率的に利用するとともに、循環的な利用(リサイクルなど)を行って、持続可能な形で循環させながら利用していく社会のこと。英語の「サーキュラーエコノミー(循環経済)」が類似の概念として国際的に2015年以降使われるようになってきたが、循環型社会との違いについては諸説存在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "循環型社会形成推進基本法第2条では、「循環型社会とは、製品等が廃棄物となることが抑制され、並びに製品等が循環資源となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分が確保され、もって天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会をいう」と定義している。", "title": "法的な定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「循環」とは、物事が一ヶ所に留まらずに巡る状態や、姿を変えながらも本質は存在し続けるという考え方を示しているが、特に「循環型社会」という場合は、主に経済活動の途中における資源やエネルギーの損失がないことを理想状態として、「消費→ゴミの生成/汚染物質の排出」という流れで一連の経済活動が終わる状態から、「資源の利用→結果として次の活用資源を生成」となるような、社会システムを構築することを指す。つまり、この場合の「循環型」とは主に天然資源について、「人間が有効に活用出来る状態を保ちつつ状態を遷移させうる、連続的な資源利用システムを成立させること」を意味する。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "たとえば、アルミニウムの製錬には原料となる鉱物資源(ボーキサイト)と共に大きなエネルギーを必要とする。一旦アルミニウムとして製錬した資源(飲料缶など)については、次の原料素材として再利用(循環利用)することで、精錬や新たなボーキサイトの採掘にかかるエネルギーを節約することができ、さらなるエネルギーを費やして焼却したり埋め立て資材として廃棄してしまうよりも総合的な環境負荷をはるかに小さくできる。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その一方で、「循環型社会」という表現には、上記よりも幅広い意味が与えられている場合がある。橋本らは、1990年から2003年までの検討会などの文書をもとに、循環という言葉には、経済社会における物質循環や自然の循環のほか、環境と経済の好循環、関係性や命の循環などの意味が込められている場合があるとしている。そのため、循環型社会について議論するときは、その「循環」の意味するところなどを明確にする必要があると指摘している。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当然の事ながら、リサイクル素材の再利用にはエネルギーが必要である。原料からの製錬作業と原産地から消費地までの運搬に費やすエネルギーとを比較したうえで、リサイクルがより環境に負荷を与える場合があり、物質の循環が必ずしも環境面で良いことではないこともある。それが、どのレベルまで実現可能かはさておき、社会に必要な様々な天然資源において、こうした循環を可能にし、再利用の度合いをより高めていこうとする考え方が「循環型社会」という概念である。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "つまるところ、循環型社会とは資源の枯渇による破局を回避し、永続性の有る社会を実現するための概念の一つであり、省資源/省エネルギー、3R活動(リデュース/リユース/リサイクル)などの個々の取り組みを促す、人間活動におけるこれからの方向性を示す考え方(ビジョン)といえる。なお、この概念は目指すべき社会への方向性を表したものであり、完全なる循環型社会は自然法則である熱力学第二法則に則り不可能である。", "title": "基本的な概念" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "生態系の考えに立てば、物質は元来から循環しているものである。これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなかった。不要物は一方通行的に廃棄され、廃棄物・排出物は自然の循環システム(自然の浄化作用)に任されていた。人間の活動量がさほど大きくない間はよかったが、現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになった。これを、改めて人間の視野に収め、物質循環を助ける事を考えようというのが循環型社会であるともいえる。", "title": "生態系の視点から" } ]
循環型社会(じゅんかんがたしゃかい)とは、有限である資源を効率的に利用するとともに、循環的な利用(リサイクルなど)を行って、持続可能な形で循環させながら利用していく社会のこと。英語の「サーキュラーエコノミー(循環経済)」が類似の概念として国際的に2015年以降使われるようになってきたが、循環型社会との違いについては諸説存在する。
'''循環型社会'''(じゅんかんがたしゃかい)とは、有限である[[資源]]を効率的に利用するとともに、循環的な利用(リサイクルなど)を行って、[[持続可能性|持続可能]]な形で循環させながら利用していく[[社会]]のこと。英語の「[[サーキュラーエコノミー]]([[循環経済]])」が類似の概念として国際的に[[2015年]]以降使われるようになってきたが、循環型社会との違いについては諸説存在する。 == 法的な定義 == [[循環型社会形成推進基本法]][[s:循環型社会形成推進基本法#2|第2条]]では、「'''循環型社会'''とは、製品等が廃棄物となることが抑制され、並びに製品等が[[循環資源]]となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分が確保され、もって天然資源の消費を抑制し、[[環境への負荷]]ができる限り低減される社会をいう」と定義している。 == 基本的な概念 == 「循環」とは、物事が一ヶ所に留まらずに巡る状態や、姿を変えながらも本質は存在し続けるという考え方を示しているが、特に「循環型社会」という場合は、主に経済活動の途中における[[資源]]や[[エネルギー]]の損失がないことを[[理想状態]]として、「消費→[[ゴミ]]の生成/[[汚染]]物質の排出」という流れで一連の経済活動が終わる状態から、「資源の利用→結果として次の活用資源を生成」となるような、[[社会システム]]を構築することを指す。つまり、この場合の「循環型」とは主に[[天然資源]]について、「人間が有効に活用出来る状態を保ちつつ状態を遷移させうる、連続的な資源利用システムを成立させること」を意味する。 たとえば、[[アルミニウム]]の[[製錬]]には[[原料]]となる[[鉱物資源]]([[ボーキサイト]])と共に大きな[[エネルギー]]を必要とする。一旦アルミニウムとして製錬した資源(飲料缶など)については、次の原料素材として再利用(循環利用)することで、精錬や新たなボーキサイトの採掘にかかるエネルギーを節約することができ、さらなるエネルギーを費やして焼却したり埋め立て資材として廃棄してしまうよりも総合的な[[環境負荷]]をはるかに小さくできる。 その一方で、「循環型社会」という表現には、上記よりも幅広い意味が与えられている場合がある。橋本ら<ref>{{Cite journal|author=橋本征二、森口祐一、田崎智宏、柳下正治|year=2006|title=循環型社会像の比較分析|journal=廃棄物学会論文誌|volume=17|issue=6|pages=204-218|DOI=10.3985/jswme.17.204}}</ref>は、1990年から2003年までの検討会などの文書をもとに、循環という言葉には、経済社会における物質循環や自然の循環のほか、環境と経済の好循環、関係性や命の循環などの意味が込められている場合があるとしている。そのため、循環型社会について議論するときは、その「循環」の意味するところなどを明確にする必要があると指摘している。 当然の事ながら、[[リサイクル]]素材の再利用にはエネルギーが必要である。原料からの製錬作業と原産地から消費地までの運搬に費やすエネルギーとを比較したうえで、リサイクルがより環境に負荷を与える場合があり、物質の循環が必ずしも環境面で良いことではないこともある。それが、どのレベルまで実現可能かはさておき、社会に必要な様々な天然資源において、こうした循環を可能にし、再利用の度合いをより高めていこうとする考え方が「循環型社会」という概念である。 つまるところ、循環型社会とは資源の枯渇による破局を回避し、永続性の有る社会を実現するための概念の一つであり、[[省資源]]/[[省エネルギー]]、[[3R]]活動([[リデュース]]/[[リユース]]/[[リサイクル]])などの個々の取り組みを促す、人間活動におけるこれからの方向性を示す考え方(ビジョン)といえる。なお、この概念は目指すべき社会への方向性を表したものであり、完全なる循環型社会は自然法則である[[熱力学第二法則]]に則り不可能である。 == 生態系の視点から == 生態系の考えに立てば、物質は元来から循環しているものである。これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなかった。不要物は一方通行的に廃棄され、廃棄物・排出物は自然の循環システム([[自然の浄化作用]])に任されていた。人間の活動量がさほど大きくない間はよかったが、現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになった。これを、改めて人間の視野に収め、[[物質循環]]を助ける事を考えようというのが循環型社会であるともいえる。 == 関連項目 == {{Commonscat|Waste management}} * [[循環型社会形成推進基本法]] * [[3R|3R(]][[リデュース]]/[[リユース]]/[[リサイクル]]) * Loopの仕組み == 外部リンク == * [https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/ 環境省 環境白書・循環型社会白書] * [https://www.meti.go.jp/policy/recycle/main/data/pamphlet/index.html 資源循環ハンドブック(経済産業省)] * [https://www.env.go.jp/recycle/ 環境省 環境再生・資源循環局のページ] * [https://www.meti.go.jp/policy/recycle/index.html 経済産業省の3Rのページ] * [https://web.archive.org/web/20000611000813fw_/http://www.wnn.or.jp/wnn-tokyo/eco2/index.html 新徹底特集「環境問題の事例紹介」] == 参考文献 == {{Reflist}} {{循環型社会}} {{地球温暖化}} {{環境問題||||}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆんかんかたしやかい}} [[Category:循環型社会|*]] [[Category:環境マネジメント]] [[Category:持続可能な開発目標]] [[Category:日本の環境政策]]
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らんま1/2
『らんま1/2』(らんまにぶんのいち、ラテン文字表記: Ranma 1/2)は、高橋留美子による日本の漫画作品。 『週刊少年サンデー』(小学館)で連載されていた『うる星やつら』の次作であり、1987年36号から1996年12号まで連載、単行本化された。また2002年から2003年にかけて新装版が、2017年から2018年にかけて少年サンデースペシャル版がそれぞれ出版された(#書誌情報)。 作品の特徴は、水をかぶると女になってしまう高校生格闘家・早乙女乱馬とその許婚・天道あかねの交流を軸に家族・友人を巻き込んだドタバタ騒動の日常を描いたラブコメを基調としながら基本的には中長編で展開されつつ、格闘シーンに富んでいることである(#あらすじ)。 単行本は2007年現在、少なくとも22カ国・地域で19言語版が出版されている。ノルウェー語訳・ロシア語訳された初の日本漫画でもある(タイトルはそれぞれ"Ranma1/2”、"Ранма1/2")。1996年には、小学館で『少年サンデーグラフィック らんま1/2メモリアル・ブック』が刊行された。また2021年6月時点で単行本の累計発行部数は5500万部を突破しており、世代をまたがり根強いファンを持つ高橋留美子の代表作となっている。 1989年にはフジテレビでテレビアニメ化され(#アニメ)、その後は劇場版やオリジナルビデオアニメ(OVA)版、オリジナルストーリーでの実写テレビドラマ化(#テレビドラマ)、ゲーム化(#ゲーム作品)もされた。また本作は声優がキャラクター名義で多数の楽曲をCDでリリースし(#アニメーション企画音盤)、1990年には、第5回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞アニメ部門を受賞した。 早乙女乱馬は、幼少の頃より無差別格闘流の修行に励む高校生。ある時、修行のため中国へ渡ったが、父・早乙女玄馬と共に悲劇的伝説が伝わる泉が多く湧く修行場「呪泉郷」で稽古中に、父の玄馬は熊猫溺泉(ションマオ・ニーチュアン、パンダが溺れた泉)に、乱馬は娘溺泉(ニャン・ニーチュアン、若い娘が溺れた泉)に落ち、それぞれ水をかぶるとパンダと女の子になり、お湯をかぶると元の姿に戻るという変身体質を背負ってしまった。 中国での修行を終え、日本(東京都練馬区)に帰国した後、乱馬は玄馬から、友人である天道早雲の娘と自分が許嫁であると聞かされる。嫌がる乱馬を無理矢理天道家へ連れて行った玄馬だが、早雲の前に現れた2人はパンダと女の子の姿だったため、娘を乱馬と結婚させて乱馬に自身が経営する天道道場を継いでもらうことを夢見ていた早雲は、乱馬を女の子だと思い込んでショックを受ける。 一方、父と同様に乱馬を女の子だと思い道場に誘った天道家の三女天道あかねは、乱馬と手合わせをし仲良くなった。その日の夜、乱馬は風呂を勧められしぶしぶ入浴する。湯に浸かると変身が解けてしまうため、男に戻って風呂から出るか女のまま出るか悩んだ末に、男の姿で風呂から出ようとした乱馬だったが、あろうことかそこで風呂に入ってきたあかねとお互い裸のまま出くわしてしまう。 事情を知った早雲は乱馬が男であったことを喜び、長女天道かすみと次女天道なびき、あかねの中から好きな娘を選ぶようにと薦めるが、かすみとなびきは「乱馬くんは半分女の子だから男嫌いであるあかねが適任だ」と勝手に決めつけ、乱馬の許婚はあかねに決まってしまう。だがあかねは風呂での一件で乱馬を変態呼ばわりして激しく拒否し、一方の乱馬も理不尽に変態と言われたことに対して怒り、2人は互いに対立する。 その後、早乙女親子はしばらく天道家に居候することになり、乱馬はあかねと同じ風林館高校に通うこととなる。こうして、恋や格闘、そして乱馬の変身体質による周囲の混乱で騒々しい日常生活が始まるのであった。 物語は主人公の乱馬を中心に、許婚のあかねや天道家の住人、乱馬のライバルたちを巻き込んでの格闘物からコメディー、学園、季節のイベントごとが中心となる。基本的には格闘ものとそうではない話が交互に展開され、物語のコンセプトでもある呪泉郷絡みの長編がそれに交わる形となる。長編では必ず乱馬たちと敵対する強敵が登場するが、強さのバランスを考慮してか、八宝斎とコロンは不在だったり戦線に立たないよう工夫がなされている。 呪泉郷(チョウチュアンシアン、じゅせんきょう)とは、中国にあるとされる作中に登場する修行場。100以上の沢山の泉があり、いくつかの泉には足場にも利用される長い竹が立ててある。一つ一つの泉に悲劇的伝説から生まれた呪いがあり、泉で溺れると、最初にその泉で溺れた者の姿となる。それ以降、水に濡れると変身し、湯をかぶると元に戻る体質となる。この作品の根幹となる設定の一つであり、主要登場人物の何人かは呪泉郷の泉で溺れ、変身体質となる呪いにかかっている。 本作について高橋は、「前作『うる星やつら』のアニメ化以降、女の子からのファンレターが増えて嬉しかったので、新連載では読者層を広げようと考えて企画を立てた」と語り、「うる星とはちょっと違うノリの学園物がやりたいとか、性の入れかわりとか、いくつか描きたいものが明確にあったので、それらを全部ぶち込んで描いたようなところもあった」とインタビューで語っている。ボーダレスなキャラを主人公にし、水とお湯で性が変わる設定を思いついたあとで、その原因としての「呪いの泉」を考え、そんなものが現代でもあるのは中国しかないだろうと構想が進み、それにあわせて中国の女の子っぽいヒロインの造形を考えたと述べている。性転換の設定については「男でも女でもある主人公なら、男の子も女の子もたくさん描けると思ったから。男女両方描けるって、とても楽しいし、絵的に飽きが来ない」とし、それまでの多くの作品は性の目覚めがテーマになっていたりするが、高橋の場合は別に性の目覚めを描きたいわけでなく、変幻自在なキャラクターの格闘を描きたかったので、(女らんまは)あっけらかんとして、服がはだけてもかまわずにバトルに勝つほうを優先するキャラにしたという。乱馬と天道あかねの関係については「(『うる星』の)追いかけっこじゃなくて、お互い対等な立場でガンガンぶつかっていく」関係を描きたかったと語っている。作品中のコミカルな拳法は一連のジャッキー・チェンの映画の影響、必殺技については車田正美へのオマージュとしている。『うる星やつら』同様に日常がループするスタイルについては、藤子・F・不二雄の作品からの影響が大きいと述べ、編集部からは、引きを多用して「ラスボス的なキャラを出せとよく言われていましたが、そういうバトル漫画を描きたかったわけじゃないから困りました(笑)」と語っている。 テレビシリーズは原作22巻の乱馬の母が登場するエピソードまで、OVAや劇場版を含めると、原作34巻までの一部の内容まで制作された。 山口勝平の初主演作品であり、本人曰く「右も左も分からない状況で、とにかく一生懸命乱馬役を没頭して演じた」「声優として形が出来ていなかったため、第1話と最終話では演じ方がまったく違う」との事。原作者の高橋は山口の演技力を高く評価しており、彼女の推薦により次作『犬夜叉』でも主人公・犬夜叉を演じる事となった。他にも本作で出演した多数の声優陣が同作に出演している。 なおアニメでは原作の最終回が制作されていない。これに関して、キッズステーションで2001年11月23日にOVAシリーズが一挙放送された際に山口勝平と日髙のり子が解説者として出演したが、その際に「完結編を作って欲しい」とコメントしている。 同じ高橋留美子原作の『うる星やつら』(1981年版)後半や『めぞん一刻』をテレビアニメ化したキティ・フィルムとスタジオディーンによって制作され、前2作品同様にフジテレビ系で放送された。当初は『らんま1/2』のタイトルで、1989年4月から毎週土曜日の19:30 - 20:00枠にて全国ネットであったが、同年10月より『らんま1/2 熱闘編』(らんまにぶんのいち ねっとうへん〈以下、「熱闘編」と略す〉)と改題の上、フジテレビでは金曜17:30 - 18:00枠でのローカルセールス枠に移動した。 『らんま1/2』で監督とクレジットされた芝山努は多忙のため参加できずにそのまま降板となり、シリーズディレクターの望月智充が実質的に現場の監督を任せられた。「熱闘編」として平日夕方枠へ移動すると共に制作費が削られ、作画の海外丸投げなどにより一部影の描かれていない絵になるなど質の低下が見られたが、原作人気が継続したこと、中嶋敦子のキャラクターデザインが一定の評価を得たこと、声優ブームに乗る形で企画CDがヒットしたことなどにも支えられ、熱闘編は3年間に渡って放送された。2019年の番組『発表!全るーみっくアニメ大投票 高橋留美子だっちゃ』で発表された作品部門の順位は第2位。 フジテレビでの放送終了後はケーブルテレビ、スカパー!などのキッズステーションで繰り返し再放送されている。2013年6月からはキッズステーションにてデジタルリマスター版の世界初放送が開始された。 熱闘編は放送開始当初オープニングテーマがなく、オープニングナレーションのみだった。ナレーションは中村正が担当していた。 第1期後半エンディングテーマの『EQUALロマンス』はCoCoのデビュー曲だが、わずか5話しか使用されていない。2003年放送の『デ・ジ・キャラットにょ』では本曲のアレンジ曲を前期エンディングテーマとして計20話で使用した。元々アニメソングとしての制作ではなかった曲がアニメソングとして使用された後、後年にカバーされ、さらに別のアニメに恒常的に使用され、なおかつ、アニメソングとしては、『デ・ジ・キャラットにょ』の方で長く使われるという珍しい例となった。 第1期後半のシリーズ構成を務めた井上敏樹は、本作品はやりたくなかったが、プロデューサーが自宅まで押しかけてきたので嫌々引き受けたと述べている。井上は本作品参加のため、『天空戦記シュラト』を降板している。 カートゥーンネットワークで1999年に放送された際、アイキャッチと次回予告が省略されていた。 ※ここでの話数は実際に放送された順とする。BDやHDリマスター版再放送では『熱闘編』の冠が外され、前シリーズから話数を引き継いでいる。 熱闘編は、時折作画監督に実在のアニメーターではなく作中の登場人物がクレジットされていることがあった(例:第53話、第59話)。 第1期第13話放映時の次回予告では第14話は「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」になっているが、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件に配慮し、第14話 - 第16話(格闘フィギュアスケート編)の放送が他の話に差し替えられ、のちに熱闘編第7話 - 第9話として放送された。そのためその後の話でカットされたシーンの回想をするなど話のつながらない部分がある。これらの順番はLD・DVDでは放送順で収録されていたが、2013年に発売されたBD版では当初の予定通り収録されている。 判明している局のみ表記。 再放送については、第1期・熱闘編ともに、アニマックスなどのBS/CS放送や、テレビ神奈川などのローカル放送局で放送された。 ※第1期と「熱闘編」の区別は特にない。 ※脚本はいずれも山口亮太が担当。 OVA版主題歌ではその大半を、らんまと天道3姉妹にシャンプーを加えた仮想ユニット「DoCo」が担当している。DoCoは企画音盤(CDの項を参照)で生まれたユニット設定であり、ユニット名はテレビ版主題歌を担当したCoCoをもじって付けられた。 乱馬的企画音盤として5枚のキャラクターソングアルバムを制作しており、声優ブームもあって本作人気の一翼を担った。1枚目の『熱闘歌合戦』ではブックレットに曲それぞれのシングルジャケットがデザインされて、 カップリング曲まで記載される(カップリング曲は、後に4枚目の『格闘歌かるた』に収録)という凝った作りになっており、2枚目の『歌暦』も収録している全12曲(うち2曲は上記『熱闘歌合戦』収録曲のカップリング曲)を後にシングルにカットして同時発売した。3枚目の『DoCoファースト』と5枚目の『DoCo Second』は上記の「DoCo」のアルバムと位置づけて制作されている。なお、本作のキャラクターソングの歌手名表記は、一般的なキャラクター (の役でその歌をうたう声優) ではなく、キャラクター名のみが表記されている(声優はブックレットに記載)。 いずれも1991年1月21日発売 らんま1/2関係曲を、声優等がカバーしたモノの一覧。企画音盤のアルバムに収録されているものが多い。 『らんま1/2』(らんまにぶんのいち)は、2011年12月9日に日本テレビ系列の『金曜スーパープライム』枠(19時00分 - 20時54分)で放送されたスペシャルドラマ。主演は新垣結衣。視聴率は7.9%。 マダム・カマンベール率いる謎の組織と乱馬による和風男溺泉の鍵を巡る争奪戦を描く単行本8巻のパラレルワールド作品である。 小林よしのり作の『おぼっちゃまくん』の主人公、御坊茶魔と『週刊少年サンデー』誌上でコラボレーションも果たしている。同誌1990年42号の表紙は、らんま(女)が茶魔を抱っこしているという図柄で、『おぼっちゃまくん』の特別読みきりが掲載された。しかし小林は、本作のファンから嫉妬が大半の不興を買っているとして、『おこっちゃまくん』(宝島連載版)で、本作のファンを激しく批判したことがある。因みに、『おぼっちゃまくん』のアニメ版は、一時期本作のアニメ版の裏番組であった。 サウンドトラックの一部が日本テレビ放送網のクイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』で使用されていた。
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20:00枠にて全国ネットであったが、同年10月より『らんま1/2 熱闘編』(らんまにぶんのいち ねっとうへん〈以下、「熱闘編」と略す〉)と改題の上、フジテレビでは金曜17:30 - 18:00枠でのローカルセールス枠に移動した。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『らんま1/2』で監督とクレジットされた芝山努は多忙のため参加できずにそのまま降板となり、シリーズディレクターの望月智充が実質的に現場の監督を任せられた。「熱闘編」として平日夕方枠へ移動すると共に制作費が削られ、作画の海外丸投げなどにより一部影の描かれていない絵になるなど質の低下が見られたが、原作人気が継続したこと、中嶋敦子のキャラクターデザインが一定の評価を得たこと、声優ブームに乗る形で企画CDがヒットしたことなどにも支えられ、熱闘編は3年間に渡って放送された。2019年の番組『発表!全るーみっくアニメ大投票 高橋留美子だっちゃ』で発表された作品部門の順位は第2位。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "フジテレビでの放送終了後はケーブルテレビ、スカパー!などのキッズステーションで繰り返し再放送されている。2013年6月からはキッズステーションにてデジタルリマスター版の世界初放送が開始された。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "熱闘編は放送開始当初オープニングテーマがなく、オープニングナレーションのみだった。ナレーションは中村正が担当していた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第1期後半エンディングテーマの『EQUALロマンス』はCoCoのデビュー曲だが、わずか5話しか使用されていない。2003年放送の『デ・ジ・キャラットにょ』では本曲のアレンジ曲を前期エンディングテーマとして計20話で使用した。元々アニメソングとしての制作ではなかった曲がアニメソングとして使用された後、後年にカバーされ、さらに別のアニメに恒常的に使用され、なおかつ、アニメソングとしては、『デ・ジ・キャラットにょ』の方で長く使われるという珍しい例となった。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第1期後半のシリーズ構成を務めた井上敏樹は、本作品はやりたくなかったが、プロデューサーが自宅まで押しかけてきたので嫌々引き受けたと述べている。井上は本作品参加のため、『天空戦記シュラト』を降板している。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "カートゥーンネットワークで1999年に放送された際、アイキャッチと次回予告が省略されていた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "※ここでの話数は実際に放送された順とする。BDやHDリマスター版再放送では『熱闘編』の冠が外され、前シリーズから話数を引き継いでいる。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "熱闘編は、時折作画監督に実在のアニメーターではなく作中の登場人物がクレジットされていることがあった(例:第53話、第59話)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第1期第13話放映時の次回予告では第14話は「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」になっているが、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件に配慮し、第14話 - 第16話(格闘フィギュアスケート編)の放送が他の話に差し替えられ、のちに熱闘編第7話 - 第9話として放送された。そのためその後の話でカットされたシーンの回想をするなど話のつながらない部分がある。これらの順番はLD・DVDでは放送順で収録されていたが、2013年に発売されたBD版では当初の予定通り収録されている。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "判明している局のみ表記。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "再放送については、第1期・熱闘編ともに、アニマックスなどのBS/CS放送や、テレビ神奈川などのローカル放送局で放送された。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "※第1期と「熱闘編」の区別は特にない。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "※脚本はいずれも山口亮太が担当。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "OVA版主題歌ではその大半を、らんまと天道3姉妹にシャンプーを加えた仮想ユニット「DoCo」が担当している。DoCoは企画音盤(CDの項を参照)で生まれたユニット設定であり、ユニット名はテレビ版主題歌を担当したCoCoをもじって付けられた。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "乱馬的企画音盤として5枚のキャラクターソングアルバムを制作しており、声優ブームもあって本作人気の一翼を担った。1枚目の『熱闘歌合戦』ではブックレットに曲それぞれのシングルジャケットがデザインされて、 カップリング曲まで記載される(カップリング曲は、後に4枚目の『格闘歌かるた』に収録)という凝った作りになっており、2枚目の『歌暦』も収録している全12曲(うち2曲は上記『熱闘歌合戦』収録曲のカップリング曲)を後にシングルにカットして同時発売した。3枚目の『DoCoファースト』と5枚目の『DoCo Second』は上記の「DoCo」のアルバムと位置づけて制作されている。なお、本作のキャラクターソングの歌手名表記は、一般的なキャラクター (の役でその歌をうたう声優) ではなく、キャラクター名のみが表記されている(声優はブックレットに記載)。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "いずれも1991年1月21日発売", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "らんま1/2関係曲を、声優等がカバーしたモノの一覧。企画音盤のアルバムに収録されているものが多い。", "title": "アニメ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "『らんま1/2』(らんまにぶんのいち)は、2011年12月9日に日本テレビ系列の『金曜スーパープライム』枠(19時00分 - 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『らんま1/2』は、高橋留美子による日本の漫画作品。 『週刊少年サンデー』(小学館)で連載されていた『うる星やつら』の次作であり、1987年36号から1996年12号まで連載、単行本化された。また2002年から2003年にかけて新装版が、2017年から2018年にかけて少年サンデースペシャル版がそれぞれ出版された(#書誌情報)。 作品の特徴は、水をかぶると女になってしまう高校生格闘家・早乙女乱馬とその許婚・天道あかねの交流を軸に家族・友人を巻き込んだドタバタ騒動の日常を描いたラブコメを基調としながら基本的には中長編で展開されつつ、格闘シーンに富んでいることである(#あらすじ)。 単行本は2007年現在、少なくとも22カ国・地域で19言語版が出版されている。ノルウェー語訳・ロシア語訳された初の日本漫画でもある(タイトルはそれぞれ"Ranma1/2”、"Ранма1/2")。1996年には、小学館で『少年サンデーグラフィック らんま1/2メモリアル・ブック』が刊行された。また2021年6月時点で単行本の累計発行部数は5500万部を突破しており、世代をまたがり根強いファンを持つ高橋留美子の代表作となっている。 1989年にはフジテレビでテレビアニメ化され(#アニメ)、その後は劇場版やオリジナルビデオアニメ(OVA)版、オリジナルストーリーでの実写テレビドラマ化(#テレビドラマ)、ゲーム化(#ゲーム作品)もされた。また本作は声優がキャラクター名義で多数の楽曲をCDでリリースし(#アニメーション企画音盤)、1990年には、第5回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞アニメ部門を受賞した。
{{記事名の制約|らんま<math>\frac{1}{2}</math>|disablerealtitle=yes}} {{半保護}} {{複数の問題|出典の明記=2018-03|独自研究=2018-03}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = らんま1/2 | ジャンル = [[少年漫画]]、[[お色気漫画|お色気]]、[[格闘漫画|格闘]]、[[ラブコメディ|ラブコメ]]<br />[[ギャグ漫画|ギャグ]]、[[学園漫画|学園]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[高橋留美子]] | 出版社 = [[小学館]] | 他出版社 = {{flagicon|TWN}} [[大然文化]]、[[尖端出版]](新装版)<br />{{flagicon|HKG}} 玉郎集團 → 文化傳信(新装版)<br />{{flagicon|PRC}} 吉林美术出版社(出版)吉美文化(発売)<br />{{flagicon|Canada}}{{flagicon|USA}} Viz Media<br />{{flagicon|Denmark}}{{flagicon|Germany}}{{flagicon|Sweden}}{{flagicon|Finland}}{{flagicon|Poland}} 艾閣萌<br />{{flagicon|KOR}} 首爾文化社<br />{{flagicon|Italy}} Granata Press、Star Comics<br />{{flagicon|Mexico}} Editorial Toukan <br /> {{flagicon|Spain}}{{flagicon|France}} [[グレナ|Glénat]] <br />{{flagicon|Argentina}} Ivrea<br />{{flagicon|Russia}} Sakura Press <br />{{flagicon|Brazil}} Animangá、Editora JBC<br />{{flagicon|Malaysia}} Tora Aman<br />{{flagicon|Indonesia}} Rajawali Grafiti<br />{{flagicon|Thailand}} Siam Inter Multimedia | 掲載誌 = [[週刊少年サンデー]] | レーベル = 少年サンデーコミックス | 開始号 = 1987年36号 | 終了号 = 1996年12号 | 巻数 = 全38巻 | 話数 = 全407話 | その他 = 新装版:全38巻<br />少年サンデースペシャル版:全20巻 }} {{Infobox animanga/TVAnime | 原作 = 高橋留美子 | 監督 = [[芝山努]] | シリーズディレクター = [[望月智充]] | シリーズ構成 = [[浦沢義雄]]、[[井上敏樹]] | キャラクターデザイン = [[中嶋敦子]] | 音楽 = [[森英治]] | アニメーション制作 = [[スタジオディーン|スタジオ・ディーン]] | 製作 = [[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[キティ・フィルム]] | 放送局 = フジテレビ系列 | 放送開始 = 1989年4月15日 | 放送終了 = 9月16日 | 話数 = 全18話 }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = らんま1/2 熱闘編 | 原作 = 高橋留美子 | 監督 = [[澤井幸次]]、[[西村純二]] | シリーズ構成 = [[戸田博史 (脚本家)|戸田博史]]、[[柳川茂]] | キャラクターデザイン = 中嶋敦子 | 音楽 = 森英治、[[川井憲次]]、松浦晃久 | アニメーション制作 = スタジオ・ディーン | 製作 = フジテレビ、キティ・フィルム | 放送局 = フジテレビ他 | 放送開始 = 1989年10月20日 | 放送終了 = 1992年9月25日 | 話数 = 全143話(通算161話) }} {{Infobox animanga/TVDrama | 原作 = 高橋留美子 | 脚本 = [[いずみ吉紘]] | 演出 = 西村了 | 制作 = [[日テレアックスオン]] | 放送局 = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]] | 放送開始 = 2011年12月9日 | 放送終了 = 同日 | 話数 = 全1話 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]・[[プロジェクト:テレビドラマ|テレビドラマ]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:テレビ|テレビ]]・[[Portal:ドラマ|ドラマ]] }} 『'''らんま1/2'''』(らんまにぶんのいち、ラテン文字表記: Ranma 1/2<ref>{{cite web | url=https://www.viz.com/ranma-1-2| title=RANMA 1/2 | work=[[VIZ Media]] | accessdate=2020-7-23}}</ref>)は、[[高橋留美子]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。 『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])で連載されていた『[[うる星やつら]]』の次作であり、1987年36号から1996年12号まで連載、単行本化された。また2002年から2003年にかけて新装版が、2017年から2018年にかけて少年サンデースペシャル版がそれぞれ出版された([[#書誌情報]])。 作品の特徴は、水をかぶると女になってしまう高校生格闘家・早乙女乱馬とその[[許婚]]・天道あかねの交流を軸に家族・友人を巻き込んだドタバタ騒動の日常を描いたラブコメを基調としながら基本的には中長編で展開されつつ、格闘シーンに富んでいることである([[#あらすじ]])。 単行本は2007年現在、少なくとも22カ国・地域で19言語版が出版されている。ノルウェー語訳・ロシア語訳された初の日本漫画でもある(タイトルはそれぞれ"{{lang|no|Ranma1/2}}”、"{{lang|ru|Ранма1/2}}")。1996年には、小学館で『少年サンデーグラフィック らんま1/2メモリアル・ブック』が刊行された。また2021年6月時点で単行本の累計発行部数は5500万部を突破しており<ref name="animageplus37608">{{Cite news|url=https://animageplus.jp/articles/detail/37608|title=肌触りなめらか♪ 『らんま1/2』猫飯店サテン巾着バッグ!|work=アニメージュプラス|date=2021-6-14|accessdate=2021-07-09}}</ref>、世代をまたがり根強いファンを持つ高橋留美子の代表作となっている{{R|animageplus37608}}。 1989年にはフジテレビでテレビアニメ化され([[#アニメ]])、その後は劇場版やオリジナルビデオアニメ([[OVA]])版、オリジナルストーリーでの実写テレビドラマ化([[#テレビドラマ]])、ゲーム化([[#ゲーム作品]])もされた。また本作は声優がキャラクター名義で多数の楽曲を[[コンパクトディスク|CD]]でリリースし([[#アニメーション企画音盤]])、1990年には、第5回[[日本ゴールドディスク大賞]]アルバム賞アニメ部門を受賞した。 == あらすじ == '''早乙女乱馬'''は、幼少の頃より無差別格闘流の修行に励む高校生。ある時、修行のため中国へ渡ったが、父・'''早乙女玄馬'''と共に悲劇的伝説が伝わる泉が多く湧く修行場「呪泉郷」で稽古中に、父の玄馬は熊猫溺泉(ションマオ・ニーチュアン、パンダが溺れた泉)に、乱馬は娘溺泉(ニャン・ニーチュアン、若い娘が溺れた泉)に落ち、それぞれ水をかぶるとパンダと女の子になり、お湯をかぶると元の姿に戻るという変身体質を背負ってしまった。 中国での修行を終え、日本([[東京都]][[練馬区]])に帰国した後、乱馬は玄馬から、友人である'''天道早雲'''の娘と自分が許嫁であると聞かされる。嫌がる乱馬を無理矢理天道家へ連れて行った玄馬だが、早雲の前に現れた2人はパンダと女の子の姿だったため、娘を乱馬と結婚させて乱馬に自身が経営する天道道場を継いでもらうことを夢見ていた早雲は、乱馬を女の子だと思い込んでショックを受ける。 一方、父と同様に乱馬を女の子だと思い道場に誘った天道家の三女'''天道あかね'''は、乱馬と手合わせをし仲良くなった。その日の夜、乱馬は風呂を勧められしぶしぶ入浴する。湯に浸かると変身が解けてしまうため、男に戻って風呂から出るか女のまま出るか悩んだ末に、男の姿で風呂から出ようとした乱馬だったが、あろうことかそこで風呂に入ってきたあかねとお互い裸のまま出くわしてしまう。 事情を知った早雲は乱馬が男であったことを喜び、長女'''天道かすみ'''と次女'''天道なびき'''、あかねの中から好きな娘を選ぶようにと薦めるが、かすみとなびきは「乱馬くんは半分女の子だから男嫌いであるあかねが適任だ」と勝手に決めつけ、乱馬の許婚はあかねに決まってしまう。だがあかねは風呂での一件で乱馬を変態呼ばわりして激しく拒否し、一方の乱馬も理不尽に変態と言われたことに対して怒り、2人は互いに対立する。 その後、早乙女親子はしばらく天道家に居候することになり、乱馬はあかねと同じ風林館高校に通うこととなる。こうして、恋や格闘、そして乱馬の変身体質による周囲の混乱で騒々しい日常生活が始まるのであった。 == 作風 == 物語は主人公の乱馬を中心に、許婚のあかねや天道家の住人、乱馬のライバルたちを巻き込んでの格闘物から[[コメディー]]、学園、季節のイベントごとが中心となる。基本的には格闘ものとそうではない話が交互に展開され、物語のコンセプトでもある呪泉郷絡みの長編がそれに交わる形となる。長編では必ず乱馬たちと敵対する強敵が登場するが、強さのバランスを考慮してか、八宝斎とコロンは不在だったり戦線に立たないよう工夫がなされている。 === 呪泉郷 === {{main|呪泉郷}} '''呪泉郷'''(チョウチュアンシアン、じゅせんきょう)とは、[[中華人民共和国|中国]]にあるとされる作中に登場する修行場。100以上の沢山の泉があり、いくつかの泉には足場にも利用される長い竹が立ててある。一つ一つの泉に悲劇的伝説から生まれた呪いがあり、泉で溺れると、最初にその泉で溺れた者の姿となる。それ以降、水に濡れると変身し、湯をかぶると元に戻る体質となる。この作品の根幹となる設定の一つであり、主要登場人物の何人かは呪泉郷の泉で溺れ、変身体質となる呪いにかかっている。 == 登場人物 == {{main|らんま1/2の登場人物}} == 制作背景 == 本作について高橋は、「前作『うる星やつら』のアニメ化以降、女の子からのファンレターが増えて嬉しかったので、新連載では読者層を広げようと考えて企画を立てた」と語り、「うる星とはちょっと違うノリの学園物がやりたいとか、[[TSF (ジャンル)|性の入れかわり]]とか、いくつか描きたいものが明確にあったので、それらを全部ぶち込んで描いたようなところもあった」とインタビューで語っている。ボーダレスなキャラを主人公にし、水とお湯で性が変わる設定を思いついたあとで、その原因としての「呪いの泉」を考え、そんなものが現代でもあるのは[[中国]]しかないだろうと構想が進み、それにあわせて中国の女の子っぽいヒロインの造形を考えたと述べている。[[性転換]]の設定については「男でも女でもある主人公なら、男の子も女の子もたくさん描けると思ったから。男女両方描けるって、とても楽しいし、絵的に飽きが来ない」とし、それまでの多くの作品は性の目覚めがテーマになっていたりするが、高橋の場合は別に性の目覚めを描きたいわけでなく、変幻自在なキャラクターの格闘を描きたかったので、(女らんまは)あっけらかんとして、服がはだけてもかまわずにバトルに勝つほうを優先するキャラにしたという。乱馬と天道あかねの関係については「(『うる星』の)追いかけっこじゃなくて、お互い対等な立場でガンガンぶつかっていく」関係を描きたかったと語っている。作品中のコミカルな拳法は一連の[[ジャッキー・チェン]]の映画の影響、必殺技については[[車田正美]]へのオマージュとしている。『うる星やつら』同様に日常がループするスタイルについては、[[藤子・F・不二雄]]の作品からの影響が大きいと述べ、編集部からは、引きを多用して「ラスボス的なキャラを出せとよく言われていましたが、そういうバトル漫画を描きたかったわけじゃないから困りました(笑)」と語っている<ref>漫画家本vol.14『高橋留美子本』(小学館、2019年)掲載「高橋留美子4万字ロングインタビュー」より</ref>。 == 書誌情報 == === 単行本 === * 高橋留美子 『らんま1/2』 小学館〈少年サンデーコミックス〉、全38巻 *# 1988年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122031-2}} *# 1988年5月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122032-0}} *# 1988年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122033-9}} *# 1988年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122034-7}} *# 1988年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122035-5}} *# 1989年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122036-3}} *# 1989年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122037-1}} *# 1989年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122038-X}} *# 1989年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122039-8}} *# 1990年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122040-1}} *# 1990年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122431-8}} *# 1990年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122432-6}} *# 1990年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122433-4}} *# 1991年5月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122434-2}} *# 1991年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122435-0}} *# 1991年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122436-9}} *# 1991年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122437-7}} *# 1992年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122438-5}} *# 1992年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122439-3}} *# 1992年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-122440-7}} *# 1992年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123091-1}} *# 1992年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123092-X}} *# 1993年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123093-8}} *# 1993年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123094-6}} *# 1993年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123095-4}} *# 1993年10月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123096-2}} *# 1994年1月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123097-0}} *# 1994年4月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123098-9}} *# 1994年7月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123099-7}} *# 1994年9月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123100-4}} *# 1994年12月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123461-5}} *# 1995年3月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123462-3}} *# 1995年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123463-1}} *# 1995年8月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123464-X}} *# 1995年11月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123465-8}} *# 1996年2月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123466-6}} *# 1996年5月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123467-4}} *# 1996年6月15日初版第1刷発行、{{ISBN2|4-09-123468-2}} === 新装版 === * 高橋留美子 『らんま1/2〔新装版〕』 小学館〈少年サンデーコミックス〉、全38巻 *# 2002年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126501 |title=らんま1/2 新装版 1 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126501-4}} *# 2002年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126502 |title=らんま1/2 新装版 2 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126502-2}} *# 2002年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126503 |title=らんま1/2 新装版 3 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126503-0}} *# 2002年5月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126504 |title=らんま1/2 新装版 4 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126504-9}} *# 2002年5月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126505 |title=らんま1/2 新装版 5 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126505-7}} *# 2002年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126506 |title=らんま1/2 新装版 6 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126506-5}} *# 2002年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126507 |title=らんま1/2 新装版 7 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126507-3}} *# 2002年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126508 |title=らんま1/2 新装版 8 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126508-1}} *# 2002年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126509 |title=らんま1/2 新装版 9 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126509-X}} *# 2002年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126510 |title=らんま1/2 新装版 10 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126510-3}} *# 2002年8月9日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126511 |title=らんま1/2 新装版 11 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126511-1}} *# 2002年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126512 |title=らんま1/2 新装版 12 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126512-X}} *# 2002年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126513 |title=らんま1/2 新装版 13 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126513-8}} *# 2002年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126514 |title=らんま1/2 新装版 14 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126514-6}} *# 2002年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126515 |title=らんま1/2 新装版 15 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126515-4}} *# 2002年11月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126516 |title=らんま1/2 新装版 16 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126516-2}} *# 2002年11月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126517 |title=らんま1/2 新装版 17 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126517-0}} *# 2002年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126518 |title=らんま1/2 新装版 18 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126518-9}} *# 2002年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126519 |title=らんま1/2 新装版 19 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126519-7}} *# 2003年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126520 |title=らんま1/2 新装版 20 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126520-0}} *# 2003年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126521 |title=らんま1/2 新装版 21 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126521-9}} *# 2003年2月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126522 |title=らんま1/2 新装版 22 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126522-7}} *# 2003年2月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126523 |title=らんま1/2 新装版 23 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126523-5}} *# 2003年3月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126524 |title=らんま1/2 新装版 24 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126524-3}} *# 2003年3月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126525 |title=らんま1/2 新装版 25 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126525-1}} *# 2003年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126526 |title=らんま1/2 新装版 26 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126526-X}} *# 2003年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126527 |title=らんま1/2 新装版 27 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126527-8}} *# 2003年5月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126528 |title=らんま1/2 新装版 28 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126528-6}} *# 2003年5月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126529 |title=らんま1/2 新装版 29 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126529-4}} *# 2003年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126530 |title=らんま1/2 新装版 30 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126530-8}} *# 2003年6月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126531 |title=らんま1/2 新装版 31 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126531-6}} *# 2003年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126532 |title=らんま1/2 新装版 32 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126532-4}} *# 2003年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126533 |title=らんま1/2 新装版 33 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126533-2}} *# 2003年8月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126534 |title=らんま1/2 新装版 34 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126534-0}} *# 2003年8月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126535 |title=らんま1/2 新装版 35 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126535-9}} *# 2003年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126536 |title=らんま1/2 新装版 36 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126536-7}} *# 2003年9月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126537 |title=らんま1/2 新装版 37 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126537-5}} *# 2003年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09126538 |title=らんま1/2 新装版 38 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|4-09-126538-3}} === 少年サンデースペシャル版 === * 高橋留美子 『らんま1/2』 小学館〈少年サンデーコミックススペシャル〉、全20巻 *# 2016年7月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127270 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 1 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127270-6}} *# 2016年7月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127275 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 2 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127275-1}} *# 2016年8月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127276 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 3 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127276-8}} *# 2016年9月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127277 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 4 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127277-5}} *# 2016年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127278 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 5 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127278-2}} *# 2016年11月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127279 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 6 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127279-9}} *# 2016年12月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127280 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 7 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127280-5}} *# 2017年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127284 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 8 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127284-3}} *# 2017年2月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127285 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 9 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127285-0}} *# 2017年3月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127286 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 10 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127286-7}} *# 2017年4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127287 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 11 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127287-4}} *# 2017年5月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127288 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 12 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127288-1}} *# 2017年6月16日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127289 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 13 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127289-8}} *# 2017年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127290 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 14 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127290-4}} *# 2017年8月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127294 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 15 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127294-2}} *# 2016年9月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127295 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 16 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127295-9}} *# 2017年10月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127296 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 17 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127296-6}} *# 2017年11月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127297 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 18 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127297-3}} *# 2017年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127298 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 19 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127298-0}} *# 2018年1月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09127299 |title=らんま1/2 少年サンデースペシャル版 20 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-11}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-127299-7}} == アニメ == テレビシリーズは原作22巻の乱馬の母が登場するエピソードまで、OVAや劇場版を含めると、原作34巻までの一部の内容まで制作された。 [[山口勝平]]の初主演作品であり、本人曰く「右も左も分からない状況で、とにかく一生懸命乱馬役を没頭して演じた」「声優として形が出来ていなかったため、第1話と最終話では演じ方がまったく違う」との事。原作者の高橋は山口の演技力を高く評価しており、彼女の推薦により次作『犬夜叉』でも主人公・[[犬夜叉 (架空の人物)|犬夜叉]]を演じる事となった{{Efn|山口は後日同作のスタッフからこの事実を聞かされ、当時は本作同様にオーディションを受けており、同時に奈落役も受けていた。}}。他にも本作で出演した多数の声優陣が同作に出演している。 なおアニメでは原作の最終回が制作されていない。これに関して、[[キッズステーション]]で2001年11月23日にOVAシリーズが一挙放送された際に山口勝平と[[日髙のり子]]が解説者として出演したが、その際に「完結編を作って欲しい」とコメントしている。 === テレビアニメ === 同じ高橋留美子原作の『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』(1981年版)後半や『[[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]]』をテレビアニメ化した[[キティ・フィルム]]と[[スタジオディーン]]によって制作され、前2作品同様に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系で放送された。当初は『'''らんま1/2'''』のタイトルで、1989年4月から毎週土曜日の19:30 - 20:00枠にて全国ネットであったが、同年10月より『'''らんま1/2 熱闘編'''』(らんまにぶんのいち ねっとうへん〈以下、「熱闘編」と略す〉)と改題の上、フジテレビでは金曜17:30 - 18:00枠でのローカルセールス枠に移動した。 『らんま1/2』で[[監督]]とクレジットされた[[芝山努]]は多忙のため参加できずにそのまま降板となり、シリーズディレクターの[[望月智充]]が実質的に現場の監督を任せられた。「熱闘編」として平日夕方枠へ移動すると共に{{要出典範囲|制作費が削られ、作画の[[海外]][[丸投げ]]などにより一部影の描かれていない絵になるなど質の低下が見られたが、原作人気が継続したこと、中嶋敦子のキャラクターデザインが一定の評価を得たこと、声優ブームに乗る形で企画CDがヒットしたことなどにも支えられ|date=2020年3月}}、熱闘編は3年間に渡って放送された。2019年の番組『[[発表!全るーみっくアニメ大投票 高橋留美子だっちゃ]]』で発表された作品部門の順位は第2位。 フジテレビでの放送終了後は[[ケーブルテレビ]]、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]などの[[キッズステーション]]で繰り返し再放送されている。2013年6月からはキッズステーションにてデジタルリマスター版の世界初放送が開始された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kids-station.com/program/detail/2.html |title=番組詳細『らんま1/2(デジタルリマスターHD版)』 キッズステーションどっとこむ |publisher=キッズステーション |accessdate=2013-05-29}}</ref>。 ==== 逸話 ==== 熱闘編は放送開始当初オープニングテーマがなく、オープニングナレーションのみだった。ナレーションは[[中村正 (声優)|中村正]]が担当していた。 第1期後半エンディングテーマの『[[EQUALロマンス]]』は[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]]のデビュー曲だが、わずか5話しか使用されていない。2003年放送の『[[デ・ジ・キャラットにょ]]』では本曲のアレンジ曲を前期エンディングテーマとして計20話で使用した。元々アニメソングとしての制作ではなかった<ref name="CoCo">元々はフジテレビおよび一部[[フジネットワーク|系列局]]の1989年夏のキャンペーンソングとして制作された(フジテレビでのキャッチコピーは『おしぼり一本。フジテレビ』)。こうした経緯から、CDシングルの表裏のジャケットや歌詞カードにも、本作主題歌のクレジットや、キャラクターのイラストは掲載されず、CoCoの当初のメンバー5人([[宮前真樹]]・[[はねだえりか|羽田惠理香]]・[[三浦理恵子]]・[[大野幹代]]・[[瀬能あづさ]])の写真のみが掲載されていた。</ref>曲がアニメソングとして使用された後、後年にカバーされ、さらに別のアニメに恒常的に使用され、なおかつ、アニメソングとしては、『デ・ジ・キャラットにょ』の方で長く使われるという珍しい例となった。 第1期後半のシリーズ構成を務めた[[井上敏樹]]は、本作品はやりたくなかったが、プロデューサーが自宅まで押しかけてきたので嫌々引き受けたと述べている{{R|20th91}}。井上は本作品参加のため、『[[天空戦記シュラト]]』を降板している{{R|20th91}}。 [[カートゥーンネットワーク]]で1999年に放送された際、アイキャッチと次回予告が省略されていた。 ==== 視聴率 ==== {{出典の明記|section=1|date=2023-04-03}} : 平均視聴率:9.5% : 最高視聴率:16.1%(第1期)、15.5%(熱闘編) : 最低視聴率:7.1%(第1期)、4.5%(熱闘編) : 2000年に[[とちぎテレビ]]で行われた再放送では、平均視聴率8.2%(2000年6月17日 - 23日の調査)を記録<ref name="nikkei_000831">「とちぎテレビ 視聴率0.1ポイント上昇 自社制作番組が好調」『[[日本経済新聞]]』2000年8月31日付地方経済面、栃木。</ref>。これは平日午後の番組としては調査局中1位だった<ref name="nikkei_000831" />。 ==== スタッフ ==== {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" ! !! 第1期<br />熱闘編第7話 - 第9話 !! 熱闘編 |- ! 原作 | colspan="2" |[[高橋留美子]] |- ! 製作 | [[多賀英典]] || 多賀英典→[[伊地智啓]] |- ! 企画 | colspan="2" |[[落合茂一]] |- ! シリーズディレクター | [[望月智充]] || {{N/A}} |- ! シリーズ構成 | [[浦沢義雄]](第1話 - 第7話)<br />[[井上敏樹]]{{Efn|第8話 - 第18話、熱闘編第7話 - 第9話}} || [[戸田博史 (脚本家)|戸田博史]]→[[柳川茂]] |- ! rowspan="2" |音楽 | colspan="2" |[[森英治]] |- | [[川井憲次]]、[[松浦晃久]] || {{N/A}} |- ! キャラクターデザイン | colspan="2" |[[中嶋敦子]] |- ! 美術監督 | colspan="2" |三浦智 |- ! 美術設定 | colspan="2" |佐藤正浩 |- ! 録音監督 | colspan="2" |[[斯波重治]] |- ! 撮影監督 | colspan="2" |吉田光伸 |- ! 色彩設定 | colspan="2" |田高浩一 |- ! プロデューサー | 中尾嘉伸 || [[石原隆]]・金田耕司<br />[[松下洋子]]→中川順平<br />久保真→長谷川洋 |- ! 監督 | [[芝山努]] || [[澤井幸次]](第1話 - 第69話)<br />[[西村純二]](第70話 - 第143話) |- ! アニメーション<br />制作協力 | colspan="2" |[[スタジオディーン|スタジオ・ディーン]] |- ! 制作 | colspan="2" |[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[キティ・フィルム|キティ・フイルム]] |} ==== 主題歌 ==== ===== 第1期 ===== ; オープニングテーマ「[[じゃじゃ馬にさせないで]]」 : 作詞 - [[森雪之丞]] / 作曲 - [[村松邦男]] / 編曲 - [[椎名和夫]] / 歌 - [[西尾悦子|西尾えつ子]] ; エンディングテーマ :; 「[[プラトニックつらぬいて]]」(第1話 - 第13話) :: 作詞 - [[松本隆]] / 作曲・編曲 - [[後藤次利]] / 歌 - [[坂上香織]] :: 第11話からエンディング映像が変更されている。 :; 「[[EQUALロマンス]]」(第14話 - 第18話<ref name="CoCo"></ref>) :: 作詞 - [[及川眠子]] / 作曲 - 山口美央子 / 編曲 - [[中村哲 (作曲家)|中村哲]] / 歌 - [[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]] ===== 熱闘編 ===== ; オープニングテーマ :; 開始的話法「乱馬くんは変態」 ※主題歌集にて命名されている。 ::ナレーション:[[中村正]] ::第1話 - 第6話ならびに第14話 - 第23話でのオープニングテーマの代わりに使用。 :; 「[[リトル☆デイト|リトル★デイト]]」(第7話 - 第13話) :: 作詞 - [[三浦徳子]] / 作曲・編曲 - [[後藤次利]] / 歌 - [[ribbon (アイドルグループ)|ribbon]] ::また曲名の星印は原題では☆だが、本作では★と表記された。 :; 「[[夏の友達/思い出がいっぱい|思い出がいっぱい]]」(第24話 - 第45話) :: 作詞 - 及川眠子 / 作曲 - 岩田雅之 / 編曲 - 有賀啓雄 / 歌 - [[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]] :; 「[[絶対!Part2]]」(第46話 - 第69話) :: 作詞 - 及川眠子 / 作曲 - 松本俊明 / 編曲 - [[鷺巣詩郎]] / 歌 - [[早坂好恵]] :; 「[[地球オーケストラ]]」(第70話 - 第99話) :: 作詞 - 次郎 / 作曲 - まこと / 編曲・歌 - [[KUSU KUSU]] :; 「[[もう泣かないで]]」(第100話 - 第117話) :: 作詞 - 三浦徳子 / 作曲 - 羽田一郎 / 編曲 - [[佐藤準]] / 歌 - [[瀬能あづさ]] :; 「[[ラヴ・シーカー CAN'T STOP IT]]」(第118話 - 第143話) :: 作詞 - [[小室みつ子|MITSUKO KOMURO]] / 作曲 - MIYABI、YUKI、TERU、TAKE / 編曲・歌 - [[20世紀Jr.|VisioN]] : ; エンディングテーマ :; 「[[ド・ン・マ・イ来々少年〜Don't mind lay-lay Boy〜]]」(第1話 - 第23話) :: 作詞 - 森雪之丞 / 作曲 - 吉実明宏 / 編曲 - 森英治 / 歌 - [[西尾えつ子]] :; 「[[乱馬ダ☆RANMA]]」(第24話 - 第38話) :: 構成 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作曲・編曲 - [[川井憲次]] / 歌 - [[乱馬的歌劇団御一行様]] :; 「[[プレゼント (東京少年の曲)|プレゼント]]」(第39話 - 54話) :: 作詞 - [[笹野みちる]] / 作曲 - 手代木克仁 / 編曲・歌 - [[東京少年]] :; 「[[フレンズ (YAWMINの曲)|フレンズ]]」(第55話 - 第69話) :: 作詞 - 大山潤子 / 作曲 - 南俊一 / 編曲 - 森英治 / 歌 - [[高橋洋子 (歌手)|YAWMIN]] :; 「[[ひなげし (中嶋美智代の曲)|ひなげし]]」(第70話 - 第99話) :: 作詞・作曲 - 遠藤京子 / 編曲 - [[武部聡志]] / 歌 - [[中嶋美智代]] :; 「[[POSITIVE]]」(第100話 - 第117話) :: 作詞 - 佐藤純子 / 作曲 - 西司 / 編曲 - 中村哲 / 歌 - [[森川美穂]] :; 「[[虹と太陽の丘]]」(第118話 - 第143話) :: 作詞・作曲 - 上村茂三 / 編曲・歌 - [[ぴよぴよ (歌手)|ぴよぴよ]] ==== 各話リスト ==== ※ここでの話数は実際に放送された順とする。BDやHDリマスター版再放送では『熱闘編』の冠が外され、前シリーズから話数を引き継いでいる。 ===== 第1期 ===== {| class="wikitable" style="font-size:small;" width="790"<!--中央配置にしないでください。詳細は[[ウィキプロジェクト:アニメ]]([[PJ:ANIME]])参照。--> |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!コンテ!!演出!!作画監督 |- |第1話||'''1989年'''<br />{{nobr|4月15日}}||中国から来たあいつ! ちょっとヘン!!||rowspan="2"|[[浦沢義雄]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[望月智充]]||[[中嶋敦子]] |- |第2話||4月22日||遊びじゃないのよ学校は||colspan="2" style="text-align:center"|[[もりたけし]]||[[後藤真砂子]] |- |第3話||4月29日||いきなり愛の嵐ちょっと待ってョ||rowspan="2"|[[橋本裕志]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[山内重保]]||[[遠藤麻未]] |- |第4話||5月6日||乱馬とらんま? 誤解がとまらない||colspan="2" style="text-align:center"|望月智充||中嶋敦子 |- |第5話||5月13日||骨まで愛して? あかね恋の複雑骨折||浦沢義雄||小島多美子||[[古橋一浩]]||後藤真砂子 |- |第6話||5月20日||あかねの失恋だってしょうがないじゃない||橋本裕志||望月智充||高木真司||遠藤麻未 |- |第7話||5月27日||登場! 永遠の迷い子・良牙||浦沢義雄||colspan="2" style="text-align:center"|もりたけし||中嶋敦子 |- |第8話||6月3日||学校は戦場だ! 対決 乱馬VS良牙||rowspan="2"|[[井上敏樹]]||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||後藤真砂子 |- |第9話||6月17日||乙女白書・髪は女のいのちなの||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||遠藤麻未 |- |{{nobr|第10話}}||7月1日||ピーピーPちゃん ろくなもんじゃねェ||[[菅良幸]]||colspan="2" style="text-align:center"|もりたけし||中嶋敦子 |- |第11話||7月15日||乱馬を激愛! 新体操のスケバン登場||[[川崎ヒロユキ|川崎裕之]]||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||後藤真砂子 |- |第12話||7月22日||女の恋は戦争よ! 格闘新体操でいざ勝負||[[隅沢克之]]||有迫曜||高木真司||遠藤麻未 |- |第13話||7月29日||スケバンの目に涙? ルール無用の格闘新体操決着||[[高屋敷英夫]]||colspan="2" style="text-align:center"|望月智充||中嶋敦子 |- |第14話||8月19日||骨盤占い! らんまは日本一のお嫁さん{{efn|name="original"|アニメオリジナル作品。}}||川崎裕之||[[芝山努]]||もりたけし||後藤真砂子 |- |第15話||8月26日||激烈少女シャンプー登場! ワタシ命あずけます||rowspan="2"|隅沢克之||colspan="2" style="text-align:center"|もりたけし||遠藤麻未 |- |第16話||9月2日||シャンプーの反撃 必殺指圧拳は身も心も奪う||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第17話||9月9日||乱馬大好き! さよならはいわないで!!||[[松井亜弥]]||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||後藤真砂子 |- |第18話||9月16日||オレは男だ! らんま中国へ帰る?{{efn|name="highlight"|総集編。}}||野本拓||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 他 |} ===== 熱闘編 ===== 熱闘編は、時折作画監督に実在のアニメーターではなく作中の登場人物がクレジットされていることがあった(例:第53話、第59話)。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" width="790"<!--中央配置にしないでください。詳細は[[ウィキプロジェクト:アニメ]]([[PJ:ANIME]])参照。--> |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!コンテ!!演出!!作画監督 |- |第1話||'''1989年'''<br />{{nobr|10月20日}}||激突! 出前格闘レース||井上敏樹||[[澤井幸次]]||古橋一浩||中嶋敦子 |- |第2話||11月3日||やっぱり猫が嫌い?||rowspan="2"|[[戸田博史 (脚本家)|戸田博史]]||小島多美子||[[中村憲由]]||遠藤麻未 |- |第3話||11月10日||私が女傑族のおばば!||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||中嶋敦子 |- |第4話||11月17日||出た! 必殺天津甘栗拳!!||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||工藤柾輝 |- |第5話||11月24日||白鳥拳の男ムース登場!||時村尚||小島多美子||小林孝志||遠藤麻未 |- |第6話||12月1日||爆走! 雪だるま運びレース||久島一仁||澤井幸次||中村憲由||中嶋敦子 |- |第7話||12月8日||さらわれたPちゃん!||井上敏樹||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||遠藤麻未 |- |第8話||12月15日||危機一髪! 死霊の盆踊り||松井亜弥||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||中嶋敦子 |- |第9話||12月22日||Pちゃん爆発! 愛の水柱||川崎裕之||colspan="2" style="text-align:center"|望月智充||後藤真砂子 |- |第10話||'''1990年'''<br />1月12日||乱馬恐怖の山ごもり||rowspan="2"|菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||工藤柾輝 |- |第11話||1月19日||爆砕点穴とは? 良牙大逆襲||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||遠藤麻未 |- |第12話||1月26日||危うし! 天道道場||時村尚||colspan="2" style="text-align:center"|茂木智里||中嶋敦子 |- |第13話||2月2日||さらわれたあかね!||[[中弘子]]||rowspan="2"|石田昌久||小林孝志||工藤柾輝 |- |第14話||2月9日||対決ムース! 負けるが勝ち||戸田博史||中村憲由||遠藤麻未 |- |第15話||2月16日||究極のエロ妖怪八宝斉||菅良幸||小島多美子||高木真司||中嶋敦子 |- |第16話||2月23日||女子更衣室を襲え?||戸田博史||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||工藤柾輝 |- |第17話||3月2日||鬼も逃げだすカラクリ屋敷{{efn|name="original"}}||久島一仁||澤井幸次||茂木智里||遠藤麻未 |- |第18話||3月9日||これで女とおさらば?{{efn|name="original"}}||戸田博史||小島多美子||小林孝志||中嶋敦子 |- |第19話||3月16日||愛と憎しみの贈物||中弘子||古橋一浩||中村憲由||工藤柾輝 |- |第20話||3月23日||SOSエロ妖怪八宝斉||菅良幸||澤井幸次||高木真司||遠藤麻未 |- |第21話||4月6日||あかねの口びるを奪え||戸田博史||石田昌久||小林孝志||中嶋敦子 |- |第22話||4月13日||いい湯だな? 銭湯で戦闘||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||数井浩子 |- |第23話||4月20日||また一人乱馬を愛したヤツ||rowspan="2"|菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|御茶屋さえ子||遠藤麻未 |- |第24話||4月27日||熱愛? 良牙とあかね||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||中嶋敦子 |- |第25話||5月4日||くしゃみ一発愛してナイト||[[横手美智子]]||小島多美子||中村憲由||数井浩子 |- |第26話||5月11日||幻の八宝大華輪を探せ||菅良幸||澤井幸次||小林孝志||遠藤麻未 |- |第27話||5月18日||大好き! 私のうっちゃん||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第28話||5月25日||魔女が愛した下着ドロボー{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||数井浩子 |- |第29話||6月1日||変身! ムキムキマンあかね||中弘子||小島多美子||中村憲由||遠藤麻未 |- |第30話||6月8日||呪泉郷から来た殺し屋{{efn|name="original"}}||柳川茂||[[石山タカ明]]||小林孝志||中嶋敦子 |- |第31話||6月15日||私ってきれい? 乱馬女宣言{{efn|name="original"}}||横手美智子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||数井浩子 |- |第32話||6月22日||対決! 八宝斉VS透明人間{{efn|name="original"}}||菅良幸||澤井幸次||高木真司||遠藤麻未 |- |第33話||6月29日||九能家のレ・ミゼラブル{{efn|name="original"}}||中弘子||[[西村純二]]||中村憲由||中嶋敦子 |- |第34話||7月6日||怪談! 乱馬と魔性の剣{{efn|name="original"}}||柳川茂||[[えんどうてつや|遠藤徹哉]]||小林孝志||杉山東夜美 |- |第35話||7月13日||一粒コロリ・絶倫ホレ薬||久島一仁||御茶屋さえ子||古橋一浩||遠藤麻未 |- |第36話||7月20日||史上最強? 良牙とムース同盟{{efn|name="original"}}||菅良幸||[[杉島邦久]]||中村憲由||中嶋敦子 |- |第37話||7月27日||バック・トゥ・ザ・八宝斉{{efn|name="original"}}||柳川茂||小島多美子||小林孝志||数井浩子 |- |第38話||8月3日||黒バラの小太刀! 純愛一直線{{efn|name="original"}}||中弘子||御茶屋さえ子||殿勝秀樹||井上容子 |- |第39話||8月10日||八宝斉 最期の日?{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第40話||8月17日||暴れん坊娘 リンリンランラン{{efn|name="original"}}||菅良幸||杉島邦久||よしだのどか||杉山東夜美 |- |第41話||8月24日||乱馬を襲う恐怖のタタリ{{efn|name="original"}}||柳川茂||小島多美子||遠藤徹哉||数井浩子 |- |第42話||8月31日||登場! ものまね格闘技{{efn|name="original"}}||rowspan="2"|菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||遠藤麻未 |- |第43話||9月7日||良牙の体質改善セッケン!||古橋一浩||山口美浩||中嶋敦子 |- |第44話||9月14日||格闘!障害物レース{{efn|name="original"}}||中弘子<br />柳川茂||杉島邦久||よしだのどか||数井浩子 |- |第45話||9月21日||乱馬、ついに呪泉郷へ行く{{efn|name="original"}}||柳川茂||小島多美子||浦田保則||遠藤麻未 |- |第46話||10月5日||帰ってきた変態校長||久島一仁||澤井幸次||殿勝秀樹||中嶋敦子 |- |第47話||10月12日||登場! 史上最強の九能{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||杉山東夜美 |- |第48話||10月19日||乱馬が弱くなっちゃった!||柳川茂||御茶屋さえ子||よしだのどか||遠藤麻未 |- |第49話||10月26日||完成! とんでもない必殺技||中弘子||小島多美子||浦田保則||中嶋敦子 |- |第50話||11月2日||決戦! 乱馬復活なるか?||久島一仁||古橋一浩||殿勝秀樹||杉山東夜美 |- |第51話||11月9日||右京のスカート大作戦!{{efn|name="original"}}||中弘子||杉島邦久||高木真司||遠藤麻未 |- |第52話||11月16日||乱馬のママがやってきた!{{efn|name="original"}}||菅良幸||[[紅優|湊屋夢吉]]||よしだのどか||中嶋敦子 |- |第53話||11月23日||良牙、愛と苦悩を越えて{{efn|name="highlight"}}||柳川茂 ほか||山本智史||浦田保則||響良い子 ほか |- |第54話||11月30日||フィアンセは化け猫||中弘子||小島多美子||殿勝秀樹||磯野智 |- |第55話||12月7日||吹けよ風! 青春は熱血だ{{efn|name="original"}}||柳川茂||西村純二||西山明樹彦||遠藤麻未 |- |第56話||12月14日||恐るべき新弟子現わる{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||中嶋敦子 |- |第57話||12月21日||おもてに出やがれ!||rowspan="2"|菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||磯野智 |- |第58話||'''1991年'''<br />1月11日||良牙の天道道場居候日記{{efn|name="original"}}||小島多美子||殿勝秀樹||遠藤麻未 |- |第59話||1月18日||八宝斉の恋!{{efn|name="original"}}||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||白鳥あずさ |- |第60話||1月25日||九能ボー然! 恋の大予言{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||磯野智 |- |第61話||2月1日||強くなりすぎた良牙||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||遠藤麻未 |- |第62話||2月8日||あやうし! Pちゃんの秘密||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第63話||2月15日||たまごをつかむ男{{efn|name="original"}}||rowspan="2"|木村直人||小島多美子||よしだのどか||磯野智 |- |第64話||2月22日||らんまと九能の初キッス?!||colspan="2" style="text-align:center"|殿勝秀樹||遠藤麻未 |- |第65話||3月1日||シャンプーの赤い糸{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||中嶋敦子 |- |第66話||3月8日||ムース故郷に帰る{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||遠藤麻未 |- |第67話||3月15日||史上サイテーの賭け||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||磯野智 |- |第68話||3月22日||マリアンヌになった九能{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|殿勝秀樹||中嶋敦子 |- |第69話||3月29日||乱馬なんか大キライ!{{efn|name="original"}}||colspan="2" style="text-align:center"|澤井幸次||浦田保則||磯野智 |- |第70話||4月5日||そのおさげもらったぁ!||木村直人||西村純二||よしだのどか||遠藤麻未 |- |第71話||4月12日||男の野望が尽きる時…||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||中嶋敦子 |- |第72話||4月19日||リンリン・ランランの逆襲{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||はしもとかつみ |- |第73話||4月26日||良牙のプロポーズ{{efn|name="original"}}||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||磯野智 |- |第74話||5月3日||玄馬、家出する{{efn|name="original"}}||rowspan="2"|木村直人||[[鈴木行]]||白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第75話||5月10日||これが格闘茶道でおます||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||中嶋敦子 |- |第76話||5月17日||道場破りは女の子?{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||磯野智 |- |第77話||5月24日||絶叫! 温泉バトル||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||はしもとかつみ |- |第78話||5月31日||ミーが九能のダディです{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第79話||6月7日||格闘茶道・家元立つ!{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第80話||6月14日||レオタードは乙女の呪い{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||磯野智 |- |第81話||6月21日||恐怖の混浴温泉{{efn|name="original"}}||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"| 高木真司||遠藤麻未 |- |第82話||6月28日||カエルのうらみはらします{{efn|name="original"}}||柳川茂||鈴木行||よしだのどか||中嶋敦子 |- |第83話||7月5日||逆襲! 怒りのお好み焼き{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||磯野智 |- |第84話||7月12日||ナンパになった乱馬{{efn|name="original"}}||横手美智子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||遠藤麻未 |- |第85話||7月19日||格闘将棋は命懸け{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||中嶋敦子 |- |第86話||7月26日||佐助のスパイ大作戦{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||[[工藤裕加]] |- |第87話||8月2日||ボンジュールでございます||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||磯野智 |- |第88話||8月9日||ディナーはリングの上で||横手美智子||colspan="2" style="text-align:center"|[[合田浩章]]||遠藤麻未 |- |第89話||8月16日||あかね、涙の水泳大特訓||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||中嶋敦子 |- |第90話||8月23日||良牙! 夕日に向かって走れ{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||磯野智 |- |第91話||8月30日||夢の中へ{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||鰻原妙一郎 |- |第92話||9月6日||乱馬はなびきの許婚?||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||斉藤哲人 |- |第93話||9月13日||天道家 消えたたこ焼きの謎{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||遠藤麻未 |- |第94話||9月20日||対決! 乱馬VS影乱馬{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||磯野智 |- |第95話||9月27日||小太刀のマイラブリーパパ{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||遠藤麻未 |- |第96話||10月4日||強敵? 五寸釘くん登場{{efn|name="original"}}||横手美智子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||磯野智 |- |第97話||10月11日||乱馬はヘタクソ? 格闘書道{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||工藤裕加 |- |第98話||10月18日||風林館高校、影のドン登場{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第99話||10月25日||悲願! 普通の男に戻りたい{{efn|name="original"}}||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||白鳥あずさ |- |{{nobr|第100話}}||11月1日||早乙女流の跡継ぎは良牙?{{efn|name="original"}}||中弘子||西村純二||よしだのどか||遠藤麻未 |- |第101話||11月15日||天道家、遊園地へ行く{{efn|name="original"}}||横手美智子||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||磯野智 |- |第102話||11月29日||風林館高校・通り魔事件{{efn|name="original"}}||木村直人||酒井法之||高木真司||工藤裕加 |- |第103話||12月6日||呪泉郷から来た悪魔 前編||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第104話||12月13日||呪泉郷から来た悪魔 後編||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|浦田保則||rowspan="2"|中嶋敦子 |- |第105話||12月20日||乱馬がいないXmas{{efn|name="original"}}||柳川茂||西村純二||高木真司 |- |第106話||'''1992年'''<br />1月10日||雪ん子冬物語{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|古橋一浩||遠藤麻未 |- |第107話||1月17日||らくがきパンダの呪い||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||磯野智 |- |第108話||1月24日||スイカ島の交際鬼||柳川茂||西村純二||株本毅||工藤裕加 |- |第109話||1月31日||幸せのパンダ伝説{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||磯野智 |- |第110話||2月7日||乱馬と右京がソース相愛?||柳川茂||西村純二||高木真司||遠藤麻未 |- |第111話||2月14日||偽り夫婦よ永遠に…||rowspan="2"|久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||磯野智 |- |第112話||2月21日||格闘茶道! さらわれた家元||鈴木行||高木真司||遠藤麻未 |- |第113話||2月28日||大変! あかねが入院した{{efn|name="original"}}||colspan="3" style="text-align:center"|古橋一浩||中嶋敦子 |- |第114話||3月6日||謎の暴れタコツボ現る?!||中弘子||殿勝秀樹||株本毅||磯野智 |- |第115話||3月13日||五寸釘! あぁ恋の紙人形||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第116話||3月20日||あかねの心がわからない{{efn|name="original"}}||横手美智子||西村純二||株本毅||工藤裕加 |- |第117話||3月27日||追跡! 手まり唄の謎{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||中嶋敦子 |- |第118話||4月3日||もうあなたから離れない||rowspan="2"|柳川茂||古橋一浩||[[山本裕介]]||磯野智 |- |第119話||4月10日||九能帯刀、代理校長を命ず{{efn|name="original"}}||西村純二||高木真司||遠藤麻未 |- |第120話||4月17日||乱馬、月夜に吠える{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||中嶋敦子 |- |第121話||4月24日||{{ruby|你好|ニーハオ}}! 呪泉郷のガイドさん{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||工藤裕加 |- |第122話||5月1日||迷惑! 六人の八宝斉{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||磯野智 |- |第123話||5月8日||気分しだいの必殺技(前)||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|山本裕介||遠藤麻未 |- |第124話||5月15日||気分しだいの必殺技(後)||中弘子||西村純二||株本毅||中嶋敦子 |- |第125話||5月22日||シャンプー囚われのキッス||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||磯野智 |- |第126話||5月29日||ボクと駆け落ちして下さい||rowspan="2"|柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||遠藤麻未 |- |第127話||6月5日||キノコ寺へ行こう{{efn|name="original"}}||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||工藤裕加 |- |第128話||6月12日|||必殺! 地獄のゆりかご||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|山本裕介||磯野智 |- |第129話||6月19日||青い恐怖にボンジュール||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|株本毅||山根理宏 |- |第130話||6月26日||織姫は流れ星に乗って||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||遠藤麻未 |- |第131話||7月3日||一つ召しませ恋の桜餅||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||磯野智 |- |第132話||7月10日||できた! 八宝大カビン{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||工藤裕加 |- |第133話||7月17日||九能兄妹スキャンダルの嵐||横手美智子||西村純二||株本毅||遠藤麻未 |- |第134話||7月24日||黄金の茶器、五重塔の決戦{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|山本裕介||山根理宏 |- |第135話||7月31日||五寸釘光、ひと夏の恋{{efn|name="original"}}||菅良幸||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||磯野智 |- |第136話||8月7日||愛の格闘チアガール(前)||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||遠藤麻未 |- |第137話||8月14日||愛の格闘チアガール(後)||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||工藤裕加 |- |第138話||8月21日||決定! ミス・ビーチサイド{{efn|name="original"}}||中弘子||colspan="2" style="text-align:center"|株本毅||磯野智 |- |第139話||8月28日||爆裂! ハイパーツヅミ{{efn|name="original"}}||[[山口亮太]]||colspan="2" style="text-align:center"|山本裕介||山根理宏 |- |第140話||9月4日||忍の犬は白と黒{{efn|name="original"}}||木村直人||colspan="2" style="text-align:center"|白旗伸朗||中嶋敦子 |- |第141話||9月11日||天道家・龍神伝説{{efn|name="original"}}||久島一仁||colspan="2" style="text-align:center"|よしだのどか||磯野智 |- |第142話||9月18日||乱馬、ミーツ・マザー||柳川茂||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||工藤裕加 |- |第143話||9月25日||いつの日か、きっと…||菅良幸||西村純二||株本毅||中嶋敦子 |} 第1期第13話放映時の次回予告では第14話は「さらわれたPちゃん 奪われたらんま」になっているが、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]に配慮し、第14話 - 第16話(格闘フィギュアスケート編)の放送が他の話に差し替えられ、のちに熱闘編第7話 - 第9話として放送された。そのためその後の話でカットされたシーンの回想をするなど話のつながらない部分がある。これらの順番はLD・DVDでは放送順で収録されていたが、2013年に発売されたBD版では当初の予定通り収録されている。 ==== 放送局 ==== {{注意|[[プロジェクト:放送または配信の番組#放送]]に基づき、本放送期間内の放送局のみを表に記載しています。}} {{節スタブ|date=2018年11月}} 判明している局のみ表記。 ===== 第1期 ===== {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !放送地域!!放送局!!放送時間!!放送系列!!ネット状況 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||フジテレビ||rowspan="21"|土曜 19:30 - 19:58||rowspan="21"|[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||'''制作局''' |- |[[北海道]]||[[北海道文化放送]]||rowspan="20"|[[同時ネット]] |- |[[宮城県]]||[[仙台放送]] |- |[[秋田県]]||[[秋田テレビ]] |- |[[山形県]]||[[山形テレビ]] |- |[[福島県]]||[[福島テレビ]] |- |[[新潟県]]||[[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]] |- |[[長野県]]||[[長野放送]] |- |[[静岡県]]||[[テレビ静岡]] |- |[[富山県]]||[[富山テレビ放送|富山テレビ]] |- |[[石川県]]||[[石川テレビ放送|石川テレビ]] |- |[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]] |- |[[中京広域圏]]||[[東海テレビ放送|東海テレビ]] |- |[[近畿広域圏]]||[[関西テレビ放送|関西テレビ]] |- |[[島根県]]・[[鳥取県]]||[[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]] |- |[[岡山県・香川県の放送|岡山県・香川県]]||[[岡山放送]] |- |[[広島県]]||[[テレビ新広島]] |- |[[愛媛県]]||[[テレビ愛媛]] |- |[[福岡県]]||[[テレビ西日本]] |- |[[佐賀県]]||[[サガテレビ]] |- |[[沖縄県]]||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]] |- |[[青森県]]||[[青森放送]]|| ||[[日本ニュースネットワーク|日本テレビ系列]]<br>[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||rowspan="2"|[[遅れネット]] |- |[[大分県]]||[[テレビ大分]]|| ||フジテレビ系列<br>日本テレビ系列<br>テレビ朝日系列 |} ===== 熱闘編 ===== {|class="wikitable" style="font-size:small;" |- !放送地域!!放送局!!放送時間!!放送系列!!ネット状況 |- |関東広域圏||フジテレビ||rowspan="2"|金曜 17:30 - 18:00||rowspan="13"|フジテレビ系列||'''制作局''' |- |静岡県||テレビ静岡||同時ネット |- |秋田県||秋田テレビ||月曜 17:30 - 18:00||rowspan="7"|遅れネット |- |山形県||山形テレビ||水曜 16:30 - 17:00<br> 土曜 6:00 - 6:30<br> 土曜 5:45 - 6:15 |- |福島県||福島テレビ||不明 |- |新潟県||新潟総合テレビ||金曜 6:00 - 6:30 |- |石川県||石川テレビ||月曜 16:10 - 16:36{{efn|1989年11月12日<ref>『[[北國新聞]]』1989年11月12日付朝刊テレビ欄。</ref> - 1990年4月9日<ref>『北國新聞』1990年4月9日付朝刊テレビ欄。</ref>}}<br />木曜 17:30 - 18:00{{efn|1991年頃}}<ref>『北國新聞』1991年3月28日付朝刊テレビ欄。</ref><br />月曜 - 金曜 6:10 - 6:40{{efn|1993年1月 - 3月12日}} |- |福井県||福井テレビ||水曜 16:25 - 16:55<ref>北國新聞 1990年11月7日付朝刊テレビ欄より</ref> |- |中京広域圏||東海テレビ||日曜 9:00 - 9:30{{efn|1992年10月18日まで放送<ref>中日新聞(愛知版) 1992年10月18日付朝刊テレビ欄より。</ref>。}} |- |近畿広域圏||関西テレビ||木曜 17:30 - 18:00{{efn|1989年10月26日 - 1990年}}<br>金曜 17:30 - 18:00{{efn|1990年4月6日 - 1992年9月25日}}||遅れネット<br>↓<br>同時ネット |- |岡山県・香川県||岡山放送||金曜 17:25 - 17:55{{efn|1989年10月27日より放送。}}<br />金曜 17:30 - 18:00{{efn|1992年10月2日まで放送。<!-- 放送開始は遅くとも1992年2月14日 ←要出典 -->}}<ref>四国新聞 1992年2月14日付朝刊テレビ欄より</ref>||rowspan="6"|遅れネット |- |広島県||テレビ新広島||水曜 16:00 - 16:30{{efn|1992年頃}}<ref name="ehime1992">愛媛新聞 1992年9月30日付朝刊テレビ欄より</ref> |- |愛媛県||テレビ愛媛||木曜 16:30 - 17:00{{efn|1990年頃}}<br/>金曜 6:00 - 6:30{{efn|不明 - 1992年9月}}<br/>金曜 6:15 - 6:45{{efn|1992年10月2日 - 11月6日}}<ref name="ehime1992-2">愛媛新聞 1990年10月24日付夕刊(夕刊えひめ)テレビ欄、1992年4月3日付・10月2日付・9日付・11月6日付朝刊テレビ欄より</ref> |- |青森県||青森放送||不明{{efn|途中打ち切り。}}||日本テレビ系列<br>テレビ朝日系列 |- |[[山口県]]||[[テレビ山口]]||水曜 17:30 - 18:00{{efn|1992年頃}}<ref name="ehime1992"/>||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] |- |[[高知県]]||[[高知放送]]||水曜 16:00 - 16:30{{efn|1992年頃}}<ref name="ehime1992"/>||日本テレビ系列 |} 再放送については、第1期・熱闘編ともに、[[アニマックス]]などの[[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS]]/CS放送や、[[テレビ神奈川]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://amass.jp/145844/ |title=アニメ『北斗の拳』『らんま1/2』『キャプテン』『ガラスの仮面』がtvkで4月25日より放送開始 |publisher=amass |date=2021-04-05 |accessdate=2022-12-09}}</ref>などのローカル放送局で放送された。 ==== ソフト化 ==== ※第1期と「熱闘編」の区別は特にない。 * VHS らんま1/2(全40巻) * LD らんま1/2 TVシリーズ完全収録版(全41巻) * DVD らんま1/2 TVシリーズ完全収録版(全40巻)2001年1月17日から2002年8月21日にかけて発売。 * BD らんま1/2 TVシリーズ Blu-ray BOX【1】〜【3】2013年5月24日から2014年1月24日にかけて発売。 {{前後番組 | 放送局 = [[フジネットワーク|フジテレビ系列]] | 放送枠 = [[フジテレビ系列土曜夜7時台枠のアニメ|土曜19:30 - 20:00]] | 番組名 = らんま1/2 | 前番組 = [[名門!第三野球部]]<br />※金曜16:30へ移動 | 次番組 = 土曜特番([[つなぎ番組]])<br />19:30 - 20:54<br />↓<br />[[ドラゴンクエスト (アニメ)|ドラゴンクエスト]] | 2放送局 = フジテレビ | 2放送枠 = 金曜17:30 - 18:00<br />【[[ティーンズゴールデンタイム]] → [[金曜アニメランド]] → 枠名無し】 | 2番組名 = らんま1/2 熱闘編 | 2前番組 = [[パラダイスGoGo!!]]<br />※17:00-18:00 → 17:00-17:30 | 2次番組 = [[何だ?こりゃ]] }} === 劇場版アニメ === * [[らんま1/2 中国寝崑崙大決戦! 掟やぶりの激闘篇!!]](1991年11月2日 [[アルゴプロジェクト]]) * [[らんま1/2 決戦桃幻郷! 花嫁を奪りもどせ!!]](1992年8月1日 アルゴプロジェクト) * [[らんま1/2 超無差別決戦! 乱馬チームVS伝説の鳳凰]](1994年8月20日 [[東映]])※原作コミックス29巻1、2話 ==== ソフト化 ==== * [[らんま1/2 中国寝崑崙大決戦! 掟やぶりの激闘篇!!]] * [[らんま1/2 決戦桃幻郷! 花嫁を奪りもどせ!!]] * [[らんま1/2 超無差別決戦! 乱馬チームVS伝説の鳳凰]] **上記3作品と「It’s a Rumic World らんま1/2 〜悪夢!春眠香」を除くOVA作品11話を収録した「劇場版&OVA『らんま1/2』Blu-ray BOX」が2015年8月19日に発売された。 === オリジナルアニメ === ==== OVA ==== ※脚本はいずれも[[山口亮太]]が担当。 * らんま1/2 シャンプー豹変! 反転宝珠の禍(OVA Vol.1)(1993年10月21日)※原作コミックス22巻7 - 10話 * らんま1/2 天道家 すくらんぶるクリスマス(OVA Vol.2)(1993年12月17日)※OVAオリジナル * らんま1/2 あかねVSらんま お母さんの味は私が守る!(OVA Vol.3)(1994年2月18日)※原作コミックス23巻7話 * らんま1/2 学園に吹く嵐! アダルトチェンジひな子先生(OVA Vol.4)(1994年4月21日)※同25巻3 - 9話 * らんま1/2 道を継ぐ者(前編)(OVA Vol.5)(1994年6月17日)※OVAオリジナル * らんま1/2 道を継ぐ者(後編)(OVA Vol.6)(1994年8月19日)※OVAオリジナル * らんま1/2 SPECIAL よみがえる記憶(上巻)(OVA スペシャル・上)(1994年12月16日)※原作コミックス25巻10話 - 26巻11話 * らんま1/2 SPECIAL よみがえる記憶(下巻)(OVA スペシャル・下)(1995年2月17日)※同25巻10話 - 26巻11話 * らんま1/2 SUPER ああ呪いの破恋洞! 我が愛は永遠に(OVA SUPER Vol.1)(1995年9月21日)※同27巻9、10話 * らんま1/2 SUPER 邪悪の鬼(OVA SUPER Vol.2)(1995年11月17日)※同29巻8話 * らんま1/2 SUPER 二人のあかね「乱馬、私を見て!」(OVA SUPER Vol.3)(1996年1月19日)※同31巻9、10話 ** 上記のOVA作品群と『劇場版 超無差別決戦!乱馬チームVS伝説の鳳凰』を収録したものが「らんま1/2 OVAシリーズ BOXセット」および単巻DVD(全4巻)として2001年12月5日に発売。 * [[らんま1/2 悪夢!春眠香|It’s a Rumic World らんま1/2 〜悪夢!春眠香]](2010年1月29日)※同34巻10話 ** [[高橋留美子#高橋留美子展|高橋留美子展]]で2008年7月30日から上映。 ** 製作は『[[犬夜叉 (アニメ)|犬夜叉]]』を担当していた[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]、アニメーション制作は本編やOVA同様スタジオディーンが担当。 ** DVD・Blu-rayで発売。また「It's a Rumic World スペシャルアニメBOX」にも収録されている。 ===== 主題歌 ===== OVA版主題歌ではその大半を、らんまと天道3姉妹にシャンプーを加えた仮想ユニット「[[DoCo]]」が担当している。DoCoは企画音盤(CDの項を参照)で生まれたユニット設定であり、ユニット名はテレビ版主題歌を担当したCoCoをもじって付けられた。 ; OVA版オープニングテーマ :; 「[[恋だ!パニック]]」(OVA Vol.1-6) :: 作詞・作曲 - [[高橋洋子 (歌手)|YAWMIN]] / 編曲 - 中村キタロー / 歌 - YAWMIN :; 「[[らんま1/2 DoCoファースト|僕たちはこれから]]」(OVA スペシャル・上) :: 作詞 - 和泉ゆかり / 作・編曲 - [[川井憲次]] / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCo Second|授業中の小学校]]」(OVA スペシャル・下) :: 作詞 - [[乱馬的歌劇団御一行様|乱馬的歌劇団文芸部]] / 作・編曲 - 安田毅 / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCo Second|かがやく空ときみの声]]」(OVA SUPER Vol.1) :: 作詞・作曲 - YAWMIN / 編曲 - YO!キタロー / 歌 - DoCo :; 「[[思い出がいっぱい (DoCoの曲)|思い出がいっぱい]]」(OVA SUPER Vol.2) :: 作詞 - [[及川眠子]] / 作曲 - [[岩田雅之]] / 編曲 - 川井憲次 / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCo Second|フクザツな両想い]]」(OVA SUPER Vol.3) :: 作詞 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作・編曲 - [[山本はるきち]] / 歌 - DoCo : ; OVA版エンディングテーマ :; 「[[乱馬とあかねのバラード]]」(OVA Vol.1-6) :: 作詞 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作曲 - 川井憲次 / 編曲 - [[中村暢之]] / 歌 - 乱馬&あかね :; 「[[らんま1/2 DoCo Second|清く正しいクリスマス]]」(OVA スペシャル・上) :: 作詞 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作・編曲 - 安田毅 / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCoファースト|赤い靴のSunday]]」(OVA スペシャル・下) :: 作詞 - 和泉ゆかり / 作・編曲 - 川井憲次 / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCoファースト|少しだけ坂道]]」(OVA SUPER Vol.1) :: 作詞 - 和泉ゆかり / 作・編曲 - 川井憲次 / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCo Second|恋がひとつ消えてしまったの]]」(OVA SUPER Vol.2) :: 作詞 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作・編曲 - 山本はるきち / 歌 - DoCo :; 「[[らんま1/2 DoCoファースト|彼]]」(OVA SUPER Vol.3) :: 作詞 - 乱馬的歌劇団文芸部 / 作・編曲 - 川井憲次 / 歌 - DoCo ==== 企画ビデオ ==== # らんま1/2 熱闘歌合戦 その1(1990年11月7日)※ミュージックビデオ # らんま1/2 熱闘歌合戦 その2(1990年11月21日)※ミュージックビデオ # らんま1/2 熱闘歌合戦 その1/その2(LD)(1990年12月21日)※ミュージックビデオ # らんま1/2 天道家のおよびでない奴ら!(1992年8月30日)※TVアニメ総集編(含新録) # らんま1/2 TVタイトルズ(1993年4月21日)※主題歌集 # らんま1/2 とっておきトーク ベスト・オブ・メモリーズ(1993年5月1日)※キャストトーク # らんま1/2 スペシャルビデオ バトルがいっぱい29人の懲りないやつら(1995年3月3日)※TVアニメ総集編(含新録) # らんま1/2 DoCoミュージックビデオ(1995年8月19日) === アニメーション系の音楽関係 === ==== テーマ曲 ==== * [[乱馬ダ☆RANMA]](1990年4月21日) * らんま1/2 開幕的主題歌集(1992年10月21日)※付録的音源として『開始的話法「乱馬くんは変態」』を収録 * らんま1/2 閉幕的主題歌集(1992年10月21日) * [[乱馬とあかねのバラード]](1993年10月5日) * [[恋だ!パニック]](1993年10月21日)※「新・呪泉郷端会議録」をc/wに収録 * らんま1/2 TVテーマソングス コンプリート(1999年3月17日) * 決定盤 らんま1/2 アニメ主題歌&キャラソン大全集(2015年8月19日) ==== サウンドトラック ==== * らんま1/2 音楽道場(1989年7月21日)TV * らんま1/2 熱闘音楽編(1990年1月21日)TV ※初版のみ「付録的音源」シングル付 * らんま1/2 中国寝崑崙大決戦!掟やぶりの激闘篇!!音楽編(1991年11月13日)劇場 * らんま1/2 中国寝崑崙大決戦!掟やぶりの激闘篇!!ドラマ編(1992年1月21日) * らんま1/2 最強音楽編(1992年6月3日)TV * らんま1/2 決戦桃幻郷!花嫁を奪りもどせ!!音楽編(1992年7月17日)劇場 * らんま1/2 電子遊戯音楽集(1993年3月21日)ゲーム * らんま1/2 超無差別決戦!電影対影像音楽編(1994年8月25日)OVA、劇場 * らんま1/2 音楽の鉄人編(1995年12月20日)名曲、未発表 ==== アニメーション企画音盤 ==== 乱馬的企画音盤として5枚の[[キャラクターソング]]アルバムを制作しており、声優ブームもあって本作人気の一翼を担った。1枚目の『熱闘歌合戦』ではブックレットに曲それぞれのシングルジャケットがデザインされて、 カップリング曲まで記載される(カップリング曲は、後に4枚目の『格闘歌かるた』に収録)という凝った作りになっており、2枚目の『歌暦』も収録している全12曲(うち2曲は上記『熱闘歌合戦』収録曲のカップリング曲)を後にシングルにカットして同時発売した{{efn|なお、そのうちの1曲「[[November Rain (林原めぐみの曲)|November Rain]]」はらんま名義の曲だが、らんま役[[林原めぐみ]]自身が本格的に音楽活動を始める直前であることなどから、一部のメディアでは「November Rain」を林原の1stシングルとして扱う場合がある。}}。3枚目の『DoCoファースト』と5枚目の『DoCo Second』は上記の「[[DoCo]]」のアルバムと位置づけて制作されている。なお、本作のキャラクターソングの歌手名表記は、一般的なキャラクター (の役でその歌をうたう声優) ではなく、キャラクター名のみが表記されている(声優はブックレットに記載)。 ===== 企画音盤 ===== * 乱馬的企画音盤 らんま1/2 熱闘歌合戦(1990年4月21日) * 乱馬的企画音盤II らんま1/2 歌暦(平成3年度版)(1990年11月21日) * 乱馬的企画音盤III [[らんま1/2 DoCoファースト]](1991年7月21日) * 乱馬的企画音盤IV らんま1/2 格闘歌かるた(1991年12月21日) * (乱馬的企画音盤V) [[らんま1/2 DoCo Second]] (1994年12月16日) * らんま1/2 DoCoボイステープ「超無差別記者会見」([[学研ホールディングス|学研]][[アニメディア]]1994年9月号応募者全員サービス非売品)※カセットテープ * らんま1/2 DoCo オリジナルカラオケ(1995年1月20日) ===== キャラクターソングシングル ===== いずれも1991年1月21日発売 * この世でいちばん、お正月が好き【[[天道なびき]]([[高山みなみ]])】 * バレンタインに黒バラを【[[九能小太刀]]([[島津冴子]])】 * やさしい、いい娘になれない【[[天道あかね]]([[日髙のり子]])】 * 今夜はエイプリル・フール【[[早乙女乱馬]]([[山口勝平]])】 * 猫飯店メニュー・ソング【[[シャンプー (らんま1/2)|シャンプー]]([[佐久間レイ]])】 * おとうさん【[[天道かすみ]]([[井上喜久子]])】 * 思い出がいっぱい【DoCo、[[声優ユニット#た行|帯子]]】 * 魅惑のリンボーダンス【[[八宝斎|ハッピー]]&[[コロン (らんま1/2)|コロン]]([[永井一郎]]&[[麻生美代子]])、[[乱馬的歌劇団御一行様]]】 * 拝啓、あかねさん【[[響良牙]]([[山寺宏一]])】 * よーい・どん【天道あかね、シャンプー、[[久遠寺右京]]([[鶴ひろみ]])、九能小太刀】 * [[November Rain (林原めぐみの曲)|November Rain]]【らんま([[林原めぐみ]])】 * キャラクターズ・クリスマス【乱馬的歌劇団御一行様】 ==== アレンジ・カバー曲 ==== らんま1/2関係曲を、声優等がカバーしたモノの一覧。企画音盤のアルバムに収録されているものが多い。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 【や】じゃじゃ馬にさせないで(シャンプー。格闘歌かるた内) * 【く】プラトニックつらぬいて(小太刀。格闘歌かるた内) * 【て】EQUALロマンス(DoCo。格闘歌かるた内) * リトル★デイト(TV Service Version)(らんま、あかね、シャンプー。熱闘歌合戦内) * 【な】リトル★デイト(コロン、格闘茶道家元。格闘歌かるた内) * 【ゆ】ド・ン・マ・イ来々少年〜Don't mind lay-lay Boy〜 (あかね。格闘歌かるた内) * 乱馬ダ☆RANMA(Curtain call Version)(熱闘歌合戦内) * 【ん】乱馬ダ☆RANMA'92(格闘歌かるた内) * 乱馬ダ☆RANMA(OVA版熱闘歌合戦内) * 【う】プレゼント(良牙。格闘歌かるた内) * 思い出がいっぱい DoCo版(OVAオープニングなど) * 【さ】思い出がいっぱい(DoCo(らんま除く)、乱馬。途中から。格闘歌かるた内) * 【せ】絶対!パート2(かすみ。格闘歌かるた内) * 【み】地球オーケストラ(乱馬。格闘歌かるた内) * 【た】フレンズ(なびき。格闘歌かるた内) * 【き】ひなげし(紅つばさ。出だしのみ。格闘歌かるた内) * 【ま】もう泣かないで(らんま。格闘歌かるた内) * チャイナからの手紙(乱馬、らんま。熱闘歌合戦内) * 【ち】チャイナからの手紙(良牙、呪泉郷ガイド。格闘歌かるた内) * 【わ】乱馬とあかねのバラード(格闘歌かるた内) * 乱馬とあかねのバラード オーケストラ版(OVAのED) * ハート ないしょ/2(音楽道場内) * ハート ないしょ/2(Live Version)熱闘歌合戦内) * ハート ないしょ/2(OVA版熱闘歌合戦内) * 【る】√よいしょ/2(格闘歌かるた内) </div></div> == テレビドラマ == {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=らんま1/2(ドラマ版) |ジャンル=単発[[テレビドラマ]] |放送期間=2011年12月9日 |放送時間=金曜19:00 - 20:54 |放送分=114 |放送回数=1 |放送枠=金曜スーパープライム |放送国={{JPN}} |制作局=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |原作=[[高橋留美子]] |脚本=[[いずみ吉紘]] |演出=西村了(日テレアックスオン) |プロデューサー=[[森實陽三]](CP)<br />高明希(日テレアックスオン)、遠藤正累(日本テレビ) |出演者=[[新垣結衣]]<br />[[賀来賢人]]<br />[[夏菜]]<br />ほか |ナレーター=[[永井一郎]](本編)<br />[[石丸博也]]([[音声多重放送|副音声]]) |音声=[[音声多重放送]] |字幕=[[文字多重放送]] }} 『らんま1/2』(らんまにぶんのいち)は、2011年12月9日に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]]の『'''[[金曜スーパープライム]]'''』枠(19時00分 - 20時54分)で放送されたスペシャルドラマ。主演は[[新垣結衣]]。視聴率は7.9%。 マダム・カマンベール率いる謎の組織と乱馬による和風男溺泉の鍵を巡る争奪戦を描く単行本8巻のパラレルワールド作品である。 === キャスト === * 天道あかね - [[新垣結衣]] * 早乙女乱馬 - [[賀来賢人]](男Ver.) / [[夏菜]](女Ver.) * 九能帯刀 - [[永山絢斗]] * 天道なびき - [[西山茉希]] * 五寸釘光 - [[金井勇太]] * 天道かすみ - [[長谷川京子]] * 小乃東風 - [[谷原章介]] * 小蒲田加毛依 - [[田山涼成]] * 鎌鼬 - [[渋江譲二]] * 早乙女玄馬 - [[古田新太]] * 天道早雲 - [[生瀬勝久]] * [[我妻三輪子]]、吉田優華、中島妙子、谷本峰、林初実、[[薄井伸一]]、[[松本春姫]]、松井晶煕、大沼遼平 === スタッフ(テレビドラマ) === * ナレーション - [[永井一郎]] * [[解説放送|アイパートナー]]([[音声多重放送|副音声]]) - [[石丸博也]] * 原作 - [[高橋留美子]](小学館・少年サンデーコミックス) * 脚本 - [[いずみ吉紘]] * 演出 - 西村了([[日テレアックスオン]]) * 音楽 - [[吉川慶]] * スタントコーディネーター - [[川澄朋章]](K-Stunt Films) * 剣道指導 - 山形奈美 * 特殊造形 - [[藤原鶴声|藤原カクセイ]] * 技術協力 - [[NiTRo]] * スタジオ - [[日活撮影所]] * チーフプロデューサー - [[森實陽三]] * プロデュース - 高明希(日テレアックスオン)、遠藤正累(日本テレビ) * 制作プロダクション - 日テレアックスオン * 製作著作 - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] === 主題歌(テレビドラマ) === * [[9nine]] 「[[チクタク☆2NITE]]」 === ドラマ関連商品 === ==== 書籍 ==== *「らんま1/2 〜TVドラマ記念・よりぬき完全版〜」上・下巻(2011年12月1日発売) ==== DVD・Blu-ray ==== *「らんま1/2」DVD・Blu-ray(2012年3月21日発売) == ゲーム作品 == * [[らんま1/2 (ゲームボーイ)|らんま1/2]] ** [[ゲームボーイ]] &lt;[[パズルゲーム]]&gt; (1990年7月28日) * [[らんま1/2 (PCエンジン)|らんま1/2]] ** [[PCエンジン]] [[CD-ROM2|CD-ROM&sup2;]] &lt;[[アクションゲーム]]&gt; (1990年12月7日) * らんま1/2 飛龍伝説 ** [[PC-9800シリーズ]] &lt;[[アドベンチャーゲーム]]&gt; (1991年12月20日) / [[MSX|MSXturboR]] (1992年6月12日) * [[らんま1/2 とらわれの花嫁]] ** PCエンジン CD-ROM&sup2; &lt;アドベンチャーゲーム&gt; (1991年12月6日) * [[らんま1/2 町内激闘篇]] ** [[スーパーファミコン]] &lt;[[格闘ゲーム]]&gt; (1992年3月27日) * らんま1/2 熱烈格闘編 ** ゲームボーイ &lt;アクションアドベンチャーゲーム&gt; (1992年7月17日) * [[らんま1/2 打倒、元祖無差別格闘流!]] ** PCエンジン CD-ROM&sup2;・[[SUPER CD-ROM&sup2;]]両対応 &lt;格闘ゲーム&gt; (1992年10月2日) * [[らんま1/2 爆烈乱闘篇]] ** スーパーファミコン &lt;格闘ゲーム&gt; (1992年12月25日) * [[らんま1/2 白蘭愛歌]] ** [[メガCD]] &lt;アドベンチャーゲーム&gt; (1993年4月23日) * らんま1/2 格劇問答!! ** ゲームボーイ &lt;[[クイズゲーム|クイズ]]・[[コンピュータRPG|RPG]]&gt; (1993年8月6日) * [[らんま1/2 朱猫団的秘宝]] ** スーパーファミコン &lt;RPG&gt; (1993年10月22日) * [[らんま1/2 超技乱舞篇]] ** スーパーファミコン &lt;格闘ゲーム&gt; (1994年4月28日) * らんま1/2 奥義邪暗拳 ** スーパーファミコンと [[PC-9801]] &lt;パズルゲーム&gt; (1995年7月21日) * らんま1/2 バトルルネッサンス ** [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]] &lt;格闘ゲーム&gt; (1996年12月6日) == パチンコ == *『フィーバーらんま1/2』([[三共 (パチンコ)|SANKYO]]) *『羽根らんま1/2』(SANKYO) == その他 == [[小林よしのり]]作の『[[おぼっちゃまくん]]』の主人公、御坊茶魔と『週刊少年サンデー』誌上でコラボレーションも果たしている。同誌1990年42号の表紙は、らんま(女)が茶魔を抱っこしているという図柄で、『おぼっちゃまくん』の特別読みきりが掲載された。しかし小林は、本作のファンから嫉妬が大半の不興を買っているとして、『おこっちゃまくん』([[宝島 (雑誌)|宝島]]連載版)で、本作のファンを激しく批判したことがある。因みに、『おぼっちゃまくん』のアニメ版は、一時期本作のアニメ版の裏番組であった。 サウンドトラックの一部が[[日本テレビ放送網]]のクイズ番組『[[マジカル頭脳パワー!!]]』で使用されていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="20th91">{{Cite book|和書|date=2018-05-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1991 [[鳥人戦隊ジェットマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[井上敏樹]]|isbn=978-4-06-509613-0}}</ref> }} == 外部リンク == {{Commonscat|Ranma ½}} * [https://comics.shogakukan.co.jp/book-series?cd=44915 らんま1/2 高橋留美子 小学館コミック] * [http://www.oni-p.com/works/anime/a_01.htm 有限会社オニオンピーマンカンパニー - アニメ作品 制作リスト らんま1/2] * [https://www.ntv.co.jp/ranma/ スペシャルドラマ「らんま1/2」日本テレビ] * {{Wayback|url=https://vod.ntv.co.jp/program/ranma/ |title=スペシャルドラマ「らんま1/2」日テレオンデマンド |date=20120409001753}} {{らんま1/2}} {{高橋留美子}} {{スタジオディーン}} {{芝山努監督作品}} {{西村純二監督作品}} {{もりたけし監督作品}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:らんまにふんのいち}} [[Category:らんま1/2|*]] [[Category:高橋留美子の漫画作品]] [[Category:漫画作品 ら|んまにふんのいち]] [[Category:1987年の漫画]] [[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]] [[Category:中国武術を題材とした作品]] [[Category:TSF]] [[Category:変身を題材としたフィクション作品]] [[Category:ボーイ・ミーツ・ガール作品]] [[Category:お色気漫画]] [[Category:格闘技漫画]] [[Category:ギャグ漫画]] [[Category:トランスセクシュアル漫画]] [[Category:恋愛漫画]] [[Category:ロマンティック・コメディ漫画]] [[Category:高等学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:練馬区を舞台とした漫画作品]] [[Category:アニメ作品 ら|んまにふんのいち]] [[Category:フジテレビ系アニメ]] [[Category:1989年のテレビアニメ]] [[Category:スタジオディーン]] [[Category:キティフィルムのアニメ作品]] [[Category:ポニーキャニオンのアニメ作品]] [[Category:高橋留美子原作のアニメ作品]] [[Category:少年サンデーコミックスのアニメ作品]] [[Category:浦沢義雄のシナリオ作品]] [[Category:井上敏樹のシナリオ作品]] [[Category:格闘技アニメ]] [[Category:ギャグアニメ]] [[Category:トランスセクシュアルアニメ]] [[Category:恋愛アニメ]] [[Category:高等学校を舞台としたアニメ作品]] [[Category:練馬区を舞台としたアニメ作品]] [[Category:2011年のテレビドラマ]] [[Category:金曜スーパープライム]] [[Category:日本テレビのスペシャルドラマ]] [[Category:漫画を原作とするテレビドラマ]] [[Category:高等学校を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:練馬区を舞台としたテレビドラマ]] [[Category:テレビドラマ連動データ放送]] [[Category:いずみ吉紘脚本のテレビドラマ]]
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廃棄物等
廃棄物等(はいきぶつとう)とは、循環型社会形成推進基本法第2条第2項によれば、次に掲げる物と定義されている。
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廃棄物等(はいきぶつとう)とは、循環型社会形成推進基本法第2条第2項によれば、次に掲げる物と定義されている。 廃棄物 一度使用され、若しくは使用されずに収集され、若しくは廃棄された物品(現に使用されているものを除く。)又は製品の製造、加工、修理若しくは販売、エネルギーの供給、土木建築に関する工事、農畜産物の生産その他の人の活動に伴い副次的に得られた物品(前号に掲げる物並びに放射性物質及びこれによって汚染された物を除く。)
{{特筆性|date=2023年2月17日 (金) 10:26 (UTC)}} {{百科事典的でない|date=2023年2月17日 (金) 10:26 (UTC)|type=NOTMIRROR}} '''廃棄物等'''(はいきぶつとう)とは、[[循環型社会形成推進基本法]][[s:循環型社会形成推進基本法#2|第2条第2項]]によれば、次に掲げる物と定義されている。 # [[廃棄物]] # 一度使用され、若しくは使用されずに収集され、若しくは廃棄された物品(現に使用されているものを除く。)又は製品の[[製造]]、[[加工]]、[[修理]]若しくは[[販売]]、[[エネルギー]]の供給、[[土木]][[建築]]に関する工事、[[農畜産物]]の[[生産]]その他の人の活動に伴い副次的に得られた物品(前号に掲げる物並びに[[放射性物質]]及びこれによって[[汚染]]された物を除く。) {{デフォルトソート:はいきふつとう}} [[Category:廃棄物]]
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プロポーショナルフォント
プロポーショナルフォント (英: proportional font) とは、文字ごとに文字幅が異なるフォントのこと。日本語では可変幅フォントともいう。 伝統的な活版印刷で用いる活字については、例えばラテン文字「i」とラテン文字「w」では文字の幅が異なり、ただ並べるだけで読みやすい単語が印字できるようになっている。これがプロポーショナルフォントである。 プロポーショナルに対してモノスペースと呼ばれる等幅フォントまたは固定幅フォントがある。これは初期のコンピュータが画面表示や印刷のために文字を並べるときに文字ごとの異なる幅データを保持して反映させるための技術がなかったので、どの文字も同じ幅を持つように扱われており、ラテン文字「i」には余分な空白が付け足されて ラテン文字「w」と同じ幅が与えられていたためである。 しかしコンピュータが文字ごとに異なる幅を持つようなフォントを扱う上で技術的な制約がなくなってきたことなどから、文字ごとに幅が異なるフォントも増えてきた。 日本語フォントの場合、日本語固有のグリフが全角等幅ではなくプロポーショナル幅のものを指す。日本語固有のグリフを全角等幅で実装したものは、その他の文字のグリフがプロポーショナル幅でもプロポーショナルフォントとは呼ばない。 等幅フォントだけが用いられた時代が長かったので、等幅フォントの特徴を生かした文化が発生した。空白文字による桁揃えやアスキーアート (AA) などがその例である(ただし、2ちゃんねる隆盛以降、日本語圏の AA に関しては、プロポーショナルフォントの「MS Pゴシック」を前提としているものが多い)。等幅フォントで表示されることを前提として桁揃えなどが施されている文書を、プロポーショナルフォントで表示すると、著者の意図が伝わりにくくなる。 プロポーショナルフォントの高度なものは、カーニング情報やイタリック補正量、合字情報なども保持するようになる。
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プロポーショナルフォント とは、文字ごとに文字幅が異なるフォントのこと。日本語では可変幅フォントともいう。 伝統的な活版印刷で用いる活字については、例えばラテン文字「i」とラテン文字「w」では文字の幅が異なり、ただ並べるだけで読みやすい単語が印字できるようになっている。これがプロポーショナルフォントである。 プロポーショナルに対してモノスペースと呼ばれる等幅フォントまたは固定幅フォントがある。これは初期のコンピュータが画面表示や印刷のために文字を並べるときに文字ごとの異なる幅データを保持して反映させるための技術がなかったので、どの文字も同じ幅を持つように扱われており、ラテン文字「i」には余分な空白が付け足されて ラテン文字「w」と同じ幅が与えられていたためである。 しかしコンピュータが文字ごとに異なる幅を持つようなフォントを扱う上で技術的な制約がなくなってきたことなどから、文字ごとに幅が異なるフォントも増えてきた。 日本語フォントの場合、日本語固有のグリフが全角等幅ではなくプロポーショナル幅のものを指す。日本語固有のグリフを全角等幅で実装したものは、その他の文字のグリフがプロポーショナル幅でもプロポーショナルフォントとは呼ばない。 等幅フォントだけが用いられた時代が長かったので、等幅フォントの特徴を生かした文化が発生した。空白文字による桁揃えやアスキーアート (AA) などがその例である。等幅フォントで表示されることを前提として桁揃えなどが施されている文書を、プロポーショナルフォントで表示すると、著者の意図が伝わりにくくなる。 プロポーショナルフォントの高度なものは、カーニング情報やイタリック補正量、合字情報なども保持するようになる。
{{出典の明記|date=2021-09-09}} [[画像:Propvsmono.svg|thumb|(上段)プロポーショナル<br>(下段)モノスペース/等幅]] '''プロポーショナルフォント''' ({{lang-en-short|proportional font}}) とは、文字ごとに文字幅が異なる[[フォント]]のこと。日本語では'''可変幅フォント'''ともいう。 伝統的な[[活版印刷]]で用いる[[活字]]については、例えばラテン文字「{{スペル|'''i'''}}」とラテン文字「{{スペル|'''w'''}}」では文字の幅が異なり、ただ並べるだけで読みやすい単語が印字できるようになっている。これがプロポーショナルフォントである。 プロポーショナルに対してモノスペースと呼ばれる'''[[等幅フォント]]'''または'''固定幅フォント'''がある。これは初期の[[コンピュータ]]が画面表示や印刷のために文字を並べるときに文字ごとの異なる幅[[データ]]を保持して反映させるための技術がなかったので、どの文字も同じ幅を持つように扱われており、ラテン文字「{{スペル|'''i'''}}」には余分な空白が付け足されて ラテン文字「{{スペル|'''w'''}}」と同じ幅が与えられていたためである。 しかしコンピュータが文字ごとに異なる幅を持つようなフォントを扱う上で技術的な制約がなくなってきたことなどから、文字ごとに幅が異なるフォントも増えてきた。 日本語フォントの場合、日本語固有のグリフが全角等幅ではなくプロポーショナル幅のものを指す。日本語固有のグリフを全角等幅で実装したものは、その他の文字のグリフがプロポーショナル幅でもプロポーショナルフォントとは呼ばない。 等幅フォントだけが用いられた時代が長かったので、等幅フォントの特徴を生かした文化が発生した。空白文字による桁揃えや[[アスキーアート]] (AA) などがその例である(ただし、[[2ちゃんねる]]隆盛以降、日本語圏の AA に関しては、プロポーショナルフォントの「{{スペル|MS P}}ゴシック」を前提としているものが多い)。等幅フォントで表示されることを前提として桁揃えなどが施されている文書を、プロポーショナルフォントで表示すると、著者の意図が伝わりにくくなる。 プロポーショナルフォントの高度なものは、[[カーニング]]情報や[[イタリック体|イタリック]]補正量、[[合字]]情報なども保持するようになる。 == プロポーショナル・フォントの例 == {|class=wikitable !フォント名!!文字集合!!提供元!!備考 |- |Bitstream |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |[[Linux]]に搭載されている。 |- |[[Century (書体)|Century]] |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |{{lang|en|Linux}}、[[Microsoft Office]]に搭載されている<ref name="msoffice">[https://support.office.com/ja-jp/article/Office-%E3%81%AE%E5%90%84%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AB%E4%BB%98%E5%B1%9E%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%88-db1101fc-5cc0-4300-91cd-de7c79d907cd Office-の各バージョンに付属するフォント]</ref>。 |- |[[IPAフォント|{{スペル|IPA P}}ゴシック]]<br> [[IPAフォント|{{スペル|IPA P}}明朝]] |[[JIS X 0213]] |[[情報処理推進機構]] |情報処理推進機構が配布している。{{lang|en|Linux}}に搭載されている。 |- |Takao Pゴシック<br /> Takao P明朝 |JIS X 0213ほか | |[[IPAフォント]]を基にしたもので、[[Ubuntu]]に搭載されている。 |- |[[Chicago (書体)|Chicago]]<br />Krungthep<br />Silom |ラテン文字 | |[[Classic Mac OS]] (Chicago)、[[macOS]] (Krungthep<ref name="macos" />・Silom<ref name="macos" />) に搭載されている。 |- |Migu 1C |ラテン文字、<br>日本語文字、<br>ほか | |M<sup>+</sup>とIPAフォントの合成<ref>[http://mix-mplus-ipa.osdn.jp/migu/ Miguフォント:M<sup>+</sup>とIPAの合成フォント]</ref>。 |- |[[Helvetica]] |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |macOSに搭載されている<ref name="macos" />。Helvetica NeueがmacOSに、{{lang|en|Helvetica}} (R, B) が[[ジャストシステム]]の一部の製品<ref>[https://www.justsystems.com/jp/legal/font.html 当社製品の搭載フォント ご使用条件] - ジャストシステム</ref> に搭載。 |- |Times |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |rowspan=2|macOSに搭載されている<ref name="macos" />。 |- |[[Geneva (書体)|Geneva]] |ラテン文字 | |-|- |[[Arial]]<br> [[Times New Roman]] |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |macOS、{{lang|en|Windows}} に搭載されている<ref name="macos">[https://support.apple.com/ja-jp/HT206872 macOS Sierra に組み込まれているフォント - Apple サポート]</ref><ref name="windows">[https://www.microsoft.com/typography/fonts/product.aspx?PID=164 Fonts supplied with* Windows 8]、[https://answers.microsoft.com/en-us/insider/forum/insider_wintp-insider_perf/fonts-in-windows-10/e856c620-b8b6-4435-b03a-0c3f36d914db?auth=1 Fonts in Windows 10]</ref>。 |- |[[MS ゴシック|{{スペル|MS P}}ゴシック]]<br>[[MS 明朝|{{スペル|MS P}}明朝]]<br>[[メイリオ|Meiryo UI]] |JIS X 0213、<br />Microsoft互換文字ほか | |rowspan=2|{{lang|en|Windows}}に搭載されている<ref name="windows" />。 |- |[[游書体|Yu Gothic UI]] |Adobe-Japan1-6、<br />Microsoft互換文字 | |- |源真ゴシックP<br>源柔ゴシックP |JIS X 0213ほか | |[[源ノ角ゴシック]]の派生フォントの一つ<ref>[http://jikasei.me/font/genshin/ 自家製フォント工房]</ref>。 |- |HGPフォント各種 |JIS X 0208ほか |[[リコー]] |Microsoft Officeに付属<ref name="msoffice" /><ref>[http://blog.ddc.co.jp/mt/dtp/archives/20110324/115848.html フォントのHG・HGP・HGSの違いとDF・DFP・DFGの違いについて - DTPサポート情報]</ref>。 |- |DFGフォント各種 |JIS X 0208ほか |[[ダイナコムウェア]] |中国語版もあり |- |Nishiki-teki |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>各種記号、<br>日本語文字、<br>ほか | | |- |[[梅フォント|梅Pゴシック]]<br />梅P明朝 |JIS X 0213 | | |- |[[モナーフォント]]<br />[[IPAモナーフォント]] |[[JIS X 0208]]ほか | |[[アスキーアート]]表示用のフォント。IPAモナーフォントは[[IPAフォント]]他を加工したものである。 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 関連項目 == * [[DTP]] * [[等幅フォント]] {{タイポグラフィ用語}} {{デフォルトソート:ふろほうしよなるふおんと}} [[Category:DTP]] [[Category:書体]]
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塩漬け
塩漬け(しおづけ)とは、主に腐敗しやすい食品を、長期保存や味付けのため食塩に漬けておく古くからの方法、またその方法で塩に漬けた食品をいう。前者は塩蔵(えんぞう)、後者は塩蔵品(えんぞうひん)ともいう。 腐敗しやすい畜肉や魚介類・野菜等を、塩分濃度の高い状態に置くことで細菌(雑菌)を繁殖させにくくし、長期保存する手段として古くから用いられてきた。特に魚介類では塩辛、野菜類では漬物がその代表的なものである。畜肉の場合ではハムやベーコン、コンビーフ、スーチカーなどが該当する。 塩漬けによる食品保存が始まった時期は不明であるが、紀元前6000頃のエジプトでは、すでに食肉を岩塩中で保存していたとされる。食塩により保存性を高めた食品は世界的にも多く、また素材が熟成されることもあり、冷蔵庫が普及するまでは様々な食品の保存に食塩が用いられてきた。 塩蔵とは、食品保存法であると同時に、食材の風味を作り変える手段であり、食塩が豊富に得られる地域でよく見られる食品加工方法のひとつである。塩分濃度を制御することで有害な微生物を退け、活動できるものを選んで発酵に用いる場合もある。 塩漬けにより雑菌の繁殖が抑えられる理由は、浸透圧(すなわち微生物の細胞から水分が失われる)による殺菌・制菌によるものと、細菌が利用しやすい自由水を食塩によって結合水にすることで水分活性を減らすことによる。一般に腐敗細菌の多くは約5%の塩分濃度で繁殖が抑制され、15 - 20%で繁殖不能になる。好塩菌は自身の細胞の浸透圧を調整しており塩による制菌が困難である。 食品は保存と安定供給のため、あるいは長距離・長時間の輸送に耐えうるため様々に加工されてきた。食品加工の加工の方法は塩蔵のみならず様々な方法があり、保存性を高めた食品のことを保存食という。 ハムやソーセージなどの食肉加工品を製造する際には、風味や肉質、保存性の向上などの目的で、原料肉を食塩や発色剤(亜硝酸ナトリウムなど)、砂糖、香辛料などに漬け込む工程があり、これを塩せき(えんせき、英: Curing)という。日本においては塩せきの手法が公正競争規約により定められており、例えば、塩せきの期間はハムで5日間以上、ベーコンで5日間以上、ソーセージで3日間以上と定められている。 なお「無塩せき」の表示のある加工品は、塩せきの工程を全く行っていない意味ではなく、塩せきの際に発色剤を用いていないという意味である。 「塩せき」をすべて漢字表記にしたものは「塩漬」であり、「塩析」は別の用語であり誤記である。ただし「漬」の音読みは「シ」であり、「セキ」と読ませるのはいわゆる慣用音である。 塩ワカメなど、一部の塩分の強い塩蔵品については真水に浸して塩分を抜く「塩抜き(塩出し)」を必要とする場合がある。真水ではなく薄い食塩水に浸す「呼び塩」と呼ばれる方法を用いることもある。 一般には食品保存法として利用される塩漬けであるが、それ以外にも様々な腐敗しやすい物を保存するために利用された。 防腐技術が未発達だった時代には、生物標本を塩漬けにして保存する場合があった。いち例としてシーラカンスでは、初めて捕獲された個体の標本は塩漬けによって保管されていたが、塩蔵保存では標本の体の水分が抜けて原型を損なうため、シーラカンスの初の標本ではその生物的特徴が判りにくくなっていた。 遺体の保存方法として利用された例も多い。中国や日本では戦国時代以降、打ち倒した相手の首を切り落として首級として持ち帰る際に、首を塩漬けにして腐敗を防いだ。また権力者が客死した際や埋葬する際に、特に真夏に死去して葬儀の間に遺体が腐敗しやすい場合など、塩漬けにして遺体を保存することもあったとされる(文禄・慶長の役の耳塚を参照)。 ヨーロッパでも第一次世界大戦の頃までは、遺体を戦地から塩漬けにして輸送することもあった。 転じて、購入後に価値が下落した不動産、株券、美術品などの資産を有効活用できないまま、長期間保有し続けることを「塩漬け」と呼ぶ。また、購入・借用・譲受等によって入手した物を使用せず保管しておくことや、行わなければならないことを先送りにすることを「塩漬け」と呼ぶ場合もある。 特に土地の場合に言うことが多く、バブル景気時代に値上がりを見越して投機目的で地上げなどにより取得された土地が、その後のバブル崩壊後により活用されず更地のままにされたり、暫定的に駐車場やコインパーキングなどに転用された。このような土地がマスメディアにより「塩漬けの土地」と表現された。バブル景気とその崩壊に伴う「塩漬けの土地」の例として有名なものが、旧国鉄汐留駅跡地である(汐留駅 (国鉄)#旧汐留駅跡地を参照)。
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塩漬け(しおづけ)とは、主に腐敗しやすい食品を、長期保存や味付けのため食塩に漬けておく古くからの方法、またその方法で塩に漬けた食品をいう。前者は塩蔵(えんぞう)、後者は塩蔵品(えんぞうひん)ともいう。
[[ファイル:ProsciuttoSeaSalt.JPG|thumb|塩漬けを用いた[[ハム|生ハム]]作り]] '''塩漬け'''(しおづけ)とは、主に[[腐敗]]しやすい[[食品]]を、[[食料保存|長期保存]]や味付けのため[[食塩]]に漬けておく古くからの方法、またその方法で塩に漬けた食品をいう。前者は'''塩蔵'''(えんぞう)、後者は'''塩蔵品'''(えんぞうひん)ともいう。 == 食品 == 腐敗しやすい[[畜肉]]や[[魚介類]]・[[野菜]]等を、塩分濃度の高い状態に置くことで[[細菌]]([[雑菌]])を繁殖させにくくし、長期保存する手段として古くから用いられてきた。特に魚介類では[[塩辛]]、野菜類では[[漬物]]がその代表的なものである。畜肉の場合では[[ハム]]や[[ベーコン]]、[[コンビーフ]]、[[スーチカー]]などが該当する。 塩漬けによる食品保存が始まった時期は不明であるが、[[紀元前]]6000頃の[[エジプト]]では、すでに食肉を[[岩塩]]中で保存していたとされる<ref>{{Cite book|和書|title=よくわかる暮らしの中の食品添加物|date=2016-04-16|publisher=[[光生館]] }}</ref>。食塩により保存性を高めた食品は世界的にも多く、また素材が熟成されることもあり、[[冷蔵庫]]が普及するまでは様々な食品の保存に食塩が用いられてきた。 塩蔵とは、食品保存法であると同時に、食材の風味を作り変える手段であり、食塩が豊富に得られる地域でよく見られる食品加工方法のひとつである。塩分濃度を制御することで有害な[[微生物]]を退け、活動できるものを選んで[[発酵]]に用いる場合もある。 塩漬けにより雑菌の繁殖が抑えられる理由は、[[浸透圧]](すなわち微生物の細胞から水分が失われる)による殺菌・制菌によるものと、細菌が利用しやすい自由水を食塩によって結合水にすることで[[水分活性]]を減らすことによる。一般に腐敗細菌の多くは約5%の塩分濃度で繁殖が抑制され、15 - 20%で繁殖不能になる。[[好塩菌]]は自身の細胞の浸透圧を調整しており塩による制菌が困難である。 食品は保存と安定供給のため、あるいは長距離・長時間の輸送に耐えうるため様々に加工されてきた。[[食品加工]]の加工の方法は塩蔵のみならず様々な方法があり、保存性を高めた食品のことを[[保存食]]という。 === 塩せき・無塩せき === ハムや[[ソーセージ]]などの食肉加工品を製造する際には、風味や肉質、保存性の向上などの目的で、原料肉を食塩や[[発色剤]]([[亜硝酸ナトリウム]]など)、[[砂糖]]、[[香辛料]]などに漬け込む工程があり、これを'''塩せき'''(えんせき、{{lang-en-short|[[:en:Curing (food preservation)|Curing]]}})という。[[日本]]においては塩せきの手法が[[公正競争規約]]により定められており、例えば、塩せきの期間はハムで5日間以上、ベーコンで5日間以上、ソーセージで3日間以上と定められている<ref>[https://www.niku-kakou.or.jp/kosei/kiyaku.html 公正取引規約等] ハム・ソーセージ類公正取引協議会、2023年9月17日閲覧。</ref><ref>[https://www.jfftc.org/rule_kiyaku/pdf_kiyaku_hyouji/ham_sausage.pdf ハム・ソーセージ類の表示に関する公正競争規約及び施行規則] 全国公正取引協議会連合会、2023年9月17日閲覧。</ref>。 なお「無塩せき」の表示のある加工品は、塩せきの工程を全く行っていない意味ではなく、塩せきの際に発色剤を用いていないという意味である<ref>[https://www.niku-kakou.or.jp/kosei/hyoji.html#muenseki 食品表示 - 無塩せき] ハム・ソーセージ類公正取引協議会、2023年9月17日閲覧。</ref>。 「塩せき」をすべて漢字表記にしたものは「塩漬」であり<ref name="コトバンク塩漬">{{kotobank |塩漬 |[[デジタル大辞泉]]}}</ref>、「'''[[塩析]]'''」は別の用語であり誤記である。ただし「漬」の[[音読み]]は「シ」であり<ref>{{kotobank |漬|デジタル大辞泉}}</ref>、「セキ」と読ませるのはいわゆる[[慣用音]]である。 === 塩抜き === [[ワカメ#食用|塩ワカメ]]など、一部の塩分の強い塩蔵品については[[真水]]に浸して塩分を抜く「塩抜き(塩出し)」を必要とする場合がある。真水ではなく薄い食塩水に浸す「呼び塩」と呼ばれる方法を用いることもある。 == 食品以外 == 一般には食品保存法として利用される塩漬けであるが、それ以外にも様々な腐敗しやすい物を保存するために利用された。 === 学術標本 === 防腐技術が未発達だった時代には、生物標本を塩漬けにして保存する場合があった。いち例としてシーラカンスでは、初めて捕獲された個体の標本は塩漬けによって保管されていたが、塩蔵保存では標本の体の水分が抜けて原型を損なうため、シーラカンスの初の標本ではその生物的特徴が判りにくくなっていた。 === 人の遺体 === 遺体の保存方法として利用された例も多い。中国や日本では戦国時代以降、打ち倒した相手の首を切り落として首級として持ち帰る際に、首を塩漬けにして腐敗を防いだ。また権力者が客死した際や埋葬する際に、特に真夏に死去して葬儀の間に遺体が腐敗しやすい場合など、塩漬けにして遺体を保存することもあったとされる(文禄・慶長の役の耳塚を参照)。また、ヨーロッパでも第一次世界大戦の頃までは、遺体を戦地から塩漬けにして輸送することもあった。 == 転用 == 転じて、購入後に価値が下落した[[不動産]]、[[株券]]、[[美術品]]などの[[資産]]を有効活用できないまま、長期間保有し続けることを「塩漬け」と呼ぶ<ref name="コトバンク塩漬" />。また、購入・借用・譲受等によって入手した物を使用せず保管しておくことや、行わなければならないことを先送りにすることを「塩漬け」と呼ぶ場合もある。 特に'''[[土地]]'''の場合に言うことが多く、[[バブル景気]]時代に値上がりを見越して[[投機]]目的で[[地上げ]]などにより取得された土地が、その後の[[バブル崩壊]]後により活用されず更地のままにされたり、暫定的に[[駐車場]]や[[コインパーキング]]などに転用された。このような土地が[[マスメディア]]により「'''塩漬けの土地'''」と表現された。バブル景気とその崩壊に伴う「塩漬けの土地」の例として有名なものが、旧[[日本国有鉄道|国鉄]][[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]跡地である([[汐留駅 (国鉄)#旧汐留駅跡地]]を参照)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[殺菌]] / [[極限環境微生物]] * [[干物]] / [[くさや]] * [[魚醤]] / [[醤油]] - 元は塩漬けの魚から出た汁を調味料として使ったのが始まりとされる。醤油は魚醤の魚の代わりに[[大豆]]蛋白を利用したもので、高い塩分濃度から塩蔵の代用(醤油漬け)としても使用される。 * {{ill2|キュアリング (食品)|label=キュアリング|en|Curing (food preservation)}} == 外部リンク == * {{kotobank |塩漬 |[[デジタル大辞泉]]}} {{food-stub}} {{食肉}} {{デフォルトソート:しおつけ}} [[Category:塩化ナトリウム]] [[Category:食品加工]] [[Category:調理法]] [[Category:漬物]]
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特許法
特許法(とっきょほう)は、「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって産業の発達に寄与することを目的とする」とされている(同法1条)、日本の法律である。法令番号は昭和34年法律第121号、1959年(昭和34年)4月13日に公布された。 特許法の目的は、第1条に謳われているように、「産業の発達」である。この目的を達成するための手段として、発明の保護と利用を制度として定めることが、この法律の存在意義といえる。 せっかくの発明を模倣されてしまえば、開発に要した経済的及び時間的コストを回収することができず、発明するだけ損になってしまう。このようなことでは産業界から発明をしようという意欲が失われ、日本の産業は衰退しかねない。そこで、額に汗したものが適切な利益を得られるよう、本来は形を持たない「発明」に対する権利を、物権類似の特許権として人為的に保護する(この点で、特許法は民法の特別法である)ことで、産業活動を奨励ないし刺激するものである(発明奨励機能)。 また別の観点では、発明の内容を社会に公開させるためのものともいえる(特許出願された発明の内容は公開されることになっている)。発明者が他者の模倣を恐れて発明内容を秘密にしたのでは、たとえそれがどんなに素晴らしいものだったとしても、その発明が産業・社会に活かされることはなく、いわば「死んで」しまう。これでは産業の発達には程遠い。そこで、特許権による保護を代償として、発明者に対して発明内容の公開を求めるものである(公開代償機能)。 この議論からも分かるように、特許法は単に発明者を保護するためだけのものではない。発明者に対して適切な保護を与えることは勿論だが、それのみならず、発明の利用を通じて産業の発達につなげることをも考慮した、産業振興施策の一形態が特許制度であり、特許法はそのような施策をバランスよく実施するための法律だといえる。 日本で最初に制定された特許法は、1871年5月25日(明治4年4月7日)に定められた「専売略規則」(太政官)である。発明者に15年ないし7年の専売権をあたえた。但し、当時の日本ではこの規則を運用するだけの知識も経験もなく、さらに発明がなされるということ自体稀だったこともあり、結局1年で施行中止に追いこまれた。明治5年3月29日廃止。 現在まで続く日本の特許制度の基となったのは、1885年(明治18年)4月18日に定められ、7月1日施行の「専売特許条例」である(太政官布告)。8月14日に初めて7件の特許を許可した。その後、新たな改正が何度か行われた。特許法が1899年3月2日、公布され、7月1日、施行された。現行の特許法は1959年(昭和34年)4月13日公布され、1960年4月1日施行されたものであり、その後数度の一部改正を経て現在に至っている。 近年(平成以降)の主な法改正は、以下の通りである。 審判の口頭審理等においてウェブ会議システムを導入した。 特許料等の支払方法を拡充し、特許印紙で予納する制度を廃止した。 特許権の訂正審判等における通常実施権者の承諾要件を見直した。 特許権侵害訴訟において第三者意見募集制度を導入した。 特許侵害訴訟において、専門家が現地を調査する手続き(査証)を創設した。 損害賠償において、ライセンス料相当額について見直した。 職務発明制度が改正され、職務発明の場合には、特許を受ける権利は初めから法人に帰属するとされた。
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特許法(とっきょほう)は、「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって産業の発達に寄与することを目的とする」とされている(同法1条)、日本の法律である。法令番号は昭和34年法律第121号、1959年(昭和34年)4月13日に公布された。
{{Otheruses|日本の特許法|他の国・地域の特許法|特許法 (曖昧さ回避)}} {{law}} {{日本の法令 | 題名=特許法 | 通称=なし | 番号=昭和34年法律第121号 | 効力=現行法 | 種類=[[知的財産法]] | 内容=[[特許]]について | 関連=[[知的財産基本法]]、[[実用新案法]]など | リンク=[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=334AC0000000121 e-Gov法令検索] | ウィキソース=特許法 }} '''特許法'''(とっきょほう)は、「[[発明]]の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって[[産業]]の発達に寄与することを目的とする」とされている(同法1条)、[[日本]]の[[法律]]である。[[法令番号]]は昭和34年法律第121号、[[1959年]](昭和34年)[[4月13日]]に[[公布]]された。 == 特許法の意義 == 特許法の目的は、第1条に謳われているように、「産業の発達」である。この目的を達成するための手段として、発明の保護と利用を制度として定めることが、この法律の存在意義といえる。 せっかくの発明を模倣されてしまえば、開発に要した経済的及び時間的コストを回収することができず、発明するだけ損になってしまう。このようなことでは産業界から発明をしようという意欲が失われ、日本の産業は衰退しかねない。そこで、額に汗したものが適切な利益を得られるよう、本来は形を持たない「発明」に対する権利を、[[物権]]類似の[[特許権]]として人為的に保護する(この点で、特許法は[[民法 (日本)|民法]]の特別法である)ことで、産業活動を奨励ないし刺激するものである(発明奨励機能)。 また別の観点では、発明の内容を社会に公開させるためのものともいえる(特許出願された発明の内容は公開されることになっている)。発明者が他者の模倣を恐れて発明内容を秘密にしたのでは、たとえそれがどんなに素晴らしいものだったとしても、その発明が産業・社会に活かされることはなく、いわば「死んで」しまう。これでは産業の発達には程遠い。そこで、特許権による保護を代償として、発明者に対して発明内容の公開を求めるものである(公開代償機能)。 この議論からも分かるように、特許法は単に発明者を保護するためだけのものではない。発明者に対して適切な保護を与えることは勿論だが、それのみならず、発明の利用を通じて産業の発達につなげることをも考慮した、産業振興施策の一形態が[[特許]]制度であり、特許法はそのような施策をバランスよく実施するための法律だといえる。 == 特許法の歴史 == 日本で最初に制定された特許法は、[[1871年]]5月25日([[明治]]4年4月7日)に定められた「'''専売略規則'''」(太政官)である。発明者に15年ないし7年の専売権をあたえた。但し、当時の日本ではこの規則を運用するだけの知識も経験もなく、さらに発明がなされるということ自体稀だったこともあり、結局1年で施行中止に追いこまれた。明治5年3月29日廃止。 現在まで続く日本の特許制度の基となったのは、[[1885年]](明治18年)[[4月18日]]に定められ、7月1日施行の「'''専売特許条例'''」である(太政官布告)。8月14日に初めて7件の特許を許可した。その後、新たな改正が何度か行われた。特許法が1899年3月2日、公布され、7月1日、施行された。現行の'''特許法'''は[[1959年]]([[昭和]]34年)4月13日公布され、1960年4月1日施行されたものであり、その後数度の一部改正を経て現在に至っている。 === 近年の特許法 === 近年([[平成]]以降)の主な法改正は、以下の通りである。 ==== 2021年(令和3年)度特許法改正<ref>{{Cite web|和書|title=特許法等の一部を改正する法律(令和3年5月21日法律第42号){{!}} 経済産業省 特許庁|url=https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/hokaisei/tokkyo/tokkyohoutou_kaiei_r030521.html|website=www.jpo.go.jp|accessdate=2021-11-07}}</ref> ==== 審判の口頭審理等においてウェブ会議システムを導入した。 特許料等の支払方法を拡充し、特許印紙で予納する制度を廃止した。 特許権の訂正審判等における通常実施権者の承諾要件を見直した。 特許権侵害訴訟において第三者意見募集制度を導入した。 ==== 2019年(令和元年)度特許法改正 ==== 特許侵害訴訟において、専門家が現地を調査する手続き(査証)を創設した。 損害賠償において、ライセンス料相当額について見直した。 ==== 2017年(平成29年)度特許法改正 ==== 職務発明制度が改正され、職務発明の場合には、特許を受ける権利は初めから法人に帰属するとされた。 ==== 2014年(平成26年)度特許法改正 ==== # 特許異議申立ての復活 #* 平成15年改正前と比較した主な相違点に、審理方式が書面審理に限定されたこと、訂正の請求があったときの異議申立人への意見書提出機会の付与、訂正の請求の範囲・決定の確定の範囲の規定の導入がある。 #* 特許無効審判を請求できる者は利害関係者(特定の無効理由ではさらに制限される)に戻された。 # 救済措置の拡大 ==== 2011年(平成23年)度特許法改正 ==== # ライセンス契約の保護の強化 #* 事業の安定性を確保するため、企業が社外の技術を活用するために必要なライセンス契約の保護を強化する。 # 共同研究等の成果に関する発明者の適切な保護 #* 企業や大学等で一般化している共同研究・共同開発の成果を適切に保護する。 # ユーザーの利便性向上 #* 中小企業等の負担を軽減するため、知的財産制度のユーザーの利便性向上を図る。 # 紛争の迅速・効率的な解決のための審判制度の見直しの各措置 #* 知的財産を巡る紛争のコストを低減するため、紛争の迅速・効率的な解決を図る。 ==== 2008年(平成20年)度特許法改正 ==== # 通常実施権等登録制度の見直し # 不服審判請求期間の拡大 # 優先権書類の電子的交換の対象国の拡大 # 特許関係料金・商標関係料金の引下げ # 料金納付の口座振替制度の導入 # その他(信託法改正に伴う改正) ==== 2006年(平成18年)度特許法改正 ==== # 実施の定義への輸出行為の追加(特許法2条) # 技術的特徴の異なる別発明への補正([[シフト補正]])の禁止(特許法17条の2) # 分割制度の乱用防止(特許法17条の2、44条、50条の2等) # 分割の時期的制限の緩和(特許法44条) # [[外国語]]書面出願の[[翻訳]]文提出期間の延長(特許法36条の2) # 侵害とみなす行為の態様の追加(特許法101条) # 特許料の追納後等に回復した特許権の効力の制限範囲の拡大(特許法112条の3、175条) # 罰則の強化(196条、201条) ==== 2004年(平成16年)度特許法改正 ==== # [[実用新案権]]に基づく特許出願(特許法第46条の2) #* 以前から実用新案登録出願を特許出願に変更することが可能であった(46条2項)が、出願の変更は実用新案登録出願が特許庁に係属中(すなわち、出願の却下や登録がなされる前)に行わなければならないことから、[[審査官 (特許庁)|審査官]]による審査が行われずに短期間で登録される(実用新案法14条2項)実用新案登録出願を特許出願に変更できる期間はわずかに数ヶ月と短かった(特許庁によれば、実用新案登録出願の平均係属期間は約5ヶ月)。そこで、登録後の実用新案に基づいて特許出願を行うことを認めることにより、実用新案の使い勝手を向上させた。背景には、特許出願の審査滞貨の増大に悩む特許庁が、実体審査が不要な実用新案の利便性を高めて、特許出願を減少させたいという思惑がある。 # 無効理由による権利行使制限(特許法第104条の3) #* かつては特許権の侵害訴訟の場で裁判所が特許の有効性を判断することはできず(無効審判で無効にならない限り、有効な特許権として取り扱うしかない)、特許を無効にするためには無効審判の手続によるしかなかった。ところが「[[キルビー特許]]事件」の[[最高裁判所 (日本)|最高裁]][[判決 (日本法)|判決]](最高裁平成12年4月11日判決、民集54巻4号1368頁)により、特許権に「明らかな無効理由」が存在すると認められる場合には当該特許権に基づく権利行使は権利の濫用であって許されないと判示され、以後、[[判例法]]により侵害訴訟の場において裁判所が特許権に「明らかな無効理由」が存在するかどうかを審理することが可能となった(権利濫用の[[抗弁]])。平成16年改正により、いわば権利濫用の抗弁を条文化する形で、侵害訴訟において裁判所が特許の有効性を判断することを認めた。ただし、最高裁が判示した権利濫用の抗弁とは異なり、無効理由が「明らか」であることは要件としておらず、無効理由があると認めた場合には権利行使ができないものとした。なお、本条によっても侵害裁判所が特許権を対世的に無効とすることはできず、その訴訟において権利行使ができないだけである。 # 秘密保持命令(特許法第105条の4~第105条の6)、当事者尋問等の公開停止(特許法第105条の7) #* 特許権に関する訴訟においては、特許の性質上、公開の場で明らかにすることが当事者にとって著しく不利益になる営業秘密に関する事項を審理する必要がある場合が少なくない。一方、そのような理由により当該事項について十分な審理しないことは妥当性を欠く。そこで、特許権侵害訴訟において営業秘密について陳述する必要がある場合には、当事者等に対し裁判所が秘密保持命令を発することができることとするとともに、裁判の公開の原則に対する例外として、当事者に対する尋問等を非公開とすることができることとした。 # [[職務発明]]における相当の対価の見直し(特許法第35条) #* 職務発明の予約承継に基づく相当の対価を請求する訴訟が頻発したことを受け、主に産業界からの要望により、相当の対価を規定する勤務規則等を決定したプロセスが不合理と認められる場合にのみ、裁判所が対価を算定するように条文が改められた。しかしながら、プロセスが不合理であるかどうかは結局のところ裁判所が判断するため、訴訟の減少につながるかどうかは疑問が残る。 ==== 2003年(平成15年)度特許法改正 ==== # 特許異議申立てを廃止し無効審判に一本化(特許法第123条) ==== 2002年(平成14年)度特許法改正 ==== # 実施行為の明確化(特許法第2条3項) # 間接侵害規定の拡充(特許法第101条、第102条、第175条) # 明細書と請求の範囲の分離(特許法第36条) # 国内移行期間の延長(特許法第184条の4、同条の5、同条の9、同条の17) # 先行技術文献開示制度の導入(特許法第36条、第48条の7、第49条) # PCT規則の留保の撤回(特許法第184条の3) ==== 1999年(平成11年)度特許法改正 ==== # 審査請求期間の短縮(特許法第48条の3) # 訂正請求の見直し(特許法第120条の4(現第120条の5に対応)、第134条(現第134条の2、第134条の3に対応)) # 審判書記官制度の創設(特許法第144条の2、第147条、第150条、第190条) # 特許等の権利侵害に対する救済設置の拡充(特許法第104条の2~第105条の3、第71条、第71条の2) # 特許存続期間の延長登録制度の見直し(特許法第67条~第67条の3、第159条) # 申請による早期出願公開制度(特許法第64条~第64条の3、第9条、第14条、第17条の3、他) # 裁判所と特許庁との侵害事件関連情報の交換(特許法第168条) # 新規性阻却事由の拡大(特許法第29条) # 新規性喪失の例外規定の適用対象の拡大(特許法第30条、第184条の14) # 分割・変更出願に係る手続の簡素化(特許法第44条) # 特許料金の引き下げ(特許法第107条) ==== 1998年(平成10年)度特許法改正 ==== # 特許権等侵害に対する民事上の救済及び刑事罰の見直し(特許法第102条) # 願書の記載項目中「発明の名称」の削除(特許法第36条) # 先願の地位の見直し(特許法第39条) # 優先権書類のデータの交換(特許法第43条) # 特許料及び手数料の取扱い(特許法第107条、第195条) # 無効審判の審理促進(特許法第131条) # 証明書等の請求の規定の見直し(特許法第186条、第66条) ==== 1996年(平成8年)度特許法改正 ==== # 民事訴訟法の全面見直しに伴う特許法の整備等 ==== 1994年(平成6年)度特許法改正 ==== # [[知的所有権の貿易関連の側面に関する協定|TRIPS協定]]に対応した改正(特許法第67条、第32条、第2条、第90条、第30条、第43条の2) # 外国語書面出願制度(特許法第36条の2) # 願書に添付する発明を説明する書面についての改正(特許法第36条、第17条の2) # 発明の技術的範囲の解釈に関する改正(特許法第70条) # 特許権の回復制度(特許法第112条の2) # [[特許協力条約|PCT]]規則の留保の撤回(特許法第184条の4) # 特許付与前異議申立制度の廃止と特許付与後異議申立制度への改正(特許法第113条) == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 特許庁総務部総務課制度改正審議室編『[https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/kaisetu/sangyozaisan/sangyou_zaisanhou.html 平成16年特許法等の一部改正 産業財産権法の解説]』2004年、発明協会 == 関連項目 == * [[知的財産権]] * [[日本の特許制度]] * [[特許庁]] * [[弁理士]] * [[知的財産管理技能士]] * [[知的財産検定]] * [[知的財産学部]] * [[知的財産専門職大学院]] * [http://www.jipa.or.jp/ 日本知的財産協会] * [http://www.jauip.org/ 知的財産大学院協議会] == 外部リンク == {{Wikibooks|特許法}} * [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=334AC0000000121 特許法] e-Gov法令検索 * [https://www.jpo.go.jp/system/patent/index.html 特許] 特許庁 * [https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/kaisetu/index.html 法令改正の解説] 特許庁(逐条解説、法改正解説) * [https://www.jpo.go.jp/news/kokusai/developing/training/textbook/document/index/Outline_of_Japanese_Patent_Law_j.pdf 特許法概論] 特許庁・一般社団法人発明協会アジア太平洋工業所有権センター(執筆協力 [[角田政芳]]) {{特許制度}} {{law-stub}} {{デフォルトソート:とつきよほう}} [[Category:日本の法律]] [[Category:特許法|*]] [[Category:1959年の法]] [[Category:知的財産法]] [[Category:日本の特許法]]
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西川貴教
西川 貴教(にしかわ たかのり、英:Takanori Nishikawa。略:TNNK。本名同じ、1970年〈昭和45年〉9月19日 - )は、日本のミュージシャン、歌手、作詞家、俳優、声優、ラジオパーソナリティ、司会者、実業家。滋賀県彦根市生まれ、野洲市出身、育ち。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携はパーフィットプロダクション。所属レコードレーベルはソニー・ミュージックレーベルズ内のエピックレコードジャパン。血液型はA型。身長161cm。既婚。一部の音楽活動では、ソロプロジェクトのT.M.Revolutionを使用する場合がある。 妹が2人いる。父は地方公務員(滋賀県職員)、母親(2017年死去)は市民病院に勤め、母方の祖父は警察官という公務員家系に育つ。父は滋賀県、母方は福井県三方上中郡若狭町出身。 三上小学校時代は剣道をしており、野洲中学校時代はハンドボール部に所属。 家庭環境は音楽と縁遠い環境だったが、小学校高学年にラジオで初めて洋楽に触れる。中学時代の文化祭で洋楽のコピーバンドのヴォーカルとして初めてステージに立ち、その後「歌」を自分の拠りどころにし、バンドやそのライブ活動に明け暮れる。当時のバンド名は「エルフ」。野洲高校時代はバンド活動にはまり遅刻や早退を繰り返していたことや、ミュージシャンとして髪を伸ばしていたことが校則違反になるなどで教師と口論したことなどから高校を退学。その後、大阪スクールオブミュージック専門学校高等課程に籍を置き、そこで知り合ったメンバーとLuis-Maryを結成。人気を得るに従って授業に出席できなくなり、卒業はしていない。3日間の補習で卒業できたものの、それさえも渋ったとのこと。 2009年10月1日、西川に「借金の返済を迫られているので、金を貸してほしい」と持ち掛け、5000万円をだまし取ったとされる詐欺事件が報道された。2003年に起こった事件で、返済期限が同年7月だったが、西川は2004年11月まで待ったものの返済がなかったため、被害届を出した。 また、ミュージカル『ザ・ミュージックマン』で詐欺師役として出演し、製作発表の記者会見で「反対側であれば何となく気持ちは分かるんですけど」と苦笑し、「自分の役の糧になると思うので、舞台で確認していただければ」と自虐的に語った。 Luis-Mary時代に所属していた事務所がBUCK-TICKの事務所であったため、BUCK-TICKメンバーとは先輩後輩の仲である。 北川悦吏子とは、1999年発売の西川の写真集『この声の向こうに』での対談をきっかけに、2000年にTBS系で放映されたドラマ『ビューティフルライフ』に出演。また、2004年にフジテレビで放送されたノンフィクション番組『T.M.Revolution 西川貴教の真実』のナレーターを北川が担当したり、デビュー10周年を記念して2006年に西川本人の編集により特別刊行された『月刊カドカワ』に登場したこともある。 後輩ミュージシャンの175RのSHOGO、Jackson vibeのグローバー義和、RAG FAIRの土屋礼央とは当時担当していたラジオ番組「オールナイトニッポン」でのつながりで、ユニット「しぐれに」を結成している。なお「しぐれに」では、東日本大震災の発生に伴い、2011年4月2日にニコニコ動画とGYAO!にて9時間に亘って放送された「被災地にエールを送ろう!今こそ立ち上がれニッポン! STAND UP!JAPAN」で、西川をメインパーソナリティーに、他の3人がサブMCで番組を進行するという形で共演を果たしている。 2011年にL'Arc〜en〜Cielのtetsuyaのソロ・アルバム『COME ON!』の収録曲「Are you ready to ride?」にバッキングボーカルとして参加している。 2002年に離婚をしてからも、2013年に西川が主催するイナズマロックフェスティバルにPUFFYとして参加したり、プライベートでも2人きりで食事をするなど吉村由美との交流は続いている。 2008年、ロックバンドHIGH and MIGHTY COLORが「HOT LIMIT」をカバーした際には西川貴教本人がミュージックビデオにゲスト出演した。 SCANDALとは、レコード会社の先輩後輩の仲。PlayStation 3用ソフト「戦国BASARA4」のオープニングを西川が、エンディングをSCANDALが演奏し、2014年2月12日にはスプリットシングル「Count ZERO/Runners high」が発売された。 デンジャラスと仲がいい。Luis-Mary時代に使っていたライブハウスで同時期にお笑いライブを行っていた事が縁で仲良くなった。特に安田和博と仲が良く月に1度は飲みに行く。ライブのMCの内容を相談したりラジオ番組のフィードバックをもらう仲。 高橋みなみとは『新堂本兄弟』で共演経験がある他、第6回AKB48じゃんけん大会で高橋が「HOT LIMIT」のPVの衣装をモチーフにした衣装で登場し、西川本人もゲストとして登場した。その他、西川のライブに高橋がゲストとして登場したり、高橋が西川が設立した「株式會社突風」の特別顧問に就任 したりと親交が深い。そのため「熱愛」などと噂されることもあるが、それについては「それを通り越して家族みたい」と2016年4月9日付けの『サンケイスポーツ』に寄せた独占手記で述べている。 各ユニットにおけるリリース作品については以下の記事それぞれを参照のこと。 いずれも廃盤。 琵琶湖に面した滋賀県草津市烏丸半島芝生広場で毎年9月に行われる野外音楽フェスティバル。西川貴教が主催。西川貴教(T.M.Revolution)マスコットキャラクター・タボくんが公式キャラクターを務める。
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西川 貴教は、日本のミュージシャン、歌手、作詞家、俳優、声優、ラジオパーソナリティ、司会者、実業家。滋賀県彦根市生まれ、野洲市出身、育ち。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携はパーフィットプロダクション。所属レコードレーベルはソニー・ミュージックレーベルズ内のエピックレコードジャパン。血液型はA型。身長161cm。既婚。一部の音楽活動では、ソロプロジェクトのT.M.Revolutionを使用する場合がある。
{{別人|x1=ドラマーの|西川貴博}} {{TVWATCH}} {{RADIOLISTEN}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = 西川 貴教 | 画像 = 環境省エコジン【インタビュー】西川貴教1.jpg | 画像説明 = 環境省エコジンインタビュー(2022年) | 画像サイズ = 250px<!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = yes<!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = singer | 別名 = {{hlist-comma|灰猫|HAINE}}<!-- 活動時に使用した別名義を記載。通称や略称ではありません。 --> | 学歴 = | 出生 = {{生年月日と年齢|1970|9|19}}<ref name="profile" /> | 出身地 = {{JPN}}・[[滋賀県]][[野洲郡]][[野洲町]](現・[[野洲市]])<ref name="shiga">{{Cite web|和書| title = 滋賀ふるさと観光大使| publisher = [[滋賀県]]| date = 2014-12-17| url = http://www.pref.shiga.lg.jp/koho/taishi/nishikawa/| accessdate = 2015-06-28| archiveurl = https://web.archive.org/web/20130924064855/http://www.pref.shiga.lg.jp/koho/taishi/nishikawa/| archivedate = 2013-09-24| deadlinkdate = 2023年7月}}</ref> | 死没 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1970|9|19|YYYY|MM|DD}} --> | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]|[[ポップ・ロック]]}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[音楽家|ミュージシャン]]|[[歌手]]|[[作詞家]]|[[俳優]]|[[声優]]|[[ラジオパーソナリティ]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]}} | 活動期間 = [[1989年]] - | レーベル = [[エピックレコードジャパン]] | 事務所 = {{Plainlist| * ディーゼルコーポレーション(自営) * [[パーフィットプロダクション]](業務提携) }} | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[T.M.Revolution]] * [[浅倉大介]] * [[abingdon boys school]] * [[Luis-Mary]] }} | 公式サイト = [https://www.takanorinishikawa.com/ Takanori Nishikawa Official Website] | 著名使用楽器 = }} '''西川 貴教'''(にしかわ たかのり、[[英語|英]]:'''Takanori Nishikawa'''。[[略語|略]]:'''TNNK'''<ref>{{Cite web|和書|title=違いますよ!チ〇コの略じゃありません!Taka Nori Nishi Kawa で「TNNK」なんです! |url=https://twitter.com/tmr15/status/959960002646585344 |website=Twitter |access-date=2022-08-08 |language=ja}}</ref>。本名同じ<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.tvlife.jp/entame/221394| title = 西川貴教が大泉洋に本名で活動する覚悟を語る!『SONGS』4・27放送| date = 2019-04-15| website = [[TV LIFE|TVLIFE Web]]| publisher = [[学研プラス]]| accessdate = 2019-06-06}}</ref>、[[1970年]]〈[[昭和]]45年〉[[9月19日]]<ref name="profile">{{Cite web| title = T.M.Revolution|PROFILE| work = T.M.Revolutionオフィシャルサイト| publisher = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] | url = https://www.tm-revolution.com/bio/| accessdate = 2015-06-28}}</ref> - )は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[歌手]]、[[作詞家]]、[[俳優]]、[[声優]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[司会|司会者]]、[[実業家]]。[[滋賀県]][[彦根市]]生まれ、[[野洲市]]出身、育ち<ref name="shiga" />。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携は[[パーフィットプロダクション]]。所属[[レコードレーベル]]は[[ソニー・ミュージックレーベルズ]]内の[[エピックレコードジャパン]]。血液型はA型<ref name="profile" />。身長161cm。既婚。一部の音楽活動では、[[一人バンド|ソロプロジェクト]]の[[T.M.Revolution]]を使用する場合がある。 == 略歴 == {{年譜のみの経歴|date=2015年10月31日 (土) 22:29 (UTC)}} * [[1989年]]:バンド[[Luis-Mary]]結成。パートは[[ボーカル]]であり、当時は「灰猫=haine」と名乗る。 * [[1991年]]:1月にLuis-Maryの[[インディーズ]]デビュー、7月には[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャーデビュー]]を果たす。その後、解散までに3枚のシングルと3枚のアルバムをリリース。 * [[1993年]]:灰猫の脱退を期にLuis-Mary解散。以後、2年弱の間は表舞台から遠ざかる。 * [[1995年]]:[[Access (音楽ユニット)|access]]が活動休止し、[[浅倉大介]]の[[ソロ (音楽)|ソロ]][[シングル]]「BLACK OR WHITE?」にヴォーカルとして参加。デビューに先駆けてライブ活動を行う。12月には、公式ファンクラブ「turbo」が設立される。 * [[1996年]]:5月にソロ[[プロジェクト]]である[[T.M.Revolution]]としての活動を開始。 * [[1997年]]:『[[西川貴教のオールナイトニッポン]]』の[[ラジオパーソナリティ]]を担当(1月6日 - )。以後2005年まで、8年9か月に渡って放送を続けた。12月、T.M.Revolutionとして[[第48回NHK紅白歌合戦]]に初出場(以後、1998年、2005年、2013年、2014年に出場)。 * [[1999年]]:3月、ラジオでT.M.Revolutionの封印を発表し、それ以後は浅倉とのユニットthe end of genesis T.M.R.evolution turbo type D(T.M.R-e)として活動。[[4月2日]]、[[吉村由美]]と結婚。 * [[2000年]]:T.M.R-eの使命を終え、T.M.Revolutionとして活動再開。 * [[2001年]]:自らデザイン・企画を務める[[ファッション]]ブランドDEFROCKを立ち上げる。 * [[2002年]]:2月、T.M.Revolutionのセルフプロデュースを開始。7月1日、吉村と離婚、[[スポーツ報知]]の一面が独占ニュースで掲載した。2人の間に子供はいない。 * [[2004年]]:主に、DEFROCKの商品を取り扱うブランドショップ、BABEL FISHを[[代官山]]にオープンさせる。 * [[2005年]]:[[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]][[abingdon boys school]]を結成し、本名の名義でボーカルとして参加。[[ネイルクィーン]]のメンズ部門受賞。 * [[2006年]]:1月2日に、1夜限りで西川貴教のオールナイトニッポンが復活。7月末に、DEFROCK・BABEL FISH事業を凍結。12月6日にはabingdon boys schoolとしてメジャーデビュー、同バンドの公式ファンクラブA.B.S.F.C.が設立される。 * [[2007年]]:主演を務めるミュージカル「[[ハウ・トゥー・サクシード]]」が、4月21日より東名阪にて公演された。同年11月に、異例の年内再演が決定した。9月には3年振りとなる、ファンクラブ会員限定恒例イベント「turbo surf'07」をハワイにて開催した。 * [[2008年]]:1月、滋賀プラスワン(滋賀県広報誌)1月号(vol.103)において、「滋賀に元気の風を吹かせよう」というタイトルで[[嘉田由紀子]]との対談が掲載され、郷土である滋賀県について語っている<ref name="sigaplus1">{{cite news |title= 2008新春対談 滋賀に元気の風を吹かせよう |publisher = 滋賀プラスワン |date= 2008 |url= http://www.pref.shiga.jp/koho/2008_01/interview/index.html |accessdate=2014-09-18 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20090413041708/http://www.pref.shiga.jp/koho/2008_01/interview/index.html|archivedate= 2009-04-13}}</ref>。5月、映画『コラソン de メロン』に出演([[井上和香]]とのダブル初主演)。10月24日、滋賀県初となる「滋賀ふるさと観光大使」に任命された。 * [[2009年]]:9月19日・20日の2日間、故郷の滋賀県で県内初となる大型野外音楽フェスティバル「[[イナズマロックフェス#2009年|イナズマロックフェス 2009]]」(滋賀県[[草津市]])を開催。自身も19日にはabingdon boys schoolとして、20日にはT.M.Revolutionとして出演した。[[11月3日]]よりabingdon boys schoolとして[[ヨーロッパ]]ツアーを開始。過酷なスケジュールの中で、[[ロシア]]、[[フィンランド]]、[[スウェーデン]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]を回った。なかでもドイツ入りは、1週間のうちに4回という過密日程となった。[[12月16日]]、インディーズレーベル「Defrock Records」を設立。 * [[2011年]]:ミュージカル「[[ロック・オブ・エイジズ (ミュージカル)|ROCK OF AGES]]」が10月28日より東京で、11月11日より大阪で公演される<ref name="theaterguide_2011-10-31">{{Cite web|和書| date=2011-10-31 | url=http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2011/10/31_04.php | title=西川貴教主演のミュージカル『ROCK OF AGES』が開幕 | work=シアターガイド | publisher=モーニングデスク | accessdate=2013-09-23|archiveurl= https://web.archive.org/web/20130928002621/http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2011/10/31_04.php|archivedate= 2013-09-28}}</ref>。往年のスーパースターの名曲を数多く取り入れたこの作品の主演を務める。なお、同作品はトニー賞に5部門ノミネートされた、海外作品の日本公演版となる。 * [[2013年]]:[[9月14日]]、日本初のラスベガス観光大使に就任する<ref>{{Cite web|和書| title = 【イベントレポート】T.M.Revolution、西川貴教が日本初のラスベガス観光大使に就任「世界の懸け橋になれば」| publisher = [[BARKS]]| date = 2013-09-15| url = https://www.barks.jp/news/?id=1000094435| accessdate = 2015-06-28}}</ref>。 * [[2016年]]:[[4月1日]]、自身のデビュー20周年記念事業として『[[株式會社突風]]』を設立。自ら代表取締役社長に就任<ref>{{Cite web|和書| title = TMR西川貴教「株式会社突風」設立&社長就任| work = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| date = 2016-04-01| url = https://www.oricon.co.jp/news/2069416/full/| accessdate = 2017-05-20}}</ref>。7月、西川貴教総合プロデュースのアニメ『[[B-PROJECT|B-PROJECT〜鼓動*アンビシャス〜]]』が放送開始。 * [[2017年]]:9月、47歳の誕生日を迎えた19日に、新たに西川貴教名義でデビュー。シングル「BIRI x BIRI」は西川と親交の深い[[AAA (音楽グループ)|AAA]]の[[Shuta Sueyoshi]]をゲストヴォーカルに加えてリリース。 * [[2019年]]:12月、[[ももいろ歌合戦]]([[BS日テレ]]・[[ニッポン放送]]・[[AbemaTV]]など)へ初出場。 * [[2020年]]:[[8月29日]]、一般人女性と再婚<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2020/08/29/0013646095.shtml?pu=20200829 |title= 西川貴教 一般女性と結婚発表「かねてよりお付き合いをしておりました」 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2020-08-29 |accessdate= 2020-08-29 }}</ref>。10月25日、株式会社[[MAGES.]]の特別顧問に就任<ref>[https://dengekionline.com/articles/54756/ MAGES.が新たにドール事業を展開。“事業戦略発表会”で西川貴教さんの特別顧問就任が判明]、電撃オンライン、2020年10月25日</ref>。10月28日、滋賀県文化功労賞を受賞<ref>[https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/e-shinbun/oshirase/307678.html 令和2年度滋賀県文化賞等の表彰について]、滋賀県、2020年10月28日</ref>。 == 人物 == {{雑多な内容の箇条書き|section="1"|date=2012年9月}} * [[日本プロ野球|プロ野球]]では[[阪神タイガース]]のファン<ref>[https://hanshintigers.jp/news/topics/info_4231a.html 新たなファンサービス演出でファンも球場も“超変革” 著名人が次々に登場する「みんなで六甲おろし」も!!] 阪神タイガース 2016年03月16日</ref>。 * 基本的には標準語だが、関西出身の友人([[L'Arc〜en〜Ciel]]の[[tetsuya]]など)との会話、また関西の番組に出演する時は関西弁を使用することがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/15794 |title=tetsu&西川貴教がMBSラジオでコテコテ関西弁トーク |publisher=音楽ナタリー |date=2009-04-23 |accessdate=2014-12-07}}</ref>。 * 色白で女性のようなツルツルの肌がコンプレックスと明かしているが<ref>{{Cite web|和書| title = TMR西川貴教、圧巻の筋肉美で醸す色気 過去の恋愛を赤裸々告白| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2015-08-10| url = http://mdpr.jp/review/detail/1511021| accessdate = 2015-12-16}}</ref>、その特性や体型を生かし、女性ファッション誌『[[CanCam]]』で「西川貴子」として女装姿でモデルデビューしたことがある<ref>{{Cite web|和書| title = TMR西川貴教、『CanCam』モデルデビュー! OL「西川貴子」に話題騒然 | publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2013-02-25| url = https://www.oricon.co.jp/news/2022050/full/| accessdate = 2015-12-16}}</ref>。その一方で3つのトレーニングジムに通い、食事は1日1食、体脂肪も9%を保つなど15年以上トレーニングを続け、ライブのための体づくりを徹底している<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教、45歳で完璧ボディを維持! 1日1食、3つのジム通いで体脂肪は9%| publisher = クランクイン!!| date = 2015-09-30| url = https://www.crank-in.net/news/39131| accessdate = 2015-12-16}}</ref>。また、自身のInstagramでその鍛え上げた身体を披露したり<ref>{{Cite web|和書| author = 湯田史代| title = 西川貴教、ムキムキの筋肉公開!「芸術品」「思わずキュン」とファン悶絶| publisher = シネマトゥデイ| date = 2015-12-01| url = https://www.cinematoday.jp/news/N0078466| accessdate = 2015-12-16}}</ref>、自著『おしゃべりな筋肉 心のワークアウト7メソッド』も刊行している<ref name="oricon20170511">{{Cite web|和書| title = 西川貴教、自著で筋肉美を披露 心身の鍛錬説く| work = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| date = 2017-05-11| url = https://www.oricon.co.jp/news/2090549/full/| accessdate = 2017-05-20}}</ref>。『[[ベストボディ・ジャパン協会|ベストボディ・ジャパン]]』日本大会のモデルジャパン部門ゴールドクラスでは2020年、2021年と2年連続で優勝している<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2213703/full/|title=西川貴教、美ボディ大会『BEST BODY JAPAN』で2年連続優勝 日本代表らしい筋肉美を惜しげもなく披露|newspaper=ORICON NEWS|publisher=オリコン株式会社|date=2021-11-13|accessdate=2022-01-15}}</ref>。 * 理想の父親像として、[[児玉清]]を挙げている<ref name="kodama">{{Cite web|和書| title = 日本民間放送連盟賞/2002年(平成14年)入選・事績 | publisher = 日本民間放送連盟| url = https://j-ba.or.jp/category/awards/jba100929#ge394139| accessdate = 2015-06-28}}</ref>。2002年4月9日の『[[西川貴教のallnightnippon SUPER!]]』には児玉がゲスト出演し、この日の放送は、[[日本民間放送連盟|日本民間放送連盟賞]]を受賞した<ref name="kodama" />。2011年5月17日に児玉が逝去した際には、自身のツイッターで「俳優として、作家として、人として、本当に魅力のある方でした…本当に寂しいです」と追悼コメントを述べた<ref>[https://www.j-cast.com/tv/2011/05/18095886.html T.M.R.西川「児玉清さん、僕の理想の父親像でした」J-CASTテレビウォッチ2011年5月18日]</ref>。 * 2007年9月初旬頃、家族にメスの[[プードル|ティーカップ・プードル]]を迎えた。名前は「ウィさん」で、誕生日は6月29日。西川貴教 オフィシャルファンクラブ「turbo」サイトのtakanoriダイアリーでは「姫」と呼んでおり、写真付きの日記を書くことがある。 * 著書『西川貴教のとなりの芝生』で、声帯にポリープがあるが「付き合っていけば味になる」と割り切り、切除手術はしていないと発言した<ref>『西川貴教のとなりの芝生』{{要ページ番号|date=2015年6月}}ロングインタビューより。</ref>。 * 東京都の[[東京都青少年の健全な育成に関する条例|漫画の規制を目的とした都の条例改正]]とそれに関する[[石原慎太郎]]東京都知事の姿勢を問題視しており、また同知事の[[同性愛]]者[[差別]]発言について「勘違いされたくないのは、今回の条例を否定だけしているのではありません。条例に関して都民に詳しく説明もせず、内容の審議もそこそこにアニメやコミックは低俗、同性愛者や[[性同一性障害]]者には時に差別発言をするような知事が性急に条例を可決させようとしていることに問題があると思っているのです」と批判した<ref>[http://himo2.jp/3067400 アニソン界の帝王 T.M.R西川貴教、漫画規制都条例改正について「問題ある」とコメント] 非モテタイムズ 2010年12月16日</ref>。 * [[東日本大震災|2011年東日本大震災]]の発生直後から、被災者救済のためのチャリティライブ企画などの実現に向けていち早く動き出し、チャリティオークションなどを「STAND UP! JAPAN 2011」プロジェクトとして実現した<ref>[http://standupjapan.org/ 東日本大震災 チャリティープロジェクト STAND UP! JAPAN 2011 ホームページ]</ref>。西川本人も、コンサートで使用したギターなどの出品、ライブ会場への募金コーナー設置など、発起人として活動している。 * 2010年5月、[[Twitter]]の公式アカウントを取得。以降、自ら積極的に活動などをツイートしており、フォロワーは2020年12月現在で158万人を超える<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教(@TMRさん)| publisher = [[Twitter]]| url = https://twitter.com/TMR15| accessdate = 2019-09-21}}</ref>。2015年6月には[[LINE (アプリケーション)|LINE]]の公式アカウントも取得<ref>{{Cite web|和書| title = T.M.Revolution 西川貴教のLINE公式アカウントがスタート| publisher = CDJournal| date = 2015-06-25| url = https://www.cdjournal.com/main/news/tmrevolution/66947| accessdate = 2015-06-28}}</ref>。 === アーティスト・芸能人として === [[File:T.M. Revolution at MTV VMAJ 2014.jpg|thumb|2014年度「[[MTV Video Music Awards Japan|MTV VIDEO MUSIC AWARDS JAPAN]]」の現場にて。]] * 歌唱力には定評があり<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.techinsight.jp/2014/04/nishikawa-uatauama140429160.html|title=【エンタがビタミン♪】西川貴教、新番組『UTAGE!』での歌唱力が話題に。「歌上手すぎ!」|publisher=[[Techinsight]]|date=2014-04-30|accessdate=2014-12-07}}</ref>、2007年1月29日発売の雑誌『[[FOOL'S MATE]]』{{要ページ番号|date=2015年6月}}にて、GACKTに「日本で数少ないピッチのいいアーティスト」「2回まわしのLIVEなのに声の安定感が凄い」と評価されている。 * 自身を「'''いちごちゃん'''」と表現する時があり、15周年の記念サイトなどでもいちごのモチーフを使用していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/19140/|title=自称“いちごちゃん”T.M.Revolution西川貴教がサンリオピューロランドとコラボ!|publisher=[[ザテレビジョン]]|date=2010-12-11|accessdate=2017-05-20}}</ref>。 === アニメ・サブカルチャーとの関係 === * T.M.Revolutionの3rdシングル「HEART OF SWORD〜夜明け前〜」にて初めてアニメ主題歌を担当した。 * 『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』の([[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-の登場人物一覧#真田忍群(さなだにんぐん)|煉]])役にて[[声優]]デビュー。 * 『[[機動戦士ガンダムSEED]]』、『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』でもT.M.Revolutionとして主題歌・挿入歌を歌い、出演もしている。また、ガンダムSEEDシリーズにおいては本編のみならずドラマCDやゲームにも出演し、アニメ雑誌のインタビューにも応じている。 * 『SEED DESTINY』で演じた[[機動戦士ガンダムSEED DESTINYの登場人物#ハイネ・ヴェステンフルス|ハイネ・ヴェステンフルス]]の名前の由来は、ドイツ語で「西(=ヴェステン)、川(=フルス)」の意であり、「ハイネ」は西川がLuis-Mary時代に名乗っていた灰猫(はいね)から取られている。 * 『機動戦士ガンダムSEED』で演じた[[ミゲル・アイマン]]が『ガンダムSEED MSV』で搭乗する専用ジンもオレンジ色に塗装されており、またプラモデル「1/144 HGジン(ミゲル・アイマン専用機)」には、西川監修のファッションブランド「DEFROCK」のシールが封入されている。また、アルバム『SEVENTH HEAVEN』に収録された「Zips」がガンダムSEED MSVのテーマソングに選ばれ、ジンの格納庫で西川が歌うというコラボレーションがなされた。 * ガンダムSEEDシリーズで西川が歌った曲を中心としたミニアルバム『X42S-REVOLUTION』の初回限定版 Type-Aには、特典として「1/144 HGハイネ専用[[デスティニーガンダム]]」のプラモデルが付属している。既に発売されたHGデスティニーガンダムのカラー変更版ではあるが、機体の公式設定が新たに書き下ろされるという徹底したコラボレーションがなされている。また、[[ガンプラ]]30周年を記念した曲「Imaginary Ark」が最終トラックに収められ、「ガンプラサポーターズ」の一人としてお祝いのコメントを寄せている。 * Twitterにて、視聴したアニメの感想、グッズ・映像ソフトの購入報告をコメントしたり、「今から出かけますが、○○の放送時刻までに帰ってこられるだろうか」と放映時間を気にするコメントを残すこともある。 * 『[[Animelo Summer Live]] 2011』にT.M.Revolutionとしてサプライズゲストとして自身初出演を果たした<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/music/news/55734 | title = サプライズ続出!7年目のアニサマで5万人が虹の橋架ける| date = 2011-08-30| website = 音楽ナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2019-10-06}}</ref>。 * ガンダムSEEDシリーズ以外では『[[戦国BASARA]]』シリーズのテーマソング・挿入歌も多く手がけており、T.M.Revolution、abingdon boys school両名義でリリースされている。 * Twitterで「何とかして[[コミックマーケット]]に行き、自分が題材になっている薄い本(同人誌)を購入してみたい」という願望があることを明かしていたが<ref>{{Cite news | title = 西川貴教、念願の「コミケ」初参加し現地リポートも| newspaper = [[日刊スポーツ|nikkansports.com]]| date = 2016-08-12| url = https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1693590.html| accessdate = 2016-10-20}}</ref>、その後2016年8月開催予定のコミックマーケット90にてサークル参加することが同年6月10日の当落発表で判明し、ファンからの質問にTwitterで本人である事を認めた上で「レコード会社にバレたので“本人監修での出店”になる」と公表したが<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/11/kiji/K20160611012761040.html 西川貴教 念願だったコミケ初参戦!本人監修“オリジナル雑貨”で]、スポーツニッポン、2016年6月11日</ref>、2016年8月12日当日に自ら会場入りし、近隣に席を設けていたサークルへの挨拶回りと見本誌や団扇の配布、即席の握手会を開催するなどし、目的を達成した<ref>{{Cite web|和書| title = 【コミケ90】西川貴教、コミケに降臨 うちわ手配りにファン大興奮| publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2016-08-12| url = https://www.oricon.co.jp/news/2076690/full/| accessdate = 2016-10-20}}</ref>。 * 2012年度より、漫画・アニメ・ゲームなどのサブカルチャーを取り上げるNHKの番組「[[MAG・ネット]]」のコーナー「まぐレポ」のレギュラーに就任した。 * テレビアニメ『[[戦国BASARA Judge End]]』において、テレビアニメオリジナルキャラクター[[酒井忠次]]役として出演<ref name="mantan20140625">{{Cite news | title = 西川貴教:念願の“BASARA声優”に 家康の忠臣・酒井忠次役| newspaper = [[毎日新聞|MANTANWEB]]| date = 2014-06-25| url = https://mantan-web.jp/2014/06/25/20140624dog00m200074000c.html| accessdate = 2015-06-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140625040304/https://mantan-web.jp/2014/06/25/20140624dog00m200074000c.html|archivedate=2014-06-25}}</ref>。服の色には彼の好きな色であるオレンジ色が取り込まれ、衣装の細部には「HOT LIMIT」の衣装デザインが盛り込まれている。 *『[[Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀]]』シリーズにおいて、主題歌(OP、ED)を担当していると同時に、浪巫謠役として出演<ref>{{Cite web|和書|title=劇場版「サンダーボルトファンタジー」にT.M.Revolution西川貴教が声優として出演決定、浪巫謠(ロウフヨウ)役を演じる|url=https://ure.pia.co.jp/articles/-/122186|website=Medery. Character's|date=2017-11-06|accessdate=2021-04-30|language=ja|last=haruYasy}}</ref>。西川が浪巫謠役で出演することとなったきっかけは、2016年3月26日の『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀』のスペシャルステージで西川が登壇することになり、霹靂社が西川をイメージした[[布袋劇]]の人形を制作し<ref>{{Cite web|和書|title=<AJ2016>西川貴教、自身イメージのイケメン人形に感激!虚淵玄の人形劇でサプライズ (2016年3月26日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Crankin_4227104/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-04-30|language=ja}}</ref>、それを総監修の[[虚淵玄]]が気に入ったことで、浪巫謠というキャラを作り、西川に演じて欲しいとオファーを出したことによる<ref>{{Cite web|和書|title=『Thunderbolt Fantasy Project』総監修・虚淵玄インタビュー|魅力を増す美しすぎる人形たちの武侠譚|url=https://numan.tokyo/interview/esaLJ/|website=numan|accessdate=2021-04-30|language=ja}}</ref>。 * イケメンアイドルプロジェクト「[[B-PROJECT]]」の総合プロデュースを担当<ref name="natalie151023">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/163793|title=「B-Project」雪広うたこ描き下ろしCDジャケット公開、西川貴教も作詞で参加|publisher=コミックナタリー|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-23}}</ref>。 * 2019年5月31日から6月23日まで東京ドームシティ Gallery AaMoで開催される『[[河森正治]]EXPO』応援アンバサダーに就任<ref>{{Cite web|和書| url = https://entertainmentstation.jp/news/442623| title = 西川貴教、『河森正治EXPO』応援アンバサダーに就任「ぜひ会場でご体感ください!」| date = 2019-05-24| website = エンタメステーション| publisher = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)]]| accessdate = 2019-06-06}}</ref>。 * ロックバンド[[LUNA SEA]]の[[J (ミュージシャン)|J]]と『J×Takanori Nishikawa』名義でタッグを組み、[[特撮]][[テレビドラマ|ドラマ]]『[[仮面ライダーゼロワン]]』の主題歌「REAL×EYEZ」を担当<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/music/news/344013| title = J×西川貴教がタッグ結成!「仮面ライダーゼロワン」主題歌アーティストに| date = 2019-08-18| website = 音楽ナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2019-10-06}}</ref>。 * 2020年9月から、スマートフォン用のゲームアプリ「[[アズールレーン]]」のCMに出演。登場キャラクターのエンタープライズのコスプレを披露している。 == エピソード == [[ファイル:T.M. Revolution Press Conference at Otakon 080913-04 (9495078149) (cropped).jpg|サムネイル|2013年、[[オタコン]]にて]] === 家庭環境 === 妹が2人いる<ref>『疾走』 p.38</ref>。父は[[地方公務員]](滋賀県職員)<ref name="sigaplus1" />、母親(2017年死去)は市民病院に勤め、母方の祖父は警察官という公務員家系に育つ<ref name="zakzak20100406">{{Cite interview|和書|subject=西川貴教|interviewer=菊地麻見|url=https://www.zakzak.co.jp/people/news/20100406/peo1004061359000-n2.htm|title=【西川貴教】いつも同じところだけ磨いていたらダメ|date=2010-04-06|work=[[夕刊フジ|zakzak]]|accessdate=2015-06-28}}</ref>。父は滋賀県、母方は[[福井県]][[三方上中郡]][[若狭町]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1256228?page=2 |page=2 |title=西川貴教さん、古里フェス続ける思い 滋賀でイナズマ12年「福井にも可能性」 |work=福井新聞 |publisher=福井新聞社 |date=2021-02-07 |accessdate=2022-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210206221000/https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1256228?page=2 |archivedate=2021-02-06}}</ref>。 三上小学校時代は[[剣道]]をしており<ref>『疾走』 p.120</ref>、野洲中学校時代は[[ハンドボール]]部に所属<ref name="cdjournal20150919">{{Cite web|和書| title = 今日は何の日!? T.M.Revolutionの西川貴教が誕生| publisher = CDJournal| date = 2015-09-19| url = https://www.cdjournal.com/main/calendar/20150919| accessdate = 2015-12-16}}</ref>。 家庭環境は音楽と縁遠い環境だったが、小学校高学年にラジオで初めて洋楽に触れる。中学時代の文化祭で洋楽のコピーバンドのヴォーカルとして初めてステージに立ち、その後「歌」を自分の拠りどころにし、バンドやそのライブ活動に明け暮れる。当時のバンド名は「エルフ」。野洲高校時代はバンド活動にはまり遅刻や早退を繰り返していたことや、ミュージシャンとして髪を伸ばしていたことが校則違反になるなどで教師と口論したことなどから高校を退学。その後、[[大阪スクールオブミュージック専門学校]]高等課程に籍を置き<ref name="cdjournal20150919" />、そこで知り合ったメンバーとLuis-Maryを結成。人気を得るに従って授業に出席できなくなり、卒業はしていない。3日間の補習で卒業できたものの、それさえも渋ったとのこと<ref>自伝『この声の向こうに 初めて語られる西川貴教の半生-魂の記憶 T.M.Revolution interview book』「HISTORY OF TAKANORI NISHIKAWA」の章より。</ref>。 === 詐欺事件被害 === [[2009年]][[10月1日]]、西川に「借金の返済を迫られているので、金を貸してほしい」と持ち掛け、5000万円をだまし取ったとされる詐欺事件が報道された<ref name="47NEWS20091001">{{Cite web|和書| title = 歌手西川貴教さんが5千万円被害 詐欺容疑で知人の男逮捕| publisher = [[47NEWS]]| date = 2009-10-01| url = https://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100101000417.html| accessdate = 2016-08-10|archiveurl= https://web.archive.org/web/20140715163856/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100101000417.html|archivedate= 2014-07-15}}</ref>。[[2003年]]に起こった事件で、返済期限が同年7月だったが、西川は[[2004年]][[11月]]まで待ったものの返済がなかったため、被害届を出した<ref name="47NEWS20091001" />。 また、ミュージカル『ザ・ミュージックマン』で詐欺師役として出演し、製作発表の記者会見で「反対側であれば何となく気持ちは分かるんですけど」と苦笑し、「自分の役の糧になると思うので、舞台で確認していただければ」と自虐的に語った<ref name="oricon20091203">{{Cite web|和書| title = 西川貴教が5000万円詐欺被害に初言及「被害経験が自分の糧になるように」| publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2009-12-03| url = https://www.oricon.co.jp/news/71260/full/| accessdate = 2014-09-18}}</ref>。 === 交友関係 === [[Luis-Mary]]時代に所属していた事務所が[[BUCK-TICK]]の事務所であったため、BUCK-TICKメンバーとは先輩後輩の仲である。 [[北川悦吏子]]とは、1999年発売の西川の写真集『この声の向こうに』での対談をきっかけに、2000年に[[TBSテレビ|TBS]]系で放映されたドラマ『[[ビューティフルライフ]]』に出演。また、2004年にフジテレビで放送されたノンフィクション番組『T.M.Revolution 西川貴教の真実』のナレーターを北川が担当したり、デビュー10周年を記念して2006年に西川本人の編集により特別刊行された『[[月刊カドカワ]]』に登場したこともある。 後輩ミュージシャンの[[175R]]の[[SHOGO (歌手)|SHOGO]]、[[Jackson vibe]]の[[グローバー (ミュージシャン)|グローバー義和]]、[[RAG FAIR]]の[[土屋礼央]]とは当時担当していたラジオ番組「[[オールナイトニッポン]]」でのつながりで、ユニット「[[しぐれに]]」を結成している。なお「しぐれに」では、[[東日本大震災]]の発生に伴い、2011年4月2日に[[ニコニコ動画]]と[[GYAO!]]にて9時間に亘って放送された「被災地にエールを送ろう!今こそ立ち上がれニッポン! STAND UP!JAPAN」で、西川をメインパーソナリティーに、他の3人がサブMCで番組を進行するという形で共演を果たしている。 2011年に[[L'Arc〜en〜Ciel]]の[[tetsuya]]のソロ・アルバム『[[COME ON! (TETSUYAのアルバム)|COME ON!]]』の収録曲「Are you ready to ride?」にバッキングボーカルとして参加している。 2002年に離婚をしてからも、2013年に西川が主催するイナズマロックフェスティバルに[[PUFFY]]として参加したり<ref>{{Cite web|和書| title = 「イナズマロック フェス」で過去最高5万人が大熱狂| publisher = 音楽ナタリー| date = 2013-09-24| url = https://natalie.mu/music/news/100027| accessdate = 2015-12-16}}</ref>、プライベートでも2人きりで食事をするなど[[吉村由美]]との交流は続いている<ref>{{Cite web|和書| title = TMR西川貴教、PUFFY吉村由美との結婚生活を回顧 離婚理由を明かす| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2015-08-20| url = https://mdpr.jp/news/detail/1514259| accessdate = 2015-12-16}}</ref>。 2008年、ロックバンド[[HIGH and MIGHTY COLOR]]が「[[HOT LIMIT#HIGH and MIGHTY COLORによるカバー|HOT LIMIT]]」をカバーした際には西川貴教本人がミュージックビデオにゲスト出演した<ref>{{Cite web|和書| title = ハイカラ、T.M.Rの大ヒット曲「HOT LIMIT」をカバー| work = [[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]| publisher = ナターシャ| date = 2008-05-05| url = https://natalie.mu/music/news/6920| accessdate = 2018-02-02}}</ref>。 [[SCANDAL (日本のバンド)|SCANDAL]]とは、レコード会社の先輩後輩の仲。[[PlayStation 3]]用ソフト「[[戦国BASARA4]]」のオープニングを西川が、エンディングをSCANDALが演奏し、2014年2月12日にはスプリットシングル「[[Count ZERO/Runners high]]」が発売された。 [[デンジャラス (お笑いコンビ)|デンジャラス]]と仲がいい。[[Luis-Mary]]時代に使っていたライブハウスで同時期にお笑いライブを行っていた事が縁で仲良くなった。特に[[安田和博]]と仲が良く月に1度は飲みに行く。ライブのMCの内容を相談したりラジオ番組のフィードバックをもらう仲<ref>ARENA PLUS Vol.8 2016年5月号増刊 p.37</ref>。 [[高橋みなみ]]とは『[[新堂本兄弟]]』で共演経験がある他、[[第6回AKB48グループ ソロシングル争奪じゃんけん大会in横浜アリーナ〜こんなところで、運なんか使っちゃうのかと思うかもしれないが、とりあえず、勝たなきゃしょうがないだろ?〜|第6回AKB48じゃんけん大会]]で高橋が「HOT LIMIT」のPVの衣装をモチーフにした衣装で登場し、西川本人もゲストとして登場した<ref>{{Cite web|和書| title = 【AKBじゃんけん大会】コスプレ過熱! たかみながTMR、向井地が篠原涼子になりきる| publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2015-09-17| url = https://www.oricon.co.jp/news/2059284/full/| accessdate = 2016-08-10}}</ref>。その他、西川のライブに高橋がゲストとして登場したり、高橋が西川が設立した「株式會社突風」の特別顧問に就任<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教、株式会社「突風」社長に 笑いをこらえる特別顧問の高橋みなみ| work = エンタメOVO| publisher = [[共同通信社]]| date = 2016-04-06| url = https://tvfan.kyodo.co.jp/news/topics/1044242| accessdate = 2016-08-10}}</ref> したりと親交が深い。そのため「熱愛」などと噂されることもあるが、それについては「それを通り越して家族みたい」と2016年4月9日付けの『[[サンケイスポーツ]]』に寄せた独占手記で述べている<ref>{{Cite news | title = たかみなと“熱愛”西川貴教、独占手記「それを通り越して家族」(2/2ページ)| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2016-04-09| url = https://www.sanspo.com/article/20160409-WGAK6J7R3VOMLPN2URZPY7HAMU/2/| accessdate = 2016-08-10}}</ref>。 == ディスコグラフィ == 各ユニットにおけるリリース作品については以下の記事それぞれを参照のこと。 * かつて在籍していたバンド「[[Luis-Mary]]」 * ソロプロジェクト「[[T.M.Revolution]]」 * 参加しているロックバンド「[[abingdon boys school]]」 === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! ! 発売日 ! タイトル ! style="width:26em;" |収録曲<!-- 通常盤に準ずる。 --> ! 順位 ! 備考 |- ! 1st | 2018年3月7日 | '''Bright Burning Shout''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全4曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Bright Burning Shout<br />(作詞:[[田淵智也]] / 作曲・編曲:[[神前暁]]) # awakening<br />(作詞:毛蟹 / 作曲:神前暁 / 編曲:[[帆足圭吾]]) # Bright Burning Shout (Instrumental) # awakening (Instrumental) </div></div> | 8位 | テレビアニメ『[[Fate/EXTRA Last Encore]]』オープニングテーマ |- ! 2nd | {{Nobr|2018年11月14日}} | '''His/Story / Roll The Dice''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全4曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # His/Story<br />(作詞:[[藤林聖子]]、[[mpi]] / 作曲・編曲:[[澤野弘之]]) # Roll The Dice<br />(作詞:藤林聖子 / 作曲・編曲:澤野弘之) # His/Story (Instrumental) # Roll The Dice (Instrumental) </div></div> | {{Nobr|14位}} | テレビ人形劇『[[Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀|Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀2]]』OP/EDテーマ |- ! 3rd | 2019年10月23日 | '''Crescent Cutlass''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全4曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Crescent Cutlass<br />(作詞:藤林聖子 / 作曲・編曲:澤野弘之) # Claymore<br />(作詞:Yosh / 作曲・編曲:澤野弘之) # Crescent Cutlass (Instrumental) # Claymore (Instrumental) </div></div> | 11位 | 劇場版『[[Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀|Thunderbolt Fantasy 西幽玹歌]]』主題歌 |- ! 4th | 2021年4月21日 | {{Nobr|'''Eden through the rough'''}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/takanorinishikawa/info/527568?_ga=2.132689034.504865668.1615529573-1292179341.1615529573 |title=西川貴教「Eden through the rough」4/21リリース決定&新アーティストヴィジュアル解禁! |work=ソニーミュージックオフィシャルサイト |publisher=[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] |date=2021-03-12 |accessdate=2021-03-12}}</ref> |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全4曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Eden through the rough<br />(作詞:Spirit Garden / 作曲・編曲:[[藤永龍太郎]]) # Judgement<br />(作詞:[[エンドケイプ]] / 作曲・編曲:澤野弘之) # Eden through the rough (Instrumental) # Judgement (Instrumental) </div></div> | 15位 | テレビアニメ『[[EDENS ZERO]]』オープニングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/takanorinishikawa/info/527567?_ga=2.132689034.504865668.1615529573-1292179341.1615529573 |title=西川貴教の新曲「Eden through the rough」が「EDENS ZERO」主題歌に決定! |work=ソニーミュージックオフィシャルサイト |publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント |date=2021-03-12 |accessdate=2021-03-12}}</ref><br />テレビ人形劇『Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀3』オープニングテーマ |- ! 5th | 2022年7月27日 | '''一番光れ! -ブッチギレ-'''<ref>{{Cite web|和書|title=西川貴教、新曲「一番光れ!-ブッチギレ-」がアニメ『ブッチギレ!』OPテーマに |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000220728 |website=BARKS |access-date=2022-09-11 |language=ja}}</ref> |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全3曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 一番光れ! -ブッチギレ-<br />(作詞・作曲:[[草野華余子]] / 編曲:[[ゆよゆっぺ]]) # 一番光れ! -ブッチギレ- (「ブッチギレ!」OP ver.) # 一番光れ! -ブッチギレ- (Instrumental) </div></div> | 35位 | テレビアニメ『[[ブッチギレ!|ブッチギレ!]]』オープニングテーマ |- ! 6th | 2023年4月26日 | '''Never say Never'''<ref name="lisani222829">{{Cite web|和書|url=https://www.lisani.jp/0000222829/|title=西川貴教の新曲「Never say Never」がアニメ『EDENS ZERO』のOPテーマに決定!|website=リスアニ!|date=2023-02-15|accessdate=2023-05-13}}</ref> |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全4曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Never say Never<br />(作詞:Spirit Garden / 作曲・編曲:藤永龍太郎) # BREACH<br />(作詞:藤林聖子 / 作曲:草野華余子 / 編曲:堀江晶太) # Never say Never (Instrumental) # BREACH (Instrumental) </div></div> | 23位 | テレビアニメ『EDENS ZERO』第2期オープニングテーマ<ref name="lisani222829" /> |} ==== 配信限定シングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" !発売日 !タイトル !作詞 / 作曲 / 編曲 !備考 |- |2019年1月18日 |'''UNBROKEN (feat. [[布袋寅泰]])''' |[[岩里祐穂]] / 布袋寅泰 / [[岸利至]] |映画『[[刀剣乱舞#第1作「継承」|映画刀剣乱舞]]』主題歌 |- |{{Nobr|2020年12月30日}} |'''As a route of ray''' |[[RUCCA]] / [[菊田大介]] / 菊田大介 |ゲーム『[[アズールレーン]]』日本版3周年記念CMソング<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lisani.jp/0000154476/|title=西川貴教、新曲「As a route of ray」が人気艦船シューティングアプリゲーム「アズールレーン」のCMソングに決定!CMでは西川が海を駆ける”美少女”に変身!|work=リスアニ!WEB|publisher=[[エムオン・エンタテインメント]]|date=2020-09-14|accessdate=2021-06-08}}</ref> |} ==== コラボレーションシングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" ! 発売日 ! タイトル ! 歌 ! style="width:20em;" |収録曲<!-- 通常盤に準ずる。 --> ! 備考 |- | {{Nobr|1995年5月25日}} | '''[[BLACK OR WHITE?]]''' | [[浅倉大介]] expd. '''西川貴教''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全3曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # BLACK OR WHITE?<br />(作詞:[[井上秋緒]] / 作曲・編曲:浅倉大介) # ATLANTIC WEAVE<br />(作曲・編曲:浅倉大介) # BLACK OR WHITE? (Instrumental Mix) </div></div> | [[NHK-FM放送|NHK-FM]]『[[ミュージックスクエア (NHK-FM)|ミュージックスクエア]]』オープニングテーマ |- | 2017年9月19日 | '''BIRI×BIRI''' | '''Takanori Nishikawa''' feat. [[末吉秀太|Shuta Sueyoshi]]([[AAA (音楽グループ)|AAA]]) | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全1曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # BIRI×BIRI<br />(作詞:SHIROSE from [[WHITE JAM]], Takanori Nishikawa / 作曲:Erik Lidbom, SHIROSE from WHITE JAM) </div></div> | デジタルシングル<br />映画『[[スクランブル (2017年の映画)|スクランブル]]』イメージソング |- | 2018年10月5日 | '''[[Be Affected]]''' | '''西川貴教'''×[[Fear, and Loathing in Las Vegas]] | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全2曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Be Affected<br />(作詞・作曲・編曲:Fear, and Loathing in Las Vegas) # Be Affected (Instrumental) </div></div> | デジタルシングル<br />テレビアニメ『[[戦国BASARA#学園BASARA|学園BASARA]]』エンディングテーマ |- | 2020年1月22日 | '''[[REAL×EYEZ]]''' | [[J (ミュージシャン)|J]]×'''Takanori Nishikawa''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全2曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # REAL×EYEZ<br />(作詞:藤林聖子、Takanori Nishikawa / 作曲:J / 編曲:J×Takanori Nishikawa and [[ゆよゆっぺ|DJ'TEKINA//SOMETHING]]) # Another Daybreak<br />(作詞:Takanori Nishikawa、ゆよゆっぺ / 作曲:J / 編曲:J×Takanori Nishikawa and DJ'TEKINA//SOMETHING) </div></div> | 特撮テレビドラマ『[[仮面ライダーゼロワン]]』主題歌<br />映画『[[仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション]]』主題歌 |- | 2020年5月27日 | '''天秤 -Libra-''' | '''西川貴教'''+[[ASCA (歌手)|ASCA]] | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全3曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 天秤 -Libra-<br />(作詞:RUCCA / 作曲・編曲:菊田大介) # 天秤 -Libra- (Add’l ZERO CHRONICLE) # 天秤 -Libra- (Instrumental) </div></div> | テレビアニメ『[[白猫プロジェクト ZERO CHRONICLE]]』オープニングテーマ |- | 2020年9月30日 | '''[[1・2・3#西川くんとキリショー|1・2・3]]''' | '''西川くん'''と[[鬼龍院翔|キリショー]] | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全1曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 1・2・3<br />(作詞・作曲:[[まふまふ]] / 編曲:まふまふ、[[田中秀和 (作曲家)|田中秀和]]) </div></div> | デジタルシングル<br />テレビアニメ『[[ポケットモンスター (2019年のアニメ)|ポケットモンスター]]』オープニングテーマ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000186537|title=西川貴教と鬼龍院翔が“西川くんとキリショー”結成、ポケモンOP曲担当|website=BARKS|date=2020-07-30|accessdate=2020-08-07}}</ref> |- | 2021年1月15日 | {{Nobr|'''A.I. ∴ All Imagination'''}} | J×'''Takanori Nishikawa''' | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全1曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # A.I. ∴ All Imagination<br />(作詞:エンドケイプ / 作曲:J / 編曲:J×Takanori Nishikawa and DJ'TEKINA//SOMETHING) </div></div> | デジタルシングル<br />映画『[[劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME]]』主題歌<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/takanorinishikawa/info/525840 |title=「劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL×TIME」主題歌 J×Takanori Nishikawa「A.I. ∴ All Imagination」フルサイズ配信開始! |access-date=2023-02-03 |date=2021-01-15 |website=西川貴教|ソニーミュージックオフィシャルサイト}}</ref> |- | 2022年3月11日 | '''[[鉄血†Gravity]]''' | '''西川貴教''' featuring [[ももいろクローバーZ]] | <div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"><div class="NavHead" style="text-align:center;">全1曲</div><div class="NavContent" style="text-align:left;"> # 鉄血†Gravity<br />(作詞:エンドケイプ / 作曲・編曲:ゆよゆっぺ) </div></div> | デジタルシングル<br />映画『[[KAPPEI#実写映画|KAPPEI カッペイ]]』主題歌 |} ===アルバム=== {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" !発売日 !タイトル ![[オリコン]]最高順位 !規格品版 |- |2019年3月6日 |'''[[SINGularity]]'''<ref name="BARKS20190115">{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000163396|title=西川貴教、3月に1stアルバム発売+4月から全国ツアー開催|accessdate=2019-01-15|website=BARKS|language=ja}}</ref> |2位 |初回生産限定盤 [CD+DVD] ESCL-5200/1<br />通常盤 [CD] ESCL-5202 |- |{{Nobr|2022年8月10日}} |'''SINGularity II -過形成のprotoCOL-'''<ref>{{Cite web|和書|title=西川貴教「SINGularity II -過形成のprotoCOL-」インタビューで語る新たな次元、新たな世界線の、新たな西川貴教 - 音楽ナタリー 特集・インタビュー |url=https://natalie.mu/music/pp/nishikawatakanori03 |website=音楽ナタリー |access-date=2022-09-11 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref> |11位 |初回生産限定盤 [CD+DVD] ESCL-5696/7<br />通常盤 [CD] ESCL-5698 |} === 参加作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 ! 商品名 ! 歌 ! 楽曲 ! 備考 |- | 2001年4月11日 | [[THE MODS]] TRIBUTE-SO WHAT!!- | '''西川貴教''' | 「Just Say Fuck No」 | THE MODS トリビュートアルバム |- | {{Nobr|2011年1月5日}} | [[COME ON! (TETSUYAのアルバム)|COME ON!]] | [[tetsuya|TETSUYA]], '''西川貴教''' | 「Are you ready to ride?」 | tetsuya([[L'Arc〜en〜Ciel]])のソロアルバムにコーラスとして参加 |- | {{Nobr|2015年10月21日}} | [[ギャラクシー街道]] オリジナルサウンドトラック | ズズ('''西川貴教''') | 「The End of the Universe / 宇宙の果てまで」 | 映画『ギャラクシー街道』挿入歌<ref>{{Cite web|和書|title=三谷幸喜監督作「ギャラクシー街道」サントラ発売、西川貴教が歌う劇中歌も収録 |publisher=映画ナタリー |date=2015-12-31 |url=https://natalie.mu/eiga/news/160860 |accessdate=2016-08-10}}</ref> |- | 2018年6月6日 | IMPULSE -[[hide]] TRIBUTE- | '''西川貴教''' | 「[[ever free (hide with Spread Beaverの曲)|ever free]]」 | hide トリビュートアルバム |- | 2018年9月5日 | 天才てれびくんYOU | マーヴェラス西川('''西川貴教''')with[[てれび戦士]] | 「DAIJOUBU!」 | 教育番組『[[天才てれびくん|天才てれびくんYOU]]』エンディングテーマ |- | 2018年11月28日 | [[narrative/NOISEofRAIN]] | [[澤野弘之|SawanoHiroyuki[nZk]]]:'''Takanori Nishikawa''' | 「NOISEofRAIN」 | SawanoHiroyuki[nZk] 7thシングル |- | 2020年5月13日 | [[GRANRODEO Tribute Album "RODEO FREAK"]] | '''西川貴教''' | 「[[偏愛の輪舞曲]]」 | [[GRANRODEO]] トリビュートアルバム |- | 2021年3月24日 | [[筒美京平]] SONG BOOK | '''西川貴教''' | 「[[君だけに]]」 | 筒美京平 トリビュートアルバム |} === DVD === * T.M.Revolution 西川貴教・立つ!! [[屋久島]]・[[縄文杉]](2004年4月10日) ** T.M.R. LIVE REVOLUTION '04 SEVENTH HEAVENのツアーグッズと同時に販売。 * T.M.Revolution 西川貴教・立つ!! [[ボルネオ]] ‐世界のヘソを目指して‐(2005年12月10日) ** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX IX のツアーグッズと同時に販売。 * T.M.Revolution 西川貴教・立つ!! Vol.3 -激走!! 縦断Thailand-(2006年12月3日) ** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX X のツアーグッズと同時に販売。 いずれも[[廃盤]]。 == 楽曲提供 == {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! アーティスト !! タイトル !! 備考 !! 発売日 !! 収録先<!-- 初出のみを記載 --> |- | [[B-Project]]・キタコレ | 恋セヨ乙女 | 作詞<ref name="natalie151023"/> | rowspan="2"|[[2015年]][[11月25日]] | B-project キャラクターCD Vol.1「恋セヨ乙女」キタコレ |- | B-Project・THRIVE | LOVE ADDICTION | 作詞<ref name="natalie151023"/> | B-project キャラクターCD Vol.2「dreaming time」THRIVE |} == 出演 == === バラエティー・音楽テレビ番組 === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> ==== レギュラー ==== * お台場RevoRevo(1998年 - 1999年、フジテレビ系列) * [[ポップジャム]](2005年4月 - 2006年3月、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]および[[NHKワールド JAPAN#NHKワールド・プレミアム|WP]]) - MC * [[あっぱれ!!さんま新教授]](2007年10月 - 2009年9月、フジテレビ系列) - 聴講生として月2回程度、準レギュラーとして出演 * [[新堂本兄弟]](2011年5月<ref>{{Cite web|和書| title = 堂本兄弟レギュラーに西川貴教、マッキー、たかみな参入| publisher = [[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー]]| date = 2011-04-20| url = https://natalie.mu/music/news/48194| accessdate = 2013-09-07}}</ref> - 2014年9月<ref>{{Cite news | title = 西川貴教「新堂本兄弟」終了が寂しい| newspaper = [[デイリースポーツ]]online| date = 2014-09-17| url = https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/09/17/0007338939.shtml| accessdate = 2014-09-18}}</ref>、フジテレビ系列) * [[MAG・ネット]](2012年4月 - 2013年3月、NHK総合) - 「まぐレボリューション」コーナーMC * [[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]](2012年4月 - 2021年3月、[[毎日放送|MBS]])不定期、パネラー * [[アニマゲー]](2014年4月 - 2017年3月、MBS、NOTTV)<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教&松井玲奈の“アニマゲー”番組、TOKYO MXで放送へ | publisher = [[オリコン|ORICON STYLE]]| date = 2014-06-13| url = https://www.oricon.co.jp/news/2038597/full/| accessdate = 2014-09-18}}</ref> * [[おかあさんといっしょ]]「[[ガラピコぷ〜]]」(2016年4月4日 - 2022年4月2日、[[NHK教育テレビ|NHK Eテレ]]) - スキッパーの声<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2070903/full/|title=TMR西川貴教が声を担当、キャラクターお披露目 『おかあさんといっしょ』|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-04-28|accessdate=2016-04-28}}</ref> * [[天才てれびくん|天才てれびくんYOU]](2017年4月3日 - 2020年4月2日、NHK Eテレ) - 茶の間戦士トレーニングロボ「マーヴェラス西川」として出演<ref>{{Cite web|和書| title = 新「天才てれびくん」でT.M.R.が熱いパフォーマンス、てれび戦士歌うED曲は水野良樹作| publisher = 音楽ナタリー| date = 2017-03-09| url = https://natalie.mu/music/news/223963| accessdate = 2017-03-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書| title = 天才てれびくんYOU| work = 天才てれびくんYOU| date = 2017| url = http://www.nhk.or.jp/tvkun/about/index.html| accessdate = 2017-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170501090802/http://www.nhk.or.jp/tvkun/about/index.html|archivedate=2017-05-01}}</ref>。 * 西川貴教の僕らの音楽(2017年4月27日 - 、[[フジテレビNEXT]])<ref>{{Cite web|和書| title = 「僕らの音楽」が西川貴教MCでリニューアル復活| publisher = 音楽ナタリー| date = 2017-03-30| url = https://natalie.mu/music/news/226781| accessdate = 2017-04-04}}</ref> * 物置開けてみませんか?(2018年1月4日<ref>[https://www.instagram.com/p/Bcw5ZF-ARB1/ 西川貴教のInstagram 2017年12月16日の投稿]</ref>・12月14日<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.ytv.co.jp/monooki/ | title = 物置開けてみませんか?〜芸能人の実家大捜索SP〜| date = 2018| website = 物置開けてみませんか?| publisher = 読売テレビ| accessdate = 2018-12-15}}</ref>、読売テレビ) - MC * [[オトラクション]](2021年4月13日 - 2022年2月22日、[[TBSテレビ]]系列) - MCとして[[霜降り明星]]とともに出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/geino/news/20210206/geo21020605020005-n1.html|title=TBS 春から月火の夜を大改革 視聴者のニーズに合わせ一気に5枠チェンジ!|work=サンケイスポーツ|publisher=産業経済新聞社|date=2021-02-06|accessdate=2021-02-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210206093911/https://www.sanspo.com/geino/news/20210206/geo21020605020005-n1.html|archivedate=2021-02-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2184671/full/|title=西川貴教&霜降り明星、G帯バラエティーで初MC 『オトラクション』がレギュラー化|newspaper=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン]]|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-17}}</ref> ** [[パイロット版]](2020年8月29日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/392128|title=西川貴教と霜降り明星が“音ゲー”バラエティで初タッグ|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|date=2020-08-15|accessdate=2021-02-17}}</ref>・2021年2月23日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/417190|title=SixTONESとキスマイが音ゲーで先輩後輩バトル、TBS「オトラクション」|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|date=2021-02-21|accessdate=2021-02-24}}</ref>) * [[Who is Princess?]](2021年10月5日 - 2022年1月25日、日本テレビ系列) - ホスト(MC) * [[西川貴教のバーチャル知事]](2022年3月28日 - 、[[BSJapanext]]) - MC<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/417190|title=西川貴教・高橋みなみ・国分太一・蛍原徹ら…新BS局で“やりたいこと”番組 |newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=株式会社マイナビ|date=2022-02-28|accessdate=2022-03-29}}</ref> ==== 単発 ==== * [[NHK紅白歌合戦]]([[第48回NHK紅白歌合戦|1997年]]、[[第49回NHK紅白歌合戦|1998年]]、[[第56回NHK紅白歌合戦|2005年]]、[[第64回NHK紅白歌合戦|2013年]]、[[第65回NHK紅白歌合戦|2014年]]、[[第66回NHK紅白歌合戦|2015年]]、[[第67回NHK紅白歌合戦|2016年]]) ** [[第66回NHK紅白歌合戦|2015年]]、[[第67回NHK紅白歌合戦|2016年]]は「紅白ウラトークチャンネル」での出演<ref>{{Cite news | title = 「ラブライバー」西川貴教 乗れないバナナマンに“説教” | newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2015-12-31| url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/12/31/kiji/K20151231011785690.html| accessdate = 2016-08-10}}</ref>。[[2016年]]は、「紅白楽屋トーク」も一部担当。 * [[福山雅治]]と西川貴教の[[オールナイトニッポンTV]](2001年9月30日、フジテレビ系列) * [[全○○大投票|全○○大投票シリーズ]]([[NHKBSプレミアム]]) - 「全ガンダム大投票」のみゲスト、「全マクロス大投票」以降はMC。 **[[発表!全ガンダム大投票]](2018年5月5日) ** [[発表!全マクロス大投票]](2019年5月4日) ** [[発表!全プリキュア大投票]](2019年9月14日) ** [[発表!全るーみっくアニメ大投票 高橋留美子だっちゃ|発表!全るーみっくアニメ大投票]](2019年11月16日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/anime/rumic/program/|title=発表!全るーみっくアニメ大投票|publisher=NHK|accessdate=2019-12-26|work=番組情報}}</ref> ** [[発表!全ファイナルファンタジー大投票]](2020年2月29日) ** [[発表!全エヴァンゲリオン大投票]](2020年5月16日) ** [[発表!全美少女戦士セーラームーンアニメ大投票]](2020年12月5日) ** [[発表!全仮面ライダー大投票]](2021年11月6日) * [[ももいろ歌合戦]](2019年12月31日、2020年12月31日、2021年12月31日、[[BS日テレ]]・[[ニッポン放送]]・[[AbemaTV]]など) * [[NHKバーチャル紅白歌合戦]](2020年1月1日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/topics/detail.html?i=5922|title=「NHKバーチャル紅白歌合戦」放送決定!出場者も発表!|website=NHK アニメワールド|accessdate=2020-01-23}}</ref> * [[NHKのど自慢|こどものど自慢]](2021年3月13日 - 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2020年3月、NHK総合) - ジョージ富士川 役<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教が朝ドラ初出演へ“世界的な芸術家”役 『スカーレット』新たな出演者発表| work = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| date = 2019-05-23| url = https://www.oricon.co.jp/news/2136080/full/| accessdate = 2019-05-23}}</ref> * [[筋トレサラリーマン 中山筋太郎]](2023年9月29日、[[讀賣テレビ|読売テレビ]]・日本テレビ)<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2294765/full/|title=なかやまきんに君、ドラマ初主演 筋トレに魅せられたサラリーマン役「体をしっかり仕上げてきました」|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2023-09-14|accessdate=2023-09-14}}</ref> - 東川 役 === 舞台 === * [[リトルショップ・オブ・ホラーズ]](1999年8月2日 - 27日、[[天王洲 銀河劇場|天王洲アートスフィア]]) - 主演・シーモア 役<ref>{{cite news |title= 西川貴教が8月、ミュージカル初挑戦|newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 1999-05-10 |url= https://www.sanspo.com/music/top/m9905/m0510.html|accessdate=2017-02-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20010709034424/http:/www.sanspo.com/music/top/m9905/m0510.html|archivedate= 2001-07-09}}</ref> * [[ハウ・トゥー・サクシード|ハウ・トゥ・サクシード]]〜努力しないで出世する方法(2007年) - 主演・フィンチ 役<ref>{{cite news |title= 西川貴教、本場NYへ武者修行!「ハウ・トゥー・サクシード〜」4・21開幕|newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2007-03-19 |url= https://www.sanspo.com/geino/top/gt200703/gt2007031912.html|accessdate=2017-02-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070322163254/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200703/gt2007031912.html|archivedate= 2007-03-22}}</ref> * [[ザ・ミュージックマン|ザ★ミュージックマン]](2010年4月23日 - 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大久保利通 役<ref>{{Cite web|和書|publisher=マイコミジャーナル|url=https://news.mynavi.jp/article/20130117-a213/|title=アニメミライ2013上映4作品に悠木碧、日笠陽子、喜多村英梨ら人気声優続々!|accessdate=2013-01-17}}</ref> === ゲーム === * [[機動戦士ガンダムSEED (PlayStation 2)|機動戦士ガンダムSEED]](2003年) - ミゲル・アイマン 役 * [[機動戦士ガンダムSEED 終わらない明日へ]](2004年) - ミゲル・アイマン 役 * [[機動戦士ガンダムSEED DESTINY GENERATION of C.E.]](2005年) - ミゲル・アイマン、ハイネ・ヴェステンフルス 役 * [[機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.]](2005年) - ミゲル・アイマン 役 * [[機動戦士ガンダムSEED DESTINY 連合vs.Z.A.F.T.II]](2006年) - ミゲル・アイマン、ハイネ・ヴェステンフルス 役 * 機動戦士ガンダムSEED DESTINY 連合vs.Z.A.F.T.II PLUS(2006年) - ミゲル・アイマン、ハイネ・ヴェステンフルス 役 * 機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T. PORTABLE(2007年) - ミゲル・アイマン 役 * [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フォース]](2015年) - ハイネ・ヴェステンフルス 役 * [[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス マキシブースト]](2015年) - ハイネ・ヴェステンフルス 役 * [[SDガンダム GGENERATION CROSSRAYS]](2019年) - ミゲル・アイマン、ハイネ・ヴェステンフルス 役<!-- 2019-11-28 --> * [[白猫プロジェクト]](2020年) - 西川貴教 役<ref>{{Cite web|和書|author =[[ライブドアニュース]]|url =https://news.livedoor.com/article/detail/17990344/|title =西川貴教が、新キャラクター「西川貴教」として『白猫プロジェクト』に登場|date=2020-03-19|accessdate=2020-03-19}}</ref> * [[原神]](2021年) - 荒瀧一斗 役<ref>{{Citation|title=【原神】キャストインタビュー 西川貴教(荒瀧一斗 役)|url=https://www.youtube.com/watch?v=bVik8Z02OEg|language=ja-JP|access-date=2022-09-10}}</ref> * [[機動戦士ガンダム アーセナルベース]](2023年) - ミゲル・アイマン 役<!-- 2023-02-24 --> === Web放送 === * [[西川貴教のイエノミ!!]](2011年7月25日 - 2017年9月16日、隔週木曜日23:00 - 24:00、[[ニコニコ生放送]]) * 西川学園高等学校、略してN高!(2017年10月26日 - 、毎月下旬、ニコニコ生放送)<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教「N高」で上西小百合が語る赤裸々度合いがすごい| work = ドワンゴジェイピーnews| publisher = [[ドワンゴ]]| date = 2017-11-06| url = https://web.archive.org/web/20210613204829/https://news.dwango.jp/niconico/24907-1711| accessdate = 2018-01-20}}</ref> * 西川貴教のニシナナLIVE(2021年5月13日 - 、毎週木曜日20:00 - 21:30、[[17LIVE]])<ref>{{Cite web|和書|title=西川貴教のソロプロジェクト、T.M.Revolutionのデビュー25周年を記念し、ライブ配信「西川貴教のニシナナLIVE」をスタート! {{!}} 17LIVE(ワンセブンライブ/イチナナ) 公式サイト ライブ配信アプリ |url=https://jp.17.live/pressrelease/10725/ |date=2021-05-10 |access-date=2022-09-10 |language=ja}}</ref> === Webマガジン === * 西川貴教のすてましてる(2013年2月19日 - 2014年2月26日、毎週水曜日、[http://magalry.com/magazine/takanori.nishikawa Magalry(マガリー)西川貴教のすてましてる]) === ラジオ === * [[日本中央競馬会|JRA]] Power Revolution([[1996年]]、[[ベイエフエム|bayfm]]) * Love Revolution(1996年、bayfm) * T.M.Radio Wave(1996年、[[FM NORTH WAVE]]) * [[西川貴教のオールナイトニッポン]](1997年1月6日 - 1999年3月<ref group="注釈">1997年10月4日から1998年3月23日までは、土曜 1:00 - 5:00(金曜深夜)に『[[T.M.Revolution西川貴教のオールナイトニッポン Music Revolution]]』として放送。</ref>、[[2003年]][[4月]] - [[2005年]][[9月26日]]、[[ニッポン放送]]) * [[西川貴教のallnightnippon SUPER!]]([[1999年]]4月 - 2003年[[3月]]、ニッポン放送) * turbo FM([[1999年]] - [[2000年]]、[[エフエム東京|JFN]]系) * [[ゴチャ・まぜっ!水曜日 (2011年から2014年まで)|ゴチャ・まぜっ!水曜日]]([[MBSラジオ|毎日放送]]) ** ゴチャ・まぜっ!木曜日(2008年4月10日 - 2009年4月2日、毎日放送) ** またまたゴチャ・まぜっ!(2009年4月11日 - 2014年3月29日、毎日放送) * [[やきぐりバンバン]]コンマ3(2009年4月23日 - 10月29日、毎日放送) * [[パックンたまご (MBSラジオ)|パックンたまご]](2010年10月8日 - 2014年3月27日、毎日放送) ** われらイマドキッ!〜DOKODOKI商品研究所〜(2010年4月10日 - 10月2日、毎日放送) * [[T.M.Revolution 西川貴教のちょこっとナイトニッポン]](2011年10月3日 - 、ニッポン放送) * [[アッパレやってまーす!]]水曜日(2014年4月2日 - 2017年4月5日、毎日放送) * [[ザ・ヒットスタジオ|ザ・ヒットスタジオ (水)]](2017年4月6日 - 2021年9月30日、毎日放送)<ref group="注釈">タイトルは「ザ・ヒットスタジオ (水)」だが、木曜未明(1:00 - 2:00)の放送。</ref> * [[ファミリーマート (企業)#広報活動|ファミラジ]]<ref>[http://www.family.co.jp/company/news_releases/2018/20181002_01.html ファミリーマート・サークルK・サンクスの店内放送“ファミラジ” 第18代目DJに「西川貴教」が初登場!! ~2018年10月9日(火)から放送開始~] FamilyMart公式サイト 2018年10月2日閲覧</ref>(2018年10月9日 - 12月31日) - 第18代[[DJ#ラジオDJ|DJ]]<ref group="注釈">民放ラジオ局での放送ではなく、全国に約16700店舗ある[[FamilyMart]]・[[サークルKサンクス#サークルK|サークルK]]・[[サークルKサンクス#サンクス|サンクス]]の店内にて流れる収録放送。毎週火曜日更新。</ref> * [[アーティスト・プロデュース・スーパー・エディション]](2022年9月、[[ジャパンエフエムネットワーク (企業)|JFNC]])<ref group="注釈">2003年4月に、T.M.Revolutionとして出演。</ref> * [https://audee.jp/program/show/300003456 イナズマロックレディオ](2022年10月 - 、JFNC)<ref group="注釈">[[イナズマロックフェス]]関連番組。[[エフエム滋賀|e-radio]]で期間限定で放送される同名番組と異なり、西川自身がパーソナリティを務める。</ref> === CM・広告 === * [[ヤマハ発動機]]「[[ヤマハ・ジョグ]]」 * [[資生堂]]「ティセラ・ジャングルジャングル」 * [[バンダイビジュアル]]「GUNDAM 30thアニバーサリーコレクション」 * ザ・ミュージックマン(舞台宣伝) * [[日本民間放送連盟]]「2011年度地球温暖化問題啓発スポット」 * [[エステー]] **「[[消臭力]]」 *** 『夢の共演』篇 *** 『チカラにかえてinリスボン』篇 *** 『ミゲルの丘』篇 **** ポルトガルの歌手、[[ミゲル・ゲレイロ]]と共演。2012年7月、『チカラにかえてinリスボン』および『ミゲルの丘』篇のCM出演者3名(西川、ミゲル・ゲレイロ、[[島谷ひとみ]])によるユニット'''[[T.M.H.R.]]'''を結成。CMソング「チカラにかえて」が2012年7月17日から先行配信され、9月12日にCDが発売された<ref>{{Cite web|和書| title = 話題のCMソング「チカラにかえて」がCD発売決定!| publisher = [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサル ミュージック ジャパン]]| date = 2012-08-06| url = https://www.universal-music.co.jp/tmhr/news/2012-08-20120806news/| accessdate = 2015-06-28}}</ref>。 *** 『T.M.R.と妖精ちゃん』篇(2013年4月 - )<ref>{{Cite press release|和書| title = 西川貴教さんがアーティストとして登場!「消臭力 優しい森」のCM“ T.M.R.と妖精ちゃん”篇を制作 2013年4月1日(月)から全国で放映開始| publisher = [[エステー]]| date = 2013-04-01| url = https://www.st-c.co.jp/news/newsrelease/2013/20130401_001488.html| accessdate = 2013-09-07}}</ref> *** 『LaLaLa〜未来へ〜』篇(2014年7月 - ) **** [[ミゲル・ゲレイロ]]と[[さくらまや]]と共演。ポルトガルのリスボンおよびモンサラーシュで撮影された。<ref>{{Cite press release|和書| title = 西川貴教、ミゲル&さくらまやが共演「消臭力」シリーズの新CMを制作 2014年7月14日(月)から全国で放映開始| publisher = [[エステー]]| date = 2014-07-11| url = https://www.st-c.co.jp/news/newsrelease/2014/20140711_003119.html| accessdate = 2014-08-12}}</ref> *** 『贈る人・応援団』篇<ref>{{Cite press release|和書| title = 西川貴教主演の「消臭力」新CMは、未完成のままオンエア?! 1回限りの放映を見逃してしまった人はコチラへ♪| publisher = ストレートプレス:STRAIGHT PRESS - 流行情報&トレンドニュースサイト| date = | url =https://straightpress.jp/20160920/145987| accessdate = 2016-11-13}}</ref> ***『消臭力 Premium Aroma』 『見たことある』(2021年11月15日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=【エステー】ニューノーマルな「プレミアム」はこれだ!新CM完成。西川貴教主演『消臭力 Premium Aroma』新CM『見たことある』編|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000334.000010075.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-28}}</ref> ** 機能訴求CM(第一話 – 第七話)<ref>{{Cite press release|和書| title = あのエステーが“真面目に機能を訴求”するCMを本日よりオンエア?! 西川貴教セレクトの衣装もカッコ良すぎ♪| publisher = ストレートプレス:STRAIGHT PRESS - 流行情報&トレンドニュースサイト| date = 2016-10-03 | url =https://straightpress.jp/20161003/147954 | accessdate = 2016-11-13}}</ref> ** 「洗浄力」 ***『地球を救う力』篇(2017年10月 - )<ref>{{Cite web|和書| title = 西川貴教出演、「洗浄力」CM本日よりOA!“♪しょ〜しゅ〜りき〜”とは似て非なる“♪せんじょ〜りき〜”を熱唱| publisher = [[M-ON! MUSIC]]| date = 2017-10-16| url = https://web.archive.org/web/20180120130356/https://www.m-on-music.jp/0000231874/| accessdate = 2018-01-20}}</ref> * [[任天堂]]「Nintendo×JOYSOUND Wii カラオケ U」(2013年3月 - )<ref>{{Cite web|和書| title = T.M.Revolution 西川貴教さんが「女々しくて」を熱唱 ― 『Wii カラオケ U』新TVCMオンエア| publisher = [[Nintendo iNSIDE|インサイド]]| date = 2013-03-06| url = https://www.inside-games.jp/article/2013/03/06/64462.html|accessdate = 2014-08-12}}</ref> * [[ロッテ]]「ZEUS」(2013年7月 - 2013年10月)<ref>{{Cite news | title = 西川貴教:久々の“ストームパフォ”で「原点回帰」| newspaper = [[毎日新聞|MANTANWEB]]| date = 2013-07-29| url = https://mantan-web.jp/2013/07/29/20130729dog00m200013000c.html| accessdate = 2013-09-06}}</ref> * [[池田模範堂]]「デリケアM's」(2014年5月 - 2014年11月)<ref>{{Cite news | title = 池田模範堂「デリケアエムズ(M’s)」 新イメージキャラクターにT.M.Revolution 西川貴教さんを起用| newspaper = 池田模範堂プレスリリース(PRTIMES)| date = 2014-05-06| url = https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000010133.html| accessdate = 2014-05-10}}</ref><ref>{{Cite interview|和書|subject=西川貴教|interviewer=若松正子|url=https://www.oricon.co.jp/news/2041806/full/|title=T.M.Revolution、コミカルな『デリケアエムズ』CMの裏側を語る|date=2014-09-07|work=[[オリコン|ORICON STYLE]]|accessdate=2014-09-18}}</ref> * [[小泉成器]] ダブルファンドライヤー「MONSTER」(2014年10月 - )<ref>{{Cite web|和書| title = 「新しい風を吹かせる」“NEO風神”西川貴教が登場!| publisher = [[ザテレビジョン]]| date = 2014-11-04| url = https://thetv.jp/news/detail/52070/| accessdate = 2015-06-28}}</ref> * [[日本マクドナルド]] ** 「アツいぜ!ロコモコ」(2018年7月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201807040000397.html|title=西川貴教が高橋みなみに熱いエール「嫁げよ!」|publisher=日刊スポーツ|date=2018-07-04|accessdate=2018-07-24|}}</ref> ** 「ビーフシチューパイ」(2023年12月)<ref>{{Cite press release|和書| title = サクサクのパイとじっくり煮込んだコク深いビーフシチュー さむ~い季節に心も身体もあたたまる冬限定のお食事パイ「ビーフシチューパイ」今年も登場!12月6日(水)から期間限定で販売♪「凍えそうな季節に君はパイをどーこー云うの?」♪冬の定番曲「WHITE BREATH」に乗せてビーフシチュー愛を熱唱!西川貴教さん出演の新TVCMを12月5日(火)から放映 | publisher = 日本マクドナルド| date = 2023-11-30| url = https://www.mcdonalds.co.jp/company/news/2023/1130a/| accessdate = 2023-12-11}}</ref> * [[大塚国際美術館]]「アートコスプレフェス」公式アイコン(2019年)<ref>{{Cite news | title = 西川貴教が「笛を吹く少年」に…大塚国際美術館アートコスプレフェスの公式アイコン| newspaper = スポーツ報知| date = 2019-08-20| url = https://hochi.news/articles/20190819-OHT1T50206.html| accessdate = 2019-08-30}}</ref> * [[Yostar]]「[[アズールレーン]]」3周年記念CM「まだまだ3周年篇」(2020年9月)<ref>{{Cite news | title = 西川貴教、美少女艦船化。新曲「As a route of ray」が「アズールレーン」CM曲に| newspaper = BARKS| date = 2020-09-14| url = https://www.barks.jp/news/?id=1000188923| accessdate = 2020-09-14}}</ref> * [[ヒノキヤグループ]]「Z空調」『Z空調なら家爽快!』冬編、『Z空調なら家爽快!』換気編(2021年12月25日 - 2022年1月14日) - 歌唱参加<ref>{{Cite web|和書|title=「Z空調なら家爽快!」を西川貴教さんが熱唱!冬編と換気編の西川貴教さんVer.を期間限定放映|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000114.000002832.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-15}}</ref> * [[サンダーバード55/GoGo|日本語劇場版 サンダーバード55 / GOGO]](2021年12月 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/458607|title=貴教・トレーシーこと西川貴教、勝手に作った青い衣装で「サンダーバード」CMに|publisher=音楽ナタリー|date=2021-12-21|accessdate=2022-01-20}}</ref> * DAMO GAMES「[[東方アルカディアレコード]]」(2022年7月 - )<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2243524/full/|title=西川貴教、コスプレ“2変化”披露 51歳で学ラン&へそ出し巫女姿「大丈夫か心配です」|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2022-07-28|accessdate=2022-07-28}}</ref> * [[エスエス製薬]]「アレジオン」WEB動画『FUN DAYS #3 西川貴教』篇(2023年10月 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ssp.co.jp/alesion/cm/webcm/|title=アレジオン20 WEB動画「FUN DAYS #3 西川貴教」篇 Full Ver. |website=アレジオン|publisher=エスエス製薬|data=2023-10-02|accessdate=2023-10-31}}</ref> == ライブ・ツアー == * 京響プレミアムスピンオフ 西川貴教×[[大島こうすけ]] [[オーケストラ]][[コンサート]]「ラジオタイムス〜ことばが結ぶシンフォニー〜」(2018年10月5日)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.kyoto-symphony.jp/blog/index.php?itemid=441| title = 公演レポート!京響プレミアムスピンオフ「ラジオタイムス〜ことばが結ぶシンフォニー〜」| date = 2018-10-11| website = 京都市交響楽団ブログ| publisher = 京都市交響楽団| accessdate = 2018-12-15}}</ref> * [[京都新聞]]創刊140年プレイベント 京響プレミアム 大島こうすけ[[交響組曲]]「Life〜キミトノセカイ〜」(2019年2月10日)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.barks.jp/news/?id=1000164720| title = Beverly、交響組曲「Life 〜キミトノセカイ〜」で大島こうすけ、西川貴教らと初共演| date = 2019-02-20| website = BARKS| accessdate = 2019-08-30}}</ref> * 西川貴教 LIVE TOUR 001 [SINGularity](2019年4月13日 - 6月8日)<ref name="BARKS20190115" /><ref>{{Cite news | title = 西川貴教:本名名義の初全国ツアーファイナル公演でファン魅了 “AI演出”も| newspaper = MANTANWEB| date = 2019-07-20| url = https://mantan-web.jp/article/20190719dog00m200062000c.html| accessdate = 2019-08-30}}</ref> * こけら落とし3DAYS『日清食品パワステリブート オープニングスペシャル』(2020年11月21日 [[日清パワーステーション|日清食品 POWER STATION [REBOOT]]])<ref name="psta202011">{{Cite web|和書|url=https://panora.tokyo/archives/13057|title=配信専門のライブハウス「日清食品 POWER STATION REBOOT」11/21オープン Kizuna AIや星街すいせいらも出演|publisher=PANORA|date=2020-11-03|accessdate=2020-11-03}}</ref> * Animelo Summer Live 2021 -COLORS-(2021年8月27日)<ref>{{Cite web|和書|title=Animelo Summer Live 2021 -COLORS- {{!}} アニメロサマーライブ2021 |url=https://anisama.tv/2021/ |website=Animelo Summer Live 2021 -COLORS- |access-date=2022-09-10}}</ref> * 柚希礼音ソロコンサートREON JACK4(2021年9月26日、日替わりゲスト)<ref>{{Cite web|和書|title=REON JACK 4 {{!}} レオンジャック4 |url=https://reonjack.com/ |website=REON JACK 4 {{!}} レオンジャック4 |access-date=2022-09-10}}</ref> * 京響クロスオーバー オーケストラ・プレミアム 交響組曲「Life 〜永遠 (TOWA) の夢人 (MUJIN) 〜」ーどれだけ生きれば、また君に出逢えるのだろう。(Original Edition)(2021年10月10日)<ref>{{Cite web|和書|title=【無観客・有料配信へ変更】京響クロスオーバー オーケストラ・プレミアム 作曲家・編曲家プロジェクト「大島こうすけ×西川貴教×京都市交響楽団」 大島こうすけ:交響組曲「Life〜永遠(TOWA)の夢人(MUJIN)〜」 -どれだけ生きれば、また君に出逢えるのだろう。-Original Edition- |url=https://rohmtheatrekyoto.jp/event/63025/ |website=ロームシアター京都 |access-date=2022-09-10 |language=ja |first=ROHM Theatre |last=Kyoto}}</ref> * GO FIGHT !! 城下町シリーズ(2022年1月5日、2月6日)<ref>{{Cite web|和書|title=GO FIGHT!!城下町シリーズ {{!}} チケットぴあ[音楽 J-POP・ROCKのチケット購入・予約] |url=https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventCd=2129943 |website=t.pia.jp |access-date=2022-09-10 |language=ja}}</ref> * Takanori Nishikawa LIVE TOUR 2022 "IDIOSYNCRASY"(2022年2月4日 - 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社会主義
社会主義(しゃかいしゅぎ、英語: Socialism〈ソーシャリズム〉)は、個人主義・自由主義・資本主義・市場経済の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想・運動・体制を指す用語。広義には、社会を組織化することにより人々を支える制度であり、歴史的には空想的社会主義・社会改良主義・社会民主主義・無政府主義・サンディカリズム・共産主義・国家社会主義・国家共産主義などが含まれる。狭義には資本主義・個人主義・自由主義・私有制などの対語として冷戦時代から使用されている。社会主義と共産主義はほぼ同義の意味として扱われることもある。 「社会」の語源はラテン語の「socius」(友人、同盟国などの意味)である。「社会主義」の語の最初の使用は諸説あるが、「自由、平等、友愛」の語を普及させたピエール・ルルーが1832年に「personnalite」(これはフランス語で、個人化、個別化、パーソナライズなどの意味)の対比語として記した「socialisme」(これはフランス語で、直訳では「社会化する主義」、社会主義)が最初とも言われており、ルルーは1834年には「個人主義と社会主義」と題した文書を発行した。他には1827年のアンリ・ド・サン=シモンなどの説があるが、いずれもフランス革命の流れの中で発生した。「社会主義」の語は、後の近代的な意味では色々な主張により使用された。 「社会主義」にはさまざまな定義や潮流がある。狭義には、生産手段の社会的共有と管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指す。広義には各種の社会改良主義、社会民主主義、無政府共産主義、国家社会主義、国家共産主義なども含めた総称である。 歴史的には、市民革命によって市民が基本的人権など政治的な自由と平等を獲得したが、資本主義の進展により少数の資本家と大多数の労働者などの貧富の差が拡大して固定化し、労働者の生活は困窮し社会不安が拡大したため、労働者階級を含めた経済的な平等と権利を主張したものとされる。市民革命と社会主義運動は、啓蒙思想と近代化では共通であるが、初期の資本主義が経済的には自由放任主義(夜警国家)を主張したのに対し、社会主義は市場経済の制限や廃止、計画経済、社会保障、福祉国家などを主張する。 なお、社会主義を含む19世紀の社会改革運動は、生活環境改善などの物質的な側面だけでなく、理想社会(世俗的千年王国)の建設という主題を含む精神運動でもあり、同じ主題を持つ精神運動であった心霊主義と当初から密接な関係を持っていた。 第一次世界大戦後にロシア革命が起こり、世界最初の社会主義国であるソ連が誕生した。第二次世界大戦後は社会主義陣営と自由主義陣営の間で冷戦や、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの代理戦争が続いた。西側諸国内でも資本主義勢力と社会主義勢力と社会民主主義勢力の対立が生まれ、東側諸国でもソ連型社会主義と自主管理社会主義の対立、中ソ対立などが起こった。一方で非共産主義諸国でも、西側諸国でのニューディール政策など混合経済化が進んだ。 共産党の一党独裁のもとに中央集権型の官僚制が構築されたソ連型社会主義は、ソ連から東欧、東アジア、中東やアフリカの一部に拡大したが、特にブレジネフ指導体制の成立後は停滞する。1989年には東欧革命が勃発、1991年にはソ連が崩壊し、ソ連型社会主義のイメージは世界的に失墜した。現在、共産党一党支配が続く中華人民共和国やベトナムは市場原理の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いており、経済発展が著しい。一方で、北朝鮮は市場原理の導入を拒否し、経済的には停滞している。 他方、社会民主主義と呼ばれる勢力は、第一次世界大戦後も共産主義者に批判されながらも西側諸国の議会で勢力を拡大した。イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などが代表的なヨーロッパの社会民主主義政党である。これらの政党は自由主義と民主主義を擁護し、ソ連型社会主義の独裁に対して批判的な態度をとり、第二次世界大戦後は社会主義インターナショナルを結成した。1980年代に新自由主義の台頭により一時党勢を後退させたが、市場原理に一定の評価を下した「第三の道」(ブレア)などの路線によって1990年代には勢力をもりかえし、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、北欧諸国などでは度々与党の座についている。 また、植民地から独立した第三世界では、社会主義を掲げる国々が多い。有名なのはインドであり、インド憲法には「インドは社会主義の国である」と明記されている。インドの西ベンガル州やケーララ州では度々インド共産党が州政府に選出されている。また、中東のイラクやシリア、リビアなどではアラブ社会主義のもとに一党支配がなされていたが、2003年のイラク戦争や2012年からのアラブの春によってこれらの独裁政権は崩壊したか、崩壊寸前である。また、キプロスやネパールでは共産党系の政党が与党となって国政を担っている。 新自由主義に苦しめられた中南米諸国では、21世紀に入って社会主義政権の伸張が著しい。ベネズエラなどでは選挙を通じて社会主義を掲げる政権が成立し、社会主義路線を進めている。反米左派という点では、ベネズエラの路線は、キューバ、ニカラグア、エクアドルの諸政府と一致している。また、ブラジルでも一種の社会民主主義政党である労働党が政権を担当し、社会的公正と経済成長を同時に推進している。 主な潮流には以下がある。ただし各潮流の定義や範囲はさまざまな考えがあり、また時期によっても変化している。 シャルル・フーリエ、アンリ・ド・サン=シモン、ロバート・オウエンらに代表される、初期の社会主義思想 社会民主主義は議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定する(反共主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義の立場を堅持しながら多党制を支持し暴力革命を否定した修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含む。国際組織に社会主義インターナショナルなどがある。 イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などが代表的。 無政府主義は個人主義的な立場、自由主義的な立場、社会主義的な立場など多様な思想の総称だが、社会主義的な立場では権力の集中に反対して地域コミュニティや労働組合主義などを目指す。マルクス主義を権威主義と批判する。 サンディカリスム(労働組合主義)は、コーポラティズム(共同体主義)の側面を持ち、労働組合がゼネストで資本主義体制を倒し、革命後は政府ではなく集産主義的な労働組合の連合による経済や社会の運営を目指す。より急進的で革命的な思想にアナルコサンディカリスムがある。 共産主義は、産業の共有によって搾取も階級もない社会を目指す。フランス革命時のバブーフは「土地は万人のものである」として物品の配給による平等社会を目指し、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。なおマルクス・レーニン主義では、資本主義社会から共産主義社会に発展する中間の段階を「社会主義社会」とも呼ぶ。 第二次世界大戦後、これまでの帝国主義諸国の植民地支配に対する民族運動が盛り上がった。先進資本主義諸国は植民地支配の利害と分かちがたく結びついていたため、反植民地の民族運動は社会主義的な傾向をもった。 中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮などではソ連型の社会主義政権が誕生した。 また、ビルマではビルマ式社会主義が追求された。後述の宗教社会主義や国家社会主義の影響を受けているとみられる。 インドは社会主義政党であるインド国民会議派の指導で独立を達成し、憲法に「インドは社会主義国家」と明記した。 中東では1950年代~1960年代にアラブ社会主義が広まった。国有化など反植民地ナショナリズムの傾向を持つ。エジプトのナセル、リビアのカダフィーなどが代表的。また、イラクやシリアなどではアラブ社会主義政党(バアス党)による独裁政権が誕生した。 アフリカでは1960年の「アフリカの年」以降、急速に独立国が増えたが、社会主義国を名乗る国も多く、旧帝国主義諸国やアメリカと対立して内戦になるケースも多かった。 宗教的社会主義は、宗教的価値観に基づく、あるいは宗教の要素を積極的に取り込んだ社会主義を言う。 以下の意味で使用される。 新左翼諸派の総称。ソ連型社会主義や各国の共産党や社会民主主義政党を既成左翼と批判する。多数の潮流・思想・党派があり、日本ではトロツキズムの第四インター、「反帝国主義・反スターリン主義」の革マル派と中核派、マルクス主義復権としてレーニン主義を否定する社青同解放派、その他アナキズム、毛沢東主義、構造改革派などがある。なおトロツキストや毛沢東派は、自己の潮流こそ正統のマルクス主義であるという認識から、「新左翼」と呼ばれることを嫌う場合が多い。 以下に挙げるものは、通常は「社会主義」とは呼ばれないが、社会主義的側面を持っているとも言われる。 社会主義の源流には、各民族のいわゆる原始共同体における、さまざまな共有や平等や相互扶助の形態が挙げられる(これらはマルクス主義では「原始共産制」とも呼ぶ)。私有財産の概念が浸透した近代以降も、入会権などの共同体による部分的な共有は認められている。またプラトンの哲人政治は、哲学者の独裁によって平和で平等な理想社会を目指し、最初の共産主義と呼ばれることもある。 近代的な形での社会主義や共産主義が登場するのは、18世紀後半から産業革命による近代化と、市場原理を掲げる自由放任型の資本主義が進展し、従来の共同体が破壊されて労働者階級となり、その階級の固定化や貧富の差の拡大、恒常的な貧困などの社会問題や社会不安が顕在化してきてからである。 18世紀後半より、後に「初期社会主義」(マルクス主義の立場からは空想的社会主義)と呼ばれる社会主義者が登場した。ロバート・オウエンは経営者の立場から労働者の幼児教育や協同組合を実践し、更に共産主義的な共同体を目指した。サン=シモンは産業階級(経営者および労働者)による富の生産を重視し、キリスト教の人道主義による貧者の救済を説いた。シャルル・フーリエは国家の暴力と革命の暴力の双方を疑問視し、国家の支配を受けない自給自足で効率的な協同社会を提唱した。イギリスのフェビアン協会は、後の社会民主主義や労働党の源流ともなった。これらは社会改良主義とも呼ばれる。 また1789年にフランス革命が勃発すると、多くの革命思想が登場した。バブーフは「土地は万人のもの」として、国家による物品の共同管理と平等な配給や、前衛分子による武装決起と階級独裁を主張し、後に「共産主義の先駆」とも呼ばれ、その思想はブランキや後のレーニンにも受け継がれた。ヴァイトリングは欧米の諸都市で労働者結社を実践し、いわゆるメシア共産主義を説いた。モーゼス・ヘスはヘーゲル左派の出身で貨幣廃止論などを唱えた。 一方、社会主義者のうち、全ての権威を否定する立場は無政府主義(アナキズム)とも呼ばれる。フランスのプルードンは「財産とは盗奪である」として、あらゆる中央集権的組織に反対して「連合主義」を唱え、更にロシアのバクーニンやクロポトキンに受け継がれた。 1848年にヨーロッパ各地で起こった革命(1848年革命)では当初から労働者や社会主義者が参加した。 カール・マルクスとエンゲルスは1848年に『共産党宣言』を執筆した。マルクス主義は、唯物史観と剰余価値説により、従来の社会主義が持っていた階級闘争や労働組合運動、政治運動についての理論に、資本主義の分析を理論的武器として提供し、ヨーロッパを始め全世界的規模で広範な影響力を持った。 1862年にはヨーロッパの労働者と社会主義者の国際組織である第一インターナショナルが設立され、労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議した。しかし権威となったマルクスと、無政府主義者のバクーニンなどの反対派は相互に批判と除名を行い、第一インターナショナルは崩壊した。 1871年にはパリ・コミューンにより、一時的ではあるが世界初の社会主義政権が誕生した。この際、革命歌である「インターナショナル」も誕生した。 議会政治が発達してくると、労働者階級の支持を得た社会主義政党がドイツやイギリス、フランスなどで勢力を拡大した。ドイツでは世界で初めて議席を獲得した社会主義政党全ドイツ労働者協会が結成され、ビスマルクが、社会主義者鎮圧法と同時に、世界最初の社会保険を創設した。これは「飴と鞭」政策と呼ばれたが、その後のドイツや各国の社会保障制度の基礎ともなった。 1889年にはマルクス主義者を中心に第二インターナショナルが結成され、その中心的な存在となったドイツ社会民主党の内部から修正主義論争が発生した。ベルンシュタインらは議会制民主主義による平和革命を認めて「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を堅持すべきとするカウツキーらは「教条主義」と呼ばれたが、後にはカウツキーも合流して社会民主主義を体系化した。しかし1914年には第一次世界大戦が勃発し、各国の社会主義者が自国の戦争を支持したため、第二インターナショナルは崩壊した。 日本では、1901年には日本最初の社会主義政党である社会民主党が、1906年には日本最初の合法社会主義政党(無産政党)である日本社会党が結成された。キリスト教徒から社会主義者に転じた片山潜は普通選挙運動による「議会政策論」を説き、無政府主義やアナルコサンディカリスムの影響も受けた幸徳秋水はゼネストなどの「直接行動論」を主張したが、1910年の大逆事件(幸徳事件)などで弾圧された。 第一次世界大戦が勃発すると、ロシアとセルビアを除く交戦諸国の社会主義政党は祖国の戦争を支持した。ドイツ社会民主党は「城内平和」を主張し、フランスやベルギーの社会党は戦時内閣に参加した。他方、左派社会主義者たちは戦争反対を訴え、反戦活動を展開した。 1917年2月にはロシア革命が勃発し、同年10月にはレーニン、トロツキーたちのボルシェヴィキが指導する社会主義革命に発展した。レーニンは帝国主義論で「資本主義は延命のため、従来の自由市場経済から独占資本主義と帝国主義に移行している」として、帝国主義段階が資本主義社会の最後の段階であると主張していた。彼は職業革命家により構成される前衛党が労働者階級を指導し、社会主義を建設するべきだと訴えた。ロシアは革命軍と反革命軍との対立が高じて内戦状態になり、その過程で共産党(ボルシェヴィキ)による一党独裁体制に移行した。 1919年には共産主義の国際組織である第三インターナショナル(コミンテルン)が結成され、主要各国には支部でもある共産党が設立された。しかし1924年のレーニンの死後、実権を握ったスターリンは、マルクス・レーニン主義を定式化しながらも、「ファシズム勢力よりも社会民主主義勢力を優先して攻撃すべき」という社会ファシズム論や、「ソ連は一国でも社会主義社会建設ができる」という一国社会主義論を主張し、更には秘密警察や粛清による恐怖政治や個人崇拝を徹底した(スターリン主義)。トロツキーは、マルクス主義の世界革命論の立場からスターリンを批判したが、除名され、海外で第四インターナショナルを結成して反資本主義・反スターリン主義の運動を続けた(トロツキズム)が、暗殺された。 これに対してマルクス・レーニン主義やソ連型社会主義に反対する社会民主主義者は、1923年に反共主義を掲げる労働社会主義インターナショナル(社会主義インターナショナルの前身)を設立した。彼らは民主主義の価値を擁護し、民主主義をつうじて社会主義を実現するべきだと考えた。イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などがこのインターナショナルに結集し、戦間期ヨーロッパの政治的支柱の一つになった。イギリスではラムゼイ・マクドナルドの労働党内閣、フランスではレオン・ブルムの人民戦線内閣が成立した。 日本では1922年に、コミンテルン日本支部として非合法の第一次共産党が結成された。また非日本共産党系は労農派と呼ばれ、1926年には労働農民党が結成されたが、「天皇制は絶対主義で、現状は半封建主義」と規定して二段階革命論を主張する講座派と、「明治維新はブルジョワ革命で、現状は帝国主義」と規定して一段階革命論を主張する労農派の間で、日本資本主義論争が行われた。後に、講座派の理論は日本共産党に、労農派の理論は社会党左派や新左翼各派に受け継がれた。 1929年に世界大恐慌が発生すると、失業や貧困が「個人の努力の問題」だけでは無く、資本主義に内在する矛盾である事が明白となり、各国で社会主義・共産主義勢力が増大した。イギリス・フランス・アメリカなどではブロック経済化が進み、広大な植民地を持たず独自にはブロック経済を形成できないイタリア・ドイツ・スペインなどでは、民族主義と社会主義的な統制経済を取り入れたファシズムなどの軍国主義が台頭し、第二次世界大戦勃発の要因ともなった。日本では1937年の人民戦線事件を契機に社会主義者への弾圧が強まり、他方では北一輝の『日本改造法案大綱』の影響も受けて、昭和維新を掲げる皇道派が台頭した。 また社会不安と社会主義への対抗のため、アメリカではニューディール政策、イギリスや北欧諸国では福祉国家政策などの、社会民主主義的な政策が推進された。 第二次世界大戦後は、ソ連に占領された地域を中心に、東欧や東アジアなどに次々と社会主義国家が誕生して衛星国とも呼ばれ、国際機関のコミンフォルムも創設された。ただしユーゴスラビアのチトーは、直接民主制を取り入れた独自の自主管理社会主義を採用し、ソ連型社会主義とは一定の距離を保った。また中国の毛沢東は、マルクス主義を指針としながらも、農民中心のゲリラ戦術を主張(毛沢東思想)し、1949年には国共内戦に勝利して社会主義政権を樹立した。これら社会主義陣営である東側諸国は、資本主義陣営である西側諸国と、冷戦や代理戦争を続けた。 東側諸国の多くでは、ソ連と同様に重要産業の国有化や、五カ年計画などの計画経済、教育の無償化などが行われ、インフラ整備や近代化が推進され、一時は水爆開発や宇宙開発競争でも優位に立つなど「社会主義の優越性」が広く伝えられた。また「資本主義は戦争勢力、社会主義は平和勢力」、「資本主義の核兵器は侵略用、社会主義の核兵器は防衛用」などの主張も行われた(反核運動#反核運動の中立性も参照)。 しかし1953年のスターリン死去後、1956年のスターリン批判と、続くハンガリー動乱では、各国の共産党や共産主義者に大きな衝撃を与えた。イタリアやスペインなど西ヨーロッパの共産党では、プロレタリア独裁を放棄し複数政党制を認めるユーロコミュニズムが広がった。日本共産党では親ソ派・親中派との論争や除名や分派を繰り返し、1960年代には自主独立路線を確立したが、同時に「既成左翼」を批判する多数の新左翼が勢力を広げた。また中国はソ連のフルシチョフによる平和共存路線を「修正主義」、ソ連は中国を「教条主義」や「極左冒険主義」と批判して中ソ対立が始まり、更に中国では大規模な権力闘争である文化大革命が開始され、各国共産党にも介入した。後の印パ戦争や中越戦争は、中ソ対立の代理戦争の側面もある。 日本では戦後に再建された日本共産党は、当初は連合国軍を「解放軍」と規定し平和革命論も主張したが、コミンフォルムの意向を受けて、平和革命を批判し武装闘争を行った主流派の所感派と、対立する国際派などの対立や分裂を経由して、1955年の六全協で敵の出方論により武装闘争を棚上げし、二段階革命論 の自主独立路線に転換した。この転換とスターリン批判の影響で、多数の党員が新左翼各派に転じた。また非共産党系の合法社会主義勢力は日本社会党を結成したが、当初より労農派マルクス主義に基づき一段階革命論・平和革命論である日本型社会民主主義を掲げる社会党左派と、西欧型の社会民主主義を掲げた社会党右派が、対立・分裂や再統一を繰り返し、後には反共主義の西尾末広などが民主社会主義を掲げ民社党を結成し、更に構造改革主義(江田ビジョン)を主張した江田三郎が社会民主連合を結成した。また1970年の安保闘争、ベトナム反戦運動では多くの新左翼や市民団体も参加したが、新左翼各派や連合赤軍は内ゲバや武装闘争を続け孤立した。 1960年代の西ヨーロッパ諸国では、新左翼が勢力を伸ばし、ベトナム反戦を掲げた学生運動が盛んになった。特に毛沢東思想と文化大革命はフランスのゴダールやサルトルに大きな影響を与え、1968年革命が起きた。人民民主主義を掲げていた東ヨーロッパ諸国ではソ連離れが進み、チェコスロヴァキアでは1968年にプラハの春が勃発したが、この運動はハンガリー事件と同様にソ連軍によって弾圧された。また、チトー率いるユーゴスラビアは、チトー主義のもと非同盟諸国との関係を拡大した。1970年代には西ヨーロッパの共産党でユーロコミュニズム志向が強まる一方、東ヨーロッパ諸国でもソ連離れがさらに進んだ。1974年にヨーロッパ最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制がカーネーション革命によって崩壊したポルトガルでは、1976年に制定された新憲法に社会主義の建設を目指すことが盛り込まれるなど急進的な革命が進むかと思われたが、結局革命は穏健化し、社会主義体制は生まれないままヨーロッパ共同体に統合された。 一方、第三世界では、1959年のキューバ革命、1954年から1962年までのアルジェリア戦争、1965年から1975年のベトナム戦争など、西側の植民地主義に反対する植民地解放戦争の側面が強い社会主義革命が発生した。また、インドなど社会主義的政策を掲げる国家や政府が増加した。 1960年に「アフリカの年」を迎えたアフリカでは、共産主義(マルクス=レーニン主義)を掲げた国家は、コンゴ人民共和国やベナン人民共和国、ソマリア民主共和国、社会主義エチオピア、1975年に一斉に独立した旧ポルトガル植民地のアンゴラ人民共和国、モザンビーク人民共和国など、クーデターを起こした軍人や独立戦争を成功させた党派がマルクス=レーニン主義を掲げていた少数の政権に留まったが、マルクス=レーニン主義によらない独自の社会主義を掲げた国家には、アルジェリア戦争でフランスに勝利して独立を達成したアルジェリアや、ドゥストゥール社会主義を掲げたチュニジア、ウジャマー社会主義を掲げたタンザニア、アフリカ合衆国の実現を目指した容共的なクワメ・ンクルマ政権のガーナなどの非同盟系の国家の他、ザイールのモブツ政権などの西側よりの国家も存在し、新たに独立した多くの国家がその成立理念に多種多様なアフリカ社会主義を掲げた。 ラテンアメリカでは1960年代にゲバラ主義に影響され、キューバに支援された農村ゲリラ部隊の蜂起が続いたが、チェ・ゲバラ自身が1967年にボリビアで戦死したことにより、ゲバラ主義に基づく農村ゲリラ組織は重大な挫折を来した。ゲバラの戦死後は、ブラジルやウルグアイ、アルゼンチンでカルロス・マリゲーラが標榜した都市ゲリラが勢力を伸ばし、1960年代末からペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード政権やボリビアのフアン・ホセ・トーレス政権など、クーデターによって社会主義を掲げる軍事政権が成立し、左翼ポプリスモ的な政策を採用した。また、チリでは1970年に人民連合が民主的な選挙(ただし選挙制度に不備があり、アジェンデの得票率は35%しかなく、与党である社会党を始めとする議席は最後まで50%を超えたことは無かった)によって勝利し、社会党からサルバドール・アジェンデ政権が成立したが、アジェンデ政権は1973年に陸軍のピノチェト将軍のクーデターによって崩壊した。同時期には南米南部諸国の都市ゲリラ部隊も各国の政府軍によって鎮圧され、1970年代の南米諸国は概して反共的な軍事政権によって支配されることになった。このほかに、ガイアナは英連邦の一員である立場を維持しながら、協同組合制を中心とする穏健な社会主義政策を採った。一方、コスタリカとパナマを除いた多くが保守的な独裁政権だった中央アメリカでは1979年にサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)がニカラグア革命を成功させ、反共的なソモサ王朝を滅ぼし、この革命は近隣のエルサルバドルにまで波及したが、アメリカ合衆国の中米反共政策によって中米紛争は拡大の一途を辿ったまま、最終的には敗北した。一方1980年代に民政移管が進んだ南アメリカ諸国では、軍事政権期に拡大した対外債務問題などから、積極的に新自由主義モデルへの転換が行われた。 1989年からの東欧革命によりソビエト社会主義共和国連邦や東欧の共産主義国家は崩壊した。 中華人民共和国・ベトナム・ラオスは、政治的には共産党一党独裁を堅持しながらも、経済政策では市場経済を導入し、一種の混合経済化が進んだ。また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は独自の「主体思想」を掲げ、鎖国的な軍事独裁体制を強固に堅持しており、1990年代には「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と発表した。このため、いわゆるソ連型社会主義の国家は既に存在しない。 日本では、日本共産党は以前からの自主独立路線を踏まえて1991年のソ連共産党の解散を「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」とし、2000年には党規約から「前衛党」規定を削除した。日本社会党は1996年に自社さ連立政権である村山内閣で、日米安保・自衛隊などを容認に転じ、1996年には社会民主党に改称した。これらの路線転換に反対して、左派からは新社会党が独立し、中間派・右派は民主党(初代)の結成に合流し、党勢は縮小したが、2006年の綱領ではプロレタリア独裁の字句が消え、2009年からは鳩山内閣の連立政権に参加した。2020年には、社会民主党が分裂し、一部が旧民主党系の(旧)立憲民主党と(旧)国民民主党の合流新党(新)立憲民主党に参加した。立憲民主党には、旧社会党の流れをくむ党内グループがサンクチュアリ、社会民主主義フォーラムの2つがある。2021年現在、旧社会党の流れをくむ政党は立憲民主党、社会民主党、新社会党の3つとなっている。 一方、ラテンアメリカではキューバの社会主義政権存続に加え、1990年代に加速された新自由主義による市場開放により、国内産業の壊滅や貧富差の拡大もあり、1990年代後半からベネズエラ、ボリビア、エクアドル、ニカラグアなどで21世紀の社会主義を標榜し、社会主義路線をとる国が続き、米州ボリバル同盟のような相互扶助国際組織を形成している。 また西ヨーロッパでは、社会民主主義者が「第三の道」といったスローガンを掲げてたびたび政権についている。東ヨーロッパでも社会民主主義政党に転身した旧共産党が新自由主義による貧富の拡大などを背景に政権に返り咲いている。 社会主義に対しては、多くの立場から多くの批評や批判がされてきている。ただしその内容の多くは、社会主義全般に対する批判よりも、特にマルクス主義(レーニン主義、スターリニズム、各国共産党など)に対する批判である場合がある。共産主義に反対する、いわゆる「反共」の主張は、共産主義以外の社会主義の立場によってなされる場合も多い。 以下では主な政治思想の立場からの代表的な批評・批判を記載する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "社会主義(しゃかいしゅぎ、英語: Socialism〈ソーシャリズム〉)は、個人主義・自由主義・資本主義・市場経済の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想・運動・体制を指す用語。広義には、社会を組織化することにより人々を支える制度であり、歴史的には空想的社会主義・社会改良主義・社会民主主義・無政府主義・サンディカリズム・共産主義・国家社会主義・国家共産主義などが含まれる。狭義には資本主義・個人主義・自由主義・私有制などの対語として冷戦時代から使用されている。社会主義と共産主義はほぼ同義の意味として扱われることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「社会」の語源はラテン語の「socius」(友人、同盟国などの意味)である。「社会主義」の語の最初の使用は諸説あるが、「自由、平等、友愛」の語を普及させたピエール・ルルーが1832年に「personnalite」(これはフランス語で、個人化、個別化、パーソナライズなどの意味)の対比語として記した「socialisme」(これはフランス語で、直訳では「社会化する主義」、社会主義)が最初とも言われており、ルルーは1834年には「個人主義と社会主義」と題した文書を発行した。他には1827年のアンリ・ド・サン=シモンなどの説があるが、いずれもフランス革命の流れの中で発生した。「社会主義」の語は、後の近代的な意味では色々な主張により使用された。", "title": "用語" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「社会主義」にはさまざまな定義や潮流がある。狭義には、生産手段の社会的共有と管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指す。広義には各種の社会改良主義、社会民主主義、無政府共産主義、国家社会主義、国家共産主義なども含めた総称である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "歴史的には、市民革命によって市民が基本的人権など政治的な自由と平等を獲得したが、資本主義の進展により少数の資本家と大多数の労働者などの貧富の差が拡大して固定化し、労働者の生活は困窮し社会不安が拡大したため、労働者階級を含めた経済的な平等と権利を主張したものとされる。市民革命と社会主義運動は、啓蒙思想と近代化では共通であるが、初期の資本主義が経済的には自由放任主義(夜警国家)を主張したのに対し、社会主義は市場経済の制限や廃止、計画経済、社会保障、福祉国家などを主張する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、社会主義を含む19世紀の社会改革運動は、生活環境改善などの物質的な側面だけでなく、理想社会(世俗的千年王国)の建設という主題を含む精神運動でもあり、同じ主題を持つ精神運動であった心霊主義と当初から密接な関係を持っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後にロシア革命が起こり、世界最初の社会主義国であるソ連が誕生した。第二次世界大戦後は社会主義陣営と自由主義陣営の間で冷戦や、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの代理戦争が続いた。西側諸国内でも資本主義勢力と社会主義勢力と社会民主主義勢力の対立が生まれ、東側諸国でもソ連型社会主義と自主管理社会主義の対立、中ソ対立などが起こった。一方で非共産主義諸国でも、西側諸国でのニューディール政策など混合経済化が進んだ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "共産党の一党独裁のもとに中央集権型の官僚制が構築されたソ連型社会主義は、ソ連から東欧、東アジア、中東やアフリカの一部に拡大したが、特にブレジネフ指導体制の成立後は停滞する。1989年には東欧革命が勃発、1991年にはソ連が崩壊し、ソ連型社会主義のイメージは世界的に失墜した。現在、共産党一党支配が続く中華人民共和国やベトナムは市場原理の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いており、経済発展が著しい。一方で、北朝鮮は市場原理の導入を拒否し、経済的には停滞している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "他方、社会民主主義と呼ばれる勢力は、第一次世界大戦後も共産主義者に批判されながらも西側諸国の議会で勢力を拡大した。イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などが代表的なヨーロッパの社会民主主義政党である。これらの政党は自由主義と民主主義を擁護し、ソ連型社会主義の独裁に対して批判的な態度をとり、第二次世界大戦後は社会主義インターナショナルを結成した。1980年代に新自由主義の台頭により一時党勢を後退させたが、市場原理に一定の評価を下した「第三の道」(ブレア)などの路線によって1990年代には勢力をもりかえし、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、北欧諸国などでは度々与党の座についている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、植民地から独立した第三世界では、社会主義を掲げる国々が多い。有名なのはインドであり、インド憲法には「インドは社会主義の国である」と明記されている。インドの西ベンガル州やケーララ州では度々インド共産党が州政府に選出されている。また、中東のイラクやシリア、リビアなどではアラブ社会主義のもとに一党支配がなされていたが、2003年のイラク戦争や2012年からのアラブの春によってこれらの独裁政権は崩壊したか、崩壊寸前である。また、キプロスやネパールでは共産党系の政党が与党となって国政を担っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "新自由主義に苦しめられた中南米諸国では、21世紀に入って社会主義政権の伸張が著しい。ベネズエラなどでは選挙を通じて社会主義を掲げる政権が成立し、社会主義路線を進めている。反米左派という点では、ベネズエラの路線は、キューバ、ニカラグア、エクアドルの諸政府と一致している。また、ブラジルでも一種の社会民主主義政党である労働党が政権を担当し、社会的公正と経済成長を同時に推進している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "主な潮流には以下がある。ただし各潮流の定義や範囲はさまざまな考えがあり、また時期によっても変化している。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "シャルル・フーリエ、アンリ・ド・サン=シモン、ロバート・オウエンらに代表される、初期の社会主義思想", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "社会民主主義は議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定する(反共主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義の立場を堅持しながら多党制を支持し暴力革命を否定した修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含む。国際組織に社会主義インターナショナルなどがある。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などが代表的。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "無政府主義は個人主義的な立場、自由主義的な立場、社会主義的な立場など多様な思想の総称だが、社会主義的な立場では権力の集中に反対して地域コミュニティや労働組合主義などを目指す。マルクス主義を権威主義と批判する。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "サンディカリスム(労働組合主義)は、コーポラティズム(共同体主義)の側面を持ち、労働組合がゼネストで資本主義体制を倒し、革命後は政府ではなく集産主義的な労働組合の連合による経済や社会の運営を目指す。より急進的で革命的な思想にアナルコサンディカリスムがある。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "共産主義は、産業の共有によって搾取も階級もない社会を目指す。フランス革命時のバブーフは「土地は万人のものである」として物品の配給による平等社会を目指し、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。なおマルクス・レーニン主義では、資本主義社会から共産主義社会に発展する中間の段階を「社会主義社会」とも呼ぶ。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、これまでの帝国主義諸国の植民地支配に対する民族運動が盛り上がった。先進資本主義諸国は植民地支配の利害と分かちがたく結びついていたため、反植民地の民族運動は社会主義的な傾向をもった。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国、ベトナム、ラオス、北朝鮮などではソ連型の社会主義政権が誕生した。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、ビルマではビルマ式社会主義が追求された。後述の宗教社会主義や国家社会主義の影響を受けているとみられる。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "インドは社会主義政党であるインド国民会議派の指導で独立を達成し、憲法に「インドは社会主義国家」と明記した。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "中東では1950年代~1960年代にアラブ社会主義が広まった。国有化など反植民地ナショナリズムの傾向を持つ。エジプトのナセル、リビアのカダフィーなどが代表的。また、イラクやシリアなどではアラブ社会主義政党(バアス党)による独裁政権が誕生した。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アフリカでは1960年の「アフリカの年」以降、急速に独立国が増えたが、社会主義国を名乗る国も多く、旧帝国主義諸国やアメリカと対立して内戦になるケースも多かった。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "宗教的社会主義は、宗教的価値観に基づく、あるいは宗教の要素を積極的に取り込んだ社会主義を言う。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "以下の意味で使用される。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "新左翼諸派の総称。ソ連型社会主義や各国の共産党や社会民主主義政党を既成左翼と批判する。多数の潮流・思想・党派があり、日本ではトロツキズムの第四インター、「反帝国主義・反スターリン主義」の革マル派と中核派、マルクス主義復権としてレーニン主義を否定する社青同解放派、その他アナキズム、毛沢東主義、構造改革派などがある。なおトロツキストや毛沢東派は、自己の潮流こそ正統のマルクス主義であるという認識から、「新左翼」と呼ばれることを嫌う場合が多い。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以下に挙げるものは、通常は「社会主義」とは呼ばれないが、社会主義的側面を持っているとも言われる。", "title": "潮流" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "社会主義の源流には、各民族のいわゆる原始共同体における、さまざまな共有や平等や相互扶助の形態が挙げられる(これらはマルクス主義では「原始共産制」とも呼ぶ)。私有財産の概念が浸透した近代以降も、入会権などの共同体による部分的な共有は認められている。またプラトンの哲人政治は、哲学者の独裁によって平和で平等な理想社会を目指し、最初の共産主義と呼ばれることもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近代的な形での社会主義や共産主義が登場するのは、18世紀後半から産業革命による近代化と、市場原理を掲げる自由放任型の資本主義が進展し、従来の共同体が破壊されて労働者階級となり、その階級の固定化や貧富の差の拡大、恒常的な貧困などの社会問題や社会不安が顕在化してきてからである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "18世紀後半より、後に「初期社会主義」(マルクス主義の立場からは空想的社会主義)と呼ばれる社会主義者が登場した。ロバート・オウエンは経営者の立場から労働者の幼児教育や協同組合を実践し、更に共産主義的な共同体を目指した。サン=シモンは産業階級(経営者および労働者)による富の生産を重視し、キリスト教の人道主義による貧者の救済を説いた。シャルル・フーリエは国家の暴力と革命の暴力の双方を疑問視し、国家の支配を受けない自給自足で効率的な協同社会を提唱した。イギリスのフェビアン協会は、後の社会民主主義や労働党の源流ともなった。これらは社会改良主義とも呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また1789年にフランス革命が勃発すると、多くの革命思想が登場した。バブーフは「土地は万人のもの」として、国家による物品の共同管理と平等な配給や、前衛分子による武装決起と階級独裁を主張し、後に「共産主義の先駆」とも呼ばれ、その思想はブランキや後のレーニンにも受け継がれた。ヴァイトリングは欧米の諸都市で労働者結社を実践し、いわゆるメシア共産主義を説いた。モーゼス・ヘスはヘーゲル左派の出身で貨幣廃止論などを唱えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方、社会主義者のうち、全ての権威を否定する立場は無政府主義(アナキズム)とも呼ばれる。フランスのプルードンは「財産とは盗奪である」として、あらゆる中央集権的組織に反対して「連合主義」を唱え、更にロシアのバクーニンやクロポトキンに受け継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1848年にヨーロッパ各地で起こった革命(1848年革命)では当初から労働者や社会主義者が参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カール・マルクスとエンゲルスは1848年に『共産党宣言』を執筆した。マルクス主義は、唯物史観と剰余価値説により、従来の社会主義が持っていた階級闘争や労働組合運動、政治運動についての理論に、資本主義の分析を理論的武器として提供し、ヨーロッパを始め全世界的規模で広範な影響力を持った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1862年にはヨーロッパの労働者と社会主義者の国際組織である第一インターナショナルが設立され、労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議した。しかし権威となったマルクスと、無政府主義者のバクーニンなどの反対派は相互に批判と除名を行い、第一インターナショナルは崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1871年にはパリ・コミューンにより、一時的ではあるが世界初の社会主義政権が誕生した。この際、革命歌である「インターナショナル」も誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "議会政治が発達してくると、労働者階級の支持を得た社会主義政党がドイツやイギリス、フランスなどで勢力を拡大した。ドイツでは世界で初めて議席を獲得した社会主義政党全ドイツ労働者協会が結成され、ビスマルクが、社会主義者鎮圧法と同時に、世界最初の社会保険を創設した。これは「飴と鞭」政策と呼ばれたが、その後のドイツや各国の社会保障制度の基礎ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1889年にはマルクス主義者を中心に第二インターナショナルが結成され、その中心的な存在となったドイツ社会民主党の内部から修正主義論争が発生した。ベルンシュタインらは議会制民主主義による平和革命を認めて「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を堅持すべきとするカウツキーらは「教条主義」と呼ばれたが、後にはカウツキーも合流して社会民主主義を体系化した。しかし1914年には第一次世界大戦が勃発し、各国の社会主義者が自国の戦争を支持したため、第二インターナショナルは崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本では、1901年には日本最初の社会主義政党である社会民主党が、1906年には日本最初の合法社会主義政党(無産政党)である日本社会党が結成された。キリスト教徒から社会主義者に転じた片山潜は普通選挙運動による「議会政策論」を説き、無政府主義やアナルコサンディカリスムの影響も受けた幸徳秋水はゼネストなどの「直接行動論」を主張したが、1910年の大逆事件(幸徳事件)などで弾圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦が勃発すると、ロシアとセルビアを除く交戦諸国の社会主義政党は祖国の戦争を支持した。ドイツ社会民主党は「城内平和」を主張し、フランスやベルギーの社会党は戦時内閣に参加した。他方、左派社会主義者たちは戦争反対を訴え、反戦活動を展開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1917年2月にはロシア革命が勃発し、同年10月にはレーニン、トロツキーたちのボルシェヴィキが指導する社会主義革命に発展した。レーニンは帝国主義論で「資本主義は延命のため、従来の自由市場経済から独占資本主義と帝国主義に移行している」として、帝国主義段階が資本主義社会の最後の段階であると主張していた。彼は職業革命家により構成される前衛党が労働者階級を指導し、社会主義を建設するべきだと訴えた。ロシアは革命軍と反革命軍との対立が高じて内戦状態になり、その過程で共産党(ボルシェヴィキ)による一党独裁体制に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1919年には共産主義の国際組織である第三インターナショナル(コミンテルン)が結成され、主要各国には支部でもある共産党が設立された。しかし1924年のレーニンの死後、実権を握ったスターリンは、マルクス・レーニン主義を定式化しながらも、「ファシズム勢力よりも社会民主主義勢力を優先して攻撃すべき」という社会ファシズム論や、「ソ連は一国でも社会主義社会建設ができる」という一国社会主義論を主張し、更には秘密警察や粛清による恐怖政治や個人崇拝を徹底した(スターリン主義)。トロツキーは、マルクス主義の世界革命論の立場からスターリンを批判したが、除名され、海外で第四インターナショナルを結成して反資本主義・反スターリン主義の運動を続けた(トロツキズム)が、暗殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "これに対してマルクス・レーニン主義やソ連型社会主義に反対する社会民主主義者は、1923年に反共主義を掲げる労働社会主義インターナショナル(社会主義インターナショナルの前身)を設立した。彼らは民主主義の価値を擁護し、民主主義をつうじて社会主義を実現するべきだと考えた。イギリス労働党、フランス社会党、ドイツ社会民主党などがこのインターナショナルに結集し、戦間期ヨーロッパの政治的支柱の一つになった。イギリスではラムゼイ・マクドナルドの労働党内閣、フランスではレオン・ブルムの人民戦線内閣が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本では1922年に、コミンテルン日本支部として非合法の第一次共産党が結成された。また非日本共産党系は労農派と呼ばれ、1926年には労働農民党が結成されたが、「天皇制は絶対主義で、現状は半封建主義」と規定して二段階革命論を主張する講座派と、「明治維新はブルジョワ革命で、現状は帝国主義」と規定して一段階革命論を主張する労農派の間で、日本資本主義論争が行われた。後に、講座派の理論は日本共産党に、労農派の理論は社会党左派や新左翼各派に受け継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1929年に世界大恐慌が発生すると、失業や貧困が「個人の努力の問題」だけでは無く、資本主義に内在する矛盾である事が明白となり、各国で社会主義・共産主義勢力が増大した。イギリス・フランス・アメリカなどではブロック経済化が進み、広大な植民地を持たず独自にはブロック経済を形成できないイタリア・ドイツ・スペインなどでは、民族主義と社会主義的な統制経済を取り入れたファシズムなどの軍国主義が台頭し、第二次世界大戦勃発の要因ともなった。日本では1937年の人民戦線事件を契機に社会主義者への弾圧が強まり、他方では北一輝の『日本改造法案大綱』の影響も受けて、昭和維新を掲げる皇道派が台頭した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また社会不安と社会主義への対抗のため、アメリカではニューディール政策、イギリスや北欧諸国では福祉国家政策などの、社会民主主義的な政策が推進された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は、ソ連に占領された地域を中心に、東欧や東アジアなどに次々と社会主義国家が誕生して衛星国とも呼ばれ、国際機関のコミンフォルムも創設された。ただしユーゴスラビアのチトーは、直接民主制を取り入れた独自の自主管理社会主義を採用し、ソ連型社会主義とは一定の距離を保った。また中国の毛沢東は、マルクス主義を指針としながらも、農民中心のゲリラ戦術を主張(毛沢東思想)し、1949年には国共内戦に勝利して社会主義政権を樹立した。これら社会主義陣営である東側諸国は、資本主義陣営である西側諸国と、冷戦や代理戦争を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "東側諸国の多くでは、ソ連と同様に重要産業の国有化や、五カ年計画などの計画経済、教育の無償化などが行われ、インフラ整備や近代化が推進され、一時は水爆開発や宇宙開発競争でも優位に立つなど「社会主義の優越性」が広く伝えられた。また「資本主義は戦争勢力、社会主義は平和勢力」、「資本主義の核兵器は侵略用、社会主義の核兵器は防衛用」などの主張も行われた(反核運動#反核運動の中立性も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "しかし1953年のスターリン死去後、1956年のスターリン批判と、続くハンガリー動乱では、各国の共産党や共産主義者に大きな衝撃を与えた。イタリアやスペインなど西ヨーロッパの共産党では、プロレタリア独裁を放棄し複数政党制を認めるユーロコミュニズムが広がった。日本共産党では親ソ派・親中派との論争や除名や分派を繰り返し、1960年代には自主独立路線を確立したが、同時に「既成左翼」を批判する多数の新左翼が勢力を広げた。また中国はソ連のフルシチョフによる平和共存路線を「修正主義」、ソ連は中国を「教条主義」や「極左冒険主義」と批判して中ソ対立が始まり、更に中国では大規模な権力闘争である文化大革命が開始され、各国共産党にも介入した。後の印パ戦争や中越戦争は、中ソ対立の代理戦争の側面もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本では戦後に再建された日本共産党は、当初は連合国軍を「解放軍」と規定し平和革命論も主張したが、コミンフォルムの意向を受けて、平和革命を批判し武装闘争を行った主流派の所感派と、対立する国際派などの対立や分裂を経由して、1955年の六全協で敵の出方論により武装闘争を棚上げし、二段階革命論 の自主独立路線に転換した。この転換とスターリン批判の影響で、多数の党員が新左翼各派に転じた。また非共産党系の合法社会主義勢力は日本社会党を結成したが、当初より労農派マルクス主義に基づき一段階革命論・平和革命論である日本型社会民主主義を掲げる社会党左派と、西欧型の社会民主主義を掲げた社会党右派が、対立・分裂や再統一を繰り返し、後には反共主義の西尾末広などが民主社会主義を掲げ民社党を結成し、更に構造改革主義(江田ビジョン)を主張した江田三郎が社会民主連合を結成した。また1970年の安保闘争、ベトナム反戦運動では多くの新左翼や市民団体も参加したが、新左翼各派や連合赤軍は内ゲバや武装闘争を続け孤立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1960年代の西ヨーロッパ諸国では、新左翼が勢力を伸ばし、ベトナム反戦を掲げた学生運動が盛んになった。特に毛沢東思想と文化大革命はフランスのゴダールやサルトルに大きな影響を与え、1968年革命が起きた。人民民主主義を掲げていた東ヨーロッパ諸国ではソ連離れが進み、チェコスロヴァキアでは1968年にプラハの春が勃発したが、この運動はハンガリー事件と同様にソ連軍によって弾圧された。また、チトー率いるユーゴスラビアは、チトー主義のもと非同盟諸国との関係を拡大した。1970年代には西ヨーロッパの共産党でユーロコミュニズム志向が強まる一方、東ヨーロッパ諸国でもソ連離れがさらに進んだ。1974年にヨーロッパ最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制がカーネーション革命によって崩壊したポルトガルでは、1976年に制定された新憲法に社会主義の建設を目指すことが盛り込まれるなど急進的な革命が進むかと思われたが、結局革命は穏健化し、社会主義体制は生まれないままヨーロッパ共同体に統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一方、第三世界では、1959年のキューバ革命、1954年から1962年までのアルジェリア戦争、1965年から1975年のベトナム戦争など、西側の植民地主義に反対する植民地解放戦争の側面が強い社会主義革命が発生した。また、インドなど社会主義的政策を掲げる国家や政府が増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1960年に「アフリカの年」を迎えたアフリカでは、共産主義(マルクス=レーニン主義)を掲げた国家は、コンゴ人民共和国やベナン人民共和国、ソマリア民主共和国、社会主義エチオピア、1975年に一斉に独立した旧ポルトガル植民地のアンゴラ人民共和国、モザンビーク人民共和国など、クーデターを起こした軍人や独立戦争を成功させた党派がマルクス=レーニン主義を掲げていた少数の政権に留まったが、マルクス=レーニン主義によらない独自の社会主義を掲げた国家には、アルジェリア戦争でフランスに勝利して独立を達成したアルジェリアや、ドゥストゥール社会主義を掲げたチュニジア、ウジャマー社会主義を掲げたタンザニア、アフリカ合衆国の実現を目指した容共的なクワメ・ンクルマ政権のガーナなどの非同盟系の国家の他、ザイールのモブツ政権などの西側よりの国家も存在し、新たに独立した多くの国家がその成立理念に多種多様なアフリカ社会主義を掲げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ラテンアメリカでは1960年代にゲバラ主義に影響され、キューバに支援された農村ゲリラ部隊の蜂起が続いたが、チェ・ゲバラ自身が1967年にボリビアで戦死したことにより、ゲバラ主義に基づく農村ゲリラ組織は重大な挫折を来した。ゲバラの戦死後は、ブラジルやウルグアイ、アルゼンチンでカルロス・マリゲーラが標榜した都市ゲリラが勢力を伸ばし、1960年代末からペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード政権やボリビアのフアン・ホセ・トーレス政権など、クーデターによって社会主義を掲げる軍事政権が成立し、左翼ポプリスモ的な政策を採用した。また、チリでは1970年に人民連合が民主的な選挙(ただし選挙制度に不備があり、アジェンデの得票率は35%しかなく、与党である社会党を始めとする議席は最後まで50%を超えたことは無かった)によって勝利し、社会党からサルバドール・アジェンデ政権が成立したが、アジェンデ政権は1973年に陸軍のピノチェト将軍のクーデターによって崩壊した。同時期には南米南部諸国の都市ゲリラ部隊も各国の政府軍によって鎮圧され、1970年代の南米諸国は概して反共的な軍事政権によって支配されることになった。このほかに、ガイアナは英連邦の一員である立場を維持しながら、協同組合制を中心とする穏健な社会主義政策を採った。一方、コスタリカとパナマを除いた多くが保守的な独裁政権だった中央アメリカでは1979年にサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)がニカラグア革命を成功させ、反共的なソモサ王朝を滅ぼし、この革命は近隣のエルサルバドルにまで波及したが、アメリカ合衆国の中米反共政策によって中米紛争は拡大の一途を辿ったまま、最終的には敗北した。一方1980年代に民政移管が進んだ南アメリカ諸国では、軍事政権期に拡大した対外債務問題などから、積極的に新自由主義モデルへの転換が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1989年からの東欧革命によりソビエト社会主義共和国連邦や東欧の共産主義国家は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "中華人民共和国・ベトナム・ラオスは、政治的には共産党一党独裁を堅持しながらも、経済政策では市場経済を導入し、一種の混合経済化が進んだ。また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は独自の「主体思想」を掲げ、鎖国的な軍事独裁体制を強固に堅持しており、1990年代には「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と発表した。このため、いわゆるソ連型社会主義の国家は既に存在しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本では、日本共産党は以前からの自主独立路線を踏まえて1991年のソ連共産党の解散を「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」とし、2000年には党規約から「前衛党」規定を削除した。日本社会党は1996年に自社さ連立政権である村山内閣で、日米安保・自衛隊などを容認に転じ、1996年には社会民主党に改称した。これらの路線転換に反対して、左派からは新社会党が独立し、中間派・右派は民主党(初代)の結成に合流し、党勢は縮小したが、2006年の綱領ではプロレタリア独裁の字句が消え、2009年からは鳩山内閣の連立政権に参加した。2020年には、社会民主党が分裂し、一部が旧民主党系の(旧)立憲民主党と(旧)国民民主党の合流新党(新)立憲民主党に参加した。立憲民主党には、旧社会党の流れをくむ党内グループがサンクチュアリ、社会民主主義フォーラムの2つがある。2021年現在、旧社会党の流れをくむ政党は立憲民主党、社会民主党、新社会党の3つとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "一方、ラテンアメリカではキューバの社会主義政権存続に加え、1990年代に加速された新自由主義による市場開放により、国内産業の壊滅や貧富差の拡大もあり、1990年代後半からベネズエラ、ボリビア、エクアドル、ニカラグアなどで21世紀の社会主義を標榜し、社会主義路線をとる国が続き、米州ボリバル同盟のような相互扶助国際組織を形成している。 また西ヨーロッパでは、社会民主主義者が「第三の道」といったスローガンを掲げてたびたび政権についている。東ヨーロッパでも社会民主主義政党に転身した旧共産党が新自由主義による貧富の拡大などを背景に政権に返り咲いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "社会主義に対しては、多くの立場から多くの批評や批判がされてきている。ただしその内容の多くは、社会主義全般に対する批判よりも、特にマルクス主義(レーニン主義、スターリニズム、各国共産党など)に対する批判である場合がある。共産主義に反対する、いわゆる「反共」の主張は、共産主義以外の社会主義の立場によってなされる場合も多い。", "title": "批評・批判" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "以下では主な政治思想の立場からの代表的な批評・批判を記載する。", "title": "批評・批判" } ]
社会主義は、個人主義・自由主義・資本主義・市場経済の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想・運動・体制を指す用語。広義には、社会を組織化することにより人々を支える制度であり、歴史的には空想的社会主義・社会改良主義・社会民主主義・無政府主義・サンディカリズム・共産主義・国家社会主義・国家共産主義などが含まれる。狭義には資本主義・個人主義・自由主義・私有制などの対語として冷戦時代から使用されている。社会主義と共産主義はほぼ同義の意味として扱われることもある。
{{脚注の不足|date=2018年10月}} {{社会主義}} '''社会主義'''(しゃかいしゅぎ、{{Lang-en|Socialism〈'''ソーシャリズム'''〉}})は、[[資本主義]]・[[市場経済]]の弊害に反対し、より[[平等主義|平等]]で[[社会的公正|公正]]な社会を目指す思想・運動・体制を指す用語<ref name="Oxford">The Oxford English Dictionary (1970年) C - 701p</ref>で、社会主義は、生産手段の社会的所有を特徴とし、さまざまな経済および社会システムを包含する政治哲学および運動である。広義には、社会を組織化することにより人々を支える制度であり、歴史的には[[空想的社会主義]]・[[社会改良主義]]・[[社会民主主義]]・[[無政府主義]]・[[サンディカリズム]]・[[共産主義]]などが含まれる{{Refnest|group="注"|name="Simon"|生産手段の共有化は社会主義に見られる大きな特徴であり、必須の条件のように語られることも多いが、後出の[[アンリ・ド・サン=シモン]]のようにそれを掲げていない思想家の例もある。[[エミール・デュルケーム]]は「社会主義とは、結局のところ経済生活をばそれを規制する中心的機関に結びつけることに帰着するのではないか」と述べている<ref>『社会主義およびサン‐シモン』邦訳:森博 恒星社厚生閣 ISBN 4-769-90190-9</ref>。この言葉に従うならば、社会を組織化することにより人々を支える制度は、例えば富の再分配だけであっても、社会主義の範疇に含めることができる。}}。狭義には[[資本主義]]・[[個人主義]]・[[自由主義]]・[[私有制]]などの対語として[[冷戦|冷戦時代]]から使用されている。社会主義と共産主義はほぼ同義の意味として扱われることもある<ref>{{Cite web|和書|title=共産主義とは? 社会主義・資本主義との違いを子どもにも分かりやすく説明 {{!}} HugKum(はぐくむ) |url=https://hugkum.sho.jp/167293 |website=hugkum.sho.jp |date=2020-10-13 |access-date=2022-07-08 |language=ja}}</ref>。 == 用語 == 「社会」の語源はラテン語の「{{lang|la|socius}}」(友人、[[同盟国]]などの意味)である。「社会主義」の語の最初の使用は諸説あるが、「[[自由、平等、友愛]]」の語を普及させた[[ピエール・ルルー]]が1832年に「{{lang|fr|personnalite}}」(これはフランス語で、個人化、個別化、[[パーソナライズ]]などの意味)の対比語として記した「{{lang|fr|socialisme}}」(これはフランス語で、直訳では「社会化する主義」、社会主義)が最初とも言われており<ref name="Oxford"/>、ルルーは[[1834年]]には「[[個人主義]]と社会主義」と題した文書を発行した。他には1827年の[[アンリ・ド・サン=シモン]]などの説があるが、いずれも[[フランス革命]]の流れの中で発生した。「社会主義」の語は、後の近代的な意味では色々な主張により使用された<ref name="Oxford"/>。 == 概要 == 「社会主義」にはさまざまな[[定義]]や[[潮流]]がある。狭義には、生産手段の社会的共有と管理を目指す[[共産主義]]、特に[[マルクス主義]]とその潮流を指す。広義には各種の[[社会改良主義]]、[[社会民主主義]]、[[無政府共産主義]]、[[国家社会主義]]、[[民族共産主義|国家共産主義]]なども含めた総称である。 歴史的には、[[市民革命]]によって市民が基本的人権など政治的な自由と平等を獲得したが、[[資本主義]]の進展により少数の[[資本家]]と大多数の[[労働者]]などの貧富の差が拡大して固定化し、労働者の生活は困窮し社会不安が拡大したため、[[労働者階級]]を含めた経済的な平等と権利を主張したものとされる。市民革命と社会主義運動は、[[啓蒙思想]]と[[近代化]]では共通であるが、初期の資本主義が経済的には[[レッセフェール|自由放任主義]]([[自由主義国家論|夜警国家]])を主張したのに対し、社会主義は[[市場経済]]の制限や廃止、[[計画経済]]、[[社会保障]]、[[福祉国家論|福祉国家]]などを主張する。 なお、社会主義を含む19世紀の社会改革運動は、生活環境改善などの物質的な側面だけでなく、理想社会(世俗的[[千年王国]])の建設という主題を含む精神運動でもあり、同じ主題を持つ精神運動であった[[心霊主義]]と当初から密接な関係を持っていた<ref>吉村正和 著 『心霊の文化史—スピリチュアルな英国近代』河出書房新社、2010年</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110008461068 稲垣伸一 著「理想国家建設の夢-ユートピア思想・スピリチュアリズムと社会改革運動」] 實踐英文學 63, 89-104, 2011-02-28</ref>。 [[第一次世界大戦]]後に[[ロシア革命]]が起こり、世界最初の[[社会主義国]]であるソ連が誕生した。[[第二次世界大戦]]後は社会主義陣営と自由主義陣営の間で[[冷戦]]や、[[朝鮮戦争]]、[[ベトナム戦争]]などの[[代理戦争]]が続いた。[[西側諸国]]内でも資本主義勢力と社会主義勢力と社会民主主義勢力の対立が生まれ、[[東側諸国]]でも[[ソ連型社会主義]]と[[自主管理社会主義]]の対立、[[中ソ対立]]などが起こった。一方で非共産主義諸国でも、西側諸国での[[ニューディール政策]]など[[混合経済]]化が進んだ。 [[共産党]]の[[一党独裁制|一党独裁]]のもとに[[中央集権]]型の[[官僚]]制が構築された[[ソ連型社会主義]]は、[[ソビエト連邦|ソ連]]から[[東ヨーロッパ|東欧]]、[[東アジア]]、[[中東]]や[[アフリカ]]の一部に拡大したが、特に[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]指導体制の成立後は停滞する。1989年には[[東欧革命]]が勃発、1991年には[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連が崩壊]]し、ソ連型社会主義のイメージは世界的に失墜した。現在、共産党一党支配が続く[[中華人民共和国]]や[[ベトナム]]は[[市場原理]]の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いており、[[経済発展]]が著しい。一方で、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]は市場原理の導入を拒否し、経済的には停滞している。 他方、[[社会民主主義]]と呼ばれる勢力は、第一次世界大戦後も共産主義者に批判されながらも西側諸国の議会で勢力を拡大した。[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]などが代表的なヨーロッパの社会民主主義政党である。これらの[[政党]]は[[自由主義]]と[[民主主義]]を擁護し、ソ連型社会主義の独裁に対して批判的な態度をとり、第二次世界大戦後は[[社会主義インターナショナル]]を結成した。1980年代に[[新自由主義]]の台頭により一時党勢を後退させたが、[[市場原理]]に一定の評価を下した「[[第三の道]]」(ブレア)などの路線によって1990年代には勢力をもりかえし、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[北ヨーロッパ|北欧]]諸国などでは度々[[与党]]の座についている。 また、[[植民地]]から独立した[[第三世界]]では、社会主義を掲げる国々が多い。有名なのは[[インド]]であり、[[インド憲法]]には「インドは社会主義の国である」と明記されている。インドの[[西ベンガル州]]や[[ケーララ州]]では度々[[インド共産党]]が州政府に選出されている。また、中東の[[イラク]]や[[シリア]]、[[リビア]]などでは[[アラブ社会主義]]のもとに一党支配がなされていたが、2003年の[[イラク戦争]]や2012年からの[[アラブの春]]によってこれらの独裁政権は崩壊したか、崩壊寸前である。また、[[キプロス]]や[[ネパール]]では共産党系の政党が与党となって国政を担っている。 新自由主義に苦しめられた[[中南米]]諸国では、21世紀に入って社会主義政権の伸張が著しい。[[ベネズエラ]]などでは選挙を通じて社会主義を掲げる[[政権]]が成立し、社会主義路線を進めている。[[反米]][[左翼|左派]]という点では、ベネズエラの路線は、[[キューバ]]、[[ニカラグア]]、[[エクアドル]]の諸政府と一致している。また、[[ブラジル]]でも一種の社会民主主義政党である[[労働党 (ブラジル)|労働党]]が政権を担当し、[[社会的公正]]と[[経済成長]]を同時に推進している。 == 潮流 == 主な潮流には以下がある。ただし各潮流の[[定義]]や[[範囲]]はさまざまな考えがあり、また時期によっても変化している。 {{社会民主主義}} === 空想的社会主義 === [[シャルル・フーリエ]]、[[アンリ・ド・サン=シモン]]、[[ロバート・オウエン]]らに代表される、初期の社会主義思想 === 社会民主主義 === [[社会民主主義]]は[[議会政治]]を通した民主的な変革を目指し、[[マルクス主義]]の[[暴力革命]]論を否定する([[反共主義]])。[[社会改良主義]]、[[民主社会主義]]などや、広義には[[マルクス主義]]の立場を堅持しながら[[多党制]]を支持し暴力革命を否定した[[修正主義]]、[[構造改革|構造改革主義]]、[[ユーロコミュニズム]]なども含む。[[国際]]組織に[[社会主義インターナショナル]]などがある。 [[イギリス労働党]]、[[フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]などが代表的。 === 無政府主義 === [[無政府主義]]は個人主義的な立場、自由主義的な立場、社会主義的な立場など多様な思想の総称だが、社会主義的な立場では権力の集中に反対して地域コミュニティや労働組合主義などを目指す。マルクス主義を[[権威主義]]と批判する。 === サンディカリスム === [[サンディカリスム]]([[労働組合]]主義)は、[[コーポラティズム]](共同体主義)の側面を持ち、労働組合が[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]で資本主義体制を倒し、革命後は政府ではなく[[集産主義]]的な労働組合の連合による経済や社会の運営を目指す。より急進的で革命的な思想に[[アナルコサンディカリスム]]がある。 {{共産主義のサイドバー}} === 共産主義 === {{main|共産主義}} [[共産主義]]は、産業の共有によって[[搾取]]も[[階級]]もない社会を目指す。[[フランス革命]]時の[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]は「土地は万人のものである」として物品の配給による平等社会を目指し、「共産主義の先駆」とも呼ばれる。なお[[マルクス・レーニン主義]]では、[[資本主義]]社会から共産主義社会に発展する中間の段階を「社会主義社会」とも呼ぶ。 {{マルクス主義}} ;[[マルクス主義]](科学的社会主義) : マルクス主義は[[カール・マルクス|マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]により展開された。従来の社会主義を「空想的社会主義」と批判し、[[唯物史観]]と[[剰余価値|剰余価値説]]による「科学的社会主義」を対置、共産主義革命は歴史の必然とした。1848年や1871年などの革命の経験から、[[議会制民主主義]]は[[ブルジョア民主主義]]として[[暴力革命]]と[[プロレタリア独裁]]を主張したが、19世紀後半にはマルクスは平和革命の可能性も認めており、エンゲルスは暴力革命が時代おくれとなったと述べている。「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者団結せよ]]」というプロレタリア国際主義に立つ。 ;[[マルクス・レーニン主義]] : マルクス・レーニン主義は、スターリンによって定式化された、「マルクス主義とレーニン主義の継承と発展」である。マルクス主義を基本としながらも[[帝国主義論]]により、[[職業革命家]]により構成される[[前衛党]]に指導された、反帝国主義と[[後進国]]革命を主張した。[[ロシア革命]]後も[[反革命]]勢力による[[反動]]に対抗するためとして[[一党独裁制]]を継続し、[[ソ連型社会主義]]の基礎となった。 {{トロツキズムのサイドバー}} ;[[トロツキズム]] : [[レフ・トロツキー|トロツキー]]によるマルクス主義理論。マルクスの[[世界革命論]]と後進国の革命理論である[[永続革命論]]を主張し、スターリンの[[一国社会主義論]]を批判した。なお各国共産党において、トロツキストの用語は、しばしば裏切り者の代名詞として用いられた。 {{スターリニズムのサイドバー}} ;[[スターリニズム|スターリン主義]] : [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の発想と実践の総称<ref group="注">スターリンは自らの立場を「マルクス・レーニン主義」と呼んだ。そのためスターリン主義は他称である。</ref>。[[世界革命論]]を批判して[[一国社会主義論]]を主張した。のちの[[スターリン批判]]では、その[[独裁]]・[[個人崇拝]]・[[国家主義]]・[[民族主義]]などが批判された。 {{毛沢東思想のサイドバー}} ;[[毛沢東思想]] : [[毛沢東]]を中心とした[[中国共産党]]の思想。特に[[文化大革命]]期の中国共産党の理論・主張をさす。マルクス・レーニン主義を掲げながらも、[[農民]]中心の[[ゲリラ]]戦術などによる武力革命方式を主張した。毛沢東主義とも呼ばれるが、これはあくまで他称であり、中国共産党の自己の理論の呼称は一貫して毛沢東思想である。ただし、文革期の[[紅衛兵]]などが毛沢東主義の呼称を使用した例がごく一部に存在している。 ;[[主体思想]] : 主体思想(チュチェ思想)は[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の独自の思想。当初はマルクス主義の発展と自称していたが、現在では「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と称している。 === 第三世界の社会主義 === 第二次世界大戦後、これまでの帝国主義諸国の植民地支配に対する民族運動が盛り上がった。先進資本主義諸国は植民地支配の利害と分かちがたく結びついていたため、反植民地の民族運動は社会主義的な傾向をもった。 中国、ベトナム、[[ラオス]]、北朝鮮などではソ連型の社会主義政権が誕生した。 また、[[ミャンマー|ビルマ]]では[[ビルマ式社会主義]]が追求された。後述の宗教社会主義や国家社会主義の影響を受けているとみられる。 インドは社会主義政党である[[インド国民会議派]]の指導で独立を達成し、憲法に「インドは社会主義国家」と明記した。 中東では1950年代~1960年代に[[アラブ社会主義]]が広まった。国有化など反植民地[[ナショナリズム]]の傾向を持つ。[[エジプト]]の[[ナセル]]、リビアの[[カダフィー]]などが代表的。また、イラクやシリアなどではアラブ社会主義政党([[バアス党]])による独裁政権が誕生した。 アフリカでは1960年の「[[アフリカの年]]」以降、急速に独立国が増えたが、社会主義国を名乗る国も多く、旧帝国主義諸国やアメリカと対立して内戦になるケースも多かった。 === 宗教的社会主義 === [[宗教社会主義|宗教的社会主義]]は、[[宗教]]的価値観に基づく、あるいは宗教の要素を積極的に取り込んだ社会主義を言う。 * [[キリスト教社会主義]] ** 19世紀[[英国]]ではじまった思想的系譜。[[イングランド国教会]]の改革運動の中で生まれ、のちに[[協同組合]]運動や[[福祉国家論]]を発展させる契機となった。 ** キリスト教社会主義は現在では中南米の[[解放の神学]]など。貧困や抑圧からの解放のためには、階級闘争を含む[[福音]]の実践が必要とする。 * [[仏教社会主義]] * [[イスラム教社会主義]] * [[ユダヤ教]]社会主義([[:en:Jewish left|ユダヤ教左派]]) === 国家社会主義 === {{main|国家社会主義}} 以下の意味で使用される。 *State Socialismの日本語訳。[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]の社会主義、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の社会保障政策、[[ソ連型社会主義]]など。 *National Socialismの日本語訳。[[国民社会主義]]とも訳され、更に社会主義制度庇護範囲を特定民族に狭めたのが[[民族社会主義]]とされる。民族社会主義の代表例としては[[国家社会主義ドイツ労働者党]]などの思想が挙げられる(詳細は、[[国家社会主義]]、[[全体主義]]、を参照の事)。 *日本の[[高畠素之]]、[[赤松克麿]]、あるいは[[北一輝]]などの思想。 === 新左翼 === [[新左翼]]諸派の総称。[[ソ連型社会主義]]や各国の[[共産党]]や[[社会民主主義]]政党を[[既成左翼]]と批判する。多数の潮流・思想・党派があり、日本では[[トロツキズム]]の[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インター]]、「反帝国主義・[[反スターリン主義]]」の[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]と[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]、[[マルクス主義]]復権として[[レーニン主義]]を否定する[[社青同解放派]]、その他[[アナキズム]]、[[毛沢東主義]]、[[構造改革派]]などがある。なおトロツキストや毛沢東派は、自己の潮流こそ正統のマルクス主義であるという認識から、「新左翼」と呼ばれることを嫌う場合が多い。 === その他 === 以下に挙げるものは、通常は「社会主義」とは呼ばれないが、社会主義的側面を持っているとも言われる。 ; 古代の土地公有制度 : 農耕地を全て公有とし、農民に均等分配して公平を図る[[唐]]の[[均田制]]や、[[奈良時代]]の[[班田収授法]]、[[インカ帝国]]の生産手段の公有(私有の禁止)制度は、専制政治の体制下においてのものであるが、社会主義との類似性が指摘される事が多い<ref name="Simon" group="注" />。 ; ケインズ主義 : [[ジョン・メイナード・ケインズ]]の提唱した[[ケインズ主義|ケインズ経済学]]は、国家による経済への介入など社会主義的要素を含み、それに反対する立場からは社会主義であるとして批判された。なお、マルクス経済学の立場からは、[[国家独占資本主義]]であるという批判がなされている。一般的には、資本主義と社会主義、自由経済と計画経済をミックスした[[混合経済]]とされる。 ; 日本型社会主義 : 戦後の日本は分権的特徴と中央集権的な特徴を兼ね備えた独特の混合経済体制を築き、経済学者の[[竹内靖雄]]などによって[[日本型社会主義]]と呼ばれる事がある。この場合「'''世界で最も成功した共産国'''」と賞賛または皮肉をもって呼ばれる事がある。 ; エコ社会主義 : [[アルテルモンディアリスム]]や[[反グローバリゼーション]]の立場から、[[緑の政治]]や[[エコロジー]]・[[環境主義]]と社会主義を融合させたイデオロギーである<ref>{{cite book |author=Kovel, J. |author2=Löwy, M. |title=An ecosocialist manifesto |year=2001}}</ref>。 : 詳細は[[:en:Eco-socialism|エコ社会主義]]を参照。 ; 協同組合運動 : [[協同組合]]運動は、空想的社会主義者である[[ロバート・オウエン]]の思想を源流とし、資本主義とは別形態の組織として協同組合を結成する、一種の社会主義運動である。産地直接契約など市場に左右されない生産や供給、組合員による生産参加や組織運営なども行われている。しかしながらオウエンの思想からやや現実に妥協し、非社会主義国家においても受け入れられている。その結果協同組合は、流通において私企業と提携、私企業を子会社に持つ、あるいは私企業が集まって協同組合を結成するなど、資本主義・自由市場と並存または補完し合う関係を構築している。 ; ナショナルトラスト運動 : [[ナショナルトラスト運動]]は、各国の[[ボランティア]]が共同の理念で広大な土地を購入し、利益を目的とせず、永続的に維持管理する面で、社会主義の側面を持っている。法的には[[私有財産]]であり[[観光資源]]としての側面もあるが、逆に[[国立公園]]化などの国有化と異なり政権によって民営化される恐れが無く、将来的にも私企業による経済活動を排除・規制できる。 == 歴史 == {{see also|社会民主主義|共産主義#歴史|社会主義国#歴史}} === 源流 === 社会主義の源流には、各民族のいわゆる原始[[共同体]]における、さまざまな[[共有]]や[[平等]]や相互扶助の形態が挙げられる(これらは[[マルクス主義]]では「[[原始共産制]]」とも呼ぶ)。[[私有財産]]の概念が浸透した[[近代]]以降も、[[入会権]]などの共同体による部分的な共有は認められている。また[[プラトン]]の[[哲人政治]]は、[[哲学者]]の[[独裁]]によって平和で平等な理想社会を目指し、最初の[[共産主義]]と呼ばれることもある。 === 初期社会主義 === 近代的な形での社会主義や共産主義が登場するのは、18世紀後半から[[産業革命]]による[[近代化]]と、[[市場原理]]を掲げる[[自由放任]]型の[[資本主義]]が進展し、従来の共同体が破壊されて[[労働者階級]]となり、その[[階級]]の固定化や[[貧富の差]]の拡大、恒常的な[[貧困]]などの[[社会問題]]や社会不安が顕在化してきてからである。 [[18世紀]]後半より、後に「初期社会主義」(マルクス主義の立場からは[[空想的社会主義]])と呼ばれる社会主義者が登場した。[[ロバート・オウエン]]は[[経営者]]の立場から労働者の幼児教育や[[協同組合]]を実践し、更に共産主義的な共同体を目指した。[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]は産業階級(経営者および労働者)による富の生産を重視し、[[キリスト教]]の[[人道主義]]による貧者の救済を説いた。[[シャルル・フーリエ]]は国家の暴力と革命の暴力の双方を疑問視し、国家の支配を受けない[[自給自足]]で効率的な協同社会を提唱した。イギリスの[[フェビアン協会]]は、後の[[社会民主主義]]や[[労働党 (イギリス)|労働党]]の源流ともなった。これらは[[社会改良主義]]とも呼ばれる。 また[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発すると、多くの革命思想が登場した。[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]は「土地は万人のもの」として、国家による物品の共同管理と平等な配給や、[[前衛党|前衛]]分子による武装決起と階級独裁を主張し、後に「共産主義の先駆」とも呼ばれ、その思想は[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]や後の[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]にも受け継がれた。[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング|ヴァイトリング]]は欧米の諸都市で労働者[[結社]]を実践し、いわゆるメシア共産主義を説いた。[[モーゼス・ヘス]]は[[ヘーゲル左派]]の出身で貨幣廃止論などを唱えた。 一方、社会主義者のうち、全ての権威を否定する立場は[[無政府主義]](アナキズム)とも呼ばれる。[[フランス]]の[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]は「財産とは盗奪である」として、あらゆる中央集権的組織に反対して「連合主義」を唱え、更に[[ロシア]]の[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]や[[ピョートル・クロポトキン|クロポトキン]]に受け継がれた。 1848年にヨーロッパ各地で起こった革命([[1848年革命]])では当初から労働者や社会主義者が参加した。 === マルクス主義と第一インターナショナル === [[カール・マルクス]]と[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は1848年に『[[共産党宣言]]』を執筆した。[[マルクス主義]]は、[[唯物史観]]と[[剰余価値説]]により、従来の社会主義が持っていた[[階級闘争]]や[[労働組合]]運動、政治運動についての理論に、資本主義の分析を理論的武器として提供し、[[ヨーロッパ]]を始め全世界的規模で広範な影響力を持った。 [[1862年]]にはヨーロッパの労働者と社会主義者の国際組織である[[第一インターナショナル]]が設立され、労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議した。しかし権威となったマルクスと、無政府主義者の[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]などの反対派は相互に批判と除名を行い、第一インターナショナルは崩壊した。 [[1871年]]には[[パリ・コミューン]]により、一時的ではあるが世界初の社会主義政権が誕生した。この際、[[革命歌]]である「[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]」も誕生した。 議会政治が発達してくると、労働者階級の支持を得た社会主義政党がドイツやイギリス、フランスなどで勢力を拡大した。[[ドイツ]]では世界で初めて議席を獲得した社会主義政党全ドイツ労働者協会が結成され、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]が、[[社会主義者鎮圧法]]と同時に、世界最初の[[社会保険]]を創設した。これは「[[飴と鞭]]」政策と呼ばれたが、その後のドイツや各国の[[社会保障|社会保障制度]]の基礎ともなった。 [[1889年]]にはマルクス主義者を中心に[[第二インターナショナル]]が結成され、その中心的な存在となった[[ドイツ社会民主党]]の内部から[[修正主義]]論争が発生した。[[エドゥアルト・ベルンシュタイン|ベルンシュタイン]]らは[[議会制民主主義]]による[[平和革命]]を認めて「修正主義」と呼ばれ、[[暴力革命]]や[[プロレタリア独裁]]を堅持すべきとする[[カール・カウツキー|カウツキー]]らは「[[教条主義]]」と呼ばれたが、後にはカウツキーも合流して[[社会民主主義]]を体系化した。しかし[[1914年]]には[[第一次世界大戦]]が勃発し、各国の社会主義者が自国の戦争を支持したため、第二インターナショナルは崩壊した。 [[日本]]では、[[1901年]]には日本最初の社会主義政党である[[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]]が、[[1906年]]には日本最初の合法社会主義政党([[無産政党]])である[[日本社会党 (1906)|日本社会党]]が結成された。[[キリスト教]]徒から社会主義者に転じた[[片山潜]]は[[普通選挙]]運動による「議会政策論」を説き、[[無政府主義]]や[[アナルコサンディカリスム]]の影響も受けた[[幸徳秋水]]は[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]などの「直接行動論」を主張したが、[[1910年]]の[[大逆事件]]([[幸徳事件]])などで弾圧された。 === 第一次世界大戦以降 === 第一次世界大戦が勃発すると、ロシアとセルビアを除く交戦諸国の社会主義政党は祖国の戦争を支持した。ドイツ社会民主党は「城内平和」を主張し、フランスやベルギーの社会党は戦時内閣に参加した。他方、左派社会主義者たちは戦争反対を訴え、反戦活動を展開した。 1917年2月にはロシア革命が勃発し、同年10月には[[レーニン]]、[[トロツキー]]たちの[[ボルシェヴィキ]]が指導する社会主義革命に発展した。レーニンは[[帝国主義論]]で「資本主義は延命のため、従来の[[自由市場経済]]から[[独占資本主義]]と[[帝国主義]]に移行している」として、帝国主義段階が資本主義社会の最後の段階であると主張していた。彼は[[職業革命家]]により構成される[[前衛党]]が労働者階級を指導し、社会主義を建設するべきだと訴えた。ロシアは革命軍と反革命軍との対立が高じて内戦状態になり、その過程で共産党(ボルシェヴィキ)による一党独裁体制に移行した。 [[1919年]]には共産主義の国際組織である[[コミンテルン|第三インターナショナル(コミンテルン)]]が結成され、主要各国には支部でもある共産党が設立された。しかし[[1924年]]のレーニンの死後、実権を握った[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、[[マルクス・レーニン主義]]を定式化しながらも、「[[ファシズム]]勢力よりも社会民主主義勢力を優先して攻撃すべき」という[[社会ファシズム論]]や、「ソ連は一国でも社会主義社会建設ができる」という[[一国社会主義論]]を主張し、更には[[秘密警察]]や[[粛清]]による恐怖政治や[[個人崇拝]]を徹底した([[スターリン主義]])。[[レフ・トロツキー|トロツキー]]は、マルクス主義の[[世界革命論]]の立場からスターリンを批判したが、除名され、海外で[[第四インターナショナル]]を結成して反資本主義・[[反スターリン主義]]の運動を続けた([[トロツキズム]])が、[[暗殺]]された。 これに対してマルクス・レーニン主義や[[ソ連型社会主義]]に反対する社会民主主義者は、[[1923年]]に[[反共主義]]を掲げる[[労働社会主義インターナショナル]](社会主義インターナショナルの前身)を設立した。彼らは民主主義の価値を擁護し、民主主義をつうじて社会主義を実現するべきだと考えた。[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]などがこのインターナショナルに結集し、戦間期ヨーロッパの政治的支柱の一つになった。イギリスでは[[ラムゼイ・マクドナルド]]の労働党内閣、フランスでは[[レオン・ブルム]]の人民戦線内閣が成立した。 日本では[[1922年]]に、コミンテルン日本支部として非合法の[[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]]が結成された。また非日本共産党系は[[労農派]]と呼ばれ、[[1926年]]には[[労働農民党]]が結成されたが、「[[天皇制]]は[[絶対主義]]で、現状は半[[封建主義]]」と規定して[[二段階革命論]]を主張する[[講座派]]と、「[[明治維新]]は[[ブルジョワ]]革命で、現状は[[帝国主義]]」と規定して[[一段階革命論]]を主張する[[労農派]]の間で、[[日本資本主義論争]]が行われた。後に、講座派の理論は[[日本共産党]]に、労農派の理論は[[社会党左派]]や[[新左翼]]各派に受け継がれた。 [[1929年]]に[[大恐慌|世界大恐慌]]が発生すると、失業や貧困が「個人の努力の問題」だけでは無く、資本主義に内在する矛盾である事が明白となり、各国で社会主義・共産主義勢力が増大した。[[イギリス]]・[[フランス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などでは[[ブロック経済]]化が進み、広大な植民地を持たず独自にはブロック経済を形成できない[[イタリア]]・[[ドイツ]]・[[スペイン]]などでは、[[民族主義]]と{{要出典範囲|社会主義的な[[統制経済]]|date=2010年2月}}を取り入れた[[ファシズム]]などの[[軍国主義]]が台頭し、[[第二次世界大戦]]勃発の要因ともなった。日本では[[1937年]]の[[人民戦線事件]]を契機に社会主義者への弾圧が強まり、他方では[[北一輝]]の『[[日本改造法案大綱]]』の影響も受けて、[[昭和維新]]を掲げる[[皇道派]]が台頭した。 また社会不安と社会主義への対抗のため、アメリカでは[[ニューディール政策]]、イギリスや[[北ヨーロッパ|北欧]]諸国では[[福祉国家論|福祉国家政策]]などの、社会民主主義的な政策が推進された。 === 第二次世界大戦以降 === [[第二次世界大戦]]後は、ソ連に占領された地域を中心に、[[東ヨーロッパ|東欧]]や[[東アジア]]などに次々と社会主義国家が誕生して[[衛星国]]とも呼ばれ、国際機関の[[コミンフォルム]]も創設された。ただし[[ユーゴスラビア]]の[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]は、[[直接民主制]]を取り入れた独自の[[自主管理社会主義]]を採用し、[[ソ連型社会主義]]とは一定の距離を保った。また[[中華人民共和国|中国]]の[[毛沢東]]は、マルクス主義を指針としながらも、[[農民]]中心の[[ゲリラ戦術]]を主張([[毛沢東思想]])し、[[1949年]]には[[国共内戦]]に勝利して社会主義政権を樹立した。これら社会主義陣営である[[東側諸国]]は、資本主義陣営である[[西側諸国]]と、[[冷戦]]や[[代理戦争]]を続けた。 東側諸国の多くでは、ソ連と同様に重要産業の[[国有化]]や、[[五カ年計画]]などの[[計画経済]]、教育の無償化などが行われ、[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備や[[近代化]]が推進され、一時は[[水素爆弾|水爆]]開発や[[宇宙開発競争]]でも優位に立つなど「社会主義の優越性」が広く伝えられた。また「資本主義は戦争勢力、社会主義は平和勢力」、「資本主義の[[核兵器]]は[[侵略]]用、社会主義の核兵器は防衛用」などの主張も行われた([[反核運動#反核運動の中立性]]も参照)。 しかし[[1953年]]のスターリン死去後、[[1956年]]の[[スターリン批判]]と、続く[[ハンガリー動乱]]では、各国の共産党や共産主義者に大きな衝撃を与えた。[[イタリア]]や[[スペイン]]など[[西ヨーロッパ]]の共産党では、[[プロレタリア独裁]]を放棄し[[複数政党制]]を認める[[ユーロコミュニズム]]が広がった。[[日本共産党]]では親ソ派・親中派との論争や除名や分派を繰り返し、[[1960年代]]には[[自主独立路線]]を確立したが、同時に「[[既成左翼]]」を批判する多数の[[新左翼]]が勢力を広げた。また中国はソ連の[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]による[[平和共存]]路線を「[[修正主義]]」、ソ連は中国を「[[教条主義]]」や「[[極左]]冒険主義」と批判して[[中ソ対立]]が始まり、更に中国では大規模な権力闘争である[[文化大革命]]が開始され、各国共産党にも介入した。後の[[印パ戦争]]や[[中越戦争]]は、中ソ対立の代理戦争の側面もある。 日本では戦後に再建された[[日本共産党]]は、当初は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍を「解放軍」と規定し[[平和革命]]論も主張したが、[[コミンフォルム]]の意向を受けて、平和革命を批判し[[武装闘争]]を行った主流派の[[所感派]]と、対立する[[国際派 (日本共産党)|国際派]]などの対立や分裂を経由して、[[1955年]]の[[日本共産党第6回全国協議会|六全協]]で[[敵の出方論]]により武装闘争を棚上げし、[[二段階革命論]]<ref>[http://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/ 日本共産党綱領]</ref> の[[自主独立路線]]に転換した。この転換とスターリン批判の影響で、多数の党員が[[新左翼]]各派に転じた。また非共産党系の合法社会主義勢力は[[日本社会党]]を結成したが、当初より[[労農派]]マルクス主義に基づき[[一段階革命論]]・[[平和革命]]論である[[日本型社会民主主義]]を掲げる[[社会党左派]]と、西欧型の社会民主主義を掲げた[[社会党右派]]が、対立・分裂や[[社会党再統一|再統一]]を繰り返し、後には[[反共主義]]の[[西尾末広]]などが[[民主社会主義]]を掲げ[[民社党]]を結成し、更に[[構造改革]]主義([[江田ビジョン]])を主張した[[江田三郎]]が[[社会民主連合]]を結成した。また1970年の[[安保闘争]]、[[ベトナム反戦運動]]では多くの新左翼や市民団体も参加したが、新左翼各派や[[連合赤軍]]は[[内ゲバ]]や武装闘争を続け孤立した。 1960年代の西ヨーロッパ諸国では、[[新左翼]]が勢力を伸ばし、[[ベトナム反戦運動|ベトナム反戦]]を掲げた[[学生運動]]が盛んになった。特に[[毛沢東思想]]と[[文化大革命]]はフランスの[[ジャン=リュック・ゴダール|ゴダール]]や[[サルトル]]に大きな影響を与え、[[五月革命 (フランス)|1968年革命]]が起きた。[[人民民主主義]]を掲げていた東ヨーロッパ諸国ではソ連離れが進み、[[チェコスロヴァキア]]では1968年に[[プラハの春]]が勃発したが、この運動はハンガリー事件と同様にソ連軍によって弾圧された。また、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]率いる[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]は、[[チトー主義]]のもと非同盟諸国との関係を拡大した。1970年代には西ヨーロッパの共産党でユーロコミュニズム志向が強まる一方、東ヨーロッパ諸国でもソ連離れがさらに進んだ。1974年にヨーロッパ最長の独裁体制となっていた[[エスタド・ノヴォ]]体制が[[カーネーション革命]]によって崩壊した[[ポルトガル]]では、1976年に制定された新憲法に社会主義の建設を目指すことが盛り込まれるなど急進的な革命が進むかと思われたが、結局革命は穏健化し、社会主義体制は生まれないまま[[ヨーロッパ共同体]]に統合された。 一方、[[第三世界]]では、[[1959年]]の[[キューバ革命]]、1954年から1962年までの[[アルジェリア戦争]]、[[1965年]]から[[1975年]]の[[ベトナム戦争]]など、西側の[[植民地主義]]に反対する植民地解放戦争の側面が強い社会主義革命が発生した。また、[[インド]]など社会主義的政策を掲げる国家や政府が増加した。 1960年に「[[アフリカの年]]」を迎えた[[アフリカ]]では、共産主義([[マルクス=レーニン主義]])を掲げた国家は、[[コンゴ人民共和国]]や[[ベナン人民共和国]]、[[ソマリア民主共和国]]、[[社会主義エチオピア]]、1975年に一斉に独立した[[ポルトガル語公用語アフリカ諸国|旧ポルトガル植民地]]の[[アンゴラ人民共和国]]、[[モザンビーク人民共和国]]など、クーデターを起こした軍人や独立戦争を成功させた党派がマルクス=レーニン主義を掲げていた少数の政権に留まったが、マルクス=レーニン主義によらない独自の社会主義を掲げた国家には、[[アルジェリア戦争]]でフランスに勝利して独立を達成した[[アルジェリア]]や、ドゥストゥール社会主義を掲げた[[チュニジア]]、ウジャマー社会主義を掲げた[[タンザニア]]、アフリカ合衆国の実現を目指した容共的な[[クワメ・ンクルマ]]政権の[[ガーナ]]などの[[非同盟]]系の国家の他、[[ザイール]]の[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]政権などの西側よりの国家も存在し、新たに独立した多くの国家がその成立理念に多種多様な[[アフリカ社会主義]]を掲げた。 [[ラテンアメリカ]]では1960年代にゲバラ主義に影響され、[[キューバ]]に支援された農村ゲリラ部隊の蜂起が続いたが、[[チェ・ゲバラ]]自身が1967年に[[ボリビア]]で戦死したことにより、ゲバラ主義に基づく農村ゲリラ組織は重大な挫折を来した。ゲバラの戦死後は、[[ブラジル]]や[[ウルグアイ]]、[[アルゼンチン]]で[[カルロス・マリゲーラ]]が標榜した都市ゲリラが勢力を伸ばし、1960年代末から[[ペルー]]の[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]政権やボリビアのフアン・ホセ・トーレス政権など、[[クーデター]]によって社会主義を掲げる[[軍事政権]]が成立し、左翼[[ポピュリズム|ポプリスモ]]的な政策を採用した。また、[[チリ]]では1970年に人民連合が民主的な選挙(ただし選挙制度に不備があり、アジェンデの得票率は35%しかなく、与党である社会党を始めとする議席は最後まで50%を超えたことは無かった)によって勝利し、[[チリ社会党|社会党]]から[[サルバドール・アジェンデ]]政権が成立したが、アジェンデ政権は1973年に[[チリ陸軍|陸軍]]の[[アウグスト・ピノチェト|ピノチェト]]将軍のクーデターによって崩壊した。同時期には[[コーノ・スール|南米南部]]諸国の都市ゲリラ部隊も各国の政府軍によって鎮圧され、1970年代の南米諸国は概して反共的な軍事政権によって支配されることになった。このほかに、[[ガイアナ]]は[[英連邦]]の一員である立場を維持しながら、[[協同組合]]制を中心とする穏健な社会主義政策を採った。一方、[[コスタリカ]]と[[パナマ]]を除いた多くが保守的な独裁政権だった[[中央アメリカ]]では1979年に[[サンディニスタ民族解放戦線]](FSLN)が[[ニカラグア革命]]を成功させ、反共的な[[ソモサ王朝]]を滅ぼし、この革命は近隣の[[エルサルバドル]]にまで波及したが、アメリカ合衆国の中米反共政策によって[[中米紛争]]は拡大の一途を辿ったまま、最終的には敗北した。一方1980年代に民政移管が進んだ南アメリカ諸国では、軍事政権期に拡大した[[対外債務]]問題などから、積極的に[[新自由主義]]モデルへの転換が行われた。 === ソ連崩壊後 === [[1989年]]からの[[東欧革命]]により[[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]の共産主義国家は崩壊した。 中華人民共和国・ベトナム・ラオスは、政治的には共産党一党独裁を堅持しながらも、経済政策では[[市場経済]]を導入し、一種の[[混合経済]]化が進んだ。また[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)は独自の「[[主体思想]]」を掲げ、鎖国的な軍事独裁体制を強固に堅持しており、[[1990年代]]には「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と発表した。このため、いわゆる[[ソ連型社会主義]]の国家は既に存在しない<ref group="注">非公式には[[モルドバ]]の一部である[[沿ドニエストル共和国]]がロシアの影響下にて事実上のソ連型社会主義を維持している。ただし、国際社会において、同国を承認している国は存在しない。</ref>。 日本では、[[日本共産党]]は以前からの自主独立路線を踏まえて[[1991年]]の[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の解散を「大国主義・[[覇権主義]]の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する」とし、[[2000年]]には党規約から「[[前衛党]]」規定を削除した。[[日本社会党]]は[[1996年]]に[[自社さ連立政権]]である[[村山内閣]]で、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保]]・[[自衛隊]]などを容認に転じ、[[1996年]]には[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]に改称した。これらの路線転換に反対して、左派からは[[新社会党]]が独立し、中間派・右派は[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党(初代)]]の結成に合流し、党勢は縮小したが、[[2006年]]の綱領では[[プロレタリア独裁]]の字句が消え、[[2009年]]からは[[鳩山由紀夫内閣|鳩山内閣]]の[[連立政権]]に参加した。[[2020年]]には、社会民主党が分裂し、一部が旧民主党系の[[立憲民主党 (日本 2017)|(旧)立憲民主党]]と[[国民民主党 (日本 2018)|(旧)国民民主党]]の合流新党[[立憲民主党 (日本 2020)|(新)立憲民主党]]に参加した。立憲民主党には、旧社会党の流れをくむ党内グループが[[サンクチュアリ (立憲民主党のグループ)|サンクチュアリ]]、[[社会民主主義フォーラム]]の2つがある。[[2021年]]現在、旧社会党の流れをくむ政党は立憲民主党、社会民主党、新社会党の3つとなっている。 一方、ラテンアメリカでは[[キューバ]]の社会主義政権存続に加え、[[1990年代]]に加速された[[新自由主義]]による市場開放により、国内産業の壊滅や貧富差の拡大もあり、1990年代後半から[[ベネズエラ]]、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[ニカラグア]]などで[[21世紀の社会主義]]を標榜し、社会主義路線をとる国が続き、[[米州ボリバル同盟]]のような相互扶助国際組織を形成している。 また西ヨーロッパでは、社会民主主義者が「第三の道」といったスローガンを掲げてたびたび政権についている。東ヨーロッパでも[[社会民主主義]]政党に転身した旧[[共産党]]が[[新自由主義]]による貧富の拡大などを背景に政権に返り咲いている。 == 批評・批判 == {{main|反共主義|マルクス主義批判|反レーニン主義|反スターリン主義}} 社会主義に対しては、多くの立場から多くの批評や批判がされてきている。ただしその内容の多くは、社会主義全般に対する批判よりも、特に[[マルクス主義]]([[レーニン主義]]、[[スターリニズム]]、各国[[共産党]]など)に対する批判である場合がある。共産主義に反対する、いわゆる「反共」の主張は、共産主義以外の社会主義の立場によってなされる場合も多い。 以下では主な政治思想の立場からの代表的な批評・批判を記載する。 *[[アナキズム]]は権力が全廃された社会を目指す立場から、特に[[マルクス主義]]や[[レーニン主義]]などの[[プロレタリア独裁]]や[[前衛党]]、あるいは既存の[[社会主義国]]の[[国家主義]]や中央集権的な官僚制などを[[権威主義]]であると批判している。ただし[[社会的無政府主義]]は社会主義との共通点が多く、逆に[[個人主義的無政府主義]]は[[リバタリアニズム]]との共通点が多い。 *[[自由主義]]は、基本的には[[自由市場]]を基本とした自由主義経済である[[資本主義]]を支持する。しかし[[社会的公正]]を重視する[[リベラル]]とも呼ばれる[[社会自由主義]]は、特に[[民主社会主義]]との共通点が多い。逆に[[レッセフェール]]や[[個人主義]]を重視するリバタリアニズムや[[新自由主義]]は、あらゆる社会主義を[[私的所有権]]を侵害する[[集産主義]]であるとして反対している。 *多くの[[保守]]主義者は、伝統的な社会階層や文化の継続性を重視する立場から、[[啓蒙主義]]的な[[近代化]]や[[平等主義]]を進める社会主義への反発が存在している。多くの[[ナショナリズム|ナショナリスト]]や[[ファシズム|ファシスト]]は、[[国家]]や[[民族]]の独立性と団結を重視する立場から、特にマルクス主義の[[階級闘争]]や[[国際主義]]などへの反発が存在している。多くの[[宗教]]の立場からは、多くの社会主義が持つ[[啓蒙主義]]的な[[近代化]]への嫌悪や、特にマルクス主義の[[唯物論]]や[[唯物史観]]への反発が存在する。 *そのほか、多くの[[民主主義]]や[[人権]]、[[平和]]、[[環境]]などの立場から、特にマルクス主義や[[ボリシェヴィキ|ボリシェヴィキズム]]の[[プロレタリア独裁]]や[[一党独裁]]、あるいは既存の[[社会主義国]]に見られた[[大量虐殺]]、[[粛清]]、[[秘密警察]]、[[検閲]]、[[強制収容所]]などを含む、[[全体主義]]とも呼ばれる大規模な[[基本的人権]]の侵害や[[軍国主義]]、更には[[ノーメンクラトゥーラ]]などの特権階級による官僚主義や[[汚職]]、産業優先による環境への軽視などへ反発が存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * マックス・ウェーバー(浜島朗 訳)『社会主義』(講談社学術文庫) * フリードヒリ・A・ハイエク(一谷藤一郎/一谷映理子 訳)『隷従への道』(東京創元社) * フランシス・フクヤマ([[渡部昇一]] 訳)『歴史の終わり』上下(三笠書房) * ジョルジュ・ブールジャン、ピエール・ランベール(船越章・富永利彦 訳)『社会主義』(『文庫クセジュ』)、白水社、1953年10月(Georges Bourgin, Pierre Rimbert, ''Le Socialisme'', "Que Sais-Je? 387", Presse Universitaires de France, 1949.) * カール・マルクス(社会科学研究所 監修/資本論翻訳委員会 訳)『[新書版] 資本論』(新日本出版社 1989) * G・リヒトハイム(庄司興吉訳)『社会主義小史』、みすず書房、1979年6月(George Lichtheim, ''A Short History of Socialism'', Praeger, 1970.) * シャルル・フーリエ(巖谷國士 訳)『四運動の理論』(現代思潮新社) * 柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書) * エセキエル・アダモフスキ(伊香祝子 訳)『まんが 反資本主義入門』(明石書店)」 *コーン、ノーマン 『千年王国の追求』紀伊國屋書店、1978年。無政府主義的共産主義及千年王国の明らかな歴史主義について == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[社会主義国]] * [[東側諸国]] * [[社会党]] * [[共産主義]] * [[共産党]] * [[インターナショナル (社会主義)]] * [[大きな政府]] * [[社会愛国主義]] * [[社会帝国主義]] * [[日本型社会民主主義]] * [[社会主義理論学会]] * [[社会主義市場経済]] *[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]] *[[ヴィッサリオン・ベリンスキー]] *[[アレクサンドル・ゲルツェン]] *[[カール・マルクス]] *[[ニコライ・チェルヌイシェフスキー]] *[[ゲオルギー・プレハーノフ]] *[[ウラジーミル・レーニン]] *[[イスクラ]] }} == 外部リンク == * [http://sost.que.jp/ 社会主義理論学会] * {{Kotobank}} {{政治思想}} {{社会哲学と政治哲学}} {{各国の社会主義}} {{反戦}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやかいしゆき}} [[Category:社会主義|*]] [[Category:19世紀のヨーロッパ]] 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津軽海峡線
津軽海峡線(つがるかいきょうせん)は、青函トンネルを経て青森県青森市の青森駅と北海道函館市の函館駅を結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)および東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線に付けられていた愛称。以下の路線から構成されていた。 津軽海峡で隔てられた本州の青森駅と北海道の函館駅との間には鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、運輸省に1946年(昭和21年)2月、非公式の「津軽海峡連絡隧道委員会」が設置されてより陸上部、海底部の地質調査を長年に亘り行ない、1953年(昭和28年)8月に建設予定線に追加された。1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入したり、台風接近下に誤った気象判断によって出航して遭難した洞爺丸事故など、航路の安定が脅かされる事態が相次いで発生した。これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして青函トンネルが建設されることとなった。1961年(昭和36年)5月に調査線に編入、1970年(昭和45年)に工事線に指定され、翌年9月27日運輸大臣の認可と同年11月に本州北海道両側において本工事の起工式を行ない本格着工となった。 当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され、建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いをのぞけば、自動列車制御装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており(東北新幹線はのちに全線DS-ATCへ移行したため、東北新幹線とのATCの互換性はなくなった)、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。 1988年(昭和63年)3月13日に青函トンネルが開業し、本州側の津軽線、青函トンネルを通る海峡線、北海道側の江差線・函館本線(五稜郭 - 函館間)からなる青森駅と函館駅を結ぶ路線群に「津軽海峡線」の愛称が付けられた。以後は北海道と本州との旅客・貨物輸送に重要な役割を果たしており、旅客列車に加えて1日に上下50本の貨物列車が設定されている。 単線区間(津軽線および江差線)上にある列車交換可能駅及び信号場は貨物列車との待ち合わせを考慮し、旅客ホームの有効長は青函トンネル開業以前のまま構内待避線の有効長が延伸されている。 2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線の開業に伴い、海峡線区間の架線電圧の20kVから25kVへの昇圧や自動列車制御装置のDS-ATCへの変更といった設備更新がされ、在来線専用の電車・電気機関車は走行できなくなり、特急や寝台列車は新幹線開業と同時にすべて廃止され、津軽海峡を通過する在来線定期旅客列車は消滅した。海峡線区間の定期旅客列車は新幹線のみの運行となり、これにあわせて「津軽海峡線」の愛称も廃止された。また、江差線の区間も新幹線開業に伴い、第三セクター鉄道化され道南いさりび鉄道線となった。 この一覧は「津軽海峡線」としての営業終了時点(2016年3月21日。北海道新幹線新青森駅 - 新函館北斗駅間の開業前)のデータである。
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津軽海峡線(つがるかいきょうせん)は、青函トンネルを経て青森県青森市の青森駅と北海道函館市の函館駅を結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)および東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線に付けられていた愛称。以下の路線から構成されていた。 津軽線からの海峡線の実際の分岐点は新中小国信号場で、中小国駅 - 新中小国信号場間はJR東日本の津軽線とJR北海道の海峡線の重複区間である。
{{Otheruses|鉄道路線|動植物分布の境界線|ブラキストン線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo JRgroup.svg|35px|link=JR]] 津軽海峡線 |画像= |画像サイズ= |画像説明= |国= {{JPN}} |所在地= [[青森県]]、[[北海道]] |起点=[[青森駅]] |終点=[[函館駅]] |駅数=27駅 |経由路線=[[津軽線]]、[[海峡線]]([[北海道新幹線]])、[[江差線]]、[[函館本線]] |開業=[[1988年]][[3月13日]] |廃止=[[2016年]][[3月25日]](愛称廃止) |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br>[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)<br>[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] |運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br>北海道旅客鉄道(JR北海道) |路線距離=160.8 km |軌間=1,067 mm([[狭軌]]) |線路数=[[単線]](青森駅 - 新中小国信号場間、木古内駅 - 五稜郭駅間)<br />[[複線]](新中小国信号場 - 木古内駅間、五稜郭駅 - 函館駅間) |電化方式=[[交流電化|交流]]20,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] [[架空電車線方式]] |最高速度= |路線図=[[File:JR Kaikyo Line linemap.svg|200px]]<br />赤線と青線を合わせたものが津軽海峡線 }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header|経路図}} {{BS-table}} {{BS|KBHFa|0.0|[[青森駅]]||}} {{BS|LSTR|||[[津軽線]]を参照|}}| {{BS|BHF|O1=GRZq|31.4|[[中小国駅]]|↑[[東日本旅客鉄道|JR東]]/[[北海道旅客鉄道|JR北]]↓}} {{BS|DST|33.7|[[新中小国信号場]]|実際の海峡線の分岐点}} {{BS|LSTR|||[[海峡線]]を参照|}} {{BS|LSTR||海峡線|[[津軽海峡]]}} {{BS|BHF|119.2|[[木古内駅]]|}} {{BS|LSTR|||[[江差線]]を参照|}} {{BS|BHF|157.0|[[五稜郭駅]]|}} {{BS|LSTR|||[[函館本線]]を参照|}} {{BS|KBHFe|160.4|[[函館駅]]|}} |} |} '''津軽海峡線'''(つがるかいきょうせん)は、[[青函トンネル]]を経て[[青森県]][[青森市]]の[[青森駅]]と[[北海道]][[函館市]]の[[函館駅]]を結ぶ、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)および[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]に付けられていた[[愛称]]。以下の路線から構成されていた。 ; JR東日本 :* [[津軽線]]:青森駅 - [[中小国駅]]([[単線]]) ; JR北海道 :* [[海峡線]]:中小国駅 - [[木古内駅]]([[複線]]) :* [[江差線]]:木古内駅 - [[五稜郭駅]](単線) :* [[函館本線]]:五稜郭駅 - 函館駅(複線) * 津軽線からの海峡線の実際の分岐点は[[新中小国信号場]]で、中小国駅 - 新中小国信号場間はJR東日本の津軽線とJR北海道の海峡線の重複区間である。 == 概要 == [[津軽海峡]]で隔てられた[[本州]]の青森駅と[[北海道]]の函館駅との間には[[鉄道連絡船]]として、[[日本国有鉄道]](国鉄)により'''[[青函航路]]([[青函連絡船]])'''が運航されていた。しかし、[[運輸省]]に[[1946年]](昭和21年)2月、非公式の「津軽海峡連絡隧道委員会」が設置されてより陸上部、海底部の地質調査を長年に亘り行ない、[[1953年]](昭和28年)8月に建設予定線に追加された。[[1950年代]]には、[[朝鮮戦争]]によるものと見られる浮流[[機雷]]がしばしば津軽海峡に流入したり、[[台風]]接近下に誤った気象判断によって出航して遭難した[[洞爺丸事故]]など、航路の安定が脅かされる事態が相次いで発生した。これらを受けて、[[太平洋戦争]]前からあった本州と北海道を[[トンネル]]で結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして[[青函トンネル]]が建設されることとなった。[[1961年]](昭和36年)5月に調査線に編入、[[1970年]](昭和45年)に工事線に指定され、翌年9月27日[[運輸大臣]]の認可と同年11月に本州北海道両側において本工事の起工式を行ない本格着工となった。 当初は[[在来線]]規格での設計であったが、[[整備新幹線]]計画に合わせて[[新幹線]]規格に変更され、建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、[[軌間]]や架線電圧の違いをのぞけば、[[自動列車制御装置]](ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており(東北新幹線はのちに全線[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]へ移行したため、東北新幹線とのATCの互換性はなくなった)、のちに考案される[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]の原型となった。 [[1988年]]([[昭和]]63年)[[3月13日]]に青函トンネルが開業し、本州側の津軽線、青函トンネルを通る海峡線、北海道側の江差線・函館本線(五稜郭 - 函館間)からなる青森駅と函館駅を結ぶ路線群に「津軽海峡線」の愛称が付けられた。以後は北海道と本州との旅客・貨物輸送に重要な役割を果たしており、旅客列車に加えて1日に上下50本の[[貨物列車]]が設定されている。 [[単線]]区間(津軽線および江差線)上にある[[列車交換]]可能駅及び信号場は貨物列車との待ち合わせを考慮し、旅客ホームの[[有効長]]は青函トンネル開業以前のまま構内待避線の有効長が延伸されている。 [[2016年]]([[平成]]28年)[[3月26日]]の[[北海道新幹線]]の開業に伴い、海峡線区間の架線電圧の20kVから25kVへの昇圧や自動列車制御装置のDS-ATCへの変更といった設備更新がされ、在来線専用の電車・電気機関車は走行できなくなり、特急や寝台列車は新幹線開業と同時にすべて廃止され、津軽海峡を通過する在来線定期旅客列車は<!--団体列車をのぞいて-->消滅した。海峡線区間の定期旅客列車は新幹線のみの運行となり、これにあわせて「津軽海峡線」の愛称も廃止された<ref group="注">『JR時刻表』・『JTB時刻表』では2016年4月号から路線図・本文とも非掲載となった。</ref>。また、江差線の区間も新幹線開業に伴い、[[第三セクター鉄道]]化され[[道南いさりび鉄道線]]となった。 == 駅一覧 == この一覧は「津軽海峡線」としての営業終了時点(2016年3月21日。[[北海道新幹線]][[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]]間の開業前)のデータである。 * 中小国駅 - 新中小国信号場間はJR東日本の津軽線とJR北海道の海峡線の重複区間。 * 全区間 20[[キロ|k]][[ボルト (単位)|V]] 50[[ヘルツ (単位)|Hz]] [[交流電化]] * 表内の{{Bgcolor|#dff|この背景色}}の部分(竜飛定点 - 吉岡定点)は[[青函トンネル]]内にある。 * 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:1em;"|{{縦書き|運行事業者}} !style="width:1em;"|{{縦書き|路線名}} !style="width:4em;"|駅番号 !style="width:8em;"|駅名 !style="width:2.7em;"|駅間営業キロ !style="width:2.7em;"|累計<br />営業キロ !接続路線・備考 !style="width:1em;"|{{縦書き|線路}} !colspan="3"|所在地 |- |rowspan="13" style="width:1em; text-align:center; border-right:3px solid #0c8c11;"|{{縦書き|東日本旅客鉄道}} |rowspan="13" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[津軽線]]}} !rowspan="33"| |[[青森駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |[[東日本旅客鉄道]]:[[奥羽本線]]<br />[[青い森鉄道]]:[[青い森鉄道線]] |◇ |rowspan="17" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[青森県]]}} |rowspan="8" colspan="2"|[[青森市]] |- |[[新油川信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|4.4 |&nbsp; |◇ |- |[[油川駅]] |style="text-align:right;"|6.0 |style="text-align:right;"|6.0 |&nbsp; || |- |[[津軽宮田駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|9.7 |&nbsp; || |- |[[奥内駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|11.5 |&nbsp; |◇ |- |[[左堰駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|13.1 |&nbsp; || |- |[[後潟駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|14.7 |&nbsp; || |- |[[中沢駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|16.8 |&nbsp; |◇ |- |[[蓬田駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|19.1 |&nbsp; || |rowspan="9" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[東津軽郡]]}} |rowspan="3"|[[蓬田村]] |- |[[郷沢駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|21.1 |&nbsp; |◇ |- |[[瀬辺地駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|23.4 |&nbsp; || |- |[[蟹田駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|27.0 |東日本旅客鉄道:津軽線([[三厩駅|三厩]]方面との旅客列車乗換可能駅) |◇ |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[外ヶ浜町]] |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[中小国駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|4.4 |rowspan="2" style="text-align:right;"|31.4 |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:津軽線(海峡線の列車は通過するため、乗り換え不可能) |rowspan="2"|| |- |rowspan="24" style="width:1em; text-align:center; border-right:3px solid #2cb431;"|{{縦書き|北海道旅客鉄道}} |rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[海峡線]]}} |- |[[新中小国信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|33.7 |(津軽線と海峡線の実際の分岐点) |∧ |- |[[奥津軽いまべつ駅|津軽今別駅]] |style="text-align:right;"|13.0 |style="text-align:right;"|44.4 |(2015年8月10日より全列車通過)<ref name="jrhokkaido20150403">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2015/150403-1.pdf|format=PDF|title=津軽今別駅の列車通過について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2015-04-03|accessdate=2015-08-10}}</ref> <!-- |東日本旅客鉄道:津軽線([[津軽二股駅]])<ref group="*">公式には乗り換え駅とはされていない。</ref> --> |∥ |[[今別町]] |- |style="background:#dff;"|[[竜飛定点]] |style="text-align:center; background:#dff;"|- |style="text-align:right; background:#dff;"|63.9 |style="background:#dff;"|(旧・竜飛海底駅{{Refnest|name="tappi-yoshioka-shiriuchi"|group="*"|津軽今別駅 - 知内駅間の青函トンネル内にあった吉岡海底駅(吉岡定点)は2006年8月28日より、竜飛海底駅(竜飛定点)は2013年11月11日より全列車通過となり、2014年3月15日に両駅とも知内駅とともに駅としては廃止された<ref>{{Cite news |title=海底駅:青函トンネルの2駅廃止へ 国内から姿消す |newspaper=毎日新聞 |date=2013-08-02 |url=http://mainichi.jp/feature/news/20130803k0000m020036000c.html |accessdate=2016-03-09 |archiveurl=https://archive.is/WNRue |archivedate=2013年8月3日}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=平成26年3月ダイヤ改正について |publisher=北海道旅客鉄道 |date=2013年12月20日 |url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf#page=4 |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年10月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131224105741/http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/131220-1.pdf#page=4 |archivedate=2013年12月24日}}</ref>。}})<br />[[道の駅みんまや#青函トンネル記念館|青函トンネル記念館]]:[[青函トンネル竜飛斜坑線]](体験坑道駅)<ref group="*">海底駅見学整理券利用見学者のみ乗降可能であった。</ref> |∥ |外ヶ浜町 |- |colspan="8" style="text-align:center; background:#dff;"|(この間で[[津軽海峡]]を横断する) |- |style="background:#dff;"|[[吉岡定点]] |style="text-align:center; background:#dff;"|- |style="text-align:right; background:#dff;"|86.9 |style="background:#dff;"|(旧・吉岡海底駅<ref name="tappi-yoshioka-shiriuchi" group="*" />) |∥ |rowspan="19" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[北海道]]}}<ref group="*">すべて[[渡島総合振興局]]管内に所在。</ref> |colspan="2" style="width:6em;"|[[松前郡]]<br>[[福島町]] |- |[[湯の里知内信号場|知内信号場]]<ref group="*">2014年3月15日から2016年3月21日まで、特急「[[スーパー白鳥]]」に使用されている[[JR北海道789系電車|789系電車]]・[[JR北海道785系電車|785系電車]]の案内表示では、この名称が使用されている。</ref> |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|107.4 |(旧・知内駅<ref name="tappi-yoshioka-shiriuchi" group="*" />) |∥ |rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[上磯郡]]}} |[[知内町]] |-style="height:1.5em;" |rowspan="2"|[[木古内駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|74.8 |rowspan="2" style="text-align:right;"|119.2 |rowspan="2"|[[北海道旅客鉄道]]:[[江差線]]([[湯ノ岱駅|湯ノ岱]]・[[江差駅|江差]]方面)2014年5月12日廃止、[[松前線]]([[渡島当別駅|渡島当別]]・[[松前駅 (北海道)|松前]]方面)1988年2月1日廃止(津軽海峡線開業前) |rowspan="2"|∨ |rowspan="5"|[[木古内町]] |- |rowspan="13" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|江差線}} |- |[[札苅駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|123.0 |&nbsp; |◇ |- |[[泉沢駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|126.4 |&nbsp; |◇ |- |[[釜谷駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|129.5 |&nbsp; |◇ |- |[[渡島当別駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|134.4 |&nbsp; |◇ |rowspan="8" colspan="2"|[[北斗市]] |- |[[茂辺地駅]] |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:right;"|139.4 |&nbsp; |◇ |- |[[矢不来信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|142.7 |&nbsp; |◇ |- |[[上磯駅]] |style="text-align:right;"|8.8 |style="text-align:right;"|148.2 |&nbsp; |◇ |- |[[清川口駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|149.4 |&nbsp; || |- |[[久根別駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|150.5 |&nbsp; |◇ |- |[[東久根別駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|151.7 |&nbsp; || |- |[[七重浜駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|154.3 |&nbsp; |◇ |-style="height:1em;" !rowspan="2"|H74 |rowspan="2"|[[五稜郭駅]] |rowspan="3" style="text-align:right;"|2.7 |rowspan="3" style="text-align:right;"|157.0 |rowspan="2"|北海道旅客鉄道:[[函館本線]]([[森駅 (北海道)|森]]方面) |rowspan="2"|∧ |rowspan="4" colspan="2"|[[函館市]] |- |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center; line-height:1.1em;"|{{縦書き|函館本線}} |- ! |(貨)[[五稜郭駅|函館貨物駅]] |&nbsp; |∥ |- !H75 |[[函館駅]] |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:right;"|160.4 |[[函館市企業局交通部|函館市電]]:本線・大森線 … [[函館駅|函館駅前停留場]] |∥ |} {{Reflist|group="*"}} * 2002年11月30日まで運行された快速「[[海峡 (列車)|海峡]]」の一部が[[油川駅]]、[[奥内駅]]、[[上磯駅]]に停車していたが、同列車廃止以降は全列車通過している。 <gallery> ファイル:789kn-sh.jpg|[[JR北海道789系電車|789系]]による[[特別急行列車|特急]]「[[スーパー白鳥]]」(2007年6月) ファイル:Kaikyo Line between Tappi-Kaitei Station and Tsugaru-Imabetsu Station.jpg|一部の線路は、新幹線用レールが敷設できるように路盤の左寄りに敷設している。(特急「スーパー白鳥」車内より撮影<ref group="注" name="angle">[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#函館本線踏切事故|2010年の特急「スーパーカムイ」の踏切事故]]を受けて、同年JR北海道が特急の先頭車運転台側の貫通路への立ち入りを禁じたため、以後は、このアングルでの撮影はできなくなっている。</ref>) ファイル:Jr kaikyoline triplegagerail.jpg|一部の区間には、すでに新幹線用のレールが敷設されている。(特急「スーパー白鳥」車内より撮影<ref group="注" name="angle" />) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tsugaru-Kaikyō Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[北海道新幹線]] * [[瀬戸大橋線]] * [[一本列島]] * [[津軽海峡]] * [[日本海縦貫線]] {{DEFAULTSORT:つかるかいきよう}} [[Category:北海道の鉄道路線]] [[Category:東北地方の鉄道路線]] [[Category:青森県の交通]] [[Category:北海道旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:北海道旅客鉄道の廃止路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の廃止路線]] [[Category:津軽線|*]] [[Category:海峡線|*]] [[Category:江差線|*]] [[Category:津軽海峡]]
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鏡石町
鏡石町(かがみいしまち)は、福島県中通りに位置し、岩瀬郡に属する町。 福島県の中通り南部に位置し、西に釈迦堂川、東に阿武隈川が流れ、標高280m台の平坦な台地にある。年間平均気温は12°C前後で比較的温暖であり、降水量は年間約1,170mmで寡降水量地域に属する。 2011年3月に発生した東日本大震災において、鏡石町では震度6強を観測した。 この地震で鏡石町内の家屋の全半壊戸数は1000戸であり、総戸数に対する割合は23%であった。これは、同震災において津波被災のない内陸部の市町村では矢吹町に次ぐ損壊率であった。 この鏡石町を含め、矢吹町・須賀川市・泉崎村・郡山市にかけて家屋の全半壊率が高かったことについて、郡山湖成層に理由を求める論文が発表された。 また、同時に発生した東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質の流出と土壌および河川の汚染は鏡石町内の土地にも及んでいる。
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鏡石町(かがみいしまち)は、福島県中通りに位置し、岩瀬郡に属する町。
{{日本の町村 | 自治体名 = 鏡石町 | 画像 = 岩瀬牧場入口.jpg | 画像の説明= [[岩瀬牧場]] | 旗 = [[ファイル:Flag of Kagamiishi Fukushima.JPG|100px|border]] | 旗の説明 = 鏡石[[市町村旗|町旗]] | 紋章 = [[ファイル:Emblem of Kagamiishi, Fukushima.svg|80px]] | 紋章の説明 = 鏡石[[市町村章|町章]]<div style="font-size:smaller">[[1969年]][[1月20日]]制定 | 区分 = 町 | 都道府県 = 福島県 | 郡 = [[岩瀬郡]] | コード = 07342-3 | 隣接自治体 = [[須賀川市]]、[[西白河郡]][[矢吹町]]、[[岩瀬郡]][[天栄村]]、[[石川郡]][[玉川村]] | 木 = [[サクラ|しだれ桜]] | 花 = [[アヤメ]] | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 969-0492 | 所在地 = 岩瀬郡鏡石町不時沼345<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-07|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Kagamiishi town office.jpg|250px|center]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|07|342|image=Kagamiishi in Fukushima Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}} | 特記事項 = }} [[ファイル:KagamiishiBirdView.jpg|thumb|280px|鏡石町鳥瞰写真]] '''鏡石町'''(かがみいしまち)は、[[福島県]][[中通り]]に位置し、[[岩瀬郡]]に属する[[町]]。 == 地理 == 福島県の[[中通り]]南部に位置し、西に[[釈迦堂川]]、東に[[阿武隈川]]が流れ、標高280m台の平坦な台地にある。年間平均[[気温]]は12℃前後で比較的温暖であり、降水量は年間約1,170mmで寡降水量地域に属する。 === 隣接している自治体 === * [[須賀川市]] * [[岩瀬郡]][[天栄村]] * [[西白河郡]][[矢吹町]] * [[石川郡]][[玉川村]] === 東日本大震災 === 2011年3月に発生した[[東日本大震災]]において、鏡石町では震度6強を観測した。 この地震で鏡石町内の家屋の全半壊戸数は1000戸であり、総戸数に対する割合は23%であった。これは、同震災において津波被災のない内陸部の市町村では[[矢吹町]]に次ぐ損壊率であった。 この鏡石町を含め、矢吹町・[[須賀川市]]・[[泉崎村]]・[[郡山市]]にかけて家屋の全半壊率が高かったことについて、郡山湖成層に理由を求める論文が発表された<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2011/yokou/MIS036-P151.pdf 福島県中通り中央部における第四系と地震被害との関係について]}}</ref>。 また、同時に発生した[[東京電力福島第一原子力発電所事故]]に伴う[[放射性物質]]の流出と土壌および河川の汚染は鏡石町内の土地にも及んでいる<ref>[http://radioactivity.mext.go.jp/map/ja/ 全国及び福島県の空間線量測定結果(文部科学省)]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.town.kagamiishi.fukushima.jp/sogo/hoshano_tameike_dojo.pdf ため池及び土壌にかかる放射性物質の分析調査結果(過去のデータの一例)]}}</ref><ref>[http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=212362528832395028719.0004abbcafacdd2531dc4&msa=0 環境放射線量マップ(空間線量測定データの一例)]</ref>。 == 歴史 == === 年表 === * [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行に伴い、鏡田村・久来石村・笠石村・成田村が合併し鏡石村が発足。<ref>角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典]] 7 福島県』、[[角川書店]]、1981年 ISBN 4040010701より</ref><ref>日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、[[日本加除出版]]、2006年、ISBN 4817813180より</ref> * [[1911年]](明治44年)[[6月25日]] - [[鏡石駅]]が開業。 * [[1962年]](昭和37年)[[8月1日]] - 鏡石村は町制施行し'''鏡石町'''になる。 * [[1966年]](昭和41年) - [[玉川村]]の一部(竜崎の一部)は鏡石町に編入。 * [[1973年]](昭和48年)[[11月26日]] - [[鏡石パーキングエリア]]が供用開始。 * [[2011年]](平成23年)[[3月11日]] - 東日本大震災が発生。鏡石町で震度6強を観測。 === 変遷表 === {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:x-small" |- ! colspan="7" style="font-size:small" | 鏡石町町域の変遷表(※細かい境界の変遷は省略) |- ! colspan="2" | 1868年<br />以前 ! 明治元年 - 明治22年 ! 明治22年<br />4月1日 ! 明治22年 - 昭和64年 ! 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" |鏡石村 | bgcolor="#99CCFF" rowspan="3" | 明治9年<br />鏡石村 | bgcolor="#99CCFF" rowspan="9" | '''鏡石村''' | bgcolor="#66FFFF" rowspan="9" | 昭和37年8月1日<br />町制 | bgcolor="#66FFFF" rowspan="9" | '''鏡石町''' | bgcolor="#66FFFF" rowspan="9" | '''鏡石町''' |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 高久井村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 仁井田村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 久来石村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 笠石新田村 | bgcolor="#99CCFF" rowspan="4" | 明治6年<br />笠石村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 森宿村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 細谷村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" | 行方野村 |- | bgcolor="#99CCFF" | | bgcolor="#99CCFF" colspan="2" | 成田村 |} == 人口 == {{人口統計|code=07342|name=鏡石町}} == 産業 == === 主な製造工場 === * 神田工業 福島工場 * [[アイカ工業]] 福島工場 * [[東レ]]フィルム加工 福島工場 * [[ニプロファーマ]] 鏡石工場 == 地域 == [[ファイル:福島県立岩瀬農業高校.jpg|thumb|right|250px|岩瀬農業高校]] [[ファイル:鏡石町立鏡石中学校.jpg|right|250px|thumb|鏡石中学校]] === 教育 === * 小学校 ** 鏡石町立第一小学校 ** 鏡石町立第二小学校 * 中学校 ** 鏡石町立鏡石中学校 * 高校 ** [[福島県立岩瀬農業高等学校]] == 交通 == === 鉄道 === [[ファイル:Kagamiishi.jpg|thumb|280px|鏡石駅]] * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) ** {{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]] *** [[鏡石駅]] === 路線バス === * [[福島交通]] === 道路 === [[ファイル:Kagamiishi PA.JPG|thumb|鏡石パーキングエリア 上り線]] * '''[[高速道路]]''' ** [[東北自動車道]] *** [[鏡石パーキングエリア|鏡石PA/スマートIC]] * '''[[一般国道]]''' ** [[国道4号]]([[奥州街道|陸羽街道]]) ** [[国道118号]] * '''[[都道府県道]]''' ** [[福島県道55号郡山矢吹線]] ** [[福島県道67号中野須賀川線]] ** [[福島県道283号須賀川矢吹線]] ** [[福島県道288号成田鏡田線]] ** [[福島県道289号下松本鏡石停車場線]] * その他 ** 西白河東部[[農道#広域農道|広域農道]] == 史跡・観光スポット == [[ファイル:西光寺 タラヨウの木.jpg|thumb|right|250px|西光寺 タラヨウの木]] [[ファイル:Kagamiishi Town Library.jpg|thumb|right|250px|鏡石町図書館]] * [[岩瀬牧場]] - 日本初の西欧式牧場。「[[牧場の朝]]」のモデルとなった。 * 鏡沼(別名「かげ沼」) * [[田んぼアート]] - [[2012年]]より実施している。 == 公園・スポーツ施設 == * 鳥見山公園 - 陸上競技場、屋内プール「すいすい」、コンビネーション遊具 * ふれあいの森公園 - 人工芝滑り台、コンビネーション遊具、アスレチック遊具 == 祭事・催事 == * あやめフェスティバル * 国際化オランダ祭り * 牧場の朝YOSAKOI祭り * 仁井田八幡神社祭礼花火大会 == 鏡石町出身の著名人 == * [[吉田康夫]](プロ野球選手) * [[町島洋一]](元競輪選手、モントリオールオリンピック出場) == 主な商業施設 == * [[イオンスーパーセンター]] * [[リオンドール]] * [[いちい]] * [[ウエルシア薬局|ウエルシア]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website}} * {{Facebook|kagamiishimachi}} * {{Twitter|Kagamiishi_Town}} {{福島県の自治体}} {{Normdaten}} {{Japan-area-stub}} {{デフォルトソート:かかみいしまち}} [[Category:岩瀬郡]] [[Category:福島県の市町村]] [[Category:鏡石町|*]] [[Category:合成地名]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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大正デモクラシー
大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。 何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。 「大正デモクラシー」と呼称されるべき期間も幾つかある。 など、その定義内容に応じて変動するが、いずれも辛亥革命から治安維持法制定までの時期を中心として、1917年(大正6年)のロシア革命や、1918年(大正7年)のドイツ革命と米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通している。 「デモクラシー」という言葉は当時実際に流行したものである。「大正デモクラシー」という名称は、歴史学者の信夫清三郎(信夫淳平三男)が1954年(昭和29年)に自著『大正デモクラシー史』でその呼称を提唱して以来、定着した語である。ただし、その定義や内容も曖昧であることや、大正年間が始まる前からの動きであると見る点から、江口圭一、井上清、伊藤隆などこの語句を不適当であると否定する歴史家も存在する。 太平洋戦争末期の1945年7月に、連合国から大日本帝国に対して提示されたポツダム宣言が第10条で「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべき」と言及しており、萌芽はこの当時既にあったことを窺わせる。 日露戦争終結後、国際的緊張関係は緩和に向かい、1905年(明治38年)には東京で中国同盟会が結成されるなど民主主義的自由の獲得を目指した運動が本格化していった。一方、アジアで数少ない独立国で、かつ唯一「五大国」に入る先進工業国かつ資本主義の急速な発展と成長は、日本の国民に政治的・市民的自由を自覚させ、様々な課題を掲げた自主集団が設立され自由と権利の獲得、抑圧からの解放に対して声高に叫ばれる時代背景ができ上がっていった。 このような状況の中で、1911年(明治44年)に清朝の四川省で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして辛亥革命が勃発し、中国革命同盟会が中核となった革命軍は、翌1912年(民国元年、大正元年)に清朝を倒して中華民国を樹立した。この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した陸軍大臣の上原勇作は、第2次西園寺内閣に対し朝鮮半島に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は日露戦争を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を内閣総辞職へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。 こうした背景の中、長州藩閥出身で陸軍の影響力が強い第3次桂内閣が組閣された。この桂内閣に対し国民世論の批判が高まり、また衆議院でも衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らが藩閥政治であるとして桂内閣を批判し、1912年(大正元年)、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開され、桂内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた(大正政変)。続いて設立された立憲政友会を与党とする第1次山本内閣は軍部大臣現役武官制の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件(シーメンス事件)の影響により再び国民の批判を招き、1914年(大正3年)に内閣総辞職を余儀なくされた。 1913年(大正2年)、石田友治らによって言論雑誌『第三帝国』が刊行され、また第一次世界大戦下の1916年(大正5年)には東京帝国大学の吉野作造により民本主義による政治が提唱された事(「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」、『中央公論』1916年1月号等)を背景に、次第に普選運動が活発になっていった。また1912年(明治45年)3月美濃部達吉は『憲法講話』を著し天皇機関説を提唱した。それは天皇主権説に反対し、議会が独自の機能を持つことを理論的に基礎づけ、国家が統治権の主体であるべきと主張し政党内閣制を支持した。この説に対して上杉慎吉は天皇主権説の立場から批判を行ったが、天皇機関説は議会政治を実現する上での憲法解釈上の大きな根拠として度々取り上げられるようになった。 また吉野・美濃部の両人に加え、中央大学出身の長谷川如是閑や早稲田大学出身の大山郁夫といったジャーナリストや学者の発言も在り方に大きな影響を与えた。 1917年(大正6年)のロシア革命に端を発して、同盟国のイギリスやアメリカの要請を受けて寺内内閣により第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)7月12日にシベリア出兵宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。 そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。 戦争による格差の拡大により、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた原敬による原内閣が、日本で初めての本格的な政党内閣として9月27日に組織されるに至った。 1923年(大正12年)12月27日に発生した、難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により、当時の第2次山本内閣(山本権兵衛首相)は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾が後任の首相に就任した。しかし、清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。 その結果立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し普通選挙法が制定され、財産(納税額)によって制限される制限選挙から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、アジアで初の男子普通選挙が実現した。 しかし同時にロシアで帝政が崩壊し世界初の共産主義国家であるソビエト連邦が誕生したことにより、国民の一部に赤化(共産主義)思想が広まり、共産主義革命の発生や、天皇制及び国家神道の動揺を懸念した政府は、治安維持法を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。 明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権をはじめとした女性の権利を求める気運が女性の中から高まっていった。1919年(大正8年)11月に平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが設立した新婦人協会やガントレット恒子、久布白落実らが1921年(大正10年)に設立した日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が女性運動を展開した。 大正デモクラシー中は女性参政権が実現することはなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正が1922年(大正11年)に行われたり、1933年(昭和8年)には女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。 また1931年(昭和5年)には婦人参政権を条件付で認める法案がついに衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。結局、日本における女性参政権の実現は太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20年)になった。翌年の1946年(昭和21年)(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。 1920年代初めから1930年代半ばにかけて、台湾の住民による台湾議会設置運動が行われた。 1919年(大正8年)には朝鮮で三・一運動が発生した。その後も朝鮮人の権利を求める運動は続いた。 大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。 一方で、この思想を基本とする保守派知識人達(具体的人物は吉田茂、岡崎久彦)は戦後世代から「オールドリベラリスト」(古典的自由主義者)と呼ばれる。
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大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代(概ね大正年間)にかけて起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。 何をもって「大正デモクラシー」とするかについては諸説ある。政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。 「大正デモクラシー」と呼称されるべき期間も幾つかある。 第2次桂内閣への倒閣運動から治安維持法の制定まで、1905年(明治38年)〜1925年(大正14年)とする説。 第2次桂内閣への倒閣運動から満州事変まで、1905年(明治38年)〜1931年(昭和6年)とする説。 辛亥革命から治安維持法制定まで、1911年(明治44年)〜1925年(大正14年)とする説。 第一次世界大戦終結(ドイツ革命)から満州事変まで、1918年(大正7年)〜1931年(昭和6年)とする説。 など、その定義内容に応じて変動するが、いずれも辛亥革命から治安維持法制定までの時期を中心として、1917年(大正6年)のロシア革命や、1918年(大正7年)のドイツ革命と米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通している。 「デモクラシー」という言葉は当時実際に流行したものである。「大正デモクラシー」という名称は、歴史学者の信夫清三郎(信夫淳平三男)が1954年(昭和29年)に自著『大正デモクラシー史』でその呼称を提唱して以来、定着した語である。ただし、その定義や内容も曖昧であることや、大正年間が始まる前からの動きであると見る点から、江口圭一、井上清、伊藤隆などこの語句を不適当であると否定する歴史家も存在する。 太平洋戦争末期の1945年7月に、連合国から大日本帝国に対して提示されたポツダム宣言が第10条で「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべき」と言及しており、萌芽はこの当時既にあったことを窺わせる。
{{出典の明記| date = 2023年11月}} '''大正デモクラシー'''(たいしょうデモクラシー)とは、[[日本]]で[[1910年代]]から[[1920年代]](概ね[[大正]]年間)にかけて起こった、[[政治]]・[[社会]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の各方面における[[民本主義]]の発展、[[自由主義]]的な運動、風潮、思潮の総称である。[[信夫清三郎]]『大正デモクラシー史』([[1954年]])がこの言葉の初出である。 何をもって「大正[[デモクラシー]]」とするかについては諸説ある。政治面においては[[選挙|普通選挙制度]]を求める[[普選運動]]や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては[[男女平等]]、[[部落差別]]解放運動、団結権、[[ストライキ]]権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、[[大学]]の自治権獲得運動、美術団体の[[文部省]]支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。 「大正デモクラシー」と呼称されるべき期間も幾つかある。 #[[第2次桂内閣]]への[[倒閣]]運動から[[治安維持法]]の制定まで、[[1905年]](明治38年)〜[[1925年]](大正14年)とする説。 #第2次桂内閣への倒閣運動から[[満州事変]]まで、[[1905年]](明治38年)〜[[1931年]](昭和6年)とする説。 #[[辛亥革命]]から治安維持法制定まで、[[1911年]](明治44年)〜[[1925年]](大正14年)とする説。 #[[第一次世界大戦]]終結([[ドイツ革命]])から満州事変まで、[[1918年]](大正7年)〜[[1931年]](昭和6年)とする説。 など、その定義内容に応じて変動するが、いずれも辛亥革命から治安維持法制定までの時期を中心として、[[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]や、[[1918年]](大正7年)の[[ドイツ革命]]と[[1918年米騒動|米騒動]]を[[民主化運動]]の中核と見なす点においては共通している。 「デモクラシー」という言葉は当時実際に流行したものである。「大正デモクラシー」という名称は、[[歴史学者]]の[[信夫清三郎]]([[信夫淳平]]三男)が[[1954年]](昭和29年)に自著『大正デモクラシー史』でその呼称を提唱して以来、定着した語である。ただし、その定義や内容も曖昧であることや、大正年間が始まる前からの動きであると見る点から、[[江口圭一]]、[[井上清 (歴史家)|井上清]]、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]などこの語句を不適当であると否定する歴史家も存在する。 [[太平洋戦争]]末期の[[1945年]]7月に、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]から[[大日本帝国]]に対して提示された[[ポツダム宣言]]が第10条で「日本政府は日本国国民における'''民主主義的傾向の復活'''を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的[[人権]]の尊重は確立されるべき」と言及しており、萌芽はこの当時既にあったことを窺わせる。 == 背景 == [[日露戦争]]終結後、国際的緊張関係は緩和に向かい、[[1905年]](明治38年)には[[東京市|東京]]で[[中国同盟会]]が結成されるなど民主主義的自由の獲得を目指した運動が本格化していった。一方、アジアで数少ない[[独立国]]で、かつ唯一「[[五大国]]」に入る[[先進工業国]]かつ[[資本主義]]の急速な発展と成長は、日本の国民に政治的・市民的自由を自覚させ、様々な課題を掲げた自主集団が設立され自由と権利の獲得、抑圧からの解放に対して声高に叫ばれる時代背景ができ上がっていった。 このような状況の中で、[[1911年]](明治44年)に[[清]]朝の[[四川省]]で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして[[辛亥革命]]が勃発し、中国革命同盟会が中核となった革命軍は、翌[[1912年]](民国元年、大正元年)に清朝を倒して[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]を樹立した。この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した[[陸軍大臣]]の[[上原勇作]]は、[[第2次西園寺内閣]]に対し[[朝鮮半島]]に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は[[日露戦争]]を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は[[軍部大臣現役武官制]]を利用して西園寺内閣を[[内閣総辞職]]へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。 こうした背景の中、長州藩閥出身で[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の影響力が強い[[第3次桂内閣]]が組閣された。この桂内閣に対し国民世論の批判が高まり、また衆議院でも[[衆議院議員]]の[[尾崎行雄]]や[[犬養毅]]らが[[藩閥]]政治であるとして桂内閣を批判し、[[1912年]](大正元年)、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた[[第一次護憲運動]]が展開され、桂内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた([[大正政変]])。続いて設立された[[立憲政友会]]を[[与党]]とする[[第1次山本内閣]]は[[軍部大臣現役武官制]]の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件([[シーメンス事件]])の影響により再び国民の批判を招き、[[1914年]](大正3年)に内閣総辞職を余儀なくされた。 == 大正デモクラシーの流れ == === 民本主義と天皇機関説 === [[1913年]](大正2年)、[[石田友治]]らによって言論雑誌『[[第三帝国 (雑誌)|第三帝国]]』が刊行され、また第一次世界大戦下の[[1916年]](大正5年)には[[東京大学|東京帝国大学]]の[[吉野作造]]により[[民本主義]]による政治が提唱された事(「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」、『中央公論』1916年1月号等)を背景に、次第に[[普選運動]]が活発になっていった。また1912年(明治45年)3月[[美濃部達吉]]は『憲法講話』を著し[[天皇機関説]]を提唱した。それは天皇主権説に反対し、議会が独自の機能を持つことを理論的に基礎づけ<ref>遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 13ページ</ref>、国家が統治権の主体であるべきと主張し[[政党内閣|政党内閣制]]を支持した。この説に対して[[上杉慎吉]]は[[天皇機関説#歴史|天皇主権説]]の立場から批判を行ったが、天皇機関説は議会政治を実現する上での憲法解釈上の大きな根拠として度々取り上げられるようになった。 また吉野・美濃部の両人に加え、[[中央大学]]出身の[[長谷川如是閑]]や[[早稲田大学]]出身の[[大山郁夫]]といった[[ジャーナリスト]]や学者の発言も在り方に大きな影響を与えた。 === 米騒動 === [[1917年]](大正6年)の[[ロシア革命]]に端を発して、同盟国の[[イギリス]]や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の要請を受けて[[寺内内閣]]により第一次世界大戦終結直前の[[1918年]](大正7年)[[7月12日]]に[[シベリア出兵]]宣言が出されると、需要拡大を見込んだ商人による[[米]]の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。 そのような中、富山県で発生した米[[問屋]]と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり([[1918年米騒動|米騒動]])米問屋の打ち壊しや焼き討ちなどが2ヶ月間に渡り頻発した。 === 日本初の本格的政党内閣 === [[戦争]]による格差の拡大により、[[新聞社]]に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は[[9月21日]]、[[寺内内閣]]の総辞職をもって一応の収まりを見せ、ついに「平民宰相」と呼ばれた[[原敬]]による[[原内閣]]が、日本で初めての本格的な[[政党内閣]]として[[9月27日]]に組織されるに至った。 === 第二次護憲運動 === [[1923年]](大正12年)[[12月27日]]に発生した、[[難波大助]]による[[昭和天皇|摂政裕仁親王]]狙撃事件([[虎ノ門事件]])により、当時の[[第2次山本内閣]]([[山本権兵衛]]首相)は総辞職に追い込まれ、[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長であった[[清浦奎吾]]が後任の首相に就任した。しかし、[[清浦内閣]]はほぼ全ての閣僚が[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員から選出された[[超然主義|超然内閣]]であり、国民の間で再び憲政擁護を求める[[第二次護憲運動]]が起こった。 その結果[[立憲政友会]]・[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]の[[護憲三派]]からなる[[加藤高明]]内閣が成立し[[普通選挙法]]が制定され、財産(納税額)によって制限される[[制限選挙]]から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、[[アジア]]で初の男子[[普通選挙]]が実現した。 しかし同時に[[ロシア (名称)|ロシア]]で帝政が崩壊し世界初の[[共産主義]]国家である[[ソビエト連邦]]が誕生したことにより、国民の一部に[[赤化]](共産主義)思想が広まり、[[共産主義革命]]の発生や、[[天皇制]]及び[[国家神道]]の動揺を懸念した政府は、[[治安維持法]]を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となった。 === 女性の権利の獲得 === 明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、[[女性参政権]]をはじめとした[[女性の権利]]を求める気運が[[女性]]の中から高まっていった。1919年(大正8年)11月に[[平塚らいてう]]、[[市川房枝]]、[[奥むめお]]らが設立した[[新婦人協会]]や[[ガントレット恒子]]、[[久布白落実]]らが1921年(大正10年)に設立した日本婦人参政権協会(後に日本基督教婦人参政権協会)が[[日本の女性解放運動|女性運動]]を展開した。 大正デモクラシー中は女性参政権が実現することはなかったが、女性の[[集会の自由]]を阻んでいた[[治安警察法]]第5条2項の改正が1922年(大正11年)に行われたり、1933年(昭和8年)には女性が[[弁護士]]になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定([[弁護士法]]改正)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。 また1931年(昭和5年)には婦人参政権を条件付で認める法案がついに[[衆議院]]を通過するが、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の反対で廃案に追い込まれた。結局、日本における女性参政権の実現は[[太平洋戦争]]敗戦後の1945年(昭和20年)になった。翌年の1946年(昭和21年)([[第22回衆議院議員総選挙]])の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。 === 日本の植民地での動き === 1920年代初めから1930年代半ばにかけて、[[日本統治時代の台湾|台湾]]の住民による[[台湾議会設置運動]]が行われた。 1919年(大正8年)には[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]で[[三・一運動]]が発生した。その後も朝鮮人の権利を求める運動は続いた。 == 後世の評価 == 大正デモクラシーは[[戦後民主主義]]を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者も[[エドウィン・O・ライシャワー|ライシャワー]]をはじめ数多い<ref>「占領1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人」、ハワード・ショーンバーガー 著、宮崎 章 訳、時事通信社、1994年、11~13ページ</ref>。また、[[石橋湛山]]は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。 一方で、この思想を基本とする[[保守]]派知識人達(具体的人物は[[吉田茂]]、[[岡崎久彦]])は戦後世代から「オールドリベラリスト」([[古典的自由主義]]者)と呼ばれる。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == {{参照方法|date=2023年4月}} *太田雅夫『増補 大正デモクラシー研究-知識人の思想と運動』、新泉社、平成2年([[1990年]])5月 *鈴木正節『大正デモクラシーの群像』、[[雄山閣]]、昭和58年([[1983年]])2月 *住谷悦治ほか編『大正デモクラシーの思想』(『講座・日本社会思想史』2)、[[芳賀書店]]、昭和42年([[1967年]])1月 *[[松尾尊兊]] 『大正デモクラシーの研究』(『歴史学研究叢書』)、[[青木書店]]、昭和41年([[1966年]])6月 *松尾尊兊 『大正デモクラシー』(『同時代ライブラリー』184)、[[岩波書店]]、平成6年([[1994年]])5月 *坂本多加雄『近代日本精神史』、平成17年([[2005年]]) *今井清一『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』、平成18年([[2006年]]) == 関連項目 == *[[阪神間モダニズム]] *[[憲政の常道]] *[[普選運動]] *[[女性参政権]] *[[新婦人協会]] *[[赤瀾会]] *[[大正ロマン]] *[[黎明会]] *[[ドミノ理論]] *[[デカンショ節]] == 外部リンク == *[https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1862 大正デモクラシー] - [[ジャパンナレッジ]](国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ) {{DEFAULTSORT:たいしようてもくらしい}} [[Category:大正デモクラシー|*]] [[Category:戦前日本の社会運動]] [[Category:大正時代の政治]] [[Category:日本の政党政治]] [[Category:民主化運動]] [[Category:日本の思想史]] [[Category:原敬]] [[Category:加藤高明]] [[Category:尾崎行雄]] <!--[[Category:日本の政治運動]]--> {{Japanese-history-stub}}
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ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド
座標: 北緯34度08分11秒 西経118度21分22秒 / 北緯34.136518度 西経118.356051度 / 34.136518; -118.356051 ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド (英: Universal Studios Hollywood) は、カリフォルニア州ロサンゼルス郡のサンフェルナンド・バレー地区にある映画スタジオおよびテーマパーク。現在も使用されているハリウッドの映画スタジオの中で、最も古く、最も有名なスタジオの一つである。当初は、ユニバーサル・スタジオの本物のサウンドステージやセット見学ツアーを提供するために創設された。開業は、世界のユニバーサル・スタジオ・テーマパークスのなかで最も早い。 当初から、ユニバーサルはスタジオ・ツアーを提供していた。カール・レムリは、1915年3月14日にユニバーサル・シティをオープンし、25セントの入場料を取り、チキン入りのランチ付きで、一般大衆を映画の制作現場に招待した。この当時のツアーは1930年頃に、トーキーの登場のために中止された。 1962年にミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカがユニバーサル・ピクチャーズを買収した後の1964年7月15日、路面電車による新たなツアーを開始した。これが、やがて本格的なテーマパークに成長していく。 その路面電車(トラム)ツアーはスタジオのバックロットでまだ行われているが、かつてファンを引き付けた映画制作現場は、ステージイベントやスタントの実演、ハイテクアトラクションに取って代わられた。 ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのバックロットでは、今までに8回火災が起きている。 最も被害が大きかったのは2008年6月1日の火災で、溶接のためにトーチランプを使っていた従業員がうっかり周りの物に火をつけてしまったことに起因する。ロサンゼルス郡消防局は、ブラウンストーンストリート、ニューヨークストリート、ニューイングランドストリート、キングコングのアトラクション、コートハウススクエアのいくつかの建物のほか、ビデオ保管室(映画の複製を保管していた。)が全焼したと報告した。各地の消防署から消防士と、放水のための2台のヘリコプターが駆けつけ、14人の消防士と3人のロサンゼルス郡保安官代理が軽傷を負った。火事は12時間後に鎮火された。 保管室の全焼によって焼失したのは、1920年代にまで遡る、ユニバーサル・ピクチャーズの映画とテレビ番組の歴史を記録したデジタルビデオとフィルムの複製4万から5万本。その中には『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』、『つぐない』、NBCシリーズの『ロー&オーダー』、『特捜刑事マイアミ・バイス』、CBSの『アイ・ラブ・ルーシー』などのフィルムが含まれていた。ニューヨーク・タイムズ紙は、ユニバーサル・ミュージックの多くのアルバムとシングルのマスターテープも焼失したと伝えている。ユニバーサル社長のロン・メイヤー氏は、取り替えの利かないものは失われていないと述べ、決して安くは済まないが、最低5000万ドルで全て元に戻すことができると表明した。後日、キングコングのアトラクションは再建されず、その場所には新たな未発表のアトラクションが作られると報道された。2008年8月には、ユニバーサルは姿勢を変更し、2005年の映画を元にして、キングコングのアトラクションを再建する計画を発表した。 他のテーマパーク同様、アトラクションは、作品が作られてから長い期間がたっていたり(バック・トウ・ザ・フューチャーやE.T.など)、スペース不足のために、閉鎖されることがある。 ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドは、アッパー・ロット (Upper Lot) とロウアー・ロット (Lower Lot) という高さの違う2つのエリアに分かれていて、エスカレーターでつながっている。2023年9月現在、アトラクションは7つ、ショーは5つ存在する。 ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドでは、映画の登場人物やキャラクターなどがパーク内を歩いていて会うことができる。 1日パスの場合 なお、通常の入場券より少し高い「フロント・オブ・ライン・パス (Front of Line Pass)」を購入すると、各アトラクションの待ち時間を短縮することができる。 ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドの最寄り駅はユニバーサルシティ駅で、毎日午前4時55分から翌日の午前0時35分までの時間運行しているメトロ・レッドラインを利用して行くことができる。ユニバーサルシティ駅発のメトロの最終便は、月曜日から木曜日および日曜日と祝日は午前0時58分、金曜日と土曜日は午前2時である。駅からテーマパークの入り口までは無料のシャトルバスに乗ることができる。
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ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド は、カリフォルニア州ロサンゼルス郡のサンフェルナンド・バレー地区にある映画スタジオおよびテーマパーク。現在も使用されているハリウッドの映画スタジオの中で、最も古く、最も有名なスタジオの一つである。当初は、ユニバーサル・スタジオの本物のサウンドステージやセット見学ツアーを提供するために創設された。開業は、世界のユニバーサル・スタジオ・テーマパークスのなかで最も早い。
{{pathnav|コムキャスト|NBCユニバーサル|ユニバーサル・パークス&リゾーツ|frame=1}} {{Coord|34.136518|-118.356051|display=title}} {{Infobox Amusement park | name = ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド<br>''Universal Studio Hollywood'' | image =[[File:2004-04-04 - 10 - Universal Studios.jpg|180px]] |caption=ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドの入り口 | location = {{Flagicon|USA}}[[カリフォルニア州]][[ユニバーサルシティ (カリフォルニア州)|ユニバーサルシティ]]([[ロサンゼルス|ロサンゼルス市]][[ハリウッド]]) | location2 = | location3 = | season = 一年中 | opening_date = [[1915年]][[3月14日]] (映画スタジオとして)<br/>[[1964年]][[7月15日]] (テーマパークとして)<ref name="The Studio Tour - History" /> | area = 172万m²(1.72km²) | rides = 15 | coasters= 1 | water_rides = 1 | motion_simulators = 1 | owner = [[ユニバーサル・パークス&リゾーツ]]<br />([[NBCユニバーサル]]) | slogan = ''The Entertainment Capital of LA'' | homepage = {{URL|https://www.universalstudioshollywood.com/}} | pushpin_map = USA Los Angeles Metropolitan Area }} '''ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド''' ({{lang-en-short|Universal Studios Hollywood}}) は、[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス郡]]の[[サンフェルナンド・バレー]]地区にある[[映画スタジオ]]および[[テーマパーク]]。現在も使用されているハリウッドの映画スタジオの中で、最も古く、最も有名なスタジオの一つである。当初は、ユニバーサル・スタジオの本物のサウンドステージやセット見学ツアーを提供するために創設された。開業は、世界の[[ユニバーサル・パークス&リゾーツ|ユニバーサル・スタジオ・テーマパークス]]のなかで最も早い。 ==歴史== === 誕生と中断 === 当初から、ユニバーサルは[[スタジオ・ツアー]]を提供していた。[[カール・レムリ]]は、[[1915年]][[3月14日]]にユニバーサル・シティをオープンし、25セントの入場料を取り、チキン入りのランチ付きで、一般大衆を映画の制作現場に招待した。この当時のツアーは[[1930年]]頃に、[[トーキー]]の登場のために中止された。<ref name="The Studio Tour - History">{{cite web|title=Universal Studios Hollywood - History|url=http://www.thestudiotour.com/ush/chronology.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-21}}</ref> === 成功 === [[1962年]]に[[ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ]]がユニバーサル・ピクチャーズを買収した後の[[1964年]][[7月15日]]、路面電車による新たなツアーを開始した<ref name="The Studio Tour - History" />。これが、やがて本格的なテーマパークに成長していく。 その路面電車(トラム)ツアー<ref name="GlamourTrams">{{cite web|title=GlamourTrams|url=http://www.thestudiotour.com/ush/studiotour/glamortrams.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-21}}</ref>はスタジオの[[ユニバーサル・スタジオ・ロット|バックロット]]でまだ行われているが、かつてファンを引き付けた映画制作現場は、ステージイベントや[[スタント]]の実演、ハイテクアトラクションに取って代わられた<ref name="The Studio Tour - History" /><ref name="Studio Tour History">{{cite web|title=The Studio Tour|url=http://www.thestudiotour.com/ush/attractions/studiotour.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-21}}</ref>。 ===バックロットでの火事=== {{wikinews|米の映画テーマパーク「ユニバーサルスタジオ」で火災事故|date=2008年6月2日}} ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのバックロットでは、今までに8回火災が起きている<ref name="The Studio Tour - Fires">{{cite web|title=Backlot Fires|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fires.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-21}}</ref>。 * [[1932年]][[10月27日]]、近くの[[山火事]]の残り火がバックロットまで風で飛び火して、4つの映画セットを破壊し、10万ドルの損害を出した。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1932">{{cite web|title= Actors Flee Blazing Movie Set|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1932.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> * [[1949年]][[6月21日]]、別の山火事で建物1つが全壊し、2つが破損した。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1949">{{cite web|title=Southland Fires Halted|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1949.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22|author=Long Beach Independent|date=June 22, 1949 }}</ref> * [[1957年]]、ニューヨークストリートのフィルムスタジオセットが放火による火事で損壊し、50万ドルの損害が出た。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1957">{{cite web|title=1957 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1957.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> * [[1967年]][[5月15日]]の火事では、リトルヨーロッパエリアと、スパルタカススクエアの一部が壊れ、100万ドルの損害が出た。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1967">{{cite web|title=1967 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1967.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> * [[1987年]][[9月4日]]、スパルタカススクエアの残りの部分が、通りのセットや建物とともに破壊された。これも、放火によるものと考えられている。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1987">{{cite web|title=1987 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1987.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> *[[1990年]][[11月6日]]、別の放火による火事がバックロットで発生。コートハウススクエアの大部分、ニューヨークストリートのセット、ベン・ハーのセットが破壊された。<ref name="The Studio Tour - Fires - 1990">{{cite web|title=1990 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1990.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> * [[1997年]][[9月6日]]、バックロットで7度目の火事が発生し、コートハウススクエアの一部が再び破壊されたが、大部分は無事だった。<ref name="The Studio Tour - Fires -  1997">{{cite web|title=1997 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_1997.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-22}}</ref> [[File:Universal Fire Smoke.jpg|thumb|left|2008年の火事の様子。煙の柱の左手に、コートハウスの正面が見える。]] 最も被害が大きかったのは[[2008年]][[6月1日]]の火災で、溶接のために[[トーチランプ]]を使っていた従業員がうっかり周りの物に火をつけてしまったことに起因する<ref name="The Studio Tour - Fire - 2008">{{cite web|title=2008 Backlot Fire|url=http://www.thestudiotour.com/ush/backlot/fire_2008.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-23}}</ref><ref name="cnn">{{cite news |url=https://edition.cnn.com/2008/US/06/01/studio.fire/index.html |title=Universal Studios blaze burns sets, video vault |accessdate=2014-4-23 | work=CNN | date=June 1, 2008}}</ref>。ロサンゼルス郡消防局は、ブラウンストーンストリート、ニューヨークストリート、ニューイングランドストリート、[[キングコング]]のアトラクション、コートハウススクエアのいくつかの建物のほか、ビデオ保管室(映画の複製を保管していた。)が全焼したと報告した。各地の消防署から消防士と、放水のための2台のヘリコプターが駆けつけ、14人の消防士と3人のロサンゼルス郡保安官代理が軽傷を負った。火事は12時間後に鎮火された。 保管室の全焼によって焼失したのは、[[1920年代]]にまで遡る、ユニバーサル・ピクチャーズの映画とテレビ番組の歴史を記録したデジタルビデオとフィルムの複製4万から5万本。その中には『[[無ケーカクの命中男/ノックトアップ]]』、『[[つぐない (映画)|つぐない]]』、[[NBC]]シリーズの『[[ロー&オーダー]]』、『[[特捜刑事マイアミ・バイス]]』、[[CBS]]の『[[アイ・ラブ・ルーシー]]』などのフィルムが含まれていた<ref>{{cite news|url=http://www.nytimes.com/2008/06/01/us/01cnd-fire.html?ref=movies|title=Large Fire Strikes Universal Studio Lot | work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] | first=Michael | last=Cieply | date=June 1, 2008 | accessdate=2014-4-23}}</ref><ref>{{cite web |url=http://ap.google.com/article/ALeqM5ieKlEB60J43hDZ39AB9VmsPZ72sgD911MNN80 |accessdate=2014-4-23 |first=Greg |last=Risling |publisher=Web Archive |title=Fire at Universal Studios destroys sets, videos |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080604141631/http://ap.google.com/article/ALeqM5ieKlEB60J43hDZ39AB9VmsPZ72sgD911MNN80 |archivedate=2008年6月4日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/sns-ap-studio-fire,0,5322600.story  |title=Universal studios fire may cost tens of millions |accessdate=2014-4-23 |first=Ryan |last=Nakashima |publisher=Web Archive |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080605022828/http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/sns-ap-studio-fire,0,5322600.story |archivedate=2008年6月5日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は、ユニバーサル・ミュージックの多くのアルバムとシングルのマスターテープも焼失したと伝えている<ref>{{Cite web|和書|url=http://amass.jp/121787/?fbclid=IwAR0y6T1g-P88t2IEjo1n0ejWlWpiggUvDLrE0IMm8dOTqRF2mdxDFeKpE9w |title=2008年の米ユニバーサルスタジオ火災で50万曲のマスターテープが焼失 NYタイムズ報道|date = 2019-06-12 |accessdate=2019-06-27}}</ref>。ユニバーサル社長のロン・メイヤー氏は、取り替えの利かないものは失われていないと述べ、決して安くは済まないが、最低5000万ドルで全て元に戻すことができると表明した。後日、キングコングのアトラクションは再建されず、その場所には新たな未発表のアトラクションが作られると報道された<ref>{{cite news  |url=http://travel.latimes.com/daily-deal-blog/index.php/universal-studios-hollywood-to-replace-king-kong-with-new-attraction-1977  |title=Universal Studios Hollywood to replace ‘King Kong’ with new attraction | work=Los Angeles Times | accessdate=May 27, 2010}}{{リンク切れ|date=2014-4}}</ref>。[[2008年]]8月には、ユニバーサルは姿勢を変更し、[[キング・コング (2005年の映画)|2005年の映画]]を元にして、キングコングのアトラクションを再建する計画を発表した。 ===かつてのアトラクション=== {{See|{{仮リンク|ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドにかつて存在したアトラクションの一覧|en|List of former Universal Studios Hollywood attractions}}}} 他のテーマパーク同様、アトラクションは、作品が作られてから長い期間がたっていたり(バック・トウ・ザ・フューチャーやE.T.など)、スペース不足のために、閉鎖されることがある。 ==パークの構成== ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドは、アッパー・ロット (Upper Lot) とロウアー・ロット (Lower Lot) という高さの違う2つのエリアに分かれていて、[[エスカレーター]]でつながっている。2023年9月現在、アトラクションは7つ、ショーは5つ存在する<ref name="Official Map">{{cite web|title=Park Map|url=http://www.universalstudioshollywood.com/park-map/|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2014-4-27}}(国旗のアイコンから、各言語の最新マップがダウンロードできる。)</ref><ref name="Official Dining">{{cite web|title=Theme Park Dining|url=http://www.universalstudioshollywood.com/theme-parks/dining/|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2014-4-27}}</ref><ref name="Official Shopping">{{cite web|title=Theme Park Shopping|url=http://www.universalstudioshollywood.com/theme-parks/shopping/|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2014-4-27}}</ref>。 ===アッパー・ロット=== {| class="wikitable sortable" |- !名称 !写真 !開始年 !説明 !身長制限 |- | ''Despicable Me: Minion Mayhem'' | {{NA|}} | 2014年4月12日 | [[怪盗グルーの月泥棒 3D]]のミニオンの訓練施設を舞台とした、家族向けのライド型アトラクション。2017年には[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]にも「ミニオン・ハチャメチャ・ライド」としてオープン。 | 40[[インチ]]以上。48インチ以下の子供には保護者の同伴が必要。 |- | ''Super Silly Fun Land'' | | 2014年4月12日 |怪盗グルーの月泥棒 3Dをテーマとする子供のための遊び場。 | |- | ''Silly Swirly'' | | 2014年4月12日 | Super Silly Fun Land内にある、空中メリーゴーランド風のアトラクション。 | 48インチ未満の子供には保護者の同伴が必要。 |- | ''The Secret Life of Pets: Off the Leash'' | | 2021年4月16日 | 「[[ペット (映画)|ペット]]」をテーマにしたライド型アトラクション。 | |- | ''DreamWorks Theatre'' | | 2018年6月15日 |[[ドリームワークス・アニメーション]]の作品をテーマとするシアター系アトラクション。座席が映像と連動して動く。 | |- | ''[[スタジオ・ツアー|Studio Tour]]'' | {{NA|}} [[File:Universal Studios - Studio Tour.JPG|120px]] | 1964年7月15日 | トラムに乗ってバックロットを巡る、45分間の看板アトラクション。実際の映画撮影セットを見られるのほか、[[キング・コング]]、[[ジョーズ]]、[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]などを元にしたアトラクションもツアーに組み込まれている。それらの演出が、小さな子供には強烈すぎるおそれがある。 | 身長制限は無いが、小さな子供には保護者の同伴が強く推奨される。 |- |''The Simpsons Ride'' | {{NA|}} [[File:USH- Simpsons Ride Enternace.JPG|120px]] | 2008年5月19日 | 家族向けのアドベンチャーアトラクション。舞台は[[ザ・シンプソンズ]]の町[[スプリングフィールド (ザ・シンプソンズ)|スプリングフィールド]]。 | 40インチ以上。 |- | ''Waterworld: A Live Sea War Spectacular'' | {{NA|}} [[File:Waterworld Entrance.JPG|120px]] | 1995年 | 映画[[ウォーターワールド]]をモチーフにした、20分間の水を使ったスタントショー。 | |- |} ===ロウアー・ロット=== {| class="wikitable sortable" |- !名称 !写真 !開始年 !説明 !身長制限 |- |''[[ジュラシック・ワールド・ザ・ライド|Jurassic World: The Ride]]'' |{{NA|}} | 2019年7月12日 | 映画「[[ジュラシック・ワールド]]』を元にしたアトラクションで、パーク唯一のウォーターライド。<!-- 所要時間は5分30秒。-->25人乗りのボートで様々な恐竜がいる世界の中を進み、ラストには池に向かって、84フィートを急降下する。『[[ジュラシック・パーク・ザ・ライド|Jurassic Park: The Ride]]』をリニューアルしたライド。 | 42インチ以上。 |- |''Raptor Encounter'' |{{NA|}} | | ヴェロキラプトルと触れ合うことができるライブ・ショー。 | |- |''DinoPlay'' |{{NA|}} | | 化石、カーゴネット、はしご、滑り台を備えたインタラクティブな遊び場。 | |- |''[[リベンジ・オブ・ザ・マミー|Revenge of the Mummy]]'' |{{NA|}} | 2004年6月25日 | [[ハムナプトラ]]をモチーフにした、2分間の屋内ジェットコースター。前進するほかに、逆行、急降下、急上昇、旋回などの動きをする。健康状態の悪いゲストは乗車しないほうがよい。 | 48インチ以上。 |- | ''[[トランスフォーマー・ザ・ライド3D|Transformers: The Ride]]'' |{{NA|}}[[File:Transformers The Ride construction (Hollywood, May 2010).jpg|120px]] | 2012年5月24日 | [[4096×2160|4K]]-[[3次元映像|3D]]プロジェクション技術を採用した、4分半のアトラクション。モチーフは映画『[[トランスフォーマー (2007年の映画)|トランスフォーマー]]』シリーズ。一台あたり12人乗車可能。 |40インチ以上。48インチ以下の子供には保護者の同伴が必要。 |- |} ===ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター=== {{main|ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター}} ===スーパー・ニンテンドー・ワールド=== {{main|スーパー・ニンテンドー・ワールド}} ==パーク・キャラクター== [[File:Universal Studios (7823243938).jpg|200px|thumb|道端でダンスをするキャラクターたち。]] ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドでは、映画の登場人物やキャラクターなどがパーク内を歩いていて会うことができる<ref name="Official Characters">{{cite web|title=Characters in the Park|url=http://www.universalstudioshollywood.com/attractions/characters-in-the-park/|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2014-4-30}}</ref><ref name="Studio Tour - Streetmosphere">{{cite web|title=Streetmosphere|url=http://www.thestudiotour.com/ush/attractions/streetmosphere.shtml|publisher=The Studio Tour|accessdate=2014-4-30}}過去と現在のキャラクターのほぼ完全な一覧。</ref>。 ;例 * [[ウォルター・ランツ]]のキャラクター([[ウッディー・ウッドペッカー]]など)。 * [[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]のキャラクター。 * [[ドリームワークス・アニメーション]]のキャラクター。 * [[ザ・シンプソンズ]] * [[ミニオンズ (キャラクター)|ミニオンズ]] * [[おさるのジョージ (テレビアニメ)|おさるのジョージ]] * [[スポンジ・ボブ]] * [[ベティ・ブープ]] * ユニバーサル映画に登場する「クラシック・モンスター」(ドラキュラや狼男など) * [[バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズの登場人物#主要人物|エメット・L・ブラウン]]や[[ビートルジュース]]など映画の登場人物。 == 入場料金 == 1日パスの場合<ref name="tickets">{{cite web|url=http://www.universalstudioshollywood.com/tickets/|title=Buy Tickets|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2016-2-2}}</ref> * 10歳以上 … 95ドル * 3 - 9歳 … 76ドル なお、通常の入場券より少し高い「フロント・オブ・ライン・パス (Front of Line Pass)」を購入すると、各アトラクションの待ち時間を短縮することができる<ref name="tickets" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://parts.arukikata.com/themepark/ush/frontoftheline.html|title=フロント・オブ・ザ・ライン・パスのご紹介|publisher=地球の歩き方トラベル|accessdate=2014-4-30}}</ref>。 ==公共交通機関== ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドの最寄り駅は[[ユニバーサルシティ駅 (カリフォルニア州)|ユニバーサルシティ駅]]で、毎日午前4時55分から翌日の午前0時35分までの時間運行している[[ロサンゼルス郡都市圏交通局レッドライン|メトロ・レッドライン]]を利用して行くことができる。ユニバーサルシティ駅発のメトロの最終便は、月曜日から木曜日および日曜日と祝日は午前0時58分、金曜日と土曜日は午前2時である。駅からテーマパークの入り口までは無料のシャトルバスに乗ることができる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.universalstudioshollywood.com/translation-japanese/|title=日本語による案内|publisher=Universal Studios Hollywood|accessdate=2014-4-30}}</ref>。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} ==外部リンク== {{Portal|アメリカ合衆国}} {{Commonscat|Universal Studios Hollywood}} * {{official website|https://www.universalstudioshollywood.com/}}{{en icon}} * {{Twitter}} * {{Facebook}} * {{Instagram}} * {{RCDB|5265}} {{ユニバーサル・パークス&リゾーツ}} {{ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドのアトラクション}} {{NBCユニバーサル}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆにはあさるすたしおはりうつと}} [[Category:ユニバーサル・パークス&リゾーツ|はりうつと]] [[Category:ロサンゼルスの観光地]] [[Category:ロサンゼルスの文化]] [[Category:ロサンゼルスの建築物]] [[Category:アメリカ合衆国のテーマパーク]] [[Category:北アメリカの遊園地]]
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日本共産党
日本共産党(にほんきょうさんとう、英: Japanese Communist Party、略称: JCP)は、日本の政党。科学的社会主義を理論的基礎とする社会主義・共産主義政党である。 略称は「JCP」。日本国内では単に「共産党」、「共産」と呼ばれる。「日共」とも。1字表記の際は、「共」と表記される。 2019年9月現在約28万人の党員を抱え、西側諸国で最大規模の共産党となっている。国会議員数は、衆議院議員10名、参議院議員11名で衆議院及び参議院野党第三党である。約2,500人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2020年8月現在64ある。 また、女性議員の人数が最大の政党である。日本政治において最も長く同じ党名を使用し、また現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。産経新聞によると、2000年に38万7000人だった党員が、2020年には27万人前後に、当時199万人の「しんぶん赤旗」購読者も、2019年に100万人を下回った。 代表に関して一般党員による直接選挙の結果を用いる規定を持たない。 代表は党規約に基づき以下のプロセスで選出される。 このため、「党首」と言っても直接選挙制で選出される「党首」のように絶対的な権限が付与されることは無く、いわゆる「党首」にあたる幹部会委員長も、議論を経て合意を得た党大会決定、中央委員会決定、幹部会決定、常任幹部会決定に拘束される。幹部会委員長は党の決定、党員の総意から離れて、勝手な言動を行うことは許されない。 本部の住所は千駄ヶ谷であるが、最寄り駅が代々木駅のため、別名として「代々木」と呼ばれる場合もある。これは主に日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない左翼が用いることもある。それは、1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を「極左冒険主義」と批判して中止し、議会制民主主義選挙の中で政権を合法的に奪取することを目指す政党になったことを、批判的にとらえる立場からの呼び名である。この武装闘争に関しても、党は「分裂した一方の側に誤った方針・行動がありました」と主張し、分派が行ったものとしている。この暴力革命路線の継続を支持する新左翼など、他の共産主義者から「代々木」という呼称は使用される場合が多い。同様に、数多く存在した「日本共産党」を自称する他の党派と区別するため、特に「日本共産党(代々木派)」などと表記することもある。 党章は、一つに合わせられた、民主主義革命、民主統一戦線、国際統一戦線、日本共産党建設をそれぞれ表す4枚の赤旗の上に、農民と労働者を表す、稲穂を通した歯車。 日本国の国政(国会)においては結党以来与党として政権に参加したことはないが、琉球政府では、事実上の日本共産党の琉球支部だった沖縄人民党は、米軍支配下ではあるが屋良朝苗行政主席を支持する「与党」に参加していた。 1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。 11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。 「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険を含む社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国に対するあらゆる干渉の中止、中国、台湾、樺太、朝鮮からの日本軍の完全撤退を求めた。 日本共産党は「君主制(天皇制)の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。他の資本主義諸国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。堺利彦らが解党を唱えた結果、1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。 その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。 1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか?』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の政党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。 当時の政党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。 1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵を初めとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く取り締まりで約1,000人が検挙されて、日本共産党は多くの活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。 相次ぐ取り締まりで幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などのテロ事件を起こした(武装共産党時代)。また1930年に水野成夫らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の日本共産党労働者派を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。 1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。 このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも政党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。 1932年5月、コミンテルンにて「32年テーゼ」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。 同月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、「スパイM」(飯塚盈延)を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内でのスパイ狩りが始まり出した。 10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定した者もいた。 さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多くの党員が袴田ら中央を批判して分派の「多数派」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。 1936年のフランスやスペインで「人民戦線」と呼ばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、政党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。 日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。 その後も、関西圏には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって取り締まられた。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動(日本人民解放連盟)をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。 第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と政治犯釈放を要求するGHQ指令により約220名の共産党員が出獄し、徳田球一、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳、志賀義雄らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。なお戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)とも称する。戦争に反対した共産党員の出獄は国民に歓迎された。 1946年1月に野坂参三が中華民国から帰国、2月の第五回党大会では党員6847人、「アカハタ」は25~26万部を超えたと発表、採択した行動綱領では、連合国軍を「解放の軍隊」とし(解放軍規定)、大会宣言で「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョワ民主主義革命を、平和的に、かつ民主的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした(平和革命論)。1946年4月の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。 1946年6月に独自の憲法草案として「日本人民共和国憲法草案」を発表、各党憲法草案の中では唯一人民主権(国民主権)を明記した。日本国憲法制定時の採決では、天皇制の存続による民主化の不徹底や、自衛権放棄による民族独立への危惧などを理由に反対した。 連合軍に解放された共産党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。 日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的過ぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが、統一地方選挙では青森県新城村(現・青森市新城地区)を初め、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。 その後も、国民の生活困窮を背景に、活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田両政権の迷走で、社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では、従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7の選挙区全てで当選者を出すなど、大都市圏やその周辺だけでなく、農民運動の盛んだった鳥取全県区や山梨全県区など、ほかにも新潟県や石川県など、東北・四国地方以外の全地域で当選者を出した。 アメリカによる日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の成立、1949年の中華民国での国共内戦に勝利した、中国共産党による中華人民共和国の成立で、東アジアの緊張が高まった。 1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙『恒久平和のために人民民主主義のために!』に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(後に所感派と呼ばれた)。 しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らは毛沢東やスターリンによる国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田球一が国会に証人喚問される事態になった。 1950年5月には、GHQのダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして、日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に共産党と占領軍の間で、大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは日本共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し団体等規正令に基づく出頭命令を拒否した団規令事件で逮捕状が出て、9人の共産党幹部は地下に潜行した。 公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」と呼ばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発した。 コミンフォルム論評への対応に加え、レッドパージによる取り締まりもあり、日本共産党は、主流派である徳田球一らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。 1951年2月、主流派(所感派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」はアメリカ帝国主義によるアジアでの侵略戦争を批判し、その暴力的支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた。 1951年4月、統一地方選挙では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ、同党の強さを発揮した。 1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している)。 1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印された(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した)。 1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々なテロ活動が行われた。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多くのテロ・騒乱事件が発生した。 しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を全く得られず、1952年の第25回衆議院議員総選挙、さらには1953年の第3回参議院議員通常選挙で公認候補者が全員落選、国会議員が参議院の1人だけになるという最悪の結果につながる。また、武装闘争方針により吉田政権は治安立法を強化、1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における暴力主義的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して、日本共産党を調査・監視対象に指定している。 1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結。1952年4月に条約が発効され、日本は主権を回復した。これにより、公職追放は解除された。所感派中心の北京機関は、地下放送の自由日本放送で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京市内で死亡した(日本での徳田の死亡の公表は2年後の1955年)。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。 1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開き、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言した。 更に1958年の第7回党大会では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「五〇年問題」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」は中国・ソ連といった大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判した。これらは以後、外国からの干渉は受けない自主独立路線の始まりとなった。 以後の日本共産党執行部は、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協や、そこでの「軍事方針」である「51年綱領」の採択、六全協での「再統一」宣言、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、徳田・野坂分派が中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が、武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは、一度もない」と主張している。 この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に違法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や日本の新左翼運動にもつながった。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。 公安調査庁と公安警察は、日本共産党は「敵の出方論」に立った暴力革命の方針を実際には放棄していないと見続けており、1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚した。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で、不法行為によるスパイ行為を批判している。 また警察庁の『警察白書』では、現在も日本共産党を「調査対象団体」とし、数ページを割いて動静を記述しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、日本共産党の綱領や決定について、批判的な講義がされている。 一方、破防法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、政党組織や日本国民救援会の人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。日本共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという状況が続いた。これによりマスメディアに対し、日本共産党は「新聞は権力の手先」と反発していた。 1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり(比喩的に55年体制とも呼ばれる)、1960年代半ばには指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」を打ち出した。1958年の第7回党大会以降は、不破哲三や上田耕一郎などの「改革派」が中央の要職に就任した。 合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロッキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では過激な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難したが、必ずしも批判された側すべてが「トロツキズム」を主張していたわけではない。 合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続けた。 この頃から日本共産党は「自主独立路線」を掲げ、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら(#国際共産主義運動の分裂を参照)、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢を70年代前半にかけて長期的に回復、拡大していった。1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が、誕生した。 1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。 1970年7月の第11回大会で、革新統一戦線によって1970年代の遅くない時期に民主連合政府を作るとの政権構想を打ち出し。1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第三党、野党第二党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が、誕生した。 一方、党内では、1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を中心とした分派が結成され、その摘発といういわゆる「新日和見主義事件」が発生した。 1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた。 1973年11月、第12回党大会で綱領を一部改定し、「ソ連を中心とする社会主義陣営」から「ソ連を中心とする」を削除し、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」の後半を「プロレタリアート執権の確立」に変更した。更に1976年7月、第13回臨時党大会で綱領から「プロレタリアート執権の確立」自体を削除して「労働者階級の権力」のみとし、また綱領と規約の「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に変更した。また「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」では、民主連合政府では憲法9条を「あくまで厳守する」として「竹やり論」とも言われたが、同時に党としては「将来は、独立、中立の日本をまもるための最小限の自衛措置をとるべき」とした。 1974年、公明党の支持母体である創価学会と、松本清張の仲介で、池田大作と宮本顕治で相互不可侵、共存を約した協定を10年間の約束で結んだ(創共協定または共創協定)。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、山崎正友による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『週刊新潮』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。東京地方裁判所は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。 1975年、『文藝春秋』で立花隆の「日本共産党の研究」が連載開始され、1976年、この連載に「日本共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と、副委員長であった袴田里見が被告となった裁判の記事は大きな反響となり、国会でも取り上げられた。1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。 1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。これは、当時イタリア共産党など西欧諸国の共産党が採択していたユーロ・コミュニズム路線に倣ったものであり、「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的、日本的な共産主義)と呼ばれた。また1977年、袴田里見が除名された。一方で、1970年代後半からは一部の党員研究者によるネオ・マルクス主義(英語版)的な思潮も現れ、中央との軋轢がはじまる。 1979年の第35回総選挙では、最高の39議席を得た。1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンや、サンケイ新聞事件などの強烈なネガティブ・キャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。 共産党と社会党は、日本政治の中では革新に属し、中道の公明党、民社党を挟んで保守の自民党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を実現するというのが当初の社共の方針であった。 共産党は民主連合政府で、社会党との連立を前提としていたが、社会党内には社共共闘より社公民路線を重視すべきだという意見が有力となった。民公、特に反共主義的な民社の側(主に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。 1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長・太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結したこと)による中道化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員、支持者が、共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して共産党の排除が進んだ。 1980年1月、公明党と社会党が、日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果(社公合意)、社会党との連立を前提にしていた民主連合政府構想は実現性が遠のいた。このため1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会(全国革新懇)を結成し、「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、無党派との連携による新たな革新戦線を全国的に追求するとした。 しかしこれは、共産党と社会党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る見解もあり、亀田得治(元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員、歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多く参加しているにもかかわらず、具体的な選挙協力としては愛知県、高知県などを除き余り大きな成果は得られていない。 革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され活動しているが、実態は政党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。 なお、共産党が国政選挙で、他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、田中美智子、安田純治、陶山圭之輔、喜屋武眞榮、西岡瑠璃子、川田悦子(以上無所属)、島袋宗康、仲本安一、糸数慶子(以上沖縄社会大衆党)らがおり、そのうち田中、安田は当選後、衆院会派「日本共産党、革新共同」に入っている。 1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「非核の政府」という路線に切り替え、全国の地方公共団体で「非核平和都市宣言」条例の制定運動を行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。だが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。 1989年1月1日の『しんぶん赤旗』の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。しかし、この年日本共産党は国際的な激震に相次いで見舞われていた。6月4日、中国では天安門事件が発生し、民主化を求める人々が人民解放軍によって弾圧され、多くの死者が出た。日本共産党は中央委員会声明「社会主義的民主主義をふみにじる中国党・政府指導部の暴挙を糾弾する」を発表し、厳しく批判した。東欧諸国では、6月18日のポーランド議会選挙が端緒となって、次々と共産党の独裁体制が倒れていく。12月3日には、マルタ島で行われた米ソ首脳会談で冷戦の終結が宣言された。日本共産党は1989年に入る直前からソ連の新思考外交への批判を強め、平和や環境など全人類的価値を強調することは階級闘争を軽視・否定し、帝国主義に妥協するものであり、共産主義の原則的立場からの逸脱であると論じていた。かつて、原水禁運動で社会党や総評の「いかなる国の核実験にも反対」に反対したのと同じ理屈であった。 このように日本共産党は共産主義を放棄せず、むしろそれからの逸脱を批判した。そして、自主独立路線をはじめ宮本路線の正しさを訴えることで、1989年の国際的な激震を乗り切ろうとした。 1990年7月の第19回党大会では、社会主義はまだ生成期のために、大国主義・覇権主義や官僚主義の問題があるとした(社会主義「生成期」論)。1991年8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解体には、「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。その発言の翌日に、常任幹部会は「大国主義、覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」との声明を発表した。 その一方、ソ連、東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。また1980年代には中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定して「社会主義の復元力」を主張していたこと、1984年に宮本・チェルネンコ共同宣言を発表したこととも矛盾していた。 ほぼ時を同じくして、政権与党や社会党(現在の社民党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、政党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。 また、核兵器問題など外交問題を初めとする諸問題で、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。特に自主独立路線で共闘していたルーマニア共産党との関係は主要な焦点となった。「宮本顕治同志とニコラエ・チャウシェスク同志の共同宣言」は、党内外から厳しい批判にさらされることとなった。1994年の第20回党大会では、ソ連は問題もあるが、社会主義社会であるとしていた従来の「生成期」論を修正して、「スターリン以後のソ連社会は、経済的土台も社会主義とは無縁」で、「社会帝国主義的」とした。日本共産党は、『80年代半ばまではソ連の指導者を「同志」と呼んだり、「レーニンに次ぐ平和の戦士」とたたえたりしていた』と読売新聞は報じている。 1970年代後半から生じていた、ネオ・マルクス主義の思潮と中央との理論軋轢は、1990年代前半には丸山眞男批判の動きも加わって、ネオ・マルクス主義の立場にある一部党員学者の除籍や離党へと帰結した。当時、法政大学教授であった高橋彦博(政治学)は1993年の『左翼知識人の理論責任』の出版を契機に除籍された。1994年には田口富久治(名古屋大学教授、政治学)が同年の党大会における丸山眞男批判(大会決議にも含まれる)を、きっかけとして、離党している。 1993年の第40回衆院選では、三大保守新党(日本新党、新生党、新党さきがけ)が大勝した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民・非共産の連立政権が発足。共産党は9月8日から中央委員会総会を開き、小選挙区制の導入を掲げる細川政権を「自民党以上に反動的」と批判し、社会党についても「右転落」の末に元自民党幹事長の小沢が主導する「第二自民党政権の与党になった」と攻撃する決議を採択した。そして、署名運動など小選挙区制の導入阻止に向けて活動を続けた。「政治改革四法」は参議院で社会党から造反者が出たことで否決された。しかし、細川首相と自民党の河野洋平総裁のトップ会談の結果、合意がまとまり最終的に1994年3月4日に成立、小選挙区制が導入された。 小選挙区は中小政党に不利に働くため、共産党単独候補の当選は極めて困難なため、苦境に立たされることも予想されたが、1990年代後半にはおいては社会党からの離反層を取り込み、また集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用し、一時的に党勢が回復した。1996年の第41回総選挙では小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得するなど26議席を獲得。1998年の参議院選挙では15議席を獲得し、非改選議員と併せて政府予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。 しかしその後は、小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや、総議員定数の削減、日本周辺の国際情勢も相まって、国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少した。 1997年の第21回党大会で、無党派と連携して21世紀の早い時期に、民主連合政府を実現するとした。 2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また自衛隊解消前の「過渡期な時期」に必要に迫られた場合には「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」とした(自衛隊活用論)。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」(志位・市田体制)が確立した。 共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れになり、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25の選挙区で「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300の選挙区に候補者を立て235の選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。 2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、社民党や民主党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。 国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、民主党はもとより、護憲という立場で政策的距離が近い社民党との選挙協力の目処も立っていない。その一方、市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党、自民党に次いで第三党の位置を保っている。また他党との連携については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との連携を強化することになった。 2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。 2008年9月、麻生政権の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。 2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。 しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、在日米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民・非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。 その他、2008年にニコニコ動画に公式チャンネルを開設したり、TwitterやFacebookに公式アカウントを開設するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行っている。 2010年の第22回参議院議員通常選挙では、民国連立政権の普天間基地移設問題における違約や、菅直人の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのは自民党とみんなの党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した。さらに、9月25日~9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明した。 従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位が報告したところによると、「実態のない党員(幽霊党員)」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告した。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は中央と地方組織で折半していたものを、6:4に改め地方組織の負担を減らした。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では組織的な被災地支援活動を行った。また、岩手、宮城、福島の被災3県の県議選では復興や原発ゼロを訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得した。 第46回衆議院議員総選挙(2012年12月16日投開票)では、与党の民主党は支持率低迷が続き野党転落が確実な状況で、自民党は9月に総裁に復帰した安倍晋三の下で経済政策「アベノミクス」や安保政策などの政策を打ち出して政権奪還に望んだ。共産党は民主党のみならず自民・公明両党とも対決の姿勢を強め、TPP交渉参加に反対、歴代政権の原発政策、3党合意で決定された消費税増税法案を特に厳しく批判。同時に護憲、障害者に費用の原則1割負担を求める障害者自立支援法の撤廃などに代表される社会保障の拡充、労働問題の改善、尖閣諸島問題を初めとした領土問題の解決などを強く主張した。また前回の擁立方針を改めて、社民党の照屋寛徳を支援した沖縄2区以外の全選挙区に候補者を立てた。更に、反TPPを訴えたことから、自民党の支持基盤である農協の一部の支援も受けた。選挙の結果、前与党の自民党、公明党と、右派系野党の日本維新の会、みんなの党が議席を伸ばした。共産党は1減の8議席(全て比例区)に留まったが、与党の民主党、国民新党と左派系野党の社民党、日本未来の党が議席大幅減となった中では、相対的な善戦であった。 2013年には参院選に向けて、反アベノミクス、反TPP、反原発、反消費税増税、護憲など自民党の政策に真っ向から対決する政策を掲げ「自共対決」とする方針を出す。参院選の前哨戦として注目された都議会議員選挙(2013年6月23日投開票)では前回の8議席から17議席を獲得。選挙前の第一党から激減させた民主党を上回って第三党、野党では第一党となるとともに、議案提出権を4年ぶりに回復した。 次いで行われた第23回参議院議員通常選挙(2013年7月21日投開票)では、勢いを維持して反自民の訴えを続ける。また若者を取り込むために解禁直後のネットでの選挙活動や雇用環境対策(ブラック企業批判等)にも力を注いだ。選挙結果は改選3議席から比例5議席、選挙区3議席を獲得。非改選を含めると11議席となり、議案提案権を9年ぶりに回復した。比例代表の得票は2010年選挙の356万票から515万票へと大幅に増加したほか、東京、大阪、京都の3選挙区で民主党や第三極勢力を抑えて当選、12年ぶりに選挙区で議席を獲得した。国政で議席を増加させたのは1998年参議院選挙以来、15年ぶりとなり、党はこの結果を大躍進と肯定的に評価、志位は「自民党と正面から対決して暴走にストップをかける頼りになる政党としておおいに力を発揮していきたい」と述べた。一部大手紙は共産党の今回の躍進の背景に低投票率や反自民票が共産党に流れたこと、第三極勢力の戦略ミスの影響もあったと論じた。 東京都知事選挙(2014年2月9日投開票)では宇都宮健児を推薦、元総理の細川護煕も無所属で立候補したため分裂選挙となって次点に終わったが、得票数は細川を上回った。 第47回衆議院議員総選挙(2014年12月14日投開票)でも「自共対決」と銘打ち活発に活動。その結果、前回の2倍以上の21議席を獲得、参議院に続き衆議院でも議案提出権を獲得した。比例の得票率は11.37%、票数では600万票を超え、小選挙区でも1996年の第41回衆議院議員総選挙以来18年ぶりに議席を獲得した(沖縄1区の赤嶺政賢)。党はこの結果について「第26回党大会で決定した目標を基本的に達成することができた」「全体として、総選挙の結果は、画期的な躍進といえるもの」という発表を行っている。 2015年の第18回統一地方選挙の前半戦では、選挙が行われた全ての41県府議会で議席を獲得した。今までは、共産党議員が存在していなかった栃木、神奈川、静岡、愛知、滋賀、三重、福岡の各県議会にも共産党の議員が誕生した。非改選の6議会も含めて、結党以来初めて、全47都道府県議会で議席を保有することとなった。同時執行の17政令市の市議会選挙でも共産党は選挙前の議席数を上回る136議席を獲得、民主党を抜く改選第三党、野党では第一党となった。後半戦でも勢いは変わらず、東京区議選挙で7議席、一般市議選挙で44議席、町村議選挙で11議席、合計62議席を新たに増やした。これを受けて党は本選挙戦は全体として躍進という結果だったという声明を発表した。 2012年から2014年にかけては、社民党、民主党、生活の党など他の左派政党が軒並み不調に陥る中で、ほぼ共産党の一人勝ちの状況が続いた。 2015年夏から秋にかけての平和安全法制の審議では反自民の政党による反対運動を主導し、社民党、民主党、維新の党、生活の党(現・自由党)の4党と連携を深める。同法案の審議を境目に、共産党は従来の「独り勝ち」方針を改め、安保法制廃止の一点での連立政権を樹立するために選挙協力を行うことを提案した。かつての民主連合政府構想における共産党との政策や価値観の共有よりもハードルを下げた提案であり、社民・生活両党は賛意を示したが、身内に保守系議員を抱える民主党は難色を示した。共産党は民主党の反対を受けて、連立政権の案件を凍結、翌年の参院選での野党5党の選挙協力を行なうこととなった。また、2016年2月20日には、社民党の第15回全国大会に志位が来賓として出席。共産党の出席は、前身の社会党時代を含め史上初となった。また、大阪府では、大阪都構想を推進する大阪維新の会と対決するために自民党との共闘も辞さない姿勢を見せている。 2016年の主要選挙には、概ね野党5党(3月に民主・維新両党が合併して民進党となってからは4党)の協力体制で臨んだ。まず衆院北海道5区補欠選挙(4月24日投開票)では、先に決定していた共産党候補の立候補を取り下げ、民進系の池田真紀を、共産・社民・民進・生活推薦の無所属候補として擁立。自民党公認で公明党らが支援の和田義明との一騎討ちとなり、前評判と較べて健闘したものの約12,000票差・惜敗率90.92%で落選した。一方、同日行われた京都3区の補欠選挙では、この野党共闘を優先する形で候補者の擁立を見送った。ただし民進党公認候補を含め、他の候補の支援・推薦には回らず、自主投票とした。 第24回参院選(7月10日投開票)では、参院一人区での統一候補の擁立作業が進んだ。この結果、共産党は発表していた一人区の候補者擁立を取り止め(香川選挙区を除く)、全員を比例区に回す措置をとった。選挙の結果、東京選挙区で1議席を獲得し、比例の5議席と合わせて6議席を獲得。非改選の8議席と合計して14議席となった。比例票は601万6195票(得票率10.74%)となり、参院選としては1998年の第18回通常選挙以来、18年ぶりの10%越えを達成した。 参院選直後の東京都知事選挙(7月31日投開票)でも野党統一候補として鳥越俊太郎を擁立、支援したが、選挙の告示直前の出馬(いわゆる「後出しジャンケン」)だったこともあり、準備不足も相まって3位に終わった。 衆院補選(10月23日投開票)でも、福岡6区・東京10区ともに一旦は独自候補を擁立していたが、4野党協議の結果これを取り下げ、統一候補の支援に回った。しかし結果は、ともに与党系候補(福岡6区は無所属候補が当選後に自民の追加公認を受ける)に敗れた。 この間の活動について、公安調査庁は内外情勢の回顧と展望(平成28年度版)で、日本共産党が平和安全法制を「戦争法案」などと呼び、国会周辺の抗議活動に、委員長や所属議員を参加させていると報告している。2015年7月の「安倍政権NO!0724首相官邸包囲」、8月の「国会10万人・全国100万人大行動」、9月の「国会正門前行動」などの運動へ参加し盛り上げを図った。共産党による「国民連合政府」構想は、55年前の政府構想と同様であると評し、「共産党が今回の構想の先に見据えるのは,「民主連合政府」による「民主主義革命」を経て「社会主義をめざす権力」 を作り,最終的に「社会主義・共産主義の社会」を実現することである。同党が,こうした綱領路線を堅持する「革命政党」(6 月の幹部会決議)であることに変わりはない。」としている。 また、公安調査庁発刊資料である内外情勢の回顧と展望の平成29年度版について、照屋寛徳が、「内外情勢の回顧と展望」六十二頁には、「沖縄県民大会」に「全国から党員や活動家らを動員した」との記述があるが、具体的にどの政党を指しているのか、当該政党の名称を全て列挙した上で、「動員した」と断定する根拠について政府の見解を示されたい。」と質問。内閣総理大臣の安倍晋三は、「「沖縄県民大会」に「全国から党員・・・を動員した」と記述された政党は、日本共産党であると承知している」と回答している。 東京都議会議員選挙(2017年7月2日投開票)では、37人の公認候補を擁立、4人の候補を推薦、支持(うち1人は東京・生活者ネットワーク所属)して戦った。選挙戦では自公両党のみならず、東京都知事の小池百合子が与党として結成した都民ファーストの会との差別化も強調して反小池票を吸収、2議席増の19議席を獲得した。 次期総選挙も4野党共闘の方針であったが、民進党では保守系議員を中心に共闘に否定的な議員も多く、9月1日の民進党代表選挙では保守系の前原誠司が当選する。しかし以降も保守系議員を中心に民進党からの離党が相次いだ。解散直前の9月25日、小池百合子(東京都知事)が自身に近い議員をメンバーに希望の党を結党すると、前原は28日の常任幹事会の了承を得て、希望の党と合流に向けた交渉を始める。衆院解散当日の9月28日、希望の党への事実上の合流方針が両院議員総会で了承されるに至り、志位は希望の党を「自民党の補完勢力」と非難するとともに、原則全選挙区での擁立方針に戻すことを表明し共産・民進両党の共闘は破綻した。また、自由党も代表の小沢一郎が「自公連立政権に対抗する野党勢力の結集」を理由に、希望の党に合流する意思を示し、4党共闘の枠組みから事実上離脱する。 一方、9月29日、共産党書記局長の小池晃と社民党幹事長の又市征治が衆院選での両党の選挙協力について協議し、11都府県の20選挙区で候補者を一本化することで合意している。 その後、外交・安全保障政策や憲法観の不一致などを理由に希望の党との合流を拒否した民進党出身の左派系メンバーが中心となって10月2日に「立憲民主党」(代表・枝野幸男)が結成され、共産・社民両党は歓迎するコメントを送り、第48回衆議院議員総選挙(10月22日投開票)において3党共闘となった。 10月5日、全国に先駆け北海道で、共産・社民・立民の3党の地元組織が共闘に合意。道内の全12選挙区において統一候補を擁立。民進から立民に参加する8人全員が統一候補になり、当該8選挙区では共産が立候補を取り下げる一方、立民の「空白区」である4選挙区は共産が候補者を出すことになる。北海道以外の地域でも共産党、社民党、立憲民主党、希望の党のどの政党にも参加しないことを表明した野党系無所属に候補を一本化し共産党は67の選挙区で独自候補を取り下げた。公示ギリギリまで調整が行われ反安倍・反小池の統一候補が249の選挙区で成立した。 選挙結果は、立憲民主党と希望の党の新党の間に埋没する形となり、公示前勢力から半減に近い12議席の惨敗に終わる。この結果を受け志位は「『比例は共産』という激励をたくさんいただいた。結果に結びつけることができなかったのは、私たちの力不足だ。捲土重来を期したい」とコメント。また、野党第一党に躍進した立憲民主党について「共闘勢力全体として議席を伸ばすことできたことは大きな喜び」と述べた。 2021年9月30日には立憲民主党との間で次期衆院選で政権交代が実現した場合に、共産が連立に入らず、「限定的な閣外からの協力」をする方針で合意した。しかし、同年10月の第49回衆議院議員総選挙では立憲・共産両党は議席を減らし、敗北。2022年5月に共産党は同年の第26回参議院議員通常選挙に向けて前回衆院選と同様に「政権交代時の閣外協力」を合意するよう立憲民主党に求めたが、立憲側は応じなかった。7月の参院選で共産党は比例票が目標の650万を大きく下回る約362万にとどまり、比例代表で2議席減となる3議席に留まった。 2022年7月15日、創立から100年を迎えた。 2023年、志位執行部への異論を外部に持ち出した党員が出た。2月6日には、京都府の党員で元中央委員会勤務の松竹伸幸について、日米安保護持への政策転換を唱える著書を出したことが、「党内に派閥・分派はつくらない」などの党規約に違反したとして除名処分とした。この処分への朝日新聞・毎日新聞などの各メディアの批判に対し、党執行部は会見やしんぶん赤旗などにおいて、規約違反を理由に処分の正当性を強調している。3月16日には、元京都府常任委員の鈴木元について、志位委員長への辞任要求や代表公選制の導入を掲げる著書を出したことが、「分派活動を行った」として除名処分とした。 2023年4月の第20回統一地方選挙では、前半選となる41道府県議選挙において改選前から24議席減の75議席にとどまり、唯一都道府県議の議席が無かった愛知県議会で議席を回復させた一方、新潟、福井、静岡、熊本、福岡の5県議会で議席がゼロとなった。共産の牙城である京都でも、府議選で3議席、京都市議選で4議席減らす結果になったことから、党内では「歴史的な敗北」とする受け止めが広がり、中には「党員の除名騒動が影響した」との声もくすぶったが、書記局長の小池は「影響を与えたとは思っていない」と否定した。後半戦の294の一般市議選では、55議席減となる560議席という結果になり、小池は「期待に応えられず、多くの候補者を落選させ大変悔しい。おわび申し上げたい」と述べた一方、引責辞任は否定した。 当初、日本共産党はソ連から強い影響を受けていた。名越健郎による旧ソ連の最高機密文書の調査の結果、判明しただけでも、ソ連より日本共産党に1951年に10万ドル、1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドルの計85万ドル(現在の貨幣価値にして30億円以上)の援助秘密資金が渡っていることが援助先リストに記載されており、政治資金規正法違反が指摘されているものの、当時の党書記局長であった志位は「仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない」などとして否定している。 日本共産党は独自に調査団をモスクワに派遣し、その調査結果を『赤旗』に掲載しており、秘密資金の流れがあったことを認めながらも、受領していたのは野坂参三・袴田里見ら「ソ連追随グループ」であり、党中央は一切関与していないとの立場を貫いているが、野坂は資金使途に「党本部建設」や「党学校」を掲げており、名越は中央党学校の開設や東京・代々木の日本共産党本部建設に実際に使用された可能性を示唆している。 1951年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定し、北京機関がその後設立された。そして、この方針に基づいて、1950年代前半に、全国的に騒擾事件や襲撃事件等の暴力的破壊活動を行った。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では、日本共産党の党候補が全員落選する事態となった。このように1950年代の武装闘争路線期にソ連・中国に盲従することで、党組織に壊滅的な打撃を受けた。その経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となった。しかし同時に「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)と記載されているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調をした。1956年のハンガリー事件を契機に離脱も起きた。 1961年に再開されたソ連の核実験に対して、日本共産党は当時、ソ連の核実験は防衛的と主張し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で路線対立が激化。1965年に社会党系は原水協を脱退して原水禁を結成し、以後は日本の原水爆禁止運動は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいると主張している。 1964年には中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両国の共産党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員内の親中派は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった。4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田政権を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある。 また、1966年、文化大革命発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象が起きたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中派が党規約にそむいたかどで除名された。 その後「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後、これらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。 ソ連や中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年のプラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党はソ連共産党を明確に批判した。1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、翌年1月にソ連を批判し、ソ連軍の即時撤退を要求した。また1979年の中国によるベトナム侵攻を批判し、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部による大韓航空機爆破事件、ラングーン事件、日本漁船銃撃事件にも厳しい態度をとった。 一方で親ソ派が党内に潜伏しており、1991年のソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の情報公開(グラスノスチ)と文藝春秋『週刊文春』の報道が始まると、日本共産党は独自調査団をモスクワに派遣し、明らかになった事実を基に、野坂参三を「ソ連内通者」として除名した。 六全協により、暴力的な運動の継続を支持する学生などが共産党の影響を離れたり、除名された。当初は日本共産党の指導下にあった全日本学生自治会総連合の学生党員を中心に、日本共産党の武装闘争路線転換に反対する、後に新左翼と呼ばれる共産主義グループがつくられた。警察庁は日本共産党の武装闘争が極左暴力集団誕生の要因として、日本共産党の責任を非難している。 日本共産党は、共産同(ブント)や革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体、運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治問題などで共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党及び民青はこれらの党派と激しく敵対し、新左翼各派の対立はゲバルトに至った。1971年6月19日、琉球大学内の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が、寮の4階から転落して死亡したこともあった。 こうして日本共産党を離れた人が結成したグループからの、日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。 スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは民主集中制の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。 1970年代には「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)、マルクス・レーニン主義の「科学的社会主義」への呼び変え、「プロレタリア独裁」や「前衛党」などの用語の綱領からの削除などを進めた。これらは当時のヨーロッパでのユーロコミュニズムの主張と類似点があり、上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴となった。なお、宗教に融和的な「宗教についての日本共産党の見解と態度」は、党内からの反発があり、党員の宗教学者が除名された。また大武礼一郎は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて日本共産党(行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。 部落解放同盟はその前身の全国水平社の中心人物の西光万吉も入党していたように元々共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年8月11日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、井上清は「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」と語っている。 また、元衆議院議員の三谷秀治は「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」と説明している。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう。 大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。 現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟を鉤括弧書きで「解同」と表記する場合もある。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」という認識を示している。また、同和利権批判で有名な寺園敦史らは全解連も批判しているにも関わらず、共産党と関係した経歴から解放同盟には「共産党の反動的国民融合論」と見る向きもあった。 現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。 政治戦においては、2010年代後半から始まった野党共闘によって同一の候補を支援する機会も増えて、公の場で互いが互いを批判することは著しく減少した。しかしながら軋轢は今なお強く残っている。同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多い。 日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。 その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二、神戸市の宮崎辰雄など、共産党も相乗りに加わる候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。 有権者の投票行動から見た場合、共産党は保守政党である自民党(および協力関係にある公明党)とはもちろん他の政党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、非自公間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が非自公に極めて不利に働くことも事実である。自公政権時代は、得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態が起きた。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている(葛飾政党ビラ配布事件参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。 民主党は、小沢一郎が代表であった当時、共産党との協力の可能性に言及する変化も見られたが、選挙では両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥田中派及び竹下派の有力人物であり自由民主党幹事長を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は共産党は小沢一郎と大きく対立していた。 日本共産党は1922年創立後、非合法時代の綱領的文書には22年テーゼ、27年テーゼ、31年政治テーゼ草案、32年テーゼなどがあり、マルクス主義の唯物史観・階級闘争論・レーニン主義の帝国主義論・前衛党論・二段階革命論、コミンテルンの人民戦線(統一戦線)論、日本資本主義論争の講座派などを基礎とする。 第二次世界大戦後の合法化後の主な綱領には1947年綱領・1951年綱領・1961年綱領があり、そのうちの1951年綱領は1961年に「歴史的文書」とした。また1961年綱領は以後の複数の改訂で用語の変更などを行っている。 日本共産党綱領(2020年改訂)の章構成と要点は以下の通り。 民主主義革命の綱領の記載は以下の通り。 民主連合政府の綱領の記載は以下の通り。 「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」は以下の通り。 綱領の記載は以下の通り。 「社会主義的変革」の概要は以下の通り。 1946年6月 日本人民共和国憲法草案を発表(人民主権、天皇制廃止、基本的人権、財閥的独占資本解体、一院制の国会、侵略戦争反対など)。同年8月、日本国憲法草案の国会審議では、以下の反対演説を行った。 1947年の第1回国会以降、2016年まで国会開会式を欠席。理由は、開会式の形式が「帝国議会時代の反民主的行事のひきつぎであること、開会式での天皇の発言に国政に関する政治的発言がふくまれていたこと」であったが、2015年に「開会式での天皇の発言に変化が見られ(中略)発言の内容には憲法からの逸脱は見られなくなり、儀礼的・形式的な発言が慣例として定着した」として、第190回国会より開会式に出席。ただし「一方で、開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、現在にいたるもなんら改善されておらず、引き続き抜本的改革を求めていく」と表明した。 綱領(2020年改訂)では、「現在必要な改革」である「民主主義革命」では以下を記載する。 日本共産党は、以下の歳入と歳出の改革によって7兆円~12兆円程度の財源をつくることができ、さらに日本経済が家計・内需主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している。 (1) 歳出 (2) 歳入 (1) 非正規雇用 (2) 賃金 (3) 労働条件 (4) 就職難の打開 (5) 失業者への支援 社会保障を削減から充実へと抜本的に転換するとしている。 (1) 医療 (2) 年金 (3) 介護 (4) 障害者 (5) 貧困対策・生活保護 (1) 子育てと仕事が両立できる社会 (2) 子どもの医療費 (3) 教育費 (4) 子どもの貧困 (1) 「間接差別」を全面的に禁止する (2) 女性も男性も利用できる育児休業制度の推進 (3) 労働者への残業規制、長時間労働の是正 (4) 女性の貧困問題の解決をはかる (5) 選択的夫婦別姓制度の実現 (6) 女性の登用 (1) 同性婚を認める民法改正およびLGBT平等法の制定。 (2) 刑法・DV防止法を改正し、被害者支援の強化。 (3) 中絶薬の早期認可、刑法の自己堕胎罪や、母体保護法の配偶者同意要件の廃止。 日本共産党は、教育格差、競争や管理などのゆがみをただし、子どもたちが「わかった!」と目を輝かす授業、子どもの声をじっくり聞いてあたたかく接する先生-そんな教育が全国どこでもおこなわれるようにするとしている。 (1) 教育費の負担軽減 (2) 教育条件 (3) 教育の自由と自主性、子どもの豊かな成長 (4) 競争・ふるいわけ教育 (5) 教育の制度と法律 2015年の秋ごろから、日本共産党は、国立大学の年間授業料を安倍政権が15年後に約40万円増やすとしたチラシを作成し、党の公式ウェブサイトにも掲載していた。 これについて、2016年2月3日午前に開催された衆院予算委員会で、安倍晋三が「値上げは決まっていない。全くのデマゴーグだ。選挙を前に極めて有権者を惑わせる」と批判し、公明党政調会長の石田祝稔が「『たら』『れば』の世界のことを事実のように書いて若い人に配っている。けしからん」と述べ訂正を求められる事態となった。共産党国対委員長の穀田恵二は3日午後の記者会見で、チラシの誤りや訂正には触れずに「(値上げ反対の)運動があったからこそ今年度の学費値上げはなくなった。非常に効果があったと自負している」「(政府が来年度以降に)上げないとは言っていないというのが今の焦点だ」と述べたが、午後には、「安倍政権が学費値上げ」と書かれていた箇所を「安倍政権が」ではなく「安倍政権のもとで狙われる」に修正し、さらには「試算」の文字も加筆され訂正がなされた。 2月8日の政府与党連絡会議においても、安倍首相は、共産党が制作したチラシを「デマ」であると主張し、「現場の学生たちは困惑している。こういったデマに学生が惑わされることのないように、しっかり情報発信をしていきたい」と述べている。これについて、8日に共産党書記局長の山下芳生が「チラシは適切にバージョンアップした」と、あくまでも「修正」ではないことを強調する発言をしている。 産経新聞は、共産党は「デマ」を5カ月間にわたって広報していたとし、「あくまで正当性を訴え、自らの非は認めなかった。」と批判している。 (1) 農業における価格保障と所得補償 (2) 後継者確保 (3) 貿易ルール (4) 予算 (5) 食の安全 (1) 二酸化炭素の削減 (2) 自然エネルギーの活用 (3) 原子力発電 綱領では、「民主主義革命」後に「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする段階的解消論である。 歴史的にみると、1946年には日本国憲法第2章は自衛権の放棄で民族の独立を危うくすると反対していたが、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に国民合意の下で憲法9条を改正し、自衛のための組織を持つという武装中立(中立自衛)政策であり、非武装論や護憲論ではなかった(ただし、徴兵制は導入しないとしていた)。 その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1) 軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2) 日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3) 国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。 なお、第22回大会では、(1) または (2) の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た。 2001年12月22日の九州南西海域工作船事件では当初は態度を表明しなかったが、志位和夫委員長は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。 2007年6月には陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は情報保全隊の市民活動監視問題を参照)。 2016年6月26日、当時の政策委員長の藤野保史がNHKの討論番組において、防衛費について「軍事費は戦後初めて5兆円を超えたが、人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先していくべきだ」と発言した。共産党の志位委員長はこの発言を「不適切」として藤野に対して口頭で注意した。藤野は政策委員長を辞任した。また、敵基地攻撃能力の保有については反対の立場である。 (1) 選挙制度 (2) 議員定数 (3) 「国会改革」 日本共産党は永住外国人に対する外国人参政権付与問題について、選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきであると、地方参政権を付与すべきとの積極的な立場を表明している。 在日本大韓民国民団の新年会に出席し志位和夫委員長は緒方靖夫副委員長(国際局長)、小池晃参院議員(政策委員長)、井上哲士参院議員と共に「歴史の真実を日韓での共有が友好の基礎であり、日本共産党はそうした立場で活動しています」と述べ、地方参政権については、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく被選挙権も付与する立場でがんばっています」と述べ、一日も早い立法のために努力すると約束した。あいさつ最初と最後を韓国語で締めた。永住外国人には(地方参政権において)選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきと在日本大韓民国民団の新年会に出席した際に述べた。但し、国政についての参政権付与については「国家主権に反する」として反対している。 日本共産党は「千島問題」(北方領土問題)では、北方4島だけではなく、得撫島や占守島を含む千島列島全島の返還をロシア連邦に求めている。理由は、南千島(北方領土)に関しては、1855年に結ばれた日露和親条約により、北千島に関しては1875年に結ばれた樺太・千島交換条約によって「平和的な領土交渉」が行われた結果、千島列島全島が日本に帰属したと同党は認識しているからである。また日本国との平和条約の第2条(c)にもとづいて日本国政府が千島列島の権利を放棄したことに対しては、戦後処理に問題があったとして、誤りを正すべきだとしている。一方樺太(サハリン)は南北ともにロシア領であると主張している。なお、千島列島全島の領土権を主張しているのは日本の主要政党では日本共産党のみである。 スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。 (2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫) 日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「カイロ宣言」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙(じゅうりん)するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。 (2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫) なお、1962年3月9日に衆議院本会議において北方領土回復決議が採決される際、日本共産党は「領土問題はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言等の国際協定で解決済みであり、国連憲章もまたそれを確認している」「実現不可能な不法な領土要求をソ連に突きつけ、対ソ報復主義を煽って日ソ共同宣言を破棄し、平和条約の締結を不可能にするもの」として反対票を投じている。 日本共産党は、竹島問題では、日本に竹島の領有権があるという政府の主張は根拠のある正当なものだとしている。その上で「韓国は竹島の一方的占拠を中止せよ」と唱え、日本と韓国の話し合いを主張している。ただ、1905年の大日本帝国の領有宣言に関して、当時の大韓帝国が大日本帝国により事実上外交権を奪われており、日本による領有に反対を唱えることができなかったことは考慮すべきであると主張している。 日本共産党は尖閣諸島問題では、1972年に尖閣諸島は「日本の領土であることは明らかである」との党見解を発表し、現在まで一貫してその立場を変えていない。理由は、日本が占有する前の尖閣諸島は国際法上でいう「無主の地」であったために日本政府が1895年1月14日の閣議決定で日本による尖閣諸島の日本領への編入行為を行ったことは、「日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった」と認識しているからである。また、中国と台湾の領土権主張に関しては、1969年に国連アジア極東経済委員会の報告で尖閣諸島に莫大な地下資源が眠っていることが明らかになってから、初めて領土権を主張しているのは明らかであるために、中国及び台湾の主張には正当性がないという見解である。 2010年9月4日の尖閣漁船衝突事件では直後に、尖閣諸島は日本固有の領土であるという従来の党見解を改めて発表した。中国政府に対しては、「今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうこと」を求めた。10月4日には日本政府に対し「日本の領有は歴史的にも国際法上も正当だ。政府は堂々とその大義を主張すべきだ」とする提言書を志位委員長が内閣総理大臣官邸で仙谷由人官房長官に手渡した。また、その提言書を英訳して各国の在京大使館に配布することを表明するなど積極的な活動を行っている。 パチンコ店内にATMが設置されていることについて警察が黙認し規制措置をとっていないことやパチンコに負けた客がパチンコ店内で現金を引き出して被害を受けている問題を追及している。パチンコ店内にATM設置を推し進めてきた農林中央金庫は日本共産党の強い批判を受けて設置を取りやめるようになった。パチンコ・チェーンストア協会の顧問を務める国会議員達がパチンコを合法化しようとする動きに対して強く批判している。 また、カジノ合法化や地方自治体のカジノ誘致の動きに対しては、かねてから強く反対している。 人権侵害救済機関設置法案に批判的な立場をとっている。また、同和問題の解決のために税金から部落解放同盟への補助金や海外旅行費用などがなされている問題について、共産党が有力な自治体などでは職員に代わり交渉の前面に立つなどして予算廃止を打ち出すなど強い姿勢で臨んでいる。同和団体への法令に基づかない公金支出についても調査から裁判にいたる活動を行っている。 18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認め、なおかつ規定の入党費を納めた人が党員となることができる。戦前のコミンテルン時代は一国一共産党の原則により台湾や朝鮮も活動範囲としたこともあり、阪神教育事件でも分かるように戦後しばらくまで在日韓国・朝鮮人や中国大陸系華僑・台湾系華僑の党員も多数在籍していた。このうち、中国大陸系華僑は中国共産党に取り込まれ、朝鮮系は1955年(昭和30年)の朝鮮総聯結成と同時に多くが事実上移籍する形で離党。残った者も1966年(昭和41年)の第10回党大会で規約に「日本人であることが党員の資格」と明記されたのを受け、日本への帰化を選択した者以外は離党に追い込まれた。 党員は、党の組織に加わって活動し、規定(収入の1パーセント)の党費を納める(規約第4条)。2010年(平成22年)の第25回党大会時は約40万6千人の党員がいたが、2012年(平成24年)5月までに実態のない党員約9万人に離党措置をとった結果、同年5月1日現在で約31万8千人となっている(第4回全国活動者会議幹部会報告)。党費納入者は政治資金収支報告書から、およそ25万4000人と推定される。 党員の権利と義務として、党規約第5条は以下の10項目を列記している(抜粋)。 中央機関紙(「しんぶん赤旗」)を「読む」(「買う」ではない)ことは2000年(平成12年)以前の旧規約では重要な義務だった。現在は規約上の義務ではないが、党費納付・支部会議への参加・学習努力と活動参加に加えた「4つの大切」の一つとして重視される努力目標である。 入党希望者は、党員2名の推薦をうけ、入党費(2021年2月現在は300円)をそえて申し込む。入党手続きは、支部で個別に審議したうえで決定し、地区委員会の承認を受けて完了する。ただし、地区委員会以上の指導機関も直接入党を決定することができる。 なお1966年(昭和41年)の第10回党大会から1980年(昭和55年)の第15回党大会までは、入党費納付後最低5か月間の党員候補期間を経た上で、支部での審査と地区委員会の承認手続きが行われることになっていた。 審査の際に、「著しく反社会的で、党への信頼をそこなう人」(例としては暴力団関係者、右翼団体、ニセ「左翼」暴力集団、過激派などの構成員、カルト宗教信者、国家権力の指示で組織的に反党活動を行なっている警察官、自衛官、公安調査庁職員など)とみなされた場合、上記の年齢、国籍および規約・綱領の承認という要件を満たしていても入党できない(第6条)。これは上の第5条に定められた、市民道徳と社会的道義をまもるという党員の義務に対応した規定であり、党員2名の推薦にはそのような人物の入党を防止するという狙いがある。 他党に所属しつつ日本共産党員になること(重党籍)はできない(第7条)。他党の元党員が入党することは可能であるが、その場合、都道府県委員会または中央委員会の承認が必要となる。2000年以前の旧規約では「推薦人となる党員2名のうちどちらか1人が党歴3年以上で都道府県委員会、移籍する本人が前の所属政党で幹部だった場合は1人が党歴5年以上で中央委員会の承認」(第13条)が必要とされ、現在より厳格であった。他党出身の共産党員としては、日本社会党から移籍した深沢義守などがいる。 党籍長期継続者には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)といった表彰制度がある。党歴の計算には、日本共産党に合流する前の沖縄人民党の在籍期間も通算するが、あくまでもこの間の党費を完納、なおかつ党の活動に参加し続けていることが前提となる。途中で党費の減免を受けていたり、10条該当党員となった期間がある者は、入党以来所定の期間を満たしても永年党員になれないことがある。 著名な長期党歴者には、俳優の花沢徳衛(50年党員)、教育評論家・労働運動家の三上満(50年党員)らがいる。 中央委員を20年以上務めた党員については、中央委員会から名誉役員に選出されることがある。また、都道府県委員会・地区委員会でも、名誉都道府県委員・名誉地区委員・顧問など、各組織が独自に名誉役員を選出することがある。 党組織は、規約第4条に定める党員の資格を明白に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、調査・審査のうえで、除籍することができる(第11条)。除籍にあたっては、本人と協議することが原則だが、党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、行わなくてもよいとされる。 伊里一智は東京大学大学院在学時、日本共産党中央委員会議長を務めていた宮本顕治の辞任を要求したが志位和夫の働きによって第11条によって除名された。 なお後述の「10条該当党員」になった者は、支部からの離党勧告に応じない場合、除籍措置を行うことがある。1994年(平成6年)の第20回党大会で規約が改正される前は、10条該当党員の整理は一律除籍となっていた。また、1980年(昭和55年)以前は、活動に参加しなくなってから6ヶ月が経過した時点で協議なしに除籍することも可能だった。 除籍は、基本的に一級上の指導機関の承認を受ける。なお、除籍された人が再入党を希望するときは、支部・地区委員会で審議し、都道府県委員会が決定する。ただし、中央委員会や党大会をもってしても覆せないこともある。 除籍は単なる党員資格喪失者の党籍を抹消することであって、規律違反者を対象とした「処分」とは別の措置である。しかしながら除籍は、最も重い処分である「除名」と、党員を党から除くという点で同じ効果をもつ。また、除籍は規約と綱領を明白に否定する立場に立った党員も射程に入れることもあり、両者は混同されやすい。この問題は理論部門担当の副委員長浜野忠夫も指摘しており、実際に論文の中で両者を区別して使うように注意を促したことがある。「処分」の場合は、中央委員会および党大会にまで上訴することができる(後述)が、除籍の場合はそれが認められていない。中央委員会が党大会で決定するまでもないとの理由で事実上除名に準じる形の除籍措置を行った場合は、党大会で執行部側の提案により新たな決定をしなければ覆すことができない。 党員はいつでも、本人の意思により離党することができる。 離党するときは、支部または党の機関に、その事情を述べ承認を求める。支部または党の機関は、その事情を検討し、会議にはかり、離党を認め、一級上の指導機関に報告する。ただし、党規律違反行為を行っている場合は、それにたいする処分の決定が先行する(第10条)。また、1年以上党活動に加わらず、かつ党費を納めない党員で、その後も党組織が努力を尽くしたにもかかわらず、党員として活動する意思がない場合は、本人と協議した上で、離党の手続きを取ることができる(同条後段)。このような実態のない党員は「10条該当党員」と呼ばれている。 党員が規約とその精神に反し、党と国民の利益を著しく損なうときは規律違反として処分される(第48条)。処分は軽い順に、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名の4段階に分かれている(第49条)。権利停止の期間は1年を超えてはならない。 一般に党員の処分は、その党員の所属する支部の党会議、総会の決定によるとともに、地区委員会の承認を得て確定される(第50条)。中央、都道府県、地区委員会の委員、准委員に対する権利停止以上の処分は、その委員会が3分の2以上の多数決によって決定し、地区・都道府県は1級上の指導機関の承認をうける。この処分は、次の党会議(党大会)で承認を受けなくてはならない(第51条、第52条)。 規律違反の処分は、事実に基づいて慎重におこなわなくてはならない(第49条)。また、規約は党機関が処分を適正に下せるよう、処分を受ける党員に、その手続きに参加する権利を保障している。すなわち、処分の審査・決定のさいは、原則、所属組織は処分をうける党員に十分意見表明の機会を与えなければならず、処分が確定されたならば、処分の理由を、処分された党員に通知する(第55条)。処分を受けた党員は、その処分に不服であるならば、処分を決定した党組織に再審査をもとめ、また、上級の機関に訴えることができる(同条)。 以上は規律違反の処分の事前手続きおよび再審についての一般規定であるが、最高の処分である除名は、もっとも慎重におこなわなくてはならない(第54条)ため、特別に規定がある。党員の除名を決定し、または承認する場合には、関係資料を公平に調査し、本人の訴えをききとらなくてはならない(同条)。また、被除名者が処分に不服な場合は、中央委員会および党大会に再審査を求めることができる(第55条)。事実関係の調査から処分の確定にいたるまでに、被処分者から事情聴取と弁明が、指導機関との面談による質疑応答の形でおこなわれる場合、それを党内では「査問」と呼ぶこともあった。 党員の権利と義務の中に「党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる」(第7項)とあるように、共産党は党員の教育・学習を重視している。 党員教育システムは大きく、講義や学習会などの「集団学習」と個人で自習する「独習」に分かれ、前者の中心となる党員講師の理論的力量を確保するために講師資格試験が1967年(昭和42年)より実施されている。講師は教育を行う党組織の級に対応して4段階に分かれている。 独習については、かつては効率よく科学的社会主義や日本共産党の理論を学ぶために、党中央が指定した文献のリストである独習指定文献が設けられた。文献は難易度に応じてランク付けされており、党綱領や規約、党史など党関連文献およびカール・マルクス『資本論』やウラジーミル・レーニン『帝国主義論』などマルクス主義の古典が採用された。こちらは党勢拡大が本格化する1962年(昭和37年)にはじまり、時代の趨勢に応じて文献も差し替えられたが、2001年、固定的な独習指定文献制度は流動的な現在に合わなくなったとして廃止された。現在は各機関紙誌などで随時文献を紹介し、学習を呼びかけている。 中央委員会は党員教育・学習を司る部署として学習・教育局と中央党学校を党建設委員会の下に常置し、理論学習専門の機関誌『月刊学習』(1961年創刊)を発行している。講師資格試験の試験問題もこれに掲載される。 日本共産党は「党員の自覚と厳格な規律による全党の統一と団結こそは、党の生命であり勝利の保障」と規定して民主集中制を組織の原則としている。そのため、派閥ごとに独自の政策、派閥間の駆け引きや離合集散などを引き起こすとして、派閥をつくろうとしていると見なしたり、党の執行部の方針と異なる意見を持つ党員に対して除名など厳しい処分を下してきている。 日本共産党は民主集中制を「党内部の規律」であり、一般社会に押しつけるものではない事、「党員が党の一員としての自覚にもとづいて自発的に守るべきもの」としている。 職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区――都道府県――中央という形で組織される(規約第12条)。基本的には個々の党員が所属し、日常的な党生活を送る組織は支部であるので、支部は党の基礎組織と位置づけられている(第38条)。その上で、国会議員団、地方議員団および党外組織の常任役員でつくる「党グループ」等、支部以外の特殊な基礎的組織が、組織体系を補完している。これらは相応する指導機関の直接指導下にある。地区以上の指導機関の役員や何らかの特殊事情のある党員など、例外的に上級組織に直属する党員もいる。 各級組織におかれている機関には、組織の最終的な意志を決定する機関(議決機関)たる「最高機関」と、その決定の実行に責任をおう機関(執行機関)である「指導機関」の2種類があり、これらを総称して党機関という。最高機関として、中央では党大会、都道府県では都道府県党会議、地区では地区党会議、支部では支部総会がおかれ、地区以上の各最高機関を構成する代議員は1級下の最高機関より選出される。支部総会は支部に属する党員が出席する。指導機関には上記の最高機関に照応して、中央委員会、都道府県委員会、地区委員会および支部委員会または支部長がある。 地区委員会および都道府県委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、必要に応じて、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。その任務は、自治体活動やその地域・経営・学園での共同の任務に対応することにあり、指導機関(地区、都道府県委員会)にかわって基本指導をになうことではない。補助指導機関を設置するさいには、1級上の指導機関の承認を必要とし、構成は、対応する諸地区委員会および諸支部からの選出による。 指導機関の構成員(役員)は当該級の最高機関が選挙によって選出する。役員に選出される資格として2年以上の党歴が必要である。役員候補者は最高機関の選挙人が自薦を含めて自由に推薦できるほか、指導機関が次期委員として推薦する(第13条)。選挙方式には大選挙区完全連記制が採用されている。 党組織には、上級の党機関の決定を実行する責任がある。その決定が実情にあわないと認めた場合には、上級の機関にたいして、決定の変更をもとめることができる。上級の機関がさらにその決定の実行をもとめたときには、意見を保留して、その実行にあたる(第16条)。たとえば、都道府県委員会の決定に対し、指導下にある地区組織および支部は、それに反対している場合でも、都道府県委員会が認めなければ、実行にあたらなければならない。また、全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない(第17条)とされ、行動のみならず意見の公表にも制限が加えられている。 このように上級の決定が下級の言論活動を含む実践一般を強く拘束する一方で、党規約は党機関が決定にさいして、党組織と党員の意見をよくきき、その経験を集約、研究することを要求する(第15条)。また、党員と党組織の側にも、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映させることを求めている。 以上、第15~17条は党規約第3条に組織原則として示された民主集中制の内容を組織運営一般の次元で明らかにしたものである。 都道府県機関と地区機関は地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、自治的に処理する(第17条)。ただし、中央委員会は地方党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる(第21条第7項)。また、都道府県委員会も同様にして、地区党組織に必要な助言をおこなうことができる(第31条第5項)。このような権限・権利を地方党の「自治権」と呼ぶこともある。 党大会は党(中央組織)の最高機関である。原則として2年から3年に1回開くが、特別な事情のもとでは、中央委員会の決定によって、党大会の招集を延期することができる。また、中央委員会の決議や3分の1以上の都道府県党組織の要求によって臨時党大会をひらくこともできる(第19条)。党大会は都道府県党会議の選出する代議員と党大会を召集した中央委員会構成員(前回大会が選出)からなる。党規約第20条は党大会のおこなうことを、(1)中央委員会報告の確認、(2)中央委員会の提案議案の審議・決定、(3)綱領・規約の改正、(4)中央委員の選出、の4項目に定式化している(要旨)。 中央委員会は、党大会からつぎの党大会までの党の指導機関である。党大会決定の実行に責任をおい、対外的に党を代表し、全党を指導する。現在は計200名弱の中央委員と准中央委員から構成されている。任務は規約第21条が、(1)対外代表と全党指導、(2)中央機関紙、(3)国際・全国的問題、(4)方針と政策の徹底と実践、(5)理論活動(科学的社会主義)、(6)幹部政策、(7)地方党組織への助言、(8)財政の8カ条に定式化している(要旨)。 中央委員と准中央委員はどちらも党大会で選挙によって選出される。その際、中央委員会は候補者を推薦する。代議員(選挙人)も自由に候補者を自薦も含めて推薦することができるが、前例は少ない。2010年1月の第25回党大会では、中央委員会が候補者として中央委員162人、准中央委員35人を推薦し、投票の結果、163人の中央委員と35人の准中央委員が選出された。 内部には権限の大きさと任務の内容にしたがって中央委員会総会、幹部会、常任幹部会(他の共産主義政党・団体における政治局に相当)等の合議制機関が階層的に配置されている。中央委員会総会(年2回以上開催)を最高決議機関とし、常任幹部会や書記局、中央機関紙編集委員会などが日常的な指導や事務をつかさどる。書記局は政策委員会や国民運動委員会、中央委員会付属社会科学研究所(所長:不破哲三)、出版局など、さまざまな部署に分かれた中央委員会の内部機構を統括している。総会から総会のあいだ中央委員会の職務をおこなうのは幹部会で、幹部会の職務を日常的に遂行するのは常任幹部会である。したがって、中央委員会の日常的任務をになう機関は常任幹部会ということになる。常任幹部会は毎週開かれる。党規約は最高職を明記していないが、一般的には中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役として、とくに幹部会委員長は党首として扱われている(現在の具体的人事は#現在の執行体制を参照)。 都道府県組織の最高機関は都道府県党会議、指導機関は都道府県委員会である。都道府県委員会は、都道府県党会議決定の実行に責任をおう。党規約第31条は党委員会の任務として以下の6項目を列記している(抜粋)。 都道府県委員会の最高決議機関は都道府県委員会総会で、すべての都道府県委員と准委員から構成される。都道府県委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、都道府県委員会総会からつぎの総会までのあいだ、都道府県委員会の職務をおこなう(第32条)。都道府県委員会は、大都市など、いくつかの地区にわたる広い地域での活動を推進するために、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。また、経営や地域(区・市・町村)、学園にいくつかの支部がある場合も補助的な指導機関をもうけることもできる。これら補助指導機関の設置には中央委員会の承認が必要である。 東京都23区では特別区を単位に細かくおかれている一方で、人口・党員の少ない都道府県では、県土を2 - 3つにわけた程度の広範囲を管轄する地区組織もある。たとえば、島根県は、東部、西部、中部の3地区に分轄されている。地区組織の最高機関は地区党会議、指導機関は地区委員会である。地区委員会は、地区党会議決定の実行に責任をおう。党規約第36条は党委員会の任務を都道府県委員会に準じた内容の6項目に整理している。 地区委員会の最高決議機関は地区委員会総会で、すべての地区委員と准委員から構成される。地区委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、地区委員会総会からつぎの総会までのあいだ、地区委員会の職務をおこなう(第37条)。地区委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、補助的な指導機関をもうけることもできる(第18条)。設置には都道府県委員会の承認が必要である。 職場、地域、学園などに、3人以上の党員がいるところでは、支部をつくる。支部は党の基礎組織であり、それぞれの職場、地域、学園で党を代表して活動する(第38条)。かつては「細胞」と呼ばれていた。1人の党員が複数の支部に重複して所属することはない。支部の数は2010年現在、およそ2万2000おかれている。2006年1月の第24回大会の2万4000からおよそ2000支部減少した。この間党員数は微増している。 職場にもとづいてつくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」ないし「地域支部」、大学など学園の学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれる。共産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はとくに身近に存在し、このことが同党を大衆政党(組織政党)として特徴づけている。 支部の最高機関は支部総会、指導機関は支部委員会である。ただし、党員の少ない支部は支部長を指導機関とする。支部総会はすべての党員から構成され、支部委会員ないし(指導機関としての)支部長を選出する。支部委員会はその内部機関として、支部長を選出する。支部には必要に応じて、副支部長をおいたり、下部組織としての班をもうけたりできる。班には班長をおく。 例外だが、状況によっては、社会生活・社会活動の共通性(階層)にもとづいて支部をつくることができる。現在は青年という年齢層にもとづいて組織される「青年支部」、複数の学校にまたがる「学生支部」(学園支部は同じ学校で組織されるので区別される)がある。 党員が3人にみたない地域・職場・学園では、党員は付近の支部にはいるか、または支部準備会をつくる。 第28回党大会まで議員や候補者個人の後援会はつくらない方針をとっており、すべて党後援会となっている。党後援会員は380万人以上である。党支部に対応する「単位後援会」と、労働者・企業経営者・農業者・女性・青年・学生・セクシャルマイノリティ・宗教者など各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別される。「日本共産党後援会全国連絡会」「全国労働者日本共産党後援会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」「全国宗教人・日本共産党を支持する会」の6つの全国組織がある。また、青年・学生向けの後援会的組織として「日本共産党といっしょに日本をかえるネットワーク」(かえるネット)や、インターネット・SNSによる後援会的組織「JCPサポーター」もある。 個人名(候補者名)を冠した個人後援会を組織した時期もあったが、1980年の第15回大会が「後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを」決議し、以後、個人後援会は党後援会に再編にされた。 第28回党大会では、「候補者個人が野党統一候補となり得る」として、個人後援会の設立を容認するように方針を転換した。 日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定している(規約第45条)。日本共産党規約の第45条から第47条よりなる第10章(資金)が党財政の通則にあたる。内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入である。企業・団体献金と政党助成金は受取りを拒否している。支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめる。このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達している。一般に、日本の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いが、日本共産党の議員は党が政治資金を支えている。 産経新聞は、神奈川県逗子市、川崎市、座間市、福岡県行橋市といった自治体で日本共産党の議員らが「しんぶん赤旗」の勧誘・配布・集金を行っている、と報道している。また、橋下徹大阪市長は日本共産党が政党助成金に反対していることを「きれい事」「全国の役所が購入してすさまじい額のお金を払っている。政党助成金そのものだ」と述べている。 政治資金収支報告書(2011年3月28日宣誓)によると、2010年の収入(前年からの繰入を除く)は約237億4600万円、支出(翌年への繰越を除く)は232億4200万円であった。収入の内訳は、党費が約8億2100万円(約3.46%)、寄付が4億4400万円(1.87%)、事業収入が208億6700万円(87.88%)、借入金が100万円(0.00%)、「本部又は支部から供与された交付金に係る収入」が13億2200万円(5.57%)、利息や地代・家賃など「その他の収入」が2億9100万円(1.23%)であった。寄付は全額が個人から。事業収入のうち、機関紙誌は205億3600万円で、全収入比でおよそ86%を占める。 支出(翌年への繰越を含む)の内訳は、経常経費が約37億8400万円、政治活動費が205億2200万円(うち、「本部又は支部に対して供与した交付金に係る支出の内訳」が76億6300万円)となっている。機関紙誌の発行事業費は政治活動費に含まれ、148億8100万円と支出全体の64%を占める。なお、政治資金パーティー開催事業費は支出していない。このように、機関紙活動を中核とし、企業・団体献金や交付金を排除した財務構造について、共産党は「国民と草の根で結びついて活動していることの反映であり、他の政党とまったく異なるわが党の財政の健全さをしめすもの」であると肯定的に評価している。 党費は、実収入の1パーセントとし、月別、または一定期間分の前納で納入する。失業している党員、高齢または病気によって扶養をうけている党員など生活の困窮している党員は、党費を減免できる(第46条)。日本民主青年同盟の同盟員として活動している党員は、納入する党費から同盟費(550円)を差し引いた額を納める。2010年は延べ数で約300万人が党費を納めた。中央委員会、都道府県委員会、地区委員会は、それぞれの資金と資産を管理する(第47条)。規約第47条に対応し、各級組織の「財政活動の処理と指導」が、当該級指導機関の任務のひとつに規定されている(第21条第8号、第31条第6号、第36号第6号)。なお、支部には党費を集める任務がある(第40条第3号)。 中央委員会には財務部門として、書記局のもとに「財務・業務委員会」が設けられている。同委員会は一般的な意味での財務のみならず、赤旗など機関誌紙発行事業の総務も所掌している。委員会の前身は第24回大会(2006年)期までは「財務・業務局」という独任制の部署であった。第25回大会時(2010年)に常任幹部会は、財務・業務委員会の責任者に、財務・業務局長の上田均(常任幹部会委員)を引き続き任命した。委員会には事務局と財政部、機関紙誌業務部、管理部、厚生部、赤旗まつり実行委員会がある。上田は政治資金収支報告書に記載される会計責任者を兼ねる。会計監査は中央委員会監査委員会が行っている。 企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、企業経営者や労働組合・各種団体役員からの個人献金は受け取っている。 国政政党に衆参の議員数ごとに支給される政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、日本共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。 地方議会で地方議員に会派の人数に応じて配分される政務活動費は受給している。 日本共産党は機関紙活動を党活動の中心に据えている。 中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。2019年(令和元年)時点で、日刊紙・日曜版を合わせた購読者数が100万部を割り込んだ。 購読者数は第15回党大会(1980年)時点での355万部をピークにほぼ一貫して減少しており、1990年(第19回大会)に1987年より30万部近く減らして286万部と報告。さらに10年後の2000年には199万余に後退し、2010年1月(第25回大会)の145.4万部を経て、2019年9月半ば時点では100万部を割るにいたった。この29年間(1990年~2019年)で通算すると、約3分の2に当たる190万減となる。 雑誌は『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』の4つの月刊誌を刊行しており、日本国内では一般の雑誌書籍の流通ルートから手に入る。 かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあった。1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」。都道府県委員会など地方組織の指導機関が編集・発行する地方機関紙もある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が多い。京都民報社の『京都民報』や大阪民主新報社の『大阪民主新報』など、他大衆団体との共同機関紙というコンセプトから、党外団体を発行主体とする場合もある。その他、地方議会議員(団)の広報紙がある。 新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及・宣伝に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつては同様の普及協力誌に、総合月刊雑誌の『文化評論』や『あすの農村』、『労働運動』、『科学と思想』(年2回刊)があったが現在は休刊・廃刊している。 また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(月2刊)の購読の仲介もしている。過去には民青同盟の『われら高校生』、学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)の『学生新聞』や、小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)も普及していたが、現在は休刊・廃刊した。 日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。 中央委員会の入居する日本共産党本部ビルは東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26-7にある。正面入口の反対側を東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線、東側を明治通りが通る。最寄り駅は、代々木駅、千駄ケ谷駅、北参道駅の3駅となる。地上11階、地下1階の「1期棟」(北西側)と地上8階、地下2階の「2期棟」(南東側)から成り、両棟を地上3階建ての低層基壇が連結し、これを通じて行き来できる。延べ床面積は約1万6500mで、日本の政党本部ビルとしては自民党をしのぎ最大である。 2000年から着工し、2005年に竣工した。総工費は85億円、うち45億円を党の積立基金が負担し、残り40億円を寄付や無利子借入金とし、順調に集まった。設計・監理責任者は地域建築空間研究所所長の小林良雄。なお、中央委員会の機関でも「しんぶん赤旗編集局」は明治通りを挟んで東側の「ASビル」に、あかつき印刷とともに入居している。 戦後の合法化により、現在と同じ場所にはじめて公然本部を構えた。1960年の党勢拡大に伴い、増築と周辺不動産の買取りを進め、1970年には8棟の建物が林立する複雑な形態を完成させた。耐震性に不安が生じたことから1998年に中央委員会は現行の本部ビルへ全面建て替えすることを決定した。 党最大の施設で、静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2km(徒歩30分)の山頂付近(北緯35度3分39.2秒 東経139度3分22.8秒 / 北緯35.060889度 東経139.056333度 / 35.060889; 139.056333 (伊豆学習会館))にある。1963年着工。面積約4万5千平方メートル。東京ドーム(約4万7千平方メートル)に匹敵する敷地に学習施設など8棟。 科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党中央学校」(2014年時点で、党中央学校の「卒業生」は志位和夫委員長はじめ1万人を超える)などが開かれる他、党大会(1977年10月の第14回から)が付属大講堂で開催される。それまでの党大会では目黒公会堂など都内の公共施設を借りて会場にしていた。現在は大講堂の床下にある25メートル6コースのプールで、水を抜いたプールの上に板を敷き、イスを並べて行う。プール自体は数年前から維持管理コスト削減のために利用されていない。 この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。不破哲三によれば開設当時は「建物はできていたが、庭などはまだ完成しておらず、“労働しながら学習する”を合言葉に池を掘ったり樹を植えたり、庭づくりを学生がみんなでやったのです。岩や樹とかも各県の名産を寄せてもらったりしました」という。温泉はひかれていない。約150人収容の宿泊施設には党大会開催中、幹部団と事務局員が3連泊する。一般党員は2段ベッド式の4人部屋を利用するが、志位ら最高幹部には個室が用意される。ただし、食堂のメニューは「平等」と説明されている。 都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。近年、一部の地区委員会は常勤の勤務員がおらず、市議会議員らが党務を兼任し、平日の昼でも事務所が開いてない場合がある。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。 ※1976年の13回大会では、人事案件なし。 (参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2) 日本共産党は、1951年に主流派の所感派が武装闘争を採択、1955年に武装闘争路線を放棄した。以後の日本共産党執行部は、当時の所感派の指示は党の正式な指示ではなく、党に責任は無く、また「平和革命必然論」と「武力革命唯一論」の両方を誤りとする。 公安調査庁は1952年の破壊活動防止法施行以来、日本共産党を調査対象団体としている。1955年の武装闘争路線放棄以降も、敵の出方論であり、暴力革命自体は放棄していないとして、毎年1回発刊する「内外情勢の回顧と展望」で日本共産党の動向を報告している(近年では共産党の施策紹介と化している)。また、警察庁警備局も共産党が「暴力革命の方針」を保持していると認識している。 これに対して日本共産党は公安調査庁を以下のように批判し、破壊活動防止法と共に廃止を主張している。 兵庫県警OBの飛松五男は以下のように述べた。 1980年の社公合意以降、他党との選挙協力は沖縄以外行わない姿勢をとってきたが、2015年9月19日、「戦争法(平和安全法制)廃止の国民連合政府」に賛同する野党との選挙協力をすると発表した。 共産党と他の政党が協力関係を築けていない理由として以下が挙げられる。 こうしたこともあって、民主党・社民党、部落解放同盟などから「独善的体質」「セクト主義」と批判されており、政治評論でもそういったイメージで語られることが多い。 同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。 1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)や、民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。 小選挙区制導入以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。 2006年の沖縄県知事選挙では、糸数慶子を推すことで、近年の主要選挙では稀になった事実上の全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など党内右派から「共産と手を組んでいる」との批判が行われ、自民党も「共産と手を組んだ民主」などと攻撃した。結果は自民党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、保守層を中心とした「共産党と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党も自民党やマスコミに共産党との協力関係を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。 こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、(共産)党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求めるケースもあった。これに共産党側が反発し、非難合戦となったこともある。 その一方で、「共産党を落とす」ため、共産党が接戦・優位な選挙区では自民党、民主党が国政等で対立しているにもかかわらず、協力するケースも多い。 2004年には、参議院大阪府選挙区で、辞職中の辻元清美(当時、社民党)の支持者から、辻元を共同候補にし、共産現職の宮本岳志に引退を「強要」する言動がなされたとされる。結果は辻元も宮本も落選した。 2007年2月の愛知県知事選挙では、共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽阿部精六を推薦。結果は阿部が予想を上回る票を獲得し、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。 2007年3月の東京都知事選挙では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける元宮城県知事の浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」と断言しこれを拒否した。その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。 この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。 2013年の第23回参議院議員通常選挙では、定数2の京都府選挙区で自民党の西田昌司が序盤から優位に立ち、2議席目を共産党の倉林明子と民主党新人で元首相補佐官の北神圭朗が争う展開となり、各メディアの情勢で北神の接戦・劣勢が伝えられると、府内の財界や山田啓二京都府知事、門川大作京都市長が「共産党落とし」を進めただけでなく、北神陣営が自民・公明両党に票を流す依頼まで行った。結果は、倉林が1万8000票差で北神を振り切って初当選したものの、京都新聞の出口調査では公明支持層の35.2%が推薦した西田に投票した一方、それを上回る38.9%が北神に投票していた。 一方、2011年大阪市長選挙では、当時の大阪府知事の橋下徹(大阪維新の会)の政治姿勢を独裁者と批判し、「独裁政治と教育基本条例案の成立を阻止」の名目の元、独自候補の渡司考一の擁立を撤回し、2007年大阪市長選挙では対立候補だった平松邦夫支持を呼びかけ、既存の他党と連携を行うという戦術を取り、2015年および2019年の市長選では自民党推薦の柳本顕を支持するという方針を出した。(平松と柳本は共に落選。) 他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕(4期:1996年 - 2012年)を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。国分寺市長山崎真秀(1期:1997年 - 2001年)は、共産党と新社会党のみの推薦で5党相乗りの現職との一騎討ちに勝って当選した。 日本共産党が構成員となっている団体は以下の通り。 恒常的な共同・友好関係にあるか、執行部に党員が多いと見られている大衆団体。団体代表が団体内党後援会の代表を兼ねる例も多い。 民医連、全商連、農民連、全労連、新婦人の5団体は代表職を全国革新懇に代表世話人に送り出している。 日本共産党や共産党員は、以下の団体の抗議行動に参加している。 日本共産党はかつて「一国一前衛党論」を掲げ、複数の共産党・労働者党がある国では一つの党としか関係を持たなかった。さらに、ソ連共産党や中国共産党の複数前衛党論(併党論)を、大国の共産党による外国の革命運動に対する干渉を合理化する理論であるとして、強く批判した。1984年には、この複数前衛党論を全面的に批判し、一国一前衛党論を展開した論文「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論 : 「併党」論を批判する」を「赤旗」紙上で発表している。 第23回大会(2004年)または第24回大会(2006年)に、代表ないしメッセージを送った党は以下の通り。 1999年には外国の政党・政権について、保守的か革新的か問わずに対話と交流の場を広げるという「野党外交」の方針を定めている。その立場から日本共産党は共産主義国以外の国にも公式訪問することがあり、またアジア政党国際会議(ICAPP)に第2回総会以来毎年代表団を送っている。 災害時には、全国に置かれた党組織のネットワークを駆使した被災地支援活動を行っている。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では被災地のために募金活動を行い「東日本大震災救援募金」として計6億5千万円を被災自治体や被災地の農協、漁協等に届けているほか、全国の党支部から被災地へ援助物資が送られた。被災地域の党支部も関連団体と協力して各地で炊き出しや被災者に食糧や水、衣類など生活物資を配布した。 熊本地震の直後に東京3区の立候補予定者が募金を行った際、義援金と党に対する寄付を同じ募金袋で集め、のちにツイッターに「熊本の被災地救援、北海道5区補選支援、党躍進のためにありがたく使わせていただきます」と書き込んだため問題視された。 非実在表現をめぐって、参議院議員の音喜多駿は表現規制だと批判している。 高木桂一は、日本共産党には「革命遂行には最高幹部の健康や寿命がかかわるから、最高幹部を大事する」との理由で別称「第2事務」と呼ばれる“防衛部隊”が設置されていると主張している。高木はその規模について「党本部に所属する約40名と、全国の地区委員会に1~2名、さらに“予備兵”」としている。また共産党防衛部隊OBの話として「警察無線の傍受のほか、対象者の尾行、盗聴などをやっている。党には警察無線の暗号を割り出すプロもいるから驚いた」としている。 所属する党員に対して、Twitterを始めとしたSNSを駆使して党のアピールや、政府活動への反対運動などを行う事を指示している。Twitterでは「日本共産党(公式)🌾⚙️」というアカウントを用いているが、一部の党員がSNSを利用した選挙・宣伝活動に他人の創作作品(ピカチュウやアンパンマンなど)に類似したキャラクターを登場させたり、他社の商標権のある商品を模した画像を無断で使用するなどの知財トラブル事案が続出し、他のSNSなどからの批判を受けて、党員や党が謝罪する事案が相次いでいる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本共産党(にほんきょうさんとう、英: Japanese Communist Party、略称: JCP)は、日本の政党。科学的社会主義を理論的基礎とする社会主義・共産主義政党である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "略称は「JCP」。日本国内では単に「共産党」、「共産」と呼ばれる。「日共」とも。1字表記の際は、「共」と表記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2019年9月現在約28万人の党員を抱え、西側諸国で最大規模の共産党となっている。国会議員数は、衆議院議員10名、参議院議員11名で衆議院及び参議院野党第三党である。約2,500人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2020年8月現在64ある。 また、女性議員の人数が最大の政党である。日本政治において最も長く同じ党名を使用し、また現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である。産経新聞によると、2000年に38万7000人だった党員が、2020年には27万人前後に、当時199万人の「しんぶん赤旗」購読者も、2019年に100万人を下回った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "代表に関して一般党員による直接選挙の結果を用いる規定を持たない。 代表は党規約に基づき以下のプロセスで選出される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "このため、「党首」と言っても直接選挙制で選出される「党首」のように絶対的な権限が付与されることは無く、いわゆる「党首」にあたる幹部会委員長も、議論を経て合意を得た党大会決定、中央委員会決定、幹部会決定、常任幹部会決定に拘束される。幹部会委員長は党の決定、党員の総意から離れて、勝手な言動を行うことは許されない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "本部の住所は千駄ヶ谷であるが、最寄り駅が代々木駅のため、別名として「代々木」と呼ばれる場合もある。これは主に日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない左翼が用いることもある。それは、1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を「極左冒険主義」と批判して中止し、議会制民主主義選挙の中で政権を合法的に奪取することを目指す政党になったことを、批判的にとらえる立場からの呼び名である。この武装闘争に関しても、党は「分裂した一方の側に誤った方針・行動がありました」と主張し、分派が行ったものとしている。この暴力革命路線の継続を支持する新左翼など、他の共産主義者から「代々木」という呼称は使用される場合が多い。同様に、数多く存在した「日本共産党」を自称する他の党派と区別するため、特に「日本共産党(代々木派)」などと表記することもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "党章は、一つに合わせられた、民主主義革命、民主統一戦線、国際統一戦線、日本共産党建設をそれぞれ表す4枚の赤旗の上に、農民と労働者を表す、稲穂を通した歯車。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本国の国政(国会)においては結党以来与党として政権に参加したことはないが、琉球政府では、事実上の日本共産党の琉球支部だった沖縄人民党は、米軍支配下ではあるが屋良朝苗行政主席を支持する「与党」に参加していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1922年7月15日、堺利彦、山川均、近藤栄蔵ら8人が、極秘のうちに渋谷の高瀬清の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した。一般には「第一次日本共産党」と称されている。設立時の幹部には野坂参三、徳田球一、佐野学、鍋山貞親、赤松克麿らがいる。コミンテルンで活動していた片山潜の援助も結成をうながした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "11月にはコミンテルンに加盟し、「コミンテルン日本支部 日本共産党」となった。この時、コミンテルンから「22年テーゼ(日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「綱領草案」は、政治面で、君主制の廃止、貴族院の廃止、18歳以上のすべての男女の普通選挙権、団結、出版、集会、ストライキの自由、当時の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止などを求めていた。経済面では、8時間労働制の実施、失業保険を含む社会保障の充実、最低賃金制の実施、大土地所有の没収と小作地の耕作農民への引き渡し、累進所得税などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国に対するあらゆる干渉の中止、中国、台湾、樺太、朝鮮からの日本軍の完全撤退を求めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本共産党は「君主制(天皇制)の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。他の資本主義諸国では既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した労農派などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。堺利彦らが解党を唱えた結果、1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは労農派政党の結成を目指した。赤松など国家社会主義等に転向する者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "その後、1925年には普通選挙法と治安維持法が、制定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1926年、かつて解党に反対していた荒畑寒村が事後処理のために作った委員会(ビューロー)の手で共産党は再結党された(第二次日本共産党)。その際の理論的指導者は福本和夫であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、ウラジーミル・レーニンの『なにをなすべきか?』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の政党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、市川正一、佐野学、徳田球一、渡辺政之輔らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当時の政党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労農党や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動や、小林多喜二、宮本百合子らのプロレタリア文学は社会に多大な影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1927年の第16回衆議院議員総選挙では徳田球一、山本懸蔵を初めとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の三・一五事件で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の四・一六事件と引き続く取り締まりで約1,000人が検挙されて、日本共産党は多くの活動家を失った。また同年、山本宣治は右翼団体構成員に刺殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "相次ぐ取り締まりで幹部を失うなかで田中清玄らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などのテロ事件を起こした(武装共産党時代)。また1930年に水野成夫らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の日本共産党労働者派を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1931年4月、コミンテルンより「31年政治テーゼ草案」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を社会主義革命としていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した満州事変に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも政党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1932年5月、コミンテルンにて「32年テーゼ」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、地主的土地所有と独占資本主義という3つの要素の結合と規定した。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的スローガンを「帝国主義戦争および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "同月、全協の活動家であった松原がスパイとしてリンチされ、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には朝鮮人活動家の尹基協がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。立花隆は、「スパイM」(飯塚盈延)を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している。この頃から党内でのスパイ狩りが始まり出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された(熱海事件)。同月、赤色ギャング事件が発生している。松本清張は『昭和史発掘』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、特高警察が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定した者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した(共同被告同志に告ぐる書)。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多くの党員が袴田ら中央を批判して分派の「多数派」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった袴田里見の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1936年のフランスやスペインで「人民戦線」と呼ばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、政党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後も、関西圏には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって取り締まられた。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された(人民戦線事件)。また、国外に亡命していた野坂は、延安で日本軍捕虜の教育活動(日本人民解放連盟)をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が1945年8月15日に日本の降伏で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と政治犯釈放を要求するGHQ指令により約220名の共産党員が出獄し、徳田球一、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳、志賀義雄らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。なお戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)とも称する。戦争に反対した共産党員の出獄は国民に歓迎された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1946年1月に野坂参三が中華民国から帰国、2月の第五回党大会では党員6847人、「アカハタ」は25~26万部を超えたと発表、採択した行動綱領では、連合国軍を「解放の軍隊」とし(解放軍規定)、大会宣言で「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョワ民主主義革命を、平和的に、かつ民主的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした(平和革命論)。1946年4月の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1946年6月に独自の憲法草案として「日本人民共和国憲法草案」を発表、各党憲法草案の中では唯一人民主権(国民主権)を明記した。日本国憲法制定時の採決では、天皇制の存続による民主化の不徹底や、自衛権放棄による民族独立への危惧などを理由に反対した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "連合軍に解放された共産党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け、全官公庁共同闘争委員会議長の伊井弥四郎が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本国憲法施行により実施された一連の選挙、第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙・第1回統一地方選挙では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的過ぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが、統一地方選挙では青森県新城村(現・青森市新城地区)を初め、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "その後も、国民の生活困窮を背景に、活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、片山・芦田両政権の迷走で、社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では、従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7の選挙区全てで当選者を出すなど、大都市圏やその周辺だけでなく、農民運動の盛んだった鳥取全県区や山梨全県区など、ほかにも新潟県や石川県など、東北・四国地方以外の全地域で当選者を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アメリカによる日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の成立、1949年の中華民国での国共内戦に勝利した、中国共産党による中華人民共和国の成立で、東アジアの緊張が高まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙『恒久平和のために人民民主主義のために!』に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(後に所感派と呼ばれた)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らは毛沢東やスターリンによる国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田球一が国会に証人喚問される事態になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1950年5月には、GHQのダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして、日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に共産党と占領軍の間で、大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは日本共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し団体等規正令に基づく出頭命令を拒否した団規令事件で逮捕状が出て、9人の共産党幹部は地下に潜行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」と呼ばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コミンフォルム論評への対応に加え、レッドパージによる取り締まりもあり、日本共産党は、主流派である徳田球一らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1951年2月、主流派(所感派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」はアメリカ帝国主義によるアジアでの侵略戦争を批判し、その暴力的支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1951年4月、統一地方選挙では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ、同党の強さを発揮した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印された(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々なテロ活動が行われた。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多くのテロ・騒乱事件が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を全く得られず、1952年の第25回衆議院議員総選挙、さらには1953年の第3回参議院議員通常選挙で公認候補者が全員落選、国会議員が参議院の1人だけになるという最悪の結果につながる。また、武装闘争方針により吉田政権は治安立法を強化、1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における暴力主義的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して、日本共産党を調査・監視対象に指定している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結。1952年4月に条約が発効され、日本は主権を回復した。これにより、公職追放は解除された。所感派中心の北京機関は、地下放送の自由日本放送で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京市内で死亡した(日本での徳田の死亡の公表は2年後の1955年)。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会(六全協)を開き、従来の中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。またこの大会で志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を第一書記として「再統一」を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "更に1958年の第7回党大会では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「五〇年問題」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」は中国・ソ連といった大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った極左冒険主義であると規定して批判した。これらは以後、外国からの干渉は受けない自主独立路線の始まりとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "以後の日本共産党執行部は、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協や、そこでの「軍事方針」である「51年綱領」の採択、六全協での「再統一」宣言、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、徳田・野坂分派が中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が、武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは、一度もない」と主張している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に違法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「スターリン主義」批判や日本の新左翼運動にもつながった。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の暴力革命の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "公安調査庁と公安警察は、日本共産党は「敵の出方論」に立った暴力革命の方針を実際には放棄していないと見続けており、1986年には日本共産党幹部宅盗聴事件が発覚した。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で、不法行為によるスパイ行為を批判している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また警察庁の『警察白書』では、現在も日本共産党を「調査対象団体」とし、数ページを割いて動静を記述しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。警察学校の「初任科教養」でも、日本共産党の綱領や決定について、批判的な講義がされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一方、破防法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、政党組織や日本国民救援会の人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。日本共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に記事を書くという状況が続いた。これによりマスメディアに対し、日本共産党は「新聞は権力の手先」と反発していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり(比喩的に55年体制とも呼ばれる)、1960年代半ばには指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」を打ち出した。1958年の第7回党大会以降は、不破哲三や上田耕一郎などの「改革派」が中央の要職に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロッキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では過激な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難したが、必ずしも批判された側すべてが「トロツキズム」を主張していたわけではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この頃から日本共産党は「自主独立路線」を掲げ、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら(#国際共産主義運動の分裂を参照)、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ50年以来傷ついた威信と党勢を70年代前半にかけて長期的に回復、拡大していった。1967年に長野県塩尻市で初の党員市長(高砂政郎)が、誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し、その中の一派共産主義労働者党を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1970年7月の第11回大会で、革新統一戦線によって1970年代の遅くない時期に民主連合政府を作るとの政権構想を打ち出し。1972年の第33回衆議院議員総選挙では38名の候補者が当選し、議会第三党、野党第二党に躍進する。また、同年には田代文久が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が、誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一方、党内では、1972年には中央委員で青年学生対策部長であった広谷俊二と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった川上徹を中心とした分派が結成され、その摘発といういわゆる「新日和見主義事件」が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1973年の東京都議会議員選挙では当選者数が日本社会党を上回り、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で黒田了一を共産党の単独推薦で再選させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1973年11月、第12回党大会で綱領を一部改定し、「ソ連を中心とする社会主義陣営」から「ソ連を中心とする」を削除し、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」の後半を「プロレタリアート執権の確立」に変更した。更に1976年7月、第13回臨時党大会で綱領から「プロレタリアート執権の確立」自体を削除して「労働者階級の権力」のみとし、また綱領と規約の「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に変更した。また「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」では、民主連合政府では憲法9条を「あくまで厳守する」として「竹やり論」とも言われたが、同時に党としては「将来は、独立、中立の日本をまもるための最小限の自衛措置をとるべき」とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1974年、公明党の支持母体である創価学会と、松本清張の仲介で、池田大作と宮本顕治で相互不可侵、共存を約した協定を10年間の約束で結んだ(創共協定または共創協定)。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、山崎正友による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『週刊新潮』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。東京地方裁判所は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1975年、『文藝春秋』で立花隆の「日本共産党の研究」が連載開始され、1976年、この連載に「日本共産党査問リンチ事件」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と、副委員長であった袴田里見が被告となった裁判の記事は大きな反響となり、国会でも取り上げられた。1976年の第34回総選挙では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。これは、当時イタリア共産党など西欧諸国の共産党が採択していたユーロ・コミュニズム路線に倣ったものであり、「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的、日本的な共産主義)と呼ばれた。また1977年、袴田里見が除名された。一方で、1970年代後半からは一部の党員研究者によるネオ・マルクス主義(英語版)的な思潮も現れ、中央との軋轢がはじまる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1979年の第35回総選挙では、最高の39議席を得た。1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンや、サンケイ新聞事件などの強烈なネガティブ・キャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "共産党と社会党は、日本政治の中では革新に属し、中道の公明党、民社党を挟んで保守の自民党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を実現するというのが当初の社共の方針であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "共産党は民主連合政府で、社会党との連立を前提としていたが、社会党内には社共共闘より社公民路線を重視すべきだという意見が有力となった。民公、特に反共主義的な民社の側(主に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長・太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結したこと)による中道化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員、支持者が、共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して共産党の排除が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1980年1月、公明党と社会党が、日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果(社公合意)、社会党との連立を前提にしていた民主連合政府構想は実現性が遠のいた。このため1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会(全国革新懇)を結成し、「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、無党派との連携による新たな革新戦線を全国的に追求するとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "しかしこれは、共産党と社会党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る見解もあり、亀田得治(元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員、歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多く参加しているにもかかわらず、具体的な選挙協力としては愛知県、高知県などを除き余り大きな成果は得られていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され活動しているが、実態は政党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "なお、共産党が国政選挙で、他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、田中美智子、安田純治、陶山圭之輔、喜屋武眞榮、西岡瑠璃子、川田悦子(以上無所属)、島袋宗康、仲本安一、糸数慶子(以上沖縄社会大衆党)らがおり、そのうち田中、安田は当選後、衆院会派「日本共産党、革新共同」に入っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「非核の政府」という路線に切り替え、全国の地方公共団体で「非核平和都市宣言」条例の制定運動を行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「反核運動」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。だが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1989年1月1日の『しんぶん赤旗』の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。しかし、この年日本共産党は国際的な激震に相次いで見舞われていた。6月4日、中国では天安門事件が発生し、民主化を求める人々が人民解放軍によって弾圧され、多くの死者が出た。日本共産党は中央委員会声明「社会主義的民主主義をふみにじる中国党・政府指導部の暴挙を糾弾する」を発表し、厳しく批判した。東欧諸国では、6月18日のポーランド議会選挙が端緒となって、次々と共産党の独裁体制が倒れていく。12月3日には、マルタ島で行われた米ソ首脳会談で冷戦の終結が宣言された。日本共産党は1989年に入る直前からソ連の新思考外交への批判を強め、平和や環境など全人類的価値を強調することは階級闘争を軽視・否定し、帝国主義に妥協するものであり、共産主義の原則的立場からの逸脱であると論じていた。かつて、原水禁運動で社会党や総評の「いかなる国の核実験にも反対」に反対したのと同じ理屈であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "このように日本共産党は共産主義を放棄せず、むしろそれからの逸脱を批判した。そして、自主独立路線をはじめ宮本路線の正しさを訴えることで、1989年の国際的な激震を乗り切ろうとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1990年7月の第19回党大会では、社会主義はまだ生成期のために、大国主義・覇権主義や官僚主義の問題があるとした(社会主義「生成期」論)。1991年8月のクーデター後に発表されたソ連共産党の解体には、「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。その発言の翌日に、常任幹部会は「大国主義、覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」との声明を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その一方、ソ連、東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。また1980年代には中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定して「社会主義の復元力」を主張していたこと、1984年に宮本・チェルネンコ共同宣言を発表したこととも矛盾していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ほぼ時を同じくして、政権与党や社会党(現在の社民党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、政党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "また、核兵器問題など外交問題を初めとする諸問題で、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。特に自主独立路線で共闘していたルーマニア共産党との関係は主要な焦点となった。「宮本顕治同志とニコラエ・チャウシェスク同志の共同宣言」は、党内外から厳しい批判にさらされることとなった。1994年の第20回党大会では、ソ連は問題もあるが、社会主義社会であるとしていた従来の「生成期」論を修正して、「スターリン以後のソ連社会は、経済的土台も社会主義とは無縁」で、「社会帝国主義的」とした。日本共産党は、『80年代半ばまではソ連の指導者を「同志」と呼んだり、「レーニンに次ぐ平和の戦士」とたたえたりしていた』と読売新聞は報じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1970年代後半から生じていた、ネオ・マルクス主義の思潮と中央との理論軋轢は、1990年代前半には丸山眞男批判の動きも加わって、ネオ・マルクス主義の立場にある一部党員学者の除籍や離党へと帰結した。当時、法政大学教授であった高橋彦博(政治学)は1993年の『左翼知識人の理論責任』の出版を契機に除籍された。1994年には田口富久治(名古屋大学教授、政治学)が同年の党大会における丸山眞男批判(大会決議にも含まれる)を、きっかけとして、離党している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1993年の第40回衆院選では、三大保守新党(日本新党、新生党、新党さきがけ)が大勝した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民・非共産の連立政権が発足。共産党は9月8日から中央委員会総会を開き、小選挙区制の導入を掲げる細川政権を「自民党以上に反動的」と批判し、社会党についても「右転落」の末に元自民党幹事長の小沢が主導する「第二自民党政権の与党になった」と攻撃する決議を採択した。そして、署名運動など小選挙区制の導入阻止に向けて活動を続けた。「政治改革四法」は参議院で社会党から造反者が出たことで否決された。しかし、細川首相と自民党の河野洋平総裁のトップ会談の結果、合意がまとまり最終的に1994年3月4日に成立、小選挙区制が導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "小選挙区は中小政党に不利に働くため、共産党単独候補の当選は極めて困難なため、苦境に立たされることも予想されたが、1990年代後半にはおいては社会党からの離反層を取り込み、また集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用し、一時的に党勢が回復した。1996年の第41回総選挙では小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得するなど26議席を獲得。1998年の参議院選挙では15議席を獲得し、非改選議員と併せて政府予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "しかしその後は、小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや、総議員定数の削減、日本周辺の国際情勢も相まって、国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1997年の第21回党大会で、無党派と連携して21世紀の早い時期に、民主連合政府を実現するとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また自衛隊解消前の「過渡期な時期」に必要に迫られた場合には「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」とした(自衛隊活用論)。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」(志位・市田体制)が確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れになり、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2005年の第44回衆議院議員総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25の選挙区で「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300の選挙区に候補者を立て235の選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、社民党や民主党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、民主党はもとより、護憲という立場で政策的距離が近い社民党との選挙協力の目処も立っていない。その一方、市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党、自民党に次いで第三党の位置を保っている。また他党との連携については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との連携を強化することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2008年9月、麻生政権の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位は、「働く貧困層」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、自公政権が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2009年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である。代わりに、比例区との重複立候補を増やしたので、比例での候補者数は増えた。また、大連立騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "しかし、同年7月には東京都議会議員選挙で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、後期高齢者医療制度の撤廃、農家への所得補償、在日米軍基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある。結果として議席数は現状維持であり得票率は郵政選挙の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする非自民・非共産連立政権に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している。 その他、2008年にニコニコ動画に公式チャンネルを開設したり、TwitterやFacebookに公式アカウントを開設するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2010年の第22回参議院議員通常選挙では、民国連立政権の普天間基地移設問題における違約や、菅直人の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのは自民党とみんなの党で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した。さらに、9月25日~9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、次期総選挙で650万票を目標とすることを表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位が報告したところによると、「実態のない党員(幽霊党員)」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告した。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は中央と地方組織で折半していたものを、6:4に改め地方組織の負担を減らした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災では組織的な被災地支援活動を行った。また、岩手、宮城、福島の被災3県の県議選では復興や原発ゼロを訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "第46回衆議院議員総選挙(2012年12月16日投開票)では、与党の民主党は支持率低迷が続き野党転落が確実な状況で、自民党は9月に総裁に復帰した安倍晋三の下で経済政策「アベノミクス」や安保政策などの政策を打ち出して政権奪還に望んだ。共産党は民主党のみならず自民・公明両党とも対決の姿勢を強め、TPP交渉参加に反対、歴代政権の原発政策、3党合意で決定された消費税増税法案を特に厳しく批判。同時に護憲、障害者に費用の原則1割負担を求める障害者自立支援法の撤廃などに代表される社会保障の拡充、労働問題の改善、尖閣諸島問題を初めとした領土問題の解決などを強く主張した。また前回の擁立方針を改めて、社民党の照屋寛徳を支援した沖縄2区以外の全選挙区に候補者を立てた。更に、反TPPを訴えたことから、自民党の支持基盤である農協の一部の支援も受けた。選挙の結果、前与党の自民党、公明党と、右派系野党の日本維新の会、みんなの党が議席を伸ばした。共産党は1減の8議席(全て比例区)に留まったが、与党の民主党、国民新党と左派系野党の社民党、日本未来の党が議席大幅減となった中では、相対的な善戦であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2013年には参院選に向けて、反アベノミクス、反TPP、反原発、反消費税増税、護憲など自民党の政策に真っ向から対決する政策を掲げ「自共対決」とする方針を出す。参院選の前哨戦として注目された都議会議員選挙(2013年6月23日投開票)では前回の8議席から17議席を獲得。選挙前の第一党から激減させた民主党を上回って第三党、野党では第一党となるとともに、議案提出権を4年ぶりに回復した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "次いで行われた第23回参議院議員通常選挙(2013年7月21日投開票)では、勢いを維持して反自民の訴えを続ける。また若者を取り込むために解禁直後のネットでの選挙活動や雇用環境対策(ブラック企業批判等)にも力を注いだ。選挙結果は改選3議席から比例5議席、選挙区3議席を獲得。非改選を含めると11議席となり、議案提案権を9年ぶりに回復した。比例代表の得票は2010年選挙の356万票から515万票へと大幅に増加したほか、東京、大阪、京都の3選挙区で民主党や第三極勢力を抑えて当選、12年ぶりに選挙区で議席を獲得した。国政で議席を増加させたのは1998年参議院選挙以来、15年ぶりとなり、党はこの結果を大躍進と肯定的に評価、志位は「自民党と正面から対決して暴走にストップをかける頼りになる政党としておおいに力を発揮していきたい」と述べた。一部大手紙は共産党の今回の躍進の背景に低投票率や反自民票が共産党に流れたこと、第三極勢力の戦略ミスの影響もあったと論じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "東京都知事選挙(2014年2月9日投開票)では宇都宮健児を推薦、元総理の細川護煕も無所属で立候補したため分裂選挙となって次点に終わったが、得票数は細川を上回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "第47回衆議院議員総選挙(2014年12月14日投開票)でも「自共対決」と銘打ち活発に活動。その結果、前回の2倍以上の21議席を獲得、参議院に続き衆議院でも議案提出権を獲得した。比例の得票率は11.37%、票数では600万票を超え、小選挙区でも1996年の第41回衆議院議員総選挙以来18年ぶりに議席を獲得した(沖縄1区の赤嶺政賢)。党はこの結果について「第26回党大会で決定した目標を基本的に達成することができた」「全体として、総選挙の結果は、画期的な躍進といえるもの」という発表を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2015年の第18回統一地方選挙の前半戦では、選挙が行われた全ての41県府議会で議席を獲得した。今までは、共産党議員が存在していなかった栃木、神奈川、静岡、愛知、滋賀、三重、福岡の各県議会にも共産党の議員が誕生した。非改選の6議会も含めて、結党以来初めて、全47都道府県議会で議席を保有することとなった。同時執行の17政令市の市議会選挙でも共産党は選挙前の議席数を上回る136議席を獲得、民主党を抜く改選第三党、野党では第一党となった。後半戦でも勢いは変わらず、東京区議選挙で7議席、一般市議選挙で44議席、町村議選挙で11議席、合計62議席を新たに増やした。これを受けて党は本選挙戦は全体として躍進という結果だったという声明を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2012年から2014年にかけては、社民党、民主党、生活の党など他の左派政党が軒並み不調に陥る中で、ほぼ共産党の一人勝ちの状況が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2015年夏から秋にかけての平和安全法制の審議では反自民の政党による反対運動を主導し、社民党、民主党、維新の党、生活の党(現・自由党)の4党と連携を深める。同法案の審議を境目に、共産党は従来の「独り勝ち」方針を改め、安保法制廃止の一点での連立政権を樹立するために選挙協力を行うことを提案した。かつての民主連合政府構想における共産党との政策や価値観の共有よりもハードルを下げた提案であり、社民・生活両党は賛意を示したが、身内に保守系議員を抱える民主党は難色を示した。共産党は民主党の反対を受けて、連立政権の案件を凍結、翌年の参院選での野党5党の選挙協力を行なうこととなった。また、2016年2月20日には、社民党の第15回全国大会に志位が来賓として出席。共産党の出席は、前身の社会党時代を含め史上初となった。また、大阪府では、大阪都構想を推進する大阪維新の会と対決するために自民党との共闘も辞さない姿勢を見せている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2016年の主要選挙には、概ね野党5党(3月に民主・維新両党が合併して民進党となってからは4党)の協力体制で臨んだ。まず衆院北海道5区補欠選挙(4月24日投開票)では、先に決定していた共産党候補の立候補を取り下げ、民進系の池田真紀を、共産・社民・民進・生活推薦の無所属候補として擁立。自民党公認で公明党らが支援の和田義明との一騎討ちとなり、前評判と較べて健闘したものの約12,000票差・惜敗率90.92%で落選した。一方、同日行われた京都3区の補欠選挙では、この野党共闘を優先する形で候補者の擁立を見送った。ただし民進党公認候補を含め、他の候補の支援・推薦には回らず、自主投票とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "第24回参院選(7月10日投開票)では、参院一人区での統一候補の擁立作業が進んだ。この結果、共産党は発表していた一人区の候補者擁立を取り止め(香川選挙区を除く)、全員を比例区に回す措置をとった。選挙の結果、東京選挙区で1議席を獲得し、比例の5議席と合わせて6議席を獲得。非改選の8議席と合計して14議席となった。比例票は601万6195票(得票率10.74%)となり、参院選としては1998年の第18回通常選挙以来、18年ぶりの10%越えを達成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "参院選直後の東京都知事選挙(7月31日投開票)でも野党統一候補として鳥越俊太郎を擁立、支援したが、選挙の告示直前の出馬(いわゆる「後出しジャンケン」)だったこともあり、準備不足も相まって3位に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "衆院補選(10月23日投開票)でも、福岡6区・東京10区ともに一旦は独自候補を擁立していたが、4野党協議の結果これを取り下げ、統一候補の支援に回った。しかし結果は、ともに与党系候補(福岡6区は無所属候補が当選後に自民の追加公認を受ける)に敗れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "この間の活動について、公安調査庁は内外情勢の回顧と展望(平成28年度版)で、日本共産党が平和安全法制を「戦争法案」などと呼び、国会周辺の抗議活動に、委員長や所属議員を参加させていると報告している。2015年7月の「安倍政権NO!0724首相官邸包囲」、8月の「国会10万人・全国100万人大行動」、9月の「国会正門前行動」などの運動へ参加し盛り上げを図った。共産党による「国民連合政府」構想は、55年前の政府構想と同様であると評し、「共産党が今回の構想の先に見据えるのは,「民主連合政府」による「民主主義革命」を経て「社会主義をめざす権力」 を作り,最終的に「社会主義・共産主義の社会」を実現することである。同党が,こうした綱領路線を堅持する「革命政党」(6 月の幹部会決議)であることに変わりはない。」としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "また、公安調査庁発刊資料である内外情勢の回顧と展望の平成29年度版について、照屋寛徳が、「内外情勢の回顧と展望」六十二頁には、「沖縄県民大会」に「全国から党員や活動家らを動員した」との記述があるが、具体的にどの政党を指しているのか、当該政党の名称を全て列挙した上で、「動員した」と断定する根拠について政府の見解を示されたい。」と質問。内閣総理大臣の安倍晋三は、「「沖縄県民大会」に「全国から党員・・・を動員した」と記述された政党は、日本共産党であると承知している」と回答している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "東京都議会議員選挙(2017年7月2日投開票)では、37人の公認候補を擁立、4人の候補を推薦、支持(うち1人は東京・生活者ネットワーク所属)して戦った。選挙戦では自公両党のみならず、東京都知事の小池百合子が与党として結成した都民ファーストの会との差別化も強調して反小池票を吸収、2議席増の19議席を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "次期総選挙も4野党共闘の方針であったが、民進党では保守系議員を中心に共闘に否定的な議員も多く、9月1日の民進党代表選挙では保守系の前原誠司が当選する。しかし以降も保守系議員を中心に民進党からの離党が相次いだ。解散直前の9月25日、小池百合子(東京都知事)が自身に近い議員をメンバーに希望の党を結党すると、前原は28日の常任幹事会の了承を得て、希望の党と合流に向けた交渉を始める。衆院解散当日の9月28日、希望の党への事実上の合流方針が両院議員総会で了承されるに至り、志位は希望の党を「自民党の補完勢力」と非難するとともに、原則全選挙区での擁立方針に戻すことを表明し共産・民進両党の共闘は破綻した。また、自由党も代表の小沢一郎が「自公連立政権に対抗する野党勢力の結集」を理由に、希望の党に合流する意思を示し、4党共闘の枠組みから事実上離脱する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "一方、9月29日、共産党書記局長の小池晃と社民党幹事長の又市征治が衆院選での両党の選挙協力について協議し、11都府県の20選挙区で候補者を一本化することで合意している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "その後、外交・安全保障政策や憲法観の不一致などを理由に希望の党との合流を拒否した民進党出身の左派系メンバーが中心となって10月2日に「立憲民主党」(代表・枝野幸男)が結成され、共産・社民両党は歓迎するコメントを送り、第48回衆議院議員総選挙(10月22日投開票)において3党共闘となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "10月5日、全国に先駆け北海道で、共産・社民・立民の3党の地元組織が共闘に合意。道内の全12選挙区において統一候補を擁立。民進から立民に参加する8人全員が統一候補になり、当該8選挙区では共産が立候補を取り下げる一方、立民の「空白区」である4選挙区は共産が候補者を出すことになる。北海道以外の地域でも共産党、社民党、立憲民主党、希望の党のどの政党にも参加しないことを表明した野党系無所属に候補を一本化し共産党は67の選挙区で独自候補を取り下げた。公示ギリギリまで調整が行われ反安倍・反小池の統一候補が249の選挙区で成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "選挙結果は、立憲民主党と希望の党の新党の間に埋没する形となり、公示前勢力から半減に近い12議席の惨敗に終わる。この結果を受け志位は「『比例は共産』という激励をたくさんいただいた。結果に結びつけることができなかったのは、私たちの力不足だ。捲土重来を期したい」とコメント。また、野党第一党に躍進した立憲民主党について「共闘勢力全体として議席を伸ばすことできたことは大きな喜び」と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2021年9月30日には立憲民主党との間で次期衆院選で政権交代が実現した場合に、共産が連立に入らず、「限定的な閣外からの協力」をする方針で合意した。しかし、同年10月の第49回衆議院議員総選挙では立憲・共産両党は議席を減らし、敗北。2022年5月に共産党は同年の第26回参議院議員通常選挙に向けて前回衆院選と同様に「政権交代時の閣外協力」を合意するよう立憲民主党に求めたが、立憲側は応じなかった。7月の参院選で共産党は比例票が目標の650万を大きく下回る約362万にとどまり、比例代表で2議席減となる3議席に留まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2022年7月15日、創立から100年を迎えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2023年、志位執行部への異論を外部に持ち出した党員が出た。2月6日には、京都府の党員で元中央委員会勤務の松竹伸幸について、日米安保護持への政策転換を唱える著書を出したことが、「党内に派閥・分派はつくらない」などの党規約に違反したとして除名処分とした。この処分への朝日新聞・毎日新聞などの各メディアの批判に対し、党執行部は会見やしんぶん赤旗などにおいて、規約違反を理由に処分の正当性を強調している。3月16日には、元京都府常任委員の鈴木元について、志位委員長への辞任要求や代表公選制の導入を掲げる著書を出したことが、「分派活動を行った」として除名処分とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2023年4月の第20回統一地方選挙では、前半選となる41道府県議選挙において改選前から24議席減の75議席にとどまり、唯一都道府県議の議席が無かった愛知県議会で議席を回復させた一方、新潟、福井、静岡、熊本、福岡の5県議会で議席がゼロとなった。共産の牙城である京都でも、府議選で3議席、京都市議選で4議席減らす結果になったことから、党内では「歴史的な敗北」とする受け止めが広がり、中には「党員の除名騒動が影響した」との声もくすぶったが、書記局長の小池は「影響を与えたとは思っていない」と否定した。後半戦の294の一般市議選では、55議席減となる560議席という結果になり、小池は「期待に応えられず、多くの候補者を落選させ大変悔しい。おわび申し上げたい」と述べた一方、引責辞任は否定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "当初、日本共産党はソ連から強い影響を受けていた。名越健郎による旧ソ連の最高機密文書の調査の結果、判明しただけでも、ソ連より日本共産党に1951年に10万ドル、1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドルの計85万ドル(現在の貨幣価値にして30億円以上)の援助秘密資金が渡っていることが援助先リストに記載されており、政治資金規正法違反が指摘されているものの、当時の党書記局長であった志位は「仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない」などとして否定している。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "日本共産党は独自に調査団をモスクワに派遣し、その調査結果を『赤旗』に掲載しており、秘密資金の流れがあったことを認めながらも、受領していたのは野坂参三・袴田里見ら「ソ連追随グループ」であり、党中央は一切関与していないとの立場を貫いているが、野坂は資金使途に「党本部建設」や「党学校」を掲げており、名越は中央党学校の開設や東京・代々木の日本共産党本部建設に実際に使用された可能性を示唆している。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "1951年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「51年綱領」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定し、北京機関がその後設立された。そして、この方針に基づいて、1950年代前半に、全国的に騒擾事件や襲撃事件等の暴力的破壊活動を行った。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では、日本共産党の党候補が全員落選する事態となった。このように1950年代の武装闘争路線期にソ連・中国に盲従することで、党組織に壊滅的な打撃を受けた。その経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となった。しかし同時に「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)と記載されているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調をした。1956年のハンガリー事件を契機に離脱も起きた。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1961年に再開されたソ連の核実験に対して、日本共産党は当時、ソ連の核実験は防衛的と主張し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で路線対立が激化。1965年に社会党系は原水協を脱退して原水禁を結成し、以後は日本の原水爆禁止運動は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいると主張している。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "1964年には中ソ対立の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での部分的核実験停止条約批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ派が除名され、「日本共産党(日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両国の共産党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員内の親中派は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった。4.17ゼネスト問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず総評からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時日中国交正常化を目指していた中国共産党が池田政権を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "また、1966年、文化大革命発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象が起きたが中国文革に同調し毛沢東を個人崇拝するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的親中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中派が党規約にそむいたかどで除名された。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "その後「日本労働党」、「日本共産党(左派)」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党(解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後、これらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ソ連や中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年のプラハの春を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党はソ連共産党を明確に批判した。1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、翌年1月にソ連を批判し、ソ連軍の即時撤退を要求した。また1979年の中国によるベトナム侵攻を批判し、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部による大韓航空機爆破事件、ラングーン事件、日本漁船銃撃事件にも厳しい態度をとった。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "一方で親ソ派が党内に潜伏しており、1991年のソ連崩壊後、ソ連共産党内部文書の情報公開(グラスノスチ)と文藝春秋『週刊文春』の報道が始まると、日本共産党は独自調査団をモスクワに派遣し、明らかになった事実を基に、野坂参三を「ソ連内通者」として除名した。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "六全協により、暴力的な運動の継続を支持する学生などが共産党の影響を離れたり、除名された。当初は日本共産党の指導下にあった全日本学生自治会総連合の学生党員を中心に、日本共産党の武装闘争路線転換に反対する、後に新左翼と呼ばれる共産主義グループがつくられた。警察庁は日本共産党の武装闘争が極左暴力集団誕生の要因として、日本共産党の責任を非難している。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "日本共産党は、共産同(ブント)や革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体、運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治問題などで共闘を拒絶し、排斥した(党派闘争参照)。大学では、日本共産党及び民青はこれらの党派と激しく敵対し、新左翼各派の対立はゲバルトに至った。1971年6月19日、琉球大学内の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が、寮の4階から転落して死亡したこともあった。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "こうして日本共産党を離れた人が結成したグループからの、日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは民主集中制の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "1970年代には「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)、マルクス・レーニン主義の「科学的社会主義」への呼び変え、「プロレタリア独裁」や「前衛党」などの用語の綱領からの削除などを進めた。これらは当時のヨーロッパでのユーロコミュニズムの主張と類似点があり、上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴となった。なお、宗教に融和的な「宗教についての日本共産党の見解と態度」は、党内からの反発があり、党員の宗教学者が除名された。また大武礼一郎は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて日本共産党(行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "部落解放同盟はその前身の全国水平社の中心人物の西光万吉も入党していたように元々共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年8月11日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒まんじゅう」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、井上清は「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」と語っている。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "また、元衆議院議員の三谷秀治は「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」と説明している。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原泰作は断ったが、これに乗ってしまったのが朝田善之助だったともいう。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高等学校における、八鹿高校事件の発生であった。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟を鉤括弧書きで「解同」と表記する場合もある。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」という認識を示している。また、同和利権批判で有名な寺園敦史らは全解連も批判しているにも関わらず、共産党と関係した経歴から解放同盟には「共産党の反動的国民融合論」と見る向きもあった。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "政治戦においては、2010年代後半から始まった野党共闘によって同一の候補を支援する機会も増えて、公の場で互いが互いを批判することは著しく減少した。しかしながら軋轢は今なお強く残っている。同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多い。", "title": "共産主義運動の内部対立史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。", "title": "選挙方針" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二、神戸市の宮崎辰雄など、共産党も相乗りに加わる候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。", "title": "選挙方針" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "有権者の投票行動から見た場合、共産党は保守政党である自民党(および協力関係にある公明党)とはもちろん他の政党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、非自公間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が非自公に極めて不利に働くことも事実である。自公政権時代は、得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態が起きた。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている(葛飾政党ビラ配布事件参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。", "title": "選挙方針" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "民主党は、小沢一郎が代表であった当時、共産党との協力の可能性に言及する変化も見られたが、選挙では両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥田中派及び竹下派の有力人物であり自由民主党幹事長を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は共産党は小沢一郎と大きく対立していた。", "title": "選挙方針" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "日本共産党は1922年創立後、非合法時代の綱領的文書には22年テーゼ、27年テーゼ、31年政治テーゼ草案、32年テーゼなどがあり、マルクス主義の唯物史観・階級闘争論・レーニン主義の帝国主義論・前衛党論・二段階革命論、コミンテルンの人民戦線(統一戦線)論、日本資本主義論争の講座派などを基礎とする。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の合法化後の主な綱領には1947年綱領・1951年綱領・1961年綱領があり、そのうちの1951年綱領は1961年に「歴史的文書」とした。また1961年綱領は以後の複数の改訂で用語の変更などを行っている。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "日本共産党綱領(2020年改訂)の章構成と要点は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "民主主義革命の綱領の記載は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "民主連合政府の綱領の記載は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "綱領の記載は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "「社会主義的変革」の概要は以下の通り。", "title": "綱領" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "1946年6月 日本人民共和国憲法草案を発表(人民主権、天皇制廃止、基本的人権、財閥的独占資本解体、一院制の国会、侵略戦争反対など)。同年8月、日本国憲法草案の国会審議では、以下の反対演説を行った。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "1947年の第1回国会以降、2016年まで国会開会式を欠席。理由は、開会式の形式が「帝国議会時代の反民主的行事のひきつぎであること、開会式での天皇の発言に国政に関する政治的発言がふくまれていたこと」であったが、2015年に「開会式での天皇の発言に変化が見られ(中略)発言の内容には憲法からの逸脱は見られなくなり、儀礼的・形式的な発言が慣例として定着した」として、第190回国会より開会式に出席。ただし「一方で、開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、現在にいたるもなんら改善されておらず、引き続き抜本的改革を求めていく」と表明した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "綱領(2020年改訂)では、「現在必要な改革」である「民主主義革命」では以下を記載する。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "日本共産党は、以下の歳入と歳出の改革によって7兆円~12兆円程度の財源をつくることができ、さらに日本経済が家計・内需主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "(1) 歳出", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "(2) 歳入", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "(1) 非正規雇用", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "(2) 賃金", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "(3) 労働条件", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "(4) 就職難の打開", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "(5) 失業者への支援", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "社会保障を削減から充実へと抜本的に転換するとしている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "(1) 医療", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "(2) 年金", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "(3) 介護", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "(4) 障害者", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "(5) 貧困対策・生活保護", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "(1) 子育てと仕事が両立できる社会", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "(2) 子どもの医療費", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "(3) 教育費", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "(4) 子どもの貧困", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "(1) 「間接差別」を全面的に禁止する", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "(2) 女性も男性も利用できる育児休業制度の推進", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "(3) 労働者への残業規制、長時間労働の是正", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "(4) 女性の貧困問題の解決をはかる", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "(5) 選択的夫婦別姓制度の実現", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "(6) 女性の登用", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "(1) 同性婚を認める民法改正およびLGBT平等法の制定。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "(2) 刑法・DV防止法を改正し、被害者支援の強化。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "(3) 中絶薬の早期認可、刑法の自己堕胎罪や、母体保護法の配偶者同意要件の廃止。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "日本共産党は、教育格差、競争や管理などのゆがみをただし、子どもたちが「わかった!」と目を輝かす授業、子どもの声をじっくり聞いてあたたかく接する先生-そんな教育が全国どこでもおこなわれるようにするとしている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "(1) 教育費の負担軽減", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "(2) 教育条件", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "(3) 教育の自由と自主性、子どもの豊かな成長", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "(4) 競争・ふるいわけ教育", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "(5) 教育の制度と法律", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "2015年の秋ごろから、日本共産党は、国立大学の年間授業料を安倍政権が15年後に約40万円増やすとしたチラシを作成し、党の公式ウェブサイトにも掲載していた。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "これについて、2016年2月3日午前に開催された衆院予算委員会で、安倍晋三が「値上げは決まっていない。全くのデマゴーグだ。選挙を前に極めて有権者を惑わせる」と批判し、公明党政調会長の石田祝稔が「『たら』『れば』の世界のことを事実のように書いて若い人に配っている。けしからん」と述べ訂正を求められる事態となった。共産党国対委員長の穀田恵二は3日午後の記者会見で、チラシの誤りや訂正には触れずに「(値上げ反対の)運動があったからこそ今年度の学費値上げはなくなった。非常に効果があったと自負している」「(政府が来年度以降に)上げないとは言っていないというのが今の焦点だ」と述べたが、午後には、「安倍政権が学費値上げ」と書かれていた箇所を「安倍政権が」ではなく「安倍政権のもとで狙われる」に修正し、さらには「試算」の文字も加筆され訂正がなされた。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "2月8日の政府与党連絡会議においても、安倍首相は、共産党が制作したチラシを「デマ」であると主張し、「現場の学生たちは困惑している。こういったデマに学生が惑わされることのないように、しっかり情報発信をしていきたい」と述べている。これについて、8日に共産党書記局長の山下芳生が「チラシは適切にバージョンアップした」と、あくまでも「修正」ではないことを強調する発言をしている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "産経新聞は、共産党は「デマ」を5カ月間にわたって広報していたとし、「あくまで正当性を訴え、自らの非は認めなかった。」と批判している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "(1) 農業における価格保障と所得補償", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "(2) 後継者確保", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "(3) 貿易ルール", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "(4) 予算", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "(5) 食の安全", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "(1) 二酸化炭素の削減", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "(2) 自然エネルギーの活用", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "(3) 原子力発電", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "綱領では、「民主主義革命」後に「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする段階的解消論である。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "歴史的にみると、1946年には日本国憲法第2章は自衛権の放棄で民族の独立を危うくすると反対していたが、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に国民合意の下で憲法9条を改正し、自衛のための組織を持つという武装中立(中立自衛)政策であり、非武装論や護憲論ではなかった(ただし、徴兵制は導入しないとしていた)。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1) 軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2) 日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3) 国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "なお、第22回大会では、(1) または (2) の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "2001年12月22日の九州南西海域工作船事件では当初は態度を表明しなかったが、志位和夫委員長は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である海上保安庁だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "2007年6月には陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は情報保全隊の市民活動監視問題を参照)。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "2016年6月26日、当時の政策委員長の藤野保史がNHKの討論番組において、防衛費について「軍事費は戦後初めて5兆円を超えたが、人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先していくべきだ」と発言した。共産党の志位委員長はこの発言を「不適切」として藤野に対して口頭で注意した。藤野は政策委員長を辞任した。また、敵基地攻撃能力の保有については反対の立場である。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "(1) 選挙制度", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "(2) 議員定数", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "(3) 「国会改革」", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "日本共産党は永住外国人に対する外国人参政権付与問題について、選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきであると、地方参政権を付与すべきとの積極的な立場を表明している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "在日本大韓民国民団の新年会に出席し志位和夫委員長は緒方靖夫副委員長(国際局長)、小池晃参院議員(政策委員長)、井上哲士参院議員と共に「歴史の真実を日韓での共有が友好の基礎であり、日本共産党はそうした立場で活動しています」と述べ、地方参政権については、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく被選挙権も付与する立場でがんばっています」と述べ、一日も早い立法のために努力すると約束した。あいさつ最初と最後を韓国語で締めた。永住外国人には(地方参政権において)選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきと在日本大韓民国民団の新年会に出席した際に述べた。但し、国政についての参政権付与については「国家主権に反する」として反対している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "日本共産党は「千島問題」(北方領土問題)では、北方4島だけではなく、得撫島や占守島を含む千島列島全島の返還をロシア連邦に求めている。理由は、南千島(北方領土)に関しては、1855年に結ばれた日露和親条約により、北千島に関しては1875年に結ばれた樺太・千島交換条約によって「平和的な領土交渉」が行われた結果、千島列島全島が日本に帰属したと同党は認識しているからである。また日本国との平和条約の第2条(c)にもとづいて日本国政府が千島列島の権利を放棄したことに対しては、戦後処理に問題があったとして、誤りを正すべきだとしている。一方樺太(サハリン)は南北ともにロシア領であると主張している。なお、千島列島全島の領土権を主張しているのは日本の主要政党では日本共産党のみである。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "(2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「カイロ宣言」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙(じゅうりん)するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "(2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "なお、1962年3月9日に衆議院本会議において北方領土回復決議が採決される際、日本共産党は「領土問題はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言等の国際協定で解決済みであり、国連憲章もまたそれを確認している」「実現不可能な不法な領土要求をソ連に突きつけ、対ソ報復主義を煽って日ソ共同宣言を破棄し、平和条約の締結を不可能にするもの」として反対票を投じている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "日本共産党は、竹島問題では、日本に竹島の領有権があるという政府の主張は根拠のある正当なものだとしている。その上で「韓国は竹島の一方的占拠を中止せよ」と唱え、日本と韓国の話し合いを主張している。ただ、1905年の大日本帝国の領有宣言に関して、当時の大韓帝国が大日本帝国により事実上外交権を奪われており、日本による領有に反対を唱えることができなかったことは考慮すべきであると主張している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "日本共産党は尖閣諸島問題では、1972年に尖閣諸島は「日本の領土であることは明らかである」との党見解を発表し、現在まで一貫してその立場を変えていない。理由は、日本が占有する前の尖閣諸島は国際法上でいう「無主の地」であったために日本政府が1895年1月14日の閣議決定で日本による尖閣諸島の日本領への編入行為を行ったことは、「日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった」と認識しているからである。また、中国と台湾の領土権主張に関しては、1969年に国連アジア極東経済委員会の報告で尖閣諸島に莫大な地下資源が眠っていることが明らかになってから、初めて領土権を主張しているのは明らかであるために、中国及び台湾の主張には正当性がないという見解である。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "2010年9月4日の尖閣漁船衝突事件では直後に、尖閣諸島は日本固有の領土であるという従来の党見解を改めて発表した。中国政府に対しては、「今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうこと」を求めた。10月4日には日本政府に対し「日本の領有は歴史的にも国際法上も正当だ。政府は堂々とその大義を主張すべきだ」とする提言書を志位委員長が内閣総理大臣官邸で仙谷由人官房長官に手渡した。また、その提言書を英訳して各国の在京大使館に配布することを表明するなど積極的な活動を行っている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "パチンコ店内にATMが設置されていることについて警察が黙認し規制措置をとっていないことやパチンコに負けた客がパチンコ店内で現金を引き出して被害を受けている問題を追及している。パチンコ店内にATM設置を推し進めてきた農林中央金庫は日本共産党の強い批判を受けて設置を取りやめるようになった。パチンコ・チェーンストア協会の顧問を務める国会議員達がパチンコを合法化しようとする動きに対して強く批判している。 また、カジノ合法化や地方自治体のカジノ誘致の動きに対しては、かねてから強く反対している。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "人権侵害救済機関設置法案に批判的な立場をとっている。また、同和問題の解決のために税金から部落解放同盟への補助金や海外旅行費用などがなされている問題について、共産党が有力な自治体などでは職員に代わり交渉の前面に立つなどして予算廃止を打ち出すなど強い姿勢で臨んでいる。同和団体への法令に基づかない公金支出についても調査から裁判にいたる活動を行っている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認め、なおかつ規定の入党費を納めた人が党員となることができる。戦前のコミンテルン時代は一国一共産党の原則により台湾や朝鮮も活動範囲としたこともあり、阪神教育事件でも分かるように戦後しばらくまで在日韓国・朝鮮人や中国大陸系華僑・台湾系華僑の党員も多数在籍していた。このうち、中国大陸系華僑は中国共産党に取り込まれ、朝鮮系は1955年(昭和30年)の朝鮮総聯結成と同時に多くが事実上移籍する形で離党。残った者も1966年(昭和41年)の第10回党大会で規約に「日本人であることが党員の資格」と明記されたのを受け、日本への帰化を選択した者以外は離党に追い込まれた。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "党員は、党の組織に加わって活動し、規定(収入の1パーセント)の党費を納める(規約第4条)。2010年(平成22年)の第25回党大会時は約40万6千人の党員がいたが、2012年(平成24年)5月までに実態のない党員約9万人に離党措置をとった結果、同年5月1日現在で約31万8千人となっている(第4回全国活動者会議幹部会報告)。党費納入者は政治資金収支報告書から、およそ25万4000人と推定される。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "党員の権利と義務として、党規約第5条は以下の10項目を列記している(抜粋)。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "中央機関紙(「しんぶん赤旗」)を「読む」(「買う」ではない)ことは2000年(平成12年)以前の旧規約では重要な義務だった。現在は規約上の義務ではないが、党費納付・支部会議への参加・学習努力と活動参加に加えた「4つの大切」の一つとして重視される努力目標である。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "入党希望者は、党員2名の推薦をうけ、入党費(2021年2月現在は300円)をそえて申し込む。入党手続きは、支部で個別に審議したうえで決定し、地区委員会の承認を受けて完了する。ただし、地区委員会以上の指導機関も直接入党を決定することができる。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "なお1966年(昭和41年)の第10回党大会から1980年(昭和55年)の第15回党大会までは、入党費納付後最低5か月間の党員候補期間を経た上で、支部での審査と地区委員会の承認手続きが行われることになっていた。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "審査の際に、「著しく反社会的で、党への信頼をそこなう人」(例としては暴力団関係者、右翼団体、ニセ「左翼」暴力集団、過激派などの構成員、カルト宗教信者、国家権力の指示で組織的に反党活動を行なっている警察官、自衛官、公安調査庁職員など)とみなされた場合、上記の年齢、国籍および規約・綱領の承認という要件を満たしていても入党できない(第6条)。これは上の第5条に定められた、市民道徳と社会的道義をまもるという党員の義務に対応した規定であり、党員2名の推薦にはそのような人物の入党を防止するという狙いがある。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "他党に所属しつつ日本共産党員になること(重党籍)はできない(第7条)。他党の元党員が入党することは可能であるが、その場合、都道府県委員会または中央委員会の承認が必要となる。2000年以前の旧規約では「推薦人となる党員2名のうちどちらか1人が党歴3年以上で都道府県委員会、移籍する本人が前の所属政党で幹部だった場合は1人が党歴5年以上で中央委員会の承認」(第13条)が必要とされ、現在より厳格であった。他党出身の共産党員としては、日本社会党から移籍した深沢義守などがいる。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "党籍長期継続者には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)といった表彰制度がある。党歴の計算には、日本共産党に合流する前の沖縄人民党の在籍期間も通算するが、あくまでもこの間の党費を完納、なおかつ党の活動に参加し続けていることが前提となる。途中で党費の減免を受けていたり、10条該当党員となった期間がある者は、入党以来所定の期間を満たしても永年党員になれないことがある。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "著名な長期党歴者には、俳優の花沢徳衛(50年党員)、教育評論家・労働運動家の三上満(50年党員)らがいる。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "中央委員を20年以上務めた党員については、中央委員会から名誉役員に選出されることがある。また、都道府県委員会・地区委員会でも、名誉都道府県委員・名誉地区委員・顧問など、各組織が独自に名誉役員を選出することがある。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "党組織は、規約第4条に定める党員の資格を明白に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、調査・審査のうえで、除籍することができる(第11条)。除籍にあたっては、本人と協議することが原則だが、党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、行わなくてもよいとされる。 伊里一智は東京大学大学院在学時、日本共産党中央委員会議長を務めていた宮本顕治の辞任を要求したが志位和夫の働きによって第11条によって除名された。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "なお後述の「10条該当党員」になった者は、支部からの離党勧告に応じない場合、除籍措置を行うことがある。1994年(平成6年)の第20回党大会で規約が改正される前は、10条該当党員の整理は一律除籍となっていた。また、1980年(昭和55年)以前は、活動に参加しなくなってから6ヶ月が経過した時点で協議なしに除籍することも可能だった。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "除籍は、基本的に一級上の指導機関の承認を受ける。なお、除籍された人が再入党を希望するときは、支部・地区委員会で審議し、都道府県委員会が決定する。ただし、中央委員会や党大会をもってしても覆せないこともある。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "除籍は単なる党員資格喪失者の党籍を抹消することであって、規律違反者を対象とした「処分」とは別の措置である。しかしながら除籍は、最も重い処分である「除名」と、党員を党から除くという点で同じ効果をもつ。また、除籍は規約と綱領を明白に否定する立場に立った党員も射程に入れることもあり、両者は混同されやすい。この問題は理論部門担当の副委員長浜野忠夫も指摘しており、実際に論文の中で両者を区別して使うように注意を促したことがある。「処分」の場合は、中央委員会および党大会にまで上訴することができる(後述)が、除籍の場合はそれが認められていない。中央委員会が党大会で決定するまでもないとの理由で事実上除名に準じる形の除籍措置を行った場合は、党大会で執行部側の提案により新たな決定をしなければ覆すことができない。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "党員はいつでも、本人の意思により離党することができる。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "離党するときは、支部または党の機関に、その事情を述べ承認を求める。支部または党の機関は、その事情を検討し、会議にはかり、離党を認め、一級上の指導機関に報告する。ただし、党規律違反行為を行っている場合は、それにたいする処分の決定が先行する(第10条)。また、1年以上党活動に加わらず、かつ党費を納めない党員で、その後も党組織が努力を尽くしたにもかかわらず、党員として活動する意思がない場合は、本人と協議した上で、離党の手続きを取ることができる(同条後段)。このような実態のない党員は「10条該当党員」と呼ばれている。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "党員が規約とその精神に反し、党と国民の利益を著しく損なうときは規律違反として処分される(第48条)。処分は軽い順に、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、除名の4段階に分かれている(第49条)。権利停止の期間は1年を超えてはならない。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "一般に党員の処分は、その党員の所属する支部の党会議、総会の決定によるとともに、地区委員会の承認を得て確定される(第50条)。中央、都道府県、地区委員会の委員、准委員に対する権利停止以上の処分は、その委員会が3分の2以上の多数決によって決定し、地区・都道府県は1級上の指導機関の承認をうける。この処分は、次の党会議(党大会)で承認を受けなくてはならない(第51条、第52条)。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "規律違反の処分は、事実に基づいて慎重におこなわなくてはならない(第49条)。また、規約は党機関が処分を適正に下せるよう、処分を受ける党員に、その手続きに参加する権利を保障している。すなわち、処分の審査・決定のさいは、原則、所属組織は処分をうける党員に十分意見表明の機会を与えなければならず、処分が確定されたならば、処分の理由を、処分された党員に通知する(第55条)。処分を受けた党員は、その処分に不服であるならば、処分を決定した党組織に再審査をもとめ、また、上級の機関に訴えることができる(同条)。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "以上は規律違反の処分の事前手続きおよび再審についての一般規定であるが、最高の処分である除名は、もっとも慎重におこなわなくてはならない(第54条)ため、特別に規定がある。党員の除名を決定し、または承認する場合には、関係資料を公平に調査し、本人の訴えをききとらなくてはならない(同条)。また、被除名者が処分に不服な場合は、中央委員会および党大会に再審査を求めることができる(第55条)。事実関係の調査から処分の確定にいたるまでに、被処分者から事情聴取と弁明が、指導機関との面談による質疑応答の形でおこなわれる場合、それを党内では「査問」と呼ぶこともあった。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "党員の権利と義務の中に「党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる」(第7項)とあるように、共産党は党員の教育・学習を重視している。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "党員教育システムは大きく、講義や学習会などの「集団学習」と個人で自習する「独習」に分かれ、前者の中心となる党員講師の理論的力量を確保するために講師資格試験が1967年(昭和42年)より実施されている。講師は教育を行う党組織の級に対応して4段階に分かれている。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "独習については、かつては効率よく科学的社会主義や日本共産党の理論を学ぶために、党中央が指定した文献のリストである独習指定文献が設けられた。文献は難易度に応じてランク付けされており、党綱領や規約、党史など党関連文献およびカール・マルクス『資本論』やウラジーミル・レーニン『帝国主義論』などマルクス主義の古典が採用された。こちらは党勢拡大が本格化する1962年(昭和37年)にはじまり、時代の趨勢に応じて文献も差し替えられたが、2001年、固定的な独習指定文献制度は流動的な現在に合わなくなったとして廃止された。現在は各機関紙誌などで随時文献を紹介し、学習を呼びかけている。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "中央委員会は党員教育・学習を司る部署として学習・教育局と中央党学校を党建設委員会の下に常置し、理論学習専門の機関誌『月刊学習』(1961年創刊)を発行している。講師資格試験の試験問題もこれに掲載される。", "title": "党員" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "日本共産党は「党員の自覚と厳格な規律による全党の統一と団結こそは、党の生命であり勝利の保障」と規定して民主集中制を組織の原則としている。そのため、派閥ごとに独自の政策、派閥間の駆け引きや離合集散などを引き起こすとして、派閥をつくろうとしていると見なしたり、党の執行部の方針と異なる意見を持つ党員に対して除名など厳しい処分を下してきている。 日本共産党は民主集中制を「党内部の規律」であり、一般社会に押しつけるものではない事、「党員が党の一員としての自覚にもとづいて自発的に守るべきもの」としている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区――都道府県――中央という形で組織される(規約第12条)。基本的には個々の党員が所属し、日常的な党生活を送る組織は支部であるので、支部は党の基礎組織と位置づけられている(第38条)。その上で、国会議員団、地方議員団および党外組織の常任役員でつくる「党グループ」等、支部以外の特殊な基礎的組織が、組織体系を補完している。これらは相応する指導機関の直接指導下にある。地区以上の指導機関の役員や何らかの特殊事情のある党員など、例外的に上級組織に直属する党員もいる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "各級組織におかれている機関には、組織の最終的な意志を決定する機関(議決機関)たる「最高機関」と、その決定の実行に責任をおう機関(執行機関)である「指導機関」の2種類があり、これらを総称して党機関という。最高機関として、中央では党大会、都道府県では都道府県党会議、地区では地区党会議、支部では支部総会がおかれ、地区以上の各最高機関を構成する代議員は1級下の最高機関より選出される。支部総会は支部に属する党員が出席する。指導機関には上記の最高機関に照応して、中央委員会、都道府県委員会、地区委員会および支部委員会または支部長がある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "地区委員会および都道府県委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、必要に応じて、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。その任務は、自治体活動やその地域・経営・学園での共同の任務に対応することにあり、指導機関(地区、都道府県委員会)にかわって基本指導をになうことではない。補助指導機関を設置するさいには、1級上の指導機関の承認を必要とし、構成は、対応する諸地区委員会および諸支部からの選出による。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "指導機関の構成員(役員)は当該級の最高機関が選挙によって選出する。役員に選出される資格として2年以上の党歴が必要である。役員候補者は最高機関の選挙人が自薦を含めて自由に推薦できるほか、指導機関が次期委員として推薦する(第13条)。選挙方式には大選挙区完全連記制が採用されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "党組織には、上級の党機関の決定を実行する責任がある。その決定が実情にあわないと認めた場合には、上級の機関にたいして、決定の変更をもとめることができる。上級の機関がさらにその決定の実行をもとめたときには、意見を保留して、その実行にあたる(第16条)。たとえば、都道府県委員会の決定に対し、指導下にある地区組織および支部は、それに反対している場合でも、都道府県委員会が認めなければ、実行にあたらなければならない。また、全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない(第17条)とされ、行動のみならず意見の公表にも制限が加えられている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "このように上級の決定が下級の言論活動を含む実践一般を強く拘束する一方で、党規約は党機関が決定にさいして、党組織と党員の意見をよくきき、その経験を集約、研究することを要求する(第15条)。また、党員と党組織の側にも、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映させることを求めている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "以上、第15~17条は党規約第3条に組織原則として示された民主集中制の内容を組織運営一般の次元で明らかにしたものである。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "都道府県機関と地区機関は地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、自治的に処理する(第17条)。ただし、中央委員会は地方党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる(第21条第7項)。また、都道府県委員会も同様にして、地区党組織に必要な助言をおこなうことができる(第31条第5項)。このような権限・権利を地方党の「自治権」と呼ぶこともある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "党大会は党(中央組織)の最高機関である。原則として2年から3年に1回開くが、特別な事情のもとでは、中央委員会の決定によって、党大会の招集を延期することができる。また、中央委員会の決議や3分の1以上の都道府県党組織の要求によって臨時党大会をひらくこともできる(第19条)。党大会は都道府県党会議の選出する代議員と党大会を召集した中央委員会構成員(前回大会が選出)からなる。党規約第20条は党大会のおこなうことを、(1)中央委員会報告の確認、(2)中央委員会の提案議案の審議・決定、(3)綱領・規約の改正、(4)中央委員の選出、の4項目に定式化している(要旨)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "中央委員会は、党大会からつぎの党大会までの党の指導機関である。党大会決定の実行に責任をおい、対外的に党を代表し、全党を指導する。現在は計200名弱の中央委員と准中央委員から構成されている。任務は規約第21条が、(1)対外代表と全党指導、(2)中央機関紙、(3)国際・全国的問題、(4)方針と政策の徹底と実践、(5)理論活動(科学的社会主義)、(6)幹部政策、(7)地方党組織への助言、(8)財政の8カ条に定式化している(要旨)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "中央委員と准中央委員はどちらも党大会で選挙によって選出される。その際、中央委員会は候補者を推薦する。代議員(選挙人)も自由に候補者を自薦も含めて推薦することができるが、前例は少ない。2010年1月の第25回党大会では、中央委員会が候補者として中央委員162人、准中央委員35人を推薦し、投票の結果、163人の中央委員と35人の准中央委員が選出された。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "内部には権限の大きさと任務の内容にしたがって中央委員会総会、幹部会、常任幹部会(他の共産主義政党・団体における政治局に相当)等の合議制機関が階層的に配置されている。中央委員会総会(年2回以上開催)を最高決議機関とし、常任幹部会や書記局、中央機関紙編集委員会などが日常的な指導や事務をつかさどる。書記局は政策委員会や国民運動委員会、中央委員会付属社会科学研究所(所長:不破哲三)、出版局など、さまざまな部署に分かれた中央委員会の内部機構を統括している。総会から総会のあいだ中央委員会の職務をおこなうのは幹部会で、幹部会の職務を日常的に遂行するのは常任幹部会である。したがって、中央委員会の日常的任務をになう機関は常任幹部会ということになる。常任幹部会は毎週開かれる。党規約は最高職を明記していないが、一般的には中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役として、とくに幹部会委員長は党首として扱われている(現在の具体的人事は#現在の執行体制を参照)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "都道府県組織の最高機関は都道府県党会議、指導機関は都道府県委員会である。都道府県委員会は、都道府県党会議決定の実行に責任をおう。党規約第31条は党委員会の任務として以下の6項目を列記している(抜粋)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "都道府県委員会の最高決議機関は都道府県委員会総会で、すべての都道府県委員と准委員から構成される。都道府県委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、都道府県委員会総会からつぎの総会までのあいだ、都道府県委員会の職務をおこなう(第32条)。都道府県委員会は、大都市など、いくつかの地区にわたる広い地域での活動を推進するために、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。また、経営や地域(区・市・町村)、学園にいくつかの支部がある場合も補助的な指導機関をもうけることもできる。これら補助指導機関の設置には中央委員会の承認が必要である。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "東京都23区では特別区を単位に細かくおかれている一方で、人口・党員の少ない都道府県では、県土を2 - 3つにわけた程度の広範囲を管轄する地区組織もある。たとえば、島根県は、東部、西部、中部の3地区に分轄されている。地区組織の最高機関は地区党会議、指導機関は地区委員会である。地区委員会は、地区党会議決定の実行に責任をおう。党規約第36条は党委員会の任務を都道府県委員会に準じた内容の6項目に整理している。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "地区委員会の最高決議機関は地区委員会総会で、すべての地区委員と准委員から構成される。地区委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、地区委員会総会からつぎの総会までのあいだ、地区委員会の職務をおこなう(第37条)。地区委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、補助的な指導機関をもうけることもできる(第18条)。設置には都道府県委員会の承認が必要である。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "職場、地域、学園などに、3人以上の党員がいるところでは、支部をつくる。支部は党の基礎組織であり、それぞれの職場、地域、学園で党を代表して活動する(第38条)。かつては「細胞」と呼ばれていた。1人の党員が複数の支部に重複して所属することはない。支部の数は2010年現在、およそ2万2000おかれている。2006年1月の第24回大会の2万4000からおよそ2000支部減少した。この間党員数は微増している。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "職場にもとづいてつくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」ないし「地域支部」、大学など学園の学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれる。共産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はとくに身近に存在し、このことが同党を大衆政党(組織政党)として特徴づけている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "支部の最高機関は支部総会、指導機関は支部委員会である。ただし、党員の少ない支部は支部長を指導機関とする。支部総会はすべての党員から構成され、支部委会員ないし(指導機関としての)支部長を選出する。支部委員会はその内部機関として、支部長を選出する。支部には必要に応じて、副支部長をおいたり、下部組織としての班をもうけたりできる。班には班長をおく。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "例外だが、状況によっては、社会生活・社会活動の共通性(階層)にもとづいて支部をつくることができる。現在は青年という年齢層にもとづいて組織される「青年支部」、複数の学校にまたがる「学生支部」(学園支部は同じ学校で組織されるので区別される)がある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "党員が3人にみたない地域・職場・学園では、党員は付近の支部にはいるか、または支部準備会をつくる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "第28回党大会まで議員や候補者個人の後援会はつくらない方針をとっており、すべて党後援会となっている。党後援会員は380万人以上である。党支部に対応する「単位後援会」と、労働者・企業経営者・農業者・女性・青年・学生・セクシャルマイノリティ・宗教者など各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別される。「日本共産党後援会全国連絡会」「全国労働者日本共産党後援会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」「全国宗教人・日本共産党を支持する会」の6つの全国組織がある。また、青年・学生向けの後援会的組織として「日本共産党といっしょに日本をかえるネットワーク」(かえるネット)や、インターネット・SNSによる後援会的組織「JCPサポーター」もある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "個人名(候補者名)を冠した個人後援会を組織した時期もあったが、1980年の第15回大会が「後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを」決議し、以後、個人後援会は党後援会に再編にされた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "第28回党大会では、「候補者個人が野党統一候補となり得る」として、個人後援会の設立を容認するように方針を転換した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定している(規約第45条)。日本共産党規約の第45条から第47条よりなる第10章(資金)が党財政の通則にあたる。内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入である。企業・団体献金と政党助成金は受取りを拒否している。支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめる。このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達している。一般に、日本の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いが、日本共産党の議員は党が政治資金を支えている。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "産経新聞は、神奈川県逗子市、川崎市、座間市、福岡県行橋市といった自治体で日本共産党の議員らが「しんぶん赤旗」の勧誘・配布・集金を行っている、と報道している。また、橋下徹大阪市長は日本共産党が政党助成金に反対していることを「きれい事」「全国の役所が購入してすさまじい額のお金を払っている。政党助成金そのものだ」と述べている。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "政治資金収支報告書(2011年3月28日宣誓)によると、2010年の収入(前年からの繰入を除く)は約237億4600万円、支出(翌年への繰越を除く)は232億4200万円であった。収入の内訳は、党費が約8億2100万円(約3.46%)、寄付が4億4400万円(1.87%)、事業収入が208億6700万円(87.88%)、借入金が100万円(0.00%)、「本部又は支部から供与された交付金に係る収入」が13億2200万円(5.57%)、利息や地代・家賃など「その他の収入」が2億9100万円(1.23%)であった。寄付は全額が個人から。事業収入のうち、機関紙誌は205億3600万円で、全収入比でおよそ86%を占める。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "支出(翌年への繰越を含む)の内訳は、経常経費が約37億8400万円、政治活動費が205億2200万円(うち、「本部又は支部に対して供与した交付金に係る支出の内訳」が76億6300万円)となっている。機関紙誌の発行事業費は政治活動費に含まれ、148億8100万円と支出全体の64%を占める。なお、政治資金パーティー開催事業費は支出していない。このように、機関紙活動を中核とし、企業・団体献金や交付金を排除した財務構造について、共産党は「国民と草の根で結びついて活動していることの反映であり、他の政党とまったく異なるわが党の財政の健全さをしめすもの」であると肯定的に評価している。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "党費は、実収入の1パーセントとし、月別、または一定期間分の前納で納入する。失業している党員、高齢または病気によって扶養をうけている党員など生活の困窮している党員は、党費を減免できる(第46条)。日本民主青年同盟の同盟員として活動している党員は、納入する党費から同盟費(550円)を差し引いた額を納める。2010年は延べ数で約300万人が党費を納めた。中央委員会、都道府県委員会、地区委員会は、それぞれの資金と資産を管理する(第47条)。規約第47条に対応し、各級組織の「財政活動の処理と指導」が、当該級指導機関の任務のひとつに規定されている(第21条第8号、第31条第6号、第36号第6号)。なお、支部には党費を集める任務がある(第40条第3号)。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "中央委員会には財務部門として、書記局のもとに「財務・業務委員会」が設けられている。同委員会は一般的な意味での財務のみならず、赤旗など機関誌紙発行事業の総務も所掌している。委員会の前身は第24回大会(2006年)期までは「財務・業務局」という独任制の部署であった。第25回大会時(2010年)に常任幹部会は、財務・業務委員会の責任者に、財務・業務局長の上田均(常任幹部会委員)を引き続き任命した。委員会には事務局と財政部、機関紙誌業務部、管理部、厚生部、赤旗まつり実行委員会がある。上田は政治資金収支報告書に記載される会計責任者を兼ねる。会計監査は中央委員会監査委員会が行っている。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、企業経営者や労働組合・各種団体役員からの個人献金は受け取っている。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "国政政党に衆参の議員数ごとに支給される政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である。かつて第二院クラブが、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、日本共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "地方議会で地方議員に会派の人数に応じて配分される政務活動費は受給している。", "title": "政治資金" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "日本共産党は機関紙活動を党活動の中心に据えている。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。2019年(令和元年)時点で、日刊紙・日曜版を合わせた購読者数が100万部を割り込んだ。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "購読者数は第15回党大会(1980年)時点での355万部をピークにほぼ一貫して減少しており、1990年(第19回大会)に1987年より30万部近く減らして286万部と報告。さらに10年後の2000年には199万余に後退し、2010年1月(第25回大会)の145.4万部を経て、2019年9月半ば時点では100万部を割るにいたった。この29年間(1990年~2019年)で通算すると、約3分の2に当たる190万減となる。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "雑誌は『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』の4つの月刊誌を刊行しており、日本国内では一般の雑誌書籍の流通ルートから手に入る。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 286, "tag": "p", "text": "かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあった。1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」。都道府県委員会など地方組織の指導機関が編集・発行する地方機関紙もある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が多い。京都民報社の『京都民報』や大阪民主新報社の『大阪民主新報』など、他大衆団体との共同機関紙というコンセプトから、党外団体を発行主体とする場合もある。その他、地方議会議員(団)の広報紙がある。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 287, "tag": "p", "text": "新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及・宣伝に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつては同様の普及協力誌に、総合月刊雑誌の『文化評論』や『あすの農村』、『労働運動』、『科学と思想』(年2回刊)があったが現在は休刊・廃刊している。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 288, "tag": "p", "text": "また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(月2刊)の購読の仲介もしている。過去には民青同盟の『われら高校生』、学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)の『学生新聞』や、小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)も普及していたが、現在は休刊・廃刊した。", "title": "機関紙誌" }, { "paragraph_id": 289, "tag": "p", "text": "日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 290, "tag": "p", "text": "中央委員会の入居する日本共産党本部ビルは東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26-7にある。正面入口の反対側を東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線、東側を明治通りが通る。最寄り駅は、代々木駅、千駄ケ谷駅、北参道駅の3駅となる。地上11階、地下1階の「1期棟」(北西側)と地上8階、地下2階の「2期棟」(南東側)から成り、両棟を地上3階建ての低層基壇が連結し、これを通じて行き来できる。延べ床面積は約1万6500mで、日本の政党本部ビルとしては自民党をしのぎ最大である。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 291, "tag": "p", "text": "2000年から着工し、2005年に竣工した。総工費は85億円、うち45億円を党の積立基金が負担し、残り40億円を寄付や無利子借入金とし、順調に集まった。設計・監理責任者は地域建築空間研究所所長の小林良雄。なお、中央委員会の機関でも「しんぶん赤旗編集局」は明治通りを挟んで東側の「ASビル」に、あかつき印刷とともに入居している。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 292, "tag": "p", "text": "戦後の合法化により、現在と同じ場所にはじめて公然本部を構えた。1960年の党勢拡大に伴い、増築と周辺不動産の買取りを進め、1970年には8棟の建物が林立する複雑な形態を完成させた。耐震性に不安が生じたことから1998年に中央委員会は現行の本部ビルへ全面建て替えすることを決定した。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 293, "tag": "p", "text": "党最大の施設で、静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2km(徒歩30分)の山頂付近(北緯35度3分39.2秒 東経139度3分22.8秒 / 北緯35.060889度 東経139.056333度 / 35.060889; 139.056333 (伊豆学習会館))にある。1963年着工。面積約4万5千平方メートル。東京ドーム(約4万7千平方メートル)に匹敵する敷地に学習施設など8棟。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 294, "tag": "p", "text": "科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党中央学校」(2014年時点で、党中央学校の「卒業生」は志位和夫委員長はじめ1万人を超える)などが開かれる他、党大会(1977年10月の第14回から)が付属大講堂で開催される。それまでの党大会では目黒公会堂など都内の公共施設を借りて会場にしていた。現在は大講堂の床下にある25メートル6コースのプールで、水を抜いたプールの上に板を敷き、イスを並べて行う。プール自体は数年前から維持管理コスト削減のために利用されていない。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 295, "tag": "p", "text": "この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。不破哲三によれば開設当時は「建物はできていたが、庭などはまだ完成しておらず、“労働しながら学習する”を合言葉に池を掘ったり樹を植えたり、庭づくりを学生がみんなでやったのです。岩や樹とかも各県の名産を寄せてもらったりしました」という。温泉はひかれていない。約150人収容の宿泊施設には党大会開催中、幹部団と事務局員が3連泊する。一般党員は2段ベッド式の4人部屋を利用するが、志位ら最高幹部には個室が用意される。ただし、食堂のメニューは「平等」と説明されている。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 296, "tag": "p", "text": "都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。近年、一部の地区委員会は常勤の勤務員がおらず、市議会議員らが党務を兼任し、平日の昼でも事務所が開いてない場合がある。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。", "title": "事務所・施設" }, { "paragraph_id": 297, "tag": "p", "text": "※1976年の13回大会では、人事案件なし。", "title": "役職" }, { "paragraph_id": 298, "tag": "p", "text": "(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)", "title": "被公選機関における党勢" }, { "paragraph_id": 299, "tag": "p", "text": "日本共産党は、1951年に主流派の所感派が武装闘争を採択、1955年に武装闘争路線を放棄した。以後の日本共産党執行部は、当時の所感派の指示は党の正式な指示ではなく、党に責任は無く、また「平和革命必然論」と「武力革命唯一論」の両方を誤りとする。", "title": "破防法調査対象団体" }, { "paragraph_id": 300, "tag": "p", "text": "公安調査庁は1952年の破壊活動防止法施行以来、日本共産党を調査対象団体としている。1955年の武装闘争路線放棄以降も、敵の出方論であり、暴力革命自体は放棄していないとして、毎年1回発刊する「内外情勢の回顧と展望」で日本共産党の動向を報告している(近年では共産党の施策紹介と化している)。また、警察庁警備局も共産党が「暴力革命の方針」を保持していると認識している。", "title": "破防法調査対象団体" }, { "paragraph_id": 301, "tag": "p", "text": "これに対して日本共産党は公安調査庁を以下のように批判し、破壊活動防止法と共に廃止を主張している。", "title": "破防法調査対象団体" }, { "paragraph_id": 302, "tag": "p", "text": "兵庫県警OBの飛松五男は以下のように述べた。", "title": "破防法調査対象団体" }, { "paragraph_id": 303, "tag": "p", "text": "1980年の社公合意以降、他党との選挙協力は沖縄以外行わない姿勢をとってきたが、2015年9月19日、「戦争法(平和安全法制)廃止の国民連合政府」に賛同する野党との選挙協力をすると発表した。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 304, "tag": "p", "text": "共産党と他の政党が協力関係を築けていない理由として以下が挙げられる。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 305, "tag": "p", "text": "こうしたこともあって、民主党・社民党、部落解放同盟などから「独善的体質」「セクト主義」と批判されており、政治評論でもそういったイメージで語られることが多い。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 306, "tag": "p", "text": "同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 307, "tag": "p", "text": "1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)や、民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 308, "tag": "p", "text": "小選挙区制導入以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 309, "tag": "p", "text": "2006年の沖縄県知事選挙では、糸数慶子を推すことで、近年の主要選挙では稀になった事実上の全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など党内右派から「共産と手を組んでいる」との批判が行われ、自民党も「共産と手を組んだ民主」などと攻撃した。結果は自民党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、保守層を中心とした「共産党と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党も自民党やマスコミに共産党との協力関係を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 310, "tag": "p", "text": "こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、(共産)党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求めるケースもあった。これに共産党側が反発し、非難合戦となったこともある。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 311, "tag": "p", "text": "その一方で、「共産党を落とす」ため、共産党が接戦・優位な選挙区では自民党、民主党が国政等で対立しているにもかかわらず、協力するケースも多い。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 312, "tag": "p", "text": "2004年には、参議院大阪府選挙区で、辞職中の辻元清美(当時、社民党)の支持者から、辻元を共同候補にし、共産現職の宮本岳志に引退を「強要」する言動がなされたとされる。結果は辻元も宮本も落選した。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 313, "tag": "p", "text": "2007年2月の愛知県知事選挙では、共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽阿部精六を推薦。結果は阿部が予想を上回る票を獲得し、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 314, "tag": "p", "text": "2007年3月の東京都知事選挙では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける元宮城県知事の浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」と断言しこれを拒否した。その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 315, "tag": "p", "text": "この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 316, "tag": "p", "text": "2013年の第23回参議院議員通常選挙では、定数2の京都府選挙区で自民党の西田昌司が序盤から優位に立ち、2議席目を共産党の倉林明子と民主党新人で元首相補佐官の北神圭朗が争う展開となり、各メディアの情勢で北神の接戦・劣勢が伝えられると、府内の財界や山田啓二京都府知事、門川大作京都市長が「共産党落とし」を進めただけでなく、北神陣営が自民・公明両党に票を流す依頼まで行った。結果は、倉林が1万8000票差で北神を振り切って初当選したものの、京都新聞の出口調査では公明支持層の35.2%が推薦した西田に投票した一方、それを上回る38.9%が北神に投票していた。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 317, "tag": "p", "text": "一方、2011年大阪市長選挙では、当時の大阪府知事の橋下徹(大阪維新の会)の政治姿勢を独裁者と批判し、「独裁政治と教育基本条例案の成立を阻止」の名目の元、独自候補の渡司考一の擁立を撤回し、2007年大阪市長選挙では対立候補だった平松邦夫支持を呼びかけ、既存の他党と連携を行うという戦術を取り、2015年および2019年の市長選では自民党推薦の柳本顕を支持するという方針を出した。(平松と柳本は共に落選。)", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 318, "tag": "p", "text": "他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕(4期:1996年 - 2012年)を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。国分寺市長山崎真秀(1期:1997年 - 2001年)は、共産党と新社会党のみの推薦で5党相乗りの現職との一騎討ちに勝って当選した。", "title": "他党との関係" }, { "paragraph_id": 319, "tag": "p", "text": "日本共産党が構成員となっている団体は以下の通り。", "title": "外郭・共闘団体との関係" }, { "paragraph_id": 320, "tag": "p", "text": "恒常的な共同・友好関係にあるか、執行部に党員が多いと見られている大衆団体。団体代表が団体内党後援会の代表を兼ねる例も多い。 民医連、全商連、農民連、全労連、新婦人の5団体は代表職を全国革新懇に代表世話人に送り出している。", "title": "外郭・共闘団体との関係" }, { "paragraph_id": 321, "tag": "p", "text": "日本共産党や共産党員は、以下の団体の抗議行動に参加している。", "title": "外郭・共闘団体との関係" }, { "paragraph_id": 322, "tag": "p", "text": "日本共産党はかつて「一国一前衛党論」を掲げ、複数の共産党・労働者党がある国では一つの党としか関係を持たなかった。さらに、ソ連共産党や中国共産党の複数前衛党論(併党論)を、大国の共産党による外国の革命運動に対する干渉を合理化する理論であるとして、強く批判した。1984年には、この複数前衛党論を全面的に批判し、一国一前衛党論を展開した論文「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論 : 「併党」論を批判する」を「赤旗」紙上で発表している。", "title": "国際党間交流" }, { "paragraph_id": 323, "tag": "p", "text": "第23回大会(2004年)または第24回大会(2006年)に、代表ないしメッセージを送った党は以下の通り。", "title": "国際党間交流" }, { "paragraph_id": 324, "tag": "p", "text": "1999年には外国の政党・政権について、保守的か革新的か問わずに対話と交流の場を広げるという「野党外交」の方針を定めている。その立場から日本共産党は共産主義国以外の国にも公式訪問することがあり、またアジア政党国際会議(ICAPP)に第2回総会以来毎年代表団を送っている。", "title": "国際党間交流" }, { "paragraph_id": 325, "tag": "p", "text": "災害時には、全国に置かれた党組織のネットワークを駆使した被災地支援活動を行っている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 326, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災では被災地のために募金活動を行い「東日本大震災救援募金」として計6億5千万円を被災自治体や被災地の農協、漁協等に届けているほか、全国の党支部から被災地へ援助物資が送られた。被災地域の党支部も関連団体と協力して各地で炊き出しや被災者に食糧や水、衣類など生活物資を配布した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 327, "tag": "p", "text": "熊本地震の直後に東京3区の立候補予定者が募金を行った際、義援金と党に対する寄付を同じ募金袋で集め、のちにツイッターに「熊本の被災地救援、北海道5区補選支援、党躍進のためにありがたく使わせていただきます」と書き込んだため問題視された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 328, "tag": "p", "text": "非実在表現をめぐって、参議院議員の音喜多駿は表現規制だと批判している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 329, "tag": "p", "text": "高木桂一は、日本共産党には「革命遂行には最高幹部の健康や寿命がかかわるから、最高幹部を大事する」との理由で別称「第2事務」と呼ばれる“防衛部隊”が設置されていると主張している。高木はその規模について「党本部に所属する約40名と、全国の地区委員会に1~2名、さらに“予備兵”」としている。また共産党防衛部隊OBの話として「警察無線の傍受のほか、対象者の尾行、盗聴などをやっている。党には警察無線の暗号を割り出すプロもいるから驚いた」としている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 330, "tag": "p", "text": "所属する党員に対して、Twitterを始めとしたSNSを駆使して党のアピールや、政府活動への反対運動などを行う事を指示している。Twitterでは「日本共産党(公式)🌾⚙️」というアカウントを用いているが、一部の党員がSNSを利用した選挙・宣伝活動に他人の創作作品(ピカチュウやアンパンマンなど)に類似したキャラクターを登場させたり、他社の商標権のある商品を模した画像を無断で使用するなどの知財トラブル事案が続出し、他のSNSなどからの批判を受けて、党員や党が謝罪する事案が相次いでいる。", "title": "その他" } ]
日本共産党は、日本の政党。科学的社会主義を理論的基礎とする社会主義・共産主義政党である。 略称は「JCP」。日本国内では単に「共産党」、「共産」と呼ばれる。「日共」とも。1字表記の際は、「共」と表記される。
{{Otheruses|国会に議席を有する政党|「日本共産党」を名称に含む政治団体}} {{出典の明記|date=2023年6月}} {{加筆依頼|党の歴史|date=2023年6月}} {{政党 | 国名 = {{JPN}} | 党名 = 日本共産党 | 色相 = {{Japanese Communist Party/meta/color}} | ロゴ = [[ファイル:Nihon Kyōsantō Logo.svg|220px]] | 画像 = Nikyo Chuo Iinkai at Tokyo in 2018.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像説明 = [[日本共産党中央委員会#本部ビル|日本共産党本部ビル]] | 党首職名 = [[日本共産党中央委員会幹部会委員長|幹部会委員長]] | 党首氏名 = [[志位和夫]] | 副党首職名 = [[日本共産党中央委員会書記局長|書記局長]] | 副党首氏名 = [[小池晃]] | 最高指導部 = [[日本共産党中央委員会|副委員長]] | 構成員 = [[山下芳生]]<br />[[市田忠義]]<br />[[緒方靖夫]]<br />[[田村智子]]<br />[[浜野忠夫]]<br />[[倉林明子]] | 下院代表職名 = 衆議院議員団団長 | 下院代表氏名 = [[高橋千鶴子]] | 上院代表職名 = 参議院議員団団長 | 上院代表氏名 = [[紙智子]] | 成立年月日 = {{start date and age|1922|07|15}}<ref>[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1030頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref><ref>[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/history.html あゆみ|党紹介│日本共産党中央委員会] 2018年9月3日閲覧。</ref><br />(1945年12月に合法化<ref name="Britannica"/>) | 郵便番号 = 151-8586 | 本部所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[千駄ヶ谷]]4-26-7<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_info/html/map.html 党本部の地図・住所|エントリー│日本共産党中央委員会] 2018年9月3日閲覧。</ref><br /><small>{{coord|35|40|52.8|N|139|42|14.6|E|region:JP-13_type:landmark|display=inline}}</small> | 下院 = [[衆議院]] | 下院議員数 = 10 | 下院議員定数 = 465 | 下院議員集計年月日 = 2021年11月1日現在 | 上院 = [[参議院]] | 上院議員数 = 11 | 上院議員定数 =248 | 上院議員集計年月日 = 2022年7月26日現在 | 議席 = 都道府県議数 | 議員数 = 140 | 議員定数 = 2598 | 議員集計年月日 = 2022年10月3日現在<ref name="giseki">[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/giin.html]</ref> | 議席2 = 市区町村議数 | 議員数2 = 2387 | 議員定数2 = 29425 | 議員集計年月日2 = 2022年10月3日現在<ref name="giseki" /> | 党員・党友数 = 約270,000人{{efn|[[政治資金収支報告書]]への届出人数は、約226,243人。政治資金収支報告書の「個人の負担する党費 又は会費」は1年間ののべ人数なので、12で割った数字が実際の党員数になる。}} | 党員・党友数集計年月日 = 2019年9月16日現在<ref>{{cite news|title=第7回中央委員会総会 志位委員長のあいさつ|newspaper=しんぶん赤旗|date=2019-09-16|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-16/2019091604_02_0.html}}</ref>(政治資金収支報告書は、2017年12月31日現在<ref> {{WAP|pid=11727936|url=www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/SS20181130/0000701224_01.pdf|title=収支報告書|date=2018-12-03}}</ref>) | 政党交付金 = 0 | 交付金算定基準 = 政党交付金制度に反対しており受給拒否{{refnest|name="seito_jyoseikin"|{{Cite press release|和書|title=知りたい聞きたい /政党助成金への態度は?|publisher=日本共産党|date=2000-06-04|url=https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/2000604_seito_jyoseikin.html}}}} |政治的思想・立場 = {{Nowrap|[[左翼|左派]]<ref name="bloomberg">{{Cite web |url=https://www.bloomberg.com/profile/company/OAPANZ:JP |title=Japanese Communist Party - Company Profile and News - Bloomberg Markets |accessdate=2019-08-12 |website=bloomberg.com |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] |quote=Japanese Communist Party (JCP) operates as a '''left-wing''' political party in Japan.&nbsp;... |language=en }}</ref><ref name="britannica.com">{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/Japanese-Communist-Party |title=Japanese Communist Party &#124; political party, Japan |author=The Editors of Encyclopaedia Britannica |accessdate=2019-10-01 |website=britannica.com ([[:en:Encyclopædia Britannica Online|Encyclopædia Britannica Online]]) |work=ブリタニカ百科事典 |publisher=[[:en:Encyclopædia Britannica, Inc.|Encyclopædia Britannica, Inc.]] |language=en |quote=Japanese Communist Party (JCP), Japanese Nihon (or Nippon) Kyōsantō, also called Japan Communist Party, '''leftist''' Japanese political party founded in 1922. }}</ref> - [[極左|急進左派]]<ref>{{cite web|url=https://www.straitstimes.com/asia/east-asia/election-fever-hits-japan |title=Election campaign, the Japanese way |quote=Both the LDP and Kibo no To are in favour of constitutional revision, unlike the new left-leaning Constitutional Democratic Party of Japan and the far-left Japanese Communist Party. |date=13 June 2017|access-date=16 October 2017|publisher=[[The Straits Times]]}}</ref><br/>[[社会主義]]<ref name="nishinihon"/><ref name="koryo" /><br/>[[マルクス主義|科学的社会主義(マルクス主義)]]<ref name="koryo" /><br/>[[共産主義]]{{Efn-ua|<ref name="Britannica">{{kotobank|日本共産党|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref><ref name="nipponica">{{Cite web|和書|author=田口富久治 |authorlink=田口富久治 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=日本共産党 |accessdate=2020-09-13 |website=[[コトバンク]] |work=日本大百科全書 (ニッポニカ) |publisher=[[朝日新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200815105036/https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |archivedate=2020-08-15 }}</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] コトバンク. 2018年9月4日閲覧。</ref><ref name="digidai">[https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] コトバンク. 2018年9月4日閲覧。</ref><ref name="nishinihon">{{Wayback|url=https://www.nishinippon.co.jp/nnp/representatives_election_2017_news/article/366091/|title=定義なき保守バブル 有権者の解釈多様 - 西日本新聞|date=20171015233229}}</ref>{{refnest|name="koryo"|{{Cite press release|和書|title=日本共産党綱領|publisher=日本共産党|date=2020-01-18|url=https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/}}}}}}<br/>改革派共産主義<ref>[[中北浩爾]]『日本共産党』(中公新書、2012年)p16</ref><br/>[[平和主義]]<ref>{{citeweb|url=http://www.eastasiaforum.org/2013/10/24/japans-persistent-pacifism/|title=Japan's persistent pacifism|last= Clausen |first=Daniel |publisher=[[:en:East Asia Forum|East Asia Forum]]|date=24 October 2013|accessdate=February 1, 2019}}</ref><ref name=":1" /><ref>{{Cite news|title= 日米安保条約をなくしたらどういう展望が開かれるか|newspaper=日本共産党|url= https://www.jcp.or.jp/web_policy/2012/05/post-453.html|accessdate=2021-12-5}}</ref><br />[[国民主権]]<ref name="koryo" /><ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-11-19/1119faq.html しんぶん赤旗、「国民主権と平和をかかげて誕生したとは?」、2003年11月19日]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-06-09/ しんぶん赤旗、「国民主権は憲法の核心」、2017年6月9日]</ref>}} <br />[[愛国主義]]・[[左翼ナショナリズム]]<ref>{{Cite web|和書|title=伝統・文化の継承 真の愛国の立場とは?|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-09-20/ftp20070920faq12_01_0.html|website=www.jcp.or.jp|access-date=2023-10-15}}</ref><br />[[護憲]]<ref name="koryo" /><br/>[[共和制|民主共和制]]<ref name="koryo" /><ref name=":1" /><br />[[反核運動|核兵器廃絶]]・[[原子力撤廃|原発ゼロ]]<ref name="koryo" /><br />[[日中共産党の関係|対中強硬]]<ref>{{Cite web|和書|title=中国問題に日本共産党はどう対応してきたか/事実と道理で批判 打開の方策を提起|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-07-01/2021070101_02_0.html|website=www.jcp.or.jp|access-date=2023-10-15|language=ja}}</ref><br />[[千島列島#領土問題#日本の各政党による主張 |千島列島全島の領有権]]<ref>{{Cite web|和書|title=日ロ領土問題と平和条約交渉について│千島(日露)│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会|url=https://www.jcp.or.jp/web_policy/2001/04/post-296.html|website=日本共産党|access-date=2023-10-15|language=ja}}</ref> | 機関紙 = 『[[しんぶん赤旗]]』{{small|(1928年以降)}}<ref>{{Cite web|和書|author=春原昭彦 |url=https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%97%97-24400#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=赤旗 あかはた |accessdate=2020-01-18 |website=[[コトバンク]] |work=日本大百科全書(ニッポニカ) }}</ref><br/>『[[無産者新聞]]』{{small|(1920年代~1930年代初頭の一時期)}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%94%A3%E8%80%85%E6%96%B0%E8%81%9E-140425#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 世界大百科事典 第2版 - 無産者新聞(むさんしゃしんぶん)] コトバンク. 2018年11月22日閲覧。</ref> | ウェブサイト = https://www.jcp.or.jp/ | サイトタイトル = 日本共産党中央委員会 | シンボル = [[ファイル:Flag of JCP.svg|120px]] | 党旗 = [[ファイル:Flag of the Japanese Communist Party.svg|160px]]<br/ ><br/ >[[ファイル:Flag_of_the_Japanese_Communist_Party_Central_Committee.svg|160px]]<br /> (日本共産党中央委員会の旗) | 国際組織 =[[共産党・労働者党国際会議]]<ref group="注釈">但し年次会議には出席したことがない。</ref> | 公式カラー = {{colorbox|{{Japanese Communist Party/meta/color}}}} [[赤]] <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22461210Z11C17A0000000/ |title=日本に定着するか、政党のカラー |accessdate=2019-07-26 |date=2017-10-21 |website=nikkei.com |publisher=[[日本経済新聞社]] }}</ref> | その他 = |公用語名=にほんきょうさんとう<div style="font-size:smaller">Japanese Communist Party</div>}} {{共産主義のサイドバー}} {{社会主義}} {{日本共産党から分裂した党派}} '''日本共産党'''(にほんきょうさんとう、{{lang-en-short|Japanese Communist Party}}<ref name="kiyaku">[http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html 日本共産党規約|党紹介│日本共産党中央委員会] (2000年11月24日改定) 2018年9月3日閲覧。</ref>、略称: '''JCP'''<ref name="jcpforbes">[https://www.forbes.com/sites/adelsteinjake/2017/10/30/japan-may-be-moving-right-politically-but-its-communist-party-still-holds-some-sway-with-voters/#5b3322107dfc Japan May Be Moving Right Politically, But Its Communist Party Still Holds Some Sway With Voters] [[フォーブス (雑誌)|Forbes]]. (2017/10/30, 6:00pm) 2018年9月3日閲覧。</ref>)は、[[日本の政党]]<ref name="Britannica"/>。[[マルクス主義|科学的社会主義]]を理論的基礎とする<ref>{{Cite press release|和書|title=日本共産党規約 |publisher=日本共産党 |url=https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html |accessdate=2020-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200730061827/https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html |archivedate=2020-07-30 }}</ref>[[社会主義]]<ref name="nishinihon" /><ref name="koryo" />・[[共産党|共産主義政党]]<ref name="Britannica" /><ref name="nipponica" />である。 [[略称]]は「'''JCP'''」。日本国内では単に「'''共産党'''」<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=また自民党選択した日本…弱い野党と新型コロナ感染大幅減が追い風に |url=https://japanese.joins.com/JArticle/284395 |website=中央日報日本語版 |accessdate=2021-12-15 |language=ja}}</ref><ref name="yougoshu">政治・経済教育研究会 編 『政治・経済用語集 第2版』 [[山川出版社]]、2019年、76-77頁。ISBN 978-4-634-05113-3</ref>、「'''共産'''」<ref name="yomiuri">[https://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/?from=ycnav2 【衆院選(衆議院選挙)】:衆議院選挙2017:選挙:読売新聞] [[読売新聞]]. 2018年9月3日閲覧。</ref>と呼ばれる。「'''日共'''」{{efn|ただし、「日共」について、例えば[[西沢舜一]]は「反共主義者が好んで多用する蔑称」と述べている<ref>『「甲乙丙丁」論 いろはにほへと』新日本出版社、1981年、p308</ref>。}}とも。1字表記の際は、「'''共'''」と表記される<ref name="yomiuri"/>。 [[政党|国政政党]]としては[[野党]]の立場であるが、54の[[地方公共団体|地方自治体]]で、日本共産党が[[与党]]として活動している。内、[[都道府県]]では[[岩手県]]と[[沖縄県]]で県政与党の立場である<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/locoal.html 日本共産党が与党の自治体 2023年12月1日現在]</ref>。詳しくは「[[日本共産党#地方自治体|日本共産党の地方自治体での勢力]]」を参照せよ。 == 概要 == 2019年9月現在約28万人の党員を抱え、[[西側諸国]]で最大規模の[[共産党]]となっている。国会議員数は、衆議院議員10名、参議院議員11名で衆議院及び参議院[[野党]]第三党である。約2,500人の地方議員を抱え、日本共産党が[[与党]]の自治体は2020年8月現在64ある<ref name=":4">[http://www.jcp.or.jp/web_member/ 日本共産党/議員]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/locoal.html 日本共産党/日本共産党が、与党の自治体]</ref>。 また、女性議員の人数が最大の政党である。[[日本の政治|日本政治]]において最も長く同じ党名を使用し、また現存する日本の政党としては最古の歴史を持つ政党である<ref>{{Cite web|和書|title=日本共産党とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A-110120|website=コトバンク|accessdate=2020-11-25|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,知恵蔵,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典|last=三訂版,世界大百科事典内言及}}</ref>。産経新聞によると、2000年に38万7000人だった党員が、2020年には27万人前後に、当時199万人の「しんぶん赤旗」購読者も、2019年に100万人を下回った<ref name=":0" />。 代表に関して一般党員による直接選挙の結果を用いる規定を持たない{{efn|党首を直接選挙する政党は自民党と社民党のみである。}}。 代表は党規約<ref>{{Cite web|和書|title=日本共産党規約|url=https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html|website=日本共産党|accessdate=2023-4-18|language=ja|}}</ref>に基づき以下のプロセス<ref>{{Cite web|和書|title=日本共産党の指導部の選出方法について|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2023-02-11/2023021104_01_0.html|website=日本共産党|accessdate=2023-4-18|language=ja|}}</ref>で選出される。 # 2 - 3年に1回開かれる党大会で、全国から選出された代議員による選挙で中央委員会を選出する(全員が選挙で選ばれる)。 # 中央委員会は、1年に2回以上行われる中央委員会総会で議長(必ずしも置かなくても良く、現在は空席)、幹部会委員全員、幹部会委員長、幹部会副委員長若干名、書記局長の全てを選挙によって選出する。 このため、「党首」と言っても直接選挙制で選出される「党首」のように絶対的な権限が付与されることは無く、いわゆる「党首」にあたる幹部会委員長も、議論を経て合意を得た党大会決定、中央委員会決定、幹部会決定、常任幹部会決定に拘束される。幹部会委員長は党の決定、党員の総意から離れて、勝手な言動を行うことは許されない。 本部の住所は千駄ヶ谷であるが、最寄り駅が[[代々木駅]]のため、別名として「代々木」と呼ばれる場合もある。これは主に日本共産党(の現執行部)を日本の正統な共産党と認めない左翼が用いることもある。それは、1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)で[[武装闘争]]路線を「[[極左冒険主義]]」と批判して中止し、[[間接民主主義|議会制民主主義]]選挙の中で[[政権]]を合法的に奪取することを目指す政党になったことを、批判的にとらえる立場からの呼び名である。この武装闘争に関しても、党は「分裂した一方の側に誤った方針・行動がありました」と主張<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-08-06/2021080607_01_0.html 日本共産党創立99周年記念講演会 パンデミックと日本共産党の真価 志位和夫委員長の講演]『しんぶん赤旗』2021年8月6日付</ref>し、分派が行ったものとしている。この暴力革命路線の継続を支持する[[新左翼]]など、他の共産主義者から「代々木」という呼称は使用される場合が多い{{efn|「代々木」の使用例:「ある人々が、代々木なんぞに鼻汁もひっかけるもんか、鼻汁だけでもひっかけそうな連中にさえ鼻汁もひっかけるもんかといっているのを私は知っている」<ref>[[中野重治]]「緊急順不同」『[[新日本文学]]』1972年3月号、西沢舜一「続、変節者の党誹謗と文学的荒廃」『中野重治批判』共産党出版局、1974年、pp115より孫引き</ref>}}<ref>『日本共産党とは何であるか』自由国民社、p140-141、神山茂夫</ref>。同様に、数多く存在した[[日本共産党 (曖昧さ回避)|「日本共産党」を自称する他の党派]]と区別するため、特に「日本共産党([[代々木派]])」などと表記することもある。 党章は、一つに合わせられた、民主主義革命、民主統一戦線、国際統一戦線、日本共産党建設をそれぞれ表す4枚の[[赤旗]]の上に、農民と労働者を表す、[[稲穂]]を通した[[歯車]]<ref>{{WAP|pid=9283579|url=www.jcp.or.jp/publish/memory/index.html|title=党章・党旗・ノート|date=2015-04-28}}</ref>。 [[日本国]]の国政([[国会 (日本)|国会]])においては結党以来[[与党]]として[[政権]]に参加したことはないが、[[琉球政府]]では、事実上の日本共産党の琉球支部だった[[沖縄人民党]]は、米軍支配下ではあるが[[屋良朝苗]][[行政主席]]を支持する「与党」に参加していた。 == 歴史 == === 第二次世界大戦終結まで(非合法時代) === ==== 第一次共産党 ==== {{Main|第一次共産党 (日本)}} 1922年7月15日、[[堺利彦]]、[[山川均]]、[[近藤栄蔵]]ら8人が、極秘のうちに[[渋谷]]の[[高瀬清]]の間借り部屋に集まって日本共産党を設立(9月創立説もある)した<ref>宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1031頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref>。一般には「[[第一次共産党 (日本)|'''第一次日本共産党''']]」と称されている。設立時の幹部には[[野坂参三]]、[[徳田球一]]、[[佐野学]]、[[鍋山貞親]]、[[赤松克麿]]らがいる。[[コミンテルン]]で活動していた[[片山潜]]の援助も結成をうながした。 11月にはコミンテルンに加盟し、「'''コミンテルン日本支部 日本共産党'''」となった。この時、コミンテルンから「[[22年テーゼ]](日本共産党綱領草案)」が示されたが、日本での議論がまとまらず、結局草案のまま終わった。{{see also|コミンテルン#日本共産党とコミンテルンテーゼ}} 「綱領草案」は、[[政治]]面で、[[君主制廃止|君主制の廃止]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]の廃止、18歳以上のすべての男女の[[普通選挙]]権、[[集会の自由|団結]]、出版、集会、[[ストライキ]]の自由、当時の[[軍隊]]、[[日本の警察|警察]]、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]、[[秘密警察]]の廃止などを求めていた。[[経済]]面では、[[八時間労働制|8時間労働制]]の実施、[[失業保険]]を含む[[社会保障]]の充実、[[最低賃金|最低賃金制]]の実施、大土地所有の没収と[[小作]]地の耕作農民への引き渡し、[[累進課税|累進]][[所得税]]などによる税制の民主化を求めた。さらに、外国に対するあらゆる干渉の中止、[[中国]]、[[台湾]]、[[樺太]]、[[朝鮮]]からの[[日本軍]]の完全撤退を求めた{{sfn|共産党80年史|2003|pp=21&ndash;22}}。 日本共産党は「君主制(天皇制)の廃止」や「[[土地]]の農民への引きわたし」などを要求したため、創設当初から[[治安警察法]]などの治安立法により[[非合法]]活動という形を取って行動せざるを得なかった。他の[[資本主義]]諸国では既存の[[社会民主主義]]政党からの分離という形で共産党が結成され、非合法政党となったのとは違い、日本では逆に非合法政党である共産党から離脱した[[労農派]]などが、合法的な社会民主主義政党を産みだしていった。堺利彦らが解党を唱えた結果、1924年に共産党はいったん解散した。堺や山川らは労農派政党の結成を目指した。赤松など[[国家社会主義]]等に[[転向]]する者もいた。 その後、1925年には[[普通選挙法]]と[[治安維持法]]が、制定された。 ==== 第二次共産党 ==== {{Main|第二次共産党 (日本)}} 1926年、かつて解党に反対していた[[荒畑寒村]]が事後処理のために作った委員会([[ビューロー (日本共産党)|ビューロー]])の手で共産党は再結党された([[第二次共産党 (日本)|'''第二次日本共産党''']])。その際の理論的指導者は[[福本和夫]]であり、彼の理論は福本イズムと呼ばれた。福本イズムは、[[ウラジーミル・レーニン]]の『[[なにをなすべきか?]]』にのっとり、「結合の前の分離」を唱えて理論的に純粋な共産主義者の政党をつくりあげることを掲げた。福本和夫が政治部長、[[市川正一 (社会運動家)|市川正一]]、佐野学、徳田球一、[[渡辺政之輔]]らが幹部となった。1927年にコミンテルンの指導により福本和夫は失脚させられ、渡辺政之輔ら日本共産党の代表は、コミンテルンと協議して「日本問題にかんする決議」(27年テーゼ)をつくった。「27年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の緊切焦眉の義務と位置づけた。その一方で、社会民主主義との闘争を強調し、[[ファシズム]]と社会民主主義を同列に置く「[[ファシズム#1929年-1945年 ファシズムの国際的な高まりと第二次世界大戦|社会ファシズム]]」論を採用した。「27年テーゼ」が提起した日本の革命や資本主義の性格をめぐって労農派と論争が起こった。 {{main|日本民主革命論争|日本資本主義論争}} 当時の政党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、[[労働農民党|労農党]]や労働組合などの合法活動に顔を出し活動を支えた。共産党員であった[[野呂栄太郎]]らの『[[日本資本主義発達史講座]]』などの理論活動や、[[小林多喜二]]、[[宮本百合子]]らの[[プロレタリア文学]]は社会に多大な影響を与えた。 1927年の[[第16回衆議院議員総選挙]]では徳田球一、[[山本懸蔵]]を初めとする何人かの党員が労農党から立候補し、選挙戦のなかで「日本共産党」を名乗る印刷物を発行した。総選挙では労働農民党京都府連合会委員長の[[山本宣治]]が当選した。彼は非公式にではあるが共産党の推薦を受けており、初めての「日本共産党系の国会議員」が誕生した。しかし、1928年の[[三・一五事件]]で治安維持法により1,600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙され、1929年の[[四・一六事件]]と引き続く取り締まりで約1,000人が検挙されて、日本共産党は多くの活動家を失った。また同年、山本宣治は[[右翼]]団体構成員に刺殺された。 相次ぐ取り締まりで幹部を失うなかで[[田中清玄]]らが指導部に入った。田中らは革命近しと判断して、1929年半ばから1930年にかけて[[川崎武装メーデー事件]]、[[東京市電]][[労働争議|争議]]における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などの[[テロリズム|テロ事件]]を起こした([[武装共産党]]時代)。また1930年に[[水野成夫]]らが綱領の「君主制廃止」の撤回を主張して分派の[[日本共産党労働者派]]を結成したが、日本共産党は「解党派」と呼び除名した。 1931年4月、コミンテルンより「[[31年政治テーゼ草案]]」が出された。この草案は当面する日本革命の課題を[[共産主義革命|社会主義革命]]としていた。 このころには、戦争反対の活動に力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。1931年9月に発生した[[満州事変]]に際しては「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とする声明を出した。1932年には軍艦や兵営の中にも政党組織をつくり、「兵士の友」や「聳ゆるマスト」などの陸海軍兵士にむけたパンフレットを発行した。 1932年5月、コミンテルンにて「[[32年テーゼ]]」が決定され、戦前における活動方針が決定された。このテーゼは日本の支配構造を、[[絶対君主制|絶対主義的天皇制]]を主柱とし、[[寄生地主制|地主的土地所有]]と[[独占資本主義]]という3つの要素の結合と規定した。[[ブルジョア民主主義]]革命を通じて社会主義革命に至るとする[[二段階革命論]]の革命路線を確立した。民主主義革命の主要任務を、天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現と規定し、中心的[[スローガン]]を「[[帝国主義]][[戦争]]および警察的天皇制反対の、米と土地と自由のため、労働者農民の政府のための人民革命」とした。 同月、全協の活動家であった松原がスパイとして[[私刑|リンチ]]され、赤旗に除名公告が掲載された。8月15日には[[朝鮮人]]活動家の[[尹基協]]がスパイ容疑で射殺された。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。[[立花隆]]は、「スパイM」([[飯塚盈延]])を通じて日本共産党の中枢を掌握した当局が、全協をもコントロール下に置こうとして仕組んだ事件と推測している{{sfn|立花隆|1983b|p=283}}。この頃から党内でのスパイ狩りが始まり出した。 10月に熱海で全国代表者会議が極秘裏に招集されたが、当局により参加者らが逮捕された([[熱海事件]])。同月、[[赤色ギャング事件]]が発生している。[[松本清張]]は『[[昭和史発掘]]』の中で、これら共産党へのマイナスイメージとなる事件は当局が潜入させた「スパイM」が主導したとしている。日本共産党も同じ見解であり、[[特別高等警察|特高警察]]が、共産党を壊滅させるための戦略として、共産党内に協力者をつくり出して工作を行わせたとしている。警察の工作員や協力者が共産党の幹部になり、彼らの働きで暴力事件を起こさせ、日本共産党の社会的信用を失墜させることにより、後継の加入を阻止する壊滅作戦を図ったとされている。実際にスパイであったことを公判で自白して、治安維持法違反の容疑を否定した者もいた{{sfn|立花隆|1983b|p=224|loc=大泉の主張の力点は、自分はスパイとして政治活動をしたのだから、治安維持法違反に問われるべきではないというところにあった。}}。 さらに1933年6月12日、委員長であった佐野学、幹部の鍋山貞親が獄中から転向声明を出した([[共同被告同志に告ぐる書]])。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。書記長であった田中清玄の転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられ、党内の疑心暗鬼は深まり、結束は大いに乱れた。1934年には宮内勇ら多くの党員が袴田ら中央を批判して分派の「[[多数派 (日本共産党)|多数派]]」を結成したが、コミンテルンの批判を受けて1935年に解散した。1935年3月に獄外で活動していたただひとりの中央委員であった[[袴田里見]]の検挙によって中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。 1936年の[[フランス]]や[[スペイン]]で「[[人民戦線]]」と呼ばれる[[統一戦線]]政府が成立し、コミンテルン第7回大会(1935年)が人民戦線戦術を決議すると、野坂参三らは「日本の共産主義者へのてがみ」を発表して日本における人民戦線運動を呼び掛けたが、政党組織は壊滅しており現実の運動とはならなかった。 [[日中戦争]]に際しては、戦争反対とともに、出征[[兵士]]の家族の生活保障や[[国防献金]]徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。 その後も、関西圏には同党の再建をめざす運動や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも当局によって取り締まられた{{sfn|共産党70年史|1994|loc=1936年1月に関西地方委員会の検挙、11月に名古屋での検挙、1937年12月にコミンテルンの指示で日本に入国して活動していた小林陽之助の検挙、1940年5月に[[山代吉宗]](作家[[山代巴]]の夫)や戦後国会議員になった[[春日正一]]らの検挙が記録されている。}}。1937年12月から1938年にかけて労農派に治安維持法が適用され、930人が検挙された([[人民戦線事件]])。また、国外に亡命していた野坂は、[[延安市|延安]]で日本軍捕虜の教育活動([[日本人民解放連盟]])をして、戦後の運動再建に備えていた。また宮本顕治は、裁判の中で日本において日本共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと主張するなど、法廷や裁判で獄中闘争を続けていた。 === 第二次世界大戦終結後(合法化以降) === ==== 日本の敗戦と合法化 ==== [[ファイル:Release of Communist.JPG|thumb|240px|釈放された党幹部]] [[第二次世界大戦]]が1945年8月15日に[[日本の降伏]]で終結した後、10月4日の治安維持法撤廃と政治犯釈放を要求する[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]指令により約220名の共産党員が出獄し、[[徳田球一]]、[[宮本顕治]]、[[袴田里見]]、黒木重徳、[[志賀義雄]]らは合法政党として日本共産党を再建(書記長・徳田球一)、機関紙「赤旗」を再刊、本部は千駄ヶ谷の溶接学校跡地に置いた。なお戦前の共産党(第二次共産党)との断絶を重視する立場(加藤哲郎など)からは、これ以降の共産党を「戦後共産党」(第三次共産党)とも称する。戦争に反対した共産党員の出獄は国民に歓迎された{{sfn|福冨健一|2019|pp=81&ndash;89}}。 1946年1月に[[野坂参三]]が[[中華民国]]から帰国、2月の第五回党大会では党員6847人、「アカハタ」は25~26万部を超えたと発表、採択した行動綱領では、連合国軍を「解放の軍隊」とし('''解放軍規定''')、大会宣言で「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョワ民主主義革命を、平和的に、かつ民主的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした('''[[平和革命]]論'''){{sfn|福冨健一|2019|pp=81&ndash;89}}。1946年4月の[[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]]では5議席を獲得し、初めて[[帝国議会]]に議席を得た。 1946年6月に独自の憲法草案として「[[日本人民共和国憲法草案]]」を発表、各党憲法草案の中では唯一人民主権([[国民主権]])を明記した。[[日本国憲法]]制定時の採決では、天皇制の存続による[[民主化]]の不徹底や、[[自衛権]]放棄による民族独立への危惧などを理由に反対した。 {{main|#憲法}} 連合軍に解放された共産党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、[[日本の学生運動|学生運動]]や[[労働運動]]を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「[[吉田内閣]]打倒」を掲げる[[二・一ゼネスト]]と呼ばれる大規模な[[ゼネラル・ストライキ]]が計画されていたが、前日の[[ダグラス・マッカーサー]]の中止命令を受け、全官公庁共同闘争委員会議長の[[伊井弥四郎]]が同日夜、ゼネラル・ストライキ中止指令を[[ラジオ]]放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。 日本国憲法施行により実施された一連の選挙、[[第23回衆議院議員総選挙]]・[[第1回参議院議員通常選挙]]・第1回[[統一地方選挙]]では、天皇制廃止や食糧・炭鉱の人民管理などを主張する共産党は急進的過ぎると見られ、党の思惑通りの議席数は得られなかったが{{efn|総選挙では466議席中で1議席減の4議席、統一地方選挙では[[日本の地方議会|都道府県議会]]で合計793議席中の3議席のみ([[東京都議会|東京都議]]・[[長野県議会|長野県議]]・[[三重県議会|三重県議]]が各1人)。どちらの選挙でも120-150議席台を確保した社会・自由・進歩の三大政党には大きく水を開けられていた。なお、衆議院の選挙制度は共産党の勢力拡大を抑えるという目的も込められて、第22回総選挙でのみ実施された大選挙区[[連記制|制限連記制]]から帝国議会と同じ[[中選挙区制]]へ戻されていた。}}、統一地方選挙では[[青森県]][[新城 (青森市)|新城村]](現・[[青森市]]新城地区)を初め、全国11の自治体で共産党員首長が誕生した。 その後も、国民の生活困窮を背景に、活発な大衆運動を続けた事で党勢を拡大し、[[片山哲|片山]]・[[芦田均|芦田]]両政権の迷走で、社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]では、従来の約9倍にあたる35議席を獲得した。特に東京都区内の7の選挙区全てで当選者を出すなど、大都市圏やその周辺だけでなく、農民運動の盛んだった[[鳥取県全県区|鳥取全県区]]や[[山梨県全県区|山梨全県区]]など、ほかにも新潟県や石川県など、東北・四国地方以外の全地域で当選者を出した。 ==== 1950年問題(分裂、武装闘争路線) ==== [[ファイル:Japanese Communist Party Headquarters in 1950.jpg|thumb|right|280px|1950年当時の日本共産党本部]] ===== 平和革命論批判と分裂 ===== アメリカによる日本占領が続く中、[[1948年]]の[[朝鮮半島]]で[[分断国家]]である[[大韓民国]](韓国)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)の成立、[[1949年]]の中華民国での[[国共内戦]]に勝利した、[[中国共産党]]による[[中華人民共和国]]の成立で、[[東アジア]]の緊張が高まった。{{see|逆コース}} 1950年1月6日、[[ヨシフ・スターリン]]が指導する[[コミンフォルム]]は、機関紙『[[恒久平和のために人民民主主義のために!]]』に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論([[平和革命|平和革命論]])を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(後に'''[[所感派]]'''と呼ばれた)。 しかし中国共産党も[[人民日報]]で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らは[[毛沢東]]やスターリンによる国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(後に'''[[国際派 (日本共産党)|国際派]]'''と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している<ref name="78koen">[http://www.jcp.or.jp/jcp/78th_koen/fuwa_78th_honbun.html 日本共産党創立78周年記念講演会 - 日本共産党の歴史と綱領を語る - 幹部会委員長 不破哲三 (2000年7月20日)]</ref>)。また1950年2月には[[徳田要請問題]]が発生し、[[徳田球一]]が[[国会 (日本)|国会]]に[[証人喚問]]される事態になった。 1950年5月には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして、日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に共産党と占領軍の間で、大規模な衝突である[[人民広場事件]]が発生し、6月にはマッカーサーは日本共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止([[レッドパージ]])を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、[[志田重男]]、[[伊藤律]]、長谷川浩、[[紺野与次郎]]、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し[[団体等規正令]]に基づく出頭命令を拒否した[[団規令事件]]で逮捕状が出て、9人の共産党幹部は地下に潜行した。 公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、[[中華人民共和国|中国]]に[[亡命]]して「[[北京機関]]」と呼ばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している{{efn|「(マッカーサーの)弾圧にたいして、徳田らは、政治局会議や中央委員会もひらかず、この弾圧を、分派による党支配の計画を実現する絶好の機会としました。六月七日、徳田らは、勝手に党中央委員会の解体を宣言し、統制委員会の指名という党規約にもない形式で、椎野悦朗を議長とする八人の臨時中央指導部(臨中)を指名しました。実際には、統制委員会はひらかれず、徳田らの「臨中」指名は、マッカーサーの弾圧を口実とした、一種の「クーデター的な手法」による党中央の解体でした。徳田や野坂らは、意見の異なった宮本顕治、志賀義雄、蔵原惟人ら七人の中央委員を排除して、連絡をたち、非公然の体制にはいりました。」{{sfn|共産党80年史|2003|pp=106&ndash;107}}}}。)1950年6月25日には[[朝鮮戦争]]が勃発した。 コミンフォルム論評への対応に加え、レッドパージによる取り締まりもあり、日本共産党は、主流派である徳田球一らの所感派と、宮本顕治ら国際派、[[春日庄次郎]]、野田弥三郎ら[[日本共産党国際主義者団|国際主義者団]]、福本和夫ら統一協議会、[[中西功]]ら団結派など大小数派に分裂した。 ===== 所感派の非合法活動 ===== {{main|51年綱領|中核自衛隊|山村工作隊}} 1951年2月、主流派(所感派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」は[[アメリカ帝国]]主義による[[アジア]]での[[侵略戦争]]を批判し、その暴力的支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた{{sfn|福冨健一|2019|pp=90&ndash;101}}。 1951年4月、統一地方選挙では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ、同党の強さを発揮した{{sfn|福冨健一|2019|pp=90&ndash;101}}。 1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した{{sfn|福冨健一|2019|pp=90&ndash;101}}。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している)。 1951年9月、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]と[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約]]が調印された(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した)。 1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で[[51年綱領]](武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した{{sfn|福冨健一|2019|pp=90&ndash;101}}。この武装方針に沿って、[[練馬事件]]、[[白鳥事件]]など様々なテロ活動が行われた。また[[血のメーデー事件]]、火炎瓶事件など多くのテロ・騒乱事件が発生した{{sfn|福冨健一|2019|pp=90&ndash;101}}。 しかし、これらの[[武装闘争]]路線は国民の支持を全く得られず、1952年の[[第25回衆議院議員総選挙]]、さらには1953年の[[第3回参議院議員通常選挙]]で公認候補者が全員落選、国会議員が参議院の[[須藤五郎|1人]]だけになるという最悪の結果につながる。また、武装闘争方針により[[第3次吉田内閣 (第3次改造)|吉田政権]]は治安立法を強化、1952年には[[破壊活動防止法]](破防法)が制定された。破防法における暴力主義的団体の規制に関する調査を行う[[公安調査庁]]は、発足当初から一貫して、日本共産党を調査・監視対象に指定している。 ===== 武装闘争路線の放棄と「再統一」 ===== 1951年9月に日本はサンフランシスコ講和条約を締結。1952年4月に条約が発効され、日本は主権を回復した。これにより、公職追放は解除された。所感派中心の北京機関は、地下放送の[[自由日本放送]]で武装闘争を指示したが、内部でも徳田球一と野坂参三の対立が発生した。1953年に徳田球一が北京市内で死亡した(日本での徳田の死亡の公表は2年後の1955年)。また朝鮮戦争が1953年に休戦した。 1955年7月、日本共産党は[[日本共産党第6回全国協議会|第6回全国協議会]](六全協)を開き、従来の中国革命方式の'''武装闘争路線の放棄'''を決議した。またこの大会で[[志賀義雄]]、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握った。宮本らは再統一を優先して個々の党員がどういう機関のもとに活動していたのかは不問とする方針を示し、旧所感派の野坂参三を[[第一書記]]として「'''再統一'''」を宣言した。 更に1958年の[[日本共産党第7回大会|第7回党大会]]では宮本顕治が書記長(後に委員長)となり、この第7回党大会と1961年の第8回党大会で、1950年から1955年までの分裂と混乱を「'''五〇年問題'''」(50年問題)や「五〇年分裂」(50年分裂)と呼び、その「軍事路線」は中国・ソ連といった大国による干渉と「徳田、野坂分派」の「政治的クーデター」による、暴力革命が可能という政治情勢が無いにもかかわらず武装闘争を行った[[極左冒険主義]]であると規定して批判した。これらは以後、外国からの干渉は受けない'''[[自主独立路線]]'''の始まりとなった。 以後の日本共産党執行部は、この「五〇年問題」の期間に行われた五全協や、そこでの「軍事方針」である「[[51年綱領]]」の採択、六全協での「再統一」宣言、「北京機関」からの指示、それらに従って行われた武装闘争などは全て、徳田・野坂分派が中央を無視して勝手に行ったもので、無効であり、従って「日本共産党の大会とも中央委員会とも何の関係なく、日本共産党の正規の機関が、武装闘争や暴力革命などの方針を決めたことは、一度もない」と主張している<ref name="78koen"/>。 この日本共産党の武装闘争路線と、突然の路線変更は各方面に大きな影響を与えた。党の方針と信じて武装闘争に参加していた党員は、党とは無関係に勝手に違法行為を行った形になり、一部は「党中央に裏切られた」と不信感を持ち、後に日本共産党への「[[スターリニズム|スターリン主義]]」批判や[[日本の新左翼]]運動にもつながった<ref>「戦後50年 その時日本は」(NHK出版、1995年)</ref><ref>「資料戦後学生運動」(三一書房、1970年)p7</ref><ref>[https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_0201.htm 1.過激派の誕生 - 警察庁]</ref>。また、以前の「平和革命」の支持者や、マルクス・レーニン主義の[[暴力革命]]の原則を支持する一部の知識人や共産主義者、武装闘争に批判的な大多数の国民のそれぞれから、不信感や警戒心を持たれた。 [[公安調査庁]]と[[公安警察]]は、日本共産党は「[[敵の出方論]]」に立った暴力革命の方針を実際には放棄していないと見続けており<ref>[https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_01.htm 暴力革命の方針を堅持する日本共産党 - 警察庁]</ref>、1986年には[[日本共産党幹部宅盗聴事件]]が発覚した。これに対して日本共産党は「敵の出方論」は歪曲で<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-24/2016032401_03_0.html 政府の「暴力革命」答弁書は悪質なデマ]</ref>、不法行為による[[スパイ]]行為を批判している。 また[[警察庁]]の『[[警察白書]]』では、現在も日本共産党を「調査対象団体」とし、数ページを割いて動静を記述しているが、これは国会に議席を持つ政党に対しては唯一の扱いである。[[警察学校]]の「初任科教養」でも、日本共産党の綱領や決定について、批判的な講義がされている。 一方、破防法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、政党組織や[[日本国民救援会]]の[[人権]]団体を通じて抗議活動が行なわれている。日本共産党が武装路線を放棄した後も1960年代半ばまで、朝日新聞などの全国紙では、政党担当記者が共産党を取材して記事を書くのではなく、警察担当記者が公安情報を元に[[記事]]を書くという状況が続いた。これによりマスメディアに対し、日本共産党は「新聞は権力の手先」と反発していた<ref>岩垂弘 [http://www.econfn.com/iwadare/page153.html もの書きを目指す人びとへ ――わが体験的マスコミ論―― 第2部 社会部記者の現場から 第49回 民主団体担当となる]</ref>。 ==== 合法活動路線と「自主独立路線」以降 ==== ===== 1955年以降の宮本、不破体制 ===== 1955年頃から[[宮本顕治]]が事実上の指導者になり(比喩的に[[55年体制]]とも呼ばれる)、1960年代半ばには指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、[[不破哲三]]に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」を打ち出した。1958年の第7回党大会以降は、不破哲三や[[上田耕一郎]]などの「改革派」が中央の要職に就任した。 合法活動路線への転換や1956年の[[スターリン批判]]を経て、元党員のトロツキー主義者らは[[日本トロッキスト聯盟]](後の[[革命的共産主義者同盟 (日本)|革命的共産主義者同盟]])を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは[[共産主義者同盟]]を結成した。1960年の[[安保闘争]]では過激な運動を主張する全学連指導部を一時簒奪した勢力が日本共産党を主要な打倒対象として激しく対立。共産党は彼らをまとめて「'''トロツキスト'''」と非難したが、必ずしも批判された側すべてが「[[トロツキズム]]」を主張していたわけではない。 ===== 1960年代の党勢拡大 ===== 合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]からは、原則として全[[選挙区]]に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続けた。 この頃から日本共産党は「[[自主独立路線]]」を掲げ、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら([[#国際共産主義運動の分裂]]を参照)、同党は1960年代半ばごろに「自主独立」路線を確立し、むしろ[[1950年|50年]]以来傷ついた威信と党勢を[[1970年代|70年代]]前半にかけて長期的に回復、拡大していった。1967年に[[長野県]][[塩尻市]]で初の党員市長([[高砂政郎]])が、誕生した。 1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、[[山田六左衛門]]ら[[構造改革]]派が離脱し、その中の一派[[共産主義労働者党]]を結成。春日らは、宮本の専横的な党運営を批判し、「一時離党」するとして「日本共産党万歳!」と声明したが、党は離党届を受け付けず除名処分とした。 ===== 1970年代の躍進と共産党排除の進展 ===== 1970年7月の第11回大会で、[[革新統一]]戦線によって1970年代の遅くない時期に民主連合政府を作るとの政権構想を打ち出し{{sfn|筆坂秀世|2006|p=145}}。1972年の[[第33回衆議院議員総選挙]]では38名の候補者が当選し、'''議会第三党'''、野党第二党に躍進する。また、同年には[[田代文久]]が特別委員会の石炭対策委員会委員長に選出され、共産党議員として初の国会委員長が、誕生した。 一方、党内では、1972年には中央委員で青年学生対策部長であった[[広谷俊二]]と日本民主青年同盟(民青同盟)幹部であった[[川上徹]]を中心とした分派が結成され、その摘発といういわゆる「[[新日和見主義事件]]」が発生した。{{see|新日和見主義事件}} 1973年の[[1973年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]では当選者数が日本社会党を上回り{{efn|都議会では自民党、公明党に続く第三党。当時の[[美濃部亮吉]][[革新自治体|革新都政]]を与党として支えた両党の議会内勢力が逆転した事は、都政の主導権争いで共産党が優勢に立った事を示していた。}}、1975年の統一地方選挙では大阪府知事選挙で[[黒田了一]]を共産党の単独推薦で再選させた{{efn|1971年の初当選時には共同推薦した社会党が、別の候補([[竹内正己]])を公明党や民社党と共に推薦した。}}。 1973年11月、第12回党大会で綱領を一部改定し、「ソ連を中心とする社会主義陣営」から「ソ連を中心とする」を削除し、「[[労働者階級]]の権力、すなわち[[プロレタリア独裁|プロレタリアート独裁]]の確立」の後半を「プロレタリアート執権の確立」に変更した{{sfn|筆坂秀世|2006|pp=145&ndash;148}}。更に1976年7月、第13回臨時党大会で綱領から「プロレタリアート執権の確立」自体を削除して「労働者階級の権力」のみとし、また綱領と規約の「[[マルクス・レーニン主義]]」を「'''[[マルクス主義|科学的社会主義]]'''」に変更した{{sfn|筆坂秀世|2006|pp=145&ndash;148}}。また「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」では、民主連合政府では憲法9条を「あくまで厳守する」として「竹やり論」とも言われたが、同時に党としては「将来は、独立、中立の日本をまもるための最小限の自衛措置をとるべき」とした{{sfn|筆坂秀世|2006|pp=171-172}}。 1974年、[[公明党]]の支持母体である[[創価学会]]と、[[松本清張]]の仲介で、[[池田大作]]と宮本顕治で相互不可侵、共存を約した協定を10年間の約束で結んだ('''[[日本共産党と創価学会との合意についての協定|創共協定]]'''または共創協定)。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、[[山崎正友]]による[[宮本顕治宅盗聴事件]]が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。その後、1980年6月、顧問弁護士・山崎正友が『[[週刊新潮]]』(平成5年10月21日号)で自らの犯行を告白。[[東京地方裁判所]]は2009年1月28日の判決で、山崎が共産党委員長宮本顕治邸盗聴事件を独断で行ったことを認定した。 1975年、『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』で立花隆の「[[日本共産党の研究]]」が連載開始され、1976年、この連載に「[[日本共産党査問リンチ事件]]」の裁判記録が掲載された。当時委員長であった宮本顕治と、副委員長であった袴田里見が被告となった裁判の記事は大きな反響となり、国会でも取り上げられた。1976年の[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]では共産党の議席は17議席にまで落ち込んだ。 1976年に「'''[[自由と民主主義の宣言]]'''」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。これは、当時[[イタリア共産党]]など[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国の共産党が採択していた[[ユーロ・コミュニズム]]路線に倣ったものであり、「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的、日本的な共産主義)と呼ばれた。また1977年、袴田里見が除名された。一方で、1970年代後半からは一部の党員研究者による{{仮リンク|ネオ・マルクス主義|en|Neo-Marxism}}的な思潮も現れ、中央との軋轢がはじまる。 1979年の[[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]]では、最高の39議席を得た。1979年10月に[[林百郎]]が衆議院懲罰委員長に選出され、共産党議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や[[産経新聞]]を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンや、[[サンケイ新聞事件]]などの強烈な[[ネガティブ・キャンペーン]]の影響で落ち込む。この当時、『[[小説吉田学校]]』を執筆した[[戸川猪佐武]]が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。 共産党と社会党は、日本政治の中では[[革新]]に属し、中道の公明党、[[民社党]]を挟んで[[保守]]の自民党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、'''[[社共共闘]]'''、あるいは全[[野党]]共闘により政権交代を実現するというのが当初の社共の方針であった。 共産党は民主連合政府で、社会党との連立を前提としていたが、社会党内には社共共闘より'''[[社公民路線]]'''を重視すべきだという意見が有力となった。民公、特に[[反共主義]]的な民社の側(主に[[春日一幸]])からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が[[社会党左派]]に追われる形で独立した[[社会民主連合]]であった<ref>[[安東仁兵衛]] 「[http://www.eda-jp.com/books/usdp/3-5-3.html 日本における新しい社会民主主義を創造しよう]」</ref>。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。 1979年4月、東京都知事選挙で[[革新統一]]候補の元総評議長・[[太田薫]]が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈[[社公合意]]〉を締結したこと)による中道化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員、支持者が、共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の[[国会対策委員会|国会対策委員長]]による会談」([[国対政治]])が常態化して'''共産党の排除'''が進んだ。 ===== 1980年代の「革新懇」と「非核の政府」 ===== {{main|平和・民主・革新の日本をめざす全国の会}} 1980年1月、公明党と社会党が、日本共産党排除を前提とした政権構想に合意した結果('''[[社公合意]]''')、社会党との連立を前提にしていた民主連合政府構想は実現性が遠のいた{{sfn|筆坂秀世|2006|p=148}}。このため1981年、平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会('''全国革新懇''')を結成し、「[[軍事費]]を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」模索ではなく、「思想、信条、支持[[政党]]、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、[[無党派]]との連携による新たな革新戦線を全国的に追求するとした。 しかしこれは、共産党と社会党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見る見解もあり、[[亀田得治]](元参議院議員)、成瀬昇(元愛知県評議長)、[[西岡瑠璃子]](元参議院議員、[[歌人]])、栗原透(元社会党高知県委員長・高知県議)、[[矢山有作]](元衆議院議員)ら元社会党員も多く参加しているにもかかわらず、具体的な選挙協力としては[[愛知県]]、[[高知県]]などを除き余り大きな成果は得られていない。 革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、[[学区]]などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され活動しているが、実態は政党が名前を変えただけの組織である場合が多く、幅広い結集となっているとは言い難い。 なお、共産党が国政選挙で、他党や無所属の候補を推薦・支持・支援した例としては、[[田中美智子]]、[[安田純治]]、陶山圭之輔、[[喜屋武眞榮]]、西岡瑠璃子、[[川田悦子]](以上[[無所属]])、[[島袋宗康]]、仲本安一、[[糸数慶子]](以上[[沖縄社会大衆党]])らがおり、そのうち田中、安田は当選後、衆院[[院内会派|会派]]「日本共産党、革新共同」に入っている。 1980年代、日本共産党は「民主連合政府」のスローガンを事実上棚上げし、「'''[[非核の政府]]'''」という路線に切り替え、全国の[[地方公共団体]]で「[[非核平和都市宣言]]」[[条例]]の制定運動を行なった。これは、当時ソ連共産党が全世界的に展開していた「[[反核運動]]」と一定程度呼応するものであり、日本共産党とソ連共産党の一定の接近を意味した。だが、「非核の政府」には日本社会党が反対し、国政においては広がりを欠いた。 1989年1月1日の『しんぶん赤旗』の宮本顕治議長のインタビューを機に、党は事実上社会主義革命を棚上げし、二段階革命論に基づいて「資本主義のもとでの民主的改革」を強調するようになった。しかし、この年日本共産党は国際的な激震に相次いで見舞われていた。6月4日、中国では[[天安門事件]]が発生し、民主化を求める人々が[[中国人民解放軍|人民解放軍]]によって弾圧され、多くの死者が出た。日本共産党は中央委員会声明「社会主義的民主主義をふみにじる中国党・政府指導部の暴挙を糾弾する」を発表し、厳しく批判した。東欧諸国では、6月18日のポーランド議会選挙が端緒となって、次々と[[東欧革命|共産党の独裁体制が倒れていく]]。12月3日には、マルタ島で行われた米ソ首脳会談で冷戦の終結が宣言された。日本共産党は1989年に入る直前からソ連の[[新思考外交]]への批判を強め、平和や環境など全人類的価値を強調することは階級闘争を軽視・否定し、帝国主義に妥協するものであり、共産主義の原則的立場からの逸脱であると論じていた。かつて、原水禁運動で社会党や総評の「いかなる国の核実験にも反対」に反対したのと同じ理屈であった。 このように日本共産党は共産主義を放棄せず、むしろそれからの逸脱を批判した。そして、自主独立路線をはじめ宮本路線の正しさを訴えることで、1989年の国際的な激震を乗り切ろうとした。 ===== 1990年代のソ連崩壊の影響 ===== {{see also|ソビエト連邦の崩壊}} 1990年7月の第19回党大会では、[[社会主義]]はまだ生成期のために、大国主義・[[覇権主義]]や[[官僚主義]]の問題があるとした(社会主義「'''生成期'''」論)<ref>{{Wayback|url=http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/congress2/19th/decision19th.htm|title=第19回党大会決議|date=20131202231210}}</ref>。[[ソ連8月クーデター|1991年8月のクーデター]]後に発表されたソ連共産党の解体には、「'''もろ手を上げて歓迎する'''」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。その発言の翌日に、常任幹部会は「大国主義、覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」との声明を発表した。 その一方、ソ連、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。また1980年代には中国共産党に反論する形で、「社会主義完全変質論」を否定して「社会主義の復元力」を主張していたこと、1984年に[[宮本・チェルネンコ共同宣言]]を発表したこととも矛盾していた。 ほぼ時を同じくして、政権与党や社会党(現在の[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]])を含む他の野党、[[マスメディア|マスコミ]]などにより「'''体制選択論'''」「[[冷戦]]終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、政党・労組・団体の解散と政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。 また、[[核兵器]]問題など外交問題を初めとする諸問題で、ソ連や[[ルーマニア]]の指導者と共同声明を出したこともあった。特に自主独立路線で共闘していた[[ルーマニア共産党]]との関係は主要な焦点となった。「宮本顕治同志と[[ニコラエ・チャウシェスク]]同志の共同宣言」は、党内外から厳しい批判にさらされることとなった。1994年の第20回党大会では、ソ連は問題もあるが、社会主義社会であるとしていた従来の「生成期」論を修正して、「スターリン以後のソ連社会は、経済的土台も社会主義とは無縁」{{sfn|筆坂秀世|2006|p=186}}で、「[[社会帝国主義]]的」<ref>{{Wayback|url=http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/congress2/20th/decision20th.htm|title=第20回党大会決議|date=20130312214255}}</ref>とした。日本共産党は、『80年代半ばまではソ連の指導者を「同志」と呼んだり、「レーニンに次ぐ平和の戦士」とたたえたりしていた』と読売新聞は報じている<ref>『読売新聞』2007年7月19日付朝刊、社説</ref>。 1970年代後半から生じていた、ネオ・マルクス主義の思潮と中央との理論軋轢は、1990年代前半には丸山眞男批判の動きも加わって、ネオ・マルクス主義の立場にある一部党員学者の除籍や離党へと帰結した。当時、[[法政大学]]教授であった[[高橋彦博]]([[政治学]])は1993年の『左翼知識人の理論責任』の出版を契機に除籍された。1994年には[[田口富久治]]([[名古屋大学]]教授、政治学)が同年の党大会における[[丸山眞男]]批判(大会決議にも含まれる)を、きっかけとして、離党している。 1993年の[[第40回衆議院議員総選挙|第40回衆院選]]では、三大保守新党([[日本新党]]、[[新生党]]、[[新党さきがけ]])が大勝した。この結果、日本新党の[[細川護熙]]を首班とする[[非自民・非共産連立政権|非自民・非共産の連立政権]]が発足。共産党は9月8日から中央委員会総会を開き、[[小選挙区]]制の導入を掲げる[[細川内閣|細川政権]]を「自民党以上に反動的」と批判し、社会党についても「右転落」の末に元自民党幹事長の小沢が主導する「第二自民党政権の与党になった」と攻撃する決議を採択した。そして、署名運動など小選挙区制の導入阻止に向けて活動を続けた。「[[政治改革四法]]」は参議院で社会党から造反者が出たことで否決された。しかし、細川首相と自民党の[[河野洋平]]総裁のトップ会談の結果、合意がまとまり最終的に1994年3月4日に成立、小選挙区制が導入された。 小選挙区は中小政党に不利に働くため、共産党単独候補の当選は極めて困難なため、苦境に立たされることも予想されたが、1990年代後半にはおいては社会党からの離反層を取り込み、また集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用し、一時的に党勢が回復した。1996年の[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]では小選挙区で2議席([[京都府第3区|京都3区]]の[[寺前巌]]と[[高知県第1区|高知1区]]の[[山原健二郎]])を獲得するなど26議席を獲得。1998年の[[第18回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]では15議席を獲得し、非改選議員と併せて政府予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。 しかしその後は、小選挙区制の定着による'''[[二大政党制]]'''指向の強まりや、総議員定数の削減、日本周辺の国際情勢も相まって、国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少した。 1997年の第21回党大会で、無党派と連携して21世紀の早い時期に、民主連合政府を実現するとした{{sfn|筆坂秀世|2006|pp=143&ndash;152}}。 ===== 2000年代の不破・志位体制と国政における小政党化 ===== 2000年の第22回党大会第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「[[前衛党]]」規定を削除する規約改定案が提案され採択された。また自衛隊解消前の「過渡期な時期」に必要に迫られた場合には「存在している自衛隊を国民の安全のために活用する」とした('''自衛隊活用論'''){{sfn|筆坂秀世|2006|pp=173&ndash;177}}。また、同年不破哲三に代わり[[志位和夫]]が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この'''不破・志位体制'''の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された[[日本共産党第24回大会|第24回党大会]]で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」('''志位・市田体制''')が確立した。 共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れになり、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の[[供託金]]没収選挙区も大幅に増え、党財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・[[新進党]]に代わり民主党が野党第一党となった。 2005年の[[第44回衆議院議員総選挙]]では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25の選挙区で「[[共産空白区]]」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300の選挙区に候補者を立て235の選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。 2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、社民党や民主党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている{{efn|共産党は公明党ほどではないが、浮動票の影響を受けにくいため、投票率が下がるほど得票率は上がると言われている。ただし無党派層に限定すれば3割程度得票しているため一概には言えない。例えば、1996年 - 1998年の躍進は、[[左翼|左派]]系の浮動票の受け皿になったものとの指摘もある。なお、元党地方役員の宮地健一によれば、共産党は『しんぶん赤旗』日曜版発行部数の2倍を基礎票として計算しているという。「[http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/tousei.htm#hngoukei 2)、HN合計数増減とHN比率]」。'''H'''は日刊紙(本紙(Honshi)の頭文字)、'''N'''は日曜版(Nichiyo-ban)を意味する。}}。 国政選挙で単独での小選挙区当選は困難だが、民主党はもとより、護憲という立場で政策的距離が近い社民党との選挙協力の目処も立っていない{{efn|ただし、憲法問題などの個別の分野では、他党との協力・連携が行われている場合もある。また、地方選挙については市町村長選や地方議員選挙で現在も1人区での当選があり、高知県やかつての長野県など、無所属候補と連携しながらも政党としては単独与党の地域もある。首長選による公認候補の当選は、兵庫県[[南光町]]で町長となった[[山田兼三]]の例がある。}}。その一方、市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では公明党、自民党に次いで第三党の位置を保っている。また他党との連携については東京都[[多摩地域|多摩地区]]や青森県、[[沖縄県]]などで一定の共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との連携を強化することになった。 2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることがあるとされる。 2008年9月、[[麻生内閣|麻生政権]]の発足に伴い、総選挙への総決起体制として第7回中央委員会総会を開いた。席上で志位は、「[[ワーキングプア|働く貧困層]]」の解消など、自党の語ってきた問題が争点になっていること、[[自公連立政権|自公政権]]が行き詰まっていること、しかし民主党は自民党の政治悪をただす立場にはないから、共産党の躍進が必要であることなどを述べた。また、「民主連合政府」が求められていることを強調したが、現時点で他党との協力はないという認識は変わっていない。ただし、国会では是々非々で「問題ごとに協力していく」としている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-27/2008092701_01_0.html 2008年9月27日(土)「しんぶん赤旗」 日本共産党が第7回中央委員会総会 「国民が主人公」の民主的政権へ大きな一歩踏み出す選挙に]</ref>。また、総選挙体制のため中央委員会は、2009年1月に予定していた党大会の延期を決定した。 2009年8月30日投開票の[[第45回衆議院議員総選挙]]では小選挙区の候補を大幅に減らした。これは野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-05/2008010501_01_0.html 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-01-07/2008010704_01_0.html 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)]</ref>。代わりに、比例区との[[重複立候補制度|重複立候補]]を増やしたので、比例での候補者数は増えた{{efn|第44回総選挙までは、共産党は他党が用いている、同一ブロックの重複立候補者の比例順位を同一にして、[[惜敗率]]を競わせる戦術を採用していなかった。第45回総選挙では、東京以外のブロックでは一部同一順位を採用した。}}。また、[[大連立構想 (日本 2007)|大連立]]騒動や小沢・鳩山の献金問題などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定してきた。さらに、2009年6月5日には、志位は「どちらが政権の担い手になるかの選択ではなく、21世紀の日本の「進むべき道」の選択が問われていること、その「旗印」を示せる党は日本共産党をおいてほかになく」「「二大政党」の競い合いによる暗黒政治への逆行を許さない一番たしかな力は日本共産党をのばすこと」<ref>[http://www.shii.gr.jp/pol/2009/2009_06/O2009_0606_1.html 2009年6月6日(土)「しんぶん赤旗」 全党の努力で生み出した変化 選挙勝利に実らせよう 日本共産党 8中総終わる 「二大政党」の悪政に立ち向かう 志位委員長が結語]</ref>と述べ、民主党による政権交代は無意味どころか、暗黒政治への逆行になるとの見解を示した。 しかし、同年7月には[[2009年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]で44年ぶりに議席が1桁(8議席)に落ち込んだ結果を踏まえ、若干路線を修正。民主党内の改憲論や衆院比例定数削減方針に反対する一方で、「一致点での協力を追求」と明記。労働者派遣法や障害者自立支援法の抜本改正、[[後期高齢者医療制度]]の撤廃、[[農業者戸別所得補償制度|農家への所得補償]]、[[在日米軍]]基地の縮小・撤去などを挙げ、「(自公両党による)暗黒政治への逆行を許さない」と強調し、民主党を「暗黒政治」の批判対象から外した<ref>{{Cite web|和書|title=自公政権を退場に追い込む決定的な“審判”をくだし、新しい日本の進路の“選択”にふみだす選挙に ――解散・総選挙にのぞむ日本共産党の基本的立場 |publisher=日本共産党中央委員会幹部会 |date=2009-07-16|url=http://www.jcp.or.jp/seisaku/2009/20090716_kaisan_sousenkyo_kihon_tachiba.html |accessdate=2019-07-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090718201702/http://www.jcp.or.jp/seisaku/2009/20090716_kaisan_sousenkyo_kihon_tachiba.html|archivedate=2009-07-18 }}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/politics/update/0716/TKY200907160378.html|title=asahi.com(朝日新聞社):民主との政策協力、共産が模索 「基本的立場」に明記 - 政治|date=20090722014315}}</ref>。選挙区によっては、自民党が直接共産党に擁立を働きかけた事例もある<ref>『朝日新聞』愛知版 [http://www.asahi.com/senkyo2009/localnews/TKY200907310169.html 自民 求む共産出馬 2009年07月28日]</ref>。結果として議席数は現状維持であり得票率は[[郵政選挙]]の7.25%から7.03%に後退したものの、得票数では491万9000票から494万4000票と増加した。選挙後発足した民主党を中心とする[[非自民・非共産連立政権]]に対しては、「建設的野党」として「良いことには協力、悪いことにはきっぱり反対、問題点はただす」と是々非々の立場を貫くと主張している<ref>[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2009/syuuin/20090831_seimei.html 総選挙の結果について 2009年8月31日 日本共産党中央委員会常任幹部会]</ref>。 その他、2008年に[[ニコニコ動画]]に公式チャンネルを開設したり、[[Twitter]]や[[Facebook]]に公式アカウントを開設するなど、このころからネット選挙を意識した試みを行っている。 2010年の[[第22回参議院議員通常選挙]]では、[[民国連立政権]]の[[普天間基地移設問題]]における違約や、[[菅直人]]の消費税増税発言などを厳しく批判した。しかし、議席を伸ばしたのは自民党と[[みんなの党]]で、共産党は比例のみの3議席に留まり、また得票数・率共に減らした。その結果、敗北を認める声明を出し、「党内外の方々のご意見・ご批判に真摯に耳を傾け、掘り下げた自己検討をおこなう決意」を表明した<ref>[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010_1/20100712_sanin_kekka.html 参議院選挙の結果について]</ref>。さらに、9月25日~9月27日に行われた第2回中央委員会総会(2中総)で、志位は参院選での後退を詫び、党員数は40万を維持しているものの、高齢化が進んでいること、党費納入率が62%に留まっているなどのデータを挙げ、党勢の衰退を認めた<ref>『しんぶん赤旗』2010年9月29日号 「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-29/2010092905_01_0.html 第2回中央委員会総会 志位委員長の結語]」</ref>。その上で、「五つの挑戦」を打ち出し、[[第46回衆議院議員総選挙|次期総選挙]]で650万票を目標とすることを表明した<ref>『しんぶん赤旗』2010年9月28日号 「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-28/2010092802_02_0.html 第2回中央委員会総会について 2010年9月27日 日本共産党中央委員会書記局]」</ref>。 従来40万人としていた党員数だったが、2012年5月24日、全国活動者会議で志位が報告したところによると、「[[10条該当党員|実態のない党員(幽霊党員)]]」が9万人以上いたためすべて離党させ、2012年5月1日現在で党員数は31万8千人になったと報告した<ref>『しんぶん赤旗』2012年5月24日 [http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/2012-zenkatsu/20120524-shii-hokoku.html 全国活動者会議 志位委員長の幹部会報告]</ref>。また、国政選挙での供託金の負担を、従来は中央と地方組織で折半していたものを、6:4に改め地方組織の負担を減らした。 2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]では組織的な被災地支援活動を行った。また、岩手、宮城、福島の被災3県の県議選では[[復興]]や[[原子力撤廃|原発ゼロ]]を訴え、いずれも前回を上回る議席を獲得した<ref>{{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111126/elc11112623030002-n1.htm|title=共産、被災地選挙でじわり 他勢力「支援は票目当て」と警戒+(1/2ページ) - MSN産経ニュース|date=20111126194401}}</ref>。 ===== 「自共対決」と党勢の復調 ===== 第46回衆議院議員総選挙(2012年12月16日投開票)では、与党の民主党は支持率低迷が続き野党転落が確実な状況で、自民党は9月に総裁に復帰した安倍晋三の下で[[経済政策]]「[[アベノミクス]]」や[[安全保障政策|安保政策]]などの政策を打ち出して政権奪還に望んだ。共産党は民主党のみならず自民・公明両党とも対決の姿勢を強め、TPP交渉参加に反対、歴代政権の[[原子力発電所|原発]]政策、[[3党合意]]で決定された[[消費税]]増税法案を特に厳しく批判。同時に護憲、障害者に費用の原則1割負担を求める障害者自立支援法の撤廃などに代表される社会保障の拡充、労働問題の改善、尖閣諸島問題を初めとした領土問題の解決などを強く主張した。また前回の擁立方針を改めて、社民党の[[照屋寛徳]]を支援した[[沖縄県第2区|沖縄2区]]以外の全選挙区に候補者を立てた。更に、反TPPを訴えたことから、自民党の支持基盤である[[農業協同組合|農協]]の一部の支援も受けた<ref>{{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/news/20121116ddm041010177000c.html|title=選挙:衆院選 TPP、踏み絵に JA山梨は共産と「共闘」- 毎日jp(毎日新聞)|date=20121128092135}}</ref>。選挙の結果、前与党の自民党、公明党と、右派系野党の[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]、みんなの党が議席を伸ばした。共産党は1減の8議席(全て比例区)に留まったが、与党の民主党、[[国民新党]]と左派系野党の社民党、[[日本未来の党]]が議席大幅減となった中では、相対的な善戦であった。 2013年には参院選に向けて、反アベノミクス、反TPP、[[反原発]]、反消費税増税、護憲など自民党の政策に真っ向から対決する政策を掲げ「'''自共対決'''」とする方針を出す<ref>[http://www.jcp.or.jp/web_policy/2013/06/2013saninseisaku.html 安倍政権の暴走に立ち向かい、「国民が主人公」の新しい政治を ――参院選で問われる大争点と日本共産党の改革提言 2013年6月6日 日本共産党]</ref>。参院選の前哨戦として注目された[[2013年東京都議会議員選挙|都議会議員選挙]](2013年6月23日投開票)では前回の8議席から17議席を獲得。選挙前の第一党から激減させた民主党を上回って第三党、野党では第一党となるとともに、議案提出権を4年ぶりに回復した。 次いで行われた[[第23回参議院議員通常選挙]](2013年7月21日投開票)では、勢いを維持して反自民の訴えを続ける。また若者を取り込むために解禁直後のネットでの選挙活動<ref>[http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887323809104578616871515742846.html?mod=slideshow_overlay_mod 日本共産党のマスコットキャラ「カクサン部」、参院選を後押し? 2013年7月20日]ウォール・ストリート・ジャーナル日本版</ref>や雇用環境対策([[ブラック企業]]批判等)にも力を注いだ<ref>[http://www.asahi.com/senkyo/senkyo2013/news/TKY201307170457.html 共産・吉良氏が当選、「ブラック企業対策」前面に 東京 2013年7月21日] 朝日新聞デジタル</ref>。選挙結果は改選3議席から比例5議席、選挙区3議席を獲得。非改選を含めると11議席となり、議案提案権を9年ぶりに回復した。比例代表の得票は2010年選挙の356万票から515万票へと大幅に増加したほか、[[東京選挙区|東京]]、[[大阪選挙区|大阪]]、[[京都選挙区|京都]]の3選挙区で民主党や第三極勢力を抑えて当選、12年ぶりに選挙区で議席を獲得した<ref>{{Archive.today|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013072200128|title=時事ドットコム:自民65、民主17、公明11=維新・みんな・共産8-参院選議席確定【13参院選】|date=20130723074034}}</ref><ref>[共産党12年ぶり参院選選挙区で議席獲得-日刊スポーツ新聞]</ref>。国政で議席を増加させたのは[[第19回参議院議員通常選挙|1998年参議院選挙]]以来、15年ぶりとなり、党はこの結果を大躍進と肯定的に評価、志位は「自民党と正面から対決して暴走にストップをかける頼りになる政党としておおいに力を発揮していきたい」と述べた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-22/2013072201_02_1.html 参議院選挙結果について 志位委員長が記者会見 2013年7月22日(月)]しんぶん赤旗</ref>。一部大手紙は共産党の今回の躍進の背景に低投票率<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2102R_R20C13A7PE1000/ 低投票率、組織政党が有利に ネット選挙、奏功せず 2013/7/22 4:18] 日本経済新聞</ref>や反自民票が共産党に流れたこと、第三極勢力の戦略ミスの影響もあったと論じた<ref>{{Cite news|title=【参院選2013 京都】視点 反自民票、共産に流れる|newspaper=産経新聞|date=2013-07-22|url=https://www.sankei.com/politics/news/130722/plt1307220091-n1.html}}</ref>。 [[2014年東京都知事選挙|東京都知事選挙]](2014年2月9日投開票)では[[宇都宮健児]]を推薦、元[[内閣総理大臣|総理]]の[[細川護煕]]も無所属で立候補したため分裂選挙となって次点に終わったが、得票数は細川を上回った。 [[第47回衆議院議員総選挙]](2014年12月14日投開票)でも「自共対決」と銘打ち活発に活動。その結果、前回の2倍以上の21議席を獲得、参議院に続き衆議院でも議案提出権を獲得した。比例の得票率は11.37%、票数では600万票を超え、小選挙区でも1996年の第41回衆議院議員総選挙以来18年ぶりに議席を獲得した([[沖縄県第1区|沖縄1区]]の[[赤嶺政賢]])。党はこの結果について「第26回党大会で決定した目標を基本的に達成することができた」「全体として、総選挙の結果は、画期的な躍進といえるもの」という発表を行っている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-16/2014121601_07_1.html 総選挙の結果について 12月15日 日本共産党中央委員会常任幹部会] しんぶん赤旗 2014年12月16日</ref>。 2015年の[[第18回統一地方選挙]]の前半戦では、選挙が行われた全ての41県府議会で議席を獲得した。今までは、共産党議員が存在していなかった[[栃木県議会|栃木]]、[[神奈川県議会|神奈川]]、[[静岡県議会|静岡]]、[[愛知県議会|愛知]]、[[滋賀県議会|滋賀]]、三重、[[福岡県議会|福岡]]の各県議会にも共産党の議員が誕生した。非改選の6議会も含めて、結党以来初めて、全47都道府県議会で議席を保有することとなった<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-04-13/2015041301_01_1.html 史上初、全都道府県に党議席 各地で初議席、2人区当選次々] しんぶん赤旗 2015年4月13日(月)</ref>。同時執行の17政令市の市議会選挙でも共産党は選挙前の議席数を上回る136議席を獲得、民主党を抜く改選第三党、野党では第一党となった<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/local/2015/news/20150413-OYT1T50073.html 自民、道府県議選24年ぶり過半数…知事選全勝] 2015年04月13日 読売新聞</ref>。後半戦でも勢いは変わらず、東京区議選挙で7議席、一般市議選挙で44議席、町村議選挙で11議席、合計62議席を新たに増やした。これを受けて党は本選挙戦は全体として躍進という結果だったという声明を発表した<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-04-28/2015042801_01_1.html 2015年4月28日(火) 躍進した力でたたかいと党勢拡大へ ――いっせい地方選挙後半戦の結果について]2015年4月28日(火) 日本共産党公式サイト</ref>。 2012年から2014年にかけては、社民党、民主党、生活の党など他の左派政党が軒並み不調に陥る中で、ほぼ共産党の一人勝ちの状況が続いた。 ===== 「野党共闘」と「国民連合政府」構想 ===== {{main|民共共闘}} 2015年夏から秋にかけての[[平和安全法制]]の審議では反自民の政党による反対運動を主導し、社民党、民主党、[[維新の党]]、生活の党(現・[[自由党 (日本 2016-2019)|自由党]])の4党と連携を深める。同法案の審議を境目に、共産党は従来の「独り勝ち」方針を改め、安保法制廃止の一点での連立政権を樹立するために選挙協力を行うことを提案した。かつての民主連合政府構想における共産党との政策や価値観の共有よりもハードルを下げた提案であり<ref>{{cite news| title =「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現をよびかけます| url=http://www.jcp.or.jp/web_policy/2015/09/20150919-yobikake.html| date=2015-09-19| accessdate=2015-09-19}} </ref>、社民・生活両党は賛意を示したが、身内に保守系議員を抱える民主党は難色を示した。共産党は民主党の反対を受けて、連立政権の案件を凍結、翌年の参院選での野党5党の選挙協力を行なうこととなった。また、2016年2月20日には、社民党の第15回全国大会に志位が来賓として出席。共産党の出席は、前身の社会党時代を含め史上初となった<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-02-21/2016022101_02_1.html 社民党大会 日本共産党が史上初の参加 2016年2月21日(日) しんぶん赤旗]</ref>。また、[[大阪府]]では、[[大阪都構想]]を推進する[[大阪維新の会]]と対決するために[[自共共闘|自民党との共闘]]も辞さない姿勢を見せている。 2016年の主要選挙には、概ね野党5党(3月に民主・維新両党が合併して[[民進党]]となってからは4党)の協力体制で臨んだ。まず[[2016年日本の補欠選挙|衆院北海道5区補欠選挙]](4月24日投開票)では、先に決定していた共産党候補の立候補を取り下げ、民進系の池田真紀を、共産・社民・民進・生活推薦の無所属候補として擁立。自民党公認で公明党らが支援の[[和田義明]]との一騎討ちとなり、前評判と較べて健闘したものの約12,000票差・惜敗率90.92%で落選した<ref>{{Wayback|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0263157-s.html|title=北海道5区補選、自民新人の和田氏勝利 池田氏、猛追及ばず {{!}} どうしんウェブ/電子版(政治)|date=20160425102239}}</ref>。一方、同日行われた京都3区の補欠選挙では、この野党共闘を優先する形で候補者の擁立を見送った。ただし民進党公認候補を含め、他の候補の支援・推薦には回らず、自主投票とした<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS14H41_U6A310C1PP8000/ 衆院京都3区補選、共産は自主投票] 日本経済新聞</ref>。 [[第24回参議院議員通常選挙|第24回参院選]](7月10日投開票)では、[[参議院一人区|参院一人区]]での統一候補の擁立作業が進んだ。この結果、共産党は発表していた一人区の候補者擁立を取り止め([[香川県選挙区|香川選挙区]]を除く)<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/politics/news/160623/plt1606230008-n1.html|title=【参院選】焦点1人区、激戦加速 野党票集約 全32選挙区で自民と直接対決 - 産経ニュース|date=20190324025458}}</ref>、全員を比例区に回す措置をとった<ref>{{Wayback|url=http://www.jcp.or.jp/web_senkyo/|title=2016参院選挙候補者紹介 - 衆院・参院予定候補者|date=20160708033842}}</ref>。選挙の結果、[[東京都選挙区|東京選挙区]]で1議席を獲得し、比例の5議席と合わせて6議席を獲得。非改選の8議席と合計して14議席となった。比例票は601万6195票(得票率10.74%)となり、参院選としては1998年の第18回通常選挙以来、18年ぶりの10%越えを達成した。 参院選直後の[[2016年東京都知事選挙|東京都知事選挙]](7月31日投開票)でも野党統一候補として[[鳥越俊太郎]]を擁立、支援したが、選挙の告示直前の出馬(いわゆる「後出しジャンケン」)だったこともあり、準備不足も相まって3位に終わった<ref>{{Cite news|title=【東京都知事選】都知事に小池百合子氏 分裂選挙「知名度」で制す 初の女性都知事|newspaper=産経新聞|date=2016-07-31|url=https://www.sankei.com/article/20160731-EGI2DKEGO5KYZJC342XLC2XQBY/}}</ref>。 衆院補選(10月23日投開票)でも、[[福岡県第6区|福岡6区]]・[[東京都第10区|東京10区]]ともに一旦は独自候補を擁立していたが<ref>{{Cite news|title=福岡6区補選に共産が候補者擁立 「野党共闘は協議」|newspaper=産経新聞|date=2016-08-10|url=https://www.sankei.com/region/news/160810/rgn1608100050-n1.html}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016083100802&g=pol|title=東京10区補選で公募=透明性を確保-自民:時事ドットコム|date=20160901141530}}</ref>、4野党協議の結果これを取り下げ、統一候補の支援に回った<ref>{{Cite news|title=衆院2補選 共産が候補自主的に取り下げ 野党統一候補|newspaper=産経新聞|date=2016-10-05|url=https://www.sankei.com/politics/news/161005/plt1610050003-n1.html}}</ref><ref name="kyoutou">{{cite news |title= 衆院補選 野党統一候補の擁立で合意 4野党書記局長・幹事長会談 勝利へ協力と旗印を確認|author= |newspaper= しんぶん赤旗|date= 2016-10-6|url= http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-10-06/2016100601_01_1.html|accessdate=2016-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2016-10-7|url= http://www.fjcp.jp/ken-info/2091/|title= 新井候補勝利へ全力 衆院福岡6区補選 小林氏が決意|publisher= 日本共産党福岡県委員会|accessdate=2016-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= 2016-10-11|url= http://www.jcp-tokyo.net/2016/1011/141911/|title= 東京10区補選 市民団体と政策協定 鈴木庸介予定候補 格差是正など10項目|publisher= 日本共産党東京都委員会|accessdate=2016-10-13}}</ref>。しかし結果は、ともに与党系候補(福岡6区は無所属候補が当選後に自民の追加公認を受ける)に敗れた<ref>{{Cite news|title=【衆院ダブル補選】東京10区は若狭氏、福岡6区は鳩山氏次男が当選|newspaper=産経新聞|date=2016-10-24|url=https://www.sankei.com/politics/news/161024/plt1610240004-n1.html}}</ref>。 この間の活動について、公安調査庁は[[内外情勢の回顧と展望]](平成28年度版)で、日本共産党が平和安全法制を「戦争法案」などと呼び、国会周辺の抗議活動に、委員長や所属議員を参加させていると報告している<ref name="kouan63"/>。2015年7月の「安倍政権NO!0724首相官邸包囲」、8月の「国会10万人・全国100万人大行動」、9月の「国会正門前行動」などの運動へ参加し盛り上げを図った<ref name="kouan63">[https://www.moj.go.jp/content/001177471.pdf 内外情勢の回顧と展望] 公安調査庁 p63</ref>。共産党による「国民連合政府」構想は、55年前の政府構想と同様であると評し、「共産党が今回の構想の先に見据えるのは,「民主連合政府」による「民主主義革命」を経て「社会主義をめざす権力」 を作り,最終的に「社会主義・共産主義の社会」を実現することである。同党が,こうした綱領路線を堅持する「革命政党」(6 月の幹部会決議)であることに変わりはない。」としている<ref>[https://www.moj.go.jp/content/001177471.pdf 内外情勢の回顧と展望] 公安調査庁 2016年1月 p72</ref>。 また、公安調査庁発刊資料である内外情勢の回顧と展望の平成29年度版について、照屋寛徳が、「内外情勢の回顧と展望」六十二頁には、「沖縄県民大会」に「全国から党員や活動家らを動員した」との記述があるが、具体的にどの政党を指しているのか、当該政党の名称を全て列挙した上で、「動員した」と断定する根拠について政府の見解を示されたい。」と質問<ref>[https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a193013.htm 公安調査庁発刊資料「内外情勢の回顧と展望」に関する質問主意書] 平成二十九年一月二十日提出質問第一三号</ref>。内閣総理大臣の[[安倍晋三]]は、「「沖縄県民大会」に「全国から党員・・・を動員した」と記述された政党は、日本共産党であると承知している」と回答している<ref>[https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b193013.htm 答弁本文情報] 内閣衆質一九三第一三号 平成二十九年一月三十一日</ref>。 [[2017年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]](2017年7月2日投開票)では、37人の公認候補を擁立、4人の候補を推薦、支持(うち1人は東京・生活者ネットワーク所属)して戦った<ref>{{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/local/20170623-OYT1T50028.html|title=小池都政に初の審判、「知事支持」過半数が焦点 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)|date=20170623143154}}</ref>。選挙戦では自公両党のみならず、[[東京都知事]]の[[小池百合子]]が与党として結成した[[都民ファーストの会]]との差別化も強調して反小池票を吸収、2議席増の19議席を獲得した<ref>{{Cite news|title=【都議選投開票】共産・小池晃書記局長「非常に手応え。今後の国政に重大な影響」 共産党2議席増の19議席を獲得 「反与党・非小池」票を巧みに吸収  |newspaper=産経新聞|date2017-07-03|url=https://www.sankei.com/article/20170703-N5MXLXYZG5MGLBZBIB6YEJU2UI/}}</ref>。 次期総選挙も4野党共闘の方針であったが、民進党では保守系議員を中心に共闘に否定的な議員も多く、9月1日の[[2017年民進党代表選挙|民進党代表選挙]]では保守系の[[前原誠司]]が当選する<ref>{{Wayback|url=https://this.kiji.is/276221730561671173|title=民進新代表に前原氏 一騎打ち、枝野氏破る - 共同通信 47NEWS|date=20170901152617}}</ref>。しかし以降も保守系議員を中心に民進党からの離党が相次いだ<ref>{{Wayback|url=http://sp.yomiuri.co.jp/election/shugiin/20170919-OYT1T50090.html|title=離党届提出の3議員を除籍、対抗馬も検討…民進 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)|date=20170919172633}}</ref>。解散直前の9月25日、小池百合子(東京都知事)が自身に近い議員をメンバーに[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]を結党すると、前原は28日の常任幹事会の了承を得て、希望の党と合流に向けた交渉を始める<ref>{{Wayback|url=https://www.jiji.com/jc/amp?k=2017092800383|title=前原氏「希望に合流」表明=民進、常任幹事会で了承【17衆院選】:時事ドットコム|date=20170928072830}}</ref>。[[衆議院解散|衆院解散]]当日の9月28日、希望の党への事実上の合流方針が両院議員総会で了承されるに至り、志位は希望の党を「自民党の補完勢力」と非難するとともに、原則全選挙区での擁立方針に戻すことを表明し共産・民進両党の共闘は破綻した<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/news1/20170928-OYT1T50056.html|title=共産、希望に対抗馬…民進を批判「重大な背信」|newspaper=読売新聞|date=2017-09-28|accessdate=2017-09-28}}</ref>。また、自由党も代表の[[小沢一郎]]が「自公連立政権に対抗する野党勢力の結集」を理由に、希望の党に合流する意思を示し、4党共闘の枠組みから事実上離脱する<ref>{{Cite news|title=【衆院解散】民進「解党論」が急浮上 個別に小池新党合流、「非自民・反共産」結集へ|newspaper=産経新聞|date=2017-09-27|url=https://www.sankei.com/politics/news/170927/plt1709270010-n1.html}}</ref>。 一方、9月29日、共産党書記局長の小池晃と社民党幹事長の[[又市征治]]が衆院選での両党の選挙協力について協議し、11都府県の20選挙区で候補者を一本化することで合意している<ref>{{cite news |url=https://mainichi.jp/senkyo/articles/20170930/k00/00m/010/167000c |title=衆院選 共産と社民が候補者一本化 20選挙区で|date=2017-09-29 |newspaper=毎日新聞|accessdate=2017-09-30}}</ref>。 その後、[[外交政策|外交]]・安全保障政策や憲法観の不一致などを理由に希望の党との合流を拒否した民進党出身の[[左翼|左派]]系メンバーが中心となって10月2日に「[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]」(代表・[[枝野幸男]])が結成され<ref>{{cite news|title=枝野氏、新党「立憲民主党」結成を表明|newspaper=日本経済新聞|date=2017-10-02|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO21781280S7A001C1000000/|accessdate=2017-10-02}}</ref>、共産・社民両党は歓迎するコメントを送り<ref>{{Wayback|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171002/k10011165621000.html|title=共産 小池氏 “枝野新党” 歓迎 連携協議進める意向 {{!}} NHKニュース|date=20171002152721}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171002/k10011165261000.html|title=社民 又市氏 “枝野新党” 歓迎 連携の意向 {{!}} NHKニュース|date=20171003032322}}</ref>、[[第48回衆議院議員総選挙]](10月22日投開票)において3党共闘となった。 10月5日、全国に先駆け北海道で、共産・社民・立民の3党の地元組織が共闘に合意。道内の全12選挙区において統一候補を擁立。民進から立民に参加する8人全員が統一候補になり、当該8選挙区では共産が立候補を取り下げる一方、立民の「空白区」である4選挙区は共産が候補者を出すことになる<ref>{{Wayback|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/136872|title=「民進」肩書外し共闘 道内8選挙区、自公と対決へ:どうしん電子版(北海道新聞)|date=20171007220517}}</ref>。北海道以外の地域でも共産党、社民党、立憲民主党、希望の党のどの政党にも参加しないことを表明した野党系無所属に候補を一本化し共産党は67の選挙区で独自候補を取り下げた。公示ギリギリまで調整が行われ反安倍・反小池の統一候補が249の選挙区で成立した<ref>{{Cite news|title=【衆院選】共産など野党3党 241選挙区で候補一本化|newspaper=産経新聞|date=2017-10-07|url=https://www.sankei.com/politics/news/171007/plt1710070006-n1.html}}</ref>。 選挙結果は、立憲民主党と希望の党の新党の間に埋没する形となり、公示前勢力から半減に近い12議席の惨敗に終わる。この結果を受け志位は「『比例は共産』という激励をたくさんいただいた。結果に結びつけることができなかったのは、私たちの力不足だ。捲土重来を期したい」とコメント<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/news/20171023-OYT1T50105.html|title=共産惨敗、議席大幅減…立憲民主に支持流れ」|publisher=YOMIURI ONLINE|date=2017-10-23|accessdate=2017-10-23}}</ref>。また、野党第一党に躍進した立憲民主党について「共闘勢力全体として議席を伸ばすことできたことは大きな喜び」と述べた。 2021年9月30日には[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]との間で次期衆院選で政権交代が実現した場合に、共産が連立に入らず、「限定的な閣外からの協力」をする方針で合意した<ref>{{Cite news |title=立憲と共産、初の閣外協力合意 政権交代目指し候補者調整進める|newspaper=毎日新聞|date=2021-09-30|url=https://mainichi.jp/articles/20210930/k00/00m/010/223000c|accessdate=2023-04-28}}</ref>。しかし、同年10月の[[第49回衆議院議員総選挙]]では立憲・共産両党は議席を減らし、敗北。2022年5月に共産党は同年の[[第26回参議院議員通常選挙]]に向けて前回衆院選と同様に「政権交代時の閣外協力」を合意するよう立憲民主党に求めたが、立憲側は応じなかった<ref>{{Cite news |title=立民と共産「限定的閣外協力」 参院選見送りへ|newspaper=産経新聞|date=2022-05-09|url=https://www.sankei.com/article/20220509-Y4EAKFPCO5P65NK7MG5IYFA5MM/?outputType=theme_election2022|accessdate=2023-04-28}}</ref>。7月の参院選で共産党は比例票が目標の650万を大きく下回る約362万にとどまり、比例代表で2議席減となる3議席に留まった<ref>{{Cite news |title=「責任深く痛感」 議席減の共産が声明|newspaper=産経新聞|date=2022-07-11|url=https://www.sankei.com/article/20220711-RPFZQHEFWRMFREXA7F4775SB6Q/?outputType=theme_election2022|accessdate=2023-04-28}}</ref>。 ===== 結党100周年、党勢の低迷と執行部批判の噴出 ===== 2022年7月15日、創立から100年を迎えた<ref>{{Wayback|url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/96624?display=1|title=「順風満帆だった時期というのはない」日本共産党が創立100年&nbsp;進む党員の高齢化&nbsp;野党共闘も結果得られず {{!}} TBS NEWS DIG (1ページ)|date=20220715083505}}</ref>。 2023年、志位執行部への異論を外部に持ち出した党員が出た。2月6日には、京都府の党員で元中央委員会勤務の[[松竹伸幸]]について、日米安保護持への政策転換を唱える著書を出したことが、「党内に派閥・分派はつくらない」などの党規約に違反したとして[[除名]]処分とした<ref name=":4" />。この処分への朝日新聞・毎日新聞などの各メディアの批判に対し、党執行部は会見やしんぶん赤旗などにおいて、規約違反を理由に処分の正当性を強調している<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/651977 「共産党」大揺れ、改革訴えた党員「除名」で待つ試練] - 東洋経済オンライン 2023年2月11日</ref>。3月16日には、元京都府常任委員の[[鈴木元 (立命館)|鈴木元]]について、志位委員長への辞任要求や代表公選制の導入を掲げる著書を出したことが、「分派活動を行った」として除名処分とした<ref>[https://mainichi.jp/articles/20230316/k00/00m/010/400000c 共産が志位氏の辞任求めた党員を除名 「分派活動」と認定] - 毎日新聞 2023年3月17日</ref>。 2023年4月の[[第20回統一地方選挙]]では、前半選となる41道府県議選挙において改選前から24議席減の75議席にとどまり、唯一都道府県議の議席が無かった[[愛知県議会]]で議席を回復させた一方、新潟、福井、静岡、熊本、福岡の5県議会で議席がゼロとなった<ref>{{Cite news |title=統一地方選挙【詳細】維新 大阪ダブル選制し 道府県議選も倍増|newspaper=NHK NEWS WEB|date=2023-04-10|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230409/k10014032291000.html|accessdate=2023-04-28}}</ref><ref>{{Cite news |title=女性当選者、最多316人 41道府県議 79人増、全体の14% 維新は倍増、124議席 全議席確定|newspaper=毎日新聞|date=2023-04-10|url=https://mainichi.jp/articles/20230410/ddg/001/010/001000c|accessdate=2023-04-28}}</ref>。共産の牙城である京都でも、[[2023年京都府議会議員選挙|府議選]]で3議席、[[2023年京都市議会議員選挙|京都市議選]]で4議席減らす結果になったことから、党内では「歴史的な敗北」とする受け止めが広がり、中には「党員の除名騒動が影響した」との声もくすぶったが、書記局長の小池は「影響を与えたとは思っていない」と否定した<ref>{{Cite news |title=共産党は立て直せるか 統一地方選で空白県増 「歴史的な敗北」|newspaper=毎日新聞|date=2023-04-25|url=https://mainichi.jp/articles/20230425/k00/00m/010/230000c|accessdate=2023-04-28}}</ref>。後半戦の294の一般市議選では、55議席減となる560議席という結果になり、小池は「期待に応えられず、多くの候補者を落選させ大変悔しい。おわび申し上げたい」と述べた一方、引責辞任は否定した<ref>{{Cite news |title=共産・小池氏「おわび申し上げたい」 統一選後半戦、市議選で55人減|newspaper=毎日新聞|date=2023-04-24|url=https://mainichi.jp/articles/20230424/k00/00m/010/285000c|accessdate=2023-04-28}}</ref><ref>{{Cite news |title=統一地方選、止まらない投票率下落 市議選は立憲と維新が議席伸ばす|newspaper=朝日新聞|date=2023-04-24|url=https://www.asahi.com/articles/ASR4S6GF7R4SOXIE02C.html|accessdate=2023-04-28}}</ref>。 == 共産主義運動の内部対立史 == === ソ連共産党・中国共産党との対立 === ==== ソ連からの秘密資金・ソ連への政党本部建設支援要請 ==== 当初、日本共産党はソ連から強い影響を受けていた。[[名越健郎]]による旧ソ連の最高機密文書の調査の結果、判明しただけでも、ソ連{{efn|スターリン時代の1950年にソ連共産党中央委が中心となり、ルーマニアのブカレストに「左翼労働組織支援国際労組基金」が設立されている<ref name=":3" />。}}より日本共産党に1951年に10万ドル、1955年に25万ドル、1958年に5万ドル、1959年に5万ドル、1961年に10万ドル、1962年に15万ドル、1963年に15万ドルの計85万ドル(現在の貨幣価値にして30億円以上)の援助秘密資金が渡っていることが援助先リストに記載されており、[[政治資金規正法]]違反が指摘されているものの<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=日本共産党へのソ連からの秘密資金援助疑惑に関する質問主意書 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a190190.htm |website=www.shugiin.go.jp |accessdate=2022-03-10}}</ref>、当時の党書記局長であった志位は「仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない」などとして否定している<ref name=":2">{{Citation|和書|title=秘密資金の戦後政党史: 米露公文書に刻まれた「依存」の系譜|last=名越|first=健郎|author-link=名越健郎|year=2019|publisher=新潮社|pages=176-230|isbn=978-4-10-603850-1|oclc=1134986807}}</ref>。 日本共産党は独自に調査団をモスクワに派遣し、その調査結果を『赤旗』に掲載しており、秘密資金の流れがあったことを認めながらも、受領していたのは野坂参三・袴田里見ら「ソ連追随グループ」であり、党中央は一切関与していないとの立場を貫いているが、野坂は資金使途に「党本部建設」や「党学校」を掲げており、名越は中央党学校の開設や東京・代々木の日本共産党本部建設に実際に使用された可能性を示唆している<ref name=":2" />。 ==== 国際共産主義運動の分裂 ==== 1951年10月の第5回全国協議会において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とする「[[51年綱領]]」と、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」を決定し、[[北京機関]]がその後設立された。そして、この方針に基づいて、1950年代前半に、全国的に[[暴動|騒擾事件]]や襲撃事件等の[[テロリズム|暴力的破壊活動]]を行った。しかし、こうした武装闘争は、国民から非難されるところとなり、1952年10月の[[第25回衆議院議員総選挙]]では、日本共産党の党候補が全員落選する事態となった。このように1950年代の武装闘争路線期にソ連・中国に盲従することで、党組織に壊滅的な打撃を受けた<ref>{{Cite web|和書|title=暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁) |url=https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_01.htm |website=www.npa.go.jp |accessdate=2022-03-10}}</ref>。その経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となった。しかし同時に「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)と記載されているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調をした。1956年の[[ハンガリー事件]]を契機に離脱も起きた。 1961年に再開された[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[核実験]]に対して、日本共産党は当時、ソ連の核実験は防衛的と主張<ref>「前衛」(1962年10月号)、上田耕一郎元副委員長論文「2つの平和大会と修正主義理論」(大月書店「マルクス主義と平和運動」収録)「侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然」</ref>し、「いかなる国の核実験にも反対」と主張する日本社会党系との間で路線対立が激化。1965年に社会党系は[[原水爆禁止日本協議会|原水協]]を脱退して[[原水爆禁止日本国民会議|原水禁]]を結成{{efn|[http://www.gensuikin.org/whatis.html 原水禁とはなにか?] つまり原水禁は原水協より歴史が浅い}}し、以後は日本の'''原水爆禁止運動'''は世界大会を含め分裂が続いている。この状況に日本共産党は「社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁」で、原水禁は対話を拒んでいる<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-08/08_0402.html 原水爆禁止運動に偏見を持ち込む 「朝日」の特異な立場]</ref>と主張している。 1964年には[[中ソ対立]]の中で党の「中国共産党寄り路線に反対する」とし、国会での[[部分的核実験禁止条約|部分的核実験停止条約]]批准に党の決定に反して賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、参議院議員の[[鈴木市蔵]]ら'''親[[ソ連派|ソ派]]'''が除名され、「[[日本共産党(日本のこえ)]]」を結成。文化人では、中野重治・[[野間宏]]らがこの時志賀鈴木らに同調して党に離反している。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両国の共産党は激しい論争となった。この時期、日本共産党員内の[[親中派]]は競って中国語を習い、自分の名前を中国語読みし、「北京周報」を読むなど中国共産党への支持が強まっていった。[[4.17ゼネスト]]問題で、スト破り的行為をとった日本共産党は、その後の自己批判にもかかわらず[[日本労働組合総評議会|総評]]からの支持も失い、新左翼諸党派から厳しく非難された。この問題の真相は不明であるが、当時[[日中国交正常化]]を目指していた中国共産党が[[池田内閣|池田政権]]を窮地に陥らせないために日本共産党に指令したという説がある{{誰2|date=2013年12月}}。 また、1966年、'''[[文化大革命]]'''発生と同時期に中国共産党と中国政府から日本共産党へ「[[修正主義]]」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界各国の共産党でも同じような現象が起きたが中国文革に同調し毛沢東を[[個人崇拝]]するグループが各地でつくられ、山口県委員会などは一時中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的[[親中]]共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい[[紅衛兵]]に激しく殴打された」([[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]情報調査局年次報告1968年版)。この過程で[[西沢隆二]]、[[安斎庫治]]、原田長司、大隈鉄二、[[福田正義]]ら親中派が党規約にそむいたかどで除名された。 その後「[[日本労働党]]」、「[[日本共産党(左派)]]」、<!--「[[日本共産党革命左派神奈川県委員会]]」、-->「[[日本共産党(マルクス・レーニン主義)]]」(後の[[労働者共産党]])、「[[日本共産党(解放戦線)]]」、「日本労働者党」などを結成した。国民の支持を仰ぎ議会多数を得ての革命路線への転換以後、これらの党内闘争において、コミンテルン支部時代に掲げていた[[プロレタリア国際主義]]理念などを、日本共産党を飛び出した側が総じて掲げていた。 ソ連や中国と距離を置いてから、日本共産党は「共産党イコール既存社会主義国の手先」というコミンテルン以来のイメージとは全く違った対応を国際問題でとった。1968年の[[プラハの春]]を制圧したチェコスロバキア侵攻に際し、日本共産党は[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]を明確に批判した。[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻]]すると、翌年1月にソ連を批判し、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の即時撤退を要求した<ref>緒方靖夫「アフガニスタン問題の真相と自主独立の立場」54頁、増田紘一「アフガニスタンの歴史と闘いの伝統」69頁。両論文とも『前衛』1980年6月号(453号)。</ref>。また[[1979年]]の中国による[[中越戦争|ベトナム侵攻]]を批判し、カンボジアの[[ポル・ポト]]政権、[[朝鮮労働党|北朝鮮指導部]]による[[大韓航空機爆破事件]]、[[ラングーン事件]]、日本漁船銃撃事件にも厳しい態度をとった。 一方で親ソ派が党内に潜伏しており、[[1991年]]の[[ソビエト連邦の崩壊|ソ連崩壊]]後、ソ連共産党内部文書の[[情報公開]]([[グラスノスチ]])と[[文藝春秋]]『[[週刊文春]]』の報道が始まると、日本共産党は独自調査団を[[モスクワ]]に派遣し、明らかになった事実を基に、[[野坂参三]]を「ソ連内通者」として[[除名]]した。 === 新左翼との対立 === 六全協により、暴力的な運動の継続を支持する学生などが共産党の影響を離れたり、除名された。当初は日本共産党の指導下にあった[[全日本学生自治会総連合]]の学生党員を中心に、日本共産党の武装闘争路線転換に反対する、後に[[日本の新左翼|新左翼]]と呼ばれる共産主義グループがつくられた。警察庁は日本共産党の武装闘争が[[極左暴力集団]]誕生の要因として、日本共産党の責任を非難している<ref>{{Cite web|和書|title=昭和63年 警察白書 |url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s63/s630101.html |website=www.npa.go.jp |accessdate=2022-03-10}}</ref><ref><nowiki>https://www.npa.go.jp/bureau/security/kouan/kyokusa.pdf</nowiki></ref>。 日本共産党は、[[共産主義者同盟|共産同]](ブント)や[[革命的共産主義者同盟全国委員会|革共同中核派]]、[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革共同革マル派]]、[[革命的労働者協会|革労協]]、[[社会主義労働者党 (日本)|社会主義労働者党]](社労党)などの政治団体、運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「[[ニセ「左翼」暴力集団]]」と呼んで非難し、政治問題などで共闘を拒絶し、排斥した([[党派闘争]]参照)。大学では、日本共産党及び民青はこれらの党派と激しく敵対し、新左翼各派の対立は[[内ゲバ|ゲバルト]]に至った。1971年6月19日、[[琉球大学]]内の男子寮で民青と革マル派が衝突した際、革マル派の町田宗秀が、寮の4階から転落して死亡したこともあった<ref>{{Archive.today|url=http://web.archive.org/web/20081210012515/www.geocities.jp/showahistory/history05/topics46c.html|title=誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ|date=20140104204911}}</ref>。 こうして日本共産党を離れた人が結成したグループからの、日本共産党への集団的な「復党」の動きは見られない(個人はある)。[[民主統一同盟]]や元[[第四インターナショナル]]・中核派活動家[[村岡到]]の個人党派「政治グループ稲妻」など、元は「日本共産党打倒」を掲げていた勢力が、共産党の側の新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、[[有事法制]]反対、憲法改正反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。 スターリン支配のコミンテルンの「各国運動の自主独立」を標榜した解散から、戦後の「諸国共産党連絡調整機関」を標榜したコミンフォルムの実態、そしてコミンフォルム解散後も、政権党であったソ連共産党ならびに中国共産党が、各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が続いたにもかかわらず、日本共産党が資金援助を受けず、未だ政権党ではない中で、自主独立の立場を鮮明に出来たのは[[民主集中制]]の堅持と、戦前からの日本のマルクス主義研究の独自の伝統と、機関紙発行中心の近代議会主義にマッチした財政活動の確立が決定的なものであったと党は主張している。 1970年代には「自由と民主主義の宣言」や「[[宗教についての日本共産党の見解と態度]]」(宗教決議)、マルクス・レーニン主義の「科学的社会主義」への呼び変え、「プロレタリア独裁」や「前衛党」などの用語の綱領からの削除などを進めた。これらは当時の[[ヨーロッパ]]でのユーロコミュニズムの主張と類似点があり、上田耕一郎などはユーロ・ジャポ・コミュニズムなどと発言し、欧州諸党との親和性を強調した。これはソ連に主導された[[国際共産主義運動]]の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴となった。なお、宗教に融和的な「宗教についての日本共産党の見解と態度」は、党内からの反発があり、党員の宗教学者が除名された。また[[大武礼一郎]]は第7回党大会の代議員として出席したが、第7回大会の方針は日和見主義であるとして党を離れ、「日本マルクス・レーニン主義運動」を通じて[[日本共産党(行動派)]](下部組織に日本人民戦線)を結成した。 === 部落解放同盟との対立 === {{see also|部落問題}} [[部落解放同盟]]はその前身の[[全国水平社]]の中心人物の[[西光万吉]]も入党していたように元々共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、[[1965年]][[8月11日]]、内閣同和対策審議会答申<ref name=tohshin>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/jinken/sankosiryo/1322788.htm 文部科学省 同和対策審議会答申(『人権教育の指導等の在り方について(第三次とりまとめ)』から抜粋)]</ref>が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「[[毒まんじゅう]]」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、[[右翼]]社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。この当時の消息について、[[井上清 (歴史家)|井上清]]は「部落解放全国婦人大会をやりますと、それが部落問題は行方不明の、共産党の新婦人の会の大会みたいになるんだ。極端な例でいえば、洗剤は有害である、だから洗剤はやめましょうという話が、婦人集会で出る。これは、そのこと自体はいいんですよ、ところが、洗剤追放と部落の婦人解放とが結びついた話にならなくて、日共の例の「二つの敵」のことに部落問題が解消してしまう。洗剤っていうものはアメリカ帝国主義が日本に石油を売り込むためにやっているんだ、洗剤追放すなわち反米闘争すなわち部落解放運動だというので洗剤追放が部落解放の婦人運動の中心題目みたいな話になっちゃうんだな。どうにもあんた、解放運動の側からいうと、わけがわからない。(略)それでとうとう、解放同盟の古くからの闘士の先生方が我慢できなくなっちゃった。」と語っている<ref>植松安太郎『人間解放をめざして』p.198(創樹社、1977年)</ref>。 また、元衆議院議員の[[三谷秀治]]は「解放同盟本部と社会党が答申を手放しで賛美したのに対し、地方支部の一部や共産党は、答申が、差別を温存してきた政治的責任に触れないで、いままた自民党の高度経済成長政策の枠のなかで欺まん的に部落問題の解決を求めようとしているとして、その融和的な性格を批判した。」「同和問題が憲法にうたわれた基本的人権の保障の課題として位置づけられたことは基本的に正しかったが、非人間的差別を部落に押しつけてきたものはだれなのか、差別を利用して部落民を苦しめてきたものはだれであったのか、という政治的分析にはまるで触れられていなかった。部落差別の根っこが隠蔽されていることから、差別の敵を社会一般に求めようとする誤りが生まれた。」と説明している<ref>三谷秀治『火の鎖』p.409(草土文化、1985年)</ref>。分裂前の部落解放同盟に対して「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、[[北原泰作]]は断ったが、これに乗ってしまったのが[[朝田善之助]]だったともいう<ref>三谷秀治『火の鎖』p.438(草土文化、1985年)</ref>。 大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と[[部落問題研究所]]との間で紛争が発生した([[文化厚生会館事件]])。さらに[[同和対策事業特別措置法]]制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「[[社会改良主義|改良主義]]的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「[[矢田教育事件]]」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には[[全国部落解放運動連合会|部落解放同盟正常化全国連絡会議]](のちの全国部落解放運動連合会、全解連)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や[[利権]]、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の[[兵庫県立八鹿高等学校]]における、[[八鹿高校事件]]の発生であった。 現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、部落解放同盟を[[括弧#鉤括弧「」|鉤括弧]]書きで「解同」と表記する<ref>[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990325_faq_dowa.html 部落問題の現状は?]日本共産党 知りたい・聞きたい</ref>{{efn|なお、解放同盟側は「解放同盟」「同盟」の略称を用いている。}}。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた{{efn|逆に、解放同盟は、1974年3月3日~[[3月4日|4日]]の第29回全国大会で、日本共産党を「差別者集団宮本一派」と呼ぶことを正式に決議した。現在は「日共」表記が多いが、鉤括弧は付けていない。ただし、全解連や、その後身である[[全国地域人権運動総連合|全国人権連]]は必ず鉤括弧でくくり、また"日共=「全国人権連」"といった、共産党との一体性を強調する表記が多い。}}。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-04/2007030425_01_0.html 「解同」横暴・利権あさり どこまで追い込んできたか 不公正な同和行政の完全終結を]」しんぶん赤旗 2007年3月4日付。なお、同記事によれば、解放同盟の推薦候補は与野党にまたがっており、民主党を中心に、社民党、自民党、公明党、新社会党にも推薦候補が存在する。</ref>。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-04/2007010426_01_0.html 2007年1月4日(木)「しんぶん赤旗」 崩れ出した「解同」タブー]</ref>という認識を示している。{{要出典範囲|date=2022年8月17日 (水) 02:38 (UTC)|また、[[同和利権]]批判で有名な[[寺園敦史]]らは全解連も批判しているにも関わらず、共産党と関係した経歴から解放同盟には「共産党の反動的国民融合論」と見る向きもあった}}。 {{要出典範囲|date=2022年8月17日 (水) 02:38 (UTC)|現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった}}。 政治戦においては、2010年代後半から始まった[[民共共闘|野党共闘]]によって同一の候補を支援する機会も増えて、公の場で互いが互いを批判することは著しく減少した。しかしながら軋轢は今なお強く残っている。同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多い。 == 選挙方針 == 日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。 その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「[[オール与党]]」批判の宣伝を行うようになった。ただ、[[滋賀県]]の[[武村正義]]、[[神奈川県]]の[[長洲一二]]、[[岡山県]]の[[長野士郎]]、[[世田谷区]]の[[大場啓二]]、[[神戸市]]の[[宮崎辰雄]]など、共産党も相乗りに加わる候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。 有権者の[[投票行動]]から見た場合、共産党は[[保守政党]]である自民党(および協力関係にある公明党)とはもちろん他の政党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、非自公間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が非自公に極めて不利に働くことも事実である。自公政権時代は、得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、与党批判票が分散する事態が起きた。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き([[戦略投票]])が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。都道府県知事選挙や国政選挙などで独自候補を擁立しても、自民党や民主党の候補と比べると報道は少ないため、機関紙などの自前メディアや[[街頭演説]]・ビラ配布など自前の活動が政策提言や意見表明を届ける大きな手段となっている。一方で、[[葛飾区]]や[[豊後高田市]]などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件も起きている([[葛飾政党ビラ配布事件]]参照)。党はこれらの事件を「言論弾圧事件」として厳しく批判し、裁判闘争を行なっている。 民主党は、小沢一郎が代表であった当時、共産党との協力の可能性に言及する変化も見られたが<ref>{{Wayback|url=http://ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2006/ar20060412155540.html|title=■小沢一郎ウェブサイト■|date=20070624220850}}</ref>、選挙では両党の協力はほとんど行われていない。なお、2007年参院選後の首班指名選挙では共産党は参議院の決選投票では直近の民意を重視し、小沢一郎に投票している。なお、小沢一郎は1993年に自民党を離党するまで有力派閥[[木曜クラブ|田中派]]及び[[平成研究会|竹下派]]の有力人物であり[[自由民主党幹事長]]を経験するなど政権中枢の中心人物であり、当時は共産党は小沢一郎と大きく対立していた。 == 綱領 == === 綱領の歴史 === 日本共産党は1922年創立後、非合法時代の綱領的文書には[[22年テーゼ]]、[[27年テーゼ]]、[[31年政治テーゼ草案]][[32年テーゼ|、32年テーゼ]]などがあり、[[マルクス主義]]の[[唯物史観]]・[[階級闘争]]論・[[レーニン主義]]の[[帝国主義論]]・[[前衛党]]論・[[二段階革命論]]、[[コミンテルン]]の[[人民戦線]]([[統一戦線]])論、[[日本資本主義論争]]の[[講座派]]などを基礎とする。 第二次世界大戦後の合法化後の主な綱領には1947年綱領・1951年綱領・1961年綱領があり、そのうちの1951年綱領は1961年に「歴史的文書」とした。また1961年綱領は以後の複数の改訂で用語の変更などを行っている。 *1947年行動綱領 - 「[[マルクス・レーニン主義]]」、「[[前衛党]]」、「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」、「広範な民主戦線」<ref>[https://shumiken.miraheze.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%9B%9E%E5%85%9A%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%A1%8C%E5%8B%95%E7%B6%B1%E9%A0%98 日本共産党第四回党大会決定の日本共産党行動綱領 - 日本社会主義文献類聚]{{リンク切れ|date=2022年8月}}</ref>、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の解放軍規定<ref group="注釈">「専制主義および軍国主義からの世界解放の軍隊としての連合国軍の日本進駐によって、日本における民主主義的変革の端緒が開かれるにいたった。」</ref>('''[[平和革命]]論''') * [[51年綱領|1951年綱領]] - 「天皇制の廃止と民主共和国の樹立」('''[[暴力革命]]不可避論'''<ref>「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。」[https://shumiken.miraheze.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%BD%93%E9%9D%A2%E3%81%AE%E8%A6%81%E6%B1%82 日本共産党の当面の要求 - 日本社会主義文献類聚]{{リンク切れ|date=2022年8月}}</ref>、「軍事方針」を同時採択) *1961年綱領 - 「日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配 - 二つの敵に反対する民主主義革命」(二段階革命論)、「民族民主統一戦線勢力が(略)国会で安定した過半数をしめることができるならば」('''多数者革命'''<ref>[https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990123_faq.html 多数者革命の党とは? - 日本共産党]</ref>)、「社会主義社会は共産主義社会の第一段階である。(略)社会主義日本では『各人は能力におうじてはたらき、労働におうじて報酬を受ける』(略)共産主義のたかい段階では(略)『[[能力に応じて働き、必要に応じて受け取る|各人は能力に応じてはたらき、必要におうじて生産物をうけとる]]』(略)国家権力そのものが不必要になる」([[国家死滅|国家死滅論]]){{sfn|福冨健一|2019|p=163&ndash;167}}。1951年綱領を「51年文書」とする(軍事路線放棄、'''[[自主独立路線]]''')。 **1973年改訂 - 「プロレタリアート独裁」を 「プロレタリアート執権」に修正。 **1976年改訂 - 「マルクス・レーニン主義」を「'''科学的社会主義'''」に修正<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-05-15/2014051509_01_0.html 科学的社会主義を発展させる(2014年) - しんぶん赤旗]</ref>。「プロレタリアート執権」を「人民的議会主義」に修正。準綱領的文書「[[自由と民主主義の宣言]]」を発表([[ソビエト連邦|ソ連]]の人民抑圧体制批判、[[複数政党制]]、[[私的所有権|私有財産]]の保障、[[計画経済]]と[[市場経済]]の結合、[[民族自決|民族主権]])。 **1994年改訂 - 「人民共和国」を「民主共和制」に修正、「社会主義革命」を「社会主義的変革」に修正 *2004年綱領 - 「前衛」を「先頭にたって推進する役割」に修正。「民主主義革命」より「[[君主制]]の廃止」を削除(天皇制当面容認<ref group="注釈">「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」</ref>)、「革命の政府」への移行の記載を削除、「社会主義社会は共産主義社会の第一段階」(二段階論)を「社会主義・共産主義の社会」に変更<ref name="2004houkoku">[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-01-15/00_03.html 綱領改定についての報告(2004年1月15日)日本共産党 中央委員会議長 不破哲三]</ref><ref>不破哲三『新・日本共産党綱領を読む』(2004年、[[新日本出版社]])p334-335 </ref>。 **2020年改訂 - 中国やロシアも念頭に「いくつかの大国で強まる大国主義・覇権主義は世界の平和と進歩への逆流」と[[覇権主義]]を批判<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-19/2020011907_01_0.html 日本共産党綱領(一部改定) - しんぶん赤旗]</ref>。 === 綱領の概要 === 日本共産党綱領(2020年改訂)の章構成と要点は以下の通り。 # 戦前の日本社会と日本共産党 - 日本共産党は[[日本帝国主義]]の侵略と戦争に対し、平和と民主主義を掲げて闘った # 現在の日本社会の特質 - [[対米従属論|対米従属]]と大企業・財界支配の矛盾が深刻化 # 21世紀の世界 - [[ソビエト連邦|ソ連]][[覇権主義]]・[[米帝|アメリカ帝国主義]]・あらゆる覇権主義に反対 # 民主主義革命と民主連合政府 - 現在必要な変革。対米従属と大企業・財界支配を打倒([[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保]]破棄、[[自衛隊]]縮小、[[非同盟運動|非同盟]])。資本主義の枠内で可能。 # 社会主義・共産主義の社会をめざして - 次の段階への社会主義的変革。主要な[[生産手段]]の社会化。民主主義と自由の発展。国民多数の合意のもと。国家権力・搾取・抑圧・戦争の廃止された共同社会への展望。 {| class="wikitable" |+ 日本共産党綱領(2020年改訂)の概要<ref name="koryo"/> ! 項目 !! 現状 !! 現在必要な変革 !! 次の段階 |- ! 名称 | - || [[市民革命|民主主義革命]] || 社会主義的変革 |- ! [[政府]] | 対米従属、大企業・財界支配 || 民主連合政府 || 国会の安定過半数を基礎とする社会主義をめざす権力 |- ! 社会 | 日本[[独占資本主義]] || 資本主義の枠内で可能な民主的改革 || [[社会主義]]・[[共産主義]] |- ! [[日本国憲法|憲法]] | 憲法改悪 || 前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす || - |- ! [[天皇制]] | 憲法の[[日本国憲法第1章|天皇条項]]は「民主主義の徹底に逆行する弱点」 || 存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべき || 民主共和制 |- ! 軍備 | [[軍国主義]]復活 || 軍縮、[[自衛隊]]解消、[[反核運動|核兵器廃絶]] || 戦争のない共同社会 |- ! 国際関係 | アメリカ帝国主義の従属国 || 日米安保廃止、真の独立、平和・中立・非同盟 || - |} === 民主主義革命と民主連合政府 === 民主主義革命の綱領の記載は以下の通り。 {{quotation|現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする'''民主主義革命'''である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。|日本共産党綱領(2020年改訂)}} 民主連合政府の綱領の記載は以下の通り。 {{quotation|日本共産党と[[統一戦線]]の勢力が、国民多数の支持を得て、[[国会 (日本)|国会]]で安定した過半数を占めるならば、統一戦線の政府・'''民主連合政府'''をつくることができる。日本共産党は、「国民が主人公」を一貫した信条として活動してきた政党として、国会の多数の支持を得て民主連合政府をつくるために奮闘する。|日本共産党綱領(2020年改訂)}} 「現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容」は以下の通り。 *国の独立・安全保障・外交 **日米安保条約を、条約第十条の手続き(アメリカ政府への通告)によって廃棄し、アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。対等平等の立場にもとづく日米友好条約を結ぶ。 **いかなる[[軍事同盟]]にも参加せず、すべての国と友好関係を結ぶ平和・中立・非同盟の道を進み、非同盟諸国会議に参加する。 **自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。 **平和外交(アジア諸国との友好・交流、国連重視、覇権主義反対、核兵器廃絶、民族自決、軍縮、テロ根絶、千島列島・歯舞・色丹の返還、環境保護、人道問題支援、平和共存など) *憲法と民主主義 **現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。 **国会を名実ともに最高機関とする[[間接民主主義|議会制民主主義]]の体制、反対党を含む[[複数政党制]]、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。 **選挙制度、行政機構、司法制度などは、憲法の主権在民と平和の精神にたって、改革を進める。 **地方政治では「住民が主人公」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする[[地方自治]]を確立する。 **国民の基本的[[人権]]を制限・抑圧するあらゆる企てを排除し、社会的経済的諸条件の変化に対応する人権の充実をはかる。[[労働基本権]]を全面的に擁護する。企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する。 **[[ジェンダー]]平等社会をつくる。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。女性の独立した人格を尊重し、女性の社会的、法的な地位を高める。女性の社会的進出・貢献を妨げている障害を取り除く。性的指向と性自認を理由とする差別をなくす。 **教育では、憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革をおこない、各段階での教育諸条件の向上と教育内容の充実につとめる。 **文化各分野の積極的な伝統を受けつぎ、科学、技術、文化、芸術、スポーツなどの多面的な発展をはかる。学問・研究と文化活動の自由をまもる。 **[[信教の自由]]を擁護し、[[政教分離原則|政教分離]]の原則の徹底をはかる。 **汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために、企業・団体献金を禁止する。 **天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。党は、一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、[[国民主権]]の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。 *経済的民主主義 **「ルールなき資本主義」の現状を打破し、労働者の長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる。 **大企業にたいする民主的規制を主な手段として、その横暴な経済支配をおさえる。民主的規制を通じて、労働者や消費者、中小企業と地域経済、環境にたいする社会的責任を大企業に果たさせ、国民の生活と権利を守るルールづくりを促進するとともに、つりあいのとれた経済の発展をはかる。経済活動や軍事基地などによる環境破壊と公害に反対し、自然保護と環境保全のための規制措置を強化する。 ** [[食料自給率]]の向上、安全・安心な食料の確保、国土の保全など多面的機能を重視し、農林水産政策の根本的な転換をはかる。国の産業政策のなかで、農業を基幹的な生産部門として位置づける。 ** [[原子力発電所]]は廃止し、[[核燃料サイクル]]から撤退し、「原発ゼロの日本」をつくる。気候変動から人類の未来を守るため早期に「温室効果ガス排出量実質ゼロ」を実現する。環境とエネルギー自給率の引き上げを重視し、再生可能エネルギーへの抜本的転換をはかる。 **国民各層の生活を支える基本的制度として、[[社会保障|社会保障制度]]の総合的な充実と確立をはかる。子どもの健康と福祉、子育ての援助のための社会施設と措置の確立を重視する。日本社会として、少子化傾向の克服に力をそそぐ。 **国の予算で、むだな大型[[公共事業]]をはじめ、大企業・大銀行本位の支出や軍事費を優先させている現状をあらため、国民のくらしと社会保障に重点をおいた財政・経済の運営をめざす。大企業・大資産家優遇の税制をあらため、負担能力に応じた負担という原則にたった税制と社会保障制度の確立をめざす。 **すべての国ぐにとの平等・互恵の経済関係を促進し、[[南北問題]]や地球環境問題など、世界的規模の問題の解決への積極的な貢献をはかる。 === 社会主義的変革 === 綱領の記載は以下の通り。 {{quotation|日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる'''社会主義的変革'''が、課題となる。社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、[[私有財産]]が保障される。 |日本共産党綱領(2020年改訂)}} 「社会主義的変革」の概要は以下の通り。 *生産手段の社会化(搾取の廃止、生活向上、貧困消滅、労働時間短縮、人間的発展を保障する土台) ** [[計画経済|経済の計画的運営]]、不況の解消、環境破壊や格差拡大への規制 **物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件 *社会主義・共産主義の日本 **民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。民主主義の理念は社会的な現実となる。 **さまざまな思想・信条の自由、反対政党を含む政治活動の自由は厳格に保障される。「社会主義」の名のもとに、[[指導政党|特定の政党に「指導」政党としての特権を与えたり]]、特定の世界観を「国定の哲学」と意義づけたりすることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけられる。 *社会主義・共産主義の社会がさらに高度な発展をとげたとき **いっさいの強制のない、[[国家死滅|国家権力そのものが不必要になる社会]]、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる。 *社会主義的変革 **短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。 **その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。 **日本共産党は、社会主義への前進の方向を支持するすべての党派や人びとと協力する統一戦線政策を堅持し、勤労市民、農漁民、中小企業家にたいしては、その利益を尊重しつつ、社会の多数の人びとの納得と支持を基礎に、社会主義的改革の道を進むよう努力する。 **「国有化」や「集団化」の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない。 ** [[市場経済]]を通じて社会主義に進むことは、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向である。社会主義的改革の推進にあたっては、計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営、農漁業・中小商工業など私的な発意の尊重などの努力と探究が重要である。国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「[[統制経済]]」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される。 *これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、二一世紀の新しい世界史的な課題である。 == 政策 == === 憲法 === 1946年6月 [[日本人民共和国憲法草案]]を発表([[人民主権]]、[[天皇制廃止論|天皇制廃止]]、基本的[[人権]]、[[財閥]]的[[独占資本]]解体、[[一院制]]の国会、[[侵略戦争]]反対など<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/119/119tx.html 日本共産党の日本人民共和国憲法(草案)(1946)]</ref>)。同年8月、[[日本国憲法]]草案の国会審議では、以下の反対演説を行った。 {{quotation|私は日本共産黨を代表しまして、今上程されました委員長報告修正案及び之と切離すことの出來ない全憲法草案に付て、私達の所見を述べ、此の修正案及び原案全體に對して反對の意見を述べたいと思ふのであります。 *政府は金持の保護の爲には熱心であるが、貧乏人の生活權や[[労働権|勞働權]]を保障するやうな規定を設けることには反對して居る、我々は勤勞者の保護の規定を十分に含まないやうな憲法に贊成することは出來ない *總理大臣の任命、國會の召集と解散、總選擧の執行の如き重要な權限(中略)を天皇に與へることは、民主主義の原則から言へば明かに逆行する *天皇を規定する[[日本国憲法第1章|第一章]]は、古き[[天皇制]]を新しい形に於て殘さんとするもので(中略)明かに反民主的規定である *政府は天皇に對する[[不敬罪]]が存在することを言明して居ります<ref group="注釈">刑法の不敬罪条項は翌1947年に削除。</ref> * [[参議院|參議院]]がどんなものであるか、政府にも我々にも分らない儘にして、此の憲法を通過させることは不當であり、又違法 *當草案は戰爭一般の抛棄を規定して居ります、之に對して共産黨は他國との戰爭の抛棄のみを規定することを要求しました(中略)[[日本国憲法第2章|當憲法第二章]]は、我が國の[[自衛権|自衞權]]を抛棄して民族の獨立を危くする危險がある 當憲法は、我が國民と世界の人民の要望するやうな徹底した完全な民主主義の憲法ではない、(中略)財産權を擁護して、勤勞人民の權利を徹底的に保障しない憲法である、我が民族の獨立を保障しない憲法である、(中略)併し我々の數は少數であります、此の草案がここに可決されることは明かであります、それ故に我々は當憲法が可決された後に於ても、將來當[[憲法改正|憲法の修正]]に付て努力するの權利を保留して、私の反對演説を終る次第であります|1946年8月24日 第90回帝国議会 衆議院 本会議 [[野坂参三]] <ref>帝国議会会議録検索システムより抜粋</ref>}} 1947年の第1回国会以降、2016年まで[[国会開会式]]を欠席。理由は、開会式の形式が「帝国議会時代の反民主的行事のひきつぎであること、開会式での天皇の発言に国政に関する政治的発言がふくまれていたこと」であったが、2015年に「開会式での天皇の発言に変化が見られ(中略)発言の内容には憲法からの逸脱は見られなくなり、儀礼的・形式的な発言が慣例として定着した」として、[[第190回国会]]より開会式に出席。ただし「一方で、開会式の形式が戦前をそのまま踏襲するものとなっているという問題点は、現在にいたるもなんら改善されておらず、引き続き抜本的改革を求めていく」と表明した<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-06-04/2019060401_01_0.html 天皇の制度と日本共産党の立場(2019年6月) - しんぶん赤旗]</ref>。 綱領(2020年改訂)では、「現在必要な改革」である「民主主義革命」では以下を記載する。 *「[[日本国憲法前文|前文]]をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす」 *「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」 *「[[自衛隊]]については、海外派兵立法をやめ、[[軍縮]]の措置をとる。[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|安保条約]]廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での[[日本国憲法第9条|憲法第九条]]の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。」 === 財源 === 日本共産党は、以下の[[歳入]]と[[歳出]]の改革によって7兆円~12兆円程度の財源をつくることができ、さらに[[日本の警察|日本経済]]が[[家計]]・[[内需]]主導の成長の軌道にのれば安定的な税収増が見込めるので、消費税に頼らなくても安心できる社会保障の財源をつくることができると主張している<ref name="ko201006">[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010_1/2010-6-18_sanin_seisaku.html 参院選公約“アメリカ・財界いいなり”から「国民が主人公」の政治への転換を--そうしてこそ「政治を変えたい」という願いが生かせます]</ref>。 (1) 歳出 * 年間5兆円にのぼる[[軍事費]](防衛費)を1兆円削減するとしている<ref name="se201006">[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010_1/2010-6-19_sanin_seisaku_su.html 2010年参議院議員選挙にのぞむ日本共産党の政策集]</ref>(より正確には、海外派兵費用の削減としている)。 * 「1メートル1億円」かかる[[東京外かく環状道路|東京外環道]]計画を中止し<ref name="ko201006"/>、不要不急の事業を中止・延期するとしている。 * [[高速道路無料化]]を中止するとしている<ref name="se201006"/>。 * [[官僚]]の[[天下り]]を禁止し、政府・官僚・財界の癒着や特権にメスを入れて、浪費を正すとしている<ref name="se201006"/>。 * [[高速増殖炉]]「[[もんじゅ]]」への財政支出をやめ<ref name="ko201006"/>、危険な[[原子力発電]]推進予算にメスを入れるとしている。 * 使い道が不明のまま積み立てられている「経済危機対応・地域活性化予備費」1兆円を国民の暮らしのために活用するとしている。 * [[政党交付金|政党助成金]]を廃止するとしている。 (2) 歳入 * 下げすぎた[[所得税]]の最高税率を元に戻すとしている。 * 現在10%の証券優遇税制を20%に戻し、さらに諸外国なみに富裕層は30%以上に引き上げるとしている。 * [[相続税]]・[[贈与税]]の最高税率を元に戻すとしている。 * 大企業への優遇税制をあらためるとともに、下げすぎた大企業の[[法人税]]率を段階的に元に戻すとしている<ref name="se201006"/>。 * 大企業の過剰な[[内部留保]]と利益を、雇用と中小企業など社会に還元し、家計・内需主導の経済成長の軌道にのせるとしている。 === 雇用 === (1) 非正規雇用 * [[非正規雇用|非正規]]から[[正社員|正規]]への[[雇用]]の転換を、雇用政策、経済政策の柱として位置づけ推進するとしている。 * [[労働者派遣法]]の改正については、「常用型[[労働者派遣事業|派遣]]」と「専門業務」という政府案の抜け穴をふさぎ、「使い捨て」の働かせ方を規制し、派遣労働者から正社員への道を開く抜本的な修正案<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-21/2010052104_04_0.html 労働者派遣法「改定」案に対する日本共産党の修正案]</ref>の実現をめざすとしている。 * 期限の定めのある雇用契約は合理的な理由がある場合に限定し、非正規と正規の均等待遇の原則を確立するなど、非正規労働者の雇用と権利を守るとしている。 (2) 賃金 * 時給1000円以上を目標に、[[最低賃金]]を大幅に引き上げるとしている。 * 国や[[地方公共団体|自治体]]に賃金底上げの公的な責任を果たさせるとしている。 (3) 労働条件 * 違法な「[[サービス残業]]」を根絶し、[[時間外労働|残業]]の上限を法律で制限し、残業代の割増率を50%に引き上げるなど、長時間・過密労働をなくすとしている。 (4) 就職難の打開 * 非正規から正規への雇用の転換、長時間労働の是正、公務・公共分野での非正規化の中止、社会保障の拡充や環境重視への政治の転換による雇用創出が必要としている。 * 面接解禁日の設定や卒業後3年間は「新卒扱い」とするなど、学業と両立できる「[[就職活動|就活]]ルール」をつくるとしている。 (5) 失業者への支援 * [[雇用保険]]を抜本的に拡充するとしている。 * [[職業訓練施設|公共職業訓練所]]の統廃合をやめ、充実・強化するとしている<ref name="se201006"/>。 === 中小企業 === * [[中小企業]]は、企業数の99%、雇用の7割を支える日本経済の根幹であり、下請け単価の買いたたきや一方的な発注中止・変更などの無法をやめさせるために、[[下請代金支払遅延等防止法|下請け2法]]、[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]]の改正・強化をおこない、大企業と中小企業との公正な取引のルールをつくる、としている。 * 中小企業予算を1兆円に増額するなど本格的な支援に国があげてとりくむとしている。 * 高い技術力をもつ「日本の宝」=町工場を守るために、[[家賃]]・[[リース]]料などの[[固定費用|固定費]]補助の緊急支援などをすすめるとしている<ref name="ko201006"/>。 === 社会保障 === 社会保障を削減から充実へと抜本的に転換するとしている。 (1) 医療 * [[後期高齢者医療制度]]をすみやかに廃止するとしている。 * "窓口負担ゼロ"をめざし、まず[[高齢者]]と[[子ども]]の[[医療費]]の無料化を国の制度として実施するとしている。 * [[国民健康保険]]料を引き下げ、生活困窮者からの[[保険証]]取り上げをやめさせるとしている。 * [[診療報酬]]を抜本的に増額するとしている。 (2) 年金 * [[年金]]の受給条件を「25年以上」から「10年以上」に引き下げるとしている。 * 全額国庫負担で当面月5万円を保障し、支払った保険料に応じた金額を上乗せする、最低保障年金制度をすみやかに創設するとしている。 (3) 介護 * 国庫負担割合を[[介護保険]]発足前の50%にまで戻すことで財源を確保するとしている。 * [[住民税]]非課税の高齢者には原則として保険料・利用料を求めない仕組みをつくるなど、お金を心配せず利用できる介護制度をめざすとしている。 * [[要介護認定]]や利用限度額は廃止し、現場の専門家の判断で必要な[[介護]]を提供できる制度に改善するとしている。 * 5カ年計画で、42万人にのぼる[[特別養護老人ホーム|特養ホーム]]待機者の解消をめざすとしている。 * [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が前回[[衆議院議員総選挙|総選挙]]で公約した介護労働者1人4万円の賃上げのすみやかな実施を求めるとしている。 (4) 障害者 * [[障害者]]の[[福祉]]・[[医療]]の無料化をめざし、応益負担をすみやかに撤廃するとしている。 * [[障害者自立支援法]]を廃止して、[[特定疾患|難病]]や慢性疾患をもつ人、[[高次脳機能障害]]、[[発達障害]]など、支援を必要とするすべての人を対象とする障害者総合福祉法を制定するとしている。 (5) 貧困対策・生活保護 * 住所の有無や年齢などを理由にした[[生活保護]]申請の門前払いをやめさせるとしている。 * [[生活保護問題#老齢加算|老齢加算]]の復活をはじめ、[[自公政権]]によって改悪された生活保護の加算・給付を元に戻し、充実をはかるとしている<ref name="se201006"/>。 === 子育て支援 === (1) [[子育て]]と仕事が両立できる社会 * 残業規制の強化など[[長時間労働]]の是正、[[育児休業]]制度の改善、妊娠・出産にともなう不当な[[解雇]]や[[退職勧奨]]、不利益な扱いをなくすこと、若い世代に安定した雇用を取り戻すことなどが大切としている。 * 保育所の面積や職員配置などの国の最低基準をなくす[[規制緩和]]や、保育所に対する市町村の義務をなくし保護者と保育所の「直接契約・自己責任」にする動きなど、[[保育]]への公的責任を後退させ、負担増や格差をもち込む大改悪を中止させ、公的保育を守り、充実させるとしている。 * [[保育所]]に入れない[[待機児童]]をゼロにするために、当面1年間で10万人分、3年間で30万人分の保育所を国の責任で整備するとしている。 * [[保育士]]の待遇改善、保育料の負担軽減などのために、年間4000億円程度を確保するとしている。 * [[幼稚園]]の授業料の負担軽減や、希望者全員が入れる[[学童保育]]をめざすとしている。 (2) 子どもの医療費 * 子どもの医療費負担軽減を拡充するとしている。 (3) 教育費 * 高校も大学も無償化していくことは、[[国際人権規約]]で定められている世界のルールであり、ヨーロッパでは教育費負担がほとんどかからない国が少なくないとの認識から、義務教育、高校、大学、[[専門学校]]をふくむすべての段階で教育費の軽減・無償化をすすめるとしている。 (4) 子どもの貧困 * 生活困窮[[世帯]]の子どもに給食費・学用品などを援助する「[[就学援助]]」への国庫補助を復活するとしている。 * [[児童福祉施設]]の生活と進学保障の充実、[[児童相談所]]の体制強化を緊急にすすめるとしている<ref name="se201006"/>。 === 男女共同参画 === (1) 「間接差別」を全面的に禁止する * 均等法に「すべての間接差別の禁止」を明記し、権限のある救済機関を設置し、[[欧州連合|EU]]のように使用者に「差別はしていないこと」の立証責任をもたせ、実効ある措置をとるとしている<ref name="akahata20141022">[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-10-22/2014102205_01_0.html 「女性への差別を解決し、男女が共に活躍できる社会を」しんぶん赤旗 2014年10月22日]</ref><ref name="teian20141021">[http://www.jcp.or.jp/web_download/seisaku/josei20141021.pdf 「女性への差別を解決し、男女が共に活躍できる社会を -日本共産党は提案します-」、2014年10月21日]</ref>。 (2) 女性も男性も利用できる育児休業制度の推進 * 女性でも男性でも利用できるように、所得保障を父母それぞれに3カ月間は100%にする、保育所入所ができない場合には育児休業の1年以内の延長を可能にするなど制度の拡充をすすめていく<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 (3) 労働者への残業規制、長時間労働の是正 * 女性労働に対する差別的な扱いは、日本の企業の男性労働者の働かせ方にも大きな根源があるとしている<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 (4) 女性の貧困問題の解決をはかる * 女性に対する非正規・低賃金雇用による差別をなくしていく<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 * シングルマザーへの経済的支援を行っていく<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 (5) 選択的[[夫婦別姓]]制度の実現 * 法律で夫婦同姓を義務づけている国は先進国では日本だけであり、民法改正で選択的夫婦別姓制度の導入とともに、男性18歳、女性16歳と男女で異なる結婚最低年齢を18歳に統一し、女性のみに課せられている離婚後6カ月間の[[再婚禁止期間]]を廃止する、戸籍法に残る婚外子差別規定を撤廃するなど、家族に関する法律上の差別を全面的に改正していく<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 * 女性差別撤廃条約の批准国には、条約の規定にそってすべての法律を見直し、女性に対する差別となる規定を改正する義務がある<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 (6) 女性の登用 * 民間企業に改善計画、数値目標等の策定・公表を義務づけるようにする。 * 国と自治体が責任をもって公務員に女性登用をするようにする。 * 政治や行政、司法、経済などの分野で、政策・方針決定過程において女性の平等な参加を保障するようにする<ref name="akahata20141022" /><ref name="teian20141021" />。 === ジェンダー === (1) 同性婚を認める民法改正およびLGBT平等法の制定<ref name="teian20211001">[https://www.jcp.or.jp/web_policy/2021/10/post-888.html#_s04 「ジェンダー平等の日本へ いまこそ政治の転換を」、2021年10月1日]</ref>。 (2) 刑法・DV防止法を改正し、被害者支援の強化<ref name="teian20211001"/>。 (3) 中絶薬の早期認可、刑法の自己堕胎罪や、母体保護法の配偶者同意要件の廃止<ref name="teian20211001"/>。 === 教育 === 日本共産党は、教育格差、競争や管理などのゆがみをただし、子どもたちが「わかった!」と目を輝かす授業、子どもの声をじっくり聞いてあたたかく接する先生-そんな教育が全国どこでもおこなわれるようにするとしている。 (1) 教育費の負担軽減 :「[[日本共産党#子育て支援|子育て支援]]」を参照 (2) 教育条件 * [[経済協力開発機構|OECD]]加盟国で最低水準の教育予算を早期に平均まで引き上げるとしている。 * 教職員を増員・[[正規雇用|正規]]化し、国の制度として「30人以下学級」を実施するとしている。 * [[私立学校|私学]]助成を増額し、公私間格差を是正するとしている。 * 大学を疲弊させている「基盤的経費」の減額をやめ増額し、基礎研究や若手研究者支援などを拡充するとしている。 * 教職員の身分を不安定にし、教育・研究環境に悪影響をもたらす任期採用制に反対している。 (3) 教育の自由と自主性、子どもの豊かな成長 * 上意下達の学校運営をやめ、教職員、子ども、保護者等の参加と共同で学校を運営できるようにするとしている。 * 教員の「多忙化」を解消するとしている。 * [[学習指導要領]]の[[法的拘束力]]をなくし、内容も国民の英知を集めて改めるとしている。 * [[教科用図書検定|教科書の検閲的な検定]]をやめ、[[教科書採択|採択]]に教員や父母の意向を反映させるとしている。 * [[人権|基本的人権]]を大切にする市民道徳の教育を重視するとしている。 * [[いじめ]]のもみ消しを根絶し、子どもの命最優先の学校をつくるとしている。 * 子どもの気持ちを無視する「不登校ゼロ」政策をやめ、[[不登校]]の子どもの学びと自立を支援するとしている。 (4) 競争・ふるいわけ教育 * 「[[全国学力・学習状況調査|全国いっせい学力テスト]]」を中止し、すべての子どもに基礎的な学力を保障する体制をつくるとしている。 * 高度に競争的で子どもの成長をゆがめている高校や大学の[[入学試験|入試]]制度を改革するため、国民的検討の場を設け、改革に着手するとしている。 (5) 教育の制度と法律 * [[教員免許更新制]]、教育活動の数値化など教育の条理に反する制度を見直し・廃止するとしている。 * 硬直化した[[教育委員会]]制度を民主的な制度に刷新するとしている。 * [[子どもの権利]]を教育のあらゆる場で保障するとしている。 * [[君が代]]・[[日本の国旗|日の丸]]の強制、[[侵略戦争]]の美化の[[公教育]]への持ち込みに反対するとしている<ref name="se201006"/>。 ==== 国立大学年間授業料増加のチラシ ==== 2015年の秋ごろから、日本共産党は、[[国立大学]]の年間授業料を安倍政権が15年後に約40万円増やすとしたチラシを作成し、党の公式ウェブサイトにも掲載していた<ref name="sankei20160718-4">{{cite news |和書|title=【日本共産党研究】「防衛費は人を殺す予算」発言だけじゃない 「たら」「れば」を事実のように語る共産党のデマ・炎上体質を斬る|newspaper=産経新聞|date=2016-07-18|url=https://www.sankei.com/article/20160718-7LQUXBKBXVNHVPU6IPVVI3RPXU/4/|accessdate=2017-04-20|pages=4-5}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.jcp.or.jp/web_download/pluster/2015_4/201512-gakuhi-pla.pdf |title=安倍政権が史上最悪 学費値上げ 学生、父母、大学人の共同でストップさせましょう |access-date=2023-12-07 |publisher=日本共産党 |format=PDF |archive-url=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9600656/www.jcp.or.jp/web_download/pluster/2015_4/201512-gakuhi-pla.pdf |archive-date=2016-01-06 |language=ja |date=2015-12}}</ref>。 これについて、2016年2月3日午前に開催された衆院予算委員会で、[[安倍晋三]]が「値上げは決まっていない。全くのデマゴーグだ。選挙を前に極めて有権者を惑わせる」と批判し<ref>{{Cite web |url=https://kokkai.ndl.go.jp/minutes/api/v1/detailPDF/img/119005261X00620160203 |title=第190回国会 衆議院予算委員会議事録 第6号 |access-date=2023-12-07 |date=2016-02-03 |format=PDF |website=国会会議録検索システム |pages=18-19}}</ref>、公明党政調会長の[[石田祝稔]]が「『たら』『れば』の世界のことを事実のように書いて若い人に配っている。けしからん」と述べ訂正を求められる事態となった<ref name="sankei20160718-4"/>。共産党国対委員長の[[穀田恵二]]は3日午後の記者会見で、チラシの誤りや訂正には触れずに「(値上げ反対の)運動があったからこそ今年度の学費値上げはなくなった。非常に効果があったと自負している」「(政府が来年度以降に)上げないとは言っていないというのが今の焦点だ」と述べたが<ref name="sankei20160718-4"/>、午後には、「安倍政権が学費値上げ」と書かれていた箇所を「安倍政権が」ではなく「安倍政権のもとで狙われる」に修正し、さらには「試算」の文字も加筆され訂正がなされた<ref name="sankei20160718-4"/>。 2月8日の政府与党連絡会議においても、安倍首相は、共産党が制作したチラシを「デマ」であると主張し、「現場の学生たちは困惑している。こういったデマに学生が惑わされることのないように、しっかり情報発信をしていきたい」と述べている。これについて、8日に共産党書記局長の[[山下芳生]]が「チラシは適切にバージョンアップした」と、あくまでも「修正」ではないことを強調する発言をしている<ref name="sankei20160718-4"/>。 産経新聞は、共産党は「デマ」を5カ月間にわたって広報していたとし、「あくまで正当性を訴え、自らの非は認めなかった。」と批判している<ref name="sankei20160718-4"/>。 === 農林漁業 === (1) 農業における価格保障と所得補償 * 価格保障と所得補償により、米60kgあたり1万8千円前後が保障されるようにするとしている。 (2) 後継者確保 * 「月15万円を3年間」の支給を柱とする「新規就農者支援法」の制定や、林業、漁業の新規就業者への支援制度の創設に取り組むとしている。 * 新規就業者の技術指導を引き受ける農林漁業者、[[農業法人|農業生産法人]]、[[森林組合]]、[[漁業協同組合|漁協]]にたいする援助を強化するとしている。 (3) 貿易ルール * 農業に壊滅的な打撃を与える[[日本・オーストラリア経済連携協定|日豪EPA]]や日米[[自由貿易協定|FTA]]に断固反対している。 * [[世界貿易機関|WTO]]農業協定を根本から見直し、[[関税]]の維持・引き上げなどの輸入規制や価格保障など食料・農業政策を自主的に決定する権利=「食料主権」を保障する貿易ルールを確立するとしている。 * 林産物、水産物についても環境や資源循環を守る立場から輸入を規制し、国内の林業・水産業の振興を保障する貿易ルールをめざすとしている。 * [[日本のTPP交渉及び諸議論|日本の]]環太平洋戦略的経済連携協定([[環太平洋パートナーシップ協定|TPP]])参加に[[日本のTPP交渉及び諸議論#反対派の政党|反対]]している。その理由として、農林水産業に壊滅的な被害をもたらすこと、震災復興に悪影響となること、食品安全、医療、雇用、国民生活のあらゆる分野に被害を及ぼすことを挙げている<ref>{{Cite news|title=たたかいはこれからが正念場――TPP参加断念までがんばりぬこう/志位委員長のあいさつ|date=2011-08-28|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-08-28/2011082803_01_0.html|newspaper=しんぶん赤旗|accessdate=2011-11-10}}</ref>。 (4) 予算 * 農業の再生や[[食料自給率]]の回復には、長期の見通しに立った計画的な取り組みと予算の思い切った増額が必要としている。農家が安心して生産に取り組める水準の価格保障・所得補償に4千億円、食料自給率50%をめざした増産に4千億円を含め、1兆円の農業予算の増額が必要としている。これは農業予算の割合を2000年の水準に戻せば可能としている。 (5) 食の安全 * BSE([[牛海綿状脳症]])対策で全頭検査を維持するなど食に関する信頼を高めるとしている<ref name="se201006"/>。 === 地球温暖化防止、エネルギー問題 === (1) 二酸化炭素の削減 *2010年に廃案となった民主党の地球温暖化対策基本法案は、[[途上国]]を含むすべての主要国が[[二酸化炭素|CO2(二酸化炭素)]]の大幅削減に同意しない限り、日本のCO2中期削減目標を設定しないとしていた。共産党は、こうした姿勢では先進国としての責任を果たせないと批判し、2020年までに1990年比でCO2を30%削減することを明確にした日本の中期目標を確立し、実現していくための手だてを講じるとしている。 *日本の二酸化炭素排出の8割は企業であり、共産党は、国と産業界との間で削減目標を明記したCO2削減協定を義務づける必要があるとしている。 (2) 自然エネルギーの活用 *日本共産党は、[[再生可能エネルギー|自然エネルギー]]による電力を、10年程度で初期投資を回収できる価格で電力会社が全量買い取る「固定価格買い取り義務制度」を導入するとしている。 *日本共産党は、日本や東アジアの気候にあった発電機器の開発をすすめるとしている。 *日本共産党は、日本の再生可能エネルギーの利用や[[省エネルギー]]の技術・ノウハウを生かして、途上国の[[温暖化]]対策を支援するとしている。 *大型[[風力発電]]機、ポンプ、[[圧縮機|コンプレッサー]]などから発生する[[低周波音|低周波]]騒音・振動によって、不眠、頭痛、めまいなどの健康被害が出ている。共産党は、低周波の健康への影響について調査・研究し、設置のさいの距離条件の設定、低周波を発生しない製品の開発など、本格的な対応が必要としている<ref name="se201006"/>。 (3) 原子力発電 *民主党政権は、原子力発電を「温暖化対策の切り札」とし、長期的には電力の半分以上を原子力発電でまかなおうとしていた。共産党は、原子力発電は技術的に未確立で、[[原子力事故|事故]]や[[放射性廃棄物|廃棄物]]による[[放射能]]汚染という環境破壊の危険も大きい<ref name="se201006"/>ため、原発大増設路線をやめ、段階的に原子力発電から撤退するとしている。[[プルサーマル]]、高速増殖炉など、[[核燃料サイクル]]政策は中止するとしている<ref name="ko201006"/>。 *1986年の[[チェルノブイリ原子力発電所事故]]の時点では、原子力の危険性を指摘しつつも平和利用は肯定しており、技術革新によってより安全な原発を目指すという立場を取っていた。そのため、原発推進を批判する一方で、社会党などの完全な脱原発論に対しても批判していた<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=111114379X00119871211 第111回国会 産業・資源エネルギーに関する調査会 第1号] 参議院 1987年12月11日 [[小笠原貞子]]の質問参照</ref><ref>日本共産党 『原発―推進政策を転換せよ』 1988年</ref>。しかし、2000年11月24日の第22回党大会決議で、「再生可能エネルギーの開発をすすめながら、原発からの段階的撤退をめざすべきである。」と方向転換した<ref>日本共産党 [http://www.jcp.or.jp/jcp/22taikai/22th_ketugi_201125.html 日本共産党第22回大会決議]</ref>。 === 外交・安全保障 === ==== 自衛隊 ==== 綱領では、「民主主義革命」後に「[[自衛隊海外派遣|海外派兵立法]]をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」とする'''段階的解消論'''である<ref>[http://www.jcp.or.jp/jcp/21th-kaigi/21-7tyuso/201001_n_fuwa.html 日本共産党第22回大会議案 不破さん独占インタビュー 話題の「前衛政党」「社会主義革命」「憲法と自衛隊」…。]</ref>。 歴史的にみると、1946年には[[日本国憲法第2章]]は自衛権の放棄で民族の独立を危うくする<ref>{{Wayback|url=http://ironna.jp/article/1863|title=日本の平和と安全を真面目に考えられなくなった日本共産党|date=20151116201736}}</ref>と反対していたが、1961年の綱領では自衛隊は「事実上アメリカ軍隊の掌握と指揮のもとにおかれており、日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの[[極東]]戦略の一翼としての役割をおわされている」とし、1961年から1994年までは「自衛隊の解散を要求する」と明記していた<ref name="shiryoukan">{{Wayback|url=http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/|title=日本共産党資料館|date=20060713192907}}</ref>。1980年代ごろまでは、対米従属の自衛隊は解消し、その後に国民合意の下で憲法9条を改正し、自衛のための組織を持つという[[武装中立]](中立自衛)政策であり、[[非武装中立|非武装]]論や[[護憲]]論ではなかった(ただし、[[徴兵制]]は導入しないとしていた)<ref>「転換期の「安保」」(毎日新聞社、1979年)404p</ref><ref>「成田知巳論文論説集 第1巻」([[社会新報]]、1969年)75p</ref>。 その後、日本共産党は1994年の第20回党大会で、現行の日本国憲法第9条(戦争の放棄、戦力の不保持)は将来にわたって継承・発展させるべきものであり、社会主義・共産主義の理想と合致したものであると表明した。さらに2000年の第22回大会で、同党の自衛隊政策を、(1) [[軍事同盟]]である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2) 日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3) 国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という「段階的解消論」に転換した。 なお、[[日本共産党第22回大会|第22回大会]]では、(1) または (2) の段階で万が一、急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定した。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重である。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられ、大会でも代議員から批判的な意見も出た<ref>しんぶん赤旗別刷り学習党活動版</ref>。 2001年12月22日の[[九州南西海域工作船事件]]では当初は態度を表明しなかったが、[[志位和夫]]委員長は「日本への主権侵害に対応するのは第一義的に警察力である[[海上保安庁]]だ。その機能を充実させることは必要だ」と発言し、後に海上での攻撃を可能とする海上保安庁法改定案に賛成した。 2007年6月には[[陸上自衛隊]][[情報保全隊]]が密かに収集していた[[イラク戦争]]反対の市民団体や著名人のリストを入手し公表した(詳細は''[[情報保全隊#市民活動監視問題|情報保全隊の市民活動監視問題]]''を参照)。 2016年6月26日、当時の政策委員長の[[藤野保史]]がNHKの討論番組において、[[防衛費]]について「軍事費は戦後初めて5兆円を超えたが、人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先していくべきだ」と発言した<ref>{{Cite news|title=【共産「人殺す予算」発言】稲田朋美、石田祝稔、和田政宗ら各氏が「訂正した方がいい」「御党のためだ」と忠告したが…|newspaper=産経新聞 |date=2016-06-27| url=https://www.sankei.com/article/20160627-N3B7KLTV7BMWJEXW4DT3P5IJPA/|accessdate=2020-06-08}}</ref>。共産党の志位委員長はこの発言を「不適切」として藤野に対して口頭で注意した。藤野は政策委員長を辞任した。また、[[敵基地攻撃能力]]の保有については反対の立場である。 ==== 在日米軍 ==== * 日本共産党は、「[[米軍再編]]」の名で「日本防衛」とは無縁の海外遠征-[[アメリカ海兵隊|"殴り込み"部隊]]の司令部機能や機動性が強化されようとしていると主張している。 * 沖縄県[[名護市]]の[[辺野古]]に巨大な[[在日米軍|米軍]]新基地を建設する方針の撤回、[[普天間飛行場|普天間基地]]の無条件撤去を強くもとめるとしている。 * アメリカ領土内([[グアム]])の米軍基地建設費を日本国民が負担するのは、国際的にも歴史的にも例がなく、まったく道理がないとしている。 * 日本共産党は、基地強化・永久化に反対し、基地のない平和な日本をめざして国民とともにたたかうとしている。 * [[日米地位協定]]を抜本改定し、主権国にあるまじき米軍優遇の特権をなくすために力をつくすとしている<ref name="se201006"/>。 === 国会 === (1) 選挙制度 * [[小選挙区制]]を廃止し、[[比例代表制]]を中心とした[[選挙]]制度を実現するとしている。 (2) 議員定数 * 国会議員の削減をやめ、「[[一票の格差]]」是正を実現するとしている。 (3) 「国会改革」 * 議会制民主主義の形がい化をもたらす「国会改革」に反対するとしている<ref name="se201006"/>。 === 永住外国人の地方参政権付与問題への立場 === {{see also|日本における外国人参政権}} 日本共産党は[[永住外国人]]に対する[[外国人参政権]]付与問題について、[[選挙権]]だけでなく[[被選挙権]]も与えるべきであると、地方[[参政権]]を付与すべきとの積極的な立場を表明している。 [[在日本大韓民国民団]]の新年会に出席し志位和夫委員長は[[緒方靖夫]]副委員長(国際局長)、小池晃参院議員(政策委員長)、[[井上哲士]]参院議員と共に「歴史の真実を日韓での共有が友好の基礎であり、日本共産党はそうした立場で活動しています」と述べ、地方参政権については、「日本共産党は永住外国人に選挙権だけでなく被選挙権も付与する立場でがんばっています」と述べ、一日も早い立法のために努力すると約束した。あいさつ最初と最後を[[韓国語]]で締めた。永住外国人には([[地方参政権]]において)選挙権だけでなく被選挙権も与えるべきと在日本大韓民国民団の新年会に出席した際に述べた<ref>しんぶん赤旗 [http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-01-10/2009011002_03_0.html 民団の新年会に志位委員長が出席]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/seisaku/006-0609/eijyuu_gaijin_sanseiken_.html 永住外国人の地方参政権/法案要綱 永住外国人に地方参政権を保障するための日本共産党の提案(1998年11月17日)]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-01-10/2009011002_03_0.html 民団の新年会に志位委員長が出席 しんぶん赤旗2009年1月10日]</ref>。但し、国政についての参政権付与については「国家主権に反する」として反対している<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-10-13/1013faq.html 在日外国人の参政権 どう考える? 2004年10月13日(水)「しんぶん赤旗」]</ref>。 === 領土問題に対して === ==== 北方領土問題 ==== 日本共産党は「千島問題」([[北方領土問題]])では、[[北方地域|北方4島]]だけではなく、[[得撫島]]や[[占守島]]を含む[[千島列島]]全島の返還を[[ロシア|ロシア連邦]]に求めている。理由は、南千島(北方領土)に関しては、1855年に結ばれた[[日露和親条約]]により、北千島に関しては1875年に結ばれた[[樺太・千島交換条約]]によって「平和的な領土交渉」が行われた結果、千島列島全島が日本に帰属したと同党は認識しているからである。また[[日本国との平和条約]]の第2条(c)にもとづいて[[日本国政府]]が千島列島の権利を放棄したことに対しては、戦後処理に問題があったとして、誤りを正すべきだとしている<ref>[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/201005_faq_tisima_kaitetu_.html 千島問題の解決でいま必要なことは? 2000年10月5日(木)「しんぶん赤旗」 (2010年12月24日閲覧)]</ref>。一方[[樺太|樺太(サハリン)]]は南北ともにロシア領であると主張している。なお、千島列島全島の領土権を主張しているのは日本の主要政党では日本共産党のみである{{refnest|group="注釈"|2016年時点で日本共産党以外で国会に議席を持つ政党は政府見解と同じ四島返還論を主張している<ref name="sankei201606">{{Cite news|author=佐藤優|title=【佐藤優の世界裏舞台】共産党が国民政党になったと見るのは危険だ あの政党は普通の政党ではない|newspaper=産経新聞|date=2016-06-19|url=https://www.sankei.com/article/20160704-JZJQ355FFFJAFAYZ4ZLRYHL6GA/}}</ref>。{{要出典範囲|議席を持たない政治団体としては、[[維新政党・新風]]が千島列島全島と[[南樺太]]の返還を求めている|date=2014年2月}}。}}。 {{Quotation| スターリン時代の旧ソ連は、第二次世界大戦の時期に、バルト三国の併合、中国東北部の権益確保、千島列島の併合をおこないました。これは「領土不拡大」という連合国の戦後処理の大原則を乱暴にふみにじるものでした。このなかで、いまだにこの無法が正されていないのは、千島列島だけになっています。ヤルタ協定の「千島引き渡し条項」やサンフランシスコ条約の「千島放棄条項」を不動の前提にせず、スターリンの領土拡張主義を正すという正義の旗を正面から掲げて交渉にのぞむことが、何より大切であることを強調したいのであります。 (2005年2月7日 日本共産党委員長 志位和夫)<ref>「北方領土返還要求全国大会」での志位委員長のあいさつ[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-08/02_02.html]</ref> 日露領土問題の根源は、第2次世界大戦終結時におけるスターリンの覇権主義的な領土拡張政策にある。スターリンは、ヤルタ会談(1945年2月)でソ連の対日参戦の条件として千島列島の「引き渡し」を要求し、米英もそれを認め、この秘密の取り決めを根拠に、日本の歴史的領土である千島列島(国後、択捉(えとろふ)から{{efn|日本政府は国後・択捉は南クリルであり歴史的にも法的にも日本固有の領土としている。}}、占守(しゅむしゅ)までの全千島列島)を併合した。これは「[[カイロ宣言]]」(1943年11月)などに明記され、自らも認めた「領土不拡大」という戦後処理の大原則を蹂躙(じゅうりん)するものだった。しかもソ連は、千島列島には含まれない北海道の一部である歯舞群島と色丹島まで占領した。第2次世界大戦終結時に強行された、「領土不拡大」という大原則を破った戦後処理の不公正を正すことこそ、日ロ領土問題解決の根本にすえられなければならない。 (2010年11月9日 日本共産党委員長 志位和夫)<ref>歴代自民党政権の日ロ領土交渉方針の根本的再検討を(2010年11月9日 日本共産党)[http://www.jcp.or.jp/seisaku/2010/20101109_ryoudo_shii_seifu.html]</ref> }} なお、1962年3月9日に衆議院本会議において北方領土回復決議が採決される際、日本共産党は「領土問題はヤルタ協定、カイロ宣言、ポツダム宣言等の国際協定で解決済みであり、国連憲章もまたそれを確認している」「実現不可能な不法な領土要求をソ連に突きつけ、対ソ報復主義を煽って日ソ共同宣言を破棄し、平和条約の締結を不可能にするもの」として反対票を投じている。 ==== 竹島問題 ==== 日本共産党は、[[竹島問題]]では、日本に[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]の領有権があるという政府の主張は根拠のある正当なものだとしている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-24/2006042402_04_0.html 「竹島」 衝突回避を歓迎 2006年4月24日(月)「しんぶん赤旗」 (2010年12月24日閲覧可能)]</ref>。その上で「韓国は竹島の一方的占拠を中止せよ」と唱え、日本と韓国の話し合いを主張している。ただ、1905年の大日本帝国の領有宣言に関して、当時の[[大韓帝国]]が[[大日本帝国]]により事実上外交権を奪われており、日本による領有に反対を唱えることができなかったことは考慮すべきであると主張している<ref>{{Cite news |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-07-17/2002-0717faq.html |title=【竹島の帰属が問題になっているわけは?】 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2002-07-17 |accessdate=2010-12-21 }}</ref>。 ==== 尖閣諸島問題 ==== 日本共産党は[[尖閣諸島問題]]では、1972年に[[尖閣諸島]]は「日本の領土であることは明らかである」との党見解を発表し、現在まで一貫してその立場を変えていない。理由は、日本が占有する前の尖閣諸島は[[国際法]]上でいう「[[無主地|無主の地]]」であったために日本政府が1895年1月14日の閣議決定で日本による尖閣諸島の日本領への編入行為を行ったことは、「[[日清戦争]]による台湾・[[澎湖列島]]の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった」と認識しているからである。また、[[中華人民共和国|中国]]と[[中華民国|台湾]]の領土権主張に関しては、1969年に国連アジア極東経済委員会の報告で尖閣諸島に莫大な地下資源が眠っていることが明らかになってから、初めて領土権を主張しているのは明らかであるために、中国及び台湾の主張には正当性がないという見解である<ref name="msnsankei20101105_10">{{Cite news |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-20/2010092001_03_1.html |title=【日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える】 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2010-09-20 |accessdate=2010-12-21 }}</ref>。 2010年9月4日の[[尖閣諸島中国漁船衝突事件|尖閣漁船衝突事件]]では直後に、尖閣諸島は日本固有の領土であるという従来の党見解を改めて発表した。中国政府に対しては、「今回のような問題が起こった場合、事態をエスカレートさせたり、緊張を高める対応を避け、冷静な言動や対応をおこなうこと」を求めた<ref name="msnsankei20101105_10">{{Cite news |url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-20/2010092001_03_1.html |title=【日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える】 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2010-09-20 |accessdate=2010-12-21 }}</ref>。10月4日には[[日本国政府|日本政府]]に対し「日本の領有は歴史的にも国際法上も正当だ。政府は堂々とその大義を主張すべきだ」とする提言書を志位委員長が[[内閣総理大臣官邸]]で[[仙谷由人]]官房長官に手渡した。また、その提言書を英訳して各国の在京[[大使館]]に配布することを表明するなど積極的な活動を行っている<ref>{{Wayback|url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/447597/|title=「共産、「尖閣領有の大義」主張を 弱腰政府にねじをまく」:イザ!|date=20101008055950}}</ref>。 === ギャンブルに対して === [[パチンコ]]店内にATMが設置されていることについて警察が黙認し規制措置をとっていないことやパチンコに負けた客がパチンコ店内で現金を引き出して被害を受けている問題を追及している<ref name="akahata20091117">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-17/2009111715_01_1.html | title =パチンコ店内 ATM設置 警察認識 届け出許可、規制せず | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2009-11-17 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref name="akahata20101126">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-26/2009112615_01_1.html | title =パチンコ店ATM野放し 設置場所基準なし 個別銀行の「判断」任せ 全銀協 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2009-11-26 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。パチンコ店内にATM設置を推し進めてきた[[農林中央金庫]]は日本共産党の強い批判を受けて設置を取りやめるようになった<ref name="akahata20100122">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-22/2010012201_02_1.html | title =パチンコATM 設置しません 農林中金 全国に通知 本紙記事添付 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2010-01-22 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref name="akahata20100324">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-24/2010032401_04_1.html | title =パチンコATM 広がる撤去 「4~5年で8000台」計画 説明文から削除も | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2010-03-24 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref name="akahata20091217">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-17/2009121715_01_1.html | title =パチンコATM 銀行撤退へ 「社会的批判」に配慮 契約3行中1行が表明 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2009-12-17 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。[[パチンコ・チェーンストア協会]]の顧問を務める国会議員達がパチンコを合法化しようとする動きに対して強く批判している<ref name="akahata20111029">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-29/2011102901_04_1.html | title =パチンコ 合法換金狙い 山岡消費者担当相ら助言役 大門氏が追及 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2011-10-29 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。 また、[[カジノ]]合法化や地方自治体の[[カジノ#日本|カジノ誘致]]の動きに対しては、かねてから強く反対している<ref>しんぶん赤旗 2013年10月8日</ref>。 {{also|カジノ#日本}} === 同和問題 === [[人権擁護法案|人権侵害救済機関設置法案]]に批判的な立場をとっている<ref name="akahata20110628">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-06-28/2011062805_02_1.html | title =同和行政終結へ交流 人権侵害の法案づくり批判 人権連が全国研究集会 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2011-06-28 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。また、[[部落問題|同和問題]]の解決のために[[税金]]から[[部落解放同盟]]への補助金や海外旅行費用などがなされている問題について、共産党が有力な自治体などでは職員に代わり交渉の前面に立つなどして予算廃止を打ち出すなど強い姿勢で臨んでいる<ref name="akahata20101206">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-12-06/2010120613_01_0.html | title =列島だより 安心・健康な御代田町へ 同和事業廃止 福祉施策ぐんと | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2010-12-06 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref name="akahata20110222">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-22/2011022204_01_0.html | title =長野・御代田町長選 茂木氏の圧勝 実績、町民の心つかむ 良識が「同和復活」阻んだ | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2011-02-22 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。同和団体への法令に基づかない公金支出についても調査から裁判にいたる活動を行っている<ref name="akahata20060429">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-29/2006042915_02_0.html | title =補助金約5億を流用 「解同」系芦原病院 市は黙認、虚偽報告 大阪 | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2006-04-29 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref><ref name="akahata20110203">{{Cite web|和書 | url = http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-03/2011020304_01_1.html | title =不公正な同和行政に支出 大東市長に2500万円返還命令 大阪地裁判決 市に損害与えた | work = しんぶん赤旗 | publisher = '''日本共産党''' | date = 2011-02-03 | accessdate = 2011-11-03 }}</ref>。 == 党員 ==<!-- 党員は組織の単位ではない。別の概念 --> 18歳以上の[[日本国籍|日本国民]]で、党の綱領と規約を認め、なおかつ規定の入党費を納めた人が[[党員]]となることができる。戦前のコミンテルン時代は一国一共産党の原則により[[台湾]]や[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]も活動範囲としたこともあり、[[阪神教育事件]]でも分かるように戦後しばらくまで[[在日韓国・朝鮮人]]や[[在日中国人|中国大陸系華僑]]・[[在日台湾人|台湾系華僑]]の党員も多数在籍していた。このうち、中国大陸系華僑は[[中国共産党]]に取り込まれ、朝鮮系は1955年(昭和30年)の[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総聯]]結成と同時に多くが事実上移籍する形で離党。残った者も1966年(昭和41年)の[[日本共産党第10回大会|第10回党大会]]で規約に'''「日本人であることが党員の資格」'''と明記されたのを受け、日本への帰化を選択した者以外は離党に追い込まれた。{{see also|中国共産党#日本との関係|日台関係史#国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)}} 党員は、党の組織に加わって活動し、規定(収入の1パーセント)の党費を納める(規約第4条)。2010年(平成22年)の第25回党大会時は約40万6千人の党員がいたが<ref>志位和夫「[http://www.jcp.or.jp/jcp/25th_taikai/02_25th_houkoku.html 第25回党大会にたいする中央委員会報告]」 日本共産党中央委員会(『しんぶん赤旗』2010年1月15日)</ref>、2012年(平成24年)5月までに実態のない党員約9万人に離党措置をとった結果、同年5月1日現在で約31万8千人となっている(第4回全国活動者会議幹部会報告)。党費納入者は政治資金収支報告書から、およそ25万4000人と推定される<ref name="touhi">{{WAP|pid=3193264|url=www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SF20111130-8.html|title=政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書公開|date=2011-12-09}}※同党の政治資金収支報告書は、月ごとの党費納入者数を延べ数で報告しているため、政治資金収支報告書に記載されている員数3,045,049を12で割った253,754が党費納入者数と推定することができる。</ref>。 === 権利と義務 === 党員の権利と義務として、党規約第5条は以下の10項目を列記している(抜粋)。 # 市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす。 # 党の統一と団結に努力し、党に敵対する行為はおこなわない。 # 党内で選挙し、選挙される権利がある。 # 党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる。 # 党の諸決定を自覚的に実行する。決定に同意できない場合は、自分の意見を保留することができる。その場合も、その決定を実行する。党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない。 # 党の会議で、党のいかなる組織や個人にたいしても批判することができる。また、中央委員会にいたるどの機関にたいしても、質問し、意見をのべ、回答をもとめることができる。 # 党大会、中央委員会の決定をすみやかに読了し、党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる。 # 党の内部問題は、党内で解決する。 # 党歴や部署の如何にかかわらず、党の規約を守る。 # 自分に対して処分の決定がなされる場合には、その会議に出席し、意見をのべることができる。 中央機関紙(「しんぶん赤旗」)を「読む」(「買う」ではない)ことは2000年(平成12年)以前の旧規約では重要な義務だった。現在は規約上の義務ではないが、党費納付・支部会議への参加・学習努力と活動参加に加えた「4つの大切」<ref>「[http://www.jcp.or.jp/jcp/touin/index.html 入党のよびかけ]」</ref>の一つとして重視される努力目標である。 === 入党 === 入党希望者は、党員2名の推薦をうけ、入党費(2021年2月現在は300円)をそえて申し込む。入党手続きは、支部で個別に審議したうえで決定し、地区委員会の承認を受けて完了する。ただし、地区委員会以上の指導機関も直接入党を決定することができる。 なお1966年(昭和41年)の第10回党大会から1980年(昭和55年)の[[日本共産党第15回大会|第15回党大会]]までは、入党費納付後最低5か月間の党員候補期間を経た上で、支部での審査と地区委員会の承認手続きが行われることになっていた。{{main|日本共産党第10回大会#党員候補制度の導入}} 審査の際に、「著しく反社会的で、党への信頼をそこなう人」(例としては[[暴力団]]関係者、[[右翼団体]]、[[ニセ「左翼」暴力集団]]、[[過激派]]などの構成員、[[カルト]]宗教信者、国家権力の指示で組織的に反党活動を行なっている[[警察官]]、[[自衛官]]、[[公安調査庁]]職員など)とみなされた場合、上記の年齢、国籍および規約・綱領の承認という要件を満たしていても入党できない(第6条)。これは上の第5条に定められた、市民道徳と社会的道義をまもるという党員の義務に対応した規定であり、党員2名の推薦にはそのような人物の入党を防止するという狙いがある<ref name="hamano2001">浜野忠夫 『国民に開かれた党へ』 新日本出版社、2001年8月、p.72。</ref>。 他党に所属しつつ日本共産党員になること(重党籍)はできない(第7条)。他党の元党員が入党することは可能であるが、その場合、都道府県委員会または中央委員会の承認が必要となる。2000年以前の旧規約では「推薦人となる党員2名のうちどちらか1人が党歴3年以上で都道府県委員会、移籍する本人が前の所属政党で幹部だった場合は1人が党歴5年以上で中央委員会の承認」(第13条)が必要とされ、現在より厳格であった。他党出身の共産党員としては、[[日本社会党]]から移籍した[[深沢義守]]などがいる。 === 表彰制度 === 党籍長期継続者には「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)といった[[表彰]]制度がある。党歴の計算には、日本共産党に合流する前の[[沖縄人民党]]の在籍期間も通算するが、あくまでもこの間の党費を完納、なおかつ党の活動に参加し続けていることが前提となる。途中で党費の減免を受けていたり、10条該当党員となった期間がある者は、入党以来所定の期間を満たしても永年党員になれないことがある。 著名な長期党歴者には、[[俳優]]の[[花沢徳衛]](50年党員)、[[教育評論家]]・[[労働運動家]]の[[三上満]](50年党員)らがいる。 中央委員を20年以上務めた党員については、中央委員会から名誉役員に選出されることがある。また、都道府県委員会・地区委員会でも、名誉都道府県委員・名誉地区委員・顧問など、各組織が独自に名誉役員を選出することがある。 === 除名と除籍 === 党組織は、規約第4条に定める党員の資格を明白に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって、党への信頼をそこなった党員は、調査・審査のうえで、除籍することができる(第11条)。除籍にあたっては、本人と協議することが原則だが、党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、行わなくてもよいとされる。 [[伊里一智]]は東京大学大学院在学時、日本共産党中央委員会議長を務めていた[[宮本顕治]]の辞任を要求したが志位和夫の働きによって第11条によって除名された。 なお後述の「[[10条該当党員]]」になった者は、支部からの離党勧告に応じない場合、除籍措置を行うことがある。1994年(平成6年)の第20回党大会で規約が改正される前は、10条該当党員の整理は一律除籍となっていた。また、1980年(昭和55年)以前は、活動に参加しなくなってから6ヶ月が経過した時点で協議なしに除籍することも可能だった。{{main|10条該当党員#離党手続き}} 除籍は、基本的に一級上の指導機関の承認を受ける。なお、除籍された人が再入党を希望するときは、支部・地区委員会で審議し、都道府県委員会が決定する。ただし、中央委員会や党大会をもってしても覆せないこともある。 除籍は単なる党員資格喪失者の党籍を抹消することであって、規律違反者を対象とした「処分」とは別の措置である。しかしながら除籍は、最も重い処分である「除名」と、党員を党から除くという点で同じ効果をもつ。また、除籍は規約と綱領を明白に否定する立場に立った党員も射程に入れることもあり、両者は混同されやすい。この問題は理論部門担当の副委員長[[浜野忠夫]]も指摘しており、実際に論文の中で両者を区別して使うように注意を促したことがある<ref name="hamano2001"/>。「処分」の場合は、中央委員会および党大会にまで上訴することができる(後述)が、除籍の場合はそれが認められていない。中央委員会が党大会で決定するまでもないとの理由で事実上除名に準じる形の除籍措置を行った場合は、党大会で執行部側の提案により新たな決定をしなければ覆すことができない。 === 離党と賞罰 === 党員はいつでも、本人の意思により離党することができる。 離党するときは、支部または党の機関に、その事情を述べ承認を求める。支部または党の機関は、その事情を検討し、会議にはかり、離党を認め、一級上の指導機関に報告する。ただし、党規律違反行為を行っている場合は、それにたいする処分の決定が先行する(第10条)。また、1年以上党活動に加わらず、かつ党費を納めない党員で、その後も党組織が努力を尽くしたにもかかわらず、党員として活動する意思がない場合は、本人と協議した上で、離党の手続きを取ることができる(同条後段)。このような実態のない党員は'''「10条該当党員」'''と呼ばれている。 党員が規約とその精神に反し、党と国民の利益を著しく損なうときは規律違反として処分される(第48条)。処分は軽い順に、警告、権利(部分または全面)停止、機関からの罷免、[[除名]]の4段階に分かれている(第49条)。権利停止の期間は1年を超えてはならない。{{main2|除名の具体例|除名#戦後の日本共産党における著名人および古参活動家の除名、除籍}} 一般に党員の処分は、その党員の所属する支部の党会議、総会の決定によるとともに、地区委員会の承認を得て確定される(第50条)。中央、都道府県、地区委員会の委員、准委員に対する権利停止以上の処分は、その委員会が3分の2以上の多数決によって決定し、地区・都道府県は1級上の指導機関の承認をうける。この処分は、次の党会議(党大会)で承認を受けなくてはならない(第51条、第52条)。 規律違反の処分は、事実に基づいて慎重におこなわなくてはならない(第49条)。また、規約は党機関が処分を適正に下せるよう、処分を受ける党員に、その手続きに参加する権利を保障している。すなわち、処分の審査・決定のさいは、原則、所属組織は処分をうける党員に十分意見表明の機会を与えなければならず、処分が確定されたならば、処分の理由を、処分された党員に通知する(第55条)。処分を受けた党員は、その処分に不服であるならば、処分を決定した党組織に再審査をもとめ、また、上級の機関に訴えることができる(同条)。 以上は規律違反の処分の事前手続きおよび再審についての一般規定であるが、最高の処分である除名は、もっとも慎重におこなわなくてはならない(第54条)ため、特別に規定がある。党員の除名を決定し、または承認する場合には、関係資料を公平に調査し、本人の訴えをききとらなくてはならない(同条)。また、被除名者が処分に不服な場合は、中央委員会および党大会に再審査を求めることができる(第55条)。事実関係の調査から処分の確定にいたるまでに、被処分者から事情聴取と弁明が、指導機関との面談による質疑応答の形でおこなわれる場合、それを党内では「[[査問 (日本共産党)|査問]]」と呼ぶこともあった。 === 教育と学習 === 党員の権利と義務の中に'''「党の綱領路線と科学的社会主義の理論の学習につとめる」'''(第7項)とあるように、共産党は党員の教育・学習を重視している。 党員教育システムは大きく、講義や学習会などの「集団学習」と個人で自習する「独習」に分かれ、前者の中心となる党員講師の理論的力量を確保するために[[講師資格試験 (日本共産党)|講師資格試験]]が1967年(昭和42年)より実施されている。講師は教育を行う党組織の級に対応して4段階に分かれている。 独習については、かつては効率よく科学的社会主義や日本共産党の理論を学ぶために、党中央が指定した文献のリストである[[独習指定文献]]が設けられた。文献は難易度に応じてランク付けされており、党綱領や規約、党史など党関連文献およびカール・マルクス『[[資本論]]』や[[ウラジーミル・レーニン]]『[[帝国主義論]]』などマルクス主義の古典が採用された。こちらは党勢拡大が本格化する1962年(昭和37年)にはじまり、時代の趨勢に応じて文献も差し替えられたが、2001年、固定的な独習指定文献制度は流動的な現在に合わなくなったとして廃止された。現在は各機関紙誌などで随時文献を紹介し、学習を呼びかけている。 中央委員会は党員教育・学習を司る部署として学習・教育局と中央党学校を党建設委員会の下に常置し、理論学習専門の機関誌『[[月刊学習]]』(1961年創刊)を発行している。講師資格試験の試験問題もこれに掲載される。 == 組織 == === 民主集中制 === 日本共産党は「党員の自覚と厳格な規律による全党の統一と団結こそは、党の生命であり勝利の保障」と規定して[[民主集中制]]を組織の原則としている。そのため、派閥ごとに独自の政策、派閥間の駆け引きや離合集散などを引き起こすとして、派閥をつくろうとしていると見なしたり、党の執行部の方針と異なる意見を持つ党員に対して[[除名#戦後の日本共産党における著名人および古参活動家の除名、除籍|除名など厳しい処分]]を下してきている<ref>[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990121_faq.html]政権とっても派閥はできないか?,1999年1月21日「しんぶん赤旗」.</ref>。 日本共産党は民主集中制を「党内部の規律」であり、一般社会に押しつけるものではない事、「党員が党の一員としての自覚にもとづいて自発的に守るべきもの」としている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-03-14/2009031412_01faq_0.html]「日本共産党の民主集中制とはどんなもの?,2009年3月14日(土)「しんぶん赤旗」</ref>。 職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区――[[都道府県]]――中央という形で組織される(規約第12条)。基本的には個々の党員が所属し、日常的な党生活を送る組織は支部であるので、支部は党の基礎組織と位置づけられている(第38条)。その上で、国会議員団、地方議員団および党外組織の常任役員でつくる「党グループ」等、支部以外の特殊な基礎的組織が、組織体系を補完している。これらは相応する指導機関の直接指導下にある。地区以上の指導機関の役員や何らかの特殊事情のある党員など、例外的に上級組織に直属する党員もいる。 各級組織におかれている機関には、組織の最終的な意志を決定する機関(議決機関)たる「最高機関」と、その決定の実行に責任をおう機関(執行機関)である「指導機関」の2種類があり、これらを総称して党機関という。最高機関として、中央では[[日本共産党大会|党大会]]、都道府県では都道府県党会議、地区では地区党会議、支部では支部総会がおかれ、地区以上の各最高機関を構成する代議員は1級下の最高機関より選出される。支部総会は支部に属する党員が出席する。指導機関には上記の最高機関に照応して、[[日本共産党中央委員会|中央委員会]]、都道府県委員会、地区委員会および支部委員会または支部長がある。 地区委員会および都道府県委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、必要に応じて、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。その任務は、自治体活動やその地域・経営・学園での共同の任務に対応することにあり、指導機関(地区、都道府県委員会)にかわって基本指導をになうことではない。補助指導機関を設置するさいには、1級上の指導機関の承認を必要とし、構成は、対応する諸地区委員会および諸支部からの選出による。 指導機関の構成員(役員)は当該級の最高機関が選挙によって選出する。役員に選出される資格として2年以上の党歴が必要である。役員候補者は最高機関の選挙人が自薦を含めて自由に推薦できるほか、指導機関が次期委員として推薦する(第13条)。選挙方式には[[大選挙区制|大選挙区]][[完全連記制]]が採用されている。 党組織には、上級の党機関の決定を実行する責任がある。その決定が実情にあわないと認めた場合には、上級の機関にたいして、決定の変更をもとめることができる。上級の機関がさらにその決定の実行をもとめたときには、意見を保留して、その実行にあたる(第16条)。たとえば、都道府県委員会の決定に対し、指導下にある地区組織および支部は、それに反対している場合でも、都道府県委員会が認めなければ、実行にあたらなければならない。また、全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない(第17条)とされ、行動のみならず意見の公表にも制限が加えられている。 このように上級の決定が下級の言論活動を含む実践一般を強く拘束する一方で、党規約は党機関が決定にさいして、党組織と党員の意見をよくきき、その経験を集約、研究することを要求する(第15条)。また、党員と党組織の側にも、党の政策・方針について党内で討論し、意見を党機関に反映させることを求めている。 以上、第15~17条は党規約第3条に組織原則として示された民主集中制の内容を組織運営一般の次元で明らかにしたものである。 都道府県機関と地区機関は地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、自治的に処理する(第17条)。ただし、中央委員会は地方党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる(第21条第7項)。また、都道府県委員会も同様にして、地区党組織に必要な助言をおこなうことができる(第31条第5項)。このような権限・権利を地方党の「自治権」と呼ぶこともある<ref>たとえば、浜野(2001)、p.78の節表題。「(4)地方党機関の『自治権』について」</ref>。 === 中央組織 === [[ファイル:Japanese-Communist-Party-Central-Committee-01.jpg|thumb|right|200px|日本共産党中央委員会のビル]] [[日本共産党大会|党大会]]は党(中央組織)の最高機関である。原則として2年から3年に1回開くが、特別な事情のもとでは、中央委員会の決定によって、党大会の招集を延期することができる。また、中央委員会の決議や3分の1以上の都道府県党組織の要求によって臨時党大会をひらくこともできる(第19条)。党大会は都道府県党会議の選出する代議員と党大会を召集した中央委員会構成員(前回大会が選出)からなる。党規約第20条は党大会のおこなうことを、(1)中央委員会報告の確認、(2)中央委員会の提案議案の審議・決定、(3)綱領・規約の改正、(4)中央委員の選出、の4項目に定式化している(要旨)。 [[日本共産党中央委員会|中央委員会]]は、党大会からつぎの党大会までの党の指導機関である。党大会決定の実行に責任をおい、対外的に党を代表し、全党を指導する。現在は計200名弱の中央委員と准中央委員から構成されている。任務は規約第21条が、(1)対外代表と全党指導、(2)中央機関紙、(3)国際・全国的問題、(4)方針と政策の徹底と実践、(5)理論活動(科学的社会主義)、(6)幹部政策、(7)地方党組織への助言、(8)財政の8カ条に定式化している(要旨)。 中央委員と准中央委員はどちらも党大会で選挙によって選出される。その際、中央委員会は候補者を推薦する。代議員(選挙人)も自由に候補者を自薦も含めて推薦することができるが、前例は少ない。2010年1月の第25回党大会では、中央委員会が候補者として中央委員162人、准中央委員35人を推薦し<ref>浜野忠夫(幹部会副委員長)「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-16/ftp2010011602_30_0.html 中央委員会が推薦する中央役員候補者名簿の提案にあたって]」『しんぶん赤旗』2010年1月16日</ref>、投票の結果、163人の中央委員と35人の准中央委員が選出された<ref name="25kikou">日本共産党中央委員会 「[http://www.jcp.or.jp/jcp/yakuin/index.html 日本共産党25回大会中央委員会の機構と人事]」 2011年1月。</ref>。 内部には権限の大きさと任務の内容にしたがって中央委員会総会、幹部会、常任幹部会(他の共産主義政党・団体における[[政治局]]に相当)等の合議制機関が階層的に配置されている。中央委員会総会(年2回以上開催)を最高決議機関とし、常任幹部会や書記局、中央機関紙編集委員会などが日常的な指導や事務をつかさどる。書記局は政策委員会や国民運動委員会、中央委員会付属社会科学研究所(所長:[[不破哲三]])、出版局など、さまざまな部署に分かれた中央委員会の内部機構を統括している。総会から総会のあいだ中央委員会の職務をおこなうのは幹部会で、幹部会の職務を日常的に遂行するのは常任幹部会である。したがって、中央委員会の日常的任務をになう機関は常任幹部会ということになる。常任幹部会は毎週開かれる。党規約は最高職を明記していないが、一般的には中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、同副委員長、中央委員会書記局長が党三役として、とくに幹部会委員長は党首として扱われている(現在の具体的人事は[[#現在の執行体制]]を参照)。 === 都道府県組織 === [[File:Japanese Communist Party Tokyo Metropolitan Committee 2022-06-02.jpg|thumb|150px|東京都委員会]] 都道府県組織の最高機関は都道府県党会議、指導機関は都道府県委員会である。都道府県委員会は、都道府県党会議決定の実行に責任をおう。党規約第31条は党委員会の任務として以下の6項目を列記している(抜粋)。 # その都道府県で党を代表し、都道府県の党組織を指導する。 # 中央の諸決定の徹底をはかるとともに、具体化・実践する。 # 地方的な問題は、その地方の実情に応じて、自主的に処理する。 # 幹部を系統的に育成し、適切な配置と役割分担をおこなう。 # 地区党組織の権限に属する問題でも、必要な助言をおこなうことができる。 # 都道府県党組織の財政活動の処理と指導にあたる。 都道府県委員会の最高決議機関は都道府県委員会総会で、すべての都道府県委員と准委員から構成される。都道府県委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、都道府県委員会総会からつぎの総会までのあいだ、都道府県委員会の職務をおこなう(第32条)。都道府県委員会は、大都市など、いくつかの地区にわたる広い地域での活動を推進するために、補助指導機関をもうけることができる(第18条)。また、経営や地域([[市町村|区・市・町村]])、学園にいくつかの支部がある場合も補助的な指導機関をもうけることもできる。これら補助指導機関の設置には中央委員会の承認が必要である。 === 地区組織 === [[ファイル:しんぶん赤旗八王子出張所.JPG|thumb|right|250px|八王子地区委員会事務所<br />([[東京都]][[八王子市]][[北野町 (八王子市)|北野町]])]] [[東京都区部|東京都23区]]では[[特別区]]を単位に細かくおかれている一方で、人口・党員の少ない都道府県では、県土を2 - 3つにわけた程度の広範囲を管轄する地区組織もある。たとえば、[[島根県]]は、東部、西部、中部の3地区に分轄されている。地区組織の最高機関は地区党会議、指導機関は地区委員会である。地区委員会は、地区党会議決定の実行に責任をおう。党規約第36条は党委員会の任務を都道府県委員会に準じた内容の6項目に整理している。 地区委員会の最高決議機関は地区委員会総会で、すべての地区委員と准委員から構成される。地区委員会総会は委員長と常任委員会を選出し、常任委員会は、地区委員会総会からつぎの総会までのあいだ、地区委員会の職務をおこなう(第37条)。地区委員会は、経営や地域、学園にいくつかの支部がある場合、補助的な指導機関をもうけることもできる(第18条)。設置には都道府県委員会の承認が必要である。 === 支部 === 職場、地域、学園などに、3人以上の党員がいるところでは、支部をつくる。支部は党の基礎組織であり、それぞれの職場、地域、学園で党を代表して活動する(第38条)。かつては「[[細胞 (政党)|細胞]]」と呼ばれていた。1人の党員が複数の支部に重複して所属することはない。支部の数は2010年現在、およそ2万2000おかれている<ref>志位和夫 「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-11-09/2010110904_01_0.html 政党の値打ちは何によってはかられるか 第40回赤旗まつり 志位委員長の記念演説]」 『しんぶん赤旗』2010年11月9日。</ref>。2006年1月の第24回大会の2万4000からおよそ2000支部減少した。この間党員数は微増している。 職場にもとづいてつくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」ないし「地域支部」、大学など学園の学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれる。共産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はとくに身近に存在し、このことが同党を[[大衆政党]](組織政党)として特徴づけている。 支部の最高機関は支部総会、指導機関は支部委員会である。ただし、党員の少ない支部は支部長を指導機関とする。支部総会はすべての党員から構成され、支部委会員ないし(指導機関としての)支部長を選出する。支部委員会はその内部機関として、支部長を選出する。支部には必要に応じて、副支部長をおいたり、下部組織としての班をもうけたりできる。班には班長をおく。 例外だが、状況によっては、社会生活・社会活動の共通性(階層)にもとづいて支部をつくることができる。現在は[[青年]]という年齢層にもとづいて組織される「青年支部」<ref>「[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/201109_faq_seinen_sibu.html 日本共産党の青年支部って?]」『しんぶん赤旗』2000年11月9日(木)</ref>、複数の学校にまたがる「学生支部」(学園支部は同じ学校で組織されるので区別される)がある。 党員が3人にみたない地域・職場・学園では、党員は付近の支部にはいるか、または支部準備会をつくる。 === 後援会 === 第28回党大会まで議員や候補者個人の[[後援会]]はつくらない方針をとっており、すべて党後援会となっている。党後援会員は380万人以上である<ref>[http://www.jcp.or.jp/jcp/25th_taikai/01_25th_ketugi.html#_19 4章(19)参議院選挙の目標と方針について]、『第25回大会決議』</ref>。党支部に対応する「単位後援会」と、労働者・企業経営者・農業者・女性・青年・学生・[[セクシャルマイノリティ]]・宗教者など各階層・大衆運動ごとにつくられるものの2種類に大別される。「日本共産党後援会全国連絡会」「全国労働者日本共産党後援会」「日本共産党・全国業者後援会」「日本共産党全国女性後援会」「日本共産党全国農業・農民後援会」「全国宗教人・日本共産党を支持する会」の6つの全国組織がある。また、青年・学生向けの後援会的組織として「日本共産党といっしょに日本をかえるネットワーク」(かえるネット)や、インターネット・SNSによる後援会的組織「JCPサポーター」もある。 個人名(候補者名)を冠した個人後援会を組織した時期もあったが、1980年の第15回大会が「後援会を日常不断に活動する恒常的な組織として大きく発展させ、「特定の候補者だけの支持活動でなく、各種の選挙で共産党の議員候補者を支持して連続的にたたかえる、共産党後援会的な機動性をもった組織」として確立することを」決議し<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-12-19/20091219faq12_01_0.html 共産党後援会が個人名でないのはなぜ?]」『しんぶん赤旗』2009年12月19日</ref>、以後、個人後援会は党後援会に再編にされた。 第28回党大会では、「候補者個人が野党統一候補となり得る」として、個人後援会の設立を容認するように方針を転換した。 == 政治資金 == 日本共産党は党規約で[[政治資金]]を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定している(規約第45条)。日本共産党規約の第45条から第47条よりなる第10章(資金)が党財政の通則にあたる。内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入である<ref name="akahata20151128">{{Cite news|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-11-28/2015112805_01_0.html |title=2014年政治資金収支報告/共産党は自前で財政活動/政党助成金や企業・団体献金 受け取らず |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2015-11-28}}</ref>。企業・団体[[政治献金|献金]]と[[政党助成金]]は受取りを拒否している<ref name="seito_jyoseikin"/>。支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめる。このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達している<ref name=akahata20151128 />。一般に、日本の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いが、日本共産党の議員は党が政治資金を支えている{{要出典|date=2016年9月}}。 産経新聞は、神奈川県逗子市、川崎市、座間市、福岡県行橋市といった自治体で日本共産党の議員らが「しんぶん赤旗」の勧誘・配布・集金を行っている、と報道している<ref> {{Cite news|titlte=神奈川・鎌倉市 市庁舎内での赤旗配布 異例の禁止|newspaper=産経新聞|date=2014-04-05|url=https://www.sankei.com/politics/news/140405/plt1404050006-n1.html}}</ref>。また、[[橋下徹]]大阪市長は日本共産党が政党助成金に反対していることを「きれい事」「全国の役所が購入してすさまじい額のお金を払っている。政党助成金そのものだ」と述べている<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/west/news/141128/wst1411280032-n1.html|title=赤旗購読料は「共産の政党助成金」 橋下氏が持論を展開、共産の助成金廃止主張は「きれい事」 - 産経WEST|date=20141128074143}}</ref>。 政治資金収支報告書(2011年3月28日宣誓)によると、2010年の収入(前年からの繰入を除く)は約237億4600万円、支出(翌年への繰越を除く)は232億4200万円であった。収入の内訳は、党費が約8億2100万円(約3.46%)、寄付が4億4400万円(1.87%)、事業収入が208億6700万円(87.88%)、借入金が100万円(0.00%)、「本部又は支部から供与された交付金に係る収入」が13億2200万円(5.57%)、利息や地代・家賃など「その他の収入」が2億9100万円(1.23%)であった。寄付は全額が個人から。事業収入のうち、機関紙誌は205億3600万円で、全収入比でおよそ86%を占める。 支出(翌年への繰越を含む)の内訳は、経常経費が約37億8400万円、政治活動費が205億2200万円(うち、「本部又は支部に対して供与した交付金に係る支出の内訳」が76億6300万円)となっている。機関紙誌の発行事業費は政治活動費に含まれ、148億8100万円と支出全体の64%を占める。なお、政治資金パーティー開催事業費は支出していない。このように、機関紙活動を中核とし、企業・団体献金や交付金を排除した財務構造について、共産党は「国民と草の根で結びついて活動していることの反映であり、他の政党とまったく異なるわが党の財政の健全さをしめすもの」であると肯定的に評価している<ref>上田均 「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-10-01/2009100104_03_1.html 日本共産党の政治資金 草の根活動と結んだ浄財]」 『しんぶん赤旗』、2009年10月1日</ref>。 党費は、実収入の1パーセントとし、月別、または一定期間分の前納で納入する。失業している党員、高齢または病気によって扶養をうけている党員など生活の困窮している党員は、党費を減免できる(第46条)。[[日本民主青年同盟]]の同盟員として活動している党員は、納入する党費から同盟費(550円)を差し引いた額を納める。2010年は延べ数で約300万人が党費を納めた<ref name="touhi" />。中央委員会、都道府県委員会、地区委員会は、それぞれの資金と資産を管理する(第47条)。規約第47条に対応し、各級組織の「財政活動の処理と指導」が、当該級指導機関の任務のひとつに規定されている(第21条第8号、第31条第6号、第36号第6号)。なお、支部には党費を集める任務がある(第40条第3号)。 中央委員会には財務部門として、書記局のもとに「財務・業務委員会」が設けられている。同委員会は一般的な意味での財務のみならず、赤旗など機関誌紙発行事業の総務も所掌している。委員会の前身は第24回大会(2006年)期までは「財務・業務局」という独任制の部署であった。第25回大会時(2010年)に常任幹部会は、財務・業務委員会の責任者に、財務・業務局長の上田均(常任幹部会委員)を引き続き任命した。委員会には事務局と財政部、機関紙誌業務部、管理部、厚生部、赤旗まつり実行委員会がある<ref name=25kikou/>。上田は政治資金収支報告書に記載される会計責任者を兼ねる。会計監査は中央委員会監査委員会が行っている。 企業献金については、「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。ただし、企業経営者や労働組合・各種団体役員からの個人献金は受け取っている。 === 政党助成金・政務活動費 === 国政政党に衆参の議員数ごとに支給される政党交付金(政党助成金)については憲法違反の制度であるとして受け取りを拒否している唯一の党である<ref name="seito_jyoseikin" />。かつて[[第二院クラブ]]が、登録はしておいて助成金の受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させることにより、自党分の助成金が他政党へ配分されることを回避していたが、日本共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党に割り当てられるはずの政党交付金は他党に配分されている。 地方議会で地方議員に会派の人数に応じて配分される[[政務活動費]]は受給している<ref>{{Wayback|url=https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180731000063|title=京都市会の政活費、使用割合84% 3億6400万円支出 : 京都新聞|date=20180801010524}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180731_11030.html|title=<仙台市議会>政活費執行率68.9% 17年度収支報告書公開 {{!}} 河北新報オンラインニュース|date=20180801122952}}</ref><ref>{{Cite news|title=共産党の大阪府議・市議らが政務活動費で「しんぶん赤旗」購入 高裁判決は「支出認められない」|newspaper=産経新聞|date=2016-10-24|url=https://www.sankei.com/politics/news/161024/plt1610240010-n1.html|accessdate=2018-08-01}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201807/0011462798.shtml|title=神戸新聞NEXT|総合|神戸市会、政活費返還率3年連続1割超 不正発覚で厳格化|date=20180720054929}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20180704/CK2018070402000051.html|title=県議の総所得、昨年平均2013万円:愛知:中日新聞(CHUNICHI Web)|date=20180801124732}}</ref>。 == 機関紙誌 == [[ファイル:AS-building sendagaya.jpg|thumb|160px|[[しんぶん赤旗]]編集局が入居する「ASビル」]] 日本共産党は機関紙活動を党活動の中心に据えている。 === しんぶん赤旗 === {{main|しんぶん赤旗}} 中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』([[タブロイド]]判)を発行している。2019年(令和元年)時点で、日刊紙・日曜版を合わせた購読者数が100万部を割り込んだ<ref>{{Cite web|和書|title=第7回中央委員会総会 志位和夫委員長のあいさつ |publisher=日本共産党 |date=2019-09-15 |url=https://www.jcp.or.jp/web_jcp/2019/09/post-85.html |accessdate=2020-03-25}}</ref>。 購読者数は第15回党大会(1980年)時点での355万部をピークにほぼ一貫して減少しており、1990年(第19回大会)に1987年より30万部近く減らして286万部と報告。さらに10年後の2000年には199万余に後退し、2010年1月(第25回大会)の145.4万部を経て{{efn|日刊紙は2011年7月時点で24万部であると、第3回中央委員会総会で明らかにされた。}}、2019年9月半ば時点では100万部を割るにいたった<ref>{{Cite news |title=共産「赤旗」100万割れ 異例の“告白” 財政悪化で支援訴え |newspaper=産経新聞 |date=2019-09-05 |url=https://special.sankei.com/a/politics/article/20190905/0003.html}}</ref><ref>{{Cite report|author=公安調査庁|authorlink=公安調査庁|date=2019-12-20|title=「内外情勢の回顧と展望」(令和2年1月) 国内情勢 |url=https://www.moj.go.jp/content/001311505.pdf |pages=73 |format=PDF |accessdate=2020-03-25}}</ref><ref>{{Cite report|author=警察庁|authorlink=警察庁|date=2020-03-06|title=•焦点第290号 -令和元年回顧と展望‐「天皇陛下の御即位に伴う儀式等に係る警備」|url=https://www.npa.go.jp/bureau/security/publications/syouten/290/290.pdf|pages=37|format=PDF|accessdate=2020-03-25}}</ref>。この29年間(1990年~2019年)で通算すると、約3分の2に当たる190万減となる。 === 雑誌 === [[File:The-Zenei-1960-August-1.png|thumb|160px|『[[前衛 (雑誌)|前衛]]』1960年8月号]] 雑誌は『[[前衛 (雑誌)|前衛]]』、『[[女性のひろば]]』、『[[議会と自治体]]』、『[[月刊学習]]』の4つの[[月刊誌]]を刊行しており、日本国内では一般の雑誌書籍の流通ルートから手に入る。 かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号をもって廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号をもって廃刊)などの刊行物もあった。1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号をもって「休刊」。都道府県委員会など地方組織の指導機関が編集・発行する地方機関紙もある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が多い。京都民報社の『[[京都民報]]』や大阪民主新報社の『[[大阪民主新報]]』など、他大衆団体との共同機関紙というコンセプトから、党外団体を発行主体とする場合もある。その他、地方議会議員(団)の広報紙がある。 === 普及協力 === [[新日本出版社]]の発行する月刊『[[経済 (雑誌)|経済]]』の普及・宣伝に協力しており、党の事務所では販売や定期購読の申し込みを受け付けている。かつては同様の普及協力誌に、総合月刊雑誌の『[[文化評論]]』や『あすの農村』、『労働運動』、『科学と思想』(年2回刊)があったが現在は休刊・廃刊している。 また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』(月2刊)の購読の仲介もしている。過去には民青同盟の『われら高校生』、学生新聞社(所在地は新日本出版社とおなじ)の『学生新聞』や、小中学生向けの『少年少女新聞』(少年少女新聞社)も普及していたが、現在は休刊・廃刊した。 == 事務所・施設 == [[ファイル:Japanese Communist Party Central Comittee 2.jpg|thumb|日本共産党本部ビル]] [[ファイル:Japanese Communist Party Central Comittee (entrance).jpg|thumb|本部入口]] [[File:伊豆学習会館正面入口.jpg|thumb|伊豆学習会館]] 日本共産党の事務所・施設は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。 === 本部 === {{Main|日本共産党中央委員会#本部ビル}} 中央委員会の入居する日本共産党本部ビルは東京都渋谷区千駄ヶ谷4丁目26-7にある。正面入口の反対側を[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央本線]]、東側を[[明治通り (東京都)|明治通り]]が通る。最寄り駅は、[[代々木駅]]、[[千駄ケ谷駅]]、[[北参道駅]]の3駅となる。地上11階、地下1階の「1期棟」(北西側)と地上8階、地下2階の「2期棟」(南東側)から成り、両棟を地上3階建ての低層基壇が連結し、これを通じて行き来できる。延べ[[床面積]]は約1万6500[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]で、日本の政党本部ビルとしては[[自由民主党 (日本)|自民党]]をしのぎ最大である<ref>{{Wayback|url=http://www.47news.jp/CN/200502/CN2005020301002524.html|title=共産党の新本部ビル完成 自民を上回り最大|date=20090727215048}}</ref>。 2000年から着工し、2005年に竣工した。総工費は85億円、うち45億円を党の積立基金が負担し、残り40億円を寄付や無利子借入金とし、順調に集まった。設計・監理責任者は地域建築空間研究所所長の小林良雄。なお、中央委員会の機関でも「[[しんぶん赤旗#編集局|しんぶん赤旗編集局]]」は明治通りを挟んで東側の「ASビル」に、[[あかつき印刷]]とともに入居している。 戦後の合法化により、現在と同じ場所にはじめて公然本部を構えた。1960年の党勢拡大に伴い、増築と周辺不動産の買取りを進め、1970年には8棟の建物が林立する複雑な形態を完成させた。耐震性に不安が生じたことから1998年に中央委員会は現行の本部ビルへ全面建て替えすることを決定した。 === 伊豆学習会館 === 党最大の施設で、[[静岡県]][[熱海市]]上多賀の[[伊豆多賀駅]]西方約2km(徒歩30分)の山頂付近({{Coord|35|3|39.2|N|139|3|22.8|E|region:JP|name=伊豆学習会館}})にある。1963年着工。面積約4万5千平方メートル。東京ドーム(約4万7千平方メートル)に匹敵する敷地に学習施設など8棟。 科学的社会主義や公式党史などを学ぶ「党中央学校」(2014年時点で、党中央学校の「卒業生」は志位和夫委員長はじめ1万人を超える)などが開かれる他、党大会(1977年10月の第14回から)が付属大講堂で開催される。それまでの党大会では目黒公会堂など都内の公共施設を借りて会場にしていた。現在は大講堂の床下にある25メートル6コースのプールで、水を抜いたプールの上に板を敷き、イスを並べて行う。プール自体は数年前から維持管理コスト削減のために利用されていない。 この場所は、[[江戸城]]築城の際に[[石]]を切り出したところであるという。不破哲三によれば開設当時は「建物はできていたが、庭などはまだ完成しておらず、“労働しながら学習する”を合言葉に池を掘ったり樹を植えたり、庭づくりを学生がみんなでやったのです。岩や樹とかも各県の名産を寄せてもらったりしました」という<ref>『党綱領の力点』(日本共産党中央委員会出版局、2014年)</ref>。温泉はひかれていない。約150人収容の宿泊施設には党大会開催中、幹部団と事務局員が3連泊する。一般党員は2段ベッド式の4人部屋を利用するが、志位ら最高幹部には個室が用意される。ただし、食堂のメニューは「平等」と説明されている<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/politics/news/140113/plt1401130002-n1.html|title=共産党、なぜ熱海に聖地…党大会の「伊豆学習会館」、床下にはプール(1/2ページ) - 産経ニュース|date=20151212021210}}</ref>。 === 地方 === 都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。近年、一部の地区委員会は常勤の勤務員がおらず、市議会議員らが党務を兼任し、平日の昼でも事務所が開いてない場合がある。地区委員会の事務所は概ね一般的な民家・小商店くらいの建物規模或いはオフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の[[新聞販売店]](配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。 == 役職 == === 現在の執行体制 === ==== 中央委員会幹部会委員長(党委員長) ==== {{main|日本共産党中央委員会幹部会委員長}} ==== 日本共産党中央委員会 ==== {{main|日本共産党中央委員会}} {| class="wikitable" !役職!!氏名 |- |[[日本共産党中央委員会幹部会委員長|幹部会委員長]] |[[志位和夫]] |- |筆頭副委員長 |[[山下芳生]] |- |幹部会副委員長 |[[市田忠義]]<br>[[緒方靖夫]]<br>[[田村智子]]<br>[[浜野忠夫]]<br>[[倉林明子]] |- |常任幹部会委員 |市田忠義<br>岩井鐵也<br>浦田宣昭<br>太田善作<br>岡嵜郁子<br>緒方靖夫<br>[[笠井亮]]<br>[[紙智子]]<br>[[吉良佳子 (政治家)|吉良佳子]]<br>倉林明子<br>小池晃<br>小木曽陽司<br>穀田恵二<br>志位和夫<br>[[高橋千鶴子]]<br>田中悠<br>田村智子<br>寺沢亜志也<br>中井作太郎<br>浜野忠夫<br>広井暢子<br>藤田文<br>[[不破哲三]]<br>山下芳生<br>[[山添拓]]<br>[[若林義春]] |- |書記局長 |[[小池晃]] |- |書記局次長 |田中悠<br>中井作太郎<br>土井洋彦<br>若林義春 |- |政策委員会委員長 |田村智子 |- |政策委員会副委員長 |[[辰巳孝太郎]]<br>寺沢亜志也<br>[[畠山和也]]<br>[[藤野保史]] |- |ジェンダー平等委員長 |倉林明子 |} ==== 国会議員団 ==== {| class="wikitable" !役職!!氏名 |- |議員団総会会長||紙智子 |- |衆議院議員団団長||高橋千鶴子 |- |衆議院議員団副団長||[[赤嶺政賢]] |- |参議院議員団団長||紙智子 |- |参議院幹事長||井上哲士 |- |[[国会対策委員会|国会対策委員長]]||穀田恵二 |- |国会対策委員長代理||[[塩川鉄也]] |- |衆議院国会対策委員長||穀田恵二 |- |衆議院国会対策副委員長||塩川鉄也<br>高橋千鶴子<br>宮本徹 |- |参議院国会対策委員長||井上哲士 |- |参議院国会対策副委員長||山添拓<br>仁比聡平<br>岩渕友 |} === 過去の執行体制 === {{正確性|date=2009年3月|section=1}} ====1922年~1923年==== {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align: center;" ! 中央委員会委員長 ! colspan="1" | 在任期間 |- | 堺利彦||1922年 - 1923年 |} ====1923年~1945年==== {{節スタブ}} {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align: center;" ! 中央委員会委員長 ! colspan="1" | 在任期間 |- | [[佐野文夫]]||1926年 - 1927年 |- | 佐野学||1927年 - 1928年 |- | 渡辺政之輔||1928年 |} ====1945年~1958年==== {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align: center;" ! 中央委員会書記長 ! colspan="1" | 在任期間 ! colspan="4" | 中央委員会委員 |- | 徳田球一 ||1945年 - 1953年|| rowspan="2" | 志賀義雄 || rowspan="2" | 宮本顕治 || rowspan="2" | 袴田里見 |- | 野坂参三{{efn|名称は第一書記}} ||1955年 - 1958年 |} ====1958年~1970年==== {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align: center;" ! 西暦(大会) !! 中央委員会議長 !! 中央委員会書記長 !! 中央統制委員会議長 |- |1958年([[日本共産党第7回大会|7回大会]]) || rowspan="4" |野坂参三 || rowspan="4" | 宮本顕治 || 春日庄次郎 |- |1961年([[日本共産党第8回大会|8回大会]]) || rowspan="2" | [[吉田資治]] |- |1964年([[日本共産党第9回大会|9回大会]]) |- |1966年([[日本共産党第10回大会|10回大会]]) ||(規約改正で中央委員会の機構に) |} ====1970年~==== {| class="wikitable" style="font-size:80%; text-align: center;" ! 西暦(大会) !! 中央委員会議長 !! 幹部会委員長 !! colspan="6"|幹部会副委員長 !! 中央委員会書記局長 !! 政策委員長 !! 国会対策委員長 !! 参議院議員団長 |- |1970年([[日本共産党第11回大会|11回大会]]) || rowspan="4" |野坂参三|| rowspan="4" | 宮本顕治 || rowspan="2" | 袴田里見|| rowspan="2" | [[岡正芳]]|| || rowspan="2" | || rowspan="3" | || rowspan="17" | || rowspan="4" | 不破哲三 || rowspan="4" | 上田耕一郎 || || |- |1973年([[日本共産党第12回大会|12回大会]]) || rowspan="6" |[[瀬長亀次郎]]|| [[村上弘]] ||[[岩間正男]] |- |1977年([[日本共産党第14回大会|14回大会]]) || rowspan="4" |村上弘 || rowspan="10" | 上田耕一郎|| rowspan="3" | [[西沢富夫]]|| || rowspan="4" | |- |1980年([[日本共産党第15回大会|15回大会]]) || rowspan="4" |戎谷春松 || rowspan="3" | [[松本善明]] |- |1982年([[日本共産党第16回大会|16回大会]]) || rowspan="5" | 宮本顕治 || rowspan="2" | 不破哲三 || rowspan="3" | [[金子満広]] || rowspan="3" | [[吉岡吉典]] |- |1985年([[日本共産党第17回大会|17回大会]]) || rowspan="3" | 高原晋一 |- |1987年([[日本共産党第18回大会|18回大会]]) || 村上弘 || rowspan="2" |小笠原貞子 || rowspan="3" | 寺前巌 || 岩間正男 |- |1990年([[日本共産党第19回大会|19回大会]]) || rowspan="3" | 不破哲三 || rowspan="3" | 金子満広 || rowspan="7" | || rowspan="3" | 志位和夫 || rowspan="2" | [[聴濤弘]] || rowspan="4" | |- |1994年([[日本共産党第2回大会|20回大会]]) || || rowspan="6" | |- |1997年([[日本共産党第21回大会|21回大会]]) || || [[立木洋]] || rowspan="2" | 筆坂秀世 || rowspan="10" | 穀田恵二 |- |2000年([[日本共産党第22回大会|22回大会]]) || rowspan="2" | 不破哲三 || rowspan="9" | 志位和夫 || rowspan="3" | [[石井郁子]]|| rowspan="9" | 浜野忠夫 || rowspan="4" | 市田忠義 |- |2004年([[日本共産党第23回大会|23回大会]]) || rowspan="4" |小池晃 ||[[吉川春子]] |- |2006年([[日本共産党第24回大会|24回大会]]) || rowspan="7" | || rowspan="7" |緒方靖夫 || 小池晃 |- |2010年([[日本共産党第25回大会|25回大会]]) || rowspan="5" |広井暢子|| 市田忠義 |- |2014年([[日本共産党第26回大会|26回大会]]) || rowspan="3" |小池晃|| rowspan="5" |市田忠義 || rowspan="2" | 山下芳生 || rowspan="5" | 山下芳生 |- | rowspan="2" |― |[[藤野保史]] |- | rowspan="3" |小池晃 |小池晃 |- |2017年([[日本共産党第27回大会|27回大会]]) || rowspan="2" |田村智子|| rowspan="2" |山下芳生 |笠井亮 |- |2020年([[日本共産党第28回大会|28回大会]]) ||倉林明子 || 田村智子 |} ※1976年の13回大会では、人事案件なし。 == 被公選機関における党勢 ==<!-- 機関紙や議会外の大衆運動も「党勢」と言える --> === 衆議院 === {| class="wikitable" |- !選挙||当選/候補者||得票数||定数||備考 |- |(結党時)||-/-|| ||style="text-align: right;"|464||結党時は非合法 |- |[[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]]<br />1946年4月10日||○5/143||2,135,757(3.85%)||style="text-align: right;"|468||[[追加公認]]+1 |- |[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]<br />1947年4月25日||●4/120||1,002,883(3.67%)|| rowspan="4" style="text-align: right;" |466|| rowspan="10" |&nbsp; |- |[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]<br />1949年1月23日||○35/115||2,984,780(9.76%) |- |[[第25回衆議院議員総選挙|第25回総選挙]]<br />1952年10月1日||●0/107||896,765(2.54%) |- |[[第26回衆議院議員総選挙|第26回総選挙]]<br />1953年4月19日||○1/85||655,990(1.90%) |- |[[第27回衆議院議員総選挙|第27回総選挙]]<br />1955年2月27日||○2/60||733,121(1.98%)|| rowspan="4" style="text-align: right;" |467 |- |[[第28回衆議院議員総選挙|第28回総選挙]]<br />1958年5月22日||●1/114||1,012,035(2.55%) |- |[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]<br />1960年11月20日||○3/118||1,156,723(2.93%) |- |[[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]]<br />1963年11月21日||○5/118||1,646,477(4.01%) |- |[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]]<br />1967年1月29日||○5/123||2,190,563(4.76%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |486 |- |[[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙]]<br />1969年12月27日||○14/123||3,199,031(6.81%) |- |[[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]]<br />1972年12月10日||○38/122||5,496,827(10.49%)||style="text-align: right;"|491||追加公認+1、沖縄人民党より合流+1 |- |[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]<br />1976年12月5日||●17/128||5,878,192(10.38%)|| rowspan="4" style="text-align: right;" |511|| rowspan="2" |追加公認+2 |- |[[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]]<br />1979年10月7日||○39/128||5,625,527(10.42%) |- |[[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]]<br />1980年6月22日||●29/129||5,803,613(9.83%)||&nbsp; |- |[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]<br />1983年12月18日||●26/129||5,302,485(9.34%)|| rowspan="2" |追加公認+1 |- |[[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]<br />1986年7月6日||○26/129||5,313,246(8.79%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |512 |- |[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]<br />1990年2月18日||●16/131||5,226,986(7.96%)|| rowspan="9" |&nbsp; |- |[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]<br />1993年7月18日||●15/129||4,834,587(7.70%)||style="text-align: right;"|511 |- |[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]<br />1996年10月20日||○26/321||小選挙区7,096,766(12.55%)<br />比例代表7,268,743(12.0%)||style="text-align: right;"|500 |- |[[第42回衆議院議員総選挙|第42回総選挙]]<br />2000年6月25日||●20/332||小選挙区7,352,844(12.08%)<br />比例代表6,719,016(11.1%)|| rowspan="5" style="text-align: right;" |480 |- |[[第43回衆議院議員総選挙|第43回総選挙]]<br />2003年11月9日||●9/316||小選挙区4,837,952(8.13%)<br />比例代表4,586,172(7.76%) |- |[[第44回衆議院議員総選挙|第44回総選挙]]<br />2005年9月11日||○9/292||小選挙区4,937,375(7.25%)<br />比例代表4,919,187(7.25%) |- |[[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙]]<br />2009年7月21日||○9/171||小選挙区2,978,354(4.22%)<br />比例代表4,943,886(7.03%) |- |[[第46回衆議院議員総選挙|第46回総選挙]]<br />2012年12月16日||●8/322||小選挙区4,700,289(7.8%)<br />比例代表3,689,159(6.1%) |- |[[第47回衆議院議員総選挙|第47回総選挙]]<br />2014年12月14日||○21/315||小選挙区7,040,169(13.0%)<br />比例代表6,062,962(11.4%)||style="text-align: right;"|475 |- |[[第48回衆議院議員総選挙|第48回総選挙]]<br />2017年10月22日||●12/243||小選挙区4,998,932(9.02%)<br />比例代表4,404,081(7.90%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |465||辞職-1、繰上当選+1 |- |[[第49回衆議院議員総選挙|第49回総選挙]]<br />2021年10月31日||●10/130||小選挙区 2,639,708 (4.59%)<br />比例代表 4,166,076 (7.25%)|| |} === 参議院 === {| class="wikitable" |- !選挙 ||当選/候補者||得票数||非改選||定数||備考 |- |[[第1回参議院議員通常選挙|第1回通常選挙]]<br />1947年4月20日||○4/42||地方区825,304(3.74%)<br />全国区610,948(2.87%)||style="text-align: right;"|-|| rowspan="8" style="text-align: right;" |250||第1回のみ全員選挙 |- |[[第2回参議院議員通常選挙|第2回通常選挙]]<br />1950年6月4日||○2/50||地方区1,637,451(5.65%)<br />全国区1,333,872(4.76%)||style="text-align: right;"|2|| rowspan="25" |&nbsp; |- |[[第3回参議院議員通常選挙|第3回通常選挙]]<br />1953年4月24日||●0/16||地方区264,729(0.945%)<br />全国区293,877(1.09%)||style="text-align: right;"|1 |- |[[第4回参議院議員通常選挙|第4回通常選挙]]<br />1956年7月8日||○2/34||地方区1,149,009(3.87%)<br />全国区599,254(2.09%)||style="text-align: right;"|0 |- |[[第5回参議院議員通常選挙|第5回通常選挙]]<br />1959年6月2日||○1/36||地方区999,255(3.32%)<br />全国区551,196(1.87%)||style="text-align: right;"|2 |- |[[第6回参議院議員通常選挙|第6回通常選挙]]<br />1962年7月1日||○3/47||地方区1,760,258(4.85%)<br />全国区1,123,947(3.14%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |1 |- |[[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙]]<br />1965年7月4日||○3/48||地方区2,608,771(6.92%)<br />全国区1,652,364(4.43%) |- |[[第8回参議院議員通常選挙|第8回通常選挙]]<br />1968年7月7日||○4/49||地方区3,577,179(8.27%)<br />全国区2,146,879(4.98%)||style="text-align: right;"|3 |- |[[第9回参議院議員通常選挙|第9回通常選挙]]<br />1971年6月27日||○6/51||地方区4,878,570(12.1%)<br />全国区3,219,307(8.06%)||style="text-align: right;"|4|| rowspan="10" style="text-align: right;" |252 |- |[[第10回参議院議員通常選挙|第10回通常選挙]]<br />1974年7月7日||○13/54||地方区6,428,919(12.0%)<br />全国区4,931,650(9.37%)||style="text-align: right;"|5 |- |[[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙]]<br />1977年7月10日||●5/52||地方区5,159,142(9.96%)<br />全国区4,260,050(8.41%)||style="text-align: right;"|11 |- |[[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙]]<br />1980年6月22日||●7/52||地方区6,652,311(11.7%)<br />全国区4,072,019(7.28%)||style="text-align: right;"|5 |- |[[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙]]<br />1983年6月26日||○7/71||選挙区4,859,334(10.5%)<br />比例区4,163,877(8.95%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |7 |- |[[第14回参議院議員通常選挙|第14回通常選挙]]<br />1986年7月6日||○9/71||選挙区6,617,487(11.4%)<br />比例区5,430,838(9.47%) |- |[[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙]]<br />1989年7月23日||●5/71||選挙区5,012,424(8.81%)<br />比例区3,954,408(7.04%)||style="text-align: right;"|9 |- |[[第16回参議院議員通常選挙|第16回通常選挙]]<br />1992年7月26日||●6/71||選挙区4,817,001(10.61%)<br />比例区3,532,956(7.86%)||style="text-align: right;"|5 |- |[[第17回参議院議員通常選挙|第17回通常選挙]]<br />1995年7月23日||○8/72||選挙区4,314,830(10.38%)<br />比例区3,873,955(9.53%)||style="text-align: right;"|6 |- |[[第18回参議院議員通常選挙|第18回通常選挙]]<br />1998年7月12日||○15/70||選挙区8,758,759(15.66%)<br />比例区8,195,078(14.60%)||style="text-align: right;"|8 |- |[[第19回参議院議員通常選挙|第19回通常選挙]]<br />2001年7月29日||●5/72||選挙区5,362,958(9.87%)<br />比例区4,329,210(7.91%)||style="text-align: right;"|15||style="text-align: right;"|247 |- |[[第20回参議院議員通常選挙|第20回通常選挙]]<br />2004年7月11日||●4/71||選挙区5,520,141(9.84%)<br />比例区4,362,574(7.80%)||style="text-align: right;"|5|| rowspan="5" style="text-align: right;" |242 |- |[[第21回参議院議員通常選挙|第21回通常選挙]]<br />2007年7月29日||●3/63||選挙区5,164,572(8.70%)<br />比例区4,407,932(7.48%)||style="text-align: right;"|4 |- |[[第22回参議院議員通常選挙|第22回通常選挙]]<br />2010年7月11日||●3/64||選挙区4,256,400(7.29%)<br />比例区3,563,556(6.10%)|| rowspan="2" style="text-align: right;" |3 |- |[[第23回参議院議員通常選挙|第23回通常選挙]]<br />2013年7月21日||○8/63||選挙区5,645,937(10.64%)<br />比例区5,154,055(9.68%) |- |[[第24回参議院議員通常選挙|第24回通常選挙]]<br />2016年7月10日||○6/56||選挙区4,103,514(7.26%)<br />比例区6,016,195(10.74%)||style="text-align: right;"|8 |- |[[第25回参議院議員通常選挙|第25回通常選挙]]<br />2019年7月21日||●7/40||選挙区3,710,768(7.37%)<br />比例区4,483,411(8.95%)||style="text-align: right;"|6|| rowspan="2" style="text-align: right;" |245 |- |[[第26回参議院議員通常選挙|第26回通常選挙]]<br />2022年7月10日 |●4/58 |選挙区3,636,533(6.84%)<br />比例区3,618,342(6.82%) |7 |} (参考文献:[[石川真澄]](一部[[山口二郎]]による加筆)『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2) * 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 * 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。 * 『戦後政治史』に記載のない追加公認は、以下の衆議院公式サイト記載の選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙(2004年)直後の召集はない。 **[http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h11ugoki/h11tokei/h11to02a.htm?OpenDocument 2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)](衆議院、1990年~1999年) **[http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h15ugoki/tokei/h15to02a.htm 2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)](衆議院、1996年~2003年) **[http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h20ugoki/10siryo/h20kans10.htm 2 国会議員会派別議員数の推移(召集日現在)](衆議院、2001年~2008年) **[http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h11ugoki/h11tokei/h11to02b.htm?OpenDocument (2) 参議院](1990年~1999年) **[https://web.archive.org/web/20060114233643/http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h16ugoki/08siryo/h16kans16.htm (2) 参議院](1994年~2004年) **[http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h20ugoki/10siryo/h20kans11.htm (2)参議院 (召集日現在) ](2001年~2008年) === 所属国会議員 === {{See|日本共産党国会議員一覧}} *[[日本の国会議員|国会議員]]:21名 **[[衆議院]]議員:10名(議席占有率:2.15%) **[[参議院]]議員:11名(議席占有率:4.43%) === 地方自治体 === * 与党の自治体:54(2023年12月01日現在)<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/locoal.html 日本共産党が与党の自治体]</ref> ** 単独与党:1 *** 党員市町村長:2([[蕨市]](埼玉県) ** 与党の都道府県:2 *** [[達増拓也]]([[岩手県知事一覧|岩手県知事]]、推薦)、[[玉城デニー]]([[沖縄県知事]]、推薦) * 地方議員:2,337人(女性議員:964人)(2023年12月1日現在)<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/giin.html 日本共産党の地方議員数]</ref> ** 都道府県議会:114人(女性議員:66人) *** 議席を有する都道府県議会:42 ** 政令市議会:111人(女性議員:52人) ** 特別区議会:103人(女性議員:54人) ** 市議会:1,357人(女性議員:582人) ** 町村議会:652人(女性議員:210人) * 党地方議員(団)は、中央における国会議員団と同様に、当該級の委員会(指導機関)の指導を受ける。 == 破防法調査対象団体 == {{see also|#1950年問題(分裂、武装闘争方針)}} 日本共産党は、1951年に主流派の[[所感派]]が武装闘争を採択、1955年に武装闘争路線を放棄した。以後の日本共産党執行部は、当時の所感派の指示は党の正式な指示ではなく、党に責任は無く、また「[[平和革命]]必然論」と「武力革命唯一論」の両方を誤りとする<ref>[https://www.jcp.or.jp/web_jcp/1994/05/post-49.html 日本共産党綱領一部改定についての提案 1994年 - 日本共産党]</ref>。 [[公安調査庁]]は1952年の[[破壊活動防止法]]施行以来、日本共産党を[[公安調査庁#調査対象|調査対象団体]]としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/habouhou-kenkai.html |title=共産党が破防法に基づく調査対象団体であるとする当庁見解 |publisher=[[公安調査庁]] |accessdate=2020-03-18}}</ref><ref>そもそも前身は[[逆コース]]当時に政権が設置した「[[法務庁]]特別審査局」。</ref>。1955年の武装闘争路線放棄以降も、[[敵の出方論]]であり、[[暴力革命]]自体は放棄していないとして<ref name="habouho">{{cite news|title=政府が「共産党は破防法調査対象」と答弁書を閣議決定|newspaper=産経新聞|date=2016-03-23|url=https://www.sankei.com/politics/news/160322/plt1603220039-n1.html|accessdate=2016-06-10}}</ref>、毎年1回発刊する「内外情勢の回顧と展望」で日本共産党の動向を報告している(近年では共産党の施策紹介と化している)。また、[[警備局|警察庁警備局]]も共産党が「暴力革命の方針」を保持していると認識している<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/politics/news/160322/plt1603220030-n1.html|title=共産党の「暴力革命」不変 破防法対象と政府答弁書 - 産経ニュース|date=20160322073511}}</ref>。 これに対して日本共産党は[[公安調査庁]]を以下のように批判し、[[破壊活動防止法]]と共に廃止を主張している<ref>[http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/991129_faq.html 公安調査庁とは?]日本共産党</ref>。 * 国民に対する[[諜報活動|スパイ活動]]を日常的に行っている秘密警察である。 * アメリカと大企業の利益最優先の政治をすすめる上で障害になるとみなした国民の運動を敵視・監視することが公安調査庁の最大の課題となっている。 * 日本共産党や一致する要求に基いて正当な活動をしている民主団体を、破防法の規定にすら反して主な標的として活動してきた。 * 監視の手口が盗聴、脅迫、窃盗、飲食や金品の提供によるスパイ工作など、違法・卑劣なものである。 * 近年では、[[阪神・淡路大震災]]([[兵庫県南部地震]])の救援にあたったボランティア活動、「官官接待」などを追及する市民オンブズマン活動、[[スポーツ振興くじ|サッカーくじ]]の導入に反対した女性団体、[[PTA]]組織、[[弁護士会]]、消費税増税反対の労働組合や老人クラブ、原発・基地・産廃処理場建設をめぐる住民投票、従軍慰安婦問題での市民運動などに監視の手をのばしてきた。 * [[オウム真理教]](現・[[アレフ (宗教団体)|アレフ]]・[[ひかりの輪]])の犯罪行為に対しては[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]以来何の役割も果たしていない。 [[兵庫県警]]OBの[[飛松五男]]は以下のように述べた。 {{Quotation|警察では、「日本共産党は暴力革命を起こそうとしている」とくり返し教わります。昇任試験でも、そういう回答が要求されます。しかし、終戦後の一時期を除けば、考えられないことです。公安警察が自らの予算と人員を減らされたくないために、言い続けているだけです。<ref>飛松五男『なぜ警察官の犯罪がなくならないのか』45頁</ref>}} == 他党との関係 == 1980年の社公合意以降、他党との選挙協力は沖縄以外行わない姿勢をとってきたが<ref>{{Archive.today|url=http://senkyo.mainichi.jp/news/20150731k0000m010031000c.html|title=共産党:参院選野党協力、沖縄以外は行わず - 毎日新聞|date=20150919185256}}</ref>、2015年9月19日、「戦争法(平和安全法制)廃止の国民連合政府」に賛同する野党との選挙協力をすると発表した<ref>{{Cite news|url=http://www.jcp.or.jp/web_policy/2015/09/20150919-yobikake.html |title=「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」の実現をよびかけます |author=志位和夫 |newspaper=しんぶん赤旗 |date=2015-09-19}}</ref><ref>{{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/news/20150920k0000m010044000c.html|title=共産党:他党と選挙協力…独自候補擁立見直し - 毎日新聞|date=20150919125203}}</ref>。 {{main|民共共闘}} 共産党と他の政党が協力関係を築けていない理由として以下が挙げられる。 #政策的な違い #日本社会党や部落解放同盟との長年の確執 #共産党の組織を維持・伸張させるために独自候補を擁立する必要があるという内部的な要因 #共産党が過去に労働運動の分野で[[労使協調]]路線に対して[[御用組合]]と痛烈な批判を行ったこと こうしたこともあって、民主党・社民党、部落解放同盟などから「独善的体質」「[[セクト]]主義」と批判されており、政治評論でもそういったイメージで語られることが多い<ref group="注釈">たとえば山口二郎や[[天木直人]]、筆坂秀世、[[森田実]]などの論、[[日刊ゲンダイ]]の記事など。</ref>。 <!--2006年1月23日に書記局長の[[市田忠義]]と社民党全国連合[[幹事長]]の[[又市征治]]が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた{{要出典|date=2013年11月}}。 5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「[[新社会党]]の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-05-20/2006052025_01_0.html 参院選での「平和共同候補」を求める運動について]」</ref>。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の[[確認団体]]「[[9条ネット]]」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-01/20070501faq12_01_0.html 「9条ネット」とは どんな団体ですか?]」</ref>。解放同盟の支援を受ける候補は新社会党のみならず、民主・社民・自民・公明にも存在する{{要出典|date=2013年11月}}。2006年のトピックスではあっても、長く残しておくべき記述ではないでしょう。 --> === 他党の反応とその事例 === 同様に他の野党も、共産党との連携に消極的な事が多い。 1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース([[東京都第9区_(中選挙区)|東京9区]]や[[和歌山県第1区_(中選挙区)|和歌山1区]]など。和歌山1区では社会党候補が共産党に代わって当選)や、民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で[[泡沫候補]]を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。<!--前者は自党の議席獲得を狙ったものとも言えるが<ref>当時の社会党は長期低落傾向にあった。そのため[[土井たか子|土井]]ブームによる復調は千載一遇の好機と見られており、また政権交代を狙う党に、候補の空白区があるのはおかしいとする逆の批判もあったのである</ref>、後者のケースは、まさにここで問題とされている「共産党的行動パターン」を、他の野党が行った事例といえよう。--> 小選挙区制導入以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。 2006年の沖縄県知事選挙では、糸数慶子を推すことで、近年の主要選挙では稀になった事実上の全野党共闘が成立した。民主党内部では[[長島昭久]]など党内右派から「共産と手を組んでいる」との批判が行われ、自民党も「共産と手を組んだ民主」などと攻撃した。結果は自民党推薦の[[仲井眞弘多]]に敗れた。このように、保守層を中心とした「共産党と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党も自民党やマスコミに共産党との協力関係を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。 こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「内部に対しては共闘先の候補者の選挙活動を行ない、その候補へ投票するよう指導・動員を強めるべきだが、対外的には推薦・支持などを公式には表明せず、(共産)党員はあくまでも無党派の支援者として振舞うべき」などの「配慮」を求めるケースもあった。これに共産党側が反発し、非難合戦となったこともある。 その一方で、「共産党を落とす」ため、共産党が接戦・優位な選挙区では自民党、民主党が国政等で対立しているにもかかわらず、協力するケースも多い。<!--これらの動きを、共産党は「野合」と批判している。--> 2004年には、参議院大阪府選挙区で、辞職中の辻元清美(当時、社民党)の支持者から、辻元を共同候補にし、共産現職の[[宮本岳志]]に引退を「強要」する言動がなされたとされる。結果は辻元も宮本も落選した。 2007年2月の[[2007年愛知県知事選挙|愛知県知事選挙]]では、共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の[[石田芳弘]]を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田本人は含みを持たせていたものの、陣営はこれを拒絶。共産党は急遽阿部精六を推薦。結果は阿部が予想を上回る票を獲得し、現職で3選を目指していた[[神田真秋]]を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。 2007年3月の[[2007年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]では、共産党推薦の[[吉田万三]]と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける元[[宮城県]]知事の[[浅野史郎]]、現職知事の[[石原慎太郎]]の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、話し合いもないまま取り下げを強要されたと吉田陣営が反発(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」<ref>([http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-13/2007031325_01_0.html 2007年3月13日(火)「しんぶん赤旗」 日本共産党躍進の流れを首都・東京から 明治公園での志位委員長の訴えから])</ref>と断言しこれを拒否した。その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占めており、吉田候補は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。その直後の都議会では、民主党や[[東京・生活者ネットワーク]]は、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。 この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。 2013年の第23回参議院議員通常選挙では、定数2の京都府選挙区で自民党の[[西田昌司]]が序盤から優位に立ち、2議席目を共産党の倉林明子と民主党新人で元首相補佐官の[[北神圭朗]]が争う展開となり、各メディアの情勢で北神の接戦・劣勢が伝えられると、府内の財界や[[山田啓二]][[京都府]]知事、[[門川大作]][[京都市長]]が「共産党落とし」を進めただけでなく<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-16/2013071602_01_1.html 京都の財界・保守政界 “共産党落とし”に必死 民主候補者支援の動き]2013年7月16日 しんぶん赤旗</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-22/2013072213_01_0.html 大激戦を勝ち抜いた]2013年7月22日 しんぶん赤旗</ref>、北神陣営が自民・公明両党に票を流す依頼まで行った<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-11/2013071101_07_1.html 京都民主 “自民の票を回して” 共産落としへ「お願い」]2013年7月11日 しんぶん赤旗</ref>。結果は、倉林が1万8000票差で北神を振り切って初当選したものの、[[京都新聞]]の出口調査では公明支持層の35.2%が推薦した西田に投票した一方、それを上回る38.9%が北神に投票していた。 一方、[[2011年大阪市長選挙]]では、当時の大阪府知事の橋下徹(大阪維新の会)の政治姿勢を[[独裁者]]と批判し、「独裁政治と教育基本条例案の成立を阻止」の名目の元、独自候補の渡司考一の擁立を撤回し、[[2007年大阪市長選挙]]では対立候補だった[[平松邦夫]]支持を呼びかけ、既存の他党と連携を行うという戦術を取り<ref>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/politics/update/1105/OSK201111050144.html|title=asahi.com(朝日新聞社):共産、平松氏を全面支援へ 大阪市長選 「独裁を阻止」 - 政治|date=20111106232742}}</ref><ref>[http://diamond.jp/articles/-/14802 「反ハシズム統一戦線」に共産党まで相乗りする混沌民意不在、投票率低迷の大阪市長選に何を問うべきか]-ダイヤモンドオンライン</ref>、2015年および2019年の市長選では自民党推薦の[[柳本顕]]を支持するという方針を出した<ref>{{Wayback|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151003-00000032-mbsnewsv-soci|title=大阪市長選 共産党が柳本市議の自主的支援を決定 (毎日放送) - Yahoo!ニュース|date=20151004150738}}</ref>。(平松と柳本は共に落選。) {{main|自共共闘}} 他党が共産党候補の支持を表明したのは、[[保坂展人]]が[[狛江市]]長[[矢野裕]](4期:1996年 - 2012年)を応援した例や、[[新社会党]]や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。[[国分寺市]]長[[山崎真秀]](1期:1997年 - 2001年)は、共産党と新社会党のみの推薦で5党相乗りの現職との一騎討ちに勝って当選した<ref name="ym19970707">{{cite news|newspaper=読売新聞・東京朝刊|date=1997-07-07|title=東京・国分寺市長選 共産推薦候補が当選 自民など推す現職破る|page=3}} - ヨミダス歴史館にて閲覧</ref>。 == 外郭・共闘団体との関係 == === 外郭団体 === * [[新日本出版社]] - 党幹部の著書やしんぶん赤旗関連の書籍を多く発行する。 * [[ジャパンプレスサービス]] - しんぶん赤旗の記事を英訳。 * [[日本民主青年同盟]](民青同盟) - 同盟の「目的」は「日本共産党のみちびきをうけ、科学的社会主義と日本共産党の綱領」を学ぶことを、規約は「日本共産党を相談相手に、援助を受けて活動する」ことを、それぞれ明記している<ref>{{Wayback|url=http://www.dylj.or.jp/introduction_rule.php|title=民青同盟の目的と規約 -|date=20100731233716}}</ref>。 === 加盟団体 === 日本共産党が構成員となっている団体は以下の通り。 * 日本国民救援会 * [[平和・民主・革新の日本をめざす全国の会]](全国革新懇) * [[憲法改悪阻止各界連絡会議]](憲法会議) * [[中央社会保障推進協議会]](中央社保協) - 社会保障の拡充を求める労働組合や生活協同組合などとの共闘組織 * 消費税廃止各界連絡会(各界連) * 安保破棄中央実行委員会 * 非核の政府を求める会 * 共同・友好関係 恒常的な共同・友好関係にあるか、執行部に党員が多いと見られている大衆団体。団体代表が団体内党後援会の代表を兼ねる例も多い。<br /> 民医連、全商連、農民連、全労連、新婦人の5団体は代表職を全国革新懇に代表世話人に送り出している<ref>{{Wayback|url=http://www.kakusinkon.org/sewanin.htm|title=革新懇代表世話人|date=20021010031038}}</ref>。 * [[全日本民主医療機関連合会]](略称:全日本民医連、民医連)<ref>[http://www.yamashita-yoshiki.jp/archive/column/1216587987.html 全日本民医連有志後援会代表世話人(鈴木篤)との写真]</ref> * [[全国商工団体連合会]](全商連)<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-08-20/2005082005_02_0.html 「全国業者後援会代表委員の国分稔」](2005年8月20日(土)「しんぶん赤旗」)</ref> * [[農民運動全国連合会]](農民連) * [[全国労働組合総連合]](全労連) * [[新日本婦人の会]](新婦人)<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-06-20/15_01.html 「新婦人内後援会の高田公子代表委員」](2003年6月20日(金)「しんぶん赤旗」)</ref> * [[自由法曹団]] * [[日本平和委員会]] * [[平和遺族会全国連絡会]] * 全国地域人権運動総連合(全国人権連) * [[日本宗教者平和協議会]](宗平協)<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-10-02/2007100204_02_0.html 宗平協新役員が共産党訪問・懇談](2007年10月2日(火)「しんぶん赤旗」)</ref> * 原水爆禁止日本協議会(日本原水協) * [[全国生活と健康を守る会連合会]](全生連) === 共闘関係 === 日本共産党や共産党員は、以下の団体の抗議行動に参加している。 * [[オール沖縄]]<ref name="Official1507">[https://web.archive.org/web/20150711034106/http://www.jcp.or.jp/web_tokusyu/sensohoan/action.html 各地の行動予定]、日本共産党中央委員会、2016年6月12日閲覧。</ref>:日本共産党沖縄県委員会が参加している。 * [[安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合|市民連合]] * 総がかり行動実行委員会<ref name="Official1507"/> * [[安全保障関連法に反対する学者の会]] * [[立憲デモクラシーの会]] * 安保関連法に反対するママの会 * 民主主義と生活を守る有志(SADL, サドル)<ref name="Official1507"/> * VIP(Voices Into the Peace)<ref name="Official1507"/> *ぼくしゅけ~僕らが主権者って知らなくて委員会~<ref name="Official1507" /> * 安倍政権NO!☆実行委員会<ref name="Official1507"/> * [[自由と民主主義のための学生緊急行動]](SEALDs)<ref name="Official1507" />(現在は解散):産経新聞は、SEALDsのデモで使用されている車両と共産党関係者が使用している車両のナンバーが同一であったと述べている<ref name="sankei20160604n5">{{Cite news|title=【日本共産党研究】「俺たちの声を聞け!」「政治家の背中押したの俺たちっすよ」 SEALDsと共産党は独善性も瓜二つだった…|newspaper=産経新聞|date=2016-06-04|url=https://www.sankei.com/article/20160630-7KDQSUOHERMSJCESE4CFCODVPU/5/}}</ref>。 == 国際党間交流 == 日本共産党はかつて「[[マルクス・レーニン主義#前衛党論|一国一前衛党論]]」を掲げ、複数の共産党・労働者党がある国では一つの党としか関係を持たなかった。さらに、ソ連共産党や中国共産党の複数前衛党論(併党論)を、大国の共産党による外国の革命運動に対する干渉を合理化する理論であるとして、強く批判した。1984年には、この複数前衛党論を全面的に批判し、一国一前衛党論を展開した論文「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論 : 「併党」論を批判する」を「赤旗」紙上で発表している<ref>{{Wayback|url=http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/papers/1980/19840725.htm|title=科学的社会主義の原則と一国一前衛党論|date=20070106000910}}※『赤旗』、1984年7月25日。『日本共産党国際問題重要論文集 第15巻』に収録。『日本共産党の70年』は「日本共産党は1984年にはいってから、……「併党」論がソ連や中国など社会主義大国を中心にあたらしくあらわれてきた問題を…全面的に詳細に批判した「科学的社会主義の原則と一国一前衛党論――『併党』論を批判する」を発表した」(下巻p.201)と紹介している。</ref>。 第23回大会(2004年)<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-01-15/04_01.html 党大会に参加 外国来賓の紹介]」「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-01-16/02_01.html メッセージを寄せた外国の党、組織を紹介]」『しんぶん赤旗』2004年1月15日</ref>または第24回大会(2006年)<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-13/2006011304_01_0.html 党大会に参加 外国政党代表の紹介]」、「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-01-13/2006011302_02_1.html メッセージを寄せた外国の党を紹介]」『しんぶん赤旗』2006年1月13日</ref>に、代表ないしメッセージを送った党は以下の通り。 ;アジア * [[インド]] - [[インド共産党]]、[[インド共産党マルクス主義派|インド共産党 (マルクス主義)]](CPIM) * 中国 - [[中国共産党]] :1968年から1998年にかけて対立関係にあったが、1998年に関係回復。2019年に再び対立関係。詳細は''[[日中共産党の関係]]''を参照 * [[ベトナム]] - [[ベトナム共産党]] :日本共産党は昔からベトナム共産党と関係が深く、[[ベトナム戦争]]時には[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]と連帯した<ref>{{Cite web |url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2019-01-04/2019010407_01_0.html |title=出典 |publisher=日本共産党 |date=2019-01-04 |accessdate=2021-10-26}}</ref>。 * [[ラオス]] - [[ラオス人民革命党]] * [[スリランカ]] - [[スリランカ共産党]] * [[カンボジア]] - [[フンシンペック党]] * [[ネパール]] - [[ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派]] ;欧州・アフリカ * [[ドイツ]] - [[左翼党 (ドイツ)]]、[[ドイツ共産党 (DKP)|ドイツ共産党]]、[[民主的社会主義党]] * フランス - [[フランス共産党]] * [[アイルランド]] - [[アイルランド労働者党]] * [[スウェーデン]] - [[左翼党 (スウェーデン)]] * [[デンマーク]] - [[社会主義人民党]] * [[チェコ]] - [[ボヘミア・モラビア共産党]] * [[キプロス]] - [[労働人民進歩党]] * [[ギリシア]] - [[ギリシャ共産党]] * スペイン - [[スペイン共産党]] * [[ポルトガル]] - [[ポルトガル共産党]] * [[ハンガリー]] - [[ハンガリー労働者党]] * [[イタリア]] - [[共産主義再建党]] * [[チュニジア]] - [[立憲民主連合]] * ロシア連邦 - [[ロシア連邦共産党]] ;米州 * [[ブラジル]] - [[ブラジル共産党]]、[[ブラジル社会主義人民党]]、[[ブラジル労働党]] * [[ベネズエラ]] - [[第五共和国運動]]、[[ベネズエラ共産党]] * [[エルサルバドル]] - [[ファラブンド・マルティ民族解放戦線]](FMLN) * [[ニカラグア]] - [[サンディニスタ民族解放戦線]](FSLN) * [[キューバ]] - [[キューバ共産党]] * [[メキシコ]] - [[民主革命党 (メキシコ)]] * アメリカ合衆国 - [[アメリカ共産党]]、民主主義と社会主義のための連絡委員会 1999年には外国の政党・政権について、保守的か革新的か問わずに対話と交流の場を広げるという「野党外交」の方針を定めている<ref>「[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-05-25/2010052501_07_0.html アメリカを訪問して志位委員長の報告]」『しんぶん赤旗』2010年5月25日</ref>。その立場から日本共産党は共産主義国以外の国にも公式訪問することがあり、また[[アジア政党国際会議]](ICAPP)に第2回総会以来毎年代表団を送っている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/web_daily/html/201409-ICAPP-shii.html 「アジアの共同体」、「核兵器のない世界」アジア政党国際会議と日本共産党の貢献 志位委員長が語る]『しんぶん赤旗』2014年9月28日</ref>。 == 主催行事 == [[ファイル:Akahata Matsuri 04.jpg|thumb|200px|第40回赤旗まつり(2010年11月)]] * [[赤旗まつり]] *JCPサポーターまつり * [[多喜二・百合子賞]] - 2005年で休止 * [[野呂栄太郎賞]] - 2005年で休止 == 関連音楽作品 == === 党を主題とする歌(公募入選作) === * [[杉本信夫]] 作曲「われらその道を行く -日本共産党を主題とする歌-」(作詞:片羽登呂平 1967年)党創立45周年記念作品・入選作<ref>日刊紙「赤旗」1967年7月18日号に発表</ref> *相馬公信 作曲「ひとすじの道 -日本共産党を主題とする歌-」(作詞:武石梺[たけいし ふもと] 1972年)党創立50周年記念作品・入選作<ref>「文化評論」1972年9月臨時増刊号175ページ所載</ref> === 党の組織的指導により創作・上演された歌劇=== * [[歌劇「沖縄」]]([[日本のうたごえ実行委員会]]による集団創作[[オペラ]]。1969年12月10日、[[渋谷公会堂]]で全幕初演)<ref>「[[前衛 (雑誌)|前衛]]」1972年3月臨時増刊号 194-196ページ所収 藤本洋「労働組合の強化と文化サークル活動」</ref><ref>「[[しんぶん赤旗|赤旗]]」1972年7月3日号 所載 藤本洋「歌劇『沖縄』第2次全国公演-成功をささえた人びと」</ref> {{Gallery |title= |footer= |width=200 |height=200 |lines=1 ||杉本信夫 作曲「われらその道を行く」演奏録音レコード(1967年)のジャケット ||[[相馬公信]] 作曲「ひとすじの道」演奏録音レコード(1972年)のジャケット }} == その他 == === 災害時の対応 === 災害時には、全国に置かれた党組織のネットワークを駆使した被災地支援活動を行っている。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では被災地のために募金活動を行い「東日本大震災救援募金」として計6億5千万円を被災自治体や被災地の農協、漁協等に届けている<ref>{{Cite web|和書|language =ja |url=http://www.jcp.or.jp/sinsai-sien/bokin_sito.html |title=東日本大震災情報ページ |publisher=日本共産党 |date=2011-03 | accessdate=2011-08-30}}</ref>ほか、全国の党支部から被災地へ援助物資が送られた<ref>{{Wayback|url=http://aterui.s2.coreblog.jp/?p=175|title=長野県日本共産党諏訪地区委員会から支援物資届く {{!}} 日本共産党岩手県委員会 東日本大震災救援情報|date=20111227193059}}</ref>。被災地域の党支部も関連団体と協力して各地で炊き出しや被災者に食糧や水、衣類など生活物資を配布した<ref>{{cite news|language =ja|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-04-24/2011042414_02_1.html|title=見捨てられていなかった |newspaper=しんぶん赤旗|date=2011-04-24|accessdate=2011-08-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-04-07/2011040714_02_1.html|title=あったかいね共産党とNPO 炊き出し|publisher=日本共産党|date=2011-04-07|accessdate=2011-08-30}}</ref>。 [[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]の直後に東京3区の立候補予定者が募金を行った際、義援金と党に対する寄付を同じ募金袋で集め、のちにツイッターに「熊本の被災地救援、北海道5区補選支援、党躍進のためにありがたく使わせていただきます」と書き込んだため問題視された<ref>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ4L4T5HJ4LUTFK004.html|title=義援金と党への寄付、同じ袋で集金 共産、批判受け注意:朝日新聞デジタル|date=20160418121559}}</ref>。 === 非実在表現に関して === 非実在表現をめぐって、参議院議員の[[音喜多駿]]は[[表現規制]]<ref>{{Wayback|url=https://article.yahoo.co.jp/detail/307b16b630035613ad2cfee03b2dcbec1a4a25a0|title=「非実在児童ポルノ」の規制を主張する共産党は「裏切り者」ではない。なぜなら… - Yahoo! JAPAN|date=20211022031655}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://blogos.com/article/565313/|title=日本共産党が強い「表現規制派」へ転向。この公約内容では、さすがに「表現の自由を守る」の建前は崩壊している (1/2)|date=20211019010828}}</ref>だと批判している。 === 第二事務(防衛部隊) === <!-- 出典とされている記事と同様または類似する内容は、産経新聞以外では一部のブログや掲示板に掲載されているのみで信憑性に乏しいと考えられます。 --> [[高木桂一]]は、日本共産党には「革命遂行には最高幹部の健康や寿命がかかわるから、最高幹部を大事する」との理由で別称「第2事務」と呼ばれる“防衛部隊”が設置されていると主張している。高木はその規模について「党本部に所属する約40名と、全国の地区委員会に1~2名、さらに“予備兵”」としている。また共産党防衛部隊OBの話として「警察無線の傍受のほか、対象者の尾行、盗聴などをやっている。党には警察無線の暗号を割り出すプロもいるから驚いた」としている<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/premium/news/150108/prm1501080005-n5.html|title=【高木桂一の『ここだけ』の話】破格の厚遇「まるで赤い貴族」 “躍進”共産党に君臨する不破元議長の“伝説”(5/6ページ) - 産経ニュース|date=20150109215301}}</ref>。 === ソーシャルメディアを使用した宣伝活動 === 所属する党員に対して、[[Twitter]]を始めとしたSNSを駆使して党のアピールや、政府活動への反対運動などを行う事を指示している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp-osaka.jp/osaka_now/18484|title=総選挙勝利へSNS活用を 日本共産党大阪女性後援会 研修交流会開く|publisher=日本共産党|date=2021-06-05|accessdate=2021-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-10-06/2021100602_02_0.html|title=総選挙募金へのご協力をお願いします|publisher=日本共産党|date=2021-10-06|accessdate=2021-10-16}}</ref>。Twitterでは「日本共産党(公式)🌾⚙️」という[[アカウント]]を用いているが、一部の党員がSNSを利用した選挙・宣伝活動に他人の創作作品([[ピカチュウ]]や[[アンパンマン]]など)に類似したキャラクターを登場させたり、他社の商標権のある商品を模した画像を無断で使用するなどの[[知的財産権|知財]]トラブル事案が続出し、他のSNSなどからの批判を受けて、党員や党が謝罪する事案が相次いでいる<ref>[https://www.j-cast.com/2023/03/31459032.html?p=all 共産党議員ら「ボンカレー」思わせる画像利用 大塚食品「一切関与していない」...党関係者が謝罪ラッシュ] - J-CAST ニュース 2023年3月31日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <ref name=":0">{{Cite web|和書|title=共産志位委員長、異例の在任20年 野党連合政権の樹立目指すが 党勢は衰退|url=https://www.sankei.com/article/20201124-TS3TVUL77VMGPLUPG6CHAHWGNE/|website=産経新聞|accessdate=2021-12-25|language=ja}}</ref> }} {{notelist-ua}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=日本共産党中央委員会|title=日本共産党の七十年全3冊|publisher=[[新日本出版社]]|date=1994-05-01|isbn=9784406022576|ref={{sfnref|共産党70年史|1994}}}} * {{Cite book|和書|author=日本共産党中央委員会|title=日本共産党の八十年―1922~2002|publisher=日本共産党中央委員会出版局|date=2003-01-01|isbn=9784530043935|ref={{sfnref|共産党80年史|2003}}}} * {{Cite book|和書|author=立花隆|authorlink=立花隆|title=日本共産党の研究|volume=一|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|date=1983-05-15|isbn=9784061830417}} * {{Cite book|和書|author=立花隆|title=日本共産党の研究|volume=二|publisher=講談社|series=講談社文庫|date=1983-06-15|isbn=9784061830424|ref={{sfnref|立花隆|1983b}}}} * {{Cite book|和書|author=立花隆|title=日本共産党の研究|volume=三|publisher=講談社|series=講談社文庫|date=1983-07-15|isbn=9784061830431}} * {{Cite book|和書|author=福冨健一|authorlink=福冨健一|title=日本共産党の正体|publisher=[[新潮社]]|series=[[新潮新書]]|date=2019-02-14|isbn=9784106108037|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=筆坂秀世|authorlink=筆坂秀世|title=日本共産党|publisher=新潮社|series=新潮新書|date=2006-04-15|isbn=9784106101649|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=筆坂秀世|title=日本共産党と中韓:左から右へ大転換してわかったこと|publisher=[[ワニブックス]]|series=ワニブックスPLUS新書|date=2015-06-08|isbn=9784847065620}} * {{Cite book|和書|author=筆坂秀世|title=日本共産党の最新レトリック|publisher=[[産経新聞出版]]|date=2019-06-27|isbn=9784819113687}} === 関連文献 === ==== 党記録 ==== * {{Cite book|和書|author=日本共産党中央委員会|title=自由と民主主義の宣言|publisher=日本共産党中央委員会出版局|date=1989-09|isbn=4530014355}}(特装版、1991年11月。{{ISBN|4530043398}}) * {{Cite book|和書|author=日本共産党中央委員会|title=日本共産党第23回党大会決定集|publisher=日本共産党中央委員会出版局|date=2004}} ==== 党員による著作 ==== * {{Cite book|和書|author=不破哲三|title=私の戦後六〇年:日本共産党議長の証言|publisher=新潮社|date=2005-08|isbn=4104783013}} * {{Cite book|和書|author=不破哲三|title=日本共産党史を語る|publisher=新日本出版社}}(上、2006年11月。{{ISBN|4406033238}}/下、2007年2月。{{ISBN|9784406050296}}) * {{Cite book|和書|author=宮本顕治|title=日本革命の展望・上下|publisher=新日本出版社|date=}} * {{Cite book|和書|author=宮本顕治|title=日本共産党の立場|publisher=新日本出版社|date=}} * {{Cite book|和書|author=犬丸義一|authorlink=犬丸義一|title=日本共産党の創立|publisher=[[青木書店]]|date=1982-09|isbn=4250820394}} ==== 党外部の人の著作 ==== * {{Cite book|和書|author=芦田辰治郎|authorlink=芦田辰治郎|title=日本共産党戦略戦術史|publisher=日本新聞社|date=1962}} * {{Cite book|和書|editor=[[読売新聞社]]|title=日本列島改造論批判:わが党は提言する 日本社会党・公明党・民社党・日本共産党|publisher=読売新聞社|date=1972}} * {{Cite book|和書|editor=[[朝日新聞社]]|title=日本共産党|publisher=朝日新聞社|date=1973}} * {{Cite book|和書|author=しまねきよし|title=もうひとつの日本共産党:宮本顕治体制に隠された真実|publisher=サンケイ新聞社出版局|date=1975}} * {{Cite book|和書|editor=葛西純一|title=日本共産党売国五十年史|publisher=黎明新聞社|date=1977-01}} * {{Cite book|和書|author=石井一朝|authorlink=石井一朝|title=日本共産党の教育工作|publisher=国民新聞社|date=1977-02}} * {{Cite book|和書|author=朝倉喬司|authorlink=朝倉喬司|title=活劇日本共産党|publisher=[[毎日新聞社]]|date=2011-02-26|isbn=9784620320120}} * {{Cite book|和書|author=大下英治|authorlink=大下英治|title=日本共産党の深層|publisher=[[イーストプレス]]|series=イースト新書|date=2014-02-09|isbn=9784781650210}} * {{Cite book|和書|author=山村明義|authorlink=山村明義|title=劣化左翼と共産党:SEALDsに教えたい戦前戦後史|publisher=[[青林堂]]|date=2016-03-26|isbn=9784792605438}} * {{Cite book|和書|author=産経新聞政治部|authorlink=|title=日本共産党研究:絶対に誤りを認めない政党|publisher=産経新聞出版|date= 2016-05-27|isbn=9784819112833}} * {{Cite book|和書|author=栗原直樹|authorlink=栗原直樹|title=日本共産党大研究:「躍進」と「不都合な過去」|publisher=青志社|date=2016-10-19|isbn=9784865900347}} * {{Cite book|和書|author=安濃豊|authorlink=安濃豊|title=日本人を赤く染めた共産党と日教組の歴史観を糾す:ガラクタ・ポンコツの思想|publisher=[[展転社]]|date=2019-02-28|isbn=9784886564733}} * {{Cite book|和書|author=柳原滋雄|authorlink=柳原滋雄|title=ガラパゴス政党日本共産党の100年|publisher=[[論創社]]|date=2020-04-22|isbn=9784846019303}} * {{Cite book|和書|author=梅澤昇平|authorlink=梅澤昇平|title=こんなに怖い日本共産党の野望|publisher=展転社|date=2020-04-29|isbn=9784886565006}} * {{Cite book|和書|author=中北浩爾|authorlink=中北浩爾|title=日本共産党:「革命」を夢見た100年|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|date=2022-5-23|isbn=9784121026958}} * {{Cite book|和書|author=[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]|title=日本共産党の100年|publisher=[[朝日新聞出版]]|date=2022-07|isbn=9784022518286}} ==== 離党した・除名された人の著作 ==== * {{Cite book|和書|author=袴田里見|authorlink=袴田里見|title=昨日の同志宮本顕治へ|publisher=新潮社|date=1978-11}} * {{Cite book|和書|author=兵本達吉|authorlink=兵本達吉|title=日本共産党の戦後秘史|publisher=新潮社|series=[[新潮文庫]]|date=2008-10-28|isbn=9784101362915}} (原著:産経新聞出版、2005年9月。{{ISBN2|9784594049799}}) * {{Cite book|和書|author=油井喜夫|authorlink=油井喜夫|title=汚名:いわれなき罪で査問された元党員が、27年の沈黙を破って告発!|publisher=毎日新聞社|date=1999-06-01|page=287|isbn=9784620313511}} * {{Cite book|和書| author=油井喜夫|title=虚構:日本共産党の闇の事件|publisher=[[社会評論社]]|date=2000-07-01|page=286|isbn=9784784514090}} * {{Cite book|和書|author=筆坂秀世|author2=宮崎学|authorlink2=宮崎学|editor=にんげん出版編集部|title=日本共産党vs.部落解放同盟|publisher=にんげん出版|series=モナド新書|date=2010-10-01|isbn=4931344291}} * {{Cite book|和書|author=松竹伸幸|authorlink=松竹伸幸|title=シン・日本共産党宣言:ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春新書]]|date=2023-01-20|isbn=9784166613960}} * {{Cite book|和書|author=篠原常一郎|authorlink=篠原常一郎|title=日本共産党噂の真相|publisher=[[育鵬社]]|date=2020-09-23|isbn=9784594086060}} (原著:[[徳間書店]] {{ISBN|9784198627683}}) * {{Cite book|和書|author=[[鈴木元 (立命館)|鈴木元]]|title=志位和夫委員長への手紙:日本共産党の新生を願って|publisher=[[かもがわ出版]]|date=2023-01-20|isbn=9784780312607}} ==== 当局側の文献 ==== 全て警察関連専門書を出版している[[立花書房]]より刊行 * [[田代則春]]<!-- {{efn|元[[検察官]]。首相官房参事官兼青少年対策本部参事官・元[[ケンジントン大学]]客員教授。のち弁護士。}} -->『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』 * [[弘津恭輔]]<!-- {{efn|元[[公安調査官]]。公安調査庁調査第一部長・[[総理府]]総務副長官・[[警察大学校]]校長などを歴任。}} -->『共産主義運動の研究』 ==== その他 ==== * {{Cite book|和書|author=大野達三|authorlink=大野達三|title=警備公安警察の素顔|publisher=新日本出版社|date=1988-03|isbn=4406015922}} * {{Cite book|和書|author=塩田庄兵衛|title=日本社会運動史|publisher=岩波書店|date= 1982-08}} * {{Cite book|和書|author=田中英道|authorlink=田中英道|title=左翼グローバリズムとの対決|publisher=育鵬社|date=2020-06-23|isbn=9784594085322}} * {{Cite book|和書|author=白川司|authorlink=白川司|title=[[日本学術会議]]の研究|publisher=ワック|date= 2020-12-17|isbn=9784898318317}} == 関連項目 == * [[日本の政党一覧]] * [[共産党]] * [[民共共闘]] * [[公安警察]] * [[公安調査庁]] * [[警視庁公安部]] * [[警察庁警備局公安課]] * [[破壊活動防止法]] * [[日本人民共和国憲法]] == 外部リンク == {{Commonscat|Japanese Communist Party}} * {{Official website}} {{戦前の日本共産党}} {{日本共産党}} {{日本の政党一覧}} {{共産主義}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんきようさんとう}} [[Category:日本共産党|*]] [[Category:日本共産党の事件|*]] [[Category:日本の共産主義|*]] [[Category:日本の社会主義政党]] [[Category:日本の革新政党]] [[Category:コミンテルン支部]] [[Category:東アジアの共産党]] [[Category:1922年設立の政党・政治団体]] [[Category:渋谷区の組織]] [[Category:代々木]] [[Category:日本の政党]]
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ピタゴラス教団
ピタゴラス教団(ピタゴラスきょうだん、英: Pythagorean Order)は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社。ピタゴラス派(英: Pythagoreans, 古希: Πυθαγόρειοι)ともいい、ピタゴラス派の教説をピタゴラス主義 (英: Pythagoreanism) という。 南イタリアのクロトン(現クロトーネ)に本拠を置き、数学・音楽・哲学の研究を重んじた。前5世紀ごろに盛んであった。 オルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有していた。また原始共産制を敷いており、ティマイオスによると、ピタゴラスは財産を共有することを結社に入る第一の条件にしていた。 この時代の宗教結社に共通することではあるが、結社外に教えを伝えることは禁じられていた。このため、ピタゴラス教団に関する資料は少なく、実態が明らかでない。古代の証言からは、数学の研究を重んじた派と、宗教儀礼を重んじた派のふたつがあったことが知られている。また、宗教儀礼を重んじた派の風習として、ソラマメを食べないなどの禁忌があったことが有名である。 この派に属していた者として医学者のアルクマイオンが挙げられる。 また、ピタゴラス教団自体が秘教的で教えを外部に伝えなかったことだけでなく、ピタゴラスの伝記が伝説やおとぎ話に満ちたものとなっているということもピタゴラス教団の実態を不確実なものとしている。ネオプラトニズムのポルピュリオスやイアンブリコスが書いた伝記が、ピュタゴラスの生涯を歴史哲学的な物語として描いている。 ピタゴラス本人を含めて前期ピタゴラス教団の人々は著述を一切残さなかったが、後期のピロラオス(プラトンの「パイドン」で言及される)、エウリュトス、アルキュタス(プラトンの同時代人)といった人々がピタゴラスの思想を間接的に伝えている。 プラトンにおける数学(幾何学)の重視はピタゴラス教団の影響であるといわれている。ピタゴラス教団は特定の数に神秘的な性格を見出しており、その教説の一端がプラトンの『国家』第10巻の宇宙像に現れているとの指摘がある。 ピタゴラス派は前4世紀に衰退したが、前1世紀、ニギディウス・フィグルスら新ピタゴラス派により再興された。 ピタゴラス派の根本思想は均整及び調和の理念で、この理念が日常生活から宇宙全体までを支配しているのだと考えられた。万物は宇宙の中心点である中心火の周囲を決まった軌道を通って周行するものとされた。 そして、均整及び調和の理念を基礎づけるものがピタゴラスの数論であった。ピタゴラス学派が数を原理と考えたということについて、アリストテレスはあるときには「数が物体の質料だと彼らは考えた」といったことを述べ、またあるときには「数が物体の原型であると彼らは考えた」といったことを述べている。このため、ピタゴラス学派の中には数を実体だと考える人々と数を物の原型としか考えない人々が混在していたのだと考えられている。ただしアリストテレスはピタゴラス学派の人々がおのおの二つの考えを同時に持っていたのだと考えている。アリストテレスと違ってピタゴラス学派の人々は形相的原理と質料的原理の区別を知らなかったことに注意しなければならない。 また、数論の現実的な領域への適用として、数と物事を結びつける、数を物事の象徴とするといったことが行われたが、正義を3に還元する者、4に還元する者、5に還元する者が学派内に混在していた。
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ピタゴラス教団は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社。ピタゴラス派ともいい、ピタゴラス派の教説をピタゴラス主義 という。
{{独自研究|date=2011年1月}} [[画像:Bronnikov gimnpifagoreizev.jpg|thumb|right|250px|日の出を祝うピタゴラス([[:en:Fyodor Bronnikov|Fyodor Bronnikov]]画)]]{{表記揺れ案内|表記1=ピタゴラス教団|表記2=ピュタゴラス教団}} '''ピタゴラス教団'''(ピタゴラスきょうだん、{{lang-en-short|Pythagorean Order}})は、[[古代ギリシア]]において[[哲学者]]の[[ピタゴラス]]によって創設されたとされる一種の[[宗教]]結社<ref>甲田烈『手にとるように哲学がわかる本』2008年、[[かんき出版]]、ISBN 978-4-7612-6529-8。50ページ</ref>。'''ピタゴラス派'''({{lang-en-short|Pythagoreans}}, {{Lang-grc-short|Πυθαγόρειοι}})ともいい、ピタゴラス派の教説を'''ピタゴラス主義''' ({{lang-en-short|Pythagoreanism}}) という。 == 概要 == 南[[イタリア]]の[[クロトン]](現[[クロトーネ]])に本拠を置き、[[数学]]・[[音楽]]・[[哲学]]の[[研究]]を重んじた。前5世紀ごろに盛んであった。 [[オルペウス教]]の影響から[[輪廻転生]]の考え方を有していた。また[[原始共産制]]を敷いており、[[ティマイオス]]によると、ピタゴラスは財産を共有することを結社に入る第一の条件にしていた。 この時代の宗教結社に共通することではあるが、結社外に教えを伝えることは禁じられていた。このため、ピタゴラス教団に関する資料は少なく、実態が明らかでない。古代の証言からは、数学の研究を重んじた派と、宗教儀礼を重んじた派のふたつがあった<ref>{{Cite book|title=『ピュタゴラス派 その生と哲学』|date=2000|publisher=岩波書店|author=B・チェントローネ|translator=斎藤憲|pages=101-105}}</ref>ことが知られている。また、宗教儀礼を重んじた派の風習として、[[ソラマメ]]を食べないなどの禁忌があったことが有名である。<ref>{{Cite book|title=『ピュタゴラス派 その生と哲学』|date=2000|year=|publisher=岩波書店|author=B・チェントローネ|translator=斎藤憲|pages=111-113}}</ref> この派に属していた者として医学者の[[クロトンのアルクマイオン|アルクマイオン]]が挙げられる。 また、ピタゴラス教団自体が秘教的で教えを外部に伝えなかったことだけでなく、ピタゴラスの[[伝記]]が[[伝説]]や[[おとぎ話]]に満ちたものとなっているということもピタゴラス教団の実態を不確実なものとしている。[[ネオプラトニズム]]の[[ポルピュリオス]]や[[イアンブリコス]]が書いた伝記が、ピュタゴラスの生涯を[[歴史哲学]]的な物語として描いている<ref name="Schwegler">[[シュヴェーグラー]]『西洋哲学史(上巻)』[[谷川徹三]]・[[松村一人]]訳、[[岩波文庫]]、[[1958年]]改版 ISBN 978-4003363614</ref>。 ピタゴラス本人を含めて前期ピタゴラス教団の人々は著述を一切残さなかったが、後期の[[ピロラオス]]([[プラトン]]の「[[パイドン]]」で言及される)、[[エウリュトス]]、[[アルキュタス]](プラトンの同時代人)といった人々がピタゴラスの思想を間接的に伝えている<ref name="Schwegler" />。 {{要出典範囲|プラトンにおける[[数学]]([[幾何学]])の重視はピタゴラス教団の影響である|date=2011年1月}}といわれている。{{要出典範囲|ピタゴラス教団は特定の数に神秘的な性格を見出しており、その教説の一端がプラトンの『[[国家 (対話篇)|国家]]』第10巻の宇宙像に現れているとの指摘|date=2011年1月}}{{誰2|date=2011年1月}}がある。 ピタゴラス派は前4世紀に衰退したが、前1世紀、[[ニギディウス・フィグルス]]ら[[新ピタゴラス派]]により再興された。 == 思想 == [[画像:Kapitolinischer Pythagoras adjusted.jpg|thumb|[[ピタゴラス]]の像]] ピタゴラス派の根本思想は均整及び調和の理念で、この理念が日常生活から宇宙全体までを支配しているのだと考えられた。万物は宇宙の中心点である中心火の周囲を決まった軌道を通って周行するものとされた<ref name="Schwegler" />。 そして、均整及び調和の理念を基礎づけるものがピタゴラスの数論であった。ピタゴラス学派が数を原理と考えたということについて、[[アリストテレス]]はあるときには「数が物体の[[質料]]だと彼らは考えた」といったことを述べ、またあるときには「数が物体の原型であると彼らは考えた」といったことを述べている。このため、ピタゴラス学派の中には数を実体だと考える人々と数を物の原型としか考えない人々が混在していたのだと考えられている。ただしアリストテレスはピタゴラス学派の人々がおのおの二つの考えを同時に持っていたのだと考えている。アリストテレスと違ってピタゴラス学派の人々は[[形相]]的原理と質料的原理の区別を知らなかったことに注意しなければならない<ref name="Schwegler" />。 また、数論の現実的な領域への適用として、数と物事を結びつける、数を物事の象徴とするといったことが行われたが、正義を3に還元する者、4に還元する者、5に還元する者が学派内に混在していた<ref name="Schwegler" />。 == 出典 == <references/> == 関連項目 == * [[ピタゴラス]] * [[ピタゴラスの定理]] * [[ピタゴラス音律]] * [[数秘術]] * [[占星術]] * [[哲学]] ** [[ギリシア哲学]] * [[宗教結社]] ** [[教団]] == 外部リンク == {{SEP|pythagoreanism|Pythagoreanism|ピタゴラス主義}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{古代ギリシア学派}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひたこらすきようたん}} [[Category:ピタゴラス]] [[Category:神秘主義]] [[Category:禁欲主義]] [[Category:ギリシア哲学の学派]] [[Category:数学の哲学]] [[Category:音楽の哲学]] [[Category:宗教の歴史]] [[Category:ピタゴラス派|*]] [[Category:数学に関する記事]] {{philos-stub}} {{Reli-stub}}
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53
53(五十三、ごじゅうさん、いそみ、いそじあまりみつ)は自然数、また整数において、52の次で54の前の数である。
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53(五十三、ごじゅうさん、いそみ、いそじあまりみつ)は自然数、また整数において、52の次で54の前の数である。
{{整数|Decomposition=([[素数]])}} '''53'''('''五十三'''、ごじゅうさん、いそみ、いそじあまりみつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[52]]の次で[[54]]の前の数である。 == 性質 == *53は16番目の[[素数]]である。1つ前は[[47]]、次は[[59]]。 **[[約数の和]]は[[54]]。 * 53 = 53 + 0 × ''ω'' (''ω''は1の虚立方根) ** a + 0 × ''ω'' (a > 0) で表される9番目の[[アイゼンシュタイン整数#アイゼンシュタイン素数|アイゼンシュタイン素数]]である。1つ前は47、次は59。 *8番目の[[ソフィー・ジェルマン素数]]である。1つ前は[[41]]、次は[[83]]。 *{{sfrac|1|53}} = 0.{{underline|0188679245283}}… (下線部は[[循環節]]で長さは13) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が13になる最小の数である。次は[[79]]。 **循環節が ''n'' になる最小の数である。1つ前の12は[[707]]、次の14は2629。({{OEIS|A003060}}) *[[素数#連続素数和|5つの連続する素数の和]]で表せる3番目の数である。1つ前は[[39]]、次は[[67]]。<br>53 = [[5]] + [[7]] + [[11]] + [[13]] + [[17]] **5つの連続する素数の和が素数になる最小の数である。次は[[67]]。 *4番目の[[素数|オイラー素数]]である。1つ前は47、次は[[61]]。 * 4番目の[[平方数]](4{{sup|2}})番目の素数である。1つ前は[[23]]、次は[[97]]。 * 2番目の[[4乗数]](2{{sup|4}})番目の素数である。1つ前は[[1]]、次は[[419]]。 * 4番目の[[2の累乗数]]番目の素数である。1つ前は[[19]]、次は[[131]]。 * 3 と 5 を使った最小の素数である。次は[[353]]。ただし単独使用を可とするなら1つ前は[[5]]。({{OEIS|A020462}}) ** 53…3 の形の最小の素数である。次は5333。({{OEIS|A093674}}) ** 5…53 の形の最小の素数である。次は55555553。({{OEIS|A093164}}) *3からの連続素数を降順に並べてできる2番目の数である。1つ前は[[3]]、次は[[753]]。ただし1つ前の3は単独の素数なので厳密な連続とみたとき最小である。({{OEIS|A092447}}) **3からの連続素数を降順に並べてできる2番目の素数である。1つ前は3、次は171311753。ただし1つ前の3は単独の素数なので厳密な連続とみたとき最小である。({{OEIS|A092448}}) * 2つの連続素数を降順に並べてできる最小の素数である。次は5347。({{OEIS|A088784}}) ** ''n'' = 2 のときの ''n'' 連続素数を並べてできる最小の素数とみたとき1つ前は[[2]]、次は292319。({{OEIS|A083471}}) *[[階乗|53!]] = 4274883284060025564298013753389399649690343788366813724672000000000000 **53!は[[無量大数]]を超える最小の階乗数である。 *53{{sup|7}} = 1174711139837 **各桁を加えると 1 + 1 + 7 + 4 + 7 + 1 + 1 + 1 + 3 + 9 + 8 + 3 + 7 = 53 。 **''n'' {{sup|7}} の値の各位の和が ''n'' に等しくなる7番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[58]]。({{OEIS|A226971}}) ***素数 ''p'' における ''p'' {{sup|''m''}} の値の各位の和が元の素数になる9番目の数である。1つ前は[[43]]、次は[[71]]。({{OEIS|A252357}}) *53 = 1 + 2 + 3 + 5 + 8 + 13 + 21 **[[フィボナッチ数列]]を構成する最初の7数の和である。1つ前は[[32]]、次は[[87]]。 * 53 = 2{{sup|2}} + 7{{sup|2}} ** 異なる2つの平方数の和で表せる16番目の数である。1つ前は[[52]]、次は[[58]]。({{OEIS|A004431}}) ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[351]]。({{OEIS|A074602}}) *53 = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの平方数の和1通りで表せる27番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[56]]。({{OEIS|A025321}}) ** 異なる3つの平方数の和1通りで表せる14番目の数である。1つ前は50、次は54。({{OEIS|A025339}}) ** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は11、次は[[281]]。({{OEIS|A074512}}) *[[各位の和]]が8になる6番目の数である。1つ前は[[44]]、次は[[62]]。 **各位の和が8になる数で素数になる2番目の数である。1つ前は17、次は71。({{OEIS|A062343}}) == その他 53 に関連すること == *'''[[東海道五十三次]]''':[[江戸幕府]]が[[東海道]]に[[宿駅伝馬制度]]を作り、[[江戸]] - [[京都]]間で53箇所の宿場が設けられた。 *[[原子番号]] 53 の元素は[[沃素|ヨウ素]] (I)(沃度、ヨード)。 *第53代[[天皇]]は[[淳和天皇]]である。 *[[日本]]の第53代[[内閣総理大臣]]は[[鳩山一郎]]である。 *[[大相撲]]の第53代[[横綱]]は[[琴櫻傑將]]である。 *第53代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ヨハネス1世 (ローマ教皇)|ヨハネス1世]](在位:[[523年]]~[[526年]][[5月18日]])である。 *[[年始]]から数えて53日目は[[2月22日]]。 *[[易占]]の[[六十四卦]]で第53番目の卦は、[[周易下経三十四卦の一覧#漸|風山漸]]。 *[[クルアーン]]における第53番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[星 (クルアーン)|星]]である。 *[[User Datagram Protocol|UDP]] では [[Domain Name System|DNS]] の[[ポート番号]]。 *[[イギリス連邦]](英連邦)に現在、加盟している国の数(ただし、[[パキスタン]]は参加停止処分を受けている)。 *[[山田ルイ53世]] *[[53平均律]] == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{数字2桁|5|- [[昭和53年]]}} *[[5月3日]] {{自然数}}
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キムチ
キムチ(韓: 김치)は、白菜などの野菜、塩、唐辛子、魚介塩辛、ニンニクなどを主な材料とする朝鮮半島の代表的な漬物。本来、キムチとは白キムチを意味したが、唐辛子伝来後はこれをペッキムチ(白キムチ)と呼び、唐辛子を混ぜたものをキムチと呼ぶようになった。 キムチは、もともとは朝鮮半島の厳寒期に備えた保存食であり、野菜を塩漬けしたものからはじまった。これに香辛料としてのニンニクやサンショウなどを加えるようになったのが、キムチの原型である。16世紀に日本から朝鮮半島に唐辛子が伝えられると、栽培や加工が容易な唐辛子がサンショウに代わって用いられるようになった。 唐辛子の強い刺激、野菜の甘味、乳酸発酵による酸味・うま味と塩辛さが複雑に混じり合った風味が特徴である。多くの場合は魚介類(もしくは魚醤や塩辛や塩アミなどの漬物)やニンニクなどを使用するため、強い匂いと風味を持つ。現代の韓国人にもキムチ離れが進んでいる。 朝鮮語で「野菜を漬けたもの」の意である沈菜(침채、チムチェ)が語源とする説や、沈漬(チムチ)、鹹菜(ハムチェ)を語源とする説など各種あり、定かではない。 英語表記については、kimuchi(日本語の読み)と表記したものと kimchi と表記したものが同時に使われていたが、東京で開かれた国際食品規格委員会 (CODEX) で日本が浅漬けを含む kimuchi をキムチの標準としようとしたことに対し、韓国は kimchi(朝鮮語語音からマッキューン=ライシャワー式にて転写)であると主張し、1996年3月に国際食品規格委員会 (CODEX) のアジア部会にて朝鮮語式の kimchi が認められた。一方、文化観光部2000年式では gimchi であり、英語圏においては例えばアメリカの朝鮮料理店では、kim chee 又は kimchee とメニューに書かれていることが多く、他にも Korean pickles、Fermented vegetable foodsという表記もされる。 唐の玄宗を題材とした長編詩で有名な李奎報(1168年 - 1241年)の詩集『東國李相國集』の詩に「得醬尤宜三夏食 漬鹽堪備九冬支(醤漬けして夏に食べるのがよく、また塩漬けして冬支度に備える)」という記述がある。この記述ではまだ「キムチ」という名称は登場しておらず、該当の食べ物は日本や中国の漬物のようなものであった。 16世紀、朝鮮半島に日本から唐辛子が伝来。その後朝鮮半島に唐辛子が普及し、1715年の『山林経済』にてはじめて唐辛子という単語が現れる。19世紀の文献『閨閤叢書』(1809年)に出てくるキムチを見ると、粉の唐辛子ではなく千切りの唐辛子を少し入れる製造方法が記録として残っており(日本で「朝鮮漬け」として知られている漬物に似たもの)、19世紀前後に唐辛子が使用され始めたことが推測される。1827年の『林園十六志』に、はじめて現在の加工法に近い「薀菜」がみえる。現在の結球型の白菜が完成したのは18世紀の中国であり、塩辛、唐辛子そして白菜を使った現在の形のキムチの登場は18世紀以降と考えられている。 韓国の飲食店ではキムチは無料のお代わり自由の副菜として提供されていることが多い(朝鮮料理#特徴を参照)。 2020年の韓国のキムチの輸出は3万9千700トン(1億4451万ドル)で約半数が日本向け、韓国への輸入は28万トン(1億5242万ドル)でほとんどが中国産だった。韓国の飲食店の購入するキムチの89.9%は中国産とされる。韓国の飲食店ではキムチの無料提供が負担になっており、安価な中国産キムチの輸入増加の要因になっている。 しかし、韓国ではキムチ離れが顕著となっている。韓国農林水産食品省「農村経済研究院」による2011年の分析によると、10年間で一人当たりのキムチ消費量は23%減少しており、その理由としてキムチ以外のおかずを食べるようになったことが挙げられている。それを裏付けるように、2001年と2010年の比較では、家庭でキムチを漬ける習慣は68.5%が54.5%と減少している。そして、中国産のキムチ輸入が増大し、過去最大になっている。特に中国産キムチは、価格が韓国産の半額以下となっており、飲食店や学校給食、社員食堂など向けに大量に輸入、消費されている。2010年1月から2015年4月までの「キムチ貿易赤字」は8409万ドル(約914億ウォン)に上った。2018年に韓国の農林畜産食品部は国産キムチの競争力を支援する「キムチ産業振興計画」を発表した。 北朝鮮のキムチは、韓国とほぼ同様であるが、酸味が抑えられ、比較的甘みがある。平壌では水キムチや白キムチが主流で、韓国ほど辛くなく、色も真っ赤ではないものが一般的に食べられている。 一般的な白菜キムチは以下のように漬ける。 朝鮮半島では寒冷のために新鮮な野菜が取れないので、冬の間にビタミンCが取れなくなる。そのため、毎年晩秋に越冬用の保存食として大量のキムチを漬ける。これを「キムジャン(김장)」といい、白菜キムチほか数種類のキムチを漬け込むが、3~4か月分の大人数分まとめて漬け込むため、一家族分が白菜だけで50株になることもある。2013年に韓国のキムチ作り、2015年に北朝鮮のキムチ作りがそれぞれユネスコの無形文化遺産に登録された。大企業などではそのためのボーナスや休暇が与えられる場合もある。韓国では儒教の影響で女性が飲酒や娯楽に興じることは以前は許されていなかったが、キムジャンの際は公然と飲酒することができ、女性たちの祭りに相当するものであった。家族や親戚の女性、また地域社会の女性が集まり越冬のために十分なキムチを漬ける。キムチ漬けが終われば、漬けたてのキムチとポッサムと呼ばれる豚肉を茹でた料理に巻いて食べる慣わしがある。 韓国でキムチは、日本でいう味噌汁のように家庭の味を象徴する料理であり「良いキムチを作れる女性は良い妻となれる」という言葉まである。同国独自の家電商品として、キムチ製造に便利な専用の家庭用冷蔵庫が売られている。しかし、キムジャンを行っている家庭は減少傾向にある。2000年代時点ではスーパーなどで既製品のキムチを買う主婦も多い。特に若い世代では、65%がキムチの作り方を知らないと回答していると、コリア・タイムズが伝えた。 昭和後期に入る頃までは、その辛さやニンニクの臭みが日本人の味覚に合わなかったことから、存在は知られていてもあまりなじみのないものであり、キムチという名称も一般的ではなく「朝鮮漬」と呼ばれることが多かった。一部では珍味とされた。しかし1975年に桃屋から発売された「桃屋 キムチの素」が人気を呼び、また1980年代後半に激辛ブームが起こると消費量が増加、ブームが沈静化した後も一定の販売数を保ち、一般のスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで手に入るようになった。一般のスーパーでは日本国産のキムチが売られていたが、1990年代から急速に消費量が増え、韓国から輸入されたキムチも流通し始めた。社団法人・食品需給研究センターによると、キムチは2004年に日本国内で浅漬けに次いで2番目に多く消費された漬物とされている。 だが、日本の韓国からのキムチ輸入量は2005年をピークに減少を始め、現在では日本国内で流通するキムチの主流は日本産になっている。これには韓国側が輸入した中国産白菜のキムチから寄生虫が発見された事件が大きく起因しており、2005年から2006年の間に日本のキムチ輸入量は46.4%減少している。東京都では人に寄生する有鉤嚢虫(脳や眼に寄生した場合は重篤な症状を示す寄生虫)の感染源として輸入キムチを原因のひとつとして上げている。また、以下のように製法の違いによる嗜好性の問題もある。 日本では浅漬けの製法(白菜の塩漬けに調味料を加える方法)でもキムチが作られており、浅漬けキムチ、和風キムチなどと呼ばれ、韓国式のキムチとは区別される。韓国式のキムチと和風キムチの違いは、主に乳酸発酵の有無にある。韓国本来の製法では魚介の塩辛が発酵し、濃厚なうまみとともに、酸味が生まれる。この酸味や、発酵臭とニンニクや魚介の香りが混ざった強い臭気が伴うことから、日本では好みが分かれる。 地方によっては、唐辛子を多めに使った漬物や、にんにくをやや多めに使った白菜漬、白菜のにんにく醤油漬、塩漬けした大根を干したものなどを「朝鮮漬」と称する例もある。 北米圏の子供達に韓国の朝食のメニューとしてキムチを紹介すると、辛いと文句を言う子供が出てきてかなり不評であった。 さまざまな具材を使ったキムチがあり、その数は200種類以上あると言われている。 地域によりキムチの種類も異なり、北に行くほど薄味に、辛さも控えめになる傾向にある。朝鮮半島北部のキムチは汁気が多く、野菜の素材の味を生かしたものであるのに対し、南部のキムチは唐辛子が多くなり汁気は少ない。この理由として気温が高い南部では亜熱帯性の作物である唐辛子の生産に適していたこと、また同時に豊富に獲れた魚介類を積極的に用いたため臭み消しや保存性を高める目的から唐辛子や塩を多く用いる必要があったことが挙げられる。 また離乳食用に薄味のペースト状になった「赤ちゃんキムチ」や辛さを抑えた「子どもキムチ」も韓国では販売されている。 大韓民国国軍のレーションにもキムチが採用されている。通常の製法では長期保存に適さないため、加熱加圧により発酵を止めつつ食感や風味を損なわないよう加工されているという。 本来の製法で作られたキムチは発酵食品であり、乳酸菌やビタミンが豊富である。 一方で塩分やカプサイシンも多く含むことによる害も指摘されている。韓国保健産業振興院の調査により、キムチを平均の300%程度食べる50~60代の女性は肥満になる危険が27.8%、高血圧症が20.5%、高脂血症が30.4%高いことが判明した。 韓国政府(保健福祉部)が2005年に行なった調査によると、韓国成人の塩分摂取量が世界保健機関 (WHO) 推奨値の2.7倍と極端に多いことが判明した。WHOの塩分摂取推奨値(成人)は一日あたり5グラムだが、韓国成人は13.5g(男性14.9g・女性12.2g)摂取している。又松大学校のチョン・ヘジョン教授が2009年6月30日に発表した説によると、韓国人は1日の塩分摂取量の31.2%をキムチ類から取っているという。 唐辛子を多く摂る韓国のような国では胃癌の発癌率が高く、唐辛子の中に含まれる「カプサイシン」が発がんを促進させる物質となっていることが韓国内の大学で解明されたほか、それらに対する報告も指摘されている。 2008年9月には、キムチ体験テーマパーク、キムチ博物館、多目的体験場、低温貯蔵庫などの施設を備えた「キムチ村」が大韓民国京畿道漣川郡にオープンした。韓国は自国産のキムチを日本などに輸出する一方、安価な中国産キムチを輸入しており、中国からの輸入量が韓国から他国への輸出量を上回るほどである。安価な中国産キムチの用途は主として飲食店で出される「突き出し」である。韓国の飲食店の購入するキムチの89.9%は中国産とされる。韓国ではキムチ離れが顕著となっている。韓国農林水産食品省「農村経済研究院」による2011年の分析によると、10年間で一人当たりのキムチ消費量は23%減少しており、その理由としてキムチ以外のおかずを食べるようになったことが挙げられている。それを裏付けるように、2001年と2010年の比較では、家庭でキムチを漬ける習慣は68.5%が54.5%と減少している。そして、中国産のキムチ輸入が増大し、過去最大になっている。特に中国産キムチは、価格が韓国産の半額以下となっており、飲食店や学校給食、社員食堂など向けに大量に輸入、消費されている。2010年1月から2015年4月までの「キムチ貿易赤字」は8409万ドル(約914億ウォン)に上った。2018年に韓国の農林畜産食品部は国産キムチの競争力を支援する「キムチ産業振興計画」を発表した。国内消費量の大半を占める中国産キムチへの懸念が衛生問題から強まっている。 2021年7月22日、韓国国内で「中国語でキムチを泡菜と言うなら、四川泡菜と区別することができない」という批判が高まったことを受け、韓国文化体育観光部は中国語での呼び名を「辛奇」とする訓令を発した。2013年にも韓国の国立国語院が中国語での訳名を「辛奇」に表記するように指導したが、中国語圏での不評により、翌年にまた「泡菜」を復帰させた。 2020年11月、中国四川省眉山市の市場監督管理局により「泡菜」(四川泡菜のことを指す)が国際標準化機構(ISO)の認証を受けたことから韓国と中国でキムチ論争がはじまった。 2021年2月3日に中国人YouTuber、李子柒が白菜の漬物を漬ける様子を中国伝統料理として紹介したことでさらに論争になった。さらに韓国人YouTuber・Hamzyがキムチは韓国の食べ物だと投稿したのを受け、中国のネットユーザーと韓国のネットユーザーによるコメント戦争となり中国側所属事務所はHamzyとの契約を解除した。 2021年1月20日、中国外務省報道官の華春瑩は定例記者会見で、キムチ論争に関連して「両国間の感情を害してはならない」としながらも「中国は塩漬けの発酵食品を泡菜と呼び、朝鮮半島と中国の朝鮮族はキムチと呼んでいる」とキムチと泡菜を同一視する趣旨の発言を行なっている。 2005年10月、韓国の保健福祉部は中国産の輸入キムチから寄生虫の卵を検出したと発表した。寄生虫の卵は未熟性のものであり、これらは、人糞を利用した有機質肥料が感染源と見られ、製造過程に於ける白菜の洗浄が適切でなかったためと見られている。なお食べても健康上問題はないとされたが、韓国政府は該当する中国の製造メーカーに対し洗浄の徹底と寄生虫卵の残留可否を検査するように義務付けた。2005年11月3日、韓国の食品医薬品安全処は韓国産のキムチと白菜から寄生虫の卵が検出されたと発表した。14日、日本の厚生労働省は「日本国内で市販されていた韓国産キムチから回虫の卵が見つかった」と発表した。同省輸入食品安全対策室によると、10月中旬ごろ輸入された400グラム入りパック1個を研究チームが購入して調査した結果31日、中国の国家質量監督検験検疫総局は韓国産キムチとコチュジャンなどから寄生虫の卵が検出されたと発表した。 韓国の食堂の食べ残し再利用が度々問題になっている。韓国の食堂ではキムチが無料で提供されるが、これが再利用される問題がある。更に安価なために食堂のキムチは中国産である。「26万人のチャンネル登録者を抱える有名韓国人ユーチューバーが自身の伯母が経営する釜山のテジクッパ(豚のスープご飯)有名韓国食堂からライブ配信をしていたところ、客の残したカクトゥギ(大根の角切りキムチ)を厨房のおかず保存ケースに入れ、すぐに別の店員がそのケースから新しい皿に取り分けるという、おかず再利用の場面が映り込んだために批判を浴びた。 2019年時点で韓国のキムチの国内需要は約77万トンの内、約4割を主に中国からの輸入に依存している。韓国産と比べて、中国産キムチは価格が安いため、食堂などで出てくるキムチのほとんどは中国産である。ところが、2021年3月に裸の中国人男性が地面に掘られた大きな泥水のような塩水で満たされたプールに入って、キムチ用の白菜をかき混ぜたり、錆びている掘削機で白菜の山を持ち上げたり、唐辛子の山の中に大量のネズミが住み着いていたり、作業員が靴を履いたまま白菜の上を歩いている不衛生な中国産キムチ製作映像が韓国で話題になった。動画をアップしたというパワーショベル技士を名乗る中国人は「皆さんが食べる白菜も、私が漬けたもの」「こうして作った白菜は韓国など各国にも輸出されている」と語ったことで中国産輸入キムチに頼る韓国社会に衝撃が走った。韓国MBCテレビは、中国メディアが「中国では普通にみられる様子だ」と報道したことを伝えている。事件をうけて、韓国国立農産物品質管理院が同年3月22~28日に、国内の飲食店や加工業者など3293社を対象に緊急点検実施すると、中国産を「韓国産」と虚偽していた表記が続出した。 2006年、アジア大会2006選手村(ドーハ)において「飲食物持ち込み規制」をされているのにもかかわらずこのルールに従わずに韓国選手団がキムチを持ち込み、没収されたことに選手や韓国オリンピック委員会職員(KOC)が執拗な抗議をしたため、警察が出動してKOC職員が勾留される騒ぎがあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "キムチ(韓: 김치)は、白菜などの野菜、塩、唐辛子、魚介塩辛、ニンニクなどを主な材料とする朝鮮半島の代表的な漬物。本来、キムチとは白キムチを意味したが、唐辛子伝来後はこれをペッキムチ(白キムチ)と呼び、唐辛子を混ぜたものをキムチと呼ぶようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キムチは、もともとは朝鮮半島の厳寒期に備えた保存食であり、野菜を塩漬けしたものからはじまった。これに香辛料としてのニンニクやサンショウなどを加えるようになったのが、キムチの原型である。16世紀に日本から朝鮮半島に唐辛子が伝えられると、栽培や加工が容易な唐辛子がサンショウに代わって用いられるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "唐辛子の強い刺激、野菜の甘味、乳酸発酵による酸味・うま味と塩辛さが複雑に混じり合った風味が特徴である。多くの場合は魚介類(もしくは魚醤や塩辛や塩アミなどの漬物)やニンニクなどを使用するため、強い匂いと風味を持つ。現代の韓国人にもキムチ離れが進んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "朝鮮語で「野菜を漬けたもの」の意である沈菜(침채、チムチェ)が語源とする説や、沈漬(チムチ)、鹹菜(ハムチェ)を語源とする説など各種あり、定かではない。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "英語表記については、kimuchi(日本語の読み)と表記したものと kimchi と表記したものが同時に使われていたが、東京で開かれた国際食品規格委員会 (CODEX) で日本が浅漬けを含む kimuchi をキムチの標準としようとしたことに対し、韓国は kimchi(朝鮮語語音からマッキューン=ライシャワー式にて転写)であると主張し、1996年3月に国際食品規格委員会 (CODEX) のアジア部会にて朝鮮語式の kimchi が認められた。一方、文化観光部2000年式では gimchi であり、英語圏においては例えばアメリカの朝鮮料理店では、kim chee 又は kimchee とメニューに書かれていることが多く、他にも Korean pickles、Fermented vegetable foodsという表記もされる。", "title": "名称・表記" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "唐の玄宗を題材とした長編詩で有名な李奎報(1168年 - 1241年)の詩集『東國李相國集』の詩に「得醬尤宜三夏食 漬鹽堪備九冬支(醤漬けして夏に食べるのがよく、また塩漬けして冬支度に備える)」という記述がある。この記述ではまだ「キムチ」という名称は登場しておらず、該当の食べ物は日本や中国の漬物のようなものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "16世紀、朝鮮半島に日本から唐辛子が伝来。その後朝鮮半島に唐辛子が普及し、1715年の『山林経済』にてはじめて唐辛子という単語が現れる。19世紀の文献『閨閤叢書』(1809年)に出てくるキムチを見ると、粉の唐辛子ではなく千切りの唐辛子を少し入れる製造方法が記録として残っており(日本で「朝鮮漬け」として知られている漬物に似たもの)、19世紀前後に唐辛子が使用され始めたことが推測される。1827年の『林園十六志』に、はじめて現在の加工法に近い「薀菜」がみえる。現在の結球型の白菜が完成したのは18世紀の中国であり、塩辛、唐辛子そして白菜を使った現在の形のキムチの登場は18世紀以降と考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "韓国の飲食店ではキムチは無料のお代わり自由の副菜として提供されていることが多い(朝鮮料理#特徴を参照)。 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"栄養素・発癌性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "韓国政府(保健福祉部)が2005年に行なった調査によると、韓国成人の塩分摂取量が世界保健機関 (WHO) 推奨値の2.7倍と極端に多いことが判明した。WHOの塩分摂取推奨値(成人)は一日あたり5グラムだが、韓国成人は13.5g(男性14.9g・女性12.2g)摂取している。又松大学校のチョン・ヘジョン教授が2009年6月30日に発表した説によると、韓国人は1日の塩分摂取量の31.2%をキムチ類から取っているという。", "title": "栄養素・発癌性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "唐辛子を多く摂る韓国のような国では胃癌の発癌率が高く、唐辛子の中に含まれる「カプサイシン」が発がんを促進させる物質となっていることが韓国内の大学で解明されたほか、それらに対する報告も指摘されている。", "title": "栄養素・発癌性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2008年9月には、キムチ体験テーマパーク、キムチ博物館、多目的体験場、低温貯蔵庫などの施設を備えた「キムチ村」が大韓民国京畿道漣川郡にオープンした。韓国は自国産のキムチを日本などに輸出する一方、安価な中国産キムチを輸入しており、中国からの輸入量が韓国から他国への輸出量を上回るほどである。安価な中国産キムチの用途は主として飲食店で出される「突き出し」である。韓国の飲食店の購入するキムチの89.9%は中国産とされる。韓国ではキムチ離れが顕著となっている。韓国農林水産食品省「農村経済研究院」による2011年の分析によると、10年間で一人当たりのキムチ消費量は23%減少しており、その理由としてキムチ以外のおかずを食べるようになったことが挙げられている。それを裏付けるように、2001年と2010年の比較では、家庭でキムチを漬ける習慣は68.5%が54.5%と減少している。そして、中国産のキムチ輸入が増大し、過去最大になっている。特に中国産キムチは、価格が韓国産の半額以下となっており、飲食店や学校給食、社員食堂など向けに大量に輸入、消費されている。2010年1月から2015年4月までの「キムチ貿易赤字」は8409万ドル(約914億ウォン)に上った。2018年に韓国の農林畜産食品部は国産キムチの競争力を支援する「キムチ産業振興計画」を発表した。国内消費量の大半を占める中国産キムチへの懸念が衛生問題から強まっている。", "title": "韓国と中国のキムチ関係" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2021年7月22日、韓国国内で「中国語でキムチを泡菜と言うなら、四川泡菜と区別することができない」という批判が高まったことを受け、韓国文化体育観光部は中国語での呼び名を「辛奇」とする訓令を発した。2013年にも韓国の国立国語院が中国語での訳名を「辛奇」に表記するように指導したが、中国語圏での不評により、翌年にまた「泡菜」を復帰させた。", "title": "韓国と中国のキムチ関係" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2020年11月、中国四川省眉山市の市場監督管理局により「泡菜」(四川泡菜のことを指す)が国際標準化機構(ISO)の認証を受けたことから韓国と中国でキムチ論争がはじまった。 2021年2月3日に中国人YouTuber、李子柒が白菜の漬物を漬ける様子を中国伝統料理として紹介したことでさらに論争になった。さらに韓国人YouTuber・Hamzyがキムチは韓国の食べ物だと投稿したのを受け、中国のネットユーザーと韓国のネットユーザーによるコメント戦争となり中国側所属事務所はHamzyとの契約を解除した。 2021年1月20日、中国外務省報道官の華春瑩は定例記者会見で、キムチ論争に関連して「両国間の感情を害してはならない」としながらも「中国は塩漬けの発酵食品を泡菜と呼び、朝鮮半島と中国の朝鮮族はキムチと呼んでいる」とキムチと泡菜を同一視する趣旨の発言を行なっている。", "title": "韓国と中国のキムチ関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2005年10月、韓国の保健福祉部は中国産の輸入キムチから寄生虫の卵を検出したと発表した。寄生虫の卵は未熟性のものであり、これらは、人糞を利用した有機質肥料が感染源と見られ、製造過程に於ける白菜の洗浄が適切でなかったためと見られている。なお食べても健康上問題はないとされたが、韓国政府は該当する中国の製造メーカーに対し洗浄の徹底と寄生虫卵の残留可否を検査するように義務付けた。2005年11月3日、韓国の食品医薬品安全処は韓国産のキムチと白菜から寄生虫の卵が検出されたと発表した。14日、日本の厚生労働省は「日本国内で市販されていた韓国産キムチから回虫の卵が見つかった」と発表した。同省輸入食品安全対策室によると、10月中旬ごろ輸入された400グラム入りパック1個を研究チームが購入して調査した結果31日、中国の国家質量監督検験検疫総局は韓国産キムチとコチュジャンなどから寄生虫の卵が検出されたと発表した。", "title": "キムチを巡る事件" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "韓国の食堂の食べ残し再利用が度々問題になっている。韓国の食堂ではキムチが無料で提供されるが、これが再利用される問題がある。更に安価なために食堂のキムチは中国産である。「26万人のチャンネル登録者を抱える有名韓国人ユーチューバーが自身の伯母が経営する釜山のテジクッパ(豚のスープご飯)有名韓国食堂からライブ配信をしていたところ、客の残したカクトゥギ(大根の角切りキムチ)を厨房のおかず保存ケースに入れ、すぐに別の店員がそのケースから新しい皿に取り分けるという、おかず再利用の場面が映り込んだために批判を浴びた。", "title": "キムチを巡る事件" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年時点で韓国のキムチの国内需要は約77万トンの内、約4割を主に中国からの輸入に依存している。韓国産と比べて、中国産キムチは価格が安いため、食堂などで出てくるキムチのほとんどは中国産である。ところが、2021年3月に裸の中国人男性が地面に掘られた大きな泥水のような塩水で満たされたプールに入って、キムチ用の白菜をかき混ぜたり、錆びている掘削機で白菜の山を持ち上げたり、唐辛子の山の中に大量のネズミが住み着いていたり、作業員が靴を履いたまま白菜の上を歩いている不衛生な中国産キムチ製作映像が韓国で話題になった。動画をアップしたというパワーショベル技士を名乗る中国人は「皆さんが食べる白菜も、私が漬けたもの」「こうして作った白菜は韓国など各国にも輸出されている」と語ったことで中国産輸入キムチに頼る韓国社会に衝撃が走った。韓国MBCテレビは、中国メディアが「中国では普通にみられる様子だ」と報道したことを伝えている。事件をうけて、韓国国立農産物品質管理院が同年3月22~28日に、国内の飲食店や加工業者など3293社を対象に緊急点検実施すると、中国産を「韓国産」と虚偽していた表記が続出した。", "title": "キムチを巡る事件" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2006年、アジア大会2006選手村(ドーハ)において「飲食物持ち込み規制」をされているのにもかかわらずこのルールに従わずに韓国選手団がキムチを持ち込み、没収されたことに選手や韓国オリンピック委員会職員(KOC)が執拗な抗議をしたため、警察が出動してKOC職員が勾留される騒ぎがあった。", "title": "キムチを巡る事件" } ]
キムチは、白菜などの野菜、塩、唐辛子、魚介塩辛、ニンニクなどを主な材料とする朝鮮半島の代表的な漬物。本来、キムチとは白キムチを意味したが、唐辛子伝来後はこれをペッキムチ(白キムチ)と呼び、唐辛子を混ぜたものをキムチと呼ぶようになった。
{{朝鮮の事物 |title=キムチ |picture=[[ファイル:Gimchi.jpg|300px]] |hangeul=김치 |hanja=沈菜、沈漬、鹹菜{{ja|など}} |katakana=キ<sub>ム</sub>チ |rr=gimchi |mr=kimch'i |alphabet=kimchi<br />kimchee }} {{栄養価 | name = はくさいキムチ<ref name="食品成分表2015"> {{Cite book|和書 |editor = 編:[[文部科学省]]科学技術・学術審議会資源調査分科会 |title = [[日本食品標準成分表]] |accessdate = 2022-06-20 |edition = 2015年版(七訂) |date = 2015-12-25 |isbn = 978-4-86458-118-9 |chapter = 6 野菜類 |chapterurl = https://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/detail/__icsFiles/afieldfile/2016/11/30/1365343_1-0206r8_1.pdf}}<!-- chapterformat = PDF だが、実装されていない模様 --></ref> | kJ = 192 | water = 85.8 g | protein = 2.8 g | fat = 0.3 g | opt1n=[[食物繊維|水溶性食物繊維]]| opt1v=0.7 g| opt2n=[[食物繊維|不溶性食物繊維]]| opt2v=2.0 g| carbs = 7.9 g | fiber = 2.7 g | sodium_mg = 870 | potassium_mg = 340 | calcium_mg = 48 | magnesium_mg = 17 | phosphorus_mg = 55 | iron_mg = 0.6 | zinc_mg = 0.3 | manganese_mg = 0.17 | vitA_ug = 18 | thiamin_mg = 0.05 | riboflavin_mg = 0.14 | vitB6_mg= 0.21 | folate_ug = 45 | vitB12_ug = (0) <!-- 推定量 --> | vitC_mg = 24 | vitD_ug = (0) <!-- 推定量 --> | vitE_mg = 0.5 | vitK_ug = 63| opt3n=[[硝酸イオン]]| opt3v=0.1 g}} '''キムチ'''({{lang-ko-kr-short|'''김치'''}})は、[[ハクサイ|白菜]]などの[[野菜]]、[[塩]]、[[唐辛子]]、[[塩辛|魚介塩辛]]、[[ニンニク]]などを主な材料とする[[朝鮮半島]]の代表的な[[漬物]]<ref name="kotobank">{{kotobank}}</ref>。本来、キムチとは[[白キムチ]]を意味したが、唐辛子伝来後はこれをペッキムチ(白キムチ)と呼び、唐辛子を混ぜたものをキムチと呼ぶようになった<ref name="kotobank" /><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=<W解説>韓国で続く中国産キムチへの不信感、その背景と日本の貢献とは?│韓国社会・文化│wowKora(ワウコリア) |url=https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/0521/10300280.html |website=wowKorea(ワウコリア) |date=2021-05-21 |accessdate=2022-01-24|quote=キムチの主材料である唐辛子が半島に登場した時期には諸説がある。最も信ぴょう性の高いのは、16世紀から17世紀の間、日本から伝来したとのことだ。韓国の歴史教科書にも登場する百科事典「芝峰類説(1614年)」には「南蛮椒有大毒。始自倭国来。故俗謂倭芥子。(南蛮椒は大変なきつさが有る。始めは日本から来た。故に倭芥子と俗に言われる)」と書いてある。 その他、同じく韓国の歴史教科書に登場する「星湖僿説」などにも唐辛子が日本から伝来したことを明確に記述している。}}</ref>。 == 概要 == キムチは、もともとは[[朝鮮半島]]の厳寒期に備えた[[保存食]]であり、野菜を塩漬けしたものからはじまった。これに香辛料としての[[ニンニク]]や[[サンショウ]]などを加えるようになったのが、キムチの原型である。16世紀に日本から朝鮮半島に唐辛子が伝えられると、栽培や加工が容易な唐辛子がサンショウに代わって用いられるようになった<ref name=":1" />。 唐辛子の強い刺激、野菜の甘味、[[乳酸発酵]]による酸味・うま味と塩辛さが複雑に混じり合った風味が特徴である。多くの場合は[[魚介類]](もしくは[[魚醤]]や[[塩辛]]や塩[[アミ (甲殻類)|アミ]]などの漬物)や[[ニンニク]]などを使用するため、強い匂いと風味を持つ。現代の韓国人にもキムチ離れが進んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=韓国人のキムチ離れ深刻…5年で20%減 「タクアンが好き」「中国産まずい」 |url=https://web.archive.org/web/20160906193930/https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/160903/cpd1609031710001-n1.htm |website=SankeiBiz |date=2016-09-03 |accessdate=2022-01-16 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 日本のように普及の際に味のローカライズがある。2023年時点で日本キムチ市場の大部分を、日本の会社が日本のハクサイで作った、日本人向けに甘めにアレンジされた日本産キムチが占めている<ref name=":4" />。 == 名称・表記 == {{ISO639言語名|ko}}で「野菜を漬けたもの」の意である'''沈菜'''({{lang|ko|침채}}、チ<sub>ム</sub>チェ)が語源<ref name="konest">{{Cite web|和書|title=キムチの起源と変遷1 {{!}} 食材・料理 {{!}} 韓国文化と生活|url=https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=430|website=www.konest.com|accessdate=2021-01-18|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|title=キッコーマン国際食文化研究センター - 館内展示パネル - 韓国の発酵食品|url=https://www.kikkoman.co.jp/kiifc/tenji/tenji07/korea02.html|website=www.kikkoman.co.jp|accessdate=2021-01-18}}</ref>とする説や、沈漬(チ<sub>ム</sub>チ)、鹹菜(ハ<sub>ム</sub>チェ)を語源とする説など各種あり、定かではない。 英語表記については、{{en|'''kimuchi'''}}(日本語の読み)と表記したものと {{en|'''kimchi'''}} と表記したものが同時に使われていたが、東京で開かれた[[国際食品規格委員会]] (CODEX) で日本が浅漬けを含む {{en|'''kimuchi'''}} をキムチの標準としようとしたことに対し、韓国は {{en|'''kimchi'''}}(朝鮮語語音から[[マッキューン&#65309;ライシャワー式]]にて転写)であると主張し、[[1996年]]3月に[[国際食品規格委員会]] (CODEX) のアジア部会にて朝鮮語式の {{en|'''kimchi'''}} が認められた。一方、[[文化観光部2000年式]]では {{en|'''gimchi'''}} であり、英語圏においては例えばアメリカの朝鮮料理店では、{{en|'''kim chee'''}} 又は {{en|'''kimchee'''}} とメニューに書かれていることが多く、他にも {{en|'''Korean pickles'''}}、{{en|'''Fermented vegetable foods'''}}という表記もされる<ref>{{Cite web|title=Weblio和英辞書 - 「キムチ」の英語・英語例文・英語表現|url=https://ejje.weblio.jp/content/%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%81|website=ejje.weblio.jp|accessdate=2021-01-18}}</ref>。 == 歴史 == {{節スタブ}} [[ファイル:Korea-Kimchi-Ancient.form-Museum-01.jpg|thumb|唐辛子伝来前のキムチ<br />[[ソウル特別市|ソウル]]・キムチ博物館にて]] [[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]を題材とした長編詩で有名な[[李奎報]](1168年 - 1241年)の詩集『東國李相國集』の詩に「得醬尤宜三夏食 漬鹽堪備九冬支(醤漬けして夏に食べるのがよく、また塩漬けして冬支度に備える)」という記述がある。この記述ではまだ「キムチ」という名称は登場しておらず、該当の食べ物は[[日本]]や[[中国]]の[[漬物]]のようなものであった。 [[16世紀]]、朝鮮半島に日本から唐辛子が伝来<ref name=":1" />。その後朝鮮半島に唐辛子が普及し、[[1715年]]の『山林経済』にてはじめて唐辛子という単語が現れる。[[19世紀]]の文献『閨閤叢書』(1809年)に出てくるキムチを見ると、粉の唐辛子ではなく千切りの唐辛子を少し入れる製造方法が記録として残っており(日本で「朝鮮漬け」として知られている漬物に似たもの)、19世紀前後に唐辛子が使用され始めたことが推測される。1827年の『林園十六志』に、はじめて現在の加工法に近い「薀菜」がみえる。現在の結球型の白菜が完成したのは[[18世紀]]の中国であり、塩辛、唐辛子そして白菜を使った現在の形のキムチの登場は18世紀以降<ref name=":0" />と考えられている。 韓国の飲食店ではキムチは無料のお代わり自由の副菜として提供されていることが多い([[朝鮮料理#特徴]]を参照)<ref name="newsweek2021p2">{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/02/post-95571_2.php|page=2|title=韓国と中国、「キムチ論争」勃発|publisher=ニューズウィーク|accessdate=2021-06-26|date=2021年2月5日}}</ref>。 2020年の韓国のキムチの輸出は3万9千700トン(1億4451万ドル)で約半数が日本向け、韓国への輸入は28万トン(1億5242万ドル)でほとんどが中国産だった<ref name="newsweek2021p2" />。韓国の飲食店の購入するキムチの89.9%は中国産とされる<ref name=kimuti171118>{{cite news|url =https://www.recordchina.co.jp/b592173-s0-c70-d0000.html|title =韓国、「キムチ産業振興計画」発表=中国産キムチが市場占領に危機感―中国メディア|publisher = [[Record China]]|date=2018-04-16|accessdate=2018年04月17日 }}</ref>。韓国の飲食店ではキムチの無料提供が負担になっており、安価な中国産キムチの輸入増加の要因になっている<ref name="newsweek2021p2" />。 しかし、韓国ではキムチ離れが顕著となっている。韓国農林水産食品省「農村経済研究院」による2011年の分析によると、10年間で一人当たりのキムチ消費量は23%減少しており、その理由としてキムチ以外のおかずを食べるようになったことが挙げられている。それを裏付けるように、2001年と2010年の比較では、家庭でキムチを漬ける習慣は68.5%が54.5%と減少している<ref name="名前なし-1">[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201111/2011112600064 時事ドットコム 『韓国、キムチ離れ?=10年間で消費2割減』 2011年11月26日6時44分]</ref>。そして、中国産のキムチ輸入が増大し、過去最大になっている<ref name="名前なし-2">[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/11/30/2011113000726.html Chosun Online 『10月時点で昨年の輸入額上回る』 2011年11月]</ref>。特に中国産キムチは、価格が韓国産の半額以下となっており、飲食店や学校給食、社員食堂など向けに大量に輸入、消費されている。2010年1月から2015年4月までの「キムチ貿易赤字」は8409万ドル(約914億ウォン)に上った<ref>{{Cite web|和書|title=韓国のキムチ貿易赤字拡大…中国産キムチ増加で|url=https://japanese.joins.com/JArticle/200521?sectcode=300&servcode=300|website=[[中央日報]]|accessdate=2021-01-19|language=ja|publisher=}}</ref>。2018年に韓国の[[農林畜産食品部]]は国産キムチの競争力を支援する「キムチ産業振興計画」を発表した<ref name=kimuti171118/>。 == 製造法・現地のアレンジ == [[ファイル:Gärten der Welt, Berlin-Marzahn 036.jpg|thumb|キムチ壺(ハンアリ)。屋外に置くことが多いため、雨露が入らないような蓋がついている]] [[ファイル:Korean.Folk.Village-Minsokchon-02.jpg|thumb|キムチ製造用に乾燥中の唐辛子]] === 北朝鮮のキムチ === [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のキムチは、韓国とほぼ同様であるが、酸味が抑えられ、比較的甘みがある。平壌では水キムチや白キムチが主流で、韓国ほど辛くなく、色も真っ赤ではないものが一般的に食べられている<ref>{{Cite news |url=https://www.koreaworldtimes.com/topics/news/5533/ |title=キムチの歴史は1300年?200年?60年?韓国は辛く北朝鮮は辛くない |publisher=コリアワールドタイムズ |date=2019-05-28 |accessdate=2020-05-17}}</ref>。 === 韓国のキムチ === 一般的な白菜キムチは以下のように漬ける。 # [[ハクサイ|白菜]]を1日ほど塩に漬ける。 # 水で洗って塩抜きし、葉に薬念をまぶして壺に本漬けする。 #* 薬念としては、唐辛子、ニンニク、[[ニラ]]、[[セウジョッ]]([[シュリンプペースト]]の一種。日本ではアミエビの名が一般的)、[[イカ]]、[[シログチ|イシモチ]]、[[イワシ]]などの[[チョッカル]]([[塩辛]])、[[魚醤]]の他、[[牛肉]]や[[煮干し]]、[[コンブ|昆布]]などの[[出汁]]を合わせたものが用いられる。[[リンゴ]]、[[ナシ|梨]]、[[クリ|栗]]、[[ナツメ]]など果物を加えて味をまろやかにしたり、生のカキやイカを加えコクやうまみを補ったりすることもある。 # 本漬けで4、5日ほど発酵させると完成である。[[乳酸発酵]]を伴うため、ガスが発生する。そのため、完全な密閉容器にキムチを詰めて室温で保管していると、数日で破裂する恐れがある。納豆菌などの専門特定の菌はないため、欧米の専門機関で、発酵食品ではなく、単に乳酸菌により腐敗したものである、と判定されたことがある。厳密にはその通りであるが、キムチは食品である。 ==== キムジャン ==== [[ファイル:Korean cuisine-Gimjang-Preparation for making kimchi-01.jpg|thumb|キムジャンの準備]] 朝鮮半島では寒冷のために新鮮な野菜が取れないので、冬の間にビタミンCが取れなくなる。そのため、毎年晩秋に越冬用の保存食として大量のキムチを漬ける。これを「'''キムジャン({{lang|ko|김장}})'''」といい、白菜キムチほか数種類のキムチを漬け込むが、3~4か月分の大人数分まとめて漬け込むため、一家族分が白菜だけで50株になることもある。2013年に韓国のキムチ作り<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Kimjang, making and sharing kimchi in the Republic of Korea |url=https://ich.unesco.org/en/RL/kimjang-making-and-sharing-kimchi-in-the-republic-of-korea-00881 |website=ich.unesco.org |access-date=2023-01-26 |language=en}}</ref>、2015年に北朝鮮のキムチ作り<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Tradition of kimchi-making in the Democratic People's Republic of Korea |url=https://ich.unesco.org/en/RL/tradition-of-kimchi-making-in-the-democratic-people-s-republic-of-korea-01063 |website=ich.unesco.org |access-date=2023-01-26 |language=en}}</ref>がそれぞれ[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された<ref>{{Cite web|和書|title=キムジャンとは |url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-475788 |website=コトバンク|accessdate=2022-01-16|language=ja|last=日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及}}</ref>。大企業などではそのためのボーナスや休暇が与えられる場合もある。韓国では[[儒教]]の影響で女性が飲酒や娯楽に興じることは以前は許されていなかったが、キムジャンの際は公然と飲酒することができ、女性たちの祭りに相当するものであった<ref>朝倉、蔡『キムチへの旅』 83ページ</ref>。家族や親戚の女性、また地域社会の女性が集まり越冬のために十分なキムチを漬ける。キムチ漬けが終われば、漬けたてのキムチとポッサムと呼ばれる豚肉を茹でた料理に巻いて食べる慣わしがある。 ==== 家庭の味と韓国における手作り衰退 ==== 韓国でキムチは、日本でいう[[味噌汁]]のように家庭の味を象徴する料理であり「良いキムチを作れる女性は良い妻となれる」という言葉まである。同国独自の家電商品として、キムチ製造に便利な専用の家庭用冷蔵庫が売られている。しかし、キムジャンを行っている家庭は減少傾向にある。2000年代時点ではスーパーなどで既製品のキムチを買う主婦も多い。特に若い世代では、'''65%'''がキムチの作り方を知らないと回答していると、[[コリア・タイムズ]]が伝えた<ref>{{Cite web|和書 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/2303617?cx_amp=all&act=all|title=韓国女性の65%がキムチの作り方を知らない|publisher=AFP|accessdate=2023年2月24日 }}</ref>。 === 日本 === [[File:Osaka Ikuno Korea Town 002.jpg|thumb|[[生野コリアタウン|大阪生野コリアタウン商店街]]の在日韓国人経営のキムチ専門店]] 昭和末期や平成初期に入る頃までは、その辛さやニンニクの臭みが日本人の味覚に合わなかったことから、朝鮮半島料理を知る人には存在は知られていても、一般にはあまりなじみのないものであった。キムチという名称も一般的ではなく「朝鮮漬」と呼ばれることのが多かった。一部では[[珍味]]とされた。1975年に[[桃屋]]から発売された「桃屋 キムチの素」が人気を呼び、また1980年代後半に激辛ブームが起こると「キムチ」消費量が増加したものの、1986年時点でも韓国キムチそのままを輸入するキムチ販売業者によると納品拒否されている。日本国産以外の韓国キムチの小売でも受け入れがされ始めたのは、2003年頃の[[韓流ブーム]]以降からである<ref name=":4">{{Cite web |title=【グローバルアイ】真の味、真のキムチ |url=https://s.japanese.joins.com/JArticle/311994?sectcode=140&servcode=100 |website=中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします |access-date=2023-11-28 |language=ja}}</ref>。 1980年代後半の激辛ブームが沈静化した後も一定の「キムチ」販売数は保ち、一部の[[スーパーマーケット]]や[[コンビニエンスストア]]などで手に入るようになった。そして。一般のスーパーで日本国産の「キムチ」が売られだし、[[1990年代]]から急速に消費量が増え、韓国から輸入されたキムチも流通し始めた。だが、韓国の味付けそのままでは日本人の多くには受け入れられなかった<ref name=":4" />。 社団法人・食品需給研究センターによると、「キムチ(日本国産含む)」は2004年時点で、日本国内で浅漬けに次いで2番目に多く消費された漬物とされている<ref>{{Cite web|和書|title=キムチ断然トップは幻 統計大幅修正で浅漬けに|url=http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2005033101000060|website=下野新聞社|date=2005-12-17|accessdate=2021-01-18|publisher=共同通信|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051217163806/http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=home&NWID=2005033101000060|archivedate=2005-12-17}}</ref>。日本国内で流通するキムチの主流は日本産になっている。韓国からのキムチ輸入量も、2005年をピークに減少を始めている。これには韓国側が輸入した中国産白菜のキムチから寄生虫が発見された事件が大きく起因している。一キムチ輸出企業は朝鮮日報の取材に「キムチ騒動の余波が予想以上に長引いている」「安全で健康的というキムチのイメージそのものに傷が付き、売り上げを回復できないでいる」と話した。2005年から2006年の間に日本のキムチ輸入量は46.4%減少した<ref>http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/26/20060426000040.html 韓国キムチ、輸出額大幅減,朝鮮日報<nowiki/>{{リンク切れ|date=2021-01-19}}</ref>。東京都では人に寄生する[[有鉤嚢虫]](脳や眼に寄生した場合は重篤な症状を示す寄生虫)の感染源として輸入キムチを原因のひとつとして上げている<ref>{{Cite web|和書|title=有鉤条虫|「食品衛生の窓」東京都福祉保健局|url=https://www.hokeniryo.metro.tokyo.lg.jp/shokuhin/musi/11.html|website=www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp|accessdate=2021-01-18}}</ref>。また、以下のように製法の違いによる嗜好性の問題もある。 ====日本式キムチ==== 日本では[[浅漬け]]の製法(白菜の塩漬けに調味料を加える方法)でもキムチが作られており、浅漬けキムチ、和風キムチなどと呼ばれ、韓国式のキムチとは区別される。韓国式のキムチと和風キムチの違いは、主に[[乳酸]][[発酵]]の有無にある。韓国本来の製法では魚介の塩辛が発酵し、濃厚なうまみとともに、酸味が生まれる。この酸味や、発酵臭とニンニクや魚介の香りが混ざった強い臭気が伴うことから、日本では好みが分かれる。 地方によっては、唐辛子を多めに使った漬物<ref>{{Cite web|和書|title=商品紹介「朝鮮漬」|片山食品株式会社|url=http://www.powerkun.co.jp/contents/foods/egpccb/data/chosen/index.html|website=www.powerkun.co.jp|accessdate=2021-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=商品紹介|url=http://tamagoya.ftw.jp/u14372.html|website=|date=2013-12-06|accessdate=2021-01-19|publisher=菅野漬物食品|archivedate=2013-12-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131206201646/http://tamagoya.ftw.jp/u14372.html}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮漬|url=https://www.marutafoods.co.jp/products/67/|website=マルタスギヨ株式会社|accessdate=2021-01-19|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=しげさんの恋人|url=http://www.marushi.com/seihin2.htm|website=www.marushi.com|accessdate=2021-01-19|publisher=有限会社マルシ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=生カップきゅうり朝鮮漬 90g【タマゴヤの朝鮮漬】|url=https://www.kounokura.com/SHOP/10.html|website=www.kounokura.com|accessdate=2021-01-18|publisher=}}</ref>や、にんにくをやや多めに使った白菜漬<ref>{{Cite web|title=丸吉漬物株式会社|url=https://web.archive.org/web/20071030172305/http://www.marunaka.net/group/cgi-bin/goodsview.cgi?ID=54|website=web.archive.org|date=2007-10-30|accessdate=2021-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮漬と白菜浅漬やハマグリのレシピ: 南大隅町やお新のブログ|url=http://momo5524.seesaa.net/article/102716511.html|website=momo5524.seesaa.net|accessdate=2021-01-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=朝鮮漬|url=https://www.yanagawa-fk-ja.or.jp/2017_02_5898.html|website=JA柳川 {{!}} 柳川農業協同組合|date=2017-02-24|accessdate=2021-01-18}}</ref>、白菜のにんにく醤油漬<ref>{{Cite web|和書|title=魅惑の朝鮮漬|url=https://ozfare.com/2020/03/24/%E9%AD%85%E6%83%91%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%BC%AC/|date=2020-03-24|accessdate=2021-01-18|language=ja|last=株式会社オズファーレ}}</ref>、塩漬けした大根を干したもの<ref>{{Cite web|和書|url=http://22-2115.jp/Q&Qniki2501.html|website=|accessdate=2021-01-18|title=朝鮮漬け|publisher=Q&Q不動産|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170227181511/http://22-2115.jp/Q&Qniki2501.html|archivedate=2017-02-27}}</ref>などを「朝鮮漬」と称する例もある。 2023年11月時点でも、日本キムチ市場の大部分は、「日本の会社が日本のハクサイで作った」、やや甘い味付けの日本キムチの日本産キムチが占めている。韓国キムチは、日本人の味覚には辛く、少しでも発酵が進むと「傷んだ」と感じる。韓国キムチを推す人々には本場キムチが受けいれられていないことが不満である<ref name=":4" />。 === 北米圏において === 北米圏の子供達に韓国の朝食のメニューとしてキムチを紹介すると、辛いと文句を言う子供が出てきてかなり不評であった<ref>[https://rocketnews24.com/2015/02/18/546806/ アメリカの子供達に世界の朝ご飯を食べさせたらこうなった!! 彼らのコメント「死んだ魚が入ってる!」「トイレの臭いがする」など] ロケットニュース24 2015年2月18日 (2023年8月25日閲覧)</ref>。 == 種類 == さまざまな具材を使ったキムチがあり、その数は200種類以上あると言われている。 ; ペチュギムチ({{lang|ko|배추김치}}) : 白菜のキムチ。単に「キムチ」と称した際はペチュギムチを指す。19世紀に中国で新品種の[[ハクサイ]]の種が輸入され一般的になった、比較的新しいキムチ<ref name="konest" />。 ; オイギムチ({{lang|ko|오이김치}}) : [[キュウリ|胡瓜]]のキムチ。オイソバキ、オイキムチとも。 ; カクトゥギ({{lang|ko|깍두기}}) : [[ダイコン|大根]]のキムチ。カクテキとも。大根を[[食材の切り方一覧#さまざまな切り方|さいの目]]に切って作る。 ; チョンガキムチ({{lang|ko|총각김치}}) : チョンガ大根(小型の大根)のキムチ。チョンガクキムチ、チョンガーキムチとも。 ; ポッサムキムチ({{lang|ko|보쌈김치}}) : [[開城特別市|開城]]地方の名物。生のイカや[[カキ (貝)|カキ]]などを白菜の葉で包んで漬ける。保存がきかないため二、三日で食べきらなくてはいけない。 ; ヤンベチュキムチ({{lang|ko|양배추김치}}) : [[キャベツ]]({{lang|ko|양배추}}、{{lang|ko|洋배추}}、洋白菜の意)のキムチ。白菜が手に入りにくいヨーロッパなどへ移住した朝鮮系住民によってよく作られていた。また、[[別府冷麺]]の具材として店によっては使われている。 ; [[マルコフチャ]]({{lang|ko|마르코프차}}) : [[ニンジン]]のキムチ。白菜が手に入りにくい[[ソビエト連邦|旧ソ連]]に移住した[[高麗人]]によって作られた。 ; カジキムチ({{lang|ko|가지김치}}) : [[ナス]]に葱、ニンニク、糸唐辛子などの薬味を詰めて漬けたキムチ。 ; チョッパキムチ({{lang|ko|쪽파김치}}) : [[ワケギ]]を使った即席漬けキムチ。 ; ムルギムチ({{lang|ko|물김치}}、水キムチ) : 唐辛子とニンニクを使わない、汁気の多い白いキムチ。汁ごと食べる。ムルギムチの汁は[[冷麺]]の汁には欠かせない。 {{Gallery |Korean.food-kimchi-02.jpg|ペチュギムチ |Korean.cuisine-Kimchi-Oisobaki-02.jpg|オイキムチ |Korean.food-kkakdugi-01.jpg|カクトゥギ |Korean.cuisine-Lotus.root.water.kimchi.jpg|レンコンの水キムチ |Korean-Dongchimi-01.jpg|主に冬に食べられるトンチミ(大根の水キムチ) ||キャベツキムチ |Koren cuisine-Jang kimchi-Pickled with soy sauce-01.jpg|ジャンキムチ }} 地域によりキムチの種類も異なり、北に行くほど薄味に、辛さも控えめになる傾向にある。朝鮮半島北部のキムチは汁気が多く、野菜の素材の味を生かしたものであるのに対し、南部のキムチは唐辛子が多くなり汁気は少ない。この理由として気温が高い南部では亜熱帯性の作物である唐辛子の生産に適していたこと、また同時に豊富に獲れた魚介類を積極的に用いたため臭み消しや保存性を高める目的から唐辛子や塩を多く用いる必要があったことが挙げられる<ref>朝倉、蔡『キムチへの旅』 55ページ</ref>。 また[[離乳食]]用に薄味のペースト状になった「赤ちゃんキムチ」や辛さを抑えた「子どもキムチ」も韓国では販売されている<ref>朝倉、蔡『キムチへの旅』 89ページ</ref>。 [[大韓民国国軍]]の[[レーション]]にもキムチが採用されている。通常の製法では長期保存に適さないため、加熱加圧により発酵を止めつつ食感や風味を損なわないよう加工されているという<ref>[http://10.studio-web.net/~phototec/koria.htm THE 戦闘糧食 韓国軍食糧 戦闘用]</ref>。 == 栄養素・発癌性 == 本来の製法で作られたキムチは[[発酵食品]]であり、乳酸菌や[[ビタミン]]が豊富である{{要出典|date=2022年9月}}。 <!--特筆性に疑問 [[2006年]][[3月27日]]、[[アメリカ合衆国]]の[[健康]]専門月刊誌『ヘルス ([http://www.health.com/health/article/0,,20410300,00.html World's Healthiest Foods: Kimchi (Korea)])』による世界の5大[[健康食品]]が発表され、[[スペイン]]の[[オリーブ・オイル]]をはじめ、日本の[[ダイズ]]、[[ギリシャ]]の[[ギリシャヨーグルト|グリークヨーグルト]]、[[インド]]の[[レンズマメ]]、[[大韓民国]]のキムチの5品目が選出された。 --> === 塩分 === 一方で塩分やカプサイシンも多く含むことによる害も指摘されている。韓国保健産業振興院の調査により、キムチを平均の300%程度食べる50~60代の女性は肥満になる危険が27.8%、高血圧症が20.5%、高脂血症が30.4%高いことが判明した<ref name="中央日報 2007年4月1日付">{{Cite web|和書|url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=86051|title = キムチの食べ過ぎで生活習慣病の危険|publisher = [[中央日報]]|accessdate=2007年4月1日 }}</ref>。 韓国政府(保健福祉部)が2005年に行なった調査によると、韓国成人の塩分摂取量が[[世界保健機関]] (WHO) 推奨値の2.7倍と極端に多いことが判明した<ref>http://news.donga.com/fbin/output?n=200608240287<nowiki/>{{リンク切れ|date=2021-01-19}}</ref>。WHOの塩分摂取推奨値(成人)は一日あたり5グラムだが、韓国成人は13.5g(男性14.9g・女性12.2g)摂取している。[[又松大学校]]のチョン・ヘジョン教授が2009年6月30日に発表した説によると、韓国人は1日の塩分摂取量の31.2%をキムチ類から取っているという<ref>{{Cite web|和書|title=韓国人の塩分摂取過多、主犯は「キムチ類」|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/06/30/0200000000AJP20090630003800882.HTML|website=聯合ニュース|accessdate=2021-01-19|language=ja|publisher=|archivedate=2009-07-20|archiveurl=https://megalodon.jp/2009-0720-0356-07/japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/06/30/0200000000AJP20090630003800882.HTML}}</ref>。 === 発癌性 === 唐辛子を多く摂る韓国のような国では胃癌の発癌率が高く、唐辛子の中に含まれる「[[カプサイシン]]」が発がんを促進させる物質となっていることが韓国内の大学で解明された<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/itscience/2010/09/06/0600000000AJP20100906001300882.HTML|title=カプサイシンががんの発生促進、建国大教授らが解明|accessdate=2021-01-19|publisher=聯合ニュース|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120226094334/http://japanese.yonhapnews.co.kr/itscience/2010/09/06/0600000000AJP20100906001300882.HTML|deadlinkdate=|archivedate=2012-02-26}}</ref>ほか、それらに対する報告も指摘されている<ref>新宿健康塾ニュース10月号「味覚障害」【Health Index】FINE-club~健康で元気な暮らし情報 </ref><ref name="pmid10830575">{{cite journal |author=Mathew A, Gangadharan P, Varghese C, Nair MK |title=Diet and stomach cancer: a case-control study in South India |journal=Eur. J. Cancer Prev. |volume=9 |issue=2 |pages=89–97 |year=2000 |pmid=10830575| doi = 10.1097/00008469-200004000-00004}}</ref><ref name="pmid12800206">{{cite journal |author=López-Carrillo L, López-Cervantes M, Robles-Díaz G, ''et al'' |title=Capsaicin consumption, Helicobacter pylori positivity and gastric cancer in Mexico |journal=Int. J. Cancer |volume=106 |issue=2 |pages=277–82 |year=2003 |pmid=12800206 |doi=10.1002/ijc.11195}}</ref><ref name="pmid12208187">{{cite journal |author=Archer VE, Jones DW |title=Capsaicin pepper, cancer and ethnicity |journal=Med. Hypotheses |volume=59 |issue=4 |pages=450–7 |year=2002 |pmid=12208187| doi = 10.1016/S0306-9877(02)00152-4}}</ref><ref name="pmid8116601">{{cite journal |author=López-Carrillo L, Hernández Avila M, Dubrow R |title=Chili pepper consumption and gastric cancer in Mexico: a case-control study |journal=Am. J. Epidemiol. |volume=139 |issue=3 |pages=263–71 |year=1994 |pmid=8116601 |doi=}}</ref>。 == 韓国と中国のキムチ関係 == 2008年9月には、キムチ体験テーマパーク、キムチ博物館、多目的体験場、低温貯蔵庫などの施設を備えた「キムチ村」が大韓民国[[京畿道]][[漣川郡]]にオープンした<ref>{{Cite web|和書|url=http://app.yonhapnews.co.kr/YNA/Basic/ArticleJapan/ArticleMPIC/YIBW_showArticleMPICPopup.aspx?contents_id=MYH20080919001900882|title=キムチのすべてがここに、漣川「キムチ村」オープン(9月19日)|accessdate=2021-01-19|publisher=聯合ニュース|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513125439/http://app.yonhapnews.co.kr/YNA/Basic/ArticleJapan/ArticleMPIC/YIBW_showArticleMPICPopup.aspx?contents_id=MYH20080919001900882|archivedate=2013-05-13|date=2008-09-19}}</ref>。韓国は自国産のキムチを日本などに輸出する一方、安価な中国産キムチを輸入しており、中国からの輸入量が韓国から他国への輸出量を上回るほどである。安価な中国産キムチの用途は主として[[飲食店]]で出される「突き出し」である。韓国の飲食店の購入するキムチの89.9%は中国産とされる<ref name="kimuti171118">{{cite news|url =https://www.recordchina.co.jp/b592173-s0-c70-d0000.html|title =韓国、「キムチ産業振興計画」発表=中国産キムチが市場占領に危機感―中国メディア|publisher = [[Record China]]|date=2018-04-16|accessdate=2018年04月17日 }}</ref>。韓国ではキムチ離れが顕著となっている。韓国農林水産食品省「農村経済研究院」による2011年の分析によると、10年間で一人当たりのキムチ消費量は23%減少しており、その理由としてキムチ以外のおかずを食べるようになったことが挙げられている。それを裏付けるように、2001年と2010年の比較では、家庭でキムチを漬ける習慣は68.5%が54.5%と減少している<ref name="名前なし-1"/>。そして、中国産のキムチ輸入が増大し、過去最大になっている<ref name="名前なし-2"/>。特に中国産キムチは、価格が韓国産の半額以下となっており、飲食店や学校給食、社員食堂など向けに大量に輸入、消費されている。2010年1月から2015年4月までの「キムチ貿易赤字」は8409万ドル(約914億ウォン)に上った<ref>{{Cite web|和書|title=韓国のキムチ貿易赤字拡大…中国産キムチ増加で|url=https://japanese.joins.com/JArticle/200521?sectcode=300&servcode=300|website=[[中央日報]]|accessdate=2021-01-19|language=ja|publisher=}}</ref>。2018年に韓国の[[農林畜産食品部]]は国産キムチの競争力を支援する「キムチ産業振興計画」を発表した<ref name="kimuti171118" />。国内消費量の大半を占める中国産キムチへの懸念が衛生問題から強まっている<ref name=":1" />。 === 起源と「泡菜」論争 === 2021年7月22日、韓国国内で「[[中国語]]でキムチを泡菜と言うなら、四川泡菜と区別することができない」という批判が高まったことを受け、[[文化体育観光部|韓国文化体育観光部]]は中国語での呼び名を「辛奇」とする[[訓令]]を発した<ref name=":6">{{Cite web|title=韩国泡菜中文译名正式定为“辛奇” {{!}} 韩联社|url=https://cn.yna.co.kr/view/ACK20210722003900881|website=韩联社(韩国联合通讯社)|date=2021-07-22|accessdate=2021-07-23|language=zh|last=계화춘}}</ref><ref>{{Cite web|title=김치 중국어 표기 논란 끝…중식명 ‘파오차이’→‘신치’|url=https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1004735.html|website=www.hani.co.kr|date=2021-07-22|accessdate=2021-07-23|language={{ISO639言語名|ko}}}}</ref>。2013年にも韓国の[[国立国語院]]が中国語での訳名を「辛奇」に表記するように指導したが、[[中国語圏]]での不評により、翌年にまた「泡菜」を復帰させた<ref>{{Cite web|title=韩国宣布将“辛奇”改回原译名“泡菜”_国际_新闻中心_新浪网-北美|url=https://web.archive.org/web/20140515000630/http://dailynews.sina.com/gb/news/int/sinacn/20140514/13005720845.html|website=web.archive.org|date=2014-05-15|accessdate=2021-07-23}}</ref>。 2020年11月、中国[[四川省]][[眉山市]]の市場監督管理局により「泡菜」([[四川泡菜]]のことを指す)が[[国際標準化機構]](ISO)の認証を受けたことから韓国と中国でキムチ論争がはじまった<ref name="newsweek2021p1">{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/02/post-95571.php |title=韓国と中国、「キムチ論争」勃発 |accessdate=2022-1-24 |publisher=Newsweek}}</ref>。 2021年2月3日に[[中国人]][[YouTuber]]、[[李子柒]]が白菜の[[漬物]]を漬ける様子を[[中国料理|中国伝統料理]]として紹介したことでさらに論争になった<ref name="newsweek2021p1" />。さらに韓国人YouTuber・Hamzyがキムチは韓国の食べ物だと投稿したのを受け、中国のネットユーザーと韓国のネットユーザーによる[[コメント (コンピュータ)|コメント]]戦争となり中国側所属事務所はHamzyとの契約を解除した<ref name="newsweek2021p2" />。 2021年1月20日、中国外務省報道官の[[華春瑩]]は定例記者会見で、キムチ論争に関連して「両国間の感情を害してはならない」としながらも「中国は[[塩漬け]]の[[発酵食品]]を泡菜と呼び、[[朝鮮半島]]と中国の[[朝鮮族]]はキムチと呼んでいる」とキムチと泡菜を同一視する趣旨の発言を行なっている<ref name="newsweek2021p2" />。 == キムチを巡る事件 == === 寄生虫事件 === 2005年10月、韓国の[[保健福祉部]]は中国産の輸入キムチから寄生虫の卵を検出したと発表した<ref name="東亜日報"/>。寄生虫の卵は未熟性のものであり、これらは、人糞を利用した[[有機質肥料]]が感染源と見られ<ref name="東亜日報">[http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2005102263488 中国産キムチで寄生虫検出、人糞肥料が原因か] 東亜日報、2020年10月16日閲覧</ref>、製造過程に於ける白菜の洗浄が適切でなかったためと見られている。なお食べても健康上問題はないとされたが、韓国政府は該当する中国の製造メーカーに対し洗浄の徹底と寄生虫卵の残留可否を検査するように義務付けた。2005年11月3日、韓国の[[食品医薬品安全処]]は韓国産のキムチと白菜から寄生虫の卵が検出されたと発表した<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/2005/11/04/jp20051104_54882.html 韓国産キムチと白菜から寄生虫卵] 人民網、2020年10月16日閲覧</ref>。14日、日本の[[厚生労働省]]は「日本国内で市販されていた韓国産キムチから回虫の卵が見つかった」と発表した<ref>国内で市販の韓国産キムチから回虫の卵…厚労省発表 読売新聞(2005年11月14日)</ref>。同省輸入食品安全対策室によると、10月中旬ごろ輸入された400グラム入りパック1個を研究チームが購入して調査した結果31日、中国の国家質量監督検験検疫総局は韓国産キムチとコチュジャンなどから寄生虫の卵が検出されたと発表した<ref>{{Cite web|和書|url =http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=69196|title=中国「韓国産キムチから寄生虫卵」、食薬庁「輸出したことない」|publisher=[[中央日報]]|date=2005-11-01|accessdate=2018年4月17日 }}</ref>。  === 食べ残し再利用問題 === 韓国の食堂の食べ残し再利用が度々問題になっている<ref>{{Cite web|和書|title=「客が残したスープを鍋に」…釜山・飲食店の「不衛生」な環境が物議に=韓国|url=https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/0419/10296071.html |website=wowKorea(ワウコリア) |date=2021-04-19 |accessdate=2022-01-16}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=グツグツ煮たから大丈夫?韓国で今度はタラ鍋専門店の食べ残し再利用が物議 |url=https://www.recordchina.co.jp/b873680-s25-c30-d0194.html |website=Record China |accessdate=2022-01-16 |language=jp |first=Record|last=China}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「客が残したスープやキムチ」だけではなかった…「再利用」「偽表示」「不衛生」などで飲食業者31店を摘発=韓国釜山|url=https://www.wowkorea.jp/news/korea/2021/0423/10296743.html|website=wowKorea(ワウコリア)|date=2021-04-23 |accessdate=2022-01-16}}</ref>。韓国の食堂ではキムチが無料で提供されるが、これが再利用される問題がある。更に安価なために食堂のキムチは中国産である<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=【ソウルからヨボセヨ】反中感情とキムチ受難 |url=https://www.sankei.com/article/20210414-I45L4HQGINPKRFNMCVIEGPJQWY/ |website=産経ニュース |date=2021-04-14 |accessdate=2022-01-16 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。「26万人のチャンネル登録者を抱える有名韓国人ユーチューバーが自身の伯母が経営する釜山のテジクッパ(豚のスープご飯)有名韓国食堂からライブ配信をしていたところ、客の残した[[カクテキ|カクトゥギ]](大根の角切りキムチ)を厨房のおかず保存ケースに入れ、すぐに別の店員がそのケースから新しい皿に取り分けるという、おかず再利用の場面が映り込んだために批判を浴びた<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=ライブ配信に映り込んだ…釜山の韓国食堂で食べ残しを再利用|publisher=朝鮮日報 |url=https://archive.fo/JiEdD |website=archive.fo |date=2021-03-08 |accessdate=2022-01-16}}</ref>。 === 裸キムチ事件 === 2019年時点で韓国のキムチの国内需要は約77万トンの内、約4割を主に中国からの輸入に依存している。韓国産と比べて、中国産キムチは価格が安いため、食堂などで出てくるキムチのほとんどは中国産である。ところが、2021年3月に裸の中国人男性が地面に掘られた大きな泥水のような塩水で満たされたプールに入って、キムチ用の白菜をかき混ぜたり、錆びている掘削機で白菜の山を持ち上げたり、唐辛子の山の中に大量のネズミが住み着いていたり、作業員が靴を履いたまま白菜の上を歩いている不衛生な中国産キムチ製作映像が韓国で話題になった。動画をアップしたというパワーショベル技士を名乗る中国人は「皆さんが食べる白菜も、私が漬けたもの」「こうして作った白菜は韓国など各国にも輸出されている」と語ったことで中国産輸入キムチに頼る韓国社会に衝撃が走った。韓国MBCテレビは、中国メディアが「中国では普通にみられる様子だ」と報道したことを伝えている。事件をうけて、韓国国立農産物品質管理院が同年3月22~28日に、国内の飲食店や加工業者など3293社を対象に緊急点検実施すると、中国産を「韓国産」と虚偽していた表記が続出した<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|和書|title=「裸キムチ男」の衝撃、韓国を襲う 中国産の不買運動も|url=https://www.asahi.com/articles/ASP4H6GZTP4HUHBI01H.html |website=朝日新聞デジタル |accessdate=2022-01-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=すべての韓国人が衝撃を受けた「中国人の裸キムチ」問題――その余波であぶり出された別のウソ|author=西岡省二|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/396685266655e888d42e5084e433fd11b78d9395 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2022-01-16 |language=ja}}</ref>。 === アジア大会キムチ持込事件 === 2006年、アジア大会2006選手村(ドーハ)において「飲食物持ち込み[[規制]]」をされているのにもかかわらずこのルールに従わずに韓国[[アスリート|選手]]団がキムチを持ち込み、[[没収]]されたことに選手や韓国オリンピック委員会職員(KOC)が執拗な[[抗議]]をしたため、警察が出動してKOC職員が勾留される騒ぎがあった<ref>読売新聞 2006年11月28日付、キムチ没収、抗議の職員拘束…規制厳しい選手村</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 家永泰光、盧宇炯(共著)『キムチ文化と風土』 [[古今書院]]、1987年12月、ISBN 4772211012 * 李連順『キムチ物語』 光村推古書院、2002年12月、ISBN 4838199163 * [[李御寧]]、李圭泰、金晩助(共著、金淳鎬訳)『キムチの国』千早書房、2000年12月、ISBN 488492259X * 李信徳『韓国料理 伝統の味・四季の味』 [[柴田書店]]、2001年12月、ISBN 4388058955 * 講談社編『極辛版キムチ大探検』(講談社文庫) [[講談社]]、1988年8月、ISBN 4061842285 * ジョン・キョンファ『キムチの味』 [[晶文社]]、1993年12月、ISBN 4794961510 * 田村研平『在日キムチにおける誤解 食と難民をつなぐ関係』 [[情報センター出版局]]、1988年4月、ISBN 4795807426 * [[谷川彰英]](監修)『国際理解にやくだつNHK地球たべもの大百科 9 韓国』 [[ポプラ社]]、2001年4月、ISBN 4591067149 * 崔弘植(盧宇炯訳)『キムチ力』 [[YB出版]]、2001年6月、ISBN 4901337130 * 鄭大聲『焼肉・キムチと日本人』(PHP新書) [[PHP研究所]]、2004年2月、ISBN 4569634001 * 豊田有恒、豊田久子(共著)『豊田さんちのキムチ大作戦 キムチの漬け方、食べ方、健康法』 [[有楽出版社]]、1999年3月、ISBN 4408591246 * 韓福麗(守屋亜記子訳)『キムチ百科 韓国伝統のキムチ100』 [[平凡社]]、2005年9月、ISBN 4582127215 * Visson, Lynn. ''The Art of Uzbek Cooking.'' Hippocrene, New York, 1999. ISBN 0781806690 * [[朝倉敏夫 (人類学者)|朝倉敏夫]]、蔡淑美(共著)『[[趣味悠々|NHK趣味悠々]]キムチへの旅 -作って・食べて・知る-』 [[NHK出版|日本放送出版協会]]、2003年11月、ISBN 978-4141883739 == 関連項目 == {{Commons&cat|김치|Kimchi}} * [[各務原キムチ]] *[[泡菜]] ** [[四川泡菜]] **[[酸菜]] * [[朝鮮料理]] *[[芝峰類説]] - 1614年に書かれた朝鮮半島の百科事典。「南蛮椒有大毒。始自倭国来。故俗謂倭芥子。(南蛮椒は大変なきつさが有る。始めは日本から来た。故に倭芥子と俗に言われる)」と書いてある。 *[[星湖僿説]] - 朝鮮王朝[[英祖 (朝鮮王)|英祖]]の時期に書かれた詩文集。唐辛子が日本から伝来したことを明確に記述している。 == 外部リンク == * [https://namu.wiki/w/기무치 {{lang|ko|기무치}}] - [[ナムウィキ|Namuwiki]]{{ko icon}} * {{kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きむち}} [[Category:朝鮮の食文化]] [[Category:漬物]] [[Category:発酵食品]] [[Category:キムチ|*]] [[Category:国民食]] [[Category:韓国の無形文化遺産]] [[Category:無形文化遺産]] [[Category:ハクサイ]]
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専門雑誌
専門雑誌(せんもんざっし)とは、ある特定の専門分野についての論文や記事などで、誌面が構成される雑誌の事である。 一般の書店で販売されるものもあるが、学会や研究会などを通じて所属会員に頒布されるか、あるいは定期購読や通信販売などで頒布されるかたちで読者に届けられるものも多い。また、専門図書館では当該分野の専門雑誌を積極的に収載している。 歴史雑誌は、大別すると学術雑誌の形態に近いもの(日本の場合『史学雑誌』・『日本歴史』)と、一般向けの歴史専門誌(『歴史読本』『歴史群像』『歴史街道』『歴史人』)等に分かれているが、両者の垣根は曖昧である。 日本を例にとると、前者にも歴史ポップカルチャーの一つNHK大河ドラマ特集がしばしば掲載される上、後者にも学術論文・学術書の紹介・学会報告がしばしば掲載される例がある。これは歴史雑誌が複数発行されている国では一般大衆が古くから歴史を好んでおり、ある程度学術的な内容でも理解出来、商業出版として成立し得る市場を形成している為発生する現象である。また、医学など他の分野に比べると開放的(専門資格を取得せずとも雑誌投稿等の形で参入が容易)であり、海音寺潮五郎・陳舜臣のように在野にありながら長年史論を発表し続けた人物も存在する。小和田哲男・今谷明のように、学術系、一般系の両方の雑誌に記事を書く歴史学者も存在する。その他古代史にセグメント化された雑誌として、邪馬台国 (雑誌)なども存在する。
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専門雑誌(せんもんざっし)とは、ある特定の専門分野についての論文や記事などで、誌面が構成される雑誌の事である。 一般の書店で販売されるものもあるが、学会や研究会などを通じて所属会員に頒布されるか、あるいは定期購読や通信販売などで頒布されるかたちで読者に届けられるものも多い。また、専門図書館では当該分野の専門雑誌を積極的に収載している。
{{Otheruses|雑誌|新聞|専門紙}} {{出典の明記|date=2021年2月}} '''専門雑誌'''(せんもんざっし)とは、ある特定の専門分野についての[[論文]]や[[記事]]などで、誌面が構成される[[雑誌]]の事である。 一般の[[書店]]で販売されるものもあるが、[[学会]]や研究会などを通じて所属会員に頒布されるか、あるいは定期購読や[[通信販売]]などで頒布されるかたちで読者に届けられるものも多い。また、[[専門図書館]]では当該分野の専門雑誌を積極的に収載している。 == 政治雑誌 == * [[中央公論]] - [[中央公論新社]] * [[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]] * [[新潮45]] - [[新潮社]](旧名「新潮45+」) * [[THEMIS]] - テーミス * [[リベラルタイム]] - リベラルタイム出版社 * [[インパクション]](インパクト出版会) * [[選択 (雑誌)|選択]](選択出版) * [[世界 (雑誌)|世界]]([[岩波書店]]) * [[正論 (雑誌)|正論]]([[産経新聞社]]) * [[自由民主]](休刊) * [[前衛 (雑誌)|前衛]]([[日本共産党]]中央委員会機関紙局) * [[WiLL (雑誌)|WiLL]] * [[潮]] - [[潮出版社]] * [[Voice (雑誌)]] * [[レファレンス (雑誌)]] - [[国立国会図書館]]調査及び立法考査局 * [[調査と情報]] - 国立国会図書館調査及び立法考査局 === 日本国外で発行しているもの === * [[フォーリン・アフェアーズ]] * [[:en:Stern (magazine)|Stern (magazine)]] - [[:en:Gruner + Jahr|Gruner + Jahr]](1948-) * [[デア・シュピーゲル|Der Spiegel]] - SPIEGEL-Verlag * [[:en:Monocle (magazine)|Monocle (magazine)]] - * [[:zh:青年文摘|青年文摘]] - 中国青年出版總社(1981-) * [[:zh:新華月報|新華月報]] - (1949-) * PAPER - 韓国の総合誌 * 新東亜 - 韓国の総合誌 * Novoe Vremia - ロシアの総合誌 * Itogi - ロシアの総合誌 == 外交、各国事情 == * [[外交フォーラム]] - [[都市出版]] (2010年休刊) *[[外交 (雑誌)]] - [[外務省]] (2010-) * [[海外事情]] - [[拓殖大学]]海外事情研究所 * [[国際問題 (雑誌)]] - 日本国際問題研究所(2005年より電子化、1960-) * [[フォーサイト (雑誌)]]([[新潮社]]) * [[月刊インド]] - 日印協会 * [[日本と台湾]] - 日台関係研究会 (1995 - ) * [[ふらんす]]([[白水社]]、1928 - ) * [[France japon info]] - [[在日フランス大使館]]広報部 (2003 - ) * [[アメリカ学会会報]] - アメリカ学会 (1966 - ) 季刊 * [[アメリカ法 (雑誌)]] - 日米法学会 半年刊 * [[ラテンアメリカ史研究会会報]] - ラテンアメリカ史研究会 (1986 - ) * [[ラテンアメリカ論集]] - ラテン・アメリカ政経学会、年刊 * [[ラテンアメリカレポート]] - アジア経済研究所研究支援部 (1984 - )、季刊 * [[ラテンアメリカ時報]] - ラテン・アメリカ協会(吸収前誌「ラテン・アメリカ経済」) * [[東南アジア研究]] - [[京都大学東南アジア地域研究研究所]] (1963 - ) * [[BON VOYAGE]] - * [[Africa]] - アフリカ協会 (1961 - ) * [[季刊アラブ]] - 日本アラブ協会 (1964 - ) * [[中国news : 中国新聞週刊日本版]] - 日中通信社 (2007 - ) * [[中東研究]] - [[中東調査会]] == 経済雑誌 == * [[週刊エコノミスト]]([[毎日新聞社]]) * [[東洋経済新報社|週刊東洋経済]](東洋経済新報社) * [[週刊ダイヤモンド]](ダイヤモンド社) * [[日経ビジネス]]([[日経BP社]]) * [[経済セミナー]] * [[財界 (雑誌)|財界]] * [[経済界 (出版社)|経済界]] * [[#経済雑誌|週刊金融財政事情]] * [[フィナンシャルジャパン]] * [[アントレ (雑誌)|アントレ]]([[リクルートホールディングス|リクルート]]) * [[起業塾 (雑誌)|起業塾]] * [[経営塾 (雑誌)|経営塾]] * [[Wedge]] * [[ファイナンス (雑誌)]] * [[フィナンシャル・レビュー]] - 財務省財務総合政策研究所(1986-) * [[月刊国民生活]] - 国民生活センター(1946-) * [[にちぎん]] - 日本銀行情報サービス局(旧名「貯蓄時報」→「貯蓄と経済」「にちぎんquarterly」→「にちぎんクオータリー」、季刊、1949-) * [[国際金融 (雑誌)]] - 外国為替貿易研究会(継続前誌「外国為替」、1950-) * [[みずほ産業調査]] - [[みずほコーポレート銀行]]産業調査部(旧名「興銀調査月報」→「興銀調査」、1956-) * [[経済trend]] - 日本経済団体連合会(旧名「経団連月報」→「Keidanren」、1953-) * [[METI journal]] - 経済産業省大臣官房(旧名「通産ジャーナル」→「経済産業ジャーナル」1967-) * [[公正取引 (雑誌)]] - 公正取引協会(1950-) * [[労政ジャーナル]] - (旧名「労働ジャーナル」) === 日本国外に特化したもの === * [[エコノミスト|The Economist]](イギリス) * [[フォーチュン (雑誌)|Fortune]](アメリカ合衆国) * [[フォーブス (雑誌)|Forbes]] * [[ビジネスウィーク|Bloomberg Businessweek]] - * [[:en:Industryweek|Industry week]] - [[:en:Penton Media|Penton Media]](1970-) * [[ジェトロセンサー]] - 日本貿易振興機構(旧名「海外市場」) * [[アジア経済]] - 日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部(1960-) * [[アフリカレポート]] - 日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部(1985-2010) * [[現代の中東]] - アジア経済研究所研究支援部(1986-2010) * [[アジ研ワールド・トレンド]] - 日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部(1995年、「アジ研ニュース」と「アジアトレンド」を合併し創刊) * [[国際開発ジャーナル]] - 国際開発ジャーナル社 * [[ロシアNIS調査月報]] - ロシアNIS貿易会(旧名「ロシア東欧貿易調査月報」、1956-) * [[Monthly Bulletin of Statistics]] - 国際連合(略称MBS,月刊 [http://unstats.un.org/unsd/mbs/app/DataSearchTable.aspx リンク]) * [[アジア・マーケットレヴュー]] - 重化学工業通信社 * [[ENN-net]] - 重化学工業通信社 == マスコミ == * [[新聞研究]] - 日本新聞協会 * [[NIEニュース]] - 日本新聞協会、季刊 * [[新聞技術]] - [[日本新聞協会]]技術委員会、季刊(旧名「新聞印刷技術」、1957-) * [[新聞協会報]] - 日本新聞協会、週刊 * [[月刊マスコミ市民]](NPO法人マスコミ市民フォーラム) * [[マスコミ倫理]] - マス・コミュニケーション倫理懇談会全国協議会 * [[マス・コミュニケーション研究]] - [[日本マス・コミュニケーション学会]](継続前誌「新聞学評論」1952-) * [[ジャーナリスト (雑誌)]] - [[日本ジャーナリスト会議]] * [[Journalism]] - 朝日新聞社ジャーナリスト学校(旧名「調研室報」→「朝日総研リポート」→「AIR21」、1973-) * [[総合ジャーナリズム研究]] - 東京社(1964-) * [[新文化]] - 新文化通信社 週刊(1950-) * [[広報IRインテリジェンス]] - ジェイ・デック 季刊(継続前誌「Ad intelligence」→「アドインテリジェンス」→「アド広報インテリジェンス」、1982-) === 評論を主体としないもの === * [[月刊メディア・データ]] - メディア・リサーチ・センター(1969-) * [[調査情報]](TBSメディア総合研究所) * [[出版月報]] - 全国出版協会出版科学研究所(1959-) * [[出版ニュース]] - 出版ニュース社(継続前誌「新刊弘報」→「出版弘報」1943-) == 教育 == * [[学校事務 (雑誌)]] - 学事出版(1950-) * [[月刊私塾界]] - 全国私塾情報センター(1981-) == 科学雑誌 == {{See|科学雑誌}} === 学術全般 === * [[学術の動向]] - 日本学術協力財団(継続前誌「日本学術会議月報」1960-) * [[科学技術動向]] - 文部科学省科学技術政策研究所科学技術動向研究センター(2001-) * [[学術月報]] - [[日本学術振興会]](1948-2008) * [[JST News]] - 科学技術振興機構(2004-) ==== 日本国外で発行 ==== * 科技中国 <!-- === 科学一般 === * [[ニュートン (雑誌)|Newton]] * [[日経サイエンス]] * [[科学 (雑誌)|科学]]([[岩波書店]]) * [[ネイチャー|Nature]] * [[子供の科学]] * [[科学と学習]] === 数学・物理学 === * [[数理科学 (雑誌)]] * [[パリティ (雑誌)]] ==== 昆虫学 ==== * [[インセクタリゥム]] * [[月刊むし]] * [[昆虫と自然]] --> === 地質学 === * [[地質ニュース]] * [[自然災害科学]] - 日本自然災害学会(1982-) * [[活断層研究]] - 日本活断層学会(1985-) * [[物理探査 (雑誌)]] - 物理探査学会、隔月刊(継続前誌「物理探鉱」、1948-) * [[情報地質 (雑誌)]] - 日本情報地質学会、年2回刊(1975-) === 地図 === * [[地図中心]] - 日本地図センター(継続前誌「地図センターニュース」→「地図ニュース」、1972-) === 化学、化学産業 === * [[現代化学 (雑誌)]] * [[化学 (雑誌)|化学]] * [[ネイチャー ケミストリー|Nature Chemistry]] * [[化学工業 (雑誌)]] * [[化学経済]] * [[ファインケミカル (雑誌)]] - シーエムシー出版(1972-) * [[ケミカルエンジニヤリング]] - 化学工業社(1955-) * [[Chemical report : Marketing report]] - 富士キメラ総研 * [[プラスチックスエージ]] - 日本工業出版 * [[強化プラスチックス (雑誌)]] - 強化プラスチック協会(1955-) * [[化学装置 (雑誌)]] * [[未来材料]] * [[油脂 (雑誌)]] - 幸書房 * [[有機合成化学 (雑誌)]] - 有機合成化学協会 * [[紙パ技協誌]] - [[紙パルプ技術協会]] * [[紙パルプ技術タイムス]] - テックタイムス * [[印刷界]] - 日本印刷新聞社<!--もっぱら印刷技術を扱う。マスメディア系、評論系雑誌ではない。--> * [[工業塗装 (雑誌)]] - 塗料報知新聞社 隔月刊 * [[塗装と塗料]] - 塗料出版社 * [[塗装技術 (雑誌)]] - 理工出版社(1962-) * [[ラバーインダストリー]] - ポスティコーポレーション(1965-) * [[プラスチックスインフォワールド]] - アーイン社(1999-2010) * [[Polyfile (雑誌)]] - 大成社(継続前誌「ポリマーの友」1964-) * [[日本香料協会|香料 (雑誌)]] - 日本香料協会(1947-) === 繊維関係 === * [[繊維科学 (雑誌)]] - 日本繊維センター(1959-) * [[加工技術 (雑誌)]] - 繊維社(1966-) * [[不織布情報]] - 不織布情報 * [[せんい (雑誌)]] - 繊維機械学会誌(「繊維機械学会誌」→「繊維工学」、1948-) * [[Fiber : Sen-i Gakkai]] - 繊維学会(継続前誌「繊維学会誌」、1944-) * [[繊維トレンド]] - 東レ経営研究所 隔月刊(2000-) * [[繊維製品消費科学]] - 日本繊維製品消費科学会(1960-) * [[シルクレポート]] - 大日本蚕糸会蚕糸・絹業提携支援センター(2008-) * [[日本紡績月報]] - 日本紡績協会 隔月刊(1946-2010) === 生物学、生物関係産業 === * [[生物科学 (雑誌)|生物科学]] * [[生物の科学 遺伝]] * [[細胞工学 (雑誌)]] - 学研メディカル秀潤社 * [[BIO INDUSTRY]] シーエムシー出版 * [[バイオサイエンスとインダストリー]] - (旧名[[醗酵協会誌]]→[[発酵と工業]]。1978年[[石油と微生物]]を吸収合併) === 天文学 === {{See|天文雑誌}} == 歴史雑誌 == 歴史雑誌は、大別すると学術雑誌の形態に近いもの(日本の場合『史学雑誌』・『日本歴史』)と、一般向けの歴史専門誌(『歴史読本』『歴史群像』『歴史街道』『歴史人』)等に分かれているが、両者の垣根は曖昧である。 日本を例にとると、前者にも歴史ポップカルチャーの一つ[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]特集がしばしば掲載される上、後者にも学術論文・学術書の紹介・学会報告がしばしば掲載される例がある。これは歴史雑誌が複数発行されている国では一般大衆が古くから歴史を好んでおり、ある程度学術的な内容でも理解出来、商業出版として成立し得る市場を形成している為発生する現象である。また、医学など他の分野に比べると開放的(専門資格を取得せずとも雑誌投稿等の形で参入が容易)であり、[[海音寺潮五郎]]・[[陳舜臣]]のように在野にありながら長年史論を発表し続けた人物も存在する。[[小和田哲男]]・[[今谷明]]のように、学術系、一般系の両方の雑誌に記事を書く歴史学者も存在する。その他古代史にセグメント化された雑誌として、[[邪馬台国 (雑誌)]]なども存在する。 * [[史学雑誌]] [[学術雑誌]]に近い。 * [[日本歴史]] 同上 * [[歴史群像]] 一般向けだが、歴史学者の執筆する記事も多い。 * [[歴史街道 (雑誌)]] 一般向け。ただし学術書の紹介は多い。 * [[歴史読本]] 一般向けだが、歴史学者の執筆記事が大半を占めることがある。学会報告も若干掲載。 * [[歴史人]] 一般向け * [[歴史道]] -[[朝日新聞出版]](2018-) * [[歴史探訪]] -[[ホビージャパン]](2019-) * [[歴史通]] 政治雑誌の別冊から派生。保守系の近現代史が主 * [[歴史REAL]] 一般向け、学会動向も掲載されていた * [[歴史と人物 (雑誌)|歴史と人物]] - (1970-1986) * [[歴史評論]] (雑誌) - 校倉書房(1946-) * [[歴史学研究 (雑誌)]] - 青木書店(1933-) * [[西洋史学]] * [[国際政治 (雑誌)]]<!--内容は国際政治史--> * [[軍事史学]] * [[鉄道史学]] * [[科学史研究]] - 岩波書店(季刊) * [[邪馬台国 (雑誌)]] - 梓書院 * [[東アジアの古代文化]] - 大和書房(1974-2009) * [[考古学(雑誌)]] - 雄山閣 * [[月刊考古学ジャーナル]] - ニュー・サイエンス社(1966-) * [[古代文化 (雑誌)]] - [[古代学協会]](1957-) === 日本国外発行 === * [[:en:BBC History|BBC History]] - BBC * [[:fr:Historia (revue)|Historia]] - Sophia Publications(1909-) * [[:fr:Revue des annales|Revue des annales]] - フランスの歴史雑誌。叢書『アナール1929-2010』として日本語抄訳が藤原書店より刊行 * [[:zh:歴史研究 (期刊)|歴史研究]] - 中國歴史問題研究委員會(1954-) == 社会学、社会科学 == * [[社會科學研究]] - [[東京大学社会科学研究所]]紀要(1948-) * [[大原社会問題研究所雑誌]] - (旧名「法政大学大原社会問題研究所資料室報」→「研究資料月報」→「研究資料月報」、1953-) == 仏教雑誌 == * [[霊園ガイド]] * [[印度学仏教学研究]] * [[日本仏教学会年報]] * [[大法輪]] * [[月刊住職]] * [[サンガジャパン]] * [[寺族春秋]] * [[在家仏教]] * [[曹洞宗報]] == 運輸・物流 == * [[運輸と経済]] - 運輸調査局 * [[運輸政策研究]] - 運輸政策研究機構 * [[Logi biz]] - ライノス・パブリケーションズ * [[流通設計21]] - 輸送経済新聞社 * [[Cargo (雑誌)]] * [[コンパス (雑誌)]] - 海事プレス社 * [[輸送展望]](~2002) - 日通総研 * [[Marine (雑誌)]] * [[内航海運 (雑誌)]] * [[国民経済雑誌]] - 神戸大学経済経営学会 * [[流通とシステム]] - 流通システム開発センター(1974-) * [[産業立地]] - 日本立地センター * [[共有船 (雑誌)]] - 海交新社(旧名「月刊公団船」) * [[日貨協連]] - 日本貨物運送協同組合連合会(1965-) * [[ロジスティクスシステム]] - 日本ロジスティクスシステム協会、隔月刊(1992-) * [[水路 (雑誌)]] - 日本水路協会(1972-) * [[マテリアルフロー]] - 流通研究社(旧名「生産と運搬」→「無人化技術」1960-) * [[海運 (雑誌)]] - 日本海運集会所 * [[物流情報 (雑誌)]] - 日本物流団体連合会 季刊 * [[流通ネットワーキング]] - 日本工業出版 * [[港湾荷役]] - 港湾荷役機械システム協会 年3回刊 * [[港湾 (雑誌)]] - 日本港湾協会 === 海洋 === <!--水運、運輸は物流関係に記載。--> * [[Kanrin]] - [[日本船舶海洋工学会]]誌 * [[海技研ニュース船と海のサイエンス]] - [[海上技術安全研究所]] * [[海と安全]] * [[海洋産業研究会報]] - 海洋産業研究会事務局(途中「海洋産業研究資料」を吸収、1969-) * [[船と海上気象]] - 気象庁 年3回刊(1957-) * [[海の研究]] - 日本海洋学会、隔月刊(旧名「日本海洋学会誌」より分割、1942-) * [[Journal of oceanography]] - 日本海洋学会、隔月刊(旧名「日本海洋学会誌」より分割、1942-) == 土木関係雑誌 == * [[土木施工]] * [[ダム日本]] * [[土木技術 (雑誌)]] * [[建設業界 (雑誌)]] * [[建設界]] * [[建設グラフ]] - 自治タイムス社(1991-) * [[国土交通]](省庁統合で[[国土建設]]、[[トランスポート]]を合併) * [[道路建設 (雑誌)]] * [[高速道路と自動車]] * [[トンネルと地下]] * [[用地ジャーナル]] * [[建設の機械化]] * [[建設機械 (雑誌)]] - 日本工業出版 * [[コンクリート工学 (雑誌)]] - [[技報堂]](継続前誌「コンクリートジャーナル」、1963-) * [[Menshin (雑誌)]] - 日本免震構造協会、季刊(1993-) * [[作業船 (雑誌)]] * [[日本鉄道施設協会|日本鉄道施設協会誌]] * [[土と基礎]] * [[基礎工 (雑誌)]] - [[総合土木研究所]] * [[日本地すべり学会誌]] * [[土木学会|土木学会誌]] * [[建設電気技術. 技術集]] - [[建設電気技術協会]]、年刊(継続前誌「建設電気技術」、1968-) * [[積算資料]] * [[月刊建設工事の動き]] - 日刊建設通信新聞社(1959-) * [[月刊建設]] - 全日本建設技術協会(1957-) * [[自転車・バイク・自動車駐車場パーキングプレス]] - サイカパーキング(「パーキングプレス」と「自転車・バイク駐車場」を合併、2010-) * [[JAGREE information]] - 農業土木事業協会、年2回刊(継続前誌「農業土木事業協会会誌」、1970-) * [[建設マネジメント技術]] - [[経済調査会]](継続前誌「積算資料特別速報」→「積算技術」) * [[日経コンストラクション]] === 日本国外で発行 === * [[:en:Building Design+Construction|Building Design+Construction]] - * Construction Business Owner - Cahaba Media Group, Inc.、月刊(アメリカ合衆国、2004-、[http://www.constructionbusinessowner.com/magazine アーカイブあり]) * World cement - Palladian Publications Ltd、[http://www.worldcement.com/Store/productDetail.aspx?pid=1 月刊](イギリス) * Equipment World Magazine - Randall-Reilly Publishing Co.、[http://www.equipmentworld.com/magazine-archives 月刊](アメリカ合衆国) * CE News Magazine - ZweigWhite、[http://www.cenews.com/archive.html 月刊](アメリカ合衆国) == 建築関係雑誌 == * [[建築雑誌 (雑誌)]] * [[新建築]] * [[新建築住宅特集]] - 新建築社 * [[GA JAPAN]] * [[住宅建築 (雑誌)]] - [[建築資料研究社]] * [[住宅と木材]] - 日本住宅・木材技術センター(1978-) * [[商店建築 (雑誌)]] - 商店建築社(1956-) * [[鉄道建築ニュース]] * [[公共建築ニュース]] - 公共建築協会(継続前誌「営繕ニュース」、1969-) * [[ビルデイングレター]] - 日本建築センター(1967-) * [[建材フォーラム]] - 工文社 * [[建材試験情報]] - 建材試験センター * [[月刊建築仕上技術]] - [[工文社]] * [[月刊スマートハウス]] - アスクラスト * [[建設工事と配管工事]] - 日本工業出版 * [[住まいと電化]] - 日本工業出版 * [[Confort (雑誌)]] - 建築資料研究社(1990-) * [[建築ジャーナル]] - 建築ジャーナル(継続前誌「中部建築ジャーナル」) * [[建築と社会]] - 日本建築協会(1920-) * [[建築知識]] - エクスナレッジ(1959-) * [[厨房 (雑誌)]] - 日本厨房機器工業会(旧名「厨工会報」、1964-) * [[設備と管理]] - オーム社(1967-) * [[Sumai no sekkei]] - 扶桑社(継続前誌「新しい住まいの設計」、1960-) * [[モダンリビング]] - アシェット婦人画報社(1951-) * [[日経アーキテクチュア]] * a+u * [[:en:Abitare (magazine)|Abitare (magazine)]] - === 家具 === * [[月刊近代家具]] - 近代家具出版 * [[:en:World of Interiors|World of Interiors]] == エネルギー関係雑誌 == * [[エネルギーフォーラム]] * [[Business i. ENECO]](旧名[[月刊エネルギー]]) * [[エネルギーレビュー]] - エネルギーレビューセンター(1981-) * [[エネルギー経済]] - [[日本エネルギー経済研究所]] 季刊 * [[エネルギー・資源]] - エネルギー・資源学会、隔月刊(1980-) * [[火力原子力発電]] - [[火力原子力発電技術協会]] * [[アトモス]] - [[日本原子力学会]] * [[発電水力]](~1977) * [[電力土木]] - 電力土木技術協会 * [[原子力eye]] - 日刊工業新聞社(継続前誌「原子力工業」、1955-2011) * [[海外電力]] - [[海外電力調査会]] * [[EG : Electricity and gas]] - 経済産業調査会(継続前誌「電気とガス」、1951-) * [[月刊OHM]] - オーム社 * [[エネルギーと動力]] - 日本動力協会、季刊(継続前誌「動力」、1951-) * [[JAEAニュース]] - 日本原子力研究開発機構 (2005-) * [[Plutonium (雑誌)]] - [[原子燃料政策研究会]](1993-) * [[核物質管理センターニュース]] - [[核物質管理センター]](1985-) * [[NIFS news]] - 自然科学研究機構核融合科学研究所、隔月刊(旧名「核融合科学研究所news」1989-) * [[天然ガス (雑誌)]] - [[天然ガス工業会]] * [[旬刊セキツウ]] - セキツウ 旬刊 * [[LPガス (雑誌)]] - 産業報道出版 * [[石油産業 (雑誌)]] - 産業時報社 * [[日本ガス協会誌]] - 日本ガス協会 隔月刊 * [[時報PV+]] - エネルギージャーナル社 * [[JETI : Japan energy & technology intelligence]] - 幸書房(「石油と石油化学」に「石油文化」を合併、1957-) * [[高圧ガス (雑誌)]] - 高圧ガス保安協会(1964-) * [[スマートグリッド (雑誌)]] - 大河出版 * [[FAPIG]] - 第一原子力産業グループ事務局、年3回刊(1957-) * [[地熱技術 (雑誌)]] - 地熱技術開発(1975-) * [[産業と電気]] - 関西電気協会(-2009) * [[新エネルギー新報]] - 重化学工業通信社 半月刊(「Eco vision」、「High-tech news」を合併、2010-) * [[LPガスプラント]] - [[日本エルピーガスプラント協会]](1964-) === 日本国外発行 === * POWER Magazine - [http://www.tradefairgroup.com/publications.asp TradeFair Group]、月刊(アメリカ合衆国、創刊1882-、電子版 [http://www.powermag.com/archives/ アーカイブ] あり)。 * Power Engineering - [[:en:PennWell Corporation|PennWell Corporation]]、[http://www.power-eng.com/index/subscribe.html 月刊](アメリカ合衆国、継続前誌''Power Plant Engineering''→''Power generation'' 創刊1896-) * Electric Light and Power - (アメリカ合衆国、[http://www.elp.com/index/about-us.html 創刊1922-]) * Nuclear Power International Digital Magazine - PennWell Corporation(略称NPI、アメリカ合衆国、電子版のみ) * The Oil & Gas Journal - PennWell Corporation、月刊(アメリカ合衆国、[http://www.ogj.com/index/about-us.html 創刊1902]-) * Power & Energy - [http://www.nextgenpe.com/magazine/Issue-8/ GDS Publishing](アメリカ合衆国、同社ウェブサイトにて電子版を刊行) * Energy Tribune - 月刊(アメリカ合衆国、電子版と [http://www.energytribune.com/magazine.cfm 冊子版] を併行して発行) * Electric Energy Magazine - Jaguar Media Inc.、[http://www.electricenergyonline.com/?page=magazine 年6回刊] * [[Nuclear Technology]] - [[:en:American Nuclear Society|American Nuclear Society]] * [[Nuclear Science and Engineering]] - American Nuclear Society、年9回刊(1956-) * Nuclear Plant Journal - EQES, Inc.、隔月刊(アメリカ合衆国 [http://nuclearplantjournal.com/index.php?option=com_content&view=article&id=129&Itemid=55 1983-]) * Nuclear Engineering and Design - [[エルゼビア|Elsevier B.V.]]、月刊(オランダ、継続前誌''Nuclear Structural Engineering'' 1965-) * [[:en:IEEE Power & Energy Magazine|IEEE power & energy magazine]] - [[IEEE]]、隔月刊(アメリカ合衆国、継続前誌''IEEE Power Engineering Review'' 1981-) * Nuclear future : journal of the British Nuclear Energy Society and the Institution of Nuclear Engineers - S & K Pub.、隔月刊(イギリス、継続前誌''Combustion Boiler House and Nuclear Review''→''Nuclear Energy''→''The nuclear engineer'') * Ядерна фiзика та енергетика(Nuclear physics and atomic energy) - Institut iadernikh doslidzhen' NAN Ukraini、半年刊(2006-、[http://jnpae.kinr.kiev.ua/about.html バックナンバーの一部を公開]) * Annals of Nuclear Energy - [[:en:Pergamon Press|Pergamon Press]]、年18回刊(イギリス、継続前誌''Journal of Nuclear Energy. Pt. A, Reactor Science''→''Journal of Nuclear Energy. Pts. A/B, Reactor Science and Technology''→''Journal of Nuclear Energy''→''Annals of Nuclear Science and Engineering''、1958-) * ENS News - [[:en:Europian nuclear society|Europian nuclear society]]、季刊([http://www.euronuclear.org/1-information/bulletin.htm バックナンバーの一部を公開]) * World Oil - [[:en:Gulf Publishing Company|Gulf Publishing Company]] (アメリカ合衆国 [http://www.worldoil.com/about_us.aspx 創刊1916-]) * Atom - [[:en:AEA Technology|AEA Technology]]、隔月刊(-1992) * Pipeline & Gas Journal - Petroleum Engineer Pub. Co.、[http://www.pgjonline.com/subscribe 月刊](アメリカ合衆国、''Pipeline Engineer''と''American Gas Journal''を合併) == 強電・電気工事 == * [[電機 (雑誌)]] - 日本電機工業会 * [[新電気]] - オーム社 * [[電気協会報]] - 日本電気協会 * [[電気情報 (雑誌)]] - 電気情報社 * [[電力・工事マンスリー]] - 関東電気協会(継続前誌「電気工事の友」、1948-) * [[工事と受験]] - [[電気書院]] * [[電設資材]] - 電設出版 * [[電気現場技術]] - 電気情報社(継続前誌「電気現場新技術」、1962-) * [[電気技術者]] - 日本電気技術者協会(1955-) * [[電気技術 (雑誌)]] - 逓試社、月刊(1925-) * [[電気技術 (雑誌)]] - オーム社、季刊(1957-2003) * [[電気時報]] - 電気時報社(1955-1991) == 水 == * [[工業用水 (雑誌)]] - [[日本工業用水協会]](1955-) * [[用水と廃水]] - 産業用水調査会(1959-) == 環境関係雑誌 == * [[Ecoレポート]] - 統計研究会内外経済情勢懇談会、3月1回刊(1994-) * [[月刊地球環境]](旧名[[PPM]]) * [[騒音制御]] * [[日本音響学会誌]] * [[月刊環境ビジネス]] * [[月刊廃棄物]] - [[日報アイ・ビー]] * [[環境管理技術]] - 環境管理技術研究会 * [[環境管理 (雑誌)]] - [[産業環境管理協会]]編(旧名「産業公害」) * [[環境の管理]] - [[日本環境管理学会]] * [[環境浄化技術]] - 日本工業出版 * [[環境と公害]] - 岩波書店(継続前誌「公害研究」1971-) * [[都市と廃棄物]] - 環境産業新聞社(1971-) * [[環境施設 (雑誌)]] - 公共投資ジャーナル社(「日本用水」→「水の処理」と「固体廃物」を合併、1980-) * [[資源環境対策]] - 環境コミュニケーションズ(1992-) * [[地球温暖化 (雑誌)]] - 日報アイ・ビー 隔月刊(「月刊廃棄物」の増刊から独立。継続前誌「Earth guardian」→「EG」→「アース・ガーディアン」、2003-) * [[都市環境エネルギー]] - 都市環境エネルギー協会(継続前誌「地域冷暖房」、1993-) * [[人間と環境]] - 日本環境学会 年3回刊(1975-) * [[清流青湖]] - 日本の水をきれいにする会(「川とみずうみ」の改題) * [[E-contecture]] - 日報アイ・ビー 隔月刊(「月刊廃棄物」の増刊から独立。2004-) * [[環境法研究]] - 有斐閣(1974-) * [[環境儀]] - 国立環境研究所(2001-) * [[地球環境 (雑誌)]] - 国際環境研究協会 年2回刊(1996-) * [[生活と環境]] - 日本環境衛生センター(1956-) * [[環境と測定技術]] - 日本環境測定分析協会(継続前誌「日環協ニュース」、1974-) * [[日経エコロジー]] == 機械関係 == * [[産業機械 (雑誌)]] - 日本産業機械工業会 * [[工作機械 (雑誌)]] - 日本工作機械工業会 隔月刊(旧名「工作機械ニュース」、1978-) * [[真空ジャーナル]] - 日本真空工業会教育委員会出版小委員会 隔月刊(旧名「JVIA : Japan Vacuum Industry Association」) * [[エレベータ界]] - 日本エレベータ協会 季刊(1966-) * [[SEAJ journal]] - 日本半導体製造装置協会 隔月刊(継続前誌「日本半導体製造装置協会会報」→「SEAJ quarterly」、1986-) * [[機械設計]] - 日刊工業出版プロダクション * [[設計工学 (雑誌)]] - 日本設計工学会誌(継続前誌「設計・製図」、1966-) * [[図学研究 (雑誌)]] - 日本図学会 * [[工業材料]] - 日刊工業新聞社 * [[機械と工具]] - 日本工業出版 * [[月刊ねじの世界]] - ねじの世界社 * [[機械技術]] - 日刊工業新聞社 * [[機械の研究]] - 養賢堂(1949-) * [[マシニングコア]] - エルエルアイ出版(「木工機械グラフ」を引き継ぎ、1969-) * [[ボイラ研究]] - [[日本ボイラ協会]] * [[配管技術]] - [[日本工業出版]] * [[配管技術研究協会誌]] - 季刊(「配管と装置」→「配管技術研究協会誌」→「配管・装置・プラント技術」、当初月刊、1961-) * [[圧力技術 (雑誌)]] - 日本高圧力技術協会(「高圧力」を改題、1963-) * [[ターボ機械]] - [[ターボ機械協会]] * [[油空圧技術]] - 日本工業出版 * [[バルブ技報]] - 日本バルブ工業会、年3回刊(1986-) * [[プレス技術]] - 日刊工業新聞社 * [[型技術]] - 日刊工業新聞社 * [[計測技術 (雑誌)]] - 日本工業出版 * [[検査技術 (雑誌)]] - 日本工業出版 * [[クリーンテクノロジー]] - 日本工業出版 * [[計装 (雑誌)]] - 工業技術社(1958-) * [[計装技術]] - 日本計装工業会(継続前誌「計装工事」、1981-) * [[ツールエンジニア]] - 大河出版 * [[工場管理 (雑誌)]] - 日刊工業新聞社 * [[生産財マーケティング]] - [[ニュースダイジェスト社]] * [[ユニバーサルデザイン (雑誌)]] - [[ユーディ・シー]] * [[日仏工業技術]] - 日仏工業技術会(1955-) * [[Engineering business : ENB]] - エンジニアリング・ジャーナル社 半月刊(旧名「ザ・エンジニアリングビジネス」、1981-) * [[M & E]] - 工業調査会(継続前誌「マシンデザイン」、1974-2010) * [[日経ものづくり]] === 日本国外で発行 === * Pumps & Systems Magazine - Cahaba Media Group, Inc.、月刊(アメリカ合衆国、2004-、[http://www.pump-zone.com/magazine アーカイブあり]) === 金属材料 === * [[材料と環境]] - [[腐食防食協会]] * [[金属 (雑誌)]] - [[アグネ技術センター]] * [[まてりあ]] - 日本金属学会(継続前誌「日本金属学会会報」、1962-) * [[ふぇらむ]] - 日本鉄鋼協会(継続前誌「鉄と鋼」、1915-) * [[NICKEL誌]] - ニッケル協会、年2-3回発行(2009年より電子化) * [[特殊鋼 (雑誌)]] - 特殊鋼倶楽部 * [[耐火物 (雑誌)]] - 耐火物技術協会 * [[鉱山 (雑誌)]] - 金属鉱山会、日本鉱業協会 * [[軽金属 (雑誌)]] - 軽金属学会 * [[ベアリング (雑誌)]] - 日本ベアリング工業会 * [[素形材 (雑誌)]] - 素形材センター(旧名「綜合鋳物」、1960-) * [[鐵の世界]] - 日本金属通信社 季刊(1963-) * [[鋳造ジャーナル]] - 日本鋳造協会(2005-) * [[工業加熱 (雑誌)]] - [[日本工業炉協会]]、隔月刊(継続前誌「電気炉」、1964-) * [[週刊金属]] - 金属出版社 現在は月刊 * [[鉛と亜鉛]] - 日本鉱業協会鉛亜鉛需要開発センター 季刊(1964-) * [[アルトピア (雑誌)]] - カロス出版<!--イカロス出版にあらず、注意-->(1970-) * [[ある (雑誌)]] - 軽金属通信ある社(1965-1969まで「軽金属通信」) * [[ばね (雑誌)]] - 日本ばね工業会、隔月刊(1975-) * [[金属資源レポート]] - 石油天然ガス・金属鉱物資源機構金属資源開発本部金属企画調査部 隔月刊 * [[BT monthly]] - 富士キメラ総研ビジネス・テクノロジー・オフィス(2007-) * [[熱処理 (雑誌)]] - [[日本熱処理技術協会]]、隔月刊(1961-) * [[Mst : 表面改質&表面試験・評価の技術情報誌]]、メカニカルテック社 隔月刊(2011-) * [[日経マーケット・アクセス]] - 日経BPコンサルティング(旧名「日経マーケット・アクセスレポート」1996-) * [[チタン (雑誌)]] - 日本チタン協会、年4回刊(継続前誌「チタニウム・ジルコニウム」、1963-) * [[腐食センターニュース]] - [[腐食防食協会]]、季刊(1993-) * [[採鉱と保安]] - 白亜書房(1953-1988) == 電気電子工学 == * [[トランジスタ技術]] * [[Interface]] * [[デザインウェーブ]] * [[電子材料 (雑誌)]] - 工業調査会(1962-2010) * [[Semiconductor FPD world]] - プレスジャーナル(「FPD intelligence」と「月刊Semiconductor world」を合併、2000-2010) * [[Material stage]] - 技術情報協会(2001-) * [[Nikkei microdevices]] - 日経BP社(旧名「日経マイクロデバイス」1985-2010) * [[機能材料]] - シーエムシー出版(1981-) * [[電波受験界]] * [[デジタルデザインテクノロジ]] * [[RFワールド]] - CQ出版 * [[画像ラボ]] - 日本工業出版 * [[自動認識 (雑誌)]] - 日本工業出版 * [[超音波TECHNO]] - 日本工業出版 * [[O plus E]] - アドコム・メディア(1976-) * [[光アライアンス]] - 日本工業出版 * [[光技術コンタクト]] - 日本オプトメカトロニクス協会(継続前誌「光学技術コンタクト」) * [[映像情報industrial]] - [[産業開発機構]](2000年、「映像情報」を分割) * [[映像情報medical]] - 産業開発機構(2000年、「映像情報」を分割) * [[日経エレクトロニクス]] * [[Electronic Journal]] - 電子ジャーナル(1994-) * [[Marketing report. Electronics parts research]] - 富士キメラ総研(旧名「電子部品・材料リサーチレポート」) * [[JEITA Review]] - 電子情報技術産業協会 * [[EMC (雑誌)]] - [[ミマツ]]コーポレーション(継続前誌「電磁環境工学情報EMC」、1988-) == 情報・通信関係誌 == <!--ぴあなどの情報誌ではなく、情報・通信工学分野を扱う雑誌--> * [[電子情報通信学会誌]] * [[情報処理学会誌]] * [[ソフトウェア・テストpress]] - [[技術評論社]](季刊) * [[Web + DB press]] - 技術評論社(隔月刊) * [[ソフトウェアデザイン|Software design]] - 技術評論社(隔月刊) * [[Web site expert]] - 技術評論社(隔月刊) * [[Embedded software press]] - 技術評論社 * [[CG WORLD & digital video]] - ワークスコーポレーション * [[Web designing]] - [[毎日コミュニケーションズ]] * [[ASCII.technologies]] - [[角川グループパブリッシング]] * [[TRONware]] - [[パーソナルメディア]] * [[情報科学リサーチジャーナル]] - 中部大学情報科学研究所、年刊(1994-) * [[日経コミュニケーション]] === 通信業関連 === * [[ITUジャーナル]] - 日本ITU協会(旧名「国際電気通信連合と日本」、1971-) * [[電気通信 (雑誌)]] - 電気通信協会(1938-) * [[情報通信ジャーナル]] - [[電気通信振興会]](旧名「電気通信時報」、1984-) * [[日本データ通信]] - [[日本データ通信協会]]、隔月刊(1977-) * [[NTT技術ジャーナル]] - [[電気通信協会]] * [[テレコミュニケーション (雑誌)]] - [[リックテレコム]](2003年「モバイルインターネット」を吸収) === 情報システム関連 === * [[コンピューターテレフォニー]] - リックテレコム * [[E・コロンブス]] - 東方通信社(旧名「Computer digest」→「コンピュータ・ダイジェスト」、1975-) * [[行政&情報システム]] - 行政情報システム研究所(旧名「行政とADP」→「行政&ADP」、1965-) * [[JISA quarterly]] - 情報サービス産業協会 季刊(旧名「情報サービス産業協会報」→「JISA会報」→「JISA」→「JISA会報」、1987-) * [[日経systems]] - 日経BP社(「IT professionals」と「日経システム構築」を合併、2006-) * [[CIO : Business technology leadership]] - IDGインタラクティブ(2000-) * [[アイティセレクト]] - アイティメディア(旧名「ITセレクト」「ITセレクト2.0」、2001-2010、以降電子化) * [[情シスの現場]] - 翔泳社 隔月(2008-) * [[PM magazine]] - 翔泳社(2004-) * [[日経ネットワーク]] * [[日経コンピュータ]] == 情報管理関係 == * [[情報の科学と技術]] * [[レコード・マネジメント]](記録管理学会誌) * [[図書館雑誌]] - [[日本図書館協会]] * [[情報管理 (雑誌)]] - [[科学技術振興機構]] == 放送関係 == * [[放送技術 (雑誌)]] - [[兼六館出版]] * [[NHK技研R&D]] - 日本放送協会放送技術研究所(1988年「NHK技研月報」→「技研月報」(1958-)と「NHK技術研究」(1949-)を合併) * [[民間放送 (雑誌)]] - [[日本民間放送連盟]] * [[放送文化]] - 日本放送出版協会(2001年11月-2002年10月「HB」、1994-) * [[New Media]] - ニューメディア(旧名「New media」→「ニュー メディア」、1983-) * [[放送界]] - マスコミ研究会(1960-) == コンピュータ雑誌 == {{See|パソコン雑誌}} == 時計 == * [[世界の腕時計:World wrist watch time spec]] - ワールドフォトプレス 季刊(1990-) * [[マイクロメカトロニクス]] - 日本時計学会 半年刊(継続前誌「日本時計学会誌」、1957-) == 包装 == * [[包装技術 (雑誌)]] - 日本包装技術協会(1963-) * [[食品包装 (雑誌)]] - 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ビバリッジジャパン社(1978-) * [[紅茶会報]] - 日本紅茶協会(1986-2010、以降電子化) * [[酒販ニュース]] - 醸造産業新聞社(1960-) == 外食産業 == * [[外食関連企業動向情報]] - 外食産業総合調査研究センター * [[近代食堂]] - 旭屋出版 * [[飲食店経営]] - 商業界 * [[月刊食堂]] - 柴田書店 * [[FOOD LIFE]] - 総合食品研究所 === 給食 === * [[すこやか]] - 学校給食研究改善協会、年3回刊(1980-) == 小売・卸売、流通業 == * [[商業界]] - 商業界(1948-2020) * [[コンビニ (雑誌)]] - 商業界→アールアイシー(1998-) * [[激流 (雑誌)]] - 国際商業出版(1976-) * [[販売革新]] - 商業界(1963-2020) * [[Chain store age]] - ダイヤモンド・フリードマン社 半月刊(旧名「Chain store age news」、1971-) * [[Franchise age]] - 日本フランチャイズチェーン協会 隔月刊(1972-) * [[ストアーズレポート]] - ストアーズ社(旧名「デパートニューズ調査月報」、1960-) * [[ボランタリーチェーン]] - 日本ボランタリー・チェーン協会、隔月刊(継続前誌「月刊ボランタリー」、1969-) * [[SC JAPAN TODAY]] - 日本ショッピングセンター協会、月刊(旧名「ザ・ショッピングセンター、URERU」、1973年-) === 家電販売 === * [[IT&家電ビジネス]] - リック(継続前誌「家電ビジネス」、「PC trader」を合併、1977-) * [[向上の電化]] - 日刊電気通信社(継続前誌「日刊電気通信. 電機器商況版」) * [[技術営業 (雑誌)]] - リック(1974-) == 法律雑誌 == * [[法律時報]]([[日本評論社]])(月刊) (略称 法時)- 創刊1929年 * [[時の法令]] - 雅粒社 * [[判例タイムズ]]([[判例タイムズ社]])(月2回)(略称 判タ) - 創刊1948年 [http://www.hanta.co.jp/hanta-new.htm 判例タイムズ] * [[ジュリスト]]([[有斐閣]])(原則月2回) (略称 ジュリ)- 創刊1952年 [http://www.yuhikaku.co.jp/jurist/ ジュリスト] * [[金融法務事情]]([[きんざい]]) - 創刊1952年 [http://store.kinzai.jp/magazine/AH/index.html 金融法務事情] * [[判例時報]]([[判例時報社]])(旬刊)(略称 判時) - 創刊1953年 月初めの号に判例評論が付録としてついてくる * [[旬刊商事法務]]([[商事法務]]) - 創刊1955年(1972年まで「旬刊商事法務研究」) [http://www.shojihomu.co.jp/shojihomu.html 旬刊商事法務] * [[金融・商事判例]]([[経済法令研究会]]) - 創刊1966年 * [[労働判例]]([[産労総合研究所]])(略称 労判) - 創刊1967年 [http://www.e-sanro.net/sri/books/roudouhanrei/index.html 労働判例] * [[労働法律旬報]]([[旬報社]])(略称 労旬) * [[NBL]](商事法務) - 創刊1971年(1972年まで「New business law」) [http://www.shojihomu.co.jp/nbl.html NBL] * [[法学教室]](有斐閣)(月刊)(略称 法教) - 創刊1980年 * [[法学セミナー]](日本評論社)(月刊)(略称 法セミ) * [[自由と正義]]([[日本弁護士連合会]]) 弁護士の懲戒公告が掲載される * [[銀行法務21]](経済法令研究会) - (旧「手形研究」) [http://www.khk.co.jp/c/ 銀行法務21] * [[法曹時報]]([[法曹会]])(月刊)(略称 曹時) 最高裁調査官解説が最初に掲載される * [[民商法雑誌]](有斐閣)(月刊)(略称 民商)- 創刊1935年 * [[公正取引 (雑誌)|公正取引]]([[公正取引協会]]) * [[JCAジャーナル]]([[国際商事仲裁協会]]) * [[月報司法書士]]([[日本司法書士会連合会]])(月刊) [http://www.shiho-shoshi.or.jp/web/publish/geppou/index.html 月報司法書士] * [[THINK (雑誌)|THINK]](日本司法書士会連合会)(年刊) [http://www.shiho-shoshi.or.jp/web/publish/think/think_idx.html THINK] * [[不動産法律セミナー]]([[東京法経学院出版]])(月刊) * [[法学論叢]]([[京都大学]]法学会)・(原則月刊)[http://www.kyodai.jp/hogakukai/h3_top.html 京都大学法学会] * [[法学研究]]([[慶應義塾大学]]出版会)(月刊)(略称 法研)- 創刊1969年 * [[法学協会雑誌]]([[東京大学]]) * [[民事訴訟雑誌]]([[日本民事訴訟法学会]]) * [[外国の立法]] - 国立国会図書館調査及び立法考査局編 * [[立法と調査]] - 参友会 == 特許、知的財産 == * [[A.I.P.P.I.]](Journal of the Japanese Group of the International Association for the Protection of Intellectual Property) - 日本国際知的財産保護協会(旧名「国際工業所有権保護協会日本部会・会報」→「国際工業所有権保護協会日本部会月報」1956-) * [[知財管理 (雑誌)]] - 日本知的財産協会(旧名「特許管理」、1951-) * [[知財ぷりずむ]] - 経済産業調査会知的財産情報センター(2002-) * [[特許研究 (雑誌)]] - 工業所有権情報・研修館特許研究室(1986-) == 会計雑誌 == * [[JICPAジャーナル]] ([[日本公認会計士協会]])(月刊) * [[企業会計 (雑誌)|企業会計]] ([[中央経済社]])(月刊) * [[産業経理]] ([[産業経理協会]])(月刊) * [[會計]] ([[森山書店]])(月刊) == 消費者金融、クレジット産業 == * [[月刊消費者信用]] - 金融財政事情研究会(1983-) * [[クレジットエイジ]] - JCFA(継続前誌「月刊クレジットエイジ」→「Credit age」、1980-) * [[Card wave]] - eCure(1988-) == 広告 == * [[ブレーン (雑誌)]] - 宣伝会議(1961-) * [[宣伝会議]] - 宣伝会議(1954-) * [[環境ビジネス (雑誌)]] - 日本ビジネス出版、隔月刊(旧名「環境マーケティングビジネス」2002-) * [[Top promotions販促会議]] - 宣伝会議新社(1998-) * [[企業と広告]] - チャネル(1975-) * [[広告ジャーナル]] - 広告ジャーナル社(1964-) * [[広告月報]] - 朝日新聞社(1960-2009) * [[JAAA reports]] - 日本広告業協会(「日本新聞放送広告業者協会報」の改題、1968-) * [[Pop eye]] - 総合報道 季刊(1969-) * [[Advertising (雑誌)]] - [[電通]](継続前誌「マーケッティング・広告」→「Marketingと広告」→「マーケティングと広告」→「月刊アドバタイジング」、1956-) * [[日経広告手帖]] - 日本経済新聞社(1957-2009) * [[ADビジネス]] - 中央通信研究所(継続前誌「月刊テレビジョンリポート」→「テレビラジオリポート」→「ADビジネス」) * [[広告 (雑誌)]] - [[博報堂]] 季刊(継続前誌「博報堂月報」、1948-) * [[全広連]] - 全日本広告連盟(継続前誌「東京広告協会報」→「全広連報」、1947-) * [[Signs in Japan]] - 全日本屋外広告業団体連合会 季刊(1976-) * [[サイン&ディスプレイ]] - マスコミ文化協会(継続前誌「月刊屋内外広告」→「アド・サイン」、1964-) === 広告デザイン === * [[Axis (雑誌)]] - アクシス 隔月刊(1981-) * [[コマーシャル・フォト]] - 玄光社(1960-) * [[アイデア (雑誌)]] - 誠文堂新光社(1953-) * [[+Designing]] - 毎日コミュニケーションズ(2007-) * [[DAMN]] * [[+81]] - 河出書房新社 * [[コマーシャル フォト]] * [[:en:Wallpaper (magazine)|Wallpaper (magazine)]] - [[:en:IPC Media|IPC Media]](1996-) == 美術デザイン・クリエイティブ関係雑誌 == * [[イラストレーション (雑誌)|イラストレーション]] * [[Web Designing]] * [[web creators(雑誌)|web creators]] * [[Web STRATEGY]] * [[日経デザイン]] * [[デザインの現場]] * [[DESIGN (雑誌)|DESIGN]] * [[MdN]] * [[DTP WORLD]] == 保険 == * [[月刊ライト]] - 保険銀行日報社(1956-) * [[生命保険経営]] - 生命保険経営学会 隔月刊 == 不動産 == * [[CRI : Comprehensive real-estate information]] - 長谷工総合研究所(「CRI 首都圏版」と「CRI 近畿版」を合併) * [[月刊不動産流通]] - 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プレイグラフ社(1964-) * [[レジャー産業資料]] - 綜合ユニコム(1968-) * [[遊技通信]] - 遊技通信社 * [[Green belt]] - アド・サークル * [[Amusement Japan]] - アミューズメントプレスジャパン * [[娯楽産業 (雑誌)]] - 娯楽産業協会(1964-) == ファッション雑誌 == {{See|ファッション雑誌}} == 美容産業 == * [[エステネット]] - 新美容出版(2000-2010) * [[Esthetique]] - 日本エステティック協会(1975-) * [[Aromatopia : the journal of aromatherapy & natural medicine]] - フレグランスジャーナル社(1992-) == 化粧品・トイレタリー産業 == * [[beauty business]] - ビューティビジネス 年4回刊(1975-) * [[国際商業 (雑誌)]] - 国際商業出版 月刊(「ケミカルレビュー」を改題、1968-) * [[Marketing report. Health beauty amenity]] - 富士経済(「Fuji M.Rマーケティング・レポート. 医薬化粧品シリーズ」から分割、1963-) * [[C & T : Beauty science]] - 週刊粧業 季刊(1986-) * [[Cosmetic Stage]] - 技術情報協会 隔月刊(2006-) * [[Fragrance Journal]] - フレグランスジャーナル社(1973-) == 宝飾品産業 == * [[Jewel (雑誌)]] - レーヌ出版 年10回刊(1973-) * [[とうきょうジュエラーズ]] - 柏書店松原(1995-2009) == クリーニング == * [[リネンサプライ (雑誌)]] - 日本リネンサプライ協会(1984-) * [[Cleaning news]] - 全国クリーニング生活衛生同業組合連合会(継続前誌「クリーナー」、1956-) == ペット産業 == * [[ペット経営]] - 野生社(1973-2010) * [[Petpage]] - 動物の企画社(2008-) * [[愛玩動物 (雑誌)]] - 日本愛玩動物協会 隔月刊(1979-) == 模型雑誌 == {{See|模型雑誌}} == 自転車 == * [[funride]] - アールビーズ == 旅・アウトドア雑誌 == * [[山と渓谷]] * [[岳人]](東京新聞社) * [[BE-PAL]]([[小学館]]) * [[旅と鉄道]] * [[Hawaii Lani]] * [[新ハイキング]] - 新ハイキング社 * [[月刊GARRRV]] - 実業之日本社 * [[BIRDER]] - [[文一総合出版]](継続前誌「日本の生物」、1987-) == レジャー・観光産業 == * [[レジャー産業資料]] - 綜合ユニコム(1968-) * [[国際観光情報]] - 国際観光サービスセンター(継続前誌「ITCJジャーナル」、2005-) * [[観光とまちづくり]] - 日本観光振興協会 季刊(継続前誌「観光」、1964-) * [[JATA communication]] - 日本旅行業協会 隔月刊(2001-) * [[月刊ホテル旅館]] - 柴田書店(継続前誌「月刊ホテル旅館・観光」、1964-) * [[Hotel review]] - 日本ホテル協会(1950-) == スポーツ雑誌 == {{Main|スポーツ雑誌}} === サッカー雑誌 === {{main|サッカー専門誌}} === バスケットボール雑誌 === {{main|バスケットボール専門誌}} == アダルト雑誌 == {{Main|エロ本}} {{See also|ポルノ雑誌}} ===ゲイ雑誌=== * [[薔薇族]] * [[SAMSON (雑誌)|SAMSON]] * [[Badi]](バディ) * [[G-men (雑誌)|G-men]] * [[アドン (雑誌)|アドン]] * [[さぶ (雑誌)|さぶ]] * [[The Gay]] * [[アドニス会|アドニス]] * [[薔薇 (雑誌)]] * [[同好]] ===レズビアン雑誌=== * [[ラブリス]] * [[ラブリス・ダッシュ]] * [[フリーネ]] * [[カーミラ (雑誌)|カーミラ]](Carmilla) - [[2002年]]創刊、[[2005年]]廃刊。 * [[アニース]](anise) === SM・風俗・[[フェティッシュマガジン|フェティッシュ雑誌]] === * [[裏窓]] * [[奇譚クラブ]] * [[風俗奇譚]] * [[SM奇譚]] * [[あまとりあ]] * [[風俗科学]] * [[人間探究]] * [[風俗草紙]] * [[風俗クラブ]] * [[SMセレクト]] * [[SMマガジン]] * [[S&Mスナイパー]] * [[SM-Z]] === アダルトビデオ雑誌 === * [[ビデオボーイ]] - 英知出版(1984 - 2013) * [[FANZA#月刊FANZA|月刊FANZA]] - ジーオーティー(継続前誌「月刊DMM」、2000-) * [[月刊ソフト・オン・デマンドDVD|月刊ソフト・オン・デマンド]] - ソフト・オン・デマンド(継続前誌「月刊ソフト・オン・デマンドDVD」、2003-) == その他 == * [[トイジャーナル|月刊トイジャーナル]] * [[Lease]] - リース事業協会(1972-) * [[人材ビジネス]] - オピニオン(旧名「月刊人材派遣」、1986-) == 参考文献 == * 『雑誌 新聞 総合カタログ』 メディア・リサーチセンター株式会社 2011年度版 == 関連項目 == * [[学術雑誌]] == 外部リンク == * 国立国会図書館リサーチ・ナビ ** [https://www.mbl.in/ 電子部品・半導体技術に関する主要専門雑誌] ** [https://www.mbl.in/dome-valve/ 繊維技術に関する主要専門雑誌] ** [https://www.mbl.in/ 医薬品産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102117.php 外食産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102146.php 食品産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102166.php 化粧品・トイレタリー産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102175.php 医療機器産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102197.php ペット産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102239.php 化学産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102247.php 人材ビジネスに関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102254.php 繊維・アパレル産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102281.php 電気機器(家電・照明)産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102304.php 情報通信機器産業(パソコン・携帯電話など)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102313.php 介護ビジネスに関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102325.php 健康・美容産業(フィットネス・エステなど)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102347.php 健康食品産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102370.php 自動車産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102383.php 防犯・防災産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102397.php 包装・容器関連産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102431.php 観光・宿泊産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102442.php 建材・建築資材産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102464.php 建設業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102477.php レンタル・リース業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102488.php 家具産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102496.php 鉱業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102505.php 時計・宝飾(ジュエリー)産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102520.php 広告業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102528.php ナノテクノロジー産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102538.php 情報サービス産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102556.php 不動産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102571.php 通信業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102595.php エネルギー産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102615.php 一般機械産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102627.php 高分子化学(ゴム・プラスチック)産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102636.php 農業(耕種・畜産)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102657.php 林業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102666.php 鉄鋼業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102683.php 金属産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102698.php 銀行業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102710.php 精密機器製造業(計量器・測定器・レンズなど)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102726.php 証券業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102742.php 飲料産業(清涼飲料水、酒類、茶・コーヒー等)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102760.php パチンコ産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102779.php 住宅産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102787.php 漁業に関する主要専門雑誌] ** [https://web.archive.org/web/20100524040444/http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102806.php 倉庫業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102817.php 保険業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102858.php 医療産業(病院経営・臨床検査受託など)に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102877.php リネンサプライ・クリーニング産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102838.php 水運業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-216.php 鉄道業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-248.php 百貨店・スーパーマーケット業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-255.php コンビニエンスストア業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-292.php 太陽電池産業に関する主要専門雑誌] ** [http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-390.php 出版産業に関する主要専門雑誌・新聞] ** [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_458.html 音楽産業に関する主要専門雑誌・新聞] * [[東京都立図書館]] ** [https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/health_medical/list_magazine/index.html 医療関係雑誌リスト] ** [https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/business/index.html 企業・業界情報リスト] ** [https://www.library.metro.tokyo.jp/search/research_guide/legal/list_magazine/index.html 法律・法学関係雑誌リスト] * [https://web.archive.org/web/20120315150532/http://www.j-magazine.or.jp/data_001/index.html JMPAマガジンデータ] - 社団法人[[日本雑誌協会]] ** 毎年『マガジンデータ』を刊行。2010年版を例に取ると81社607誌を掲載している。 * [http://www.jetro.go.jp/library/list/magazines/tokyo/ 各種所蔵リスト<東京>] - ジェトロ・ビジネスライブラリー **日本国外の業界誌ついてリスト化されている。 * {{Cite web|和書 |author = |date = 2011-04-13 |url = http://www.shokabo.co.jp/magazine/ |title = 【裳華房】自然科学系の雑誌一覧(最新号の特集等タイトルとリンク) |work = |publisher = [[裳華房]] 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ディアドコイ
ディアドコイ(Διάδοχοι)は、日本語で「後継者」を意味するギリシア語の言葉である。ディアドコイは複数形であり、単数形はディアドコス(Διάδοχος)である。歴史用語としては、マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者となった部下たちのことを指す。ディオドコイと発音する場合もある。 アレクサンドロス3世が紀元前323年に急逝した後、残された帝国の版図を巡って彼らはディアドコイ戦争を起こした。紀元前301年にイプソスの戦いでその時最有力だったマケドニア王アンティゴノス1世が戦死し、その所領が他のディアドコイによって分割されると、大王の帝国の分裂は決定的となった。その後も彼らは戦いを繰り広げ、最終的にアレクサンドロスの帝国はプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアのヘレニズム三国に分裂した。
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ディアドコイ(Διάδοχοι)は、日本語で「後継者」を意味するギリシア語の言葉である。ディアドコイは複数形であり、単数形はディアドコス(Διάδοχος)である。歴史用語としては、マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者となった部下たちのことを指す。ディオドコイと発音する場合もある。 アレクサンドロス3世が紀元前323年に急逝した後、残された帝国の版図を巡って彼らはディアドコイ戦争を起こした。紀元前301年にイプソスの戦いでその時最有力だったマケドニア王アンティゴノス1世が戦死し、その所領が他のディアドコイによって分割されると、大王の帝国の分裂は決定的となった。その後も彼らは戦いを繰り広げ、最終的にアレクサンドロスの帝国はプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアのヘレニズム三国に分裂した。
'''ディアドコイ'''({{Lang|el|Διάδοχοι}})は、[[日本語]]で「'''後継者'''」を意味する[[ギリシア語]]の言葉である。ディアドコイは複数形であり、単数形はディアドコス({{Lang|el|Διάδοχος}})である。歴史用語としては、[[マケドニア王]][[アレクサンドロス3世]](大王)の死後、その後継者となった部下たちのことを指す。ディオドコイと発音する場合もある。 アレクサンドロス3世が[[紀元前323年]]に急逝した後、残された帝国の版図を巡って彼らは[[ディアドコイ戦争]]を起こした。[[紀元前301年]]に[[イプソスの戦い]]でその時最有力だった[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[アンティゴノス1世]]が戦死し、その所領が他のディアドコイによって分割されると、大王の帝国の分裂は決定的となった。その後も彼らは戦いを繰り広げ、最終的にアレクサンドロスの帝国は[[プトレマイオス朝]][[古代エジプト|エジプト]]、[[セレウコス朝シリア]]、[[アンティゴノス朝マケドニア]]の[[ヘレニズム]]三国に分裂した。 == 代表的な人物 == * [[ペルディッカス]] ** 臨終のアレクサンドロスによって印綬の指輪を渡され、後の[[アレクサンドロス4世]]の正式な後見人となり、[[摂政|帝国摂政]]として実質帝国のトップに君臨する。 * [[アンティパトロス]] ** [[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]時代から遣えた将軍。[[トリパラディソスの軍会]]の際は摂政として会議を主導する。 * [[カルディアのエウメネス|エウメネス]] ** 都市国家[[カルディア]]出身の非マケドニア人将軍。帝国の掌握権をめぐってアンティゴノスらと争う。 * [[アンティゴノス1世|アンティゴノス]] ** アレクサンドロス帝国の再統一を目指し、最強のディアドコイと評される。子孫が[[マケドニア]]に[[アンティゴノス朝]]を築く。 * [[プトレマイオス1世|プトレマイオス]] ** アレクサンドロス3世の東征の際は[[側近護衛官]]として従軍する。後に[[プトレマイオス朝|エジプト]]の[[ファラオ]]として即位する。 * [[セレウコス1世|セレウコス]] ** アンティゴノスに対抗すべくリュシマコスらと連合する。[[歴史的シリア|シリア]]、[[バビロニア]]、[[アナトリア]]、[[イラン高原]]、[[バクトリア]]に跨る[[セレウコス朝]]を築く。 * [[リュシマコス]] ** アレクサンドロス3世の死後、[[トラキア]]、[[アナトリア半島|小アジア]]、[[マケドニア王国|マケドニア]]に跨る地域を支配する。 == 関連記事 == * [[エピゴノイ]] * [[ディアドコイ戦争]] * [[イプソスの戦い]] * [[ペロポネソス戦争]] * [[フィリッポス2世]] * [[ダレイオス3世]] == 脚注 == <references/> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ていあとこい}} [[Category:ディアドコイ|*]] [[Category:ギリシア語の語句]]
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チマチョゴリ
チマチョゴリ(朝鮮語: 치마저고리)は、朝鮮民族の民族衣装である韓服(朝鮮語: 한복、英語: hanbok)の一種で、チマとチョゴリからなる女性の装いである。 女性用朝鮮服は、男女共通の上着であるチョゴリ(襦)と、巻きスカートであるチマ(裳)によって構成される。 韓国では、現在、袖のやわらかな曲線、全体を引きしめる白地のトンジョン(半襟)、合わせ着のように着る形が、「民族衣装韓服の3大美」とされている。しかし、近年では合わせ襟でない形式のチョゴリも登場している。 日本国内にある朝鮮学校では、女子学生の制服としてチマチョゴリの様式を取り入れている(→朝鮮学校の項参照)。これは白いチョゴリと黒いチマを着用するものだが、北朝鮮ではこの色彩のチマチョゴリが女性の正装になっている。なお、韓国ではこの色彩のチマチョゴリは一般に見られない。 1920年代初頭に、胸部を圧迫しすぎて発育を阻害・病気を誘発するなどの欠点が指摘され始め、洋服の利便性を取り入れた改良服を提唱する金一葉と美的見地からそれに反対する羅蕙錫による「婦人衣服改良問題」が東亜日報紙上で連載されるなど、識者による論争が盛んとなった。
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チマチョゴリは、朝鮮民族の民族衣装である韓服の一種で、チマとチョゴリからなる女性の装いである。
{{出典の明記|date=2015年6月}} {{朝鮮の事物| | title=チマチョゴリ | hangeul=치마저고리 | hiragana= | katakana=チマジョゴリ }} [[File:Chima jeogori PS01002001-min042-min042526.jpg|thumb|チマチョゴリ]] [[File:Korea-History-1910-1920-Korean.mother.child-Carpenter.Collection.jpg|thumb|1910年代 チマチョゴリを着用した母子]] [[File:Chimajeogori002.jpg|thumb|[[申潤福]]作 18世紀]] [[ファイル:KojimaTorajirō-1920-Autumn.jpg|サムネイル|[[児島虎次郎]]画。1920年]] '''チマチョゴリ'''({{lang-ko|치마저고리}})は、[[朝鮮民族]]の[[民族服|民族衣装]]である[[韓服]]({{lang-ko|한복}}、{{lang-en|hanbok}})の一種で、チマと[[チョゴリ]]からなる[[女性]]の装いである。 == 概要 == 女性用朝鮮服は、男女共通の上着であるチョゴリ(襦)と、巻き[[スカート]]であるチマ(裳)によって構成される。 [[大韓民国|韓国]]では、現在、袖のやわらかな曲線、全体を引きしめる白地のトンジョン(半襟)、合わせ着のように着る形が、「民族衣装韓服の3大美」とされている。しかし、近年では合わせ襟でない形式のチョゴリも登場している。 日本国内にある[[朝鮮学校]]では、女子学生の[[制服]]としてチマチョゴリの様式を取り入れている(→[[朝鮮学校]]の項参照)。これは白いチョゴリと黒いチマを着用するものだが、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]ではこの色彩のチマチョゴリが女性の正装になっている。なお、韓国ではこの色彩のチマチョゴリは一般に見られない。 1920年代初頭に、胸部を圧迫しすぎて発育を阻害・病気を誘発するなどの欠点が指摘され始め、[[洋服]]の利便性を取り入れた改良服を提唱する[[金一葉]]と美的見地からそれに反対する[[羅蕙錫]]による「婦人衣服改良問題」が[[東亜日報]]紙上で連載されるなど、識者による論争が盛んとなった<ref>井上和枝「[http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/05-02j_inoue_j.pdf 韓国「新女性」と「近代」の出会い はじめに]」日韓文化交流基金</ref>。 ==チマチョゴリ用語== ;チョゴリ / 저고리 :上着。男女共通ではあるが、女性用チョゴリの身丈は男性用より短く、現代ではバストの下5㎝が標準的。 ;オッコルム / 옷고름 :装飾用のリボン状の紐。本来は着用のためについていた服の結び紐。 ;チマ / 치마 :巻きスカート。胸からくるぶしまでの長さがある。 ;ソッチョゴリ / 속저고리 :チョゴリの下に着用する下着。 ;ソッチマ / 속치마 :スリップ状の下着。本来はチマと同型。 ;ソッパジ / 속바지 :ズボン状の下着。 ;ポソン / 버선 :靴下、足袋。男女共通。 ==着用方法== #ソッパジを着る #ポソンを履く #ソッチマを着る #チマを着る:ひもは胸の下で結び、固定する。 #ソッチョゴリを着る #チョゴリを着る:内側のひも又はボタンで留める。 #オッコルムを結ぶ:片方が輪になるように結ぶ。 #(動画<ref>{{YouTube|5nfMQWwMnVQ|How to wear Hanbok 한복}}</ref>) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|Chima jeogori}} *[[韓服]] *[[朝鮮民族]] *[[朝鮮学校]] *[[チマチョゴリ切り裂き事件]] *[[三回装チョゴリ]] == 外部リンク == *[[大邱広域市|大邱]][http://www.tglnet.or.kr/ja_home/fiber/intro.html 繊維情報室] {{民族服}} {{DEFAULTSORT:ちまちよこり}} [[Category:朝鮮の服飾]] [[Category:アウターウェア]] [[Category:スカート]] [[Category:民族衣装]]
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棋聖
棋聖(きせい)は、囲碁・将棋において優れた才能を示した者を尊ぶ呼称で、囲碁では本因坊道策・本因坊丈和・本因坊秀策の三人を指し、将棋では天野宗歩を指す。 現在では、囲碁・将棋それぞれの棋戦優勝者の称号(タイトル)の一つになっている。
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棋聖(きせい)は、囲碁・将棋において優れた才能を示した者を尊ぶ呼称で、囲碁では本因坊道策・本因坊丈和・本因坊秀策の三人を指し、将棋では天野宗歩を指す。 現在では、囲碁・将棋それぞれの棋戦優勝者の称号(タイトル)の一つになっている。 囲碁の棋戦 棋聖 (囲碁)(日本の棋戦) 棋聖戦 (韓国) 棋聖戦 (中国) 将棋の棋戦 棋聖戦 (将棋)
'''棋聖'''(きせい)は、[[囲碁]]・[[将棋]]において優れた才能を示した者を尊ぶ呼称で、{{要出典範囲|囲碁では[[本因坊道策]]・[[本因坊丈和]]・[[本因坊秀策]]の三人を指し、将棋では[[天野宗歩]]を指す。|date=2023年9月}} 現在では、囲碁・将棋それぞれの棋戦優勝者の称号(タイトル)の一つになっている。 *囲碁の棋戦 **[[棋聖 (囲碁)]](日本の棋戦) **[[棋聖戦 (韓国)]] **[[棋聖戦 (中国)]] *将棋の棋戦 **[[棋聖戦 (将棋)]] == 関連項目 == * [[碁聖]] {{aimai}} {{デフォルトソート:きせい}}
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排出者責任
排出者責任(はいしゅつしゃせきにん)とは、廃棄物についての責任を規定したもの。 循環型社会形成推進基本法の第11条1項において、排出者責任として、廃棄物等の排出者が、自らの責任において、その排出した廃棄物等について、適正に循環的な利用又は処分等をすべきであるとの責務を規定している。
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排出者責任(はいしゅつしゃせきにん)とは、廃棄物についての責任を規定したもの。 循環型社会形成推進基本法の第11条1項において、排出者責任として、廃棄物等の排出者が、自らの責任において、その排出した廃棄物等について、適正に循環的な利用又は処分等をすべきであるとの責務を規定している。
{{特筆性|date=2023年1月19日 (木) 03:20 (UTC)}} '''排出者責任'''(はいしゅつしゃせきにん)とは、廃棄物についての責任を規定したもの。 [[循環型社会形成推進基本法]]の第11条1項において、排出者責任として、[[廃棄物等]]の排出者が、自らの責任において、その排出した[[廃棄物等]]について、適正に[[循環的な利用]]又は処分等をすべきであるとの責務を規定している。 == 関連項目 == *[[汚染者負担原則]] *[[拡大生産者責任]] {{Env-stub}} {{公害}} {{DEFAULTSORT:はいしゆつせきにんしや}} [[Category:日本の廃棄物処理]] [[Category:廃棄物処理の概念]]
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王子駅
王子駅(おうじえき)は、東京都北区王子一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 本項では、付近にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の王子駅前停留場(おうじえきまえていりゅうじょう)についても記述する。 以下の3社3路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東北本線である(詳細は路線記事および鉄道路線の名称参照)が、当駅には電車線を走る京浜東北線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また、JRの特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。 築堤上に島式ホーム1面2線を有する高架駅。ホームの東十条寄りで国道122号(明治通り)およびその路面を通る東京さくらトラム(都電荒川線)を跨いでいる。 京浜東北線のほか、山側から順に湘南新宿ラインと貨物列車が走行する貨物線、宇都宮線・高崎線列車が走行する列車線、海側には廃止された北王子線が並行する。構内南側で尾久駅へ向かう列車線(尾久支線)が立体交差で東側へ分岐するが、戸籍上および運賃計算上は尾久支線に当駅は存在せず、赤羽駅が東北本線と尾久支線の分岐駅となっている。 改札口は北口・中央口・南口の3か所がある。南口にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、終日インターホンによる案内となる。自動券売機、多機能券売機、指定席券売機、話せる指定席券売機、自動改札機が設置されている。また、直営駅(管理駅)として上中里駅を管理下におく。南北線への乗り換えは北口か中央口が、都電荒川線への乗り換えは中央口が、飛鳥山公園方面へ向かうには南口がそれぞれ便利である。北口ロータリーにはバスターミナルとタクシー乗り場が、南口ロータリーに面してタクシー乗り場がある。 (出典:JR東日本:駅構内図) JRの駅の北口に面するバスターミナルおよび国道122号(北本通り)の直下に位置している。島式ホーム1面2線を有する地下駅であり、フルハイトタイプのホームドアが設置されている。 改札口は2か所あるが、うち1か所はエレベーター利用者専用で、自動改札機1通路(両通行)のみの簡易なものである。エレベーター自体は開業時から設置されているが、開業当時は車椅子専用で、係員の付き添いがないと利用することができなかった。また、地下通路は北区の文化施設「北とぴあ」の正面入口に通じており、ここにもエレベーターが設置されている。 当駅は、「後楽園駅務管区王子地域」として近隣の駅を管理している。 (出典:東京メトロ:構内図) 開業時から吉村弘作曲の南北線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日にスイッチ制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている。 曲は1番線が「地図を広げて」、2番線が「ノッカー」(いずれも福嶋尚哉作曲)である。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。遅延等で運行間隔が短くなった際に、複数の電車の乗降扱いができるように有効長が長い。また、折り返し運転用の渡り線を持つ。 当停留場ではラッシュ時に運賃箱・カード読み取り端末が設置され、有人改札業務が行われるため、ホームで運賃の支払いを済ませれば車内で運賃を支払う手間がなくなる。 早稲田方面は当停留場を出てすぐ左にカーブし、明治通り上の併用軌道区間に入る。なお、1972年11月12日に廃止された赤羽線は分岐して右にカーブし、北本通りへ進んでいた。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通り。 当駅周辺は、主に区役所をはじめとする北区の行政の中心となっている。 以下の路線が乗り入れ、国際興業バス、東武バスセントラル、都営バス、日立自動車交通によって運行されている。
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王子駅(おうじえき)は、東京都北区王子一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 本項では、付近にある東京都交通局都電荒川線(東京さくらトラム)の王子駅前停留場(おうじえきまえていりゅうじょう)についても記述する。
{{混同|王寺駅}} {{駅情報 |社色 = |文字色 = |駅名 = 王子駅 |画像 = JR王子駅北口.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2023年4月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-light |coord={{coord|35|45|9|N|139|44|17.2|E}}|marker-color=008000|title=JR 王子駅 |coord2={{coord|35|45|16|N|139|44|14.4|E}}|marker-color2=00ac9b|title2=東京メトロ 王子駅 |coord3={{coord|35|45|9.8|N|139|44|17.8|E}}|marker-color3=ee86a7|title3=東京都交通局 王子駅前停留場 |frame-latitude=35.75378|frame-longitude=139.737446 }} |よみがな = おうじ |ローマ字 = Ōji |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]一丁目 |乗換 = |備考 = }} {{座標一覧}} '''王子駅'''(おうじえき)は、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]一丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]である。 本項では、付近にある[[東京都交通局]][[都電荒川線]](東京さくらトラム)の'''[[#東京都交通局|王子駅前停留場]]'''(おうじえきまえていりゅうじょう)についても記述する。 == 乗り入れ路線 == 以下の3社3路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。 * JR東日本:[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JK 36'''。 * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] - 駅番号は'''N 16'''。 * 東京都交通局:[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] [[都電荒川線]] - 駅番号は'''SA 16'''<ref group="報道" name="SA-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190119174432/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京さくらトラム(都電荒川線)及び日暮里・舎人ライナーに「駅ナンバリング」を導入いたします|publisher=東京都交通局|date=2017-11-16|accessdate=2020-05-02|archivedate=2019-01-19}}</ref>。 JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[東北本線]]である(詳細は路線記事および[[鉄道路線の名称]]参照)が、当駅には[[電車線・列車線|電車線]]を走る京浜東北線電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」とは案内されていない。また、JRの[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」に属する。 == 歴史 == * [[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]:[[日本鉄道]][[上野駅|上野]] - [[熊谷駅|熊谷]]間の開業と同時に開設<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=390}}</ref>。現在の東北本線で最も古い駅の一つ。 * [[1906年]](明治39年)[[11月1日]]:[[鉄道国有法]]により国有化{{R|停車場}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる。 * [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月17日]]:[[王子電気軌道]]の王子 - [[飛鳥山停留場|飛鳥山]]間開業に伴い、'''王子停留場'''が開業。当時は起点で、東北本線の南側に位置していた。 * [[1925年]](大正14年)[[11月12日]]:王子電気軌道の[[栄町停留場 (東京都)|栄町]] - 王子間が開業。 * [[1928年]]([[昭和]]3年) ** [[2月1日]]:京浜線(現・京浜東北線)が[[赤羽駅]]まで運行区間を延長、同時に停車駅となる。 ** 時期不詳:王子電気軌道の王子停留場が移転し、'''王子駅前停留場'''に改称。 * [[1932年]](昭和7年)[[12月1日]]:王子電気軌道の王子駅前 - 王子柳田間が開業し、王子駅前停留場は分岐点となる。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月1日]]:王子電気軌道の[[東京市]]への事業譲渡により、王子駅前停留場が東京市電荒川線(栄町方面)・滝野川線(飛鳥山方面、後に荒川線に統合)・赤羽線(王子柳田方面)の停留場となる。 * [[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]:[[東京都制]]施行に伴い、東京市電が[[東京都電車]](都電)となる。 * [[1944年]](昭和19年):戦時体制により滝野川線の営業を休止<ref>{{Cite book|和書|title=わが街わが都電|publisher=東京都交通局|date=1991-08}}</ref>。 * [[1946年]](昭和21年)[[7月10日]]:滝野川線の営業を再開<ref>{{Cite book|和書|title=日本鉄道旅行地図帳 : 全線・全駅・全廃線 5号|publisher=[[新潮社]]|author=今尾恵介|date=2008-09}}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)11月12日:都電赤羽線が廃止。 * [[1982年]](昭和57年)[[2月15日]]:貨物の取り扱いを廃止{{R|停車場}}。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[チッキ|荷物]]扱い廃止{{R|停車場}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)南北線開業、[[乗換駅]]となる<ref name="RP555_50">{{Cite journal|和書|author=荒井正明(帝都高速度交通営団運輸本部計画部施設課)|title=営団南北線の開業|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-02-01|volume=42|issue=第2号(通巻第555号)|pages=50 - 54|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、南北線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年) ** 3月:国鉄時代の[[1966年]](昭和41年)に南口に設置したトイレの配管を雨水管に接続する工事ミスによって、汚水を近くの石神井川に40年以上垂れ流していたことが発覚した。これを受け、仮設トイレの設置と中央口にある正規の下水管への接続工事に着手。翌4月に工事完了<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/090324/tky0903241455005-n1.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090903132954/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/090324/tky0903241455005-n1.htm|title=JR、北区に再発防止策説明 王子駅汚水垂れ流し問題|newspaper=産経新聞|date=2009-03-24|accessdate=2020-08-15|archivedate=2009-09-03}}</ref>。 ** [[12月19日]]:都電荒川線の王子駅前停留場で分岐器故障が発生し、電車が立ち往生する。 ** [[12月29日]]:王子駅前停留場の分岐器故障を受け、翌2010年1月31日まで当停留場での折り返しを中止する(2月1日から通常ダイヤに復帰)。 * [[2015年]](平成27年)[[3月13日]]:東京メトロのホームの[[発車メロディ]]を変更<ref group="報道" name="press20150302">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-03-25|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年) ** [[2月20日]]:JR東日本で[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20180327_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190605233618/https://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20180327_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2018年度中に稼働予定のホームドア設置駅について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2018-03-27|accessdate=2020-04-22|archivedate=2019-06-05}}</ref>。 ** [[3月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|format=PDF|language=日本語|title=平成30年度営業関係施策(その2)について提案を受ける|publisher=JR東労組東京地本|date=2018-12-13|accessdate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128083755/http://jreu-t.jp/relays/download/106/510/2035/3405/?file=/files/libs/3405//201812141040484178.pdf|archivedate=2020-01-28}}</ref>。 * [[2022年]]([[令和]]4年) ** [[10月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了<ref name="StationCd=301_220930">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=301|title=駅の情報(王子駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220930083858/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=301|archivedate=2022-09-30}}</ref><ref name="jtsu-20220727">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ca25e4d04ed34d9d92c37b3ec680b1da.pdf|title=営業関係施策(その1)について提案を受ける!!|format=PDF|publisher=輸送サービス労組 東京地本|date=2022-07-27|accessdate=2022-07-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220727151103/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ca25e4d04ed34d9d92c37b3ec680b1da.pdf|archivedate=2022-07-27}}</ref>。 ** 11月1日:[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]を導入<ref name="StationCd=301_220930" /><ref name="jtsu-20220727" />。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 王子駅 |画像 = JR王子駅中央口.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 中央口(2023年4月) |よみがな = おうじ |ローマ字 = Ōji |前の駅 = JK 35 [[上中里駅|上中里]] |駅間A = 1.1 |駅間B = 1.5 |次の駅 = [[東十条駅|東十条]] JK 37 |電報略号 = ワウ |駅番号 = {{駅番号r|JK|36|#00b2e5|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<br />(線路名称上は[[東北本線]]) |キロ程 = 9.9&nbsp;km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から20.4 |起点駅 = |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]一丁目3 |座標 = {{coord|35|45|9|N|139|44|17.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 王子駅}} |駅構造 = [[高架駅]](盛土上<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =22 }}</ref>) |ホーム = 1面2線{{R|zeneki05}} |開業年月日 = [[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]{{R|zeneki05}} |廃止年月日 = |乗車人員 = 54,084 |乗降人員 = |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|南口に導入<ref name="StationCd=301_230911" />。}}<ref name="StationCd=301_230911" /> * [[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]設置駅<ref name="StationCd=301_230911" /> * [[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[盛土|築堤]]上に[[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]{{R|zeneki05}}。ホームの東十条寄りで[[国道122号]]([[明治通り (東京都)|明治通り]])およびその路面を通る東京さくらトラム(都電荒川線)を跨いでいる。 京浜東北線のほか、山側から順に[[湘南新宿ライン]]と[[貨物列車]]が走行する[[東北貨物線|貨物線]]、[[宇都宮線]]・[[高崎線]]列車が走行する列車線、海側には廃止された[[北王子線]]が並行する。構内南側で[[尾久駅]]へ向かう列車線(尾久支線)が[[立体交差]]で東側へ分岐するが、戸籍上および運賃計算上は尾久支線に当駅は存在せず、[[赤羽駅]]が東北本線と尾久支線の分岐駅となっている。 [[改札|改札口]]は北口・中央口・南口の3か所がある。南口には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、終日インターホンによる案内となる<ref name="StationCd=301_230911">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=301|title=駅の情報(王子駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911123211/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=301|archivedate=2023-09-11}}</ref>。[[自動券売機]]、多機能券売機<ref name="StationCd=301_230911" />、[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=301_230911" />、[[指定席券売機#アシストマルス|話せる指定席券売機]]<ref name="StationCd=301_230911" />、[[自動改札機]]が設置されている。また、[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[管理駅]])として[[上中里駅]]を管理下におく。南北線への乗り換えは北口か中央口が、都電荒川線への乗り換えは中央口が、[[飛鳥山公園]]方面へ向かうには南口がそれぞれ便利である。北口ロータリーには[[バスターミナル]]と[[タクシー]]乗り場が、南口ロータリーに面してタクシー乗り場がある。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |北行 |[[赤羽駅|赤羽]]・[[浦和駅|浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |- !2 |南行 |[[上野駅|上野]]・[[東京駅|東京]]・[[横浜駅|横浜]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/301.html JR東日本:駅構内図]) ==== バリアフリー設備 ==== * [[エスカレーター]]([[車椅子]]対応の3枚板仕様もあり):北口 - ホーム * [[エレベーター]]:中央口 - ホーム * 車いす対応多機能[[便所|トイレ]]:中央口 <gallery> JR王子駅北口改札.jpg|北口改札(2023年4月) JR王子駅中央口改札.jpg|中央口改札(2023年4月) JR王子駅南口改札.jpg|南口改札(2023年4月) Oji-Sta-S.JPG|南口(2016年7月) JRE Oji-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年5月) </gallery>{{-}} === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 王子駅 |画像 = Oji-Sta-3.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 3番出入口(2017年6月) |よみがな = おうじ |ローマ字 = Oji |所属事業者 = [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]一丁目10-18 |座標 = {{coord|35|45|16|N|139|44|14.4|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=東京メトロ 王子駅}} |開業年月日 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[11月29日]]<ref name="RP555_50" /> |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |電報略号 = オウ |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />53,326 |統計年度 = 2022年 |所属路線 = {{color|#00ac9b|●}}[[東京メトロ南北線|南北線]] |駅番号 = {{駅番号r|N|16|#00ac9b|4}} |前の駅 = N 15 [[西ケ原駅|西ケ原]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 1.2 |次の駅 = [[王子神谷駅|王子神谷]] N 17 |キロ程 = 17.4 |起点駅 = [[目黒駅|目黒]] |乗換 = |備考 = }} JRの駅の北口に面するバスターミナルおよび[[国道122号]](北本通り)の直下に位置している。島式ホーム1面2線を有する[[地下駅]]であり、フルハイトタイプの[[ホームドア]]が設置されている。 改札口は2か所あるが、うち1か所はエレベーター利用者専用で、自動改札機1通路(両通行)のみの簡易なものである。エレベーター自体は開業時から設置されているが、開業当時は車椅子専用で、係員の付き添いがないと利用することができなかった。また、地下通路は北区の文化施設「[[北とぴあ]]」の正面入口に通じており、ここにもエレベーターが設置されている。 当駅は、「[[後楽園駅|後楽園]]駅務管区王子地域」として近隣の駅を管理している<ref>{{Cite journal|和書|author=関田崇(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)|title=総説:東京メトロ|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- !1 |rowspan="2"|[[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 |[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/oji/timetable/namboku/a/index.html |title=王子駅時刻表 赤羽岩淵・浦和美園方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- !2 |[[白金高輪駅|白金高輪]]・[[目黒駅|目黒]]・[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/oji/timetable/namboku/b/index.html |title=王子駅時刻表 白金高輪・目黒・日吉方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/oji/index.html 東京メトロ:構内図]) ==== 発車メロディ ==== 開業時から[[吉村弘]]作曲の南北線全駅共通の発車メロディ(発車サイン音)を使用していたが、2015年3月13日に[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の当駅オリジナルのメロディに変更されている<ref group="報道" name="press20150302" />。 曲は1番線が「地図を広げて」、2番線が「ノッカー」(いずれも[[福嶋尚哉]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|title=「南北線」曲目リスト|format=PDF|work=[http://www.switching.co.jp/news/155 東京メトロ「南北線」が新駅メロディ採用 制作:株式会社スイッチ]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190711050827/http://www.switching.co.jp/cd/images/nanboku_line_ekimelo.pdf|archivedate=2019-07-11|publisher=スイッチ|date=2015-03-02|accessdate=2021-03-28}}</ref>。 <gallery> TokyoMetro-N16-Oji-station-entrance-5-20200330-102401.jpg|5番出入口(2020年3月) TokyoMetro-N16-Oji-station-platform-20171209-160822.jpg|ホーム(2017年12月) Metro-Oji-Sta-Gate.JPG|改札口(2008年7月) </gallery>{{-}} === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 王子駅前停留場 |画像 = File:都電王子駅前停留所.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 三ノ輪橋方面ホーム入口(2023年4月) |よみがな = おうじえきまえ |ローマ字 = Oji-ekimae |電報略号 = |所属事業者= [[東京都交通局]] |所在地 = [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]一丁目 |座標 = {{coord|35|45|9.8|N|139|44|17.8|E|region:JP-13_type:railwaystation|name=都電 王子駅前停留場}} |開業年月日= [[1915年]]([[大正]]4年)[[4月17日]] |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 2面2線 |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 9,239 |統計年度 = 2020年 |所属路線 = [[都電荒川線]](東京さくらトラム) |前の駅 = SA 15 [[栄町停留場 (東京都)|栄町]] |駅間A = 0.5 |駅間B = 0.5 |次の駅 = [[飛鳥山停留場|飛鳥山]] SA 17 |駅番号 = {{駅番号r|SA|16|#ee86a7|4}}<ref group="報道" name="SA-numbering"/> |キロ程 = 6.0 |起点駅 = [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]] |備考 = }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]。遅延等で運行間隔が短くなった際に、複数の電車の乗降扱いができるように[[有効長]]が長い。また、折り返し運転用の[[分岐器#形状による分類|渡り線]]を持つ。 当停留場ではラッシュ時に[[運賃箱]]・カード読み取り端末が設置され、有人改札業務が行われるため、ホームで運賃の支払いを済ませれば車内で運賃を支払う手間がなくなる。 早稲田方面は当停留場を出てすぐ左にカーブし、明治通り上の[[併用軌道]]区間に入る。なお、1972年11月12日に廃止された赤羽線は分岐して右にカーブし、北本通りへ進んでいた。 {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable" !乗車ホーム!!路線!!方向!!行先 |- ! 西側 | rowspan=2|[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線<br />(東京さくらトラム) | style="text-align:center" | 上り | [[三ノ輪橋停留場|三ノ輪橋]]方面 |- ! 東側 | style="text-align:center" | 下り | [[早稲田停留場|早稲田]]方面 |} <gallery> Ōji Station.jpg|三ノ輪橋方面ホーム(2022年2月) Toden 7000 series at Ōji-ekimae Station.jpg|早稲田方面ホームに停車する[[東京都交通局7000形電車|7000形電車]](2014年9月) </gallery> {{-}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''54,084人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本管内の駅では[[小岩駅]]に次いで第69位。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''53,326人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅中63位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 * '''東京都交通局''' - 2020年度の1日平均'''乗降'''人員は'''9,239人'''である<ref group="利用客数">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813181223/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/safety/pdf/facilitation_r02_03.pdf|title=移動等円滑化取組報告書(軌道停留場)(令和2年度)|page=3|archivedate=2021-08-13|accessdate=2021-08-13|publisher=東京都交通局|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通り。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) |<ref name="RJ759_31" />48,341 | |- |2003年(平成15年) |<ref name="RJ759_31">{{Cite journal|和書|author=瀬ノ上清二(東京地下鉄鉄道本部運輸営業部運転課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻第759号)|page=31|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>49,141 |1.7% |- |2004年(平成16年) |49,850 |1.4% |- |2005年(平成17年) |51,042 |2.4% |- |2006年(平成18年) |51,867 |1.6% |- |2007年(平成19年) |54,592 |5.3% |- |2008年(平成20年) |55,449 |1.6% |- |2009年(平成21年) |55,470 |0.0% |- |2010年(平成22年) |56,052 |1.0% |- |2011年(平成23年) |54,464 |&minus;2.8% |- |2012年(平成24年) |55,804 |2.5% |- |2013年(平成25年) |57,159 |2.4% |- |2014年(平成26年) |57,781 |1.1% |- |2015年(平成27年) |59,546 |3.1% |- |2016年(平成28年) |61,612 |3.5% |- |2017年(平成29年) |63,317 |2.8% |- |2018年(平成30年) |64,405 |1.7% |- |2019年(令和元年) |63,541 |&minus;1.3% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>43,924 |&minus;30.9% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>49,405 |5.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>53,326 |14.9% |} === 年度別1日平均乗車人員(1880年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通り。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="東京府統計">東京府統計書 - 国立国会図書館(デジタル化資料)</ref> !年度 !日本鉄道 /<br />国鉄 !出典 |- |1883年(明治16年) |<ref group="備考">1883年7月28日開業。開業日から翌年3月31日までの計248日間を集計したデータ。</ref>84 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806564/124?viewMode= 明治16-17年]</ref> |- |1884年(明治17年) |124 |<ref group="東京府統計" name="toukei1884">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806565/124?viewMode= 明治18年]</ref> |- |1885年(明治18年) |87 |<ref group="東京府統計" name="toukei1884" /> |- |1886年(明治19年) |75 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806566/118?viewMode= 明治19年]</ref> |- |1888年(明治21年) |311 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/128?viewMode= 明治21年]</ref> |- |1890年(明治23年) |333 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806570/139?viewMode= 明治23年]</ref> |- |1891年(明治24年) |86 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806572/139?viewMode= 明治25年]</ref> |- |1893年(明治26年) |341 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806573/209?viewMode= 明治26年]</ref> |- |1895年(明治28年) |441 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/135?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |567 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |678 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |790 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年)<!--1899年度は1900年が100で割り切れるが400では割り切れない年であるため、閏年ではなく平年となるので365日間で集計--> |816 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |867 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |946 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |893 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |859 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |830 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |1,219 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |1,601 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |1,711 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |1,847 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |1,754 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |1,665 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |1,272 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |1,132 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |1,148 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |1,361 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |2,184 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |2,608 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |3,000 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |3,405 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |3,551 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |3,622 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |4,088 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |5,168 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |11,615 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |12,058 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |11,113 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |10,288 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |9,959 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |10,398 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |10,660 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |11,057 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1953年(昭和28年) |34,138 |rowspan="38" style="text-align:center"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |35,780 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |37,568 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |40,889 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}} - 10ページ</ref> |- |1957年(昭和32年) |43,212 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}} - 10ページ</ref> |- |1958年(昭和33年) |45,846 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}} - 10ページ</ref> |- |1959年(昭和34年) |49,278 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |53,000 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |54,634 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |59,307 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |64,518 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |69,294 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |71,070 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |73,345 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |74,291 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |77,114 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |73,325 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |65,784 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |66,751 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |68,077 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |72,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |73,326 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |71,189 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |72,641 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |71,849 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |71,474 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |70,391 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |70,077 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |68,079 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |67,145 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |66,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |65,844 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |65,745 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |65,734 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |66,169 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |67,964 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |68,148 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |69,345 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |70,194 |<ref group="備考">1991年11月29日開業。開業日から翌年3月31日までの計124日間を集計したデータ。</ref>4,968 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |70,096 |6,099 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |68,959 |7,099 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |66,332 |7,482 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |64,740 |<ref group="備考">1996年3月26日、四ツ谷まで延伸。</ref>7,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |64,490 |13,748 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |63,061 |16,468 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |62,252 |19,063 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>61,035 |19,522 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>61,407 |<ref group="備考">9月26日南北線目黒までの全線開業、[[東急目黒線]]と[[直通運転]]開始。</ref>21,142 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.kita.tokyo.jp/kuse/joho/shiryoshu/index.html 行政資料集] - 北区</ref> !年度 !JR東日本 !営団 /<br />東京メトロ !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>60,850 |<ref group="備考">3月28日[[埼玉高速鉄道線]]開業、直通運転開始。</ref>23,795 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>60,728 |24,068 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>60,811 |24,470 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>60,606 |24,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>60,909 |25,427 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>61,250 |25,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>62,070 |27,117 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>61,912 |27,512 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>61,481 |27,655 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>61,426 |27,899 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>60,294 |27,197 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>60,656 |27,770 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>61,067 |28,447 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>60,835 |28,687 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>62,193 |29,579 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>63,690 |30,581 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>64,797 |31,370 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>64,762 |31,929 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>63,882 |31,489 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>47,322 | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>49,238 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>54,084 | | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|王子 (東京都北区)|王子本町|岸町 (東京都北区)|堀船|豊島 (東京都北区)|滝野川}} 当駅周辺は、主に区役所をはじめとする北区の行政の中心となっている。 === 行政機関 === {{columns-list|2| * [[国立印刷局]]王子工場 * [[東京法務局]]北出張所 * 王子税務署 * [[陸上自衛隊]][[十条駐屯地]] * [[東京都下水道局]]みやぎ水再生センター * [[王子警察署|警視庁王子警察署]] * [[北区役所 (東京都)|北区役所]] ** 北区役所王子区民事務所 ** 北区王子保健福祉センター ** 北区王子地域包括支援センター * [[北とぴあ]] ** 北区男女共同参画センター「スペースゆう」 * [[北区立中央図書館]] * 北区中央公園文化センター |}} === 公園・博物館・劇場等 === {{columns-list|2| * [[名主の滝公園]] * [[飛鳥山公園]] ** [[飛鳥山公園モノレール]](あすかパークレール) 飛鳥山公園入口駅 - [[スロープカー]]であり法的には鉄道ではない。 * [[東京都北区立中央公園|中央公園]] * 飛鳥山3つの博物館 ** [[紙の博物館]] ** [[北区飛鳥山博物館]] ** [[渋沢史料館]] * さくらホール・つつじホール - 北とぴあ内施設 * [[王子小劇場]] |}} === 教育機関 === {{columns-list|2| * 王子経理専門学校 * [[中央工学校]] * [[東京都立飛鳥高等学校]] * [[東京都立王子総合高等学校]] * [[北区立王子桜中学校]] * [[北区立王子小学校]] * [[東京成徳大学中学校・高等学校]] * [[駿台学園中学校・高等学校]] * [[順天中学校・高等学校]] * [[桜丘中学・高等学校 (東京都)|桜丘中学・高等学校]] * [[安部学院高等学校]] |}} === 道路・河川 === * [[東京都道455号本郷赤羽線]]([[本郷通り (東京都)|本郷通り]]) * [[東京都道・千葉県道501号王子金町市川線]]([[明治通り (東京都)|明治通り]]) * [[国道122号]](明治通り・北本通り) * [[首都高速中央環状線]]([[王子北出入口]]・[[王子南出入口]]) * [[石神井川]] === 郵便局 === * [[王子郵便局]] * 王子本町郵便局 * 飛鳥山前郵便局 * 北豊島二郵便局 === 企業・商業施設 === * [[東京書籍]] * [[コーセー]]王子研修センター、研究所 * 武蔵野楽器 * [[サンスクエア]] ** [[東武ストア]]王子店 * [[イトーヨーカ堂|食品館イトーヨーカドー]]王子店 == バス路線 == === 一般路線バス === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> 以下の路線が乗り入れ、[[国際興業バス]]、[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]]、[[都営バス]]、[[日立自動車交通]]によって運行されている。 {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="4" style="text-align:center;"|[[都営バス]] |{{Unbulleted list|[[都営バス北営業所#王41・王45系統|'''王41''']]:[[新田 (足立区)|新田]]一丁目・新田二丁目|'''王45''':[[北千住駅|北千住駅前]]}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[都営バス北営業所#王55・深夜11系統|'''王55''']]:新田一丁目・新田二丁目|'''王55折返''':ハートアイランド東(循環)}} |「王55折返」は平日朝・夕方のみ運行 |- !3 |{{Unbulleted list|[[都営バス杉並支所#王78系統|'''王78''']]:[[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]・[[都営バス杉並支所|杉並車庫前]]|[[都営バス北営業所#王57・深夜02系統|'''深夜02''']]:[[豊島 (東京都北区)|豊島]]五丁目団地}} |- !4 |{{Unbulleted list|[[都営バス千住営業所#王49系統|'''王49''']]:[[都営バス千住営業所|千住車庫前]]・[[江北駅 (東京都)|江北駅前]]|'''王49折返''':[[足立区役所]]|[[都営バス北営業所#王55・深夜11系統|'''深夜11''']]:新田二丁目}} |{{Unbulleted list|「王49」の江北駅前行は平日朝のみ運行|「王49折返」のハートアイランド東経由便は平日日中のみ運行}} |- !rowspan="2"|5 |style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]] |{{Unbulleted list|[[東武バスセントラル葛飾営業所#亀有駅北口 - (環七通り) - 足立区役所・王子駅線|'''王30''']]:[[亀有駅]]北口|'''深夜31''':[[西新井駅]]西口}} |{{Unbulleted list|「王30」は日中2本のみ運行|「深夜31」は平日深夜のみ運行}} |- |style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス北営業所#王40甲・丙系統|'''王40出入''']](一部無番):北車庫前 |&nbsp; |- !6 |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[国際興業バス]] |{{Unbulleted list|[[国際興業バス池袋営業所#王子駅 - 板橋駅線|'''王22''']]:[[板橋駅]]|[[国際興業バス練馬営業所#王子駅 - 大和町 - 上板橋駅線|'''王54''']]:[[上板橋駅]]|'''王54-2''':上板橋駅前}} |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|[[国際興業バス赤羽営業所#赤羽駅西口 - 西が丘 - 王子駅線|'''赤50''']]:[[赤羽駅]]西口|'''王23''':赤羽車庫(出入庫)}} |&nbsp; |- !8 |rowspan="7" style="text-align:center;"|都営バス |'''王55''':[[池袋駅|池袋駅東口]] |&nbsp; |- !9 |[[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|'''草64''']]:[[浅草駅|浅草雷門南]] |&nbsp; |- !10 |[[都営バス北営業所#王40甲・丙系統|'''王40甲''']]・'''王57''':豊島五丁目団地 |&nbsp; |- !11 |'''王40丙''':江北中学校前(循環)<!--宮城循環--> |&nbsp; |- !12 |'''王40甲''':西新井駅前・[[江北 (足立区)|江北]]四丁目 |&nbsp; |- !13 |{{Unbulleted list|'''王57''':赤羽駅東口|'''王40出入'''・'''王57''':北車庫前}} |&nbsp; |- !14 |{{Unbulleted list|'''王40甲'''・'''草64''':池袋駅東口|'''草64''':とげぬき地蔵前}} |&nbsp; |- !北とぴあ前 |style="text-align:center;"|[[北区コミュニティバス|Kバス]]<br />([[日立自動車交通]]) |[[駒込駅|JR駒込駅]] |&nbsp; |- !- |style="text-align:center;"|国際興業バス |[[国際興業バス鳩ヶ谷営業所#池袋駅 → 川口駅 → 東浦和駅線(深夜急行バス)|'''深夜急行''']]:[[東浦和駅]] |降車専用 |} === 高速バス === <!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !運行事業者!!愛称・行先!!備考 |- !colspan="3"|北口(北本通り沿い) |- |style="text-align:center;"|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]] |'''[[マロニエ新宿号]]'''・[[マロニエ新宿号#マロニエ東京号|'''マロニエ東京号''']]:[[佐野プレミアム・アウトレット]]・[[佐野新都市バスターミナル]] |{{Unbulleted list|[[バスタ新宿]]始発・[[東京駅のバス乗り場|東京駅]]始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|JRバス関東|[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]}} |'''[[那須・塩原号]]''':[[那須温泉]] / [[塩原温泉駅|塩原温泉]] / [[西那須野駅]] |{{Unbulleted list|バスタ新宿始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|JRバス関東|[[会津乗合自動車]]}} |'''[[夢街道会津号]]''':[[猪苗代駅]]・[[会津若松駅]] / [[道の駅あいづ 湯川・会津坂下|道の駅あいづ]]・喜多方営業所 |{{Unbulleted list|バスタ新宿始発、夜行便は[[東京駅]]始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[ジェイアールバス東北|JRバス東北]]|[[福島交通]]}} |'''[[あぶくま号]]''':[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]前行・[[福島駅 (福島県)|福島駅]]東口 |{{Unbulleted list|バスタ新宿始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|JRバス東北|[[岩手県交通]]|国際興業バス}} |'''[[ドリーム盛岡 (らくちん) 号]]''':[[盛岡駅]] |{{Unbulleted list|[[渋谷マークシティ]]・東京駅始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い}} |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[関東鉄道]]|JRバス関東}} |'''[[境 - 東京線]]''':[[境町]]高速バスターミナル |{{Unbulleted list|東京駅始発|下り便乗車扱い・上り便降車扱い|乗車定員制}} |- !colspan="3"|南口(ロータリー内) |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[東京バス]]|[[大阪バス]]}} |[[大阪バス#東京特急ニュースター号|'''東京特急ニュースター号''']]:[[京都駅]]・[[大阪駅周辺バスのりば|大阪駅]]・[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば|天王寺駅]]・[[布施駅|東大阪布施駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東京バス|[[名古屋バス]]}} |[[東京バス#高速バス|'''東名特急ニュースター号''']]:[[名古屋駅]]・[[愛知県庁]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[平成エンタープライズ]]|平成コミュニティバス}} |[[平成エンタープライズ#高速バス|'''VIPライナー''']]:名古屋駅 / 京都駅・大阪駅・[[三宮駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東京バス|国際興業バス|[[京浜急行バス]]}} |[[東京バス#空港リムジンバス|'''空港連絡バス''']]:[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |} ; 備考 * 北口発着の[[仙台 - 首都圏線 (ジェイアールバス東北)|「仙台⇔首都圏線」]]「[[ドリーム山形・新宿号|ドリーム山形/米沢・新宿号]]」は、上り便のみ降車扱いを行う。 * 北口ののりばは北本通り上約200&nbsp;m赤羽寄り、降り場はバスターミナル向かい側に位置する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_stop/ouji.html|title=JR王子駅|publisher=ジェイアールバス関東|accessdate=2022-11-27}}</ref>。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速・{{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: [[上中里駅]] (JK 35) - '''王子駅 (JK 36)''' - [[東十条駅]] (JK 37) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|N]] 南北線 ::: [[西ケ原駅]] (N 15) - '''王子駅 (N 16)''' - [[王子神谷駅]] (N 17) ; 東京都交通局 : [[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] 都電荒川線(東京さくらトラム) ::: [[栄町停留場 (東京都)|栄町停留場]] (SA 15) - '''王子駅前停留場 (SA 16)''' - [[飛鳥山停留場]] (SA 17) === かつて存在した路線 === ; 日本国有鉄道 : 東北本線貨物支線(須賀線) :: '''王子駅''' - (貨)[[須賀駅 (東京都)|須賀駅]] ; 日本貨物鉄道 : 東北本線貨物支線([[北王子線]]) :: [[田端信号場駅]] - ('''王子駅''') - (貨)[[北王子駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|16em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|16em}} == 関連項目 == 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15,001
等幅フォント
等幅フォント(とうはばフォント、とうふくフォント、英: monospaced font)は、グリフ幅を固定された幅(モノスペース)で実装したフォント。 等幅フォントは、文字によって文字の幅が異なるプロポーショナルフォントと対比させて使用される概念である。文字の種類により文字幅が変化しないため、文字数が同一であれば、その行は同じ幅になることや、同一の文字数の位置は横方向で同じ位置になること、一定の幅の用紙に文字を打刻する場合にどれだけ文字を入れられるかが明らかになるなどの特徴がある。文字で表組するのに用いる罫線要素の文字は等幅フォントのこの性質を用いるものである。 ラテン文字において、初期の等幅フォントはタイプライターであり、タイプライターでは等幅フォントしか使用できなかった。 JIS文字集合の等幅フォントとは、日本語やアイヌ語を表記するのに使われる文字群(平仮名、片仮名、漢字、句読点、括弧など)のグリフを全角等幅などの固定幅、その他のラテン文字を半角等幅などの固定幅で実装したものを指す。 フォントに含まれる文字群の一部または全部にプロポーショナル幅のグリフのあるフォントについては、それらの文字以外の文字の幅が等幅であっても、等幅フォントとは呼ばない。 コンピュータでは、初期のころは画面や面板に表示される文字は等幅フォントのみであった。また、印刷される文字も等幅フォントの文字のみであった。その後プロポーショナルフォントが使用されるようになってからも、さまざまな用途で使用され続けている。グラフィカルユーザインタフェースが主流となってからも、Microsoft Windowsのコマンドプロンプト(MS-DOS互換機能)やUnix系ターミナルなどのキャラクタユーザインタフェースでは等幅フォントが用いられるほか、携帯電話に含まれるフォントも等幅フォントである。 等幅フォントの利点としては、コンピュータの仕様上フォントデータの格納に少ないメモリですむことや、文字幅が同じであるため文字の描画処理が高速にできることなどがあげられる。 ウェブブラウザなどでは、プロポーショナルフォントと等幅フォントを別に設定することができ、HTMLやCSSなどでは等幅フォントになるタグやスタイルの設定を指示するコードがある。 等幅フォントのフォントファイルはTrueTypeやOpenTypeの場合特定のフラグをmonospacedにすることで実装される。
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等幅フォントは、グリフ幅を固定された幅(モノスペース)で実装したフォント。
{{WikipediaPage||Help:ページの編集#等幅フォント}} [[画像:Propvsmono.svg|thumb|[[プロポーショナルフォント]]と等幅フォント]] '''等幅フォント'''(とうはばフォント、とうふくフォント、{{lang-en-short|monospaced font}})は、[[グリフ]]幅を固定された幅([[モノスペース]])で実装した[[フォント]]。 == 概要 == [[ファイル:Courier.svg|thumb|欧文フォントの等幅フォント]] 等幅フォントは、文字によって文字の幅が異なる[[プロポーショナルフォント]]と対比させて使用される概念である。文字の種類により文字幅が変化しないため、文字数が同一であれば、その行は同じ幅になることや、同一の文字数の位置は横方向で同じ位置になること、一定の幅の用紙に文字を打刻する場合にどれだけ文字を入れられるかが明らかになるなどの特徴がある。文字で表組するのに用いる罫線要素の文字は等幅フォントのこの性質を用いるものである。 ラテン文字において、初期の等幅フォントは[[タイプライター]]であり、タイプライターでは等幅フォントしか使用できなかった。 JIS文字集合の等幅フォントとは、日本語やアイヌ語を表記するのに使われる文字群(平仮名、片仮名、漢字、句読点、括弧など)のグリフを全角等幅などの固定幅、その他のラテン文字を半角等幅などの固定幅で実装したものを指す。 フォントに含まれる文字群の一部または全部にプロポーショナル幅のグリフのあるフォントについては、それらの文字以外の文字の幅が等幅であっても、等幅フォントとは呼ばない。 == コンピュータにおける使用 == コンピュータでは、初期のころは画面や面板に表示される文字は等幅フォントのみであった。また、印刷される文字も等幅フォントの文字のみであった。その後プロポーショナルフォントが使用されるようになってからも、さまざまな用途で使用され続けている。[[グラフィカルユーザインタフェース]]が主流となってからも、[[Microsoft Windows]]の[[コマンドプロンプト]]([[MS-DOS]]互換機能)や[[Unix]]系ターミナルなどの[[キャラクタユーザインタフェース]]では等幅フォントが用いられるほか、携帯電話に含まれるフォントも等幅フォントである。 等幅フォントの利点としては、コンピュータの仕様上フォントデータの格納に少ないメモリですむことや、文字幅が同じであるため文字の描画処理が高速にできることなどがあげられる。 [[ウェブブラウザ]]などでは、プロポーショナルフォントと等幅フォントを別に設定することができ、[[HyperText Markup Language|HTML]]や[[Cascading Style Sheets|CSS]]などでは等幅フォントになるタグやスタイルの設定を指示するコードがある。 等幅フォントのフォントファイルは[[TrueType]]や[[OpenType]]の場合特定のフラグをmonospacedにすることで実装される。 * [[ARIB外字|データ放送の文字]]では等幅フォントが使用される。 * TrueTypeフォントでは、「P」を付けたフォントをプロポーショナルフォント、つけていないフォントを等幅フォントとして区別することがある。 * [[CIDフォント]]の場合、同一のフォントにプロポーショナルの文字と等幅の文字が含まれる。 * プログラムの[[ソースコード]]は等幅フォントで表示することが多い。[[テキストエディタ]]も通例等幅フォントが使用される。 == 等幅フォントの例 == {|class=wikitable !フォント名!!文字集合!!提供元!!備考 |- |{{仮リンク|Nimbus Mono|en|Nimbus Mono}} |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |一部のLinuxに搭載されている。 |- |[[さざなみフォント]]<br />[[IPAフォント|{{スペル|IPA}}ゴシック]]<br />IPA明朝 |[[JIS X 0213]] |rowspan="2"| |rowspan="2"|Linuxに搭載されている。 |- |[[VLゴシック]] |[[JIS X 0208]]ほか |- |[[Courier (書体)|Courier]] |ラテン文字 | |[[macOS]]、[[Microsoft Windows|Windows]]に搭載されている<ref name="macos">[https://support.apple.com/ja-jp/HT206872 macOS Sierra に組み込まれているフォント - Apple サポート]</ref><ref name="windows">[https://helpx.adobe.com/jp/x-productkb/global/236469.html Windows 7 によってインストールされるフォント - Adobe]、[https://www.microsoft.com/typography/fonts/product.aspx?PID=164 Fonts supplied with* Windows 8]、[https://answers.microsoft.com/en-us/insider/forum/insider_wintp-insider_perf/fonts-in-windows-10/e856c620-b8b6-4435-b03a-0c3f36d914db?auth=1 Fonts in Windows 10]</ref>。 |- |{{仮リンク|Monaco (書体)|en|Monaco (typeface)|label=Monaco}} |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |{{スペル|macOS}}に搭載されている<ref name="macos" />。 |- |[[Osaka (書体)|Osaka−等幅]] |[[MacJapanese]] | |macOSで利用可能だが、デフォルトでは搭載されていないため追加でダウンロードする必要がある<ref name="macos" />。 |- |{{仮リンク|FixedSys|en|Fixedsys}}<br>{{仮リンク|Courier New|en|Courier New}}<br>{{仮リンク|Terminal (書体)|en|Terminal (typeface)}} |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |rowspan="4"|Windowsに搭載されている<ref name="windows" />。 |- |[[MS ゴシック|{{スペル|MS}} ゴシック]]<br> [[MS 明朝|{{スペル|MS}} 明朝]] |JIS X 0213、<br />Microsoft互換文字 |[[マイクロソフト]] |- |{{仮リンク|SimSun|en|SimSun}} |[[GB 18030]]、<br />Microsoft互換文字 | |- |[[新細明體|MingLiU]] |[[CNS 11643]]、<br />Microsoft互換文字 | |- |[[Noto|Noto Sans Mono]] |ラテン文字、<br>キリル文字、<br>ほか | |rowspan="2"|Noto fontsのひとつ。 |- |Noto Sans Mono CJK |JIS X 0213、<br>簡体字、<br>繁体字、<br>ハングル | |- |HGフォント各種 |JIS X 0208 |[[リコー]] |Microsoft Officeに付属<ref>[http://blog.ddc.co.jp/mt/dtp/archives/20110324/115848.html フォントのHG・HGP・HGSの違いとDF・DFP・DFGの違いについて - DTPサポート情報]</ref><ref name="msoffice">[https://support.office.com/ja-jp/article/Office-%E3%81%AE%E5%90%84%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AB%E4%BB%98%E5%B1%9E%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%88-db1101fc-5cc0-4300-91cd-de7c79d907cd Office-の各バージョンに付属するフォント]</ref>。 |- |DFフォント各種 |JIS X 0208、<br>中国語文字 |[[ダイナコムウェア]] | |- |[[梅フォント|梅ゴシック]]<br>梅明朝 |JIS X 0213 | | |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{タイポグラフィ用語}} {{デフォルトソート:とうははふおんと}} [[Category:DTP]] [[Category:書体]]
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15,003
一般廃棄物
一般廃棄物(いっぱんはいきぶつ、General waste)とは、日本やシンガポールなどの法制度で用いられている廃棄物の区分。 日本の廃棄物の処理及び清掃に関する法律では廃棄物をまず一般廃棄物と産業廃棄物に大別する。シンガポールの廃棄物回収分類では廃棄物を一般廃棄物(General waste)と有害産業廃棄物(Toxic Industrial Waste)に分け、一般廃棄物を産業廃棄物(非有害産業廃棄物)、商業廃棄物、家庭廃棄物等に区分している。なお、米国のMunicipal solid waste(都市廃棄物)を「一般廃棄物」と訳す資料もある。 廃棄物の処理及び清掃に関する法律の第2条第2項(以下、「法」という)において、産業廃棄物以外の廃棄物をいう、とされている。 法律上は、「一般廃棄物」と「特別管理一般廃棄物」のみである。特に後者は「爆発性、毒性、感染性その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある性状を有するものとして政令で定めるもの」を指す(法第2条第3項)。 「事業系一般廃棄物」という言葉は、便宜上よく使われるが、法律に定義された言葉ではなく、処理方法や規制などに関しての法律上の取り扱いは家庭ゴミと何ら変わらない。ただし東京23区などの一部の市町村では、地方自治体の条例で「事業系一般廃棄物」を定義し、独自のマニフェスト制度を設けたり、リサイクルに関する報告を義務付けたりするなど、家庭ゴミとは分けて特別の取り扱いをしていることもある。 一般廃棄物の収集・運搬および処分は、市町村に処理責任があり、市町村自らが行うのが原則である。(法6条、6条の2) ただし、市町村で行うことが困難な場合に限り、市町村長は一定の要件を満たした業者の申請により、ごみ処理基本計画に基づいて一般廃棄物処理業の許可を与えることができる(法7条5項および10項)。 また、上記の許可がなくても、事業者が自身の排出する一般廃棄物を自ら処理することと、「専ら再生利用の目的となる一般廃棄物」のみの収集・運搬は可能である。(法7条) 環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則第2条で次のものと定義されている。 環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則でA類からD類に分類される。 一般廃棄物の分類ごとに収集業者は国家環境庁が発行する免許を取得しなければならない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "一般廃棄物(いっぱんはいきぶつ、General waste)とは、日本やシンガポールなどの法制度で用いられている廃棄物の区分。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本の廃棄物の処理及び清掃に関する法律では廃棄物をまず一般廃棄物と産業廃棄物に大別する。シンガポールの廃棄物回収分類では廃棄物を一般廃棄物(General waste)と有害産業廃棄物(Toxic Industrial Waste)に分け、一般廃棄物を産業廃棄物(非有害産業廃棄物)、商業廃棄物、家庭廃棄物等に区分している。なお、米国のMunicipal solid waste(都市廃棄物)を「一般廃棄物」と訳す資料もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "廃棄物の処理及び清掃に関する法律の第2条第2項(以下、「法」という)において、産業廃棄物以外の廃棄物をいう、とされている。", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "法律上は、「一般廃棄物」と「特別管理一般廃棄物」のみである。特に後者は「爆発性、毒性、感染性その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある性状を有するものとして政令で定めるもの」を指す(法第2条第3項)。", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「事業系一般廃棄物」という言葉は、便宜上よく使われるが、法律に定義された言葉ではなく、処理方法や規制などに関しての法律上の取り扱いは家庭ゴミと何ら変わらない。ただし東京23区などの一部の市町村では、地方自治体の条例で「事業系一般廃棄物」を定義し、独自のマニフェスト制度を設けたり、リサイクルに関する報告を義務付けたりするなど、家庭ゴミとは分けて特別の取り扱いをしていることもある。", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一般廃棄物の収集・運搬および処分は、市町村に処理責任があり、市町村自らが行うのが原則である。(法6条、6条の2)", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただし、市町村で行うことが困難な場合に限り、市町村長は一定の要件を満たした業者の申請により、ごみ処理基本計画に基づいて一般廃棄物処理業の許可を与えることができる(法7条5項および10項)。", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、上記の許可がなくても、事業者が自身の排出する一般廃棄物を自ら処理することと、「専ら再生利用の目的となる一般廃棄物」のみの収集・運搬は可能である。(法7条)", "title": "日本の一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則第2条で次のものと定義されている。", "title": "シンガポールの一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則でA類からD類に分類される。", "title": "シンガポールの一般廃棄物" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一般廃棄物の分類ごとに収集業者は国家環境庁が発行する免許を取得しなければならない。", "title": "シンガポールの一般廃棄物" } ]
一般廃棄物とは、日本やシンガポールなどの法制度で用いられている廃棄物の区分。 日本の廃棄物の処理及び清掃に関する法律では廃棄物をまず一般廃棄物と産業廃棄物に大別する。シンガポールの廃棄物回収分類では廃棄物を一般廃棄物と有害産業廃棄物に分け、一般廃棄物を産業廃棄物(非有害産業廃棄物)、商業廃棄物、家庭廃棄物等に区分している。なお、米国のMunicipal solid waste(都市廃棄物)を「一般廃棄物」と訳す資料もある。
'''一般廃棄物'''(いっぱんはいきぶつ、General waste)とは、[[日本]]や[[シンガポール]]などの法制度で用いられている[[廃棄物]]の区分。 日本の[[廃棄物の処理及び清掃に関する法律]]では廃棄物をまず一般廃棄物と産業廃棄物に大別する<ref name="c_report" />。シンガポールの廃棄物回収分類では廃棄物を一般廃棄物(General waste)と有害産業廃棄物(Toxic Industrial Waste)に分け、一般廃棄物を産業廃棄物(非有害産業廃棄物)、商業廃棄物、家庭廃棄物等に区分している<ref name="Singapore" />。なお、米国のMunicipal solid waste([[都市廃棄物]])を「一般廃棄物」と訳す資料もある<ref name="c_report">{{Cite web|和書|url=http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/pdf/271-1.pdf |title=アメリカの産業廃棄物処理について |accessdate=2022-04-04 |website= |publisher=一般財団法人自治体国際化協会}}</ref>。 == 日本の一般廃棄物 == 廃棄物の処理及び清掃に関する法律の[[b:廃棄物の処理及び清掃に関する法律第2条|第2条]]第2項(以下、「法」という)において、[[産業廃棄物]]以外の廃棄物をいう、とされている。 === 種類 === 法律上は、「一般廃棄物」と「特別管理一般廃棄物」のみである。特に後者は「爆発性、毒性、感染性その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある性状を有するものとして政令で定めるもの」を指す(法第2条第3項)。 「事業系一般廃棄物」という言葉は、便宜上よく使われるが、法律に定義された言葉ではなく、処理方法や規制などに関しての法律上の取り扱いは家庭ゴミと何ら変わらない。ただし[[東京都区部|東京23区]]などの一部の[[市町村]]では、[[地方公共団体|地方自治体]]の条例で「事業系一般廃棄物」を定義し、独自の[[マニフェスト制度]]を設けたり、[[リサイクル]]に関する報告を義務付けたりするなど、家庭ゴミとは分けて特別の取り扱いをしていることもある。 ;一般廃棄物 *ごみ **家庭系一般廃棄物:家庭から排出される廃棄物 **事業系一般廃棄物:事業者が排出する産業廃棄物以外の廃棄物 *[[屎尿|し尿]] ;特別管理一般廃棄物 *[[家電機器|家電製品]]に含まれる[[ポリ塩化ビフェニル|PCB]] *廃水銀 *ばいじん(煤塵) *感染性一般廃棄物 === 処理 === 一般廃棄物の収集・運搬および処分は、市町村に処理責任があり、市町村自らが行うのが原則である。([[b:廃棄物の処理及び清掃に関する法律法第6条|法6条]]、[[b:廃棄物の処理及び清掃に関する法律法第6条の2|6条の2]]) ただし、市町村で行うことが困難な場合に限り、[[市町村長]]は一定の要件を満たした業者の申請により、ごみ処理基本計画に基づいて一般廃棄物処理業の許可を与えることができる([[b:廃棄物の処理及び清掃に関する法律法第7条|法7条]]5項および10項)。 また、上記の許可がなくても、事業者が自身の排出する一般廃棄物を自ら処理することと、「専ら再生利用の目的となる一般廃棄物」<ref group="注">「専ら物(もっぱらぶつ)」と呼ばれ、具体的には[[缶|空き缶]]、[[瓶|空き瓶]]、[[古紙]]、古布の4品目を指す。</ref>のみの収集・運搬は可能である。(法7条) == シンガポールの一般廃棄物 == === 定義 === 環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則第2条で次のものと定義されている<ref name="Singapore">{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/05001474/05001474_001_BUP_0.pdf |title= 第9章 シンガポールにおける産業廃棄物・リサイクル政策 |accessdate=2022-04-04 |website= |publisher=独立行政法人日本貿易振興機構}}</ref>。 # 廃棄物または産業廃棄物のうち、環境公衆衛生(有害産業廃棄物)規則で定められた有害産業廃棄物を除いたもの # グリス阻集器からの廃棄物 # 下水道システムからでる廃棄物で、下水処理施設、腐敗性タンク、水洗トイレからの廃棄物を含む # 下水道システムに繋がっていない衛生施設から出る廃棄物で、自動車、船舶、航空機の衛生施設からの廃棄物を含む # 危険物質のうち、処理済で、廃棄しても無害で安全であるもの # 有害産業廃棄物のうち、処理済で、廃棄しても無害で安全であるもの === 種類 === 環境公衆衛生(一般廃棄物収集)規則でA類からD類に分類される<ref name="Singapore" />。 * A類 ** 不必要となった家具や電気製品、建設・解体の残がい、樹木の枝や幹を切り落としたものなどかさばる廃棄物 ** 腐敗しない産業廃棄物 * B類 ** 家庭廃棄物、食品廃棄物、市場廃棄物 ** 有機物の含有が高く、腐敗する産業廃棄物 * C類 ** スラッジとグリス阻集器からでる廃棄物 ** 下水道、スラッジ、そのほか水洗トイレや下水道処理施設、腐敗性タンク、他の種類の下水道システムからでる廃棄物 ** 下水道システムに繋がっていない衛生施設からでる廃棄物で自動車・船舶・航空機の衛生施設を含む * D類 ** 危険物質のうち、処理済で、廃棄しても無害で安全であるもの ** 有害産業廃棄物のうち、処理済で、廃棄しても無害で安全であるもの === 処理 === 一般廃棄物の分類ごとに収集業者は国家環境庁が発行する免許を取得しなければならない<ref name="Singapore" />。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == *[[リサイクル]] *[[清掃工場]] *[[野焼き]] *[[最終処分場]] *[[循環型社会形成推進基本法]] *[[廃品回収]] {{企業の社会的責任|plain}} {{環境問題|||plain}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いつはんはいきふつ}} [[Category:日本の廃棄物処理]]
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二階堂黎人
二階堂 黎人(、1959年7月19日 - )は、日本の小説家。東京都出身。本名 大西克己。 中央大学附属高等学校、中央大学理工学部数学科卒業。大学在学中に手塚プロ主催の「手塚治虫ファンクラブ」の会長を務めていた。卒業後運輸省の外郭団体に勤務。1990年第1回鮎川哲也賞に『吸血の家』で佳作入選。 1992年8月に講談社から出版された二階堂蘭子シリーズ第1作『地獄の奇術師』で作家デビュー。蘭子シリーズでは、作者と同名の二階堂黎人が記述者を務めている。1994年に退社後本格的な執筆活動に入る。題に明らかなように、江戸川乱歩の通俗長編を強く意識した復古調の探偵小説的作風を打ち出しており、「新本格」ムーヴメントのなかでもとりわけストレートに先達への敬意を披瀝した作風でデビューを飾る。大掛かりなトリックを駆使した本格派の謎解き志向と同時に、デコラティヴな事件や舞台の造形や、作品に色濃いオカルティズムや怪奇色などを多分に盛り込んだ、ジョン・ディクスン・カーや横溝正史を想起させる世界観が特徴。特にカーへの心酔ぶりは有名である。異様な扮装に身を包んだ残虐な怪人と自己意識過剰な女性探偵が対決を繰り返す冒険小説的側面も持ち合わせている。 『増加博士と目減卿』においてメタ・ミステリー、『聖域の殺戮』においてSF的世界観でのミステリに挑むなど、古典的な探偵小説からは外れた流儀の作品にも実験的に着手している。 著書『人狼城の恐怖』において、(オムニバスとしてではなく純粋な長編として)世界最長の推理小説の記録を持っている。 2005年11月28日、自らのホームページの日記に、「『容疑者Xの献身』に関して、今年の本格推理の収穫のように書いている書評を見た記憶があるのだが、それはちょっと違うのではないかと思う。」と書き、広義のミステリとして『容疑者Xの献身』を非常に高く評価しつつも同作は本格ミステリではないと言う自説を展開した。これに対して異論が集中し、笠井潔などの本職の評論家も巻き込んで専門誌などで「本格とは何か」を改めて問う議論が起こるなど波紋を呼んだ。 SFも愛好しているが、古典的なスペースオペラ、ハードSFを好む傾向にある。『S-Fマガジン』2015年4月号での特集「ハヤカワ文庫SF総解説 PART1」においては、「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズ、「ターザン」シリーズの解説を担当した。 「」内が二階堂黎人の作品
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "二階堂 黎人(、1959年7月19日 - )は、日本の小説家。東京都出身。本名 大西克己。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中央大学附属高等学校、中央大学理工学部数学科卒業。大学在学中に手塚プロ主催の「手塚治虫ファンクラブ」の会長を務めていた。卒業後運輸省の外郭団体に勤務。1990年第1回鮎川哲也賞に『吸血の家』で佳作入選。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1992年8月に講談社から出版された二階堂蘭子シリーズ第1作『地獄の奇術師』で作家デビュー。蘭子シリーズでは、作者と同名の二階堂黎人が記述者を務めている。1994年に退社後本格的な執筆活動に入る。題に明らかなように、江戸川乱歩の通俗長編を強く意識した復古調の探偵小説的作風を打ち出しており、「新本格」ムーヴメントのなかでもとりわけストレートに先達への敬意を披瀝した作風でデビューを飾る。大掛かりなトリックを駆使した本格派の謎解き志向と同時に、デコラティヴな事件や舞台の造形や、作品に色濃いオカルティズムや怪奇色などを多分に盛り込んだ、ジョン・ディクスン・カーや横溝正史を想起させる世界観が特徴。特にカーへの心酔ぶりは有名である。異様な扮装に身を包んだ残虐な怪人と自己意識過剰な女性探偵が対決を繰り返す冒険小説的側面も持ち合わせている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『増加博士と目減卿』においてメタ・ミステリー、『聖域の殺戮』においてSF的世界観でのミステリに挑むなど、古典的な探偵小説からは外れた流儀の作品にも実験的に着手している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "著書『人狼城の恐怖』において、(オムニバスとしてではなく純粋な長編として)世界最長の推理小説の記録を持っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2005年11月28日、自らのホームページの日記に、「『容疑者Xの献身』に関して、今年の本格推理の収穫のように書いている書評を見た記憶があるのだが、それはちょっと違うのではないかと思う。」と書き、広義のミステリとして『容疑者Xの献身』を非常に高く評価しつつも同作は本格ミステリではないと言う自説を展開した。これに対して異論が集中し、笠井潔などの本職の評論家も巻き込んで専門誌などで「本格とは何か」を改めて問う議論が起こるなど波紋を呼んだ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "SFも愛好しているが、古典的なスペースオペラ、ハードSFを好む傾向にある。『S-Fマガジン』2015年4月号での特集「ハヤカワ文庫SF総解説 PART1」においては、「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズ、「ターザン」シリーズの解説を担当した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「」内が二階堂黎人の作品", "title": "作品リスト" } ]
二階堂 黎人(にかいどう れいと、は、日本の小説家。東京都出身。本名 大西克己。
{{存命人物の出典明記|date=2018年1月22日 (月) 01:41 (UTC)}} {{Infobox 作家 |name=二階堂 黎人<br />(にかいどう れいと) |birth_name=大西克己 |birth_date={{生年月日と年齢|1959|7|19}} |birth_place={{JPN}}・[[東京都]] |death_date= |death_place= |occupation=[[推理作家]] |nationality={{JPN}} |period=1992年 - |genre=[[推理小説]] |subject= |movement= |notable_works=[[二階堂蘭子|二階堂蘭子シリーズ]] |awards= |debut_works=『[[地獄の奇術師]]』 }} {{読み仮名|'''二階堂 黎人'''|にかいどう れいと|[[1959年]][[7月19日]] - }}は、[[日本]]の[[小説家]]。[[東京都]]出身。本名 '''大西克己'''。 ==経歴== [[中央大学附属中学校・高等学校|中央大学附属高等学校]]、[[中央大学]][[理工学部]][[数学科]]卒業。大学在学中に手塚プロ主催の「[[手塚治虫]]ファンクラブ」の会長を務めていた。卒業後[[運輸省]]の外郭団体に勤務。1990年第1回[[鮎川哲也賞]]に『吸血の家』で佳作入選。 1992年8月に[[講談社]]から出版された[[二階堂蘭子]]シリーズ第1作『地獄の奇術師』で作家デビュー。蘭子シリーズでは、作者と同名の二階堂黎人が記述者を務めている。1994年に退社後本格的な執筆活動に入る。題に明らかなように、江戸川乱歩の通俗長編を強く意識した復古調の[[推理小説|探偵小説]]的作風を打ち出しており、「新本格」ムーヴメントのなかでもとりわけストレートに先達への敬意を披瀝した作風でデビューを飾る。大掛かりなトリックを駆使した本格派の謎解き志向と同時に、デコラティヴな事件や舞台の造形や、作品に色濃いオカルティズムや怪奇色などを多分に盛り込んだ、[[ジョン・ディクスン・カー]]や[[横溝正史]]を想起させる世界観が特徴。特にカーへの心酔ぶりは有名である。異様な扮装に身を包んだ残虐な怪人と自己意識過剰な女性探偵が対決を繰り返す冒険小説的側面も持ち合わせている。 『増加博士と目減卿』において[[推理小説#メタミステリ|メタ・ミステリー]]、『聖域の殺戮』においてSF的世界観でのミステリに挑むなど、古典的な探偵小説からは外れた流儀の作品にも実験的に着手している。 著書『[[人狼城の恐怖]]』において、(オムニバスとしてではなく純粋な長編として)世界最長の推理小説の記録を持っている<ref group="注">ちなみにそれまでの最長記録は[[笠井潔]]の『哲学者の密室』であったとされる。</ref>。 2005年11月28日、自らのホームページの日記に、「『[[容疑者Xの献身]]』に関して、今年の本格推理の収穫のように書いている書評を見た記憶があるのだが、それはちょっと違うのではないかと思う。」と書き、広義のミステリとして『容疑者Xの献身』を非常に高く評価しつつも同作は本格ミステリではないと言う自説を展開した。これに対して異論が集中し、[[笠井潔]]などの本職の評論家も巻き込んで専門誌などで「本格とは何か」を改めて問う議論が起こるなど波紋を呼んだ。 SFも愛好しているが、古典的なスペースオペラ、ハードSFを好む傾向にある。『[[S-Fマガジン]]』2015年4月号での特集「ハヤカワ文庫SF総解説 PART1」においては、「[[宇宙英雄ペリー・ローダン]]」シリーズ、「[[ターザン]]」シリーズの解説を担当した。 ==ミステリ・ランキング== ===週刊文春ミステリーベスト10=== *1998年 - 『人狼城の恐怖』(「第三部 探偵編」と「第四部 完結編」)11位 ===このミステリーがすごい!=== *1994年 - 『聖アウスラ修道院の惨劇』14位 *1996年 - 『悪霊の館』15位 *1999年 - 『人狼城の恐怖 第四部 完結編』9位 ===本格ミステリ・ベスト10=== *1999年 - 『人狼城の恐怖』(全四巻)'''1位''' *2000年 - 『堕天使殺人事件』20位 *2001年 - 『密室殺人大百科』15位 *2004年 - 『猪苗代マジック』17位 *2005年 - 『魔術王事件』14位 *2009年 - 『鬼蟻村マジック』28位 *2010年 - 『智天使の不思議』24位 ==作品リスト== ===単行本=== ====二階堂蘭子シリーズ==== {{See also|二階堂蘭子}} *地獄の奇術師(1992年8月 [[講談社]] / 1994年8月 [[講談社ノベルス]] / 1995年7月 [[講談社文庫]]) *吸血の家(1992年10月 [[立風書房]] / 1995年10月 講談社ノベルス / 1999年7月 講談社文庫) *聖アウスラ修道院の惨劇(1993年8月 講談社ノベルス / 1996年11月 講談社文庫) *悪霊の館(1994年12月 立風書房 / 1996年12月 立風ノベルス / 2000年4月 講談社文庫 / 2022年12月 [[論創社]]【完全版】) *ユリ迷宮(1995年4月 講談社ノベルス / 1998年3月 講談社文庫) **収録作品:ロシア館の謎 / 劇薬 / 密室のユリ *[[人狼城の恐怖]] **第一部 ドイツ編(1996年4月 講談社ノベルス / 2001年6月 講談社文庫) **第二部 フランス編(1997年9月 講談社ノベルス / 2001年7月 講談社文庫) **第三部 探偵編(1998年1月 講談社ノベルス / 2001年8月 講談社文庫) **第四部 完結編(1998年9月 講談社ノベルス / 2001年9月 講談社文庫) *バラ迷宮(1997年1月 講談社ノベルス / 2000年1月 講談社文庫) **収録作品:サーカスの怪人 / 変装の家 / 喰顔鬼 / ある蒐集家の殺人 / 火炎の魔 / 薔薇の家の殺人 *悪魔のラビリンス(2001年4月 講談社ノベルス / 2004年6月 講談社文庫) *魔術王事件(2004年10月 講談社ノベルス / 2007年11月 講談社文庫) *双面獣事件(2007年12月 講談社ノベルス / 2011年1月 講談社文庫【上・下】) *覇王の死(2012年2月 講談社ノベルス / 2015年5月 講談社文庫【上・下】) *ラン迷宮(2014年4月 講談社ノベルス / 2017年8月 講談社文庫) **収録作品:泥具根博士の悪夢 / 蘭の家の殺人 / 青い魔物 *巨大幽霊マンモス事件(2017年9月 講談社ノベルス / 2022年8月 講談社文庫) ====水乃サトルシリーズ==== ;社会人編 *軽井沢マジック(1995年6月 [[トクマ・ノベルズ]] / 1997年11月 [[徳間文庫]] / 2008年9月 講談社文庫) *諏訪湖マジック(1999年11月 トクマ・ノベルズ / 2002年10月 徳間文庫) *猪苗代マジック(2003年7月 [[文藝春秋]] [[本格ミステリ・マスターズ]] / 2006年11月 [[文春文庫]]) *鬼蟻村マジック(2008年7月 [[原書房]] [[ミステリー・リーグ]] / 2012年6月 文春文庫) *東尋坊マジック(2011年8月 [[実業之日本社]] / 2014年12月 [[実業之日本社文庫]]) ;大学生編 *奇跡島の不思議(1996年11月 [[角川書店]] / 2001年9月 [[角川文庫]]) *宇宙神の不思議(2002年9月 角川書店 / 2005年10月 角川文庫) *稀覯人<small>(コレクター)</small>の不思議(2005年4月 [[光文社]] [[カッパ・ノベルス]] / 2008年10月 [[光文社文庫]]) *智天使<small>(ケルビム)</small>の不思議(2009年6月 光文社 / 2012年3月 光文社文庫) *誘拐犯の不思議(2010年7月 光文社 / 2013年1月 光文社文庫) ;短編集 *名探偵水乃紗杜瑠の大冒険(1998年9月 実業之日本社) **【改題】名探偵水乃サトルの大冒険(2000年2月 トクマ・ノベルス / 2002年2月 講談社文庫) ***収録作品:ビールの家の冒険 / ヘルマフロディトス / 『本陣殺人事件』の殺人 / 空より来たる怪物 ====ボクちゃん探偵シリーズ==== *私が捜した少年(1996年4月 [[双葉社]] / 1998年6月 [[フタバ・ノベルス]] / 2000年7月 講談社文庫) *クロへの長い道(1999年9月 双葉社 / 2003年2月 講談社文庫) *ドアの向こう側(2004年5月 双葉社 / 2007年8月 講談社文庫) ====宇宙捜査艦《ギガンテス》シリーズ==== *宇宙捜査艦《ギガンテス》(2002年3月 [[徳間デュアル文庫]]) *聖域の殺戮(2006年2月 講談社ノベルス / 2010年1月 講談社文庫) ====増加博士シリーズ==== *増加博士と目減卿(2002年11月 原書房 / 2006年3月 講談社文庫)<ref>「フェル博士」と「メリヴェール卿」のもじり。</ref> *増加博士の事件簿(2012年5月 講談社ノベルス / 2018年8月 講談社文庫) ====その他==== *名探偵の肖像(1999年6月 講談社ノベルス / 2002年6月 講談社文庫) *カーの復讐(2005年11月 講談社 [[ミステリーランド]] / 2010年11月 講談社文庫) *小説 鉄腕アトム 火星のガロン(2007年11月 講談社 KCノベルス 原作:[[手塚治虫]]) *クロノ・モザイク(2014年7月 [[文藝春秋]])※水乃サトルが[[カメオ出演]] *アイアン・レディ(2015年8月 [[原書房]] *亡霊館の殺人(2015年9月 [[南雲堂]]) **収録作品:霧の悪魔 / 亡霊館の殺人 / カーは不可能犯罪ものの巨匠! / 『パンチとジュディ』について / 吸血の家[短編版] / 好事家へのノート ===共著=== ;[[愛川晶]]との合作 *白銀荘の殺人鬼(2000年6月 光文社 カッパ・ノベルス / 2004年2月 光文社文庫) - ノベルス版は「彩胡ジュン」名義 ;[[黒田研二]]との合作 *Killer X(2001年11月 光文社 カッパ・ノベルス / 2006年1月 光文社文庫) - ノベルス版は「クイーン兄弟」名義 *千年岳の殺人鬼(2002年12月 光文社 カッパ・ノベルス / 2007年2月 光文社文庫) *永遠の館の殺人(2004年7月 光文社 カッパ・ノベルス / 2009年1月 光文社文庫) ;[[千澤のり子]]との合作 *ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子(2007年11月 講談社ノベルス / 2011年8月 講談社文庫) - ノベルス版は「宗形キメラ」名義 *レクイエム 私立探偵・桐山真紀子(2009年11月 講談社ノベルス) ;[[羽純未雪]]との合作 *呪縛伝説殺人事件(2022年9月 南雲堂) ;リレー小説 *[[堕天使殺人事件]](1999年9月 角川書店 / 2002年5月 角川文庫) *EDS 緊急推理解決院(2005年11月 光文社カッパ・ノベルス) ===アンソロジー(収録)=== 「」内が二階堂黎人の作品 *本格推理1 新しい挑戦者たち(1993年4月 光文社文庫)「赤死荘の殺人」 *名探偵の饗宴(1998年3月 朝日新聞社 / 2015年3月 [[朝日文庫]])「ある蒐集家の死」 *新世紀「謎」倶楽部(1998年7月 角川書店 / 2001年8月 角川文庫)「縞模様の宅配便」 *「Y」の悲劇(2000年7月 講談社文庫)「『Y』の悲劇―『Y』が増える」 *八ヶ岳「雪密室」の謎(2001年3月 原書房)「二階堂黎人の手記」 *新世紀犯罪博覧会(2001年3月 光文社 カッパ・ノベルス)「人間空気」 *密室と奇蹟 J・D・カー生誕百周年記念アンソロジー(2006年11月 [[東京創元社]] / 2020年8月 [[創元推理文庫]])「亡霊館の殺人」 *本からはじまる物語(2007年12月 [[メディアパル]])「白ヒゲの紳士」 ===アンソロジー(編纂)=== *密室殺人大百科(2000年7月 原書房【上・下】 / 2003年9月 講談社文庫【上・下】) *新・本格推理01 モルグ街の住人たち(2001年3月 光文社文庫) - 共編:[[鮎川哲也]] *密室殺人コレクション(2001年8月 原書房) - 共編:[[森英俊]] *新・本格推理02 黄色い部屋の殺人者(2002年3月 光文社文庫) - 共編:鮎川哲也 *新・本格推理03 りら荘の相続人(2003年3月 光文社文庫) - 共編:鮎川哲也 *新・本格推理04 赤い館の怪人物(2004年3月 光文社文庫) *新・本格推理05 九つの署名(2005年3月 光文社文庫) *新・本格推理06 不完全殺人事件(2006年3月 光文社文庫) *新・本格推理07 Qの悲劇(2007年3月 光文社文庫) *新・本格推理08 消えた殺人者(2008年3月 光文社文庫) *新・本格推理 特別編 不可能犯罪の饗宴(2009年3月 光文社文庫) *不可能犯罪コレクション(2009年6月 原書房 ミステリー・リーグ) *密室晩餐会(2011年6月 原書房 ミステリー・リーグ) ===小説以外の作品=== *鮎川哲也読本(1998年8月 原書房) - 共編:[[芦辺拓]]、[[有栖川有栖]] *本格ミステリーを語ろう![海外篇](1999年2月 原書房) - 共著:[[芦辺拓]]、[[有栖川有栖]]、[[小森健太朗]] *二階堂黎人VS新本格推理作家 おおいにマンガを語る(2000年4月 [[メディアファクトリー]]) ;漫画化 *薔薇の家の殺人 二階堂蘭子の事件簿(2001年2月 [[秋田書店]] サスペリアミステリーコミック 作画:[[あさみさとる]]) *歯なしの探偵 渋柿信介の事件簿(2002年12月 秋田書店 サスペリアミステリーコミック 作画:[[河内実加]]) *スマイルは遠すぎる 渋柿信介の事件簿2(2004年9月 秋田書店 サスペリアミステリーコミック 作画:河内実加) ;手塚治虫関連作品 *未発掘の玉手箱 手塚治虫Works 1946-1989(1998年8月 立風書房) *二階堂黎人が選ぶ!手塚治虫ミステリー傑作集(2000年7月 [[ちくま文庫]]) *二階堂黎人が選ぶ!手塚治虫SF傑作集 異星人編(2001年10月 ちくま文庫) *二階堂黎人が選ぶ!手塚治虫SF傑作集 時間旅行者<small>(タイムトラベラー)</small>編(2002年8月 ちくま文庫) *二階堂黎人が選ぶ!手塚治虫西部劇傑作集(2004年10月 ちくま文庫) *僕らが愛した手塚治虫(2006年12月 [[小学館]]) *僕らが愛した手塚治虫2(2008年12月 小学館) *僕らが愛した手塚治虫 激動編(2012年1月 原書房) ==脚注== === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} ==外部リンク== *{{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/NIKAIDOU/ |title=二階堂黎人の黒犬黒猫館 |date=20000414021355}} * {{Cite web|和書|url=http://nikaidou.a.la9.jp/|title=二階堂黎人の黒犬黒猫館|accessdate=2020-11-9}} {{鮎川哲也賞|第1回}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にかいとう れいと}} [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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小川町駅 (埼玉県)
小川町駅(おがわまちえき)は、埼玉県比企郡小川町大字大塚にある、東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 東武鉄道の東上本線(東上線)と、JR東日本の八高線が乗り入れており、接続駅となっている。東武鉄道の駅には駅番号としてTJ 33が付与されている。東武東上線は当駅を境に南北で系統分離されており、当駅から南側は池袋駅方面に向かう列車が乗り入れる。 かつては当駅から貨物線である東武根古屋線が分岐していた。その線路跡は道路として残る。 東武鉄道が駅を管理し、駅構内を2社で共用する共同使用駅である。駅舎及び出入り口は東武鉄道側(南側)にある。 駅舎の前は単式ホームで東武鉄道の2番線となっているが、寄居方に行き止まり式の1番線があり、1・2番線は島式ホームと同様に1つのプラットホームを挟む形となっている。東武鉄道の3・4番線及びJR東日本の7・8番線は島式ホームである。4番線と7番線の間に側線があり5・6番線が付番されている。プラットホーム間に跨線橋を有する地上駅である。 東上本線ホームには屋根が設置されている。 八高線ホームには屋根がなく、東上本線ホームよりも簡素な作りとなっている。ホームには待合室が設置されている。 改札口と出入口間にはスロープが設置されている。JRの駅設備は高崎駅の管轄下にある。JRは夜間滞泊が3本設定されている。 東上線は2005年3月17日から全区間直通列車の設定がなくなり、池袋方面と寄居方面の列車は当駅を境に分断された。接続列車は同じホームの向かい側に停車するため、対面で乗り換えが出来る。なお、池袋方面から当駅までの電車は10両編成であるが、当駅から寄居方面の電車は4両編成のワンマン運転となる。東上本線の列車は運転系統の分断後、通常跨線橋を渡る必要のない1番線または2番線から発車することが多くなった。2023年3月18日より日中時間帯の列車が森林公園駅 - 寄居駅間を直通するようになり、18年ぶりに当駅を跨いで営業運転を行う列車が復活した。 発車標は東上本線ホームのみ設置されている。かつては番線別に設置されていたが、現行のものは上り・下りを一体化したものを改札前と跨線橋上に設置している。 東武鉄道側の定期券うりば(JR線の定期券・回数券も委託販売)については2018年1月31日で営業終了しており、以後は東武東上線各駅の定期券うりば・八高線の窓口営業駅のきっぷうりば(みどりの窓口を含む)・定期券対応自動券売機での対応となった。 改札内でJRと東武相互間で乗り換え可能だが、2007年3月18日からSuicaとPASMOは相互利用を開始し、この関係で跨線橋上に東武 - JR連絡用の簡易ICカード改札機が設置され、当該改札機でのチャージも可能になった。また、東武 - JRの連絡通路には音声センサーが設置されており、ICカードを利用して乗り換える際に、連絡通路の簡易改札機を利用する旨の放送が流れる。なお、これをしなかった場合は、降車駅(当駅下車も含む)で実際の乗車経路とは異なった運賃が差し引かれる。当駅から直接JRに乗車する場合も、この簡易改札機にタッチする必要がある。 2010年3月下旬に、スロープ・各ホームへのエレベーターと多機能トイレの新設工事が終わり使用を開始した。 坂戸駅管区傘下の駅長配置駅で、東武竹沢駅 - 寄居駅間を管理する。 (出典:東武鉄道:構内マップ) (出典:JR東日本:駅構内図) 東武鉄道によると、2022年度(令和4年度)の1日平均乗降人員は7,759人である。 2003年度(平成15年度)以降の推移は以下のとおりである。 JR東日本によると、2022年度の1日平均乗車人員は521人である。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。
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小川町駅(おがわまちえき)は、埼玉県比企郡小川町大字大塚にある、東武鉄道・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 東武鉄道の東上本線(東上線)と、JR東日本の八高線が乗り入れており、接続駅となっている。東武鉄道の駅には駅番号としてTJ 33が付与されている。東武東上線は当駅を境に南北で系統分離されており、当駅から南側は池袋駅方面に向かう列車が乗り入れる。
{{出典の明記|date=2015年3月}} {{駅情報 |社色= #0f6cc3 |文字色= |駅名= 小川町駅 |画像= Ogawamachi Station 20121102.JPG |pxl= 300 |画像説明= 駅舎(2012年11月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|36|3|32|N|139|15|39|E}}}} |よみがな= おがわまち |ローマ字= Ogawamachi |電報略号= オカマ(東武)<br />カマ(JR東日本)←ヲカマ |所属事業者= [[東武鉄道]](東武)<br />[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地= [[埼玉県]][[比企郡]][[小川町]]大字大塚1146 |座標= {{coord|36.058903|139.26079|format=dms|display=inline,title|region:JP_type:railwaystation}} |所在地幅= |駅構造= [[地上駅]] |ホーム= 2面4線(東武)<br />1面2線(JR東日本)<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page =27 }}</ref> |開業年月日= [[1923年]]([[大正]]12年)[[11月5日]](東武)<br />[[1934年]]([[昭和]]9年)[[3月24日]](JR){{R|zeneki46}} |廃止年月日= |乗降人員= (東武)-2022年-<br /><ref group="東武" name="tobu2022" />7,759 |乗車人員= (JR東日本)-2022年-<br /><ref group="JR" name="passenger/2022_06" />521 |統計年度= |乗入路線数= 2 |所属路線1= {{color|#004098|■}}[[東武東上本線|東上本線]](東武) |前の駅1= TJ 32 [[武蔵嵐山駅|武蔵嵐山]] |駅間A1= 7.0 |駅間B1= 3.0 |次の駅1= [[東武竹沢駅|東武竹沢]] TJ 34 |キロ程1= 64.1 |駅番号1= {{駅番号r|TJ|33|#004098|1}} |起点駅1= [[池袋駅|池袋]] |所属路線2= {{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]](JR東日本) |前の駅2= [[明覚駅|明覚]] |駅間A2= 8.0 |駅間B2= 3.5 |次の駅2= [[竹沢駅|竹沢]] |キロ程2= 52.8&nbsp;km([[八王子駅|八王子]]起点)<br />[[高麗川駅|高麗川]]から21.7 |起点駅2= |備考= [[共同使用駅]](東武の管轄駅){{R|zeneki46}} |乗換= }} '''小川町駅'''(おがわまちえき)は、[[埼玉県]][[比企郡]][[小川町]]大字大塚にある、[[東武鉄道]]・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 東武鉄道の[[東武東上本線|東上本線]]と、JR東日本の[[八高線]]が乗り入れており、接続駅となっている{{R|zeneki46}}。東武鉄道の駅には[[駅ナンバリング|駅番号]]として'''TJ 33'''が付与されている。 == 歴史 == * [[1923年]]([[大正]]12年)[[11月5日]]:[[東武東上本線]]の駅として開業。 * [[1934年]]([[昭和]]9年) ** [[3月24日]]:[[鉄道省]]八高線 [[越生駅|越生]] - 当駅間が開通{{R|zeneki46}}。 ** [[10月6日]]:八高線の当駅 - 寄居間が延伸開業し全通<ref name="mainichi-np-2014-8-26">増田勝彦(2014年8月26日). “JR東日本:八高線で80周年記念号 上越線、信越線はSL−−秋臨時列車”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref> * [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]]:国鉄駅での貨物の取り扱いを廃止。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により、八高線の駅はJR東日本の駅となる。 * [[2002年]]([[平成]]14年)[[10月]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite journal|和書 |title = 鉄道記録帳2002年2月 |journal = RAIL FAN |date = 2002-05-01 |issue = 5 |volume = 49 |publisher = 鉄道友の会 |page = 24 }}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東武鉄道でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2021-02-09|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年)[[1月20日]]:東上線2・4番線ホーム(池袋方面)にて[[発車メロディ]]使用開始。 * [[2019年]](平成31年)[[3月16日]]:[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]の[[元町・中華街駅]]から[[東京急行電鉄|東急]][[東急東横線|東横線]]・[[東京地下鉄]][[東京メトロ副都心線|副都心線]]経由で当駅までの快速急行が設定される<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f/190129_1.pdf?date=20190129171435|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201203143747/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/8ec1b6cc91ef33effbea794955431a1f/190129_1.pdf?date=20190129171435|format=PDF|pages=3 - 4|language=日本語|title=「川越特急」運転開始や「TJライナー」増発でますます快適・便利に! 3月16日(土)東武東上線でダイヤ改正を実施! 〜土休日下り快速急行の運転区間を延長し全列車小川町行きに! 土休日池袋発川越市行き下り最終列車の繰下げ等を実施します!〜|publisher=東武鉄道|date=2019-01-29|accessdate=2021-02-09|archivedate=2020-12-03}}</ref>。 かつては当駅から[[貨物線]]である[[東武根古屋線]]が分岐していた。その[[廃線#廃線跡|線路跡]]は道路として残る。 == 駅構造 == 東武鉄道が駅を管理し、駅構内を2社で共用する[[共同使用駅]]である{{R|zeneki46}}。駅舎及び出入り口は東武鉄道側(南側)にある{{R|zeneki46}}。 駅舎の前は[[単式ホーム]]で東武鉄道の2番線となっているが、[[寄居駅|寄居]]方に行き止まり式の1番線があり、1・2番線は[[島式ホーム]]と同様に1つのプラットホームを挟む形となっている。東武鉄道の3・4番線及びJR東日本の7・8番線は島式ホームである。4番線と7番線の間に側線があり5・6番線が付番されている。プラットホーム間に跨線橋を有する地上駅である。 東上本線ホームには屋根が設置されている。 八高線ホームには屋根がなく、東上本線ホームよりも簡素な作りとなっている。ホームには[[待合室]]が設置されている。 改札口と出入口間には[[斜路|スロープ]]が設置されている。JRの駅設備は[[高崎駅]]の管轄下にある。JRは[[夜間滞泊]]が3本設定されている。 東上線は[[2005年]][[3月17日]]から全区間直通列車の設定がなくなり、[[池袋駅|池袋]]方面と[[寄居駅|寄居]]方面の列車は当駅を境に分断された。接続列車は同じホームの向かい側に停車するため、対面で乗り換えが出来る。なお、池袋方面から当駅までの電車は10両編成であるが、当駅から寄居方面の電車は4両編成の[[ワンマン運転]]となる。東上本線の列車は運転系統の分断後、通常跨線橋を渡る必要のない1番線または2番線から発車することが多くなった。[[2023年]][[3月18日]]より日中時間帯の列車が[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]] - 寄居駅間を直通するようになり、18年ぶりに当駅を跨いで営業運転を行う列車が復活した<ref>{{Cite press release|和書|title=東上線・越生線・東武スカイツリーライン・伊勢崎線・日光線・鬼怒川線において 2023年3月18日(土)ダイヤ改正を実施します ~東上線から、東海道新幹線 新横浜駅へダイレクトアクセスが可能に~|publisher=東武鉄道|date=2022-12-16|url=https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221216095003CgiPlyiMuAYy0ETMej1V2g.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230314175653/https://www.tobu.co.jp/cms-pdf/releases/20221216095003CgiPlyiMuAYy0ETMej1V2g.pdf|accessdate=2023-3-19|archivedate=2023-3-14}}</ref>。 [[発車標]]は東上本線ホームのみ設置されている。かつては番線別に設置されていたが、現行のものは上り・下りを一体化したものを改札前と[[跨線橋]]上に設置している。 東武鉄道側の[[定期券]]うりば(JR線の定期券・回数券も委託販売)については[[2018年]][[1月31日]]で営業終了しており、以後は東武東上線各駅の定期券うりば・八高線の窓口営業駅のきっぷうりば([[みどりの窓口]]を含む)・定期券対応自動券売機での対応となった<ref>{{Cite web|和書|work=お知らせ |date=2017年12月25日 |url=http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d3611d63bf9b7a7403281f8e2d309c46/newsletter_171225.pdf?date=20171225110749 |title=小川町駅定期券うりばの営業終了について |format=PDF |publisher=東武鉄道 |accessdate=2018年4月19日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171225232557/http://www.tobu.co.jp/file/pdf/d3611d63bf9b7a7403281f8e2d309c46/newsletter_171225.pdf?date=20171225110749 |archivedate=2017年12月25日 |deadlinkdate=}}</ref>。 改札内でJRと東武相互間で乗り換え可能だが、[[2007年]][[3月18日]]からSuicaとPASMOは相互利用を開始し、この関係で跨線橋上に東武 - JR連絡用の簡易ICカード改札機が設置され、当該改札機でのチャージも可能になった。また、東武 - JRの連絡通路には音声センサーが設置されており、ICカードを利用して乗り換える際に、連絡通路の簡易改札機を利用する旨の放送が流れる。なお、これをしなかった場合は、降車駅(当駅下車も含む)で実際の乗車経路とは異なった運賃が差し引かれる。当駅から直接JRに乗車する場合も、この簡易改札機にタッチする必要がある。 [[2010年]]3月下旬に、スロープ・各ホームへの[[エレベーター]]と多機能[[便所|トイレ]]の新設工事が終わり使用を開始した。 坂戸駅管区傘下の駅長配置駅で、[[東武竹沢駅]] - [[寄居駅]]間を管理する。 === のりば === <!-- 行先表記は東武鉄道の「構内マップ」の記載に準拠(JR八高線も同様) ---> {| class="wikitable" |+ !番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 1 | rowspan="4" |[[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東武東上線 | style="text-align:center" | 下り | [[寄居駅|寄居]]方面<ref name="tobu-map">{{Cite web|和書|url=https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7504/ |title=小川町駅 構内マップ |publisher=東武鉄道 |accessdate=2023-06-04}}</ref> |大半の列車 |- ! 2 | style="text-align:center" | 上り | [[池袋駅|池袋]]方面<ref name="tobu-map" /> |大半の列車 |- ! 3 | style="text-align:center" | 下り | 寄居方面<ref name="tobu-map" /> |&nbsp; |- ! 4 | style="text-align:center" | 上り | 池袋方面<ref name="tobu-map" /> |&nbsp;大半の列車 |- ! 7 | rowspan="2" | {{Color|#b4aa96|■}}JR八高線 | style="text-align:center" | 下り | [[高崎駅|高崎]]方面 |一部高麗川方面 |- ! 8 | style="text-align:center" | 上り | [[高麗川駅|高麗川]]方面 |一部は7番線から発車 |} (出典:[https://www.tobu.co.jp/railway/guide/station/insidemap/7504/ 東武鉄道:構内マップ]) (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/360.html JR東日本:駅構内図]) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Tōbu Railway・JR East Ogawamachi Station Gates.jpg|改札口(2022年1月) Tōbu Railway・JR East Ogawamachi Station Tōbu Railway・JR East Transfer Gates.jpg|東武東上線⇔JR八高線乗換改札口(2022年1月) Tōbu Railway・JR East Ogawamachi Station Platform 1・2.jpg|東武東上線1・2番線ホーム(2022年1月) Tōbu Railway・JR East Ogawamachi Station Platform 3・4.jpg|東武東上線3・4番線ホーム(2022年1月) Tōbu Railway・JR East Ogawamachi Station Platform 7・8.jpg|JR八高線7・8番線ホーム(2022年1月) </gallery> == 利用状況 == === 東武鉄道 === 東武鉄道によると、2022年度(令和4年度)の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''7,759人'''<ref group="東武" name="tobu2022" />である。 2003年度(平成15年度)以降の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: right; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗降人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗降人員 !出典 |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|12,545 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0411/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=11|work=[http://www.train-media.net/report/0411/0411.html 平成15年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304102727/https://www.train-media.net/report/0411/tobu.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|12,476 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0511/0511.html 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802182242/https://www.train-media.net/report/0511/tobu.pdf|archivedate=2017-08-02}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|12,353 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0611/0611.html 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2020-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170802182056/https://www.train-media.net/report/0611/tobu.pdf|archivedate=2017-08-02}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|12,247 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0711/0711.html 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310051601/http://www.train-media.net/report/0711/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|12,185 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=25|work=[http://www.train-media.net/report/0811/0811.html 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053001/http://www.train-media.net/report/0811/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|12,085 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=26|work=[http://www.train-media.net/report/0910/0910.html 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053208/http://www.train-media.net/report/0910/tobu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|11,656 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1010/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1010/1010.html 平成21年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053453/http://www.train-media.net/report/1010/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|11,411 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1110/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1110/1110.html 平成22年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310053813/http://www.train-media.net/report/1110/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|11,219 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1210/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1210/1210.html 平成23年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310055059/http://www.train-media.net/report/1210/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|11,223 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1310/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=24|work=[http://www.train-media.net/report/1310/index.html 平成24年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310055737/http://www.train-media.net/report/1310/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|11,308 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1410/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=21|work=[http://www.train-media.net/report/1410/index.html 平成25年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190320153324/http://www.train-media.net/report/1410/toubu.pdf|archivedate=2019-03-21}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|10,869 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1511/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=21|work=[http://www.train-media.net/report/1511/index.html 平成26年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060317/http://www.train-media.net/report/1511/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|10,653 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1610/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=21|work=[http://www.train-media.net/report/1610/index.html 平成27年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060144/http://www.train-media.net/report/1610/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|10,359 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1710/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=21|work=[http://www.train-media.net/report/1710/index.html 平成28年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190310060441/http://www.train-media.net/report/1710/toubu.pdf|archivedate=2019-03-10}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|10,151 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/1810/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=21|work=[https://www.train-media.net/report/1810/1810.html 平成29年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190721032616/https://www.train-media.net/report/1810/toubu.pdf|archivedate=2019-07-21}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|9,899 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/1910/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[https://www.train-media.net/report/1910/1910.html 2018年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2021-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210209194352/https://www.train-media.net/report/1910/toubu.pdf|archivedate=2021-02-09}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|9,449 |<ref group="東武">{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/2010/toubu.pdf|title=東武鉄道|format=PDF|page=22|work=[https://www.train-media.net/report/2010/2010.html 2019年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2021-02-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109104618/https://www.train-media.net/report/2010/toubu.pdf|archivedate=2020-11-09}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |style="text-align:right;"|6,657 |<ref group="東武" name="tobu2020">{{Cite web|和書|url=http://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員) | 企業情報 | 東武鉄道ポータルサイト|publisher=東武鉄道|accessdate=2021-07-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210703035007/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2021-07-03}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |style="text-align:right;"|7,424 |<ref group="東武" name="tobu2021">{{Cite web|和書|author=東武鉄道株式会社|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員)|publisher=|date= |accessdate=2023-08-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221007165525/https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|archivedate=2022-10-07}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |style="text-align:right;"|7,759 |<ref group="東武" name="tobu2022">{{Cite web|和書|author=東武鉄道株式会社|url=https://www.tobu.co.jp/corporation/rail/station_info/|title=駅情報(乗降人員)|publisher=|date= |accessdate=2023-08-05}}</ref> |} === JR東日本 === JR東日本によると、2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''521人'''である<ref group="JR" name="passenger/2022_06" />。 2000年度(平成12年度)以降の推移は以下のとおりである。 {|class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 85%;" |- style="background: #ddd;" !colspan="3"|乗車人員推移 |- !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |2000年(平成12年) |style="text-align:right;"|638 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2000_04.html|title=各駅の乗車人員(2000年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2001年(平成13年) |style="text-align:right;"|615 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2001_04.html|title=各駅の乗車人員(2001年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2002年(平成14年) |style="text-align:right;"|616 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2002_04.html|title=各駅の乗車人員(2002年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2003年(平成15年) |style="text-align:right;"|598 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2003_04.html|title=各駅の乗車人員(2003年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2004年(平成16年) |style="text-align:right;"|623 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2004_04.html|title=各駅の乗車人員(2004年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2005年(平成17年) |style="text-align:right;"|616 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2005_04.html|title=各駅の乗車人員(2005年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2006年(平成18年) |style="text-align:right;"|635 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2006_04.html|title=各駅の乗車人員(2006年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2007年(平成19年) |style="text-align:right;"|667 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2007_04.html|title=各駅の乗車人員(2007年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2008年(平成20年) |style="text-align:right;"|702 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2008_04.html|title=各駅の乗車人員(2008年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2009年(平成21年) |style="text-align:right;"|679 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2009_04.html|title=各駅の乗車人員(2009年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2010年(平成22年) |style="text-align:right;"|661 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2010_04.html|title=各駅の乗車人員(2010年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2011年(平成23年) |style="text-align:right;"|602 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2011_03.html|title=各駅の乗車人員(2011年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2012年(平成24年) |style="text-align:right;"|581 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2012_07.html|title=各駅の乗車人員(2012年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2013年(平成25年) |style="text-align:right;"|593 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2013_07.html|title=各駅の乗車人員(2013年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2014年(平成26年) |style="text-align:right;"|614 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2014_07.html|title=各駅の乗車人員(2014年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2015年(平成27年) |style="text-align:right;"|644 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2015_06.html|title=各駅の乗車人員(2015年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2016年(平成28年) |style="text-align:right;"|644 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2016_06.html|title=各駅の乗車人員(2016年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2017年(平成29年) |style="text-align:right;"|665 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2017_06.html|title=各駅の乗車人員(2017年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-05-06}}</ref> |- |2018年(平成30年) |style="text-align:right;"|670 |<ref group="JR">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2018_06.html|title=各駅の乗車人員(2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-07-21}}</ref> |- |2019年(令和元年) |style="text-align:right;"|599 |<ref group="JR" name="passenger/2019_06">{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/passenger/2019_06.html|title=各駅の乗車人員(2019年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-07-21}}</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |style="text-align:right;"|402 |<ref group="JR" name="passenger/2020_07">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_07.html|title=各駅の乗車人員(2020年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2021-07-26}}</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |style="text-align:right;"|485 |<ref group="JR" name="passenger/2021_06">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_06.html|title=各駅の乗車人員(2021年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-08-12}}</ref> |- |2022年(令和{{0}}4年) |style="text-align:right;"|521 |<ref group="JR" name="passenger/2022_06">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_06.html|title=各駅の乗車人員(2022年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-09}}</ref> |} == 駅周辺 == [[ファイル:TobuTojo JRE Ogawamachi Station 1974.jpg|thumb|240px|小川町駅付近空中写真(1974年、国土画像情報オルソ化空中写真(国土交通省)より)]] <!--チェーン店を含む飲食店、コンビニ、個人商店などは記載しない--> * [[埼玉県立小川高等学校]] * 小川町役場 * 小川町民会館(リリックおがわ) * [[小川町立図書館]] * [[小川警察署]] * [[比企広域消防本部]]小川消防署 * [[小川郵便局 (埼玉県)|小川郵便局]] * 小川本町[[簡易郵便局]] * [[東和銀行]]小川支店 * [[埼玉りそな銀行]]小川支店 * [[小川赤十字病院]] * [[国道254号]] * [[ヤオコー]]小川SC店 == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !乗り場!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !style="text-align:center;"|1番線 |rowspan="2"|[[川越観光自動車]] |[[川越観光自動車森林公園営業所#小川町駅 - 小川パークヒル方面|'''小07''']]:[[小川パークヒル]] |&nbsp; |- !style="text-align:center;"|2番線 |[[川越観光自動車森林公園営業所#小川町駅 - みどりが丘方面|'''小03''']]:みどりが丘循環(小川町駅) |&nbsp; |- !style="text-align:center;"|3番線 |[[国際十王交通]] |[[国際十王交通熊谷営業所#江南・循環器呼吸器病センター・小川町方面|'''KM14'''・'''KM15''']]:[[熊谷駅]](北口) |「KM15」系統は朝・夜のみ運行 |- !style="text-align:center;"|4番線 |[[イーグルバス]] |[[イーグルバス#都幾川営業所|'''W01''']]:和紙の里<br />'''W02''':白石車庫<br />[[イーグルバス#都幾川営業所|ときがわ町路線バス・'''と06''']]:せせらぎバスセンター / 日赤病院前(小川赤十字病院) |&nbsp; |} == 隣の駅 == <!-- 東武の種別色は公式サイトに準拠(「普通」は方向幕に合わせて色を反転している)--> ; 東武鉄道 : [[File:Tobu Tojo Line (TJ) symbol.svg|15px|TJ]] 東上本線 :: {{Color|#ff6600|■}}TJライナー・{{Color|#990066|■}}川越特急・{{Color|#006699|■}}快速急行・{{Color|#ff3333|■}}急行・{{Color|#009966|■}}準急(TJライナー・川越特急は東松山まで、快速急行・急行は川越まで、準急は成増まで各駅に停車) ::: [[武蔵嵐山駅]] (TJ 32) - ([[嵐山信号場]]) - '''小川町駅 (TJ 33)''' :: {{Color|black|□}}普通(一部列車を除き当駅で乗り換え) ::: 武蔵嵐山駅 (TJ 32) - (嵐山信号場) - '''小川町駅 (TJ 33)''' - [[東武竹沢駅]] (TJ 34) ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : {{Color|#b4aa96|■}}八高線 ::: [[明覚駅]] - '''小川町駅''' - [[竹沢駅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ====--> {{Reflist}} === 利用状況 === ==== 東武鉄道 ==== {{Reflist|group="東武"|3}} ==== JR東日本 ==== {{Reflist|group="JR"|3}} == 関連項目 == {{commonscat|Ogawamachi Station (Saitama)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[小川町駅 (曖昧さ回避)]] - その他の小川町駅 * [[埼玉県道189号小川町停車場線]] - 駅前通り == 外部リンク == * {{外部リンク/東武鉄道駅|filename=7504}} * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=360|name=小川町}} {{東武東上線}} {{八高線 (高崎-高麗川)}} {{デフォルトソート:おかわまち}} [[Category:八高線]] [[Category:埼玉県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 お|かわまち]] [[Category:東武鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:小川町の交通]] [[Category:小川町の建築物]] [[Category:1923年開業の鉄道駅]]
2003-09-04T08:00:16Z
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15,007
丹後国
丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた(和銅6年(713年))。 明治維新直前の領域は、現在の京都府の下記の区域に相当する。 丹後地方は、丹波地方の中心として、古墳時代には竹野川流域(京丹後市)を中心に繁栄し、大前方後円墳が作られた。 京丹後市久美浜の函石浜遺跡からは新朝の王莽の貨幣が出土していることから、古くから大陸との関係も深かったと推測されている。また『日本書紀』に、四道将軍が派遣された北陸、東海、西道、丹波の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、ヤマト王権(大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される。 和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡(後の中郡)、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『続日本紀』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され、『和名類聚抄』には35郷が記されている。大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている。 分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が国造や郡司など支配的地位を有していた。『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、丹波直は天火明命を祖としている。分国後の丹後国では延暦2年(783年)に丹波直真養が丹波郡国造に、貞観8年(866年)に丹波直副茂が近衛府の下級将官に任じられた。 丹波国は、現在の南丹市や亀岡市に国府が置かれていたと推定され、また南部の桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となった。これに対して、古くからの重要地である丹後は、これより北に離れた地であることが、丹後国の分国の理由と考えられている。 また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる。 なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)。 室町時代は山名氏のちに一色氏が守護となるが、戦国時代の天正7年(1579年)に織田信長軍の明智光秀や細川幽斎(長岡藤孝)とその子忠興らの丹後平定で一色氏は降伏。豊臣秀吉の時代は長岡氏を経て細川父子が支配した。水本邦彦は、江戸時代後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している。 江戸時代に入り慶長5年(1600年)に細川氏が九州移封となった後は12万3千石を与えられた京極高知が治める。元和8年(1622年)に高知が没した後に丹後国は宮津藩・田辺藩・峰山藩の三藩に分立し、二男高広、三男高三、養子の高通がそれぞれ相続した。 宮津藩では寛文6年(1666年)に京極高国が改易で陸奥国に流され一時的に幕府直轄領となった後、寛文9年に山城国淀藩の永井尚征が入封。延宝8年(1680年)にその子永井尚長が志摩国鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に武蔵国岩槻藩の阿部正邦が入封した。元禄10年(1697年)に下野国宇都宮藩から二才の奥平昌成、享保2年(1717年)に信濃国飯山藩の青山幸秀、宝暦8年(1758年)に遠江国浜松藩から本庄資昌が入封して以降は、明治維新を経て明治4年(1871年)7月の廃藩置県で三藩が県となるまで本庄氏が藩主を務めた。 田辺藩は京極高盛が寛文8年(1668年)に但馬国豊岡藩に移封し、京都所司代等を務めた牧野親成が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた。熊野郡の幕府直轄領は上方代官が分割して支配していたが、享保20年(1735年)同郡久美浜村に久美浜代官所が設置された。明治4年11月に三県は豊岡県に併合され、明治9年(1876年)8月京都府に編入された。江戸時代には宮津、田辺(舞鶴)、峰山に藩庁が置かれた。 江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や加悦の手米屋小右衛門らが西陣からちりめんの技法を持ち帰る。丹後ちりめんは藩に保護され、販売不振に陥っていた安政4年(1857年)には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している。 三藩のうち宮津・田辺は譜代大名、峰山は譜代もしくは外様大名といわれ、久美浜代官所を加えた丹後国四領はそれぞれ分立していながらも一つのまとまりがあったと考えられている。これは峰山と久美浜代官所領の村が分散し入り混じっていながらも問題が起きていないことや、天明4年(1784年)に久美浜代官所領の佐野村で起きた一揆を豊岡・峰山・宮津三藩の加勢で沈静化できたことが理由にあげられ、藩主が移封を繰り返した丹後国を広い意味での幕府直轄領、徳川領国とする根拠にもなっている。 『和名類聚抄』および『拾芥抄』では、国府は加佐郡にあると記載されている。現在の舞鶴市内とする説があるほか、宮津市とする説もあるが、詳細は不明。 なお近年では、宮津市の府中地区にある安国寺遺跡(宮津市小松)で方形の柱穴が認められており、同地が国府跡である可能性を高めている。 尼寺跡は未詳。 延喜式内社 総社・一宮以下 該当区域の面積は1,283.43km2、人口は19万8439人(2010年国勢調査)。(1) 関ヶ原の戦いの功により京極高知が丹後一国の国主として封じられ、宮津藩(丹後藩)が成立したが、2代京極高広の代に分知により田辺藩及び峰山藩が誕生した。
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丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた(和銅6年)。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 丹後国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|丹後国}} |別称 = [[丹州 (日本)|丹州]](たんしゅう)<ref group="注釈">別称「丹州」は、[[丹波国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref><br/>北丹(ほくたん)<br/>奥丹(おくたん) |所属 = [[山陰道]] |領域 = [[京都府]][[京都府北部地域|北部]] |国力 = [[中国 (令制国)|中国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 5郡35郷 |国府 = 京都府[[宮津市]] |国分寺 = 京都府宮津市(丹後国分寺跡) |国分尼寺 = (未詳) |一宮 = [[籠神社]](京都府宮津市) }} [[ファイル:The Famous Scenes of the Sixty States 38 Tango.jpg|thumb|200px|[[六十余州名所図会]]「[[天橋立]]」]] '''丹後国'''(たんごのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。[[丹波国]]の北部(現在の[[丹後半島]])が分国して作られた([[和銅]]6年([[713年]]))。 == 領域 == [[明治維新]]直前の領域は、現在の[[京都府]]の下記の区域に相当する。 * [[舞鶴市]]、[[宮津市]]、[[京丹後市]]、[[与謝郡]]([[与謝野町]]・[[伊根町]])の全域 * [[福知山市]]の一部([[大江町 (京都府)|大江町]]各町および雲原) == 歴史 == === 律令制以前 === 丹後地方は、丹波地方の中心として、[[古墳時代]]には[[竹野川]]流域([[京丹後市]])を中心に繁栄し、大[[前方後円墳]]が作られた<ref name="櫛木">上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p17-44 思文閣出版 2007年</ref><ref group="注釈">独自の王国が存在したとする説もある(「[[丹後王国論]]」を参照)。</ref>。 [[京丹後市]][[久美浜町|久美浜]]の函石浜遺跡からは[[新|新朝]]の[[王莽]]の貨幣が出土していることから、古くから大陸との関係も深かったと推測されている<ref name="britannica">『ブリタニカ国際大百科事典』4 REFERENCE GUIDE p329 TBSブリタニカ 1974年3月初版</ref>。また『[[日本書紀]]』に、[[四道将軍]]が派遣された[[北陸道|北陸]]、[[東海道|東海]]、西道、[[丹波国|丹波]]の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、[[ヤマト王権]](大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される<ref name="櫛木"/>。 === 奈良時代・平安時代 === [[和銅]]6年([[713年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]に丹波国の北部、[[加佐郡]]、[[与謝郡]]、[[中郡 (京都府)|丹波郡]](後の[[中郡 (京都府)|中郡]])、[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]、[[熊野郡]]の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『[[続日本紀]]』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され<ref name="櫛木"/>、『[[和名類聚抄]]』には35[[郷]]が記されている<ref name="britannica"/>。[[大浦半島]]の付け根に位置する志楽谷(現在の[[舞鶴市]]志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年([[709年]])には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は[[奈良時代]](710年 - 794年)前期まで[[若狭国]]に属していたことが分かっている<ref name="櫛木"/>。 分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が[[国造]]や[[郡司]]など支配的地位を有していた。『[[先代旧事本紀]]』天孫本紀によれば、丹波直は[[天火明命]]を祖としている。分国後の丹後国では[[延暦]]2年([[783年]])に丹波直真養が丹波郡国造に、[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])に丹波直副茂が[[近衛府]]の下級将官に任じられた<ref name="櫛木"/>。 ==== 分国の背景 ==== 丹波国は、現在の[[南丹市]]や[[亀岡市]]に[[国府]]が置かれていたと推定され、また南部の[[桑田郡]]には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となった。これに対して、古くからの重要地である丹後は、これより北に離れた地であることが、丹後国の分国の理由と考えられている<ref name="櫛木"/>。 また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」<ref group="注釈">従来の分国では都に近いほうを前とし、遠いほうが後とされた。</ref>とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割([[吉備国]]を備前、備中、備後とするような分割)<ref group="注釈">なお、[[1869年]]に[[陸奥国]]が5国へ分割された際は「[[陸前国]]」「[[陸中国]]」に対する「陸後国」は作られず「[[陸奥国 (1869-)|陸奥国]]」の名称が存続している。</ref>とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる<ref>参考文献<br />磯野浩光 「丹後国の国名について」『太邇波考古学論集』 両丹考古学研究会、1997年。<br />平良泰久 「丹波の分割」『京都府埋蔵文化財論集』第4集、京都府埋蔵文化財調査研究センター、2001年。<br />高橋美久二 「丹波国府の造営」『新修亀岡市史』第1巻、亀岡市、1995年</ref><ref group="注釈">丹波国南部の[[亀岡盆地]]が太古は大きな湖で[[朱色|丹色]]の波が立ったところから、丹波と呼ぶようになったという異説もある。[http://www.kyoto-kameoka-kankou.jp/hodugawa400/c00178.html 丹い波の国—保津川開削400周年記念事業実行委員会]</ref>。 なお分国後の国名については、『[[大日本古文書]]』で丹波国を「丹波前国」、『[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)<ref name="櫛木"/>。 === 戦国時代まで === [[ファイル:Maizuru Castle.jpg|thumb|200px|[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]]] [[室町時代]]は[[山名氏]]のちに[[一色氏]]が守護となるが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天正]]7年([[1579年]])に[[織田信長]]軍の[[明智光秀]]や[[細川幽斎]](長岡藤孝)とその子[[細川忠興|忠興]]らの丹後平定で一色氏は降伏。[[豊臣秀吉]]の時代は[[長岡氏]]を経て細川父子が支配した<ref name="山田">上田純一 編 『丹後地域史へのいざない』p68-92 思文閣出版 2007年</ref>。[[水本邦彦]]は、[[江戸時代]]後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『[[丹哥府志]](たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している<ref name="山田"/>。 === 江戸時代 === 江戸時代に入り[[慶長]]5年([[1600年]])に細川氏が九州[[転封|移封]]となった後は12万3千石を与えられた[[京極高知]]が治める。[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])に高知が没した後に丹後国は[[宮津藩]]・[[丹後田辺藩|田辺藩]]・[[峰山藩]]の三藩に分立し、二男[[京極高広|高広]]、三男[[京極高三|高三]]、養子の[[京極高通 (峰山藩主)|高通]]がそれぞれ相続した<ref name="britannica"/><ref name="山田"/>。 宮津藩では[[寛文]]6年([[1666年]])に[[京極高国]]が[[改易]]で[[陸奥国]]に流され<ref name="britannica"/>一時的に[[天領|幕府直轄領]]となった後、寛文9年に[[山城国]][[淀藩]]の[[永井尚征]]が入封。[[延宝]]8年([[1680年]])にその子[[永井尚長]]が[[志摩国]][[鳥羽藩]]主の[[内藤忠勝]]に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に[[武蔵国]][[岩槻藩]]の[[阿部正邦]]が入封した<ref name="山田"/>。[[元禄]]10年([[1697年]])に[[下野国]][[宇都宮藩]]から二才の[[奥平昌成]]、[[享保]]2年([[1717年]])に[[信濃国]][[飯山藩]]の[[青山幸秀]]、[[宝暦]]8年([[1758年]])に[[遠江国]][[浜松藩]]から[[松平資昌|本庄資昌]]が入封して以降は、[[明治維新]]を経て[[明治]]4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で三藩が県となるまで[[本庄氏]]が藩主を務めた<ref name="山田"/>。 田辺藩は[[京極高盛]]が寛文8年([[1668年]])に[[但馬国]][[豊岡藩]]に移封し、[[京都所司代]]等を務めた[[牧野親成]]が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた。熊野郡の幕府直轄領は上方代官が分割して支配していたが、享保20年([[1735年]])同郡久美浜村に[[久美浜代官所]]が設置された<ref name="山田"/>。明治4年11月に三県は[[豊岡県]]に併合され、明治9年([[1876年]])8月[[京都府]]に編入された<ref name="britannica"/>。江戸時代には[[宮津藩|宮津]]、[[丹後田辺藩|田辺]](舞鶴)、[[峰山藩|峰山]]に藩庁が置かれた。 江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や[[加悦町|加悦]]の手米屋小右衛門らが[[西陣]]から[[ちりめん]]の技法を持ち帰る。[[丹後ちりめん]]は藩に保護され、販売不振に陥っていた[[安政]]4年([[1857年]])には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している<ref name="山田"/>。 ==== 徳川幕府との関係 ==== 三藩のうち宮津・田辺は[[譜代大名]]、峰山は譜代もしくは[[外様大名]]といわれ、久美浜代官所を加えた丹後国四領はそれぞれ分立していながらも一つのまとまりがあったと考えられている。これは峰山と久美浜代官所領の村が分散し入り混じっていながらも問題が起きていないことや、[[天明]]4年([[1784年]])に久美浜代官所領の佐野村で起きた一揆を豊岡・峰山・宮津三藩の加勢で沈静化できたことが理由にあげられ、藩主が移封を繰り返した丹後国を広い意味での幕府直轄領、徳川領国とする根拠にもなっている<ref name="山田"/>。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(409村・146,724石2斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。[[天領|幕府領]]は[[久美浜代官所]]が管轄。 ** [[熊野郡]](53村・18,333石余) - 幕府領 ** [[中郡 (京都府)|中郡]](35村・21,911石余) - 幕府領、'''[[峰山藩]]'''、宮津藩 ** [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]](76村・25,223石余) - 幕府領、宮津藩 ** [[与謝郡]](94村・42,175石余) - 幕府領、'''[[宮津藩]]''' ** [[加佐郡]](151村・39,079石余) - 幕府領、'''[[丹後田辺藩|田辺藩]]'''、宮津藩 * [[慶応]]4年 ** [[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1868年]][[5月21日]]) - 幕府領が'''[[府中裁判所]]'''の管轄となる。 ** [[閏]][[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[6月18日]]) - 府中裁判所の管轄地域が'''[[久美浜県]]'''の管轄となる。 * 明治2年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1869年]][[7月28日]]) - 任[[知藩事]]にともない田辺藩が改称して'''[[舞鶴藩]]'''となる。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[舞鶴県]]'''、'''[[宮津県]]'''、'''[[峰山県]]'''の管轄となる。 ** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[豊岡県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''[[京都府]]'''の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} [[ファイル:Kono-jinja (Miyazu) otorii.JPG|thumb|200px|[[籠神社]]]] [[ファイル:Omiyame-jinja, haiden.jpg|thumb|200px|[[大宮売神社]]]] === 国府 === 『[[和名類聚抄]]』および『拾芥抄』では、国府は加佐郡にあると記載されている。現在の[[舞鶴市]]内とする説があるほか、[[宮津市]]とする説もあるが、詳細は不明<ref name="britannica"/>。 なお近年では、宮津市の府中地区にある安国寺遺跡(宮津市小松)で方形の柱穴が認められており、同地が国府跡である可能性を高めている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161214000138 "大型柱穴、丹後国府の関連建物か 京都・宮津の安国寺遺跡"](京都新聞、2016年12月14日記事)。</ref><ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20171213000160 "丹後国府関連の建物か 京都・宮津、安国寺遺跡で方形の柱跡"](京都新聞、2016年12月13日記事)。</ref>。 === 国分寺・国分尼寺 === * 丹後国分寺跡 (京都府宮津市国分、{{Coord|35|34|44.49|N|135|10|47.16|E|region:JP-26_type:landmark|name=丹後国分寺跡}}) *: 国の史跡。北方に後継の護国山国分寺({{Coord|35|34|47.75|N|135|10|47.26|E|region:JP-26_type:landmark|name=丹後国分寺(後継寺院)}})が所在。 尼寺跡は未詳。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されている(「[[丹後国の式内社一覧]]」参照)。大社6社は以下に示すもので、竹野神社以外は[[名神大社]]である。 * [[加佐郡]] ** [[大川神社]] (舞鶴市大川、{{Coord|35|26|52.72|N|135|15|31.29|E|region:JP-26_type:landmark|name=名神大社:大川神社}}) * [[与謝郡]] ** [[籠神社]] (宮津市大垣、{{Coord|35|34|58.13|N|135|11|48.01|E|region:JP-26_type:landmark|name=丹後国一宮、名神大社:籠神社}}) ** [[大虫神社 (与謝野町)|大虫神社]] (与謝郡与謝野町温江、{{Coord|35|29|36.45|N|135|07|02.77|E|region:JP-26_type:landmark|name=名神大社:大虫神社}}) ** [[小虫神社]] (与謝郡与謝野町温江、{{Coord|35|30|41.67|N|135|06|45.17|E|region:JP-26_type:landmark|name=名神大社:小虫神社}}) * [[丹波郡]] ** [[大宮売神社]]二座 (京丹後市大宮町周枳、{{Coord|35|35|28.58|N|135|06|06.79|E|region:JP-26_type:landmark|name=丹後国二宮、名神大社:大宮売神社}}) * [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]] ** [[竹野神社]] (京丹後市丹後町宮、{{Coord|35|44|12.37|N|135|06|45.03|E|region:JP-26_type:landmark|name=式内大社:竹野神社}}) - 式内大社。 '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' * 総社:不詳 - 籠神社が総社を兼ねていたとする説がある。 * 一宮:[[籠神社]](宮津市大垣) * 二宮:[[大宮売神社]](京丹後市大宮町周枳) == 地域 == === 郡 === * [[加佐郡]] * [[与謝郡]] * [[中郡 (京都府)|中郡]] (丹波郡) * [[竹野郡 (京都府)|竹野郡]] * [[熊野郡]] 該当区域の面積は1,283.43k㎡、人口は19万8439人(2010年国勢調査)。[http://toukei-labo.com/2010/?tdfk=26&city=26101 (1)] === 江戸時代の藩 === [[関ヶ原の戦い]]の功により[[京極高知]]が丹後一国の国主として封じられ、[[宮津藩]](丹後藩)が成立したが、2代[[京極高広]]の代に分知により[[丹後田辺藩|田辺藩]]及び[[峰山藩]]が誕生した。 *[[宮津藩]]:京極家(12万3千石→分知により7万8千石)→幕府直轄領→永井家(7万3千石)→阿部家(9万9千石)→奥平家(9万石)→青山家(4万8千石)→松平(本庄)家(7万石) *[[丹後田辺藩]](舞鶴藩):京極家(3万5千石)→牧野家(3万5千石) *[[峰山藩]]:京極家(1万3千石。宮津藩からの分知1万石と初代藩主[[京極高通 (峰山藩主)|京極高通]]自身の領地3千石) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 丹後守 ==== *[[良岑安世]]:[[大同 (日本)|大同]]5年(810年) *[[大春日沢主]]:[[貞観 (日本)|貞観]]9年(867年)任官 *[[橘経国]] *[[但波行衡]]:[[寛弘]]元年([[1004年]])任官 *[[高階成行]] *[[藤原惟任|藤原保昌]]:[[長和]]元年([[1012年]])任官 *[[源経相]] *[[藤原保昌]] *[[渡辺綱]] *[[源親方]]:[[万寿]]元年([[1024年]])任官 *[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]:[[長元]]元年([[1028年]])任官 *[[高階俊平]] *[[藤原憲房]]:[[長元]]5年([[1032年]])任官 *[[大江拳周]]:長元9年([[1036年]])任官 *[[大江清定]]:[[永承]]3年([[1048年]])任官 *[[藤原敦基]]:[[治暦]]4年([[1068年]])任官 *[[藤原公基]] *[[高階経成]]:[[延久]]5年([[1073年]])任官 *[[藤原仲実]]:[[承暦]]2年([[1078年]])任官 *[[平正盛]]:[[天永]]元年([[1110年]])任官 *[[藤原顕頼]]:[[元永]]元年([[1118年]])任官 *[[藤原俊成]]:[[久安]]5年([[1149年]])任官 *[[平忠房]] === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[1293年]]~? - [[長井貞秀]] ==== 室町幕府 ==== *[[1336年]] - [[今川頼貞]] *[[1337年]] - [[荒川詮頼]] *1337年~[[1338年]] - [[上杉朝定 (二橋上杉家)|上杉朝定]] *[[1339年]]~? - 今川頼貞 *[[1341年]]~[[1350年]] - [[山名時氏]] *1350年~[[1351年]] - [[上野頼兼]] *1351年~? - [[仁木頼章]] *[[1352年]]~[[1353年]] - [[高師詮]] *1353年~[[1360年]] - [[仁木頼勝]] *1360年~[[1363年]] - [[仁木義尹]] *1363年~[[1364年]] - [[足利直冬]] *1364年~[[1370年]] - [[山名師義]] *[[1375年]]~[[1381年]] - [[山名義幸]] *[[1385年]]~[[1391年]] - [[山名満幸]] *[[1392年]]~[[1409年]] - [[一色満範]] *1409年~[[1440年]] - [[一色義貫]] *1440年~[[1451年]] - [[一色教親]] *1451年~[[1467年]] - [[一色義直]] *[[1468年]] - [[摂津之親]] *[[1469年]]~[[1471年]] - [[武田信賢]] *1471年~[[1474年]] - [[武田国信]] *1474年~[[1484年]] - [[一色義春]] *1484年~[[1487年]] - 一色義直 *1487年~[[1498年]] - [[一色義秀]] *1498年~? - [[一色義有]] *[[1506年]]~? - [[武田元信]] *[[1509年]]~[[1519年]] - [[一色義清 (左京大夫)|一色義清]] *?~[[1521年]] - [[武田元信]] *?~[[1558年]] - [[一色義幸]] *1558年~[[1579年]] - [[一色義道]] *1579年~[[1582年]] - [[一色義定]] *1582年 - [[一色義清 (越前守)|一色義清]] === 戦国大名 === *[[一色氏]] *[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]] *織豊政権の大名 **[[細川幽斎]]:丹後半国11万石([[宮津城]]→[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]) **[[細川忠興]]:丹後全国 === 武家官位としての丹後守 === *江戸時代以前 **[[小原広勝]]:戦国時代の武将、[[武田二十四将]]の一人 **[[安田広春]]:戦国時代の武将。越後[[安田氏]]及び[[越後北条氏]]当主、北条高広の父 **[[北条高広]]:戦国時代の武将[[上杉謙信]]に仕えた **[[北条景広]]:戦国時代の武将、北条高広の嫡男 **[[鈴木繁定]]:戦国時代の武将、[[北条氏政]]の重臣で、[[伊豆水軍]]の武将。 **[[竹中重門]]:安土桃山時代から江戸時代の武将、[[竹中重治]]の子 **[[立花道雪]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての筑後国の武将 *江戸時代[[稲葉正成|正成系]][[稲葉氏|稲葉家]]宗家 **[[稲葉正勝]]:稲葉家宗家2代。常陸[[柿岡藩]]主、下野[[真岡藩]]2代藩主、相模[[小田原藩]]初代藩主・老中 **[[稲葉正往]]:稲葉家宗家4代。小田原藩3代藩主、越後[[高田藩]]主、下総[[佐倉藩]]初代藩主・老中 **[[稲葉正知]]:稲葉家宗家5代。佐倉藩第2代藩主、山城[[淀藩]]初代藩主 **[[稲葉正益]]:稲葉家宗家9代。淀藩第5代藩主 **[[稲葉正諶]]:稲葉家宗家11代。淀藩第7代藩主 **[[稲葉正備]]:稲葉家宗家12代。淀藩第8代藩主 **[[稲葉正守]]:稲葉家宗家14代。淀藩第10代藩主 **[[稲葉正誼]]:稲葉家宗家15代。淀藩第11代藩主 *江戸時代[[肥前国|肥前]][[大村藩]][[大村氏|大村家]] **[[大村純忠]]:肥前の戦国大名。大村喜前の父 **[[大村喜前]]:初代藩主 **[[大村純信]]:第3代藩主 **[[大村純昌]]:第10代藩主 **[[大村純顕]]:第11代藩主 **[[大村純熈]]:第12代藩主 *江戸時代[[織田長政 (大名)|長政流]][[織田氏|織田家]] **[[織田長政 (大名)|織田長政]]:長政流織田家初代。大和[[戒重藩]]初代藩主  **[[織田長清]]:長政流織田家4代。戒重藩第4代藩主。大和[[芝村藩]]藩主 **[[織田輔宜]]:長政流織田家7代。大芝村藩第7代藩主 **[[織田長恭]]:長政流織田家10代。芝村藩第10代藩主 *江戸時代丹後[[宮津藩]][[京極氏|京極家]] **[[京極高知]]:初代藩主 **[[京極高広]]:第2代藩主 **[[京極高国]]:第3代藩主 *江戸時代[[肥前国|肥前]][[佐賀藩]][[鍋島氏|鍋島家]] **[[鍋島光茂]]:第2代藩主 **[[鍋島吉茂]]:第4代藩主 **[[鍋島宗教]]:第6代藩主 *江戸時代[[伊勢国]][[菰野藩]]土方家 **[[土方雄氏]]:初代藩主 **[[土方雄高]]:第2代藩主 **[[土方豊義]]:第4代藩主 **[[土方雄房]]:第5代藩主 **[[土方雄貞]]:第8代藩主 *江戸時代[[堀直寄|直寄系]]支流堀家 **[[堀直寄]]:越後[[坂戸藩]]、信濃[[飯山藩]]、[[越後長岡藩]]、越後[[村上藩]]主。[[堀直政]]の次男 **[[堀直時]]:直寄系支流堀家初代。越後[[村松藩]]初代藩主。堀直寄の次男 **[[堀直利]]:直寄系支流堀家3代。村松藩第3代藩主 **[[堀直堯]]:直寄系支流堀家5代。村松藩第5代藩主 **[[堀直庸]]:直寄系支流堀家8代。村松藩第8代藩主 *江戸時代[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩]]本多家 **[[本多忠永]]:第2代藩主 **[[本多忠興]]:第3代藩主 **[[本多忠升]]:第5代藩主 *江戸時代[[駿河国|駿河]][[小島藩]]滝脇松平家 **[[松平信友 (小島藩主)|松平信友]]:第7代藩主 **[[松平信賢]]:第8代藩主 **[[松平信進]]:第9代藩主 **[[松平信書]]:第10代藩主 **[[滝脇信敏|松平信敏]]:第11代藩主、上総[[桜井藩]]主 *江戸時代[[武蔵国|武蔵]][[六浦藩]](武蔵金沢藩)米倉家 **[[米倉昌晴]]:第3代藩主 **[[米倉昌由]]:第5代藩主 **[[米倉昌俊]]:第6代藩主 **[[米倉昌寿]]:第7代藩主 **[[米倉昌言]]:第8代藩主 *江戸時代[[和泉国|和泉]][[伯太藩]] 渡辺家 **[[渡辺登綱]]:第2代藩主 **[[渡辺伊綱]]:第4代藩主 **[[渡辺潔綱]]:第8代藩主 **[[渡辺章綱]]:第9代藩主 *江戸時代その他 **[[伊東長実]]:安土桃山時代の武将、備中[[岡田藩]]初代藩主 **[[大岡忠烈]]:武蔵[[岩槻藩]]第4代藩主 **[[奥平昌敦]]:豊前[[中津藩]]第2代藩主 **[[九鬼隆抵]]:摂津[[三田藩]]第6代藩主 **[[立花貞則]]:筑後国柳河藩の第6代藩主 **[[遠山友明]]:美濃[[苗木藩]]第8代藩主 **[[土岐頼殷]]:出羽[[上山藩]]第2代藩主、越前[[野岡藩]]、駿河[[田中藩]]初代藩主 **[[土岐頼稔]]:駿河田中藩第2代藩主、上野[[沼田藩]]初代藩主 **[[内藤清枚]]:信濃[[高遠藩]]初代藩主 **[[西尾忠永]]:武蔵[[原市藩]]第2代藩主、上野[[白井藩]]主、常陸[[土浦藩]]初代藩主 **[[西尾忠照]]:常陸[[土浦藩]]第2代藩主、駿河[[田中藩]]初代藩主 **[[一柳直重]]:伊予[[西条藩]]第2代藩主 **[[本郷泰固]]:駿河[[川成島藩]]主 **[[本多康桓]]:近江[[膳所藩]]第7代藩主 **[[前田利理]]:上野[[七日市藩]]第6代藩主 **[[前田利豁]]:七日市藩第11代藩主 **[[松平直泰]]:播磨[[明石藩]]第4代藩主 **[[松平重忠]]:遠江[[横須賀藩]]第2代藩主、出羽[[上山藩]]初代藩主 **[[松平重直]]:上山藩第2代藩主、摂津[[三田藩]]主、豊後[[高田藩]]初代藩主 **[[間部詮方]]:越前[[鯖江藩]]第2代藩主 == 丹後国の合戦 == *[[1600年]]:[[田辺城の戦い]]、東軍([[細川幽斎]]、[[三淵光行]]、500) x 西軍([[小野木重次]]、[[前田茂勝]]等15000) == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 26 京都府 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Tango Province}} * [[京丹後市]](旧・丹後町) * [[丹後 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。元は[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の戦艦'''ポルタワ'''。艦名は丹後国に因む。 * [[令制国一覧]] * [[丹後王国論]] - [[門脇禎二]]による古代丹後地方についての学説。 == 外部リンク == * {{Osmrelation|9454430}} {{令制国一覧}} {{丹後国の郡}} {{japanese-history-stub}} {{デフォルトソート:たんこのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陰道|国たんこ]] [[Category:京都府の歴史]] [[Category:丹後国|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%9B%BD
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源頼家
源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。 寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越尼(河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。 頼家の側近は、比企三郎、比企時員、小笠原長経、中野能成、北条時房、和田朝盛、源性、義印、紀行景、平知康などであり、政治的後見人は梶原景時と比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人々である。 建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返した。これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されている。 建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年(1198年)には長子の一幡が誕生している。 なお、『吾妻鏡』には頼家の元服記事がない。これについては、『吾妻鏡』の欠落した部分である建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月までのうち頼家が叙任された建久8年(1197年)以前のどこかで元服したとする説や、建久6年以前に元服したが『吾妻鏡』編纂者が何らかの理由でそれを記載しなかったとする説などがある。 建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。 頼家が家督を相続して3か月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。このあたりの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の慣習を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている(十三人の合議制の実態や頼家が本当に暗君であったかについては、#十三人の合議制の実態と頼家の実績を参照)。 合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちには、御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。 建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・坂額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。 景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否する。 全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されたことが、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。 一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。 『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28か国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38か国の総地頭を譲ると発表された。しかし千幡に譲られることに不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。 京都側の記録である『愚管抄』によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されて埋められたという。 頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという。南北朝期の史書である『保暦間記』では、入浴中に殺害されたとしている。 北条氏の編纂である『吾妻鏡』における頼家像は、遊興にふけり家臣の愛妾を奪おうとする暗君として描かれている。ただし比企氏滅亡と頼家追放に関する『吾妻鏡』の記述は、京都側の史料とは明らかな相違があり、頼家をことさら貶める記述は北条氏による政治的作為と考えられている。『愚管抄』では「マタ昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ(古今に並びなき武芸の腕前の持ち主だとは、隠れもない評判であった)」、『六代勝事記』では「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と記されている。 また頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、『吾妻鏡』では頼家に連座して所領を没収され遠流とされたことになっているが、『市河文書』に残されている書状では、比企氏滅亡直後の建仁3年(1203年)9月4日の日付で時政から「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という所領安堵を受けている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』も参照のこと)。 頼朝死去の前後、建久七年の政変や三左衛門事件により朝廷の反幕府派が攻勢を強めていた。十三人の合議制がしかれたのは、頼家が頼朝の跡を継いでわずか3ヶ月後であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、幕府成立の起動力となった東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる。また、十三人の合議制の導入と同じ月に行われた問注所の移転に関する『吾妻鏡』の記事にも矛盾が指摘されており、頼家が行ったとされる独裁的な親裁は実は頼朝時代からのもので、『吾妻鏡』において頼朝と御家人の間で対立が生じていたのを隠す曲筆が行われた結果、頼家の行為だけが記録されたとする指摘も出されている。 結局、頼家は為政者としてはほとんど特色を示せないまま没し、以降御家人たちによる泥沼の権力闘争が続くことになった。そして数代を経て有力御家人達が合従連衡を繰り返して滅びていく中、権力闘争を勝ち残っていった北条氏の権力が次第に特出していくことになる(執権政治および得宗専制)。 頼家の側近や政治的後見人はいずれも頼朝が選んだ人物であったが、その顔ぶれにより次の世代が比企氏中心となることが明らかであった。そのため、頼家政権における権力闘争は、頼朝が頼家のために敷いた政治路線と、その政治路線ではいずれ政権の中枢から外されることになる北条氏との対立であった。頼家は父・頼朝のように武家の棟梁として振る舞おうとする意識を持つ武断派の将軍であり、若さゆえの未熟さや暴走は見られるものの、一方で政子が頼家の暴走に火に油を注ぐ対応をして、頼家の権威を失墜させようとしていた。つまり、頼家は実力を発揮する前に政子や北条氏に揺さぶられて殺害されたと考えられる。 十三人の合議制は、頼家が訴訟を「直に聴断」するのを停止し、北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたもので、通常は、就任早々頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた。だが、現実には頼家による親裁の事例が存在する上、この体制自体実態不明な部分も多い。そもそも、その伏線とされる『吾妻鏡』建久14年4月12日条にて「幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始め」と評された後藤基清の讃岐守護職罷免は、朝廷での処分に対応した措置であり、続く同年3月23日の伊勢神宮領6箇所の地頭職停止にしても、祈祷目的や本所領家に配慮した地頭職の停止や寄進は頼朝時代から少なくはなく、失政とするには説得力に乏しい。 近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、親裁自体を否定してはいないとされる。すなわち、内実は訴訟の取次を13人に限るという制度的な枠を作ったもので、直前の問注所開設と機能の拡大、頼家期から進んだ訴訟機構としての政所の整備、そして先述の宿老の役割を考えても、若い頼家の権力を補完する体制が整えられたものとすべきである。 頼家の親裁の例として、正治2年(1200年)の陸奥国新熊野社領の堺相論が知られる。『吾妻鏡』同年5月28日条によれば、この訴訟に於いて、頼家は係争地の絵図の中央に線を引き、「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」と述べたという。 だが、『吾妻鏡』によれば同年8月には側近の僧・源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向しており、実際には上記の方針が貫かれたわけではない。また、文書史料での頼家は、領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する一方、領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がないことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断は行なっている。 『吾妻鏡』建久10年8月10日条によれば、頼家は陸奥・出羽国の地頭の所務は、頼朝の決定の如く藤原氏時代の旧規を守るよう命じ、堺相論などの紛争を「非論」として抑制している。つまり、上記の陸奥国における堺相論は頼朝時代の定めを否定するに等しい「非論」に他ならなかった、ということになる。とすると、頼家の主眼はむしろ、代替わりに伴い増加した紛争や訴訟を抑えることや、頼朝時代の決定を遵守させることにあったのだと考えられる。 また、正治2年(1200年)に、国衙への介入等で後鳥羽院の逆鱗に触れた佐々木経高を、他の守護職等も合わせて停止しているように、正治元年(1199年)末から建仁2年(1202年)にかけて、頼家は守護の職務の制限や確定に積極的に取り組んでいる。これと並んで頼家が熱心だったのが、『吾妻鏡』正治元年9月17日条や同2年正月15日条に見えるように、京都大番役の勤仕を巡る問題であり、頼家は大番役の催促を何度も守護に厳命している。 以上のことを考慮すると、正治元年に東国の地頭に荒野の開発を命じ、武蔵国の田文を整えさせたことや(『吾妻鏡』正治元年11月30日条)、翌年に政所に命じて諸国の田文を提出させ、頼朝挙兵以後の新恩の所領で500町を超えた分を召し上げ、所領を持たない者に分け与えようとした件(『吾妻鏡』正治2年12月28日条)も注意が必要である。特に後者は、宿老の反対で実施は見送られるが、中小御家人の経済基盤の確保という側面を有しており、負担を課す上で必要な措置とも言える。賦課対象の把握・確保に繋がるこれらの取り組みは、御家人の編成と大番役の整備に併行する政策であったと考えられる。 守護の職務の限定と御家人制の再編、京都大番役の御家人役化は、頼朝晩年の建久年間に朝廷との交渉の中で行われていたことであり、頼家による諸政策は、頼朝末期の路線を継承した上で、それを確定して制度的に定着させる道筋を作った。 ※日付=旧暦 頼家には4男1女がいたが、みな非業の死を遂げている。若狭局所生の嫡男一幡は建仁3年(1203年)、比企能員の変で北条氏に殺害された。残された男子はそれぞれ出家した。母の一品房昌寛娘が三浦胤義と再婚した三男栄実は、建保元年(1213年)の泉親衡の乱で擁立されるが、翌年自害に追い込まれた。辻殿の子で、三浦義村に預けられたのち、鶴岡八幡宮寺別当定暁の受法の弟子となった次男公暁は、建保7年(1219年)に実朝暗殺を実行した直後に討たれた。栄実と母を同じくする四男禅暁は、公暁に荷担したとして承久2年(1220年)に京で殺害された。 源義仲の娘を母とすると伝えられる女子竹御所は祖母・政子のもとにあり、北条氏が擁立した4代将軍・藤原頼経の御台所となるが、天福2年(1234年)に33歳で迎えた初産が難産となり、男子を死産した後に死去した。叔父の実朝同様、頼家の子供たちも子を生さぬまま早世したため、竹御所の死によって、頼朝と政子の血筋は完全に断絶した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "源 頼家(みなもと の よりいえ)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。母は頼朝の流人時代に妻となった北条政子。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越尼(河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻の他、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "頼家の側近は、比企三郎、比企時員、小笠原長経、中野能成、北条時房、和田朝盛、源性、義印、紀行景、平知康などであり、政治的後見人は梶原景時と比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人々である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで、12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返した。これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『吾妻鏡』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある。なお、この巻狩りで曾我兄弟の仇討ちが起こり、叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将に叙任される。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年(1198年)には長子の一幡が誕生している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、『吾妻鏡』には頼家の元服記事がない。これについては、『吾妻鏡』の欠落した部分である建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月までのうち頼家が叙任された建久8年(1197年)以前のどこかで元服したとする説や、建久6年以前に元服したが『吾妻鏡』編纂者が何らかの理由でそれを記載しなかったとする説などがある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "建久10年(1199年)1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に三左衛門事件が発生している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "頼家が家督を相続して3か月後の4月、北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は小笠原長経、比企三郎、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また正治元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、和田朝盛らに対して、安達景盛の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。このあたりの『吾妻鏡』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の慣習を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている(十三人の合議制の実態や頼家が本当に暗君であったかについては、#十三人の合議制の実態と頼家の実績を参照)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時に反発する御家人たちには、御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年(1200年)1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。九条兼実の『玉葉』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの源実朝)を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した(梶原景時の変)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "建仁元年(1201年)正月から5月にかけて、景時与党であった城氏一族が建仁の乱を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・坂額御前を引見している。建仁2年(1202年)7月22日、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "景時滅亡から3年後、建仁3年(1203年)5月、頼家は千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されたことが、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた(比企能員の変)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": 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"北条氏の編纂である『吾妻鏡』における頼家像は、遊興にふけり家臣の愛妾を奪おうとする暗君として描かれている。ただし比企氏滅亡と頼家追放に関する『吾妻鏡』の記述は、京都側の史料とは明らかな相違があり、頼家をことさら貶める記述は北条氏による政治的作為と考えられている。『愚管抄』では「マタ昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ(古今に並びなき武芸の腕前の持ち主だとは、隠れもない評判であった)」、『六代勝事記』では「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と記されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、『吾妻鏡』では頼家に連座して所領を没収され遠流とされたことになっているが、『市河文書』に残されている書状では、比企氏滅亡直後の建仁3年(1203年)9月4日の日付で時政から「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という所領安堵を受けている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』も参照のこと)。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "頼朝死去の前後、建久七年の政変や三左衛門事件により朝廷の反幕府派が攻勢を強めていた。十三人の合議制がしかれたのは、頼家が頼朝の跡を継いでわずか3ヶ月後であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、幕府成立の起動力となった東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる。また、十三人の合議制の導入と同じ月に行われた問注所の移転に関する『吾妻鏡』の記事にも矛盾が指摘されており、頼家が行ったとされる独裁的な親裁は実は頼朝時代からのもので、『吾妻鏡』において頼朝と御家人の間で対立が生じていたのを隠す曲筆が行われた結果、頼家の行為だけが記録されたとする指摘も出されている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "結局、頼家は為政者としてはほとんど特色を示せないまま没し、以降御家人たちによる泥沼の権力闘争が続くことになった。そして数代を経て有力御家人達が合従連衡を繰り返して滅びていく中、権力闘争を勝ち残っていった北条氏の権力が次第に特出していくことになる(執権政治および得宗専制)。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "頼家の側近や政治的後見人はいずれも頼朝が選んだ人物であったが、その顔ぶれにより次の世代が比企氏中心となることが明らかであった。そのため、頼家政権における権力闘争は、頼朝が頼家のために敷いた政治路線と、その政治路線ではいずれ政権の中枢から外されることになる北条氏との対立であった。頼家は父・頼朝のように武家の棟梁として振る舞おうとする意識を持つ武断派の将軍であり、若さゆえの未熟さや暴走は見られるものの、一方で政子が頼家の暴走に火に油を注ぐ対応をして、頼家の権威を失墜させようとしていた。つまり、頼家は実力を発揮する前に政子や北条氏に揺さぶられて殺害されたと考えられる。", "title": "頼家殺害の原因" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "十三人の合議制は、頼家が訴訟を「直に聴断」するのを停止し、北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたもので、通常は、就任早々頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた。だが、現実には頼家による親裁の事例が存在する上、この体制自体実態不明な部分も多い。そもそも、その伏線とされる『吾妻鏡』建久14年4月12日条にて「幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始め」と評された後藤基清の讃岐守護職罷免は、朝廷での処分に対応した措置であり、続く同年3月23日の伊勢神宮領6箇所の地頭職停止にしても、祈祷目的や本所領家に配慮した地頭職の停止や寄進は頼朝時代から少なくはなく、失政とするには説得力に乏しい。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、親裁自体を否定してはいないとされる。すなわち、内実は訴訟の取次を13人に限るという制度的な枠を作ったもので、直前の問注所開設と機能の拡大、頼家期から進んだ訴訟機構としての政所の整備、そして先述の宿老の役割を考えても、若い頼家の権力を補完する体制が整えられたものとすべきである。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "頼家の親裁の例として、正治2年(1200年)の陸奥国新熊野社領の堺相論が知られる。『吾妻鏡』同年5月28日条によれば、この訴訟に於いて、頼家は係争地の絵図の中央に線を引き、「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」と述べたという。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "だが、『吾妻鏡』によれば同年8月には側近の僧・源性が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向しており、実際には上記の方針が貫かれたわけではない。また、文書史料での頼家は、領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する一方、領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がないことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断は行なっている。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "『吾妻鏡』建久10年8月10日条によれば、頼家は陸奥・出羽国の地頭の所務は、頼朝の決定の如く藤原氏時代の旧規を守るよう命じ、堺相論などの紛争を「非論」として抑制している。つまり、上記の陸奥国における堺相論は頼朝時代の定めを否定するに等しい「非論」に他ならなかった、ということになる。とすると、頼家の主眼はむしろ、代替わりに伴い増加した紛争や訴訟を抑えることや、頼朝時代の決定を遵守させることにあったのだと考えられる。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、正治2年(1200年)に、国衙への介入等で後鳥羽院の逆鱗に触れた佐々木経高を、他の守護職等も合わせて停止しているように、正治元年(1199年)末から建仁2年(1202年)にかけて、頼家は守護の職務の制限や確定に積極的に取り組んでいる。これと並んで頼家が熱心だったのが、『吾妻鏡』正治元年9月17日条や同2年正月15日条に見えるように、京都大番役の勤仕を巡る問題であり、頼家は大番役の催促を何度も守護に厳命している。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "以上のことを考慮すると、正治元年に東国の地頭に荒野の開発を命じ、武蔵国の田文を整えさせたことや(『吾妻鏡』正治元年11月30日条)、翌年に政所に命じて諸国の田文を提出させ、頼朝挙兵以後の新恩の所領で500町を超えた分を召し上げ、所領を持たない者に分け与えようとした件(『吾妻鏡』正治2年12月28日条)も注意が必要である。特に後者は、宿老の反対で実施は見送られるが、中小御家人の経済基盤の確保という側面を有しており、負担を課す上で必要な措置とも言える。賦課対象の把握・確保に繋がるこれらの取り組みは、御家人の編成と大番役の整備に併行する政策であったと考えられる。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "守護の職務の限定と御家人制の再編、京都大番役の御家人役化は、頼朝晩年の建久年間に朝廷との交渉の中で行われていたことであり、頼家による諸政策は、頼朝末期の路線を継承した上で、それを確定して制度的に定着させる道筋を作った。", "title": "十三人の合議制の実態と頼家の実績 " }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "※日付=旧暦", "title": "官歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "頼家には4男1女がいたが、みな非業の死を遂げている。若狭局所生の嫡男一幡は建仁3年(1203年)、比企能員の変で北条氏に殺害された。残された男子はそれぞれ出家した。母の一品房昌寛娘が三浦胤義と再婚した三男栄実は、建保元年(1213年)の泉親衡の乱で擁立されるが、翌年自害に追い込まれた。辻殿の子で、三浦義村に預けられたのち、鶴岡八幡宮寺別当定暁の受法の弟子となった次男公暁は、建保7年(1219年)に実朝暗殺を実行した直後に討たれた。栄実と母を同じくする四男禅暁は、公暁に荷担したとして承久2年(1220年)に京で殺害された。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "源義仲の娘を母とすると伝えられる女子竹御所は祖母・政子のもとにあり、北条氏が擁立した4代将軍・藤原頼経の御台所となるが、天福2年(1234年)に33歳で迎えた初産が難産となり、男子を死産した後に死去した。叔父の実朝同様、頼家の子供たちも子を生さぬまま早世したため、竹御所の死によって、頼朝と政子の血筋は完全に断絶した。", "title": "系譜" } ]
源 頼家は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子(頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。
{{Otheruses|[[鎌倉幕府]]の第2代将軍|[[源頼光]]の次男|源頼家 (摂津源氏)}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 源 頼家 | 画像 = Minamoto no Yoriie.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 源頼家像/[[建仁寺]]所蔵([[江戸時代]]) | 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]前期 | 生誕 = [[寿永]]元年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1182年]][[9月11日]]) | 死没 = [[元久]]元年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]([[1204年]][[8月14日]])<br>[[享年]]23(満21歳没) | 改名 = 万寿(幼名)、頼家 | 別名 = [[鎌倉殿]]、左金吾 | 戒名 = 法華院殿金吾大禅閤 | 墓所 = [[修禅寺|福地山修禅寺]]境内の指月ヶ丘 | 官位 = [[衛門府|左衛門督]]、[[征夷大将軍]]、[[正二位]] | 幕府 = [[鎌倉幕府]]第2代[[鎌倉殿]]<br />([[1199年]] - [[1203年]])<br />鎌倉幕府第2代[[征夷大将軍]]<br />(在任:[[1202年]] - 1203年) | 氏族 = [[清和源氏]][[源頼信|頼信]]流[[河内源氏]] | 父母 = 父:[[源頼朝]]、母:[[北条政子]] | 兄弟 = [[千鶴御前|千鶴丸]]?、[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]、'''頼家'''、[[貞暁]]、[[三幡]]、[[源実朝|実朝]] | 妻 = 正室不詳{{refnest|group="注釈"|『吾妻鏡』で若狭局は愛妾、辻殿は室と書かれているが、若狭局所生の一幡は嫡子に等しい扱いを受けており、誰が正室かははっきりしていない。詳しくは[[辻殿#源頼家の妻妾としての地位]]を参照のこと。}}<br>[[若狭局]]、[[昌寛|一品房昌寛]]娘、[[辻殿]]、[[源義仲]]娘など | 子 = [[一幡]]、[[公暁]]、[[栄実]]、[[禅暁]]、[[竹御所]] }} [[ファイル:Road to TsurugaokaHachimangu.JPG|160px|thumb|[[鶴岡八幡宮]]参道の[[段葛]]]] '''源 頼家'''(みなもと の よりいえ)は、[[鎌倉時代]]前期の[[鎌倉幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]]([[鎌倉殿]])。鎌倉幕府を開いた[[源頼朝]]の[[嫡男]]で母は[[北条政子]](頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男)。 父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に[[征夷大将軍]]となる。母方の[[北条氏]]を中心として[[十三人の合議制]]がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である[[北条氏]]の史書の記録のみでしか確認できていない。 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である[[比企氏]]と、弟の[[源実朝|実朝]]を担ぐ[[北条氏]]との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、[[伊豆国]][[修禅寺]]に幽閉された後、[[暗殺]]された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。 == 生涯 == === 鎌倉殿の嫡男 === [[寿永]]元年([[1182年]])8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の[[比企能員]]の屋敷で生まれる<ref>{{Cite book|和書|author=龍粛・訳注|year=1996|title=吾妻鏡(一)|publisher=岩波文庫|pages=104}}</ref>。[[幼名]]は'''万寿'''。母は頼朝の流人時代に妻となった[[北条政子]]。頼朝36歳、鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を[[妊娠|懐妊]]した際、頼朝は安産祈祷のため[[鶴岡八幡宮]][[若宮大路]]の整備を行い、有力[[御家人]]たちが土や石を運んで[[段葛]]を作り、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の[[乳母]]であった[[比企尼]]の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の[[河越尼|次女河越尼]]([[河越重頼]]室)が呼ばれた。その他の乳母として[[梶原景時]]の妻の他、[[比企尼の三女]]([[平賀義信]]室)、能員の妻など、主に[[比企氏]]の一族から選ばれた。 頼家の側近は、[[比企三郎]]、[[比企時員]]、[[小笠原長経]]、[[中野能成]]、[[北条時房]]、[[和田朝盛]]、[[大輔房源性|源性]]、[[加賀房義印|義印]]、[[紀行景]]、[[平知康]]などであり、政治的後見人は[[梶原景時]]と[[比企能員]]であった。いずれも頼朝によって指名された人々である{{Sfn|永井|2010}}。 [[建久]]4年([[1193年]])5月、[[富士の巻狩り]]で、12歳の頼家が初めて[[シカ|鹿]]を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返した。これについては、頼家が比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家の鹿狩りは神によって彼が頼朝の後継者とみなされたことを人々に認めさせる効果を持ち、そのために頼朝はことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある<ref>[[石井進]]『中世武士団』 [[小学館]]、1974年。</ref>。一方で、政子の発言は頼家を貶めるための『[[吾妻鏡]]』の曲筆で、実際にはそのような発言はなかったとする説もある<ref name="sakai">[[坂井孝一]]『源氏将軍断絶 <small>なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか</small>』PHP新書、2020年。</ref>。なお、この巻狩りで[[曾我兄弟の仇討ち]]が起こり、叔父の[[源範頼]]が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されている。 建久6年([[1195年]])2月、頼朝は政子と頼家・大姫を伴って上洛する。頼家は6月3日と24日に参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。建久8年([[1197年]])、16歳で[[従五位|従五位上]][[近衛府|右近衛権少将]]に叙任される。生まれながらの「[[鎌倉殿]]」である頼家は武芸の達人として成長した。建久9年([[1198年]])には長子の[[一幡]]が誕生している。 なお、『吾妻鏡』には頼家の[[元服]]記事がない。これについては、『吾妻鏡』の欠落した部分である建久7年([[1196年]])から建久10年([[1199年]])1月までのうち頼家が叙任された建久8年(1197年)以前のどこかで元服したとする説<ref>[[藤本頼人]]『源頼家とその時代 <small>二代目鎌倉殿と宿老たち</small>』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2023年。</ref>や、建久6年以前に元服したが『吾妻鏡』編纂者が何らかの理由でそれを記載しなかったとする説<ref name="sakai" />などがある。 === 第二代鎌倉殿 === [[建久]]10年([[1199年]])1月13日、父・頼朝が急死する。頼家は同月20日付けで左中将となり、ついで26日付けで家督を相続し、第2代鎌倉殿となる。時に18歳であった。1 - 2月頃には武士達が大勢京都に上り、急な政権交代に乗じた都の不穏な動きを警戒する態勢が取られており、この間に[[三左衛門事件]]が発生している。 頼家が家督を相続して3か月後の4月、[[北条氏]]ら有力御家人による[[十三人の合議制]]がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は[[小笠原長経]]、[[比企三郎]]、[[比企時員]]、[[中野能成]]以下若い近習5人{{refnest|group="注釈"|『[[吾妻鏡]]』は5人としながら名前を4人しか記していない。残る1人については[[北条時房]]を比定する見解がある。『[[北条九代記]]』では小笠原長経・比企三郎・和田朝盛・中野能成・[[細野四郎]]の5人となっている。}}を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出した。また[[正治]]元年(1199年)7月には小笠原、比企、中野、[[和田朝盛]]らに対して、[[安達景盛]]の留守を狙い、その愛妾を召し連れて来るように命じた。このあたりの『[[吾妻鏡]]』には、頼家が側近や乳母一族である比企氏を重用し、従来の慣習を無視した独裁的判断を行った挿話が並べられている(十三人の合議制の実態や頼家が本当に暗君であったかについては、[[#十三人の合議制の実態と頼家の実績]]を参照)。 合議制の設立から半年後の10月、頼朝の代から側近として重用されていた[[侍所]]長官の[[梶原景時]]に反発する御家人たちには、御家人66名による景時糾弾の連判状を頼家に提出した。頼家に弁明を求められた景時は、何の抗弁もせず所領に下る。謹慎ののち、鎌倉へ戻った景時は政務への復帰を頼家に願ったが、頼家は景時を救うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。正治2年([[1200年]])1月20日、失意の景時は一族を率いて京都へ上る道中で在地の御家人達から襲撃を受け、一族もろとも滅亡した(『吾妻鏡』)。[[九条兼実]]の『[[玉葉]]』正治2年正月2日条によると、景時は頼家の弟である千幡(のちの[[源実朝]])を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ一族とともに追放されたという。[[慈円]]は『[[愚管抄]]』で、景時を死なせたことは頼家の失策であると評した([[梶原景時の変]])。 [[建仁]]元年([[1201年]])正月から5月にかけて、景時与党であった[[城氏 (平氏)|城氏]]一族が[[建仁の乱]]を起こして鎮圧される。頼家は、捕らえられて鎌倉に送られてきた城氏一族の女武者・[[板額御前|坂額御前]]を引見している。建仁2年([[1202年]])7月22日、従二位に叙され、[[征夷大将軍]]に宣下される。 === 将軍追放 === 景時滅亡から3年後、建仁3年([[1203年]])5月、頼家は[[千幡]]の乳母・[[阿波局 (北条時政の娘)|阿波局]]の夫で叔父である[[阿野全成]]を謀反人の咎で逮捕、殺害した。さらに阿波局を逮捕しようとしたが、阿波局の姉である政子が引き渡しを拒否する。 [[ファイル:Yoriie syakyou.jpg|200px|thumb|建仁3年8月10日(1203年9月16日)、病平癒を祈念し[[三嶋大社]]に奉納した頼家筆の[[般若心経]]]] 全成事件前の3月頃から体調不良が現れていた頼家は、7月半ば過ぎに急病にかかり、8月末には危篤状態に陥った。まだ頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が跡を継いだ」との報告が9月7日早朝に都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されたことが、[[藤原定家]]の日記『[[明月記]]』の他、複数の京都側の記録で確認されている。使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の乳母父で長男・[[一幡]]の外祖父である比企能員が[[北条時政]]によって謀殺され、比企一族は滅ぼされた([[比企能員の変]])。 一人残った頼家は多少病状が回復して事件を知り激怒、時政討伐を命じるが従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われ、千幡がこれに替わった。これによって時政は幕府の実権を握ることになる。 『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総[[守護]]と関東28か国の総[[地頭]]となり、12歳の弟・千幡には関西38か国の総地頭を譲ると発表された{{refnest|group="注釈"|異説として、当時守護が設置されたのは一幡に譲られる予定であった関東28か国のみで、千幡に譲られた関西38か国の守護は文治2年6月21日に停止された状態のままであったとする[[保立道久]]の見解がある<ref>{{Cite journal|和書|author=保立道久|title=鎌倉前期国家における国土分割|journal=歴史評論|issue=700|date=2008-08}}/所収:{{Cite book|和書|author=保立道久|chapter=第6章 鎌倉前期国家における国土分割|title=中世の国土高権と天皇・武家|publisher=校倉書房|year=2015}}</ref>。}}。しかし千幡に譲られることに不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。 京都側の記録である『[[愚管抄]]』によれば、頼家は[[大江広元]]の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、[[太刀]]を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、[[修禅寺]]に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、[[北条義時]]の手勢に刺し殺されて埋められたという。 === 最期 === 頼家は[[伊豆国]]修禅寺に護送され、翌年の[[元久]]元年([[1204年]])7月18日、北条氏の手兵{{refnest|group="注釈"|『愚管抄』や『[[武家年代記]]』『[[増鏡]]』によれば義時の送った刺客、古活字本『[[承久記]]』や『[[梅松論]]』では時政の送った刺客としている。}}によって殺害された。[[享年]]23(満21歳没)。『吾妻鏡』はその死について、ただ[[飛脚]]から頼家死去の報があったことを短く記すのみである(7月19日条)。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという{{refnest|group="注釈"|「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」<ref>『愚管抄』(巻第六)</ref>}}。南北朝期の史書である『[[保暦間記]]』では、入浴中に殺害されたとしている{{refnest|group="注釈"|「修禅寺の浴室の内にて討奉り。」<ref>『保暦間記』(2巻)</ref>}}。 == 評価 == [[北条氏]]の編纂である『[[吾妻鏡]]』における頼家像は、遊興にふけり家臣の愛妾を奪おうとする暗君として描かれている。ただし比企氏滅亡と頼家追放に関する『吾妻鏡』の記述は、京都側の史料とは明らかな相違があり、頼家をことさら貶める記述は北条氏による政治的作為と考えられている。『[[愚管抄]]』では「マタ昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ(古今に並びなき武芸の腕前の持ち主だとは、隠れもない評判であった)」、『[[六代勝事記]]』では「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と記されている。 また頼家近習であった[[信濃国]]の御家人・[[中野能成]]は、『吾妻鏡』では頼家に連座して所領を没収され遠流とされたことになっているが、『[[市河文書]]』に残されている書状では、比企氏滅亡直後の[[建仁]]3年([[1203年]])9月4日の日付で時政から「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という所領安堵を受けている。この能成と深い関係のあった時政の子・[[北条時房]]も頼家の[[蹴鞠]]の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる(『[[吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰]]』も参照のこと)。 頼朝死去の前後、[[建久七年の政変]]や[[三左衛門事件]]により朝廷の反幕府派が攻勢を強めていた。十三人の合議制がしかれたのは、頼家が頼朝の跡を継いでわずか3ヶ月後であり、頼家の政治能力の欠如によるものとは考えにくい。頼家排斥は北条氏の陰謀のみではなく、幕府成立の起動力となった東国武士達の将軍独裁への鬱積した不満が背景にあったと思われる。また、十三人の合議制の導入と同じ月に行われた[[問注所]]の移転に関する『吾妻鏡』の記事にも矛盾が指摘されており{{refnest|group="注釈"|[[森内優子]]の指摘に拠れば、『吾妻鏡』[[建久]]10年4月1日条には頼朝の時代に[[熊谷直実]]と[[久下直光]]の訴訟の口頭弁論の際に直実が直光と[[梶原景時]]が通じていると疑って刀を抜いて髻を切ってそのまま逐電してしまうという騒動が起きたことをきっかけに移転が決まったとされているが、この騒動が記されているのは同じ『吾妻鏡』の建久3年11月25日条であり、その間の6年間に問注所の移転が実施されず頼朝が死んだ直後のこの時期に移転が行われた明確な理由は書かれていない(4月1日条にはその間は[[三善康信]]邸で訴訟が行われていたと書かれているが、康信邸からの移転としても理由は記されていないことに変わりは無い)。更にこの訴訟の前年にあたる建久2年3月1日付に熊谷直実が作成した譲状の名義は「地頭僧蓮生」であり、その書体や花押から現存する譲状は直実作成の正本の可能性が高く<ref>{{Cite journal|和書|author=林譲|title=熊谷直実の出家と往生に関する史料について-『吾妻鏡』史料批判の一事例|journal=東京大学史料編纂所研究紀要|issue=15号|year=2005}}/所収:{{Harvnb|高橋|2019|pp=47-58}}</ref>、建久3年11月25日に実際に直実と直光の訴訟が行われていたとしても既に出家している直実が刀を抜いて髻を切ることは不可能であり、『吾妻鏡』の建久3年11月25日条に脚色や曲筆の可能性が考えられる以上、これを受けている建久10年4月1日条の内容もそのままの形では信用できないことになる(森内は問注所の移転は頼朝の意志ではなく、頼朝の死によって御家人たちがかねてからの要求を実現させたとみる)。}}、頼家が行ったとされる独裁的な親裁は実は頼朝時代からのもので、『吾妻鏡』において頼朝と御家人の間で対立が生じていたのを隠す曲筆が行われた結果、頼家の行為だけが記録されたとする指摘も出されている<ref>{{Cite journal|和書|author=森内優子|title=熊谷直実の出家に関する一考察|publisher=埼玉県立文書館|journal=文書館紀要|issue=12号|year=2008}}/所収:{{Harvnb|高橋|2019|pp=93-102}}</ref>。 結局、頼家は為政者としてはほとんど特色を示せないまま没し、以降御家人たちによる泥沼の権力闘争が続くことになった。そして数代を経て有力御家人達が合従連衡を繰り返して滅びていく中、権力闘争を勝ち残っていった北条氏の権力が次第に特出していくことになる([[執権政治]]および[[得宗専制]])。 == 頼家殺害の原因 == {{唯一の出典|date=2023年2月|section=1}} 頼家の側近や政治的後見人はいずれも頼朝が選んだ人物であったが、その顔ぶれにより次の世代が比企氏中心となることが明らかであった{{Sfn|永井|2010}}。そのため、頼家政権における権力闘争は、頼朝が頼家のために敷いた政治路線と、その政治路線ではいずれ政権の中枢から外されることになる北条氏との対立であった{{Sfn|永井|2010}}。頼家は父・頼朝のように武家の棟梁として振る舞おうとする意識を持つ武断派の将軍であり、若さゆえの未熟さや暴走は見られるものの、一方で政子が頼家の暴走に火に油を注ぐ対応をして、頼家の権威を失墜させようとしていた{{Sfn|永井|2010}}。つまり、頼家は実力を発揮する前に政子や北条氏に揺さぶられて殺害されたと考えられる{{Sfn|永井|2010}}。 == 十三人の合議制の実態と頼家の実績 == [[十三人の合議制]]は、頼家が訴訟を「直に聴断」するのを停止し、北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたもので、通常は、就任早々頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた{{Sfn|野口|2014}}。だが、現実には頼家による親裁の事例が存在する上、この体制自体実態不明な部分も多い。そもそも、その伏線とされる『[[吾妻鏡]]』建久14年4月12日条にて「幕下将軍の御時定め置かるる事、改めらるるの始め」と評された[[後藤基清]]の讃岐守護職罷免は、朝廷での処分に対応した措置であり、続く同年3月23日の[[伊勢神宮]]領6箇所の地頭職停止にしても、祈祷目的や本所領家に配慮した地頭職の停止や寄進は頼朝時代から少なくはなく、失政とするには説得力に乏しい{{Sfn|野口|2014}}。 近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、親裁自体を否定してはいないとされる{{Sfn|野口|2014}}。すなわち、内実は訴訟の取次を13人に限るという制度的な枠を作ったもので、直前の[[問注所]]開設と機能の拡大、頼家期から進んだ訴訟機構としての[[政所]]の整備、そして先述の宿老の役割を考えても、若い頼家の権力を補完する体制が整えられたものとすべきである{{Sfn|野口|2014}}。 頼家の親裁の例として、[[正治]]2年([[1200年]])の[[陸奥国]]新熊野社領の堺相論が知られる。『吾妻鏡』同年5月28日条によれば、この訴訟に於いて、頼家は係争地の絵図の中央に線を引き、「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」と述べたという{{Sfn|野口|2014}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4197|title=源頼家~生まれながらの鎌倉殿に仕掛けられた北条氏の陰謀|website=WEB歴史街道|publisher=PHP研究所|date=2017-08-11|accessdate=2022-08-15}}</ref>。 だが、『吾妻鏡』によれば同年8月には側近の僧・[[源性]]が陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向しており、実際には上記の方針が貫かれたわけではない{{Sfn|野口|2014}}。また、文書史料での頼家は、領家の主張に理を認め、尋問を経ずに地頭職を停止する一方、領主側の地頭停止要求に対し、地頭の陳状を踏まえ、地頭補任が頼朝の決定であること、地頭に不当な行為がないことを根拠に、その主張を非拠として却下するなど、それなりの判断は行なっている{{Sfn|野口|2014}}。 『吾妻鏡』建久10年8月10日条によれば、頼家は陸奥・[[出羽国]]の地頭の所務は、頼朝の決定の如く藤原氏時代の旧規を守るよう命じ、堺相論などの紛争を「非論」として抑制している{{Sfn|野口|2014}}。つまり、上記の陸奥国における堺相論は頼朝時代の定めを否定するに等しい「非論」に他ならなかった、ということになる{{Sfn|野口|2014}}。とすると、頼家の主眼はむしろ、代替わりに伴い増加した紛争や訴訟を抑えることや、頼朝時代の決定を遵守させることにあったのだと考えられる{{Sfn|野口|2014}}。 また、[[正治]]2年([[1200年]])に、国衙への介入等で後鳥羽院の逆鱗に触れた[[佐々木経高]]を、他の守護職等も合わせて停止しているように、[[正治]]元年([[1199年]])末から[[建仁]]2年([[1202年]])にかけて、頼家は[[守護]]の職務の制限や確定に積極的に取り組んでいる{{Sfn|野口|2014}}。これと並んで頼家が熱心だったのが、『吾妻鏡』正治元年9月17日条や同2年正月15日条に見えるように、[[京都大番役]]の勤仕を巡る問題であり、頼家は大番役の催促を何度も守護に厳命している{{Sfn|野口|2014}}。 以上のことを考慮すると、正治元年に東国の地頭に荒野の開発を命じ、武蔵国の田文を整えさせたことや(『吾妻鏡』正治元年11月30日条)、翌年に政所に命じて諸国の田文を提出させ、頼朝挙兵以後の新恩の所領で500町を超えた分を召し上げ、所領を持たない者に分け与えようとした件(『吾妻鏡』正治2年12月28日条)も注意が必要である。特に後者は、宿老の反対で実施は見送られるが、中小御家人の経済基盤の確保という側面を有しており、負担を課す上で必要な措置とも言える。賦課対象の把握・確保に繋がるこれらの取り組みは、御家人の編成と大番役の整備に併行する政策であったと考えられる{{Sfn|野口|2014}}。 守護の職務の限定と御家人制の再編、京都大番役の御家人役化は、頼朝晩年の[[建久]]年間に朝廷との交渉の中で行われていたことであり、頼家による諸政策は、頼朝末期の路線を継承した上で、それを確定して制度的に定着させる道筋を作った{{Sfn|野口|2014}}。 == 官歴 == ※日付=旧暦 {| class="wikitable" |- ! 和暦 !! 西暦 !! 日付 !! 内容 |- |[[建久]]8年||[[1197年]]||12月15日||[[従五位|従五位上]]に叙し、[[近衛府|右近衛権少将]]に任官。(16歳) |- |rowspan="2"|建久9年||rowspan="2"|[[1198年]]||1月13日||[[讃岐国|讃岐権介]]を兼任。(17歳) |- |11月21日||[[正五位|正五位下]]に昇叙し、右近衛権少将・讃岐権介如元。 |- |rowspan="2"|建久10年 ||rowspan="2"|[[1199年]]||1月||家督を相続。(18歳) |- |1月20日||[[近衛府|左近衛中将]]に転任。 |- |rowspan="3"|[[正治]]2年||rowspan="3"|[[1200年]]||1月5日||[[従四位|従四位上]]に昇叙し、左近衛中将如元。(19歳) |- |1月8日||[[禁色]]を許される。 |- |10月26日||[[衛門府|左衛門督]]に遷任。 |- |rowspan="2"|[[建仁]]2年||rowspan="2"|[[1202年]]||1月23日||[[正三位]]に昇叙し、左衛門督如元。(21歳) |- |7月22日||[[従二位]]に昇叙し、[[征夷大将軍]]宣下。左衛門督如元。 |- |rowspan="2"|建仁3年||rowspan="2"|[[1203年]]||1月23日||[[正二位]]に昇叙し、左衛門督如元。(22歳) |- |9月7日|| [[出家]]。 |- |[[元久]]元年||[[1204年]]||7月18日||薨去。[[享年]]23(満21歳没)。 |} == 墓所など == [[ファイル:minamoto no Yoriies grave 2007-02-25.jpg|200px|thumb|源頼家墓<br/>([[静岡県]][[伊豆市]]修善寺)]] * [[建仁]]2年([[1202年]])に[[建仁寺]]を建立し、同寺には[[江戸時代]]に仏師・辰巳蔵之丞によって作られた頼家の木像が安置されている。 * [[三嶋大社]]には建仁3年([[1203年]])に突如発病した際、その平癒を祈願した自筆の[[般若心経]]が奉納されている。 * 幽閉された[[伊豆市]][[修禅寺]]には政子が頼家の供養のために建てた[[指月殿]]、江戸時代に建立された頼家の供養塔などがある。また、近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、地元の有志によって子を思う頼家を偲んだ将軍愛童地蔵尊が建てられている。[[修善寺温泉]]街では、毎年7月に頼家祭りが行われている。 <gallery> File:Grave of Minamoto no Yoriie-2.jpg|源頼家墓 概観 File:Grave of Vassals of Minamoto no Yoriie.jpg|源頼家家臣十三士の墓 File:Shigetsuden, gaikan-2.jpg|指月殿(左奥に源頼家墓) </gallery> == 系譜 == 頼家には4男1女がいたが、みな非業の死を遂げている。[[若狭局]]所生の嫡男[[一幡]]は[[建仁]]3年(1203年)、[[比企能員の変]]で北条氏に殺害された。残された男子はそれぞれ出家した。母の[[昌寛|一品房昌寛]]娘が[[三浦胤義]]と再婚した三男[[栄実]]は、[[建保]]元年(1213年)の[[泉親衡の乱]]で擁立されるが、翌年自害に追い込まれた。[[辻殿]]の子で、[[三浦義村]]に預けられたのち、[[鶴岡八幡宮]]寺[[別当]][[定暁]]の受法の弟子となった次男[[公暁]]は、建保7年(1219年)に実朝暗殺を実行した直後に討たれた。栄実と母を同じくする四男[[禅暁]]は、公暁に荷担したとして[[承久]]2年(1220年)に京で殺害された。 [[源義仲]]の娘を母とすると伝えられる女子[[竹御所]]は祖母・政子のもとにあり、北条氏が擁立した4代将軍・[[藤原頼経]]の[[御台所]]となるが、[[天福 (日本)|天福]]2年(1234年)に33歳で迎えた初産が難産となり、男子を死産した後に死去した。叔父の実朝同様、頼家の子供たちも子を生さぬまま早世したため、竹御所の死によって、頼朝と政子の血筋は完全に断絶した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[石井進]]『日本の歴史 7 鎌倉幕府』[[中公文庫]]、1974年。 * [[本郷和人]]「源頼家、修善寺で殺される」 石井進編著『別冊歴史読本 鎌倉と北条氏』[[新人物往来社]]、1999年。 * [[山本幸司]]『頼朝の天下草創』〈[[講談社学術文庫]]〉、2001年。 * [[本郷和人]]『新・中世王権論』新人物往来社、2004年。 * {{Citation|和書|last=永井|first=晋|authorlink=永井晋|title=鎌倉源氏三代記 <small>一門・重臣と源家将軍</small>|publisher=[[吉川弘文館]]|series=歴史文化ライブラリー|year=2010}} * {{Citation|和書|editor-last=野口|editor-first=実|editorlink=野口実|title=治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立|publisher=清文堂出版|year=2014}} * {{Citation|和書|editor-last=高橋|editor-first=修|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第二八巻|title=熊谷直実|publisher=戒光祥出版|year=2019|isbn=978-4-86403-328-2}} * [[坂井孝一]]『源氏将軍断絶 <small>なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか</small>』PHP新書、2020年 * {{Cite book|和書|author=呉座勇一|authorlink=呉座勇一|title=頼朝と義時 <small>武家政権の誕生</small>|publisher=講談社|series=講談社現代新書|year=2021|isbn=|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=山本みなみ|authorlink=山本みなみ|title=史伝 北条義時|publisher=小学館|year=2021|isbn=|ref=harv}} * {{Citation|和書|author=藤本頼人|authorlink=藤本頼人|title=源頼家とその時代 <small>二代目鎌倉殿と宿老たち</small>|publisher=吉川弘文館|series=歴史文化ライブラリー|year=2023}} == 関連作品 == <!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--> ; 合巻 * [[曲亭馬琴]]『[[傾城水滸伝]]』([[江戸時代]]) ; 戯曲 * [[岡本綺堂]]『[[修禅寺物語]]』(1912年)……1918年に岡本自身の手によって小説化されている。 * [[真山青果]]『[[頼朝の死]]』(1932年) ; 小説 * [[平岩弓枝]]『かまくら三国志』([[文藝春秋]]、1972年) * [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]「非命に斃る」(『鎌倉擾乱』文藝春秋、1996年 所収) * [[伊東潤]]『夜叉の都』(文藝春秋、2021年)ISBN 9784163914671 * [[篠綾子]]『星月夜の鬼子母神』(集英社文庫、2021年)ISBN 978-4-08-744313-4 ; 映画 * 『[[修善寺物語 (映画)|修善寺物語]]』(1923年、演:[[実川延松]]) * 『[[修禅寺物語 (映画)|修禅寺物語]]』(1955年、[[松竹大船撮影所|松竹大船]]、監督:[[中村登]]、演:[[高橋貞二]]) * 『[[曽我兄弟 富士の夜襲]]』(1956年、[[東映|東映京都]]、監督:[[佐々木康]]、演:[[北大路欣也]]) ; テレビドラマ * 『[[修善寺物語 (1957年のテレビドラマ)|修善寺物語]]』(1957年、[[TBSテレビ|KRT]]、演:[[市川中車 (8代目)|市川中車]]) * 『[[修善寺物語 (1961年のテレビドラマ)|修善寺物語]]』(1961年、[[テレビ朝日|NET]]、演:[[尾上梅幸 (7代目)|尾上梅幸]]) * 『[[修禅寺物語 (1963年のテレビドラマ)|修禅寺物語]]』(1963年、[[朝日放送テレビ|ABC]]、演:[[平幹二朗]]) * 『[[北条政子 (テレビドラマ)|北条政子]]』(1970年、NET、演:[[村野武範]]) * 『[[草燃える]]』(1979年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、演:[[鶴見辰吾]]→[[郷ひろみ]]) * 『[[鎌倉殿の13人]]』(2022年、NHK大河ドラマ、演:[[金子大地]]) == 外部リンク == {{Commonscat}} * [http://www.surugawan.net/guide/129.html 源頼家の墓(修禅寺)---伊豆市観光ガイド『駿河湾★百景』] * {{Kotobank}} {{征夷大将軍|1202年 - 1203年}} {{鎌倉幕府将軍}} {{河内源氏棟梁|8代}} {{DEFAULTSORT:みなもと の よりいえ}} [[Category:源頼家|*]] [[Category:鎌倉幕府の征夷大将軍]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:源頼朝の子女|よりいえ]] [[Category:源氏将軍家|よりいえ]] [[Category:正二位受位者]] [[Category:北条政子|-1182よりいえ]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:蹴鞠に関する人物]] [[Category:暗殺された武将]] [[Category:暗殺された政治家]] [[Category:13世紀アジアの統治者]] [[Category:13世紀日本の政治家]] [[Category:1182年生]] [[Category:1204年没]]
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公明党
公明党(こうめいとう、英語: Komeito)は、日本の政党。宗教団体の創価学会を支持母体として中道政治の実現を目指して結成された。 略称は公明。1字表記の際は公。現在の党キャッチコピーは、「声を、聴く力」。 1999年10月5日から2009年9月16日まで、および2012年12月26日から現在まで自由民主党と自公連立政権を構成している。 1964年の結党後、党としては1965年の第7回参議院議員通常選挙、1967年の第31回衆議院議員総選挙で国会の議席を確保した。1993年の第40回衆議院議員選挙での55年体制崩壊後の非自民・非共産連立政権では初の政権入りを果たし、再び野党になった自社さ連立政権下での選挙である1996年の第41回衆議院議員選挙では新進党に合流し第二党になるも、その後公明党に復帰し、1999年から自民党との自公連立政権を成した。2009年の第45回衆議院議員総選挙後の民社国連立政権・民国連立政権では野党になったが、次の2012年の第46回衆議院議員総選挙で自民党が政権与党に復帰してから再び連立を形成し、2023年現在は与党である。 支持母体は宗教法人の創価学会である。政教分離に関して、1988年の質問主意書への内閣の回答で、政党は憲法第二十条第一項後段の「政治上の権力」に当たらないという見解を示している。また、2014年の質問主意書でも政党所属者が公職につき国政を担っても「政治上の権力」の行使に当たらないとしている。 公明党は宗教団体の創価学会が支持団体(支持母体)である。他に支持を表明する団体などは不明であるが、過去には旧国鉄の労働組合の一つであった全国鉄道施設労働組合(全施労・国鉄分割民営化に伴い鉄労等と統合しJR総連に再編)など、公明党を支持する労働組合も存在した。 第二次世界大戦後、日蓮正宗の信徒団体であった創価学会(1991年に日蓮正宗から破門)が宗教法人として規模を拡大させ、1954年(昭和29年)11月、政界進出を目的として創設した文化部が源流である。文化部は翌1955年(昭和30年)の第3回統一地方選挙で首都圏の自治体議会選挙に候補者を擁立し、合計で53議席を得た。 1956年(昭和31年)には国政進出を果たし、第4回参議院議員通常選挙(1956年)で3議席を、第31回衆議院議員総選挙(1967年)で25議席を獲得した。 初期の政界進出の旗振り役となったのは創価学会第2代会長戸田城聖と後の第3代会長池田大作である。政界進出の動機としては以下が挙げられる。 1960年(昭和35年)に池田が第三代会長に就任すると政界進出の動きは加速し、1961年(昭和36年)には政治局、同年11月には政治団体の公明政治連盟(こうめいせいじれんめい)へと改組し、メディアの発信や各界への人材輩出を強化した。 1963年(昭和38年)の東京都議会議員選挙(都議選)では17議席を獲得し、55年体制の下、戦後しばらく日本の国政で二大政党制を構成した自由民主党・日本社会党に次いで第3党に躍進する。 1964年(昭和39年)に創価学会から公明政治連盟が切り離されて独立し、現在の日本の国政政党の公明党が誕生した。11月17日の結党大会は当時国内で最大級の規模を誇る施設であった日本大学講堂(当時、旧両国国技館)で挙行され、1万5000人の党員が集結した。結成大会にはニューヨーク・タイムズ含め外国メディア14社の記者が取材に訪れた。 綱領は次のようなものであった。 その後、国政では1967年(昭和42年)に衆議院・参議院両院で45議席を獲得する大所帯となり、国会でも第三党の勢力を形成する程になる。この年の党大会では委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任する。結党当初の公明党は国政・地方政治ともに行政当局との関係が希薄であったため、徹底した現場主義・調査主義に力を注いだ。 特に、安全保障面で在日米軍基地や米国統治下の沖縄の軍事基地問題については防衛施設庁(現在の防衛省の一部)以上の調査を行い、防衛施設庁から「大いに参考になる」とのコメントが発表されるほどであった。 公明党の行動は即物的なものが多く、同じ野党でもイデオロギーに基づく抽象的議論を行っていた日本社会党や日本共産党とは対照をなした。これについては、マルクスやエンゲルスに端を発する社会主義(マルクス主義、または科学的社会主義)・共産主義思想というものが、世俗主義・唯物論・無神論的イデオロギーへの波及をも生み、実際に社会主義国・共産主義国(冷戦下での旧東側諸国)においては、市民の信教の自由も実質保障されることもなく、国家・政府による宗教弾圧が行われていったという歴史的背景もある中で、あくまで資本主義が維持される社会の中にあって、宗教的思想をバックボーンにする支持母体が、あまり「左派・右派」や「保守政党・革新政党」といった従来の対立構造に執着することでなく、「中道政党」と謳っているように、政治面で影響を及ぼすという点において、戦後の日本政治における政党としての存在意義を見出しているという。 1969年末、創価学会を批判する藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長田中角栄に働きかけていたことが公になる(「言論出版妨害事件」)。 翌1970年にかけて、創価学会が同様の行為を常習的に行っていたことが露見し、日本国憲法第21条で保障されている「言論の自由」を侵すものとして社会的な批判を受けた。これを発見した不破哲三と日本共産党は国会で徹底追及を行い、藤原に取材も行い、池田の証人喚問まで要求したが、当時の佐藤栄作政権は野党分断を狙って要求をかわし続け、池田の喚問は回避された。以降しばらく、公明党は自民党に対する事実上の閣外協力を余儀なくされる。 1970年5月3日、創価学会総会で池田が事件を謝罪し、創価学会と公明党との間の体質の改革を宣言する。具体的には「政教分離」の徹底で、 などといった方針が打ち出された。 6月25日、党大会で新しい綱領が制定され、綱領からは宗教用語が全て削除された。 1970年、前年の総選挙で大敗した日本社会党では、右派の江田三郎の主導で「社公民路線」が提唱され、江田は西欧型の社会民主主義を目指す「江田ビジョン」を提唱するが、マルクス・レーニン主義を唱える左派との論争で劣勢を強いられる。それでも1972年の第33回衆議院議員総選挙では、社公民三党で選挙協力を行ったが、公明党は言論出版妨害事件のイメージなどが原因で大敗を喫す。民社党も議席を減らし、復調した日本社会党との連携がうまくゆかずに、社公民路線は頓挫した。 1974年の第10回参議院議員通常選挙では、野党各党は表向きは全野党結集の方針を掲げ、公明党も日米安保条約の即時破棄を訴えるなど、史上最も革新寄りの主張で選挙に臨む。結果、狂乱物価によって自民党が議席を減らして伯仲国会を実現させたものの、選挙後には一転して野党間で対立が起こった。 翌年にかけて、創価学会と共産党との間で相互理解などの交渉が行われ、1975年7月、創共協定が成立する。しかし、公明党の支持者である創価学会員は、もともと革新的な日本共産党のイデオロギーとは相反し、党組織の末端では協定に対する動揺が広がった。党執行部は、創価学会による頭越しの協定締結に反発し、協定の解釈を巡って日本共産党との批判合戦が巻き起こる。創価学会もこの論争に加勢せざるを得ず、あっという間に協定は死文化してしまう。公明党は10月の党大会で革新色を打ち消し、日本共産党とは完全に袂を分かった。 1976年、第34回衆議院議員総選挙で自民党が過半数割れとなって以降、自民党からは中道政党に対して秋波が送られるようになる。1978年の公明党大会で、竹入は自衛隊容認の考えを表明し、政治路線については保守勢力との連携に含みを持たせた。1979年の四十日抗争では自民党主流派の大平正芳から竹入に対して連立の呼びかけもあったという。11月の首班指名選挙では大平陣営から決選投票前に大平へ首班投票するよう依頼されるが、公明党は決選投票を棄権した。 一方で日本社会党は、右派の指導者であった江田の離党・死去により左傾化と弱体化の兆しを見せており、1980年、社公民路線で臨む夏の参院選に向けて社公連合政権構想が締結された。ところがハプニング解散により、衆参同日選挙が執行されることとなり、連携の前提が崩れた上、解散当初は主流派と反主流派で分裂選挙の様相を見せていた自民党が、大平の急死により対立を解消する。選挙では自民党が圧勝し、伯仲国会は終わりを告げた。選挙後、新たな政権構想では政権の特徴として「反自民政権」を削除し、本格的に自公民路線へと舵を切った。 1984年、自民党が二階堂擁立構想で揺れた際には、竹入は鈴木善幸と密に連絡を取り、二階堂が首相になった場合には三党で連立を組む構想も練られた。二階堂の擁立は不発に終わったが、竹入は「次の機会には上着を脱ぎ捨ててでも入っていく」と話した。1986年の衆参同日選挙で自民党が圧勝すると、竹入に代わって矢野が委員長に就任する。一方、社会党では左派の土井たか子が委員長に就任したため、公明党と社会党の距離はますます離れ、公明、民社両党は競って自民党との連携をアピールするようになる。 1990年前後、政界ではリクルート事件などの汚職事件が相次いだが、公明党でも関与を疑われる議員が相次ぐ。1989年5月、矢野が自身のスキャンダルで引責辞任し、石田幸四郎が後任の委員長に就任する。7月の第15回参議院議員通常選挙では社会党の一人勝ちで自民党は大敗し、公明党も議席を減らした。ねじれ国会となったため野党各党は政権構想を相次いで発表し、公明党は「石田見解」で社会党に対して大胆な路線変更を求めた。 しかし社会党の「土井構想」は相変わらず安全保障に否定的で、民社党の「永末ビジョン」は社会党の党是を真っ向から否定する事実上の「門前払い」であったため、連合政権構想はまとまらなかった。1990年の第39回衆議院議員総選挙では自民党が安定多数を確保し、野党では社会党が独り勝ちとなったため、野党間での話し合いの空気は消えた。石田は連合政権協議の頓挫について社会党を批判し、自民・社会・中道の三極体制で国会に臨むことを宣言する。 参議院で過半数を失っていた自民党にとっては、参議院の公明党の議席が政権運営にとって非常に重要であった。自民党幹事長の小沢一郎は社会党と絶縁した公明党に接近し、連立政権をも暗に持ちかけてきた。小沢のカウンターパートである公明党幹事長の市川雄一が、後に「キャスティング・ボートを握ったことが、公明党を変えた」と述懐しているように、公明党は個別の法案の賛否をその都度判断する立場をとる。 1991年、創価学会が日蓮正宗から破門を受け、池田大作が除名処分を受ける。湾岸戦争に際しては、翌1992年のPKO法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)審議で自公民三党による交渉を続け、「宮澤内閣信任決議」案に野党ながら公明、民社両党が賛成して可決の上で、PKO法案成立にこぎ着けた。この過程で市川と小沢の仲はより親密なものとなり、この時点で市川は政界再編・公明党解体にすらも踏み込んだ発言を始めていた。 1993年、小沢らの造反により宮澤内閣の不信任案が可決し、自民党は分裂する。第40回衆議院議員総選挙で自民党は半数を大きく割り込み、社会党は新党に埋没してやはり大敗を喫す。選挙後、非自民・非共産野党による細川内閣が発足する。公明党は結党29年にして初めて与党に参画し、委員長の石田以下4人が閣僚に就任した。市川は小沢とともに与党間の政策協議を主導したが、小沢の運営手法の荒さが原因で軋轢が生じ、1年足らずで連立政権は崩壊した。 政治改革の過程で衆議院の選出が小選挙区比例代表並立制に移行していたため、反自民連合の旧与党による新党が結成される必要が生じた。しかし各党派の中でも公明党は大量の党職員と地方議員を抱えており、地方議会の多くでは自民党と連立を組んでいたため、直ちに丸ごと新党に合流できない事情があった。そこで、改選の近い衆議院議員と1995年改選の参議院議員が先行して新党に加わることとなり、1994年12月5日、公明党は先行参加組による暫定的な政党「公明新党」と後発組「公明」に分党される。公明新党は10日に解散し、同日結成の新進党に合流した。地方議員は党職員とともに「公明」に残って事実上の公明党の身分で活動し、機関紙も「公明」が発行され続けた。 新進党は1995年の第17回参議院議員通常選挙で自民党に肉薄する戦績を残す。その要因は自民党と社会党が手を結んだことに加え、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件の対応に不満を持つ無党派層の得票に学会票による票の上積みがプラスされたことであり、総選挙でもこの連携に加えて無党派層を取り込めれば政権交代は確実という見方もあった。これに危機感を抱いた自民党は、学会・公明党と新進党との離反を図る。参院選後の国会ではオウム真理教事件を受けて宗教法人法改正案が審議されたが、審議の過程で自民党は学会名誉会長である池田の参考人招致を要求する(その後、会長秋谷栄之助の参考人聴取で決着する)。この法改正自体はオウム事件の後を受けたものであり、輿論の支持も高かった。「学会が法改正に反対している」というイメージを除くために、新進党側は法案審議を前にして政務会長の市川らを党の要職から外した。市川らはこれに反発し、市川らと幹事長である小沢との間に亀裂が生じた。その後も自民党は政教分離原則に絡めて公明党を揺さぶりつつ、創価学会と近い竹下派が公明グループの新進党からの離脱を働きかける。 旧公明党は徐々に新進党から離反し始め、1996年の地方選挙では学会員が新進党候補を応援せずに自主投票としたり、あるいは自民党の候補をあからさまに応援するなど分裂選挙化した。第41回衆議院議員総選挙では公明党や創価学会の選挙協力が万全に進まず、一部選挙区では創価学会が人物本位のもと対立候補の自民党や民主党の候補者へ投票するなど票が分裂した。さらに新進党が無党派層の票を集めることができずに政権交代に失敗したため、選挙直後から議員の離党が相次ぐようになる。1997年12月、「公明」は新進党への合流を見送り、翌1998年の参院選は完全に独自で戦うことを決定する。直後に新進党は分裂し、完全消滅した。 以後、公明党がこの分党・新進党合流について言及することはほとんどなかったが、1999年の党大会では「出自の違う複数の政党が強引に二大政党をつくったために上手くゆかなかった」との総括が打ち出されている。 新進党分裂後、小沢が率いた自由党を除く党派は民主党に結集したが、公明党との合流については創価学会との相性がネックになって合流話は持ちかけられなかった。新進党の公明党グループに属する衆議院議員は「新党平和」、参議院議員は「黎明クラブ」を結成する(その後、両者は完全に合流し、1998年11月7日に「公明党」として再結成を果たす。再結成時の代表は神崎武法である)。この時期の公明党に秋波を送っていたのは自民党で、1998年4月28日、自民党は機関紙『自由新報』にかつて掲載した池田と学会員との内紛に関する記事について謝罪文を掲載した。 7月の第18回参議院議員通常選挙で自民党が大敗し、ねじれ国会下で再び公明党がキャスティング・ボートを握った。同年秋の臨時国会では自民党は法案ごとに各党の協力を得ながら乗り切る。こうした背景から自民党と公明党の連立構想が沸き上がるが、公明党は以前自民党と鋭く対立していた手前、いきなり二党のみによる連立には反対であった。そこで、野党の中で孤立しつつあった自由党を交えた三党での連立交渉を始める。こうして1999年1月にまず成立したのが自自連立である。 公明党内部では、連立政権参加に対する反対論がくすぶっていたが、自自両党による衆議院比例区の定数削減議論に参加するため、公明党は7月に連立参加を決定し、10月5日に小渕恵三第2次改造内閣が発足する。しかし翌2000年2月に定数削減の法案が成立して以降、小沢は自自両党の合流を巡って小渕と対立し、自由党は連立を離脱する。その後、自由党の連立離脱反対派が結成した保守党が2003年に自民党へ合流するに至り、自公二党の連立政権(自公連立政権)が誕生するに至った。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では10議席減の21議席で惨敗、1955年の結党以来初めて衆議院第1党を失った自民党とともに、公明党としては10年ぶりに再び下野した。この時、太田昭宏代表が落選し、後任に山口那津男参議院議員が就任した。2012年の第46回衆議院議員総選挙では31議席を獲得し、圧勝した自民党とともに再度政権与党に返り咲き、第2次安倍内閣より自公連立政権が復活した。2010年の第22回参議院議員通常選挙では比例区の得票数・獲得議員数がみんなの党を下回ったが、2013年の第23回参議院議員通常選挙では比例区の得票数が全政党中2位に浮上。2014年の第47回衆議院議員総選挙では小選挙区で全員が当選するなどして現行制度下で最多の35議席を獲得。 2016年の第24回参議院議員通常選挙では選挙区7人が当選、参院選における選挙区で獲得した議席として、結党以来歴代最多の圧勝をおさめ、衆参両院で自公をはじめとする改憲勢力が、日本国憲法改憲の発議が可能な、圧倒的多数となる3分の2を確保することに大きく貢献するなど、現在も国会でキャスティング・ボートを握る政党のひとつである。 しかしながら、2017年の第48回衆議院議員総選挙では、自公両党で319議席を獲得し圧勝したものの、公明党自体は総選挙直前に誕生した旧民主党・民進党系の立憲民主党と希望の党の新党の間に埋没する形となったことも影響し、下野した第45回衆議院議員総選挙以来8年ぶりに、小選挙区(神奈川県第6区)で落選者が発生し小選挙区8議席、比例代表も定数削減のあおりを受け特に北関東ブロック・南関東ブロックを中心に得票を減らし21議席に終わり、合計29議席となり、目標としていた公示前議席維持の35議席を下回った。 2019年7月の第25回参院選では、公認候補者を擁立した7つの選挙区(埼玉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡)において、前回に続き全勝。比例でも7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得。これは前回・2016年に並ぶ最多議席となった。自公連立政権の与党は併せて改選定数124の過半数(63)を超える計71議席を獲得したが、改選議席(77)からは6減らした。非改選議員を含めた参院全体では自民・公明の連立与党、それに改憲に前向きな野党の日本維新の会と無所属を加えた「改憲勢力」の非改選議席は79と参議院における全議席の3分の2である85議席を超えず、日本国憲法改憲の発議が可能な圧倒的多数となる3分の2を確保できなかった。 2021年10月の第49回衆議院議員総選挙では、小選挙区の公認候補9名全員と比例区23名の当選を果たし、公示前から3議席増の32議席を獲得した(比例代表:得票数 7,114,282、得票率 12.38%)。自由民主党(261議席)、立憲民主党(96議席)、日本維新の会(41議席)に次ぐ第4党となり、自公両党では過半数の293議席を獲得して圧勝した。 2022年7月の第26回参議院議員通常選挙では、選挙区の公認候補7名全員と比例区6名の当選を果たし、公示前から1議席減の13議席を獲得した(比例代表:得票数 6,181,431.938、得票率 11.66%)。非改選との合計で27議席となり、自由民主党(119議席)、立憲民主党(39議席)に次ぐ第3党となった。自公両党では76議席を獲得して圧勝した。しかし、比例獲得票が目標の800万票を大幅に下回る618万票になるなど、支持層の高齢化による組織力の衰えも指摘された。 2023年4月の第20回統一地方選挙では、現在の公明党が再結成された1998年以降で最多となる12人の落選者を出した。山口は選挙結果について「日本維新の会の新人が積極的に立候補し、大量得票した。一方で投票率がそれほど上がっているわけではなく、既存の勢力が割を食った」と述べた。特に練馬区議会議員選挙では前回選と同じ11人を擁立したが、当落線上に公明候補7人が並び、うち4人が落選した。合計得票は3万5000票弱で、前回から約5000票減らており、支持層の高齢化による組織力の弱まりが改めて指摘された。 1970年(昭和45年)以前の創価学会文化部時代は、創価学会員でなおかつ文化部員としての手続きをしなければ党活動に参加することができなかった。言論出版妨害事件以後の組織分離により学会員以外にも門戸が開放され、現在は党規約4条に「党の綱領及び規約を守り政策および諸決議を実現するために党活動に参加しようとする18歳以上の人は国籍を問わず」党員として入党することができると定められている。 入党の手続きは地元の党所属議員を経由する方法のほか、創価学会員であれば支部・地区・区本部といった末端組織を通じて紹介を受けることができる。学会員であるからという理由で強制的に入党させられることはない。入党希望者は既存党員2名の紹介を付けた所定の入党申込書に本人が自筆で記入し、初年度の党費を添えて支部または総支部長に提出する。支部長はこれを都道府県本部に送り、都道府県代表の承認を受けることにより手続きが完了する。 年額3,000円の党費支払いの他に、機関紙を購読することが規約7条で推奨されている。 なお『公明新聞』『月刊公明』『公明グラフ』の配達と集金は聖教新聞販売店に委託されており、聖教新聞と公明新聞の両方を購読している党員にはそれぞれ別々の領収証が発行される。 創設者の池田大作はこれまで党役員はもとより党員にもなったことはない。 党本部は東京都新宿区南元町にあり、党本部に近い別のビルに公明新聞編集局が所在する。 公明党所属の国会議員は衆議院・参議院両院でそれぞれ、地方議会議員は各議会ごとに議員団を編成する。これら組織の連絡機関として、全国議員団会議 および全国地方議員団会議 が存在する。 公明党の地方組織は、ブロックに相当する方面本部(ほうめんほんぶ)、都道府県本部、総支部、支部 の4段階からなる。 「方面」は創価学会の制度に準じたもので、他の政党にない公明党独自の地域概念である。関東地方は東京方面(東京都および山梨県)、東海道方面(神奈川県と静岡県)、関東方面(東京・東海道両方面に属しない関東5県、埼玉県・千葉県・群馬県・栃木県・茨城県)の3つに分けられ、福井県が関西方面に属し、沖縄県は九州の他の県と違って単独で方面を持つなど全部で13の方面本部があり、衆議院比例代表選挙のブロック分けとも異なる。 党所属の国会議員は、出身または活動拠点としている都道府県が属する方面に関与することを義務付けられる。 自民党の都道府県支部連合会、民主党の総支部連合会に相当する組織が、この都道府県本部となる。必要に応じて、傘下に選挙区連合会や総支部連合会、支部連合会といった中間組織を設けることもできる。 公明党の総支部は、国会議員の選挙区を基本とする旧民主党のそれとは異なり、むしろ日本共産党の地区委員会に近いものと位置付けられる。 このため東京23区では各区ごとに設置されているが、他の政令指定都市では複数の行政区を統括している場合もある。都道府県・政令市・東京23区の区議会議員は基本的には総支部を拠点とする。 党内最末端組織となる支部は、自民党の地域支部、民主党の行政区支部に近いとされる。一般市ないしは町村議会の議員は支部を基本として活動する。 党の内規では「任期中に66歳を迎えない」ことを選挙における公認条件としており、事実上の定年制を設けていた。ただし、藤井富雄(引退時81歳)や坂口力(引退時78歳)や池坊保子(引退時70歳)、太田昭宏(引退時76歳)、井上義久(引退時74歳)など例外も存在する。 その後所属議員の高齢化に伴い、2013年12月の党中央幹事会で定年を66歳から69歳に引き上げた。 また、この際に在職制限(次の任期中に在職24年を超えない)も導入された。年齢制限と在職制限については、「余人をもって代えがたい」「地元からの強い続投要請」「その人物が党運営に今後も必要」の3条件をすべて満たした場合、慣例的に例外とすることが可能とされている。2020年時点ではリクルート事件を契機とした1990年代の世代交代で誕生した「第2世代」と呼ばれる議員らが党の中核を担っており、この「第2世代」の大半が年齢制限か在職制限に該当するため、どこまで例外を適用するかが党の課題となっていると報じられた。 公明党は公式HPにおいて創価学会の仏法の理念に基づいて活動してきたことを明記している。 公明党の草創期はあくまで創価学会の所轄内にあったことや、創価学会と一体となった活動が行われた経緯から、「憲法に定められた政教分離原則に反する」「公明党と創価学会は政教一致」という批判がマスコミや有権者から上がったことがある。1970年(昭和45年)の「言論出版妨害事件」に端を発した公明党と創価学会との「政教一致」批判に対し、制度的分離を明確化して以降(詳細後述)も同様の批判はある。一方で、日本国憲法の定める「政教分離」とは、国家の宗教的中立性を定めたものであり、宗教団体の政治活動を否定したものではないということには留意を要する。 1957年(昭和32年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、創価学会員が大阪あいりん地区に住む日雇い労働者らに候補者名の氏名の入ったタバコや現金を渡したとして、幹部の小泉隆、池田大作を含む創価学会員ら47人が公職選挙法違反で逮捕された。池田は無罪となったが45人に有罪判決が下され、有罪となった会員45名は戸田会長の名で会員除名処分を受けた。 1968年(昭和43年)に行われた参議院議員選挙で不在者投票を悪用し、本人になりすまして投票が行われたとされる選挙違反事件があった。創価学会員14人が逮捕され、14人全員に有罪判決が下された。 1969年(昭和44年)7月に行われた東京都議会議員選挙において、投票時間が過ぎたため投票不可を選挙管理委員会から通達された公明党支持者が逆上し、大勢が投票所を取り囲んで襲撃した上、女性・高齢者を含む投票立会人4人に集団暴行を加えて流血させた。後に1名が逮捕・起訴された。1970年(昭和45年)5月、共産党の青柳盛雄は、衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会でこの事件について政府見解を求めた。詳細は「練馬区投票所襲撃事件」参照のこと。 創価学会員が組織的に選挙前に住民票を異動し公明党候補へ投票しているという噂が出たことがある。これらの噂はいずれも根拠が確認されておらず、発言者もデマであることを認めている(地方選挙の場合、3ヶ月1日前から居住していないと選挙権は得られない)。 2001年(平成13年)の参議院選挙で逮捕者が出て、地方新聞に掲載された。佐賀新聞の報道によると、逮捕された学会員が不在者投票所の入り口で「公明党の候補者名を書くように言ってある。メモを持たせてある」などと佐賀市選挙管理委員会職員に直接話したのを佐賀警察署の署員が聞いていたという。埼玉新聞の報道によると、羽生市の介護福祉士が自身の勤める老人介護施設の利用者に公明党の埼玉選挙区と比例代表の特定候補者2人の名前を記したメモを持たせて投票させ、投票に干渉した疑いで逮捕されたことを報じた。ただし、自民党や民主党の支援者も同様の行為を行い、逮捕されている。 2003年(平成15年)の衆議院選挙で、神奈川県内に住む創価学会の女性幹部3名が重度の知的障害をもつ女性とともに投票所に現れ、あたかも知的障害をもつ女性が公明党に投票意思があるように見せかけ投票しようとしたとして公職選挙法違反で逮捕された。 2010年(平成22年)の参議院選挙で、宮崎県の女性3人が知人の複数の高齢者の手の平に「選挙区の自民候補と比例代表の公明候補の名前をペンで書き投票を誘導した疑い」を持たれた。 2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙で、愛媛県の公明党支持者が「比例代表は公明党、選挙区は塩崎恭久氏(愛媛1区、自民党)」というメモを判断能力に欠けた高齢女性(認知症患者)に持たせて投票させた容疑で検挙された。 信者が投票を指示したという具体的な物的証拠が少なく、判断能力の低下した認知症などに罹患した高齢者が標的にされているケースも多く、犯行の証言を得ることが難しいからである。投票所の監視を強化してもイタチごっこであると、警察など捜査関係者は頭を悩ませている。もっとも、投票の依頼は公職選挙法で認められており、「投票を指示」されても実際の投票行動は本人次第である。また、「投票干渉」公明党は以前から支持母体創価学会の会員が中心となり友人、知人に対し公明党への電話による投票依頼を行なっており(「F票獲得工作」という)、選挙前の風物詩とさえ言われたが、近年ではインターネットの普及により電話での投票依頼はあたかも学会員が選挙違反をしている印象を与えかねず、(電話で投票依頼した行為を)面白おかしくネット上に書き込まれることを危惧する学会幹部がいるため、最近では学会員に選挙期間中の家庭訪問や電話での投票依頼を控えさせているという。最近では通信費用がかからないLINEで「投票に行く」事実のみを伝えるよう指示を出す幹部もいる。それは投票依頼をLINEで行った場合、学会を嫌う層からメッセージをスクリーンショットで保存されネット上に拡散される恐れがある。しかし、学会婦人部からはソフト路線とも取れる学会の変化に不満の声が出ているという。ただ、創価学会の会員が必ずしも公明党を支持し、投票をしているわけではない。どこの政党を支持し投票をするかについては会員の自由となっている。 なお、選挙期間中の電話による投票依頼は公職選挙法で認められている。 生活保護の受給に関し公明党の市議が口利きを行っていた事実がある。その中では不正受給も認定されている。例として1999年(平成11年)5月から2003年(平成15年)6月にかけて公明党市議の母親が生活実態がないにもかかわらず、生活保護を申請し生活保護費を不正に受給していた。本件では申請を行う際、公明党市議が自ら市職員に口利きを行ったことが確認され、受給後市の担当者が、公明党市議の母親の1年問の水道や電気の使用量を調べた結果、一般的な一人暮らしの数か月分しかなかったため不正受給とみなし多賀城市議会は、公明党市議や親族に対して生活保護を打ち切った上で、市議会において返還請求訴訟を起こすことを賛成多数で可決した。全議員22名のうち反対は公明党議員2名だけだった。また週刊ポストの調査では公明党市議の母親は以前居住していた塩竈市でも同様の手口で生活保護費を受給していた事が確認されたが受給された生活保護費がどのように使われたかは全く不明としている。最後に決議に反対した公明党議員へ(党籍が同じというだけで)は返還請求訴訟に反対するのであれば公明党は党全体で生活保護の不正受給を容認していると締めくくられている。 週刊文春の増元照明へのインタビュー記事(2002年11月28日)によると、まず、増元照明の父・正一、姉・るみ子、るみ子と一緒に拉致された市川修一が創価学会員であることを明かし、増元るみ子と市川修一は創価学会青年部の勉強会で知り合って交際を始めたことを明らかにした。さらに自身について「信仰心は無いが、名簿上は創価学会員として登録されている」と思うとし、「姉が行方不明になった時は、必死に拝んだ」と告白した。 公明党に対しては(自民党との連立政権で与党となった)1999年に浜四津敏子が鹿児島県に訪問した時に父・正一が拉致問題解決の協力を求め、浜四津は「分かりました」と発言したが、以後、連絡が来ることはなかった。また、増元照明は公明党本部にメールで姉が創価学会員であることを書いて「拉致問題に対する公明党の対応を教えて欲しい」と頼んだが、「メールありがとうございました。ご意見は検討させていただきます。」との定型メールが返ってきただけであった。また、増元照明は公明党参議院議員で外務省出身の山本香苗にもメールを送ったが山本からは返事すら返ってこなかった。 また、1997年、横田滋と蓮池透が都議会で「拉致事件の早期解決を国に要請する意見書」を採択してもらうよう都議会各党に頼んだが、公明党が反対し全会一致が得られず、意見書の採択ができなかったという。 朝鮮日報社の『月刊朝鮮』は、1997年(平成9年)に行われた韓国大統領選挙前に新政治国民会議の金大中候補が日本で秘密裏に公明党幹部と面会し、韓国創価学会から支持を得られるように依頼し、友人を通じて公明党幹部が了承していたと報道した。大統領選挙では金候補がハンナラ党の李会昌候補に約30万票の僅差で勝利したが、当時の韓国創価学会の有権者は60万人から80万人程であり、創価学会の応援要請が事実なら韓国大統領が日本の公明党の協力で誕生したことになると『月刊朝鮮』は締めくくっている。 公明党は、党中央では辺野古移設に賛成の立場だが、党沖縄県本部は反対の立場である。沖縄戦の経験から沖縄の創価学会では伝統的に反戦意識が強いと言われてきた。 2014年沖縄県知事選挙では、党沖縄県本部が辺野古移設に反対して自主投票になり、移設反対の翁長雄志が自民推薦で移設賛成の仲井眞弘多を破り当選した。この選挙では、公明支持者の8割以上が翁長に投票したと見られている。 2018年2月、辺野古を抱える名護市の市長選挙では、辺野古移設容認の自民系候補・渡具知武豊を党沖縄県本部も推薦し、勝利に貢献したが、内心“苦渋の選択”を迫られた学会員も多かった。 2018年沖縄県知事選挙では、8月に急逝した翁長の路線を引き継いだ玉城デニーが、自民・公明・維新・希望が推薦した佐喜眞淳ら3氏を破り初当選した。この選挙では玉城は辺野古移設反対を言明していたが、佐喜眞は最後まで辺野古移設の賛否を明かさなかった。公明陣営では県外から大量の学会員が来て人海戦術をとったが、肝心の沖縄の学会員の動きは鈍く、3割近い票が玉城へと流れたとされる。また9月に琉球新報社が沖縄テレビ放送、JX通信社と合同で行った世論調査によると、翁長が辺野古新基地建設に伴う埋め立て承認を撤回したことについて、沖縄県全体では翁長支持が不支持を大きく上回っていたが、公明党支持者の中でも翁長支持が不支持を上回っていたというデータが出ていた。 2019年沖縄県民投票では、全体では辺野古移設のための埋め立て工事に賛成18.99%、反対71.74%、どちらでもない8.70%となった。朝日新聞の出口調査によると公明支持者では賛成30%、反対55%、どちらでもない16%となった(無回答や四捨五入のため合計が100%にならない)。 公明党は以前からマニフェストで斡旋やわたりを年内に廃止し、早期退職慣行の廃止など天下りを3年で根絶し行政の無駄追放を行う要旨を発表した。しかし、2007年に行政改革担当大臣渡辺喜美から、独立行政法人の改革をめぐり、所管法人の廃止・民営化などで協力を求められた際、国土交通大臣だった公明党の冬柴は渡辺に対し法人組織の民営化を拒否するなど「ゼロ回答」を行った。マニフェストと違う回答に身内の公明党や支持母体創価学会から激しい批判が寄せられ、衆議院予算委員会で同じ公明党の富田茂之が冬柴に「官僚の天下りに対して追及する民主党議員の行動は正しい」などと指摘、冬柴も支持者から抗議の手紙が届いたことを答弁した。その後も公明党は選挙のマニフェストで天下りの根絶を謳い、2017年2月6日の衆議院予算委員会でも高木美智代が天下りの根絶を訴えたが、2017年の衆議院総選挙で公明党はそれまでの方針を転換し、従来の「天下りの根絶」との文言をマニフェストから削除した。 国の借金は1998年(平成10年)には約408兆円だったのに対し、2008年(平成20年)には約607兆円と約1.5倍に膨れ上がった。財源を確保するため、2003年に健康保険の本人負担増(2割→3割)を実施させ、ホワイトカラーエグゼンプションへの支持 を表明した。 『週刊実話』によれば、公明党内では、創価学会名誉会長池田大作が日本国内の勲章を授与されていないことから、公明党所属の国会議員(党首経験者や閣僚経験者含む)は旭日大綬章など勲章の受賞リストに名前が挙がった段階で、池田に配慮し自ら受賞を辞退するという慣習が存在していたという。 ただし、公明党・創価学会と対立した場合は別で、委員長経験者である竹入義勝(1996年・旭日大綬章)や矢野絢也(2010年・旭日大綬章)は受章している。『週刊実話』によると、竹入や矢野の受章に対して創価学会から「恩知らず」「裏切り者」という罵詈雑言が起こっているというが、その客観的根拠は示されていない。 1995年(平成7年)11月27日の参議院「宗教法人等に関する特別委員会」で、自民党の関根則之は、当時の創価学会事務総長原田稔(後の創価学会会長)が外務省官房長の小和田恒(皇太子徳仁親王妃雅子の父)に宛てて「本年1月末より2月中旬にかけて、池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、香港並びにASEAN3か国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約2週間に渡り、(下記の日程で)訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます」といった内容の手紙を送り、外務省が創価学会や池田に配慮や便宜を図ったのではないかと主張した。関根は池田大作および長男の池田博正の証人喚問を要求し、理事会で審議されたが、外務省、宮内庁、創価学会ともに「根拠のない」話であるとして否定した上、池田の証人喚問は見送られた。 しんぶん赤旗によると、公明党から創価学会への報告書は宛先が書かれているが、池田大作名誉会長宛の報告書だけは宛先を空欄にするように徹底されている。万が一の時、池田に責任が及ばないようにするためである。報告書が公明党に戻ってくる時、赤でレ点がついていることもあるがそれは池田が「見た」という印であり、意見が書いてあることもある。党の国対で決めたことが報告書を見た池田のひと声で変わることもある。 元警察庁長官で後に内閣官房長官を長期に務めた後藤田正晴は、1998年に講談社から出版した回顧録『情と理―後藤田正晴回顧録』で警察官僚時代を振り返り、日本社会党と民社党は警察庁のマークの対象外だったとし、「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは、共産党と公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」と述べている。この聞き取りを行った御厨貴が後に公明党代表の山口に話したところ、いやな顔をしたと述べている。一方、2005年8月にTBS系列の討論番組『時事放談』に出演した際には、公明党に対して「福祉と平和の立党の精神、これをいつまでも守ってもらいたい」と期待を寄せている。 一人区と二人区は自民党の候補者を推薦し、党公認の候補者は擁立しない。 三人区は兵庫県と福岡県は党公認の候補者を擁立するが、北海道と千葉県は自民党の候補者を推薦し、党公認の候補者は擁立しない。 四人区(埼玉県、神奈川県、愛知県、大阪府)と六人区(東京都)は党公認の候補者を擁立する。 (参考文献:石川真澄〈一部山口二郎による加筆〉『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "公明党(こうめいとう、英語: Komeito)は、日本の政党。宗教団体の創価学会を支持母体として中道政治の実現を目指して結成された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "略称は公明。1字表記の際は公。現在の党キャッチコピーは、「声を、聴く力」。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1999年10月5日から2009年9月16日まで、および2012年12月26日から現在まで自由民主党と自公連立政権を構成している。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1964年の結党後、党としては1965年の第7回参議院議員通常選挙、1967年の第31回衆議院議員総選挙で国会の議席を確保した。1993年の第40回衆議院議員選挙での55年体制崩壊後の非自民・非共産連立政権では初の政権入りを果たし、再び野党になった自社さ連立政権下での選挙である1996年の第41回衆議院議員選挙では新進党に合流し第二党になるも、その後公明党に復帰し、1999年から自民党との自公連立政権を成した。2009年の第45回衆議院議員総選挙後の民社国連立政権・民国連立政権では野党になったが、次の2012年の第46回衆議院議員総選挙で自民党が政権与党に復帰してから再び連立を形成し、2023年現在は与党である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "支持母体は宗教法人の創価学会である。政教分離に関して、1988年の質問主意書への内閣の回答で、政党は憲法第二十条第一項後段の「政治上の権力」に当たらないという見解を示している。また、2014年の質問主意書でも政党所属者が公職につき国政を担っても「政治上の権力」の行使に当たらないとしている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公明党は宗教団体の創価学会が支持団体(支持母体)である。他に支持を表明する団体などは不明であるが、過去には旧国鉄の労働組合の一つであった全国鉄道施設労働組合(全施労・国鉄分割民営化に伴い鉄労等と統合しJR総連に再編)など、公明党を支持する労働組合も存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、日蓮正宗の信徒団体であった創価学会(1991年に日蓮正宗から破門)が宗教法人として規模を拡大させ、1954年(昭和29年)11月、政界進出を目的として創設した文化部が源流である。文化部は翌1955年(昭和30年)の第3回統一地方選挙で首都圏の自治体議会選挙に候補者を擁立し、合計で53議席を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)には国政進出を果たし、第4回参議院議員通常選挙(1956年)で3議席を、第31回衆議院議員総選挙(1967年)で25議席を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初期の政界進出の旗振り役となったのは創価学会第2代会長戸田城聖と後の第3代会長池田大作である。政界進出の動機としては以下が挙げられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)に池田が第三代会長に就任すると政界進出の動きは加速し、1961年(昭和36年)には政治局、同年11月には政治団体の公明政治連盟(こうめいせいじれんめい)へと改組し、メディアの発信や各界への人材輩出を強化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)の東京都議会議員選挙(都議選)では17議席を獲得し、55年体制の下、戦後しばらく日本の国政で二大政党制を構成した自由民主党・日本社会党に次いで第3党に躍進する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)に創価学会から公明政治連盟が切り離されて独立し、現在の日本の国政政党の公明党が誕生した。11月17日の結党大会は当時国内で最大級の規模を誇る施設であった日本大学講堂(当時、旧両国国技館)で挙行され、1万5000人の党員が集結した。結成大会にはニューヨーク・タイムズ含め外国メディア14社の記者が取材に訪れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "綱領は次のようなものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後、国政では1967年(昭和42年)に衆議院・参議院両院で45議席を獲得する大所帯となり、国会でも第三党の勢力を形成する程になる。この年の党大会では委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任する。結党当初の公明党は国政・地方政治ともに行政当局との関係が希薄であったため、徹底した現場主義・調査主義に力を注いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "特に、安全保障面で在日米軍基地や米国統治下の沖縄の軍事基地問題については防衛施設庁(現在の防衛省の一部)以上の調査を行い、防衛施設庁から「大いに参考になる」とのコメントが発表されるほどであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "公明党の行動は即物的なものが多く、同じ野党でもイデオロギーに基づく抽象的議論を行っていた日本社会党や日本共産党とは対照をなした。これについては、マルクスやエンゲルスに端を発する社会主義(マルクス主義、または科学的社会主義)・共産主義思想というものが、世俗主義・唯物論・無神論的イデオロギーへの波及をも生み、実際に社会主義国・共産主義国(冷戦下での旧東側諸国)においては、市民の信教の自由も実質保障されることもなく、国家・政府による宗教弾圧が行われていったという歴史的背景もある中で、あくまで資本主義が維持される社会の中にあって、宗教的思想をバックボーンにする支持母体が、あまり「左派・右派」や「保守政党・革新政党」といった従来の対立構造に執着することでなく、「中道政党」と謳っているように、政治面で影響を及ぼすという点において、戦後の日本政治における政党としての存在意義を見出しているという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1969年末、創価学会を批判する藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長田中角栄に働きかけていたことが公になる(「言論出版妨害事件」)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "翌1970年にかけて、創価学会が同様の行為を常習的に行っていたことが露見し、日本国憲法第21条で保障されている「言論の自由」を侵すものとして社会的な批判を受けた。これを発見した不破哲三と日本共産党は国会で徹底追及を行い、藤原に取材も行い、池田の証人喚問まで要求したが、当時の佐藤栄作政権は野党分断を狙って要求をかわし続け、池田の喚問は回避された。以降しばらく、公明党は自民党に対する事実上の閣外協力を余儀なくされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1970年5月3日、創価学会総会で池田が事件を謝罪し、創価学会と公明党との間の体質の改革を宣言する。具体的には「政教分離」の徹底で、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "などといった方針が打ち出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "6月25日、党大会で新しい綱領が制定され、綱領からは宗教用語が全て削除された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1970年、前年の総選挙で大敗した日本社会党では、右派の江田三郎の主導で「社公民路線」が提唱され、江田は西欧型の社会民主主義を目指す「江田ビジョン」を提唱するが、マルクス・レーニン主義を唱える左派との論争で劣勢を強いられる。それでも1972年の第33回衆議院議員総選挙では、社公民三党で選挙協力を行ったが、公明党は言論出版妨害事件のイメージなどが原因で大敗を喫す。民社党も議席を減らし、復調した日本社会党との連携がうまくゆかずに、社公民路線は頓挫した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1974年の第10回参議院議員通常選挙では、野党各党は表向きは全野党結集の方針を掲げ、公明党も日米安保条約の即時破棄を訴えるなど、史上最も革新寄りの主張で選挙に臨む。結果、狂乱物価によって自民党が議席を減らして伯仲国会を実現させたものの、選挙後には一転して野党間で対立が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "翌年にかけて、創価学会と共産党との間で相互理解などの交渉が行われ、1975年7月、創共協定が成立する。しかし、公明党の支持者である創価学会員は、もともと革新的な日本共産党のイデオロギーとは相反し、党組織の末端では協定に対する動揺が広がった。党執行部は、創価学会による頭越しの協定締結に反発し、協定の解釈を巡って日本共産党との批判合戦が巻き起こる。創価学会もこの論争に加勢せざるを得ず、あっという間に協定は死文化してしまう。公明党は10月の党大会で革新色を打ち消し、日本共産党とは完全に袂を分かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1976年、第34回衆議院議員総選挙で自民党が過半数割れとなって以降、自民党からは中道政党に対して秋波が送られるようになる。1978年の公明党大会で、竹入は自衛隊容認の考えを表明し、政治路線については保守勢力との連携に含みを持たせた。1979年の四十日抗争では自民党主流派の大平正芳から竹入に対して連立の呼びかけもあったという。11月の首班指名選挙では大平陣営から決選投票前に大平へ首班投票するよう依頼されるが、公明党は決選投票を棄権した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方で日本社会党は、右派の指導者であった江田の離党・死去により左傾化と弱体化の兆しを見せており、1980年、社公民路線で臨む夏の参院選に向けて社公連合政権構想が締結された。ところがハプニング解散により、衆参同日選挙が執行されることとなり、連携の前提が崩れた上、解散当初は主流派と反主流派で分裂選挙の様相を見せていた自民党が、大平の急死により対立を解消する。選挙では自民党が圧勝し、伯仲国会は終わりを告げた。選挙後、新たな政権構想では政権の特徴として「反自民政権」を削除し、本格的に自公民路線へと舵を切った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1984年、自民党が二階堂擁立構想で揺れた際には、竹入は鈴木善幸と密に連絡を取り、二階堂が首相になった場合には三党で連立を組む構想も練られた。二階堂の擁立は不発に終わったが、竹入は「次の機会には上着を脱ぎ捨ててでも入っていく」と話した。1986年の衆参同日選挙で自民党が圧勝すると、竹入に代わって矢野が委員長に就任する。一方、社会党では左派の土井たか子が委員長に就任したため、公明党と社会党の距離はますます離れ、公明、民社両党は競って自民党との連携をアピールするようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1990年前後、政界ではリクルート事件などの汚職事件が相次いだが、公明党でも関与を疑われる議員が相次ぐ。1989年5月、矢野が自身のスキャンダルで引責辞任し、石田幸四郎が後任の委員長に就任する。7月の第15回参議院議員通常選挙では社会党の一人勝ちで自民党は大敗し、公明党も議席を減らした。ねじれ国会となったため野党各党は政権構想を相次いで発表し、公明党は「石田見解」で社会党に対して大胆な路線変更を求めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし社会党の「土井構想」は相変わらず安全保障に否定的で、民社党の「永末ビジョン」は社会党の党是を真っ向から否定する事実上の「門前払い」であったため、連合政権構想はまとまらなかった。1990年の第39回衆議院議員総選挙では自民党が安定多数を確保し、野党では社会党が独り勝ちとなったため、野党間での話し合いの空気は消えた。石田は連合政権協議の頓挫について社会党を批判し、自民・社会・中道の三極体制で国会に臨むことを宣言する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "参議院で過半数を失っていた自民党にとっては、参議院の公明党の議席が政権運営にとって非常に重要であった。自民党幹事長の小沢一郎は社会党と絶縁した公明党に接近し、連立政権をも暗に持ちかけてきた。小沢のカウンターパートである公明党幹事長の市川雄一が、後に「キャスティング・ボートを握ったことが、公明党を変えた」と述懐しているように、公明党は個別の法案の賛否をその都度判断する立場をとる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1991年、創価学会が日蓮正宗から破門を受け、池田大作が除名処分を受ける。湾岸戦争に際しては、翌1992年のPKO法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)審議で自公民三党による交渉を続け、「宮澤内閣信任決議」案に野党ながら公明、民社両党が賛成して可決の上で、PKO法案成立にこぎ着けた。この過程で市川と小沢の仲はより親密なものとなり、この時点で市川は政界再編・公明党解体にすらも踏み込んだ発言を始めていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1993年、小沢らの造反により宮澤内閣の不信任案が可決し、自民党は分裂する。第40回衆議院議員総選挙で自民党は半数を大きく割り込み、社会党は新党に埋没してやはり大敗を喫す。選挙後、非自民・非共産野党による細川内閣が発足する。公明党は結党29年にして初めて与党に参画し、委員長の石田以下4人が閣僚に就任した。市川は小沢とともに与党間の政策協議を主導したが、小沢の運営手法の荒さが原因で軋轢が生じ、1年足らずで連立政権は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "政治改革の過程で衆議院の選出が小選挙区比例代表並立制に移行していたため、反自民連合の旧与党による新党が結成される必要が生じた。しかし各党派の中でも公明党は大量の党職員と地方議員を抱えており、地方議会の多くでは自民党と連立を組んでいたため、直ちに丸ごと新党に合流できない事情があった。そこで、改選の近い衆議院議員と1995年改選の参議院議員が先行して新党に加わることとなり、1994年12月5日、公明党は先行参加組による暫定的な政党「公明新党」と後発組「公明」に分党される。公明新党は10日に解散し、同日結成の新進党に合流した。地方議員は党職員とともに「公明」に残って事実上の公明党の身分で活動し、機関紙も「公明」が発行され続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "新進党は1995年の第17回参議院議員通常選挙で自民党に肉薄する戦績を残す。その要因は自民党と社会党が手を結んだことに加え、阪神・淡路大震災やオウム真理教事件の対応に不満を持つ無党派層の得票に学会票による票の上積みがプラスされたことであり、総選挙でもこの連携に加えて無党派層を取り込めれば政権交代は確実という見方もあった。これに危機感を抱いた自民党は、学会・公明党と新進党との離反を図る。参院選後の国会ではオウム真理教事件を受けて宗教法人法改正案が審議されたが、審議の過程で自民党は学会名誉会長である池田の参考人招致を要求する(その後、会長秋谷栄之助の参考人聴取で決着する)。この法改正自体はオウム事件の後を受けたものであり、輿論の支持も高かった。「学会が法改正に反対している」というイメージを除くために、新進党側は法案審議を前にして政務会長の市川らを党の要職から外した。市川らはこれに反発し、市川らと幹事長である小沢との間に亀裂が生じた。その後も自民党は政教分離原則に絡めて公明党を揺さぶりつつ、創価学会と近い竹下派が公明グループの新進党からの離脱を働きかける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "旧公明党は徐々に新進党から離反し始め、1996年の地方選挙では学会員が新進党候補を応援せずに自主投票としたり、あるいは自民党の候補をあからさまに応援するなど分裂選挙化した。第41回衆議院議員総選挙では公明党や創価学会の選挙協力が万全に進まず、一部選挙区では創価学会が人物本位のもと対立候補の自民党や民主党の候補者へ投票するなど票が分裂した。さらに新進党が無党派層の票を集めることができずに政権交代に失敗したため、選挙直後から議員の離党が相次ぐようになる。1997年12月、「公明」は新進党への合流を見送り、翌1998年の参院選は完全に独自で戦うことを決定する。直後に新進党は分裂し、完全消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以後、公明党がこの分党・新進党合流について言及することはほとんどなかったが、1999年の党大会では「出自の違う複数の政党が強引に二大政党をつくったために上手くゆかなかった」との総括が打ち出されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "新進党分裂後、小沢が率いた自由党を除く党派は民主党に結集したが、公明党との合流については創価学会との相性がネックになって合流話は持ちかけられなかった。新進党の公明党グループに属する衆議院議員は「新党平和」、参議院議員は「黎明クラブ」を結成する(その後、両者は完全に合流し、1998年11月7日に「公明党」として再結成を果たす。再結成時の代表は神崎武法である)。この時期の公明党に秋波を送っていたのは自民党で、1998年4月28日、自民党は機関紙『自由新報』にかつて掲載した池田と学会員との内紛に関する記事について謝罪文を掲載した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "7月の第18回参議院議員通常選挙で自民党が大敗し、ねじれ国会下で再び公明党がキャスティング・ボートを握った。同年秋の臨時国会では自民党は法案ごとに各党の協力を得ながら乗り切る。こうした背景から自民党と公明党の連立構想が沸き上がるが、公明党は以前自民党と鋭く対立していた手前、いきなり二党のみによる連立には反対であった。そこで、野党の中で孤立しつつあった自由党を交えた三党での連立交渉を始める。こうして1999年1月にまず成立したのが自自連立である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "公明党内部では、連立政権参加に対する反対論がくすぶっていたが、自自両党による衆議院比例区の定数削減議論に参加するため、公明党は7月に連立参加を決定し、10月5日に小渕恵三第2次改造内閣が発足する。しかし翌2000年2月に定数削減の法案が成立して以降、小沢は自自両党の合流を巡って小渕と対立し、自由党は連立を離脱する。その後、自由党の連立離脱反対派が結成した保守党が2003年に自民党へ合流するに至り、自公二党の連立政権(自公連立政権)が誕生するに至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年の第45回衆議院議員総選挙では10議席減の21議席で惨敗、1955年の結党以来初めて衆議院第1党を失った自民党とともに、公明党としては10年ぶりに再び下野した。この時、太田昭宏代表が落選し、後任に山口那津男参議院議員が就任した。2012年の第46回衆議院議員総選挙では31議席を獲得し、圧勝した自民党とともに再度政権与党に返り咲き、第2次安倍内閣より自公連立政権が復活した。2010年の第22回参議院議員通常選挙では比例区の得票数・獲得議員数がみんなの党を下回ったが、2013年の第23回参議院議員通常選挙では比例区の得票数が全政党中2位に浮上。2014年の第47回衆議院議員総選挙では小選挙区で全員が当選するなどして現行制度下で最多の35議席を獲得。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2016年の第24回参議院議員通常選挙では選挙区7人が当選、参院選における選挙区で獲得した議席として、結党以来歴代最多の圧勝をおさめ、衆参両院で自公をはじめとする改憲勢力が、日本国憲法改憲の発議が可能な、圧倒的多数となる3分の2を確保することに大きく貢献するなど、現在も国会でキャスティング・ボートを握る政党のひとつである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかしながら、2017年の第48回衆議院議員総選挙では、自公両党で319議席を獲得し圧勝したものの、公明党自体は総選挙直前に誕生した旧民主党・民進党系の立憲民主党と希望の党の新党の間に埋没する形となったことも影響し、下野した第45回衆議院議員総選挙以来8年ぶりに、小選挙区(神奈川県第6区)で落選者が発生し小選挙区8議席、比例代表も定数削減のあおりを受け特に北関東ブロック・南関東ブロックを中心に得票を減らし21議席に終わり、合計29議席となり、目標としていた公示前議席維持の35議席を下回った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2019年7月の第25回参院選では、公認候補者を擁立した7つの選挙区(埼玉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡)において、前回に続き全勝。比例でも7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得。これは前回・2016年に並ぶ最多議席となった。自公連立政権の与党は併せて改選定数124の過半数(63)を超える計71議席を獲得したが、改選議席(77)からは6減らした。非改選議員を含めた参院全体では自民・公明の連立与党、それに改憲に前向きな野党の日本維新の会と無所属を加えた「改憲勢力」の非改選議席は79と参議院における全議席の3分の2である85議席を超えず、日本国憲法改憲の発議が可能な圧倒的多数となる3分の2を確保できなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2021年10月の第49回衆議院議員総選挙では、小選挙区の公認候補9名全員と比例区23名の当選を果たし、公示前から3議席増の32議席を獲得した(比例代表:得票数 7,114,282、得票率 12.38%)。自由民主党(261議席)、立憲民主党(96議席)、日本維新の会(41議席)に次ぐ第4党となり、自公両党では過半数の293議席を獲得して圧勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年7月の第26回参議院議員通常選挙では、選挙区の公認候補7名全員と比例区6名の当選を果たし、公示前から1議席減の13議席を獲得した(比例代表:得票数 6,181,431.938、得票率 11.66%)。非改選との合計で27議席となり、自由民主党(119議席)、立憲民主党(39議席)に次ぐ第3党となった。自公両党では76議席を獲得して圧勝した。しかし、比例獲得票が目標の800万票を大幅に下回る618万票になるなど、支持層の高齢化による組織力の衰えも指摘された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2023年4月の第20回統一地方選挙では、現在の公明党が再結成された1998年以降で最多となる12人の落選者を出した。山口は選挙結果について「日本維新の会の新人が積極的に立候補し、大量得票した。一方で投票率がそれほど上がっているわけではなく、既存の勢力が割を食った」と述べた。特に練馬区議会議員選挙では前回選と同じ11人を擁立したが、当落線上に公明候補7人が並び、うち4人が落選した。合計得票は3万5000票弱で、前回から約5000票減らており、支持層の高齢化による組織力の弱まりが改めて指摘された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)以前の創価学会文化部時代は、創価学会員でなおかつ文化部員としての手続きをしなければ党活動に参加することができなかった。言論出版妨害事件以後の組織分離により学会員以外にも門戸が開放され、現在は党規約4条に「党の綱領及び規約を守り政策および諸決議を実現するために党活動に参加しようとする18歳以上の人は国籍を問わず」党員として入党することができると定められている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "入党の手続きは地元の党所属議員を経由する方法のほか、創価学会員であれば支部・地区・区本部といった末端組織を通じて紹介を受けることができる。学会員であるからという理由で強制的に入党させられることはない。入党希望者は既存党員2名の紹介を付けた所定の入党申込書に本人が自筆で記入し、初年度の党費を添えて支部または総支部長に提出する。支部長はこれを都道府県本部に送り、都道府県代表の承認を受けることにより手続きが完了する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "年額3,000円の党費支払いの他に、機関紙を購読することが規約7条で推奨されている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお『公明新聞』『月刊公明』『公明グラフ』の配達と集金は聖教新聞販売店に委託されており、聖教新聞と公明新聞の両方を購読している党員にはそれぞれ別々の領収証が発行される。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "創設者の池田大作はこれまで党役員はもとより党員にもなったことはない。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "党本部は東京都新宿区南元町にあり、党本部に近い別のビルに公明新聞編集局が所在する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "公明党所属の国会議員は衆議院・参議院両院でそれぞれ、地方議会議員は各議会ごとに議員団を編成する。これら組織の連絡機関として、全国議員団会議 および全国地方議員団会議 が存在する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "公明党の地方組織は、ブロックに相当する方面本部(ほうめんほんぶ)、都道府県本部、総支部、支部 の4段階からなる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「方面」は創価学会の制度に準じたもので、他の政党にない公明党独自の地域概念である。関東地方は東京方面(東京都および山梨県)、東海道方面(神奈川県と静岡県)、関東方面(東京・東海道両方面に属しない関東5県、埼玉県・千葉県・群馬県・栃木県・茨城県)の3つに分けられ、福井県が関西方面に属し、沖縄県は九州の他の県と違って単独で方面を持つなど全部で13の方面本部があり、衆議院比例代表選挙のブロック分けとも異なる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "党所属の国会議員は、出身または活動拠点としている都道府県が属する方面に関与することを義務付けられる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "自民党の都道府県支部連合会、民主党の総支部連合会に相当する組織が、この都道府県本部となる。必要に応じて、傘下に選挙区連合会や総支部連合会、支部連合会といった中間組織を設けることもできる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "公明党の総支部は、国会議員の選挙区を基本とする旧民主党のそれとは異なり、むしろ日本共産党の地区委員会に近いものと位置付けられる。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "このため東京23区では各区ごとに設置されているが、他の政令指定都市では複数の行政区を統括している場合もある。都道府県・政令市・東京23区の区議会議員は基本的には総支部を拠点とする。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "党内最末端組織となる支部は、自民党の地域支部、民主党の行政区支部に近いとされる。一般市ないしは町村議会の議員は支部を基本として活動する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "党の内規では「任期中に66歳を迎えない」ことを選挙における公認条件としており、事実上の定年制を設けていた。ただし、藤井富雄(引退時81歳)や坂口力(引退時78歳)や池坊保子(引退時70歳)、太田昭宏(引退時76歳)、井上義久(引退時74歳)など例外も存在する。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "その後所属議員の高齢化に伴い、2013年12月の党中央幹事会で定年を66歳から69歳に引き上げた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、この際に在職制限(次の任期中に在職24年を超えない)も導入された。年齢制限と在職制限については、「余人をもって代えがたい」「地元からの強い続投要請」「その人物が党運営に今後も必要」の3条件をすべて満たした場合、慣例的に例外とすることが可能とされている。2020年時点ではリクルート事件を契機とした1990年代の世代交代で誕生した「第2世代」と呼ばれる議員らが党の中核を担っており、この「第2世代」の大半が年齢制限か在職制限に該当するため、どこまで例外を適用するかが党の課題となっていると報じられた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "公明党は公式HPにおいて創価学会の仏法の理念に基づいて活動してきたことを明記している。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "公明党の草創期はあくまで創価学会の所轄内にあったことや、創価学会と一体となった活動が行われた経緯から、「憲法に定められた政教分離原則に反する」「公明党と創価学会は政教一致」という批判がマスコミや有権者から上がったことがある。1970年(昭和45年)の「言論出版妨害事件」に端を発した公明党と創価学会との「政教一致」批判に対し、制度的分離を明確化して以降(詳細後述)も同様の批判はある。一方で、日本国憲法の定める「政教分離」とは、国家の宗教的中立性を定めたものであり、宗教団体の政治活動を否定したものではないということには留意を要する。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、創価学会員が大阪あいりん地区に住む日雇い労働者らに候補者名の氏名の入ったタバコや現金を渡したとして、幹部の小泉隆、池田大作を含む創価学会員ら47人が公職選挙法違反で逮捕された。池田は無罪となったが45人に有罪判決が下され、有罪となった会員45名は戸田会長の名で会員除名処分を受けた。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)に行われた参議院議員選挙で不在者投票を悪用し、本人になりすまして投票が行われたとされる選挙違反事件があった。創価学会員14人が逮捕され、14人全員に有罪判決が下された。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)7月に行われた東京都議会議員選挙において、投票時間が過ぎたため投票不可を選挙管理委員会から通達された公明党支持者が逆上し、大勢が投票所を取り囲んで襲撃した上、女性・高齢者を含む投票立会人4人に集団暴行を加えて流血させた。後に1名が逮捕・起訴された。1970年(昭和45年)5月、共産党の青柳盛雄は、衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会でこの事件について政府見解を求めた。詳細は「練馬区投票所襲撃事件」参照のこと。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "創価学会員が組織的に選挙前に住民票を異動し公明党候補へ投票しているという噂が出たことがある。これらの噂はいずれも根拠が確認されておらず、発言者もデマであることを認めている(地方選挙の場合、3ヶ月1日前から居住していないと選挙権は得られない)。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)の参議院選挙で逮捕者が出て、地方新聞に掲載された。佐賀新聞の報道によると、逮捕された学会員が不在者投票所の入り口で「公明党の候補者名を書くように言ってある。メモを持たせてある」などと佐賀市選挙管理委員会職員に直接話したのを佐賀警察署の署員が聞いていたという。埼玉新聞の報道によると、羽生市の介護福祉士が自身の勤める老人介護施設の利用者に公明党の埼玉選挙区と比例代表の特定候補者2人の名前を記したメモを持たせて投票させ、投票に干渉した疑いで逮捕されたことを報じた。ただし、自民党や民主党の支援者も同様の行為を行い、逮捕されている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)の衆議院選挙で、神奈川県内に住む創価学会の女性幹部3名が重度の知的障害をもつ女性とともに投票所に現れ、あたかも知的障害をもつ女性が公明党に投票意思があるように見せかけ投票しようとしたとして公職選挙法違反で逮捕された。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)の参議院選挙で、宮崎県の女性3人が知人の複数の高齢者の手の平に「選挙区の自民候補と比例代表の公明候補の名前をペンで書き投票を誘導した疑い」を持たれた。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙で、愛媛県の公明党支持者が「比例代表は公明党、選挙区は塩崎恭久氏(愛媛1区、自民党)」というメモを判断能力に欠けた高齢女性(認知症患者)に持たせて投票させた容疑で検挙された。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "信者が投票を指示したという具体的な物的証拠が少なく、判断能力の低下した認知症などに罹患した高齢者が標的にされているケースも多く、犯行の証言を得ることが難しいからである。投票所の監視を強化してもイタチごっこであると、警察など捜査関係者は頭を悩ませている。もっとも、投票の依頼は公職選挙法で認められており、「投票を指示」されても実際の投票行動は本人次第である。また、「投票干渉」公明党は以前から支持母体創価学会の会員が中心となり友人、知人に対し公明党への電話による投票依頼を行なっており(「F票獲得工作」という)、選挙前の風物詩とさえ言われたが、近年ではインターネットの普及により電話での投票依頼はあたかも学会員が選挙違反をしている印象を与えかねず、(電話で投票依頼した行為を)面白おかしくネット上に書き込まれることを危惧する学会幹部がいるため、最近では学会員に選挙期間中の家庭訪問や電話での投票依頼を控えさせているという。最近では通信費用がかからないLINEで「投票に行く」事実のみを伝えるよう指示を出す幹部もいる。それは投票依頼をLINEで行った場合、学会を嫌う層からメッセージをスクリーンショットで保存されネット上に拡散される恐れがある。しかし、学会婦人部からはソフト路線とも取れる学会の変化に不満の声が出ているという。ただ、創価学会の会員が必ずしも公明党を支持し、投票をしているわけではない。どこの政党を支持し投票をするかについては会員の自由となっている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお、選挙期間中の電話による投票依頼は公職選挙法で認められている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "生活保護の受給に関し公明党の市議が口利きを行っていた事実がある。その中では不正受給も認定されている。例として1999年(平成11年)5月から2003年(平成15年)6月にかけて公明党市議の母親が生活実態がないにもかかわらず、生活保護を申請し生活保護費を不正に受給していた。本件では申請を行う際、公明党市議が自ら市職員に口利きを行ったことが確認され、受給後市の担当者が、公明党市議の母親の1年問の水道や電気の使用量を調べた結果、一般的な一人暮らしの数か月分しかなかったため不正受給とみなし多賀城市議会は、公明党市議や親族に対して生活保護を打ち切った上で、市議会において返還請求訴訟を起こすことを賛成多数で可決した。全議員22名のうち反対は公明党議員2名だけだった。また週刊ポストの調査では公明党市議の母親は以前居住していた塩竈市でも同様の手口で生活保護費を受給していた事が確認されたが受給された生活保護費がどのように使われたかは全く不明としている。最後に決議に反対した公明党議員へ(党籍が同じというだけで)は返還請求訴訟に反対するのであれば公明党は党全体で生活保護の不正受給を容認していると締めくくられている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "週刊文春の増元照明へのインタビュー記事(2002年11月28日)によると、まず、増元照明の父・正一、姉・るみ子、るみ子と一緒に拉致された市川修一が創価学会員であることを明かし、増元るみ子と市川修一は創価学会青年部の勉強会で知り合って交際を始めたことを明らかにした。さらに自身について「信仰心は無いが、名簿上は創価学会員として登録されている」と思うとし、「姉が行方不明になった時は、必死に拝んだ」と告白した。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "公明党に対しては(自民党との連立政権で与党となった)1999年に浜四津敏子が鹿児島県に訪問した時に父・正一が拉致問題解決の協力を求め、浜四津は「分かりました」と発言したが、以後、連絡が来ることはなかった。また、増元照明は公明党本部にメールで姉が創価学会員であることを書いて「拉致問題に対する公明党の対応を教えて欲しい」と頼んだが、「メールありがとうございました。ご意見は検討させていただきます。」との定型メールが返ってきただけであった。また、増元照明は公明党参議院議員で外務省出身の山本香苗にもメールを送ったが山本からは返事すら返ってこなかった。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "また、1997年、横田滋と蓮池透が都議会で「拉致事件の早期解決を国に要請する意見書」を採択してもらうよう都議会各党に頼んだが、公明党が反対し全会一致が得られず、意見書の採択ができなかったという。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "朝鮮日報社の『月刊朝鮮』は、1997年(平成9年)に行われた韓国大統領選挙前に新政治国民会議の金大中候補が日本で秘密裏に公明党幹部と面会し、韓国創価学会から支持を得られるように依頼し、友人を通じて公明党幹部が了承していたと報道した。大統領選挙では金候補がハンナラ党の李会昌候補に約30万票の僅差で勝利したが、当時の韓国創価学会の有権者は60万人から80万人程であり、創価学会の応援要請が事実なら韓国大統領が日本の公明党の協力で誕生したことになると『月刊朝鮮』は締めくくっている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "公明党は、党中央では辺野古移設に賛成の立場だが、党沖縄県本部は反対の立場である。沖縄戦の経験から沖縄の創価学会では伝統的に反戦意識が強いと言われてきた。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2014年沖縄県知事選挙では、党沖縄県本部が辺野古移設に反対して自主投票になり、移設反対の翁長雄志が自民推薦で移設賛成の仲井眞弘多を破り当選した。この選挙では、公明支持者の8割以上が翁長に投票したと見られている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2018年2月、辺野古を抱える名護市の市長選挙では、辺野古移設容認の自民系候補・渡具知武豊を党沖縄県本部も推薦し、勝利に貢献したが、内心“苦渋の選択”を迫られた学会員も多かった。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2018年沖縄県知事選挙では、8月に急逝した翁長の路線を引き継いだ玉城デニーが、自民・公明・維新・希望が推薦した佐喜眞淳ら3氏を破り初当選した。この選挙では玉城は辺野古移設反対を言明していたが、佐喜眞は最後まで辺野古移設の賛否を明かさなかった。公明陣営では県外から大量の学会員が来て人海戦術をとったが、肝心の沖縄の学会員の動きは鈍く、3割近い票が玉城へと流れたとされる。また9月に琉球新報社が沖縄テレビ放送、JX通信社と合同で行った世論調査によると、翁長が辺野古新基地建設に伴う埋め立て承認を撤回したことについて、沖縄県全体では翁長支持が不支持を大きく上回っていたが、公明党支持者の中でも翁長支持が不支持を上回っていたというデータが出ていた。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2019年沖縄県民投票では、全体では辺野古移設のための埋め立て工事に賛成18.99%、反対71.74%、どちらでもない8.70%となった。朝日新聞の出口調査によると公明支持者では賛成30%、反対55%、どちらでもない16%となった(無回答や四捨五入のため合計が100%にならない)。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "公明党は以前からマニフェストで斡旋やわたりを年内に廃止し、早期退職慣行の廃止など天下りを3年で根絶し行政の無駄追放を行う要旨を発表した。しかし、2007年に行政改革担当大臣渡辺喜美から、独立行政法人の改革をめぐり、所管法人の廃止・民営化などで協力を求められた際、国土交通大臣だった公明党の冬柴は渡辺に対し法人組織の民営化を拒否するなど「ゼロ回答」を行った。マニフェストと違う回答に身内の公明党や支持母体創価学会から激しい批判が寄せられ、衆議院予算委員会で同じ公明党の富田茂之が冬柴に「官僚の天下りに対して追及する民主党議員の行動は正しい」などと指摘、冬柴も支持者から抗議の手紙が届いたことを答弁した。その後も公明党は選挙のマニフェストで天下りの根絶を謳い、2017年2月6日の衆議院予算委員会でも高木美智代が天下りの根絶を訴えたが、2017年の衆議院総選挙で公明党はそれまでの方針を転換し、従来の「天下りの根絶」との文言をマニフェストから削除した。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "国の借金は1998年(平成10年)には約408兆円だったのに対し、2008年(平成20年)には約607兆円と約1.5倍に膨れ上がった。財源を確保するため、2003年に健康保険の本人負担増(2割→3割)を実施させ、ホワイトカラーエグゼンプションへの支持 を表明した。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "『週刊実話』によれば、公明党内では、創価学会名誉会長池田大作が日本国内の勲章を授与されていないことから、公明党所属の国会議員(党首経験者や閣僚経験者含む)は旭日大綬章など勲章の受賞リストに名前が挙がった段階で、池田に配慮し自ら受賞を辞退するという慣習が存在していたという。 ただし、公明党・創価学会と対立した場合は別で、委員長経験者である竹入義勝(1996年・旭日大綬章)や矢野絢也(2010年・旭日大綬章)は受章している。『週刊実話』によると、竹入や矢野の受章に対して創価学会から「恩知らず」「裏切り者」という罵詈雑言が起こっているというが、その客観的根拠は示されていない。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)11月27日の参議院「宗教法人等に関する特別委員会」で、自民党の関根則之は、当時の創価学会事務総長原田稔(後の創価学会会長)が外務省官房長の小和田恒(皇太子徳仁親王妃雅子の父)に宛てて「本年1月末より2月中旬にかけて、池田大作(創価学会名誉会長)一行が教育・文化交流のため、香港並びにASEAN3か国(タイ・マレーシア・シンガポール)を約2週間に渡り、(下記の日程で)訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます」といった内容の手紙を送り、外務省が創価学会や池田に配慮や便宜を図ったのではないかと主張した。関根は池田大作および長男の池田博正の証人喚問を要求し、理事会で審議されたが、外務省、宮内庁、創価学会ともに「根拠のない」話であるとして否定した上、池田の証人喚問は見送られた。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "しんぶん赤旗によると、公明党から創価学会への報告書は宛先が書かれているが、池田大作名誉会長宛の報告書だけは宛先を空欄にするように徹底されている。万が一の時、池田に責任が及ばないようにするためである。報告書が公明党に戻ってくる時、赤でレ点がついていることもあるがそれは池田が「見た」という印であり、意見が書いてあることもある。党の国対で決めたことが報告書を見た池田のひと声で変わることもある。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "元警察庁長官で後に内閣官房長官を長期に務めた後藤田正晴は、1998年に講談社から出版した回顧録『情と理―後藤田正晴回顧録』で警察官僚時代を振り返り、日本社会党と民社党は警察庁のマークの対象外だったとし、「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは、共産党と公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」と述べている。この聞き取りを行った御厨貴が後に公明党代表の山口に話したところ、いやな顔をしたと述べている。一方、2005年8月にTBS系列の討論番組『時事放談』に出演した際には、公明党に対して「福祉と平和の立党の精神、これをいつまでも守ってもらいたい」と期待を寄せている。", "title": "論議のある問題" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "一人区と二人区は自民党の候補者を推薦し、党公認の候補者は擁立しない。", "title": "参議院議員通常選挙の選挙区候補者擁立" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "三人区は兵庫県と福岡県は党公認の候補者を擁立するが、北海道と千葉県は自民党の候補者を推薦し、党公認の候補者は擁立しない。", "title": "参議院議員通常選挙の選挙区候補者擁立" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "四人区(埼玉県、神奈川県、愛知県、大阪府)と六人区(東京都)は党公認の候補者を擁立する。", "title": "参議院議員通常選挙の選挙区候補者擁立" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "(参考文献:石川真澄〈一部山口二郎による加筆〉『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)", "title": "党勢の推移" } ]
公明党は、日本の政党。宗教団体の創価学会を支持母体として中道政治の実現を目指して結成された。 略称は公明。1字表記の際は公。現在の党キャッチコピーは、「声を、聴く力」。 1999年10月5日から2009年9月16日まで、および2012年12月26日から現在まで自由民主党と自公連立政権を構成している。
{{政党 | 国名 = {{JPN}} | 党名 = 公明党<div style="font-size:smaller">Komeito</div> | 色相 = {{New Komeito Party/meta/color}} | ロゴ = [[ファイル:Komeito Logo (Japan).svg|200px]] | 画像 = New Komeito Party Headquaters.JPG | 画像サイズ = 300px | 画像説明 = [[公明党#本部|公明党本部(公明会館)]] | 党首職名 = [[公明党代表|代表]] | 党首氏名 = [[山口那津男]] | 副党首職名 = 副代表 | 副党首氏名 = [[北側一雄]]<br />[[古屋範子]]<br />[[斉藤鉄夫]] | 下院代表職名 = 幹事長 | 下院代表氏名 = [[石井啓一]] | 上院代表職名 = 参議院議員会長 | 上院代表氏名 = [[西田実仁]] | 成立年月日 = {{start date and age|1964|11|17}}{{Efn|1998年11月7日に再結成(後述)<ref>藤井正, 五十嵐仁. [https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#沿革 日本大百科全書(ニッポニカ) - 公明党 #沿革] [[コトバンク]]. 2018年12月12日閲覧。</ref>。1994年に公明新党と公明に分かれた後、前者は[[新進党]]に合流。}}<ref>{{Cite news |title=結党50年を迎えて 公明党代表 山口那津男 |newspaper=公明新聞ニュース |date=2014-11-17 |url=https://www.komei.or.jp/news/detail/20141117_15498 |accessdate=2019-07-28 |publisher = [[公明新聞]] }}</ref><ref>[[宇野俊一]]ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 [[講談社]]、1991年、1127頁。{{ISBN2|4-06-203994-X}}。</ref> |前身政党 = 公明政治連盟<ref name="Britannica">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237 |title=公明党 こうめいとう |accessdate=2019-07-27 |website=[[コトバンク]] |work=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 }}</ref> | 郵便番号 = 160-0012 | 本部所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[南元町 (新宿区)|南元町]]17<br /><small>{{coord|35|40|44.4|N|139|43|16.9|E|region:JP|display=inline}}</small> | 下院 = [[衆議院]] | 下院議員数 = 32 | 下院議員定数 = 465 | 下院議員集計年月日 = 2021年11月1日現在 | 上院 = [[参議院]] | 上院議員数 = 27 | 上院議員定数 =248 | 上院議員集計年月日 = 2022年10月7日現在 | 議席 = 都道府県議数 | 議員数 = 197 | 議員定数 = 2668 | 議員集計年月日 = 2022年12月26日現在<ref name="giseki1">{{Cite web|和書|url=http://www.komei.or.jp/member/ |title=公明党 所属議員検索 |publisher=公明党 |accessdate=2022-1-26 }}</ref> | 議席2 = 市区町村議数 | 議員数2 = 2689 | 議員定数2 = 29762 | 議員集計年月日2 = 2022年12月26日現在<ref name="giseki1" /> | 党員・党友数 = 約450,000人 | 党員・党友数集計年月日 = 2021年9月30日現在{{Cite news |title=党概要|newspaper=|date=|url=https://www.komei.or.jp/about/outline/|accessdate=2021-11-11|publisher = 公明党ウェブサイト}} | 政治的思想・立場 = [[中道政治|中道]]<ref>{{kotobank|公明党|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア] コトバンク. 2020年9月11日閲覧。</ref><ref name="nipponica1">[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] コトバンク. 2020年9月11日閲覧。</ref><ref>{{Cite |和書 | author = 上原行雄他監修 | title = 用語集 政治・経済 新訂第5版 | date = 2018 | edition = | publisher = 清水書院 | isbn = 978-4-389-21725-9 | series = | ref = harv }}</ref>{{Efn|文献やメディアによって[[中道右派]]<ref>{{bulleted list |{{Citation |first=Anne Mette |last=Fisker-Nielsen |title=Religion and Politics in Contemporary Japan: Soka Gakkai Youth and Komeito |publisher=Routledge |year=2012 |page=86}} |{{cite web|language=fr |title=Élections au Japon: Shinzo Abe reste aux commandes |url=https://www.lexpress.fr/actualite/monde/asie/elections-au-japon-shinzo-abe-reste-aux-commandes_1954687.html |work=[[L'Express]] |date= 22 October 2017 |access-date= 29 February 2020}}}}</ref>や[[中道左派]]<ref name="a">[https://president.jp/articles/-/28291?page=1 公明党が"創価学会員"から批判される理由 [[プレジデントオンライン]]]</ref><ref name="b">{{Wayback|url=https://news.tbs.co.jp/newsi_sp/frontline/20200214.html|title=TBS NEWS「国会トークフロントライン」|date=20200812180759}}</ref>とされることがある。}} <br />[[リベラル]]<ref name="a" /><ref name="b" /><br />「[[人間性]][[社会主義]]」<ref name="nipponica"/><ref name="nipponica2">藤井正, 五十嵐仁. [https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#綱領・政策 日本大百科全書(ニッポニカ) - 綱領・政策] コトバンク. 2018年8月29日閲覧。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/topic/New-Komeito |title=New Kōmeitō political party, Japan |accessdate=2019-07-27 |author=The Editors of Encyclopaedia Britannica |website=britannica.com |publisher=[[:en:Encyclopædia Britannica, Inc.|Encyclopædia Britannica, Inc.]] |quote=New Kōmeitō, English New Clean Government Party, formerly Kōmeitō, Japanese political party that was founded in 1964 as the political wing of the Buddhist lay movement Sōka-gakkai. It advocates “'''humanitarian socialism''',”... |language=en }}</ref><br />「[[地球]][[民族主義]]」<ref name="nipponica2"/><ref name="kyouryou">[https://www.komei.or.jp/about/platform/ 綱領 党概要 公明党] 2018年8月29日閲覧。</ref><br />[[草の根民主主義]]<ref name="kyouryou"/><br />[[地方分権|地方主権]]<ref name="kyouryou"/><br />[[ヒューマニズム|人間主義]]<ref name="kyouryou"/><ref name="shinsengen">[https://www.komei.or.jp/about/declaration/ 新宣言 党概要 公明党] 2018年8月29日閲覧。</ref><br />[[国連中心主義]]・[[国際協調主義|国際主義]]<ref name="kyouryou"/><ref name="shinsengen"/><br />[[平和主義]]<ref>[https://www.komei.or.jp/content/heiwa2018/ 「平和の党」が金看板 TOPICS 公明党] 2018年8月29日閲覧。</ref><br />[[政治改革]]・[[行政改革|行財政改革]]<ref name="manifesto2017">[https://www.komei.or.jp/campaign/shuin2017/manifesto/manifesto2017.pdf 公明党 Manifesto 2017 衆院選 重点政策]</ref><br />生命の尊厳<ref name="kyouryou"/><br />生活者優先<ref name="kyouryou"/><br />大衆とともに<ref name="kyouryou"/><br />庶民の党<ref name="kyouryou"/><br />人間と自然の調和<ref name="kyouryou"/> | 機関紙 = 『[[公明新聞]]』<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E6%96%B0%E8%81%9E-63235#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] コトバンク. 2018年8月28日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|author=藤井正, 五十嵐仁 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#党組織 |title=公明党 こうめいとう #党組織 |accessdate=2019-12-10 |website=[[コトバンク]] |work=日本大百科全書(ニッポニカ) }}</ref> | シンボル = | 政党交付金 = 3005417000 | 交付金算定基準 = 2021年10月20日決定<ref>{{Cite press release|和書|title=令和3年分政党交付金の10月分の請求及び交付額|publisher=総務省|date=2021-10-20|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000774140.pdf}}</ref> | ウェブサイト = https://www.komei.or.jp/ | サイトタイトル = komei.or.jp | 国際組織 = | その他 = [[創価学会]]第3代会長(現:名誉会長)[[池田大作]]を創立者とする。創価学会を母体とする。<br />シンボルマーク「全ての人々に平等に降り注ぐ太陽<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.komei.or.jp/km/tanabe/2017/12/23/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5/ |title= 公明党のロゴマークの由来 |accessdate=2019-12-10 |website= 篠栗町議会議員 たなべ弘之 }}</ref>」 }} '''公明党'''(こうめいとう、{{Lang-en|Komeito}}{{Efn|[[英語]]表記は、結党時の[[1964年]]([[昭和]]39年)から[[新進党]]合流時の[[1994年]]([[平成]]6年)までは「{{lang|en|Komeito}}」だったが、[[1998年]](平成10年)の公明党再結成時に「{{lang|en|New Komeito}}」に改められた。[[2014年]](平成26年)9月25日、公明党結党50年を機に「{{lang|en|Komeito}}」との英語表記を復活させた<ref>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/articles/ASG9T410LG9TUTFK007.html|title=公明、「NEW」とります 結党50年機に英語表記変更:朝日新聞デジタル|date=20140926015323}}</ref>。}})は、[[日本の政党]]<ref name="Britannica"/>。[[宗教団体]]の[[創価学会]]<ref name="Ncom20141107">{{Cite web|和書|date=2014-11-07 |url=http://www.nippon.com/ja/currents/d00145/ |title=公明党結党50年・自公協力15年——その曲折と妥協の歴史 |work=nippon.com|publisher=一般財団法人ニッポンドットコム |accessdate=2016-10-21}}</ref>を支持母体として[[中道政治]]の実現を目指して結成された<ref>政治・経済教育研究会 編 『政治・経済用語集 第2版』 [[山川出版社]]、2019年、77頁。{{ISBN2|978-4-634-05113-3}}</ref>。 略称は'''公明'''<ref name="yomiuri2017">{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2017/?from=ycnav2 |title=衆院選2017 衆院選 選挙・世論調査 |accessdate=2019-07-28 |year=2017 |website=yomiuri.co.jp |publisher=[[読売新聞社]] }}</ref>。1字表記の際は'''公'''<ref name="yomiuri2017"/>。現在の党[[キャッチコピー]]は、「'''声を、聴く力'''」<ref>{{cite news |title=小さな声を、聴く力。 統一選、参院選へ 新イメージポスター 山口代表が発表|newspaper=[[公明新聞]]|url=https://www.komei.or.jp/komeinews/p24397/|accessdate=2019-07-08|date=2019-03-15}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/politics/news/190314/plt1903140032-n1.html|title=公明、参院選へ新ポスター「声聴く姿勢」強調 - 産経ニュース|date=20190708141539}}</ref>。 1999年10月5日から2009年9月16日まで、および2012年12月26日から現在まで[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と[[自公連立政権]]を構成している<ref>自民・公明で293議席を獲得 岸田総裁「貴重な信任を得た」 自由民主党公式サイト)</ref><ref>写真で読む公明党の55年 自公連立政権が発足 (1999〜) (公明党公式サイト)</ref><ref>与党党首会談についての会見 (首相官邸(内閣総理大臣官邸)公式サイト)</ref><ref>NHK放送史 自自公連立政権の誕生 (NHKアーカイブス)</ref>。 == 概説 == [[1964年]]の結党後、党としては[[1965年]]の[[第7回参議院議員通常選挙]]、[[1967年]]の[[第31回衆議院議員総選挙]]で国会の議席を確保した。[[1993年]]の[[第40回衆議院議員選挙]]での[[55年体制]]崩壊後の[[非自民・非共産連立政権]]では初の政権入りを果たし、再び[[野党]]になった[[自社さ連立政権]]下での選挙である[[1996年]]の[[第41回衆議院議員選挙]]では[[新進党]]に合流し第二党になるも、その後公明党に復帰し、[[1999年]]から[[自由民主党 (日本)|自民党]]との[[自公連立政権]]を成した。[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]後の[[民社国連立政権]]・[[民国連立政権]]では野党になったが、次の[[2012年]]の[[第46回衆議院議員総選挙]]で自民党が政権与党に復帰してから再び連立を形成し、[[2023年]]現在は与党である。 支持母体は[[宗教法人]]の[[創価学会]]である<ref>{{cite news|title= 公明、連立相手は経世会から清和会に 自公連立20年|date=2019-10-10|accessdate=2021-11-12|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50795450Z01C19A0PP8000/|publisher=日本経済新聞}}</ref><ref>{{cite news|title= 神崎公明党元代表「小泉時代、対立経て関係強く」 自公連立20年 |date=2019-10-08|accessdate=2021-11-12|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50721590X01C19A0PP8000/ |publisher=日本経済新聞}}</ref><ref>{{cite news|title= 公明党元代表・神崎武法(5) 「いかんざき」で有名に |date=2018-01-12|accessdate=2021-11-12|url= https://www.sankei.com/article/20180112-2TOQ42QARFPADHKGE2HT27M2SA/ |publisher=産経新聞}}</ref><ref>{{cite news|title= 創価学会、異例の発表 参院選支援は「人物本位」|url= https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79620410X20C22A1PD0000/|publisher=日本経済新聞|date=2022-01-28}}</ref><ref>{{cite news|title=自民と公明 参院選での選挙協力めぐり調整難航|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220129/k10013455601000.html|date=2022-01-29|publisher=NHK}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title= 創価学会、今夏の参院選比例区で 選挙支援は「人物本位」 中央社会協議会で萩本議長が談話 |url= https://www.komei.or.jp/komeinews/p226222/|website=公明党|date=2022-01-28|accessdate=2022-01-29}}</ref>。[[政教分離原則|政教分離]]に関して、[[1988年]]の[[質問主意書]]への内閣の回答で、政党は[[日本国憲法第20条|憲法第二十条]]第一項後段の「政治上の権力」に当たらないという見解を示している<ref>{{Cite web|和書|title= 宗教法人「創価学会」の運営等に関する質問主意書|url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/a113010.htm|website=衆議院|accessdate=2021-11-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title= 衆議院議員大橋敏雄君提出宗教法人「創価学会」の運営等に関する質問に対する答弁書 |url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b113010.htm|website=衆議院|accessdate=2021-11-12}}</ref>。また、[[2014年]]の質問主意書でも政党所属者が公職につき国政を担っても「政治上の権力」の行使に当たらないとしている<ref>{{Cite web|和書|title= 第186回国会 223 我が国における政教分離の原則に係る内閣官房参与の発言に関する質問主意書|url= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/186223.htm|website=衆議院|accessdate=2021-11-15}}</ref>。 == 歴史 == === 中道政党としての結党 === 公明党は[[宗教団体]]の'''[[創価学会]]'''が支持団体(支持母体)である。{{要出典範囲|date=2023年12月26日 (火) 15:53 (UTC)|他に支持を表明する団体などは不明であるが、過去には[[日本国有鉄道|旧国鉄]]の労働組合の一つであった[[全国鉄道施設労働組合]](全施労・[[国鉄分割民営化]]に伴い[[鉄道労働組合|鉄労]]等と統合し[[全日本鉄道労働組合総連合会|JR総連]]に再編)など、公明党を支持する[[労働組合]]も存在した}}。 [[第二次世界大戦]]後、[[日蓮正宗]]の信徒団体であった創価学会(1991年に日蓮正宗から破門)が宗教法人として規模を拡大させ、1954年(昭和29年)11月、政界進出を目的として創設した文化部が源流である。文化部は翌1955年(昭和30年)の[[第3回統一地方選挙]]で[[首都圏 (日本)|首都圏]]の自治体議会選挙に候補者を擁立し、合計で53議席を得た。 1956年(昭和31年)には国政進出を果たし、[[第4回参議院議員通常選挙]](1956年)で3議席を、[[第31回衆議院議員総選挙]](1967年)で25議席を獲得した{{Sfn|薬師寺|pp=40-41}}。 初期の政界進出の旗振り役となったのは創価学会第2代会長[[戸田城聖]]と後の第3代会長[[池田大作]]である。政界進出の動機としては以下が挙げられる。 * 国民生活を改善するには、密接にかかわっている政治を変革することが大事である。 * 政界に創価学会の人材を輩出しより良き社会を建設する。 * 住民のための、住民による政治{{Sfn|公明党50年の歩み|pp=23}}。 1960年(昭和35年)に池田が第三代会長に就任すると政界進出の動きは加速し、1961年(昭和36年)には政治局、同年11月には政治団体の'''公明政治連盟'''(こうめいせいじれんめい)へと改組し、メディアの発信や各界への人材輩出を強化した{{Sfn|薬師寺|pp=41-50}}。 1963年(昭和38年)の[[東京都議会議員選挙]](都議選)では17議席を獲得し、[[55年体制]]の下、戦後しばらく日本の国政で[[二大政党制]]を構成した自由民主党・[[日本社会党]]に次いで第3党に躍進する。 1964年(昭和39年)に創価学会から公明政治連盟が切り離されて独立し、現在の日本の国政政党の'''公明党'''が誕生した。11月17日の結党大会は当時国内で最大級の規模を誇る施設であった[[日本大学]]講堂(当時、旧[[両国国技館]])で挙行され、1万5000人の党員が集結した。結成大会には[[ニューヨーク・タイムズ]]含め外国メディア14社の記者が取材に訪れた{{Sfn|公明党50年の歩み|51ページ10行目}}。 [[綱領]]は次のようなものであった。 *一、宇宙時代にふさわしい世界観、恒久平和への新しい指導理念の確立が、今日ほど強く渇仰される時代はない。この待望の指導理念こそ、生命哲学の神髄、王仏冥合の大理念であると堅く信ずる(注:王仏冥合、読み:おうぶつみょうごう=[[王法]]とは政治を意味し、[[仏法]]とは思想であり生命哲学である。この王法と仏法を冥合させて、社会の繁栄と個人の幸福を一致させるという政治理念<ref>読売新聞1964年11月17日夕刊2面</ref>)。公明党は、王仏冥合の大理念を高く掲げて、地球民族主義にのっとり、人類の危機を救い、世界に恒久平和の礎を築くことを誓うものである。 *二、[[資本主義]]、[[社会主義]]の両体制に共通する基本的欠陥は、人間疎外、人間性の抑圧である。公明党は、豊かなる人間性の尊重を基調とする人間性社会主義によって、個人の幸福と社会の繁栄が一致する大衆福祉の実現を確約するものである。 *三、公明党は、国民大衆の中に仏法民主主義、すなわち人間性尊重を基調とした真実の[[民主主義]]の基盤をつくり、大衆とともに前進する真実の大衆政党である。言論、[[思想・良心の自由|思想]]、信仰の[[自由]]等、基本的[[人権]]を尊重するはとうぜんである。われわれは大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいくことを誓うものである。 *四、大衆をして[[政治不信]]のやむなきにいたらしめたのは、まったく既成政党の重大な責任といわねばならぬ。また政治の[[賄賂]]は、とくに選挙の腐敗に端を発する。公明党は、腐敗選挙を徹底的に追放し、腐敗政治と断固戦って、公明なる議会制民主政治を確立することを誓う。 その後、国政では1967年(昭和42年)に[[衆議院]]・[[参議院]]両院で45議席を獲得する大所帯となり、国会でも第三党の勢力を形成する程になる。この年の党大会では委員長に[[竹入義勝]]、書記長に[[矢野絢也]]が就任する。結党当初の公明党は国政・地方政治ともに行政当局との関係が希薄であったため、徹底した現場主義・調査主義に力を注いだ。 特に、安全保障面で[[在日米軍]]基地や[[アメリカ合衆国による沖縄統治|米国統治下の沖縄]]の軍事基地問題については[[防衛施設庁]](現在の[[防衛省]]の一部)以上の調査を行い、防衛施設庁から「大いに参考になる」とのコメントが発表されるほどであった{{要出典|date=2020年1月}}。 公明党の行動は即物的なものが多く、同じ野党でも[[イデオロギー]]に基づく抽象的議論を行っていた日本社会党や[[日本共産党]]とは対照をなした{{Sfn|薬師寺|pp=51-60}}。{{要出典範囲|date=2023年12月26日 (火) 15:53 (UTC)|これについては、[[カール・マルクス|マルクス]]や[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]に端を発する[[社会主義]]([[マルクス主義]]、または科学的社会主義)・[[共産主義]]思想というものが、[[世俗主義]]・[[唯物論]]・[[無神論]]的イデオロギーへの波及をも生み、実際に[[社会主義国]]・共産主義国([[冷戦]]下での旧[[東側諸国]])においては、市民の[[信教の自由]]も実質保障されることもなく、国家・政府による宗教[[弾圧]]が行われていったという歴史的背景もある中で、あくまで[[資本主義]]が維持される社会の中にあって、宗教的思想をバックボーンにする支持母体が、あまり「[[左翼|左派]]・[[右翼|右派]]」や「[[保守政党]]・[[革新政党]]」といった従来の対立構造に執着することでなく、「中道政党」と謳っているように、政治面で影響を及ぼすという点において、戦後の日本政治における政党としての存在意義を見出しているという}}。 === 言論出版妨害事件と政教分離 === 1969年末、創価学会を批判する[[藤原弘達]]の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長[[田中角栄]]に働きかけていたことが公になる(「[[言論出版妨害事件]]」)。 翌1970年にかけて、創価学会が同様の行為を常習的に行っていたことが露見し、[[日本国憲法第21条]]で保障されている「[[言論の自由]]」を侵すものとして社会的な批判を受けた。これを発見した[[不破哲三]]と[[日本共産党]]は国会で徹底追及を行い、藤原に取材も行い、池田の[[証人喚問]]まで要求したが、当時の[[第2次佐藤内閣 (第2次改造)|佐藤栄作政権]]は野党分断を狙って要求をかわし続け、池田の喚問は回避された。以降しばらく、公明党は自民党に対する事実上の閣外協力を余儀なくされる{{Sfn|薬師寺|pp=60-67}}。 1970年5月3日、創価学会総会で池田が事件を謝罪し、創価学会と公明党との間の体質の改革を宣言する。具体的には「政教分離」の徹底で、 * 創価学会幹部の議員兼職を廃する。池田自身も、今後とも政界進出はしない。 * 公明党の自立性を高め、創価学会は党の支持団体の立場に徹する。選挙などの政治活動はあくまで党として行い、創価学会は支持団体としての応援に留まる。 * 「国立戒壇」構想は国教化を意味するものではなく、以降、この言葉を一切使わない。 * 創価学会会員の活動で問題を起こした時には、厳正に処罰する。 などといった方針が打ち出された。 6月25日、党大会で新しい綱領が制定され、綱領からは宗教用語が全て削除された{{Sfn|薬師寺|pp=68-72}}。 === 伯仲国会と野党連携の模索 === 1970年、前年の総選挙で大敗した日本社会党では、右派の[[江田三郎]]の主導で「[[社公民路線]]」が提唱され、江田は[[西ヨーロッパ|西欧]]型の[[社会民主主義]]を目指す「江田ビジョン」を提唱するが、[[マルクス・レーニン主義]]を唱える左派との論争で劣勢を強いられる。それでも1972年の[[第33回衆議院議員総選挙]]では、社公民三党で選挙協力を行ったが、公明党は言論出版妨害事件のイメージなどが原因で大敗を喫す。民社党も議席を減らし、復調した日本社会党との連携がうまくゆかずに、社公民路線は頓挫した{{Sfn|薬師寺|pp=91-93}}。 1974年の[[第10回参議院議員通常選挙]]では、野党各党は表向きは全野党結集の方針を掲げ、公明党も日米安保条約の即時破棄を訴えるなど、史上最も革新寄りの主張で選挙に臨む。結果、[[狂乱物価]]によって自民党が議席を減らして[[伯仲国会]]を実現させたものの、選挙後には一転して野党間で対立が起こった。 翌年にかけて、創価学会と共産党との間で相互理解などの交渉が行われ、1975年7月、[[創共協定]]が成立する。しかし、公明党の支持者である創価学会員は、もともと革新的な日本共産党のイデオロギーとは相反し、党組織の末端では協定に対する動揺が広がった。党執行部は、創価学会による頭越しの協定締結に反発し、協定の解釈を巡って日本共産党との批判合戦が巻き起こる。創価学会もこの論争に加勢せざるを得ず、あっという間に協定は死文化してしまう。公明党は10月の党大会で革新色を打ち消し、日本共産党とは完全に袂を分かった{{Sfn|薬師寺|pp=93-102}}。 1976年、[[第34回衆議院議員総選挙]]で自民党が過半数割れとなって以降、自民党からは中道政党に対して秋波が送られるようになる。1978年の公明党大会で、竹入は[[自衛隊]]容認の考えを表明し、政治路線については[[保守]]勢力との連携に含みを持たせた。1979年の[[四十日抗争]]では自民党主流派の[[大平正芳]]から竹入に対して連立の呼びかけもあったという。11月の首班指名選挙では大平陣営から決選投票前に大平へ首班投票するよう依頼されるが、公明党は決選投票を棄権した<ref>第89回国会本会議第2号1979年11月6日 2017年10月9日閲覧</ref>。 一方で日本社会党は、右派の指導者であった江田の離党・死去により左傾化と弱体化の兆しを見せており、1980年、社公民路線で臨む夏の参院選に向けて[[社公連合政権構想]]が締結された。ところが[[ハプニング解散]]により、衆参同日選挙が執行されることとなり、連携の前提が崩れた上、解散当初は主流派と反主流派で[[分裂選挙]]の様相を見せていた自民党が、大平の急死により対立を解消する。選挙では自民党が圧勝し、伯仲国会は終わりを告げた。選挙後、新たな政権構想では政権の特徴として「反自民政権」を削除し、本格的に[[自公民路線]]へと舵を切った{{Sfn|薬師寺|pp=102-106}}。 === 自民党接近と連立政権への参加 === 1984年、自民党が[[二階堂擁立構想]]で揺れた際には、竹入は[[鈴木善幸]]と密に連絡を取り、二階堂が首相になった場合には三党で連立を組む構想も練られた。二階堂の擁立は不発に終わったが、竹入は「次の機会には上着を脱ぎ捨ててでも入っていく」と話した。1986年の衆参同日選挙で自民党が圧勝すると、竹入に代わって矢野が委員長に就任する。一方、社会党では左派の[[土井たか子]]が委員長に就任したため、公明党と社会党の距離はますます離れ、公明、民社両党は競って自民党との連携をアピールするようになる{{Sfn|薬師寺|pp=106-112}}。 1990年前後、政界では[[リクルート事件]]などの汚職事件が相次いだが、公明党でも関与を疑われる議員が相次ぐ。1989年5月、矢野が自身のスキャンダルで引責辞任し、[[石田幸四郎]]が後任の委員長に就任する。7月の[[第15回参議院議員通常選挙]]では社会党の一人勝ちで自民党は大敗し、公明党も議席を減らした。[[ねじれ国会]]となったため野党各党は政権構想を相次いで発表し、公明党は「石田見解」で社会党に対して大胆な路線変更を求めた。 しかし社会党の「土井構想」は相変わらず安全保障に否定的で、民社党の「[[永末英一|永末]]ビジョン」は社会党の党是を真っ向から否定する事実上の「門前払い」であったため、連合政権構想はまとまらなかった。1990年の[[第39回衆議院議員総選挙]]では自民党が安定多数を確保し、野党では社会党が独り勝ちとなったため、野党間での話し合いの空気は消えた。石田は連合政権協議の頓挫について社会党を批判し、自民・社会・中道の三極体制で国会に臨むことを宣言する{{Sfn|薬師寺|pp=113-119}}。 [[参議院]]で過半数を失っていた自民党にとっては、参議院の公明党の議席が政権運営にとって非常に重要であった。自民党幹事長の[[小沢一郎]]は社会党と絶縁した公明党に接近し、[[連立政権]]をも暗に持ちかけてきた。小沢のカウンターパートである公明党幹事長の[[市川雄一]]が、後に「[[キャスティング・ボート]]を握ったことが、公明党を変えた」と述懐しているように、公明党は個別の法案の賛否をその都度判断する立場をとる。 1991年、創価学会が日蓮正宗から破門を受け、池田大作が除名処分を受ける。[[湾岸戦争]]に際しては、翌1992年の[[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO法]](国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)審議で自公民三党による交渉を続け、「宮澤内閣信任決議」案に野党ながら公明、民社両党が賛成して可決の上で、PKO法案成立にこぎ着けた。この過程で市川と小沢の仲はより親密なものとなり、この時点で市川は政界再編・公明党解体にすらも踏み込んだ発言を始めていた{{Sfn|薬師寺|pp=120-132}}。 1993年、小沢らの造反により[[宮澤内閣 (改造)|宮澤内閣]]の不信任案が可決し、自民党は分裂する。[[第40回衆議院議員総選挙]]で自民党は半数を大きく割り込み、社会党は新党に埋没してやはり大敗を喫す。選挙後、[[非自民・非共産連立政権|非自民・非共産野党]]による[[細川内閣]]が発足する。公明党は結党29年にして初めて与党に参画し、委員長の石田以下4人が[[国務大臣|閣僚]]に就任した。市川は小沢とともに与党間の政策協議を主導したが、小沢の運営手法の荒さが原因で軋轢が生じ、1年足らずで連立政権は崩壊した{{Sfn|薬師寺|pp=133-136}}。 === 分党と新進党への参加 === [[File:1990年代の政党の離合集散.jpg|thumb|right|1990年代の政党の離合集散]] 政治改革の過程で衆議院の選出が[[小選挙区比例代表並立制]]に移行していたため、反自民連合の旧与党による新党が結成される必要が生じた。しかし各党派の中でも公明党は大量の党職員と地方議員を抱えており、地方議会の多くでは自民党と連立を組んでいたため、直ちに丸ごと新党に合流できない事情があった。そこで、改選の近い衆議院議員と1995年改選の参議院議員が先行して新党に加わることとなり、1994年12月5日、公明党は先行参加組による暫定的な政党「'''公明新党'''」と後発組「'''公明'''」に分党される。公明新党は10日に解散し、同日結成の[[新進党]]に合流した。地方議員は党職員とともに「公明」に残って事実上の公明党の身分で活動し、機関紙も「公明」が発行され続けた{{Sfn|薬師寺|pp=136-141}}。 新進党は1995年の[[第17回参議院議員通常選挙]]で自民党に肉薄する戦績を残す。その要因は自民党と社会党が手を結んだことに加え、[[阪神・淡路大震災]]や[[オウム真理教事件]]の対応に不満を持つ無党派層の得票に学会票による票の上積みがプラスされたことであり、総選挙でもこの連携に加えて[[無党派]]層を取り込めれば[[政権交代]]は確実という見方もあった{{Efn|ただし、一部では民主党が誕生したことで無党派層の反自民票分散を危惧する声もあった。}}。これに危機感を抱いた自民党は、学会・公明党と新進党との離反を図る。参院選後の国会ではオウム真理教事件を受けて[[宗教法人法]]改正案が審議されたが、審議の過程で自民党は学会名誉会長である池田の参考人招致を要求する(その後、会長[[秋谷栄之助]]の参考人聴取で決着する)。この法改正自体はオウム事件の後を受けたものであり、輿論の支持も高かった。「学会が法改正に反対している」というイメージを除くために、新進党側は法案審議を前にして政務会長の市川らを党の要職から外した。市川らはこれに反発し、市川らと幹事長である小沢との間に亀裂が生じた。その後も自民党は[[政教分離原則]]に絡めて公明党を揺さぶりつつ、創価学会と近い[[平成研究会|竹下派]]が公明グループの新進党からの離脱を働きかける{{Sfn|薬師寺|pp=141-143,152-163}}。 旧公明党は徐々に新進党から離反し始め、1996年の地方選挙では学会員が新進党候補を応援せずに自主投票としたり、あるいは自民党の候補をあからさまに応援するなど分裂選挙化した。[[第41回衆議院議員総選挙]]では公明党や創価学会の選挙協力が万全に進まず、一部選挙区では創価学会が人物本位のもと対立候補の自民党や[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]の候補者へ投票するなど票が分裂した。さらに新進党が無党派層の票を集めることができずに政権交代に失敗したため、選挙直後から議員の離党が相次ぐようになる{{Efn|中には自民党幹事長[[加藤紘一]]の説得に応じて自民党入りした新進党議員もいた。}}。1997年12月、「公明」は新進党への合流を見送り、翌1998年の参院選は完全に独自で戦うことを決定する。直後に新進党は分裂し、完全消滅した{{Sfn|薬師寺|pp=143-145}}。 以後、公明党がこの分党・新進党合流について言及することはほとんどなかったが、1999年の党大会では「出自の違う複数の政党が強引に二大政党をつくったために上手くゆかなかった」との総括が打ち出されている{{Sfn|薬師寺|pp=184-185}}。 === 自公連立政権 === 新進党分裂後、小沢が率いた[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]を除く党派は[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に結集したが、公明党との合流については創価学会との相性がネックになって合流話は持ちかけられなかった。新進党の公明党グループに属する衆議院議員は「'''新党平和'''」、参議院議員は「'''黎明クラブ'''」を結成する(その後、両者は完全に合流し、1998年11月7日に「公明党」として再結成を果たす。再結成時の代表は[[神崎武法]]である)。この時期の公明党に秋波を送っていたのは自民党で、1998年4月28日、自民党は機関紙『自由新報』にかつて掲載した池田と学会員との内紛に関する記事について謝罪文を掲載した{{Sfn|薬師寺|pp=166,170-172}}。 7月の[[第18回参議院議員通常選挙]]で自民党が大敗し、ねじれ国会下で再び公明党がキャスティング・ボートを握った。同年秋の臨時国会では自民党は法案ごとに各党の協力を得ながら乗り切る。こうした背景から自民党と公明党の連立構想が沸き上がるが、公明党は以前自民党と鋭く対立していた手前、いきなり二党のみによる連立には反対であった。そこで、野党の中で孤立しつつあった自由党を交えた三党での連立交渉を始める。こうして1999年1月にまず成立したのが自自連立である。 公明党内部では、[[連立政権]]参加に対する反対論がくすぶっていたが、自自両党による衆議院比例区の定数削減議論に参加するため、公明党は7月に連立参加を決定し、10月5日に[[小渕内閣 (第2次改造)|小渕恵三第2次改造内閣]]が発足する。しかし翌2000年2月に定数削減の法案が成立して以降、小沢は自自両党の合流を巡って小渕と対立し、自由党は連立を離脱する。その後、自由党の連立離脱反対派が結成した[[保守新党|保守党]]が2003年に自民党へ合流するに至り、自公二党の連立政権(自公連立政権)が誕生するに至った{{Sfn|薬師寺|pp=172-180}}。 2009年の[[第45回衆議院議員総選挙]]では10議席減の21議席で惨敗、1955年の結党以来初めて衆議院第1党を失った自民党とともに、公明党としては10年ぶりに再び下野した。この時、[[太田昭宏]]代表が落選し、後任に[[山口那津男]]参議院議員が就任した。2012年の[[第46回衆議院議員総選挙]]では31議席を獲得し、圧勝した自民党とともに再度政権与党に返り咲き、[[第2次安倍内閣]]より[[自公連立政権]]が復活した。2010年の[[第22回参議院議員通常選挙]]では[[参議院比例区|比例区]]の得票数・獲得議員数が[[みんなの党]]を下回ったが、2013年の[[第23回参議院議員通常選挙]]では比例区の得票数が全政党中2位に浮上。2014年の[[第47回衆議院議員総選挙]]では小選挙区で全員が当選するなどして現行制度下で最多の35議席を獲得。 2016年の[[第24回参議院議員通常選挙]]では選挙区7人が当選、参院選における選挙区で獲得した議席として、結党以来歴代最多の圧勝をおさめ、衆参両院で自公をはじめとする改憲勢力が、[[日本国憲法]]改憲の発議が可能な、圧倒的多数となる3分の2を確保することに大きく貢献するなど、現在も国会でキャスティング・ボートを握る政党のひとつである。 しかしながら、2017年の[[第48回衆議院議員総選挙]]では、自公両党で319議席を獲得し圧勝したものの、公明党自体は総選挙直前に誕生した旧民主党・民進党系の[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]と[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]の新党の間に埋没する形となったことも影響し、下野した第45回衆議院議員総選挙以来8年ぶりに、小選挙区([[神奈川県第6区]])で落選者が発生し小選挙区8議席、比例代表も定数削減のあおりを受け特に北関東ブロック・南関東ブロックを中心に得票を減らし21議席に終わり、合計29議席となり、目標としていた公示前議席維持の35議席を下回った<ref>{{cite news | author = 木下訓明 | url = https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171023/k00/00m/010/343000c | title = 衆院選公明、小選挙区落とす | newspaper = 毎日新聞 | publisher = 毎日新聞社 | date =2017-10-23 | accessdate = 2017-12-20 }}</ref>。 2019年7月の[[第25回参議院議員通常選挙|第25回参院選]]では、公認候補者を擁立した7つの選挙区([[埼玉県選挙区|埼玉]]・[[東京都選挙区|東京]]・[[神奈川県選挙区|神奈川]]・[[愛知県選挙区|愛知]]・[[大阪府選挙区|大阪]]・[[兵庫県選挙区|兵庫]]・[[福岡県選挙区|福岡]])において、前回に続き全勝。比例でも7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得。これは前回・2016年に並ぶ最多議席となった。自公連立政権の与党は併せて改選定数124の過半数(63)を超える計71議席を獲得したが、改選議席(77)からは6減らした。非改選議員を含めた参院全体では自民・公明の連立与党、それに改憲に前向きな野党の[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]と無所属を加えた「改憲勢力」の非改選議席は79と参議院における全議席の3分の2である85議席を超えず、日本国憲法改憲の発議が可能な圧倒的多数となる3分の2を確保できなかった<ref>[https://www.asahi.com/senkyo/senkyo2019/ 2019 参議院選挙] 朝日新聞</ref>。 2021年10月の[[第49回衆議院議員総選挙]]では、小選挙区の公認候補9名全員と比例区23名の当選を果たし、公示前から3議席増の32議席を獲得した(比例代表:得票数 7,114,282、得票率 12.38%)。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]](261議席)、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]](96議席)、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]](41議席)に次ぐ第4党となり、自公両党では過半数の293議席を獲得して圧勝した。 2022年7月の[[第26回参議院議員通常選挙]]では、選挙区の公認候補7名全員と比例区6名の当選を果たし、公示前から1議席減の13議席を獲得した(比例代表:得票数 6,181,431{{small|.938}}、得票率 11.66%)。非改選との合計で27議席となり、自由民主党(119議席)、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]](39議席)に次ぐ第3党となった。自公両党では76議席を獲得して圧勝した。しかし、比例獲得票が目標の800万票を大幅に下回る618万票になるなど、支持層の高齢化による組織力の衰えも指摘された<ref>{{Cite web|和書|title=「組むメリットがなくなってきている」連立与党の冷え込む関係 “10増10減”選挙区調整めぐり不満続出 |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/373364 |website=TBS |access-date=2023-03-12 }}</ref>。 [[2023年]]4月の[[第20回統一地方選挙]]では、現在の公明党が再結成された1998年以降で最多となる12人の落選者を出した。山口は選挙結果について「日本維新の会の新人が積極的に立候補し、大量得票した。一方で投票率がそれほど上がっているわけではなく、既存の勢力が割を食った」と述べた<ref>{{Cite news |title=公明、統一選の落選者12人 98年以降で最多 当選率も最低|newspaper=毎日新聞|date=2023-04-24|url=https://mainichi.jp/articles/20230424/k00/00m/010/189000c|accessdate=2023-05-07}}</ref>。特に[[練馬区議会]]議員選挙では前回選と同じ11人を擁立したが、当落線上に公明候補7人が並び、うち4人が落選した。合計得票は3万5000票弱で、前回から約5000票減らており、支持層の高齢化による組織力の弱まりが改めて指摘された<ref>{{Cite web|和書 |title=公明、衆院選に危機感 統一選12人落選、自民と不協和音|website=時事ドットコム|date=2023-05-01|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023043000253&g=pol|accessdate=2023-05-07}}</ref>。 == 沿革 == === 1950年代 === * 1954年(昭和29年) : 創価学会第2代会長・戸田城聖が前年の参院選で組織としての選挙投票依頼を受けたことを機に会に「文化部」を設置し、選挙の出馬予定者を部員に任命<ref name="sgkaibou">朝日新聞[[AERA|アエラ]]編集部 『創価学会解剖』([[朝日新聞社]] 2000年1月1日) {{ISBN2|978-4022612861}}</ref><ref>大白蓮華1954年5月号20 - 22ページより引用</ref>。 * 1955年(昭和30年) : 11月 第3回統一地方選挙に文化部の会員が出馬。 * 1956年(昭和31年) : 7月 第4回参議院議員通常選挙で3名が当選。 : 8月 戸田が『[[大白蓮華]]』に「王仏冥合論」を執筆し、創価学会の政治進出を理論づける<ref name="sgkaibou"/>。 * 1957年(昭和32年) : 6月27日 理事長小泉隆が参議院[[大阪府選挙区]]の第3回補欠選挙において買収行為を行なったとされ[[大阪府警察]]に[[逮捕]]される。また同年7月4日には渉外部長だった池田が会員に戸別訪問および買収を指示したとの嫌疑で逮捕、[[起訴]]された。{{main|大阪事件 (創価学会)}} * 1959年(昭和34年) : 6月 [[第5回参議院議員通常選挙]]で6人が当選、参議院の総議席数は9議席に。 === 1960年代 === * 1961年(昭和36年) : 11月27日 公明党の前身「公明政治連盟」を発足。 * 1962年(昭和37年) : 7月 [[第6回参議院議員通常選挙]]において9人が当選。参議院の議席数は15議席に。自由民主党、社会党に次ぐ第3党となる。 * 1963年(昭和38年) : [[1963年東京都知事選挙]]で、自民党が推薦する[[東龍太郎]]を支援<ref name="sgkaibou"/>。 * 1964年(昭和39年) : 11月17日 「公明政治連盟」を改組し、「公明党」を設立。 : 池田が『政治と宗教』(鳳書院)を出版。「王仏冥合」の理念をベースにした政治論を訴える<ref name="sgkaibou"/>。 * 1965年(昭和40年) : 7月4日 [[第7回参議院議員通常選挙]]において11人が当選、参議院の議席数は20議席に。 * 1967年(昭和42年) : 衆議院選挙直前に、池田が「憲法擁護」「大衆福祉」「安保の段階的解消」などを含む公明党の方針を公表<ref name="sgkaibou"/>。 : 1月 [[第31回衆議院議員総選挙]]で25議席を獲得し、衆議院に初進出。その後の党人事で衆議院議員の竹入義勝と矢野絢也がそれぞれ委員長と書記長に就任。党の比重を衆議院に重きを置くようになる。 * 1968年(昭和43年) : 7月7日 [[第8回参議院議員通常選挙]]で12名が当選、3議席増の23議席となるが、支持母体創価学会による集団替え玉投票事件が起き学会員14名が逮捕されるなど[[社会問題]]化する。{{main|新宿替え玉事件}} * 1969年(昭和44年) : 12月 「言論出版妨害事件」を巡り、「政教一致」に対する社会的批判を受ける。{{main|言論出版妨害事件}} : 12月27日 [[第32回衆議院議員総選挙]]では47議席を獲得、[[民社党]]を抜き、社会党に次ぐ[[野党]]第2党に。 === 1970年代 === * 1970年(昭和45年) : 5月3日 日本大学講堂における創価学会第33回本部総会において池田が「言論出版妨害事件」について謝罪。「国立戒壇」の教義の撤回、創価学会と公明党の役職の分離などを表明<ref name="sgkaibou"/>。 : 矢野が社会党書記長の江田三郎、民社党書記長の[[佐々木良作]]らと共に、社公民連合政権構想による『新しい日本を作る会』を結成。 * 1971年(昭和46年) : 6月27日 [[第9回参議院議員通常選挙]]において10人当選。参議院の議席数は1議席減の22議席に。 : 第一次訪中団を派遣<ref name="sgkaibou"/>。日中復交五原則を提案。 * 1972年(昭和47年) : 6月 竹入を団長とする訪朝団が[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)を訪問。北朝鮮の[[金日成]][[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]との共同声明で、[[主体思想]](チュチェ思想)を指針として、社会主義建設で大きな進歩をとげたことを取り上げた<ref name="『公明新聞』(1972年6月7日付)">『公明新聞』(1972年6月7日付)</ref>。 * 1973年(昭和48年) : 3月 竹入が[[東京都知事]][[美濃部亮吉]]と会談し、都議会における[[与党]]入りに合意<ref name="sgkaibou"/>。 : 9月 「中道革新連合政権構想」を発表、「日米安保即時廃棄」に路線転換<ref name="sgkaibou"/>。 * 1974年(昭和49年) : 第10回参議院議員通常選挙において14人が当選、参議院の議席数は24議席に。 : 10月 創価学会と日本共産党の間で「[[日本共産党と創価学会との合意についての協定|創共協定]]」が締結。 * 1977年(昭和52年) : 第11回参議院議員通常選挙において14人当選。議席は25議席に。 * 1979年(昭和54年) : 民社党との[[公民連合政権構想]]に合意。 : 10月の衆院選において、公明党は57議席を獲得。日本社会党・民社党・[[社会民主連合|社民連]]・[[新自由クラブ]]の4党と選挙協力し、自民党を過半数割れに追い込む。 : 12月 民社党と「中道連合政権構想」で合意<ref name="sgkaibou"/>。 === 1980年代 === * 1980年(昭和55年) : 1月 社会党と「連合政権構想」で合意<ref name="sgkaibou"/>。 : 6月22日 ハプニング解散によって初の[[衆参同日選挙]]が実施。選挙期間中に大平正芳[[内閣総理大臣|総理]]が逝去、自民党が分裂ムードから融和ムードへと変わったことから参議院においては12人が当選、参議院の議席数は26議席になったが衆議院では票が伸び悩み57議席から33議席へと議席を減らす惨敗を喫した。 * 1981年(昭和56年) : 8月25日 - 8月9日 竹入を団長とする代表団が[[大韓民国]]を初訪問。[[大統領 (大韓民国)|大統領]][[全斗煥]]をはじめ政府首脳と会談。 * 1983年(昭和58年) : 6月22日[[第13回参議院議員通常選挙]]において14人が当選。参議院の議席数は27議席に。 : 12月18日 [[第37回衆議院議員総選挙]]では58議席を獲得。 * 1984年(昭和59年) : 10月 [[自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]における[[二階堂進]]擁立に矢野らが協力<ref name="sgkaibou"/>。{{main|二階堂擁立構想}} * 1986年(昭和61年) : 再び衆参同日選挙となる。[[第14回参議院議員通常選挙]]において10人当選。参議院の議席数は3議席減の24議席に。第38回衆議院議員総選挙でも2議席減の56議席に。 : 12月 委員長に矢野絢也、書記長に[[大久保直彦]]が就任<ref name="sgkaibou"/>。 * 1989年(平成元年) : 委員長に石田幸四郎、書記長に市川雄一が就任<ref name="sgkaibou"/>。第15回参議院議員通常選挙では自民党への逆風による批判票が社会党1党のみへ流れたため獲得議席は10議席。参議院全体で3議席減の21議席と議席を減らしたが選挙直後の[[内閣総理大臣指名選挙|総理大臣指名選挙]]では参院での[[決選投票]]で公明党は[[日本社会党委員長|社会党委員長]]土井たか子を支持し[[自由民主党総裁|自民党総裁]][[海部俊樹]]を破る{{Efn|[[日本国憲法]]における[[衆議院の優越]]により最終的に総理は海部俊樹に決まる。}}。 === 1990年代 === * 1990年(平成2年) : 第39回衆議院議員総選挙では再び自民党への逆風、批判票が社会党1党のみへ流れたため公明党は45議席へと議席を減らす。 : 4月 「4野党連合政権協議」を凍結<ref name="sgkaibou"/>。 * 1991年(平成3年) : 2月 [[湾岸戦争]]に対する90億[[ドル]]の追加支援に賛成<ref name="sgkaibou"/>。 : 4月 [[1991年東京都知事選挙]]において、自民党と共に[[磯村尚徳]]を擁立したが、自民党都連が推した現職の[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]に敗北<ref name="sgkaibou"/>。 * 1992年(平成4年) : 6月 [[国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律|PKO協力法]]成立に協力<ref name="sgkaibou"/>。 : 7月 [[第16回参議院議員通常選挙]]において一部の選挙区で初めて自民党と選挙協力を行なう。また議席は24議席へ。 * 1993年(平成5年) : 8月 [[細川護熙]][[日本新党]]党首を首班とした[[非自民・非共産連立政権]]である[[細川内閣]]に参画し、結党以来初の与党入りを果たす。[[総務庁|総務庁長官]]として委員長の石田が、[[郵政大臣]]として神崎武法が、[[労働省|労働大臣]]として[[坂口力]]が、環境庁長官として[[広中和歌子]]がそれぞれ入閣。 * 1994年(平成6年) : 4月 [[羽田孜]]前[[副総理]]を首班とした非自民・非社会・非共産の[[羽田内閣|羽田連立政権]]に参画。石田が再任され、他3人に代わり、[[運輸大臣]]として[[二見伸明]]が、郵政大臣として[[日笠勝之]]が、[[建設大臣]]として[[森本晃司]]が、[[科学技術庁長官]]として[[近江巳記夫]]が、環境庁長官として[[浜四津敏子]]がそれぞれ入閣。 : 6月 総理大臣指名選挙で海部俊樹支持も社会党委員長[[村山富市]]に敗北。[[村山内閣]]([[自社さ連立政権]])の成立により野党に転落。 : 12月4日 自民党が参議院特別委員会に池田大作名誉会長の参考人招致を画策、公明党員が委員長室前で[[ピケッティング|ピケ]]を行い抵抗。その後、池田の招致は見送られ、創価学会第5代会長の秋谷栄之助が[[参考人]]として出席。「政治に大衆の声を反映していく政治の実現を願って公明党の支援をして来た」、「政党が政権を目指すというのは当然のこと」、「政治によって何か利益を得るとか政治の力を借りて[[布教]]をするとか、自分達の[[宗教]]を[[国教]]化しようなどということは毛頭考えていない」などと述べる<ref name="k19951204">第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第8号 平成7年(1995年)12月4日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=113414446X00819951204 議事録])</ref>。 : 12月5日 「公明党」を解散し、[[政党助成法]]に基き「公明新党」と「公明」に分党。 : 12月10日 公明新党が[[新進党]]へ合流。 * 1995年(平成7年) :[[1995年東京都知事選挙]]で[[石原信雄]]を与野党相乗りで推薦したが[[青島幸男]]に敗北、同日に行われた大阪府知事選挙でも推薦候補が[[横山ノック]]に敗北 : 7月23日 第17回参議院議員通常選挙で新進党として初選挙に臨む。新進党は比例区第1党になり比例区で新進党は18人当選。選挙区でも躍進し自民党の単独過半数を阻止。 * 1996年(平成8年) : 1月18日 自民党が運動方針の中に、「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、[[宗教団体]]・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって[[国民]]を欺き、政治の権力を握ろうと画策していることである」という内容を盛り込む<ref>[http://www.liberal-shirakawa.net/magscrp/f21070401txt.html 創価学会党化した自民党] ─ 6 『フォーラム21』(2007年4月1日 通巻123号)</ref>。 * 1997年(平成9年) : 5月 旧・公明党系議員らが新進党内に党内グループ「公友会」を設立<ref name="sgtohananika">[[山田直樹 (ジャーナリスト)|山田直樹]] 『創価学会とは何か』([[新潮社]] 2004年4月15日)</ref>。 : 12月27日 新進党[[両院議員総会]]で分党が決定。 * 1998年(平成10年) : 1月4日 新進党から分党して新党平和、黎明クラブ(参議院議員が所属)が発足した。 : 1月6日 新進党の存続政党・小沢自由党に公明系から8人が参加 : 1月18日 公明が黎明クラブと合併し、参議院は公明に一本化される。 : 7月12日 第18回参議院議員通常選挙において9人が当選。議席数は前回と同数の22議席に。直後の総理大臣指名選で[[菅直人]]初代[[民主党代表]]を支持し参議院では[[小渕恵三]]自民党総裁を破る。 : 11月7日 「公明」と「新党平和」が合流し小沢自由党結党参加の議員も加わり「公明党」を再結成 : [[1998年沖縄県知事選挙]]で自民党推薦の新人[[稲嶺恵一]]を推薦し、現職[[大田昌秀]]を破る。 * 1999年(平成11年) : [[1999年東京都知事選挙]]で自民党が擁立した[[明石康]]を小沢自由党都連と共に推薦するも、[[石原慎太郎]]に完敗。 : 10月5日 自民党と自由党の[[連立政権]]に加わり、自自公連立政権([[小渕内閣 (第2次改造)|第2次小渕改造内閣]])が成立、5年ぶりに与党復帰。[[続訓弘]]が総務庁長官として入閣。 === 2000年代 === * 2000年(平成12年) : 4月1日 連立離脱の小沢自由党から保守党が分裂し、自公保連立政権となる。また同日、小渕が病に倒れる。 : 4月5日 [[第1次森内閣]]が成立。続が再任 : 6月25日 [[第42回衆議院議員総選挙]]で初めて与党側として選挙に臨む。議席は31議席と大きく減らしたが連立政権の過半数は維持 : 7月4日 [[第2次森内閣]]が成立。続が再任 : 12月5日 [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|第2次森改造内閣]]が成立。続に代わり、坂口が[[厚生省|厚生大臣]]兼労働大臣(2001年1月6日の[[中央省庁再編]]以降は[[厚生労働大臣]])として入閣 * 2001年(平成13年) : 4月26日 [[第1次小泉内閣]]成立。坂口が再任 : 7月29日 [[第19回参議院議員通常選挙]]では圧倒的な[[小泉旋風|小泉フィーバー]]の中で議席を1議席増やす。 * 2003年(平成15年) : 11月 [[第43回衆議院議員総選挙]]で初の「[[マニフェスト]]」を発表。議席は34議席となる。 : 11月19日 [[第2次小泉内閣]]が成立。坂口が再任。また、保守新党解散に伴い、この日以降麻生内閣まで自公連立政権となる。 * 2004年(平成16年) : 7月11日 [[第20回参議院議員通常選挙]]では11議席を獲得。議席は24議席となる : 9月27日 [[第2次小泉内閣 (改造)|第2次小泉改造内閣]]が成立。坂口に代わり、北側一雄が[[国土交通大臣]]として入閣 * 2005年(平成17年) : 9月11日 [[第44回衆議院議員総選挙]](郵政選挙)では自民党に圧倒的な追い風が吹くも連立を組む公明党へは追い風が吹かず、獲得は自民党の296議席に対し公明党は31議席と逆に議席を減らした。 : 9月21日 [[第3次小泉内閣]]が成立。北側が再任 * 2006年(平成18年) : 9月22日 首相就任直前の[[安倍晋三]]が池田と極秘裏に東京都内の創価学会の施設で会談し、次回の参院選での公明党や創価学会の協力を要請し、池田は協力を約束したと日経・毎日・朝日・読売の各紙、『[[週刊文春]]』が詳細を報じた。 : 9月26日 [[第1次安倍内閣]]が成立。北側に代わり、[[冬柴鐵三]]が国土交通大臣として入閣 : 9月30日 第6回公明党全国大会において、公明党代表に[[太田昭宏]]が[[無投票当選]]、幹事長に北側が就任。 : 10月11日 党代表の太田が、週刊文春が報じた安倍と池田との会談について「全く承知していない」と語り、安倍も国会で池田との面会の事実を全面否定した<ref>(『朝日新聞』1996年10月12日付)</ref><ref>[[第165回国会]] 参議院 予算委員会 1号 平成18年(2006年)10月11日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116515261X00120061011 議事録])、[[第166回国会]] 衆議院 予算委員書会 7号 平成19年(2007年)2月13日([https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/001816620070213007.htm 議事録])([http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=33410&media_type=wn&lang=j&spkid=901&time=07:17:50.0 「インターネット審議中継」] での[[亀井静香]]の安倍晋三への質疑の動画)</ref>。 : 12月 [[目黒ショック]] * 2007年(平成19年) : 2月9日 公費を使って海外を視察した公明党[[福岡市]]議団が、大半の文章をウェブサイトから盗作して視察報告書を作成し提出していたことが発覚<ref>『[https://www.j-cast.com/2007/03/16006236.html J-CASTニュース : ネット検索「ドンピシャリ」盗作判明 公明党福岡市議団の海外視察報告書]』([[ジェイ・キャスト]]、2007年3月16日)。</ref>、公明党福岡市議団は報告書を翌月再提出し公費負担の視察の自粛を表明。 : 7月29日 [[第21回参議院議員通常選挙]]では公明党も自民党批判の逆風の影響を受け票が伸びず選挙区での落選を含め当選は9議席と惨敗。議席は20議席となる{{Efn|後に松あきら議員が[[繰り上げ当選]]する。}} : 9月26日 [[福田康夫内閣]]成立。冬柴が再任 * 2008年(平成20年) : 1月13日 太田が第44回衆議院議員総選挙にて選挙カーの給油量を水増しして申請し東京都[[選挙管理委員会]]から燃料代を不正に受け取っていたと報じられる<ref>北林慎也・野村雅俊「公明・太田氏が不適正請求――05年総選挙ガソリン代――伊藤元金融相らも」(『朝日新聞』43730号、朝日新聞東京本社、2008年1月13日、31面)</ref>、翌日、太田が事実を認め謝罪<ref>太田昭宏『[http://www.akihiro-ohta.com/databank/column/day/1200362820.html 衆院選における選挙用燃料費について]』2008年1月14日。{{リンク切れ|date=2013年11月}}</ref>。 : 8月2日 [[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫改造内閣]]が成立。冬柴に代わり、[[斉藤鉄夫]]が[[環境大臣]]として入閣 : 9月16日 公明党代表選で太田が無投票で再選<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131103193230/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080916/stt0809162010010-n1.htm|title=公明党代表選 太田氏無投票再選|author=産経新聞|date=2008-9-16|accessdate=2008年9月17日|authorlink=産経新聞}}{{リンク切れ|date=2013年11月}}</ref>。 : 9月24日 [[麻生内閣]]成立。斉藤が再任 * 2009年(平成21年) : 8月30日 [[第45回衆議院議員総選挙]]では、民主党による[[政権交代]]の風を受けて、代表の太田、幹事長の北側など小選挙区候補の8人が全員落選、衆議院進出以来最低の21議席の惨敗となった。連立を組織する自民党も119議席と大敗。 : 9月8日 臨時全国代表者会議で[[山口那津男]]参議院議員の新代表就任を決定。新幹事長に井上義久を指名した。 : 9月16日 民主党中心の[[民社国連立政権]]である[[鳩山由紀夫内閣]]が誕生し、約10年間続いた[[政権]]与党から下野。自公連立を解消。 : 12月5日 第34回公明党全国県代表協議会において、この年代表に就任した山口那津男は、「山口ビジョン」を発表。「福祉の党」「教育の党」「平和の党」として、日本の将来を展望する3つの挑戦を掲げた<ref>{{Cite web|和書|title=山口ビジョン {{!}} 政策・実績 {{!}} 公明党 |url=https://www.komei.or.jp/policy/policy/vision.html |website=www.komei.or.jp |access-date=2022-09-27}}</ref>。 === 2010年代 === * 2010年(平成22年) : 7月11日 [[第22回参議院議員通常選挙]]では9人が当選。議席は2議席減の19となり当選人数、比例での得票数も民主党、自民党、みんなの党に次ぐ4番手に後退。しかし山口と[[谷垣禎一]]総裁率いる最大野党・自民党との選挙協力が実り連立与党の過半数獲得は阻止。 * 2012年(平成24年) : 6月15日 公明党が[[議員立法]]として提出した[[違法ダウンロードの刑事罰化|違法ダウンロードへの刑事罰導入]]を盛り込んだ著作権法改正案([[親告罪]]適用)が可決<ref>{{cite news |title=違法ダウンロード刑事罰化・著作権法改正案が可決・成立 10月1日施行へ |publisher=ITmediaニュース |date=2012-06-20 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/20/news090.html |accessdate=2012-06-20}}</ref>。 : 6月18日 民主・自民との[[消費税]]増税を基本とした[[三党合意]]を党として了承<ref name="jiji20120618">{{cite news |title=公明、3党合意を了承 |publisher=時事通信社 |date=2012-06-18 |url=http://jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012061800914 |accessdate=2012-06-20}}{{リンク切れ|date=2013年11月}}</ref>。 : 12月16日 [[第46回衆議院議員総選挙]]で31議席を獲得。自公政権が復活し、3年3か月ぶりに与党復帰。また、同日投開票の[[2012年東京都知事選挙]]では推薦候補の[[猪瀬直樹]]が圧倒的多数の得票数で当選を果たした。 : 12月26日 [[第2次安倍内閣]]が成立。太田前代表が[[国土交通大臣]]として入閣。 * 2013年(平成25年) : 7月21日 [[第23回参議院議員通常選挙]]で11議席を獲得。非改選議席を含めると20議席となった。 * 2014年(平成26年) : 2月9日 [[2014年東京都知事選挙]]で都本部の推薦候補・[[舛添要一]]が当選。 : 6月24日 憲法解釈変更による[[集団的自衛権]]の行使を限定容認。 : 9月21日 党全国大会で党の執行体制、議決体制を明確化。中央幹事会と常任役員会の役割を立て分け、中央幹事会を常設の議決機関に、常任役員会を最高執行機関にそれぞれ変更した<ref>[https://www.komei.or.jp/news/detail/20140922_14992 公明新聞:中央幹事会を議決機関に]</ref>。 : 12月14日 [[第47回衆議院議員総選挙]]で35議席を獲得。 : 12月24日 [[第3次安倍内閣]]が成立。太田が再任。 * 2015年(平成27年) : 10月7日 [[第3次安倍内閣 (第1次改造)|第3次安倍第1次改造内閣]]が成立。太田に代わり、[[石井啓一]]が国土交通大臣として入閣。 * 2016年(平成28年) : 4月24日 [[2016年日本の補欠選挙|前期補欠選挙]]投開票([[北海道5区]]・[[京都3区]])<ref>{{cite news |title=衆院北海道5区の補選、16年4月実施へ |newspaper=日本経済新聞 |date=2015-09-15 |url=https://r.nikkei.com/article/DGXLASFS15H4V_V10C15A9000000 |accessdate=2016-01-15}}</ref><ref>{{cite news |title=宮崎議員辞職へ:4月に京都3区補選 「想定外」の難題 |newspaper=毎日新聞 |date=2016-02-12 |url=http://mainichi.jp/articles/20160213/k00/00m/010/149000c |accessdate=2016-02-14}}</ref>。このうち、北海道5区では自民党の公認候補・[[和田義明]]を支援し<ref> {{Archive.today|url=http://mainichi.jp/senkyo/articles/20151225/k00/00m/010/031000c|title=衆院北海道5区補選:公明党は自民新人・町村氏娘婿を推薦 - 毎日新聞|date=20160226051115}}</ref>、無所属で[[民進党|民進]]・共産らが支援する野党統一候補との接戦の末、約12000票差で当選<ref>{{Archive.today|url=http://mainichi.jp/articles/20160425/ddn/041/010/008000c|title=衆院選:2補選 「安保回避」自民辛勝 北海道5区、支持者も不満 - 毎日新聞|date=20160426020123}}</ref>。 : 7月10日 [[第24回参議院議員通常選挙]]において公認候補者を擁立した7つの選挙区(埼玉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡)で全勝。これは、公明党が参院選選挙区で獲得した議席として歴代最多である。また比例では7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得した<ref>{{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016071000282&g=pol|title=並ぶ当確マーク、満面の笑み=改憲「自民とは違う」-公明党【16参院選】:時事ドットコム|date=20160711121423}}</ref>。これにより非改選議席と合計して、25議席となる。 : 7月31日 [[2016年東京都知事選挙]]で自民党や[[日本のこころ (政党)|日本のこころを大切にする党]]と共に[[増田寛也]]を推薦したが、増田は[[小池百合子]]に大差で敗北した。 : 10月23日 2016年後期補欠選挙投開票([[福岡6区]]・[[東京10区]])<ref>{{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102300022&g=pol|title=衆院2補選、自民制す=東京10区若狭氏、福岡6区鳩山氏-解散、慎重に判断・首相:時事ドットコム|date=20161218101446}}</ref>。このうち、東京10区補欠選挙で推薦した[[若狭勝]]が、民進党公認候補と諸派の候補の2名を破って当選<ref>{{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/20161023-OYT1T50094.html|title=衆院東京10区補欠選挙、若狭勝氏が当選 : 政治 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)|date=20170306213644}}</ref>。 : 12月14日 [[東京都議会]]の会派・都議会公明党が、1979年から続いてきた自民党会派(東京都議会自由民主党)との連携を見直し、事実上の連立解消を表明<ref>{{Cite web|和書|url=https://r.nikkei.com/article/DGXLASDG14HCP_U6A211C1CC1000|title=都議会公明「自民との連携見直し」 報酬削減案巡り溝|work=|year=2016|accessdate=2016-12-25}}</ref>。 * 2017年(平成29年) : 3月13日 - 小池百合子東京都知事率いる地域政党・[[都民ファーストの会]]と公明党東京都本部は、7月開催の[[2017年東京都議会議員選挙]]に向け、相互に候補を推薦するなど選挙協力を行うことを発表<ref> {{Wayback|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170313/k10010909491000.html|title=公明と都民ファーストの会が政策合意 選挙協力へ {{!}} NHKニュース|date=20170313100627}}</ref>。また、都民ファーストの会と都議会における公明党の会派「都議会公明党」と政策合意を締結したことも併せて発表。 : 7月2日 - 東京都議選投開票。都民ファーストの会との選挙協力の甲斐もあり、公認候補者全員の23人が当選<ref>[https://www.sankei.com/article/20170703-FG2DF3ATDRJSHMHNGNV7LFE554/ 【都議選投開票】公明党23人が全員当選、都議会第2党を堅持 都民ファーストの会との連携が奏功] 産経新聞 2017年7月2日</ref>。 : 10月22日 - [[第48回衆議院議員総選挙]]投開票。自民・公明の連立与党では、全議席の3分の2となる310議席を獲得する大勝。しかしながら、公明党自体は選挙前は35議席を目指していたが9年ぶりに小選挙区で落選者が発生し、小選挙区8議席。比例代表も定数削減の影響を受け21議席の計29議席に終わった<ref>[https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171023/k00/00m/010/343000c 衆院選公明、小選挙区落とす] 毎日新聞 2017年10月22日</ref>。 : 11月14日 - 都議会公明党は都民ファーストの会との関係解消を示した<ref name=Mai20171114>{{Cite news |title=都議会公明党「知事与党」関係解消へ |newspaper=毎日新聞 |date=2017-11-14 |url=https://mainichi.jp/articles/20171115/k00/00m/010/075000c |accessdate=2017-12-23 }}</ref>。また、都議会自民党との関係修復を目指す考えも示した<ref name=Mai20171114/>。 * 2019年(令和元年) : 7月21日 [[第25回参議院議員通常選挙]]において公認候補者を擁立した7つの選挙区(埼玉・東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡)で全勝。比例では7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得した。これにより非改選議席と合計して、28議席となる。 : 9月11日 - [[第4次安倍内閣 (第2次改造)|第4次安倍第2次改造内閣]]が成立。石井に代わり、[[赤羽一嘉]]が国土交通大臣として入閣。 === 2020年代 === * 2020年(令和2年) : 9月16日 - [[菅義偉内閣]]が成立。赤羽一嘉が、国土交通大臣として再任。 * 2021年(令和3年) : 7月4日 - [[2021年東京都議会議員選挙|東京都議選]]投開票。自民党との選挙協力を行い、公認候補者全員の23人が当選。 : 10月4日 - [[第1次岸田内閣]]が成立。赤羽に代わり、[[斉藤鉄夫]]が国土交通大臣として入閣。 : 10月31日 - [[第49回衆議院議員総選挙]]投開票。小選挙区の公認候補9名全員と比例区23名が当選。公示前から3議席増の32議席を獲得した(比例代表:得票数 7,114,282、得票率 12.38%)。[[自由民主党 (日本)|自由民主党]](261議席)、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]](96議席)、[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]](41議席)に次ぐ第4党となり、自公両党では過半数の293議席を獲得して圧勝した。 : 11月10日 - [[第2次岸田内閣]]が成立。斉藤が、国土交通大臣に再任。 * 2022年(令和4年) : 7月10日 - [[第26回参議院議員通常選挙]]投開票。選挙区の公認候補7名全員と比例区6名が当選。公示前から1議席減の13議席を獲得した(比例代表:得票数 6,181,431{{small|.938}}、得票率 11.66%)。非改選との合計で27議席となり、自由民主党(119議席)、立憲民主党(39議席)に次ぐ第3党となった。自公両党では76議席を獲得して圧勝した。 : 8月10日 - [[第2次岸田内閣 (改造)|第2次岸田第1次改造内閣]]が成立。斉藤が、国土交通大臣に留任。 : 12月15日 - ハラスメント防止や法令遵守に向けた政治倫理規範を改訂。対象を議員だけでなく秘書や職員にも拡大した上で、新たに「国民の模範となるよう、高い倫理観をもって、自覚と責任感ある言動に徹し、法令や社会的ルールを遵守する」などの文言を盛り込んだ。政治倫理規範は2005年に策定され、「常に大衆の代弁者として立党の精神を体現する」「党勢拡大に取り組む」など計7条から構成されている。また、インターネットでの適切な情報発信などを求めるガイドラインも策定した<ref>{{Cite web|和書|title=◎公明、政治倫理規範を改訂 |url=https://sp.m.jiji.com/article/show/2867313 |website=時事通信ニュース |access-date=2022-12-26 |language=ja}}</ref>。 * 2023年(令和5年) : 9月13日 - [[第2次岸田内閣 (第2次改造)|第2次岸田第2次改造内閣]]が成立。斉藤が、国土交通大臣に留任。 == 政策 == === 憲法・皇室典範 === * [[憲法改正論議]]について、党内には改正論と慎重論の2つがある。自民党や民主党とは異なり、改正ではなく時代の進展に伴い提起されている新たな理念・条文を加えて現行憲法を補強していく「'''加憲'''」という独自の立場をとる<ref>{{WAP|pid=11093887|url=www.komei.or.jp/more/understand/constitution.html|title=憲法 {{!}} 政策テーマ別 分かる公明党 {{!}} 公明党|date=2018年4月17日}}</ref>。 *新型コロナウイルスの感染拡大を受け、憲法上、オンラインでの国会審議は、一定の条件下で許されるとの考えを示している。特に、憲法56条が定める議員の「出席」の解釈については、感染症の蔓延や巨大地震の発生で甚大な被害が発生した場合など、「一定の要件、条件の下」で「例外的にオンラインを活用し、決議することは憲法上も許容される」との見解をまとめている<ref>{{Cite web|和書|title=国会のオンライン審議「憲法上許容される」 公明が見解 |url=https://www.sankei.com/article/20220302-NF2KEL2BIRLK7KYUXSOFZFGNDQ/ |website=産経ニュース |date=2022-03-02 |access-date=2023-05-03 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 *「加憲」にあたって議論の対象としてきた「環境権」を巡っては、個人が快適な環境を享受する権利を守るという観点ではなく、脱炭素社会の実現に向けて、国や国民が環境を保全する責務を規定する方向で議論を深めることとしている<ref>{{Cite web|和書|title=現行憲法への政党の主張 公明党 - みんなとわたしの憲法 NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/minnanokenpou/seitou/koumei.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2022-06-12 |last=日本放送協会}}</ref>。 === 外交 === * 公明党代表の山口那津男は「新しい中道」という政治指針を唱えている。「新しい中道」とはポスト冷戦の「東西陣営と左右の対立が見えにくくなった時代」に「あるべき価値を見据え、一方に偏ったり、切り捨てたりせずに合意を形成していくこと」であると説明した<ref>[https://facta.co.jp/article/201502006.html 自公連立政権に推進力 数に驕らぬ「中道政治」] FACTA 2015年2月号。</ref>。 * 2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻を受け、代表の山口那津男らは、同年9月29日、首相の岸田文雄に対し、ウクライナへの支援強化に関する提言を渡した。暖房など避難民への支援強化や2023年に広島市で開催されるG7サミットに合わせたウクライナの復興支援国会合の開催等を求めている模様<ref>{{Cite web|和書|title=高官のウクライナ派遣提言 公明:時事ドットコム |url=https://web.archive.org/web/20220929104450/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022092901046&g=pol |website=時事ドットコム |access-date=2022-10-05 |language=ja}}</ref>。 ==== 安全保障 ==== * 2012年(平成24年)12月、自民党総裁安倍晋三の意向を踏まえて打ち出された「憲法改正で自衛隊を『[[国防軍]]』と明記する」という自民党の政権公約について、公明党代表の山口那津男は「定着した名称をことさら変える必要性はない」と述べ、反対する考えを示した<ref>{{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2012/news1/20121123-OYT1T00465.htm|title=自民「国防軍」明記に公明「自衛隊でいい」 : ニュース : 衆院選2012 : 衆院選 : 選挙 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)|date=20121128055739}}</ref>。 * 2014年(平成26年)6月、自民党との与党協議の結果、日本国憲法の解釈を変更し、他国を武力で守る効果を持つ集団的自衛権の行使を限定容認することで大筋合意した<ref>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/articles/ASG6S65HFG6SUTFK00N.html|title=集団的自衛権容認で大筋合意 公明、文言修正で妥協:朝日新聞デジタル|date=20140624161838}}</ref>。公明党代表の山口那津男は「新しい3要件で[[自衛権]]の行使の範囲を厳格にして歯止めをかけた」「他国を防衛すること自体を目的にする、いわゆる集団的自衛権は認めないことが今回の[[閣議 (日本)|閣議]]決定だ」と説明している<ref>[https://www.komei.or.jp/news/detail/20140915_14931 公明新聞:経済に勢いつけ、復興加速(2014年9月15日)]</ref>。公明党本部前では同時期に集団的自衛権行使容認反対デモが発生した<ref>[http://www.labornetjp.org/news/2014/0625nisinaka 【写真報告】公明党は「平和の党」の理念を守れ!][[レイバーネット]]</ref>。 *非核三原則については、公明党が1967年(昭和42年)12月8日の衆議院本会議において、「(米国からの)小笠原の返還にあたって、製造せず、装備せず、持ち込まずの非核三原則を明確にし得るかいなか、見通しを伺いたい」と取り上げたことで、国会の会議録に初めて残った[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105705254X00419671208&current=5]。 ==== 日米関係 ==== * [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]をめぐっては、公明党結成時の1964年(昭和39年)には「発展的解消」を主張し、昭和40年代には「段階的解消」「早期解消」を主張していた。「創共協定」締結直前の1974年(昭和49年)1月の中央委員会では「即時解消」を主張した。「創共協定」が党内の反対を受けて空文化し始めた1975年(昭和50年)10月には事実上の存続を認める「合意廃棄」と軟化し、1981年(昭和56年)1月の公明党大会で、日米安保、自衛隊、[[原子力発電]]を容認することを表明した<ref name="syndicatetositeno"/>。 * [[イラク戦争]]では[[自衛隊イラク派遣]]に賛成し、2007年(平成19年)6月には改正[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]](期限を2年間延長)の成立にも賛成した。 * 2007年(平成19年)3月、公明党代表の太田昭宏は憲法改正について「自民党の改正案は集団的自衛権の行使を認めることが裏にあるが、われわれは集団的自衛権を認めない」と強調した<ref name="fjmt"> {{WAP|pid=9549836|url=www.komei.or.jp/more/opinion/p007.html|title=日本政治の “羅針盤” であれ ―公明党の過去・現在・未来― {{!}} Opinion {{!}} もっと公明党 {{!}} 公明党|date=2015年11月2日}}</ref>。 * 2008年(平成20年)1月、[[衆議院の再議決]]を経て成立した[[アフガニスタン]]駐留[[アメリカ軍|米軍]]への自衛隊による給油支援を定めた[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法]](補給支援特措法)に賛成した。 ==== 日中関係 ==== * 日中善隣友好協力関係の発展を重視しており、[[日中関係史|日中関係]]は最も重要な2国間関係であるとしている<ref>公明党代表太田昭宏と[[中国共産党中央委員会]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]](国家主席)[[胡錦濤]]との会談。2007年(平成19年)1月8日</ref>。 * 2021年6月14日、[[中華人民共和国]]による[[ジェノサイド]]について、対中非難決議は公明党の反対で見送られた<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/67098 門田隆将氏 公明反対の対中非難決議見送りに「これが中国の属国日本の姿!」東スポWeb]</ref>。 * 2022年2月1日、[[衆議院]]本会議で、中国による[[新疆ウイグル自治区]]などでの[[中国の人権問題|人権問題]]に関して「新疆ウイグル等における深刻な人権状況に関する決議」が賛成多数で採択された。[[2022年北京オリンピック|北京冬季オリンピック]]開幕前に人権を重視する姿勢を示した形だが、盛り込む予定だった「人権侵害」や「非難」の文言は公明党の要請を受けて削除され、中国を明示することも避けた<ref>{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220201-PJ55CPI5RNNPZJKLKEXCSYB7AQ/|title=衆院で「対中人権非難」決議 「人権侵害」文言や名指しは回避|publisher=[[産経新聞]]|date=2022-02-01|accessdate=2022-04-26}}{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220201-LDCPVW2CFRP7BHKWBVJZYQD2YQ/|title=衆院の人権状況に対する「対中非難」決議の全文|publisher=[[産経新聞]]|date=2022-02-01|accessdate=2022-04-26}}</ref>。 === 経済 === * 2008年(平成20年)後半から深刻な状態になった[[日本の経済|日本経済]]に対して、[[ゼロ金利政策|ゼロ金利]]や[[量的金融緩和政策|量的緩和]]も視野に入れた[[金融政策]]や、大規模な財政出動など政策を総動員していく必要性を強調した<ref>{{Wayback|url=http://www.komei.or.jp/news/2008/1225/13352.html|title=生活、中小企業で成果:ニュース|公明党|date=20081227061632}}</ref>。 * 2022年の参議院議員選挙の公約として、「人への投資を強化し持続的な賃金上昇を実現」、「短時間制社員制度の導入拡大など働き方を自由に選べる社会」等の経済政策を公表した。特に、持続的な賃上げを実現するため、有識者による第三者委員会を設置し、賃上げの実施状況や企業間格差などを検証するなどと発表した。このほか、女性デジタル人材の育成や、科学技術イノベーション、エネルギー安全保障と2050年カーボンニュートラルの両立、デジタル基盤の整備促進とイノベーションの創出を掲げている<ref>{{Cite web|和書|title=公明党が参院選に向け経済公約、持続的賃上げ検証で第三者委設置 - ロイターニュース - 国際:朝日新聞デジタル |url=https://web.archive.org/web/20220602082230/http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKBN2NJ0DE.html |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-06-03 |language=ja}}</ref>。 * ロシアによるウクライナ侵攻に伴う物価高に対応する措置がないとして、公明党代表の山口那津男は、2022年3月22日、補正予算も視野に検討する必要があると名言。その後も断続的に、補正予算の編成を求める発言を繰り返していたが、自民党は慎重な姿勢を示していた<ref>{{Cite web|和書|title=公明、自民に補正編成圧力 参院選控え「実績」求め |url=https://www.sankei.com/article/20220406-IZG2SWEVQBOD5MJI32MMWFIHVQ/ |website=産経ニュース |date=2022-04-06 |access-date=2022-06-13 |language=ja |first=児玉 |last=佳子}}</ref>。4月19日には、自公の幹事長、政調会長で協議がなされたが、協議は継続した<ref>{{Cite web|和書|title=自公、補正予算時期は「協議継続」 公明、今国会中の成立求め |url=https://mainichi.jp/articles/20220419/k00/00m/010/279000c |website=毎日新聞 |access-date=2022-06-13 |language=ja}}</ref>。19日の協議から2日後の21日、最終的に両党は、物価の上昇を踏まえた緊急対策の財源をめぐり、今年度予算の予備費を活用するとともに、予備費の積み増しなどのため、補正予算案を編成し、今の国会に提出するよう政府に求めることで合意した<ref>{{Cite web|和書|title=自公 補正予算案編成で合意 岸田首相 政府部内で編成を指示へ {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220421/k10013592221000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-06-13 |last=日本放送協会}}</ref>。 * 幹事長の石井啓一、政調会長の高木陽介は、首相の岸田文雄に対し、2022年10月にもまとめる総合経済対策に関する提言を手渡した<ref>{{Cite web|和書|title=公明党幹部「電気代高騰に対応を」 岸田文雄首相に提言 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA28AWK0Y2A920C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-09-28 |access-date=2022-09-29 |language=ja}}</ref>。その場で、石井は「電気・ガス料金の高騰対策をしっかりやってほしい」と要請。岸田は、「提言をしっかりと受け止める」と述べた上で、特に、電気料金について「大事なポイントだ」と語った。公明党は、電気料金に関し、具体策の構築が難しくもどかしさを感じていたが、国民・事業者から大変重荷になっているとの声を受け、要請に踏み切ったようだ<ref>{{Cite web|和書|title=「電気・ガス料金の高騰対策、首相に求めた」公明・石井幹事長:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9X6WZGQ9XUTFK02K.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2022-09-28 |access-date=2022-09-29 |language=ja}}</ref>。一方、ガス料金については、明確な返答がなかったため、第210回国会(臨時会)において、代表の山口那津男が電気代のみならず、ガス代についても負担軽減策をとるべきだと重ねて訴えた。同年10月11日に行われた自公の党首会談においても、「ガス代も併せてやらないと公平性が保たれない。」と岸田に要請<ref>{{Cite web|和書|title=公明・山口氏、岸田首相に「ガス代対策もやらないと公平性保てない」 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQBH5D0YQBHUTFK00W.html |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。3日後の14日に改めて党首会談を行い、両氏は電気や都市ガスの価格上昇の負担軽減策を導入する方針を確認した。電気料金については、2023年1月にも負担軽減策を実施する予定<ref>{{Cite web|和書|title=電気代支援1月にも ガス代も軽減、与党合意 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA143VN0U2A011C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-10-14 |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。 === 福祉 === * 結党以来、[[福祉]]に力を入れてきた側面があり、「福祉の党」と呼ばれることがある<ref>[http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2015103000015.html 与党歴13年で広がる学会員との距離 公明党はジレンマを解消できるのか?(御厨貴)](2015年11月10日、WEBRONZA)</ref><ref>[http://www.d3b.jp/npcolumn/6029 メインプレイヤーになった公明党――『いま、公明党が考えていること』を読む・上(松田明)](2016年4月27日、WEB第三文明)</ref>。 *[[児童手当]]は、都議会公明党の働きかけにより、1969年に東京都独自の制度が創設された <ref> {{Cite conference | df=ja | title = 東京都議会 | conference = 平成18年第2回定例会 | volume = 8 | url = https://www.metro.tokyo.dbsr.jp/index.php/9338608?Template=doc-page&VoiceID=59395 | date = 2006-06-13 }}</ref> 。国においては68年に公明党が児童手当法案を国会へ提出、72年に国の制度が創設された <ref>{{Cite conference | df=ja | title = 参議院厚生労働委員会 | conference = 第180回国会 | volume = 6 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=118014260X00620120329&spkNum=44&current=1 | date = 2012-03-29 }}</ref>。その後、99年に公明党が参加する[[自公連立政権]]が発足し、2000年度には3歳未満から義務教育就学前まで対象を拡大、01年度には所得制限を緩和、04年度には小学校3学年終了前まで対象を拡大、06年度には小学校6学年終了前まで対象を拡大し所得制限も緩和<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.79/data/kaidai/14.Child%20Allowance.pdf |title=日本社会保障資料V(2001~2016)14児童手当 |format=PDF |publisher =国立社会保障・人口問題研究所 |date=2018-03-31 |accessdate= 2018-03-31 }}</ref>。09年に発足した[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]政権の厚生労働大臣や総理大臣からは、児童手当に関する公明党のそれまでの取り組みに対し、「本当に社会的に大きな役割を果たした」「この功績は大きい」等と複数回答弁されている<ref> {{Cite conference | df=ja | title = 衆議院予算委員会 | conference = 第174回国会 | volume = 8 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117405261X00820100209&spkNum=316&current=8 | date = 2010-02-09 }}</ref> <ref> {{Cite conference | df=ja | title = 参議院厚生労働委員会 | conference = 第174回国会 | volume = 6 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117414260X00620100323&spkNum=106&current=1 | date = 2010-03-23 }}</ref> <ref> {{Cite conference | df=ja | title = 参議院厚生労働委員会 | conference = 第174回国会 | volume = 8 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117414260X00820100325&spkNum=56&current=10 | date = 2010-03-25 }}</ref> <ref> {{Cite conference | df=ja | title = 衆議院本会議 | conference = 第177回国会 | volume = 3 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117705254X00320110127&spkNum=6&current=9 | date = 2011-01-27 }}</ref> 。 *公明党は2023年の統一地方選挙における重点政策において、児童手当の所得制限を撤廃し、18歳まで対象を広げることを掲げた。その他に子育て支援策として、医療費の無償化を高校3年生まで拡大することや、0〜2歳児の保育料無償化の要件緩和、専業主婦家庭も利用できる保育制度などを掲げた。女性や若者向けの政策としては、給付型奨学金や授業料減免について理工農系学生のうち中間所得層まで対象を拡大することや、女性が休暇を取りやすい環境整備を掲げた。物価高対策では、電気・ガス料金の負担を軽減するため、予備費などを活用して機動的に対応するとした<ref>{{Cite news | title = 公明党、児童手当の所得制限撤廃 統一地方選公約原案 | newspaper = 日経電子版 | date = 2023-01-26 | url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA263HX0W3A120C2000000/ | accessdate = }} </ref>。 * 1999年(平成11年)、[[小渕内閣]]に「[[地域振興券]]」の発行を強く迫り実現させる<ref name="fjmt"/>。 * 2003年(平成15年)、党のマニフェストで、少子高齢化が進んでも現役世代の平均[[収入]]の50%以上を保証する「年金100年安心プラン」を発表する。 * 2005年(平成17年)、自民党とともに、介助や援助を必要としている障害者に対して、福祉サービス利用料として一律1割の負担を求める[[障害者自立支援法]]を成立させる。 * 2010年(平成22年)7月に行われる予定の参院選に向けて発表したマニフェストで、[[うつ病]]や[[児童虐待]]など、日本が抱える新しい福祉問題(「新しい福祉」)の解決に重点的に取り組む姿勢を示す。また、民間・公共住宅の空家をリフォームし、[[非正規雇用|非正規労働者]]や[[日本の年金|年金]]生活者などの住宅困窮者に低[[家賃]]で提供する「セーフティネット住宅100万戸供給作戦」の実施を明言する<ref>[http://www.komei.or.jp/campaign/sanin10/main03.html 「新しい福祉」を提案する党]</ref>。 * 地方行政においては公明党が与党入りすることも珍しくないため、{{要出典|範囲=支援者のために[[生活保護]]の受給を行うよう市の職員に要請することも多い。|date=2017年11月}}2004年(平成16年)、[[宮城県]][[多賀城市]]議会議員根本朝栄が自身の母親の生活保護申請を行うため市職員に圧力をかけたとの疑惑が浮かび、多賀城市では該当者の生活保護受給を打ち切り、根本や親族に対して生活保護の返還命令が出された<ref name="post">(「週刊ポスト」2004年10月22日付)</ref>。 * 不妊治療の保険適用は、2020年の自民党総裁選で菅義偉氏が訴えたことで注目された。だが、公明党も「福祉の党」を掲げ、1998年に不妊治療の保険適用を基本政策大綱に盛り込み、2000年には党女性委員会が人工授精や体外受精への保険適用を求める約55万人分の署名を政府に提出したとされる<ref>{{Cite web|和書|title=公明、不妊治療の支援拡大 菅首相に提言へ:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASNCD5HKSNCDUTFK011.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |access-date=2022-05-31 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=不妊治療保険適用と公明党 {{!}} ニュース |url=https://www.komei.or.jp/komeinews/p229089/ |website=公明党 |access-date=2022-05-31 |language=ja}}</ref>。 * 子ども家庭庁の設置に向けては、2021年5月31日に、公明党政務調査会長の竹内譲らが、行政の縦割りを排した司令塔機能を担う「子ども家庭庁」創設等を首相の菅義偉(当時)に提言している<ref>{{Cite web|和書|title=「子ども家庭庁創設」「基本法制定」 公明党が首相に政策提言、与野党で動き:東京新聞 TOKYO Web |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/107753 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2022-06-08 |language=ja}}</ref>。当時は、自民党の自見英子らが「こども庁」という名称で設置を進める動きもあったが、現在は、「こども家庭庁」という名称で設置する方向のようだ。 * 2022年10月14日、代表の山口那津男は、首相の岸田文雄に対し、子供・子育て支援について、支援が手薄な0歳から2歳の低年齢期に焦点を当てて、妊娠時から出産・子育てまでの伴走型の相談支援と経済的な支援を充実させ、継続的に実施することや、来年度当初予算によって、出産育児一時金の大幅な増額を行うことを要請。両氏は、同月末に取りまとめる「総合経済対策」に、これらの内容を盛り込むことについて確認した<ref>{{Cite web|和書|title=令和4年10月14日 与党党首会談及び総合経済対策についての会見 {{!}} 総理の演説・記者会見など |url=https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/statement/2022/1014kaiken.html |website=首相官邸ホームページ |access-date=2022-10-17 |language=ja}}</ref>。これを受け、政府が同月28日に閣議決定した総合経済対策には、妊娠時から出産・子育てまで一貫した伴走型相談支援と経済的支援(妊娠届出時と出生届時を通じて計10万円)を一体的に実施する事業を創設・継続することや、2023年度当初予算により出産育児一時金を大幅に増額することが盛り込まれた <ref>{{Cite web|和書|url= https://www5.cao.go.jp/keizai1/keizaitaisaku/2022-2/20221028_taisaku.pdf |title=物価高克服・経済再生実現のための総合経済対策 |format=PDF |publisher =内閣府 |accessdate=2022-10-28}}</ref> 。 * 政務調査会長の高木陽介は、第210回国会の予算委員会において、結婚から妊娠・出産・子育てまでのライフステージや、子どもの年齢等に応じた支援の拡充を主張。首相の岸田文雄から、2023年に策定する骨太の方針に、「将来的に倍増を目指していくうえでの当面の方針、すなわち倍増への道筋について示していきたい」との答弁を引き出した<ref>{{Cite web|和書|title=子ども政策予算倍増へ「骨太の方針で道筋示す」 |url=https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000272172.html |website=テレ朝news |access-date=2022-10-20 |language=ja}}</ref><ref>{{Citation|title=【国会中継】衆院予算委 岸田首相出席で基本的質疑(2022年10月17日)|url=https://www.youtube.com/watch?v=ZfPfNIKAjrY|language=ja-JP|access-date=2022-10-20}}</ref>。 * 党代表の山口那津男は2022年11月8日、子育て支援に関する予算を大幅に拡充し、結婚や出産から高等教育までの子育て支援策を一体的に充実させる「子育て応援トータルプラン」を発表した <ref>{{Cite news|title=6兆円超の育児支援策を公表 公明、児童手当拡充が柱 |newspaper=共同通信 |url= https://web.archive.org/web/20221108074159/https://news.yahoo.co.jp/articles/9867886bbbde5488b2f3fc15feb12cb8737ce6fe |accessdate=2022-04-19 |date=2022-11-08 |author=}}</ref> 。若者が希望をもって将来を展望できるよう雇用環境を整備し、経済的基盤を安定させるとともに、0歳から2歳までの保育の無償化、児童手当の対象を18歳まで拡大、子どもの医療費を高校3年生まで無償化などを盛り込んだ <ref>{{Cite news|title=公明 子育て支援予算 大幅拡充目指す計画案 6兆円超の追加財源 |newspaper=NHK |url= https://web.archive.org/web/20221108074839/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221107/amp/k10013883921000.html |accessdate=2022-04-19 |date=2022-11-08 |author=}}</ref> 。 * 公明党は、2023年3月14日、政府が月内にもとりまとめる追加の物価高騰対策に対する党提言の概要を発表し、翌15日に、首相の岸田文雄に提言した。提言では、住民税非課税対象など低所得の子育て世帯に対し、子ども1人につき5万円を支給することや、自治体が自由に使うことができる地方創生臨時交付金を積み増し、LPガス料金などの負担軽減を図ることなどを要請<ref>{{Cite web|和書|title=物価高対策、公明が提言概要 「低所得子育て世帯に特別給付金」 |url=https://mainichi.jp/articles/20230314/k00/00m/010/201000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref>。これを受け、岸田は「低所得層に1世帯当たり3万円の給付を行い、そしてひとり親を含む低所得の子育て世帯には児童1人当たり5万円の給付金を支給することを検討する」と表明した。なお、自民党も同日、岸田に追加の物価高対策を提言している<ref>{{Cite web|和書|title=低所得世帯に「現金3万円」支給方針 政府・与党が追加の物価高対策:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR3H6D5FR3HUTFK00P.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-03-15 |access-date=2023-03-16 |language=ja}}</ref>。 *公明党は2023年3月28日、少子化対策の強化に向けた政策提言を岸田総理大臣へ申し入れた。少子化の現状を「社会機能を維持できるかどうかの瀬戸際」だと指摘し、政府が「緊急事態宣言」を発令して今後3年間を「集中期間」と位置づけ、児童手当の対象年齢を18歳まで引き上げることや、所得制限の撤廃、多子世帯への加算に優先的に取り組むよう求めた。また、高校3年生までの医療費や高校・大学、給食等の無償化の拡大、雇用形態に関わらず育児休業を取得できるようにすることや、奨学金返還の負担軽減等を求めた。岸田総理は「しっかり受け止めて、たたき台に反映できるよう努力していきたい」と応じた<ref>{{Cite news | title = 公明 “3年間で児童手当拡充など集中的に対策を” 首相に提言 | newspaper = NHK | date = 2023-03-28 | url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230328/k10014022151000.html | accessdate = }} </ref>。 *政務調査会長の高木陽介らは2023年5月29日、2030年までに子育て関連の予算を倍増させること等を首相の岸田文雄に提言した。児童手当は2024年度から所得制限を撤廃し、支給期間を高校卒業まで延長するほか、第3子以降は1万5千円の支給額を倍の3万円に増額することを求めた。また、大学などの授業料の減免について、現在の低所得層から多子世帯の中間所得層などにも拡大すべきと訴えた。必要な財源については、徹底した歳出改革により国民に安易な追加負担を求めないよう要請。岸田は「与党の意見も反映して政府案を最終決定したい」と応じた<ref>{{Cite web|和書|title=公明 “児童手当の拡充・少子化対策の財源は歳出改革で”提言 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014082131000.html |website=NHKニュース |date=2023-05-29 |access-date=2023-06-01 |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「2030年までに子育て予算倍増を」 骨太に向け公明が首相に提言:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR5Y64WZR5YUTFK00N.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-05-30 |access-date=2023-06-01 |language=ja |last=https://www.facebook.com/asahicom}}</ref>。 ==== 男女共同参画 ==== * [[男女共同参画]]を強く推進している。[[内閣府]]男女共同参画局や各自治体男女共同参画課による施策の予算獲得に関して主導的な役割を果たしており、自公連立政権以降は男女共同参画関連予算増額などを求める<ref> {{Wayback|url=http://komei-matsudo.net/result/heisei21/|title=公明党が実現した平成21年度予算案 {{!}} 実績実績|date=20131222135603}}</ref>。 * 夫婦の各個人の姓を同じ姓にするか改姓せずに済むようにするか選択可能にする選択的[[夫婦別姓]]制度の法制化を推進している<ref>[https://www.komei.or.jp/news/detail/20120616_8366 公明党ニュース「夫婦別姓」実現に努力]</ref>。2015年(平成27年)2月には、「党として法改正の検討に着手する」と政調会長の石井啓一が表明した<ref>「公明、夫婦別姓で法改正検討 」、日本経済新聞、2015年2月25日</ref>。同年12月には参議院会長の[[魚住裕一郎]]が「国会で議論をまきおこしたい」とも述べ<ref name="asahi20151217a">{{Wayback|url=http://www.asahi.com/articles/ASHDJ4S2VHDJUTIL023.html|title=夫婦の姓「国会で議論を」 判事5人「違憲」とした理由:朝日新聞デジタル|date=20151222175311}}</ref>、2016年(平成28年)1月には代表の山口那津男も「国会で議論を深め、時代に応じた立法政策を決めていくのが政治の責任だ」と述べている<ref name="kinyoubi20160205">[http://www.kinyobi.co.jp/event/20160205_001921.php 「【国会】参議院本会議で山口議員が民法改正について質問 1月28日」]、週刊金曜日・ジェンダー情報、2016年2月5日。</ref>。一方、2015年(平成27年)12月には「連立政権の足並みの乱れを生じさせたくないため、この問題について連立を組む自民党を積極的に説得していない」とも報道された<ref name="asahi20151217a" />。 === 税制 === * [[特別会計]]の廃止を含めた合理化を提唱する<ref>[https://www.komei.or.jp/news/detail/20131028_12529 特別会計改革]</ref>。 * 消費税増税に賛成の立場をとるが、弱者への配慮から消費税への「[[日本における消費税の軽減税率|軽減税率]]」導入を政策の柱の一つとしている。軽減税率の制度については、2012年(平成24年)6月13日の衆議院の公聴会でSAPジャパンのコラムニストであった田淵隆明が制度設計を提案して話題となった。公明党は田淵隆明の意見を軽減税率の制度設計に取り入れた<ref name="jiji20120618" />。 * 公明党が自民党に執拗に軽減税率の対象に新聞を含めようと主張してきたことについて[[堀江貴文]]は[[TOKYO MX]]の[[5時に夢中!]]に出演した際、「公明党がなんでそんなに言ってるかっていうと、支持母体の[[聖教新聞]](にかかる消費税)が8%から10%になったら、激減すると思うんですよ、契約が。」と指摘した。司会者が軽減税率は食品が中心ではないかと聞くと、堀江はさらに「新聞が本命なんですよ、絶対にそうだと思う。」と力説した<ref>{{Cite web|和書|date=2015-12-19 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/10973291/|title=堀江貴文氏、軽減税率をめぐる公明党の狙いを指摘「聖教新聞守るため」|work=livedoorNews|publisher=[[livedoor]] |accessdate=2016-10-21}}</ref>。 * 2020年度税制改正では、公明党の主張で配偶者と離婚・死別したひとり親世帯を対象に年間で最大35万円を所得控除する「寡婦(夫)控除」を未婚のひとり親にも適用することが決まった。当時、自民党は伝統的な家族観と異なると反対してきたが、多様な家族の形も尊重するとして賛成に回った。また、幹事長代行の稲田朋美など伝統的な家族観を重視する保守系女性議員の支持もあり、未婚のひとり親に対する「寡婦(夫)控除」が盛り込まれたと言われている[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53279830S9A211C1PP8000/][https://www.sankei.com/article/20191212-QXM7GP77HVIHVMV4LQP5JXIWCM/]。 === 行政 === * 国と地方の[[公務員]]の1割削減や予算の重点化・効率化による[[公共事業]]費の縮減、[[国家公務員]]の[[天下り]]管理、[[退職金]]の受給制限などを提案していた。一方、自公連立政権で国土交通大臣を務めた冬柴鐵三は大臣時代、[[独立行政法人]]の改革を推進する自民党所属の行政改革担当大臣[[渡辺喜美]]と意見が対立し、野党や公明党内から冬柴に厳しい意見が出た<ref>2007年(平成19年)2月28日衆議院予算委員会 公明党[[富田茂之]]との答弁より</ref>。 * [[日本における外国人参政権|外国人参政権]]付与に賛成する<ref>2007年(平成19年)11月17日 北側一雄幹事長の記者会見</ref>。 * 公明党は参議院の「法務委員長」のポストを40年以上に渡り独占している{{Efn|2003年(平成15年)に自由党(当時)の[[平野貞夫]]が問題であると主張した。}}<ref name="hs">平野貞夫『公明党・創価学会の真実』[[講談社]] (2005年6月24日)</ref>。 ==== 治安 ==== * 「[[共謀罪]]」法案成立に賛成の立場をとる。2006年(平成18年)5月19日、自民党と共に衆議院[[法務委員会]]で「共謀罪」法案を[[強行採決]]する姿勢を見せていたが、採決は見送られた。2017年(平成29年)、「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する「[[組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律]]等の一部を改正する法律案」に賛成した。 * 2013年(平成25年)12月、[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]に賛成した。 * 警察のキャリア支援と地域の防犯パトロールの政策に関与している <ref> {{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100107104903/http://www.komei.or.jp:80/policy/manifest/060.html |title=空き交番ゼロ作戦の展開調査|accessdate=2010-01-07 |year=2009 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100213223400/http://www.komei.or.jp:80/policy/manifest/061.html |title=民間警備員による地域パトロールの強化|accessdate=2010-02-13 |year=2009 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100409223630/http://www.komei.or.jp/news/2008/1011/12732.html |title=主張 住民の連帯意識を高めよう 防犯ボランティアへの支援強化を 公明新聞:2008年10月11日 |accessdate=2010-04-09 |year=2008 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140811021347/http://www.togikai-komei.gr.jp/archives/1549 |title=都議会公明党 繁華街の治安強化へ/歌舞伎町に 防犯パトロール拠点/新宿区 |accessdate=2014-08-11 |year=2014 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://www.maniken.jp/pdf/2003komei.pdf |title=政策綱領「マニフェスト123」 早稲田大学マニフェスト研究所 |accessdate=2023-01-04 |year=2003 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://www.maniken.jp/pdf/2004komei.pdf |title=改訂版・政策綱領「マニフェスト123」 早稲田大学マニフェスト研究所 |accessdate=2023-01-04 |year=2004 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://www.maniken.jp/pdf/2005komei.pdf |title=公明党マニフェスト2005 日本を前へ。改革を前へ。 早稲田大学マニフェスト研究所 |accessdate=2023-01-04 |year=2005 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://www.maniken.jp/pdf/2007komei.pdf |title=Manifesto 公明党マニフェスト2007 早稲田大学マニフェスト研究所 |accessdate=2023-01-04 |year=2007 |}} </ref><ref> {{Cite web|和書|url=http://www.maniken.jp/pdf/2009komei.pdf |title=政治は実行力 公明党 manifesto'09 早稲田大学マニフェスト研究所 |accessdate=2023-01-04 |year=2009 |}} </ref>。 ==== 消費者政策 ==== *公明党は消費者問題への対策について、消費者庁の設置<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 参議院本会議 | conference = 第171回国会 | volume = 6 | pages = 1 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117115254X00620090202&spkNum=2&current=3 | date = 2009-02-02 }}</ref>をはじめ、消費者団体訴訟制度の導入<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 衆議院内閣委員会 | conference = 第164回国会 | volume = 4 | pages = 10 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116404889X00420060421&spkNum=53&current=9 | date = 2006-04-21 }}</ref>、加工食品へのアレルギー原因物質の表示義務化<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 衆議院農林水産委員会 | conference = 第145回国会 | volume = 18 | pages = 6 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114505007X01819990602&spkNum=34&current=1 | date = 1999-06-02 }}</ref>などを、国会での質問等を通じて推進し実現してきた。また、偽造・盗難キャッシュカードによる不正引き出しについて金融機関が原則的に被害額を全額補償する「預貯金者保護法」<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 衆議院財務金融委員会 | conference = 第164回国会 | volume = 2 | pages = 5 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116404376X00220060221&spkNum=23&current=16 | date = 2006-02-21 }}</ref>や、国民運動として食品ロスの削減を推進する「食品ロス削減推進法」<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 参議院消費者問題に関する特別委員会 | conference = 第198回国会 | volume = 4 | pages = 8 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119814536X00420190529&spkNum=72&current=29 | date = 2019-05-29 }}</ref>を、それぞれ議員立法により成立させた。 *党政務調査会長の高木陽介は、令和4年10月17日の衆議院予算委員会において「旧統一教会をめぐる問題について、悪質な寄附の要請を規制する新たな立法の検討を含め、被害の防止に万全を期していくことが必要」と主張。岸田総理から「寄附について法制的対応の是非を検討する」旨の答弁を引き出した<ref>{{Cite conference | df=ja | title = 衆議院予算委員会 | conference = 第210回国会 | volume = 2 | pages = 21 | url = https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=121005261X00220221017&spkNum=113&current=1 | date = 2022-10-17 }}</ref>。その後、宗教法人に限らず、法人等による不当な寄附の勧誘を禁止する新法 <ref>{{Cite web|和書 | url=https://www.caa.go.jp/law/bills/assets/consumer_system_cms101_221201_01.pdf | title=法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律案概要 | publisher =消費者庁 | date=2022-12-01 | accessdate=2022-12-01}}</ref> と、霊感等による告知を用いた勧誘に対する取消権の範囲拡大・行使期間延長を盛り込んだ消費者契約法等改正法 <ref>{{Cite web|和書 | url=https://www.caa.go.jp/law/bills/assets/consumer_system_cms101_221118_01.pdf | title=消費者契約法及び独立行政法人国民生活センター法の一部を改正する法律案概要 | publisher =消費者庁 | date=2022-11-18 | accessdate=2022-11-18}}</ref> が、同年秋の臨時国会へ提出され、12月に成立した<ref>{{Cite news | title = 旧統一教会の被害者救済新法成立 不当な寄付勧誘に罰則 | newspaper = 日本経済新聞 | date = 2022-12-10 | url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA101KP0Q2A211C2000000/ | accessdate = }} </ref>。 === 教育 === *結党当初から、教育を理念の一つとして掲げている。1963年3月13日、参議院議員の柏原ヤス(当時、公明会)が、参議院本会議において、義務教育の教科書代に充てる予算を削減している政府の消極的な姿勢や教科書無償配布の将来の見通しなどについて質問した。この質問の答弁に立った総理の池田勇人(当時)は、「おそくとも四十一年度までには義務教育の教科書を全部(無償で)出したいという考え」を表明したことで教科書の無償配布が前進した[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104315254X01319630313&current=21]。 *2006年には、幼児教育の無償化を重点政策に、2017年の衆議院総選挙では、私立高校の実質無償化や大学等の教育費負担の軽減を公約に掲げている[https://www.komei.or.jp/campaign/shuin2017/manifesto/manifesto2017.pdf]。 *その後、幼児教育については、2019年10月より、3歳から5歳までのすべての子供たちの幼稚園、保育所、認定こども園の費用が無償化となる。(住民税非課税世帯の0〜2歳児についても無償化)2020年4月からは、全国で私立高校の授業料の実質無償化がスタートしたことに加え、大学生などへの「給付型奨学金」と「授業料減免」の対象範囲と金額も広がった[https://wwwa.cao.go.jp/wlb/government/top/hyouka/k_43/pdf/s3-1.pdf]。 *子育て支援と教育を国家戦略と位置付け、全世代型社会保障の構築や、誰も取り残されない教育立国を目指し、出産育児一時金の増額、高校3年生までの子ども医療費無償化、孤独・孤立対策の交付金新設、ヤングケアラーの支援拡充、給付型奨学金の所得制限緩和等に取り組むことを2022年の参議院議員選挙の重点政策に掲げている<ref>{{Cite web|和書|title=ヤングケアラー対策を推進 参院選、重点政策第2弾―公明:時事ドットコム |url=https://web.archive.org/web/20220602223814/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022060201113&g=pol |website=時事ドットコム |access-date=2022-06-07 |language=ja}}</ref>。 * [[教育基本法]]の改正案に「[[愛国心]]」という言葉を盛り込むことに反対した。自民党案の「郷土と国を愛し」という文言について「[[戦前]]の[[国粋主義]]を連想させる」と反対し、代わりに「郷土と国を大切にし」との表現を盛り込ませた<ref>自民、公明が「愛国心」表現で合意…教育基本法改正案(2006年4月12日、読売新聞)</ref>。 === 人権 === * 性的マイノリティへの支援について、代表代行の浜四津敏子(当時)は、2002年11月7日の参議院法務委員会において、性同一性障害者が戸籍の性別を変更できるように特別立法を設ける必要性を指摘<ref>{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115515206X00420021107&spkNum=179&single |website=kokkai.ndl.go.jp |access-date=2023-02-24}}</ref>。政府から「真剣に検討をしていきたい」との答弁を引き出した<ref>{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=115515206X00420021107&spkNum=180&single |website=kokkai.ndl.go.jp |access-date=2023-02-24}}</ref>。その後各政党も賛同し、2003年7月に性同一性障害者特例法が成立した<ref>{{Cite web|和書|title=性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律案(法務委員長提出):本会議投票結果:参議院 |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/156/156-0702-v001.htm |website=www.sangiin.go.jp |access-date=2023-02-24}}</ref>。こうした浜四津の取り組みは、当事者団体から「これを契機としていろいろな対応が一気に進んだ」、「与党の一角である公明党の代表代行という重要な地位にある浜四津議員がこの問題に興味をもたれ、取り組まれたことは大きな意味があったといえる」と評価されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gids.or.jp/application/files/3515/6620/7269/AnnualReport2003-2.pdf |title=性同一性障害をかかえる人々が、不通にくらせる社会をめざす会 |access-date=2023年2月22日}}</ref>。 * 渋谷区では、2015年3月に同性カップルに対して「結婚に相当する関係」とする証明書(パートナーシップ証明書)を出す条例を制定。審査過程で、公明などが賛成した。条例が採決されたことについて、渋谷区長の桑原敏武(当時)は、「(条例案が)理解されたことは、大変ありがたいこと」と述べた<ref>{{Cite web|和書|title=同性パートナー条例案、渋谷区議会委可決 区長「ありがたい」 |url=https://www.sankei.com/article/20150327-FJJ2ZS74FBNDNFQNRML72WJ6EA/ |website=産経ニュース |date=2015-03-27 |access-date=2023-02-24 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 * 2015年3月、国会で自民党や公明党、民主党などの超党派による「LGBTに関する課題を考える議員連盟」が発足<ref>{{Cite web|和書|title=渋谷区、同性カップルに「パートナー証明書」 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZZO93645140V01C15A1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2015-11-05 |access-date=2023-02-27 |language=ja}}</ref>。公明は、参議院議員の谷合正明が中心となり、「性的指向と性自認に関する政策推進」を菅義偉官房長官(当時)に提言するなど、性的マイノリティへの支援に取り組んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=「性的指向と性自認に関する政策推進」を官房長官に申し入れ |url=http://www.m-taniai.net/info/21366 |website=参議院議員 谷あい正明 公式サイト |date=2019-06-13 |access-date=2023-02-27 |language=ja |last=お知らせ}}</ref>。 * 2021年には、議員連盟で「LGBT理解増進法案」をまとめたが、自民党の保守系議員の反発で頓挫した<ref>{{Cite web|和書|title=「種の保存に背く」と差別発言も 自民反発でLGBT法案頓挫の過去 |url=https://mainichi.jp/articles/20230207/k00/00m/040/109000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-02-27 |language=ja}}</ref>。その後、2023年2月の首相秘書官の差別発言を受けて、再び「LGBT理解増進法案」が注目されている。代表の山口那津男は、記者会見において、同年の通常国会で「成立させるべきだ」と述べた。さらに、「できればG7のサミット、首脳会議をする前に日本としての意思を明確に示すべきだ」と述べ、5月のG7広島サミット前の成立を目指す考えを示している<ref>{{Cite web|和書|title=公明・山口代表 LGBT法案の今国会成立を G7広島サミット前に|FNNプライムオンライン |url=https://www.fnn.jp/articles/-/482396 |website=FNNプライムオンライン |access-date=2023-02-27}}</ref>。 * 特定の民族や人種に対する差別や憎悪をあおるヘイトスピーチへの対応について、衆議院議員の国重徹は、2015年2月23日の予算委員会において、法整備の必要性を指摘。総理の安倍晋三(当時)から、「各党における検討や国民的な議論の深まりを踏まえて考えていきたい」との答弁を引き出した<ref>{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=118905261X00820150223&spkNum=14&current=43 |website=kokkai.ndl.go.jp |access-date=2023-03-01}}</ref>。さらに、国重は被害の実態調査や、学校での人権教育の強化など、ヘイトスピーチを含む人種差別についての根絶に向けた対策の強化を要請。安倍は、「教育や啓発活動の充実など、さまざまな施策の推進に努めて」いくと応じた。これらの議論を経て、2016年6月3日にヘイトスピーチ解消法が成立した<ref>{{Cite web|和書|title=参法 第190回国会 6 本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律案 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/keika/1DBF8C6.htm |website=www.shugiin.go.jp |access-date=2023-03-01}}</ref>。 * 同性婚について、2019年に党の「性的指向と性自認に関するプロジェクトチーム(PT)」で議論を開始<ref>{{Cite web|和書|title=公明、同性婚を検討へ 秋にも方向性 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48269510W9A800C1PP8000/ |website=日本経済新聞 |date=2019-08-06 |access-date=2023-03-01 |language=ja}}</ref>。参議院選挙2022政策集では、「国民的議論を深めるとともに、国による具体的な実態調査を進め、必要な法整備に取り組みます。」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.komei.or.jp/special/sanin2022/wp-content/uploads/manifesto2022.pdf |title=公明党参議院選挙2022政策集 |access-date=2023年3月2日 |publisher=公明党}}</ref>。一方、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と規定している日本国憲法24条の解釈をめぐり、首相の安倍晋三(当時)は2015年2月の参院本会議で「現行憲法の下では同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されていない」と答弁しているが、衆議院法制局は、2021年2月25日、「日本国憲法は、同性婚を法制化することを禁止はしていない、すなわち、認めているとの許容説は十分に成り立ち得る」との見解を示している<ref>{{Cite web|和書|title=国会会議録検索システム |url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=120405268X00120210225&spkNum=158&single |website=kokkai.ndl.go.jp |access-date=2023-03-01}}</ref>。副代表の北側一雄も、2023年2月9日の記者会見で、同性婚は憲法を改正しなくても、現在の憲法のもとでも可能だという認識を示した<ref>{{Cite web|和書|title=公明 北側副代表“同性婚は現在の憲法のもとでも可能” |url=https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/95583.html |website=NHK政治マガジン |access-date=2023-03-01 |language=ja |last=日本放送協会}}</ref>。さらに北側は、同年2月22日の記者会見において、同性婚の法制化について党内で検討していく考えを示した<ref>{{Cite web|和書|title=公明、同性婚法制化に党内議論開始へ |url=https://www.sankei.com/article/20230222-5TW3VEAB3BJOJOP3TUVIXOIKYU/ |website=産経ニュース |date=2023-02-22 |access-date=2023-03-01 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。 == 組織 == === 党員 === 1970年(昭和45年)以前の創価学会文化部時代は、創価学会員でなおかつ文化部員としての手続きをしなければ党活動に参加することができなかった。言論出版妨害事件以後の組織分離により学会員以外にも門戸が開放され、現在は党規約4条に「'''党の綱領及び規約を守り政策および諸決議を実現するために党活動に参加しようとする18歳以上の人は国籍を問わず'''」党員として入党することができると定められている。 入党の手続きは地元の党所属議員を経由する方法のほか、創価学会員であれば支部・地区・区本部といった末端組織を通じて紹介を受けることができる。学会員であるからという理由で強制的に入党させられることはない。入党希望者は既存党員2名の紹介を付けた所定の入党申込書に本人が自筆で記入し、初年度の党費を添えて支部または総支部長に提出する。支部長はこれを[[都道府県]]本部に送り、都道府県代表の承認を受けることにより手続きが完了する。 年額3,000円の党費支払いの他に、機関紙を購読することが規約7条で推奨されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.komei.or.jp/wp-content/uploads/140921kiyaku.pdf|title=公明党規約|publisher=公明党|accessdate=2022-10-10}}</ref>。 なお『公明新聞』『月刊公明』『公明グラフ』の配達と集金は聖教新聞販売店に委託されており、聖教新聞と公明新聞の両方を購読している党員にはそれぞれ別々の[[領収証]]が発行される。{{main|聖教新聞#販売店}} 創設者の池田大作はこれまで党役員はもとより党員にもなったことはない<ref name="syndicatetositeno">[[古川利明]] 『シンジケートとしての創価学会=公明党』([[第三書館]] 1999年11月20日) {{ISBN2|978-4807499243}}</ref>。 === 本部 === 党本部は東京都新宿区南元町にあり、党本部に近い別のビルに公明新聞編集局が所在する。 === 議員団 === 公明党所属の[[日本の国会議員|国会議員]]は衆議院・参議院両院でそれぞれ、[[日本の地方議会議員|地方議会議員]]は各[[日本の地方議会|議会]]ごとに議員団を編成する。これら組織の連絡機関として、'''全国議員団会議'''<ref>規約83条。</ref> および'''全国地方議員団会議'''<ref>規約86条。</ref> が存在する。 === 中央組織 === * 最高議決機関は2年に一度開催される'''党大会'''であり、代議員によって公明党代表を選出し、活動方針、重要政策、綱領および規約の改正、予算決算など重要案件を決定する。ただし、結党以来、委員長・代表などの交代の際に対立候補が出馬したことはこれまで一度もない<ref name="f20061003"> {{Wayback|url=http://www.forum21.jp/2006/10/3.htm|title=Forum21: 特集/3代の業を背負った安倍新政権と公明党新体制|date=20070221233506}}</ref>。 * 党大会が開かれていない間は'''全国代表者会議'''が大会の権限を代行する体制であったが、2014年9月の党大会で廃止され、'''常任役員会'''が次の党大会まで責任を持つ最高執行機関と位置づけされた。2014年9月まで党の最高執行機関であった[[公明党中央幹事会|中央幹事会]]は常設の議決機関に変更となった。 * 国会議員は両院議員総会を作る。代表以外の主要役員は代表が指名してから大会の承認を得ることになっており、より下級の役員は上からの指名によるので、規約上は代表の権限が強い。 * 「言論出版妨害事件」以降、党組織の一定の改革もなされ、'''中央幹部会'''を議決機関の中央委員会と執行機関の中央執行委員会への分離と党大会代議員の下部からの選出などが行われた。 === 地方組織 === 公明党の地方組織は、ブロックに相当する'''方面本部'''(ほうめんほんぶ)<ref>規約62条。</ref>、都道府県本部<ref>規約63-71条。</ref>、総支部<ref>規約72-77条。</ref>、支部<ref>規約78-82条。</ref> の4段階からなる。 ==== 方面本部 ==== 「方面」は創価学会の制度に準じたもので、他の政党にない公明党独自の地域概念である。[[関東地方]]は東京方面(東京都および[[山梨県]])、[[東海道]]方面([[神奈川県]]と[[静岡県]])、関東方面(東京・東海道両方面に属しない関東5県、[[埼玉県]]・[[千葉県]]・[[群馬県]]・[[栃木県]]・[[茨城県]])の3つに分けられ、[[福井県]]が[[近畿地方|関西]]方面に属し、[[沖縄県]]は[[九州]]の他の県と違って単独で方面を持つなど全部で13の方面本部があり、衆議院比例代表選挙のブロック分けとも異なる。{{main|創価学会#地域別}} 党所属の国会議員は、出身または活動拠点としている都道府県が属する方面に関与することを義務付けられる<ref>規約62条の3。</ref>。 ==== 都道府県本部 ==== 自民党の都道府県支部連合会、民主党の総支部連合会に相当する組織が、この都道府県本部となる。必要に応じて、傘下に選挙区連合会や総支部連合会、支部連合会といった中間組織を設けることもできる。 ==== 総支部 ==== 公明党の総支部は、国会議員の選挙区を基本とする旧民主党のそれとは異なり、むしろ日本共産党の地区委員会に近いものと位置付けられる。 このため[[東京都区部|東京23区]]では各区ごとに設置されているが、他の[[政令指定都市]]では複数の[[行政区]]を統括している場合もある。都道府県・政令市・東京23区の区議会議員は基本的には総支部を拠点とする。{{see also|民主党 (日本 1998-2016)#総支部|日本共産党#地区組織}} ==== 支部 ==== 党内最末端組織となる支部は、自民党の地域支部、民主党の行政区支部に近いとされる。一般市ないしは町村議会の議員は支部を基本として活動する。 === 内規による定年制 === 党の内規では「任期中に66歳を迎えない」ことを選挙における公認条件としており、事実上の[[定年|定年制]]を設けていた。ただし、[[藤井富雄]](引退時81歳)や坂口力(引退時78歳)や[[池坊保子]](引退時70歳)、[[太田昭宏]](引退時76歳)、[[井上義久]](引退時74歳)など例外も存在する。 その後所属議員の高齢化に伴い、2013年12月の党中央幹事会で定年を66歳から69歳に引き上げた<ref>{{Wayback|url=https://www.sankei.com/politics/news/140128/plt1401280028-n1.html|title=高齢化社会反映? 公明、議員定年66から69歳に引き上げ - 産経ニュース|date=20160404064032}}</ref><ref>{{Cite news |title=公明、定年制69歳に上げ 第1次公認34人発表|newspaper=日本経済新聞|date=2014-11-19 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS19H35_Z11C14A1PP8000/|accessdate=2019-06-23}}</ref>。 また、この際に在職制限(次の任期中に在職24年を超えない)も導入された。年齢制限と在職制限については、「余人をもって代えがたい」「地元からの強い続投要請」「その人物が党運営に今後も必要」の3条件をすべて満たした場合、慣例的に例外とすることが可能とされている。2020年時点ではリクルート事件を契機とした1990年代の世代交代で誕生した「第2世代」と呼ばれる議員らが党の中核を担っており、この「第2世代」の大半が年齢制限か在職制限に該当するため、どこまで例外を適用するかが党の課題となっていると報じられた<ref>{{Cite news |title=次期衆院選 公明、定年内規に苦慮 厳格適用なら幹部一斉引退 任期中69歳/在職24年超、公認せず|newspaper=毎日新聞|date=2020-07-21|url=https://mainichi.jp/senkyo/articles/20200721/ddm/005/010/057000c|accessdate=2020-07-21}}</ref>。 == 役職 == === 常任役員会代表(党代表) === {{main|公明党代表}} === 中央幹事会 === {{main|公明党中央幹事会}} === 常任役員会 === {|class="wikitable" !役職!!人物 |- |代表||[[山口那津男]] |- |副代表|||[[北側一雄]]<br>[[古屋範子]]<br>[[斉藤鉄夫]]<br> |- |[[幹事長]]|||[[石井啓一]] |- |中央幹事会会長|||北側一雄 |- |[[政策部会|政務調査会長]]|||[[高木陽介]] |- |[[参議院議員団|参議院議員会長]]||[[西田実仁]] |- |参議院幹事長||[[谷合正明]] |- |幹事長代行|||[[赤羽一嘉]] |- |女性委員長 |[[竹谷とし子]] |- |選挙対策委員長||[[西田実仁]] |- |[[国会対策委員会|国会対策委員長]]||[[佐藤茂樹 (政治家)|佐藤茂樹]] |- |総務委員長||高鍋博之 |- |機関紙委員長||吉本正史 |- |広報委員長 |谷合正明 |} === 全国議員団会議 === *2023年10月1日現在 {|class="wikitable" !役職!!人物 |- |議長||不明 |} === 常任顧問・顧問 === *2021年11月15日現在 {|class="wikitable" !役職!!人物 |- |常任顧問||[[太田昭宏]]<br>[[井上義久]] |- |顧問||[[白浜一良]]<br>[[魚住裕一郎]] |- |特別顧問||不在 |- |アドバイザー||[[石田祝稔]]<br>[[桝屋敬悟]]<br>[[高木美智代]] |} === 閣僚経験者 === {|class="wikitable" |- ! 内閣 ! 公明党閣僚 |- ! [[細川内閣]] |[[郵政大臣]]:[[神崎武法]]<br>[[労働省|労働大臣]]:[[坂口力]]<br>[[総務庁#国務大臣総務庁長官|総務庁長官]]:[[石田幸四郎]]<br>[[環境大臣|環境庁長官]]:[[広中和歌子]] |- ! [[羽田内閣]] |[[運輸大臣]]:[[二見伸明]]<br>郵政大臣:[[日笠勝之]]<br>[[建設大臣]]: [[森本晃司 (政治家)|森本晃司]]<br>総務庁長官:石田幸四郎<br>[[科学技術庁長官]]:[[近江巳記夫]]<br>環境庁長官:[[浜四津敏子]] |- ! [[小渕内閣 (第2次改造)]] |rowspan=3|総務庁長官:[[続訓弘]] |- ! [[第1次森内閣]] |- ! [[第2次森内閣]] |- ! [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|第2次森内閣<br>(改造 中央省庁再編前)]] |[[厚生省#歴代な厚生大臣|厚生大臣]]兼労働大臣:坂口力 |- ! [[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|第2次森内閣<br>(改造 中央省庁再編後)]] |rowspan=5|厚生労働大臣:坂口力 |- ! [[第1次小泉内閣]] |- ! [[第1次小泉内閣 (第1次改造)]] |- ! [[第1次小泉内閣 (第2次改造)]] |- ! [[第2次小泉内閣]] |- ! [[第2次小泉内閣 (改造)]] | rowspan=3|[[国土交通大臣]] 兼 [[首都機能移転]]担当 兼 [[観光立国推進基本法|観光立国]]担当:[[北側一雄]] |- ! [[第3次小泉内閣]] |- ! [[第3次小泉内閣 (改造)]] |- ! [[第1次安倍内閣]] |rowspan=3|国土交通大臣 兼 [[観光立国推進基本法|観光立国]]担当 兼 [[総合海洋政策本部#歴代の副本部長|海洋政策担当]]:[[冬柴鐵三]] |- ! [[第1次安倍内閣 (改造)]] |- ! [[福田康夫内閣]] |- ! [[福田康夫内閣 (改造)]] |rowspan=2|[[環境大臣]]:[[斉藤鉄夫]] |- ! [[麻生内閣]] |- ! [[第2次安倍内閣]] | rowspan=3|[[国土交通大臣]] 兼 [[水循環政策本部|水循環政策担当]] (2014年5月20日任命):[[太田昭宏]] |- ! [[第2次安倍内閣 (改造)]] |- ! [[第3次安倍内閣]] |- ! [[第3次安倍内閣 (第1次改造)]] |rowspan=5|国土交通大臣 兼 水循環政策担当:[[石井啓一]] |- ! [[第3次安倍内閣 (第2次改造)]] |- ! [[第3次安倍内閣 (第3次改造)]] |- ! [[第4次安倍内閣]] |- ! [[第4次安倍内閣 (第1次改造)]] |- ! [[第4次安倍内閣 (第2次改造)]] | rowspan=2|国土交通大臣 兼 水循環政策担当:[[赤羽一嘉]] |- ! [[菅義偉内閣]] |- ! [[第1次岸田内閣]] | rowspan=2|国土交通大臣 兼 水循環政策担当:[[斉藤鉄夫]] |- ! [[第2次岸田内閣]] |- ! [[第2次岸田内閣 (改造)]] | rowspan=2|国土交通大臣 兼 水循環政策担当 兼 [[国際園芸博覧会|国際園芸博覧会担当]]:[[斉藤鉄夫]] |- ! [[第2次岸田内閣 (第2次改造)]] |- |} == 論議のある問題 == === 創価学会との関係、政教分離問題 === 公明党は公式HPにおいて創価学会の仏法の理念に基づいて活動してきたことを明記している<ref>[https://www.komei.or.jp/faq/ よくあるご質問|公明党]</ref>。 {{要出典|範囲=公明党の草創期はあくまで創価学会の所轄内にあったことや、創価学会と一体となった活動が行われた経緯から、「憲法に定められた政教分離原則に反する」「公明党と創価学会は政教一致」という批判がマスコミや有権者から上がったことがある。1970年(昭和45年)の「言論出版妨害事件」に端を発した公明党と創価学会との「政教一致」批判に対し、制度的分離を明確化して以降(詳細後述)も同様の批判はある|date=2017年11月}}。一方で、日本国憲法の定める「政教分離」とは、国家の宗教的中立性を定めたものであり、宗教団体の政治活動を否定したものではないということには留意を要する<ref>[[芦部信喜]]著『憲法』第四版 岩波書店 2007年</ref>。 * 「政教分離」を明言した1970年(昭和45年)5月3日の党創立者・池田大作の講演では、「創価学会の役職を兼任している公明党議員では創価学会の役職は段階的にはずすなど、創価学会と公明党を制度の上で明確に分離していく」「会員個人の政党支持について、会員の自由意思には、全く干渉しない」「選挙活動は党組織の仕事とし、創価学会は支持団体として『地域ごとの応援』をする」などの方針が明らかにされた。同年の公明党大会では「政教一致」を意味すると見られてきた「王仏冥合」という宗教用語を公明党綱領から削除して宗教色を薄めた。 * 1993年(平成5年)、細川内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと池田が発言したことで、池田が細川内閣の人事に影響力を及ぼしているのではないかと衆議院予算委員会で自民党の委員が問題視したことがある。当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨の説明をした<ref name="k19951204"/>。 * 公明党元委員長であり、学歴詐称問題などで同党から最高顧問職解任、除名をされている<ref>史実を歪曲する日中国交回復”功労者”の素顔を暴く!! 実業界 839号 1999年1月1日</ref>竹入義勝は1998年(平成10年)9月、『朝日新聞』に連載した回顧録『秘話・55年体制のはざまで』で、「公明党・創価学会の関係は環状線で互いに結ばれているのではなくて、一方的に発射される放射線関係でしかなかったように思う」「委員長を引き受けるときから人事権は(創価)学会にあると、明確にされていた」「公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた」などと述べた。この連載の直後、公明党の機関紙『公明新聞』では『竹入義勝の謀略と欺瞞』と題する連載が始まり、竹入の主張に対する反論が展開された。 * 羽田内閣で総務庁長官を務めた公明党委員長の石田幸四郎は国会で、「公明党の最高人事は池田の意向、指示で決まるのか」との質問に「公明党の人事は公明党でやっており、(池田からの)指示はない」「人事、政策というのは党大会を通して決める」と答弁した<ref>第129回国会 衆議院 [[予算委員会]] 第8号 平成6年(1994年)5月24日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112905261X00819940524 議事録]</ref>。 * 1997年、[[内閣法制局]]は「政教分離原則は宗教団体が政治的活動をすることを規制しているものではない」との旨を答弁している<ref>第140回国会 衆議院 [[決算委員会]]第二分科会 第2号 平成9年(1997年)5月27日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=114004121X00219970527 議事録])</ref>。 * 選挙期間になると、「創価学会の施設」を「全面的にフル動員して活用して」いることに対し、衆議院予算委員会で自民党の委員が問題視したことがある<ref name="k19931006">第128回国会 衆議院 予算委員会 第4号 平成5年(1993年)10月6日([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112805261X00419931006 議事録])</ref>。自民党の委員の質問に対し、公明党委員長の石田幸四郎は「もしそれが憲法に触れる問題となるのであれば、特定の政党に対して特定の宗教団体が支援・支持をすることについてもまた同じ疑点が出てくる」と答弁し、内閣総理大臣の[[細川護煕]]も「公明党も信教の自由を大綱の中で謳っているのだから、その方針に沿って政治活動をしていると理解している」と答弁した<ref name="k19931006"/>。 * 2007年(平成19年)10月16日の参議院予算委員会で、民主党の[[石井一]]が「公明党と創価学会は表裏一体ではないか」「元公明党所属の議員から得た情報によると、国政選挙で公明党議員が当選した場合に衆議院議員は300万円、参議院議員は600万円の献金がなされ、その献金がどこへ入ったかは不明になっている」と主張した。石井は「公明党議員などからの創価学会への献金(P献金)の存在」も主張するとともに、公明党の歴代代表が結党以来40年以上に渡って無投票で選出されてきたことについても言及した。また、創価学会の関連施設で「法敵菅直人が来た」などという政治的活動が行われていたとも主張し、証拠となる録音テープを予算委員長に提出した。公明党の山口那津男は質問に抗議し、公明党に所属する国土交通大臣の冬柴鐵三も「P献金」「創価学会関連施設での政治的活動」をともに否定した<ref>第168回国会 参議院 予算委員会 第2号 参議院、2007年(平成19年)10月16日(議事録)、参議院インターネット審議中継での動画</ref>。 * 2014年(平成26年)6月、[[内閣官房参与]][[飯島勲]]は、公明党と創価学会の関係が憲法の「政教分離原則」に反しないとしてきた従来の政府見解について、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、(公明党と創価学会は)『政教一致』が出てきてもおかしくない」と述べ、従来の政府見解が変更される可能性に言及した<ref>{{Wayback|url=http://news.yahoo.co.jp/pickup/6119401|title=Yahoo!ニュース - 「政教分離」見直しも 飯島氏(2014年6月11日(水) 掲載)|date=20140614192905}}</ref>。 * [[日本共産党]]機関紙「[[しんぶん赤旗]]」によると、公明党の中央委員と党[[福井県]]本部長であったAは創価学会福井池田文化会館に呼び出され、十人の学会幹部から「党県本部長として今やらなければならないことは[[日顕 (日蓮正宗)|日顕]]を徹底して攻撃することだ。党の政策なんかどうでもいい。」と吊るし上げられ「脱会していった元学会員をあらゆる手を使っていじめぬけ、追い詰めろ」と強要された{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=68-69}}。Aは「創価学会から私にはどうしてもできない二つのことをやれと命じられた。世間の常識からも憲法の上からも絶対にできないことであり、離党を決意せざるをえなかった」と語り、創価学会を脱会、公明党を離党した{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=68-69}}。 === 選挙 === * 山田直樹によると、自公選挙協力の中、自民党候補者の後援会名簿が創価学会側に渡ったという事実が明るみとなり、自民党選挙対策関係者や支持者はショックを受けたという<ref>山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日){{ISBN2|978-4104673018}}</ref>。 ==== 大阪事件 ==== 1957年(昭和32年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、創価学会員が大阪[[あいりん地区]]に住む[[日雇い]][[労働者]]らに候補者名の氏名の入った[[たばこ|タバコ]]や[[現金]]を渡したとして、幹部の小泉隆、池田大作を含む創価学会員ら47人が公職選挙法違反で逮捕された。池田は[[無罪]]となったが45人に有罪判決が下され、有罪となった会員45名は戸田会長の名で会員除名処分を受けた。{{main|大阪事件 (創価学会)}} ==== 新宿替え玉事件 ==== 1968年(昭和43年)に行われた参議院議員選挙で不在者投票を悪用し、本人になりすまして投票が行われたとされる選挙違反事件があった。創価学会員14人が逮捕され、14人全員に有罪判決が下された。{{main|新宿替え玉事件}} ==== 投票所襲撃事件 ==== 1969年(昭和44年)7月に行われた東京都議会議員選挙において、投票時間が過ぎたため投票不可を選挙管理委員会から通達された公明党支持者が逆上し、大勢が投票所を取り囲んで襲撃した上、女性・高齢者を含む投票立会人4人に集団暴行を加えて流血させた。後に1名が逮捕・起訴された。1970年(昭和45年)5月、共産党の[[青柳盛雄]]は、衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会でこの事件について政府見解を求めた<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106304219X00419700506 第063回国会 公職選挙法改正に関する調査特別委員会 第4号]</ref>。詳細は「[[練馬区投票所襲撃事件]]」参照のこと。 ==== 住民票異動に関するデマ ==== 創価学会員が組織的に選挙前に[[住民票]]を異動し公明党候補へ投票しているという噂が出たことがある。これらの噂はいずれも根拠が確認されておらず、発言者も[[噂|デマ]]であることを認めている(地方選挙の場合、3ヶ月1日前から居住していないと選挙権は得られない)。 * 1963年(昭和38年)の統一地方選に関し、社会党の[[島上善五郎]]は国会質問で「創価学会が集団的に移動をして」と話したが、島上はのちに「集団移動の事実は、つかんでいなかった」と自らの誤りを認め、発言を撤回している。 * 1967年(昭和42年)の衆議院選挙に関し、自治大臣の[[赤沢正道]]は夕刊紙に「住民票異動云々」の発言をしたが、これも「根拠は何もない。恐縮している」と撤回し、謝罪している。 * 1981年(昭和56年)に行われた沖縄県[[那覇市議会]]議員選挙では[[那覇市]]の選挙権を持った[[市民]]が那覇市に在住しておらず居住実態がなかったことから調査が開始された。調査により[[浦添市]]民の11名が選挙前になると那覇市と浦添市の間で住民票の異動を繰り返していたが、実際那覇市には一度も居住していなかったとして、那覇市の選挙管理委員会は対象の11名を選挙人名簿から削除した<ref>しんぶん赤旗1981年7月26日付</ref>。[[沖縄タイムス]]、[[琉球新報]]は紙面で創価学会の行動として厳しく非難した<ref>沖縄タイムス1981年7月27日付 社会面</ref><ref>琉球新報1981年7月27日付 4面</ref> が、のちの調査で、11人のうち10人が保守系候補の支持者、1人が仕事上の都合での異動であることが分かった<ref>「現場からの日本共産党批判」</ref>。 ==== 2001年(平成13年)参議院選挙 ==== 2001年(平成13年)の参議院選挙で逮捕者が出て、地方新聞に掲載された<ref>『千葉日報』(2001年8月2日付)『埼玉新聞』(2001年8月4日付)『北日本新聞』(2001年7月31日付) 『徳島新聞』(2001年7月31日付)『佐賀新聞』(2001年7月31日付)</ref>。[[佐賀新聞]]の報道によると、逮捕された学会員が不在者投票所の入り口で「公明党の候補者名を書くように言ってある。メモを持たせてある」などと佐賀市選挙管理委員会職員に直接話したのを[[佐賀警察署]]の署員が聞いていたという。埼玉新聞の報道によると、[[羽生市]]の介護福祉士が自身の勤める老人介護施設の利用者に公明党の埼玉選挙区と比例代表の特定候補者2人の名前を記したメモを持たせて投票させ、投票に干渉した疑いで逮捕されたことを報じた<ref>『埼玉新聞』(2001年8月4日付)</ref>。ただし、自民党や民主党の支援者も同様の行為を行い、逮捕されている<ref name="ReferenceA">自民党、毎日新聞、産経新聞、読売新聞2009年9月1日付他、民主党2011年7月12日付毎日新聞、産経新聞、読売新聞など</ref>。 ==== 2003年(平成15年)衆議院総選挙==== 2003年(平成15年)の衆議院選挙で、[[神奈川県]]内に住む創価学会の女性幹部3名が重度の知的障害をもつ女性とともに投票所に現れ、あたかも知的障害をもつ女性が公明党に投票意思があるように見せかけ投票しようとしたとして公職選挙法違反で逮捕された<ref>産経新聞2003年11月20日号 27面</ref><ref>山田直樹 創価学会とは何か p131 - p134</ref>。 ==== 2010年(平成22年)参議院選挙 ==== 2010年(平成22年)の参議院選挙で、[[宮崎県]]の女性3人が知人の複数の高齢者の手の平に「選挙区の自民候補と比例代表の公明候補の名前をペンで書き投票を誘導した疑い」を持たれた<ref>{{Archive.today|url=https://web.archive.org/web/20130424065438/http://www.47news.jp/CN/201007/CN2010071301000005.html|title=高齢者の手に候補者名書く 投票干渉容疑で3人逮捕 - 47NEWS(よんななニュース)|date=20161019041923}}</ref>。 ==== 2012年(平成24年)衆議院総選挙 ==== 2012年(平成24年)の第46回衆議院議員総選挙で、[[愛媛県]]の公明党支持者が「比例代表は公明党、選挙区は[[塩崎恭久]]氏(愛媛1区、自民党)」というメモを判断能力に欠けた高齢女性(認知症患者)に持たせて投票させた容疑で検挙された<ref>{{Wayback|url=http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20130116/news20130116454.html|title=投票干渉容疑で公明2支持者書類送検 松山東署 愛媛新聞ONLINE|date=20130117232226}}</ref>。 信者が投票を指示したという具体的な物的証拠が少なく、判断能力の低下した認知症などに罹患した高齢者が標的にされているケースも多く、犯行の証言を得ることが難しいからである。投票所の監視を強化してもイタチごっこであると、[[日本の警察|警察]]など[[捜査]]関係者は頭を悩ませている<ref>{{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130129/waf13012910420006-n2.htm|title=「投票干渉」…生活保護受給者や高齢者狙う 監視強化も立件に壁(2/2ページ) - MSN産経west|date=20130616154644}}</ref>。もっとも、投票の依頼は公職選挙法で認められており<ref>[http://www2.city.kyoto.lg.jp/senkyo/shitteru_senkyo/undou/ 京都市選挙管理委員会:選挙運動を知ろう!]</ref>、「投票を指示」されても実際の投票行動は本人次第である。また、「投票干渉」公明党は以前から支持母体創価学会の会員が中心となり友人、知人に対し公明党への電話による投票依頼を行なっており(「F票獲得工作」という)、選挙前の風物詩とさえ言われたが<ref>デイリーニュースオンライン 2014年12月2日号 公明党への投票依頼をLINEで依頼創価学会員のイマドキ選挙活動 2017年10月11日記事閲覧</ref>、近年ではインターネットの普及により電話での投票依頼はあたかも学会員が選挙違反をしている印象を与えかねず、(電話で投票依頼した行為を)面白おかしくネット上に書き込まれることを危惧する学会幹部がいるため、最近では学会員に選挙期間中の家庭訪問や電話での投票依頼を控えさせているという。最近では通信費用がかからないLINEで「投票に行く」事実のみを伝えるよう指示を出す幹部もいる。それは投票依頼をLINEで行った場合、学会を嫌う層からメッセージをスクリーンショットで保存されネット上に拡散される恐れがある。しかし、学会婦人部からはソフト路線とも取れる学会の変化に不満の声が出ているという<ref>デイリーニュースオンライン2014年12月2日号 公明党への投票依頼をLINEで依頼創価学会員のイマドキ選挙活動 2017年10月8日記事閲覧</ref>。ただ、創価学会の会員が必ずしも公明党を支持し、投票をしているわけではない。どこの政党を支持し投票をするかについては会員の自由となっている。 なお、選挙期間中の電話による投票依頼は公職選挙法で認められている<ref> {{WAP|pid=11385357|url=www.city.kashiwazaki.lg.jp/senkyo/shise/senkyo/qa/undo.html|title=選挙運動に関する質問|柏崎市|date=2019年11月9日}}</ref>。 === 生活保護不正受給の口利き問題 === 生活保護の受給に関し公明党の市議が口利きを行っていた事実がある。その中では不正受給も認定されている。例として1999年(平成11年)5月から2003年(平成15年)6月にかけて公明党市議の母親が生活実態がないにもかかわらず、生活保護を申請し生活保護費を不正に受給していた。本件では申請を行う際、公明党市議が自ら市職員に口利きを行ったことが確認され、受給後市の担当者が、公明党市議の母親の1年問の水道や電気の使用量を調べた結果、一般的な一人暮らしの数か月分しかなかったため不正受給とみなし多賀城市議会は、公明党市議や親族に対して生活保護を打ち切った上で、市議会において返還請求訴訟を起こすことを賛成多数で可決した<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-10-01/14_02.html 生活保護費不正受給公明市議らに返還要求 しんぶん赤旗 2004年10月1日付]</ref>。全議員22名のうち反対は公明党議員2名だけだった<ref name="post"/>。また週刊ポストの調査では公明党市議の母親は以前居住していた[[塩竈市]]でも同様の手口で生活保護費を受給していた事が確認されたが受給された生活保護費がどのように使われたかは全く不明としている。最後に決議に反対した公明党議員へ(党籍が同じというだけで)は返還請求訴訟に反対するのであれば公明党は党全体で生活保護の不正受給を容認していると締めくくられている<ref name="post"/>。 === 北朝鮮問題 === 週刊文春の[[増元照明]]へのインタビュー記事(2002年11月28日)によると、まず、増元照明の父・正一、姉・るみ子、るみ子と一緒に拉致された市川修一が創価学会員であることを明かし、増元るみ子と市川修一は創価学会青年部の勉強会で知り合って交際を始めたことを明らかにした<ref name=bunsyun20021128>{{Cite journal |和書 |title = 「拉致報道」のタブー第七弾!|date = 2002-11-28 |publisher = [[株式会社文藝春秋]] |journal = 週刊文春 |pages = 28-29 }}</ref>。さらに自身について「信仰心は無いが、名簿上は創価学会員として登録されている」と思うとし、「姉が行方不明になった時は、必死に拝んだ」と告白した<ref name=bunsyun20021128/>。 公明党に対しては(自民党との連立政権で与党となった)[[1999年]]に[[浜四津敏子]]が[[鹿児島県]]に訪問した時に父・正一が拉致問題解決の協力を求め、浜四津は「分かりました」と発言したが、以後、連絡が来ることはなかった<ref name=bunsyun20021128/>。また、増元照明は公明党本部にメールで姉が創価学会員であることを書いて「拉致問題に対する公明党の対応を教えて欲しい」と頼んだが、「メールありがとうございました。ご意見は検討させていただきます。」との定型メールが返ってきただけであった<ref name=bunsyun20021128/>。また、増元照明は公明党参議院議員で[[外務省]]出身の[[山本香苗]]にもメールを送ったが山本からは返事すら返ってこなかった<ref name=bunsyun20021128/>。 また、1997年、[[横田滋]]と[[蓮池透]]が都議会で「拉致事件の早期解決を国に要請する意見書」を採択してもらうよう都議会各党に頼んだが、公明党が反対し全会一致が得られず、意見書の採択ができなかったという<ref name=bunsyun20021128/>。 === 韓国大統領選挙介入疑惑 === 朝鮮日報社の『月刊朝鮮』は、1997年(平成9年)に行われた[[1997年大韓民国大統領選挙|韓国大統領選挙]]前に[[新政治国民会議]]の[[金大中]]候補が日本で秘密裏に公明党幹部と面会し、韓国創価学会から支持を得られるように依頼し、友人を通じて公明党幹部が了承していたと報道した<ref name=csnp0205>朝鮮日報社『月刊朝鮮』2002年5月号</ref>。大統領選挙では金候補が[[自由韓国党|ハンナラ党]]の李会昌候補に約30万票の僅差で勝利したが、当時の韓国創価学会の有権者は60万人から80万人程であり、創価学会の応援要請が事実なら韓国大統領が日本の公明党の協力で誕生したことになると『月刊朝鮮』は締めくくっている。 === 沖縄県在日米軍基地問題 === 公明党は、党中央では[[普天間基地移設問題|辺野古移設]]に賛成の立場だが、党沖縄県本部は反対の立場である<ref name=AERA20181010>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/115721 |title=創価学会の乱れも自民の誤算 危機感バネに結集した沖縄の反骨心 |publisher=朝日新聞社 |work=AERAdot.|date=2018-10-10 |accessdate=2019-02-17 }}</ref>。沖縄戦の経験から沖縄の創価学会では伝統的に反戦意識が強いと言われてきた<ref name=Asa20180924>{{Cite news |title=「自公連携」に反旗翻す創価学会員の訴えは 沖縄知事選 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=朝日新聞社 |date=2018-09-24 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9R4402L9RTIPE001.html |language=日本語 |accessdate=2019-02-17 }}</ref>。 [[2014年沖縄県知事選挙]]では、党沖縄県本部が辺野古移設に反対して自主投票になり、移設反対の[[翁長雄志]]が自民推薦で移設賛成の[[仲井眞弘多]]を破り当選した<ref name=Asa20180924/><ref name=San20180925>{{Cite news |title=【政界徒然草】沖縄県知事選に総力挙げる公明党 4年前と異なる事情 |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産経新聞社]] |date=2018-09-25 |url=https://www.sankei.com/article/20180925-X3KOZW2A5VL5DDLRTBZTKVDSAY/ |language=日本語 |accessdate=2019-02-17 }}</ref>。この選挙では、公明支持者の8割以上が翁長に投票したと見られている<ref name=San20180925/>。 2018年2月、辺野古を抱える[[2018年名護市長選挙|名護市の市長選挙]]では、辺野古移設容認の自民系候補・[[渡具知武豊]]を党沖縄県本部も推薦し、勝利に貢献したが、内心“苦渋の選択”を迫られた学会員も多かった<ref name=AERA20181010/><ref name=San20180104>{{Cite news |title=沖縄・名護市長選へ自民党幹部が大挙 辺野古移設実現へ「勝負の年」 公明党に本気度示す |newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]] |publisher=産経新聞社 |date=2018-01-04 |url=https://www.sankei.com/article/20180104-TGVAUNHGZ5IMRER66XK7H46MGQ/ |language=日本語 |accessdate=2019-02-17 }}</ref><ref name=Asa20180104>{{Cite news |title=「辺野古反対」大敗 秋に知事選、翁長氏に大きな打撃 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2018-02-06 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL254QRHL25UTFK00N.html |accessdate=2019-02-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180327180341/https://www.asahi.com/articles/ASL254QRHL25UTFK00N.html|archivedate=2018-03-27}}</ref>。 [[2018年沖縄県知事選挙]]では、8月に急逝した翁長の路線を引き継いだ[[玉城デニー]]が、自民・公明・維新・希望が推薦した[[佐喜眞淳]]ら3氏を破り初当選した<ref name=Asa20180930>{{Cite news |title=沖縄知事に辺野古反対の玉城氏 政権支援の佐喜真氏破る |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2018-09-30 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9V6QWDL9VTIPE03M.html |language=日本語 |accessdate=2019-02-17 }}</ref>。この選挙では玉城は辺野古移設反対を言明していたが、佐喜眞は最後まで辺野古移設の賛否を明かさなかった<ref name=Asa20180930/>。公明陣営では県外から大量の学会員が来て人海戦術をとったが、肝心の沖縄の学会員の動きは鈍く、3割近い票が玉城へと流れたとされる<ref name=AERA20181010/>。また9月に[[琉球新報社]]が[[沖縄テレビ放送]]、[[JX通信社]]と合同で行った世論調査によると、翁長が辺野古新基地建設に伴う埋め立て承認を撤回したことについて、沖縄県全体では翁長支持が不支持を大きく上回っていたが、公明党支持者の中でも翁長支持が不支持を上回っていたというデータが出ていた<ref name=Ryu20180919>{{Cite news |title=承認撤回「支持」7割 辺野古埋め立て 70、60歳代で多く 自民支持層も一定数 |newspaper=琉球新報 |publisher=琉球新報社 |date=2018-09-19 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-804778.html |language=日本語 |accessdate=2019-02-17 }}</ref>。 [[辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票|2019年沖縄県民投票]]では、全体では辺野古移設のための埋め立て工事に賛成18.99%、反対71.74%、どちらでもない8.70%となった<ref name=Mai20190225>{{Cite news |title=辺野古「反対」7割超 知事、日米首脳に通知へ 沖縄県民投票 |newspaper=[[毎日新聞デジタル]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2019-02-25 |url=https://mainichi.jp/articles/20190225/k00/00m/010/002000c |language=日本語 |accessdate=2019-03-03 }}</ref>。朝日新聞の出口調査によると公明支持者では賛成30%、反対55%、どちらでもない16%となった(無回答や四捨五入のため合計が100%にならない)<ref name=Asa20190224>{{Cite news |title=安倍内閣の沖縄基地問題への姿勢、「評価しない」79% |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2019-02-24 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM2Q5H84M2QUZPS001.html |language=日本語 |accessdate=2019-03-03 }}</ref>。 ==== 役人の天下りへの対処 ==== 公明党は以前からマニフェストで[[斡旋]]や[[わたり]]を年内に廃止し、早期退職慣行の廃止など天下りを3年で根絶し行政の無駄追放を行う要旨を発表した<ref>{{Wayback|url=https://www.hokkoku.co.jp/manifesto/koumei.htm|title=公明党のマニフェスト要旨|date=20200222012658}}</ref>。しかし、2007年に[[内閣府特命担当大臣|行政改革担当大臣]]渡辺喜美から、独立行政法人の改革をめぐり、所管法人の廃止・[[民営化]]などで協力を求められた際、国土交通大臣だった公明党の冬柴は渡辺に対し法人組織の民営化を拒否するなど「ゼロ回答」を行った<ref name=Asahi20071214>{{Wayback|url=http://www.asahi.com/housing/column/TKY200712140240.html|title=asahi.com:民営化迫られ、苦しいUR都市機構 - 住まいコラム「住まいのお役立ちコラム」|date=20071215161505}}</ref>。マニフェストと違う回答に身内の公明党や支持母体創価学会から激しい批判が寄せられ、衆議院予算委員会で同じ公明党の富田茂之が冬柴に「官僚の天下りに対して追及する民主党議員の行動は正しい」などと指摘、冬柴も支持者から抗議の手紙が届いたことを答弁した<ref>2008年2月28日衆議院予算委員会議事録</ref>。その後も公明党は選挙のマニフェストで天下りの根絶を謳い、2017年2月6日の衆議院予算委員会でも[[高木美智代]]が天下りの根絶を訴えたが、2017年の衆議院総選挙で公明党はそれまでの方針を転換し、従来の「天下りの根絶」との文言をマニフェストから削除した<ref>[https://www.komei.or.jp/campaign/shuin2017/manifesto/manifesto2017.pdf 公明党マニフェスト2017]</ref>。 国の借金は1998年(平成10年)には約408兆円だったのに対し、2008年(平成20年)には約607兆円と約1.5倍に膨れ上がった<ref>{{WAP|pid=1364654|url=www.mof.go.jp/jouhou/syukei/siryou/sy2108h.pdf|title=我が国の1970年度以降の長期債務残高の推移|date=2011年3月1日}}</ref>。財源を確保するため、2003年に[[健康保険]]の本人負担増(2割→3割)を実施させ<ref>2003年4月からサラリーマンの窓口負担は3割になります。厚生労働省ホームページ2017年10月9日閲覧</ref>、[[ホワイトカラーエグゼンプション]]への支持<ref>公明新聞2006年3月24日付記事</ref> を表明した。 === 池田大作に対する配慮 === 『[[週刊実話]]』によれば、公明党内では、創価学会名誉会長池田大作が日本国内の[[勲章]]を授与されていないことから、公明党所属の国会議員(党首経験者や閣僚経験者含む)は[[旭日大綬章]]など勲章の受賞リストに名前が挙がった段階で、池田に配慮し自ら受賞を辞退するという[[慣習]]が存在していたという<ref>週刊実話2010年11月10日号等</ref>。 ただし、公明党・創価学会と対立した場合は別で、委員長経験者である竹入義勝(1996年・旭日大綬章)や矢野絢也(2010年・旭日大綬章)は受章している。『週刊実話』によると、竹入や矢野の受章に対して創価学会から「恩知らず」「裏切り者」という罵詈雑言が起こっているというが、その客観的根拠は示されていない。 1995年(平成7年)11月27日の参議院「宗教法人等に関する特別委員会」で、自民党の[[関根則之]]は、当時の創価学会事務総長[[原田稔]](後の創価学会会長)が外務省官房長の[[小和田恒]]([[皇太子徳仁親王妃雅子]]の父)に宛てて「本年1月末より2月中旬にかけて、池田大作(創価学会名誉会長)一行が[[教育]]・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]交流のため、[[香港]]並びに[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]3か国([[タイ王国|タイ]]・[[マレーシア]]・[[シンガポール]])を約2週間に渡り、(下記の日程で)訪問する予定です。何卒宜しくお願い申しあげます」といった内容の手紙を送り、[[外務省]]が創価学会や池田に配慮や便宜を図ったのではないかと主張した。関根は池田大作および長男の[[池田博正]]の証人喚問を要求し、理事会で審議されたが、外務省、[[宮内庁]]、創価学会ともに「根拠のない」話であるとして否定した上、池田の証人喚問は見送られた。 しんぶん赤旗によると、公明党から創価学会への報告書は宛先が書かれているが、池田大作名誉会長宛の報告書だけは宛先を空欄にするように徹底されている{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=43-46}}。万が一の時、池田に責任が及ばないようにするためである{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=43-46}}。報告書が公明党に戻ってくる時、赤でレ点がついていることもあるがそれは池田が「見た」という印であり、意見が書いてあることもある{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=43-46}}。党の国対で決めたことが報告書を見た池田のひと声で変わることもある{{sfn|しんぶん赤旗・特別取材班|pp=43-46}}。 === 後藤田正晴の主張 === 元[[警察庁長官]]で後に[[内閣官房長官]]を長期に務めた[[後藤田正晴]]は、1998年に講談社から出版した回顧録『情と理―後藤田正晴回顧録』で警察官僚時代を振り返り、[[日本社会党]]と[[民社党]]は[[警察庁]]のマークの対象外だったとし、「社会党ほどダラ幹(堕落した幹部)の党はない。民社党は記憶にない。あれは何をしておったのだろう。危ないと思うのは、共産党と公明党だ。この国への忠誠心がない政党は危ない。共産党は前から徹底的にマークしているからいいが、公明党はちょっと危ない」と述べている<ref name=mgjr>『情と理―後藤田正晴回顧録』(講談社、1998年)</ref>。この聞き取りを行った[[御厨貴]]が後に公明党代表の山口に話したところ、いやな顔をしたと述べている。一方、2005年8月に[[TBSテレビ|TBS]]系列の討論番組『[[時事放談]]』に出演した際には、公明党に対して「福祉と平和の立党の精神、これをいつまでも守ってもらいたい」と期待を寄せている<ref>『後藤田正晴 日本への遺言』(2005年11月15日発行、TBS『時事放談』編、毎日新聞社) p.105</ref>。 == 参議院議員通常選挙の選挙区候補者擁立 == [[参議院一人区|一人区]]と[[参議院二人区|二人区]]は自民党の候補者を[[推薦]]し、党公認の候補者は擁立しない。 [[参議院三人区|三人区]]は[[兵庫県選挙区|兵庫県]]と[[福岡県選挙区|福岡県]]は党公認の候補者を擁立するが、[[北海道選挙区|北海道]]と[[千葉県選挙区|千葉県]]は自民党の候補者を推薦し、党公認の候補者は擁立しない。 [[参議院四人区|四人区]]([[埼玉県選挙区|埼玉県]]、[[神奈川県選挙区|神奈川県]]、[[愛知県選挙区|愛知県]]、[[大阪府選挙区|大阪府]])と六人区([[東京都選挙区|東京都]])は党公認の候補者を擁立する。 == 政党交付金 == * 2009年(平成21年) - 26億1871万円 * 2010年(平成22年) - 23億8900万円 * 2011年(平成23年) - 22億7534万円 * 2012年(平成24年) - 22億7916万円 * 2020年(令和2年) - 30億2932万5千円<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000678653.pdf 総務省|報道資料|令和2年分政党交付金の交付決定] (2020年4月1日)</ref> == 支援団体 == {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" |- !style="white-space: nowrap;"|カテゴリー||団体 |- |宗教団体|| * '''[[創価学会]]''' **[[日本国政府|政府]]は「公明党と創価学会の関係は'''[[政教一致]]ではない'''」という認識で一貫している。 **歴代の首相も「宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が、政治的活動をすることをも排除している趣旨であるとは考えていない<ref>[[佐藤栄作]]内閣総理大臣、内閣衆質63第2号</ref>」「政教分離は宗教法人の政治的活動を排除する趣旨でない<ref>第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号 平成7年(1997年)11月27日(議事録)</ref>」などと答弁している。 **自由民主党は[[神道政治連盟]]や[[世界平和統一家庭連合|統一教会]]([[国際勝共連合]])、立憲民主党(旧民主党・民進党系)は[[立正佼成会]]といったように、宗教団体から支援を受けている日本の政党は数多く存在し、現在にも過去にも国内外で[[宗教政党]](例:[[ドイツキリスト教民主同盟]])は一般的に活動している。 **なお、2007年(平成19年)10月16日の参議院予算委員会で民主党の石井一は「創価学会施設内で政治的活動が行われている」と発言した<ref>第168回国会 参議院 予算委員会 第2号 参議院、2007年(平成19年)10月16日、民主党石井一議員の代表質問([https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116815261X00220071016 議事録])</ref>。 **創価学会施設内での政治的活動について[[矢野絢也]]は、「選挙になると、学会の会館がフル活用されており、選挙対策事務所として使用される。」「学会側はそのような使用状況はないと否定しているが、私自身も過去9回の選挙を戦っており、そのたびにお世話になっていたので、何をかいわんや、である。」と告白している<ref name=black>{{Cite book |和書 |title=黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録 |author=矢野絢也|authorlink=矢野絢也|page= 181 |publisher=講談社 |date=2009-02-27 |isbn=978-4062152723}}</ref>。さらに矢野はこの状況について、「宗教法人の非課税で建てた建物の利用の仕方が、『政教一致』である可能性が大と言わなければならない」としている<ref name=black/>。 |} == 党勢の推移 == === 衆議院 === {| class="wikitable" |- !選挙!!当選/候補者!!定数!!備考</th></tr> |- |(結党時:1964年)||0/-||style="text-align: right;"|467|| |- |[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙(1967年)]]||25/32||style="text-align: right;"|486|| |- |[[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙(1969年)]]||47/76||style="text-align: right;"|486|| |- |[[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙(1972年)]]||29/59||style="text-align: right;"|491|| |- |[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙(1976年)]]||55/84||style="text-align: right;"|511||追加公認+1 |- |[[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙(1979年)]]||57/64||style="text-align: right;"|511||追加公認+1 |- |[[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙(1980年)]]||33/64||style="text-align: right;"|511||追加公認+1 |- |[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙(1983年)]]||58/59||style="text-align: right;"|511||追加公認+1 |- |[[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙(1986年)]]||56/61||style="text-align: right;"|512||追加公認+1 |- |[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙(1990年)]]||45/58||style="text-align: right;"|512||追加公認+1 |- |[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙(1993年)]]||51/54||style="text-align: right;"|511||追加公認+1 |- |[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙(1996年)]]||42/51||style="text-align: right;"|500||新進党での選挙 |- |[[第42回衆議院議員総選挙|第42回総選挙(2000年)]]||31/74||style="text-align: right;"|480||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]との[[自公連立政権]]で[[与党]]となって初めての解散総選挙。 |- |[[第43回衆議院議員総選挙|第43回総選挙(2003年)]]||34/55||style="text-align: right;"|480|| |- |[[第44回衆議院議員総選挙|第44回総選挙(2005年)]]||31/52||style="text-align: right;"|480|| |- |[[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙(2009年)]]||21/51||style="text-align: right;"|480||自由民主党とともに下野、[[民社国連立政権|民社国連立]]への[[政権交代]]。<br>[[太田昭宏]]党代表落選、後任に[[山口那津男]]参議院議員が就任。 |- |[[第46回衆議院議員総選挙|第46回総選挙(2012年)]]||31/54||style="text-align: right;"|480||自公連立、政権復帰。 |- |[[第47回衆議院議員総選挙|第47回総選挙(2014年)]]||35/51||style="text-align: right;"|475|| |- |[[第48回衆議院議員総選挙|第48回総選挙(2017年)]]||29/53||style="text-align: right;"|465|| |- |[[第49回衆議院議員総選挙|第49回総選挙(2021年)]]||32/53||style="text-align: right;"|465|| |} === 参議院 === {| class="wikitable" |- !選挙!!当選/候補者!!非改選!!定数!!備考 |- |[[第4回参議院議員通常選挙|第4回通常選挙(1956年)]]||3/6||style="text-align: right;"|-||style="text-align: right;"|250|| |- |[[第5回参議院議員通常選挙|第5回通常選挙(1959年)]]||6/6||style="text-align: right;"|3||style="text-align: right;"|250|| |- |[[第6回参議院議員通常選挙|第6回通常選挙(1962年)]]||9/9||style="text-align: right;"|6||style="text-align: right;"|250|| |- |(結党時:1964年)||15/-||style="text-align: right;"|-||style="text-align: right;"|250||公明党改称時 |- |[[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙(1965年)]]||11/14||style="text-align: right;"|9||style="text-align: right;"|250|| |- |[[第8回参議院議員通常選挙|第8回通常選挙(1968年)]]||13/14||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|250|| |- |[[第9回参議院議員通常選挙|第9回通常選挙(1971年)]]||10/10||style="text-align: right;"|13||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第10回参議院議員通常選挙|第10回通常選挙(1974年)]]||14/45||style="text-align: right;"|10||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙(1977年)]]||14/15||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙(1980年)]]||12/14||style="text-align: right;"|14||style="text-align: right;"|252||追加公認+1 |- |[[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙(1983年)]]||14/23||style="text-align: right;"|13||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第14回参議院議員通常選挙|第14回通常選挙(1986年)]]||10/21||style="text-align: right;"|14||style="text-align: right;"|252||追加公認+1 |- |[[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙(1989年)]]||10/22||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第16回参議院議員通常選挙|第16回通常選挙(1992年)]]||14/23||style="text-align: right;"|10||style="text-align: right;"|252|| |- |[[第17回参議院議員通常選挙|第17回通常選挙(1995年)]]||13/0||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|252||(新進党57と統一会派で同改選期を議席維持) |- |[[第18回参議院議員通常選挙|第18回通常選挙(1998年)]]||9/20||style="text-align: right;"|13||style="text-align: right;"|252||公明、追加公認+2 |- |[[第19回参議院議員通常選挙|第19回通常選挙(2001年)]]||13/22||style="text-align: right;"|10||style="text-align: right;"|247||([[改革クラブ]]1と統一会派) |- |[[第20回参議院議員通常選挙|第20回通常選挙(2004年)]]||11/20||style="text-align: right;"|13||style="text-align: right;"|242|| |- |[[第21回参議院議員通常選挙|第21回通常選挙(2007年)]]||9/24||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|242|| (後に繰り上げ当選により+1) |- |[[第22回参議院議員通常選挙|第22回通常選挙(2010年)]]||9/24||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|242|| |- |[[第23回参議院議員通常選挙|第23回通常選挙(2013年)]]||11/21||style="text-align: right;"|9||style="text-align: right;"|242|| |- |[[第24回参議院議員通常選挙|第24回通常選挙(2016年)]]||14/24||style="text-align: right;"|11||style="text-align: right;"|242|| |- |[[第25回参議院議員通常選挙|第25回通常選挙(2019年)]]||14/24||style="text-align: right;"|14||style="text-align: right;"|245|| |} (参考文献:[[石川真澄]]〈一部[[山口二郎]]による加筆〉『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、{{ISBN2|4-00-430904-2}}) * 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 * 第4回、5回参議院通常選挙は、結党前で創価学会組織内無所属の実績。 * 第6回参議院通常選挙は、「公明政治連盟」の実績。 * 第17回、18回参議院通常選挙は、「公明」の実績。 * 『戦後政治史』にない追加公認は 2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)<ref>{{Cite web|和書|title=平成15年の国会の動き 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース) (1)衆議院 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h15ugoki/tokei/h15to02a.htm |website=www.shugiin.go.jp |access-date=2023-05-03}}</ref>(衆議院、2003年(平成15年)まで)1 各会派所属議員数及び役員一覧<ref>{{Cite web|和書|title=各会派所属議員数及び役員一覧 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h17ugoki/09siryo/H17kans01.htm |website=www.shugiin.go.jp |access-date=2023-05-03}}</ref>(衆議院、2005年(平成17年))、(2) 参議院<ref>{{Cite web|和書|title=平成14年の国会の動き 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(2)参議院 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h14ugoki/h14tokei/h14to02b.htm |website=www.shugiin.go.jp |access-date=2023-05-03}}</ref>(2002年(平成14年)まで)(2) 参議院<ref>{{Cite web|和書|title=国会議員会派別議員数の推移(2)参議院 |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/ugoki/h16ugoki/08siryo/h16kans16.htm |website=www.shugiin.go.jp |access-date=2023-05-03}}</ref>(2004年(平成16年)まで)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。 === 所属国会議員 === {{See|公明党国会議員一覧}} *[[国会議員]]:59名 **[[衆議院議員]]:32名(議席占有率:6.88%) **[[参議院議員]]:27名(議席占有率:10.88%) === 地方政治 === * 所属議員:2,891人<ref name="giseki1" /> ** 都道府県議会:197人 ** 政令市議会:199人 ** 特別区議会:172人 ** 一般市議会:1,909人 ** 町村議会:414人 * 推薦議員8人<ref name="giseki1" /> * 政党支部数:431 === 政党収入額<ref>{{Cite web|和書|title=政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書|url=https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/index.html|website=総務省|accessdate=2019-10-10|language=ja}}</ref> === * 2010年(平成22年) - 212億6,127万円 * 2015年(平成27年) - 197億8,401万円 * 2016年(平成28年) - 207億7,677万円 * 2017年(平成29年) - 192億2,708万円 * 2019年(平成31年/令和元年) - 205億181万円 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|18em|refs= <ref name="nipponica">{{Cite web|和書|author=藤井正, 五十嵐仁 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E6%98%8E%E5%85%9A-63237#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=公明党(こうめいとう)とは |accessdate=2020-03-01 |website=[[コトバンク]] |work=日本大百科全書(ニッポニカ) }}</ref> }} == 参考文献 == *{{Cite book |和書 |author=薬師寺克行|authorlink=薬師寺克行|title=公明党 創価学会と50年の軌跡 |date=2016年4月25日 |publisher=中公新書 |isbn=978-4-12-102370-4 |ref={{SfnRef|薬師寺}} }} *{{Cite book |和書 |title=政教一体 公明党・創価学会政権参加を問う2 |author=しんぶん赤旗・特別取材班 |publisher=[[新日本出版社]] |date=2000-03-30 |isbn=978-4406027328|ref={{SfnRef|しんぶん赤旗・特別取材班}} }} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の政党一覧]] * [[公明新聞]] * [[聖教新聞]] * [[創価学会]] * [[宗教政党]] * [[政教分離原則]] * [[自公連立政権]] * [[自公民路線]] * [[社公民路線]] * [[国土交通大臣]] * [[日蓮]] * [[立正安国論]] == 外部リンク == * {{Official website|name=公明党公式サイト}} {{創価学会}} {{公明党}} {{日本の政党一覧}} {{聖教新聞社}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうめいとう}} [[Category:公明党|*]] [[Category:創価学会]] [[Category:日本の政党]] [[Category:新進党]] [[Category:日本の宗教政党]] 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マージェリー・アリンガム
マージェリー・ルイーズ・アリンガム(Margery Louise Allingham、1904年5月20日 - 1966年6月30日)は、イギリスの推理作家である。別名のマックスウェル・マーチ(Maxwell March)名義でも作品を発表している。 文学性に富んだその作品の数々は、作中に登場する探偵役のアルバート・キャンピオンとともに評価が高い。アガサ・クリスティ、ドロシー・L・セイヤーズと並ぶイギリスの代表的な女性推理作家のひとりである。 1904年ロンドン近郊に生まれる。小説・出版関係者の多い一族の間で育ったため、幼少期にものを書くことを覚えた。ケンブリッジの女子校を卒業してポリテクニックに進学した。1923年に冒険小説を発表、ついで推理小説を本格的に書き始めることになる。 1927年に幼なじみのイラストレーターで装丁家のフィリップ・ヤングマン・カーター(Philip Youngman Carter)と結婚する。カーターはアリンガムの作品の装丁を担当し、共作も行っている。二人は1931年にエセックス州へ移住し、生涯そこで暮らした。 イギリス推理文壇の有力者の一人で親睦団体のディテクションクラブの設立に参加した。 (Maxwell March名義の作品) (Youngman Carterが書き継いだキャンピオン・シリーズ) Part One: Mr Campion's Case Book Part Two: Some Other Mysteries
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マージェリー・ルイーズ・アリンガムは、イギリスの推理作家である。別名のマックスウェル・マーチ名義でも作品を発表している。 文学性に富んだその作品の数々は、作中に登場する探偵役のアルバート・キャンピオンとともに評価が高い。アガサ・クリスティ、ドロシー・L・セイヤーズと並ぶイギリスの代表的な女性推理作家のひとりである。
{{出典の明記| date = 2021年7月}} '''マージェリー・ルイーズ・アリンガム'''('''Margery Louise Allingham'''、[[1904年]][[5月20日]] - [[1966年]][[6月30日]])は、[[イギリス]]の[[推理作家]]である。別名の'''マックスウェル・マーチ'''(Maxwell March)名義でも作品を発表している。 文学性に富んだその作品の数々は、作中に登場する探偵役のアルバート・キャンピオンとともに評価が高い。[[アガサ・クリスティ]]、[[ドロシー・L・セイヤーズ]]と並ぶイギリスの代表的な女性推理作家のひとりである。 == 経歴 == 1904年[[ロンドン]]近郊に生まれる。小説・出版関係者の多い一族の間で育ったため、幼少期にものを書くことを覚えた。[[ケンブリッジ]]の女子校を卒業して[[ポリテクニック]]に進学した。1923年に冒険小説を発表、ついで推理小説を本格的に書き始めることになる。 1927年に幼なじみのイラストレーターで装丁家のフィリップ・ヤングマン・カーター(Philip Youngman Carter)と結婚する。カーターはアリンガムの作品の装丁を担当し、共作も行っている。二人は1931年に[[エセックス州]]へ移住し、生涯そこで暮らした。 イギリス推理文壇の有力者の一人で親睦団体の[[ディテクションクラブ]]の設立に参加した。 ==著作一覧== ===長編=== *''The White Cottage Mystery'', 1928.猪俣美江子訳『ホワイトコテージの殺人』(東京創元社、2018年) *''The Crime at Black Dudley'', 1929.(米版:''The Black Dudley Murder'') *''Mystery Mile'', 1930.小林晋訳『ミステリー・マイル』(ROM叢書2、2005年) *''Look to the Lady'', 1931(米版:''The Gyrth Chalice Mystery'') *''Police at the Funeral'', 1931.渕上痩平訳『ファラデー家の殺人』(論創社 [[論創海外ミステリ]], 2023年) *''Sweet Danger'', 1933.(米版:''Kingdom of Death''. 米改題:''The Fear Sign'')小林晋訳『甘美なる危険』(新樹社、2007年) *''Death of a Ghost'', 1934. [[服部達]]訳『幽霊の死』(早川書房、1954年) *''Flowers for the Judge'', 1936.(米改題:''Legacy in Blood'')鈴木幸夫訳『判事への花束』(早川書房、1956年) *''Dancers in Mourning'', 1937.(米版:''Who Killed Chloe?'')井伊順彦訳『クロエへの挽歌』(新樹社、2007年) *''The Case of the Late Pig'', 1937.(後に短編集''Mr. Campion: Criminologist''に収録) 猪俣美江子訳『今は亡き豚野郎の事件』(創元推理文庫『クリスマスの朝に』に収録) *''The Fashion in Shrouds'', 1938.小林晋訳『屍衣の流行』(国書刊行会、2006年) *''Black Plumes'', 1940. *''Traitor's Purse'', 1941.(米改題:''The Sabotage Murder Mystery'')[[中川龍一]]訳『反逆者の財布』(東京創元社、1962年) *''Coroner's Pidgin'', 1945.(米版:''Pearls Before Swine'')佐々木愛訳『検屍官の領分』(論創社 論創海外ミステリ, 2005年) *''More Work for the Undertaker'', 1948.井伊順彦・赤星美樹共訳『葬儀屋の次の仕事』(論創社 論創海外ミステリ, 2018年) *''The Tiger in the Smoke'', 1952.山本俊子訳『霧の中の虎』(早川書房、2001年) *''The Beckoning Lady'', 1955.(米版:''The Estate of the Beckoning Lady'') *''Hide My Eyes'', 1958.(米版:''Tether's End''.米改題:''Ten Were Missing'')佐々木愛訳『殺人者の街角』(論創社 論創海外ミステリ、2005年) *''The China Governess'', 1962.佐々木愛訳『陶人形の幻影』(論創社 論創海外ミステリ、2005年) *''The Mind Readers'', 1965. *''Cargo of Eagles'', 1968.夫Youngman Carterが遺稿をもとに完成させたもの (Maxwell March名義の作品) *''Other Man's Danger'', 1933.(米版:''The Man of Dangerous Secrets'') *''Rogues' Holiday'', 1935. *''The Shadow in the House'', 1936. (Youngman Carterが書き継いだキャンピオン・シリーズ) *''Mr. Campion's Farthing'', 1969. *''Mr. Campionb's Falcon'', 1970.(米版:''Mr. Campion's Quarry'') ===短編=== *''Mr. Campion: Criminologist'', 1937. #The Case of the Late Pig #The Case of the White Elephant #The Case of the Man with the Sack #The Border-line Case 猪俣美江子訳『ボーダーライン事件』(創元推理文庫「窓辺の老人」所収 2014年)ほか #The Case of the Widow 猪俣美江子訳『未亡人』(「窓辺の老人」所収) #The Case of the Pro and the Con 猪俣美江子訳『懐かしの我が家』(「窓辺の老人」所収) #The Case of the Old Man in the Window 猪俣美江子訳『窓辺の老人』(「窓辺の老人」所収) *''Mr. Campion and Others'', 1939(Heinemann版). Part One: Mr Campion's Case Book #The Case of the Widow #The Case of the Name on the Wrapper #The Case of the Hat Trick #The Case of the Question Mark 猪俣美江子訳『怪盗<疑問符>』(「窓辺の老人」所収) #The Case of the Old Man in the Window #The Case of the White Elephant #The Border-line Case #The Case of the Frenchman's Gloves #The Case of the Longer View Part Two: Some Other Mysteries #It Didn't Work Out #The Never Get Caught #Publicity #The Perfect Butler #The Mistress in the House *''Wanted: Someone Innocent'', 1946. #Wanted: Someone Innocent #He Was Asking for You #The Sexton's Wife #'Tis Not Hereafter *''The Case Book of Mr. Campion'', 1947.(Ellery Queen編) *''Deadly Duo'', 1949.(英題:''Take Two at Bedtime'') #Wanted: Someone Innocent #Last Act *''Mr. Campion and Others'', 1950(Penguin版). #The Widow #The Name on the Wrapper #The Hat Trcik #The Question Mark #The Old Man in the Window #The White Elephant #The Frenchman's Gloves #The Longer View #Safe as Houses #The Definite Article #The Meaning of the Act 猪俣美江子訳『行動の意味』(「窓辺の老人」所収) #A Matter of Form #The Danger Point *''No Love Lost'', 1954. #The Patient at Peacocks Hall #Safer Than Love *''The Allingham Casebook'', 1969. #Tall Story #Three Is a Lucky Number #The Villa ''Marie Celeste'' #The Psychologist #Little Miss Know-all #One Morning They'll Hang Him #The Lieabout #Face Value #Evidence in Camera #Joke Over #The Lying-in-State #The Pro and the Con #Is There a Doctor in the House? #The Border-line Case #They Never Get Caught #The Mind's Eye Mystery #Mum Knows Best #The Snapdragon and the C.I.D. *''The Allingham Minibus'', 1973.(改題:''Mr. Campion's Lucky Day'') #He was Asking After You #Publicity #The Perfect Murder #The Barbarian #Mr Campion's Lucky Day #'Tis Not Hereafter #The Correspondents #He Preferred Them Sad #The Unseen Door #Bird Thou Never Wert #The Same to Us #She Heard It on the Radio #The Man with the Sack #The Secret #A Quarter of a Million #The Pioneers #The Sexton's Wife #The Wink *''The Return of Mr. Campion'', 1989.(J. E. Morpurgo編) #The Case Is Altered #My Friend Mr Campion 猪俣美江子訳『我が友、キャンピオン氏』(「窓辺の老人」所収) #The Dog Day 猪俣美江子訳『犬の日』(「窓辺の老人」所収) #The Wind Glass #The Beauty King #The Black Tent #Sweet and Low #Once in a Lifetime #The Kernel of Truth #Happy Christmas #The Wisdom of Esdras #The Curious Affair in Nut Row #What to Do with an Ageing Detective *''The Daring of the Red Rose'', 1995. #Episode 1 #Episode 2 #Episode 3 #Episode 4: The Lady at the Crossroads #Episode 5: The Girl on the Fire-Escape #Episode 6: The Watcher Behind the Curtain #Episode 7: The Whisper on the Phone #Episode 8: Her Day of Reckoning *上記以外の短編 #On Christmas Day in the Morning村上啓夫訳「クリスマスの朝に」(EQMM30号、1958年) #A Proper Mystery田中小実昌訳「やはり犯人はいた」(別冊宝石85号、1959年) #Jubilee for Two #Word in Season(キャンピオンとアマンダの登場するクリスマス・ストーリー) #Room to Let(ラジオで放送された戯曲) #The Studied Insult {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ありんかむ まあしえりい}} [[Category:20世紀イングランドの小説家]] [[Category:イングランドの女性小説家]] [[Category:イングランドの推理作家]] [[Category:イギリスの女性推理作家]] [[Category:ロンドン出身の人物]] [[Category:1904年生]] [[Category:1966年没]] {{writer-stub}}
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カブトガニ
カブトガニ(甲蟹、兜蟹、鱟、鱟魚)は、鋏角亜門のカブトガニ目に属する節足動物の総称、またはそのうちのカブトガニ科カブトガニ属に分類される一種 Tachypleus tridentatus の和名である。本項目は主に後者について扱う。 ドーム状の体に剣のような尾を持つ。『訓蒙図彙』『大和本草』『和漢三才図会』は「ウンキウ」という呼び名も記している。 カブトガニは背面全体が広く背甲で覆われ、脚などの付属肢はすべてその下に隠れている。名前はこの背甲に由来し、またその姿の類似からドンガメ、マンゴエイなどの地方名もある。 日本では古くは瀬戸内海に多かった。取り立ててもなんの役にも立たず、図体が大きく漁では網を破るなど嫌われたようである。しかし、カブトガニは古生代の仲間の風貌を色濃く残した「生きた化石」であり、学術的な面から貴重であるとして天然記念物の指定を受けた場所もある。近年では環境汚染や埋め立てによって各地でその数を激減させている。 本種を含むカブトガニ類は「カニ」と名づけられてはいるが、クモやサソリなどが含まれる鋏角類に分類されており、同じく節足動物だが、甲殻類であるカニではない。 カブトガニはカブトガニ類において日本に産する唯一の種であり、またカブトガニ類のうちでもっとも大型になるものである。全長(背甲の先端から剣状の尾節の先端まで)はオスでは45cmから70cm、メスでは55cmから85cm。 体は順に前体(prosoma, 頭胸部 cephalothorax)と後体(opisthosoma, 腹部 abdomen)、それに尾節(telson, 尾剣)からなる。 前体は幅広い背甲 (carapace) になっており、両後側に尖ってやや伸びる(頬棘)。背面はなめらかなドーム状で、左右の隆起線(眼部隆起線 opthalmic ridge)には1対の複眼、中央には1対の単眼がある。腹面中央に口が開き、その周辺に付属肢(関節肢)が並ぶ。口の前は腹眼 (ventral eye) という特殊な眼と、1対の短い鋏状の鋏角がある。左右は5対の歩脚型附属肢が並び、それぞれの付け根(基節)には中央の口を囲んだ「顎基」 (gnathobase) という咀嚼用の突起がある。最初のものは触肢であるが、特に分化した形ではない。前4対の歩脚は先端が鋏状であるが、雄では最初2対の先端が雌を把持する鉤爪状の構造に特殊化している。干潟で前進するため、最終の歩脚の先端は「ヘラ状器」という4枚のへら状の構造をもち、基節の上側は「櫂状器」 (flabellum) という附属体がある。 後体は後ろが狭まった台形で、その縁に沿って6対の可動棘があり、雌ではこのうちの後方3対が小さい。腹面は1対の生殖口蓋 (genital operculum) と5対の鰓脚 (branchial appendage) という、基部が左右癒合した計6対の蓋板 (operculum) が畳んでいる。生殖口蓋の内側基部には1対の生殖孔 (gomopore)、鰓脚の内側には呼吸用の書鰓 (book gill) がある。これらの付属肢は遊泳にも用いられる。生殖口蓋の直前、いわゆる前体との接続部には、1対の唇様肢 (chilaria) という小さな付属肢が口側に向かっている。末端腹側に肛門があり、その直後からは「尾剣」という長い尾節が伸びる。 なお、上記の多くの特徴は本種に限らず、現生のカブトガニ類を含んだカブトガニ科全般の共有形質である。本種の種小名「tridentatus」は「3つの棘」を意味し、これは本種に特有で、後体の末端背面にある3つの小さな棘に由来する(他の現存種のこの部分の棘は中央1本のみ)。他に後体背側の黒い突起は他の現存種よりも多く、オス成体の背甲前縁に左右1対の窪みがあるのも本種特有の形質である。 干潟の泥の溜まった海底に生息する。カブトガニはその体形から泥に沈むことはない。ゴカイなどの小動物を餌にする。夏に産卵期を迎え、産卵された卵は数ヶ月で孵化し、十数回の脱皮を経て成体になる。カブトガニの幼生は、孵化する以前に卵の中で数回の脱皮を行いながら成長し、それに合わせて卵自体も大きくなっていく特徴がある。 メスの第一脚と第二脚は鋏状となっているのに対しオスの第一脚と第二脚は鈎状になっていて、繁殖期にはこの脚でメスの後体を捕縛し雌雄繋がって行動する姿が見られる。繁殖期以外にもオスはメスやメスと錯覚したカブトガニのオスや大型魚類、ウミガメなどに掴まる習性を持ち、その捕縛力も極めて強い。なお、メスの背甲部の形状全体が円を描くような形なのに対し、オスの背甲部は中央先端部が突き出ていることで区別できる。後体の棘(縁ぎょく)の付き方も、メスが後3対の棘の発達が悪くなるというのも特徴である。これはオスがメスの背中につかまる際に邪魔にならないように適応した結果と思われる。血液は青い。 瀬戸内海の干潟に生息するカブトガニは、夜間の満潮時に最も活発に活動する。カブトガニの行動は、「休息」、「背を下に向ける反転」、「餌探し・探索」、「砂掘り」の4タイプに分類でき、1日のうち9割の時間は休息し、断続的な活動の大半はゴカイなどの餌探しに費やす。 日本国内では、過去に瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み、生息数・生息地域ともに激減した。 現在の主な生息地は以下の通りである: いずれの地域も沿岸の開発が進んだ結果、カブトガニが生息できる海岸は減少している。なお、2019年には長崎市のスーパーマーケットで魚介類のパックに交じっていた個体が発見され、長崎ペンギン水族館にて飼育されている。 日本以外では、インドネシアからフィリピン、東マレーシア、それに揚子江河口以南の中国沿岸などが知られている。東シナ海にも生息しており、韓国による発見例もある。なお、インドネシアには後述の二種も生息している。 前述の通り、本種を含むカブトガニ類は鋏角類であり、甲殻類ではない。したがって、カニよりはクモやサソリに近い。カブトガニ類の幼生は三葉虫に似ていると言われ、三葉虫型幼生(trilobite larva)の名もある。古くは三葉虫と系統的に近いと思われたこともあるが、のちに否定されている。また、見た目や和名などで、カブトエビという甲殻類と混同されることがある。 本種は他の現生カブトガニ類と同様カブトガニ科(Limulidae)に分類され、そのうち本種は同じアジア産のマルオカブトガニ(Carcinoscorpius rotundicauda)やミナミカブトガニ(Tachypleus gigas)と共にカブトガニ亜科(Tachypleininae)に、ミナミカブトガニと同じカブトガニ属(Tachypleus)に分類される。一方、北アメリカ産のアメリカカブトガニ(Limulus polyphemus)はアメリカカブトガニ亜科(Limulinae)に属する。本種は後体末端背面の3つの棘で他の現存種から、カブトガニ亜科は内肢が突出しない生殖口蓋からアメリカカブトガニ亜科と区別できる。 ENDANGERED (IUCN Red List Ver. 3.1 (2001)) 絶滅危惧I類 (CR+EN)(環境省レッドリスト) カブトガニ類の血液から得られる抽出成分は、菌類のβ-D-グルカンや細菌の内毒素と反応して凝固することから、これらの検出に用いられる。本種から得られる成分はTAL (Tachypleus tridentatus amebocyte lysate) と呼ばれ、アメリカカブトガニ由来のLAL (Limulus polyphemus amebocyte lysate) とは反応性が異なることが確認されている。 日本においては田畑の肥料や釣りの餌、家畜の飼料として使われていた。中国やタイ等の東南アジアの一部の地域では、特に卵をもつカブトガニ類のメスが食用にされている。中国福建省では「鱟」(ハウ)と呼び卵、肉などを鶏卵と共に炒めて食べることが行われている。日本でも山口県下関など一部の地域では食用に用いていたこともあったが、美味しくはないと言われている。大和本草は「形大ナレトモ肉少ナシ人食セス」、和漢三才図会は「肉 辛鹹平微毒 南人以其肉作鮓醬」としている。 ただし、外観が似ているマルオカブトガニなど一部の近縁種は、時期によってフグの毒として知られるテトロドトキシンを持っており、食用には適さない。上記地域では食中毒事件がしばしば発生している。
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カブトガニ(甲蟹、兜蟹、鱟、鱟魚)は、鋏角亜門のカブトガニ目に属する節足動物の総称、またはそのうちのカブトガニ科カブトガニ属に分類される一種 Tachypleus tridentatus の和名である。本項目は主に後者について扱う。 ドーム状の体に剣のような尾を持つ。『訓蒙図彙』『大和本草』『和漢三才図会』は「ウンキウ」という呼び名も記している。
{{Otheruses|主に[[カブトガニ類]]の1種 ''Tachypleus tridentatus'' |分類群としてのカブトガニ|カブトガニ類}} {{出典の明記|date=2019年6月24日 (月) 07:27 (UTC)}} {{生物分類表 |名称 = カブトガニ |色 = 動物界 |画像 = [[File:Tachypleus tridentatus-3.jpg|250px]] |画像キャプション = '''カブトガニ''' ''Tachypleus tridentatus'' |status = EN |status_ref = <ref name="iucn">Laurie, K., Chen, C.-P., Cheung, S.G., Do, V., Hsieh, H., John, A., Mohamad, F., Seino, S., Nishida, S., Shin, P. & Yang, M. 2019. ''Tachypleus tridentatus'' (errata version published in 2019). The IUCN Red List of Threatened Species 2019: e.T21309A149768986. https://doi.org/10.2305/IUCN.UK.2019-1.RLTS.T21309A149768986.en. 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/>Tri-spine horseshoe crab<ref name="iucn" /> |画像2=[[File:Kabutogani-3D-VR-thumb.jpg|250px]]|画像キャプション2=カブトガニ(今津干潟、台風で打ち上がった腐敗死体)の3D・VRモデル}} '''カブトガニ'''(甲蟹、兜蟹、鱟、鱟魚)は、[[鋏角亜門]]の'''[[カブトガニ目]]'''に属する[[節足動物]]の総称、またはそのうちの[[カブトガニ科]][[カブトガニ属]]に分類される一種 '''''[[w:Tachypleus tridentatus|Tachypleus tridentatus]]''''' の[[和名]]である。本項目は主に後者について扱う。 ドーム状の体に剣のような尾を持つ。『[[訓蒙図彙]]』『[[大和本草]]』『[[和漢三才図会]]』は「ウンキウ」という呼び名も記している。 == 概説 == カブトガニは背面全体が広く[[背甲]]で覆われ、脚などの[[付属肢]]はすべてその下に隠れている。名前はこの背甲に由来し、またその姿の類似からドンガメ、マンゴエイなどの地方名もある<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%8B-46273 |title=カブトガニとは |website=コトバンク |accessdate=2019-06-24}}</ref>。 [[日本]]では古くは[[瀬戸内海]]に多かった。取り立ててもなんの役にも立たず、図体が大きく漁では網を破るなど嫌われたようである。しかし、カブトガニは[[古生代]]の仲間の風貌を色濃く残した「[[生きている化石|生きた化石]]」であり、学術的な面から貴重であるとして天然記念物の指定を受けた場所もある。近年{{いつ|date=2020年9月}}では環境汚染や埋め立て<ref name=":0" />によって各地でその数を激減させている。 本種を含む[[カブトガニ類]]は「カニ」と名づけられてはいるが、[[クモ]]や[[サソリ]]などが含まれる[[鋏角類]]に分類されており、同じく[[節足動物]]だが、[[甲殻類]]である[[カニ]]ではない。 == 特徴 == カブトガニは[[カブトガニ類]]において[[日本]]に産する唯一の[[種 (分類学)|種]]であり、またカブトガニ類のうちでもっとも大型になるものである。全長(背甲の先端から剣状の尾節の先端まで)はオスでは45cmから70cm、メスでは55cmから85cm<ref name=":2">{{Cite journal|last=Dolejš|author=|first=Petr|last2=Vaňousová|first2=Kateřina|year=|date=2015-06-30|title=A collection of horseshoe crabs (Chelicerata: Xiphosura) in the National Museum, Prague (Czech Republic) and a review of their immunological importance|url=https://www.researchgate.net/publication/277711246_A_collection_of_horseshoe_crabs_Chelicerata_Xiphosura_in_the_National_Museum_Prague_Czech_Republic_and_a_review_of_their_immunological_importance|journal=Arachnologische Mitteilungen|volume=49|page=|pages=1–9|doi=10.5431/aramit4901}}</ref>。 体は順に[[前体]](prosoma, [[頭胸部#鋏角類|頭胸部]] cephalothorax)と[[後体]](opisthosoma, [[腹部]] abdomen)、それに[[尾節]](telson, 尾剣)からなる。 [[File:Tachypleus tridentatus-2.jpg|thumb|右|カブトガニの前体腹面。右下の後脚のヘラ状器が見られる。]] 前体は幅広い[[背甲]] (carapace) になっており、両後側に尖ってやや伸びる(頬棘)。背面はなめらかなドーム状で、左右の隆起線(眼部隆起線 opthalmic ridge)には1対の[[複眼]]、中央には1対の[[単眼]]がある。腹面中央に[[口]]が開き、その周辺に[[付属肢]]([[関節肢]])が並ぶ。[[口]]の前は腹眼 (ventral eye) という特殊な眼と、1対の短い[[鋏状]]の[[鋏角]]がある。左右は5対の[[歩脚]]型附属肢が並び、それぞれの付け根(基節)には中央の口を囲んだ「[[顎基]]」 (gnathobase) という[[咀嚼]]用の突起がある。最初のものは[[触肢]]であるが、特に分化した形ではない。前4対の歩脚は先端が鋏状であるが、雄では最初2対の先端が雌を把持する鉤爪状の構造に特殊化している<ref name="hachigame">{{Cite web|和書|url=http://www.hachigamenet.ne.jp/~mayu-shy/page2.htm|title=カブトガニの形態|accessdate=2018-11-05|website=伊万里湾のカブトガニ}}</ref>。干潟で前進するため、最終の歩脚の先端は「ヘラ状器」という4枚の[[へら]]状の構造をもち、基節の上側は「櫂状器」 (flabellum) という附属体がある。 [[File:Tachypleus tridentatus Cat ba 2.JPG|thumb|右|[[雌雄]]の腹面]] 後体は後ろが狭まった台形で、その縁に沿って6対の可動棘があり、雌ではこのうちの後方3対が小さい。腹面は1対の生殖口蓋 (genital operculum) と5対の鰓脚 (branchial appendage) という、基部が左右癒合した計6対の[[蓋板]] (operculum) が畳んでいる。生殖口蓋の内側基部には1対の生殖孔 (gomopore)、鰓脚の内側には[[呼吸]]用の[[書鰓]] (book gill) がある。これらの付属肢は[[遊泳]]にも用いられる。生殖口蓋の直前、いわゆる前体との接続部には、1対の[[唇様肢]] (chilaria) という小さな付属肢が口側に向かっている。末端腹側に[[肛門]]があり、その直後からは「尾剣」という長い[[尾節]]が伸びる。<gallery heights="160" widths="260"> ファイル:Naturalis Biodiversity Center - RMNH.ART.24 - Tachypleus tridentatus - Kawahara Keiga - 1823 - 1829 - Siebold Collection - pencil drawing - water colour.jpeg|[[川原慶賀]]によるカブトガニの4つの図版。[[雄|オス]]の背側、背甲の前部は本種の特徴である2つの窪みをもつ。 ファイル:Naturalis Biodiversity Center - RMNH.ART.28 - Tachypleus tridentatus - Kawahara Keiga - 1823 - 1829 - Siebold Collection - pencil drawing - water colour.jpeg|[[雄|オス]]の腹側、前の2対の歩脚は鉤爪状に特殊化している。 ファイル:Naturalis Biodiversity Center - RMNH.ART.30 - Tachypleus tridentatus - Kawahara Keiga - 1823 - 1829 - Siebold Collection - pencil drawing - water colour.jpeg|[[雌|メス]]の背側、後体の後3対の棘が短い。 ファイル:Naturalis Biodiversity Center - RMNH.ART.29 - Tachypleus tridentatus - Kawahara Keiga - 1823 - 1829 - Siebold Collection - pencil drawing - water colour.jpeg|[[雌|メス]]の腹側、前の2対の歩脚は特殊化していない。 </gallery>なお、上記の多くの特徴は本種に限らず、現生の[[カブトガニ類]]を含んだ[[カブトガニ科]]全般の共有形質である。本種の種小名「''tridentatus''」は「3つの棘」を意味し、これは本種に特有で、後体の末端背面にある3つの小さな棘に由来する(他の現存種のこの部分の棘は中央1本のみ)。他に後体背側の黒い突起は他の現存種よりも多く、オス成体の背甲前縁に左右1対の窪みがあるのも本種特有の形質である<ref>{{Cite web|url=http://horseshoecrabs.myspecies.info/limulidae/tachypleus-tridentatus|title=Limulidae {{!}} Horseshoe crab monitoring site|accessdate=2018-11-05|website=horseshoecrabs.myspecies.info|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://sites.google.com/site/snnishida/home/studies-and-topics/horseshoe-crabs-in-asia-jp|title=■ アジアのカブトガニ類と種の判別 |website=Shin Nishida|accessdate=2018-11-05 |archiveurl=https://archive.is/SHP55 |archivedate=2014-05-11}}</ref><ref name=":2" />。 {{see also|カブトガニ類#現存種}} == 生態 == [[ファイル:Tachypleus tridentatus Cat Ba.JPG|250px|サムネイル|右|包接中の雌雄]] [[干潟]]の泥の溜まった海底に生息する。カブトガニはその体形から泥に沈むことはない。[[ゴカイ]]などの小動物を餌にする。夏に産卵期を迎え、産卵された卵は数ヶ月で孵化し、十数回の脱皮を経て成体になる。カブトガニの幼生は、孵化する以前に卵の中で数回の脱皮を行いながら成長し、それに合わせて卵自体も大きくなっていく特徴がある。 メスの第一脚と第二脚は鋏状となっているのに対しオスの第一脚と第二脚は鈎状になっていて、繁殖期にはこの脚でメスの後体を捕縛し雌雄繋がって行動する姿が見られる<ref name="hachigame" />。繁殖期以外にもオスはメスやメスと錯覚したカブトガニのオスや大型魚類、[[ウミガメ]]などに掴まる習性を持ち、その捕縛力も極めて強い。なお、メスの背甲部の形状全体が円を描くような形なのに対し、オスの背甲部は中央先端部が突き出ていることで区別できる。後体の棘(縁ぎょく)の付き方も、メスが後3対の棘の発達が悪くなるというのも特徴である。これはオスがメスの背中につかまる際に邪魔にならないように適応した結果と思われる。血液は青い。 [[瀬戸内海]]の干潟に生息するカブトガニは、夜間の満潮時に最も活発に活動する。カブトガニの行動は、「休息」、「背を下に向ける反転」、「餌探し・探索」、「砂掘り」の4タイプに分類でき、1日のうち9割の時間は休息し、断続的な活動の大半は[[ゴカイ]]などの餌探しに費やす<ref>{{Cite news |url=http://www.chugoku-np.co.jp:80/News/Tn201012120046.html |title=カブトガニ、夜満潮時が活発 |newspaper=中国新聞 |date=2010-12-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101215151108/http://www.chugoku-np.co.jp:80/News/Tn201012120046.html |archivedate=2010-12-15}}</ref>。 == 分布 == [[日本]]国内では、過去に瀬戸内海と九州北部の沿岸部に広く生息したが、現在では生息地の環境破壊が進み、生息数・生息地域ともに激減した。 現在の主な生息地は以下の通りである: * [[愛媛県]][[西条市]]の河原津海岸 * [[大分県]][[中津市]]の[[中津干潟]] * 大分県[[杵築市]]の[[守江湾|守江湾干潟]] * [[岡山県]][[笠岡市]]の神島水道 * [[佐賀県]][[伊万里市]][[伊万里湾]]奥の多々良海岸 * [[長崎県]][[壱岐市]]芦辺町 * 長崎県[[佐世保市]]の[[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]]および[[早岐瀬戸]] - 2005年に九十九島で日本最大級となる個体の捕獲が確認されている * [[山口県]][[下関市]]の千鳥浜 * 福岡県福岡市西区の[[今津干潟]] * 福岡県[[北九州市]]の[[曽根干潟]] * [[山口県]][[平生町]]の平生湾 * 山口県[[山口市]]の山口湾 いずれの地域も沿岸の開発が進んだ結果、カブトガニが生息できる海岸は減少している。なお、2019年には[[長崎市]]の[[スーパーマーケット]]で魚介類のパックに交じっていた個体が発見され、[[長崎ペンギン水族館]]にて飼育されている<ref>{{Cite news |url=https://this.kiji.is/548335146040099937?c=174761113988793844 |title=スーパーの鮮魚パックから見つかったカブトガニ |newspaper=長崎新聞 |date=2019-09-22 |accessdate=2019-09-22}}</ref>。 日本以外では、[[インドネシア]]から[[フィリピン]]、[[東マレーシア]]<ref name=":1">{{Cite journal |url=https://www.researchgate.net/publication/316847691_Tri-spine_horseshoe_crab_Tachypleus_tridentatus_L_in_Sabah_Malaysia_the_adult_body_sizes_and_population|title= Tri-spine horseshoe crab, Tachypleus tridentatus (L.) in Sabah, Malaysia: the adult body sizes and population|accessdate=2018-11-18|language=en |author=Azwarfarid Mancaほか |date=2017-09 |journal=Journal of Asia-Pacific Biodiversity |volume=10 |issue=3 |pages=355-361 |doi=10.1016/j.japb.2017.04.011}}</ref>、それに[[揚子江]]河口以南の中国沿岸などが知られている。[[東シナ海]]にも生息しており、[[韓国]]による発見例もある<ref>{{Cite journal |url=https://www.researchgate.net/publication/276839252_First_Record_of_Tri-spine_Horseshoe_Crab_Tachypleus_tridentatus_Merostomata_Xiphosurida_Limulidae_from_Korean_Waters|title= First Record of Tri-spine Horseshoe Crab, Tachypleus tridentatus (Merostomata: Xiphosurida: Limulidae) from Korean Waters|accessdate=2018-11-18|website=ResearchGate|language=e |author1=Kea Cheong Yang |author2=Hyun Sook Ko |date=2015-01 |journal=Animal Systematics, Evolution and Diversity |publisher=The Korean Society of Systematic Zoology |volume=31 |issue=1 |page=42-45 |doi=10.5635/ASED.2015.31.1.042}}</ref>。なお、[[インドネシア]]には後述の二種も生息している。 == 分類 == [[ファイル:Feart-08-00098-g037.jpg|サムネイル|カブトガニ(AとB:オス、EとF:メス)と[[ミナミカブトガニ]](CとD:オス、GとH:メス)]] {{Main|カブトガニ類#分類}} 前述の通り、本種を含む[[カブトガニ類]]は[[鋏角類]]であり、[[甲殻類]]ではない。したがって、[[カニ]]よりは[[クモ]]や[[サソリ]]に近い。カブトガニ類の幼生は[[三葉虫]]に似ていると言われ、三葉虫型幼生(trilobite larva)の名もある。古くは三葉虫と系統的に近いと思われたこともあるが、のちに否定されている。また、見た目や和名などで、[[カブトエビ]]という甲殻類と混同されることがある。 本種は他の現生カブトガニ類と同様[[カブトガニ科]]([[:en:Limulidae|Limulidae]])に分類され、そのうち本種は同じ[[アジア]]産の[[マルオカブトガニ]](''[[w:Carcinoscorpius rotundicauda|Carcinoscorpius rotundicauda]]'')や[[ミナミカブトガニ]](''[[w:Tachypleus gigas|Tachypleus gigas]]'')と共に[[カブトガニ亜科]]([[:en:Tachypleininae|Tachypleininae]])に、ミナミカブトガニと同じ[[カブトガニ属]](''[[:en:Tachypleus|Tachypleus]]'')に分類される。一方、[[北アメリカ]]産の[[アメリカカブトガニ]](''[[w:Limulus polyphemus|Limulus polyphemus]]'')は[[アメリカカブトガニ亜科]]([[:en:Limulinae|Limulinae]])に属する。本種は後体末端背面の3つの棘で他の現存種から、カブトガニ亜科は内肢が突出しない生殖口蓋からアメリカカブトガニ亜科と区別できる<ref name=":2" />。 == 絶滅危惧 == {{EN|ref=<ref name="iucn" />}} {{絶滅危惧I類|ref=<ref name="itow" />}} * カブトガニの外部[[寄生虫]]として[[カブトガニウズムシ]]がおり、環境省レッドリストでは同じく絶滅危惧I類に指定されている。 ; 天然記念物 : 日本では佐賀県[[伊万里市]]、岡山県[[笠岡市]]の繁殖地のみが国の[[天然記念物]]に、愛媛県[[西条市]]の繁殖地が県の天然記念物に指定されている。 == 人間との関係 == === 医療での利用 === [[カブトガニ類]]の血液から得られる抽出成分は、菌類のβ-D-グルカンや細菌の[[内毒素]]と反応して凝固することから、これらの検出に用いられる。本種から得られる成分はTAL (Tachypleus tridentatus amebocyte lysate) と呼ばれ、[[アメリカカブトガニ]]由来のLAL (Limulus polyphemus amebocyte lysate) とは反応性が異なることが確認されている<ref>{{cite journal|title=2 種の (1→ 3)-β-D-グルカン測定試薬の真菌に対する反応性の比較|author=松林直 and 山崎智之|journal=生物試料分析= Journal of analytical bio-science|volume=35|number=4|pages=329-335|year=2012|url=http://j-jabs.umin.jp/35/35.329.pdf}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kasaoka.okayama.jp/site/kabutogani/ketueki.html |title=カブトガニの血液の利用 |website=笠岡市ホームページ |publisher=笠岡市 |archiveurl=https://archive.is/MRunf |archivedate=2014-08-28 |accessdate=2019-06-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.wako-chem.co.jp/siyaku/info/life/talk_lal/tlal-46.pdf |title=第46話 最近のカブトガニ事情 |work=Talking of LAL |author=土谷正和 |publisher=株式会社和光ケミカル |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130828214509/http://www.wako-chem.co.jp:80/siyaku/info/life/talk_lal/tlal-46.pdf |archivedate=2013-08-28 |accessdate=2019-06-24}}</ref>。 === その他の利用 === [[ファイル:Tachypleus tridentatus in Hong Kong.JPG|thumb|280px|中国・香港の市場で販売されているカブトガニ]] 日本においては[[田畑]]の[[肥料]]や[[釣り]]の[[餌]]、[[家畜]]の[[飼料]]として使われていた。[[中華人民共和国|中国]]や[[タイ王国|タイ]]等の[[東南アジア]]の一部の地域では、特に[[卵]]をもつ[[カブトガニ類]]のメスが食用にされている<ref name=":1" /><ref>{{Cite book|last=Faridah|first=Mohamad|title=Changing Global Perspectives on Horseshoe Crab Biology, Conservation and Management|url=https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-3-319-19542-1_11|date=2015|publisher=Springer International Publishing|language=en|isbn=9783319195414|pages=213–228|location=Cham|last2=Ismail|first2=Noraznawati|last3=Ahmad|first3=Amirrudin Bin|last4=Manca|first4=Azwarfarid|last5=Rahman|first5=Muhammad Zul Fayyadh Azizo|last6=Bahri|first6=Muhammad Farhan Saiful|last7=Mohd Sofa|first7=Muhd Fawwaz Afham|last8=Ghaffar|first8=Izzatul Huda Abdul|last9=Alia’m|first9=Amirul Asyraf|doi=10.1007/978-3-319-19542-1_11}}</ref>。中国[[福建省]]では「鱟」(ハウ)と呼び卵、肉などを[[鶏卵]]と共に炒めて食べることが行われている。日本でも山口県[[下関市|下関]]など一部の地域では食用に用いていたこともあったが、美味しくはないと言われている<ref>{{Cite web|和書|author=大西一實|title=Vol.56 食うか食われるか?|url=http://www.kaikyokan.com/cgi/fish3/56.htm|work=あくあは〜つ通信 |accessdate=2008年4月18日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030813085251/http://www.kaikyokan.com/cgi/fish3/56.htm |archiveservice=アンターネットアーカイブ |archivedate=2003-8-13 |deadlinkdate=2017-2-2 }}</ref>。[[大和本草]]は「形大ナレトモ肉少ナシ人食セス」、[[和漢三才図会]]は「肉 辛鹹平微毒 南人以其肉作鮓醬」としている。 ただし、外観が似ている[[マルオカブトガニ]]など一部の近縁種は、時期によって[[フグ]]の毒として知られる[[テトロドトキシン]]を持っており<ref>{{Cite journal|last=Kanchanapongkul|first=Jirasak|date=2008-3|title=Tetrodotoxin poisoning following ingestion of the toxic eggs of the horseshoe crab Carcinoscorpius rotundicauda, a case series from 1994 through 2006|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18564717|journal=The Southeast Asian Journal of Tropical Medicine and Public Health|volume=39|issue=2|pages=303–306|issn=0125-1562|pmid=18564717}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Kungsuwan|first=Attaya|last2=Noguchi|first2=Tamao|last3=Arakawa|first3=Osamu|last4=Simidu|first4=Usio|last5=Tsukamoto|first5=Kumiko|last6=Shida|first6=Yasuo|last7=Hashimoto|first7=Kanehisa|date=1988|title=カブトガニ''Carcinoscorpius rotundicauda''のフグ毒産生菌|url=https://doi.org/10.2331/suisan.54.1799|journal=日本水産学会誌|volume=54|issue=10|pages=1799–1802|language=ja|doi=10.2331/suisan.54.1799|issn=1349-998X}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://ir.unimas.my/8280/|title=Tetrodotoxin (TTX) Determination of Horseshoe Crab Collected from Maludam, Sarawak|accessdate=2018-11-18|last=Mustakim|first=Ghafur Rahim, Bin|date=2014|website=ir.unimas.my|language=en}}</ref>、食用には適さない。上記地域では食中毒事件がしばしば発生している<ref>{{Cite news |url=https://www.viet-jo.com/news/sanmen/160613061636.html |title=カブトガニと間違えて…マルオカブトガニでの食中毒相次ぐ [三面] |newspaper=VIETJOベトナムニュース |date=2016-06-14}}</ref>。 === 日本の繁殖地と日本文化 === <!--ご当地トピックス--> * 佐賀県[[伊万里市]]伊万里湾は、日本最大の生息・繁殖地とされており、当地の方言では「ハチガメ」と呼ばれる。伊万里市街地から程近い湾内の[[多々良海岸]]周辺296,250平方メートルの繁殖地の個体が、市の天然記念物として指定されていたが、2015年(平成27年)6月に市の指定地を含む約58万2千平方メートルの範囲が、新たに国の天然記念物に指定された。毎年6月から8月の大潮日の満潮時に、カブトガニがつがいで浜にやってきて産卵する姿を見ることもできる。7月中旬から8月上旬の大潮日の後1週間が産卵のピークとされており、伊万里市では毎年「カブトガニの産卵を観る会」が開催されている。市内には[[牧島のカブトガニとホタルを育てる会]]が運営する[[伊万里湾カブトガニの館]]にてカブトガニを飼育しており、見学が通年可能となっている。 * 岡山県笠岡市も国内の代表的な生息地・繁殖地で、2015年(平成27年)までは日本で唯一、国の天然記念物に指定されていた。方言では「ドン亀」と呼ばれていたが、[[笠岡湾干拓地|笠岡湾干拓]]の影響もあって、同地での生息状況は絶滅寸前である。同地には、[[笠岡市立カブトガニ博物館]]があり、ゆるキャラのカブニくん、カブ海(み)ちゃん、2人が結婚して生まれたカブ希(き)くんは当館のマスコットである。また、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[山陽本線]][[笠岡駅]]では、[[接近メロディ]]に「がんばれカブトガニ」(カブトガニを愛する会提唱、作詞・作曲 上田康弘、編曲 酔太一)が使われている。 * 愛媛県西条市では、カブトガニはオスとメスが重なっているところから、夫婦仲がよく縁起の良いものとされる。年初めの漁で網にカブトガニのつがいがかかるとその年は豊漁となると伝えられ、神棚に酒を供えて祝う風習があったという。現在では伊万里市や笠岡市同様に干拓が進んだ結果、生息数が激減し絶滅寸前であるが、西条市では「東予郷土館」にてカブトガニを飼育しているほか、河原津海岸で幼生を放流したり、市民向けに幼生の飼育ボランティアを募集するなどの取り組みを行っている。また、カブトガニをモチーフとしたご当地[[ゆるキャラ]]、「カブちゃん」<ref>{{Cite web|和書|url=http://localchara.jp/catalog/1374/ |title=カブちゃん のキャラクタープロフィール |website=ご当地キャラカタログ |publisher=TINAMI株式会社 |accessdate=2019-06-24}}</ref>がPRに努めている。 * 和漢三才図会では、大きな雌の上に小さな雄が常に乗っている生態から「故ニ[[閩]]人婚禮ニ之ヲ用ユ」としている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連文献 == {{Commons&cat|Tachypleus tridentatus|Tachypleus tridentatus}} * 関口晃一『カブトガニの不思議:「生きている化石」は警告する』岩波書店〈岩波新書〉、1991年。ISBN 4004301920 == 外部リンク == * [http://www.city.imari.saga.jp/2995.htm 伊万里公式サイト - 伊万里湾カブトガニ繁殖地] * [http://www.city.saijo.ehime.jp/sisetu/toyokyodo/index.html 西条市東予郷土館]{{リンク切れ |date=2019年6月24日 (月) 07:27 (UTC)}} * [http://www.city.kasaoka.okayama.jp/site/kabutogani/ 笠岡市立カブトガニ博物館] * [http://www.youtube.com/watch?v=cfpeyALO03c カブトガニの生態] - BBC * 『[[訓蒙図彙]]』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569350/21 15巻] * 『[[大和本草]]』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557475/55 14巻][https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557456/23 諸品図下] * 『[[和漢三才図会]]』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161/159 46巻] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふとかに}} [[Category:剣尾類]] [[Category:生きている化石]] [[Category:中国の食文化]] [[Category:無脊椎動物天然記念物]] [[Category:絶滅危惧I類]]
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推理作家
推理作家(すいりさっか)は、推理小説を主として著す小説家。ミステリー小説家とも呼ばれる。 推理小説自体が、推理をメインにした典型的な推理小説から推理要素を少しだけ含む作品まで多岐にわたるため、誰が推理作家で誰がそうでないかは明確ではない。 日本の推理小説の草創期には探偵作家と呼ばれたが、その頃の探偵作家は今のSF作家や怪奇小説家も含む広い範囲を指していた。 日本では1987年以降、「新本格ミステリ」を中心とする推理小説ブームがあり、伝統的な江戸川乱歩賞以外にも、鮎川哲也賞やメフィスト賞(推理小説を含むエンターテインメント作品を募集する)など推理作家を目指す人のための新人賞が多く創設された。 推理作家の中には、顔写真を公表せず、生年や性別、デビューまでの経歴などのプロフィールを公開しない(または非常に限定的なプロフィールしか公開しない)覆面作家がいる。 推理小説の分野または別の分野で活躍していた作家が、正体を隠して変名を使っていた場合もある。 また、彩胡ジュンやクイーン兄弟のように、読者にその正体を当てさせることを目的にして、本来の筆名を伏せて作品を発表する場合もある。 小説は多くの場合1人で執筆するものだが、2人以上が共同で小説を著す場合がある。エラリー・クイーン、岡嶋二人などが代表例である。推理小説の場合には、どちらかが主にトリックのアイデアを出すなどして分業していることもある。 また、すでに名の売れた作家が2人以上で小説を著す場合もある。全体を担当者を明確にせず共同で創作する場合と、数名が担当部分を明確にしてストーリーを書き継ぐリレー小説の形を取る場合とがある。 合作やリレー小説と異なり、単に舞台や事件の設定を共有して、複数の推理作家が個別の作品を執筆する「競作」が行われることもある。
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推理作家(すいりさっか)は、推理小説を主として著す小説家。ミステリー小説家とも呼ばれる。
{{出典の明記|date=2016年12月16日 (金) 13:15 (UTC)}} '''推理作家'''(すいりさっか)は、[[推理小説]]を主として著す[[小説家]]。'''ミステリー小説家'''とも呼ばれる。 == 概要 == 推理小説自体が、推理をメインにした典型的な推理小説から推理要素を少しだけ含む作品まで多岐にわたるため、誰が推理作家で誰がそうでないかは明確ではない。 [[日本]]の推理小説の草創期には'''探偵作家'''と呼ばれたが{{refnest|group="注"|[[江戸川乱歩]]は[[横溝正史]]の『[[真珠郎]]』の序文に「この作者は'''探偵作家'''でありながら」と記述している<ref>{{Cite book|和書 |author=横溝正史 |title=<small>昭和ミステリ秘宝</small> 真珠郎 |date=2000-10-30 |publisher=[[扶桑社]] |series=[[扶桑社文庫]] |edition=第1版 |isbn=978-4-59-402993-7 |page=444}}</ref>。}}{{refnest|group="注"|横溝正史は「三つの探偵トリオ」というエッセイの冒頭に「'''探偵作家'''が何に一番苦労するかといえば」と記述している<ref>{{Cite book|和書 |editor=小林信彦|editor-link=小林信彦 |title=横溝正史読本(改版) |date=2008-09-25 |publisher=[[角川書店]] |series=[[角川文庫]] |edition=第1版 |isbn=978-4-04-138216-5 |page=207}}</ref>。}}{{refnest|group="注"|[[坂口安吾]]は「『蝶々殺人事件』について(推理小説論)」の冒頭に「日本の'''探偵作家'''の間に、探偵小説芸術論という一風潮があって」と記述している<ref>{{Cite book|和書 |author=小林信彦・編 |title=横溝正史読本(改版) |date=2008-09-25 |publisher=角川書店 |series=角川文庫 |edition=第1版 |isbn=978-4-04-138216-5 |page=242}}</ref>。}}{{refnest|group="注"|昭和23年度[[日本推理作家協会賞|探偵作家クラブ賞]]贈呈式のテーブルスピーチで、[[城昌幸]]は「坂口氏の作品は読み辛いし面白くないがいわゆる'''探偵作家'''でない氏をこのクラブが重んずることにファインプレイを感ずる」、[[渡辺啓助]]は「坂口氏のはこみ入っていて疲労を感ずるものゝその情勢は買はなくてはならぬし、いわゆる'''探偵作家'''以外の新しい挑戦としての意味がある」、[[木々高太郎]]は「即ち探偵小説の時は'''探偵作家'''になったとみるので、純文学が書けることが探偵小説を文学にし得るのではなく探偵小説から文学たり得るものが生れるといへるので、探偵小説から文学へ突き抜けなければいけないと思ふ」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mystery.or.jp/prize/detail/10022 |title=1949年 第2回 日本推理作家協会賞 長編部門 その他「中島河太郎 選考経過を見る」 |publisher=[[日本推理作家協会賞]] 公式サイト |accessdate=2020-06-20}}</ref>。}}、その頃の探偵作家は今の[[SF作家]]や[[怪奇小説|怪奇小説家]]も含む広い範囲を指していた。 日本では[[1987年]]以降、「[[新本格派ミステリー作家|新本格ミステリ]]」を中心とする推理小説ブームがあり、伝統的な[[江戸川乱歩賞]]以外にも、[[鮎川哲也賞]]や[[メフィスト賞]](推理小説を含むエンターテインメント作品を募集する)など推理作家を目指す人のための新人賞が多く創設された。 == 覆面作家 == 推理作家の中には、顔写真を公表せず、生年や性別、デビューまでの経歴などのプロフィールを公開しない(または非常に限定的なプロフィールしか公開しない)[[覆面作家]]がいる。 * [[北川歩実]] * [[北村薫]](デビュー当時) * [[鯨統一郎]] * [[坂木司]] * [[殊能将之]] * [[舞城王太郎]] * [[南園律]] 推理小説の分野または別の分野で活躍していた作家が、正体を隠して変名を使っていた場合もある。 * 別の作家の変名 ** [[加田伶太郎]] ** [[嵯峨島昭]] ** [[鷹見緋沙子]](推理作家3人の共用ペンネーム) ** [[大井廣介|田島莉茉子]] ** [[エラリー・クイーン|バーナビー・ロス]] ** [[ジョン・ディクスン・カー|カーター・ディクスン]] また、[[彩胡ジュン]]や[[クイーン兄弟]]のように、読者にその正体を当てさせることを目的にして、本来の筆名を伏せて作品を発表する場合もある。 == 合作 == 小説は多くの場合1人で執筆するものだが、2人以上が共同で小説を著す場合がある。[[エラリー・クイーン]]、[[岡嶋二人]]などが代表例である。推理小説の場合には、どちらかが主に[[トリック (推理小説)|トリック]]のアイデアを出すなどして分業していることもある。 * 複数人によるペンネーム ** [[岡嶋二人]] ** [[エラリー・クイーン]] - フレデリック・ダネイ単独でもこの合作ネームを使用したが<ref group="注">『クイーン談話室』(1957年)など。</ref>、『 [[ゴールデン・サマー]]』のみダニエル・ネイサン名義。 ** [[ロジャー・スカーレット]] - 女流作家二人による男性名義の合作ネーム。 ** [[マイケル・スレイド]] ** [[ボワロー=ナルスジャック]] ** [[パトリック・クェンティン]] - 初期にはリチャード・ウェッブ単独、後期にはヒュー・ホイーラー単独のクェンティン名義作品もある。 また、すでに名の売れた作家が2人以上で小説を著す場合もある。全体を担当者を明確にせず共同で創作する場合と、数名が担当部分を明確にしてストーリーを書き継ぐ[[リレー小説]]の形を取る場合とがある。 * 合作・リレー小説のための推理作家のグループ ** [[新世紀「謎」倶楽部]](しんせいきミステリーくらぶ) ** [[耽綺社同人]] 合作やリレー小説と異なり、単に舞台や事件の設定を共有して、複数の推理作家が個別の作品を執筆する「競作」が行われることもある。 == 推理作家の団体 == *[[アメリカ私立探偵作家クラブ]] (1981年 - ) *[[アメリカ探偵作家クラブ]] (1945年 - ) *[[英国推理作家協会]] (1953年 - ) *[[オーストラリア推理作家協会]] (1996年 - ) *[[カナダ推理作家協会]] (1982年 - ) *[[韓国推理作家協会]] (1983年 - ) *{{仮リンク|スウェーデン推理作家アカデミー|en|Swedish Crime Writers' Academy}} *{{仮リンク|スカンジナヴィア推理作家協会|no|Skandinaviska Kriminalsällskapet}} *[[台湾推理作家協会]] (2001年 - ) *[[ディテクションクラブ]] *{{仮リンク|シンジケート (作家協会)|de|Syndikat (Autoren)|label=ドイツ推理作家協会}} *[[日本推理作家協会]] (1947年 - ) *[[本格ミステリ作家クラブ]] (2000年 - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[推理作家一覧]] * 生年別推理作家一覧 : [[生年別推理作家一覧 19世紀|19世紀]] - [[生年別推理作家一覧 1901 - 1910年代|1901 - 1910年代]] - [[生年別推理作家一覧 1920年代|1920年代]] - [[生年別推理作家一覧 1930年代|1930年代]] - [[生年別推理作家一覧 1940年代|1940年代]] - [[生年別推理作家一覧 1950年代|1950年代]] - [[生年別推理作家一覧 1960年代|1960年代]] - [[生年別推理作家一覧 1970年代|1970年代]] - [[生年別推理作家一覧 1980年代|1980年代]] - [[生年別推理作家一覧 1990年代|1990年代]] * 英語版Wikipedia - 日本語版Wikipedia「推理作家一覧」に対応する項目 ** [[:en:Crime fiction]] - [[:en:List of crime writers]] ** [[:en:Detective fiction]] - [[:en:List of detective fiction authors]](Crime fictionの1つで、プロアマ問わず探偵役が登場するもの) ** [[:en:Mystery fiction]] - [[:en:List of mystery writers]](Crime fictionと重なるが、狭義にはDetective fictionの中で、謎の論理的解決に重点のあるものを指す([[ハードボイルド]]などと対比して)) == 外部リンク == * [http://www.mystery.or.jp/index.html 日本推理作家協会] * [http://honkaku.com/ 本格ミステリ作家クラブ] {{推理小説}} {{Normdaten}} [[Category:推理作家|*すいりさつか]]
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三びきのやぎのがらがらどん
『三びきのやぎのがらがらどん』(さんびきのやぎのがらがらどん、ノルウェー語: De tre bukkene Bruse、英語: Three Billy Goats Gruff)は、「がらがらどん」という同じ名前をもつ3匹の山羊が餌を求めて冒険に出かける童話。ノルウェーの昔話の一つで、アスビョルンセンとヨルゲン・モー(英語版)によって、彼らの著作『ノルウェー民話集』に収録された。 日本語訳としては他に『ふとりたくて丘にゆく三びきの牡ヤギ・ブルーセ』、『ふとろうと山に行く三匹のヤギのドンガラン』などがみられる。 なお、タイトルの「がらがらどん」、「ブルーセ」、「ドンガラン」の部分は原題のヤギの名前である「Bruse(ノルウェー語で「うなり声」という意味)」部分を固有名詞なので訳さない(ブルーセ)か、擬音風に意訳したか(がらがらどん・ドンガラン)の違いである。 マーシャ・ブラウンによる絵本 "Three Billy Goats Gruff" (1957) があり、日本では瀬田貞二の翻訳により『三びきのやぎのがらがらどん』として1965年に刊行された。 「がらがらどん」という名前の小・中・大3匹の山羊が太りたくなって、草を求めて山(丘)を目指す。だが、途中にかかる橋の下には醜いトロールがいて、大声で「おまえを飲み込んでやる」と威嚇する。 最初に来た小さな山羊は「後から大きな山羊が来るから」と言って、トロールに見逃してもらい橋を渡る。続いて来た中くらいの山羊も、同じように言って橋を渡る。しかし最後に来た大きな山羊は、恫喝するトロールに立ち向かい、トロールをやっつけるのであった。 無事に山へ行った山羊たちは、丸々と太って帰って来た。 G. W. デイセント(英語版)によって英語に翻訳されて1859年に出版されたノルウェー民話集(Popular Tales from the Norse)の中に「Three Billy-Goats Gruff」の題で収録されている。これを絵本にしたものは1957年に出版された。デイセントの文章はリズムを尊重したものとなっている。マーシャ・ブラウンによる絵は力強さを特徴としている。 この絵本は日本では瀬田貞二の翻訳により『三びきのやぎのがらがらどん』として福音館書店より1965年に刊行された。2007年6月の第130刷より色が改訂され、背表紙などにあった「北欧の民話」の表記が「ノルウェーの昔話」に変更、原書にある「アン・キャロル・ムアとトロルに捧げる」という言葉の追加が行われた。 本作をモチーフとした楽曲「三匹の山羊のガラガラドン」(作詞:舘紅、作曲:田中昭子)が存在する。 日本のアニメ映画『となりのトトロ』(スタジオジブリ)のエンディングでは、サツキとメイが布団の中でお母さんにこの本を読んでもらっている。 イギリスのアニメ『きかんしゃトーマス』ではこの童話をもとに制作されたエピソード(第20シーズン「おそろしいようかい」)があり、パーシーとトビーが三匹の山羊やトロールの話をする。また、日本語版では「トロール」は「妖怪」と訳された。 スティーブン・キングのホラー小説『It』では、ペニーワイズのモチーフの一つがこの作品のトロールであるほか、図書館のシーンでも言及されている。
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『三びきのやぎのがらがらどん』は、「がらがらどん」という同じ名前をもつ3匹の山羊が餌を求めて冒険に出かける童話。ノルウェーの昔話の一つで、アスビョルンセンとヨルゲン・モーによって、彼らの著作『ノルウェー民話集』に収録された。 日本語訳としては他に『ふとりたくて丘にゆく三びきの牡ヤギ・ブルーセ』、『ふとろうと山に行く三匹のヤギのドンガラン』などがみられる。 なお、タイトルの「がらがらどん」、「ブルーセ」、「ドンガラン」の部分は原題のヤギの名前である「Bruse(ノルウェー語で「うなり声」という意味)」部分を固有名詞なので訳さない(ブルーセ)か、擬音風に意訳したか(がらがらどん・ドンガラン)の違いである。 マーシャ・ブラウンによる絵本 "Three Billy Goats Gruff" (1957) があり、日本では瀬田貞二の翻訳により『三びきのやぎのがらがらどん』として1965年に刊行された。
[[ファイル:WhiteHouseTheThreeBillyGoatsGruff2003.jpg|thumb|三びきのやぎのがらがらどんが、トロールの住む橋を渡る様子を表現した彫像]] 『'''三びきのやぎのがらがらどん'''』(さんびきのやぎのがらがらどん、{{lang-no|''De tre bukkene Bruse''}}、{{Lang-en|''Three Billy Goats Gruff''}})は、「がらがらどん」という同じ名前をもつ3匹の[[ヤギ|山羊]]が餌を求めて冒険に出かける[[童話]]。[[ノルウェー]]の[[昔話]]の一つで、[[ペテル・クリスティン・アスビョルンセン|アスビョルンセン]]と{{仮リンク|ヨルゲン・モー|en|Jørgen Moe}}によって、彼らの著作『[[ノルウェー民話集]]』に収録された。 日本語訳としては他に『'''ふとりたくて丘にゆく三びきの牡ヤギ・ブルーセ'''』<ref>『太陽の東 月の西』(アスビョルンセン著、[[佐藤俊彦 (翻訳家)|佐藤俊彦]]訳、[[岩波書店]]〈岩波少年文庫〉、2005年新版、ISBN 978-4-00-114126-9)で確認した日本語題。</ref>、『'''ふとろうと山に行く三匹のヤギのドンガラン'''』<ref>『ノルウェーの昔話』([[大塚勇三]]訳、福音館書店〈世界傑作童話シリーズ〉、2003年、ISBN 978-4-8340-0828-9 )で確認した日本語題。</ref>などがみられる。 なお、タイトルの「がらがらどん」、「ブルーセ」、「ドンガラン」の部分は原題のヤギの名前である「Bruse(ノルウェー語で「うなり声」という意味{{Efn|ちなみに英語版の「Gruff」は「どら声」の意味。}})」部分を固有名詞なので訳さない(ブルーセ)か、擬音風に意訳したか(がらがらどん・ドンガラン)の違いである。 [[マーシャ・ブラウン]]による絵本 "Three Billy Goats Gruff" (1957) があり、日本では[[瀬田貞二]]の翻訳により『三びきのやぎのがらがらどん』として1965年に刊行された<ref name="ミネルヴァ2006">[[桂宥子]]編著『たのしく読める英米の絵本』ミネルヴァ書房、2006年、134-135頁</ref>。 == あらすじ == 「がらがらどん」という名前の小・中・大3匹の[[ヤギ|山羊]]が太りたくなって、草を求めて山(丘)を目指す。だが、途中にかかる[[橋]]の下には醜い[[トロール]]がいて、大声で「おまえを飲み込んでやる」と威嚇する。 最初に来た小さな山羊は「後から大きな山羊が来るから」と言って、トロールに見逃してもらい橋を渡る。続いて来た中くらいの山羊も、同じように言って橋を渡る。しかし最後に来た大きな山羊は、恫喝するトロールに立ち向かい、トロールをやっつけるのであった。 無事に山へ行った山羊たちは、丸々と太って帰って来た。 == 絵本 == {{仮リンク|G. W. デイセント|en|George Webbe Dasent}}によって英語に翻訳されて1859年に出版されたノルウェー民話集(Popular Tales from the Norse)<ref>{{citation|url=https://www.worldcat.org/title/popular-tales-from-the-norse/oclc/1050804279|title=Popular tales from the Norse|publisher=[[WorldCat]]}}</ref>の中に「Three Billy-Goats Gruff」の題で収録されている。これを絵本にしたものは1957年に出版された。デイセントの文章はリズムを尊重したものとなっている。[[マーシャ・ブラウン]]による絵は力強さを特徴としている。<ref>桂宥子編著『はじめて学ぶ英米絵本史』ミネルヴァ書房、2011年、144-145頁</ref> この絵本は日本では[[瀬田貞二]]の翻訳により『三びきのやぎのがらがらどん』として[[福音館書店]]より1965年に刊行された<ref name="ミネルヴァ2006" />。2007年6月の第130刷より色が改訂され、背表紙などにあった「北欧の民話」の表記が「ノルウェーの昔話」に変更、原書にある「[[アン・キャロル・ムーア|アン・キャロル・ムア]]と[[トロール|トロル]]に捧げる」という言葉の追加が行われた<ref>{{Wayback|url=http://www2.tbb.t-com.ne.jp/midori-bunko/3bikinoyagiNO5.html|title=三びきのやぎのがらがらどんNO5|date=20220210124349}}</ref>。 == 楽曲 == 本作をモチーフとした楽曲「三匹の山羊のガラガラドン」(作詞:舘紅、作曲:田中昭子)が存在する<ref>小林美実(編)『続こどものうた200』チャイルド本社、1996年、149頁。ISBN 978-4-8054-0002-9。</ref>。 == 他作品での言及 == 日本のアニメ映画『[[となりのトトロ]]』([[スタジオジブリ]])のエンディングでは、サツキとメイが[[布団]]の中でお母さんにこの本を読んでもらっている。 イギリスのアニメ『[[きかんしゃトーマス]]』ではこの童話をもとに制作されたエピソード(第20シーズン「おそろしいようかい」)があり、パーシーとトビーが三匹の山羊やトロールの話をする。また、日本語版では「トロール」は「妖怪」と訳された。 スティーブン・キングのホラー小説『[[IT (小説)|It]]』では、ペニーワイズのモチーフの一つがこの作品のトロールであるほか、図書館のシーンでも言及されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * ノルウェーの昔話『三びきのやぎのがらがらどん』[[マーシャ・ブラウン]]絵、[[瀬田貞二]]訳、福音館書店 ISBN 978-4-8340-0043-6。 == 外部リンク == * [https://allabout.co.jp/gm/gc/198798/ 『三びきのやぎのがらがらどん』の魅力は? 3倍楽しむ本やおもちゃ [絵本] All About] * {{cite book|last=Dasent|first=Sir George Webbe|chapter=The Three Billy-Goats Gruff|pages=264-265|title=Popular Tales from the Norse|year=1903|origyear=1859|edition=new|location=Edinburgh|publisher=David Douglas|url=https://archive.org/details/populartalesfrom00daseuoft/page/264/mode/2up}} {{lit-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんひきのやきのからからとん}} [[Category:ノルウェー文学]] [[Category:ヒツジ・ヤギを主人公にした物語]] [[Category:民話]] [[Category:動物文学]]
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寿命
寿命(じゅみょう)とは、命がある間の長さのことであり、生まれてから死ぬまでの時間のことである。 転じて、工業製品が市場に出てから退場するまでの期間(製品ライフサイクル)、使用限度や廃棄されるまでの期間(製品寿命)、あるいは様々な物質・物体の発生・出現から消滅・破壊までの時間などを言うこともある。 一般には、人間が生まれてから死ぬまでの時間のことを寿命という。この長さには非常に個人差があり、生まれてすぐ死ぬ人間もいれば、100年以上生きる人間もいる。しかし、あまりに短い場合、大抵は事故であったり、病気であったりと不本意な理由があるから、「あれさえなければもっと生きていたろうに」というふうに考えるものである。したがって、人間は特に問題がなければ老人になって衰えて死ぬものだとの考えから、老衰で死ぬことを寿命と言うことが多い。90代の人や100歳の人が死ねば、大抵は「寿命だからね」と言われる。 言葉としては、寿命が短いことを短命(たんみょう・たんめい)、長いことを長命(ちょうみょう・ちょうめい)という。もちろん相対的な概念であり、絶対的な区別はない。短命に終わることを、夭折という。 生物学における寿命には2つの考え方がある。たとえばアユを海水で育てると2年以上生き延びることが知られている。そこで、アユの寿命は実は2年くらい、というのは確かに正しいのであるが、実際の河川では、アユはほぼすべて1年で死ぬ。一年草も自然条件では1年で開花・結実枯死するが、開花条件を満たさなければ何年も生きるものが多い。つまり、アユや一年草の寿命は1年とも、2年(もしくはそれ以上)ともいうことができる。そこで、条件を整えてやった場合に実現する寿命を生理的寿命、その生物が実際に生活している場で見られる寿命を生態的寿命として区別する。我々の見る一般的な動物の個体は老化して死に、人間と同じように生理的・生態的寿命を考えることができる。ただし、生物界全体を見渡した場合、生理的寿命があるものはむしろ少数派である。属する種の過半数に生理的寿命があるものは動物だけといってよく、動物の中でも海綿動物、腔腸動物や扁形動物では生理的寿命は認められていないものが多数を占める。 一般に単細胞生物には寿命の概念がない。ただし例外的に繊毛虫(ゾウリムシの仲間)では分裂後の隔離を繰り返して自家生殖・接合を行わせないと細胞分裂ができなくなる現象が起こる。パン酵母にも同様の現象がある。同じく動物の一部種(おそらくは脊椎動物)の正常な体細胞では一定回数以上分裂できない現象がある。これらの動物体細胞では細胞分裂時に短くなる染色体上のテロメアと呼ばれる配列を延長できず、ある程度以上テロメアが短くなれば分裂できなくなる。これを動物ではヘイフリック限界といい、生理的寿命の原因ではないかとされている。よく誤解されるが原核細胞(細菌・古細菌)、多くの動物以外の真核細胞および動物の生殖細胞や癌細胞、動物でも海綿動物、腔腸動物や扁形動物の細胞ではこのヘイフリック限界のような現象は認められず、無限に分裂できる。もちろん、これらの分類群の中にも上記の繊毛虫や酵母のように明確に分裂回数が有限であるものも存在する。ゾウリムシでも出芽酵母でもテロメアは分裂回数の限界には関わってないことが示されているが、動物の老化時と共通した遺伝子発現もあり、分裂回数の有限性は動物の体細胞とは独立に獲得された似た現象であるのか、元々共通した現象であるのかは現段階では不明である。 ヒトの細胞の分裂限界(PDL:population doubling level)(=ヘイフリック限界)は50で最大寿命は約120年、ウサギではPDL20で最大寿命は約10年、ラットではPDL15で最大寿命は約3年で、PDLと最大寿命とが直線的な関係がみられる。 動物などにおける寿命の進化要因は現在論争中で、充分に説得力のある仮説はない。しかし、以下の仮説がある。議論する上でよく有性生殖の意義との混同が起きるが、全く別のものである。有性生殖またはそれに当たる遺伝子交換は多くの生物で認められ、真核生物では認められないものの方が少数である点も寿命とは異なる。 脊椎動物全般では、心拍数によって決まるという説もある。これは心拍数に上限があり、その上限が哺乳類は20億回で、それに達すると寿命だという。ただ、この値は指数関数的な概数であり厳密に当てはまるものではない。例えば一分間の脈拍60 - 80回程度の人間(ヒト)を当てはめると45 - 65年程度の寿命になる。 生物の中には、その生活史の中に非常に不活発で、生理作用も低レベルとなった状態である程度の時間を過ごす例がある。それを休眠と言うが、往々にして環境条件の悪化を耐え忍ぶために現れる。これは生活環の中で定期的、一定期間で行われるものもあるが、中には不定期に長期間をその形で過ごす例がある。その場合、この期間を含む寿命は非常に長くなる。例えば植物種子の中には条件が整えば半永久的な寿命を持つのではないかと考えられる例が存在する(植物種子は休眠個体であって決して卵ではない)。同様にクマムシ、別名でチョウメイムシ(長命虫)は、この動物が特殊な休眠(クリプトビオシス)の状態で数十年にわたって生き延びることが知られている。同様の卵でない個体休眠はネムリユスリカやワムシでも知られている。 近縁種同士では大型動物ほど寿命が長いとの経験則があり、大型になるほど体重に比較して体表面の割合が小さくなり、体表面からのエネルギー損失が低くなる。このことにより、大型になるほど1日に必要なエネルギーを体重で割って得られる比代謝率が低くなる傾向となる。ルブナーの法則(en:Rate-of-living theory)とは、「限界寿命は比代謝率に逆比例する」ことである。Cを定数とすると次式で表される。 哺乳類では体重で10万倍、寿命で60倍の相違が認められるが、Cの値の相違は小さい。霊長類と他の哺乳類と比較すると、霊長類のほうがCの値が2倍大きいところである。 薬物摂取により、真に医学的に「寿命を延ばす」という事は、難しいと考えられてきた。しかし、2009年の研究で、抗生物質の一種であるラパマイシンにマウスの寿命を伸長させる作用があるとのデータが得られ、薬剤によって(既に高齢化している)動物個体の寿命を伸長させることができることがわかった。 また、低カロリーの摂食は多くの動物の平均寿命と最長寿命(英語版)を延ばすと言われている。栄養の不足は、細胞中でのDNA修復の増加した状態を引き起こし、休眠状態を維持し、新陳代謝を減少させ、ゲノムの不安定性を減少させて、寿命の延長を示すと言われている。 昆虫の中で長寿とされる王シロアリは30 - 50 年間生存しているものもあると伝わっている。王、女王シロアリは低酸素環境を好み、好気的代謝を抑制し、嫌気的代謝を活性化させ、尿酸、カタラーゼ等の抗酸化物質や抗酸化酵素に富み、活性酸素の発生を抑制していることがその長寿の一因として考えられる。また、齧歯類では飛びぬけて長寿のハダカデバネズミは、低酸素環境下に耐性があり、癌にも罹りにくいとされている。さらに、ヒトに関して、低地よりも酸素分圧が低い標高1000-3000 m程度の高地民族(世界三大長寿地域参照)には長寿が多く、また冠心疾患や高血圧症の発生率が低いことが報告されている。低酸素条件下の運動でグルコース酸化率の増加が認められた。低酸素条件下では、ミトコンドリアによる好気的酸化が抑制され、グルコースの嫌気的分解が亢進する。結果として、血糖値が低下し、インスリン分泌を抑制し、インスリン抵抗性が改善される。また、2015年(平成27年)の日本の長寿県第1位は、男は滋賀県(81.78歳)、女は長野県(87.67歳)である。 なお、1971年から1980年のデータで糖尿病患者と日本人一般の平均寿命を比べると男性で約10年、女性では約15年の寿命の短縮が認められた。このメカニズムとして高血糖が生体のタンパク質を非酵素的に糖化させ、タンパク質本来の機能を損うことによって障害が発生する。この糖化反応による影響は、例えば血管の主要構成成分であるコラーゲンや水晶体蛋白クリスタリンなど寿命の長いタンパク質ほど大きな影響を受ける。例えば白内障は老化によって引き起こされるが、血糖が高い状況ではこの老化現象がより高度に進行することになる。同様のメカニズムにより動脈硬化や微小血管障害も進行する。また、糖化反応により生じたフリーラジカル等により酸化ストレスも増大させる。 村落単位で見た生活習慣では、労働が激しく、魚又は大豆を十分にとり、野菜や海草を多食する地域は長寿村であり、米と塩の過剰摂取、魚の偏食の見られる地域は短命村が多いことが指摘されている。 人工臓器やオルガノイドという概念が存在していて、血液検査から臓器不全になるような予兆をつかみとって、あたらしい臓器をバイパッシング(臓器の交換)手術を行う。また、遺伝情報から、将来にわたり乳がんなどの発がん性を予見して、乳房を切除した米国の女優などがいる。 平均寿命はある集団に生まれた人間が平均して何年生きられるかの期待値であり、0歳児の平均余命であるとも言える。具体的な計算法は、各年齢の人間の年間死亡率を求め、今年生まれた人間の人口がこの死亡率に従って毎年どれだけ死亡するかを求める。このシミュレーションでそれぞれの死亡した年齢を平均したものが平均寿命となる。 平均寿命は一般に先進国の方が開発途上国より長いが、これは発展途上国の新生児死亡率が先進国よりはるかに高いことが主な原因と考えられる。新生児死亡は死亡年齢の低さから平均値を大きく引き下げる働きがあるからである。また、戦争などで一時的に若者が多く死亡した場合、一時的に平均寿命が低くなる。若年層の死亡率がその時期だけ高くなり、同じく平均を強く引き下げることによる。 以下、WHOの世界保健報告発表による。 イブン・ハルドゥーン( 1332年 - 1406年・歴史家、思想家、政治家)の時代には既に寿命120年説が広まっていた。最長の人間の寿命は、生没年月日が判明している者では、ジャンヌ・カルマンの122年164日が最長である。最長の歴代最高齢記録の男性は木村次郎右衛門で116歳54日(42422日)まで生きた。 森一、工藤倫夫の『職業と寿命の研究』によると、宗教家が最長で、寿命が短いのは下から順に詩人、小説家、芸術家であった。 一部のヒドラやクラゲは寿命の長さが確定されていない(考え方次第では不老不死に近い)。 二枚貝のアイスランドガイは500年以上、ニシオンデンザメは400年以上生きた個体が確認されている。 アメリカ合衆国ユタ州、フィッシュレイク国立森林公園のアメリカヤマナラシ(ポプラの一種)の森は個々の木が同じ根を共有している。この根の推定樹齢は約8万年と考えられている。単一個体ではスウェーデンのダーラルナ州で発見されたドイツトウヒの根で、推定樹齢約9550年と推測されている個体がある。樹幹に着目した場合、カリフォルニア州ホワイトマウンテンのヒッコリーマツで推定樹齢は約5500年となっている。
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寿命(じゅみょう)とは、命がある間の長さのことであり、生まれてから死ぬまでの時間のことである。 転じて、工業製品が市場に出てから退場するまでの期間(製品ライフサイクル)、使用限度や廃棄されるまでの期間(製品寿命)、あるいは様々な物質・物体の発生・出現から消滅・破壊までの時間などを言うこともある。
[[Image:Comparison gender life expectancy CIA factbook.svg|thumb|350px|各国の平均寿命(2018年)<br>円の大きさ:人口<br>縦軸:女性の寿命<br>横軸:男性の寿命|代替文=]] '''寿命'''(じゅみょう)とは、[[命]]がある間の長さのことであり、[[誕生|生まれて]]から[[死|死ぬ]]までの[[時間]]のことである。 転じて、[[工業製品]]が[[市場]]に出てから退場するまでの期間([[製品ライフサイクル]])、使用限度や廃棄されるまでの期間([[製品寿命]])、あるいは様々な[[物質]]・[[物体]]の発生・出現から消滅・[[破壊]]までの時間などを言うこともある。 == 言葉としての一般的用法 == 一般には、人間が生まれてから死ぬまでの時間のことを寿命という。この長さには非常に個人差があり、生まれてすぐ死ぬ人間もいれば、100年以上生きる人間もいる。しかし、あまりに短い場合、大抵は[[事故]]であったり、[[病気]]であったりと不本意な理由があるから、「あれさえなければもっと生きていたろうに」というふうに考えるものである。したがって、人間は特に問題がなければ[[老人]]になって衰えて死ぬものだとの考えから、[[老衰]]で死ぬことを寿命と言うことが多い。90代の人や100歳の人が死ねば、大抵は「寿命だからね」と言われる。 言葉としては、寿命が短いことを短命(たんみょう・たんめい)、長いことを長命(ちょうみょう・ちょうめい)という。もちろん相対的な概念であり、絶対的な区別はない。短命に終わることを、[[夭折]]という。 == 生物学的用法 == {{出典の明記|date=2017年1月10日 (火) 08:16 (UTC)|section=1}} [[生物学]]における寿命には2つの考え方がある。たとえば[[アユ]]を[[海水]]で育てると2年以上生き延びることが知られている。そこで、アユの寿命は実は2年くらい、というのは確かに正しいのであるが、実際の[[川|河川]]では、アユはほぼすべて1年で死ぬ。[[一年草]]も自然条件では1年で[[開花]]・結[[果実|実]]枯死するが、開花条件を満たさなければ何年も生きるものが多い。つまり、アユや一年草の寿命は1年とも、2年(もしくはそれ以上)ともいうことができる。そこで、条件を整えてやった場合に実現する寿命を'''[[生理学|生理的]]寿命'''、その生物が実際に生活している場で見られる寿命を'''[[生態学|生態的]]寿命'''として区別する。我々の見る一般的な[[動物]]の[[個体]]は[[老化]]して死に、人間と同じように生理的・生態的寿命を考えることができる。ただし、[[生物]]界全体を見渡した場合、生理的寿命があるものはむしろ少数派である。属する種の過半数に生理的寿命があるものは動物だけといってよく、動物の中でも[[海綿動物]]、[[腔腸動物]]や[[扁形動物]]では生理的寿命は認められていないものが多数を占める。 === 細胞の分裂回数の限界 === 一般に[[単細胞生物]]には寿命の概念がない。ただし例外的に[[繊毛虫]]([[ゾウリムシ]]の仲間)では分裂後の隔離を繰り返して自家[[生殖]]・[[接合 (生物)|接合]]を行わせないと[[細胞分裂]]ができなくなる現象が起こる。[[パン酵母]]にも同様の現象がある。同じく[[動物]]の一部種(おそらくは脊椎動物)の正常な[[体細胞]]では一定回数以上分裂できない現象がある。これらの動物体細胞では細胞分裂時に短くなる染色体上の[[テロメア]]と呼ばれる配列を延長できず、ある程度以上テロメアが短くなれば分裂できなくなる。これを動物では'''[[ヘイフリック限界]]'''といい、生理的寿命の原因ではないかとされている。よく誤解されるが[[原核生物|原核]]細胞(細菌・古細菌)、多くの動物以外の[[真核生物|真核]]細胞および動物の[[生殖細胞]]や[[癌]]細胞、動物でも[[海綿動物]]、[[腔腸動物]]や[[扁形動物]]の細胞ではこのヘイフリック限界のような現象は認められず、無限に分裂できる。もちろん、これらの分類群の中にも上記の繊毛虫や酵母のように明確に分裂回数が有限であるものも存在する。[[ゾウリムシ]]<ref> Lack of telomere shortening during senescence in Paramecium.Proc Natl Acad Sci USA 1994 Mar 1;91(5):1955-8</ref>でも[[出芽酵母]]<ref> Fabrizio, P., Longo, V., D. (2003) The chronological life span of Saccharomyces cerevisiae. Aging Cell 2: 73-81.</ref>でもテロメアは分裂回数の限界には関わってないことが示されているが、動物の老化時と共通した遺伝子発現もあり、分裂回数の有限性は[[動物]]の体細胞とは独立に獲得された似た現象であるのか、元々共通した現象であるのかは現段階では不明である。 [[ヒト]]の細胞の分裂限界(PDL:population doubling level)(=[[ヘイフリック限界]])は50で最大寿命は約120年、[[ウサギ]]ではPDL20で最大寿命は約10年、[[ラット]]ではPDL15で最大寿命は約3年で、PDLと最大寿命とが直線的な関係がみられる<ref>田沼靖一 『アポトーシスとは何か』 p205-213、1998年6月25日、講談社現代新書、ISBN 4061493086</ref>。 === 寿命の意義 === 動物などにおける寿命の進化要因は現在論争中で、充分に説得力のある仮説はない。しかし、以下の仮説がある。議論する上でよく[[有性生殖]]の意義との混同が起きるが、全く別のものである。有性生殖またはそれに当たる遺伝子交換は多くの生物で認められ、[[真核生物]]では認められないものの方が少数である点も寿命とは異なる。 ;個体使い捨て説 :生理的寿命がある生物は体が複雑であるものが多い。動物でも体制が簡単な海綿と腔腸動物には生理的寿命が認められないものが多い。生理的寿命が認められるゾウリムシは単細胞生物としては異例の複雑かつ巨大な体を持っている。ここから、複雑な体はある程度以上壊れる(老化する)と当該個体の修復よりも新個体の生成のほうがコストが少ないため、個体(ゾウリムシの場合は大核)を捨ててしまうという説。上記のゾウリムシにおける無限に分裂ができる系統では定期的に大核の廃棄および再構成(オートガミー)がなされている。多くのゾウリムシ系統はこの廃棄と再構成が接合とリンクしているため接合がない場合は分裂能を失ってしまう。ただし、体制が単純な酵母などにも寿命があることがこれでは説明が付かない。 ;[[テロメア]]説 :動物(おそらくは脊椎動物のみ)の生理的寿命だけに成り立つ論であるが、細胞分裂のたびに染色体の端にあるテロメアが短くなり、ある程度以下になると細胞分裂できなくなる現象から。しかし、これは(他の真核生物は保持している)テロメラーゼを失うことにより動物が生理的寿命を設定している、という方が正しい可能性が高く、おそらく原因と結果をはき違えている。<br>脊椎動物でもテロメラーゼ活性が程度の差はあれ、認められる種も確認されている。例えば、メダカではテロメラーゼの活性が、成長過程にある若齢では極めて高く体細胞分裂後もテロメアを延伸し長さを維持しているが、成長期が終わりほとんど体重増加が認められなくなる1歳齢以降は、加齢に従い活性が低下し維持されるテロメア長も徐々に短くなる<ref>The teleost Oryzias latipes shows teleomere shortning with age despite telomerase activity throughout life. Hatakeyama, H. et.al,. Mech. Ageing Dev. 2008. 129, 550-557</ref><ref>Telomere attrition and restoration in the normal teleost Oryzias latipes are linked to growth rate and telomeraseactivity at each life stage. Hatakeyama H, Yamazaki H, Nakamura K, Izumiyama-Shimomura N, Aida J, Suzuki H, Tsuchida S, Matsuura M, Takubo K, Ishikawa N. Aging (Albany NY). 2016 Jan;8(1):62-76.</ref>。ある齢以降に体細胞のテロメラーゼ活性が低下することがテロメア短縮を引き起こし、その結果、老化し死に至るのではないか思われる。つまり、メダカではテロメラーゼ活性を制御することでテロメアの長さを制御し、体細胞=個体を老化させ老衰死に導いているのであろう。老化は遺伝子的に積極的なプロセスであり、テロメア長は老化の原因ではなく制御因子の一つだということである。 ;偶然説 :祖先種においてたまたま(生理的)寿命があるものができ、それが特に(遺伝子の)生存に不利でなかったためたまたま[[創始者効果]]で広まったという説(つまり寿命に意義はない)。 :この例としては一年生(一回開花性)草本の寿命が上げられる。一年生草本では開花条件を満たすと開花結実し枯死するが、開花条件を満たさないと生存に適当な環境では長期間生残するもの(つまり生理的寿命が認められない。例:[[アサガオ]]や[[コリウス]]の多く)と、開花に不適な条件でも展葉枚数(葉齢)が一定数以上に達すると開花結実枯死のプロセスが止まらなくなるもの(つまり生理的寿命がある。例:[[シロイヌナズナ]]Col-0系統や[[トウモロコシ]],[[ヒマワリ]]の多くの系統)がある。自然条件ではどちらも開花条件を満たす→開花枯死となるので生理的寿命の有無は遺伝子の生存や増加にはほとんど影響を及ぼさないであろう。上記のゾウリムシやパン酵母の例でも生存(分裂)に適した条件で接合相手が居ないことはごく低確率である、パン酵母では分裂した片方の細胞である母細胞は老化するがもう片方の娘細胞は若返る、アユのように動物では生理的寿命は生態的寿命より大幅に長いことが多いなど、生理的寿命の有無や長さは遺伝子の生存や増加には影響を及ぼしていないのではないかと思われる例が多い。 :ただし、この説では老化課程における遺伝子発現が整然としている、つまり積極的なプロセスに見える事象が多いことが説明が付かない。これに対しては、寿命を獲得した偶然は遺伝子の単なる故障ではないのではないか、という反論がある。例えばホヤ類では岩に固着する[[ホヤ]]成体には生理的寿命が認められた種はないが、その分散形態であり運動性のあるオタマジャクシのような[[幼生]]には生理的寿命がある(時期が来ると岩に固着して変態し、[[脊索]]その他運動に必要な部分を捨て去る)。この変態はもちろん積極的な整然とした遺伝的プロセスであろう。その幼体が[[幼形成熟]]により、運動性形態のまま性成熟するようになったものが[[オタマボヤ綱|オタマボヤ]]ではないかとされている。そして同じ[[脊索動物]](尾索動物)でありながら[[オタマボヤ綱|オタマボヤ]]には生理的寿命がある。[[オタマボヤ綱|オタマボヤ]]は[[脊椎動物]]に非常に近縁とされ、全ての脊椎動物には生理的寿命があるとされている。上記から、脊椎動物に生理的寿命があるのは祖先となった[[ホヤ]][[幼生]]の運動部分に寿命があったためという偶然と創始者効果のためであるという仮説が成り立つ(ただし、それぞれの分類群の分岐や着生ホヤの生理的寿命の有無を含め異論が多いことに注意)。老化→死に至る遺伝的なプロセスに整然としている部分が多いことも説明が付く。この仮説に従えば、上記の一年草の生理的寿命(開花スイッチが葉齢によっても入るようになっただけ)はもちろん、[[動物]]の別の分類群、例えば[[昆虫]]などの[[節足動物]]([[脱皮動物]])の寿命は別途獲得されたことになる。ちなみに最近の研究では昆虫種の多くでは体細胞にもテロメラーゼが常時発現したりテロメラーゼとは異なる機構でテロメアを延伸していること(線虫(C. elegance。脱皮動物に含まれる)でも同様)、体細胞でも分裂の有限性は認められないことが昔から知られていること、なことなどから、[[脊椎動物]]の生理的寿命とは起源が異なることが強く示唆されている。 === 心拍数説 === 脊椎動物全般では、[[心拍数]]によって決まるという説もある。これは心拍数に上限があり、その上限が[[哺乳類]]は20億回で、それに達すると寿命だという。ただ、この値は指数関数的な概数であり厳密に当てはまるものではない。例えば一分間の脈拍60 - 80回程度の人間([[ヒト]])を当てはめると45 - 65年程度の寿命になる。 === 休眠がある場合 === 生物の中には、その生活史の中に非常に不活発で、生理作用も低レベルとなった状態である程度の時間を過ごす例がある。それを[[休眠]]と言うが、往々にして環境条件の悪化を耐え忍ぶために現れる。これは生活環の中で定期的、一定期間で行われるものもあるが、中には不定期に長期間をその形で過ごす例がある。その場合、この期間を含む寿命は非常に長くなる。例えば植物種子の中には条件が整えば[[種子#種子の休眠と発芽|半永久的な寿命]]を持つのではないかと考えられる例が存在する(植物種子は休眠個体であって決して卵ではない)。同様に[[緩歩動物|クマムシ]]、別名でチョウメイムシ(長命虫)は、この動物が特殊な休眠([[クリプトビオシス]])の状態で数十年にわたって生き延びることが知られている。同様の卵でない個体休眠は[[ネムリユスリカ]]や[[ワムシ]]でも知られている。 === ルブナーの法則 === 近縁種同士では大型動物ほど寿命が長いとの経験則があり、大型になるほど体重に比較して体表面の割合が小さくなり、体表面からのエネルギー損失が低くなる。このことにより、大型になるほど1日に必要なエネルギーを体重で割って得られる比代謝率が低くなる傾向となる。ルブナーの法則([[:en:Rate-of-living theory]])とは、「限界寿命は比代謝率に逆比例する」ことである。Cを定数とすると次式で表される。 : '''限界寿命 = C/比代謝率''' [[哺乳類]]では体重で10万倍、寿命で60倍の相違が認められるが、Cの値の相違は小さい。[[霊長類]]と他の哺乳類と比較すると、霊長類のほうがCの値が2倍大きいところである<ref>近藤宗平、「[https://doi.org/10.3143/geriatrics.25.97 寿命はプログラムされている]」『日本老年医学会雑誌』 1988年 25巻 2号 p.97-104, {{doi|10.3143/geriatrics.25.97}}, 日本老年医学会</ref>。 === 寿命伸長の可能性 === 薬物摂取により、真に医学的に「寿命を延ばす」という事は、難しいと考えられてきた。しかし、2009年の研究で、抗生物質の一種である[[ラパマイシン]]に[[ハツカネズミ属|マウス]]の寿命を伸長させる作用があるとのデータが得られ、薬剤によって(既に高齢化している)動物個体の寿命を伸長させることができることがわかった。 また、低[[カロリー]]の摂食は多くの[[動物]]の[[平均寿命]]と{{仮リンク|最長寿命|en|Maximum_life_span}}を延ばすと言われている<ref>{{cite journal | doi=10.1073/pnas.0510452103 | author=G. López-Lluch, N. Hunt, B. Jones, M. Zhu, H. Jamieson, S. Hilmer, M. V. Cascajo, J. Allard, D. K. Ingram, P. Navas, and R. de Cabo | title=Calorie restriction induces mitochondrial biogenesis and bioenergetic efficiency | journal=Proc Natl Acad Sci USA |year=2006 | volume=103 | issue=6 | pages=1768–1773 | pmid=16446459 | pmc=1413655}}</ref>。[[栄養]]の不足は、細胞中での[[DNA修復]]の増加した状態を引き起こし、休眠状態を維持し、[[新陳代謝]]を減少させ、[[ゲノム]]の不安定性を減少させて、寿命の延長を示すと言われている。 [[昆虫]]の中で[[長寿]]とされる王[[シロアリ]]は30 - 50 年間生存しているものもあると伝わっている。王、女王シロアリは低酸素環境を好み、好気的代謝を抑制し、嫌気的代謝を活性化させ、[[尿酸]]、[[カタラーゼ]]等の[[抗酸化物質]]や抗酸化酵素に富み、[[活性酸素]]の発生を抑制していることがその長寿の一因として考えられる<ref>伊藤 雅之、「書評 松浦健二.『シロアリ――女王様,その手がありましたか!』 岩波書店, 2013, 120p」『東南アジア研究』51 巻 (2013) 2 号 p. 345-347, {{doi|10.20495/tak.51.2_345}}</ref><ref>井内 良仁、「[https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-17K08152/17K08152seika.pdf 長寿命昆虫ヤマトシロアリの生存戦略長寿命昆虫ヤマトシロアリの生存戦略]」、2017-04-01 – 2020-03-31、科研費</ref>。また、[[齧歯類]]では飛びぬけて長寿の[[ハダカデバネズミ]]は、低酸素環境下に耐性があり、癌にも罹りにくいとされている<ref>{{cite web|url=http://www.sciencedaily.com/releases/2007/10/071015225336.htm |title=Ugly Duckling Mole Rats Might Hold Key To Longevity |publisher=Sciencedaily.com |date=2007-10-16 |accessdate=2009-03-11}}</ref>。さらに、ヒトに関して、低地よりも酸素分圧が低い標高1000-3000 m程度の高地民族([[世界三大一覧#医学|世界三大長寿地域]]参照)には[[長寿]]が多く、また冠[[心疾患]]や[[高血圧]]症の発生率が低いことが報告されている<ref>Baker PT: "[https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja|lang_en&id=hdI9AAAAIAAJ&oi=fnd&pg=PA317&dq=The+adaptive+fitness+of+high+%E2%80%93+altitude+population&ots=wMg9cTewmv&sig=WdXJ0_2VAr3oAB66y_Vljv7t_Oo#v=onepage&q=The%20adaptive%20fitness%20of%20high%20%E2%80%93%20altitude%20population&f=false The adaptive fitness of high – altitude population.]" In: The Biodogy of High Altitude Peoples. Cambridge University Press, Cambridge, 1978, pp317-350.</ref><ref>Leef A:長野敬 訳,現代の医学生と死『老化』.Science, 1981,別冊38: 31-40.</ref>。低酸素条件下の運動で[[グルコース]]酸化率の増加が認められた。低酸素条件下では、[[ミトコンドリア]]による好気的酸化が抑制され、グルコースの嫌気的分解が亢進する。結果として、[[血糖値]]が低下し、[[インスリン]]分泌を抑制し、[[インスリン抵抗性]]が改善される<ref>高櫻英輔、長崎成良、田辺隆一・他:高所環境における肥満治療(第3報)─高所と運動による影響─、登山医学、1999、19: 129-136.</ref><ref>片山訓博、大倉三洋、山﨑裕司 ほか、「[https://doi.org/10.1589/rika.27.357 【原著】常圧低酸素環境が運動中の呼吸循環代謝応答に与える影響]」『理学療法科学』 2012年 27巻 4号 p.357-361, {{doi|10.1589/rika.27.357}}, 理学療法科学学会</ref>。また、2015年(平成27年)の日本の長寿県第1位は、男は滋賀県(81.78歳)、女は長野県(87.67歳)である<ref>{{Cite report|author=厚生労働省|authorlink=厚生労働省|date=2015|title=平成27年都道府県別生命表の概況>結果の概要>2 都道府県別にみた平均余命|url=https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/tdfk15/dl/tdfk15-02.pdf|format=PDF|accessdate=2019-11-16}}</ref>。 なお、1971年から1980年のデータで[[糖尿病]]患者と日本人一般の[[平均寿命]]を比べると男性で約10年、女性では約15年の寿命の短縮が認められた<ref name=sakamoto>坂本信夫、「[https://doi.org/10.2169/naika.78.1540 糖尿病合併症の成因と対策]」 『日本内科学会雑誌』 1989年 78巻 11号 p.1540-1543, {{doi|10.2169/naika.78.1540}}, 日本内科学会</ref><ref>Sakamoto N, et al : The features of causes of death in Japanese diabetics during the period 1971-1980. Tohoku J Exp Med 141(Suppl) : 631, 1983</ref>。このメカニズムとして高血糖が生体の[[タンパク質]]を非酵素的に糖化させ、タンパク質本来の機能を損うことによって障害が発生する。この[[糖化反応]]による影響は、例えば[[血管]]の主要構成成分である[[コラーゲン]]や[[水晶体]]蛋白[[クリスタリン]]など寿命の長いタンパク質ほど大きな影響を受ける。例えば[[白内障]]は[[老化]]によって引き起こされるが、血糖が高い状況ではこの老化現象がより高度に進行することになる<ref name=sakamoto/>。同様のメカニズムにより[[動脈硬化]]や微小血管障害も進行する。また、糖化反応により生じた[[フリーラジカル]]等により[[酸化ストレス]]も増大させる<ref>川上正舒、[https://doi.org/10.11213/tonyobyo1958.46.913 動脈硬化症の分子機構] 『糖尿病』 2003年 46巻 12号 p.913-915, {{doi|10.11213/tonyobyo1958.46.913}}</ref>。 村落単位で見た生活習慣では、労働が激しく、[[魚]]又は[[大豆]]を十分にとり、[[野菜]]や[[海草]]を多食する地域は長寿村であり、[[米]]と[[塩]]の過剰摂取、魚の偏食の見られる地域は短命村が多いことが指摘されている<ref>香川靖雄、石黒源之、大川藤夫 ほか、[https://doi.org/10.5264/eiyogakuzashi.34.163 日本の長寿地域の現状 (1976年)] 『栄養学雑誌』 1976年 34巻 4号 p.163-172, {{doi|10.5264/eiyogakuzashi.34.163}}</ref><ref>[[近藤正二]]、第14回 日本医学会総会特別講演、p. 132 (1955) 医学出版協会</ref><ref>近藤正二、臨床と研究、33 684 (1954)</ref><ref>近藤正二、「[https://doi.org/10.3143/geriatrics1960.1961.Special_22 長寿と食習慣]」『老年病』 1961年 1961巻 Special号 p.22-28, {{doi|10.3143/geriatrics1960.1961.Special_22}}</ref>。 {{要出典|範囲=[[人工臓器]]や[[オルガノイド]]という概念が存在していて、血液検査から臓器不全になるような予兆をつかみとって、あたらしい臓器をバイパッシング(臓器の交換)手術を行う|date=2021年4月}}。また、遺伝情報から、将来にわたり乳がんなどの発がん性を予見して、乳房を切除した米国の女優などがいる<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2013/PA03031_06 |title = 「アンジェリーナ効果」は日本にも波及するのか? |publisher = 医学書院 |accessdate = 2021-06-17 }}</ref>。 == 人間の寿命 == [[Image:Life_expectancy_at_birth_(Both_sexes)_CIA_factbook.png|thumb|400px|各国の平均寿命(CIA World Factbook 2021 Estimates for Life Expectancy at birth (years).)<ref name="CIA Factbook">{{Cite report|author=[[中央情報局|CIA]]|date=2021|title=CIAファクトブック Life expectancy at birth|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/life-expectancy-at-birth/country-comparison|accessdate=2021-03-15}}</ref>平均寿命の長さは色別に、緑>濃青>青>水色>橙>黄>赤となっている。]] === 平均寿命 === {{出典の明記| date = 2020年9月| section = 1}} {{main|平均寿命}} '''[[平均寿命]]'''はある集団に生まれた[[人間]]が平均して何年生きられるかの[[期待値]]であり、0歳児の[[平均余命]]であるとも言える。具体的な計算法は、各年齢の人間の年間死亡率を求め、今年生まれた人間の人口がこの死亡率に従って毎年どれだけ死亡するかを求める。この[[シミュレーション]]でそれぞれの死亡した年齢を平均したものが平均寿命となる。 平均寿命は一般に[[先進国]]の方が[[開発途上国]]より長いが、これは発展途上国の[[新生児]]死亡率が先進国よりはるかに高いことが主な原因と考えられる。新生児死亡は死亡年齢の低さから平均値を大きく引き下げる働きがあるからである。また、[[戦争]]などで一時的に若者が多く死亡した場合、一時的に平均寿命が低くなる。若年層の死亡率がその時期だけ高くなり、同じく平均を強く引き下げることによる。 === 国別平均寿命ランキング === 以下、[[世界保健機関|WHO]]の世界保健報告発表による。 * 2019年の統計<ref>{{Cite web|和書|author=WHO|url=http://apps.who.int/gho/data/node.main.688?lang=en |title=Life expectancy and Healthy life expectancy Data by country(国別平均寿命及び健康寿命)|date=2020-12-04|website=Global Health Observatory data repository(世界健康観測所のデータ格納所) |format=Excel|accessdate =2021-03-15}}</ref>のうち、平均寿命が80歳以上の国は31か国あり、平均寿命が長い順に以下の国となっている。 :平均寿命83歳以上(8か国):[[日本]]、[[スイス]]、[[韓国]]、[[シンガポール]]、[[スペイン]]、[[キプロス]]、[[オーストラリア]]、[[イタリア]] :平均寿命83歳未満82歳以上(8か国):[[イスラエル]]、[[ノルウェー]]、[[フランス]]、[[ルクセンブルク]]、[[スウェーデン]]、[[アイスランド]]、[[カナダ]]、[[ニュージーランド]]  :平均寿命82歳未満81歳以上(13か国):[[マルタ]]、[[アイルランド]]、[[オランダ]]、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[フィンランド]]、[[ポルトガル]]、[[ベルギー]]、[[イギリス]]、[[デンマーク]]、[[スロベニア]]、[[ギリシャ]]、[[クウェート]] :平均寿命81歳未満80歳以上(2か国):[[コスタリカ]]、[[チリ]] * 日本の平均寿命は84.3歳で世界一。但し、令和元年簡易[[生命表]]<ref name="簡易生命表">{{Cite report|author=厚生労働省|authorlink=厚生労働省|date=2020-07-31|title=令和元年簡易生命表の概況>結果の概要>3 平均寿命の国際比較|url=https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life19/dl/life19-04.pdf|format=PDF|accessdate=2020-08-09}}</ref>より、[[香港]]を含めた場合、香港が世界一となる。 * 女性の平均寿命は日本が86.9歳で世界一。2位韓国86.1歳、3位スペイン85.7歳と続く。但し香港を含めた場合、香港は2019年のデータ<ref name="簡易生命表" />であるが女性は88.13歳であるため、香港が世界一となる。 * 男性の平均寿命はスイスが81.8歳で世界一。2位日本81.5歳、3位オーストラリア81.3歳と続く。<!--2000年統計まで男女とも「長寿世界一」だったが、2001年以降は、男性は2位となる。-->但し香港を含めた場合、香港は2019年のデータ<ref name="簡易生命表" />であるが男性は82.34歳であるため、香港が世界一となる。 * 平均寿命が最短なのは[[レソト]]で男性が47.7歳、女性が54.2歳であった。 {{seealso|国の平均寿命順リスト}} === 最長の人間の寿命 === [[イブン・ハルドゥーン]]( 1332年 - 1406年・歴史家、思想家、政治家)の時代には既に寿命120年説が広まっていた<ref>イブン・ハルドゥーン(森本公誠訳)『歴史序説1』 p.439</ref>。最長の人間の寿命は、生没年月日が判明している者では、[[ジャンヌ・カルマン]]の122年164日が最長である{{要出典|date=2020年9月}}。最長の歴代最高齢記録の男性は[[木村次郎右衛門]]で116歳54日(42422日)まで生きた。 === 職業による寿命への影響 === 森一、工藤倫夫の『職業と寿命の研究』によると、宗教家が最長で、寿命が短いのは下から順に詩人、小説家、芸術家であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.moneypost.jp/982313/2/ |title=「職業と寿命」研究結果 海外では長生きの「管理職」が日本だと高リスクな理由 | マネーポストWEB - Part 2マネーポストWEB |access-date=2023-01-12 |date=2023-01-12 |website=マネーポストWEB |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902041304819286 |title=職業と寿命の研究 II 昭和年代(55年~57年)における10種の職業集団の平均死亡年齢と死因に関する調査 |access-date=2023-01-12 |last=森一、工藤倫夫 |date=1985 |website=民族衛生 |pages=144–145 |language=ja}}</ref>。 ==人間以外の動物の寿命== 一部の[[ヒドラ (生物)|ヒドラ]]や[[クラゲ]]は寿命の長さが確定されていない(考え方次第では[[不老不死]]に近い)<ref>{{Cite web|和書|url=https://indeep.jp/confirmed-hydra-might-live-forever/ |title=確認された「永久の生命」:ヒドラは「老化では死なない」ことを米国ポモナ大学とドイツ・マックスプランク研究所が10年に渡る研究により明らかに |publisher=Indeep |date=2015-12-25 |accessdate=2022-04-10}}</ref>。 [[二枚貝]]の[[アイスランドガイ]]は500年以上<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8548/ |title=507歳の貝、年齢調査で死亡は誤解 |publisher=ナショナルジオグラフィック |date=2013-11-18 |accessdate=2022-04-10}}</ref>、[[ニシオンデンザメ]]は400年以上<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/081000304/ |title=約400歳のサメが見つかる、脊椎動物で最も長寿 |publisher=ナショナルジオグラフィック |date=2016-08-12 |accessdate=2022-04-10}}</ref>生きた個体が確認されている。 ==植物の寿命== [[アメリカ合衆国]][[ユタ州]]、フィッシュレイク国立森林公園のアメリカヤマナラシ([[ポプラ]]の一種)の森は個々の木が同じ根を共有している。この根の推定樹齢は約8万年と考えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.epochtimes.jp/2016/08/26050.html |title=世界最大・最古の樹木 総重量6千トンのポプラの森 |publisher=大紀元 |date=2016-08-26 |accessdate=2022-04-10}}</ref>。単一個体では[[スウェーデン]]の[[ダーラルナ州]]で発見された[[ドイツトウヒ]]の根で、推定樹齢約9550年と推測されている個体がある。樹幹に着目した場合、[[カリフォルニア州]]ホワイトマウンテンの[[ヒッコリーマツ]]で推定樹齢は約5500年となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/43/ |title=世界最古の生きた樹木、スウェーデンで発見 |publisher=ナショナルジオグラフィック |date=2008-04-14|accessdate=2022-04-10}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[樋渡宏一]]『ゾウリムシの性と遺伝』,(1982),UPバイオロジー・シリーズ(東京大学出版) == 関連項目 == {{Wiktionary|寿命}} * [[国の平均寿命順リスト]] * [[享年]] * [[短命]] - 落語の演題 * [[サーチュイン遺伝子|長寿遺伝子]] == 外部リンク == * [https://apps.who.int/gho/data/node.main.688?lang=en 各国の平均寿命統計] ( WHO : World Health Organization ) {{En icon}} * [https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/tdfk20/index.html 令和2年都道府県別生命表の概況] (厚生労働省) * [https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/tdfk20/dl/tdfk20-02.pdf 都道府県別にみた平均余命(令和2年都道府県別生命表の概況)(厚生労働省)] * [https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/tdfk20/dl/tdfk20-03.pdf 都道府県別にみた平均寿命の推移(令和2年都道府県別生命表の概況)(厚生労働省)] * [https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life22/dl/life22-02.pdf 主な年齢の平均余命|厚生労働省] * [https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2022/html/zenbun/s1_1_1.html 平均寿命の推移|内閣府] * [https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/hale/h-01-002.html 平均寿命と健康寿命|厚生労働省] * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/jumyo_t.html 平均寿命の長い国] (キッズ外務省) * [https://www.jili.or.jp/lifeplan/lifesecurity/1043.html 日本人の平均寿命はどれくらい?] (公益財団法人生命保険文化センター) * [https://jumyo.kazoekata.com/ 都道府県別-平均寿命まとめ](平均寿命ナビ) {{寿命}} {{DEFAULTSORT:しゆみよう}} [[Category:エイジング]] [[Category:時間]]
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有毒植物
有毒植物(ゆうどくしょくぶつ)とは、その全体あるいは一部に毒を持つ植物。毒草(どくそう)とも言うが、草本類だけでなく木本類も含めた言葉の厳密性から有毒植物という言葉が用いられる。植物に含まれる毒としてはアルカロイド類が多い。 植物の毒成分の働きは様々である。人や動物が触れたり摂食したりすると、毒性の強いのものでは炎症や中毒症状、痙攣、嘔吐などの症状を起こし、死に至ることもあるが、弱いものでは苦味や酸味を感じるなどの軽度のものもある。有毒植物を加工し毒性を除去あるいは弱めることによって、食用・薬草として利用されることもあり、有毒植物であるから無価値というわけではない。有毒植物のなかにはイチョウ(ぎんなん)やウメ、ジャガイモ、ワラビのように、有毒ながら処理法によって食料とされる種もある。薬草(薬用植物)のように、古くからその有効性がみとめられ薬用として利用されてきたものも少なくない。ただし薬草であっても、経験や理論によって見いだされた用法・用量を守らずに使うと毒となるので注意が必要である。その他、ガーデニングで植えられる植物にも猛毒を持つ植物は多数存在する(例えば、エンジェルトランペット(チョウセンアサガオ),ハッカクキリン,ヒナゲシ,オニゲシ,カナダケシ(サンギナリアカナデンシス),アザミゲシ,水仙,朝顔,オモト,クンシラン,ヒヤシンス等数多くの草花)。ガーデニングの作業で有毒植物に触れる際は手袋をするか、素手の場合は作業後に必ず手を洗うべきである。 植物の多くは食料として見なした場合には、致命的なほどに強烈な毒性をもつ種はあまり多くはない。しかし食味として苦かったり渋かったり不快感を与えたり一時的に健康を損なったりと、動物にとって何らかの害になりうる程度には食料として適さない種類が非常に多い。植物は摂取者から逃避行動がとれないため、こうした「不味」は致命的な毒とはなり得なくとも、摂食を免れるための手段として化学防御が発達したものと考えられる。植物のなかでも食料としての価値がなく、特に毒性の強い物質を有する種が有毒植物と呼ばれる。 種類によっては殺虫や狩猟用の毒矢に利用される。特に化学防衛のような「動物に食べられないようにする変化」では昆虫などに対して選択毒性(特定範囲の動植物に影響の出る毒の性質)をもつものもあり、除虫菊(蚊取り線香)や海人草(虫下し)のように利用されるものもある。 動物の種によって有毒・無毒の区別は異なる。身近な例では、ヒトにとっては無毒で頻繁に食されるネギやタマネギは、適切な酵素を持たないイヌやネコにとっては有毒で、重篤な障害に陥る危険がある。逆にヒト以外の鳥獣がふつうに摂取しているからといって、それをヒトが摂ると有毒である場合もある。ものによっては間接的に摂取しても毒になる場合がある(ミルク病(英語版)など)。カカオ,チョコレートもペットとしてよく飼われている鸚哥(インコ),鸚鵡(オウム)には有毒成分として働く。 なおこういった毒性のある植物だが、ある種の生物にとっては生存戦略上で興味深い影響を与えることもある。マダラチョウは幼虫時代に有毒植物を摂食しその成分を体内に蓄積するため、虫を捕食する種類の動物にとって「不味」であるため成虫になっても捕食されない。この不味という性質は捕食者に学習され捕食が避けられるという観点から、特に他と区別されることで同種の動物がより捕食されにくくなる有利な性質として働くため、目立った姿(警戒色)を持つ傾向があり、更にはそれに擬態する種もある。 括弧内は主な毒性成分。
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有毒植物(ゆうどくしょくぶつ)とは、その全体あるいは一部に毒を持つ植物。毒草(どくそう)とも言うが、草本類だけでなく木本類も含めた言葉の厳密性から有毒植物という言葉が用いられる。植物に含まれる毒としてはアルカロイド類が多い。
{{出典の明記|date=2009年6月}} '''有毒植物'''(ゆうどくしょくぶつ)とは、その全体あるいは一部に[[毒]]を持つ[[植物]]。'''毒草'''(どくそう)とも言うが、[[草本|草本類]]だけでなく[[木|木本類]]も含めた[[言葉]]の厳密性から有毒植物という言葉が用いられる。植物に含まれる毒としては[[アルカロイド]]類が多い。 == 概説 == 植物の毒成分の働きは様々である。人や動物が触れたり摂食したりすると、毒性の強いのものでは炎症や中毒症状、痙攣、嘔吐などの症状を起こし、死に至ることもあるが、弱いものでは苦味や酸味を感じるなどの軽度のものもある。有毒植物を加工し毒性を除去あるいは弱めることによって、食用・[[薬草]]として利用されることもあり、有毒植物であるから無価値というわけではない。有毒植物のなかには[[イチョウ]](ぎんなん)や[[ウメ]]、[[ジャガイモ]]、[[ワラビ]]のように、有毒ながら処理法によって食料とされる種もある。[[薬草]](薬用植物)のように、古くからその有効性がみとめられ[[生薬|薬用]]として利用されてきたものも少なくない。ただし薬草であっても、経験や理論によって見いだされた用法・用量を守らずに使うと毒となるので注意が必要である。その他、[[ガーデニング]]で植えられる[[植物]]にも[[毒|猛毒]]を持つ[[植物]]は多数存在する(例えば、[[キダチチョウセンアサガオ属|エンジェルトランペット]](チョウセンアサガオ),[[ハッカクキリン]],[[ヒナゲシ]],[[オニゲシ]],[[カナダケシ]](サンギナリアカナデンシス),[[アザミゲシ]],[[水仙]],[[アサガオ|朝顔]],[[オモト]],[[クンシラン]],[[ヒヤシンス]]等数多くの草花)。[[ガーデニング]]の[[作業]]で有毒[[植物]]に触れる際は[[手袋]]をするか、素手の場合は[[作業]]後に必ず手を洗うべきである。 植物の多くは[[食料]]として見なした場合には、致命的なほどに強烈な毒性をもつ種はあまり多くはない。しかし食味として苦かったり渋かったり不快感を与えたり一時的に健康を損なったりと、動物にとって何らかの害になりうる程度には食料として適さない種類が非常に多い。植物は摂取者から逃避行動がとれないため、こうした「不味」は致命的な毒とはなり得なくとも、摂食を免れるための手段として化学防御が発達したものと考えられる。植物のなかでも食料としての価値がなく、特に毒性の強い物質を有する種が有毒植物と呼ばれる。 種類によっては殺虫や狩猟用の毒矢に利用される。特に[[化学防衛]]のような「動物に食べられないようにする変化」では[[昆虫]]などに対して[[選択毒性]](特定範囲の動植物に影響の出る毒の性質)をもつものもあり、[[シロバナムシヨケギク|除虫菊]](蚊取り線香)や[[マクリ|海人草]]([[カイニン酸|虫下し]])のように利用されるものもある。 動物の種によって有毒・無毒の区別は異なる。身近な例では、[[ヒト]]にとっては無毒で頻繁に食される[[ネギ]]や[[タマネギ]]は、適切な酵素を持たない[[イヌ]]や[[ネコ]]にとっては有毒で、重篤な障害に陥る危険がある。逆にヒト以外の鳥獣がふつうに摂取しているからといって、それをヒトが摂ると有毒である場合もある。ものによっては間接的に摂取しても毒になる場合がある({{ill2|ミルク病|en|Milk sickness}}など)。[[カカオ]],[[チョコレート]]も[[ペット]]としてよく飼われている[[インコ|鸚哥(インコ)]],[[オウム|鸚鵡(オウム)]]には有毒成分として働く。 なおこういった毒性のある植物だが、ある種の生物にとっては生存戦略上で興味深い影響を与えることもある。[[マダラチョウ]]は[[幼虫]]時代に有毒植物を摂食しその成分を体内に蓄積するため、虫を捕食する種類の動物にとって「不味」であるため成虫になっても捕食されない。この不味という性質は捕食者に学習され捕食が避けられるという観点から、特に他と区別されることで同種の動物がより捕食されにくくなる有利な性質として働くため、目立った姿([[警戒色]])を持つ傾向があり、更にはそれに[[擬態]]する種もある。 == 有毒植物の例 == {{main|{{ill2|有毒植物の一覧|en|List of poisonous plants}}}} 括弧内は主な毒性成分。 * [[アサ]]( [[テトラヒドロカンナビノール]] ) * [[アジサイ]] * [[アセビ]]([[グラヤノトキシン]]) * [[アヤメ]](イリジェニンなど) * [[イチイ]]([[タキシン]]) * [[イチョウ]]([[ギンコトキシン]]) * [[イラクサ]]([[アセチルコリン]]、[[ヒスタミン]]) * [[ウマノスズクサ]]([[アリストロキア酸]]) * [[ウメ]]/[[バラ科]]植物([[シアン化水素#毒性|青酸配糖体]]) * [[ウルシ]]([[ウルシオール]] - ただしアレルギー反応であって、ウルシオール自体に毒があるわけではない) * [[オシロイバナ]]([[トリゴネリン]]) * [[カラバル豆]]([[フィゾスチグミン]]) * [[カロライナジャスミン]]([[ゲルセミシン]]、[[ゲルセミン]]) * [[キョウチクトウ]]([[オレアンドリン]]など) * [[ギンピ・ギンピ]]([[モロイジン]]) * [[キンポウゲ科]]([[プロトアネモニン]]など) - 有毒植物が多い。 * [[ケシ科]] - 有毒植物が多い。 * [[コカ]]([[コカイン]]) * [[サトイモ科]]の[[テンナンショウ属]]、ザゼンソウ属、ディフェンバキアなど([[シュウ酸カルシウム|シュウ酸]]塩) * [[ジギタリス]]([[ジギトキシン]]、[[ジゴキシン]]など) * [[シキミ]]([[アニサチン]]) * [[シマツナソ]](ストロファンチジン) - 葉はモロヘイヤの名で食用とされるが種子に有毒成分を含む * [[ジャイアント・ホグウィード]]([[フラノクマリン]]) * [[ジャガイモ]]([[ソラニン]]) * [[スイセン]]([[リコリン]]など) * [[スズラン]]([[コンバラトキシン]]など) * [[スミレ科]](ビオリン、サポニンなど) - 有毒植物が多い。 * [[ソテツ]]([[サイカシン]]) * [[チョウセンアサガオ]]([[アトロピン]]、[[スコポラミン]]) * [[ツヅラフジ科]]、および[[フジウツギ科]]の植物([[クラーレ]]([[d-ツボクラリン]]) * [[テイカカズラ]] * [[デルフィニウム]]([[デルフィニン]]) * [[トウゴマ]]([[リシン (毒物)|リシン]]) * [[トウダイグサ属]] - 有毒植物が多い。 * [[ドクウツギ]]([[コリアミルチン]]、[[ツチン]]など) * [[ドクゼリ]]([[シクトキシン]]) * [[ドクニンジン]]([[コニイン]]) * [[トリカブト]]([[アコニチン]]など) * [[タバコ]]([[ニコチン]],[[ソラニン]])など - 有毒植物が多い。 * [[ノウゼンカズラ]]([[ラパコール]]) * [[バイケイソウ]]([[ジエルビン]]、[[ベラトリン]]など) * [[ハエドクソウ]]([[フリマロリン]]) * [[ハシリドコロ]]([[スコポラミン]]など) * [[ヒガンバナ科]]([[リコリン]]など) - 有毒植物が多い。 * [[ヒレハリソウ]]([[エチミジン]])- 毒性が周知されるまではコンフリーの名で食用・薬用とされた。 * [[フクジュソウ]]([[シマリン]]) * [[ベラドンナ]]([[アトロピン]]、[[ヒヨスチン]]など) * [[マチン]]([[ストリキニーネ]]) * [[マチン科]] - 有毒植物が多い。 * [[マメ科]]の[[エニシダ]]、[[クララ]]、[[トウアズキ]]、[[ニセアカシア]]、[[フジ (植物)|フジ]]など - 有毒植物が多い。 * [[マンチニール]]([[ホルボール]]他) * [[ミフクラギ]](ケルベリンなど) * [[ユリ科]]の[[イヌサフラン]]([[コルヒチン]])など - 有毒植物が多い。本科の野菜の多くは犬・猫にとって猛毒である。 * [[ヨウシュヤマゴボウ]]([[フィトラッカトキシン]]、[[フィトラッキゲニン]]) * [[レンゲツツジ]]([[グラヤノトキシン]]) * [[ワラビ]]([[プタキロサイド]]) - 人間は山菜として利用するが、処理法を誤れば人間にとっても有毒。 <!--== 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}}--> == 関連項目 == * [[ヨーロッパウズラ]] - 有毒植物の種子を摂取することで肉に人間が死ぬ可能性のある成分を持ち、嘔吐・下痢などを起こす中毒症状{{ill2|Coturnism|en|Coturnism}}を発症させる。 * [[ICD-10 第19章:損傷、中毒およびその他の外因の影響]] - T62食物として摂取されたその他の有害物質による毒作用 * {{ill2|ラチリズム|en|Lathyrism}}(ラティリスム、ラチルス病) - 普段は食されないが[[救荒食物]]の[[グラスピー]]を長期間摂取することで毒が蓄積し病気となる。 * {{ill2|魚毒植物|en|Fish toxins}} - 魚に効果があり、人間に効果がない毒を持った植物。[[毒もみ]](毒漁)で用いられる。 * [[アレロパシー]] - 植物間の毒性について。 * {{ill2|食用となる植物|en|List of forageable plants}} - 一部の植物は調理による無毒化処理などが必要である。 == 外部リンク == *[https://web.archive.org/web/20210130074819/http://www.naro.affrc.go.jp/org/niah/disease_poisoning/plants/contents.html 写真で見る家畜の有毒植物と中毒] {{Plant-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうとくしよくふつ}} [[Category:有毒植物|*]] [[Category:植物の一覧]]
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再使用
再使用(さいしよう)は、一度使用された製品、もしくは製品の一部のモジュールや部品を分解して原料に戻すことなく、製品や部品のまま使い回すこと(修理などを伴う場合も含む)をいう。リユース (Reuse) ともいう。 従来から、家族内や知人内での製品のお下がりや、地域内での不要品のバザー、あるいは廃品回収など、小規模のレベルでは行われてきたが、本格的な循環型社会の形成のためには社会構造的にリユースの流れを構築することが望まれている。 資源の枯渇・ごみ排出に伴う処分コストの増大・資源開発に伴う環境破壊等が危惧される現代にあっては、循環型社会の形成が必要とされているが、そのためには、製品等を安易に焼却・埋立処分せずに可能な限り再使用ないし、リサイクルしていくことが求められる。 一般の消費者にとって製品単価が高価でおいそれと買い直しができなかったり、またそれらが素朴で理解しやすい構造をしていた時代には、壊れた製品を修理・修繕して使用しつづけていたが、工業製品が安価に大量生産されるようになってきたり、機械化・ブラックボックス化が進む中で、製品は修理せずに新しい製品を使うという風潮となっている。この風潮は修理に人件費などコストがかかりすぎる場合、特に強くなる。 循環型社会形成推進基本法では、「『再使用』とは、次に掲げる行為をいう。」として次のように定義している。 一 循環資源を製品としてそのまま使用すること(修理を行ってこれを使用することを含む) 二 循環資源の全部又は一部を部品その他製品の一部として使用すること リユースという概念に「再使用」という表現をあてることは、2000年の循環型社会形成推進基本法における用語の定義によって法的には改められた。それまでは「再利用」という表現が主に用いられていたが、再利用にはリユースとリサイクルの両方の概念が含まれるため、より厳密な表現に改められている。しかしながら、現在でも「再利用」という表現が用いられることは少なくない。同様に、「リサイクルショップ」は厳密には「リユースショップ」と呼ばれるべきであり、こちらの名称を使うことが少しずつ増えている。 再使用を行っている業態や形態には様々なものがある。 日本では、1980年代のバブル景気崩壊直後に倹約ブームが発生、様々な中古工業製品を売買するリサイクルショップ(近年はリユースショップともいう。古物商の一形態)が全国各地で起業したが、中には粗大ごみとして家庭から排出された壊れた家電製品をいい加減な知識や技術で修理して販売する悪徳業者まで横行、同種業態の信用を失墜せしめた。 この時代に大量に起業したリサイクルショップの大半が、中古家電製品の買取りによって発生した(商品価値の極めて低い)不良在庫に埋もれて廃業するといった事態を招いたが、一部では商品価値の高い物だけを選択的に買い取り、商品価値の低い物は産業廃棄物として、消費者から処分費用を求めて処分する形態が生まれ、現在に生き残っている。後に家電リサイクル法が制定され、粗大ごみに大型家電が捨てられることが無くなったために、前出の不良品を売り付けるような業者も減少し、今日では中古品でもいとわない消費者が、安心して買い物ができる業者となっている。 これらの業界団体として、現在、3つの団体が存在している。 インターネットを使った、古物商業者を介した通信中古売買に加え、個人間のインターネットオークション・フリーマーケットサイトによる売買が普及してきた。個人間の対面売買を仲介する「ジモティー」のようなクラシファイドサイトが勃興し、保管や処分の難しい大型の家具や家電の再使用が伸びていった[1]。近年は、スマートフォンとそのカメラ機能、すなわちフリマアプリを活用した「メルカリ」などの利用が大幅に増えている。 現在、世界には様々な社会体制の形態を持つ国が混在している。これらの国々では、経済状態や社会通念、国民気質などによって、多様な文化があるが、再使用という概念においても、各国間で様々な違いが見られる。 国土が狭く資源が少ない日本では、古くから物を大事に再使用する文化があり、「もったいない」という形容詞はその典型的なパターンである。また、物は最初から再使用を前提としていた。その典型例として、何度でも何にでも使え、持ちまわる包装材である風呂敷が挙げられる。これは近年の大量消費社会の形成によって、また旧来の製品に見られた再使用性の高さが失われたことにより、姿を消しつつあるが、年輩者のうちには根強く残っている。このことは戦中・戦後において物資が配給となり、需要と供給とのバランスが完全に崩れていた時代の影響が大きいと考えられ、また神道によって社会に根付いている、物品にも魂が宿っていると考える精神観念(付喪神・アニミズム)に基づいているとも考えられる。このような物品の乏しい・精神性を重視する時代に育った年配者の中には、モーターや電熱線を利用した家電製品程度であれば、分解修理してしまう人もある。 なお古着商(古物商の一種)や質屋は古くから和服を、財産的価値のある物として扱い、再使用市場が形成されていたが、この形態が近年では、日本国外から輸入された文化的影響により、ファッションの上での古着市場の再構成がなされ、若い世代にも古着という観念が見直される現象も発生している。 紙パック・プラスチック製容器等が使用される以前は、ブリキ製容器・ガラス瓶・油紙が主流であった。油紙については再利用が困難であったが、ガラス瓶は回収・再利用され、空き容器は各家庭で物入れとして再利用されていた。紙製の空き箱も物入れとして利用されたり、大事にしまい込まれて再利用の機会を窺っていた。傘・靴等も修理されて長い期間使用されていた。衣服は成長して着用できなくなれば、親族間等で使い回しされていた。家庭におけるメモ用紙はちらし(広告)の裏紙が当然であった。新聞紙も様々な利用法があり、過剰な紙のみがちり紙交換に出されていた。物が高価であったという理由もあるが、物品の精神性を信じる世代からは、物品を粗末にすると祟られるということもあって「もったいない」と言われながら再利用されてきた。 近年の社会的な要請に基づく循環型社会の形成は、価値観の見直しとして評価されている。その一方で経済界からは再使用では消費が進まず需要の低下を危惧する意見もある。 また自動車に関しては一定以上数がたった個体(その年数は車両区分によりまちまち)の各種税金を増税するという、長期使用・再使用の足かせとなる税制を採用している。 2006年(平成18年)4月1日より、電気用品安全法で、主に2001年(平成13年)以前に製造されたPSE検査を受けていない家電製品については、業としての売買や陳列が段階的に禁止された。これは中古家電製品にも適用され、老朽化により事故を起こす危険性があったり、エネルギー効率の低い旧型の電気製品を市場から駆逐する効果が見込まれている。ただし、当面PSEマーク無しの製品の販売を黙認する方針であり、製造業者としてPSEマークを取得したり、一定期間レンタル後無償で譲渡し販売する方法は現状では可能で、事実上販売が認められている状態である。 しかし、代替製品が期待できない高級オーディオ機器、楽器、ゲーム機(主に電源内蔵のもの)などの売買まで同時に禁止されること、また個人でもインターネット上のオークションで継続的に売買した場合などに取り締まりを受ける可能性があること、旧電気製品取締法準拠の旧製品が大量に廃棄・不法投棄されうること、安全検査に関わる利権拡大などへの批判が高まった。もともと経済産業省は中古品を規制する意図はなかったものの、違反品を中古品と称して売るなどの脱法行為が見られたため急遽中古品も規制の対象にしたとしているが、期限直前にこのような見解を示したために中古市場を大きく混乱させる結果となった。 上記の批判を受け、2007年11月21日に電気用品安全法が改正され、以前の製品の販売が再度可能になった。詳細は電気用品安全法、PSE問題の項を参照。 また、石油温風器の事故などを受け、事故により重篤な被害が予想される一部品目については、定期的な保守点検を受けなければ一定期間後に製品が稼動しなくなるなど、電気用品安全法を改正することが検討されている。 アメリカ合衆国をはじめとする欧米では、18世紀の産業革命以降において、大量生産と大量消費が社会的な基盤となっていった。この段階でそれ以前の家内制手工業時代に培われた「物を大切に使う」という価値観念が崩壊し、多大な物資を旺盛に消費、大量にごみを出す文化が形成されている。 その一方で、主にイギリスを中心とした欧州では、産業革命以前の手作業によって生産された工芸品をアンティークとして珍重する意識が強く、民芸品や日用品であっても「古い物を大切にする」という意識が根強い。また手工芸品の中には、日常生活に即した家具等が含まれるが、これら家具やそれを収める家屋に対する思い入れは並々ならぬ物があり、これを日常的に使用しながら、壊れたら直して代々受け継ぐという意識も強い。 近年ではアメリカでも、アンティークに対する理解が深まっており、かつては投機の対象くらいにしか考えられていなかった日用製品のアンティークを利用、大切に使用する文化が生まれている。またそれらアンティーク愛好者を対象とした市場も活発化しており、前出の投機目的のアンティーク収集家を巻き込んで、インターネット上のオークションにて、盛んに物品がやり取りされている。 また大量生産の工業製品であっても、活発な産業活動の結果として過剰な意匠の新陳代謝が行われた結果、古い工業製品がただ古いというだけで市場から姿を消した後に、それら製品に凝らされた意匠の素晴らしさが再評価され、消費者が再びそれら工業製品を求めるケースも増えてきている。これら古い工業製品に対する市場価値の上昇は、修理や修繕に掛かる人的コストを上乗せしても、採算に乗る段階に達していることもあり、近年ではこれらを供給するレストア産業が活気を見せている。 なおこの古い工業製品に対して関心を持つ文化は、1980年代以降に日本にも輸入され、日本国内でも、非常にゆっくりではあるが同種の市場が形成されつつある。 様々な理由で工業的な発達が遅れた結果、日本や欧米等に経済的な格差をあけられた工業後発国では、世界市場を精密機械産業や重工業の分野で先進国に独占され、軽工業や安価な工業製品の輸出でしのいでいる。 これらの国々では自国製品の信頼性が低いことから、ある程度は修理しながら使い続ける体制がある。その一方で、工業的に優位にたっている国で使用された工業製品も、その旺盛な修理体制で直して使う文化が発生しており、日本やドイツ等の工業国から廃車同然の自動車(四輪車・二輪車)を輸入、部品単位で修理して自国内市場に流通させたり、それら部品を利用して故障車両を修理して利用するという再使用文化も発達した。これを専門に扱って財を成す者も多い。 当然ながらこれら工業後発国では、修理技術面での急速な発展が興っており、事故車や故障車・輸送中のトラブルによって商品価値の無くなった自動車を輸入、修理した上で周辺国へ製品として出荷するという市場が東南アジア方面や中東・ロシア近辺で生まれている。 しかしその一方で、先進国内での処分費用が高く付く場合にあって、解体処分費用を軽減させるために、これら修理を得意とする国に輸出するケースが見られる。これらはかつて、輸出対象国内に適切な処分能力を持たないことも多く、その国を汚染する危険性も挙げられていたが、近年ではこれら有害な物質を含む輸入品から、有害物質を資源として回収、さらにはそれを容器に再充填して、製品として市場に流通させるという、何とも逞しいケースも見られる。 また工業先進国から再利用可能な鉄などの金属や古紙といった物を輸入・再資源化して輸出したり、国内市場で流通させる動きが活発な国も多い。2000年代に入って中国では建設ラッシュにより鉄需要が増大、海外から活発にスクラップを輸入し、国内の鉄筋需要を賄っているため、国際的にもくず鉄の市場価値上昇を招いている。 国家の成立が遅かったため開発が遅れていたり、政治的な理由によって経済的な発達が立ち遅れた国では、工業製品であっても、一般労働者の経済事情から見れば高価であることが多いため、修理して再利用する文化が根強い。しかし経済のグローバル化が進行する中で、これら国家間の経済格差は急激に埋まる傾向があり、沿岸都市部を中心として、欧米型大量消費社会が浸透しつつある。 このような経済後進国では、その一方で国内の貧富格差拡大から、都市部から排出されたごみを、都市周辺部の住民が回収・再利用することで、副次的な産業が発生するといった、独特の再利用文化が発生しつつある。あまりに貧富の格差が激しい場合には、プラスチック容器やビニール袋ですら再使用される(→スモーキー・マウンテン)。 その原因の一端には、貧富の格差がある訳だが、その一方で欧米からの循環型社会の浸透も早く、日本や欧米では長らく続いた廃棄物を排出し続けるだけの大量消費社会から、循環型社会への転進を早くも始めている地域もある。ただし安全面や環境衛生面での配慮が後回しになるケースも見受けられ、有害廃棄物に混じった再利用可能な資源を発掘するために、有効な防護措置も取らずに資源回収に従事する労働者も多く、それらの人々の健康被害が社会問題となっている。 またこのような独自のリユース市場が発展した関係で、ごみ集積場の近辺に集落が発生するケースがある。しかしこれらごみ集積場の安全基準が皆無に等しいことも少なくはない。このため有害廃棄物による汚染も問題だが、ごみの火災や倒壊といった事故も少なからず発生しており、これによる犠牲者も報じられている。フィリピンのパヤタスでは2000年7月にごみの山が倒壊、死者・行方不明者が数百名という事故発生している。 建物関連 機械類 乗り物 パッケージ類
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "再使用(さいしよう)は、一度使用された製品、もしくは製品の一部のモジュールや部品を分解して原料に戻すことなく、製品や部品のまま使い回すこと(修理などを伴う場合も含む)をいう。リユース (Reuse) ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "従来から、家族内や知人内での製品のお下がりや、地域内での不要品のバザー、あるいは廃品回収など、小規模のレベルでは行われてきたが、本格的な循環型社会の形成のためには社会構造的にリユースの流れを構築することが望まれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "資源の枯渇・ごみ排出に伴う処分コストの増大・資源開発に伴う環境破壊等が危惧される現代にあっては、循環型社会の形成が必要とされているが、そのためには、製品等を安易に焼却・埋立処分せずに可能な限り再使用ないし、リサイクルしていくことが求められる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一般の消費者にとって製品単価が高価でおいそれと買い直しができなかったり、またそれらが素朴で理解しやすい構造をしていた時代には、壊れた製品を修理・修繕して使用しつづけていたが、工業製品が安価に大量生産されるようになってきたり、機械化・ブラックボックス化が進む中で、製品は修理せずに新しい製品を使うという風潮となっている。この風潮は修理に人件費などコストがかかりすぎる場合、特に強くなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "循環型社会形成推進基本法では、「『再使用』とは、次に掲げる行為をいう。」として次のように定義している。", "title": "法律上の定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一 循環資源を製品としてそのまま使用すること(修理を行ってこれを使用することを含む)", "title": "法律上の定義" 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"しかし、代替製品が期待できない高級オーディオ機器、楽器、ゲーム機(主に電源内蔵のもの)などの売買まで同時に禁止されること、また個人でもインターネット上のオークションで継続的に売買した場合などに取り締まりを受ける可能性があること、旧電気製品取締法準拠の旧製品が大量に廃棄・不法投棄されうること、安全検査に関わる利権拡大などへの批判が高まった。もともと経済産業省は中古品を規制する意図はなかったものの、違反品を中古品と称して売るなどの脱法行為が見られたため急遽中古品も規制の対象にしたとしているが、期限直前にこのような見解を示したために中古市場を大きく混乱させる結果となった。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上記の批判を受け、2007年11月21日に電気用品安全法が改正され、以前の製品の販売が再度可能になった。詳細は電気用品安全法、PSE問題の項を参照。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、石油温風器の事故などを受け、事故により重篤な被害が予想される一部品目については、定期的な保守点検を受けなければ一定期間後に製品が稼動しなくなるなど、電気用品安全法を改正することが検討されている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国をはじめとする欧米では、18世紀の産業革命以降において、大量生産と大量消費が社会的な基盤となっていった。この段階でそれ以前の家内制手工業時代に培われた「物を大切に使う」という価値観念が崩壊し、多大な物資を旺盛に消費、大量にごみを出す文化が形成されている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その一方で、主にイギリスを中心とした欧州では、産業革命以前の手作業によって生産された工芸品をアンティークとして珍重する意識が強く、民芸品や日用品であっても「古い物を大切にする」という意識が根強い。また手工芸品の中には、日常生活に即した家具等が含まれるが、これら家具やそれを収める家屋に対する思い入れは並々ならぬ物があり、これを日常的に使用しながら、壊れたら直して代々受け継ぐという意識も強い。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年ではアメリカでも、アンティークに対する理解が深まっており、かつては投機の対象くらいにしか考えられていなかった日用製品のアンティークを利用、大切に使用する文化が生まれている。またそれらアンティーク愛好者を対象とした市場も活発化しており、前出の投機目的のアンティーク収集家を巻き込んで、インターネット上のオークションにて、盛んに物品がやり取りされている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また大量生産の工業製品であっても、活発な産業活動の結果として過剰な意匠の新陳代謝が行われた結果、古い工業製品がただ古いというだけで市場から姿を消した後に、それら製品に凝らされた意匠の素晴らしさが再評価され、消費者が再びそれら工業製品を求めるケースも増えてきている。これら古い工業製品に対する市場価値の上昇は、修理や修繕に掛かる人的コストを上乗せしても、採算に乗る段階に達していることもあり、近年ではこれらを供給するレストア産業が活気を見せている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なおこの古い工業製品に対して関心を持つ文化は、1980年代以降に日本にも輸入され、日本国内でも、非常にゆっくりではあるが同種の市場が形成されつつある。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "様々な理由で工業的な発達が遅れた結果、日本や欧米等に経済的な格差をあけられた工業後発国では、世界市場を精密機械産業や重工業の分野で先進国に独占され、軽工業や安価な工業製品の輸出でしのいでいる。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これらの国々では自国製品の信頼性が低いことから、ある程度は修理しながら使い続ける体制がある。その一方で、工業的に優位にたっている国で使用された工業製品も、その旺盛な修理体制で直して使う文化が発生しており、日本やドイツ等の工業国から廃車同然の自動車(四輪車・二輪車)を輸入、部品単位で修理して自国内市場に流通させたり、それら部品を利用して故障車両を修理して利用するという再使用文化も発達した。これを専門に扱って財を成す者も多い。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "当然ながらこれら工業後発国では、修理技術面での急速な発展が興っており、事故車や故障車・輸送中のトラブルによって商品価値の無くなった自動車を輸入、修理した上で周辺国へ製品として出荷するという市場が東南アジア方面や中東・ロシア近辺で生まれている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかしその一方で、先進国内での処分費用が高く付く場合にあって、解体処分費用を軽減させるために、これら修理を得意とする国に輸出するケースが見られる。これらはかつて、輸出対象国内に適切な処分能力を持たないことも多く、その国を汚染する危険性も挙げられていたが、近年ではこれら有害な物質を含む輸入品から、有害物質を資源として回収、さらにはそれを容器に再充填して、製品として市場に流通させるという、何とも逞しいケースも見られる。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また工業先進国から再利用可能な鉄などの金属や古紙といった物を輸入・再資源化して輸出したり、国内市場で流通させる動きが活発な国も多い。2000年代に入って中国では建設ラッシュにより鉄需要が増大、海外から活発にスクラップを輸入し、国内の鉄筋需要を賄っているため、国際的にもくず鉄の市場価値上昇を招いている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国家の成立が遅かったため開発が遅れていたり、政治的な理由によって経済的な発達が立ち遅れた国では、工業製品であっても、一般労働者の経済事情から見れば高価であることが多いため、修理して再利用する文化が根強い。しかし経済のグローバル化が進行する中で、これら国家間の経済格差は急激に埋まる傾向があり、沿岸都市部を中心として、欧米型大量消費社会が浸透しつつある。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このような経済後進国では、その一方で国内の貧富格差拡大から、都市部から排出されたごみを、都市周辺部の住民が回収・再利用することで、副次的な産業が発生するといった、独特の再利用文化が発生しつつある。あまりに貧富の格差が激しい場合には、プラスチック容器やビニール袋ですら再使用される(→スモーキー・マウンテン)。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その原因の一端には、貧富の格差がある訳だが、その一方で欧米からの循環型社会の浸透も早く、日本や欧米では長らく続いた廃棄物を排出し続けるだけの大量消費社会から、循環型社会への転進を早くも始めている地域もある。ただし安全面や環境衛生面での配慮が後回しになるケースも見受けられ、有害廃棄物に混じった再利用可能な資源を発掘するために、有効な防護措置も取らずに資源回収に従事する労働者も多く、それらの人々の健康被害が社会問題となっている。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "またこのような独自のリユース市場が発展した関係で、ごみ集積場の近辺に集落が発生するケースがある。しかしこれらごみ集積場の安全基準が皆無に等しいことも少なくはない。このため有害廃棄物による汚染も問題だが、ごみの火災や倒壊といった事故も少なからず発生しており、これによる犠牲者も報じられている。フィリピンのパヤタスでは2000年7月にごみの山が倒壊、死者・行方不明者が数百名という事故発生している。", "title": "再使用の文化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "建物関連", "title": "再使用されている物品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "機械類", "title": "再使用されている物品" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "乗り物", "title": "再使用されている物品" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "パッケージ類", "title": "再使用されている物品" } ]
再使用(さいしよう)は、一度使用された製品、もしくは製品の一部のモジュールや部品を分解して原料に戻すことなく、製品や部品のまま使い回すこと(修理などを伴う場合も含む)をいう。リユース (Reuse) ともいう。 従来から、家族内や知人内での製品のお下がりや、地域内での不要品のバザー、あるいは廃品回収など、小規模のレベルでは行われてきたが、本格的な循環型社会の形成のためには社会構造的にリユースの流れを構築することが望まれている。
{{WikipediaPage|ウィキペディア記事の再使用(他で利用する場合)については、[[Wikipedia:著作権]]をご覧ください。}} {{複数の問題|出典の明記=2022年9月|独自研究=2022年9月|内容過剰=2022年12月}} {{百科事典的でない|date=2022年9月|type=notessay}} '''再使用'''(さいしよう)は、一度使用された[[製品]]、もしくは製品の一部の[[モジュール]]や部品を分解して原料に戻すことなく、製品や部品のまま使い回すこと(修理などを伴う場合も含む)をいう。'''リユース''' (''Reuse'') ともいう。 従来から、家族内や知人内での製品の[[お下がり]]や、地域内での不要品の[[バザー]]、あるいは[[廃品回収]]など、小規模のレベルでは行われてきたが、本格的な[[循環型社会]]の形成のためには社会構造的にリユースの流れを構築することが望まれている。 == 概要 == [[資源]]の枯渇・[[ごみ]]排出に伴う処分コストの増大・資源開発に伴う[[自然破壊|環境破壊]]等が危惧される現代にあっては、[[循環型社会]]の形成が必要とされているが、そのためには、製品等を安易に焼却・埋立処分せずに可能な限り再使用ないし、[[リサイクル]]していくことが求められる。 一般の[[消費者]]にとって製品単価が高価でおいそれと買い直しができなかったり、またそれらが素朴で理解しやすい構造をしていた時代には、壊れた製品を修理・修繕して使用しつづけていたが、[[工業製品]]が安価に大量生産されるようになってきたり、機械化・[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]化が進む中で、製品は修理せずに新しい製品を使うという風潮となっている。この風潮は修理に[[人件費]]などコストがかかりすぎる場合、特に強くなる。 * 製品単価と比較して修理に伴う人件費が相対的に高く付く[[先進国]]だと、この風潮が起こりやすい。 * それに加え、修理の対象が進化の速いもの<ref group="注">例 : [[IT機器]]</ref>や「価値の低い古物」<ref group="注">例 : [[旧車]]としての価値を持たない[[中古車|低年式車]]</ref>であった場合は、修理によるコストパフォーマンスが悪くなりやすい。 == 法律上の定義 == [[循環型社会形成推進基本法]]では、「『再使用』とは、次に掲げる行為をいう。」として次のように定義している。 一 循環資源を製品としてそのまま使用すること(修理を行ってこれを使用することを含む) 二 循環資源の全部又は一部を部品その他製品の一部として使用すること == 用語 == リユースという概念に「再使用」という表現をあてることは、2000年の[[循環型社会形成推進基本法]]における用語の定義によって法的には改められた。それまでは「再利用」という表現が主に用いられていたが、再利用にはリユースとリサイクルの両方の概念が含まれるため、より厳密な表現に改められている。しかしながら、現在でも「再利用」という表現が用いられることは少なくない。同様に、「[[リサイクルショップ]]」は厳密には「リユースショップ」と呼ばれるべきであり、こちらの名称を使うことが少しずつ増えている。 == 再使用の業態や形態 ==  再使用を行っている業態や形態には様々なものがある。 === リサイクルショップ(リユースショップ) === 日本では、[[1980年代]]の[[バブル景気]]崩壊直後に倹約ブームが発生、様々な[[古物|中古]]工業製品を売買する[[リサイクルショップ]](近年はリユースショップともいう。古物商の一形態)が全国各地で起業したが、中には[[粗大ごみ]]として家庭から排出された壊れた家電製品をいい加減な知識や技術で修理して販売する悪徳業者まで横行、同種業態の信用を失墜せしめた。 この時代に大量に起業したリサイクルショップの大半が、中古家電製品の買取りによって発生した(商品価値の極めて低い)不良在庫に埋もれて廃業するといった事態を招いたが、一部では商品価値の高い物だけを選択的に買い取り、商品価値の低い物は[[産業廃棄物]]として、消費者から処分費用を求めて処分する形態が生まれ、現在に生き残っている。後に[[特定家庭用機器再商品化法|家電リサイクル法]]が制定され、粗大ごみに大型家電が捨てられることが無くなったために、前出の不良品を売り付けるような業者も減少し、今日では中古品でもいとわない消費者が、安心して買い物ができる業者となっている。 これらの業界団体として、現在、3つの団体が存在している<ref>[https://jro.or.jp/ 一般社団法人日本リユース機構(JRO)]、[http://www.re-use.jp/ 日本リユース業協会(JRAA)]、[http://www.jrca-reuse.com/ 一般社団法人ジャパンリサイクルアソシエーション(JRCA)]の3団体</ref>。 === オークション === === ネットリユース === インターネットを使った、古物商業者を介した通信中古売買に加え、個人間の[[インターネットオークション]]・フリーマーケットサイトによる売買が普及してきた。個人間の対面売買を仲介する「ジモティー」のような[[クラシファイド]]サイトが勃興し、保管や処分の難しい大型の家具や家電の再使用が伸びていった[1]。近年は、スマートフォンとそのカメラ機能、すなわちフリマアプリを活用した「[[メルカリ]]」などの利用が大幅に増えている。 === 輸出 === {{節スタブ}} <!--大言壮語、[[WP:NOTNEWS]]--[[タイ]]では[[日本]]のリユース品は「'''Used in Japan'''」として人気が高く、あらゆるものが日本の買い付け業者などから回収され、[[輸入]]されている。[[衣類]]をはじめ、[[ぬいぐるみ]]、[[フィギュア]]、[[日本人形]]、[[ランドセル]]、[[家具]]、[[置物]]、[[宝飾品]]などが人気がある。日本製品への信頼感や、衣類などは日本では新しいうちに[[下取り]]に出される傾向が高いため、[[タイ人]]には新品同様に見える。日本の[[食器]]は薄くとも割れにくかったり、特に天然木を使った家具はタイでは珍しく、好まれる。日本人形はひそかなブームとなっており、[[市松人形]]が[[日本円]]で1万円ほどでも売れるほか、[[兜]]や熊の木彫なども人気である。このため日本のリユース品は品不足状態となっている。こうした品を扱うリサイクル店で買った日本の宝飾類を[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]で3倍の高値で転売する客もいる<ref name="ANN">{{Cite web|date=2022-11-15|url=https://www.youtube.com/watch?v=W_QfgcOku1k|title=日本の不用品が海外で大人気!いったいなぜ?【Jの追跡】(2022年11月15日)|publisher=ANNnewsCH |accessdate=2022-11-19}}</ref>。--> == 再使用の文化 == 現在、世界には様々な社会体制の形態を持つ[[国家|国]]が混在している。これらの国々では、経済状態や社会通念、国民気質などによって、多様な[[文化_(代表的なトピック)|文化]]があるが、再使用という[[概念]]においても、各国間で様々な違いが見られる。 === 日本 === 国土が狭く[[資源]]が少ない[[日本]]では、古くから物を大事に再使用する[[文化_(代表的なトピック)|文化]]があり、「[[もったいない]]」という[[形容詞]]はその典型的なパターンである。また、物は最初から再使用を前提としていた。その典型例として、何度でも何にでも使え、持ちまわる包装材である[[風呂敷]]が挙げられる。これは近年の[[消費社会|大量消費社会]]の形成によって、また旧来の製品に見られた再使用性の高さが失われたことにより、姿を消しつつあるが、[[高齢者|年輩者]]のうちには根強く残っている。このことは[[戦中]]・[[戦後]]において物資が配給となり、[[需要]]と[[供給]]とのバランスが完全に崩れていた時代の影響が大きいと考えられ、また[[神道]]によって社会に根付いている、物品にも[[魂]]が宿っていると考える精神観念([[付喪神]]・[[アニミズム]])に基づいているとも考えられる。このような物品の乏しい・精神性を重視する時代に育った年配者の中には、[[電動機|モーター]]や[[ニクロム線|電熱線]]を利用した[[家庭用電気機械器具|家電製品]]程度であれば、分解修理してしまう人もある。 なお[[古着]]商([[古物商]]の一種)や[[質屋]]は古くから[[和服]]を、財産的価値のある物として扱い、再使用市場が形成されていたが、この形態が近年では、日本国外から[[輸入]]された文化的影響により、[[ファッション]]の上での古着市場の再構成がなされ、若い世代にも古着という観念が見直される現象も発生している。 紙パック・[[合成樹脂|プラスチック]]製容器等が使用される以前は、[[ブリキ]]製容器・[[瓶|ガラス瓶]]・[[油紙]]が主流であった。油紙については再利用が困難であったが、ガラス瓶は回収・再利用され、空き容器は各[[家庭]]で物入れとして再利用されていた。紙製の空き箱も物入れとして利用されたり、大事にしまい込まれて再利用の機会を窺っていた。[[傘]]・[[靴]]等も修理されて長い期間使用されていた。衣服は成長して着用できなくなれば、[[親族]]間等で使い回しされていた。家庭における[[メモ用紙]]は[[チラシ|ちらし]]([[広告]])の裏紙が当然であった。[[新聞]]紙も様々な利用法があり、過剰な[[紙]]のみが[[ちり紙交換]]に出されていた。物が高価であったという理由もあるが、物品の精神性を信じる世代からは、物品を粗末にすると[[祟り|祟られる]]ということもあって「もったいない」と言われながら再利用されてきた。 近年の社会的な要請に基づく循環型社会の形成は、価値観の見直しとして評価されている。その一方で[[経済]]界からは再使用では[[消費]]が進まず需要の低下を危惧する意見もある。 また自動車に関しては一定以上数がたった個体(その年数は車両区分によりまちまち)の各種税金を増税するという、長期使用・再使用の足かせとなる税制を採用している。 [[2006年]]([[平成]]18年)4月1日より、[[電気用品安全法]]で、主に[[2001年]](平成13年)以前に製造された[[PSE]]検査を受けていない家電製品については、業としての売買や陳列が段階的に禁止された。これは中古家電製品にも適用され、老朽化により事故を起こす危険性があったり、エネルギー効率の低い旧型の電気製品を市場から駆逐する効果が見込まれている。ただし、当面PSEマーク無しの製品の販売を黙認する方針であり、製造業者としてPSEマークを取得したり、一定期間レンタル後無償で譲渡し販売する方法は現状では可能で、事実上販売が認められている状態である。 しかし、代替製品が期待できない高級[[音響機器|オーディオ機器]]、[[楽器]]、[[ゲーム機]](主に電源内蔵のもの)などの売買まで同時に禁止されること、また個人でも[[インターネットオークション|インターネット上のオークション]]で継続的に売買した場合などに取り締まりを受ける可能性があること、旧電気製品取締法準拠の旧製品が大量に廃棄・不法投棄されうること、安全検査に関わる利権拡大などへの批判が高まった。もともと[[経済産業省]]は中古品を規制する意図はなかったものの、違反品を中古品と称して売るなどの脱法行為が見られたため急遽中古品も規制の対象にしたとしているが、期限直前にこのような見解を示したために中古市場を大きく混乱させる結果となった。 上記の批判を受け、[[2007年]][[11月21日]]に電気用品安全法が改正され、以前の製品の販売が再度可能になった。詳細は[[電気用品安全法]]、[[PSE問題]]の項を参照。 また、[[石油ファンヒーター|石油温風器]]の事故などを受け、事故により重篤な被害が予想される一部品目については、定期的な保守点検を受けなければ一定期間後に製品が稼動しなくなるなど、電気用品安全法を改正することが検討されている。 === 欧米 === [[アメリカ合衆国]]をはじめとする[[欧米]]では、[[18世紀]]の[[産業革命]]以降において、大量生産と大量消費が社会的な基盤となっていった。この段階でそれ以前の[[家内制手工業]]時代に培われた「物を大切に使う」という価値観念が崩壊し、多大な物資を旺盛に消費、大量にごみを出す文化が形成されている。 ==== アンティーク ==== その一方で、主に[[イギリス]]を中心とした[[ヨーロッパ|欧州]]では、産業革命以前の手作業によって生産された[[工芸品]]を[[骨董品|アンティーク]]として珍重する意識が強く、[[民芸品]]や[[日用品]]であっても「古い物を大切にする」という意識が根強い。また手工芸品の中には、日常生活に即した[[家具]]等が含まれるが、これら家具やそれを収める家屋に対する思い入れは並々ならぬ物があり、これを日常的に使用しながら、壊れたら直して代々受け継ぐという意識も強い。 近年ではアメリカでも、アンティークに対する理解が深まっており、かつては[[投機]]の対象くらいにしか考えられていなかった日用製品のアンティークを利用、大切に使用する文化が生まれている。またそれらアンティーク愛好者を対象とした市場も活発化しており、前出の投機目的のアンティーク収集家を巻き込んで、インターネット上のオークションにて、盛んに物品がやり取りされている。 また大量生産の工業製品であっても、活発な産業活動の結果として過剰な意匠の新陳代謝が行われた結果、古い工業製品がただ古いというだけで市場から姿を消した後に、それら製品に凝らされた意匠の素晴らしさが再評価され、消費者が再びそれら工業製品を求めるケースも増えてきている。これら古い工業製品に対する[[市場価値]]の上昇は、修理や修繕に掛かる人的コストを上乗せしても、採算に乗る段階に達していることもあり、近年ではこれらを供給する[[レストア]]産業が活気を見せている。 なおこの古い工業製品に対して関心を持つ文化は、[[1980年代]]以降に日本にも輸入され、日本国内でも、非常にゆっくりではあるが同種の市場が形成されつつある。 === 工業後発国 === 様々な理由で工業的な発達が遅れた結果、日本や欧米等に経済的な格差をあけられた[[開発途上国|工業後発国]]では、世界市場を[[メカトロニクス|精密機械]]産業や重工業の分野で先進国に独占され、軽工業や安価な工業製品の輸出でしのいでいる。 これらの国々では自国製品の信頼性が低いことから、ある程度は修理しながら使い続ける体制がある。その一方で、工業的に優位にたっている国で使用された工業製品も、その旺盛な修理体制で直して使う文化が発生しており、日本や[[ドイツ]]等の工業国から[[廃車 (自動車)|廃車]]同然の[[自動車]](四輪車・二輪車)を輸入、部品単位で修理して自国内市場に流通させたり、[[ニコイチ|それら部品を利用して故障車両を修理して利用するという再使用文化]]も発達した。これを専門に扱って財を成す者も多い。 当然ながらこれら工業後発国では、修理技術面での急速な発展が興っており、事故車や故障車・輸送中のトラブルによって商品価値の無くなった自動車を輸入、修理した上で周辺国へ製品として出荷するという市場が[[東南アジア]]方面や[[中東]]・[[ロシア]]近辺で生まれている。 しかしその一方で、先進国内での処分費用が高く付く場合<ref group="注">例としては[[カーエアコン]]に利用された[[フロン]]など</ref>にあって、解体処分費用を軽減させるために、これら修理を得意とする国に輸出するケースが見られる。これらはかつて、輸出対象国内に適切な処分能力を持たないことも多く、その国を汚染する危険性も挙げられていたが、近年ではこれら有害な物質を含む輸入品から、有害物質を資源として回収、さらにはそれを容器に再充填して、製品として市場に流通させるという、何とも逞しいケースも見られる。 また工業先進国から再利用可能な[[鋼|鉄]]などの金属や古紙といった物を輸入・再資源化して輸出したり、国内市場で流通させる動きが活発な国も多い。[[2000年代]]に入って[[中華人民共和国|中国]]では建設ラッシュにより鉄需要が増大、海外から活発に[[スクラップ]]を輸入し、国内の鉄筋需要を賄っているため、国際的にもくず鉄の市場価値上昇を招いている。 === 経済後進国 === 国家の成立が遅かったため開発が遅れていたり、政治的な理由によって経済的な発達が立ち遅れた国では、工業製品であっても、一般労働者の経済事情から見れば高価であることが多いため、修理して再利用する文化が根強い。しかし[[グローバル経済|経済のグローバル化]]が進行する中で、これら国家間の経済格差は急激に埋まる傾向があり、沿岸[[都市]]部を中心として、欧米型大量消費社会が浸透しつつある。 ==== 「ごみ」の再使用 ==== このような経済後進国では、その一方で国内の貧富格差拡大から、都市部から排出されたごみを、都市周辺部の住民が回収・再利用することで、副次的な産業が発生するといった、独特の再利用文化が発生しつつある。あまりに貧富の格差が激しい場合には、プラスチック容器や[[袋|ビニール袋]]ですら再使用される(→[[スモーキー・マウンテン]])。 その原因の一端には、貧富の格差がある訳だが、その一方で欧米からの循環型社会の浸透も早く、日本や欧米では長らく続いた廃棄物を排出し続けるだけの大量消費社会から、循環型社会への転進を早くも始めている地域もある。ただし安全面や環境衛生面での配慮が後回しになるケースも見受けられ、[[有害廃棄物]]に混じった再利用可能な資源を発掘するために、有効な防護措置も取らずに資源回収に従事する労働者も多く、それらの人々の健康被害が社会問題となっている。 またこのような独自のリユース市場が発展した関係で、ごみ集積場の近辺に集落が発生するケースがある。しかしこれらごみ集積場の安全基準が皆無に等しいことも少なくはない。このため有害廃棄物による汚染も問題だが、ごみの[[火災]]や倒壊といった事故も少なからず発生しており、これによる犠牲者も報じられている。[[フィリピン]]の[[パヤタス]]では[[2000年]]7月にごみの山が倒壊、死者・行方不明者が数百名という事故発生している。 == 再使用されている物品 == * [[蓄電池]] * [[古着]] ** 破損したりデザインの古くなった衣服を仕立てなおす([[リフォーム]])ことがある。 ** 近年は洋服だけでなく、[[和服|着物]]のリユース市場も活発になっている。日本文化に再注目が集まり([[クールジャパン]])、かつて高価であった着物が手頃な値段で手に入るため、注目を集めている。 * [[楽器]] * [[古本]] * スポーツ用品 建物関連 * 中古[[住宅]] ** 古い住宅を解体移築したり、住宅設備の一部を建て替え時に再利用することがある。 * [[家具]] * [[オフィス|事務用品]]、店舗設備 機械類 * [[カメラ]] * [[レンズ付きフィルム]] * [[工作機械]] * [[家庭用電気機械器具]] ** [[テレビ]]等[[AV機器]]、[[ゲーム機]]など。 * [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]・パソコン周辺機器 ** 企業などに[[レンタル]]機材で[[リース]]されていたパソコンは、最新機種の著しい機能向上についていけず、[[減価償却]]後は廃棄処分されることが多かったが、近年の製品は一般の消費者にとっては[[過剰性能|オーバースペック]]になってきており、[[インターネット]]接続[[端末]]としてのみこれらの機材を購入する人も少なくない。これらは二次利用止まりではあるが、根強い市場がある。 * [[兵器]] ** 先進国で使われた兵器が同盟国に供与されることがある。 乗り物 * [[船]]・[[航空機]] ** [[エンジン]]や[[電子機器]]を更新して長年使われるものが少なくない。 * [[中古車]]([[貨物自動車|トラック]]・[[バス (車両)|バス]]・[[トレーラ]]含む)・自動車部品 ** 日本では新車の買い替え期間が短く、良質で廉価な中古車が豊富に手に入る。また、製造中止となった車種の部品の市場も形成されている。 * [[自転車]] ** 輸入された[[軽快車]]が非常に安く売られているため、中古自転車は海外に輸出されるものも多い。 * [[鉄道車両]] ** 日本では[[都市圏|大都市圏]]で使われた車両が、資本力の弱い地方[[私鉄]]で盛んに再利用されている。一部の車両は日本国外に輸出されている。 パッケージ類 * [[牛乳瓶]] - [[一升瓶]] - [[ビール瓶]] ** これら[[ガラス]]製の[[瓶]]は、重い上に割れ易いことからやや不便ではあるが、循環型社会の上で洗浄して衛生的に再使用できるという特徴が有利である。こういった洗浄を経て再使用する瓶は'''[[リターナブル瓶]]'''とも呼ばれる。[[清涼飲料水]]や[[アルコール飲料]]等の容器に利用されていた物は、酒店や[[小売|小売店]]にて[[デポジット制]]が機能しつづける限り、有効に再利用されやすい。[[牛乳]]瓶の場合は、[[家庭]]への配達と回収が一元化されているため、回収と再利用が成される率は極めて高い。[[ドイツ]]では消費者が店頭に洗浄済みのビンを持ち込めば、飲料など([[ジュース]]や牛乳・[[調味料]]の類)を再充填<ref group="注">容器に商品となる液体を詰めなおすこと</ref>するサービスも存在する。なお一度使用したら再使用せず資源リサイクルを前提とするものは'''[[ワンウェイ瓶]]'''という。 * [[レジ袋]] ** [[ゴミ袋]]として再使用される。ただし自治体指定のゴミ袋でなければならない地域では、予めレジ袋製造段階で指定を受けているものに限定され、それ以外の無指定袋はその指定袋内に(他のゴミ込みで)入れられるに留まる。こういった指定袋はレジ袋を用意する事業者側の負担となるが、顧客サービスのためにレジ袋に指定袋を使う事業者も、個人商店から大手量販店に至るまで見られる。 * [[清涼飲料水]]や[[スナック菓子]]の[[包装|パッケージ]] ** 本来なら融かして資源として再生されたり単に廃棄されたり焼却処分されるこれらを[[素材]]として、バッグやポーチ等の小物[[雑貨]]に作り直される動きが近年活発である。職の無い人々の生計支援プロジェクトとして、貧困にあえぐ地域で行われているケースが多い。NGOや行政が支援しながら、地域住民の手でゆっくり手工芸としての技術が養われているようだ。元々こういったパッケージが消費者の目を引くため色彩鮮やかなものであることをうまく生かし、これらの製品はポップな雰囲気を醸している。 ** フィリピン各地では、飲みきりサイズのアルミジュースパックがバッグなどにリメイクされており、ASEANのGOODDESIGN賞も受賞している。また、カンボジアなどでも現地の小麦粉袋、米袋、新聞紙などがバッグにリメイクされている。 ** 他、ゴミとして回収された使用済み菓子プラスチック袋パッケージを紐状に切った上でバッグや編み込みのアクセサリーなどに作り変えられている。アメリカマイアミ発の「ecoist」ブランドでは、メキシコやペルーの職人の手により菓子パッケージ編み込みバッグを販売、やや価格は高いものの売値が植林事業の補助金を含んでいて、1つ売れる毎に1本植林されるというシステムである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === <references /> == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Reuse}} --> * [[リデュース]] * [[リサイクル]] * [[リファビッシュ]] * [[リビルド]] == 外部リンク == {{節スタブ}} * [https://www.env.go.jp/recycle/circul/reuse/ 環境省リユース研究会] * [http://www.returnable-navi.com/ びんリユース推進全国協議会] * [http://www.re-use.jp/ 日本リユース業界] {{循環型社会}} *{{pathnav|[[:Category:技術]]|[[:Category:環境技術]]}} *{{pathnav|[[:Category:環境マネジメント]]|[[:Category:循環型社会]]}} {{DEFAULTSORT:さいしよう}} [[Category:廃棄物処理の概念]] [[Category:環境技術]] [[Category:循環型社会]] [[Category:持続可能な開発目標]]
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理論
理論(りろん、英: theory、セオリー, 仏: théorie, 独: Theorie)とは、「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」。自然科学(応用科学含む)、人文科学、社会科学などの科学または学問において用いられている。 理論は事象を合理的に説明するための論述であり特に学問の領域において決定的な意義を持っている。理論の意義は数多く挙げることが出来るが、第一には理論は高度に複雑な現実の世界を単純化することが可能である点を挙げることができる。世界の万象には人間の認知能力を遙かに超えた膨大な諸因子と関係性が関わっており、それら全てを再現することは現実的ではない。従って現実を単純化する必要が認められ、その役割を理論という思考の道具に担わせることになる。つまり現実を完全に再現することではなく、どの程度の説得力を保持した上で理解しやすく現実を原理や法則などとして単純化しているか、ということが理論の本義であると言える。 また自然現象の実験や政策提言のための調査などによって得られた知識を蓄積する上で有効な思考上の枠組みを提供することができる。しかも理論は研究において均衡の取れた総合的な視野を提供し、さらに直感的または感覚的な結論を回避して論理的な説明を行うことが可能である。これは研究調査を行う上で大きな指針である。 加えて現在の学術研究のほとんど全てが何らかの基礎的な理論に基づいたものであり、先進的な研究を理解する上で理論は学問の世界にとってもはや不可欠の存在である。また初心者にとっても理論が確立されていれば学習しやすい点も指摘できる。このように理論の存在価値は学問にとってなくてはならないものであると言うことができる。 理論の基本的な構造はいくつかの科学哲学や論理学の原理に基づいたものである。そもそも理論はその目的に従って、まず因果性や現実性が説得的であり、また現実の事象と比較して簡潔であり、さらに既存の知識や常識とは反する自明ではない結論を導き出し、しかも原因としての独立変数と結果の従属変数を繋ぐ枠組みが明快でなければならない。最後に理論はその真偽を問うことが可能な性質、つまり反証可能性を保持しなければならない。以上の理論の対象となっている事象の重要性や実務的な実践性を加えることもできる。 理論の基本的な構造は論理学的な論証に見ることができる。論証は前提と結論という宣言的な論述から成り、前提から始まって推論の過程を経て結論が真であると主張するものである。これは妥当であるか妥当でないかによって判断される。ただしこの論証を構成する前提と結論はそれぞれ命題という不確かな意味を持たない客観的な言語的な記述であり、その定義によって概念が確立されていなければならない。つまり定義が定められた概念を以って推論することによって、公理や原理を導き出すことが初めて可能となる。 ユークリッド幾何学を確立した古代ギリシアの数学者であるエウクレイデスは『原論』においてまず点と線についての定義を示し、これらの概念を用いて自明であるとされる五つの公理系をも示す。そしてその公理系に従って500もの仮説を証明して定理を導き出した。こうして構築されたユークリッド幾何学は現在でも完成された数学理論として高く評価されている。ただしこのような理論は演繹的な方法論により構築された理論であり、帰納的な方法論によって導き出されたものであってもその論理性が認められれば妥当である。例えば、政治学や社会学、生物学や実験物理学など帰納的または統計学的な手法に基づいた自然科学的または社会科学的な理論は数多い。
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理論とは、「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」。自然科学(応用科学含む)、人文科学、社会科学などの科学または学問において用いられている。
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微視的と巨視的
微視的(びしてき、英: microscopic)とは、肉眼で見えない微小な物や事。ミクロスコピックまたはミクロともいい、通常は物の構成要素(分子、原子、原子核、素粒子)を意味する。顕微鏡で見られる大きさの物を対象とすることもある。広義には、一つの体系を構成する個々の要素またはその挙動も意味する。 これに対して、巨視的(きょしてき、英: macroscopic、マクロ)は、本来は肉眼で見える大きさの物や事柄を意味するが、分子、原子などの多数の集合体の意味として用いられている。巨視的な対象が古典力学で記述されるのに対し、微視的な対象はしばしば現代物理学である量子力学での取り扱いを要する。 微視的な立場(ミクロ的な立場、単にミクロとも言う)は、サイズ的には、プランク定数 h を目安として、これが顕に出てくるような事象は微視的であると考えてよい。つまり、研究対象としての物質(或いは物体)全体を扱う上で、その構成要素である原子、分子、或いは素粒子の立場(レベル)で解析を行う視点を「微視的」と言う。 これと対比される視点が、巨視的であり、通常、微視的な立場での観測対象である構成要素の総体的な平均(量)を扱う。巨視的な立場(マクロな立場、単にマクロとも言う)では、観測される量は通常連続量(或いは連続に変化する量、例:エネルギーや質量)である。一方、微視的な立場では、観測される量は普通離散的となる(例:原子内の電子のエネルギー準位)。 微視的な立場での学問分野は、統計力学や量子力学であり、一方、巨視的な立場での学問分野は、古典力学、電磁気学、熱力学などである。
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微視的とは、肉眼で見えない微小な物や事。ミクロスコピックまたはミクロともいい、通常は物の構成要素(分子、原子、原子核、素粒子)を意味する。顕微鏡で見られる大きさの物を対象とすることもある。広義には、一つの体系を構成する個々の要素またはその挙動も意味する。 これに対して、巨視的は、本来は肉眼で見える大きさの物や事柄を意味するが、分子、原子などの多数の集合体の意味として用いられている。巨視的な対象が古典力学で記述されるのに対し、微視的な対象はしばしば現代物理学である量子力学での取り扱いを要する。
'''微視的'''(びしてき、{{Lang-en-short|microscopic}}<ref name="terms">{{Cite book|1 =和書|author =[[文部省]]|coauthors =[[日本物理学会]]編|title =[[学術用語集]] 物理学編|url =http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi|year =1990|publisher =[[培風館]]|isbn =4-563-02195-4|page =}}{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>)とは、[[肉眼]]で見えない微小な物や[[事]]<ref name="britannica">[[ブリタニカ国際大百科事典]]-小項目電子辞書版。</ref>。'''ミクロスコピック'''または'''ミクロ'''<ref name="terms" />ともいい、通常は物の構成要素([[分子]]、[[原子]]、[[原子核]]、[[素粒子]])を意味する。[[顕微鏡]]で見られる大きさの物を対象とすることもある。広義には、一つの[[体系]]を構成する個々の要素またはその挙動も意味する<ref name="britannica"/>。 これに対して、'''巨視的'''(きょしてき、{{Lang-en-short|macroscopic}}<ref name="terms" />、'''マクロ'''<ref name="terms" />)は、本来は肉眼で見える大きさの物や事柄を意味するが、分子、原子などの多数の集合体の意味として用いられている。巨視的な対象が[[古典力学]]で記述されるのに対し、微視的な対象はしばしば[[現代物理学]]である[[量子力学]]での取り扱いを要する<ref name="britannica"/>。 == 自然科学における微視的・巨視的 == 微視的な立場(ミクロ的な立場、単にミクロとも言う)は、サイズ的には、[[プランク定数]] h を目安として、これが顕に出てくるような事象は微視的であると考えてよい。つまり、研究対象としての[[物質]](或いは[[物体]])全体を扱う上で、その構成要素である原子、分子、或いは素粒子の立場(レベル)で[[解析]]を行う視点を「微視的」と言う。 これと対比される視点が、巨視的であり、通常、微視的な立場での[[観測]]対象である構成要素の総体的な[[平均]](量)を扱う。巨視的な立場(マクロな立場、単にマクロとも言う)では、観測される量は通常[[連続量]](或いは連続に変化する量、例:[[エネルギー]]や[[質量]])である。一方、微視的な立場では、観測される量は普通離散的となる(例:原子内の電子の[[エネルギー準位]])。 微視的な立場での学問分野は、[[統計力学]]や量子力学であり、一方、巨視的な立場での学問分野は、古典力学、[[電磁気学]]、[[熱力学]]などである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|Microscopic scale}} --> * [[メゾスコピック領域]] * [[ミクロ経済学]]、[[マクロ経済学]] * [[還元主義]]、[[複雑系]] == 外部リンク == * {{Kotobank|微視的}} * {{Kotobank|巨視的}} {{Physics-stub}} {{デフォルトソート:ひしてきときよしてき}} [[Category:統計力学]] [[Category:量子力学]]
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東北自動車道
東北自動車道(とうほくじどうしゃどう、英語: TOHOKU EXPWY)は、埼玉県川口市の川口ジャンクション (JCT) から青森県青森市の青森インターチェンジ (IC) へ至る日本最長の高速道路(高速自動車国道)。略称は東北道(とうほくどう)である。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E4」が割り振られている。 埼玉県川口市を起点とし、群馬県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県、秋田県を経由し青森県青森市へ至る、延長679.5キロメートル (km) の路線である。東日本の大動脈の1つであるとともに日本最長の高速自動車国道であり、全線が東日本高速道路(NEXCO東日本)の管轄路線である。 全体的には関東平野から東北地方にかけて、内陸部をほぼ南北に貫く路線である。栃木県から岩手県にかけては大部分の区間で国道4号・東北新幹線・東北本線とほぼ並走するルートを辿るが、埼玉県から栃木県にかけての区間は、起点の川口市からしばらく東北本線・東北新幹線と国道4号の中間部を北上した後、久喜市付近から東武伊勢崎線・東武佐野線・東武日光線に沿うようなルートで羽生市・館林市・栃木市を経由し、その後鹿沼市付近から東武日光線から離れ矢板市に向かうコースを取る。滝沢IC・安代JCT以北は十和田湖の南側、秋田県北部、および青森県津軽地方を経由するため、二戸周辺や青森県三八上北地方を経由する国道4号・東北新幹線とは離れている。 宮城県白石市の国見SA - 白石IC間に北緯38度線があり、標識で表示されている。同様に岩手県平泉町に北緯39度線、岩手県八幡平市の松尾八幡平IC - 安代IC間に北緯40度線の標識が設置されている。前述の通り、山脈の山麓部を通過していくため、路線を通しての標高はそれほど高くない。 なお、下り線安代JCTは川口方面と八戸自動車道方面が本線で、川口方面と青森方面が分岐側となっている。 国土開発幹線自動車道としての予定路線名および、高速自動車国道法に基づく路線名(正式名)は東京都練馬区・青森間を結ぶ「東北縦貫自動車道弘前線」である。東北自動車道は、この高速自動車国道「東北縦貫自動車道弘前線」のうち、起点・東京都練馬区から川口市までの区間を除いた、川口JCT以北より青森ICまでの区間の道路名(通称名)となっている。 基本的に直線の多い高速道路であるが、仙台近郊、岩手県南部、岩手県八幡平地区 - 青森県津軽南部の区間では急カーブ、トンネル、急勾配の連続する線形である。そのため、これらの区間では、臨時規制時を除き常時80 km/h規制となっている。また、下記制限速度120 km/h区間でも、大型車については、これまで通り80 km/h規制(通常時)を維持する。 かつては福島トンネル(東北道で最も東京寄りのトンネル)が80 km/h、坂梨トンネル(東北道最長のトンネル)が70 km/hにそれぞれ規制されていたが、現在は前者が100 km/h、後者が80 km/hにそれぞれ緩和された。なお、福島トンネルを除くすべてのトンネルが80 km/hに規制されている。 警察庁は2016年(平成28年)3月24日、一部区間の最高速度を試験的に110 km/hに引き上げると発表した。試験区間は花巻南IC - 盛岡南IC間の30.6 kmである。 花巻南IC - 盛岡南IC間は2017年(平成29年)12月1日に試験的に最高速度が110 km/hに引き上げられ、さらに警察庁は2019年(平成31年)1月30日、同年3月1日から花巻南IC - 盛岡南IC間(約27 km)の最高速度を試験的に110 km/hから120 km/hに引き上げると発表し、予定通り実施された。 その後、同区間は2020年(令和2年)9月16日より、正式に最高速度120 km/hとして運用されることとなった。120 km/hの指定は全国初となる。 2022年(令和4年)10月12日からは、岩槻IC付近 - 佐野藤岡IC付近の約41 kmの区間で最高速度が120 km/hに引き上げられた。 二本松ICと福島西ICの間の区間には事故防止のために道路上に突起物を置いてリズムをとらせて眠気が出ないように三三七拍子が聞こえる施工がされている箇所があり、施工前と比べて事故が3割減少した。 売店は、すべてのサービスエリア (SA)、羽生パーキングエリア (PA) から黒磯PAまでのすべてのパーキングエリア、および鏡石PAから滝沢PAまでの半数のパーキングエリアに設置されている。この中で、コンビニが、蓮田SA(上り線)・羽生PA(下り線)・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・金成PA・津軽SAに設置されている。24時間営業の売店は紫波SAを除く蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのSA、コンビニ化されている羽生PA・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・菅生PA・金成PA・津軽SAにある。 レストランは、国見SAを除く、岩手山SA以南のすべてのサービスエリアと羽生PA(下り線)に設置されている。 阿武隈PA・蔵王PA・泉PA・三本木PA・志波姫PA・中尊寺PA・花巻PAと前森山PA以北のすべてのPAはトイレと自動販売機のみとなっている。 ガソリンスタンドは、蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのサービスエリアと安積PA・吾妻PA(下り線)・菅生PA・鶴巣PA・花輪SA(上り線)に設置されており、深夜営業をしていない吾妻PA(下り線)、花輪SA(上り線)以外はすべて24時間営業。下り線は岩手山SAが最終給油所となり、それより北は青森道・八戸道を含めて終点まで給油所は設置されていない。 総延長が長い割にトンネルは少ない。特に関東地方および宮城県の区間にはトンネルは1本もない。福島県も福島トンネルの1本のみしかない。安代JCT以北は東北道最長の坂梨トンネルをはじめトンネルが多く、この区間だけで東北道の全トンネル数の3分の2以上を占める。 連続照明区間の設定基準は1日平均5万台の交通量であり、本来なら川口JCTから栃木都賀JCTまでの全線に設置されるはずであるが、現状では川口JCT - 久喜IC間のみ設置されている。 2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の営業範囲となっており、白河ICを境に南側をNEXCO東日本関東支社が、北側をNEXCO東日本東北支社がそれぞれ管轄している。 コールサインは関東支社管内(浦和 - 大谷)、東北支社管内(安積 - 矢巾)ともに「ハイウェイラジオ東北道○○」と放送される。(例: 浦和であれば「ハイウェイラジオ東北道浦和」) 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 2002年度(平成14年度)(2003年度JH年報) 川口JCT - 栃木都賀JCTまでは各区間5万台以上あるのに対して、安代JCT - 青森ICまでは各区間1万台未満である。 ゴールデンウィーク (GW) やお盆の時期においては、大規模な渋滞が発生することは他の高速道路と同様である。GWやお盆の帰省ラッシュには40 - 60 kmに及ぶ長い渋滞が発生する。 季節に関係なく、渋滞の発生しやすい地点は上りの川口JCT、上下線の岩槻IC、利根川橋、渡良瀬川橋、久喜IC、加須IC、羽生IC、館林IC、佐野藤岡IC、栃木IC、八幡沢橋、宇都宮IC、上河内SA、鬼怒川橋、矢板IC、矢板北PA、箒川橋、西那須野塩原IC、黒磯板室IC、那須IC、那須高原SA、福島トンネルなどである。渋滞が発生しやすい時間帯は下り線は朝-午前、上り線は夕-夜である。行楽シーズン、夏場は下り線の那須IC出口で路肩や本線にはみ出すぐらいの渋滞になることがある。また、大型ショッピングセンターやアウトレットモールの最寄のIC(盛岡IC、黒磯板室IC、佐野藤岡ICなど)ではIC出口の料金所を先頭に本線上までの渋滞が発生する場合も多い。季節に関係なく、土日と祝日には上りの栃木IC以南の渋滞が栃木都賀JCTを過ぎて北関東道西行きへ5 km程度伸びることがある。さらに、朝や夕方には東京外環道内回りや首都高速川口線上りの渋滞が川口JCTを過ぎて東北道の浦和IC付近まで伸びてくることもある。 また、郡山JCTより南の区間は磐越自動車道と常磐自動車道がバイパス路線として機能しており、これにより例年であれば渋滞がある程度緩和されていた。しかし、東日本大震災直後の2011年(平成23年)のGWでは福島第一原子力発電所事故の影響で原発付近を通過する常磐道を避ける車両が東北道に集中したためか、下り線の栃木IC付近を先頭に川口JCTまで70 km以上渋滞するなど東北道では例年以上に激しい渋滞が発生した一方で、常磐道ではほとんど渋滞が発生しなかった。2015年(平成27年)3月の常磐道の全通後は東北道から常磐道への交通の転換がみられており、GWやお盆をはじめとする最混雑期に例年発生していた東北道の福島トンネルなどの渋滞が減少している。 最近では、下り線で北東北の岩手山SAから終点の青森ICまでの約140 kmの区間にガソリンスタンドがないため、岩手山SAでは特に給油目的の車が殺到し渋滞となる事が多い。さらに、かつてガソリンスタンドがあった花輪SAや津軽SAのガソリンスタンド閉鎖の告知が道中に掲示されてはいるが、その事に気付かず給油に訪れたドライバーが立ち往生したり、ガス欠により路上で停車したりする問題も起きている。なお、十和田ICでは、ETC装着車に限り、下り線でインターを一旦出た後、指定スタンドで給油し、1時間以内に再び下り本線に戻る場合のみ、通しの通行料金で利用できる。利用条件などの詳細は、下記脚注にあるNEXCO東日本のリリースを参照。 仙台市周辺の東北道は、仙台都市圏環状自動車専用道路の一部を構成する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東北自動車道(とうほくじどうしゃどう、英語: TOHOKU EXPWY)は、埼玉県川口市の川口ジャンクション (JCT) から青森県青森市の青森インターチェンジ (IC) へ至る日本最長の高速道路(高速自動車国道)。略称は東北道(とうほくどう)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E4」が割り振られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "埼玉県川口市を起点とし、群馬県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県、秋田県を経由し青森県青森市へ至る、延長679.5キロメートル (km) の路線である。東日本の大動脈の1つであるとともに日本最長の高速自動車国道であり、全線が東日本高速道路(NEXCO東日本)の管轄路線である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全体的には関東平野から東北地方にかけて、内陸部をほぼ南北に貫く路線である。栃木県から岩手県にかけては大部分の区間で国道4号・東北新幹線・東北本線とほぼ並走するルートを辿るが、埼玉県から栃木県にかけての区間は、起点の川口市からしばらく東北本線・東北新幹線と国道4号の中間部を北上した後、久喜市付近から東武伊勢崎線・東武佐野線・東武日光線に沿うようなルートで羽生市・館林市・栃木市を経由し、その後鹿沼市付近から東武日光線から離れ矢板市に向かうコースを取る。滝沢IC・安代JCT以北は十和田湖の南側、秋田県北部、および青森県津軽地方を経由するため、二戸周辺や青森県三八上北地方を経由する国道4号・東北新幹線とは離れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "宮城県白石市の国見SA - 白石IC間に北緯38度線があり、標識で表示されている。同様に岩手県平泉町に北緯39度線、岩手県八幡平市の松尾八幡平IC - 安代IC間に北緯40度線の標識が設置されている。前述の通り、山脈の山麓部を通過していくため、路線を通しての標高はそれほど高くない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、下り線安代JCTは川口方面と八戸自動車道方面が本線で、川口方面と青森方面が分岐側となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国土開発幹線自動車道としての予定路線名および、高速自動車国道法に基づく路線名(正式名)は東京都練馬区・青森間を結ぶ「東北縦貫自動車道弘前線」である。東北自動車道は、この高速自動車国道「東北縦貫自動車道弘前線」のうち、起点・東京都練馬区から川口市までの区間を除いた、川口JCT以北より青森ICまでの区間の道路名(通称名)となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "基本的に直線の多い高速道路であるが、仙台近郊、岩手県南部、岩手県八幡平地区 - 青森県津軽南部の区間では急カーブ、トンネル、急勾配の連続する線形である。そのため、これらの区間では、臨時規制時を除き常時80 km/h規制となっている。また、下記制限速度120 km/h区間でも、大型車については、これまで通り80 km/h規制(通常時)を維持する。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "かつては福島トンネル(東北道で最も東京寄りのトンネル)が80 km/h、坂梨トンネル(東北道最長のトンネル)が70 km/hにそれぞれ規制されていたが、現在は前者が100 km/h、後者が80 km/hにそれぞれ緩和された。なお、福島トンネルを除くすべてのトンネルが80 km/hに規制されている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "警察庁は2016年(平成28年)3月24日、一部区間の最高速度を試験的に110 km/hに引き上げると発表した。試験区間は花巻南IC - 盛岡南IC間の30.6 kmである。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "花巻南IC - 盛岡南IC間は2017年(平成29年)12月1日に試験的に最高速度が110 km/hに引き上げられ、さらに警察庁は2019年(平成31年)1月30日、同年3月1日から花巻南IC - 盛岡南IC間(約27 km)の最高速度を試験的に110 km/hから120 km/hに引き上げると発表し、予定通り実施された。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、同区間は2020年(令和2年)9月16日より、正式に最高速度120 km/hとして運用されることとなった。120 km/hの指定は全国初となる。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)10月12日からは、岩槻IC付近 - 佐野藤岡IC付近の約41 kmの区間で最高速度が120 km/hに引き上げられた。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "二本松ICと福島西ICの間の区間には事故防止のために道路上に突起物を置いてリズムをとらせて眠気が出ないように三三七拍子が聞こえる施工がされている箇所があり、施工前と比べて事故が3割減少した。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "売店は、すべてのサービスエリア (SA)、羽生パーキングエリア (PA) から黒磯PAまでのすべてのパーキングエリア、および鏡石PAから滝沢PAまでの半数のパーキングエリアに設置されている。この中で、コンビニが、蓮田SA(上り線)・羽生PA(下り線)・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・金成PA・津軽SAに設置されている。24時間営業の売店は紫波SAを除く蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのSA、コンビニ化されている羽生PA・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・菅生PA・金成PA・津軽SAにある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "レストランは、国見SAを除く、岩手山SA以南のすべてのサービスエリアと羽生PA(下り線)に設置されている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "阿武隈PA・蔵王PA・泉PA・三本木PA・志波姫PA・中尊寺PA・花巻PAと前森山PA以北のすべてのPAはトイレと自動販売機のみとなっている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ガソリンスタンドは、蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのサービスエリアと安積PA・吾妻PA(下り線)・菅生PA・鶴巣PA・花輪SA(上り線)に設置されており、深夜営業をしていない吾妻PA(下り線)、花輪SA(上り線)以外はすべて24時間営業。下り線は岩手山SAが最終給油所となり、それより北は青森道・八戸道を含めて終点まで給油所は設置されていない。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "総延長が長い割にトンネルは少ない。特に関東地方および宮城県の区間にはトンネルは1本もない。福島県も福島トンネルの1本のみしかない。安代JCT以北は東北道最長の坂梨トンネルをはじめトンネルが多く、この区間だけで東北道の全トンネル数の3分の2以上を占める。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "連続照明区間の設定基準は1日平均5万台の交通量であり、本来なら川口JCTから栃木都賀JCTまでの全線に設置されるはずであるが、現状では川口JCT - 久喜IC間のみ設置されている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が東日本高速道路(NEXCO東日本)の営業範囲となっており、白河ICを境に南側をNEXCO東日本関東支社が、北側をNEXCO東日本東北支社がそれぞれ管轄している。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コールサインは関東支社管内(浦和 - 大谷)、東北支社管内(安積 - 矢巾)ともに「ハイウェイラジオ東北道○○」と放送される。(例: 浦和であれば「ハイウェイラジオ東北道浦和」)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "(出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2002年度(平成14年度)(2003年度JH年報)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "川口JCT - 栃木都賀JCTまでは各区間5万台以上あるのに対して、安代JCT - 青森ICまでは各区間1万台未満である。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ゴールデンウィーク (GW) やお盆の時期においては、大規模な渋滞が発生することは他の高速道路と同様である。GWやお盆の帰省ラッシュには40 - 60 kmに及ぶ長い渋滞が発生する。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "季節に関係なく、渋滞の発生しやすい地点は上りの川口JCT、上下線の岩槻IC、利根川橋、渡良瀬川橋、久喜IC、加須IC、羽生IC、館林IC、佐野藤岡IC、栃木IC、八幡沢橋、宇都宮IC、上河内SA、鬼怒川橋、矢板IC、矢板北PA、箒川橋、西那須野塩原IC、黒磯板室IC、那須IC、那須高原SA、福島トンネルなどである。渋滞が発生しやすい時間帯は下り線は朝-午前、上り線は夕-夜である。行楽シーズン、夏場は下り線の那須IC出口で路肩や本線にはみ出すぐらいの渋滞になることがある。また、大型ショッピングセンターやアウトレットモールの最寄のIC(盛岡IC、黒磯板室IC、佐野藤岡ICなど)ではIC出口の料金所を先頭に本線上までの渋滞が発生する場合も多い。季節に関係なく、土日と祝日には上りの栃木IC以南の渋滞が栃木都賀JCTを過ぎて北関東道西行きへ5 km程度伸びることがある。さらに、朝や夕方には東京外環道内回りや首都高速川口線上りの渋滞が川口JCTを過ぎて東北道の浦和IC付近まで伸びてくることもある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、郡山JCTより南の区間は磐越自動車道と常磐自動車道がバイパス路線として機能しており、これにより例年であれば渋滞がある程度緩和されていた。しかし、東日本大震災直後の2011年(平成23年)のGWでは福島第一原子力発電所事故の影響で原発付近を通過する常磐道を避ける車両が東北道に集中したためか、下り線の栃木IC付近を先頭に川口JCTまで70 km以上渋滞するなど東北道では例年以上に激しい渋滞が発生した一方で、常磐道ではほとんど渋滞が発生しなかった。2015年(平成27年)3月の常磐道の全通後は東北道から常磐道への交通の転換がみられており、GWやお盆をはじめとする最混雑期に例年発生していた東北道の福島トンネルなどの渋滞が減少している。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最近では、下り線で北東北の岩手山SAから終点の青森ICまでの約140 kmの区間にガソリンスタンドがないため、岩手山SAでは特に給油目的の車が殺到し渋滞となる事が多い。さらに、かつてガソリンスタンドがあった花輪SAや津軽SAのガソリンスタンド閉鎖の告知が道中に掲示されてはいるが、その事に気付かず給油に訪れたドライバーが立ち往生したり、ガス欠により路上で停車したりする問題も起きている。なお、十和田ICでは、ETC装着車に限り、下り線でインターを一旦出た後、指定スタンドで給油し、1時間以内に再び下り本線に戻る場合のみ、通しの通行料金で利用できる。利用条件などの詳細は、下記脚注にあるNEXCO東日本のリリースを参照。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "仙台市周辺の東北道は、仙台都市圏環状自動車専用道路の一部を構成する。", "title": "地理" } ]
東北自動車道は、埼玉県川口市の川口ジャンクション (JCT) から青森県青森市の青森インターチェンジ (IC) へ至る日本最長の高速道路(高速自動車国道)。略称は東北道(とうほくどう)である。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E4」が割り振られている。
{{Otheruses|高速自動車国道|麻雀のローカル役|麻雀のローカル役#東北自動車道}} {{Pathnav|東北縦貫自動車道|frame=1}} {{Infobox road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br>([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[File:TOHOKU EXP(E4).svg|130px|東北自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E4}} 東北自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map|zoom=6|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=300|frame-height=450|frame-lat=37.76509|frame-long=140.70098}} |開通年 = [[1972年]]([[昭和]]47年)- [[1987年]](昭和62年) |起点 = [[埼玉県]][[川口市]]([[川口ジャンクション|川口JCT]]) |主な経由都市 = [[さいたま市]]、[[館林市]]、[[宇都宮市]]、[[郡山市]]、[[仙台市]]、[[盛岡市]]、[[鹿角市]]、[[弘前市]]<!--高速自動車国道の路線を指定する政令・別表の「東北縦貫自動車道弘前線」のうち川口市以北の都市で、「エリア(国・州・都道府県など)の境界に位置する都市」「経路が大きく変わる都市」「沿道の都市で、そのエリア内で一番大きな都市」を勘案し、各県の都道府県庁所在地または通過する市町村で最も大きい市。--> |終点 = [[青森県]][[青森市]]([[青森インターチェンジ|青森IC]]) |接続する主な道路 = 記事参照 |総距離 = 679.5 [[キロメートル|km]](国内最長) }} '''東北自動車道'''(とうほくじどうしゃどう、{{lang-en|TOHOKU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[埼玉県]][[川口市]]の[[川口ジャンクション]] (JCT) から[[青森県]][[青森市]]の[[青森インターチェンジ]] (IC) へ至る日本最長の[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''東北道'''(とうほくどう){{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-12}}である。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、「'''E4'''」が割り振られている{{efn|[[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]] - [[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]間は「'''E50'''」、[[福島ジャンクション|福島JCT]] - [[桑折ジャンクション|桑折JCT]]間は「'''E13'''」、[[村田ジャンクション|村田JCT]] - [[仙台南インターチェンジ|仙台南IC]]間は「'''E48'''」、[[北上ジャンクション|北上JCT]] - [[花巻ジャンクション|花巻JCT]]間は「'''E46'''」がそれぞれ重複付番されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html |title=高速道路ナンバリング一覧 |publisher=国土交通省 |accessdate=2018-01-27}}</ref>。}}。 == 概要 == [[埼玉県]][[川口市]]を起点とし、[[群馬県]]、[[栃木県]]、[[福島県]]、[[宮城県]]、[[岩手県]]、[[秋田県]]を[[経由]]し青森県青森市へ至る、延長679.5[[キロメートル]] (km) の路線である。[[東日本]]の大動脈の1つであるとともに日本最長の高速自動車国道であり、全線が[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)の管轄路線である。 全体的には[[関東平野]]から[[東北地方]]にかけて、内陸部をほぼ南北に貫く路線である。栃木県から岩手県にかけては大部分の区間で[[国道4号]]・[[東北新幹線]]・[[東北本線]]とほぼ並走するルートを辿るが、埼玉県から栃木県にかけての区間は、起点の[[川口市]]からしばらく東北本線・東北新幹線と国道4号の中間部を北上した後、[[久喜市]]付近から[[東武伊勢崎線]]・[[東武佐野線]]・[[東武日光線]]に沿うようなルートで[[羽生市]]・[[館林市]]・[[栃木市]]を経由し、その後[[鹿沼市]]付近から東武日光線から離れ[[矢板市]]に向かうコースを取る{{efn|同区間で国道4号は、[[越谷市]]・[[春日部市]]・[[古河市]]・[[小山市]]など東北道の東側を経由、一方、東北本線や東北新幹線は一度西側の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]を経由した後久喜で高速道路と交差し、東側の古河・小山・宇都宮市街を経て矢板から並走する。}}。滝沢IC・安代JCT以北は[[十和田湖]]の南側、秋田県北部、および青森県津軽地方を経由するため、二戸周辺や青森県三八上北地方を経由する国道4号・東北新幹線とは離れている{{efn|この区間では[[八戸自動車道]]・[[青森自動車道]]が国道4号・東北新幹線と並行する。東北自動車道は青森県[[平川市]]までは[[国道282号]]およびJR[[花輪線]]と、平川市から終点の青森ICまでは[[国道7号]]およびJR[[奥羽本線]]と各々並走する。}}。 宮城県[[白石市]]の[[国見サービスエリア|国見SA]] - [[白石インターチェンジ|白石IC]]間に[[北緯38度線]]があり、[[道路標識|標識]]で表示されている。同様に岩手県[[平泉町]]に[[北緯39度線]]、岩手県[[八幡平市]]の[[松尾八幡平インターチェンジ|松尾八幡平IC]] - [[安代インターチェンジ|安代IC]]間に[[北緯40度線]]{{efn|あわせて看板の下に北緯40度を通る[[松尾村 (岩手県)|松尾]]・[[北京市|北京]]の地名も併記されている。}}の標識が設置されている。前述の通り、山脈の山麓部を通過していくため、路線を通しての標高はそれほど高くない{{efn|標高の最高地点は[[松尾八幡平インターチェンジ|松尾八幡平IC]] - [[安代インターチェンジ|安代IC]]間の竜ヶ森トンネル南側出入口付近で標高475[[メートル]] (m)。目印として「東北自動車道 最高地点475&nbsp;m」の看板が設置されている。}}。 なお、下り線安代JCTは川口方面と[[八戸自動車道]]方面が本線で、川口方面と青森方面が分岐側となっている。 [[国土開発幹線自動車道]]としての予定路線名および、[[高速自動車国道法]]に基づく路線名(正式名)は東京都練馬区・青森間を結ぶ「[[東北縦貫自動車道|東北縦貫自動車道弘前線]]」である{{sfn|浅井建爾|2015|p=169}}。'''東北自動車道'''は、この高速自動車国道「東北縦貫自動車道弘前線」のうち、起点・東京都練馬区から川口市までの区間{{efn|この間は[[東京外環自動車道|東京外環道]]の一部。}}を除いた、川口JCT以北より青森ICまでの区間の道路名(通称名)となっている{{efn|高速自動車国道の東北縦貫自動車道は、弘前線と八戸線の2路線が東京都練馬区から岩手県八幡平市まで重複しており、東北自動車道の川口JCT - 安代JCT間は、東北縦貫自動車道弘前線・八戸線が重複する道路でもある。}}。 == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である部分については道路が供用済みの区間を示す。 *: 施設名欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。 *: 未開通区間の名称はすべて仮称である。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 * 略字は、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、ICは[[インターチェンジ]]、SAは[[サービスエリア]]、PAはパーキングエリア、TBは[[本線料金所]]、CBはチェーン脱着場(チェーンベース)をそれぞれ示す。 {{-}} {|class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|[[川口ジャンクション|川口]]<br /><small>から<br />([[キロメートル|km]])</small> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="9" style="text-align:center"|[[File:Shuto Urban Expwy Sign S1.svg|26px]] [[首都高速川口線]] |- !style="background-color:#BFB"|1 |[[川口ジャンクション|川口JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 | |東京外環道のJCT番号は「'''70'''」 |rowspan="13" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[埼玉県]]}} |colspan="2"|[[川口市]] |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|2 |rowspan="2"|[[浦和インターチェンジ|浦和IC]] |[[国道122号]] |style="text-align:right"|3.2 | |青森方面出口、東京方面入口 |rowspan="4" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[さいたま市]]}} |rowspan="3"|[[緑区 (さいたま市)|緑区]] |- |[[国道463号]]([[越谷浦和バイパス]])<br />国道122号 |rowspan="2" style="text-align:right"|4.8 | |青森方面入口、東京方面出口 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[浦和本線料金所|浦和TB]] |[[本線料金所]] | | |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]] |[[国道16号]]([[岩槻春日部バイパス]]) |style="text-align:right"|10.5 | | |[[岩槻区]] |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|3-1 |rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[蓮田サービスエリア|蓮田SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|蓮田市道57号線 |style="text-align:right"|15.6 | |東京方面 |rowspan="2" colspan="2"|[[蓮田市]] |- |style="background-color:#eda5ff"|[[埼玉県道162号蓮田白岡久喜線]] |style="text-align:right"|18.1 | |宇都宮方面<br/>SICは東京方面からの出口のみ<br/>宇都宮方面入口は事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001310103.pdf|title=高速道路会社への事業許可およびスマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2019-09-27|accessdate=2019-09-27|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[白岡バスストップ|白岡BS]] |style="background-color:#CCC; text-align:center"|- |style="text-align:right"|20.5 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |colspan="2"|[[白岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|3-2 ||[[久喜白岡ジャンクション|久喜白岡JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] |style="text-align:right"|24.1 | |一部は白岡市<br/>圏央道のJCT番号は「'''70'''」 |rowspan="2" colspan="2"|[[久喜市]] |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[久喜インターチェンジ|久喜IC]] |[[埼玉県道3号さいたま栗橋線]] |style="text-align:right"|25.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[加須インターチェンジ|加須IC]] |[[国道125号]] |style="text-align:right"|33.4 | | |colspan="2"|[[加須市]] |- !style="background-color:#BFB"|5-1 |[[羽生インターチェンジ|羽生IC]] |[[埼玉県道84号羽生栗橋線]] |style="text-align:right"|39.4 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[羽生市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[羽生パーキングエリア|羽生PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|40.6 | | |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[館林インターチェンジ|館林IC]] |[[国道354号]]([[東毛広域幹線道路]]) |style="text-align:right"|46.0 | | |rowspan="3" colspan="3"|[[群馬県]]<br>[[館林市]] |- !style="background-color: #BFB;"|- |style="background-color:#CCC"|館林北SIC |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"| |style="text-align:right"| |検討中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikoukei.co.jp/news/detail/442029|title=館林市は引き続きスマートICの候補地選定など|date=2021-08-20|accessdate=2022-07-21|publisher=日本工業経済新聞社}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="background-color:#CCC; text-align:center"|- |style="text-align:right"|50.8 |style="text-align:center"|◆ |休止中<ref>{{Twitter status|kwtr237|1570741615022739457}}(2022年9月16日)</ref> |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[佐野藤岡インターチェンジ|佐野藤岡IC]] |[[国道50号]]([[佐野バイパス]]) |style="text-align:right"|55.0 | |一部は[[栃木市]] |rowspan="21" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[栃木県]]}} |rowspan="2" colspan="2"|[[佐野市]] |- !style="background-color:#BFB"|7-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[佐野サービスエリア|佐野SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[栃木県道352号佐野SAスマートインター線]] |style="text-align:right"|57.9 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|7-2 |[[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]] |style="text-align:right"|61.8 | |栃木都賀JCTまで {{Ja Exp Route Sign|E50}} 北関東道との重複区間<br />北関東道のJCT番号は「'''7-1'''」 |rowspan="5" colspan="2"|[[栃木市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[岩舟バスストップ|岩舟BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|63.6 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[栃木インターチェンジ|栃木IC]] |[[栃木県道32号栃木粕尾線]] |style="text-align:right"|72.7 |style="text-align:center"|◆ |<ref name="twitter_joban_expwy_1574352926167822337">{{Twitter status|JOBAN_EXPWY|1574352926167822337}}(2022年9月26日)</ref> |- !style="background-color:#BFB"|8-1 |[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E50}} 北関東自動車道 |style="text-align:right"|75.4 | | |- !style="background-color:#BFB"|8-2 |style="background-color:#eda5ff"|[[都賀西方パーキングエリア|都賀西方PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道293号]]([[金崎バイパス]]) |style="text-align:right"|79.3 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[磯町バスストップ|磯町BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|84.8 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中<ref name="twitter_joban_expwy_1574352926167822337" /> |rowspan="2" colspan="2"|[[鹿沼市]] |- !style="background-color:#BFB"|9 |[[鹿沼インターチェンジ|鹿沼IC]] |[[国道121号]] |style="text-align:right"|91.5 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[大谷スマートインターチェンジ|大谷BS/SIC]] |style="background-color:#CCC"|[[栃木県道70号宇都宮今市線]] |style="text-align:right"|97.5 |style="text-align:center"|◆ |style="text-align:left"|BSは休止中<ref>{{Twitter status|kwtr237|1574346407565471745}}(2022年9月26日)</ref><ref name="twitter_joban_expwy_1574352926167822337" /><br/>SICは[[2025年]]度供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kurashi/kotsu/douro/1022063.html|title=(仮称)大谷スマートインターチェンジ|date=2022-02-25|accessdate=2022-03-06|publisher=宇都宮市}}</ref><ref>{{Cite news|title=大谷スマートIC、2025年度開通目指す 宇都宮市|newspaper=[[下野新聞]]|date=2022-03-05|accessdate=2022-03-06|url=https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/561459}}</ref>{{efn|用地取得等が順調に進んだ場合。}} |rowspan="4" colspan="2"|[[宇都宮市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[大谷パーキングエリア|大谷PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|99.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|10 |[[宇都宮インターチェンジ|宇都宮IC]] |[[国道119号]]([[宇都宮北道路]])<br />{{Ja Exp Route Sign|E81}} [[日光宇都宮道路]] |style="text-align:right"|103.0 | |ここから青森方面は4車線 |- !style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|10-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[上河内サービスエリア|上河内SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[栃木県道348号上河内スマートインター線]] |style="text-align:right"|110.9 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|BS |style="background-color:#CCC; text-align:center"|- |style="text-align:right"|115.4 |style="text-align:center"|◆ |休止中<ref>{{Twitter status|kwtr237|1575070006379163648}}(2022年9月28日)</ref> |colspan="2"|[[塩谷郡]]<br />[[塩谷町]] |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[矢板インターチェンジ|矢板IC]] |[[国道4号]]([[氏家矢板バイパス]])<br />[[栃木県道30号矢板那須線]] |style="text-align:right"|120.2 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="3" colspan="2"|[[矢板市]] |- !style="background-color:#BFB"|11-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[矢板北パーキングエリア|矢板北PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[栃木県道272号県民の森矢板線]] |style="text-align:right"|127.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[田野原バスストップ|田野原BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|131.0 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[西那須野塩原インターチェンジ|西那須野塩原IC]] |[[国道400号]] |style="text-align:right"|139.1 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[那須塩原市]] |- !style="background-color:#BFB"|12-1 |[[黒磯板室インターチェンジ|黒磯板室IC]] / [[黒磯パーキングエリア|黒磯PA]] |[[栃木県道351号黒磯板室インター線]] |style="text-align:right"|145.4 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[那須インターチェンジ|那須IC]] |[[栃木県道17号那須高原線]] |style="text-align:right"|152.5 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="2" colspan="2"|[[那須郡]]<br/>[[那須町]] |- !style="background-color:#BFB"|13-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[那須高原サービスエリア|那須高原SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[栃木県道349号那須高原スマートインター線]] |style="text-align:right"|160.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|14 |[[白河インターチェンジ|白河IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|169.7 | | |rowspan="27" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[福島県]]}} |rowspan="2" colspan="2"|[[西白河郡]]<br />[[西郷村]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[西郷バスストップ|西郷BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|171.1 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|14-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[白河中央スマートインターチェンジ|白河中央SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道294号]] |style="text-align:right"|176.4 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[白河市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[阿武隈パーキングエリア|阿武隈PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|178.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[矢吹泉崎バスストップ|矢吹泉崎BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|185.3 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|西白河郡}} |[[泉崎村]] |- ! style="background-color:#BFB" |15 |[[矢吹インターチェンジ|矢吹IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E80}} [[あぶくま高原道路]]<br />国道4号 | style="text-align:right" |186.3 | |あぶくま高原道路のIC番号は「'''1'''」 |[[矢吹町]] |- !style="background-color:#BFB"|15-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[鏡石パーキングエリア|鏡石PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[福島県道289号下松本鏡石停車場線]] |style="text-align:right"|193.9 |style="text-align:center"|◆ |スマートICは6-22時 |colspan="2"|[[岩瀬郡]]<br />[[鏡石町]] |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[須賀川インターチェンジ|須賀川IC]] |[[福島県道67号中野須賀川線]] |style="text-align:right"|198.2 |style="text-align:center"|◆ | |colspan="2"|[[須賀川市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[安積パーキングエリア|安積PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|206.0 | | |rowspan="5" colspan="2"|[[郡山市]] |- !style="background-color:#BFB"|17 |[[郡山南インターチェンジ (福島県)|郡山南IC]] |[[福島県道47号郡山長沼線]] |style="text-align:right"|207.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|17-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[郡山中央スマートインターチェンジ|郡山中央SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[福島県道55号郡山矢吹線]] |style="text-align:right"|211.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|18 |[[郡山インターチェンジ (福島県)|郡山IC]] |[[国道49号]] |style="text-align:right"|216.4 | | |- !style="background-color:#BFB"|18-1 |[[郡山ジャンクション|郡山JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]] |style="text-align:right"|220.2 | | |- !style="background-color:#BFB"|19 |[[本宮インターチェンジ|本宮IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|223.1 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[本宮市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[安達太良サービスエリア|安達太良SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|226.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[大玉バスストップ|大玉BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|229.0 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |rowspan="2" colspan="2"|[[安達郡]]<br />[[大玉村]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|大玉SIC |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"| | |style="text-align:left"|計画中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210108-574488.php|title=本宮-二本松間に大玉スマートIC誘致へ 東北道、観光振興目指す|date=2021-01-08|accessdate=2021-07-15|publisher=福島民友新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210128220624/https://www.minyu-net.com/news/news/FM20210108-574488.php|archivedate=2021-07-15}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|20 |[[二本松インターチェンジ|二本松IC]] |[[国道459号]]<br/>[[福島県道355号須賀川二本松線]] |style="text-align:right"|236.0 |style="text-align:center"|○ | |colspan="2"|[[二本松市]] |- !style="background-color:#BFB"|20-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[福島松川パーキングエリア|福島松川PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[福島県道52号土湯温泉線]] |style="text-align:right"|244.7 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="5" colspan="2"|[[福島市]] |- !style="background-color:#BFB"|21 |[[福島西インターチェンジ|福島西IC]] |[[国道115号]]([[福島西バイパス]]) |style="text-align:right"|254.9 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[吾妻パーキングエリア|吾妻PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|257.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|21-1 |[[福島ジャンクション|福島JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E13}} [[東北中央自動車道]] |style="text-align:right"|261.1 |style="text-align:center"|- |桑折JCTまで {{Ja Exp Route Sign|E13}} 東北中央道との重複区間 |- !style="background-color:#BFB"|22 |[[福島飯坂インターチェンジ|福島飯坂IC]] |[[国道13号]] |style="text-align:right"|264.9 | | |- !style="background-color:#BFB"|22-1 |[[桑折ジャンクション|桑折JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E13}} 東北中央自動車道([[相馬福島道路]]) |style="text-align:right"|269.4 |style="text-align:center"| | |rowspan="4" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[伊達郡]]}} |rowspan="2"|[[桑折町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[桑折バスストップ|桑折BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|270.0 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |- !style="background-color:#BFB"|23 |[[国見インターチェンジ|国見IC]] |[[宮城県道・福島県道46号白石国見線|福島県道46号白石国見線]] |style="text-align:right"|276.0 | | |rowspan="2"|[[国見町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[国見サービスエリア|国見SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|281.9 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[越河バスストップ|越河BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|285.9 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |rowspan="28" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[宮城県]]}} |rowspan="4" colspan="2"|[[白石市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[白石中央スマートインターチェンジ|白石中央SIC]] |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"|291.8 || |style="text-align:left"|2025年度ごろ供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/202011/20201124_11016.html|title=東北道・白石中央スマートIC 25年度利用開始へ |publisher=河北新報 |accessdate=2020年11月29日}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |[[白石西バスストップ|白石西BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|295.0 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|24 |[[白石インターチェンジ|白石IC]] |国道4号([[白石バイパス]]) |style="text-align:right"|299.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[蔵王パーキングエリア|蔵王PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|304.1 | | |colspan="2"|[[刈田郡]]<br />[[蔵王町]] |- !style="background-color:#BFB"|25 |[[村田インターチェンジ|村田IC]] |[[宮城県道14号亘理大河原川崎線]] |style="text-align:right"|311.8 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[柴田郡]]<br />[[村田町]] |- !style="background-color:#BFB"|26 |[[村田ジャンクション|村田JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E48}} [[山形自動車道]] |style="text-align:right"|314.5 | |ここから仙台南ICまで {{Ja Exp Route Sign|E48}} が重複付与されている |- !style="background-color:#BFB"|26-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[菅生パーキングエリア|菅生PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|町道菅生姥ヶ懐線<br />[[宮城県道31号仙台村田線]] |style="text-align:right"|319.6 | | |- !style="background-color:#BFB"|27 |[[仙台南インターチェンジ|仙台南IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E48}} [[仙台南部道路]]<br />[[国道286号]] |style="text-align:right"|326.8 | | |rowspan="5" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[仙台市]]}} |[[太白区]] |- !style="background-color:#BFB"|28 |[[仙台宮城インターチェンジ|仙台宮城IC]] |[[国道48号]]<br />([[仙台西道路]]/[[愛子バイパス]]) |style="text-align:right"|332.4 | | |rowspan="2"|[[青葉区 (仙台市)|青葉区]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[仙台宮城バスストップ|仙台宮城BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|332.9 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|28-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[泉パーキングエリア|泉PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| [[宮城県道35号泉塩釜線]] |style="text-align:right"|342.6 | | |rowspan="2"|[[泉区 (仙台市)|泉区]] |- !style="background-color:#BFB"|29 |[[泉インターチェンジ|泉IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|346.1 | | |- !style="background-color:#BFB"|29-1 |[[富谷ジャンクション|富谷JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E6}} [[仙台北部道路]] |style="text-align:right"|349.4 | |仙台北部道路[[富谷インターチェンジ|富谷IC]]との直通不可<br/>仙台北部道路のJCT番号は「'''40'''」 |colspan="2"|[[富谷市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[鶴巣パーキングエリア|鶴巣PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|354.4 | | |rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[黒川郡]]}} |rowspan="2"|[[大和町]] |- !style="background-color:#BFB"|30 |[[大和インターチェンジ|大和IC]] |[[宮城県道3号塩釜吉岡線]] |style="text-align:right"|357.1 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|30-1 |[[大衡インターチェンジ|大衡IC]] |[[宮城県道57号大衡落合線]] |style-"text-align:right"|360.3 | |出入り口となる交差点に大衡簡易PAがある |[[大衡村]] |- !style="background-color:#BFB"|30-2 |style="background-color:#eda5ff"|[[三本木パーキングエリア|三本木PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[国道4号]]([[三本木バイパス]]) |style="text-align:right"|366.8 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[大崎市]] |- !style="background-color:#BFB"|– |[[救急車緊急退出路]] | |style="text-align:right"| |style="text-align:center"| |[[大崎市民病院]]に接続 |- !style="background-color:#BFB"|31 |[[古川インターチェンジ|古川IC]] |[[国道47号]]([[石巻新庄道路]]〈[[地域高規格道路#路線指定|候補路線]]〉) |style="text-align:right"|375.1 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|31-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[長者原サービスエリア|長者原SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[宮城県道266号化女沼公園線]]<br />(市道経由) |style="text-align:right"|381.0 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[高清水バスストップ|高清水BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|386.0 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |rowspan="7" colspan="2"|[[栗原市]] |- !style="background-color:#BFB"|32 |[[築館インターチェンジ|築館IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|391.2 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[築館バスストップ|築館BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|393.0 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[栗原インターチェンジ (宮城県)|栗原IC]] |style="background-color:#CCC"|[[みやぎ県北高速幹線道路]] |style="text-align:right"|395.4 | |事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/701292.pdf|title=(仮称)栗原インターチェンジの連結許可について|date=2018-08-10|accessdate=2018-08-15|publisher=宮城県土木部道路課|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |[[志波姫パーキングエリア|志波姫PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|396.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|33 |[[若柳金成インターチェンジ|若柳金成IC]] |[[宮城県道4号中田栗駒線]] |style="text-align:right"|403.0 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[金成パーキングエリア|金成PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|408.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|34 |[[一関インターチェンジ|一関IC]] |[[国道342号]] |style="text-align:right"|420.3 |style="text-align:center"|◆ | |rowspan="35" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[岩手県]]}} |rowspan="2" colspan="2"|[[一関市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[中尊寺パーキングエリア|中尊寺PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|423.3 |style="text-align:center"| |上り線 |- !style="background-color:#BFB"|34-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[平泉スマートインターチェンジ|平泉SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|424.7 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[西磐井郡]]<br />[[平泉町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |中尊寺PA |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|425.4 |style="text-align:center"|◆ |下り線 |- !style="background-color:#BFB"|35 |[[平泉前沢インターチェンジ|平泉前沢IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|431.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[前沢バスストップ|前沢BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|433.7 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |rowspan="5" colspan="2"|[[奥州市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[前沢サービスエリア|前沢SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|437.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|35-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[奥州スマートインターチェンジ|奥州SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[岩手県道236号衣川水沢線]] |style="text-align:right"|442.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[水沢バスストップ|水沢BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|445.9 |style="text-align:center"|◆ |休止中 |- !style="background-color:#BFB"|36 |[[水沢インターチェンジ|水沢IC]] |国道4号([[金ケ崎バイパス]]) |style="text-align:right"|449.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[金ケ崎バスストップ|金ヶ崎BS/CB]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|452.8 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |colspan="2"|[[胆沢郡]]<br>[[金ケ崎町]] |- !style="background-color:#BFB"|36-1 |[[北上金ヶ崎インターチェンジ|北上金ヶ崎IC]]/[[北上金ヶ崎パーキングエリア|PA]] |[[岩手県道50号北上金ケ崎インター線]] |style="text-align:right"|458.0 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[北上市]] |- !style="background-color:#BFB"|37 |[[北上ジャンクション|北上JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E46}} [[秋田自動車道]] |style="text-align:right"|461.8 | |ここから花巻JCTまで {{Ja Exp Route Sign|E46}} が重複付与されている |- !style="background-color:#BFB"|38 |[[北上江釣子インターチェンジ|北上江釣子IC]] |[[国道107号]] |style="text-align:right"|464.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[花巻パーキングエリア|花巻PA/<span style="background-color: #CCC">SIC</span>]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|472.6 | |SICは[[2023年]]度供用開始予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.hanamaki.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/010/205/keikakusyo.pdf|title=東北縦貫自動車道(仮称)花巻PAスマートインターチェンジ 実施計画書(概要版)|date=2019-09|accessdate=2020-11-08|publisher=岩手県・岩手県花巻市|format=PDF}}</ref> |rowspan="4" colspan="2"|[[花巻市]] |- !style="background-color:#BFB"|38-1 |[[花巻南インターチェンジ|花巻南IC]] |[[岩手県道299号花巻南インター線]] |style="text-align:right"|474.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|38-2 |[[花巻ジャンクション|花巻JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E46}} [[釜石自動車道]] |style="text-align:right"|478.6 | | |- !style="background-color:#BFB"|39 |[[花巻インターチェンジ|花巻IC]] |[[岩手県道37号花巻平泉線]] |style="text-align:right"|481.3 |style="text-align:center"|◆ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[紫波サービスエリア|紫波SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|489.2 | | |rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[紫波郡]]}} |rowspan="2"|[[紫波町]] |- !style="background-color:#BFB"|40 |[[紫波インターチェンジ|紫波IC]] |[[岩手県道46号紫波インター線]] |style="text-align:right"|494.1 | | |- !style="background-color:#BFB"|40-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[矢巾パーキングエリア|矢巾PA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[岩手県道120号不動盛岡線]]<br />(市道経由) |style="text-align:right"|501.3 | | |[[矢巾町]] |- !style="background-color:#BFB"|41 |[[盛岡南インターチェンジ|盛岡南IC]] |[[岩手県道36号上米内湯沢線]]<br />([[宮古盛岡横断道路]](計画路線)) |style="text-align:right"|505.1 | | |rowspan="2" colspan="2"|[[盛岡市]] |- !style="background-color:#BFB"|42 |[[盛岡インターチェンジ|盛岡IC]] |[[国道46号]]([[盛岡秋田道路]](計画路線)) |style="text-align:right"|512.1 | | |- !style="background-color:#BFB"|42-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[滝沢中央スマートインターチェンジ|滝沢中央SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|市道茨島土沢線 |style="text-align:right"|516.1 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[滝沢市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[滝沢パーキングエリア|滝沢PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|520.1 | | |- !style="background-color:#BFB"|43 |[[滝沢インターチェンジ|滝沢IC]] |国道4号 |style="text-align:right"|522.1 | | |- !style="background-color:#BFB"|44 |[[西根インターチェンジ|西根IC]] |[[国道282号]] |style="text-align:right"|532.2 | | |rowspan="9" colspan="2"|[[八幡平市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[岩手山サービスエリア|岩手山SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|537.3 | |下り線最後の[[ガソリンスタンド|給油所]] |- !style="background-color:#BFB"|45 |[[松尾八幡平インターチェンジ|松尾八幡平IC]] |[[岩手県道45号柏台松尾線]] |style="text-align:right"|541.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[前森山パーキングエリア|前森山PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|544.2 | | |- !style="background-color: #BFB;"|- |style="background-color:#CCC"|[[八幡平スマートインターチェンジ|八幡平SIC]] |style="background-color:#CCC"| |style="text-align:right"|552.1 |style="text-align:right"| |事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|- |[[畑パーキングエリア|畑PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|556.6 | | |- !style="background-color:#BFB"|46 |[[安代ジャンクション|安代JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E4A}} [[八戸自動車道]] |style="text-align:right"|563.3 | | |- !style="background-color:#BFB"|47 |[[安代インターチェンジ|安代IC]] |国道282号 |style="text-align:right"|564.6 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[田山パーキングエリア|田山PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|573.2 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[湯瀬パーキングエリア|湯瀬PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|585.2 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="9" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[秋田県]]}} |rowspan="5" colspan="2"|[[鹿角市]] |- !style="background-color:#BFB"|48 |[[鹿角八幡平インターチェンジ|鹿角八幡平IC]] |国道282号 |style="text-align:right"|590.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[花輪サービスエリア|花輪SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|593.7 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[緊急進入路]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"| |style="text-align:center"| |川口方面出口 |- !style="background-color:#BFB"|49 |[[十和田インターチェンジ|十和田IC]] |[[国道103号]] |style="text-align:right"|602.6 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|49-1 |[[小坂インターチェンジ|小坂IC]] |[[秋田県道2号大館十和田湖線]] |style="text-align:right"|610.7 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[鹿角郡]]<br />[[小坂町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[小坂パーキングエリア|小坂PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|613.5 | | |- !style="background-color:#BFB"|49-2 |[[小坂ジャンクション|小坂JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E7}} [[秋田自動車道]] |style="text-align:right"|617.1 | | |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|- |rowspan="2"|[[坂梨トンネル]] |rowspan="2" style="text-align:center"|- |rowspan="2" style="text-align:right"| |rowspan="2"| |rowspan="2"|長さ 約4,265 [[メートル|m]]<br />東北道最長のトンネル |- |rowspan="13" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[青森県]]}} |rowspan="2" colspan="2"|[[平川市]] |- !style="background-color:#BFB"|50 |[[碇ヶ関インターチェンジ|碇ヶ関IC]] |[[国道7号]] |style="text-align:right"|630.7 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[阿闍羅パーキングエリア|阿闍羅PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|635.8 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[南津軽郡]]<br />[[大鰐町]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[大鰐バスストップ|大鰐BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|640.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|51 |[[大鰐弘前インターチェンジ|大鰐弘前IC]] |国道7号 |style="text-align:right"|643.7 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[津軽サービスエリア|津軽SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|646.5 | | |colspan="2"|平川市 |- !style="background-color:#BFB"|52 |[[黒石インターチェンジ|黒石IC]] |[[国道102号]](弘前黒石I.C連絡道路) |style="text-align:right"|653.6 | | |rowspan="3" colspan="2"|[[黒石市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[牡丹平バスストップ|牡丹平BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|654.9 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[高舘パーキングエリア|高舘PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|660.8 | | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[羽黒平バスストップ|羽黒平BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|665.5 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[青森市]] |- !style="background-color:#BFB"|53 |[[浪岡インターチェンジ|浪岡IC]]/<span style="background-color: #CCC">JCT</span> |[[青森県道285号浪岡藤崎線]]<br />国道7号([[浪岡バイパス]])<br />{{Ja Exp Route Sign|E64}} [[津軽自動車道]] |style="text-align:right"|667.6 | |浪岡JCTは計画中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/aomori/road/route101/ajigasawa/kashiwakita/2.pdf|title=津軽道整備計画図|accessdate=2021-12-05|publisher=国土交通省東北地方整備局 青森河川国道事務所|format=PDF}}</ref> |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|54 |[[青森ジャンクション|青森JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E4A}} [[青森自動車道]] |style="text-align:right"|677.4 | |青森道 - 青森IC間の直通不可<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.driveplaza.com/route/soukou_seigen.html#05 |title=ご利用時に注意が必要なICやJCT(NEXCO東日本エリア) |publisher=東日本高速道路 |accessdate=2014年2月22日}}</ref> |- |[[青森インターチェンジ|青森IC]] |国道7号([[青森環状道路]]) |style="text-align:right"|679.5 | | |} == 歴史 == {{Timeline of release years | title = 各年ごとの開通区間 | 1972 = (11月)岩槻IC - 宇都宮IC | 1973 = (8月)宇都宮IC - 矢板IC<br />(11月)白河IC - 郡山IC・白石IC - 仙台南IC | 1974 = (12月)矢板IC - 白河IC | 1975 = (4月)郡山IC - 白石IC<br />(11月)仙台南IC - 泉IC | 1976 = (12月)泉IC - 古川IC | 1977 = (11月)古川IC - 築館IC・一関IC - 盛岡南IC | 1978 = (12月)築館IC - 一関IC | 1979 = (9月)大鰐弘前IC - 青森IC<br />(10月)盛岡南IC - 滝沢IC | 1980 = (3月)浦和IC - 岩槻IC<br />(10月)滝沢IC - 西根IC・碇ヶ関IC - 大鰐弘前IC | 1982 = (10月)西根IC - 安代IC | 1983 = (10月)安代IC - 鹿角八幡平IC | 1984 = (9月)鹿角八幡平IC - 十和田IC | 1986 = (7月)十和田IC - 碇ヶ関IC | 1987 = (9月)川口JCT - 浦和IC }} * [[1969年]]([[昭和]]44年):6月に栃木県内の工区で起工式、11月6日には埼玉県の岩槻IC - 羽生IC間の工区で起工式<ref>東北自動車道の起工式『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月6日夕刊 3版 10面</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)[[11月13日]] : 岩槻IC - 宇都宮IC間開通。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[8月9日]] : 宇都宮IC - 矢板IC間開通。 ** [[11月26日]] : 白河IC - 郡山IC間開通。 ** [[11月27日]] : 白石IC - 仙台南IC間開通。 * [[1974年]](昭和49年)[[12月20日]] : 矢板IC - 白河IC間開通。 * [[1975年]](昭和50年) ** [[4月1日]] : 郡山IC - 白石IC間開通<ref>{{Cite news |title=東北自動車道 郡山-白石間 来月一日開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1975-03-16 |page=1 }}</ref>。 ** [[11月28日]] : 仙台南IC - 泉IC間開通。 * [[1976年]](昭和51年)[[12月9日]] : 泉IC - 古川IC間開通<ref>{{Cite news |title=東北自動車道 泉-古川間が来月九日開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1976-12-09 |page=3 }}</ref>。 * [[1977年]](昭和52年) ** [[11月15日]] : 古川IC - 築館IC間開通。 ** [[11月19日]] : 一関IC - 盛岡南IC間開通。 * [[1978年]](昭和53年)[[12月2日]] : 築館IC - 一関IC間開通。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[9月27日]] : 大鰐弘前IC - 青森IC間開通。 ** [[10月13日]] : 紫波IC開通。 ** [[10月18日]] : 盛岡南IC - 滝沢IC間開通。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[3月26日]] : 浦和IC - 岩槻IC間開通。 ** [[10月8日]] : 滝沢IC - 西根IC間開通。 ** [[10月29日]] : 碇ヶ関IC - 大鰐弘前IC間開通。 * [[1981年]](昭和56年)[[8月4日]] : 本宮IC開通。 * [[1982年]](昭和57年) ** [[3月1日]] : 岩槻IC - 加須IC間6車線化。 ** [[3月29日]] : 若柳金成IC開通。 ** [[10月19日]] : 西根IC - 安代IC間開通。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[10月1日]] : 加須IC - 佐野藤岡IC間6車線化。 ** [[10月20日]] : 安代IC - 鹿角八幡平IC間開通。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[6月1日]] : 佐野藤岡IC - 栃木IC間6車線化。 ** [[8月11日]] : 栃木IC - 鹿沼IC間6車線化。 ** [[9月27日]] : 鹿角八幡平IC - 十和田IC間開通。 ** [[11月6日]] : 郡山南IC開通。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[7月24日]] : 花巻南IC開通。 ** [[7月30日]] : 十和田IC - 碇ヶ関IC間開通。 * [[1987年]](昭和62年)[[9月9日]] : 川口JCT - 浦和IC間開通により'''全線開通'''、川口JCTで首都高速川口線と接続。 * [[1988年]](昭和63年)[[10月13日]] : 村田JCT開通により山形自動車道と接続。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月7日]] : 安代JCT開通により八戸自動車道と接続。 * [[1990年]](平成2年) ** [[10月12日]] : 小坂IC開通。 ** [[10月31日]] : 郡山JCT開通により磐越自動車道と接続。 * [[1992年]](平成4年) ** [[3月21日]] : 羽生IC開通。 ** [[11月27日]] : 川口JCTで東京外環自動車道と接続。 * [[1994年]](平成6年)[[8月4日]] : 北上JCT開通により秋田自動車道と接続。 * [[1996年]](平成8年)[[10月8日]] : 北上金ヶ崎IC開通。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月19日]] : 鹿沼IC - 大谷PA間6車線化。 ** [[11月24日]] : 大谷PA - 宇都宮IC間6車線化。 * [[2000年]](平成12年)[[7月27日]] : 栃木都賀JCT開通により北関東自動車道(宇都宮上三川方面)と接続。 * [[2001年]](平成13年)[[8月1日]] : 仙台南ICで仙台南部道路と接続。 * [[2002年]](平成14年) ** [[3月17日]] : 浦和IC(川口方面)出入口開通。 ** [[11月7日]] : 花巻JCT開通により釜石自動車道と接続。 ** [[11月25日]] : 浪岡ICで津軽自動車道と接続。 * [[2003年]](平成15年)[[9月28日]] : 青森JCT開通により青森自動車道と接続。 * [[2004年]](平成16年) ** [[11月1日]] : [[泉本線料金所|泉TB]]廃止。 ** [[12月24日]] : 長者原SAスマートIC[[社会実験]]開始([[2006年]]〈平成18年〉9月30日終了){{efn|当初の実験期間は[[2005年]](平成17年)3月31日まで。}}。 ** [[12月27日]] : 福島松川PAスマートIC社会実験開始(2006年〈平成18年〉9月30日終了){{efn|当初の実験期間は2005年(平成17年)3月31日まで。}}。 * [[2005年]](平成17年) ** [[4月22日]] : 上河内SA、那須高原SAスマートIC社会実験開始(2005年〈平成17年〉9月25日終了){{efn|当初の実験期間は2005年(平成17年)8月28日まで。}}。 ** [[10月1日]] : [[日本道路公団]][[民営化]]に伴い、東日本高速道路株式会社の管轄となる。 * [[2006年]](平成18年) ** [[2月24日]] : 上河内SA、那須高原SAスマートIC社会実験再開。同時に上り線にも設置。 ** [[4月26日]] : 泉PAスマートIC社会実験開始([[2007年]]〈平成19年〉3月31日終了)。 ** 10月1日 : 福島松川スマートIC、長者原スマートIC供用開始。 * [[2007年]](平成19年) ** [[4月1日]] : 上河内スマートIC、那須高原スマートIC、泉PAスマートIC供用開始(24時間)。 ** [[9月14日]] : 鏡石PAスマートIC社会実験開始([[2009年]]〈平成21年〉3月31日終了)。 * [[2009年]](平成21年) ** [[3月29日]] : 黒磯板室IC開通。 ** 4月1日 : 鏡石PAスマートIC供用開始(6-22時)。 ** 6月30日 : 佐野SAスマートIC、上河内SAスマートICへの福島方面出入口追加、那須高原SAスマートICへの福島方面出入口追加の連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2009-06-30 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html}}</ref>。 ** [[8月8日]] : 白河中央スマートIC供用開始(24時間)。 ** [[9月18日]] : 三本木スマートIC供用開始(24時間)。 * [[2010年]](平成22年) ** [[3月27日]] : 富谷JCT開通により仙台北部道路と接続。 ** [[4月17日]] : 岩舟JCT開通により北関東自動車道(佐野田沼方面)と接続。 ** [[12月18日]] : 大衡IC開通。上河内SAスマートIC、那須高原SAスマートICに福島方面出入口を追加しフルIC化。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] : [[東北地方太平洋沖地震]]の影響で路線が大きな損傷を受け、川口JCT - 碇ヶ関IC間で通行止め。 ** [[4月10日]] : 応急復旧工事を終え、全線開通。 ** [[4月28日]] : 佐野SAスマートIC供用開始(24時間)。 ** [[5月29日]] : 久喜白岡JCT開通により首都圏中央連絡自動車道(白岡菖蒲方面)と接続。 ** [[9月5日]] : 3月11日の地震被害による本復旧工事を開始(2012年〈平成24年〉12月22日まで)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.driveplaza.com/info/fukkyu/|title=NEXCO東日本 東日本大震災本復旧工事昼夜連続車線規制:本復旧工事のお知らせ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110818021020/http://www.driveplaza.com/info/fukkyu/|archivedate=2011-08-18|deadlink=2018年7月}}</ref>。 ** [[12月1日]] : 2012年3月31日まで、東日本大震災の復興支援として、白河IC - 安代ICは全日全車種、安代IC - 青森ICは土・日・祝日の普通車・軽自動車等(ETC搭載車限定)で無料措置を実施<ref>{{Cite news |title=東北道、完全無料化決定 12月から |newspaper=河北新報 |date=2011-10-23 |url=https://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111023t71023.htm |publisher=河北新報社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111024060905/https://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111023t71023.htm |archivedate=2011-10-24}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[2月4日]] : 蓮田SAスマートIC供用開始(24時間)。 * [[2013年]](平成25年)[[11月30日]] : 小坂JCT開通により秋田自動車道と接続。 * [[2016年]](平成28年) ** [[9月11日]] : 福島JCT開通により東北中央自動車道(山形方面)と接続。 ** [[10月13日]] : 岩手県公安委員会は、花巻南IC - 盛岡南ICで試験的に最高速度を110&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]に引き上げる方針を定めた。2017年度以降1年以上継続して効果を検証したうえで、他の区間でも引き上げが可能か検討する<ref name="saikou-110km">{{Cite news |title=東北道と新東名の一部区間 最高速度110キロに |newspaper=NHK NEWS WEB |date=2016-10-13 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161013/k10010728371000.html |publisher=日本放送協会 |accessdate=2016-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161013042044/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161013/k10010728371000.html |archivedate=2016-10-13 }}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)[[12月1日]] : 警察庁が花巻南IC - 盛岡南IC間(約30&nbsp;km)の最高速度を試験的に100&nbsp;km/hから110&nbsp;km/hに引き上げ<ref name="nikkei1102">{{Cite news |title=東北道で最高速度引き上げ試行、12月1日から 警察庁、新東名に続き |newspaper=日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23058080S7A101C1CC1000/ |date=2017-11-02 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2017-11-03}}</ref><ref name="iwatekenkeisatu">{{Cite web|和書|url=http://www2.pref.iwate.jp/~hp0802/oshirase/kou-kisei/saikou110shikou.pdf|title=東北道 最高速度110 km/h 試行開始|date=2017-11-02|accessdate=2017-11-03|publisher=岩手県警察|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171107010230/http://www2.pref.iwate.jp/~hp0802/oshirase/kou-kisei/saikou110shikou.pdf|archivedate=2017-11-07|deadlinkdate=2018-07-04}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[3月24日]] : 矢巾スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h30/0312/pdfs/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『矢巾スマートインターチェンジ』が3月24日(土)15時に開通します。 〜岩手県で初めてのスマートインターチェンジ〜|date=2018-03-12|accessdate=2021-01-09|publisher=矢巾町・岩手県・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[4月21日]] : 奥州スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E4東北自動車道『奥州スマートインターチェンジ』が4月21日(土)に開通します。 |publisher=奥州市・岩手県・東日本高速道路株式会社 |date=2018-03-06 |url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h30/0306/pdfs/pdf.pdf |format=PDF |accessdate=2021-01-09}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年) ** [[1月13日]] : 郡山中央スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h30/1214/pdfs/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『郡山中央スマートインターチェンジ』が平成31年1月13日(日)15時に開通します|date=2018-12-14|accessdate=2021-01-09|publisher=郡山市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[3月1日]] : 花巻南IC - 盛岡南IC間(約27&nbsp;km)の最高速度が試験的に110&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hに引き上げ<ref name="nikkei-120km/h">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO4066739030012019CR8000/|title=新東名と東北道の一部、最高速120キロに 3月から|date=2019-01-30|accessdate=2019-02-15|publisher=日本経済新聞}}</ref><ref name="sankei-120km/h">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20190301-GPJPJQK2IZJX3LOGDQOBB7MRR4/|title=新東名で最高速度120キロに引き上げ開始 国内初、東北道でも|date=2019-03-01|accessdate=2019-03-01|publisher=産経新聞}}</ref>。 ** [[4月20日]] : 滝沢中央スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/tohoku/h31/0215/pdfs/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『滝沢中央スマートインターチェンジ』が平成31年4月20日(土)15時に開通します|date=2019-02-15|accessdate=2021-01-09|publisher=滝沢市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[7月29日]] : 蓮田SA(上り線)が蓮田市黒浜から2.5&nbsp;km岩槻IC寄りの同市川島に移設・拡張(スマートICは移設せず)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/head_office/h31/0626/pdfs/pdf.pdf|title=E4東北自動車道 蓮田サービスエリア(上り線)が令和元年7月29日(月)13時にオープン 〜 NEXCO東日本最大級のサービスエリア誕生 〜|date=2019-06-26|accessdate=2021-01-09|publisher=東日本高速道路株式会社・ネクセリア東日本株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[8月1日]]:矢吹泉崎BS運用開始。 * [[2020年]](令和2年) ** [[8月2日]] : 桑折JCT開通により東北中央自動車道(相馬福島道路・相馬方面)と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/kisya/kisyah/images/81453_1.pdf|title=東北自動車道と国道4号が東北中央自動車道により接続! 東北中央自動車道「伊達桑折IC〜桑折JCT」間が令和2年8月2日(日)15時00分に開通|date=2020-06-30|accessdate=2020-06-30|publisher=国土交通省東北地方整備局 福島河川国道事務所・福島県・伊達市・桑折町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[9月16日]] : 花巻南IC - 盛岡南IC間の最高速度を正式に120&nbsp;km/hに引き上げ(試行から本運用への切り替え)<ref name="sankei20200914">{{Cite news|title=岩手の東北道、最高速度120キロへ引き上げ 全国初 |url=https://www.sankei.com/article/20200914-YMEHLNMHNRI3VDNPIJAFZG4ZPI/ |publisher=[[産経新聞]] |date=2020-09-14 |accessdate=2022-09-20 }}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[3月28日]] : 矢板北スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/02/26/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『矢板北スマートインターチェンジ』が令和3年3月28日(日)15時に開通します|date=2021-02-26|accessdate=2021-02-26|publisher=矢板市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[12月4日]] : 平泉スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2021/11/09a/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『平泉スマートインターチェンジ』が 令和3年12月4日(土)15時に開通します|date=2021-11-09|accessdate=2021-11-09|publisher=平泉町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月16日]] : [[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]により被災し、[[国見IC]]-[[白石IC]]間の下り線で長さ約50メートルにわたって亀裂が生じるなどした<ref name=":13">{{Cite web|和書|title=地震で高速道路に50メートルのひび、1日で復旧できてしまうわけは |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ3L4W6QQ3LUTIL013.html?iref=ogimage_rek |website= |accessdate=2022-03-18 |language=ja |publisher=[[朝日新聞デジタル]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東北道で50メートルひび割れ 宮城・白石 |url=https://www.47news.jp/7536265.html |website= |access-date=2023-02-19 |language=ja |publisher=47NEWS}}</ref>。[[白石IC]]-[[国見SA]]間の下り線では約100メートルにわたりひび割れ(幅は30〜50センチ・段差は約50センチ)が生じた<ref>{{Cite web|和書|title=東北道 下り線 白石IC~国見SA間で約100mにわたりひび割れ |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220317/k10013536831000.html |website= |access-date=2023-03-16 |publisher=NHK}}</ref>。しかし、迅速な復旧活動により発災から約16時間後に通行止めは解除され<ref>{{YouTube|GaibUAA6krs|【なぜ早い?】地震で”亀裂”も16時間後に再開 高速道路復旧のウラ側 宮城 NNNセレクション}}</ref>、わずか1日ほどで復旧を果たした<ref>[[日経コンストラクション]] 「世界一」支える日ごろの備え {{CRID|1520292706201680256}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東北道速攻復旧の裏側、他県内の管理事務所が施工会社を緊急派遣 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00142/01305/ |access-date=2023-02-19 |language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref><ref name=":13" />。 ** [[4月24日]] : 蓮田スマートIC(宇都宮方面出口)供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2022/03/07/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『蓮田スマートインターチェンジ』宇都宮方面 からの出口が令和4年4月24日(日)15時に開通します|date=2022-03-07|accessdate=2022-03-07|publisher=蓮田市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[10月12日]] : [[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]] - [[佐野藤岡インターチェンジ|佐野藤岡IC]]間の最高速度を120&nbsp;km/hに引き上げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.police.pref.gunma.jp/koutuubu/03kisei/data/kousoku_sokudokisei01.pdf |format=PDF |title=最高速度規制120キロ運用開始 |date=2022-09-16 |accessdate=2022-09-16 |publisher=群馬県警察本部 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/121952|title=最高速度120km/hへ 東北道の岩槻IC〜佐野藤岡IC 10月12日から!|accessdate=2022-09-16|publisher=乗り物ニュース}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[3月25日]] : 菅生スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2023/02/17/pdf.pdf|title=E4東北自動車道『菅生スマートインターチェンジ』が令和5年3月25日(土)15時に開通します|date=2023-02-17|accessdate=2023-02-17|publisher=宮城県・村田町・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 ** [[9月10日]] : 都賀西方スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2023/07/27/pdf.pdf|title=E4東北自動車道「都賀西方スマートインターチェンジ」 令和5年9月10日(日)15時に開通します。|date=2023-07-27|accessdate=2023-07-27|publisher=栃木市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!!rowspan="2" |備考 |- !上下線||上り線||下り線 ! style="width:99px"|[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br/>[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]] !左記を除く車両 |- | 川口JCT - 浦和TB||rowspan="5" |6||rowspan="5" |3||rowspan="5" |3||rowspan="2" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||80 km/h||80 km/h|| |- | 浦和TB - 岩槻IC||100 km/h<br/>(法定)||rowspan="3" |120 km/h|| |- | 岩槻IC - 佐野藤岡IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||120 km/h<br />(指定)||※1 |- | 佐野藤岡IC - 佐野SA/SIC||rowspan="3" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)<br />||rowspan="3" |100 km/h<br />(法定)|| |- | 佐野SA/SIC - 宇都宮IC||rowspan="2" |100 km/h|| |- | 宇都宮IC - 蔵王PA||rowspan="10"|4||rowspan="10"|2||rowspan="10"|2|| |- | 蔵王PA - 泉IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||80 km/h<br/>(指定)||80 km/h|| |- | 泉IC - 一関IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||100 km/h<br/>(法定)||100 km/h|| |- | 一関IC - 平泉前沢IC||rowspan="2" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||rowspan="2" |80 km/h<br/>(指定)||80 km/h|| |- | 平泉前沢IC - 前沢SA||rowspan="3" |120 km/h|| |- | 前沢SA - 花巻南IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||100 km/h<br/>(法定)|| |- | 花巻南IC - 盛岡南IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||120 km/h<br/>(指定)||※2 |- | 盛岡南IC - 西根IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||100 km/h<br/>(法定)||100 km/h|| |- | 西根IC - 大鰐弘前IC||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||80 km/h<br/>(指定)||80 km/h|| |- | 大鰐弘前IC - 青森JCT||80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||100 km/h<br/>(法定)||100 km/h|| |- | 青森JCT - 青森TB||2||1||1||colspan="2" |(上り線)70 km/h<br/>(下り線)80 km/h||80 km/h|| |- | 青森TB - 青森IC||4||2||2||colspan="2" |50 km/h||60 km/h||※3 |} * ※1 : 約41 kmの区間 * ※2 : おおむね475.6 - 503[[キロポスト]]の区間内 * ※3 : 上り線のランプ内は50 km/hであり、下り線の一部は60 km/h 基本的に[[直線]]の多い高速道路であるが、仙台近郊、岩手県南部、岩手県[[八幡平]]地区 - 青森県[[津軽地方|津軽]]南部の区間では急カーブ、[[トンネル]]、急勾配の連続する[[線形 (路線)|線形]]である。そのため、これらの区間では、臨時規制時を除き常時80&nbsp;km/h[[規制]]となっている。また、下記制限速度120&nbsp;km/h区間でも、大型車については、これまで通り80&nbsp;km/h規制(通常時)を維持する<ref>[https://www.sankei.com/article/20200914-YMEHLNMHNRI3VDNPIJAFZG4ZPI/?outputType=amp 岩手の東北道、最高速度120キロへ引き上げ全国初] - 産経新聞電子版・2020年9月14分17時33分配信</ref><ref>[https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/175214 東北自動車道で最高速度を120キロに引き上げ 群馬県内の8キロを含む約41キロの区間で] - 上毛新聞WEB版・2022年9月15日17時35分公開</ref>。 かつては福島トンネル(東北道で最も東京寄りのトンネル)が80&nbsp;km/h、坂梨トンネル(東北道最長のトンネル)が70&nbsp;km/hにそれぞれ規制されていたが、現在は前者が100&nbsp;km/h、後者が80&nbsp;km/hにそれぞれ緩和された。なお、福島トンネルを除くすべてのトンネルが80&nbsp;km/hに規制されている。 警察庁は[[2016年]](平成28年)[[3月24日]]、一部区間の最高速度を試験的に110&nbsp;km/hに引き上げると発表した。試験区間は花巻南IC - 盛岡南IC間の30.6&nbsp;kmである<ref>{{Cite news|title=高速道の最高速度120キロまで容認 新東名や東北道で試行|newspaper=日本経済新聞|date=2016年3月24日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H04_U6A320C1MM0000/|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2016年5月10日}}</ref>。 花巻南IC - 盛岡南IC間は[[2017年]](平成29年)[[12月1日]]に試験的に最高速度が110&nbsp;km/hに引き上げられ<ref name="nikkei1102" /><ref name="iwatekenkeisatu" />、さらに警察庁は[[2019年]](平成31年)[[1月30日]]、同年[[3月1日]]から花巻南IC - 盛岡南IC間(約27 km)の最高速度を試験的に110&nbsp;km/hから120&nbsp;km/hに引き上げると発表し<ref name="nikkei-120km/h" />、予定通り実施された<ref name="sankei-120km/h" />。 その後、同区間は[[2020年]]([[令和]]2年)[[9月16日]]より、正式に最高速度120&nbsp;km/hとして運用されることとなった。120&nbsp;km/hの指定は全国初となる<ref name="sankei20200914"/>。 [[2022年]](令和4年)[[10月12日]]からは、岩槻IC付近 - 佐野藤岡IC付近の約41&nbsp;kmの区間で最高速度が120&nbsp;km/hに引き上げられた<ref>{{Cite news|title=東北道120km/hで流れは変わった? 初日に実走 速度引き上げ区間の取締りやオービスはどうなる?|newspaper=[[メディア・ヴァーグ|くるまのニュース]]|date=2022-10-15|accessdate=2022-10-16|url=https://kuruma-news.jp/post/566848}}</ref>。 [[二本松インターチェンジ|二本松IC]]と[[福島西インターチェンジ|福島西IC]]の間の区間には事故防止のために道路上に突起物を置いてリズムをとらせて眠気が出ないように[[三三七拍子]]が聞こえる施工がされている箇所があり、施工前と比べて事故が3割減少した<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 2 |publisher=講談社 }}</ref>。 === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 売店は、すべてのサービスエリア (SA)、羽生パーキングエリア (PA) から黒磯PAまでのすべてのパーキングエリア、および鏡石PAから滝沢PAまでの半数のパーキングエリアに設置されている。この中で、[[コンビニエンスストア|コンビニ]]が、蓮田SA(上り線)・羽生PA(下り線)・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・金成PA・津軽SAに設置されている。24時間営業の売店は紫波SAを除く蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのSA、コンビニ化されている羽生PA・黒磯PA・鏡石PA・吾妻PA・菅生PA・金成PA・津軽SAにある。 [[レストラン]]は、国見SAを除く、岩手山SA以南のすべてのサービスエリアと羽生PA(下り線)に設置されている。 阿武隈PA・蔵王PA・泉PA・三本木PA・志波姫PA・中尊寺PA・花巻PAと前森山PA以北のすべてのPAは[[便所|トイレ]]と[[自動販売機]]のみとなっている。 [[ガソリンスタンド]]は、蓮田SAから岩手山SAまでのすべてのサービスエリアと安積PA・吾妻PA(下り線)・菅生PA・鶴巣PA・花輪SA(上り線)に設置されており、深夜営業をしていない吾妻PA(下り線)、花輪SA(上り線)以外はすべて24時間営業。下り線は岩手山SAが最終給油所となり、それより北は[[青森自動車道|青森道]]・[[八戸自動車道|八戸道]]を含めて終点まで給油所は設置されていない。 ==== 主なトンネル ==== * [[福島トンネル]](福島松川PA - 福島西IC):上り線880&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco">{{Cite web|和書|title=【別添】点検計画・修繕計画 (トンネル) |publisher=[[東日本高速道路]] |url=https://www.c-nexco.co.jp/koushin/infrastructure/pdf/tunnel.pdf |format=pdf |accessdate=2021-01-09}}</ref>、下り線909&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" /> * 一関トンネル(一関IC - 中尊寺PA):上り線722&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線1,002&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" /> * 平泉トンネル(中尊寺PA - 平泉前沢IC):上り線1,108&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線1,123&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />([[毛越寺]]、[[中尊寺]]の裏山を貫く) * 竜ヶ森トンネル(前森山PA - 畑PA):上り線1,919&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線1,922&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" /> * 田山トンネル(田山PA - 湯瀬PA):上り線1,164&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線1,187&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" /> * 亀田山トンネル(十和田IC - 小坂IC):上り線1,192&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線1,252&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" /> * [[坂梨トンネル]](小坂JCT - 碇ヶ関IC):上り線4,254&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />、下り線4,265&nbsp;m<ref name="tunnel_e-nexco" />(東北自動車道最長トンネル、秋田・青森県境) ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center" !区間!!上り線!!下り線 |- |川口JCT - 福島松川PA||0||0 |- |福島松川PA - 福島西IC||1||1 |- |福島西IC - 一関IC||0||0 |- |一関IC - 中尊寺PA||1||1 |- |中尊寺PA - 平泉前沢IC||1||1 |- |平泉前沢IC - 前森山PA||0||0 |- |前森山PA - 畑PA||1||1 |- |畑PA - 安代JCT||1||1 |- |安代JCT - 安代IC||0||0 |- |安代IC - 田山PA||2||2 |- |田山PA - 湯瀬PA||4||4 |- |湯瀬PA - 鹿角八幡平IC||2||2 |- |鹿角八幡平IC - 十和田IC||0||0 |- |十和田IC - 小坂IC||1||1 |- |小坂IC - 小坂JCT||0||0 |- |小坂JCT - 碇ヶ関IC||2||2 |- |碇ヶ関IC - 阿闍羅PA||0||0 |- |阿闍羅PA - 大鰐弘前IC||1||1 |- |大鰐弘前IC - 青森IC||0||0 |- !合計!!17!!17 |} 総延長が長い割にトンネルは少ない。特に関東地方および宮城県の区間にはトンネルは1本もない。福島県も福島トンネルの1本のみしかない。安代JCT以北は東北道最長の坂梨トンネルをはじめトンネルが多く、この区間だけで東北道の全トンネル数の3分の2以上を占める。 ==== 道路照明灯 ==== * 川口JCT - 久喜IC * 蔵王PA - 仙台南IC下り線、盛岡・青森方面 連続照明区間の設定基準は1日平均5万台の交通量であり、本来なら川口JCTから栃木都賀JCTまでの全線に設置されるはずであるが、現状では川口JCT - 久喜IC間のみ設置されている。 <!--* IC・SA・PA周辺--> === 道路管理者 === 2005年(平成17年)10月の道路公団民営化後は全区間が[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)の営業範囲となっており、[[白河インターチェンジ|白河IC]]を境に南側を[[東日本高速道路関東支社|NEXCO東日本関東支社]]が、北側を[[東日本高速道路東北支社|NEXCO東日本東北支社]]がそれぞれ管轄している。 * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]][[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 加須管理事務所 : 川口JCT - 佐野藤岡IC ** 宇都宮管理事務所 : 佐野藤岡IC - 白河IC<ref>{{Cite web|和書|title=事務所組織の統合について {{!}} NEXCO東日本 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2023/0609/00012592.html |website=NEXCO 東日本 |access-date=2023-08-08 |language=ja}}</ref> * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]][[東日本高速道路東北支社|東北支社]] ** 郡山管理事務所 : 白河IC - 本宮IC ** 福島管理事務所 : 本宮IC - 白石IC ** 仙台管理事務所 : 白石IC - 一関IC ** 北上管理事務所 : 一関IC - 花巻IC ** 盛岡管理事務所 : 花巻IC - 安代IC ** 青森管理事務所 : 安代IC - 青森IC ==== ハイウェイラジオ ==== * 浦和(川口JCT - 浦和IC) * 蓮田(蓮田SA - 久喜白岡JCT) * 羽生(羽生PA - 館林IC) * 館林(館林IC - 佐野藤岡IC) * 大谷(鹿沼IC - 宇都宮IC) * 安積(須賀川IC - 安積PA) * 安達太良(安達太良SA - 二本松IC) * 福島(福島トンネル - 福島西IC) * 蔵王(白石IC - 村田IC) * 菅生(菅生PA - 仙台南IC) * 三本木(三本木PA - 古川IC) * 前沢(平泉前沢IC - 水沢IC) * 矢巾(紫波IC - 矢巾PA) [[識別信号|コールサイン]]は[[東日本高速道路関東支社|関東支社]]管内(浦和 - 大谷)、[[東日本高速道路東北支社|東北支社]]管内(安積 - 矢巾)ともに「ハイウェイラジオ東北道○○」と[[放送]]される。(例: 浦和であれば「ハイウェイラジオ東北道浦和」)<!--[[東日本高速道路東北支社|東北支社]]管内では?--> === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!|平成17年(2005年)度!!平成22年(2010年)度!!平成27年(2015年)度!!令和3(2021)年度 |- | 川口JCT - 浦和第二IC || 84,255 || 84,278 || 93,057 || 96,648 |- | 浦和第二IC - 浦和第一IC || 84,113 || 85,032 || 95,066 || 86,142 |- | 浦和第一IC - 岩槻IC || 94,813 || 96,253 || 95,066 || 96,713 |- | 岩槻IC - 蓮田SA/SIC || rowspan="3" | 86,307 || rowspan="3" |86,264 || 88,519 || 90,911 |- | 蓮田SA/SIC - 久喜白岡JCT || 85,265 || 86,264 |- | 久喜白岡JCT - 久喜IC || 79,964 || 86,328 |- | 久喜IC - 加須IC || 75,858 || 77,411 || 76,679 || 78,276 |- | 加須IC - 羽生IC || 69,401 || 72,228 || 72,516 || 70,344 |- | 羽生IC - 館林IC || 68,739 || 72,174 || 72,745 || 68,147 |- | 館林IC - 佐野藤岡IC || 61,411 || 64,923 || 65,952 || 61,277 |- | 佐野藤岡IC - 佐野SA/SIC || rowspan="3" | 56,382 || rowspan="2" | 64,395 || 62,396 || 57,335 |- | 佐野SA/SIC - 岩舟JCT || 63,717 || 58,661 |- | 岩舟JCT - 栃木IC|| 67,220 || 76,947 || 66,444 |- | 栃木IC - 栃木都賀JCT || 56,100 || 66,784 || 75,707 || 64,491 |- | 栃木都賀JCT - 鹿沼IC || 44,496 || 47,536 || 50,630 || 42,099 |- | 鹿沼IC - 宇都宮IC || 40,308 || 42,133 || 44,905 || 37,977 |- | 宇都宮IC - 上河内SA/SIC || rowspan="2" | 36,499 || 38,247 || 42,500 || 36,329 |- | 上河内SA/SIC - 矢板IC ||37,468 || 41,770 || 35,766 |- | 矢板IC - 矢板北PA/SIC || rowspan="2" | 33,942 || rowspan="2" | 33,299 || rowspan="2" | 38,441 || rowspan="2" | 32,237 |- | 矢板北PA/SIC - 西那須野塩原IC |- | 西那須野塩原IC - 黒磯板室IC || rowspan="2" | 28,928 || 28,475 || 34,764 || 29,140 |- | 黒磯板室IC - 那須IC || 26,689 || 32,801 || 27,084 |- | 那須IC - 那須高原SA/SIC || rowspan="2" | 25,997 || 24,081 || 29,972 || 24,872 |- | 那須高原SA/SIC - 白河IC || 23,747 || 29,734 || 24,613 |- | 白河IC - 白河中央SIC || rowspan="2" | 25,572 || 23,298 || 29,971 || 24,489 |- | 白河中央SIC - 矢吹IC || 24,615 || 31,870 || 26,811 |- | 矢吹IC - 鏡石PA/SIC || rowspan="2" | 27,177 || 25,400 || 32,607 || 27,821 |- | 鏡石PA/SIC - 須賀川IC|| 25,734 || 32,921 || 28,138 |- | 須賀川IC - 郡山南IC || 28,375 || 26,407 || 33,182 || 28,604 |- | 郡山南IC - 郡山中央SIC || rowspan="2" | 28,855 || rowspan="2" | 26,719 || rowspan="2" | 33,677 || rowspan="2" | 29,367 |- | 郡山中央SIC - 郡山IC |- | 郡山IC - 郡山JCT || 36,507 || 35,125 || 43,949 || 37,328 |- | 郡山JCT - 本宮IC || 38,269 || 38,439 || 45,967 || 38,468 |- | 本宮IC - 二本松IC || 39,902 || 39,465 || 46,672 || 39,415 |- | 二本松IC - 福島松川PA/SIC || 37,949 || 38,179 || 45,255 || 38,867 |- | 福島松川PA/SIC - 福島西IC || 37,697 || 37,380 || 44,145 || 38,117 |- | 福島西IC - 福島JCT || rowspan="2" | 32,210 || rowspan="2" | 31,512 || rowspan="2" | 37,078 || 33,201 |- | 福島JCT - 福島飯坂IC || 31,037 |- | 福島飯坂IC - 桑折JCT || rowspan="2" | 30,810 || rowspan="2" | 29,792 || rowspan="2" | 35,024 || 30,890 |- | 桑折JCT - 国見IC || 28,673 |- | 国見IC - 白石IC || 30,361 || 29,417 || 34,632 || 28,227 |- | 白石IC - 村田IC || 30,764 || 30,274 || 35,413 || 29,055 |- | 村田IC - 村田JCT || 34,826 || 34,411 || 39,814 || 33,404 |- | 村田JCT - 仙台南IC || 40,168 || 40,871 || 46,214 || 39,702 |- | 仙台南IC - 仙台宮城IC || 33,188 || 35,888 || 37,740 || 30,833 |- | 仙台宮城IC - 泉PA/SIC || rowspan="2" | 28,879 || 28,879 || 32,492 || 26,857 |- | 泉PA/SIC - 泉IC || 29,933 || 32,348 || 27,074 |- | 泉IC - 富谷JCT || rowspan="2" | 33,398 || 33,383 || 37,279 || 31,107 |- | 富谷JCT - 大和IC || 36,314 || 44,990 || 38,354 |- | 大和IC - 大衡IC || rowspan="3" | 33,096 || 33,589 || 42,326 || 35,439 |- | 大衡IC - 三本木PA/SIC || 33,589 || 41,022 || 34,051 |- | 三本木PA/SIC - 古川IC || 32,026 || 38,316 || 31,318 |- | 古川IC - 長者原SA/SIC || 26,954 || 26,342 || 32,847 || 26,076 |- | 長者原SASIC - 築館IC || 26,701 || 25,554 || 32,112 || 25,474 |- | 築館IC - 若柳金成IC || 23,755 || 22,640 || 28,514 || 21,873 |- | 若柳金成IC - 一関IC || 22,055 || 21,133 || 26,705 || 21,185 |- | 一関IC - 平泉SIC || rowspan="2" | 22,383 || rowspan="2" | 21,548 || rowspan="2" | 26,828 || rowspan="2" | 21,548 |- | 平泉SIC - 平泉前沢IC |- | 平泉前沢IC - 奥州SIC || rowspan="2" | 22,475 || rowspan="2" | 21,888 || rowspan="2" | 27,252 || rowspan="2" | 22,357 |- | 奥州SIC - 水沢IC |- | 水沢IC - 北上金ヶ崎IC || 24,914 || 24,393 || 29,162 || 24,033 |- | 北上金ヶ崎IC - 北上JCT || 25,475 || 25,025 || 29,855 || 24,915 |- | 北上JCT - 北上江釣子IC || 23,659 || 23,253 || 27,720 || 23,476 |- | 北上江釣子IC - 花巻南IC || 23,646 || 23,177 || 27,750 || 23,325 |- | 花巻南IC - 花巻JCT || 23,922 || 23,297 || 27,885 || 23,804 |- | 花巻JCT - 花巻IC || 24,131 || 23,866 || 29,555 || 25,626 |- | 花巻IC - 紫波IC || 24,944 || 24,423 || 30,250 || 26,279 |- | 紫波IC - 矢巾PA/SIC || rowspan="2" | 24,345 || rowspan="2" | 23,540 || rowspan="2" | 28,860 ||25,718 |- | 矢巾PA/SIC - 盛岡南IC || 24,206 |- | 盛岡南IC - 盛岡IC || 20,826 || 19,191 || 21,912 || 19,507 |- | 盛岡IC - 滝沢中央SIC || rowspan="2" | 18,657 || rowspan="2" | 17,279 || rowspan="2" | 20,780 || 19,297 |- | 滝沢中央SIC - 滝沢IC || 18,077 |- | 滝沢IC - 西根IC || 16,341 || 15,462 || 18,308 || 15,679 |- | 西根IC - 松尾八幡平IC || 14,872 || 14,059 || 16,555 || 13,747 |- | 松尾八幡平IC - 安代JCT || 13,772 || 13,772 || 15,987 || 13,124 |- | 安代JCT - 安代IC || {{0}}8,388 || {{0}}8,113 || {{0}}9,312 || {{0}}7,251 |- | 安代IC - 鹿角八幡平IC || {{0}}7,963 || {{0}}7,498 || {{0}}8,875 || {{0}}7,016 |- | 鹿角八幡平IC - 十和田IC || {{0}}7,804 || {{0}}7,498 || {{0}}8,488 || {{0}}6,521 |- | 十和田IC - 小坂IC || {{0}}6,557 || {{0}}6,961 || {{0}}7,512 || {{0}}5,868 |- | 小坂IC - 小坂JCT || rowspan="2" | {{0}}6,428 || rowspan="2" | {{0}}6,130 || {{0}}7,603 || {{0}}5,986 |- | 小坂JCT - 碇ヶ関IC || {{0}}8,078 || {{0}}6,231 |- | 碇ヶ関IC - 大鰐弘前IC || {{0}}7,510 || {{0}}7,287 || {{0}}8,408 || {{0}}6,680 |- | 大鰐弘前IC - 黒石IC || {{0}}5,620 || {{0}}5,276 || {{0}}6,243 || {{0}}5,139 |- | 黒石IC - 浪岡IC || {{0}}6,862 || {{0}}7,087 || {{0}}7,776 || {{0}}6,410 |- | 浪岡IC - 青森JCT || {{0}}8,480 || {{0}}9,797 || {{0}}9,519 || {{0}}8,432 |- | 青森JCT - 青森IC || {{0}}3,051 || {{0}}2,980 || {{0}}3,526 || {{0}}3,005 |} {{smaller|(出典:「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)}} 2002年度(平成14年度)(2003年度JH年報) * 区間別日平均交通量 : 29,745台(前年度比97.9%) 川口JCT - 栃木都賀JCTまでは各区間5万台以上あるのに対して、安代JCT - 青森ICまでは各区間1万台未満である。 * 総交通量 ** 年間 : 92,692,976台(前年度比98.8%) ** 日平均 : 253,953台 ==== 渋滞など ==== {{出典の明記|section=1|date=2010年8月}} [[File:Tohoku expwy.jpg|thumb|right|白河IC付近の[[渋滞]]<br />([[2006年]](平成18年)[[8月12日]])]] [[ゴールデンウィーク]] (GW) や[[お盆]]の時期においては、大規模な[[渋滞]]が発生することは他の高速道路と同様である。GWやお盆の帰省ラッシュには40 - 60&nbsp;kmに及ぶ長い渋滞が発生する。 季節に関係なく、渋滞の発生しやすい地点は上りの[[川口ジャンクション|川口JCT]]、上下線の[[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]]、利根川橋、[[渡良瀬川|渡良瀬川橋]]、[[久喜インターチェンジ|久喜IC]]、[[加須インターチェンジ|加須IC]]、[[羽生インターチェンジ|羽生IC]]、[[館林インターチェンジ|館林IC]]、[[佐野藤岡インターチェンジ|佐野藤岡IC]]、[[栃木インターチェンジ|栃木IC]]、八幡沢橋、[[宇都宮インターチェンジ|宇都宮IC]]、[[上河内サービスエリア|上河内SA]]、[[鬼怒川|鬼怒川橋]]、[[矢板インターチェンジ|矢板IC]]、[[矢板北パーキングエリア|矢板北PA]]、[[箒川|箒川橋]]、[[西那須野塩原インターチェンジ|西那須野塩原IC]]、[[黒磯板室インターチェンジ|黒磯板室IC]]、[[那須インターチェンジ|那須IC]]、[[那須高原サービスエリア|那須高原SA]]、[[福島トンネル]]などである。渋滞が発生しやすい時間帯は下り線は朝-午前、上り線は夕-夜である。行楽シーズン、[[夏|夏場]]は下り線の那須IC出口で[[路肩]]や[[本線車道|本線]]にはみ出すぐらいの渋滞になることがある。また、[[ショッピングセンター|大型ショッピングセンター]]や[[アウトレットモール]]の最寄のIC(盛岡IC、黒磯板室IC、佐野藤岡ICなど)ではIC出口の[[料金所]]を先頭に本線上までの渋滞が発生する場合も多い。季節に関係なく、土日と祝日には上りの栃木IC以南の渋滞が[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]を過ぎて北関東道西行きへ5&nbsp;km程度伸びることがある。さらに、朝や夕方には[[東京外環自動車道|東京外環道]]内回りや[[首都高速川口線]]上りの渋滞が川口JCTを過ぎて東北道の浦和IC付近まで伸びてくることもある。 また、[[郡山ジャンクション|郡山JCT]]より南の区間は[[磐越自動車道]]と[[常磐自動車道]]が[[バイパス道路|バイパス]]路線として機能しており、これにより例年であれば渋滞がある程度緩和されていた。しかし、東日本大震災直後の2011年(平成23年)のGWでは[[福島第一原子力発電所事故]]の影響で原発付近を通過する常磐道を避ける車両が東北道に集中したためか、下り線の栃木IC付近を先頭に川口JCTまで70&nbsp;km以上渋滞するなど東北道では例年以上に激しい渋滞が発生した一方で、常磐道ではほとんど渋滞が発生しなかった。2015年(平成27年)3月の常磐道の全通後は東北道から常磐道への交通の転換がみられており、GWやお盆をはじめとする最混雑期に例年発生していた東北道の福島トンネルなどの渋滞が減少している。 最近では、下り線で北東北の[[岩手山サービスエリア|岩手山SA]]から終点の[[青森インターチェンジ|青森IC]]までの約140&nbsp;kmの区間に[[ガソリンスタンド]]がないため、岩手山SAでは特に給油目的の車が殺到し渋滞となる事が多い。さらに、かつてガソリンスタンドがあった[[花輪サービスエリア|花輪SA]]や[[津軽サービスエリア|津軽SA]]のガソリンスタンド閉鎖の告知が道中に掲示されてはいるが、その事に気付かず給油に訪れたドライバーが立ち往生したり、[[ガス欠]]により路上で停車したりする問題も起きている<!--[[2010年]](平成22年)[[5月7日]]放送「とくダネ!」より--><ref>{{Cite news|title=140キロ「空白地帯」も 高速ガソリンスタンドの撤退相次ぐ|newspaper=フジサンケイビジネスアイ|date=2012-06-22|url=https://web.archive.org/web/20120708224621/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/120622/mca1206220503004-n1.htm|accessdate=2012-6-23}}</ref>。なお、[[十和田インターチェンジ|十和田IC]]では、ETC装着車に限り、下り線でインターを一旦出た後、指定スタンドで給油し、<!---インター退出後--->1時間以内に再び下り本線に戻る場合のみ、通しの通行料金で利用できる。利用条件などの詳細は、下記脚注にあるNEXCO東日本のリリースを参照<ref>{{PDFlink|[https://www.e-nexco.co.jp/rest/news/h30/0425/pdfs/01.pdf 下り線十和田ICを一時退出し、指定ガソリンスタンドにて給油ができます]}} - NEXCO東日本</ref>。 <!-- 冬期間は福島県以北で[[タイヤチェーン#概要|チェーン規制]]が行われることも多く、チェーン規制の有無にかかわらず11月中頃-4月始めまではこれらの装備が必要となる。[[スタッドレス|冬用タイヤ]]装着や[[タイヤチェーン]]が必要である。晴れていても[[天候]]が急変しやすく、突発的に[[地吹雪]]が起こり視界不良になりやすい。また、吹雪により福島県以北では長い区間で通行止が実施される場合も多い。 --><!-- [[WP:NOTHOWTO]] [[WP:NOR]]に抵触 --> == 地理 == === 通過する自治体 === * [[埼玉県]] ** [[川口市]] - [[さいたま市]]([[緑区 (さいたま市)|緑区]] - [[岩槻区]]) - [[蓮田市]] - [[白岡市]] - [[久喜市]] - [[加須市]] - [[羽生市]] * [[群馬県]] ** [[邑楽郡]][[明和町 (群馬県)|明和町]] - [[館林市]] - 邑楽郡[[板倉町]] * [[栃木県]] ** [[佐野市]] - [[栃木市]] - [[鹿沼市]] - [[宇都宮市]] - [[さくら市]] - [[塩谷郡]][[塩谷町]] - [[矢板市]] - [[那須塩原市]] - [[那須郡]][[那須町]] * [[福島県]] ** [[西白河郡]][[西郷村]] - [[白河市]] - 西白河郡[[泉崎村]] - 西白河郡[[矢吹町]] - [[岩瀬郡]][[鏡石町]] - [[須賀川市]] - [[郡山市]] - [[本宮市]] - [[安達郡]][[大玉村]] - [[二本松市]] - [[福島市]] - [[伊達郡]][[桑折町]] - 伊達郡[[国見町]] * [[宮城県]] ** [[白石市]] - [[刈田郡]][[蔵王町]] - [[柴田郡]][[村田町]] - [[仙台市]]([[太白区]]) - [[名取市]] - 仙台市(太白区 - [[青葉区 (仙台市)|青葉区]] - [[泉区 (仙台市)|泉区]]) - [[富谷市]] - 黒川郡[[大和町]] - 黒川郡[[大衡村]] - [[大崎市]] - [[栗原市]] * [[岩手県]] ** [[一関市]] - [[西磐井郡]][[平泉町]] - [[奥州市]] - [[胆沢郡]][[金ケ崎町]] - [[北上市]] - [[花巻市]] - [[紫波郡]][[紫波町]] - 紫波郡[[矢巾町]] - [[盛岡市]] - [[滝沢市]] - [[八幡平市]] * [[秋田県]] ** [[鹿角市]] - [[鹿角郡]][[小坂町]] * [[青森県]] ** [[平川市]] - [[南津軽郡]][[大鰐町]] - [[弘前市]] - 平川市 - [[黒石市]] - [[青森市]] === 接続する高速道路 === * [[File:Shuto Urban Expwy Sign S1.svg|26px]] [[首都高速川口線]](川口JCTで直結) * {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]](川口JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[久喜白岡ジャンクション|久喜白岡JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E50}} [[北関東自動車道]]([[岩舟ジャンクション|岩舟JCT]]、[[栃木都賀ジャンクション|栃木都賀JCT]]で接続) *: ※岩舟JCTは[[高崎ジャンクション|高崎]]・[[関越自動車道|関越道]]方面、栃木都賀JCTは[[水戸南インターチェンジ|水戸]]・[[常磐自動車道|常磐道]]方面に接続 * {{Ja Exp Route Sign|E81}} [[日光宇都宮道路]]([[宇都宮インターチェンジ|宇都宮IC]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E80}} [[あぶくま高原道路]]([[矢吹インターチェンジ|矢吹IC]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]]([[郡山ジャンクション|郡山JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E13}} [[東北中央自動車道]]([[福島ジャンクション|福島JCT]]、[[桑折ジャンクション|桑折JCT]]で接続) *: ※福島JCTは[[山形ジャンクション|山形]]方面、桑折JCT([[相馬福島道路]])は[[相馬インターチェンジ|相馬]]・[[常磐自動車道|常磐道]]方面に接続 * {{Ja Exp Route Sign|E48}} [[山形自動車道]]([[村田ジャンクション|村田JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E48}} [[仙台南部道路]]([[仙台南インターチェンジ|仙台南IC]]で接続) * [[仙台西道路]]([[仙台宮城インターチェンジ|仙台宮城IC]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E6}} [[仙台北部道路]]([[富谷ジャンクション|富谷JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E46}} [[秋田自動車道]]([[北上ジャンクション|北上JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E46}} [[釜石自動車道]]([[花巻ジャンクション|花巻JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E4A}} [[八戸自動車道]]([[安代ジャンクション|安代JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E7}} 秋田自動車道([[小坂ジャンクション|小坂JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E64}} [[津軽自動車道]]([[浪岡インターチェンジ|浪岡IC]]で国道7号交差点を介して接続) * {{Ja Exp Route Sign|E4A}} [[青森自動車道]]([[青森ジャンクション|青森JCT]]で接続) [[仙台市]]周辺の東北道は、[[仙台都市圏環状自動車専用道路]]の一部を構成する。 == ギャラリー == {{Commons|Category:Tohoku Expressway}} <gallery> ファイル:TOHOKU EXPRESSWAY & Shinkansen closs.JPG|東北新幹線との交差部分(埼玉県白岡市) ファイル:Tonegawabashi on Tohoku Expressway.jpg|埼玉県と群馬県の境を渡る利根川橋(群馬県邑楽郡明和町) ファイル:Tohokuexpway 300kmpoint downline.jpg|起点から300 kmの標識(宮城県白石市) ファイル:Tohoku Expressway shiroishi near291kp.jpg|宮城県白石市内を通過中の東北新幹線上り車内より撮影 ファイル:KosakaPA Memorial 110827.jpg|小坂パーキングエリアにある全通記念碑 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author= 東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社 |title=設計要領 第五集 交通管理施設 |year = 2017|date=2017-07 |publisher= 株式会社高速道路総合技術研究所|ref=harv}} == 関連項目 == {| |- style="vertical-align:top" | * [[高速自動車国道]] * [[東北地方の道路一覧]] * [[関東地方の道路一覧]] | * [[国道4号]] * [[東北新幹線]] * [[東北本線]] | * [[陸奥国|みちのく]] |} * [[麻雀のローカル役#東北自動車道]] * [[国道122号]] * [[国道282号]] * [[国道7号]] * [[花輪線]] * [[奥羽本線]] == 外部リンク == {{Commonscat|Tohoku Expressway}} * [https://www.e-nexco.co.jp/ NEXCO東日本 オフィシャルサイト] * [https://www.driveplaza.com/dp/SAPAServRes?keiroCodeCSV=&startIcName=&arriveIcName=&arealist=0&HIGHWAY=1040&AREA= 【E4】東北自動車道のサービスエリア検索結果 | ドラぷら(NEXCO東日本)] {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{3環状9放射}} {{東北自動車道}} {{DEFAULTSORT:とうほくしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:東北自動車道|*とうほくしとうしやとう]] [[Category:関東地方の道路]] [[Category:東北地方の道路]]
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15,033
ストリップ修正
ストリップ修正(ストリップしゅうせい)は、製版上の誤謬・変更部分を削り、ストリップフィルムと呼ばれる非常に薄いフィルムに写した正しい文字を張ることによって修正すること。集版したフィルム全体の修正(完全版)はしていないものである。ストリップ修正した部分にはストリップフィルムによる独特の影が映るのでその確認が出来る。 最近ではストリップ修正をせずに、1版出し直す場合が多い。背景としては、これができる技術者自体が減少していること、その手間とコストが1版出し直しと比較して廉価とは言えなくなっていること、ストリップフィルムが入手困難になってきていることが挙げられる。しかしながら、重版までに年数がかかり、元の電子データが無くなっていた場合に、たいへん便利である。 2003年の時点で日本国内でのストリップフィルム製造はすでに終了しており、在庫を残すのみである。そもそも、進行しつつあるCTP化によって、製版フィルムを使用すること自体が減少傾向にある中、消え去りつつある技術となっている。
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ストリップ修正(ストリップしゅうせい)は、製版上の誤謬・変更部分を削り、ストリップフィルムと呼ばれる非常に薄いフィルムに写した正しい文字を張ることによって修正すること。集版したフィルム全体の修正(完全版)はしていないものである。ストリップ修正した部分にはストリップフィルムによる独特の影が映るのでその確認が出来る。 最近ではストリップ修正をせずに、1版出し直す場合が多い。背景としては、これができる技術者自体が減少していること、その手間とコストが1版出し直しと比較して廉価とは言えなくなっていること、ストリップフィルムが入手困難になってきていることが挙げられる。しかしながら、重版までに年数がかかり、元の電子データが無くなっていた場合に、たいへん便利である。 2003年の時点で日本国内でのストリップフィルム製造はすでに終了しており、在庫を残すのみである。そもそも、進行しつつあるCTP化によって、製版フィルムを使用すること自体が減少傾向にある中、消え去りつつある技術となっている。
{{出典の明記|date=2023年1月2日 (月) 13:06 (UTC)}} '''ストリップ修正'''(ストリップしゅうせい)は、[[製版]]上の誤謬・変更部分を削り、ストリップフィルムと呼ばれる非常に薄いフィルムに写した正しい文字を張ることによって修正すること。集版したフィルム全体の修正(完全版)はしていないものである。ストリップ修正した部分にはストリップフィルムによる独特の影が映るのでその確認が出来る。 最近ではストリップ修正をせずに、1版出し直す場合が多い。背景としては、これができる技術者自体が減少していること、その手間とコストが1版出し直しと比較して廉価とは言えなくなっていること、ストリップフィルムが入手困難になってきていることが挙げられる。しかしながら、重版までに年数がかかり、元の電子データが無くなっていた場合に、たいへん便利である。 [[2003年]]の時点で日本国内でのストリップフィルム製造はすでに終了しており、在庫を残すのみである。そもそも、進行しつつある[[コンピューター・トゥ・プレート|CTP]]化によって、製版フィルムを使用すること自体が減少傾向にある中、消え去りつつある技術となっている。 == 関連項目 == *[[印刷]] *[[製版]] [[Category:印刷|すとりつふしゆうせい]]
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15,034
薄膜
薄膜(はくまく)とは薄い膜のこと。分野によって定義が異なる。 以下の項目は1の薄膜についての記述となっている。 薄膜の製造方法は以下のように分類できる。 薄膜は膜の厚みによって分類され以下のようになる。 また、薄膜の持つ特性からコールドミラーコート、バンドパスフィルター、反射防止コートなど様々な種類に分類されている。 薄膜の厚みは2種類測定される。1つ目は物理膜厚と呼ばれる単なる薄膜の厚みであり、これは水晶振動子と呼ばれる電圧をかけると振動して周波数を発生させる機器を用いる。2つ目は光学膜厚と呼ばれるもので膜の厚みに膜の持つ屈折率をかけることで得られるものである。実際には、光学膜厚は計算ではなく、光学モニターによって測定されている。 薄膜を評価する方法は多数存在し、電子線を用いる方法(LEED、SEM、TEMなど)、イオンを用いる方法(ISS、SIMSなど)、X線回折を用いるものや応力検査などがある。
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薄膜(はくまく)とは薄い膜のこと。分野によって定義が異なる。 表面物理学での薄膜(Thin film)は、試料基板上に蒸着やスパッタリング等の手法を使って作られる、数~数十層からなる原子層のこと。 ソフトマターでの薄膜は、両親媒性分子を参照。 以下の項目は1の薄膜についての記述となっている。
'''薄膜'''(はくまく)とは薄い[[膜]]のこと。分野によって定義が異なる。 # [[表面物理学]]での''薄膜''('''[[:en:Thin film|Thin film]]''')は、試料基板上に[[蒸着]]や[[スパッタリング]]等の手法を使って作られる、数~数十層からなる原子層のこと。 # [[ソフトマター]]での薄膜は、[[両親媒性分子]]を参照。 以下の項目は1の'''薄膜'''についての記述となっている。 ==製造方法== 薄膜の製造方法は以下のように分類できる。<ref>{{Cite journal|和書 |author=金原 粲 |title=薄膜工学 |edition=第3版 |date=平成28年 |publisher=丸善出版 |isbn=978-4-621-30098-5}}</ref> ===気相堆積法=== *[[物理気相成長|物理気相成長法(PVD: Physical Vapor Deposition)]] :-原料の気体を、蒸発やスパッタリングなどの物理的な手法で発生させる方法。 :*[[蒸着|真空蒸着]] ::-物質を真空中で蒸発させて、基板上で薄膜を成長させる方法。 ::*抵抗加熱蒸着 ::*{{仮リンク|電子ビーム加熱蒸着|en|Electron-beam physical vapor deposition}} ::*{{仮リンク|パルスレーザー堆積(PLD)|en|Pulsed laser deposition}} ::*[[分子線エピタキシー法|分子線エピタキシー(MBE)]] ::*イオン/ラジカル蒸着 :*[[スパッタリング]]<br />高エネルギーのイオンや原子をターゲット材料に衝突させることによって、ターゲット材料の表面から原子が叩き出されることを利用する方法。 *[[化学気相成長|化学気相成長法(CVD: Chemical Vapor Deposition)]] :-気体の原料を、基板の近傍で、熱やプラズマによって反応させて薄膜を生成する方法。 :*[[熱CVD]] ::*[[有機金属気相成長法|有機金属CVD(MOCVD)]] :*[[プラズマCVD]] :*[[原子層堆積]] ===液相堆積法=== *融液法 :-液相エピタキシー(LPE)など *溶液法 **[[めっき]] **[[ゾルゲル法]] **塗布法 ***[[スピンコート]] ***スプレー法 ***印刷 ***[[インクジェット]] ==薄膜の分類== 薄膜は膜の厚みによって分類され以下のようになる。 * 膜の厚みが数10μmならば厚膜 * 膜の厚みが数μmならば薄膜 * 膜の厚みが数nm以下ならば超薄膜 また、薄膜の持つ特性から[[コールドミラー]]コート、バンドパスフィルター、反射防止コートなど様々な種類に分類されている。 ==薄膜の測定== 薄膜の厚みは2種類測定される。1つ目は物理膜厚と呼ばれる単なる薄膜の厚みであり、これは[[水晶振動子]]と呼ばれる電圧をかけると振動して周波数を発生させる機器を用いる。2つ目は光学膜厚と呼ばれるもので膜の厚みに膜の持つ[[屈折率]]をかけることで得られるものである。実際には、光学膜厚は計算ではなく、[[光学]]モニターによって測定されている。 ==薄膜の評価== 薄膜を評価する方法は多数存在し、[[電子線]]を用いる方法(LEED、[[走査型電子顕微鏡|SEM]]、[[TEM]]など)、[[イオン]]を用いる方法(ISS、[[SIMS]]など)、[[X線回折]]を用いるものや応力検査などがある。 ==脚注== ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== * [[平均自由行程]] (mean free path) * [[膜厚分布]] * [[薄膜光学]] * [[光学薄膜]] * [[構造色]] ==外部リンク== * [http://www.youtube.com/watch?v=YSX-go4BeF4 “薄膜と皆さんの関係”毎日の生活における皆さんと薄膜の関係に関するアニメーションビデオ] {{薄膜}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はくまく}} [[Category:薄膜|*]] [[Category:物質]] [[Category:太陽電池]]
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15,035
量子ホール効果
量子ホール効果(りょうしホールこうか、英: quantum Hall effect)は、半導体‐絶縁体界面や半導体のヘテロ接合などで実現される、2次元電子系に対し強い磁場(強磁場)を印加すると、電子の軌道運動が量子化され、エネルギー準位が離散的な値に縮退し、ランダウ準位が形成される現象を指す。ランダウ準位の状態密度は実際の試料では不純物の影響によってある程度の広がりを持つ。この時、フェルミ準位の下の電子は、波動関数が空間的に局在するようになる。これをアンダーソン局在という。 そして絶対温度がゼロ度(T = 0 K)の時、この量子化された2次元電子系のホール伝導率の x - y 成分 σxy は、 となる。ここで、n は整数、e は電子の素電荷、h はプランク定数である。つまり、ホール伝導率が e/h の整数倍になる。これを整数量子ホール効果と言う。 この現象は、1975年に安藤恒也らによる理論からの示唆があり、1980年、クラウス・フォン・クリッツィングらによって初めて実験的に観測された。RK = h/e をフォン・クリッツィング定数という。プランク定数(h)と電気素量(e)は2019年5月以降は定義定数であるのでフォン・クリッツィング定数には不確かさがなく、15桁の数値は25812.8074593045... Ωである。2018年CODATA推奨値は、25812.80745... Ω と10桁で表示している。 この整数量子ホール効果(量子化ホール抵抗を用いる)は、電気抵抗標準として決めたり、微細構造定数の決定に使われたりする。 整数量子ホール効果はトポロジカル物性への数理物理的なアプローチにおいても基本的な対象であり、e/h の偶数倍だけでなく奇数倍が許されるのは、電子が数学的にはスピノルという、360 度回転ではもとに戻らず 720 度回転ではじめて元に戻るもので記述されることに加え、四次元スピン多様体の交叉形式が偶であるという数学的事実に関係していることが知られている。 近年の試料の品質の向上に伴い、種々のヘテロ接合などに於いて2次元電子系が実現されている。1979年に富士通の三村高志らによって高電子移動度トランジスタ(HEMT)が開発された。当時は作動原理は完全には解明されていなかったが、1982年、ダニエル・ツイ、ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー、アーサー・ゴサードらはこの電子系に対して強い磁場(>10 T)を加え、1 K程度以下にまで冷却して電気抵抗率 ρxx, ρxy を測定したところ、従来の整数量子ホール効果で見られた、ホール抵抗率 ρxy が平坦な領域(以下これをプラトーとよぶ)のほかに、新たなプラトーを発見した。そこにおける抵抗率からホール伝導率 σxy を計算したところ、 を得た。ここで p, q は整数であり、q が3以上の奇数の場合(1/3, 2/3, 1/5, 2/5, 3/5, 2/7など)を分数量子ホール効果と名づけた。 整数量子ホール効果の原因は、不純物ポテンシャルによる電子の局在化であるが、分数量子ホール効果は電子間のクーロンポテンシャルが不純物ポテンシャルに打ち勝つ場合に起こる。このため、分数量子ホール効果が観測されるのは、試料は不純物を極力減らし、ヘテロ接合界面が良質の試料に限られる。 1998年にホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー、ダニエル・ツイと理論物理学者であるロバート・B・ラフリンにノーベル物理学賞が授与された。 ホール効果に現れる整数は、トポロジカル量子数の一例である。この数は、数学において第一チャーン数として知られており、ベリー位相と密接な関係がある。これに関係して、アベル=ハーパー=ホフスタッタ・モデルは極めて面白い。このモデルの量子位相図は、ホフスタッターの蝶として表現される。縦軸は磁場の強さ、横軸は電子密度によって決まる化学ポテンシャルである。色は、整数ホール電導率を表現している。暖色は正の整数を示し、寒色は負の整数を示す。位相図はフラクタルであり、明白な自己相関性が観察できる。物理的なメカニズムとしては、不純物か局所的な系(例:エッジ電流)もしくはその両方が、整数量子ホール効果と分数量子ホール効果に重要な役割を果たしていると考えられる。加えて、クーロン相互作用も、分数量子ホール効果を考える上で重要である。分数量子ホール効果は、整数量子ホール効果はよく似た現象であり、偶数本の磁束量子と束縛状態を形作った複合フェルミオンと呼ばれる電子の性質によるものと説明できる。
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量子ホール効果は、半導体‐絶縁体界面や半導体のヘテロ接合などで実現される、2次元電子系に対し強い磁場(強磁場)を印加すると、電子の軌道運動が量子化され、エネルギー準位が離散的な値に縮退し、ランダウ準位が形成される現象を指す。ランダウ準位の状態密度は実際の試料では不純物の影響によってある程度の広がりを持つ。この時、フェルミ準位の下の電子は、波動関数が空間的に局在するようになる。これをアンダーソン局在という。 そして絶対温度がゼロ度の時、この量子化された2次元電子系のホール伝導率の x - y 成分 σxy は、 となる。ここで、n は整数、e は電子の素電荷、h はプランク定数である。つまり、ホール伝導率が e2/h の整数倍になる。これを整数量子ホール効果と言う。
'''量子ホール効果'''(りょうしホールこうか、{{lang-en-short|quantum Hall effect}})は、[[半導体]]‐[[絶縁体]]界面や半導体の[[ヘテロ接合 (半導体)|ヘテロ接合]]などで実現される、2次元電子系に対し強い[[磁場]](強磁場)を印加すると、[[電子]]の軌道運動が[[量子化 (物理学)|量子化]]され、エネルギー準位が離散的な値に縮退し、[[ランダウ準位]]が形成される現象を指す。ランダウ準位の状態密度は実際の試料では不純物の影響によってある程度の広がりを持つ。この時、[[フェルミエネルギー|フェルミ準位]]の下の電子は、[[波動関数]]が空間的に局在するようになる。これを[[アンダーソン局在]]という。 そして絶対温度がゼロ度({{math|1=''T'' = {{Val|0|ul=K}}}})の時、この量子化された2次元電子系のホール伝導率の {{mvar|x}} - {{mvar|y}} 成分 {{mvar|&sigma;{{sub|xy}}}} は、 :<math>\sigma_{xy}=-n\frac{e^2}{h}</math> となる。ここで、{{mvar|n}} は整数、{{mvar|e}} は電子の[[電気素量|素電荷]]、{{mvar|h}} は[[プランク定数]]である。つまり、ホール伝導率が {{math|{{Sfrac|''e''{{Sup|2}}|''h''}}}} の整数倍になる。これを'''整数量子ホール効果'''と言う。 == 整数量子ホール効果 == {{物理定数 |名称=フォン・クリッツィング定数 |英語=von Klitzing constant |画像= |記号={{Math|''R''{{sub|K}} {{=}} {{sfrac|''h''|''e''{{sup|2}}}}}} |値={{val|25812.8074593045|end=...|u=[[オーム|&Omega;]]}} |不確かさ=なし |語源=[[クラウス・フォン・クリッツィング]] }} この現象は、[[1975年]]に[[安藤恒也]]らによる理論からの示唆があり、[[1980年]]、[[クラウス・フォン・クリッツィング]]らによって初めて実験的に観測された。{{math|''R''{{Sub|K}} {{=}} {{Sfrac|''h''|''e''{{Sup|2}}}}}} を'''フォン・クリッツィング定数'''という。[[プランク定数]](''h'')と[[電気素量]](''e'')は2019年5月以降は[[定義定数]]であるのでフォン・クリッツィング定数には[[不確かさ]]がなく{{efn|{{Math|{{sfrac|''h''|''e''{{sup|2}}}}{{=}}{{sfrac|{{val|6.62607015|e=-34}}|({{val|1.602176634|e=-19}}){{sup|2}}}}{{=}}{{Sfrac|{{val|5521725125000000000000}}|{{val|213914163877964163}}}}{{=}}{{Sfrac|{{val|25812}}|{{val|172726981989024644}}|{{val|213914163877964163}}}}}}<ref>{{OEIS|A248510}}</ref>}}、15桁の数値は{{val|25812.8074593045|end=...|u=[[オーム|&Omega;]]}}である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/4_SI_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A2.pdf 改定国際単位系における電気標準] 金子普久(産総研 計量標準総合センター 物理計測標準研究部門 首席研究員)、p.35、「桁数はいくらでも取ることが可能だが、多くの研究開発、標準での利用において、実用上問題のない桁数として15桁を取ることを原則とする。」</ref>。2018年[[科学技術データ委員会|CODATA]]推奨値は、{{val|25812.80745|end=...|u=&Omega;}} と10桁で表示している<ref>[[#nist|CODATA Value]]</ref>。 この整数量子ホール効果(量子化ホール抵抗を用いる)は、[[電気抵抗]]標準として決めたり、[[微細構造定数]]の決定に使われたりする。 整数量子ホール効果はトポロジカル物性への数理物理的なアプローチにおいても基本的な対象であり、e<sup>2</sup>/h の偶数倍だけでなく奇数倍が許されるのは、電子が数学的にはスピノルという、360 度回転ではもとに戻らず 720 度回転ではじめて元に戻るもので記述されることに加え、四次元スピン多様体の交叉形式が偶であるという数学的事実に関係していることが知られている。 {{clear}} == 分数量子ホール効果 == 近年の試料の品質の向上に伴い、種々の[[ヘテロ接合 (半導体)|ヘテロ接合]]などに於いて[[二次元電子ガス|2次元電子系]]が実現されている。1979年に[[富士通]]の[[三村高志]]らによって[[高電子移動度トランジスタ]](HEMT)が開発された。当時は作動原理は完全には解明されていなかったが、[[1982年]]、[[ダニエル・ツイ]]、[[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー]]、[[アーサー・ゴサード]]らはこの電子系に対して強い磁場({{Val|p=>|10|ul=T}})を加え、{{Val|1|u=K}}程度以下にまで冷却して電気抵抗率 {{Mvar|&rho;{{sub|xx}}, &rho;{{sub|xy}}}} を測定したところ、従来の整数量子ホール効果で見られた、ホール抵抗率 {{Mvar|&rho;{{sub|xy}}}} が平坦な領域(以下これをプラトーとよぶ)のほかに、新たなプラトーを発見した。そこにおける抵抗率からホール伝導率 {{Mvar|&sigma;{{sub|xy}}}} を計算したところ、 :<math>\sigma_{xy}=-\frac{p}{q}\cdot\frac{e^2}{h}</math> を得た。ここで {{Mvar|p, q}} は整数であり、{{Mvar|q}} が3以上の奇数の場合(1/3, 2/3, 1/5, 2/5, 3/5, 2/7など)を'''分数量子ホール効果'''と名づけた。 整数量子ホール効果の原因は、不純物ポテンシャルによる電子の局在化であるが、分数量子ホール効果は電子間の[[クーロンの法則|クーロンポテンシャル]]が不純物ポテンシャルに打ち勝つ場合に起こる。このため、分数量子ホール効果が観測されるのは、試料は不純物を極力減らし、ヘテロ接合界面が良質の試料に限られる。 1998年に[[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー]]、[[ダニエル・ツイ]]と[[理論物理学者]]である[[ロバート・B・ラフリン]]に[[ノーベル物理学賞]]が授与された。 == 数学との関わり == [[Image:Hofstadter's butterfly.png|thumb|[[ホフスタッターの蝶]]]] ホール効果に現れる整数は、[[トポロジカル量子数]]の一例である。この数は、数学において第一チャーン数として知られており、[[Berry位相|ベリー位相]]と密接な関係がある。これに関係して、アベル=ハーパー=ホフスタッタ・モデルは極めて面白い。このモデルの量子位相図は、[[ホフスタッターの蝶]]として表現される。縦軸は[[磁場]]の強さ、横軸は[[電荷密度|電子密度]]によって決まる[[化学ポテンシャル]]である。色は、整数ホール電導率を表現している。暖色は正の整数を示し、寒色は負の整数を示す。位相図は[[フラクタル]]であり、明白な[[自己相関]]性が観察できる。物理的なメカニズムとしては、[[不純物]]か局所的な系(例:エッジ電流)もしくはその両方が、整数量子ホール効果と分数量子ホール効果に重要な役割を果たしていると考えられる。加えて、[[電磁相互作用|クーロン相互作用]]も、分数量子ホール効果を考える上で重要である。分数量子ホール効果は、整数量子ホール効果はよく似た現象であり、偶数本の[[磁束#磁束の量子化|磁束量子]]と[[束縛状態]]を形作った複合[[フェルミ粒子|フェルミオン]]と呼ばれる[[電子]]の性質によるものと説明できる。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 関連項目 == * [[ホール効果]] * [[ホール素子]] * [[物性物理学]] == 外部リンク == * {{Cite web|url=https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?rk|title=CODATA Value: von Klitzing constant|accessdate=2019-06-16|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|ref=nist}} {{Physics-stub}} {{Condensed matter physics topics}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りようしほおるこうか}} [[Category:固体物理学]] [[Category:量子力学]] [[Category:物理定数|ふおんくりつついんくていすう]] [[Category:エポニム]]
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東北縦貫自動車道
東北縦貫自動車道(とうほくじゅうかんじどうしゃどう)は、関東地方から東北地方を縦貫する国土開発幹線自動車道(国幹道)・高速自動車国道の路線名である。弘前市を経過する弘前線、八戸市を経過する八戸線の2路線から成る。略称は東北縦貫道(とうほくじゅうかんどう)。 国土開発幹線自動車道建設法では、東北縦貫自動車道は以下のとおりとされている。 この全区間が高速自動車国道の路線を指定する政令で下記のとおり高速自動車国道とされている。 八幡平市以南の区間は、川口市以西が東京外環自動車道として1994年までに、川口市以北が東北自動車道として1987年までに開通し、供用中である。 道路の状況およびインターチェンジなどについては両道路の項目を参照。 弘前線は、八幡平市をはさんで北側(八幡平市 - 青森市)が東北自動車道として1986年までに、東北自動車道としても全線(川口市 - 青森市)が1987年までに開通しており、全線が供用中である。 なお、国土開発幹線自動車道の予定路線とされる以前は、現在の道路名である「東北自動車道」を路線名としていた。 八戸線は従前東京都練馬区より弘前線と二戸郡安代町(現・八幡平市)まで重複し、分岐して八戸市に至る計画であったが、第四次全国総合開発計画で東北縦貫自動車道八戸線延伸として八戸 - 青森間が構想され順次法定路線に盛り込まれた結果、現在は八戸回りで青森市に至る路線である。 なお、法定路線が上北郡天間林村(現・七戸町)までであった時代の法定路線名は東北縦貫自動車道東京天間林線であった。また、同じ時期には東北縦貫自動車道青森諏訪沢岩渡線として現在の青森自動車道にあたる区間が指定されており、みちのく有料道路に相当する区間のみが法定路線から除外されていたが、1997年2月5日の政令改正(平成9年政令第12号)で両路線が統合され、現在の東北縦貫自動車道八戸線となっている。 高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路として、百石道路、第二みちのく有料道路、上北自動車道、みちのく有料道路が供用中である。 「東北縦貫自動車道」の表示は一般的に案内標識等ではされていない。 第二みちのく有料道路は一般国道ではなく県道だが、高速自動車国道に並行する自動車専用道路である。 七戸北IC - 青森東IC間では基本計画には組み入れられてはいないものの県道後平馬屋尻線のみちのく有料道路がある。みちのく有料道路は自動車専用道路ではなく一般道路であるが、高速道路ナンバリング (E4A) も付与されており、高速自動車国道に並行する自動車専用道路として扱われる。一方、みちのく有料道路の前後にあたる県道後平青森線および県道清水川滝沢野内線(いずれも一般道路)については、A'路線・高速道路ナンバリングともに対象外となっている。 なお、七戸北ICからみちのく有料道路方面へ向けた自動車専用道路として国道4号野辺地七戸道路(一部)および県道後平青森線後平バイパスの計画があるが、これらが高速自動車国道に並行する自動車専用道路として扱われるかは現時点で不明である。
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東北縦貫自動車道(とうほくじゅうかんじどうしゃどう)は、関東地方から東北地方を縦貫する国土開発幹線自動車道(国幹道)・高速自動車国道の路線名である。弘前市を経過する弘前線、八戸市を経過する八戸線の2路線から成る。略称は東北縦貫道(とうほくじゅうかんどう)。
'''東北縦貫自動車道'''(とうほくじゅうかんじどうしゃどう)は、[[関東地方]]から[[東北地方]]を縦貫する[[国土開発幹線自動車道]](国幹道)・[[高速自動車国道]]の路線名である。[[弘前市]]を経過する'''弘前線'''、[[八戸市]]を経過する'''八戸線'''の2路線から成る。略称は'''東北縦貫道'''(とうほくじゅうかんどう)。 == 概要 == <!--政令に基づく記載内容は、改正後の市町村合併等を反映させないで下さい。--> [[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]では、東北縦貫自動車道は以下のとおりとされている。 {| class="wikitable" |- ! colspan=2 |路線名 ! 起点 ! colspan="2" |主たる経過地 ! 終点 |- ! rowspan="2" |東北縦貫自動車道 ! 弘前線 | rowspan=2 |[[東京都]] | rowspan=2 |[[さいたま市]] [[館林市]] [[宇都宮市]] [[福島市]] [[仙台市]] [[盛岡市]] | [[鹿角市]] [[弘前市]] | rowspan=2 |[[青森市]] |- ! 八戸線 | [[八戸市]] |} この全区間が[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で下記のとおり[[高速自動車国道]]とされている。 {| class="wikitable" |- ! colspan=2 style="white-space:nowrap" |路線名 ! style="white-space:nowrap" |起点 ! colspan="2" style="white-space:nowrap" |重要な経過地 ! style="white-space:nowrap" |終点 |- ! rowspan="2" style="white-space:nowrap" |東北縦貫自動車道 ! style="white-space:nowrap" |弘前線 | rowspan="2" style="white-space:nowrap"|東京都<br />[[練馬区]] | rowspan="2"| [[和光市]] [[戸田市]] [[川口市]] [[さいたま市]] [[蓮田市]] [[久喜市]] [[加須市]] [[羽生市]] 館林市 [[佐野市]] [[栃木県]][[下都賀郡]][[岩舟町]] [[栃木市]] 同郡[[都賀町]]<!--廃止自治体であるが高速自動車国道の路線を指定する政令に記載があるため除去しないでください--> [[鹿沼市]] 宇都宮市 [[矢板市]] [[那須塩原市]] [[白河市]] [[須賀川市]] [[郡山市]] [[本宮市]] [[二本松市]] 福島市 [[白石市]] [[宮城県]][[柴田郡]][[村田町]] 仙台市 同県[[黒川郡]][[富谷町]] [[大崎市]] [[栗原市]] [[一関市]] [[奥州市]] [[北上市]] [[花巻市]] 盛岡市 [[八幡平市]] | style="white-space:nowrap" |鹿角市 [[秋田県]][[鹿角郡]][[小坂町]] 弘前市 [[平川市]] [[黒石市]] | rowspan="2" style="white-space:nowrap"|青森市 |- ! style="white-space:nowrap" |八戸線 | nowrap|[[二戸市]] [[岩手県]][[二戸郡]][[一戸町]] 八戸市 [[三沢市]] [[青森県]][[上北郡]][[七戸町]] |} 八幡平市以南の区間は、川口市以西が[[東京外環自動車道]]として1994年までに、川口市以北が[[東北自動車道]]として1987年までに開通し、供用中である。 道路の状況および[[インターチェンジ]]などについては両道路の項目を参照。 === 弘前線 === 弘前線は、八幡平市をはさんで北側(八幡平市 - 青森市)が東北自動車道として1986年までに、東北自動車道としても全線(川口市 - 青森市)が1987年までに開通しており、全線が供用中である。 なお、国土開発幹線自動車道の予定路線とされる以前は、現在の道路名である「東北自動車道」を路線名としていた。 {{Main|東北自動車道}} === 八戸線 === '''八戸線'''は従前[[東京都]][[練馬区]]より弘前線と二戸郡[[安代町]](現・[[八幡平市]])まで重複し、分岐して八戸市に至る計画であったが、[[第四次全国総合開発計画]]で'''東北縦貫自動車道八戸線延伸'''として八戸 - 青森間が構想され順次法定路線に盛り込まれた結果、現在は八戸回りで青森市に至る路線である。 なお、法定路線が上北郡[[天間林村]](現・[[七戸町]])までであった時代の法定路線名は'''東北縦貫自動車道東京天間林線'''であった。また、同じ時期には'''東北縦貫自動車道青森諏訪沢岩渡線'''として現在の青森自動車道にあたる区間が指定されており、[[みちのく有料道路]]に相当する区間のみが法定路線から除外されていたが、1997年2月5日の政令改正(平成9年政令第12号)で両路線が統合され、現在の東北縦貫自動車道八戸線となっている。 [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]として、[[百石道路]]、[[第二みちのく有料道路]]、[[上北自動車道]]、みちのく有料道路が供用中である。 == 構成する路線 == 「東北縦貫自動車道」の表示は一般的に[[道路標識|案内標識]]等ではされていない。 === 弘前線 === {| class="wikitable" |- ! [[高速道路ナンバリング|高速道路<br />ナンバリング]] !! 道路名 !! 路線名 !! 事業名 !! 区間 !! 現況 !! 備考 |- ! {{Ja Exp Route Sign|C3}} | [[東京外環自動車道]] || 東北縦貫自動車道弘前線 || || [[大泉ジャンクション|大泉JCT]] - [[川口ジャンクション|川口JCT]] || 供用中 || 八戸線と重複 |- ! {{Ja Exp Route Sign|E4}} | [[東北自動車道]] || 東北縦貫自動車道弘前線 || || 川口JCT - [[青森インターチェンジ|青森IC]] || 供用中 || 川口JCT - [[安代ジャンクション|安代JCT]]は八戸線と重複 |} === 八戸線 === * 大泉JCT - [[安代ジャンクション|安代JCT]]は弘前線と重複 {| class="wikitable" |- ! [[高速道路ナンバリング|高速道路<br />ナンバリング]] !! 道路名 !! 路線名 !! 事業名 !! 区間 !! 現況 !! 備考 |- ! rowspan="8" | {{Ja Exp Route Sign|E4A}} | [[八戸自動車道]] || 東北縦貫自動車道八戸線 || || [[安代ジャンクション|安代JCT]] - [[八戸ジャンクション|八戸JCT]] - [[八戸北インターチェンジ|八戸北IC]] || 供用中 || |- | [[百石道路]] || 一般[[国道45号]] || 百石道路 || 八戸北IC - [[下田百石インターチェンジ|下田百石IC]] || 供用中 || |- | [[第二みちのく有料道路]] || [[青森県道8号八戸野辺地線|県道八戸野辺地線]] || || 下田百石IC - [[六戸ジャンクション|六戸JCT]] || 供用中 || |- | rowspan="3" |[[上北自動車道]] || rowspan="3" |一般国道45号 || 上北道路 || 六戸JCT - [[上北インターチェンジ|上北IC]] || 供用中 || |- | 上北天間林道路 || 上北IC - [[七戸インターチェンジ|七戸IC]] || 供用中 || |- | 天間林道路 || 七戸IC - [[七戸北インターチェンジ|七戸北IC]] || 供用中 || |- | colspan="3" |(東北縦貫自動車道八戸線) || 七戸北IC - [[青森東インターチェンジ|青森東IC]] || 基本計画区間 || 同区間にA'路線の[[みちのく有料道路]]がある |- | [[青森自動車道]] || 東北縦貫自動車道八戸線 || || 青森東IC - [[青森ジャンクション|青森JCT]] || 供用中 || |} 第二みちのく有料道路は一般国道ではなく県道だが、高速自動車国道に並行する自動車専用道路である。 七戸北IC - 青森東IC間では基本計画には組み入れられてはいないものの[[青森県道257号後平馬屋尻線|県道後平馬屋尻線]]の[[みちのく有料道路]]がある。みちのく有料道路は[[自動車専用道路]]ではなく[[一般道路]]であるが、高速道路ナンバリング (E4A) も付与されており、高速自動車国道に並行する自動車専用道路として扱われる。一方、みちのく有料道路の前後にあたる[[青森県道242号後平青森線|県道後平青森線]]および[[青森県道123号清水川滝沢野内線|県道清水川滝沢野内線]](いずれも一般道路)については、A'路線・高速道路ナンバリングともに対象外となっている。 なお、七戸北ICからみちのく有料道路方面へ向けた自動車専用道路として[[国道4号]][[下北半島縦貫道路|野辺地七戸道路]](一部)および県道後平青森線後平バイパスの計画があるが、これらが高速自動車国道に並行する自動車専用道路として扱われるかは現時点で不明である。 == 沿革 == * [[1957年]]([[昭和]]32年)[[4月16日]] : 東北自動車道として、国土開発縦貫自動車道の路線の基準とされる。 ** 東京都 - 浦和市附近 - 館林市附近 - 宇都宮市附近 - 福島市附近 - 仙台市附近 - 盛岡市附近 - 秋田県[[鹿角郡]][[十和田町]](現・鹿角市)附近 - 青森市 * [[1964年]](昭和39年)[[6月16日]] : 東北自動車道として、国土開発縦貫自動車道の予定路線とされる。 * [[1966年]](昭和41年)[[7月1日]] : 東北縦貫自動車道として、国幹道の予定路線とされる。 ** '''青森線''' : 東京都 - 浦和市附近 - 館林市 - 宇都宮市 - 福島市 - 仙台市 - 盛岡市 - 秋田県鹿角郡十和田町 - 青森市 ** '''八戸線''' : - 盛岡市 - 八戸市 * [[1972年]](昭和47年)[[11月13日]] : [[岩槻インターチェンジ|岩槻IC]] - [[宇都宮インターチェンジ|宇都宮IC]]開通、初の供用開始。 * [[1987年]](昭和62年)[[6月30日]] : 四全総が[[閣議決定]]。あらたに[[高規格幹線道路]]が構想される。 ** 東北縦貫自動車道八戸線延伸 : 八戸 - 青森 * 1987年(昭和62年)[[9月1日]] : 四全総を受け国土開発幹線自動車道建設法改正、予定路線とされる。 * [[1995年]](平成7年)[[11月30日]] : 道路審議会答申、並行する一般国道自動車専用道路による代替が示される。 ** 八戸線 : 百石道路、第二みちのく有料道路、みちのく有料道路 * [[2007年]](平成19年)[[9月4日]] : 上北横断道路事業促進会議による青森・八戸間の道路名称が'''青森八戸みちのくライン'''に決定する<ref>{{Cite web|和書|date=2012-05-11 |url=http://www.pref.aomori.lg.jp/kotsu/build/meisyou_kettei.html |title=「青森・八戸間」の道路名称が決定しました |publisher=青森県 県土整備部 道路課 |accessdate=2013-04-09}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国土開発幹線自動車道]] * [[高速自動車国道]] * [[東北地方の道路一覧]] * [[関東地方の道路一覧]] == 外部リンク == * [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構] {{東北縦貫自動車道八戸線}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とうほくしゆうかんしとうしやとう}} [[Category:高速自動車国道]] [[Category:東北地方の道路]] [[Category:関東地方の道路]]
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15,037
シーカヤック
シーカヤックは、海で使うことを考慮し、波・風・潮流等に影響されにくいデザインを持つカヤック。 起源はグリーンランドやアリューシャン列島で使われていた、骨(木)組みに皮を張った小舟。狩猟や長距離の移動用。これを改良してファルトボートが作られ、川用ファルトボートに発展し、更にリジッドタイプの川用カヤックへと進化してきた。オープンデッキタイプとクローズドデッキタイプがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "シーカヤックは、海で使うことを考慮し、波・風・潮流等に影響されにくいデザインを持つカヤック。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "起源はグリーンランドやアリューシャン列島で使われていた、骨(木)組みに皮を張った小舟。狩猟や長距離の移動用。これを改良してファルトボートが作られ、川用ファルトボートに発展し、更にリジッドタイプの川用カヤックへと進化してきた。オープンデッキタイプとクローズドデッキタイプがある。", "title": null } ]
シーカヤックは、海で使うことを考慮し、波・風・潮流等に影響されにくいデザインを持つカヤック。 起源はグリーンランドやアリューシャン列島で使われていた、骨(木)組みに皮を張った小舟。狩猟や長距離の移動用。これを改良してファルトボートが作られ、川用ファルトボートに発展し、更にリジッドタイプの川用カヤックへと進化してきた。オープンデッキタイプとクローズドデッキタイプがある。
{{独自研究|date=2010年9月}} [[File:ファルトボートによるシーカヤッキングImg588.jpg|thumb|300px|[[離島]]へ向かう'''シーカヤック'''([[西表島]]・白浜港)]] '''シーカヤック'''は、[[海]]で使うことを考慮し、波・風・[[潮流]]等に影響されにくいデザインを持つ[[カヤック]]。 起源は[[グリーンランド]]や[[アリューシャン列島]]<ref>[https://www.env.go.jp/park/shiretoko/guide/sirecoco/kayak/index.html 国立公園>知床>シレココ 環境省 2018.10.02閲覧]</ref>で使われていた、骨(木)組みに皮を張った小舟。狩猟や長距離の移動用。これを改良してファルトボートが作られ、川用ファルトボートに発展し、更にリジッドタイプの川用カヤックへと進化してきた。オープンデッキタイプとクローズドデッキタイプがある。 ==脚注== <references/> [[Image:PaddleForKayakTopAndAxisView.svg|thumb|left|500px|パドル]] {{Ship-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しかやつく}} [[Category:カヤック]]
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15,038
ファントム無頼
『ファントム無頼』(ファントムぶらい)は、史村翔原作・新谷かおる作画による日本の漫画作品である。 「週刊少年サンデー増刊号」(小学館)1978年4月20日号から1984年2月号まで連載された。単行本は全12巻、ワイド版(少年サンデーワイドコミックス)は全5巻、文庫版(小学館文庫)は全7巻が刊行されている。 史村の自衛官時代の職務経験を基に制作されているが、航空自衛隊の実情よりも、その環境の人たちが醸し出す娯楽性の高いドラマに重きを置いており、主人公が自衛隊員ということもあって本格的な戦闘を行うことはなく、救助活動や職務を通じてのゲストとの交流が主な内容となっている。 百里飛行場の第7航空団第305飛行隊に所属するF-4EJ ファントムIIのパイロット・神田鉄雄二等空尉と、三沢飛行場の第3航空団第8飛行隊に所属するファントムのナビゲーター・栗原宏美二等空尉。2人はそれぞれ凄腕の航空自衛官だが、その性格が災いし「基地の問題児」として周囲から厄介者扱いされていた。 百里基地司令・太田は、「両方とも少しは変わるだろう」「最悪、どちらか一方でも負けて潰れてくれれば」との考えから、神田に対抗させるため、異動となった栗原を百里に呼ぶ。ちょうどナビゲーターを病院送りにしていた神田と、代わりのナビゲーターとして赴任した栗原は、最初こそ反発し合うものの互いの技量を認め、太田の思惑を超えて意気投合する。そして2人はファントムII 680号機の専属パイロットとして、職務を通し様々な出会いを経て成長していく。 305飛行隊所属のファントムで、専属パイロットは神田鉄雄二尉。第2話までは神田がことごとく病院送りにしたため専属のナビがいなかったが、最終的に栗原宏美二尉が専属ナビになる。 機体番号は「47-8680」であったが、この機体ではバードストライクや異物の侵入によるエンジン爆発など、全話中6回の事故が発生した。 作中最高クラスの機動性と不死身ともいえる生存率を誇ったが、劇中においてもファントムは既に旧式化しており、最初の機体は経年劣化と度重なる事故、何より神田・栗原の無茶な操縦によるダメージの蓄積から、ついに第32話で退役が決定。しかし予想以上に機体の劣化が進行していたため、退役前の最終飛行中に限界を迎え海上で空中分解し墜落(機体と心中する、もしくは是が非でも基地に連れて帰るつもりだった神田・栗原は射出座席が勝手に作動したため、脱出)。第33話、第34話で「55-8680」になったが、第36話から「07-8680」が登場。「07-8680」以降は事故なし。 コールサインは「新撰組」と称している(第1話より)。また、コールサインに合わせて垂直尾翼の両側と左右のインテークに赤いダンダラ模様が描かれている。なお、当時の305飛行隊所属機が実際に使用したコールサインは「eagress###」である(個別記号###には機体番号の下3桁を用いる)。 作中では神田の技量と相まって俊敏な動きをする機体だが、連載当時としても旧式の第3世代機であることから、エプロンから滑走路への移動中や飛行中にノタノタした感じでの描かれ方をされることも多かった。 神田・栗原のコンビにより操縦される680号機は、最高速度マッハ2.6を達成するなど製造元のマクドネル・ダグラス社の想定を超える能力を見せた。最終話で神田・栗原が懲戒免職された際、マクドネル・ダグラス社は調査のため680号機を引き取ろうと試みている。 現実の航空自衛隊では、一機体に特定の乗員が専属で付くということはない。また、F-4EJの機体番号は301から440までの140機分となっており「F-4EJの680号機」は存在しない。連載当時、小松基地第205飛行隊にF-104J「56-8680」が所属していたが、1980年に事故で抹消となった。F-104退役後はT-4に割り当てられ、T-4「25-5680」が、入間基地航空総隊司令部飛行隊所属の後、奇しくも現在百里基地第305飛行隊に連絡機として配備されている。 百里基地所属の第302飛行隊が2010年の百里基地航空祭において、F-4EJ改のインテークに神田・栗原の680号機と同様の新撰組のダンダラ模様をペイントした特別塗装機を飛行させ、2019年の320号機の退役飛行の際にも同様のダンダラ模様を塗装した。 いずれも小学館より発行。 模型メーカーのハセガワのキャラクター関連商品専門ブランドのアクトハセガワから、同社の1/72スケールのF-4EJ(凹モールドの新キット)にデカールを追加したキットが発売された。 2004年、タカラから発売された食玩「ワールドウイングスミュージアム2 F-4ファントムIIには、公称の7種以外にシークレットアイテムとしてファントム無頼バージョン(680号機)が存在した。造型は海洋堂が担当した。
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『ファントム無頼』(ファントムぶらい)は、史村翔原作・新谷かおる作画による日本の漫画作品である。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = ファントム無頼 | ジャンル = [[航空自衛隊]]・[[人間]]ドラマ }} {{Infobox animanga/Manga |作者= [[武論尊|史村翔]] |作画= [[新谷かおる]] |出版社= [[小学館]] |掲載誌= [[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]] |レーベル= 少年サンデーコミックス |開始= [[1978年]] |終了= [[1984年]] |巻数= 全12巻 : コミック版<br />全5巻 : ワイド版<br />全7巻 : コミック文庫版 |話数= 全63話 }} {{Infobox animanga/Footer}} 『'''ファントム無頼'''』(ファントムぶらい)は、[[武論尊|史村翔]]原作・[[新谷かおる]]作画による[[日本]]の[[漫画]]作品である。 == 概要 == 「[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]」([[小学館]])[[1978年]]4月20日号から[[1984年]]2月号まで連載された。単行本は全12巻、ワイド版(少年サンデーワイドコミックス)は全5巻、文庫版(小学館文庫)は全7巻が刊行されている。 史村の自衛官時代の職務経験を基に制作されているが、航空自衛隊の実情よりも、その環境の人たちが醸し出す[[エンターテインメント|娯楽]]性の高いドラマに重きを置いており、主人公が自衛隊員ということもあって本格的な戦闘を行うことはなく、救助活動や職務を通じてのゲストとの交流が主な内容となっている。 == あらすじ == [[百里飛行場]]の[[第7航空団]][[第305飛行隊 (航空自衛隊)|第305飛行隊]]に所属する[[F-4 (戦闘機)#日本|F-4EJ ファントムII]]の[[パイロット (航空)|パイロット]]・神田鉄雄[[中尉|二等空尉]]と、[[三沢飛行場]]の[[第3航空団]][[第8飛行隊 (航空自衛隊)|第8飛行隊]]に所属するファントムの[[航空士 (自衛隊)#ナビゲーター|ナビゲーター]]・栗原宏美二等空尉。2人はそれぞれ凄腕の[[自衛官|航空自衛官]]だが、その性格が災いし「基地の問題児」として周囲から厄介者扱いされていた。 百里基地司令・太田は、「両方とも少しは変わるだろう」「最悪、どちらか一方でも負けて潰れてくれれば」との考えから、神田に対抗させるため、異動となった栗原を百里に呼ぶ。ちょうどナビゲーターを病院送りにしていた神田と、代わりのナビゲーターとして赴任した栗原は、最初こそ反発し合うものの互いの技量を認め、太田の思惑を超えて意気投合する。そして2人はファントムII 680号機の専属パイロットとして、職務を通し様々な出会いを経て成長していく。 == F-4EJ ファントムII 680号機 == 305飛行隊所属のファントムで、専属パイロットは神田鉄雄二尉。第2話までは神田がことごとく病院送りにしたため専属のナビがいなかったが、最終的に栗原宏美二尉が専属ナビになる。 機体番号は「47-8680」であったが、この機体では[[バードストライク]]や[[FOD (航空用語)|異物の侵入]]によるエンジン爆発など、全話中6回の事故が発生した。 作中最高クラスの機動性と不死身ともいえる生存率を誇ったが、劇中においてもファントムは既に旧式化しており、最初の機体は経年劣化と度重なる事故、何より神田・栗原の無茶な操縦によるダメージの蓄積から、ついに第32話で退役が決定。しかし予想以上に機体の劣化が進行していたため、退役前の最終飛行中に限界を迎え海上で空中分解し墜落(機体と心中する、もしくは是が非でも基地に連れて帰るつもりだった神田・栗原は[[射出座席]]が勝手に作動したため、脱出)。第33話、第34話で「55-8680」になったが、第36話から「07-8680」が登場。「07-8680」以降は事故なし。 [[コールサイン]]は「新撰組」と称している(第1話より)。また、コールサインに合わせて垂直尾翼の両側と左右のインテークに赤いダンダラ模様が描かれている。なお、当時の305飛行隊所属機が実際に使用したコールサインは「eagress''###''」である(個別記号''###''には機体番号の下3桁を用いる)。 作中では神田の技量と相まって俊敏な動きをする機体だが、連載当時としても旧式の[[第3世代ジェット戦闘機|第3世代機]]であることから、[[エプロン (飛行場)|エプロン]]から[[滑走路]]への移動中や飛行中にノタノタした感じでの描かれ方をされることも多かった。 神田・栗原のコンビにより操縦される680号機は、最高速度マッハ2.6を達成するなど製造元の[[マクドネル・ダグラス]]社の想定を超える能力を見せた。最終話で神田・栗原が懲戒免職された際、マクドネル・ダグラス社は調査のため680号機を引き取ろうと試みている。 現実の航空自衛隊では、一機体に特定の乗員が専属で付くということはない。また、F-4EJの機体番号は301から440までの140機分となっており「F-4EJの680号機」は存在しない。連載当時、[[小松基地]][[第205飛行隊 (航空自衛隊)|第205飛行隊]]に[[F-104 (戦闘機)|F-104J]]「56-8680」が所属していたが、[[1980年]]に事故で抹消となった。F-104退役後は[[T-4 (練習機)|T-4]]に割り当てられ、T-4「25-5680」が、[[入間基地]][[航空総隊]]司令部飛行隊所属の後、奇しくも現在百里基地第305飛行隊に連絡機として配備されている。 百里基地所属の[[第302飛行隊 (航空自衛隊)|第302飛行隊]]が2010年の百里基地航空祭において、[[F-4 (戦闘機)#日本|F-4EJ改]]のインテークに神田・栗原の680号機と同様の新撰組のダンダラ模様をペイントした特別塗装機を飛行させ、2019年の320号機の退役飛行の際にも同様のダンダラ模様を塗装した。 == 登場人物 == === 航空自衛官 === ; 神田 鉄雄(かんだ てつお) : 航空自衛隊二等空尉。ファントムの操縦テクニックは天下一品のパイロット([[パイロット (航空)|操縦士]])。アクロバティックな飛行が得意で、激しい動きに付いていけない幾多のナビゲーターを病院送りにした、百里基地の問題児。 : 周りからゴリラ呼ばわりされるほどの体力バカで怖いもの知らず。喧嘩も滅法強く、引き分けはともかく負けた事は一度もない。反面、昔のある出来事以来ヘビを大の苦手とし、ゴム製のおもちゃであっても見ただけで気絶する<ref name="ep41">第41話「鉄男と鉄雄」</ref>。また、飛行機と無関係な機械にはまるで弱く、洗濯機もまともに扱えない。加えて父親譲りの重度の音痴<ref name="ep38">第38話「兄妹(あにいもうと)」</ref>で、好物は[[お子様ランチ]]。 : 父親も航空自衛官で、初めてF-4を操った日本人の一人だったが、神田が高校生の時に[[T-33]]の事故で二次災害回避のために重傷を負い[[殉職]]。神田自身も破天荒なフライトの一方でその恐ろしさを承知しており、旅客機の機長である伊達に関して「自分には多くの乗客の命を預かって飛ぶ度胸はない」と語ったり、何があろうと決して自機を捨てようとせず、有事の際には自分の命より他者の命を優先し、我が身を捨てても助けようとするなど、強烈な義務感・使命感を持ち、それを以って栗原をも牽引していく{{Efn|アメリカの潜水艦から事故で誤発射されたミサイルを潰すために已むを得ず特攻しようと試みた時には、流石に心の中で栗原に「あの世で謝る」とこぼす程に申し訳なく思っていた。}}。「剣を帯びていても平和である限り抜かずに済ませる、人命を手に掛けるのは最後の最後」の自衛官である事に誇りを持っており、ペイント弾での模擬戦でもコクピットは狙わずエンジンのみを射撃した<ref name="ep35">第35話「平和の剣(つるぎ)」</ref>{{Efn|「日本国自衛隊は実戦未経験、戦場帰りの自分たちには勝てない」と断言する対戦相手への返答。これ以前にアメリカでアグレッサー部隊のゲストとして参加した演習では、F-15のコクピット前面風防にペイント弾を容赦なく浴びせている。これは、その時に搭乗していた機体が爆装機なので機動力が大きく劣化し、更に機体自体が空中分解の危機を孕んでいたなど悪条件が重なっており、一刻も早く着陸する必要があったため。相当焦っていたらしく、意図せずして飛行コース上のF-15全機に勝利している。}}。 : 女性にはモテないと自認しているが、実際はそれなりに女性(それも美人ばかり)と縁がある。それどころか、あえて自分から女性を突き放すこともある。自分がいつ空で命を落とすかわからない身である事を承知しているためである。その辺りの事情もあってなのか、[[リカちゃん]]人形が好きらしい(栗原の分析のみで、作品内での描写はされていない)<ref name="ep38" />。 ; 栗原 宏美(くりはら ひろよし) : 航空自衛隊二等空尉。容姿端麗・頭脳明晰の超一流[[航空士 (自衛隊)#ナビゲーター|ナビゲーター]]。風防ガラスを塞がれて[[有視界飛行]]が出来ない状態でも、[[航空図]]さえあれば[[計器飛行]]でパイロットを目的地へ誘導出来る技量の持ち主<ref name="ep2">第2話「好敵手(ライバル)・栗原」</ref>{{Efn|アクロバット飛行の腕を誇る神田に対抗するように、百里から前任地の[[三沢飛行場]]まで誘導して見せた。}}。しかも実際の着地点が航法計算の結果から1メートルでもずれると満足出来ない<ref name="ep2" />など、「ファントムのコンピュータ」を自認する。コンピュータおよび[[ソフトウェア開発]]にも造詣が深い<ref name="ep42">第42話「さらば、コンピューター」</ref>。神田が「オペレーション・コマンダー(作戦指揮官)」とジョーイに紹介するシーンもあり、場合によって呼称が変わる模様。またパイロットとしても高い技量を持つ。 : 初登場時には「真にファントムを飛ばしているのは、動かすだけのパイロットではなく目的空域を設定し誘導するナビゲーターだ」と言って憚らず、協調性に欠け揉め事ばかり起こし、三沢基地では神田同様の問題児だった<ref name="ep2" />。後に栗原は、自分が少しは人間らしくなったのは神田やジョーイのおかげだと述懐している。 : コンディション作りにおいては神田よりも徹底しており、非番の時も余程のことがなければ酒類を口にしない。いつ[[スクランブル]]がかかってもいいように備えているためで飲めないわけではなく、ある理由から一度だけしこたま飲んだこともある。また、航空事故の防止のため、食事には納豆を欠かさないようにしており、同居人の神田にもそれを徹底させている(納豆は腸内でのガスの膨張を防ぐ効果がある)<ref name="ep16">第16話「愛と死の大空」</ref>。 : 父親は大企業「島崎重工」の社長・島崎猛。母親の栗原静は[[芸妓|芸者]]で、いわゆる[[妾|妾腹]]<ref name="ep14">第14話「すばらしき仲間たち」</ref>。異母兄弟(兄か弟かは不明)で人徳に欠ける和美(かずよし)と、異母妹の清美がいる<ref name="ep14" />。母の死に際して看取ることもしなかった父は嫌悪対象で、払われた養育費には一切手を付けず、大学卒業と同時に利子まで付けて叩き返している<ref name="ep14" />。和美とも不仲で、顔を合わせる度に嫌味を言われては無視している<ref name="ep14" />。しかし清美と再会して以降は、許しはしないまでも父への憎悪を捨てたことが示唆されている<ref name="ep14" />。そのせいか、一度期間限定で父の会社に出向しコンピュータシステムの構築を行い<ref name="ep42" />、懲戒免職された際も神田ともどもその会社に転職していた<ref name="ep63">第63話「永遠(とわ)に」</ref>。 : 怒った際や本領を発揮する前に手の爪をヤスリ掛けする癖がある。同僚がその様子を見ると、「栗原の爪研ぎ」と呼んで基地中がざわつくほどである。 : 容姿は母譲りの美形で、基地祭などイベントで女装するとそこらの女が裸足で逃げ出す美しさ<ref name="ep32">第32話「さらば、我が友よ」</ref><ref name="ep51">第51話「二つの顔」</ref>。愛用のオーデコロンは[[エスティローダー|アラミス]]。神田もよく借用していた。 ; 西川(にしかわ) : 航空自衛隊[[少尉|三等空尉]](後に二等空尉に昇任)。F-4EJ 320号機(※680と異なりこの機番のF-4EJは実在する)のパイロット。名前は不明。既婚者で、娘が生まれた頃を境に危険に敏感になり決断力が低下した時期があったが、太田司令の説得で克服し<ref name="ep15">第15話「編隊家族(フォーメーション・ファミリー)」</ref>、神田に次ぐ操縦技量の持ち主に成長する。神田ほど問題を起こさないため、信頼は厚い。 ; 水沢 健一(みずさわ けんいち) : 航空自衛隊三等空尉(最終話で二等空尉に昇任)。F-4EJ 320号機のナビゲーター。 : 百里基地の男達の間でちょっとしたマドンナだった[[酒保|PX]](基地内の売店)の美和子に恋したものの、告白できずに迷っていたところを西川に叱咤され、一念発起。交際申し込みを飛ばしていきなりプロポーズし、受け入れられ結婚<ref name="ep40">第40話「音速プロポーズ」</ref>。後に娘の美加が生まれる。 : 始末書すれすれの飛行を楽しむ680(神田・栗原)に対し、既婚者コンビで堅実なところが320の長所だと認識しており、西川をたしなめることもある。ナビとしても栗原に次ぐ腕前で、320は準エースの地位を不動のものとしている。 : 実家は東北地方の海辺にあり、美加が生まれて間もない頃に発生した地震で津波被害を受けている<ref name="ep60">第60話「め組の夏は波高し」</ref>。 ; 田中林(たなかばやし) : 航空自衛隊三等空尉。ナビゲーター。通称「タヌキバヤシ」。実家が寺で<ref name="ep43">第43話「黒いX'マス・ツリー」</ref>、アラート待機中などによく経を唱えているため、周囲からは縁起が悪いと除け者にされることが多い<ref name="ep47">第47話「それぞれの2月3日」</ref>。筆文字で「御通」と書かれたヘルメットを愛用。好物は夏でも冬でもタヌキうどん<ref name="ep43" /><ref name="ep53">第53話「死線のかなたの息子」</ref>。 : 栗原・水沢が不在の時に神田・西川の後席を務めることがあり、ナビとしての腕前は成績の上では栗原・水沢に次ぐとされるが、飛行中に不測の事態に遭遇してパニックを起こしたことがある<ref name="ep42" /><ref name="ep43" />。 ; 太田司令(おおた) : [[第7航空団]]司令兼百里基地司令。[[一等空佐]](後に[[空将補]]に昇任。航空団司令は将補の職席であるため)。45歳。神田・栗原の暴走にいつも頭を痛めており、時にはそれがサディスティックなお仕置きにまで発展することもあるが、基本的に部下想いの良い上司である。西川がフライト中にトラブルを起こした際は自ら率先してファントムに乗り込み救出に向かい<ref name="ep15" />、最終巻で神・栗コンビが免職される事態に発展した際は監督責任を取っての辞職と引き換えで[[航空幕僚監部]]に寛大な処置を求めたり(事態が大きすぎたため認められなかった)<ref name="ep63" />と、部下達の事を我が子のように思い大事にしている。 : 体型は豆タンク型だが、[[第11飛行教育団]]勤務当時は短距離走を得意とし、“[[静浜基地|静浜]]の音速男”の異名で鳴らした俊足だった<ref name="ep32" />。現在は第一線を退いているもののパイロットとしての実力は未だに高く、体型の都合でかなり無理矢理だが神田に「俺でもあれは出来ない」と言わしめるような高等技術を見せた事もある<ref name="ep15" />。 ; 矢瀬副司令(やせ) : 第7航空団副司令。[[二等空佐]](後に一等空佐に昇任。航空団副司令は一佐の職席であるため)。第一線にいた頃は優秀なナビゲーターで、太田とコンビだった<ref name="ep15" />。太田同様、神田・栗原の暴走に頭を痛める。しかし最終巻で神・栗コンビが免職される事態になった際は、太田に続き空幕に自らの引責辞職と引き換えでの寛大な処置を求めようとしている<ref name="ep63" />。 : 娘の恵が出生時に[[未熟児]]だった事から溺愛しており、叱られないことへの強い不満から彼女がグレかけた時に神田・栗原に助けられたことがある<ref name="ep33">第33話「ジャジャ馬ならし」</ref>。 : 体型は名前の通りひょろのっぽ型。 ; 今井班長(いまい) : 百里基地整備第3班班長で[[一等空曹]]。[[太平洋戦争]]当時の[[百里原海軍航空隊]]で既に一等整備兵曹(自衛隊の一曹もしくは曹長相当官)を務め、航空自衛隊が出来た後は航空機整備員として百里基地に勤務<ref name="ep54">第54話「愛機と…蛍と…零戦と…」</ref><!-- <ref group="*">ちなみに、職業軍人だった者は特別職公務員である自衛官にはなれないはずで、[[公職追放]]や[[公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令]]と矛盾する。</ref> ← 公職追放は1952年に全面解除されていること、百里飛行場が終戦で廃止されてから再設置されたのは1966年であることから、今井班長の百里赴任に矛盾は無いと思います -->。「ファントムはデリケートなんだ」が口癖で、神田・栗原の荒っぽい操縦に対し口うるさいが、良き理解者でもある<ref name="ep17">第17話「巨鯨、迷走す」</ref>。神田も彼の整備には「安心して乗っていられる」と全面の信頼を置いている。またマッハ2.6を叩き出した680号機を整備したのも彼である。 ; 横山 久美子(よこやま くみこ) : ファントムに憧れを抱きパイロットを夢見る少女。初登場時は高校生だったが、神田が独断で後席に乗せて飛行し、事故で神田が操縦不能に陥った際、栗原の誘導があったとはいえ久美子の操縦で着陸に成功している<ref name="ep3">第3話「愛のタッチダウン」</ref>。 : 後に空自に入隊し、[[静浜基地]]で[[第11飛行教育団]]の飛行練習生になる<ref name="ep29">第29話「レディ・バード・ストーリー」</ref>。[[空士長]]<ref name="ep29" />。同期の女子練習生が次々に脱落していくことで悩み騒動を起こすが、来日中のキャシーに出会い精神的な成長を遂げる<ref name="ep45">第45話「マッチョ・フライト」</ref>。神田を慕う様子が描写されている。 === 民間航空会社 === ; 伊達 五郎(だて ごろう) : 紅空(架空の航空会社)に所属する旅客機の[[機長]]。元は空自の戦闘機パイロットで、[[千歳基地]]時代に栗原と組んでいた。かなりの女好きで、現代でなら[[セクハラ]]と認識される行為を[[客室乗務員|スチュワーデス]]相手に常日頃行っているが、ハンサムで人望もあるためか大目に見られている模様。一方で妻([[できちゃった結婚]]の元スチュワーデス)や娘の三星(乗機の[[ロッキード L-1011 トライスター|トライスター]]にちなむ名であると同時に、親が悪い星の下に生まれたので悪い星も3つあれば何とかなるだろうとの願いを込めた命名<ref name="ep49">第49話「魔の日」</ref>)に愛情を注ぐよき家庭人でもある。 : 優れた操縦技量と、乗客の安全を命懸けで守ろうとする強い意志を持つが、同時に神田に関して「狭苦しく与圧されていない操縦席に入り、飛行中もコーヒーが飲めない戦闘機パイロットに戻る度胸はない」とも語っている。栗原とは空自時代の元相棒ということもあって絶大な信頼を持つ一方、神田ともウマが合い、飲むとすぐ一緒に全裸になって騒ぎ出すほど仲が良い。互いの飛行技量や立場にも理解と敬意を払い合っている。 ; 高田(たかだ) : 紅空の[[副操縦士]]。伊達とコンビを組んでいる。整えた口髭が特徴。普段は穏やかで常識的だが肝が据わっており、操縦技量も伊達が「俺と同じぐらいの腕がなきゃコンビなんて組めるか」と太鼓判を押すほど<ref name="ep58">第58話「キャプテン・高田」</ref>。「3本線だろうが4本線だろうが空を飛べれば満足だ」と機長昇格には興味を持たない<ref name="ep58" />(「○本線」は肩章の線の数。機長は4本、副操縦士は3本)。伊達同様、神田・栗原に友情を感じている。初期には高原の名前で登場しているが、文庫版では訂正された。 === 米軍関係者 === ; ジョーイ・ヨハンセン : [[アメリカ海軍]][[中尉]]。[[第7艦隊 (アメリカ軍)|第7艦隊]][[航空母艦|空母]]サミット(架空の艦)所属の腕利きパイロット。第1話で初登場。その後何度も神・栗コンビと係わる。作中でF-4から[[F-14 (戦闘機)|F-14]]に機種転換しているほか、[[ホーカー・シドレー ハリアー|ハリアー]]で百里基地を訪れたこともある<ref name="ep14" />。 : 父が軍の大物高官であり、はるか上官であるはずの空母艦長(一般に大佐が務める)からも扱いを持て余されている<ref name="ep1">第1話「最終進入(ファイナル・アプローチ)」</ref>。彼を人質にする形で神田が腕試しに空母着艦を試みた時、「父親はジョーイに何かあったら日本に向けて核ミサイルのボタンでも押しかねん」と艦長が青ざめるシーンがあり、かなり溺愛されている模様<ref name="ep1" />。 : 百里の基地祭で上演された劇に乱入した際、女装した栗原を見て「美しければ男も女も関係ない」と言い唇を無理やり奪おうとした<ref name="ep51" />。 ; “キャシー”キャサリン・F・ガーナード : [[アメリカ空軍]]中尉。[[北アメリカ航空宇宙防衛司令部|NORAD]]所属。父親は[[アグレッサー部隊|赤い旗作戦基地]]司令のヘンリー・ガーナード[[中将]]<ref name="ep26">第26話「赤い星のファントム」</ref>。 : 神・栗コンビがアメリカ研修のため搭乗した旅客機に乗り合わせ、その際のトラブルで2人に興味を持つ<ref name="ep25">第25話「悪魔と口づけ」</ref>。かなりの美人で、パイロットとしての腕も一流。女性パイロットの先輩として本土から「ソニック・エンジェルス」(女性だけで構成されるアクロバット飛行チーム。架空の部隊)を呼ぶなど久美子を激励した<ref name="ep45" />。後にテックスと結婚し息子のリッキーを出産。 ; “テックス”ジャスティン・G・オールソン : アメリカ空軍[[大尉]]。通称は[[テキサス州]]出身のため<ref name="ep27">第27話「ファントム・イン・ラスベガス」</ref>。キャサリンの婚約者で[[F-15 (戦闘機)|F-15]]のパイロット。神・栗コンビが参加した模擬戦では、機体の性能差を覆す2人を侮っていたため敗れる<ref name="ep26" />。まもなく後に起こった大統領遭難事件の際、神・栗も認める操縦技量で事件解決に貢献<ref name="ep27" />。以降は良き友人になる。 ; ジェイムズ・C・カーナー : [[アメリカ合衆国大統領]]。キャシーを幼少時から知っており、彼女から「ジミーおじさま」と呼ばれている<ref name="ep27" />。気さくな面があり、初登場時は[[エアフォース・ワン]]の機内から神田・栗原に[[ラスベガス]]の場所を教え、相手が誰か気付いていない神田から「おっさん」呼ばわりされても笑っていた<ref name="ep27" />。視察のため乗ったヘリ([[ネイビーワン]])が遭難した際、神・栗(とテックス)に命を救われ、以来2人のファンになった<ref name="ep27" />。2人が免職になった際には[[ヒッカム空軍基地]]に怒鳴り込んで、苦情の撤回と復職を実現させた<ref name="ep63" />。 === 自衛官たちの家族 === ; 太田 鷹子(おおた たかこ) : 太田司令の一人娘。神・栗コンビのアイドル的存在。18歳。 : 母親がパイロットである夫の身を案じ、不安な毎日を過ごしていたことを子供の時感じていたため、最初は飛行機乗りのことを嫌悪していた。その後、神田・栗原との出会いをきっかけに、父やパイロットにも理解を示すようになる。彼女自身は民間人のはずだが、よく百里基地に出入りしている。 : 神田・栗原の二人に興味があり、お相手をどちらにするか決めかねている模様。自衛隊とは無関係の男性とお見合いした際、神・栗両方の嫁となって15人の子供(野球とバレーボール各1チーム分)を産むことを妄想した<ref name="ep30">第30話「鷹子グラフィティー」</ref>。 ; 栗原 静(くりはら しずか) : 栗原の母。芸者であったが早くに他界した。神田が幼い頃に出会った憧れの女性でもあるが、互いに思い出を話しているのが同一人物であることには二人とも気付いていない<ref name="ep47" />。 ; 島崎 清美(しまざき きよみ) : 栗原の異母妹。線の細い美人で優しい性格の持ち主で、栗原に対しへだてなく接した唯一の父方の肉親。栗原も彼女のことは家族として大切に想っていた。一時期、兄に比べ男らしくなく頼りない婚約者の信吾に物足りなさを感じるが(栗原が兄でなければ、と涙するシーンもある)、ある事件で急速に仲が深まる<ref name="ep38" />。 : 信吾との結婚式の1ヶ月前にハワイで娘の真沙香(まさか)を出産(できちゃった結婚以前に婚前出産だったことで、「''まさか''妊娠しているとは」というところから栗原が命名)<ref name="ep62">第62話「さらば、神・栗」</ref>。真沙香が精神を病んだ女性に誘拐された際、ヒッカム空軍基地から機体を拝借した神田・栗原が事態を収拾したのだが、無断借用・無許可飛行・米航空法違反・飛行機破損に加えてパトカーへの機関砲発砲という無法行為に激怒した同基地が航空幕僚監部に苦情を申し入れたため、二人が免職される結果となってしまう<ref name="ep62" />。 ; 植村 信吾(うえむら しんご) : 清美の婚約者。島崎重工の取引先である会社の社長の息子<ref name="ep38" />。見た目は華奢で普段は穏やかな性格であり、清美からは男らしくないと言われていたが、いざというときの肝は据わっており、ある事件で自分の命と引き換えにしてでも清美を救おうとしたことで男を上げる<ref name="ep38" />。 == 各話タイトル == {| class="wikitable" !話数!!タイトル!!掲載!!話数!!タイトル!!掲載 |- |第1話||<ruby><rb>最終進入</rb><rp>(</rp><rt>ファイナル・アプローチ</rt><rp>)</rp></ruby>||1978年4月20日号||第33話||ジャジャ馬ならし||1980年12月号 |- |第2話||<ruby><rb>好敵手</rb><rp>(</rp><rt>ライバル</rt><rp>)</rp></ruby>・栗原||1978年5月25日号||第34話||若葉マークからの脱皮||1981年1月号 |- |第3話||愛のタッチダウン||1978年8月25日号||第35話||平和の<ruby><rb>剣</rb><rp>(</rp><rt>つるぎ</rt><rp>)</rp></ruby>||1981年2月号 |- |第4話||奇跡の生還||1978年9月15日号||第36話||白銀のランデブー||1981年3月号 |- |第5話||永遠のシュプール||1978年10月号||第37話||大空の不良たち||1981年6月号 |- |第6話||バラとファイター||『[[週刊少年サンデー]]』<br />1978年45号||第38話||<ruby><rb>兄妹</rb><rp>(</rp><rt>あにいもうと</rt><rp>)</rp></ruby>||1981年4月号 |- |第7話||ロシアより愛をこめて||1978年11月号||第39話||さよなら、ブルーインパルス||1981年5月号 |- |第8話||パイロットの資格||1978年12月号||第40話||音速プロポーズ||1981年7月号 |- |第9話||飛べない翼||『週刊少年サンデー』<br />1979年11号||第41話||鉄男と鉄雄||1981年8月号 |- |第10話||<ruby><rb>最高速</rb><rp>(</rp><rt>フル・スロットル</rt><rp>)</rp></ruby>で飛べ||1979年3月号||第42話||さらば、コンピューター||1981年12月号 |- |第11話||<ruby><rb>衝撃波</rb><rp>(</rp><rt>ソニック・ブーム</rt><rp>)</rp></ruby>突破||1979年4月号||第43話||黒いX'マス・ツリー||1982年1月号 |- |第12話||亜成層圏の棺||1979年5月号||第44話||<ruby><rb>機長</rb><rp>(</rp><rt>キャプテン</rt><rp>)</rp></ruby>・ライブ||1981年9月号 |- |第13話||伝令いまだ届かず||1979年7月号||第45話||マッチョ・フライト||1981年10月号 |- |第14話||すばらしき仲間たち||1979年1月号||第46話||大統領の陰謀||1981年11月号 |- |第15話||<ruby><rb>編隊家族</rb><rp>(</rp><rt>フォーメーション・ファミリー</rt><rp>)</rp></ruby>||1979年2月号||第47話||それぞれの2月3日||1982年2月号 |- |第16話||愛と死の大空||1979年6月号||第48話||フィッシング・パニック||1982年3月号 |- |第17話||巨鯨、迷走す||1979年8月号||第49話||魔の日||1982年4月号 |- |第18話||虎よ、虎よ||1979年9月号||第50話||友情の<ruby><rb>三連星</rb><rp>(</rp><rt>トライ・スター</rt><rp>)</rp></ruby>||1982年5月号 |- |第19話||翼休む地平に||1979年10月号||第51話||二つの顔||1982年6月号 |- |第20話||滅亡への<ruby><rb>秒読み</rb><rp>(</rp><rt>カウント・ダウン</rt><rp>)</rp></ruby>||1979年11月号||第52話||ドロップ・アウト||1982年7月号 |- |第21話||新雪の悪魔||1979年12月号||第53話||死線のかなたの息子||1982年8月号 |- |第22話||センチメンタル・エキゾースト||1980年1月号||第54話||愛機と…蛍と…零戦と…||1982年9月号 |- |第23話||<ruby><rb>地獄</rb><rp>(</rp><rt>ヘル</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>急降下</rb><rp>(</rp><rt>ダイブ</rt><rp>)</rp></ruby>||1980年2月号||第55話||サムライ、シャトルを救え||1982年10月号 |- |第24話||ONLY ONE SHOT||1980年5月号||第56話||無視界空中戦||1982年11月号 |- |第25話||悪魔と口づけ||1980年6月号||第57話||百里式クリスマス・プレゼント||1983年1月号 |- |第26話||赤い星のファントム||1980年7月号||第58話||キャプテン・高田||1983年3月号 |- |第27話||ファントム・イン・ラスベガス||1980年8月号||第59話||転属||1983年6月号 |- |第28話||50セントの指令||1980年9月号||第60話||め組の夏は波高し||1983年8月号 |- |第29話||レディー・バード・ストーリー||1980年10月号||第61話||暗雲||1983年10月号 |- |第30話||鷹子グラフィティー||1980年3月号||第62話||さらば、神・栗||1983年12月号 |- |第31話||ロートル無頼||1980年4月号||第63話||<ruby><rb>永遠</rb><rp>(</rp><rt>とわ</rt><rp>)</rp></ruby>に||1984年2月号 |- |第32話||さらば、わが友よ||1980年11月号||colspan="3"| |} == 書誌情報 == いずれも小学館より発行。 ; 少年サンデーコミックス版 :# 1980年3月15日発行、ISBN 4-09-120421-X :# 1980年5月15日発行、ISBN 4-09-120422-8 :# 1980年8月15日発行、ISBN 4-09-120423-6 :# 1980年11月15日発行、ISBN 4-09-120424-4 :# 1981年2月15日発行、ISBN 4-09-120425-2 :# 1981年4月15日発行、ISBN 4-09-120426-0 :# 1981年6月15日発行、ISBN 4-09-120427-9 :# 1981年11月15日発行、ISBN 4-09-120428-7 :# 1982年4月15日発行、ISBN 4-09-120429-5 :# 1983年1月15日発行、ISBN 4-09-120430-9 :# 1983年7月15日発行、ISBN 4-09-120516-X :# 1984年4月15日発行、ISBN 4-09-120517-8 ; 少年サンデーコミックスワイド版 :# 1991年6月15日発行、ISBN 4-09-122711-2 :# 1991年8月15日発行、ISBN 4-09-122712-0 :# 1991年9月15日発行、ISBN 4-09-122713-9 :# 1991年10月15日発行、ISBN 4-09-122714-7 :# 1991年11月15日発行、ISBN 4-09-122715-5 ; 小学館文庫版 :# 1997年1月17日発行、ISBN 4-09-193061-1 :# 1997年1月17日発行、ISBN 4-09-193062-X :# 1997年3月15日発行、ISBN 4-09-193063-8 :# 1997年3月15日発行、ISBN 4-09-193064-6 :# 1997年5月16日発行、ISBN 4-09-193065-4 :# 1997年5月16日発行、ISBN 4-09-193066-2 :# 1997年7月17日発行、ISBN 4-09-193067-0 == イメージアルバム == ; 『ファントム無頼 オリジナル・アルバム』 : レーベル:[[東芝EMI]] : '''LP版''' 1985年8月31日発売 LC28-5003 : '''CD版''' 1986年2月1日発売 LD32-5003 : 音楽:渡辺博也、歌:ロブバード(1、2、10) / 山際祥子(4、6) / 柿沢美貴(8)、演奏:ソニック・エンジェルス : 収録曲 :# PHANTOM LOVER :# 野生の翼 :# スカイ・ファイター :# 愛に帰りたい - Flight to Your Heart - :# ウィング・マーク :# LADY BIRD :# 新撰組680 :# いつだって Wait for You :# 三連星 :# STAND-BY(FOR THE PEACE) : ※「愛に帰りたい」の[[アンサーソング]]が「いつだってWait for You」である。 : 作者の新谷かおるは、アルバムが出るに当たって「自衛隊だから、君が代を収録するんだろうか」というコメントを残している。 == 模型 == 模型メーカーの[[ハセガワ]]のキャラクター関連商品専門ブランドのアクトハセガワから、同社の1/72スケールの[[F-4 (戦闘機)|F-4EJ]](凹モールドの新キット)にデカールを追加したキットが発売された。 2004年、タカラから発売された[[食玩]]「ワールドウイングスミュージアム2 F-4ファントムIIには、公称の7種以外にシークレットアイテムとしてファントム無頼バージョン(680号機)が存在した。造型は[[海洋堂]]が担当した。 == 似た世界観を持つ作品 == *小説『ゼロと呼ばれた男』([[鳴海章]]、1993年) *:空自F-4パイロットが中東で活躍するなど、『エリア88』と『ファントム無頼』を思わせるキャラクターや雰囲気を持つ。また『原子力空母信濃』シリーズでは、『ファントム無頼』の影響でF-4が活躍する小説を書いたと本人が明言している。 == 関連作品 == * 『暴走ホリック(つっぱり中毒)』- [[新谷かおる]]著:[[戦場ロマン・シリーズ]]8巻『複合戦線』に収録。文庫版には収録されていない。郵便局の配達用赤カブVSスカGのレースを取り扱う。主人公の郵便配達員:小林 旭(神田)、喫茶店マスターのテツ(栗原)※ともに暴走グループ「青騎士」の元リーダー・現リーダー、小林の妹([[エリア88]]の津雲涼子)、小林の妹の彼氏:ベンこと勉(エリア88の風間真)、勉の姉:小夜子(鷹子)、その他「青騎士」メンバー:名無し([[エリア88]]のサキ、ミッキー、グレッグ、フーバー、神崎)、郵便局上司:太田司令という、スターシステムで描かれている。 * 『[[宇宙大帝ゴッドシグマ]]』 - 新谷かおるがキャラクター原案を担当したTVアニメ。本編中にも百里基地の運動会の景品としてゴッドシグマの玩具の箱が登場している。また、ゲーム『[[スーパーロボット大戦Z]]』に『宇宙大帝ゴッドシグマ』が登場した際には、ゴッドシグマのパイロットの1人であるジュリィ野口が「戦闘機のナビゲーターか?」と尋ねられるシーンがある。 *『[[DAICON FILM|DAICON OPENING ANIMATION]]』 - 本編フィルムで没になったが、女の子を追跡するシーンで[[コスモタイガーII]]、[[VF-1 バルキリー]]と共に680ファントムが編隊を組んで登場するのが、雑誌『[[アニメック]]』([[ラポート]])のダイコン特集記事で確認できる{{要検証|date=2018年5月24日 (木) 07:19 (UTC)}}。 *'''柳内 たくみの小説'''『[[ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり]]』には、主人公2人をモチーフとしたと思われるファントム搭乗員「神子田 瑛2佐」と「久里浜 純2佐」が準レギュラーで登場する。[[竿尾悟]]作画の漫画版では機体番号680と尾翼の新選組のようなだんだら模様が確認できる。 * {{脚注ヘルプ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{武論尊}} {{Manga-stub}} {{デフォルトソート:ふあんとむふらい}} [[Category:武論尊]] [[Category:新谷かおるの漫画作品]] [[Category:漫画作品 ふ|あんとむふらい]] [[Category:1978年の漫画]] [[Category:週刊少年サンデー超]] [[Category:自衛隊作品]] [[Category:航空自衛隊]] [[Category:茨城県を舞台とした漫画作品]] [[Category:航空を題材とした漫画作品]]
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紙型
紙型(しけい)とは、活版印刷で原版の複製を作るための紙製の鋳型である。 組み上げた印面の上に、溶けた鉛の温度に耐えうる特殊な紙を載せ、加熱・加圧して作る。この紙型を鉛版鋳造機の鋳型にセットし,鋳溶かした鉛合金(これを「湯」と呼ぶ)を注いで鉛版をつくり印刷用の版とする。版を重ねる場合は紙型から新しい鉛版をつくる。また、紙型をたわめた状態で「湯」を注ぐことで、曲面の鉛版が形成できる。これは輪転印刷機用に使用される。 紙型の利用には以下のような利点がある。 紙型の登場前には、17世紀末から粘土を用いて活字の雌型を得る方法が試されていたようである。18世紀には石膏を型とする方法がいくつか考案・特許出願され、そのうちひとつはスタンホープに売却され、彼のもとで研究され、一定の普及を見た。紙による型どりの発明は19世紀のフランス人ジュヌーを待たねばならなかった。当時は専用のブラシで叩いた上で圧搾することで型をとっていた。 紙型から型どりする場合、印刷に使われるのは活版の複製の複製となるため、活版でそのまま刷ったもの(原版刷り)の方が印字の精密さは優る。また、鉛活字は加熱すると縮む性質があり、紙型もまた加熱によって縮むので、わずかではあるが原版よりサイズが小さくなる。この差は版を重ねるごとに増大して行くので、次第に目立つようになる。 誤植などを訂正する場合、紙型そのものは訂正できないので、鉛版にした上で訂正箇所を切り取って正しく組版したものをはめ込む。これを象眼(象嵌)訂正という。一字象眼、一行象眼などがある。誤植がなくとも奥付の発行日などは象眼訂正によることが多いので、版を重ねた書物を見ると活字の縮み具合を観察できる。 印刷、とくに活版印刷について扱う解説書を見ると、紙型の利用については二種類のスタンスが見られる。一方は「大量に刷るときは紙型を取って複製する」とする立場で、他方は「部数が少ないときは原版刷りを行う」と記述する立場である。おおむねこれらは、それぞれの執筆者がどのような編集・印刷の現場を経験してきたかを反映していると言える。
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紙型(しけい)とは、活版印刷で原版の複製を作るための紙製の鋳型である。 組み上げた印面の上に、溶けた鉛の温度に耐えうる特殊な紙を載せ、加熱・加圧して作る。この紙型を鉛版鋳造機の鋳型にセットし,鋳溶かした鉛合金(これを「湯」と呼ぶ)を注いで鉛版をつくり印刷用の版とする。版を重ねる場合は紙型から新しい鉛版をつくる。また、紙型をたわめた状態で「湯」を注ぐことで、曲面の鉛版が形成できる。これは輪転印刷機用に使用される。 紙型の利用には以下のような利点がある。 組み上げた活版そのものは耐刷性が高くなく、数千枚を印刷すると磨耗してしまう。一方、複製した版を使うことで大部数の印刷をおこなうことができる。 金属活字を組んだ版は極めて重いため、重版の時までこれを保存することは大変な負担であり、一般的には不可能と言える。その点、紙型ならば軽くて薄いので、棚などに収めることができる。 輪転機用の湾曲した版を作るには、かつては活字をくさびで固定するなどしていたが、活字の脱落などのトラブルが絶えなかった。しかし、紙型の導入により一枚板で管理しやすい丸鉛版が作成可能になった。 紙型の登場前には、17世紀末から粘土を用いて活字の雌型を得る方法が試されていたようである。18世紀には石膏を型とする方法がいくつか考案・特許出願され、そのうちひとつはスタンホープに売却され、彼のもとで研究され、一定の普及を見た。紙による型どりの発明は19世紀のフランス人ジュヌーを待たねばならなかった。当時は専用のブラシで叩いた上で圧搾することで型をとっていた。 紙型から型どりする場合、印刷に使われるのは活版の複製の複製となるため、活版でそのまま刷ったもの(原版刷り)の方が印字の精密さは優る。また、鉛活字は加熱すると縮む性質があり、紙型もまた加熱によって縮むので、わずかではあるが原版よりサイズが小さくなる。この差は版を重ねるごとに増大して行くので、次第に目立つようになる。 誤植などを訂正する場合、紙型そのものは訂正できないので、鉛版にした上で訂正箇所を切り取って正しく組版したものをはめ込む。これを象眼(象嵌)訂正という。一字象眼、一行象眼などがある。誤植がなくとも奥付の発行日などは象眼訂正によることが多いので、版を重ねた書物を見ると活字の縮み具合を観察できる。 印刷、とくに活版印刷について扱う解説書を見ると、紙型の利用については二種類のスタンスが見られる。一方は「大量に刷るときは紙型を取って複製する」とする立場で、他方は「部数が少ないときは原版刷りを行う」と記述する立場である。おおむねこれらは、それぞれの執筆者がどのような編集・印刷の現場を経験してきたかを反映していると言える。
{{出典の明記|date=2011年3月}} [[ファイル:Shikei matrix1 edit.jpg|thumb|250px|欧文組版の紙型と和文初号活字]] [[File:Fotothek df roe-neg 0006484 033 Herstellen einer Mater (Stereotypie).jpg|thumb|250px]] '''紙型'''(しけい)とは、[[活版]]印刷で原版の複製を作るための紙製の鋳型である。 組み上げた印面の上に、溶けた鉛の温度に耐えうる特殊な紙を載せ、加熱・加圧して作る。この紙型を鉛版鋳造機の鋳型にセットし,鋳溶かした鉛合金(これを「湯」と呼ぶ)を注いで[[鉛版]]をつくり[[印刷]]用の版とする。版を重ねる場合は紙型から新しい鉛版をつくる。また、紙型をたわめた状態で「湯」を注ぐことで、曲面の鉛版が形成できる。これは[[輪転印刷機]]用に使用される。 紙型の利用には以下のような利点がある。 #組み上げた活版そのものは[[耐刷性]]が高くなく、数千枚を印刷すると磨耗してしまう。一方、複製した版を使うことで大部数の印刷をおこなうことができる。 #金属活字を組んだ版は極めて重いため、重版の時までこれを保存することは大変な負担であり、一般的には不可能と言える。その点、紙型ならば軽くて薄いので、棚などに収めることができる。 #輪転機用の湾曲した版を作るには、かつては活字をくさびで固定するなどしていたが、活字の脱落などのトラブルが絶えなかった。しかし、紙型の導入により一枚板で管理しやすい丸鉛版が作成可能になった。 紙型の登場前には、17世紀末から[[粘土]]を用いて活字の雌型を得る方法が試されていたようである。18世紀には[[石膏]]を型とする方法がいくつか考案・特許出願され、そのうちひとつはスタンホープに売却され、彼のもとで研究され、一定の普及を見た。紙による型どりの発明は19世紀のフランス人ジュヌーを待たねばならなかった。当時は専用のブラシで叩いた上で圧搾することで型をとっていた。 紙型から型どりする場合、印刷に使われるのは活版の複製の複製となるため、活版でそのまま刷ったもの('''原版刷り''')の方が印字の精密さは優る。また、鉛活字は加熱すると縮む性質があり、紙型もまた加熱によって縮むので、わずかではあるが原版よりサイズが小さくなる。この差は版を重ねるごとに増大して行くので、次第に目立つようになる。 誤植などを訂正する場合、紙型そのものは訂正できない<!--あとで原典さがして加筆訂正? 2010/10/11-->ので、鉛版にした上で訂正箇所を切り取って正しく組版したものをはめ込む。これを象眼([[象嵌]])訂正という。一字象眼、一行象眼などがある。誤植がなくとも[[奥付]]の発行日などは象眼訂正によることが多いので、版を重ねた書物を見ると活字の縮み具合を観察できる。 印刷、とくに活版印刷について扱う解説書を見ると、紙型の利用については二種類のスタンスが見られる。一方は「大量に刷るときは紙型を取って複製する」とする立場で、他方は「部数が少ないときは原版刷りを行う」と記述する立場である。おおむねこれらは、それぞれの執筆者がどのような編集・印刷の現場を経験してきたかを反映していると言える。 {{タイポグラフィ用語}} {{DEFAULTSORT:しけい}} [[Category:印刷]] [[Category:紙]]
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沖縄都市モノレール線
沖縄都市モノレール線(おきなわとしモノレールせん)は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2023年1月時点で「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線」となっている。また、南西諸島に存在する鉄軌道路線も当路線のみである。 沖縄都市モノレール線「ゆいレール」は、沖縄本島の玄関口である那覇空港から赤嶺経由で漫湖を渡って旭橋に抜け、旭橋からは久茂地川沿いに那覇市の繁華街である久茂地・牧志地区を抜けて国際通りを跨ぎ、国道330号を北上して古島からは環状2号線を上りてだこ浦西に至る全長約17.0 kmの跨座式のモノレール線である。この約17.0 kmの区間をワンマン運転の2両編成もしくは3両編成の車両が約40分かけて走る。 那覇空港駅 - 首里駅間は2003年8月10日、首里駅 - てだこ浦西駅間は2019年10月1日に開業した。沖縄県の交通手段は自家用車・タクシー・バスが中心であり、特に那覇都市圏では渋滞が悪化していた。そこで、国、沖縄県、那覇市と沖縄都市モノレール株式会社が一体となって建設を行い、沖縄では戦後初の鉄道開通となった。当初の世論では、前記の「クルマ社会」という見方から、実際に利用されるかどうかの懸念があったが、いざ開業してみると、渋滞に巻き込まれないために時間が正確であることと、高所を走るという特性のために眺望がよく、モノレール自体が観光施設となったため、この懸念は杞憂に終わった。眺望のために人気を集めるという点は東京モノレール羽田空港線と同様である。切符の購入や自動改札機の通り方に慣れない利用客向けに、沖縄都市モノレールのホームページでは「利用ガイド」として乗車方法を詳説している。 開業翌年の2004年に「沖縄都市モノレールの整備と総合的戦略的な都市整備計画」が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞した。受賞対象者は、沖縄県、那覇市および沖縄県都市モノレール建設促進協議会である。 全線で列車運行管理システムを導入している。 古島駅から約57‰の上り坂が続く。最急勾配は儀保駅 - 首里駅間の60‰である。 2019年5月24日、沖縄都市モノレールは那覇市の本社で記者会見し、利用者の利便性向上と券売機前の混雑解消を目的に「Suica」などの全国相互利用交通系ICカードを2020年春に運賃支払いに利用できるようにすると発表した。2020年3月10日より利用可能となり、引き続き「OKICA」も利用可能である。 沖縄都市モノレール開業20周年を迎えた2023年8月10日から3両編成車両の運行を開始した。将来的には3両編成の車両を9編成まで増やすとしている。 全列車が各駅に停車する。一部区間のみを運行する列車はあるが、途中駅を通過する列車はない。6時頃から運行(2023年8月のダイヤ改正で、てだこ浦西駅発が5時過ぎとなり、那覇空港駅着が6時前となる)され、終電は那覇空港駅発・てだこ浦西駅発ともに23時30分となっている。ダイヤは平日(月 - 金曜)、土休日(土曜日・日曜日・祝日)の2種類。平日は早朝が6 - 12分間隔、朝ラッシュ時が4 - 6分間隔、夕ラッシュ時が7分間隔、日中と夜が10分間隔、夜21時以降が12分間隔、土休日は早朝と夜21時以降が12分間隔、それ以外は10分間隔となっている。ワンマン運転を実施している。 折り返しは両端の駅および首里駅で行われるが、牧志駅 - 安里駅間に非常用の渡り線があり両駅での折り返し運転も可能となっている。事故などの突発的事象により運行に支障が出た場合は全線で運行停止になるが、例えば2007年10月21日に儀保駅付近で行われた不発弾処理時に朝8時頃から処理完了まで那覇空港駅 - 牧志駅間で実施されるなど、予め運行計画が立てられる経路上の運行障害に関しては折り返し設備を利用しての区間運転が実施される。なお車両基地が那覇空港駅側に設置されていることから、車両数の調整が困難である牧志駅以北のみでの運行は行われていない。 2019年10月1日の延伸開業に伴うダイヤ改正により、平日(月 - 木曜)、金曜日、土曜日、休日(日曜日・祝日)の4種類あったダイヤのうち金曜日・土曜日ダイヤを廃止し、平日・土休日の2種類に統合された。また、平日の朝ラッシュ時には首里駅で折り返す列車が設定された。 沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道や路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業したが、昭和初期に入ると沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道がバスとの競争に敗れて廃止され、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、鉄道の施設は空襲や地上戦によって破壊され、アメリカ合衆国による統治下に置かれた戦後は道路整備が優先され、残った線路も鉄不足のため回収され生活用品と成り代わった。鉄道は復旧されることなくそのまま消滅した。 しかし、1970年代に入って経済活動が活発になってくると、那覇市を含む沖縄本島中南部地域に人口や産業が集中した。この結果、道路交通の渋滞が慢性化し、その対策として新たな軌道系公共交通機関を求める声が高まっていった。那覇市議会議長を務めた高良一は、十数年間、数万ドルの私費を投じてモノレール計画書を作成したと言われる。 沖縄が本土復帰を果たした1972年、日本国政府(以下、政府または国と略)は沖縄の振興開発を推進するために「新全国総合開発計画」(新全総)の一部を改正し、沖縄県に対する特別措置として沖縄振興開発計画を同年10月31日に策定した。同計画では、沖縄本島の陸上交通に新しい交通システムの導入を検討していくとされた。これを受けて、国や沖縄開発庁、沖縄県、那覇市などが中心となって導入機種やルートなど具体的な検討を行い、最終的には「都市モノレールの整備の促進に関する法律」(都市モノレール法、昭和47年法律第129号)に基づき跨座式モノレールを導入することで決着した。 1975年、国・沖縄県・那覇市で構成される「都市モノレール調査協議会」が設置され、ルート等の検討を行うなど建設に向けての準備が進められた。沖縄県と那覇市による「都市軌道建設準備室」が設置され、1980年に「都市モノレール関連街路に関する基本協定書」を締結、実施調査については、国庫補助事業(1981年度)として採択、推進された。 ルートは那覇空港から首里城に近い汀良(てら)地区までの区間を第一期区間とし、汀良地区から西原入口までの区間を第二期区間、さらに沖縄市方面への延伸も検討課題とした。1982年9月に運営主体となる第三セクター「沖縄都市モノレール株式会社」を設立、同年に高良(現在の赤嶺駅) - 首里汀良町間を県に特許申請、翌年に再検討、那覇空港 - 首里汀良町間(営業距離12.9 km)に延長された。沖縄県と那覇市は都市モノレールの導入空間となる街路の整備事業を先行して進めた。 第一期区間については国際通りの地下を通過する「国際通り案」と久茂地川沿いのルートを取る「久茂地川沿い案」の両案、さらに那覇空港ターミナルビルの再整備位置に合わせ「高良経由案」、「北側案」が検討され、最終的に「久茂地川沿い案」と「高良経由案」を採用し、小禄金城町(現在の小禄駅)にも駅を設置することで決着した。 1994年に、沖縄県・那覇市と既存交通機関のバス会社との間で基本協定や覚書が締結され、1995年の政府予算案(1996年度)にモノレール関連のインフラ予算が盛り込まれる。こうした着工に向けた動きの活発化により、同年9月に空港(現在の那覇空港) - 汀良(現在の首里)間の特許申請書を沖縄都市モノレールが再提出、翌年1996年3月に同社は軌道事業の特許を取得したことから、同年11月に軌道本体の工事が着手された。この時点での開業予定時期は2003年12月としていたが、街路の先行整備で工期に余裕ができたこともあり、実際には4か月ほど早い同年8月に開業した。 開業に伴い市内のバス路線をほぼ独占していた那覇交通(当時:現在の那覇バス)に対しバス路線廃止の引き替えとして補償金が支払われたが、同社は経営危機にあり収益路線を廃止できないとして実際に廃止された路線は僅かにとどまり、しかも補償金を社員の退職金として支払ってしまい補償金は返済されずに那覇交通は経営破綻している(→那覇バスの項参照)。 開業前に指摘されていた採算性の懸念は杞憂に終わり、観光輸送・通学輸送等で支持され順調に利用者が増加した。リーマンショックや新型インフルエンザの流行による利用者減少も一時的なものであり、2016年度には初めて単年度黒字を達成した。近年はモノレールの浦添延伸や観光客の急増に対応し、3両編成化を目指すとしている。 太平洋戦争での沖縄戦の場所であったことから、建設前に不発弾の磁気探査が行われ、3か所において計7発の不発弾が発見され処理されたが、開業後も何度か運転を休止して、不発弾処理が行われている。 開通時に終点となった首里駅からは、石嶺地区を経由した沖縄自動車道インターチェンジまでの延長計画、および沖縄道より先の地域までの延伸計画が既に検討されていた。そのため、建設当初より首里駅から先の車止めは石嶺地区に向かってカーブした形で行き止まりとなっていた。また、同駅のホームは相対式となっており、開業当初は上り線を利用して暫定的に片面のみ使用していたほか、延伸予定道路は軌道敷設対応の拡張工事が行われていた。内閣府は2005年(平成17年)に延伸についての調査を行ったが、ゆいレールの利用実績は順調であるものの赤字を出しており、この解消が課題とされた。 数年にわたり延長計画の選定の協議会が行われ、2008年3月に首里石嶺町、浦添市前田を経由して、西原入口交差点に接続される総延長4.1 kmの浦添案が選定され、2020年度までの開業を目指して計画が進められることとなった。 2009年度より延伸に向けての調査が開始され、2、3年の調査の結果をもとに国に対してモノレール建設事業の予算要求を行う予定となった。 しかしこの時点で建設費用での問題が一部未解決となっていた。建設費用は396億円と概算されており、駅舎や軌道けた、柱などのインフラ部の整備費用については、原則として県道は県、市道は各市の道路管理者が負担することになっていた。しかし那覇市側は、第1駅(那覇市に設置予定)の駅勢内(半径約800 m)で那覇市民の利用はカバーできるとして、第1駅と第2駅(浦添市に設置予定)間の間にある那覇市道800 mの整備費用は県や浦添市が負担するように求めた。その後の協議会において、市道800 mに関しては那覇市と県が整備を行うことにし、総事業費396億円のうち、県が57億円、那覇市が30億円、浦添市が46億円の費用を分担し、残りの263億円は国庫補助を見込むという試算が出された。但し、費用分担に関して県や市は財政上の問題から出来る限り費用を抑えたいという意向があるため、分担割合の合意には流動的な部分が残されている。 延長計画に関しては、モノレール建設当初より計画されているものである。これは、浦添ルート案をはじめ、沖縄自動車道のインターチェンジ(西原IC付近)まで延長し、現行の路線バス網の再整備や、駅に交通広場やパークアンドライド用駐車場を設置することによって、高速道路を利用してのバス・タクシー・車(自家用車・観光客向けレンタカー)とモノレールを連結する統合高速交通構想である。 この延長計画には、当初以下の6つのルートが提案された。 このうち、「費用対効果」の観点からA-1案、A-2案、A-3案、A-4案、およびB案の5案が一次選定された。 さらに「沿線需要の効果的取組みと那覇都市圏の交通円滑化に寄与する交通結節機能を満たす終点駅であること」および「まちづくりへの支援のためのモノレール延長のルートに成り得ること」からA-1案からA-4案までの4案に絞り込まれ、これに「延長ルート案の実現性」を考慮してA-1案、A-3案、A-4案が1次評価を通過したが、これら各案には以下の必須課題が挙げられた。 A-3案には2つの重大課題が見込まれたため、A-3案と当初案を抱き合わせたA-3改良案(A-3'案)が提案され、2007年8月29日時点での延長計画案の最終候補は当初案・福祉センタールート案・福祉センタールート改良案・浦添ルート案の4つとなった。 「利便性(需要量)」、「まちの発展性」、「交通結節利便性」、「早期実現性」、「経営採算性・資金調達」の五つの評価項目で総合評価した結果、二次選定ではA-3'案とA-4案が選定された。 沖縄都市モノレール延長検討委員会は、2007年11月5日の第6回延長検討委員会までに1案に絞り込むこととしていたが、A-3'案とA-4案が拮抗したものであることから「県民の意見も参考に検討する必要性がある」とし、2007年12月18日から2008年1月31日までの期間、パブリック・インボルブメント(PI)を実施することとなった。この調査により周辺住民を中心とする利用者の実態・意識を調査・評価したうえで最終2案の延長計画が最終評価され1案に絞り込まれる見込みとなった。 2008年3月21日に行われた第7回沖縄都市モノレール延長検討委員会により、浦添案が選定された。選定理由として、もう1案であった福祉センター改良案に比べ多くの利用者数が見込まれることや、福祉センター改良案の2倍以上の支持を得たというPIの結果、隣接市町である宜野湾市、西原町への発展性などが挙げられた。 その後、2011年8月30日に首里 - 浦西(仮称)間の軌道事業の特許申請が行われ、2012年1月26日に認可された。開業は2019年春が予定された。 2014年12月26日、延伸区間の駅名が(首里駅寄りから)石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅に決定した。 2018年5月25日、延伸区間の開業時期を延期することが発表され、入札の不調や土地取得の遅れなどから、工事が順調に進んだ場合でも早くて2019年夏ごろになるとした。2019年4月25日には、同年10月1日に開業する方向で調整していることが報じられ、同日に開業した。 延長計画の終着駅は「モノレールと高速道路との結節点」とされているが、この終着駅より先の地域にまでモノレールを延伸する「延伸構想」として、当初計画に宜野湾市普天間を経て沖縄市までの敷設案が構想されていたものの、その後具体的な動きはない。 2019年6月には沖縄県より、延伸・新線構想のうち糸満方面、与那原方面、琉球大学・中城方面など5ルートについて、モノレールを導入した場合の効果・影響等に関する検討結果が公表されたが、いずれも採算性の課題があり費用便益比(B/C)が1未満となっている。一方で沖縄本島中部・北部に向けた中長距離の都市間輸送手段としては、モノレールよりも広域輸送を重視した沖縄鉄軌道(那覇市 - 名護市間)の構想が推進されている状況にある。 沖縄都市モノレール(ゆいレール)の開業に前後して、既存路線バスの抜本的見直しが予定されていた。具体的にはおもろまちと首里の両駅を郊外線のバスターミナルと位置づけ、市内線においても並行路線の廃止を行うものであった。乗り継ぎに伴う不利益を解消するため乗り継ぎ割引も予定され、実際ゆいレールの一部券売機には乗り継ぎ券の購入ボタンも準備されていた。しかし、乗り継ぎ割引の割引分の負担を巡りバス4社と沖縄都市モノレールの間で折り合いが付かず、那覇交通の経営破綻もあってこの構想は崩壊した。また、おもろまちと首里を郊外線との結節とする構想も、両駅付近にバス乗務員の待機所や操車機能が設けられなかったことから限定的なものとなった。 結果として、中部方面からの幹線路線をおもろまち駅で折り返す路線の新設や首里駅経由の路線の新設などが行われたが、新設路線は本数が少なく、前述の通り限定的なものとなった。また、これらの新設路線の利用状況は芳しくなく、ほとんどの路線でさらなる減便が行われ、一部路線は廃止となっている。 主な動きは以下の通りである。なお、首里 - てだこ浦西間の延伸開業時にはそれに伴う系統の再編は行われなかった。 那覇と中部を結ぶ沖縄自動車道経由路線の新設 那覇市内路線の路線廃止・新設 おもろまち駅前広場発着線の新設 個別の駅の施設については上表から各駅の記事を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "沖縄都市モノレール線(おきなわとしモノレールせん)は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2023年1月時点で「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線」となっている。また、南西諸島に存在する鉄軌道路線も当路線のみである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "沖縄都市モノレール線「ゆいレール」は、沖縄本島の玄関口である那覇空港から赤嶺経由で漫湖を渡って旭橋に抜け、旭橋からは久茂地川沿いに那覇市の繁華街である久茂地・牧志地区を抜けて国際通りを跨ぎ、国道330号を北上して古島からは環状2号線を上りてだこ浦西に至る全長約17.0 kmの跨座式のモノレール線である。この約17.0 kmの区間をワンマン運転の2両編成もしくは3両編成の車両が約40分かけて走る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "那覇空港駅 - 首里駅間は2003年8月10日、首里駅 - てだこ浦西駅間は2019年10月1日に開業した。沖縄県の交通手段は自家用車・タクシー・バスが中心であり、特に那覇都市圏では渋滞が悪化していた。そこで、国、沖縄県、那覇市と沖縄都市モノレール株式会社が一体となって建設を行い、沖縄では戦後初の鉄道開通となった。当初の世論では、前記の「クルマ社会」という見方から、実際に利用されるかどうかの懸念があったが、いざ開業してみると、渋滞に巻き込まれないために時間が正確であることと、高所を走るという特性のために眺望がよく、モノレール自体が観光施設となったため、この懸念は杞憂に終わった。眺望のために人気を集めるという点は東京モノレール羽田空港線と同様である。切符の購入や自動改札機の通り方に慣れない利用客向けに、沖縄都市モノレールのホームページでは「利用ガイド」として乗車方法を詳説している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "開業翌年の2004年に「沖縄都市モノレールの整備と総合的戦略的な都市整備計画」が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞した。受賞対象者は、沖縄県、那覇市および沖縄県都市モノレール建設促進協議会である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全線で列車運行管理システムを導入している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古島駅から約57‰の上り坂が続く。最急勾配は儀保駅 - 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木曜)、金曜日、土曜日、休日(日曜日・祝日)の4種類あったダイヤのうち金曜日・土曜日ダイヤを廃止し、平日・土休日の2種類に統合された。また、平日の朝ラッシュ時には首里駅で折り返す列車が設定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "沖縄本島では、大正時代に軽便鉄道や路面電車、馬車鉄道といった数々の鉄道路線が開業したが、昭和初期に入ると沖縄電気の路面電車と糸満馬車軌道がバスとの競争に敗れて廃止され、残った沖縄県営鉄道と沖縄軌道も太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止し、鉄道の施設は空襲や地上戦によって破壊され、アメリカ合衆国による統治下に置かれた戦後は道路整備が優先され、残った線路も鉄不足のため回収され生活用品と成り代わった。鉄道は復旧されることなくそのまま消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、1970年代に入って経済活動が活発になってくると、那覇市を含む沖縄本島中南部地域に人口や産業が集中した。この結果、道路交通の渋滞が慢性化し、その対策として新たな軌道系公共交通機関を求める声が高まっていった。那覇市議会議長を務めた高良一は、十数年間、数万ドルの私費を投じてモノレール計画書を作成したと言われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "沖縄が本土復帰を果たした1972年、日本国政府(以下、政府または国と略)は沖縄の振興開発を推進するために「新全国総合開発計画」(新全総)の一部を改正し、沖縄県に対する特別措置として沖縄振興開発計画を同年10月31日に策定した。同計画では、沖縄本島の陸上交通に新しい交通システムの導入を検討していくとされた。これを受けて、国や沖縄開発庁、沖縄県、那覇市などが中心となって導入機種やルートなど具体的な検討を行い、最終的には「都市モノレールの整備の促進に関する法律」(都市モノレール法、昭和47年法律第129号)に基づき跨座式モノレールを導入することで決着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1975年、国・沖縄県・那覇市で構成される「都市モノレール調査協議会」が設置され、ルート等の検討を行うなど建設に向けての準備が進められた。沖縄県と那覇市による「都市軌道建設準備室」が設置され、1980年に「都市モノレール関連街路に関する基本協定書」を締結、実施調査については、国庫補助事業(1981年度)として採択、推進された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ルートは那覇空港から首里城に近い汀良(てら)地区までの区間を第一期区間とし、汀良地区から西原入口までの区間を第二期区間、さらに沖縄市方面への延伸も検討課題とした。1982年9月に運営主体となる第三セクター「沖縄都市モノレール株式会社」を設立、同年に高良(現在の赤嶺駅) - 首里汀良町間を県に特許申請、翌年に再検討、那覇空港 - 首里汀良町間(営業距離12.9 km)に延長された。沖縄県と那覇市は都市モノレールの導入空間となる街路の整備事業を先行して進めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第一期区間については国際通りの地下を通過する「国際通り案」と久茂地川沿いのルートを取る「久茂地川沿い案」の両案、さらに那覇空港ターミナルビルの再整備位置に合わせ「高良経由案」、「北側案」が検討され、最終的に「久茂地川沿い案」と「高良経由案」を採用し、小禄金城町(現在の小禄駅)にも駅を設置することで決着した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1994年に、沖縄県・那覇市と既存交通機関のバス会社との間で基本協定や覚書が締結され、1995年の政府予算案(1996年度)にモノレール関連のインフラ予算が盛り込まれる。こうした着工に向けた動きの活発化により、同年9月に空港(現在の那覇空港) - 汀良(現在の首里)間の特許申請書を沖縄都市モノレールが再提出、翌年1996年3月に同社は軌道事業の特許を取得したことから、同年11月に軌道本体の工事が着手された。この時点での開業予定時期は2003年12月としていたが、街路の先行整備で工期に余裕ができたこともあり、実際には4か月ほど早い同年8月に開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "開業に伴い市内のバス路線をほぼ独占していた那覇交通(当時:現在の那覇バス)に対しバス路線廃止の引き替えとして補償金が支払われたが、同社は経営危機にあり収益路線を廃止できないとして実際に廃止された路線は僅かにとどまり、しかも補償金を社員の退職金として支払ってしまい補償金は返済されずに那覇交通は経営破綻している(→那覇バスの項参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "開業前に指摘されていた採算性の懸念は杞憂に終わり、観光輸送・通学輸送等で支持され順調に利用者が増加した。リーマンショックや新型インフルエンザの流行による利用者減少も一時的なものであり、2016年度には初めて単年度黒字を達成した。近年はモノレールの浦添延伸や観光客の急増に対応し、3両編成化を目指すとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "太平洋戦争での沖縄戦の場所であったことから、建設前に不発弾の磁気探査が行われ、3か所において計7発の不発弾が発見され処理されたが、開業後も何度か運転を休止して、不発弾処理が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "開通時に終点となった首里駅からは、石嶺地区を経由した沖縄自動車道インターチェンジまでの延長計画、および沖縄道より先の地域までの延伸計画が既に検討されていた。そのため、建設当初より首里駅から先の車止めは石嶺地区に向かってカーブした形で行き止まりとなっていた。また、同駅のホームは相対式となっており、開業当初は上り線を利用して暫定的に片面のみ使用していたほか、延伸予定道路は軌道敷設対応の拡張工事が行われていた。内閣府は2005年(平成17年)に延伸についての調査を行ったが、ゆいレールの利用実績は順調であるものの赤字を出しており、この解消が課題とされた。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "数年にわたり延長計画の選定の協議会が行われ、2008年3月に首里石嶺町、浦添市前田を経由して、西原入口交差点に接続される総延長4.1 kmの浦添案が選定され、2020年度までの開業を目指して計画が進められることとなった。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2009年度より延伸に向けての調査が開始され、2、3年の調査の結果をもとに国に対してモノレール建設事業の予算要求を行う予定となった。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかしこの時点で建設費用での問題が一部未解決となっていた。建設費用は396億円と概算されており、駅舎や軌道けた、柱などのインフラ部の整備費用については、原則として県道は県、市道は各市の道路管理者が負担することになっていた。しかし那覇市側は、第1駅(那覇市に設置予定)の駅勢内(半径約800 m)で那覇市民の利用はカバーできるとして、第1駅と第2駅(浦添市に設置予定)間の間にある那覇市道800 mの整備費用は県や浦添市が負担するように求めた。その後の協議会において、市道800 mに関しては那覇市と県が整備を行うことにし、総事業費396億円のうち、県が57億円、那覇市が30億円、浦添市が46億円の費用を分担し、残りの263億円は国庫補助を見込むという試算が出された。但し、費用分担に関して県や市は財政上の問題から出来る限り費用を抑えたいという意向があるため、分担割合の合意には流動的な部分が残されている。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "延長計画に関しては、モノレール建設当初より計画されているものである。これは、浦添ルート案をはじめ、沖縄自動車道のインターチェンジ(西原IC付近)まで延長し、現行の路線バス網の再整備や、駅に交通広場やパークアンドライド用駐車場を設置することによって、高速道路を利用してのバス・タクシー・車(自家用車・観光客向けレンタカー)とモノレールを連結する統合高速交通構想である。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この延長計画には、当初以下の6つのルートが提案された。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このうち、「費用対効果」の観点からA-1案、A-2案、A-3案、A-4案、およびB案の5案が一次選定された。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "さらに「沿線需要の効果的取組みと那覇都市圏の交通円滑化に寄与する交通結節機能を満たす終点駅であること」および「まちづくりへの支援のためのモノレール延長のルートに成り得ること」からA-1案からA-4案までの4案に絞り込まれ、これに「延長ルート案の実現性」を考慮してA-1案、A-3案、A-4案が1次評価を通過したが、これら各案には以下の必須課題が挙げられた。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "A-3案には2つの重大課題が見込まれたため、A-3案と当初案を抱き合わせたA-3改良案(A-3'案)が提案され、2007年8月29日時点での延長計画案の最終候補は当初案・福祉センタールート案・福祉センタールート改良案・浦添ルート案の4つとなった。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「利便性(需要量)」、「まちの発展性」、「交通結節利便性」、「早期実現性」、「経営採算性・資金調達」の五つの評価項目で総合評価した結果、二次選定ではA-3'案とA-4案が選定された。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "沖縄都市モノレール延長検討委員会は、2007年11月5日の第6回延長検討委員会までに1案に絞り込むこととしていたが、A-3'案とA-4案が拮抗したものであることから「県民の意見も参考に検討する必要性がある」とし、2007年12月18日から2008年1月31日までの期間、パブリック・インボルブメント(PI)を実施することとなった。この調査により周辺住民を中心とする利用者の実態・意識を調査・評価したうえで最終2案の延長計画が最終評価され1案に絞り込まれる見込みとなった。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2008年3月21日に行われた第7回沖縄都市モノレール延長検討委員会により、浦添案が選定された。選定理由として、もう1案であった福祉センター改良案に比べ多くの利用者数が見込まれることや、福祉センター改良案の2倍以上の支持を得たというPIの結果、隣接市町である宜野湾市、西原町への発展性などが挙げられた。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その後、2011年8月30日に首里 - 浦西(仮称)間の軌道事業の特許申請が行われ、2012年1月26日に認可された。開業は2019年春が予定された。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2014年12月26日、延伸区間の駅名が(首里駅寄りから)石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅に決定した。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2018年5月25日、延伸区間の開業時期を延期することが発表され、入札の不調や土地取得の遅れなどから、工事が順調に進んだ場合でも早くて2019年夏ごろになるとした。2019年4月25日には、同年10月1日に開業する方向で調整していることが報じられ、同日に開業した。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "延長計画の終着駅は「モノレールと高速道路との結節点」とされているが、この終着駅より先の地域にまでモノレールを延伸する「延伸構想」として、当初計画に宜野湾市普天間を経て沖縄市までの敷設案が構想されていたものの、その後具体的な動きはない。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2019年6月には沖縄県より、延伸・新線構想のうち糸満方面、与那原方面、琉球大学・中城方面など5ルートについて、モノレールを導入した場合の効果・影響等に関する検討結果が公表されたが、いずれも採算性の課題があり費用便益比(B/C)が1未満となっている。一方で沖縄本島中部・北部に向けた中長距離の都市間輸送手段としては、モノレールよりも広域輸送を重視した沖縄鉄軌道(那覇市 - 名護市間)の構想が推進されている状況にある。", "title": "延長計画と延伸構想" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "沖縄都市モノレール(ゆいレール)の開業に前後して、既存路線バスの抜本的見直しが予定されていた。具体的にはおもろまちと首里の両駅を郊外線のバスターミナルと位置づけ、市内線においても並行路線の廃止を行うものであった。乗り継ぎに伴う不利益を解消するため乗り継ぎ割引も予定され、実際ゆいレールの一部券売機には乗り継ぎ券の購入ボタンも準備されていた。しかし、乗り継ぎ割引の割引分の負担を巡りバス4社と沖縄都市モノレールの間で折り合いが付かず、那覇交通の経営破綻もあってこの構想は崩壊した。また、おもろまちと首里を郊外線との結節とする構想も、両駅付近にバス乗務員の待機所や操車機能が設けられなかったことから限定的なものとなった。", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "結果として、中部方面からの幹線路線をおもろまち駅で折り返す路線の新設や首里駅経由の路線の新設などが行われたが、新設路線は本数が少なく、前述の通り限定的なものとなった。また、これらの新設路線の利用状況は芳しくなく、ほとんどの路線でさらなる減便が行われ、一部路線は廃止となっている。", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "主な動きは以下の通りである。なお、首里 - てだこ浦西間の延伸開業時にはそれに伴う系統の再編は行われなかった。", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "那覇と中部を結ぶ沖縄自動車道経由路線の新設", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "那覇市内路線の路線廃止・新設", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "おもろまち駅前広場発着線の新設", "title": "公共交通の再編" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "個別の駅の施設については上表から各駅の記事を参照。", "title": "駅一覧" } ]
沖縄都市モノレール線(おきなわとしモノレールせん)は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2023年1月時点で「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線」となっている。また、南西諸島に存在する鉄軌道路線も当路線のみである。
{{画像提供依頼|駅番号導入後の路線図|date=2022年7月|cat=鉄道|cat2=沖縄県}} {{Infobox 鉄道路線 | 路線名 = [[File:Yuirail logo.svg|50px|link=沖縄都市モノレール]] 沖縄都市モノレール線 | 画像 = Okinawa Monorail 1103+1203 20200212.jpg | 画像サイズ = 300px | 画像説明 = [[壺川駅]]に到着する沖縄都市モノレール1000形電車 | 路線色 = #e70f3f | 通称 = ゆいレール | 国 = {{JPN}} | 所在地 = [[沖縄県]] | 種類 = [[モノレール#跨座式|跨座式モノレール]](日本跨座式) | 起点 = [[那覇空港駅]] | 終点 = [[てだこ浦西駅]] | 駅数 = 19駅 | 開業 = [[2003年]][[8月10日]](那覇空港 - 首里間) | 最終延伸 = [[2019年]][[10月1日]](首里 - てだこ浦西間) | 廃止 = | 所有者 = [[沖縄都市モノレール]] | 運営者 = 沖縄都市モノレール | 使用車両 = [[沖縄都市モノレール1000形電車|1000形]] | 路線距離 = 17.0 [[キロメートル|km]] | 線路数 = [[複線]] | 電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] | 最大勾配 = 60 [[パーミル|‰]] | 閉塞方式 = 車内信号式 | 保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]] | 最高速度 = 約65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="faq">[https://www.yui-rail.co.jp/information/faq よくある質問] - 沖縄都市モノレール</ref> | 路線図 = Okinawa Monorail Linemap.png }} '''沖縄都市モノレール線'''(おきなわとしモノレールせん)は、[[沖縄県]][[那覇市]]の[[那覇空港駅]]と[[浦添市]]の[[てだこ浦西駅]]を結ぶ[[沖縄都市モノレール]]の[[モノレール]]路線である。全線が[[軌道法]]による軌道として建設されている。愛称は「'''ゆいレール'''」で、「ゆい」は[[琉球語|琉球方言]]の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「[[結|ゆい]]」から取られたものである。2023年1月時点で「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線」となっている。また、[[南西諸島]]に存在する鉄軌道路線も当路線のみである。 == 概要 == {{沖縄都市モノレール線路線図}} 沖縄都市モノレール線「ゆいレール」は、[[沖縄本島]]の玄関口である[[那覇空港]]から[[赤嶺駅|赤嶺]]経由で[[漫湖]]を渡って[[旭橋駅|旭橋]]に抜け、旭橋からは[[久茂地川]]沿いに[[那覇市]]の[[繁華街]]である[[久茂地]]・[[牧志駅|牧志]]地区を抜けて[[国際通り]]を跨ぎ、[[国道330号]]を北上して[[古島駅|古島]]からは[[沖縄県道82号那覇糸満線|環状2号線]]を上り[[てだこ浦西駅|てだこ浦西]]に至る全長約17.0&nbsp;kmの[[モノレール#跨座式|跨座式のモノレール]]線である。この約17.0&nbsp;kmの区間を[[ワンマン運転]]の2両編成もしくは3両編成の車両が約40分かけて走る。 [[那覇空港駅]] - [[首里駅]]間は[[2003年]]8月10日<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.240</ref>、首里駅 - てだこ浦西駅間は[[2019年]]10月1日に開業した<ref name="okinawatimes20190425" />。沖縄県の交通手段は[[自家用車]]・[[日本のタクシー|タクシー]]・[[日本のバス|バス]]が中心であり、特に[[那覇市|那覇都市圏]]では[[渋滞]]が悪化していた。そこで、国、沖縄県、那覇市と沖縄都市モノレール株式会社が一体となって建設を行い、沖縄では[[戦後]]初の[[鉄道]]開通となった。当初の世論では、前記の「クルマ社会」という見方から、実際に利用されるかどうかの懸念があったが、いざ開業してみると、渋滞に巻き込まれないために時間が正確であることと、高所を走るという特性のために眺望がよく、モノレール自体が観光施設となったため、この懸念は杞憂に終わった<ref>[[川島令三]] 『至高の名列車名路線の旅』 [[講談社|講談社+α新書]] 219-3-D ISBN 978-4062724081、p.190</ref>。眺望のために人気を集めるという点は[[東京モノレール羽田空港線]]と同様である<ref>[[泉麻人]] 『東京ディープな宿』 [[中公文庫]] [い-71-4] ISBN 978-4122045156、p.90。高架からの風景が気に入っているため、羽田に向かう際にモノレールを使用することが多いと記している。</ref><ref>谷川一巳 『空港まで1時間は遠すぎる!? {{smaller|現代「空港アクセス鉄道」事情}}』 [[交通新聞社新書]] 057 ISBN 978-4330394138、p.101</ref>。[[乗車券|切符]]の購入や[[自動改札機]]の通り方に慣れない利用客向けに、沖縄都市モノレールのホームページでは「利用ガイド」として乗車方法を詳説している。 開業翌年の2004年に「沖縄都市モノレールの整備と総合的戦略的な都市整備計画」が[[日本都市計画学会]]の最高賞である石川賞を受賞した。受賞対象者は、沖縄県、那覇市および沖縄県都市モノレール建設促進協議会である。 全線で[[列車運行管理システム]]を導入している。 古島駅から約57[[パーミル|‰]]の上り坂が続く。最急勾配は儀保駅 - 首里駅間の60‰である。 [[2019年]][[5月24日]]、沖縄都市モノレールは那覇市の本社で記者会見し、利用者の利便性向上と券売機前の混雑解消を目的に「[[Suica]]」などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用交通系ICカード]]を2020年春に運賃支払いに利用できるようにすると発表した<ref name="ryukyushimpo20190525">{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/movie/entry-924492.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190904165911/https://ryukyushimpo.jp/movie/entry-924492.html|title=ゆいレール運賃10月値上げ 2020年春からはSuica、PASMO、ICOCAなど10種類の交通系ICカード利用可能に|newspaper=琉球新報|date=2019-05-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2019-09-04}}</ref>。[[2020年]][[3月10日]]より利用可能となり、引き続き「[[OKICA]]」も利用可能である<ref name="yu-rail20200220" /><ref name="2020-03-10-okinawatimes" /><ref name="2020-03-10-ryukyushimpo" />。 沖縄都市モノレール開業20周年を迎えた[[2023年]]8月10日から3両編成車両の運行を開始した<ref name="ryukyushimpo20230810">{{Cite news |title=【動画】3両ゆいレールが出発 輸送力1.5倍 沖縄都市モノレール新たな20年へ 始発駅で式典 |newspaper=琉球新報 |date=2023-08-10 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1763811.html |access-date=2023-08-11}}</ref>。将来的には3両編成の車両を9編成まで増やすとしている<ref name="ryukyushimpo20230620">{{Cite news |title=ゆいレール、3両化車両を8月10日に運行開始 |newspaper=琉球新報 |date=2023-06-20 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1732247.html |access-date=2023-06-21}}</ref>。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):17.0&nbsp;km * 方式:跨座式モノレール(日本跨座式) * 駅数:19駅(起終点駅含む) * [[複線]]区間:全線 * 電気方式:[[直流電化|直流]]1,500&nbsp;V * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:車内信号式 ([[自動列車制御装置|ATC]]) * 最高速度:約65&nbsp;km/h<ref name="faq" /> * [[車両基地]]所在駅:[[那覇空港駅]](那覇空港駅 - [[赤嶺駅]]間) * [[対面交通|走行方向]]:左側通行 == 運行形態 == {{出典の明記|date=2019年10月|section=1}} 全列車が各駅に停車する。一部区間のみを運行する列車はあるが、途中駅を通過する列車はない<ref group="注釈">各駅ホーム上に設けられた発車標では種別表示があり、「各停」と表示される</ref>。6時頃から運行(2023年8月のダイヤ改正で、てだこ浦西駅発が5時過ぎとなり、那覇空港駅着が6時前となる)され、終電は那覇空港駅発・てだこ浦西駅発ともに23時30分・終着0時6分となっている。ダイヤは平日(月 - 金曜)、土休日(土曜日・日曜日・祝日)の2種類。平日は早朝が6 - 12分間隔、朝[[ラッシュ時]]が4 - 6分間隔、夕ラッシュ時が7分間隔、日中と夜が10分間隔<ref name="pr20210120" />、夜21時以降が12分間隔、土休日は早朝と夜21時以降が12分間隔、それ以外は10分間隔となっている<ref name="pr20210120" />。[[ワンマン運転]]を実施している。 折り返しは両端の駅および首里駅で行われるが、[[牧志駅]] - [[安里駅]]間に非常用の[[渡り線]]があり両駅での折り返し運転も可能となっている。事故などの突発的事象により運行に支障が出た場合は全線で運行停止になるが、例えば[[2007年]][[10月21日]]に[[儀保駅]]付近で行われた[[不発弾]]処理時に朝8時頃から処理完了まで那覇空港駅 - 牧志駅間で実施されるなど、予め運行計画が立てられる経路上の運行障害に関しては折り返し設備を利用しての区間運転が実施される。なお車両基地が那覇空港駅側に設置されていることから、車両数の調整が困難である牧志駅以北のみでの運行は行われていない。 2019年10月1日の延伸開業に伴うダイヤ改正により、平日(月 - 木曜)、金曜日、土曜日、休日(日曜日・祝日)の4種類あったダイヤのうち金曜日・土曜日ダイヤを廃止し、平日・土休日の2種類に統合された。また、平日の朝ラッシュ時には首里駅で折り返す列車が設定された<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20190913-894008/ ゆいレール首里{{~}}てだこ浦西間10/1開業 - 同時にダイヤ改正も実施] - マイナビニュース、2019年9月13日</ref><ref>[https://www.yui-rail.co.jp/important/3127/ 浦添延長開業に伴うダイヤ改正について] - 沖縄都市モノレール、2019年9月12日</ref>。 {{Main2|車両|沖縄都市モノレール1000形電車}} == 歴史 == {{See also|沖縄県の鉄道}} [[ファイル:Naha map circa 1930.PNG|thumb|300px|路面電車も鉄道もあった頃の[[那覇市]]の地図([[1930年]]頃)]] [[沖縄本島]]では、[[大正]]時代に[[軽便鉄道]]や[[路面電車]]、[[馬車鉄道]]といった数々の[[鉄道]]路線が開業したが、[[昭和]]初期に入ると[[沖縄電気]]の路面電車と[[糸満馬車軌道]]が[[日本のバス|バス]]との競争に敗れて廃止され、残った[[沖縄県営鉄道]]と[[沖縄軌道]]も[[太平洋戦争]]末期の[[1945年]]3月に運行を停止し、鉄道の施設は[[空襲]]や地上戦によって破壊され、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ合衆国による統治]]下に置かれた戦後は道路整備が優先され、残った線路も鉄不足のため回収され生活用品と成り代わった。鉄道は復旧されることなくそのまま消滅した。 しかし、[[1970年代]]に入って経済活動が活発になってくると、那覇市を含む沖縄本島中南部地域に[[人口]]や[[産業]]が集中した。この結果、道路交通の[[渋滞]]が慢性化し、その対策として新たな軌道系公共交通機関を求める声が高まっていった。那覇市議会議長を務めた[[高良一]]は、十数年間、数万ドルの私費を投じてモノレール計画書を作成したと言われる。 沖縄が[[沖縄返還|本土復帰]]を果たした[[1972年]]、日本国政府(以下、政府または国と略)は沖縄の振興開発を推進するために「新全国総合開発計画」(新全総)の一部を改正し、沖縄県に対する特別措置として沖縄振興開発計画を同年[[10月31日]]に策定した。同計画では、沖縄本島の陸上交通に[[新交通システム|新しい交通システム]]の導入を検討していくとされた。これを受けて、国や[[沖縄開発庁]]、沖縄県、那覇市などが中心となって導入機種やルートなど具体的な検討を行い、最終的には「[[都市モノレールの整備の促進に関する法律]]」(都市モノレール法、昭和47年法律第129号)に基づき[[モノレール#跨座式|跨座式モノレール]]を導入することで決着した。 [[1975年]]、国・沖縄県・那覇市で構成される「都市モノレール調査協議会」が設置され、ルート等の検討を行うなど建設に向けての準備が進められた。沖縄県と那覇市による「都市軌道建設準備室」が設置され、[[1980年]]に「都市モノレール関連街路に関する基本協定書」を締結、実施調査については、国庫補助事業(1981年度)として採択、推進された。 ルートは[[那覇空港]]から[[首里城]]に近い汀良(てら)地区までの区間を第一期区間とし、汀良地区から西原入口までの区間を第二期区間、さらに[[沖縄市]]方面への延伸も検討課題とした。[[1982年]]9月に運営主体となる[[第三セクター]]「沖縄都市モノレール株式会社」を設立、同年に高良(現在の[[赤嶺駅]]) - 首里汀良町間を県に[[特許 (行政法)|特許]]申請、翌年に再検討、那覇空港 - 首里汀良町間(営業距離12.9&nbsp;km)に延長された。沖縄県と那覇市は都市モノレールの導入空間となる街路の整備事業を先行して進めた。 第一期区間については国際通りの地下を通過する「国際通り案」と久茂地川沿いのルートを取る「久茂地川沿い案」の両案、さらに[[那覇空港]]ターミナルビルの再整備位置に合わせ「高良経由案」、「北側案」が検討され、最終的に「久茂地川沿い案」と「高良経由案」を採用し、小禄金城町(現在の小禄駅)にも駅を設置することで決着した。 [[1994年]]に、沖縄県・那覇市と既存交通機関のバス会社との間で基本協定や覚書が締結され、[[1995年]]の政府予算案(1996年度)にモノレール関連のインフラ予算が盛り込まれる。こうした着工に向けた動きの活発化により、同年9月に空港(現在の那覇空港) - 汀良(現在の首里)間の特許申請書を沖縄都市モノレールが再提出、翌年[[1996年]]3月に同社は軌道事業の特許を取得したことから、同年11月に軌道本体の工事が着手された<ref>「沖縄都市モノレールの歩みと事業計画の概要」沖縄県土木建築部都市モノレール建設室『モノレール』93号、日本モノレール協会、1998年10月、7 - 21頁</ref>。この時点での開業予定時期は[[2003年]]12月としていたが、街路の先行整備で工期に余裕ができたこともあり、実際には4か月ほど早い同年8月に開業した。 開業に伴い市内のバス路線をほぼ独占していた那覇交通(当時:現在の[[那覇バス]])に対しバス路線廃止の引き替えとして補償金が支払われたが、同社は経営危機にあり収益路線を廃止できないとして実際に廃止された路線は僅かにとどまり、しかも補償金を社員の退職金として支払ってしまい補償金は返済されずに那覇交通は経営破綻している(→[[那覇バス]]の項参照)。 開業前に指摘されていた採算性の懸念は杞憂に終わり、観光輸送・通学輸送等で支持され順調に利用者が増加した。[[リーマン・ショック|リーマンショック]]や[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザの流行]]による利用者減少も一時的なものであり<ref>{{Cite web|和書|title=1日乗客数4.9万人 来夏延長、需要増見込む ゆいレールきょう15年|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-779480.html|website=琉球新報デジタル|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>、[[2016年]]度には初めて単年度黒字を達成した<ref>{{Cite web|和書|title=「ゆいレール」初の単年度黒字 前期、開業14年目で達成|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASJC29H5Q_Q7A530C1LX0000/|website=日本経済新聞|date=2017-05-30|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>。近年はモノレールの浦添延伸や観光客の急増に対応し、3両編成化を目指すとしている<ref>{{Cite web|和書|title=ゆいレール3両化へ 日立製作所と車両の製造契約|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1242752.html|website=琉球新報デジタル|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>。 [[太平洋戦争]]での[[沖縄戦]]の場所であったことから、建設前に[[不発弾]]の磁気探査が行われ、3か所において計7発の不発弾が発見され処理されたが、開業後も何度か運転を休止して、不発弾処理が行われている。 === 年表 === {{Main2|乗車券関係の歴史は「[[沖縄都市モノレール#歴史]]」も}} ==== 開業前 ==== * [[1972年]]([[昭和]]47年)[[4月]]:第1次沖縄県振興開発計画において軌道系システムの必要が提起される<ref name="okinawatimes">沖縄タイムス「【ゆいレール新駅特集2019.10.1】モノレールのある暮らし 浦添へ」2019年10月1日付朝刊,3面</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[11月]]:国・県・那覇市で構成する「都市モノレール調査協議会」を設置<ref name="yui-rail-history">{{Cite web|url=https://www.yui-rail.co.jp/company/history/|title=沿革|accessdate=2020-02-22|publisher=沖縄都市モノレール}}</ref>。 * [[1977年]](昭和52年)[[12月]]:ルートについて、[[沖縄総合事務局]]と[[沖縄県]]、[[那覇市]]で構成する「都市モノレール調査協議会」において「[[久茂地川]]沿い案」と「[[国際通り]]案」から採算性や交通処理の観点から「久茂地川沿い案」で推進することが決定<ref name="yui-rail-history"/><ref name="okinawatimes"/>。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[6月]]:沖縄県と那覇市が協力して都市モノレールの導入を進めることを意思決定<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[10月]]:「沖縄県都市軌道建設準備室」が発足<ref name="yui-rail-history"/>。 * [[1981年]](昭和56年):沖縄都市モノレールの国庫補助事業を採択<ref name="okinawatimes"/>。 * [[1982年]](昭和57年)[[9月27日]]:沖縄都市モノレール株式会社([[第三セクター]])設立<ref name="okinawatimes"/>。県へ[[特許 (行政法)|特許]]申請書提出<ref name="yui-rail-history"/><ref name="okinawatimes"/>。 * [[1983年]](昭和58年):[[那覇空港駅|那覇空港]] - 汀良駅(現・[[首里駅]])間の都市モノレール建設が決定<ref name="okinawatimes"/>。 * [[1994年]]([[平成]]6年)[[1月26日]]:沖縄県、那覇市およびバス4社([[沖縄バス]]・[[琉球バス交通|琉球バス]]・[[那覇バス]]・[[東陽バス]])の間で基本協定並びに覚書を締結<ref name="yui-rail-history"/><ref name="okinawatimes"/>。 * [[1995年]](平成7年)[[9月12日]]:沖縄都市モノレール株式会社から県へ軌道特許申請書を提出<ref name="okinawatimes"/>。 * [[1996年]](平成8年) ** [[3月1日]]:軌道事業の特許につき、運輸審議会件名表に登載される<ref>1996年(平成8年)3月1日運輸省告示第115号「運輸審議会件名表に登載された件」</ref>。 ** [[3月19日]]:沖縄都市モノレール事業に関する軌道特許を運輸審議会で決定<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[3月22日]]:[[軌道法]]第3条に基づく運輸事業特許を取得<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[4月11日]]:運輸審議会が、軌道事業を特許することは妥当である旨を答申<ref>1996年(平成8年)4月11日運輸省告示第204号「運輸審議会から答申があった件」</ref>。 ** [[4月23日]]:都市高速鉄道(モノレール)の都市計画が決定<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[10月31日]]:都市計画道路事業の認可を受ける<ref name="okinawatimes"/><ref>1996年(平成8年)10月31日建設省告示第2018号「都市計画に関する件」</ref>。 ** [[11月26日]]:沖縄都市モノレール建設事業の起工式<ref name="okinawatimes"/><ref name="yui-rail-history"/>。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月26日]]:駅設備の建設を開始<ref name="yui-rail-history"/>。 ** [[6月22日]]:運営基地(車庫)の工事に着手<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[11月30日]]:駅名・シンボルマークを決定し、愛称を「ゆいレール」とする<ref name="yui-rail-history"/><ref>{{cite news |title=愛称は「ゆいレール」/沖縄都市モノレール |newspaper=琉球新報 |date=1999-11-30 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-96090-storytopic-86.html |accessdate=2020-02-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130524052437/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-96090-storytopic-86.html |archivedate=2013-05-24}}</ref>。 *[[2000年]](平成12年) ** [[6月14日]]:車両設計概要およびデザインを発表<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[12月25日]]:車両設計認可を取得<ref name="yui-rail-history"/><ref name="okinawatimes"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[12月4日]]:那覇空港 - 小禄間で試運転を開始する<ref>{{cite news |title=ゆいレール、試運転開始/沖縄都市モノレール |newspaper=琉球新報 |date=2001-12-04 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-110163-storytopic-86.html |accessdate=2012-09-02}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年) ** [[3月27日]]:PC軌道桁の最終架設<ref name="okinawatimes"/>。 ** [[11月25日]]:全線での試運転を開始する<ref name="rail fan2003-02">{{Cite journal|和書 |author = 山村定雄 |date = 2003-02-01 |title = モハユニ ■沖縄モノレール 全線で試運転始まる |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 19 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=ゆいレール全線試運転はじまる! |publisher=沖縄県土木建築部都市計画・モノレール課都市モノレール事業班 |date= |url=http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/toshimono/monorail/yuirailzensensiuntenkaisi.html |accessdate=2016-04-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121011094249/http://www.pref.okinawa.jp/site/doboku/toshimono/monorail/yuirailzensensiuntenkaisi.html |archivedate=2012-10-11}}</ref><ref>{{cite news |title=那覇市の顔"へ全線試運転/モノレール安全運行点検 " |newspaper=琉球新報 |date=2002-11-25 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-104486-storytopic-86.html |accessdate=2012-09-02}}</ref>。 ==== 開業後 ==== * [[2003年]](平成15年)[[8月10日]]:那覇空港 - 首里間 (12.9&nbsp;km) が開業。昼間12分間隔<ref name="2004shinpo">{{cite news |title=ゆいレールが26便増 混雑緩和へ間隔短縮 |newspaper=琉球新報 |date=2004-12-24 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-119556-storytopic-86.html |accessdate=2012-09-03}}</ref>。1日上下202本運転<ref>{{cite news |title=ゆいレール初乗り260円/来月4日から試運転開始 |newspaper=琉球新報 |date=2001-11-08 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-110756-storytopic-86.html |accessdate=2012-09-03}}</ref>。開業時より乗車カード「[[ゆいカード]]」を導入。 * [[2004年]](平成16年)[[12月26日]]:開業後初のダイヤ改正。運転間隔を昼間10分間隔とし26本増発<ref name="2004shinpo"/>。 * [[2005年]](平成17年)[[12月23日]]:開業以来[[平日]]・[[休日]]共通だったダイヤが変更され、休日ダイヤを新設。 *: ここでいう休日とは、[[土曜日]]、[[日曜日]]、[[祝日]]、[[振替休日]]、[[年末年始]]([[12月31日]] - [[1月3日]])である。 * [[2009年]](平成21年)[[9月13日]]:不発弾処理のため全線運休(全線運休は台風などの自然災害によるもの以外としては開業後初めて<!--『単に「開業後初」では台風運休が無視されることになる』という意見から書き加えました。問題があれば修正、削除をお願いします-->)<ref>{{cite news |title=那覇市宇栄原であす不発弾処理 モノレール、一時運休 |newspaper=琉球新報 |date=2009-09-12 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-149787-storytopic-1.html |accessdate=2012-09-03}}</ref>。正午すぎに運転を再開。 * [[2012年]](平成24年)[[1月26日]]:首里 - 浦西(仮称)間の軌道事業特許を認可<ref name="uranishi">{{Cite news|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-186754-storytopic-82.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121121043430/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-186754-storytopic-82.html|title=ゆいレール延長許可 首里―浦西間|newspaper=琉球新報|publisher=琉球新報社|date=2012-01-27|accessdate=2020-06-23|archivedate=2012-11-21}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[4月4日]]:首里 - 浦西間第1次工事施行認可<ref name="response20131102">{{cite news |title = 沖縄都市モノレールの延伸区間が着工…2019年春開業目指す |url = http://response.jp/article/2013/11/03/209948.html |publisher = [[Response.]] |date = 2013年11月2日 | accessdate = 2014年1月29日}}</ref>。 ** [[11月2日]]:首里 - 浦西間延伸事業の起工式が浦添市で開かれる<ref name="response20131102"/>。 * [[2014年]](平成26年) ** [[5月30日]]:2013年度の事業報告が発表され、1日平均の乗客数(降客数含まず)が初めて4万人を超え<ref>{{PDFlink|[https://www.yui-rail.co.jp/wp-content/themes/yuirail_original/file/2016jyoukyaku.pdf 駅別乗降客数]}}(沖縄都市モノレール)</ref>、年間では1490万3196人となり、過去最高となった<ref name="nikkei20140531">{{cite news|title =「ゆいレール」乗客、1日平均4万人超 13年度|url = http://www.nikkei.com/article/DGXNASJC3002I_Q4A530C1ACW000/|publisher = [[日本経済新聞]]|date = 2014年5月31日| accessdate = 2014年10月5日}}</ref>。 ** [[9月8日]]:ゆいカードの券売機での発売を終了<ref name="yuirail20141006">{{Cite web|和書 |title = IC乗車券システム導入に伴うSFカードの発売終了と払い戻しについて |url = http://www.yui-rail.co.jp/info/index.cgi?mode=detail&code=404 |publisher = 沖縄都市モノレール |date = 2014年10月6日 |accessdate = 2016年3月10日}}</ref>。 ** [[10月2日]]:2011年9月から運行されていた車体に首里城を描いた「首里城号」が運行終了<ref name="ryuukyuu20141003">{{cite news|title = ゆいレール「首里城号」引退 3年間の運行終える |url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-232495-storytopic-82.html|publisher = [[琉球新報]]|date = 2014年10月3日| accessdate = 2014年10月5日}}</ref><ref name="okinawakeizai20141003">{{cite news|title = ゆいレール「首里城号」惜しまれてラストラン-「寂しい」の声も |url = http://naha.keizai.biz/headline/1578/|publisher = [[みんなの経済新聞ネットワーク|那覇経済新聞]]|date = 2014年10月3日| accessdate = 2014年10月5日}}</ref>。 ** [[10月14日]]:ゆいカードの窓口での発売を終了<ref name="yuirail20141006" />。 ** [[10月20日]]:[[ICカード]]「[[OKICA]]」の利用が可能となる<ref>{{Cite news|title=来月20日から「オキカ」稼働 モノレールのIC乗車券 |newspaper=[[琉球新報]]|date=2014-09-01|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-230943-storytopic-4.html|accessdate=2020-02-20|archiveurl= https://web.archive.org/web/20181101015316/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-230943.html |archivedate=2018-11-01}}</ref><ref>{{cite news|title = 「オキカ」利用始まる 沖縄初のIC乗車券 ゆいレール |url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-233409-storytopic-4.html|publisher = 琉球新報|date = 2014-10-20| accessdate = 2014-10-20}}</ref>。これに合わせ、乗車券を[[QRコード]]方式に変更。 ** [[10月29日]]:ゆいカードの取扱を終了<ref name="yuirail20141006" />。 ** 12月26日:延伸区間の駅名が決定<ref name="sinpo141226">{{Cite web|和書|date=2014-12-26|url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-236496-storytopic-82.html|title=てだこ浦西、浦添前田など ゆいレール浦添延伸、4駅名決まる|publisher=琉球新報|accessdate=2014-12-26}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[11月6日]]:2015年10月の乗客数が146万8449人、一日平均4万7369人で、いずれも単月の過去最高を記録したと発表された<ref>{{cite news|title = 10月のゆいレール、1日平均乗車数と月間乗客数が過去最高 |url = https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/20568|publisher = [[沖縄タイムス]]|date = 2015-11-6| accessdate = 2016-2-19}}</ref>。 ** [[12月2日]]:この日より順次、那覇空港駅・奥武山公園駅・県庁前駅・市立病院前駅の[[英語]]表記を変更、[[中国語]]・[[朝鮮語|韓国語]]での駅名表記も再制定<ref>{{Cite web|url=http://www.yui-rail.co.jp/info/file/4900.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170328015625/http://www.yui-rail.co.jp/info/file/4900.pdf|format=PDF|language=日本語|title=英語、中国語、韓国語での駅名表記|publisher=沖縄都市モノレール|accessdate=2020-06-23|archivedate=2017-03-28|deadlinkdate=2022-06-10}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[2月18日]]:延長区間のコンクリート製のレールが完成し、設置に向けて「安全祈願祭」と「出発式」が開催された<ref>{{cite news|title = 沖縄都市モノレール、延長レールが完成 安全願い出発式 |url = https://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=154619|publisher = 沖縄タイムス|date = 2016-2-9| accessdate = 2016-2-19}}</ref>。 ** [[4月27日]]:液晶ディスプレイパネルを搭載した新型車両が営業運転を開始<ref>[https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/29008 ゆいレール新車あす運行 乗り降りしやすく、案内板は4カ国語対応] - 沖縄タイムス+プラス、2016年4月26日</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[5月26日]]:2016年度決算が発表され、純損益は2億2053万円で2003年の開業以来初の単年度黒字となった<ref>[https://ryukyushimpo.jp/news/entry-503421.html ゆいレールが初の黒字 16年度、減価償却費が減少] - 琉球新報、2017年5月26日</ref>。 ** [[8月1日]]:この日のダイヤ改正で、ダイヤを平日ダイヤ・土曜休日ダイヤの2パターンから、平日(月-木曜)ダイヤ・金曜ダイヤ・土曜ダイヤ・休日ダイヤの4パターンに変更<ref name="yui-rail20170622">{{Cite press release|和書|url=https://www.yui-rail.co.jp/info/file/5880.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170731195745/https://www.yui-rail.co.jp/info/file/5880.pdf|format=PDF|language=日本語|title=【お知らせ】混雑緩和のため大幅な「ダイヤ改正」を実施します。 企画乗車券、OKICAポイントを変更します。|publisher=沖縄都市モノレール|date=2017-06-22|accessdate=2021-01-24|archivedate=2017-07-31}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** [[4月14日]]:首里 - 浦西間の試運転開始<ref name="ryukyu20190418">{{Cite news|title=新しい駅でもうすぐ乗れる♪ ゆいレール延長区間で試運転 今夏以降の開業|url=https://ryukyushimpo.jp/photo/entry-904881.html|newspaper=琉球新報|accessdate=2019-04-24|publisher=琉球新報社|date=2019-04-18}}</ref>。 ** [[4月22日]]:沖縄都市モノレール社と沖縄県、那覇市、浦添市が、輸送力増強を検討する会議を開き、2030年までにモノレールの3両編成化を目指す方針を決定<ref>{{Cite news|title=ゆいレールが2030年までに3両化へ 輸送力増に向けて県、那覇市、浦添市が方針を決定|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-907561.html|newspaper=琉球新報|accessdate=2019-04-24|publisher=琉球新報|date=2019-04-23}}</ref>。 ** [[10月1日]]:首里 - てだこ浦西間 (4.1&nbsp;km) が延伸開業<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/0251d1896602bbee4092a4d0dfb53241.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200705065845/https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/0251d1896602bbee4092a4d0dfb53241.pdf|format=PDF|language=日本語|title=沖縄都市モノレール(ゆいレール)の浦添延長区間の開業予定日について|publisher=沖縄都市モノレール|date=2019-05-24|accessdate=2021-03-24|archivedate=2020-07-05}}</ref><ref name="okinawatimes20190425">{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-923140.html|title=ゆいレール延長区間の開業は10月1日 首里駅折り返し便も|newspaper=琉球新報|date=2019-05-23|accessdate=2019-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190523020321/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-923140.html|archivedate=2019-05-23}}</ref>。日本における令和最初の鉄道路線延伸となった。 * [[2020年]](令和2年) ** [[3月10日]]:「[[Suica]]」などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]に対応した[[乗車カード|交通系ICカード]]が利用可能となる<ref name="yu-rail20200220">{{Cite press release|和書|url=https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/656e84ca9c8c145822f3427adab4d2e8-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200220044719/https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/656e84ca9c8c145822f3427adab4d2e8-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「Suica」サービスを開始します|publisher=沖縄都市モノレール|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-20|archivedate=2020-02-20}}</ref><ref name="2020-03-10-okinawatimes">{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/545305|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200310231333/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/545305|title=Suica、「ゆいレール」での使用始まる 国内外の観光客に便利に|newspaper=沖縄タイムス|date=2020-03-10|accessdate=2020-03-11|archivedate=2020-03-10}}</ref><ref name="2020-03-10-ryukyushimpo">{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1087706.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200310230629/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1087706.html|title=ゆいレールでSuicaの利用開始 那覇空港駅で記念セレモニー 「シームレスに乗車できるように」|newspaper=琉球新報|date=2020-03-10|accessdate=2020-03-11|archivedate=2020-03-10}}</ref>。 ** [[9月24日]]:2023年度からの運行開始を目指す3両編成車両の4編成(12両)分の製造を、49億2500万円(税抜き)で日立製作所と随意契約を結ぶ<ref>{{Cite web|和書|title=ゆいレール3両化へ 日立製作所と車両の製造契約 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1242752.html |website=琉球新報デジタル |access-date=2022-05-08 |publisher=株式会社琉球新報社 |date=2020-12-17}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[2月22日]]:[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルスの感染拡大]]等による利用客の減少に伴うダイヤ改正で、昼間時間帯の運転間隔を8分から10分に減便<ref name="pr20210120">{{Cite press release|和書|url=https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/542253d3182fb3b3078bc20b05db77dc.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210124063236/https://www.yui-rail.co.jp/common/uploads/542253d3182fb3b3078bc20b05db77dc.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改正について|publisher=沖縄都市モノレール|date=2021-01-20|accessdate=2021-01-24|archivedate=2021-01-24}}</ref>。 ** [[9月24日]]:車両3両化に伴うホームドア設置と駅舎改修工事を開始<ref>{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/847165|title=沖縄のモノレール「ゆいレール」、3両編成へ 19駅でホームドアを増設|newspaper=沖縄タイムス|date=2021-10-16|accessdate=2023-06-20}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[2月5日]]:3両編成試験走行開始<ref>{{Cite news|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1099244|title=午前1時、真夜中に走行したのは新3両「ゆいレール」 導入、いつから?|newspaper=沖縄タイムス|date=2023-02-06|accessdate=2023-06-21}}</ref>。 ** [[6月19日]]:3両編成習熟運転開始<ref>{{Cite news |title=ゆいレール、3両編成へ着々 日中の運行時間帯に無乗客で習熟運転 |newspaper=琉球新報 |date=2023-06-20 |url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1731773.html |access-date=2023-06-21}}</ref>。 ** 8月10日:3両編成営業運転開始<ref name="ryukyushimpo20230810" />。 == 延長計画と延伸構想 == 開通時に終点となった[[首里駅]]からは、石嶺地区を経由した[[沖縄自動車道]]インターチェンジまでの延長計画、および沖縄道より先の地域までの延伸計画が既に検討されていた。そのため、建設当初より首里駅から先の車止めは石嶺地区に向かってカーブした形で行き止まりとなっていた。また、同駅のホームは[[相対式ホーム|相対式]]となっており、開業当初は上り線を利用して暫定的に片面のみ使用していたほか、延伸予定道路は軌道敷設対応の拡張工事が行われていた。[[内閣府]]は[[2005年]](平成17年)に延伸についての調査を行ったが、ゆいレールの利用実績は順調であるものの赤字を出しており、この解消が課題とされた。 === 延長計画 === 数年にわたり延長計画の選定の協議会が行われ、[[2008年]]3月に[[首里]]石嶺町、[[浦添市]][[前田 (浦添市)|前田]]を経由して、[[西原入口交差点]]に接続される総延長4.1 kmの浦添案が選定され、2020年度までの開業を目指して計画が進められることとなった。 2009年度より延伸に向けての調査が開始され、2、3年の調査の結果をもとに国に対してモノレール建設事業の予算要求を行う予定となった。 しかしこの時点で建設費用での問題が一部未解決となっていた。建設費用は396億円と概算されており、駅舎や軌道けた、柱などのインフラ部の整備費用については、原則として県道は県、市道は各市の道路管理者が負担することになっていた。しかし那覇市側は、第1駅(那覇市に設置予定)の駅勢内(半径約800 m)で那覇市民の利用はカバーできるとして、第1駅と第2駅(浦添市に設置予定)間の間にある那覇市道800 mの整備費用は県や浦添市が負担するように求めた。その後の協議会において、市道800 mに関しては那覇市と県が整備を行うことにし、総事業費396億円のうち、県が57億円、那覇市が30億円、浦添市が46億円の費用を分担し、残りの263億円は国庫補助を見込むという試算が出された。但し、費用分担に関して県や市は財政上の問題から出来る限り費用を抑えたいという意向があるため、分担割合の合意には流動的な部分が残されている。 ==== 延長計画選定 ==== 延長計画に関しては、モノレール建設当初より計画されているものである。これは、浦添ルート案をはじめ、[[沖縄自動車道]]の[[インターチェンジ]]([[西原インターチェンジ|西原IC]]付近)まで延長し、現行の路線バス網の再整備や、駅に交通広場や[[パークアンドライド]]用[[駐車場]]を設置することによって、高速道路を利用してのバス・タクシー・車(自家用車・観光客向け[[レンタカー]])とモノレールを連結する統合高速交通構想である。 ===== 延長計画案の一次選定 ===== この延長計画には、当初以下の6つのルートが提案された。 # A-1案 : 当初ルート案 #* 首里石嶺地区・石嶺地区東側([[沖縄国際センター]]南方)・西原入口交差点にそれぞれ新駅を設置するもの。沖縄自動車道に[[スマートインターチェンジ]]を取り付ける構想。 # A-2案 : 県道拡幅案 # A-3案 : 福祉センター案 #* 首里石嶺地区と同地区所在の沖縄県総合福祉センター前・沖縄国際センター南方付近・西原入口交差点にそれぞれ新駅を設置するもの。この案の場合、[[沖縄県道241号宜野湾南風原線]]の幅員拡張工事が必要となり、既存の建築物を後退させなければならないため、次の「修正案」が提出されることになった。 # A-4案 : [https://archive.is/1bqG 浦添ルート案] #* 首里石嶺地区を通り北上し、「国際センター駅」(沖縄国際センター付近)、「浦添グスク駅」([[浦添警察署]]付近)と終着駅「浦西駅」(いずれも仮称)をそれぞれ新設するとともに、西原ICではなく西原入口交差点付近に交通広場を設け、沖縄自動車道にインターチェンジを設けるもの。[[浦添市]]によるプレゼンテーションのため、那覇市管轄である石嶺地区の新設駅には言及されていない。本案は距離が最も長大であるため、採算性の問題も懸念された。 # B案 : 西原直進案 # C案 : 那覇インター案 このうち、「費用対効果」の観点からA-1案、A-2案、A-3案、A-4案、およびB案の5案が'''一次選定'''された。 ===== 延長計画案の二次選定 ===== さらに「沿線需要の効果的取組みと那覇都市圏の交通円滑化に寄与する交通結節機能を満たす終点駅であること」および「まちづくりへの支援のためのモノレール延長のルートに成り得ること」からA-1案からA-4案までの4案に絞り込まれ、これに「延長ルート案の実現性」を考慮してA-1案、A-3案、A-4案が1次評価を通過したが、これら各案には以下の必須課題が挙げられた。 * A-1案の課題 ** 新設道路を約1.2&nbsp;kmに亘って建設する必要あり。この都市計画は未決である。 * A-3案の課題 ** 概成済都市計画道路である県道宜野湾南風原線を約0.6&nbsp;kmに亘って再拡幅する必要がある。 ** 整備中都市計画道路である石嶺福祉センター線を約1.3&nbsp;kmに亘って拡幅する必要がある。ただし地区計画でセットバックがある。 * A-4案の課題 ** [[沖縄県道38号浦添西原線]](都市計画道路)を約0.8&nbsp;kmに亘って拡幅の必要あり。ただし既に拡幅が計画されている。 A-3案には2つの重大課題が見込まれたため、A-3案と当初案を抱き合わせたA-3改良案(A-3'案)が提案され、2007年8月29日時点での延長計画案の最終候補は当初案・福祉センタールート案・福祉センタールート改良案・浦添ルート案の4つとなった。 # A-1案 : 当初ルート案 # A-3案 : 福祉センター案 # A-4案 : 浦添ルート案 # A-3'案 : 福祉センター改良案([[2007年]][[8月29日]]提案) #* 首里石嶺地区・沖縄県総合福祉センター前・石嶺地区東側(沖縄国際センター南方)・西原入口交差点にそれぞれ新駅を設置するもので、いわば、当初案と福祉センタールート案との折衷案となる。 「利便性(需要量)」、「まちの発展性」、「交通結節利便性」、「早期実現性」、「経営採算性・資金調達」の五つの評価項目で総合評価した結果、'''二次選定'''ではA-3'案とA-4案が選定された。 ===== 延長計画案の三次選定 ===== 沖縄都市モノレール延長検討委員会は、[[2007年]][[11月5日]]の第6回延長検討委員会までに1案に絞り込むこととしていたが、A-3'案とA-4案が拮抗したものであることから「県民の意見も参考に検討する必要性がある」とし、2007年[[12月18日]]から[[2008年]][[1月31日]]までの期間、[[住民参画|パブリック・インボルブメント]](PI)を実施することとなった<ref>{{Wayback |url=http://www.pref.okinawa.jp/yui-rail/pi/newpage1.htm |title=沖縄都市モノレール延長検討調査 |date=20071224151301 }}</ref>。この調査により周辺住民を中心とする利用者の実態・意識を調査・評価したうえで最終2案の延長計画が最終評価され1案に絞り込まれる見込みとなった。 ===== 延長計画の最終選定 ===== [[2008年]][[3月21日]]に行われた第7回沖縄都市モノレール延長検討委員会により、'''浦添案が選定'''された。選定理由として、もう1案であった福祉センター改良案に比べ多くの利用者数が見込まれることや、福祉センター改良案の2倍以上の支持を得たというPIの結果、隣接市町である[[宜野湾市]]、[[西原町]]への発展性などが挙げられた。 ===== 延伸計画確定と延伸区間の開業 ===== その後、[[2011年]]8月30日に首里 - 浦西(仮称)間の軌道事業の[[特許 (行政法)|特許]]申請が行われ<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000189395.pdf 沖縄都市モノレールの延伸区間の概況]}} - 国土交通省</ref>、2012年1月26日に認可された<ref name="uranishi" />。開業は2019年春が予定された。 2014年12月26日、延伸区間の駅名が(首里駅寄りから)石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅に決定した<ref name="sinpo141226" />。 2018年5月25日、延伸区間の開業時期を延期することが発表され、入札の不調や土地取得の遅れなどから、工事が順調に進んだ場合でも早くて2019年夏ごろになるとした<ref name="ryukyusimpo20180526">[https://ryukyushimpo.jp/news/entry-726272.html 沖縄都市モノレール延長、開業遅れ 入札不調、「早くて19年夏」] - 琉球新報、2018年5月26日</ref>。2019年4月25日には、同年10月1日に開業する方向で調整していることが報じられ<ref name="okinawatimes20190425" />、同日に開業した。 === さらなる延伸構想 === 延長計画の終着駅は「モノレールと高速道路との結節点」とされているが、この終着駅より先の地域にまでモノレールを延伸する「延伸構想」として、当初計画に[[宜野湾市]][[普天間]]を経て[[沖縄市]]までの敷設案が構想されていたものの、その後具体的な動きはない。 2019年6月には沖縄県より、延伸・新線構想のうち[[糸満市|糸満]]方面、[[与那原町|与那原]]方面、[[琉球大学]]・[[中城村|中城]]方面など5ルートについて、モノレールを導入した場合の効果・影響等に関する検討結果が公表されたが、いずれも採算性の課題があり[[コストパフォーマンス|費用便益比]](B/C)が1未満となっている<ref name="pref20190620">{{Cite web|和書|title=既存の公共交通ネットワークの一部に延伸等によりモノレールを挿入した場合の効果・影響等の検討結果の公表|publisher=沖縄県|date=2019-06-20|url=https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/kikaku/kotsu/rikujo/h30monorail.html|accessdate=2022-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190621131124/https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/kikaku/kotsu/rikujo/h30monorail.html|archivedate=2019-06-21}}</ref>。一方で沖縄本島中部・北部に向けた中長距離の都市間輸送手段としては、モノレールよりも広域輸送を重視した[[沖縄鉄軌道]](那覇市 - [[名護市]]間)の構想が推進されている状況にある。 == 公共交通の再編 == 沖縄都市モノレール(ゆいレール)の開業に前後して、既存[[路線バス]]の抜本的見直しが予定されていた。具体的にはおもろまちと首里の両駅を郊外線のバスターミナルと位置づけ、市内線においても並行路線の廃止を行うものであった。乗り継ぎに伴う不利益を解消するため乗り継ぎ割引も予定され、実際ゆいレールの一部券売機には乗り継ぎ券の購入ボタンも準備されていた。しかし、乗り継ぎ割引の割引分の負担を巡りバス4社と沖縄都市モノレールの間で折り合いが付かず、那覇交通の経営破綻もあってこの構想は崩壊した。また、おもろまちと首里を郊外線との結節とする構想も、両駅付近にバス乗務員の待機所や操車機能が設けられなかったことから限定的なものとなった。 結果として、中部方面からの幹線路線をおもろまち駅で折り返す路線の新設や首里駅経由の路線の新設などが行われたが、新設路線は本数が少なく、前述の通り限定的なものとなった。また、これらの新設路線の利用状況は芳しくなく、ほとんどの路線でさらなる減便が行われ、一部路線は廃止となっている。 主な動きは以下の通りである。なお、首里 - てだこ浦西間の延伸開業時にはそれに伴う系統の再編は行われなかった。 {{Main2|現行路線の詳細は「[[沖縄本島のバス路線]]」を}} '''那覇と中部を結ぶ[[沖縄自動車道]]経由路線の新設''' *180番・屋慶名線([[沖縄バス]]:那覇 - 国場 - [[首里駅]] - 沖縄自動車道 - [[屋慶名バスターミナル|屋慶名]])の新設 **後に、利用者の少ない時間帯を中心に新設された18番・19番(後述)へと本数の一部が振り分け。さらに、那覇バスターミナル起点から、おもろまち駅前広場起点へと変更したが、現在は廃止されている。 '''那覇市内路線の路線廃止・新設''' *12番・末吉線(那覇交通(現・[[那覇バス]]):[[那覇バス具志営業所|具志営業所]] - [[牧志]] - 古島 - [[首里]])の廃止 **古島駅 - 首里駅間などにおいてのモノレールとの競合を理由に廃止された。 *13番・石嶺空港線(那覇交通(現・那覇バス):[[那覇バス石嶺営業所|石嶺営業所]] - [[首里]] - [[牧志]] - [[那覇空港|空港]])の廃止 **那覇空港と首里を結ぶモノレールとの競合を理由に廃止された(経路の競合は旭橋駅 - 県庁前駅間、儀保駅 - 首里駅間のみ)。 *8番・首里城下町線(沖縄バス:石嶺団地 - [[首里駅]] - [[首里城]] - 沖縄[[都ホテル]] - [[オークラ ニッコー ホテルマネジメント|ホテル日航那覇グランドキャッスル]])の新設 **現在は、終点を沖縄都ホテルからおもろまち駅前広場まで延長。 *180番の減便により18番・首里駅線(沖縄バス:那覇バスターミナル - 国場 - 首里駅)の新設 *18番の減便により19番・首里駅おもろまち線(沖縄バス:おもろまち駅前広場 - 那覇バスターミナル - 国場 - 首里駅)の新設 **現在は廃止されている。 '''おもろまち駅前広場発着線の新設''' *223番・具志川おもろまち線(琉球バス(現・[[琉球バス交通]]、以下この項において同じ):23番・具志川線を[[那覇新都心#路線バス|おもろまち駅前広場]]発着にした路線)の新設 *227番・屋慶名おもろまち線(琉球バス、沖縄バス:27番・屋慶名線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 *228番・読谷おもろまち線(琉球バス、沖縄バス:28番・読谷(楚辺)線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 *263番・謝苅おもろまち線(琉球バス:63番・謝苅線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 *288番・宜野湾おもろまち線(琉球バス:88番・宜野湾線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 **現在は廃止されている。 *290番・知花おもろまち線(琉球バス:90番・知花線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 **現在は廃止されている。 *298番・琉大おもろまち線(琉球バス:98番・琉大線をおもろまち駅前広場発着にした路線)の新設 **現在は廃止されている。 == 駅一覧 == * 全駅[[沖縄県]]内に所在。[[駅ナンバリング|駅番号]]は各駅ごとに[[駅名標]]と自動券売機の運賃表で表示されている。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:3px solid #e70f3f;"|駅番号 !style="width:7em; border-bottom:3px solid #e70f3f;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #e70f3f;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #e70f3f;"|営業キロ !style="border-bottom:3px solid #e70f3f;"|周辺・備考 !style="border-bottom:3px solid #e70f3f;"|案内チャイム<br><ref>[http://www.yui-rail.co.jp/gallery/sound.html ゆいレールサウンド](オンライン美術館) - 沖縄都市モノレール(2013年3月18日)</ref> !style="width:3.5em; border-bottom:3px solid #e70f3f;"|所在地 |- ! 1 |[[那覇空港駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0<!--0.00--> |[[那覇空港]]、日本最西端の終着駅 |[[谷茶前節|谷茶前]] |rowspan="16"|[[那覇市]] |- ! 2 |[[赤嶺駅]] |style="text-align:right;"|2.0<!--1.95--> |style="text-align:right;"|2.0<!--1.95--> |日本最南端の駅、[[瀬長島]]・[[豊崎 (豊見城市)|豊崎]]・[[糸満市|糸満]]方面へのバス発着駅 |花の風車 |- ! 3 |[[小禄駅]] |style="text-align:right;"|0.8<!--0.76--> |style="text-align:right;"|2.8<!--2.71--> |[[イオン那覇ショッピングセンター]]に直結 |小禄豊見城 |- ! 4 |[[奥武山公園駅]] |style="text-align:right;"|1.0<!--0.97--> |style="text-align:right;"|3.8<!--3.68--> |[[沖縄県営奥武山公園]]南側、[[旧海軍壕]]方面へのバス発着駅 |じんじん |- ! 5 |[[壺川駅]] |style="text-align:right;"|0.8<!--0.84--> |style="text-align:right;"|4.6<!--4.52--> |沖縄県営奥武山公園東側、[[那覇中央郵便局]]、ハーバービューホテル南側 |[[唐船ドーイ]] |- ! 6 |[[旭橋駅]] |style="text-align:right;"|0.8<!--0.81--> |style="text-align:right;"|5.4<!--5.33--> |[[那覇バスターミナル]]・[[那覇港]][[那覇港#那覇ふ頭|那覇ふ頭]] |海ぬちんぼーら |- ! 7 |[[県庁前駅 (沖縄県)|県庁前駅]] |style="text-align:right;"|0.6<!--0.58--> |style="text-align:right;"|6.0<!--5.91--> |[[国際通り]]・[[沖縄県庁舎]]・[[那覇市役所]]・[[パレットくもじ]]([[リウボウインダストリー|リウボウ]]) |[[てぃんさぐぬ花]] |- ! 8 |[[美栄橋駅]] |style="text-align:right;"|0.7<!--0.72--> |style="text-align:right;"|6.7<!--6.63--> |国際通り・[[那覇港]][[那覇港#泊ふ頭|泊ふ頭]](とまりん)・[[ジュンク堂書店]]([[D-naha]])・[[牧志公設市場]] |ちんぬくじゅうしぃ |- ! 9 |[[牧志駅]] |style="text-align:right;"|1.0<!--0.98--> |style="text-align:right;"|7.7<!--7.61--> |国際通り・[[平和通り]]・[[桜坂 (那覇市)|桜坂]]・さいおんスクエア・牧志公設市場・壺屋やちむん通り |いちゅび小節 |- !10 |[[安里駅]] |style="text-align:right;"|0.6<!--0.59--> |style="text-align:right;"|8.3<!--8.20--> |ひめゆり通り・[[バイパス (国道330号)|安里バイパス]]・[[栄町市場]]・壺屋やちむん通り |[[安里屋ユンタ]] |- !11 |[[おもろまち駅]] |style="text-align:right;"|0.7<!--0.75--> |style="text-align:right;"|9.0<!--8.95--> |[[DFSギャラリア・沖縄|Tギャラリア沖縄 by DFS]](国内初の大型[[免税店]])に隣接、[[那覇新都心]]への入口<br />新都心、バスターミナル、中部方面へのバス発着駅 |だんじゅかりゆし |- !12 |[[古島駅]] |style="text-align:right;"|1.0<!--1.01--> |style="text-align:right;"|10.0<!--9.96--> |[[興南中学校・高等学校|興南高等学校]]最寄り駅、[[沖縄国際大学]]、[[琉球大学]]、[[宜野湾市|宜野湾]]・[[沖縄市|沖縄]]・[[うるま市|うるま]]各市方面へのバス発着駅 |[[月ぬ美しゃ]] |- !13 |[[市立病院前駅]] |style="text-align:right;"|0.9<!--0.92--> |style="text-align:right;"|10.9<!--10.88--> |[[那覇市立病院]]へ直結、[[末吉公園]] |[[クイチャー]] |- !14 |[[儀保駅]] |style="text-align:right;"|1.0<!--0.96--> |style="text-align:right;"|11.9<!--11.84--> |[[琉球大学]]方面へのバス発着駅、[[国営沖縄記念公園|首里城公園]](連絡なし) |[[芭蕉布#沖縄|芭蕉布]] |- !15 |[[首里駅]] |style="text-align:right;"|1.0<!--1.00--> |style="text-align:right;"|12.9<!--12.84--> |首里城公園(路線バスで連絡)、[[ヒルトン|ダブルツリーbyヒルトン那覇首里城]]・[[ノボテル|ノボテル沖縄那覇]]方面へのバス発着駅 |[[赤田首里殿内]] |- !16 |[[石嶺駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|13.8 |沖縄県総合福祉センター |[[ちょんちょんキジムナー]] |- !17 ||[[経塚駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|15.0 |[[国際協力機構]]沖縄国際センター、[[サンエー経塚シティ]]、[[地域若者サポートステーション]]琉球 |はべら節 |rowspan="3"|[[浦添市]] |- !18 ||[[浦添前田駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|16.0 |浦添大公園([[浦添城]]・[[浦添ようどれ]])、[[浦添運動公園]]、[[浦添警察署]]、[[浦添郵便局]]、浦添市役所 |めでたい節 |- !19 ||[[てだこ浦西駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|17.0 |[[沖縄自動車道]](幸地バス停にて沖縄道経由バス路線と接続)、[[西原町|西原]]方面 |[[ヒヤミカチ節]] |} === 駅の施設 === 個別の駅の施設については上表から各駅の記事を参照。<!-- ここには全般的なことを記述してください。--> * [[バリアフリー]]対策として全駅に[[エスカレーター]](上り)・[[エレベーター]]・[[車椅子]]乗降装置「ラクープ」(一部の駅では固定式スロープ)・車椅子用[[便所|トイレ]]が設置されているほか、全駅に[[オストメイト]]対応トイレも設置されている。 * 全駅に[[ホームドア]]が設置されている。ただし障壁は下半分のみで、ホームは密閉式でない。車両ドアが1両あたり2扉(片側)のため、各ホームに設置されているドアは4扉ずつである。 * 現在営業している売店は那覇空港駅にある[[ちんすこう]]の販売店と那覇空港駅・旭橋駅・おもろまち駅・首里駅にあるコーヒーショップがある。新聞等を売る[[キヨスク]]形式の売店はない。但し、無人販売所も設けている駅もある。 * 全駅有人駅である。ただし、駅員が不足しているため、一部の駅では駅員不在の時間帯がある。サポートが必要な場合は改札口付近のインターホンで対応している<ref>[https://www.otv.co.jp/okitive/article/39467/ ゆいレール駅員不足で巡回方式の駅を拡大 介助が必要な乗客はどうする?障害者支援団体が懸念] - 沖縄テレビ、2023年4月25日</ref>。 == 特記事項 == === 旅客案内 === {{出典の明記|section=1|date=2019年9月11日 (水) 04:01 (UTC)}} [[ファイル:yui_rail_Nahaairport2.jpg|thumb|220px|right|[[那覇空港駅]]の[[改札]]口と日本最西端駅記念碑(2005年6月7日撮影)]] * 各駅ごとに異なる[[紅型]]の文様が設定されている。紅型の文様は、那覇空港・赤嶺・小禄は{{Color|Blue|●}}青、奥武山公園・壺川・旭橋は{{Color|Green|●}}緑、県庁前・美栄橋・牧志は{{Color|Yellow|●}}黄色、安里・おもろまち・古島は{{Color|Orange|●}}オレンジ、市立病院前・儀保・首里・石嶺は{{Color|Red|●}}赤、経塚・浦添前田・てだこ浦西は{{Color|Purple|●}}紫という具合に3 - 4駅ごとに色調を変えており、大まかな駅の位置をも合わせて表している。 * 各駅到着前にはそれぞれ異なる[[沖縄音楽|沖縄民謡]]をアレンジした[[車内チャイム]]が流れる。採用されている曲は、かつての港湾地帯に位置する壺川駅到着時に使用される「[[唐船ドーイ]]」や、[[首里]]の赤田地区が発祥であることにちなんで首里駅到着時に使用される「[[赤田首里殿内]]」など立地にちなんだものがある一方、[[八重山列島|八重山]]民謡の「[[安里屋ユンタ]]」が安里駅到着時に使用されるなど、立地とは直接的に関連しないものもある。また一部の[[ラッピング車両]]についてはラッピングデザインにちなんだチャイムに変更される場合があり、「そらとぶ[[ピカチュウ]]」「三和金属」のラッピング車両で変更されたことがある。 * 各駅の改札付近では、共通語による案内放送に続いて[[沖縄方言]]による案内が流れていた。2011年に「[[世界のウチナーンチュ大会|第5回世界のウチナーンチュ大会]]」開催に合わせて放送されたのが最初で、好評だったために2013年4月から常時放送されるようになった。「小禄」を「うるく」と読むなど、地元本来の発音が生かされている。アナウンスは「語やびら沖縄語(うちなぁーぐち)ぬ会」会長の玉城弘によるものである<ref>{{Cite news |title=しまくとぅばで各駅語る ゆいレール案内好評 |newspaper=沖縄タイムス |date=2013-08-04 |url=http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-08-04_52489 |accessdate=2013-09-03}}</ref>。このアナウンスについては駅設備の更新に伴い2017年頃に廃止されている。 === 乗車券 === {{See|沖縄都市モノレール#乗車券}} === 関連施設 === * かつて那覇空港駅近くの沖縄都市モノレール本社敷地内に「[[ゆいレール展示館]]」があり、ゆいレールや第二次世界大戦前の「ケービン([[沖縄県営鉄道]])」などの豊富な資料を無料で見学することができた。2020年3月から休館しており<ref>[https://www.yui-rail.co.jp/news/3485/ ゆいレール展示館は現在休館しております] - 沖縄都市モノレール、2020年3月9日閲覧。</ref>、2023年にはそのまま閉館となった<ref>[https://www.yui-rail.co.jp/yuirail/museum/ ゆいレール展示館の閉館について] - 沖縄都市モノレール、2023年11月13日閲覧。</ref>。 === その他 === * 当線の開業により、日本全国の都道府県で[[鉄道の電化|電化]]された鉄軌道路線がないのは[[徳島県]]のみとなった。 * 開業に合わせて乗車のために沖縄を訪れた[[原武史]]の体験記によると、各駅の改札口の横に「ゆいレール便利帳」という小冊子が設置されており、書かれている内容に「列に並んで列車を待とう」「順序よく電車を降りよう」といった公共交通におけるマナーの啓蒙があった。原はこれを、明治初期の鉄道のような市民を教育する役割を期待されていると指摘している<ref>[[原武史]] 『鉄道ひとつばなし2』 [[講談社現代新書]] 1885 ISBN 978-4061498853、p.171</ref>。同様の記録を残しているのが[[酒井順子]]である。パンフレットの方々に「時間厳守がうれしい!」「時間通りに来るから安心」「[[ウチナータイム]]ともおさらば」といった文言がちりばめられていると記している<ref>[[酒井順子]] 『女子と鉄道』 [[光文社文庫]] [さ-25-1] ISBN 978-4334746261、pp.58-59</ref>。 * 首里コミュニティバスや首里駅 - 琉球大学間のバス路線との乗り継ぎ割引実証実験を行ったことがある<ref>[https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-120252.html ゆいレール乗り継ぎで50円引き 首里駅で実験] - 琉球新報、2005年1月4日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.yui-rail.co.jp/info/file/5200.pdf 「首里駅琉大快速線」本格運行に伴う乗り継ぎ割引について]}} - 沖縄都市モノレール、2016年3月23日</ref>。 * 開業以前のこと、[[歌会始]]のお題候補に「駅」が挙げられたことがある。[[上皇明仁]]は「沖縄には駅がないから歌には詠みにくいだろう」とこれを退けている。その後、開業後に沖縄に行幸啓があった<ref>[[渡辺允|渡邉允]] 『天皇家の執事 {{smaller|侍従長の十年半}}』 文春文庫 [わ-16-1] ISBN 978-4167801618、pp.61-62</ref>が、「駅」はまだお題に採られていない。 * [[西村京太郎]]原作の鉄道ミステリー[[十津川警部シリーズ]]の「[[十津川警部「オキナワ」|オキナワ]]」で登場している。 * 運転士は、自社を含めた沖縄県内に[[動力車操縦者]]の養成所がないため、[[九州旅客鉄道|JR九州]]、[[京浜急行電鉄]]、[[西武鉄道]]<ref>{{Cite news |title=ゆいレール運転士に免許交付/全国初、女性5人も |newspaper=琉球新報 |date=2003-02-26 |url=http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-118716-storytopic-86.html |publisher=琉球新報社 |accessdate=2018-05-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130531043216/http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-118716-storytopic-86.html |archivedate=2013-05-31}}</ref>で学科、技能講習を受けて免許を取得していた。また、モノレールの特性に関する知識、技術の教習は[[千葉都市モノレール]]で行っていた<ref>{{PDFlink|[http://www.ogb.go.jp/muri/bk/2009/200907/324-01mokuji.pdf 群星 「ゆいレール」いろいろ再発見!]}}</ref>。なお、[[2013年]]には自社内の講習で動力車操縦者の合格者を輩出している<ref>[https://www.qab.co.jp/news/2013011740529.html 沖縄都市モノレール 「自社育成」で運転士免許取得] [[琉球朝日放送]]、2013年1月17日(2023年10月14日閲覧)。</ref>。 * 沖縄都市モノレール線の走行を体験できる[[ニンテンドー3DS]]用ゲームソフト『[[鉄道にっぽん!路線たび#ゆいレール編|鉄道にっぽん!路線たび ゆいレール編]]』が[[2015年]][[8月27日]]に発売された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 沖縄県土木建築部・沖縄都市モノレール株式会社編 『沖縄都市モノレール建設記録誌』 2004年 == 関連項目 == {{Commonscat|Okinawa_Monorail}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[モノレールの一覧]] * [[空港連絡鉄道]] * [[沖縄県の鉄道]] == 外部リンク == * [https://www.yui-rail.co.jp/ 沖縄都市モノレール「ゆいレール」] - 公式サイト。各駅の施設や構造の図示、時刻表、料金などについてのQ&amp;A集などがある。 * [http://www.kotsu-okinawa.org/ バスマップ沖縄] - 任意団体「バスマップ沖縄」が運営。沖縄本島にある公共交通機関の路線図が紹介されている。 * [https://www.youtube.com/watch?v=djFIEv8QmrU よみがえる軌道交通-沖縄都市モノレール] 沖縄県公式チャンネル * [https://www.youtube.com/watch?v=a9ZNZpmQ1Lc 沖縄都市モノレール建設の記録-インフラ編] 沖縄県公式チャンネル * [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2012年5月号レポート1{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/wsEGbWRAqNpm.pdf 「沖縄県の鉄軌道【ゆいレール】について」]}}(pp.25 - 31掲載) {{日本のモノレール}} {{DEFAULTSORT:おきなわとしものれえるせん}} [[Category:九州地方の鉄道路線]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:沖縄都市モノレール|路おきなわとしものれえるせん]] [[Category:沖縄県の交通]] [[Category:日本のモノレール路線]] [[Category:跨座式モノレール]] [[Category:空港連絡鉄道]] [[Category:琉球民謡]]
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ウォーターラインシリーズ
ウォーターラインシリーズ(WATER LINE SERIES)は、艦船の喫水線から上のみを700分の1スケールで模型化した、プラモデルシリーズの一つ。静岡模型教材協同組合に属するタミヤ、アオシマ、ハセガワの3社が分担して開発を行っている。 ウォーターラインとは喫水線の事である。シリーズ名が示すように、艦船の喫水線より下を省略し、水面より上のみをプラモデル化しており、水面に浮かんでいる姿を手軽に再現できるのが特徴である。1971年の発足当初は第二次世界大戦時の日本海軍艦艇をプラモデル化する事で始められ、後に外国艦艇や客船も発売されるようになった。 シリーズ開始当時、艦船模型には国際的な標準スケールは存在せず、本シリーズの充実によって1/700が事実上の国際標準スケールとなった。以降、国内外で同スケールの艦船モデルが多数発売されている。 小さいことから企画開始当初は比較的安価な価格帯で、シリーズ開始当初の1971~72年の価格は駆逐艦は100円、重巡は250円、戦艦・空母は400~600円だった。オイルショック後の1980年代中盤~後半には駆逐艦・潜水艦および輸送艦250円、巡洋艦500円、護衛空母・客船650円、戦艦・空母750円だった。その後原材料の高騰などにより価格は更に上昇し、2013年現在では駆逐艦が1000円前後、空母などでは3000円台の商品もある。 後述のように歴史の長いシリーズであり、開発時期によって仕様にかなり差がある。たとえば、No.201赤城(1971年)とNo.227赤城(2014年)は開発時期に40年以上の隔たりがあり、内容は大きく異なっている。企画開始当初は各部のディティールも抑え気味で「安価なコレクションモデル」といった趣であったが、2010年頃の新規金型商品は部品点数も多く、専用エッチングパーツなども別売されるなど「精密模型」と呼べる内容になっている。 下は小学校高学年から、上は社会人や高齢者の趣味として利用され、また実史に基くジオラマ作成にも用いられ、博物館などに収められているものも見られる。 田宮模型(現タミヤ)社長の田宮俊作が提案し、1971年より静岡に本社がある静岡模型教材協同組合に属する青島文化教材社、田宮模型、長谷川製作所、フジミ模型の4社の合同企画としてスタートした。シリーズ開始に当たって、各社が担当する艦はくじ引きで公平に決められた。ただし、大和型戦艦に関しては提案者特権でタミヤが担当したことを暗に匂わせる発言を田宮俊作がしている。 1971年に始まったシリーズは、重巡を皮切りに、戦艦、空母、駆逐艦、軽巡、潜水艦と旧日本海軍艦艇の製品化を積極的に進め、1973年には駆逐艦以上については改装空母と軽巡の一部を除いて太平洋戦争に参加した殆どのタイプの製品化を終えたため、1974年からは外国艦へと移行した。しかし、外国艦は期待したほどの売り上げを上げられず、米、英、独の主要な戦艦と空母を製品化したのみで、1976年ごろにはシリーズは事実上の休止状態となった。 1979年5月の静岡プラスチックモデル見本市では、シリーズの再出発を図るべくタミヤから空母ミッドウェイ、特設潜水母艦靖国丸、一等/二等輸送艦、ハセガワから原子力空母エンタープライズ、工作艦明石、病院船氷川丸、フジミから原子力空母ニミッツ、給糧艦伊良湖、軽巡大淀、青島から空母キエフ/ミンスク、潜水母艦長鯨/迅鯨、水上機母艦千歳/千代田等、現用空母と補助艦艇を中心とした多くの艦が企画中として公表された。しかし、実際に発売されたのはその半数程度であり、この計画は尻すぼみに終わった。1980年代に入ると、前半には散発的に10点ほどの新製品が発売されたが、後半には全く新製品は発売されなくなった。 1992年にフジミ模型が静岡模型教材協同組合から脱退し、自社担当分のキットもウォーターラインから引き揚げてシーウェイモデルシリーズという名称に変更した。残る3社はフジミ担当分の欠落を補う目的で新製品の発売を再開し、旧製品についても新たに開発した兵装等の共通部品をセットしてリニューアルを行った。フジミ担当分のリメイクは概ね好評を以て迎えられ、潜在需要を掘り起こす結果を生み、フジミ分の補完が一段落した後も、初期に発売された自社製品のリメイクや海上自衛隊艦艇などの発売を続けている。 2000年代後半以降は、タミヤとハセガワの製品開発が低調になる中で、青島はシーウェイモデルシリーズやピットロードのスカイウェーブシリーズに対抗する形で、また近年では間宮のように『艦隊これくしょん -艦これ-』が商品化の追い風になるケースもありリメイクやリテイクを含めた新製品開発を活発に行い、本シリーズのけん引役となっている。
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ウォーターラインシリーズは、艦船の喫水線から上のみを700分の1スケールで模型化した、プラモデルシリーズの一つ。静岡模型教材協同組合に属するタミヤ、アオシマ、ハセガワの3社が分担して開発を行っている。
[[File:1.700 Waterline Zuikaku.jpg|thumb|250px|[[瑞鶴 (空母)|空母瑞鶴]]の洋上航走[[ジオラマ]]]] '''ウォーターラインシリーズ'''(WATER LINE SERIES)は、艦船の[[喫水線]]から上のみを700分の1スケールで模型化した、[[プラモデル]]シリーズの一つ。[[静岡模型教材協同組合]]に属する[[タミヤ]]、[[アオシマ]]、[[ハセガワ]]の3社が分担して開発を行っている。 == 概要 == [[File:Shimakaze_model.jpg|thumb|350px|[[島風 (島風型駆逐艦)|駆逐艦島風]]のウォーターラインシリーズ模型]] ウォーターラインとは喫水線の事である。シリーズ名が示すように、艦船の喫水線より下を省略し、水面より上のみをプラモデル化しており、水面に浮かんでいる姿を手軽に再現できるのが特徴である。[[1971年]]の発足当初は[[第二次世界大戦]]時の[[大日本帝国海軍|日本海軍]]艦艇をプラモデル化する事で始められ、後に外国艦艇や客船も発売されるようになった。 シリーズ開始当時、艦船模型には国際的な標準スケールは存在せず、本シリーズの充実によって[[1/700]]が事実上の国際標準スケールとなった。以降、国内外で同スケールの艦船モデルが多数発売されている。 小さいことから企画開始当初は比較的安価な価格帯で、シリーズ開始当初の1971~72年の価格は駆逐艦は100円、重巡は250円、戦艦・空母は400~600円だった。オイルショック後の1980年代中盤~後半には駆逐艦・潜水艦および輸送艦250円、巡洋艦500円、護衛空母・客船650円、戦艦・空母750円だった。その後原材料の高騰などにより価格は更に上昇し、2013年現在では駆逐艦が1000円前後、空母などでは3000円台の商品もある。 後述のように歴史の長いシリーズであり、開発時期によって仕様にかなり差がある。たとえば、No.201赤城(1971年)とNo.227赤城(2014年)は開発時期に40年以上の隔たりがあり、内容は大きく異なっている。企画開始当初は各部のディティールも抑え気味で「安価なコレクションモデル」といった趣であったが、2010年頃の新規金型商品は部品点数も多く、専用[[エッチングパーツ]]なども別売されるなど「精密模型」と呼べる内容になっている。 下は[[小学校]]高学年から、上は[[社会人]]や[[高齢者]]の[[趣味]]として利用され、また実史に基く[[ジオラマ]]作成にも用いられ、[[博物館]]などに収められているものも見られる。 == 歴史 == [[タミヤ|田宮模型]](現タミヤ)社長の田宮俊作が提案し、[[1971年]]より静岡に本社がある[[静岡模型教材協同組合]]に属する[[青島文化教材社]]、田宮模型、[[ハセガワ|長谷川製作所]]、[[フジミ模型]]の4社の合同企画としてスタートした。シリーズ開始に当たって、各社が担当する艦はくじ引きで公平に決められた<ref name="mg200304">『[[モデルグラフィックス]]』2003年4月号に掲載された田宮俊作へのインタビューによる。</ref>。ただし、[[大和型戦艦]]に関しては提案者特権でタミヤが担当したことを暗に匂わせる発言を田宮俊作がしている<ref name="mg200304" />。 1971年に始まったシリーズは、[[重巡洋艦|重巡]]を皮切りに、[[戦艦]]、[[空母]]、[[駆逐艦]]、[[軽巡洋艦|軽巡]]、[[潜水艦]]と旧日本海軍艦艇の製品化を積極的に進め、1973年には駆逐艦以上については改装空母と軽巡の一部を除いて太平洋戦争に参加した殆どのタイプの製品化を終えたため、1974年からは外国艦へと移行した。しかし、外国艦は期待したほどの売り上げを上げられず、米、英、独の主要な戦艦と空母を製品化したのみで、1976年ごろにはシリーズは事実上の休止状態となった。 1979年5月の静岡プラスチックモデル見本市では、シリーズの再出発を図るべくタミヤから空母[[ミッドウェイ (空母)|ミッドウェイ]]、[[特設潜水母艦]]靖国丸、[[第一号型輸送艦|一等]]/[[第百一号型輸送艦|二等輸送艦]]、ハセガワから原子力空母[[エンタープライズ (CVN-65)|エンタープライズ]]、工作艦[[明石 (工作艦)|明石]]、病院船[[氷川丸]]、フジミから原子力空母[[ニミッツ (空母)|ニミッツ]]、給糧艦[[伊良湖 (給糧艦)|伊良湖]]、軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]、青島から空母[[キエフ級航空巡洋艦|キエフ]]/[[ミンスク (空母)|ミンスク]]、潜水母艦[[長鯨 (潜水母艦)|長鯨]]/[[迅鯨 (潜水母艦)|迅鯨]]、水上機母艦[[千歳 (空母)|千歳]]/[[千代田 (空母)|千代田]]等、現用空母と補助艦艇を中心とした多くの艦が企画中として公表された。しかし、実際に発売されたのはその半数程度であり、この計画は尻すぼみに終わった。[[1980年代]]に入ると、前半には散発的に10点ほどの新製品が発売されたが、後半には全く新製品は発売されなくなった。 [[1992年]]にフジミ模型が静岡模型教材協同組合から脱退し、自社担当分のキットもウォーターラインから引き揚げて[[シーウェイモデルシリーズ]]という名称に変更した。残る3社はフジミ担当分の欠落を補う目的で新製品の発売を再開し、旧製品についても新たに開発した兵装等の共通部品をセットしてリニューアルを行った。フジミ担当分のリメイクは概ね好評を以て迎えられ、潜在需要を掘り起こす結果を生み、フジミ分の補完が一段落した後も、初期に発売された自社製品のリメイクや海上自衛隊艦艇などの発売を続けている。 2000年代後半以降は、タミヤとハセガワの製品開発が低調になる中で、青島はシーウェイモデルシリーズや[[ピットロード]]のスカイウェーブシリーズに対抗する形で、また近年では[[間宮 (給糧艦)|間宮]]のように<ref>[https://web.archive.org/web/20140308004846/http://ameblo.jp/aoshima-kumablog/entry-11769258633.html 青島文化のくまぶろぐ「ワンフェス」] - この中に「(通常は諸事情で間宮の製品化は)企画会議ではボツアイテムです。艦これ様様です。」と言う記述がある。</ref>『[[艦隊これくしょん -艦これ-]]』が商品化の追い風になるケースもありリメイクやリテイクを含めた新製品開発を活発に行い、本シリーズのけん引役となっている。 2023年、2017年の島風(タミヤ)以来となる護衛艦「もがみ」がタミヤから発売された。 ===派生商品=== *『艦これ』仕様(発売元:アオシマ) :2013年より一部の艦について、[[ブラウザゲーム]]『艦隊これくしょん -艦これ-』に登場する「艦娘」を描いたパッケージを使用し、「艦娘」のカードやシール、エッチングプレートなどを追加したバージョンがアオシマから発売されている。入っている艦はその艦娘の元ネタであり、艦によってはタミヤ製、ハセガワ製の場合もあるが、あくまでアオシマ製品の扱いであり、パッケージには問い合わせ先がアオシマである旨の注意書きがある。なお、アオシマ以外の製造メーカーもパッケージにコラボ製品と銘打って明記されている。元来アオシマ製のものについては専用デザインのパッケージとなっているのに対し、他2社の製品を流用したものはウォーターラインシリーズのそれを専用スリーブに入れたのみで、横から見ると艦これロゴステッカーが追加された以外は通常商品そのままの外見である。 :なお、[[あきつ丸]]と[[速吸 (給油艦)|速吸]]は、当初から艦これ仕様として制作されたため、完全新規制作となっている。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 大日本絵画 『モデルグラフィックス』2003年4月号 No.221 巻頭特集・<small>1/700洋上模型の今昔物語</small> ウォーターライン進化論 * 衣島尚一 「連合艦隊編成講座 300回連載回顧録 1978~2003」『[[モデルアート]]』2003年8月号、No.638、モデルアート社、p18~p25 == 関連項目 == * [[ウォーターラインシリーズキット一覧]] * スカイウェーブシリーズ([[グリーンマックス]]→[[ピットロード]]) * [[シーウェイモデルシリーズ]]([[フジミ模型]]) * [[上田毅八郎]](ウォーターラインシリーズのボックスアートを担当) == 外部リンク == * [http://www.aoshima-bk.co.jp/product/?s=&brand=&category=&scalename=&seriesname=1%2F700+%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3&number=&jan-code=&when1-year=&when1-day=&when2-year=&when2-day= アオシマ ウォーターライン情報] (アオシマ公式サイト) * [http://www.hasegawa-model.co.jp/item/ship/ship700/ ハセガワ ウォーターラインシリーズ] (ハセガワ公式サイト) * [https://www.tamiya.com/japan/products/list.html?genre_item=105030 タミヤ ウォーターラインシリーズ] (タミヤ公式サイト) {{模型}} {{DEFAULTSORT:うおおたあらいんしりいす}} [[Category:船舶模型]] [[Category:プラモデル]] [[Category:1970年代の玩具]]
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ミリタリーミニチュアシリーズ
ミリタリーミニチュアシリーズは、タミヤが1968年から継続して製作販売しているAFV(装甲戦闘車輌)・フィギュアを中心としたプラモデルのシリーズ。同シリーズの充実により、1/35が世界的に戦車模型の標準的スケールのひとつとなった。さらに2003年からは一回り小さい1/48にも製品の範囲を広げた。MMと略される事がある。 「1/35ミリタリーミニチュアシリーズ」(以下MMシリーズと略)は当初、「1/35戦車シリーズ」(走行可能なモーターライズキット)のアクセサリー的な物としてスタートした。シリーズNo.1の「ドイツ戦車兵セット」は1968年9月に発売され、以降No.3の「シュビムワーゲン」がソフトスキン(非装甲車両)として初めてシリーズに加わった。No.9の「ドイツII号戦車」では、モーターライズ機構を除いて代わりに歩兵フィギュアを追加し、それまでの動かして楽しむという戦車模型の概念に一石を投じ、ディスプレイという新たな楽しみ方を示した。その後も同様にモーターライズ機構を廃したりフィギュアをセットする他、最初からディスプレイ専用に設計された車輌、大砲のキットも次々と加わり、シリーズを固めていった。 1972年にはシリーズNo.17「88ミリ砲Flak36/37」を発売し、精密感、ボリュームと組み易さで他社のミリタリーモデルとは一線を画す様になった。以後も続々と新製品が発売されるが、ベトナム戦争が終結し、ミリタリーモデルを楽しんでいた中心世代が進学・就職・結婚など人生の転機を迎える'80年代にさしかかり、またスーパーカーブームやアニメブーム等におされ、シリーズの展開は次第に鈍化していき「ミリタリー冬の時代」と呼ばれる時期に入った。 やがて、市場調査を兼ねた限定生産品などを発売し、ミリタリーモデルの需要が見込まれると判断したタミヤは、1989年12月、No.146「タイガーI後期生産型」を発売した。このキットは、それまでのMMシリーズの戦車キットの多くがモーターライズキットと兼ねるという制約から、スケールや精密感が一部スポイルされていたのに対し、実車に対し忠実かつ精密かつ組み立て易く設計されていた。履帯も、それまでモーターライズ兼用のポリプロピレン製の物だったのが、本作で初めてプラスチック製の組立式が採用された。ただし、組立式履帯は初心者向きではなかったため、後の新パンサー、新キングタイガーではこれを別売りにしている。また従来のベルト式も、その後の新製品では材質が変更され接着や塗装が可能になっている。ただし、この新素材は従来品より劣化が激しく、数年でクッキー菓子の様にボロボロに割れるという現象が確認されている(2007年以降発売されたヘッツァー駆逐戦車やJS-2(IS-2)重戦車などではベルト式と部分連結式の双方が同梱されている)。 タイガーI以降のシリーズは「新MMシリーズ」等とも呼ばれ、それまで諸般の事情で模型製作から遠ざかっていた人が再び模型製作を再開する、いわゆる「出戻りモデラー」を生み出す一助になった。現在では、精密感や組易さを改善したドラゴンの製品や、AFVクラブ、トランペッター等の中国や台湾を拠点とするメーカーとの競合が激しくなっている。 近年は、アベールなど他社製オプションパーツ(エッチングパーツや金属製キャタピラなど)を同梱したパッケージや、フィリピン工場で製作された塗装済み完成品も発売されている。またフィギュアも従来の手作業による原型制作から、本物の人間を3Dスキャンしたデジタル原型に移行し、より精密かつ写実的な物になっている。 かつての1/35戦車シリーズの中には、電動モーターによる走行を前提として設計していたため、電池やギアボックスの収納の関係で実際は1/32相当のもの(M4A3E8やM36、M10等)も含まれており、これらは一部を除いてMMシリーズには加えられていない。 海洋堂のワールドタンクミュージアムやレベル・ドラゴンの1/72モデルの登場で1/35未満の「ミニスケール」の人気が高まる中、タミヤが新たにスタートしたのが1/48MMシリーズである。シリーズNo.1の「Pkw.K1 キューベルワーゲン82型」は2003年10月に発売された。 当初はケッテンクラートやキューベルワーゲンといった小型車輌からスタートし、同スケールの航空機モデルとの組み合わせが想定されており、名称は当初「1/48ミリタリーミニチュアビークル (MMV)」だった。 シリーズ4作目に「タイガーI初期型」が発売され、その後も大戦物アイテムをリリースし続けており、更にフィギュアセットや情景用アクセサリも発売されるなど一大シリーズを形成しつつある。またサードパーティー製のエッチングパーツ等のオプション商品も充実しつつある。 シリーズの特徴として、一部の車輌にはダイキャスト製シャーシを、また装軌車両ではプラスチック製組立式キャタピラを採用している。ダイキャスト製パーツは1/35でも一部導入されており(軽装甲機動車のシャーシやルクレールの転輪など)、タミヤ側は「手にした時の重量感の演出」をアピールしているが、接着に瞬間接着剤が必要な事や加工の難しい事などの問題点がある。特に加工性については、サスペンションアームも一体成形されているために不整地ベースへの接地加工がほとんど不可能であり(塗装に関してはあらかじめサーフェイサー処理がなされているので問題無い)、こうした批判から後にプラスチック製車体にダイキャスト製ウェイトを仕込む方式に改められている。一方で組立式キャタピラは直線部分を一体化するなど組み立て易さに配慮されている。 ちなみに、タミヤは1970年代にも当時の新型戦車を採り上げた1/48戦車シリーズを発売しているが、こちらはシングルモーターライズ(直進のみ)のトイ的な性格の強い物であった。後にギアボックスが金属製からミニ四駆の技術を応用したABS樹脂製となり、シャーシが各車共通となったリモコン版が発売され、現在は一部の車輌が完成品として発売されている。 タミヤがこの1/48MMシリーズの開発に注力、シフトしている事については、以下のような理由が挙げられている。 ただし1/48アイテムの開発・生産はフィリピン工場にて行われており、従来の1/35シリーズとは別体制になっているため、1/48の開発により1/35が停滞する事は無いと表明している(アーマーモデリング誌2008年10月号の田宮会長インタビューより)。 現在のラインナップは大戦ものが主だが、2008年8月には同スケールの現用アメリカ陸軍・多用途装輪車がF-117のセットで発売され、2009年10月にはバリエーションのカーゴタイプが1/48MM初の現用アイテムとして発売されている。2016年8月にはシリーズ初の現用戦車・装軌車輌である陸上自衛隊・10式戦車が発売された。
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ミリタリーミニチュアシリーズは、タミヤが1968年から継続して製作販売しているAFV(装甲戦闘車輌)・フィギュアを中心としたプラモデルのシリーズ。同シリーズの充実により、1/35が世界的に戦車模型の標準的スケールのひとつとなった。さらに2003年からは一回り小さい1/48にも製品の範囲を広げた。MMと略される事がある。
'''ミリタリーミニチュアシリーズ'''は、[[タミヤ]]が1968年から継続して製作販売しているAFV([[装甲戦闘車輌]])・[[フィギュア]]を中心とした[[プラモデル]]のシリーズ。同シリーズの充実により、1/35が世界的に[[戦車]]模型の標準的スケールのひとつとなった。さらに2003年からは一回り小さい1/48にも製品の範囲を広げた。'''MM'''と略される事がある。 == 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ == 「1/35ミリタリーミニチュアシリーズ」(以下MMシリーズと略)は当初、「1/35戦車シリーズ」(走行可能なモーターライズキット)のアクセサリー的な物としてスタートした。シリーズNo.1の「ドイツ戦車兵セット」は[[1968年]]9月に発売され、以降No.3の「[[シュビムワーゲン]]」がソフトスキン(非装甲車両)として初めてシリーズに加わった。No.9の「[[II号戦車|ドイツII号戦車]]」では、モーターライズ機構を除いて代わりに歩兵フィギュアを追加し、それまでの動かして楽しむという戦車模型の概念に一石を投じ、ディスプレイという新たな楽しみ方を示した。その後も同様にモーターライズ機構を廃したりフィギュアをセットする他、最初からディスプレイ専用に設計された車輌、大砲のキットも次々と加わり、シリーズを固めていった。 [[1972年]]にはシリーズNo.17「[[8.8 cm FlaK 18/36/37|88ミリ砲Flak36/37]]」を発売し、精密感、ボリュームと組み易さで他社のミリタリーモデルとは一線を画す様になった。以後も続々と新製品が発売されるが、[[ベトナム戦争]]が終結し、ミリタリーモデルを楽しんでいた中心世代が進学・就職・結婚など人生の転機を迎える'80年代にさしかかり、またスーパーカーブームやアニメブーム等におされ、シリーズの展開は次第に鈍化していき「ミリタリー冬の時代」と呼ばれる時期に入った。 やがて、市場調査を兼ねた限定生産品などを発売し、ミリタリーモデルの需要が見込まれると判断したタミヤは、[[1989年]]12月、No.146「[[ティーガーI|タイガーI後期生産型]]」を発売した。このキットは、それまでのMMシリーズの戦車キットの多くがモーターライズキットと兼ねるという制約から、スケールや精密感が一部スポイルされていたのに対し、実車に対し忠実かつ精密かつ組み立て易く設計されていた。[[無限軌道|履帯]]も、それまでモーターライズ兼用の[[ポリプロピレン]]製の物だったのが、本作で初めてプラスチック製の組立式が採用された。ただし、組立式履帯は初心者向きではなかったため、後の新[[V号戦車パンター|パンサー]]、新[[キングタイガー]]ではこれを別売りにしている。また従来のベルト式も、その後の新製品では材質が変更され接着や塗装が可能になっている。ただし、この新素材は従来品より劣化が激しく、数年でクッキー菓子の様にボロボロに割れるという現象が確認されている(2007年以降発売された[[ヘッツァー]]駆逐戦車やJS-2([[IS-2]])重戦車などではベルト式と部分連結式の双方が同梱されている)。 タイガーI以降のシリーズは「新MMシリーズ」等とも呼ばれ、それまで諸般の事情で模型製作から遠ざかっていた人が再び模型製作を再開する、いわゆる「出戻りモデラー」を生み出す一助になった。現在では、精密感や組易さを改善した[[ドラゴンモデルズ|ドラゴン]]の製品や、[[AFVクラブ]]、[[トランペッター (企業)|トランペッター]]等の中国や台湾を拠点とするメーカーとの競合が激しくなっている。 近年は、アベールなど他社製オプションパーツ(エッチングパーツや金属製キャタピラなど)を同梱したパッケージや、フィリピン工場で製作された塗装済み完成品も発売されている。またフィギュアも従来の手作業による原型制作から、本物の人間を3Dスキャンしたデジタル原型に移行し、より精密かつ写実的な物になっている。 かつての1/35戦車シリーズの中には、電動モーターによる走行を前提として設計していたため、電池やギアボックスの収納の関係で実際は1/32相当のもの(M4A3E8やM36、M10等)も含まれており、これらは一部を除いてMMシリーズには加えられていない。 === 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズの一覧 === {{see|1/35 ミリタリーミニチュアシリーズの一覧}} == 1/48 ミリタリーミニチュアシリーズ == [[海洋堂]]の[[ワールドタンクミュージアム]]やレベル・[[ドラゴンモデルズ|ドラゴン]]の1/72モデルの登場で1/35未満の「ミニスケール」の人気が高まる中、タミヤが新たにスタートしたのが1/48MMシリーズである。シリーズNo.1の「Pkw.K1 キューベルワーゲン82型」は[[2003年]]10月に発売された。 当初は[[ケッテンクラート]]や[[キューベルワーゲン]]といった小型車輌からスタートし、同スケールの航空機モデルとの組み合わせが想定されており、名称は当初「1/48ミリタリーミニチュアビークル (MMV)」だった。 シリーズ4作目に「タイガーI初期型」が発売され、その後も大戦物アイテムをリリースし続けており、更にフィギュアセットや情景用アクセサリも発売されるなど一大シリーズを形成しつつある。また[[サードパーティー]]製の[[エッチングパーツ]]等のオプション商品も充実しつつある。 シリーズの特徴として、一部の車輌には[[ダイキャスト]]製シャーシを、また装軌車両ではプラスチック製組立式キャタピラを採用している。ダイキャスト製パーツは1/35でも一部導入されており([[軽装甲機動車]]のシャーシや[[ルクレール]]の転輪など)、タミヤ側は「手にした時の重量感の演出」をアピールしているが、接着に[[瞬間接着剤]]が必要な事や加工の難しい事などの問題点がある。特に加工性については、サスペンションアームも一体成形されているために不整地ベースへの接地加工がほとんど不可能であり(塗装に関してはあらかじめ[[サーフェイサー]]処理がなされているので問題無い)、こうした批判から後にプラスチック製車体にダイキャスト製ウェイトを仕込む方式に改められている。一方で組立式キャタピラは直線部分を一体化するなど組み立て易さに配慮されている。 ちなみに、タミヤは1970年代にも当時の新型戦車を採り上げた1/48戦車シリーズを発売しているが、こちらはシングルモーターライズ(直進のみ)のトイ的な性格の強い物であった。後にギアボックスが金属製からミニ四駆の技術を応用したABS樹脂製となり、シャーシが各車共通となったリモコン版が発売され、現在は一部の車輌が完成品として発売されている。 タミヤがこの1/48MMシリーズの開発に注力、シフトしている事については、以下のような理由が挙げられている。 *既に1/35では内容・価格などにおいて海外メーカー(特にドラゴンなどの中国勢)との競争が困難である事から、同社の売りである組み立て易さをアピールしやすく価格も抑えられる。 *現代の住宅事情を考慮し、かつ飛行機モデルのスタンダードスケールとの統合を企図した(2006年、静岡ホビーショーでのタミヤスタッフのコメント) *タミヤが近年展開している塗装済み完成品にも適したサイズである(前述のダイキャストシャーシや組立式キャタピラも完成品販売を見越した処置と見られる)。 ただし1/48アイテムの開発・生産はフィリピン工場にて行われており、従来の1/35シリーズとは別体制になっているため、1/48の開発により1/35が停滞する事は無いと表明している(アーマーモデリング誌2008年10月号の田宮会長インタビューより)。 現在のラインナップは大戦ものが主だが、2008年8月には同スケールの現用[[アメリカ陸軍]]・[[ハンヴィー|多用途装輪車]]が[[F-117_(航空機)|F-117]]のセットで発売され、2009年10月にはバリエーションのカーゴタイプが1/48MM初の現用アイテムとして発売されている。2016年8月にはシリーズ初の現用戦車・装軌車輌である[[陸上自衛隊]]・[[10式戦車]]が発売された。 === 1/48 ミリタリーミニチュアシリーズの一覧 === {{see|1/48 ミリタリーミニチュアシリーズの一覧}} == 関連項目 == *[[機甲師団シリーズ]] *[[ミニボックスEシリーズ]] {{模型}} {{デフォルトソート:みりたりみにちゆあしりす}} [[Category:プラモデル|みりたりみにちゆあしりす]] [[Category:タミヤ|みりたりみにちゆあしりす]]
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オーリング
オーリングとは、ゴム製のボートで 一人が2本のオールを使用して川下りすること。 映画『激流』でメリル・ストリープ演ずるゲイルが操船していた。
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アンダーソン局在
アンダーソン局在(Anderson localization)は、物質中のポテンシャルが無秩序な場合に、電子の波動関数が空間的に局在する現象のこと。 1958年にフィリップ・アンダーソンがその可能性を初めて指摘した。 その後ネヴィル・モットが多くの物理的考察を行い、その多くが実験などによって実証されているため、 現在では無秩序系における電子物性の基本的性質と考えられている。 局在状態とそうでない状態はエネルギー的にはっきりとわかれており、その境界のエネルギーのことを移動度端と呼ぶ。 フェルミ準位が移動度端の上か下かで電気的性質が大きく変わる。 また、長さや時間のスケールを変換して、不変に保っている性質を取り出す理論をスケーリング理論というが、 アンダーソン局在においては、このスケーリング理論によって多くの理論的考察がなされた。アンダーソンはこの功績からノーベル賞を受賞している。 電子の固有状態がその乱れたポテンシャルにより散乱され、散乱された固有状態(散乱波)同士が互いに干渉することによって空間的に局在化する。つまり、単純にポテンシャルによって局在するような単なる束縛状態ではない。
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アンダーソン局在(Anderson localization)は、物質中のポテンシャルが無秩序な場合に、電子の波動関数が空間的に局在する現象のこと。
{{参照方法|date=2018年1月}} '''アンダーソン局在'''(Anderson localization)は、物質中のポテンシャルが無秩序な場合に、[[電子]]の[[波動関数]]が空間的に局在する現象のこと。 == 概要 == 1958年に[[フィリップ・アンダーソン]]がその可能性を初めて指摘した<ref>[[フィリップ・アンダーソン|P.W.Anderson]], "Absence of Diffusion in Certain Random Lattices", Phys. Rev., '''109''', (1958), pp.1492-1505.</ref>。 その後[[ネヴィル・モット]]が多くの物理的考察を行い、その多くが実験などによって実証されているため、 現在では無秩序系における電子物性の基本的性質と考えられている。 局在状態とそうでない状態はエネルギー的にはっきりとわかれており、その境界のエネルギーのことを[[移動度端]]と呼ぶ。 [[フェルミ準位]]が[[移動度端]]の上か下かで電気的性質が大きく変わる。 また、長さや時間のスケールを変換して、不変に保っている性質を取り出す理論を[[スケーリング理論]]というが、 '''アンダーソン局在'''においては、この[[スケーリング理論]]によって多くの理論的考察がなされた。アンダーソンはこの功績からノーベル賞を受賞している。 == 局在の物理的描像 == [[電子]]の固有状態がその乱れたポテンシャルにより[[散乱]]され、散乱された固有状態(散乱波)同士が互いに干渉することによって空間的に局在化する。つまり、単純にポテンシャルによって局在するような単なる[[束縛状態]]ではない。 ==参考文献== {{Reflist}} * 福山 秀敏:「アンダーソン局在」,物理学最前線 2,共立出版(1983). * 川畑 有郷:「アンダーソン局在のスケーリング理論」,物理学最前線 13, 共立出版(1985). * 長岡 洋介、安藤 恒也,高山 一:「局在・量子ホール効果・密度波」(1章1節-2節),現代の物理学 18, 岩波書店(1993). * 大槻 東巳:「不規則電子系の金属-絶縁体転移」,現代物理学最前線 2,共立出版(2000), pp.75-142. * 小野 嘉之:「金属絶縁体転移」,(5章-6章),朝倉物性物理シリーズ1,新倉書店(2002). * 川畑 有郷:「固体物理学」(第6章4節),物理の考え方 3, 朝倉書店(2007). * 小谷 眞一:「ランダム・ポテンシャルの問題」, 数学、Vol.38, 岩波書店(1986), pp.53-61. * 氷上 忍:「ランダム・ポテンシャルの問題に対する補足」, 数学, Vol.38,岩波書店(1986), pp.61-65. * 小谷 眞一:(論説)「ランダム・ポテンシャルの問題 II」, 数学, Vol.38, 岩波書店(1986), pp.193-201. * 第14回日本数学会彌永賞(小谷眞一):「ランダムなポテンシャルをもつSchrodinger作用素のスペクトル理論」,数学、Vol.38, 岩波書店(1986), p.265. * 福島 正俊:「ランダムSchrodinger作用素に関する小谷理論」, 数学, Vol.38, 岩波書店(1986), pp.266-269. * 小沢 真:「ランダム媒質のスペクトル」, 数学, Vol.44, 岩波書店 (1992), pp.306-319. * 永尾 太郎:「ランダム行列の基礎」, 東京大学出版会(2005). ==関連記事== *[[物性物理学]] {{Physics-stub}} {{DEFAULTSORT:あんたあそんきよくさい}} [[Category:固体物理学]]
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小池一夫
小池 一夫(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉、1936年5月8日 - 2019年4月17日)は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型。1976年までの筆名は小池 一雄。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。 秋田県大仙市出身。中央大学法学部卒。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授(学科長)、神奈川工科大学情報学部情報メディア学科教授、大阪エンタテインメントデザイン専門学校教授を歴任した。出版社の小池書院元編集長。 漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』がある。初期の『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)にも脚本家として関わっている。 「漫画はキャラ起てが大事だ」が信条。インパクトのあるキャラクターを動かし、世界的な謀略劇の中を鍛え上げた肉体を駆使して駆け抜けるというハッタリの効いた壮大な筋が身上。「キャラクター原論」の提唱者である。 1936年、秋田県大曲町(現・大仙市)に生まれる。幼少期より周囲の子供より一回り大柄で、ガキ大将だった。少年期は近所の物持ちの家に入りびたり、倉の中にあった立川文庫などの講談本や少年向けの小説などを読み、それを学校で同級生に語って聞かせる。 1955年秋田県立秋田高等学校、1959年中央大学法学部卒。中学校から大学まで剣道部に在籍する。中大在籍時は『桃太郎侍』で知られる時代小説家・山手樹一郎に師事し、小説家を目指すが断念。その後弁護士を目指すが、司法試験に三度失敗。雀荘の店員・経営または雀ゴロ、農林省、外国航路の船員、ゴルフ場勤務等の職業を経験。 1968年春、たまたま目にした『少年マガジン』に、さいとうプロダクションが原作者募集をしているのを見て、「枯れ葉の紳士録」という原稿を書き、応募。締切りを大幅に過ぎていたにも拘らず、採用される。以後、さいとうプロに所属し、『無用之介』『ゴルゴ13』などの原作に携わった後、1970年に独立、7月に『ノスパイプ戦線』(ヤングコミック)で原作者デビュー(ただし原稿依頼は『白地に黒く死の丸染めて』の方が先行しており、一時期はこれがデビュー作とされていた)。1972年には、叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志らとともにスタジオ・シップ(現・小池書院)を立ち上げ、所属メンバーのほかにも多くの実力派漫画家を作画に迎え、多数の漫画作品を発表する。遅咲きデビューからわずか数年で劇画界に一勢力を築く形となった。 1970年代は、『子連れ狼』、『御用牙』、『修羅雪姫』、『忘八武士道』など、セックスとバイオレンスに満ちたアナーキーな時代劇作品を多数発表。仕事も多忙を極め1970年代前半には、月に15本程度連載を抱えていた。また、その多くが映画化またはドラマ化され、1970年代の映画界に大きな影響を与えた。クエンティン・タランティーノ、ジョン・ウーなど、日本国外にも多くのファンを生んだ。なお、一部の映像化作品では、小池自身が脚本を担当している。漫画原作者としては先輩の梶原一騎も小池の活躍に脅威を覚え、『斬殺者』『ボディガード牙』など、セックスとバイオレンスを主題とした青年漫画誌向けの作品を書くようになった。 『子連れ狼』は1987年と、最も早い時期にアメリカで出版され、成功を収めた数少ない日本漫画の一つであり、今日の日本漫画ブームの草分けとなった。アメリカン・コミックの巨匠であるフランク・ミラーは『子連れ狼』の大ファンであり、ダークホース社から出版された『子連れ狼』アメリカ版の表紙絵を描いている。小池劇画はアメリカン・コミックスにも影響を与えたとされ、2001年のアイズナー賞受賞以降、アメリカに於ける多くの受賞がそのことを裏付けている。興行収入が1億ドルを超える大ヒットを記録した2002年のハリウッド映画『ロード・トゥ・パーディション』は、『子連れ狼』をモチーフにしている。 1980年代以降は、時代の変化もあり、刺激を弱め、週刊少年サンデーでキャリア唯一の少年誌ラブコメ『ラブZ』(1982年)を発表するなど、娯楽性を主にした作品に作風を切り替えた。1984年には、雑誌『週刊サンケイ』に初の小説『乾いて候』を連載開始し、小説家としてもデビュー。 後進の育成にも力を入れ、1977年に「小池一夫劇画村塾」を開設。出身者に高橋留美子、原哲夫、板垣恵介、山口貴由、山本貴嗣、堀井雄二、さくまあきら、西村しのぶ、山本直樹らがいる。 2000年に大阪芸術大学芸術学部映像学科の教授に招聘され、『小池一夫のキャラクター原論』を上梓。2001年、同大学にて漫画家養成を目的とした「小池一夫ゼミ」第一期をスタート。主な小池ゼミ出身者としては椎橋寛、森橋ビンゴ、田雑芳一、宮本和也、険持ちよ、矢寺圭太、篠丸のどからがいる。2002年、同学部文芸学科長。2005年、同大学でキャラクター造形学科の開設に尽力し、同学科長に就任。佐藤健太郎、金田陽介、鳴海アミヤらを輩出している。2009年、同大学を退任。 2003年、「小池一夫劇画村塾」の後継となるプロ養成漫画塾「小池一夫塾」を新宿にある映像テクノアカデミア内に開講。この頃から過去の劇画村塾と違い、既にプロとして活動していた作家が入塾する傾向が生じ、「小池一夫塾」には山崎紗也夏、ナカタニD.、安藤満、ゆずはらとしゆき、おおひなたごうらが在籍していた。同時期、『子連れ狼』の続編となる『新・子連れ狼』も連載開始した。2006年、「小池一夫塾」と入れ替わる形で劇画村塾を再開(東京第9期、大阪第1期)。2007年、同塾、東京第10期、大阪第2期をスタート。同年9月、劇画村塾を株式会社化(その後同社は社名を株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽;社長 金田直己(金徳吉)に変更)するも、2009年に同社と訣別。2011年4月、独自の講座「キャラクターマンWEB講座」を開講し、同年11月には創作ブランド「小池工房」を設立していた。 2005年、生まれ故郷である秋田県大仙市に百歳寓という別荘を設けたが、晩年、事業の失敗に伴い、売却された。 日本文藝家協会・日本映像学会・日本アカデミー賞協会の会員。星野仙一新仙組総長、阪神タイガース金本知憲後援会会長。 2019年4月17日、肺炎のため死去。82歳だった。 ゴルフ場勤務の経験があったことから、ゴルフへの造詣も深い。「至美(しび)ゴルフ」は、TBSテレビ「小池一夫の至美ゴルフ」・サンテレビ「週刊至美ゴルフ」・広島テレビ「小池一夫のシビ・ゴルフ広島奮戦記」として、テレビ化(TBSとサンテレビはほぼ同時期に放送)されている。なお、同名番組だが、内容はそれぞれ全く異なり、また、ゴルフに関する情報をまとめたもので、原作となった劇画とは大きく異なる。また、1987年にはゴルフ雑誌『アルバトロス・ビュー』を創刊する。かつて雀荘勤務経験や雀ゴロ経験もあるため、麻雀は強く、阿佐田哲也とも何度も対戦している。居合道にも精進して、自分が写真モデルを務めた教習本を出版したこともある。また、茶道の入門書も監修している。 小池によれば、スタジオ・シップの立ち上げに参画した叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志らは、小池がさいとうプロから引き抜いたのではなく、彼らの方から小池についてきたとのことである。実際、小山とやまさきは山本又一朗の誘いで別個にオリオンプロとして独立しており、後にオリオンプロごとスタジオ・シップへ合流した経緯がある。当時、小池をアシスタントの一人と思っていたさいとうは激怒し、さいとうがビッグコミック、小池はビッグコミックから枝分かれしたビッグコミックオリジナル、スピリッツ、週刊ポストという形で、小学館では20年以上棲み分けることになった。しかし、後に漫画家ゴルフコンペに共に参加するなど、ある程度の関係改善が行われ、小池もビッグコミックで『花縄』を連載した。 『赤い鳩』や『連環日本書紀』では日猶同祖論を展開した。日本語の「辱める」とヘブライ語の「ハズカシューム」は同義語だそうである。劇画村塾や大学の講義でもこの話題に脱線すると、なかなか本題に戻らなかった。『赤い鳩』の連載時、いくつかの宗教団体や右翼などから「嘘を書くな」と小学館に抗議が殺到した。右翼からも「ピストル撃ちますよ」という内容の脅迫電話が編集部にあり、連載を中止した。 長嶋茂雄と非常に仲が良く、大阪芸術大学に招いて講演を依頼し、劇画村塾の会社組織化パーティーでも祝いに駆けつけている。他にも星野仙一、孫正義、『乾いて候』テレビドラマ版や『子連れ狼 その小さき手に』で主演を務めた田村正和などの人脈があるが、2004年の『勝ちたいんや!―劇画・星野仙一物語』で星野から池口恵観を紹介された頃から、劇画村塾の株式会社化や壱岐の高級リゾートホテル「海里村上」の経営に乗り出すなど、大規模な事業拡大を始める。また、小泉政権時代より政府の「知的財産戦略本部」に参加しており、この時期は「知的財産」に関する講演も多かった。 1990年代に水声社から刊行された『マンガ地獄変』シリーズ(1970年代のアナーキーな漫画を再評価するムック)が、第4巻で小池を取り上げる予定だったが、原稿は集まっていたにも拘らず、担当編集者がビバ彦として知られる「モー娘オタク」になり、「モー娘ファン活動」に多忙となったため、同書は刊行されなかった。『マンガ地獄変』シリーズに執筆していた漫画評論家の大西祥平が、映画雑誌『映画秘宝』において、2004年から2011年にかけて、小池へのインタビューも含めた小池漫画論「小池一夫伝説」を連載し、2011年11月に洋泉社から単行本化されている。 晩年は前述の事業拡大が失敗し、劇画村塾株式会社(現:株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽 / 社長:金田直己(金徳吉))とも訣別、小池書院の経営も悪化したことから、複数の金銭問題を起こしており、その影響から2009年に日本経済新聞で連載を始めた『結い 親鸞』は第2話以降休載となった。以後は健康状態の悪化もあって漫画原作を手掛けることは少なくなり、最晩年はTwitter上での発言を元にしたエッセイ集などを刊行していた。 堀井雄二は、小池からハリウッド版『子連れ狼』のアニメ制作という名目で、著名な弟子たちに連絡があり、1000万円を「投資」として渡したが、返金されなかったと証言している。生徒に対して寸借詐欺を働いたとの報道もあり、田中圭一は小池を告発する内容の漫画を制作していることを度々報告していたが、2019年、小池の死去を受けて告発漫画の発表を取り止めることを公表した。 なお、小池書院は2016年11月、破産処理を開始しているが、小池一夫の原作作品のうち7作品について、小池書院の後継会社となる株式会社小池一夫作品普及会は自社のHPで、小池一夫の著作権のうち「子連れ狼」「忘八武士道」「首切り朝」「修羅雪姫」「オークションハウス」「御用牙」「盗撮影手パパラッチ」の7作品について著作権を所有しており、日本国内において、他社に対し独占的利用権及び、それに付帯するいかなる利用権も、一切許諾をしておりませんと公開をしている。
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"ゴルフ場勤務の経験があったことから、ゴルフへの造詣も深い。「至美(しび)ゴルフ」は、TBSテレビ「小池一夫の至美ゴルフ」・サンテレビ「週刊至美ゴルフ」・広島テレビ「小池一夫のシビ・ゴルフ広島奮戦記」として、テレビ化(TBSとサンテレビはほぼ同時期に放送)されている。なお、同名番組だが、内容はそれぞれ全く異なり、また、ゴルフに関する情報をまとめたもので、原作となった劇画とは大きく異なる。また、1987年にはゴルフ雑誌『アルバトロス・ビュー』を創刊する。かつて雀荘勤務経験や雀ゴロ経験もあるため、麻雀は強く、阿佐田哲也とも何度も対戦している。居合道にも精進して、自分が写真モデルを務めた教習本を出版したこともある。また、茶道の入門書も監修している。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "小池によれば、スタジオ・シップの立ち上げに参画した叶精作、神江里見、小山ゆう、やまさき拓味、伊賀和洋、神田たけ志らは、小池がさいとうプロから引き抜いたのではなく、彼らの方から小池についてきたとのことである。実際、小山とやまさきは山本又一朗の誘いで別個にオリオンプロとして独立しており、後にオリオンプロごとスタジオ・シップへ合流した経緯がある。当時、小池をアシスタントの一人と思っていたさいとうは激怒し、さいとうがビッグコミック、小池はビッグコミックから枝分かれしたビッグコミックオリジナル、スピリッツ、週刊ポストという形で、小学館では20年以上棲み分けることになった。しかし、後に漫画家ゴルフコンペに共に参加するなど、ある程度の関係改善が行われ、小池もビッグコミックで『花縄』を連載した。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『赤い鳩』や『連環日本書紀』では日猶同祖論を展開した。日本語の「辱める」とヘブライ語の「ハズカシューム」は同義語だそうである。劇画村塾や大学の講義でもこの話題に脱線すると、なかなか本題に戻らなかった。『赤い鳩』の連載時、いくつかの宗教団体や右翼などから「嘘を書くな」と小学館に抗議が殺到した。右翼からも「ピストル撃ちますよ」という内容の脅迫電話が編集部にあり、連載を中止した。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "長嶋茂雄と非常に仲が良く、大阪芸術大学に招いて講演を依頼し、劇画村塾の会社組織化パーティーでも祝いに駆けつけている。他にも星野仙一、孫正義、『乾いて候』テレビドラマ版や『子連れ狼 その小さき手に』で主演を務めた田村正和などの人脈があるが、2004年の『勝ちたいんや!―劇画・星野仙一物語』で星野から池口恵観を紹介された頃から、劇画村塾の株式会社化や壱岐の高級リゾートホテル「海里村上」の経営に乗り出すなど、大規模な事業拡大を始める。また、小泉政権時代より政府の「知的財産戦略本部」に参加しており、この時期は「知的財産」に関する講演も多かった。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1990年代に水声社から刊行された『マンガ地獄変』シリーズ(1970年代のアナーキーな漫画を再評価するムック)が、第4巻で小池を取り上げる予定だったが、原稿は集まっていたにも拘らず、担当編集者がビバ彦として知られる「モー娘オタク」になり、「モー娘ファン活動」に多忙となったため、同書は刊行されなかった。『マンガ地獄変』シリーズに執筆していた漫画評論家の大西祥平が、映画雑誌『映画秘宝』において、2004年から2011年にかけて、小池へのインタビューも含めた小池漫画論「小池一夫伝説」を連載し、2011年11月に洋泉社から単行本化されている。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "晩年は前述の事業拡大が失敗し、劇画村塾株式会社(現:株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽 / 社長:金田直己(金徳吉))とも訣別、小池書院の経営も悪化したことから、複数の金銭問題を起こしており、その影響から2009年に日本経済新聞で連載を始めた『結い 親鸞』は第2話以降休載となった。以後は健康状態の悪化もあって漫画原作を手掛けることは少なくなり、最晩年はTwitter上での発言を元にしたエッセイ集などを刊行していた。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "堀井雄二は、小池からハリウッド版『子連れ狼』のアニメ制作という名目で、著名な弟子たちに連絡があり、1000万円を「投資」として渡したが、返金されなかったと証言している。生徒に対して寸借詐欺を働いたとの報道もあり、田中圭一は小池を告発する内容の漫画を制作していることを度々報告していたが、2019年、小池の死去を受けて告発漫画の発表を取り止めることを公表した。", "title": "特徴・交友関係・その他" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、小池書院は2016年11月、破産処理を開始しているが、小池一夫の原作作品のうち7作品について、小池書院の後継会社となる株式会社小池一夫作品普及会は自社のHPで、小池一夫の著作権のうち「子連れ狼」「忘八武士道」「首切り朝」「修羅雪姫」「オークションハウス」「御用牙」「盗撮影手パパラッチ」の7作品について著作権を所有しており、日本国内において、他社に対し独占的利用権及び、それに付帯するいかなる利用権も、一切許諾をしておりませんと公開をしている。", "title": "特徴・交友関係・その他" } ]
小池 一夫は、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家。男性、身長183cm、血液型はB型。1976年までの筆名は小池 一雄。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。
{{otheruses|漫画原作者の'''小池一夫'''|湖池屋創業者の小池和夫|湖池屋#社名の由来}} {{other people|漫画原作者|桜美林学園理事長|小池一夫 (桜美林学園)}} {{別人|x1=経済学者の|小池和男}} {{加筆|「東文彦」。このページでは小池一夫と説明しています。しかし「[[マジンガーZ]]」のページでは「渡邊亮徳」とあります。どちらが正しいのか?|date=2019年4月}} {{Infobox 漫画家 |名前=小池 一夫 |画像=Kozuo Koike.jpg |画像サイズ= |脚注= |本名=俵谷 星舟<br />たわらや せいしゅう |生年={{生年月日|1936|5|8}} |生地={{JPN}}・[[秋田県]][[大仙市]] |没年={{死亡年月日と没年齢|1936|5|28|2019|4|17}} |没地= {{JPN}} |国籍=[[日本]] |職業=[[漫画原作者]]、[[小説家]]、[[脚本家]]、[[作詞家]] |活動期間=[[1960年代]] - [[2019年]] |ジャンル=[[漫画]]・[[劇画]]の原作・構成 |代表作=『[[子連れ狼]]』(画:[[小島剛夕]]) 他多数 |受賞=[[#受賞|受賞]]の項目を参照 |サイン= |公式サイト= }} '''小池 一夫'''(こいけ かずお、本名及び僧号: 俵谷 星舟〈たわらや せいしゅう〉、旧名: 譲〈たわらや ゆずる〉、作詞家としての別名: 東 文彦〈あずま ふみひこ〉<ref>{{Twitter status|koikekazuo|734580407027568640|本人公式アカウント2016年5月23日の発言。}}</ref>、[[1936年]][[5月8日]] - [[2019年]][[4月17日]])は、[[日本]]の[[漫画原作者]]、[[小説家]]、[[脚本家]]、[[作詞家]]、[[作家]]。男性、身長183cm、血液型はB型<ref>小池一夫対談集 キャラクター60年 第一巻[https://books.google.co.jp/books?id=m77oAwAAQBAJ&pg=PP9&lpg=PP9&dq=%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E4%B8%80%E5%A4%ABB%E5%9E%8B&source=bl&ots=96rPiVki7l&sig=44CY9YepejVEIi1Od846IW8kODU&hl=ja&sa=X&ved=0CCIQ6AEwAWoVChMIpraf_YCrxwIVAy2mCh0NYgxU#v=onepage&q=%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E4%B8%80%E5%A4%ABB%E5%9E%8B&f=false]</ref>。1976年までの筆名は小池 一雄{{sfn|大西|p=6}}。別筆名に小池一雄、緒塚敬吾、イゴル・キニスキー等がある。 == 人物 == [[秋田県]][[大仙市]]出身{{sfn|大西|p=8}}。[[中央大学法学部]]卒。[[大阪芸術大学]]キャラクター造形学科教授(学科長)、[[神奈川工科大学]]情報学部情報メディア学科教授、[[大阪エンタテインメントデザイン専門学校]]教授を歴任した。出版社の[[小池書院]]元編集長。 漫画原作作品に『[[子連れ狼]]』(画: [[小島剛夕]])、『[[御用牙]]』(画: [[神田たけ志]])、『[[高校生無頼控]]』(画: [[芳谷圭児]])、『[[修羅雪姫]]』(画: [[上村一夫]])、『[[クライング フリーマン]]』(画: [[池上遼一]])、『[[オークション・ハウス]]』(画: [[叶精作]])、小説に『[[乾いて候]]』、『[[夢源氏剣祭文]]』がある。初期の『[[ゴルゴ13]]』([[さいとう・たかを]])にも脚本家として関わっている。 「漫画は[[キャラ立ち|キャラ起て]]が大事だ」が信条。インパクトのある[[キャラクター]]を動かし、世界的な謀略劇の中を鍛え上げた肉体を駆使して駆け抜けるというハッタリの効いた壮大な筋が身上。「キャラクター原論」の提唱者である。 == 経歴 == [[1936年]]、[[秋田県]][[大曲町]](現・[[大仙市]])に生まれる。幼少期より周囲の子供より一回り大柄で、ガキ大将だった。少年期は近所の物持ちの家に入りびたり、倉の中にあった[[立川文庫]]などの[[講談]]本や少年向けの小説などを読み、それを学校で同級生に語って聞かせる<ref>日経新聞2006年3月22日「人間発見」現代のキャラクター王(2)</ref>{{sfn|大西|p=8}}。 [[1955年]][[秋田県立秋田高等学校]]、[[1959年]][[中央大学法学部]]卒。[[中学校]]から[[大学]]まで[[剣道]]部に在籍する。中大在籍時は『[[桃太郎侍]]』で知られる時代小説家・[[山手樹一郎]]に師事し{{sfn|大西|p=8}}、小説家を目指すが断念。その後[[弁護士]]を目指すが、[[司法試験]]に三度失敗。[[雀荘]]の店員・経営または雀ゴロ{{sfn|大西|pp=8, 11-12}}、[[農林水産省|農林省]]{{sfn|大西|p=8}}、外国航路の[[海技従事者|船員]]、[[ゴルフ場]]勤務等の職業を経験。 [[1968年]]春、たまたま目にした『[[少年マガジン]]』に、[[さいとう・たかを|さいとうプロダクション]]が原作者募集をしているのを見て、「枯れ葉の紳士録」という原稿を書き、応募{{sfn|大西|pp=14-15}}。締切りを大幅に過ぎていたにも拘らず、採用される{{sfn|大西|p=15}}。以後、さいとうプロに所属し、『無用之介』『ゴルゴ13』などの原作に携わった後{{sfn|大西|pp=16-17}}、[[1970年]]に独立、7月に『ノスパイプ戦線』([[ヤングコミック]])で原作者デビュー(ただし原稿依頼は『白地に黒く死の丸染めて』の方が先行しており、一時期はこれがデビュー作とされていた){{sfn|大西|pp=23-27}}。1972年には、[[叶精作]]、[[神江里見]]、[[小山ゆう]]、[[やまさき拓味]]、[[伊賀和洋]]、神田たけ志らとともにスタジオ・シップ(現・[[小池書院]])を立ち上げ、所属メンバーのほかにも多くの実力派漫画家を作画に迎え、多数の漫画<!--原作-->作品を発表する。遅咲きデビューからわずか数年で劇画界に一勢力を築く形となった{{sfn|大西|pp=47-48}}。 [[1970年代]]は、『[[子連れ狼]]』、『[[御用牙]]』、『[[修羅雪姫]]』、『[[忘八武士道]]』など、セックスとバイオレンスに満ちた[[アナキズム|アナーキー]]な時代劇作品を多数発表。仕事も多忙を極め1970年代前半には、月に15本程度連載を抱えていた{{sfn|大西|p=39}}。また、その多くが映画化またはドラマ化され、1970年代の映画界に大きな影響を与えた。[[クエンティン・タランティーノ]]、[[ジョン・ウー]]など、日本国外にも多くのファンを生んだ。なお、一部の映像化作品では、小池自身が脚本を担当している。漫画原作者としては先輩の[[梶原一騎]]も小池の活躍に脅威を覚え、『斬殺者』『[[ボディガード牙]]』など、セックスとバイオレンスを主題とした青年漫画誌向けの作品を書くようになった。 『子連れ狼』は[[1987年]]と、最も早い時期にアメリカで出版され、成功を収めた数少ない日本漫画の一つであり、今日の日本漫画ブームの草分けとなった。アメリカン・コミックの巨匠である[[フランク・ミラー]]<!--(sin city等)-->は『子連れ狼』の大ファンであり、ダークホース社から出版された『子連れ狼』アメリカ版の表紙絵を描いている。小池劇画はアメリカン・コミックスにも影響を与えたとされ、[[2001年]]の[[アイズナー賞]]受賞以降、アメリカに於ける多くの受賞がそのことを裏付けている。興行収入が1億ドルを超える大ヒットを記録した[[2002年]]のハリウッド映画『[[ロード・トゥ・パーディション]]』は、『子連れ狼』をモチーフにしている。 [[1980年代]]以降は、時代の変化もあり、刺激を弱め、[[週刊少年サンデー]]でキャリア唯一の少年誌ラブコメ『ラブZ』(1982年)を発表するなど{{sfn|大西|p=180}}、娯楽性を主にした作品に作風を切り替えた。[[1984年]]には、雑誌『週刊サンケイ』に初の小説『乾いて候』を連載開始し、小説家としてもデビュー。 後進の育成にも力を入れ、[[1977年]]に「小池一夫[[劇画村塾]]」を開設。出身者に[[高橋留美子]]、[[原哲夫]]、[[板垣恵介]]、[[山口貴由]]、[[山本貴嗣]]、[[堀井雄二]]、[[さくまあきら]]、[[西村しのぶ]]、[[山本直樹]]らがいる。 [[2000年]]に[[大阪芸術大学]]芸術学部映像学科の教授に招聘され、『小池一夫のキャラクター原論』を上梓。[[2001年]]、同大学にて漫画家養成を目的とした「小池一夫ゼミ」第一期をスタート。主な小池ゼミ出身者としては[[椎橋寛]]、[[森橋ビンゴ]]、田雑芳一、宮本和也、[[険持ちよ]]、矢寺圭太、[[篠丸のどか]]らがいる。[[2002年]]、同学部文芸学科長。[[2005年]]、同大学でキャラクター造形学科の開設に尽力し、同学科長に就任。[[佐藤健太郎 (漫画家)|佐藤健太郎]]、[[金田陽介]]、[[鳴海アミヤ]]らを輩出している。[[2009年]]、同大学を退任。 [[2003年]]、「小池一夫[[劇画村塾]]」の後継となるプロ養成漫画塾「小池一夫塾」を新宿にある[[映像テクノアカデミア]]内に開講。この頃から過去の劇画村塾と違い、既にプロとして活動していた作家が入塾する傾向が生じ、「小池一夫塾」には[[山崎紗也夏]]、[[ナカタニD.]]、[[安藤満]]、[[ゆずはらとしゆき]]、[[おおひなたごう]]らが在籍していた。同時期、『子連れ狼』の続編となる『新・子連れ狼』も連載開始した。[[2006年]]、「小池一夫塾」と入れ替わる形で[[劇画村塾]]を再開(東京第9期、大阪第1期)。[[2007年]]、同塾、東京第10期、大阪第2期をスタート。同年9月、劇画村塾を株式会社化(その後同社は社名を株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽;社長 金田直己(金徳吉)に変更)するも、[[2009年]]に同社と訣別。[[2011年]]4月、独自の講座「キャラクターマンWEB講座」を開講し、同年11月には創作ブランド「小池工房」を設立していた。 [[2005年]]、生まれ故郷である[[秋田県]][[大仙市]]に百歳寓という別荘を設けたが、晩年、事業の失敗に伴い、売却された<ref>[http://www.kennichi.com/famous/fp061008.html 小池一夫さんが郷土・大仙市に 住所も移し、花館に同級生らと集える自宅]</ref>。 [[日本文藝家協会]]・[[日本映像学会]]・[[日本アカデミー賞協会]]の会員。[[星野仙一]]新仙組総長、[[阪神タイガース]][[金本知憲]]後援会会長。 [[2019年]][[4月17日]]、[[肺炎]]のため死去<ref>{{Twitter status|koikekazuo|1119061843933192192}}</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201904190000276.html 「子連れ狼」原作者の小池一夫さんが死去 82歳] - 日刊スポーツ 2019年4月19日</ref>。82歳だった。 == 特徴・交友関係・その他 == {{出典の明記|section=1|date=2010年7月15日 (木) 18:05 (UTC)|ソートキー=人}} ; 原作の特徴 : 小池の出自は時代小説家・山手樹一郎門下だが、山手が映像化作品の多い[[大衆小説]]家で、姉弟子の[[平岩弓枝]]も小説家と並行で[[テレビドラマ]]や演劇の脚本家として活動していたことから、従来、主に小説家の副業である原作で用いられた小説形式(少年小説家出身の梶原一騎はこちらの書き方で、しかも、講談調の文体である)ではなく、漫画のネームに直しやすい、映画脚本でよく見られる「ト書き」で書かれている{{sfn|大西|p=8}}。デビュー当時から企画プロデューサー志向が強かったことから、打ち合わせもほとんど不要{{sfn|大西|p=8}}で多作をこなす。さらに原作料は当時の第一人者・[[梶原一騎]]の半分から四半分と安価{{sfn|大西|p=8}}。その上、ヒット率も高いとあり、1970年代前半、小池は青年漫画誌を中心に地位を確立していく{{sfn|大西|p=9}}。 ; 小池の原作と上村一夫 : 前述の通り、小池の原作は映画脚本を意識し、ト書きの欄外に細かい演出の指示や図解が書き込まれているもので{{sfn|大西|p=81}}、改変の余地が少なく、締め切り間近で時間的余裕が無いという事情もあり、作画家側の演出が入ることは稀であった。そんな中で『[[修羅雪姫]]』や『バーボン警察』で組んだ[[上村一夫]]は特別扱いであり、小池の方でも上村を高く評価しており、「相手は上村だから」ということで特に問題ともしなかった{{sfn|大西|pp=81-83}}。また、小池は梶原と比較すると、原作を自分流で通すのではなく、作画家の個性に合わせて組み立てる手法を採っており、小池・上村が初めて組んだ作品『修羅雪姫』では主人公をマッチョな男性ではなく、女性としている{{sfn|大西|p=84}}。上村は1986年に45歳の若さで他界するが、小池は上村を親友と呼ぶ{{sfn|大西|p=89}}。 ; セックスとバイオレンス : 小池作品はセックスとバイオレンスが多い。小池は「劇画というのは、それ(裸)を見せるからこその劇画なんですよ。語ることではなく見せること」(大西祥平『小池一夫伝説』p.225より引用)と語る。曰く、忍者同士がただ闘っていても読者は楽しくないとの由である。また、男性主人公を多くの女性が愛するハーレム展開も多い。これは小池に言わせれば男の夢と言うものであり、読者へのサービスである。同時にこれは、ドラマの中での一休みといった要素でもあるという{{sfn|大西|p=226}}。また、初期作品の『[[ゴルゴ13]]』第3話「[[バラと狼の倒錯]]」や『ザ・テロル』から晩年に至るまで、特定対象への[[性依存症|セックス依存症]]を引き起こすコカ系[[アルカロイド]]の「0号催淫麻薬(アトモヒ)」という小道具を多用していたが、架空の薬物である。 ; ン ツ : 小池は通常ひらがなの「ん」であるべきところに、カタカナの「ン」を、同様に「っ」には「ッ」を用いることが非常に多い{{sfn|大西|p=229}}。また「おれ」「おまえ」などの代名詞に[[圏点]]が打たれる場合も良く見られる{{sfn|大西|p=229}}。これはいわゆる「[[ぎなた読み]]」を避けるための工夫である{{sfn|大西|p=229}}。また小池によれば、漫画では文字も、絵の一部、言わば「字画同一」なのである。傍点や「ン」を用いることで読者が読みやすくなるのである。というのが小池の主張である{{sfn|大西|p=229}}<ref>[http://www.koikekazuo.jp/cat22281560/index.html 小池一夫公式ホームページ〜小池一夫への質問〜]</ref>。なお、これは1972・1973年頃から見られる傾向である{{sfn|大西|p=229}}。また、名詞が代名詞的な用い方をされている場合や、言葉に特定のニュアンスを持たせたい場合も、ひらがな表記にして傍点を打つ。そのほか、[[勃起]]は「エレクチオン」と表記されることが多い。 ; 百八竜 : 『[[クライングフリーマン]]』連載時(1986年 - 1988年)、小池は香港の[[青幇]]からの呼び出しを受けた。同作に登場するマフィア「百八竜」は小池が「百八の煩悩」から名付けた架空の組織だが、香港に同名の青幇が実在していたのである。[[高輪]][[プリンスホテル]]のスイートルームで行われた対話は、[[ビッグコミックスピリッツ]]編集長・[[白井勝也]]の意向で、小池が一人で行くことになったが、意外にも脅迫的な内容ではなく、作品をなかなか面白いと評価され、高級時計をプレゼントされるなど友好的なものであった。その後もしばらく「百八竜」との関係が続いたという。ただし、このお陰で以後「百八竜」を悪の組織として描写できなくなってしまい、大いに構想が狂ってしまった{{sfn|大西|pp=162,164}}。 :なお、百八竜以外にも『マギー's犬』や『デュエット』で「殺人教団サッグ」という組織が描かれているが、これは、かつて[[インド]]に存在した[[強盗]][[殺人]]を専らとする[[秘密結社]]「[[タギー]]」を元にしている。 : ゴルフ場勤務の経験があったことから、ゴルフへの造詣も深い。「至美(しび)ゴルフ」は、TBSテレビ「小池一夫の至美ゴルフ」・サンテレビ「週刊至美ゴルフ」・広島テレビ「小池一夫のシビ・ゴルフ広島奮戦記」として、テレビ化(TBSとサンテレビはほぼ同時期に放送)されている。なお、同名番組だが、内容はそれぞれ全く異なり、また、ゴルフに関する情報をまとめたもので、原作となった劇画とは大きく異なる。また、[[1987年]]にはゴルフ雑誌『[[アルバトロス・ビュー]]』を創刊する。かつて雀荘勤務経験や雀ゴロ経験もあるため、麻雀は強く、[[色川武大|阿佐田哲也]]とも何度も対戦している。[[居合道]]にも精進して、自分が写真モデルを務めた教習本を出版したこともある。また、[[茶道]]の入門書も監修している<ref>『まんが 茶会入門』(作:小池一夫・池本朗、作画:やまさき拓味、監修:千宗之、[[淡交社]] ISBN 978-4473011510)</ref>。 小池によれば、スタジオ・シップの立ち上げに参画した[[叶精作]]、[[神江里見]]、[[小山ゆう]]、[[やまさき拓味]]、[[伊賀和洋]]、神田たけ志らは、小池がさいとうプロから引き抜いたのではなく、彼らの方から小池についてきたとのことである{{sfn|大西|p=47}}。実際、小山とやまさきは[[山本又一朗]]の誘いで別個にオリオンプロとして独立しており、後にオリオンプロごとスタジオ・シップへ合流した経緯がある。当時、小池をアシスタントの一人と思っていたさいとうは激怒し、さいとうが[[ビッグコミック]]、小池はビッグコミックから枝分かれした[[ビッグコミックオリジナル]]、スピリッツ、[[週刊ポスト]]という形で、[[小学館]]では20年以上棲み分けることになった。しかし、後に漫画家ゴルフコンペに共に参加するなど、ある程度の関係改善が行われ、小池もビッグコミックで『花縄』を連載した。 『[[赤い鳩]]』や『連環日本書紀』では[[日ユ同祖論|日猶同祖論]]を展開した。日本語の「辱める」と[[ヘブライ語]]の「ハズカシューム」は同義語だそうである。劇画村塾や大学の講義でもこの話題に脱線すると、なかなか本題に戻らなかった。『赤い鳩』の連載時、いくつかの宗教団体や[[右翼]]などから「嘘を書くな」と[[小学館]]に抗議が殺到した。右翼からも「ピストル撃ちますよ」という内容の脅迫電話が編集部にあり、連載を中止した<ref>「小池塾」</ref><!--「小池塾」とは「小池一夫塾」と同義か?出典範囲も明確に。また、検証可能性を満たした出典であるのか不明-->。 [[長嶋茂雄]]と非常に仲が良く、[[大阪芸術大学]]に招いて講演を依頼し、劇画村塾の会社組織化パーティーでも祝いに駆けつけている。他にも[[星野仙一]]、[[孫正義]]、『[[乾いて候]]』テレビドラマ版や『[[子連れ狼 その小さき手に]]』で主演を務めた[[田村正和]]などの人脈があるが、2004年の『勝ちたいんや!―劇画・星野仙一物語』で星野から[[池口恵観]]を紹介された頃から、劇画村塾の株式会社化や壱岐の高級リゾートホテル「海里村上」の経営に乗り出すなど、大規模な事業拡大を始める。また、小泉政権時代より政府の「知的財産戦略本部」に参加しており、この時期は「知的財産」に関する講演も多かった。 [[1990年代]]に[[水声社]]から刊行された『マンガ地獄変』シリーズ(1970年代のアナーキーな漫画を再評価するムック)が、第4巻で小池を取り上げる予定だったが、原稿は集まっていたにも拘らず、担当編集者が[[ビバ彦]]として知られる「モー娘オタク」になり、「モー娘ファン活動」に多忙となったため、同書は刊行されなかった。『マンガ地獄変』シリーズに執筆していた漫画評論家の[[大西祥平 (ライター)|大西祥平]]が、映画雑誌『[[映画秘宝]]』において、[[2004年]]から[[2011年]]にかけて、小池へのインタビューも含めた小池漫画論「小池一夫伝説」を連載し、2011年11月に洋泉社から単行本化されている。 晩年は前述の事業拡大が失敗し、劇画村塾株式会社(現:株式会社MANGARAK / マンガラク / 漫画楽 / 社長:金田直己(金徳吉))とも訣別、小池書院の経営も悪化したことから、複数の金銭問題を起こしており、その影響から2009年に[[日本経済新聞]]で連載を始めた『結い 親鸞』は第2話以降休載となった。以後は健康状態の悪化もあって漫画原作を手掛けることは少なくなり、最晩年はTwitter上での発言を元にしたエッセイ集などを刊行していた。 [[堀井雄二]]は、小池からハリウッド版『子連れ狼』のアニメ制作という名目で、著名な弟子たちに連絡があり、1000万円を「投資」として渡したが、返金されなかったと証言している<ref>{{Cite journal|和書|title = 訃報には書かれなかった小池一夫の借金人生|journal = 週刊新潮2019年5月23日号|pages = 49-50|publisher = 新潮社|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2019/05240557/?all=1|accessdate=2019-05-24}}</ref>。生徒に対して寸借詐欺を働いたとの報道<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/12534684/|title=「子連れ狼」原作者に金銭トラブル 内弟子からの保証金めぐり|work=デイリー新潮|date=2017-01-13|accessdate=2017-02-02}}</ref>もあり、[[田中圭一]]は小池を告発する内容の漫画を制作していることを度々報告していた<ref>[https://twitter.com/keiichisennsei/status/820772540683415552 ほとんど調査済みで、ほぼ内情は掴んでいます。近いうちにマンガにして発表します。]</ref><ref>[https://twitter.com/keiichisennsei/status/821375909911351296 現在、小池御大への恨み辛みを描いた薄い本「エレクチ怨」を執筆中です。]</ref>が、2019年、小池の死去を受けて告発漫画の発表を取り止めることを公表した<ref>[https://twitter.com/keiichisennsei/status/1119065454155317248 小池一夫師匠の訃報を聞きました。謹んでご冥福をお祈りいたします。そして、今後私が小池一夫さんについて、なにかを語ること、なにかを発表することは一切ありません。]</ref>。 なお、小池書院は2016年11月、破産処理を開始している<ref>[[新潮社]]『[[週刊新潮]]』2017年1月12日号、38頁。</ref>が、小池一夫の原作作品のうち7作品について、小池書院の後継会社となる株式会社小池一夫作品普及会は自社のHPで、小池一夫の著作権のうち「子連れ狼」「忘八武士道」「首切り朝」「修羅雪姫」「オークションハウス」「御用牙」「盗撮影手パパラッチ」の7作品について著作権を所有しており、日本国内において、他社に対し独占的利用権及び、それに付帯するいかなる利用権も、一切許諾をしておりませんと公開をしている。 == 受賞 == * 1972年 京都市民映画祭新人賞(映画『子連れ狼』のシナリオに対し) * 1974年 少年画報社第3回劇画賞受賞 * 1974年 コロムビアゴールデンディスク賞・ゴールデンヒット賞受賞(作詞) * 1975年 テイチクヒット賞(作詞) * 1981年 第27回(昭和56年度)[[小学館漫画賞]]特別賞受賞(『魔物語などの原作活動』に対し) * 2001年 [[アイズナー賞]](米)最優秀国際作品部門「子連れ狼」 * 2002年 ハーヴェイ賞(米)「子連れ狼」 * 2004年 アイズナー賞 漫画家の殿堂入り * 2004年 ジェム・ダイアモンド賞(米) MANGA TOP OF THE YEAR(2004)「[[首斬り朝]]」 * 2004年 アクサテュール賞(スペイン)「子連れ狼」 * 2006年 [[インクポット賞]](米)(アメリカ漫画界に貢献したため) * 2008年 ジャパンエキスポ(仏)審査員特別賞 == 連載作品リスト == === 晩年の作品 === ; 休載扱い :* [[結い 親鸞]](作画・鈴木敏太、[[日本経済新聞]])第2回以降休載 ; 連載中断 :* [[帰れソレントへ]](絵師・[[天野喜孝]]、[[ストレンジャーソレント]]、[[小池書院]]) :* [[竜剣~大菩薩峠・第2章]](作画・[[ふくしま政美]]、原作小説[[中里介山]]、松文館、電子配信) :* [[死なばもろともに?信長と家康]](作画・[[南恵夢]]、「戦国無頼」) :* [[マジョンナ〜私は魔女医]](作画・[[架空まさる]]、[[松文館]]、電子配信) :* [[九ノ一千代女]](作画・[[カマキリ]]、松文館、電子配信) :* [[百々の拷問蔵]](作画・[[神田たけ志]]、松文館、電子配信) :* [[飛び加藤]](作画・[[桃尻三郎]]、松文館、電子配信) :* 魔法少女三満月美々のQED (作画・関沢このか、ニコニコ静画、電子配信) :* [[修羅雪姫|修羅雪姫・修羅八荒編]](作画:[[池上遼一]]) :* [[そして - 子連れ狼 刺客の子]](作画・[[森秀樹 (漫画家)|森秀樹]]、[[ガッツポン]]) :* [[地獄楽まんだら]](作画・これかわかずとも、ガッツポン) :* [[新・弐十手物語 つるじろう]] (作画・神江里見、ガッツポン) === 完結作品 === ; [[小島剛夕]]の作画による作品 :* [[子連れ狼]]([[週刊漫画アクション]](1970年9月10日号〈No.38〉〜1976年4月1日号〈No.15〉) :* [[道中師]] :* [[ケイの凄春]]([[週刊漫画アクション]]) :* [[半蔵の門]] ([[週刊現代]] 1978年9月14日号〜1984年8月11日・18日合併号) :* [[首斬り朝]]([[週刊現代]]) :* 春が来た :* 孔雀王伝奇 :* [[乾いて候]] :* 激突 :* 孫悟空 ; [[芳谷圭児]]の作画による作品 :* [[高校生無頼控]](週刊漫画アクション 1971年7月22日号〈No.30〉〜1973年6月7日号〈No.24〉) :* ぶれいボーイ〈無礼男子〉(週刊漫画アクション 1973年11月22日号〈No.53〉〜1975年1月2日号〈No.1〉) :* カニバケツ :* 学校の探偵 :* 小池一夫のザ・シビゴルフ :*黒い雀たちの神話 ; [[叶精作]]の作画による作品 :* クレオパトラ :* 横浜ホメロス :* [[実験人形ダミー・オスカー]] :* [[魔物語 愛しのベティ]] :* [[牌鬼無頼 ボクは殺曲家]] :* [[マギー's犬]] :* [[からぁ怒]] :* BROTHERS-ブラザーズ :* ゴルフ幼稚園 :* [[オークション・ハウス]] :* [[キンゾーの上がってなンボ!!|キンゾーの上ってなンボ!!]] :* [[新上がってなンボ!!太一よ泣くな|新上ってなンボ!!太一よ泣くな]] :* [[新々上がってなンボ!!太一よ泣くな|新々上ってなンボ!!太一よ泣くな]] :* [[凶刃者/ブレイダー]] :* [[下駄を履くまで]] :* 劇画大噴火 ; [[池上遼一]]の作画による作品 :* [[傷追い人]] :* [[I・餓男]] :* [[赤い鳩]] :* [[OFFERED]] :* [[クライングフリーマン]] :* [[殺愛]] ; [[平野仁]]の作画による作品 :* 青春の尻尾 :* [[少年の町ZF]](1976年) :* [[サハラ 女外人部隊]](ビッグコミックオリジナル 1978年 - 1979年) :* [[ノストラダムス愛伝説]] :* 飛ばしてなんボ 猛がチャージ ; [[やまさき拓味]]の作画による作品 :* [[青春動物園 ズウ]](1978年) :* [[ラブZ]] ; [[伊賀和洋]]の作画による作品 :* 男弐 (おに) ([[ビジネスジャンプ]] 1986年5号 - 1990年8号) :* レイザー :* 将軍のボディーガード :* [[涙弾]](るいだン) :* [[哀国戦争]] ; [[神田たけ志]]の作画による作品 :* 御用牙(少年画報社 ヤングコミック 1970年10月〜1976年12月) ; [[松森正]]の作画による作品 :* [[木曜日のリカ]] :* [[海渡勇次郎伝 拳神]] :* [[片恋さぶろう]] ; [[井上紀良]]の作画による作品 :* デュエット :* [[マッド★ブル34]](1985年7月〜1991年2月) :* 連環日本書紀 :* マッド・ブル2000 :* 星の艦 あきらめなければいつかは乗れる ; [[森秀樹 (漫画家)|森秀樹]]の作画による作品 :* 花縄 :* [[新・子連れ狼]](2003年) ; [[神江里見]]の作画による作品 :* [[弐十手物語]] :* 青春チンポジュウム :* 気怠く彦次郎 ラブホテル女子高生殺人事件編 :* 藤堂高虎伝 虎視眈々 戦国の世を生き抜いた武将 :* 忘れ苦兵衛 :* 下苅り半次郎 ; [[ケン月影]]の作画による作品 :* [[葬流者]] :* 断頭鬼 :* 巌窟王 ; [[川崎のぼる]]の作画による作品 :* ムサシ(1974年) :* 長男の時代(1980年) :* 勝ちたいんや!―劇画・星野仙一物語(2004年) ; 著名漫画家との作品 :* 書記官鳥(セクレタリー・バード) 1970年(画:[[モンキー・パンチ]] 『[[ルパン三世]]』) :* カラスなぜ鳴く 1970年(画:[[石井いさみ]] 『[[750ライダー]]』) :* 海鳴りがやむとき 1970年(画:[[里中満智子]] 『[[アリエスの乙女たち]]』) :* 燃えよ番外兵 1971年(画:[[矢口高雄]] 『[[釣りキチ三平]]』) :* 牙走り 1972年(画:[[ながやす巧]] 『[[愛と誠]]』『[[Dr.クマひげ]]』) :* 修羅雪姫 1972年(画:[[上村一夫]] 『[[同棲時代]]』) :* だんびら嵐 1972年(画:[[かざま鋭二]] 『[[風の大地]]』) :* 唇役にございます 1973年(画:[[楳図かずお]] 『[[漂流教室]]』『[[まことちゃん]]』) :* 空中不動産や 1977年(画:[[本宮ひろ志]] 『[[俺の空]]』『[[サラリーマン金太郎]]』) :* 多羅尾伴内 1977年(画:[[石ノ森章太郎]] 『[[サイボーグ009]]』『[[仮面ライダー]]』) :* 兎が走る 1979年(画:[[弘兼憲史]] 『[[課長島耕作]]』『[[黄昏流星群]]』) :* 花平バズーカ 1979年(画:[[永井豪]] 『[[デビルマン]]』『[[キューティーハニー]]』) :* 第五世代のキャッシー 1982年(画:[[野部利雄]] 『[[のぞみウィッチィズ]]』『[[Monacoの空へ]]』) :* 兎の玉三郎 2002年(画:[[大島やすいち]] 『[[おやこ刑事]]』『[[バツ&テリー]]』) :* [[夢源氏剣祭文]](作画:[[皇なつき]]、[[ヤングエース]]、[[角川書店]]) == 著作リスト == ; 漫画以外 - キャラクター造形学 :* 「キャラクターはこう動かす!」小池書院(2000年3月) ISBN 4883155331 :* 「キャラクターはこう創る!」小池書院(2000年3月) ISBN 4883155323 :* 「キャラクターはこう活かす!―スーパーキャラクターを創ろう」小池書院(2001年6月) ISBN 4883155544 :* 「大阪芸術大学 小池一夫のキャラクター造形学」[[大阪芸術大学]](2006年12月) ISBN 486225070X :* 「人を惹きつける技術―カリスマ劇画原作者が指南する売れるキャラの創り方」[[講談社]]+α新書(2010年1月)ISBN 978-4062726344 :* 「小池一夫のキャラクター新論 ソーシャルメディアが動かすキャラクターの力」[[小池書院]](2011年5月)ISBN 978-4862257024 :* 「ホット&クール! ローソンのソーシャル・キャラクター戦略」[[小池書院]](2013年6月)ISBN 978-4862259387 :* 「小池一夫のキャラクター創造論 -読者が「飽きない」キャラクターを生み出す方法」[[ゴマブックス]](2016年7月) ISBN 978-4777118403 :*「リドル×ドリル 小池一夫のキャラクターメソッド」グラフィック社(2016年9月)ISBN 978-4766129786 ; ; 漫画以外 - エッセイなど :* 「小池一夫のつぶやき集 年寄りは弱虫なンかがなれるもンじゃねえ日記」(ツイッターつぶやき集)[[小池書院]](2012年9月)ISBN 978-4862258588 :* 「狼の夜話 俺、劇画、40年」(自伝エッセイ)[[小池書院]](2012年12月)ISBN 978-4862258854 :* 「小池一夫対談集 〜キャラクター60年」(対談集)小池書院(2013年8月)ISBN 978-4862258656 :* 「「孤独」が人を育てる 小池一夫名言集」[[講談社]]+α新書(2015年6月)ISBN 978-4062729024 :* 「ふりまわされない。 小池一夫の心をラクにする300の言葉」[[ポプラ社]](2016年12月)ISBN 978-4591152829 :* 「人生の結論」[[朝日新書]](2018年8月)ISBN 978-4022737823 :* 「だめなら逃げてみる: 自分を休める225の言葉」ポプラ社(2018年10月)ISBN 978-4591160060 :* 「自分のせいだと思わない 小池一夫の人間関係に執着しない233の言葉」ポプラ社(2019年9月11日) ISBN 978-4591163986 == 映像化作品== ; 映画化作品 :* 『[[子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる]]』(1972年1月15日公開、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[子連れ狼 三途の川の乳母車]]』(1972年4月22日公開、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[子連れ狼 死に風に向う乳母車]]』(1972年9月2日公開 、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[高校生無頼控]]』(1972年11月26日公開、国際放映=東宝) - 原作。 :* 『[[子連れ狼 親の心子の心]]』(1972年12月30日公開、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[御用牙]]』(1972年12月30日公開、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[ポルノ時代劇 忘八武士道]]』(1973年2月3日公開、東映) - 原作。 :* 『[[高校生無頼控|高校生無頼控 突きのムラマサ]]』(1973年4月7日公開、国際放映=東宝) - 原作・脚本。 :* 『[[高校生無頼控|高校生無頼控 感じるゥームラマサ]]』(1973年6月23日公開、国際放映=東宝) - 原作。 :* 『[[子連れ狼 冥府魔道]]』(1973年8月11日公開、勝プロ=東宝) - 原作・脚本。 :* 『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(1973年8月11日公開、勝プロ=東宝) - 原作。 :* 『[[修羅雪姫]]』(1973年12月1日公開 、東宝) - 原作。 :* 『忘八武士道 さ無頼』(1974年2月2日公開、東映) - 原作。 :* 『御用牙 鬼の半蔵やわ肌小判』(1974年2月9日公開、勝プロ=東宝) - 原作。 :* 『鬼輪番』(1974年2月9日公開、東宝) - 原作。 :* 『[[子連れ狼 地獄へ行くぞ!大五郎]]』(1974年4月24日公開、勝プロ=東宝) - 原作。 :* 『[[修羅雪姫|修羅雪姫 怨み恋歌]]』(1974年6月15日公開 、東宝) - 原作。 :* 『下苅り半次郎 (秘)観音を探せ』(1975年1月29日公開 、東映) - 原作。 :* 『[[多羅尾伴内 (小林旭版)|多羅尾伴内]]』(1978年4月8日公開、東映) - 劇画。 :* 『[[多羅尾伴内 (小林旭版)|多羅尾伴内 鬼面村の惨劇]]』(1978年8月12日公開、東映) - 劇画。 :* 『ザ・ウーマン』(1980年11月22日公開、東宝東和) - 企画。 :* 『[[魔物語 愛しのベティ|愛しのベティ 魔物語]]』(1986年7月19日公開、東映セントラルフィルム) - 原作・総監督。 :* 『[[子連れ狼 その小さき手に]]』(1993年2月6日公開、松竹) - 原作・製作。 :* 『[[クライング フリーマン|クライング・フリーマン 完結編 無明流射]]』(1994年3月26日公開、東映セントラルフィルム) - 原作。 :* 『[[クライング フリーマン|クライング・フリーマン ''Crying Freeman'']]』(1996年11月23日公開、東映) - 原作。 :* 『[[修羅雪姫]]』(2001年12月15日公開、東京テアトル) - 原作。 ; ドラマ化作品 :* 『[[無用ノ介]]』(1969年3月1日〜9月20日放送:全19話、NTV) - 脚本。 :* 『[[子連れ狼 (萬屋錦之介版)|子連れ狼]]』《第一部》(1973年4月1日〜9月30日放送:全27話、NTV) - 原作。 :* 『現代鬼婆考・殺愛』《サスペンスシリーズ》(1973年9月28日放送、MBS) - 脚本。 :* 『[[電人ザボーガー]]』(1974年4月6日〜1975年6月29日放送:全52話、フジテレビ) - 原案。 :* 『子連れ狼』《第二部》(1974年4月7日〜9月29日放送:全26話、NTV) - 原作。 :* 『子連れ狼』《第三部》(1976年4月4日〜9月26日放送:全26話、NTV) - 原作・脚本。 :* 『傘次郎・新子捕物日記 夫婦河童(めおとがっぱ)』《時代劇スペシャル》(1981年6月26日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『傘次郎新子捕物日記 夫婦十手・豪商六人衆連続殺人事件』《時代劇スペシャル》(1982年6月4日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『[[乾いて候|お毒味役主丞・乾いて候]]』《時代劇スペシャル》(1983年6月17日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『[[乾いて候|乾いて候 お毒味役必殺剣]]』《時代劇スペシャル》(1984年1月26日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『御用牙』《時代劇スペシャル》(1984年2月16日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『子連れ狼』《時代劇スペシャル》(1984年3月1日放送、フジテレビ) - 原作。 :* 『[[弐十手物語]]』(1984年4月12日〜7月12日放送:全13話、フジテレビ) - 原作。 :* 『[[乾いて候]]』(1984年8月23日〜9月27日放送:全6話、フジテレビ) - 原作。 :* 『刀化粧』《時代劇スペシャル》(1989年9月12日放送、TBS) - 原作。 :* 『[[子連れ狼 (高橋英樹版)|子連れ狼 冥府魔道の刺客人・母恋し大五郎絶唱!]]』《秋の時代劇スペシャル》(1989年10月5日放送、ANB) - 原作。 :* 『ゴルフ・スーパードラマ キンゾーの上ってなンボ!!』《名古屋テレビ開局30周年記念》(1991年11月5日放送、NBN) - 原作。 :* 『胸さわぎの15才(フィフティーン)』(1992年10月2日〜12月18日放送:全12話、KTV) - 原作『青春チンポジュウム』。 :* 『[[乾いて候|乾いて候 母は生きていた!?その背後に潜む陰謀を田村三兄弟が斬る!!]]』《時代劇スペシャル》(1993年4月7日放送、フジテレビ) - 原作・題字。 :* 『御用牙』(2004年3月6日放送、時代劇専門チャンネル) - 原作。1994年にフジテレビ放送用に製作されていた地上波未放送作品。 :* 『春が来た』《金曜時代劇》(2002年9月27日〜11月1日放送:全6話、NHK) - 原作。 :* 『子連れ狼』《第一部》(2002年10月14日〜12月9日放送:全9話、テレビ朝日) - 原作。 :* 『子連れ狼』《第二部》(2003年7月7日〜12月15日放送:全19話、テレビ朝日) - 原作。 :* 『子連れ狼』《第三部》(2004年7月5日〜9月13日放送:全10話、テレビ朝日) - 原作。 ; オリジナル・ビデオ・アニメ(OVA)化作品 :* 『[[花平バズーカ]]』(1992年9月4日発売、日本クラウン) - 原作。 :* 『[[傷追い人]]』《ACT1-5》(1986年~1988年、[[バンダイビジュアル]])- 原作 ; Vシネマ化作品 :* 『道中師〜怨み掏ります 恋も掏ります〜』(1995年10月25日発売、キングレコード株式会社) - 原作。 == 作詞 == * [[マジンガーZ]] ** Zのテーマ(歌:[[水木一郎]]) ** ぼくらのマジンガーZ(歌:水木一郎、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]]) * [[グレートマジンガー]] ** おれはグレートマジンガー(歌:水木一郎、コロムビアゆりかご会) ** 勇者はマジンガー(歌:水木一郎、コロムビアゆりかご会) * [[電子戦隊デンジマン]] ** [[ああ電子戦隊デンジマン/デンジマンにまかせろ!|ああ電子戦隊デンジマン]](歌:[[成田賢]]) ** [[ああ電子戦隊デンジマン/デンジマンにまかせろ!|デンジマンにまかせろ!]](歌:成田賢) * [[大戦隊ゴーグルファイブ]] ** 大戦隊ゴーグルV(歌:[[MoJo]]、[[こおろぎ'73]]、[[ザ・チャープス]]) ** ストップ・ザ・バトル(歌:MoJo、こおろぎ'73、ザ・チャープス) * [[科学戦隊ダイナマン]] ** 科学戦隊ダイナマン(歌:MoJo、こおろぎ'73) ** 夢をかなえてダイナマン(歌:MoJo、こおろぎ'73) * [[子連れ狼]] ** ててご橋(歌:[[バーブ佐竹]]、コロムビアゆりかご会) ** [[子連れ狼 (曲)|子連れ狼]](歌:[[橋幸夫]]、若草児童合唱団) ** 刺客街道 ** おねやれ大五郎 ** 三途の川の乳母車 ** 大五郎子守唄 ** 毒屋の子 * 修羅の花(映画『[[修羅雪姫]]』主題歌、映画『[[キル・ビル]]』挿入歌) * [[五街道まっしぐら!]] ** いっしょに小石を拾いませんか(歌:[[堀江美都子|ほりえみつこ]]) == テレビ出演 == * 小池一夫の至美ゴルフ([[TBSテレビ|TBS]]) * 小池一夫の週刊至美ゴルフ([[サンテレビジョン|サンテレビ]]) * [[れんまん!]]([[日本放送協会|NHK]]) * 子連れ狼 第3部第1話「父と子、最後の旅路!生きるのだ…大五郎」 特別出演(2004年7月5日、テレビ朝日)- 柳生烈堂の家来役で無言で出演 * 小池一夫のニコニコキャラクター塾([[ニコニコ生放送]]) * [[ワイドナショー]](2014年6月22日、[[フジテレビ]])- コメンテーター * [[探検バクモン]]「襲来!マンガ界の巨人」(2014年9月3日、NHK)- 大阪の学校で原作の秘策と文字のこだわり、キャラを立てる大切さを話す == 関連項目 == * [[劇画村塾]] * [[電人ザボーガー]] == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{citation|first=祥平|last=大西| year = 2011 | title = 小池一夫伝説 | publisher = 洋泉社 | isbn = 978-4862488497}} == 外部リンク== *{{Wayback|url=https://lineblog.me/koikekazuo/ |title=小池一夫公式ブログ |date=20160117015303}} **{{Wayback |url=http://www.koikekazuo.jp/ |title=小池一夫キャラクターマン講座(旧・公式ブログ) }} **{{Wayback |url=http://www.koikekazuo.jp/cat22281548/index.html |title=小池一夫作品リスト }} * * *[https://www.koike-fk.com/ 小池一夫作品普及会] * {{NHK紅白歌合戦審査員}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こいけ かすお}} [[Category:小池一夫|*]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:日本のマンガ・アニメ教育者]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]] [[Category:日本の脚本家]] [[Category:日本のテレビの脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物]] [[Category:大阪芸術大学の教員]] [[Category:神奈川工科大学の教員]] [[Category:日本の作詞家]] [[Category:アニメ音楽の作詞家]] [[Category:日本の農林官僚]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本の編集者]] [[Category:日本のゴルフに関する人物]] [[Category:アイズナー賞殿堂入りの人物]] [[Category:法学士取得者]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:中央大学出身の人物]] [[Category:秋田県立秋田高等学校出身の人物]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:2019年没]]
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15,050
スクウォート
スクウォートは、おもに以下の用法がある。 英語 発音記号:skwˈɚːt または skwˈəːt スクウォート(squirt boating)とは、艇のボリュームを必要最小限にし、水の流れを利用して三次元の動きを楽しむための舟、もしくはこの舟を使った遊び方。通常のカヌー・カヤックが前後左右の動きしかないのに対し、スクウォートはこれに上下の動きが加わる。ベルヌーイの定理を利用したテクニックで、ミステリームーヴと呼ばれる水中下への動きを可能にする。船の素材はFRP製(FRP製カヤック)が多い。 英語 発音記号:skwάt または skwˈɔt スクウォート、またはスクォートとは、自動車が急発進時、フロント部分が浮き上がり、リア部分は沈み込んでしまう現象である。なお、急制動時にフロント部分が沈み込み、リア部分が浮き上がる現象のことはノーズダイブという。 これらはサスペンションに備わるばねの働きがもたらす荷重移動/重心移動によるものである。
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スクウォートは、おもに以下の用法がある。
{{redirect|スクワート|イギリスの競走馬|スクワート (競走馬)}} '''スクウォート'''は、おもに以下の用法がある。 == squirt == 英語 発音記号:skwˈɚːt または skwˈəːt <ref>[http://ejje.weblio.jp/content/squirt squirt] - [[Weblio]](更新日不明/2017年4月23日閲覧)</ref> * 動詞 ** ([[液体]]を)噴出する/させる、ほとばしる/らせる、吹きかけること。 * 名詞 # 噴出、ほとばしり。 # [[注射器]]、[[水鉄砲]] # 口語で生意気でつまらない奴。[[擬音語]]で出しゃばり屋。 === 船舶用語 === '''スクウォート'''(squirt boating)とは、艇のボリュームを必要最小限にし、水の流れを利用して三次元の動きを楽しむための[[船|舟]]、もしくはこの舟を使った遊び方。通常の[[カヌー]]・[[カヤック]]が前後左右の動きしかないのに対し、スクウォートはこれに上下の動きが加わる。[[ベルヌーイの定理]]を利用したテクニックで、[[ミステリームーヴ]]と呼ばれる水中下への動きを可能にする。船の素材は[[繊維強化プラスチック|FRP]]製([[FRP製カヤック]])が多い。 === 関連項目 === * [[パドルスポーツ]] * [[フリースタイル]] == squat == 英語 発音記号:skwάt または skwˈɔt <ref>[http://ejje.weblio.jp/content/squat squat] - Weblio(更新日不明/2017年4月23日閲覧)</ref> * 動詞 # A しゃがむ、うずくまる。 →[[フィジカルトレーニング]]については[[スクワット]]を参照。<br />B 口語で[[座る]]。 # ([[動物]]が)地面に伏す、身をひそめる。 # 他人の土地に無断で居着く。→[[スコッター]]を参照。 * 形容詞 ** しゃがみこんで、しゃがんで。 ** ずんぐりした。 * 名詞 ** しゃがんだ姿勢。 ** 不法占拠地。 === 自動車用語 === '''スクウォート'''、または'''スクォート'''とは、自動車が急発進時、フロント部分が浮き上がり、リア部分は沈み込んでしまう現象である<ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88 大車林 スクオット]</ref>。なお、急制動時にフロント部分が沈み込み、リア部分が浮き上がる現象のことはノーズダイブという<ref>[http://www.weblio.jp/content/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%96 大車林 ノーズダイブ]</ref>。 これらは[[サスペンション]]に備わる[[ばね]]の働きがもたらす[[荷重]]移動/[[重心]]移動によるものである。 === 関連項目 === * [[サスペンションジオメトリー]] * [[アクティブサスペンション]] == 出典 == <references /> {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:すくうおと}} [[Category:英語の語句]] [[Category:用途別の船]] [[Category:ウォータースポーツ]] [[Category:自動車の運転]]
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15,052
甘木線 (曖昧さ回避)
甘木線(あまぎせん)
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甘木線(あまぎせん) 西鉄甘木線 甘木鉄道甘木線(旧国鉄甘木線)
'''甘木線'''(あまぎせん) * [[西鉄甘木線]] * [[甘木鉄道甘木線]](旧国鉄甘木線) {{aimai}} {{DEFAULTSORT:あまき}}
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15,053
Webオーサリングツール
Webオーサリングツール(ウェブオーサリングツール)とは、いわゆるウェブページ作成ソフトのことで、ウェブページを構成するHTML、CSSなどのファイルを編集するデザインツールである。インターネットの黎明期から存在し、フリーウェアも多い。HTMLエディタのようにソースコードを編集するのではなく、ワープロソフトあるいはグラフィックソフトウェアのような感覚で、視覚的に編集するツールを指す場合がほとんどである。 HTMLやCSSの文法がわからなくても手軽に利用できるため、利用者は多い。個々のウェブページを作成するだけでなく、ディレクトリなどサイト全体の構成をまとめて管理できたり、作成したファイルをサーバにアップロードするFTPや、サイトに用いる画像を作成・管理する便利な機能がついているソフトもある。 HTMLはマークアップ言語であり、プログラミング言語のような構造を持っている。そのような特質に対応したテキストエディタを特にHTMLエディタと呼ぶ。 特徴としてはHTML要素名やリテラル文字列(ダブルクォート記号で囲まれた固定文字列)を色分け表示するシンタックスハイライト、文法チェックや自動インデント表示など整形機能がある。インターネットの黎明期においては、もっぱらこのようなテキストエディタでHTMLファイルが作成された。現在入手できるWindows用のものは「TeraPad」、「Crescent Eve」、「EmEditor」、「秀丸エディタ」がHTML編集に対応した機能を備えている。 ブラウザで編集できるものには、ラッコツールズやpaizaioがある。 また、macOSのものではmi、Jedit X や skEdit、Unix系オペレーティングシステムではKWriteやKateがHTML編集に適した機能を持っている。 テキストエディタ(メモ帳など)には基本的にプレビュー画面は用意されておらず、ブラウザで表示を確認しながら編集作業を進めるのが通常のスタイルである。しかし最近は「HTMLエディタ」と銘打ち、プレビュー機能を備えたエディタであるalphaEDITやEspressoのようなソフトも登場している。プレビューにはWebKitかTridentを用いるケースが多い。 歴史的にHTMLエディタの機能を強化したのが、現在のウェブオーサリングツールであるともいえる。HTMLエディタで作成するシンプルなコードは検索エンジン最適化にも効果的であることから、一部のウェブデザイナーには見直されつつあり、CodaのようにHTMLおよびCSSの直接編集とコンテンツ管理システム (CMS) の機能を組み合わせたウェブ構築ソフトもある。ただし入れ子になったテーブルやスタイルシートを多用したサイトを、最初からテキストエディタでコーディングするのは煩雑であるため、デザイン重視のサイトの構築には、なおウェブオーサリングツールを併用するのが一般的である。 対応OSについて特記がないものはクロスプラットフォームである。
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Webオーサリングツール(ウェブオーサリングツール)とは、いわゆるウェブページ作成ソフトのことで、ウェブページを構成するHTML、CSSなどのファイルを編集するデザインツールである。インターネットの黎明期から存在し、フリーウェアも多い。HTMLエディタのようにソースコードを編集するのではなく、ワープロソフトあるいはグラフィックソフトウェアのような感覚で、視覚的に編集するツールを指す場合がほとんどである。
{{出典の明記|date=2021年5月}} [[Image:Kwrite edit html.png|thumb|right|250px|[[KWrite]] - HTMLエディタの例]]{{HTML}} '''Webオーサリングツール'''(ウェブオーサリングツール)とは、いわゆる'''[[ウェブページ]]'''作成ソフトのことで、ウェブページを構成する[[HyperText Markup Language|HTML]]、[[Cascading Style Sheets|CSS]]などの[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を編集するデザインツールである。[[インターネット]]の黎明期から存在し、[[フリーウェア]]も多い。'''HTMLエディタ'''のように[[ソースコード]]を編集するのではなく、[[ワープロソフト]]あるいは[[グラフィックソフトウェア]]のような感覚で、視覚的に編集するツールを指す場合がほとんどである。 ==概要== HTMLやCSSの文法がわからなくても手軽に利用できるため、利用者は多い。個々のウェブページを作成するだけでなく、[[ディレクトリ]]などサイト全体の構成をまとめて管理できたり、作成したファイルを[[サーバ]]にアップロードする[[File Transfer Protocol|FTP]]や、サイトに用いる画像を作成・管理する便利な機能がついているソフトもある。 ==HTMLエディタ== HTMLは[[マークアップ言語]]であり、[[プログラミング言語]]のような構造を持っている。そのような特質に対応した[[テキストエディタ]]を特に'''HTMLエディタ'''と呼ぶ。 特徴としては[[HTML要素]]名や[[リテラル]]文字列(ダブルクォート記号で囲まれた固定文字列)を色分け表示する[[シンタックスハイライト]]、文法チェックや自動[[字下げ|インデント]]表示など整形機能がある。インターネットの黎明期においては、もっぱらこのようなテキストエディタでHTMLファイルが作成された。現在入手できる[[Microsoft Windows|{{lang|en|Windows}}]]用のものは「{{lang|en|[[TeraPad]]}}」、「{{lang|en|[[Crescent Eve]]}}」、「{{lang|en|[[EmEditor]]}}」、「[[秀丸エディタ]]」がHTML編集に対応した機能を備えている。 ブラウザで編集できるものには、[[ラッコツールズ]]や[[paizaio]]がある。 また、{{lang|en|[[macOS]]}}のものでは[[mi (テキストエディタ)|mi]]、{{lang|en|[[Jedit X]]}} や {{lang|en|[[skEdit]]}}、[[Unix系|{{lang|en|Unix}}系]]オペレーティングシステムでは{{lang|en|[[KWrite]]}}や{{lang|en|[[Kate]]}}がHTML編集に適した機能を持っている。 テキストエディタ(メモ帳など)には基本的に[[プレビュー]]画面は用意されておらず、[[ブラウザ]]で表示を確認しながら編集作業を進めるのが通常のスタイルである。しかし最近は「HTMLエディタ」と銘打ち、プレビュー機能を備えたエディタである{{lang|en|[[alphaEDIT]]}}や{{lang|it|[[Espresso]]}}のようなソフトも登場している。プレビューには{{lang|en|[[WebKit]]}}か{{lang|en|[[Trident]]}}を用いるケースが多い。 歴史的にHTMLエディタの機能を強化したのが、現在のウェブオーサリングツールであるともいえる。HTMLエディタで作成するシンプルなコードは[[検索エンジン最適化]]にも効果的であることから、一部の[[ウェブデザイナー]]には見直されつつあり、[[Coda (ソフトウェア)|{{lang|en|Coda}}]]のようにHTMLおよびCSSの直接編集と[[コンテンツ管理システム]] (CMS) の機能を組み合わせたウェブ構築ソフトもある。ただし入れ子になったテーブルや[[スタイルシート]]を多用したサイトを、最初からテキストエディタでコーディングするのは煩雑であるため、デザイン重視のサイトの構築には、なおウェブオーサリングツールを併用するのが一般的である。 ==主なウェブオーサリングツール== 対応OSについて特記がないものはクロスプラットフォームである。 *[[Adobe Dreamweaver]]([[アドビ]]) *[[Adobe Contribute]](アドビ) *[[Aptana|Aptana Studio]](Aptana Inc.) *[[Amaya]]([[World Wide Web Consortium|W3C]]) *[[BiND for WebLiFE]]([[デジタルステージ]]。CMS的なウェブオーサリングツール) *[[BlueGriffon]]([[オープンソース]]、Nvu、KompoZerの後継) *[[iWeb]]([[Apple]]「[[iLife]]」に含まれる。) *[[KompoZer]](オープンソース、Nvu の修正版) *[[Microsoft Expression Web]]([[マイクロソフト]]、前身は [[Microsoft FrontPage]]。Windows専用) *[[Mozilla Composer]]([[Mozilla Organization]]) *[[Nvu]](オープンソース、Mozilla Composer の独立化アプリケーション) *[[ホームページ・ビルダー]]([[IBM]]、[[ジャストシステム]]) *[[ホームページ (パソコンソフト)|ホームページV3・ZERO]]([[ソースネクスト]]) ==関連項目== *[[コンテンツ管理システム]] (CMS) *[[ウェブサイト]] *[[コーポレートサイト]] *[[HyperText Markup Language]] (HTML) *[[テキストエディタ]] *[[コンストラクションツール]] {{Webオーサリングソフト}} {{DEFAULTSORT:うえふおおさりんくつうる}} [[Category:Webオーサリングソフト|*]] [[Category:アプリケーションソフト]] [[Category:HTML]] [[Category:ウェブサイトの構成]]
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解剖学
解剖学(かいぼうがく、英: anatomy)とは、広い意味で生物体の正常な形態と構造とを研究する分野である。形態学の1つ。近年では人間に似せたロボットへの応用も進んでいる。 研究対象により、植物解剖学と動物解剖学とに分けられるが、医学における解剖学は後者の一部をなす人体解剖学 (human anatomy e., Menschenanatomie d.) である。人体解剖学は、ヒトのからだ(身体)のつくりや形について学ぶ学問である。 構造を明らかにするためには、外部のみではなく内部を細かく分けて研究しなければならない。anatomyとは、(ana) 相互にあるいは下から上に (tomia) 切るという意味であり、まさに解きわける(剖)と言うことである。『生命形態の自然誌』によると、解剖とは「解」も「剖」も共に刀で切る象形であり、anatomia etc の欧語は古代ギリシャ語の ana-temnein(ana:up,temno:cut)=cut up(切り尽くす)に由来する。 解剖学の種類について言及する時、まず人体に関心を絞ったうえで研究手法による分類法(下で解説)がいきなり持ち出されることが一般的ではあるが、そうではなく解剖学全体に視野を広げて、また生物全体に視野を広げて動物解剖学、植物解剖学という分類が行われることもある(生物学的な俯瞰のしかた、学問全体に関する俯瞰)。 この場合、人体解剖学は動物解剖学の一分野と位置づけられる。 また美術(芸術)で活用するための解剖学的知識を集積した美術解剖学という下位分類もある。 肉眼あるいはルーペ程度の拡大による観察で調べられる範囲で、対象の形態、構造を記述する学問。日本では1771年に前野良沢・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らが江戸の小塚原刑場で腑分けを見学したことが有名である。肉眼解剖学はその意義・性質上、それまでの通念が覆されたり、過去の記述が時代遅れになる、といったことがあまりない点で、現代科学においては学問としては特殊な性質を持っている。現在は医師、歯科医師の養成課程ではヒトの肉眼解剖学が、獣医師のそれでは多種の動物を対象にした肉眼解剖学が、それぞれ専門課程の初期段階で必須項目とされる。解剖実習と称して、ピンセット、メス、はさみ、ノコギリなどを使い、遺体の諸構造(筋、骨、血管、神経、内臓など)を剖出(ぼうしゅつ)し、観察・記録する。 肉眼では観察できない微細な構造について、顕微鏡を駆使して調べ、構造を記載する学問。各器官(臓器)内の構造の特徴を、それを構成する細胞のレベルまで、あるいは細胞内小器官のレベルまで解明するもの。便宜上「組織学」の名で解剖学とは別の分野として扱われることが多い。 複数の生物種の構造を比較することから、それらに共通する一般的で重要な事項を考察する学問。生物学では形態面での進化の経路を構築する上で重要な手段となるし、獣医学ではそれぞれの種での差が重要となってくる。一般に比較解剖学の名で呼ばれるのは、生物学における18世紀から19世紀半ばころの流れをさす。 医学の現場では、目的が異なるいくつかの解剖が行われる。 肉眼解剖学に相当し、特に系統解剖学と呼ばれる。系統は全身の意である。主に学生の教育のために、大学医学部、歯学部、防衛医科大学校の解剖学の教育担当者の指導の下に行われる。解剖に用いる遺体は、日本ではそのほとんどすべてが献体制度により、本人の遺志および遺族の同意に基づいて提供された遺体が用いられている。遺体は、ホルマリン、アルコール等により、あらかじめ固定・防腐処理されており、学生は数週間~数ヶ月をかけて解剖実習を行う。解剖実習の目的は、骨・筋肉・内臓・神経などの各名称や場所を知ることだけでなく、それぞれの組織や器官がどのような機能や働きを行うかを知り、将来的に人の病気やケガを治療できる医師を育てるためである。大学では1年生か2年生から解剖実習がある大学も多いが、実習中に嘔吐や気絶など引き起こす者も少なくない。 いわゆる病理解剖。病院で死亡した患者について、その死亡原因が不明である場合や施した治療の効果を判定する必要がある場合などに、病院の病理学の知識を持った専門医師(病理医)によって行われる。遺族の同意に基づいて行われる。主に大学病院や、先端医療を行う研究機関としての役割・教育研修機関として(日本では臨床研修指定病院や日本内科学会など各種学会の教育施設として)の役割も併せ持った市中病院で行われる場合が多い。 この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく病理学である。 司法解剖、行政解剖がこれに当たる。前者は大学の医学部または医科大学の法医学教室が担当し、犯罪に関与すると思われる死体を対象とする。後者は監察医または監察医制度の置かれていない地方では大学の法医学教室が担当し、病院で亡くならずに、また犯罪にも関与しない死体を対象とする。例外的に、東京の監察医務院では司法解剖に分けられる異状死体についても検案の対象としている。 この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく法医学である。 解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に写筆されたエドウィン・スミス・パピルスには頭蓋縫合や脳表面の状態といったことが事細かに記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている。 古代ギリシャの哲人であるヒポクラテスが、ヤギの頭を切り開いて脳を調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている。 またその100年ほど後、アレキサンドリアの医師であったヘロフィロスが人体解剖を行ったと言われている。 しかし、宗教的・道徳的見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至ったといわれている。古代における医学の集大成をなしたガレノスは数多くの解剖を行ったが、人体解剖が禁じられていたためにブタやサル、ヤギなどの動物を解剖せざるを得ず、人体からかけ離れた知識も残存していた。ただし、例えばローマ教皇ボニファティウス8世は1300年に解剖を涜聖罪に定めたが、直接解剖行為を禁止したものではなく宗教的見地から遺体の地上への放置等を禁じた内容だったといわれている。 再び解剖学が活発な動きを見せたのはルネサンス期である。1500年代に入るとボローニャ大学で体系立てた解剖学の研究が始められ、1543年、パドヴァ大学のアンドレアス・ヴェサリウスは実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた。 18世紀にはパリ大学でもウィーン大学でも解剖の講義が実施されていた。ただし、これが臨床医学の基礎となる病理解剖学に位置づけられるものかは更なる考察が必要とされている。 病理解剖学と臨床医学が結び付くのはマリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャなどの相互調整の結果であり19世紀以後のことである。 サミュエル・トマス・フォン・ゼンメリンクは、最初にドイツ語で(1791–1796)、次にラテン語で(1794–1800)、解剖学の体系書を公表した。1800年から1801年にドイツ語第2版が刊行され、さらに1841年から1844年にかけて全8巻からなる改訂版が刊行された。 ザビエル・ビシャの「一般解剖学」は、解剖学の歴史における記念碑としての価値がある。解剖学としては、明確かつ自然な配置、正確で精密な説明などの特徴がある。生理学としては、一般的に正しく、しばしば斬新な観察を反映している。ビシャは第3巻の編集中に亡くなり、その後、PJ RouxとMFR Buissonが編集を継続し、完成した。 ヘンリー・グレイは、ロンドンにあるセント・ジョージ病院の解剖学者、外科医であり、「グレイの解剖学」を刊行した。画家として才能があるヘンリー・ヴァンダイク・カーターの助力で、グレイは医学生のために安価でアクセスしやすい解剖学の教科書を作成した。 1832年にイギリスで制定された解剖法は身寄りのない遺体の解剖を容認するので、解剖法に基づいて、死体安置所の遺体を18ヶ月に渡って解剖した。「グレイの解剖学」は1858年に最初に出版された。 医学及び医療の発展に伴って、大学医学部で解剖実習に使用される遺体の需要が増大した。19世紀以前は、処刑された犯罪者の遺体が解剖されることがほとんどであり、まれに親族から提供された遺体が解剖された。というのは、当時の西欧社会では、死後に遺体が解剖されることは、死よりも悪い運命と考えられていた。 1752年にイギリスで制定された「殺人法」では、殺人事件の被告人の遺体を死後に解剖して医学の発展に貢献することが認められた。被告人が絞首刑になった後、絞首台から遺体を下ろすときに医学生が立ち会い、誰が遺体の解剖を行うかを議論したものであるが、解剖医は死刑執行人と同様に恐れられていた。 19世紀前半までは、イギリス、米国などで解剖用遺体が不足していたので、墓地に埋葬された遺体が盗まれて、解剖されることがあった。死体泥棒という行為は、広く恐怖と反感を引き起こしたのだが、更に、解剖の対象となる恐ろしさが加味された。 1827年から1828年にかけてスコットランドの首都、エディンバラでウェストポート殺人事件が起きた。即ち、人体解剖に適した人が殺され、その遺体が売られた。この殺人事件が契機となって、1832年にイギリスで解剖法が制定され、ようやく十分な数の解剖用遺体が供給される制度が整備された。 日本の歴史において最初の人体解剖は『日本書紀』第十四巻にある、雄略天皇の命によって行われた稚足姫皇女の解剖とされる。ただしこれは一種の法医解剖であり、系統的な解剖ではなかった。その後、701年に成立した大宝律令では解剖の禁止が明文化されたと言われているが、原文は残存していないため詳細は不明である。 その後の日本史において、解剖が行われたのは江戸時代になってからのことである。京都の医学者山脇東洋は、人体の解剖が医学にとって不可欠であると考え、師の後藤艮山に相談した。後藤はこの時「腑分は官の制するところにて(解剖は幕府が決めること)」という回答を行ったが、幕府が明示的に解剖を禁止した法令は確認されていない。ともかく山脇は当局の許可を得、宝暦4年(1754年)閏2月7日に京都の刑場で刑死者の解剖を行った。山脇はこの成果をまとめ、『蔵志』として出版した。これに対して佐野安貞・吉益東洞・田中愿仲・福岡貞亮といった医者たちは、「腑分無用論」を唱えて山脇を批判したが、幕府関係者からの批判はなかった。 その後、明和4、5年(1767年、1768年)には東洋の子の玄侃が、7年(1770年)に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖した。明和8年(1771年)3月4日前野良沢、杉田玄白などが小塚原で解剖を行なった。前野らはこれを機に西洋医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をはじめることとなり、『解体新書』の完成につながったことは『蘭学事始』などに詳しい。寛政5年(1793年)に晁俊章が、8年(1796年)に柚木太淳が、10年(1798年)施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。呉秀三によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが文久元年(1861年)福井で行なった解剖まで、記録に残された解剖は34例であったという。 解剖が系統的に行なわれる様になったのは明治3年(1870年)以後である。長谷川泰、石黒忠悳らは大学東校から解剖のことを弁官に申請し、裁可を得た。すなわち同年10月20日付の申請に対して即日、「可為伺之通事」という裁可があった。同月27日に清三郎の死体が第一号として解剖され、12月までに52体集まった。その中には雲井龍雄の死体もあった。また、明治2年(1869年)に田口和美により井上美幾女の死体が解剖された事があり、その墓は東京白山の念速寺にある。 一部の学校や学校の生物部連盟では解剖実習が行われているが、小中学校での実技的解剖の授業はあまり行われなくなった。 その大きな理由として、生徒の解剖に対するイメージの低さ、また「気持ち悪い」「血を見たら吐いてしまう」などということも関係している。 この解剖に対しては様々な意見があり、賛成意見としては「解剖をやることによって生命の大切さや動物の内臓構造がわかる」などという意見と、それとは逆の「解剖をやることは生命の冒涜だ」などという意見もある。 解剖というものはマウスなどだけではなく、市販の魚類や軟体動物類、甲殻類などでも行うことができる。 最近の解剖ではフナやカエルなどを解剖することが少なくなってきている。
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解剖学とは、広い意味で生物体の正常な形態と構造とを研究する分野である。形態学の1つ。近年では人間に似せたロボットへの応用も進んでいる。
[[画像:Mondino - Anathomia, 1541 - 3022668.tif|サムネイル|[[Mondino dei Liuzzi]], ''Anathomia'', 1541]] '''解剖学'''(かいぼうがく、{{Lang-en-short|anatomy}})とは、広い意味で[[生物]]体の正常な[[形態]]と[[構造]]とを研究する分野である。[[形態学 (生物学)|形態学]]の1つ。近年では[[人間]]に似せた[[ロボット]]への応用も進んでいる。 ==概要== 研究対象により、[[植物解剖学]]と[[動物解剖学]]とに分けられるが、[[医学]]における解剖学は後者の一部をなす[[人体解剖学]] (human anatomy e., Menschenanatomie d.) である。人体解剖学は、[[ヒト]]のからだ(身体)のつくりや形について学ぶ学問である。 構造を明らかにするためには、外部のみではなく内部を細かく分けて研究しなければならない。anatomyとは、(ana) 相互にあるいは下から上に (tomia) 切るという意味であり、まさに解きわける(剖)と言うことである。『生命形態の自然誌』<ref>{{Cite book|和書 |author = [[三木成夫]] |title = 生命形態の自然誌 第1巻 解剖学論集 |year = 1989 |publisher = [[うぶすな書院]] |isbn = 4-900470-03-1 }}</ref>によると、'''[[解剖]]'''とは「解」も「剖」も共に刀で切る象形であり、anatomia etc の欧語は古代ギリシャ語の ana-temnein(ana:up,temno:cut)=cut up(切り尽くす)に由来する。 == 種類・下位分類 == 解剖学の種類について言及する時、まず人体に関心を絞ったうえで研究手法による分類法(下で解説)がいきなり持ち出されることが一般的ではあるが、そうではなく解剖学全体に視野を広げて、また生物全体に視野を広げて'''[[動物解剖学]]'''、'''[[植物解剖学]]'''という分類が行われることもある(生物学的な俯瞰のしかた、学問全体に関する俯瞰)。 この場合、'''[[人体解剖学]]'''は動物解剖学の一分野と位置づけられる。 また[[美術]]([[芸術]])で活用するための解剖学的知識を集積した'''[[美術解剖学]]'''という下位分類もある。 ===研究方法による解剖学の分類=== ;肉眼解剖学 [[肉眼]]あるいは[[ルーペ]]程度の[[拡大]]による[[観察]]で調べられる範囲で、対象の形態、構造を記述する学問。日本では[[1771年]]に[[前野良沢]]・[[杉田玄白]]・[[中川淳庵]]・[[桂川甫周]]らが[[江戸]]の[[小塚原刑場]]で腑分けを見学したことが有名である。肉眼解剖学はその意義・性質上、それまでの通念が覆されたり、過去の記述が時代遅れになる、といったことがあまりない点で、現代科学においては学問としては特殊な性質を持っている。現在は医師、歯科医師の養成課程ではヒトの肉眼解剖学が、獣医師のそれでは多種の動物を対象にした[[肉眼解剖学]]が、それぞれ専門課程の初期段階で必須項目とされる。解剖実習と称して、ピンセット、[[メス (刃物)|メス]]、はさみ、ノコギリなどを使い、遺体の諸構造(筋、骨、血管、神経、内臓など)を剖出(ぼうしゅつ)し、観察・記録する。 ;顕微解剖学(組織学) {{Main|組織学}} 肉眼では観察できない微細な構造について、顕微鏡を駆使して調べ、構造を記載する学問。各器官(臓器)内の構造の特徴を、それを構成する[[細胞]]のレベルまで、あるいは[[細胞内小器官]]のレベルまで解明するもの。便宜上「組織学」の名で解剖学とは別の分野として扱われることが多い。 ;比較解剖学 {{Main|比較解剖学}} 複数の生物種の構造を比較することから、それらに共通する一般的で重要な事項を考察する学問。[[生物学]]では形態面での[[進化]]の経路を構築する上で重要な手段となるし、[[獣医学]]ではそれぞれの種での差が重要となってくる。一般に[[比較解剖学]]の名で呼ばれるのは、生物学における18世紀から19世紀半ばころの流れをさす。 ==医学における解剖の種類== 医学の現場では、目的が異なるいくつかの解剖が行われる。 ===正常構造の教育・研究のための解剖=== 肉眼解剖学に相当し、特に'''系統解剖学'''と呼ばれる。系統は全身の意である。主に[[学生]]の[[教育]]のために、大学[[医学部]]、[[歯学部]]、[[防衛医科大学校]]の解剖学の教育担当者の指導の下に行われる。解剖に用いる遺体は、日本ではそのほとんどすべてが[[献体]]制度により、本人の遺志および遺族の同意に基づいて提供された遺体が用いられている。遺体は、[[ホルマリン]]、[[アルコール]]等により、あらかじめ固定・防腐処理されており、学生は数週間~数ヶ月をかけて解剖実習を行う。解剖実習の目的は、骨・筋肉・内臓・神経などの各名称や場所を知ることだけでなく、それぞれの組織や器官がどのような機能や働きを行うかを知り、将来的に人の病気やケガを治療できる医師を育てるためである。大学では1年生か2年生から解剖実習がある大学も多いが、実習中に嘔吐や気絶など引き起こす者も少なくない{{要出典|date=2020年10月}}。 ====系統解剖学の分類==== *[[骨学]] (英osteology, 羅osteologia) *[[靭帯学]] (英syndesmology, 羅syndesmologia) *[[筋学]] (英myology, 羅myologia) *[[内臓学]] (英splanchnology, 羅splanchnologia) *[[感覚器学]] (英aesthesiology, 羅aesthesiologia) *[[脈管学]] (英angiology, 羅angiologia) *[[神経解剖学]] (英neuroanatomy, 羅) ===病理所見取得のための解剖=== いわゆる[[病理解剖]]。[[病院]]で死亡した[[患者]]について、その死亡原因が不明である場合や施した治療の効果を判定する必要がある場合などに、病院の病理学の知識を持った専門[[医師]](病理医)によって行われる。遺族の同意に基づいて行われる。主に[[大学病院]]や、先端医療を行う研究機関としての役割・教育研修機関として(日本では[[臨床研修指定病院]]や日本内科学会など各種学会の教育施設として)の役割も併せ持った市中病院で行われる場合が多い。 ''この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく[[病理学]]である。'' ===社会的要請による解剖=== [[司法解剖]]、[[行政解剖]]がこれに当たる。前者は大学の[[医学部]]または[[医科大学]]の[[法医学]]教室が担当し、[[犯罪]]に関与すると思われる死体を対象とする。後者は[[監察医]]または監察医制度の置かれていない地方では大学の法医学教室が担当し、[[病院]]で亡くならずに、また[[犯罪]]にも関与しない死体を対象とする。例外的に、東京の監察医務院では[[司法解剖]]に分けられる[[異状死体]]についても[[検案]]の対象としている。 ''この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく[[法医学]]である。'' ==解剖の歴史== === 西洋における解剖の歴史 === [[ファイル:Écorché cavalier Fragonard Alfort 1 edit1.jpg|サムネイル|フラゴナール博物館。18世紀フランスの解剖学者フラゴナールによる[[エコルシェ]]のコレクション所蔵]] 解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に写筆された[[エドウィン・スミス・パピルス]]には[[頭蓋]]縫合や[[脳]]表面の状態といったことが事細かに記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている。 古代ギリシャの哲人である[[ヒポクラテス]]が、[[ヤギ]]の頭を切り開いて[[脳]]を調べた他、様々な解剖学についての記述が、ヒポクラテスの弟子が編纂した「ヒポクラテス著作集」に記述されている<ref>塚原仲晃『脳の可塑性と記憶』1987年10月20日 p.28-29</ref>。 またその100年ほど後、[[アレキサンドリア]]の医師であった[[ヘロフィロス]]が人体解剖を行ったと言われている<ref>http://www.zkai.co.jp/z-style/medical_info/essay/essay_02b.asp {{リンク切れ|date=2017年12月}}</ref>。 しかし、宗教的・道徳的見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至ったといわれている<ref name="kobayashi1993" />。古代における医学の集大成をなした[[ガレノス]]は数多くの解剖を行ったが、人体解剖が禁じられていたために[[ブタ]]や[[サル]]、[[ヤギ]]などの動物を解剖せざるを得ず、人体からかけ離れた知識も残存していた<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p137-138 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。ただし、例えばローマ教皇[[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]は[[1300年]]に解剖を涜聖罪に定めたが、直接解剖行為を禁止したものではなく宗教的見地から遺体の地上への放置等を禁じた内容だったといわれている<ref name="kobayashi1993">小林昌広『病い論の現在形』(1993年) pp.163-166</ref>。 再び解剖学が活発な動きを見せたのは[[ルネサンス]]期である。[[1500年代]]に入ると[[ボローニャ大学]]で体系立てた解剖学の研究が始められ、[[1543年]]、[[パドヴァ大学]]の[[アンドレアス・ヴェサリウス]]は実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた<ref>「医学の歴史」pp164-165 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。 [[18世紀]]には[[パリ大学]]でも[[ウィーン大学]]でも解剖の講義が実施されていた<ref name="kobayashi1993" />。ただし、これが臨床医学の基礎となる病理解剖学に位置づけられるものかは更なる考察が必要とされている<ref name="kobayashi1993" />。 病理解剖学と臨床医学が結び付くのは[[マリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャ]]などの相互調整の結果であり[[19世紀]]以後のことである<ref name="kobayashi1993" />。 サミュエル・トマス・フォン・ゼンメリンクは、最初にドイツ語で(1791–1796)、次にラテン語で(1794–1800)、解剖学の体系書を公表した。1800年から1801年にドイツ語第2版が刊行され、さらに1841年から1844年にかけて全8巻からなる改訂版が刊行された。 [[マリー・フランソワ・グザヴィエ・ビシャ|ザビエル・ビシャ]]の「一般解剖学」は、解剖学の歴史における記念碑としての価値がある。''解剖学として''は、明確かつ自然な配置、正確で精密な説明などの特徴がある。[[生理学]]としては、一般的に正しく、しばしば斬新な観察を反映している。ビシャは第3巻の編集中に亡くなり、その後、[[PJルー|PJ Roux]]と[[MFRビュイソン|MFR Buisson]]が編集を継続し、完成した。 ヘンリー・グレイは、ロンドンにあるセント・ジョージ病院の解剖学者、外科医であり、「''[[グレイ解剖学]]」を刊行した''。画家として才能があるヘンリー・ヴァンダイク・カーターの助力で、グレイは医学生のために安価でアクセスしやすい解剖学の教科書を作成した。 1832年にイギリスで制定された解剖法は身寄りのない遺体の解剖を容認するので、解剖法に基づいて、[[死体安置所]]の遺体を18ヶ月に渡って解剖した。「グレイの解剖学」は1858年に最初に出版された。 ==== 社会的背景 ==== 医学及び医療の発展に伴って、大学医学部で解剖実習に使用される遺体の需要が増大した。19世紀以前は、処刑された犯罪者の遺体が解剖されることがほとんどであり、まれに親族から提供された遺体が解剖された。というのは、当時の西欧社会では、死後に遺体が解剖されることは、死よりも悪い運命と考えられていた。 1752年にイギリスで制定された「殺人法」では、殺人事件の被告人の遺体を死後に解剖して医学の発展に貢献することが認められた。被告人が絞首刑になった後、絞首台から遺体を下ろすときに医学生が立ち会い、誰が遺体の解剖を行うかを議論したものであるが、解剖医は死刑執行人と同様に恐れられていた。 ==== 死体泥棒 ==== 19世紀前半までは、イギリス、米国などで解剖用遺体が不足していたので、墓地に埋葬された遺体が盗まれて、解剖されることがあった<ref>{{Cite book|和書 |title=Body Snatching: The Robbing of Graves for the Education of Physicians in Early Nineteenth Century American History. |year=1992 |publisher=McFarland}}</ref>。死体泥棒という行為は、広く恐怖と反感を引き起こしたのだが、更に、解剖の対象となる恐ろしさが加味された。 ==== 殺人事件 ==== 1827年から1828年にかけて[[スコットランド]]の首都、[[エディンバラ]]でウェストポート殺人事件が起きた。即ち、人体解剖に適した人が殺され、その遺体が売られた。この殺人事件が契機となって、1832年にイギリスで解剖法が制定され、ようやく十分な数の解剖用遺体が供給される制度が整備された<ref>{{Cite book|洋書 |title=The Anatomy Murders: Being the True and Spectacular History of Edinburgh's Notorious Burke and Hare and of the Man of Science Who Abetted Them in the Commission of Their Most Heinous Crimee |year=2010 |publisher=University of Pennsylvania Press |last=Rosner |first=Lisa}}</ref>。 ===日本における解剖の歴史=== {{節スタブ}} [[日本]]の歴史において最初の人体解剖は『[[日本書紀]]』第十四巻にある、[[雄略天皇]]の命によって行われた[[稚足姫皇女]]の解剖とされる。ただしこれは一種の法医解剖であり、系統的な解剖ではなかった{{sfn|石出猛史|2008|pp=221}}。その後、701年に成立した[[大宝律令]]では解剖の禁止が明文化されたと言われているが、原文は残存していないため詳細は不明である{{sfn|石出猛史|2008|pp=221}}。 その後の日本史において、解剖が行われたのは[[江戸時代]]になってからのことである。京都の医学者[[山脇東洋]]は、人体の解剖が医学にとって不可欠であると考え、師の[[後藤艮山]]に相談した。後藤はこの時「腑分は官の制するところにて(解剖は幕府が決めること)」という回答を行ったが、幕府が明示的に解剖を禁止した法令は確認されていない{{sfn|石出猛史|2008|pp=222}}。ともかく山脇は当局の許可を得、[[宝暦]]4年([[1754年]])閏[[2月7日]]に京都の刑場で刑死者の解剖を行った。山脇はこの成果をまとめ、『[[蔵志]]』として出版した。これに対して[[佐野安貞]]・[[吉益東洞]]・[[田中愿仲]]・福岡貞亮といった医者たちは、「腑分無用論」を唱えて山脇を批判したが、幕府関係者からの批判はなかった{{sfn|石出猛史|2008|pp=222}}。 [[画像:First Japanese treatise on Western anatomy.jpg|サムネイル|『解体新書』(複製)<br>[[国立科学博物館]]の展示]] その後、[[明和]]4、5年([[1767年]]、[[1768年]])には東洋の子の玄侃が、7年([[1770年]])に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖した。明和8年([[1771年]])3月4日[[前野良沢]]、[[杉田玄白]]などが[[小塚原]]で解剖を行なった。前野らはこれを機に西洋医学書『[[ターヘル・アナトミア]]』の翻訳作業をはじめることとなり、『[[解体新書]]』の完成につながったことは『[[蘭学事始]]』などに詳しい。[[寛政]]5年([[1793年]])に晁俊章が、8年([[1796年]])に柚木太淳が、10年([[1798年]])施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。[[呉秀三]]によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが[[文久]]元年([[1861年]])福井で行なった解剖まで、記録に残された解剖は34例であったという。 解剖が系統的に行なわれる様になったのは[[明治]]3年([[1870年]])以後である。[[長谷川泰]]、[[石黒忠悳]]らは[[大学東校]]から解剖のことを弁官に申請し、裁可を得た。すなわち同年[[10月20日]]付の申請に対して即日、「可為伺之通事」という裁可があった。同月[[10月27日|27日]]に清三郎の死体が第一号として解剖され、12月までに52体集まった。その中には[[雲井龍雄]]の死体もあった。また、明治2年([[1869年]])に[[田口和美]]により[[美幾|井上美幾女]]の死体が解剖された事があり、その墓は東京白山の[[念速寺]]にある<ref>[http://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/history/bunkazai/00066.html 美幾女墓] 文京ふるさと歴史館文京区指定文化財データベース、2013年9月2日閲覧。</ref>。 ==学校教育について== {{節スタブ}} 一部の学校や学校の生物部連盟では解剖実習が行われているが、小中学校での実技的解剖の授業はあまり行われなくなった。 その大きな理由として、生徒の解剖に対するイメージの低さ、また「気持ち悪い」「血を見たら吐いてしまう」などということも関係している。 この解剖に対しては様々な意見があり、賛成意見としては「解剖をやることによって生命の大切さや動物の内臓構造がわかる」などという意見と、それとは逆の「解剖をやることは生命の冒涜だ」などという意見もある。 解剖というものはマウスなどだけではなく、市販の魚類や軟体動物類、甲殻類などでも行うことができる。 最近の解剖ではフナやカエルなどを解剖することが少なくなってきている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=[[石出猛史]]|title=江戸幕府による腑分の禁制|year=2008|publisher=千葉医学会 |journal=千葉医学雑誌 |volume= 84|number=5|naid=10026993641|pages= 221-224|ref=harv}} * Burch, Druin (2007). ''Digging up the Dead: The Life and Times of Astley Cooper, an Extraordinary Surgeon''. Chatto & Windus, London. * MacDonald, H.P. (2005) ''Human Remains: Episodes in Human Dissection'' {{ISBN|0-522-85157-6}} * Porter, R. (1997) ''The Greatest Benefit to Mankind: A Medical History of Humanity from Antiquity to the Present'' {{ISBN|0-00-215173-1}}, ''pp''314–320 * {{cite book |author=Shultz, S. M. |title=Body Snatching: The Robbing of Graves for the Education of Physicians in Early Nineteenth Century American History |location=Jefferson, NC |publisher=McFarland |year=1992 |isbn=978-0-7864-2232-6}} ==関連項目== {{wiktionarycat}} {{Commonscat|Anatomy}} {{Wikibooks}} * [[人間の動静脈一覧]] * [[人間の骨の一覧]]/[[骨学]] * [[人間の筋肉の一覧]] * [[ヒトの神経の名称一覧]] * [[人間の関節一覧]] * [[ヒトのリンパの名称一覧]] * [[神経解剖学]]/[[口腔解剖学]]/[[法医学]] * [[医学部]]/[[歯学部]] * [[医師]]/[[歯科医師]]/[[監察医]] * [[蛙の解剖]] * [[人体解剖マニュアル]] * [[解剖学における方向の表現]] * [[解剖学における運動の表現]] * [[経絡]] * [[経穴]] * [[ターヘル・アナトミア]]/[[解体新書]]/[[解体約図]] * [[スペーコラ美術館]](多数の人体解剖蝋人形を所蔵) * [[美術解剖学]] ==外部リンク== *[https://www.anatomy.or.jp/ 日本解剖学会] *[http://jsbmr.umin.jp/ 日本骨代謝学会] *[https://www.neurology-jp.org/ 日本神経学会] *[https://ago.ac/ 日本顎咬合学会] *[https://kokuhoken.net/jstmj/ 日本顎関節学会] *[http://jssf.umin.ne.jp/ 日本顎口腔機能学会] *[https://www.daekisen.org/ 日本唾液腺学会] *[https://www.kowa.co.jp/ 興和] * {{Kotobank}} {{生物学}} {{呼吸器系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいほうかく}} [[Category:解剖学|*]] [[Category:形態学 (生物学)]] [[Category:人体のしくみ]]
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太宰府線
太宰府線(だざいふせん)
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太宰府線(だざいふせん) 西鉄太宰府線 - 西日本鉄道の鉄道路線。 福岡高速2号太宰府線 - 福岡高速道路の路線。
'''太宰府線'''(だざいふせん) * [[西鉄太宰府線]] - [[西日本鉄道]]の鉄道路線。 * [[福岡高速2号太宰府線]] - [[福岡高速道路]]の路線。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:たさいふせん}}
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リミテッド・アニメーション
リミテッド・アニメーション(Limited animation)とは、アニメーションの表現手法である。 従来のフル・アニメーションのリアルな動作を追求した表現手法に対し、簡略化された抽象的な動作を表現するために、動きを簡略化しセル画の枚数を減らす表現手法として考案された。ワーナー・ブラザース製作・チャック・ジョーンズ監督の『ドーバーボーイズ』(原題:The Dover Boys、1942年)で初めて実用化され、アメリカのアニメーション制作会社UPAにより本格的に導入されたが、後のハンナ・バーベラなどにより、専ら省力化のために使用された。 日本では戦後アニメ創成期において虫プロの手塚治虫がテレビアニメの『鉄腕アトム』制作に制作費や制作時間を削減するために採用した。これによりリミテッドアニメーションを進化させ同時に日本製アニメーションの手法として定着、現在では洗練されアニメの手法として発展している。 画面の一部だけを動かす場合、特にキャラクターの体や顔の向きと輪郭はそのままで、目や口だけが動く、画面内の多くのキャラクターのうち、1・2名のみが動く、複数のキャラクターが全く同様の軌跡で動く、などが特徴である。海外のリミテッドアニメは、動画枚数が1秒(24コマ)あたり12枚、つまり2コマにつき1枚の動画(セル画)を作成することが多いが、日本のリミテッドアニメはさらに少なく、1秒あたり8枚、つまり3コマにつき1枚の動画を作成することが多い。 他にも同じようなシーンでセル画を使い回すバンクシステムなどの工夫が知られる。 シンクロ・ヴォックス(Syncro-Vox, Synchro-Vox)は、静止画像やアニメーション上のキャラクターの口の部分に、口の実写映像を光学合成するものであり、リミテッド・アニメーションの中で最も極端な例の一つとして知られている。この技法は、1950年代にエドウィン・"テッド"・ジレット(英語版)がTVCM向けに動物がしゃべっているように見せるために考案したものである。ジレットは1952年2月4日にこの手法を特許として申請し、1956年3月27日に特許を取得した(米国特許番号:第2,739,505号)。 音声と映像の同期が難しかった当時、シンクロ・ヴォックスはアニメ制作の省力化に用いられるようになり、主な使用例としてはカンブリア・プロダクションズ(英語版)の『冒険王カーゴ』(原題:Clutch Cargo、別邦題:冒険王クラッチ)、『宇宙ライダー エンゼル』(Space Angel、キャプテン・ゼロ)、『キャプテン・ファドム』(Captain Fathom)などが挙げられる。当時の視聴者からは「口だけが実写のアニメは不気味だった」と評されることもある。 その後、シンクロ・ヴォックスは本格的なアニメーションの技法として使われることは少なかったものの、テレビ番組などで笑いをとるため、ほかの実写映像に別人の口を合成する形で使われるようになった。 2023年に制作されたCGショートアニメ『ヘルピポシリーズ ぴーち鬼ぱーち鬼』で、キャラクターの口の部分に声を演じるチョコレートプラネットの口の実写映像を合成するという手法が使われている。
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リミテッド・アニメーションとは、アニメーションの表現手法である。
{{出典の明記|date=2013年4月}} '''リミテッド・アニメーション'''(Limited animation)とは、[[アニメーション]]の表現手法である。 == 概要 == [[File:SelinaMedium.gif|thumb|リミテッド・アニメーション]] 従来の[[フルアニメ|フル・アニメーション]]のリアルな動作を追求した表現手法に対し、簡略化された抽象的な動作を表現するために、動きを簡略化しセル画の枚数を減らす表現手法として考案された。[[ワーナー・ブラザース]]製作・[[チャック・ジョーンズ]]監督の『[[:en:The Dover Boys|ドーバーボーイズ]]』(原題:The Dover Boys、1942年)で初めて実用化され、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のアニメーション制作会社[[ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ|UPA]]により本格的に導入されたが、後の[[ハンナ・バーベラ・プロダクション|ハンナ・バーベラ]]などにより、専ら省力化のために使用された。 日本では戦後アニメ創成期において[[虫プロダクション|虫プロ]]の[[手塚治虫]]が[[テレビアニメ]]の『[[鉄腕アトム]]』制作に制作費や制作時間を削減するために採用した。これによりリミテッドアニメーションを進化させ同時に日本製アニメーションの手法として定着、現在では洗練され[[日本のアニメーション|アニメ]]の手法として発展している。 == 特徴 == 画面の一部だけを動かす場合、特にキャラクターの体や顔の向きと輪郭はそのままで、目や口だけが動く、画面内の多くのキャラクターのうち、1・2名のみが動く、複数のキャラクターが全く同様の軌跡で動く、などが特徴である。海外のリミテッドアニメは、動画枚数が1秒(24コマ)あたり12枚、つまり2コマにつき1枚の動画(セル画)を作成することが多いが、日本のリミテッドアニメはさらに少なく、1秒あたり8枚、つまり3コマにつき1枚の動画を作成することが多い。 他にも同じようなシーンでセル画を使い回す[[バンクシステム]]などの工夫が知られる。 === シンクロ・ヴォックス === シンクロ・ヴォックス([[:en:Syncro-Vox|''Syncro-Vox'', ''Synchro-Vox'']])は、静止画像やアニメーション上のキャラクターの口の部分に、口の[[実写]]映像を[[光学合成]]するものであり、リミテッド・アニメーションの中で最も極端な例の一つとして知られている。この技法は、[[1950年代]]に{{仮リンク|エドウィン・ジレット|label=エドウィン・"テッド"・ジレット|en|Edwin Gillette}}がTV[[コマーシャル・メッセージ|CM]]向けに[[動物]]がしゃべっているように見せるために考案したものである。ジレットは[[1952年]]2月4日にこの手法を[[特許]]として申請し、[[1956年]]3月27日に特許を取得した(米国特許番号:第2,739,505号)<ref>[http://freepatentsonline.com/2739505.pdf Method and Means for Producing Composite Talking Picture]</ref>。 音声と映像の[[同期]]が難しかった当時、シンクロ・ヴォックスはアニメ制作の省力化に用いられるようになり、主な使用例としては{{仮リンク|カンブリア・プロダクションズ|en|Cambria Productions}}の『[[クラッチ・カーゴ|冒険王カーゴ]]』(原題:[[:en:Clutch Cargo|Clutch Cargo]]、別邦題:冒険王クラッチ)、『[[キャプテン・ゼロ|宇宙ライダー エンゼル]]』([[:en:Space Angel|Space Angel]]、キャプテン・ゼロ)、『[[キャプテン・ファドム]]』([[:en:Captain Fathom|Captain Fathom]])などが挙げられる<ref>"Don't believe your eyes! How 'Clutch Cargo' cuts corners as a television comic strip", ''TV Guide'', December 24, 1960, pp. 28-29.</ref>。当時の視聴者からは「口だけが実写のアニメは不気味だった」と評されることもある<ref>[[三宅裕司]]『ぼっ!ぼっ…ぼくらはテレビ探偵団』[[祥伝社]]、1987年、33頁。ISBN 4-396-62005-5。{{NDLJP|12275922/18}}</ref>。 その後、シンクロ・ヴォックスは本格的なアニメーションの技法として使われることは少なかったものの、[[テレビ番組]]などで笑いをとるため、ほかの実写映像に別人の口を合成する形で使われるようになった。 2023年に制作されたCGショートアニメ『ヘルピポシリーズ ぴーち鬼ぱーち鬼』で、キャラクターの口の部分に声を演じる[[チョコレートプラネット]]の口の実写映像を合成するという手法が使われている<ref>[https://natalie.mu/owarai/news/532439 チョコプラ「なんか付いてるかも」 口元だけ実写「ヘルピポ」新シリーズは慣れたらかわいい]、お笑いナタリー、2023年7月14日。</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Animation}} {{DEFAULTSORT:りみてとあにめ}} [[Category:アニメーションの技法]]
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プロフェッショナル
プロフェッショナル(英: professional)は、短縮形で「pro プロ」とも言うが、次のような意味がある。 まずは形容詞的用法が根底にあり、 名詞的用法としては、 対義語はアマチュア(英:Amateur)。 professionalの類義語には「英: expert エキスパート」(熟練者)や、英: specialist スペシャリストがある。 なおソフトウェア類や道具などで、メーカーが複数のグレードを用意している場合、(一般人向けの仕様の製品や性能の低いほうを「home ホーム」や「entry エントリー」等々の言葉を添える、あるいは何も言葉は添えずにただ製品名にしておいて)、性能的に優れているものや、専門家が仕事で使う想定の仕様になっているものを「professional」や「pro」という言葉を添えた製品名にすることは、英語圏ではしばしば行われている。それらの製品が他の言語圏に展開されると、大抵は「professional」や「pro」を現地語で音写した言葉が添えられることになる。 「民生用」と「業務用」といった呼び分けや、特定の分野に言及して「医療用」や「軍事用」などもみられ、特定の機関の品質基準をクリアしている事が併記されて品質が「お墨付き」である事を示す場合もある。 一般に、プロフェッショナルには、おおまかに次の二つの意味がある。 前者の「プロフェッショナル」(プロ)は、知識、スキル、能力の高さ、特定の問題解決能力の高さ、一般人とは明白に「専門的距離」がある人物である (活動から収入を得ているかどうかという事実にかかわらない概念である。)。この用語は、この役割を担う人の「あるべき姿」を指してもいて、人々が専門的な仕事をする人ならば備えていて欲しいと願っているように、能力が高く、技術に優れ、確かな仕事をする人のことを指している。 なお「プロフェッショナリズム」という概念は、前者「プロフェッショナル」の意味をつきつめたものである。 日本語の「プロフェッショナル」や「プロ」は、英語の「professional」やその省略形「pro」をカタカナで音写したものであり、もともとが英語であるので英語の意味から勝手に離れるわけにはいかず、基本的には英語の意味内容と同等の内容を指さざるを得ない。よって、おおむね次のいずれかの意味で用いられている。 百科事典なので、この記事でも全ての分野のプロフェッショナル(プロ)について解説しなければならないが、スポーツはもともとアマチュアであることが意義があるとされて発展してきて、その後、アマチュアとプロフェッショナルの区別がされ、それらの線引きが深刻な問題となってきた歴史が(他の分野よりも一層)顕著なので、まずはスポーツのプロフェッショナルから解説し、その後にスポーツ以外のプロフェッショナルについても解説することにする (「プロフェッショナル」や「プロ」の大まかな意味は、おおむね辞書的な意味に沿っており、おおまかな方向性は辞書的定義と一致しているのだが) 具体的にどのような人を「プロフェッショナル」(プロ)と呼ぶのか、と言うと、スポーツのひとつひとつの種類(種目)ごとに異なっている。よって下の節で、個々のスポーツ種目ひとつひとつのプロフェッショナル(プロ)について説明してゆく。 プロフェッショナルな選手は短縮形の「プロ」を用いて、「プロ選手」や(単に)「プロ」と呼ばれる。 なお、プロ選手が参加することで成り立っているスポーツ(やスポーツの特定の試合群)をプロフェッショナルスポーツと言う。 19世紀のイギリスでは、「スポーツは上流階級の人々同士で行うもの」というのが、当時の(上流階級の)社会通念であった。その後次第に労働者の社会的地位が向上し、労働者にもスポーツに参加する道が開かれるようになって、スポーツは大衆化へと進んでいった。アメリカ合衆国では、1868年にアマチュア競技会への参加規定が決められたが、その趣旨はイギリスのものとは大きく異なり、アメリカではプロ野球の創設・発展、多額の賞金や賭博行為の増加・横行などによって腐敗が進み、プロフェッショナル競技者とアマチュア競技者の区別を明確化する必要に迫られたから、アマチュア競技会の参加規程が明確化されたのである。アメリカでは(イギリスのようには)労働者階級を排除する内容はなかった。 スポーツの歴史の中では近代オリンピックはアマチュアリズムが称揚され、その精神的な純粋さが重視されて発展し、人々はアマチュアリズムに喜びを見出していた歴史があるのだが、その後、次第にスポーツ大会が国家の宣伝に使われるようになり、社会主義諸国も資本主義諸国もオリンピックを国家の宣伝の道具のように利用するようになり、アマチュア規定をすり抜けるようにして、社会主義国では国家が「まるがかえ」で選手を援助し、住まいや食事や練習場やコーチを用意して選手を養成するようになったり、資本主義諸国では、例えば米国では(しばしば国家が直接、あるいは学校と連携して)「奨学金」などという形でスポーツをしている学生にお金を渡しておいて「アマチュア」としてオリンピックに参加させるという方法でアマチュア規定をすり抜けさせる、というやり方が横行するようになったり、(資本主義諸国では、金銭欲に駆られている人も多く、商業主義(=金のためなら、どんな不正行為でもやらかしてしまうこと)が横行しがちなわけだが)米国に加えて欧州などの資本主義諸国でもスポーツ関連企業とアスリートが契約を結んでコマーシャルに出演させ、その代わりに道具やコーチや住居や食事を提供されるなどということが行われるようになった。つまり、アマチュア規定は その裏をかかれるようにしてすり抜けられることが(西側でも東側でも)世界中で起きるようになり、大会で上位に入賞するようなアスリートでは大半が、名目としては「アマチュア」なのに、実態としては(有形/無形の)報酬を得ていて、実態としては純粋な「アマチュア」と言うのは不適切な選手がかなりの割合になってしまったのである。また、実際には現金の授受が行われていたのに、アマチュア規定に違反していたことが発覚して参加資格を停止されることを防ごうと、ただ金銭を提供する側と受け取る側が口裏を合わせて隠していただけ、という悪質な場合もあった。スポーツ界の汚染は進み、オリンピックや他の大きな大会で上位に入賞するような選手に関しては、もはや純粋な「アマチュア」を見出すことはほとんど困難な状態にまでなってしまい、規定をすり抜ける手法もますます巧妙化し、『「アマチュア」と「プロフェッショナル」をどうやったら線引きできるのか? (昔はともかく)今ではもう無理なのでは?』と 大会の主催者側の人々も頭をかかえこんでしまうような事態になっていってしまったわけである。結局 スポーツ界はアマチュア規定緩和の方向へと進むことになり、1962年にはクリケットがアマチュア規定を廃止し、1968年にはテニスのウィンブルドン大会がプロフェッショナルにも開放された。そして1974年にはオリンピックのアマチュア条項からも「アマチュア」という言葉が削除された。その結果、その後は徐々に ほとんどの競技でアマチュアとプロフェッショナルは区別なく参加できるようになり、混合状態になった。(その結果、アマチュア規定をすり抜けるためだけの、汚くて陰湿な攻防は減り) 近年では多くのスポーツ競技種目でプロ・アマが混合で競技し、「アマチュア」と呼ばれる人でも まるで「小企業」のように様々な形で収入を得ている。 オリンピック等ではアマチュア規定に基づき、長い間プロの参加は認められていなかった。ただし無報酬でスポーツを行い、オリンピックなどの大きな大会に出場できるのは、それなりの社会階級に属しているものに限られる。また日本のスポーツでは、勝つことによる名誉のみを求め、無報酬でスポーツを行うことの精神的美しさが強調された面もある。 大陸間での国際トーナメントを行うテニスや、毎週末試合を行うサッカー、毎日試合を行う野球等では早くからアマチュアだけでやっていくのは困難になった。そこでこれらの競技では20世紀初頭から選手のプロ化が始まった。最近になって国際的な認知度がようやく高まった野球を別として、アマチュア至上主義をとっていた国際オリンピック委員会 (IOC)とテニス、サッカーの競技団体は非常に折り合いが悪かった。(プロを解禁した現在ではIOCよりこれらの競技団体が優位に立っている) 日本国内におけるプロスポーツは定義づけにより以下のように分けることができる。
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プロフェッショナルは、短縮形で「pro プロ」とも言うが、次のような意味がある。 まずは形容詞的用法が根底にあり、 (元々の意味)「professionに関連する」あるいは「professionに属する」という意味である。 「職業的な人にふさわしい」という意味で、能力が高く、技に優れ、(その仕事に)確かさがある、ということ。 (アマチュアとは異なって)「主たる収入を得るために特定の分野に従事している(人)」 名詞的用法としては、 profession(=「専門的な仕事」)に従事している人や、専門的な仕事で評価を得ている人。 特定の分野に従事している人で、その中でも特に、(「ひまつぶし」としてではなく)主たる収入を得る生業(なりわい)としてそれに従事している人。 特定の活動に関して能力が高く、技能に優れる人。 対義語はアマチュア。 professionalの類義語には「英: expert エキスパート」(熟練者)や、英: specialist スペシャリストがある。 なおソフトウェア類や道具などで、メーカーが複数のグレードを用意している場合、、性能的に優れているものや、専門家が仕事で使う想定の仕様になっているものを「professional」や「pro」という言葉を添えた製品名にすることは、英語圏ではしばしば行われている。それらの製品が他の言語圏に展開されると、大抵は「professional」や「pro」を現地語で音写した言葉が添えられることになる。 「民生用」と「業務用」といった呼び分けや、特定の分野に言及して「医療用」や「軍事用」などもみられ、特定の機関の品質基準をクリアしている事が併記されて品質が「お墨付き」である事を示す場合もある。
{{複数の問題 |独自研究=2009年5月28日 (木) 12:09 (UTC) |出典の明記=2009年5月28日 (木) 12:09 (UTC) }} {{Otheruses}} {{Redirect|プロ}} '''プロフェッショナル'''({{Lang-en-short|professional}})は、短縮形で「pro プロ」とも言うが、次のような意味がある。 まずは[[形容詞]]的用法が根底にあり、 *(元々の意味)「professionに関連する」あるいは「professionに属する」という意味である<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional">[https://www.lexico.com/en/definition/professional Oxford Dictionaries Lexico "professional"]</ref>。 :なおprofessionとは、賃金を支払われるなりわい(=[[職業]])のことであるが、その中でもとくにトレーニングを要し何らかの資格を要するようななりわいを指す<ref name="Lexico_profession">[https://www.lexico.com/en/definition/profession Oxford Dictionaries Lexico "profession"]</ref>。つまりprofessionとは、一般に「専門的な仕事」と表現されるもののことである<ref group="注">ほとんど誰でも、はじめてやってもできるような「ただの作業」や「ただのjob」をするような仕事ではない、とことにもなる。</ref>。 * 「職業的な人にふさわしい」という意味で、能力が高く、技に優れ、(その仕事に)確かさがある、ということ<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional" />。 * (アマチュアとは異なって)「主たる収入を得るために特定の分野に従事している(人)<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional" />」 [[名詞]]的用法としては、 * profession(=「専門的な仕事」)に従事している人や、専門的な仕事で評価を得ている人<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional" />。 * 特定の分野に従事している人で、その中でも特に、(「ひまつぶし」としてではなく)主たる収入を得る生業(なりわい)としてそれに従事している人<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional" />。 * 特定の活動に関して能力が高く、技能に優れる人<ref name="Oxford Dictionaries Lexico professional" />。 <ref group="注">「公言する、標榜する」が語源である。</ref> 対義語は'''[[アマチュア]]'''(''英:Amateur'')。 professionalの類義語には「{{Lang-en-short|expert}} エキスパート」(熟練者)や、{{Lang-en-short|specialist}} スペシャリスト<ref group="注">specialistの対義語は {{Lang-en-short|generalist}} ゼネラリスト</ref>がある。 なおソフトウェア類や道具などで、メーカーが複数のグレードを用意している場合、(一般人向けの仕様の製品や性能の低いほうを「home ホーム」や「entry エントリー」等々の言葉を添える、あるいは何も言葉は添えずにただ製品名にしておいて)、性能的に優れているものや、専門家が仕事で使う想定の仕様になっているものを「professional」や「pro」という言葉を添えた製品名にすることは、英語圏ではしばしば行われている。それらの製品が他の言語圏に展開されると、大抵は「professional」や「pro」を現地語で音写した言葉が添えられることになる<ref group="注">例えば[[Microsoft Windows XP]]に一般向けの「Home Edition」および、高機能版の「professional」が提供・販売された。 </ref>。 「[[民生用]]」と「[[業務用]]」といった呼び分けや、特定の分野に言及して「[[医療用具|医療用]]」や「[[軍用|軍事用]]」などもみられ、特定の機関の品質基準をクリアしている事が併記されて品質が「お墨付き」である事を示す場合もある。 == 概説 == 一般に、プロフェッショナルには、おおまかに次の二つの意味がある。 *専門的な仕事に従事し、その能力が高く、その仕事の技術に優れ、確かな仕事をする人 *主たる収入を得るために、特定の分野に従事している人 前者の「プロフェッショナル」(プロ)は、知識、スキル、能力の高さ、特定の問題解決能力の高さ、一般人とは明白に「専門的距離」がある人物である (活動から収入を得ているかどうかという事実にかかわらない概念である。)。この用語は、この役割を担う人の「あるべき姿」を指してもいて、人々が専門的な仕事をする人ならば備えていて欲しいと願っているように、能力が高く、技術に優れ、確かな仕事をする人のことを指している。 なお「プロフェッショナリズム」という概念は、前者「プロフェッショナル」の意味をつきつめたものである。 <!-- 翻訳があまりに素人っぽく、日本語として意味が通じない。 * 専門知識のプロ (世俗主義にまたは長期の口語的な使用とは対照的に、好事家)、その結果として専門的な活動の結果(「プロは、自らやっているし知っている」)と課題を拒絶する能力についての知識と自分の能力(自分の能力と限界に関する知識)のため、十分な品質処理することができない * 能力 (例えば、プロミュージシャンの演奏) * 認定者によるアクティビティの実行[[教育|トレーニング]]のような専門的なコードによって証明することができ、自分の職業が特定の質の機能を備える専門職として規制されている。これはまたさらなる訓練の要件および適切な場合には心理社会的分野における[[スーパービジョン (教育)|監督]]が含まれえる。 「非常に専門的」という用語は、非常に高い基準を示している可能性があり、特定の特性(多くの場合、一次と二次の美徳の組み合わせ)に関連する行動に対する賛辞とみられ、とりわけ危機的状況に対処することの意味や信頼できる性格、 妥当性、公正さ、忠誠心、誠実さまたは義務感、ときには自分自身の信念に立ち向かうという意志という意味でつかわれる<ref>[[:de:Internetquelle]]</ref>。 --> [[日本語]]の「プロフェッショナル」や「プロ」は、英語の「professional」やその省略形「pro」をカタカナで音写したものであり、もともとが英語であるので英語の意味から勝手に離れるわけにはいかず、基本的には英語の意味内容と同等の内容を指さざるを得ない。よって、おおむね次のいずれかの意味で用いられている。 # [[専門家]]のこと。専門家らしく、ある分野について、高い能力や、高い技術を有し、質の高い仕事をする人。 # (アマチュアのように、無報酬で、趣味としてやっているのではない、という意味で)その人にとって主たる収入を得るために特定の仕事をしている人。 百科事典なので、この記事でも全ての分野のプロフェッショナル(プロ)について解説しなければならないが、[[スポーツ]]はもともとアマチュアであることが意義があるとされて発展してきて、その後、アマチュアとプロフェッショナルの区別がされ、それらの線引きが深刻な問題となってきた歴史が(他の分野よりも一層)顕著なので、まずはスポーツのプロフェッショナルから解説し、その後にスポーツ以外のプロフェッショナルについても解説することにする == スポーツのプロフェッショナル == {{複数の問題 | section = 1 | 出典の明記 = 2020年1月 | 独自研究 = 2020年1月 }} {{Main|プロフェッショナルスポーツ}} (「プロフェッショナル」や「プロ」の大まかな意味は、おおむね辞書的な意味に沿っており、おおまかな方向性は辞書的定義と一致しているのだが) 具体的にどのような人を「プロフェッショナル」(プロ)と呼ぶのか、と言うと、スポーツのひとつひとつの種類(種目)ごとに異なっている。よって下の節で、個々のスポーツ種目ひとつひとつのプロフェッショナル(プロ)について説明してゆく。 プロフェッショナルな選手は短縮形の「プロ」を用いて、「プロ選手」や(単に)「プロ」と呼ばれる。 なお、プロ選手が参加することで成り立っているスポーツ(やスポーツの特定の試合群)を[[プロフェッショナルスポーツ]]と言う。 ===歴史=== 19世紀のイギリスでは、「スポーツは上流階級の人々同士で行うもの」というのが、当時の(上流階級の)社会通念であった。その後次第に労働者の社会的地位が向上し、労働者にもスポーツに参加する道が開かれるようになって、スポーツは大衆化へと進んでいった。アメリカ合衆国では、1868年にアマチュア競技会への参加規定が決められたが、その趣旨はイギリスのものとは大きく異なり、アメリカではプロ野球の創設・発展、多額の賞金や賭博行為の増加・横行などによって腐敗が進み、プロフェッショナル競技者とアマチュア競技者の区別を明確化する必要に迫られたから、アマチュア競技会の参加規程が明確化されたのである。アメリカでは(イギリスのようには)労働者階級を排除する内容はなかった。 スポーツの歴史の中では[[近代オリンピック]]は[[アマチュアリズム]]が称揚され、その精神的な純粋さが重視されて発展し、人々はアマチュアリズムに喜びを見出していた歴史があるのだが、その後、次第にスポーツ大会が国家の宣伝に使われるようになり、社会主義諸国も資本主義諸国もオリンピックを国家の宣伝の道具のように利用するようになり、アマチュア規定をすり抜けるようにして、社会主義国では国家が「まるがかえ」で選手を援助し、住まいや食事や練習場やコーチを用意して選手を養成するようになったり、資本主義諸国では、例えば米国では(しばしば国家が直接、あるいは学校と連携して)「[[奨学金]]」などという形でスポーツをしている学生にお金を渡しておいて「アマチュア」としてオリンピックに参加させるという方法でアマチュア規定をすり抜けさせる、というやり方が横行するようになったり、(資本主義諸国では、金銭欲に駆られている人も多く、[[商業主義]](=金のためなら、どんな不正行為でもやらかしてしまうこと)が横行しがちなわけだが)米国に加えて欧州などの資本主義諸国でもスポーツ関連企業とアスリートが契約を結んでコマーシャルに出演させ、その代わりに道具やコーチや住居や食事を提供されるなどということが行われるようになった。つまり、アマチュア規定は その裏をかかれるようにしてすり抜けられることが(西側でも東側でも)世界中で起きるようになり、大会で上位に入賞するようなアスリートでは大半が、名目としては「アマチュア」なのに、実態としては(有形/無形の)報酬を得ていて、実態としては純粋な「アマチュア」と言うのは不適切な選手がかなりの割合になってしまったのである。また、実際には現金の授受が行われていたのに、アマチュア規定に違反していたことが発覚して参加資格を停止されることを防ごうと、ただ金銭を提供する側と受け取る側が口裏を合わせて隠していただけ、という悪質な場合もあった<ref group="注">皮肉なことに、近代オリンピックの大会が成功すればするほど人々の注目を集め、人の注目を集めれば集めるほど、アスリートたちは国家の宣伝の道具としても利用(悪用)され、スポーツ用品関連企業からも宣伝の道具として利用(悪用)されるようになり、直接的に動く金銭も、また裏でこっそりと渡される金銭の額も、さらに入賞者(メダリスト)たちが大会後に副次的に得る金銭的な見返りも増えていったのである。皮肉なことに、スポーツ大会は成功すればするほど、スポーツの世界を「政治的な思惑」や「金儲けの欲得」などの不純な要素で汚染させてしまい、腐敗させていってしまったのである。また、まるで[[禁酒令|禁酒法]]のように、禁止規定が強ければ強いほど、皮肉なことに、一部の悪事を行う者ばかりが より一層の利得を得る結果を招いてしまった。)</ref>。スポーツ界の汚染は進み、オリンピックや他の大きな大会で上位に入賞するような選手に関しては、もはや純粋な「アマチュア」を見出すことはほとんど困難な状態にまでなってしまい、規定をすり抜ける手法もますます巧妙化し、『「アマチュア」と「プロフェッショナル」をどうやったら線引きできるのか? (昔はともかく)今ではもう無理なのでは?』と 大会の主催者側の人々も頭をかかえこんでしまうような事態になっていってしまったわけである。結局 スポーツ界はアマチュア規定緩和の方向へと進むことになり、1962年には[[クリケット]]がアマチュア規定を廃止し、[[1968年]]にはテニスの[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン大会]]がプロフェッショナルにも開放された。そして1974年にはオリンピックのアマチュア条項からも「アマチュア」という言葉が削除された。その結果、その後は徐々に ほとんどの競技でアマチュアとプロフェッショナルは区別なく参加できるようになり、混合状態になった<ref> Harald Fischer:スポーツとビジネス</ref>。(その結果、アマチュア規定をすり抜けるためだけの、汚くて陰湿な攻防は減り) 近年では多くのスポーツ競技種目でプロ・アマが混合で競技し、「アマチュア」と呼ばれる人でも まるで「小企業」のように様々な形で収入を得ている<ref> [[:de:Arnd Krüger|ArndKrüger]] :スモールビジネスのオーナーとしての競技選手。 </ref>。 === オリンピックにおけるプロプレーヤの参加解禁 === {{複数の問題 | section = 1 | 出典の明記 = 2020年1月 | 独自研究 = 2020年1月 }} [[近代オリンピック|オリンピック]]等では[[アマチュアリズム|アマチュア規定]]に基づき、長い間プロの参加は認められていなかった。ただし無報酬でスポーツを行い、オリンピックなどの大きな大会に出場できるのは、それなりの社会階級に属しているものに限られる。また日本のスポーツでは、勝つことによる名誉のみを求め、無報酬でスポーツを行うことの精神的美しさが強調された面もある。 大陸間での国際トーナメントを行うテニスや、毎週末試合を行うサッカー、毎日試合を行う野球等では早くからアマチュアだけでやっていくのは困難になった。そこでこれらの競技では20世紀初頭から選手のプロ化が始まった。最近になって国際的な認知度がようやく高まった野球を別として、アマチュア至上主義をとっていた[[国際オリンピック委員会]] (IOC)とテニス、サッカーの競技団体は非常に折り合いが悪かった。(プロを解禁した現在ではIOCよりこれらの競技団体が優位に立っている) == プロフェッショナルの形態 == 日本国内におけるプロスポーツは定義づけにより以下のように分けることができる。 * 法律で定められた資格が必要なもの **[[オートレース]] **[[競艇]] **[[競馬]] **[[競輪]] * プロ(職業)選手のみで構成されているもの ** [[大相撲]] ** [[日本のプロ野球|プロ野球]] *** [[日本野球機構]](NPB) *** [[四国アイランドリーグplus]] *** [[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](ルートインBCリーグ) *** [[九州アジアリーグ]] ** [[日本ボクシングコミッション]](JBC)が管轄するプロボクシング ** [[全日本プロドリフト選手権]](D1グランプリ) ** スポーツではないが[[囲碁]]と[[将棋]]のプロもこのパターンに該当する。 * プロ選手が原則(プロリーグ)だがアマチュア選手も出場できるもの ** [[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ) ** [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](B.LEAGUE) ** [[関西独立リーグ (2代目)|関西独立リーグ]] ** プロゴルフの試合(オープン戦ではアマチュア選手も出場することがある。その場合は賞金なし) ** [[日本プロボウリング協会]](JPBA)が管轄するプロボウリングの試合(同上) ** [[ジャパンビーチバレーボールツアー]] ** [[ジャパンサイクルリーグ]] ** [[Jプロツアー]] * アマチュアリーグであるがプロ契約選手も活躍するもの ** サッカー *** [[日本フットボールリーグ]](JFL) *** [[日本女子サッカーリーグ]](なでしこリーグ) *** [[地域リーグ (サッカー)|サッカー地域リーグ]] ** バスケットボール *** [[バスケットボール女子日本リーグ]](Wリーグ) *** [[ジャパン・バスケットボールリーグ]](B3リーグ) *** [[地域リーグ (バスケットボール)|バスケットボール地域リーグ]] ** [[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE|ジャパンラグビーリーグワン]] ** [[日本バレーボールリーグ機構|日本バレーボールリーグ]](Vリーグ) ** [[日本ハンドボールリーグ]] ** [[日本フットサルリーグ]](Fリーグ) ** [[アジアリーグアイスホッケー]] ** 卓球 *** [[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]] *** [[日本卓球リーグ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アマチュア]] * [[職業倫理]] * [[職業的な境界線]] * [[専門家]] * [[専門職]] * [[専門士]] * [[士業]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろふえつしよなる}} [[Category:スポーツ用語]] [[Category:職業]] [[Category:スポーツ関連の職業|*ふろふえつしよなる]] [[Category:英語の語句]]
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マクロメディア
マクロメディア (Macromedia, Inc) は、かつてアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本拠のあったソフトウェア会社。アドビシステムズ(現在のアドビ)により買収された。スローガンは "What the Web Can Be"。 FreeHandとAdobe Illustrator 、FireworksとAdobe ImageReady、Dreamweaverと Adobe GoLive、Flashと Adobe LiveMotion といった競合製品を出していて、アドビシステムズとのライバルであり、訴訟合戦を行っていた。 しかし、2005年4月にアドビシステムズが約34億ドルでマクロメディアを買収すると発表、同年12月3日に買収を完了した。 1992年、MacromediaはAuthorware社(Authorwareの開発元)とMacroMind-Paracomp社(現在のAdobe Directorの開発元)が合併して設立された。 早くからマルチメディア市場に進出し、90年代半ばまでにオーサリングツールDirectorとWeb用のShockwaveでその地位を確立した。そしてWeb上のメディアツールのマーケットを狙い、1996年に米FutureWave Software社とiBand社を買収し、FutureWave Software 社のウェブアニメーション作成ツール "FutureSplash Animator" を元に1997年1月、Flashをリリースした。 また、iBand社の開発した"Backstage"シリーズよりWebオーサリングツールのDreamweaverをリリースした。その後、Web用画像編集ツールFireworksをリリースする等、インターネット関連製品に力を入れる。 1999年10月にWebサイト管理ソフトのアンドロメディア (Andromedia)、2000年12月に短編映画制作のアトムフィルムズ(英: AtomFilms)、2001年1月にウェブ開発ツールメーカーのAllaire、2003年1月にトレーニングツールメーカーPresedia、2004年にヘルプ・ラーニングツールメーカーのeHelpを買収した。 ()内はアドビシステムズによる買収後の状況 アドビシステムズは移管後、製品名からMacromediaの名前を外している。 アドビシステムズによる買収以前に開発・販売が終了した製品、及び改称した製品。 ()の説明がない場合は開発が終了しているか、開発状況の公開を終了した製品。 詳細はMacromedia Studioを参照。 これらは単独の製品の組み合わせで構成されていた。2002年に"Macromedia MX"ブランドとして主力製品のラインナップが一新され、"Macromedia Studio MX"として新たなスイートパッケージが登場した。以降はそのパッケージでバージョンアップが行われた。
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マクロメディア は、かつてアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本拠のあったソフトウェア会社。アドビシステムズ(現在のアドビ)により買収された。スローガンは "What the Web Can Be"。 FreeHandとAdobe Illustrator 、FireworksとAdobe ImageReady、Dreamweaverと Adobe GoLive、Flashと Adobe LiveMotion といった競合製品を出していて、アドビシステムズとのライバルであり、訴訟合戦を行っていた。 しかし、2005年4月にアドビシステムズが約34億ドルでマクロメディアを買収すると発表、同年12月3日に買収を完了した。
'''マクロメディア''' (Macromedia, Inc) は、かつて[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]に本拠のあった[[ソフトウェア]]会社。アドビシステムズ(現在の[[アドビ]])により買収された。[[スローガン]]は "What the Web Can Be"。 [[Macromedia FreeHand|FreeHand]]と[[Adobe Illustrator]] 、[[Adobe Fireworks|Fireworks]]と[[Adobe ImageReady]]、[[Adobe Dreamweaver|Dreamweaver]]と [[Adobe GoLive]]、[[Adobe Flash|Flash]]と [[Adobe LiveMotion]] といった競合製品を出していて、アドビシステムズとのライバルであり、訴訟合戦を行っていた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/USNEWS/20000902/2/ Adobeがタブ・パレットに関する特許侵害でMacromediaを提訴 ]</ref><ref>[http://www.nikkeibp.co.jp/archives/184/184739.html 米アドビに対する特許侵害訴訟で米マクロメディアに軍配]</ref>。 しかし、[[2005年]]4月にアドビシステムズが約34億ドルでマクロメディアを買収すると発表、同年[[12月3日]]に買収を完了した。 ==歴史== [[1992年]]、MacromediaはAuthorware社(Authorwareの開発元)とMacroMind-Paracomp社(現在のAdobe Directorの開発元)が合併して設立された。 早くからマルチメディア市場に進出し、90年代半ばまでにオーサリングツール[[Adobe Director|Director]]とWeb用の[[Shockwave]]でその地位を確立した。そしてWeb上のメディアツールのマーケットを狙い、[[1996年]]に米FutureWave Software社とiBand社を買収し、FutureWave Software 社のウェブアニメーション作成ツール "FutureSplash Animator" を元に[[1997年]]1月、[[Adobe Flash|Flash]]をリリースした。 また、iBand社の開発した"Backstage"シリーズより[[Webオーサリングツール]]の[[Adobe Dreamweaver|Dreamweaver]]をリリースした。その後、Web用画像編集ツール[[Adobe Fireworks|Fireworks]]をリリースする等、インターネット関連製品に力を入れる。 [[1999年]]10月にWebサイト管理ソフトの[[アンドロメディア (ソフトウェア)|アンドロメディア]] (Andromedia)、[[2000年]]12月に短編映画制作の{{日本語版にない記事リンク|Atom.com|en|Atom.com|label=アトムフィルムズ|interwikilabel=AtomFilms|short=on}}、[[2001年]]1月にウェブ開発ツールメーカーのAllaire、[[2003年]]1月にトレーニングツールメーカーPresedia、[[2004年]]にヘルプ・ラーニングツールメーカーのeHelpを買収した。 ==製品== ()内はアドビシステムズによる買収後の状況 *[[Macromedia Authorware]]('''製品開発終了''') *[[Macromedia Breeze]]('''吸収''':[[Adobe Acrobat Connect]] Professional) *Macromedia Captivate('''移管''':[[Adobe Captivate]]) *Macromedia Contribute('''移管''':[[Adobe Contribute]]) *[[Macromedia Central]](開発終了、'''継承''':[[Adobe_Integrated_Runtime|Adobe AIR]]) *Macromedia ColdFusion('''移管''':[[ColdFusion|Adobe ColdFusion]]) *Macromedia Director('''移管''':[[Adobe Director]]) *Macromedia Dreamweaver('''移管''':[[Adobe Dreamweaver]]) *Macromedia Fireworks('''移管''':[[Adobe Fireworks]]) *Macromedia Flash('''移管''':[[Adobe Flash]]→[[Adobe Animate]]) *Macromedia Flash Player('''移管''':Adobe Flash Player) *Macromedia FlashPaper('''製品開発終了''') *Macromedia Flash Media Server('''移管''':[[Adobe Flash Media Server]] シリーズ) *Macromedia Flex('''移管''':[[Adobe Flex]]) *[[Macromedia FreeHand]] ('''開発終了''') *[[JRun|Macromedia JRun]] ('''開発終了''') *Macromedia RoboHelp('''移管''':[[Adobe RoboHelp]]) *Macromedia RoboInfo('''統合''':[[Adobe RoboHelp]]) *[[Macromedia Studio]]('''統合''':[[Adobe Creative Suite]]、後継に当たるのは "- Web Standard") *Macromedia Shockwave('''移管''':[[Adobe Shockwave]]) *[[Macromedia SoundEdit 16]](開発終了、'''継承''':[[Adobe Soundbooth]]) アドビシステムズは移管後、製品名からMacromediaの名前を外している。 ==過去の製品== アドビシステムズによる買収以前に開発・販売が終了した製品、及び改称した製品。 ()の説明がない場合は開発が終了しているか、開発状況の公開を終了した製品。 *Authorware Professional('''改称''':Macromedia Authorware) *Macromedia ARIA - Macromedia LikeMindsと連携 *[[Macromedia Backstage]]('''継承''':Macromedia Dreamweaver) *[[Macromedia Authorware|Macromedia Authorware Attain]] *[[Macromedia Authorware|Macromedia Authorware Star]] *[[Adobe Director|Macromedia Director7 Lite]] *[[Adobe Dreamweaver|Macromedia Dreamweaver Attain]] *[[Adobe Dreamweaver|Macromedia Dreamweaver UltraDeveloper]]('''統合''':Macromedia [[Adobe Dreamweaver|Dreamweaver]] MX) *[[Macromedia Drumbeat]] 2000('''統合''':Macromedia [[Adobe Dreamweaver|Dreamweaver]] MX) - ASP開発 *[[Macromedia Extreme 3D]]('''継承''':Macromedia Director/Shockwave) *[[Final_Cut_Pro|Macromedia FinalCut]] - '''未発売'''。コードネーム「KeyGrip」として開発されていたが発売前に[[Apple]]へ売却された為、マクロメディアからはベータ版の配布のみ。 *[[Macromedia Flash Communication Server MX]]('''改称''':[[Macromedia Flash Media Sever]]) *[[Macromedia Flash Remorting MX]] *[[Fontographer|Macromedia Fontographer]](Adobeによる買収後、権利が[[FontLabs]]社に'''移動''') *[[Macromedia Generator]] - 動的にFlash向けのデータを作成 *[[Macromedia Macromodel]] ('''継承''':Macromedia Extreme 3D) *[[Macromedia HomeSite]]('''統合''':Macromedia [[Adobe Dreamweaver|Dreamweaver]] MX) - WYSIWYG HTMLエディタ *[[Macromedia Kawa]] - Java開発。2000年にAllaire社がTek Tools社から買収。 *[[Macromedia LikeMinds]] - データ分析 *[[Macromedia xRes|Macromedia Matisse]]('''改称''':Macromedia xRes) - イメージエディタ *[[Macromedia Pathware]]([[ロータス_(ソフトウェア)|ロータス]]により'''買収''') - 教育管理システム *Macromedia RoboDemo('''改称''':Macromedia [[Adobe Captivate|Captivate]]) *[[Macromedia SiteSpring]] - Webデータ連携 *Macromedia WHIRLWIND *[[Macromedia xRes]]('''継承''':Macromedia [[Adobe Fireworks|Fireworks]]) *[[Macromedia Xtra]] - 追加プラグイン集 *[[Macromind Action!]] - プレゼンテーション *[[Paracomp Swivel3D]]('''改称''':Macromedia Extream 3D) ===ユーティリティ・その他=== *Macromedia Afterburner - DirectorデータをShockwaveに変換(Shockwave for Director) *Macromedia AfterShock - Flashムービーを埋め込んだHTMLを生成 *Macromedia Shockmachine - Shockwaveコンテンツを保存し、オフラインで再生・実行 *Macromedia Shockwave Remote - 上記と同様の機能(簡易版) *Shockrave - ゲーム、オンラインコミックのエンターテイメントWebサービス ===スイートパッケージ=== 詳細は[[Macromedia Studio]]を参照。 *Macromedia Attain Enterprise Learning System *Macromedia Authorware Interactive Studio *Macromedia ColdFusion 5/UltraDeveloper 4 Studio *Macromedia Director6 Multimedia Studio *Macromedia Director7 Shockwave Internet Studio *Macromedia Director8.5 Shockwave Studio *Macromedia Dreamweaver/Fireworks Studio *Macromedia Dreamweaver UltraDeveloper 4/Fireworks 4 Studio *Macromedia Flash/FreeHand Studio *Macromedia FreeHand Graphics Studio for Macintosh *Macromedia WebDesign Studio *Macromedia Web Publishing System(Adobeによる買収後も継続) *Macromedia Web Learning Studio これらは単独の製品の組み合わせで構成されていた。2002年に"Macromedia MX"ブランドとして主力製品のラインナップが一新され、"Macromedia Studio MX"として新たなスイートパッケージが登場した。以降はそのパッケージでバージョンアップが行われた。 ==買収・一部買収した企業== ; [[:en:Altsys|Altsys]] : FreeHand,Fontographerを開発、FreeHand部門がアドビシステムズ,[[Aldus]]による買収・権利の移動を得て、最終的に1992年にMacromediaが買収。 ; [[:en:Allaire_Corporation|Allaire]] : ColdFusion,HomeSite,Kawa,JRunを開発。 ; [[:en:eHelp|eHelp]] : RoboDemo(後の Macromedia Captivate),RoboHelp,RoboInfoを開発。 ; [[:en:Farallon_Computing|Farallon Computing]] : MacRecorder(一部が後のMacromedia SoundEdit 16)を開発、1991年にMacroMind-Paracompが買収。 ; [[:en:Fauve_Software|Fauve Software]] : Fauve Matisse(後のMacromedia xRes)を開発、1995年にMacromediaが買収。 ; [[:en:FutureWave Software|FutureWave Software]]([[Silicon Beach Software]]) : FutureSplash(後のMacromedia Flash)を開発 ; iBand : Backstage (Macromedia Dreamweaverの原点)シリーズを開発 ; OSC : DECK II(Macromedia SoundEdit16 に同梱)を開発 ; [[:en:Presedia|Presedia]] : Presedia Express(後のMacromedia Breeze)を開発、Macromediaに買収。 == 参考 == <references /> ==関連項目== * [[Final Cut Pro]] - マクロメディアが開発中の映像編集ソフトウェアと開発チームをAppleへ売却したもの。 * [[Webデザイナー]] == 外部リンク == * [http://www.adobe.com/jp/ アドビ(日本語)] * {{Mediaarts-db}} {{MATvp}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まくろめていあ}} [[Category:アドビ|*まくろめていあ]] [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のソフトウェア会社]] [[Category:パソコンの歴史]] [[Category:インターネットの歴史]] [[Category:サンフランシスコの企業|廃]]
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中綴じ
中綴じ(なかとじ)とは、製本の方式の一つ。本を開いた状態の紙(通常1枚で4ページ分となる)を重ね、中央部分に沿って針金(ステッチ)にて止める。 週刊誌、漫画雑誌、マニュアル(取扱説明書)、会報、パンフレット、リーフレットなどでよく用いられる。用紙の厚みの関係で、ページ数の多いものには向いていない。総ページ数は表紙を含めて4の倍数ページとなる。ただし、2ページ(ペラ)を追加する場合は、4ページののどに、貼りこむ。ノートや通帳などページを開いた状態で使うものにも使われる。折り曲げた状態で裁断されるため、ページによって広さが変わり、中心部のページほど狭く、外側のページほど広い。 一番開きやすい真ん中のページの見開きのことをセンターフォールドと言い、男性向け雑誌ではイチ推しのモデル・女優の写真が掲載されるのが通例となっている。バブル期に発刊されていた、週刊のアルバイト求人誌「FromA」は、出稿の増加が続いてページが増え続け、ついに中綴じで編集・製本できる限界を超えてしまい、週2回の刊行に変更された。
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中綴じ(なかとじ)とは、製本の方式の一つ。本を開いた状態の紙(通常1枚で4ページ分となる)を重ね、中央部分に沿って針金(ステッチ)にて止める。 週刊誌、漫画雑誌、マニュアル(取扱説明書)、会報、パンフレット、リーフレットなどでよく用いられる。用紙の厚みの関係で、ページ数の多いものには向いていない。総ページ数は表紙を含めて4の倍数ページとなる。ただし、2ページ(ペラ)を追加する場合は、4ページののどに、貼りこむ。ノートや通帳などページを開いた状態で使うものにも使われる。折り曲げた状態で裁断されるため、ページによって広さが変わり、中心部のページほど狭く、外側のページほど広い。 一番開きやすい真ん中のページの見開きのことをセンターフォールドと言い、男性向け雑誌ではイチ推しのモデル・女優の写真が掲載されるのが通例となっている。バブル期に発刊されていた、週刊のアルバイト求人誌「FromA」は、出稿の増加が続いてページが増え続け、ついに中綴じで編集・製本できる限界を超えてしまい、週2回の刊行に変更された。
{{出典の明記| date = 2022-11}} [[File:Saddle stitch stapler.svg|thumb|200px|right|中綴じ用ステープラー]] '''中綴じ'''(なかとじ)とは、[[製本]]の方式の一つ。[[本]]を開いた状態の紙(通常1枚で4ページ分となる)を重ね、中央部分に沿って[[針金]](ステッチ)にて止める。 [[週刊誌]]、[[漫画雑誌]]、[[マニュアル]](取扱説明書)、会報、[[小冊子|パンフレット]]、[[リーフレット]]などでよく用いられる。用紙の厚みの関係で、ページ数の多いものには向いていない。総ページ数は表紙を含めて4の倍数ページとなる。ただし、2ページ(ペラ)を追加する場合は、4ページののどに、貼りこむ。ノートや通帳などページを開いた状態で使うものにも使われる。折り曲げた状態で裁断されるため、ページによって広さが変わり、中心部のページほど狭く、外側のページほど広い。 一番開きやすい真ん中のページの見開きのことを[[センターフォールド]]と言い、男性向け雑誌ではイチ推しのモデル・女優の写真が掲載されるのが通例となっている。バブル期に発刊されていた、週刊のアルバイト求人誌「[[FromA]]」は、出稿の増加が続いてページが増え続け、ついに中綴じで編集・製本できる限界を超えてしまい、週2回の刊行に変更された。 ==関連項目== *[[平綴じ]] *[[雑誌]] *[[断裁]] [[Category:製本|なかとし]]
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紀元前427年
紀元前427年(きげんぜん427ねん)
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紀元前427年(きげんぜん427ねん)
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|330}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|430}} | 10年紀= {{紀元前/年代|420}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|410}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|400}} | 3年前= {{紀元前/年|430}} | 2年前= {{紀元前/年|429}} | 1年前= {{紀元前/年|428}} | 1年後= {{紀元前/年|426}} | 2年後= {{紀元前/年|425}} | 3年後= {{紀元前/年|424}} |}} [[紀元前]]'''427年'''(きげんぜん427ねん) == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[甲寅]] * [[日本]] ** [[皇紀]]234年 ** [[孝昭天皇]]49年 * [[中国]] ** [[周]] - [[考王]]14年 ** [[秦]] - [[懐公 (秦)|懐公]]2年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[幽公 (晋)|幽公]]7年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[簡王 (楚)|簡王]]5年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[宣公 (斉)|宣公]]29年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[閔公 (燕)|閔公]]12年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[趙無恤|襄子]]49年 ** [[魏 (戦国)|魏]] - [[文侯 (魏)|文侯]]19年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1907年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 118年 * [[ユダヤ暦]] : 3334年 - 3335年 {{Clear}} == できごと == === ギリシア === * [[アギス2世]]が父の[[アルキダモス2世]]から[[スパルタ王]]を引き継いだ。 * [[ミティリーニ|ミュティレネ]]が[[アテネ]]に降伏し([[ミュティレネの反乱]])、アテナイの政治家[[クレオン (政治家)|クレオン]]はミュティレネ人全員の処刑を主張した。裁判の結果、反乱首謀者だけが処刑されることになった。 * [[プラタイア]]が[[スパルタ]]および[[テーバイ]]に包囲され、守備隊は飢餓状態となり降伏した。200名以上の捕虜が殺害され、プラタイアは破壊された。 === ローマ === * [[クァエストル]]が[[プレブス]]に開かれた。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前427年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[プラトン]]:[[古代ギリシア]]の[[哲学者]] == 死去 == {{see also|Category:紀元前427年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[アルキダモス2世]]:[[スパルタ王]] == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|427 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=5|年代=400|BC=1}} {{history-stub}} {{デフォルトソート:きけんせん427ねん}} [[Category:紀元前427年|*]]
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紀元前347年
紀元前347年(きげんぜん347ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前347年(きげんぜん347ねん)は、ローマ暦の年である。
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15,070
略語
略語(りゃくご、英: abbreviation)とは、ある語の一部を何らかの方法で省略または簡略した形で、なお元の意味を保っているもの。広義では、頭字語をも指す。類似する概念に、省略語(しょうりゃくご)・短縮語(たんしゅくご)がある。地名・人名・団体名その他の固有名詞の正式名称について略したものは、略称(りゃくしょう)という。 略語が作られる主な理由は、発話や筆記、あるいは機械を使った音声や文字の入力、そして通信および印刷などを行う際に、語形の長さからくる煩わしさを回避するためである。他に、仲間以外に知られないようにするために作られる隠語的な略語もある。 日本語の略語: 国語学者の森岡健二によれば、日本語(和語・漢語)の略語全体に目立つ特徴は、その大部分が固有名詞か、専門用語か、あるいは俗語・隠語の仲間であるということである。また、外来語のカタカナ略語は、原語の形態素に沿って忠実に簡略化したものでなく、原語の形態を無視した符号的な性格をもつところに特色があるという。日本語の略語は、外来語由来のものも含めて、ふつう4拍以内に収まることが多い。 アルファベットを使用する言語の略語(英語を例に): 中国語の略語: 中国語の略語について、『略語手冊』(李熙宗・孫蓮芬 編、1986年、知識出版社)には二字漢語による合成語とその縮略型、語順の転倒型が2438語収録されているが、前述した縮略型略語の中では語頭連結型が36.5%を占めており、語頭(A・X)の省略は一般に少ない。特に、前項語の語頭(A)が省略されている略語は22.4%にすぎないのに対して、語尾(B)が省略されている語は77.5%もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "略語(りゃくご、英: abbreviation)とは、ある語の一部を何らかの方法で省略または簡略した形で、なお元の意味を保っているもの。広義では、頭字語をも指す。類似する概念に、省略語(しょうりゃくご)・短縮語(たんしゅくご)がある。地名・人名・団体名その他の固有名詞の正式名称について略したものは、略称(りゃくしょう)という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "略語が作られる主な理由は、発話や筆記、あるいは機械を使った音声や文字の入力、そして通信および印刷などを行う際に、語形の長さからくる煩わしさを回避するためである。他に、仲間以外に知られないようにするために作られる隠語的な略語もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語の略語:", "title": "略語の形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国語学者の森岡健二によれば、日本語(和語・漢語)の略語全体に目立つ特徴は、その大部分が固有名詞か、専門用語か、あるいは俗語・隠語の仲間であるということである。また、外来語のカタカナ略語は、原語の形態素に沿って忠実に簡略化したものでなく、原語の形態を無視した符号的な性格をもつところに特色があるという。日本語の略語は、外来語由来のものも含めて、ふつう4拍以内に収まることが多い。", "title": "略語の形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アルファベットを使用する言語の略語(英語を例に):", "title": "略語の形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "中国語の略語:", "title": "略語の形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中国語の略語について、『略語手冊』(李熙宗・孫蓮芬 編、1986年、知識出版社)には二字漢語による合成語とその縮略型、語順の転倒型が2438語収録されているが、前述した縮略型略語の中では語頭連結型が36.5%を占めており、語頭(A・X)の省略は一般に少ない。特に、前項語の語頭(A)が省略されている略語は22.4%にすぎないのに対して、語尾(B)が省略されている語は77.5%もある。", "title": "略語の形態" } ]
略語とは、ある語の一部を何らかの方法で省略または簡略した形で、なお元の意味を保っているもの。広義では、頭字語をも指す。類似する概念に、省略語(しょうりゃくご)・短縮語(たんしゅくご)がある。地名・人名・団体名その他の固有名詞の正式名称について略したものは、略称(りゃくしょう)という。 略語が作られる主な理由は、発話や筆記、あるいは機械を使った音声や文字の入力、そして通信および印刷などを行う際に、語形の長さからくる煩わしさを回避するためである。他に、仲間以外に知られないようにするために作られる隠語的な略語もある。
{{WikipediaPage|ウィキペディアの編集における要約略語については、[[Wikipedia:常に要約欄に記入する#要約欄でよく使われる略語]]をご覧ください。}} {{出典の明記|date=2021年3月}} '''略語'''(りゃくご、{{lang-en-short|abbreviation}})とは、ある[[語]]の一部を何らかの方法で省略または簡略した形で、なお元の意味を保っているもの<ref>松村明『日本文法大辞典』明治書院</ref>。広義では、[[頭字語]]をも指す。類似する概念に、'''省略語'''(しょうりゃくご)・'''短縮語'''(たんしゅくご)がある。[[地名]]・[[人名]]・[[団体]]名その他の[[固有名詞]]の正式名称について略したものは、'''略称'''(りゃくしょう)という<ref name="O.H.">平凡社『[[世界大百科事典]]』改訂新版 p.607【略語】[[林大]]執筆項より。</ref><ref>{{Cite Kotobank |word=略語 |encyclopedia=小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) |accessdate=2023-01-08}}</ref>。 略語が作られる主な理由は、発話や筆記、あるいは機械を使った音声や文字の入力、そして通信および印刷などを行う際に、語形の長さからくる煩わしさを回避するためである。他に、仲間以外に知られないようにするために作られる隠語的な略語もある<ref name="O.H."/><ref>{{Cite Kotobank |word=略語 |encyclopedia=世界大百科事典 第2版 |hash=#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 |accessdate=2023-01-08}}</ref>。 == 略語の形態 == === 日本語 === '''[[日本語]]'''の略語: #[[和語]]・[[漢語]]の略語{{efn2|『日本語学』1988年10月号{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=4-12|loc=[[森岡健二]]「略語の条件」}}を基に作成{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=7-10|loc=森岡健二「略語の条件」}}。}} ##[[形態素]]の音声を忠実に取り入れたもの(例:[[国際連合]]→国連、[[公正取引委員会]]→公取委) ##形態素の音声面をぼかす暗号的なもの(例:[[警察]]→サツ、[[渋谷]]→ブヤ) ##形態素の音声面を捨てて、文字に基づくもの(例:[[東京]]と[[横浜市|横浜]]→[[京浜]]、[[外国為替]]→外為) ##形態素から最も遠い、欧文の略語法に倣ったもの(例:[[日本放送協会]]→Nippon Hoso Kyokai→NHK) #[[外来語]]ないし[[和製英語]]の略語{{efn2|『日本語学』1988年10月号{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=13-21|loc=[[田辺洋二]]「外来語の略語ーカタカナ語とローマ字語ー」}}を基に作成{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=15-18|loc=田辺洋二「外来語の略語ーカタカナ語とローマ字語ー」}}。}} ##[[カタカナ]]略語 - カタカナ表記による語が何らかの方法で簡略化したもの ###単一語 ####[[語頭音消失|前省略]]型(例:[[アルバイト]]→バイト) ####[[語中音消失|中省略]]型(実例はほとんどない) ####[[語尾音消失|後省略]]型(例:[[ストライキ]]→スト、[[チョコレート]]→チョコ) ###複合語 ####前省略型(例:[[ヒットエンドラン]]→エンドラン) ####中省略型(例:ルポルタージュライター→[[ルポライター]]) ####後省略型(例:[[コンビニエンスストア]]→コンビニ、[[百貨店|デパートメントストア]]→デパート) ####頭字語型(例:エンジンストール→[[エンスト]]、[[パーソナルコンピュータ]]→パソコン) ####文字による略語(例:[[パシフィック・リーグ]]→パ・リーグ) ##[[ローマ字]]略語 - ローマ字表記のまま簡略に出来ているもの。後述する外国語の頭字語の中には、日本語の一部として定着したものもある。(例:Parent-Teacher Association→[[PTA]]) #異言語の混成([[混種語]])による略語(例:空+オーケストラ→[[カラオケ]]) 国語学者の[[森岡健二]]によれば、日本語(和語・漢語)の略語全体に目立つ特徴は、その大部分が[[固有名詞]]か、[[専門用語]]か、あるいは[[俗語]]・[[隠語]]の仲間であるということである{{sfn|『日本語学』1988年10月号|p=8|loc=[[森岡健二]]「略語の条件」}}。また、[[外来語]]のカタカナ略語は、原語の[[形態素]]に沿って忠実に簡略化したものでなく、原語の形態を無視した符号的な性格をもつところに特色があるという{{sfn|『日本語学』1988年10月号|p=11|loc=[[森岡健二]]「略語の条件」}}。日本語の略語は、外来語由来のものも含めて、ふつう4[[モーラ|拍]]以内に収まることが多い<ref name="O.H."/>。 === アルファベットを使用する言語 === <!-- 筆者注:キリル文字などラテン文字以外を用いる言語でも同様に頭字語を作ることがあるため、「アルファベットを使用する言語」とした。 --> '''[[アルファベット]]を使用する言語'''の略語([[英語]]を例に){{efn2|「O-LEXブログ 新語リポート 第3回 略語とその種類(1)」を参考にして作成<ref>{{Cite web|和書|author=花本金吾 |authorlink=花本金吾 |url=https://olex.obunsha.co.jp/?p=1228 |title=新語リポート 第3回 略語とその種類① |website=オーレックス英和辞典・和英辞典 [O-LEX] |publisher=旺文社 |date=2015-12-16 |accessdate=2023-01-08}}</ref>。}}: #[[イニシャル|頭字]]による省略('''[[頭字語]]''') ##'''[[アクロニム]]''' - [[複合語]]を構成する各単語の頭文字だけを並べた語で、略語を通常の単語と同じように発音するもの{{efn2|name="IA"}}(例:[[アメリカ航空宇宙局|National Aeronautics and Space Administration]]→NASA→ナサ、Radio Detecting and Ranging→[[レーダー|radar]]→レーダー) ##'''[[イニシャリズム]]''' - 複合語を構成する各単語の頭文字だけを並べた語で、略語のアルファベットを一字ずつ[[発音]]するもの{{efn2|name="IA"|ただし、[[VAT]]([[付加価値税]])のように2通りに発音できるものや、[[DVD-ROM]]のように1つの略語の中に2種類の発音が混ざったものもあるため、最近では[[イニシャリズム]]と[[アクロニム]]は、あまり厳密に区別されない。}}(例:[[連邦捜査局|Federal Bureau of Investigation]]→FBI→エフ・ビー・アイ、[[アメリカ合衆国|United States of America]]→USA→ユー・エス・エー) #切り捨てによる省略(端折り語、{{仮リンク|クリッピング|en|Clipping (morphology)}})- 単語を短縮して表現する方法 ##前省略型(例:[[インターネット|Internet]]→net, [[電話|telephone]]→phone, weblog→[[ブログ|blog]]) ##中省略型(例:[[博士|Doctor]]→Dr., [[数学|mathematics]]→maths) ##後省略型(例:[[会社|Company]]→Co., [[ファクシミリ|facsimile]]→fax, [[覚書|memorandum]]→memo) ##前後省略型(例:[[インフルエンザ|influenza]]→flu) ##母音省略型{{efn2|[[アブジャド#アブジャドに似た考えかた|アブジャド]]を参照。}}(例:[[建築物|building]]→bldg.) #混成による省略({{仮リンク|ブレンド (言語学)|en|Blend word|label=ブレンド}}) ##混成語<!-- blendの訳語 --> - (例:binary digit→[[ビット|bit]]) ##[[かばん語]]<!-- portmanteauの訳語 --> - (例:breakfast+lunch→[[ブランチ (食事)|brunch]]) #[[ラテン語]]由来の古典的な略語(例:confer→cf., exempli gratia→e.g., et cetera→etc.) === 中国語 === '''[[中国語]]'''の略語{{efn2|『日本語学』1988年10月号{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=22-29|loc=竹中憲一「中国語の略語」}}を基に作成{{sfn|『日本語学』1988年10月号|pp=23-25|loc=竹中憲一「中国語の略語」}}。}}: #縮略 - 語の一部を省略したもの ##簡称 - 名称を簡略化したもの(例:{{lang|zh|中国作家協会}}→{{lang|zh|作協}}、{{lang|zh|[[北京大学]]}}→{{lang|zh|北大}}、{{lang|zh|[[中国中央電視台|中国中央电视台]]}}→{{lang|zh|央视}}) ##語頭連結型 - ABXY→AXの形(例:{{lang|zh|法律制度}}→{{lang|zh|法制}}、{{lang|zh|公共衛生}}→{{lang|zh|公衛}}) ##語頭語尾連結型 - ABXY→AYの形(例:{{lang|zh|公共道徳}}→{{lang|zh|公徳}}、{{lang|zh|節約用水}}→{{lang|zh|節水}}) ##語尾語頭連結型 - ABXY→BXの形(例:{{lang|zh|人民警察}}→{{lang|zh|民警}}、{{lang|zh|教授徒弟}}→{{lang|zh|授徒}}) ##語尾連結型 - ABXY→BYの形(例:{{lang|zh|結婚年齢}}→{{lang|zh|婚齢}}、{{lang|zh|教師学生}}→{{lang|zh|師生}}) ##語の省略型 ###前項語の省略 - ABXY→XYの形(例:{{lang|zh|国際公制}}→{{lang|zh|公制}}、{{lang|zh|工作母機}}→{{lang|zh|母機}}) ###後項語の省略 - ABXY→ABの形(例:{{lang|zh|華氏温度}}→{{lang|zh|[[華氏]]}}、{{lang|zh|通信連絡}}→{{lang|zh|通信}}) ##語順の転倒型 - ABXY→XBまたはXAの形(例:{{lang|zh|審閲校訂}}→{{lang|zh|校閲}}、{{lang|zh|船舶租賃}}→{{lang|zh|租船}}) #統括 - 複数の語の共通の意味をもつ音節を取り出し、それらの語の数を冠したもの(例:{{lang|zh|徳育}}、{{lang|zh|智育}}、{{lang|zh|体育}}→{{lang|zh|三育}}) #代称 - 省略という方法ではなく、他の語で置き換えるもの(例:{{lang|zh|上海}}→{{lang|zh|滬}}、{{lang|zh|広州}}→{{lang|zh|穗}}) 中国語の略語について、『略語手冊』(李熙宗・孫蓮芬 編、1986年、知識出版社)には二字漢語による合成語とその縮略型、語順の転倒型が2438語収録されているが、前述した縮略型略語の中では語頭連結型が36.5%を占めており、語頭(A・X)の省略は一般に少ない{{sfn|李|孙|1988|p={{要ページ番号|date=2023年1月}} }}。特に、前項語の語頭(A)が省略されている略語は22.4%にすぎないのに対して、語尾(B)が省略されている語は77.5%もある{{sfn|『日本語学』1988年10月号|p=26|loc=竹中憲一「中国語の略語」}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book |others=李熙宗・孙莲芬 編 |title=略语手册 - Lüeyu shouce |location=上海 |publisher=知识出版社 |year=1986 |month=7 |edition=1st |series=百科手册:语文 / 倪海曙主编 |language=zh-Hans |ref={{sfnref|李|孙|1988}} }} * {{Cite journal|和書|title=特集 略語 |year=1988 |month=10 |publisher=[[明治書院]] |journal=[[日本語学 (雑誌)|日本語学]] |volume=7 |issue=10 |issn=0288-0822 |pages=4-29 |ref={{sfnref|『日本語学』1988年10月号}} }} == 関連項目 == {{wtc|日本語 略語|日本語の略語}} * [[:Category:略語の一覧]] - ウィキペディア日本語版に収録された略語・略称の一覧 * [[頭字語]](アクロニム) * [[ヌメロニム|数略語]](ヌメロニム) * [[かばん語]](ポートマントー) * [[人名の短縮形]] * [[電報略号]] * {{仮リンク|切り捨て略語|en|Clipping (morphology)}}<!-- 適当な略語の日本語表現があれば変更希望 --> == 外部リンク == * [http://plaza.harmonix.ne.jp/~cpulot/Dic.htm 不明解略語辞典] * {{Kotobank}} {{Language-stub}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:りやくこ}} [[Category:略語|*]] [[Category:語]] [[Category:言葉の文化]]
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こども
こども
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こども 未成年者、親もしくは大人の庇護を受けているものを指す「子供」。 漢字の部首であるこどもは「子部」を参照。
{{Wiktionary|こども}} '''こども''' *[[未成年者]]、[[親]]もしくは[[大人]]の庇護を受けているものを指す「'''[[子供]]'''」。 *[[漢字]]の[[部首]]である''こども''は「'''[[子部]]'''」を参照。 == 関連項目 == * {{前方一致ページ一覧|こども}} * {{intitle|こども}} * [[Wikipedia:索引 こと#ことも]] {{aimai}}
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携帯
携帯 (けいたい)、ケータイ
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携帯 (けいたい)、ケータイ 身に付けたり手に下げたりして持ち運ぶこと。 携帯機器類の略称 特に携帯電話の略称
'''携帯''' (けいたい)、'''ケータイ''' *身に付けたり手に下げたりして持ち運ぶこと。 *[[携帯機器]]類の略称 *特に[[携帯電話]]の略称 == 関連項目 == {{wt|携帯|キャリー|mobile|en:portable}}{{wtp|ケータイ}} *携帯[[食料]]([[携行食]])、携帯[[懐炉]]、携帯[[燃料]]、携帯[[コンロ]]、携帯[[ナイフ]] *携帯[[傘]](折り畳み傘) *携行[[武器]]・[[兵器]] *{{prefix|携帯}} *{{prefix|携行}} *[[キャリー]]([[:en:carry|carry]])、[[モバイル]]・モービル([[:en:mobile|mobile]])、[[ポータブル]]([[:en:portable|portable]]) *[[所持]] {{aimai}} {{デフォルトソート:けいたい}}
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ルミネセンス
ルミネセンス(luminescence)とは、物質が電磁波の照射や電場の印加、電子の衝突などによってエネルギーを受け取って励起し、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が熱平衡状態のときと比較して大きい状態にされたときに起きる自然放出による発光現象およびその光を指す。ルミネッセンスまたは冷光とも呼ばれる。 励起源からのエネルギーの供給を絶つとすぐに発光も止まる物を蛍光、残光を持つ物を燐光と呼ぶが、両者の区別はあまりはっきりしていない。両者をまとめて蛍光と呼ぶこともある。化学的には励起一重項からの失活に伴う発光を蛍光と呼び、三重項からの失活に伴う発光を燐光と呼び区別している。一般的に三重項は寿命が長く、励起一重項よりもエネルギー準位が低いため、燐光の波長は長くなる。 物性物理の分野ではこのルミネセンスのスペクトルや強度を調べることにより物質の性質が分かるため、様々な測定に用いられる。 なお、熱平衡状態の物質が光を発する現象は黒体放射である。また、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が1以上となる反転分布状態においては、誘導放出による光の増幅が起きる。 上記の様に、蛍光灯、液晶ディスプレイ(LCD)のバックライト、プラズマディスプレイ(PDP)、発光ダイオード(LED)、有機EL、ブラウン管など、すべてルミネセンスによるものである。レーザーを除く身の回りの照明および表示器具のうち、ルミネセンスによらないものは、白熱電球、ガス灯、太陽光など、19世紀から知られているものだけと言える。 輝尽性蛍光体を使用したX線の撮像装置が富士フイルムで開発されFCR(フジ・コンピューテッド・ラジオグラフィー)として販売されている。従来の銀塩写真による撮像よりもダイナミックレンジが大きく、高感度なため、少ない線量で撮像できる。原理は一旦蛍光体に放射線を照射し、その後波長の長い光を照射すると被曝線量に比例した蛍光を発する事による。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルミネセンス(luminescence)とは、物質が電磁波の照射や電場の印加、電子の衝突などによってエネルギーを受け取って励起し、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が熱平衡状態のときと比較して大きい状態にされたときに起きる自然放出による発光現象およびその光を指す。ルミネッセンスまたは冷光とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "励起源からのエネルギーの供給を絶つとすぐに発光も止まる物を蛍光、残光を持つ物を燐光と呼ぶが、両者の区別はあまりはっきりしていない。両者をまとめて蛍光と呼ぶこともある。化学的には励起一重項からの失活に伴う発光を蛍光と呼び、三重項からの失活に伴う発光を燐光と呼び区別している。一般的に三重項は寿命が長く、励起一重項よりもエネルギー準位が低いため、燐光の波長は長くなる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "物性物理の分野ではこのルミネセンスのスペクトルや強度を調べることにより物質の性質が分かるため、様々な測定に用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、熱平衡状態の物質が光を発する現象は黒体放射である。また、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が1以上となる反転分布状態においては、誘導放出による光の増幅が起きる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "上記の様に、蛍光灯、液晶ディスプレイ(LCD)のバックライト、プラズマディスプレイ(PDP)、発光ダイオード(LED)、有機EL、ブラウン管など、すべてルミネセンスによるものである。レーザーを除く身の回りの照明および表示器具のうち、ルミネセンスによらないものは、白熱電球、ガス灯、太陽光など、19世紀から知られているものだけと言える。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "輝尽性蛍光体を使用したX線の撮像装置が富士フイルムで開発されFCR(フジ・コンピューテッド・ラジオグラフィー)として販売されている。従来の銀塩写真による撮像よりもダイナミックレンジが大きく、高感度なため、少ない線量で撮像できる。原理は一旦蛍光体に放射線を照射し、その後波長の長い光を照射すると被曝線量に比例した蛍光を発する事による。", "title": "用途" } ]
ルミネセンス(luminescence)とは、物質が電磁波の照射や電場の印加、電子の衝突などによってエネルギーを受け取って励起し、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が熱平衡状態のときと比較して大きい状態にされたときに起きる自然放出による発光現象およびその光を指す。ルミネッセンスまたは冷光とも呼ばれる。 励起源からのエネルギーの供給を絶つとすぐに発光も止まる物を蛍光、残光を持つ物を燐光と呼ぶが、両者の区別はあまりはっきりしていない。両者をまとめて蛍光と呼ぶこともある。化学的には励起一重項からの失活に伴う発光を蛍光と呼び、三重項からの失活に伴う発光を燐光と呼び区別している。一般的に三重項は寿命が長く、励起一重項よりもエネルギー準位が低いため、燐光の波長は長くなる。 物性物理の分野ではこのルミネセンスのスペクトルや強度を調べることにより物質の性質が分かるため、様々な測定に用いられる。 なお、熱平衡状態の物質が光を発する現象は黒体放射である。また、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が1以上となる反転分布状態においては、誘導放出による光の増幅が起きる。
{{出典の明記|date=2013年11月}} {{独自研究|date=2013年11月}} [[File:Diversity of fluorescent patterns and colors in marine fishes - journal.pone.0083259.g001.png|thumb|蛍光海洋魚(バイオルミネセンス)]] '''ルミネセンス'''('''luminescence''')とは、物質が[[電磁波]]の照射や[[電場]]の印加、[[電子]]の衝突などによって[[エネルギー]]を受け取って[[励起]]し、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が[[熱平衡]]状態のときと比較して大きい状態にされたときに起きる[[自然放出]]による[[発光]]現象およびその光を指す。'''ルミネッセンス'''または'''冷光'''とも呼ばれる{{sfn|kotobank-ルミネセンス}}。 励起源からのエネルギーの供給を絶つとすぐに発光も止まる物を[[蛍光]]、残光を持つ物を[[燐光]]と呼ぶが、両者の区別はあまりはっきりしていない。両者をまとめて蛍光と呼ぶこともある。化学的には励起一重項からの失活に伴う発光を'''蛍光'''と呼び、三重項からの失活に伴う発光を'''燐光'''と呼び区別している。一般的に三重項は寿命が長く、励起一重項よりもエネルギー準位が低いため、燐光の波長は長くなる。 [[物性物理]]の分野ではこのルミネセンスの[[スペクトル]]や強度を調べることにより物質の性質が分かるため、様々な測定に用いられる。 なお、熱平衡状態の物質が光を発する現象は[[黒体放射]]である。また、低いエネルギー状態の分布数に対する高いエネルギー状態の分布数の比が1以上となる[[反転分布]]状態においては、[[誘導放出]]による光の増幅が起きる。 == 種類 == {| class="wikitable" ; |+ '''ルミネセンスの分類と関連する技術''' |- !ルミネセンス !励起のエネルギー源 ! colspan="2" |現象名 !関連技術・現象例 !備考・出典 |- ! rowspan="3" |[[フォトルミネセンス]]<br />(Photoluminescence:PL) | rowspan="3" |[[光子]] | colspan="2" |[[蛍光]] |{{Unbulleted list | [[蛍光灯]] | [[液晶ディスプレイ]](LCD)の[[バックライト]]([[冷陰極管]]) | [[プラズマディスプレイ]](PDP) | [[蛍光色|ネオンカラー]] }} | |- | colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|[[燐光]] |EL燐光材料 | |- |style="border-top-style:none;"|&nbsp; |[[蓄光]] |[[蛍光塗料]] | |- ![[エレクトロルミネセンス]]<br />(Electroluminescence:EL) |[[電界]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[発光ダイオード]](LED) | [[有機エレクトロルミネッセンス|有機EL]] | [[無機エレクトロルミネッセンス|無機EL]] }} | |- ![[カソードルミネッセンス|カソードルミネセンス]]<br />(Cathodoluminescence:CL) |[[電子線]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[ブラウン管]] }} | |- !放電発光 |[[電気]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[水銀灯]] | [[ネオン管]] }} | |- ![[熱ルミネセンス]] |[[熱]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[熱ルミネッセンス線量計]] }} | |- ![[ソノルミネッセンス|ソノルミネセンス]] |[[音響波]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[テッポウエビ]]の威嚇 }} | |- ![[トライボルミネセンス]] |[[摩擦]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[氷砂糖]]の破砕 | [[ガムテープ]]の剥離 }} | |- ![[化学発光|ケミルミネセンス]] |[[化学反応]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[ケミカルライト]] }} | |- ![[生物発光|バイオルミネセンス]] |生物の[[酵素反応]] | colspan="2" | |{{Unbulleted list | [[蛍]] | [[オワンクラゲ]]等、蛍光海洋魚の発光 }} | |} == 用途 == 上記の様に、蛍光灯、液晶ディスプレイ(LCD)のバックライト、プラズマディスプレイ(PDP)、発光ダイオード(LED)、有機EL、ブラウン管など、すべてルミネセンスによるものである。[[レーザー]]を除く身の回りの照明および表示器具のうち、ルミネセンスによらないものは、[[白熱電球]]、[[ガス灯]]、[[太陽光]]など、19世紀から知られているものだけと言える。 輝尽性蛍光体を使用したX線の撮像装置が[[富士フイルム]]で開発されFCR(フジ・コンピューテッド・ラジオグラフィー)として販売されている。従来の[[銀塩写真]]による撮像よりもダイナミックレンジが大きく、高感度なため、少ない線量で撮像できる。原理は一旦蛍光体に放射線を照射し、その後波長の長い光を照射すると被曝線量に比例した蛍光を発する事による。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献== {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/ルミネセンス|title=ルミネセンス|publisher=[[コトバンク]]|author=ブリタニカ国際大百科事典|accessdate=2018年12月7日|ref={{SfnRef|kotobank-ルミネセンス}}}} == 関連項目 == {{Commonscat|Luminescence}} * [[発光]] {{発光}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:るみねせんす}} [[Category:発光]] [[Category:エネルギー変換]]
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白河天皇
白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。 後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一皇子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に後の関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。 延久4年(1072年)、後三条天皇から譲位され、20歳で即位する。藤原教通、師実を関白に任じつつも、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる教通・信長父子と師実の対立があった。 父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・藤原賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。なお、この間の永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)には陸奥国・出羽国で後三年の役が起こっている。 ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位による皇位継承が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、嘉保3年(1096年)に後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。 それが大きく転換したのは、師通の働き盛りな年齢での急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。 政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた。武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年、保安元年の政変)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河法皇の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・媞子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、媞子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。非配偶の后(尊称皇后)の始めである。また、自分の従兄である藤原公実の遺児である藤原璋子を養女として育て、後に鳥羽天皇の中宮としてその子を崇徳天皇として即位させた。崇徳天皇は系譜的な外祖父は公実であるが、現実の外祖父は故人である公実ではなく璋子の養父の白河法皇であり、法皇も天皇の外祖父として儀式に関与するなどの役割を果たしている。 熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、成功がより一層横行するようになった。 堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。 大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。 不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。 中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。 白河法皇は両性愛者だったと考えられる。奔放な女性関係と併せて男色も大いに好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。 『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。 「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、盤双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。 法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。 洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・法勝寺を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、遺諡によって自ら白河院の追号を決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後、院号は停廃され白河天皇とされる。退位してからは白河上皇とされる。なお、「六条院」の院号は来孫(孫のひ孫)である順仁親王に追諡された。 陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは陵墓参考地として宮内庁の管轄地となっている。 また、白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。そうして天永2年(1111年)に法皇は自らの墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立するに至った。しかし、法皇の崩御時にはまだ遺骨を納めるための成菩提院が出来ていなかったため、衣笠山の山麓で法皇の遺体は荼毘に付され(火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する)、香隆寺に一旦埋葬された。そして天承元年(1131年)7月、鳥羽上皇は成菩提院を完成させると白河法皇の遺骨をそこに改葬した。 そのほか皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
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"父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王(摂関家に冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・藤原賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。なお、この間の永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)には陸奥国・出羽国で後三年の役が起こっている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位による皇位継承が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、嘉保3年(1096年)に後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", 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"堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「治天の君」と呼ぶようになる。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "不遇な状況にある東宮の王子であったため、治暦元年(1065年)に13歳で元服したが、妃の参入はなかった。延久元年(1069年)に立太子後、同年義理の従姉にあたる藤原道子が参入し、同3年(1071年)には関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中宮となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、女御となった道子の他は典侍・藤原経子程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った祇園女御など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "白河法皇は両性愛者だったと考えられる。奔放な女性関係と併せて男色も大いに好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通、あるいは北面武士の藤原盛重、平為俊はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。「双六の賽(さい)」とは、盤双六の二つのサイコロが出す「賽の目」のことである。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込み強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧衆(僧兵)のことである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された荘園を国司が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・法勝寺を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、遺諡によって自ら白河院の追号を決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後、院号は停廃され白河天皇とされる。退位してからは白河上皇とされる。なお、「六条院」の院号は来孫(孫のひ孫)である順仁親王に追諡された。", "title": "諡号・追号・異名" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは陵墓参考地として宮内庁の管轄地となっている。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。そうして天永2年(1111年)に法皇は自らの墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立するに至った。しかし、法皇の崩御時にはまだ遺骨を納めるための成菩提院が出来ていなかったため、衣笠山の山麓で法皇の遺体は荼毘に付され(火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する)、香隆寺に一旦埋葬された。そして天承元年(1131年)7月、鳥羽上皇は成菩提院を完成させると白河法皇の遺骨をそこに改葬した。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そのほか皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。", "title": "陵・霊廟" } ]
白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本国第72代天皇。諱は貞仁(さだひと)。 後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。
{{基礎情報 天皇 | 名 = 白河天皇 | 代数= 第72 | 画像= Emperor Shirakawa.jpg | 画像幅 = 250 | 説明= | 在位= [[1073年]][[1月18日]] - [[1087年]][[1月3日]] | 和暦在位期間 = [[延久]]4年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]] - [[応徳]]3年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]] | 即位礼 = 1073年[[2月8日]](延久4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) | 大嘗祭 = [[1074年]][[12月12日]]([[承保]]元年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) | 時代= [[平安時代]] | 年号= [[延久]]<br>[[承保]]<br>[[承暦]]<br>[[永保]]<br>[[応徳]] | 首都= 平安京 | 皇居= | 追号= 白河院<br/>(白河天皇) | 諱 = 貞仁 | 幼称= | 別名= 融観(法名)<br>六条帝 | 印 = | 生年= [[1053年]][[7月7日]]([[天喜]]元年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) | 生地= | 没年= [[1129年]][[7月24日]]([[大治 (日本)|大治]]4年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]) | 没地= 三条西殿 | 大喪儀= 1129年[[8月1日]](大治4年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]]) | 陵墓= 成菩提院陵 | 元服= [[1066年]][[1月7日]]([[治暦]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) | 先代= [[後三条天皇]] | 次代= [[堀河天皇]] | 子 = [[堀河天皇]]<br>[[覚行法親王]]<br>[[覚法法親王]]<br>[[媞子内親王]](郁芳門院)<br>[[令子内親王]]<br> ほか([[#后妃・皇子女|后妃・皇子女]]節参照) | 皇后= | 中宮= [[藤原賢子]] | 女御= [[藤原道子 (女御)|藤原道子]] | 更衣= | 夫人= | 夫 = | 父親= [[後三条天皇]] | 母親= [[藤原茂子]] | 注釈= |}} '''白河天皇'''(しらかわてんのう、[[1053年]][[7月7日]]〈[[天喜]]元年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]])〉-[[1129年]][[7月24日]]〈[[大治 (日本)|大治]]4年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]〉)は、[[日本|日本国]]第72代[[天皇]](在位:[[1073年]][[1月18日]]〈[[延久]]4年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]〉- [[1087年]][[1月3日]]〈[[応徳]]3年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]〉)。[[諱]]は'''貞仁'''(さだひと)。 [[後三条天皇]]の第一皇子。母は[[藤原氏]][[閑院流]][[藤原公成]]の娘で、[[藤原能信]]の養女である[[藤原茂子]]。同母妹に[[篤子内親王]]([[堀河天皇]][[中宮]])。 == 略歴 == [[後冷泉天皇]]の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一[[皇子]]として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父[[尊仁親王]]は関白の[[藤原頼通]]に冷遇されていた。[[治暦]]元年([[1065年]])に13歳で[[元服]]。治暦4年([[1068年]])、父帝即位とともに[[親王宣下]]を受け、貞仁親王となる。翌[[延久]]元年([[1069年]])[[立太子]]。同3年([[1071年]])に後の関白[[藤原師実]]の養女・[[藤原賢子]]が参入した。 [[延久]]4年([[1072年]])、[[後三条天皇]]から[[譲位]]され、20歳で[[即位]]する。[[藤原教通]]、師実を[[関白]]に任じつつも、延久5年([[1073年]])の後三条上皇の病没後も父同様に[[親政]]を目指し、[[荘園整理令|荘園整理]]などに力を入れ、[[永保]]元年([[1081年]])[[宇佐神宮]]境内地に神宝塔院を建立する等<ref>豊田寛三・[[後藤宗俊]]・[[飯沼賢司]]・末廣利人 編集 『大分県の歴史』 [[山川出版社]] 2011年 ISBN 978-4-634-32441-1、69p</ref>、[[摂関家]]の権勢を弱めることに努める。また摂関家内部でも関白の地位をめぐる教通・[[藤原信長|信長]]父子と師実の対立があった。なお、永保3年([[1083年]])から[[寛治]]元年([[1087年]])には[[陸奥国]]・[[出羽国]]で[[後三年の役]]が起こっている。 父・後三条上皇とその母である[[禎子内親王|陽明門院]]は、白河天皇の異母弟・[[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]、更にその弟の[[輔仁親王]](摂関家に冷遇された[[三条源氏]]の系譜)に[[皇位]]を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を[[皇太弟]]と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。しかし[[応徳]]2年([[1085年]])に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年([[1086年]])11月、白河天皇は[[輔仁親王]]ではなく、実子である8歳の[[善仁親王]](第73代[[堀河天皇]])を[[皇太子]]に立て、即日譲位した。なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した[[中宮]]・[[藤原賢子]]は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。[[太上天皇]]となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる[[院政]]が出現した。以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。 ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった[[藤原師実]]とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは[[大殿]]として、白河上皇の[[院庁]]の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位による皇位継承が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・[[藤原師通]]とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、[[嘉保]]3年([[1096年]])に後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。 それが大きく転換したのは、師通の働き盛りな年齢での急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代[[鳥羽天皇]]の即位が契機であったと考えられている。摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政([[藤原忠実]])の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。[[永久 (日本)|永久]]元年([[1113年]])に発生したとされる[[永久の変]]において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。 政治的権限を掌握した白河法皇は、[[受領]]階級や武家出身の[[院近臣]]を用いて専制的な政治を行った。特に[[叙位]]・[[除目]]に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である[[嘉承]]3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。[[藤原宗忠]]はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している<ref>『[[中右記]]』 [[天仁]]元年十月二十八日条</ref>。この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や[[摂政]]に渡すことで行われた<ref>[[美川圭]] 『白河法皇 <small>中世をひらいた帝王</small>』 [[角川ソフィア文庫]] ISBN 978-4044092047、88p</ref>。武士は、院の警護役として創設した[[北面武士]]などにあてた。特に[[康和]]4年(1102年)と[[保安 (元号)|保安]]元年([[1120年]]、[[保安元年の政変]])の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、[[親王宣下]]も[[臣籍降下]]も認めずに[[出家]]させて、皇位継承権を剥奪した([[法親王]]制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。なお、崇徳の異母弟である[[近衛天皇]]の誕生は白河法皇の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・[[媞子内親王]]に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、媞子内親王を堀河天皇の[[准母]]とし[[中宮]]に立后させた。非配偶の后([[尊称皇后]])の始めである。また、自分の従兄である[[藤原公実]]の遺児である[[藤原璋子]]を養女として育て、後に鳥羽天皇の中宮としてその子を[[崇徳天皇]]として即位させた。崇徳天皇は系譜的な外祖父は公実であるが、現実の外祖父は故人である公実ではなく璋子の養父の白河法皇であり、法皇も天皇の外祖父として儀式に関与するなどの役割を果たしている<ref>樋口健太郎「保安元年の政変」と鳥羽天皇の後宮」(初出:『龍谷大学古代史論集』創刊号(2018年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)</ref>。 熱心に仏教を信じ、[[嘉保]]3年([[1096年]])には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。また、[[法勝寺]]などの多くの寺院や仏像をつくらせたが、その経済力は受領のものを活用し、[[成功 (任官)|成功]]がより一層横行するようになった。 堀河天皇崩御後は、自らの孫である第74代鳥羽天皇、更に曾孫の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、43年間にわたり院政を敷いた。天皇の王権を超越した政治権力を行使するこうした「天皇家の家督」のことを、後世「[[治天の君]]」と呼ぶようになる。 大治4年7月7日(1129年7月24日)、77歳で崩御した。<!--死因は、[[胃潰瘍]]もしくは[[食中毒]]に起因した[[下痢]]・[[吐血]]による[[脱水 (医療)|脱水症]]と想定される。--><!--推測--> == 人物 == === 女性関係 === 不遇な状況にある東宮の王子であったため、[[治暦]]元年([[1065年]])に13歳で[[元服]]したが、妃の参入はなかった。[[延久]]元年([[1069年]])に[[立太子]]後、同年義理の従姉にあたる[[藤原道子 (女御)|藤原道子]]が参入し、同3年(1071年)には関白[[藤原師実]]の養女・[[藤原賢子]]が参入した。 [[中宮]]となった賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前で白河天皇と関係を持っていたと記録に残る女性は、[[女御]]となった道子の他は[[典侍]]・[[藤原経子 (藤原経平の女)|藤原経子]]程度であり、数は必ずしも多くない。賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多数の女官・女房らと関係を持った。晩年の寵妃となり権勢を持った[[祇園女御]]など、下級貴族の生まれでも公然と寵愛した。加えて関係を持った女性を次々と寵臣に与えたことから、崇徳天皇や[[平清盛]]が「白河法皇の御落胤」であるという噂が当時から広く信じられる原因ともなった。 白河法皇は[[両性愛者]]だったと考えられる<ref>[[高橋秀樹]]『中世の家と性』p.82</ref>。奔放な女性関係と併せて[[男色]]も大いに好み、近臣として権勢を誇った[[藤原宗通]]、あるいは北面武士の[[藤原盛重]]、[[平為俊]]はいずれも男色関係における愛人出身といわれる。 === 天下三不如意 === 『[[平家物語]]』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話がある。 「賀茂河の水」とは、古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]がもたらす[[水害]]のこと。「双六の賽(さい)」とは、[[すごろく|盤双六]]の二つの[[サイコロ]]が出す「賽の目」のことである<ref group="注釈">この「双六の賽」には近年になって新たな解釈がなされるようになった。「上達しない白河法皇自身の双六の腕前」、あるいは「取り締まりが捗らない双六賭博の流行」だとするものなどである。</ref>。「山法師」とは、勝手な理由にかこつけては[[日吉大社|日吉山王社]]の[[御輿|神輿]]を担いで都に雪崩れ込み[[強訴]]を繰り返した[[比叡山]][[延暦寺]]の僧衆([[僧兵]])のことである。 法皇がこの三つだけはどうしても思うようにならないと愚痴をこぼすぐらいだということで、やがてこれが「天下三不如意」として広く一般にも知られるようになった。今日ではこれを、白河法皇の権力はこの三つ以外のものであれば何でも思い通りになると豪語するほど絶大なものだった、という逆説的な意味に取ることが多い。しかし「賀茂河の水」は「天災」、「双六の賽」は「確率」であって、これらは誰が何をしようとしてみてもそもそも思い通りになるものではないのに対し、「山法師」は名目こそは「神意」であってもその実は「政治」に他ならなかった。既成の優遇措置を朝廷が他の寺社にも与えようとしたり、寄進された[[荘園 (日本)|荘園]]を[[国司]]が横領しようとしたりするたびに、延暦寺は山王社の暴れ神輿を盾に、公卿百官を力で捻じ伏せていたのである。「天下三不如意」の真意は、この延暦寺に対して打つ手もなく苦悶する白河法皇の姿にある。 == 系譜 == {{ahnentafel top|白河天皇の系譜|width=100%}} {{ahnentafel-compact5 |style=font-size: 90%; line-height: 110%; |border=1 |boxstyle=padding-top: 0; padding-bottom: 0; |boxstyle_1=background-color: #fcc; |boxstyle_2=background-color: #fb9; |boxstyle_3=background-color: #ffc; |boxstyle_4=background-color: #bfc; |boxstyle_5=background-color: #9fe; |1= 1. 第72代 白河天皇 |2= 2. [[後三条天皇|第71代 後三条天皇]] |3= 3. [[藤原茂子]] |4= 4. [[後朱雀天皇|第69代 後朱雀天皇]] |5= 5. [[禎子内親王]] |6= 6. [[藤原公成]] |7= 7. 藤原知光女 |8= 8. [[一条天皇|第66代 一条天皇]] |9= 9. [[藤原彰子]] |10= 10. [[三条天皇|第67代 三条天皇]] |11= 11. [[藤原妍子]] |12= 12. [[藤原実成]] |13= 13. 藤原陳政女 |14= 14. [[藤原知光]] |16= 16. [[円融天皇|第64代 円融天皇]] |17= 17. [[藤原詮子]] |18= 18. [[藤原道長]](=22) |19= 19. [[源倫子]](=23) |20= 20. [[冷泉天皇|第63代 冷泉天皇]] |21= 21. [[藤原超子]] |22= 22. [[藤原道長]](=18) |23= 23. [[源倫子]](=19) |24= 24. [[藤原公季]] |25= 25. [[有明親王]]女 |26= 26. [[藤原陳政]] |28= 28. [[藤原為昭]] }}</center> {{ahnentafel bottom}} === 系図 === {{皇室平安後期}} == 后妃・皇子女 == * 中宮:[[藤原賢子]](1057年 - 1084年) - [[源顕房]]女、[[藤原師実]]養女 ** 第一皇子:[[敦文親王]](1075年 - 1077年) ** 第一皇女:[[媞子内親王]](郁芳門院)(1076年 - 1096年) - [[斎宮|伊勢斎宮]] ** 第三皇女:[[令子内親王]](二条大宮)(1078年 - 1144年) - [[斎院|賀茂斎院]] ** 第三皇子:善仁親王([[堀河天皇]])(1079年 - 1107年) ** 第四皇女:[[禛子内親王]](土御門斎院)(1081年 - 1156年) * 女御:[[藤原道子 (女御)|藤原道子]](1042年 - 1132年) - [[藤原能長]]女 ** 第二皇女:[[善子内親王]](六角斎宮)(1076年 - 1131年) * 典侍:[[藤原経子 (藤原経平の女)|藤原経子]] - [[藤原経平]]四女、後に[[藤原公定]]室 ** 第二皇子:[[覚行法親王]](1075年 - 1105年) - [[仁和寺]][[門跡]] * [[源師子]](1070年 - 1148年) - [[源顕房]]女、後に[[藤原忠実]]室 ** 第四皇子:[[覚法法親王]](1092年 - 1153年) - 仁和寺門跡 * [[源頼子]] - [[源頼綱]]女 ** 第五皇女:[[官子内親王]]<ref>『皇胤系図』による。『[[本朝皇胤紹運録]]』では「宮子」とする。</ref>(清和院斎院)(1090年 - ?) * [[藤原季実]]女 ** 第六皇女:[[恂子内親王]](樋口斎宮)(1093年 - 1132年) * 春日殿 - [[藤原師兼]]女、後に[[藤原宗通]]妻 ** 第五皇子:[[聖恵法親王]](1094年 - 1137年) * [[源政長]]女 ** [[行慶]](1101年 - 1165年) - [[大僧正]] * 備前 - [[源有宗]]女 ** 円行(1128年? - 1143年) * 源顕房女? ** 静証 * 廊御方 - [[藤原通季]]女、後に[[藤原実能]]妻 * 宇礼志岐(賀茂女御)(1070年 - 1148年) - 賀茂重助女 * 伊波比乎(賀茂女御) - 賀茂重助女 * [[祇園女御]] - もと[[源惟清]]あるいは[[源仲宗]]妻? * 祇園女御妹 - 後に[[平忠盛]]妻 ** [[平清盛]](1118年 - 1181年) ※あくまで一説 * [[藤原璋子]](待賢門院) - [[藤原公実]]女 ** [[崇徳天皇]](1119年 - 1164年) ※あくまで一説 == 諡号・追号・異名 == 洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・[[法勝寺]]を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、[[諡|遺諡]]によって自ら'''白河院'''の追号を決めたという。また'''六条帝'''の異名もある。大正以後、院号は停廃され'''白河天皇'''とされる。退位してからは'''白河上皇'''とされる。なお、「六条院」の院号は[[来孫]](孫のひ孫)である[[六条天皇|順仁親王]]に追諡された。 == 在位中の元号 == * [[延久]] * [[承保]] * [[承暦]] * [[永保]] * [[応徳]] == 陵・霊廟 == [[ファイル:Shirakawa Emperor Mausoleum.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|成菩提院陵]] [[天皇陵|陵]](みささぎ)は、[[宮内庁]]により[[京都府]][[京都市]][[伏見区]]竹田浄菩提院町にある'''成菩提院陵'''(じょうぼだいいんのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。 この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは[[陵墓参考地]]として[[宮内庁]]の管轄地となっている。 また、白河法皇は当初、自身の死後は[[土葬]]されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された[[藤原師通]]が、生前に彼と対立していた[[興福寺]]の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽[[火葬]]にするように命じたという。そうして[[天永]]2年([[1111年]])に法皇は自らの墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立するに至った。しかし、法皇の崩御時にはまだ遺骨を納めるための[[九品寺 (京都市)|成菩提院]]が出来ていなかったため、[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]の山麓で法皇の遺体は荼毘に付され(火葬塚は京都市[[北区 (京都市)|北区]]の[[京都市立金閣小学校|金閣小学校]]の近くに現存する)、[[香隆寺]]に一旦埋葬された。そして[[天承]]元年([[1131年]])7月、鳥羽上皇は成菩提院を完成させると白河法皇の遺骨をそこに改葬した。 そのほか[[皇居]]では、[[皇霊殿]]([[宮中三殿]]の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 == 関連作品 == <!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。--> ; テレビドラマ * 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』([[1972年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[滝沢修]]) * 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』([[2012年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[伊東四朗]]) == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 参考文献 == * 美川圭 『白河法皇 <small>中世をひらいた帝王</small>』([[日本放送出版協会]]、2003年 ISBN 4140019735、角川ソフィア文庫、2013年 ISBN 978-4044092047) * 佐々木宗雄 『平安時代国制史研究』([[校倉書房]]、2001年) ISBN 4751732005 * [[河内祥輔]]「後三条・白河「院政」の一考察」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』([[吉川弘文館]]、1992年) ISBN 464202641X 所収:『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4642028633 * [[角田文衞|角田文衛]] 『平安の春』([[講談社学術文庫]]、1999年) ISBN 4061593609 * [[土田直鎮]] 『日本の歴史〈5〉王朝の貴族』(中央公論新社、2004年)ISBN 4122044251 * [[梅原猛]] 『京都発見〈9〉比叡山と本願寺』(新潮社、2007年) ISBN 4103030224 * 樋口健太郎 『中世摂関家の家と権力』(校倉書房、2011年) ISBN 4751742809 == 関連項目 == * [[万寿寺]] - 六条御堂 * [[矢代寸神社]] {{歴代天皇一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しらかわてんのう}} [[Category:白河天皇|*]] [[Category:平安時代の天皇|しらかわ]] [[Category:日本の上皇]] [[Category:院政|しらかわいん]] [[Category:後三条天皇の子女]] [[Category:バイセクシュアルの男性]] [[Category:11世紀日本の天皇]] [[Category:12世紀日本の天皇]] [[Category:1053年生]] [[Category:1129年没]]
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ファミコン名人
ファミコン名人(ファミコンめいじん)は、主にファミリーコンピュータ(ファミコン)全盛期の1980年代にファミコン用ゲームの実演を仕事として行なった者の尊称。 多くはゲーム開発会社の広報担当者である。また、広義のプロゲーマーに含まれるため、eスポーツが確立された2010年代以降、“元祖プロゲーマー”と呼ばれることもある。 ファミコン全盛期には多くの名人達が登場した。 高橋名人と毛利名人は、1985年に開催されたハドソンのキャラバンで、高橋が南キャラバン、毛利が北キャラバンの隊長を務め、その際に名人と紹介されたことで全国に名が知られるようになった。1986年にはこの2人の対決を描いた『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』という映画も作られ、子どもたちに大きな熱狂を巻き起こした。 また、両名人の人気にあやかり、バンダイの橋本名人、ナムコの河野名人、テクモの辻名人他、各社から名人が雨後の竹の子のように現われ、『ファミっ子大作戦』『ファミっ子大集合』といったTV番組に毎週登場してゲームの紹介と実演を行い人気を博した。 多くの場合は「ゲームが特別に上手な人」という訳ではなく、各社の営業担当者である。そのため、中には広報活動が主でゲームプレイの腕は「名人」に相応しくない者もおり、「元々ゲームは得意ではないが、会社の命令で無理矢理やらされていた」と語る者もいる。 名人は当時のファミコン少年のあこがれの的で、高橋名人は『月刊コロコロコミック』に、橋本名人は『コミックボンボン』に度々登場していたため知名度も高かった。 ファミコンブームの衰退と共に、名人の人気も衰えていった。 当時、ハドソンの広報。本名:高橋利幸。16連射で著名。名人の中でも人気は頭抜けていたが、PCエンジンの営業に回されたことで、急速にファミコン名人としての活動は途絶えた。ハドソン退社後は、ゲッチャ・コミュニケーションズからMAGES.を経て、ドキドキグルーヴワークス社長に就任。 当時、高橋名人の好敵手として活躍。本名:毛利公信。ハドソンと袂を分かった後は、『ファミ通』(アスキー→エンターブレイン)の編集者を経てフリーランス。 当時、バンダイの名人。本名:橋本真司。退社後はスクウェア・エニックスで働き、スクウェア・エニックス・ホールディングス専務執行役員を経て2022年に定年退職。 当時、テクモの名人。本名:辻良尚。退社後は、UBIソフトの広報として活動。 当時、ナムコの名人。本名:河野光。昭和34年生まれ、鹿児島出身。ピンボール好きが嵩じて16歳の時、母の勤めていた山形屋というデパートのゲームセンターでアルバイトを始めるが、そこはナムコの前身である中村製作所が経営していた。その縁で昭和53年に入社。趣味はスポーツ、パソコンなど。1990年3月にナムコを退社した後はアイマックスで活動し、ソフトの販売促進や開発の管理などを担当。『マイコンBASICマガジン』で「河野光のアイマックス情報局」などを連載した。 当時、タイトーの名人。2019/9/18配信のメガドライブミニ発売イベントにて、株式会社セガゲームス宮崎浩幸氏より、同社に在籍している事が明かされた。 当時、コナミの名人。 当時、ジャレコの名人。本名:菊地博人。退社後もゲーム関係の宣伝広報として活動。 当時、データイーストの名人。同社の三代目博士ドクター中本として活動した。本名:中本博通。同社では企画室係長として、バンダイの神谷名人とともに『大怪獣デブラス』のプロデュースも務めた。 子供の頃から電気工作、多重録音など音楽制作を趣味としており、『闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光』は中本がほとんどを作曲しているほか、「B-WINGS」「バギーポッパー」「ホームランナイター」などのファミコン用ソフトでサウンドを手掛けた。 元々ハードウェアの設計を仕事としており、それもあってアーケードゲームの基板から家庭用機まで業界有数の収集家である。中途半端が嫌いで、興味を持った対象はすべて極めなければ気がすまない性分といい、バイク、ゴルフ、スキューバダイビングとアウトドアのスポーツも精力的にこなす。当人は、「ゲームもあくまで趣味の一部だということですね。趣味の世界は持つべきだけど、それに埋没しちゃいけない。週末に遊ぶ感覚でゲームもする、そういうのが理想ですね」と語っている。 後にサミーネットワークス勤務。 当時、カルチャーブレーンの名人。本名:菅野英見。福島出身、明治大学卒。 もっとも、カルチャーブレーンの広報は阿迦手観屋夢之助の右腕である遠藤一夫が主体だったので、ファミっ子大集合などへの出演はあるものの、活動は目立たなかった。 高橋塾第1期生から誕生した名人。キャラバンの当時はハドソン技術本部第三技術部所属。後に『ボンバーマンビーダマン』、『ドレミファンタジー ~ミロンのドキドキ大冒険~』などの開発に携わる。『桃太郎電鉄11』以降、開発チーム「Team Kawada」のリーダーとして『桃太郎電鉄シリーズ』の制作指揮を担当する。 高橋名人#関係する人物も参照。 本名:桜田一郎。高橋塾第1期生から誕生した名人。メダルゲームのマニアで専門サイトを運営したこともあるほど。ハドソン入社も、スーパーマリオブラザーズを最後まで目の前でクリアするという試験をこなした腕利きのゲーマーであった。毛利名人との契約が更新されなかったことで、川田名人と桜田名人が代わりに名人に採用されたが、後に開発部署に戻ったことで活動は終了した。 桜田名人が開発部署に戻ったことで、後任として入れ替わりに名人に採用された。TDK夏休み全国ツインファミコン大会 HECTOR'87 ザ・グレートキャラバンでは北キャラバンを担当している。 当時、バンダイの名人。本名、神谷春輝。橋本名人の副存在的な立場で活動した。元々は開発畑で外注管理などをしていた。中本博通との協力で大怪獣デブラスもプロデュース。更に独立起業し、メタルマックスの制作も行った。『SDガンダムワールド ガチャポン戦士2』の攻略本で表紙に登場している。 Volare-Vox(ボラーレボックス)に所属し、ゲームからBtoB開発まで手広く行っている。 ミスターX(慶応)、プロフェッサー来宮(東大)、テクノロジー木村(早稲田)、クッパ河島(明治)という4人の大学生(既に卒業してる者もいた)により結成され、主として『ヤングジャンプ』で活躍した。この内、ミスターXは後に「ゲーム虎の穴」の総帥となり、『GTV』などに出演している。 ターバンにサングラスという格好でカレーを食べながらゲームを実演するなど、奇矯な振る舞いが多かった。 インドマン役の多田野貴裕はゲーム・テック・ビデオマガジン創設直後から渡辺浩弐の知り合いで、『GTV』(ソニー販売)中期より登場し「カレーを食べるとゲームが上手くなる超人」といった渡辺の設定で登場したキャラである。その縁もあって『GTV』に深く関わり、NHKが取材に来た際はインドマンが主となって対応している。1990年代始めから1997年にかけては、小我恋次郎(おが こいじろう)というペンネームでゲームライターとして『電撃スーパーファミコン』など雑誌への寄稿も行なった。 本名:ハワード・フィリップス。Nintendo of Americaの倉庫管理業務の一環として輸入されたゲームをいち早く遊んでいたことが当時のNOA社長の目に止まり、テストプレイヤーとして採用。そこからNintendo Entertainment Systemを北米に展開するに当たって販売戦略アドバーザーとなり、ローンチタイトルの決定に影響を与えた。更にはGame Masterとなって、米国における高橋名人のような存在として各地を飛び回り紹介と実演を行うことになる。NOAでゲーム開発に携わった後、ルーカスアーツなどに移籍し、開発、またテストプレイヤーとして様々な企業を渡り歩いた。
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ファミコン名人(ファミコンめいじん)は、主にファミリーコンピュータ(ファミコン)全盛期の1980年代にファミコン用ゲームの実演を仕事として行なった者の尊称。 多くはゲーム開発会社の広報担当者である。また、広義のプロゲーマーに含まれるため、eスポーツが確立された2010年代以降、“元祖プロゲーマー”と呼ばれることもある。
{{更新|date=2014年6月}} '''ファミコン名人'''(ファミコンめいじん)は、主に[[ファミリーコンピュータ]](ファミコン)全盛期の1980年代にファミコン用ゲームの実演を仕事として行なった者の[[尊称]]。 多くはゲーム開発会社の広報担当者である。また、広義の[[プロゲーマー]]に含まれるため、[[eスポーツ]]が確立された2010年代以降、“元祖プロゲーマー”と呼ばれることもある<ref>{{Cite news|title=元祖“プロゲーマー”高橋名人に聞く、eスポーツの未来と課題 「国民的なスターが必要」|url=https://www.oricon.co.jp/special/50939/|accessdate=2018-07-15|language=ja-JP|work=ORICON NEWS}}</ref>。 == 概要 == ファミコン全盛期には多くの名人達が登場した。 [[高橋名人]]と[[毛利名人]]は、[[1985年]]に開催された[[ハドソン]]の[[キャラバン]]で、高橋が南キャラバン、毛利が北キャラバンの隊長を務め、その際に名人と紹介されたことで全国に名が知られるようになった。[[1986年]]にはこの2人の対決を描いた『[[GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦]]』という[[映画]]も作られ、子どもたちに大きな熱狂を巻き起こした。 また、両名人の人気にあやかり、[[バンダイ]]の[[橋本真司|橋本名人]]、[[ナムコ]]の河野名人、[[テクモ]]の辻名人他、各社から名人が雨後の竹の子のように現われ、『[[ファミっ子大作戦]]』『[[ファミっ子大集合]]』といったTV番組に毎週登場してゲームの紹介と実演を行い人気を博した<ref name="nakamoto2">「[https://hdl.handle.net/10086/30861 中本博通インタビュー後半 : データイースト在職時の証言]」pp.13-14</ref>。 多くの場合は「ゲームが特別に上手な人」という訳ではなく、各社の営業担当者である。そのため、中には広報活動が主でゲームプレイの腕は「名人」に相応しくない者もおり、「元々ゲームは得意ではないが、会社の命令で無理矢理やらされていた」と語る者もいる<ref>『[[電撃PlayStation]]』 2012年4月26日号</ref>。 名人は当時のファミコン少年のあこがれの的で、高橋名人は『[[月刊コロコロコミック]]』に、橋本名人は『[[コミックボンボン]]』に度々登場していたため知名度も高かった。 ファミコンブームの衰退と共に、名人の人気も衰えていった。 ==各名人== ===高橋名人=== {{Main|高橋名人}} 当時、ハドソンの広報。本名:高橋利幸。16連射で著名。名人の中でも人気は頭抜けていたが、[[PCエンジン]]の営業に回されたことで、急速にファミコン名人としての活動は途絶えた。ハドソン退社後は、[[ゲッチャ・コミュニケーションズ]]から[[MAGES.]]を経て、ドキドキグルーヴワークス社長に就任。 ===毛利名人=== {{Main|毛利名人}} 当時、高橋名人の好敵手として活躍。本名:毛利公信。ハドソンと袂を分かった後は、『[[ファミ通]]』([[アスキー (企業)|アスキー]]→[[エンターブレイン]])の編集者を経て[[フリーランス]]。 ===橋本名人=== {{Main|橋本真司}} 当時、バンダイの名人。本名:橋本真司。退社後は[[スクウェア・エニックス]]で働き、[[スクウェア・エニックス・ホールディングス]]専務執行役員を経て2022年に定年退職。 ===辻名人=== 当時、[[テクモ]]の名人。本名:辻良尚。退社後は、[[UBIソフト]]の広報として活動<ref>[http://kasperskylabs.jp/ubi/wd/interview/no02.html インタビュー|【カスペルスキー×ウォッチドッグス】](2014年7月確認)</ref><ref>[http://www.famitsu.com/game/news/1236895_1124.html E3級のボリュームだった“MIDNIGHT LIVE 360”リポート - ファミ通.com] 2010年6月26日</ref>。 ===河野名人=== {{節スタブ}} 当時、ナムコの名人。本名:河野光。昭和34年生まれ、鹿児島出身。ピンボール好きが嵩じて16歳の時、母の勤めていた[[山形屋]]というデパートのゲームセンターでアルバイトを始めるが、そこはナムコの前身である[[ナムコ|中村製作所]]が経営していた。その縁で昭和53年に入社。趣味はスポーツ、パソコンなど<ref>「VOICE OF PLAY」『[[NG_(ゲーム情報誌)|NG]] No.22』昭和六十三年八月十一日発行</ref>。1990年3月にナムコを退社した後は<ref name="fami911206">『ファミコン通信』 1991年12月6日号</ref>アイマックスで活動し<ref>『ファミコン通信』 1991年11月15日・22日合併号</ref>、ソフトの販売促進や開発の管理などを担当<ref name="fami911206"/>。『マイコンBASICマガジン』で「河野光のアイマックス情報局」などを連載した。 ===服部名人=== 当時、タイトーの名人。2019/9/18配信のメガドライブミニ発売イベントにて、株式会社セガゲームス[[宮崎浩幸]]氏より、同社に在籍している事が明かされた。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=6fPmxKwJV70&feature=youtu.be&t=976 『メガドライブミニ』おまけ話]</ref> 2023/11/10公開の株式会社[[エコールソフトウェア]]プロデューサー兼代表取締役[[真鍋賢行|真鍋賢行の]]文芸作品ニンクリ物語では、創作の体裁で服部がタイトーの後サミーへ転職し、その後セガによる買収時によりセガに転籍となり、エコールを担当していた旨や、デスクリムゾンがセガの品質管理を通ったのも服部の力であると真鍋が思っている旨が記述されている。<ref>{{Cite web |title=第24回:伝説の名人が登場か。 |url=https://www.ninja-crimson.com/story024/ |access-date=2023-11-12 |language=ja |last=クリムゾン真鍋}}</ref> ===尾花名人=== {{節スタブ}} 当時、コナミの名人。 ===菊地名人=== {{Main|菊地博人}} 当時、ジャレコの名人。本名:菊地博人。退社後もゲーム関係の宣伝広報として活動。 ===中本名人=== 当時、データイーストの名人。同社の三代目博士'''ドクター中本'''として活動した。本名:中本博通。同社では企画室係長として、バンダイの神谷名人とともに『[[大怪獣デブラス]]』のプロデュースも務めた。 子供の頃から電気工作、多重録音など音楽制作を趣味としており<ref name="nakamoto1">「[https://hdl.handle.net/10086/30860 中本博通インタビュー前半 : データイーストのゲーム開発の歴史]」</ref>、『[[ヘラクレスの栄光|闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光]]』は中本がほとんどを作曲しているほか、「[[B-WINGS]]」「[[バギーポッパー]]」「[[ホームランナイター]]」などのファミコン用ソフトでサウンドを手掛けた<ref>『ヘラクレスの栄光 サウンドクロニクル』ライナーノーツ</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/interview/1134081.html 【インタビュー】当時を振り返る貴重な話題が満載!「ヘラクレスの栄光 サウンドクロニクル」作曲者座談会 - GAME Watch]</ref>。 元々ハードウェアの設計を仕事としており、それもあってアーケードゲームの基板から家庭用機まで業界有数の収集家である。中途半端が嫌いで、興味を持った対象はすべて極めなければ気がすまない性分といい、バイク、ゴルフ、スキューバダイビングとアウトドアのスポーツも精力的にこなす。当人は、「ゲームもあくまで趣味の一部だということですね。趣味の世界は持つべきだけど、それに埋没しちゃいけない。週末に遊ぶ感覚でゲームもする、そういうのが理想ですね」と語っている<ref>「ゲームマニアのすべて」『ファミコン通信 1990年4月13日号 No.8』</ref>。 後にサミーネットワークス勤務。 ===菅野名人=== {{節スタブ}} 当時、[[カルチャーブレーン]]の名人。本名:菅野英見。福島出身、明治大学卒<ref>[https://www.facebook.com/hidemi.kanno.52]</ref>。 もっとも、カルチャーブレーンの広報は[[阿迦手観屋夢之助]]の右腕である[[遠藤一夫]]が主体だったので、[[ファミっ子大集合]]などへの出演はあるものの、活動は目立たなかった。 ===川田名人=== {{Main|川田忠之}} 高橋塾第1期生から誕生した名人。キャラバンの当時はハドソン技術本部第三技術部所属。後に『[[ボンバーマンビーダマン]]』、『[[ドレミファンタジー ミロンのドキドキ大冒険|ドレミファンタジー ~ミロンのドキドキ大冒険~]]』などの開発に携わる。『[[桃太郎電鉄11 ブラックボンビー出現!の巻|桃太郎電鉄11]]』以降、開発チーム「Team Kawada」のリーダーとして『[[桃太郎電鉄シリーズ]]』の制作指揮を担当する。 [[高橋名人#関係する人物]]も参照。 ===桜田名人=== {{Main|桜田名人}} 本名:桜田一郎。高橋塾第1期生から誕生した名人。[[メダルゲーム]]のマニアで専門サイトを運営したこともあるほど。ハドソン入社も、スーパーマリオブラザーズを最後まで目の前でクリアするという試験をこなした腕利きのゲーマーであった。毛利名人との契約が更新されなかったことで、川田名人と桜田名人が代わりに名人に採用されたが、後に開発部署に戻ったことで活動は終了した<ref name="名前なし-1">[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-11875892022.html 名人 | 高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」Powered by Ameba]</ref>。 ===島田名人=== {{節スタブ}} 桜田名人が開発部署に戻ったことで、後任として入れ替わりに名人に採用された<ref name="名前なし-1"/>。TDK夏休み全国ツインファミコン大会 HECTOR'87 ザ・グレートキャラバンでは北キャラバンを担当している<ref>「高橋名人の目から見たファミコンブーム [https://digrajapan.org/?page_id=342]」 日本デジタルゲーム学会 『デジタルゲーム学研究』第3巻第2号 2009年9月30日</ref>。 ===神谷名人=== {{節スタブ}} 当時、バンダイの名人。本名、神谷春輝。橋本名人の副存在的な立場で活動した。元々は開発畑で外注管理などをしていた。中本博通との協力で[[大怪獣デブラス]]もプロデュース。更に独立起業し、[[メタルマックス]]の制作も行った<ref name="nakamoto1"/>。『[[SDガンダムワールド ガチャポン戦士]]2』の攻略本で表紙に登場している。 Volare-Vox(ボラーレボックス)に所属し、ゲームから[[BtoB]]開発まで手広く行っている<ref>[http://volare-vox.com/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E6%98%A5%E8%BC%9D/ 神谷春輝 - Volare Vox Officialsite]</ref>。 ===ファミコン4超人=== [[ミスターX]](慶応)、プロフェッサー来宮(東大)、テクノロジー木村(早稲田)、クッパ河島(明治)という4人の大学生(既に卒業してる者もいた)により結成され、主として『[[ヤングジャンプ]]』で活躍した<ref>『ファミコン通信』 1986年8月1日号 No.4</ref>。この内、ミスターXは後に「ゲーム虎の穴」の総帥となり、『[[GTV (ビデオマガジン)|GTV]]』などに出演している。 {{Main|竹内宏彰}} ===インドマン=== [[ターバン]]に[[サングラス]]という格好でカレーを食べながらゲームを実演するなど、奇矯な振る舞いが多かった。 インドマン役の多田野貴裕はゲーム・テック・ビデオマガジン創設直後から[[渡辺浩弐]]の知り合いで、『GTV』(ソニー販売)中期より登場し「カレーを食べるとゲームが上手くなる超人」といった渡辺の設定で登場したキャラである<ref>小我恋次郎 「意味などないのだ」 『[[電撃Nintendo|電撃NINTENDO64]]』 1997年7月号</ref>。その縁もあって『GTV』に深く関わり、NHKが取材に来た際はインドマンが主となって対応している<ref>『GTV』 第13号</ref>。1990年代始めから1997年にかけては、小我恋次郎(おが こいじろう)というペンネームで[[ゲームライター]]として『[[電撃スーパーファミコン]]』など雑誌への寄稿も行なった。 === Game Master === 本名:[[:en:Howard Phillips (consultant)|ハワード・フィリップス]]。Nintendo of Americaの倉庫管理業務の一環として輸入されたゲームをいち早く遊んでいたことが当時のNOA社長の目に止まり、テストプレイヤーとして採用。そこから[[Nintendo Entertainment System]]を北米に展開するに当たって販売戦略アドバーザーとなり、ローンチタイトルの決定に影響を与えた。更には'''Game Master'''となって、米国における高橋名人のような存在として各地を飛び回り紹介と実演を行うことになる。NOAでゲーム開発に携わった後、ルーカスアーツなどに移籍し、開発、またテストプレイヤーとして様々な企業を渡り歩いた<ref>[https://gigazine.net/news/20180403-nintendo-gaming-master-america/ 任天堂のアメリカ進出を支えた1人の「ファミコン名人」を紹介するムービー - GIGAZINE]</ref><ref>[https://www.vice.com/en/article/3bvg3j/my-dad-the-game-master-846-v16n4 My Dad Was The Game Master ~ VICE]</ref>。 ==参考文献== * 「ファミマガJournal マンガトピックス ファミコン名人の今を探る」『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』 1989年10月6日号 No.20 徳間書店 * 立命館大学ゲーム研究センター 「[https://hdl.handle.net/10086/30860 中本博通インタビュー前半 : データイーストのゲーム開発の歴史]」 一橋大学 『ゲーム産業生成におけるイノベーションの分野横断的なオーラル・ヒストリー事業』 2019年9月 * 立命館大学ゲーム研究センター 「[https://hdl.handle.net/10086/30861 中本博通インタビュー後半 : データイースト在職時の証言]」 一橋大学 『ゲーム産業生成におけるイノベーションの分野横断的なオーラル・ヒストリー事業』 2019年9月 ==脚注== <references /> ==関連項目== * [[プロゲーマー]] {{ファミコン名人}} {{Video-game-stub}} {{デフォルトソート:ふあみこんめいしん}} [[Category:コンピュータゲーム関連の人物|*ふあみこんめいしん]]
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高橋名人
高橋名人(たかはしめいじん、1959年〈昭和34年〉5月23日 - )は日本のプロゲーマー、ゲームプレゼンター、実業家。血液型はO型。ファミコン全盛期にハドソン所属のファミコン名人として一世を風靡し、歌手としても活動した。本名は高橋 利幸(たかはし としゆき)。 日本におけるプロゲーマーの先駆的存在であり、一般社団法人e-sports促進機構代表理事も歴任した。 北海道札幌市西区琴似出身。なお、「高橋名人」という名称はハドソンが『登録番号 第4994766号』で商標登録していたが、ハドソンとの話し合いにより退社後も使用している。なお、その後ハドソンはコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併されたため、商標登録は同社に引き継がれている。 札幌市西区生まれ。生家は金物店。札幌市立琴似小学校を経て 市立琴似中学校に入学。 東海大学付属第四高等学校卒業後、北海道自動車短期大学に進学するが、スーパーマーケット「札幌フードセンター」でのアルバイトに熱中しすぎて3か月で短期大学を中退。最高月収で17万円(当時の金額)を稼ぐほどの働きぶりだったため、社員から誘われて正社員としてそのまま入社した。 3年間働いて青果部の主任に昇格した1981年春、仕入れや在庫の管理、伝票整理のわずらわしさから逃れるため、たまたま入ったマイコンショップでシャープのMZ-80Bを購入したのがゲーム業界に関わる切っ掛けとなった。当時のパソコンは使う側にかなりの知識を要求するもので、特に知識もなかったため放置していたが、毎月手元に届くローンの返済請求額を見て一念発起し、BASICのコマンドを30程度覚えたところで札幌フードセンターを退職。 その後、カルチャーセンターの講師に就き、教える側になる。生徒から浴びせられる様々な質問に応えるために、自身も知識を深めていった。 そうして培った技能を元に1982年8月、豊平区に本社を置いていたハドソンに友人の影響で面接を受け入社。当初は営業部に所属していたが、上司に命じられて東京支店勤務となった後、ハドソンのファミリーコンピュータ参入をきっかけに宣伝部に移る。 1984年7月にハドソンが『ナッツ&ミルク』と『ロードランナー』を発売してから、『ロードランナー』の販促を担当。子供向け雑誌で同ソフトの宣伝をさせてもらおうと各出版社を回って交渉した結果、小学館の『コロコロコミック』から快諾をもらった。以後、月刊コロコロコミック編集部との親密な関係が始まり、週の内五日は同編集部に通うという状態が一年間は続いた。当時コロコロはすがやみつる原作の『ゲームセンターあらし』の連載が終了し、次の人気連載となる作品を模索していたところ、ほどなくしてそれがすがやの元アシスタントであったあさいもとゆき原作の『ファミコンロッキー』などに代わり同社の作品が作中で使われることが多かったため、ハドソンと名人が絡んで行くことになる。 1985年に『チャンピオンシップ・ロードランナー』の宣伝を担当。発売前に子供たちの反応を見るため、同年3月15日、東京・松坂屋銀座店の屋上で行われた月刊コロコロコミックの催し「コロコロまんが祭り」にハドソン社員として参加。各面を出すためのパスワードは伏せるために身体で画面を隠しながらの入力では、お客様を不快にさせることになる。そこで子供たちの方を向きながら後ろ手にコントローラーを操る技術を披露した。そして、ロードランナーの10面を2回の失敗でクリアした。1000人ほどの親子連れの前でファミコンの『チャンピオンシップロードランナー』を実演したところ、2~300人が残ってサインをねだる事態となった。 この催しの成功を受けて、ハドソンはハドソン全国キャラバンなどの立ち上げを急遽決定。ゲームの実演役として高橋が指名され、また将棋や囲碁に倣い「名人」という呼称を使うことになった。ここに「高橋名人」が誕生し、5月3日の「コロコロまんがまつり・スターフォース発売前ファミコン大会」にて名人として初登場した。 同年に行われた全国キャラバン(『スターフォース』)では、事前の企画内容や当日会場(スーパー「ダイエー」のチェーン店)を回るためのキャラバンカーの手配、スポンサー探し(交渉の末TDKに決定)、各会場の機器の配線まで全てをこなした。このキャラバンで「16連射」を披露し、これがコロコロコミックで取り上げられると一躍子供たちのヒーローになった。 また、ハドソンでは直後に後輩の毛利名人が登場し、他社からも橋本名人を筆頭に続々と名人が名乗りを上げ、ファミコン名人という流行を作り出すことになった。 その中でも本家本元の高橋名人は人気が別格であり、8月14日にはTV出演、晴海国際貿易センターに四千人を集めた12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」は翌日の東京新聞で特集され、さらにフライデー、週刊文春でも取り上げられることで、ファミコンが一大現象になっていることを一般社会に知らしめた。1985年から1986年まで出演していた平日朝放送のテレビ東京のテレビ番組「おはようスタジオ」では、高橋名人が出演すると視聴率が上がり、高橋名人の出演コーナーを見て学校へ遅刻する子供が続出したため、出番を早くするという措置がとられるほどであった。 翌1986年にはこども電話相談室準レギュラーに就任したのを始め、CDデビュー、漫画化、映画化、ゲーム化など積極的にメディアミックスを図り、キャラクターとしても愛される存在になっていく。同年には、赤塚不二夫も新聞連載漫画『いじわる時事』の中でネタにするなど、「高橋名人」の名は大人たちの間にも浸透していった。 当時、テレビ番組出演時の実演ではゲームの序盤を紹介するだけで良く、面クリア型のアクションやシューティングでは3面ぐらいまでをビシッとクリアできれば大丈夫だった。ただし、ゲームをプレイしながら画面を見ずに解説する必要があったため、3面程度の攻略の仕方や敵キャラについての情報を身体に記憶させるため、日々ゲームの鍛錬に磨きをかけた。また当時は、ハドソンの社員として働きながら、高橋名人としてテレビ出演などをこなしたため、朝6時から夜中の12時頃まで忙しく働いた。 しかし、翌1987年にハドソンがNECホームエレクトロニクスと共同開発したPCエンジンが発売されると、PCエンジンソフトの宣伝に回され、ファミコン業界から離れることになる。煽りを受けることになったのはコロコロコミックで連載されていた漫画『ファミコンランナー高橋名人物語』(河合一慶原作)で、表題に「ファミコン」の名称が使われていたため途中打ち切りとなり、最終巻が発売されなかった。 その後は、後進の指導などにあたった。トレーディングカードゲームにハマったハドソンの工藤浩社長(当時)がカード販売を決めたことから、1998年から2000年にかけてハドソンの子会社「未来蜂歌留多商会」へ営業部部長として出向。トレーディングカードの制作販売を監督し、同社のアイディアを印刷会社に説明する仕事などを担当した。ハドソン大阪支社を経た後、2001年、コナミがハドソンの筆頭株主になり、ハドソンが自社流通事業から撤退したことを機に東京支社へと復帰。 2000年代初頭に起きた新世代テクノポップバンドの盛り上がりの中で、高橋名人再評価の機運が高まり、2001年に宇宙ヤングと楽曲を発表。2002年5月から2003年11月にかけて3回行われた宇宙ヤング主催の『高橋名人のBugってナイト』では、かつて発表した楽曲の歌唱はもとより、16連射スイカ割りなども披露した。この直後からレトロゲームが再評価されるようになり、再び高橋名人として媒体に登場するようになった。 2004年12月6日、営業職から宣伝部へ異動。2006年11月には、ハドソン内での役職名も「名人」となるなど、名人推しは続いた。2006年にレトロゲーム絡みで取材を受けた直後、本人のブログ「16連射のつぶやき」に一日160万以上のアクセスとなった。 2011年5月31日、ハドソンを退社し、同年6月1日にゲッチャ・コミュニケーションズに入社。退社の理由として、ハドソンの業務からコンシューマーゲームが消えたことを挙げている。なお、ハドソンとの交渉により「高橋名人」の名は引き続き使用できることになった。 ある日グッズのイベントで13歳年下の女性と出会い、後日交際に発展。その後2011年12月9日夜、自身がMCとして出演するニコニコ生放送の番組『ゲッチャ!』において、同日入籍したことを発表した。記念日を忘れないようにとの考えから、妻の誕生日に入籍した。 2012年10月、ゲッチャ・コミュニケーションズの買収に伴い、ゲームプレゼンテーターとして株式会社MAGES.に移籍(現任)。 2014年6月、企画、開発、運営まで、ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークスを設立し、代表取締役名人に就任(現退任)。 2016年6月7日、一般社団法人e-sports促進機構代表理事に就任(他団体と統合して一般社団法人日本e-sports連合となった際に退任)。 2022年5月、情報バラエティ番組『ラヴィット!』にゲスト出演したことが話題となり、直後にSNSでトレンド1位になった。 実家は高橋一族の本家で、金物屋などを経営していた。金物屋を始めた祖父は地下1階、地上3階建てのビルを所有し、高橋はそこで両親と祖父母と妹弟たちと暮らした。そのため、子供の頃の夢は家を継ぐことだった。道産子であったため、ハドソン入社前は暑さに弱かったが、営業で全国各地を回る内に35度の高温でも平気になった。 小学生時代は、自宅から3kmほどの距離にある山や川に週に4日ほど遊びに行くなど活発な子供だった。このため自然と足腰が鍛えられ、小学6年生の頃に50m走を6秒9で走り、幅跳びでは4m15cm跳んだという。中学生時代は陸上部に所属し、3年生の時に市大会の三種競技で優勝した。 高校進学の際、本人曰く「進学校ではないこと」、「共学でフォークソングクラブがあったこと」から東海大学付属第四高校を選んだ。この頃からフォーク以外の音楽にも興味を持ち、シンセサイザーの冨田勲からクラシックまで聴くようになる。当時稼業を継ぐつもりだったため、両親から経営科のある大学進学を勧められ、北海道自動車短期大学への進学を決めた。 風貌については全盛期の髪型から総髪を後ろで束ねた髪型を経て、2003年からはスキンヘッドの姿となっている。本人の日記によると趣味であるツーリング時にスキンヘッドの方が便利だからとの記述がある。結婚してからは夫婦でツーリングをしている。帽子を被るようになったのは、おはようスタジオに遅刻した際、オートバイで駆けつけたため広がった髪を押さえ付けるためADから帽子を借りて被ったのが切っ掛けだった。 ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回(1連射に0.06秒)押す16連射は高橋名人の代名詞となっている。 1985年、ハドソン全国キャラバンのスターフォースで披露したのがコロコロコミックで取り上げられたのをきっかけで話題になった。シューティングゲーム上でのことなので16連打ではなく16連射と呼ばれ、ハドソンが連射速度測定玩具『シュウォッチ』を発売したり、同社のゲーム『迷宮組曲 ミロンの大冒険』に連射速度測定機能が搭載されるなど、連射を競う流行現象を巻き起こし、当時は名人の指に三億円の保険をかけるという話が出たほどだった。 当初から瞬間速度では16連打以上も可能だったが、語呂の良さや仕事柄16進数に親しみがあったなどの理由から16連打ということにしたもので、全盛期には『シュウォッチ』でスコア174(1連打に0.0575秒)の記録を出したこともあり本人は「本当は17連射です」とインタビューに答えている。 別のインタビューでは、以下のように答えている。「スターフォース」の全国キャラバンで会場の子供から「ボスキャラが合体する前に何発撃ってるの?」と聞かれて、その場で試しに撃ってみたが16連射には少し届かなかった。しかし後日、コロコロ編集部のスタッフが、『今は16bitの時代だし、16連射ってことで』とその場のノリで決まった。このため公では、“初めて16連射をやったのは「スターフォース」の実演時”ってことになったんです」。 この様な驚異的な連射能力を生んだ背景として、毎日2〜3km歩いて山へ遊びに行っていたことや、小学校4年生の時から18キロある灯油缶を毎日持って運んでいたので握力85キロくらいはあり、りんごも片手で潰せたといったことが語られている。また、邪道とされる“こすり”、“ピアノ打ち”といった技術を用いることも可能だが、敢えて叩きという正統派の連射しか公式な場で行うことはない。また、肘をつき指の上下のストロークを短くするのがコツとのこと。 50歳を越えても秒間12〜13連射の実力を維持している。 映画『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』では、16連打でスイカを割る場面があるが、製作側が試行錯誤をこらして作った仕掛けであるとのこと。 ファミコン最盛期は数多くのファミコンソフトが開発・販売され、不具合やバグが多かったが、中にはその不具合がゲームの進行の意外な手助けになることがあり、必ずしも悪い効果ばかりではなかった。これがファミコンの雑誌などで“裏技”として度々取り上げられたことで、非正規のやり方で本来の仕様上想定されていない(もしくは公開されていない)効果を出すことを“裏技”と呼ぶようになったが、この「裏技」を高橋名人が命名したという説がある。 当時ハドソンが開発販売したロードランナーに、梯子で右手を上げた状態のままだと敵がすり抜けるという不具合が発売後に見つかり、発売済み商品の全回収で下手をするとハドソンの倒産も考えられた。これをコロコロコミックに相談したところ、「これは表には出せないから、“裏の技”ということでやったら面白いんじゃないか」と言われて、「そうだ、発表してしまえ。“裏技”(笑)」とその提案に乗って名人が略したのが発端であった、というものである。 『高橋名人の冒険島』シリーズでは、彼を元にした同名の原人が主人公として登場する。この原人姿の高橋名人が、テレビアニメ『Bugってハニー』の主人公の高橋原人の元にもなった。後に、『サターンボンバーマン』や『ドリームミックスTV ワールドファイターズ』(声は高橋本人)、『Original story from FAIRY TAIL 激突!カルディア大聖堂』など、ハドソンの他のゲームへも登場した。 なお、『高橋名人の冒険島』はもともとエスケイプ(後のウエストン ビット エンタテインメント)制作・セガ(後のセガ・インタラクティブ)販売のアーケードゲーム『ワンダーボーイ』(第1作)をそのまま移植する予定であったが、ハドソン副社長の「名人を主人公にしたほうが面白い」という一言で、制作元に了承を得た上で開発中のゲームの主人公キャラクターを高橋名人に差し替えられることになった。そのため、本人は牛乳を飲めない体質なのに「ゲーム内ではアイテムのミルクでパワーアップする」など、本人の特徴とは必ずしも一致しない設定となり、加えてファミコン版のみゲーム中のBGMも一新された。制作元のエスケイプは、ライセンス認証だけでなく同作の制作にも協力している。 翌年に北米で発売されたNES版『Hudson's Adventure Island』では、キャラクターの高橋名人(原人)は「Master Higgins」(マスター・ヒギンズ)という名前に変更されている。 2006年9月6日朝、銀座数寄屋橋付近(出勤のため、有楽町駅から築地のハドソンへ向かう途中であった)の街頭で、秋篠宮妃紀子の出産についてテレビ東京から街頭インタビューを受け、11時6分頃、その模様が同局の番組『NEWS MARKET 11』内で放映された。これは「親王誕生の喜びに沸く街の声」としての扱いであり、全く偶然の出来事であった。かつてテレビ東京に多く出演していたにもかかわらず、テレビ東京の人員は全く気づいていなかった様子である。同日の『速ホゥ!』でもこの映像は使用された。 放映前の時点で、すでに本人のブログにインタビューを受けたことが書かれており本人と判明していたため、インタビュー放映直後からインターネットコミュニティ上で爆発的な話題となった。放送されていたインタビュー画面を取り込んだ画像や動画が第三者により公開され、ハドソン本社に問い合わせや「インタビューを受けたことに関しての取材」の申し込みが殺到したり、「東京スポーツ」の記事として取り上げられるほどであった。 「勉強でも何でもやりすぎは良くない、ゲームにだけ夢中にならず、いろいろなことを経験しよう」という意味を込めて高橋名人が放っていた言葉。 当初この発言は、訪れた子供から唖然とされたほか、問屋などから「ゲーム会社の人間がゲームをするなとは何事か」と文句がつけられ、ハドソンで役員会が開かれるほどの物議を醸したが、逆に社長の決断で会社として『ゲームばかりで遊ばない、他のこともしよう』という健全な方向性を打ち出していくことになり、高橋名人に標語の作成が命じられた。 結果、上の五つが標語となり、以後、ハドソン製ゲームソフトの取扱説明書や、「コロコロコミック」などでもこの言葉が掲載されていた。これらはあくまで子供へ向けたものであり、自己管理の出来る大人に関しては何時間ゲームしていても自己責任であるという見解である。 発言の根本的なところは名人の「小学生はゲームより先に、基礎体力や基礎の知恵を付けた方がいい」という信条にあるが、直接的な切っ掛けはそれまで子供ばかりだったゲームの催し物の会場に大勢の親が訪れたことだった。当時、不良文化と結びつくと見られていたゲームセンターへの悪印象をファミコンにも持たれてしまうことへの危惧もあったが、名人はテレビゲーム文化がすぐに飽きられ一時的な流行で終わってしまうことを懸念しており、ゲームと社会との間に健全で長期的な関係が育まれるようにとの想いから生まれたものであった。 2014年、オックスフォード大学のAndrew Przybylski博士率いる研究団が、イギリス全土の10歳から15歳の子供5000人に対して、ゲームに費やす時間とともに生活への満足度や友人との関係性などを質問し、ゲームをプレイしない子供達と比較すると、1日1時間以内ゲームをする子供達は生活への満足度が高く、社交的で、1人もしくは他の子供とビデオゲームをプレイすることにより幸福感や、一体感を得られることを示し、逆に、1時間以上プレイする子供達には、落ち着きがなくなったり、注意力散漫になったりするという問題が見られ、これはゲーム以外の活動の機会を逃すことが原因と考えられる、といった調査結果を発表し、直感で高橋名人が語っていたことが学術的にも裏付けられた。 「子供を指導するのではなく、一緒に遊んでいるお兄ちゃんでいよう」というのが基本的な姿勢で、そのため、家族で楽しめる“ファミコン体操”など様々なことを考え、催しで実演していた。 自分も名人になりたいという人への忠告として、ゲームの巧い下手はさして重要でないとする。観客に楽しそうに見せたり紹介するプレイと高得点を狙うプレイは全く異なっており、面白そうに見せながら死なないようにする、といった魅せるプレイが必要で、下手でも楽しそうにプレイしている姿を見せてやればそれが一番と語る。 イメージを崩さないため、子供の前で喫煙せず、繁華街では週刊誌に写真を撮られないようにいかがわしい店に近づかないようにしていた。 ソラノート「Libub」に2011年8月に出演した際に、これまで印象的な10本のゲーム作品を語っている。 ハドソンという会社の社風とも重なるが、「会議室で決めた話は成功しない。飲み屋で決めた話は成功する」と決断の秘訣を語る。「会議室でいくら頭の中で知恵を絞ったところで、それはひねった意見」「遊んでいる雰囲気の中で、ざっくばらんに言っている意見をみんなが聞けるような姿勢でないと、面白いことというのは発展的にならない」と自身の経験に裏打ちされた信条を述べている。 多くの職種を経験した学生時代を振り返り、若い時にさまざまなアルバイトをしてみることを推奨している。給料が高くて効率がいいものより、安くても雑多な経験ができるものがよく、自分の技能獲得に繋がるだけでなく、自分はどんなことが好きなのか、どんなことに向いているのかが見えてくる、と語る。 高橋名人の人気絶頂期であった1986年から1987年頃にかけて、子供達を中心に「高橋名人が警察に逮捕された」「高橋名人が死亡した」といった類の噂(都市伝説)が急速に広まった。当時高橋名人に警視庁からの牛込警察署の一日署長の依頼があった(一日署長自体は日程の都合で実現しなかったと、後にブログなどで語っている)。それが子供達を中心に誤った内容で伝聞され(「一日署長をするために警察に行く」→「警察に行った」→「捕まった」)、「高橋名人逮捕」という情報になり、日本の広範囲に広まったと言われている。 噂には派生種類がかなりあり、その中でも有名なのは「ゲームのコントローラーのボタンにバネを仕込んで連射速度をごまかした」というものであり、その他にも「バネを仕込んだコントローラは1回押すと4回押したことになる」、「非合法なクスリで手首を痙攣させていたのが逮捕の理由」、「そのクスリのせいで死んだ」、「連射のし過ぎでコントローラーが爆発して死んだ」など。「月刊コロコロコミック」連載の『熱血!ファミコン少年団』(さいとうはるお)では、この噂に題材を取った話も描かれた。 死亡説について本人は後年、以下のように回想している。「1987年秋、家庭用ゲーム機のPCエンジンが発売されることになり、僕は『ファミコンの名人』から『PCエンジンの名人』に転換を図ろうとした。それで(同ゲーム機の)発売の2ヶ月前から、意図的にテレビなどへの露出を止めた所、理由を知らない全国の子どもたちの間で死亡説が流れてしまった」。 ゲーム関係者としての印象が強い名人だが、音楽家としてもその活動は長い。中学に入った時に井上陽水の演奏を聞いてギターを弾いてみたいと思ったのがきっかけで、中学高校と一貫してフォークソング部に所属し、学園祭で演奏などをしていた。後に、マイク・オールドフィールドが『チューブラーベルズ』ですべての楽器を一人ですべて演奏していることに感銘を受け、独学で色んな楽器に手を出すようになる。 大学を中退して会社に入った頃に、テープのカラオケが出回り始め、飲み屋や居酒屋で頻繁に歌いまくるようになる。1985年に高橋名人として登場した後、コロコロコミックの社員とよくスナックに行ってはカラオケで歌っていると、その歌の上手さが知れ渡って、「RUNNER」で歌手として登場することになった。 歌唱力には定評があり、「Bugってハニー」収録の際は、録音へ行く途中の車内で初めてテープを渡され、そこで三回ほど聞いただけで歌唱をこなしたほどであった。 集英社のグラビア誌「プレイボーイEYES」1983年6月号の「パソコン大研究」特集では、「6畳間で富田サウンドを作る」のタイトルでデスクトップミュージックを趣味としている、高橋名人以前の姿が記事になっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高橋名人(たかはしめいじん、1959年〈昭和34年〉5月23日 - )は日本のプロゲーマー、ゲームプレゼンター、実業家。血液型はO型。ファミコン全盛期にハドソン所属のファミコン名人として一世を風靡し、歌手としても活動した。本名は高橋 利幸(たかはし としゆき)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本におけるプロゲーマーの先駆的存在であり、一般社団法人e-sports促進機構代表理事も歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北海道札幌市西区琴似出身。なお、「高橋名人」という名称はハドソンが『登録番号 第4994766号』で商標登録していたが、ハドソンとの話し合いにより退社後も使用している。なお、その後ハドソンはコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併されたため、商標登録は同社に引き継がれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "札幌市西区生まれ。生家は金物店。札幌市立琴似小学校を経て 市立琴似中学校に入学。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東海大学付属第四高等学校卒業後、北海道自動車短期大学に進学するが、スーパーマーケット「札幌フードセンター」でのアルバイトに熱中しすぎて3か月で短期大学を中退。最高月収で17万円(当時の金額)を稼ぐほどの働きぶりだったため、社員から誘われて正社員としてそのまま入社した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "3年間働いて青果部の主任に昇格した1981年春、仕入れや在庫の管理、伝票整理のわずらわしさから逃れるため、たまたま入ったマイコンショップでシャープのMZ-80Bを購入したのがゲーム業界に関わる切っ掛けとなった。当時のパソコンは使う側にかなりの知識を要求するもので、特に知識もなかったため放置していたが、毎月手元に届くローンの返済請求額を見て一念発起し、BASICのコマンドを30程度覚えたところで札幌フードセンターを退職。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その後、カルチャーセンターの講師に就き、教える側になる。生徒から浴びせられる様々な質問に応えるために、自身も知識を深めていった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そうして培った技能を元に1982年8月、豊平区に本社を置いていたハドソンに友人の影響で面接を受け入社。当初は営業部に所属していたが、上司に命じられて東京支店勤務となった後、ハドソンのファミリーコンピュータ参入をきっかけに宣伝部に移る。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1984年7月にハドソンが『ナッツ&ミルク』と『ロードランナー』を発売してから、『ロードランナー』の販促を担当。子供向け雑誌で同ソフトの宣伝をさせてもらおうと各出版社を回って交渉した結果、小学館の『コロコロコミック』から快諾をもらった。以後、月刊コロコロコミック編集部との親密な関係が始まり、週の内五日は同編集部に通うという状態が一年間は続いた。当時コロコロはすがやみつる原作の『ゲームセンターあらし』の連載が終了し、次の人気連載となる作品を模索していたところ、ほどなくしてそれがすがやの元アシスタントであったあさいもとゆき原作の『ファミコンロッキー』などに代わり同社の作品が作中で使われることが多かったため、ハドソンと名人が絡んで行くことになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1985年に『チャンピオンシップ・ロードランナー』の宣伝を担当。発売前に子供たちの反応を見るため、同年3月15日、東京・松坂屋銀座店の屋上で行われた月刊コロコロコミックの催し「コロコロまんが祭り」にハドソン社員として参加。各面を出すためのパスワードは伏せるために身体で画面を隠しながらの入力では、お客様を不快にさせることになる。そこで子供たちの方を向きながら後ろ手にコントローラーを操る技術を披露した。そして、ロードランナーの10面を2回の失敗でクリアした。1000人ほどの親子連れの前でファミコンの『チャンピオンシップロードランナー』を実演したところ、2~300人が残ってサインをねだる事態となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この催しの成功を受けて、ハドソンはハドソン全国キャラバンなどの立ち上げを急遽決定。ゲームの実演役として高橋が指名され、また将棋や囲碁に倣い「名人」という呼称を使うことになった。ここに「高橋名人」が誕生し、5月3日の「コロコロまんがまつり・スターフォース発売前ファミコン大会」にて名人として初登場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同年に行われた全国キャラバン(『スターフォース』)では、事前の企画内容や当日会場(スーパー「ダイエー」のチェーン店)を回るためのキャラバンカーの手配、スポンサー探し(交渉の末TDKに決定)、各会場の機器の配線まで全てをこなした。このキャラバンで「16連射」を披露し、これがコロコロコミックで取り上げられると一躍子供たちのヒーローになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、ハドソンでは直後に後輩の毛利名人が登場し、他社からも橋本名人を筆頭に続々と名人が名乗りを上げ、ファミコン名人という流行を作り出すことになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その中でも本家本元の高橋名人は人気が別格であり、8月14日にはTV出演、晴海国際貿易センターに四千人を集めた12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」は翌日の東京新聞で特集され、さらにフライデー、週刊文春でも取り上げられることで、ファミコンが一大現象になっていることを一般社会に知らしめた。1985年から1986年まで出演していた平日朝放送のテレビ東京のテレビ番組「おはようスタジオ」では、高橋名人が出演すると視聴率が上がり、高橋名人の出演コーナーを見て学校へ遅刻する子供が続出したため、出番を早くするという措置がとられるほどであった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "翌1986年にはこども電話相談室準レギュラーに就任したのを始め、CDデビュー、漫画化、映画化、ゲーム化など積極的にメディアミックスを図り、キャラクターとしても愛される存在になっていく。同年には、赤塚不二夫も新聞連載漫画『いじわる時事』の中でネタにするなど、「高橋名人」の名は大人たちの間にも浸透していった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当時、テレビ番組出演時の実演ではゲームの序盤を紹介するだけで良く、面クリア型のアクションやシューティングでは3面ぐらいまでをビシッとクリアできれば大丈夫だった。ただし、ゲームをプレイしながら画面を見ずに解説する必要があったため、3面程度の攻略の仕方や敵キャラについての情報を身体に記憶させるため、日々ゲームの鍛錬に磨きをかけた。また当時は、ハドソンの社員として働きながら、高橋名人としてテレビ出演などをこなしたため、朝6時から夜中の12時頃まで忙しく働いた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、翌1987年にハドソンがNECホームエレクトロニクスと共同開発したPCエンジンが発売されると、PCエンジンソフトの宣伝に回され、ファミコン業界から離れることになる。煽りを受けることになったのはコロコロコミックで連載されていた漫画『ファミコンランナー高橋名人物語』(河合一慶原作)で、表題に「ファミコン」の名称が使われていたため途中打ち切りとなり、最終巻が発売されなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後は、後進の指導などにあたった。トレーディングカードゲームにハマったハドソンの工藤浩社長(当時)がカード販売を決めたことから、1998年から2000年にかけてハドソンの子会社「未来蜂歌留多商会」へ営業部部長として出向。トレーディングカードの制作販売を監督し、同社のアイディアを印刷会社に説明する仕事などを担当した。ハドソン大阪支社を経た後、2001年、コナミがハドソンの筆頭株主になり、ハドソンが自社流通事業から撤退したことを機に東京支社へと復帰。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2000年代初頭に起きた新世代テクノポップバンドの盛り上がりの中で、高橋名人再評価の機運が高まり、2001年に宇宙ヤングと楽曲を発表。2002年5月から2003年11月にかけて3回行われた宇宙ヤング主催の『高橋名人のBugってナイト』では、かつて発表した楽曲の歌唱はもとより、16連射スイカ割りなども披露した。この直後からレトロゲームが再評価されるようになり、再び高橋名人として媒体に登場するようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2004年12月6日、営業職から宣伝部へ異動。2006年11月には、ハドソン内での役職名も「名人」となるなど、名人推しは続いた。2006年にレトロゲーム絡みで取材を受けた直後、本人のブログ「16連射のつぶやき」に一日160万以上のアクセスとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2011年5月31日、ハドソンを退社し、同年6月1日にゲッチャ・コミュニケーションズに入社。退社の理由として、ハドソンの業務からコンシューマーゲームが消えたことを挙げている。なお、ハドソンとの交渉により「高橋名人」の名は引き続き使用できることになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ある日グッズのイベントで13歳年下の女性と出会い、後日交際に発展。その後2011年12月9日夜、自身がMCとして出演するニコニコ生放送の番組『ゲッチャ!』において、同日入籍したことを発表した。記念日を忘れないようにとの考えから、妻の誕生日に入籍した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2012年10月、ゲッチャ・コミュニケーションズの買収に伴い、ゲームプレゼンテーターとして株式会社MAGES.に移籍(現任)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2014年6月、企画、開発、運営まで、ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークスを設立し、代表取締役名人に就任(現退任)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2016年6月7日、一般社団法人e-sports促進機構代表理事に就任(他団体と統合して一般社団法人日本e-sports連合となった際に退任)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2022年5月、情報バラエティ番組『ラヴィット!』にゲスト出演したことが話題となり、直後にSNSでトレンド1位になった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "実家は高橋一族の本家で、金物屋などを経営していた。金物屋を始めた祖父は地下1階、地上3階建てのビルを所有し、高橋はそこで両親と祖父母と妹弟たちと暮らした。そのため、子供の頃の夢は家を継ぐことだった。道産子であったため、ハドソン入社前は暑さに弱かったが、営業で全国各地を回る内に35度の高温でも平気になった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "小学生時代は、自宅から3kmほどの距離にある山や川に週に4日ほど遊びに行くなど活発な子供だった。このため自然と足腰が鍛えられ、小学6年生の頃に50m走を6秒9で走り、幅跳びでは4m15cm跳んだという。中学生時代は陸上部に所属し、3年生の時に市大会の三種競技で優勝した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "高校進学の際、本人曰く「進学校ではないこと」、「共学でフォークソングクラブがあったこと」から東海大学付属第四高校を選んだ。この頃からフォーク以外の音楽にも興味を持ち、シンセサイザーの冨田勲からクラシックまで聴くようになる。当時稼業を継ぐつもりだったため、両親から経営科のある大学進学を勧められ、北海道自動車短期大学への進学を決めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "風貌については全盛期の髪型から総髪を後ろで束ねた髪型を経て、2003年からはスキンヘッドの姿となっている。本人の日記によると趣味であるツーリング時にスキンヘッドの方が便利だからとの記述がある。結婚してからは夫婦でツーリングをしている。帽子を被るようになったのは、おはようスタジオに遅刻した際、オートバイで駆けつけたため広がった髪を押さえ付けるためADから帽子を借りて被ったのが切っ掛けだった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回(1連射に0.06秒)押す16連射は高橋名人の代名詞となっている。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1985年、ハドソン全国キャラバンのスターフォースで披露したのがコロコロコミックで取り上げられたのをきっかけで話題になった。シューティングゲーム上でのことなので16連打ではなく16連射と呼ばれ、ハドソンが連射速度測定玩具『シュウォッチ』を発売したり、同社のゲーム『迷宮組曲 ミロンの大冒険』に連射速度測定機能が搭載されるなど、連射を競う流行現象を巻き起こし、当時は名人の指に三億円の保険をかけるという話が出たほどだった。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "当初から瞬間速度では16連打以上も可能だったが、語呂の良さや仕事柄16進数に親しみがあったなどの理由から16連打ということにしたもので、全盛期には『シュウォッチ』でスコア174(1連打に0.0575秒)の記録を出したこともあり本人は「本当は17連射です」とインタビューに答えている。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "別のインタビューでは、以下のように答えている。「スターフォース」の全国キャラバンで会場の子供から「ボスキャラが合体する前に何発撃ってるの?」と聞かれて、その場で試しに撃ってみたが16連射には少し届かなかった。しかし後日、コロコロ編集部のスタッフが、『今は16bitの時代だし、16連射ってことで』とその場のノリで決まった。このため公では、“初めて16連射をやったのは「スターフォース」の実演時”ってことになったんです」。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この様な驚異的な連射能力を生んだ背景として、毎日2〜3km歩いて山へ遊びに行っていたことや、小学校4年生の時から18キロある灯油缶を毎日持って運んでいたので握力85キロくらいはあり、りんごも片手で潰せたといったことが語られている。また、邪道とされる“こすり”、“ピアノ打ち”といった技術を用いることも可能だが、敢えて叩きという正統派の連射しか公式な場で行うことはない。また、肘をつき指の上下のストロークを短くするのがコツとのこと。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "50歳を越えても秒間12〜13連射の実力を維持している。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "映画『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』では、16連打でスイカを割る場面があるが、製作側が試行錯誤をこらして作った仕掛けであるとのこと。", "title": "16連射" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ファミコン最盛期は数多くのファミコンソフトが開発・販売され、不具合やバグが多かったが、中にはその不具合がゲームの進行の意外な手助けになることがあり、必ずしも悪い効果ばかりではなかった。これがファミコンの雑誌などで“裏技”として度々取り上げられたことで、非正規のやり方で本来の仕様上想定されていない(もしくは公開されていない)効果を出すことを“裏技”と呼ぶようになったが、この「裏技」を高橋名人が命名したという説がある。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当時ハドソンが開発販売したロードランナーに、梯子で右手を上げた状態のままだと敵がすり抜けるという不具合が発売後に見つかり、発売済み商品の全回収で下手をするとハドソンの倒産も考えられた。これをコロコロコミックに相談したところ、「これは表には出せないから、“裏の技”ということでやったら面白いんじゃないか」と言われて、「そうだ、発表してしまえ。“裏技”(笑)」とその提案に乗って名人が略したのが発端であった、というものである。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『高橋名人の冒険島』シリーズでは、彼を元にした同名の原人が主人公として登場する。この原人姿の高橋名人が、テレビアニメ『Bugってハニー』の主人公の高橋原人の元にもなった。後に、『サターンボンバーマン』や『ドリームミックスTV ワールドファイターズ』(声は高橋本人)、『Original story from FAIRY TAIL 激突!カルディア大聖堂』など、ハドソンの他のゲームへも登場した。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、『高橋名人の冒険島』はもともとエスケイプ(後のウエストン ビット エンタテインメント)制作・セガ(後のセガ・インタラクティブ)販売のアーケードゲーム『ワンダーボーイ』(第1作)をそのまま移植する予定であったが、ハドソン副社長の「名人を主人公にしたほうが面白い」という一言で、制作元に了承を得た上で開発中のゲームの主人公キャラクターを高橋名人に差し替えられることになった。そのため、本人は牛乳を飲めない体質なのに「ゲーム内ではアイテムのミルクでパワーアップする」など、本人の特徴とは必ずしも一致しない設定となり、加えてファミコン版のみゲーム中のBGMも一新された。制作元のエスケイプは、ライセンス認証だけでなく同作の制作にも協力している。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "翌年に北米で発売されたNES版『Hudson's Adventure Island』では、キャラクターの高橋名人(原人)は「Master Higgins」(マスター・ヒギンズ)という名前に変更されている。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2006年9月6日朝、銀座数寄屋橋付近(出勤のため、有楽町駅から築地のハドソンへ向かう途中であった)の街頭で、秋篠宮妃紀子の出産についてテレビ東京から街頭インタビューを受け、11時6分頃、その模様が同局の番組『NEWS MARKET 11』内で放映された。これは「親王誕生の喜びに沸く街の声」としての扱いであり、全く偶然の出来事であった。かつてテレビ東京に多く出演していたにもかかわらず、テレビ東京の人員は全く気づいていなかった様子である。同日の『速ホゥ!』でもこの映像は使用された。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "放映前の時点で、すでに本人のブログにインタビューを受けたことが書かれており本人と判明していたため、インタビュー放映直後からインターネットコミュニティ上で爆発的な話題となった。放送されていたインタビュー画面を取り込んだ画像や動画が第三者により公開され、ハドソン本社に問い合わせや「インタビューを受けたことに関しての取材」の申し込みが殺到したり、「東京スポーツ」の記事として取り上げられるほどであった。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「勉強でも何でもやりすぎは良くない、ゲームにだけ夢中にならず、いろいろなことを経験しよう」という意味を込めて高橋名人が放っていた言葉。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "当初この発言は、訪れた子供から唖然とされたほか、問屋などから「ゲーム会社の人間がゲームをするなとは何事か」と文句がつけられ、ハドソンで役員会が開かれるほどの物議を醸したが、逆に社長の決断で会社として『ゲームばかりで遊ばない、他のこともしよう』という健全な方向性を打ち出していくことになり、高橋名人に標語の作成が命じられた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "結果、上の五つが標語となり、以後、ハドソン製ゲームソフトの取扱説明書や、「コロコロコミック」などでもこの言葉が掲載されていた。これらはあくまで子供へ向けたものであり、自己管理の出来る大人に関しては何時間ゲームしていても自己責任であるという見解である。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "発言の根本的なところは名人の「小学生はゲームより先に、基礎体力や基礎の知恵を付けた方がいい」という信条にあるが、直接的な切っ掛けはそれまで子供ばかりだったゲームの催し物の会場に大勢の親が訪れたことだった。当時、不良文化と結びつくと見られていたゲームセンターへの悪印象をファミコンにも持たれてしまうことへの危惧もあったが、名人はテレビゲーム文化がすぐに飽きられ一時的な流行で終わってしまうことを懸念しており、ゲームと社会との間に健全で長期的な関係が育まれるようにとの想いから生まれたものであった。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2014年、オックスフォード大学のAndrew Przybylski博士率いる研究団が、イギリス全土の10歳から15歳の子供5000人に対して、ゲームに費やす時間とともに生活への満足度や友人との関係性などを質問し、ゲームをプレイしない子供達と比較すると、1日1時間以内ゲームをする子供達は生活への満足度が高く、社交的で、1人もしくは他の子供とビデオゲームをプレイすることにより幸福感や、一体感を得られることを示し、逆に、1時間以上プレイする子供達には、落ち着きがなくなったり、注意力散漫になったりするという問題が見られ、これはゲーム以外の活動の機会を逃すことが原因と考えられる、といった調査結果を発表し、直感で高橋名人が語っていたことが学術的にも裏付けられた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「子供を指導するのではなく、一緒に遊んでいるお兄ちゃんでいよう」というのが基本的な姿勢で、そのため、家族で楽しめる“ファミコン体操”など様々なことを考え、催しで実演していた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "自分も名人になりたいという人への忠告として、ゲームの巧い下手はさして重要でないとする。観客に楽しそうに見せたり紹介するプレイと高得点を狙うプレイは全く異なっており、面白そうに見せながら死なないようにする、といった魅せるプレイが必要で、下手でも楽しそうにプレイしている姿を見せてやればそれが一番と語る。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "イメージを崩さないため、子供の前で喫煙せず、繁華街では週刊誌に写真を撮られないようにいかがわしい店に近づかないようにしていた。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ソラノート「Libub」に2011年8月に出演した際に、これまで印象的な10本のゲーム作品を語っている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ハドソンという会社の社風とも重なるが、「会議室で決めた話は成功しない。飲み屋で決めた話は成功する」と決断の秘訣を語る。「会議室でいくら頭の中で知恵を絞ったところで、それはひねった意見」「遊んでいる雰囲気の中で、ざっくばらんに言っている意見をみんなが聞けるような姿勢でないと、面白いことというのは発展的にならない」と自身の経験に裏打ちされた信条を述べている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "多くの職種を経験した学生時代を振り返り、若い時にさまざまなアルバイトをしてみることを推奨している。給料が高くて効率がいいものより、安くても雑多な経験ができるものがよく、自分の技能獲得に繋がるだけでなく、自分はどんなことが好きなのか、どんなことに向いているのかが見えてくる、と語る。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "高橋名人の人気絶頂期であった1986年から1987年頃にかけて、子供達を中心に「高橋名人が警察に逮捕された」「高橋名人が死亡した」といった類の噂(都市伝説)が急速に広まった。当時高橋名人に警視庁からの牛込警察署の一日署長の依頼があった(一日署長自体は日程の都合で実現しなかったと、後にブログなどで語っている)。それが子供達を中心に誤った内容で伝聞され(「一日署長をするために警察に行く」→「警察に行った」→「捕まった」)、「高橋名人逮捕」という情報になり、日本の広範囲に広まったと言われている。", "title": "補足" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "噂には派生種類がかなりあり、その中でも有名なのは「ゲームのコントローラーのボタンにバネを仕込んで連射速度をごまかした」というものであり、その他にも「バネを仕込んだコントローラは1回押すと4回押したことになる」、「非合法なクスリで手首を痙攣させていたのが逮捕の理由」、「そのクスリのせいで死んだ」、「連射のし過ぎでコントローラーが爆発して死んだ」など。「月刊コロコロコミック」連載の『熱血!ファミコン少年団』(さいとうはるお)では、この噂に題材を取った話も描かれた。", "title": "補足" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "死亡説について本人は後年、以下のように回想している。「1987年秋、家庭用ゲーム機のPCエンジンが発売されることになり、僕は『ファミコンの名人』から『PCエンジンの名人』に転換を図ろうとした。それで(同ゲーム機の)発売の2ヶ月前から、意図的にテレビなどへの露出を止めた所、理由を知らない全国の子どもたちの間で死亡説が流れてしまった」。", "title": "補足" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ゲーム関係者としての印象が強い名人だが、音楽家としてもその活動は長い。中学に入った時に井上陽水の演奏を聞いてギターを弾いてみたいと思ったのがきっかけで、中学高校と一貫してフォークソング部に所属し、学園祭で演奏などをしていた。後に、マイク・オールドフィールドが『チューブラーベルズ』ですべての楽器を一人ですべて演奏していることに感銘を受け、独学で色んな楽器に手を出すようになる。 大学を中退して会社に入った頃に、テープのカラオケが出回り始め、飲み屋や居酒屋で頻繁に歌いまくるようになる。1985年に高橋名人として登場した後、コロコロコミックの社員とよくスナックに行ってはカラオケで歌っていると、その歌の上手さが知れ渡って、「RUNNER」で歌手として登場することになった。", "title": "音楽家として" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "歌唱力には定評があり、「Bugってハニー」収録の際は、録音へ行く途中の車内で初めてテープを渡され、そこで三回ほど聞いただけで歌唱をこなしたほどであった。", "title": "音楽家として" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "集英社のグラビア誌「プレイボーイEYES」1983年6月号の「パソコン大研究」特集では、「6畳間で富田サウンドを作る」のタイトルでデスクトップミュージックを趣味としている、高橋名人以前の姿が記事になっている。", "title": "音楽家として" } ]
高橋名人は日本のプロゲーマー、ゲームプレゼンター、実業家。血液型はO型。ファミコン全盛期にハドソン所属のファミコン名人として一世を風靡し、歌手としても活動した。本名は高橋 利幸。 日本におけるプロゲーマーの先駆的存在であり、一般社団法人e-sports促進機構代表理事も歴任した。 北海道札幌市西区琴似出身。なお、「高橋名人」という名称はハドソンが『登録番号 第4994766号』で商標登録していたが、ハドソンとの話し合いにより退社後も使用している。なお、その後ハドソンはコナミデジタルエンタテインメントに吸収合併されたため、商標登録は同社に引き継がれている。
{{画像提供依頼|人物写真(できればファミコン名人としての全盛期のもの)|date=2016年1月2日 (土) 06:00 (UTC)|cat=人物}} {{Infobox 人物 |氏名 = 高橋名人 |ふりがな = たかはしめいじん |画像 = File:Takahashi Meijin at Osu Puyo Puyo E-sports convention - 2.jpg |画像サイズ = 220px |画像説明 = 大須ぷよぷよeスポーツ大会のゲストとして登壇する高橋名人(2022年8月6日撮影) |出生名 = 高橋 利幸(たかはし としゆき) |生年月日= {{生年月日と年齢|1959|5|23}} |国籍 = {{JPN}} |別名 = 高橋名人 |生誕地= {{JPN}} [[北海道]][[札幌市]][[西区 (札幌市)|西区]] |職業= [[実業家]]<br />タレント<br />歌手<br />ゲームプレイヤー<br />ゲームプレゼンテーター |著名な実績 = |身長 = 163㎝ |体重 = 68㎏ |テレビ番組 = |肩書き = 名人 |受賞 = |署名 = |署名サイズ = |公式サイト = |補足 = }} '''高橋名人'''(たかはしめいじん、[[1959年]]〈[[昭和]]34年〉[[5月23日]] - )は[[日本]]の[[プロゲーマー]]、ゲームプレゼンター<ref name="bunshun221124"/>、[[実業家]]。[[血液型]]はO型。ファミコン全盛期に[[ハドソン]]所属の'''[[ファミコン名人]]'''として一世を風靡し、[[#音楽家として|歌手としても活動]]した。本名は'''高橋 利幸'''(たかはし としゆき)<ref name="bunshun221124"/>。 日本における[[プロゲーマー]]の先駆的存在であり{{Refnest|「プロのゲーマーといえば“魂の16連射!!”の高橋名人くらいしか思い浮かばない」[http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/tk/DTrans/ecs/101300043/ 賞金総額10億円! 世界はコンピューターゲーム“eスポーツ”で盛り上がる ――プロゲーマーという職業(前編)| nikkei BPnet 〈日経BPネット〉]}}、一般社団法人e-sports促進機構代表理事も歴任した<ref>[https://e-sp.or.jp/about.html e-sports促進機構 | 機構概要] 2017年2月22日確認</ref>。 [[北海道]][[札幌市]][[西区 (札幌市)|西区]][[琴似]]出身<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65453580W0A021C2L41000/ 16連射の高橋名人、札幌に好機到来「もっとCMを」:日本経済新聞]</ref>。なお、「高橋名人」という名称はハドソンが『登録番号 第4994766号』で[[商標]]登録していたが、ハドソンとの話し合いにより退社後も使用している。なお、その後ハドソンは[[コナミデジタルエンタテインメント]]に吸収合併されたため、商標登録は同社に引き継がれている<ref>[https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-2005-086659/75C402CF689FD68DC5337E3AC890D2B577F051A4EFFA1FEB4FB28F54354FE7B5/40/ja 商標出願・登録情報 登録4994766] - [[特許情報プラットフォーム]]</ref>。 == 経歴 == ===生い立ち=== 札幌市西区生まれ。生家は[[金物]]店<ref name="bunshun221124">[[週刊文春]] 2022年11月24日号 p.58 - 61「新・家の履歴書」</ref>。[[札幌市立琴似小学校]]を経て[[札幌市立琴似中学校 | 市立琴似中学校]]に入学<ref name="bunshun221124"/>。 [[東海大学付属札幌高等学校|東海大学付属第四高等学校]]卒業後、[[北海道自動車短期大学]]に進学するが、[[スーパーマーケット]]「[[マックスバリュ北海道|札幌フードセンター]]」でのアルバイトに熱中しすぎて3か月で短期大学を中退。最高月収で17万円(当時の金額)を稼ぐほどの働きぶりだったため<ref name="bunshun221124"/>、社員から誘われて正社員としてそのまま入社した{{Refnest|group="注"|一族の本家に生まれたため、簿記の習得を命じられたが、やりたいことではなかったため中退。アルバイトで経験を積んでいたため、入社当初から責任者扱いという立場にあった<ref name="25year-2">「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.2</ref>}}。 3年間働いて{{Refnest|group="注"|アルバイトから含めれば四年、正社員では三年<ref name="takahashi2009-nenpyou">高橋 (2009) 4-5頁 年表</ref>。}}青果部の主任に昇格した1981年春、仕入れや在庫の管理、伝票整理のわずらわしさから逃れるため、たまたま入ったマイコンショップでシャープの[[MZ-80|MZ-80B]]を購入したのがゲーム業界に関わる切っ掛けとなった{{Refnest|group="注"|手取りの給料が10万<ref>高橋 (2009) 24頁</ref>の時期に、本体27万8000円、フロッピーディスクドライブ29万8000円、メモリー4万円、ドットプリンタ10万円、合計70万円以上の額をローンで購入。当時名人が買った中古の自動車45万円を遥かに越える金額だった<ref name="makoto-a-1">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087.html “高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (1/5) - Business Media 誠]</ref>。}}。当時のパソコンは使う側にかなりの知識を要求するもので、特に知識もなかったため放置していたが、毎月手元に届くローンの返済請求額を見て一念発起し、[[BASIC]]のコマンドを30程度覚えたところで札幌フードセンターを退職。 その後、カルチャーセンターの講師に就き、教える側になる。生徒から浴びせられる様々な質問に応えるために、自身も知識を深めていった<ref name="makoto-a-1"/>。 ===ハドソンへ入社=== そうして培った技能を元に1982年8月、[[豊平区]]に本社を置いていた[[ハドソン]]{{Refnest|group="注"|当時はアマチュア無線機器とパソコン用ゲーム関連事業が主だったが、後者が8割程度の売上を占めた<ref name="makoto-a-1"/>。}}に友人の影響で面接を受け入社{{Refnest|group="注"|採用の決め手はプログラミングの技術だけではなく、面接前に偶然名人が勤める店を当時社長であった工藤裕司が訪れた際、屋外で果物などを販売していた名人の声の大きさに「こんな声がデカくて八百屋みたいなやつがこの業界に入ってきたら面白い」と思い、その印象が強く残っていたところに、面接に来た名人を見た社長は一発で採用した<ref>「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.1</ref><ref name="katou">[https://web.archive.org/web/20140407061535/http://www.kato-shinpei.com/interview/master-takahashi/「加藤シンペーと話そう 第一回 高橋名人」 加藤 慎平 オフィシャルウェブサイト]</ref>。}}。当初は営業部に所属していたが、上司に命じられて東京支店勤務となった後、ハドソンの[[ファミリーコンピュータ]]参入をきっかけに宣伝部に移る{{Refnest|group="注"|そもそもハドソンに入社した動機の一つは「家から近いこと」だったが、入社四日後に「東京に行け」と命じられ、出張のつもりであったのにそのまま東京に住むことになった。宣伝部に移っての最初期の仕事はファミリーベーシックの説明書作成<ref name="25year-3">「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.3</ref>。}}。 1984年7月にハドソンが『[[ナッツ&ミルク]]』と『[[ロードランナー]]』を発売してから、『ロードランナー』の販促を担当。子供向け雑誌で同ソフトの宣伝をさせてもらおうと各出版社を回って交渉した結果、小学館の『コロコロコミック』から快諾をもらった<ref name="bunshun221124"/>。以後、[[月刊コロコロコミック]]編集部との親密な関係が始まり、週の内五日は同編集部に通うという状態が一年間は続いた。当時コロコロは[[すがやみつる]]原作の『[[ゲームセンターあらし]]』の連載が終了し、次の人気連載となる作品を模索していたところ、ほどなくしてそれがすがやの元アシスタントであった[[あさいもとゆき]]原作の『[[ファミコンロッキー]]』などに代わり同社の作品が作中で使われることが多かったため、ハドソンと名人が絡んで行くことになる<ref name="makoto-a-2">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087_2.html “高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (2/5) - Business Media 誠]</ref>。 1985年に『チャンピオンシップ・ロードランナー』の宣伝を担当。発売前に子供たちの反応を見るため、同年3月15日、東京・[[松坂屋]]銀座店の屋上で行われた[[月刊コロコロコミック]]の催し「コロコロまんが祭り」にハドソン社員として参加{{Refnest|group="注"|「看板に「ハドソンの高橋利幸さん来たる。『チャンピオンシップロードランナー』をどうのこうの」と書いてあるんですよ。」とすでに大物扱いだった<ref name="makoto-a-3">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087_3.html “高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (3/5) - Business Media 誠]</ref>。}}。各面を出すためのパスワードは伏せるために身体で画面を隠しながらの入力では、お客様を不快にさせることになる。そこで子供たちの方を向きながら後ろ手にコントローラーを操る技術を披露した。そして、ロードランナーの10面を2回の失敗でクリアした。<ref>{{Cite book|和書|title=テレビゲーマー|date=1997年9月12日|year=1997|publisher=アクセラ|pages=61,62,63,64,65,}}</ref>1000人ほどの親子連れの前でファミコンの『[[チャンピオンシップロードランナー]]』を実演したところ、2~300人が残ってサインをねだる事態となった<ref name="makoto-a-3"/>{{Refnest|group="注"|当時はただの宣伝部員でサインなどはなかったため、この時は本名の「高橋利幸」を漢字やローマ字にして書いた<ref name="bunshun221124"/>。}}。 この催しの成功を受けて、ハドソンは[[ハドソン#ハドソン全国キャラバン|ハドソン全国キャラバン]]などの立ち上げを急遽決定。ゲームの実演役として高橋が指名され、また将棋や囲碁に倣い「'''名人'''」という呼称を使うことになった{{Refnest|group="注"|最初はラジオ体操の先生みたいなものとして考案された<ref>[http://motoraji.jugem.jp/?eid=263 もとラジ!第127話 高橋名人特集] 12:30</ref>。}}{{Refnest|group="注"|なお、「名人」の呼称の範を取った日本の囲碁界および将棋界では「高橋」姓の名人は1人もいない。将棋では「高橋名人」誕生後の1992年に[[高橋道雄]]が名人位獲得まであと1勝と迫ったが、果たせずに終わった。}}。ここに「'''高橋名人'''」が誕生し、5月3日の「コロコロまんがまつり・スターフォース発売前ファミコン大会」にて名人として初登場した<ref name="makoto-a-3"/>{{Refnest|group="注"|当時ハドソンの宣伝部でファミコン担当は名人一人で、催しの内容も自身で考え出した<ref>[http://motoraji.jugem.jp/?eid=263 もとラジ!第127話 高橋名人特集] 13:30</ref>。}}<ref group="注">また、それまでコロコロコミックに本名で登場していたが、この決定を受けて、翌月発売の号から名義を「高橋名人」に変更した。</ref>。 ===高橋名人としてイベントで活躍=== 同年に行われた全国キャラバン(『[[スターフォース]]』)では、事前の企画内容や当日会場(スーパー「[[ダイエー]]」のチェーン店)を回るためのキャラバンカーの手配、スポンサー探し(交渉の末[[TDK]]に決定)、各会場の機器の配線まで全てをこなした<ref name="bunshun221124"/>。このキャラバンで「'''16連射'''」を披露し、これがコロコロコミックで取り上げられると一躍子供たちのヒーローになった。 また、ハドソンでは直後に後輩の[[毛利名人]]が登場し、他社からも[[橋本名人]]を筆頭に続々と名人が名乗りを上げ、[[ファミコン名人]]という流行を作り出すことになった<ref name="makoto-b-5">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/13/news009_5.html 16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (5/5) - Business Media 誠]</ref>。 その中でも本家本元の高橋名人は人気が別格であり、8月14日にはTV出演<ref name="makoto-a-4">{{Cite web|和書|title=“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) |url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087_4.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>、晴海国際貿易センターに四千人を集めた12月22日の「クリスマスファミコンフェスティバル」は翌日の東京新聞<ref>東京新聞 1985年12月23日</ref>で特集され、さらにフライデー、週刊文春でも取り上げられることで、ファミコンが一大現象になっていることを一般社会に知らしめた<ref name="makoto-a-5">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/12/news087_5.html “高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編) (5/5) - Business Media 誠]</ref>。1985年から1986年まで出演していた平日朝放送のテレビ東京のテレビ番組「[[おはようスタジオ]]」では、高橋名人が出演すると視聴率が上がり、高橋名人の出演コーナーを見て学校へ遅刻する子供が続出したため、出番を早くするという措置がとられるほどであった<ref>{{Cite web|和書|title=eスポーツには,楽しくゲームを伝える“名人”が必要。高橋名人誕生秘話も語られた「高橋名人が語る昔と今のTVゲーム業界」レポート|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20181029038/|website=[[4Gamer.net]]|date=2018-11-14|accessdate=2022-12-03}}</ref>。 翌1986年には[[こども電話相談室]]準レギュラーに就任した<ref>高橋 (2009) p.44-45</ref>のを始め、CDデビュー、漫画化、映画化、ゲーム化など積極的にメディアミックスを図り、キャラクターとしても愛される存在になっていく。同年には、[[赤塚不二夫]]も新聞連載漫画『いじわる時事』の中でネタにするなど<ref>{{Cite book|和書|title=夜の赤塚不二夫|date=2021年7月28日|publisher=なりなれ社|page=3}}</ref>、「高橋名人」の名は大人たちの間にも浸透していった。 当時、テレビ番組出演時の実演ではゲームの序盤を紹介するだけで良く、面クリア型のアクションやシューティングでは3面ぐらいまでをビシッとクリアできれば大丈夫だった<ref name="bunshun221124"/>。ただし、ゲームをプレイしながら画面を見ずに解説する必要があったため、3面程度の攻略の仕方や敵キャラについての情報を身体に記憶させるため、日々ゲームの鍛錬に磨きをかけた<ref name="bunshun221124"/>。また当時は、ハドソンの社員として働きながら、高橋名人としてテレビ出演などをこなしたため、朝6時から夜中の12時頃まで忙しく働いた{{Refnest|group="注"|具体的には宣伝部員としてCM制作の立ち会いやパッケージデザインもこなし、土日はイベント出演。本人にとって週末となる水曜日は『おはようスタジオ 』(テレビ東京系)に出演した後にようやく休みという1週間を送った<ref name="bunshun221124"/>。}}。 しかし、翌1987年にハドソンが[[NECホームエレクトロニクス]]と共同開発した[[PCエンジン]]が発売されると、PCエンジンソフトの宣伝に回され、ファミコン業界から離れることになる。煽りを受けることになったのはコロコロコミックで連載されていた漫画『[[ファミコンランナー高橋名人物語]]』([[河合一慶]]原作)で、表題に「ファミコン」の名称が使われていたため途中打ち切りとなり、最終巻が発売されなかった<ref>高橋 (2009) p.46-47</ref><ref group="注">ただし、同作は名人と札幌に関係づけて出鱈目な創作を繰り広げた作品であった。なお、ゲーム『高橋名人の冒険島』シリーズはその後もファミコン、スーパーファミコンで発売されている。『高橋名人の冒険島IV』は、ファミコン最終作品として1994年6月24日に発売された。</ref>。 ===ブーム後の活動=== その後は、後進の指導などにあたった。[[トレーディングカードゲーム]]にハマったハドソンの工藤浩社長(当時)がカード販売を決めたことから、1998年から2000年にかけてハドソンの子会社「[[未来蜂歌留多商会]]」へ営業部部長として出向<ref name="bunshun221124"/>。トレーディングカードの制作販売を監督し、同社のアイディアを印刷会社に説明する仕事などを担当した<ref name="bunshun221124"/>。ハドソン大阪支社を経た後、2001年、コナミがハドソンの筆頭株主になり、ハドソンが自社流通事業から撤退したことを機に東京支社へと復帰。 2000年代初頭に起きた新世代テクノポップバンドの盛り上がりの中で、高橋名人再評価の機運が高まり<ref group="注">[[電子音楽]]である[[テクノポップ|テクノ]]と[[ゲームミュージック]]はその距離が近く、欧米では[[デモシーン]]を通じて[[クラブ]]などで格好のいい音楽として子供だけでなく若者に受けていた。その流れは[[チップチューン]]として花開いていく。</ref>、2001年に[[宇宙ヤング]]と楽曲を発表。2002年5月から2003年11月にかけて3回行われた宇宙ヤング主催の『高橋名人のBugってナイト』では、かつて発表した楽曲の歌唱はもとより、16連射スイカ割りなども披露した。この直後から[[レトロゲーム]]が再評価されるようになり、再び高橋名人として媒体に登場するようになった。 2004年12月6日、営業職から宣伝部へ異動<ref>[https://web.archive.org/web/20050209110811/http://www.hudson.co.jp/hde/vol020/staff.html HUDSON DIGITAL EXPRESS vol.20 編集後記]</ref>。2006年11月には、ハドソン内での役職名も「'''名人'''」となる<ref>{{cite news |title=ハドソンの高橋名人、役職も正式に“名人”に就任 |publisher=ITmedia |date=2006-11-06 |url=http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0611/06/news062.html |accessdate=2011-05-23}} - 名刺の画像が見られる。</ref>など、名人推しは続いた<ref group=注>なお、名人という役職だが、事実上はコンシューマコンテンツ事業本部宣伝部部長</ref>。2006年にレトロゲーム絡みで取材を受けた直後、本人のブログ「16連射のつぶやき」に一日160万以上のアクセスとなった<ref name="bunshun221124"/>。 ===ハドソン退社後=== 2011年5月31日、ハドソンを退社し、同年6月1日に[[ゲッチャ・コミュニケーションズ]]に入社。退社の理由として、ハドソンの業務から[[コンシューマーゲーム]]が消えたことを挙げている。なお、ハドソンとの交渉により「高橋名人」の名は引き続き使用できることになった<ref>{{Cite web|和書|date=2011-06-01|url=http://gadget.itmedia.co.jp/gg/articles/1106/01/news102.html|title=高橋名人はいつまでも“名人”です――転職してみてどうですか?|publisher=[[ITmedia]]|accessdate=2011-06-09}}</ref>{{Refnest|group="注"|ハドソン自体は半年後にコナミに吸収され消滅した<ref>[http://www.hudson.co.jp/index.html 株式会社コナミデジタルエンタテインメント 旧ハドソンindex] 2014年4月21日閲覧</ref>。その際には以下のように述べ、元同僚達の身を案じている。「ところで、昨日、ハドソンが吸収というニュースが入ってきました。私たちリストラ組がやめる直前に開催した飲み会で、そんなことになるんだろうなぁと話してましたがまさにそうなったんだなぁという感触です。今後、ブランドが残るかどうかわかりませんが、昨年末までには、東京のメンバー全員がコナミに転籍していた様なので、あまり驚く程のことではないと思います。ブランドを残すのも大事ですが、それ以上に、働いていたみんながどうなるのか?が大事だと思います。会社あっての社員ですが、社員あっての会社でもありますから…とにかく、残った社員の方には、頑張って貰いたいなと思います。」<ref>{{Cite web|和書| url = https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-11138915562.html | title = 高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」 | work = 26日は、うちやえゆかさんがゲストです | author = 高橋名人 | date = 2012-01-18 | accessdate = 2012-01-21}}</ref>。}}。 ある日グッズのイベントで13歳年下の女性と出会い、後日交際に発展<ref name="bunshun221124"/>。その後2011年12月9日夜、自身がMCとして出演する[[ニコニコ生放送]]の番組『ゲッチャ!』において、同日入籍したことを発表した。記念日を忘れないようにとの考えから、妻の誕生日に入籍した<ref name="bunshun221124"/>。 2012年10月、ゲッチャ・コミュニケーションズの買収に伴い、ゲームプレゼンテーターとして株式会社[[MAGES.]]に移籍<ref>[http://www.famitsu.com/news/201210/09022432.html 高橋名人がゲームプレゼンテーターとしてMAGES.に入社! - ファミ通.com]</ref>(現任)。 ===ドキドキグルーヴワークス設立=== 2014年6月、企画、開発、運営まで、ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークスを設立し、代表取締役名人に就任<ref>[http://www.famitsu.com/news/201406/04054476.html# 高橋名人が代表取締役名人に就任――ゲームに関わるすべての業務を行う株式会社ドキドキグルーヴワークス設立 - ファミ通.com]<br/>[https://mantan-web.jp/article/20140604dog00m200046000c.html 高橋名人:代表取締役名人に ゲーム新会社経営に乗り出す - MANTANWEB(まんたんウェブ)]</ref><ref>[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-11870950462.html 世界にドキドキを!|高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」]</ref>(現退任)。 2016年6月7日、一般社団法人e-sports促進機構代表理事に就任<ref>[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-12175143413.html 一般社団法人 e-sports 促進機構|高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」]</ref>(他団体と統合して一般社団法人日本e-sports連合となった際に退任)。 2022年5月、情報バラエティ番組『[[ラヴィット!]]』にゲスト出演したことが話題となり、直後にSNSでトレンド1位になった<ref name="bunshun221124"/>。 == 人物 == 実家は高橋一族の本家で、金物屋などを経営していた。金物屋を始めた祖父は地下1階、地上3階建てのビルを所有し、高橋はそこで両親と祖父母と妹弟たちと暮らした<ref name="bunshun221124"/>。そのため、子供の頃の夢は家を継ぐことだった<ref name="seabird">[https://www.blue-radio.com/program/sea/index.aspx?genrename=140319 鳥海鶏太のミュージック・シーバード 第138回『ファミソン8BIT SP~ゲームソング編』特集!! 2014年03月19日 | Blue-radio.com]</ref>。道産子であったため、ハドソン入社前は暑さに弱かったが、営業で全国各地を回る内に35度の高温でも平気になった<ref>[https://web.archive.org/web/20080413230756/http://www.hudson.co.jp/hde/vol016/page10.html HUDSON DIGITAL EXPRESS vol.16 編集後記]</ref>。 小学生時代は、自宅から3kmほどの距離にある山や川に週に4日ほど遊びに行くなど活発な子供だった。このため自然と足腰が鍛えられ、小学6年生の頃に50m走を6秒9で走り、幅跳びでは4m15cm跳んだという<ref name="bunshun221124"/>。中学生時代は[[陸上競技|陸上部]]に所属し、3年生の時に市大会の三種競技で優勝した{{Refnest|group="注"|当時の陸上三種は、幅跳び、砲丸投げ、中距離走<ref name="bunshun221124"/>。}}。 高校進学の際、本人曰く「進学校ではないこと」、「共学でフォークソングクラブがあったこと」から東海大学付属第四高校を選んだ<ref name="bunshun221124"/>。この頃からフォーク以外の音楽にも興味を持ち、シンセサイザーの[[冨田勲]]からクラシックまで聴くようになる<ref name="bunshun221124"/>。当時稼業を継ぐつもりだったため、両親から経営科のある大学進学を勧められ、北海道自動車短期大学への進学を決めた<ref name="bunshun221124"/>。 風貌については全盛期の髪型から[[総髪]]を後ろで束ねた髪型を経て{{Refnest|group="注"|髪を後ろで束ねるようになったのは、1990年に入ってからで、メイクの人が面倒臭いと縛ったのが気に入ったため<ref>[http://motoraji.jugem.jp/?eid=263 もとラジ!第127話 高橋名人特集] 5:00</ref>。}}、2003年からは[[スキンヘッド]]の姿となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20040805092642/http://www.hudson.co.jp/hde/vol015/staff.html HUDSON DIGITAL EXPRESS vol.15 編集後記]</ref>。本人の日記によると趣味であるツーリング時にスキンヘッドの方が便利だからとの記述がある。結婚してからは夫婦でツーリングをしている<ref name="seabird"/>。帽子を被るようになったのは、おはようスタジオに遅刻した際、[[オートバイ]]で駆けつけたため広がった髪を押さえ付けるためADから帽子を借りて被ったのが切っ掛けだった<ref name="makoto-a-4"/>。 == 16連射 == [[家庭用ゲーム機|ゲーム機]]のコントローラのボタンを1秒間に16回(1'''連射'''に0.06秒)押す'''16連射'''は高橋名人の代名詞となっている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=17連射の高橋名人 バネ仕込んでみたら「早く押せなかった」 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20150325_311267.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。 1985年、ハドソン全国キャラバンの[[スターフォース]]で披露したのがコロコロコミックで取り上げられたのをきっかけで話題になった。シューティングゲーム上でのことなので16連打ではなく16連射と呼ばれ{{Refnest|group="注"|なお、実際はファミコンの処理速度の問題があり、16回ボタンを押したからといって確実に16発の弾が出るわけではない<ref name="official-16shots">[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-11532160451.html 高橋名人の16連射は無意味?当時のファミコンでは、16連射は意味無かった…!?|高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」]</ref>}}、ハドソンが連射速度測定玩具『[[シュウォッチ]]』を発売したり、同社のゲーム『[[迷宮組曲 ミロンの大冒険]]』に連射速度測定機能が搭載されるなど、連射を競う流行現象を巻き起こし<ref group="注">夏休みの催しとして行われた[[シューティングキャラバン]]では、『[[スターソルジャー]]』を基に連打回数の測定のみを目的としたソフトも登場した(ただし展示のみであり、市販はされていない)。</ref>、当時は名人の指に三億円の保険をかけるという話が出たほどだった<ref>高橋名人 『公式16連射ブック 高橋名人のゲームは1日1時間』 p.108</ref>。 当初から瞬間速度では16連打以上も可能だったが、語呂の良さや仕事柄16進数に親しみがあったなどの理由から16連打ということにしたもので<ref name="official-16shots"/>、全盛期には『シュウォッチ』でスコア174(1'''連打'''に0.0575秒)の記録を出したこともあり{{Refnest|group="注"|『GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦』で最も早い連射のフィルムをコマ送りで数えた結果<ref> 高橋名人 『公式16連射ブック 高橋名人のゲームは1日1時間』 pp.70-71</ref>。}}本人は「本当は17連射です」とインタビューに答えている<ref name=":0" />。 別のインタビューでは、以下のように答えている。「スターフォース」の全国キャラバンで会場の子供から「ボスキャラが合体する前に何発撃ってるの?」と聞かれて、その場で試しに撃ってみたが16連射には少し届かなかった。しかし後日、コロコロ編集部のスタッフが、『今は16bitの時代だし、16連射ってことで』とその場のノリで決まった。このため公では、“初めて16連射をやったのは「スターフォース」の実演時”ってことになったんです」<ref name="bunshun221124"/>。 この様な驚異的な連射能力を生んだ背景として、毎日2〜3km歩いて山へ遊びに行っていたことや、小学校4年生の時から18キロある灯油缶を毎日持って運んでいたので握力85キロくらいはあり、りんごも片手で潰せたといったことが語られている<ref name="katou"/><ref>2011年8月18日ニコニコ生放送内にて本人談</ref>。また、邪道とされる“こすり”、“ピアノ打ち”といった技術を用いることも可能だが、敢えて叩きという正統派の連射しか公式な場で行うことはない<ref name="makoto-b-2">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/13/news009_2.html 16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (2/5) - Business Media 誠]</ref>。また、肘をつき指の上下のストロークを短くするのがコツとのこと。 50歳を越えても秒間12〜13連射の実力を維持している{{Efn2|[[2005年]][[12月8日]]に[[テレビ朝日]]の深夜番組『[[やぐちひとり]]』に出演した際には、12連射であった。その後「あぁ…全然駄目だ恥ずかしい」との発言を残している。のちの[[2006年]]8月に[[Podcast]]による[[インターネットラジオ]]内で行った10秒間の連打数計測では、1回目が127回、2回目は125回(12.5 - 12.7連打/秒)の記録であった。また、[[2008年]][[3月28日]]に[[Wiiウェア]]で配信された『[[スターソルジャーR]]』の記念イベントで連打に挑戦し、12.3連打/秒を記録している。[[2011年]]7月4日にニコニコ生放送内でシュウォッチで計測した際には121回(12.1連打/秒)だった。[[2022年]][[12月11日]]のイベント「高橋名人のブックオフ冒険島in枚方」では連打対決を行い、シュウォッチで129回(12.9連打/秒)を計測している様子が確認できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hira2.jp/ad/bookoff-20221229.html|title=あの高橋名人が枚方に!ガチンコ連打対決してきた。1/1(日)〜のブックオフお得情報も【ひらつー広告】|website=枚方つーしん|date=2022-12-29|author=ばばっち|accessdate=2023-01-05}}</ref>。同月31日放送の日本テレビ系『笑って年越し!世代対決 昭和芸人vs平成・令和芸人』に生出演した際には、30秒や60秒というシュウォッチでの通常の計測より長い時間での連打対決が行われたが、30秒で332回(11.07連打/秒)、60秒で666回(11.1連打/秒)という記録を残している<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-12782092956.html|title=3連勝!|date=2023-01-01|website=高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」|accessdate=2023-01-05}}</ref><ref>{{Cite news|title=高橋名人:ゲームボタン連射対決で野田クリスタルに圧勝 「笑って年越し」|newspaper=MANTANWEB(まんたんウェブ)|date=2022-12-31|url=https://mantan-web.jp/article/20221231dog00m200049000c.html|accessdate=2023-01-05}}</ref>。}}。 映画『[[GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦]]』では、16連打で[[スイカ]]を割る場面があるが、製作側が試行錯誤をこらして作った仕掛け<ref group=注>2017年5月28日放送『しくじり先生』によると指を突いた瞬間に圧搾空気が出るようにしたもの</ref>であるとのこと<ref>『16SHOT RADIO』での名人本人の言葉</ref><ref name="makoto-a-4"/>。 == 逸話 == === 裏技 === ファミコン最盛期は数多くのファミコンソフトが開発・販売され、不具合やバグが多かったが、中にはその不具合がゲームの進行の意外な手助けになることがあり、必ずしも悪い効果ばかりではなかった。これがファミコンの雑誌などで“裏技”として度々取り上げられたことで、非正規のやり方で本来の仕様上想定されていない(もしくは公開されていない)効果を出すことを“裏技”と呼ぶようになったが、この「[[裏技]]」を高橋名人が命名したという説がある。 当時ハドソンが開発販売した[[ロードランナー]]に、梯子で右手を上げた状態のままだと敵がすり抜けるという不具合が発売後に見つかり、発売済み商品の全回収で下手をするとハドソンの倒産も考えられた。これを[[コロコロコミック]]に相談したところ、「これは表には出せないから、“裏の技”ということでやったら面白いんじゃないか」と言われて、「そうだ、発表してしまえ。“裏技”(笑)」とその提案に乗って名人が略したのが発端であった、というものである<ref>[https://web.archive.org/web/20110220034222/http://www.nicovideo.jp/watch/1293479514 ニコニコ動画「ゲッチャ」2010年12月22日放送分、11分頃から]</ref><ref>ニコニコ動画「[[ゲームのじかん]] 8月19日」</ref><ref name="makoto-a-4"/>。 === キャラクターとしての高橋名人 === 『[[高橋名人の冒険島]]』シリーズでは、彼を元にした同名の[[原人]]が主人公として登場する<ref group="注">原人は[[果物]]で体力回復し、[[牛乳|ミルク]]で体力が全て回復する。本人も果物は好きであるが、牛乳はお腹を壊してしまうため飲めない(ラクターゼのない体質と考えられる{{誰2|date=2017年9月}})そうである。なお、パワーダウンアイテムに設定されている[[ナス]]は、「こすり合わせたときの音が嫌い」なだけで平気で食べることができる。</ref>。この原人姿の高橋名人が、[[テレビアニメ]]『[[Bugってハニー]]』の主人公の高橋原人の元にもなった。後に、『[[サターンボンバーマン]]』や『[[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]]』(声は高橋本人)、『Original story from [[FAIRY TAIL]] 激突!カルディア大聖堂』など、ハドソンの他のゲームへも登場した。 なお、『高橋名人の冒険島』はもともとエスケイプ(後の[[ウエストン ビット エンタテインメント]])制作・セガ(後の[[セガ・インタラクティブ]])販売の[[アーケードゲーム]]『[[ワンダーボーイ (ゲーム)|ワンダーボーイ]]』(第1作)をそのまま移植する予定であったが、ハドソン副社長の「名人を主人公にしたほうが面白い」という一言で、制作元に了承を得た上で開発中のゲームの主人公キャラクターを高橋名人に差し替えられることになった。そのため、本人は牛乳を飲めない体質なのに「ゲーム内ではアイテムのミルクでパワーアップする」など、本人の特徴とは必ずしも一致しない設定となり、加えてファミコン版のみゲーム中のBGMも一新された。制作元のエスケイプは、ライセンス認証だけでなく同作の制作にも協力している。 翌年に北米で発売された[[ファミリーコンピュータ#本体|NES]]版『Hudson's Adventure Island』では、キャラクターの高橋名人(原人)は「[[:en:Master Higgins|Master Higgins]]」(マスター・ヒギンズ)という名前に変更されている。 === 街頭インタビュー === [[2006年]][[9月6日]]朝、[[銀座]]数寄屋橋付近(出勤のため、[[有楽町駅]]から築地のハドソンへ向かう途中であった)の街頭で、[[文仁親王妃紀子|秋篠宮妃紀子]]の出産について[[テレビ東京]]から街頭インタビューを受け、11時6分頃、その模様が同局の番組『[[NEWS MARKET 11]]』内で放映された。これは「親王誕生の喜びに沸く街の声」としての扱いであり、全く偶然の出来事であった。かつてテレビ東京に多く出演していたにもかかわらず、テレビ東京の人員は全く気づいていなかった様子である。同日の『[[速ホゥ!]]』でもこの映像は使用された<ref group="注">なお、この日は[[大阪]]で商談があったため、私服である普段とは違いスーツ姿で出勤していた。</ref>。 放映前の時点で、すでに本人の[[ブログ]]にインタビューを受けたことが書かれており本人と判明していたため、インタビュー放映直後から[[インターネットコミュニティ]]上で爆発的な話題となった{{要出典|date=2017年9月}}。放送されていたインタビュー画面を取り込んだ画像や動画が第三者により公開され、ハドソン本社に問い合わせや「インタビューを受けたことに関しての取材」の申し込みが殺到したり、「[[東京スポーツ]]」の記事として取り上げられるほどであった{{Refnest|group="注"|この件でインターネットでのアクセスが百万越えたため、会社のサーバーが落ちてしまったとのこと<ref name="seabird"/>。}}<ref>https://www.news-postseven.com/archives/20120207_85515.html</ref>。 == 思想 == === 「ゲームは1日1時間」 === 「勉強でも何でもやりすぎは良くない、ゲームにだけ夢中にならず、いろいろなことを経験しよう」という意味を込めて高橋名人が放っていた言葉{{Refnest|group="注"|「「みんながこれから覚えなきゃいけない遊びはもっといっぱいあるのに、テレビゲームしか遊んでなくていいの?」という点が重要なんです。例えば小学生だと、かくれんぼや鬼ごっことかいう遊びがあるわけです。」「子供たちが成長する過程で、鬼ごっこで外を走ったり、かくれんぼでどこかに隠れたりと、いろんな遊びで知恵をつけてほしいのですが、そういう時期にテレビゲームだけというのは良くないと思うのです。」<ref name="makoto-b-4">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/13/news009_4.html 16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (4/5) - Business Media 誠]</ref>}}<ref group="注">1985年[[7月26日]]、福岡の[[ダイエー]]香椎店にて行われたゲーム大会「ゲームキャラバン」で、高橋名人が即興で語ったのが最初である。</ref>。 当初この発言は、訪れた子供から唖然とされたほか、問屋などから「ゲーム会社の人間がゲームをするなとは何事か」と文句がつけられ、ハドソンで役員会が開かれるほどの物議を醸した<ref group=注>先述の『しくじり先生』出演時の発言によれば、その時はイベントがあったことから役員会に呼び出しされなかったものの今後の処遇をどうするかという話が出てたとのこと</ref>が、逆に社長の決断で会社として『ゲームばかりで遊ばない、他のこともしよう』という健全な方向性を打ち出していくことになり、高橋名人に標語の作成が命じられた<ref name="makoto-b-1">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/13/news009.html 16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (1/5) - Business Media 誠]</ref>。 '''ゲームは一日一時間''' '''外で遊ぼう元気良く''' '''僕らの仕事はもちろん勉強''' '''成績上がればゲームも楽しい''' '''僕らは未来の社会人!''' 結果、上の五つが標語となり、以後、ハドソン製ゲームソフトの取扱説明書や、「コロコロコミック」などでもこの言葉が掲載されていた。これらはあくまで子供へ向けたものであり、自己管理の出来る大人に関しては何時間ゲームしていても[[自己責任]]であるという見解である<ref name="makoto-b-4"/><ref name="katou"/>。 発言の根本的なところは名人の「小学生はゲームより先に、基礎体力や基礎の知恵を付けた方がいい」という信条にあるが<ref name="makoto-b-4"/>、直接的な切っ掛けはそれまで子供ばかりだったゲームの催し物の会場に大勢の親が訪れたことだった。当時、不良文化と結びつくと見られていたゲームセンターへの悪印象をファミコンにも持たれてしまうことへの危惧もあったが<ref name="makoto-b-1"/>、名人はテレビゲーム文化がすぐに飽きられ一時的な流行で終わってしまうことを懸念しており{{Refnest|group="注"| 「今回このようにゲームの展覧会として開催し、多くの人が見に来たということは、それなりにゲームが文化としてある程度認知されてきていると思うんですよ。僕は昔から「ゲームは1日1時間」と言い続けてきましたが、その真意はゲームを文化にしたかったからなんですよ。一時のブームで終わってしまわないように、長く続けて行きたかったが為にポンッと出た標語みたいなもんだったんですが、今となっては意味深い標語になったなと我ながら思っています(笑)。でもこうして改めて「レベルX」展を見て、少しはゲームを文化として認めてもらうのに役に立ったのかななんて思います。そう言った意味で今回の「レベルX」展はゲーム文化を再認識させてくれたんじゃないかなと思います」<ref>[https://web.archive.org/web/20040216155523/http://www.hudson.co.jp/hde/vol009/p1-3.html H.D.exp vol.9「レベルX」展を終えて 対談特集]</ref>。{{Refnest|group="注"|「レベルX」展(2003〜4年に東京都写真美術館で展示)については、<ref>[http://dengekionline.com/data/news/2003/12/5/26a1c3cebc7b6b3ff847aa6748975d3f.html ファミコンが築いたテレビゲームの歴史を一挙に展示!「レベルX」レポート - 電撃オンライン]</ref>、<ref>[http://www.famitsu.com/game/news/2003/12/04/103,1070529145,18884,0,0.html ゲームの展覧会"レベルX"が開幕 - ファミ通.com]</ref>を参考。対談は展示企画者とのもの。}}}}、ゲームと社会との間に健全で長期的な関係が育まれるようにとの想いから生まれたものであった{{Refnest|group="注"|昔、私は「テレビゲームは文化になる」と言って笑われましたが、今、ゲームはまさに日本が発信する文化になりました。80年代半ばの創成期から、子供たちと「テレビゲーム」という遊びを共有し続けてこられたことが私の宝です。この宝物をこのままで終わらせたくないと思っています。」<ref name="25year-3">「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.3</ref>}}。 2014年、オックスフォード大学のAndrew Przybylski博士率いる研究団が、イギリス全土の10歳から15歳の子供5000人に対して、ゲームに費やす時間とともに生活への満足度や友人との関係性などを質問し、ゲームをプレイしない子供達と比較すると、1日1時間以内ゲームをする子供達は生活への満足度が高く、社交的で、1人もしくは他の子供とビデオゲームをプレイすることにより幸福感や、一体感を得られることを示し、逆に、1時間以上プレイする子供達には、落ち着きがなくなったり、注意力散漫になったりするという問題が見られ、これはゲーム以外の活動の機会を逃すことが原因と考えられる、といった調査結果を発表し、直感で高橋名人が語っていたことが学術的にも裏付けられた<ref>[https://www.inside-games.jp/article/2014/08/05/79196.html 「ゲームは1日1時間」は正しかった?オックスフォード大学の研究結果より | インサイド]</ref>。 === 子供達との接し方 === 「子供を指導するのではなく、一緒に遊んでいるお兄ちゃんでいよう」というのが基本的な姿勢で<ref name="25year-7">「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.7</ref>、そのため、家族で楽しめる“ファミコン体操”など様々なことを考え、催しで実演していた<ref name="makoto-b-4"/>。 自分も名人になりたいという人への忠告として、ゲームの巧い下手はさして重要でないとする。観客に楽しそうに見せたり紹介するプレイと高得点を狙うプレイは全く異なっており、面白そうに見せながら死なないようにする、といった魅せるプレイが必要で、下手でも楽しそうにプレイしている姿を見せてやればそれが一番と語る<ref>[http://motoraji.jugem.jp/?eid=263 もとラジ!第127話 高橋名人特集] 23:10</ref>。 イメージを崩さないため、子供の前で喫煙せず、繁華街では週刊誌に写真を撮られないようにいかがわしい店に近づかないようにしていた<ref name=":0" />。 === ゲームジャンル === * [[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]は嫌いだが、名人は3D酔いを苦にする訳ではなく、その理由は「人を撃ったり、蹴ったりするのは嫌いだから」で、相手が宇宙人や化け物であれば問題ない<ref name="seabird"/>。 * [[弾幕系シューティング]]に対して否定的で、「避けゲー」、「シューティングゲームとはジャンルをわけてほしい」などと発言しており、「シューティングゲームで遊ぶ人が減った原因は弾幕系が初心者にハードルの高さを感じさせたため」との考えをとっている。この考えに対してはネット上で賛否を分けたが、本人も議論が起きることは承知の上で苦言しているとのこと(「これ言うと、またいろいろ非難されると思うんだけど」等)<ref name="makoto-b-3">[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/0903/13/news009_3.html 16連射、ゲームは1日1時間の裏側――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(後編) (3/5) - Business Media 誠]</ref><ref>「Shooting Game Side Vol.01」内インタビュー</ref>。1998年の『[[スターソルジャー]] バニシングアース』の広告の中でも、シューティングゲームは敵を撃ち落とす事こそが本来の醍醐味である、と持論が採用されている。 **ただし、倒すと敵弾が消える仕様から、頑張って撃つことが道を切り開くことに繋がる[[バレットソウル]]は高く評価している<ref>[http://motoraji.jugem.jp/?eid=263 もとラジ!第127話 高橋名人特集] 15:00</ref>。 === 十大重要作品 === {{出典の明記|date=2023-4|section=1}} [[ソラノート]]「Libub」に2011年8月に出演した際に、これまで印象的な10本のゲーム作品を語っている。 *第1位 [[チャンピオンシップロードランナー]] :: Apple II版を改良したハドソン版の工夫から。名人は日本で初めて『[[チャンピオンシップロードランナー]]』を全面クリアした実績を持つ。 *第2位 [[ボンバーマンシリーズ]] :: 「対戦する、みんなで遊ぶのはこんなに面白いんだと思わせてくれ」ることから。 *第3位 [[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]] :: 一人一人の物語に気づかせてくれること、ドラクエシリーズに共通する仲間の助け合い、さらに世界探索の自由さから。 *第4位 [[ファイナルファンタジーVII]] :: CG動画を大きく取り入れ、業界の方向性を変えた影響力の大きさから。ただし、動画に縛られて展開が不自由になったことは批判している。 *第5位 [[スーパーマリオブラザーズ]] :: 「衝撃的だったのは強くなったらマリオは"大きくなる"こと。弱くなると"小さくなる"こと」というわかりやすさ。 *第6位 [[立体ピクロス]] :: [[イラストロジック]]そのものが好物だが、それを3Dでやったのはコンピューターでしかできないことだから。 *第7位 [[エースコンバット|エースコンバットシリーズ]] :: 現実的な描写ながら、複雑なフライトシミュレーションの要素を削り、ゲームとして優れたものにしたことから。 *第8位 [[きね子]] :: 「ジグソーパズルをイラストの動画でやることはコンピューターでしかできない。パズルゲームをコンピューターに乗せた功績は偉大」 *第9位 [[桃太郎電鉄16 北海道大移動の巻!]] :: [[桃太郎電鉄シリーズ]]全体の評価。[[桃太郎電鉄|初期のファミコン版]]は原始的でかなり異なるので新しい方が良いとする。 *第10位 [[パラッパラッパー]] :: キャラバン時代は95%近くが男性だったビデオゲームを多くの女性に興味を持たせたことから。これに匹敵するのは[[脳を鍛える大人のDSトレーニング |脳トレ]]ぐらいと述べている。 === 物事の決断 === ハドソンという会社の社風とも重なるが、「会議室で決めた話は成功しない。飲み屋で決めた話は成功する」と決断の秘訣を語る。「会議室でいくら頭の中で知恵を絞ったところで、それはひねった意見」「遊んでいる雰囲気の中で、ざっくばらんに言っている意見をみんなが聞けるような姿勢でないと、面白いことというのは発展的にならない」と自身の経験に裏打ちされた信条を述べている<ref name="makoto-b-4"/>。 多くの職種を経験した学生時代を振り返り、若い時にさまざまなアルバイトをしてみることを推奨している。給料が高くて効率がいいものより、安くても雑多な経験ができるものがよく、自分の技能獲得に繋がるだけでなく、自分はどんなことが好きなのか、どんなことに向いているのかが見えてくる、と語る<ref name="25year-4">「テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜」 p.4</ref>。 == 補足 == === 逮捕・死亡説 === 高橋名人の人気絶頂期であった1986年から1987年頃にかけて、子供達を中心に「高橋名人が警察に逮捕された」「高橋名人が死亡した」といった類の[[噂]]([[都市伝説]])が急速に広まった<ref name="chunichi20030610">「特報 ファミコン 20年目のゲームオーバー そして伝説へ 昨年の出荷 6万台でも 部品調達に限界」 - 『中日新聞』2003年6月10日 夕刊3面</ref>。当時高橋名人に[[警視庁]]からの[[牛込警察署]]の[[一日署長]]の依頼があった(一日署長自体は日程の都合で実現しなかったと、後にブログなどで語っている<ref>[https://ameblo.jp/meijin16shot/entry-12366982792.html 一日警察署長からの] 高橋名人のblog 2018年4月9日</ref>)。それが子供達を中心に誤った内容で伝聞され(「一日署長をするために警察に行く」→「警察に行った」→「捕まった」)、「高橋名人逮捕」という情報になり、日本の広範囲に広まったと言われている<ref>「子ども社会もピッピッピッ 情報化」『[[朝日新聞]]』1987年1月1日付東京朝刊、15面。</ref>。 噂には派生種類がかなりあり、その中でも有名なのは「ゲームのコントローラーのボタンにバネを仕込んで連射速度をごまかした」というものであり、その他にも「バネを仕込んだコントローラは1回押すと4回押したことになる」、「非合法なクスリで手首を痙攣させていたのが逮捕の理由」、「そのクスリのせいで死んだ」、「連射のし過ぎでコントローラーが爆発して死んだ」など。「[[月刊コロコロコミック]]」連載の『[[熱血!ファミコン少年団]]』([[さいとうはるお]])では、この噂に題材を取った話も描かれた。 死亡説について本人は後年、以下のように回想している<ref name="bunshun221124"/>。「1987年秋、家庭用ゲーム機のPCエンジンが発売されることになり、僕は『ファミコンの名人』から『PCエンジンの名人』に転換を図ろうとした。それで(同ゲーム機の)発売の2ヶ月前から、意図的にテレビなどへの露出を止めた所、理由を知らない全国の子どもたちの間で死亡説が流れてしまった」<ref name="bunshun221124"/>。 === その他の逸話=== * 10代の頃には、[[スガイディノス]]札幌中央(当時は札幌須貝ビル)によく通っていた。2019年6月のスガイディノス札幌中央閉店当日に自ら駆け付け、三浦尚久スガイディノス社長や来場者と一緒に、スガイディノス札幌中央閉店を見届けた。その際、「スガイディノス札幌中央は娯楽を教えてくれた場所」「レトロ[[アーケードゲーム]]のラインナップは日本はおろか世界でも類を見ない」と語っている<ref>{{Cite news|date=2019-06-03|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/311308|title=札幌の娯楽の聖地「スガイディノス閉店」 100年の歴史に幕|publisher=北海道新聞|accessdate=2019-06-04}}</ref><ref>{{Cite news|date=2019-06-03|url=https://www.asahi.com/articles/ASM63064SM62IIPE01W.html|title=高橋名人「娯楽教えてくれた」札幌のスガイディノス閉店|publisher=朝日新聞|accessdate=2019-06-04}}</ref>。 * ハドソン時代、弟子として島田名人・川田名人がいた。川田はアニメキャラ化もされている。 * ハドソンが元々札幌にあり歓楽街であるススキノも近かったことから、夜の街へ繰り出すのも好きだったが、人気絶頂の名人時代は変な風評が立たないようにと禁止されており辛かったと語っている<ref name="makoto-a-5"/>。 * ハドソン入社直後から東京支店勤務となり、月45000円の単身者向けの1Kのアパートで社員3人と共同生活を送った。同居人の1人は「ボンバーマン」の[[爆弾男 (ゲーム)|原型]]を作った田中裕二。もう一人は後にPCエンジンの「THE 功夫」の制作に関わる植山幹郎である<ref name="bunshun221124"/>。 * [[オーディオ]]が趣味。[[オートバイ]]のツーリングも趣味の一つ<ref>[https://web.archive.org/web/20080411040051/http://www.hudson.co.jp/hde/vol012/staff.html HUDSON DIGITAL EXPRESS vol.12 編集後記]</ref>である。 ** 現在の愛車は[[本田技研工業|ホンダ]][[ホンダ・ゴールドウイング|ゴールドウイング1800]]。 ** かつては、オーディオを装着した逆輸入車のパンヨーロピアンに乗っていたが、ゴールドウィングには純正のオーディオが付いているため乗り換えた。 == 音楽家として == ゲーム関係者としての印象が強い名人だが、音楽家としてもその活動は長い。中学に入った時に[[井上陽水]]の演奏を聞いてギターを弾いてみたいと思ったのがきっかけで、中学高校と一貫して[[フォークソング]]部に所属し、学園祭で演奏などをしていた<ref name="takahashi2009-nenpyou"/>。後に、[[マイク・オールドフィールド]]が『[[チューブラーベルズ]]』ですべての楽器を一人ですべて演奏していることに感銘を受け<ref name="bunshun221124"/>、独学で色んな楽器に手を出すようになる。 大学を中退して会社に入った頃に、テープの[[カラオケ]]が出回り始め、飲み屋や居酒屋で頻繁に歌いまくるようになる。1985年に高橋名人として登場した後、コロコロコミックの社員とよくスナックに行ってはカラオケで歌っていると、その歌の上手さが知れ渡って、「RUNNER」で歌手として登場することになった<ref>「DNA(記憶)を震わせてくれ! 高橋名人☓桃井はるこ」 『ファミソン8BIT SP~ゲームソング編』ライナーノーツ</ref>。 歌唱力には定評があり、「Bugってハニー」収録の際は、録音へ行く途中の車内で初めてテープを渡され、そこで三回ほど聞いただけで歌唱をこなしたほどであった<ref>[https://www.lisani.jp/0000003538/ 『ファミソン(R)8BIT SP~ゲームソング編』、高橋名人×桃井はるこスペシャル・インタビューが到着!|リスアニ!WEB]</ref>。 集英社のグラビア誌「[[週刊プレイボーイ|プレイボーイEYES]]」1983年6月号の「パソコン大研究」特集では、「6畳間で[[冨田勲|富田]]サウンドを作る」のタイトルで[[デスクトップミュージック]]を趣味としている、高橋名人以前の姿が記事になっている。 === ディスコグラフィ === ==== シングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small; width:100%;" |- ! ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! 規格 ! 規格品番 |- ! colspan="7" | [[フォーライフ・レコード]]<br/>高橋名人 名義 |- ! 1st | [[1986年]][[4月18日]] | '''RUNNER'''<br/>作詞:麻尾るみこ<br/>作曲:[[鈴木康博]]<br/>編曲:[[国吉良一]] | FIGHTER<br/>作詞:[[岡田冨美子]]<br/>作曲:国吉良一<br/>編曲:国吉良一 | [[レコード#EP盤|EP]] | 7K-217 |- ! 2nd | [[1986年]][[7月]] | '''スターソルジャーのテーマ'''<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:[[笹路正徳]]・ハニービー<br/>編曲:笹路正徳 | 青春惑星<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:[[石川鷹彦]]<br/>編曲:石川鷹彦 | EP | 7K-232 |- ! colspan="7" | [[BMG JAPAN|ファンハウス]]<br/>高橋利幸(高橋名人) 名義 |- ! 3rd | [[1986年]][[9月20日]] | '''「高橋名人の冒険島」テーマ・ソング''' ''<small>〜ホの字のゲーム〜</small>''<br/>作詞:[[荒木とよひさ]]<br/>作曲:ハニービー<br/>編曲:志熊研三 | 高橋名人のシンクロナイズド冒険島 <small>〜「高橋名人の冒険島」名人技と攻略法〜</small><br/>PLAYED BY 高橋利幸(高橋名人) | EP | 07FA-8001 |- ! 4th | [[1987年]][[7月22日]] | '''友だちよ'''<br/>作詞:[[山上路夫]]<br/>作曲:[[山木康世]]<br/>編曲:都留教博 | 青春惑星<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:石川鷹彦 | EP | 07FA-8003 |- ! 5th | [[1987年]][[9月5日]] | '''グレートキャラバン'87'''<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:[[国本剛章|きのこ国本]]・稲川徹<br/>編曲:稲川徹 | 私と踊ってくれませんか(歌:[[荘真由美]])<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:[[小林亜星]]<br/>編曲:稲川徹 | EP | 07FA-8004 |} ==== デュエットシングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 名義 ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! 規格 ! 規格品番 ! 発売元 |- ! 高橋利幸(高橋名人) & [[うちやえゆか|はるな友香]] | [[1986年]][[11月]] | '''愛はメリーゴーランド'''<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:[[小林亜星]]<br/>編曲:[[筒井広志]] | Bugってハニー(高橋利幸(高橋名人)のソロ)<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:小林亜星<br/>編曲:筒井広志 | [[レコード#EP盤|EP]] | 07FA-8002 | [[BMG JAPAN|ファンハウス]] |- ! rowspan="2"|[[宇宙ヤング]] with 高橋名人 | [[2001年]] | '''ハートに16連射'''<br/>作詞:[[笹公人]]<br/>作曲:笹公人・[[小林秀聡|HIDE-AKI]]<br/>編曲:HIDE-AKI | rowspan="2"| | rowspan="2"|[[MP3]] | rowspan="2"| | rowspan="2"| |- | [[2003年]] | '''ファミってオールナイト!〜黄金の指伝説〜'''<br/>作詞:笹公人<br/>作曲:笹公人 & HIDE-AKI<br/>編曲:HIDE-AKI |- ! [[はいだしょうこ]] & 高橋名人 | [[2008年]][[4月22日]] | '''お魚のうた'''<br/>作詞:釣りますたーず<br/>作曲:釣りますたーず<br/>編曲:[[末廣健一郎]] | 高橋名人のお魚のうた<br/>作詞:岡かすみ<br/>作曲:小林亜星<br/>編曲:筒井広志 | [[シングル|Maxi]] | QWCH-00006 | [[ハドソン]] |} ==== アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small; width:100%;" |- ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! 規格品番 |- ! colspan="6" | [[サイトロン・デジタルコンテンツ|サイトロン]]<br/>高橋名人 名義 |- ! ベスト | [[2005年]][[10月5日]] | '''高橋名人ソングコレクション〜16連射 20TH ANNIVERSARY〜''' | [[コンパクトディスク|CD]] | SCDC-00464 |- ! colspan="6" | [[ハドソン・ミュージックエンタテインメント|Beat Shake Records]]<br/>高橋名人 名義 |- ! リミックス | [[2010年]][[1月27日]] | '''[[高橋名人伝説 -魂の16連射-]]''' | CD | SCDC-464 |} ==== サウンドトラックアルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small; width:100%;" |- ! ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! 規格品番 |- ! colspan="6" | [[フォーライフ・レコード]] |- ! 1st | [[1986年]][[7月]] | '''RUNNING BOY スターソルジャーの秘密''' | [[レコード#LP盤|LP]] | 28K-112 |- ! colspan="6" | [[BMG JAPAN|ファンハウス]] |- ! 2nd | [[1986年]][[12月25日]] | '''Bugってハニー''' | LP | 23FB-8501 |} ==== デュエットアルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 名義 ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! 規格品番 ! 発売元 |- ! 高橋名人×[[桃井はるこ]] | [[2014年]][[3月26日]] | '''[[ファミソン8BIT SP〜ゲームソング編]]''' | [[コンパクトディスク|CD]] | FVCG-1286 | [[5pb.|5pb.Records]] |} ==== タイアップ曲 ==== {|class="wikitable" style="font-size:small;" ! 楽曲 ! タイアップ ! 収録作品 ! 時期 |- | RUNNER | [[東宝]]映画配給『[[RUNNING BOY スター・ソルジャーの秘密]]』オープニングテーマ | シングル「RUNNER」 | rowspan="6"|1986年 |- | スターソルジャーのテーマ | 東宝映画配給『RUNNING BOY スター・ソルジャーの秘密』挿入歌 | rowspan="2"|シングル「スターソルジャーのテーマ」 |- | 青春惑星 | 東宝映画配給『RUNNING BOY スター・ソルジャーの秘密』エンディングテーマ |- | 「高橋名人の冒険島」テーマ・ソング <small>〜ホの字のゲーム〜</small> | [[ファミリーコンピュータ]]用[[ゲームソフト]]『[[高橋名人の冒険島]]』テーマ・ソング | シングル「「高橋名人の冒険島」テーマ・ソング <small>〜ホの字のゲーム〜</small>」 |- | 愛はメリーゴーランド | [[日本テレビ放送網|NTV]]系TV放映[[テレビアニメ|アニメーション]]『[[Bugってハニー]]』エンディングテーマ | rowspan="2"|シングル「愛はメリーゴーランド」 |- | Bugってハニー | NTV系TV放映アニメ『Bugってハニー』オープニングテーマ |- | 友だちよ | ハドソンムービー第一回作品『[[はっちゃき先生の東京ゲーム]]』主題歌 | シングル「友だちよ」 | rowspan="4"|1987年 |- | グレートキャラバン'87 | 『[[ヘクター'87|ヘクター'87 ザ・グレートキャラバン]]』テーマソング | rowspan="2"|シングル「グレートキャラバン'87」 |- | 私と踊ってくれませんか | ハドソンムービー第一回作品『Bugってハニー/メガロム少女舞4622』主題歌 |- | [[ボンバーキング#音楽|ボンバーキングのテーマ]] | ファミリーコンピュータ用ゲームソフト『[[ボンバーキング]]』主題歌(メインBGM) | アルバム「HUDSON Premium Audio Collection」 |- | rowspan="2"|お魚のうた | [[ニンテンドーDS]]用ゲームソフト『[[めざせ!!釣りマスターDS]]』オープニングテーマ | rowspan="3"|シングル「お魚のうた」 | rowspan="3"|2008年 |- | [[全国漁業協同組合連合会]]『お魚応援ソング』 |- | 高橋名人のお魚のうた | [[Wii]]用ゲームソフト『めざせ!!釣りマスター 世界にチャレンジ!編』エンディングテーマ |} ==== 参加作 ==== ; ロッケンロール・ランデブー featuring 高橋名人 : [[2005年]]発売の[[YMCK]]のセカンドアルバム『ファミリーレーシング』収録曲へのゲスト参加 ; [[ファミソン8BITスタジオ〜邦楽編]] :チップチューンアルバム。「[[初恋 (村下孝蔵の曲)|初恋]]」一曲のみの歌唱。2013年11月27日発売。 == 出演 == === テレビ番組 === ==== レギュラー出演 ==== * [[おはようスタジオ]]([[テレビ東京]]、1985年 - 1986年ごろ) * [[日本テレビ系土曜7時台情報番組枠#サニーサイド7|サニーサイド7]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1986年) * [[高橋名人の面白ランド]](テレビ東京、1986年10月7日 - 1987年9月29日) * [[DOKI DOKI DO!]](日本テレビ、1987年) * [[冒険!テレビ遊び塾]](テレビ東京、1988年4月5日 - 9月27日) * [[さきどり!PC遊び塾]](テレビ東京、1988年10月4日 - 1989年3月21日) ==== ゲスト出演 ==== * [[クイズダービー]]([[TBSテレビ|TBS]]、1986年11月1日)5枠 * [[文珍なぞなぞランド]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、1986年) * [[ニュースステーション]]([[テレビ朝日]]、2003年)誕生20年で生産中止に さらばファミコン * [[ゲームセンターCX|ゲームセンター「CX」]]([[フジテレビTWO|フジテレビ721]]、2004年) * [[ゲームセンターCX|ゲームセンター「CX」ボーナスステージ1]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2004年12月25日) * [[ゲームセンターCX|ゲームセンターCXレジェンド]](フジテレビ721、2005年) * [[ポップジャム]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2005年10月14日)「project430 meets 高橋名人」として出演。 * [[やぐちひとり]](テレビ朝日、2005年) * [[日めくりタイムトラベル]] 昭和62年編([[NHK-BS]] 2007年) * [[カルチャーSHOwQ〜21世紀テレビ検定〜]] ([[テレビ神奈川]]他、2007年4月2日) * [[宇宙一せまい授業!]]([[あっ!とおどろく放送局]]、2007年10月14日) * [[ブギウギ専務]]([[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]、2008年2月)<ref group="注">番組のマスコットキャラクター「わくちん」(の着ぐるみ、中の人はアナウンサー[[横井健一]])とWiiで対決し、名人は2連敗してしまった。その後、札幌のスタジオに登場しFC「忍者ハットリくん」の裏技を披露した。</ref> * [[アグレッシブですけど、何か?]]([[広島ホームテレビ]]他、2008年5月31日)<ref group="注">「アグレッシブであいましょう」という憧れの人と対面する企画で[[小坊師秀暁]]([[あかぼし☆こぼし]])が会いに行った。</ref> * [[大胆MAP]](テレビ朝日、2009年1月11日)- [[タカアンドトシ]]の[[トシ]]と連射対決を行った。十秒間の対決の結果、トシが103連射、高橋名人が121連射で勝利した。しかし伝説の「16連射」には及ばなかった。 * [[ゲーム☆バンザイ]]([[MONDO21]]) * [[夜遊び三姉妹]]「犯人はヤス」(日本テレビ、2010年7月31日) * [[大人のバイク時間 MOTORISE]]([[日本BS放送|BS11]]、2015年1月6日・1月13日) * [[OHA OHA アニキ]](テレビ東京、2016年10月28日・11月4日) * [[しくじり先生 俺みたいになるな!!]](テレビ朝日、2017年5月28日)<ref>{{Cite news|url=https://www.inside-games.jp/article/2017/05/23/107351.html|title=バラエティ番組「しくじり先生」に高橋名人が登場! 「実はゲームが超下手」と語る名人が実行した“妙案”とは…|work=INSIDE|publisher=株式会社イード|date=2017-05-23|accessdate=2017-05-23}}</ref> * [[水曜日のダウンタウン]](TBS) 「オファーがないだけで人知れず眠ってる歌うまタレント存在する説」で[[徳永英明]]の「レイニーブルー」を披露・94点を叩き出した。(2015年3月11日) 「ゲーム×現実 ミックスカート対決 第2段」にゲーム界代表として出演・[[片山右京]]と対決し勝利(2016年6月15日) * [[アニゲー☆イレブン!]](BS11、2016年10月13日) * [[鈴鹿8時間耐久ロードレース]]中継([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル#BS12 トゥエルビ|BS12 トゥエルビ]]、2017年 - )副音声放送にゲスト出演。 * スナック 胸キュン1000% ママこの人つれて来た!(BS12 トゥエルビ、2019年5月10日) * [[有吉ぃぃeeeee!そうだ!今からお前んチでゲームしない?]](テレビ東京、2019年9月15日)- 幻の16連射 * [[ラヴィット!]](TBS、2022年5月23日・2023年5月23日) - 高橋の誕生日を記念した出演タレントとのゲーム対決企画<ref>{{Cite news|url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/220523m/amp|title=高橋名人、伝説の「十六連射スイカ割り」を地上波の生放送で披露。63歳の誕生日で出演、ゲーム対決で45歳年下の乃木坂46「清宮レイ」を全力で完封|newspaper=電ファミニコゲーマー|date=2022-05-23|accessdate=2023-05-26}}</ref> * [[5時に夢中!]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]、2023年4月7日) ==== 写真のみ出演他 ==== * [[速ホゥ!]](テレビ東京、2006年9月6日) - 前述したように、インタビューを担当していたテレビ東京のアナウンサーに一般人と間違えられる。 * [[ラジかるッ]](日本テレビ、2006年9月7日) - 上記のテレビ東京の映像写真を、翌日になって「高橋名人が一般人としてインタビューされた」というニュースとして放送。 * [[やりすぎコージー]](テレビ東京、2007年10月20日(21日)) - Wiiソフトの『[[めざせ釣りマスター]]』の告知で[[ケンドーコバヤシ]]が「高橋名人は宇宙人である」という都市伝説を言っていた際、本人の写真を使う。 === 映画 === ; [[GAME KING 高橋名人VS毛利名人 激突!大決戦]] : 毛利名人と対決。「東京国際ファンタスティック映画祭2003」でも上映。高橋名人の舞台挨拶、トークショーも開催された。会場は「万雷の拍手」であったと言われている。 ; はっちゃき先生の東京ゲーム : 監督:[[深沢清澄]] 内容は[[北海道]]、[[ニセコ]]の分校を舞台にした高橋名人主演の心温まるストーリー。ヒロイン役には、公開時にデビューして間もない頃の[[鈴木保奈美]]が出演していた。このことは、当時彼女がまだ無名の女優であったために一般にはあまり知られていない。他には、[[ハナ肇]]、[[藤田弓子]]、[[春川ますみ]]、[[草野大悟]]、[[及川ヒロオ]]、[[あき竹城]]、[[平田満]]が出演。 ; ピョコタン・プロファイル : 元ハドソンで部下だった[[梶野竜太郎]]初長編デビュー作。もんじゃ屋の客役で登場 ; [[THE NEXT GENERATION -パトレイバー-]] : 主人公の明が出入りしていたゲームセンターでオヤジと対戦しているシーンに登場、「16 Shot」と書かれたシャツを着用し負けた瞬間は台を叩いて悔しがる様子が確認できる。 === テレビドラマ === * [[運命の逆転 (テレビドラマ)|運命の逆転]](TBS、1992年4月10日) *[[がんばれ!TEAM NACS]] episode5([[WOWOW]]、2021年7月18日) - 本人 役<ref>{{Cite web|和書|title=大泉洋ら、あ然 TEAMNACS新メンバーオーディションの顔ぶれが明らかに|url=https://www.oricon.co.jp/news/2199716/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2021-11-12}}</ref> *[[アトムの童]] ([[TBS]]、2022年11月13日) === テレビアニメ === * [[BTOOOM!]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]他、2012年) - 鷹嘴 役<ref>{{Cite web|date=|title=STAFF&CAST|url=http://www.btooom.com/staffcast/index.html|publisher=BTOOOM!公式サイト|accessdate=2012-10-20}}</ref> * [[テレビ野郎 ナナーナ|テレビ野郎 ナナーナ 怪物クラーケンを追え!]]([[テレビ東京]] 2020年)- タコ橋名人 役 === ラジオ番組 === * [[今日は一日○○三昧|今日は一日“ゲーム音楽”三昧]]([[NHK-FM放送|NHK-FM]]、2010年8月7日放送) * 今日は一日“ゲーム音楽”三昧II(ツヴァイ)(NHK-FM、2014年8月10日放送) * 代打 [[Tresen]]([[FMヨコハマ]])(MON-FRI 15:00~19:00)(2017年8月23日) === CM === * [[ハドソン]] - [[スターソルジャー]]、[[高橋名人の冒険島]]、[[遊々人生]]、[[シュウォッチ]]など、本人が所属する自社のCM * [[明治製菓]](現:[[明治 (企業)|明治]]) - 同社から発売されていたチョコスナック「ハイスコア」のCM。高橋名人が1秒間に16個食べて16連射を披露した。スナックには高橋名人の似顔絵マークがプリントされていた。 * [[ムーンスター|月星シューズ]] - 同社から発売されていた子供用シューズのCM。高橋名人の顔がポイントとして印刷されていた。 * [[シャープ]] - [[ツインファミコン]]-他社のCMだったが高橋本人が出演し、ゲーム画面も[[ハドソン]]の[[迷宮組曲 ミロンの大冒険]](巨獣ホーマ戦)が使用されていた。 * [[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]] - [[PCエンジン]] === ゲーム === * [[高橋名人の冒険島]]シリーズ(1986年- 、ハドソン) - 高橋名人を主人公としたアクションゲームシリーズ。 * [[ドリームミックスTV ワールドファイターズ]](2003年、ハドソン) - 操作キャラクターに高橋名人が使用可能。声も本人が担当している。 *LET IT DIE(2017年、ガンホー・オンライン・エンターテイメント) - MEIJIN 役で声を担当<ref>{{Cite news|title=PS4「LET IT DIE」がいよいよ日本,そしてアジアに上陸。日本版の出演声優が発表された「LET IT DIE ジャパンプレミア」をレポート|last=Inc.|first=Aetas|url=https://www.4gamer.net/games/260/G026040/20170123082/|accessdate=2018-07-26|language=ja}}</ref>。 * [[みんなで空気読み。]][[コロコロコミック]]Ver.~コロコロコミック読みますか?それとも空気読みますか?~(2023年、[[G-MODE]]) - キャラクターとして登場。 === 動画 === * [[高橋名人のケータイゲッチャ!]]:[[ニコニコ動画]]で2011年4月20日から2013年3月29日まで配信されていた。 * [[電人☆ゲッチャ!]]:上記の「ゲッチャ!」と「[[電人★GA部ぅ〜]]」と統合し2013年4月5日から配信されている番組。 === 書籍 === * ファミコン戦士に告ぐ 名人はキミだ! オレの秘技をまるごと初公開([[祥伝社]]){{ISBN2|4-396-62002-0}} * [[宇宙一せまい授業!]]([[北本かつら]]と共著)([[東邦出版]]){{ISBN2|978-4-8094-0694-2}} * 高橋名人のゲーム35年史([[ポプラ社]]){{ISBN2|978-4-591-15936-1}} === 連載 === * [http://gamenavi.excite.co.jp/search/?keyword=%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E 「高橋名人のゲーム今昔物語」 | エキサイト ゲームナビ] == 関係する人物 == * [[うちやえゆか|はるな友香]] - 1986年に行われた「高橋名人の妹コンテスト」でグランプリに輝き、芸能界デビュー。高橋とともにレコーディングやテレビ番組出演、イベント出演を精力的にこなした。現在、[[うちやえゆか]]名義で歌手として活動中。 * 川田名人 - 1986年『高橋塾』の第1期生から誕生した名人。『第2回TDK全国キャラバンファミコン大会』と、『第3回TDK全国ツインファミコン大会 ザ・グレートキャラバン』では南キャラバンを担当した。同時期に放映されていたテレビアニメ『[[Bugってハニー]]』では、「カワダチュー」というキャラクターのモデルにもなっている。後に『[[スーパースターソルジャー]]』など、ハドソン製のゲームの企画・製作・監修なども務めるようになった。関わったゲームのスタッフロールでは『[[川田忠之]]』の名前で掲載されている。 * [[桜田名人]] - 川田名人と同じく1986年『高橋塾』の第1期生から合格、新たに誕生した[[ファミコン名人]]。『第2回TDK全国キャラバンファミコン大会』では北キャラバンを担当。尚、桜田と川田の両名は高橋名人の弟子という設定であった。 * 島田名人 - 1987年に開催の『第3回TDK全国ツインファミコン大会 ザ・グレートキャラバン』にて、新名人として桜田名人に代わり北キャラバンを担当した。 * [[毛利名人]] - 高橋名人と同時期に活躍、『TDK全国キャラバンファミコン大会』では北キャラバンを担当した。好敵手として映画『GAME KING』でも対決した。 * [[橋本真司|橋本名人]] - 高橋名人と同時期に活躍。赤い縁のメガネが特徴的。現在は[[スクウェア・エニックス]]HD専務執行役員。 * 井上明子 - テレビ『高橋名人の面白ランド』で相方を務めた。 * [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]] - アニメ映画『[[RUNNING BOY スター・ソルジャーの秘密]]』(「GAME KING〜」と同時上映)で高橋名人の声を務めた[[声優]]。 * [[水島裕 (声優)|水島裕]] - テレビアニメ『[[Bugってハニー]]』で、高橋名人をモデルにした「高橋原人」というキャラの声を務めた[[声優]]。 * [[悠仁親王]] - 誕生したときに[[テレビ東京]]より街頭インタビューを受けた。ネット上で話題になり[[東京スポーツ]]でも記事になる。 * [[遠藤雅伸]] - 同い年ということもあって親交が深い。 * [[有野晋哉]]([[よゐこ]]) - 有野が出演するTV番組『[[ゲームセンターCX]]』の第1シーズンの第5回にて、高橋名人よりスターフォースのラリオス攻略法を直伝された。 * [[志倉千代丸]] - 株式会社MAGES.の代表取締役社長であり、高橋名人の上司に当たる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 高橋名人 『公式16連射ブック 高橋名人のゲームは1日1時間』 エンターブレイン 2009年8月18日 {{ISBN2|978-4-7577-5065-4}} * 高橋利幸 「[https://www.cesa.or.jp/uploads/efforts/handbook2007.pdf テレビゲームとともに〜高橋名人の25年〜]」『テレビゲームのちょっといいおはなし 4』 社団法人コンピュターエンターテイメント協会 2007年9月 * 小山友介・三宅陽一郎・高橋利幸 「[http://digrajapan.org/?wpdmact=process&did=MjUuaG90bGluaw= 高橋名人の目から見たファミコンブーム]」 日本デジタルゲーム学会 『[http://digrajapan.org/?page_id=342 デジタルゲーム学研究 第3巻第2号]』 2009年9月30日 {{ISSN|1882-0913}} == 関連項目 == * [[高橋名人の冒険島]] * [[ハドソン]] * [[ファミコン名人]] * [[ゲームセンターCX]] * [[連射]] * [[シュウォッチ]] * [[福岡ゲームミュージックフェス]] == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.16shot.jp/blog/index.html |title=高橋名人公式ブログ 16連射のつぶやき |date=20100805075246}} * {{Ameba ブログ|meijin16shot|高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」}}(2011年6月1日 - ) * {{YouTube|channel=UCMJPOw7uDpNKTpQE8UnI6UQ|高橋名人}} * [https://b-seven.com/blogs/talent/takahashi_meijin ビー・セブンによるプロフィール] * [http://amuleto.jp/talents/TakahashiMeijin.html アミュレートによるプロフィール] * {{Wayback |url=http://www.ga-cha.jp/meijin/index.html |title=高橋名人世代 8bit-GENERATION |date=20110828072222}} * {{Twitter|meijin_16shot|高橋名人}} {{ファミコン名人}} {{アミュレート}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たかはしめいしん}} [[Category:コンピュータゲーム関連の人物]] [[Category:ファミコン名人]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:日本の男性歌手]] [[Category:ハドソンの人物]] [[Category:MAGES.の人物]] [[Category:アミュレート]] [[Category:東海大学付属札幌高等学校出身の人物]] [[Category:札幌市出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:登録商標]]
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源氏
源氏(みなもとうじ/げんじ)は、日本の嵯峨天皇以降、臣籍へと降下し「源(みなもと)」の本姓を受けた皇子や皇孫の氏族。 姓(カバネ)は朝臣(源朝臣(みなもとのあそん))。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別。 皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に「源」の賜姓を受けたもので、嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏から、江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統(二十一流)があるとされているが、文献によっては源氏二十一流に含まれない淳和源氏(淳和天皇の子孫が源姓を与えられたものなど)が存在することを明記しているものもある。姓の代表的な例として、平氏・藤原氏・橘氏と源氏は、「源平藤橘」(四姓)と総称されている。 多くの源氏は一代・二代のうちに朝廷で高位を占めることはなくなったが、村上天皇の子孫である村上源氏の源師房流(中院流)は上流貴族の地位を占め続け、建久七年の政変で摂関家を越える権力を手にした源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房、明治政府の重鎮となった岩倉具視を出している。このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続している。 また源氏の子孫の一部は受領・在庁官人となり、土着して武士化した。特に清和源氏源経基流河内源氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を出した。さらに、河内源氏の流れを汲む有力氏族足利氏の足利尊氏が室町幕府を開いたことで、武家の棟梁と認識されるようになった。江戸幕府を開いた徳川家康を出した三河松平氏なども河内源氏後裔を称している。 代表的な家紋である「笹竜胆」は日本最古の家紋であると言われている。 皇族からの臣籍降下は律令成立以前から存在しており、古くは公のカバネを与えられた諸氏や、天武天皇の時代に真人のカバネを与えられた諸氏、奈良時代の橘氏や、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇の子孫などが存在する。 弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられたのが最初の源氏である。これらの賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた。この賜姓は嵯峨の詔が述べているように、朝廷歳費の節約が理由とされる説が大勢を占めていたが、上級貴族として皇室の藩塀とすることが目的であるという説もある。しかし一部の氏族を除いては没落していく例が多く、藩屏としての役割を十分に果たせるものではなかった。 「源」は皇室と祖(源流)を同じくするという意味であり、元々は中国の五胡十六国時代、南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来する。他にも、「源」は「水元」であるという説もある。例えば、『和訓栞』(谷川士清)では「みなもと、源をよめり。水元の義なり」とある。また、『神代巻藻塩草』(玉木正英)では「源ノ訓ハ水元也」とある。 嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、それぞれの祖とする天皇ごとに集団を形成し、氏爵を受けるようになった。これらの集団は年号により「弘仁御後(嵯峨天皇の子)」、「延喜御後(醍醐天皇の子)」などと呼ばれる。それぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、宇多源氏などとも呼ばれるが、これは同時代的に使用されたことはなく、『国史大系』の編纂にあたって使用されたのが最初である。 源氏の賜姓が開始されて以降、仁明・文徳・光孝の子孫には平氏賜姓を受けた皇族もおり、清和天皇の時代には別の賜姓が行われたが、源氏姓を受けたものは他の姓より格上とされた。その後平氏やその他の賜姓は途絶え、新たに賜姓される際には源氏ばかりとなった。源氏の中で最も高い官位を持つものは源氏長者と呼ばれ、奨学院・淳和院の別当を兼ね、氏爵を与える権限を持っていた。村上源氏師房流が繁栄すると、以降は嫡流である久我家がほぼ独占するに至ったが、足利義満が源氏長者となって以降は現職の征夷大将軍が就くことが多くなり、江戸時代にはほとんど将軍の独占状態となった。 平安後期以降、皇位継承とは関わりのない皇子皇女たちは出家する慣例が生まれたため、賜姓源氏はほとんど途絶えていた。江戸時代に入って一家が生まれた(広幡家)が、それを最後に源氏賜与は途絶えた。明治時代になると本姓を称することが停止されたため、源氏の存在が認識されることは少なくなった。源姓(本姓が源氏)の家系はそれぞれ別の苗字を号しているため、現在「源」を「苗字」として名乗る例は多くなく、推定人口は4,000人程である。 天皇の皇子が降下することを、「一世の源氏」といい、時服月俸・初叙の上で優遇された。一方で皇孫に至って臣籍降下することは「二世の源氏」という。嵯峨天皇の子である源定・源融、仁明天皇の子である源冷は父天皇の意向で親王の例に準じて内裏において元服を行っており、親王に準じた待遇を受けた。その後、陽成天皇の退位後の後継選定で藤原基経が源融を退けて光孝天皇を即位させた際には、すでに臣籍降下していた旧鑒・是忠・是貞らが改めて賜姓を受け、一世源氏扱いを受けている。 光孝天皇が崩御するとその基経が臣籍に降下した源定省を復籍させて宇多天皇として即位させるなど、同じ天皇の子でも親王と一世源氏の区別の明確化を迫られる事態が発生し、宇多天皇以降の儀式書では親王の元服と一世源氏の元服では異なる作法が記されるようになる。しかし、その後も規模を小さくしながらも内裏で元服を行い、内蔵寮から饗宴や引出物が用意された醍醐天皇の子である源高明・源兼明の元服など一世源氏の特殊性が完全に排除されることはなかった(内蔵寮は天皇の私的な支出を扱う官司であり、一世源氏の元服を公的行事から天皇主催の私的行事に切り替えることで特殊性を維持したとみられる)。『源氏物語』において、桐壺帝が一世源氏である光源氏の元服を自ら主導して、引出物も自ら準備している(費用も桐壺帝の負担と考えられる)のも、一世源氏の特殊性が描かれた場面と言える。しかし后妃が摂家の出身であることが重視されるようになると、皇子女の絶対数も減少し、母親の身分が高いことで臣籍降下する皇族は減少していく。村上天皇以降は一世の皇子女が賜姓を受けることもなくなった。 皇親として高い地位を持った源氏でも、一部の家系をのぞいてはその地位を子孫に伝えることは難しかった。天皇が代を重ねていくに従い、父祖の代の源氏とは血縁が離れていくため、天皇の「ミウチ」としての関係も薄れていくのが常であった。さらに臣籍降下した源氏たちの母の身分が低いことも権勢を維持する上では致命的であった。3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、完全に没落するかしかなかった。 中央貴族として栄えた源氏としては村上天皇の皇子を祖とする源師房(中院流)流が知られる。師房は具平親王の子であり、「二世の源氏」であったが藤原頼通の養子となったことがあり、さらに藤原道長の家系と重層的な縁戚関係を築いたことで「御堂末葉」、すなわち摂関家に準ずる家格と認識されるようになった。嫡流久我家は清華家のひとつとして江戸時代まで上流貴族の地位を占め続け、分家の中院家は大臣家の家格を保持した。一門の堂上家からは建久七年の政変で権力を掌握し「源博陸」と呼ばれた源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房、明治政府の重鎮となった岩倉具視を輩出している。また江戸時代に成立した清華家の広幡家は、2代目の広幡豊忠を久我家から迎えている。 このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続しているが、いずれの家も羽林家・半家の平堂上であった。 明治時代まで存続した、源氏の堂上家の一覧 源氏の後裔のうち、受領や在庁官人として土着し、武士団を形成したものは武家源氏と呼ばれる。特に清和源氏はその代表格であり、源平合戦など、清和源氏をして源氏と称することが多い。源経基は天慶の乱の鎮圧に功を挙げ、その子源満仲は鎮守府将軍となり、その後裔は摂津源氏、大和源氏、河内源氏とに分かれた。河内国を本拠地とした河内源氏は源義家(八幡太郎義家)を輩出し、摂関家の家人として中央との関係を築き、受領にも任じられる武家貴族となった。1180年に治承・寿永の乱(源平合戦)が起こり、河内源氏の棟梁であった源頼朝は5年ほどかけて平氏を滅ぼし東日本を征服するに至った。1192年、征夷大将軍に任じられ、鎌倉に最初の幕府(鎌倉幕府)を開いた。。以降河内源氏は「武家の棟梁」として捉えられ、河内源氏からは石川源氏(石川氏)、甲斐源氏(武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏、美濃源氏その他が分派している。足利氏は室町幕府を開き、その一族である細川氏・畠山氏・山名氏などは大きな勢力を誇った。戦国時代には足利氏支流の家系はほとんど衰退したものの、清和源氏新田流を称する徳川氏が江戸幕府を開き、島津氏・細川氏・佐竹氏などは大大名として存続した。 嵯峨源氏の源融を祖とする「融流嵯峨源氏」は、摂津国を基盤とした渡辺氏とその分流の松浦氏などを輩出した。また、宇多源氏の中で武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐々木氏)と称され、佐々木道誉が室町幕府の重臣となったこともあり、六角氏・京極氏は守護として勢力を築いた。 52代嵯峨天皇の子孫。弘仁御後。詳細は「嵯峨源氏」を参照。 この内、源信・源常・源融は左大臣となり、平安時代初期に朝廷の一大勢力をなした。また、源融の系統は地方に土着として武家となった。また源潔姫は藤原良房に嫁ぎ、天皇の娘が摂関家に嫁ぐ先例となった。 氏族:渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など 女子は数を限って記載。 源融流以外の系図は「嵯峨源氏#系譜」を参照。 54代仁明天皇の子孫。承和御後。 仁明天皇の子、源多・源光は右大臣となった。また、源光の子孫に、清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)の養父である源敦がいた。人康親王・本康親王の子息も数人が源氏となっているが、本康親王の子息には平氏となったものもいる(仁明平氏)。 55代文徳天皇の子孫。天安御後。詳細は「文徳源氏」を参照。 源能有は右大臣となった。 氏族:坂戸氏 56代清和天皇の子孫。貞観御後。詳細は「清和源氏」を参照。 中央では光孝天皇への皇統移行により、勢力を広げることは出来なかった。しかし第六皇子・貞純親王の子・六孫王経基の系統は武家として栄え、満仲の長男頼光は、多田氏、神野氏、そして、四男河内源氏の源頼信→源頼義→源義家が武家の棟梁となり、その子孫から鎌倉将軍家を輩出したことから武家棟梁の家柄とされ、室町幕府を興した足利氏を初めとして、新田氏、木曾氏、武田氏、佐竹氏、細川氏、今川氏、土岐氏(明智氏、浅野氏)、南部氏、宍戸氏など多数の武家が清和源氏の子孫を称した。また、徳川氏や島津氏など本来清和源氏ではない一族が源氏を仮冒した例もある。 堂上公家の竹内家(半家)は、河内源氏傍流源義光の第4子平賀盛義の系統である。 57代陽成天皇の子孫。元慶御後。 清和源氏の祖とされる源経基は陽成天皇の孫とする説があり、この説に賛意を示す学者もいるが、広く学界の承認するまでには至っていない(「貞純親王」を参照)。 58代光孝天皇の子孫。仁和御後。光孝天皇は藤原基経の後援を受けて即位した際、斎王として内親王宣下されていた皇女を除く全ての子女に源氏を賜姓した。このうち源定省とその子源維城は皇族に復帰し、宇多天皇・醍醐天皇として即位している。 第一皇子である是忠親王の曾孫・康尚は仏師となり、この系統から仏工の各流派を輩出した。(七条仏所) 59代宇多天皇の子孫。寛平御後。 第八皇子である敦実親王の子、源雅信・源重信兄弟はいずれも左大臣となった。源重信の子孫は十二世紀初めまで公卿を輩出した。源雅信の子孫からも多くの公卿を輩出し、鎌倉時代以降、庭田家、綾小路家等に分かれ、明治維新に至るまで堂上家としての地位を保ち、栄えた。 堂上公家:庭田家(羽林家)、綾小路家(羽林家)、五辻家(半家)、大原家(羽林家)、慈光寺家(半家) 氏族:佐々木氏、出雲源氏など諸氏 60代醍醐天皇の子孫。延喜御後。詳細は「醍醐源氏」を参照。 第十皇子の源高明は左大臣となったが後に安和の変にて失脚した。高明の異母兄弟である源兼明も左大臣に昇ったが後に親王に復帰させられることで政治の中枢から追われた。高明の三男源俊賢は権大納言、四男源経房は権中納言に昇り、俊賢の子孫からも源隆国(俊賢二男、権大納言)や源俊明(隆国三男、大納言)をはじめ多くの公卿を輩出し、院政期まで栄えた。 第一皇子・克明親王の子には管弦の名手として有名な源博雅がいる。 氏族:岡本氏、河尻氏 62代村上天皇の子孫。天暦御後。詳細は「村上源氏」を参照。 第七皇子の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房の子孫は多数の公卿を輩出し、栄えた。師房の子、源俊房・源顕房の兄弟はそれぞれ左大臣・右大臣に昇った。俊房流も院政期までは公卿を出したが、以後は没落した。顕房の嫡男の源雅実は源氏で初の太政大臣となり、その子孫は数多くの大臣を輩出して村上源氏の嫡流となり、殊に平安時代末期の源通親は著名である。室町時代に足利将軍家に奪われるまで源氏長者は村上源氏が独占した。雅実流からは清華家の一つである久我家をはじめ多数の堂上家が分立し、明治維新に至るまで堂上公家としての地位を保った。 堂上公家:久我家(清華家)、中院家(大臣家)、六条家(羽林家)、岩倉家(羽林家)、千種家(羽林家)、久世家(羽林家)、東久世家(羽林家)、梅渓家(羽林家)、愛宕家(羽林家)、植松家(羽林家) 氏族:北畠氏など 63代冷泉天皇の子孫。安和御後。 源氏二十一流に含まれるが尊卑分脈には冷泉源氏の人物は記載されていない。冷泉天皇の子である花山天皇の第六皇子・清仁親王は冷泉天皇の養子となり、男子延信王が賜姓されて成立したが、その子康資王は王氏に復して以降は花山天皇の裔としての扱いを受けた。 65代花山天皇の子孫。寛和御後。 堂上公家:白川伯王家(半家) - 神祇伯を世襲して神道を統括。1961年絶家。 67代三条天皇の第一皇子・敦明親王の子孫。長和御後。敦明の第1王子敦貞親王の子宗家の系統、第4王子基平の系統と、信宗・顕宗・当宗の系統がある。 敦貞親王の孫源通季は一旦源氏姓を受けたが、王氏に復した後は世襲の王家となり、正親正を世襲した。 71代後三条天皇の子孫。延久御後。後三条の第三皇子・輔仁親王の子である源有仁が元永2年(1129年)に賜姓された。有仁は左大臣まで登ったが、子女はなく、家は断絶した。『源平盛衰記』では、源頼朝の家臣で平家物語にも登場する田代信綱が有仁の孫としているが信憑性は低い。 77代後白河天皇の第二皇子・以仁王。以仁王は親王宣下がなされず、ついに治承4年(1180年)、最勝親王を名乗り安徳天皇と平氏政権の排除を唱えて源頼政とともに挙兵した。その際、後白河院から皇籍を剥奪されて名を「源以光」と改められ、土佐国への流罪の沙汰が下った。しかし追討軍に討たれ、敗死した(以仁王の挙兵)。 84代順徳天皇の第五皇子・忠成王の子孫と、第六皇子・善統親王の子孫が該当する。 忠成王の子、彦仁子孫は永仁2年(1294年)に源氏姓を受けた。子の忠房は権中納言、孫の彦良は参議に昇っている。 善統親王の子孫は四辻宮を称していたが、善統親王の孫善成は文和5年(1356年)に源氏姓を受け、四辻を家名とした。血縁がある足利義満の応援も受けて左大臣に昇ったが、ただ一人の男子も出家し、以後は途絶えている。 88代後嵯峨天皇の子孫。 文永3年(1266年)、後嵯峨天皇の第二皇子・宗尊親王が第6代鎌倉将軍を退いた後、その長男で7代将軍に就任した惟康王に対し、源姓が賜与されて「源惟康」となった。しかし弘安10年(1287年)、鎌倉幕府が惟康を京へ追放し、代わりに久明親王を将軍に迎えるため、その下準備として幕府の要請により朝廷より惟康に対して親王宣下がなされ、惟康は皇族に復帰した。また宗尊親王の孫にあたる宗治は後醍醐天皇の猶子となって源姓を賜与されている。 89代後深草天皇の皇子で、鎌倉幕府8代将軍となった久明親王の子孫。 久明親王の子守邦親王(9代将軍)・久良親王が源姓を賜与されたとされるが、信憑性は低い。また、久良親王の子宗明は暦応元年(1338年)に源氏姓を受け、権大納言に昇った。 96代後醍醐天皇の子孫。至徳3年(1386年)に宗良親王の子、尹良親王が源氏姓を受けたとされる。しかし『浪合記』『信濃宮伝』といった軍記物にあるのみで、尹良親王の実在性を含めて信憑性は低い。 106代正親町天皇の子孫。正親町天皇の孫八条宮智仁親王の子である忠幸王は、尾張藩主徳川義直の猶子となって尾張国に向かったが、その後京都に復帰することを願い出た。寛文3年(1663年)に源氏姓を受けた。清華家の家格をもつ広幡家の始まりであり、忠幸のあとは久我家からの養子が継いだ。
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"皇親として高い地位を持った源氏でも、一部の家系をのぞいてはその地位を子孫に伝えることは難しかった。天皇が代を重ねていくに従い、父祖の代の源氏とは血縁が離れていくため、天皇の「ミウチ」としての関係も薄れていくのが常であった。さらに臣籍降下した源氏たちの母の身分が低いことも権勢を維持する上では致命的であった。3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、受領階級として地方へ赴任しそこで土着して武士化するか、完全に没落するかしかなかった。", "title": "源氏の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中央貴族として栄えた源氏としては村上天皇の皇子を祖とする源師房(中院流)流が知られる。師房は具平親王の子であり、「二世の源氏」であったが藤原頼通の養子となったことがあり、さらに藤原道長の家系と重層的な縁戚関係を築いたことで「御堂末葉」、すなわち摂関家に準ずる家格と認識されるようになった。嫡流久我家は清華家のひとつとして江戸時代まで上流貴族の地位を占め続け、分家の中院家は大臣家の家格を保持した。一門の堂上家からは建久七年の政変で権力を掌握し「源博陸」と呼ばれた源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房、明治政府の重鎮となった岩倉具視を輩出している。また江戸時代に成立した清華家の広幡家は、2代目の広幡豊忠を久我家から迎えている。", "title": "公家源氏" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続しているが、いずれの家も羽林家・半家の平堂上であった。", "title": "公家源氏" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治時代まで存続した、源氏の堂上家の一覧", "title": "公家源氏" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "源氏の後裔のうち、受領や在庁官人として土着し、武士団を形成したものは武家源氏と呼ばれる。特に清和源氏はその代表格であり、源平合戦など、清和源氏をして源氏と称することが多い。源経基は天慶の乱の鎮圧に功を挙げ、その子源満仲は鎮守府将軍となり、その後裔は摂津源氏、大和源氏、河内源氏とに分かれた。河内国を本拠地とした河内源氏は源義家(八幡太郎義家)を輩出し、摂関家の家人として中央との関係を築き、受領にも任じられる武家貴族となった。1180年に治承・寿永の乱(源平合戦)が起こり、河内源氏の棟梁であった源頼朝は5年ほどかけて平氏を滅ぼし東日本を征服するに至った。1192年、征夷大将軍に任じられ、鎌倉に最初の幕府(鎌倉幕府)を開いた。。以降河内源氏は「武家の棟梁」として捉えられ、河内源氏からは石川源氏(石川氏)、甲斐源氏(武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などが分派している。摂津国を本拠地とした摂津源氏からは多田源氏、美濃源氏その他が分派している。足利氏は室町幕府を開き、その一族である細川氏・畠山氏・山名氏などは大きな勢力を誇った。戦国時代には足利氏支流の家系はほとんど衰退したものの、清和源氏新田流を称する徳川氏が江戸幕府を開き、島津氏・細川氏・佐竹氏などは大大名として存続した。", "title": "武家源氏" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "嵯峨源氏の源融を祖とする「融流嵯峨源氏」は、摂津国を基盤とした渡辺氏とその分流の松浦氏などを輩出した。また、宇多源氏の中で武家として近江国を基盤とした系統は近江源氏(佐々木氏)と称され、佐々木道誉が室町幕府の重臣となったこともあり、六角氏・京極氏は守護として勢力を築いた。", "title": "武家源氏" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "52代嵯峨天皇の子孫。弘仁御後。詳細は「嵯峨源氏」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この内、源信・源常・源融は左大臣となり、平安時代初期に朝廷の一大勢力をなした。また、源融の系統は地方に土着として武家となった。また源潔姫は藤原良房に嫁ぎ、天皇の娘が摂関家に嫁ぐ先例となった。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "氏族:渡辺氏、松浦氏、蒲池氏など", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "女子は数を限って記載。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "源融流以外の系図は「嵯峨源氏#系譜」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "54代仁明天皇の子孫。承和御後。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "仁明天皇の子、源多・源光は右大臣となった。また、源光の子孫に、清和源氏の源満仲の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)の養父である源敦がいた。人康親王・本康親王の子息も数人が源氏となっているが、本康親王の子息には平氏となったものもいる(仁明平氏)。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "55代文徳天皇の子孫。天安御後。詳細は「文徳源氏」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "源能有は右大臣となった。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "氏族:坂戸氏", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "56代清和天皇の子孫。貞観御後。詳細は「清和源氏」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "中央では光孝天皇への皇統移行により、勢力を広げることは出来なかった。しかし第六皇子・貞純親王の子・六孫王経基の系統は武家として栄え、満仲の長男頼光は、多田氏、神野氏、そして、四男河内源氏の源頼信→源頼義→源義家が武家の棟梁となり、その子孫から鎌倉将軍家を輩出したことから武家棟梁の家柄とされ、室町幕府を興した足利氏を初めとして、新田氏、木曾氏、武田氏、佐竹氏、細川氏、今川氏、土岐氏(明智氏、浅野氏)、南部氏、宍戸氏など多数の武家が清和源氏の子孫を称した。また、徳川氏や島津氏など本来清和源氏ではない一族が源氏を仮冒した例もある。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "堂上公家の竹内家(半家)は、河内源氏傍流源義光の第4子平賀盛義の系統である。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "57代陽成天皇の子孫。元慶御後。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "清和源氏の祖とされる源経基は陽成天皇の孫とする説があり、この説に賛意を示す学者もいるが、広く学界の承認するまでには至っていない(「貞純親王」を参照)。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "58代光孝天皇の子孫。仁和御後。光孝天皇は藤原基経の後援を受けて即位した際、斎王として内親王宣下されていた皇女を除く全ての子女に源氏を賜姓した。このうち源定省とその子源維城は皇族に復帰し、宇多天皇・醍醐天皇として即位している。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第一皇子である是忠親王の曾孫・康尚は仏師となり、この系統から仏工の各流派を輩出した。(七条仏所)", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "59代宇多天皇の子孫。寛平御後。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第八皇子である敦実親王の子、源雅信・源重信兄弟はいずれも左大臣となった。源重信の子孫は十二世紀初めまで公卿を輩出した。源雅信の子孫からも多くの公卿を輩出し、鎌倉時代以降、庭田家、綾小路家等に分かれ、明治維新に至るまで堂上家としての地位を保ち、栄えた。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "堂上公家:庭田家(羽林家)、綾小路家(羽林家)、五辻家(半家)、大原家(羽林家)、慈光寺家(半家)", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "氏族:佐々木氏、出雲源氏など諸氏", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "60代醍醐天皇の子孫。延喜御後。詳細は「醍醐源氏」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "第十皇子の源高明は左大臣となったが後に安和の変にて失脚した。高明の異母兄弟である源兼明も左大臣に昇ったが後に親王に復帰させられることで政治の中枢から追われた。高明の三男源俊賢は権大納言、四男源経房は権中納言に昇り、俊賢の子孫からも源隆国(俊賢二男、権大納言)や源俊明(隆国三男、大納言)をはじめ多くの公卿を輩出し、院政期まで栄えた。 第一皇子・克明親王の子には管弦の名手として有名な源博雅がいる。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "氏族:岡本氏、河尻氏", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "62代村上天皇の子孫。天暦御後。詳細は「村上源氏」を参照。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "第七皇子の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房の子孫は多数の公卿を輩出し、栄えた。師房の子、源俊房・源顕房の兄弟はそれぞれ左大臣・右大臣に昇った。俊房流も院政期までは公卿を出したが、以後は没落した。顕房の嫡男の源雅実は源氏で初の太政大臣となり、その子孫は数多くの大臣を輩出して村上源氏の嫡流となり、殊に平安時代末期の源通親は著名である。室町時代に足利将軍家に奪われるまで源氏長者は村上源氏が独占した。雅実流からは清華家の一つである久我家をはじめ多数の堂上家が分立し、明治維新に至るまで堂上公家としての地位を保った。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "堂上公家:久我家(清華家)、中院家(大臣家)、六条家(羽林家)、岩倉家(羽林家)、千種家(羽林家)、久世家(羽林家)、東久世家(羽林家)、梅渓家(羽林家)、愛宕家(羽林家)、植松家(羽林家) 氏族:北畠氏など", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "63代冷泉天皇の子孫。安和御後。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "源氏二十一流に含まれるが尊卑分脈には冷泉源氏の人物は記載されていない。冷泉天皇の子である花山天皇の第六皇子・清仁親王は冷泉天皇の養子となり、男子延信王が賜姓されて成立したが、その子康資王は王氏に復して以降は花山天皇の裔としての扱いを受けた。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "65代花山天皇の子孫。寛和御後。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "堂上公家:白川伯王家(半家) - 神祇伯を世襲して神道を統括。1961年絶家。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "67代三条天皇の第一皇子・敦明親王の子孫。長和御後。敦明の第1王子敦貞親王の子宗家の系統、第4王子基平の系統と、信宗・顕宗・当宗の系統がある。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "敦貞親王の孫源通季は一旦源氏姓を受けたが、王氏に復した後は世襲の王家となり、正親正を世襲した。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "71代後三条天皇の子孫。延久御後。後三条の第三皇子・輔仁親王の子である源有仁が元永2年(1129年)に賜姓された。有仁は左大臣まで登ったが、子女はなく、家は断絶した。『源平盛衰記』では、源頼朝の家臣で平家物語にも登場する田代信綱が有仁の孫としているが信憑性は低い。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "77代後白河天皇の第二皇子・以仁王。以仁王は親王宣下がなされず、ついに治承4年(1180年)、最勝親王を名乗り安徳天皇と平氏政権の排除を唱えて源頼政とともに挙兵した。その際、後白河院から皇籍を剥奪されて名を「源以光」と改められ、土佐国への流罪の沙汰が下った。しかし追討軍に討たれ、敗死した(以仁王の挙兵)。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "84代順徳天皇の第五皇子・忠成王の子孫と、第六皇子・善統親王の子孫が該当する。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "忠成王の子、彦仁子孫は永仁2年(1294年)に源氏姓を受けた。子の忠房は権中納言、孫の彦良は参議に昇っている。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "善統親王の子孫は四辻宮を称していたが、善統親王の孫善成は文和5年(1356年)に源氏姓を受け、四辻を家名とした。血縁がある足利義満の応援も受けて左大臣に昇ったが、ただ一人の男子も出家し、以後は途絶えている。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "88代後嵯峨天皇の子孫。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "文永3年(1266年)、後嵯峨天皇の第二皇子・宗尊親王が第6代鎌倉将軍を退いた後、その長男で7代将軍に就任した惟康王に対し、源姓が賜与されて「源惟康」となった。しかし弘安10年(1287年)、鎌倉幕府が惟康を京へ追放し、代わりに久明親王を将軍に迎えるため、その下準備として幕府の要請により朝廷より惟康に対して親王宣下がなされ、惟康は皇族に復帰した。また宗尊親王の孫にあたる宗治は後醍醐天皇の猶子となって源姓を賜与されている。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "89代後深草天皇の皇子で、鎌倉幕府8代将軍となった久明親王の子孫。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "久明親王の子守邦親王(9代将軍)・久良親王が源姓を賜与されたとされるが、信憑性は低い。また、久良親王の子宗明は暦応元年(1338年)に源氏姓を受け、権大納言に昇った。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "96代後醍醐天皇の子孫。至徳3年(1386年)に宗良親王の子、尹良親王が源氏姓を受けたとされる。しかし『浪合記』『信濃宮伝』といった軍記物にあるのみで、尹良親王の実在性を含めて信憑性は低い。", "title": "源氏の一覧" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "106代正親町天皇の子孫。正親町天皇の孫八条宮智仁親王の子である忠幸王は、尾張藩主徳川義直の猶子となって尾張国に向かったが、その後京都に復帰することを願い出た。寛文3年(1663年)に源氏姓を受けた。清華家の家格をもつ広幡家の始まりであり、忠幸のあとは久我家からの養子が継いだ。", "title": "源氏の一覧" } ]
源氏(みなもとうじ/げんじ)は、日本の嵯峨天皇以降、臣籍へと降下し「源(みなもと)」の本姓を受けた皇子や皇孫の氏族。 姓(カバネ)は朝臣(源朝臣)。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別。
{{Otheruseslist|[[氏族]]としての'''源氏'''|その他の源氏|源氏 (曖昧さ回避)}} {{日本の氏族 (古代氏族) |氏名 = 源氏 |画像 = [[ファイル:Sasa_Rindo.svg|150px]]<br/>{{ruby|[[竹紋|笹]][[リンドウ|竜胆]]|ささりんどう}}(代表的な[[家紋]])<br/>※ 各、源氏によって異なる。 |氏姓 = '''源'''[[朝臣]] |始祖 = |出自 = |氏祖 = [[天皇]]の[[皇子]]・[[王 (皇族)|諸王]]<br/>[[宮家]]の諸王 |種別 = [[皇別]] |本貫 = |人物 = <!-- 肥大化を防ぐため歴史を熟知していない一般人でも理解できる人物のみ記載-->'''宇多源氏''':<br/>[[佐々木道誉]]<br/>[[乃木希典]]<br/>'''村上源氏''':<br/>[[源通親]]<br/>[[北畠親房]]<br/>[[岩倉具視]]<br/>'''清和源氏''':<br/>[[源頼朝]]([[河内源氏]])<br/>[[源義仲|木曾義仲]]([[木曾氏|木曾源氏]])<br/>[[源義経]](河内源氏)<br/>[[足利尊氏]]([[足利氏]])<br/>[[武田信玄]]([[武田氏]])<br/>[[明智光秀]]([[土岐氏]])<br/>[[徳川家康]]([[新田氏]])('''自称''')<br/>[[細川護熙]]([[細川氏]])<br/>その他は[[源氏の人物一覧]]を参照 |後裔 = [[嵯峨源氏]]<br/>[[村上源氏]]<br/>[[清和源氏]]<br/>[[白川伯王家|花山源氏]]<br/>[[#宇多源氏|宇多源氏]]<br/>[[広幡家|正親町源氏]]<br/>など<br/><br/>その他の源氏については、'''[[二十一流]]'''を参照 }} '''源氏'''(みなもとうじ/げんじ)は、[[日本]]の[[嵯峨天皇]]以降、[[臣籍降下|臣籍へと降下]]し「'''源'''(みなもと)」の[[本姓]]を受けた皇子や皇孫の氏族。 姓([[カバネ]])は'''[[朝臣]]'''('''源朝臣'''(みなもとのあそん))。[[新撰姓氏録]]や[[宗族制 (華族)|華族の宗族制度]]における分類は'''[[皇別]]'''。 ==概説== [[皇族]]が臣下の籍に降りる([[臣籍降下]])際に「'''源'''」の賜姓を受けたもので、[[嵯峨天皇]]から分かれた[[嵯峨源氏]]や[[清和天皇]]からの[[清和源氏]]から、[[江戸時代]]に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統([[二十一流]])があるとされているが、文献によっては源氏二十一流に含まれない淳和源氏([[淳和天皇]]の子孫が源姓を与えられたものなど)が存在することを明記しているものもある<ref>『[[日本大百科全書]] 8』330-331頁、「源氏」の項目より。</ref>。[[本姓|姓]]の代表的な例として、[[平氏]]・[[藤原氏]]・[[橘氏]]と源氏は、「源平藤橘」(四姓)と総称されている。 多くの源氏は一代・二代のうちに朝廷で高位を占めることはなくなったが、[[村上天皇]]の子孫である[[村上源氏]]の[[源師房]]流([[中院流]])は上流貴族の地位を占め続け、[[建久七年の政変]]で[[摂関家]]を越える権力を手にした[[源通親]]や、[[後醍醐天皇]]第一の側近として[[南朝 (日本)|南朝]]を指揮した[[北畠親房]]、[[明治政府]]の重鎮となった[[岩倉具視]]を出している。このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も[[堂上家]]として存続している。 また源氏の子孫の一部は[[受領]]・[[在庁官人]]となり、土着して[[武士]]化した。特に清和源氏[[源経基]]流[[河内源氏]]は、[[鎌倉幕府]]を開いた[[源頼朝]]を出した。さらに、河内源氏の流れを汲む有力氏族[[足利氏]]の[[足利尊氏]]が[[室町幕府]]を開いたことで、[[武家の棟梁]]と認識されるようになった{{efn|[[軍記物語]]『[[太平記]]』([[1370年]]ごろ完成)では、14世紀前半から半ばに活躍した武将の足利尊氏と[[新田義貞]]が、己を「源家嫡流」と自覚して行動しているという物語になっている。しかし、21世紀初頭の研究では、これは室町幕府が安定した後に過去に遡及して出来た認識であり、尊氏・義貞自身には源家の嫡流や武家の棟梁という意識は少なくとも幕府成立直後にはなかったと考えられている([[足利尊氏#置文伝説]]なども参照)。}}。[[江戸幕府]]を開いた[[徳川家康]]を出した[[三河国|三河]][[松平氏]]なども河内源氏後裔を称している。 代表的な[[家紋]]である'''「笹竜胆」は日本最古の家紋'''であると言われている。 == 源氏の歴史 == 皇族からの臣籍降下は[[律令]]成立以前から存在しており、古くは公の[[カバネ]]を与えられた諸氏や、[[天武天皇]]の時代に[[真人]]のカバネを与えられた諸氏、[[奈良時代]]の橘氏や、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇の子孫などが存在する。 [[弘仁]]5年([[814年]])に[[嵯峨天皇]]の皇子女8人が臣籍降下し、源姓を与えられたのが最初の源氏である{{sfn|倉本一宏|2019|p=12-13}}。これらの賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。この賜姓は嵯峨の詔が述べているように、[[朝廷 (日本)|朝廷]]歳費の節約が理由とされる説が大勢を占めていたが、上級[[貴族]]として皇室の藩塀とすることが目的であるという説もある{{sfn|倉本一宏|2019|p=12-15}}。しかし一部の氏族を除いては没落していく例が多く、藩屏としての役割を十分に果たせるものではなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=14-15}}。 「源」は[[皇室]]と祖(源流)を同じくするという意味であり、元々は中国の[[五胡十六国時代]]、[[南涼]]王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に[[北魏]]に仕えた際、[[太武帝]]から禿髪氏と[[拓跋氏]](北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、[[源賀]]と名乗ったことに由来する{{sfn|倉本一宏|2019|p=21}}。他にも、「源」は「水元」であるという説もある。例えば、『和訓栞』(谷川士清)では「みなもと、源をよめり。水元の義なり」とある。また、『神代巻藻塩草』(玉木正英)では「源ノ訓ハ水元也」とある。 嵯峨天皇の後の天皇も度々皇族を源氏として臣籍に下したことから、それぞれの祖とする天皇ごとに集団を形成し、[[氏爵]]を受けるようになった。これらの集団は年号により「弘仁御後(嵯峨天皇の子)」、「延喜御後(醍醐天皇の子)」などと呼ばれる{{sfn|倉本一宏|2019|p=16-21}}{{sfn|赤坂恒明|2015|p=268-267}}。それぞれの祖と仰ぐ[[天皇]]の号をもって[[嵯峨源氏]]、仁明源氏、[[文徳源氏]]、[[清和源氏]]、[[宇多源氏]]などとも呼ばれるが、これは同時代的に使用されたことはなく、『[[国史大系]]』の編纂にあたって使用されたのが最初である{{sfn|赤坂恒明|2015|p=268-267}}。 源氏の賜姓が開始されて以降、仁明・文徳・光孝の子孫には平氏賜姓を受けた皇族もおり、清和天皇の時代には別の賜姓が行われたが、源氏姓を受けたものは他の姓より格上とされた。その後平氏やその他の賜姓は途絶え、新たに賜姓される際には源氏ばかりとなった。源氏の中で最も高い官位を持つものは[[源氏長者]]と呼ばれ、[[奨学院]]・[[淳和院]]の別当を兼ね、[[氏爵]]を与える権限を持っていた。村上源氏師房流が繁栄すると、以降は嫡流である久我家がほぼ独占するに至ったが、[[足利義満]]が源氏長者となって以降は現職の[[征夷大将軍]]が就くことが多くなり、江戸時代にはほとんど将軍の独占状態となった。 [[平安時代|平安]]後期以降、皇位継承とは関わりのない[[皇子]][[皇女]]たちは[[出家]]する慣例が生まれたため、賜姓源氏はほとんど途絶えていた。[[江戸時代]]に入って一家が生まれた([[広幡家]])が、それを最後に源氏賜与は途絶えた。[[明治時代]]になると本姓を称することが停止されたため、源氏の存在が認識されることは少なくなった。源姓(本姓が源氏)の[[家系]]はそれぞれ別の[[苗字]]を号しているため、現在「源」を「苗字」として名乗る例は多くなく、推定人口は4,000人程である。 === 源氏賜姓の実態 === 天皇の皇子が降下することを、「'''一世の源氏'''」といい、[[時服]]月俸・[[叙位|初叙]]の上で優遇された{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。一方で皇孫に至って臣籍降下することは「'''二世の源氏'''」という。嵯峨天皇の子である[[源定]]・[[源融]]、[[仁明天皇]]の子である[[源冷]]は父天皇の意向で親王の例に準じて内裏において[[元服]]を行っており、親王に準じた待遇を受けた。その後、[[陽成天皇]]の退位後の後継選定で[[藤原基経]]が源融を退けて[[光孝天皇]]を即位させた際には、すでに臣籍降下していた[[源旧鑒|旧鑒]]・[[源是忠|是忠]]・[[源是貞|是貞]]らが改めて賜姓を受け、一世源氏扱いを受けている{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。 光孝天皇が崩御するとその基経が臣籍に降下した源定省を復籍させて[[宇多天皇]]として即位させるなど、同じ天皇の子でも親王と一世源氏の区別の明確化を迫られる事態が発生し、宇多天皇以降の[[儀式書]]では親王の元服と一世源氏の元服では異なる作法が記されるようになる。しかし、その後も規模を小さくしながらも内裏で元服を行い、[[内蔵寮]]から饗宴や引出物が用意された[[醍醐天皇]]の子である[[源高明]]・[[源兼明]]の元服など一世源氏の特殊性が完全に排除されることはなかった(内蔵寮は天皇の私的な支出を扱う官司であり、一世源氏の元服を公的行事から天皇主催の私的行事に切り替えることで特殊性を維持したとみられる)。『[[源氏物語]]』において、[[桐壺帝]]が一世源氏である[[光源氏]]の元服を自ら主導して、引出物も自ら準備している(費用も桐壺帝の負担と考えられる)のも、一世源氏の特殊性が描かれた場面と言える<ref>江渡俊裕「一世源氏元服に関する試論」小口雅史 編『律令制と日本古代国家』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-804-9</ref>。しかし后妃が[[摂関家|摂家]]の出身であることが重視されるようになると、皇子女の絶対数も減少し、母親の身分が高いことで臣籍降下する皇族は減少していく{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。[[村上天皇]]以降は一世の皇子女が賜姓を受けることもなくなった{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。 皇親として高い地位を持った源氏でも、一部の家系をのぞいてはその地位を子孫に伝えることは難しかった。天皇が代を重ねていくに従い、父祖の代の源氏とは血縁が離れていくため、天皇の「ミウチ」としての関係も薄れていくのが常であった{{sfn|倉本一宏|2019|p=15}}。さらに臣籍降下した源氏たちの母の身分が低いことも権勢を維持する上では致命的であった{{sfn|中村みどり|2015|p=74}}。3代目以降も上級貴族であり続けた例は少なく、中央で下級貴族として細々と生き延びるか、[[受領]]階級として地方へ赴任しそこで土着して[[武士]]化するか、完全に没落するかしかなかった{{sfn|倉本一宏|2019|p=15}}。 == 公家源氏 == 中央貴族として栄えた源氏としては[[村上天皇]]の皇子を祖とする[[源師房]]([[中院流]])流が知られる。師房は[[具平親王]]の子であり、「二世の源氏」であったが[[藤原頼通]]の[[養子]]となったことがあり、さらに[[藤原道長]]の家系と重層的な縁戚関係を築いたことで「御堂末葉」、すなわち[[摂関家]]に準ずる家格と認識されるようになった{{sfn|倉本一宏|2019|p=124-132}}。嫡流[[久我家]]は[[清華家]]のひとつとして江戸時代まで上流貴族の地位を占め続け、分家の[[中院家]]は[[大臣家]]の家格を保持した。一門の[[堂上家]]からは[[建久七年の政変]]で権力を掌握し「源[[関白|博陸]]」と呼ばれた[[源通親]]や、[[後醍醐天皇]]第一の側近として[[南朝 (日本)|南朝]]を指揮した[[北畠親房]]、[[明治政府]]の重鎮となった[[岩倉具視]]を輩出している。また江戸時代に成立した清華家の[[広幡家]]は、2代目の[[広幡豊忠]]を久我家から迎えている。 このほか宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続しているが、いずれの家も[[羽林家]]・[[半家]]の平堂上であった。 === 堂上源氏 === 明治時代まで存続した、源氏の堂上家の一覧 <div style="width: 33%; float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap"> * [[村上源氏]](10家) ** [[久我家]] ** [[中院家]] ** [[六条家]] ** [[岩倉家]] ** [[千種家]] ** [[久世家]] ** [[東久世家]] ** [[梅渓家]] ** [[愛宕家]] ** [[植松家]] </div> <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap"> * 宇多源氏(5家) ** [[庭田家]] ** [[綾小路家]] ** [[五辻家]] ** [[大原家]] ** [[慈光寺家]] * 花山源氏 ** [[白川家]] * 正親町源氏 ** [[広幡家]] * [[清和源氏]] ** [[竹内家]] </div>{{clear}} == 武家源氏 == [[ファイル:Map-of-Japan-1183-Heian-Genpei-War.png|thumb|right|250px|1183年時点の勢力圏図。ただしこのように明確に分かれていた訳では無く、源氏同士、平氏同士でも相克や戦闘があった。]] 源氏の後裔のうち、受領や在庁官人として土着し、武士団を形成したものは武家源氏と呼ばれる。特に[[清和源氏]]はその代表格であり、[[治承・寿永の乱|源平合戦]]など、清和源氏をして源氏と称することが多い。[[源経基]]は[[天慶の乱]]の鎮圧に功を挙げ、その子[[源満仲]]は[[鎮守府将軍]]となり、その後裔は[[摂津源氏]]、[[大和源氏]]、[[河内源氏]]とに分かれた。[[河内国]]を本拠地とした河内源氏は[[源義家]](八幡太郎義家)を輩出し、摂関家の家人として中央との関係を築き、受領にも任じられる[[武家貴族]]となった。1180年に[[治承・寿永の乱]](源平合戦)が起こり、河内源氏の棟梁であった[[源頼朝]]は5年ほどかけて平氏を滅ぼし東日本を征服するに至った。1192年、[[征夷大将軍]]に[[将軍宣下|任じられ]]、[[鎌倉]]に最初の[[幕府]]([[鎌倉幕府]])を開いた。<ref name=Sansom>{{Cite book |last=Sansom |first=George |title=A History of Japan to 1334 |publisher=Stanford University Press |year=1958 |isbn=0804705232 |pages=241–242, 247–252}}</ref>。以降河内源氏は「[[武家の棟梁]]」として捉えられ、河内源氏からは[[石川源氏]]([[石川氏]])、[[甲斐源氏]]([[武田氏]])、[[常陸源氏]]([[佐竹氏]])、[[下野源氏]]([[足利氏]])、上野源氏([[新田氏]])などが分派している。[[摂津国]]を本拠地とした摂津源氏からは[[多田源氏]]、[[美濃源氏]]その他が分派している。足利氏は室町幕府を開き、その一族である[[細川氏]]・[[畠山氏]]・[[山名氏]]などは大きな勢力を誇った。戦国時代には足利氏支流の家系はほとんど衰退したものの、清和源氏新田流を称する[[徳川氏]]が[[江戸幕府]]を開き、[[島津氏]]・細川氏・[[佐竹氏]]などは大大名として存続した。 嵯峨源氏の[[源融]]を祖とする「融流嵯峨源氏」は、摂津国を基盤とした[[渡辺氏]]とその分流の[[松浦氏]]などを輩出した。また、宇多源氏の中で武家として[[近江国]]を基盤とした系統は[[近江源氏]]([[佐々木氏]])と称され、[[佐々木道誉]]が室町幕府の重臣となったこともあり、[[六角氏]]・[[京極氏]]は守護として勢力を築いた。 == 源氏の一覧 == === 嵯峨源氏=== 52代[[嵯峨天皇]]の子孫。弘仁御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。詳細は「[[嵯峨源氏]]」を参照。 この内、[[源信 (公卿)|源信]]・[[源常]]・[[源融]]は[[左大臣]]となり、[[平安時代]]初期に[[朝廷 (日本)|朝廷]]の一大勢力をなした。また、源融の系統は地方に土着として[[武家]]となった。また[[源潔姫]]は[[藤原良房]]に嫁ぎ、天皇の娘が摂関家に嫁ぐ先例となった。 氏族:[[渡辺氏]]、[[松浦氏]]、[[蒲池氏]]など <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">嵯峨源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 嵯峨天皇諸皇子・皇女系譜 女子は数を限って記載。 {{familytree/start|style=font-size:85%:collapse_state:plain;}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| |01|v|02|-| 01=(52)'''[[嵯峨天皇]]'''|02=(54)[[仁明天皇]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[秀良親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[業良親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[忠良親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[基良親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[淳王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源信 (公卿)|源信]]|02=源信流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源弘]]|02=源弘流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源常]]|02=源常流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02|-|03|-|04| 01=[[源定]]|02=[[源至]]|03=[[源挙]]|04=[[源順]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01||02|| 01=[[源明]]|02=源明流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|v|02|-|03| 01=[[源生]]|02=[[源加|加]]|03=[[源浮 (源加の子)|浮]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01| 01=[[源見|見]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|v|02| 01=[[源寛]]|02=[[源矜|矜]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01| 01=[[源宥|宥]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源鎮]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源澄]]|02=源澄流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源清]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源安]]|02=[[源來|來]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源融]]|02=源融流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源勤]]|02=源勤流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02|-|03| 01=[[源勝]]|02=[[源良|良]]|03=[[源穏|穏]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源賢]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源啓]]|02=源啓流へ}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源継]]|02=[[源生|生]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[有智子内親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源潔姫]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|正子内親王]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源貞姫]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||`|01| 01=[[源善姫]]}} {{familytree/end}} ; 源融流 源融流以外の系図は「[[嵯峨源氏#系譜]]」を参照。 {{familytree/start|style=font-size:90%}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| |01|v|02|v|03| 01=[[源融]]|02=[[源湛|湛]]|03=[[源寄|寄]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||)|01|v|02| 01=[[源准|准]]|02=[[源散|散]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||`|01| 01=[[源寛筭|寛筭]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||)|01| 01=[[源若|若]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01| 01=[[源添|添]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源泊|泊]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|v|02|v|03|-|04|-|05| 01=[[源昇|昇]]|02=[[源適|適]]|03=[[源済|済]]|04=[[源官|官]]|05=[[源趁|趁]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||)|01| 01=[[源憩|憩]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||`|01| 01=[[安法]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||)|01|-|02|-|03|-|04|-|05|v|06|-|07| 01=[[源仕|仕]]|02=[[源宛|宛]]|03=[[[渡辺氏]]][[渡辺綱]]|04=[[奈古屋授|授]]|05=[[[松浦氏]]][[松浦久]]|06=[[源正|正]]|07=[[源糺|糺]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||||||||||||||||||`|01|-|02| 01=[[渡辺安|安]]|02=[[源傅|傅]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||)|01| 01=[[源後|後]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||)|01|-|02|-|03|-|04|-|05|-|06|-|07| 01=[[源是茂|是茂]]|02=[[源師世|師世]]|03=[[源貞清|貞清]]|04=[[源末行|末行]]|05=[[源満末|満末]]|06=[[源貞宗|貞宗]]|07=[[[蒲池氏]]][[蒲池久直]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01| 01=[[源衆望|衆望]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源望|望]]|02=[[源尚|尚]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||`|01|v|02|-|03| 01=[[源副|副]]|02=[[源添|添]]|03=[[源元|元]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||||||`|01|-|02| 01=[[源運|運]]|02=[[源増|増]]}} {{familytree/end}} </div> </div> === 仁明源氏 === 54代[[仁明天皇]]の子孫。承和御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。 仁明天皇の子、[[源多]]・[[源光 (公卿)|源光]]は[[右大臣]]となった。また、源光の子孫に、清和源氏の[[源満仲]]の妻の父であり、嵯峨源氏の源綱([[渡辺綱]])の養父である[[源敦]]がいた。人康親王・本康親王の子息も数人が源氏となっているが、本康親王の子息には平氏となったものもいる([[仁明平氏]]){{Sfn|太田|1923|p=57}}{{Sfn|塙|川俣|1930|p=419}}{{Sfn|太田|1936|p=4550}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">仁明源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。仁明平氏は除く。  〈源氏(仁明源氏)〉[vol.1 道康親王~本康親王]      [[仁明天皇]](正良親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓      [[文徳天皇|道康親王]]  [[宗康親王]]  [[光孝天皇|時康親王]]  [[人康親王]] [[本康親王]]                 ┏━━━┳━━━┫     ┃                [[源興基|興基]]  [[源興範|興範]]  [[源興扶|興扶]]    [[源兼似|兼似]]  〈源氏(仁明源氏)〉[vol.2 源多~源登]     [[仁明天皇]]       ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓       [[源多|多]]  [[源冷|冷]]  [[源光 (公卿)|光]]  [[源覚|覚]]  [[源効|効]]  [[源登|登]] </div> </div> === 文徳源氏 === 55代[[文徳天皇]]の子孫。天安御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。詳細は「[[文徳源氏]]」を参照。 [[源能有]]は右大臣となった。 氏族:[[坂戸氏]] <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">文徳源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 文徳天皇諸皇子系譜<!--系図は男子に限って記載しました。--> {{familytree/start|style=font-size:90%}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| |01|v|02| 01=(55)'''[[文徳天皇]]'''|02=[[惟喬親王]]<ref group="a">四品[[大宰帥]][[上野国|上野太守]]小野宮。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[惟脩親王]]<ref group="a">四品[[上野国|上総太守]]。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-| 01=(56)[[清和天皇]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[惟彦親王]]<ref group="a">四品[[中務省|中務卿]]。</ref>|02=''([[平氏#文徳平氏|文徳平氏]]へ)''}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[惟恒親王]]<ref group="a">三品[[兵部省|兵部卿]]。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源毎有]]<ref group="a">[[従四位下]]。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源能有]]<ref group="a">[[正二位]][[右大臣]]。</ref>|02='''''源能有流(嫡流)へ'''''}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01| 01=[[源時有]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源本有]]<ref group="a">[[正四位下]][[治部省|治部卿]]。</ref>|02=[[源綏之|綏之]]<ref group="a">読みは「やすゆき」。[[従四位下]][[因幡国|因幡守]]。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|v|02|-|03|v|04| 01=[[源定有]]<ref group="a">[[正四位下]][[大蔵省|大蔵卿]]。</ref>|02=[[源雅固|雅固]]<ref group="a">[[従五位下]][[内匠寮|内匠頭]]。</ref>|03=[[源実時|実時]]<ref group="a">[[勘解由使|勘解由次官]]。</ref>|04=[[源惟信|惟信]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||||||)|01| 01=[[源能信|能信]]}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||||||`|01| 01=景日<ref group="a">僧。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01| 01=[[源雅胤|雅胤]]<ref group="a">[[従五位下]][[摂津国|摂津守]]。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|-|02| 01=[[源行有]]<ref group="a">[[従四位上]][[大宰府|大宰大弐]]。</ref>|02=清雅}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||)|01|v|02|v|03| 01=[[源載有]]<ref group="a">[[正四位下]][[周防国|周防守]]。</ref>|02=邦紀<ref group="a">[[従五位下]]。</ref>|03=仲文}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||!||||`|01| 01=千恵<ref group="a">僧。</ref>}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||`|01|v|02| 01=[[源清廉]]<ref group="a">[[加賀国|加賀介]]。</ref>|02=行方}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||||||)|01| 01=行義}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||!||||||||`|01| 01=忠全}} {{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left| ||||`|01| 01=[[源富有]]}} {{familytree/end}} {{Reflist|2|group=a}} </div> </div> === 清和源氏 === 56代[[清和天皇]]の子孫。貞観御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。詳細は「[[清和源氏]]」を参照。 中央では光孝天皇への皇統移行により、勢力を広げることは出来なかった。しかし第六皇子・[[貞純親王]]の子・[[源経基|六孫王経基]]の系統は武家として栄え、満仲の長男頼光は、多田氏、神野氏、そして、[[河内源氏|四男河内源氏]]の[[源義家|源頼信→源頼義→源義家]]が武家の棟梁となり、その子孫から[[鎌倉将軍一覧|鎌倉将軍家]]を輩出したことから武家棟梁の家柄とされ、[[室町幕府]]を興した[[足利氏]]を初めとして、[[新田氏]]、[[木曾氏]]、[[武田氏]]、[[佐竹氏]]、[[細川氏]]、[[今川氏]]、[[土岐氏|土岐氏(明智氏、浅野氏)]]、[[南部氏]]、[[宍戸氏]]など多数の武家が清和源氏の子孫を称した。また、[[徳川氏]]や[[島津氏]]など本来[[清和源氏]]ではない一族が源氏を仮冒した例もある。 堂上公家の[[竹内家]]([[半家 (公家)|半家]])は、河内源氏傍流[[源義光]]の第4子[[源盛義|平賀盛義]]の系統である{{sfn|倉本一宏|2019|p=248-249}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">清和源氏系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(清和源氏)〉[vol.1 貞明親王~貞保親王]      [[清和天皇]](惟仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓      [[陽成天皇|貞明親王]]  [[貞固親王]]  [[貞元親王]]  [[貞平親王]]  [[貞保親王]]             ┃     ┣━━━┓   ┏━━━┫             [[源国淵|国淵]]    [[源兼忠|兼忠]]  [[源兼信|兼信]]  [[源国忠|国忠]]  [[源国珍|国珍]]                   |   ┃                   [[源重之|重之]]  [[源重之|重之]]  〈源氏(清和源氏)河内源氏〉[vol.2 貞純親王]      [[清和天皇]](惟仁親王)       ┃      [[貞純親王]]       ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓      [[源経基|経基王]](源経基)                        [[源経生|経生]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓          ┃       [[源満仲|満仲]]  [[源満政|満政]]  [[源満季|満季]]  [[源満実|満実]]  [[源満快|満快]]  [[源満生|満生]]         [[源公節|公節]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓  ┃       [[源頼光|頼光]]  [[源頼親|頼親]]  [[源頼信|頼信]]  [[源頼平|頼平]]  [[源頼明|頼明]]  [[源頼貞|頼貞]]  [[源頼範|頼範]]  [[源賢]] [[源忠季|忠季]]       ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━┓       [[源頼義|頼義]]  [[源頼清|頼清]]  [[源頼季|頼季]]  [[源頼任|頼任]]  [[源義政 (平安時代中期)|義政]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┓       [[源義家|義家]]  [[源義綱|義綱]]  [[源義光|義光]]  [[快誉]]       ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┓       [[源義宗|義宗]]  [[源義親|義親]]  [[源義国|義国]]                  [[源義忠|義忠]]  [[源義時|義時]]  [[源義隆|義隆]]       |   ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   ┝━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓       [[源忠宗|忠宗]]  [[源義信|義信]]  [[源義俊 (右馬允)|義俊]]  [[源義泰|義泰]]  [[源義行|義行]]  [[源為義|為義]]  [[源宗清|宗清]]  [[源為義|為義]]  [[河内経国|経国]]  [[源義高 (左兵衛権佐)|義高]]  [[源忠宗|忠宗]]  [[源義清 (左京権大夫)|義清]]  [[源義雄|義雄]]       ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━┳━━━━┓       [[源義朝|義朝]]  [[源義賢|義賢]]  [[源義広 (志田三郎先生)|義広]]  [[源頼賢|頼賢]]  [[源頼仲|頼仲]]  [[源為宗|為宗]]  [[源為成|為成]]  [[源為朝|為朝]]  [[源為仲|為仲]]  [[源行家|行家]]  [[源維義|維義]]  [[鳥居禅尼]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓       [[源義平|義平]]  [[源朝長|朝長]]  [[源頼朝|頼朝]]  [[源義門|義門]]      [[源希義|希義]]  [[源範頼|範頼]]  [[阿野全成|全成]]  [[義円]]  [[源義経|義経]]  [[坊門姫 (一条能保室)|坊門姫]]       ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━┓   ┃   ┃   ┃   ┃       [[源頼家|頼家]]  [[源実朝|実朝]]  [[貞暁]]  [[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]  [[三幡|乙姫]]  [[源希望|希望]]  [[範円]]  [[阿野時元|時元]]  [[愛智義成|義成]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓       [[一幡]]  [[公暁]]  [[栄実]]  [[禅暁]]  [[竹御所]]  〈源氏(清和源氏)〉[vol.3 貞辰親王~源長頼]      [[清和天皇]](惟仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[貞辰親王]]  [[貞数親王]]  [[貞真親王]]  [[貞頼親王]]  [[源長淵|長淵]]  [[源長猷|長猷]]  [[源長鑑|長鑑]]  [[源長頼|長頼]]             ┃  ┏━━┻┳━━━┳━━━┓            [[源為善|為善]] [[源蕃基|蕃基]]  [[源蕃平|蕃平]]  [[源蕃固|蕃固]]  [[源元亮|元亮]]  〈清和源氏満政流〉     [[源満政|満政]]       ┣━━━┳━━━┓     [[源忠重|忠重]]  [[源忠隆|忠隆]]  [[源忠国|忠国]]      ┃   ┃     [[源定宗|定宗]]  [[源斉頼|斉頼]]      ┃     [[源重宗|重宗]]      ┃     [[源重実|重実]]      ┣━━━┳━━━┓     [[源重遠|重遠]]  [[源重成|重成]]  [[源重貞|重貞]]      ┣━━━━━━━┳━━━┓     [[浦野重直|重直]]      [[葦敷重頼|重頼]]  [[小河重房|重房]]      ┣━━━┓   ┃   ┃     [[山田重満|重満]]  [[足助重長|重長]]  [[葦敷重隆|重隆]]  [[小河重清|重清]]      ┃     [[山田重忠|重忠]]  〈清和源氏頼光流([[摂津源氏]])〉     [[源頼光|頼光]]      ┃     [[源頼国|頼国]]      ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━┓     [[源頼弘|頼弘]]  [[源頼資|頼資]]  [[源頼実|頼実]]  [[源実国|実国]]  [[源頼綱|頼綱]]  [[源国房|国房]]  [[源師光 (清和源氏)|師光]]  [[六条斎院宣旨]]      ┃   ┃   ┏━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓     [[源家光|家光]]  [[源資兼|資兼]]  [[源明国|明国]]      [[源仲政|仲政]]                           [[源国直|国直]]      ┃       ┣━━━┓   ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓      ┣━━━┓     [[源淳国|淳国]]      [[源行国|行国]]  [[源経光|経光]]  [[源頼政|頼政]]                    [[源頼行|頼行]]     [[源国政|国政]]  [[源国基|国基]]      ┃   ┏━━━┻━━━┓   ┣━━━━━━━┳━━━┳━━━━┓    ┣━━━━┓     ┃     [[源時光|時光]]  [[多田頼盛|頼盛]]      [[多田頼憲|頼憲]]  [[源仲綱|仲綱]]      [[源頼兼|頼兼]]  [[源広綱|広綱]]  [[二条院讃岐]]  [[源兼綱|兼綱]] [[宜秋門院丹後]]  [[能世国能|国能]]      ┏━━━╋━━━┓   ┃   ┣━━━┓   ┃     [[多田行綱|行綱]]  [[多田知実|知実]]  [[能瀬高頼|高頼]]  [[多田盛綱|盛綱]]  [[源宗綱|宗綱]]  [[源有綱|有綱]]  [[源頼茂|頼茂]]      ┃       ┃       ┃     [[多田基綱|基綱]]      [[能瀬資国|資国]]      [[源宗仲|宗仲]]  〈清和源氏国房流(摂津源氏支流)〉     [[源国房|国房]]      ┃     [[源光国|光国]]      ┣━━━━━━━━━━━┓     [[源光信|光信]]          [[源光保|光保]]      ┣━━━┳━━━┓   ┃        [[源光基|光基]]  [[源光重|光重]]  [[源光長|光長]]  [[源光宗|光宗]]          ┃   ┣━━━┓         [[堀頼重|頼重]]  [[源光経|光経]]  [[源光衡|光衡]]  〈清和源氏頼親流([[大和源氏]])〉      [[源頼親|頼親]]      ┣━━━┳━━━━━━━┳━━━┓      [[源頼成 (大和源氏)|頼成]]  [[源頼房|頼房]]      [[源頼遠|頼遠]]  [[源頼基|頼基]]          ┃       ┃          [[源頼俊|頼俊]]      [[源有光|有光]]      ┏━━━╋━━━┓   ┣━━━┓      [[源頼風|頼風]]  [[源頼治|頼治]]  [[源頼景|頼景]]  [[源基光|基光]]  [[石川光家|光家]]      ┃   ┃   ┃      [[源頼安|頼安]]  [[源親弘|親弘]]  [[源惟風|惟風]]      ┃   ┃   ┣━━━━━━━┓      [[信実]]  [[源親治|親治]]  [[源頼明|頼明]]      [[源頼章|頼章]]      ┃   ┃   ┣━━━┓   ┃      [[玄実]]  [[源有治|有治]]  [[源頼遠|頼遠]]  [[源頼元|頼元]]  [[源頼康|頼康]]      ┃   ┃   ┃      [[実遍]]  [[源光治|光治]]  [[太田頼資|頼資]]      ┃   ┃   ┃      [[住蓮]]  [[源義治|義治]]  [[太田頼基|頼基]]  〈清和源氏・[[河内源氏]]義綱流〉     [[源義綱|義綱]]      ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓     [[源義弘|義弘]]  [[源義俊 (平安時代中期)|義俊]]  [[源義明|義明]]  [[源義仲 (曖昧さ回避)|義仲]]  [[源義範|義範]]  [[源義公|義公]]  [[源義直|義直]]  〈清和源氏・河内源氏義光流〉     [[源義光|義光]]      ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓     [[源義業|義業]]    [[源実光|実光]]    [[源義清 (武田冠者)|義清]]                                  [[源盛義|盛義]]  [[源親義|親義]]      ┣━━━┓       ┣━━━┓                               ┣━━━┓     [[佐竹昌義|昌義]]  [[山本義定|義定]]      [[源清光|清光]]  [[方原師光|師光]]                              [[平賀有義|有義]]  [[平賀義信|義信]]      ┃   ┣━━━┓   ┣━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓   ┏━━━╋━━━┓     [[佐竹隆義|隆義]]  [[山本義経|義経]]  [[柏木義兼|義兼]]  [[逸見光長|光長]]  [[武田信義|信義]]      [[加賀美遠光|遠光]]              [[安田義定|義定]]  [[浅利義遠|義遠]]  [[大内惟義|惟義]]  [[平賀朝雅|朝雅]]  [[小早川景平|景平]]      ┃   ┃   ┏━━━┳━━━╋━━━┓   ┣━━━┳━━━┳━━━┓   ┃       ┃     [[佐竹秀義|秀義]]  [[箕浦義明|義明]]  [[一条忠頼|忠頼]]  [[板垣兼信|兼信]]  [[武田有義|有義]]  [[武田信光|信光]]  [[秋山光朝|光朝]]  [[小笠原長清|長清]]  [[南部光行|光行]]  [[大弐局 (加賀美氏)|大弐局]]  [[安田義資|義資]]      [[大内惟信|惟信]]  〈清和源氏・河内源氏義国流〉     [[源義国|義国]]      ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓     [[源義重|義重]]                          [[源義康|義康]]  [[源季邦|季邦]]      ┣━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   ┣━━━┳━━━┓     [[山名義範|義範]]  [[里見義俊|義俊]]      [[新田義兼|義兼]]  [[得川義季|義季]]  [[額戸経義|経義]]  [[祥寿姫]]  [[源義清 (矢田判官代)|義清]]  [[足利義長|義長]]  [[足利義兼|義兼]]      ┃   ┣━━━┓   ┃               ┃   ┏━━━╋━━━┓     [[山名義節|義節]]  [[里見義成|義成]]  [[田中義清|義清]]  [[新田義房|義房]]              [[広沢義実|義実]]  [[足利義純|義純]]  [[桃井義助|義助]]  [[足利義氏 (足利家3代目当主)|義氏]]  〈清和源氏・河内源氏義時流・義隆流〉     [[源義家|義家]]      ┣━━━━━━━━━━━━━┓     [[源義時|義時]]            [[源義隆|義隆]]      ┣━━━┳━━━┓     ┣━━━┓     [[源義基|義基]]  [[源義資|義資]]  [[源義広 (紺戸氏祖)|義広]]    [[源義広 (毛利治部丞)|義広]]  [[源頼隆|頼隆]]      ┃                 ┣━━━┓     [[源義兼|義兼]]                [[若槻頼胤|頼胤]]  [[森頼定|頼定]]  〈清和源氏・河内源氏義賢流〉     [[源義賢|義賢]]      ┣━━━┳━━━┓     [[源仲家|仲家]]  [[源義仲|義仲]]  [[宮菊姫]]      ┃   ┃     [[源仲光|仲光]]  [[源義高 (清水冠者)|義高]] </div> </div> === 陽成源氏 === 57代[[陽成天皇]]の子孫。元慶御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。 清和源氏の祖とされる[[源経基]]は陽成天皇の孫とする説があり、この説に賛意を示す学者もいるが、広く学界の承認するまでには至っていない(「[[貞純親王]]」を参照)。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">陽成源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(陽成源氏)〉[vol.1 元良親王]     [[陽成天皇]](貞明親王)       ┃     [[元良親王]]       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[佐材王]]   [[佐時王]]   [[佐頼王]]   [[佐兼王]]  [[源佐藝|佐藝]]  [[源佐平|佐平]]  [[源佐親|佐親]]  〈源氏(陽成源氏)〉[vol.2 元平親王~源清鑑]     [[陽成天皇]](貞明親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┓     [[元平親王]]  [[元長親王]]  [[元利親王]]  [[源清遠|清遠]]  [[源清蔭|清蔭]]  [[源清鑑|清鑑]]       ┃     ┃     ┃      [[源兼名|兼名]]    [[源兼明 (陽成源氏)|兼明]]    [[源忠時|忠時]] </div> </div> === 光孝源氏 === 58代[[光孝天皇]]の子孫{{Sfn|太田|1934|p=2233}}。仁和御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。光孝天皇は藤原基経の後援を受けて即位した際、[[斎王]]として内親王宣下されていた皇女を除く全ての子女に源氏を賜姓した{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。このうち源定省とその子源維城は皇族に復帰し、宇多天皇・醍醐天皇として即位している{{sfn|中村みどり|2015|p=61}}。 第一皇子である[[是忠親王]]の曾孫・[[康尚]]は[[仏師]]となり、この系統から仏工の各流派を輩出した。([[七条仏所]]) <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">光孝源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。光孝平氏は除く。  〈源氏(光孝源氏)〉[vol.1 是忠親王]     [[光孝天皇]](時康親王)       ┃     [[是忠親王]]       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[式順王]]   [[式瞻王]]   [[興我王]]   [[忠望王]]   [[今扶王]]   [[英我王]]   [[源清平|清平]]  [[源正明|正明]]   [[源和|和]]   [[源宗于|宗于]]       ┃                             ┃        [[源室明|室明]]                            [[源康行|康行]]                                     ┃                                    [[康尚]]                                     ┃                                      [[定朝]]                                     ┃                                    [[覚助 (仏師)|覚助]]                                     ┃                                    [[頼助]]                                     ┃                                    [[康助]]                                 ┏━━━┫                                [[康朝]]  [[康慶]]                                 ┃   ┃                                [[成朝]]  [[運慶]]                 ┏━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┫                 [[湛慶]]  [[康運]]  [[康弁]]  [[康勝]]  [[運賀]]  [[運助]]  〈源氏(光孝源氏)〉[vol.2 是貞親王~源音恒]     [[光孝天皇]](時康親王)       ┣━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓     [[是貞親王]]  [[宇多天皇|定省親王]]  [[源元長|元長]]  [[源近善|近善]]  [[源兼善|兼善]]  [[源名実|名実]]  [[源旧鑑|旧鑑]]  [[源篤行|篤行]]  [[源最善|最善]]  [[源音恒|音恒]]       ┃          ┏━━━┫      [[源直幹|直幹]]         [[源師尚|師尚]]  [[源宗海|宗海]]              ┏━━━┳━━━┫             [[源清邦|清邦]]  [[源清延|清延]]  [[源清敏|清敏]]  〈源氏(光孝源氏)〉[vol.3 源是恒~源友貞]     [[光孝天皇]](時康親王)       ┣━━━┳━━━┳━━━┯━━━┳━━━┳━━━┓      [[源是恒|是恒]]  [[源貞恒|貞恒]]  [[源成蔭|成蔭]]  [[源是茂|是茂]]  [[源国紀|国紀]]  [[源香泉|香泉]]  [[源友貞|友貞]]       │    ┃   ┏━━━┫   ┃      [[源衆望|衆望]]  [[源仲宣|仲宣]]  [[源師世|師世]]  [[源師之|師之]]  [[源公忠|公忠]]                   ┏━━━┫                  [[源信明|信明]]  [[源信孝|信孝]]                   ┃   ┃                  [[源方国|方国]]  [[源兼澄|兼澄]]                   ┃                  [[源道済|道済]] </div> </div> === 宇多源氏 === 59代[[宇多天皇]]の子孫。寛平御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。 第八皇子である[[敦実親王]]の子、[[源雅信]]・[[源重信]]兄弟はいずれも左大臣となった。源重信の子孫は[[12世紀|十二世紀]]初めまで[[公卿]]を輩出した。源雅信の子孫からも多くの公卿を輩出し、鎌倉時代以降、[[庭田家]]、[[綾小路家]]等に分かれ、明治維新に至るまで堂上家としての地位を保ち、栄えた。 堂上公家:[[庭田家]]([[羽林家]])、[[綾小路家]](羽林家)、[[五辻家]](半家)、[[大原家]](羽林家)、[[慈光寺家]](半家) 氏族:[[佐々木氏]]、[[出雲源氏]]など諸氏 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">宇多源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(宇多源氏)〉[vol.1 敦仁親王~載明親王]     [[宇多天皇]](定省親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[醍醐天皇|敦仁親王]]  [[斉中親王]]  [[斉世親王]]  [[敦慶親王]]  [[敦固親王]]  [[斉邦親王]]  [[載明親王]]               ┏━━━┫   ┏━┻━┓   ┣━━━┓              [[源英明|英明]]  [[源庶明|庶明]]  [[源後古|後古]]  [[源方古|方古]]  [[源宗室|宗室]]  [[源宗城|宗城]]  〈源氏(宇多源氏)〉[vol.2 敦実親王~行明親王]     [[宇多天皇]](定省親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┓     [[敦実親王]]  [[行中親王]]  [[行明親王]]       ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[源雅信|雅信]]                      [[源重信|重信]]  [[源寛信|寛信]]  [[寛朝]]  [[雅慶]]       ┣━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   ┣━━━┓      [[源時中|時中]]      [[源扶義|扶義]]  [[源時方|時方]]  [[済信]]  [[源時通|時通]]  [[源致方|致方]]  [[源道方|道方]]       ┣━━━┓   ┣━━━┓       ┃   ┃      [[源済政|済政]]  [[源朝任|朝任]]  [[源経頼|経頼]]  [[源成頼|成頼]]      [[源雅通 (宇多源氏)|雅通]]  [[源経信|経信]]       ┃                       ┃      [[源資通|資通]]                      [[源俊頼|俊頼]]       ┃                       ┃      [[源政長|政長]]                      [[俊恵]]       ┃      [[源有賢|有賢]]       ┃      [[源資賢|資賢]]       ┣━━━┓      [[源通家|通家]]  [[源時賢|時賢]]       ┃   ┣━━━┓      [[源雅賢|雅賢]]  [[源有資|有資]]  [[源資信|資信]]       ┃   ┣━━━┓      [[源有雅|有雅]]  [[源経資|経資]]  [[源信有|信有]] </div> </div> === 醍醐源氏 === 60代[[醍醐天皇]]の子孫。延喜御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。詳細は「[[醍醐源氏]]」を参照。 第十皇子の[[源高明]]は左大臣となったが後に[[安和の変]]にて失脚した。高明の異母兄弟である[[兼明親王|源兼明]]も左大臣に昇ったが後に親王に復帰させられることで政治の中枢から追われた。高明の三男[[源俊賢]]は[[大納言|権大納言]]、四男[[源経房]]は[[中納言|権中納言]]に昇り、俊賢の子孫からも[[源隆国]](俊賢二男、権大納言)や[[源俊明]](隆国三男、大納言)をはじめ多くの公卿を輩出し、[[院政|院政期]]まで栄えた。 第一皇子・[[克明親王]]の子には管弦の名手として有名な[[源博雅]]がいる。 氏族:[[岡本氏]]、[[河尻氏]] <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">醍醐源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(醍醐源氏)〉[vol.1 克明親王~重明親王]     [[醍醐天皇]](敦仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━┓     [[克明親王]]  [[保明親王]]       [[代明親王]]         [[重明親王]]       ┃     ┣━━━━━┓    ┣━━━┳━━━┓    ┣━━━┳━━━┳━━━━━┓      [[源博雅|博雅]]    [[慶頼王]]   [[煕子女王]]  [[源重光|重光]]  [[源保光|保光]]  [[源延光|延光]]   [[源邦正|邦正]]  [[源行正|行正]]  [[源信正|信正]]   [[徽子女王]]  〈源氏(醍醐源氏)〉[vol.2 常明親王~持明親王]     [[醍醐天皇]](敦仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[常明親王]]  [[式明親王]]  [[有明親王]]  [[持明親王]]                   ┣━━━┓                  [[源忠清|忠清]]  [[源泰清|泰清]]  〈源氏(醍醐源氏)〉[vol.3 長明親王~兼明親王]     [[醍醐天皇]](敦仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[長明親王]]  [[雅明親王]]  [[朱雀天皇|寛明親王]]  [[行明親王]]  [[章明親王]]  [[村上天皇|成明親王]]  [[盛明親王]]  [[兼明親王]]                                     ┏━━━━━┫     ┃                                    [[斯忠王]]    [[源則忠|則忠]]    [[源伊陟|伊陟]]  〈源氏(醍醐源氏)〉[vol.4 源高明~源為明]     [[醍醐天皇]](敦仁親王)       ┣━━━┳━━━┳━━━┓      [[源高明|高明]]  [[源自明|自明]]  [[源允明|允明]]  [[源為明|為明]]       ┣━━━┳━━━┳━━━┓      [[源忠賢|忠賢]]  [[源惟賢|惟賢]]  [[源俊賢|俊賢]]  [[源経房|経房]]       ┣━━━┓   ┣━━━━━━━┳━━━━━┓      [[源守隆|守隆]]  [[源致公|致公]]  [[源顕基|顕基]]      [[源隆国|隆国]]  [[成尋阿闍梨母]]       ┃       ┃       ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[源長季|長季]]      [[源資綱|資綱]]      [[源隆俊|隆俊]]  [[源隆綱 (醍醐源氏)|隆綱]]  [[源俊明|俊明]]  [[源国俊|国俊]]  [[覚猷]]       ┃       ┣━━━┓   ┃       ┠━━━┐      [[源盛長|盛長]]      [[源家賢|家賢]]  [[源道良|道良]]  [[源俊実|俊実]]      [[源能俊|能俊]]  [[源国明|国明]]       ┃                       ┃      [[源盛経 (醍醐源氏)|盛経]]                      [[源俊雅|俊雅]]  〈源氏(醍醐源氏)〉[vol.5 勤子内親王~康子内親王](女子は史料が少ないためこれまでとする)     [[醍醐天皇]](敦仁親王)       ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓     [[勤子内親王]]   [[雅子内親王]]   [[康子内親王]] </div> </div> === 村上源氏 === 62代[[村上天皇]]の子孫。天暦御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。詳細は「[[村上源氏]]」を参照。 第七皇子の[[具平親王]]の子で[[藤原頼通]]の[[猶子]]となった[[右大臣]]・[[源師房]]の子孫は多数の公卿を輩出し、栄えた。師房の子、[[源俊房]]・[[源顕房]]の兄弟はそれぞれ[[左大臣]]・[[右大臣]]に昇った。俊房流も院政期までは公卿を出したが、以後は没落した。顕房の嫡男の[[源雅実]]は源氏で初の[[太政大臣]]となり、その子孫は数多くの大臣を輩出して[[村上源氏]]の[[嫡流]]となり、殊に[[平安時代]]末期の[[源通親]]は著名である。[[室町時代]]に[[足利将軍家]]に奪われるまで[[源氏長者]]は村上源氏が独占した。雅実流からは[[清華家]]の一つである[[久我家]]をはじめ多数の[[堂上家]]が分立し、[[明治維新]]に至るまで堂上公家としての地位を保った。 堂上公家:[[久我家]](清華家)、[[中院家]]([[大臣家]])、[[六条家]](羽林家)、[[岩倉家]](羽林家)、[[千種家]](羽林家)、[[久世家]](羽林家)、[[東久世家]](羽林家)、[[梅渓家]](羽林家)、[[愛宕家]](羽林家)、[[植松家]](羽林家) 氏族:[[北畠家|北畠氏]]など <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">村上源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(村上源氏)〉[vol.1 広平親王~昌平親王]     [[村上天皇]](成明親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[広平親王]]  [[冷泉天皇|憲平親王]]  [[致平親王]]  [[為平親王]]       ┏━━━━━┫   ┏━━━┳━━━╋━━━┓     [[花山天皇|師貞親王]]  [[三条天皇|居貞親王]] [[源憲定|憲定]]  [[源頼定|頼定]]  [[源為定|為定]]  [[源顕定|顕定]]  〈源氏(村上源氏)〉[vol.2 守平親王~昌平親王]     [[村上天皇]](成明親王)       ┣━━━━━┓     [[円融天皇|守平親王]]  [[昌平親王]]       ┃     [[一条天皇|懐仁親王]]       ┣━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━━━┓     [[敦康親王]]  [[後一条天皇|敦成親王]]        [[後朱雀天皇|敦良親王]]  [[脩子内親王]]       ┃     ┣━━━━━┓     ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[藤原嫄子|嫄子女王]]  [[章子内親王]] [[馨子内親王]]  [[後冷泉天皇|親仁親王]]  [[後三条天皇|尊仁親王]]  [[良子内親王]] [[娟子内親王]]  〈源氏(村上源氏)〉[vol.3 具平親王~永平親王]     [[村上天皇]](成明親王)       ┣━━━━━┓     [[具平親王]]  [[永平親王]]       ┣━━━┓      [[源師房|師房]]  [[源隆姫|隆姫]]       ┣━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[源俊房|俊房]]  [[源顕房|顕房]]        [[仁覚]]              [[源師忠|師忠]]  [[源妧子|妧子]]  [[源澄子|澄子]]  [[源麗子|麗子]]       ┣━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   ┣━━━┓      [[源師頼|師頼]]            [[源師時|師時]]  [[源師俊|師俊]]  [[勝覚]]  [[仁寛]]  [[源師隆|師隆]]  [[寛遍]]       ┣━━━┓         ┃               ┃      [[源師教|師教]]  [[源師光 (村上源氏)|師光]]        [[源師仲|師仲]]              [[源俊隆|俊隆]]       ┏━━━┻━━┓      ┃               ┃      [[源具親|具親]]   [[後鳥羽院宮内卿]]   [[源雅仲|雅仲]]            [[皇嘉門院別当]]  〈村上源氏顕房流〉      [[源顕房|顕房]]       ┣━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      [[源雅実|雅実]]            [[源顕仲|顕仲]]   [[源雅俊|雅俊]]          [[源国信|国信]]  [[源信雅|信雅]]  [[源顕雅|顕雅]]  [[源雅兼|雅兼]]  [[定海]]  [[藤原賢子|賢子]]  [[源師子|師子]]       ┣━━━━━━━┓     ┃    ┣━━━┳━━━┓   ┃   ┃       ┣━━━┓      [[源顕通|顕通]]      [[源雅定|雅定]]  [[待賢門院堀河]] [[源憲俊|憲俊]]  [[元海]]  [[寛雅]]  [[源信時|信時]]  [[源成雅|成雅]]      [[源雅綱|雅綱]]  [[源定房|定房]]       ┣━━━┓   ┣━━━┓      ┃       ┃   ┃           ┃      [[源雅通|雅通]]  [[明雲]]  [[源雅通|雅通]]  [[源定房|定房]]     [[公胤]]      [[俊寛]]  [[源顕信|顕信]]          [[源宗雅|宗雅]]               ┃                                  ┃              [[源通親|通親]]                                 [[源顕兼|顕兼]]       ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━┓      [[源通宗|通宗]]  [[堀川通具|通具]]  [[久我通光|通光]]  [[土御門定通|定通]]  [[中院通方|通方]]  [[道元]] </div> </div> === 冷泉源氏 === 63代[[冷泉天皇]]の子孫。安和御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。 [[二十一流|源氏二十一流]]に含まれるが尊卑分脈には冷泉源氏の人物は記載されていない。冷泉天皇の子である[[花山天皇]]の第六皇子・[[清仁親王]]は冷泉天皇の養子となり、男子延信王が賜姓されて成立したが、その子[[康資王]]は王氏に復して以降は花山天皇の裔としての扱いを受けた{{sfn|赤坂恒明|2015|p=259}}。 === 花山源氏 === 65代[[花山天皇]]の子孫。寛和御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。 堂上公家:[[白川伯王家]](半家) - [[神祇官|神祇伯]]を世襲して[[神道]]を統括。[[1961年]]絶家。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">花山源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(花山源氏)〉     [[花山天皇]](師貞親王)       ┣━━━━━┳━━━━┳━━━┓     [[清仁親王]]  [[昭登親王]]  [[深観]]  [[覚源]]       ┃      [[延信王]]       ┃      [[康資王]]       ┃      [[顕康王]]       ┃      [[顕広王]]       ┣━━━━━┳━━━━━┓      [[顕綱王]]   [[仲資王]]   [[顕経王]]       ┃     ┣━━━━━┳━━━━━┓      [[顕職王]]   [[資家王]]   [[業資王]]   [[業清王]]                   ┃                  [[資光王]]                   ┃                  [[資邦王]]                   ┃                  [[業顕王]]                   ┃                  [[資清王]]                   ┃                  [[資英王]]                   ┃                  [[顕邦王]] </div> </div> === 三条源氏 === 67代[[三条天皇]]の第一皇子・[[敦明親王]]の子孫。長和御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。敦明の第1王子[[敦貞親王]]の子[[源宗家|宗家]]の系統、第4王子[[源基平|基平]]の系統と、[[源信宗|信宗]]・[[源顕宗|顕宗]]・[[源当宗|当宗]]の系統がある{{sfn|倉本一宏|2019|p=121-123}}。 敦貞親王の孫[[源通季]]は一旦源氏姓を受けたが、[[王氏 (日本)|王氏]]に復した後は世襲の王家となり、[[正親司|正親正]]を世襲した{{sfn|倉本一宏|2019|p=123}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">三条源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(三条源氏)〉     [[三条天皇]](居貞親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[敦明親王]]  [[敦儀親王]]  [[敦平親王]]  [[師明親王]]       ┣━━━━━┳━━━━━┓     [[敦貞親王]]   [[源基平|基平]]   [[敦賢親王]]       ┃     ┣━━━┳━━━┓      [[寛意]]    [[源行宗|行宗]]  [[行尊]]  [[源基子|基子]] </div> </div> === 後三条源氏 === 71代[[後三条天皇]]の子孫。延久御後{{sfn|赤坂恒明|2015|p=267}}。後三条の第三皇子・[[輔仁親王]]の子である[[源有仁]]が[[元永]]2年([[1129年]])に賜姓された{{sfn|倉本一宏|2019|p=201-202}}。有仁は左大臣まで登ったが、子女はなく、家は断絶した。『[[源平盛衰記]]』では、[[源頼朝]]の家臣で[[平家物語]]にも登場する[[田代信綱]]が有仁の孫としているが信憑性は低い{{sfn|倉本一宏|2019|p=202-203}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">後三条源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(後三条源氏)〉(有仁王が白河上皇の養子となりその後臣籍降下し、発生。)     [[後三条天皇]](尊仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┓     [[白河天皇|貞仁親王]]  [[実仁親王 (平安時代)|実仁親王]]  [[輔仁親王]]                   ┃                  [[源有仁|有仁]]  〈源氏(後三条源氏)〉[vol.2 貞仁親王]     [[白河天皇|貞仁親王]]       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┯━━━┓     [[敦文親王]]  [[覚行法親王]]  [[堀河天皇|善仁親王]]  [[覚法法親王]] [[聖恵法親王]]   [[源有仁|有仁]]  [[行慶]]       ┏━━━━━┳━━━━━┫     [[鳥羽天皇|宗仁親王]]  [[最雲法親王]]   [[寛暁]] </div> </div> === 後白河源氏 === 77代[[後白河天皇]]の第二皇子・[[以仁王]]。以仁王は[[親王宣下]]がなされず、ついに[[治承]]4年([[1180年]])、最勝親王を名乗り[[安徳天皇]]と[[平氏政権]]の排除を唱えて[[源頼政]]とともに挙兵した。その際、後白河院から皇籍を剥奪されて名を「源以光」と改められ、土佐国への[[流罪]]の沙汰が下った。しかし追討軍に討たれ、敗死した([[以仁王の挙兵]]){{sfn|倉本一宏|2019|p=205-206}}。 === 順徳源氏 === 84代[[順徳天皇]]の第五皇子・[[忠成王]]の子孫と、第六皇子・[[善統親王]]の子孫が該当する。 忠成王の子、[[源彦仁|彦仁]]子孫は[[永仁]]2年([[1294年]])に源氏姓を受けた{{sfn|倉本一宏|2019|p=207}}。子の[[源忠房|忠房]]は権中納言、孫の[[源彦良|彦良]]は参議に昇っている{{sfn|倉本一宏|2019|p=207}}。 善統親王の子孫は[[四辻宮]]を称していたが、善統親王の孫[[四辻善成|善成]]は[[文和]]5年([[1356年]])に源氏姓を受け、四辻を家名とした{{sfn|倉本一宏|2019|p=208}}。血縁がある[[足利義満]]の応援も受けて左大臣に昇ったが、ただ一人の男子も出家し、以後は途絶えている{{sfn|倉本一宏|2019|p=208}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">順徳源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(順徳源氏)〉     [[順徳天皇]](守成親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[仲恭天皇]]   [[岩倉宮忠成王|忠成王]]   [[彦成王]]   [[善統親王]]  [[尊覚法親王]] [[覚恵法親王]]       ┏━━━━━┫      [[彦豊王]]    [[源彦仁|彦仁]]       ┏━━━━━┫      [[忠房親王|忠房]]   [[承鎮法親王]]       ┃      [[源彦良|彦良]] </div> </div> === 後嵯峨源氏 === 88代[[後嵯峨天皇]]の子孫。 文永3年([[1266年]])、後嵯峨天皇の第二皇子・[[宗尊親王]]が第6代鎌倉将軍を退いた後、その[[長男]]で7代将軍に就任した惟康王に対し、[[源姓]]が賜与されて「源惟康」となった{{sfn|倉本一宏|2019|p=208-209}}。しかし弘安10年([[1287年]])、鎌倉幕府が惟康を京へ追放し、代わりに[[久明親王]]を将軍に迎えるため、その下準備として幕府の要請により朝廷より惟康に対して[[親王宣下]]がなされ、惟康は皇族に復帰した{{sfn|倉本一宏|2019|p=208-209}}。また宗尊親王の孫にあたる[[源宗治|宗治]]は[[後醍醐天皇]]の猶子となって源姓を賜与されている<ref>{{kotobank|源宗治|デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}</ref>。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">後嵯峨源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(後嵯峨源氏)〉     [[後嵯峨天皇]](邦仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓     [[宗尊親王]]  [[後深草天皇|久仁親王]]  [[恒尊親王]]  [[亀山天皇|恒仁親王]]  [[雅尊親王]]  [[貞良親王]]       ┃      [[惟康親王|惟康]]       ┃      [[仁澄]] </div> </div> === 後深草源氏 === 89代[[後深草天皇]]の皇子で、[[鎌倉幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]]となった[[久明親王]]の子孫。 久明親王の子[[守邦親王]](9代将軍)・[[久良親王]]が源姓を賜与されたとされる{{efn|守邦親王は『[[尊卑分脈]]』、久明親王は『[[本朝皇胤紹運録]]』に源姓を賜与されたとの記載がある。}}が、信憑性は低い{{sfn|倉本一宏|2019|p=209-210}}。また、久良親王の子[[源宗明|宗明]]は暦応元年([[1338年]])に源氏姓を受け、[[大納言|権大納言]]に昇った{{sfn|倉本一宏|2019|p=209-210}}。 <div class="NavFrame" style="width:100%;"> <div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">後深草源氏 系図</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> ; 太線は実子。細線は養子(苗字無しは臣下に下った源氏・一部苗字無しは僧)。  〈源氏(後深草源氏)〉     [[後深草天皇]](久仁親王)       ┣━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━┓      [[幸仁親王]]  [[伏見天皇|熈仁親王]]   [[性仁法親王]]  [[深性法親王]]  [[行覚法親王]]  [[久明親王]]                           ┏━━━━━┳━━━━━━┫                          [[守邦親王]]  [[久良親王]]    [[聖恵]]                             ┏━━━┫                             [[源宗明|宗明]]  [[源宗久|宗久]] </div> </div> === 後醍醐源氏 === 96代[[後醍醐天皇]]の子孫。[[至徳 (日本)|至徳]]3年([[1386年]])に[[宗良親王]]の子、[[尹良親王]]が源氏姓を受けたとされる。しかし『浪合記』『信濃宮伝』といった軍記物にあるのみで、尹良親王の実在性を含めて信憑性は低い{{sfn|倉本一宏|2019|p=210-211}}。 === 正親町源氏 === 106代[[正親町天皇]]の子孫。正親町天皇の孫[[八条宮智仁親王]]の子である[[広幡忠幸|忠幸王]]は、[[尾張藩]]主[[徳川義直]]の猶子となって尾張国に向かったが、その後京都に復帰することを願い出た。[[寛文]]3年([[1663年]])に源氏姓を受けた{{sfn|倉本一宏|2019|p=212}}。清華家の家格をもつ[[広幡家]]の始まりであり、忠幸のあとは久我家からの養子が継いだ{{sfn|倉本一宏|2019|p=212}}。 == 人物 == {{main2|著名な源姓の人物|源氏の人物一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|author-link=太田亮|date=1923|title=系図綱要|publisher=磯部甲陽堂|url={{NDLDC|971961/59}} 国立国会図書館デジタルコレクション|id={{全国書誌番号|43038985}}|ref=harv}} * {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|others=[[上田萬年]]、[[三上参次]]監修|chapter=|pages=|volume=第2|date=1934|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1130938}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=harv}} * {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|last=太田|first=亮|others=上田萬年、三上参次監修|volume=第3|date=1936-12-10|title=姓氏家系大辞典|publisher=姓氏家系大辞典刊行会|id={{全国書誌番号|47004572}}|url={{NDLDC|1131019/240}} 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=harv}} * 『新訂増補[[国史大系]]・[[尊卑分脉]] 第1篇』[[吉川弘文館]] [[黒板勝美]]、国史大系編修会(編)ISBN 4642003622 * 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003630 * 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003649 * 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003657 * 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003568 * 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003576 * 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003584 * 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003592 * 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003606 * 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137 * 『日本大百科全書 8』[[小学館]] ISBN 4095261080 * {{オープンアクセス}}{{Citation|和書|editor1-last=塙|editor1-first=保己一|editor1-link=塙保己一|editor2-last=川俣|editor2-first=馨一|contribution=本朝皇胤紹運録|date=1930-5-20|volume=第3|title=新校羣書類従|publisher=内外書籍|url={{NDLDC|1879733/234}} 国立国会図書館デジタルコレクション|id={{全国書誌番号|51008912}}|ref=harv}} *{{cite book|和書|author=倉本一宏|authorlink=倉本一宏|title=公家源氏 王権を支えた名族|publisher=中央公論新社|series=中公新書|date=2019|ref=harv}} *{{cite journal|和書|author=赤坂恒明|authorlink=赤坂恒明|title=冷泉源氏・花山王氏考 : 伯家成立前史|publisher=埼玉学園大学人間学部|journal=埼玉学園大学紀要|volume=15|date= 2015|url=http://id.nii.ac.jp/1354/00000176/|ref=harv}} *{{cite journal|和書|author=中村みどり|authorlink=中村みどり|title=一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓|publisher=京都女子大学|journal=京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編|volume=14|date= 2015|naid=120005620756|url=https://hdl.handle.net/11173/2089|ref=harv}} == 関連項目 == {{Wiktionary|源氏}} {{Commons|Category:Minamoto clan}} * [[源平交代思想]] * [[源氏長者]] * [[源氏物語]] * [[平氏]] {{DEFAULTSORT:みなもとうし}} [[Category:源氏|!]] [[Category:日本の氏族]] [[Category:氏]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
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大人
おとな(大人・乙名)とは、 一般に「子供(こども)」という表現と対比されている。 「大」と「人」という文字を組み合わせている。対比される状態は、基本的には「大人」は「子供」と表記するが、「小人」と表記することもある。 「大人」は基本的には成長した人、ということであるが、単に年齢や身体の状態だけに着目して言うのか、精神状態にも着目するのか、という違いによって「大人」の意味内容が異なることになる。 「大人らしい」「大人っぽい」と言うと、精神状態や「ものの見方」が大人になっている、という意味である。「子供くさい」や「子供っぽい」と対比的に用いられる。 かつて戦国時代の日本では、武士の子は12歳か13歳ころには元服し、「大人」としての覚悟・振る舞いが求められた。 現代日本では、(分野ごと、文脈ごとにいくつか考え方があるが)形式的には、例えば18歳や20歳などで線引きをして、その年齢以上の人を「大人」に分類することが行われている。 公共交通機関での扱いは、運賃については、中学校入学の4月以降を「大人」として扱い、それ以前の3月末までを「小人」として扱う。タクシーには小人運賃がないが、乗車人数上は「12歳未満」の小人3人を大人2人分と勘定する。 辞書の説明では、考え方や態度が十分に成熟していること、思慮分別があること、としている。別の表現では、目先のことだけに感情的に反応したり単細胞的に反応したりせず、長期的・大局的なことを見失わず理性的な判断ができる状態、とも言える。 また、「子供」というのが依存状態にあるのと対比して、自立的に行動できる状態とすることもある。また、「子供」というのは、自分のやったこと(やらかしたこと)の後始末も自分でできず親に「尻拭い」をしてもらう状態であるのに対して、「大人」は自身のやったことについてはしっかりと自分自身で後始末をするなど自分の行動に責任の持てる人のことを指す場合もある。「子供」は往々にして無軌道で、衝動的で、自分の行動を律することができないのに対して、「大人」は自分を律することができる人(自律できる人)、というニュアンスになることもある。 公共交通機関の運賃では中学入学(つまり13歳前後)で「大人」と「小人」を線引きすることは前述の通り。 アパレル・ファッション関係などでは、英語(カタカナ語)の「アダルト」を好んで使う。子供服に対して成人向け衣類を指す。成熟した雰囲気のデザインについても用いることがある。 「子供」と呼ぶには成長しているが、まだ大人になる手前の段階のことや、なりたての大人の状態のことなどを「青年」と言う。 最近の日本語では、子供と大人の中間的な段階の人を「ヤングアダルト」などともいう。 現代では、年齢を重ねても精神的な成長がともなわない人が増えてきていることがしばしば指摘されている。特に日本では、2000年代以降、いい年になった人達が、端から見ると幼稚で浅はかにも思える事件を起こし、メディアで報道されることも増えてきている。 年齢的には「大人」に分類されるような年齢になっているにもかかわらず、精神的には子供の状態にとどまったままの人を英語では「kidult キダルト」などと言う。 (やや通俗的な分析ではあるが)年齢的には大人でありながら精神的に子供同然にとどまっている状態をパーソナリティ障害のひとつとしてとらえ「ピーターパン症候群」として分析している人もいる。家庭が機能不全の環境で育った人がかかえる障害状態を「アダルトチルドレン」と言うが、日本では通俗的には「成年なのに大人になりきれない人」といったような意味でつかわれることがある。 イタリアやフランスなどヨーロッパの国では、(失業率のあまりの高さの悪影響で)20歳を超えても仕事に就くこともできず、自然の流れ(必然)として親と同居し生活費など経済的に親にすっかり依存したままになってしまい、その結果、精神的にも「親離れ」できない人が相当に増えていて、社会問題とされることがある。日本でも、パラサイト中年などの問題が存在する。 また、先述の「大人になれない大人」の増加の原因の一つとして、早い段階から「お節介」のレベルを越えて、親が子供の行動や思考にいちいち介入し、自発的な意思を摘むことで、子の考える力が育たず、結果としてその子の持つ可能性を奪っている場合がある(過干渉)。当然の話ではあるが、親は通常子よりも早く死亡するので、このようなことをずっとやっていると、やがて親が死亡した際、遺された子供が一人で生きてゆくことができなくなる可能性が出てくる。現代では、教育者としての親の資質も厳しく問われている。
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おとな(大人・乙名)とは、 十分に成長した人。成人。 考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること。 一般に「子供(こども)」という表現と対比されている。
{{Otheruses|成人の意味としての大人|その他}} '''大人'''(おとな、乙名<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/jn/32087/meaning/m0u/ デジタル大辞泉(おと‐な / 乙名)] 小学館 2017年11月16日閲覧</ref>)とは、 * 十分に成長した人<ref name="kohjien">広辞苑【大人】</ref>。[[成人]]。 * 考え方や態度が十分に成熟していること。[[思慮]][[分別]]があること<ref name="kohjien" />。 一般に「[[子供]](こども)」という表現と対比されている<ref group="注釈">「大人しい」の反対語の「ややこしい」は「ややこ(こども)」に由来する。</ref>。 == 概説 == 「大」と「人」という文字を組み合わせている。対比される状態は、基本的には「大人」は「子供」と表記するが、「小人」と表記することもある。 「大人」は基本的には成長した人、ということであるが、単に年齢や身体の状態だけに着目して言うのか、精神状態にも着目するのか、という違いによって「大人」の意味内容が異なることになる。 「大人らしい」「大人っぽい」と言うと、精神状態や「ものの見方」が大人になっている、という意味である。「子供くさい」や「子供っぽい」と対比的に用いられる。 === 年齢、身体 === かつて[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[日本]]では、[[武士]]の子は12歳か13歳ころには[[元服]]し、「大人」としての覚悟・振る舞いが求められた。 現代日本では、(分野ごと、文脈ごとにいくつか考え方があるが)形式的には、例えば18歳や[[年齢#20歳|20歳]]などで線引きをして、その年齢以上の人を「大人」に分類することが行われている。 [[公共交通機関]]での扱いは、[[運賃]]については、[[中学校]]入学の4月以降を「大人」として扱い、それ以前の3月末までを「小人」として扱う。[[タクシー]]には小人運賃がないが、[[定員|乗車人数]]上は「12歳未満」の小人3人を大人2人分と勘定する<ref>[https://www.rakurakutaxi.jp/customer/static/faq_answer02.html#2-1 子供の人数はどうなりますか?] - らくらくタクシー(更新日不明)2018年10月11日閲覧</ref>。 === 精神的な成熟 === [[辞書]]の説明では、[[思考|考え方]]や態度が十分に[[成熟]]していること、[[思慮]][[分別]]があること、としている。別の表現では、目先のことだけに[[感情]]的に反応したり単細胞的に[[反応]]したりせず、長期的・大局的なことを見失わず[[理性]]的な[[判断力|判断]]ができる状態、とも言える。 また、「子供」というのが依存状態にあるのと対比して、自立的に行動できる状態とすることもある。また、「子供」というのは、自分のやったこと(やらかしたこと)の後始末も自分でできず[[親]]に「尻拭い」をしてもらう状態であるのに対して、「大人」は自身のやったことについてはしっかりと自分自身で後始末をするなど自分の行動に[[責任]]の持てる人のことを指す場合もある。「子供」は往々にして無軌道で、[[衝動]]的で、自分の行動を律することができないのに対して、「大人」は自分を律することができる人(自律できる人)、というニュアンスになることもある。 <!--「{{要出典範囲|理性を優先するという点から、妥協や周囲への迎合、[[事なかれ主義]]などを、「大人の考え」「[[大人の都合]]」「[[大人の事情]]」「大人になれよ・・・。」などと揶揄して言う場合がある。|date=2014年8月}}」--> === 分野別 === 公共交通機関の運賃では中学[[入学]](つまり13歳前後)で「大人」と「小人」を線引きすることは前述の通り。 [[アパレル]]・[[ファッション]]関係などでは、[[英語]](カタカナ語)の「アダルト」を好んで使う。[[子供服]]に対して成人向け衣類を指す。成熟した雰囲気のデザインについても用いることがある。 <!-- 「アダルト」は18歳未満は禁じられた、主に[[成人向け]]の商品などの意味にも使われ、「[[アダルトビデオ]]」や「[[アダルトグッズショップ|アダルトショップ]]」などのように使われることが多い。 --> == 境界領域、境界の変化 == 「子供」と呼ぶには成長しているが、まだ大人になる手前の段階のことや、なりたての大人の状態のことなどを「[[青年]]」と言う。 最近の日本語では、子供と大人の中間的な段階の人を「[[ヤングアダルト]]」などともいう。 現代では、年齢を重ねても精神的な成長がともなわない人が増えてきていることがしばしば指摘されている。特に日本では、[[2000年代]]以降、いい年になった人達が、端から見ると幼稚で浅はかにも思える事件を起こし、メディアで報道されることも増えてきている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20141004-OYT1T50033.html 26歳、小学生のゲーム機盗む…取り返され暴行]読売新聞 2014年10月4日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20141003-OYT1T50086.html 園児らの声うるさくて?保護者を手おので脅す]読売新聞 2014年10月3日</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20140731-MYZD2GPW4FKWZOZF444YZWKEBM/ 水筒で園児を殴る 容疑の保育士逮捕 宮城]2014年7月31日 産経新聞</ref><ref>[http://www.sankei.com/affairs/news/140821/afr1408210019-n1.html 脳梗塞患者搬送中の救急車に自転車投げつけ妨害 無職男を逮捕 病院到着14分遅れ]産経新聞 2014年8月21日</ref>。 年齢的には「大人」に分類されるような年齢になっているにもかかわらず、精神的には子供の状態にとどまったままの人を英語では「[[:en:kidult|kidult]] キダルト」などと言う<ref>Oxford dictionary 「kidult」</ref>。 (やや通俗的な分析ではあるが)年齢的には大人でありながら精神的に子供同然にとどまっている状態をパーソナリティ障害のひとつとしてとらえ「[[ピーターパン症候群]]」として分析している人もいる。家庭が機能不全の環境で育った人がかかえる障害状態を「[[アダルトチルドレン]]」と言うが、日本では通俗的には「成年なのに大人になりきれない人」といったような意味でつかわれることがある。 イタリアやフランスなどヨーロッパの国では、(失業率のあまりの高さの悪影響で)20歳を超えても仕事に就くこともできず、自然の流れ(必然)として親と同居し生活費など経済的に親にすっかり依存したままになってしまい、その結果、精神的にも「親離れ」できない人が相当に増えていて、社会問題とされることがある。日本でも、[[パラサイト中年]]などの問題が存在する。 また、先述の「大人になれない大人」の増加の原因の一つとして、早い段階から「お節介」のレベルを越えて、親が子供の行動や思考にいちいち介入し、自発的な意思を摘むことで、子の考える力が育たず、結果としてその子の持つ可能性を奪っている場合がある([[過干渉]])。当然の話ではあるが、親は通常子よりも早く死亡するので、このようなことをずっとやっていると、やがて親が死亡した際、遺された子供が一人で生きてゆくことができなくなる可能性が出てくる。現代では、教育者としての親の資質も厳しく問われている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * {{Prefix}} * [[大人買い]] * [[成年]] * [[大きいお友達]] * [[30歳成人説]] - 現代の日本では30歳が本当の意味での大人になる節目、という仮説 * [[成人式]] * [[モラトリアム]] - 大人と子供の境界領域 {{ヒトの発達}} {{心理学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おとな}} [[Category:大人|*]] [[Category:熟字訓]] [[Category:生物学の概念]]
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AV女優
AV女優(エーブイじょゆう)は、アダルトビデオに出演する性行為専門の女優である。 非アダルト系メディア出演時にはセクシー女優と言い換えられることがある。 本項は日本のアダルトビデオ女優について記述するため、特記無き場合は日本における状況である。 AV女優はビデオカメラの前で演技を要求されることも多いが、映画やドラマの俳優などとは異なり、特別な演技訓練などを必要としない。ただし性的な表現をいかにこなすかについては大切なところであり、作品の出来にとって重要な要素である。 例えば1985年頃人気を博した黒木香はアサヒ芸能のインタビューの中で、「カメラの前で行っていることは、自身にとってはセックスではなくパフォーマンスである」と語ると同時に、「あくまで性表現なのであって、演技ではない」とも語っている。 性行為は原則としてコンドームを用いて行い、村西(2011)によれば、特記無き場合暗黙の了解として性行為は3回までとのことである。なお、かつて多く見られていた疑似本番については後述する。 AV女優はその性質上から、基本的に芸名が付与され、本名で活動する事例は極めて少ない。言い換えればほとんどが本名以外の別名を女優名(芸名)にして出演している。また、誕生日や出身地も架空あるいは事実と異なるものである場合が多い(後述も参照)。 一説によると、一年間で3,000人のAV女優がデビューすると言われており、また2011年時点では全体で延べ20万人にものぼると言われる。2022年5月にAV人権倫理機構・河合幹雄が示したデータでは1年間の実働女優数は2000人、その過半は半年以内に引退状態となっている。また2018年2月から2022年3月までに延べ551人の女優から、28199本の作品を配信停止などの措置依頼があったという。 21世紀突入以降の環境の変化として、 が挙げられる。 2000年代までは職業差別や世間的後ろめたさの意味もあり、親類から縁を切られるなどのケースもあったが、ライターのたかなし亜妖によれば、2022年時点では親公認の女優も多く、これは女優がかつてのより現役キャリアが伸び、熱意などを認めざるを得ない状況になるケースが多くなった結果だという。当然ケースバイケースであり、かつてのように修羅場のようになるケースもあるものの、キャリアの長い女優に関してはほぼ100%親公認だと筆致。また、「デビューで友人すべてを失う」のも過去の話であると記述している。 2020年以降はSNSなどの発達により、女性がAV女優を応援するというケースも増えており、AV女優に限らず「推しの決め方がジャンルレスになった」とモデルプレス・高須良太は分析している。 AV女優はおおよそ、人気のある順に「単体女優」・「企画単体女優」・「企画女優」に分類できる(詳しくは後述)。 2000年以降、アイドル的な売り方をしている女優が多くなり、18〜25歳くらいまでの単体女優や企画単体女優は、AVアイドル、アイドル女優と呼ばれることもある。さらに、タレント的な活動をしている女優の場合にはAVタレント、数年にわたって一定の知名度を得ている人気女優にはAVクイーンなどと呼ばれることもある。明確な定義はないが、30代以降は熟女と分類されるようになる。 一般メディアでは2000年前後からセクシー女優とぼかされて呼称されることが多くなり、2020年以降はコンプライアンス判断から艶系女優、性ビデオ女優とも記述される。 漫画家の峰なゆかは、セクシー女優という表現のほうが直接的で、AV=アダルトビデオのほうがむしろぼかした表現なのではないかと、この言い換えの矛盾を「不可解」と指摘している。 AV女優については様々な批判がなされるが、世界各国の比較的保守的な人間や、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教徒からは低俗だと批判されることがあり、中華人民共和国ではイベントを行ったAV女優に卵が投げつけられるような事件が発生した。 AV自体の流通が禁止されている国もある。敬虔なイスラム教徒が人口の大多数を占めるインドネシアでは、2000年頃から日本のAVが流通し始め、供給が追いつかないほどの人気であるが、その一方でイスラム教徒を中心に批判する声があり、2009年に首都ジャカルタにある映像制作会社が、日本のAV女優を映画の主役に起用しようとしたところ、デモ活動などの抗議行動が起こって計画が頓挫した。 AV女優の性行為は売春ではないかとの批判もあるが、売春法で問題になるのは提供された側から金銭を得ることであり、女優・男優共にメーカーから出演料をもらう形のAV撮影は売春には当たらないとされている。また出演料であるので、管理売春にも当たらないとされる。さらに弁護士・奥村徹は、不特定の相手との性交が売春と規定されているため、事前に相手の素性がわかっているAVでは該当しないと見解を明かしている。弁護士の小倉秀夫も「AV撮影の過程で本番をやっても通常これに含まれない」と指摘。2022年に成立したAV出演被害防止・救済法では「出演契約は、性行為映像制作物ごとに締結しなければならない」と契約における「不特定」性を排除している。 大半のAV女優はAV事務所(AVプロダクション)に所属しており、マネージメントされる立場にある。 AV女優は労働者派遣法の有害業務にあたることから、労働者ではなく個人事業主として扱われる。 一般的にAVメーカー(制作会社)からの出演依頼を取り付け、初めて撮影となり収入が得られる。 新人のAV女優は仕事を得るためにマネージャーと共にメーカー回りをして、ようやく仕事(収入)が得られる。 このメーカー回りのことを、AV業界用語では「面接回り」と言うが、一般的の「オーディション」と同義である。 つまりメーカーの存在無くしては存在しえない職業であり、この部分で労働者的な側面のある職業となっている。また、プロダクションはマネージメントだけでなく、撮影現場でのトラブルの解決も重要な仕事の一つである。 マネージメント料は高額で、村西(2011)は折半としているが、いのうえ(2002)では事務所7、女優3が多く、中には折半も見られるとしている。 中村(2012)は折半は良心的な方であり、60 - 70%はプロダクションに流れるとしている。プロダクションから独立して独自にAVメーカーと契約することも可能だが、適切な出演料を提示できなかったり叩かれてしまうなど困難が多い。ただし企画女優においては長期間、成功しているケースもみられる。桃宮ももは事務所の許可を得てフリーとして活動しており、「自分で営業して取った仕事のギャラは100対0で入るが、中々仕事がないのでバイトしている」と語っている。 門倉貴史による「風俗産業で働く女性の時給ランキング(2006年版)」によると、風俗産業の中でもAV女優の時間あたりの給料が最も高い。トップは「単体もの」のAV出演で時給3万1000円〜で、「単体もの」は1回のビデオ出演毎に80万円〜150万円程度のギャラを受け取ることが出来ると言う。 撮影現場で拘束される時間は2日程度になるから、時給に換算すると1万7000円〜3万1000円程度。ただし、AV業界には、「出れば出るだけ価値が下がる」と言う法則があると言われる。峰なゆか、小室友里も同様の指摘をしている。 「職業としてのAV女優」の著者・中村淳彦によると、志望者数の増加などで競争率が上がっており、供給は高い状態だが容姿の採用条件は厳しくなる。 一方で、学歴や教養、資格が不要で健康保険や厚生保険、労災保険がない個人契約のため、その待遇は悪化傾向であり、企画女優では複数回の本番を行う場合でも、プロダクションの取り分を引いた手取りが時給換算で2000円といった例も見られるようになった。 前述の峰によれば、一時期と比べAV1作品あたりの売上本数が減り、制作費と同様にAV女優の出演料も低下している。 また、進行形で出演料は下がり続けているという。 AV女優人口が増え、1人あたりの仕事量が減ったことも背景として挙げている。 中村(2012)によれば出演料は辛うじて横ばいであるものの、長引く不景気により作品のクオリティや内容の過激さが要求されるため、AV女優の仕事内容も以前より過酷となってきている。 年々悪化しており、バイトしながら続ける者や自主制作する者もいる。 個人事業主であることから、確定申告など税金周りは一部を除き各個人で行う。 事務所には必ず税理士がついており、事務所の紹介を通して申告するケースが多いので、有名女優になればなるほど納税を怠る率は著しく低い。 元AV女優の神野藍は確定申告は女優業として提出していたという。 東京都に所在地を置く製作会社「ミルキーキャットドットコム」の出演女優の募集案内文を見ると、1作品の撮影に対する報酬として8万円〜10万円現金を支払うと紹介している。 中村淳彦は著書の中で、以下のように言説している。かつては社会の底辺と言った扱いで、女性にとって最後の手段とも取られていたこのAV女優と言う職業は、近年そのネガティブイメージは薄まってきており、業界も近年は法的に健全化してきている。また、それに伴いAV女優志願者も増え、AV女優の質は概して向上してきている。 それに伴い競争率も高くなり、かつてままみられた精神疾患・人格障害、あるいは幼少期の(性的)虐待経験などを持つAV女優を起用する例は少なくなってきているという。ただし、自身および家族の生活費、学資等を稼ぐためにAV女優となる者は存在する。競争過多から、その裏稼ぎは、単体女優でも、マスク、パーツ、美形など選ばれた一部の者に限られている。ほとんどの者は不採用になるため、普通のバイトで学費などを稼ぐ。 プロダクションはかつてに比べれば健全化し、ギャラなどもある程度は明らかにされるようになってきているが、しかし学歴や教養を求められることはなく、また法的知識も求められることもないため、それを逆手にとってギャラの持ち逃げや、AV女優に偽って劣悪な撮影現場に送り出すなどといった例もある。また、過度のSMプレイにより刑事事件となった事案(バッキー事件)もある。 AV女優になる理由は様々であるが、AV人権倫理機構が行なった2021年のアンケートデータによれば68.4%が自分から応募。スカウトが8.4%。関係者に知り合いがいた、知人に勧められたなどが8.4%なっている。 アダルトビデオに出演契約を意に反して結ばれ、拒否したとされる女性が、契約違反の違約金として2460万円請求された訴訟の判決が2015年9月に確定した。東京地裁によると女性は高校生の時、タレントとしてスカウトされ「営業委託契約」を原告の会社と結んだ。しかし、意に反して露出度の高いグラビア撮影をされ、20歳の時会社が無断でAV出演を決定。出演後、さらに出演契約を結ばされた。それによる精神的なショックもあって女性の体調が悪化。AVの出演を拒否したところ「違約金が1千万円かかる」と言われた。契約解除を会社に告知したところ本件訴訟が提起された。 被告の担当弁護士は「高額の違約金で脅され、AV出演を強要される事例は多い。重大な人権侵害だ」と述べている。また判決で裁判官は「(AV女優は)本人の意に反して強要できない性質の仕事だ」として原告の請求を棄却した。 これらの事件を踏まえ、日本では2017年にAV人権倫理機構が設立された。 AV女優という職業名からしてAV出演が本業となる業種であるが、表立ってヌードを生業とする職種が少ないことから、黎明期よりアダルトモデル、ヌードモデルとしても活動する人物が多い。1990年代前半に起こったヘアヌードブームの中心こそ一般女優やアイドルタレントであったものの、当時から桜樹ルイ、憂木瞳などが写真集を出版していた。しかしインターネットでいくらでもヌード画像が見られるようになると、AV女優の写真集は姿を消していった。しかし2015年には年間37冊、2022年は93冊と、AV女優がモデルを務めるヌード写真集は徐々に増加傾向にある。 ジーオーティーの編集者・滑川博士は売り上げが計算できる、AV女優やプロダクションにとってもモチベーションが高まるステータスとなっていることなどを理由に挙げている。また、2010年ごろからAV女優がモデルを務めるヌードデッサン用の「ヌードポーズブック」も各社から発売されている。 日本のAV女優のアジア圏での人気の高さから、昨今では海外向けにも少しずつではあるが製作されており、一般書籍や漫画と比べ翻訳コストがほとんどないのがメリットと指摘している。 AV女優はその職業の性質上、おおよそ若く、性交経験が少ない、濡れやすい人が商品価値が高い。このため将来の保証は少ない職業であり、その職業としての寿命は一般的にはあまり長くない。またAV女優の職業意識に疑問が呈される向きもある。 人気が落ちると、契約更新が行われなくなるか、出演依頼が来なくなり引退となるが、そういったケースでなくとも、契約更改時の待遇悪化(あるいは企画落ち)・身内にばれたり・目標としていた貯金額の達成・撮影が過激になりすぎた、などを理由に引退を選ぶケースも見られる。デビューするときはデビュー作が用意されている女優は多いが、引退作があるのは一部の人気女優だけであり、ほとんどは何の告知もなく姿を消している。 専属女優は引退作を撮り終え発売の5カ月ほど前に、それ以外は情報解禁となる2カ月ほど前に引退を発表することが多い。名前を変えて再デビューする事も多々ある。 一方で、AV業界黎明期には一般的なものではなかったインターネットの普及や匿名掲示板の登場と共に、AV女優としての活動が家族や知人に露見するいわゆる「身内バレ」や、インターネット上で本名・実際の生年月日・居住地・通学先・勤務先などといった個人情報やプライバシーが晒され露見したことなどをきっかけに、AV女優が契約期間内であっても活動停止したり、引退に追い込まれるケースが多く見られるようになった。現役大学生がデビュー作の発売直前に通学先を暴露されて発売中止となった事例もある。このようなインターネット上での「暴露」が起きた際に、AV女優本人やAVメーカーがその内容について事実であると認めたことは無いが、実際に数多くのAV女優がこのようなことが起きたのを境に、活動を停止したり引退をしている。 2018年のAV人権倫理機構設立以降、出演作品の削除申請、二次使用料の受け取りが認められている。2019年5月からは、それ以降に発売されたオムニバスや総集編における二次使用料が認められるようになった。ただし2022年に施行されたAV出演被害防止・救済法により、総集編も事前の契約が必須となり、作るのが困難になったという。 なお、AV女優が所属事務所を変更して活動を再開させる場合、事務所との契約上、それまで使用していた芸名は、基本的には使えない(芸名変更)という慣例があるが、例外もある。元女優で漫画家の峰まゆかはこの風習を「仁義」と理由を説明しつつも「誰にも得がない業界の慣例」「早い話がただの嫌がらせ」であると作品内で批判している。 引退後はソープランドなどの性風俗産業へと転じていく者も多い。この場合元AV女優と言う肩書きが付加価値として働く。残りは大半が一般人に戻るが、AVメーカーの広報あるいは撮影現場やプロダクションのマネージャーと言った職もあり、名前と経歴を生かしてフリーライターへの転身なども見られる。後述のように知名度を生かして女優やタレントへの転身も少なくない。 1987年から1989年、AV業界では一つのブームが巻き起こる。淫乱ブームである。それまでは女性は、される側・受け手の側であったものが、自ら積極的に性的快楽を求めるようなAVがブームとなった。藤木TDCは、その前段階として1986年頃から起こった、激しいセックスの最中に自らの快楽を笛をプープー吹くことで現すと言う作品「SMっぽいの好き」で著名な黒木香のブームがあったのではないかと主張している。 代表例としては豊丸が挙げられる。彼女のデビュー作は1989年5月、『吸淫力 - 史上最強のワイセツ』。膣に大根を挿入しアナルセックスまでこなし、自らも感じると言う作品である。豊丸は淫猥な演技で人気を博し、1988年には20本以上のAVに出演する。文献ではその他、淫乱の嚆矢となった咲田葵『いんらんパフォーマンス GINZAカリカリ娘』(1987年5月)、膣にバイブを7本挿入すると言うプレイを見せた亜利沙、痙攣失神・潮吹きの沖田ゆかりなどが紹介されている。なお潮吹きは1990年代以降、アダルトビデオの一つの要素として確立された。 もともとは、ヌードモデルと言われていた頃は、芸能人やタレントの扱いではなかったが、1990年代以降、深夜放送のドラマやバラエティ番組や、コントなどのセクシーシーンにAV女優がレギュラーやゲストで出演することが多くなり、以後はAV女優のタレント化・アイドル化が進んだ。また、お色気番組としての代表格である『ギルガメッシュないと』や『殿様のフェロモン』などがあり、それらの番組にもAV女優が出演することで知名度を上げていた。 一般芸能界で最も成功した例として、その成功によってAV女優の地位や認知度を向上させた飯島愛や黒木香らが挙げられるが、この2人の他にも、及川奈央が子供向け特撮番組やNHK大河ドラマに出演するなど大きな活躍を見せ、その後2008年以降はAV女優を中心に構成されたユニット恵比寿マスカッツ➝恵比寿★マスカッツ➝恵比寿マスカッツ1.5が人気を得た。 執筆した小説が映画化・漫画化されたほか、舞台・映画の主演などを行うみひろ、海賊版の流通をきっかけに香港・中国・台湾で大きな人気となっている蒼井そらや小澤マリアなども活躍している。文春オンライン編集部ではAV女優=日陰者のイメージを変えた先駆者として、前述の及川の名を挙げている。 MUTEKIレーベルが設立された2008年以降は、有名芸能人・著名人のAV女優転身が増加しているほか、元AV女優の一般芸能界進出も拡大している。 2010年代からは、各テレビ局におけるコンプライアンスの観点から、従来型のセクシーさで地上波進出する者は激減したものの、川上奈々美が現役AV女優として一般映画賞を受賞。また明日花キララが「女性が美容整形でなりたい芸能人・有名人顔ランキング」で女性有名人を抑え1位を獲得し、三上悠亜、橋本ありならもSNSを中心にファッションアイコンとして女性から知名度を得ている。以後、AV女優自体が女性層(ファン)をターゲットに売り出される傾向が強くなってきている。そのため彼女たちを呼称する際に女性から不快・嫌悪感を持たれやすい ̈AV ̈という言葉に代わってメディアではセクシー女優またはモンロー女優と表現される(それ以前の時代はAVギャルと表現されていた)。以前はアイドルや女優として活動が行き詰まったり、引退した芸能人がAV女優としてデビューするケースが目立ったが、近年はAV女優になるためにアイドル活動などの芸能活動を登竜門として、AV女優へ転向するケースも増えている。 このようにAV女優の存在・活躍が変化してきている。従来型のAV女優は日陰者的存在でありながらテレビ番組(主にお色気番組)に出演することで個々の活動や作品などを宣伝して知名度上げていかなければならなかったのに対し、現在ではSNSなどの普及や、AV自体が世間に認知されたことによってルックス・華やかな私生活・人間性などを自分から情報発信できるようになり、AVを見たことがなくても身近な存在として彼女たちを知れる時代になった事が理由として挙げられる。 AV女優を対象とした賞イベントを以下にまとめる。また出演した作品が受賞することによりその関連で表彰される、いわゆる作品賞もまとめる。 AV女優の中で最もランクが高いと見なされるのはごく一部であり、その女優の持つ外見・魅力・人気・知名度などで十分なヒットを見込める。こう言った女優を単体女優と呼ぶ。特定のメーカーと複数本あるいは長期の契約を持つケースが多く、(メーカー名)専属女優と呼ばれることもある。 また、メーカーとの契約が何らかのかたちで継続されなかった場合、女優は企画単体または企画となり、これを「企画落ち」と言う(ただし出演作を増やしたい、様々なメーカーの作品に出て出演ジャンルを広げたいなどの理由で自ら企画単体女優に転身する女優もいる)。契約切れとともに単体として他メーカーに移籍する女優もおり、一方でNGを解禁しないまま引退する女優もいる。 2022年時点の傾向として、NGプレイ解禁は増やせない、コスプレやプレイ内容の変化にも限度があることから、専属女優はプレイ以外でバリエーションが作れるドラマ作品が多くなり、それに対応できる演技力の素養が長く続ける条件となっている。 出演料は比較的高く、中村(2012)によれば、100〜350万円(1本)、東村(2012)によれば50万円からである(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割。また金額は撮影内容と契約により大きく異なるため、あくまで比較のために記すものである)。 ライターのたかなしは、「月給制のセクシー女優」と説明。ひとつのメーカに尽くす点を含め、一般的な会社員に似た働き方と例え、容姿や経歴など期待値に比例してギャラも高くなり、一方で作品の売れ行きにより契約金や期間の見直しも適宜行われると記述。2022年時点で月収300万円はいないと断言しないが、極めて少なく、手取り70万から100万円であれば優秀だという。 メーカーやレーベルの看板となるため大事に扱われ、顔やスタイルを認められたことでもあるため、減額更新してでも専属にこだわる女優もいる。新人で専属女優と企画女優の提示がどちらもあれば、よほどの悪条件でない限り、プロダクション側も専属を進めるという。前述のたかなしは専属の肩書のために1本30万円台で契約を交わす場合もあるとしている。 なお、ビニ本の世界では1980年頃、「単体モデル」「単品モデル」と言う語が既に使われていた。しかし藤木(2009)によれば、この場合は、女性が一人で登場し、男性との絡みが無いと言う意味での単体であり、そうでない女優が出演するビニ本は「カラミ本」と呼ぶ。AVの単体とは異なり、いずれの場合にせよ女優は一人である。 後述の企画女優の中でも単体女優並みに人気が出て、出演依頼が集中し多数の作品に全く無制限で出演する場合がある。このような女優を企画単体女優(略称:キカタン)と呼ぶ。1998年-2002年頃にセルビデオのブーム・メーカー急増と時を同じくして登場した。企画単体女優もその女優を主役として商業が成立するのであるが、特定メーカーとの複数本・長期の契約を持つものではなく1本単位の契約であり(いわゆる歩合制)、2012年現在日本のAV業界ではこの企画単体女優の作品を軸として商品を展開している。AV女優全体の15 - 20%を企画単体女優が占める。名の知られている単体女優が枠から外れ移行する場合もある(逆に人気を獲得した企画単体女優が単体女優となる事もある)。 2000年代初頭はキカタン女優がブームとなった。この時期の代表例は長瀬愛、堤さやか、笠木忍、桃井望などで、前記4人はインディーズ四天王などと呼ばれたことがあった。特に長瀬は2001年に企画女優として初めてオレンジ通信AVアイドル賞を受賞。この年の同賞ベスト10には2位の笠木、6位七瀬ななみ、9位桃井、10位長谷川留美子と企画女優が5人ランクイン。この現象を受けて企画女優でも名前で作品が売れるようになった女優をキカタンと専門誌などで呼称するようになった。 その後の代表的な企画単体女優として、立花里子、紅音ほたる、成瀬心美、つぼみ、大槻ひびき、波多野結衣、上原亜衣、初美沙希などがいる。出演料は中村(2012)によれば30 - 80万円(日当)、村西(2011)によれば10万円(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしによれば15万〜40万前後、平均20万円が相場という。 単体女優と異なり出演依頼さえあれば制限無く出演できるため、一度火が点くと、爆発的な人気を得、月産20本を越えるなどする場合がある。代表的な例を述べると、朝河蘭が2年で516本(月21本)、桃井望が2年で160本(月6本)、長瀬愛が3年で120本(月3本)、笠木忍が6年で200本(月2.7本)と言った具合である。特に1998年 - 2002年の企画単体登場初期にこの様な過酷な出演が多く見られた。 また専属女優が固定ギャラ支給なのに対し、企画単体女優は1本ずつの出演料を請求するため、広報活動、芸能活動や執筆料も別途請求でき、プロダクションにもよるものの給与体系が単体女優よりも明瞭であることも多い。 たかなし亜妖は2022年時点の状況として、かつては企画単体女優と企画女優は明確に線引きがされていたが、企画作品で単体を張れる女優も素人作品やその他大勢作品に出演していることを踏まえ、垣根はなくなっており、名前が大きく出るか出ないかという作品ごとの扱いでしかなくなっている。 企画女優はAV制作側の作品コンセプトに沿ってカメラの前でセックスを行う。多くの女性の中の一人として出演する。パッケージで名前が推されることすら稀で(1人だけの出演でも珍しくない他、最初から芸名自体設定されていないこともある)、女優の質や知名度だけでは客を呼べない状態である(ただし名前が出ないということは親などの知人にAV出演がバレにくいということでもあり、その点から自ら企画女優になる場合もある)。AV女優全体の80 - 90%はこの企画女優である。 一般メディアに顔出しNG(パブ禁)という女優も多く存在し、SOD立ち上げ当初の高橋がなりはこの初歩的ルールを知らずに撮影現場に記者を集めてしまったがため、女優にサングラスをかけさせ撮影するという手法も編み出した。 出演料は中村(2012)によれば15-25万円(日当)、村西(2011)によれば5-6万円(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしは1本5万〜10万円が相場と記述。 著名な女優が出ていると作品からリアリティが消えるため、「素人もの」作品では企画女優を起用することが多く、企画女優も「割のいいバイト」感覚でで出演する者が多い。一方で企画単体女優との共演などから火が付き、追い上げるケースもある。代表例として2019年年間ビデオランキング1位となった『ボーイッシュで男友達みたいな彼女は隠れ巨乳でした』(ブロッコリー/妄想族)は当時無名の佐藤りこが無記名で出演した作品であった。 2010年代からは派生としてエキストラ女優という分野も生まれた。ドラマの展開上必要な姉妹、母親役やいじめ役、友人役などの役回りを担う女優のこと。由来は台本上に「ex」と記述されることからであり、必ずしもエキストラ俳優と同義ではない。 契約上、男優との絡みはなく、脱ぐシーンも用意されないことが多く、企画女優同様パッケージや販売サイトに名前も表示されない。多くは事務所単位で声がかかるが、一定の演技力が必要不可欠であることから、監督やプロデューサーによっては指名することもあり、朝霧浄作品などでは一般ドラマ作品同様にエンディング後に出演者表記される、真咲南朋作品では指名した場合を「助演女優」と呼ぶなど、いわゆる企画女優と差別化が図られている。 2019年の真咲主催イベントでは星あんず、水城奈緒、涼南佳奈、藤波さとりの4名が代表的助演女優として出演した。 日本にAVが発生したのは1981年、一般家庭にビデオデッキが普及しブームとなるのはおおよそ1982年以降となる。なお当時の人気女優に『ドキュメント ザ・オナニーPART2 女優・田口ゆかり』など約40本の表ビデオと10冊の裏本、その他裏ビデオにも出演し「裏ビデオの女王」と呼ばれた田口ゆかりがいる。 当時はビデ倫のモザイクが非常に濃かったこともあり、モザイクの向こうで本番行為、すなわち陰茎の膣への挿入が行われていないことは半ば当たり前であった。特にルックスの良い、ランクの高い女優にとってこれが当てはまる。東良美季は『別冊宝島211 1億人のAV』で「当時は<本番>と言えば<SM>や<スカトロ>とさほど変わらない、かなりキワモノ的な行為だったのだ」と語っている。 ただし、これには「モデルプロダクション側の意向」もあったとも言われている。プロダクションは女優が人気を博せば、通常の芸能界への売り込みを考えており、そのため質の高い女優には、本番などのプレイを行わせることは良しとしなかったとされる。 また、ある人気AV女優は1986年、男性誌GOROでのインタビューで堂々と、撮影時には(モザイクの向こうでは)前張りを付けている、フェラチオ時には(モザイクの向こうでは)ガムテープで作られた物体を使用している、本番はやりません、などと答えていた。実際は本番をせずに本番をしている様に見せる行為は、疑似本番と呼ばれるようになった。いずれにせよ、本番行為を行うのはワンランク下とされる女優の仕事、という傾向があった。 しかし、疑似本番の全盛にも転機が訪れる。その一つとしてAV監督村西とおるの登場が挙げられる。彼はある時期より作品の中身が性行為・本番行為しか無いと言うビデオを、月産6本と言う勢いで量産する。これは海外ロケのスケジュールの都合上、演出のこだわりや撮り直しが行えなかったと言う事情もあるが、SMドキュメントシリーズなどは大ヒットし、本番ビデオは市民権を得た。 もう一つは1993年以降に発生したセルビデオブーム(セルビデオと共に登場したビデ倫に捕らわれないシースルービデオ・薄消しの概念の一般化)である。モザイクのかけられる面積は小さくなり、モザイクの一辺も小さくなり(2000年以降には一辺1mm以下などと言う最早丸見えのものもあった。ただし大規模には流通しなかった)、透過性が増した。そのため疑似本番でごまかせず本番を行うようになった。ビデ倫の強かったレンタル業界では疑似本番女優が多くいたが、彼女たちはセルビデオで用いられることはなかった。 なお1998年にはセルビデオ専属女優森下くるみがデビュー。彼女はソフト・オン・デマンドで活躍し、レンタル女優のセル流出を加速させた。 ※2023年11月時点(発表済みのリリース予定も含む)、パッケージに「専属」表記があり、各メーカー専属女優の中でも専属状態が1年を超える女優をまとめる。太文字は2社専属、斜体字はメーカーデビュー、「復」は専属復帰、「卒」は卒業・引退予定。 ※2023年11月時点、FANZA(旧称:DMM.R18)検索結果を基準とする。太字女優は総作品数・単体作品数ともに歴代10位以内を達成。
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"paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一説によると、一年間で3,000人のAV女優がデビューすると言われており、また2011年時点では全体で延べ20万人にものぼると言われる。2022年5月にAV人権倫理機構・河合幹雄が示したデータでは1年間の実働女優数は2000人、その過半は半年以内に引退状態となっている。また2018年2月から2022年3月までに延べ551人の女優から、28199本の作品を配信停止などの措置依頼があったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "21世紀突入以降の環境の変化として、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "が挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2000年代までは職業差別や世間的後ろめたさの意味もあり、親類から縁を切られるなどのケースもあったが、ライターのたかなし亜妖によれば、2022年時点では親公認の女優も多く、これは女優がかつてのより現役キャリアが伸び、熱意などを認めざるを得ない状況になるケースが多くなった結果だという。当然ケースバイケースであり、かつてのように修羅場のようになるケースもあるものの、キャリアの長い女優に関してはほぼ100%親公認だと筆致。また、「デビューで友人すべてを失う」のも過去の話であると記述している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2020年以降はSNSなどの発達により、女性がAV女優を応援するというケースも増えており、AV女優に限らず「推しの決め方がジャンルレスになった」とモデルプレス・高須良太は分析している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "AV女優はおおよそ、人気のある順に「単体女優」・「企画単体女優」・「企画女優」に分類できる(詳しくは後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2000年以降、アイドル的な売り方をしている女優が多くなり、18〜25歳くらいまでの単体女優や企画単体女優は、AVアイドル、アイドル女優と呼ばれることもある。さらに、タレント的な活動をしている女優の場合にはAVタレント、数年にわたって一定の知名度を得ている人気女優にはAVクイーンなどと呼ばれることもある。明確な定義はないが、30代以降は熟女と分類されるようになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一般メディアでは2000年前後からセクシー女優とぼかされて呼称されることが多くなり、2020年以降はコンプライアンス判断から艶系女優、性ビデオ女優とも記述される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "漫画家の峰なゆかは、セクシー女優という表現のほうが直接的で、AV=アダルトビデオのほうがむしろぼかした表現なのではないかと、この言い換えの矛盾を「不可解」と指摘している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "AV女優については様々な批判がなされるが、世界各国の比較的保守的な人間や、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教徒からは低俗だと批判されることがあり、中華人民共和国ではイベントを行ったAV女優に卵が投げつけられるような事件が発生した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "AV自体の流通が禁止されている国もある。敬虔なイスラム教徒が人口の大多数を占めるインドネシアでは、2000年頃から日本のAVが流通し始め、供給が追いつかないほどの人気であるが、その一方でイスラム教徒を中心に批判する声があり、2009年に首都ジャカルタにある映像制作会社が、日本のAV女優を映画の主役に起用しようとしたところ、デモ活動などの抗議行動が起こって計画が頓挫した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "AV女優の性行為は売春ではないかとの批判もあるが、売春法で問題になるのは提供された側から金銭を得ることであり、女優・男優共にメーカーから出演料をもらう形のAV撮影は売春には当たらないとされている。また出演料であるので、管理売春にも当たらないとされる。さらに弁護士・奥村徹は、不特定の相手との性交が売春と規定されているため、事前に相手の素性がわかっているAVでは該当しないと見解を明かしている。弁護士の小倉秀夫も「AV撮影の過程で本番をやっても通常これに含まれない」と指摘。2022年に成立したAV出演被害防止・救済法では「出演契約は、性行為映像制作物ごとに締結しなければならない」と契約における「不特定」性を排除している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大半のAV女優はAV事務所(AVプロダクション)に所属しており、マネージメントされる立場にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "AV女優は労働者派遣法の有害業務にあたることから、労働者ではなく個人事業主として扱われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一般的にAVメーカー(制作会社)からの出演依頼を取り付け、初めて撮影となり収入が得られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "新人のAV女優は仕事を得るためにマネージャーと共にメーカー回りをして、ようやく仕事(収入)が得られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このメーカー回りのことを、AV業界用語では「面接回り」と言うが、一般的の「オーディション」と同義である。 つまりメーカーの存在無くしては存在しえない職業であり、この部分で労働者的な側面のある職業となっている。また、プロダクションはマネージメントだけでなく、撮影現場でのトラブルの解決も重要な仕事の一つである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "マネージメント料は高額で、村西(2011)は折半としているが、いのうえ(2002)では事務所7、女優3が多く、中には折半も見られるとしている。 中村(2012)は折半は良心的な方であり、60 - 70%はプロダクションに流れるとしている。プロダクションから独立して独自にAVメーカーと契約することも可能だが、適切な出演料を提示できなかったり叩かれてしまうなど困難が多い。ただし企画女優においては長期間、成功しているケースもみられる。桃宮ももは事務所の許可を得てフリーとして活動しており、「自分で営業して取った仕事のギャラは100対0で入るが、中々仕事がないのでバイトしている」と語っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "門倉貴史による「風俗産業で働く女性の時給ランキング(2006年版)」によると、風俗産業の中でもAV女優の時間あたりの給料が最も高い。トップは「単体もの」のAV出演で時給3万1000円〜で、「単体もの」は1回のビデオ出演毎に80万円〜150万円程度のギャラを受け取ることが出来ると言う。 撮影現場で拘束される時間は2日程度になるから、時給に換算すると1万7000円〜3万1000円程度。ただし、AV業界には、「出れば出るだけ価値が下がる」と言う法則があると言われる。峰なゆか、小室友里も同様の指摘をしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「職業としてのAV女優」の著者・中村淳彦によると、志望者数の増加などで競争率が上がっており、供給は高い状態だが容姿の採用条件は厳しくなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方で、学歴や教養、資格が不要で健康保険や厚生保険、労災保険がない個人契約のため、その待遇は悪化傾向であり、企画女優では複数回の本番を行う場合でも、プロダクションの取り分を引いた手取りが時給換算で2000円といった例も見られるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "前述の峰によれば、一時期と比べAV1作品あたりの売上本数が減り、制作費と同様にAV女優の出演料も低下している。 また、進行形で出演料は下がり続けているという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "AV女優人口が増え、1人あたりの仕事量が減ったことも背景として挙げている。 中村(2012)によれば出演料は辛うじて横ばいであるものの、長引く不景気により作品のクオリティや内容の過激さが要求されるため、AV女優の仕事内容も以前より過酷となってきている。 年々悪化しており、バイトしながら続ける者や自主制作する者もいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "個人事業主であることから、確定申告など税金周りは一部を除き各個人で行う。 事務所には必ず税理士がついており、事務所の紹介を通して申告するケースが多いので、有名女優になればなるほど納税を怠る率は著しく低い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "元AV女優の神野藍は確定申告は女優業として提出していたという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東京都に所在地を置く製作会社「ミルキーキャットドットコム」の出演女優の募集案内文を見ると、1作品の撮影に対する報酬として8万円〜10万円現金を支払うと紹介している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中村淳彦は著書の中で、以下のように言説している。かつては社会の底辺と言った扱いで、女性にとって最後の手段とも取られていたこのAV女優と言う職業は、近年そのネガティブイメージは薄まってきており、業界も近年は法的に健全化してきている。また、それに伴いAV女優志願者も増え、AV女優の質は概して向上してきている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "それに伴い競争率も高くなり、かつてままみられた精神疾患・人格障害、あるいは幼少期の(性的)虐待経験などを持つAV女優を起用する例は少なくなってきているという。ただし、自身および家族の生活費、学資等を稼ぐためにAV女優となる者は存在する。競争過多から、その裏稼ぎは、単体女優でも、マスク、パーツ、美形など選ばれた一部の者に限られている。ほとんどの者は不採用になるため、普通のバイトで学費などを稼ぐ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "プロダクションはかつてに比べれば健全化し、ギャラなどもある程度は明らかにされるようになってきているが、しかし学歴や教養を求められることはなく、また法的知識も求められることもないため、それを逆手にとってギャラの持ち逃げや、AV女優に偽って劣悪な撮影現場に送り出すなどといった例もある。また、過度のSMプレイにより刑事事件となった事案(バッキー事件)もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "AV女優になる理由は様々であるが、AV人権倫理機構が行なった2021年のアンケートデータによれば68.4%が自分から応募。スカウトが8.4%。関係者に知り合いがいた、知人に勧められたなどが8.4%なっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アダルトビデオに出演契約を意に反して結ばれ、拒否したとされる女性が、契約違反の違約金として2460万円請求された訴訟の判決が2015年9月に確定した。東京地裁によると女性は高校生の時、タレントとしてスカウトされ「営業委託契約」を原告の会社と結んだ。しかし、意に反して露出度の高いグラビア撮影をされ、20歳の時会社が無断でAV出演を決定。出演後、さらに出演契約を結ばされた。それによる精神的なショックもあって女性の体調が悪化。AVの出演を拒否したところ「違約金が1千万円かかる」と言われた。契約解除を会社に告知したところ本件訴訟が提起された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "被告の担当弁護士は「高額の違約金で脅され、AV出演を強要される事例は多い。重大な人権侵害だ」と述べている。また判決で裁判官は「(AV女優は)本人の意に反して強要できない性質の仕事だ」として原告の請求を棄却した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これらの事件を踏まえ、日本では2017年にAV人権倫理機構が設立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "AV女優という職業名からしてAV出演が本業となる業種であるが、表立ってヌードを生業とする職種が少ないことから、黎明期よりアダルトモデル、ヌードモデルとしても活動する人物が多い。1990年代前半に起こったヘアヌードブームの中心こそ一般女優やアイドルタレントであったものの、当時から桜樹ルイ、憂木瞳などが写真集を出版していた。しかしインターネットでいくらでもヌード画像が見られるようになると、AV女優の写真集は姿を消していった。しかし2015年には年間37冊、2022年は93冊と、AV女優がモデルを務めるヌード写真集は徐々に増加傾向にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ジーオーティーの編集者・滑川博士は売り上げが計算できる、AV女優やプロダクションにとってもモチベーションが高まるステータスとなっていることなどを理由に挙げている。また、2010年ごろからAV女優がモデルを務めるヌードデッサン用の「ヌードポーズブック」も各社から発売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本のAV女優のアジア圏での人気の高さから、昨今では海外向けにも少しずつではあるが製作されており、一般書籍や漫画と比べ翻訳コストがほとんどないのがメリットと指摘している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "AV女優はその職業の性質上、おおよそ若く、性交経験が少ない、濡れやすい人が商品価値が高い。このため将来の保証は少ない職業であり、その職業としての寿命は一般的にはあまり長くない。またAV女優の職業意識に疑問が呈される向きもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "人気が落ちると、契約更新が行われなくなるか、出演依頼が来なくなり引退となるが、そういったケースでなくとも、契約更改時の待遇悪化(あるいは企画落ち)・身内にばれたり・目標としていた貯金額の達成・撮影が過激になりすぎた、などを理由に引退を選ぶケースも見られる。デビューするときはデビュー作が用意されている女優は多いが、引退作があるのは一部の人気女優だけであり、ほとんどは何の告知もなく姿を消している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "専属女優は引退作を撮り終え発売の5カ月ほど前に、それ以外は情報解禁となる2カ月ほど前に引退を発表することが多い。名前を変えて再デビューする事も多々ある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一方で、AV業界黎明期には一般的なものではなかったインターネットの普及や匿名掲示板の登場と共に、AV女優としての活動が家族や知人に露見するいわゆる「身内バレ」や、インターネット上で本名・実際の生年月日・居住地・通学先・勤務先などといった個人情報やプライバシーが晒され露見したことなどをきっかけに、AV女優が契約期間内であっても活動停止したり、引退に追い込まれるケースが多く見られるようになった。現役大学生がデビュー作の発売直前に通学先を暴露されて発売中止となった事例もある。このようなインターネット上での「暴露」が起きた際に、AV女優本人やAVメーカーがその内容について事実であると認めたことは無いが、実際に数多くのAV女優がこのようなことが起きたのを境に、活動を停止したり引退をしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2018年のAV人権倫理機構設立以降、出演作品の削除申請、二次使用料の受け取りが認められている。2019年5月からは、それ以降に発売されたオムニバスや総集編における二次使用料が認められるようになった。ただし2022年に施行されたAV出演被害防止・救済法により、総集編も事前の契約が必須となり、作るのが困難になったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、AV女優が所属事務所を変更して活動を再開させる場合、事務所との契約上、それまで使用していた芸名は、基本的には使えない(芸名変更)という慣例があるが、例外もある。元女優で漫画家の峰まゆかはこの風習を「仁義」と理由を説明しつつも「誰にも得がない業界の慣例」「早い話がただの嫌がらせ」であると作品内で批判している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "引退後はソープランドなどの性風俗産業へと転じていく者も多い。この場合元AV女優と言う肩書きが付加価値として働く。残りは大半が一般人に戻るが、AVメーカーの広報あるいは撮影現場やプロダクションのマネージャーと言った職もあり、名前と経歴を生かしてフリーライターへの転身なども見られる。後述のように知名度を生かして女優やタレントへの転身も少なくない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1987年から1989年、AV業界では一つのブームが巻き起こる。淫乱ブームである。それまでは女性は、される側・受け手の側であったものが、自ら積極的に性的快楽を求めるようなAVがブームとなった。藤木TDCは、その前段階として1986年頃から起こった、激しいセックスの最中に自らの快楽を笛をプープー吹くことで現すと言う作品「SMっぽいの好き」で著名な黒木香のブームがあったのではないかと主張している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "代表例としては豊丸が挙げられる。彼女のデビュー作は1989年5月、『吸淫力 - 史上最強のワイセツ』。膣に大根を挿入しアナルセックスまでこなし、自らも感じると言う作品である。豊丸は淫猥な演技で人気を博し、1988年には20本以上のAVに出演する。文献ではその他、淫乱の嚆矢となった咲田葵『いんらんパフォーマンス GINZAカリカリ娘』(1987年5月)、膣にバイブを7本挿入すると言うプレイを見せた亜利沙、痙攣失神・潮吹きの沖田ゆかりなどが紹介されている。なお潮吹きは1990年代以降、アダルトビデオの一つの要素として確立された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "もともとは、ヌードモデルと言われていた頃は、芸能人やタレントの扱いではなかったが、1990年代以降、深夜放送のドラマやバラエティ番組や、コントなどのセクシーシーンにAV女優がレギュラーやゲストで出演することが多くなり、以後はAV女優のタレント化・アイドル化が進んだ。また、お色気番組としての代表格である『ギルガメッシュないと』や『殿様のフェロモン』などがあり、それらの番組にもAV女優が出演することで知名度を上げていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一般芸能界で最も成功した例として、その成功によってAV女優の地位や認知度を向上させた飯島愛や黒木香らが挙げられるが、この2人の他にも、及川奈央が子供向け特撮番組やNHK大河ドラマに出演するなど大きな活躍を見せ、その後2008年以降はAV女優を中心に構成されたユニット恵比寿マスカッツ➝恵比寿★マスカッツ➝恵比寿マスカッツ1.5が人気を得た。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "執筆した小説が映画化・漫画化されたほか、舞台・映画の主演などを行うみひろ、海賊版の流通をきっかけに香港・中国・台湾で大きな人気となっている蒼井そらや小澤マリアなども活躍している。文春オンライン編集部ではAV女優=日陰者のイメージを変えた先駆者として、前述の及川の名を挙げている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "MUTEKIレーベルが設立された2008年以降は、有名芸能人・著名人のAV女優転身が増加しているほか、元AV女優の一般芸能界進出も拡大している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2010年代からは、各テレビ局におけるコンプライアンスの観点から、従来型のセクシーさで地上波進出する者は激減したものの、川上奈々美が現役AV女優として一般映画賞を受賞。また明日花キララが「女性が美容整形でなりたい芸能人・有名人顔ランキング」で女性有名人を抑え1位を獲得し、三上悠亜、橋本ありならもSNSを中心にファッションアイコンとして女性から知名度を得ている。以後、AV女優自体が女性層(ファン)をターゲットに売り出される傾向が強くなってきている。そのため彼女たちを呼称する際に女性から不快・嫌悪感を持たれやすい ̈AV ̈という言葉に代わってメディアではセクシー女優またはモンロー女優と表現される(それ以前の時代はAVギャルと表現されていた)。以前はアイドルや女優として活動が行き詰まったり、引退した芸能人がAV女優としてデビューするケースが目立ったが、近年はAV女優になるためにアイドル活動などの芸能活動を登竜門として、AV女優へ転向するケースも増えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "このようにAV女優の存在・活躍が変化してきている。従来型のAV女優は日陰者的存在でありながらテレビ番組(主にお色気番組)に出演することで個々の活動や作品などを宣伝して知名度上げていかなければならなかったのに対し、現在ではSNSなどの普及や、AV自体が世間に認知されたことによってルックス・華やかな私生活・人間性などを自分から情報発信できるようになり、AVを見たことがなくても身近な存在として彼女たちを知れる時代になった事が理由として挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "AV女優を対象とした賞イベントを以下にまとめる。また出演した作品が受賞することによりその関連で表彰される、いわゆる作品賞もまとめる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "AV女優の中で最もランクが高いと見なされるのはごく一部であり、その女優の持つ外見・魅力・人気・知名度などで十分なヒットを見込める。こう言った女優を単体女優と呼ぶ。特定のメーカーと複数本あるいは長期の契約を持つケースが多く、(メーカー名)専属女優と呼ばれることもある。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また、メーカーとの契約が何らかのかたちで継続されなかった場合、女優は企画単体または企画となり、これを「企画落ち」と言う(ただし出演作を増やしたい、様々なメーカーの作品に出て出演ジャンルを広げたいなどの理由で自ら企画単体女優に転身する女優もいる)。契約切れとともに単体として他メーカーに移籍する女優もおり、一方でNGを解禁しないまま引退する女優もいる。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2022年時点の傾向として、NGプレイ解禁は増やせない、コスプレやプレイ内容の変化にも限度があることから、専属女優はプレイ以外でバリエーションが作れるドラマ作品が多くなり、それに対応できる演技力の素養が長く続ける条件となっている。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "出演料は比較的高く、中村(2012)によれば、100〜350万円(1本)、東村(2012)によれば50万円からである(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割。また金額は撮影内容と契約により大きく異なるため、あくまで比較のために記すものである)。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ライターのたかなしは、「月給制のセクシー女優」と説明。ひとつのメーカに尽くす点を含め、一般的な会社員に似た働き方と例え、容姿や経歴など期待値に比例してギャラも高くなり、一方で作品の売れ行きにより契約金や期間の見直しも適宜行われると記述。2022年時点で月収300万円はいないと断言しないが、極めて少なく、手取り70万から100万円であれば優秀だという。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "メーカーやレーベルの看板となるため大事に扱われ、顔やスタイルを認められたことでもあるため、減額更新してでも専属にこだわる女優もいる。新人で専属女優と企画女優の提示がどちらもあれば、よほどの悪条件でない限り、プロダクション側も専属を進めるという。前述のたかなしは専属の肩書のために1本30万円台で契約を交わす場合もあるとしている。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、ビニ本の世界では1980年頃、「単体モデル」「単品モデル」と言う語が既に使われていた。しかし藤木(2009)によれば、この場合は、女性が一人で登場し、男性との絡みが無いと言う意味での単体であり、そうでない女優が出演するビニ本は「カラミ本」と呼ぶ。AVの単体とは異なり、いずれの場合にせよ女優は一人である。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "後述の企画女優の中でも単体女優並みに人気が出て、出演依頼が集中し多数の作品に全く無制限で出演する場合がある。このような女優を企画単体女優(略称:キカタン)と呼ぶ。1998年-2002年頃にセルビデオのブーム・メーカー急増と時を同じくして登場した。企画単体女優もその女優を主役として商業が成立するのであるが、特定メーカーとの複数本・長期の契約を持つものではなく1本単位の契約であり(いわゆる歩合制)、2012年現在日本のAV業界ではこの企画単体女優の作品を軸として商品を展開している。AV女優全体の15 - 20%を企画単体女優が占める。名の知られている単体女優が枠から外れ移行する場合もある(逆に人気を獲得した企画単体女優が単体女優となる事もある)。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2000年代初頭はキカタン女優がブームとなった。この時期の代表例は長瀬愛、堤さやか、笠木忍、桃井望などで、前記4人はインディーズ四天王などと呼ばれたことがあった。特に長瀬は2001年に企画女優として初めてオレンジ通信AVアイドル賞を受賞。この年の同賞ベスト10には2位の笠木、6位七瀬ななみ、9位桃井、10位長谷川留美子と企画女優が5人ランクイン。この現象を受けて企画女優でも名前で作品が売れるようになった女優をキカタンと専門誌などで呼称するようになった。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "その後の代表的な企画単体女優として、立花里子、紅音ほたる、成瀬心美、つぼみ、大槻ひびき、波多野結衣、上原亜衣、初美沙希などがいる。出演料は中村(2012)によれば30 - 80万円(日当)、村西(2011)によれば10万円(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしによれば15万〜40万前後、平均20万円が相場という。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "単体女優と異なり出演依頼さえあれば制限無く出演できるため、一度火が点くと、爆発的な人気を得、月産20本を越えるなどする場合がある。代表的な例を述べると、朝河蘭が2年で516本(月21本)、桃井望が2年で160本(月6本)、長瀬愛が3年で120本(月3本)、笠木忍が6年で200本(月2.7本)と言った具合である。特に1998年 - 2002年の企画単体登場初期にこの様な過酷な出演が多く見られた。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また専属女優が固定ギャラ支給なのに対し、企画単体女優は1本ずつの出演料を請求するため、広報活動、芸能活動や執筆料も別途請求でき、プロダクションにもよるものの給与体系が単体女優よりも明瞭であることも多い。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "たかなし亜妖は2022年時点の状況として、かつては企画単体女優と企画女優は明確に線引きがされていたが、企画作品で単体を張れる女優も素人作品やその他大勢作品に出演していることを踏まえ、垣根はなくなっており、名前が大きく出るか出ないかという作品ごとの扱いでしかなくなっている。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "企画女優はAV制作側の作品コンセプトに沿ってカメラの前でセックスを行う。多くの女性の中の一人として出演する。パッケージで名前が推されることすら稀で(1人だけの出演でも珍しくない他、最初から芸名自体設定されていないこともある)、女優の質や知名度だけでは客を呼べない状態である(ただし名前が出ないということは親などの知人にAV出演がバレにくいということでもあり、その点から自ら企画女優になる場合もある)。AV女優全体の80 - 90%はこの企画女優である。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "一般メディアに顔出しNG(パブ禁)という女優も多く存在し、SOD立ち上げ当初の高橋がなりはこの初歩的ルールを知らずに撮影現場に記者を集めてしまったがため、女優にサングラスをかけさせ撮影するという手法も編み出した。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "出演料は中村(2012)によれば15-25万円(日当)、村西(2011)によれば5-6万円(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしは1本5万〜10万円が相場と記述。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "著名な女優が出ていると作品からリアリティが消えるため、「素人もの」作品では企画女優を起用することが多く、企画女優も「割のいいバイト」感覚でで出演する者が多い。一方で企画単体女優との共演などから火が付き、追い上げるケースもある。代表例として2019年年間ビデオランキング1位となった『ボーイッシュで男友達みたいな彼女は隠れ巨乳でした』(ブロッコリー/妄想族)は当時無名の佐藤りこが無記名で出演した作品であった。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2010年代からは派生としてエキストラ女優という分野も生まれた。ドラマの展開上必要な姉妹、母親役やいじめ役、友人役などの役回りを担う女優のこと。由来は台本上に「ex」と記述されることからであり、必ずしもエキストラ俳優と同義ではない。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "契約上、男優との絡みはなく、脱ぐシーンも用意されないことが多く、企画女優同様パッケージや販売サイトに名前も表示されない。多くは事務所単位で声がかかるが、一定の演技力が必要不可欠であることから、監督やプロデューサーによっては指名することもあり、朝霧浄作品などでは一般ドラマ作品同様にエンディング後に出演者表記される、真咲南朋作品では指名した場合を「助演女優」と呼ぶなど、いわゆる企画女優と差別化が図られている。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2019年の真咲主催イベントでは星あんず、水城奈緒、涼南佳奈、藤波さとりの4名が代表的助演女優として出演した。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "日本にAVが発生したのは1981年、一般家庭にビデオデッキが普及しブームとなるのはおおよそ1982年以降となる。なお当時の人気女優に『ドキュメント ザ・オナニーPART2 女優・田口ゆかり』など約40本の表ビデオと10冊の裏本、その他裏ビデオにも出演し「裏ビデオの女王」と呼ばれた田口ゆかりがいる。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "当時はビデ倫のモザイクが非常に濃かったこともあり、モザイクの向こうで本番行為、すなわち陰茎の膣への挿入が行われていないことは半ば当たり前であった。特にルックスの良い、ランクの高い女優にとってこれが当てはまる。東良美季は『別冊宝島211 1億人のAV』で「当時は<本番>と言えば<SM>や<スカトロ>とさほど変わらない、かなりキワモノ的な行為だったのだ」と語っている。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ただし、これには「モデルプロダクション側の意向」もあったとも言われている。プロダクションは女優が人気を博せば、通常の芸能界への売り込みを考えており、そのため質の高い女優には、本番などのプレイを行わせることは良しとしなかったとされる。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "また、ある人気AV女優は1986年、男性誌GOROでのインタビューで堂々と、撮影時には(モザイクの向こうでは)前張りを付けている、フェラチオ時には(モザイクの向こうでは)ガムテープで作られた物体を使用している、本番はやりません、などと答えていた。実際は本番をせずに本番をしている様に見せる行為は、疑似本番と呼ばれるようになった。いずれにせよ、本番行為を行うのはワンランク下とされる女優の仕事、という傾向があった。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "しかし、疑似本番の全盛にも転機が訪れる。その一つとしてAV監督村西とおるの登場が挙げられる。彼はある時期より作品の中身が性行為・本番行為しか無いと言うビデオを、月産6本と言う勢いで量産する。これは海外ロケのスケジュールの都合上、演出のこだわりや撮り直しが行えなかったと言う事情もあるが、SMドキュメントシリーズなどは大ヒットし、本番ビデオは市民権を得た。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "もう一つは1993年以降に発生したセルビデオブーム(セルビデオと共に登場したビデ倫に捕らわれないシースルービデオ・薄消しの概念の一般化)である。モザイクのかけられる面積は小さくなり、モザイクの一辺も小さくなり(2000年以降には一辺1mm以下などと言う最早丸見えのものもあった。ただし大規模には流通しなかった)、透過性が増した。そのため疑似本番でごまかせず本番を行うようになった。ビデ倫の強かったレンタル業界では疑似本番女優が多くいたが、彼女たちはセルビデオで用いられることはなかった。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "なお1998年にはセルビデオ専属女優森下くるみがデビュー。彼女はソフト・オン・デマンドで活躍し、レンタル女優のセル流出を加速させた。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "※2023年11月時点(発表済みのリリース予定も含む)、パッケージに「専属」表記があり、各メーカー専属女優の中でも専属状態が1年を超える女優をまとめる。太文字は2社専属、斜体字はメーカーデビュー、「復」は専属復帰、「卒」は卒業・引退予定。", "title": "AV女優のカテゴリー" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "※2023年11月時点、FANZA(旧称:DMM.R18)検索結果を基準とする。太字女優は総作品数・単体作品数ともに歴代10位以内を達成。", "title": "AV女優のカテゴリー" } ]
AV女優(エーブイじょゆう)は、アダルトビデオに出演する性行為専門の女優である。 非アダルト系メディア出演時にはセクシー女優と言い換えられることがある。 本項は日本のアダルトビデオ女優について記述するため、特記無き場合は日本における状況である。
{{混同|ポルノ女優|ヌードモデル|アダルトモデル}} {{性的}} {{Infobox Occupation | name = AV女優(セクシー女優) | official_names = | type = [[エンターテインメント]] | activity_sector = [[芸能人]] | competencies = | formation = | employment_field = | related_occupation = [[AV監督]]、[[ヌードモデル]]、[[俳優#性別での分類|女優]] | average_salary = }} '''AV女優'''(エーブイじょゆう)は、[[アダルトビデオ]]に出演する[[性行為]]専門の[[俳優#性別での分類|女優]]である。 非アダルト系メディア出演時には'''セクシー女優'''と言い換えられることがある。 本項は[[日本]]のアダルトビデオ女優について記述するため、特記無き場合は日本における状況である。 [[ファイル:Mihiro @ ASIA ADULT EXPO 2010.JPG|thumb|220px|[[みひろ]](現・金子みひろ)。単体女優としてAV活動中に演技力が認められ、一般[[芸能界]]へ進出した。]] == 概要 == === 概説 === AV女優は[[ビデオカメラ]]の前で演技を要求されることも多いが、[[映画]]や[[ドラマ]]の俳優などとは異なり、特別な演技訓練などを必要としない{{Sfn|藤木TDC|2009|p=69}}。ただし性的な表現をいかにこなすかについては大切なところであり、作品の出来にとって重要な要素である{{Sfn|藤木TDC|2009|p=69}}。 例えば1985年頃人気を博した[[黒木香]]はアサヒ芸能のインタビューの中で、「カメラの前で行っていることは、自身にとってはセックスではなくパフォーマンスである」と語ると同時に、「あくまで性表現なのであって、演技ではない」とも語っている{{Sfn|藤木TDC|2009|p=142}}。 性行為は原則として[[コンドーム]]を用いて行い{{Sfn|中村淳彦|2012|p=156}}、村西(2011)によれば、特記無き場合暗黙の了解として性行為は3回までとのことである{{Sfn|村西とおる|2011|p=161}}。なお、かつて多く見られていた疑似本番については後述する。 AV女優はその性質上から、基本的に[[芸名]]が付与され、本名で活動する事例は極めて少ない。言い換えればほとんどが本名以外の別名を女優名(芸名)にして出演している。また、[[誕生日]]や出身地も架空あるいは事実と異なるものである場合が多い{{Sfn|中村淳彦|2012|p=102}}([[#引退とその後|後述]]も参照)。 一説によると、一年間で3,000人のAV女優がデビューすると言われており<ref>{{Cite web|和書|author=山田ゴメス |authorlink=山田ゴメス |url=http://citrus-net.jp/article/2195 |title=年間3000人も…!? あえて"AVデビュー"する女性たちの心情 |website=citrus |publisher=オールアバウトナビ |language=ja |date=2016-06-15 |accessdate=2017-12-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211206030100/http://citrus-net.jp/article/2195 |archivedate=2021-12-06 |deadlinkdate=2022-04-07}}</ref>、また2011年時点では全体で延べ20万人にものぼると言われる{{Sfn|黒羽幸宏|2011|p=410}}。2022年5月に[[AV人権倫理機構]]・[[河合幹雄]]が示したデータでは1年間の実働女優数は2000人、その過半は半年以内に引退状態となっている<ref name="現代ビジネス_20220521">{{Cite web|和書|author=河合幹雄 |authorlink=河合幹雄 |url=https://gendai.media/articles/-/95407 |title=「AV出演強要」は存在するのか? 多くの人が見落としている「本当の実態」 |website=[[現代ビジネス]] |publisher=[[講談社]] |language=ja |date=2022-05-21 |access-date=2022-05-22}}</ref>。また2018年2月から2022年3月までに延べ551人の女優から、28199本の作品を配信停止などの措置依頼があったという{{R|現代ビジネス_20220521}}。 21世紀突入以降の環境の変化として、 * [[DVD]]化、[[オンライン]]化による作品の長時間化。 * [[インターネット]]の普及(ファン同士の情報交換、[[オンラインストア]]の購入者による商品評価によって作品の評判がすぐ広まる)。 * 過激化 が挙げられる。 2000年代までは職業差別や世間的後ろめたさの意味もあり、親類から縁を切られるなどのケースもあったが、ライターのたかなし亜妖によれば、2022年時点では親公認の女優も多く、これは女優がかつてのより現役キャリアが伸び、熱意などを認めざるを得ない状況になるケースが多くなった結果だという<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=元セクシー女優が「親バレ事情」を暴露。親公認の女優が多い理由 |url=https://nikkan-spa.jp/1879895 |website=日刊SPA! |date=2022-12-30 |access-date=2023-01-15 |language=ja |last=たかなし亜妖}}</ref>。当然ケースバイケースであり、かつてのように修羅場のようになるケースもあるものの、キャリアの長い女優に関してはほぼ100%親公認だと筆致。また、「デビューで友人すべてを失う」のも過去の話であると記述している{{R|:1}}。 2020年以降はSNSなどの発達により、女性がAV女優を応援するというケースも増えており、AV女優に限らず「推しの決め方がジャンルレスになった」とモデルプレス・高須良太は分析している<ref name=":0">集英社『週刊プレイボーイ』2022年12月19日号No.1・2 202頁「バズ美女オブイヤー2022」</ref>。 === 分類と呼称 === AV女優はおおよそ、人気のある順に「単体女優」・「企画単体女優」・「企画女優」に分類できる{{Sfn|中村淳彦|2012|p=34}}(詳しくは後述)。 2000年以降、アイドル的な売り方をしている女優が多くなり、18〜25歳くらいまでの単体女優や企画単体女優は、'''AVアイドル'''、'''アイドル女優'''と呼ばれることもある。さらに、タレント的な活動をしている女優の場合には'''AVタレント'''、数年にわたって一定の知名度を得ている人気女優には'''AVクイーン'''などと呼ばれることもある。明確な定義はないが、30代以降は'''熟女'''と分類されるようになる。 一般メディアでは2000年前後から'''セクシー女優'''とぼかされて呼称されることが多くなり<ref>{{Cite web|和書|author=FLASH編集部 |url=https://smart-flash.jp/night/167842/ |title=2021年セクシー女優ランキング! 人気動画サイトのデータを集計し、1位に輝いたのは河北彩花 |website=[[Smart FLASH]] |publisher=[[光文社]] |language=ja |date=2021-12-24 |access-date=2022-05-18}}</ref>、2020年以降はコンプライアンス判断から艶系女優<ref>{{Cite web|和書|author=所ひで |url=https://www.asagei.com/190018 |title=人気艶系女優6人、「下腹部の毛」比喩合戦に「下ネタだけど風情がある」激賞! |website=[[アサ芸プラス]] |publisher=[[徳間書店]] |language=ja |date=2021-10-08 |access-date=2022-05-18}}</ref>、性ビデオ女優<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/212966 |title=元人気アイドル「突然の性ビデオ出演」で激震!「泣きシコ」するファンが続出して… |website=アサ芸プラス |publisher=徳間書店 |language=ja |date=2022-05-18 |access-date=2022-05-18}}</ref>とも記述される。 漫画家の[[峰なゆか]]は、セクシー女優という表現のほうが直接的で、AV=アダルトビデオのほうがむしろぼかした表現なのではないかと、この言い換えの矛盾を「不可解」と指摘している<ref>{{Cite web |title=「猥褻」の基準は時代によって恣意的に決められてきた 峰なゆか×戸田真琴対談(後半) {{!}} 日刊SPA! {{!}} ページ 3 |url=https://nikkan-spa.jp/1956499 |website=日刊SPA! |date=2023-11-14 |access-date=2023-11-23 |language=ja}}</ref>。 === 批判 === AV女優については様々な批判がなされるが、世界各国の比較的保守的な人間や、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]からは低俗だと批判されることがあり、[[中華人民共和国]]ではイベントを行ったAV女優に卵が投げつけられるような事件が発生した。 AV自体の流通が禁止されている国もある。敬虔な[[ムスリム|イスラム教徒]]が人口の大多数を占める[[インドネシア]]では、[[2000年]]頃から日本のAVが流通し始め、供給が追いつかないほどの人気であるが、その一方で[[ムスリム|イスラム教徒]]を中心に批判する声があり、[[2009年]]に[[首都]][[ジャカルタ]]にある映像制作会社が、日本のAV女優を映画の主役に起用しようとしたところ、[[デモ活動]]などの抗議行動が起こって計画が頓挫した<ref>{{Cite news |author=柳川俊之 |url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0419&f=national_0419_020.shtml |title=「国防予算に匹敵する日本のアダルト産業、各国から反感」―中国メディア |newspaper=[[サーチナ (ポータルサイト)|サーチナ]] |publisher=サーチナ |language=ja |date=2010-04-19 |access-date=2021-06-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100420070321/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0419&f=national_0419_020.shtml |archivedate=2010-04-20 |deadlinkdate=2016-03-05}}</ref>。 AV女優の性行為は売春ではないかとの批判もあるが、売春法で問題になるのは提供された側から金銭を得ることであり、女優・男優共にメーカーから出演料をもらう形のAV撮影は売春には当たらないとされている。また出演料であるので、管理売春にも当たらないとされる。さらに弁護士・[[奥村徹]]は、不特定の相手との性交が売春と規定されているため、事前に相手の素性がわかっているAVでは該当しないと見解を明かしている<ref>{{Cite web|和書|author=奥村徹 |authorlink=奥村徹 |url=https://okumuraosaka.hatenadiary.jp/entry/20160629/1467207784 |title=AV女優集団訴訟 関係者に売春防止法が適用される可能性も |website=奥村徹弁護士の見解 |language=ja |date=2016-06-29 |access-date=2022-05-25}}</ref>。弁護士の小倉秀夫も「AV撮影の過程で本番をやっても通常これに含まれない」と指摘。2022年に成立した[[AV出演被害防止・救済法]]では「出演契約は、性行為映像制作物ごとに締結しなければならない」と契約における「不特定」性を排除している<ref>{{Cite web|和書|author=石田健 |url=https://www.theheadline.jp/articles/627 |title=AV新法とは何か? 売春の「合法化」批判、セックスワーカーの「自己決定」とは |website=The HEADLINE |publisher=リバースタジオ |language=ja |date=2022-05-20 |access-date=2022-05-26}}</ref>。 === 報酬と待遇 === 大半のAV女優は[[AV事務所]](AVプロダクション)に所属しており{{Sfn|中村淳彦|2012|p=16}}、マネージメントされる立場にある。 AV女優は労働者派遣法の有害業務にあたることから、労働者ではなく個人事業主として扱われる。 一般的に[[アダルトビデオメーカー|AVメーカー]](制作会社)からの出演依頼を取り付け、初めて撮影となり収入が得られる。 新人のAV女優は仕事を得るために[[マネージャー]]と共にメーカー回りをして、ようやく仕事(収入)が得られる{{Sfn|中村淳彦|2012|p=49}}。 このメーカー回りのことを、AV業界用語では「面接回り」と言うが、一般的の「[[オーディション]]」と同義である。 つまりメーカーの存在無くしては存在しえない職業であり、この部分で労働者的な側面のある職業となっている<ref>{{Cite web|和書|author=荒井禎雄 |url=https://note.com/oharan/n/ndcbea62b4d66 |title=伊藤和子弁護士(HRN)と私、「どちらの言い分が正しかったか」#3 |website=[[note (配信サイト)|note]] |publisher=[[note (企業)|note]] |language=ja |date=2020-05-22 |access-date=2022-05-22}}</ref>。また、プロダクションはマネージメントだけでなく、撮影現場でのトラブルの解決も重要な仕事の一つである{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=156-158}}。 マネージメント料は高額で、村西(2011)は折半としているが{{Sfn|村西とおる|2011|p=198}}、いのうえ(2002)では事務所7、女優3が多く、中には折半も見られるとしている{{Sfn|いのうえせつこ|2002|p=155}}。 中村(2012)は折半は良心的な方であり、60 - 70%はプロダクションに流れるとしている{{Sfn|中村淳彦|2012|p=49}}。プロダクションから独立して独自にAVメーカーと契約することも可能だが、適切な出演料を提示できなかったり叩かれてしまうなど困難が多い{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=227-231}}。ただし企画女優においては長期間、成功しているケースもみられる{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=227-231}}。[[桃宮もも]]は事務所の許可を得てフリーとして活動しており、「自分で営業して取った仕事のギャラは100対0で入るが、中々仕事がないのでバイトしている」と語っている。 [[門倉貴史]]による「風俗産業で働く女性の時給ランキング(2006年版)」によると、風俗産業の中でもAV女優の時間あたりの給料が最も高い。トップは「単体もの」のAV出演で'''時給3万1000円〜'''で、「単体もの」は1回のビデオ出演毎に'''80万円〜150万円程度'''のギャラを受け取ることが出来ると言う。 撮影現場で拘束される時間は2日程度になるから、'''時給に換算すると1万7000円〜3万1000円程度'''。ただし、AV業界には、「出れば出るだけ価値が下がる」と言う法則があると言われる<ref>{{Cite web|和書|author=門倉貴史 |authorlink=門倉貴史 |url=https://ameblo.jp/kadokura4/entry-10010908823.html |title=風俗産業で働く女性の時給ランキング(2006年版) |website=門倉貴史のBRICs経済研究所 |publisher=門倉貴史 |language=ja |date=2006-04-03 |accessdate=2022-10-10}}</ref>。[[峰なゆか]]、[[小室友里]]も同様の指摘をしている<ref name="メンズサイゾー_20090531">{{Cite web|和書|author=峰なゆか |authorlink=峰なゆか |url=https://www.menscyzo.com/2009/05/post_75-2.html |title=結局、AV女優ってギャラいくら貰ってるの? |website=[[メンズサイゾー]] |publisher=[[サイゾー]] |language=ja |date=2009-05-13 |accessdate=2011-05-17}}</ref><ref name="99円_4125">{{Cite web|和書|url=http://tv.mero.jp/tvt_4125.html |title=元AV女優・小室友里がAV界ギャラのカラクリ&加藤鷹のテクの凄さと習得法を告白! |website=無制限99円 取り放題 |publisher=Blau |language=ja |date=2011-04 |accessdate=2011-05-17}}</ref>。 「職業としてのAV女優」の著者・中村淳彦によると、志望者数の増加などで競争率が上がっており、供給は高い状態だが[[容姿]]の採用条件は厳しくなる。 一方で、[[学歴]]や[[教養]]、[[資格]]が不要で[[健康保険]]や厚生保険、[[労災保険]]がない個人契約のため、その待遇は悪化傾向であり、企画女優では複数回の本番を行う場合でも、プロダクションの取り分を引いた手取りが時給換算で2000円といった例も見られるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20120604_113419.html?DETAIL |title=最近のAV嬢 12万円中抜きされて手取り3万円のケースも |website=[[NEWSポストセブン]] |publisher=[[小学館]] |language=ja |date=2012-06-04 |accessdate=2013-08-15}}</ref>。 前述の峰によれば、一時期と比べAV1作品あたりの売上本数が減り、制作費と同様にAV女優の出演料も低下している。 また、進行形で出演料は下がり続けているという。 AV女優人口が増え、1人あたりの仕事量が減ったことも背景として挙げている{{R|メンズサイゾー_20090531}}。 中村(2012)によれば出演料は辛うじて横ばいであるものの、長引く不景気により作品のクオリティや内容の過激さが要求されるため、AV女優の仕事内容も以前より過酷となってきている{{Sfn|中村淳彦|2012|p=41}}。 年々悪化しており、バイトしながら続ける者や自主制作する者もいる。 個人事業主であることから、確定申告など税金周りは一部を除き各個人で行う<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=元セクシー女優が「業界の納税事情」を語る。 確定申告そのものを知らない女優も |url=https://nikkan-spa.jp/1869515 |website=日刊SPA! |date=2022-11-05 |access-date=2023-01-15 |language=ja |last=たかなし亜妖}}</ref>。 事務所には必ず税理士がついており、事務所の紹介を通して申告するケースが多いので、有名女優になればなるほど納税を怠る率は著しく低い{{R|:4}}。 元AV女優の[[神野藍]]は確定申告は女優業として提出していたという<ref>{{Cite web|和書|title=「年収は下がったけど、何があっても業界に戻らないと誓った」早稲田卒の元AV女優(23)が明かす、引退後の生活 |url=https://bunshun.jp/articles/-/63793 |website=文春オンライン |access-date=2023-07-04 |first=神野 |last=藍 |date=2023/06/30 |editor=神野藍}}</ref>。 東京都に所在地を置く製作会社「ミルキーキャットドットコム」<ref>https://www.milky-cat.com/movie/torihiki.htm</ref>の出演女優の募集案内文を見ると、1作品の撮影に対する報酬として8万円〜10万円現金を支払うと紹介している<ref>https://www.milky-cat.com/main/job/joyu.htm</ref>。 === 待遇 === [[中村淳彦]]は著書の中で、以下のように言説している。かつては社会の底辺と言った扱いで、女性にとって最後の手段とも取られていたこのAV女優と言う職業{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=15-17}}は、近年そのネガティブイメージは薄まってきており、業界も近年は法的に健全化してきている{{Sfn|中村淳彦|2012|p=85}}。また、それに伴いAV女優志願者も増え、AV女優の質は概して向上してきている{{Sfn|中村淳彦|2012|p=88}}。 それに伴い競争率も高くなり、かつてままみられた[[精神疾患]]・[[人格障害]]、あるいは幼少期の(性的)[[虐待]]経験などを持つAV女優{{Sfn|いのうえせつこ|2002|pp=122-133}}を起用する例は少なくなってきているという{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=89-90, 95}}。ただし、自身および家族の生活費、{{Efn2|[[熟女 (アダルトビデオ)|熟女系AV女優]]の場合。}}学資等を稼ぐためにAV女優となる者は存在する。[[競争]]過多から、その裏稼ぎは、単体女優でも、[[マスク]]、[[パーツ]]、[[美形]]など選ばれた一部の者に限られている。ほとんどの者は[[不採用]]になるため、普通のバイトで学費などを稼ぐ。 プロダクションはかつてに比べれば健全化し、ギャラなどもある程度は明らかにされるようになってきているが{{Sfn|中村淳彦|2012|p=52}}、しかし[[学歴]]や[[教養]]を求められることはなく、また法的[[知識]]も求められることもないため、それを逆手にとってギャラの持ち逃げ{{Sfn|いのうえせつこ|2002|p=133}}や、AV女優に偽って劣悪な撮影現場に送り出すなど{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=160-162}}といった例もある。また、過度のSMプレイにより刑事事件となった事案([[バッキー事件]])もある{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=165-168}}。 AV女優になる理由は様々であるが、AV人権倫理機構が行なった2021年のアンケートデータによれば68.4%が自分から応募。スカウトが8.4%。関係者に知り合いがいた、知人に勧められたなどが8.4%なっている{{R|現代ビジネス_20220521}}。 === 出演強要と高額違約金訴訟 === アダルトビデオに出演契約を意に反して結ばれ、拒否したとされる女性が、契約違反の違約金として2460万円請求された訴訟の判決が2015年9月に確定した。東京地裁によると女性は高校生の時、タレントとしてスカウトされ「営業委託契約」を原告の会社と結んだ。しかし、意に反して露出度の高いグラビア撮影をされ、20歳の時会社が無断でAV出演を決定。出演後、さらに出演契約を結ばされた。それによる精神的なショックもあって女性の体調が悪化。AVの出演を拒否したところ「違約金が1千万円かかる」と言われた。契約解除を会社に告知したところ本件訴訟が提起された。 被告の担当弁護士は「高額の違約金で脅され、AV出演を強要される事例は多い。重大な人権侵害だ」と述べている<ref>{{Cite web|和書|author=千葉雄高 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH9Y62KLH9YUTIL045.html |title=AV出演拒否した女性への違約金請求を棄却 東京地裁 |website=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |language=ja |date=2015-09-29 |accessdate=2016-06-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150929110615/http://www.asahi.com/articles/ASH9Y62KLH9YUTIL045.html |archivedate=2015-09-29 |deadlinkdate=2017-07-25}}</ref>。また判決で裁判官は「(AV女優は)本人の意に反して強要できない性質の仕事だ」として原告の請求を棄却した。 これらの事件を踏まえ、日本では2017年に[[AV人権倫理機構]]が設立された。 === アダルトモデルとしての活動 === AV女優という職業名からしてAV出演が本業となる業種であるが、表立ってヌードを生業とする職種が少ないことから、黎明期よりアダルトモデル、ヌードモデルとしても活動する人物が多い。1990年代前半に起こったヘアヌードブームの中心こそ一般女優やアイドルタレントであったものの、当時から桜樹ルイ、憂木瞳などが写真集を出版していた<ref name=":6">安田理央「エロのミカタ」Vol.26 集英社『週刊プレイボーイ』2023年3月13日号No.11 141頁</ref>。しかしインターネットでいくらでもヌード画像が見られるようになると、AV女優の写真集は姿を消していった。しかし2015年には年間37冊、2022年は93冊と、AV女優がモデルを務めるヌード写真集は徐々に増加傾向にある{{R|:6}}。 ジーオーティーの編集者・滑川博士は売り上げが計算できる<ref name=":7">安田理央「エロのミカタ」Vol.27 集英社『週刊プレイボーイ』2023年3月27日号No.12/13 137頁</ref>、AV女優やプロダクションにとってもモチベーションが高まるステータスとなっていることなどを理由に挙げている{{R|:7}}。また、2010年ごろからAV女優がモデルを務めるヌードデッサン用の「ヌードポーズブック」も各社から発売されている{{R|:7}}。 日本のAV女優のアジア圏での人気の高さから、昨今では海外向けにも少しずつではあるが製作されており、一般書籍や漫画と比べ翻訳コストがほとんどないのがメリットと指摘している{{R|:7}}。 === 引退とその後 === AV女優はその職業の性質上、おおよそ若く、性交経験が少ない、濡れやすい人が商品価値が高い{{Sfn|中村淳彦|2012|p=37}}。このため将来の保証は少ない職業であり{{Sfn|いのうえせつこ|2002|p=183}}、その職業としての寿命は一般的にはあまり長くない。またAV女優の職業意識に疑問が呈される向きもある{{Sfn|いのうえせつこ|2002|p=183}}。 人気が落ちると、契約更新が行われなくなるか、出演依頼が来なくなり引退となるが{{Sfn|中村淳彦|2012|p=169}}、そういったケースでなくとも、契約更改時の待遇悪化(あるいは企画落ち)・身内にばれたり・目標としていた貯金額の達成・撮影が過激になりすぎた、などを理由に引退を選ぶケースも見られる{{Sfn|中村淳彦|2012|p=204}}。デビューするときはデビュー作が用意されている女優は多いが、引退作があるのは一部の人気女優だけであり、ほとんどは何の告知もなく姿を消している。 専属女優は引退作を撮り終え発売の5カ月ほど前に、それ以外は情報解禁となる2カ月ほど前に引退を発表することが多い。名前を変えて再デビューする事も多々ある。 一方で、AV業界黎明期には一般的なものではなかった[[インターネット]]の普及や[[匿名掲示板]]の登場と共に、AV女優としての活動が家族や知人に露見するいわゆる「身内バレ」や、インターネット上で本名・実際の生年月日・居住地・通学先・勤務先などといった[[個人情報]]や[[プライバシー]]が晒され露見したことなどをきっかけに、AV女優が契約期間内であっても活動停止したり、引退に追い込まれるケースが多く見られるようになった<ref name="週プレ_20120313">{{Cite web|和書|url=http://wpb.shueisha.co.jp/2012/03/13/10250/ |title=AV女優の"身元バレ"はなぜ続出するのか? |website=[[週プレNEWS]] |publisher=[[集英社]] |language=ja |date=2012-03-13 |accessdate=2012-04-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120315005154/http://wpb.shueisha.co.jp/2012/03/13/10250/ |archivedate=2012-03-15 |deadlinkdate=2019-12-03}}</ref>。現役[[大学生]]がデビュー作の発売直前に通学先を暴露されて発売中止となった事例もある{{R|週プレ_20120313}}。このようなインターネット上での「暴露」が起きた際に、AV女優本人やAVメーカーがその内容について事実であると認めたことは無いが、実際に数多くのAV女優がこのようなことが起きたのを境に、活動を停止したり引退をしている{{R|週プレ_20120313}}。 2018年の[[AV人権倫理機構]]設立以降、出演作品の削除申請、二次使用料の受け取りが認められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/8646915 |title=「5年で削除申請」「二次利用報酬が支払われる」元セクシー女優が語るAV権利問題の実態 |website=ABEMA TIMES |publisher=[[AbemaTV]] |language=ja |date=2021-02-22 |accessdate=2021-02-24}}</ref>。2019年5月からは、それ以降に発売されたオムニバスや総集編における二次使用料が認められるようになった<ref>{{Cite web|和書|author=雪代すみれ |url=https://wezz-y.com/archives/82325/3 |title=元AV女優が明かす、ファンタジーに隠されたAV業界の実情 |website=wezzy |publisher=サイゾー |page=3 |language=ja |date=2020-10-23 |accessdate=2020-10-25}}</ref>。ただし2022年に施行されたAV出演被害防止・救済法により、総集編も事前の契約が必須となり、作るのが困難になったという。 なお、AV女優が所属事務所を変更して活動を再開させる場合、事務所との契約上、それまで使用していた芸名は、基本的には使えない(芸名変更)という慣例がある<ref>『[[スポーツ報知]]』2014年4月7日付</ref>が、例外もある。元女優で漫画家の峰まゆかはこの風習を「仁義」と理由を説明しつつも「誰にも得がない業界の慣例」「早い話がただの嫌がらせ」であると作品内で批判している<ref>峰まゆか「AV女優ちゃん」Vol.114 扶桑社『SPA!』2023年2月7日号100頁</ref>。 引退後は[[ソープランド]]などの性風俗産業へと転じていく者も多い{{Efn2|中村淳彦 (2012) p.199によれば、統計の取りようもないが中村の知る限りでは3分の2はこの道を選んでいるという。}}。この場合元AV女優と言う肩書きが付加価値として働く。残りは大半が一般人に戻るが、AVメーカーの広報あるいは撮影現場やプロダクションのマネージャーと言った職もあり{{Sfn|中村淳彦|2012|p=200}}、名前と経歴を生かしてフリーライターへの転身なども見られる{{Sfn|中村淳彦|2012|p=201}}。後述のように知名度を生かして女優やタレントへの転身も少なくない。 === 淫乱ブーム === [[File:Yūka Ōsawa at AVN Adult Entertainment Expo 2008.jpg|thumb|right|180px|[[晶エリー]](別名:大沢佑香、新井エリー)。[[レズビアン|レズ]]プレイをはじめ様々なハードプレイをこなした。]] 1987年から1989年{{Sfn|藤木TDC|2009|p=138}}、AV業界では一つのブームが巻き起こる。淫乱ブームである。それまでは女性は、される側・受け手の側であったものが、自ら積極的に性的快楽を求めるようなAVがブームとなった。[[藤木TDC]]は、その前段階として1986年頃から起こった、激しいセックスの最中に自らの快楽を笛をプープー吹くことで現すと言う作品「SMっぽいの好き」で著名な[[黒木香]]のブームがあったのではないかと主張している{{Sfn|藤木TDC|2009|pp=137-138}}。 代表例としては[[豊丸 (AV女優)|豊丸]]が挙げられる。彼女のデビュー作は1989年5月、『吸淫力 - 史上最強のワイセツ』。膣に[[大根]]を挿入し[[アナルセックス]]までこなし、自らも感じると言う作品である。豊丸は淫猥な演技で人気を博し、1988年には20本以上のAVに出演する{{Sfn|いのうえせつこ|2002|pp=146-147}}{{Sfn|藤木TDC|2009|p=140}}。文献ではその他、淫乱の嚆矢となった[[咲田葵]]『いんらんパフォーマンス GINZAカリカリ娘』(1987年5月){{Sfn|藤木TDC|2009|p=139}}、膣に[[バイブレータ (性具)|バイブ]]を7本挿入すると言うプレイを見せた亜利沙{{Sfn|藤木TDC|2009|p=139}}、痙攣失神・[[潮吹き (女性器)|潮吹き]]の[[沖田ゆかり]]{{Sfn|藤木TDC|2009|p=140}}などが紹介されている。なお潮吹きは1990年代以降、アダルトビデオの一つの要素として確立された{{Sfn|藤木TDC|2009|p=141}}。 === 一般芸能界との関連 === もともとは、ヌードモデルと言われていた頃は、芸能人やタレントの扱いではなかったが、1990年代以降、[[深夜放送]]の[[テレビドラマ|ドラマ]]や[[バラエティ番組]]や、コントなどのセクシーシーンにAV女優がレギュラーやゲストで出演することが多くなり、以後はAV女優のタレント化・アイドル化が進んだ。また、[[お色気番組]]としての代表格である『[[ギルガメッシュないと]]』や『[[殿様のフェロモン]]』などがあり、それらの番組にもAV女優が出演することで知名度を上げていた。 一般芸能界で最も成功した例として、その成功によってAV女優の地位や認知度を向上させた[[飯島愛]]や[[黒木香]]らが挙げられるが、この2人の他にも、[[及川奈央]]が子供向け[[特撮番組]]やNHK[[大河ドラマ]]に出演するなど大きな活躍を見せ{{Sfn|中村淳彦|2012|p=197}}、その後2008年以降はAV女優を中心に構成されたユニット[[恵比寿マスカッツ]]➝[[恵比寿★マスカッツ]]➝[[恵比寿マスカッツ1.5]]が人気を得た{{Sfn|中村淳彦|2012|p=198}}。 執筆した小説が映画化・漫画化されたほか、舞台・映画の主演などを行う[[みひろ]]、[[海賊版]]の流通をきっかけに[[香港]]・[[中華人民共和国|中国]]・[[台湾]]で大きな人気となっている[[蒼井そら]]や[[小澤マリア]]{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=197-198}}なども活躍している。文春オンライン編集部ではAV女優=日陰者のイメージを変えた先駆者として、前述の及川の名を挙げている<ref>{{Cite web|和書|title=いまも美しい伝説の元AV女優・及川奈央(41)はなぜスゴかったのか「初めての撮影では『泣いちゃったぁ』」《路上スカウト・ハードなジャンルへ・福山雅治との共演》 |url=https://bunshun.jp/articles/-/62286 |website=文春オンライン |access-date=2023-05-07 |last=「文春オンライン」特集班 |date=2023年5月7日}}</ref>。 [[MUTEKI]]レーベルが設立された2008年以降は、有名芸能人・著名人のAV女優転身が増加しているほか、元AV女優の一般芸能界進出も拡大している。 2010年代からは、各テレビ局におけるコンプライアンスの観点から、従来型のセクシーさで地上波進出する者は激減したものの、[[川上奈々美]]が現役AV女優として一般映画賞を受賞。また[[明日花キララ]]が「女性が美容整形でなりたい芸能人・有名人顔ランキング」で女性有名人を抑え1位を獲得し、[[三上悠亜]]、[[橋本ありな]]らもSNSを中心にファッションアイコンとして女性から知名度を得ている<ref>{{Cite web|和書|author=鎌田明里 |title=セクシー女優やキャバ嬢がインフルエンサー化。なぜ若い女性の憧れの存在になったのか? |url=https://agenda-note.com/customer/detail/id=1984 |website=Agenda note |publisher=[[ナノベーション]] |language=ja |date=2019-10-08 |accessdate=2020-07-26}}</ref>。以後、AV女優自体が女性層(ファン)をターゲットに売り出される傾向が強くなってきている。そのため彼女たちを呼称する際に女性から不快・嫌悪感を持たれやすい¨'''AV'''¨という言葉に代わってメディアでは'''セクシー女優'''またはモンロー女優と表現される(それ以前の時代は[[アダルトビデオ|AV]][[ギャル]]と表現されていた)。以前はアイドルや女優として活動が行き詰まったり、引退した芸能人がAV女優としてデビューするケースが目立ったが、近年はAV女優になるためにアイドル活動などの芸能活動を登竜門として、AV女優へ転向するケースも増えている。 このようにAV女優の存在・活躍が変化してきている。従来型のAV女優は日陰者的存在でありながらテレビ番組(主にお色気番組)に出演することで個々の活動や作品などを宣伝して知名度上げていかなければならなかったのに対し、現在ではSNSなどの普及や、AV自体が世間に認知されたことによってルックス・華やかな私生活・人間性などを自分から情報発信できるようになり、AVを見たことがなくても身近な存在として彼女たちを知れる時代になった事が理由として挙げられる{{R|:0}}。 === 賞イベント === AV女優を対象とした賞イベントを以下にまとめる。また出演した作品が受賞することによりその関連で表彰される、いわゆる作品賞もまとめる。 * [[ピンク大賞]] * [[スカパー!アダルト放送大賞]] * [[東京スポーツ映画大賞|東京スポーツ映画大賞(エンタテイメント賞)]]→[[AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜|AV OPEN]]([[AVグランプリ]](2008〜2009を含む)) * [[FANZAアダルトアワード|DMM.R18→DMM→FANZAアダルトアワード]] * [[このエロVRがすごい!]] === 世界各国における日本のAV女優人気 === {{Main|AV女優のアジア進出}} == AV女優のカテゴリー == {{Double image aside|right|Sakura Mana (紗倉まな) at Tokyo Game Show 2014 (2).jpg|180|Uehara Ai (上原亜衣) at Tokyo Game Show 2014 (2).jpg|180|[[紗倉まな]](左)と[[上原亜衣]](右)。両者は2014年9月に[[SODクリエイト]]から発売の『紗倉まな×上原亜衣 超高級二輪車ソープ嬢』で共演した。ただしカテゴリーは、紗倉が同メーカー専属の「単体女優」であるのに対し、上原は[[MOODYZ]]や[[クリスタル映像]]など他メーカーの作品にも出演する「企画単体女優」である。}} === 単体(専属)女優 === AV女優の中で最もランクが高いと見なされるのはごく一部であり、その女優の持つ外見・魅力・人気・知名度などで十分なヒットを見込める{{Sfn|中村淳彦|2012|p=34}}。こう言った女優を'''単体女優'''と呼ぶ。特定のメーカーと複数本あるいは長期の契約を持つケースが多く{{Sfn|中村淳彦|2012|p=34}}、'''(メーカー名)専属女優'''と呼ばれることもある。 また、メーカーとの契約が何らかのかたちで継続されなかった場合、女優は企画単体または企画となり、これを'''「企画落ち」'''と言う{{Sfn|中村淳彦|2012|p=37}}(ただし出演作を増やしたい、様々なメーカーの作品に出て出演ジャンルを広げたいなどの理由で自ら企画単体女優に転身する女優もいる)。契約切れとともに単体として他メーカーに移籍する女優もおり、一方でNGを解禁しないまま引退する女優もいる。 2022年時点の傾向として、NGプレイ解禁は増やせない、コスプレやプレイ内容の変化にも限度があることから、専属女優はプレイ以外でバリエーションが作れるドラマ作品が多くなり、それに対応できる演技力の素養が長く続ける条件となっている<ref>安田理央「エロのミカタ」Vol.25 集英社『週刊プレイボーイ』2023年3月6日号No.10 147頁</ref>。 出演料は比較的高く、中村(2012)によれば、'''100〜350万円(1本)'''{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=39-40}}、東村(2012)によれば'''50万円から'''{{Sfn|村西とおる|2011|p=198}}である(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割。また金額は撮影内容と契約により大きく異なるため、あくまで比較のために記すものである)。 ライターのたかなしは、「月給制のセクシー女優」と説明。ひとつのメーカに尽くす点を含め、一般的な会社員に似た働き方と例え、容姿や経歴など期待値に比例してギャラも高くなり、一方で作品の売れ行きにより契約金や期間の見直しも適宜行われると記述<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=元セクシー女優が業界の"給与システム"を暴露。「単体女優は月収300万円」は本当なのか {{!}} 日刊SPA! {{!}} ページ 2 |url=https://nikkan-spa.jp/1871912 |website=日刊SPA! |date=2022-11-19 |access-date=2023-01-15 |language=ja |last=たかなし亜妖}}</ref>。2022年時点で月収300万円はいないと断言しないが、極めて少なく、手取り70万から100万円であれば優秀だという{{R|:2}}。 メーカーやレーベルの看板となるため大事に扱われ、顔やスタイルを認められたことでもあるため、減額更新してでも専属にこだわる女優もいる{{Sfn|澁谷果歩|2020|p=34}}。新人で専属女優と企画女優の提示がどちらもあれば、よほどの悪条件でない限り、プロダクション側も専属を進めるという{{Sfn|澁谷果歩|2020|p=34}}。前述のたかなしは専属の肩書のために1本30万円台で契約を交わす場合もあるとしている{{R|:2}}。 なお、[[ビニ本]]の世界では1980年頃、「単体モデル」「単品モデル」と言う語が既に使われていた{{Sfn|藤木TDC|2009|pp=88-89}}。しかし藤木(2009)によれば、この場合は、女性が一人で登場し、男性との絡みが無いと言う意味での単体であり、そうでない女優が出演するビニ本は「カラミ本」と呼ぶ{{Sfn|藤木TDC|2009|p=88}}。AVの単体とは異なり、いずれの場合にせよ女優は一人である。 === 企画単体女優 === 後述の企画女優の中でも単体女優並みに人気が出て、出演依頼が集中し多数の作品に全く無制限で出演する場合がある{{Sfn|中村淳彦|2012|p=133}}。このような女優を'''企画単体女優'''(略称:キカタン)と呼ぶ<ref name=":5">安田理央『[[日本AV全史]]』(2023年、ケンエレブックス)196‐214頁</ref>。[[1998年]]-[[2002年]]頃に[[セルビデオ]]のブーム・メーカー急増と時を同じくして登場した。企画単体女優もその女優を主役として商業が成立するのであるが{{Sfn|中村淳彦|2012|p=35}}、特定メーカーとの複数本・長期の契約を持つものではなく1本単位の契約であり{{Sfn|中村淳彦|2012|p=35}}(いわゆる歩合制<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=元セクシー女優が業界の"給与システム"を暴露。企画単体女優の1本あたりの相場は |url=https://nikkan-spa.jp/1873215 |website=日刊SPA! |date=2022-12-01 |access-date=2023-01-15 |language=ja |last=たかなし亜妖}}</ref>)、2012年現在日本のAV業界ではこの企画単体女優の作品を軸として商品を展開している{{Sfn|中村淳彦|2012|p=35}}。AV女優全体の15 - 20%を企画単体女優が占める{{Sfn|中村淳彦|2012|p=43}}。名の知られている単体女優が枠から外れ移行する場合もある(逆に人気を獲得した企画単体女優が単体女優となる事もある)。 2000年代初頭はキカタン女優がブームとなった。この時期の代表例は[[長瀬愛]]、[[堤さやか]]、[[笠木忍]]、[[桃井望]]などで、前記4人は'''インディーズ四天王'''などと呼ばれたことがあった。特に長瀬は2001年に企画女優として初めてオレンジ通信AVアイドル賞を受賞。この年の同賞ベスト10には2位の笠木、6位[[七瀬ななみ]]、9位桃井、10位[[長谷川留美子]]と企画女優が5人ランクイン。この現象を受けて企画女優でも名前で作品が売れるようになった女優をキカタンと専門誌などで呼称するようになった{{R|:5}}。 その後の代表的な企画単体女優として、[[立花里子]]、[[紅音ほたる]]、[[成瀬心美]]{{Efn2|休業(引退)間際に[[宇宙企画]]の専属女優になったのち、現在はタレント、歌手として活動。}}、[[つぼみ (AV女優)|つぼみ]]{{Efn2|2013年9月から引退まで[[MOODYZ]]・[[ワンズファクトリー]]2社専属女優して活動した。}}、[[大槻ひびき]]、[[波多野結衣]]、[[上原亜衣]]{{Efn2|現在はタレント、YouTuber、[[実業家]]として活動。}}、[[初美沙希]]{{Efn2|企画単体女優時代の[[スカパー!アダルト放送大賞]]2016で4冠(通算6冠)を達成した後、引退間際に[[h.m.p]]の専属女優になる。}}などがいる。出演料は中村(2012)によれば30 - 80万円(日当){{Sfn|中村淳彦|2012|pp=39-40}}、村西(2011)によれば10万円{{Sfn|村西とおる|2011|p=198}}(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしによれば15万〜40万前後、平均20万円が相場という{{R|:3}}。 単体女優と異なり出演依頼さえあれば制限無く出演できるため、一度火が点くと、爆発的な人気を得、月産20本を越えるなどする場合がある。代表的な例を述べると、[[朝河蘭]]が2年で516本(月21本)、[[桃井望]]が2年で160本(月6本)、[[長瀬愛]]が3年で120本(月3本)、[[笠木忍]]が6年で200本(月2.7本)と言った具合である。特に1998年 - 2002年の企画単体登場初期にこの様な過酷な出演が多く見られた{{Sfn|中村淳彦|2012|pp=132-136}}。 2010年以降はイベント集客力の高い女優は出演依頼に跳ね返り、発売本数が維持されるうちに企画ヒットに巡り合い再ブレイクするというケースも増えている<ref name=":8">いんごま「AV業界において『適正AV』と『AV新法』は誰に福音をもたらしたか?」『アダルトメディア年鑑2024』(2023年、イースト・プレス)119-129頁</ref>。AVライターのいんごまは、このケースの代表例としてて[[波多野結衣]]、[[大槻ひびき]]、[[浜崎真緒]]らを挙げている<ref name=":8" />。 また専属女優が固定ギャラ支給なのに対し、企画単体女優は1本ずつの出演料を請求するため、広報活動、芸能活動や執筆料も別途請求でき、プロダクションにもよるものの給与体系が単体女優よりも明瞭であることも多い{{Sfn|澁谷果歩|2020|p=40}}。 たかなし亜妖は2022年時点の状況として、かつては企画単体女優と企画女優は明確に線引きがされていたが、企画作品で単体を張れる女優も素人作品やその他大勢作品に出演していることを踏まえ、垣根はなくなっており{{R|:3}}、名前が大きく出るか出ないかという作品ごとの扱いでしかなくなっている。 === 企画女優 === '''企画女優'''はAV制作側の作品コンセプトに沿ってカメラの前でセックスを行う{{Sfn|中村淳彦|2012|p=37}}。多くの女性の中の一人として出演する。パッケージで名前が推されることすら稀で{{Sfn|中村淳彦|2012|p=37}}(1人だけの出演でも珍しくない他、最初から芸名自体設定されていないこともある)、女優の質や知名度だけでは客を呼べない状態である{{Sfn|中村淳彦|2012|p=36}}(ただし名前が出ないということは親などの知人にAV出演がバレにくいということでもあり、その点から自ら企画女優になる場合もある)。AV女優全体の80 - 90%はこの企画女優である{{Sfn|中村淳彦|2012|p=43}}。 一般メディアに顔出しNG(パブ禁)という女優も多く存在し、SOD立ち上げ当初の[[高橋がなり]]はこの初歩的ルールを知らずに撮影現場に記者を集めてしまったがため、女優にサングラスをかけさせ撮影するという手法も編み出した<ref>''本橋信宏『新・AV時代 全裸監督後の世界』(2021年、文藝春秋・文春文庫)230‐231頁''</ref>。 出演料は中村(2012)によれば15-25万円(日当){{Sfn|中村淳彦|2012|pp=39-40}}、村西(2011)によれば5-6万円{{Sfn|村西とおる|2011|p=198}}(ただしいずれもプロダクションに支払われる出演料であり、AV女優の手に渡る金額はこれの数割)。たかなしは1本5万〜10万円が相場と記述{{R|:3}}。 著名な女優が出ていると作品からリアリティが消えるため、「素人もの」作品では企画女優を起用することが多く、企画女優も「割のいいバイト」感覚でで出演する者が多い{{Sfn|澁谷果歩|2020|pp=45-46}}。一方で企画単体女優との共演などから火が付き、追い上げるケースもある。代表例として2019年年間ビデオランキング1位となった『ボーイッシュで男友達みたいな彼女は隠れ巨乳でした』(ブロッコリー/[[妄想族 (アダルトビデオ)|妄想族]])は当時無名の[[夏川うみ|佐藤りこ]]が無記名で出演した作品であった。 === エキストラ女優 === 2010年代からは派生としてエキストラ女優という分野も生まれた<ref>{{Cite web|和書|url=https://nikkan-spa.jp/601565 |title=仕事は楽だが狭き門【AVエキストラ体験談】 |website=[[日刊SPA!]] |publisher=[[扶桑社]] |language=ja |date=2014-04-18 |accessdate=2020-06-28}}</ref>。ドラマの展開上必要な姉妹、母親役やいじめ役、友人役などの役回りを担う女優のこと<ref>{{Cite web|和書|url=https://times.abema.tv/articles/-/8673220 |title=約2000本のセクシービデオに出演! 歴7年のエキストラ女性が明かす裏方の楽しさ「趣味で生活してる」 |website=ABEMA TIMES |publisher=AbemaTV |language=ja |date=2021-09-06 |accessdate=2021-09-12}}</ref>。由来は台本上に「ex」と記述されることからであり、必ずしも[[エキストラ|エキストラ俳優]]と同義ではない。 契約上、男優との絡みはなく、脱ぐシーンも用意されないことが多く、企画女優同様パッケージや販売サイトに名前も表示されない。多くは事務所単位で声がかかるが、一定の演技力が必要不可欠であることから、監督やプロデューサーによっては指名することもあり、[[朝霧浄]]作品などでは一般ドラマ作品同様にエンディング後に出演者表記される、[[真咲南朋]]作品では指名した場合を「助演女優」と呼ぶなど、いわゆる企画女優と差別化が図られている。 2019年の真咲主催イベントでは[[星あんず]]、[[水城奈緒]]、[[涼南佳奈]]、[[さのさとり|藤波さとり]]の4名が代表的助演女優として出演した。 === 本番女優・疑似女優 === 日本にAVが発生したのは1981年{{Sfn|藤木TDC|2009|p=40}}、一般家庭にビデオデッキが普及しブームとなるのはおおよそ1982年以降となる。なお当時の人気女優に『ドキュメント ザ・オナニーPART2 女優・田口ゆかり』など約40本の表ビデオと10冊の裏本、その他裏ビデオにも出演し「裏ビデオの女王」と呼ばれた[[田口ゆかり]]がいる{{Sfn|藤木TDC|2009|pp=91-92}}。 当時は[[ビデ倫]]の[[モザイク処理|モザイク]]が非常に濃かったこともあり、モザイクの向こうで本番行為、すなわち[[陰茎]]の[[膣]]への挿入が行われていないことは半ば当たり前であった。特にルックスの良い、ランクの高い女優にとってこれが当てはまる{{Sfn|藤木TDC|2009|p=110}}。[[東良美季]]は『[[別冊宝島]]211 1億人のAV』で''「当時は<本番>と言えば<[[SM (性風俗)|SM]]>や<[[スカトロ]]>とさほど変わらない、かなりキワモノ的な行為だったのだ」''と語っている<ref>藤木TDC (2009) 『アダルトビデオ革命史』p.138 より孫引き</ref>。 ただし、これには「モデルプロダクション側の意向」もあったとも言われている。プロダクションは女優が人気を博せば、通常の芸能界への売り込みを考えており、そのため質の高い女優には、本番などのプレイを行わせることは良しとしなかったとされる{{Sfn|藤木TDC|2009|p=111}}。 また、ある人気AV女優は1986年、男性誌[[GORO]]でのインタビューで堂々と、撮影時には(モザイクの向こうでは)[[前張り]]を付けている、[[フェラチオ]]時には(モザイクの向こうでは)ガムテープで作られた物体を使用している、本番はやりません、などと答えていた{{Sfn|藤木TDC|2009|p=114}}。実際は本番をせずに本番をしている様に見せる行為は、[[疑似本番]]と呼ばれるようになった{{Sfn|藤木TDC|2009|p=115}}。いずれにせよ、本番行為を行うのはワンランク下とされる女優の仕事、という傾向があった{{Sfn|藤木TDC|2009|p=100}}。 しかし、疑似本番の全盛にも転機が訪れる。その一つとしてAV監督[[村西とおる]]の登場が挙げられる。彼はある時期より作品の中身が性行為・本番行為しか無いと言うビデオを、月産6本と言う勢いで量産する。これは海外ロケのスケジュールの都合上、演出のこだわりや撮り直しが行えなかったと言う事情もあるが、SMドキュメントシリーズなどは大ヒットし、本番ビデオは市民権を得た{{Sfn|藤木TDC|2009|pp=125-134}}。 もう一つは1993年以降に発生したセルビデオブーム(セルビデオと共に登場したビデ倫に捕らわれないシースルービデオ・薄消しの概念{{Sfn|藤木TDC|2009|p=210}}の一般化)である。モザイクのかけられる面積は小さくなり、モザイクの一辺も小さくなり(2000年以降には一辺1mm以下などと言う最早丸見えのものもあった。ただし大規模には流通しなかった{{Sfn|藤木TDC|2009|p=223}})、透過性が増した。そのため疑似本番でごまかせず本番を行うようになった。ビデ倫の強かったレンタル業界では疑似本番女優が多くいたが、彼女たちはセルビデオで用いられることはなかった{{Sfn|藤木TDC|2009|p=211}}。 なお1998年にはセルビデオ専属女優[[森下くるみ]]がデビュー。彼女は[[ソフト・オン・デマンド]]で活躍し、レンタル女優のセル流出を加速させた{{Sfn|藤木TDC|2009|pp=211-212}}。 === 長期専属女優 === ※2023年11月時点(発表済みのリリース予定も含む)、パッケージに「'''専属'''」表記があり、各メーカー専属女優の中でも'''専属状態が1年を超える'''女優をまとめる{{Efn2|同グループ内の他メーカー客演出演を含む専属メーカーからのみリリースの女優をまとめる。何らかの発表がない場合の一定の目安として、新作リリース停止(未公開編を含まない総集編・個人ベストを除く)6ヵ月で専属から外れたとみなす。}}<ref>[https://www.dmm.co.jp/mono/dvd/-/exclusive-actress/ AV主要メーカー専属女優リスト] - FANZA</ref>。'''太文字'''は2社専属、''斜体字''はメーカーデビュー、「復」は専属復帰、「卒」は卒業・引退予定。 {| class="wikitable" style="width:100%;font-size:small" !width="11%"|グループ!!メーカー!!レーベル!!女優{{Small|(期間)}} |- |rowspan="12"|[[WILL (アダルトビデオ)|WILL]]||colspan="2"|[[エスワン|S1]]||''[[夢乃あいか]]''{{Small|(2013年5月-)}} [[奥田咲]]{{Small|(2013年8月-)}} [[小島みなみ]]{{Small|(2014年3月-)}} [[葵つかさ]]{{Small|(2015年6月-)}} ''[[架乃ゆら]]''{{Small|(2017年11月-)}} ''[[河北彩花]]''{{Small|(2018年4月-)}} ''[[Miru (AV女優)|miru]]''{{Small|(2018年8月-)}} ''[[星宮一花]]''{{Small|(2018年10月-)}} ''[[鷲尾めい]]''{{Small|(2019年4月-)}} ''[[七ツ森りり]]''{{Small|(2020年8月-)}} ''[[凪ひかる]]''{{Small|(2020年10月-)}} ''[[小宵こなん]]''{{Small|(2021年5月-)}} ''[[香水じゅん]]''{{Small|(2021年7月-)}} ''[[楓ふうあ]]''{{Small|(2021年8月-)}} ''[[山手梨愛]]''{{Small|(2021年11月-)}} ''[[つばさ舞]]''{{Small|(2021年12月-)}} ''[[うんぱい]]''{{Small|(2022年-)}} ''[[宇野みれい]]''{{Small|(2022年3月-)}} ''[[未歩なな]]''{{Small|(2022年6月-)}} ''[[安達夕莉]]''{{Small|(2022年7月-)}} ''[[日向かえで]]''{{Small|(2022年8月-)}} ''[[似鳥日菜]]''{{Small|(2022年9月-)}} ''[[宮城りえ]]''{{Small|(2022年11月-)}} |- |[[MOODYZ]]||DiVA||''[[七沢みあ]]''{{Small|(2017年11月-)}} [[水卜さくら]]{{Small|(2018年2月-)}} ''[[中山ふみか]]''{{Small|(2019年12月-)}} ''[[八木奈々]]''{{Small|(2019年12月-)}} '''[[神宮寺ナオ]]'''{{Small|(2020年5月-)}} ''[[小野六花]]''{{Small|(2020年5月-)}} ''[[葵いぶき]]''{{Small|(2020年7月-)}} 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|FALENO{{Efn2|配信特化メーカーであるが流通部門をSODが担っているため、両者を提携グループとみなすことも出来る。}}||FALENOstar||[[吉高寧々]]{{Small|(2020年2月-)}} [[天使もえ]]{{Small|(2020年4月-)}} ''[[桃尻かなめ]]''{{Small|(2020年5月-)}} [[小野夕子]]{{Small|(2021年4月復-)}} ''[[時田亜美]]''{{Small|(2021年11月-)}} ''[[五十嵐なつ]]''{{Small|(2021年12月-)}} ''[[いちか先生]]''{{Small|(2022年6月-)}} ''[[三葉ちはる]]''{{Small|(2022年9月-)}} |- |DAHLIA||[[美乃すずめ]]{{Small|(2021年3月-)}} [[友田彩也香]]{{Small|(2021年3月-)}} [[穂高結花]]{{Small|(2021年9月-)}} |- |[[プレステージ (アダルトビデオ)|PRESTIGE]]||PRESTIGE||多数{{Efn2|デビュー作の前に系列の[[MGS動画]]から素人名義で配信作をリリースしている事が多い。}}||''[[鈴村あいり]]''{{Small|(2013年2月-)}} [[河合あすな]]{{Small|(2018年2月-)}} [[野々浦暖]]{{Small|(2019年2月-)}} [[涼森れむ]]{{Small|(2019年4月-)}} [[八掛うみ]]{{Small|(2020年11月-)}} [[美ノ嶋めぐり]]{{Small|(2021年5月-)}} [[七嶋舞]]{{Small|(2021年6月-)}} [[小鳩麦]]{{Small|(2021年9月-)}} [[流川夕]]{{Small|(2021年11月-)}} |} === リリースの多い女優 === <!--歴代&現役10位以内抜粋、引退者は現役時のカテゴリを表記。--> ※2023年11月時点{{Efn2|name="引退者"|引退者は引退作または最終取り卸し作発売時点。}}、[[FANZA|FANZA(旧称:DMM.R18)]]検索結果を基準とする{{Efn2|name="FANZA検索結果"|検索結果は総集編やBD・廉価版の重複を含むが、検索結果に含まれない廃盤・無名義・動画配信限定作・削除作などもあり実際とは誤差を含んでいる。}}。太字女優は総作品数・単体作品数ともに歴代10位以内を達成。 {| class="wikitable" style="width:100%;text-align:center;font-size:small" !デビュー!!女優名!!所属事務所!!女優カテゴリ{{Efn2|name="引退者"}} !作品数{{Efn2|name="FANZA検索結果"}}!!備考 |- !1997年!![[風間ゆみ]] |[[カプセルエージェンシー|capsule AGENCY]]|| rowspan="2" |専属(Madonna) |'''3,419'''|| rowspan="2" | |- !2002年 |[[友田真希]] |スタークラフト |977 |- !2003年 |[[吉沢明歩]]||[[aina group]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aina.co.jp/ |title=有限会社アイナ プロダクション |publisher=アイナ プロダクション |language=ja |accessdate=2015-04-05}}</ref>||専属(S1、MAXING) |1,248||2019年3月AV引退。現在はタレント活動。 |- !2004年!![[川上ゆう]] |[[y's promotion]]|| rowspan="3" |熟女系企画単体 |'''2,909'''|| rowspan="5" | |- ! rowspan="4" |2005年 |<!--5月-->[[村上涼子]]||サンプロ |'''1,584''' |- !<!--11月-->[[翔田千里]] |[[リズムプロモーション|RHYTHM PROMOTION]] |'''1,736''' |- |[[晶エリー]] | rowspan="2" |[[ティーパワーズ|T-POWERS]] 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|title=村西とおるのコワ〜いAV撮影現場の話 |publisher=[[宝島社]] |date=2011|isbn=978-4-7966-8042-4 |language=ja |ref=harv}} == 関連項目 == * [[セックスワーカー]] * [[ジャポルノ]] * [[性風俗産業]] * [[性風俗産業に対する差別]] * [[アイドル]] == 外部リンク == {{Commonscat|Porn actresses from Japan}} * [https://actress.dmm.co.jp/ AV女優情報 - FANZA] * [https://www.mgstage.com/list/actress_list.php 女優一覧 - MGS動画] {{アダルトビデオ}} {{アダルト・エンターテインメントの賞}} {{スカパー!アダルト放送大賞}} {{DMMアダルトアワード}} {{AV OPEN}} {{ピンク大賞 女優賞}} {{このエロVRがすごい!}} {{DEFAULTSORT:ええふいしよゆう}} [[Category:日本のAV女優|*]] [[Category:アイドル]] [[Category:ポルノグラフィ]] [[Category:日本の女性モデル]] [[Category:職業別の女性]]
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輪島大士
輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。 本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星、黄金の左、現役引退後はワジー。 金沢高等学校・日本大学の相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。 ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門。角界入りに際して高額な契約金が出されたのみならず、引退後の部屋継承も入門時点で決まっていた。幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。 1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子一家が観覧していた(皇太子、皇太子妃、徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後の横綱審議委員会ではわずか25分間の討議で満場一致で横綱推薦を決めた。初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った。さらに戦後生まれでは初めての横綱昇進となる。また輪島以降横綱に昇進した力士は全員が戦後生まれとなる。横綱推薦を伝えられた輪島は「オレ、いい星の下に生れたんだな」と語り、昇進伝達式では使者に対し「謹んでお受けします。今後は一生懸命努力をします」と答えた。 同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の1981年1月場所を最後に現役引退した。 この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。 大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。 横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。 ユルフンの力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった。 輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。 横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。 1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。 1981年1月29日には当時の後援会長であった安倍晋太郎通商産業大臣・洋子夫妻の媒酌により花籠親方の長女・中島五月と結婚披露宴を行った。スポーツ紙などによると、結婚式にかけた費用は1億5000万円、招待客は約3000人と報じられた。 「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは通算成績は23勝21敗、優勝は1976年、翌77年の2年間で輪島5回、北の湖5回と「輪湖時代」(りんこじだい)を築く。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という記録を持つ。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))。 1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は下記の通り 1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回) 1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回) このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し逆転優勝、北の湖は場所後に横綱昇進する)。 このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録する。 1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。 輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。 北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。1974年9月場所から1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗、優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回。1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回。 1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関(花籠)一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。 報知新聞の評論家として、毎場所15日間のコラムコーナー「花籠診断」を担当した。 1982年4月、妻・五月が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。年寄名跡は他の親方に売れば高値がつくため、担保として認めた債権者がいて、それ以前にも同じことをした親方はいたといわれるが、これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。 結局これが原因で、同年12月に廃業となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。 大相撲を離れた輪島は、1986年4月に全日本プロレスに入門。輪島はそれ以前までは力道山の試合をテレビで見たぐらいで、プロレスについての知識はそれ以上は無かった。だが、輪島の後援者となっていた会社経営者からプロレス入りを勧められ、大相撲からプロレス入りした日大の後輩の石川敬士の存在を思い出して彼に相談したことで入門が決まった。1986年4月7日、ジャイアント馬場と会談した輪島は後援者と相談するために一旦入門の話を保留したが、翌日の日刊スポーツの1面にこの話がすっぱ抜かれて後に引けなくなって入門に至ったという話がある。 多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった。 入門後、全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラーであるパット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。瞬発力や馬力や柔軟性等の身体能力が高く、練習も真面目にやっていたためスタミナもそれなりにあった。但し大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という欠点があり、流れが途切れてしまうことがよくあった。 またプロレスにおいて最も重要な受身技術については「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」と述べていたように決してうまいほうではなく、頭を打ってしまうこともあった。38歳と高齢での入門に加え、元横綱という立場で迅速なデビューを前提とされたため、プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんど無かったのも一因だったようである。 阿修羅・原のバックドロップを受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。また、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。 8月に馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、相撲タックルで勝利。日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った。その後、オリジナル技のゴールデン・アームボンバーをフィニッシュとするようになった。11月には地元七尾で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。 「お守り」として馬場が付いたタッグでのアメリカデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのように専用バスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし、仲田龍によれば、輪島が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っており、練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」、「練習をしなかった」というのは当たらなかった。 輪島のデビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、全日本と業務提携を結んでいたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳により、否定される。ジャパンプロの代表であった長州力は1987年3月に新人の輪島が主役扱いされることに不満を抱き全日本を離脱したが、後に現場監督として新日本プロレスから(問題行動や暴言を繰り返していた)元横綱の北尾光司の専属フリー契約を解除する際に北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上では入れ違いに終わったジャパン勢からも輪島の真摯な姿勢は認められていた。 リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。 レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながり、天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。 必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年田上明により使われ(田上のものは輪島のように何度か揺らさずに一度の溜めから浴びせていく)、さらに喉輪を取り入れて形を変えた「喉輪落とし」が後に日米で多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身で既にトップレスラーであった天龍と激闘を展開したりと、プロレスでのデビュー時の年齢やキャリアの浅さを考慮すればかなりの活躍を見せていた。 1988年12月27日に引退した。事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。膝や首の怪我等による体力の限界や、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。プロレス引退後、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。 プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。 福澤朗(当時・日本テレビアナウンサー)の「好きな食べ物は?」「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「マグロ!」「ブリ!」「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。 また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ?」という具合になっていた。 この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。 その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、キューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の水産物販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場するなどした。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。1996年2月に23歳年下の元モデルの一般女性と結婚した。2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった。 2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。 2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた。その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)。 大相撲九州場所13日目の2015年11月20日、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、直腸癌による多臓器不全により62歳で死去。翌日の11月21日、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた。 2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。70歳没。関係者の話によると自宅のソファーの上で死亡したとのことである。同年10月15日、葬儀・告別式が、東京都・青山葬儀所で執り行われた。この日の喪主挨拶で、夫人が「最後は自宅のソファーでテレビを見ながら、静かに眠るように座ったまま、亡くなっていました。ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は一人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました」とその安らかな様子を語った。 死後の2020年10月24日、ラジオななおで追悼特別番組「黄金の左永遠に」が放映された。相撲甚句歌手でシンガーソングライターの北脇貴士が司会を務め、輪島の幼馴染が幼少期の逸話など紹介した。東京スポーツ新聞社の番記者であった柴田惣一も電話で出演し、輪島がプロレス修業で渡米した際の逸話を語った。輪島が2011年に七尾市内で行われたイベントに出演した際の音源なども披露された。 2022年になり輪島の墓所が七尾市の常福寺に建立されていたことが明らかにされている 大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった。 輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった。 立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された。一方で小兵であったため変化をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった大受も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は決まり手に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった。 自身の死去の際、その当時現役大関であった豪栄道は「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた。 輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。 下記に輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 上記の通り、20連勝以上を3回記録している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星、黄金の左、現役引退後はワジー。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "金沢高等学校・日本大学の相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門。角界入りに際して高額な契約金が出されたのみならず、引退後の部屋継承も入門時点で決まっていた。幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。 1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子一家が観覧していた(皇太子、皇太子妃、徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後の横綱審議委員会ではわずか25分間の討議で満場一致で横綱推薦を決めた。初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った。さらに戦後生まれでは初めての横綱昇進となる。また輪島以降横綱に昇進した力士は全員が戦後生まれとなる。横綱推薦を伝えられた輪島は「オレ、いい星の下に生れたんだな」と語り、昇進伝達式では使者に対し「謹んでお受けします。今後は一生懸命努力をします」と答えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の1981年1月場所を最後に現役引退した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ユルフンの力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1981年1月29日には当時の後援会長であった安倍晋太郎通商産業大臣・洋子夫妻の媒酌により花籠親方の長女・中島五月と結婚披露宴を行った。スポーツ紙などによると、結婚式にかけた費用は1億5000万円、招待客は約3000人と報じられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは通算成績は23勝21敗、優勝は1976年、翌77年の2年間で輪島5回、北の湖5回と「輪湖時代」(りんこじだい)を築く。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という記録を持つ。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は下記の通り", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回) 1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し逆転優勝、北の湖は場所後に横綱昇進する)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。1974年9月場所から1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗、優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回。1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関(花籠)一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "報知新聞の評論家として、毎場所15日間のコラムコーナー「花籠診断」を担当した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1982年4月、妻・五月が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。年寄名跡は他の親方に売れば高値がつくため、担保として認めた債権者がいて、それ以前にも同じことをした親方はいたといわれるが、これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "結局これが原因で、同年12月に廃業となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大相撲を離れた輪島は、1986年4月に全日本プロレスに入門。輪島はそれ以前までは力道山の試合をテレビで見たぐらいで、プロレスについての知識はそれ以上は無かった。だが、輪島の後援者となっていた会社経営者からプロレス入りを勧められ、大相撲からプロレス入りした日大の後輩の石川敬士の存在を思い出して彼に相談したことで入門が決まった。1986年4月7日、ジャイアント馬場と会談した輪島は後援者と相談するために一旦入門の話を保留したが、翌日の日刊スポーツの1面にこの話がすっぱ抜かれて後に引けなくなって入門に至ったという話がある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "入門後、全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラーであるパット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。瞬発力や馬力や柔軟性等の身体能力が高く、練習も真面目にやっていたためスタミナもそれなりにあった。但し大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という欠点があり、流れが途切れてしまうことがよくあった。 またプロレスにおいて最も重要な受身技術については「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」と述べていたように決してうまいほうではなく、頭を打ってしまうこともあった。38歳と高齢での入門に加え、元横綱という立場で迅速なデビューを前提とされたため、プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんど無かったのも一因だったようである。 阿修羅・原のバックドロップを受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。また、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "8月に馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、相撲タックルで勝利。日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った。その後、オリジナル技のゴールデン・アームボンバーをフィニッシュとするようになった。11月には地元七尾で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "「お守り」として馬場が付いたタッグでのアメリカデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのように専用バスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし、仲田龍によれば、輪島が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っており、練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」、「練習をしなかった」というのは当たらなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "輪島のデビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、全日本と業務提携を結んでいたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳により、否定される。ジャパンプロの代表であった長州力は1987年3月に新人の輪島が主役扱いされることに不満を抱き全日本を離脱したが、後に現場監督として新日本プロレスから(問題行動や暴言を繰り返していた)元横綱の北尾光司の専属フリー契約を解除する際に北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上では入れ違いに終わったジャパン勢からも輪島の真摯な姿勢は認められていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながり、天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年田上明により使われ(田上のものは輪島のように何度か揺らさずに一度の溜めから浴びせていく)、さらに喉輪を取り入れて形を変えた「喉輪落とし」が後に日米で多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身で既にトップレスラーであった天龍と激闘を展開したりと、プロレスでのデビュー時の年齢やキャリアの浅さを考慮すればかなりの活躍を見せていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1988年12月27日に引退した。事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。膝や首の怪我等による体力の限界や、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。プロレス引退後、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "福澤朗(当時・日本テレビアナウンサー)の「好きな食べ物は?」「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「マグロ!」「ブリ!」「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ?」という具合になっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、キューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の水産物販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場するなどした。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。1996年2月に23歳年下の元モデルの一般女性と結婚した。2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた。その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "大相撲九州場所13日目の2015年11月20日、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、直腸癌による多臓器不全により62歳で死去。翌日の11月21日、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。70歳没。関係者の話によると自宅のソファーの上で死亡したとのことである。同年10月15日、葬儀・告別式が、東京都・青山葬儀所で執り行われた。この日の喪主挨拶で、夫人が「最後は自宅のソファーでテレビを見ながら、静かに眠るように座ったまま、亡くなっていました。ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は一人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました」とその安らかな様子を語った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "死後の2020年10月24日、ラジオななおで追悼特別番組「黄金の左永遠に」が放映された。相撲甚句歌手でシンガーソングライターの北脇貴士が司会を務め、輪島の幼馴染が幼少期の逸話など紹介した。東京スポーツ新聞社の番記者であった柴田惣一も電話で出演し、輪島がプロレス修業で渡米した際の逸話を語った。輪島が2011年に七尾市内で行われたイベントに出演した際の音源なども披露された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2022年になり輪島の墓所が七尾市の常福寺に建立されていたことが明らかにされている", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった。", "title": "取り口など" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった。", "title": "取り口など" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された。一方で小兵であったため変化をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった大受も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は決まり手に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった。", "title": "取り口など" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "自身の死去の際、その当時現役大関であった豪栄道は「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた。", "title": "取り口など" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "下記に輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "上記の通り、20連勝以上を3回記録している。", "title": "主な成績" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "", "title": "主な成績" } ]
輪島 大士は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。 本名は輪島 博。血液型はA型。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星、黄金の左、現役引退後はワジー。
{{画像提供依頼|顔写真|date=2021年5月|cat=人物}} {{Infobox 力士 |名前 = 輪島 大士 |画像 = |説明 = |四股名 = 輪島 大士 |本名 = 輪島 博 |愛称 = ワジー<br/>蔵前の星<ref>[https://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_02 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref><br/>黄金の左 |生年月日 = {{生年月日と年齢|1948|1|11|no}} |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1948|1|11|2018|10|8}} |出身 = [[石川県]][[七尾市]] |身長 = 185cm |体重 = 132kg |BMI = 38.57 |所属部屋 = [[花籠部屋]] |得意技 = 左四つ<br />寄り<br />[[下手投げ]] |現在の番付 = 引退 |最高位 = 第54代[[横綱]] |生涯戦歴 = 673勝234敗85休(68場所) |幕内戦歴 = 620勝213敗85休(62場所) |優勝 = 幕内最高優勝14回<br />十両優勝1回<br />幕下優勝2回 |賞 = [[殊勲賞]]3回<br />[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]2回 |初土俵 = [[1970年]]1月場所(幕下付出)<ref name="nishonoo22"/> |入幕 = [[1971年]]1月場所<ref name="nishonoo22"/> |引退 = [[1981年]]3月場所<ref name="nishonoo22"/> |引退後 = [[花籠部屋]][[師匠]] |他の活動 = [[プロレスラー]]<br />[[タレント]] |趣味 = |備考 = |作成日時 = [[2018年]][[10月9日]] }} '''輪島 大士'''(わじま ひろし、[[1948年]](昭和23年)[[1月11日]] - [[2018年]](平成30年)[[10月8日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3493446.html|title=大相撲・元横綱の輪島大士さん死去、70歳|accessdate=2018-10-09|website=TBS NEWS|language=jp}}</ref>)は、[[石川県]][[七尾市]]出身で[[花籠部屋]]に所属した[[大相撲]][[力士]]、第54代[[横綱]]、[[全日本プロレス]]所属の元[[プロレスラー]]、元[[タレント]]。 本名は'''輪島 博'''(わじま ひろし)。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。[[ニックネーム]]は[[蔵前国技館|蔵前]]の星、黄金の左<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/sumo/9419|title=相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-01-12|accessdate=2020-11-16}}</ref>、現役引退後はワジー<ref name="nishonoo22">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p22</ref>。 == 生涯 == === ライバル貴ノ花との対戦 === [[金沢高等学校]]・[[日本大学]]の相撲部で活躍。高校2年時には[[大鵬幸喜|大鵬]]が[[二所ノ関部屋 (1909-2013)|二所ノ関部屋]]へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/01/20/kiji/K20130120005020780.html?feature=related 大鵬さんしのぶ 曙「オーラが違った」北の富士「あの人以上はいないから」] Sponichi Annex 2013年1月20日 07:12 </ref>大学では2年連続で[[学生横綱]]に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、[[同志社大学]]の逸見憲治([[逸見政孝]]の実弟)であった。日大卒業前の[[1970年]]、[[花籠部屋]](師匠は元[[幕内]]・[[大ノ海久光|大ノ海]])に入門し、同年1月場所に[[幕下付出]](60枚目格)で[[初土俵]]を踏んだ。[[東京農業大学]]出身の長浜(元[[小結]]・[[豊山広光|豊山]]、後の[[年寄]]・[[湊 (相撲)|湊]]→[[立田川 (相撲)|立田川]])は大学時代からの[[ライバル]]である。 [[ちゃんこ]]番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇<ref name="nishonoo7071">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p69-70</ref><ref group="注釈">そのため、付き人はいるものの、普段の世話を行うことはなく、輪島自身も誰が付き人かを知らなかったという話がある。また、稽古場では、まわしを締めるのを隣接する大学の土俵で行ったほか、地方場所では宿舎ではなくホテルに宿泊していたという。</ref>で入門。角界入りに際して高額な契約金が出されたのみならず、引退後の部屋継承も入門時点で決まっていた<ref>[https://www.bbm-japan.com/_ct/17196431 【連載 名力士たちの『開眼』】小結・豊山広光 編 土俵で得た教訓を人生に生かすも勝負のうち[その2]<nowiki/>] ベースボール・マガジン社WEB 2018-09-17</ref>。[[幕下]]を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で[[十両]]入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際には[[リンカーン・コンチネンタル]]を乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした<ref name="wajinum">Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p78</ref>。 [[1972年]]9月場所では[[千秋楽]]に[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]との[[水入り]]の大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに[[大関]]に昇進した(大関昇進を機に、[[番付]]の[[四股名]]を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の[[上皇明仁|皇太子]]一家が観覧していた(皇太子、[[上皇后美智子|皇太子妃]]、[[徳仁|徳仁親王]]の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり<ref>『相撲』(別冊師走号)20ページ</ref>、インタビュー記事での「[[清國勝雄|清國]]、[[琴櫻傑將|琴櫻]]、[[大麒麟將能|大麒麟]]の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた<ref>『相撲』(別冊師走号)21ページ</ref>。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していた<ref>『相撲』(別冊師走号)22ページ</ref>が、大関になって4場所目の[[1973年]]5月場所を全勝優勝で飾り、場所後の[[横綱審議委員会]]ではわずか25分間の討議で満場一致で横綱推薦を決めた<ref name="asa0529">朝日新聞1973年5月29日付朝刊総合面</ref>。初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、'''史上初の学士・本名横綱'''<ref group="注釈">後年[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|『大相撲ジャーナル』]]2014年4月号118頁に寄せられた[[遠藤聖大|遠藤]]の四股名命名を巡る投書には「石川県出身力士は本名のままが好きならしく、輪島、[[出島武春|出島]]は横綱、大関に昇進しても改名しなかった」と輪島の例も出されていた。</ref>が誕生した。それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った<ref>{{Cite journal ja-jp|journal = 大相撲ジャーナル|serial = 2018年11月号|publisher = アプリスタイル|pages = 8}}</ref>。さらに戦後生まれでは初めての横綱昇進となる。また輪島以降横綱に昇進した力士は全員が戦後生まれとなる。横綱推薦を伝えられた輪島は「オレ、いい星の下に生れたんだな」<ref name="asa0529"/>と語り、[[昇進伝達式]]では使者に対し「'''謹んでお受けします。今後は一生懸命努力をします'''」<ref name="asa0530">朝日新聞1973年5月30日付夕刊社会面</ref>と答えた。 同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった<ref group="注釈">関取昇進前に貴ノ花に食事を奢らせるといった通常極めて無礼と言える態度を取った輪島を貴ノ花は許した。学生時代の輪島と稽古場で対戦して敗れた経験から実力や将来性を評価したためであった。</ref>。「[[角界]]のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した[[玉の海正洋|玉の海]]と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも[[前頭|平幕]]時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の[[1981年]]1月場所を最後に現役引退した。 この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の[[魁傑將晃|魁傑]](後の年寄・[[放駒]])の3人で“[[阿佐ヶ谷]]トリオ”と呼ばれた。 === 本名の横綱誕生 === 大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の[[番付]]制度が確立した[[明治]]以降、[[江戸時代]]を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を[[四股名]]にしていた横綱となっている(外国出身力士が[[帰化]]し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の[[下手投げ]]を得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった<ref name="nishonoo22"/>。トレードマークの金色の[[廻し]]<ref name="wajinum"/>とかけて'''「黄金の左」'''と言われ一世を風靡した<ref name="nishonoo22"/><ref group="注釈">なお北の湖は、「輪島は左だけでなく右からの攻めも非常に強く、それで左下手投げが決まっていた」と語っている(平成初期のビデオシリーズ「大相撲大全集 昭和の名力士 輪島・北の湖」より)。</ref>。下手投げを得意とする力士は大成しないという[[ジンクス]]を破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」<ref group="注釈">相撲はすり足が基本で「足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する」という考えからか、ランニングはあまり好まれなかった。他方で[[琴風豪規|琴風]]は左膝の大怪我に見舞われてから暫くランニングを取り入れたことがあり、記者にその意図を問われた際に自ら「ランニングはリハビリ」と答えたことがある。</ref>と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「[[稽古]]」を「練習」<ref group="注釈">[https://www.asahi.com/articles/ASN9T52CBN9CUTIL053.html?iref=pc_rellink_02 鍋に熱燗2本注いだ北の湖さん ぼそりと「下積みが…」] 朝日新聞DIGITAL 2020年9月26日 11時00分 (文・抜井規泰、2021年4月2日閲覧) : これは歴史上輪島に限ったことではなく、令和期には関取衆の中にも稽古を「練習」と呼ぶような角界の伝統に馴染まない者がいる。</ref>と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「[[天才]]」という声もあった。 [[横綱土俵入り]]については、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い[[北の湖敏満|北の湖]]とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったと[[やくみつる]]が考察している。<ref group="注釈">[[相撲 (雑誌)|『相撲』]]2013年11月号、90頁。せり上がりの際の、「重たい岩をも支える腕の形」という[[羽黒山政司|羽黒山]]の頃まで保たれてきた本質が失われているとして、[[白鵬翔|白鵬]]や[[日馬富士公平|日馬富士]]の土俵入りが批判されている。</ref> [[廻し#廻しをめぐる戦術と勝負規定|ユルフン]]の力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p33</ref>。 輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、[[千代の富士貢|千代の富士]]や[[鷲羽山佳和|鷲羽山]]などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、[[高見山大五郎|高見山]]などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった[[金星 (相撲)|金星]]12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。<ref group="注釈">後に[[曙太郎|曙]]が[[貴闘力忠茂|貴闘力]]戦でタイ記録を樹立。</ref> 横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、[[土俵]]上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時[[柏戸剛|柏戸]]が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。 [[1978年]]に入ると、輪島は3月場所の右[[膝]][[靭帯]]の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる<ref group="注釈">なお、輪島の足の裏は土踏まずが大きく切れ上がった形状をしているため、元来寄られると弱かった。稽古不足の時期にはスタミナが続かないことによりそれが顕著になった。</ref><ref name="wajimaotoroe">『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p47</ref>。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った<ref name="wajimaotoroe"/>。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・[[金城興福|栃光]]・[[栃赤城雅男|栃赤城]]・[[双津竜順一|双津竜]]など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた<ref group="注釈">そのためか千代の富士には一番勝ちたい力士は輪島と名前を挙げられていた。</ref>。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。[[1979年|1979]] - [[1980年]]の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である[[荒勢永英|荒勢]]が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]や[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。 [[1981年]]1月29日には当時の後援会長であった[[安倍晋太郎]][[経済産業大臣|通商産業大臣]]・[[安倍洋子|洋子]]夫妻の媒酌により花籠親方の長女・中島五月と結婚披露宴を行った<ref name="Bunshun">[https://bunshun.jp/articles/-/13198?page=3 暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実(3/6ページ)] 文春オンライン 2019/08/09(2020年1月22日閲覧)</ref><ref name=example1>{{cite journal ja-jp|journal=スポーツ報知 大相撲ジャーナル|serial=2018年11月号|publisher=アプリスタイル|pages=11}}</ref>。スポーツ紙などによると、結婚式にかけた費用は1億5000万円、招待客は約3000人と報じられた<ref name="Bunshun"/>。 === 輪湖時代 === 「[[横綱#大横綱|昭和の大横綱]]」と言われた[[北の湖敏満|北の湖]]とは通算成績は23勝21敗、優勝は1976年、翌77年の2年間で輪島5回、北の湖5回と「'''輪湖時代'''」(りんこじだい)を築く<ref>北の湖の大関昇進直後は「輪北時代」の表記も見られた(朝日新聞1974年1月24日付朝刊スポーツ面)</ref>。また、[[1973年]]11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、[[休場]]しながらの優勝(12勝2敗1休)という記録を持つ<ref group="注釈">[[1989年]]3月場所で優勝した千代の富士は14日目の[[大乃国康|大乃国]]戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、[[不戦勝|不戦敗]]の扱い。</ref>。[[1976年]]・[[1977年]]は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽[[相星]]決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))。 1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は下記の通り {| class="wikitable" |- !場所 !!輪島成績 !!北の湖成績 !!優勝力士!!備考 |- |1976年1月場所||12勝3敗||13勝2敗||'''北の湖'''||'''千秋楽2敗同士相星決戦'''で、北の湖勝利。 |- |1976年3月場所||13勝2敗||10勝5敗||'''輪島'''||千秋楽対戦は、輪島勝利。 |- |1976年5月場所||13勝2敗||13勝2敗||'''北の湖'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。'''輪島勝利。優勝決定戦は、北の湖勝利。 |- |1976年7月場所||14勝1敗||12勝3敗||'''輪島'''||'''千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦。''' 輪島勝利。 |- |1976年9月場所||12勝3敗||10勝5敗||魁傑||千秋楽対戦は、輪島勝利。 |- |1976年11月場所||13勝2敗||14勝1敗||'''北の湖'''||'''千秋楽1敗同士相星決戦'''で、北の湖勝利。 |- |1977年1月場所||13勝2敗||12勝3敗||'''輪島'''||'''千秋楽2敗同士相星決戦'''で、輪島勝利。 |- |1977年3月場所||12勝3敗||15勝0敗||'''北の湖'''||千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |- |1977年5月場所||11勝4敗||12勝3敗||若三杉(後の若乃花(2代))||千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |- |1977年7月場所||15勝0敗||13勝2敗||'''輪島'''||'''千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗'''で対戦。輪島勝利。 |- |1977年9月場所||10勝5敗||15勝0敗||'''北の湖'''||千秋楽対戦は、北の湖勝利。 |- |1977年11月場所||14勝1敗||13勝2敗||'''輪島'''||'''千秋楽1敗同士相星決戦'''で、輪島勝利。 |} 1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)<br/> 1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)<br/> このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し逆転優勝、北の湖は場所後に横綱昇進する)。 このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な[[上手投げ]]を打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前[[廻し]]を引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の[[切り返し]]で降し、大鵬に次ぎ[[双葉山定次|双葉山]]と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録する。 1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。<ref group="注釈">2位は、[[白鵬翔|白鵬]]-[[日馬富士公平|日馬富士]]の10回(平成24年5月場所〜平成25年11月場所)。この間の両者は白鵬4勝-6勝日馬富士。また相星決戦は2回(全勝同士=H24.7、1敗同士=H25.11)。優勝圏内での対戦1回(H24.9)。また、両者横綱同士に限ればこの両者の対戦は7回連続となり、[[朝青龍明徳|朝青龍]]-白鵬と並ぶ。ちなみに、輪島-北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、[[曙太郎|曙]]-[[貴乃花光司|貴乃花]]の27回に次いで、史上2位。</ref> ==== 輪湖の対戦 ==== 輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。 {| class="wikitable" |- !場所 !!対戦日!!輪島勝敗<br/>(通算成績) !!北の湖勝敗<br/>(通算成績) !!優勝力士!!備考 |- |1972年7月場所||13日目||○(1)||●(0)||高見山||'''初対戦''' |- |1972年9月場所||12日目||○(2)||●(0)||北の富士|| |- |1972年11月場所||-||-||-||琴櫻||対戦なし。輪島新大関 |- |1973年1月場所||初日||●(2)||○(1)||琴櫻|| |- |1973年3月場所||10日目||○(3)||●(1)||北の富士|| |- |1973年5月場所||4日目||○(4)||●(1)||'''輪島(2)'''|| |- |1973年7月場所||7日目||○(5)||●(1)||琴櫻||輪島新横綱 |- |1973年9月場所||8日目||○(6)||●(1)||'''輪島(3)'''|| |- |1973年11月場所||5日目||○(7)||●(1)||'''輪島(4)'''|| |- |1974年1月場所||初日||●(7)||○(2)||'''北の湖(1)'''|| |- |1974年3月場所||12日目||●(7)||○(3)||'''輪島(5)'''||北の湖新大関 |- |1974年5月場所||'''千秋楽'''||○(8)||●(3)||'''北の湖(2)'''|| |- |1974年7月場所||'''千秋楽'''||○(9)||●(3)||'''輪島(6)'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦'''。輪島勝利。優勝決定戦も輪島が勝利 |- |1974年9月場所||'''千秋楽'''||○(10)||●(3)||'''輪島(7)'''||北の湖新横綱 |- |1974年11月場所||'''千秋楽'''||○(11)||●(3)||魁傑|| |- |1975年1月場所||'''千秋楽'''||○(12)||●(3)||'''北の湖(3)'''|| |- |1975年3月場所||-||-||-||貴ノ花||輪島休場により対戦なし |- |1975年5月場所||-||-||-||'''北の湖(4)'''||輪島休場により対戦なし |- |1975年7月場所||-||-||-||金剛||輪島休場により対戦なし |- |1975年9月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(4)||貴ノ花|| |- |1975年11月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(5)||三重ノ海|| |- |1976年1月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(6)||'''北の湖(5)'''||'''千秋楽2敗同士の相星決戦''' |- |1976年3月場所||'''千秋楽'''||○(13)||●(6)||'''輪島(8)'''|| |- |1976年5月場所||'''千秋楽'''||○(14)||●(6)||'''北の湖(6)'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦'''。優勝決定戦は北の湖勝利 |- |1976年7月場所||'''千秋楽'''||○(15)||●(6)||'''輪島(9)'''||'''千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦''' |- |1976年9月場所||'''千秋楽'''||○(16)||●(6)||魁傑|| |- |1976年11月場所||'''千秋楽'''||●(16)||○(7)||'''北の湖(7)'''||'''千秋楽1敗同士の相星決戦''' |- |1977年1月場所||'''千秋楽'''||○(17)||●(7)||'''輪島(10)'''||'''千秋楽2敗同士の相星決戦''' |- |1977年3月場所||'''千秋楽'''||●(17)||○(8)||'''北の湖(8)'''||'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利 |- |1977年5月場所||'''千秋楽'''||●(17)||○(9)||若三杉(のちの若乃花(2代)|| |- |1977年7月場所||'''千秋楽'''||○(18)||●(9)||'''輪島(11)'''||'''千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦''' |- |1977年9月場所||'''千秋楽'''||●(18)||○(10)||'''北の湖(9)'''|| |- |1977年11月場所||'''千秋楽'''||○(19)||●(10)||'''輪島(12)'''||'''千秋楽1敗同士の相星決戦''' |- |1978年1月場所||'''千秋楽'''||●(19)||○(11)||'''北の湖(10)'''|| |- |1978年3月場所||-||-||-||'''北の湖(11)'''||輪島休場により対戦なし |- |1978年5月場所||'''千秋楽'''||●(19)||○(12)||'''北の湖(12)'''|| |- |1978年7月場所||14日目||●(19)||○(13)||'''北の湖(13)'''||'''13戦全勝同士で対戦'''。'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利 |- |1978年9月場所||-||-||-||'''北の湖(14)'''||輪島休場により対戦なし |- |1978年11月場所||14日目||○(20)||●(13)||若乃花(2代)|| |- |1979年1月場所||13日目||●(20)||○(14)||'''北の湖(15)'''|| |- |1979年3月場所||14日目||●(20)||○(15)||'''北の湖(16)'''||'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利 |- |1979年5月場所||14日目||○(21)||●(15)||若乃花(2代)|| |- |1979年7月場所||13日目||○(22)||●(15)||'''輪島(13)'''|| |- |1979年9月場所||'''千秋楽'''||●(22)||○(16)||'''北の湖(17)'''|| |- |1979年11月場所||14日目||●(22)||○(17)||三重ノ海|| |- |1980年1月場所||-||-||-||三重ノ海||輪島休場により対戦なし |- |1980年3月場所||14日目||●(22)||○(18)||'''北の湖(18)'''|| |- |1980年5月場所||14日目||●(22)||○(19)||'''北の湖(19)'''|| |- |1980年7月場所||-||-||-||'''北の湖(20)'''||輪島休場により対戦なし |- |1980年9月場所||14日目||●(22)||○(20)||若乃花(2代)|| |- |1980年11月場所||13日目||○(23)||●(20)||'''輪島(14)'''|| |- |1981年1月場所||14日目||●(23)||○(21)||千代の富士||輪湖最後の対戦 |} 北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。1974年9月場所から1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗、優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回。1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回。 === 現役引退後 === [[1981年]]3月場所中に[[引退]]し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で[[花籠部屋#花籠部屋 (1953-1985) 大ノ海・輪島時代|花籠部屋]](※[[平成]]時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の[[引退相撲]]を目前にして亡くなったため、[[断髪式]]では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関(花籠)一門の総帥格であった[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が止め鋏を入れた<ref group="注釈">この止め鋏の際、二子山に付き添い、先代花籠の子息が先代の遺影を持って土俵に上がっている。</ref>。 [[スポーツ報知|報知新聞]]の評論家として、毎場所15日間のコラムコーナー「花籠診断」を担当した<ref name="example">{{cite journal ja-jp|journal=スポーツ報知 大相撲ジャーナル|serial=2018年11月号|publisher=アプリスタイル|pages=10}}</ref>。 [[1982年]]4月、妻・五月が自殺未遂(その後[[離婚]])、[[1985年]]11月に[[角界]]では前代未聞の、[[年寄名跡]]「[[花籠]]」を実妹の経営する[[料亭]]の借金の[[担保]]にしていたことが表面化し、[[日本相撲協会]]は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。年寄名跡は他の親方に売れば高値がつくため、担保として認めた債権者がいて、それ以前にも同じことをした親方はいたといわれるが<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=sumo-jikenshi201712210011 風化させるな 大相撲事件史(11/15ページ)] JIJI.COM 2022年07月12日18時00分 (2022年8月10日閲覧)</ref>、これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。<ref name="nishonoo7071"/> 結局これが原因で、同年12月に[[引退#大相撲|廃業]]<ref>日刊スポーツ 2017年11月22日</ref><ref group="注釈">現在(2019年5月時点)の相撲協会の規定でいうところの“退職”に相当</ref>となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた[[放駒部屋]]へ移籍した<ref name="nisho40">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p40</ref>。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが[[1986年]][[5月23日]]の夕刻に首を吊り[[自殺]]するという悲劇を生んだ。 === プロレスラー転向 === {{Infobox プロレスラー | 名前 = '''輪島 大士 ''' | リングネーム = 輪島 大士 | 本名 = 輪島 博 | ニックネーム = 黄金の左 | 身長 = 185cm | 体重 = 125kg<ref>プロレス転向会見の時点では103kgと答えた。 : [https://www.youtube.com/watch?v=rHcK29IbSpc 輪島大士プロレス転向記者会見 1986 Japan] 実際の映像 </ref> | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1948|1|11|no}} | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1948|1|11|2018|10|8}} | 出身地 = [[石川県]][[七尾市]] | 所属 = | スポーツ歴 = [[大相撲]] | トレーナー = [[ジャイアント馬場]]<br />[[パット・オコーナー]]<br />[[ネルソン・ロイヤル]] | デビュー = [[1986年]][[8月7日]] | 引退 = [[1988年]]12月 }} 大相撲を離れた輪島は、[[1986年]]4月に[[全日本プロレス]]に入門<ref>[https://hochi.news/articles/20181011-OHT1T50086.html スポーツ報知・相撲レスラー輪島がいたから、新生UWFが生まれた!?(2018年10月12日)]</ref>。輪島はそれ以前までは[[力道山]]の試合をテレビで見たぐらいで、プロレスについての知識はそれ以上は無かった。だが、輪島の後援者となっていた会社経営者からプロレス入りを勧められ、大相撲からプロレス入りした日大の後輩の石川敬士の存在を思い出して彼に相談したことで入門が決まった。1986年4月7日、ジャイアント馬場と会談した輪島は後援者と相談するために一旦入門の話を保留したが、翌日の日刊スポーツの1面にこの話がすっぱ抜かれて後に引けなくなって入門に至ったという話がある。 多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた<ref name="shikyopro">[https://number.bunshun.jp/articles/-/832167 わずか2年8カ月で歴史を変えた男。輪島大士はプロレス界の触媒だった。] Number Web 2018/10/16 16:30(文・堀江ガンツ、株式会社文藝春秋、2019年3月20日閲覧)</ref>。輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における[[両国国技館]]の使用禁止を通告し、全日本は[[2004年]]まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。これにより、プロレスのビッグマッチには[[日本武道館]]が馴染みの舞台となった<ref name="shikyopro"/>。 入門後、全日本の総帥[[ジャイアント馬場]]のツテでアメリカの名レスラーである[[パット・オコーナー]]や[[ネルソン・ロイヤル]]から指導を受ける<ref name="shikyopro"/>。瞬発力や馬力や柔軟性等の身体能力が高く、練習も真面目にやっていたためスタミナもそれなりにあった。但し大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を[[寝技]]に持ち込むことをせずに待ってしまう」という欠点があり、流れが途切れてしまうことがよくあった。 またプロレスにおいて最も重要な受身技術については「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」と述べていたように決してうまいほうではなく、頭を打ってしまうこともあった。38歳と高齢での入門に加え、元横綱という立場で迅速なデビューを前提とされたため、[[プロレス]]の基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんど無かったのも一因だったようである。 [[阿修羅・原]]の[[バックドロップ]]を受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。また、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。 8月に馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、相撲タックルで勝利。日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った<ref name="shikyopro"/>。その後、オリジナル技の'''[[ゴールデン・アームボンバー]]'''をフィニッシュとするようになった。11月には地元[[七尾市|七尾]]で日本国内でのデビュー戦を[[タイガー・ジェット・シン]]とのシングルマッチで行い注目を集め、いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率<ref name="shikyopro"/>。なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで[[田上明]]が復活させ、後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える[[喉輪]]の形にし、さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた[[喉輪落とし]]へと発展させ、これは[[チョークスラム]]とも呼ばれ世界的に流行した。他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、[[ザ・ファンクス]]の指導により、[[スピニング・トーホールド]]等も用いていた。 「お守り」として馬場が付いたタッグでのアメリカデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのように専用バスでなく[[新幹線]]を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が[[週刊プロレス]]にも掲載されている。しかし、[[仲田龍]]によれば、輪島が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である[[渕正信]]らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っており、練習もきちんと行っていた<ref group="注釈">「輪島は練習しない」というイメージが広がったきっかけは、[[1987年]][[11月7日]]に行われた輪島対天龍源一郎の試合においてテレビ解説を務めていた馬場が、「輪島は最初はよかったが、だんだん稽古しなくなりましたね」とコメントしたことも大きい。しかし、件の試合では天龍に徹底的に攻められて戦闘不能に陥るほど、当時輪島の膝の怪我が悪化していた。</ref>とのことであり、「全く仲間がいなかった」、「練習をしなかった」というのは当たらなかった。 輪島のデビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、全日本と業務提携を結んでいた[[ジャパンプロレス]]の大型新人であった[[馳浩]]が「輪島さんと同じリングに上がるんですか」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳により、否定される。ジャパンプロの代表であった[[長州力]]は1987年3月に新人の輪島が主役扱いされることに不満を抱き全日本を離脱したが<ref name="shikyopro"/>、後に現場監督として[[新日本プロレス]]から(問題行動や暴言を繰り返していた)元横綱の[[北尾光司]]の専属フリー契約を解除する際に北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上では入れ違いに終わったジャパン勢からも輪島の真摯な姿勢は認められていた。 [[リック・フレアー]]の[[NWA世界ヘビー級王座]]に挑戦、[[スタン・ハンセン]]との[[PWF]]ヘビー級新王者決定戦に出場するなど[[マッチメイク]]面では優遇された(輪島が初登場した[[全日本プロレス中継]]で20%を超える[[視聴率]]を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。 レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の[[天龍源一郎]]との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながり、天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを[[八百長]]視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。新日本にUターンしていた[[前田日明]]は、この2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという<ref name="shikyopro"/>。 必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年田上明により使われ(田上のものは輪島のように何度か揺らさずに一度の溜めから浴びせていく)、さらに喉輪を取り入れて形を変えた「喉輪落とし」が後に日米で多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身で既にトップレスラーであった天龍と激闘を展開したりと、プロレスでのデビュー時の年齢やキャリアの浅さを考慮すればかなりの活躍を見せていた。 [[1988年]]12月27日に引退した<ref name=example1/>。事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。膝や首の怪我等による体力の限界<ref name="shikyopro"/>や、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー[[石川孝志|石川敬士]]の退団が一因だともされている。その後、[[SWS]]へと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。プロレス引退後、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。 === 相撲評論家として === プロレス引退後は、大相撲解説などの他[[タレント]]としても活躍。[[日本テレビ放送網|日本テレビ系]]「[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]」に準レギュラーで出演し、いわゆる[[天然ボケ]]タレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。 [[福澤朗]](当時・日本テレビアナウンサー)の「好きな食べ物は?」「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「[[マグロ]]!」「[[ブリ]]!」「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、[[とんねるず]]の[[石橋貴明]]から'''ワジー'''と言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。 また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に[[江戸文字]]体や[[根岸流 (書風)|相撲字]]体・[[勘亭流|歌舞伎文字]]体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ?」という具合になっていた。 この番組には[[輪島功一]]も準レギュラーで出演していたが、[[石橋貴明]]は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは[[輪島直幸]]を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである<ref>2010年8月9日のスポーツニッポン「我が道」のコーナーより</ref>。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、[[木梨憲武]]と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。 その後、[[アメリカンフットボール|アメフト]]・[[Xリーグ]]のクラブチーム「[[ROCBULL]]」の総監督に就任し、[[キューバ]]の相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の水産物販売会社[[スギヨ]]のCMにも'''スギヨふるさとの味大使'''として登場するなどした。また一時期TBS系「[[サンデーモーニング]]」等で相撲解説を担当していた。[[1996年]]2月に23歳年下の元モデルの一般女性と結婚した<ref name=example1/>。2008年に還暦を迎えたが、[[還暦土俵入り]]は行われなかった<ref group="注釈">[[池田雅雄]]は「[[相撲 (雑誌)|相撲]]」の『質疑応答』で、輪島が事実上、破門されるような形で相撲協会を去った経緯からして、還暦土俵入りが行われることはないであろうという私見を述べていた。ただし、親方となった後に協会を退職した横綱経験者でも、[[太刀山峯右エ門|太刀山]]([[1937年]][[2月6日]])・[[北の富士勝昭|北の富士]]([[2002年]][[2月23日]])のように、還暦土俵入りを行った例は存在する。また土俵入りしなくても還暦記念に赤い綱を作製し受取る場合も有るが、輪島は公表されず不明である。</ref>。 [[2009年]][[1月18日]]、大相撲初場所8日目のNHK[[大相撲中継]]にデーモン小暮閣下(現・[[デーモン閣下]])と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の[[1985年]]11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。 === 晩年 === 2013年秋に[[喉頭癌|下咽頭癌]]への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた<ref>[https://www.daily.co.jp/newsflash/general/2014/07/16/1p_0007149676.shtml 元横綱輪島さん がん手術で声失った] デイリースポーツ 2014年7月16日閲覧</ref>。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ[[高田川部屋]]<ref>現在は貴ノ花(藤島→二子山)の愛弟子である元関脇・[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](藤島部屋→二子山部屋)が師匠。</ref>へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140910-1364393.html 輪島氏が筆談で「元気になりました」]nikkansports.com 2014年9月10日9時1分 紙面から</ref>。その達が関取に昇進し、現在の[[輝大士]]という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20141002-1376131.html 輝 輪島と同じ黄金まわしに意欲] 日刊スポーツ 2014年10月2日(2014年10月27日閲覧)</ref><ref group="注釈">ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年11月号(九州場所展望号)37頁によると、高田川が下の名前の読みについて勘違いしていた上に確認を取っても輪島本人がその勘違いに気付かなかったという。</ref>。 大相撲九州場所13日目の[[2015年]][[11月20日]]、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、[[直腸癌]]による[[多臓器不全]]により62歳で死去。翌日の[[11月21日]]、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1569498.html 輪島氏、北の湖さんへ「頑張ったね、俺はもう少し」]日刊スポーツ 2015年11月22日</ref>。 [[2018年]][[10月8日]]、咽頭がん及び[[肺癌|肺がん]]による衰弱のため、東京都内の自宅で死去。{{没年齢|1948|1|11|2018|10|8}}。関係者の話によると自宅のソファーの上で死亡したとのことである<ref>以下すべて2018年10月9日の報道<br />[https://www.yomiuri.co.jp/sports/sumo/20181009-OYT1T50022.html 元横綱・輪島大士さん死去…「輪湖時代」築く] - 読売新聞<br />[http://www.sankei.com/sports/news/181009/spo1810090014-n1.html 元横綱輪島が死去 優勝14度、「輪湖時代」築く] - 産経ニュース<br />[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810090000300.html 元横綱輪島大士さんが死去 70歳、「黄金の左」] - 日刊スポーツ<br />[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/09/kiji/20181009s00005000109000c.html 大相撲の元横綱・輪島こと輪島大士氏が死去 70歳 輪湖時代を築く] - スポニチアネックス</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/10/kiji/20181009s00005000441000c.html 元横綱・輪島さん死去「黄金の左」で活躍 北の湖と「輪湖時代」] - スポーツニッポン新聞社、2018年10月10日配信、同日閲覧</ref>。[[2018年|同年]][[10月15日]]、葬儀・告別式が、東京都・[[青山葬儀所]]で執り行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/15/kiji/20181015s00005000119000c.html|title=デーモン閣下、輪島さん葬儀で歌捧げる 「破天荒な横綱だから」いつも通りの姿で別れ|date=2018-10-15|accessdate=2018-10-15|newspaper=スポニチアネックス|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>。この日の喪主挨拶で、夫人が「最後は自宅のソファーでテレビを見ながら、静かに眠るように座ったまま、亡くなっていました。ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は一人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました」とその安らかな様子を語った<ref>{{Cite news|title=輪島さん 673個の金色風船に送られて旅立ち 最期は「自宅のソファーで眠るように」 - スポニチ Sponichi Annex スポーツ|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/15/kiji/20181015s00005000168000c.html|accessdate=2018-10-15|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>。 死後の2020年10月24日、[[ラジオななお]]で追悼特別番組「黄金の左永遠に」が放映された。相撲甚句歌手でシンガーソングライターの[[北脇貴士]]が司会を務め、輪島の幼馴染が幼少期の逸話など紹介した。[[東京スポーツ新聞社]]の番記者であった[[柴田惣一]]も電話で出演し、輪島がプロレス修業で渡米した際の逸話を語った。輪島が2011年に七尾市内で行われたイベントに出演した際の音源なども披露された<ref>[https://www.hokkoku.co.jp/subpage/LS20201016601.htm 輪島さんの思い出語る ラジオななお 24日に追悼特番] 北國新聞 2020/10/16 01:02 (2020年11月7日閲覧)</ref>。 2022年になり輪島の墓所が七尾市の[[常福寺 (七尾市)|常福寺]]に建立されていたことが明らかにされている<ref>{{Cite news |和書|title=ヒーロー巡礼 輪島大士さん|newspaper= スポーツニッポン(Sonichi Annex)東京版|date= 2022-05-29|author= 四釜良人|url= |agency=スポーツニッポン新聞社|page=28|accessdate=2022-05-30}}</ref> == 取り口など == 大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった<ref name="siwasu1">『相撲』(別冊師走号)26ページ</ref>。 輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり<ref name="siwasu2">『相撲』(別冊師走号)25ページ</ref>、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった<ref name="siwasu2"/>。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった<ref name="siwasu1"/><ref name="siwasu4">『相撲』(別冊師走号)26ページから27ページ</ref>。 立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された<ref name="siwasu3">『相撲』(別冊師走号)24ページから25ページ</ref>。一方で小兵であったため[[変化 (相撲)|変化]]をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった[[大受久晃|大受]]も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は[[決まり手]]に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった<ref name="siwasu2"/>。 自身の死去の際、その当時現役大関であった豪栄道は「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた<ref name="geininni">[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810110000174.html 輪島さん 親方時代も豪快 芸人にまわし着けさせる] 日刊スポーツ 2018年10月11日8時41分 (2023年4月9日閲覧)</ref>。 == エピソード == * 子供の頃から自分の名前をサインで練習していた。このことから、輪島が本名に愛着を持っていて四股名を付けたくなかったとする資料もある<ref>『相撲』(別冊師走号)p84</ref>。横綱昇進時には「横綱の責任の重さはわかっているが、これまでのペースで気楽にいきます。親方と話合ったが改名は考えていません」<ref name="asa0530"/>と話した。横綱昇進後も四股名を付けなかったのは本名と同じ市名の[[輪島市]]のPRの案件があったためとされる。 *日大相撲部に入学する時に上京してきて、ある食堂の会計をツケですませようとしたが断られたため、「石川県では有名人やお役人は、初めてでもツケが利くんですよ」と言いながら渋々金を払った。 *十両になった時に羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の[[琴乃富士宗義|琴乃富士]](輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」と頼んだ。 *十両を4場所で通過したが、この時期には負け越したり、番付運の悪さに泣かされたりした。後者については1970年9月場所、西十両6枚目で13勝2敗・十両優勝を決めたにもかかわらず、翌場所東十両筆頭に据え置かれるという不運も経験した。十両の定員が28人となった1967年5月場所以降、十両で13勝を挙げた力士が翌場所も十両に据え置かれたケースは12回発生したが、同場所の輪島のケースは最も高い地位で「13勝据え置き」となった記録である。 * 大関昇進伝達式では「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/12/01/kiji/K20111201002145860.html 昭和の大関昇進口上は短め…輪島は“ド忘れ”] Sponichi Annex 2011年12月1日 06:00 </ref> * 現役時代の私生活の派手さ、豪快さについては自ら「銀座は高速のサービスエリアみたいなもの」と表現している<ref name="service"/>。 *1973年5月場所、大関時代の輪島は途中から縁起をかついで14日目までひげを剃らずに土俵へ上がった。この無精ひげについては場所後の[[横綱審議委員会]]で委員の一人、[[高橋義孝]](ドイツ文学者、のち委員長)から「見苦しい、相手も不愉快だろう」と苦言を呈した<ref name="asa0529"/><ref name="wakige">[https://www.jiji.com/jc/v4?id=201705takayasu0002 「胸毛の横綱」再来か 高安=力士と「毛」あれこれ] 時事通信 </ref>。後の2019年2月26日、[[日本相撲協会]]は力士規定によって力士のひげを禁止することを正式に通達している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASM2V4TZ4M2VUTQP01C.html 相撲協会、験担ぎのひげ禁止に 「汚い」「見苦しい」] 朝日新聞DIGITAL 2019年2月26日17時35分(朝日新聞社、2019年3月1日閲覧)</ref>。この横審では同じく委員の[[前田和三郎]]からも「人格上の問題はないか」との質問も出た<ref name="asa0529"/>。 *1973年11月場所、12日目の貴ノ花戦では手のひらを負傷(右手人差指中指間裂傷)したものの勝利した。しかし、この傷のため満足な相撲が取れず、13日目は[[北の富士勝昭|北の富士]]に外掛けで敗れ、連勝が27でストップ。連勝途切れたこともあり休場し、14日目は不戦敗、15日目は休場<ref name="center">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p40</ref>。優勝して登場した輪島は、インタビューで「私は今幸運に酔っている。幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」ととんでもないコメントを残す。なお、大相撲の歴史上、休場したものの優勝した力士は他に1989年3月場所の千代の富士(14勝1不戦敗)だけであり、星取表に「休」を含む優勝者は、この時の輪島だけである。 ** この時について輪島は「千秋楽に病院で男子ゴルフの『ダンロップフェニックス』の放送を見ていたら、テロップでいきなり、〈輪島優勝〉と出て驚いたよ。看護師が“理事長から電話です”というから、てっきりタニマチのゴルフ場の理事長かと思って出たら、相撲協会の理事長だった。『これから大銀杏結って来てほしい』といわれて慌てて会場に向かったんだ」と冗談を言っている<ref name="service">週刊ポスト2018年10月26日号</ref>。 * 現役時代を通してスタミナ面が課題であり、そのため1974年7月場所前には精を付けようと[[泥鰌]]を3匹一気飲みしたことがある<ref name="6kaime">『相撲』(別冊師走号)29ページ</ref>。 *1974年7月場所前、稽古を終えた輪島は記者から質問をされた。同年5月場所前の靖国神社奉納相撲の時に北の湖が「輪島の力は落ちた。大受は大関からも落ちるぜ」と怪童らしくこだわりも遠慮もない言葉を口にしたが、これがある週刊誌に掲載され、それを見た輪島が怒っているのでは?という内容の質問であった。ところが輪島は「オレ、知らないよ。新聞も雑誌も読まないからな」と答えた。その一方で「だけど、北の湖だってもうじき糖尿病でガクッだぜ」と肩を落とす真似をして見せ、北の湖が放ったとされる言葉に対して反撃を加えた<ref name="6kaime" />。 *現役時代に、横綱ながらも[[週刊ポスト]]に「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になった<ref group="注釈">北の湖も輪島に誘われる形で参加したことがある。</ref>が、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来た<ref group="注釈">北の湖は[[松本ちえこ]]から女性体験を再三聞かれてしどろもどろだったと伝わっている。</ref>と言われ、同コーナーは打ち切られている。 * 地方巡業の時、ホテルに泊まる時は、ベッドを使わず、畳を持ち込んで寝ていた。「腰のことを考えたら」という理由だった<ref>{{cite journal ja-jp|journal=スポーツ報知 大相撲ジャーナル|serial=2018年11月号|publisher=アプリスタイル|pages=10}}</ref>。 * 同門の[[隆三杉太一|隆三杉]](後に小結に昇進、17代[[常盤山]])がまだ序二段だった頃、隆三杉が[[五木ひろし]]のファンであることを知った輪島は、「お前が十両になったら五木ひろしに会わせてやる」と隆三杉に言った。それから3年後、隆三杉が十両に昇進して勝ち越しを決めた時、輪島は約束通り、五木ひろしの[[ディナーショー]]のチケットを隆三杉に与えた。隆三杉は憧れの五木ひろしに会えたことよりも、横綱でありながら下っ端の序二段だった自分との約束を忘れずに守ってくれた輪島の誠実さに感激したという<ref>{{Cite web|和書|title=「相撲界に入ってから今まで」(中旬)横綱力士が約束を守ってくれた {{!}} ハートフル講話録 {{!}} 心のともしび 鹿児島教区懇談会|url=https://kokotomo.net/2012/08/1514|website=kokotomo.net(2012年8月11日)|accessdate=2021-01-13|publisher=浄土真宗鹿児島教区}}</ref>。 *横綱時代の付け人だった[[三杉磯拓也|三杉磯]](7代[[峰崎]])は、[[木村銀治郎 (3代)|3代木村銀治郎]]の著書「大相撲と鉄道」中の対談で輪島について「いや、いい人なんだけどね、人に無関心だから」と話している。巡業のとき、通常は[[着流し]]と染め抜き、替えを二枚ほどと[[襦袢|肌襦袢]]などで荷物をまとめるところを、分からないため持っているものを全部持っていきほとんど使わなかったという<ref>{{Cite book|和書|title=大相撲と鉄道 きっぷも座席も行司が仕切る!?|date=2021年2月15日|publisher=鉄道出版社|pages=103-106}}</ref>。 *[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](9代[[高田川 (相撲)|高田川]])は「輪島さんは変わった人。他の部屋の親方は、新弟子なんか相手にしないけど、かわいがってくれた。反物をくれたりもした」「横綱なのに、いばりちらしたりしない。人間的にすごい。亡くなった親方(元貴ノ花)と相通じるものがあったのかもしれない」と輪島の人柄について語った<ref>{{Cite web|和書|title=親交深い高田川親方「器の大きな方」輪島さん悼む - 大相撲 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810100000006.html|website=nikkansports.com(2018年10月10日)|accessdate=2021-06-19|language=ja}}</ref>。 * 長男の輪島大地は[[2017年]]の[[第99回全国高等学校野球選手権大会]]で[[天理高等学校]]の[[投手]]として、準々決勝の[[明豊中学校・高等学校|明豊]]高校戦でリリーフでの[[登板]]を果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1875017.html|title=天理の元横綱輪島の長男大地、初登板も満塁弾被弾|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2017-08-20|accessdate=2018-02-04}}</ref>。 * 後年、元大鳴戸親方の[[高鐵山孝之進]]が、大相撲の[[八百長]]問題を告発した際に、輪島の行った八百長行為についても告発したが、その際人間性について「とにかくデタラメな男」「金と女にだらしない」と酷評した。八百長についても「輪島は(普段の豪遊の影響もあって)金がないため、横綱、大関では一般的な、金銭による星の「買取」が出来ず、その場所で負けてもらった分を翌場所で自分が負ける事で返す「貸し借り」で八百長を行っていた。」と暴露している。しかし、輪島の実力自体は否定しておらず、星の貸し借りが出来たのも「前場所で借りた星をいくつか返しても、[[ガチンコ]]で横綱を維持する最低ラインである10勝を挙げる自信があったからだ。」としており、自身の対戦経験からも「本当に強かった。」「14回しか優勝できなかったのが不思議」と評している。 *2019年7月に出版された「真・輪島伝 番外の人」([[武田頼政]]著)では、元妻・五月の一人称で<u>元妻側から見た輪島の姿</u>が書かれている。五月は輪島との結婚を不安に思っていたが、父の花籠から「あいつだって髷を切れば変わるさ、決して悪いやつじゃないんだから」と説得されて結婚に至ったという<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/13198?page=2 暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実(2/6ページ)] 文春オンライン 2019/08/09(2020年1月22日閲覧)</ref>。 **戦後は、巡業の勧進元として暴力団関係者が関わることもあった。師匠の11代花籠も[[山口組]]3代目組長の[[田岡一雄]]の助力を受けていたという。そのような過去の因習もあり、輪島と結婚前に[[共政会]]理事長の山田久のもとに挨拶に行ったと述懐されている<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/13198 暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実(1/6ページ)] 文春オンライン 2019/08/09(2020年1月22日閲覧)</ref>。 **元妻は「輪島の金銭感覚や職業倫理は相撲社会の来し方とはまったく関係ありません。もちろん山田会長からの薫陶などでもありません」「生まれながら大きくズレていたようにしか思えない」とまで述べている。しかし11代花籠に可愛がられて育ち、両親が大変な苦労をして大きくしてきた部屋を中島家以外の者に継がせるのは嫌だろうと察していたという<ref>{{Cite web|和書|title=暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実|url=https://bunshun.jp/articles/-/13198|website=文春オンライン(2019年8月9日)|accessdate=2020-03-04|first=武田頼政|last=|publisher=}}</ref>。部屋を継ぐつもりで結婚したが、結婚指輪はレンタルで挙式・新婚旅行は後援会やテレビ局の経費で行われ、結婚費用で輪島が身銭を切ることは無かったという<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/13198?page=5 暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実(5/6ページ)] 文春オンライン 2019/08/09(2020年1月22日閲覧)</ref>。 * 事実上の破門と呼べる年寄株を巡る事件に関して、本人は[[パット・オコーナー]]が自身にプロレスの指導を施していた頃、記者に対して料亭の経営に困った妹を助けるためにやったので後悔していないと答えていた。プロレスのアメリカ遠征に行った際は、相手を心配させまいと現地での生活を楽しんでいることをアピールするために部屋の中でラジオを最大音量で流しながら国際電話で日本に向けて通話した。また、プロレス引退から数年後のある時、親友の貴ノ花に関するネガティブな情報を記者が聞き出そうとすると「よくわからないけど、貴ノ花はそんなことするやつじゃないよ」と、親友を守るために頭から頑なに否定した<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/85748 輪島さんが真顔で語った廃業の真相「後悔してない」] 東スポWeb 2018年10月11日 11時00分(2020年3月16日閲覧)</ref>。 * 同郷で大相撲・プロレス界で同僚だった[[天龍源一郎]]は後年、「[[ミーハー]]だけど憎めない人で、みんなに好かれていた」「とにかく頑強で、プロレスラーのえげつない攻撃にも根を上げることがなかった」と回想している<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/70865?page=1 |title=天龍さんが語る“盟友”「石橋貴明、見てた?」輪島さんはミーハーだけど憎めない! |publisher=朝日新聞AERA dot. |date=2021.6.27 |accessdate=2021.6.27 }}</ref>。 *自身の死去の際に若者頭の花ノ国は引退後の話として「ビートたけしさんと島田洋七さんと一緒に飲んで朝5時に部屋に戻って、そのまま、芸人さんにまわしを着けさせて大笑いしていた」と親方時代も豪快だったと明かした<ref name="geininni"/>。 === 死去に際してのエピソード === * 死去に際して、プライベートでも交流のあった[[デーモン閣下]]は「ここ1年くらいは『人に会いたがっていない』ということだった。闘病のためやつれた姿を見せたくないとのことだったので、吾輩も何かの誘いをしたりなどは遠慮していた。気にはしながら見舞状を出したりはした」と明かした<ref>{{Cite news|title=デーモン閣下、“師匠”輪島さん悼む 大相撲中継で共演 ここ1年は会えず「闘病の姿見せたくないと」 - スポニチ Sponichi Annex 芸能|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/10/09/kiji/20181009s00041000167000c.html|accessdate=2018-10-09|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref><ref>{{Cite news|title=09 /Oct. /D.C.20:元横綱・輪島大士氏の逝去に際し。 - デーモン閣下の地獄のWEB ROCK|url=https://web.archive.org/web/20181018170907/https://blogs.yahoo.co.jp/demon_kakka_blog/15699638.html|accessdate=2018-10-09|language=ja-JP|work=デーモン閣下の地獄のWEB ROCK}}</ref>。 * 角界からは、第52代横綱・[[北の富士勝昭|北の富士]](12代[[九重 (相撲)|九重]]、NHK専属解説者)<ref>{{Cite news|title=輪島さん葬儀 北の富士氏「華があった横綱だった」/デイリースポーツ online|url=https://www.daily.co.jp/general/2018/10/15/0011733428.shtml|accessdate=2018-10-19|language=ja-JP|work=デイリースポーツ online}}</ref>、第57代横綱・三重ノ海(14代[[武蔵川]]・相撲協会元理事長、[[相撲博物館]]館長)<ref>{{Cite news|title=輪島さん通夜 田淵氏ら500人参列、土俵模した祭壇で天国へ - スポニチ Sponichi Annex スポーツ|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/15/kiji/20181014s00005000476000c.html|accessdate=2018-10-19|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>、第61代横綱・[[北勝海信芳|北勝海]](8代[[八角 (相撲)|八角]]・理事長)<ref>{{Cite news|title=輪島さんに最後の別れ 告別式に八角理事長ら参列|date=2018-10-15|last=INC.|first=SANKEI DIGITAL|url=https://www.sankei.com/sports/news/181015/spo1810150013-n1.html|accessdate=2018-10-19|language=ja-JP|work=産経ニュース}}</ref>、第62代横綱・[[大乃国康|大乃国]](12代[[芝田山]]・広報部長)<ref>{{Cite news|title=輪島さん:通夜に500人 芝田山親方ら参列 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00m/040/052000c|accessdate=2018-10-19|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref>、現役力士では遠縁にあたる[[輝大士|輝]]<ref>{{Cite news|title=輪島さん遠縁の輝 三役昇進で恩返しを、下の名は同じ「大士」 - スポニチ Sponichi Annex スポーツ|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/10/15/kiji/20181014s00005000472000c.html|accessdate=2018-10-19|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>、[[両国梶之助|師匠]]が輪島の日大相撲部の後輩である[[豊響隆太|豊響]]<ref>{{Cite news|title=輪島さん通夜に花田虎上氏、とんねるずら500人 - 大相撲 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810140000775.html|accessdate=2018-10-19|language=ja-JP|work=nikkansports.com}}</ref><ref>{{Cite news|title=【大相撲】輪島氏が亡きライバル北の湖についてつづる 「本当に感謝」…筆談で対応|last=INC.|first=SANKEI DIGITAL|url=https://www.sankei.com/article/20160214-545ZXXJAMZMKTNRCIEG45SBA6Y/|accessdate=2018-10-19|language=ja-JP|work=産経ニュース}}</ref>そして親交のあった[[白鵬翔|白鵬]]の夫人<ref>{{Cite news|title=輪島さん通夜に500人が参列 五木ひろし「僕の親友。ありがとう」 - スポニチ Sponichi Annex 芸能|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/10/14/kiji/20181014s00041000271000c.html|accessdate=2018-10-23|language=ja|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref><ref>{{Cite news|title=輪島「白鵬と親子みたいなもん」/夏場所 - 大相撲ニュース : nikkansports.com|url=https://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20100522-632488.html|accessdate=2018-10-23|language=ja-JP|work=nikkansports.com}}</ref><ref>{{Cite news|title=白鵬が輪島大士さん悼む「我々を上から見守って」 - 大相撲 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201810090000502.html|accessdate=2018-10-23|language=ja-JP|work=nikkansports.com}}</ref>が弔問に訪れている。 * 葬儀委員長は、子どもの頃から50年以上の付き合いがあり輪島の現役時代の後援会長であった[[加賀屋]]グループの小田禎彦会長が務めた<ref>{{Cite news|title=第54代横綱輪島大士さんの葬儀告別式。青山葬儀所の空に673個の金の風船を飛ばしてお別れ - はじめての葬儀ガイド {{!}} いい葬儀|date=2018-10-15|url=https://www.e-sogi.com/guide/15355/|accessdate=2018-10-20|language=ja|work=いい葬儀}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/area/ishikawa/articles/MTW20151127180750001.html|title=朝日新聞デジタル:7:「輪島」を訪ねて - 石川 - 地域|accessdate=2018-10-20|last=Company|first=The Asahi Shimbun|website=www.asahi.com|language=ja}}</ref>。この人物は角界から離れて以降も輪島を支え続けており、輪島の故郷七尾市に記念館の創設を計画しているとコメントしている<ref>{{Cite news|title=輪島さん記念館を故郷七尾市に計画 元後援会長が明かす「足跡伝えられたら」/デイリースポーツ online|url=https://www.daily.co.jp/general/2018/10/15/0011733705.shtml|accessdate=2018-10-20|language=ja-JP|work=デイリースポーツ online}}</ref>。 *不祥事での退職に関わる師匠夫人の悲劇もあり、死去に際し相撲協会から正式のコメントは出なかった。しかし、共に現役時代を過ごしたり親交のあった元親方たちが取材に応じている。同時期に横綱を張り引退後も食事をする仲であった第57代横綱[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の石山五郎は相撲協会時代や不祥事があった当時のエピソードを交えたコメントをしており、その破天荒さを「番外の人」と評した<ref>{{Cite news|title=輪島さん死去、名力士も悼む=「番外の人」「天才的」:時事ドットコム|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018100901068&g=spo|accessdate=2018-10-23|language=ja-JP|work=時事ドットコム}}</ref><ref>{{Cite news|title=輪島さん同世代ライバルが惜別…元横綱三重ノ海・石山五郎氏、生き様が「番外だった」|url=https://www.sanspo.com/article/20181010-COEOLT5Z35KHLGN4WR6WRBWMCY/|accessdate=2018-10-23|language=ja-JP|work=サンスポ}}</ref>。輪島から7個の金星を獲得した元関脇[[高見山大五郎|高見山]](12代[[東関]])の渡辺大五郎は「輪島さんは体の大きい私が相手でも逃げない。まともに来るからやりやすかったのかもしれないね。北の湖、千代の富士、輪島……、戦った横綱がどんどん亡くなる。寂しいですよ」と亡き横綱を偲んだ<ref>{{Cite news|title=元高見山、輪島さんを語る「大きい私から逃げなかった」:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASLB953YPLB9UTQP01K.html|accessdate=2018-10-23|language=ja-JP|work=朝日新聞デジタル}}</ref>。第52代横綱北の富士は「下手から投げを打つ力士は大成しないと言われていたが、それを破った最初だろう」と評し、「気のいい男」「元気なうちにもういっぺん飲みたかった」と輪島の死を悼んでいる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/general/2018/10/10/0011717727.shtml|title=北の富士氏、輪島さん追悼「早すぎる-もういっぺん飲みたかった」/デイリースポーツ online|accessdate=2019-01-14|website=デイリースポーツ online(2018年10月10日)|publisher=|language=ja}}</ref>。 == 略歴 == * [[1970年]]1月 - 幕下付出で初土俵 * 1970年5月 - 新十両 * [[1971年]]1月 - 新入幕 * [[1972年]]11月 - 大関昇進('''輪島 博''' 改め '''輪島 大士''') * [[1973年]]7月 - 横綱昇進 * [[1981年]]3月 - 現役引退、年寄・花籠襲名 * [[1985年]]12月 - 不祥事により、相撲界を退く(廃業)。 * [[1986年]] - 全日本プロレス入団 * [[1988年]] - プロレス引退 == 主な成績 == ===通算成績=== * 通算成績:673勝234敗85休 勝率.742 * 幕内成績:620勝213敗85休 勝率.744 * 横綱成績:466勝142敗85休 勝率.766 * 大関成績:50勝10敗 勝率.833 * 現役在位:68場所 * 幕内在位:62場所 * 横綱在位:47場所(当時[[大鵬幸喜|大鵬]]に次ぎ、[[柏戸剛|柏戸]]と並び歴代2位タイ・現在歴代7位タイ) * 大関在位:4場所 * 三役在位:5場所(関脇4場所、小結1場所) * [[年間最多勝]]:3回 ** 1972年(63勝27敗)、1973年(71勝18敗1休)、1976年(77勝13敗) * 連続6場所勝利:78勝(1976年3月場所〜1977年1月場所) * 通算(幕内)連続勝ち越し記録:21場所(1971年9月場所〜1975年1月場所) * 幕内連続2桁勝利記録:15場所(当時4位タイ・現在歴代8位、1975年9月場所〜1978年1月場所)、13場所(現在歴代10位タイ、1972年9月場所〜1974年9月場所) * 幕内連続12勝以上勝利:8場所(当時大鵬に次いで2位・現在歴代5位、1976年1月場所〜1977年3月場所) ====連勝記録==== 輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。 下記に輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 {| class="wikitable" |- !回数!!連勝数!!期間!!止めた力士!!備考 |- |1||21||1973年3月場所千秋楽〜1973年7月場所5日目||三重ノ海||1973年5月場所全勝優勝 |- |2||27||1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目||北の富士||1973年9月場所全勝優勝 |- |3||20||1977年7月場所初日〜1977年9月場所5日目||高見山||1977年7月場所全勝優勝 |} 上記の通り、20連勝以上を3回記録している。 === 各段優勝 === * 幕内最高優勝:14回(歴代7位)<ref name="nishonoo22"/> **1972年 - 5月場所 **1973年 - 5月場所、9月場所、11月場所 **1974年 - 3月場所、7月場所、9月場所 **1976年 - 3月場所、7月場所 **1977年 - 1月場所、7月場所、11月場所 **1979年 - 7月場所 **1980年 - 11月場所 *: 全勝優勝:3回 *: 同点1回 * 十両優勝:1回(1970年9月場所) * 幕下優勝:2回(1970年1月場所、1970年3月場所) === 三賞、金星 === * 三賞:5回 ** 殊勲賞:3回(1972年1月場所、1972年5月場所、1972年9月場所) ** 敢闘賞:2回(1971年5月場所、1971年11月場所) * 金星:なし ** 年6場所制度下では柏戸に次いで2人目。 === 場所別成績 === {{Sumo record box start|輪島 大士}} {{Sumo record year start|1970}} {{Basho|yusho|rank=mt|r-no=60||win=7|loss=0}} {{Basho|yusho|rank=ma|r-no=8|tozai=e|win=7|loss=0}} {{Basho|j|8|e|10|5}} {{Basho|j|4|e|7|8}} {{Basho|yusho|rank=j|r-no=6|tozai=w|win=13|loss=2}} {{Basho|j|1|e|9|6}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1971}} {{Basho|m|11|w|9|6}} {{Basho|m|5|w|5|10}} {{Basho|m|12|e|11|4|||f}} {{Basho|m|2|w|6|9}} {{Basho|m|6|e|10|5}} {{Basho|m|1|e|11|4|||f}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1972}} {{Basho|k||e|10|5|||o}} {{Basho|s||w|9|6}} {{Basho|s||w|12|3||y|o}} {{Basho|s||e|8|7}} {{Basho|hs||e|13|2|||o}} {{Basho|o||e|11|4}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1973}} {{Basho|o||w|11|4}} {{Basho|o||e|13|2}} {{Basho|o||e|15|0||y}} {{Basho|y||e|11|4}} {{Basho|hy||e|15|0||y}} {{Basho|y||e|12|2|1<ref group="注釈">右手人差指中指間裂傷により14日目から途中休場</ref>|y}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1974}} {{Basho|y||e|12|3}} {{Basho|y||e|12|3||y}} {{Basho|y||e|10|5}} {{Basho|y||e|13|2<ref group="注釈" name="Wajima1">[[北の湖敏満|北の湖]]と優勝決定戦</ref>||y}} {{Basho|y||e|14|1||y}} {{Basho|y||e|9|6}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1975}} {{Basho|yo||w|10|5}} {{Basho|y||w|0|4|11<ref group="注釈">腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により4日目から途中休場</ref>}} {{Basho|y||w|0|3|12<ref group="注釈">腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により3日目から途中休場</ref>}} {{Basho|KYUJO|rank=y|tozai=w|}} {{Basho|y||w|10|5}} {{Basho|y||w|11|4}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1976}} {{Basho|y||w|12|3}} {{Basho|y||w|13|2<ref group="注釈">[[旭國斗雄|旭國]]と優勝決定戦</ref>||y}} {{Basho|y||e|13|2<ref group="注釈" name="Wajima2">北の湖と優勝決定戦</ref>}} {{Basho|y||e|14|1||y}} {{Basho|y||e|12|3}} {{Basho|y||e|13|2}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1977}} {{Basho|y||w|13|2||y}} {{Basho|y||e|12|3}} {{Basho|y||w|11|4}} {{Basho|y||w|15|0||y}} {{Basho|y||e|10|5}} {{Basho|y||w|14|1||y}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1978}} {{Basho|y||e|10|5}} {{Basho|y||w|1|1|13<ref group="注釈">膝関節捻挫・右膝内側側副靱帯損傷により2日目から途中休場</ref>}} {{Basho|y||w|9|6}} {{Basho|hy||e|14|1}} {{Basho|y||w|1|3|11<ref group="注釈">急性大腸炎により4日目から途中休場</ref>}} {{Basho|hy||e|13|2}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1979}} {{Basho|y||w|10|5}} {{Basho|hy||e|12|3}} {{Basho|hy||e|12|3}} {{Basho|hy||e|14|1<ref group="注釈">[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]と優勝決定戦</ref>||y}} {{Basho|y||e|10|5}} {{Basho|hy||w|10|5}} {{Sumo record year end}} {{Sumo record year start|1980}} {{Basho|hy||w|0|3|12<ref group="注釈">腰痛・左手首関節捻挫後遺症により3日目から途中休場</ref>}} {{Basho|hy||w|11|4}} {{Basho|hy||e|11|4}} {{Basho|hy||e|1|4|10<ref 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[[錦洋幸治]] || 5 || 2 |- | [[大麒麟將能]] || 13 || 3 || [[大受久晃]] || 19 || 2 || [[大雄辰實]] || 4 || 0 |- | [[隆の里俊英]] || 11 || 1 || [[貴ノ花利彰]] || 31 || 17 || [[高見山大五郎]] || 24 || 19(1) |- | [[玉輝山正則]] || 5 || 0 || [[玉の海正洋]] || 0 || 1 || [[玉ノ富士茂]] || 19 || 4(1) |- | [[千代の富士貢]] || 6 || 1 || [[出羽の花義貴]] || 4 || 1(1) || [[時葉山敏夫]] || 3 || 1 |- | [[栃赤城雅男]] || 6 || 2 || [[栃東知頼]] || 12(1) || 1 || [[栃光興福]] || 15 || 2 |- | [[羽黒岩智一]] || 6 || 2 || [[長谷川勝敏]] || 18 || 5 || [[播竜山孝晴]] || 2 || 0 |- | [[福の花孝一]] || 6 || 5 || [[富士櫻栄守]] || 24 || 9(1) || [[二子岳武]] || 6 || 0 |- | [[双津竜順一]] || 4 || 0 || [[鳳凰倶往]] || 2 || 0 || [[前の山太郎]] || 8(1) || 2 |- | [[増位山太志郎]] || 30 || 8 || [[舛田山靖仁]] || 3 || 1(1) || [[三重ノ海剛司]] || 27* || 16 |- | [[陸奥嵐幸雄]] || 4 || 1 || [[豊山広光]] || 13 || 8 || [[琉王優貴]] || 4 || 2 |- | [[若獅子茂憲]] || 8 || 0 || [[若浪順]] || 2 || 2 || [[若乃花幹士 (2代)|若乃花幹士]] || 19 || 14 |- | [[鷲羽山佳和]] || 18 || 0 ||||| |} {{注|※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。}} *他に[[優勝決定戦(相撲)|優勝決定戦]]で旭國に1勝、北の湖に1勝1敗、三重ノ海に1勝がある。 == 改名歴 == * 輪島 博(わじま ひろし)1970年1月場所 - 1972年9月場所 * 輪島 大士(わじま - )1972年11月場所 - 1981年1月場所 == 年寄変遷 == * 花籠 大嗣(はなかご ひろし)1981年1月 - 1985年12月(廃業) == CM == * [[日本熱学工業]]「コインクーラー」(1974年) - [[新珠三千代]]と共演。同社社長の[[牛田正郎]]は輪島の後援会会長も務めていた<ref>[[石井代蔵]]「修羅の男」、『大関にかなう』、文春文庫、1988年5月10日、86頁。</ref>。 * [[資生堂]]「[[アウスレーゼ (化粧品)|アウスレーゼ]]」(1981年)「ウェービーボーイ」(1982年) - 引退後の[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]と共演。「アウスレーゼ」撮影当時の輪島は断髪前だったので、カツラを着用していた。 * [[学生援護会]]「Q-tai」 - プロレスラー転身後。キャッチコピーは「また基本から出直した男です」。 * オクダ運輸(1987年) - プロレスラー転向後。 * [[ピップフジモト]]「[[ピップエレキバン]]」(1995年)- [[樹木希林]]と共演。 ==バラエティ== * [[オールスター感謝祭]](1995年秋・1996年秋・1997年春・1999年春・1999年秋・2000年春、TBS)<ref>{{Oricon TV|254508}}</ref> **当初は[[サンデーモーニング]]の番宣で出演。 == 映画 == * 『コナ・ニシテ・フウ』(2008年、吉本興業) - デーモン小暮閣下監督。[[YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜|YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100]]企画の一篇。父親役。 == ドラマ == * [[竜馬におまかせ!]](1996年4月 - 6月 第7話 [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列)- [[フランケンシュタイン]] 役 == LPレコード == * 横綱輪島の道(1978年、KC-9023)※[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|ミノルフォンレコード]]より発売。 : 黄金の左腕栄光の記録/人間輪島大士、歌と友情 == シングル盤レコード == * [[惜春 (五木ひろしの曲)|望郷賦]](1978年、KA-1136) ※ミノルフォンレコードより発売。 : 作詞:たかたかし 作曲:松山かずお([[五木ひろし]]の[[ペンネーム]]) == 関連作品== * わたし、元横綱輪島の"脱線"女房 : 寄った!ノコッタ!おもしろマジメ夫婦相撲 輪島五月 主婦と生活社, 1983.12. * 甦る輪島 黄金の炎で男の肉体を燃え上がらせる 細谷正勝,川副宏芳共著 日刊スポーツ出版社, 1987.10 * 輪島沈む 『貴ノ花散る』[[もりたなるお]]、文春文庫、1990 * [[遠藤賢司]] 『輪島の瞳』 * [[杉森久英]]『天才横綱 輪島大士物語』(河出書房新社、1998) * [[武田頼政]]『真・輪島伝 番外の人』(廣済堂出版、2019) == 関連項目 == * [[横綱一覧]] * [[石川県の高校相撲部出身の一覧]] * [[ワジマ]] - [[アメリカ合衆国]]の競走馬。馬名は輪島に由来。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)ISBN 4167475014 * 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p113-115 * ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年) == 外部リンク == * [http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/wajima.html 第五十四代横綱 輪島 大士] {{sumodb|4074|輪島 大士}} {{Navboxes |list= {{大相撲幕内優勝力士}} {{年間最優秀力士賞}} {{年間最多勝}} {{歴代横綱|第54代|1973年7月-1981年3月}} {{歴代大関|第204代|1972年11月-1973年5月}} {{学生横綱一覧}} {{報知プロスポーツ大賞受賞者-大相撲}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} }} {{デフォルトソート:わしま ひろし}} [[Category:石川県出身の大相撲力士]] [[Category:花籠部屋]] [[Category:金沢高等学校出身の人物]] [[Category:日本大学出身の大相撲力士]] [[Category:日本のプロレスラー]] [[Category:大相撲出身のプロレスラー]] [[Category:全日本プロレスに所属したプロレスラー]] [[Category:NHK紅白歌合戦審査員]] [[Category:日本の男優]] [[Category:元大相撲力士のタレント]] [[Category:日本の相撲評論家]] [[Category:20世紀日本の評論家]] [[Category:21世紀日本の評論家]] [[Category:学士号取得者]] [[Category:日本のアメリカンフットボール指導者]] [[Category:徳間ジャパンコミュニケーションズのアーティスト]] [[Category:横綱]] [[Category:障害を持つスポーツ選手]] [[Category:言語障害を持つ人物]] [[Category:石川県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:2018年没]]
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水野はるき
水野 はるき(みずの はるき、1979年7月21日 - )は、日本のAV女優。 千葉県出身。初期は「1979年3月3日生まれ、東京都出身」としていた。2000年の最初の復活時に、「1980年3月3日生まれ、東京都出身」とした後、間もなく冒頭のプロフィールに改めた。 ボディサイズはT150/B85(E)/W58/H83(グラビアデビュー時)→T150/B85(E)/W56/H88(ドグマ出演時)。 1997年、『週刊プレイボーイ』(9月30日号)のヌードグラビアでデビューし、テレビ朝日の深夜番組『金髪先生』にレギュラー出演。同年12月には『裸足の妖精』(セクシア)でAVデビューした。バンビプロモーションに所属していた。 1990年代後半から2000年代前半にかけて活動したが活動は不安定で、1998年9月発売の『燃えよ乳ボン!!』(宇宙企画)をもって引退したあと、2000年9月に『再会-REUNION』(セクシア)で再デビュー。3作を残し引退、2002年6月に『renew 復活します』(アリスJAPAN)で再々デビュー。4作を残し引退、2003年にインディーズで復活と、引退・復活を繰り返した。2004年2月発売の『拘束椅子トランス』を最後に、4度目の引退をし、以後新作は発売されていない。
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水野 はるきは、日本のAV女優。 千葉県出身。初期は「1979年3月3日生まれ、東京都出身」としていた。2000年の最初の復活時に、「1980年3月3日生まれ、東京都出身」とした後、間もなく冒頭のプロフィールに改めた。 ボディサイズはT150/B85(E)/W58/H83(グラビアデビュー時)→T150/B85(E)/W56/H88(ドグマ出演時)。
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