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フィッシング
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フィッシング フィッシング(Fishing) - 「釣り」のこと。
フィッシング (雑誌) - 1968年から1999年まで発行されていた釣り雑誌。
フィッシング - 1996年にマツヤ商会から発売されたパチスロ台の一つで、釣りをモチーフとしている。オールドバー#フィッシングを参照。
フィッシング (詐欺)(Phishing) - 詐欺の一つで、インターネットや電子メールを利用して行われる。
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'''フィッシング'''
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藤原定家
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藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道における御子左家の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。
2つの勅撰和歌集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進したほか、秀歌撰に『定家八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。拾遺愚草は六家集のひとつに数えられる。また、宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。
一方で、『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった)。また、『松浦宮物語』の作者は定家とする説が有力である。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』(2000年に国宝に指定)を残した。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。
後白河院政期前期の仁安元年(1166年)従五位下に叙爵する。安元元年(1175年)2月に流行していた赤斑瘡を患うが、同年父・俊成の右京大夫辞任に伴って侍従に任官し官途のスタートを切る。しかし、翌安元2年(1176年)俊成が咳病の悪化により出家したため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。さらに安元3年(1177年)定家は疱瘡にかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしば呼吸器疾患に苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、神経質で感情に激する傾向が現れるようになったという。
治承3年(1179年)賀茂別雷神社の広庭で行われた会に歌合として初めて参加し、藤原公時と組んで引き分けとなった。また、養和元年(1181年)『初学百首』を詠むと、翌寿永元年(1182年)俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。これに対しては、父・俊成、母・美福門院加賀のほか、藤原隆信・藤原定長(寂蓮)・俊恵ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには右大臣・九条兼実からも賛辞の手紙を送られた。またこの間に俊成の和歌の弟子である藤原季能の娘と結婚し、 寿永3年(1184年)に長男の光家を儲けるとともに、治承4年(1180年)従五位上、寿永2年(1183年)正五位下に昇叙されている。
文治元年(1185年)11月末に新嘗祭の最中に殿上で少将・源雅行に嘲笑されたことに激怒し、脂燭を持って雅行の顔を殴ったため、勅勘を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年(1186年)3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があったという。なお、俊成の赦免嘆願の書状が現存している。
同年より親幕府派の摂政・九条兼実を主とする九条家に家司として出仕を始める。九条家では兼実次男の九条良経に親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟の慈円とも交渉が深かった。定家は九条家に家司として精励して務める一方で、文治5年(1189年)左近衛少将、文治6年(1190年)従四位下、建久6年(1195年)従四位上、正治2年(1200年)正四位下と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。
またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』(藤原家隆と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる。また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した。なお、建久5年(1194年)ごろに定家は季能の娘と離別して、西園寺実宗の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女の因子が生まれている。
建久7年(1196年)反幕府派の内大臣・源通親による建久七年の政変が起こると、九条兼実が関白を罷免され、太政大臣・藤原兼房と天台座主・慈円も要職を辞任した。さらに、定家の義兄弟である蔵人頭・西園寺公経や左馬頭・藤原隆保も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ。この政変に伴う定家自身への影響は明らかでないが、九条兼実に連座して除籍処分を受けた可能性も指摘されている。
正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化し、正治2年(1200年)院初度御百首が企画される。当初、藤原季経ら六条家の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動もあり、ようやく定家は参加を許される。翌建仁元年(1201年)千五百番歌合にも定家は参加して詠進を行い、いずれも後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受けている。また同年には勅撰和歌集の編纂を行うことになり、定家は源通具らとともに院宣を受けて撰者に選ばれる。元久元年(1204年)勅撰集の名称として『新古今和歌集』を上申、いったん歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集した。なおその後、歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録されている。
一方で、建仁2年(1202年)定家は源通親宛に内蔵頭・右馬頭・大蔵卿いずれかの任官を望んで申文を提出したり、当時強い権勢を持っていた藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)に対しても仮名状を送ったほか、兼子が病臥していると聞くと束帯姿で見舞いに行くなど、猟官を目的に権力者の意を迎えるために腐心した。同年10月に源通親が没して政局は動揺した一方で、執拗な運動の効果があったためか、翌閏10月に定家は左近衛少将から左近衛権中将への昇任を果たしている。
中将在任は8年に亘るが蔵人頭への任官は叶わず、承元4年(1210年)正月に嫡男・為家の左近衛権少将任官の代わりに、定家は左近衛権中将を辞退するが、同年12月に年来の希望であった内蔵頭に任ぜられる。次に定家は公卿昇進を望んで、姉・九条尼から讃良荘(現在の大阪府四條畷市付近)・細川荘(現在の兵庫県三木市の東北方)の両荘園を藤原兼子に贈与する約束を行うなど猟官運動を続け、建暦元年(1211年) 従三位・侍従に叙任されて50歳にして公卿に列した。
その後も、兼子に対する猟官運動が奏功して、建保2年(1214年)参議に任ぜられて、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たすと、建保4年(1216年)正三位に昇叙され、承久2年(1220年)播磨権守を兼ねるなど、後鳥羽院政期において主家である九条家や外戚の西園寺家が沈滞する中でも定家は順調な官途を歩んだ。しかし、定家は昇進面で不満を持っていたらしく、承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に官途に対する不満を託した和歌を持参したところ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまった。
承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は権中納言への任官を望んで、寛喜2年(1230年)自らは老体のため妻に日吉神社への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年(1231年)歩行困難の中で人に縋り付くようにして春日詣を行うなどする一方で、関白・九条道家に猛運動を行う。
こうしてついに、 寛喜4年(1232年)正月に71歳で権中納言に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く。翌天福元年(1233年)10月11日に慈心房(海住山長房)を戒師として出家、法名は明静を名乗った。
一方で、寛喜4年(1232年)6月に定家は後嵯峨天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)する。後堀河上皇崩御後の同年11月に前関白・九条道家の要望で後鳥羽上皇ら承久の乱で処罰された歌人の和歌を削除し、文暦2年(1235年)3月に精撰本を道家に提出して完成した。なお、『新勅撰和歌集』への定家自身の作品の採録は15首と、『新古今和歌集』の47首と比べて大幅に少ない。さらに、このうち絢爛・華麗な新古今朝の和歌は少なく、質実な建保期以降の作品が中心となっている。
嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。後に、これが定家が小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人一首』という通称で呼ばれるようになった。『小倉百人一首』は勅撰集と異なりバランスを考慮する必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選んだためか、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)が多くを占めている。
仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。
定家の書は、父の俊成と同じく法性寺流より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の書風を成した。能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である。江戸時代には、小堀遠州や松平治郷らに大変に愛好され、彼らは、この書風を定家流と称して大流行させた。定家の書は特に近世以降、特に茶人や書家たちにあまりにももてはやされたため、偽筆も多く現代に伝わっている現状があり、だまされないために注意が必要である。
また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている。なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)。
定家は藤原道長の来孫(5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であった。更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にもかかわらず官位には恵まれなかった。
定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受けるなど波乱に満ち、長年近衛中将を務めながら頭中将にはなれず、50歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立する(建久9年(1198年)土御門天皇の親王宣下なしでの践祚に際し「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と『明月記』建久9年正月11日条に記して憤慨している)など、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。そして、寛喜4年(1232年)正月に定家は二条定高の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。だが、九条道家との対立によって、同年12月に権中納言を更迭される。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる右大臣・藤原実資のように政治的な要職に就くことは適わなかった。
また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の12月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出して権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している。その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず、『次将装束抄』や『釋奠次第』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。
注記のないものは『公卿補任』による。
藤原北家長家流(御子左家)に属し、藤原道長の来孫にあたる。
定家の子孫は御子左家(嫡流は別名二条家とも)として続いたが南北朝時代から室町時代にいたる戦乱により嫡流は断絶した。御子左家の分家である冷泉家は現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の羽林家(上冷泉家、下冷泉家、藤谷家、入江家)を輩出したことでも知られる。
なお、嫡系子孫の歌人である二条為子と二条藤子は、後醍醐天皇の妻でもあり、後醍醐との間に皇子・皇女をもうけている。為子との皇子は上将軍尊良親王と征夷大将軍宗良親王。また、藤子の子である征西大将軍懐良親王は、明から日本国王に冊封された。そのため、生前は出世に苦労した定家であるが、明の視点で見れば、日本の統治者の外戚一族の始祖となる。
群馬県高崎市下佐野町に、藤原定家を祭神として祀る定家神社(ていかじんじゃ)がある。最寄り駅は上信電鉄上信線・佐野のわたし駅。
伝承によると、定家は源雅行との間で起こした揉め事が原因で上野国へ流罪となり、それが許されて京へと戻る際、自刻像と持念仏(観音菩薩像、3寸)を村人たちに贈った。これを神体として作った祠が定家神社の始まりであるという。また、「駒とめて...」の歌に見える「佐野」という地名にあやかり、江戸時代になって当地の文人らによって定家が祀られたともいう。定家が詠んだ「こぬ人を...」の恋歌から、恋愛成就の御利益があるとされる。
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"text": "承久3年(1221年)承久の乱が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる。承久4年(1222年)参議を辞して従二位に叙せられると、嘉禄3年(1227年)には正二位に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は権中納言への任官を望んで、寛喜2年(1230年)自らは老体のため妻に日吉神社への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年(1231年)歩行困難の中で人に縋り付くようにして春日詣を行うなどする一方で、関白・九条道家に猛運動を行う。",
"title": "経歴"
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"text": "こうしてついに、 寛喜4年(1232年)正月に71歳で権中納言に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く。翌天福元年(1233年)10月11日に慈心房(海住山長房)を戒師として出家、法名は明静を名乗った。",
"title": "経歴"
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"text": "一方で、寛喜4年(1232年)6月に定家は後嵯峨天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。天福2年(1234年)6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を清書し奏覧(仮奏覧)する。後堀河上皇崩御後の同年11月に前関白・九条道家の要望で後鳥羽上皇ら承久の乱で処罰された歌人の和歌を削除し、文暦2年(1235年)3月に精撰本を道家に提出して完成した。なお、『新勅撰和歌集』への定家自身の作品の採録は15首と、『新古今和歌集』の47首と比べて大幅に少ない。さらに、このうち絢爛・華麗な新古今朝の和歌は少なく、質実な建保期以降の作品が中心となっている。",
"title": "経歴"
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"text": "嘉禎元年(1235年)宇都宮頼綱から嵯峨野(現在の京都市右京区嵯峨)に建てた別業(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しいとの要望を受けて、定家は天智天皇から順徳院に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る。後に、これが定家が小倉山で編纂したことに因んで『小倉百人一首』という通称で呼ばれるようになった。『小倉百人一首』は勅撰集と異なりバランスを考慮する必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選んだためか、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)が多くを占めている。",
"title": "経歴"
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"text": "仁治2年(1241年) 8月20日薨去。享年80。",
"title": "経歴"
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"text": "定家の書は、父の俊成と同じく法性寺流より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の書風を成した。能書といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて遒勁である。江戸時代には、小堀遠州や松平治郷らに大変に愛好され、彼らは、この書風を定家流と称して大流行させた。定家の書は特に近世以降、特に茶人や書家たちにあまりにももてはやされたため、偽筆も多く現代に伝わっている現状があり、だまされないために注意が必要である。",
"title": "人物"
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"text": "また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている。なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)。",
"title": "人物"
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"text": "定家は藤原道長の来孫(5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であった。更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にもかかわらず官位には恵まれなかった。",
"title": "人物"
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"text": "定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受けるなど波乱に満ち、長年近衛中将を務めながら頭中将にはなれず、50歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立する(建久9年(1198年)土御門天皇の親王宣下なしでの践祚に際し「光仁の例によるなら弓削法皇(道鏡)は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と『明月記』建久9年正月11日条に記して憤慨している)など、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。そして、寛喜4年(1232年)正月に定家は二条定高の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。だが、九条道家との対立によって、同年12月に権中納言を更迭される。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる右大臣・藤原実資のように政治的な要職に就くことは適わなかった。",
"title": "人物"
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"text": "また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の12月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出して権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している。その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず、『次将装束抄』や『釋奠次第』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。",
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"text": "注記のないものは『公卿補任』による。",
"title": "官歴"
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"text": "藤原北家長家流(御子左家)に属し、藤原道長の来孫にあたる。",
"title": "系譜"
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"text": "定家の子孫は御子左家(嫡流は別名二条家とも)として続いたが南北朝時代から室町時代にいたる戦乱により嫡流は断絶した。御子左家の分家である冷泉家は現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の羽林家(上冷泉家、下冷泉家、藤谷家、入江家)を輩出したことでも知られる。",
"title": "系譜"
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"text": "なお、嫡系子孫の歌人である二条為子と二条藤子は、後醍醐天皇の妻でもあり、後醍醐との間に皇子・皇女をもうけている。為子との皇子は上将軍尊良親王と征夷大将軍宗良親王。また、藤子の子である征西大将軍懐良親王は、明から日本国王に冊封された。そのため、生前は出世に苦労した定家であるが、明の視点で見れば、日本の統治者の外戚一族の始祖となる。",
"title": "系譜"
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"text": "群馬県高崎市下佐野町に、藤原定家を祭神として祀る定家神社(ていかじんじゃ)がある。最寄り駅は上信電鉄上信線・佐野のわたし駅。",
"title": "定家神社"
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"text": "伝承によると、定家は源雅行との間で起こした揉め事が原因で上野国へ流罪となり、それが許されて京へと戻る際、自刻像と持念仏(観音菩薩像、3寸)を村人たちに贈った。これを神体として作った祠が定家神社の始まりであるという。また、「駒とめて...」の歌に見える「佐野」という地名にあやかり、江戸時代になって当地の文人らによって定家が祀られたともいう。定家が詠んだ「こぬ人を...」の恋歌から、恋愛成就の御利益があるとされる。",
"title": "定家神社"
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藤原 定家は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。藤原北家御子左流、正三位・藤原俊成の二男。最終官位は正二位・権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
|
{{基礎情報 公家
| 氏名 = 藤原 定家
| 画像 = Teika(3).jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 伝藤原信実筆 鎌倉時代
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]初期
| 生誕 = [[応保]]2年([[1162年]])
| 死没 = [[仁治]]2年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1241年]][[9月26日]])
| 改名 = 光季→季光→定家→明静(法名)
| 別名 = 京極殿、京極中納言
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =[[京都府]][[京都市]][[上京区]][[相国寺]]
| 官位 = [[正二位]]、[[中納言|権中納言]]
| 主君 = [[二条天皇]] → [[六条天皇]] → [[高倉天皇]] → [[安徳天皇]] → [[後鳥羽天皇]] → [[土御門天皇]] → [[順徳天皇]] → [[仲恭天皇]] → [[後堀河天皇]] → [[四条天皇]]
| 氏族 = [[藤原北家]][[御子左家|御子左流]]
| 父母 = 父:[[藤原俊成]]、母:[[美福門院加賀]]([[藤原親忠]]女)
| 兄弟 = [[藤原成家|成家]]、'''定家''' [[藤原俊成#系譜|ほか]]
| 妻 = [[藤原季能]]女、[[藤原実宗]]女
| 子 = [[藤原光家|光家]]、[[藤原為家|'''為家''']]、[[後堀河院民部卿典侍|因子]] ほか
| 特記事項 =
}}
'''藤原 定家'''(ふじわら の さだいえ/ていか)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[公家]]・[[歌人]]。[[藤原北家]][[御子左家|御子左流]]、[[正三位]]・[[藤原俊成]]の二男。最終[[官位]]は[[正二位]]・[[中納言|権中納言]]。'''京極殿'''または'''京極中納言'''と呼ばれた。『[[百人一首|小倉百人一首]]』の撰者で'''権中納言定家'''を称する。
== 概要 ==
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、[[歌道]]における[[御子左家]]の支配的地位を確立。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた。
2つの[[勅撰和歌集]]『[[新古今和歌集]]』『[[新勅撰和歌集]]』を撰進したほか、秀歌撰に『[[定家八代抄]]』がある。歌論書に『[[毎月抄]]』『[[近代秀歌]]』『[[詠歌大概]]』があり、[[本歌取り]]などの技法や心と詞との関わりを論じている。家集に『[[拾遺愚草]]』がある。拾遺愚草は[[六家集]]のひとつに数えられる。また、[[宇都宮頼綱]]に依頼され『[[小倉百人一首]]』を撰じた。定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」。
一方で、『[[源氏物語]]』『[[土佐日記]]』などの古典の書写・注釈にも携わった(この際に用いた仮名遣いが[[定家仮名遣]]のもととなった)。また、『[[松浦宮物語]]』の作者は定家とする説が有力である。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『[[明月記]]』(2000年に[[国宝]]に指定)を残した{{efn2|明月記には[[おうし座]]で[[超新星|超新星爆発]]が起こったこと(現在の[[かに星雲]])に関する記述があり、[[天文学]]上でも重要な資料となっている<ref>{{Cite web|和書|title=「爆発間近か? ベテルギウス」(くらし☆解説) |url=https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/421411.html |website=解説委員室ブログ |accessdate=2022-02-18 |publisher=日本放送協会 |date=2020-02-19 |author=水野倫之}}</ref>。}}。このうち、[[建仁]]元年(1201年)に[[後鳥羽天皇]]の[[熊野三山|熊野]]行幸随行時に記した部分を特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ。
== 経歴 ==
=== 若年期 ===
[[後白河天皇|後白河院政期]]前期の[[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。[[安元]]元年([[1175年]])2月に流行していた[[赤斑瘡]]を患うが、同年父・[[藤原俊成|俊成]]の[[京職|右京大夫]]辞任に伴って[[侍従]]に[[任官]]し官途のスタートを切る。しかし、翌安元2年([[1176年]])俊成が咳病の悪化により[[出家]]したため、定家は後ろ盾を失い昇進面で大きな痛手を受けた。さらに安元3年([[1177年]])定家は[[疱瘡]]にかかって二度目の大病を経験し、以降はしばしば[[呼吸器疾患]]に苦しむなど肉体的に虚弱な体質となるとともに、[[神経質]]で[[感情]]に激する傾向が現れるようになったという{{sfn|村山(1989)|p=42}}。
[[治承]]3年([[1179年]])[[賀茂別雷神社]]の広庭で行われた会に[[歌合]]として初めて参加し、[[藤原公時]]と組んで引き分けとなった。また、[[養和]]元年([[1181年]])『初学百首』を詠むと、翌寿永元年([[1182年]])俊成の命令により、まとまった歌作として初めての作品となる『堀河院題百首』を作っている。これに対しては、父・俊成、母・[[美福門院加賀]]のほか、[[藤原隆信]]・藤原定長([[寂蓮]])・[[俊恵]]ら諸歌人からも賞賛を受け、さらには[[右大臣]]・[[九条兼実]]からも賛辞の手紙を送られた{{sfn|村山(1989)|p=43}}。またこの間に俊成の[[和歌]]の弟子である[[藤原季能]]の娘と結婚し、 寿永3年([[1184年]])に長男の[[藤原光家|光家]]を儲けるとともに{{sfn|村山(1989)|p=44}}、治承4年([[1180年]])従五位上、寿永2年([[1183年]])[[正五位|正五位下]]に昇叙されている。
=== 九条家への出仕 ===
[[文治]]元年([[1185年]])11月末に[[新嘗祭]]の最中に[[殿上]]で少将・[[源雅行]]に嘲笑されたことに激怒し、[[脂燭]]を持って雅行の顔を殴ったため、[[勅勘]]を受けて除籍処分を受ける事件を行こす。これに対して、翌文治2年([[1186年]])3月に俊成が後白河法皇の側近である左少弁・藤原定長に取りなしを依頼したところ、法皇から赦免の返歌があったという<ref>『古今著聞集』</ref>。なお、俊成の赦免嘆願の書状が現存している{{sfn|村山(1989)|p=47}}<ref>{{cite news |title=藤原定家、宮中で狼藉 除籍の窮地を父救う 神戸に嘆願書の写し |newspaper=[[神戸新聞]] |date=2014-5-17 |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201405/0006967627.shtml |accessdate=2014-5-17}}</ref>。
同年より親幕府派の[[摂政]]・[[九条兼実]]を主とする[[九条家]]に[[家司]]として出仕を始める{{sfn|村山(1989)|p=48}}。九条家では兼実次男の[[九条良経]]に親しく仕えて外出に常に従ったほか、和歌を通して兼実弟の[[慈円]]とも交渉が深かった。定家は九条家に家司として精励して務める一方で、[[文治]]5年([[1189年]])[[近衛府|左近衛少将]]、文治6年([[1190年]])[[従四位|従四位下]]、建久6年([[1195年]])従四位上、[[正治]]2年([[1200年]])[[正四位|正四位下]]と、後白河法皇の没後政権を掌握していた九条兼実の庇護を受けて順調に昇進した。
またこの頃には、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』『閑居百首』([[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]と共作)など歌人として目覚ましい活躍を見せる一方、九条家への出仕後日が浅いにもかかわらず九条兼実の連歌の席に出席するなど、家人同様に重宝がられた様子が窺われる{{sfn|村山(1989)|p=49}}。また、文治5年(1189年)には慈円の『早卒露肝百首』に対して、『奉和無動寺法印早卒露肝百首』『重早卒露肝百首』を著した{{sfn|村山(1989)|p=50}}。なお、建久5年([[1194年]])ごろに定家は季能の娘と離別して、[[西園寺実宗]]の娘と結婚し、建久6年(1195年)に長女の[[後堀河院民部卿典侍|因子]]が生まれている{{sfn|村山(1989)|p=69}}。
=== 後鳥羽院政期 ===
建久7年([[1196年]])反幕府派の[[内大臣]]・[[源通親]]による[[建久七年の政変]]が起こると、九条兼実が[[関白]]を罷免され、[[太政大臣]]・[[藤原兼房 (太政大臣)|藤原兼房]]と[[天台座主]]・慈円も要職を辞任した{{sfn|村山(1989)|p=65}}。さらに、定家の義兄弟である[[蔵人頭]]・[[西園寺公経]]や[[馬寮|左馬頭]]・[[藤原隆保]]も出仕を止められるなど、通親の圧迫は定家の近辺にまで及んだ{{sfn|村山(1989)|p=66}}。この政変に伴う定家自身への影響は明らかでないが、九条兼実に[[連座]]して除籍処分を受けた可能性も指摘されている{{sfn|五味(2000)|p=11-12}}。
正治元年(1199年)頃より後鳥羽上皇の和歌に対する興味が俄に表面化し、正治2年(1200年)院初度御百首が企画される。当初、[[藤原季経]]ら[[六条藤家|六条家]]の策謀を受けて、源通親は定家を敢えて参加者から外したが、義弟・西園寺公経や父・俊成らの運動もあり、ようやく定家は参加を許される{{sfn|村山(1989)|p=87}}。翌建仁元年([[1201年]])[[千五百番歌合]]にも定家は参加して詠進を行い、いずれも後鳥羽上皇から好みにあったとの評価を受けている{{sfn|村山(1989)|p=90}}。また同年には[[勅撰和歌集]]の編纂を行うことになり、定家は[[堀川通具|源通具]]らとともに[[院宣]]を受けて撰者に選ばれる。[[元久]]元年([[1204年]])勅撰集の名称として『[[新古今和歌集]]』を上申、いったん歌集は完成し、定家の和歌作品は41首が入集した{{sfn|村山(1989)|p=100-102}}。なおその後、歌集に対して追加の切り継ぎが行われ、最終的に47首が採録されている<ref name="m323" />。
一方で、建仁2年([[1202年]])定家は源通親宛に[[内蔵寮|内蔵頭]]・右馬頭・[[大蔵卿]]いずれかの任官を望んで申文を提出したり{{sfn|村山(1989)|p=70}}、当時強い権勢を持っていた[[藤原兼子]](後鳥羽天皇の乳母)に対しても仮名状を送ったほか、兼子が病臥していると聞くと[[束帯]]姿で見舞いに行くなど、猟官を目的に権力者の意を迎えるために腐心した{{sfn|村山(1989)|p=71}}。同年10月に源通親が没して政局は動揺した一方で、執拗な運動の効果があったためか、翌閏10月に定家は左近衛少将から左近衛権中将への昇任を果たしている{{sfn|村山(1989)|p=72}}。
中将在任は8年に亘るが[[蔵人頭]]への任官は叶わず、[[承元]]4年([[1210年]])正月に嫡男・[[藤原為家|為家]]の左近衛権少将任官の代わりに、定家は左近衛権中将を辞退するが、同年12月に年来の希望であった内蔵頭に任ぜられる。次に定家は[[公卿]]昇進を望んで、姉・[[建春門院中納言|九条尼]]から讃良荘(現在の[[大阪府]][[四條畷市]]付近)・細川荘(現在の[[兵庫県]][[三木市]]の東北方)の両[[荘園 (日本)|荘園]]を藤原兼子に贈与する約束を行うなど猟官運動を続け、[[建暦]]元年([[1211年]]) [[従三位]]・[[侍従]]に叙任されて50歳にして公卿に列した{{sfn|村山(1989)|p=74}}。
その後も、兼子に対する猟官運動が奏功して{{sfn|村山(1989)|p=75}}、[[建保]]2年([[1214年]])[[参議]]に任ぜられて、父・俊成が得られなかった議政官への任官を果たすと、建保4年([[1216年]])[[正三位]]に昇叙され、[[承久]]2年([[1220年]])[[播磨国#国司|播磨権守]]を兼ねるなど、後鳥羽院政期において主家である九条家や外戚の[[西園寺家]]が沈滞する中でも定家は順調な官途を歩んだ。しかし、定家は昇進面で不満を持っていたらしく、承久2年(1220年)2月に行われた内裏歌合に官途に対する不満を託した和歌を持参したところ、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられてしまった{{sfn|村山(1989)|p=113}}{{efn2|定家と後鳥羽院との交流は正治2年(1200)秋の最初の百首歌合より始まり、歌を通じた心の通い合いがあった一方で「新古今集」成立以前より早くも定家に対して院が不快感を抱くに至る局面はあったようであり、徐々に広がっていった二人の間の心理的な疎隔は承久2年(1220)2月13日順徳天皇の内裏歌合で決定的となった。この日、亡き母の28年目の祥月命日にあたるので出席を免除願いたいという定家の申し出を後鳥羽院は却下し、三度も使を出して督促し無理やり定家を参内させた。この際に定家が詠進した歌が「春山月 さやかにもみるべき山はかすみつゝわがみの外も春のよの月」「野外柳 道のべの野原の柳下もえぬあはれなげきのけぶりくらべに」の二首であり、後者、野外柳の歌の五句「けぶりくらべ」の語が後鳥羽院の逆鱗に触れたとされる<ref>{{Cite journal|和書|author=久保田淳 |date=2021 |url=https://doi.org/10.2183/tja.76.1_1 |title=後鳥羽院の『時代不同歌合』と藤原定家の『百人秀歌』 |journal=日本學士院紀要 |ISSN=03880036 |publisher=日本学士院 |volume=76 |issue=1 |pages=1-19 |doi=10.2183/tja.76.1_1 |CRID=1390008688855953536}}、<br />{{Cite journal|和書|author=林直道 |date=2004-01 |url=http://id.nii.ac.jp/1377/00001393/ |title=隠岐の後鳥羽院と『百人一首』の秘密 |journal=北東アジア研究 |ISSN=1346-3810 |publisher=島根県立大学北東アジア地域研究センター |volume=6 |pages=141-151 |CRID=1050001201682317824}}</ref>。}}。
=== 承久の乱以降 ===
承久3年([[1221年]])[[承久の乱]]が起こると、後鳥羽上皇は配流され藤原兼子は失脚する一方で、権勢は定家の義兄弟である西園寺公経に移り、定家の主家である九条家も勢いを盛り返すなど、定家にとって非常に幸運な時代となる<ref name="m76">{{harvnb|村山(1989)|p=76}}</ref>。承久4年([[1222年]])参議を辞して[[従二位]]に叙せられると、[[嘉禄]]3年([[1227年]])には[[正二位]]に至った。正二位への昇進に際して定家は、承久の乱がなかったらこの叙位はなかったであろう、との感想を残している。さらに、70歳を越えても官位への執着が衰えなかった定家は[[中納言|権中納言]]への任官を望んで、[[寛喜]]2年([[1230年]])自らは老体のため妻に[[日吉神社]]への参籠祈念をさせ、翌寛喜3年([[1231年]])歩行困難の中で人に縋り付くようにして[[春日神社|春日詣]]を行うなどする一方で、関白・[[九条道家]]に猛運動を行う<ref name="m76" />。
こうしてついに、 [[寛喜]]4年([[1232年]])正月に71歳で[[中納言|権中納言]]に任ぜられる。権中納言在任時の『明月記』の記述はほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって定家がたびたび上卿の任を務め、特に[[石清水八幡宮]]に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、[[貞永]][[改元]]や[[四条天皇]]の[[践祚]]などの重要な議定にも参加している。しかし、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく<ref>『明月記』貞永2年4月5,6,13日条</ref>、同年の12月には権中納言を罷免されてしまい官界を退く<ref>五味文彦「中納言定家と上卿故実」(初出:『明月記研究』3号(明月記研究会、1998年))</ref>。翌天福元年([[1233年]])10月11日に慈心房([[海住山長房]])を戒師として[[出家]]、法名は'''明静'''を名乗った。
=== 晩年 ===
一方で、寛喜4年(1232年)6月に定家は[[後嵯峨天皇]]から『[[新勅撰和歌集]]』編纂の下命を受けて単独で撰出を開始。同年12月に権中納言を辞した後は撰歌に専念する。[[天福 (日本)|天福]]2年([[1234年]])6月に後堀河上皇の希望で1498首の草稿本を[[清書]]し奏覧(仮奏覧)する。後堀河上皇崩御後の同年11月に前関白・九条道家の要望で後鳥羽上皇ら承久の乱で処罰された歌人の和歌を削除し、[[文暦]]2年([[1235年]])3月に精撰本を道家に提出して完成した。なお、『新勅撰和歌集』への定家自身の作品の採録は15首と、『新古今和歌集』の47首と比べて大幅に少ない。さらに、このうち絢爛・華麗な新古今朝の和歌は少なく、質実な建保期以降の作品が中心となっている<ref name="m323">{{harvnb|村山(1989)|p=323}}</ref>。
[[嘉禎]]元年([[1235年]])[[宇都宮頼綱]]から[[嵯峨野]](現在の[[京都市]][[右京区]][[嵯峨]])に建てた別業(小倉山荘)の[[障子]]色紙に古来の歌人の和歌を1首ずつ[[揮毫]]して欲しいとの要望を受けて、定家は[[天智天皇]]から[[順徳天皇|順徳院]]に至るまでの100人の歌人の和歌を1首ずつ選んで頼綱に対して書き送る{{sfn|村山(1989)|p=325}}。後に、これが定家が小倉山で編纂したことに因んで『[[小倉百人一首]]』という通称で呼ばれるようになった。『小倉百人一首』は勅撰集と異なりバランスを考慮する必要がなく、定家の好みの和歌を自由に選んだためか、部類分けの内では、恋(46)、秋(15)が多くを占めている{{sfn|村山(1989)|p=328}}。
[[仁治]]2年([[1241年]]) 8月20日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]80。
== 人物 ==
*「'''美の使徒'''」<ref>新潮社版『定家明月記私抄』帯の広告</ref>、「'''美の鬼'''」<ref>丸谷才一編『別冊文芸読本 百人一首』(河出書房新社)の「百人一首」撰者考(石田吉貞)より(166頁下段)</ref>、「'''歌聖'''」<ref group="注">国書刊行会『藤原定家全歌集』序文に引用される霊元天皇の言葉「人麻呂貫之が亡くなりたる後には、ただ京極の黄門のみぞ。古(いにしえ)を正し今を教へ、独(ひとり)この道の聖(ひじり)なりける」</ref>、「'''日本最初の近代詩人'''」<ref>丸谷才一『後鳥羽院』258頁</ref>などと呼ばれることがある日本を代表する詩人の一人。美への執念は百人一首の撰歌に見られるように晩年まで衰えることがなかった。
*[[玉葉|『玉葉]]』によると文治元年11月、少将雅行に嘲弄されたことに激怒して、脂燭(ししょく)で相手を殴り除籍となり、『[[古今著聞集]]』によると父俊成から和歌によって取りなして貰い、後鳥羽天皇から許しを得たとあるほど気性が激しく、また[[後鳥羽院御口伝|『後鳥羽院御口伝]]』によると「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさ/\と思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばず」、「傍若無人、理(ことわり)も過ぎたりき。他人の詞(ことば)を聞くに及ばず」と実父を含む自分以外の人間の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘されている。また、どんなに後鳥羽院が褒めても、自詠の左近の桜の述懐の歌が自分では気に入らないからと、新古今に入撰することに頑強に反対するなど、身分の高下にかかわらず相手がだれであろうと自説を曲げることがなかった。順徳天皇歌壇の重鎮として用いられるも、承久二年の内裏歌会への出詠歌が後鳥羽院の勅勘を受け、謹慎を命じられた。しかし、この謹慎の間、さまざまな書物を書写した結果、多くの平安文学が後世に残ったと言える。
*定家の日記には、「心神不快」とか「心神迷惑」とか「心神常に違乱」といった言葉が随所に出てきており、若い頃から病弱だったことが分かる。とりわけ日記に咳病や風病が頻繁に記録されていて、いずれも風邪の症状で、呼吸器系の疾患で冬になると毎年のようにこの病に悩まされ、写経や書写を通して持病の不快感を克服していた<ref>{{Cite book|和書|author=宮本義己 |author-link=宮本義己 |title=歴史をつくった人びとの健康法 : 生涯現役をつらぬく |publisher=中央労働災害防止協会 |year=2002 |series=中災防新書 |ISBN=4805908068 |id={{全国書誌番号|20342773}} |pages=152-153}}</ref>。
=== 歌風 ===
* 巧緻・難解、[[唯美主義]]的・夢幻的で、代表的な新古今調の歌人であるとされている。
* 定家の和歌の性格について[[風巻景次郎]]著『新古今時代』の「『拾遺愚草』成立の考察」に要約がある。
{{quotation|定家は平安朝生活の伝統を多分に承け、それにふさわしく繊細な神経で夢の世界を馳せ、その天性によって唯美的な夢の文学を完成した。しかし表現せんとするものが縹渺(ひょうびょう)として遥かであるほど、それを生かすには辞句の選択、着想の考案のために心を用いることは大でなければならぬ。そして定家はそれに耐えるほどの俊敏な頭脳をもっていた。かれの歌の成功はこの頭脳の力にある。しかしまた、その失敗も頭脳のためであった。かれの歌の大半は、優艶(ゆうえん)なる夢をいかにして表現しようかと努力した理知の影を留め、その表現のために尽くした努力はその措辞(そじ)の上に歴々として現れた。かれはじつに'''夢の詩人で、理知の詩人で、そして言葉の詩人'''であった。}}
*また石田吉貞は次のように言う。
{{quotation|「凡そ定家の歌は、どれ一つとして、官能美という眼をもたないものはない。定家の詠作の場合におけるあらゆる苦心、沈思、彷徨は、結局において一つの官能美をさがし出すことであり、その官能美によって、彼のうちにある辿りようもない、深い、もつれた、複雑なものを、爽やかな客観的世界につなごうとすることにあったと言ってよい」。(『藤原定家の研究』270頁)}}
{{quotation|「定家美(妖艶)のなかには、多くの非正常的・怪奇的なものがある。あまりに華麗幻燿にすぎて、人を誑(たぶらか)さずにはおかないこと、つよい阿片性・麻薬性があって、人を麻痺、昏酔させる毒性をもつこと、あまりにつよい性欲性・獣性があって、人を頽廃・好婬に誘わずにおかないこと、つよい幽鬼性・悪魔性があって、人を悪魔的世界に誘おうとすること、死や亡びのもつ非生命性・空無性・滅亡性等に美を感じさせ、死や亡びのなかに投身させようとする性質をもつこと等々がそれである」。(『妖艶 定家の美』56頁)}}
*また谷山茂は以下のように指摘する。
{{quotation|「定家が恋歌を最も得意としたということは、彼を知る上で極めて重要な事実である。「定家などは智慧の力をもってつくる歌作り也」(『井蛙抄』)と自認していたというが、その智巧的態度に立って、幻想世界を縦横に描き出そうとする定家にとっては、現実にしばられ易い四季自然歌よりも、智巧(利巧)や空想(そらごと)の恣意を多分に許容される恋歌のほうが得意であったことは、全く当然のことなのである。すなわち、定家ーー少なくとも新古今撰進期における定家をして、恋歌を本領とさせたのは、その恋の体験の深さや広さではなくて、彼の智巧的超現実的な[[芸術至上主義]]の魔力的意欲であるというべきである。そういう点では、さすがの俊成も西行も家隆も俊成女(としなりのむすめ)も、遥かに遠く及ばない古今独歩の境地を極めているのである。しかも、そういう行き方が、恋歌からさらに四季自然歌にまで拡充されているのだから、全く驚くべき魔術師である。そして、新古今の歌人たちは、ほとんど例外なく、及ばぬながらにも、多かれ少なかれ、一応はこの道に追従していったのである」。(谷山茂 著作集第5巻『新古今集とその歌人』282頁)}}
=== 書 ===
[[ファイル:Kindaishuka.jpg|thumb|350px|『[[近代秀歌]]』定家自筆本(「やまとうたのみち あさきにゝてふかく やすきにゝてかたし わきまえしるひと 又いくばくならず むかし つらゆき 哥の心たくみに たけをよびがたく ことばつよく すがたおもしろきさまをこのみて 余情妖艶の躰をよまず それよりこのかた その流をうくるともがら ひとへにこのすがたにおもむく、、、、」)]]
[[File:Teika-sarashina-nikki-calligraphy.png|thumb|250px|定家の筆跡(更級日記)]]
定家の[[書道|書]]は、父の俊成と同じく[[法性寺流]]より入ったが、強情な性格をよく表した偏癖な別の[[書道用語一覧#書風|書風]]を成した。[[書家|能書]]といったものではなく、一見すると稚拙なところがあるが、線はよく練れて[[書道用語一覧#遒勁|遒勁]]である。江戸時代には、[[小堀政一|小堀遠州]]や[[松平治郷]]らに大変に愛好され、彼らは、この書風を[[日本の書流#定家様|定家流]]と称して大流行させた。定家の書は特に近世以降、特に茶人や書家たちにあまりにももてはやされたため、偽筆も多く現代に伝わっている現状があり、だまされないために注意が必要である。
また、定家は古典文学作品の書写においては、原本に問題ありと考えれば、場合によっては校訂作業を加えることもあったが、基本的にはどんな誤りがあっても私意では訂正しない学者的慎重さを見せている<ref>風巻景次郎『中世の文学伝統』より「八 源実朝、『金槐集』、実朝の歌の多くは風流の歌である」岩波書店1985年</ref>。なお、「定家自筆」とされる書の中には定家本人のものではなく、彼の監修の下に定家の子女や家臣などによって行われた作品が含まれているとする説もあり、議論が行われている(同様の趣旨の説は父の俊成や九条兼実など、当時の公家の書に関して広く指摘されている)<ref>家入博徳『中世書写論 -俊成・定家の書写と社会』勉誠出版、2010年、ISBN 978-4-585-03251-9</ref>。
=== 政治家として ===
定家は[[藤原道長]]の[[来孫]](5代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の[[嫡流]]から遠く、[[院近臣]]を輩出できなかった定家の御子左流は他の[[御堂流]]庶流([[中御門流]]や[[花山院流]])と比較して不振であった。更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は[[藤原顕頼]]([[葉室家]])の養子となって諸国の[[受領]]を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にもかかわらず官位には恵まれなかった。
定家自身も若い頃に宮中にて、[[新嘗祭]]の最中に[[源雅行]]と乱闘したことで除籍処分を受けるなど波乱に満ち、長年[[近衛中将]]を務めながら[[頭中将]]にはなれず、50歳の時に漸く公卿に達したがそれさえも姉の九条尼が[[藤原兼子]](卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は[[九条家]]に[[家司]]として仕えて摂関の側近として多くの[[公事]]の現場に立ち会って、[[有職故実]]を自己のものにしていくと共に、反九条家派の[[源通親|土御門通親]]らと政治的には激しく対立する(建久9年([[1198年]])[[土御門天皇]]の親王宣下なしでの践祚に際し「[[光仁天皇|光仁]]の例によるなら弓削法皇([[道鏡]])は誰なのか」(兼実を道鏡になぞらえるつもりか)と『[[明月記]]』建久9年正月11日条に記して憤慨している)など、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや政務の中心に参画することを希望していたことは『明月記』などから窺い知ることは可能である。そして、[[寛喜]]4年(1232年)正月に定家は[[二条定高]]の後任として71歳にして念願の権中納言に就任する。だが、[[九条道家]]との対立によって、同年12月に権中納言を更迭される。こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる<ref>『明月記』安貞元年9月27日条</ref>[[右大臣]]・[[藤原実資]]のように政治的な要職に就くことは適わなかった<ref>松薗,1996年</ref>。
また、2代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元年(1225年)7月には同じく嫡男を[[蔵人頭]]にしようとする[[滋野井実宣|藤原実宣]]と激しく争って敗れている。だが、この年の12月に実宣の子[[滋野井公賢|公賢]]の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年1月に父が自分の妻を追い出して[[権門]]の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している<ref>『明月記』嘉禄2年6月2日条{{harv|五味(2000)|p=225-226}}</ref>。その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず、『[[次将装束抄]]』や『[[釋奠次第]]』など公事や有職故実の書を著した背景には自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている。
== 作品 ==
[[File:Yoshitoshi - 100 Aspects of the Moon - 53.jpg|thumb|『住吉の名月』([[月岡芳年]]『月百姿』)住吉明神の神託を受ける定家]]
=== 勅撰和歌集 ===
*'''[[新古今和歌集]]''':[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]親撰。定家は院の助手たちの中心だった。
*[[新勅撰和歌集]]:定家単独撰の勅撰集、仮名序も定家。政治的な配慮で後鳥羽院、[[順徳天皇|順徳院]]の歌が除かれている。
=== 家集等 ===
*[[拾遺愚草]]
*拾遺愚草員外
*[[定家卿百番自歌合]]
*定家卿独吟詩歌
=== 秀歌集 ===
*秀歌大体:後堀河院に進献。
*[[定家八代抄]]:八代抄、八代知顕抄、二四代集、二四代抄、黄点歌勅撰抄とも。初撰本とそれを増補した精撰本とがある。
*八代集秀逸:定家単独撰、または後鳥羽院、藤原家隆との共撰。
*百人秀歌
*物語二百番歌合
*[[小倉百人一首]]
=== 歌学書・注釈書 ===
*[[詠歌大概]]:漢文体の歌論と「秀歌躰大略」と題する秀歌例からなる。快法親王に進献したものか。
*衣笠内府歌難詞:[[藤原家良]]に宛てた手紙。家良の歌を批評する。
*[[近代秀歌]]:和歌秘々、秘々抄、定家卿和歌式とも。実朝に送った初撰本と成立不明の再撰本とで秀歌例が大きく異なる。
*[[下官集]]:下官抄、僻案とも。草子や和歌の書式を述べる。
*[[顕註密勘]]:古今秘注抄、古今和歌集抄とも。顕昭の古今集への注に定家が補注したもの。
*五代簡要:万物部類倭歌抄とも。
*三代集之間事:三代集について父俊成から伝授されたものを中心に纏める。
*先達物語:京極黄門談、京極中納言定家卿相語、定家卿相談とも。[[藤原長綱]]の聞書き。
*[[定家十体]]:定家が10に分類した歌体にそれぞれの例歌を集めたもの。
*定家物語:古今集や万葉集の歌に関する質問に答えたもの。
*僻案抄:三代集注釈書。
*[[毎月抄]]:定家卿消息、和歌庭訓とも。偽作説も。
*[[万葉集長歌短歌説]]:定家卿長歌短歌之説、長歌短歌古今相違事、万葉集長歌載短歌字由事などとも。古今集雑躰の部に「長歌」を「短歌」と題してあることにつき、万葉集の例歌や題詞をあげて論証し正したもの。
*明月記:毎月抄に見えるが不詳。
*和歌会次第:定家卿和歌書様並会次第、和歌秘抄、和歌秘書などとも。
=== その他 ===
*[[明月記]]:日記。
*[[松浦宮物語]]:擬古物語。
*[[定家小本]]:古今六帖の抄出歌集と主に源氏物語に関する考勘を併せたもの。
*[[奥入]]:源氏物語注釈。
*[[釈奠次第]]:[[釈奠]]についての故実。
*[[次将装束抄]]:中少将の装束について為家に書き与えたものか。
=== 偽作 ===
*雨中吟:歌学書。
*桐火桶:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
*愚見抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。歌の詠みかた、定家卿詠方集とも。
*愚秘抄:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
*三五記:歌学書。鵜鷺系偽書の一。
*定家卿筆諌口訣
*定家卿自歌合
*定家卿鷹三百首
*未来記:歌学書。
*小倉問答
== 官歴 ==
[[ファイル:藤原定家3611.JPG|thumb|200px|藤原定家京極邸址、京都市中京区]]
[[ファイル:FujiwaraNoTeikaHakaShokokuji.jpg|thumb|200px|藤原定家墓([[相国寺]])]]
注記のないものは『[[公卿補任]]』による。
* [[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]]) 12月30日:[[従五位|従五位下]](皇后宮([[藤原忻子]])長寛元年未給)
* [[安元]]元年([[1175年]]) 12月8日:[[侍従]](父俊成右京大夫任之)
* [[治承]]4年([[1180年]]) 正月5日:従五位上(簡一)
* [[寿永]]2年([[1183年]]) 12月19日:[[正五位|正五位下]]([[朔旦冬至]]、[[八条院]]御給)
* [[文治]]元年([[1185年]]) 11月22日:除籍([[源雅行]]と乱行)<ref>『玉葉』文治元年11月25日条</ref>
* 文治2年([[1186年]]) 3月:除籍解除
* 文治5年([[1189年]]) 11月13日:[[近衛府|左近衛少将]]
* 文治6年([[1190年]]) 正月5日:[[従四位|従四位下]]、少将如元
* [[建久]]2年([[1191年]]) 2月10日:兼[[因幡国#国司|因幡権介]]
* 建久4年([[1193年]]) 2月13日:服解(母)<ref name="mgk" />。6月27日:復任
* 建久6年([[1195年]]) 正月5日:従四位上(府)。2月2日:止因幡権介<ref name="knb">『近衛府補任』</ref>
* 建久10年([[1199年]]) 正月30日:兼[[安芸国#国司|安芸権介]]
* [[正治]]2年([[1200年]]) 10月26日:[[正四位|正四位下]](臨時給分)
* [[建仁]]2年([[1202年]]) 閏10月24日:左近衛権中将
* 建仁3年([[1203年]]) 正月13日:兼[[美濃国#国司|美濃介]]
* [[元久]]元年([[1204年]]) 11月30日:服解(父)<ref name="mgk">『明月記』</ref>
* 元久2年([[1205年]]) 3月25日:復任
* [[承元]]4年([[1210年]]) 正月14日:兼[[淡路国#国司|淡路権介]]。正月21日:辞左中将(以男為家申任左少将)。12月17日:[[内蔵寮|内蔵頭]]
* [[建暦]]元年([[1211年]]) 9月8日:[[従三位]]、[[侍従]]<ref group="注">当該記事以前の記事は[[冷泉家時雨亭文庫]]所蔵の定家直筆の『[[公卿補任]]』写本・建暦元年条「藤定家」条による。[[国史大系本]]『公卿補任』と内容が異なる部分(国史大系本にある仁安2年12月30日条の紀伊守補任の記事が存在しないなど)があるものの、定家自身が記した官歴がより正確な記述と考えられている。なお、[[五味文彦]]によれば国史大系本に登場する仁安2年補任の紀伊守季光は定家のことではなく、同国の知行国主[[藤原光能]]の息子のことである{{harv|五味(2000)|p=4-5}}</ref>
* [[建保]]2年([[1214年]]) 2月11日:[[参議]]
* 建保3年([[1215年]]) 正月13日:兼[[伊予国#国司|伊予権守]]
* 建保4年([[1216年]]) 正月13日:兼[[治部省|治部卿]]。3月28日:辞侍従。12月14日:[[正三位]]
* 建保6年([[1218年]]) 7月9日:兼[[民部省|民部卿]]
* 建保7年([[1219年]]) 日付不詳:辞伊予権守
* [[承久]]2年([[1220年]]) 正月22日:兼[[播磨国#国司|播磨権守]]
* 承久4年([[1222年]]) 8月16日:辞参議、[[従二位]]
* [[元仁]]元年([[1224年]]) 日付不詳:辞播磨権守
* [[嘉禄]]3年([[1227年]]) 10月21日:[[正二位]]、罷民部卿
* [[寛喜]]4年([[1232年]]) 正月30日:[[中納言|権中納言]]。9月7日:勅授帯剣。12月18日:罷官
* [[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]]) 10月11日:[[出家]](前権中納言正二位)、[[法名]]:明静
* [[仁治]]2年([[1241年]]) 8月20日:[[崩御#薨去|薨去]]
== 系譜 ==
[[藤原北家]][[藤原長家|長家]]流([[御子左家]])に属し、[[藤原道長]]の[[来孫]]にあたる。
*父:[[藤原俊成]]
*母:[[美福門院加賀]](?-1193) - 藤原親忠の娘。([[藤原北家]][[藤原魚名|魚名流]])
*妻:[[藤原季能]]の娘
**長男:[[藤原光家]](1184-?)
**男子:定修
**女子:
*妻:[[西園寺実宗]]の娘
**三男:[[藤原為家]](1198-1275)
**長女:[[後堀河院民部卿典侍|藤原因子]](1195-?) - 後堀河院民部卿典侍
**次女:藤原香子(1196-?)
*生母不明:
**次男:定円(のち定修)(1191-1235?)
**男子:覚源
**女子:[[西園寺公相]]妾、のち[[法性寺雅平]]室
*猶子
**男子:藤原定時(実父は[[藤原定長]]で[[落胤]])
=== 子孫 ===
定家の子孫は御子左家(嫡流は別名[[二条派|二条家]]とも)として続いたが南北朝時代から[[室町時代]]にいたる戦乱により嫡流は断絶した。御子左家の分家である[[冷泉家]]は現在も京都に於いて続いており、この系統からは4家の[[羽林家]]([[上冷泉家]]、[[下冷泉家]]、[[藤谷家]]、[[入江家]])を輩出したことでも知られる。
なお、嫡系子孫の歌人である[[二条為子]]と[[二条藤子]]は、[[後醍醐天皇]]の妻でもあり、後醍醐との間に皇子・皇女をもうけている。為子との皇子は上将軍[[尊良親王]]と征夷大将軍[[宗良親王]]。また、藤子の子である[[征西大将軍]][[懐良親王]]は、[[明]]から[[日本国王]]に冊封された。そのため、生前は出世に苦労した定家であるが、明の視点で見れば、日本の統治者の外戚一族の始祖となる。
== 定家神社 ==
{{神社
|名称 = 定家神社
|画像 = [[File:Teika-jinja torii.jpg|300px]]<br />{{Commonscat-inline|Teika-jinja|定家神社}}
|所在地 = [[群馬県]][[高崎市]]下佐野町873番地<ref name="jinjacho">{{Cite web|和書|url=http://www.gunma-jinjacho.jp/jinja/ |title=県内神社紹介 高崎支部 |publisher=群馬県神社庁 |accessdate=2019-04-22 }}</ref>
|ISO = JP-8
|緯度度 = 36|緯度分 = 17|緯度秒 = 58.1
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|祭神 = 藤原定家<ref name="takasaki">{{Cite web|和書|url=http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121800372/ |title=
定家神社社宝(縁起一巻ほか) |publisher=高崎市 |accessdate=2019-04-22 }}</ref>
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|社格 =
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|札所等 =
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|神事 =
|地図 = Japan Gunma
|ラベル位置 = right
}}
[[群馬県]][[高崎市]]下佐野町に、藤原定家を[[祭神]]として祀る'''定家神社'''(ていかじんじゃ)がある。最寄り駅は[[上信電鉄]][[上信電鉄上信線|上信線]]・[[佐野のわたし駅]]<ref name="takasakikanko">『[http://www.takasaki-kankoukyoukai.or.jp/wp-content/uploads/2014/12/kankou129.pdf 高崎観光協会 会報 Vol.129]』高崎観光協会、2015年</ref>。
伝承によると、定家は源雅行との間で起こした揉め事が原因で[[上野国]]へ[[流罪]]となり、それが許されて京へと戻る際、自刻像と[[念持仏|持念仏]](観音菩薩像、3[[寸]])を村人たちに贈った。これを[[神体]]として作った[[祠]]が定家神社の始まりであるという<ref>早川愿次郎編『[{{NDLDC|764029}} 高崎案内]』上野日日新聞社、1910年、[{{NDLDC|764029/108}} 147]-[{{NDLDC|764029/109}} 148頁]</ref><ref>高崎市編『[{{NDLDC|1901371}} 高崎市史 下巻]』高崎市、1927年、[{{NDLDC|1901371/235}} 445]-[{{NDLDC|1901371/236}} 446頁]</ref>。また、「駒とめて…」の歌に見える「佐野」という地名にあやかり、[[江戸時代]]になって当地の[[文人]]らによって定家が祀られたともいう。定家が詠んだ「こぬ人を…」の恋歌から、恋愛成就の[[功徳|御利益]]があるとされる<ref name="takasakikanko" />。
<gallery>
File:Teika-jinja 1.jpg|社殿
</gallery>
== 諸説 ==
* 定家クラスの中級貴族が一度に工面できる金額は200[[貫]]で年収はその10倍の2千貫くらいという説([[本郷恵子]])があり(後述書 p.67)、荘園領主は1[[石 (単位)|石]]=1貫(千文)で安定させようとしていたため、これを基準とするなら、定家の年収は現代にして2億円とされる([[五味文彦]] 『日本の中世』 財団法人放送大学教育振興会 第2刷1999年(1刷98年) ISBN 4-595-55432-X p.67)。これに対し、皇族[[長屋王]]は年収4億円(1991年当時の価格。なお、長屋王と定家には500年の時代差があることにも注意)であったとされている(長屋王の逸話を参照)。
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; テレビドラマ
* 『[[草燃える]]』(1979年、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[岡本信人]])
; 小説
* [[塚本邦雄]]『藤原定家 火宅玲瓏』(1973年、[[人文書院]])
* [[田中阿里子]]『藤原定家愁艶』(1989年、[[徳間書店]])
* [[篠綾子]]『藤原定家謎合秘帖 幻の神器』(2014年、[[KADOKAWA]])『藤原定家謎合秘帖 華やかなる弔歌』(2015年、KADOKAWA)
* [[周防柳]]『身もこがれつつ――小倉山の百人一首』(2021年7月、[[中央公論新社]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=村山修一 |author-link=村山修一 |title=藤原定家 |publisher=吉川弘文館 |date=1989 |series=人物叢書 |ISBN=4642051724 |id={{全国書誌番号|89062063}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000002005399 |ref={{harvid|村山(1989)}}}}
*[[木村卜堂]]『[[日本と中国の書史]]』社団法人日本書作家協会、1971年。
* {{Cite journal|和書|author=[[松薗斉]] |title=藤原定家と日記:王朝官人としての定家 |journal=愛知学院大学論叢 |ISSN=02858940 |publisher=愛知学院大学文学会 |year=1995 |issue=25 |pages=336-317 |NCID=AN0000649X |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I3939715-00 |harv=ref}}
**改題「藤原定家と王朝日記」-『王朝日記論』第5章(法政大学出版局、2006年) ISBN 978-4-588-25052-1
* {{Cite book|和書|author=五味文彦 |author-link=五味文彦 |title=明月記の史料学 |publisher=青史出版 |year=2000 |ISBN=4921145083 |id={{全国書誌番号|20100017}} |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000002913728 |ref={{harvid|五味(2000)}}}}
*市川久編『近衛府補任 第二』[[続群書類従完成会]]、1992年
*『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
*『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
== 定家自筆の影印刊行 ==
*『拾遺愚草 上・中』冷泉家時雨亭叢書第八巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. [[朝日新聞社]]. 1993.
*『拾遺愚草 下・拾遺愚草員外・俊成定家詠草・古筆断簡』冷泉家時雨亭叢書第九巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1995.
*『明月記 一~五』冷泉家時雨亭叢書第五十六~六十巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1993~2003.
*『古今和歌集 嘉禄二年本・古今和歌集 貞応二年本』冷泉家時雨亭叢書第二巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 1994.
*『後撰和歌集 天福二年本』冷泉家時雨亭叢書第三巻.(財)冷泉家時雨亭文庫編. 朝日新聞社. 2004.
*『京都冷泉家・国宝明月記 展』図録. [[五島美術館]]. 2004.
*『近代秀歌』[[久松潜一]]解説. 武蔵野書院. 1958.
*『藤原定家 近代秀歌』古谷稔解説. 日本名跡叢刊33・[[二玄社]]. 1979.
*『伊達本 古今和歌集―藤原定家筆』[[久曽神昇]]解説. [[笠間書院]]. 1977. 新版2005.
*『藤原定家筆 古今和歌集』全二冊. 久曽神昇編. 汲古書院. 1992.
*『藤原定家筆 拾遺和歌集』全二冊. 久曽神昇編. 汲古書院. 1990.
*『御物 更級日記』[[橋本不美男]]解説. 笠間影印叢刊・笠間書院. 1971.
*『更級日記―翻刻・校注・影印』橋本不美男ほか解説. 笠間書院. 1995.
*『更級日記 藤原定家筆』島谷弘幸解説. 日本名筆選43・二玄社. 2004.
== 関連項目 ==
{{Portal|文学}}
* [[冷泉家時雨亭文庫]]
* [[青表紙本]]
* [[定家本源氏物語]]
* [[藤原定家自筆本源氏物語]]
* [[定家仮名遣]]
* [[明石海峡]]
* [[テイカカズラ]]
* [[天台宗]]
* [[摩訶止観]] - 法名「明静」の由来
* [[幽玄]] - 美意識を提唱
=== 交友・関連人物 ===
* [[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]
* [[式子内親王]]
* [[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]
* [[西行]]
* [[慈円]]
* [[藤原良経]]
* [[源実朝]]
* [[俊成卿女]]
* [[寂蓮]]
* [[順徳天皇]]
* [[源家長]]
== 外部リンク ==
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電気伝導
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電気伝導(でんきでんどう、英: electrical conduction)は、電場(電界)を印加された物質中の荷電粒子が、電場(電界)に導かれて移動する現象である。電気伝導が起こることを、電流が流れるという。電荷担体は主として電子であるが、イオンや正孔などもこれに該当する。
荷電粒子が移動する際には、移動を妨げようとする力が働く。これを電気抵抗という。抵抗の原因としては、格子振動や不純物による散乱などが挙げられる。
オームの法則より、電流 I と電気抵抗 R は以下の関係にある。
V = I R {\displaystyle V=\,IR}
また電気抵抗 R は、電流の流れる物体(導体)の長さを l 、断面積を A とすると以下のように表せる。
R = ρ l A {\displaystyle R=\,\rho {l \over A}}
このとき比例係数 ρ を電気抵抗率という。単に抵抗率(ていこうりつ)ともいい、また比抵抗とも呼ばれる。単位はオームメートル [Ω・m] を用いる。
電気抵抗率の逆数 σ を電気伝導率(EC)という。導電率(どうでんりつ)または電気伝導度(でんきでんどうど)ともいう。単位はジーメンス毎メートル [S/m] または毎オーム毎メートル [Ω・m] を用いる。
σ = 1 ρ {\displaystyle \sigma ={1 \over \rho }}
電場をEとすると、電流密度 J と電気伝動率 σ は以下の関係にある。
J = σ E {\displaystyle J=\,\sigma E}
以上は、一次元あるいは完全に等方的な場合を仮定してのものである。これを三次元に拡張すると、電気伝導率はテンソルで表現される。
J α = ∑ β σ α β E β {\displaystyle J_{\alpha }=\,\sum _{\beta }\sigma _{\alpha \beta }E_{\beta }}
オームの法則 をはじめとする電気伝導のミクロな理論は、電子の存在が実験的に確認されて間もなく、ドルーデが古典的に行った。ドルーデはマクスウェルやボルツマンによる気体分子運動論を応用し、金属中の電子を古典的な自由電子気体としたドルーデモデルによってウィーデマン・フランツの法則を導いた。その後ローレンツは、電子の速度分布を考慮することでドルーデモデルを改良した。ドルーデモデルとそれを改良したローレンツの理論は、古典電子論と呼ばれる。
量子力学の適用はゾンマーフェルトによって行われ、電子はフェルミ分布に従うとした。これをドルーデ=ゾンマーフェルト模型と呼ばれる。
以上は基本的に固体中の電子を自由電子と見なしているが、電子は固体(結晶)がもつ規則性により周期的なポテンシャルを感じ、その結果ブロッホの定理を満たさなければならない。また格子は熱振動するため、固体中の電子は格子振動(フォノン)と相互作用する。これを電子-フォノン相互作用と呼ぶ。
非平衡の量子統計力学では、久保亮五が線形応答の範囲で輸送係数の一般公式を与えた。これはグリーン–久保公式などと呼ばれる。 久保理論では体積が無限大の系を想定しているが、サイズが有限な系、とくにメゾスコピック系の電気伝導としては、ランダウアー公式が知られている。
荷電粒子の力学的な運動を調べることによって電気伝導率を導くことができる。
電場を E 、電場によって加速される荷電粒子の電荷を e 、質量を m 、速度を v 、緩和時間を τ とすると、以下の荷電粒子の運動方程式を導き出せる。
m d v d t = − e E − m v τ {\displaystyle m{\mathrm {d} \mathbf {v} \over {\mathrm {d} t}}=-e\mathbf {E} -{m\mathbf {v} \over {\tau }}}
加速と抵抗が釣り合えば、終端速度に達する。すると上式の左辺はゼロとなるから、
v = | e | E τ m {\displaystyle v={|e|E\tau \over m}}
となる。電場の方向の電流密度を j 、単位体積あたりの荷電粒子の数を n とすると、
j = n e v = n e 2 τ m E {\displaystyle j=nev={ne^{2}\tau \over m}E}
となり、電気伝導率 σ は移動度 μ を用いて以下のように求められる。
σ = n e μ = n e 2 τ m {\displaystyle \sigma =ne\mu ={ne^{2}\tau \over m}}
農学、特に植物の栽培において電気伝導率は、土壌溶液または培養液中のイオン総量を示す指針としても扱われる。単位はデシジーメンス毎メートル [dS/m] やミリジーメンス毎センチメートル [mS/cm] が多く用いられる。
電気伝導率は導電率計(ECメーター)を用いて測定される。養液栽培においては、その電気伝導率の値を調べることで、与える肥料の過不足の状態について大まかに知ることができる。
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"text": "非平衡の量子統計力学では、久保亮五が線形応答の範囲で輸送係数の一般公式を与えた。これはグリーン–久保公式などと呼ばれる。 久保理論では体積が無限大の系を想定しているが、サイズが有限な系、とくにメゾスコピック系の電気伝導としては、ランダウアー公式が知られている。",
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"text": "農学、特に植物の栽培において電気伝導率は、土壌溶液または培養液中のイオン総量を示す指針としても扱われる。単位はデシジーメンス毎メートル [dS/m] やミリジーメンス毎センチメートル [mS/cm] が多く用いられる。",
"title": "農学における電気伝導"
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"text": "電気伝導率は導電率計(ECメーター)を用いて測定される。養液栽培においては、その電気伝導率の値を調べることで、与える肥料の過不足の状態について大まかに知ることができる。",
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}
] |
電気伝導は、電場(電界)を印加された物質中の荷電粒子が、電場(電界)に導かれて移動する現象である。電気伝導が起こることを、電流が流れるという。電荷担体は主として電子であるが、イオンや正孔などもこれに該当する。 荷電粒子が移動する際には、移動を妨げようとする力が働く。これを電気抵抗という。抵抗の原因としては、格子振動や不純物による散乱などが挙げられる。
|
'''電気伝導'''(でんきでんどう、{{lang-en-short|electrical conduction}})は、[[電場]](電界)を[[印加]]された[[物質]]中の[[荷電粒子]]が、電場(電界)に導かれて移動する現象である。電気伝導が起こることを、[[電流]]が流れるという。[[電荷担体]]は主として[[電子]]であるが、[[イオン]]や[[正孔]]などもこれに該当する。
荷電粒子が移動する際には、移動を妨げようとする力が働く。これを[[電気抵抗]]という。抵抗の原因としては、[[格子振動]]や[[不純物]]による[[散乱]]などが挙げられる。
== 電気抵抗率 ==
[[Image:Resistivity geometry.png|thumb|電流が流れる物体の断面積を ''A''、長さを''l''とする]]
[[オームの法則]]より、電流 ''I'' と電気抵抗 ''R'' は以下の関係にある。
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また電気抵抗 ''R'' は、電流の流れる物体([[電気伝導体|導体]])の[[長さ]]を ''l'' 、[[断面|断面積]]を ''A'' とすると以下のように表せる。
{{Indent|<math> R = \, \rho {l \over A} </math>}}
このとき比例係数 ρ を'''[[電気抵抗率]]'''という。単に'''抵抗率'''(ていこうりつ)ともいい、また'''比抵抗'''とも呼ばれる。単位はオームメートル [Ω・m] を用いる。
== 電気伝導率 ==
電気抵抗率の[[逆数]] σ を'''[[電気伝導率]]'''(EC)という。'''導電率'''(どうでんりつ)または'''電気伝導度'''(でんきでんどうど)ともいう。単位はジーメンス毎メートル [S/m] または毎オーム毎メートル [Ω<sup>-1</sup>・m<sup>-1</sup>] を用いる。
{{Indent|<math> \sigma = {1 \over \rho} </math>}}
電場を''E''とすると、[[電流密度]] ''J'' と電気伝動率 σ は以下の関係にある。
{{Indent|<math> J = \, \sigma E </math>}}
以上は、一次元あるいは完全に等方的な場合を仮定してのものである。これを三次元に拡張すると、電気伝導率は[[テンソル]]で表現される。
{{Indent|<math> J_{\alpha} =\, \sum_{\beta} \sigma_{\alpha \beta} E_{\beta} </math>}}
== 電気伝導の理論 ==
[[オームの法則]]<ref>{{cite book | author = G. S. Ohm | title = Die galvanische Kette, mathematisch bearbeitet | year = 1827 | publisher = Berlin: T. H. Riemann | url = http://www.ohm-hochschule.de/bib/textarchiv/Ohm.Die_galvanische_Kette.pdf}}</ref> をはじめとする電気伝導のミクロな理論は、電子の存在が実験的に確認<ref>J.J. Thomson (1897) [https://books.google.com/books?id=vBZbAAAAYAAJ&pg=PA104#v=onepage&q&f=false "Cathode Rays"], ''The Electrician'' 39, 104</ref><ref>{{cite journal|last1=Thomson|first1=J. J.|title=Cathode Rays|journal=Philosophical Magazine|date=7 August 1897|volume=44|page=293|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/Thomson1897.html|accessdate=4 August 2014|series=5|doi=10.1080/14786449708621070}}</ref>されて間もなく、[[パウル・ドルーデ|ドルーデ]]が古典的に行った。ドルーデは[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]<ref>Maxwell, J.C. (1860) [https://books.google.com/books?id=-YU7AQAAMAAJ&pg=PA19#v=onepage&q&f=false "Illustrations of the dynamical theory of gases. Part I. On the motions and collisions of perfectly elastic spheres,"] ''Philosophical Magazine'', 4th series, '''19''' : 19–32., Maxwell, J.C. (1860) [https://books.google.com/books?id=DIc7AQAAMAAJ&pg=PA21#v=onepage&q&f=false "Illustrations of the dynamical theory of gases. Part II. On the process of diffusion of two or more kinds of moving particles among one another,"] ''Philosophical Magazine'', 4th series, '''20''' : 21–37.</ref>や[[ボルツマン]]<ref>Boltzmann, L., "Weitere studien über das Wärmegleichgewicht unter Gasmolekulen (Further Studies of the Warm Equilibrium of Gas Molecules)." ''Sitzungberichte der Kaiserlichen Akademie der Wissenschaften in Wien''. ''Mathematisch-Naturwissen Classe''. '''66''', 1872, pp. 275–370.</ref>による[[気体分子運動論]]を応用し、金属中の電子を古典的な[[自由電子]][[電子気体|気体]]とした[[ドルーデモデル]]<ref>{{cite journal |last= Drude |first= Paul|year= 1900 |title= Zur Elektronentheorie der Metalle |url= http://www3.interscience.wiley.com/cgi-bin/fulltext/112485959/PDFSTART |journal= [[Annalen der Physik]] | volume= 306 | issue=3 | pages=566 |doi= 10.1002/andp.19003060312|bibcode = 1900AnP...306..566D }}</ref><ref>{{cite journal |last= Drude |first= Paul |year= 1900 |title= Zur Elektronentheorie der Metalle; II. Teil. Galvanomagnetische und thermomagnetische Effecte |url= http://www3.interscience.wiley.com/cgi-bin/fulltext/112485893/PDFSTART |journal= [[Annalen der Physik]] |volume= 308 |issue=11 |pages=369 |doi= 10.1002/andp.19003081102|bibcode = 1900AnP...308..369D }}</ref>によって[[ウィーデマン・フランツの法則]]を導いた。その後[[ヘンドリック・ローレンツ|ローレンツ]]は、電子の速度分布を考慮することでドルーデモデルを改良した<ref>H. A. Lorentz, Proc. Amst. Acad. 7, 438 (1905).</ref>。ドルーデモデルとそれを改良したローレンツの理論は、'''古典電子論'''と呼ばれる。
[[量子力学]]の適用は[[ゾンマーフェルト]]によって行われ、電子は[[フェルミ分布]]に従うとした<ref>{{cite journal| title=Zur Elektronentheorie der Metalle|language=German|trans-title=On Electron Theory of Metals| journal=[[Naturwissenschaften]]| date=1927-10-14| first=Arnold| last=Sommerfeld| authorlink=Arnold Sommerfeld| volume=15| issue=41| pages=824–32| doi=10.1007/BF01505083|bibcode = 1927NW.....15..825S }}</ref>。これをドルーデ=ゾンマーフェルト模型と呼ばれる。
以上は基本的に固体中の電子を自由電子と見なしているが、電子は固体(結晶)がもつ規則性により周期的なポテンシャルを感じ、その結果[[ブロッホの定理]]を満たさなければならない。また格子は[[熱振動]]するため、固体中の電子は[[格子振動]]([[フォノン]])と相互作用する。これを電子-フォノン相互作用と呼ぶ。
[[非平衡]]の[[量子統計力学]]では、[[久保亮五]]が[[線形応答]]の範囲で[[輸送係数]]の一般公式を与えた。これは[[グリーン–久保公式]]などと呼ばれる。
久保理論では体積が無限大の系を想定しているが、サイズが有限な系、とくに[[メゾスコピック系]]の電気伝導としては、[[ランダウアー公式]]が知られている。
== 電気伝導の荷電粒子モデル ==
荷電粒子の[[力学]]的な運動を調べることによって電気伝導率を導くことができる<ref>阿部龍蔵「電気伝導」培風館、1969年</ref>。
電場を ''E'' 、電場によって加速される荷電粒子の電荷を ''e'' 、[[質量]]を ''m'' 、[[速度]]を ''v'' 、[[緩和時間]]を τ とすると、以下の荷電粒子の[[運動方程式]]を導き出せる。
{{Indent|<math> m {\mathrm{d} \mathbf{v} \over {\mathrm{d}t}} = - e \mathbf{E} - { m \mathbf{v} \over {\tau}} </math>}}
加速と抵抗が釣り合えば、[[終端速度]]に達する。すると上式の左辺はゼロとなるから、
{{Indent|<math> v = { |e| E \tau \over m} </math>}}
となる。電場の方向の電流密度を ''j'' 、単位[[体積]]あたりの荷電粒子の数を ''n'' とすると、
{{Indent|<math> j = n e v = {n e^2 \tau \over m}E </math>}}
となり、電気伝導率 σ は移動度 ''μ'' を用いて以下のように求められる。
{{Indent|<math> \sigma = n e \mu = {n e^2 \tau \over m} </math>}}
== 農学における電気伝導 ==
[[農学]]、特に[[植物]]の栽培において電気伝導率は、[[土壌]]溶液または[[培養液]]中のイオン総量を示す指針としても扱われる。単位はデシジーメンス毎メートル [dS/m] やミリジーメンス毎センチメートル [mS/cm] が多く用いられる。
: 1 S/m = 10 dS/m = 10 mS/cm
電気伝導率は導電率計(ECメーター)を用いて測定される。[[養液栽培]]においては、その電気伝導率の値を調べることで、与える[[肥料]]の過不足の状態について大まかに知ることができる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[電気伝導体]] - [[半導体]] - [[絶縁体]]
* [[物性物理学]]
* [[コンダクタンス]] - [[ジーメンス]]
* [[電気抵抗]] - [[オーム]]
* [[電気抵抗率]] - [[電気抵抗率の比較]]
* [[超伝導]]
* [[不純物伝導]]
* [[ホッピング伝導]]
{{電磁気学}}
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[[Category:電気理論]]
[[Category:物理化学の現象]]
[[Category:移動現象]]
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14,762 |
マーストリヒト
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マーストリヒト(オランダ語: Maastricht [maːˈstrɪxt] ( 音声ファイル), リンブルフ語: Mestreech [məˈstʀeˑx];メストレーヒ)は、オランダ南東端部、リンブルフ州の基礎自治体(ヘメーンテ)である。州都であり、マース川沿いの河港都市。
ドイツとベルギーの国境線にも近く、EU(ヨーロッパ連合)に関する条約であるマーストリヒト条約はこの基礎自治体で締結された。名前の由来は、ラテン語の「マース川の渡河地点」(Trajectum ad Mosam)であると言われている。
マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれ、西暦98年にナイメーヘンがオランダで最初にローマ帝国から都市権を得るよりも500年前には、ケルト人が造った町が存在していた(なおマーストリヒトはローマ帝国から都市権を得ることは無かった)。
8000年から25000年前の旧石器時代の遺構が、市内の西部で発見されている。ローマ人が住みつく少なくとも500年前には、マース川が浅瀬になり対岸に容易に渡ることができる地点にケルト人が住んでいた。その後、ローマ帝国が現在のシント・セルファース橋の少し上流側に橋を架け、帝国内各地より低地ゲルマニアの州都ケルンに繋がる道を造った(この橋は13世紀に、シント・セルファース橋の位置に架け替えられている)。
8世紀には近隣のリエージュに司教区の地位を奪われ881年にはノルマン人に占領されたが、1204年にブラバント公国が領有権を奪還すると、この町に都市権を与えた。その後のブラバント公国とリエージュ司教領の二重支配は、1794年のバタヴィア革命によるフランスの傀儡政府による支配を受けるようになるまで続いた。
1204年に都市権を得た後、城壁の建造に取りかかった。1229年には最初の城壁が完成し、14世紀には二重の城壁を持つ強固な要塞都市となった。1579年にはスペイン王の命を受けたアレッサンドロ・ファルネーゼによる攻略により、マーストリヒトを含む南部10州はヘント講和条約に基づきスペインの統治を受けることになる。その後、フランスと結んだオラニエ公フレデリック・ヘンドリックが1632年に街を奪還したが、マーストリヒトはネーデルラント連邦共和国の一部となることはなかった。
1794年のバタヴィア革命の後、フランスの傀儡政権下でマーストリヒトは新たに作られたネーデルマース州の州都となった。この状態は1814年まで続いた。フランスによる支配が去り、1815年にはネーデルラント連合王国が建国されるとその一部となり、新たに作られたリンブルフ州の州都となった。1830年にベルギー独立革命が起こり、周辺の都市がベルギー側に帰属するようになっても、マーストリヒトはオランダ側に残ることを選択した。1831年に列強の合意により、リンブルフ州の東部がオランダに、残り全てがベルギーに帰属することが決定されたが一部でこの分割に反対する者が居たため、最終的に1839年のロンドン条約にて帰属が確定した。
マーストリヒト市街地中心部はマース川西岸の旧市街、東岸のウィーク(Wyck)地区、ウイック地区の南のセラミック(Céramique)地区の3つの地区に分けられる。マーストリヒト駅はウィーク地区の東端にあり、旧市街中心の広場であるフライトホフ広場(Vrijthof)へはマース川に架かる聖セルファース橋を渡っておよそ1.1kmの距離がある。
1976年に創立されたマーストリヒト大学が旧市街中心部と、市街地南部のマーストリヒト・ランドウイク駅周辺の2箇所にキャンパスを持っている。生徒数は約11,500人である。また、南部高等専門学校のキャンパスの一部がマーストリヒトに置かれている。
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マーストリヒトは、オランダ南東端部、リンブルフ州の基礎自治体(ヘメーンテ)である。州都であり、マース川沿いの河港都市。 ドイツとベルギーの国境線にも近く、EU(ヨーロッパ連合)に関する条約であるマーストリヒト条約はこの基礎自治体で締結された。名前の由来は、ラテン語の「マース川の渡河地点」であると言われている。 マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれ、西暦98年にナイメーヘンがオランダで最初にローマ帝国から都市権を得るよりも500年前には、ケルト人が造った町が存在していた(なおマーストリヒトはローマ帝国から都市権を得ることは無かった)。
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{{出典の明記|date=2019年10月}}
{{世界の市
|正式名称 =マーストリヒト
|公用語名称 =Gemeente Maastricht
|愛称 =
|標語 =
|画像 =2017 Maastricht montage.jpg
|画像サイズ指定 =250px
|画像の見出し =
|市旗 =Flag of Maastricht.svg
|市章 =Wapen van Maastricht.svg
|位置図 =LocatieMaastricht.png
|位置図サイズ指定 =225px
|位置図の見出し =マーストリヒトの位置
|位置図B = {{Location map |Netherlands#Benelux#Northern and Central Europe|float=center|label=マーストリヒト}}
|緯度度=50.85142 |緯度分= |緯度秒= |N(北緯)及びS(南緯)=N
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|下位区分名 ={{NLD}}
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|最高行政執行者名 =
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[[ファイル:Maastricht Helpoort BW 2017-08-19 13-58-28.jpg|thumb|right|地獄の門]]
'''マーストリヒト'''({{lang-nl|Maastricht}} {{IPA-nl|maːˈstrɪxt||145 Maastricht.ogg}}, {{lang-li|Mestreech}} {{IPA-dedia|məˈstʀeˑx|}};メストレーヒ)は、[[オランダ]]南東端部、[[リンブルフ州 (オランダ)|リンブルフ州]]の[[基礎自治体]]([[ヘメーンテ]])である。州都であり、[[マース川]]沿いの河港都市。
ドイツとベルギーの国境線にも近く、[[欧州連合|EU(ヨーロッパ連合)]]に関する条約である[[マーストリヒト条約]]はこの基礎自治体で締結された。名前の由来は、[[ラテン語]]の「マース川の渡河地点」(Trajectum ad Mosam)であると言われている。
マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれ、西暦[[98年]]に[[ナイメーヘン]]がオランダで最初に[[ローマ帝国]]から[[都市権 (オランダ)|都市権]]を得るよりも500年前には、[[ケルト人]]が造った町が存在していた(なおマーストリヒトはローマ帝国から都市権を得ることは無かった)。
== 歴史 ==
8000年から25000年前の[[旧石器時代]]の遺構が、市内の西部で発見されている。ローマ人が住みつく少なくとも500年前には、[[マース川]]が浅瀬になり対岸に容易に渡ることができる地点に[[ケルト人]]が住んでいた。その後、ローマ帝国が現在のシント・セルファース橋の少し上流側に橋を架け、帝国内各地より[[低地ゲルマニア]]の州都[[ケルン]]に繋がる道を造った(この橋は[[13世紀]]に、シント・セルファース橋の位置に架け替えられている)。
[[8世紀]]には近隣の[[リエージュ]]に司教区の地位を奪われ[[881年]]には[[ノルマン人]]に占領されたが、[[1204年]]に[[ブラバント公国]]が領有権を奪還すると、この町に[[都市権 (オランダ)|都市権]]を与えた。その後の[[ブラバント公国]]と[[リエージュ司教領]]の二重支配は、[[1794年]]の[[バタヴィア共和国|バタヴィア革命]]によるフランスの傀儡政府による支配を受けるようになるまで続いた。
[[1204年]]に都市権を得た後、城壁の建造に取りかかった。[[1229年]]には最初の城壁が完成し、[[14世紀]]には二重の城壁を持つ強固な要塞都市となった。[[1579年]]にはスペイン王の命を受けた[[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]による攻略により、マーストリヒトを含む[[南ネーデルラント|南部10州]]はヘント講和条約に基づきスペインの統治を受けることになる。その後、フランスと結んだ[[フレデリック・ヘンドリック (オラニエ公)|オラニエ公フレデリック・ヘンドリック]]が[[1632年]]に街を奪還したが、マーストリヒトは[[ネーデルラント連邦共和国]]の一部となることはなかった。
[[1794年]]の[[バタヴィア共和国|バタヴィア革命]]の後、フランスの傀儡政権下でマーストリヒトは新たに作られたネーデルマース州の州都となった。この状態は[[1814年]]まで続いた。フランスによる支配が去り、[[1815年]]には[[ネーデルラント連合王国]]が建国されるとその一部となり、新たに作られたリンブルフ州の州都となった。[[1830年]]に[[ベルギー独立革命]]が起こり、周辺の都市がベルギー側に帰属するようになっても、マーストリヒトはオランダ側に残ることを選択した。[[1831年]]に列強の合意により、リンブルフ州の東部がオランダに、残り全てがベルギーに帰属することが決定されたが一部でこの分割に反対する者が居たため、最終的に[[1839年]]の[[ロンドン条約 (1839年)|ロンドン条約]]にて帰属が確定した。
== 市街地・観光 ==
マーストリヒト市街地中心部はマース川西岸の旧市街、東岸のウィーク([[:nl:Wyck|Wyck]])地区、ウイック地区の南のセラミック([[:nl:Céramique|Céramique]])地区の3つの地区に分けられる。マーストリヒト駅はウィーク地区の東端にあり、旧市街中心の広場であるフライトホフ広場([[:nl:Vrijthof (Maastricht)|Vrijthof]])へはマース川に架かる聖セルファース橋を渡っておよそ1.1kmの距離がある。
*旧市街の城壁
**[[13世紀|13]]〜[[14世紀]]に構築された二重の城壁の一部が旧市街の南側などに残存している。城壁の周辺は公園となっている所もある。
*地獄の門([[:nl:Helpoort|Helpoort]])
**1229年に構築されたかつての城門。その後、火薬庫や芸術家のアトリエとして使われていたこともあった。現在でも城壁を貫通する門として機能している。オランダに現存する最も古い城門でもある。
;セラミック地区
* ソントル・セラミック図書館(Centre Céramique)
*ボンネファンテン博物館([[:nl:Bonnefantenmuseum|Bonnefantenmuseum]])
**この地域の考古学資料、中世の絵画や現代芸術を展示している。旧市街から見てマース川の対岸にある、[[アルド・ロッシ]]設計の建物の中にある。
== 教育 ==
[[1976年]]に創立された[[マーストリヒト大学]]が旧市街中心部と、市街地南部のマーストリヒト・ランドウイク駅周辺の2箇所にキャンパスを持っている。生徒数は約11,500人である。また、南部高等専門学校のキャンパスの一部がマーストリヒトに置かれている。
{{Main|オランダの大学一覧}}
== 交通 ==
;航空
:[[マーストリヒト・アーヘン空港]]が近郊の[[ベーク]]基礎自治体にある。空港への交通機関は、マーストリヒト駅より59系統バスで所要時間20分(運行間隔1時間に1本)。
;道路
:高速道路[[:nl:Rijksweg 2|A2]]がオランダ各地へ、[[:nl:Rijksweg 79|A79]]がドイツのアーヘン方面への主要経路となる。
;鉄道
:[[オランダ鉄道]]のマーストリヒト駅が、オランダの幹線鉄道路線網の最南端の主要駅となっている。主な路線の列車は次の通り。
::[[ユトレヒト]]、[[アムステルダム中央駅]]経由[[アルクマール]]行き[[オランダ鉄道]] [[インターシティ]]:1時間に2本
::[[シッタート・ヘレーン|シッタルト]]行き[[アリーヴァ]] 各駅停車(Stoptrein):1時間に2本
::[[ヘールレン|ヒールレン]]行きアリーヴァ 各駅停車(Stoptrein):1時間に2本
::ヒールレン経由[[アーヘン]]行きアリーヴァ 急行(Sneltrein; RE):1時間に2本、うち1本はヒールレン止まり
::ベルギーの[[リエージュ]]経由(土日休は[[リエージュ=ギユマン駅|リエージュ=ギーマン]]止まり)[[ハッセルト]]行き[[ベルギー国鉄]]ローカル列車:1時間に1本
:他には、マーストリヒト・ラントウィーク駅(Maastricht Randwyck)とマーストリヒト北駅(Maastricht-Noord)もある。
== マーストリヒト出身の著名人 ==
*ジャン・ピエール・ミンケラス - 科学者。石炭ガス灯の発明者
*[[ピーター・デバイ]] - 分子構造の研究への貢献で[[ノーベル化学賞]]を受賞
*[[アンドレ・リュウ]] - 音楽家。バイオリニスト
*[[ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド]] - 水泳選手。オリンピック金メダリスト
*[[ユベール・スダーン]] - 指揮者。[[東京交響楽団]]音楽監督([[2004年]]9月 - [[2014年]]8月)
== 姉妹都市 ==
*{{Flagicon|GER}} [[コブレンツ]]、[[ドイツ]]
*{{Flagicon|BEL}} [[リエージュ]]、[[ベルギー]]
*{{Flagicon|NCA}} [[エル・ラマ]]([[w:El Rama|El Rama]])、[[ニカラグア]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
<!--
== 参考文献 ==
*
-->
== 関連項目 ==
* [[マーストリヒト条約]] - [[1991年]]に結ばれたEU創設の条約
* [[ヴェストファーレン条約]] - ネーデルランドが[[神聖ローマ帝国]]からの独立が認められた条約
* [[MVVマーストリヒト]] - マーストリヒトを本拠地とするサッカークラブ
* [[マーストリヒチアン]] - [[白亜紀]]最後の期。[[モササウルス]]の骨格化石などこの時期の遺物がこの地域で大量に発見されることから命名された。「マーストリヒト期」とも。
== 外部リンク ==
{{coord|50.85142|N|5.691331|E|scale:12500|display=title}}
{{Commonscat|Maastricht|マーストリヒト}}
* [http://www.maastricht.nl/web/Home.htm マーストリヒト自治体公式サイト] (オランダ語・英語・フランス語・ドイツ語)
{{ヨーロッパ100名城}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まあすとりひと}}
[[Category:マーストリヒト|*]]
[[Category:オランダ・リンブルフ州の基礎自治体]]
[[Category:オランダの都市]]
[[Category:オランダの州都]]
[[Category:オランダの考古遺跡]]
[[Category:ヨーロッパ100名城]]
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2022-09-28T01:36:06Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%88
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ウォータースポーツ
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ウォータースポーツ(Water Sports)は、水上または水中で行うスポーツのこと。海で行うものを特にマリンスポーツ(Marine Sports)として、プールや湖沼などで行うものと区別することもありカーリングなど氷の上で行うスポーツは含まれない。
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'''ウォータースポーツ'''(Water Sports)は、[[水]]上または水中で行う[[スポーツ]]のこと。[[海]]で行うものを特に'''マリンスポーツ'''(Marine Sports)として、[[プール]]や[[湖沼]]などで行うものと区別することもあり[[カーリング]]など氷の上で行うスポーツは含まれない。
== 主なウォータースポーツ ==
* [[水泳]]
* [[水球]]
* [[ウォーターバスケットボール]]
* [[ウォーターバレーボール]]
* [[スキューバダイビング]]
* [[フリーダイビング]]
* [[スピアフィッシング]]
* [[魚釣り]]
* [[スキムボード]]
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* [[サーフィン]]
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* [[アクアスキッパー]]
* [[水上スキー]]
* [[ウェイクボード]]
* [[フライボード]]
* [[水上オートバイ]](PWC)
* [[ウォーターサイクリング]]
* [[シーウォーカー]]
* [[パラカヌー]]
* [[パラセイリング]]
* [[バンバーチューブ]]
* [[ニーボード]]
* [[エアーチェアー]]
* [[スノーケリングトリップ]]
== 外部リンク ==
{{commons category|Water_sports}}
* [https://www.jsaf.or.jp/fun/ 日本セーリング連盟]
* [http://www.jla.gr.jp/ 日本ライフセービング協会]
* [http://www.maris.or.jp/ マリンスポーツ財団]
* [http://www.jjsfweb.net/ 日本ジェットスポーツ連盟]
* [http://www.kawasaki-motors.com/js/JJSBA/ 日本ジェットスキー協会]
* [http://www.proagent.co.jp/jwsa/ 日本水上スキー連盟]
* [http://www.jwba.net/ 日本ウェイクボード協会]
* [http://www.orange.ne.jp/%7Ejsha/ 日本ソーラー・人力ボート協会]
* [http://www.waterwalk.net/ NPO法人日本ウォーターウォーク協会]
* [http://www.nwwa.jp/ NWWA日本ウォーターウォーク協会®]
* [http://www.jasa.aquaskipper.jp/ 日本アクアスキッパー協会]
* [http://www.water-cycling.com/ 日本ウォーターサイクリング協会]
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/watersportseri/ |title=特定非営利活動法人ウォータースポーツ教育研究所 |date=20190331150856}}
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ポリ塩化ビフェニル
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ポリ塩化ビフェニル(ポリえんかビフェニル、polychlorinated biphenyl)またはポリクロロビフェニル (polychlorobiphenyl) は、ビフェニルの水素原子が塩素原子で置換された化合物の総称で、一般式 C12H(10-n)Cln (1≦n≦10) で表される。置換塩素の数によりモノクロロビフェニルからデカクロロビフェニルまでの10種類の化学式があり、置換塩素の位置によって、合計209種の異性体が存在する。
略してPCB(ピーシービー)とも呼ばれる。なお、英語ではプリント基板(printed circuit board)との混同を避け「PCBs」と呼ばれる事もある。
淡黄色から無色の粘性の高い油状液体。熱に対して安定で、電気絶縁性が高く、耐薬品性に優れている。加熱や冷却用熱媒体、変圧器やコンデンサといった電気機器の絶縁油、可塑剤、塗料、ノンカーボン紙の溶剤など、非常に幅広い分野に用いられた。
一方、生体に対する毒性が高く、脂肪組織に蓄積しやすい。発癌性があり、また皮膚・内臓への障害やホルモン異常を引き起こすことが分かっている。
1881年にドイツで初めて合成され、1929年に米国で工業生産が始まった。日本では、1954年(昭和29年)に鐘淵化学工業高砂事業所等で製造が始まったが、1968年(昭和43年)に起こった「カネミ油症事件」をきっかけに、1972年(昭和47年)の生産・使用の中止等の行政指導を経て、1975年(昭和50年)に製造および輸入が原則禁止された。
1979年、台湾油症が発生した。
1999年1月、ベルギーでダイオキシン汚染が起こった。動物用飼料が汚染され、PCBに汚染された食肉や乳製品が流通した。
しかしながら、以前に作られたものの対策はとられておらず、2000年頃から、世界でPCBを含む電機、電気製品、特に老朽化した蛍光灯安定器のコンデンサからPCBを含む絶縁油が漏れる事故が相次ぎ、社会問題となった。
PCBの毒性の強さは、異性体により大きな差がある。右図は世界保健機関(WHO)による毒性評価をまとめたものである。「TEF」とは毒性等価係数といい、最も毒性が強いとされるダイオキシン類PCDD(厳密にはTCDD)を「1」とした場合の各異性体の相対的毒性評価である。
PCBの毒性のうち発癌性、催奇性はダイオキシン類(ポリクロロジベンゾジオキシン、ポリクロロジベンゾフラン)に似ている。そのため、それらを示すPCBをダイオキシン様PCB (dioxin-like PCB, DL-PCB) と呼びダイオキシン類に加える。世界保健機構 (WHO) により、12種の異性体がDL-PCBに指定されている(毒性の強弱は数桁の差がある)。
非ダイオキシン様PCBも、甲状腺異常などPCB特有の非ダイオキシン様毒性は示す。しかし、PCBの健康被害や環境汚染で問題となっているのは、大半がダイオキシン様PCBである。
ダイオキシン様毒性が特に強いのが、コプラナーPCB (coplanar-PCB, Co-PCB) である。ビフェニルの2つのベンゼン環は回転可能だが、PCBのビフェニル構造は、置換する塩素の位置によっては共平面構造(コプラナリティ)を取る。このようなPCBがコプラナーPCBである。なお、コプラナーでないPCBはノンプラナーPCB (nonplanar PCB) である。
PCBはオルト位 (2,2',6,6') の塩素の数で、ノンオルト置換PCB(0個)、モノオルト置換PCB(1個)、ジオルト置換PCB(2個)、... と分類するが、厳密には、ノンオルト置換PCBがコプラナーPCBとされる。オルト位の塩素は共平面構造を妨げるからである。ただし、ダイオキシン様PCB全てをコプラナーPCBと呼ぶこともある。ダイオキシン様PCBにはノンオルト置換PCBとモノオルト置換PCBが含まれる。
日本では、1972年に行政指導という緊急避難的な措置として製造・輸入・使用を原則として中止させ、翌1973年には、化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律を制定(発効は1975年)し、法的に禁止している。PCBを含む廃棄物は、国が具体的対策を決定するまで使用者が保管すると義務付けられたが、電気機器等については、耐用年数を迎えるまで使用が認められたことから、PCBを含む機器の所在や廃棄物の絶対量の把握が曖昧なものとなった。
1980年代以降になるとPCBの危険性に対する認識が風化し、保管されていた廃棄物が他の産業廃棄物と一緒に安易に処理されるなど、行方不明になる例が報告されるようになった。厚生省は1992年と1998年に保管状況の追跡調査を実施したが、調査を通じて大量のPCBを含む大型トランスやコンデンサが、わずか6年の間に台数比で4.1%もの機器が行方不明になる実態が明らかにされている。1972年からの紛失率を考えた場合には膨大な量になることは明らかであり、一刻も早い抜本的な処理体制の確立が急務となった。
一方で、処理体制の模索は絶えず続けられてきた。1976年には通商産業省(経済産業省の前身)の外郭団体として電機ピーシービー処理協会(現:電気絶縁物処理協会)が設立され、高温焼却処理施設の設置が模索されてきたが、PCBの危険性を危惧する住民運動により全て頓挫。日本ではその後約30年にわたる長い間、PCBを含む廃棄物の具体的な処理基準や処理施設は公に定められないままであった。1990年代以降は、新たに安全な処理方法の検討が行われた結果、処理方法の多様化が認められ、2000年代に入ると一部の企業においては、商業的な処理技術の立証を視野に入れた実験的処理が行われるようになった。
2001年6月、日本はPOPs条約(後述)の調印を受けPCB処理特別措置法を制定し、併せて環境事業団法を改正して、2016年まで(制定当初。2021年現在は2027年までに延長)に処理する制度を作った。2016年8月にはPCB処理特別措置法が改正施行され、PCB廃棄物処理基本計画の閣議決定(第6条)、高濃度PCB廃棄物の処分の義務付け(第10条、第12条、第18条、第20条及び第33条)、報告徴収・立入検査権限の強化 (第24条及び第25条)、高濃度PCB廃棄物の処分に係る代執行(第13条)などの規定が盛り込まれ、特に高濃度PCB廃棄物を確実に期限内処分するための必要な措置が講じられた。
こうした対策は進んできたものの、依然として日本国内ではPCBを使用した機器が残存しており問題視されている。一例では1999年に青森県の高校、東京都八王子の小学校にて、相次いで照明器具(蛍光灯)内のPCBを使用したコンデンサが老朽化のため爆発、生徒や児童に直接PCBが降りかかるといった事故が発生。それらに続いて全国各地で同様の事故が発生し、2001年(平成13年)に閣議了解で同年末までに交換を終える決定が為されたにもかかわらず、2013年に至っても北海道の中学校で同様の事故が発生するなど、公共施設をはじめ多くの場所で使用され続けている。1970年代以前のコンデンサ類の全てでPCBが用いられているとは限らないが、今となっては使用状況が正確に把握できないこともあり、眠る爆弾として衛生面、環境面から恐れられる存在となっている。
2001年5月、PCBを2028年までに全廃することを含む国際条約であるPOPs条約(残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約)が調印された(POPsはpersistent organic pollutantsの略語で、残留性有機汚染物質を指す)。
PCBの処理方法には以下のようなものがある。
食品に含まれるPCBの濃度については1972年に暫定規制値が定められた。
今日でも、時折検査が行なわれている。
2011年(平成23年)1月、非意図的に生成した微量のPCBがある種の顔料に含まれる可能性があることが国際団体により公表された。これを受けて製造・輸入事業者が有機顔料の分析調査を行い、2012年(平成24年)2月以降、厚生労働省と経済産業省、環境省によりその結果が公表されてきた。
この過程で、2012年(平成24年)3月に、一部の有機顔料に含まれる非意図的に生成した PCB について環境の汚染を通じた人や生態系への影響や当該顔料が使用された製品の使用を継続することによる消費者の健康への影響等について、専門家による議論を行うことを目的として、「有機顔料中に副生する PCB に関するリスク評価検討会」において検討が開始され、2013年(平成25年)3月にとりまとめられた。
1975年にPCBの底質暫定除去基準が制定され、全国でPCBで汚染された底質の浚渫が行われた。
なお、PCBのうち、コプラナーPCB(塩素原子が分子の外側を向き平面状分子となっているものであり、一般のPCBに比べて毒性が高い。)はダイオキシン類の一種であるが、かつてのPCB暫定除去基準に従って浚渫した海域において、ダイオキシン類の底質環境基準を超過する底質が検出される例が見られる。
また、PCBを含む絶縁油などの不適切な管理により河川や閉鎖水域に投棄されたPCB油による底質汚染も検出されている。汚染原因者特定のために、異性体パターンによるPCBの種類の特定や、ケミカルマスバランス法による負担割合の定量的な算定が行われている。
PCBはポリ臭化ジフェニルエーテル(PBDE)など他の化学物質とともに大洋の海底も広範囲に汚染しており、マリアナ海溝などで採取された深海生物の甲殻類からも検出されている。
深海生物から検出されたPCBは、食物連鎖に伴う生物濃縮、マイクロプラスチックに付着したり海水に溶け込んだりしているPCBの吸収などに由来すると推測されている深海にも及んでいる。
PCBを含む電気機器等が廃棄物となった場合(これをポリ塩化ビフェニル廃棄物という)、事業者等はポリ塩化ビフェニル廃棄物を処理するまでの間、特別管理産業廃棄物保管基準に従って当該物を保管しなければならない(廃棄物の処理及び清掃に関する法律第12条の2第2項)。具体的な基準は次のとおりである。
ポリ塩化ビフェニル廃棄物を委託処理する方法は、廃棄物に含まれる絶縁油のPCB濃度や廃棄物の種類によって異なる。具体的な委託処理方法は次のとおりであり、特に高濃度PCB廃棄物は、地域ごとに定められた処分期間内に必ず処分しなければならないことになっている。
高濃度の場合は、使用中の変圧器・コンデンサー及び安定器等についても、処分期間内に使用を終え、処分する必要がある。
テレビニュース等では、「PCB」「ポリ塩化ビフェニール」と呼ぶのが普通である。なお、ポリ「塩化」ビフェニルの呼称は、有機化学の化合物命名規則上不正確であり、英語での呼称(polychlorinated biphenyl = ポリ「塩素化」ビフェニル)にも対応していない。日本の法律ではポリ「塩化」ビフェニルの呼称が用いられている一方で、所管官庁である環境省が作成した文書にも、ポリ「塩素化」ビフェニルの呼称が用いられているものがある。
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"text": "テレビニュース等では、「PCB」「ポリ塩化ビフェニール」と呼ぶのが普通である。なお、ポリ「塩化」ビフェニルの呼称は、有機化学の化合物命名規則上不正確であり、英語での呼称(polychlorinated biphenyl = ポリ「塩素化」ビフェニル)にも対応していない。日本の法律ではポリ「塩化」ビフェニルの呼称が用いられている一方で、所管官庁である環境省が作成した文書にも、ポリ「塩素化」ビフェニルの呼称が用いられているものがある。",
"title": "呼称"
}
] |
ポリ塩化ビフェニル(ポリえんかビフェニル、polychlorinated biphenyl)またはポリクロロビフェニル (polychlorobiphenyl) は、ビフェニルの水素原子が塩素原子で置換された化合物の総称で、一般式 C12H(10-n)Cln (1≦n≦10) で表される。置換塩素の数によりモノクロロビフェニルからデカクロロビフェニルまでの10種類の化学式があり、置換塩素の位置によって、合計209種の異性体が存在する。 略してPCB(ピーシービー)とも呼ばれる。なお、英語ではプリント基板(printed circuit board)との混同を避け「PCBs」と呼ばれる事もある。 淡黄色から無色の粘性の高い油状液体。熱に対して安定で、電気絶縁性が高く、耐薬品性に優れている。加熱や冷却用熱媒体、変圧器やコンデンサといった電気機器の絶縁油、可塑剤、塗料、ノンカーボン紙の溶剤など、非常に幅広い分野に用いられた。 一方、生体に対する毒性が高く、脂肪組織に蓄積しやすい。発癌性があり、また皮膚・内臓への障害やホルモン異常を引き起こすことが分かっている。
|
{{混同|プリント基板|x1=PCBの正称の一つである}}
[[Image:Polychlorinated biphenyl structure.svg|300px|thumb|right|PCBの構造。ビフェニルの水素が、1 - 10個塩素に置換されている。]]
'''ポリ塩化ビフェニル'''(ポリえんかビフェニル、{{lang|en|polychlorinated biphenyl}})または'''ポリクロロビフェニル''' ({{lang|en|polychlorobiphenyl}}) は、[[ビフェニル]]の[[水素]][[原子]]が[[塩素]][[原子]]で[[置換反応|置換]]された[[化合物]]の総称で、一般式 C<sub>12</sub>H<sub>(10-''n'')</sub>Cl<sub>''n''</sub> (1≦''n''≦10) で表される。置換塩素の数によりモノクロロビフェニルからデカクロロビフェニルまでの10種類の[[化学式]]があり、置換塩素の位置によって、合計209種の[[異性体]]が存在する。
略して'''PCB'''(ピーシービー)とも呼ばれる。なお、[[英語]]では[[プリント基板]] (printed circuit board) との混同を避け「'''PCBs'''」と呼ばれる事もある<ref>{{Cite web|url=http://www.turi.org/library/turi_publications/five_chemicals_study/final_report/list_of_acronyms|title=TURI - Toxics Use Reduction Institute, List of Acronyms|publisher=[[:en:University of Massachusetts Lowell|University of Massachusetts Lowell]]|language=英語|accessdate=2008-11-16}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.toshiba.co.jp/tech/review/2001/08/index.htm|title=*HM-1 PCB Detoxification Facility|publisher=[[:en:Toshiba|TOSHIBA]] REVIEW 2001. VOL.56 NO.8|language=英語|accessdate=2008-11-16}}</ref>。
淡黄色から無色の粘性の高い油状液体。[[熱]]に対して安定で、[[絶縁耐力|電気絶縁性]]が高く、耐[[薬品]]性に優れている。加熱や[[冷却]]用[[熱媒体]]、[[変圧器]]や[[コンデンサ]]といった電気機器の[[絶縁油]]、[[可塑剤]]、[[塗料]]、[[ノーカーボン紙|ノンカーボン紙]]の[[溶剤]]など、非常に幅広い分野に用いられた。
一方、[[生物|生体]]に対する[[毒|毒性]]が高く、[[脂肪]][[組織 (生物学)|組織]]に蓄積しやすい。[[発癌性]]があり、また[[皮膚]]・[[内臓]]への障害や[[ホルモン]]異常を引き起こすことが分かっている。
== 歴史 ==
[[File:CP-SLOPE-wb-gantry-power-supply-transformer-wiki.JPG|thumb|1930年代に製造された[[柱上変圧器]]。PCB使用機器であることを示すシールが貼付されている。]]
[[1881年]]に[[ドイツ]]で初めて[[化学合成|合成]]され、[[1929年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]で工業生産が始まった。[[日本]]では、[[1954年]]([[昭和]]29年)に鐘淵化学工業高砂事業所等で製造が始まったが、[[1968年]](昭和43年)に起こった「[[カネミ油症事件]]」をきっかけに、[[1972年]](昭和47年)の生産・使用の中止等の[[行政指導]]を経て、[[1975年]](昭和50年)に製造および輸入が原則禁止された。
[[1979年]]、[[台湾油症]]が発生した。
[[1999年]]1月、[[ベルギー]]で[[ダイオキシン]][[環境問題|汚染]]が起こった。[[動物]]用[[飼料]]が汚染され、PCBに汚染された[[食肉]]や[[乳製品]]が流通した。
しかしながら、以前に作られたものの対策はとられておらず、[[2000年]]頃から、[[世界]]でPCBを含む[[電力機器|電機]]、[[電気製品]]、特に老朽化した[[蛍光灯]]安定器の[[コンデンサ]]からPCBを含む[[絶縁油]]が漏れる事故が相次ぎ、[[社会問題]]となった。
== ダイオキシン様PCB・コプラナーPCB ==
{| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em; font-size:smaller;"
|+ WHOによるダイオキシン様PCBの毒性<ref>[http://www.who.int/ipcs/assessment/tef_update/en/ Project for the re-evaluation of human and mammalian toxic equivalency factors (TEFs) of dioxins and dioxin-like compounds] (WHO)</ref>
! 種類 !! 名称 !! IUPAC<br/>No. !! TEF
|-
! PCDD
| 2,3,7,8-テトラクロロパラジオキシン(参考) || || 1
|-
! PCDF
| 2,3,4,7,8-ペンタクロロジベンゾフラン(参考) || || 0.3
|-
! rowspan="4" | ノンオルト置換<br/>(コプラナー)<br/>PCB
| 3,3',4,4'-テトラクロロビフェニル || {{0}}77 || 0.0001
|-
| 3,4,4',5-テトラクロロビフェニル || {{0}}81 || 0.0003
|-
| 3,3',4,4',5-ペンタクロロビフェニル || 126 || 0.1
|-
| 3,3',4,4',5,5'-ヘキサクロロビフェニル || 169 || 0.03
|-
! rowspan="8" | モノオルト置換<br/>PCB
| 2,3,3',4,4'-ペンタクロロビフェニル || 105 || 0.00003
|-
| 2,3,4,4',5-ペンタクロロビフェニル || 114 || 0.00003
|-
| 2,3',4,4',5-ペンタクロロビフェニル || 118 || 0.00003
|-
| 2',3,4,4',5-ペンタクロロビフェニル || 123 || 0.00003
|-
| 2,3,3',4,4',5-ヘキサクロロビフェニル || 156 || 0.00003
|-
| 2,3,3',4,4',5'-ヘキサクロロビフェニル || 157 || 0.00003
|-
| 2,3,4,4',5,5'-ヘキサクロロビフェニル || 167 || 0.00003
|-
| 2,3,3',4,4',5,5'-ヘプタクロロビフェニル || 189 || 0.00003
|}
PCBの毒性の強さは、異性体により大きな差がある。右図は[[世界保健機関]](WHO)による毒性評価をまとめたものである。「TEF」とは毒性等価係数といい、最も毒性が強いとされる[[ダイオキシン類]]PCDD(厳密には[[2,3,7,8-テトラクロロジベンゾジオキシン|TCDD]])を「1」とした場合の各異性体の相対的毒性評価である。
PCBの毒性のうち発癌性、[[催奇性]]はダイオキシン類([[ポリクロロジベンゾジオキシン]]、[[ポリクロロジベンゾフラン]])に似ている。そのため、それらを示すPCBをダイオキシン様PCB ({{lang|en|dioxin-like PCB, DL-PCB}}) と呼びダイオキシン類に加える。[[世界保健機構]] (WHO) により、12種の異性体がDL-PCBに指定されている(毒性の強弱は数桁の差がある)。
非ダイオキシン様PCBも、[[甲状腺]]異常などPCB特有の非ダイオキシン様毒性は示す。しかし、PCBの健康被害や環境汚染で問題となっているのは、大半がダイオキシン様PCBである。
ダイオキシン様毒性が特に強いのが、コプラナーPCB ({{lang|en|coplanar-PCB, Co-PCB}}) である。ビフェニルの2つの[[ベンゼン環]]は回転可能だが、PCBのビフェニル構造は、置換する塩素の位置によっては[[共平面]]構造(コプラナリティ)を取る。このようなPCBがコプラナーPCBである。なお、コプラナーでないPCBはノンプラナーPCB ({{lang|en|nonplanar PCB}}) である。
PCBはオルト位 (2,2',6,6') の塩素の数で、ノンオルト置換PCB(0個)、モノオルト置換PCB(1個)、ジオルト置換PCB(2個)、… と分類するが、厳密には、ノンオルト置換PCBがコプラナーPCBとされる。オルト位の塩素は共平面構造を妨げるからである<ref>[[本間善夫]]「[http://www.ecosci.jp/env/new_tef3.html TEF値が与えられているPCB分子の平面性について]」( [[ecosci.jp]])</ref>。ただし、ダイオキシン様PCB全てをコプラナーPCBと呼ぶこともある。ダイオキシン様PCBにはノンオルト置換PCBとモノオルト置換PCBが含まれる。
== 廃棄物としてのPCB ==
=== 日本の状況 ===
日本では、1972年に[[行政指導]]という緊急避難的な措置として製造・輸入・使用を原則として中止させ、翌[[1973年]]には、[[化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律]]を制定(発効は[[1975年]])し、法的に禁止している。PCBを含む廃棄物は、国が具体的対策を決定するまで使用者が保管すると義務付けられたが、電気機器等については、耐用年数を迎えるまで使用が認められたことから、PCBを含む機器の所在や廃棄物の絶対量の把握が曖昧なものとなった。
[[1980年代]]以降になるとPCBの危険性に対する認識が風化し、保管されていた廃棄物が他の[[産業廃棄物]]と一緒に安易に処理されるなど、行方不明になる例が報告されるようになった。[[厚生省]]は[[1992年]]と[[1998年]]に保管状況の追跡調査を実施したが、調査を通じて大量のPCBを含む大型トランスや[[コンデンサ]]が、わずか6年の間に台数比で4.1%もの機器が行方不明になる実態が明らかにされている。1972年からの紛失率を考えた場合には膨大な量になることは明らかであり、一刻も早い抜本的な処理体制の確立が急務となった。
一方で、処理体制の模索は絶えず続けられてきた。[[1976年]]には通商産業省([[経済産業省]]の前身)の外郭団体として電機ピーシービー処理協会(現:[[電気絶縁物処理協会]])が設立され、高温焼却処理施設の設置が模索されてきたが、PCBの危険性を危惧する[[住民運動]]により全て頓挫。日本ではその後約30年にわたる長い間、PCBを含む廃棄物の具体的な処理基準や処理施設は公に定められないままであった。[[1990年代]]以降は、新たに安全な処理方法の検討が行われた結果、処理方法の多様化が認められ、[[2000年代]]に入ると一部の企業においては、商業的な処理技術の立証を視野に入れた実験的処理が行われるようになった。
[[2001年]]6月、日本はPOPs条約(後述)の調印を受け[[ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法|PCB処理特別措置法]]を制定し、併せて[[環境事業団法]]を改正して、[[2016年]]まで(制定当初。2021年現在は2027年までに延長)に処理する制度を作った。2016年8月にはPCB処理特別措置法が改正施行され、PCB廃棄物処理基本計画の閣議決定(第6条)、高濃度PCB廃棄物の処分の義務付け(第10条、第12条、第18条、第20条及び第33条)、報告徴収・立入検査権限の強化 (第24条及び第25条)、高濃度PCB廃棄物の処分に係る代執行(第13条)などの規定が盛り込まれ、特に高濃度PCB廃棄物を確実に期限内処分するための必要な措置が講じられた。
こうした対策は進んできたものの、依然として日本国内ではPCBを使用した機器が残存しており問題視されている。一例では[[1999年]]に[[青森県]]の高校、[[東京都]]八王子の[[小学校]]にて、相次いで照明器具([[蛍光灯]])内のPCBを使用したコンデンサが老朽化のため爆発、生徒や児童に直接PCBが降りかかるといった事故が発生<ref>[https://www.env.go.jp/chemi/pcb2/ 業務用・施設用蛍光灯等のPCB使用安定器の事故に関する対策について] 環境省</ref><ref>[http://www.city.hachioji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/soshiki/shisetsuseibika/gakyo/houkokusyo-h.pdf PCB暴露による健康対策等検討専門家会議 報告書 平成14年10月]</ref>。それらに続いて全国各地で同様の事故が発生し<ref>[http://www.jlma.or.jp/anzen/pcb.htm PCB使用照明器具の点検・判別、取扱及び保管について] JLMA 一般社団法人日本照明工業会</ref>、2001年(平成13年)に閣議了解で同年末までに交換を終える決定が為されたにもかかわらず、2013年に至っても北海道の中学校で同様の事故が発生するなど、公共施設をはじめ多くの場所で使用され続けている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20131031-OYT8T00422.htm 「教室で照明器具破裂、生徒にPCBかかる」]YOMIURI ONLINE([[読売新聞]])</ref><ref>[http://www.pref.yamagata.jp/ou/kenkofukushi/090002/publicfolder200611141893003956/publicfolder200702057118081749/pcb/pcb.pdf 中学校におけるPCBが使用された蛍光灯安定器の破損事故について] 環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部産業廃棄物課</ref>。[[1970年代]]以前のコンデンサ類の全てでPCBが用いられているとは限らないが、今となっては使用状況が正確に把握できないこともあり、眠る爆弾として衛生面、環境面から恐れられる存在となっている。
=== 世界の状況 ===
[[File:PCB-labelling.jpg|thumb|PCB使用機器であることを示すシールを貼る技術者]]
[[2001年]][[5月]]、PCBを[[2028年]]までに全廃することを含む国際[[条約]]であるPOPs条約([[残留性有機汚染物質に関するストックホルム条約]])が調印された(POPsはpersistent organic pollutantsの略語で、[[残留性有機汚染物質]]を指す)。
=== PCBの無害化処理 ===
PCBの処理方法には以下のようなものがある。
; PCBそのものの処理
:; 脱塩素化分解法
:: PCBの分子を構成している塩素と[[アルカリ]]剤等を反応させ、PCBの塩素を[[水素]]等に置換
:; 水熱酸化分解法
:: [[超臨界水]]や亜臨界状態の水によってPCBを[[塩素]]、[[水]]、[[二酸化炭素]]に分解
:; 還元熱化学分解法
:: 還元雰囲気条件の熱化学反応によってPCBを塩、[[燃料ガス]]に分解
:; 光分解法
:: [[紫外線]]でPCBを構成している塩素を取り外して分解
:; プラズマ分解法
:: [[アルゴン]]ガス等の[[プラズマ]]によってPCBを[[二酸化炭素]]、[[塩化水素]]等に分解
:
; PCBによって汚染されたものの処理(PCBが染み込んだ布など)
:* 溶剤洗浄
:* [[真空加熱分離]]装置による分離
== 食品に関する規制 ==
食品に含まれるPCBの濃度については1972年に[[暫定規制値]]が定められた<ref>[https://www.env.go.jp/council/10dojo/y101-16/mat_04_10.pdf 食品中に残留するPCBの規制について(昭和47年08月24日環食第442号)]環境省</ref>。
今日でも、時折検査が行なわれている<ref>たとえば [http://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/15-7-12-6-15-0-0-0-0-0.html 環境汚染物質等の検査・調査結果及び遺伝子組換え食品検査結果(平成15年度)][[名古屋市]]、[http://www.city.yokohama.lg.jp/kenko/eiken/inspection-inf/2009/pdf/090303.pdf 魚介類中の食品汚染物検査] [[横浜市]](2009年)</ref>。
== 非意図的生成PCB ==
2011年([[平成]]23年)1月、非意図的に生成した微量のPCBがある種の[[顔料]]に含まれる可能性があることが国際団体により公表された。これを受けて製造・輸入事業者が有機顔料の分析調査を行い、2012年(平成24年)2月以降、[[厚生労働省]]と経済産業省、[[環境省]]によりその結果が公表されてきた。
この過程で、2012年(平成24年)3月に、一部の有機顔料に含まれる非意図的に生成した PCB について環境の汚染を通じた人や生態系への影響や当該顔料が使用された製品の使用を継続することによる消費者の健康への影響等について、専門家による議論を行うことを目的として、「有機顔料中に副生する PCB に関するリスク評価検討会」において検討が開始され、2013年(平成25年)3月にとりまとめられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/kasinhou/about/t59521501303.pdf|title=有機顔料中に副生する PCB の工業技術的・経済的に低減可能なレベルに関する報告書|accessdate=2021/11/11|publisher=有機顔料中に副生する PCB の工業技術的・経済的に低減可能なレベルに関する検討会}}</ref>。
== PCBによる水域底質の汚染 ==
[[1975年]]にPCBの[[底質暫定除去基準]]が制定され、全国でPCBで汚染された[[底質]]の[[浚渫]]が行われた。
なお、PCBのうち、コプラナーPCB(塩素原子が分子の外側を向き平面状分子となっているものであり、一般のPCBに比べて毒性が高い。)は[[ダイオキシン類]]の一種であるが、かつてのPCB暫定除去基準に従って浚渫した海域において、ダイオキシン類の底質[[環境基準]]を超過する底質が検出される例が見られる。
また、PCBを含む絶縁油などの不適切な管理により河川や閉鎖水域に投棄されたPCB油による[[底質汚染]]も検出されている。[[汚染原因者]]特定のために、異性体パターンによるPCBの種類の特定や、[[ケミカルマスバランス]]法による負担割合の[[定量的]]な算定が行われている。
PCBは[[ポリ臭化ジフェニルエーテル]](PBDE)など他の化学物質とともに[[大洋]]の[[海底]]も広範囲に汚染しており、[[マリアナ海溝]]などで採取された[[深海生物]]の[[甲殻類]]からも検出されている<ref>{{Cite news|url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/021700059/|title=マリアナ海溝の深海生物、中国最悪の川超える汚染 水深約1万mの甲殻類から約50倍の汚染物質|work=|publisher=『[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]]日本版』サイト|date=2017年2月17日}}</ref>。
深海生物から検出されたPCBは、[[食物連鎖]]に伴う[[生物濃縮]]、[[マイクロプラスチック]]に付着したり[[海水]]に溶け込んだりしているPCBの吸収などに由来すると推測されている[[深海]]にも及んでいる<ref>[https://mainichi.jp/articles/20220104/ddm/041/040/059000c 「PCB汚染 深海も/相模湾や伊豆の二枚貝からも検出 微細なプラごみ吸着か」]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年1月4日(社会面)2021年1月6日閲覧</ref>。
== ポリ塩化ビフェニル廃棄物の保管・管理・処理 ==
=== 保管 ===
PCBを含む電気機器等が廃棄物となった場合(これをポリ塩化ビフェニル廃棄物という)、事業者等はポリ塩化ビフェニル廃棄物を処理するまでの間、特別管理産業廃棄物保管基準に従って当該物を保管しなければならない([[廃棄物の処理及び清掃に関する法律]]第12条の2第2項)。具体的な基準は次のとおりである。
# 保管場所の周囲に囲いが設けられていること(屋根付きが望ましい)。
# 保管場所の見やすい箇所に次の事項を記載した掲示板(60[[センチメートル|センチ]]四方以上の大きさ)が設けられていること。
#* 特別管理産業廃棄物の保管場所である旨
#* 保管する特別管理産業廃棄物の種類
#* 保管の場所の管理者の氏名又は名称及び連絡先
# 保管の場所から、当該特別管理産業廃棄物が飛散し、流出し、及び地下に浸透し、並びに悪臭が発散しないように必要な措置を講ずること(保管物が雨水等にさらされないこと・内容物が流出しないようトレイ等を敷くことが望ましい)。
# 保管場所には、[[ネズミ|ねずみ]]が生息し、及び[[蚊]]、[[ハエ|はえ]]その他の害虫が発生しないようにすること。
# 特別管理産業廃棄物に他の物が混入するおそれのないように仕切を設けること等必要な措置を講ずること。
# 容器に入れ密閉すること等PCBの[[揮発]]の防止のために必要な措置及び当該廃棄物が高温にさらされないための措置を講ずること。
# PCB汚染物又はPCB処理物にあっては、当該廃棄物の腐食の防止のために必要な措置を講ずること。
=== 管理 ===
; 特別管理産業廃棄物管理責任者
: ポリ塩化ビフェニル廃棄物の保管には、その保管責任者として、[[特別管理産業廃棄物管理責任者]]の資格を修得した者の登録が必要である。この資格は、事業所(企業・法人)単位でなく事業場(処理場等)単位で置くものとされ、それぞれ担当する事業場における特別管理産業廃棄物の管理全般にわたって次の業務を適正に行う。
:# 特別管理産業廃棄物の排出状況を把握すること。
:# 特別管理産業廃棄物の処理計画を立案すること。
:# 適正な処理の確保に関すること。
:# 分別、保管状況の確認
:# 適正な委託の実施
:# 管理票の交付・保管
; ポリ塩化ビフェニル廃棄物の保管及び処分状況等届出書
: ポリ塩化ビフェニル廃棄物を保管又はPCBを含む電気機器等を使用している事業者等はポリ塩化ビフェニル廃棄物の保管及び処分の状況について「ポリ塩化ビフェニル廃棄物の保管及び処分状況等届出書」で毎年6月30日までに都道府県知事等に届け出なければならない([[ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法|PCB処理特別措置法]]第8条)。
=== 処理 ===
ポリ塩化ビフェニル廃棄物を委託処理する方法は、廃棄物に含まれる絶縁油のPCB濃度や廃棄物の種類によって異なる。具体的な委託処理方法<ref>[http://www.jesconet.co.jp/customer/discount_02.html 処理申し込みの手続きについて]</ref>は次のとおりであり、特に高濃度PCB廃棄物は、地域ごとに定められた処分期間内に必ず処分しなければならないことになっている。
高濃度の場合は、使用中の変圧器・コンデンサー及び安定器等についても、処分期間内に使用を終え、処分する必要がある。
; PCBを高濃度(5,000mg/kgを超える濃度。コンデンサで100%、トランスで50% - 60%)で含む場合
: [[中間貯蔵・環境安全事業]]株式会社(JESCO)で委託処理することができる。変圧器・コンデンサー等と安定器及び汚染物等とでJESCOの搬入先が分かれている。なお、中間貯蔵・環境安全事業株式会社で処分するにはまず機器登録しなければならない<ref>{{Cite web|和書|url=http://pcb-soukishori.env.go.jp/about/pcb.html|title=ポリ塩化ビフェニル(PCB)早期処理情報サイト|accessdate=2021/11/11|publisher=環境省}}</ref>。
:
; PCBを低濃度(0.5mg/kgを超える濃度)で含む場合
: 低濃度PCB廃棄物の処理はJESCOではなく、民間の処理事業者により行われている。低濃度PCB廃棄物の処理事業者は、環境大臣が個別に認定する無害化処理認定事業者と都道府県市の長からPCB廃棄物に係る特別管理産業廃棄物の処分業許可を得た事業者がある。
== 呼称 ==
テレビニュース等では、「PCB」「ポリ塩化ビフェニール」と呼ぶのが普通である。なお、ポリ「塩化」ビフェニルの呼称は、[[有機化学]]の化合物命名規則上不正確であり、英語での呼称(polychlorinated biphenyl = ポリ「塩素化」ビフェニル)にも対応していない。日本の法律ではポリ「塩化」ビフェニルの呼称が用いられている一方で、所管官庁である環境省が作成した文書にも、ポリ「塩素化」ビフェニルの呼称が用いられているものがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Polychlorinated biphenyls}}
* [[ポリ塩化ビフェニル廃棄物の適正な処理の推進に関する特別措置法]]
* [[シトクロムP450]]
* [[ダイオキシン]]
* [[生物濃縮]]
* [[内分泌撹乱物質]]
* [[水質汚濁防止法]]
* [[土壌汚染]] - [[土壌汚染対策法]]
* [[地下水汚染]]
* [[有害物質]]
* [[カネミ油症事件]]
* [[新河岸川産業廃棄物処理対策]]
* [[特別管理産業廃棄物管理責任者]]
* [[中間貯蔵・環境安全事業]](完全政府出資の特殊法人)
* [[JR貨物W18F形コンテナ]] - PCB専用コンテナ
== 外部リンク ==
* [https://www.env.go.jp/recycle/poly/pcb-pamph/index.html ポリ塩化ビフェニル(PCB)廃棄物の適正な処理に向けて] - [[環境省]]
* [https://www.youtube.com/watch?v=XxxIaojtmJA PCB汚染(昭和47年6月16日公開) - 中日ニュース961号(動画)]・[http://chunichieigasha.co.jp/ 中日映画社]
{{大気汚染}}
{{デフォルトソート:ほりえんかひふえにる}}
[[Category:ビフェニル]]
[[Category:有機塩素化合物]]
[[Category:クロロベンゼン]]
[[Category:廃棄物]]
[[Category:化学安全]]
[[Category:環境安全]]
[[Category:残留性有機汚染物質]]
[[Category:変圧器]]
[[Category:第一種特定化学物質]]
[[Category:発癌性物質]]
[[Category:内分泌攪乱物質]]
|
2003-09-02T11:55:52Z
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2023-11-16T03:45:47Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E5%A1%A9%E5%8C%96%E3%83%93%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%AB
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14,766 |
超流動
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超流動(ちょうりゅうどう、英: superfluidity)とは、極低温において液体ヘリウムの流動性が高まり、容器の壁面をつたって外へ溢れ出たり、原子一個が通れる程度の隙間に浸透したりする現象。量子効果が巨視的に現れたものである。1937年、ヘリウム4が超流動性を示すことをピョートル・カピッツァが発見した。また、ボース=アインシュタイン凝縮の時にも起こる。
ヘリウム4は、零点振動の効果により低温で液化しても、絶対零度に到るまで液体のままで存在する。つまり、固体にはならない。そして、2.17 K で比熱の跳びがあり、二次の相転移を起こし超流動の状態となる。この転移温度のことを比熱の跳びの形からλ点という。
超流動状態では、ヘリウム4は粘性が0の状態(He II相)になっており、壁を登っていったり、原子一個が通れる隙間さえあればそこから漏れ出す。ただ、有限温度の領域では常流体(普通の液体としての性質を示す:He I相)と超流体(粘性ゼロ:He II相)が共存している(→二流体理論)。超流体の状態では、ボース粒子であるヘリウム4がボース凝縮している。
超流体部分がボース凝縮しているのではないかということは、1938年、フリッツ・ロンドンによって最初に指摘された。ロンドンは、ヘリウム4原子を理想ボース気体とみなして、超流動の転移温度をボース凝縮温度とし、その理論値3.13Kを導いた。この値は実験観測値2.17Kに近い値と言える。値のずれは、超流動状態にあるヘリウム4は液体状態であり、理想ボース気体とは異なる状態であること、ヘリウム原子間の相互作用、原子同士が接近したときに働く強い斥力の影響などによる。理想ボース気体では、粒子間の相互作用を考慮していないが、その後、相互作用のある場合への理論的な拡張が行われている。ただ、理想ボース気体でのボース凝縮状態への相転移は三次の相転移であるが、ヘリウム4(ヘリウム3も同様)の超流動への転移は二次の相転移である。この部分に対する理論面からの解釈はまだ十分なされていない。
また、超流動状態では非常に高い熱の伝導性を示す。これは、熱源に対してヘリウム4のうちの超流動成分が近づくように、常流動成分が遠ざかるように運動するためである(一種の対流であると言える)。この高い熱伝導性により、超流動ヘリウムは全体が熱的に非常に均一になっている。
ヘリウム3は、ヘリウム4と異なりフェルミ粒子である(1/2の核スピンを持つ)ので、1972年、オシェロフ、リチャードソン、リー等が発見するまで超流動現象は観測されなかった。
ヘリウム3での超流動へ転移する温度は、34気圧で2.6mK(ミリケルビン)、0気圧でおよそ1mKと、ヘリウム4と比べて非常に低い。これは、ヘリウム3がフェルミ粒子で、そのままでは凝縮状態とならないためである。ヘリウム3が超流動になるためには、超伝導の場合と同様に2個のヘリウム3が対(ペア:この場合もクーパーペア(クーパー対)ということがある)を成して対凝縮する必要がある。ただ超伝導の場合と異なるのは、通常のBCS理論の枠内の超伝導では、電子対がs波一重項 (L=0, S=0) なのに対し、ヘリウム3の対はp波三重項 (L=1, S=1) となっている。ヘリウム3の対を形成する駆動力(従来型の超伝導におけるフォノンに相当)は、スピンのゆらぎと思われている。
なお、ヘリウム3の超流動機構は、超伝導(BCS理論)ほどには理論面での詳細な解明がなされていない。
ヘリウム4の粘性が極低温で消失することは1937年にカピッツァおよび独立に John F. Allen & Don Misenerによって実験的に確認された。その後すぐにフリッツ・ロンドンはこの現象がボース=アインシュタイン凝縮の現れであると指摘した。1941年にレフ・ランダウは流体の素励起のスペクトルに基づいて超流動の理論を構築し、1940年にLászló Tiszaによって提案された超流動の二流体モデルの理論的基礎を与えた。ニコライ・ボゴリューボフは1947年に相互作用のあるボース気体について論じている。オリバー・ペンローズは非対角長距離秩序という概念を1951年に導入した。
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超流動とは、極低温において液体ヘリウムの流動性が高まり、容器の壁面をつたって外へ溢れ出たり、原子一個が通れる程度の隙間に浸透したりする現象。量子効果が巨視的に現れたものである。1937年、ヘリウム4が超流動性を示すことをピョートル・カピッツァが発見した。また、ボース=アインシュタイン凝縮の時にも起こる。
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{{出典の明記|date=2012年11月}}
[[File:helium-II-creep.svg|thumb|right|180px|He IIは、容器の壁を「よじ登る」ことで内側の容器の中外における水平面の高さを共通に保とうとする。しばらく経つと内側の容器における水面は外側の容器における水面と等しい高さになる。このとき[[ローリン膜]] ([[:en:Rollin film]]) が外側の容器の内壁を覆っている。外側の容器が密封されていないとHe IIは外に漏れてしまう。]]
'''超流動'''(ちょうりゅうどう、{{lang-en-short|superfluidity}})とは、極低温において[[液体ヘリウム]]の流動性が高まり、容器の壁面をつたって外へ溢れ出たり、[[原子]]一個が通れる程度の隙間に浸透したりする現象。[[量子]]効果が[[微視的と巨視的|巨視的]]に現れたものである。[[1937年]]、[[ヘリウムの同位体|ヘリウム4]]が超流動性を示すことを[[ピョートル・カピッツァ]]が発見した。また、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の時にも起こる。
== ヘリウム4の場合 ==
ヘリウム4は、[[零点振動]]の効果により低温で液化しても、[[絶対零度]]に到るまで[[液体]]のままで存在する。つまり、[[固体]]にはならない。そして、{{val|2.17|u=[[ケルビン|K]]}} で[[比熱容量|比熱]]の跳びがあり、二次の[[相転移]]を起こし超流動の状態となる。この転移温度のことを比熱の跳びの形から[[λ点]]という。
超流動状態では、ヘリウム4は[[粘性]]が0の状態(He II相)になっており、壁を登っていったり、原子一個が通れる隙間さえあればそこから漏れ出す。ただ、有限温度の領域では常流体(普通の[[液体]]としての性質を示す:He I相)と超流体(粘性ゼロ:He II相)が共存している(→二流体理論)。超流体の状態では、[[ボース粒子]]であるヘリウム4が[[ボース=アインシュタイン凝縮|ボース凝縮]]している。
超流体部分がボース凝縮しているのではないかということは、[[1938年]]、[[フリッツ・ロンドン]]によって最初に指摘された。ロンドンは、ヘリウム4原子を理想ボース気体とみなして、超流動の転移温度を[[ボース=アインシュタイン凝縮|ボース凝縮温度]]とし、その理論値3.13Kを導いた。この値は実験観測値2.17Kに近い値と言える。値のずれは、超流動状態にあるヘリウム4は液体状態であり、理想ボース気体とは異なる状態であること、[[ヘリウム]]原子間の相互作用、原子同士が接近したときに働く強い[[斥力]]の影響などによる。理想ボース気体では、粒子間の相互作用を考慮していないが、その後、相互作用のある場合への理論的な拡張が行われている。ただ、理想ボース気体でのボース凝縮状態への相転移は三次の相転移であるが、ヘリウム4(ヘリウム3も同様)の超流動への転移は二次の[[相転移]]である。この部分に対する理論面からの解釈はまだ十分なされていない。
また、超流動状態では非常に高い熱の伝導性を示す。これは、[[熱源]]に対してヘリウム4のうちの超流動成分が近づくように、常流動成分が遠ざかるように運動するためである(一種の[[対流]]であると言える)。この高い熱伝導性により、超流動ヘリウムは全体が熱的に非常に均一になっている。
== ヘリウム3の場合 ==
ヘリウム3は、ヘリウム4と異なり[[フェルミ粒子]]である(1/2の核[[スピン角運動量|スピン]]を持つ)ので、[[1972年]]、オシェロフ、リチャードソン、リー等が発見するまで超流動現象は観測されなかった。
ヘリウム3での超流動へ転移する温度は、34気圧で2.6mK(ミリケルビン)、0気圧でおよそ1mKと、ヘリウム4と比べて非常に低い。これは、ヘリウム3がフェルミ粒子で、そのままでは凝縮状態とならないためである。ヘリウム3が超流動になるためには、[[超伝導]]の場合と同様に2個のヘリウム3が対(ペア:この場合もクーパーペア([[クーパー対]])ということがある)を成して対凝縮する必要がある。ただ超伝導の場合と異なるのは、通常の[[BCS理論]]の枠内の超伝導では、電子対がs波一重項 (L=0, S=0) なのに対し、ヘリウム3の対はp波三重項 (L=1, S=1) となっている。ヘリウム3の対を形成する駆動力(従来型の超伝導におけるフォノンに相当)は、'''スピンのゆらぎ'''と思われている。
なお、ヘリウム3の超流動機構は、超伝導(BCS理論)ほどには理論面での詳細な解明がなされていない。
== 歴史 ==
ヘリウム4の粘性が極低温で消失することは1937年にカピッツァ<ref name="Kapitza1938">{{cite journal|last1=Kapitza|first1=P. |title=Viscosity of Liquid Helium below the λ-Point |journal=Nature |volume=141|issue=3558 |year=1938|pages=74–74| issn=0028-0836|doi=10.1038/141074a0}}</ref>および独立に [[:en:John F. Allen|John F. Allen]] & [[:en:Don Misener|Don Misener]]<ref name="AllenMisener1938">{{cite journal |last1=Allen|first1=J. F. |last2=Misener|first2=A. D. |title=Flow of Liquid Helium II |journal=Nature |volume=141|issue=3558|year=1938|pages=75–75 |issn=0028-0836|doi=10.1038/141075a0}}</ref>によって実験的に確認された{{Sfn|Pitaevskii|Strigari|2016|p=1}}。その後すぐに[[フリッツ・ロンドン]]はこの現象が[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の現れであると指摘した<ref name="London1938">{{cite journal|last1=London|first1=F. |title=The λ-Phenomenon of Liquid Helium and the Bose-Einstein Degeneracy |journal=Nature |volume=141|issue=3571 |year=1938|pages=643–644|issn=0028-0836|doi=10.1038/141643a0}}</ref>{{Sfn|Pitaevskii|Strigari|2016|p=1}}。1941年に[[レフ・ランダウ]]は流体の[[素励起]]のスペクトルに基づいて超流動の理論を構築し<ref>{{Cite journal |last=Landau |first=L. D. |datE=1941 |journal=J. Phys. USSR |volume=5 |page=71}}</ref><ref name="Landau1941">{{cite journal|last1=Landau|first1=L. |title=Theory of the Superfluidity of Helium II |journal=Physical Review |volume=60|issue=4|year=1941|pages=356–358|issn=0031-899X|doi=10.1103/PhysRev.60.356}}</ref>、1940年に[[:en:László Tisza|László Tisza]]によって提案された<ref name="Tisza1940">{{cite journal|last1=Tisza|first1=L. |title=Sur la théorie des liquides quantiques. Application à l'hélium liquide. II |journal=Journal de Physique et le Radium |volume=1|issue=8|year=1940|pages=350–358 |issn=0368-3842|doi=10.1051/jphysrad:0194000108035000}}</ref>超流動の[[二流体モデル]]の理論的基礎を与えた{{Sfn|Pitaevskii|Strigari|2016|p=1}}。[[ニコライ・ボゴリューボフ]]は1947年に相互作用のある[[ボース気体]]について論じている<ref>{{Cite journal |last=Bogoliubov |first=N. N. |date=1947 |jourhnal=J. Phys. USSR |volume=11 |page=23}}</ref>{{Sfn|Pitaevskii|Strigari|2016|p=1}}。[[オリバー・ペンローズ]]は[[非対角長距離秩序]]という概念を1951年に導入した<ref name="Penrose2009">{{cite journal |last1=Penrose |first1=O. |title=CXXXVI. On the quantum mechanics of helium II |journal=The London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science |volume=42 |issue=335|year=1951 |pages=1373–1377 |issn=1941-5982 |doi=10.1080/14786445108560954}}</ref><ref name="PenroseOnsager1956">{{cite journal|last1=Penrose|first1=Oliver |last2=Onsager|first2=Lars |title=Bose-Einstein Condensation and Liquid Helium |journal=Physical Review |volume=104|issue=3|year=1956|pages=576–584 |issn=0031-899X|doi=10.1103/PhysRev.104.576}}</ref>{{Sfn|Pitaevskii|Strigari|2016|p=1}}。
== 脚注 ==
{{Reflist |2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書
| title = 超流動
| series = 新物理学シリーズ
| publisher = [[培風館]]
| date = 1995-7
| id = {{ISBN2|4-563-02428-7}}、ISBN 978-4-563-02428-4 }}
* {{Citation|和書
| title = 岩波講座 現代の物理学
| volume = 17
| volume-title = 超伝導・超流動
| publisher = [[岩波書店]]
| date = 1993-4
| id = ISBN 4-00-010447-0、ISBN 978-4-00-010447-0 }}
* {{Cite book
| first1 = Lev | last1 = Pitaevskii
| first2 = Sandro | last2 = Stringari
| title = Bose-Einstein Condensation and Superfluidity
| year = 2016
| publisher = Oxford University Press
| isbn = 9780198758884
| doi = 10.1093/acprof:oso/9780198758884.001.0001
| ref = harv }}
== 関連項目 ==
* [[第2音波]]
* [[ロトン]]
* [[物性物理学]]
* [[ダランベールのパラドックス]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Superfluidity}}
* {{Youtube|2Z6UJbwxBZI|実験映像}}
* {{Cite web|和書
| url = http://kelvin.phys.s.u-tokyo.ac.jp/fukuyama_lab/japanese/research/helium.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20170501023408/kelvin.phys.s.u-tokyo.ac.jp/fukuyama_lab/japanese/research/helium.html
| title = 超流動ヘリウムの不思議
| website = 東京大学大学院 理学系研究科 物理学専攻 福山研究室(低温物理学)
| accessdate = 2015-3-22
| archivedate = 2017-5-1
| deadlinkdate = 2021年10月1日 }}
{{物質の状態}}
{{Condensed matter physics topics}}
{{新技術|topics=yes|materials=yes}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちようりゆうとう}}
[[Category:相転移]]
[[Category:流体力学]]
[[Category:ヘリウム]]
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2003-09-02T11:56:47Z
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2023-12-02T21:46:49Z
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"Template:物質の状態"
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E6%B5%81%E5%8B%95
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14,767 |
日本旅行
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株式会社日本旅行(にほんりょこう、Nippon Travel Agency Co., Ltd.)は、日本最初の旅行会社で、西日本旅客鉄道(JR西日本)の連結子会社。通称(略称)は「日旅(にちりょ)」、NTA。
国内旅行に強みを持ち、「赤い風船」というブランド名でパック旅行を提供するほか、JR路線を活用したWENS赤い風船(ウエンズあかいふうせん)がある。また、海外旅行商品として高級志向のMACH(マッハ)、リーズナブルなBEST(ベスト)がある。
旅行業登録番号は観光庁長官登録旅行業第2号、現存する旅行業では最若番である。
発祥が滋賀県であり、また主要株主がJR西日本であることなどから、阪急交通社のように大阪を拠点とする旅行会社と見られることも多い。しかし、1967年12月に本社を大阪から東京へ移しているため、長年にわたり東京に本社を置く旅行会社の一つである。
東海道本線草津駅で駅弁を販売していた南新助が伊勢神宮参拝の団体旅行を主催(今でいう企画旅行)したことが発祥である。
日本国有鉄道(国鉄)が指定席予約システムのMARS(マルス)を導入した際に、当時弱小だった日本旅行が他の旅行会社に先駆けて積極的にMARSを導入・活用した。
2000年代以降の主要な閉店店舗を記載。
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"text": "東海道本線草津駅で駅弁を販売していた南新助が伊勢神宮参拝の団体旅行を主催(今でいう企画旅行)したことが発祥である。",
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"text": "2000年代以降の主要な閉店店舗を記載。",
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株式会社日本旅行は、日本最初の旅行会社で、西日本旅客鉄道(JR西日本)の連結子会社。通称(略称)は「日旅(にちりょ)」、NTA。
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{{簡易区別|この項目では、企業について説明しています。「日本を[[旅行]]すること」}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 株式会社日本旅行
| 英文社名 = NIPPON TRAVEL AGENCY Co.,LTD.
| ロゴ = File:Nta logo.jpg
| 画像 = File:Nihonbashi dia building.jpg
| 画像説明 = 本社が入る日本橋ダイヤビルディング
| 種類 = [[株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = 日旅、NTA
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 103-8266
| 本社所在地 = [[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]1-19-1<br>日本橋ダイヤビルディング12階
| 設立 = [[1949年]](昭和24年)1月<br/>(株式会社日本旅行会)
| 業種 = サービス業
| 事業内容 = [[旅行会社|旅行業]]など
|代表者 = [[代表取締役]][[社長]]兼[[執行役員]] [[小谷野悦光]]
|資本金=40億円
|発行済株式総数=6000万株
|売上高=(単体)206億44百万円<br/>(連結)237億8百万円<br />(2020年12月期)
|営業利益=(単体)△73億34百万円<br/>(連結)△116億21百万円<br />(2020年12月期)
|経常利益=(単体)△57億55百万円<br/>(連結)△93億62百万円<br />(2020年12月期)
|純利益=(単体)△65億64百万円<br />(連結)△127億91百万円<br />(2020年12月期)
|純資産=(単体)72億44百万円<br />(連結)101億10百万円<br />(2020年12月31日現在)
|総資産=(単体)974億59百万円<br />(連結)1,013億88百万円<br />(2020年12月31日現在)
|従業員数=4,414名(グループ全体)
|支店舗数=
|決算期=[[12月31日]]
|会計監査人=
|所有者=
| 主要株主 = [[西日本旅客鉄道]] 79.8%<ref>西日本旅客鉄道2020年3月期有価証券報告書11頁</ref><br/>(同社の[[連結子会社]])<br/>[[東海旅客鉄道]]<br/>[[東日本旅客鉄道]]
| 主要子会社 = 日本旅行リテイリング、エムハートツーリスト、日本旅行北海道、日本旅行東北、日旅産業など(いずれも[[連結子会社]])<br/>ジェイアール西日本コミュニケーションズ、日本旅行・グローバルビジネストラベル、ビジネストラベルネットワーク、ジャッツなど(いずれも[[持分法適用会社]])
| 関係する人物 = [[南新助]](創業者)、[[池田一郎]](元社長)
| 外部リンク = [https://www.nta.co.jp/ www.nta.co.jp]
| 特記事項 = <br/>1968年に株式会社日本旅行へ商号変更。<br/>[[観光庁]]長官登録旅行業第2号|
}}
[[ファイル:Nippon Travel Agency Kusatsu Branch.jpg|thumb|200px|創業地である日本旅行草津支店。南洋軒の所有しているビルに入居している]]
[[File:Chuokankobus akaihusen aeroqueenI.jpg|thumb|200px|「赤い風船」専用貸切バス(旧[[札幌第一観光バス#中央観光バス|中央観光バス]](株))]]
'''株式会社日本旅行'''(にほんりょこう、''Nippon Travel Agency Co., Ltd.'')は、日本最初の[[旅行会社]]で、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[連結子会社]]。通称(略称)は「'''日旅'''(にちりょ)」、'''NTA'''。
== 概要 ==
国内旅行に強みを持ち、「'''赤い風船'''」というブランド名で[[パッケージツアー|パック旅行]]を提供するほか、[[JR線|JR路線]]を活用したWENS赤い風船(ウエンズあかいふうせん)がある。また、[[海外旅行]]商品として高級志向のMACH(マッハ)、リーズナブルなBEST(ベスト)がある。
旅行業登録番号は[[観光庁]]長官登録旅行業第2号、現存する旅行業では最若番である。
発祥が[[滋賀県]]であり、また主要株主がJR西日本であることなどから、[[阪急交通社]]のように大阪を拠点とする旅行会社と見られることも多い。しかし、[[1967年]]12月に本社を大阪から東京へ移しているため、長年にわたり東京に本社を置く旅行会社の一つである。
[[東海道本線]][[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]で[[駅弁]]を販売していた[[南新助]]が[[伊勢神宮]]参拝の団体旅行を主催(今でいう企画旅行)したことが発祥である<ref group="注">2010年現在、草津支店は南洋軒が所有するテナントビルに入居している。</ref>。
[[日本国有鉄道]](国鉄)が[[座席指定席|指定席]]予約システムの[[マルス_(システム)|MARS]](マルス)を導入した際に、当時弱小だった日本旅行が他の旅行会社に先駆けて積極的にMARSを導入・活用した。
== 沿革 ==
* [[1905年]]([[明治]]38年)11月 - [[滋賀県]][[栗太郡]][[草津町 (滋賀県)|草津町]](現[[草津市]])で、[[南新助]]が日本旅行会として創業。
* [[1941年]]([[昭和]]16年)8月 - 世情悪化に伴い廃業。
* [[1949年]](昭和24年)1月 - 株式会社日本旅行会として[[大阪府]]で再設立。
* [[1967年]](昭和42年)12月 - 本社を大阪から東京に移転。
* [[1968年]](昭和43年) - 株式会社'''日本旅行'''に改称。
* [[1970年]](昭和45年)[[6月1日]] - 国鉄の指定席予約システム「MARS(マルス)」を導入<ref>{{Cite news |和書|title=日本旅行に「みどりの窓口」 あすから各営業所に開設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1970-05-31 |page=1 }}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)春 - 「赤い風船」のブランド名を使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=ブランド名“赤い風船” |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-01-14 |page=2 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)4月 - 日本旅行北海道設立に伴い、[[北海道]]内の支店を同社に移行。
* [[2001年]]([[平成]]13年)
** 1月 - [[近畿日本ツーリスト]]と 2003年(平成15年)の合併に合意、翌年撤回。
** 10月 - 西日本旅客鉄道株式会社から旅行業部門(TiS)を譲受。TiSの旅行ブランドであったWENSも引き継いだ。
* [[2002年]](平成14年)12月 - JR西日本に対して第三者割当増資を実施し、同社の[[連結子会社]]となった。
* [[2004年]](平成16年)9月 - [[オーエムシーカード]](現:[[セディナ]])との合弁会社「日本旅行オーエムシートラベル」を設立、オーエムシーカードの旅行業事業を移管。
* [[2006年]](平成18年)11月 - 松下電器産業(現:[[パナソニック]])向け旅行会社「MIDツーリスト」が株式譲渡により日本旅行の完全子会社となり、社名を「エムハートツーリスト」とする。
* [[2010年]](平成22年)[[4月1日]] - 東北地方に所在する支店すべてを、全額出資子会社の株式会社日本旅行東北へ事業譲渡<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4507137/ 日本旅行;東北営業本部を子会社化、東北エリアの営業を譲渡、「日本旅行東北」を2010年1月に設立] - livedoorニュース 2009年12月16日(Sakura Financial News)</ref>。
* [[2013年]](平成25年) - 株式会社[[読売旅行]]と受託契約を再締結し連携強化を図る。
* [[2015年]](平成27年)1月 - 本社を[[新橋駅前ビル]]([[港区 (東京都)|港区]])から日本橋ダイヤビルディング([[中央区 (東京都)|中央区]])へ移転。
* [[2018年]](平成30年)
** 2月28日 - [[京急観光]]より、外販事業部と店舗を譲受<ref>http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20170901HP_17087TK.html</ref>
*** 3月 - 日旅サービス50年を機に'''日本旅行サービス'''に改称。
* 2020年([[令和2年]])4月 - 日本旅行サービスと日本旅行OMCトラベルが経営統合し、「日本旅行リテイリング」になる。
* 2021年([[令和3年]]) - コロナウイルスの影響により、支店100店舗の大量閉店や統合を発表。従業員も3割減らす<ref> https://www.fukeiki.com/2021/03/nta-close-100-branch.html </ref>が、女性制服の廃止は未実施。
== グループ企業 ==
=== 旅行業 ===
* 日本旅行サービス - 観光庁長官登録旅行業第2060号
**旧社名 日旅サービス(東京都知事登録旅行業第2-2495号)。2018年3月に改称。
* 日本旅行北海道 - 観光庁長官登録旅行業第1674号
* [[日本旅行東北]] - 観光庁長官登録旅行業第1890号
* 日本旅行沖縄 - 沖縄県知事登録旅行業第2-56号
* 日本旅行リテイリング - 東京都知事登録旅行業2-5483号
** 旧社名 日本旅行オーエムシートラベル (主に[[ダイエー]]系列の[[テナント]]に出店) - 東京都知事登録旅行業第2-5483号
* 日本旅行・グローバルビジネストラベル - 東京都知事登録旅行業第3-8166号
* エルオルト([[旭化成]]グループ向け) - 観光庁長官登録旅行業第1036号
* エムハートツーリスト([[パナソニックグループ]]向け) - 観光庁長官登録旅行業第558号
* フレックスインターナショナルツアーズ - 観光庁長官登録旅行業第748号
=== 派遣会社(インハウス)===
* ジャッツ(関東・東北) - 東京都知事登録旅行業第3-3665号も取得、現在は[[ヒト・コミュニケーションズ]]系列
* ジャッツ関西
* 日旅中部エンタプライズ
* 日旅九州エンタプライズ
===その他===
* 日旅開発([https://www.hotelnord.co.jp/ ホテルノルド小樽])
* プランドゥ・ジャパン
* 日旅物流
* 日旅ビジネスクリエイト
* 日旅ビジネス・サポート
* 日旅産業
== 店舗 ==
* 日本旅行( - '''支店''')・日本旅行サービス( - '''営業所''')・日本旅行オーエムシートラベル( - '''店''')の出店店舗の詳細は公式サイト「[https://www.nta.co.jp/shop/ 日本旅行・日旅サービス・日本旅行オーエムシートラベル共通店舗一覧]」「[https://www.nta.co.jp/omc/n-omc/card-tenpo/siten-ichiran.html 日本旅行OMCトラベル店舗一覧]」を参照。
** [[ニッケコルトンプラザ]]は日旅サービスと日本旅行オーエムシートラベルの双方が出店していたが、2021年5月に統合された。かつては[[ショッパーズプラザ横須賀]]も同様の形態であったが、2009年12月に日旅サービスは撤退し、2019年3月にOMCも撤退している。
**[[茨城県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[長崎県]]、[[大分県]]、[[熊本県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]からは撤退している。
* エムハートツーリストの出店店舗の詳細は公式サイト「[https://www.mheart.co.jp/office/index.html 営業所案内]」を参照。
=== 閉店店舗 ===
2000年代以降の主要な閉店店舗を記載。
* 越谷[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]営業所 - [[イオンレイクタウン]] kazeエリアの[[ジャスベル]]跡地に移転。
* 2008年
**2月10日 - 舞鶴支店
**2月28日 - 豊橋支店(翌日、岡崎支店に統合し愛知東支店になる)
**12月31日 - 姫路支店トラベルカウンター(Tis姫路と統合)
* 2009年
**1月12日 - 臼井イトーヨーカドー営業所
**4月20日 - 佐世保営業所
**8月20日 - 坂出[[サティ (チェーンストア)|サティ]]営業所
**9月30日 - 伊丹支店、大崎営業所
**12月25日 - 柳井営業所
**12月29日 - 名古屋伏見支店、佐野[[キンカ堂]]営業所(2017年1月6日・[[イオンモール佐野新都市]]店として再開店)、[[ショッパーズプラザ横須賀]]営業所
* 2010年
**12月末 - 池袋支店(新宿支店([[空中店舗]])に統合。)
* 2011年
**3月31日 - 堺支店([[堺東駅]]前)
<!--**6月24日 - [[クリスロード仙台]]営業所<ref>http://ep.nta.co.jp/shiten_page_m.php?id=46</ref>-日本旅行東北の店舗-->
**6月30日 - 渋谷支店<ref>[http://kaiten-heiten.com/nihonryokoh-shibuya/ 6/30【閉店】株式会社日本旅行渋谷支店] - 開店・閉店 2011年6月26日</ref>、東京西支店<ref>[http://ep.nta.co.jp/shiten_page_m.php?id=66 日本旅行携帯サイトでの閉店案内]</ref> - いずれも新宿支店に統合。
**8月 - [[ダイエー向ヶ丘店]]<ref>[http://www.kawasaki-town.com/mypage/ks042735/ 川崎タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、[[ダイエー南越谷店]]<ref>[http://www.koshigaya-town.com/mypage/kl010693/ 越谷タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、イオンレイクタウン営業所(現在は[[エイチ・アイ・エス]])<ref>[http://ep.nta.co.jp/shiten_page_m.php?id=1961 日本旅行携帯サイトでの閉店案内]</ref>、イトーヨーカドー綱島営業所、[[港北みなも]]店<ref>[http://www.yokohamashi-town.com/mypage/yk121718/ 横浜タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、[[ビッグホップガーデンモール印西]]店<ref>[http://ep.nta.co.jp/shiten_page_m.php?id=99 日本旅行携帯サイトでの閉店案内]</ref>
**11月 - ダイエー城野店<ref>[http://www.kitakyushu-town.com/mypage/kk054281/ 北九州タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、[[ダイエー福重店]]<ref>[http://www.fukuokashi-town.com/mypage/fo083296/ 福岡タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、ダイエー春日店<ref>[http://www.kasuga-town.com/mypage/xg003367/ 春日タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、[[リソラ大府]]店<ref>[http://www.aichiken-town.com/mypage/zi120422/ 愛知県タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、トラベルハウスイトーヨーカドー国領営業所<ref>[http://ep.nta.co.jp/shiten_page_m.php?id=165 日本旅行携帯サイトでの閉店案内]</ref>、[[ダイエーショッパーズ福岡店]]<ref>[http://www.fukuokashi-town.com/mypage/fo082320/ 福岡タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>、[[ダイエー岩見沢店]]<ref>[http://www.hokkaido-town.com/mypage/do080539/ 北海道タウン(e-まちタウン)での閉店案内]</ref>
* 2012年
**1月10日 - [[イオンモール羽生]]営業所<ref>[http://hanyu-aeonmall.com/shopguide/renewal.jsp 閉店情報] - イオンモール羽生(2012年1月27日閲覧)</ref>
**1月15日 - [[船橋ららぽーと]]営業所<ref>[http://ep.nta.co.jp/nsfunabashi/index.php 【2012年1月15日閉店】船橋ららぽーと営業所] - 日本旅行(2012年1月27日閲覧)</ref>
**2月13日 - [[森の地下街|栄地下街]]営業所<ref>[http://ep.nta.co.jp/nssakae/index.php 【2012年2月13日閉店】栄地下街営業所] - 日本旅行(2012年1月27日閲覧)</ref>
**3月31日 - Tis尼崎支店([[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]構内・日旅サービスCOCOEあまがさき営業所が代替)・Tis奈良支店([[奈良駅]]構内・下三条町に移転し、奈良支店に改称)
* [[2015年]]
**6月30日 - 上飯田店
**[[12月29日]] - 三原支店<ref>[http://ep.nta.co.jp/mihara/index.php 【2015年12月29日閉店】三原支店] - 日本旅行(2016年2月1日閲覧)</ref>
*2016年
**5月6日 - ダイエー船堀店
*2017年
**1月15日 - [[イオン札幌麻生店|札幌麻生店]]
**4月28日 - [[イオンスタイル碑文谷]]店<ref group="注">イオンスタイル碑文谷には2018年現在、[[JTB首都圏]]が出店している([http://www.jtb.co.jp/shop/tl-gakugeidaigaku/ JTBイオンスタイル碑文谷店])。</ref>([[学芸大学駅]]東口店に移転)
**5月31日 - [[甲子園]]店
**11月30日 - 上野支店(新宿支店に統合の上、[[パルコ]]ヤ上野営業所開設<ref>http://ep.nta.co.jp/ueno/ueno1130.pdf</ref>)
*2018年
**3月31日 - 五反田営業所・相模原営業所・横浜西口営業所(京急横浜支店に統合)
**5月1日 - 湘南藤沢店 - 湘南台店に移転
**5月31日 - 新発田ピオ21
**7月23日 - 東京・京橋中央通り支店(7月30日京橋営業所にリニューアル)
*2019年
**3月 - [[ダイエー東大島店]]、[[ダイエー市川店]]、[[ショッパーズプラザ横須賀]]店、[[イオンモールナゴヤドーム前]]営業所
**8月31日 - 大阪・京橋店
**9月30日 - 所沢店
**12月 - 東鷲宮店、[[学芸大学駅]]東口店、おおとり店、摂津富田店、新茨木店、Tis茨木支店、徳山支店、Tis下関支店
*2020年
**2月 - 東京・京橋営業所
**3月 - 横浜別所イトーヨーカドー営業所・[[セブンパーク アリオ柏]]営業所・[[イオンモール松本]]営業所、[[イオン三木青山]]支店、[[ミレニアシティ岩出]]支店、[[ゆめタウンはません]]営業所
**4月30日 - 上田支店
**8月19日 - イオンタウン黒崎支店(8月20日、イオン若松支店に引継。)
**12月 - 湘南モールFILL、[[星ヶ丘テラス]]、[[新瀬戸バロー]]、茨木支店、Tis茨木、西宮、大宮支店<ref>https://kaiten-heiten.com/nta-omiya/</ref>
*2021年
**1月29日 - 徳島支店、中洲川端支店カウンター、大分支店、宮崎支店(いずれも団体旅行部門のみ残地)、[[イオンマリンピア店]]、[[古川橋駅]]前支店
**2月5日 - 熊本支店、鹿児島支店(両店共団体旅行のみ残地)、名古屋東支店
**3月 - 長崎支店(団体旅行のみ残地)、[[イオンモール船橋]]、[[イオンモール小山]]、[[ベルモール宇都宮]]、自治医大内支店、[[イオンモール高崎]]、[[イオンモール水戸内原]]、[[イオン新潟西店]]、洛南支店、Tis梅田、[[なんばスカイオ]]、江坂支店、神戸交通センター、Tis明石、[[イオンモール神戸北]]、西神中央、[[コロワ甲子園]]、広島本通支店(TIS広島支店に統合)、[[和歌山オークワ]]、[[ガーデンパーク和歌山]]、TiS鳥取
**4月 - [[ららぽーと立川立飛]]、[[ララガーデン川口]]
**5月 - [[ゆめタウン武雄]]支店、[[ゆめタウン博多]]支店、[[アリオ西新井]]支店、[[イオンモール東久留米]]、[[ダイエー西台店]]、イトーヨーカドー南大沢、イトーヨーカドー武蔵小金井、[[田無アスタ]]、[[港北阪急モザイクモール]]、イトーヨーカドーたまプラーザ、武蔵小杉、新百合ヶ丘OPA、三ツ境、京急上大岡、京急横須賀中央、湘南台、[[イオンフードスタイル港南台店]]、[[ららぽーと湘南平塚]]、柏[[スカイプラザ]]、[[モリシア津田沼]]、いちかわコルトンプラザ(センターモール店に統合)、[[イオンモール大和郡山]]、金沢大桑バロー、イオン野々市南店、[[イオンタウン豊中緑丘]]、吹田支店、[[イオンモール大日]]、金剛、光明池、[[ららぽーと和泉]]、[[池田駅 (大阪府)|池田駅]]前支店、[[須磨パティオ]]宝塚中山、川西アステ、イオン小野店
**6月 - TisJR西日本本社内支店
**7月 - 名古屋栄支店(臨時店頭窓口を経て完全閉店)
**8月 - [[アトレ亀戸]]、[[阪急大井町ガーデン]]<ref> https://www.ooimachi-garden.com/s215 </ref>
**11月 - MOMOテラス<ref> https://kaiten-heiten.com/nta-momo/ </ref>、TiS神戸
**12月 - [[イオンフードスタイル新松戸店|新松戸支店]]<ref>https://www.nta.co.jp/shop/shoplist/shp/chiba/</ref>、新宿支店、[[コースカベイサイドストアーズ|コースカベイサイド横須賀]]支店、[[ゆめタウン浜田]]支店、[[イオンモール福岡伊都]]支店、[[イオンモール佐野新都市]]
*2022年
**1月 - [[西福岡マリナタウン|マリナタウン]]、イオン延岡、天王寺支店
**2月 - [[ゆめタウン筑紫野]]<ref>https://www.nta.co.jp/shop/shoplist/shp/fukuoka/</ref>
**3月 - [[川崎アゼリア]]、[[金沢文庫]]支店<ref>https://www.nta.co.jp/shop/shoplist/shp/kanagawa/</ref>
**12月 - 東日本法人支店
== その他 ==
* [[山口百恵]]が[[いい日旅立ち]]をリリースする際に、日本旅行と[[日立製作所]]がスポンサーとなった。この結果、タイトルに両社の名前が隠されている。
* [[平田進也]]が『[[合コン!合宿!解放区!]]』に出演し、ハイテンションなキャラで有名になり、それがきっかけでブレイクした。『[[おはよう朝日です]]』にも出演し、[[宮根誠司]]との絡みがあった。
* 2007年夏の旅行商戦においては、[[タカラトミー]]とのコラボレーション企画として同社商品「ダッキー」をキャラクターに起用。首都圏・信越地区を中心に夏季プロモーション展開を実施。
* [[2008年]]8月1日より、店頭にて[[トラベレックスジャパン]]の[[キャッシュパスポート (トラベレックスジャパン)|キャッシュパスポート]]の発売を開始した(一部店舗は同年7月25日より先行発売)。当社オリジナルデザインのカードを用意する。
== 不祥事など ==
* [[2007年]]3月 - 旅行券発行報告書に虚偽記載して発行保証金を供託しなかったため、[[関東財務局]]から業務改善命令と3月7日から4月5日まで旅行券発行停止処分を受ける<ref>[http://www.travelvision.jp/news/detail.php?id=28091 日本旅行、旅行ギフト券で行政処分−上場延期の判断にも影響か] - トラベルビジョン 2007年3月5日</ref>。
* 2007年12月 - JR西日本に対し、[[特別急行列車|特急列車]]などの[[座席指定券#鉄道の座席指定券|指定券]]販売実績を水増しし、販売手数料4,300万円を不正請求していたことが発覚する<ref>[http://www.travelvision.jp/special/detail.php?id=33326 日本旅行、JR西の団体契約乗車券の販売実績を水増し−関係者をけん責・減給] - トラベルビジョン 2008年1月7日</ref>。
* [[2008年]]3月 - 子会社の日本旅行沖縄の男性管理職が旅行契約代金1億円超を着服していた<ref>[https://web.archive.org/web/20130531082027/http://www.47news.jp/CN/200803/CN2008032901000658.html 日本旅行子会社部長が着服 1億円超か、告訴へ] - 47NEWS 2008/03/29【共同通信】</ref>。
* [[2009年]][[3月11日]] - [[岡山市]]の市立中学校の[[修学旅行]]受注において違法な[[カルテル]]を結んだとして、同社岡山支店が、[[JTB|JTB中国四国]]、[[近畿日本ツーリスト]]、[[東武トップツアーズ|トップツアー]]、[[東武トラベル]]各社の岡山支店とともに[[公正取引委員会]]の立ち入り調査を受ける<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK200903110075.html 岡山の中学の修学旅行でカルテル容疑 JTBなど5社] - 朝日新聞 asahi.com関西 2009年3月11日</ref>。
* [[2013年]][[4月]] - [[請負#下請負|下請]]会社18社に対し支払うべき代金計約3,000万円を不当に減額していたとして、[[公正取引委員会]]から[[下請代金支払遅延等防止法|下請法]]違反で勧告を受ける<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130426-OYT1T01215.htm 下請けへの代金を不当減額、日旅に再発防止勧告] 読売新聞 2013年4月26日</ref>。
* 幹部社員2人が、[[静岡駅]]の[[新幹線]]改札口で、出場することで[[特別急行券|特急券]]が無効となるのを防ぐために[[入場券]]を[[不正乗車|不正使用]]したとして、[[静岡中央警察署]]に逮捕された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130320/crm13032018440008-n1.htm 「特急券無効になる」仕事の打ち合わせで入場券不正 日本旅行幹部2人逮捕] - msn産経ニュース 2013.3.20</ref>が不起訴処分となった<ref>[http://www.at-s.com/news/detail/618036434.html 旅行会社の幹部不起訴 静岡地検] - 静岡新聞 2013/3/29</ref>。
* [[2019年]][[6月28日]] - [[新卒一括採用|新卒採用]]に関する[[内定|内々定]]の通知を受験すらしていない学生含む約4万人に誤って送付してしまった事が発覚。誤送信直後から内々定通知に関する話題が[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]上で一時的に飛び交う事態になったが、本来の内々定者には事前に電話で通知していた事もあり、収束している。日本旅行の採用担当者は「[[個人情報漏洩|個人情報の流出]]」は無いとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nta.co.jp/20190628.htm|title=内々定通知の誤送信について|accessdate=2019年6月29日|publisher=株式会社日本旅行(2019年6月28日作成)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20190628/k00/00m/040/300000c|title=日本旅行 4万3000人に「内々定」誤通知 選考受けていない人にも|accessdate=2019年6月29日|publisher=毎日新聞(2019年6月28日作成)}}</ref>。
* 2023年5月16日 - 新型コロナウイルス禍での政府の観光促進策「全国旅行支援」の「いいじゃん、あいち旅キャンペーン」事務局運営業務を巡り、人件費約530万円を不正に請求していたことを発表。2022年7月〜23年4月に実際は勤務実態のない要員のべ163人分の人件費を、委託元である株式会社JTBに対して過大に請求していた。<ref>{{Cite web|和書|title=日本旅行、全国旅行支援運営で不正請求 愛知で530万円 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD169MF0W3A510C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-05-16 |access-date=2023-09-02 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【知事会見】全国旅行支援「いいじゃん、あいち旅キャンペーン」事務局運営業務における不正請求事案に係る調査結果及び本県の対応等について - 愛知県 |url=https://www.pref.aichi.jp/press-release/iijanaichi8.html |website=www.pref.aichi.jp |access-date=2023-09-02}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nippon Travel Agency}}
* [https://www.nta.co.jp/ 日本旅行]
** [https://www.nta.co.jp/omc/ 日本旅行オーエムシートラベル]
** [https://www.asahi-kasei.co.jp/elorto/company/index.html エルオルト]
** [https://www.mheart.co.jp/ エムハートツーリスト]
* {{Twitter|nta_jp}}
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カナディアンカヌー
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カナディアンカヌーとは、カナダインディアンが湖沼の移動に使っていたオープンデッキカヌーで、前後の2人がシングルブレードパドルで漕ぐカヌーである。
北米でインディアンが使用していたものが起源。主にカナダインディアンが湖沼の移動に使っていたためこの名称がある。現在は様々な素材・形状のカヌーがある。多くはリジッドタイプカヌーだが、分解できるフォールディングタイプカヌーもある。また、デッキが開いているOCタイプ(オープンデッキカヌー)とデッキが密封されているCCタイプ(クローズドデッキカヌー)もある。CCは「スプレースカート」で艇と体の隙間を密閉し、水の浸入を防ぐ。
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カナディアンカヌーとは、カナダインディアンが湖沼の移動に使っていたオープンデッキカヌーで、前後の2人がシングルブレードパドルで漕ぐカヌーである。
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'''カナディアンカヌー'''とは、カナダインディアンが湖沼の移動に使っていたオープンデッキカヌーで、前後の2人が[[シングルブレードパドル]]で漕ぐ[[カヌー]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamanashi-kankou.jp/y-tabi/eco/bosyuchu/24kanu-ken.html|title=富士の国やまなし - 雄大な富士山をバックにカナディアンカヌー体験|accessdate=2021-0226}}</ref>。
[[ファイル:カナディアンカヌー・レットマン 021.jpg|thumb|260px|right|デッキが開いているOCタイプ([[#オープンデッキカヌー|オープンデッキカヌー]])で[[FRP]]製のもので、[[野田知佑]]も愛用していた「レットマン」。通常は[[シングルブレードパドル]]で漕ぐが、このようにダブルブレードパドルで漕ぐことも可能([[北山川]]にて)]]
== 概要 ==
北米で[[インディアン]]が使用していたものが起源。主にカナダインディアンが湖沼の移動に使っていたためこの名称がある。現在は様々な素材・形状の[[カヌー]]がある。多くは[[#リジッドタイプカヌー|リジッドタイプカヌー]]だが、分解できる[[#フォールディングタイプカヌー|フォールディングタイプカヌー]]もある。また、デッキが開いているOCタイプ([[#オープンデッキカヌー|オープンデッキカヌー]])とデッキが密封されているCCタイプ([[#クローズドデッキカヌー|クローズドデッキカヌー]])もある。CCは「[[スプレースカート]]」で艇と体の隙間を密閉し、水の浸入を防ぐ。
== カヌーの種類 ==
{{節スタブ}}
[[File:Canoe Warriers in West Papua.jpg|thumb|260px|right|オープンデッキカヌーの原型である丸太をくりぬいたカヌー]]
=== リジッドタイプカヌー ===
=== フォールディングタイプカヌー ===
=== オープンデッキカヌー ===
=== クローズドデッキカヌー ===
==脚注==
<references/>
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[[Category:カヌー]]
[[Category:船舶の歴史]]
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カヤック
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カヤック(英語: kayak)は、足を前方に投げだすようにして座りダブルブレードパドルで漕ぐクローズドデッキのカヌーである。
アリューシャン諸島のエスキモーが海で使用していたものから発展してきた。グリーンランド圏からアラスカ半島では「カヤック」「カヤーク」、アリューシャン列島圏では「ィ・キャック」等と呼ばれていたようだ。どちらも、波をかぶっても船内に浸水しないように、狭いコクピットに座って下半身を船内に潜り込ませ、スプレースカートやスプレーデッキと呼ばれるもので腰回りと船体の隙間を塞いだり、搭乗者の着るアノラックの裾を船体に固定するなどして、水の浸入を防いでいた。
現代カヤックは、構造によって、リジッドタイプカヤックと分解できるフォールディングタイプカヤック(ファルトボート)に分かれる。 リジットタイプにはFRP・PE等色々な素材が使われている。また用途によって、リバーカヤック、シーカヤックといった分類が用いられることもある。
カヤックの現代における用途は基本的にスポーツやレジャーであり、そもそもの目的であった狩猟や輸送・交易や連絡には今日ではほとんど使われない。
「カヌー」が基本的にオープンデッキ型を指すのに対して、「カヤック」は基本的にクローズドデッキ型を指すが、広義ではカヌーという言葉の中にカヤックを含める場合も多い。
本来、カヤックは寒冷な海での使用に基づいて発展して来たものであり、波浪の中でも沈没せず機動性を保てるように、また、搭乗者が冷たい海水に晒される危険を減らすために、クローズドデッキの形状となって進化した。構造的にはスキン・ボート(skin boat: 獣皮ボート)と呼ばれるもので、木材や獣骨を使った骨組の上に獣皮を張って船体を作り、接合部に獣脂などで防水を施したものであった。ちなみに、グリーンランド圏で移動や交易に使われていた「ウミアック(Umiak)」は基本的にオープンデッキのスキンボートであり、カヌーの範疇に入る。
主に、グリーンランドからアラスカ東岸に住むイヌイットやエスキモー達が発展させた細身の狩猟用のカヤックと、アラスカ西岸からアリューシャン列島にかけて居住する、アレウト達が発展させたカヤック(ロシア語名のバイダルカとして知られている)の2系統が知られている。
この両者には細部に様々な違いが見られるが、特に沿岸での狩猟ボートとして発達したグリーンランド系のカヤックは細身で機動性と高速性に優れたものであり、対してクジラ猟から外洋を渡っての交易にまで幅広く使われたアリューシャン系カヤックは、吃水が深く積載能力が高いと言えるようだ。特に大きな違いは、本来のグリーンランド系カヤックは基本的に「一人乗り」のものだけである事に対して、アリューシャン系カヤックには二人乗りや三人乗りのものまである。(三人乗りのカヤックは、アリュート達により多くの交易品を運ばせたかったロシア人交易商の要求に応じて大型化したものらしい。)
グリーンランド系カヤックは、集落からの日帰り圏内での狩猟に使われる道具であった事に対して、アリューシャン系カヤックは狩猟のみならず、長期にわたる沿岸航海にも使われたことから、これらの違いが生まれて来たと思われる。ちなみに昨今のシー(海)カヤックは、旅の道具というよりも沿岸域でのレジャーが主たる用途であるため、軽量で機動性の高いグリーンランド系カヤックが好まれる傾向にあるようだ。
カヤックは本来海で使用されたものであり、現代のレジャーやスポーツで使われる「リバー(河)カヤック」というものは、近代の発明(翻案?)によるものと言えるのだが、逆にスポーツとして一般化したのはリバーカヤックの方が早かったため、海で使うカヤックをあえてシーカヤックと呼ぶようになった。その点ではスキーと同じように、近代になってから、本来の用途とは異なるスポーツとしての使われ方が見いだされて発展したものだと言える。
特にアリューシャン列島でのカヤック(バイダルカ)の実利用は歴史的にはいったん断絶しており、近代の研究者達によって、その姿が驚きを持って知られるところとなった。特に、ジョージ・ダイソンによるバイダルカ研究と、近代素材を用いた復元の試みは、書籍「宇宙船とカヌー」によって日本でも有名である。
今日のスポーツ用カヤックでは様々な素材が利用されているが、主流はリジッドと呼ばれる単体構造で、FRP(ガラス繊維/炭素繊維/ケブラー=アラミド樹脂等)、ポリエチレン系樹脂、ABS樹脂、プライウッド(合板)などによって船体形状を作り出している。また、祖先であるスキンボートのように骨組と外皮からなるものもあるが、これらの多くは分解して運搬出来る事を主目的としたもので、一般的にファルトボート(faltboat:折畳みボート)と呼ばれる。運搬に耐える軽量化を実現するために、骨組にはアルミパイプや木材を利用し、外皮にはウレタン系塗料などで防水処置を施した合成繊維の布を用いていることが多い。
「FRP」とは「Fiber Reinfoced Plastics」の略で、繊維強化プラスチック。不飽和ポリエステル樹脂やビニルエステル樹脂、エポキシ樹脂などの合成樹脂を、ガラス繊維(炭素繊維等を混入したタイプもある)で強化して成型したもので、軽量で強度が高い。
今日では多くの市販カヤックがポリエチレン製だが、軽量化、表面の滑らかさ、大型の工作機械が無くても製造できる、使用者の好みや体形に合った改造が容易である、等の理由によりFRP製カヤックの使用者も多い。特に巡航速度の高さを求める傾向にあるツーリング用のシーカヤックでは、船体の剛性を高く出来るFRP製品に人気がある。
ほかに、競技艇やスクウォート艇、サーフカヤック、カナディアンカヌーの多くがFRP製である。
リニアポリエチレンやクロスリンクポリエチレンで成型されたカヤック。クロスリンクポリエチレン製カヤックは強度において優れているがリサイクルが困難である。現在はリサイクル可能なリニアポリエチレン製カヤックが(ポリエチレン製カヤックの中では)主流である。
回転成型によるものかブロー成型によって生産されている。
FRPに比べるとポリエチレン製カヤックは衝撃に対する強度が高いので、激流を下るホワイトウォーター用と呼ばれるリバーカヤックは、その多くがポリエチレン製となっている。
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カヤックは、足を前方に投げだすようにして座りダブルブレードパドルで漕ぐクローズドデッキのカヌーである。
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{{Otheruses|舟|日本のインターネット企業|カヤック (インターネット企業)|旅行検索サイト・アプリ|KAYAK}}
{{単一の出典|date=2019年10月}}
[[Image:Brda-Brahe-Kajak.jpg|thumb|カヤック]]
'''カヤック'''({{Lang-en|kayak}})は、足を前方に投げだすようにして座り[[ダブルブレードパドル]]で漕ぐクローズドデッキの[[カヌー]]である。
== 歴史 ==
[[アリューシャン諸島]]の[[エスキモー]]が海で使用していたものから発展してきた。[[グリーンランド]]圏からアラスカ半島では「[https://teganuma-kayaking-birdwatching.com/category/kayak/ カヤック]」「カヤーク」{{Efn|1788年にアラスカ半島の東方に派遣されたロシアの探検隊がチュガチ族の通訳から聴き取ったのが初めてだったという<ref>{{Cite book|和書|author=L.ベルグ|authorlink=レフ・セミョーノヴィチ・ベルグ|year=1942|title=カムチャツカ発見とベーリング探検|publisher=龍吟社|page=230|id={{全国書誌番号|46007674}}}}</ref>。}}、{{要出典|[[アリューシャン列島]]圏では「ィ・キャック」等と呼ばれていたようだ。どちらも、波をかぶっても船内に浸水しないように、狭いコクピットに座って下半身を船内に潜り込ませ、[[スプレースカート]]や[[スプレーデッキ]]と呼ばれるもので腰回りと船体の隙間を塞いだり、搭乗者の着る[[アノラック]]の裾を船体に固定するなどして、水の浸入を防いでいた|date=2019年2月}}。
現代カヤックは、構造によって、[[リジッドタイプカヤック]]と分解できる[[フォールディングタイプカヤック]]([[ファルトボート]])に分かれる。
リジットタイプには[[繊維強化プラスチック|FRP]]・PE等色々な素材が使われている。また用途によって、[[リバーカヤック]]、[[シーカヤック]]といった分類が用いられることもある。
カヤックの現代における用途は基本的にスポーツやレジャーであり、そもそもの目的であった狩猟や輸送・交易や連絡には今日ではほとんど使われない。
[[ファイル:Kayak Hokkaido - river near Lake Shikotsu - 2016 08 15 .webm|240px|thumb|カヤック、 [[北海道]]にて]]
== 系統 ==
[[画像:ファルトボートによるシーカヤッキングImg588.jpg|thumbnail|240px|[[ファルトボート]]によるシーカヤッキング]]
「[[カヌー]]」が基本的にオープンデッキ型を指すのに対して、「カヤック」は基本的にクローズドデッキ型を指すが、広義ではカヌーという言葉の中にカヤックを含める場合も多い。
本来、カヤックは寒冷な海での使用に基づいて発展して来たものであり、波浪の中でも沈没せず機動性を保てるように、また、搭乗者が冷たい海水に晒される危険を減らすために、クローズドデッキの形状となって進化した。構造的にはスキン・ボート(skin boat: 獣皮ボート)と呼ばれるもので、木材や獣骨を使った骨組の上に獣皮を張って船体を作り、接合部に獣脂などで防水を施したものであった。ちなみに、グリーンランド圏で移動や交易に使われていた「ウミアック([[:en:Umiak|Umiak]])」は基本的にオープンデッキのスキンボートであり、カヌーの範疇に入る。
主に、グリーンランドから[[アラスカ]]東岸に住む[[イヌイット]]や[[エスキモー]]達が発展させた細身の狩猟用のカヤックと、[[アラスカ]]西岸からアリューシャン列島にかけて居住する、[[アレウト]]達が発展させたカヤック(ロシア語名の[[バイダルカ]]として知られている)の2系統が知られている。
この両者には細部に様々な違いが見られるが、特に沿岸での狩猟ボートとして発達したグリーンランド系のカヤックは細身で機動性と高速性に優れたものであり、対してクジラ猟から外洋を渡っての交易にまで幅広く使われたアリューシャン系カヤックは、吃水が深く積載能力が高いと言えるようだ。特に大きな違いは、本来のグリーンランド系カヤックは基本的に「一人乗り」のものだけである事に対して、アリューシャン系カヤックには二人乗りや三人乗りのものまである。(三人乗りのカヤックは、アリュート達により多くの交易品を運ばせたかったロシア人交易商の要求に応じて大型化したものらしい。)
グリーンランド系カヤックは、集落からの日帰り圏内での狩猟に使われる道具であった事に対して、アリューシャン系カヤックは狩猟のみならず、長期にわたる沿岸航海にも使われたことから、これらの違いが生まれて来たと思われる。ちなみに昨今の[[シーカヤック|シー(海)カヤック]]は、旅の道具というよりも沿岸域でのレジャーが主たる用途であるため、軽量で機動性の高いグリーンランド系カヤックが好まれる傾向にあるようだ。
カヤックは本来海で使用されたものであり、現代のレジャーやスポーツで使われる「リバー(河)カヤック」というものは、近代の発明(翻案?)によるものと言えるのだが、逆にスポーツとして一般化したのはリバーカヤックの方が早かったため、海で使うカヤックをあえてシーカヤックと呼ぶようになった。その点では[[スキー]]と同じように、近代になってから、本来の用途とは異なるスポーツとしての使われ方が見いだされて発展したものだと言える。
特にアリューシャン列島でのカヤック(バイダルカ)の実利用は歴史的にはいったん断絶しており、近代の研究者達によって、その姿が驚きを持って知られるところとなった。特に、ジョージ・ダイソンによるバイダルカ研究と、近代素材を用いた復元の試みは、書籍「宇宙船とカヌー」によって日本でも有名である。
今日のスポーツ用カヤックでは様々な素材が利用されているが、主流はリジッドと呼ばれる単体構造で、[[繊維強化プラスチック|FRP]]([[ガラス繊維]]/[[炭素繊維]]/[[ケブラー]]=[[アラミド樹脂]]等)、[[ポリエチレン]]系樹脂、[[ABS樹脂]]、プライウッド(合板)などによって船体形状を作り出している。また、祖先であるスキンボートのように骨組と外皮からなるものもあるが、これらの多くは分解して運搬出来る事を主目的としたもので、一般的にファルトボート(faltboat:折畳みボート)と呼ばれる。運搬に耐える軽量化を実現するために、骨組にはアルミパイプや木材を利用し、外皮にはウレタン系塗料などで防水処置を施した[[合成繊維]]の布を用いていることが多い。
== FRP製カヤック ==
「FRP」とは「Fiber Reinfoced Plastics」の略で、繊維強化プラスチック。不飽和ポリエステル樹脂やビニルエステル樹脂、エポキシ樹脂などの[[合成樹脂]]を、ガラス繊維(炭素繊維等を混入したタイプもある)で強化して成型したもので、軽量で強度が高い。
今日では多くの市販カヤックがポリエチレン製だが、軽量化、表面の滑らかさ、大型の工作機械が無くても製造できる、使用者の好みや体形に合った改造が容易である、等の理由によりFRP製カヤックの使用者も多い。特に巡航速度の高さを求める傾向にあるツーリング用のシーカヤックでは、船体の剛性を高く出来るFRP製品に人気がある。
ほかに、競技艇や[[スクウォート]]艇、[[サーフカヤック]]、[[カナディアンカヌー]]の多くがFRP製である。
== ポリエチレン製カヤック ==
[[画像:ポリエチレン製カヤック(加古川)檀上晴一P9179963.jpg|thumbnail|240px|[[ポリエチレン]]製カヤック]]
[[リニアポリエチレン]]や[[架橋ポリエチレン|クロスリンクポリエチレン]]で成型されたカヤック。クロスリンクポリエチレン製カヤックは強度において優れているが[[リサイクル]]が困難である。現在はリサイクル可能なリニアポリエチレン製カヤックが(ポリエチレン製カヤックの中では)主流である。
[[回転成型]]によるものか[[ブロー成型]]によって生産されている。
FRPに比べるとポリエチレン製カヤックは衝撃に対する強度が高いので、激流を下る[[ホワイトウォーター]]用と呼ばれるリバーカヤックは、その多くがポリエチレン製となっている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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*[[パドルスポーツ]]
*[[カヌー]]
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[[Category:カヤック|*]]
[[Category:カヌー]]
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[[Category:エクストリームスポーツ]]
[[Category:エスキモー]]
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'''GA'''
== GA ==
* 一般名詞
** [[遺伝的アルゴリズム]](genetic algorithm)
** [[次数つき多元環]] (graded algebra)
** [[ジベレリン酸]] (gibberellic acid) - [[植物ホルモン]]
** [[ジベレリン]] (gibberellin) - 植物ホルモン。単にGAと呼ぶことは希だが、種類にGA1、GA2等がある。
** [[グラフィックアクセラレータ]] (graphics accelerator)
** [[グリコアルブミン]] (glycosylated albumin) - [[血糖]]の状態を反映する糖化蛋白質
** [[着陸復行|ゴーアラウンド]] (go-around)
** [[共同海損]] (general average)
** [[ギャンブラーズ・アノニマス]] (gamblers anonymous)。[[ギャンブル依存症]]を抱える人たちの[[ピアサポート]]グループ。
** [[ギガ]][[アンペア]] (Gigaampere) - [[電流]]の単位
** [[タブン]] (tabun) - [[化学兵器]]。Gは発明国のドイツ (German)、Aは通し符号。
** [[ゼネラル・アビエーション]] (general aviation) - 定期運航を除く民間[[航空]]。<!--グライダー、自家用飛行機/ヘリコプターから航空機使用事業やビジネス機の運航までが含まれる。-->
** [[General Availability]] - [[ソフトウェア開発]]段階の一つ。一般市場に出た状態。
* 地名
** [[ガボン]] (Gabon) の[[ISO 3166-1]][[国名コード]]
** [[ジョージア州]] (Georgia) の郵便符号 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の州
* 企業・団体
** [[ゲームアーツ]] (Game Arts) - コンピュータゲーム制作会社
** [[ガルーダ・インドネシア航空]] (Garuda Indonesia) の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]
** [[ゼネラル・アトミックス]] (General Atomics) - アメリカ合衆国の[[原子力]]機器製造会社。
*** [[ジェネラル・アトミックス・エアロノーティカル・システムズ]] (General Atomics Aeronautical Systems) - アメリカ合衆国の[[無人航空機]]製造会社。
** [[ガーディアン・エンジェルス]] (Guardian Angels) - 犯罪防止パトロールボランティアをおこなう国際NPO
* 作品
** [[ギャラクシーエンジェル]] (Galaxy Angel) - アニメ・漫画・ゲーム作品。G.A.、G☆A。
*** [[水野良Produce りょーことゆーなの G☆A☆|Broccoli The Night 水野良 produce りょーことゆーなの G☆A☆]] - ラジオ番組。「ギャラクシーエンジェル」と連動。
** [[GA 芸術科アートデザインクラス]]<!--本作中に登場するクラスの「GA」は「芸術科Aクラス」であり、「アートデザイン」のAではないとされている。--> - 漫画・アニメ。
** [[グレイズ・アナトミー 恋の解剖学]] (Grey's Anatomy) - アメリカのテレビドラマ
* 自動車またはそれに関連する人物、事象
** [[ホンダ・シティ]]の形式名の一つ。
** [[トヨタ・スープラ]]の形式名の一つ、GA70。
** [[TNGA]](トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)の「グローバル・アーキテクチャ」の意味を示す略語。例:GA-C([[Cセグメント]]用)
** [[日産・GAエンジン]]
** [[ジャンニ・アニェッリ]] (Gianni Agnelli) - [[フィアット]]元会長
** [[フェラーリ・F2003-GA]] - [[スクーデリア・フェラーリ]]の[[フォーミュラカー]]。GAは上記アニェッリにちなむ。
** [[ダイハツチャレンジカップ]]における、[[登録車]]クラス。
*書籍
** [[GA JAPAN]] - [[A.D.A.EDITA Tokyo]]の建築専門誌、およびGA(グローバル・アーキテクチャー)シリーズ。
** [[GA文庫]] - [[SBクリエイティブ]]の[[ライトノベル]]レーベル。
**[[GAノベル]] - SBクリエイティブの[[ライトノベル]]レーベル。GA文庫のサブレーベル。
** [[GAコミックス]] - [[Bbmfマガジン]]の[[漫画]]レーベル。Bbmfマガジンの旧社名・グリーンアロー出版社に由来。
** [[月刊ガンダムエース]] - [[角川書店]]のガンダム関連専門マンガ誌。GA(GundamA)。
* その他固有名詞
** [[グリーン車|グリーンアテンダント]] (Green Attendant) - [[グリーン車]]の車内にて、物品販売や車内サービスなどを行う客室乗務員。
** [[一般アメリカ英語]] (General American) - [[アメリカ英語]]の主要方言
** [[ガールズ・アラウド]] (Girls Aloud) - イギリスの歌手グループ。
** [[Google Analytics]] - [[Google]]の提供するサービスの1つ。
** グローバル・アーマメンツ (Global Armaments) - [[アーマード・コア4]]、[[アーマード・コア フォーアンサー]]に登場する架空の企業。
** ゲームアテンダント(Game Attendant) - [[MILU]]オンラインにて、ゲーム運営スタッフが用いるアバター。イベントの主催やメンバーからの相談を受ける等を行う。
== Ga ==
* [[ガリウム]] (galium) の[[元素記号]]
* [[ギガ|十億]][[年]] (Gigaannum) - 主に[[地質学]]で使われる[[時間]]の単位
* [[ガ語]] (Ga language) - {{ill2|クワ語群|en|Kwa languages}}に属する言語
* {{仮リンク|群スキーム|label=加法群|en|Group scheme}} {{math|'''G'''{{sub|a}}}}
== ga ==
* [[.ga]] - ガボンの[[国名コードトップレベルドメイン]]
* [[アイルランド語]] (Gaeilge) の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]]
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ホール効果
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ホール効果(ホールこうか、英: Hall effect)とは、電流の流れているものに対し、電流に垂直に磁場をかけると、電流と磁場の両方に直交する方向に起電力が現れる現象。主に半導体素子で応用される。1879年、米国の物理学者エドウィン・ホール(英: Edwin Herbert Hall, 1855-1938)によって発見されたことから、このように呼ばれる。
p型またはn型の半導体試料において、x方向に電流を流し、z方向に磁場をかける。この時試料を流れている荷電粒子(キャリア)は磁場によるローレンツ力を受けてy方向に加速される。これによって、試料の表面にキャリアがたまり、電流と磁場の両方に直交する方向に電場(ホール電場)が生じ、起電力が発生する。ホール効果はホール素子による磁場の検出のほか、半導体の電気的特性の測定に応用される。ホール電圧の符号と大きさから半導体のキャリアの種類と密度がわかる。また、金属は半導体に比べキャリア密度が大きく、ホール電圧が微小な値となるため、この現象を利用した物性測定は半導体が主である。
しかしながら、強磁性金属など磁化を帯びた物質中では、この磁化に起因するホール電圧が生じることもある。このような強磁性体の磁化に起因するホール効果を特に異常ホール効果と呼ぶ。また物質中のスピン軌道相互作用に起因してそれぞれ逆向きのスピンを有するキャリアが逆方向へと散乱されるスピンホール効果も近年注目を集めている。
試料に図のようにx方向に電流を流しながら、 これと垂直な z方向に磁場を加えると、 磁場中を動くキャリアはローレンツ力を受ける。
キャリアの電荷を q 、速度を v とすると ローレンツ力 F L {\displaystyle {\boldsymbol {F}}_{\mathrm {L} }} は
となる。試料内に電流が流れている場合、キャリアは平均して一定の速度でx方向に進むようになるため,平均してy方向に
という力を受け加速する。
すると、正孔が多数キャリアである場合(p型半導体)、面Bに正孔が溜まり、正に帯電する。逆に面Aは正孔不足となり負に帯電する。
また、電子が多数キャリアである場合(n型半導体)、面Bに電子が溜まり、負に帯電する。逆に面Aは電子不足となり正に帯電する。
したがって、y方向に電場 Ey が発生する。この電場 Ey をHall電場という。
キャリアがy方向の電場成分から受ける力 q E y {\displaystyle qE_{y}} とローレンツ力 ⟨ F L ⟩ {\displaystyle \left\langle F_{\mathrm {L} }\right\rangle } のy成分とが打ち消し合い、平衡状態となる。
その時、Hall電場 Ey は
で決まる。
キャリアが一種類の場合、x方向の電流密度 jx は、n をキャリア密度とすると
と書ける。
この式と(1)式から q ⟨ v x ⟩ {\displaystyle q\left\langle v_{x}\right\rangle } を消去すると
となり、 R H = E y / j x B z {\displaystyle R_{\mathrm {H} }=E_{y}/j_{x}B_{z}} をホール係数 (Hall coefficient)という。
Hall係数を測定することにより、キャリアの種類と密度が決定できる。
また、電流 Ix は,試料の厚さを t、幅を b とすれば
である。
したがって、A面を基準にしたB面の電位(Hall電圧 VH )は(2)、(3)式から
で与えられる。
一般にキャリア密度をn、キャリアの電荷をeとして
の関係がある。ここで rH はホール因子(ホール散乱因子)と呼ばれる。
電流方向の電場を Ej として、
をホール角(英: Hall angle)と呼ぶ。
また、電気伝導度σとホール係数Rの積
をホール移動度(英: Hall mobility)と呼ぶ。ここでμはドリフト移動度である。
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ホール効果とは、電流の流れているものに対し、電流に垂直に磁場をかけると、電流と磁場の両方に直交する方向に起電力が現れる現象。主に半導体素子で応用される。1879年、米国の物理学者エドウィン・ホールによって発見されたことから、このように呼ばれる。
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'''ホール効果'''(ホールこうか、{{lang-en-short|Hall effect}})とは、[[電流]]の流れているものに対し、電流に垂直に[[磁場]]をかけると、電流と磁場の両方に直交する方向に[[起電力]]が現れる現象。主に[[半導体素子]]で応用される。1879年、米国の物理学者[[エドウィン・ホール]]({{lang-en-short|Edwin Herbert Hall}}, 1855-1938)によって発見されたことから、このように呼ばれる。
==概要==
[[ファイル:Hall effect.png|thumb|240px|ホール効果 青い丸は電子の流れ ([[電流]]の流れている向きとは逆). <br />'''番号''': <br />1. 電子 ([[電流]]の流れている向きとは逆!) <br />2. ホール素子 <br />3. 磁石 <br />4. 磁場 <br />5. 電源<br />'''解説''':<br />図AでN型ホール素子の場合、下部はイオン化したドナーにより正に帯電する(P型の場合は、イオン化したアクセプタにより負に帯電する)。 図B、図Cはそれぞれ電流の向き、または磁場の向きが図Aとは逆になっており、帯電の極性が逆転する。 図Dでは電流の向きと磁場の向きの両方が図Aとは逆であり、図Aと同じ向きに帯電する。]]
p型またはn型の[[半導体]]試料において、x方向に[[電流]]を流し、z方向に[[磁場]]をかける。この時試料を流れている荷電粒子([[半導体#半導体の型|キャリア]])は[[磁場]]による[[ローレンツ力]]を受けてy方向に加速される。これによって、試料の表面にキャリアがたまり、電流と磁場の両方に直交する方向に電場('''ホール電場''')が生じ、起電力が発生する。ホール効果は[[ホール素子]]による磁場の検出のほか、[[半導体]]の電気的特性の測定に応用される。ホール電圧の符号と大きさから[[半導体]]のキャリアの種類と密度がわかる。また、金属は[[半導体]]に比べキャリア密度が大きく、ホール電圧が微小な値となるため、この現象を利用した物性測定は[[半導体]]が主である。
しかしながら、[[強磁性]]金属など磁化を帯びた物質中では、この磁化に起因するホール電圧が生じることもある。このような[[強磁性体]]の磁化に起因するホール効果を特に異常ホール効果と呼ぶ。また物質中のスピン軌道相互作用に起因してそれぞれ逆向きのスピンを有するキャリアが逆方向へと散乱されるスピンホール効果も近年注目を集めている。
==関係式==
[[File:Halleffect.png|400px|thumb]]
試料に図のようにx方向に電流を流しながら、
これと垂直な z方向に磁場を加えると、
磁場中を動く[[電荷担体|キャリア]]は[[ローレンツ力]]を受ける。
[[電荷担体|キャリア]]の電荷を {{mvar|q}} 、速度を {{mvar|v}} とすると
[[ローレンツ力]] <math>\boldsymbol{F}_{\mathrm{L}}</math> は
:<math>\boldsymbol{F}_{\mathrm{L}}=q(\boldsymbol{\mathit{v}}\times\boldsymbol{\mathit{B}})</math>
となる。試料内に電流が流れている場合、[[電荷担体|キャリア]]は平均して一定の速度でx方向に進むようになるため,平均してy方向に
:<math>\left\langle F_{\mathrm{L}} \right\rangle=-q\left\langle v_x \right\rangle B_z</math>
という力を受け加速する。
すると、[[正孔]]が多数[[電荷担体|キャリア]]である場合(p型半導体)、面Bに[[正孔]]が溜まり、正に帯電する。逆に面Aは[[正孔]]不足となり負に帯電する。
また、電子が多数[[電荷担体|キャリア]]である場合(n型半導体)、面Bに[[電子]]が溜まり、負に帯電する。逆に面Aは[[電子]]不足となり正に帯電する。
したがって、y方向に電場 {{math|''E''{{sub|''y''}}}} が発生する。この電場 {{math|''E''{{sub|''y''}}}} をHall電場という。
[[電荷担体|キャリア]]がy方向の電場成分から受ける力 <math>qE_y</math> とローレンツ力 <math>\left\langle F_{\mathrm{L}} \right\rangle</math> のy成分とが打ち消し合い、平衡状態となる。
その時、Hall電場 {{math|''E''{{sub|''y''}}}} は
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で決まる。
[[電荷担体|キャリア]]が一種類の場合、x方向の[[電流密度]] {{math|''j''{{sub|''x''}}}} は、{{mvar|n}} をキャリア密度とすると
:<math>j_x=nq\left\langle v_x \right\rangle</math>
と書ける。
この式と{{EquationNote|1|(1)}}式から <math>q\left\langle v_x \right\rangle</math> を消去すると
{{NumBlk|:|<math>\frac{E_y}{j_xB_z}=\frac{1}{nq}</math>|{{EquationRef|2}}}}
となり、 <math>R_{\mathrm{H}}=E_y/j_xB_z</math> を'''ホール係数''' ({{Lang|en|Hall coefficient}})という。
Hall係数を測定することにより、[[電荷担体|キャリア]]の種類と密度が決定できる。
また、電流 {{math|''I''{{sub|''x''}}}} は,試料の厚さを {{mvar|t}}、幅を {{mvar|b}} とすれば
{{NumBlk|:|<math>I_x=j_xbt</math>|{{EquationRef|3}}}}
である。
したがって、A面を基準にしたB面の電位(Hall電圧 {{math|''V''{{sub|H}}}} )は{{EquationNote|2|(2)}}、{{EquationNote|3|(3)}}式から
:<math>V_{\mathrm{H}}=E_yb=\frac{1}{nq}\frac{I_xB_z}{t}=R_{\mathrm{H}} \frac{I_xB_z}{t}</math>
で与えられる。
一般にキャリア密度をn、キャリアの電荷をeとして
:<math>|R_{\mathrm{H}}|=\frac{r_{\mathrm{H}}}{ne}</math>
の関係がある。ここで ''r''{{sub|H}} はホール因子(ホール散乱因子)と呼ばれる。
電流方向の電場を ''E{{sub|j}}'' として、
:<math>\theta_{\mathrm{H}}=\frac{E_{\mathrm{H}}}{E_j}</math>
を'''ホール角'''({{lang-en-short|Hall angle}})と呼ぶ。
また、電気伝導度''σ''とホール係数''R''の積
:<math>\mu_{\mathrm{H}}=|R_{\mathrm{H}}|\sigma=\mu r_{\mathrm{H}}</math>
を'''ホール移動度'''({{lang-en-short|Hall mobility}})と呼ぶ。ここで''μ''は[[電子移動度|ドリフト移動度]]である。
==関連項目==
* [[量子ホール効果]]
* [[半導体]]-[[ホール素子]]
* [[半導体#半導体の型|キャリア]]-[[伝導電子]]
* [[ローレンツ力]]
* [[コンデンサ]]
* [[渦電流]]
* [[電気素量]]
* {{仮リンク|エリック・フォーセット|en|Eric Fawcett}}
* [[ホールスラスタ]]
* [[ホール プローブ]]
* [[ネルンスト効果]]
* {{仮リンク|エッティングハウゼン効果|en|Ettingshausen effect}}
* [[スピンホール効果]]
* {{仮リンク|熱ホール効果|en|Thermal Hall effect}}
* [[トランスデューサー]]
* {{仮リンク|ヴァン・デル・パウ法|en|Van der Pauw method}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=黒沢達美|date=2002-02-25|title=物性論―固体を中心とした|publisher=[[裳華房]]|id={{全国書誌番号|20259239}}|asin=4785321385|oclc=675078462|isbn=4785321385}}
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T.M.Revolution
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T.M.Revolution(ティー・エム・レボリューション)は、西川貴教のソロプロジェクト。略称はT.M.R.、TMなど。浅倉大介が1995年にリリースしたソロ・シングル「BLACK OR WHITE?」のゲスト・ヴォーカルに西川を起用したことがきっかけとなりプロジェクトが発足。代表作品にミリオンセラーとなったシングル「WHITE BREATH」(1997年)、アルバム「triple joker」(1998年)など多数。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携はパーフィットプロダクション。所属レコードレーベルはソニー・ミュージックレーベルズ内のエピックレコードジャパン。
"Takanori Makes Revolution"(貴教が革命を起こす)の頭文字を取ったものである。西川貴教 一個人の名義ではなく、プロデューサー(浅倉大介)や関係者、また全てのファンも一緒に歩んでいく、という意味が込められたプロジェクトの名称である。
なお、この名称は浅倉大介がサポートメンバーを務めていたTM NETWORKに由来していると推測されるが、浅倉は著書の中で「似ていることには後で気がついた」と述べている。一方、浅倉はテレビやラジオ等で小室哲哉に「TMの名前を使わせてもらいます」と直接電話したことを語っている。
the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D
T.M.Revolution ×水樹奈々
水樹奈々× T.M.Revolution
T.M.Revolution|SCANDAL
the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D
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] |
T.M.Revolution(ティー・エム・レボリューション)は、西川貴教のソロプロジェクト。略称はT.M.R.、TMなど。浅倉大介が1995年にリリースしたソロ・シングル「BLACK OR WHITE?」のゲスト・ヴォーカルに西川を起用したことがきっかけとなりプロジェクトが発足。代表作品にミリオンセラーとなったシングル「WHITE BREATH」(1997年)、アルバム「triple joker」(1998年)など多数。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携はパーフィットプロダクション。所属レコードレーベルはソニー・ミュージックレーベルズ内のエピックレコードジャパン。
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{{出典の明記|date=2020年10月}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
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| 別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。愛称や略称ではありません。 -->
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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
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| genre = 音楽
| subscribers = 25万人
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| channel_display_name = T.M.Revolution<br/>Official YouTube Channel
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'''T.M.Revolution'''(ティー・エム・レボリューション)は、[[西川貴教]]の[[一人バンド|ソロプロジェクト]]。略称は'''T.M.R.'''、'''TM'''など。[[浅倉大介]]が[[1995年]]にリリースしたソロ・シングル「[[BLACK OR WHITE?]]」のゲスト・ヴォーカルに西川を起用したことがきっかけとなりプロジェクトが発足。代表作品にミリオンセラーとなったシングル「[[WHITE BREATH]]」([[1997年]])、アルバム「[[triple joker]]」([[1998年]])など多数。所属事務所はディーゼルコーポレーションで業務提携は[[パーフィットプロダクション]]。所属[[レコードレーベル]]は[[ソニー・ミュージックレーベルズ]]内の[[エピックレコードジャパン]]。
== 名前の由来 ==
"'''T'''akanori '''M'''akes '''R'''evolution"(貴教が革命を起こす)の頭文字を取ったものである。西川貴教 一個人の名義ではなく、プロデューサー(浅倉大介)や関係者、また全てのファンも一緒に歩んでいく、という意味が込められたプロジェクトの名称である。
なお、この名称は浅倉大介がサポートメンバーを務めていた[[TM NETWORK]]に由来していると推測されるが、浅倉は著書の中で「似ていることには後で気がついた」と述べている。一方、浅倉はテレビやラジオ等で[[小室哲哉]]に「TMの名前を使わせてもらいます」と直接電話したことを語っている。
== 来歴 ==
{{年譜のみの経歴|date=2022年8月}}
=== デビューまでの経緯 ===
* [[1995年]]
** 1月1日、[[浅倉大介]]と[[貴水博之]]によるユニット[[access (音楽ユニット)|access]]が活動休止。
** 3月6日、[[日本放送協会|NHK]]「[[ポップジャム]]」公開収録において浅倉、貴水がソロ活動を発表。浅倉は他アーティストのプロデュースを含むソロ活動を開始する。この頃、ヘアメイクを担当する美容院SMOKERの美容師・[[横原義雄]]が、浅倉のシングルに参加するボーカリストの一人として、西川を紹介する。西川は[[1991年]]にバンド[[Luis-Mary]]のボーカルとしてデビューするが、売り上げの不振や[[音楽性の違い]]などにより[[1993年]]に脱退していた。
** 5月25日、「浅倉大介 expd. 西川貴教」名義でリリースされたシングル「[[BLACK OR WHITE?]]」に、ゲストボーカリストとして西川が参加。オリコンベスト20入りを果たす。
** 7月18日〜9月5日にかけて行われた、浅倉大介・[[葛城哲哉]]・[[木根尚登]]によるライブイベント「What Jam?」に西川がゲスト出演。前出の「BLACK OR WHITE?」や[[TM NETWORK]]、[[Access (音楽ユニット)|access]]の楽曲を歌った。以後、浅倉大介トータル・プロデュースによるソロ・プロジェクト「T.M.Revolution」が始動した。
** なお、西川と浅倉はプロジェクト発足に際して3つの約束を結んだとされる。この約束は、デビューより2年8ヶ月後に達成される。
**# シングルで[[オリコンチャート]]1位を獲得する<BR />1997年10月、6thシングル「WHITE BREATH」にて達成。
**# アルバムでミリオンセラーを達成する<BR />1998年2月、3rdアルバム『triple joker』にて達成。
**# (国内で最大規模の屋内コンサート会場である)[[東京ドーム]]でライブを行なう<BR />1999年3月、「T.M.R.LIVE REVOLUTION'99 -THE FORCE-」にて達成。
** 12月、西川貴教公式ファンクラブ「turbo」が開設される。2006年の[[abingdon boys school]]デビューまでは西川の活動がほとんどT.M.R.でのものに限定されており、turboもT.M.R.のファンクラブと同等のものとなっていた。
=== デビューから"封印"まで ===
* [[1996年]]
** 5月13日、1stシングル「独裁 -monopolize-」を[[アンティノスレコード]]よりリリース、CDデビューを果たした。
** 7月15日、2ndシングル「臍淑女 -ヴィーナス-」をリリース。
** 8月12日、1stアルバム『MAKES REVOLUTION』をリリース。
** 11月11日、3rdシングル「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」をリリース。オリコン最高位は16位であったがアニメ「[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]」エンディングテーマに起用されたことなどから46週チャートイン・36万枚のロングセールスを記録し、多数の音楽番組に出演するきっかけを作る。
* [[1997年]]
** 1月6日、以後8年半に及ぶライフワークとなるラジオ番組「[[西川貴教のオールナイトニッポン]]」が始まる。
** 2月21日、2ndアルバム『restoration LEVEL→3』をリリース。
** 4月21日、4thシングル「LEVEL 4」をリリース。こちらも最高位18位だったものの、前作を超える42万枚のロングセールスを記録。
** 7月1日、5thシングル「HIGH PRESSURE」をリリース。初のオリコンベスト10入り(4位)を果たし、78万枚の大ヒットに。
** 10月22日、6thシングル「WHITE BREATH」をリリース。初のオリコンシングルチャート1位を獲得し、[[ミリオンセラー]](約103万枚)を記録した。1つ目の約束を達成。
** 12月31日、「WHITE BREATH」で[[第48回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]に初出場した。
* [[1998年]]
** 1月21日、3rdアルバム『triple joker』をリリース。ミリオンセラー(約165万枚)を記録、最大のヒットに。2つ目の約束を達成。
** 2月25日、7thシングル「蒼い霹靂〜JOG edit〜」をリリース。
** 6月24日、8thシングル「HOT LIMIT」をリリース。2作目のオリコンシングルチャート1位を獲得。71万枚の大ヒットに。
** 10月7日、9thシングル「THUNDERBIRD」をリリース。50万枚のヒット。
** 10月28日、10thシングル「Burnin' X'mas」をリリース。49万枚のヒット。
** 12月31日、「THUNDERBIRD」で[[第49回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]に2年連続で出場した。
* [[1999年]]
** 2月3日、11thシングル「WILD RUSH」をリリース。33万枚のヒット。
** 3月10日、4thアルバム『THE FORCE』をリリース。
** 3月17日・18日、東京ドームで2daysライブを行い、前述の3つの約束を全て果たした。
*** 18日のライブ直後にT.M.Revolutionは、その活動を"封印"すると発表した。
=== the end of genesis T.M.R. evolution turbo type Dとしての活動 ===
* [[1999年]]
** 前述の通り春でT.M.Revolutionの活動を封印し、「'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D'''(ジ・エンド・オブ・ジェネシス・ティー・エム・アール・エボリューション・ターボ・タイプ・ディー、略称:T.M.R-e)」名義でトータルプロデューサーの浅倉大介とともにユニットとして活動することとなった。この長い名前は、「the end of genesis」が「創世記の終わり」、「T.M.R. evolution」が「T.M.R.を進化させる」、「turbo」が西川の愛称ター坊、「type D」が浅倉大介のイニシャルを表している。
** 6月21日、T.M.R-eとして初の作品となるシングル「陽炎-KAGEROH-」をリリース。15万枚の限定生産やメディア露出に関しての自主制限等、これまでの活動から変化を加え始める。
** 9月22日、2ndシングル「月虹-GEKKOH-」をリリース。
** 11月17日、3rdシングル「雪幻-winter dust-」をリリース。
* [[2000年]]
** 2月2日、T.M.R-eとしての一連のリリースの締めくくりとして、アルバム『Suite Season』をリリース。
** アリーナツアーを敢行。ミュージカル「リトルショップオブホラーズ」、[[TBSテレビ|TBS]]ドラマ『[[ビューティフルライフ]]』へ出演した。
** 3月のライブにて「T.M.Revolutionの封印解除」を宣言。これによりT.M.R-eはその使命を終え、以後T.M.R.としての活動を再開する。
=== T.M.Revolution 再始動 ===
* [[2000年]]
** 4月19日、12thシングル「BLACK OR WHITE? version3」をリリース。「浅倉大介expd.西川貴教」名義でリリースされた同名曲をリアレンジ。西川はこれを「T.M.R-eからT.M.R.への橋渡し」としており、「HEAT CAPACITY」が本当のT.M.R.再開を意味するシングルとしている。
** 5月24日、13thシングル「HEAT CAPACITY」をリリース。
** 8月、夏の野外ライブ「SUMMER CRUSH」を[[横浜スタジアム]]・[[大阪]]WTCオープンエアステージなどで開催し数万人を動員。2002年にも会場を変え再び開催される。
** 9月6日、14thシングル「魔弾 〜Der Freischütz〜/LOVE SAVER」をリリース。
** 10月12日、5thアルバム『progress』をリリース。
* [[2001年]]
** 2月7日、15thシングル「BOARDING」をリリース。浅倉大介プロデュース最後のシングルとなる。
* [[2002年]]
** 2月20日、16thシングル「Out Of Orbit 〜Triple ZERO〜」をリリース。このシングル以降は西川自身のセルフプロデュースとなる。
** 3月6日、初のベストアルバム『B★E★S★T』をリリース。
** 10月30日、17thシングル「INVOKE」をリリース。3年半ぶりのTOP3入り(2位)、24万枚のヒット。
* [[2003年]]
** 3月26日、6thアルバム『coordinate』をリリース。レーベル移籍前の最後のリリースとなる。
** 8月、デビュー時より所属していた[[アンティノスレコード]]から[[エピックレコードジャパン]]へ移籍(アンティノスレコードは2002年にエピックレコードジャパンに吸収合併され同社の一レーベルとなり、2004年に運営終了)。なお、移籍後初のリリースは11月のDVD『SONIC WARP the Visual Fields』。
** 12月、[[日本]]の男性ソロアーティストとしては初めての試みである、男性限定ライブを[[渋谷]]クラブクアトロで決行。以後、この男性限定ライブは毎年恒例となった。
* [[2004年]]
** 2月25日、18thシングル「Albireo -アルビレオ-」をリリース。移籍後初のシングル。2作連続1位、17万枚のヒットを記録。
** 3月17日、7thアルバム『SEVENTH HEAVEN』をリリース。
** 7月28日、19thシングル「Web of Night」をリリース。
** 11月3日、20thシングル「ignited -イグナイテッド-」をリリース。「HOT LIMIT」以来、6年ぶり、3作目のオリコンシングルチャート1位を獲得。また、同チャート史上900作目の1位獲得作品となった。19万枚のヒット。
* [[2005年]]
** 1月26日、8thアルバム『vertical infinity』をリリース。
** 2005年から2006年末まで、T.M.Revolutionデビュー10周年として、様々な活動が行われた。
*** 『西川貴教のオールナイトニッポン』プロデュースで、T.M.Revolutionの歴代の衣装を着た[[ハローキティ]]との[[コラボレーション]]作品が全国の[[東急ハンズ]]・[[ファミリーマート]]で販売された。
*** 8月17日、21stシングル「vestige -ヴェスティージ-」をリリース。4作目のオリコンシングルチャート1位を獲得。[[新宿]]ステーションスクエアにて初のゲリラライブを決行。
** 12月31日、「WHITE BREATH」で7年ぶり3度目の[[第56回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]出場を果たした。
* [[2006年]]
** 1月1日、リクエストセルフカバーベストアルバム『UNDER:COVER』をリリース。ファンからのリクエストを元に人気の高い曲をライブ風のリアレンジにて再収録。
** デビュー記念日である5月13日には[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]にて記念パレードを行った。
** 6月7日、ベストアルバム『1000000000000』をリリース。2作目のオリコンアルバムチャート1位を獲得。6月21日にはシングル22曲に加え、「Meteor -ミーティア-」「Zips」のPVを収録した同名ベストDVDも発売された。
** 8月に8年振りの[[日本武道館]]、及び[[大阪城ホール]]でのライブが実現した。
** 西川の誕生日である9月19日には再びユニバーサル・スタジオ・ジャパンで、[[ピーターパン]]のネバーランドとのコラボライブ「T.M.Revolution Special Day in Universal Studio Japan」を行った。
** 11月9日より東京・大阪・名古屋・仙台・福岡の5都市を巡る衣装展「TIME SLICE DECADE」を開催。
** この年の年末恒例のファンクラブ会員限定ライブは過去最多の全10公演を敢行した。
* [[2008年]]
** 4月のニューヨークライブに次ぎ、5月3日・4日に行われた[[hide]]追悼ライブイベント「[[hide memorial summit]]」にも参加。イベント初日のアクトとして出演したほか、2日目には出演者によるセッションである無敵BANDのボーカルの一員としてサプライズで出演した。
** 6月11日、2年10か月ぶりとなる22ndシングル「resonance」をリリース。
** 9月からは約2年ぶりの全国ツアーも開催された。
* [[2009年]]
** 3月25日、1stシングルから11thシングルまで(発売当時8cmシングルCDだったもの)のBlu-spec盤マキシシングル仕様及びイヤカンライブなどのフォトブック、レア映像を収録したDVDなどを集めたボックスセット『[[T.M.REVOLUTION SINGLE COLLECTION 96-99 -GENESIS-]]』をリリース。
** 9月4日、2006年6月7日にリリースしたベスト盤『1000000000000』のBlu-spec盤を再リリース。
** 9月19・20日の2日間に「イナズマロックフェス2009」が西川の地元である滋賀県草津市の烏丸半島芝生広場で開催された。このロックイベントを企画したのは西川自身で、西川の滋賀県観光大使としての活動でもあった。
* [[2010年]]
** 3月3日、配信限定シングル「Lakers」をリリース。
** 3月24日、『機動戦士ガンダムSEED』のタイアップ曲を収録したミニアルバム『X42S-REVOLUTION』をリリース。
** 5月13日、2011年に迎えるT.M.Revolutionデビュー15周年を記念して特設サイトが開設され、同時に西川による公式[[Twitter]]が開始される。
** 8月11日、2年2か月振りとなる23rdシングル「Naked arms/SWORD SUMMIT」をリリース。両A面シングルは2000年の「魔弾 〜Der Freischütz〜/LOVE SAVER」以来9年11か月振り。
** 9月18日・19日の2日間に「イナズマロックフェス2010」を昨年に引き続き開催。19日のステージでシークレットゲストとして浅倉大介が出演し、新曲「Pearl in the shell」と「SWORD SUMMIT」を共に披露した。西川と浅倉が共演したのは2000年以来10年ぶりのことである。
** 12月1日、24thシングル「Save The One, Save The All」をリリース。
* [[2011年]]
** 4月20日、6年ぶりとなる9thアルバム『CLOUD NINE』をリリース。
** 5月13日、[[サンリオピューロランド]]で、T.M.R.15th × Sanrio Puroland 20th Collaboration Event 「Thousands Morning Refrain ~僕らの夜明け~」と題したスペシャルイベントを開催。<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/87694/full/ T.M.Revolution、15周年記念イベントに5千人が集結]([[オリコン]]、2011年5月14日)</ref>
** 6月24日、25thシングル「FLAGS」をリリース。
** 8月28日、[[Animelo Summer Live]] 2011-rainbow-にシークレットゲストとして初参加。
** 11月16日、『戦国BASARA』のタイアップ曲を収録した2作目のミニアルバム『宴 -UTAGE-』をリリース。
* [[2013年]]
** 2月27日、15周年記念としてリクエストセルフカバーベストアルバムの第2弾『UNDER:COVER 2』をリリース。
** 5月15日、[[水樹奈々]]とのコラボレーションシングル「[[Preserved Roses]]」を'''T.M.Revolution×水樹奈々'''名義でリリース。
** 8月7日、配信限定シングル「Summer Blizzard」をリリース。
** 10月23日、水樹奈々とのコラボレーションシングル「[[革命デュアリズム]]」を'''水樹奈々×T.M.Revolution'''名義でリリース。
** 11月6日、配信限定シングル「HEAVEN ONLY KNOWS 〜Get the Power〜」をリリース。
** 12月30日、「Preserved Roses」「革命デュアリズム」で[[第55回日本レコード大賞]]企画賞を水樹奈々とともに受賞。
** 12月31日、水樹奈々とともに8年ぶり4度目の[[第64回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]出場。
* [[2014年]]
** 2月12日、[[SCANDAL (日本のバンド)|SCANDAL]]とのスプリットシングル「Count ZERO|Runners high」を'''T.M.Revolution|SCANDAL'''名義でリリース。
** 8月6日、26thシングル「突キ破レル -Time to SMASH!」をリリース。
** 9月3日、27thシングル「Phantom Pain」をリリース。
** 12月31日、水樹奈々とともに2年連続、5度目の[[第65回NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]出場。
* [[2015年]]
** 5月13日、10thアルバム「天」をリリース。東京・名古屋・大阪でリリース記念ハイタッチ会「GIVE ME TENN!!」を開催。
** 8月5日、28thシングル「DOUBLE-DEAL」をリリース。
** 12月16日、配信限定シングル「Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース- (Game Edit)」をリリース。
=== デビュー20周年 ===
* [[2016年]]
** 4月6日、29thシングル「[[Committed RED/Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-]]」をリリース。
** 5月11日、ベスト・アルバム「[[2020 -T.M.Revolution ALL TIME BEST-]]」をリリース。3rdアルバム「triple joker」(1998年)、ベスト・アルバム「1000000000」(2006年)に続きオリコン1位を記録。1990年代から2010年代までの3つの年代で首位獲得を果たした<ref>[https://archive.md/20160517152359/http://www.musicman-net.com/artist/57165.html 90年代から“3年代”連続オリコンアルバム首位 20周年記念ベストで達成] - Musicman.net、2016年5月17日。([[archive.today]]のキャッシュ)</ref>。
** 8月31日、30thシングル「[[RAIMEI]]」をリリース。
* [[2017年]]
** 2月19日、2014年10月以来2度目、ホール規模の公演としては初となる、台湾でのライブ「T.M.R. LIVE REVOLUTION'17 -Route 20 ASIA TOUR to Taipei-」を開催<ref>{{Cite news|title=【レポート】T.M.Revolution、台湾単独公演に2,500人が熱狂|date=2017-02-19|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000138523|publisher=BARKS|accessdate=2021-09-03}}</ref>。
** 5月13日・14日、デビュー20周年を記念して、さいたまスーパーアリーナにてライブ「T.M.R. LIVE REVOLUTION'17 -20th Anniversary FINAL-」を2日間にわたって開催。スペシャルゲストとして水樹奈々も登場<ref>{{Cite news|title=【レポート】T.M.Revolution、20周年記念公演に水樹奈々も「70億人の中から僕を見つけてくれて、ありがとう!」|date=2017-05-15|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000142001|publisher=BARKS|accessdate=2021-09-04}}</ref>。
* [[2020年]]
** 10月17日、T.M.R-e時代にリリースしたアルバム『Suite Season』の収録曲を、フルオーケストラアレンジし、オンラインライブで披露した<ref>{{Cite news|title=オンライン公演 京響プレミアム×時の響 ラジオタイムス「the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D」開催決定!|date=2020-08-23|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/takanorinishikawa/info/521244|publisher=SonyMusic|accessdate=2021-12-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=京響プレミアム ラジオタイムス「the end of genesis T.M.R.evolution turbo type D」(コンサートスケジュール)|url=https://www.kyoto-symphony.jp/concert/detail.php?id=993&y=2020&m=10|publisher=kyoto-symphony.jp|accessdate=2021-12-19}}</ref>。
=== デビュー25周年 ===
* [[2021年]]
** 5月13日、デビュー25周年を記念し、2017年のさいたまスーパーアリーナ以来の公演となるT.M.Revolutionとしてのライブを、滋賀県内だけで行われるホールツアー「T.M.R. LIVE REVOLUTION'21 -VOTE-」として開催<ref>{{Cite news|title=デビュー25周年迎えるT.M.Revolution、滋賀県内だけ回る25公演ホールツアー開催|date=2021-03-31|url=https://natalie.mu/music/news/422552|publisher=音楽ナタリー|accessdate=2021-09-03}}</ref>。ツアーにはその後東京、仙台、大阪公演も追加された<ref>{{Cite news|title=「T.M.R. LIVE REVOLUTION’21 – VOTE -」追加公演決定!|date=2021-06-10|url=https://tmrv.net/news/90|publisher=tmrv.net|accessdate=2021-09-04}}</ref>。
** 8月22日、同年9月18日と19日に「イナズマロックフェス 2021」を開催する予定であったが、[[新型コロナウイルス]]の感染拡大状況を鑑み、自治体や行政と協議の末、中止する決断を下した<ref>{{Cite news|title=西川貴教、滋賀県知事との会見で「イナズマロック フェス」中止を発表|date=2021-08-22|url=https://natalie.mu/music/news/441942|publisher=音楽ナタリー|accessdate=2021-09-03}}</ref>。
** 9月2日、ツアー「T.M.R. LIVE REVOLUTION'21 -VOTE-」についても、10月13日以降の18公演は延期することを発表した<ref>[https://megalodon.jp/2021-0903-2339-14/https://www.nikkansports.com:443/entertainment/news/202109020000138.html 西川貴教ツアー延期も「決してスポーツ、文化、芸術は不要ではありません」] - 日刊スポーツ、2021年9月2日。([[ウェブ魚拓]]のキャッシュ</ref>。
** 10月1日、延期公演の振替日を発表した<ref>{{Cite news|title=「T.M.R. LIVE REVOLUTION'21 – VOTE -」延期公演の振替日決定とチケット払い戻しにつきまして|date=2021-10-01|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/TMRevolution/info/533713|publisher=SonyMusic|accessdate=2021-12-19}}</ref>。
* [[2022年]]
** 6月24日、翌年5月までにかけて、全国47都道府県を巡るツアー「T.M.R. LIVE REVOLUTION'22-'23 -VOTE JAPAN-」を開催<ref>{{Cite web|title=TOUR SCHEDULE | T.M.R. LIVE REVOLUTION'22-'23 -VOTE JAPAN-|url=https://tmrv.net/schedule|publisher=DIESEL Corporation|accessdate=2023-11-17}}</ref>。
* [[2023年]]
** 11月17日、ツアー「T.M.R. LIVE REVOLUTION '22-'23 -VOTE JAPAN-」より、同年1月22日に[[日本武道館]]で行われた公演を映像化<ref>{{Cite news|title=T.M.Revolutionの47都道府県ツアー「VOTE JAPAN」から武道館公演を映像化|date=2023-11-17|url=https://natalie.mu/music/news/549495|publisher=音楽ナタリー|accessdate=2023-11-17}}</ref>。
== ディスコグラフィ ==
=== シングル ===
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
!最高位
|-
|1st
|[[1996年]][[5月13日]]<br/>[[2009年]][[3月25日]]<ref group="注釈" name="maxi">リマスタリング+マキシシングル化での再発盤</ref>
|'''[[独裁 -monopolize-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|28位
|-
|2nd
|1996年[[7月15日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[臍淑女 -ヴィーナス-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|35位
|-
|3rd
|1996年[[11月11日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[HEART OF SWORD 〜夜明け前〜]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|16位
|-
|4th
|[[1997年]][[4月21日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[LEVEL 4 (曲)|LEVEL 4]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|18位
|-
|5th
|1997年[[7月1日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[HIGH PRESSURE (曲)|HIGH PRESSURE]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|4位
|-
|6th
|1997年[[10月22日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[WHITE BREATH]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|1位
|-
|7th
|[[1998年]][[2月25日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[蒼い霹靂〜JOG edit〜]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|-
|8th
|1998年[[6月24日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[HOT LIMIT]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|1位
|-
|9th
|1998年[[10月7日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[THUNDERBIRD (T.M.Revolutionの曲)|THUNDERBIRD]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|-
|10th
|1998年[[10月28日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[Burnin' X'mas]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|2位
|-
|11th
|[[1999年]][[2月3日]]<br/>2009年3月25日<ref group="注釈" name="maxi"/>
|'''[[WILD RUSH]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|2位
|-
|12th
|[[2000年]][[4月19日]]
|'''[[BLACK OR WHITE? version 3]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|5位
|-
|13th
|2000年[[5月24日]]
|'''[[HEAT CAPACITY]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|5位
|-
|14th
|2000年[[9月6日]]
|'''[[魔弾 〜Der Freischütz〜/LOVE SAVER]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|8位
|-
|15th
|[[2001年]][[2月7日]]
|'''[[BOARDING]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|5位
|-
|16th
|[[2002年]][[2月20日]]
|'''[[Out Of Orbit -Triple ZERO-|Out Of Orbit 〜Triple ZERO〜]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|6位
|-
|17th
|2002年[[10月30日]]
|'''[[INVOKE]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|2位
|-
|18th
|[[2004年]][[2月25日]]<ref group="注釈" name="CCCD">[[コピーコントロールCD|CCCD]]仕様</ref><br/>[[2005年]][[10月26日]]<ref group="注釈" name="CDDA">[[CD-DA]]仕様での再発盤</ref>
|'''[[Albireo -アルビレオ-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|-
|19th
|2004年[[7月28日]]<ref group="注釈" name="CCCD"/><br/>2005年10月26日<ref group="注釈" name="CDDA"/>
|'''[[Web of Night]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|5位
|-
|20th
|2004年[[11月3日]]
|'''[[ignited -イグナイテッド-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|1位
|-
|21st
|2005年[[8月17日]]
|'''[[vestige -ヴェスティージ-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|1位
|-
|22nd
|[[2008年]][[6月11日]]
|'''[[resonance]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|4位
|-
|23rd
|[[2010年]][[8月11日]]
|'''[[Naked arms/SWORD SUMMIT]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|-
|24th
|2010年[[12月1日]]
|'''[[Save The One, Save The All]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|4位
|-
|25th
|[[2011年]][[6月22日]]
|'''[[FLAGS]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|4位
|-
|26th
|[[2014年]][[8月6日]]
|'''[[突キ破レル -Time to SMASH!]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|8位
|-
|27th
|2014年[[9月3日]]
|'''[[Phantom Pain]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|12位
|-
|28th
|[[2015年]][[8月5日]]
|'''[[DOUBLE-DEAL]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|9位
|-
|29th
|[[2016年]][[4月6日]]
|'''[[Committed RED/Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|10位
|-
|30th
|2016年[[8月31日]]
|'''[[RAIMEI]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|15位
|}
'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
!最高位
|-
|1st
|1999年[[6月23日]]
|'''[[陽炎-KAGEROH-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|-
|2nd
|1999年[[9月22日]]
|'''[[月虹-GEKKOH-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|2位
|-
|3rd
|1999年[[11月17日]]
|'''[[雪幻-winter dust-]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|3位
|}
==== コラボレーション・シングル ====
'''T.M.Revolution ×水樹奈々'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
!最高位
|-
|1st
|[[2013年]][[5月15日]]
|'''[[Preserved Roses]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|2位
|}
'''水樹奈々× T.M.Revolution'''
{| class=wikitable style="font-size:small"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
!最高位
|-
|1st
|2013年[[10月23日]]
|'''[[革命デュアリズム]]'''
|作詞:Hibiki<br />作曲:上松範康<br />編曲:岩橋星実
|2位
|}
==== スプリット・シングル ====
'''T.M.Revolution|SCANDAL'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
!最高位
|-
|1st
|2014年[[2月12日]]
|'''[[Count ZERO/Runners high|Count ZERO|Runners high]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|5位
|}
==== 配信限定シングル ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!楽曲制作
|-
|1st
|2010年[[3月3日]]
|'''[[Lakers]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|-
|2nd
|2013年[[8月7日]]
|'''[[Summer Blizzard]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|-
|3rd
|2013年[[11月6日]]
|'''[[HEAVEN ONLY KNOWS 〜Get the Power〜]]'''
|作詞:井上秋緒<br />作曲:浅倉大介<br />編曲:浅倉大介
|}
=== アルバム ===
==== フル・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|1996年[[8月12日]]<br/>2002年[[7月1日]]<ref group="注釈" name="epic">エピックレコードジャパンからの再発盤</ref>
|'''[[MAKES REVOLUTION]]'''
|20位
|-
|2nd
|1997年[[2月21日]]<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/>
|'''[[restoration LEVEL→3]]'''
|5位
|-
|3rd
|1998年[[1月21日]]<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/>
|'''[[triple joker]]'''
|1位
|-
|4th
|1999年[[3月10日]]<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/>
|'''[[The Force]]'''
|2位
|-
|5th
|2000年[[10月12日]]<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/>
|'''[[progress (T.M.Revolutionのアルバム)|progress]]'''
|3位
|-
|6th
|[[2003年]][[3月26日]]
|'''[[coordinate]]'''
|9位
|-
|7th
|2004年[[3月17日]]<ref group="注釈" name="CCCD"/><br/>2005年7月27日<ref group="注釈" name="CDDA"/>
|'''[[SEVENTH HEAVEN (T.M.Revolutionのアルバム)|SEVENTH HEAVEN]]'''
|6位
|-
|8th
|2005年[[1月26日]]
|'''[[vertical infinity]]'''
|3位
|-
|9th
|2011年[[4月20日]]
|'''[[CLOUD NINE]]'''
|2位
|-
|10th
|2015年[[5月13日]]
|'''[[天 (T.M.Revolutionのアルバム)|天]]'''
|2位
|}
'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2000年[[2月2日]]
|'''[[Suite Season]]'''
|2位
|}
==== ミニ・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2010年[[3月24日]]
|'''[[X42S-REVOLUTION]]'''
|4位
|-
|2nd
|2011年11月16日
|'''[[宴 -UTAGE-]]'''
|2位
|}
==== ベスト・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2002年[[3月6日]]
|'''[[B★E★S★T]]'''
|4位※
|-
|2nd
|[[2006年]][[6月7日]]<br/>2009年[[9月2日]]<ref group="注釈" name="Bluspec">ブルースペックCD仕様での再発盤</ref>
|'''[[1000000000000 (アルバム)|1000000000000]]'''
|1位
|-
|3rd
|2016年[[5月11日]]
|'''[[2020 -T.M.Revolution ALL TIME BEST-]]'''
|1位
|}
==== コンピレーション・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2013年[[10月9日]]
|'''[[GEISHA BOY -ANIME SONG EXPERIENCE-]]'''
|6位
|}
==== リミックス・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2000年[[6月28日]]
|'''[[DISCORdanza Try My Remix 〜Single Collections]]'''
|4位
|}
==== リクエスト・セルフカバー・ベスト・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|2006年[[1月1日]]
|'''[[UNDER:COVER]]'''
|8位
|-
|2nd
|2013年[[2月27日]]
|'''[[UNDER:COVER 2]]'''
|4位
|}
==== ライブ・アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|[[2012年]][[9月12日]]
|'''[[T.M.R. LIVE REVOLUTION'11-12 -CLOUD NINE-]]'''
|7位
|-
|2nd
|[[2018年]][[3月28日]]
|'''[[T.M.R. LIVE REVOLUTION'17 -ROUND HOUSE CUTBACK-]]'''
|22位
|}
==== ボックス・セット ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!最高位
|-
|1st
|[[2009年]][[3月25日]]
|'''[[T.M.REVOLUTION SINGLE COLLECTION 96-99 -GENESIS-]]'''
|35位
|}
==== FC限定アルバム ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
|-
|2014年[[12月24日]]
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION’14<br/>-今まで『今年は単独LIVEはやらねぇ!』的なニュアンスの話をしてたけど、何か急にFC限定でもLIVEやりたくなっちゃって…違う!違う!そうぢゃ…そうぢゃない!<br/>『平日の夜でも、どうせ呼べば来るんだろ?』みたいな、“都合のいいオンナ”的な扱いなわけじゃないよ!ただ、今夜はどうしてもお前が抱きたくなっただけ…’14-'''
|}
==== その他 ====
* [[DAynamite Mix Juice1-you know beat?-]](2000年[[7月19日]])
** 浅倉大介プロデュース楽曲の[[リミックス]]・[[コンピレーション・アルバム]]。T.M.R.から5曲、T.M.R-eから1曲参加。
* [[Lif-e-Motions]](2006年[[2月15日]])
** [[TRF]]の9thアルバム。Disc2『Silver and Gold dance -meets T.M.Revolution-』で参加。
==== CD-ROM ====
# R2:ROMz Revolution(1999年5月21日)
#* 当時のアルバムに収録していた[[CD EXTRA]]の延長上的作品。デビューから東京ドームライブまでのT.M.R.の歴史をドキュメント風に綴っている。ゲーム的要素もある。
=== サウンドトラック ===
* るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-維新激闘編オリジナル・サウンドトラック(1996年[[12月12日]])
* るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-オリジナル・サウンドトラック 3(1997年[[4月21日]])
* るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-ベスト・テーマ・コレクション(1998年[[3月21日]])
* るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-Premium Collection(1999年[[12月18日]])
* るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-COMPLETE CD-BOX(2002年[[9月19日]])
* 機動戦士ガンダムSEED ORIGINAL SOUNDTRACK 3(2003年[[9月21日]])
* 機動戦士ガンダムSEED COMPLETE BEST(期間限定生産)(2003年[[9月26日]])
* 機動戦士ガンダムSEED COMPLETE BEST(通常盤)(2004年[[1月15日]])
* スパイダーマン2 オリジナル・サウンドトラック(2004年[[6月30日]])
* 機動戦士ガンダムSEED ORIGINAL SOUNDTRACK 4(2004年[[12月16日]])
* 機動戦士ガンダムSEED DESTINY ORIGINAL SOUNDTRACK 1(2004年[[12月16日]])
* a-nation'05 BEST HIT SELECTION(2005年[[7月27日]])
* 機動戦士ガンダムSEED DESTINY COMPLETE BEST(2005年[[10月14日]])
* 機動戦士ガンダムSEED DESTINY COMPLETE BEST'(2006年[[5月7日]])
* THE BEST OF SOUL EATER(2009年[[4月22日]])
* 戦国BASARA GAME BEST(2010年[[11月3日]])
* 戦国BASARA ANIME BEST(2010年[[11月3日]])
=== 映像作品 ===
==== VHS ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|1996年9月21日
|'''VIDEO MAKES REVOLUTION'''
|「[[独裁 -monopolize-]]」「[[臍淑女 -ヴィーナス-]]」のMV及びそれらについてのインタビュー映像を収録したMV集。<br/>後にDVD『summarize 1』に、『LIVE REVOLUTION.1 〜MAKES REVOLUTION〜』と共に収録。
|-
|1996年12月1日
|'''LIVE REVOLUTION.1<br/>〜MAKES REVOLUTION〜'''
|96年に行われたライブより、[[LIQUIDROOM|新宿LIQUIDROOM]]・[[赤坂BLITZ]]・[[中野サンプラザ]]での公演から9曲、そしてインタビュー映像などを収録したライブ映像集。<br/>後にDVD『summarize 1』に、『VIDEO MAKES REVOLUTION』と共に収録。
|-
|1997年5月21日
|'''VIDEO 維新 LEVEL→3'''
|「[[HEART OF SWORD 〜夜明け前〜]]」「[[LEVEL 4 (曲)|LEVEL 4]]」のMV及びそれらについてのインタビュー映像を収録したMV集。<br/>後にDVD『summarize 2』に、『LIVE REVOLUTION.2 〜維新 LEVEL→3〜』と共に収録。
|-
|1997年8月1日'''
|'''LIVE REVOLUTION.2<br/>〜維新 LEVEL→3〜'''
|97年4月に[[東京ベイNKホール]]にて行われたライブより11曲、そしてオフショット映像などを収録したライブ映像集。<br/>後にDVD『summarize 2』に、『VIDEO維新 LEVEL→3』と共に収録。
|-
|1998年3月1日
|'''Video triple joker'''
|「[[HIGH PRESSURE (曲)|HIGH PRESSURE]]」「[[WHITE BREATH]]」「[[蒼い霹靂〜JOG edit〜]]」のMV及びそれらのTVスポット、メイキング映像を収録したMV集。<br/>後にDVD『summarize 3』に、『LIVE REVOLUTION.3 〜KING OF JOKER〜』と共に収録。
|-
|1998年7月18日
|'''LIVE REVOLUTION.3<br/>〜KING OF JOKER〜'''
|98年3月に行われた、T.M.R初の[[日本武道館]]での公演より「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」とアンコール3曲を除いた全12曲と、オフショット映像などを収録したライブ映像集。<br/>後にDVD『summarize 3』に、『Video triple joker』と共に収録。
|-
|1998年12月2日
|'''T.M.R.X'mas Party Box'''
|「[[Burnin' X'mas]]」のMVと特典映像を収録したVHS、そしてグッズ入りのボックスセット。
|-
|1999年3月17日
|'''Video the force'''
|「[[HOT LIMIT]]」から「[[WILD RUSH]]」までのMV・「[[HOT LIMIT|AQUALOVERS 〜 Deep into the night]]」のライブクリップ、そしてそれらのTVスポットとメイキング映像も収録したMV集。<br/>後にDVD『summarize 4』に、『LIVE REVOLUTION.4 〜the force〜』と共に収録。
|-
|1999年5月21日
|'''LIVE REVOLUTION.4<br/>〜the force〜'''
|99年3月18日の、T.M.R初の[[東京ドーム]]での公演より全24曲を完全収録したライブ映像集。<br/>後にDVD『summarize 4』に、『Video the force』と共に収録。
|-
|2001年9月19日
|'''0001'''
|2001年のライブより[[横浜アリーナ]]・[[さいたまスーパーアリーナ]]での公演より20曲<ref group="注">一部楽曲については両公演の映像と音声がミックスされている。</ref>、そして「[[HEAT CAPACITY]]」から「[[BOARDING]]」までのMVも収録した映像作品。<br/>T.M.Rとしては最後のVHS作品となった。
|-
|}
==== FC限定VHS ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|rowspan="3"|1997年
|'''LIVE REVOLUTION COMPLETE EDITION-1<br/><small>1996.3.22 新宿LIQUID ROOM</small>'''
|rowspan="3"|96年に発売された『LIVE REVOLUTION.1 〜MAKES REVOLUTION〜』に収録されていたライブ映像の、それぞれの公演をフルサイズで収録したライブ映像集。<br/>ファンクラブにて本数限定販売されていた。未DVD化。<br/>3公演とも[[シャンプー (アイドルグループ)|Shampoo]]の「TROUBLE」のカバーも披露していた。
|-
|'''LIVE REVOLUTION COMPLETE EDITION-2<br/><small>1996.6.6 赤坂BLITZ</small>'''
|-
|'''LIVE REVOLUTION COMPLETE EDITION-3<br/><small>1996.8.29 中野サンプラザ</small>'''
|-
|}
'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|2000年3月12日
|'''Pictures from Suite Season'''
|T.M.R-e期にリリースされたシングル3曲のMVと、ボーナストラックとして「[[THUNDERBIRD (T.M.Revolutionの曲)|THUNDERBIRD]]」の東京ベイNKホールでのライブ映像も収録したMV集。<br/>本作のみDVD化はされず、MV3曲についても長らくDVDへの収録はされなかったが2017年発売のDVD/Blu-ray『2020 -T.M.Revolution ALL TIME VISUAL COLLECTION-』にて初収録となった。
|-
|2000年7月26日
|'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D LIVE ARENA 2000 A.D.'''
|[[国立代々木競技場|国立代々木競技場 第一体育館]]で行われた公演の模様を収録<ref group="注">「AQUALOVERS 〜 Deep into the night」「Slight faith」の2曲、そしてMCはカットされたほか、ラスト2曲(「DYNAMITE PASSON」「HEAT CAPACITY」の2曲も曲順を逆にして編集された。</ref>。
|-
|}
==== DVD/Blu-ray ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|2001年9月19日<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/><br/>2003年11月19日<ref group="注釈" name="tall">トールケース仕様での廉価再発売盤</ref>
|'''0001'''
|T.M.R.としては初となるDVD作品。VHS版と同時発売。<br/>DVD版には「LOVE SAVER」「Trace Millennium Road」のディレクターズカット版も追加収録。
|-
|rowspan="4"|2001年12月19日<br/>2002年7月1日<ref group="注釈" name="epic"/><br/>2003年<ref group="注">トールケース仕様での廉価再発売盤。『summarize 1』は11月19日、『summarize 2』から『4』までは12月3日に発売。</ref>
|'''summarize 1'''
|VHS『VIDEO MAKES REVOLUTION』『LIVE REVOLUTION.1 〜MAKES REVOLUTION〜』収録曲に、<br/>ボーナストラックとして「独裁 -monopolize-」「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」のライブ映像<ref group="注">96年12月28日の[[ヴェルファーレ]]での公演。</ref>も追加収録。
|-
|'''summarize 2'''
|VHS『VIDEO 維新 LEVEL→3』『LIVE REVOLUTION.2 〜維新LEVEL→3〜』収録曲に、<br/>ボーナストラックとして「LEVEL 4」のライブ映像<ref group="注">97年12月29日のヴェルファーレでの公演。</ref>も追加収録。
|-
|'''summarize 3'''
|VHS『Video triple joker』『LIVE REVOLUTION.3 〜KING OF JOKER〜』収録曲に、<br/>ボーナストラックとして「Burnin' X'mas」のライブ映像<ref group="注">98年12月29日のヴェルファーレでの公演。</ref>も追加収録。
|-
|'''summarize 4'''
|VHS『Video the force』『LIVE REVOLUTION.4 〜the force〜』収録曲に、<br/>ボーナストラックとして「IMITATON CRIME」のライブ映像<ref group="注">東京ドームで3月17日と18日の2日間にわたって行われた「T.M.R.LIVE REVOLUTION'99 -THE FORCE-」より、初日の17日に「独裁 -monopolize-」の日替わりとして演奏されていた曲。この他にも「DREAM DRUNKER」は17日の公演では「あなどりがたきボクら」が演奏されていた。</ref>も追加収録。<br/>本作のみDVD2枚組。
|-
|2002年12月4日<br/>2004年12月22日<ref group="注釈" name="tall"/>
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION '02<br/>B★E★S★T SUMMER CRUSH 2002'''
|DVD2枚組。<br/>DISC1には[[WTCオープンエアスタジアム]]と[[東京ビッグサイト|東京ビッグサイト オープンエアーステージ]]での公演より11曲と、ドキュメント映像を織り交ぜて収録<ref group="注">一部楽曲はメドレー形式で編集された。</ref>。16:9の[[ハイビジョン]]仕様。<br/>DISC2はオフショットや当時のマネージャーによるカメラ映像などを中心に、ホール公演の模様も収録<ref group="注>オフショット映像主体のためライブ映像に関しては、フルサイズで収録された楽曲は無い。</ref>。
|-
|2003年11月19日
|'''SONIC WARP the Visual Fields'''
|
|-
|2005年3月24日
|'''T.M.Revolution SEVENTH HEAVEN<br/>T.M.R. LIVE REVOLUTION'04'''
|ツアー「T.M.R. LIVE REVOLUTION'04 -SEVENTH HEAVEN-」より、[[仙台サンプラザホール]]と[[東京国際フォーラム]]での公演を収録。<br/>特典映像として[[アナハイム]]で行われたアリーナライブの模様とドキュメント映像も収録。
|-
|2006年6月21日
|'''[[1000000000000 (アルバム)#10th Anniversary Complete Visual Collection of T.M.Revolution『1000000000000』-billion-|10th Anniversary Complete Visual Collection of T.M.Revolution『1000000000000』-billion-]]'''
|
|-
|2007年4月18日<br/>2007年6月20日<ref group="注">Blu-ray版。</ref>
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION '06<br/>-UNDER:COVER-'''
|T.M.R.としては初の[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]版も発売。
|-
|2012年9月19日
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION '12<br/>-15th Anniversary FINAL-'''
|
|-
|2014年2月12日
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION'13<br/>-UNDER II COVER-'''
|
|-
|2017年5月10日
|'''2020 -T.M.Revolution<br/>ALL TIME VISUAL COLLECTION-'''
|デビューシングル「独裁 -monopolize-」から2016年当時の最新シングル「[[RAIMEI]]」までのMVに加え、<br/>これまで未DVD化だったT.M.R-e期のシングル3作のMV・[[水樹奈々]]とのコラボシングル2曲のMVも収録したオールタイム・ビジュアル・コレクション{{refnest|group="注"|公式サイトでの呼称<ref>{{Cite web|title=2020 -T.M.Revolution ALL TIME VISUAL COLLECTION-|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/TMRevolution/discography/ESBL-2473|publisher=ソニーミュージックオフィシャルサイト|accessdate=2021-09-03}}</ref>。}}。
|-
|2017年8月23日
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION'16-'17<br/>-Route 20- LIVE AT NIPPON BUDOKAN'''
|DVD版/Blu-ray版とも、初回生産限定盤にはライブCDも付属<ref group="注">収録曲はDVD/Blu-rayに収録されたものと同内容。但し「RAIMEI」「Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-」「HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」の3曲は収録されていない。また、「vestige -ヴェスティージ-」は日替わり曲として演奏された「Meteor -ミーティア-」に差し替えられている。</ref>。
|-
|2018年3月28日
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION '17<br/>-20th Anniversary FINAL at Saitama Super Arena-'''
|DVD版/Blu-ray版とで、初回生産限定盤に付属するライブCDの内容が異なる<ref group="注">DVD版は本編より抜粋された16曲、Blu-ray版は本編と同内容での完全収録。</ref>。
|-
|}
'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D'''
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|2000年7月26日
|'''the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D<br/>LIVE ARENA 2000 A.D. Special DVD Version'''
|VHS版と同時発売。T.M.R.期も含めると初のDVD作品となった。<br/>DVD版にはVHS版にも収録されていた「THUNDERBIRD」も含めた東京ベイNKホールでの公演より5曲と、<br/>T.M.R-e期のシングル3曲+アルバム『[[Suite Season]]』、そしてT.M.R.の当時の最新シングル「HEAT CAPACITY」のTVスポット、<br/>更に「HIGH PRESSURE」「HOT LIMIT」「[[WILD RUSH]]」の、浅倉大介によるノンストップ・リミックスCDも付属。
|}
==== FC限定DVD ====
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!発売日
!タイトル
!備考
|-
|2016年4月6日
|'''T.M.R. LIVE REVOLUTION '15 -Strikes Back XI-'''
|FC限定販売。男子限定LIVEの映像化は初。<br/>後に各種音楽配信サイトにて、「The party must go on」までの12曲の音源を配信開始<ref>{{Cite news|title=「T.M.R. LIVE REVOLUTION’15 -Strikes Back XI-」ライブ音源配信スタート!|date=2016-08-03|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/TMRevolution/info/471212|publisher=ソニーミュージックオフィシャルサイト|accessdate=2021-09-03}}</ref>。
|-
|}
=== 書籍 ===
* STARMAN FROM MIRACLE WONDER PLANET(1997年12月1日、[[ソニー・マガジンズ]])
* T.M.R LIVE REVOLUTION ’97 Joker DOCUMENTARY TOUR BOOK(1998年、[[音楽専科社]])
* T.M.R.大事典(1998年12月10日、[[エムオン・エンタテインメント|エムオン・エンタテイメント]])
* この声の向こうに 初めて語られる西川貴教の半生-魂の記憶 T.M.Revolution interview book(1999年1月、[[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコー・ミュージック]])
* To Be One T.M.R. LIVE REVOLUTION ’98 Joker Type 2(1999年3月5日、ソニー・マガジンズ)
* Great Fighter(1999年8月23日、エムオン・エンタテイメント)
* SUMMER CRUSH 2000(2000年10月1日、[[主婦と生活社]])
* T.M.Revolution FILE ARENA37℃ SINCE 1996-2000(2001年2月8日、音楽専科社)
* T.M.R.LIVE REVOLUTION’02 B★E★S★T SPECIAL SUMMER CRUSH 2002(2002年10月29日、[[角川書店]])
* SEVENTH HEAVEN(2004年3月17日、[[ぴあ]])
* T.M.Revolution Complete File 96-06(2006年3月31日、ソニー・マガジンズ)
* RE:INCARNATION T.M.R. LIVE REVOLUTION 08-09 転生降臨之章 COMPLETE(2009年7月3日、ぴあ)
* T.M.Revolution's Travels attractive Las Vegas(2013年7月29日、[[エンターブレイン]])
== 出演 ==
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
{|class="wikitable"
!style="width:205px"|年度/放送回!!回!!style="width:130px"|曲目!!備考
|-
|[[1997年]](平成9年)/[[第48回NHK紅白歌合戦|第48回]]||初||[[WHITE BREATH]]||紅白初出場
|-
|[[1998年]](平成10年)/[[第49回NHK紅白歌合戦|第49回]]||2||[[THUNDERBIRD (T.M.Revolutionの曲)|THUNDERBIRD]]||
|-
|[[2005年]](平成17年)/[[第56回NHK紅白歌合戦|第56回]]||3||WHITE BREATH(2回目)||7年ぶりの出場
|-
|[[2013年]](平成25年)/[[第64回NHK紅白歌合戦|第64回]]||4||-革命2013- 紅白スペシャルコラボレーション<ref group="注">「[[Preserved Roses]]」「[[革命デュアリズム]]」を順に披露。</ref>||8年ぶりの出場<br />[[水樹奈々]]と共に歌唱
|-
|[[2014年]](平成26年)/[[第65回NHK紅白歌合戦|第65回]]||5||紅白2014スペシャルコラボレーション<ref group="注">「[[SMASHING ANTHEMS|禁断のレジスタンス -Extended Mix-]]」「[[Preserved Roses]]」を順に披露。</ref> ||水樹奈々と共に歌唱
|}
== ライブ ==
主立った単独ライブを記載<ref group="注">「YEAR COUNT DOWN PARTY」シリーズは、西川貴教公式ファンクラブ「turbo」会員のみ参加可能である。</ref>。<!--西川貴教ファンクラブ限定ライブですが、T.M.R.の名称が付く「YEAR COUNT DOWN PARTY」は書き記しています。-->
* [[1996年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'96 -monopolize-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'96 -MAKES REVOLUTION-
** T.M.R.YEAR COUNTDOWN PARTY -LIVE REVOLUTION REMIX-
* [[1997年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'97 -維新レベル→3-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'97 -HIGH PRESSURE-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'97 -joker-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY -LIVE REVOLUTION REMIX2-
* [[1998年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'98 -KING OF JOKER-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'98 -Joker Type 2-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY -LIVE REVOLUTION REMIX3-
* [[1999年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'99 -THE FORCE-<ref group="注">1999年の「THE FORCE」は初の東京ドーム公演。</ref>
* [[2000年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'00 -SUMMER CRUSH 2000-<ref group="注">「SUMMER CRUSH」は会場数を限定して行われる野外ライブイベント。</ref>
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'00 -progress-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX MILLENNIUM
* [[2001年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'01 -progress ARENA TOUR-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX V
* [[2002年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'02 -B★E★S★T-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'02 B★E★S★T SPECIAL -SUMMER CRUSH 2002-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX VI
* [[2003年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'03 -coordinator-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'03 -satellite-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX VII
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'03 -Strikes Back-<ref name="sb-series" group="注">「Strikes Back」シリーズは、入場は男性に限定されている。</ref>
* [[2004年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'04 -SEVENTH HEAVEN-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX VIII
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'04 -Strikes Back II-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2005年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'05 -vertical infinity-
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX IX
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'05 -Strikes Back III-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2006年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'06 -UNDER:COVER-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'06 -UNDER:COVER- ARENA STYLE Version
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX X
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'06 -Strikes Back IV-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2007年]]
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX XI
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'07 -Strikes Back V-<ref name="sb-series" group="注" />
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY '07-'08 LIVE REVOLUTION REMIX XI(年越しライブ。入場者制限を設けず、一般枠にも開放)
* [[2008年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'08-'09 転生降臨之章
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX XII
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'08 -Strikes Back VI-<ref name="sb-series" group="注" />
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY '08-'09 LIVE REVOLUTION REMIX XII
* [[2009年]]
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY LIVE REVOLUTION REMIX XIII
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'09 -Strikes Back VII-<ref name="sb-series" group="注" />
** T.M.R.YEAR COUNT DOWN PARTY '09-'10 LIVE REVOLUTION REMIX XII(初の日本武道館での年越しライブ。入場者制限を設けず、一般枠にも開放)
* [[2010年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'10 -Strikes Back VIII-<ref name="sb-series" group="注" />
** T.M.R.NEW YEAR PARTY'10 LIVE REVOLUTION AHNY 2010(日本武道館での元日ライブ)
* [[2011年]]
** T.M.R.NEW YEAR PARTY'11 LIVE REVOLUTION
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'11-'12 -CLOUD NINE-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'11 -Strikes Back IX-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2012年]]
** T.M.R.NEW YEAR PARTY'12 LIVE REVOLUTION
** T.M.R.LIVE REVOLUTION 12 -15th Anniversary FINAL-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'12 -Strikes Back X-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2013年]]
** T.M.R.NEW YEAR PARTY'13 LIVE REVOLUTION
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'13 -UNDER:COVER2-
* [[2014年]]
** T.M.R.NEW YEAR PARTY'14 LIVE REVOLUTION
* [[2015年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'15 -天-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'15 -Strikes Back XI-<ref name="sb-series" group="注" />
* [[2016年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'16-'17 -Route 20-
*[[2017年]]
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'17 -ROUND HOUSE CUTBACK-
** T.M.R.LIVE REVOLUTION'17 -20th Anniversary FINAL-
*[[2021年]]
** T.M.R. LIVE REVOLUTION'21 -VOTE-
*[[2022年]]
** T.M.R. LIVE REVOLUTION'22-'23 -VOTE JAPAN-
=== the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D ===
* 1999年
** the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D -PREMIERE 1999-<ref group="注">「PREMIERE 1999」は、西川貴教公式ファンクラブ「turbo」会員のみ参加可能だった。</ref>
* 2000年
** the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D -LIVE ARENA 2000 A.D.-<ref group="注">「LIVE ARENA 2000 A.D.」はT.M.Revolutionの封印解除を明示させるツアーで、前半はT.M.R-e・後半はT.M.Revolutionの楽曲を演奏する2部構成のものだった。</ref>
* 2020年
** 京響プレミアム ラジオタイムス「the end of genesis T.M.R. evolution turbo type D」
== サポートメンバー ==
* [[ギター]]
** [[葛城哲哉]](1996年)
** JAKE(1995年・1998年〜1999年2月)(ex.[[GUNIW TOOLS]])
** 一戸賢司(1996年〜1997年4月)(ex.[[JUSTY-NASTY]])
** [[亀の子束子西尾商店#現在の代表取締役社長・西尾智浩について|西尾智浩]](1996年8月〜1997年4月)
** 後藤孝顕(1997年8月〜12月)
** 伊東正(1997年11月〜1998年4月)
** [[大橋イサム]](1998年〜2001年)
** [[SUNAO]](1998年7月〜1999年2月、2000年8月〜2014年・2021年~)([[abingdon boys school]])
** [[柴崎浩]](2004年〜)([[WANDS]],abingdon boys school)
** [[Leda (ギタリスト)|Leda]](2013年4月)(ex.[[DELUHI]])
** [[菰口雄矢]](2015年〜2018年)
* [[ベース (弦楽器)|ベース]]
** [[白須衛治]](1995年〜1999年10月)
** [[山田章典]](1999年11月)〜2004年)
** [[Ikuo]](2005年〜)([[BULL ZEICHEN 88]]、[[Rayflower]]、[[Mitsuru Matsuoka EARNEST DRIVE]])
** 茶渡聖之(2022年7月)
* [[ドラムセット|ドラム]]
** [[大光亘]](1995年〜1996年5月)
** [[柴田尚]](1996年5月〜1997年)
** [[EBY]](1998年〜2000年4月)(ex.[[ZI:KILL]])
** [[上領亘]](2000年7月〜8月)(ex.[[GRASS VALLEY]]、[[SOFT BALLET]])
** [[渡辺豊]](2000年8月〜2003年)
** [[淳士]](2004年〜2007年・2021年~)(ex.[[SIAM SHADE]]、[[BULL ZEICHEN 88]]、Mitsuru Matsuoka EARNEST DRIVE)
** [[JOE (ドラマー)|JOE]](2008年)(ex.[[SEX MACHINEGUNS]]、[[DASEIN]])
** [[長谷川浩二]](2008年9月〜2014年)
** [[SASSY]](2013年)(元[[HIGH and MIGHTY COLOR]]、[[INKT]])
** [[山崎慶]](2015年〜2018年)
* [[キーボード (楽器)|キーボード]]
** [[浅倉大介]](1995年〜1996年8月・1999年3月~2000年4月)([[access (音楽ユニット)|access]])
** [[菅原旭成]](1996年12月)
** [[至今日太]](1997年8月)
** [[青木庸和]](1997年11月〜1999年2月)
** [[大島こうすけ]](2011年〜 ※不定期、2016年〜2018年)(元WANDS)
* [[マニピュレーター]]
** 鈴木覚(2002年〜)
== タイアップ一覧 ==
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
! 曲名
! タイアップ先
|-
| 独裁 -monopolize-
| TV番組「[[週刊スタミナ天国]]」OPテーマソング
|-
| 臍淑女 〜ヴィーナス〜
| TV番組「Q99」EDテーマソング
|-
| HEART OF SWORD 〜夜明け前〜
| TVアニメ「[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]」EDテーマソング
|-
| LEVEL 4
| ゲームソフト「[[モータートゥーン・グランプリ]]」CMソング
|-
| HIGH PRESSURE
| CM「[[ロッテ]]・Sweetieアイス」テーマソング<br />TVアニメ『[[B'T-X]]』台湾・中国版オープニングテーマ
|-
| WHITE BREATH
| TV番組「[[ポップジャム]]」OPテーマソング<br />[[ニッポン放送]][[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]テーマソング<br />[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[上沼・高田のクギズケ!]]」2021年12月度エンディングテーマ<br />[[日本マクドナルド]]「ビーフシチューパイ パイをどーこー云うの?」篇 TVCMソング(2023年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mcdonalds.co.jp/company/news/2023/1130a/ |title=サクサクのパイとじっくり煮込んだコク深いビーフシチュー さむ〜い季節に心も身体もあたたまる冬限定のお食事パイ「ビーフシチューパイ」今年も登場!12月6日(水)から期間限定で販売♪「凍えそうな季節に君はパイをどーこー云うの?」♪冬の定番曲「WHITE BREATH」に乗せてビーフシチュー愛を熱唱!西川貴教さん出演の新TVCMを12月5日(火)から放映 |publisher=マクドナルド公式 |date=2023-11-30 |accessdate=2023-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202311/30325966.html |title=【マクドナルド】西川貴教がWHITE BREATH替え歌を熱唱。冬限定のビーフシチューパイに合わせてパイと愛を重ねる |publisher=ファミ通.com |date=2023-11-30 |accessdate=2023-12-07}}</ref>
|-
| MID-NITE WARRIORS
| ラジオ番組「[[岩男潤子と荘口彰久のスーパーアニメガヒットTOP10]]」テーマソング
|-
| 蒼い霹靂 〜JOG Edit〜
| CM「[[ヤマハ・ジョグ]]」テーマソング・西川貴教出演
|-
| HOT LIMIT(MITSUYA-MIX)
| CM「[[アサヒ飲料]]・[[三ツ矢サイダー]]」テーマソング<br />フジテレビ「夏のフジテレビ」CMソング<br />
|-
| HOT LIMIT
| TVアニメ「[[ReLIFE]]」第2話ED<ref group="注">発売から18年後の2016年に使用された。</ref>
|-
| THUNDERBIRD
| TV番組「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」EDテーマソング
|-
| WILD RUSH
| CM「[[資生堂]]・[[ティセラ]]ジャングル・ジャングル」テーマソング・西川貴教出演
|-
| BLACK OR WHITE ? version 3
| TV番組「[[Dramatic Game 1844|劇空間プロ野球]]」テーマソング
|-
| LOVE SAVER
| TV番組「[[スーパーサッカー (TBSのサッカー番組)|スーパーサッカー]]」テーマソング
|-
| BOARDING
| TVドラマ「[[別れさせ屋]]」EDテーマソング
|-
| BRIGADE
| 映画・日本公開版「[[ダイナソー]]」SPECIAL INSPIRING SONG(劇場にて上映前に使用)
|-
| INVOKE -インヴォーク-
| TVアニメ「[[機動戦士ガンダムSEED]]」OPテーマソング<br />ゲームソフト「[[機動戦士ガンダムSEED 連合vs.Z.A.F.T.]]」OPテーマソング<br />[[三共 (パチンコ)|SANKYO]] Pフィーバー「機動戦士ガンダムSEED」CMソング
|-
| Meteor -ミーティア-
| TVアニメ「機動戦士ガンダムSEED」挿入歌<br />TVアニメ「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」挿入歌
|-
| Albireo -アルビレオ-
| TV番組「[[AX MUSIC-TV]]」AX POWER PLAY #049
|-
| Zips
| 玩具「[[ガンダムSEED MSV]]」テーマソング<br />ゲームソフト「[[機動戦士ガンダムSEED 終わらない明日へ]]」テーマソング<br />アニメ「機動戦士ガンダムSEED スペシャルエディションI 『虚空の戦場』」挿入歌<br />アニメ「機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディション 『砕かれた世界』」挿入歌<br />キャンペーン「[[NTTドコモ]] DoCommerceキャンペーン」テーマソング
|-
| Wheel of fortune
| TV番組「[[フォーミュラ・ニッポン|Formula Nippon]]」テーマソング
|-
| Web of Night (English Version)
| 映画・日本公開版「[[スパイダーマン2]]」テーマソング
|-
| ignited -イグナイテッド-
| TVアニメ「[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]」OPテーマソング<br />ゲームソフト「[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY 連合vs.Z.A.F.T.II]]」OPテーマソング
|-
| CHASE/THE THRILL
| イベント「AIR-X」テーマソング
|-
| vestige -ヴェスティージ-
| TVアニメ「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」テーマソング
|-
| crosswise
| ゲームソフト「[[戦国BASARA]]」「戦国BASARA X」テーマソング
|-
| Zips ([[UNDER:COVER]]収録版)
| アニメ「機動戦士ガンダムSEED DESTINY スペシャルエディションI 『砕かれた世界』」DVD収録版・挿入歌
|-
| resonance
| TVアニメ「[[ソウルイーター]]」OPテーマソング
|-
| soul's crossing
| ゲームソフト「ソウルイーター モノトーン プリンセス」テーマソング
|-
| Imaginary Ark
| 「[[ガンプラ]]」30周年テーマソング
|-
| Lakers
| 「第65回[[びわ湖毎日マラソン]]大会」イメージソング
|-
| Naked arms
| ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA3]]」OPテーマソング
|-
| SWORD SUMMIT
| TVアニメ「[[戦国BASARA|戦国BASARA弐]]」OPテーマソング
|-
| Save The One, Save The All
| 映画「[[劇場版BLEACH 地獄篇]]」主題歌
|-
| Thousands Morning Refrain
| 「[[サンリオピューロランド]]」20周年イメージソング
|-
| FLAGS
| 映画「[[戦国BASARA|劇場版 戦国BASARA -The Last Party-]]」主題歌<br />ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA クロニクルヒーローズ]]」テーマソング
|-
| The party must go on
| 映画「劇場版 戦国BASARA -The Last Party」EDテーマソング
|-
| UTAGE
| ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA3 宴]]」テーマソング
|-
| Preserved Roses
| TVアニメ「[[革命機ヴァルヴレイヴ]]」OPテーマソング
|-
| Summer Blizzard
| CM 「ロッテ ガムブランド 『ZEUS』」テーマソング
|-
| HEAVEN ONLY KNOWS ~Get the Power~
| 海外ドラマ「レボリューション」<ファーストシーズン>日本版イメージソング
|-
| 革命デュアリズム
| TVアニメ「革命機ヴァルヴレイヴ」OPテーマソング
|-
| Count ZERO
| ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA4]]」OPテーマソング
|-
| 突キ破レル-Time to SMASH!
| TVアニメ「[[ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ]]」OPテーマソング
|-
| Thread of fate
| TVアニメ「ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ」EDテーマソング
|-
| Phantom Pain
| [[池田模範堂]]「デリケアM's」[[コマーシャルソング|CMソング]]<ref>{{Cite news | title = 池田模範堂「デリケアエムズ(M’s)」 新イメージキャラクターにT.M.Revolution 西川貴教さんを起用| newspaper = 池田模範堂プレスリリース(PRTIMES)| date = 2014-05-06| url = https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000010133.html| accessdate = 2014-05-10}}</ref>
|-
| DOUBLE-DEAL
| ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA4 皇]]」OPテーマソング
|-
| AMAKAZE -天風-
| ゲームソフト「[[レイギガント]]」主題歌
|-
| Inherit the Force -インヘリット・ザ・フォース-
| ゲームソフト「[[機動戦士ガンダム エクストリームバーサス フォース]]」主題歌
|-
| Committed RED
| ゲームソフト「[[戦国BASARA|戦国BASARA 真田幸村伝]]」主題歌
|-
| RAIMEI
| 人形劇「[[Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀]]」主題歌
|}
== 関連項目 ==
* [[西川貴教]]
* [[浅倉大介]]
* [[井上秋緒]]
* [[麻倉真琴]]
* [[アビングドンボーイズスクール|abingdon boys school]]
* [[HIGH and MIGHTY COLOR]]
* [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]
* [[アンティノスレコード]]
* [[エピックレコードジャパン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈1 ===
{{Notelist}}
=== 注釈2 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|T.M. Revolution|T.M. Revolution}}
* [https://www.tm-revolution.com/ T.M.Revolution公式ウェブサイト]{{ja icon}}{{en icon}}
* [https://turbo-web.com/s/n143/?ima=1108 西川貴教オフィシャルファンクラブサイト(会員専用エリア含む)]
* [http://www.tmr15.com/ T.M.Revolution デビュー15周年特設サイト]
* {{Twitter|tmr15}}
* {{Twitter|TMR_STAFF|T.M.Revolution OFFICIAL}}(スタッフアカウント)
* {{YouTube|channel=UCq1xU8DeDDRqu2q618RDvhQ|T.M.Revolution Official YouTube Channel}}
{{T.M.Revolution}}
{{西川貴教}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ていえむれほりゆうしよん}}
[[Category:T.M.Revolution|*]]
[[Category:アニメソング歌手]]
[[Category:ソロプロジェクト]]
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]
[[Category:日本のポップ・ロック・バンド]]
[[Category:1996年に結成した音楽グループ]]
[[Category:エピックレコードジャパンのアーティスト]]
|
2003-09-02T12:44:14Z
|
2023-12-08T05:45:18Z
| false | false | false |
[
"Template:T.M.Revolution",
"Template:西川貴教",
"Template:Normdaten",
"Template:Cite web",
"Template:En icon",
"Template:YouTube",
"Template:Infobox Musician",
"Template:年譜のみの経歴",
"Template:Ja icon",
"Template:Notelist",
"Template:Cite news",
"Template:Commonscat",
"Template:出典の明記",
"Template:Refnest",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Infobox YouTube personality",
"Template:Reflist",
"Template:Twitter"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/T.M.Revolution
|
14,775 |
地上デジタルテレビ放送
|
地上デジタルテレビ放送(ちじょうデジタルテレビほうそう、英語: Digital Terrestrial Television Broadcasting、略称:地デジ)とは、地上(陸上)のデジタル方式の無線局により行われるテレビ放送である。ただ、実際の報道では地上デジタル放送と略されることもある。
(世界各国のデジタルテレビの展開状況リスト、英文版「List of digital television deployments by country」も参照)
世界の地上波デジタルテレビ放送は、大きく以下の方式に分けられる。
これらは多重化にMPEG-2 TSを利用する事、映像符号化にMPEG-2ビデオを利用する事では同じ条件であるものの、以下のような違いがある。
主な採用地域
|
[
{
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"text": "地上デジタルテレビ放送(ちじょうデジタルテレビほうそう、英語: Digital Terrestrial Television Broadcasting、略称:地デジ)とは、地上(陸上)のデジタル方式の無線局により行われるテレビ放送である。ただ、実際の報道では地上デジタル放送と略されることもある。",
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},
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"text": "",
"title": "放送の方式"
}
] |
地上デジタルテレビ放送とは、地上(陸上)のデジタル方式の無線局により行われるテレビ放送である。ただ、実際の報道では地上デジタル放送と略されることもある。
|
{{Pathnav|デジタルテレビ放送}}
'''地上デジタルテレビ放送'''(ちじょうデジタルテレビほうそう、{{Lang-en|Digital Terrestrial Television Broadcasting}}、略称:'''地デジ''')とは、地上(陸上)の[[デジタル]]方式の[[無線局]]により行われる[[テレビ|テレビ放送]]である。ただ、実際の報道では[[地上波デジタル放送|地上デジタル放送]]と略されることもある。
== 開始時期 ==
=== 世界各国におけるデジタルテレビジョンへの移行 ===
(世界各国のデジタルテレビの展開状況リスト、英文版「[[:en:List of digital television deployments by country|List of digital television deployments by country]]」も参照)
{|class="wikitable sortable"
|+ 世界各国における地上デジタルテレビ放送への移行
!デジタル放送開始!!実施国/地域!!アナログ停波!!方式
|-
! [[1998年]]9月
| {{flagicon|GBR}} [[イギリス]]{{ref|1|1}} || [[2012年]][[10月24日]] || [[デジタルビデオブロードキャスティング#地上波用|DVB/T]]
|-
! 1998年11月
| {{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国|アメリカ]]{{ref|2|2}} || [[2009年]][[6月12日]] || [[ATSC]]
|-
! [[1998年]]
| {{flagicon|IRL}} [[アイルランド]] || 2012年10月24日 || DVB/T
|-
! [[1999年]]
| {{flagicon|SWE}} [[スウェーデン]]{{ref|3|3}} || [[2007年]][[12月15日]] || DVB/T
|-
! [[2000年]]
| {{flagicon|ESP}} [[スペイン]] || [[2010年]][[4月3日]] || DVB/T
|-
! [[2001年]]
| {{flagicon|AUS}} [[オーストラリア]] || [[2013年]][[12月10日]] || DVB/T
|-
! 2001年
| {{flagicon|FIN}} [[フィンランド]] || [[2007年]][[9月1日]] || DVB/T
|-
! 2001年
| {{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]{{ref|4|4}} || [[2012年]][[12月31日]] || ATSC
|-
! 2002年7月
| {{flagicon|HRV}} [[クロアチア]] || [[2011年]][[1月1日]] || DVB/T
|-
! 2002年11月
| {{flagicon|DEU}} [[ドイツ]] || [[2008年]][[11月25日]] || DVB/T
|-
! 2003年3月
| {{flagicon|CAN}} [[カナダ]] || 2011年[[8月31日 ]]|| ATSC
|-
! 2003年4月
| {{flagicon|NLD}} [[オランダ]] || [[2006年]][[12月11日]] || DVB/T
|-
! 2003年8月
| {{flagicon|CHE}} [[スイス]] || 2008年[[2月25日]] || DVB/T
|-
! [[2003年]][[12月]]
| {{flagicon|JPN}} [[日本]]{{ref|5|5}} || 2011年7月24日(岩手県・宮城県・福島県は2012年3月31日)|| [[ISDB|ISDB-T]]
|-
! [[2004年]]
| {{flagicon|TWN}} [[台湾]]([[中華民国]]){{ref|6|6}} || 2012年6月30日 || DVB/T
|-
! 2004年
| {{flagicon|ITA}} [[イタリア]]{{ref|7|7}} || 2012年[[7月4日]] || DVB/T
|-
! [[2005年]]3月
| {{flagicon|FRA}} [[フランス]] || 2011年[[11月28日]] || DVB/T
|-
! 2005年10月
| {{flagicon|CZE}} [[チェコ]] || 2011年[[11月11日]] || DVB/T
|-
! 2005年
| {{flagicon|SVK}} [[スロバキア]] || 2012年12月31日 || DVB/T
|-
! [[2006年]]3月
| {{flagicon|DNK}} [[デンマーク]] || 2009年10月31日 || DVB/T
|-
! 2006年4月
| {{flagicon|LUX}} [[ルクセンブルク]] || 2006年[[9月30日]] || DVB/T
|-
! 2006年5月
| {{flagicon|SGP}} [[シンガポール]]{{ref|8|8}} || 2018年1月1日 || DVB/T
|-
! 2006年10月
| {{flagicon|AUT}} [[オーストリア]] || 2011年6月7日 || DVB/T
|-
! [[2007年]]5月
| {{flagicon|NZL}} [[ニュージーランド]] || [[2013年]][[12月1日]] || DVB/T
|-
! 2007年9月
| {{flagicon|NOR}} [[ノルウェー]] || 2009年11月30日 || DVB/T
|-
! 2007年12月
| {{flagicon|BRA}} [[ブラジル]]{{ref|9|9}} || [[2018年]]11月25日<ref>{{Cite web|url=https://www.itu.int/en/ITU-R/GE06-Symposium-2015/Session2/211%20%20DTV%20Brazil_ITU%20Symposium.pdf|title=Analog TV Switch-off in Brazil|accessdate=2021-1-9|publisher=}}</ref> || [[ISDB#ISDB-TB|ISDB-Tb]]
|-
! 2007年12月
| {{flagicon|HKG}} [[香港]]{{ref|10|10}} || [[2020年]]11月30日 || [[DTMB]]
|-
! [[2008年]]
| {{flagicon|CHN}} [[中華人民共和国|中国]]{{ref|11|11}} || 2020年12月31日(特別な状況は2021年3月31日まで) || [[DTMB]]
|-
! [[2008年]]7月
| {{flagicon|MAC}} [[マカオ]] || 2023年6月30日<ref>https://www.tdm.com.mo/zh-hant/news-detail/850738</ref> || [[DTMB]]
|-
! [[2009年]]4月
| {{flagicon|PRT}} [[ポルトガル]] || 2012年4月26日 || DVB/T
|-
! [[2010年]]3月
| {{flagicon|PER}} [[ペルー]] || - || ISDB-Tb
|-
! 2010年4月
| {{flagicon|ARG}} [[アルゼンチン]] || - || ISDB-Tb
|-
! 2010年9月
| {{flagicon|CHL}} [[チリ]] || - || ISDB-Tb
|-
! 2011年6月
| {{flagicon|BOL}} [[ボリビア]] || - || ISDB-T
|-
! 2011年8月
| {{flagicon|PRY}} [[パラグアイ]] || - || ISDB-T
|-
! 2012年3月
| {{flagicon|CRI}} [[コスタリカ]] || - || ISDB-T
|-
! 2012年8月
| {{flagicon|URY}} [[ウルグアイ]] || - || ISDB-T
|-
! 2013年2月
| {{flagicon|VEN}} [[ベネズエラ]] || - || ISDB-Tb
|-
! 2015年2月
| {{flagicon|PHL}} [[フィリピン]] || - || ISDB-T
|}
*{{note|1|1}} - 公共放送の[[英国放送協会|BBC]]がSDTVで多チャンネル放送を開始し続いて11月には商業放送のON Televisionが有料・多チャンネル放送を開始した。段階的にアナログ停波が行なわれ<ref>[http://www.ukfree.tv/closedown.php UK Free TV: Every mast] イギリス国内における地域別アナログ停波のスケジュール</ref>、[[2012年]][[4月18日]]には、首都[[ロンドン]]でも停波が実施された。
*{{note|2|2}} - 20都市の42の放送局で地上デジタル放送が開始された。同国では日本と同様、HDTVによる高画質放送を重視している。当初は2009年[[2月17日]]に完全移行の予定だったが、低所得者への簡易チューナーの配布が遅れた事などで4ヶ月延期された。
*{{note|3|3}} - 世界で初めてスウェーデンの一部地域でアナログ停波が実施された。
*{{note|4|4}} - [[慶尚北道]][[蔚珍郡]]では2010年9月1日、全国より先行して、アナログ停波が実施された<ref>[http://world.kbs.co.kr/japanese/news/news_Dm_detail.htm?No=44909 蔚珍でアナログ放送終了、2012年末完全デジタル化]</ref>。[[済州特別自治道]]では[[2011年]][[6月29日]]に[[KBS済州放送総局|KBS]]第一テレビジョン以外の放送がアナログ停波。[[7月28日]]にKBS第一テレビジョンがアナログ停波。2012年8月16日に[[蔚山広域市]]がアナログ停波。9月24日[[忠清北道]]、10月4日[[慶尚南道]]、10月9日[[釜山広域市]]がアナログ停波。2012年12月31日4:00(日本時間)全アナログ放送停波・完全デジタル化。
*{{note|5|5}} - [[石川県]][[珠洲市]]の全域では2010年7月24日、[[長崎県]][[対馬市]]の一部では[[2011年]][[1月24日]]、全国より先行して、アナログ停波が実施された。当初は前述地域を除いて[[2011年]][[7月24日]]の停波予定であったが[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])で甚大な被害が出た被災3県では、アナログ停波が、[[2012年]][[3月31日]]に延期された<ref group="注">2011年4月20日付け3県の延期の[[総務省]]案は[[藤末健三]]総務委員長が参議院本会議に報告し全会一致で6月8日可決成立した。</ref>。なお、被災3県を除く44都道府県では当初の予定通り2011年7月24日に停波された。ケーブルテレビ等では[[2011年問題 (日本のテレビジョン放送)#デジアナ変換|デジアナ変換]]として、[[2015年]][[3月31日]]までアナログテレビで視聴ができた<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu12_01000001.html 総務省|「デジアナ変換」を実施するケーブルテレビ事業者の決定状況]</ref><ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/dtv/pdf/digi-ana.pdf デジアナ変換サービス実施事業]</ref>(「デジアナ変換」の終了はケーブルテレビの会社・地域によって異なる)。
{{main|日本の地上デジタルテレビ放送}}
*{{note|6|6}} - 4段階に分けて、アナログ停波を実施。(2012年5月7日に台湾中部・28日に東部と離島・6月11日に南部・30日に北部)
*{{note|7|7}} - 当初は2006年アナログ停波予定だった。
*{{note|8|8}} - 地上デジタルテレビジョン放送を導入する最初の[[東南アジア]]の国
*{{note|9|9}} - 日本方式の派生規格にて放送開始。
*{{note|10|10}} - 当初は2012年アナログ停波予定だった。
*{{note|11|11}} - [[2008年北京オリンピック]]に合わせて放送を開始した。
== 放送の方式 ==
[[Image:Digital broadcast standards.svg|thumb|450px|right|デジタルテレビ放送の方式分布図]]
{{節スタブ}}
世界の地上波デジタルテレビ放送は、大きく以下の方式に分けられる。
* '''ヨーロッパ方式'''(固定向け[[デジタルビデオブロードキャスティング|DVB-T]]と移動体向け[[DVB-H]])
** '''第2世代ヨーロッパ方式''' ({{仮リンク|DVB-T2|en|DVB-T2}}) - DVB-Tの後継規格。帯域の利用効率が向上している。
* '''日本方式''' ([[ISDB|ISDB-T]]) - 同一の周波数帯でテレビ向けと携帯端末向け([[ワンセグ]]放送)が可能。
** '''ブラジル方式'''(ISDB-Tb、ISDB-T International、またはSBTVD) - 日本方式 (ISDB-T) を基礎として採用し、ブラジルの地上波デジタルテレビ放送での要求条件に沿って技術改良を行ったもの。'''日本・ブラジル方式'''あるいは日伯方式とも呼ばれ、ブラジル以外の中南米でもISDB-Tと言えばこの方式が採用されている<ref>{{Cite web|和書|date=2010-05-03|url=http://sankei.jp.msn.com/world/america/100503/amr1005031858006-n1.htm|title=南米で進む地デジの日本方式採用 官民一体での売り込み奏功|publisher=産経新聞|accessdate=2010-06-12}}</ref>。
* '''アメリカ方式''' ([[ATSC]])
** '''韓国方式''' ([[DMB|T-DMB]]) - 韓国では先にATSC方式で放送を開始したため、移動体向けのみに採用されている。
* '''中国方式''' ([[DTMB]])
これらは多重化に[[MPEG-2システム|MPEG-2 TS]]を利用する事、映像符号化に[[MPEG-2|MPEG-2ビデオ]]を利用する事では同じ条件であるものの、以下のような違いがある。
{| class="wikitable"
|+世界の地上デジタルテレビジョン放送規格
!!!ATSC!!DVB-T!!DVB-T2!!ISDB-T!!T-DMB!!style="white-space:nowrap"|DTMB
|-
!colspan="7"|仕様
|-
!映像
|[[MPEG-2]]||[[MPEG-2]]/[[H.264]]||[[MPEG-2]]/[[H.264]]/[[H.265]]||[[MPEG-2]]/[[H.264]]||H.264||[[MPEG-2]]/[[H.264]]/[[AVS]]/[[AVS+]]
|-
!音声
|[[ドルビーデジタル]]||[[MPEG-2|MPEG-2 BC]]<br />ドルビーデジタル||||[[AAC|MPEG-2 AAC]]/MPEG-4 AAC||[[HE-AAC|MPEG-4 BSAC]]||[[MPEG-2|MPEG-2 BC]]<br />ドルビーデジタル
|-
!外符号
|[[リード・ソロモン符号]]<br />R-S (207, 187, 10)||リード・ソロモン符号 R-S (204, 188, 8)||[[BCH符号]]||リード・ソロモン符号 R-S (204, 188, 8)||||
|-
!外符号[[インターリーブ]]
|52セグメント畳み込みバイトインターリーブ||バイト畳み込みインターリーブ(深さ12)||||バイト畳み込みインターリーブ(深さ12)||||
|-
!内符号
|トレリス符号<br />(符号化率:2/3)||[[畳み込み符号]](符号化率:1/2, 2/3, 3/4, 5/6, 7/8)||[[低密度パリティ検査符号]](符号化率:1/2, 3/5, 2/3, 3/4, 4/5, 5/6)||[[畳み込み符号]](符号化率:1/2, 2/3, 3/4, 5/6, 7/8)||||
|-
!内符号インターリーブ
|12トレリス||ビット、周波数||colspan="2"|ビット、周波数、時間||||
|-
![[搬送波]]
|シングルキャリア||colspan="2"|マルチキャリア ([[デジタル変調|COFDM]])||マルチキャリア ([[デジタル変調|BST-COFDM]])||||
|-
![[変調方式]]
|8-VSB||QPSK、16[[直角位相振幅変調|QAM]]、MR-16QAM、64QAM、MR-64QAM||QPSK、16QAM、MR-16QAM、64QAM、MR-64QAM、256QAM、MR-256QAM||DQ[[位相偏移変調|PSK]]、QPSK、16QAM、64[[直角位相振幅変調|QAM]]||||
|-
!colspan="7"|機能・特徴
|-style="text-align:center"
![[マルチパス]]耐性
|×||colspan="2"|○||○||||
|-style="text-align:center"
!同一周波数中継 (SFN)
|×||colspan="2"|○||○||||
|-style="text-align:center"
!移動時の受信
|×||colspan="2"|△(携帯機器は不適。DVB-Hで代用)||○(携帯機器は[[ワンセグ]]が適する)||○||○
|-style="text-align:center"
!インパルスノイズ耐性
|×||colspan="2"|○||○||||
|-style="text-align:center"
!時間インターリーブ
|×||colspan="2"|×||○||||
|-style="text-align:center"
!style="white-space:nowrap"|セグメント単位での運用
|×||colspan="2"|×||○{{ref|1|1}}||||
|}
'''主な採用地域'''
;ATSC
*{{flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国]]・{{flag|カナダ}}・{{flag|メキシコ}}・{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]
;DVB-T
*{{flagicon|EU}} [[ヨーロッパ|欧州]]・{{flag|ロシア}}・{{flag|トルコ}}・{{flagicon|AUS}} [[オーストラリア]]・{{flag|南アフリカ共和国}}・{{flag|サウジアラビア}}・{{flag|イラン}}・{{flag|インド}}・{{flag|インドネシア}}・<br>{{flagicon|TWN}} [[台湾]]([[中華民国]])
;DVB-T2
*{{flagicon|THA}} [[タイ王国|タイ]]・{{flag|フィンランド}}
;ISDB-T
*{{flag|日本}}・{{flag|ブラジル}}・{{flag|アルゼンチン}}・{{flag|ペルー}}・{{flag|チリ}}・{{flag|ベネズエラ}}・{{flag|エクアドル}}・{{flag|ボリビア}}・{{flag|ニカラグア}}・{{flag|フィリピン}}・{{flag|モルディブ}}・{{flag|ボツワナ}}<ref>{{Cite news |title=アフリカ初 日本方式の地デジ採用 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130227/k10015824311000.html |publisher=NHKニュース |date=2013-02-27 |accessdate=2013-02-27}}{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>・{{flag|ホンジュラス}}・{{flag|パラグアイ}}・{{flag|ウルグアイ}}・{{flag|グアテマラ}}・{{flag|コスタリカ}}
;T-DMB
*{{flagicon|KOR}} [[大韓民国|韓国]]{{ref|2|2}}・{{flag|カンボジア}}
;DTMB
*{{flagicon|CHN}} [[中華人民共和国|中国]]
*{{note|1|1}} - 13のセグメントに分割し、それぞれに対して違った変調をかける事ができる(最大3種類まで)。簡易な受信機による部分受信(通称ワンセグ)が可能。
*{{note|2|2}} - 移動体向けのみに採用
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[デジタル放送]]
* [[地上波デジタル放送]]
* [[デジタルテレビ放送]]
* [[高精細度テレビジョン放送]]
* [[ハイビジョン]]
* [[コミュニティチャンネル]] - 地上デジタルテレビ放送の空いているチャンネルを用いて、限られた地域の話題やニュースを集中的に番組制作・編成・放送。いわゆる[[コミュニティFM]]のテレビ放送版。現在のところ、電波放送ではなく各社ケーブルTV局により、各地で始められている。
* [[世界の放送方式]]
*[[日本の地上デジタルテレビ放送]]
* [[NTSC]]
* [[PAL]]
* [[SECAM]]
* [[ウォーターマーク]]
{{DEFAULTSORT:ちしようてしたるてれひほうそう}}
[[Category:デジタル放送]]
[[Category:デジタルテレビ]]
[[Category:テレビ技術]]
[[Category:メディア問題]]
|
2003-09-02T12:59:47Z
|
2023-11-16T11:13:01Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8A%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E6%94%BE%E9%80%81
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14,776 |
マライア・キャリー
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マライア・キャリー(英: Mariah Carey [məˈraɪə ˈkɛəri]、1969年3月27日ー)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、女優、慈善活動家である。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では『Songbird Supreme(究極の歌姫)』と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している。
音楽はコンテンポラリー・R&B、ヒップホップ、ゴスペルなどのブラックミュージックを基盤としている。Billboard Hot 100における首位獲得週最多記録保持者であると同時に、現存するアーティストの中で最も全米1位を獲得した人物として2023年現在も記録を塗り替えている。
Songwriters Hall of Fame(ソングライターの殿堂)に殿堂入りを果たしており、これまでにリリースした数々のヒット曲を含む延193曲の作詞作曲を自身が手掛けてきた功績が認められている。
マライアが作詞作曲をした代表曲の1つである「All I Want For Christmas Is You 邦題:恋人たちのクリスマス」は2020年12月15日に全米1位を獲得し、その後も毎年1位を獲得し続けており、2023年12月の時点で自身の首位獲得週を92週に更新している。また、2020年に1位を獲得したことで、4つの年代(1990年代、2000年代、2010年代、2020年代)にわたり1位を獲得した史上初のアーティストとなった。同曲の音源は、米国議会図書館が管理する全米録音資料登録簿に永久保存されている。
歌唱力においては、5オクターヴ半(F2〜Bb7を観測)という声域を余すことなく表現に活かしたライヴパフォーマンスと楽曲で知られており、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な200人のシンガー」においては第5位にランクインしている。超高音域のホイッスルボイスや、メリスマ唱法(1音節の発声を複数の音符で彩る歌唱テクニック)の女王と呼ばれている。
2023年8月時点で、グラミー賞(5冠)、World Music Awards(史上最多の19冠)American Music Awards(10冠)、Billboard Music Awards(15冠)、などの世界主要音楽賞を含めた計166賞の受賞歴を誇る。
全世界でシングルセールス6600万枚以上、アルバムセールス2億2000万枚以上、トータルセールス2億8000万枚以上のセールスを記録している。(2023年8月)
1995年にキャンプ・マライアというチャリティー基金団体を設立し、25年以上もの間子供達への職業体験イベントやサマーキャンプ、クリスマスイベントを提供している。
ベネズエラ系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人の血を引く)とアイルランド系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれた。当時まだアメリカでも広く受け入れられていなかったミックス人種として人種差別を受けたり、実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした。マライアが3歳の時に両親は離婚している。後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が音楽であったと度々語っている。この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。
ハイスクール卒業後、マンハッタンへ移り、ウェイトレスやアーティストのバックコーラスなどをしてスタジオ代を賄いながら作曲やレコーディングに明け暮れた。コーラスの仕事中でブレンダ・K・スターと出会い、ブレンダに連れられて訪れたパーティー会場でCBSレコード(コロンビアレーベル、現:ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国))のトミー・モトーラ社長へ渡したデモテープがきっかけとなり契約を交わした。当時の契約から、マライアの音楽制作物に関する芸術活動の全ての選択においてマライア自身が関わることを保証すると書かれていた。1990年に「Vision of Love」でデビュー。デビュー直前にNBAファイナルで「America the Beautiful」を熱唱し、トレードマークのホイッスルボイスを披露すると、会場司会から「この場に女神が誕生した。」と喝采を受け、後日出演したGood Morning Americaでのライブパフォーマンスで見せつけた歌唱力が話題になったことから、デビュー曲の「Vision of Love」とアルバム『Mariah Carey』は共に1位を獲得した。
1990年から2000年にかけてデビューから11年間、毎年全米1位を獲得した史上最長記録(2位はビートルズとエルビス・プレスリーの7年連続)を打ち立て、鮮烈なキャリアスタートを切った。
1991年には女性アーティストとして3人目となる『ビルボード』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。
アルバム『Music Box』(1993年)、『Daydream』 (1995年)はソロアーティスト自身が作詞、作曲を行った作品としては珍しく、全世界で各2500万枚を超える大ヒットとなった。Boyz II Menとのデュエット曲「One Sweet Day」は1995年から1996年にかけてBillboard Hot 100で16週連続No.1を獲得。この最長記録は2019年にリル・ナズ・X「オールド・タウン・ロード」が19週連続No.1を達成するまで23年間破られることはなかった。
1995年、キャンプ・マライアを設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに芸術や就業機会を学ぶ場を提供している。同時にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のNYの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している。
1996年にはPeace Officer's Memorial Serviceに参加し、ビル・クリントン(第42代大統領)の前で「Hero」を披露した。
1997年、アルバム『Butterfly』からの1stシングル「Honey」を発表。この曲は当時の音楽界に衝撃を走らせ、マライアによるこの曲の発表によってロックやポップスなどから、R&BやHip-Hopなどがアメリカでは全盛期を迎えることになった。ヒップホップビートのサンプリングや、ラップとヴォーカルの融合によるクロスオーバーは今でこそ多くのアーティストが行なっているが、マライアが試みていた当時は同スタイルでのヒット曲が皆無であった。95年にラッパーのODBを起用してマライア自身がプロデュースした「ファンタジー」が8週間全米1位を獲得し、さらにこの「Honey」が初登場1位となったことで、アメリカの音楽トレンドが変わっていったとされている。この現象は日本の音楽にも波及し、直後にデビューした宇多田ヒカルや後のR&B系歌姫達の基盤を作った。後のインタビューで、地元ニューヨークがルーツとされるヒップホップは10代の頃から慣れ親しんでおり、このジャンルで認められることが黒人の父を持つ自身のアイデンティティーにはとても大切なものであったと語っている。
音楽的にはそれまでのポップ、アダルト・コンテンポラリーから、R&B、ヒップホップ系にシフトし、90年後半以降の音楽トレンドの先駆者となった。後に彼女がこのアルバムのコンセプトであるバタフライをトレードマークとしているように、デビュー当時の商業的ポップ志向から離れ、よりプロデューサとしてマライア独自の芸術性・音楽性を開放していくきっかけとなった。
1998年にはホイットニー・ヒューストンとのデュエット曲「When You Believe」(映画『プリンス・オブ・エジプト』主題歌)を発表。同年発売された初のベスト・アルバム『#1's』に収録された。
この時点で、彼女が会社(ソニー・ミュージック)に生み出した利益は1000億円を超えたと言われている。
1999年のアルバム『Rainbow』を最後にソニー・ミュージックを離れEMI傘下のヴァージン・レコードに移籍。史上最高クラスの8000万ドル(当時約128億円)もの契約金が話題となった。しかし97年に離婚した元夫のトミー・モトーラからのDVや、離婚後の仕事面での嫌がらせが引き金となり、双極性障害という精神疾患を発症し現在でも病気と向き合っている。
同年、初主演映画『グリッター きらめきの向こうに』が公開されるが、興業的には失敗に終わる。そのサウンドトラックアルバム『Glitter』は映画の失敗、発売日(9月11日)がアメリカ同時多発テロ事件と重なったなどの不運もあり、低調なセールスに終わった。日本では契約の関係上『Glitter』もソニーから発売され、東芝EMI・現EMIミュージック・ジャパンからは1枚もリリースされていない。同サウンドトラックからシングルカットされた「Loverboy」はビルボードのシングルセールスチャートで年間No.1を獲得している。
ほどなくしてアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(Island/Def Jam Music Group、ユニバーサルミュージック傘下)とレコード契約を結び、2002年にアルバム『Charmbracelet』をリリースした。同年12月にプロモーション来日している。
そして2005年、3年ぶりとなるアルバム『The Emancipation Of Mimi』を発表。1999年頃からの奥行きを増したヴォーカル表現に加えて全盛期並みの高音が加わり、彼女の新境地を開いた。1stシングルの「It’s Like That」が全米ダンスチャートで1位となり、続く2ndシングル「We Belong Together」が通算14週1位を獲得、年間売り上げNo.1シングルとなり、3rdシングル「Shake It Off」も6週連続2位(その時の1位は「We Belong Together」であった)と大ヒットを記録した。11月には、同アルバムに新曲やDVDを加えた『Ultra Platinum Edition』を発売(日本では2006年1月に国内盤を発売)、続く4thシングル「Don't Forget About Us」も2週連続1位となり、同年2曲以上の1位を獲得した唯一のアーティストとなった。アルバムはシングルの「We Belong Together」と共に2005年の全米年間セールスNo.1、全世界で売上約1000万枚を超える特大ヒットとなり、『The Return Of The Voice』と形容される音楽史上最大規模と言われるほどの復活を遂げた。アメリカン・ミュージック・アワード1部門、グラミー賞3部門など数多くの賞に輝いた。この復活を受け、マライアの第二期黄金時代に突入したとも言われている。この功績は、自身が90年代から根を張っていた音楽トレンドと、マライア自身の音楽趣向がうまくマッチして起きたことと言われている。このアルバムでもカニエ・ウエストやネリー、ファレル・ウィリアムズなどヒップホップ界の旬の顔ぶれと作曲、プロデュースをしており、80年代や90年代にデビューした大物アーティストの中で、2000年以降にも一線で活躍する数少ないアーティストの一人となっている。
2005年9月8日、ニューヨークで開催された『FASHION ROCKS 2005』に出演。2005年12月31日には、毎年全米に生中継される人気年越し番組『Dick Clark's New Year's Rockin' Eve 2006』に出演し、ニューヨークのタイムズ・スクエアにて約100万人のファンを前にライブを行なった。
2008年4月、アルバム『E=MC2』をリリース。先行シングル「Touch My Body」はBillboard Hot 100で1位を獲得した。彼女のビルボードでのシングル1位獲得数は18曲となり、50年以上保持されていたエルヴィス・プレスリーの記録に並んだ。これはビートルズの20曲に継ぐ歴代2位のタイ記録である。同年のアメリカン・ミュージック・アワードでこの功績を称えた特別功労賞を受賞。同時期に、アイランド・デフ・ジャムとの再契約を発表した。
4月26日、『グリッター きらめきの向こうに』以来の映画復帰作『Tennessee』が、トライベッカ映画祭にてプレミア上映された。2009年6月5日に全米で公開されたこの作品でマライアは主演を務め、劇中では初めてカントリーソングを披露している。
2008年9月5日、ニューヨークで開催された『FASHION ROCKS 2008』に出演。11月にはモナコで開催されたWorld Music Awardsでも、ソロアーティストとして全米No.1獲得数が歴代1位になったことから「Special Achievement Award(特別功労賞)」を受賞した。
2009年1月、バラク・オバマ大統領の就任記念パーティーにて「Hero」を披露した。
2009年6月に発表した1stシングル「Obsessed」では、数年来エミネムから受けていた一方的なビーフ(ヒップホップ音楽でアーティスト同士がお互いをディスる表現手法)をあざ笑うかのように、「なぜ私につきまとうの?」と歌っている。またミュージックビデオでは、エミネム風の青年に男装し、同作はスマッシュヒットとなった。だが、それ以降に予定されていた新アルバムのプロモーションへの出演キャンセルや日程変更が相次ぎ、同年9月に発売されたアルバム『Memoirs of an Imperfect Angel』は初登場1位を逃し3位にとどまり、初動セールスも前作を大きく下回るセールスとなった。しかし、その一方でブラジルでは2ndシングル「I Want To Know What Love Is」がラジオエアプレイチャートで27週連続1位になる前代未聞の新記録を達成(歴代1位)するなど、爆発的ヒットとなった。
2009年7月7日、ロサンゼルスで行われたマイケル・ジャクソンの追悼式に友情出演、自身もカバーし全米No.1を獲得した「I'll Be There」を披露した。10月24日には、ブラジルで開催された『oi FASHION ROCKS 2009』に出演。
2009年11月に公開された映画『プレシャス』では、主人公を担当するソーシャル・ワーカーを演じた。劇中では髪を暗く染めノーメイクのような化粧をしており、本人曰く付け髭も着用するなど普段の彼女とは思えないような風貌であった。2010年1月5日に行われた第21回パームスプリングス国際映画祭の授賞式にて新人女優賞に当たるブレイクスルー・アワードを受賞した。
2010年8月21日、ブラジルで初のコンサートを開催し、3万人の観客を前に圧巻のパフォーマンスを披露。
11月、1994年リリースの『Merry Christmas』以来、自身2作目となるクリスマスアルバム『Merry Christmas II You』を発売。10月発売の先行シングル「Oh Santa!」は、ビルボードのホリデイチャートにて初登場1位を記録した。アルバムは前作をチャート・初動セールス共に上回る初登場4位を記録、自身にとって16作目となるアルバムTOP10入りを果たした。また、クリスマスアルバムとしては異例のR&B/Hip-Hopアルバムチャートにてビルボードチャートの歴史上2作目となる1位を記録したほか、ビルボードのホリデイデジタルチャートにて1位と2位を独占するというビルボード史上初めての記録を樹立。それに続くようにTOP50以内に10曲をチャートインさせる快挙も達成した。
11月末には、マライア自身がプロデュースしたアメリカ大手ショッピングチャンネル『HSN』とのコラボレーション商品を発表。販売開始からわずか6分で完売した。
2011年、男性アーティストとのデュエット曲が相次いで発表され、9月にはトニー・ベネットのデュエットアルバム『Duets II』にて「When Do The Bells Ring For Me」をデュエットした。11月にはジャスティン・ビーバーのクリスマスアルバム『Under the Mistletoe』にて、マライアのクリスマスの代表曲「All I Want for Christmas Is You」をデュエットし、ミュージックビデオで披露したダイエット成功後のスリムなサンタのコスプレ姿が話題となった。11月末には、前年発売のアルバム『Merry Christmas II You』からの3rdシングル「When Christmas Comes」にて、ジョン・レジェンドとデュエットした。
11月17日、T-Mobileの企画で欧州各5都市にてホログラム技術を使った『バーチャルクリスマスコンサート』を開催、集まった人々を驚かせ、大盛況に終わった。12月10日には、これまでにおける恵まれない子供達への社会貢献、また世界中の女性達を勇気付けてきたことが認められ、ロンドンで開催された『ノーベル・ギフト・ガラ』にて「2011 Noble Gift Humanitarian Award」を授与された。
2012年1月、『BET Honors 2012』にてこれまでの功績が称えられ、「Entertainer Award」を授与された。授賞式ではパティ・ラベルやケリー・ローランド等がマライアの曲を歌い、トリビュートパフォーマンスを披露した。
2月11日、ホイットニー・ヒューストンの死去にショックを受け、当初予定されていたテレビ出演の予定をキャンセルし、出演は延期となった。その後、マライアは自身のTwitterで「比類なき我が友、ホイットニー・ヒューストンの衝撃の死に悲嘆と涙を。ホイットニーの家族と世界中の多くの彼女のファンに心からのお悔やみを。彼女のその偉大な歌声は、永遠に忘れ去られることはないわ。」と追悼のコメントを発表、自身のYouTubeアカウントでもホイットニーの追悼動画をアップした。2月21日には、出産後のダイエット成功後、初めての公の場への出演となった米の人気番組『Good Morning America』において、ホイットニーとの思い出を語った。
ホイットニー自身も生前のインタビューでマライアと歌姫同士、ライバルなのではないかと尋ねられた際に「人がどんな苦労をして成功を手に入れたかは、実際に会って話してみるまでわからない。マライアと会って話していく中で、共感出来ることがたくさんあった。誠実で正直な人であれば、そういう関係が築けるもの。お互い気軽に電話して「元気にしてる?」って言うような仲になれた。本当に彼女のことを気にかけているし、愛している。マライアは優しい人だし、本物の歌手だしね。」と話している。
3月1日、ニューヨークにて行われたライブイベント『Plot Your Escape』で出産後初のライブ出演を果たし、約40分間のステージにてブランクを感じさせない圧倒的なパフォーマンスを披露した。同年5月26日にはモロッコの首都ラバトで開催された国際的な音楽祭『Mawazine Festival』のトリを務め上げ、6月2日にはモナコのSporting Monte-Carlにて約90分間のライブを開催した。
7月1日に開催されたイベント『BETアワード 2012』で行われたホイットニー・ヒューストンへのトリビュートパフォーマンスでは、最初にマライアがサプライズで登場し会場を驚かせた。また、スピーチで今は亡きホイットニーとの思い出を語り、途中感極まって涙ぐむ場面もあった。
7月23日、かねてから噂されていた米人気オーディション番組『アメリカン・アイドル』の来シーズンの審査員としてマライアが参加することが発表され、翌2013年1月から5月に放送されたシーズン12において、ニッキー・ミナージュらとともに審査員を務めた。なお、一部報道では1シーズン(約半年)のギャラが、米リアリティ番組史上最高額の1800万ドル(日本円約14億4千万円)超え、と報じられた。
7月29日、HitFixによるミュージックパワーランキングで堂々の1位にランクイン。8月3日には、リック・ロスとミーク・ミルを起用した新曲「Triumphant (Get 'Em)」を発表した。
2013年5月7日にリリースされた新曲「#Beautiful」がBillboard Hot 100で最高15位まで上昇、世界30か国以上でNo.1を記録するヒットとなった。8月16日、『プレシャス』以来4年ぶりの映画出演作となる『大統領の執事の涙』が全米で公開。10月7日、新たなマネージャーに、長年に渡りタッグを組んできたジャーメイン・デュプリが就任する事が発表された。
2014年5月、5年ぶりのスタジオ・アルバム『Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse』をリリース。Billboard 200で初登場3位を記録するも、デビュー以来過去最低の初動セールスという厳しい結果となった。9月、TIME誌が発表した「究極のポップスター」ランキングで1位に輝いた。10月には約8年ぶりとなる来日ライブを開催。
2015年3月、10年以上に渡って在籍したアイランド・デフ・ジャムを離れ、ソニー・ミュージック傘下のエピック・レコードへ移籍、5月18日にこれまでの全米No.1ヒット曲を全て収録したベスト・アルバム『#1 to Infinity』を発売した。またアルバムリリースに合わせ、5月6日よりラスベガスのシーザーズ・パレス・コロシアムにて『Mariah Carey #1's』と題した長期コンサートがスタートした。
8月5日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの2,556番目の星がマライアに贈られた。
11月10日、アメリカにて自身の大ヒット曲をモチーフとした絵本『All I Want For Christmas Is You』が発売される。
12月19日、米ケーブルテレビのホールマーク・チャンネルにて、マライアの監督デビュー作となるテレビ映画『A Christmas Melody』が放映。
2016年3月より『The Sweet Sweet Fantasy Tour』と題された長期ツアーを敢行し、ヨーロッパ各国、南アフリカ、メキシコ、アメリカにて公演を行った。
12月31日、伝統ある大晦日特番『New Year’s Rocking Eve』に出演、「Emotions」と「We Belong Together」を披露したが、技術的トラブルによって口パクが発覚するハプニングがあった。
2017年2月3日、2年ぶりの新曲「I Don't Feat. YG」を発表。同曲のミュージックビデオの中で、マライアがウエディングドレスを燃やすシーンが話題となった。
10月、映画『ザ・スター』主題歌として書き下ろされた新曲「The Star」を発表。マライアの双子の子供もコーラスで参加した。また、同曲は第75回ゴールデン・グローブ賞の最優秀主題歌賞にもノミネートされた。
12月、2015年に発売された絵本『All I Want For Christmas Is You』を原作とする同名のアニメーション映画が北米にて公開。新曲「Lil Snowman」を含めたサウンドトラックも発売された。日本においても11月22日にサウンドトラックが、12月21日に同映画の日本盤DVD「マライア・キャリー クリスマスにほしいもの」が発売された。
12月31日、『New Year’s Rocking Eve』に再び出演、完全な生歌で「Vision of Love」と「Hero」を熱唱し、昨年の失敗のリベンジを果たした。
2018年9月14日、ニューアルバムからのプロモーションシングル「GTFO」を発表し、ミュージックビデオを公開。アルバムの発売が2018年冬になることも併せて発表した。10月5日にアルバムからの正式なファーストシングル「With You」を発売。9日には「American Music Awards」に10年ぶりに出演し、10人の以上の男性ダンサーを従えて「With You」を初披露した。
2018年10月より、『Mariah Carey: Live In Asia』と題されたツアーを行った。マレーシア、タイ、中国、台湾などのアジア各国で公演を行い、4年ぶりとなる来日公演も大阪と東京で開催された。また、この来日公演を記念し、No.1ヒットやファンに人気の曲全19曲を収録した初の日本独自企画作品「マライア・キャリー ジャパン・ベスト」が10月17日に発売された。
11月15日、最新アルバムの発売を控える中、ある一人の男性ファンによるTwitterへの投稿がきっかけで広まった「#JusticeforGlitter(グリッターに正当な評価を)」という運動により、アルバム『Glitter』がiTunesチャートで発売から17年の時を経て1位を獲得。同作はマライアの初主演映画として2001年に公開された『グリッター きらめきの向こうに』のサウンドトラックとして発売されたが、同映画の興行的失敗により彼女の作品の中でも最低の売り上げを記録していた。これを受け、マライアはTwitterで「私のファンは最高よ!」とコメントしている。 11月16日、『Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse』より4年ぶりとなる通算15枚目のスタジオアルバム『Caution』をリリース。初週で51000ユニットを売り上げBillboard 200で5位、R&B/Hip-Hopアルバムチャートでは通算8枚目となる首位を獲得した。
12月24日、クリスマスの定番ソングとして知られる「All I Want For Christmas Is You」がSpotifyにおける世界での再生回数で1日に1080万回以上を記録し、同サイトにおいて史上最多となった。
2019年5月1日に開催された「2019 ビルボード・ミュージック・アワード」にて音楽界に与えた偉大な功績が評価され「アイコン賞」を受賞する。式典内では受賞を記念し、最新曲「A No No」をはじめ「We Belong Together」「Always Be My Baby」などの大ヒット曲を含めたメドレーを披露した。
12月21日付のBillboard Hot 100において「All I Want For Christmas Is You」がリリースから25年を経て1位を獲得した。マライアの楽曲が同チャートにおいて首位を獲得したのは2008年発売の「Touch My Body」以来、11年ぶりのことである。
2020年に、デビュー30周年を迎えた事を記念して9月29日に初の自伝『ザ・ミーニング・オブ・マライア・キャリー』を出版し、New York Timesでベストセラー認定された。10月2日にはアルバム『The Rarities』を発売。また新型コロナウイルスの影響で、2021年にハワイで予定されていたコンサートがキャンセルされた。マライアは医療従事者のために、家のスタジオから「Hero」を熱唱した。他にもテレビ番組などでは、「Make It Happen」と「Through the Rain」のメドレーや、「Vision of Love」「Close My Eyes」など、往年の名曲を披露した。
2021年2月に公開された「We Belong Together MIMI's Late Night mix」では、マライア自身が作詞作曲を行ったエクステンデッドバージョンも公開された。2021年11月にはクリスマスソングの新曲「Fall in Love at Christmas」を公開。さらに、Apple TV+ で、2020年に100カ国以上で1位を獲得した人気番組の続編である、「Mariah's Magical Christmas Continuous」を公開した。
2022年3月には、アメリカの人気ラッパーLattoによる「Fantasy」をサンプリングした新曲「Big Energy」のリミックスに参加。DJ Khaledは、ODBのラップパートを再現し、マライアは「Fantasy」の印象的なオープニングを歌った。このリミックスバージョンは、iTunes chart USで1位を獲得するなど、世界的に人気を博した。同年4月には、Masterclassに登場し、ティーザーでは「Fantasy」をファンと歌う姿が公開された。本編では作曲家、プロデューサーとして音楽制作について語り、オーケストラ奏者たちを率いて編曲作業をする姿を見せた。自身の曲「The Roof」を編曲し、ブランディをフィーチャリングした新たなバージョンを制作した。
2021年頃からTikTokやInstagramの動画でマライアの曲が毎シーズントレンドになってり、これまでに「Fantasy」「We Belong Together」「Lead The Way」「Obsessed」「It's A Wrap」「Touch My Body」「My All」などで動画が作られている。
デビュー当時のキャッチコピーは『7オクターブの音域を持つ歌姫』(但しこれには誇張があり、実際のマライアの音域はF2〜Gb7の5オクターブ半である。5オクターブ半と言っても、数多く存在する歌手の中でもかなり広く、女性では不可能に近い男性並の低音域から、ハープやフルートの最高音に匹敵する超高音域のホイッスルボイスまでを自在に操っている)。音域をいっぱいにまで使った曲はデビューから今もなおよく見られ、最も高い声を出す人としてギネス・ブックに認定されていた。
1993年6月5日にトミー・モトーラ(Tommy Mottola)と結婚したが、音楽的主観の違いや、服装(トップスやパンツの丈を指示する等)や私生活に極度に制限を言いつけたり、マライアへの監視(尾行や盗聴)、パーティー会場でバターナイフを喉元に突きつけられる事件などが原因となり、1997年に別居し、翌年離婚。離婚直前まで彼女はマイケル・ジャクソンに悩みを打ち明けて聞いてもらっており、マイケル自身が業界人向けのパーティーでマライアを助けようと演説を行った映像が流出している。その後は野球選手のデレク・ジーターや歌手のルイス・ミゲルやらと交際。
2008年4月30日に俳優兼ラッパーのニック・キャノンとシングル「Bye Bye」のビデオ撮影をきっかけにして交際し、結婚。2010年夏頃から妊娠が噂され、夫とスポークスマンはそれを認めたが、自身は2年前に流産を経験していることから安定期に入るまでコメントを控えていた。2010年10月28日に第1子妊娠を正式公表。翌年の2011年4月30日に男女の双子を出産した。女の子は"ハリウッドの永遠のセクシー・アイコン"ことマリリン・モンローに由来した、モンロー・キャノン、そして男の子は、モロッカン・スコット・キャノンと命名。これはマライアがニューヨークに所有するアパートの最上階"モロッカン・ルーム"からきており、ここはニックが2008年にマライアにプロポーズした場所でもある。また、ミドルネームの"スコット"はニックも同じで、これは彼の祖母の旧姓だという。
それ以降も毎年結婚式を挙げるなど仲睦まじい様子を見せていたが2014年8月、別居が報じられ夫ニックもこれを肯定。2015年1月にマライアが離婚を申請した。慰謝料の問題などで一時は関係が悪化していたものの、2017年4月にはニックと2人の子供と共にイースターを祝う写真をインスタグラムに投稿するなど、子供のために現在でも良好な関係を続けている。
2016年1月にはオーストラリアの億万長者ジェームズ・パッカーと婚約したものの、同年10月に婚約を解消。2017年には日系アメリカ人ダンサーであるブライアン・タナカと交際中と報じられた。
2006年に全米美脚コンテストというイベントで美脚セレブリティ賞を受賞しその足に10億ドル(当時約1130億円)もの保険をかけ話題になった。しかし2017年ごろには体重が120kgを超え、その美脚は見る影もなくなってしまった。
2007年1月、経済誌フォーブス誌が『エンターテイメント界で活躍する女性で資産の多い女性』のトップ20を発表し、総資産約272億円で6位にランクインしている。
2011年1月、Us Weeklyによるとマライアが夫のニック・キャノンからクリスマスプレゼントとして40万ドル(日本円で約3400万円)のロールス・ロイスを贈られていたことがわかった。マライアは1月4日に自身のTwitterに「まだニックからのクリスマスプレゼントが信じられないの。ナンバープレートには『mommyMC』と書いてあるわ」というツイートと共にニックからもらったロールス・ロイスの写真を掲載している。
2011年2月、BANG Media Internationalによると、生まれてくる双子の子供のためにビバリーヒルズの豪邸の一棟全体を子供部屋としてリフォームしたという。関係者の話によれば、改装した子供部屋の壁は18金で加工された廻り縁で飾られたアイボリーで、ウォークインクローゼットはプッティ・トレゾールのブランド服でいっぱいだという。さらに音響システムも最高のものが設置され、それぞれの赤ちゃんにダイヤモンドで飾られたiPodが用意され、天井から薄型テレビが降りてくるようになっているという。家具も2200ドル(日本円で約18万円)するベビーベットが2台、2800ドル(日本円で約23万円)のオムツ交換台、パパとママ用に2270ドル(日本円で約18万6000円)のグライダーチェア(座面が前後に動くロッキングチェア)2台と100万ドル(日本円で約8200万円)のソファが用意されているという。ソファはマイケル・ジャクソンのコンサート先で使われたもので24金とオニキスで装飾されたクラッシュト・ベルベット仕上げになっており、後ろ面には花綱の飾りがついているものだという。このリフォームを担当したインテリアデザイナーのケネス・ボーデウィックは「やりすぎと思うかもしれませんが、マライアの子供が欲しいという夢が叶ったんです。彼女自身もこの双子は世界一甘やかされた子供になると言っていますよ」とコメントしている。
2019年時点では、音楽アーティストの資産ランキングにて総資産5億ドル(日本円約550億円)とされている。
アイルランド系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の間に生まれたマライアは、人種的には所謂クアドルーンにあたる。その事から、幼い頃から醜い差別に遭いながら自分の居場所が無いと感じ少女期を過ごした為、今もなおそのことに対するコンプレックスを持っていると2010年1月オブザーバー・ウーマン誌に語った。
2018年、米誌ピープルとのインタビューで、双極性障害を患っており17年間闘病していたことを告白。2001年に診断されたが、受け入れることができず、最近になって治療と薬物投与を始めたと明かした。
日本では特に人気が非常に高く、『Music Box』は220万枚、『Merry Christmas』は250万枚、『Daydream』は240万枚を出荷。ベスト・アルバム『#1's』は約360万枚を売り上げ、洋楽アルバム史上最高セールスを記録した。計8作のアルバムが日本レコード協会からミリオンセラーに認定され、女性ソロ歌手としては10作の松任谷由実、浜崎あゆみに次ぐ記録である(2005年9月現在)。日本でのトータルセールスは約1600万枚。
1994年に『All I Want For Christmas Is You』がフジテレビ系連続ドラマ『29才のクリスマス』の主題歌に起用され130万枚の大ヒット。
2000年には缶コーヒー「ネスカフェ・サンタマルタ」のCMに出演し明石家さんまと共演した(ただし別撮りであり、CG合成により対面させている)。マライアはCMソング『Thank God I Found You』(ソロバージョン)も歌っている。
2004年には日本の唱歌『朧月夜』(「Misty Moon」)を歌い、『爽健美茶』・『爽健美茶 緑茶ブレンド』(日本コカ・コーラ)のCMに起用された(CD発売はされていない)。
2008年は『I'll Be Lovin' U Long Time』が日本テレビ系プロ野球中継「PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球」の2008年度テーマ曲に選ばれる。その縁で5月のプロモーション来日時に東京ドームでの読売ジャイアンツの試合で始球式を行った。
フジテレビの軽部真一アナウンサーと親交が深く、来日の際にはほぼ確実にインタビューを行っている。また、数年前に軽部からプレゼントされた犬を現在も育てていたり、自宅に招いての単独インタビューに応じるなど、マライアからは非常に気に入られている。
2011年に起きた東日本大震災にツイッターを通じ、「日本のみなさんへ私の愛と祈りを贈ります。私達は日本のみなさんがこの悲劇を乗り越えられると信じていると同時に、いつもみなさんのことを想っています。神の御加護を。愛してます。」とのコメントを行った。
2000年代以前にデビューし、現在では30年以上の活動歴があるアーティストの中でも、マライアは今だにファンミーティングやSNSでのファンとのやり取りを頻繁に行っている数少ないアーティストの1人。実際に2010年以降に発表されたアルバム『Me. I Am Mariah...』や『コーション』のプロモーションでも、出演したテレビ番組やイベントでファンへのドッキリを仕掛けたり、ファンが直接マライアにインタビューできるなど、ファンとの距離が近いことでも知られている。実際に本人の発言は数十年間一貫しており、1999年に受賞したアメリカンミュージックアワード「Artist of the Decade」の受賞スピーチでは「ファンへの恩返しをします。決して忘れません。"I owe this to the fans, and I will never forget you." 」と言い、2019年にビルボードミュージックアワード「Billboard Icon Award」を受賞した際には涙を堪えながら以下のように語った。
"I've dedicated my life to my music, my saving grace, and to my fans who are unlike any other entity that I've ever known. They lifted me out of the depth of hell and brought me back with the devotion and love."
「私は人生を音楽——私にとっては神のご加護のようなもの——そしてファンたちへ捧げてきました。彼らは私が今まで知り得もしなかったような存在で、地獄の底から私を救い上げ、深い愛で立ち直らせてくれました。」
現在では欧米やアジアを中心に、ポップアーティストのファンベースにはそれぞれ名前が付けられ、一昔前のファンクラブのような動きがSNSなどの台頭でより活発になっている(BTSのAMRYやテイラー・スフィフトのSwiftiesなど)が、2000年代前半にマライアのアメリカを中心としたファンベースが、自らを「Lamb(ラム・子羊)」と呼び始めるまではそういった呼称の存在が確認されていない。これは、90年代からマライアのバックコーラスを務め、ツアーやイベントでもいつも一緒にいる姿が見られている歌手のトレイ・ロレンツとマライアがジョークでお互いを「迷える子羊」と呼び合うことがあり、それを目にしたファンたちが真似するようになったことがきっかけだったようだ。
以下は全米TOP10入りした作品。太字は全米1位作品(Billboard Hot 100)。カバー曲以外の全曲を自身が作詞・作曲している。
日本でのコンサートツアーは今までに7回行われており、北米以外を含むワールドツアーでは、頻繁に日本公演を行っている。
また来日公演の際には、(2014年以外)必ずアンコールの最後で「恋人たちのクリスマス」が歌われている。これは、同曲が日本で大ヒットしたことを受け、マライア自身が日本のファンに向けていつもアンコールの最後に歌っているものであり、12月に行われる他国の公演を除いては、日本公演独自の演出となっている。
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"text": "マライア・キャリー(英: Mariah Carey [məˈraɪə ˈkɛəri]、1969年3月27日ー)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、女優、慈善活動家である。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では『Songbird Supreme(究極の歌姫)』と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している。",
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"text": "音楽はコンテンポラリー・R&B、ヒップホップ、ゴスペルなどのブラックミュージックを基盤としている。Billboard Hot 100における首位獲得週最多記録保持者であると同時に、現存するアーティストの中で最も全米1位を獲得した人物として2023年現在も記録を塗り替えている。",
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"text": "Songwriters Hall of Fame(ソングライターの殿堂)に殿堂入りを果たしており、これまでにリリースした数々のヒット曲を含む延193曲の作詞作曲を自身が手掛けてきた功績が認められている。",
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"text": "マライアが作詞作曲をした代表曲の1つである「All I Want For Christmas Is You 邦題:恋人たちのクリスマス」は2020年12月15日に全米1位を獲得し、その後も毎年1位を獲得し続けており、2023年12月の時点で自身の首位獲得週を92週に更新している。また、2020年に1位を獲得したことで、4つの年代(1990年代、2000年代、2010年代、2020年代)にわたり1位を獲得した史上初のアーティストとなった。同曲の音源は、米国議会図書館が管理する全米録音資料登録簿に永久保存されている。",
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"text": "歌唱力においては、5オクターヴ半(F2〜Bb7を観測)という声域を余すことなく表現に活かしたライヴパフォーマンスと楽曲で知られており、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な200人のシンガー」においては第5位にランクインしている。超高音域のホイッスルボイスや、メリスマ唱法(1音節の発声を複数の音符で彩る歌唱テクニック)の女王と呼ばれている。",
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"text": "2023年8月時点で、グラミー賞(5冠)、World Music Awards(史上最多の19冠)American Music Awards(10冠)、Billboard Music Awards(15冠)、などの世界主要音楽賞を含めた計166賞の受賞歴を誇る。",
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"text": "全世界でシングルセールス6600万枚以上、アルバムセールス2億2000万枚以上、トータルセールス2億8000万枚以上のセールスを記録している。(2023年8月)",
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"text": "1995年にキャンプ・マライアというチャリティー基金団体を設立し、25年以上もの間子供達への職業体験イベントやサマーキャンプ、クリスマスイベントを提供している。",
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"text": "ベネズエラ系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人の血を引く)とアイルランド系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれた。当時まだアメリカでも広く受け入れられていなかったミックス人種として人種差別を受けたり、実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした。マライアが3歳の時に両親は離婚している。後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が音楽であったと度々語っている。この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。",
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"tag": "p",
"text": "ハイスクール卒業後、マンハッタンへ移り、ウェイトレスやアーティストのバックコーラスなどをしてスタジオ代を賄いながら作曲やレコーディングに明け暮れた。コーラスの仕事中でブレンダ・K・スターと出会い、ブレンダに連れられて訪れたパーティー会場でCBSレコード(コロンビアレーベル、現:ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国))のトミー・モトーラ社長へ渡したデモテープがきっかけとなり契約を交わした。当時の契約から、マライアの音楽制作物に関する芸術活動の全ての選択においてマライア自身が関わることを保証すると書かれていた。1990年に「Vision of Love」でデビュー。デビュー直前にNBAファイナルで「America the Beautiful」を熱唱し、トレードマークのホイッスルボイスを披露すると、会場司会から「この場に女神が誕生した。」と喝采を受け、後日出演したGood Morning Americaでのライブパフォーマンスで見せつけた歌唱力が話題になったことから、デビュー曲の「Vision of Love」とアルバム『Mariah Carey』は共に1位を獲得した。",
"title": "略歴"
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"text": "1990年から2000年にかけてデビューから11年間、毎年全米1位を獲得した史上最長記録(2位はビートルズとエルビス・プレスリーの7年連続)を打ち立て、鮮烈なキャリアスタートを切った。",
"title": "略歴"
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"text": "1991年には女性アーティストとして3人目となる『ビルボード』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。",
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"text": "アルバム『Music Box』(1993年)、『Daydream』 (1995年)はソロアーティスト自身が作詞、作曲を行った作品としては珍しく、全世界で各2500万枚を超える大ヒットとなった。Boyz II Menとのデュエット曲「One Sweet Day」は1995年から1996年にかけてBillboard Hot 100で16週連続No.1を獲得。この最長記録は2019年にリル・ナズ・X「オールド・タウン・ロード」が19週連続No.1を達成するまで23年間破られることはなかった。",
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"text": "1995年、キャンプ・マライアを設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに芸術や就業機会を学ぶ場を提供している。同時にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のNYの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している。",
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"text": "1996年にはPeace Officer's Memorial Serviceに参加し、ビル・クリントン(第42代大統領)の前で「Hero」を披露した。",
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"text": "1997年、アルバム『Butterfly』からの1stシングル「Honey」を発表。この曲は当時の音楽界に衝撃を走らせ、マライアによるこの曲の発表によってロックやポップスなどから、R&BやHip-Hopなどがアメリカでは全盛期を迎えることになった。ヒップホップビートのサンプリングや、ラップとヴォーカルの融合によるクロスオーバーは今でこそ多くのアーティストが行なっているが、マライアが試みていた当時は同スタイルでのヒット曲が皆無であった。95年にラッパーのODBを起用してマライア自身がプロデュースした「ファンタジー」が8週間全米1位を獲得し、さらにこの「Honey」が初登場1位となったことで、アメリカの音楽トレンドが変わっていったとされている。この現象は日本の音楽にも波及し、直後にデビューした宇多田ヒカルや後のR&B系歌姫達の基盤を作った。後のインタビューで、地元ニューヨークがルーツとされるヒップホップは10代の頃から慣れ親しんでおり、このジャンルで認められることが黒人の父を持つ自身のアイデンティティーにはとても大切なものであったと語っている。",
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"text": "音楽的にはそれまでのポップ、アダルト・コンテンポラリーから、R&B、ヒップホップ系にシフトし、90年後半以降の音楽トレンドの先駆者となった。後に彼女がこのアルバムのコンセプトであるバタフライをトレードマークとしているように、デビュー当時の商業的ポップ志向から離れ、よりプロデューサとしてマライア独自の芸術性・音楽性を開放していくきっかけとなった。",
"title": "略歴"
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"text": "1998年にはホイットニー・ヒューストンとのデュエット曲「When You Believe」(映画『プリンス・オブ・エジプト』主題歌)を発表。同年発売された初のベスト・アルバム『#1's』に収録された。",
"title": "略歴"
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"text": "この時点で、彼女が会社(ソニー・ミュージック)に生み出した利益は1000億円を超えたと言われている。",
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"text": "1999年のアルバム『Rainbow』を最後にソニー・ミュージックを離れEMI傘下のヴァージン・レコードに移籍。史上最高クラスの8000万ドル(当時約128億円)もの契約金が話題となった。しかし97年に離婚した元夫のトミー・モトーラからのDVや、離婚後の仕事面での嫌がらせが引き金となり、双極性障害という精神疾患を発症し現在でも病気と向き合っている。",
"title": "略歴"
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"text": "同年、初主演映画『グリッター きらめきの向こうに』が公開されるが、興業的には失敗に終わる。そのサウンドトラックアルバム『Glitter』は映画の失敗、発売日(9月11日)がアメリカ同時多発テロ事件と重なったなどの不運もあり、低調なセールスに終わった。日本では契約の関係上『Glitter』もソニーから発売され、東芝EMI・現EMIミュージック・ジャパンからは1枚もリリースされていない。同サウンドトラックからシングルカットされた「Loverboy」はビルボードのシングルセールスチャートで年間No.1を獲得している。",
"title": "略歴"
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"text": "ほどなくしてアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ(Island/Def Jam Music Group、ユニバーサルミュージック傘下)とレコード契約を結び、2002年にアルバム『Charmbracelet』をリリースした。同年12月にプロモーション来日している。",
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"text": "そして2005年、3年ぶりとなるアルバム『The Emancipation Of Mimi』を発表。1999年頃からの奥行きを増したヴォーカル表現に加えて全盛期並みの高音が加わり、彼女の新境地を開いた。1stシングルの「It’s Like That」が全米ダンスチャートで1位となり、続く2ndシングル「We Belong Together」が通算14週1位を獲得、年間売り上げNo.1シングルとなり、3rdシングル「Shake It Off」も6週連続2位(その時の1位は「We Belong Together」であった)と大ヒットを記録した。11月には、同アルバムに新曲やDVDを加えた『Ultra Platinum Edition』を発売(日本では2006年1月に国内盤を発売)、続く4thシングル「Don't Forget About Us」も2週連続1位となり、同年2曲以上の1位を獲得した唯一のアーティストとなった。アルバムはシングルの「We Belong Together」と共に2005年の全米年間セールスNo.1、全世界で売上約1000万枚を超える特大ヒットとなり、『The Return Of The Voice』と形容される音楽史上最大規模と言われるほどの復活を遂げた。アメリカン・ミュージック・アワード1部門、グラミー賞3部門など数多くの賞に輝いた。この復活を受け、マライアの第二期黄金時代に突入したとも言われている。この功績は、自身が90年代から根を張っていた音楽トレンドと、マライア自身の音楽趣向がうまくマッチして起きたことと言われている。このアルバムでもカニエ・ウエストやネリー、ファレル・ウィリアムズなどヒップホップ界の旬の顔ぶれと作曲、プロデュースをしており、80年代や90年代にデビューした大物アーティストの中で、2000年以降にも一線で活躍する数少ないアーティストの一人となっている。",
"title": "略歴"
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"text": "2005年9月8日、ニューヨークで開催された『FASHION ROCKS 2005』に出演。2005年12月31日には、毎年全米に生中継される人気年越し番組『Dick Clark's New Year's Rockin' Eve 2006』に出演し、ニューヨークのタイムズ・スクエアにて約100万人のファンを前にライブを行なった。",
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"text": "2008年4月、アルバム『E=MC2』をリリース。先行シングル「Touch My Body」はBillboard Hot 100で1位を獲得した。彼女のビルボードでのシングル1位獲得数は18曲となり、50年以上保持されていたエルヴィス・プレスリーの記録に並んだ。これはビートルズの20曲に継ぐ歴代2位のタイ記録である。同年のアメリカン・ミュージック・アワードでこの功績を称えた特別功労賞を受賞。同時期に、アイランド・デフ・ジャムとの再契約を発表した。",
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"text": "4月26日、『グリッター きらめきの向こうに』以来の映画復帰作『Tennessee』が、トライベッカ映画祭にてプレミア上映された。2009年6月5日に全米で公開されたこの作品でマライアは主演を務め、劇中では初めてカントリーソングを披露している。",
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"text": "2008年9月5日、ニューヨークで開催された『FASHION ROCKS 2008』に出演。11月にはモナコで開催されたWorld Music Awardsでも、ソロアーティストとして全米No.1獲得数が歴代1位になったことから「Special Achievement Award(特別功労賞)」を受賞した。",
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"text": "2009年1月、バラク・オバマ大統領の就任記念パーティーにて「Hero」を披露した。",
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"text": "2009年6月に発表した1stシングル「Obsessed」では、数年来エミネムから受けていた一方的なビーフ(ヒップホップ音楽でアーティスト同士がお互いをディスる表現手法)をあざ笑うかのように、「なぜ私につきまとうの?」と歌っている。またミュージックビデオでは、エミネム風の青年に男装し、同作はスマッシュヒットとなった。だが、それ以降に予定されていた新アルバムのプロモーションへの出演キャンセルや日程変更が相次ぎ、同年9月に発売されたアルバム『Memoirs of an Imperfect Angel』は初登場1位を逃し3位にとどまり、初動セールスも前作を大きく下回るセールスとなった。しかし、その一方でブラジルでは2ndシングル「I Want To Know What Love Is」がラジオエアプレイチャートで27週連続1位になる前代未聞の新記録を達成(歴代1位)するなど、爆発的ヒットとなった。",
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"text": "2009年7月7日、ロサンゼルスで行われたマイケル・ジャクソンの追悼式に友情出演、自身もカバーし全米No.1を獲得した「I'll Be There」を披露した。10月24日には、ブラジルで開催された『oi FASHION ROCKS 2009』に出演。",
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"text": "2009年11月に公開された映画『プレシャス』では、主人公を担当するソーシャル・ワーカーを演じた。劇中では髪を暗く染めノーメイクのような化粧をしており、本人曰く付け髭も着用するなど普段の彼女とは思えないような風貌であった。2010年1月5日に行われた第21回パームスプリングス国際映画祭の授賞式にて新人女優賞に当たるブレイクスルー・アワードを受賞した。",
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"text": "2010年8月21日、ブラジルで初のコンサートを開催し、3万人の観客を前に圧巻のパフォーマンスを披露。",
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"text": "11月、1994年リリースの『Merry Christmas』以来、自身2作目となるクリスマスアルバム『Merry Christmas II You』を発売。10月発売の先行シングル「Oh Santa!」は、ビルボードのホリデイチャートにて初登場1位を記録した。アルバムは前作をチャート・初動セールス共に上回る初登場4位を記録、自身にとって16作目となるアルバムTOP10入りを果たした。また、クリスマスアルバムとしては異例のR&B/Hip-Hopアルバムチャートにてビルボードチャートの歴史上2作目となる1位を記録したほか、ビルボードのホリデイデジタルチャートにて1位と2位を独占するというビルボード史上初めての記録を樹立。それに続くようにTOP50以内に10曲をチャートインさせる快挙も達成した。",
"title": "略歴"
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"text": "11月末には、マライア自身がプロデュースしたアメリカ大手ショッピングチャンネル『HSN』とのコラボレーション商品を発表。販売開始からわずか6分で完売した。",
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"text": "2011年、男性アーティストとのデュエット曲が相次いで発表され、9月にはトニー・ベネットのデュエットアルバム『Duets II』にて「When Do The Bells Ring For Me」をデュエットした。11月にはジャスティン・ビーバーのクリスマスアルバム『Under the Mistletoe』にて、マライアのクリスマスの代表曲「All I Want for Christmas Is You」をデュエットし、ミュージックビデオで披露したダイエット成功後のスリムなサンタのコスプレ姿が話題となった。11月末には、前年発売のアルバム『Merry Christmas II You』からの3rdシングル「When Christmas Comes」にて、ジョン・レジェンドとデュエットした。",
"title": "略歴"
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"text": "11月17日、T-Mobileの企画で欧州各5都市にてホログラム技術を使った『バーチャルクリスマスコンサート』を開催、集まった人々を驚かせ、大盛況に終わった。12月10日には、これまでにおける恵まれない子供達への社会貢献、また世界中の女性達を勇気付けてきたことが認められ、ロンドンで開催された『ノーベル・ギフト・ガラ』にて「2011 Noble Gift Humanitarian Award」を授与された。",
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"text": "2012年1月、『BET Honors 2012』にてこれまでの功績が称えられ、「Entertainer Award」を授与された。授賞式ではパティ・ラベルやケリー・ローランド等がマライアの曲を歌い、トリビュートパフォーマンスを披露した。",
"title": "略歴"
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"text": "2月11日、ホイットニー・ヒューストンの死去にショックを受け、当初予定されていたテレビ出演の予定をキャンセルし、出演は延期となった。その後、マライアは自身のTwitterで「比類なき我が友、ホイットニー・ヒューストンの衝撃の死に悲嘆と涙を。ホイットニーの家族と世界中の多くの彼女のファンに心からのお悔やみを。彼女のその偉大な歌声は、永遠に忘れ去られることはないわ。」と追悼のコメントを発表、自身のYouTubeアカウントでもホイットニーの追悼動画をアップした。2月21日には、出産後のダイエット成功後、初めての公の場への出演となった米の人気番組『Good Morning America』において、ホイットニーとの思い出を語った。",
"title": "略歴"
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"text": "ホイットニー自身も生前のインタビューでマライアと歌姫同士、ライバルなのではないかと尋ねられた際に「人がどんな苦労をして成功を手に入れたかは、実際に会って話してみるまでわからない。マライアと会って話していく中で、共感出来ることがたくさんあった。誠実で正直な人であれば、そういう関係が築けるもの。お互い気軽に電話して「元気にしてる?」って言うような仲になれた。本当に彼女のことを気にかけているし、愛している。マライアは優しい人だし、本物の歌手だしね。」と話している。",
"title": "略歴"
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"text": "3月1日、ニューヨークにて行われたライブイベント『Plot Your Escape』で出産後初のライブ出演を果たし、約40分間のステージにてブランクを感じさせない圧倒的なパフォーマンスを披露した。同年5月26日にはモロッコの首都ラバトで開催された国際的な音楽祭『Mawazine Festival』のトリを務め上げ、6月2日にはモナコのSporting Monte-Carlにて約90分間のライブを開催した。",
"title": "略歴"
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"text": "7月1日に開催されたイベント『BETアワード 2012』で行われたホイットニー・ヒューストンへのトリビュートパフォーマンスでは、最初にマライアがサプライズで登場し会場を驚かせた。また、スピーチで今は亡きホイットニーとの思い出を語り、途中感極まって涙ぐむ場面もあった。",
"title": "略歴"
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"tag": "p",
"text": "7月23日、かねてから噂されていた米人気オーディション番組『アメリカン・アイドル』の来シーズンの審査員としてマライアが参加することが発表され、翌2013年1月から5月に放送されたシーズン12において、ニッキー・ミナージュらとともに審査員を務めた。なお、一部報道では1シーズン(約半年)のギャラが、米リアリティ番組史上最高額の1800万ドル(日本円約14億4千万円)超え、と報じられた。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "7月29日、HitFixによるミュージックパワーランキングで堂々の1位にランクイン。8月3日には、リック・ロスとミーク・ミルを起用した新曲「Triumphant (Get 'Em)」を発表した。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2013年5月7日にリリースされた新曲「#Beautiful」がBillboard Hot 100で最高15位まで上昇、世界30か国以上でNo.1を記録するヒットとなった。8月16日、『プレシャス』以来4年ぶりの映画出演作となる『大統領の執事の涙』が全米で公開。10月7日、新たなマネージャーに、長年に渡りタッグを組んできたジャーメイン・デュプリが就任する事が発表された。",
"title": "略歴"
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"text": "2014年5月、5年ぶりのスタジオ・アルバム『Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse』をリリース。Billboard 200で初登場3位を記録するも、デビュー以来過去最低の初動セールスという厳しい結果となった。9月、TIME誌が発表した「究極のポップスター」ランキングで1位に輝いた。10月には約8年ぶりとなる来日ライブを開催。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2015年3月、10年以上に渡って在籍したアイランド・デフ・ジャムを離れ、ソニー・ミュージック傘下のエピック・レコードへ移籍、5月18日にこれまでの全米No.1ヒット曲を全て収録したベスト・アルバム『#1 to Infinity』を発売した。またアルバムリリースに合わせ、5月6日よりラスベガスのシーザーズ・パレス・コロシアムにて『Mariah Carey #1's』と題した長期コンサートがスタートした。",
"title": "略歴"
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"text": "8月5日、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの2,556番目の星がマライアに贈られた。",
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"paragraph_id": 47,
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"text": "11月10日、アメリカにて自身の大ヒット曲をモチーフとした絵本『All I Want For Christmas Is You』が発売される。",
"title": "略歴"
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"text": "12月19日、米ケーブルテレビのホールマーク・チャンネルにて、マライアの監督デビュー作となるテレビ映画『A Christmas Melody』が放映。",
"title": "略歴"
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"text": "2016年3月より『The Sweet Sweet Fantasy Tour』と題された長期ツアーを敢行し、ヨーロッパ各国、南アフリカ、メキシコ、アメリカにて公演を行った。",
"title": "略歴"
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"text": "12月31日、伝統ある大晦日特番『New Year’s Rocking Eve』に出演、「Emotions」と「We Belong Together」を披露したが、技術的トラブルによって口パクが発覚するハプニングがあった。",
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"text": "2017年2月3日、2年ぶりの新曲「I Don't Feat. YG」を発表。同曲のミュージックビデオの中で、マライアがウエディングドレスを燃やすシーンが話題となった。",
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"text": "10月、映画『ザ・スター』主題歌として書き下ろされた新曲「The Star」を発表。マライアの双子の子供もコーラスで参加した。また、同曲は第75回ゴールデン・グローブ賞の最優秀主題歌賞にもノミネートされた。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "12月、2015年に発売された絵本『All I Want For Christmas Is You』を原作とする同名のアニメーション映画が北米にて公開。新曲「Lil Snowman」を含めたサウンドトラックも発売された。日本においても11月22日にサウンドトラックが、12月21日に同映画の日本盤DVD「マライア・キャリー クリスマスにほしいもの」が発売された。",
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"paragraph_id": 54,
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"text": "12月31日、『New Year’s Rocking Eve』に再び出演、完全な生歌で「Vision of Love」と「Hero」を熱唱し、昨年の失敗のリベンジを果たした。",
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"text": "2018年9月14日、ニューアルバムからのプロモーションシングル「GTFO」を発表し、ミュージックビデオを公開。アルバムの発売が2018年冬になることも併せて発表した。10月5日にアルバムからの正式なファーストシングル「With You」を発売。9日には「American Music Awards」に10年ぶりに出演し、10人の以上の男性ダンサーを従えて「With You」を初披露した。",
"title": "略歴"
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"text": "2018年10月より、『Mariah Carey: Live In Asia』と題されたツアーを行った。マレーシア、タイ、中国、台湾などのアジア各国で公演を行い、4年ぶりとなる来日公演も大阪と東京で開催された。また、この来日公演を記念し、No.1ヒットやファンに人気の曲全19曲を収録した初の日本独自企画作品「マライア・キャリー ジャパン・ベスト」が10月17日に発売された。",
"title": "略歴"
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"text": "11月15日、最新アルバムの発売を控える中、ある一人の男性ファンによるTwitterへの投稿がきっかけで広まった「#JusticeforGlitter(グリッターに正当な評価を)」という運動により、アルバム『Glitter』がiTunesチャートで発売から17年の時を経て1位を獲得。同作はマライアの初主演映画として2001年に公開された『グリッター きらめきの向こうに』のサウンドトラックとして発売されたが、同映画の興行的失敗により彼女の作品の中でも最低の売り上げを記録していた。これを受け、マライアはTwitterで「私のファンは最高よ!」とコメントしている。 11月16日、『Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse』より4年ぶりとなる通算15枚目のスタジオアルバム『Caution』をリリース。初週で51000ユニットを売り上げBillboard 200で5位、R&B/Hip-Hopアルバムチャートでは通算8枚目となる首位を獲得した。",
"title": "略歴"
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"text": "12月24日、クリスマスの定番ソングとして知られる「All I Want For Christmas Is You」がSpotifyにおける世界での再生回数で1日に1080万回以上を記録し、同サイトにおいて史上最多となった。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "2019年5月1日に開催された「2019 ビルボード・ミュージック・アワード」にて音楽界に与えた偉大な功績が評価され「アイコン賞」を受賞する。式典内では受賞を記念し、最新曲「A No No」をはじめ「We Belong Together」「Always Be My Baby」などの大ヒット曲を含めたメドレーを披露した。",
"title": "略歴"
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"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "12月21日付のBillboard Hot 100において「All I Want For Christmas Is You」がリリースから25年を経て1位を獲得した。マライアの楽曲が同チャートにおいて首位を獲得したのは2008年発売の「Touch My Body」以来、11年ぶりのことである。",
"title": "略歴"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2020年に、デビュー30周年を迎えた事を記念して9月29日に初の自伝『ザ・ミーニング・オブ・マライア・キャリー』を出版し、New York Timesでベストセラー認定された。10月2日にはアルバム『The Rarities』を発売。また新型コロナウイルスの影響で、2021年にハワイで予定されていたコンサートがキャンセルされた。マライアは医療従事者のために、家のスタジオから「Hero」を熱唱した。他にもテレビ番組などでは、「Make It Happen」と「Through the Rain」のメドレーや、「Vision of Love」「Close My Eyes」など、往年の名曲を披露した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2021年2月に公開された「We Belong Together MIMI's Late Night mix」では、マライア自身が作詞作曲を行ったエクステンデッドバージョンも公開された。2021年11月にはクリスマスソングの新曲「Fall in Love at Christmas」を公開。さらに、Apple TV+ で、2020年に100カ国以上で1位を獲得した人気番組の続編である、「Mariah's Magical Christmas Continuous」を公開した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2022年3月には、アメリカの人気ラッパーLattoによる「Fantasy」をサンプリングした新曲「Big Energy」のリミックスに参加。DJ Khaledは、ODBのラップパートを再現し、マライアは「Fantasy」の印象的なオープニングを歌った。このリミックスバージョンは、iTunes chart USで1位を獲得するなど、世界的に人気を博した。同年4月には、Masterclassに登場し、ティーザーでは「Fantasy」をファンと歌う姿が公開された。本編では作曲家、プロデューサーとして音楽制作について語り、オーケストラ奏者たちを率いて編曲作業をする姿を見せた。自身の曲「The Roof」を編曲し、ブランディをフィーチャリングした新たなバージョンを制作した。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2021年頃からTikTokやInstagramの動画でマライアの曲が毎シーズントレンドになってり、これまでに「Fantasy」「We Belong Together」「Lead The Way」「Obsessed」「It's A Wrap」「Touch My Body」「My All」などで動画が作られている。",
"title": "略歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "デビュー当時のキャッチコピーは『7オクターブの音域を持つ歌姫』(但しこれには誇張があり、実際のマライアの音域はF2〜Gb7の5オクターブ半である。5オクターブ半と言っても、数多く存在する歌手の中でもかなり広く、女性では不可能に近い男性並の低音域から、ハープやフルートの最高音に匹敵する超高音域のホイッスルボイスまでを自在に操っている)。音域をいっぱいにまで使った曲はデビューから今もなおよく見られ、最も高い声を出す人としてギネス・ブックに認定されていた。",
"title": "音楽・芸術性"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1993年6月5日にトミー・モトーラ(Tommy Mottola)と結婚したが、音楽的主観の違いや、服装(トップスやパンツの丈を指示する等)や私生活に極度に制限を言いつけたり、マライアへの監視(尾行や盗聴)、パーティー会場でバターナイフを喉元に突きつけられる事件などが原因となり、1997年に別居し、翌年離婚。離婚直前まで彼女はマイケル・ジャクソンに悩みを打ち明けて聞いてもらっており、マイケル自身が業界人向けのパーティーでマライアを助けようと演説を行った映像が流出している。その後は野球選手のデレク・ジーターや歌手のルイス・ミゲルやらと交際。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "2008年4月30日に俳優兼ラッパーのニック・キャノンとシングル「Bye Bye」のビデオ撮影をきっかけにして交際し、結婚。2010年夏頃から妊娠が噂され、夫とスポークスマンはそれを認めたが、自身は2年前に流産を経験していることから安定期に入るまでコメントを控えていた。2010年10月28日に第1子妊娠を正式公表。翌年の2011年4月30日に男女の双子を出産した。女の子は\"ハリウッドの永遠のセクシー・アイコン\"ことマリリン・モンローに由来した、モンロー・キャノン、そして男の子は、モロッカン・スコット・キャノンと命名。これはマライアがニューヨークに所有するアパートの最上階\"モロッカン・ルーム\"からきており、ここはニックが2008年にマライアにプロポーズした場所でもある。また、ミドルネームの\"スコット\"はニックも同じで、これは彼の祖母の旧姓だという。",
"title": "人物"
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"text": "それ以降も毎年結婚式を挙げるなど仲睦まじい様子を見せていたが2014年8月、別居が報じられ夫ニックもこれを肯定。2015年1月にマライアが離婚を申請した。慰謝料の問題などで一時は関係が悪化していたものの、2017年4月にはニックと2人の子供と共にイースターを祝う写真をインスタグラムに投稿するなど、子供のために現在でも良好な関係を続けている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "2016年1月にはオーストラリアの億万長者ジェームズ・パッカーと婚約したものの、同年10月に婚約を解消。2017年には日系アメリカ人ダンサーであるブライアン・タナカと交際中と報じられた。",
"title": "人物"
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"text": "2006年に全米美脚コンテストというイベントで美脚セレブリティ賞を受賞しその足に10億ドル(当時約1130億円)もの保険をかけ話題になった。しかし2017年ごろには体重が120kgを超え、その美脚は見る影もなくなってしまった。",
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"text": "2007年1月、経済誌フォーブス誌が『エンターテイメント界で活躍する女性で資産の多い女性』のトップ20を発表し、総資産約272億円で6位にランクインしている。",
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"text": "2011年1月、Us Weeklyによるとマライアが夫のニック・キャノンからクリスマスプレゼントとして40万ドル(日本円で約3400万円)のロールス・ロイスを贈られていたことがわかった。マライアは1月4日に自身のTwitterに「まだニックからのクリスマスプレゼントが信じられないの。ナンバープレートには『mommyMC』と書いてあるわ」というツイートと共にニックからもらったロールス・ロイスの写真を掲載している。",
"title": "人物"
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"text": "2011年2月、BANG Media Internationalによると、生まれてくる双子の子供のためにビバリーヒルズの豪邸の一棟全体を子供部屋としてリフォームしたという。関係者の話によれば、改装した子供部屋の壁は18金で加工された廻り縁で飾られたアイボリーで、ウォークインクローゼットはプッティ・トレゾールのブランド服でいっぱいだという。さらに音響システムも最高のものが設置され、それぞれの赤ちゃんにダイヤモンドで飾られたiPodが用意され、天井から薄型テレビが降りてくるようになっているという。家具も2200ドル(日本円で約18万円)するベビーベットが2台、2800ドル(日本円で約23万円)のオムツ交換台、パパとママ用に2270ドル(日本円で約18万6000円)のグライダーチェア(座面が前後に動くロッキングチェア)2台と100万ドル(日本円で約8200万円)のソファが用意されているという。ソファはマイケル・ジャクソンのコンサート先で使われたもので24金とオニキスで装飾されたクラッシュト・ベルベット仕上げになっており、後ろ面には花綱の飾りがついているものだという。このリフォームを担当したインテリアデザイナーのケネス・ボーデウィックは「やりすぎと思うかもしれませんが、マライアの子供が欲しいという夢が叶ったんです。彼女自身もこの双子は世界一甘やかされた子供になると言っていますよ」とコメントしている。",
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"text": "2019年時点では、音楽アーティストの資産ランキングにて総資産5億ドル(日本円約550億円)とされている。",
"title": "人物"
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"text": "アイルランド系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の間に生まれたマライアは、人種的には所謂クアドルーンにあたる。その事から、幼い頃から醜い差別に遭いながら自分の居場所が無いと感じ少女期を過ごした為、今もなおそのことに対するコンプレックスを持っていると2010年1月オブザーバー・ウーマン誌に語った。",
"title": "人物"
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"text": "2018年、米誌ピープルとのインタビューで、双極性障害を患っており17年間闘病していたことを告白。2001年に診断されたが、受け入れることができず、最近になって治療と薬物投与を始めたと明かした。",
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"text": "日本では特に人気が非常に高く、『Music Box』は220万枚、『Merry Christmas』は250万枚、『Daydream』は240万枚を出荷。ベスト・アルバム『#1's』は約360万枚を売り上げ、洋楽アルバム史上最高セールスを記録した。計8作のアルバムが日本レコード協会からミリオンセラーに認定され、女性ソロ歌手としては10作の松任谷由実、浜崎あゆみに次ぐ記録である(2005年9月現在)。日本でのトータルセールスは約1600万枚。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "1994年に『All I Want For Christmas Is You』がフジテレビ系連続ドラマ『29才のクリスマス』の主題歌に起用され130万枚の大ヒット。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "2000年には缶コーヒー「ネスカフェ・サンタマルタ」のCMに出演し明石家さんまと共演した(ただし別撮りであり、CG合成により対面させている)。マライアはCMソング『Thank God I Found You』(ソロバージョン)も歌っている。",
"title": "日本国内での評価・活動"
},
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"text": "2004年には日本の唱歌『朧月夜』(「Misty Moon」)を歌い、『爽健美茶』・『爽健美茶 緑茶ブレンド』(日本コカ・コーラ)のCMに起用された(CD発売はされていない)。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "2008年は『I'll Be Lovin' U Long Time』が日本テレビ系プロ野球中継「PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球」の2008年度テーマ曲に選ばれる。その縁で5月のプロモーション来日時に東京ドームでの読売ジャイアンツの試合で始球式を行った。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "フジテレビの軽部真一アナウンサーと親交が深く、来日の際にはほぼ確実にインタビューを行っている。また、数年前に軽部からプレゼントされた犬を現在も育てていたり、自宅に招いての単独インタビューに応じるなど、マライアからは非常に気に入られている。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "2011年に起きた東日本大震災にツイッターを通じ、「日本のみなさんへ私の愛と祈りを贈ります。私達は日本のみなさんがこの悲劇を乗り越えられると信じていると同時に、いつもみなさんのことを想っています。神の御加護を。愛してます。」とのコメントを行った。",
"title": "日本国内での評価・活動"
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"text": "2000年代以前にデビューし、現在では30年以上の活動歴があるアーティストの中でも、マライアは今だにファンミーティングやSNSでのファンとのやり取りを頻繁に行っている数少ないアーティストの1人。実際に2010年以降に発表されたアルバム『Me. I Am Mariah...』や『コーション』のプロモーションでも、出演したテレビ番組やイベントでファンへのドッキリを仕掛けたり、ファンが直接マライアにインタビューできるなど、ファンとの距離が近いことでも知られている。実際に本人の発言は数十年間一貫しており、1999年に受賞したアメリカンミュージックアワード「Artist of the Decade」の受賞スピーチでは「ファンへの恩返しをします。決して忘れません。\"I owe this to the fans, and I will never forget you.\" 」と言い、2019年にビルボードミュージックアワード「Billboard Icon Award」を受賞した際には涙を堪えながら以下のように語った。",
"title": "ファンベース “The Lambily”"
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"text": "\"I've dedicated my life to my music, my saving grace, and to my fans who are unlike any other entity that I've ever known. They lifted me out of the depth of hell and brought me back with the devotion and love.\"",
"title": "ファンベース “The Lambily”"
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"text": "「私は人生を音楽——私にとっては神のご加護のようなもの——そしてファンたちへ捧げてきました。彼らは私が今まで知り得もしなかったような存在で、地獄の底から私を救い上げ、深い愛で立ち直らせてくれました。」",
"title": "ファンベース “The Lambily”"
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"text": "現在では欧米やアジアを中心に、ポップアーティストのファンベースにはそれぞれ名前が付けられ、一昔前のファンクラブのような動きがSNSなどの台頭でより活発になっている(BTSのAMRYやテイラー・スフィフトのSwiftiesなど)が、2000年代前半にマライアのアメリカを中心としたファンベースが、自らを「Lamb(ラム・子羊)」と呼び始めるまではそういった呼称の存在が確認されていない。これは、90年代からマライアのバックコーラスを務め、ツアーやイベントでもいつも一緒にいる姿が見られている歌手のトレイ・ロレンツとマライアがジョークでお互いを「迷える子羊」と呼び合うことがあり、それを目にしたファンたちが真似するようになったことがきっかけだったようだ。",
"title": "ファンベース “The Lambily”"
},
{
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"text": "以下は全米TOP10入りした作品。太字は全米1位作品(Billboard Hot 100)。カバー曲以外の全曲を自身が作詞・作曲している。",
"title": "ディスコグラフィ"
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"paragraph_id": 89,
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"text": "日本でのコンサートツアーは今までに7回行われており、北米以外を含むワールドツアーでは、頻繁に日本公演を行っている。",
"title": "コンサートツアー"
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"paragraph_id": 90,
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"text": "また来日公演の際には、(2014年以外)必ずアンコールの最後で「恋人たちのクリスマス」が歌われている。これは、同曲が日本で大ヒットしたことを受け、マライア自身が日本のファンに向けていつもアンコールの最後に歌っているものであり、12月に行われる他国の公演を除いては、日本公演独自の演出となっている。",
"title": "コンサートツアー"
}
] |
マライア・キャリーは、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、女優、慈善活動家である。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では『Songbird Supreme(究極の歌姫)』と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している。
|
{{Infobox Musician
| 名前 = マライア・キャリー
| 画像 = Mariah Carey Library of Congress 2023 1 Cropped.png
| 画像説明 = アメリカ議会図書館での授賞式にて(2023年)
| 画像サイズ = 275px
| 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| 背景色 = singer
| 出生名 = Mariah Carey
| 出生 = {{生年月日と年齢|1969|3|27}}
| 出身地 = {{USA}} [[ニューヨーク州]][[ハンティントン (ニューヨーク州)|ハンティントン]]
| 死没 =
| ジャンル = {{Hlist-comma|[[コンテンポラリー・R&B]]<ref name="AM">{{AllMusic |last= Ankeny |first= Jason |title= Mariah Carey Biography, Songs, & Albums |class= artist |id= mariah-carey-mn0000262255/biography |accessdate= 2023-09-08 }}</ref><ref>{{cite book |editor1-last= Stanyek |editor1-first= Jason |editor2-last= Gopinath |editor2-first= Sumanth |year= 2014 |title= The Oxford Handbook of Mobile Music Studies, Volume 2 |publisher= [[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]] |page= 133 |isbn= 978-0-199-91366-4 }}</ref>|[[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]]<ref name="AM" />|[[ダンス・ポップ]]<ref name="AM" />}}
| 職業 = {{Hlist-comma|[[シンガーソングライター]]|[[音楽プロデューサー]]|[[俳優|女優]]|[[作家]]|[[起業家]]|[[慈善活動家]]}}
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| 活動期間 = [[1988年]] -
| レーベル = {{Hlist-comma|[[コロムビア・レコード|コロムビア]]|[[:en:Crave Records|クレイヴ]]|[[ヴァージン・レコード|ヴァージン]]|[[:en:Monarc Entertainment|モナーク]]|[[アイランド・レコード|アイランド]]|[[Def Jam Recordings (レコードレーベル)|Def Jam]]|[[エピック・レコード|エピック]]|[[レガシー・レコーディングス|レガシー]]|Butterfly MC}}
| 事務所 =
| 共同作業者 =
| 公式サイト = [https://www.mariahcarey.com マライア・キャリー 公式サイト]
}}
'''マライア・キャリー'''({{lang-en-short|Mariah Carey}} {{IPA-en|məˈraɪə ˈkɛəri|}}、[[1969年]][[3月27日]]ー)は、[[アメリカ合衆国]]の[[シンガーソングライター]]、[[音楽プロデューサー]]、[[俳優|女優]]、[[慈善活動|慈善活動家]]である。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では『[[:en:Honorific_nicknames_in_popular_music|Songbird Supreme]](究極の歌姫)』と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している<ref>{{Cite web |url=https://www.grammy.com/news/mariah-carey-discography-albums-songs-butterfly-anniversary-glitter-all-i-want-for-christmas-is-you-queen-music-box-songbird-supreme-songbook |title=Songbook: How Mariah Carey Became The Songbird Supreme, From Her Unmistakable Range To Genre-Melding Prowess |access-date=2023/12/21}}</ref>。
== 概略 ==
音楽は[[コンテンポラリー・R&B]]、[[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]などの[[ブラックミュージック]]を基盤としている。[[Billboard Hot 100]]における首位獲得週最多記録保持者であると同時に、現存するアーティストの中で最も全米1位を獲得した人物として2023年現在も記録を塗り替えている。
[[:en:Songwriters_Hall_of_Fame|Songwriters Hall of Fame]](ソングライターの殿堂)に殿堂入りを果たしており、これまでにリリースした数々のヒット曲を含む延193曲の作詞作曲を自身が手掛けてきた功績が認められている<ref>{{Cite web |url=https://www.songhall.org/profile/mariah_carey |title=Songwriters Hall of Fame |access-date=2023/12/21}}</ref>。
マライアが作詞作曲をした代表曲の1つである「All I Want For Christmas Is You 邦題:[[恋人たちのクリスマス]]」は2020年12月15日に全米1位を獲得し、その後も毎年1位を獲得し続けており、2023年12月の時点で自身の首位獲得週を92週に更新している。また、2020年に1位を獲得したことで、4つの年代(1990年代、2000年代、2010年代、2020年代)にわたり1位を獲得した史上初のアーティストとなった<ref>{{Cite web|和書|title=クリスマスソングの決定版! マライア・キャリー『恋人たちのクリスマス』が再びチャート1位に|url=https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-news/a34982975/mariahcarey-number1-again-201216-hns/|website=ハーパーズ バザー(Harper's BAZAAR)公式|accessdate=2020-12-24}}</ref>。同曲の音源は、[[米国議会図書館]]が管理する[[全米録音資料登録簿]]に永久保存されている。
歌唱力においては、5オクターヴ半(F2〜Bb7を観測<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/shorts/i7Y46wQMkVs |title=Mariah Carey - Vocal Range in 1 Minute (F2-Bb7) |access-date=2023/8/31}}</ref>)という[[声域]]を余すことなく表現に活かしたライヴパフォーマンスと楽曲で知られており、「[https://www.rollingstone.com/music/music-lists/best-singers-all-time-1234642307/ray-charles-18-1234643205/ ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な200人のシンガー]」においては第5位にランクインしている<ref>{{Cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/music-lists/100-greatest-singers-of-all-time-147019/mariah-carey-4-40559/|title=100 Greatest Singers: Mariah Carey|author=Rolling Stone|accessdate=2013-05-26}}</ref>。超高音域の[[ホイッスルボイス]]や<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=BVoh5HdsJho&ab_channel=Devotedlamb19 |title=Mariah Carey: The Empress of the Whistle Register |access-date=2023/8/31}}</ref>、[[メリスマ唱法]](1音節の発声を複数の音符で彩る歌唱テクニック)の女王と呼ばれている。<ref>{{Cite web |url=https://www.bustle.com/articles/76348-how-many-octaves-can-mariah-carey-sing-shes-got-one-of-the-widest-vocal-ranges-in |title=Mimi's Vocal Range Has Me Feelin' "Emotions" |access-date=2023/8/31}}</ref>
2023年8月時点で、[[グラミー賞]](5冠)、[[ワールド・ミュージック・アワード|World Music Awards]](史上最多の19冠)[[American Music Awards]](10冠)、[[ビルボード・ミュージック・アワード|Billboard Music Awards]](15冠)、などの世界主要音楽賞を含めた計166賞の受賞歴を誇る。
全世界でシングルセールス6600万枚以上{{要出典|date=2023年8月}}、アルバムセールス2億2000万枚以上{{要出典|date=2023年8月}}、トータルセールス2億8000万枚以上のセールスを記録している。(2023年8月)
1995年に[[キャンプ・マライア]]というチャリティー基金団体を設立し、25年以上もの間子供達への職業体験イベントやサマーキャンプ、クリスマスイベントを提供している。<ref>{{Cite web |url=https://freshair.org/learn-about-our-camps/camp-mariah/ |title=Camp Mariah {{!}} The Fresh Air Fund |access-date=2023/8/31}}</ref>
== 略歴 ==
=== 幼少期〜デビューまで ===
[[ベネズエラ]]系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人と[[アフリカ系アメリカ人]]の血を引く)と[[アイルランド]]系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、[[ニューヨーク州]][[ロングアイランド]]に生まれた。両親は、アメリカで白人と黒人が結婚することが合法的に許されるようになってまだ2年という時代に結婚し、マライアと彼女の兄弟は[[ミックス人種]]として人種差別を受けていた。中学生の時に実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした<ref name="nick2">{{harvnb|Nickson|1998|pp=7}}</ref>。マライアが3歳の時に両親は離婚している<ref name="nick3">{{harvnb|Nickson|1998|pp=9}}</ref>。後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が音楽であったと度々語っている。この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。
[[ハイスクール]]卒業後、[[マンハッタン]]へ移り、[[ウェイトレス]]やアーティストのバックコーラスなどをしてスタジオ代を賄いながら作曲やレコーディングに明け暮れた。バックボーカルの仕事で[[ブレンダ・K・スター]]と出会い、ブレンダに連れられて訪れたパーティー会場で[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|CBSレコード]]([[コロムビア・レコード|コロンビアレーベル]]、現:[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)]])のトミー・モトーラ社長へ渡したデモテープがきっかけとなり契約を交わした<ref name="nick17">{{harvnb|Nickson|1998|pp=25}}</ref><ref name="nick16">{{harvnb|Nickson|1998|pp=26}}</ref>。当時の初期の契約から、マライアの音楽制作物に関する芸術活動の全ての選択において、マライア自身が関わることを保証すると書かれていたという。
[[1990年]]に「[[ヴィジョン・オブ・ラヴ|Vision of Love]]」でデビュー。デビュー直前に[[NBAファイナル]]で「America the Beautiful」を熱唱し、トレードマークのホイッスルボイスを披露すると、会場司会から「この場に女神が誕生した。」と喝采を受け、後日出演したGood Morning Americaでのライブパフォーマンスで披露した歌唱力が話題になったことから、デビュー曲の「[[ヴィジョン・オブ・ラヴ|Vision of Love]]」とアルバム『Mariah Carey』は共に1位を獲得した。
=== 1990年〜2000年:第1次黄金期 ===
1990年から2000年にかけてデビューから11年間、毎年全米1位を獲得した史上最長記録(2位はビートルズとエルビス・プレスリーの7年連続)を打ち立て、鮮烈なキャリアスタートを切った。{{要出典|date=2023年8月}}
[[1991年]]には女性アーティストとして3人目となる『[[ビルボード]]』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。
アルバム『[[ミュージック・ボックス (アルバム)|Music Box]]』(1993年)、『[[デイドリーム (マライア・キャリーのアルバム)|Daydream]]』 (1995年)はソロアーティスト自身が作詞、作曲を行った作品としては珍しく、全世界で各2500万枚を超える大ヒットとなった。[[ボーイズIIメン|Boyz II Men]]との[[デュエット]]曲「[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]」は[[1995年]]から[[1996年]]にかけて[[Billboard Hot 100]]で16週連続No.1を獲得。この最長記録は[[2019年]]に[[リル・ナズ・X]]「[[オールド・タウン・ロード]]」が19週連続No.1を達成するまで23年間破られることはなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/78386/2|title=リル・ナズ・X、米ビルボード・ソング・チャート歴代最長No.1記録を更新「この曲は俺の人生を変えた」|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|publisher=[[Billboard JAPAN]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000170035|title=Lil Nas Xの「Old Town Road」、全米シングル・チャート最長1位の新記録樹立|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|publisher=BARKS}}</ref>。
[[1995年]]、キャンプ・マライアを設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに芸術や就業機会を学ぶ場を提供している。同時にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のNYの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している。
[[1996年]]にはPeace Officer's Memorial Serviceに参加し、[[ビル・クリントン]](第42代大統領)の前で「[[ヒーロー (マライア・キャリーの曲)|Hero]]」を披露した。
[[画像:Mariah Carey14 Edwards Dec 1998.jpg|right|thumb|130px|1998年12月、[[エドワーズ空軍基地]]にて]]
[[1997年]]、アルバム『[[バタフライ (マライア・キャリーのアルバム)|Butterfly]]』からの1stシングル「[[ハニー (マライア・キャリーの曲)|Honey]]」を発表。この曲は当時の音楽界に衝撃を走らせ、マライアによるこの曲の発表によってロックやポップスなどから、R&BやHip-Hopなどがアメリカでは全盛期を迎えることになった<ref group="注">現在の米でのメインストリームがR&Bになったのは、この曲がきっかけとも言われている。</ref>。ヒップホップビートの[[サンプリング]]や、ラップとヴォーカルの融合による[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]は今でこそ多くのアーティストが行なっているが、マライアが試みていた当時は同スタイルでのヒット曲が皆無であった。95年にラッパーのODBを起用してマライア自身がプロデュースした「ファンタジー」が8週間全米1位を獲得し、さらにこの「[[ハニー (マライア・キャリーの曲)|Honey]]」が初登場1位となったことで、アメリカの音楽トレンドが変わっていったとされている。この現象は日本の音楽にも波及し、直後にデビューした宇多田ヒカルや後のR&B系歌姫達の基盤を作った。後のインタビューで、地元ニューヨークがルーツとされる[[ヒップホップ]]は10代の頃から慣れ親しんでおり、このジャンルで認められることが黒人の父を持つ自身のアイデンティティーにはとても大切なものであったと語っている。
音楽的にはそれまでの[[アダルト・コンテンポラリー|ポップ、アダルト・コンテンポラリー]]から、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ヒップホップ]]系にシフトし、90年後半以降の音楽トレンドの先駆者となった。後に彼女がこのアルバムのコンセプトである[[バタフライ]]を[[トレードマーク]]としているように、デビュー当時の商業的[[ポップ・ミュージック|ポップ]]志向から離れ、よりプロデューサとしてマライア独自の芸術性・音楽性を開放していくきっかけとなった。
[[1998年]]には[[ホイットニー・ヒューストン]]とのデュエット曲「[[ホエン・ユー・ビリーヴ|When You Believe]]」(映画『[[プリンス・オブ・エジプト]]』主題歌)を発表。同年発売された初の[[ベスト・アルバム]]『[[ザ・ワンズ|#1's]]』に収録された。
この時点で、彼女が会社(ソニー・ミュージック)に生み出した利益は1000億円を超えたと言われている。
=== 2001年〜2004年:低迷期 ===
[[1999年]]のアルバム『[[RAINBOW (マライア・キャリーのアルバム)|Rainbow]]』を最後にソニー・ミュージックを離れ[[EMI]]傘下の[[ヴァージン・レコード]]に移籍。史上最高クラスの8000万ドル(当時約128億円)もの契約金が話題となった。しかし97年に離婚した元夫のトミー・モトーラからの[[DV]]や、離婚後の仕事面での嫌がらせが引き金となり、双極性障害という精神疾患を発症し現在でも病気と向き合っている。
同年、初主演[[アメリカ合衆国の映画|映画]]『[[グリッター きらめきの向こうに]]』が公開されるが、興業的には失敗に終わる。その[[サウンドトラック]]アルバム『[[グリッター (マライア・キャリーのアルバム)|Glitter]]』は映画の失敗、発売日([[9月11日]])が[[アメリカ同時多発テロ事件]]と重なったなどの不運もあり、低調なセールスに終わった。日本では契約の関係上『Glitter』もソニーから発売され、東芝EMI・現[[EMIミュージック・ジャパン]]からは1枚もリリースされていない。同サウンドトラックからシングルカットされた「Loverboy」はビルボードのシングルセールスチャートで年間No.1を獲得している。
ほどなくして[[アイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループ]](Island/Def Jam Music Group、[[ユニバーサル ミュージック グループ|ユニバーサルミュージック]]傘下)とレコード契約を結び、[[2002年]]にアルバム『[[チャームブレスレット|Charmbracelet]]』をリリースした。同年12月にプロモーション来日している。
=== 2005年〜2008年:第2次黄金期 ===
[[画像:Mariah Carey in August 2006 3.jpg|right|thumb|220px|大成功を収めたツアーコンサート「アドベンチャーズ・オブ・ミミ」のステージでダンサー達と(2006年8月7日、[[フロリダ州]][[タンパ]])]]
そして[[2005年]]、3年ぶりとなるアルバム『[[MIMI (アルバム)|The Emancipation Of Mimi]]』を発表。1999年頃からの奥行きを増したヴォーカル表現に加えて全盛期並みの高音が加わり、彼女の新境地を開いた。1stシングルの「[[イッツ・ライク・ザット (マライア・キャリーの曲)|It’s Like That]]」が全米ダンスチャートで1位となり、続く2ndシングル「[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]」が通算14週1位を獲得、年間売り上げNo.1シングルとなり、3rdシングル「[[シェイク・イット・オフ|Shake It Off]]」も6週連続2位(その時の1位は「We Belong Together」であった)と大ヒットを記録した。11月には、同アルバムに新曲や[[DVD-Video|DVD]]を加えた『Ultra Platinum Edition』を発売(日本では[[2006年]]1月に国内盤を発売)、続く4thシングル「Don't Forget About Us」も2週連続1位となり、同年2曲以上の1位を獲得した唯一のアーティストとなった。アルバムはシングルの「We Belong Together」と共に2005年の全米年間セールスNo.1、全世界で売上約1000万枚を超える特大ヒットとなり、『The Return Of The Voice』と形容される音楽史上最大規模と言われるほどの復活を遂げた。[[アメリカン・ミュージック・アワード]]1部門、[[グラミー賞]]3部門など数多くの賞に輝いた。この復活を受け、マライアの第二期黄金時代に突入したとも言われている。この功績は、自身が90年代から根を張っていた音楽トレンドと、マライア自身の音楽趣向がうまくマッチして起きたことと言われている。このアルバムでもカニエ・ウエストやネリー、ファレル・ウィリアムズなどヒップホップ界の旬の顔ぶれと作曲、プロデュースをしており、80年代や90年代にデビューした大物アーティストの中で、2000年以降にも一線で活躍する数少ないアーティストの一人となっている。
2005年9月8日、[[ニューヨーク]]で開催された『FASHION ROCKS 2005』に出演。2005年12月31日には、毎年全米に生中継される人気年越し番組『[[ディック・クラーク|Dick Clark's]] New Year's Rockin' Eve 2006』に出演し、ニューヨークの[[タイムズ・スクエア]]にて約100万人のファンを前にライブを行なった<ref group="注">一人の歌手がタイムズ・スクエアで、約100万人のファンの前でライブを行うのは、34年間の同番組史上初めてのことであった。</ref>。
[[2008年]]4月、アルバム『[[E=MC² (マライア・キャリーのアルバム)|E=MC²]]』をリリース。先行シングル「[[タッチ・マイ・ボディ|Touch My Body]]」はBillboard Hot 100で1位を獲得した。彼女のビルボードでのシングル1位獲得数は18曲となり、50年以上保持されていた[[エルヴィス・プレスリー]]の記録に並んだ。これは[[ビートルズ]]の20曲に継ぐ歴代2位のタイ記録である。同年のアメリカン・ミュージック・アワードでこの功績を称えた特別功労賞を受賞。同時期に、アイランド・デフ・ジャムとの再契約を発表した。
4月26日、『グリッター きらめきの向こうに』以来の映画復帰作『Tennessee』が、[[トライベッカ映画祭]]にてプレミア上映された。[[2009年]]6月5日に全米で公開されたこの作品でマライアは主演を務め、劇中では初めて[[カントリー・ミュージック|カントリーソング]]を披露している。
2008年9月5日、ニューヨークで開催された『FASHION ROCKS 2008』に出演。11月には[[モナコ]]で開催された[[World Music Awards]]でも、ソロアーティストとして全米No.1獲得数が歴代1位になったことから「Special Achievement Award(特別功労賞)」を受賞した。
=== 2009年〜2010年:『メモワール』『プレシャス』『メリー・クリスマス II ユー』 ===
[[2009年]]1月、[[バラク・オバマ]]大統領の就任記念パーティーにて「Hero」を披露した<ref group="注">「Hero」は妻の[[ミシェル・オバマ]]が大統領選の結果が発表される直前まで流していた曲でもある。</ref>。
2009年6月に発表した1stシングル「[[オブセスト (曲)|Obsessed]]」では、数年来[[エミネム]]から受けていた一方的なビーフ(ヒップホップ音楽でアーティスト同士がお互いをディスる表現手法)をあざ笑うかのように、「なぜ私につきまとうの?」と歌っている。またミュージックビデオでは、エミネム風の青年に[[男装]]し、同作はスマッシュヒットとなった。だが、それ以降に予定されていた新アルバムのプロモーションへの出演キャンセルや日程変更が相次ぎ、同年9月に発売されたアルバム『[[メモワール (マライア・キャリーのアルバム)|Memoirs of an Imperfect Angel]]<ref group="注">同アルバムは近年の作品と異なりゲストが一切参加しないアルバムであったため、多数のゲストを招いた[[リミックス]]アルバム『Angels Advocate』が企画され、[[ニーヨ]]をフィーチャーした「Angels Cry」などのシングルも発表されたが、『Angels Advocate』は2010年3月の発売直前になってキャンセルされた。</ref>』は初登場1位を逃し3位にとどまり、初動セールスも前作を大きく下回るセールスとなった。しかし、その一方で[[ブラジル]]では2ndシングル「[[アイ・ウォナ・ノウ#他のバージョン|I Want To Know What Love Is]]」が[[ラジオ]]エアプレイチャートで27週連続1位になる前代未聞の新記録を達成(歴代1位)するなど、爆発的ヒットとなった。
2009年7月7日、[[ロサンゼルス]]で行われた[[マイケル・ジャクソン]]の追悼式に友情出演、自身もカバーし全米No.1を獲得した「[[アイル・ビー・ゼア (ジャクソン5の曲)#マライア・キャリーのカバー|I'll Be There]]」を披露した<ref group="注">この時のパフォーマンスが感傷的になりすぎて上手く歌えなかったことを、後に米の人気番組「[[トゥデイ (テレビ番組)|Today Show]]」で謝罪した。</ref>。10月24日には、[[ブラジル]]で開催された『oi FASHION ROCKS 2009』に出演。
2009年11月に公開された映画『[[プレシャス (映画)|プレシャス]]』では、主人公を担当する[[ソーシャル・ワーカー]]を演じた。劇中では髪を暗く染めノーメイクのような化粧をしており、本人曰く付け髭も着用するなど普段の彼女とは思えないような風貌であった。2010年1月5日に行われた第21回[[パームスプリングス国際映画祭]]の授賞式にて新人女優賞に当たるブレイクスルー・アワードを受賞した<ref name=Carey>{{cite news|title=Weeks After Tipsy Awards Speech, Mariah Carey Pops Cork on her Own Liquor Brand, Angel Champagne|url=https://www.nydailynews.com/gossip/2010/01/16/2010-01-16_mariah_launches_new_liquor_label.html|work=Daily News|publisher=Mortimer Zuckerman|date=2010-01-17|accessdate=2011-08-19}}</ref>。
[[2010年]]8月21日、ブラジルで初のコンサートを開催し、3万人の観客を前に圧巻のパフォーマンスを披露。
11月、[[1994年]]リリースの『[[メリー・クリスマス (マライア・キャリーのアルバム)|Merry Christmas]]』以来、自身2作目となるクリスマスアルバム『[[メリー・クリスマス II ユー|Merry Christmas II You]]』を発売。10月発売の先行シングル「[[Oh サンタ!|Oh Santa!]]」は、ビルボードのホリデイチャートにて初登場1位を記録した。アルバムは前作をチャート・初動セールス共に上回る初登場4位を記録<ref group="注">前作『[[メリー・クリスマス (マライア・キャリーのアルバム)|Merry Christmas]]』は初登場30位。</ref>、自身にとって16作目となるアルバムTOP10入りを果たした。また、クリスマスアルバムとしては異例のR&B/Hip-Hopアルバムチャートにてビルボードチャートの歴史上2作目となる1位を記録したほか、ビルボードのホリデイデジタルチャートにて1位と2位を独占するというビルボード史上初めての記録を樹立。それに続くようにTOP50以内に10曲をチャートインさせる快挙も達成した。
11月末には、マライア自身がプロデュースしたアメリカ大手ショッピングチャンネル『HSN』とのコラボレーション商品を発表。販売開始からわずか6分で完売した。
=== 2011年〜2013年:アメリカン・アイドル ===
[[2011年]]、男性アーティストとのデュエット曲が相次いで発表され、9月には[[トニー・ベネット]]のデュエットアルバム『Duets II』にて「When Do The Bells Ring For Me」をデュエットした。11月には[[ジャスティン・ビーバー]]のクリスマスアルバム『Under the Mistletoe』にて、マライアのクリスマスの代表曲「[[恋人たちのクリスマス|All I Want for Christmas Is You]]」をデュエットし、ミュージックビデオで披露したダイエット成功後のスリムなサンタのコスプレ姿が話題となった。11月末には、前年発売のアルバム『Merry Christmas II You』からの3rdシングル「When Christmas Comes」にて、[[ジョン・レジェンド]]とデュエットした。
11月17日、T-Mobileの企画で欧州各5都市にて[[ホログラム]]技術を使った『バーチャルクリスマスコンサート』を開催、集まった人々を驚かせ、大盛況に終わった。12月10日には、これまでにおける恵まれない子供達への社会貢献、また世界中の女性達を勇気付けてきたことが認められ、[[ロンドン]]で開催された『ノーベル・ギフト・ガラ』にて「2011 Noble Gift Humanitarian Award」を授与された。
[[2012年]]1月、『BET Honors 2012』にてこれまでの功績が称えられ、「Entertainer Award」を授与された。授賞式では[[パティ・ラベル]]や[[ケリー・ローランド]]等がマライアの曲を歌い、トリビュートパフォーマンスを披露した。
2月11日、[[ホイットニー・ヒューストン]]の死去にショックを受け、当初予定されていたテレビ出演の予定をキャンセルし、出演は延期となった。その後、マライアは自身の[[Twitter]]で「比類なき我が友、ホイットニー・ヒューストンの衝撃の死に悲嘆と涙を。ホイットニーの家族と世界中の多くの彼女のファンに心からのお悔やみを。彼女のその偉大な歌声は、永遠に忘れ去られることはないわ。」と追悼のコメントを発表、自身の[[YouTube]]アカウントでもホイットニーの追悼動画をアップした。2月21日には、出産後のダイエット成功後、初めての公の場への出演となった米の人気番組『[[Good Morning America]]』において、ホイットニーとの思い出を語った。
ホイットニー自身も生前のインタビューでマライアと歌姫同士、ライバルなのではないかと尋ねられた際に「人がどんな苦労をして成功を手に入れたかは、実際に会って話してみるまでわからない。マライアと会って話していく中で、共感出来ることがたくさんあった。誠実で正直な人であれば、そういう関係が築けるもの。お互い気軽に電話して「元気にしてる?」って言うような仲になれた。本当に彼女のことを気にかけているし、愛している。マライアは優しい人だし、本物の歌手だしね。」と話している。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/shorts/H3oBvGe2HQg |title=Whitney Houston Talks Her Friendship with Mariah Carey |access-date=2023/8/30}}</ref>
3月1日、ニューヨークにて行われたライブイベント『Plot Your Escape』で出産後初のライブ出演を果たし、約40分間のステージにてブランクを感じさせない圧倒的なパフォーマンスを披露した。同年5月26日には[[モロッコ]]の首都ラバトで開催された国際的な音楽祭『[[マワジン (フェスティバル)|Mawazine Festival]]』のトリを務め上げ、6月2日にはモナコのSporting Monte-Carlにて約90分間のライブを開催した。
7月1日に開催されたイベント『[[BETアワード]] 2012』で行われたホイットニー・ヒューストンへのトリビュートパフォーマンスでは、最初にマライアがサプライズで登場し会場を驚かせた。また、スピーチで今は亡きホイットニーとの思い出を語り、途中感極まって涙ぐむ場面もあった。
7月23日、かねてから噂されていた米人気オーディション番組『[[アメリカン・アイドル]]』の来シーズンの審査員としてマライアが参加することが発表され、翌2013年1月から5月に放送されたシーズン12において、[[ニッキー・ミナージュ]]らとともに審査員を務めた。なお、一部報道では1シーズン(約半年)のギャラが、米リアリティ番組史上最高額の1800万ドル(日本円約14億4千万円)超え、と報じられた<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0044344|title=マライア・キャリーが「アメリカン・アイドル」の審査員に決定 ギャラは1年で14億円以上|publisher=シネマトゥデイ|date=2012-07-25|accessdate=2013-03-27}}</ref>。
7月29日、HitFixによるミュージックパワーランキングで堂々の1位にランクイン。8月3日には、[[リック・ロス]]と[[ミーク・ミル]]を起用した新曲「Triumphant (Get 'Em)」を発表した。
[[2013年]]5月7日にリリースされた新曲「[[ビューティフル (マライア・キャリーの曲)|#Beautiful]]」がBillboard Hot 100で最高15位まで上昇、世界30か国以上でNo.1を記録するヒットとなった。8月16日、『プレシャス』以来4年ぶりの映画出演作となる『[[大統領の執事の涙]]』が全米で公開。10月7日、新たなマネージャーに、長年に渡りタッグを組んできた[[ジャーメイン・デュプリ]]が就任する事が発表された<ref>{{cite news|url=http://bmr.jp/news/87654|title=マライア・キャリー、ジャーメイン・デュプリを新マネージャーに|publisher=bmr|date=2013-10-08|accessdate=2014-02-04}}</ref>。
=== 2014年〜2016年: 『Me... I am Mariah. The Elusive Chanteuse』、ラスベガス常設公演、世界ツアー ===
[[2014年]]5月、5年ぶりのスタジオ・アルバム『[[ミー。アイ・アム・マライア|Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse]]』をリリース。[[Billboard 200]]で初登場3位を記録するも、デビュー以来過去最低の初動セールスという厳しい結果となった。9月、[[タイム (雑誌)|TIME]]誌が発表した「究極のポップスター」ランキングで1位に輝いた<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0066030|title=マライア・キャリー究極のポップスターに!ビートルズ&マイケルさん&マドンナ抜く|publisher=シネマトゥデイ|date=2014-09-03|accessdate=2016-06-21}}</ref>。10月には約8年ぶりとなる来日ライブを開催<ref>{{cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20141005-CNPTLW7SEBIDDDU62RY2WB5MZA/|title=初の子連れ!マライア・キャリー8年ぶり来日公演、1万人を魅了|publisher=[[サンケイスポーツ]]|date=2014-10-05|accessdate=2016-06-20}}</ref>。
[[2015年]]3月、10年以上に渡って在籍したアイランド・デフ・ジャムを離れ、ソニー・ミュージック傘下の[[エピック・レコード]]へ移籍<ref>{{cite news|url=http://bmr.jp/news/131120|title=マライア・キャリーが正式にソニーに移籍 LA・リードと再タッグ|publisher=bmr|date=2015-03-12|accessdate=2016-06-21}}</ref>、5月18日にこれまでの全米No.1ヒット曲を全て収録したベスト・アルバム『[[#1 インフィニティ|#1 to Infinity]]』を発売した。またアルバムリリースに合わせ、5月6日より[[ラスベガス]]の[[シーザーズ・パレス|シーザーズ・パレス・コロシアム]]にて『Mariah Carey #1's』と題した長期コンサートがスタートした<ref>{{cite news|url=http://bmr.jp/news/133765|title=マライア・キャリー、新曲収録のベスト・アルバムを5月にリリース|publisher=bmr|date=2015-04-14|accessdate=2016-06-21}}</ref>。
8月5日、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]の2,556番目の星がマライアに贈られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0075240|title=マライア・キャリーにハリウッドの星|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-08-01|accessdate=2015-08-03}}</ref>。
11月10日、アメリカにて自身の大ヒット曲をモチーフとした絵本『All I Want For Christmas Is You』が発売される<ref>[https://amass.jp/61548/ マライア・キャリーのヒット曲「恋人たちのクリスマス」が絵本に](2015年8月29日)</ref>。
12月19日、米[[ケーブルテレビ]]のホールマーク・チャンネルにて、マライアの監督デビュー作となる[[テレビ映画]]『A Christmas Melody』が放映<ref>{{Cite web|和書|url=https://mdpr.jp/international/detail/1531723|title=監督デビューのマライア・キャリー、意外な私服で現場に現れる|publisher=モデルプレス|date=2015-10-09|accessdate=2015-06-21}}</ref>。
[[2016年]]3月より『''The Sweet Sweet Fantasy Tour''』と題された長期ツアーを敢行し、[[ヨーロッパ]]各国、[[南アフリカ]]、[[メキシコ]]、[[アメリカ]]にて公演を行った。
12月31日、伝統ある大晦日特番『''New Year’s Rocking Eve''』に出演、「Emotions」と「We Belong Together」を披露したが、技術的トラブルによって口パクが発覚するハプニングがあった<ref>[https://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/32404.html マライア・キャリー、大みそかコンサートでの大失態は誰のせい…? トラブルの責任をめぐり言い争い] TVGroove.com(2017年1月5日)</ref>。
=== 2017年〜2019年:『[[コーション (アルバム)|コーション]]』「[[恋人たちのクリスマス]]」の再ブレイク ===
[[2017年]]2月3日、2年ぶりの新曲「[[アイ・ドント|I Don't]] Feat. [[YG (ラッパー)|YG]]」を発表。同曲の[[ミュージックビデオ]]の中で、マライアがウエディングドレスを燃やすシーンが話題となった<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/info/478235 マライア・キャリー本格始動!盟友ジャーメイン・デュプリによるYGを迎えた2017年第一弾シングルは痛烈なグッバイ・ソング!衝撃のエンディングが話題のMVも同日解禁! ソニーミュージック オフィシャルサイト](2017年2月6日)</ref>。
10月、映画『ザ・スター』主題歌として書き下ろされた新曲「The Star」を発表。マライアの双子の子供もコーラスで参加した<ref>[https://www.voiceyougaku.com/mariah-carey-the-star/ 映画『The Star』奇跡降るマライア・キャリー主題歌、スピリチュアルな感動のクリスマスソング] VOICE(2017年11月20日)</ref>。また、同曲は第75回[[ゴールデン・グローブ賞]]の最優秀主題歌賞にもノミネートされた。
12月、2015年に発売された絵本『All I Want For Christmas Is You』を原作とする同名のアニメーション映画が北米にて公開。新曲「Lil Snowman」を含めたサウンドトラックも発売された。日本においても[[11月22日]]にサウンドトラックが、[[12月21日]]に同映画の日本盤DVD「マライア・キャリー クリスマスにほしいもの」が発売された<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/info/488697 クリスマスの女王=“マライア・キャリー”「恋人たちのクリスマス」が新たに息を吹き返し、2017年版最新アルバムが本日発売!] ソニーミュージック オフィシャルサイト(2017年11月22日)</ref>。
12月31日、『''New Year’s Rocking Eve''』に再び出演、完全な生歌で「Vision of Love」と「Hero」を熱唱し、昨年の失敗のリベンジを果たした<ref>[http://hollywoodzone.gurlz.jp/2018/01/05/mariah-carey-returns-to-new-year-s-rockin-eve-with-a-medley/ マライア・キャリー、2016年の口パク大失敗からのリベンジ! 大晦日のステージで見事な圧倒的歌声を披露] HollywoodZone(2018年1月5日)</ref>。
[[2018年]]9月14日、ニューアルバムからのプロモーションシングル「GTFO」を発表し、ミュージックビデオを公開。アルバムの発売が2018年冬になることも併せて発表した<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/info/499041 10月の来日公演を前に来るニュー・アルバムから新曲リリース&MVも公開!] ソニーミュージック オフィシャルサイト(2018年9月14日)</ref>。10月5日にアルバムからの正式なファーストシングル「With You」を発売。9日には「American Music Awards」に10年ぶりに出演し、10人の以上の男性ダンサーを従えて「With You」を初披露した<ref>[https://tower.jp/article/news/2018/10/11/tg007 今月末に来日公演開催するMariah Carey(マライア・キャリー)、4年ぶり15thアルバムよりリード曲“With You”MV公開] タワーレコード オンライン(2018年10月11日)</ref>。
2018年10月より、『''Mariah Carey: Live In Asia''』と題されたツアーを行った。マレーシア、タイ、中国、台湾などのアジア各国で公演を行い、4年ぶりとなる来日公演も大阪と東京で開催された<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/info/500671 4年ぶりの来日公演!大阪・東京計3公演で3万人動員!最新アルバムからの楽曲も披露!] ソニーミュージック オフィシャルサイト(2018年11月1日)</ref>。また、この来日公演を記念し、No.1ヒットやファンに人気の曲全19曲を収録した初の日本独自企画作品「[[マライア・キャリー ジャパン・ベスト]]」が10月17日に発売された<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/info/500138 本人セレクトによる来日記念ベスト・アルバム本日発売&ニュー・アルバムの11/16発売を愛息と共に発表!] ソニーミュージック オフィシャルサイト(2018年10月17日)</ref>。
11月15日、最新アルバムの発売を控える中、ある一人の男性ファンによるTwitterへの投稿がきっかけで広まった「#JusticeforGlitter(グリッターに正当な評価を)」という運動により、アルバム『Glitter』がiTunesチャートで発売から17年の時を経て1位を獲得。同作はマライアの初主演映画として2001年に公開された『[[グリッター きらめきの向こうに]]』のサウンドトラックとして発売されたが、同映画の興行的失敗により彼女の作品の中でも最低の売り上げを記録していた。これを受け、マライアはTwitterで「私のファンは最高よ!」とコメントしている<ref>[https://gunosy.com/articles/aY1Rh マライア・キャリー、『グリッター』サントラが17年経てチャート1位に] グノシー(2018年11月16日)</ref>。
11月16日、『[[ミー。アイ・アム・マライア|Me. I Am Mariah... The Elusive Chanteuse]]』より4年ぶりとなる通算15枚目のスタジオアルバム『[[コーション (アルバム)|Caution]]』をリリース。初週で51000ユニットを売り上げ[[Billboard 200]]で5位、R&B/Hip-Hopアルバムチャートでは通算8枚目となる首位を獲得した<ref>[https://www.billboard.com/articles/columns/chart-beat/8487136/mariah-carey-caution-no-1-top-rb-hip-hop-albums Mariah Carey's 'Caution' Debuts at No. 1 On Top R&B/Hip-Hop Albums] 米ビルボード(2018年11月29日)</ref>。
12月24日、クリスマスの定番ソングとして知られる「[[恋人たちのクリスマス|All I Want For Christmas Is You]]」が[[Spotify]]における世界での再生回数で1日に1080万回以上を記録し、同サイトにおいて史上最多となった<ref>[http://bmr.jp/news/220299 マライア・キャリー「恋人たちのクリスマス」がSpotify再生回数の世界新記録を樹立] bmr(2018年12月27日)</ref>。
[[2019年]]5月1日に開催された「2019 [[ビルボード・ミュージック・アワード]]」にて音楽界に与えた偉大な功績が評価され「アイコン賞」を受賞する<ref>[https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/74669/2 【2019 #BBMAs】マライア・キャリーが<アイコン賞>受賞へ] Billboard JAPAN(2019年4月12日)</ref>。式典内では受賞を記念し、最新曲「[[ア・ノー・ノー|A No No]]」をはじめ「We Belong Together」「Always Be My Baby」などの大ヒット曲を含めたメドレーを披露した<ref>[https://www.billboard.com/articles/news/awards/8509719/mariah-carey-icon-award-speech-2019-bbmas Mariah Carey Performs Iconic Medley of Songs at 2019 Billboard Music Awards | Billboard News] 米ビルボード(2019年5月1日)</ref>。
12月21日付のBillboard Hot 100において「[[恋人たちのクリスマス|All I Want For Christmas Is You]]」がリリースから25年を経て1位を獲得した。マライアの楽曲が同チャートにおいて首位を獲得したのは2008年発売の「Touch My Body」以来、11年ぶりのことである。
=== 2020年〜現在:自伝本『[[The meaning of mariah carey|ザ・ミーニング・オブ・マライア・キャリー]]』|ザ・レアリティーズ|ソングライターの殿堂 ===
[[2020年]]に、デビュー30周年を迎えた事を記念して[[9月29日]]に初の自伝『ザ・ミーニング・オブ・マライア・キャリー』を出版し、New York Timesでベストセラー認定された。[[10月2日]]にはアルバム『[[レアリティーズ (マライア・キャリーのアルバム)|The Rarities]]』を発売。また新型コロナウイルスの影響で、[[2021年]]にハワイで予定されていたコンサートがキャンセルされた。マライアは医療従事者のために、家のスタジオから「Hero」を熱唱した。他にもテレビ番組などでは、「Make It Happen」と「[[スルー・ザ・レイン|Through the Rain]]」のメドレーや、「Vision of Love」「Close My Eyes」など、往年の名曲を披露した。
2021年2月に公開された「We Belong Together MIMI's Late Night mix」では、マライア自身が作詞作曲を行ったエクステンデッドバージョンも公開された。2021年11月にはクリスマスソングの新曲「[[フォール・イン・ラヴ・アット・クリスマス|Fall in Love at Christmas]]」を公開。さらに、[[Apple TV+]] で、2020年に100カ国以上で1位を獲得した人気番組の続編である、「Mariah's Magical Christmas Continuous」を公開した。
[[2022年]]3月には、アメリカの人気ラッパーLattoによる「Fantasy」をサンプリングした新曲「Big Energy」のリミックスに参加。DJ Khaledは、ODBのラップパートを再現し、マライアは「Fantasy」の印象的なオープニングを歌った。このリミックスバージョンは、iTunes chart USで1位を獲得するなど、世界的に人気を博した。同年4月には、Masterclassに登場し、ティーザーでは「Fantasy」をファンと歌う姿が公開された。本編では作曲家、プロデューサーとして音楽制作について語り、オーケストラ奏者たちを率いて編曲作業をする姿を見せた。自身の曲「[[ザ・ルーフ|The Roof]]」を編曲し、[[ブランディ]]をフィーチャリングした新たなバージョンを制作した。
2021年頃からTikTokやInstagramの動画でマライアの曲が毎シーズントレンドになってり、これまでに「Fantasy」「We Belong Together」「Lead The Way」「Obsessed」「It's A Wrap」「Touch My Body」「My All」などで動画が作られている。
2023年のクリスマスにも「All I Want For Christmas Is You」が2週間全米1位を獲得し、同曲が14週間全米1位を獲得したことで、歌手、作曲家、プロデューサーとして14週以上の全米1位を3曲獲得した唯一の人物となった。(「One Sweet Day」の16週全米1位、「We Belong Together」の14週全米1位に続く。)このまま行くと2〜3年以内には、現在最長記録を保持している「Old Town Road」の19週全米1位の記録を超えて、再び全米最長記録の座を取り戻すのではないかと言われている。
== 音楽・芸術性 ==
=== 声・歌唱力 ===
デビュー当時の[[キャッチコピー]]は『7[[オクターブ]]の[[音域]]を持つ歌姫』(但しこれには誇張があり、実際のマライアの音域はF2〜Gb7の5オクターブ半である。5オクターブ半と言っても、数多く存在する歌手の中でもかなり広く、女性では不可能に近い低音域から、ハープやフルートの高音域に達する超高音域のホイッスルボイスまでを自在に操っている)。音域をいっぱいにまで使った曲はデビューから今もなおよく見られ、最も高い声を出す人として[[ギネス世界記録|ギネス・ブック]]に認定されていた。
== 人物 ==
=== 私生活 ===
[[1993年]][[6月5日]]にトミー・モトーラ([[:en:Tommy Mottola|Tommy Mottola]])と結婚したが、音楽的主観の違いや、服装(トップスやパンツの丈を指示する等)や私生活に極度に制限を言いつけたり、マライアへの監視(尾行や盗聴)、パーティー会場でバターナイフを喉元に突きつけられる事件などが原因となり、[[1997年]]に別居し、翌年離婚<ref>{{cite news|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20130201_71056/|title=マライア・キャリーの元夫トミー・モトーラ氏、自叙伝でマライアに初めて謝罪。|publisher=excite news|date=2013-02-01|accessdate=2013-03-27}}</ref>。離婚直前まで彼女は[[マイケル・ジャクソン]]に悩みを打ち明けて聞いてもらっており、マイケル自身が業界人向けのパーティーでマライアを助けようと演説を行った映像が流出している。その後は野球選手の[[デレク・ジーター]]や歌手の[[ルイス・ミゲル]]やらと交際。
[[2008年]][[4月30日]]に俳優兼ラッパーの[[ニック・キャノン]]とシングル「[[バイ・バイ (マライア・キャリーの曲)|Bye Bye]]」のビデオ撮影をきっかけにして交際し、結婚<ref>{{cite news |title=マライア・キャリー、若手ラッパーとの結婚を公表 |newspaper=AFP |date=2008-05-08 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2388385?pid=2908783 |accessdate=2011-02-15}}</ref>。[[2010年]]夏頃から妊娠が噂され、夫とスポークスマンはそれを認めたが、自身は2年前に流産を経験していることから安定期に入るまでコメントを控えていた。[[2010年]][[10月28日]]に第1子妊娠を正式公表<ref>{{cite news |title=ハリウッド女優がマライア妊娠を暴露、マライアも正式に認める |newspaper=bmr.jp |date=2010-10-28 |url=http://bmr.jp/news/detail/0000009648.html |accessdate=2011-02-15}}</ref>。翌年の[[2011年]][[4月30日]]に男女の双子を出産した<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032093|title=歌姫マライア・キャリーが出産!3年目の結婚記念日に男女の双子の赤ちゃん誕生!|publisher=シネマトゥデイ|date=2011-05-01|accessdate=2013-03-27}}</ref>。女の子は"ハリウッドの永遠のセクシー・アイコン"ことマリリン・モンローに由来した、モンロー・キャノン、そして男の子は、モロッカン・スコット・キャノンと命名<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0032120|title=マライア・キャリー、双子の名前を公表!女の子はモンローちゃん、男の子はモロッカンくん|publisher=シネマトゥデイ|date=2011-05-05|accessdate=2013-03-27}}</ref>。これはマライアがニューヨークに所有するアパートの最上階"モロッカン・ルーム"からきており、ここはニックが2008年にマライアにプロポーズした場所でもある。また、ミドルネームの"スコット"はニックも同じで、これは彼の祖母の旧姓だという。
それ以降も毎年結婚式を挙げるなど仲睦まじい様子を見せていたが2014年8月、別居が報じられ夫ニックもこれを肯定<ref>[https://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/18575.html 歌姫マライア・キャリーに家庭危機!? 夫ニック・キャノンが別居を認める、浮気説は否定] TVグルーヴ(2014年8月22日)</ref>。2015年1月にマライアが離婚を申請した<ref>[https://www.tvgroove.com/news/article/ctg/1/nid/20802.html マライア・キャリーがついに離婚へ! 夫ニック・キャノンが正式に離婚を申請 決定的“格差婚”の成れの果てとは] TVグルーヴ(2015年1月19日)</ref>。慰謝料の問題などで一時は関係が悪化していたものの、2017年4月にはニックと2人の子供と共にイースターを祝う写真をインスタグラムに投稿するなど、子供のために現在でも良好な関係を続けている<ref>[https://front-row.jp/_ct/17069906 マライア・キャリー、離婚から5ヵ月で元夫ニックと連日外出し復縁の可能性?] FRONTROW(2018年4月25日)</ref>。
2016年1月にはオーストラリアの億万長者[[ジェームズ・パッカー]]と婚約したものの<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0079764 歌姫マライア・キャリーが億万長者と婚約!35カラットの指輪でプロポーズ] シネマトゥデイ(2016年1月25日)</ref>、同年10月に婚約を解消<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0087101 マライア・キャリー、億万長者と婚約解消] シネマトゥデイ(2016年10月28日)</ref>。2017年には日系アメリカ人ダンサーであるブライアン・タナカと交際中と報じられた<ref>[http://hollywoodzone.gurlz.jp/2017/05/30/mariah-carey-bryan-tanaka-kissing-step-out-holding-hands/ マライア・キャリー&ブライアン・タナカが復縁!? キス&手つなぎデート現場をパパラッチ] HollyWoodZone!(2017年5月30日)</ref>。
=== 資産 ===
[[2006年]]に全米美脚コンテストというイベントで美脚セレブリティ賞を受賞しその足に10億ドル(当時約1130億円)もの[[保険]]をかけ話題になった<ref>{{cite news|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000023661|title=マライア・キャリー、最も美脚な有名人に選ばれる|publisher=BARKS|date=2006-06-01|accessdate=2013-03-27}}</ref>。しかし2017年ごろには体重が120kgを超え、その美脚は見る影もなくなってしまった<ref>{{cite news|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2017/08/120.php|title=ママライア・キャリー、激太り120キロでも気にしない!?|publisher=ニューズウィーク日本版|date=2006-06-01|accessdate=2013-03-27}}</ref>。
[[2007年]]1月、経済誌[[フォーブス (雑誌)|フォーブス誌]]が『エンターテイメント界で活躍する女性で資産の多い女性』のトップ20を発表し、総資産約272億円で6位にランクインしている<ref>{{cite news|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000029523|title=マライア、ジャネットら「最もリッチな女性芸能人」に|publisher=BARKS|date=2017-08-04 |accessdate=2017-08-04}}</ref>。
[[2011年]]1月、Us Weeklyによるとマライアが夫の[[ニック・キャノン]]からクリスマスプレゼントとして40万ドル(日本円で約3400万円)の[[ロールス・ロイス]]を贈られていたことがわかった。マライアは1月4日に自身の[[Twitter]]に「まだニックからのクリスマスプレゼントが信じられないの。ナンバープレートには『mommyMC』と書いてあるわ」というツイートと共にニックからもらったロールス・ロイスの写真を掲載している。
[[2011年]]2月、BANG Media Internationalによると、生まれてくる双子の子供のためにビバリーヒルズの豪邸の一棟全体を子供部屋としてリフォームしたという。関係者の話によれば、改装した子供部屋の壁は18金で加工された廻り縁で飾られた[[アイボリー]]で、ウォークインクローゼットはプッティ・トレゾールのブランド服でいっぱいだという。さらに音響システムも最高のものが設置され、それぞれの赤ちゃんにダイヤモンドで飾られた[[iPod]]が用意され、天井から薄型テレビが降りてくるようになっているという。家具も2200ドル(日本円で約18万円)するベビーベットが2台、2800ドル(日本円で約23万円)のオムツ交換台、パパとママ用に2270ドル(日本円で約18万6000円)のグライダーチェア(座面が前後に動くロッキングチェア)2台と100万ドル(日本円で約8200万円)のソファが用意されているという。ソファは[[マイケル・ジャクソン]]のコンサート先で使われたもので24金とオニキスで装飾されたクラッシュト・ベルベット仕上げになっており、後ろ面には花綱の飾りがついているものだという。このリフォームを担当したインテリアデザイナーのケネス・ボーデウィックは「やりすぎと思うかもしれませんが、マライアの子供が欲しいという夢が叶ったんです。彼女自身もこの双子は世界一甘やかされた子供になると言っていますよ」とコメントしている<ref>{{cite news |title=マライア・キャリー、豪邸の一棟全体を子ども部屋としてリフォーム |newspaper=シネマトゥディ |date=2011-02-21 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0030501 |accessdate=2011-05-02}}</ref>。
2019年時点では、音楽アーティストの資産ランキングにて総資産5億ドル(日本円約550億円)とされている。
=== 社会活動・チャリティー活動など ===
* [[1995年]]にキャンプ・マライアを共同設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに[[芸術]]や就業機会を学ぶ場を提供している。
* 同時期にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のニューヨークの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している<ref name=fresh>{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=c98gAAAAIBAJ&sjid=I2sFAAAAIBAJ&pg=2220,934579&dq=camp+mariah&hl=en|title=Carey a Fresh Face for Fresh Air Fund|last=Hopkins|first=Eugene|work=[[Sun Journal (Lewiston)|Sun Journal]]|publisher=Sun Media Group|date=1994-12-04|accessdate=2011-08-19}}</ref>。
* 彼女の家族が[[HIV]]陽性であったことから、生命に関わる病気の子どもへの医療を援助するMake-A-Wish Foundationにも深く関わっている<ref>{{cite web|url=https://www.contactmusic.com/mariah-carey/news/carey-packs-times-square-with-early-morning-show|title=Mariah Carey - Carey Packs Times Square With Early Morning Show|publisher=Contactmusic.com|date=2005-04-12|accessdate=2011-08-19}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.mtv.com/news/1654204/mariah-carey-performs-with-mother-on-holiday-tv-special/|title=Mariah Carey Performs With Mother On Holiday TV Special|last=Dinh|first=James|work=MTV News|publisher=Viacom|date=2010-12-12|accessdate=2011-08-19}}</ref>。
* ニューヨーク市警察の競技会に[[ボランティア]]で参加した。
* Presbyterian Hospital Cornell Medical Centerに[[寄付]]をした。
* そのほかにもチャリティ活動をしている。
* VH1の1998・2000年のSave The Music Foundation活動のためのチャリティライブに参加。
* 9・11の犠牲者の支援活動。
* [[2001年]]に[[コソボ]]治安維持軍でライブ活動<ref>{{cite web|url=http://www.mtv.com/news/1449077/mariah-carey-springsteen-other-stars-sing-for-america-on-telethon/|title=Mariah Carey, Springsteen, Other Stars Sing For America On Telethon|last=Schumacher-Rasmussen|first=Eric|work=MTV News|publisher=Viacom|date=2001-09-22|accessdate=2011-04-13}}</ref>。
* [[CBS]]の[[養子]]と[[里親]]の記録の[[ドキュメンタリー番組]]で司会<ref>{{cite web|url=http://articles.nydailynews.com/2001-12-20/entertainment/18370230_1_adoption-sings-performers|title=Flawed Gala On Adoption|last=Bianculli|first=David|work=Daily News|publisher=Mortimer Zuckerman|date=2001-12-20|accessdate=2011-05-10}}</ref>。
* 2005年、[[ロンドン]]の[[Live8]]に参加<ref name=bbcnews>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4648051.stm|title=Live 8 attracts 9.6m UK viewers|publisher=[[BBC News Online]]|date=2005-07-04|accessdate=2011-08-19}}</ref>。
* [[ハリケーン・カトリーナ]]の被害者救済24時間テレビに参加<ref>{{cite news|url=http://pqasb.pqarchiver.com/bostonherald/access/894426211.html?dids=894426211:894426211&FMT=ABS&FMTS=ABS:FT&type=current&date=Sep+10%2C+2005&author=Sarah+Rodman&pub=Boston+Herald&desc=TELEVISION%3B+Stars+shine+spotlight+on+needy+during+Katrina+relief+telethon&pqatl=google|title=Stars Shine Spotlight on Needy During Katrina Relief Telethon|last=Rodman|first=Sarah|work=Boston Herald|publisher=Herald Media|date=2005-09-10|accessdate=2011-08-19}}</ref>。
* 2008年8月にArtists Stand Up to Cancerとして発表した[[悪性腫瘍|ガン]]研究の支援を目的としたチャリティー・シングル『[[ジャスト・スタンド・アップ]]』(原題:Just Stand Up!)に参加<ref>{{cite web|url=http://www.people.com/people/article/0,,1077026,00.html|title=Mariah, Beyoncé Top Fifth Annual Fashion Rocks|last=Kappes|first=Serena|work=People|publisher=Time Warner|date=2008-05-03|accessdate=2011-08-07}}</ref>。
* 2010年1月12日に[[ハイチ共和国]]で起こった地震([[ハイチ地震 (2010年)|ハイチ地震]])への寄付を自ら呼びかけツアーの収益の一部を寄付するなどチャリティー活動に参加。
* 2010年2月、[[ハイチ地震 (2010年)|ハイチ地震]]への支援を目的として企画されたチャリティー・シングル「Everybody Hurts」に参加。
* など、他にも多数。
=== 容姿に対するコンプレックス===
アイルランド系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の間に生まれたマライアは、人種的には所謂[[クアドルーン]]にあたる<ref>[https://www.quora.com/What-are-some-famous-quadroons What are some famous quadroons? - Quora]</ref>。その事から、幼い頃から醜い差別に遭いながら自分の居場所が無いと感じ少女期を過ごした為、今もなおそのことに対するコンプレックスを持っていると2010年1月オブザーバー・ウーマン誌に語った。
=== 双極性障害の告白 ===
[[2018年]]、米誌[[ピープル (雑誌)|ピープル]]とのインタビューで、[[双極性障害]]を患っており17年間闘病していたことを告白。[[2001年]]に診断されたが、受け入れることができず、最近になって治療と薬物投与を始めたと明かした。
== 日本国内での評価・活動 ==
{{see also|マライア・キャリー#来日公演}}
日本では特に人気が非常に高く、『{{lang|en|[[ミュージック・ボックス (アルバム)|Music Box]]}}』は220万枚<ref name="sansapo981217">[https://web.archive.org/web/20010315021820/http://www.sanspo.com/enter/music/m98/m1217.html マライア新記録300万枚突破!]、SANSPO.COM、1998年12月16日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>、『{{lang|en|[[メリー・クリスマス (マライア・キャリーのアルバム)|Merry Christmas]]}}』は250万枚<ref name="sansapo981217" />、『{{lang|en|[[デイドリーム (マライア・キャリーのアルバム)|Daydream]]}}』は240万枚<ref name="sansapo981217" />を出荷。[[ベスト・アルバム]]『{{lang|en|[[ザ・ワンズ|#1's]]}}』は約360万枚<ref name="Cocacola">{{PDFlink|[https://www.cocacola.co.jp/corporate/release/pdf/301.pdf 「爽健美茶」 2004 広告キャンペーン CM 音楽にはマライア・キャリーが日本の歌に初挑戦!]}} - 日本コカ・コーラ、2004年2月12日</ref>を売り上げ、洋楽アルバム史上最高セールスを記録した。計8作のアルバムが[[日本レコード協会]]から[[ミリオンセラー]]に認定され、女性ソロ歌手としては10作の[[松任谷由実]]、[[浜崎あゆみ]]に次ぐ記録である(2005年9月現在)。日本でのトータルセールスは約1600万枚<ref name="Cocacola" />。
1994年に『{{lang|en|[[恋人たちのクリスマス|All I Want For Christmas Is You]]}}』が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系連続ドラマ『[[29才のクリスマス]]』の主題歌に起用され130万枚の大ヒット。
2000年には缶コーヒー「[[ネスカフェ]]・サンタマルタ」のCMに出演し[[明石家さんま]]と共演した(ただし別撮りであり、CG合成により対面させている<ref>[https://web.archive.org/web/20000708224741/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/feb/0207mariah.htm マライア&さんま共演]、[[スポーツ報知]]、2000年2月7日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>)。マライアはCMソング『[[サンク・ゴッド・アイ・ファウンド・ユー|Thank God I Found You]]』(ソロバージョン)も歌っている。
2004年には日本の[[唱歌]]『[[朧月夜 (歌曲)|朧月夜]]』(「Misty Moon」)を歌い、『[[爽健美茶]]』・『爽健美茶 緑茶ブレンド』([[コカ・コーラ|日本コカ・コーラ]])のCMに起用された(CD発売はされていない)<ref name="Cocacola" />。
2008年は『{{lang|en|[[ラヴィン・ユー・ロング・タイム|I'll Be Lovin' U Long Time]]}}』が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系プロ野球中継「[[Dramatic Game 1844|PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球]]」の2008年度テーマ曲に選ばれる。その縁で5月のプロモーション来日時に[[東京ドーム]]での[[読売ジャイアンツ]]の試合で[[始球式]]を行った。
フジテレビの[[軽部真一]]アナウンサーと親交が深く、来日の際にはほぼ確実にインタビューを行っている。また、数年前に軽部からプレゼントされた犬を現在も育てていたり、自宅に招いての単独インタビューに応じるなど、マライアからは非常に気に入られている。
2011年に起きた[[東日本大震災]]に[[Twitter|ツイッター]]を通じ、「日本のみなさんへ私の愛と祈りを贈ります。私達は日本のみなさんがこの悲劇を乗り越えられると信じていると同時に、いつもみなさんのことを想っています。神の御加護を。愛してます。」とのコメントを行った<ref>{{cite news|url=https://twitter.com/MariahCarey/status/46392251043155968|title=@Mariah Carey twitter|date=2011-03-12|accessdate=2021-12-16}}</ref>。
== ファンベース “The Lambily” ==
2000年代以前にデビューし、現在では30年以上の活動歴があるアーティストの中でも、マライアは今だにファンミーティングやSNSでのファンとのやり取りを頻繁に行っている数少ないアーティストの1人。実際に2010年以降に発表されたアルバム『Me. I Am Mariah...』や『コーション』のプロモーションでも、出演したテレビ番組やイベントでファンへのドッキリを仕掛けたり、ファンが直接マライアにインタビューできるなど、ファンとの距離が近いことでも知られている。<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=K0998ryxiYU&ab_channel=TheTonightShowStarringJimmyFallon |title=Mariah Carey Surprises Super Fans with "The Art of Letting Go" (Late Night with Jimmy Fallon) |access-date=}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=PkWiU-Myjv0&ab_channel=MTV |title=Mariah Carey Shocks Superfans w/ 'Always Be My Baby' & 'GTFO' Sing-Alongs {{!}} TRL |access-date=}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=Chxm2z-W4Lo&ab_channel=MariahCarey |title=Mariah Carey Ellen 2015 |access-date=}}</ref>実際に本人の発言は数十年間一貫しており、1999年に受賞したアメリカンミュージックアワード「Artist of the Decade」の受賞スピーチでは「ファンへの恩返しをします。決して忘れません。''"I owe this to the fans, and I will never forget you."'' 」と言い、2019年にビルボードミュージックアワード「Billboard Icon Award」を受賞した際には涙を堪えながら以下のように語った。
"I've dedicated my life to my music, my saving grace, and to my fans who are unlike any other entity that I've ever known. They lifted me out of the depth of hell and brought me back with the devotion and love."
「私は人生を音楽——私にとっては神のご加護のようなもの——そしてファンたちへ捧げてきました。彼らは私が今まで知り得もしなかったような存在で、地獄の底から私を救い上げ、深い愛で立ち直らせてくれました。」<ref>{{Cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=t0BicvDItkY&t=132s&ab_channel=BillboardMusicAwards |title=Mariah Carey Accepts the Billboard Icon Award - BBMAs 2019 |access-date=}}</ref>
=== 背景 ===
現在では欧米やアジアを中心に、ポップアーティストのファンベースにはそれぞれ名前が付けられ、一昔前のファンクラブのような動きがSNSなどの台頭でより活発になっている([[BTS (音楽グループ)|BTS]]のAMRYや[[テイラー・スウィフト|テイラー・スフィフト]]のSwiftiesなど)が、2000年代前半にマライアのアメリカを中心としたファンベースが、自らを「Lamb(ラム・子羊)」と呼び始めるまではそういった呼称の存在が確認されていない。これは、90年代からマライアのバックコーラスを務め、ツアーやイベントでもいつも一緒にいる姿が見られている歌手のトレイ・ロレンツとマライアがジョークでお互いを「迷える子羊」と呼び合うことがあり、それを目にしたファンたちが真似するようになったことがきっかけだったようだ。<ref>{{Cite web |url=https://www.vulture.com/2023/03/beyhive-swifties-bts-army-rihanna-navy-beliebers-guide.html |title=CHEAT SHEET MAR. 24, 2023 Who’s Your Favorite Artist? A guide to music’s biggest stans and what they stand for. |access-date=2023/8/31}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://the-mariah-carey.fandom.com/wiki/The_Lambily |title=The Mariah Carey Wikia |access-date=2023/8/31}}</ref>
== ディスコグラフィ ==
{{Main|マライア・キャリーの作品}}
=== スタジオ・アルバム ===
{{Div col}}
# [[マライア (アルバム)|マライア]]({{My1|1990}})
# [[エモーションズ (マライア・キャリーのアルバム)|エモーションズ]]({{My1|1991}})
# [[ミュージック・ボックス (アルバム)|ミュージック・ボックス]]({{My1|1993}})
# [[メリー・クリスマス (マライア・キャリーのアルバム)|メリー・クリスマス]]({{My1|1994}})
# [[デイドリーム (マライア・キャリーのアルバム)|デイドリーム]]({{My1|1995}})
# [[バタフライ (マライア・キャリーのアルバム)|バタフライ]]({{My1|1997}})
# [[RAINBOW (マライア・キャリーのアルバム)|RAINBOW]]({{My1|1999}})
# [[グリッター (マライア・キャリーのアルバム)|グリッター]]({{My1|2001}})
# [[チャームブレスレット]]({{My1|2002}})
# [[MIMI (アルバム)|MIMI]]({{My1|2005}})
# [[E=MC2 (マライア・キャリーのアルバム)|E=MC<sup>2</sup>]]({{My1|2008}})
# [[メモワール (マライア・キャリーのアルバム)|メモワール]]({{My1|2009}})
# [[メリー・クリスマス II ユー]]({{My1|2010}})
# [[ミー。アイ・アム・マライア]]({{My1|2014}})
# [[コーション (アルバム)|コーション]]({{My1|2018}})
{{Div col end}}
=== その他のアルバム ===
# [[MTVアンプラグド (マライア・キャリーのアルバム)|MTVアンプラグド]]({{My1|1992}})
# [[ザ・ワンズ]]({{My1|1998}})
# [[グレイテスト・ヒッツ (マライア・キャリーのアルバム)|グレイテスト・ヒッツ]]({{My1|2001}})
# [[ザ・リミキシーズ]]({{My1|2003}})
# [[マライア・ザ・バラード]]({{My1|2008}})
# [[プレイリスト:ヴェリー・ベスト・オブ・マライア・キャリー]]({{My1|2010}})
# {{Interlang|en|The Essential Mariah Carey}}({{My1|2011}})
# [[#1 インフィニティ|#1 to Infinity]]({{My1|2015}})
# [[マライア・キャリー ジャパン・ベスト]]({{My1|2018}})
# [[レアリティーズ (マライア・キャリーのアルバム)|レアリティーズ]]({{My1|2020}})
=== 主なシングル ===
以下は全米TOP10入りした作品。'''太字'''は全米1位作品([[Billboard Hot 100]])。カバー曲以外の全曲を自身が作詞・作曲している。
* '''{{lang|en|[[ヴィジョン・オブ・ラヴ|Vision Of Love]]}}'''(1990)4週連続1位
* '''{{lang|en|Love Takes Time}}'''(1990)3週連続1位
* '''{{lang|en|[[サムデイ (マライア・キャリーの曲)|Someday]]}}'''(1990)2週連続1位
* '''{{lang|en|[[アイ・ドント・ウォナ・クライ|I Don't Wanna Cry]]}}'''(1991)2週連続1位
* '''{{lang|en|Emotions}}'''(1991)3週連続1位(デビューから5曲連続の史上最多記録)
* {{lang|en|[[キャント・レット・ゴー|Can't Let Go]]}}(1991)2位
* {{lang|en|Make It Happen}}(1992)5位
* '''{{lang|en|[[アイル・ビー・ゼア (ジャクソン5の曲)#マライア・キャリーのカバー|I'll Be There]]}}'''(1992)2週連続1位([[ジャクソン・ファイブ]]のカバー)
* '''{{lang|en|[[ドリームラヴァー|Dreamlover]]}}'''(1993)8週連続1位
* '''{{lang|en|[[ヒーロー (マライア・キャリーの曲)|Hero]]}}'''(1993)4週連続1位
* {{lang|en|[[ウィズアウト・ユー (バッドフィンガーの曲)#マライア・キャリーのバージョン|Without You]]}}(1994)3位([[バッドフィンガー]]のカバー)
* {{lang|en|[[エンドレス・ラブ (曲)#ルーサー・ヴァンドロスとマライア・キャリーのバージョン|Endless Love]]}}(1994)2位([[ルーサー・ヴァンドロス]]とのデュエット。[[ライオネル・リッチー]]&[[ダイアナ・ロス]]のカバー)
* '''{{lang|en|[[ファンタジー (マライア・キャリーの曲)|Fantasy]]}}'''(1995)初登場から8週連続1位
* '''{{lang|en|[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]}}'''(1995)初登場から16週連続1位([[ボーイズIIメン]]と共演)
* '''{{lang|en|[[オールウェイズ・ビー・マイ・ベイビー|Always Be My Baby]]}}'''(1996)2週連続1位
* '''{{lang|en|[[ハニー (マライア・キャリーの曲)|Honey]]}}'''(1997)初登場から3週連続1位
* '''{{lang|en|[[マイ・オール|My All]]}}'''(1998)1位
* {{lang|en|[[アイ・スティル・ビリーヴ (曲)|I Still Believe]]}}(1999)4位(ブレンダ・K.スターのカバー)
* '''{{lang|en|[[ハートブレイカー (マライア・キャリーの曲)|Heartbreaker]]}}'''(1999)2週連続1位(featuring [[ジェイ・Z|Jay-Z]])
* '''{{lang|en|[[サンク・ゴッド・アイ・ファウンド・ユー|Thank God I Found You]]}}'''(2000)1位([[ジョー (歌手)|ジョー]]・98 Degreesと共演)
* {{lang|en|[[ラヴァーボーイ (曲)|Loverboy]]}}(2001)2位
* {{lang|en|[[アイ・ノウ・ワット・ユー・ウォント|I Know What You Want]]}}(2003)3位([[バスタ・ライムズ]]と共演)
* '''{{lang|en|[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]}}'''(2005)通算14週1位
* {{lang|en|[[シェイク・イット・オフ|Shake It Off]]}}(2005)2位
* '''{{lang|en|Don't Forget About Us}}'''(2005)2週連続1位
* '''{{lang|en|[[タッチ・マイ・ボディ|Touch My Body]]}}'''(2008)2週連続1位
* {{lang|en|[[オブセスト (曲)|Obsessed]]}}(2009)7位
* [[恋人たちのクリスマス|'''All I Want For Christmas Is You''']](2019、2020、2021、2022、2023)通算12週1位(リリースから25年後の首位獲得)
=== ビデオ / DVD ===
* ファースト・ヴィジョン {{lang|en|The First Vision}}(1991)
* ヴィジョン・オブ・ライヴ {{lang|en|MTV Unplugged +3}}(1992)
* {{lang|en|Here Is Mariah Carey}}(1993)
* {{lang|en|Fantasy: Mariah Carey at Madison Square Garden}}(1996)
* アラウンド・ザ・ワールド {{lang|en|Around The World}}(1999) - ライブ&ドキュメンタリー
* ザ・ワンズ {{lang|en|#1's}}(2000) - PV集
* アドベンチャーズ・オブ MIMI {{lang|en|The Adventures of Mimi}}(2007) - ライブ。[[Blu-ray Disc]]でも発売
=== 全米1位・ビルボードチャートに関するデータ・ギネス記録など ===
* 4つの年代(1990年代、2000年代、2010年代、2020年代)に渡り1位を獲得した'''史上初かつ唯一のアーティスト'''。
* ビルボード年間シングル・アルバム共にNo.1を1993年、1995年、2005年と3回達成した'''唯一のアーティスト'''。
* 全米首位獲得数は19曲で、'''歴代2位'''。(首位は[[ビートルズ]]の20曲。'''ソロアーティストとしては歴代1位''')
* 全米首位獲得週91週。('''歴代1位''' - 2位は79週のエルビス・プレスリー、3位は60週のリアーナ、4位は59週のビートルズ、5位は54週のドレイク)
* 作曲家として全米1位を18曲持ち、女性としては'''歴代1位'''。(全体では、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、マックス・マーティンに次いで歴代4位)
* プロデューサーとして全米1位を15曲持ち、女性としては歴代1位。(全体では歴代4位)
* 全米TOP5シングル獲得数は27曲。(歴代2位)
* 全米TOP10シングル獲得数は28曲。(歴代6位)
* 全米TOP100シングル獲得数は46曲で女性アーティストとして歴代6位。
* 1990年〜2000年の11年間毎年1位獲得。[[ギネス世界記録]]となっている。(毎年最低1回はシングルが全米No.1になっている。1994年は「[[ヒーロー (マライア・キャリーの曲)|Hero]]」が年越しで獲得している)
* シングル2曲連続(「Fantasy」&「[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]」)の全米チャート初登場1位獲得は'''史上初'''。
* デビューからリリースしたシングルが5曲連続でNo.1を獲得。('''史上初''')
* デビューからリリースしたシングルが11曲連続でTOP10入りを果たす。(女性アーティストとして'''歴代1位''')
* ビルボードでの全てのチャートにおいてのNo.1の獲得数は136回で'''歴代1位'''。
* 全米で12作のシングルがプラチナム(100万枚)を記録。(女性アーティストとして'''歴代1位''')
* [[ボーイズIIメン|Boyz II Men]]との[[デュエット]]曲「[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]」は1995年から1996年にかけてBillboard Hot 100で16週連続1位の'''ギネス記録'''。2019年、[[リル・ナズ・X]] and [[:en:Billy_Ray_Cyrus|Billy Ray Cyrus]] "[[:en:Old Town Road#Charts|Old Town Road]]"の19週に記録を更新されるまでの約23年もの間、最長記録を保持。
* 1枚のアルバムからのシングルのみで25週以上全米チャート1位を記録した'''唯一の女性アーティスト'''。
* 1枚のアルバムから4曲の全米No.1を記録した4人目の'''女性ソロアーティスト。([[ホイットニー・ヒューストン]]、[[ポーラ・アブドゥル]]、[[ジャネット・ジャクソン]])'''
* Billboard Hot 100 AirplayでのNo.1の獲得期間は93週。('''歴代1位''')
* 全米No.1アルバム数は6作。(女性アーティストとして歴代4位)
* 全米TOP10アルバム獲得数は18作。(女性アーティストとして歴代3位)
* 日本でも有名なクリスマスソング「All I Want For Christmas is You」([[恋人たちのクリスマス]])は、アメリカでは'''クリスマスソングとして史上初のデジタルセールス200万件を超える大ヒットを記録'''。
* 2005年に発売された「[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]」は、'''2000年代'''(過去10年間)'''アメリカで最もヒットした曲'''としてビルボードより1位に選ばれた。
* 2005年に発売された「[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]」は米ラジオ局での1日のエアプレイ数と1週間のエアプレイ数がそれぞれBDS史上最大の3,280回、22,300回を記録。('''史上最高記録''')
* ビルボードチャートの9つものチャートでの第1位を同時に獲得した'''唯一のアーティスト'''。
* 1995年に発売された[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]は、'''90年代'''(1990年から1999年の10年間)'''アメリカで最もヒットした曲'''としてビルボードより1位に選ばれた<ref>{{cite news |title=米Billboard、‘00年代’ランキングを発表。 |newspaper=BARKS |date=2009-12-16 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000056506 |accessdate=2011-02-15}}</ref>。
* [[1990年代]]、[[2000年代]]と2つの年代で過去10年間のアメリカ最大のヒット曲1位の曲を持っているのはマライアのみである。(1990年代総合1位は「[[ワン・スウィート・デイ|One Sweet Day]]」、2000年代総合1位は「[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]」)
* 1990年から2000年までの10年間で'''最もセールスを記録したアーティスト'''。
* ビルボードのHoliday Digital Songsチャートにて'''1、2位を独占した史上初'''のアーティスト。
* ビルボードより全米人気ホリデイソングが発表され、「All I want For Christmas is You」が1位に選ばれた。
== コンサートツアー ==
* 1993年 Music Box Tour
** [[アメリカ合衆国|アメリカ]]
* 1996年 Daydream Tour
** 日本、[[ドイツ]]、[[オランダ]]、[[フランス]]、[[イギリス]]
* 1998年 Butterfly Tour
** 日本、[[中華民国|台湾]]、[[オーストラリア]]、アメリカ
* 2000年 Rainbow Tour
** [[ベルギー]]、[[イタリア]]、ドイツ、フランス、イギリス、[[スペイン]]、日本、[[シンガポール]]、アメリカ、[[カナダ]]
* 2003年 - 2004年 Charmbracelet Tour
** [[大韓民国|韓国]]、日本、アメリカ、カナダ、[[ロシア]]、[[スウェーデン]]、オランダ、ドイツ、[[オーストリア]]、[[スイス]]、イギリス、フランス、イタリア、[[中華人民共和国|中国]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[マレーシア]]、[[レバノン]]、[[アラブ首長国連邦]]
* 2006年 The Adventures of Mimi Tour
** [[チュニジア]]、アメリカ、カナダ、日本
* 2009年 Live at The Pearl
** アメリカ([[ラスベガス]]にあるThe Pearl Concert Theatreでの限定4日間のプロモーションコンサート)
* 2009年 - 2010年 The Angels Advocate Tour
** アメリカ、カナダ、ブラジル、シンガポール
* 2014年 The Elusive Chanteuse Show
** 日本、韓国、中国、マレーシア、シンガポール、台湾、フィリピン
* 2014年・2015年 All I Want For Christmas Is You, A Night of Joy & Festivity
** アメリカ([[ニューヨーク]]にある[[ビーコン・シアター]]での12月限定のクリスマスコンサート)
* 2015年 - 2017年 Mariah Carey #1's
** アメリカ(ラスベガスにある[[シーザーズ・パレス|シーザーズ・パレス・コロシアム]]での長期コンサート)
* 2016年 The Sweet Sweet Fantasy Tour
** [[ヨーロッパ]]各国、[[南アフリカ共和国]]、[[南アメリカ]]各国、アメリカ
* 2016年 - 2022年 Merry Christmas to All!
** アメリカ([[ニューヨーク]]にあるマジソンスクエアガーデンなど)
* 2018年 The Butterfly Returns
** ラスベガス・シーザーズ・パレスでの定期公演
* 2018年 Mariah Carey: Live in Concert
** マレーシア、台湾、マカオ、中国、フィリピン、日本、インドネシア、タイ
* 2019年 Caution World Tour
** アメリカ、カナダ
=== 来日公演 ===
* 1996年 Daydream Tour
** 3月7日、10日、14日・[[東京ドーム]]
** 3月7日は、ワールドツアー初日
* 1998年 Butterfly Tour
** 1月11日、14日、17日、20日・東京ドーム
** 1月11日は、ワールドツアー初日
* 2000年 Rainbow Tour
** 3月4日・[[大阪ドーム]]、3月7日、9日・東京ドーム
* 2003年 Charmbracelet Tour
** 6月24日、26日・[[大阪城ホール]]、6月29日、7月1日・[[マリンメッセ福岡]]、7月3日・[[広島サンプラザ]]、7月6日、8日、10日・[[日本武道館]]、7月13日、15日・[[名古屋レインボーホール]]
* 2006年 THE ADVENTURES OF MIMI "THE VOICE, THE HITS, THE TOUR"
** 10月16日・日本武道館(追加公演)、10月18日・名古屋レインボーホール、10月20日、21日・[[さいたまスーパーアリーナ]]、10月24日、25日・大阪城ホール
** 10月25日は、ワールドツアー最終日
* 2014年 The Elusive Chanteuse Show
** 10月4日・[[幕張メッセ]]国際展示場7・8ホール、10月6日・[[横浜アリーナ]]
** 10月4日は、ワールドツアー初日
* 2018年 Live in Concert
** 10月29日・[[大阪市中央体育館]]、10月31日、11月1日・[[日本武道館]]
[[日本]]でのコンサートツアーは今までに7回行われており、北米以外を含むワールドツアーでは、頻繁に日本公演を行っている。
また来日公演の際には、(2014年以外)必ずアンコールの最後で「恋人たちのクリスマス」が歌われている。これは、同曲が日本で大ヒットしたことを受け、マライア自身が日本のファンに向けていつもアンコールの最後に歌っているものであり、12月に行われる他国の公演を除いては、日本公演独自の演出となっている。
== 女優としての活動 ==
=== 出演映画作品 ===
* [[プロポーズ (1999年の映画)|プロポーズ]] ''The Bachelor''(1999年)
* [[グリッター きらめきの向こうに]] ''Glitter''(2001年)
* ''WiseGirls''(2001年)
* ''Death of a Dynasty''(2003年)
* ''State Property 2''(2005年)
* [[エージェント・ゾーハン]] ''You Don't Mess with the Zohan''(2008年)
* ''Tennessee''(2009年)
* [[プレシャス (映画)|プレシャス]] ''Precious''(2009年)
* [[大統領の執事の涙]] ''Lee Daniels' The Butler''(2013年)
* ''A Christmas Melody''(2015年) - 自身初の監督作品。
* ''Popstar: Never Stop Never Stopping''(2016年)
* [[レゴバットマン ザ・ムービー]] ''The Lego Batman Movie''(2017年) - アニメ映画、声の出演
=== テレビ ===
* ''Ally McBeal''(2002年) - テレビドラマ
* ''The Proud Family''(2003年) - テレビアニメ(声の出演)
* [[アメリカン・ダッド]] ''American Dad!''(2013年) - テレビアニメ(声の出演)
=== CM ===
* [[英会話AEON]](1998年)
* [[ネスレ日本]]「[[ネスカフェ]]・サンタマルタ」(2000年)
* Machine Zone「Game of War」(2015年 - ) - 「Hero」をCMソングとしても使用。
== 雑記 ==
* 現[[ブルネイ]]国王の息子であるアジム王子がマライアの大ファンで2006年のライブのニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートを行なう彼女の楽屋に王子の使者にプライベートジェットで540万ドル(約6億円)相当のプレゼントを届けさせた。その時マライアに贈られたのは8カラットのダイアモンドとプラチナのネックレスと、おそろいの指輪だった<ref>{{cite news|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000026729|title=マライア・キャリーにブルネイ王子が6億円の指輪プレゼント|publisher=BARKS|date=2006-09-10|accessdate=2013-03-27}}</ref>。
* 2010年1月、ブルネイのアジム王子が自らのソロ・シングルを発表するにあたり、記念にマライアにミュージック・ビデオへの出演を依頼し、出演したことでも話題になった。
* 「世界一高い声を出すシンガーソングライター」として[[ギネス世界記録|ギネス・ブック]]に登録されている。
* [[ハローキティ]]のファンである。
* [[1998年]]に発売されたライブ&ドキュメンタリー映像作品『Around The World』には、来日時に[[めざましテレビ]]のインタビューを受けた様子が収録されている。
* [[2002年]]に発売された『Charmbracelet』からの1stシングル「[[スルー・ザ・レイン|Through the Rain]]」のプロモーションビデオでは実際に人種の違いで周囲から反対され駆け落ちして結ばれたマライアの両親の実話がテーマになっている。そして最後にその両親の前で歌っているのが二人の子供であるマライアという設定という感動的な[[ミュージックビデオ|PV]]に仕上がっている。
* [[2002年]]11月の来日時、東京・[[渋谷]]の繁華街でアルバム『Charmbracelet』からの2ndシングル「[[ボーイ (アイ・ニード・ユー)|Boy (I Need You)]]」の[[ミュージックビデオ|PV]]のゲリラ撮影を行った。スタッフが交通を遮断し、マライアが横断歩道を信号無視で歩くなどの強引な撮影をして周囲はパニック状態になった。
* 2005年に発売されたアルバムのタイトル、『[[MIMI (アルバム)|The Emancipation Of Mimi]]』のミミ(Mimi)とは、彼女の[[愛称]]である。
* ライヴ前の睡眠時間は15時間<ref>{{cite news|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000012686|title=マライア・キャリー、15時間寝る|publisher=BARKS|date=2005-10-14|accessdate=2013-03-27}}</ref>。
* 彼女独特のあの驚異的な高音の声域は少女時代に[[ミニー・リパートン]]の「Lovin' You」の一節を練習したり、鳥がさえずる声を真似して身に付いたという。
* 2006年にビルボード主催の過去13年間で最も素晴らしい歌詞の曲で「[[ウィ・ビロング・トゥゲザー|We Belong Together]]」が1位に選ばれる。
* マライアの飼い犬である[[ジャックラッセルテリア]]のジャックは有名だが、[[2007年]]に同犬種のJJ(ジャックジュニア)を飼い始めた。
* 『[[E=MC² (マライア・キャリーのアルバム)|E=MC²]]』からの2ndシングルである『[[バイ・バイ (マライア・キャリーの曲)|Bye Bye]]』は2002年に亡くなったマライアの父親、2007年に他界した愛犬ジャックなど、マライアと親しみのあった亡くなった人達へ歌っている。
* 幼少期から声帯に[[結節]]を持っており、定期的に診断を受けている。また、この結節は彼女がホイッスルボイスで歌える一つの要因にもなっている。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{cite book
| last = Appleman
| first = Chris
| title = The Science of Vocal Pedagogy: Theory and Application
| year = 1986
| publisher = Indiana University Press
| location = Bloomington
| isbn = -0253351103
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = James
| first = Harold
| title = Guinness Rockopedia
| year = 1998
| publisher = Guinness Publishing Ltd
| location = Los Angeles
| isbn = 0-85112-072-5
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = Nickson
| first = Chris
| title = Mariah Carey: her story
| year = 1995
| publisher = St. Martin's Griffin
| location = New York
| isbn = 978-0-312-13121-0
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = Nickson
| first = Chris
| title = Mariah Carey revisited
| year = 1998
| publisher = St. Martin's Griffin
| location = New York
| isbn = 978-0-312-19512-0
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = Peckham
| first = Anne
| title = Vocal Workouts for the Contemporary Singer
| year = 2005
| publisher = Berklee Press
| location = Boston
| isbn = 0-87639-047-5
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = Shapiro
| first = Marc
| title = Mariah Carey: the unauthorized biography
| year = 2001
| publisher = ECW Press
| location = Toronto
| isbn = 978-1-55022-444-3
| ref = harv}}
* {{cite book
| last = Viros
| first = Alexandre
| title = Casser les Voix
| year = 2009
| publisher = St. Martin's Griffin
| location = Paris
| isbn = 978-0-312-19512-0
| ref = harv}}
* Hardy, Phil. ''The Faber Companion to 20th Century Popular Music: Fully Revised Third Edition'' (2001). pg. 156–157. UK: Faber and Faber Limited. ISBN 0-571-19608-X.
* Mulholland, Garry. ''The Illustrated Encyclopedia of Music'' (2003). pg. 57. UK: Flame Tree Publishing. ISBN 1-904041-70-1.
* ''Fred Bronson's Billboard Book of Number 1 Hits, 5th Edition'' (ISBN 0-8230-7677-6)
* ''Joel Whitburn Presents the Billboard Hot 100 Charts: The Sixties'' (ISBN 0-89820-074-1)
* ''Joel Whitburn Presents the Billboard Hot 100 Charts: The Nineties'' (ISBN 0-89820-137-3)
* Additional information concerning Carey's chart history can be retrieved and verified in ''Billboard's'' [https://www.billboard.com/pro/ online archive services] and print editions of the magazine.
== 外部リンク ==
{{commons|Mariah Carey}}
* {{Official website}}{{en icon}}
* {{Official website|https://www.universal-music.co.jp/mariah-carey/|Mariah Carey - UNIVERSAL MUSIC JAPAN}}{{ja icon}}
* {{Official website|https://www.sonymusic.co.jp/artist/MariahCarey/|Mariah Carey - Sony Music}}{{ja icon}}
* [https://web.archive.org/web/20141224210753/http://www.defjam.com/artists/mariah-carey/ Mariah Carey def Jam]{{en icon}}{{リンク切れ|date=2020年10月}}
* {{Twitter|MariahCarey|Mariah Carey}}
{{マライア・キャリー}}
{{日本ゴールドディスク大賞アーティスト・オブ・ザ・イヤー}}
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[[Category:マライア・キャリー|*]]
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14,777 |
ゲイナス
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ゲイナスとは、III-V族半導体であり、ガリウム・インジウム・窒素・ヒ素を用いた4元化合物半導体を指す。これらの元素記号を並べると GaInNAs となることから名付けられた。GINA(ジーナ)とも呼ばれる。
ゲイナスの用途は、通信用レーザーの発光デバイス材料である。現行の長波長通信用レーザー材料としてはGaInAsPが用いられているが、これは温度変化による波長・強度変化が大きく、通信用に使うためには発生する熱を取り除いてやるための冷却装置を必要とする。
これに対し、ゲイナスは温度特性が優れており、波長シフト等が少ない。このため、光ファイバー網での通信用レーザーの材料として期待されている。
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'''ゲイナス'''とは、[[III-V族半導体]]であり、[[ガリウム]]・[[インジウム]]・[[窒素]]・[[ヒ素]]を用いた4元[[化合物半導体]]を指す。これらの[[元素記号]]を並べると '''GaInNAs''' となることから名付けられた。GINA(ジーナ)とも呼ばれる。
ゲイナスの用途は、通信用[[レーザー]]の発光デバイス材料である。現行の長波長通信用レーザー材料としてはGaInAsPが用いられているが、これは温度変化による波長・強度変化が大きく、通信用に使うためには発生する熱を取り除いてやるための冷却装置を必要とする。
これに対し、ゲイナスは温度特性が優れており、波長シフト等が少ない。このため、[[光ファイバー]]網での通信用レーザーの材料として期待されている。
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ミス・マープル
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ミス・マープル(ジェーン・マープル、Miss Jane Marple)は、アガサ・クリスティ作の推理小説に登場する架空の老嬢。エルキュール・ポアロに次ぐクリスティ作品の代表的な主人公(名探偵)である。『牧師館の殺人』からクリスティ最後の作品になる『スリーピング・マーダー』まで12の長編と20の短編に登場し人気を集めた。
初登場作品は厳密には1927年に雑誌に掲載された短編「火曜クラブ」である。しかし、短編集『火曜クラブ』が刊行されたのは1932年になり、その2年前の1930年に長編『牧師館の殺人』が刊行されている。そのため初登場作品は『牧師館の殺人』とされる場合が多い。これはポアロものの『アクロイド殺し』『ビッグ4』が発表順ではなく単行本化の順になっているのと同じである。
最後の登場作品となる『スリーピング・マーダー』はマープルシリーズの完結を目的として1943年に執筆され、『カーテン』と共に死後出版の契約が結ばれた。結局生前に刊行された『カーテン』とは異なり、予定通り死後1976年10月に刊行されている。
編纂によって複数収録された話も存在するため、初出の短編集を基に挙げる。()内は、雑誌掲載などによる発表年。
マープルものだけで構成された短編集は全13編からなる『火曜クラブ』のみである。ほかイギリスで刊行された『Miss Marple's Final Cases and Two Other Stories』(直訳:ミス・マープル最後の事件簿と他2話)全8編中の6編と『クリスマス・プディングの冒険』に収録された「グリーンショウ氏の阿房宮」、計3冊にマープルものの短編全20編が収録されている。
『牧師館の殺人』では詮索好きで辛辣な性格だったが、その後の作品では詮索好きには変わりはないものの温厚であり、人好きするタイプに変わり、一般にイメージされるような優しい老婦人になっている。
生まれはヴィクトリア朝後期、出身はロンドン近郊。家は中流だった。人並みの人生を送るが、両親に結婚を反対されたことから独身を貫くことを決め、ロンドンから25マイルほど離れたセント・メアリ・ミード村に移住する。その後は、編み物や刺繍、庭いじりを趣味として村に閉じこもったような暮らしぶりだが、意外に活動的で、よくロンドンや英国各地へと出かけ、カリブに療養に行ったことさえある。しかも、出かけた先で割と気軽に他人に話しかける(そしてそれが事件介入のきっかけとなる)ことも多く、社交性は旺盛というよりむしろ過剰な方である。
あるとき、作家である甥のレイモンド・ウェストらによって作られた“火曜クラブ”(訳によっては“火曜ナイトクラブ”)にて、家を会合の場所として貸すこととなる。当初は村以外のことは何も知らない老婆と見られて、参加者から軽んじられていたが、参加者が話す迷宮入り事件を完璧に解き、探偵としての才能を認知される。なお、これ以前から村の中で起こった小さな事件などを解決しているらしい。その後の活躍により、少なくとも3つの州の警察署長を手の内に押さえていると言われるほど、警察関係者の間でその名が知られるようになる。
近代教育を受けていない無学な人間だと謙遜することがあるが、イタリアの寄宿女学校に留学していた経験を持ち、一通りの教養は備えている。
起こった出来事もしくは話された内容を、自身の経験、特にセント・メアリ・ミード村で過去にあった出来事に当てはめることで推理をするという点に最大の特徴がある。唐突に、一見無関係のような昔話を始めるので、初めて会った者は彼女を馬鹿にすることが多い。このような推理法が可能なのはひとえに彼女の人物に対する観察力と長年の経験に裏付けられた洞察力によるものである。そのため他の探偵達と比べると物理的な証拠をもとにした推察よりも、動機面から推理を始める傾向が強い。この傾向はクリスティ作品全般に見られることだが、ミス・マープルにはその性質上特に強く見られる。
推理スタイルや『火曜クラブ』のフォーマットなどにより安楽椅子探偵と思われがちだが、大部分の作品は他の探偵もの同様、自分から事件現場に赴いたり、出掛けた先で事件に遭遇したりしている。
ミス・マープルのモデルとなったのは作者の祖母と見られている。また、マープルの原型と呼べる人物が、『アクロイド殺し』に既に登場している(シェパード医師の姉・キャロライン)。これらはどちらもクリスティ自身が述べている。
マーガレット・ラザフォード、アンジェラ・ランズベリー、ヘレン・ヘイズ、バーバラ・マレン、ダルシー・グレイ、ジョーン・ヒクソンなど、現在まで様々な女優陣がミス・マープルを演じた映像化作品、または舞台演劇が登場している。
劇場作品では1961年から1964年にかけてマーガレット・ラザフォード演じるMGMの映画が以下の4本製作された。これが初のミス・マープルの映像化になる。
日本ではいずれも劇場未公開で、2006年にDVD商品としてリリースされた。クリスティ自身はラザフォードのマープルを気に入ってはいなかった。
なお、同じクリスティ作品ということで、ラザフォードのマープルは1966年公開のポワロもの映画『The Alphabet Murders』にもカメオ出演している。
大作映画として『鏡は横にひび割れて』が『クリスタル殺人事件 The Mirror Crack'd』(1980) として公開された。同作ではアンジェラ・ランズベリーがマープルを演じた他、エリザベス・テイラー、キム・ノヴァク、ロック・ハドソン、ジェラルディン・チャップリンが出演した。
1984年から1992年にかけてイギリスBBCにより製作された『ミス・マープル』は、長編12編すべてをテレビドラマ化している。番組は、生前クリスティ本人から「年を経た暁には、ミス・マープルを演じて欲しい」と言われたという逸話のある主演ジョーン・ヒクソン(英語版)の上品な演技も相まって、人気を博した。今ではミス・マープルといえばジョーン・ヒクソンのイメージが定着している。日本でもNHK、テレビ東京で放送され、山岡久乃の声とともに大変な人気を得ている。設定年代は原作では戦前発表の『牧師館の殺人』や戦時中の『動く指』なども含めて第二次世界大戦後、というよりむしろテレビが普及して生活様式が一変する以前の「最後の古きよき時代」である1950年代前半に統一されている。また、登場人物の年齢も大幅に引き上げられた「大人の物語」となっている。
2004年、ジョーン・ヒクソン版に次ぐ2度目のTVドラマシリーズ『アガサ・クリスティー ミス・マープル』が、独立系のITVにおいて製作された。マープル役にはジェラルディン・マクイーワン(英語版)を起用。日本では2006年12月にNHK-BS2にて放送され、ミス・マープルの吹き替えは岸田今日子が担当した。2008年6月に放送された第2シーズンではマープルの吹き替えは草笛光子に交代した。シーズン4以降、マープル役がジュリア・マッケンジー(英語版)に交代、日本語吹替えも藤田弓子に変更された。LaLa TVでシーズン1が放映。第2シーズン以降は『親指のうずき』(トミーとタペンスシリーズ)、『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』、『ゼロ時間へ』、『殺人は容易だ』、『蒼ざめた馬』など別シリーズやノンシリーズ作品の事件をミス・マープルが解決する設定に脚色し、製作している。なお、時代設定は1950年代で統一されているが、イラク戦争後の世相を反映し、第二次世界大戦の痕跡が強調されている。
米国製作の単発テレビムービーの連作として、1983年の『アガサ・クリスティ / カリブ海殺人事件』および1985年の『アガサ・クリスティ / 魔術の殺人』もオンエアされた。主演はどちらもヘレン・ヘイズ。
2006年から2007年まで、日本テレビ系列の「ドラマ・コンプレックス」、「火曜ドラマゴールド」の枠内でミス・マープルのキャラクターを日本人女性・馬淵淳子に翻案したテレビドラマ「ミス・マープルシリーズ」が3作、製作放映された。原作は『パディントン発4時50分』、『鏡は横にひび割れて』、『予告殺人』。主演は岸恵子。
日本製作のアニメ作品として、NHKで2004年に『アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル』が放送された。ミス・マープル役は八千草薫。マープルの甥レイモンドの娘メイベルがポワロの助手になるという設定だが、マープルとポワロは直接の面識はない。『スリーピング・マーダー』『パディントン発4時50分』などが番組内で映像化されている。
この作品には、『アガサ・クリスティー ミス・マープル』でマープルを吹き替えた草笛光子が「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」の登場人物の一人、オパルセン夫人役で声をあてている。
1949年に、当時35歳の米国女優バーバラ・マレン主演の『The Murder at the Vicarage』が上演された。メディアを別にすれば、彼女がラザフォードに先立つ最初期のミス・マープル役の女優ということになる。
また1977年には、英国の女優ダルシー・グレイが主演の『A Murder is Announced』も上演されている。
ポアロものと人気を二分し、クリスティファンの中にはポアロとマープルを一緒に登場させて欲しいというファンレターが多く寄せられたが、クリスティ自身はポアロの性格とマープルの性格が合わないとしてこれを拒否した。結果としてポアロとマープルが同一作品に登場することはなかった。なお、セント・メアリ・ミード村自体は架空の村であるが、当時の英国の価値観としてどこにでもあるのどかな村のイメージで作られている(ファンの間ではデヴォンにあるウィディコム・イン・ザ・ムーアがモデルだとされる)。村の名前はポアロもの長編『青列車の秘密』にも登場している。
また以下のキャラクターがシリーズを越えて登場する。
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"text": "ミス・マープル(ジェーン・マープル、Miss Jane Marple)は、アガサ・クリスティ作の推理小説に登場する架空の老嬢。エルキュール・ポアロに次ぐクリスティ作品の代表的な主人公(名探偵)である。『牧師館の殺人』からクリスティ最後の作品になる『スリーピング・マーダー』まで12の長編と20の短編に登場し人気を集めた。",
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"text": "初登場作品は厳密には1927年に雑誌に掲載された短編「火曜クラブ」である。しかし、短編集『火曜クラブ』が刊行されたのは1932年になり、その2年前の1930年に長編『牧師館の殺人』が刊行されている。そのため初登場作品は『牧師館の殺人』とされる場合が多い。これはポアロものの『アクロイド殺し』『ビッグ4』が発表順ではなく単行本化の順になっているのと同じである。",
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"text": "最後の登場作品となる『スリーピング・マーダー』はマープルシリーズの完結を目的として1943年に執筆され、『カーテン』と共に死後出版の契約が結ばれた。結局生前に刊行された『カーテン』とは異なり、予定通り死後1976年10月に刊行されている。",
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"text": "『牧師館の殺人』では詮索好きで辛辣な性格だったが、その後の作品では詮索好きには変わりはないものの温厚であり、人好きするタイプに変わり、一般にイメージされるような優しい老婦人になっている。",
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"text": "生まれはヴィクトリア朝後期、出身はロンドン近郊。家は中流だった。人並みの人生を送るが、両親に結婚を反対されたことから独身を貫くことを決め、ロンドンから25マイルほど離れたセント・メアリ・ミード村に移住する。その後は、編み物や刺繍、庭いじりを趣味として村に閉じこもったような暮らしぶりだが、意外に活動的で、よくロンドンや英国各地へと出かけ、カリブに療養に行ったことさえある。しかも、出かけた先で割と気軽に他人に話しかける(そしてそれが事件介入のきっかけとなる)ことも多く、社交性は旺盛というよりむしろ過剰な方である。",
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"text": "あるとき、作家である甥のレイモンド・ウェストらによって作られた“火曜クラブ”(訳によっては“火曜ナイトクラブ”)にて、家を会合の場所として貸すこととなる。当初は村以外のことは何も知らない老婆と見られて、参加者から軽んじられていたが、参加者が話す迷宮入り事件を完璧に解き、探偵としての才能を認知される。なお、これ以前から村の中で起こった小さな事件などを解決しているらしい。その後の活躍により、少なくとも3つの州の警察署長を手の内に押さえていると言われるほど、警察関係者の間でその名が知られるようになる。",
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"text": "起こった出来事もしくは話された内容を、自身の経験、特にセント・メアリ・ミード村で過去にあった出来事に当てはめることで推理をするという点に最大の特徴がある。唐突に、一見無関係のような昔話を始めるので、初めて会った者は彼女を馬鹿にすることが多い。このような推理法が可能なのはひとえに彼女の人物に対する観察力と長年の経験に裏付けられた洞察力によるものである。そのため他の探偵達と比べると物理的な証拠をもとにした推察よりも、動機面から推理を始める傾向が強い。この傾向はクリスティ作品全般に見られることだが、ミス・マープルにはその性質上特に強く見られる。",
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"text": "ミス・マープルのモデルとなったのは作者の祖母と見られている。また、マープルの原型と呼べる人物が、『アクロイド殺し』に既に登場している(シェパード医師の姉・キャロライン)。これらはどちらもクリスティ自身が述べている。",
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"text": "日本ではいずれも劇場未公開で、2006年にDVD商品としてリリースされた。クリスティ自身はラザフォードのマープルを気に入ってはいなかった。",
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"text": "なお、同じクリスティ作品ということで、ラザフォードのマープルは1966年公開のポワロもの映画『The Alphabet Murders』にもカメオ出演している。",
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"text": "大作映画として『鏡は横にひび割れて』が『クリスタル殺人事件 The Mirror Crack'd』(1980) として公開された。同作ではアンジェラ・ランズベリーがマープルを演じた他、エリザベス・テイラー、キム・ノヴァク、ロック・ハドソン、ジェラルディン・チャップリンが出演した。",
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"text": "1984年から1992年にかけてイギリスBBCにより製作された『ミス・マープル』は、長編12編すべてをテレビドラマ化している。番組は、生前クリスティ本人から「年を経た暁には、ミス・マープルを演じて欲しい」と言われたという逸話のある主演ジョーン・ヒクソン(英語版)の上品な演技も相まって、人気を博した。今ではミス・マープルといえばジョーン・ヒクソンのイメージが定着している。日本でもNHK、テレビ東京で放送され、山岡久乃の声とともに大変な人気を得ている。設定年代は原作では戦前発表の『牧師館の殺人』や戦時中の『動く指』なども含めて第二次世界大戦後、というよりむしろテレビが普及して生活様式が一変する以前の「最後の古きよき時代」である1950年代前半に統一されている。また、登場人物の年齢も大幅に引き上げられた「大人の物語」となっている。",
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"text": "2004年、ジョーン・ヒクソン版に次ぐ2度目のTVドラマシリーズ『アガサ・クリスティー ミス・マープル』が、独立系のITVにおいて製作された。マープル役にはジェラルディン・マクイーワン(英語版)を起用。日本では2006年12月にNHK-BS2にて放送され、ミス・マープルの吹き替えは岸田今日子が担当した。2008年6月に放送された第2シーズンではマープルの吹き替えは草笛光子に交代した。シーズン4以降、マープル役がジュリア・マッケンジー(英語版)に交代、日本語吹替えも藤田弓子に変更された。LaLa TVでシーズン1が放映。第2シーズン以降は『親指のうずき』(トミーとタペンスシリーズ)、『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?』、『ゼロ時間へ』、『殺人は容易だ』、『蒼ざめた馬』など別シリーズやノンシリーズ作品の事件をミス・マープルが解決する設定に脚色し、製作している。なお、時代設定は1950年代で統一されているが、イラク戦争後の世相を反映し、第二次世界大戦の痕跡が強調されている。",
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"text": "また1977年には、英国の女優ダルシー・グレイが主演の『A Murder is Announced』も上演されている。",
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"text": "ポアロものと人気を二分し、クリスティファンの中にはポアロとマープルを一緒に登場させて欲しいというファンレターが多く寄せられたが、クリスティ自身はポアロの性格とマープルの性格が合わないとしてこれを拒否した。結果としてポアロとマープルが同一作品に登場することはなかった。なお、セント・メアリ・ミード村自体は架空の村であるが、当時の英国の価値観としてどこにでもあるのどかな村のイメージで作られている(ファンの間ではデヴォンにあるウィディコム・イン・ザ・ムーアがモデルだとされる)。村の名前はポアロもの長編『青列車の秘密』にも登場している。",
"title": "他作品との関係"
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"text": "また以下のキャラクターがシリーズを越えて登場する。",
"title": "他作品との関係"
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ミス・マープルは、アガサ・クリスティ作の推理小説に登場する架空の老嬢。エルキュール・ポアロに次ぐクリスティ作品の代表的な主人公(名探偵)である。『牧師館の殺人』からクリスティ最後の作品になる『スリーピング・マーダー』まで12の長編と20の短編に登場し人気を集めた。
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{{出典の明記|date=2016年2月11日 (木) 03:02 (UTC)}}
'''ミス・マープル'''('''ジェーン・マープル'''、Miss Jane Marple)は、[[アガサ・クリスティ]]作の[[推理小説]]に登場する架空の老嬢。[[エルキュール・ポアロ]]に次ぐクリスティ作品の代表的な主人公(名探偵)である。『[[牧師館の殺人]]』からクリスティ最後の作品になる『[[スリーピング・マーダー]]』まで12の長編と20の短編に登場し人気を集めた。
== 登場作品 ==
初登場作品は厳密には[[1927年]]に雑誌に掲載された短編「火曜クラブ」である。しかし、短編集『[[火曜クラブ]]』が刊行されたのは[[1932年]]になり、その2年前の[[1930年]]に長編『牧師館の殺人』が刊行されている。そのため初登場作品は『牧師館の殺人』とされる場合が多い。これはポアロものの『[[アクロイド殺し]]』『[[ビッグ4]]』が発表順ではなく単行本化の順になっているのと同じである。
最後の登場作品となる『スリーピング・マーダー』はマープルシリーズの完結を目的として[[1943年]]に執筆され、『[[カーテン (推理小説)|カーテン]]』と共に死後出版の契約が結ばれた。結局生前に刊行された『カーテン』とは異なり、予定通り死後[[1976年]]10月に刊行されている。
=== 長編 ===
* [[1930年]]:[[牧師館の殺人]] - ''The Murder at the Vicarage''
* [[1942年]]:[[書斎の死体]] - ''The Body in the Library''
* [[1943年]]:[[動く指]] - ''The Moving Finger''
* [[1950年]]:[[予告殺人]] - ''A Murder is Announced''
* [[1952年]]:[[魔術の殺人]] - ''They Do It with Mirrors''
* [[1953年]]:[[ポケットにライ麦を]] - ''A Pocket Full of Rye''
* [[1957年]]:[[パディントン発4時50分]] - ''4.50 from Paddington''
* [[1962年]]:[[鏡は横にひび割れて]] - ''The Mirror Crack'd from Side to Side''
* [[1964年]]:[[カリブ海の秘密]] - ''A Caribbean Mystery''
* [[1965年]]:[[バートラム・ホテルにて]] - ''At Bertram's Hotel''
* [[1971年]]:[[復讐の女神 (小説)|復讐の女神]] - ''Nemesis''
* [[1976年]]:[[スリーピング・マーダー]] - ''Sleeping Murder''
=== 短編 ===
編纂によって複数収録された話も存在するため、初出の短編集を基に挙げる。()内は、雑誌掲載などによる発表年。
* [[1932年]]:[[火曜クラブ]](訳題は米版''The Tuesday Club Murders''に由来。収録作品の「火曜クラブ」とはタイトルが異なる。)
** 火曜クラブ - ''The Tuesday Night Club''(1927年)
** アスタルテの祠 - ''The Idol House of Astarte''(1928年)
** 金塊事件 - ''Ingots of Gold''(1928年)
** 舗道の血痕 - ''The Bloodstained Pavement'' (1928年)
** 動機対機会 - ''Motive v. Opportunity'' (1928年)
** 聖ペテロの指のあと - ''The Thumb Mark of St. Peter'' (1928年)
** 青いゼラニウム - ''The Blue Geranium'' (1929年)
** 二人の老嬢 - ''The Companion'' (1930年)
** 四人の容疑者 - ''The Four Suspects'' (1930年)
** クリスマスの悲劇 - ''A Christmas Tragedy'' (1930年)
** 毒草 - ''The Herb of Death'' (1930年)
** バンガロー事件 - ''The Affair at the Bungalow'' (1930年)
** 溺死 - ''Death by Drowning'' (1931年)
* [[1939年]]:レガッタ・デーの事件(早川書房版は[[黄色いアイリス]])
** ミス・マープルの思い出話 - ''Miss Marple Tells a Story'' (1935年)
* [[1950年]]:三匹の盲目のねずみ(早川書房版は[[愛の探偵たち]])
** 奇妙な冗談 - ''Strange Jest'' (1944年)
** 昔ながらの殺人事件 - ''Tape-Measure Murder'' (1942年)
** 申し分のないメイド - ''The Case of the Perfect Maid'' (1942年)
** 管理人事件 - ''The Case of the Caretaker'' (1941年)
* [[1960年]]:[[クリスマス・プディングの冒険]]
** グリーンショウ氏の阿房宮 - ''Greenshaw's Folly'' (1960年)
* [[1961年]]:二重の罪(早川書房版は[[教会で死んだ男]]に収録)
** 教会で死んだ男 - ''Sanctuary'' (1954年)
マープルものだけで構成された短編集は全13編からなる『火曜クラブ』のみである。ほかイギリスで刊行された『Miss Marple's Final Cases and Two Other Stories』(直訳:ミス・マープル最後の事件簿と他2話)全8編中の6編と『クリスマス・プディングの冒険』に収録された「グリーンショウ氏の阿房宮」、計3冊にマープルものの短編全20編が収録されている。
== 人物 ==
『牧師館の殺人』では詮索好きで辛辣な性格だったが、その後の作品では詮索好きには変わりはないものの温厚であり、人好きするタイプに変わり、一般にイメージされるような優しい老婦人になっている。
生まれは[[ヴィクトリア朝]]後期、出身は[[ロンドン]]近郊。家は中流だった。人並みの人生を送るが、両親に結婚を反対されたことから独身を貫くことを決め、ロンドンから25マイルほど離れた[[セント・メアリ・ミード]]村<ref>『復讐の女神』参照。</ref>に移住する。その後は、編み物や刺繍、庭いじりを趣味として村に閉じこもったような暮らしぶりだが、意外に活動的で、よくロンドンや英国各地へと出かけ、カリブに療養に行ったことさえある。しかも、出かけた先で割と気軽に他人に話しかける(そしてそれが事件介入のきっかけとなる)ことも多く、社交性は旺盛というよりむしろ過剰な方である。
あるとき、作家である甥のレイモンド・ウェストらによって作られた“火曜クラブ”(訳によっては“火曜ナイトクラブ”)にて、家を会合の場所として貸すこととなる。当初は村以外のことは何も知らない老婆と見られて、参加者から軽んじられていたが、参加者が話す迷宮入り事件を完璧に解き、探偵としての才能を認知される。なお、これ以前から村の中で起こった小さな事件などを解決しているらしい。その後の活躍により、少なくとも3つの州の警察署長を手の内に押さえていると言われるほど{{refnest|group="注"|『スリーピング・マーダー』でのプライマー警部の談<ref>『[[スリーピング・マーダー]]』参照。</ref>。}}、警察関係者の間でその名が知られるようになる。
近代教育を受けていない無学な人間だと謙遜することがあるが、イタリアの寄宿女学校に留学していた経験を持ち、一通りの教養は備えている。
== 推理法 ==
起こった出来事もしくは話された内容を、自身の経験、特にセント・メアリ・ミード村で過去にあった出来事に当てはめることで推理をするという点に最大の特徴がある。唐突に、一見無関係のような昔話を始めるので、初めて会った者は彼女を馬鹿にすることが多い。このような推理法が可能なのはひとえに彼女の人物に対する観察力と長年の経験に裏付けられた洞察力によるものである。そのため他の探偵達と比べると物理的な証拠をもとにした推察よりも、動機面から推理を始める傾向が強い。この傾向はクリスティ作品全般に見られることだが、ミス・マープルにはその性質上特に強く見られる。
推理スタイルや『火曜クラブ』のフォーマットなどにより[[安楽椅子探偵]]と思われがちだが、大部分の作品は他の探偵もの同様、自分から事件現場に赴いたり、出掛けた先で事件に遭遇したりしている。
== モデル ==
ミス・マープルのモデルとなったのは作者の祖母と見られている。また、マープルの原型と呼べる人物が、『[[アクロイド殺し]]』に既に登場している(シェパード医師の姉・キャロライン)。これらはどちらもクリスティ自身が述べている。
== 映像・演劇作品 ==
[[マーガレット・ラザフォード]]、[[アンジェラ・ランズベリー]]、[[ヘレン・ヘイズ]]、[[バーバラ・マレン]]、[[ダルシー・グレイ]]、[[:en:Joan_Hickson|ジョーン・ヒクソン]]など、現在まで様々な女優陣がミス・マープルを演じた映像化作品、または舞台演劇が登場している。
=== 映画 ===
==== マーガレット・ラザフォード版 ====
劇場作品では1961年から1964年にかけて[[マーガレット・ラザフォード]]演じる[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]の映画が以下の4本製作された。これが初のミス・マープルの映像化になる。
日本ではいずれも劇場未公開で、2006年にDVD商品としてリリースされた。クリスティ自身はラザフォードのマープルを気に入ってはいなかった。
なお、同じクリスティ作品ということで、ラザフォードのマープルは[[1966年]]公開のポワロもの映画『The Alphabet Murders』にもカメオ出演している。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!映画タイトル!!原作!!公開年!!備考
|-
|『ミス・マープル / 夜行特急の殺人』||『パディントン発4時50分』|| ||
|-
|『ミス・マープル / 寄宿舎の殺人』||ポアロもの『[[葬儀を終えて]]』|| ||
|-
|『ミス・マープル / 最も卑劣な殺人』||ポアロもの『[[マギンティ夫人は死んだ]]』|| ||
|-
|『ミス・マープル / 船上の殺人』||オリジナル脚本|| ||
|-
|『[[:en:The Alphabet Murders|The Alphabet Murders]]』||ポアロもの『[[ABC殺人事件]]』||1966年||カメオ出演
|}
==== アンジェラ・ランズベリー版 ====
{{see also|クリスタル殺人事件}}
大作映画として『[[鏡は横にひび割れて]]』が『[[クリスタル殺人事件]] ''[[:en:The Mirror Crack'd|The Mirror Crack'd]]''』(1980) として公開された。同作では[[アンジェラ・ランズベリー]]がマープルを演じた他、[[エリザベス・テイラー]]、[[キム・ノヴァク]]、[[ロック・ハドソン]]、[[ジェラルディン・チャップリン]]が出演した。
=== テレビドラマ ===
==== ジョーン・ヒクソン版 ====
{{see also|ミス・マープル (1980年代のテレビシリーズ)}}
[[1984年]]から[[1992年]]にかけて[[イギリス]][[英国放送協会|BBC]]により製作された『'''[[ミス・マープル (1980年代のテレビシリーズ)|ミス・マープル]]'''』は、長編12編すべてを[[テレビドラマ]]化している。番組は、生前クリスティ本人から「年を経た暁には、ミス・マープルを演じて欲しい」と言われたという逸話のある主演{{仮リンク|ジョーン・ヒクソン|en|Joan Hickson}}の上品な演技も相まって、人気を博した。今ではミス・マープルといえばジョーン・ヒクソンのイメージが定着している。日本でも[[日本放送協会|NHK]]、[[テレビ東京]]で放送され、[[山岡久乃]]の声とともに大変な人気を得ている<ref group="注">発売されている[[DVD]]では、[[日本]]でのテレビ放映時にカットされた本編部分の新録は[[京田尚子]]が担当している。</ref>。設定年代は原作では戦前発表の『牧師館の殺人』や戦時中の『動く指』なども含めて[[第二次世界大戦]]後、というよりむしろテレビが普及して生活様式が一変する以前の「最後の古きよき時代」である1950年代前半に統一されている。また、登場人物の年齢も大幅に引き上げられた「大人の物語」となっている。
==== ジェラルディン・マキューアン版・ジュリア・マッケンジー版 ====
{{see also|アガサ・クリスティー ミス・マープル}}
[[2004年]]、ジョーン・ヒクソン版に次ぐ2度目のTVドラマシリーズ『'''[[アガサ・クリスティー ミス・マープル]]'''』が、独立系の[[ITV (イギリス)|ITV]]において製作された。マープル役には{{仮リンク|ジェラルディン・マキューアン|label=ジェラルディン・マクイーワン|en|Geraldine McEwan}}<ref group="注">NHKの日本語版[http://www4.nhk.or.jp/marple/ NHK ミス・マープル]では、「マクイーワン」と表記されているが、「[[マキュアン]]」または「マキューアン」の表記の方が適切。</ref>を起用。日本では[[2006年]][[12月]]に[[NHK-BS2]]にて放送され、ミス・マープルの[[吹き替え]]は[[岸田今日子]]が担当した<ref group="注">岸田は放送後の[[2006年]][[12月17日]]に他界し、本作が遺作となった。</ref>。[[2008年]][[6月]]に放送された第2シーズンではマープルの吹き替えは[[草笛光子]]に交代した。シーズン4以降、マープル役が{{仮リンク|ジュリア・マッケンジー|en|Julia McKenzie}}に交代、日本語吹替えも[[藤田弓子]]に変更された。[[LaLa TV]]でシーズン1が放映。第2シーズン以降は『[[親指のうずき]]』([[トミーとタペンス]]シリーズ)、『[[なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?]]』、『[[ゼロ時間へ]]』、『[[殺人は容易だ]]』、『[[蒼ざめた馬 (アガサ・クリスティ)|蒼ざめた馬]]』など別シリーズやノンシリーズ作品の事件をミス・マープルが解決する設定に脚色し、製作している。なお、時代設定は1950年代で統一されているが、[[イラク戦争]]後の世相を反映し、第二次世界大戦の痕跡が強調されている。
==== ヘレン・ヘイズ版 ====
米国製作の単発テレビムービーの連作として、1983年の『アガサ・クリスティ / カリブ海殺人事件』および1985年の『アガサ・クリスティ / 魔術の殺人』もオンエアされた。主演はどちらも[[ヘレン・ヘイズ]]。
==== 岸恵子版 ====
{{see also|ミス・マープルシリーズ (日本テレビのドラマ)}}
[[2006年]]から[[2007年]]まで、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の「[[ドラマ・コンプレックス]]」、「[[火曜ドラマゴールド]]」の枠内でミス・マープルのキャラクターを日本人女性・'''馬淵淳子'''に翻案したテレビドラマ「'''[[ミス・マープルシリーズ (日本テレビのドラマ)|ミス・マープルシリーズ]]'''」が3作、製作放映された。原作は『パディントン発4時50分』、『鏡は横にひび割れて』、『予告殺人』。主演は[[岸恵子]]。
=== アニメ ===
日本製作のアニメ作品として、NHKで[[2004年]]に『[[アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル]]』が放送された。ミス・マープル役は[[八千草薫]]。マープルの甥レイモンドの娘メイベル{{refnest|group="注"|原作では「メイベル」というマープルの姪が登場するが<ref>短編集『[[火曜クラブ]]』所収の「聖ペテロの指のあと」参照。</ref>、レイモンドの娘でなく、彼の姉妹か従姉妹にあたる。}}がポワロの助手になるという設定だが、マープルとポワロは直接の面識はない。『スリーピング・マーダー』『パディントン発4時50分』などが番組内で映像化されている。
この作品には、『アガサ・クリスティー ミス・マープル』でマープルを吹き替えた草笛光子が「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」の登場人物の一人、オパルセン夫人役で声をあてている。
=== 演劇 ===
1949年に、当時35歳の米国女優バーバラ・マレン主演の『The Murder at the Vicarage』が上演された。メディアを別にすれば、彼女がラザフォードに先立つ最初期のミス・マープル役の女優ということになる。
また1977年には、英国の女優ダルシー・グレイが主演の『A Murder is Announced』も上演されている。
== 他作品との関係 ==
ポアロものと人気を二分し、クリスティファンの中にはポアロとマープルを一緒に登場させて欲しいというファンレターが多く寄せられたが、クリスティ自身はポアロの性格とマープルの性格が合わないとしてこれを拒否した。結果としてポアロとマープルが同一作品に登場することはなかった。なお、セント・メアリ・ミード村自体は架空の村であるが、当時の英国の価値観としてどこにでもあるのどかな村のイメージで作られている(ファンの間では[[デヴォン]]にある[[:en:Widecombe-in-the-Moor|ウィディコム・イン・ザ・ムーア]]がモデルだとされる)。村の名前はポアロもの長編『[[青列車の秘密]]』にも登場している。
また以下のキャラクターがシリーズを越えて登場する。
:*『[[鳩のなかの猫]]』『[[バートラム・ホテルにて]]』『[[フランクフルトへの乗客]]』『[[運命の裏木戸]]』に現れる'''ロビンソン氏'''。
:*『[[動く指]]』で初登場して『[[蒼ざめた馬 (アガサ・クリスティ)|蒼ざめた馬]]』でもオリヴァ夫人<ref group="注">『[[ひらいたトランプ]]』『[[マギンティ夫人は死んだ]]』等、ポアロものに多数登場する女流作家。[[パーカー・パイン]]ものの「不満軍人の事件」(『[[パーカー・パイン登場]]』所収)にも登場している。</ref>と共演する'''デイン・カルスロップ牧師夫妻'''<ref group="注">『蒼ざめた馬』では「カルスロップ」が「'''キャルスロップ'''」と表記されている。</ref>。
:*別人の可能性があるが『[[ポケットにライ麦を]]』『[[第三の女 (クリスティの小説)|第三の女]]』の'''ニール(主任)警部'''など。
== その他 ==
*同名の「Jane Marple」という婦人服ブランドがある。
*フランスの作家パスカル・レネの長編ミステリ『三回殺して、さようなら』(1985年、日本語訳は創元推理文庫)の主人公レスター警部は、ミス・ジェーン・マープルの甥という設定で、キャラクター設定のみを原典から導入している。
*アガサ・クリスティ本人が[[ドロシー・L・セイヤーズ|ドロシー・セイヤーズ]]、[[ジョン・ディクスン・カー]]とならんで「劇中人物にファンがいる探偵小説作家」として物語世界に存在していることが発言されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[:en:List of Agatha Christie's Marple episodes]]
* [[アガサ・クリスティーの名探偵ポワロとマープル]]
* [[ミス・マープルシリーズ (日本テレビのドラマ)]] - 日本のドラマシリーズ
{{アガサ・クリスティ}}
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[[Category:ミス・マープル|*]]
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[[Category:イギリスの推理小説のシリーズ]]
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スティング
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スティング (Sting) は、英語で(針などで、ちくりと)刺す、ひりひりさせる、動植物の「針」などの意。
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'''スティング''' (Sting) は、英語で(針などで、ちくりと)刺す、ひりひりさせる、動植物の「[[針]]」などの意。
== 人物 ==
* [[スティング (ミュージシャン)]](Sting) - [[イギリス]]出身の[[音楽家|ミュージシャン]]。
* [[スティング (プロレスラー)]](Sting) - [[アメリカ合衆国]]の[[プロレスラー]]。
* [[ザ・スティグ]](The Stig) - [[イギリス]]([[英国放送協会|BBC]])のテレビ番組「[[トップ・ギア]]」に出演している覆面の[[レーシングドライバー]]。
* [[島田洋七#急降下|スティグ]] - [[島田洋七]]と[[国分健二]]が一時期組んでいた[[お笑いコンビ]]名。
== 作品 ==
=== 映画タイトル名 ===
* [[スティング (映画)]](原題:The Sting) - [[ポール・ニューマン]]と[[ロバート・レッドフォード]]出演、[[1973年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]([[コメディ映画]])。
=== 作品内人物・アイテム ===
* [[つらぬき丸]](原題:Sting) - 小説「[[指輪物語]]」や映画「[[ロード・オブ・ザ・リング (2001年の映画)|ロード・オブ・ザ・リング]]」に登場した'''[[フロド・バギンズ|フロド]]の剣'''。
* [[生体CPU#スティング・オークレー|スティング・オークレー]] - アニメ「[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]」の登場人物。
* スティング・ユークリフ - 漫画「[[FAIRY TAIL]]」の登場人物。([[FAIRY TAILの登場人物#剣咬の虎(セイバートゥース)]]を参照。)
=== 音楽 ===
* STING - [[KAT-TUN]]のアルバム「[[Honey (KAT-TUNのアルバム)|Honey]]」の初回限定盤2・通常盤収録曲。
=== イベント ===
* [[レゲエ#ジャマイカ|Sting]] - [[ジャマイカ]]ので行なう大規模コンサートの1つ。
===企業・団体名 ===
* [[スティング (ゲーム会社)]] - 日本の[[ゲームソフト]]開発会社名。
===商標 ===
* [[スティング (チューイングガム)]] - [[ワーナー・ランバート]]が販売したチューイングガム。
=== その他 ===
* [[おとり捜査]] - 英訳が「'''Sting operation'''」
== 関連項目 ==
* [[スティンガー]](曖昧さ回避)
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有効質量
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有効質量(ゆうこうしつりょう、英: effective mass)とは、何らかの物理現象を、「古典力学における質量を含む物理法則(比較的簡単な現象の場合が多い)」と類比することで現象論的に理解しようとしたときに出てくる、質量相当の物理量の総称である。結晶中の電子の物性を用いる上で用いられる「有効質量」を指すことがほとんどだが、結晶中の電子の物性とは異なる物理現象にもこの概念を持ち込むことがある。
「結晶中の電子の有効質量」以外の「有効質量」としては、例えば、原子間力顕微鏡のカンチレバーの機械的な振動(古典力学の現象)を、よりやさしい(古典力学の)現象である、フックの法則に置き換えて考えるときに、フックの法則における質量に相当するパラメーターを有効質量と呼ぶことがある。
以下、本節では、「結晶中の電子の有効質量」について説明する。
真空中の自由電子の(静止)質量 m に対し、結晶中の電子は見かけ上、これと異なる質量を持っているように観測される場合がある。これを、半導体物性では有効質量という。3 次元の場合、有効質量はテンソルで表現される(→ 異方性が存在する場合がある)。これは系のもつ対称性に依存し、(完全に)等方的な系ではテンソルの対角部分のみが残る(かつ全ての対角要素が同じ値となる)。
電子を波束と考え、その加速度 a {\displaystyle \mathbf {a} } は群速度 v g {\displaystyle \mathbf {v} _{\text{g}}} の時間微分で与えられる。群速度の定義 v g = ∇ k ω ( k ) {\displaystyle \mathbf {v} _{\text{g}}=\nabla _{k}\omega (\mathbf {k} )} を用いると、加速度は次のように書ける。
ここで運動方程式と結晶運動量の定義 p crystal = ħ k {\displaystyle \mathbf {p} _{\text{crystal}}=\hbar \mathbf {k} } から、
であるため、
と書ける。ここでド・ブロイの関係式 E = ħ ω {\displaystyle E=\hbar \omega } を用いた。これを成分表示すると、
ここでjについてはアインシュタインの縮約記法を用いた。これを運動方程式と比較すると、有効質量は次のように与えられる。
有効質量の観測方法としては、ホール効果を用いたサイクロトロン運動がある。このホール効果やドハース・ファンアルフェン効果など、磁場を用いて観測される 電子の有効質量のことを、特に「サイクロトロン質量」という。サイクロトロン運動以外にも
に有効質量を見ることができる。
N型半導体では、添加した元素は電子を多く含むため、結晶構造に参加しない電子が自由電子のように結晶内を移動できる。しかし添加原子はわずかにプラスになるので、電子は弱く束縛されて電場への反応が鈍る。これをまるで電子が重くなったかのようにみなすのである。
半導体や絶縁体では有効質量 mが自由電子の質量 m と大きく異なる場合がある。またランタノイドやアクチノイド元素の化合物の中にも、重い電子系と呼ばれる有効質量の比 (m/m) が時に 1000 程度になるようなものがある。一方、アルカリ金属の価電子部分のように、ほぼ自由電子とみなせるような場合は有効質量の比も 1 に近い値となる。
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有効質量とは、何らかの物理現象を、「古典力学における質量を含む物理法則(比較的簡単な現象の場合が多い)」と類比することで現象論的に理解しようとしたときに出てくる、質量相当の物理量の総称である。結晶中の電子の物性を用いる上で用いられる「有効質量」を指すことがほとんどだが、結晶中の電子の物性とは異なる物理現象にもこの概念を持ち込むことがある。 「結晶中の電子の有効質量」以外の「有効質量」としては、例えば、原子間力顕微鏡のカンチレバーの機械的な振動(古典力学の現象)を、よりやさしい(古典力学の)現象である、フックの法則に置き換えて考えるときに、フックの法則における質量に相当するパラメーターを有効質量と呼ぶことがある。 以下、本節では、「結晶中の電子の有効質量」について説明する。
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{{物理量
|名称=有効質量
|英語=effective mass
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|次元=M
|階=2階[[テンソル]]
}}
'''有効質量'''(ゆうこうしつりょう、{{lang-en-short|effective mass}})とは、何らかの[[物理現象]]を、「[[古典力学]]における[[質量]]を含む物理法則(比較的簡単な現象の場合が多い)」と[[類推#自然科学|類比]]することで現象論的に理解しようとしたときに出てくる、質量相当の[[物理量]]の総称である。[[結晶]]中の[[電子]]の[[物性]]を用いる上で用いられる「有効質量」を指すことがほとんどだが、結晶中の電子の物性とは異なる物理現象にもこの概念を持ち込むことがある。
「結晶中の電子の有効質量」以外の「有効質量」としては、例えば、[[原子間力顕微鏡]]の[[カンチレバー]]の機械的な振動(古典力学の現象)を、よりやさしい(古典力学の)現象である、[[フックの法則]]に置き換えて考えるときに、[[フックの法則]]における質量に相当するパラメーターを有効質量と呼ぶことがある<ref name=AFM>http://spin100.imr.tohoku.ac.jp/oomichiNOTE.pdf</ref>。
以下、本節では、「結晶中の電子の有効質量」について説明する。
== 結晶中の電子の有効質量 ==
真空中の[[自由電子]]の(静止)[[質量]] ''m'' に対し、結晶中の電子は見かけ上、これと異なる質量を持っているように観測される場合がある。これを、半導体物性では'''有効質量'''という<ref name=a1>http://www.sci.osaka-cu.ac.jp/~yoshino/basictxt.htm#section1</ref><ref name="kabachan">B. L. アンダーソン (著), R. L. アンダーソン (著), 樺沢 宇紀 (翻訳)「半導体デバイスの基礎 (上)」丸善出版 (2012/01) </ref><ref name=Asyu>アシュクロフト (著), マーミン (著), 松原 武生(訳), 町田 一成(訳) 「固体物理の基礎 上・1 固体電子論概論 (1) (物理学叢書 46)」吉岡書店 (1981/01) </ref>。3 次元の場合、有効質量は[[テンソル]]で表現される(→ 異方性が存在する場合がある)。これは系のもつ対称性に依存し、(完全に)等方的な系ではテンソルの対角部分のみが残る(かつ全ての対角要素が同じ値となる)。
電子を[[波束]]と考え、その加速度<math>\mathbf{a}</math>は[[群速度]]<math>\mathbf{v}_\text{g}</math>の時間微分で与えられる。群速度の定義<math>\mathbf{v}_\text{g}=\nabla_k \omega(\mathbf{k})</math>を用いると、加速度は次のように書ける。
:<math>\mathbf{a} =
\frac{\operatorname{d}}{\operatorname{d}t}\,\mathbf{v}_\text{g} =
\frac{\operatorname{d}}{\operatorname{d}t}\left(\nabla_k\,\omega\left(\mathbf{k}\right)\right) =
\nabla_k\frac{\operatorname{d}\omega\left(\mathbf{k}\right)}{\operatorname{d}t} =
\nabla_k\left(\frac{\operatorname{d}\mathbf{k}}{\operatorname{d}t}\cdot\nabla_k\,\omega(\mathbf{k})\right)
</math>
ここで[[運動方程式]]と[[結晶運動量]]の定義<math>\mathbf{p}_{\text{crystal}}=\hbar\mathbf{k}</math>から、
:<math>\mathbf{F} =
\frac{\operatorname{d}\mathbf{p}_{\text{crystal}}}{\operatorname{d}t} =
\hbar\frac{\operatorname{d}\mathbf{k}}{\operatorname{d}t}
</math>
であるため、
:<math>\mathbf{a} = \nabla_k\left(\frac{\mathbf{F}}{\hbar}\cdot\nabla_k\,\omega(\mathbf{k})\right) = \frac{1}{\hbar^2}\nabla_k\left(\nabla_k\,E(\mathbf{k})\right)\mathbf{F}</math>
と書ける。ここで[[ド・ブロイの関係式]]<math>E=\hbar\omega</math>を用いた。これを成分表示すると、
:<math>a_i = \left(\frac{1}{\hbar^2}\,\frac{\partial^2 E\left(\mathbf{k}\right)}{\partial k_i \partial k_j}\right)\!F_j</math>
ここで''j''については[[アインシュタインの縮約記法]]を用いた。これを運動方程式と比較すると、有効質量は次のように与えられる。
:<math>\left[M^{-1}\right]_{ij} = \frac{1}{\hbar^2} \frac{\partial^2 E}{\partial k_i \partial k_j}</math>
有効質量の観測方法としては、[[ホール効果]]を用いた[[サイクロトロン運動]]がある。このホール効果や[[ドハース・ファンアルフェン効果]]など、磁場を用いて観測される 電子の有効質量のことを、特に「サイクロトロン質量」という。サイクロトロン運動以外にも
#電子の分散関係
#プラズマ振動
#電気伝導度
#熱電能
#電流磁気効果
に有効質量を見ることができる。
[[N型半導体]]では、添加した元素は電子を多く含むため、結晶構造に参加しない電子が自由電子のように結晶内を移動できる。しかし添加原子はわずかにプラスになるので、電子は弱く束縛されて電場への反応が鈍る。これをまるで電子が重くなったかのようにみなすのである。
[[半導体]]や[[絶縁体]]では有効質量 ''m''<sup>*</sup>が自由電子の質量 ''m'' と大きく異なる場合がある。また[[ランタノイド]]や[[アクチノイド]]元素の化合物の中にも、[[重い電子系]]と呼ばれる有効質量の比 (''m''<sup>*</sup>/''m'') が時に 1000 程度になるようなものがある。一方、[[アルカリ金属]]の価電子部分のように、ほぼ自由電子とみなせるような場合は有効質量の比も 1 に近い値となる。
== 関連項目 ==
*[[物性物理学]]
*[[ホール効果]]
*[[ドハース・ファンアルフェン効果]]
== 参考文献 ==
<references/>
== 外部リンク ==
*{{Kotobank}}
[[Category:電子|ゆうこうしつりよう]]
[[Category:質量|ゆうこうしつりよう]]
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14,783 |
モーグル
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モーグル(Mogul)は、スキーにおけるフリースタイル競技の1つ。コブ(凹凸)が深く急な斜面の滑走において、ターン技術、エア演技、スピードに対するターン点、エア点、タイム点の合計点数を競う。1人ずつの採点、ないしワールドカップなどでは2人で同時に滑るトーナメント方式のデュアル競技もある。
用具において一般のゲレンデスキー(アルペンスキー)と違う点はストックがかなり短いこと、ブーツや板のフレックスが柔らかいこと、スキーをずらしやすくするためサイドカーブがあまりないこと、コブをすべる際に前後のバランスがシビアなためスキー板がやや長い点などである。
全日本スキー連盟の仕様では以下のようになっている。
選手は上記のコースを滑り降りる間に2回のジャンプを行い、空中で規定の技をいくつか組み合わせた演技を行う。前後のエアは同じ組み合わせであってはいけない。2002-2003シーズン以前はブーツが頭より上にくる様な技は禁止されていたが、2003-2004シーズンからはルール改正により新たにオフアクシスやフリップ系の技が認められ、よりアクロバティックになった。
小数点第2位までの計算でターン点、エア点、スピード点の3つの要素を合計して満点が100点である。
7人制または5人制でジャッジが行われる。このうち、エアジャッジが2名、ターンジャッジが7人制では5名、5人制では3名である。ワールドカップ、世界選手権、オリンピックなどの大きな国際大会では7人制、そのほかの国際大会では5人制で行われる。日本の国内大会では、全日本選手権のみ7人制でそれ以外の大会は5人制となっている。
ターン点は、3名のジャッジの合計点で、それぞれのジャッジが20点満点で採点するため、合計で最高点は60点満点となる。7人制では5名のジャッジがターン点をつけるため、5つのジャッジポイントの最高点と最低点の2つをカットし、真ん中の3つのポイントを合計したものをターン点とする。
ターンの質は基本的に以下の4つの項目を基準に採点される。
エアばかりが注目されるが、上記の通り実際には得点の20%であり、60%はターン点で決まる。
小数点第1位までの採点となり、0.0から20.0の200 段階の評価になる。0.1から20.0までを8つの評価グループに分けて採点する。基本的に減点法であり、ミスのないターンであれば減点はないが、ミスがあったり、転倒したりした場合は減点される。
エア点は、2名のジャッジの平均点で1人のジャッジが20点満点で採点する。さらにモーグルでは2回のジャンプ(エア)を採点するため、1つのジャンプの満点が半分の10点となる。3回以上ジャンプをした場合は良い2つの点を採用する。また1回しかジャンプをしなかった場合は、1回分のエア点(10点満点)しか得られない。エアジャッジは、0.0から10.0点の100段階の評価になる。0.1から10.0までを2.0刻みで5つの評価グループに分けて採点する。現在は、技(エア)によって難度点が決められており、ジャッジはこの0.1から10.0の中で点数をつけ、後はその技に難度点をかけたものが1回分のエア点となる。この計算は、コンピュータ上で行われる。
スピード点は、コースの長さ(全長)を女子は8.2m/秒、男子は9.7m/秒で割ることによって、男女のそのコースでのペースタイムを決める。
この計算式で行くとペースタイムと同じタイムで滑った場合は16.0点となる。ただし、この計算式で点数が20以上になっても、満点の20を超えることは無い。
モーグルの起源は、1960年代のアメリカで、コブだらけの斜面を誰が一番早く滑り降りることができるか競争しようという遊びから始まったといわれている。当初はホットドッグスキーなどとも言われていた。1979年から国際スキー連盟(FIS)にフリースタイル部門が設けられ、ワールドカップの開催が始まった。
1986年に初めての世界選手権がフランスのティーニュで開催される。
オリンピック種目としては1988年カルガリーオリンピックで公開種目となり、1992年のアルベールビルオリンピックで正式種目となる。
1995年にデュアル競技がワールドカップで採用され、1999年には世界選手権でもデュアル競技が行なわれた。世界選手権では継続的に行なわれるデュアルであるが、ワールドカップでは度々扱いが変化していて、2003-2004シーズンにはモーグルと統合されてデュアルのポイントがモーグルに含まれるようになったが、2005-2006シーズンにはデュアルが行なわれず、2006-2007シーズンになるとシングルとデュアルの総合ポイントでモーグルの総合優勝を決めて、さらにデュアル単独でも総合優勝を決めるというやや複雑なルールとなった。2007-2008シーズンには再びシングルと統合され、デュアル単独の総合成績は無くなった。
語源は雪のこぶ、凸凹を意味する言葉で、スカンジナビア地方・ノルウェー語が元であるという説とドイツ方言が元であるという説がある。なお、Cambridge Dictionaryによればドイツ語でもノルウェー語でもmogulという言葉に「雪のこぶ」あるいは「凸凹」という意味は無い。
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"text": "語源は雪のこぶ、凸凹を意味する言葉で、スカンジナビア地方・ノルウェー語が元であるという説とドイツ方言が元であるという説がある。なお、Cambridge Dictionaryによればドイツ語でもノルウェー語でもmogulという言葉に「雪のこぶ」あるいは「凸凹」という意味は無い。",
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モーグル(Mogul)は、スキーにおけるフリースタイル競技の1つ。コブ(凹凸)が深く急な斜面の滑走において、ターン技術、エア演技、スピードに対するターン点、エア点、タイム点の合計点数を競う。1人ずつの採点、ないしワールドカップなどでは2人で同時に滑るトーナメント方式のデュアル競技もある。 用具において一般のゲレンデスキー(アルペンスキー)と違う点はストックがかなり短いこと、ブーツや板のフレックスが柔らかいこと、スキーをずらしやすくするためサイドカーブがあまりないこと、コブをすべる際に前後のバランスがシビアなためスキー板がやや長い点などである。
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{{Otheruses|スキー競技の種目|競走馬|モーグル (競走馬)}}
[[ファイル:Freestyle skiing jump.jpg|thumb|250px|競技風景]]
'''モーグル'''(Mogul)は、[[スキー]]における[[フリースタイル・スキー|フリースタイル]]競技の1つ。コブ(凹凸)が深く急な斜面の滑走において、ターン技術、エア演技、スピードに対するターン点、エア点、タイム点の合計点数を競う。1人ずつの採点、ないしワールドカップなどでは2人で同時に滑るトーナメント方式のデュアル競技もある。
用具において一般のゲレンデスキー([[アルペンスキー]])と違う点は[[ストック (スキー)|ストック]]がかなり短いこと、ブーツや板のフレックスが柔らかいこと、スキーをずらしやすくするためサイドカーブがあまりないこと、コブをすべる際に前後のバランスがシビアなためスキー板がやや長い点などである。
== コース ==
[[全日本スキー連盟]]の仕様では以下のようになっている<ref>2001年、全日本スキー連盟スキー競技規則より。</ref>。
* 国内A級:コース長 235m±35m、平均斜度 28°±4°、最大斜度 37°、最低斜度 20°
* 国内B級:コース長 210m±30m、平均斜度 23°±3°、最大斜度 28°、最低斜度 15°
* ジュニア:コース長 175m±25m、平均斜度 22°±3°、最大斜度 28°、最低斜度 15°
* デュアル:コース長 200m±50m、平均斜度 25°±5°、最大斜度 37°、最低斜度 15°
== エアの技 ==
選手は上記のコースを滑り降りる間に2回のジャンプを行い、空中で規定の技をいくつか組み合わせた演技を行う。前後のエアは同じ組み合わせであってはいけない。2002-2003シーズン以前はブーツが頭より上にくる様な技は禁止されていたが、2003-2004シーズンからはルール改正により新たにオフアクシスやフリップ系の技が認められ、よりアクロバティックになった。
=== 技の種類 ===
; アップライト(立ち技)
:; ツイスター
:: 上半身と下半身を逆方向にひねる (T)
:; ズートニック
:: 足を揃えたまま、身体を前に折り曲げる (Z)
:; スプレッドイーグル(スプレッド)
:: 手足を大きく広げる (S)
:; バックスクラッチャー
:: 身体を後ろに反らせる (Y)
:; アイアンクロス
:: 足を後ろに曲げて、スキー板を90度に交差させる (X)
:; ミュールキック
:: バックスクラッチャーの姿勢から、両足を揃えたまま横から前に出す (M)
:; コザック
:: 足を左右に広げて、身体を前に折り曲げる (K)
:; ダーフィー
:: 両手両足を、歩こうとするかのように前後に出す (D)
:
; ループ(サイドフリップ)
: 前を向いたままの側転 (l)
; インバート
:; フロントフリップ
:: 前転 (f)
:; バックフリップ
:: 後転 (b)
:
; ストレートローテーション(ヘリコプター)
: 水平回転 (3、7、10)
; オフアクシス
: 軸をずらして回転する技。技名の後ろには回転数に応じた角度がついている (o)
:; Dスピン
:: 上半身を斜め後方に、下半身を斜め前方かつ上半身より上に傾けた状態で回転する (7oA、10oA)
:; コークスクリュー
:: 体を斜めに傾けた状態で横向きに回転する (7oB、10oB)
;
; 複合技
:; フルツイスト
:: フリップしながら身体を360度ひねる (bF)
:; スイッチ
:: 後ろ向きでの踏み切り、または着地 (-)
:; ポジション
:: 回転中にアップライトの技を行う (p)
:; グラブホールド
:: スキー板を掴む。セーフティー、ジャパン、リューカン (g)
:; グラブツウィーク
:: スキー板を掴む。ミュート、テール、トラックドライバー等高難度技 (G)
:
; 技の回数
:# シングル
:# ダブル
:# トリプル
:# クオード
:# クイント
: アップライトのみの場合、女子はダブル - トリプル、男子はトリプル - クオードが普通である。
== 採点方法 ==
小数点第2位までの計算でターン点、エア点、スピード点の3つの要素を合計して満点が100点である。
* ターン点 満点60
* エア点 満点20
* スピード点 満点20
7人制または5人制でジャッジが行われる。このうち、エアジャッジが2名、ターンジャッジが7人制では5名、5人制では3名である。ワールドカップ、世界選手権、オリンピックなどの大きな国際大会では7人制、そのほかの国際大会では5人制で行われる。日本の国内大会では、全日本選手権のみ7人制でそれ以外の大会は5人制となっている。
ターン点は、3名のジャッジの合計点で、それぞれのジャッジが20点満点で採点するため、合計で最高点は60点満点となる。7人制では5名のジャッジがターン点をつけるため、5つのジャッジポイントの最高点と最低点の2つをカットし、真ん中の3つのポイントを合計したものをターン点とする。
ターンの質は基本的に以下の4つの項目を基準に採点される。
; フォールライン
: コブのまっすぐなラインを滑っているか
; カービング
: カービングターンの質
; 吸収動作
: 下半身を使ったコブの吸収動作
; 上体の動き
: 上半身のバランス
エアばかりが注目されるが、上記の通り実際には得点の20%であり、60%はターン点で決まる。
小数点第1位までの採点となり、0.0から20.0の200
段階の評価になる。0.1から20.0までを8つの評価グループに分けて採点する。基本的に減点法であり、ミスのないターンであれば減点はないが、ミスがあったり、転倒したりした場合は減点される。
エア点は、2名のジャッジの平均点で1人のジャッジが20点満点で採点する。さらにモーグルでは2回のジャンプ(エア)を採点するため、1つのジャンプの満点が半分の10点となる。3回以上ジャンプをした場合は良い2つの点を採用する。また1回しかジャンプをしなかった場合は、1回分のエア点(10点満点)しか得られない。エアジャッジは、0.0から10.0点の100段階の評価になる。0.1から10.0までを2.0刻みで5つの評価グループに分けて採点する。現在は、技(エア)によって難度点が決められており、ジャッジはこの0.1から10.0の中で点数をつけ、後はその技に難度点をかけたものが1回分のエア点となる。この計算は、コンピュータ上で行われる。
スピード点は、コースの長さ(全長)を女子は8.2m/秒、男子は9.7m/秒で割ることによって、男女のそのコースでのペースタイムを決める。
この計算式で行くとペースタイムと同じタイムで滑った場合は16.0点となる。ただし、この計算式で点数が20以上になっても、満点の20を超えることは無い。
== 主な大会 ==
* [[オリンピックフリースタイルスキー競技]]
* [[フリースタイルスキー・ワールドカップ]]
* [[フリースタイルスキー世界選手権]]
== 歴史 ==
[[ファイル:Mogul100a.jpg|thumb|長野五輪記念貨幣]]
モーグルの起源は、1960年代のアメリカで、コブだらけの斜面を誰が一番早く滑り降りることができるか競争しようという遊びから始まったといわれている。当初はホットドッグスキーなどとも言われていた。1979年から[[国際スキー連盟]](FIS)にフリースタイル部門が設けられ、[[フリースタイルスキー・ワールドカップ|ワールドカップ]]の開催が始まった。
1986年に初めての[[フリースタイルスキー世界選手権|世界選手権]]がフランスのティーニュで開催される。
オリンピック種目としては[[1988年カルガリーオリンピック]]で[[オリンピック公開競技|公開種目]]となり、1992年の[[アルベールビルオリンピック]]で正式種目となる。
1995年にデュアル競技がワールドカップで採用され、1999年には世界選手権でもデュアル競技が行なわれた。世界選手権では継続的に行なわれるデュアルであるが、ワールドカップでは度々扱いが変化していて、2003-2004シーズンにはモーグルと統合されてデュアルのポイントがモーグルに含まれるようになったが、2005-2006シーズンにはデュアルが行なわれず、2006-2007シーズンになるとシングルとデュアルの総合ポイントでモーグルの総合優勝を決めて、さらにデュアル単独でも総合優勝を決めるというやや複雑なルールとなった。2007-2008シーズンには再びシングルと統合され、デュアル単独の総合成績は無くなった。
==語源==
[[語源]]は雪のこぶ、凸凹を意味する<!--「モーグル」←たしかにマイペディアにはこうあるが、ノルウェー語に「モーグル(mogul)」という言葉が無いのは確実であるためコメントアウト-->言葉で<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB-645121 |title=モーグル |work=[[コトバンク]]『[[マイペディア]]』 |publisher=[[朝日新聞社]]/[[平凡社]] |accessdate=2019-09-18 }}</ref>、[[スカンディナヴィア|スカンジナビア地方]]・[[ノルウェー語]]が元であるという説<ref name="中日19980212">{{cite news |newspaper=[[中日新聞]]朝刊 |publisher=[[中日新聞社]] |date=1998-02-12 |page=1 |title=中⽇春秋}} - G-searchにて2019年9月18日閲覧。</ref><ref>{{cite news |newspaper=[[読売新聞]]東京朝刊 |publisher=[[読売新聞東京本社]] |date=1994-02-17 |page=17 |title=[リレハンメル五輪]第5日 フリースタイル モーグル男女決勝 }} - ヨミダスパーソナルにて2019年9月18日閲覧。</ref><ref>{{cite news |newspaper=[[読売新聞]]東京朝刊 |publisher=[[読売新聞東京本社]] |date=2002-02-11 |page=2 |title=[ミニ時典]モーグル=Mogul }} - ヨミダスパーソナルにて2019年9月18日閲覧。</ref><ref>{{cite news |newspaper=[[東京新聞]]朝刊 |publisher=[[中日新聞東京本社]] |date=2002-02-11 |page=1 |title=筆洗 }} - G-searchにて2019年9月18日閲覧。</ref>とドイツ方言が元であるという説<ref>{{Cite web|title=Definition of 'mogul' |url=https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/mogul |website=[[コリンズ英語辞典|Collins English Dictionary]]|accessdate=2019-09-20|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=mogul. (n.d.) Random House Kernerman Webster’s College Dictionary. (2010) |url=https://www.thefreedictionary.com/mogul |website=[[:en:The Free Dictionary|The Free Dictionary]]|accessdate=2019-09-20|language=en}}</ref>がある。なお、Cambridge Dictionaryによればドイツ語でもノルウェー語でもmogulという言葉に「雪のこぶ」あるいは「凸凹」という意味は無い<ref>{{Cite web|title=mogul {{!}} ケンブリッジ英語 - ノルウェー語辞書の定義 - ケンブリッジ辞典|url=https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english-norwegian/mogul|website=dictionary.cambridge.org|accessdate=2019-09-22|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=mogul {{!}} Cambridge 英語-ドイツ語辞典での定義 - Cambridge Dictionary|url=https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english-german/mogul|website=dictionary.cambridge.org|accessdate=2019-09-22|language=ja}}</ref>。<!-- ここから下にはできるだけ学術的に信頼できる出典のあるものだけ記載してください -->
;ドイツ方言説の例
:* [[ウェブスター辞典|"Merriam-Webbster"]] はこの意味での初出を1956年とし、語源をドイツ方言として、小さな丘を意味する ''"mugl"'' との類似を挙げている<ref>{{Cite web|title=Definition of MOGUL|url=https://www.merriam-webster.com/dictionary/mogul|website=[[ウェブスター辞典|Merriam-Webster]]|accessdate=2019-09-20|language=en}}</ref>
:* "Oxford Dictionary of Word Origins" は、この意味での元は[[オーストリアドイツ語]]の ''"Mugel"'' から来ているとしている<ref>{{Cite book|title=Oxford Dictionary of Word Origins|url=https://books.google.co.jp/books?id=J4i3zV4vnBAC&pg=PA278&dq=mogul+Mugel#|publisher=OUP Oxford|date=2010-09-09|isbn=9780199547937|language=en|first=Julia|last=Cresswell|year=|page=278}}</ref>
:* [[:en:The American Heritage Dictionary of the English Language|"American Heritage Dictionary"]] は、[[バイエルン・オーストリア語|バイエルン方言]]で小さな丘を意味する ''"mugl"'' を語源として生まれ、20世紀半ばにアメリカのスキーヤーで用いられた専門用語 ''"mugel"'' が変化した説を紹介した上で、[[干し草]]の山を意味する[[古英語]] ''"mūga"'' との類似を挙げている<ref>{{Cite web|title=American Heritage Dictionary Entry: mogul |url=https://ahdictionary.com/word/search.html?q=mogul |website=[[:en:The American Heritage Dictionary of the English Language|American Heritage Dictionary]] |accessdate=2019-09-20|language=en}}</ref>
:
; [[スカンディナヴィア]]・[[ノルウェー語]]説の例
:* [[新英和大辞典|研究社新英和大辞典 第6版]]はこの意味での初出を1959年とし、語源をスカンジナビアとして、ノルウェー語方言 ''"muge"'' との関連を示唆している<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author= 竹林 滋〔編集代表〕|authorlink= |coauthors= |translator= |year=2002 |title= 新英和大辞典 第6版|publisher=研究社 |page= |id= |isbn= 978-4-7674-1026-5|quote= }}</ref>
:* [[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|"Online Etymology Dictionary"]] は、上述のドイツ方言説と共に、[[:en:Robert Barnhart|Robert Barnhart]] による説としてノルウェー語方言で塚などを意味する ''"mugje/muga"'' を示した上で、スカンジナビア語源とする説を紹介している<ref>{{Cite web|title=mogul (n.2) |url=https://www.etymonline.com/word/mogul#etymonline_v_17386 |website=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー|Online Etymology Dictionary]] |accessdate=2019-09-20|language=en}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} -->
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|Mogul skiing}} -->
* [[スキー選手一覧#モーグル]]
== 外部リンク == <!-- {{Cite web}} -->
* [http://www.ski-japan.or.jp/official/saj/index.html 財団法人 全日本スキー連盟]
{{Skiing-stub}}
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[[Category:フリースタイルスキー]]
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ユニコーン
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ユニコーン(英語 : Unicorn, ギリシア語 : Μονόκερως, ラテン語 : Ūnicornuus)は、一角獣(いっかくじゅう)とも呼ばれ、額の中央に一本の角が生えた馬に似た伝説の生き物である。語源はラテン語の ūnus 「一つ」と cornū 「角」を合成した形容詞 ūnicornis (一角の)で、ギリシア語の「モノケロース」 から来ている。非常に獰猛であるが人間の力で殺すことが可能な生物で、処女の懐に抱かれておとなしくなるという。角には蛇などの毒で汚された水を清める力があるという。海の生物であるイッカクの角はユニコーンの角として乱獲されたとも言われる。
ユニコーンは、そのほとんどが、ライオンの尾、牡ヤギの顎鬚、二つに割れた蹄 を持ち、額の中央に螺旋状の筋の入った一本の長く鋭く尖ったまっすぐな角をそびえ立たせた、紺色の目をした白いウマの姿で描かれた。また、ヤギ、ヒツジ、シカに似た姿で描かれることもあった。角も、必ずしもまっすぐではなく、なだらかな曲線を描くこともあれば、弓なりになって後ろの方へ伸びていることもあり、鼻の上に生えていることもあった。ユニコーンは、山のように大きいこともあれば、貴婦人の膝に乗るほど小さいこともあった。時には様々な動物の体肢を混合させてできた生き物であった。ユニコーンと水には医薬的、宗教的な関係があるため、魚の尾をつけて描かれることもあった。アジアでは時おり翼を生やしていることすらあった。体の毛色も白色、ツゲのような黄褐色、シカのような茶色と変わっていったが、最終的には、再び輝くばかりの白色となった。
中世ヨーロッパの『動物寓意譚』(ベスティアリ, Bestiary, 12世紀)の中で、モノケロースとユニコーンはしばしば同じものとして扱われるが、中にはそれぞれを別のものとして扱うものもある。その場合、モノケロースはたいがいユニコーンより大きく描かれ、角も大きく非常に長い。またモノケロースの挿絵には処女が一緒に描かれていない。
フランスの小説家のフローベール(1821 – 1880)が『聖アントワーヌの誘惑』(La Tentation de saint Antoine, 1874年)第7章の中で一本の角を持つ美しい白馬としてユニコーンを登場させ、現在ではその姿が一般的なイメージとなっている。
ユニコーンは極めて獰猛で、力強く、勇敢で、相手がゾウであろうと恐れずに向かっていくという。足が速く、その速さはウマやシカにも勝る。角は長く鋭く尖っていて強靭であり、どんなものでも突き通すことができたという。例えば、セビリアの教会博士の聖イシドールス(560頃 – 636)が著した『語源集』(Etymologiae, 622 – 623年)第12巻第2章第12 – 13節には、ユニコーンの強大な角の一突きはゾウを殺すことができるとある。このユニコーンとゾウが戦っている挿絵が『クイーン・メアリー詩篇集』(The Queen Mary Psalter, 1310 – 1320年頃、大英図書館蔵)に載っている。また、ドイツのスコラ哲学者、自然科学者のアルベルトゥス・マグヌス(1193頃 – 1280)は『動物について』(De animalibus, 年代不詳)第22巻第2部第1章第106節で、ユニコーンは角を岩で研いで鋭く尖らせて、戦闘に備えているという。ユニコーンを人の力で殺すことはできても、生け捕りにすることはできなかったという。たとえ生きたまま捕らえられたとしても、飼い馴らすことはできず、激しい逆上の中、自殺してしまうという。さらに、アレクサンドリアの修道士、地理学者のコスマス・インディコプレウステース(6世紀)は『キリスト教地誌』(Χριστιανικὴ Τοπογραφία, 6世紀)第11巻第7章の中で、ユニコーンは狩人に取り囲まれ、逃げ道を失った時、断崖から真っ逆さまに身を投げ、その角を地面に突き立てて落下の衝撃を和らげて、逃げると言っている。この逃げ方は、オリックス、アイベックス、ジャコウウシ、アルガリ(盤羊, Ovis ammon)に見られるものである。大ポンペイウス(前106 – 48)はユニコーンをローマに連れて来て見世物にさせたという。
ユニコーンの角には水を浄化し、毒を中和するという不思議な特性があるという。さらに痙攣やてんかんなどのあらゆる病気を治す力を持っているという。この角を求めて人々は危険を覚悟で、ユニコーンを捕らえようとした。グリム童話の『勇ましいちびの仕立て屋』(KHM 20)には、仕立屋が国を荒らすユニコーンを捕まえる場面が出てくる。仕立屋は、ユニコーンを激怒させると素早く樹の後ろに隠れた。そこへ怒り狂うユニコーンが仕立屋をめがけて突進して来るが、その武器である貴重な角をうっかり樹に突き刺してしまう。こうしてユニコーンは、縄で縛られ、王の所に連れて行かれた。エドマンド・スペンサー(1552? – 99)の『神仙女王』(第1章5歌10連)に出て来るライオンも、この方法を使ってユニコーンを出し抜いている。
ユニコーンを捕らえるもう一つの方法は処女の娘を連れて来てユニコーンを誘惑させて捕まえるというものである。不思議なことにユニコーンは乙女に思いを寄せているという。美しく装った生粋の処女をユニコーンの棲む森や巣穴に連れて行き、一人にさせる。すると処女の香りを嗅ぎつけたユニコーンが処女に魅せられ、自分の獰猛さを忘れて、近づいて来る。そして、その処女の膝の上に頭を置き眠り込んでしまう。このように麻痺したユニコーンは近くに隠れていた狩人達によって身を守る術もなく捕まるのである。しかし、もし自分と関わった処女が偽物であることがわかった場合は、激しく怒り狂い、自分を騙した女性を殺してしまうという。
処女を好むことから、ユニコーンは貞潔を表わすものとされ、さらにはイエス・キリストが聖処女マリアの胎内に宿ったことや、角を一本だけ有するユニコーンと「神のひとり子」 (unigentitus) とのアナロジーから、キリストにも譬えられた。しかし一方で、「悪魔」などの象徴ともされ、七つの大罪の一つである「憤怒」の象徴にもなった。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 – 1519)は『動物寓意譚』の中で「ユニコーンはその不節制さのために自制することを知らず、美しき処女への愛のために自分の獰猛さと狂暴さを忘れて乙女の膝の上に頭を乗せ、そうして狩人に捕らえられる」と言っている。ここではユニコーンは「不節制」(intemperanza)を象徴するものとされた。フランスの文学者、啓蒙思想家のヴォルテール(1694 – 1778)は『バビロンの王女』(La Princesse de Babylone, 1768年)第3章の中で、ユニコーンを「この世で最も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物」(C'est le plus bel animal, le plus fier, le plus terrible et le plus doux qui orne la terre)として描いている。
ユニコーンの角(アリコーン, alicorn)には解毒作用があると考えられ、教皇パウルス3世(1468 – 1549)は大枚をはたいてそれを求めたという。また、フランス宮廷では食物の毒の検証に用いられたと伝えられる。言い伝えによれば、ユニコーンの角は毒に触れると無毒化する効果があるとされたが、後に毒物の成分が含まれた食物に触れると、汗をかくとか色が変化するなどの諸説も生まれたようである。ドイツ中世の詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』には、聖杯王アンフォルタスに仕える家臣は、毒を塗った槍を受けて局所に傷を負った王の苦痛をいやすために様々な処置を施したが、一角獣については、その「角の下の部分で、ちょうど前頭骨の上部にあたる場所に生じるざくろ石を取り出した。そして石で王の傷を外から軽くこすって、傷口に押し入れた」(482,28-483,3)と記されている。
しかしこれらは北海に生息するイッカク(ウニコール)の角(実際には牙である)であった。これにより後々まで、ウニコールの名称で貴重な解毒薬や解熱剤・疱瘡の特効薬として珍重され、イッカククジラの角は多数売買された。しかし一部には、これらウニコールと偽って、セイウチの牙を売る事例も後を絶たなかったようだ。またその一部はオランダ経由で、江戸時代の日本にも輸入されていた。
当時の医学書には、真面目にウニコールの薬効に関しての記述があった程である。特に疱瘡の治療薬という部分に関しては、ペストの流行により、非常に高価であったにもかかわらず、飛ぶように売れたという記録も残っている。
これは元々、中国で毒の検知にサイの角を用いたのが伝播の過程で、一部の夢想家によって作り変えられたもののようだが、実際問題として、当時用いられた毒物でも、酸性やアルカリ性の毒物の場合は、動物性タンパク質の変化により、黄変するなりして、毒の検知に役立ったと思われる。またウニコールは動物性由来カルシウム器質なので、同様に上記の毒物には黄変する・脆くなるのでその代用とされた。同様の理由により銀のスプーンもイオン交換により変色するので中世以降は貴族のカトラリーには毒を感知するための銀器が多く使われるようになった。また中国ではサイの角の粉末を解熱剤・精力増強剤として扱っているが、興味深いことに、ウニコールが西欧から持ち込まれた際に、龍の角とも蛇の角とも言われ、解毒や毒の検知に非常に珍重されたとのことである。
ヨーロッパにユニコーンを最初に伝えたのは、ギリシアのクニドス島生まれの医師・歴史家、クテシアス(前4世紀後半)である。彼がペルシア王アルタクセルクセス・ムネモン(在位 前404 – 358)の医師を8年間、務めていたときの見聞をもとに書いた『インド誌』(Τα Ἰνδικά, 前390年頃)第45節には、次のように記されている。
インドには、ウマぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生のロバがいる。その体は白く、頭は暗赤色で、目は紺色、そして、額に縦 1 キュビット(約 44.46 センチメートル)ほどの長さの一本の角を持つ。角の根元、額から約 2 パーム(約 14.25 センチメートル)の所は純白で、真ん中は黒く、尖った先端は燃えるような深紅色である。角で作った杯を飲用に用いれば、痙攣を起こすことも、てんかんにかかることもなくなり、毒物に対しても免疫効果があり、服毒前もしくは服毒後にこの杯を使って、酒なり、水なり、何がしかの飲み物を飲んでおけばよい。家畜化されたロバ、他国の野生のロバ、その他の単蹄の動物すべてには、アストラガロス も、胆嚢もないが、インドのロバは両方とも持っている。そのアストラガロスは、私が見てきたものの中で、最も美しく、大きさや形はウシのそれに似ている。鉛のように重く、隅々に至るまで肉桂色である。この動物は、非常に力強く、足が速く、ウマを含め、いかなる動物にも追いつかれることはない。初めのうちは、ゆっくりだが、長く走ればそれだけ歩様は驚くほど増し、どんどん速くなる。これを捕まえる唯一の方法は次の通りである。仔を連れて餌場に現れた時を狙い、大勢の騎馬で取り囲めば、仔を見捨てて逃げることはせず、角を突き出して戦い、蹴り上げ、噛みつき、殺し、狩人にもウマにもすさまじい攻撃を仕掛ける。だが結局は矢や投げ槍が当たって死ぬ。生け捕りにすることはできない。その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロスのためだけに狩られる。--クテシアス 『インド誌』第45節
ユニコーンについての最初の記述は、現在のものとほぼ同じである。一本の角、解毒効果、俊敏さと獰猛さ、そして、周到な策を巡らして出し抜かなければ真っ向から向かって行っても捕獲できないということなど、既にこの時代からユニコーンの基本的な特徴についてほとんど記されていることがわかる。しかしクテシアスは実際にはインドに行ったことがなかった。
アリストテレス(前384 – 322)は、クテシアスからの報告を引用して『動物部分論』(Περι ζώων μορίων, 前350年頃)第3巻第2章の中で、次のように述べている。
角のある動物の大部分は先の割れた蹄を持つが、インドロバと呼ばれる動物は単蹄であるにもかかわらず、角があると伝えられている。これらの動物の大部分は、左右二本の角を持つが、中には、たった一本しか角を持たないものもいる。例えば、オリックスといわゆるインドロバで、前者は、先の割れた蹄を持つが、後者は単蹄である。このような動物は頭の真ん中に角が生えている。--アリストテレス 『動物部分論』第3巻第2章
さらに、この後、アリストテレスはユニコーンについての理論まで唱えている。すなわち、インドロバのような単蹄目が一角であることは、双蹄目の動物の場合よりも自然なことであり、それは蹄や爪が角と同じ物質でできているからであり、その原料を蹄に与える場合、その分を角から取ってくることになるからだと言っている。逆に、ウシやシカやヤギなどの角のある動物の大部分は、原料が角に使われるので、双蹄になると言う。しかし、アリストテレスは例外として双蹄だが、一角であるオリックスを挙げている。実際、オリックスは双角であるが、左右の角の付け根が近いので、真横から見ると一本に見えるのである。
同じようなことが『動物誌』(Περί ζώων ιστορίας, 前343年頃)第2巻第1章にもあり、単蹄で双角の動物は一つも見られないが、単角で単蹄のものは、インドロバのように少しはあるとし、単角で双蹄のものはオリックスとしている。また、アストラガロスについても述べられており、ここでも、クテシアスの報告が引用されている。
クテシアスの報告から約100年後、もう一人のギリシア人が、今度は実際にインドに旅をした。シリア王セレウコス1世(前358? – 281 / 280)の特派使節メガステネス(前350頃 – 280頃)である。大使としてチャンドラグプタの首都パータリプトラに駐在し、帰国後『インド誌』(Τα Ἰνδικά, 前290年頃)を著す。その中に、インドのユニコーンについての記述があり、彼はこのユニコーンを現地の言葉に従い、「カルタゾーノス」と名付けた。ただし、この獣はクテシアスの一角ロバとは異なった姿をしている。
インドのある地域(私が話すのは最も内陸の地域である)には、人を近寄せない野獣で一杯の山地があり、そこには、イヌ、ヤギ、ウシ、ヒツジといった私達の知っている動物も生息しているが、人に飼い馴らされることなくその辺りを自由に野生のままで歩き回っている。その数は非常に豊富であると、インドの作家も学者も述べ、その事はバラモンも認めているので明らかである。彼によるとここには、現地の人々にカルタゾーノス(καρτάζωνος)と呼ばれる一本の角のある動物がいると言う。十分に成長したウマほどの大きさで、たてがみを持ち、羊毛のような柔らかい毛で黄みがかった赤い色をしている。素晴らしい形状の肢をしており、とても足が速い。その肢は関節がなく、ゾウのようで、尾はブタのように渦巻き状である。角は眉毛の間に生え、滑らかではないが、螺旋状の筋が入っており、色は黒い。その角は非常に鋭く尖っており、強靭であると言われる。私が聞いた話では、この動物はとてつもなく大きく、耳障りな声を出すと言う。他の動物にはやさしく、近づくことを許すが、同種族の動物には好戦的な態度を見せると言う。雄は生まれつき好戦的で、互いに角で激しく突いて戦うだけではなく、雌に対しても敵意のようなものを示すと伝えられており、そこで激しい戦いが、しばしば弱者が死に至るまで繰り広げられる。確かに、体中に強大な力を持ち、その角の力に耐えられるものはいない。閑静な草地で草を食い、単独行動を好む。ただ繁殖期になるとこの獣は雌との付き合いを求め、雌に対してもやさしくなり、それどころか、雌とともに草を食むことすらある。繁殖期が終わり、雌が身ごもると、インドのカルタゾーノスは再び獰猛になり、単独行動をする。幼獣はまだ幼い時にプラシアの王の所へ連れて行かれ、祝典や頌詞の日の見世物で互いを戦わせ力強さを見せると言われる。成獣が今までに捕獲されたことは一度もない。--メガステネス 『インド誌』第15章
メガステネスの報告の中で、角に螺旋状の筋が入っていることが初めて述べられ、のちにユニコーンの古典的イメージの中に入り込んでいく。ユニコーンの鳴き声についても、その後のいくつもの報告の中で受け継がれ、反響を呼ぶことになる。獰猛なユニコーンも、雌がいるとおとなしくなることについて最初に示したのも、メガステネスである。これらの報告は実見に基づいたものではないが、他の人間、とくにバラモンの学者を引き合いに出すことで、正当化している。しかしこの報告の中のゾウの肢とか、ブタの尾などと言った表現は、サイを思わせるものであるが、サイについては別の章で報告されており、そこには、ゾウとの戦いの様子が記されている。ここに記されているサイがその敵の腹を引き裂くという残酷な戦いの記述はのちにユニコーンの性質に転化されることになる。
古代ローマ帝国最大の政治家にして軍人のカエサル(前102 / 100 – 44)は『ガリア戦記』(Commentarii de Bello Gallico, 前52 – 51年)第6巻第26節の中で、ゲルマーニア(Germania, ほぼ現在のドイツ)のヘルキューニアの森(Hercynia Silva, ゲルマーニアにある大森林で現在のドイツ中南部の山岳地帯の総称)に生息するユニコーンについて述べている。
シカの姿をしたウシがいて、その両耳の間の額の中央から一本の角が、我々に知られているものよりも長く、真っ直ぐに突き出ている。その先端は手や枝のように大きく広がっている。雌も雄も特徴は全く同じで、角の形も大きさも同じである。--カエサル 『ガリア戦記』第6巻第26節
しかし、ここに出て来るユニコーンは明らかにヘラジカかトナカイを思わせるが、ヘラジカ(Alces)についてはその後の第27節に記されている。
地理学者ストラボン(前64? – 後21?)は『地理誌』(Γεωγραφικά, 年代不詳)第15巻第1章第56節の中で、カフカース(コーカサス)に牡鹿のような頭を持つ一本の角のあるウマがいることを言っている。
古代ローマの博物学者、政治家のプリニウス(22 / 23? – 79)はユニコーンについて、『博物誌』(Naturalis historia, 77年)第8巻第31(21)章第76節の中で、角の解毒効果などの不可思議な現象を述べることなく、慎重に、簡潔にまとめている。
インドには、単蹄で、一本の角を持つウシもいる。それから、アクシス(Cervus axis)という名の野獣は、子鹿のような毛に、多くの白い斑がある。この動物はリーベル神(古いイタリアの神、バックス神と同一視される)にとって神聖なものと見なされ、宗教儀式の際に捧げられる。オルサエアのインド人はサルの一種を追い詰めている。それは全身、白い体である。しかし、最も獰猛な動物はモノケロース(monoceros, 一角獣)と呼ばれる野獣で、牡鹿の頭、ゾウの肢、イノシシの尾を持つが、体のその他の部分はウマの体に似ている。太いうなり声をあげ、2 キュビット(約 88.92 センチメートル)の長さの一本の黒い角が額の真ん中から突き出している。この動物を生け捕りにすることは、不可能だと言われる。--プリニウス 『博物誌』第8巻第31(21)章第76節
ここに出て来る角の長さは、クテシアスの言う一角ロバの二倍である。インドロバについては、第11巻第106(46)章第255節に「角のある動物はみなほとんど蹄が割れており、単蹄で双角の動物はいない。インドロバは一本の角のある唯一の動物で、オリックスは単角であり、双蹄でもある。インドロバは距骨を持つ唯一の単蹄の動物である。」とあり、同じようなことが第11巻第45(37)章第128節にも見られる。いずれもアリストテレスからの引用である。
その後、ユニコーンについてのギリシア人達の報告を後期ローマを通じて中世初期のキリスト教作家達へと伝えたのは古代ローマの著述家プラエネステのアエリアヌス(ギリシア語名 アイリアノス、170頃 – 235)である。彼の著作『動物の特性について』(Περὶ Ζῴων Ἰδιότητος, 220年頃)第3巻第41章と第4巻第52章には、クテシアスを引用しつつも、新たに二、三の細かな点が追加され、より詳しく説明されている。例えば、第3巻第41章では「インドに生息する一本の角のあるウマとロバについて言う。これらの角からインド人達は杯を作り、誰かが致命的な毒を入れ、それをある人が飲んだとしても、その人に害はない。というのはウマの角もロバの角も毒を解毒する力があるからだそうだ。」と言い、クテシアスを引用しながら、新たに一本の角のあるウマを付け加えている。第4巻第52章にも一角のロバとウマが紹介され、アエリアヌスはロバだけを詳しく述べている。内容的にはほとんどクテシアスの報告と同じだが、角の長さはさらに伸びて、1.5 キュビット(約 66.69 センチメートル)の長さとなっている(こういった角の延長は、もっと後代の作家達も時おり行う)。距骨は肉桂色ではなく、隅々まで真っ黒なものとされている。また、ユニコーンの角から作られた杯を使うのは最も身分の高いインド人だけであるということも書かれ、「彼らは金の輪を間隔を置いてその角のまわりにはめ込んだ。それは美しい彫像の腕を帯で飾るようだ」と言っている。この慣習は長い間受け継がれ、ヨーロッパ、ルネサンス期には金銀による装飾を施したユニコーンの角の器が作られた。アエリアヌスの報告で昔から変わらないことは、ユニコーンの足が速いということで、彼は「それを追いかけることは、詩的に言えば、到達不可能なものを追いかけるということである」と言っている。さらに第16巻第20章では、メガステネスの内容を引用してカルタゾーノスについて述べている。
ローマ時代末期に、ギリシアの哲学者、テュアナのアポロニオス(40頃 – 120頃)がユニコーンを目撃していた。そのことが、ギリシアの著作家フィロストラトス(170頃 – 247)の『テュアナのアポロニオスの生涯』(Τα εις τον Τυανέα Απολλώνιον, 1 – 2世紀)第3巻第2章に報告されている。それによると、インドを訪れたアポロニオスはヒュファーシスの沼沢池で一本の角を持つ野生のロバを見たと言う。角の解毒効果についても彼は聞いており、彼の弟子がユニコーンの角についてどう考えるべきかと尋ねた時、彼は「インドの王達がここでは不死であると聞けば、私はそれを信じるだろう。というのも、私やあるいは他の者にこのように健康的で治療力のある飲み物を提供できる者が、毎日自分のためにこれを注ぎ、酔いに至るまでこの角の酒杯から飲まないはずがないからだ」と答えている。
3世紀に古代ローマの著述家、文法家のガイウス・ユリウス・ソリヌス(英語版)(3世紀)はプリニウスの『博物誌』から地誌上の珍奇な事物や事柄を抜粋して集め、記述した著作『奇異なる事物の集成』(Collectanea rerum memorabilium, 250年頃)を発表した。この書は6世紀頃に改訂、増補され、『博物誌』(Polyhistor)として上梓されている。ここにも、ユニコーンについての記述が第52章第39 – 40節にある。
しかし、最も恐ろしいのは、モノケロース(monoceros, 一角獣)で、これは恐ろしいうなり声を上げ、ウマの体、ゾウの肢、ブタの尾、シカの頭を持つ怪物である。その額の中央から、素晴らしい輝きのある一本の角が突き出し、その長さはほぼ 4 ペース(約 118.36 センチメートル)で、それは非常に鋭く、何であろうと一撃で、容易に刺し通す。生きているものを人の力で手に入れることはなく、少なくとも殺すことはできても、捕まえることはできない。--ソリヌス 『奇異なる事物の集成』第52章第39 – 40節
プリニウスと比較してみるといくらかの言葉遣いの違いが見られることがわかる。まず、プリニウスはユニコーン(モノケロース)のことを fera (野獣)と言っているが、ソリヌスは monstrum (怪物)と言っている。こういった誇張した表現はその後も繰り返し使われる。ユニコーンの鳴き声もプリニウスは mugitu gravi (太いうなり声)だが、ソリヌスは mugitu horrido (恐ろしいうなり声)となっている。角の記述にも誇張した表現を見つける。プリニウスは普通の cornu nigrum (黒い角)とあるが、ソリヌスによれば、splendore mirifico (素晴らしい輝きのある)角だと言う。おまけに、角はとにかくとても鋭く、何でも一撃で切断することができるという。角の長さも、4 ペース(約 118.36 センチメートル)まで引き伸ばされている。このソリヌスの記述はのちに中世ヨーロッパの『動物寓意譚』(ベスティアリ, Bestiary, 12世紀)の原典の一つになる。 12世紀・13世紀ヨーロッパ各国で人気を博した、「インド」の謎のキリスト教王国を支配する司祭ヨハネことプレスタージョンの手紙には、自国で所持している一角獣はライオンと戦うが、ライオンは戦いが近づくと上記グリム童話「勇ましいちびの仕立て屋」(KHM 20)の主人公のように、堅固な高木の脇に陣取り、攻めてくる一角獣をかわし、一角獣が木に突き当てた角を引き抜くことができないところを仕留める。しかし、樹木のない所では一角獣がライオンを倒すと記されている。
旧約聖書にもかつてはユニコーンが存在していた。以下にユニコーンが載っていたころの聖書の一つである5世紀のウルガタ聖書からユニコーンが出てくる箇所を列挙する。(括弧内の数字は現在の聖書における詩篇の篇数を示す)
現代の聖書では「一角獣」の箇所が「野牛」と訳されているため「一角獣」という訳語は見つからない。しかし当時はこのように「野牛」ではなくはっきりと「一角獣」と記されていた。紀元前3世紀中葉に古代エジプト王プトレマイオス2世(前308 – 246)の命によってアレクサンドリア近郊のファロス島に送られた72人のユダヤ人学者達は、72日間で原本のヘブライ語旧約聖書をギリシア語に翻訳し、ギリシア語版旧約聖書『七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)』を作った。この時ユダヤ人学者達は原文のヘブライ語の「レ・エム」(רְאֵם, rěēm, 野牛)という単語に「モノケロース」(μονόκερως, monokerõs, 一角獣)、すなわち「一角獣」という訳語を当てた。古代ヘブライ語聖書の中で、レ・エムは「力」を象徴する隠喩として述べられている。ヘブライ伝承でレ・エムは狂暴な、飼いならすことのできない、壮大な力を持った機敏な動物で強力な角を持っているという。これに相当するのがオーロックス(Bos primigenius)である。この見解はアッカド語の「リム」(rimu)から裏付けられる。リムは、力の隠喩として使われ、力強く、獰猛な、大きな角を持つ野牛である。この動物は古代メソポタミア美術の中で、横顔で描かれ、あたかも一本の角を持った牛のように見える。しかしこのころ、「レ・エム」の語に相当する野生の野牛、オーロックスは既に絶滅していて、誰も実物を見ることはできなかった。こうして、この『七十人訳聖書』から、ユニコーンは聖書の中に入った。ラテン語訳聖書『ウルガタ聖書』(405年ごろ完成?)はこれを引き継いだ。382年の教皇ダマスス(在位 366 – 384)の命により、当時の大学者聖ヒエロニムス(342? – 420)が中心となって完成させた。従来のラテン語訳聖書の大改訂版である。彼は「一角獣」を表すのに三つの単語を並列的に使った。すなわちギリシア語の「モノケロース」(monoceros, 一角獣)、「リノケロース」(rinoceros, 鼻の上に角を持つ者、犀)、そしてラテン語の「ウーニコルニス」(unicornis, 一角獣)を無作為に用いた。この使用は何百年もの間、慣習的なものであり続けた。ルター(1483 – 1546)も『七十人訳聖書』や『ウルガタ聖書』と同様に訳した。イギリス国王ジェームズ1世(在位 1603 – 25)の命によって、五十数人の聖職者や学者からなる翻訳委員が、1607年から11年の間に完成させた英訳聖書『欽定訳聖書(ジェームズ王の翻訳聖書)』(1611年)では、「ユニコーン」(unicorn, 一角獣)という訳語が使われた。実際にはサイやレイヨウに比定され、キュヴィエ(1769 – 1832)はその存在を否定した。
原文のヘブライ語聖書では、一度だけ額に一本の角の生えた動物が出てくる。預言者ダニエルが自分がスサの城砦に誘拐される幻想について語る『ダニエル書』第8章である。しかし、この無敵の一角獣も現在では「野牛」と訳されてしまっている。ダニエルはベルシャザル第3年にウライ川のほとりで二本の角のある雄羊を幻視する。
私が目を上げて見ると、見よ、一頭の雄羊が川(ウライ川)の前に立っているのが見えた。それには二本の角が生えており、二本とも長いが、片方はもう片方より長く、長い方は後から伸びたものであった。私は、その雄羊が西に、北に、南に突き進むのを見た。いかなる獣もこの雄羊には太刀打ちできず、その手から救い出せる者もいなかった。そして、この獣は自分の欲することをなし、大いに高ぶった。--『ダニエル書』第8章第3 – 4節
そこへ西から一頭の雄山羊がやって来た。
そして、私がずっと思い巡らしていると、見よ、一頭の雄山羊が西の方から全地の表を飛び渡って来たが、その肢は土を踏まなかった。これは目の間に堂々たる一本の角を持っていた。そしてこの雄山羊は、二本の角を持つ雄羊の所までやって来た。雄山羊は猛烈な怒りを抱いて雄羊に向かって走って来た。そして私は雄山羊と雄羊がぶつかり合うのを見た。雄山羊は雄羊に対して激しい敵意を示し、これを打ち倒して、二本の角を折ったが、雄羊は立ち打つことができなかった。こうして雄羊を地に投げ倒し、踏みつけたが、その手から救い出せる者はいなかった。そして、その雄山羊は大いに高ぶった。しかしこの雄山羊が最強になったとき、その大いなる角は折れ、四本の堂々たる角が生え、天の四方の風に向かった。--『ダニエル書』第8章第5 – 8節
この幻視はこの後、ある声によって預言者ダニエルに、「ギリシアの王」すなわちアレクサンドロス3世(大王)によるメディア王国とペルシア帝国の破滅を意味するものと告げられる。つまり強大な角を持つ雄山羊の最初の一本の角はアレクサンドロス大王を表し、その後に生えた四本の角はアレクサンドロスの後継者を名乗るディアドコイの王たちを表している。
ユニコーンは飼い馴らしのきかない、たいへん凶暴な、無敵の、それゆえに自らの力を過信する傲慢な野獣だった。ユダヤ神話系の話が残る東欧の民話には高慢な性格のユニコーンが出てくる。その一つのポーランド民話ではユニコーンは大洪水以前の動物とされている。
ノアがあらゆる獣のつがいを方舟に入れた時、ユニコーンもまた受け入れた。ところがユニコーンは他の獣を見境もなく突いたので、ノアは躊躇なくユニコーンを水の中に投げ込んだ。だから今ではユニコーンはいない。--『ポーランド民話』
小ロシア民話でもユニコーンはこれと似たようなことをしている。自らの傲慢さのために自滅してしまうのである。
ノアが全ての獣を方舟に受け入れたとき、獣達はノアに服従した。ユニコーンだけがそうしなかった。ユニコーンは自らの力を信じ、「私は泳いでみせる」と言った。四十の昼と夜の間、雨が降った。鍋の中のように水は煮え立ち、あらゆる高みが水に覆われた。そして方舟の舷側にしがみついていた鳥たちは、方舟が傾くと沈んでしまうのであった。しかし、かのユニコーンは泳ぎに泳いでいた。だが鳥達がユニコーンの角に止まったとき、ユニコーンは水中に没してしまった。だからユニコーンは今日ではもう存在しないのだ。--『小ロシア民話』
1576年に印刷された絵入り聖書にトビーアス・シュティマー(Tobias Stimmer, 1539 – 1584)が描いた木版画には、ユニコーンのつがいがその高慢さから、方舟に背を向けて、あとに残る様子が描かれている。
ユニコーンのヨーロッパ伝承の三つ目の経路は、初期のキリスト教徒達の教本となった『フィシオロゴス』(Φυσιολόγος, 「自然を知る者、博物学者」)と呼ばれる博物誌である。この書は、動物(空想上の動物を含む)、植物、鉱物を紹介して宗教上、道徳上の教訓が、『旧約聖書』、『新約聖書』からの引用によって表現されているものであり、のちの中世ヨーロッパで広く読まれる『動物寓意譚』の原典になったと言われるものである。原本はギリシア語で書かれ、各章には、まず聖書の言葉が述べられ、その後にその生き物についての自然科学的な解説が続き、最後には道徳的な教えが述べられている。その第22章では以下のように書かれている。
詩篇作家(ダヴィデ)は言う。「主は私の角をモノケロース(一角獣)の角のように高く上げられる(『詩篇』第92章第10節)」と。フィシオロゴス(博物学者)はモノケロースが次のような性質を持つと言う。モノケロースは小さな獣で雄ヤギぐらいだが、途方もない勇気の持ち主であり、非常に力強いため、狩人も近づくことができない。それは頭の真ん中に一本の角を持っている。
さてどうしたらこれを捕まえられるだろうか。美しく装った汚れのない処女を近くに連れて来ると、それは彼女の膝に飛び乗って来る。そこで彼女はそれを飼い馴らし、王たちの宮殿へ連れて行くのである。
この生き物は、わが救世主の姿に引き写すことができる。なぜか。私達の父の角がダヴィデの家から蘇り、救いの角となられた(『ルカによる福音書』第1章第69節)。天使の力ずくでは、彼を打ち負かすことはできなかった(『ペテロの手紙一』第3章第22節)。彼は真実かつ純潔な処女マリアの胎内に宿った(キリストの受肉)。言葉は肉となり、私達の内に宿ったのである(『ヨハネによる福音書』第1章第14節)。--『フィシオロゴス』第22章
『フィシオロゴス』に載っているユニコーンの姿は古典文学の作家達が言うようなものと全く異なり、ウマでもロバでもなく、メガステネスの言うゾウの肢も持っていない。さらに、ユニコーンは処女によってのみ捕まえることができるという伝説も生まれた。この伝説の起源は、紀元前2000年頃に古代オリエントで成立したと言われる『ギルガメシュ叙事詩』にあると考えられている。ここに出て来る半獣半人のエンキドゥには一本の角は生えていないが、物語の構造は処女がユニコーンを誘惑する話とよく似ている。エンキドゥは、ウルクの王ギルガメシュの暴虐を鎮めるために神々の命により、女神アヌンナキによって土から作られた。しかし作られたばかりのエンキドゥは、獣たちとともに暮らしてばかりいたため、宮仕えの遊女、つまり神聖娼婦が派遣され、彼を誘惑し、六日と七晩の間交わい合い、獣達から引き離し、本来の目的地、王都ウルクへと連れていく。そこでギルガメシュとエンキドゥは激しく戦うが、やがて和解し両者は盟友となる。
この形式の神話はその後、インドへと伝わり、変形され、4世紀のサンスクリット文学の『マハーバーラタ』第3巻第110 – 113章に出て来るリシュヤシュリンガ(ऋष्यशृंग, 「鹿の角を持つ者」)の説話の形式をとる。梵仙(カーシャパ)ヴィヴァーンダカが湖畔で修行をしていると天女ウルヴァシーが舞い降りて来た。ヴィヴァーンダカは彼女の美しさに見とれて思わず精を漏らしてしまった。ところがそばで水を飲んでいた牝鹿がこれを一緒に飲み込んでしまい、やがて一人の息子を生んだ。この息子は人間の姿をしていたが、額の中央に一本の角が生えていた。それゆえ彼は「リシュヤシュリンガ」(鹿角仙人)と呼ばれた。彼は父の他は人間を目にすることなく、修行を積んだ。さてこの頃、アンガ国は12年間に及ぶ大旱魃に苦しんでいた。ある時アンガ国王ローマパーダの夢枕にインドラ神が立ち、リシュヤシュリンガを王都に連れて来れば旱魃は止むであろうと告げる。そこで王は大仙のもとへ遊女(または王女)を派遣する。女性達は父以外の人間を見たことのないリシュヤシュリンガをまんまと誘惑し、王都に連れて来る。大仙が王都に足を踏み入れるや大雨が降り、旱魃は解消する。このリシュヤシュリンガの遊女による誘惑と災厄の解消が西へ伝わり、ユニコーンの処女による捕獲、角による解毒と形を変え、『フィシオロゴス』からヨーロッパに伝わっていった。
聖バシリウス(330頃 – 379)が書いたと言われている後代の『フィシオロゴス』には、『詩篇』第22章第21節の中でダヴィデがユニコーンからの魂の救いを祈っている詩篇について次のように述べている。「一角獣は人間に対して悪意を抱いている。一角獣は人間を追いかけ、人間に追いつくや、その角で人間を突き刺し、食べてしまうのである......よいか、人間よ、汝は一角獣から、すなわち悪魔から身を守らねばならぬ。なぜなら、悪魔は人間に悪意を持ち、人間に邪悪なることをなすためにこそ送られて来たのだから。昼も夜も悪魔はうろつきまわり、その詭弁で人間を貫き通しては、神の掟から人間を引き離すのだ」このようにユニコーンは救世主の象徴であると同時にその敵対者の悪魔の象徴でもあった。中世ではこのような「両義性」というのは珍しいことではなかった。バシリウスの『フィシオロゴス』にはゾウとユニコーンの友情の話も載っている。「ゾウには関節がないので、木に寄り掛かって眠る習性を持つ。そこで狩人達がその木に切り込みを入れておくと、ゾウは大きなうなり声をあげながら木とともにひっくり返る(カエサルの著作『ガリア戦記』第6巻第27節では関節のないヘラジカが同じように狩られる)。隠れていた場所から狩人達が急ぎやって来て、無防備に横たわるゾウの顎から象牙を引っこ抜き、急いで逃げてしまう。それは狩人達がユニコーンに急襲され、その餌食とならないようにするためである。しかしユニコーンの到着が間に合えば、ユニコーンは倒れたゾウの傍らにひざまずき、その体の下に角を差し入れ、ゾウを立たせるのである」ここでもまたユニコーンは救世主の象徴となっている。つまり「われらが主イエス・キリストは王者の角として表されている。われらすべての者の王は人間が倒れているのを、そしてその人間が慈悲に値するのをご覧になると、そこへやって来られ、その者を抱き起こすのである」この『フィシオロゴス』はアレゴリーに重点を置きユニコーン自体ではなく、その性質からたとえられている。「ユニコーンは良き性質と悪しき性質を持っている。良き性質はキリストおよび聖人にたとえられ、悪しき性質は悪魔や悪しき人間にたとえられる」
ユニコーンに関する話を載せた『フィシオロゴス』の断片はもう一つある。「ある地方に大きな湖があって、野の獣達が水を飲もうと集まる。しかし動物達が集まる前に、ヘビが這い寄って来て、水に毒を吐く。動物達は毒を感じると、もう飲もうとしない。彼らはユニコーンを待っているのである。そしてそれはやって来る。ユニコーンはまっすぐ水の中まで入る。そうして角で十字を切ると、もう毒の力は消え失せて、彼は水を飲む。他の動物達もみんな飲む」ギリシア人達がインドから聞き伝えた角の解毒作用が再び登場している。
バールラームがヨサファートの洗礼の心構えのために話した寓話の中に、人を追いかける獰猛なユニコーン(当初はサイだったかもしれない)が出て来る。この伝説が語られる異本は13 – 14世紀の聖人伝集のいくつかに存在する。また、ボーヴェのヴァンサン(1190ごろ – 1264)の『自然の鏡』(1245 / 50年)のような百科事典的な作品にもある。以下に述べるのは、ジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230ごろ – 98)が13世紀に書いた『黄金伝説』(Legenda aurea, 1267年ごろに完成)の第174章 「聖バルラームと聖ヨサパト」の中のものである。
昔、セナールという国の近くの砂漠にバールラームという名の男が住んでいた。彼は多くのたとえ話をして、この世の偽りの快楽に陥らぬよう人々に説教を行っていた。このようなわけで、彼はある男のことについて語った。その男はユニコーンに食べられないようにと、男を食べようとしているユニコーンから急いで逃げようとして、深淵(または井戸)に落ちてしまう。それでも男は灌木の枝につかまることができた。だが、彼の足は滑りやすく、もろい場所に置かれていた。怒り狂うユニコーンが上から男を見下ろしている一方で、男の下の方には恐ろしいドラゴンが火を吹き、口を大きく開けて、男が落ちてくるのを待っているのが見えた。さらに滑りやすい足場の四方からは、四匹のヘビが体を伸ばし、頭を突き出していて、男がつかまっている灌木の根元には、黒いネズミと白いネズミの二匹が根元をかじっており、今にも引きちぎれそうであった。ところが男が上を見上げると、灌木の小枝から蜜が一滴垂れているのが目に入った。そこで男は自分の身に迫るあらゆる危機を忘れて、その蜜の甘さに束の間酔いしれるのである。このユニコーンというのは、人間を至る所追いかけて来る死である。深淵はこの世であり、あらゆる災いに満ちている。灌木は人間の命を意味し、それを昼と夜という時間が白と黒のネズミのようにかじっており、必ず落下することになる。四匹のヘビは身体を表しており、身体は四元素から成り、その秩序が乱れたとき、四元素は解体せざるを得ない。ドラゴンは人間を今にも飲み込もうとしている地獄の入り口である。しかし、蜜は、この世のはかない快楽である。この快楽に人間はふけり、全ての危機を忘れるのだ。--ヤコブス・デ・ウォラギネ 『黄金伝説』 第174章 「聖バールラームと聖ヨサファート」
このたとえ話では『詩篇』第22章第21節のユニコーンのようにいついかなるところでも人間に追い迫ってくる「死」の象徴と考えられていた。後代の『フィシオロゴス』のユニコーンが人間を追いかけ、人間に追いつくと食べてしまうという話の出所は、この話ではないかといわれている。
𩣡もしくは䮀、䑏疏という一本角の馬が、古代中国の様々な事柄を書いた地誌『山海経』や郭璞の書いた『江賦』などの古代の本に記されている。
スコットランド王家の象徴にもなっており、グレートブリテン王国成立以後、現在のイギリス王家の大紋章には、ユニコーンがシニスターに、イングランド王家の紋章にも用いられているレパード(獅子)がデキスターにサポーターとして描かれている。
ロンドンの薬局協会の紋章には、二頭の金のユニコーンがサポーターとして描かれているが、ライオンの尾ではなくウマの尾である。
シエナのパリオ祭には、ユニコーンの紋章を持つコントラーダ(小地区)がある。
ユニコーンは古代にヨーロッパに住んでいたケルト民族がキリスト教の伝来以前に信仰していた、ドルイド教の民間伝承として伝えられた怪物とも考えられている。
ケルトにもともとユニコーンの伝承があったとされることもあるが、実際には存在しないようである。しかし近い地域においてイッカクの角(正確には顎の骨、牙)がユニコーンの角とされていたりもした。
したがってユニコーンの伝承は、周辺地域における角を持つ動物(サイ、オリックス、オーロックス、アイベックス、ヘラジカ、トナカイ、イッカクなど)の逸話がヨーロッパに伝わって一つに統合された結果であると考えることができる。
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"text": "ユニコーン(英語 : Unicorn, ギリシア語 : Μονόκερως, ラテン語 : Ūnicornuus)は、一角獣(いっかくじゅう)とも呼ばれ、額の中央に一本の角が生えた馬に似た伝説の生き物である。語源はラテン語の ūnus 「一つ」と cornū 「角」を合成した形容詞 ūnicornis (一角の)で、ギリシア語の「モノケロース」 から来ている。非常に獰猛であるが人間の力で殺すことが可能な生物で、処女の懐に抱かれておとなしくなるという。角には蛇などの毒で汚された水を清める力があるという。海の生物であるイッカクの角はユニコーンの角として乱獲されたとも言われる。",
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"text": "ユニコーンは、そのほとんどが、ライオンの尾、牡ヤギの顎鬚、二つに割れた蹄 を持ち、額の中央に螺旋状の筋の入った一本の長く鋭く尖ったまっすぐな角をそびえ立たせた、紺色の目をした白いウマの姿で描かれた。また、ヤギ、ヒツジ、シカに似た姿で描かれることもあった。角も、必ずしもまっすぐではなく、なだらかな曲線を描くこともあれば、弓なりになって後ろの方へ伸びていることもあり、鼻の上に生えていることもあった。ユニコーンは、山のように大きいこともあれば、貴婦人の膝に乗るほど小さいこともあった。時には様々な動物の体肢を混合させてできた生き物であった。ユニコーンと水には医薬的、宗教的な関係があるため、魚の尾をつけて描かれることもあった。アジアでは時おり翼を生やしていることすらあった。体の毛色も白色、ツゲのような黄褐色、シカのような茶色と変わっていったが、最終的には、再び輝くばかりの白色となった。",
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"text": "中世ヨーロッパの『動物寓意譚』(ベスティアリ, Bestiary, 12世紀)の中で、モノケロースとユニコーンはしばしば同じものとして扱われるが、中にはそれぞれを別のものとして扱うものもある。その場合、モノケロースはたいがいユニコーンより大きく描かれ、角も大きく非常に長い。またモノケロースの挿絵には処女が一緒に描かれていない。",
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"text": "フランスの小説家のフローベール(1821 – 1880)が『聖アントワーヌの誘惑』(La Tentation de saint Antoine, 1874年)第7章の中で一本の角を持つ美しい白馬としてユニコーンを登場させ、現在ではその姿が一般的なイメージとなっている。",
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"text": "ユニコーンは極めて獰猛で、力強く、勇敢で、相手がゾウであろうと恐れずに向かっていくという。足が速く、その速さはウマやシカにも勝る。角は長く鋭く尖っていて強靭であり、どんなものでも突き通すことができたという。例えば、セビリアの教会博士の聖イシドールス(560頃 – 636)が著した『語源集』(Etymologiae, 622 – 623年)第12巻第2章第12 – 13節には、ユニコーンの強大な角の一突きはゾウを殺すことができるとある。このユニコーンとゾウが戦っている挿絵が『クイーン・メアリー詩篇集』(The Queen Mary Psalter, 1310 – 1320年頃、大英図書館蔵)に載っている。また、ドイツのスコラ哲学者、自然科学者のアルベルトゥス・マグヌス(1193頃 – 1280)は『動物について』(De animalibus, 年代不詳)第22巻第2部第1章第106節で、ユニコーンは角を岩で研いで鋭く尖らせて、戦闘に備えているという。ユニコーンを人の力で殺すことはできても、生け捕りにすることはできなかったという。たとえ生きたまま捕らえられたとしても、飼い馴らすことはできず、激しい逆上の中、自殺してしまうという。さらに、アレクサンドリアの修道士、地理学者のコスマス・インディコプレウステース(6世紀)は『キリスト教地誌』(Χριστιανικὴ Τοπογραφία, 6世紀)第11巻第7章の中で、ユニコーンは狩人に取り囲まれ、逃げ道を失った時、断崖から真っ逆さまに身を投げ、その角を地面に突き立てて落下の衝撃を和らげて、逃げると言っている。この逃げ方は、オリックス、アイベックス、ジャコウウシ、アルガリ(盤羊, Ovis ammon)に見られるものである。大ポンペイウス(前106 – 48)はユニコーンをローマに連れて来て見世物にさせたという。",
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"text": "ユニコーンの角には水を浄化し、毒を中和するという不思議な特性があるという。さらに痙攣やてんかんなどのあらゆる病気を治す力を持っているという。この角を求めて人々は危険を覚悟で、ユニコーンを捕らえようとした。グリム童話の『勇ましいちびの仕立て屋』(KHM 20)には、仕立屋が国を荒らすユニコーンを捕まえる場面が出てくる。仕立屋は、ユニコーンを激怒させると素早く樹の後ろに隠れた。そこへ怒り狂うユニコーンが仕立屋をめがけて突進して来るが、その武器である貴重な角をうっかり樹に突き刺してしまう。こうしてユニコーンは、縄で縛られ、王の所に連れて行かれた。エドマンド・スペンサー(1552? – 99)の『神仙女王』(第1章5歌10連)に出て来るライオンも、この方法を使ってユニコーンを出し抜いている。",
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"text": "ユニコーンを捕らえるもう一つの方法は処女の娘を連れて来てユニコーンを誘惑させて捕まえるというものである。不思議なことにユニコーンは乙女に思いを寄せているという。美しく装った生粋の処女をユニコーンの棲む森や巣穴に連れて行き、一人にさせる。すると処女の香りを嗅ぎつけたユニコーンが処女に魅せられ、自分の獰猛さを忘れて、近づいて来る。そして、その処女の膝の上に頭を置き眠り込んでしまう。このように麻痺したユニコーンは近くに隠れていた狩人達によって身を守る術もなく捕まるのである。しかし、もし自分と関わった処女が偽物であることがわかった場合は、激しく怒り狂い、自分を騙した女性を殺してしまうという。",
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"text": "処女を好むことから、ユニコーンは貞潔を表わすものとされ、さらにはイエス・キリストが聖処女マリアの胎内に宿ったことや、角を一本だけ有するユニコーンと「神のひとり子」 (unigentitus) とのアナロジーから、キリストにも譬えられた。しかし一方で、「悪魔」などの象徴ともされ、七つの大罪の一つである「憤怒」の象徴にもなった。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 – 1519)は『動物寓意譚』の中で「ユニコーンはその不節制さのために自制することを知らず、美しき処女への愛のために自分の獰猛さと狂暴さを忘れて乙女の膝の上に頭を乗せ、そうして狩人に捕らえられる」と言っている。ここではユニコーンは「不節制」(intemperanza)を象徴するものとされた。フランスの文学者、啓蒙思想家のヴォルテール(1694 – 1778)は『バビロンの王女』(La Princesse de Babylone, 1768年)第3章の中で、ユニコーンを「この世で最も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物」(C'est le plus bel animal, le plus fier, le plus terrible et le plus doux qui orne la terre)として描いている。",
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"text": "ユニコーンの角(アリコーン, alicorn)には解毒作用があると考えられ、教皇パウルス3世(1468 – 1549)は大枚をはたいてそれを求めたという。また、フランス宮廷では食物の毒の検証に用いられたと伝えられる。言い伝えによれば、ユニコーンの角は毒に触れると無毒化する効果があるとされたが、後に毒物の成分が含まれた食物に触れると、汗をかくとか色が変化するなどの諸説も生まれたようである。ドイツ中世の詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』には、聖杯王アンフォルタスに仕える家臣は、毒を塗った槍を受けて局所に傷を負った王の苦痛をいやすために様々な処置を施したが、一角獣については、その「角の下の部分で、ちょうど前頭骨の上部にあたる場所に生じるざくろ石を取り出した。そして石で王の傷を外から軽くこすって、傷口に押し入れた」(482,28-483,3)と記されている。",
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"text": "しかしこれらは北海に生息するイッカク(ウニコール)の角(実際には牙である)であった。これにより後々まで、ウニコールの名称で貴重な解毒薬や解熱剤・疱瘡の特効薬として珍重され、イッカククジラの角は多数売買された。しかし一部には、これらウニコールと偽って、セイウチの牙を売る事例も後を絶たなかったようだ。またその一部はオランダ経由で、江戸時代の日本にも輸入されていた。",
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"text": "当時の医学書には、真面目にウニコールの薬効に関しての記述があった程である。特に疱瘡の治療薬という部分に関しては、ペストの流行により、非常に高価であったにもかかわらず、飛ぶように売れたという記録も残っている。",
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"text": "これは元々、中国で毒の検知にサイの角を用いたのが伝播の過程で、一部の夢想家によって作り変えられたもののようだが、実際問題として、当時用いられた毒物でも、酸性やアルカリ性の毒物の場合は、動物性タンパク質の変化により、黄変するなりして、毒の検知に役立ったと思われる。またウニコールは動物性由来カルシウム器質なので、同様に上記の毒物には黄変する・脆くなるのでその代用とされた。同様の理由により銀のスプーンもイオン交換により変色するので中世以降は貴族のカトラリーには毒を感知するための銀器が多く使われるようになった。また中国ではサイの角の粉末を解熱剤・精力増強剤として扱っているが、興味深いことに、ウニコールが西欧から持ち込まれた際に、龍の角とも蛇の角とも言われ、解毒や毒の検知に非常に珍重されたとのことである。",
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"text": "ヨーロッパにユニコーンを最初に伝えたのは、ギリシアのクニドス島生まれの医師・歴史家、クテシアス(前4世紀後半)である。彼がペルシア王アルタクセルクセス・ムネモン(在位 前404 – 358)の医師を8年間、務めていたときの見聞をもとに書いた『インド誌』(Τα Ἰνδικά, 前390年頃)第45節には、次のように記されている。",
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"text": "インドには、ウマぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生のロバがいる。その体は白く、頭は暗赤色で、目は紺色、そして、額に縦 1 キュビット(約 44.46 センチメートル)ほどの長さの一本の角を持つ。角の根元、額から約 2 パーム(約 14.25 センチメートル)の所は純白で、真ん中は黒く、尖った先端は燃えるような深紅色である。角で作った杯を飲用に用いれば、痙攣を起こすことも、てんかんにかかることもなくなり、毒物に対しても免疫効果があり、服毒前もしくは服毒後にこの杯を使って、酒なり、水なり、何がしかの飲み物を飲んでおけばよい。家畜化されたロバ、他国の野生のロバ、その他の単蹄の動物すべてには、アストラガロス も、胆嚢もないが、インドのロバは両方とも持っている。そのアストラガロスは、私が見てきたものの中で、最も美しく、大きさや形はウシのそれに似ている。鉛のように重く、隅々に至るまで肉桂色である。この動物は、非常に力強く、足が速く、ウマを含め、いかなる動物にも追いつかれることはない。初めのうちは、ゆっくりだが、長く走ればそれだけ歩様は驚くほど増し、どんどん速くなる。これを捕まえる唯一の方法は次の通りである。仔を連れて餌場に現れた時を狙い、大勢の騎馬で取り囲めば、仔を見捨てて逃げることはせず、角を突き出して戦い、蹴り上げ、噛みつき、殺し、狩人にもウマにもすさまじい攻撃を仕掛ける。だが結局は矢や投げ槍が当たって死ぬ。生け捕りにすることはできない。その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロスのためだけに狩られる。--クテシアス 『インド誌』第45節",
"title": "古典文学"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "ユニコーンについての最初の記述は、現在のものとほぼ同じである。一本の角、解毒効果、俊敏さと獰猛さ、そして、周到な策を巡らして出し抜かなければ真っ向から向かって行っても捕獲できないということなど、既にこの時代からユニコーンの基本的な特徴についてほとんど記されていることがわかる。しかしクテシアスは実際にはインドに行ったことがなかった。",
"title": "古典文学"
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"text": "アリストテレス(前384 – 322)は、クテシアスからの報告を引用して『動物部分論』(Περι ζώων μορίων, 前350年頃)第3巻第2章の中で、次のように述べている。",
"title": "古典文学"
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"text": "角のある動物の大部分は先の割れた蹄を持つが、インドロバと呼ばれる動物は単蹄であるにもかかわらず、角があると伝えられている。これらの動物の大部分は、左右二本の角を持つが、中には、たった一本しか角を持たないものもいる。例えば、オリックスといわゆるインドロバで、前者は、先の割れた蹄を持つが、後者は単蹄である。このような動物は頭の真ん中に角が生えている。--アリストテレス 『動物部分論』第3巻第2章",
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"text": "さらに、この後、アリストテレスはユニコーンについての理論まで唱えている。すなわち、インドロバのような単蹄目が一角であることは、双蹄目の動物の場合よりも自然なことであり、それは蹄や爪が角と同じ物質でできているからであり、その原料を蹄に与える場合、その分を角から取ってくることになるからだと言っている。逆に、ウシやシカやヤギなどの角のある動物の大部分は、原料が角に使われるので、双蹄になると言う。しかし、アリストテレスは例外として双蹄だが、一角であるオリックスを挙げている。実際、オリックスは双角であるが、左右の角の付け根が近いので、真横から見ると一本に見えるのである。",
"title": "古典文学"
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"text": "同じようなことが『動物誌』(Περί ζώων ιστορίας, 前343年頃)第2巻第1章にもあり、単蹄で双角の動物は一つも見られないが、単角で単蹄のものは、インドロバのように少しはあるとし、単角で双蹄のものはオリックスとしている。また、アストラガロスについても述べられており、ここでも、クテシアスの報告が引用されている。",
"title": "古典文学"
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"text": "クテシアスの報告から約100年後、もう一人のギリシア人が、今度は実際にインドに旅をした。シリア王セレウコス1世(前358? – 281 / 280)の特派使節メガステネス(前350頃 – 280頃)である。大使としてチャンドラグプタの首都パータリプトラに駐在し、帰国後『インド誌』(Τα Ἰνδικά, 前290年頃)を著す。その中に、インドのユニコーンについての記述があり、彼はこのユニコーンを現地の言葉に従い、「カルタゾーノス」と名付けた。ただし、この獣はクテシアスの一角ロバとは異なった姿をしている。",
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"text": "インドのある地域(私が話すのは最も内陸の地域である)には、人を近寄せない野獣で一杯の山地があり、そこには、イヌ、ヤギ、ウシ、ヒツジといった私達の知っている動物も生息しているが、人に飼い馴らされることなくその辺りを自由に野生のままで歩き回っている。その数は非常に豊富であると、インドの作家も学者も述べ、その事はバラモンも認めているので明らかである。彼によるとここには、現地の人々にカルタゾーノス(καρτάζωνος)と呼ばれる一本の角のある動物がいると言う。十分に成長したウマほどの大きさで、たてがみを持ち、羊毛のような柔らかい毛で黄みがかった赤い色をしている。素晴らしい形状の肢をしており、とても足が速い。その肢は関節がなく、ゾウのようで、尾はブタのように渦巻き状である。角は眉毛の間に生え、滑らかではないが、螺旋状の筋が入っており、色は黒い。その角は非常に鋭く尖っており、強靭であると言われる。私が聞いた話では、この動物はとてつもなく大きく、耳障りな声を出すと言う。他の動物にはやさしく、近づくことを許すが、同種族の動物には好戦的な態度を見せると言う。雄は生まれつき好戦的で、互いに角で激しく突いて戦うだけではなく、雌に対しても敵意のようなものを示すと伝えられており、そこで激しい戦いが、しばしば弱者が死に至るまで繰り広げられる。確かに、体中に強大な力を持ち、その角の力に耐えられるものはいない。閑静な草地で草を食い、単独行動を好む。ただ繁殖期になるとこの獣は雌との付き合いを求め、雌に対してもやさしくなり、それどころか、雌とともに草を食むことすらある。繁殖期が終わり、雌が身ごもると、インドのカルタゾーノスは再び獰猛になり、単独行動をする。幼獣はまだ幼い時にプラシアの王の所へ連れて行かれ、祝典や頌詞の日の見世物で互いを戦わせ力強さを見せると言われる。成獣が今までに捕獲されたことは一度もない。--メガステネス 『インド誌』第15章",
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"text": "メガステネスの報告の中で、角に螺旋状の筋が入っていることが初めて述べられ、のちにユニコーンの古典的イメージの中に入り込んでいく。ユニコーンの鳴き声についても、その後のいくつもの報告の中で受け継がれ、反響を呼ぶことになる。獰猛なユニコーンも、雌がいるとおとなしくなることについて最初に示したのも、メガステネスである。これらの報告は実見に基づいたものではないが、他の人間、とくにバラモンの学者を引き合いに出すことで、正当化している。しかしこの報告の中のゾウの肢とか、ブタの尾などと言った表現は、サイを思わせるものであるが、サイについては別の章で報告されており、そこには、ゾウとの戦いの様子が記されている。ここに記されているサイがその敵の腹を引き裂くという残酷な戦いの記述はのちにユニコーンの性質に転化されることになる。",
"title": "古典文学"
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"text": "古代ローマ帝国最大の政治家にして軍人のカエサル(前102 / 100 – 44)は『ガリア戦記』(Commentarii de Bello Gallico, 前52 – 51年)第6巻第26節の中で、ゲルマーニア(Germania, ほぼ現在のドイツ)のヘルキューニアの森(Hercynia Silva, ゲルマーニアにある大森林で現在のドイツ中南部の山岳地帯の総称)に生息するユニコーンについて述べている。",
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"text": "シカの姿をしたウシがいて、その両耳の間の額の中央から一本の角が、我々に知られているものよりも長く、真っ直ぐに突き出ている。その先端は手や枝のように大きく広がっている。雌も雄も特徴は全く同じで、角の形も大きさも同じである。--カエサル 『ガリア戦記』第6巻第26節",
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"text": "しかし、ここに出て来るユニコーンは明らかにヘラジカかトナカイを思わせるが、ヘラジカ(Alces)についてはその後の第27節に記されている。",
"title": "古典文学"
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"text": "地理学者ストラボン(前64? – 後21?)は『地理誌』(Γεωγραφικά, 年代不詳)第15巻第1章第56節の中で、カフカース(コーカサス)に牡鹿のような頭を持つ一本の角のあるウマがいることを言っている。",
"title": "古典文学"
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"text": "古代ローマの博物学者、政治家のプリニウス(22 / 23? – 79)はユニコーンについて、『博物誌』(Naturalis historia, 77年)第8巻第31(21)章第76節の中で、角の解毒効果などの不可思議な現象を述べることなく、慎重に、簡潔にまとめている。",
"title": "古典文学"
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"text": "インドには、単蹄で、一本の角を持つウシもいる。それから、アクシス(Cervus axis)という名の野獣は、子鹿のような毛に、多くの白い斑がある。この動物はリーベル神(古いイタリアの神、バックス神と同一視される)にとって神聖なものと見なされ、宗教儀式の際に捧げられる。オルサエアのインド人はサルの一種を追い詰めている。それは全身、白い体である。しかし、最も獰猛な動物はモノケロース(monoceros, 一角獣)と呼ばれる野獣で、牡鹿の頭、ゾウの肢、イノシシの尾を持つが、体のその他の部分はウマの体に似ている。太いうなり声をあげ、2 キュビット(約 88.92 センチメートル)の長さの一本の黒い角が額の真ん中から突き出している。この動物を生け捕りにすることは、不可能だと言われる。--プリニウス 『博物誌』第8巻第31(21)章第76節",
"title": "古典文学"
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"text": "ここに出て来る角の長さは、クテシアスの言う一角ロバの二倍である。インドロバについては、第11巻第106(46)章第255節に「角のある動物はみなほとんど蹄が割れており、単蹄で双角の動物はいない。インドロバは一本の角のある唯一の動物で、オリックスは単角であり、双蹄でもある。インドロバは距骨を持つ唯一の単蹄の動物である。」とあり、同じようなことが第11巻第45(37)章第128節にも見られる。いずれもアリストテレスからの引用である。",
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"text": "その後、ユニコーンについてのギリシア人達の報告を後期ローマを通じて中世初期のキリスト教作家達へと伝えたのは古代ローマの著述家プラエネステのアエリアヌス(ギリシア語名 アイリアノス、170頃 – 235)である。彼の著作『動物の特性について』(Περὶ Ζῴων Ἰδιότητος, 220年頃)第3巻第41章と第4巻第52章には、クテシアスを引用しつつも、新たに二、三の細かな点が追加され、より詳しく説明されている。例えば、第3巻第41章では「インドに生息する一本の角のあるウマとロバについて言う。これらの角からインド人達は杯を作り、誰かが致命的な毒を入れ、それをある人が飲んだとしても、その人に害はない。というのはウマの角もロバの角も毒を解毒する力があるからだそうだ。」と言い、クテシアスを引用しながら、新たに一本の角のあるウマを付け加えている。第4巻第52章にも一角のロバとウマが紹介され、アエリアヌスはロバだけを詳しく述べている。内容的にはほとんどクテシアスの報告と同じだが、角の長さはさらに伸びて、1.5 キュビット(約 66.69 センチメートル)の長さとなっている(こういった角の延長は、もっと後代の作家達も時おり行う)。距骨は肉桂色ではなく、隅々まで真っ黒なものとされている。また、ユニコーンの角から作られた杯を使うのは最も身分の高いインド人だけであるということも書かれ、「彼らは金の輪を間隔を置いてその角のまわりにはめ込んだ。それは美しい彫像の腕を帯で飾るようだ」と言っている。この慣習は長い間受け継がれ、ヨーロッパ、ルネサンス期には金銀による装飾を施したユニコーンの角の器が作られた。アエリアヌスの報告で昔から変わらないことは、ユニコーンの足が速いということで、彼は「それを追いかけることは、詩的に言えば、到達不可能なものを追いかけるということである」と言っている。さらに第16巻第20章では、メガステネスの内容を引用してカルタゾーノスについて述べている。",
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"text": "ローマ時代末期に、ギリシアの哲学者、テュアナのアポロニオス(40頃 – 120頃)がユニコーンを目撃していた。そのことが、ギリシアの著作家フィロストラトス(170頃 – 247)の『テュアナのアポロニオスの生涯』(Τα εις τον Τυανέα Απολλώνιον, 1 – 2世紀)第3巻第2章に報告されている。それによると、インドを訪れたアポロニオスはヒュファーシスの沼沢池で一本の角を持つ野生のロバを見たと言う。角の解毒効果についても彼は聞いており、彼の弟子がユニコーンの角についてどう考えるべきかと尋ねた時、彼は「インドの王達がここでは不死であると聞けば、私はそれを信じるだろう。というのも、私やあるいは他の者にこのように健康的で治療力のある飲み物を提供できる者が、毎日自分のためにこれを注ぎ、酔いに至るまでこの角の酒杯から飲まないはずがないからだ」と答えている。",
"title": "古典文学"
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"text": "3世紀に古代ローマの著述家、文法家のガイウス・ユリウス・ソリヌス(英語版)(3世紀)はプリニウスの『博物誌』から地誌上の珍奇な事物や事柄を抜粋して集め、記述した著作『奇異なる事物の集成』(Collectanea rerum memorabilium, 250年頃)を発表した。この書は6世紀頃に改訂、増補され、『博物誌』(Polyhistor)として上梓されている。ここにも、ユニコーンについての記述が第52章第39 – 40節にある。",
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"text": "しかし、最も恐ろしいのは、モノケロース(monoceros, 一角獣)で、これは恐ろしいうなり声を上げ、ウマの体、ゾウの肢、ブタの尾、シカの頭を持つ怪物である。その額の中央から、素晴らしい輝きのある一本の角が突き出し、その長さはほぼ 4 ペース(約 118.36 センチメートル)で、それは非常に鋭く、何であろうと一撃で、容易に刺し通す。生きているものを人の力で手に入れることはなく、少なくとも殺すことはできても、捕まえることはできない。--ソリヌス 『奇異なる事物の集成』第52章第39 – 40節",
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"text": "プリニウスと比較してみるといくらかの言葉遣いの違いが見られることがわかる。まず、プリニウスはユニコーン(モノケロース)のことを fera (野獣)と言っているが、ソリヌスは monstrum (怪物)と言っている。こういった誇張した表現はその後も繰り返し使われる。ユニコーンの鳴き声もプリニウスは mugitu gravi (太いうなり声)だが、ソリヌスは mugitu horrido (恐ろしいうなり声)となっている。角の記述にも誇張した表現を見つける。プリニウスは普通の cornu nigrum (黒い角)とあるが、ソリヌスによれば、splendore mirifico (素晴らしい輝きのある)角だと言う。おまけに、角はとにかくとても鋭く、何でも一撃で切断することができるという。角の長さも、4 ペース(約 118.36 センチメートル)まで引き伸ばされている。このソリヌスの記述はのちに中世ヨーロッパの『動物寓意譚』(ベスティアリ, Bestiary, 12世紀)の原典の一つになる。 12世紀・13世紀ヨーロッパ各国で人気を博した、「インド」の謎のキリスト教王国を支配する司祭ヨハネことプレスタージョンの手紙には、自国で所持している一角獣はライオンと戦うが、ライオンは戦いが近づくと上記グリム童話「勇ましいちびの仕立て屋」(KHM 20)の主人公のように、堅固な高木の脇に陣取り、攻めてくる一角獣をかわし、一角獣が木に突き当てた角を引き抜くことができないところを仕留める。しかし、樹木のない所では一角獣がライオンを倒すと記されている。",
"title": "古典文学"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "旧約聖書にもかつてはユニコーンが存在していた。以下にユニコーンが載っていたころの聖書の一つである5世紀のウルガタ聖書からユニコーンが出てくる箇所を列挙する。(括弧内の数字は現在の聖書における詩篇の篇数を示す)",
"title": "旧約聖書"
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"text": "現代の聖書では「一角獣」の箇所が「野牛」と訳されているため「一角獣」という訳語は見つからない。しかし当時はこのように「野牛」ではなくはっきりと「一角獣」と記されていた。紀元前3世紀中葉に古代エジプト王プトレマイオス2世(前308 – 246)の命によってアレクサンドリア近郊のファロス島に送られた72人のユダヤ人学者達は、72日間で原本のヘブライ語旧約聖書をギリシア語に翻訳し、ギリシア語版旧約聖書『七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)』を作った。この時ユダヤ人学者達は原文のヘブライ語の「レ・エム」(רְאֵם, rěēm, 野牛)という単語に「モノケロース」(μονόκερως, monokerõs, 一角獣)、すなわち「一角獣」という訳語を当てた。古代ヘブライ語聖書の中で、レ・エムは「力」を象徴する隠喩として述べられている。ヘブライ伝承でレ・エムは狂暴な、飼いならすことのできない、壮大な力を持った機敏な動物で強力な角を持っているという。これに相当するのがオーロックス(Bos primigenius)である。この見解はアッカド語の「リム」(rimu)から裏付けられる。リムは、力の隠喩として使われ、力強く、獰猛な、大きな角を持つ野牛である。この動物は古代メソポタミア美術の中で、横顔で描かれ、あたかも一本の角を持った牛のように見える。しかしこのころ、「レ・エム」の語に相当する野生の野牛、オーロックスは既に絶滅していて、誰も実物を見ることはできなかった。こうして、この『七十人訳聖書』から、ユニコーンは聖書の中に入った。ラテン語訳聖書『ウルガタ聖書』(405年ごろ完成?)はこれを引き継いだ。382年の教皇ダマスス(在位 366 – 384)の命により、当時の大学者聖ヒエロニムス(342? – 420)が中心となって完成させた。従来のラテン語訳聖書の大改訂版である。彼は「一角獣」を表すのに三つの単語を並列的に使った。すなわちギリシア語の「モノケロース」(monoceros, 一角獣)、「リノケロース」(rinoceros, 鼻の上に角を持つ者、犀)、そしてラテン語の「ウーニコルニス」(unicornis, 一角獣)を無作為に用いた。この使用は何百年もの間、慣習的なものであり続けた。ルター(1483 – 1546)も『七十人訳聖書』や『ウルガタ聖書』と同様に訳した。イギリス国王ジェームズ1世(在位 1603 – 25)の命によって、五十数人の聖職者や学者からなる翻訳委員が、1607年から11年の間に完成させた英訳聖書『欽定訳聖書(ジェームズ王の翻訳聖書)』(1611年)では、「ユニコーン」(unicorn, 一角獣)という訳語が使われた。実際にはサイやレイヨウに比定され、キュヴィエ(1769 – 1832)はその存在を否定した。",
"title": "旧約聖書"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "原文のヘブライ語聖書では、一度だけ額に一本の角の生えた動物が出てくる。預言者ダニエルが自分がスサの城砦に誘拐される幻想について語る『ダニエル書』第8章である。しかし、この無敵の一角獣も現在では「野牛」と訳されてしまっている。ダニエルはベルシャザル第3年にウライ川のほとりで二本の角のある雄羊を幻視する。",
"title": "旧約聖書"
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"text": "私が目を上げて見ると、見よ、一頭の雄羊が川(ウライ川)の前に立っているのが見えた。それには二本の角が生えており、二本とも長いが、片方はもう片方より長く、長い方は後から伸びたものであった。私は、その雄羊が西に、北に、南に突き進むのを見た。いかなる獣もこの雄羊には太刀打ちできず、その手から救い出せる者もいなかった。そして、この獣は自分の欲することをなし、大いに高ぶった。--『ダニエル書』第8章第3 – 4節",
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"text": "そこへ西から一頭の雄山羊がやって来た。",
"title": "旧約聖書"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "そして、私がずっと思い巡らしていると、見よ、一頭の雄山羊が西の方から全地の表を飛び渡って来たが、その肢は土を踏まなかった。これは目の間に堂々たる一本の角を持っていた。そしてこの雄山羊は、二本の角を持つ雄羊の所までやって来た。雄山羊は猛烈な怒りを抱いて雄羊に向かって走って来た。そして私は雄山羊と雄羊がぶつかり合うのを見た。雄山羊は雄羊に対して激しい敵意を示し、これを打ち倒して、二本の角を折ったが、雄羊は立ち打つことができなかった。こうして雄羊を地に投げ倒し、踏みつけたが、その手から救い出せる者はいなかった。そして、その雄山羊は大いに高ぶった。しかしこの雄山羊が最強になったとき、その大いなる角は折れ、四本の堂々たる角が生え、天の四方の風に向かった。--『ダニエル書』第8章第5 – 8節",
"title": "旧約聖書"
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"text": "この幻視はこの後、ある声によって預言者ダニエルに、「ギリシアの王」すなわちアレクサンドロス3世(大王)によるメディア王国とペルシア帝国の破滅を意味するものと告げられる。つまり強大な角を持つ雄山羊の最初の一本の角はアレクサンドロス大王を表し、その後に生えた四本の角はアレクサンドロスの後継者を名乗るディアドコイの王たちを表している。",
"title": "旧約聖書"
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{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ユニコーンは飼い馴らしのきかない、たいへん凶暴な、無敵の、それゆえに自らの力を過信する傲慢な野獣だった。ユダヤ神話系の話が残る東欧の民話には高慢な性格のユニコーンが出てくる。その一つのポーランド民話ではユニコーンは大洪水以前の動物とされている。",
"title": "ノアの方舟に乗らないユニコーン"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "ノアがあらゆる獣のつがいを方舟に入れた時、ユニコーンもまた受け入れた。ところがユニコーンは他の獣を見境もなく突いたので、ノアは躊躇なくユニコーンを水の中に投げ込んだ。だから今ではユニコーンはいない。--『ポーランド民話』",
"title": "ノアの方舟に乗らないユニコーン"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "小ロシア民話でもユニコーンはこれと似たようなことをしている。自らの傲慢さのために自滅してしまうのである。",
"title": "ノアの方舟に乗らないユニコーン"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "ノアが全ての獣を方舟に受け入れたとき、獣達はノアに服従した。ユニコーンだけがそうしなかった。ユニコーンは自らの力を信じ、「私は泳いでみせる」と言った。四十の昼と夜の間、雨が降った。鍋の中のように水は煮え立ち、あらゆる高みが水に覆われた。そして方舟の舷側にしがみついていた鳥たちは、方舟が傾くと沈んでしまうのであった。しかし、かのユニコーンは泳ぎに泳いでいた。だが鳥達がユニコーンの角に止まったとき、ユニコーンは水中に没してしまった。だからユニコーンは今日ではもう存在しないのだ。--『小ロシア民話』",
"title": "ノアの方舟に乗らないユニコーン"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "1576年に印刷された絵入り聖書にトビーアス・シュティマー(Tobias Stimmer, 1539 – 1584)が描いた木版画には、ユニコーンのつがいがその高慢さから、方舟に背を向けて、あとに残る様子が描かれている。",
"title": "ノアの方舟に乗らないユニコーン"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "ユニコーンのヨーロッパ伝承の三つ目の経路は、初期のキリスト教徒達の教本となった『フィシオロゴス』(Φυσιολόγος, 「自然を知る者、博物学者」)と呼ばれる博物誌である。この書は、動物(空想上の動物を含む)、植物、鉱物を紹介して宗教上、道徳上の教訓が、『旧約聖書』、『新約聖書』からの引用によって表現されているものであり、のちの中世ヨーロッパで広く読まれる『動物寓意譚』の原典になったと言われるものである。原本はギリシア語で書かれ、各章には、まず聖書の言葉が述べられ、その後にその生き物についての自然科学的な解説が続き、最後には道徳的な教えが述べられている。その第22章では以下のように書かれている。",
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{
"paragraph_id": 47,
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"text": "詩篇作家(ダヴィデ)は言う。「主は私の角をモノケロース(一角獣)の角のように高く上げられる(『詩篇』第92章第10節)」と。フィシオロゴス(博物学者)はモノケロースが次のような性質を持つと言う。モノケロースは小さな獣で雄ヤギぐらいだが、途方もない勇気の持ち主であり、非常に力強いため、狩人も近づくことができない。それは頭の真ん中に一本の角を持っている。",
"title": "フィシオロゴス"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "さてどうしたらこれを捕まえられるだろうか。美しく装った汚れのない処女を近くに連れて来ると、それは彼女の膝に飛び乗って来る。そこで彼女はそれを飼い馴らし、王たちの宮殿へ連れて行くのである。",
"title": "フィシオロゴス"
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{
"paragraph_id": 49,
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"text": "この生き物は、わが救世主の姿に引き写すことができる。なぜか。私達の父の角がダヴィデの家から蘇り、救いの角となられた(『ルカによる福音書』第1章第69節)。天使の力ずくでは、彼を打ち負かすことはできなかった(『ペテロの手紙一』第3章第22節)。彼は真実かつ純潔な処女マリアの胎内に宿った(キリストの受肉)。言葉は肉となり、私達の内に宿ったのである(『ヨハネによる福音書』第1章第14節)。--『フィシオロゴス』第22章",
"title": "フィシオロゴス"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "『フィシオロゴス』に載っているユニコーンの姿は古典文学の作家達が言うようなものと全く異なり、ウマでもロバでもなく、メガステネスの言うゾウの肢も持っていない。さらに、ユニコーンは処女によってのみ捕まえることができるという伝説も生まれた。この伝説の起源は、紀元前2000年頃に古代オリエントで成立したと言われる『ギルガメシュ叙事詩』にあると考えられている。ここに出て来る半獣半人のエンキドゥには一本の角は生えていないが、物語の構造は処女がユニコーンを誘惑する話とよく似ている。エンキドゥは、ウルクの王ギルガメシュの暴虐を鎮めるために神々の命により、女神アヌンナキによって土から作られた。しかし作られたばかりのエンキドゥは、獣たちとともに暮らしてばかりいたため、宮仕えの遊女、つまり神聖娼婦が派遣され、彼を誘惑し、六日と七晩の間交わい合い、獣達から引き離し、本来の目的地、王都ウルクへと連れていく。そこでギルガメシュとエンキドゥは激しく戦うが、やがて和解し両者は盟友となる。",
"title": "フィシオロゴス"
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"text": "この形式の神話はその後、インドへと伝わり、変形され、4世紀のサンスクリット文学の『マハーバーラタ』第3巻第110 – 113章に出て来るリシュヤシュリンガ(ऋष्यशृंग, 「鹿の角を持つ者」)の説話の形式をとる。梵仙(カーシャパ)ヴィヴァーンダカが湖畔で修行をしていると天女ウルヴァシーが舞い降りて来た。ヴィヴァーンダカは彼女の美しさに見とれて思わず精を漏らしてしまった。ところがそばで水を飲んでいた牝鹿がこれを一緒に飲み込んでしまい、やがて一人の息子を生んだ。この息子は人間の姿をしていたが、額の中央に一本の角が生えていた。それゆえ彼は「リシュヤシュリンガ」(鹿角仙人)と呼ばれた。彼は父の他は人間を目にすることなく、修行を積んだ。さてこの頃、アンガ国は12年間に及ぶ大旱魃に苦しんでいた。ある時アンガ国王ローマパーダの夢枕にインドラ神が立ち、リシュヤシュリンガを王都に連れて来れば旱魃は止むであろうと告げる。そこで王は大仙のもとへ遊女(または王女)を派遣する。女性達は父以外の人間を見たことのないリシュヤシュリンガをまんまと誘惑し、王都に連れて来る。大仙が王都に足を踏み入れるや大雨が降り、旱魃は解消する。このリシュヤシュリンガの遊女による誘惑と災厄の解消が西へ伝わり、ユニコーンの処女による捕獲、角による解毒と形を変え、『フィシオロゴス』からヨーロッパに伝わっていった。",
"title": "フィシオロゴス"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "聖バシリウス(330頃 – 379)が書いたと言われている後代の『フィシオロゴス』には、『詩篇』第22章第21節の中でダヴィデがユニコーンからの魂の救いを祈っている詩篇について次のように述べている。「一角獣は人間に対して悪意を抱いている。一角獣は人間を追いかけ、人間に追いつくや、その角で人間を突き刺し、食べてしまうのである......よいか、人間よ、汝は一角獣から、すなわち悪魔から身を守らねばならぬ。なぜなら、悪魔は人間に悪意を持ち、人間に邪悪なることをなすためにこそ送られて来たのだから。昼も夜も悪魔はうろつきまわり、その詭弁で人間を貫き通しては、神の掟から人間を引き離すのだ」このようにユニコーンは救世主の象徴であると同時にその敵対者の悪魔の象徴でもあった。中世ではこのような「両義性」というのは珍しいことではなかった。バシリウスの『フィシオロゴス』にはゾウとユニコーンの友情の話も載っている。「ゾウには関節がないので、木に寄り掛かって眠る習性を持つ。そこで狩人達がその木に切り込みを入れておくと、ゾウは大きなうなり声をあげながら木とともにひっくり返る(カエサルの著作『ガリア戦記』第6巻第27節では関節のないヘラジカが同じように狩られる)。隠れていた場所から狩人達が急ぎやって来て、無防備に横たわるゾウの顎から象牙を引っこ抜き、急いで逃げてしまう。それは狩人達がユニコーンに急襲され、その餌食とならないようにするためである。しかしユニコーンの到着が間に合えば、ユニコーンは倒れたゾウの傍らにひざまずき、その体の下に角を差し入れ、ゾウを立たせるのである」ここでもまたユニコーンは救世主の象徴となっている。つまり「われらが主イエス・キリストは王者の角として表されている。われらすべての者の王は人間が倒れているのを、そしてその人間が慈悲に値するのをご覧になると、そこへやって来られ、その者を抱き起こすのである」この『フィシオロゴス』はアレゴリーに重点を置きユニコーン自体ではなく、その性質からたとえられている。「ユニコーンは良き性質と悪しき性質を持っている。良き性質はキリストおよび聖人にたとえられ、悪しき性質は悪魔や悪しき人間にたとえられる」",
"title": "フィシオロゴス"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "ユニコーンに関する話を載せた『フィシオロゴス』の断片はもう一つある。「ある地方に大きな湖があって、野の獣達が水を飲もうと集まる。しかし動物達が集まる前に、ヘビが這い寄って来て、水に毒を吐く。動物達は毒を感じると、もう飲もうとしない。彼らはユニコーンを待っているのである。そしてそれはやって来る。ユニコーンはまっすぐ水の中まで入る。そうして角で十字を切ると、もう毒の力は消え失せて、彼は水を飲む。他の動物達もみんな飲む」ギリシア人達がインドから聞き伝えた角の解毒作用が再び登場している。",
"title": "フィシオロゴス"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "バールラームがヨサファートの洗礼の心構えのために話した寓話の中に、人を追いかける獰猛なユニコーン(当初はサイだったかもしれない)が出て来る。この伝説が語られる異本は13 – 14世紀の聖人伝集のいくつかに存在する。また、ボーヴェのヴァンサン(1190ごろ – 1264)の『自然の鏡』(1245 / 50年)のような百科事典的な作品にもある。以下に述べるのは、ジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230ごろ – 98)が13世紀に書いた『黄金伝説』(Legenda aurea, 1267年ごろに完成)の第174章 「聖バルラームと聖ヨサパト」の中のものである。",
"title": "人を追いかけるユニコーン"
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{
"paragraph_id": 55,
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"text": "昔、セナールという国の近くの砂漠にバールラームという名の男が住んでいた。彼は多くのたとえ話をして、この世の偽りの快楽に陥らぬよう人々に説教を行っていた。このようなわけで、彼はある男のことについて語った。その男はユニコーンに食べられないようにと、男を食べようとしているユニコーンから急いで逃げようとして、深淵(または井戸)に落ちてしまう。それでも男は灌木の枝につかまることができた。だが、彼の足は滑りやすく、もろい場所に置かれていた。怒り狂うユニコーンが上から男を見下ろしている一方で、男の下の方には恐ろしいドラゴンが火を吹き、口を大きく開けて、男が落ちてくるのを待っているのが見えた。さらに滑りやすい足場の四方からは、四匹のヘビが体を伸ばし、頭を突き出していて、男がつかまっている灌木の根元には、黒いネズミと白いネズミの二匹が根元をかじっており、今にも引きちぎれそうであった。ところが男が上を見上げると、灌木の小枝から蜜が一滴垂れているのが目に入った。そこで男は自分の身に迫るあらゆる危機を忘れて、その蜜の甘さに束の間酔いしれるのである。このユニコーンというのは、人間を至る所追いかけて来る死である。深淵はこの世であり、あらゆる災いに満ちている。灌木は人間の命を意味し、それを昼と夜という時間が白と黒のネズミのようにかじっており、必ず落下することになる。四匹のヘビは身体を表しており、身体は四元素から成り、その秩序が乱れたとき、四元素は解体せざるを得ない。ドラゴンは人間を今にも飲み込もうとしている地獄の入り口である。しかし、蜜は、この世のはかない快楽である。この快楽に人間はふけり、全ての危機を忘れるのだ。--ヤコブス・デ・ウォラギネ 『黄金伝説』 第174章 「聖バールラームと聖ヨサファート」",
"title": "人を追いかけるユニコーン"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "このたとえ話では『詩篇』第22章第21節のユニコーンのようにいついかなるところでも人間に追い迫ってくる「死」の象徴と考えられていた。後代の『フィシオロゴス』のユニコーンが人間を追いかけ、人間に追いつくと食べてしまうという話の出所は、この話ではないかといわれている。",
"title": "人を追いかけるユニコーン"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "𩣡もしくは䮀、䑏疏という一本角の馬が、古代中国の様々な事柄を書いた地誌『山海経』や郭璞の書いた『江賦』などの古代の本に記されている。",
"title": "中国に伝わる一本の角を持つ馬"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "スコットランド王家の象徴にもなっており、グレートブリテン王国成立以後、現在のイギリス王家の大紋章には、ユニコーンがシニスターに、イングランド王家の紋章にも用いられているレパード(獅子)がデキスターにサポーターとして描かれている。",
"title": "紋章獣としてのユニコーン"
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの薬局協会の紋章には、二頭の金のユニコーンがサポーターとして描かれているが、ライオンの尾ではなくウマの尾である。",
"title": "紋章獣としてのユニコーン"
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{
"paragraph_id": 60,
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"text": "シエナのパリオ祭には、ユニコーンの紋章を持つコントラーダ(小地区)がある。",
"title": "紋章獣としてのユニコーン"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "ユニコーンは古代にヨーロッパに住んでいたケルト民族がキリスト教の伝来以前に信仰していた、ドルイド教の民間伝承として伝えられた怪物とも考えられている。",
"title": "伝承"
},
{
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"text": "ケルトにもともとユニコーンの伝承があったとされることもあるが、実際には存在しないようである。しかし近い地域においてイッカクの角(正確には顎の骨、牙)がユニコーンの角とされていたりもした。",
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"text": "したがってユニコーンの伝承は、周辺地域における角を持つ動物(サイ、オリックス、オーロックス、アイベックス、ヘラジカ、トナカイ、イッカクなど)の逸話がヨーロッパに伝わって一つに統合された結果であると考えることができる。",
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ユニコーンは、一角獣(いっかくじゅう)とも呼ばれ、額の中央に一本の角が生えた馬に似た伝説の生き物である。語源はラテン語の ūnus 「一つ」と cornū 「角」を合成した形容詞 ūnicornis (一角の)で、ギリシア語の「モノケロース」 から来ている。非常に獰猛であるが人間の力で殺すことが可能な生物で、処女の懐に抱かれておとなしくなるという。角には蛇などの毒で汚された水を清める力があるという。海の生物であるイッカクの角はユニコーンの角として乱獲されたとも言われる。
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'''ユニコーン'''([[英語]] : {{lang|en|Unicorn}}, [[ギリシア語]] : {{lang|grc|Μονόκερως}}, [[ラテン語]] : {{lang|la|Ūnicornuus}})は、'''一角獣'''(いっかくじゅう)とも呼ばれ、[[額]]の中央に一本の[[角]]が生えた[[ウマ|馬]]に似た[[伝説]]の[[生物|生き物]]である。[[語源]]はラテン語の {{lang|la|ūnus}} 「一つ」と {{lang|la|cornū}} 「角」を合成した形容詞 {{lang|la|ūnicornis}} (一角の)で、ギリシア語の「'''モノケロース'''」<ref>[[ギリシア語]] {{lang|grc|Μονόκερως}} = {{lang|grc|μόνος}} 「一つ」+ {{lang|grc|κέρας}} 「[[角]]」</ref> から来ている。非常に獰猛であるが人間の力で殺すことが可能な生物で、処女の懐に抱かれておとなしくなるという。角には[[ヘビ|蛇]]などの[[毒]]で汚された[[水]]を清める力があるという。海の生物である[[イッカク]]の角はユニコーンの角として乱獲されたとも言われる。
[[ファイル:DomenichinounicornPalFarnese.jpg|thumb|right|[[ドメニキーノ|ドメニコ・ザンピエーリ]]([[1581年|1581]] – [[1641年|1641]]) 「処女と一角獣」 [[フレスコ|フレスコ画]]、[[1604年|1604]] – [[1605年]]、[[パラッツォ・ファルネーゼ|ファルネーゼ宮]]、[[ローマ]]。]]
== 形態 ==
[[ファイル:Historiae animalium 1551 De Monocerote.jpg|thumb|right|250px|コンラート・ゲスナー([[1516年|1516]] – [[1565年|65]]) 『動物誌 第1巻 胎生の四足動物について』より、[[木版画|彩色木版画]]、[[1551年]]、[[チューリッヒ]]。]]
ユニコーンは、そのほとんどが、[[ライオン]]の[[尾]]、[[ヤギ|牡ヤギ]]の[[顎鬚]]、二つに割れた[[蹄]]<ref>[[偶蹄目]]の[[蹄]]。よく「割れている」と誤解されるがそうではなく、[[ヒト]]で言えば[[中指]]と[[薬指]]に相当する。</ref> を持ち、[[額]]の中央に[[螺旋|螺旋状]]の筋の入った一本の長く鋭く尖ったまっすぐな[[角]]をそびえ立たせた、[[紺色]]の[[目]]をした白い[[ウマ]]の姿で描かれた。また、[[ヤギ]]、[[ヒツジ]]、[[シカ]]に似た姿で描かれることもあった。角も、必ずしもまっすぐではなく、なだらかな[[曲線]]を描くこともあれば、弓なりになって後ろの方へ伸びていることもあり、[[鼻]]の上に生えていることもあった。ユニコーンは、[[山]]のように大きいこともあれば、貴婦人の[[膝]]に乗るほど小さいこともあった。時には様々な[[動物]]の体肢を混合させてできた生き物であった。ユニコーンと[[水]]には医薬的、宗教的な関係があるため、[[魚]]の尾をつけて描かれることもあった。[[アジア]]では時おり[[翼]]を生やしていることすらあった。[[体]]の毛色も[[白|白色]]、[[ツゲ]]のような黄褐色、シカのような[[茶色]]と変わっていったが、最終的には、再び輝くばかりの[[白|白色]]となった。
[[中世]][[ヨーロッパ]]の『[[動物寓意譚]]』(ベスティアリ, ''Bestiary'', [[12世紀]])の中で、モノケロースとユニコーンはしばしば同じものとして扱われるが、中にはそれぞれを別のものとして扱うものもある。その場合、モノケロースはたいがいユニコーンより大きく描かれ、角も大きく非常に長い。またモノケロースの[[挿絵]]には処女が一緒に描かれていない。
[[フランス]]の[[小説家]]の[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]([[1821年|1821]] – [[1880年|1880]])が『聖アントワーヌの誘惑』(''La Tentation de saint Antoine'', [[1874年]])第7章の中で一本の[[角]]を持つ美しい[[白馬]]としてユニコーンを登場させ、[[現在]]ではその姿が一般的な[[イメージ]]となっている。
== 生態 ==
[[ファイル:Unicornis.png|thumb|right|250px|[[アルベルトゥス・マグヌス]]著、ヴァルテルム・リュフ訳 『動物について』([[ドイツ語]]版)より、[[木版画]]、[[1545年]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]。]]
[[ファイル:Moretto da Brescia 001b.jpg|thumb|right|250px|モレット・ダ・ブレシア 「一角獣を連れた聖ユスティナと寄贈者」 [[油彩|油彩画]]、[[1530年|1530]] – [[1534年]]頃、[[美術史美術館|美術史博物館]]、[[ウィーン]]。]]
ユニコーンは極めて獰猛で、力強く、勇敢で、相手が[[ゾウ]]であろうと恐れずに向かっていくという。足が速く、その速さは[[ウマ]]や[[シカ]]にも勝る。[[角]]は長く鋭く尖っていて強靭であり、どんなものでも突き通すことができたという。例えば、[[セビリア]]の[[教会博士]]の[[イシドールス|聖イシドールス]]([[560年|560]]頃 – [[636年|636]])が著した『語源集』(''Etymologiae'', [[622年|622]] – [[623年]])第12巻第2章第12 – 13節には、ユニコーンの強大な角の一突きはゾウを殺すことができるとある。このユニコーンとゾウが戦っている[[挿絵]]が『クイーン・メアリー詩篇集』(''The Queen Mary Psalter'', [[1310年|1310]] – [[1320年]]頃、[[大英図書館]]蔵)に載っている<ref>[http://bestiary.ca/beastimage/img2047.jpg ゾウと戦うユニコーン]。『クイーン・メアリー詩篇集』(''The Queen Mary Psalter'')第100葉裏より、[[1310年|1310]] – [[1320年]]頃、[[大英図書館]]蔵。</ref>。また、[[ドイツ]]のスコラ哲学者、自然科学者の[[アルベルトゥス・マグヌス]]([[1193年|1193]]頃 – [[1280年|1280]])は『動物について』(''De animalibus'', 年代不詳)第22巻第2部第1章第106節で、ユニコーンは角を[[岩]]で研いで鋭く尖らせて、戦闘に備えているという<ref>[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin//ptext?lookup=Plin.+Nat.+8.29 プリニウスの『博物誌』(''Naturalis historia'')第8巻第29(20)章第71節] や [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Aelian/de_Natura_Animalium/17*.html#44 アエリアヌスの『動物の特性について』(''{{lang|el|Περὶ Ζῴων Ἰδιότητος}}'')第17巻第44章] では、[[サイ]]が[[ゾウ]]との戦いに備え、[[角]]を[[岩]]で研ぐとある。</ref>。ユニコーンを人の力で殺すことはできても、生け捕りにすることはできなかったという。たとえ生きたまま捕らえられたとしても、飼い馴らすことはできず、激しい逆上の中、[[自殺]]してしまうという。さらに、[[アレクサンドリア]]の[[修道士]]、[[地理学者]]の[[コスマス・インディコプレウステース]]([[6世紀]])は『キリスト教地誌』(''{{lang|el|Χριστιανικὴ Τοπογραφία}}'', [[6世紀]])第11巻第7章の中で、ユニコーンは狩人に取り囲まれ、逃げ道を失った時、[[崖|断崖]]から真っ逆さまに身を投げ、その角を地面に突き立てて落下の衝撃を和らげて、逃げると言っている。{{要出典|範囲=この逃げ方は、[[オリックス属|オリックス]]、[[アイベックス]]、[[ジャコウウシ]]、[[アルガリ]](盤羊, Ovis ammon)に見られるものである。|date=2016年12月}}[[グナエウス・ポンペイウス|大ポンペイウス]]([[紀元前2世紀|前106]] – [[紀元前1世紀|48]])はユニコーンを[[古代ローマ|ローマ]]に連れて来て見世物にさせたという<ref>[http://urts96.uni-trier.de:6632/minev/Bibliographie/Members/bibuser/scans-der-quellentexte/einhorn/Albertus%20Magnus%20Unicornis.pdf アルベルトゥス・マグヌス 『動物について』(''{{lang|la|De animalibus}}'')第22巻第2部第1章第106節「ユニコーンについて」] より。</ref>。
ユニコーンの角には水を浄化し、毒を[[中和]]するという不思議な特性があるという。さらに[[痙攣]]や[[てんかん]]などのあらゆる[[病気]]を治す力を持っているという。この角を求めて人々は危険を覚悟で、ユニコーンを捕らえようとした。[[グリム童話]]の『[[勇ましいちびの仕立て屋]]』(KHM 20)には、仕立屋が国を荒らすユニコーンを捕まえる場面が出てくる。仕立屋は、ユニコーンを激怒させると素早く樹の後ろに隠れた。そこへ怒り狂うユニコーンが仕立屋をめがけて突進して来るが、その武器である貴重な角をうっかり樹に突き刺してしまう。こうしてユニコーンは、縄で縛られ、王の所に連れて行かれた。[[エドマンド・スペンサー]]([[1552年|1552]]? – [[1599年|99]])の『[[妖精の女王|神仙女王]]』(第1章5歌10連)に出て来る[[ライオン]]も、この方法を使ってユニコーンを出し抜いている。
ユニコーンを捕らえるもう一つの方法は[[処女]]の娘を連れて来てユニコーンを誘惑させて捕まえるというものである。不思議なことにユニコーンは乙女に思いを寄せているという。美しく装った生粋の処女をユニコーンの棲む[[森林|森]]や巣穴に連れて行き、一人にさせる。すると処女の香りを嗅ぎつけたユニコーンが処女に魅せられ、自分の獰猛さを忘れて、近づいて来る。そして、その処女の膝の上に頭を置き眠り込んでしまう。このように麻痺したユニコーンは近くに隠れていた狩人達によって身を守る術もなく捕まるのである。しかし、もし自分と関わった処女が偽物であることがわかった場合は、激しく怒り狂い、自分を騙した女性を殺してしまうという。
処女を好むことから、ユニコーンは貞潔を表わすものとされ、さらには[[イエス・キリスト]]が[[聖母マリア|聖処女マリア]]の胎内に宿ったことや、角を一本だけ有するユニコーンと「神のひとり子」 ({{lang|la|unigentitus}}) とのアナロジーから、キリストにも譬えられた<ref>尾形希和子 『教会の怪物たち』 講談社〈講談社メチエ〉、2013年、90頁。</ref>。しかし一方で、「[[悪魔]]」などの象徴ともされ、[[七つの大罪]]の一つである「[[憤怒]]」の象徴にもなった。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]([[1452年|1452]] – [[1519年|1519]])は『[[動物寓意譚]]』の中で「ユニコーンはその不節制さのために自制することを知らず、美しき処女への愛のために自分の獰猛さと狂暴さを忘れて乙女の膝の上に頭を乗せ、そうして狩人に捕らえられる」と言っている。ここではユニコーンは「不節制」(intemperanza)を象徴するものとされた<ref>[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]] 「[http://www.universalleonardo.org/work.php?id=438 一角獣をつれた貴婦人]」 [[1470年代]]、[[ペン画]]、アシュモレアン博物館、[[オックスフォード]]。</ref>。[[フランス]]の[[文学者]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]の[[ヴォルテール]]([[1694年|1694]] – [[1778年|1778]])は『[[バビロン]]の[[王女]]』(''La Princesse de Babylone'', [[1768年]])第3章の中で、ユニコーンを「[[現世|この世]]で最も[[美|美しい]]、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい[[動物]]」(''{{lang|fr|C'est le plus bel animal, le plus fier, le plus terrible et le plus doux qui orne la terre}}'')として描いている。
== ユニコーンの角 ==
[[ファイル:Weltliche Schatzkammer Wienb.jpg|thumb|right|150px|ユニコーンの角。実際は[[イッカク]]の牙である。[[16世紀]]前葉、[[ウィーン]]。]]
{{main|en:Unicorn horn}}
ユニコーンの角(アリコーン, alicorn<ref>[http://www.sacred-texts.com/etc/lou/index.htm Odell Shepard, ''The Lore of the Unicorn''], [[ロンドン|London]]: Merchant Book Company Limited, [[1996年|1996]]. シェパードは一角獣の方を unicorn、その[[武器]]である[[角]]の方を古い[[イタリア語]]の形式の alicorno ([[ポルトガル語]]では alicornio)に基づいて、alicorn と使い分けている。</ref>)には解毒作用があると考えられ、[[教皇]][[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]([[1468年|1468]] – [[1549年|1549]])は大枚をはたいてそれを求めたという。また、[[フランス]]宮廷では食物の[[毒]]の検証に用いられたと伝えられる。言い伝えによれば、ユニコーンの角は毒に触れると無毒化する効果があるとされたが、後に毒物の成分が含まれた食物に触れると、汗をかくとか色が変化するなどの諸説も生まれたようである。ドイツ中世の詩人[[ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ]]の『パルチヴァール』には、聖杯王アンフォルタスに仕える家臣は、毒を塗った槍を受けて局所に傷を負った王の苦痛をいやすために様々な処置を施したが、一角獣については、その「角の下の部分で、ちょうど前頭骨の上部にあたる場所に生じるざくろ石を取り出した。そして石で王の傷を外から軽くこすって、傷口に押し入れた」(482,28-483,3)と記されている<ref>ヴォルフラム・フォン・エッシェンバハ『パルチヴァール』(加倉井粛之、[[伊東泰治]]、馬場勝弥、小栗友一 訳) [[郁文堂]] 1974年 ISBN 4-261-07118-5。改訂第5刷 1998年、256頁上・下、482-483詩節。</ref>。
しかしこれらは[[北海]]に生息する[[イッカク]](ウニコール)の角(実際には[[牙]]である)であった。これにより後々まで、ウニコールの名称で貴重な解毒薬や解熱剤・[[疱瘡]]の特効薬として珍重され、イッカククジラの角は多数売買された。しかし一部には、これらウニコールと偽って、[[セイウチ]]の牙を売る事例も後を絶たなかったようだ。またその一部は[[オランダ]]経由で、[[江戸時代]]の[[日本]]にも輸入されていた。
当時の医学書には、真面目にウニコールの薬効に関しての記述があった程である。特に疱瘡の治療薬という部分に関しては、[[ペスト]]の流行により、非常に高価であったにもかかわらず、飛ぶように売れたという記録も残っている。
これは元々、[[中国]]で毒の検知に[[サイ]]の角を用いたのが伝播の過程で、一部の夢想家によって作り変えられたもののようだが、実際問題として、当時用いられた毒物でも、[[酸]]性や[[アルカリ]]性の毒物の場合は、動物性タンパク質の変化により、黄変するなりして、毒の検知に役立ったと思われる。またウニコールは動物性由来[[カルシウム]]器質なので、同様に上記の毒物には黄変する・脆くなるのでその代用とされた。同様の理由により[[銀]]のスプーンもイオン交換により変色するので中世以降は貴族の[[カトラリー]]には毒を感知するための[[銀器]]が多く使われるようになった。また中国ではサイの角の粉末を解熱剤・精力増強剤として扱っているが、興味深いことに、ウニコールが西欧から持ち込まれた際に、[[竜|龍]]の角とも[[ヘビ|蛇]]の角とも言われ、解毒や毒の検知に非常に珍重されたとのことである。
== 古典文学 ==
[[ヨーロッパ]]にユニコーンを最初に伝えたのは、[[古代ギリシア|ギリシア]]の[[クニドス]]島生まれの[[医師]]・[[歴史家]]、[[クテシアス]]([[紀元前4世紀|前4世紀]]後半)である。彼が[[アケメネス朝|ペルシア]]王[[アルタクセルクセス2世|アルタクセルクセス・ムネモン]](在位 [[紀元前5世紀|前404]] – [[紀元前4世紀|358]])の医師を8年間、務めていたときの見聞をもとに書いた『インド誌』(''{{lang|el|Τα Ἰνδικά}}'', [[紀元前4世紀|前390年]]頃)第45節には、次のように記されている。
<blockquote>
[[インド]]には、[[ウマ]]ぐらいの大きさか、もしくはそれ以上の大きさの野生の[[ロバ]]がいる。その[[体]]は[[白|白く]]、[[頭]]は暗赤色で、[[目]]は[[紺色]]、そして、[[額]]に縦 1 [[キュビット]](約 44.46 [[センチメートル]])ほどの長さの一本の[[角]]を持つ。角の根元、額から約 2 [[パーム (単位)|パーム]](約 14.25 [[センチメートル]])の所は[[白|純白]]で、真ん中は[[黒|黒く]]、尖った先端は燃えるような[[真紅|深紅色]]である。角で作った杯を飲用に用いれば、[[痙攣]]を起こすことも、[[てんかん]]にかかることもなくなり、毒物に対しても免疫効果があり、服毒前もしくは服毒後にこの杯を使って、[[酒]]なり、[[水]]なり、何がしかの飲み物を飲んでおけばよい。家畜化されたロバ、他国の野生のロバ、その他の単蹄の動物すべてには、[[距骨|アストラガロス]]<ref>[[距骨|アストラガロス]]({{lang|el|Άστραγάλους}})とは、くるぶしの間にある[[距骨]](ターロス、{{lang|la|Talus}})と呼ばれる[[動物]]の[[骨]]の部分で、古代ギリシア人やローマ人は、この骨を[[サイコロ]]として使っていた。</ref> も、[[胆嚢]]もないが、インドのロバは両方とも持っている。そのアストラガロスは、私が見てきたものの中で、最も美しく、大きさや形は[[ウシ]]のそれに似ている。[[鉛]]のように重く、隅々に至るまで肉桂色である。この動物は、非常に力強く、足が速く、ウマを含め、いかなる動物にも追いつかれることはない。初めのうちは、ゆっくりだが、長く走ればそれだけ歩様は驚くほど増し、どんどん速くなる。これを捕まえる唯一の方法は次の通りである。仔を連れて餌場に現れた時を狙い、大勢の騎馬で取り囲めば、仔を見捨てて逃げることはせず、角を突き出して戦い、蹴り上げ、噛みつき、殺し、狩人にもウマにもすさまじい攻撃を仕掛ける。だが結局は矢や投げ槍が当たって死ぬ。生け捕りにすることはできない。その肉はひどく苦く、食すこともままならないので、角とアストラガロスのためだけに狩られる。<cite>--[[クテシアス]] 『インド誌』第45節</cite>
</blockquote>
ユニコーンについての最初の記述は、現在のものとほぼ同じである。一本の角、解毒効果、俊敏さと獰猛さ、そして、周到な策を巡らして出し抜かなければ真っ向から向かって行っても捕獲できないということなど、既にこの時代からユニコーンの基本的な特徴についてほとんど記されていることがわかる。しかし[[クテシアス]]は実際には[[インド]]に行ったことがなかった。
[[アリストテレス]]([[紀元前4世紀|前384]] – [[紀元前4世紀|322]])は、[[クテシアス]]からの報告を引用して『[[動物部分論]]』(''{{lang|el|Περι ζώων μορίων}}'', [[紀元前4世紀|前350年]]頃)第3巻第2章の中で、次のように述べている。
<blockquote>
[[角]]のある動物の大部分は先の割れた[[蹄]]を持つが、インドロバと呼ばれる動物は単蹄であるにもかかわらず、角があると伝えられている。これらの動物の大部分は、左右二本の角を持つが、中には、たった一本しか角を持たないものもいる。例えば、[[オリックス (動物)|オリックス]]といわゆるインドロバで、前者は、先の割れた蹄を持つが、後者は単蹄である。このような動物は[[頭]]の真ん中に[[角]]が生えている。<cite>--[[アリストテレス]] 『動物部分論』第3巻第2章</cite>
</blockquote>
[[ファイル:Oryx Gazella Namibia(1).JPG|thumb|right|250px|[[オリックス (動物)|オリックス(ゲムズボック)]](Oryx gazella)]]
さらに、この後、[[アリストテレス]]はユニコーンについての理論まで唱えている。すなわち、インドロバのような単蹄目が一角であることは、双蹄目の動物の場合よりも自然なことであり、それは[[蹄]]や[[爪]]が[[角]]と同じ物質でできているからであり、その原料を蹄に与える場合、その分を角から取ってくることになるからだと言っている。逆に、[[ウシ]]や[[シカ]]や[[ヤギ]]などの角のある動物の大部分は、原料が角に使われるので、双蹄になると言う。しかし、アリストテレスは例外として双蹄だが、一角である[[オリックス属|オリックス]]を挙げている。実際、オリックスは双角であるが、左右の角の付け根が近いので、真横から見ると一本に見えるのである。
同じようなことが『[[動物誌]]』(''{{lang|el|Περί ζώων ιστορίας}}'', [[紀元前4世紀|前343年]]頃)第2巻第1章にもあり、単蹄で双角の動物は一つも見られないが、単角で単蹄のものは、インドロバのように少しはあるとし、単角で双蹄のものは[[オリックス (動物)|オリックス]]としている。また、[[距骨|アストラガロス]]についても述べられており、ここでも、[[クテシアス]]の報告が引用されている。
[[クテシアス]]の報告から約100年後、もう一人の[[ギリシャ人|ギリシア人]]が、今度は実際に[[インド]]に旅をした。[[セレウコス朝|シリア]]王[[セレウコス1世]]([[紀元前4世紀|前358]]? – [[紀元前3世紀|281]] / [[紀元前3世紀|280]])の特派使節[[メガステネス]]([[紀元前4世紀|前350]]頃 – [[紀元前3世紀|280]]頃)である。大使として[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]の首都[[パータリプトラ]]に駐在し、帰国後『インド誌』(''{{lang|el|Τα Ἰνδικά}}'', [[紀元前3世紀|前290年]]頃)を著す。その中に、[[インド]]のユニコーンについての記述があり、彼はこのユニコーンを現地の言葉に従い、「カルタゾーノス」と名付けた。ただし、この獣は[[クテシアス]]の一角ロバとは異なった姿をしている。
<blockquote>
[[インド]]のある地域(私が話すのは最も内陸の地域である)には、人を近寄せない[[猛獣|野獣]]で一杯の山地があり、そこには、[[イヌ]]、[[ヤギ]]、[[ウシ]]、[[ヒツジ]]といった私達の知っている動物も生息しているが、人に飼い馴らされることなくその辺りを自由に野生のままで歩き回っている。その数は非常に豊富であると、インドの[[作家]]も[[学者]]も述べ、その事は[[バラモン]]も認めているので明らかである。彼によるとここには、現地の人々にカルタゾーノス({{lang|el|καρτάζωνος}})と呼ばれる一本の角のある動物がいると言う。十分に成長した[[ウマ]]ほどの大きさで、[[たてがみ]]を持ち、羊毛のような柔らかい毛で黄みがかった赤い[[色]]をしている。素晴らしい形状の肢をしており、とても足が速い。その[[脚|肢]]は[[関節]]がなく、[[ゾウ]]のようで、[[尾]]は[[ブタ]]のように[[渦巻|渦巻き状]]である。[[角]]は[[眉毛]]の間に生え、滑らかではないが、[[螺旋|螺旋状]]の筋が入っており、色は黒い。その角は非常に鋭く尖っており、強靭であると言われる。私が聞いた話では、この動物はとてつもなく大きく、耳障りな声を出すと言う。他の動物にはやさしく、近づくことを許すが、同種族の動物には好戦的な態度を見せると言う。雄は生まれつき好戦的で、互いに角で激しく突いて戦うだけではなく、雌に対しても敵意のようなものを示すと伝えられており、そこで激しい戦いが、しばしば弱者が死に至るまで繰り広げられる。確かに、体中に強大な力を持ち、その角の力に耐えられるものはいない。閑静な草地で草を食い、単独行動を好む。ただ繁殖期になるとこの獣は雌との付き合いを求め、雌に対してもやさしくなり、それどころか、雌とともに草を食むことすらある。繁殖期が終わり、雌が身ごもると、インドのカルタゾーノスは再び獰猛になり、単独行動をする。幼獣はまだ幼い時にプラシアの王の所へ連れて行かれ、祝典や頌詞の日の見世物で互いを戦わせ力強さを見せると言われる。成獣が今までに捕獲されたことは一度もない。<cite>--[[メガステネス]] 『インド誌』第15章</cite>
</blockquote>
[[メガステネス]]の報告の中で、[[角]]に[[螺旋|螺旋状]]の筋が入っていることが初めて述べられ、のちにユニコーンの古典的イメージの中に入り込んでいく。ユニコーンの鳴き声についても、その後のいくつもの報告の中で受け継がれ、反響を呼ぶことになる。獰猛なユニコーンも、雌がいるとおとなしくなることについて最初に示したのも、メガステネスである。これらの報告は実見に基づいたものではないが、他の人間、とくに[[バラモン]]の学者を引き合いに出すことで、正当化している。しかしこの報告の中のゾウの肢とか、ブタの尾などと言った表現は、[[サイ]]を思わせるものであるが、サイについては別の章で報告されており、そこには、ゾウとの戦いの様子が記されている。ここに記されているサイがその敵の腹を引き裂くという残酷な戦いの記述はのちにユニコーンの性質に転化されることになる。
[[共和政ローマ|古代ローマ帝国]]最大の[[政治家]]にして[[軍人]]の[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]([[紀元前2世紀|前102]] / [[紀元前100年|100]] – [[紀元前1世紀|44]])は『[[ガリア戦記]]』(''{{lang|la|Commentarii de Bello Gallico}}'', [[紀元前1世紀|前52]] – [[紀元前1世紀|51年]])第6巻第26節の中で、[[ゲルマニア|ゲルマーニア]](Germania, ほぼ現在の[[ドイツ]])のヘルキューニアの森(Hercynia Silva, ゲルマーニアにある大森林で現在のドイツ中南部の山岳地帯の総称)に生息するユニコーンについて述べている。
<blockquote>
シカの姿をしたウシがいて、その両耳の間の額の中央から一本の角が、我々に知られているものよりも長く、真っ直ぐに突き出ている。その先端は手や枝のように大きく広がっている。雌も雄も特徴は全く同じで、角の形も大きさも同じである。<cite>--[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]] 『[[ガリア戦記]]』第6巻第26節</cite>
</blockquote>
しかし、ここに出て来るユニコーンは明らかに[[ヘラジカ]]か[[トナカイ]]を思わせるが、ヘラジカ(Alces)についてはその後の第27節に記されている<ref>ここに出て来る[[ヘラジカ]](Alces)には、後肢の膝関節がなく、一度横たわると二度と起き上がれないと言う([http://www.thelatinlibrary.com/caesar/gall6.shtml#27 カエサル『ガリア戦記』第6巻第27節])。これと似た話が [http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin//ptext?lookup=Plin.+Nat.+8.16 プリニウスの『博物誌』第8巻第16(15)章第39節] にも見られる。そこには[[アクリス]](Achlis)というヘラジカに似た生き物が紹介されているが、後肢の[[関節]]を持たないことなどカエサルの言うヘラジカ(Alces)と内容が一致している。</ref>。
[[地理学者]][[ストラボン]]([[紀元前1世紀|前64]]? – [[21年|後21]]?)は『[[地理誌]]』(''{{lang|el|Γεωγραφικά}}'', 年代不詳)第15巻第1章第56節の中で、[[カフカース]](コーカサス)に[[シカ|牡鹿]]のような[[頭]]を持つ一本の[[角]]のある[[ウマ]]がいることを言っている。
[[古代ローマ]]の[[博物学|博物学者]]、[[政治家]]の[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]([[22年|22]] / [[23年|23]]? – [[79年|79]])はユニコーンについて、『[[博物誌]]』(''Naturalis historia'', [[77年]])第8巻第31(21)章第76節の中で、角の解毒効果などの不可思議な現象を述べることなく、慎重に、簡潔にまとめている。
<blockquote>
[[インド]]には、単蹄で、一本の角を持つ[[ウシ]]もいる。それから、アクシス([[:en:Chital|Cervus axis]])という名の野獣は、[[シカ|子鹿]]のような毛に、多くの白い斑がある。この動物はリーベル神(古い[[イタリア]]の[[神]]、[[バックス (ローマ神話)|バックス神]]と同一視される)にとって神聖なものと見なされ、宗教儀式の際に捧げられる。オルサエアのインド人は[[サル]]の一種を追い詰めている。それは全身、白い体である。しかし、最も獰猛な動物はモノケロース(monoceros, 一角獣)と呼ばれる[[猛獣|野獣]]で、[[シカ|牡鹿]]の[[頭]]、[[ゾウ]]の[[脚|肢]]、[[イノシシ]]の[[尾]]を持つが、体のその他の部分は[[ウマ]]の体に似ている。太いうなり声をあげ、2 [[キュビット]](約 88.92 [[センチメートル]])の長さの一本の黒い[[角]]が[[額]]の真ん中から突き出している。この動物を生け捕りにすることは、不可能だと言われる。<cite>--[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]] 『[[博物誌]]』第8巻第31(21)章第76節</cite>
</blockquote>
ここに出て来る角の長さは、[[クテシアス]]の言う一角ロバの二倍である。インドロバについては、第11巻第106(46)章第255節に「角のある動物はみなほとんど蹄が割れており、単蹄で双角の動物はいない。インドロバは一本の角のある唯一の動物で、[[オリックス属|オリックス]]は単角であり、双蹄でもある。インドロバは[[距骨]]を持つ唯一の単蹄の動物である。」とあり、同じようなことが第11巻第45(37)章第128節にも見られる。いずれも[[アリストテレス]]からの引用である。
その後、ユニコーンについてのギリシア人達の報告を後期ローマを通じて中世初期のキリスト教作家達へと伝えたのは[[古代ローマ]]の[[著作家|著述家]][[パレストリーナ|プラエネステ]]の[[アイリアノス|アエリアヌス]](ギリシア語名 アイリアノス、[[170年|170]]頃 – [[235年|235]])である。彼の著作『動物の特性について』(''{{lang|el|Περὶ Ζῴων Ἰδιότητος}}'', [[220年]]頃)第3巻第41章と第4巻第52章には、[[クテシアス]]を引用しつつも、新たに二、三の細かな点が追加され、より詳しく説明されている。例えば、第3巻第41章では「[[インド]]に生息する一本の[[角]]のある[[ウマ]]と[[ロバ]]について言う。これらの角からインド人達は杯を作り、誰かが致命的な毒を入れ、それをある人が飲んだとしても、その人に害はない。というのはウマの角もロバの角も毒を解毒する力があるからだそうだ。」と言い、[[クテシアス]]を引用しながら、新たに一本の角のある[[ウマ]]を付け加えている。第4巻第52章にも一角のロバとウマが紹介され、アエリアヌスは[[ロバ]]だけを詳しく述べている。内容的にはほとんど[[クテシアス]]の報告と同じだが、角の長さはさらに伸びて、1.5 [[キュビット]](約 66.69 [[センチメートル]])の長さとなっている(こういった角の延長は、もっと後代の作家達も時おり行う)。[[距骨]]は肉桂色ではなく、隅々まで真っ黒なものとされている。また、ユニコーンの角から作られた杯を使うのは最も身分の高いインド人だけであるということも書かれ、「彼らは金の輪を間隔を置いてその角のまわりにはめ込んだ。それは美しい彫像の腕を帯で飾るようだ」と言っている。この慣習は長い間受け継がれ、[[ヨーロッパ]]、[[ルネサンス|ルネサンス期]]には金銀による装飾を施したユニコーンの角の器が作られた。アエリアヌスの報告で昔から変わらないことは、ユニコーンの足が速いということで、彼は「それを追いかけることは、詩的に言えば、到達不可能なものを追いかけるということである」と言っている。さらに第16巻第20章では、[[メガステネス]]の内容を引用してカルタゾーノスについて述べている。
ローマ時代末期に、[[ギリシャ|ギリシア]]の[[哲学|哲学者]]、[[テュアナのアポロニオス]]([[40年|40]]頃 – [[120年|120]]頃)がユニコーンを目撃していた。そのことが、ギリシアの著作家[[フィロストラトス]]([[170年|170]]頃 – [[247年|247]])の『テュアナのアポロニオスの生涯』(''{{lang|el|Τα εις τον Τυανέα Απολλώνιον}}'', [[1世紀|1]] – [[2世紀]])第3巻第2章に報告されている。それによると、[[インド]]を訪れたアポロニオスはヒュファーシスの沼沢池で一本の[[角]]を持つ野生の[[ロバ]]を見たと言う。角の解毒効果についても彼は聞いており、彼の弟子がユニコーンの角についてどう考えるべきかと尋ねた時、彼は「インドの王達がここでは不死であると聞けば、私はそれを信じるだろう。というのも、私やあるいは他の者にこのように健康的で治療力のある飲み物を提供できる者が、毎日自分のためにこれを注ぎ、酔いに至るまでこの角の酒杯から飲まないはずがないからだ」と答えている。
[[3世紀]]に[[古代ローマ]]の[[著作家|著述家]]、文法家の{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・ソリヌス|en|Gaius Julius Solinus}}([[3世紀]])は[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]の『[[博物誌]]』から地誌上の珍奇な事物や事柄を抜粋して集め、記述した著作『奇異なる事物の集成』(''{{lang|la|Collectanea rerum memorabilium}}'', [[250年]]頃)を発表した。この書は[[6世紀]]頃に改訂、増補され、『博物誌』(''{{lang|la|Polyhistor}}'')として上梓されている。ここにも、ユニコーンについての記述が第52章第39 – 40節にある。
<blockquote>
しかし、最も恐ろしいのは、モノケロース(monoceros, 一角獣)で、これは恐ろしいうなり声を上げ、[[ウマ]]の[[体]]、[[ゾウ]]の[[脚|肢]]、[[ブタ]]の[[尾]]、[[シカ]]の[[頭]]を持つ[[怪物]]である。その[[額]]の中央から、素晴らしい輝きのある一本の[[角]]が突き出し、その長さはほぼ 4 [[ペース (長さ)|ペース]](約 118.36 [[センチメートル]])で、それは非常に鋭く、何であろうと一撃で、容易に刺し通す。生きているものを人の力で手に入れることはなく、少なくとも殺すことはできても、捕まえることはできない。<cite>--ソリヌス 『奇異なる事物の集成』第52章第39 – 40節</cite>
</blockquote>
[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]と比較してみるといくらかの言葉遣いの違いが見られることがわかる。まず、プリニウスはユニコーン(モノケロース)のことを fera ([[猛獣|野獣]])と言っているが、ソリヌスは monstrum ([[怪物]])と言っている。こういった誇張した表現はその後も繰り返し使われる。ユニコーンの鳴き声もプリニウスは mugitu gravi (太いうなり声)だが、ソリヌスは mugitu horrido (恐ろしいうなり声)となっている。角の記述にも誇張した表現を見つける。プリニウスは普通の cornu nigrum (黒い角)とあるが、ソリヌスによれば、splendore mirifico (素晴らしい輝きのある)角だと言う。おまけに、角はとにかくとても鋭く、何でも一撃で切断することができるという。角の長さも、4 [[ペース (長さ)|ペース]](約 118.36 [[センチメートル]])まで引き伸ばされている。このソリヌスの記述はのちに[[中世]][[ヨーロッパ]]の『[[動物寓意譚]]』(ベスティアリ, ''Bestiary'', [[12世紀]])の原典の一つになる。
[[12世紀]]・[[13世紀]]ヨーロッパ各国で人気を博した、「インド」の謎のキリスト教王国を支配する司祭ヨハネこと[[プレスタージョン]]の手紙には、自国で所持している一角獣はライオンと戦うが、ライオンは戦いが近づくと上記グリム童話「勇ましいちびの仕立て屋」(KHM 20)の主人公のように、堅固な高木の脇に陣取り、攻めてくる一角獣をかわし、一角獣が木に突き当てた角を引き抜くことができないところを仕留める。しかし、樹木のない所では一角獣がライオンを倒すと記されている<ref>逸名作家『西洋中世奇譚集成 東方の驚異』(池上俊一訳)講談社学術文庫 2009 (ISBN 978-4-06-291951-7)、122頁。</ref>。
== 旧約聖書 ==
[[旧約聖書]]にもかつてはユニコーンが存在していた。以下にユニコーンが載っていたころの聖書の一つである[[5世紀]]の[[ヴルガータ|ウルガタ聖書]]からユニコーンが出てくる箇所を列挙する。([[括弧]]内の[[数字]]は現在の聖書における詩篇の篇数を示す)
<blockquote>
* 神は彼らをエジプトから導き出された、その勇敢さは一角獣のようだ<cite>--『[[民数記]]』第23章第22節</cite>
* 彼の威厳は初子の雄牛のようであり、その角は一角獣のようだ。それで彼は国中の民を突き刺し、その全てを地の果てにまで及ぶ<cite>--『[[申命記]]』第33章第17節</cite>
* 一角獣はあなたに仕え、あなたの飼い葉桶のそばに留まるだろうか。あなたは一角獣に手綱をつけて、畝を作らせることができるだろうか、あるいはあなたに従って谷を耕すだろうか。その力が強いからと言って、あなたはこれに頼むだろうか、またあなたのために働かせるのか。あなたはこれに頼って、あなたの穀物を打ち場に運び帰らせるだろうか<cite>--『[[ヨブ記]]』第39章第9 – 12節</cite>
* 獅子の口から我が身を救いたまえ、一角獣の角から弱き我が身を護りたまえ<cite>--『[[詩篇]]』第21(22)章第22(21)節</cite>
* 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。主はレバノンを子牛のように躍らせ、シリオンを若い一角獣のように躍らせる<cite>--『[[詩篇]]』第28(29)章第5 – 6節</cite>
* しかし、あなたは私の角を一角獣の角のように高く上げ、新しい音を授けられました<cite>--『[[詩篇]]』第91(92)章第11(10)節</cite>
* 主の剣は血で満ち、脂肪で肥え、子羊と山羊の血、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボズラで犠牲の獣をほふり、エドムの地で大いに殺されたからである。一角獣は彼らと共にほふり場に下り、子牛は力ある雄牛と共に下る<cite>--『[[イザヤ書]]』第34章第6 – 7節</cite>
</blockquote>
[[ファイル:Ur-painting.jpg|thumb|right|250px|[[オーロックス]](Bos primigenius)。ヘブライの伝承に登場する、雄牛に似た獣レ・エム({{lang|he|רְאֵם}})のモデルとされている。]]
現代の[[聖書]]では「一角獣」の箇所が「野牛」と訳されているため「一角獣」という訳語は見つからない。しかし当時はこのように「野牛」ではなくはっきりと「一角獣」と記されていた。[[紀元前3世紀]]中葉に[[プトレマイオス朝|古代エジプト]]王[[プトレマイオス2世]]([[紀元前4世紀|前308]] – [[紀元前3世紀|246]])の命によって[[アレクサンドリア]]近郊のファロス島に送られた72人のユダヤ人学者達は、72日間で原本の[[ヘブライ語]]旧約聖書を[[ギリシア語]]に翻訳し、ギリシア語版旧約聖書『[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ)』を作った。この時ユダヤ人学者達は原文の[[ヘブライ語]]の「レ・エム」({{lang|he|רְאֵם}}, rěēm, 野牛)という単語に「モノケロース」({{lang|el|μονόκερως}}, monokerõs, 一角獣)、すなわち「一角獣」という訳語を当てた。[[古代ヘブライ語]]聖書の中で、レ・エムは「力」を象徴する隠喩として述べられている。ヘブライ伝承でレ・エムは狂暴な、飼いならすことのできない、壮大な力を持った機敏な動物で強力な角を持っているという。これに相当するのが[[オーロックス]](Bos primigenius)である。この見解は[[アッカド語]]の「リム」(rimu)から裏付けられる。リムは、力の隠喩として使われ、力強く、獰猛な、大きな角を持つ野牛である。この動物は古代メソポタミア美術の中で、横顔で描かれ、あたかも一本の角を持った牛のように見える。しかしこのころ、「レ・エム」の語に相当する野生の野牛、[[オーロックス]]は既に絶滅していて、誰も実物を見ることはできなかった。こうして、この『[[七十人訳聖書]]』から、ユニコーンは聖書の中に入った。ラテン語訳聖書『[[ヴルガータ|ウルガタ聖書]]』([[405年]]ごろ完成?)はこれを引き継いだ。[[382年]]の教皇ダマスス(在位 [[366年|366]] – [[384年|384]])の命により、当時の大学者[[ヒエロニムス|聖ヒエロニムス]]([[342年|342]]? – [[420年|420]])が中心となって完成させた。従来のラテン語訳聖書の大改訂版である。彼は「一角獣」を表すのに三つの単語を並列的に使った。すなわち[[ギリシア語]]の「モノケロース」(monoceros, 一角獣)、「リノケロース」(rinoceros<ref>中世のラテン語訳聖書では [[h]] が付いたり付かなかったりする。</ref>, [[鼻]]の上に[[角]]を持つ者、[[サイ|犀]])、そして[[ラテン語]]の「ウーニコルニス」(unicornis, 一角獣)を無作為に用いた。この使用は何百年もの間、慣習的なものであり続けた。[[マルティン・ルター|ルター]]([[1483年|1483]] – [[1546年|1546]])も『[[七十人訳聖書]]』や『[[ヴルガータ|ウルガタ聖書]]』と同様に訳した。[[イギリス]]国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]](在位 [[1603年|1603]] – [[1625年|25]])の命によって、五十数人の聖職者や学者からなる翻訳委員が、[[1607年]]から[[1611年|11年]]の間に完成させた英訳聖書『[[欽定訳聖書]](ジェームズ王の翻訳聖書)』([[1611年]])では、「ユニコーン」(unicorn, 一角獣)という訳語が使われた。実際には[[サイ]]や[[レイヨウ]]に比定され、[[ジョルジュ・キュヴィエ|キュヴィエ]]([[1769年|1769]] – [[1832年|1832]])はその存在を否定した。
原文のヘブライ語聖書では、一度だけ[[額]]に一本の[[角]]の生えた[[動物]]が出てくる。[[預言者]][[ダニエル]]が自分が[[スーサ|スサ]]の城砦に誘拐される幻想について語る『[[ダニエル書]]』第8章である。しかし、この無敵の一角獣も現在では「野牛」と訳されてしまっている。ダニエルは[[ベルシャザル]]第3年にウライ川のほとりで二本の角のある[[ヒツジ|雄羊]]を幻視する。
<blockquote>
私が目を上げて見ると、見よ、一頭の雄羊が川(ウライ川)の前に立っているのが見えた。それには二本の角が生えており、二本とも長いが、片方はもう片方より長く、長い方は後から伸びたものであった。私は、その雄羊が西に、北に、南に突き進むのを見た。いかなる獣もこの雄羊には太刀打ちできず、その手から救い出せる者もいなかった。そして、この獣は自分の欲することをなし、大いに高ぶった。<cite>--『[[ダニエル書]]』第8章第3 – 4節</cite>
</blockquote>
そこへ西から一頭の[[ヤギ|雄山羊]]がやって来た。
<blockquote>
そして、私がずっと思い巡らしていると、見よ、一頭の雄山羊が西の方から全地の表を飛び渡って来たが、その肢は土を踏まなかった。これは目の間に堂々たる一本の角を持っていた。そしてこの雄山羊は、二本の角を持つ雄羊の所までやって来た。雄山羊は猛烈な怒りを抱いて雄羊に向かって走って来た。そして私は雄山羊と雄羊がぶつかり合うのを見た。雄山羊は雄羊に対して激しい敵意を示し、これを打ち倒して、二本の角を折ったが、雄羊は立ち打つことができなかった。こうして雄羊を地に投げ倒し、踏みつけたが、その手から救い出せる者はいなかった。そして、その雄山羊は大いに高ぶった。しかしこの雄山羊が最強になったとき、その大いなる角は折れ、四本の堂々たる角が生え、天の四方の風に向かった。<cite>--『[[ダニエル書]]』第8章第5 – 8節</cite>
</blockquote>
この幻視はこの後、ある声によって[[預言者]][[ダニエル]]に、「ギリシアの王」すなわち[[アレクサンドロス3世]](大王)による[[メディア王国]]と[[ペルシア帝国]]の破滅を意味するものと告げられる。つまり強大な角を持つ雄山羊の最初の一本の角はアレクサンドロス大王を表し、その後に生えた四本の角はアレクサンドロスの後継者を名乗る[[ディアドコイ]]の[[王]]たちを表している。
== ノアの方舟に乗らないユニコーン ==
ユニコーンは飼い馴らしのきかない、たいへん凶暴な、無敵の、それゆえに自らの力を過信する[[傲慢]]な[[猛獣|野獣]]だった。ユダヤ神話系の話が残る[[東ヨーロッパ|東欧]]の[[民話]]には高慢な[[性格]]のユニコーンが出てくる。その一つのポーランド民話ではユニコーンは[[大洪水]]以前の動物とされている。
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ノアがあらゆる獣のつがいを方舟に入れた時、ユニコーンもまた受け入れた。ところがユニコーンは他の獣を見境もなく突いたので、ノアは躊躇なくユニコーンを水の中に投げ込んだ。だから今ではユニコーンはいない。<cite>--『ポーランド民話』</cite>
</blockquote>
小ロシア民話でもユニコーンはこれと似たようなことをしている。自らの傲慢さのために自滅してしまうのである。
<blockquote>
ノアが全ての獣を方舟に受け入れたとき、獣達はノアに服従した。ユニコーンだけがそうしなかった。ユニコーンは自らの力を信じ、「私は泳いでみせる」と言った。四十の昼と夜の間、雨が降った。鍋の中のように水は煮え立ち、あらゆる高みが水に覆われた。そして方舟の舷側にしがみついていた鳥たちは、方舟が傾くと沈んでしまうのであった。しかし、かのユニコーンは泳ぎに泳いでいた。だが鳥達がユニコーンの角に止まったとき、ユニコーンは水中に没してしまった。だからユニコーンは今日ではもう存在しないのだ。<cite>--『小ロシア民話』</cite>
</blockquote>
[[1576年]]に印刷された絵入り聖書にトビーアス・シュティマー(Tobias Stimmer, [[1539年|1539]] – [[1584年|1584]])が描いた[[木版画]]には、ユニコーンのつがいがその高慢さから、方舟に背を向けて、あとに残る様子が描かれている<ref>[http://rdk.zikg.net/rdkdaten/abb/04/04-1531-1.jpg ノアの方舟に乗らないユニコーンたち]。Tobias Stimmer, ''Neue künstliche Figuren Biblischer Historien'', [[バーゼル|Basel]] [[1576年|1576]] の中の[[木版画]]。ユニコーンのつがいが、[[ノアの方舟]]に乗り込むことを[[拒否]]している。</ref>。
== フィシオロゴス ==
[[ファイル:Chludov unicorn.jpg|thumb|right|300px|処女とユニコーン。[[聖ソフィア聖堂]]で典礼に使用された「フルードフ詩篇」より、[[ミニアチュール|細密画]]、[[9世紀]]、[[東ローマ帝国|ビザンチン]]、モスクワ歴史博物館蔵。]]
ユニコーンの[[ヨーロッパ]]伝承の三つ目の経路は、初期のキリスト教徒達の教本となった『[[フィシオロゴス]]』(''Φυσιολόγος'', 「自然を知る者、[[博物学|博物学者]]」)と呼ばれる[[博物誌]]である。この書は、[[動物]](空想上の動物を含む)、[[植物]]、[[鉱物]]を紹介して宗教上、道徳上の教訓が、『[[旧約聖書]]』、『[[新約聖書]]』からの引用によって表現されているものであり、のちの中世ヨーロッパで広く読まれる『[[動物寓意譚]]』の原典になったと言われるものである。原本は[[ギリシア語]]で書かれ、各章には、まず聖書の言葉が述べられ、その後にその生き物についての自然科学的な解説が続き、最後には道徳的な教えが述べられている。その第22章では以下のように書かれている。
<blockquote>
詩篇作家([[ダビデ|ダヴィデ]])は言う。「主は私の角をモノケロース(一角獣)の角のように高く上げられる(『[[詩篇]]』第92章第10節)」と。フィシオロゴス(博物学者)はモノケロースが次のような性質を持つと言う。モノケロースは小さな獣で[[ヤギ|雄ヤギ]]ぐらいだが、途方もない勇気の持ち主であり、非常に力強いため、狩人も近づくことができない。それは[[頭]]の真ん中に一本の[[角]]を持っている。
さてどうしたらこれを捕まえられるだろうか。美しく装った汚れのない[[処女]]を近くに連れて来ると、それは彼女の[[膝]]に飛び乗って来る。そこで彼女はそれを飼い馴らし、[[王]]たちの[[宮殿]]へ連れて行くのである。
この生き物は、わが[[救世主]]の姿に引き写すことができる。なぜか。私達の父の角が[[ダビデ|ダヴィデ]]の家から蘇り、救いの角となられた(『[[ルカによる福音書]]』第1章第69節)。[[天使]]の力ずくでは、彼を打ち負かすことはできなかった(『[[ペテロの手紙一]]』第3章第22節)。彼は真実かつ純潔な[[聖母マリア|処女マリア]]の胎内に宿った([[ナザレのイエス|キリスト]]の[[受肉]])。言葉は肉となり、私達の内に宿ったのである(『[[ヨハネによる福音書]]』第1章第14節)。<cite>--『[[フィシオロゴス]]』第22章</cite>
</blockquote>
『[[フィシオロゴス]]』に載っているユニコーンの姿は古典文学の作家達が言うようなものと全く異なり、[[ウマ]]でも[[ロバ]]でもなく、[[メガステネス]]の言う[[ゾウ]]の肢も持っていない。さらに、ユニコーンは[[処女]]によってのみ捕まえることができるという伝説も生まれた。この伝説の起源は、[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]頃に[[古代オリエント]]で成立したと言われる『[[ギルガメシュ叙事詩]]』にあると考えられている。ここに出て来る半獣半人の[[エンキドゥ]]には一本の角は生えていないが、物語の構造は処女がユニコーンを誘惑する話とよく似ている。エンキドゥは、[[ウルク]]の王[[ギルガメシュ]]の暴虐を鎮めるために神々の命により、女神[[アヌンナキ]]によって土から作られた。しかし作られたばかりのエンキドゥは、獣たちとともに暮らしてばかりいたため、宮仕えの遊女、つまり神聖娼婦が派遣され、彼を誘惑し、六日と七晩の間交わい合い、獣達から引き離し、本来の目的地、王都ウルクへと連れていく。そこでギルガメシュとエンキドゥは激しく戦うが、やがて和解し両者は盟友となる。
この形式の神話はその後、[[インド]]へと伝わり、変形され、[[4世紀]]のサンスクリット文学の『[[マハーバーラタ]]』第3巻第110 – 113章に出て来るリシュヤシュリンガ({{lang|sa|ऋष्यशृंग}}, 「[[シカ|鹿]]の[[角]]を持つ者」)の説話の形式をとる。梵仙(カーシャパ)ヴィヴァーンダカが湖畔で[[修行]]をしていると天女[[ウルヴァシー]]が舞い降りて来た。ヴィヴァーンダカは彼女の美しさに見とれて思わず精を漏らしてしまった。ところがそばで水を飲んでいた[[シカ|牝鹿]]がこれを一緒に飲み込んでしまい、やがて一人の[[息子]]を生んだ。この息子は人間の姿をしていたが、[[額]]の中央に一本の[[角]]が生えていた。それゆえ彼は「リシュヤシュリンガ」([[シカ|鹿]][[角]][[仙人]])と呼ばれた。彼は[[父親|父]]の他は人間を目にすることなく、修行を積んだ。さてこの頃、[[アンガ国]]は12年間に及ぶ大[[旱魃]]に苦しんでいた。ある時アンガ国王ローマパーダの夢枕に[[インドラ]]神が立ち、リシュヤシュリンガを王都に連れて来れば旱魃は止むであろうと告げる。そこで王は大仙のもとへ[[遊女]](または[[王女]])を派遣する。女性達は父以外の人間を見たことのないリシュヤシュリンガをまんまと誘惑し、王都に連れて来る。大仙が王都に足を踏み入れるや大雨が降り、旱魃は解消する。このリシュヤシュリンガの[[遊女]]による[[誘惑]]と災厄の解消が西へ伝わり、ユニコーンの[[処女]]による捕獲、[[角]]による[[解毒]]と形を変え、『[[フィシオロゴス]]』から[[ヨーロッパ]]に伝わっていった。
[[カイサリアのバシレイオス|聖バシリウス]]([[330年|330]]頃 – [[379年|379]])が書いたと言われている後代の『[[フィシオロゴス]]』には、『[[詩篇]]』第22章第21節の中で[[ダビデ|ダヴィデ]]がユニコーンからの魂の救いを祈っている詩篇について次のように述べている。「一角獣は人間に対して悪意を抱いている。一角獣は人間を追いかけ、人間に追いつくや、その角で人間を突き刺し、食べてしまうのである……よいか、人間よ、汝は一角獣から、すなわち悪魔から身を守らねばならぬ。なぜなら、悪魔は人間に悪意を持ち、人間に邪悪なることをなすためにこそ送られて来たのだから。昼も夜も悪魔はうろつきまわり、その[[詭弁]]で人間を貫き通しては、神の掟から人間を引き離すのだ」このようにユニコーンは[[救世主]]の[[象徴]]であると同時にその敵対者の[[悪魔]]の象徴でもあった。[[中世]]ではこのような「両義性」というのは珍しいことではなかった。バシリウスの『フィシオロゴス』には[[ゾウ]]とユニコーンの友情の話も載っている。「ゾウには関節がないので、木に寄り掛かって眠る習性を持つ。そこで狩人達がその木に切り込みを入れておくと、ゾウは大きなうなり声をあげながら木とともにひっくり返る([[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の著作『[[ガリア戦記]]』第6巻第27節では[[関節]]のない[[ヘラジカ]]が同じように狩られる)。隠れていた場所から狩人達が急ぎやって来て、無防備に横たわるゾウの顎から象牙を引っこ抜き、急いで逃げてしまう。それは狩人達がユニコーンに急襲され、その餌食とならないようにするためである。しかしユニコーンの到着が間に合えば、ユニコーンは倒れたゾウの傍らにひざまずき、その体の下に角を差し入れ、ゾウを立たせるのである」ここでもまたユニコーンは救世主の象徴となっている。つまり「われらが主[[イエス・キリスト]]は王者の角として表されている。われらすべての者の王は人間が倒れているのを、そしてその人間が[[慈悲]]に値するのをご覧になると、そこへやって来られ、その者を抱き起こすのである」この『フィシオロゴス』は[[アレゴリー]]に重点を置きユニコーン自体ではなく、その性質からたとえられている。「ユニコーンは良き性質と悪しき性質を持っている。良き性質はキリストおよび聖人にたとえられ、悪しき性質は悪魔や悪しき人間にたとえられる」
ユニコーンに関する話を載せた『フィシオロゴス』の断片はもう一つある。「ある地方に大きな[[湖]]があって、野の獣達が水を飲もうと集まる。しかし動物達が集まる前に、[[ヘビ]]が這い寄って来て、水に毒を吐く。動物達は毒を感じると、もう飲もうとしない。彼らはユニコーンを待っているのである。そしてそれはやって来る。ユニコーンはまっすぐ水の中まで入る。そうして角で[[十字の描き方|十字を切る]]と、もう毒の力は消え失せて、彼は水を飲む。他の動物達もみんな飲む」[[ギリシャ人|ギリシア人]]達が[[インド]]から聞き伝えた角の解毒作用が再び登場している。
== 人を追いかけるユニコーン ==
バールラームがヨサファートの[[洗礼]]の心構えのために話した[[寓話]]の中に、人を追いかける獰猛なユニコーン(当初は[[サイ]]だったかもしれない)が出て来る<ref>バールラームとヨサファートの物語は、[[中世]][[ヨーロッパ]]において、沢山の異本が知られており、[[6世紀]]の[[東ローマ帝国|ビザンチン]]に起源を持つという。さらに、いくつかの物語は、[[仏陀]]の生涯にかなり類似しているという。</ref>。この伝説が語られる異本は[[13世紀|13]] – [[14世紀]]の聖人伝集のいくつかに存在する。また、ボーヴェのヴァンサン([[1190年|1190]]ごろ – [[1264年|1264]])の『自然の鏡』([[1245年|1245]] / [[1250年|50年]])のような百科事典的な作品にもある。以下に述べるのは、[[ジェノヴァ]][[大司教]][[ヤコブス・デ・ウォラギネ]]([[1230年|1230]]ごろ – [[1298年|98]])が[[13世紀]]に書いた『[[レゲンダ・アウレア|黄金伝説]]』(''Legenda aurea'', [[1267年]]ごろに完成)の第174章 「聖バルラームと聖ヨサパト」の中のものである。
<blockquote>
昔、セナールという国の近くの[[砂漠]]にバールラームという名の男が住んでいた。彼は多くの[[たとえ話]]をして、[[現世|この世]]の偽りの[[快感|快楽]]に陥らぬよう人々に[[説教]]を行っていた。このようなわけで、彼はある男のことについて語った。その男はユニコーンに食べられないようにと、男を食べようとしているユニコーンから急いで逃げようとして、[[深淵]](または[[井戸]])に落ちてしまう。それでも男は[[低木|灌木]]の[[分枝 (生物学)|枝]]につかまることができた。だが、彼の足は滑りやすく、もろい場所に置かれていた。怒り狂うユニコーンが上から男を見下ろしている一方で、男の下の方には恐ろしい[[ドラゴン]]が[[火]]を吹き、[[口]]を大きく開けて、男が落ちてくるのを待っているのが見えた。さらに滑りやすい足場の四方からは、四匹の[[ヘビ]]が体を伸ばし、頭を突き出していて、男がつかまっている灌木の根元には、黒い[[ネズミ]]と白いネズミの二匹が根元をかじっており、今にも引きちぎれそうであった。ところが男が上を見上げると、灌木の小枝から[[蜜]]が一滴垂れているのが目に入った。そこで男は自分の身に迫るあらゆる危機を忘れて、その蜜の[[甘味|甘さ]]に束の間酔いしれるのである。このユニコーンというのは、人間を至る所追いかけて来る[[死]]である。深淵は[[現世|この世]]であり、あらゆる災いに満ちている。灌木は人間の[[命]]を意味し、それを[[昼]]と[[夜]]という[[時間]]が白と黒のネズミのようにかじっており、必ず[[落下]]することになる。四匹のヘビは[[体|身体]]を表しており、身体は[[四大元素|四元素]]から成り、その[[社会秩序|秩序]]が乱れたとき、四元素は[[解体]]せざるを得ない。ドラゴンは人間を今にも飲み込もうとしている[[地獄 (キリスト教)|地獄]]の入り口である。しかし、蜜は、この世のはかない[[快感|快楽]]である。この快楽に人間はふけり、全ての危機を忘れるのだ。<cite>--[[ヤコブス・デ・ウォラギネ]] 『[[レゲンダ・アウレア|黄金伝説]]』 第174章 「聖バールラームと聖ヨサファート」</cite>
</blockquote>
このたとえ話では『[[詩篇]]』第22章第21節のユニコーンのようにいついかなるところでも人間に追い迫ってくる「[[死]]」の象徴と考えられていた。後代の『[[フィシオロゴス]]』のユニコーンが人間を追いかけ、人間に追いつくと食べてしまうという話の出所は、この話ではないかといわれている。
==中国に伝わる一本の角を持つ馬==
'''𩣡'''もしくは'''䮀'''、'''䑏疏'''という一本角の馬が、古代中国の様々な事柄を書いた[[地誌]]『[[山海経]]』や[[郭璞]]の書いた『江賦』などの古代の本に記されている。
* [[中国]]の一角獣
** [[麒麟]](チーリン)
** [[獬豸]](カイチ)
== 紋章獣としてのユニコーン ==
[[ファイル:Royal Coat of Arms of the United Kingdom (Variant 2).svg|thumb|right|250px|[[イギリスの国章]]]]
[[ファイル:James V relief, Abbey Strand Pcs34560 IMG0372.jpg|thumb|right|130px|[[スコットランド]]王家の紋章]]
[[スコットランド]]王家の象徴にもなっており、[[グレートブリテン王国]]成立以後、現在の[[イギリス]]王家の大紋章には、ユニコーンがシニスターに、[[イングランド]]王家の[[紋章]]にも用いられているレパード([[ライオン (紋章学)|獅子]])がデキスターに[[サポーター (紋章学)|サポーター]]として描かれている。
[[ロンドン]]の薬局協会の[[紋章]]には、二頭の金のユニコーンがサポーターとして描かれているが、[[ライオン]]の[[尾]]ではなく[[ウマ]]の[[尾]]である<ref>[http://www.apothecaries.org.uk/ The Worshipful Society of Apothecaries of London]</ref>。
[[シエーナ|シエナ]]の[[パーリオ|パリオ祭]]には、ユニコーンの[[紋章]]を持つコントラーダ(小地区)がある。
== 伝承 ==
ユニコーンは[[古代]]に[[ヨーロッパ]]に住んでいた[[ケルト人|ケルト民族]]が[[キリスト教]]の伝来以前に[[信仰]]していた、[[ドルイド|ドルイド教]]の[[民間伝承]]として伝えられた[[怪物]]とも考えられている。
[[ケルト人|ケルト]]にもともとユニコーンの伝承があったとされることもあるが、実際には存在しないようである。しかし近い地域において[[イッカク]]の[[角]](正確には[[顎]]の[[骨]]、[[牙]])がユニコーンの角とされていたりもした。
したがってユニコーンの[[伝承]]は、周辺地域における[[角]]を持つ[[動物]]([[サイ]]、[[オリックス属|オリックス]]、[[オーロックス]]、[[アイベックス]]、[[ヘラジカ]]、[[トナカイ]]、[[イッカク]]など)の[[逸話]]が[[ヨーロッパ]]に伝わって一つに統合された結果であると考えることができる。
== ユニコーンを題材にした作品 ==
{{main|[[:Category:ユニコーンを題材とした作品]]}}
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 出典 ==
'''[[古代]]'''
* [[クテシアス]] 『[http://www.livius.org/ct-cz/ctesias/photius_indica.html インド誌]』(''{{lang|el|Τα Ἰνδικά}}'')第45節、[[紀元前4世紀|前390年]]頃。
* [[アリストテレス]] 『[http://etext.library.adelaide.edu.au/a/aristotle/parts/ 動物部分論]』(''{{lang|el|Περι ζώων μορίων}}'')第3巻第2章、[[紀元前4世紀|前350年]]頃。
* [[アリストテレス]] 『[https://web.archive.org/web/20070630051759/http://etext.library.adelaide.edu.au/a/aristotle/history/ 動物誌]』(''{{lang|el|Περί ζώων ιστορίας}}'')第2巻第1章、[[紀元前4世紀|前343年]]頃。
* [[メガステネス]] 『[https://web.archive.org/web/20081210080315/http://www.mssu.edu/projectsouthasia/history/primarydocs/Foreign_Views/GreekRoman/Megasthenes-Indika.htm インド誌]』(''{{lang|el|Τα Ἰνδικά}}'')第15章、[[紀元前3世紀|前290年]]頃。
* [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]] 『[[ガリア戦記]]』(''{{lang|la|Commentarii de Bello Gallico}}'')[http://www.thelatinlibrary.com/caesar/gall6.shtml#26 第6巻第26節]、[[紀元前1世紀|前52]] – [[紀元前1世紀|51年]]。
* [[ストラボン]] 『[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Strabo/home.html 地誌]』(''{{lang|el|Γεωγραφικά}}'')第15巻第1章第56節、年代不詳。
* [[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]] 『[[博物誌]]』(''{{lang|la|Naturalis historia}}'')[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin//ptext?lookup=Plin.+Nat.+8.31 第8巻第31(21)章第76節]、[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin//ptext?lookup=Plin.+Nat.+11.45 第11巻第45(37)章第128節]、[http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin//ptext?lookup=Plin.+Nat.+11.106 第11巻第106(46)章第255節]、[[77年]]。
* [[パレストリーナ|プラエネステ]]のアエリアヌス 『動物の特性について』(''{{lang|el|Περὶ Ζῴων Ἰδιότητος}}'')[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Aelian/de_Natura_Animalium/3*.html#41 第3巻第41章]、[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Aelian/de_Natura_Animalium/4*.html#52 第4巻第52章]、[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Aelian/de_Natura_Animalium/10*.html#40 第10巻第40章]、[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Aelian/de_Natura_Animalium/16*.html#20 第16巻第20章]、[[220年]]頃。
* [[フィロストラトス]] 『テュアナのアポロニオスの生涯』(''{{lang|el|Τα εις τον Τυανέα Απολλώνιον}}'')[http://www.livius.org/ap-ark/apollonius/life/va_3_01.html 第3巻] 第2章、[[1世紀|1]] – [[2世紀]]。
* ソリヌス 『[http://www.thelatinlibrary.com/solinus5.html 奇異なる事物の集成]』(''{{lang|la|Collectanea rerum memorabilium}}'')第52章第39 – 40節、[[250年]]頃。
'''[[中世]]'''
* 『[[フィシオロゴス]]』(''{{lang|el|Φυσιολόγος}}'')[https://web.archive.org/web/20091201031246/http://12koerbe.de/lapsitexillis/einhorn.htm 第22章]、[[2世紀|2]] – [[4世紀]]。
* [[コスマス・インディコプレウステース]] 『キリスト教地誌』(''{{lang|el|Χριστιανικὴ Τοπογραφία}}'')[http://www.tertullian.org/fathers/cosmas_11_book11.htm 第11巻第7章第4130 – 4139節]、[http://www.tertullian.org/fathers/cosmas13-plate4.gif 挿絵28 「モノケロース」]、[http://www.tertullian.org/fathers/cosmas15-plate09.gif 付録12 「ジャコウジカとユニコーン」]、[[6世紀]]。
* [[セビリア]]の[[イシドールス]] 『語源集』(''{{lang|la|Etymologiae}}'')[http://www.thelatinlibrary.com/isidore/12.shtml 第12巻] 第2章第12 – 13節、[[622年|622]] – [[623年]]。
* ラバヌス・マウルス 『万有誌』(''{{lang|la|De rerum naturis}}'')[http://www.mun.ca/rabanus/drn/8.html#8.1 第8巻第1章]、[[842年|842]] – [[847年]]。
* ホノリウス・アウグストドゥネンシス(オータンのホノリウス) 『世界像(イマーゴ・ムンディ)』(''Imago Mundi'')[http://12koerbe.de/arche/imago.htm 第1部] 第12章、[[12世紀]]。
* 『[http://www.abdn.ac.uk/bestiary/index.hti アバディーン動物寓意譚]』(''Aberdeen Bestiary'')[http://www.abdn.ac.uk/bestiary/translat/15r.hti 第15葉 「モノケロース」]、[[1200年]]頃、[[イングランド]]。
* 『アシュモル動物寓意譚』(''Ashmole Bestiary'')第14葉裏 「ウーニコルニス」、第21葉 「モノケロース」、[[13世紀]]初頭、[[イングランド]]、[[ピーターバラ]]?、ボドリーアン図書館蔵、[[オックスフォード]]。
* 『[http://prodigi.bl.uk/illcat/record.asp?MSID=8797&CollID=8&NStart=4751 ハーレー動物寓意譚]』(''Harley Bestiary'')[http://prodigi.bl.uk/illcat/ILLUMIN.ASP?Size=mid&IllID=16561 第6葉裏 「ウニコルニス」]、[http://prodigi.bl.uk/illcat/ILLUMIN.ASP?Size=mid&IllID=677 第15葉 「モノケロース」]、[[1230年|1230]] – [[1240年]]頃、[[イングランド]]、[[ソールズベリー]]?、[[大英図書館]]蔵、[[ロンドン]]。
* [[アルベルトゥス・マグヌス]] 『[http://standish.stanford.edu/bin/object?00002465 動物について]』(''De animalibus'')第22巻第2部第1章第71節 「モノケロース」、第106節 「ウーニコルニス」、年代不詳。
* ヤーコブ・ファン・マールラント 『自然の書』(''Der Naturen Bloeme'')第2巻 「動物」
** ''Koninklijke Bibliotheek, KB, KA 16'', [http://racer.kb.nl/pregvn/MIMI/MIMI_KA16/MIMI_KA16_063R_MIN_B2.JPG 第63葉 「モノケロース」]、[http://racer.kb.nl/pregvn/MIMI/MIMI_KA16/MIMI_KA16_071R_MIN.JPG 第71葉 「ウーニコルニス」]、[[1350年]]頃、[[フランドル|フランダース]]、オランダ王立図書館蔵、[[デン・ハーグ]]。
** ''Koninklijke Bibliotheek, KB, 76 E 4'', [http://racer.kb.nl/pregvn/MIMI/MIMI_76E4/MIMI_76E4_026V_MIN_A.JPG 第26葉裏 「モノケロース」]、[http://racer.kb.nl/pregvn/MIMI/MIMI_76E4/MIMI_76E4_034R_MIN.JPG 第34葉 「ウーニコルニス」]、[[1450年|1450]] – [[1500年]]頃、[[フランドル|フランダース]]、[[ユトレヒト]]、オランダ王立図書館蔵、[[デン・ハーグ]]。
* 『[http://www2.kb.dk/elib/mss/gks1633/index.htm アン・ウォルシュ動物寓意譚]』(''Bestiarius'')[http://base.kb.dk/manus_pub/cv/manus/VariantManusPage.xsql?nnoc=manus_pub&p_ManusId=221&p_PageNo=5%20verso&p_PageVarSeqNo=1&p_Lang=alt 第5葉裏 「ウーニコルニス」]、[http://base.kb.dk/manus_pub/cv/manus/VariantManusPage.xsql?nnoc=manus_pub&p_ManusId=221&p_PageNo=13%20recto&p_PageVarSeqNo=1&p_Lang=alt 第13葉 「モノケロース」]、[[15世紀]]、[[イングランド]]、デンマーク王立図書館蔵、[[コペンハーゲン]]。
'''[[近世]]'''
* [[アンブロワーズ・パレ]] 『[http://gallica.bnf.fr/document?O=N054386 ミイラ、一角獣、毒およびペストの説]{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}』(''Discours d'Ambroise Paré : A savoir, de la mumie, de la licorne, des venins et de la peste'') [[1582年]]、[[フランス国立図書館]]蔵、[[パリ]]。
* コンラート・ゲスナー 『動物誌』、第1巻 『胎生の四足獣について』(''Historiae Animalium; liber primus, qui est de quadrupedibus viviparis'')[http://www.humi.mita.keio.ac.jp/treasures/nature/Gesner-web/mammal/html/normal_b/l082b.html 第35葉裏 – 第39葉]、[[1551年]]、[[ハイデルベルク]]。
* エドワード・トプセル 『四足獣誌』(''The History of Four-Footed Beasts'')より、[http://hos.ou.edu/galleries/17thCentury/Topsell/1658/Topsell-1658-0551-image 「ユニコーンについて」]、[[1607年]]、[[ロンドン]]。
* ウリッセ・アルドロヴァンディ 『[http://alfama.sim.ucm.es/dioscorides/consulta_libro.asp?ref=X533358034 単蹄四足獣について]』(''De quadrupedibus solidipedibus'')より、[http://www3.vet-lyon.fr/bib/fondsancien/images/licorne.jpg 扉絵の細部]、[[木版画]]、[[1616年]]。
** [http://www3.vet-lyon.fr/bib/fondsancien/pdf/mergepdf/concat.php?title=De+Quadripedibus+Solipedibus&author=Ulysse+Aldrovandi&year=1639&pagedebut=387&pagefin=388&nbpages=500&cote=3389 第5章 「角のあるロバについて」 382 – 383ページ]。
** [http://www3.vet-lyon.fr/bib/fondsancien/pdf/mergepdf/concat.php?title=De+Quadripedibus+Solipedibus&author=Ulysse+Aldrovandi&year=1639&pagedebut=389&pagefin=420&nbpages=500&cote=3389 第6章 「モノケロースあるいはウーニコルニスと独自に呼ばれているものについて」 384 – 415ページ]。
* ヤン・ヨンストン 『博物誌』(''Historiae Naturalis'')、第1巻 『四足獣誌』(''De Quadrupedibus'')より、[http://www.uni-mannheim.de/mateo/camenaref/jonston/vol4/jpg/s076.html 図版10]、[http://www.uni-mannheim.de/mateo/camenaref/jonston/vol4/jpg/s077.html 図版11]、[http://www.uni-mannheim.de/mateo/camenaref/jonston/vol4/jpg/s034.html 図版12]、金属版画、[[1650年|1650]] – [[1653年|53年]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]。
** [http://www.uni-mannheim.de/mateo/camenaref/jonston/vol4/jpg/s049.html 第6章 「モノケロースと角のあるロバについて」 37 – 40ページ]。
* [[カール・グスタフ・ユング]] 『[[心理学]]と[[錬金術]]』(''Psychologie und Alchemie'')第3部第6章第2節、[[1944年]]。
== 参考文献 ==
* リュディガー・ロベルト・ベーア 『一角獣』 和泉雅人訳、[[河出書房新社]]、[[1996年]]。
* [[トレイシー・シュヴァリエ]] 『[[貴婦人と一角獣]]』 木下哲夫訳、[[白水社]]、[[2005年]]。
* Odell Shepard, ''The Lore of the Unicorn'', [[ロンドン|London]]: Merchant Book Company Limited, [[1996年|1996]].
* Jürgen Werinhard Einhorn, ''Spiritalis unicornis. Das Einhorn als Bedeutungsträger in Literatur und Kunst des Mittelalters'', [[ミュンヘン|München]]: Wilhelm Fink Verlag, [[1976年|1976]].
* 種村孝弘 『一角獣物語』 [[大和書房]]、[[1985年]]。
* 『衝撃のオーパーツ!恐竜ミステリー』 [[双葉社]]
== 関連項目 ==
* [[伝説の生物一覧]]
* [[初体験 (性行為)#処女信仰|処女信仰]]
* [[貴婦人と一角獣]](''La Dame à la licorne'')
* [[いっかくじゅう座]]
* [[バイコーン]](二角獣, Bicorn)
* [[有翼のユニコーン]](アリコーン, Alicorn)
* [[見えざるピンクのユニコーン]] - インヴィジブル・ピンク・ユニコーンは、有神論を風刺したパロディ宗教の女神。目に見えないがピンク色をしている。
;モデルとされる動物
* [[アラビアオリックス]](''Oryx leucoryx'')
* [[オーロックス]](''Bos primigenius'')
* [[サイ]]
** [[インドサイ]](''Rhinoceros unicornis'')
** [[エラスモテリウム]](''Elasmotherium'')
* [[イッカク]](''Monodon monoceros'')
* [[チンタオサウルス]] (Tsintaosaurus) ‐ [[中国]]で[[化石]]が発見されたこの恐竜が起源とする説もある。また古代[[トラキア]]の遺跡からユニコーンを模した兜飾りが発見されており、その頭部はこの恐竜に酷似している。
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Unicorns|ユニコーン}}
* [http://www.summagallicana.it/unicorno/Zur%20Rezeptionsgeschichte%20des%20Einhorns.pdf Pascal Gratz, ''De Monocerote - Zur Rezeptionsgeschichte des Einhorns'']
* [http://www.faidutti.com/unicorn/unicorn.htm Bruno Faidutti, ''Images et connaissance de la licorne'']
* [http://www.theoi.com/Thaumasios/HippoiMonokerata.html Aaron J. Atsma, ''Theoi Greek Mythology'' : Equus Unicorn]
* [http://bestiary.ca/beasts/beast140.htm David Badke, ''The Medieval Bestiary'' : Unicorn]
* [http://bestiary.ca/beasts/beast165.htm David Badke, ''The Medieval Bestiary'' : Monocerus]
* [http://www.eaudrey.com/myth/unicorns.htm Dave's Mythical Creatures and Places - Unicorns]
* [http://www.amnh.org/exhibitions/mythiccreatures/land/unicorns.php American Museum of Natural History, ''Mythic Creatures'': Unicorns, West and East]
* [http://www.stmwfk.bayern.de/downloads/aviso/2007_3_aviso_fabelhaftes_einhorn.pdf Josef H. Reichholf, ''Fabelhaftes Einhorn. Entzauberung eines Mythos'']
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丹波国
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丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。
主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し、「旦波」、「但波」、「丹婆」、「谿羽」などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。
『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。 また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている。
明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。
律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年)4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった。現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」と総称することもある。 丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や信濃、尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。
丹波国は古くより京都(平安京)の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には足利尊氏が桑田郡篠村(現・京都府亀岡市篠町)で挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏(松田氏)は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。
室町時代は、おおむね細川京兆家の領国として、守護代内藤氏の下で栄えた。
安土桃山時代は羽柴秀勝や羽柴(小早川)秀秋、前田玄以といった豊臣政権の親族などが亀山に置かれた。一方、福智山は小野木重勝が封じられた。織田信長の弟である織田信包が氷上郡柏原に陣屋を構えた。
江戸時代は一国を有する大名はなく、7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、柏原藩、福知山藩)を有した。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩は京都や大坂に近いため幕府の重責を担った譜代大名による移入封が多く、徳川幕府が重要視する藩の一つであった。
廃藩置県後の明治4年11月2日(1871年12月19日)の第1次府県統合により、桑田郡、船井郡、何鹿郡は京都府に、天田郡、氷上郡、多紀郡は豊岡県に分けられた。さらに、1876年(明治9年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなった。その後、1958年(昭和33年)4月1日の市町村合併により、京都府南桑田郡樫田村が大阪府高槻市に、京都府亀岡市西別院村の牧、寺田地区が大阪府豊能郡豊能町に編入されている。
『和名抄』に「国府在桑田郡高低上一日下半日」とあることから、10世紀には桑田郡(現在の亀岡市周辺)にあったとされる。しかしながら国府の位置は確定できておらず、現在も諸説がある。
また以上を踏まえ、千代川にあった国府が平安末から鎌倉初期にかけて屋賀に移転したとする説もある。
丹波の範囲は、現在の兵庫県側は丹波篠山市及び丹波市で、人口・面積ともに全体の2割弱。京都府側は亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市、福知山市であるため、兵庫県部分より京都府部分のほうが広大である。「兵庫丹波」「京都丹波」と分類するのは、丹波が2府県にまたがるためである。
そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き府県庁所在地を含む京阪神から遠く離れ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、高度経済成長期に一層の過疎化が強まった。なお、1871年(明治4年)11月2日~1876年(明治9年)8月21日の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および山城が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは、旧出石藩士の桜井勉の発案であるが、当初桜井は豊岡県全域と飾磨県(播磨)との合併を進言したようである。
2004年(平成16年)11月、旧氷上郡が町村合併で周囲の反対を押し切る形で丹波市を新市名とした。これに対しては、反対論や批判もあった。兵庫県篠山市は、丹波の名を広めたのは旧丹波国全域であり、「丹波黒豆」や「丹波松茸」などの丹波ブランドを確立したと自負もあった。これに加えて、京都府内の綾部市長や旧丹波町長の各首長からも反対や懸念の声が上がった。古代から丹波国の中心であり続けた亀岡市長からは反対の声がなかった。この問題は毎日放送(MBSテレビ)の関西ローカルニュース番組『VOICE』や『神戸新聞』『京都新聞』をはじめとする関西の新聞・テレビ等の各メディアで大きく報じられた(竹内正浩は著書『日本の珍地名』(文春新書)で丹波市は「京都府をはじめ全国的な反発を買ったという“事件”」であったと書いている)。2004年当時、丹波町(京都府)が存在していたが、市と町の違いがあるので、競合そのものに法律上の問題はなかったが、丹波町が周辺の町と合併して京丹波町が発足した2005年(平成17年)10月11日をもって、丹波市・丹波町の並存は解消した。
上記の「丹波市」問題に見られるように、篠山市では旧国名・丹波への愛着が強い。市名に旧国名を冠した「丹波篠山」は民謡『デカンショ節』にも謳われ、黒豆や栗など市内物産の販売のブランドとして活用し、観光協会も「丹波篠山観光協会」を名乗っている。「丹波市」問題に触発されるなどして市名を「丹波篠山市」に改称する機運が高まり、2018年11月18日の住民投票で賛成多数となり、2019年5月1日に市名が「丹波篠山市」に改称された。
丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹または丹但(たんたん)、丹波と丹後、但馬をあわせて三たん(さんたん)と呼ばれる。「柏原の厄除大祭は三たん一のお祭り」などと表現される。
なお丹但は、但馬と丹後に用いられる場合もある。
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"text": "丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。",
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"text": "主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し、「旦波」、「但波」、「丹婆」、「谿羽」などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。",
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"text": "『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。 また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている。",
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"text": "明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。",
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"text": "律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年)4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった。現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」と総称することもある。 丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や信濃、尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・八木・園部の南丹(口丹波)地方は山城・摂津と、福知山・綾部の中丹は丹後・但馬と、篠山は摂津・播磨と、氷上は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。",
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"text": "丹波国は古くより京都(平安京)の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には足利尊氏が桑田郡篠村(現・京都府亀岡市篠町)で挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏(松田氏)は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。",
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"text": "室町時代は、おおむね細川京兆家の領国として、守護代内藤氏の下で栄えた。",
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"text": "安土桃山時代は羽柴秀勝や羽柴(小早川)秀秋、前田玄以といった豊臣政権の親族などが亀山に置かれた。一方、福智山は小野木重勝が封じられた。織田信長の弟である織田信包が氷上郡柏原に陣屋を構えた。",
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"text": "江戸時代は一国を有する大名はなく、7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、柏原藩、福知山藩)を有した。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩は京都や大坂に近いため幕府の重責を担った譜代大名による移入封が多く、徳川幕府が重要視する藩の一つであった。",
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"text": "廃藩置県後の明治4年11月2日(1871年12月19日)の第1次府県統合により、桑田郡、船井郡、何鹿郡は京都府に、天田郡、氷上郡、多紀郡は豊岡県に分けられた。さらに、1876年(明治9年)8月21日の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなった。その後、1958年(昭和33年)4月1日の市町村合併により、京都府南桑田郡樫田村が大阪府高槻市に、京都府亀岡市西別院村の牧、寺田地区が大阪府豊能郡豊能町に編入されている。",
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"text": "『和名抄』に「国府在桑田郡高低上一日下半日」とあることから、10世紀には桑田郡(現在の亀岡市周辺)にあったとされる。しかしながら国府の位置は確定できておらず、現在も諸説がある。",
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"text": "また以上を踏まえ、千代川にあった国府が平安末から鎌倉初期にかけて屋賀に移転したとする説もある。",
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"text": "そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き府県庁所在地を含む京阪神から遠く離れ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、高度経済成長期に一層の過疎化が強まった。なお、1871年(明治4年)11月2日~1876年(明治9年)8月21日の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および山城が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは、旧出石藩士の桜井勉の発案であるが、当初桜井は豊岡県全域と飾磨県(播磨)との合併を進言したようである。",
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"text": "2004年(平成16年)11月、旧氷上郡が町村合併で周囲の反対を押し切る形で丹波市を新市名とした。これに対しては、反対論や批判もあった。兵庫県篠山市は、丹波の名を広めたのは旧丹波国全域であり、「丹波黒豆」や「丹波松茸」などの丹波ブランドを確立したと自負もあった。これに加えて、京都府内の綾部市長や旧丹波町長の各首長からも反対や懸念の声が上がった。古代から丹波国の中心であり続けた亀岡市長からは反対の声がなかった。この問題は毎日放送(MBSテレビ)の関西ローカルニュース番組『VOICE』や『神戸新聞』『京都新聞』をはじめとする関西の新聞・テレビ等の各メディアで大きく報じられた(竹内正浩は著書『日本の珍地名』(文春新書)で丹波市は「京都府をはじめ全国的な反発を買ったという“事件”」であったと書いている)。2004年当時、丹波町(京都府)が存在していたが、市と町の違いがあるので、競合そのものに法律上の問題はなかったが、丹波町が周辺の町と合併して京丹波町が発足した2005年(平成17年)10月11日をもって、丹波市・丹波町の並存は解消した。",
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"text": "上記の「丹波市」問題に見られるように、篠山市では旧国名・丹波への愛着が強い。市名に旧国名を冠した「丹波篠山」は民謡『デカンショ節』にも謳われ、黒豆や栗など市内物産の販売のブランドとして活用し、観光協会も「丹波篠山観光協会」を名乗っている。「丹波市」問題に触発されるなどして市名を「丹波篠山市」に改称する機運が高まり、2018年11月18日の住民投票で賛成多数となり、2019年5月1日に市名が「丹波篠山市」に改称された。",
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"text": "丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹または丹但(たんたん)、丹波と丹後、但馬をあわせて三たん(さんたん)と呼ばれる。「柏原の厄除大祭は三たん一のお祭り」などと表現される。",
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"text": "なお丹但は、但馬と丹後に用いられる場合もある。",
"title": "現在"
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丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 丹波国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|丹波国}}
|別称 = [[丹州 (日本)|丹州]](たんしゅう)<ref group="注釈">別称「丹州」は、[[丹後国]]とあわせて、または単独での呼称。</ref>
|所属 = [[山陰道]]
|領域 = [[京都府]]中部、[[兵庫県]]北東部、[[大阪府]]の一部<ref group="注釈">[[高槻市]]の一部、[[豊能郡]][[豊能町]]の一部。<!--[[摂津国]]の郡であった[[能勢郡]]と[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]を統合した豊能郡への編入であり、以降は摂津国とみなす見解もある。--></ref>
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[近国]]
|郡 = 6[[郡#日本の郡|郡]]68郷
|国府 = 1.(推定)京都府[[亀岡市]]<br/>2.(推定)京都府[[南丹市]]
|国分寺 = 京都府亀岡市([[丹波国分寺|丹波国分寺跡]])
|国分尼寺 = 京都府亀岡市
|一宮 = [[出雲大神宮]](京都府亀岡市)
}}
'''丹波国'''(たんばのくに)は、[[日本]]の[[地方行政区分]]である[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。
== 「丹波」の名称と由来 ==
[[File:37 Tamba n.jpg|thumb|200px|[[六十余州名所図会]]「丹波[[鐘ケ坂峠|鐘坂]]」]]
主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し<ref name="名前なし-1">{{Cite book|和書|author= |title=角川日本地名大辞典26 京都府 上巻 |publisher=角川書店 |date=1982 |page=936頁 |isbn=}}</ref>、「旦波」<ref>『古事記』の一部に記載(『世界大百科事典』([[平凡社]])丹波国項より)。</ref>、「但波」<ref>『[[正倉院文書]] 』に記載(『京都府の地名』([[平凡社]])丹波国節より。)</ref>、「丹婆」<ref>『大同類聚方』に記載{{Cite book|和書|author= |title=角川日本地名大辞典26 京都府 上巻 |publisher=角川書店 |date=1982 |page=936頁 |isbn=}}</ref>、「谿羽」<ref>{{Cite book|和書|author= |title=京都地名語源辞典 |publisher=東京堂出版 |date=2013 |page=368頁 |isbn=}}</ref>などの表記も見られる。[[藤原宮]]跡出土[[木簡]]では例外を除いて全て「丹波」なので、[[大宝律令]]の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている<ref name=daihyakka>『世界大百科事典』(平凡社)丹波国項。</ref>。
『[[和名抄]]』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている<ref name=chimei>『京都府の地名』(平凡社)丹波国節。</ref><ref>『世界大百科事典』(平凡社)丹波国項、『国史大辞典』([[吉川弘文館]])丹波国項でも「田庭」によるとする。</ref>。
また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった<ref name="名前なし-2">{{Cite book|和書|author= |title=京都地名語源辞典 |publisher=東京堂出版 |date=2013 |page=370頁 |isbn=}}</ref>。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている<ref name="名前なし-1"/>。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。
* [[京都府]]
** [[京都市]]の一部([[右京区]][[京北町|京北]]各町・[[左京区]]広河原各町)
** [[亀岡市]]
** [[南丹市]]
** [[船井郡]][[京丹波町]]
** [[綾部市]]
** [[福知山市]]の大部分([[大江町 (京都府)|大江町]]各町および雲原を除く)
* [[兵庫県]]
** [[丹波篠山市]]
** [[丹波市]]
* [[大阪府]]
** [[高槻市]]の一部(中畑・田能・杉生・出灰・二料)
** [[豊能郡]][[豊能町]]の一部(寺田・牧)
== 歴史 ==
=== 古代 ===
[[律令制]]以前は[[但馬国|但馬]]、[[丹後国|丹後]]も含み[[丹波国造]]の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。[[7世紀]]の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し[[但馬国]]となり、また[[和銅]]6年([[713年]])[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]北部5郡が[[丹後国]]として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった<ref name="名前なし-2"/>。現在では丹波・[[丹後国|丹後]]・[[但馬国|但馬]]を「三丹」、但馬を含まない場合は「[[両丹]]」<ref>[http://www.ryoutan.co.jp/company.html 両丹とは][[両丹日日新聞]](2019年8月10日閲覧)。</ref>と総称することもある。
丹波国は大まかに言って[[亀岡盆地]]、[[福知山盆地|由良(福知山)盆地]]、[[篠山盆地]]のそれぞれ母川の違う大きな[[盆地]]があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は[[甲斐国|甲斐]]や[[信濃国|信濃]]、[[尾張国|尾張]]、[[土佐国|土佐]]のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡・[[八木町 (京都府)|八木]]・[[園部町|園部]]の[[南丹]](口丹波)地方は[[山城国|山城]]・[[摂津国|摂津]]と、[[福知山]]・[[綾部市|綾部]]の[[中丹]]は丹後・但馬と、[[丹波篠山市|篠山]]は摂津・[[播磨国|播磨]]と、[[氷上郡|氷上]]は但馬・播磨に密接に係わる歴史を持った。
=== 中世 ===
丹波国は古くより[[京都]]([[平安京]])の北西の出入口に当たる地理的条件から、各時代の権力者から重要視され、播磨や[[大和国|大和]]などと並んで[[鎌倉時代]]の[[六波羅探題]]や[[江戸時代]]の[[京都所司代]]などの直接支配を受けた。それだけに、都の政局に巻き込まれやすい国でもあった。鎌倉時代末期には[[足利尊氏]]が[[桑田郡]]篠村(現・京都府[[亀岡市]]篠町)で挙兵し、[[安土桃山時代]]にも[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]主の[[明智光秀]]が[[本能寺の変]]を起こすといった時代変革の重要な舞台となった。さほど有名ではないが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[八上城]]の[[波多野氏]]([[松田氏]])は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて[[山城国|山城]]など周辺諸国に進出したこともある。
[[室町時代]]は、おおむね[[細川氏|細川京兆家]]の領国として、[[守護代]][[内藤氏]]の下で栄えた。
[[安土桃山時代]]は[[羽柴秀勝]]や[[小早川秀秋|羽柴(小早川)秀秋]]、[[前田玄以]]といった[[豊臣政権]]の親族などが亀山に置かれた。一方、[[福知山|福智山]]は[[小野木重勝]]が封じられた。[[織田信長]]の弟である[[織田信包]]が[[氷上郡]][[柏原町|柏原]]に[[陣屋]]を構えた。
=== 近世 ===
[[江戸時代]]は一国を有する[[大名]]はなく、7[[藩]]([[丹波亀山藩]]、[[園部藩]]、[[綾部藩]]、[[山家藩]]、[[篠山藩]]([[八上藩]])、[[柏原藩]]、[[福知山藩]])を有した。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩は京都や[[大坂]]に近いため幕府の重責を担った[[譜代大名]]による移入封が多く、[[徳川幕府]]が重要視する藩の一つであった。
=== 近代以後 ===
[[廃藩置県]]後の[[明治]]4年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]([[1871年]][[12月19日]])の第1次府県統合により、[[桑田郡]]、[[船井郡]]、[[何鹿郡]]は[[京都府]]に、[[天田郡]]、[[氷上郡]]、[[多紀郡]]は[[豊岡県]]に分けられた。さらに、[[1876年]](明治9年)[[8月21日]]の第2次府県統合により豊岡県は廃止され、天田郡が京都府に、氷上郡、多紀郡の二郡が兵庫県に編入されることとなった。その後、[[1958年]]([[昭和]]33年)[[4月1日]]の市町村合併により、京都府[[南桑田郡]][[樫田村]]が大阪府[[高槻市]]に、京都府亀岡市西別院村の牧、寺田地区が大阪府[[豊能郡]][[豊能町]]に編入されている。
=== 近世以降の沿革 ===
* 『[[旧高旧領取調帳]]』に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(970村・331,954[[石 (単位)|石]]余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。[[天領|幕府領]]は[[京都代官]]・[[久美浜代官所]]が管轄。
** [[桑田郡]](218村・56,227石余) - [[地方知行|旗本領]]、[[皇室財産|皇室領]]、[[公家領]]、'''[[丹波亀山藩|亀山藩]]'''、園部藩、篠山藩、[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]
** [[船井郡]](210村・52,140石余) - [[天領|幕府領]](京都)、旗本領、皇室領、'''[[園部藩]]'''、亀山藩、篠山藩、綾部藩、[[上総国|上総]][[鶴牧藩]]
** [[何鹿郡]](136村・49,525石余) - 旗本領、'''[[綾部藩]]'''、'''[[山家藩]]'''、園部藩、柏原藩、篠山藩、[[陸奥国|陸奥]][[湯長谷藩]]、[[武蔵国|武蔵]][[岡部藩]]
** [[天田郡]](119村・52,059石余) - 幕府領(京都・久美浜)、旗本領、'''[[福知山藩]]'''、綾部藩、柏原藩、篠山藩、武蔵岡部藩、上総鶴牧藩、上総[[飯野藩]]
** [[氷上郡]](172村・68,546石余) - 幕府領(京都)、旗本領、公家領、'''[[柏原藩]]'''、亀山藩、陸奥湯長谷藩、上総鶴牧藩、摂津[[三田藩]]、[[近江国|近江]][[山上藩]]
** [[多紀郡]](115村・53,453石余) - '''[[篠山藩]]'''
* [[慶応]]4年
** [[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[1868年]][[3月12日]]) - 幕府領(京都代官)が'''[[京都裁判所]]'''の管轄となる。
** [[4月]] - 岡部藩が藩庁を移転して[[三河国|三河]]'''[[半原藩]]'''となる。
** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]](1868年[[6月15日]]) - 京都裁判所の管轄地域が'''[[京都府]]'''の管轄となる。
** 閏[[4月28日 (旧暦)|4月28日]](1868年[[6月18日]]) - 京都府の管轄地域および幕府領(久美浜)・旗本領が'''[[久美浜県]]'''の管轄となる。
** 本年から明治3年にかけて飯野藩の領地が[[上総国]]に集約され、郡内の領地が消滅。
* [[明治]]2年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1869年]][[7月27日]]) - 丹波亀山藩が任[[知藩事]]にともない改称して'''[[亀岡藩]]'''となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[亀岡県]]'''、'''[[園部県]]'''、'''[[篠山県]]'''、'''[[綾部県]]'''、'''[[山家県]]'''、'''[[福知山県]]'''および[[湯長谷県]]、[[鶴牧県]]、[[半原県]]、[[山上県]]、[[高槻県]]、[[三田県]]の[[飛地]]となる。
** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、多紀郡・氷上郡・天田郡および桑田郡・船井郡・何鹿郡のうち篠山県の管轄地域が'''[[豊岡県]]'''の管轄となる。
** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、何鹿郡の湯長谷県の管轄地域が'''[[平県]]'''の管轄となる。
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、船井郡の鶴牧県の管轄地域が'''[[木更津県]]'''の管轄となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、何鹿郡の半原県の管轄地域が'''[[額田県]]'''の管轄となる。
** [[11月20日 (旧暦)|11月20日]](1871年[[12月31日]]) - 第1次府県統合により、高槻県の管轄区域が'''[[大阪府]]'''の管轄となる。
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、桑田郡・船井郡・何鹿郡が'''京都府'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、天田郡が'''京都府'''、多紀郡・氷上郡が'''[[兵庫県]]'''の管轄となる。
* [[昭和]]33年([[1958年]])[[4月1日]] - [[南桑田郡]][[樫田村]]が[[大阪府]][[高槻市]]に、[[亀岡市]]の一部(西別院町牧および西別院町寺田の一部)が大阪府[[豊能郡]]東能勢村(現・[[豊能町]])に編入。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
『[[和名類聚抄|和名抄]]』に「[[国府]]在桑田郡高低上一日下半日」とあることから、10世紀には桑田郡(現在の亀岡市周辺)にあったとされる。しかしながら国府の位置は確定できておらず、現在も諸説がある<ref name=heibon>『日本歴史地名大系 京都府の地名』(平凡社)丹波国府跡項。</ref>。
<!--南から-->
* 桑田郡 案察使(亀岡市[[保津町]])説
:: 地名は[[按察使]]由来であり、按察使は大国の[[国司]]が兼任する例があり、国府または国司館跡と推定する説がある<ref>『京都府の地名』亀岡市 案察使項。</ref>。
* 桑田郡 三宅(亀岡市[[三宅町 (亀岡市)|三宅町]])説
:: 地名が[[屯倉]](みやけ = 三宅)由来で[[郡衙]]跡と推定されているが、[[国衙]]との説もある。
* 桑田郡 千代川(亀岡市[[千代川町]])説
:: 10世紀までの候補地として有力で、千代川遺跡からは8世紀中葉から9世紀を中心とする建物跡や遺物が見つかっている。
* 船井郡 [[屋賀]](南丹市八木町屋賀)説
:: 船井郡ながら桑田郡との郡境にあり、古代は桑田郡であったともみなせる。室町時代に描かれたとされる『丹波国吉富庄絵図』に、屋賀の地と考える場所に豪勢な建物と共に「国八庁」と記されている。また、集落内には国府という[[小字]]があり、丹波国[[総社]]の説のある[[宗神社]]も鎮座している<ref name=heibon></ref>。
また以上を踏まえ、千代川にあった国府が平安末から鎌倉初期にかけて屋賀に移転したとする説もある<ref name=heibon></ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
* '''[[丹波国分寺]]'''(京都府亀岡市千歳町国分)
:: 現在は同じ位置に[[丹波国分寺|護国山国分寺]]が立ち、法灯を伝承する。
* '''[[丹波国分寺#丹波国分尼寺跡|丹波国分尼寺]]'''(京都府亀岡市河原林町)
:: 通称「御上人林廃寺跡」。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]<!--古代-->
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社5座4社・小社66座65社の計71座69社が記載されている。大社は以下に示すもので、いずれも[[名神大社]]。[[丹波国の式内社一覧]]を参照。
* [[桑田郡]]
** 出雲神社 - [[出雲大神宮]](亀岡市千歳町千歳、丹波国一宮)、出雲神社(亀岡市本梅町井手)の論社二社
** 小川月神社 - [[小川月神社]](京都府亀岡市)
* [[船井郡]]
** 麻気神社 - [[摩氣神社]](京都府南丹市)
* [[多紀郡]]
** 櫛石窓神社二座 - [[櫛石窓神社]](兵庫県丹波篠山市)
;[[総社]]・[[一宮]]<!--中世-->
*総社:[[宗神社]] (京都府南丹市) - 推定
*一宮:'''[[出雲大神宮]]'''(京都府亀岡市)
:二宮以下はない。
=== 安国寺利生塔 ===
* [[安国寺 (綾部市)|丹波安国寺]](京都府[[綾部市]])
===城郭===
*[[亀山城 (丹波国)|亀山城]]
*[[篠山城]]
*[[福知山城]]
====丹波国三大山城====
*[[八木城 (丹波国)|八木城]]
*[[黒井城]]
*[[八上城]]
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[桑田郡]](くわだ) - [[1879年]]([[明治]]12年)以降は北桑田郡と南桑田郡に分割。
** [[北桑田郡]] - [[京都市]][[右京区]]京北・[[左京区]]広河原、南丹市[[美山町 (京都府)|美山町]]・八木町神吉。
** [[南桑田郡]] - 亀岡市、大阪府高槻市樫田、大阪府豊能郡豊能町牧・寺田。
* [[船井郡]](ふない) - [[京丹波町]]、[[南丹市]][[園部町]]・[[八木町 (京都府)|八木町]]のうち旧北桑田郡[[神吉村]]([[1955年]](昭和30年)に編入)を除く地域、および[[日吉町 (京都府)|日吉町]]。
* [[何鹿郡]](いかるが) - [[綾部市]]、福知山市のうち旧佐賀村。
* [[多紀郡]](たき) - [[丹波篠山市]]。
* [[氷上郡]](ひかみ) - [[丹波市]]。
* [[天田郡]](あまた) - [[福知山市]]のうち旧何鹿郡佐賀村、旧与謝郡雲原村([[1902年]](明治35年)以降は天田郡)、旧[[加佐郡]][[大江町 (京都府)|大江町]]を除く地域。
=== 江戸時代の藩 ===
*[[福知山藩]]:有馬家(6万石→8万石)→天領→岡部家(5万石)→稲葉家(4万5700石)→松平(深溝)家(4万5900石)→朽木家(3万2千石)
*[[丹波亀山藩]]:前田家(5万石)→岡部家(3万2千石)→松平(大給)家(2万2千石)→菅沼家(4万1千石)→松平(藤井)家(3万8千石)→久世家(5万石)→井上家(4万7千石)→青山家(5万石)→松平(形原)家(5万石)
*[[篠山藩]]:松平(松井)家(5万石)→松平(藤井)家(5万石)→松平(形原)家(5万石)→青山家(5万石→6万石)
*[[柏原藩]]:織田家(3万6千石)→天領→織田家(2万石)
*[[園部藩]]:小出家(2万9,800石→2万5千石→2万4千石)
*[[綾部藩]]:九鬼家(2万石→1万9,500石)
*[[山家藩]]:谷家(1万1千石→1万石)
*[[八上藩]]:前田家(5万石)→ 松平(松井)家(5万石)→廃藩(篠山藩に移封)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 丹波守 ====
*[[大神狛麻呂]]:[[和銅]]元年([[708年]])任官
*[[佐太老]]:[[和銅]]3年([[710年]])任官
*[[藤原田麻呂]]:[[天平神護]]2年([[766年]])
*[[藤原家依]]:770年頃
*[[坂上苅田麻呂]]:770年頃
*[[紀作良]]:790年頃
*[[滋野貞雄]]:830年頃
*[[正躬王]]:[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])任官
*[[茂世王]]:[[斉衡]]2年([[855年]])任官
*[[文室助雄]]:斉衡3年([[856年]])任官
*[[大枝音人]]:[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官
*[[藤原諸藤]]:天安2年(858年)任官
*[[高階岑諸]]:[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])任官
*[[滋野善陰]]:貞観3年(861年)任官
*[[下笠引興]]:貞観7年([[865年]])任官
*[[坂上貞守]]:貞観10年([[868年]])任官
*[[良岑経世]]:貞観17年([[875年]])任官
*[[藤原是行]]:貞観17年(875年)任官
*[[橘良基]]:[[元慶]]元年([[877年]])任官
*[[藤原是行]]:元慶2年([[878年]])任官
*[[源覚]]:元慶2年(878年)任官
*[[良岑長松]]:元慶2年(878年)任官
*[[橘良基]]:元慶6年([[882年]])任官
*[[紀淑人]]:天慶6年(882年)任官
*[[源等]]:910年頃
*[[平貞盛]]:[[天禄]]3年([[972年]])任官
**[[源経房]]:[[長和]]元年([[1012年]])任官(権守)
*[[大江挙周]]
*[[藤原章信]]:[[永承]]3年([[1048年]])任官
*[[源高房]]:永承6年([[1051年]])任官
*[[藤原国成]]:永承7年([[1052年]])任官
*[[橘俊綱]]:[[天喜]]4年([[1056年]])任官
*[[藤原資良]]:[[康平]]5年([[1062年]])任官
*[[源高房]]:[[治暦]]4年([[1068年]])任官
*[[藤原顕綱]]:[[延久]]4年([[1072年]])任官
*[[高階経成]]:延久5年([[1073年]])任官
*[[藤原顕綱]]
*[[橘俊綱]]:1080年頃
*[[藤原顕季]]:1080年頃
*[[源顕仲]]:[[寛治]]5年([[1091年]])頃 任官
*[[源季房]]:寛治7年([[1093年]])頃 任官
*[[藤原忠隆]]:[[天永]]2年([[1111年]])任官
*[[藤原顕頼]]:[[保安 (元号)|保安]]4年([[1123年]])任官
*[[源資賢]]:[[天治]]元年([[1124年]])任官
*[[藤原公通]]:1130年頃
*[[藤原通重]]:1148年前後
*[[藤原為通]]:[[仁平]]2年([[1152年]])任官(権守)
*[[一条能保]]:[[保元]]2年([[1157年]])任官
*[[藤原成経]]:[[安元]]3年(1177年)頃任官
*[[平親宗]]:[[文治]]4年([[1188年]])任官
==== 丹波介 ====
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*[[1221年]]~[[1222年]] - [[北条時房]]
*1232年~[[1277年]] - [[北条時盛]]
*1277年~[[1284年]] - [[北条時国]]
*[[1306年]]~[[1333年]] - [[六波羅探題]]南方兼任
==== 室町幕府 ====
*[[1336年]]~[[1343年]] - [[仁木頼章]]
*1343年~[[1351年]] - [[山名時氏]]
*1351年~[[1352年]] - 仁木頼章
*1352年~[[1353年]] - [[高師詮]]
*1354年~[[1359年]] - 仁木頼章
*1359年~[[1360年]] - [[仁木頼夏]]
*1360年~[[1363年]] - [[仁木義尹]]
*1363年 - [[足利直冬]]
*[[1364年]]~[[1371年]] - 山名時氏
*1371年~[[1391年]] - [[山名氏清]]
*[[1392年]]~[[1397年]] - [[細川頼元]]
*1397年~[[1426年]] - [[細川満元]]
*1426年~[[1429年]] - [[細川持元]]
*1429年~[[1442年]] - [[細川持之]]
*1442年~[[1473年]] - [[細川勝元]]
*1473年~[[1506年]] - [[細川政元]]
*1506年~[[1507年]] - [[細川澄之]]
*1507年~[[1508年]] - [[細川澄元]]
*1508年~[[1520年]] - [[細川高国]]
*1520年 - 細川澄元
*1520年~[[1525年]] - 細川高国
*1525年 - [[細川稙国]]
*1525年~[[1531年]] - 細川高国
*[[1532年]]~[[1552年]] - [[細川晴元]]
*1552年~[[1563年]] - [[細川氏綱]]
*1563年~ - [[細川晴元]]
*[[1575年]]~ - [[細川昭元]]
=== 戦国大名 ===
*[[波多野氏#丹波波多野氏|波多野氏]]([[八上城]])
*織豊政権の大名
**[[明智光秀]](丹波一国、[[亀山城 (丹波国)|亀山城]])
**[[羽柴秀勝]] (亀山城)
**[[豊臣秀勝]](亀山城)
**[[小早川秀秋]](亀山城)
**[[前田玄以]](亀山城、後に[[丹波亀山藩|亀山藩]]初代藩主)
**[[杉原家次]]([[福知山城]])
**[[小野木重次]](福知山城)
**[[織田信包]](後に[[柏原藩]]初代藩主)
**[[谷衛友]](後に丹波[[山家藩]]初代藩主)
==国人==
*[[丹波酒井氏|酒井氏]]:([[酒井信政]]、[[酒井氏治]]、[[酒井氏盛]]、[[酒井氏武]])
*[[籾井氏]]
*[[足立氏]]
*[[荻野氏]]
*[[畑氏]]
*[[長澤氏]]:([[長澤義遠]])
*[[小林氏]]
*[[細見氏]]
=== 武家官位としての丹波守 ===
*江戸時代以前
**[[渋川貞頼]]:鎌倉時代中期から後期の武将。[[渋川氏]]3代当主
**[[正木利英]]:戦国時代・[[後北条氏|北条氏]]の配下の[[成田氏]]の家臣
*江戸時代[[武蔵国|武蔵]][[岡部藩]]安倍家
**[[安部信之]]:第2代藩主
**[[安部信峯]]:第4代藩主
**[[安部信允]]:第7代藩主
**[[安部信亨]]:第8代藩主
**[[安部信任]]:第10代藩主
*江戸時代[[備中国|備中]][[生坂藩]]池田家
**[[池田輝録]]:初代藩主
**[[池田政晴]]:第2代藩主
**[[池田政弼]]:第4代藩主
**[[池田政範]]:第6代藩主
**[[池田政礼]]:第8代藩主
*江戸時代[[播磨国|播磨]][[林田藩]]建部家
**[[建部政長]]:[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]主、播磨林田藩初代藩主
**[[建部政明]]:林田藩第2代藩主
**[[建部政周]]:林田藩第4代藩主
**[[建部政民]]:林田藩第5代藩主
*江戸時代[[下野国|下野]][[壬生藩]]鳥居家
**[[鳥居忠瞭]]:第2代藩主
**[[鳥居忠燾]]:第4代藩主
**[[鳥居忠威]]:第5代藩主
**[[鳥居忠挙]]:第6代藩主
**[[鳥居忠宝]]:第7代藩主
*江戸時代[[三河国|三河]][[挙母藩]]内藤家
**[[内藤政森]]:内藤家3代。[[陸奥国|陸奥]][[泉藩]]第3代藩主、[[上野国|上野]][[安中藩]]初代藩主
**[[内藤政苗]]:内藤家5代。上野[[安中藩]]第3代藩主、三河[[挙母藩]]初代藩主
**[[内藤学文]]:内藤家6代。挙母藩の第2代藩主。
**[[内藤政優]]:内藤家9代。挙母藩の第5代藩主。[[井伊直弼]]の実兄
**[[内藤文成]]:内藤家11代。挙母藩第7代藩主
*江戸時代[[越後国|越後]][[村松藩]][[堀直寄|直寄系]]支流堀家
**[[堀直吉]]:第2代藩主
**[[堀直堯]]:第5代藩主
**[[堀直央 (村松藩主)|堀直央]]:第9代藩主
**[[堀直休]]:第10代藩主
*江戸時代[[戸田松平家]]
**[[松平康長]]:戸田松平家初代。上野[[白井藩]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]、[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]、上野[[高崎藩]]、[[信濃国|信濃]][[松本藩]]初代藩主
**[[松平庸直]]:戸田松平家2代。松本藩主、播磨[[明石藩]]初代藩主
**[[松平光重 (戸田松平家)|松平光重]]:戸田松平家3代。明石藩第2代藩主、[[美濃国|美濃]][[加納藩]]初代藩主
**[[松平光永]]:戸田松平家4代。加納藩第2代藩主
**[[松平光煕]]:戸田松平家5代。加納藩第3代藩主、[[山城国|山城]][[淀藩]]初代藩主
**[[松平光慈]]:戸田松平家6代。淀藩第2代藩主、[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]主、信濃松本藩初代藩主(再封)
**[[松平光雄]]:戸田松平家7代。松本藩第2代藩主
**[[松平光徳]]:戸田松平家8代。松本藩第3代藩主
**[[松平光和]]:戸田松平家9代。松本藩第4代藩主
**[[松平光悌]]:戸田松平家10代。松本藩第5代藩主
**[[松平光行]]:戸田松平家11代。松本藩第6代藩主
**[[松平光年]]:戸田松平家12代。松本藩第7代藩主
**[[松平光庸]]:戸田松平家13代。松本藩第8代藩主
**[[松平光則]]:戸田松平家14代。松本藩第9代藩主
*江戸時代その他
**[[井伊直陽]]:越後[[与板藩]]第2代藩主
**[[九鬼精隆]]:摂津[[三田藩]]第12代藩主
**[[久留島通春]]:[[豊後国|豊後]][[森藩]]第2代藩主
**[[南部信誉]]:陸奥[[七戸藩]]第2代藩主
**[[平岡道弘]]:[[安房国|安房]][[船形藩]]主
**[[松平信義 (小島藩主)|松平信義]]:[[駿河国|駿河]][[小島藩]]第5代藩主
**[[松平宗秀]]:丹後[[宮津藩]]第6代藩主・老中
**[[森快温]]:播磨[[三日月藩]]第5代藩主
==丹波国の合戦==
*[[1508年]]:[[福徳貴寺合戦]]、[[澄元|細川澄元]]派([[長澤氏]]・[[丹波酒井氏|酒井氏]]) x [[高国|細川高国]] 派([[波多野氏]]、[[波々伯部氏]]、[[大芋氏]])
*[[1511年]]:[[船岡山合戦|船岡山の戦い]]、[[足利義稙]]方([[細川高国]]、[[大内義興]]等) x [[足利義澄]]方([[細川澄元]]、[[細川政賢]]等)
*[[1527年]]:[[桂川原の戦い]]、[[波多野秀忠]]・[[柳本賢治]]・三好勝長 x [[細川高国]]・[[武田元光]]
*[[1554年]]:[[黒井城#黒井城の乗っ取り戦|黒井城の乗っ取り戦]]、[[荻野直正|赤井直正]] x [[荻野秋清]]
*[[1575年]] - [[1576年]]:[[黒井城の戦い#第一次黒井城の戦い|第一次黒井城の戦い]]、[[荻野直正|赤井直正]]・[[波多野秀治]] x 織田軍([[明智光秀]] )
*[[1579年]]:[[黒井城の戦い#第二次黒井城の戦い|第二次黒井城の戦い]]、織田軍(明智光秀、[[細川幽斎|細川藤孝]]等1万) x 赤井幸家(1,800)
*[[1579年]]:[[第二次丹波攻め八上城合戦|八上城の戦い]]、明智光秀 x [[波多野秀治]]
*[[1579年]]:[[八木城 (丹波国)#八木城の戦い|八木城の戦い]]、明智光秀(2,000) x 内藤有勝・内藤正勝(1,000)
==現在==
=== 行政上の呼称 ===
;京都府内
*[[南丹]]または口丹(くちたん:全域丹波) - 亀岡市、南丹市(旧船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町)、船井郡
*[[中丹]](ちゅうたん:丹波と丹後にまたがる地域) - 福知山市、綾部市、舞鶴市(旧天田郡・旧何鹿郡・旧加佐郡)
;兵庫県内
*丹波(兵庫丹波) - 丹波市、丹波篠山市
=== 京都丹波・兵庫丹波 ===
丹波の範囲は、現在の兵庫県側は丹波篠山市及び丹波市で、人口・面積ともに全体の2割弱。京都府側は亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市、福知山市であるため、兵庫県部分より京都府部分のほうが広大である。「兵庫丹波」「京都丹波」と分類するのは、丹波が2府県にまたがるためである。
'''そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の[[大久保利通]]らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。'''亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き[[都道府県庁所在地|府県庁所在地]]を含む[[京阪神]]から遠く離れ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長期]]に一層の[[過疎|過疎化]]が強まった。なお、[[1871年]](明治4年)[[11月2日]]~[[1876年]](明治9年)[[8月21日]]の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および[[山城国|山城]]が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは、旧出石藩士の[[桜井勉]]の発案であるが、当初桜井は豊岡県全域と[[飾磨県]]([[播磨]])との合併を進言したようである<ref group="注釈">その後、飾磨県が兵庫県と合併することに決定されたため、先述のとおり氷上、多紀2郡と但馬のみが飾磨県と共に兵庫県に編入された。</ref>。
=== 「丹波市」名称問題 ===
2004年(平成16年)11月、旧氷上郡が町村合併で周囲の反対を押し切る形で[[丹波市]]を新市名とした。これに対しては、反対論や批判もあった。兵庫県篠山市は、丹波の名を広めたのは旧丹波国全域であり、「丹波[[黒豆]]」や「丹波[[松茸]]」などの丹波ブランドを確立したと自負もあった<ref>『神戸新聞』[[2003年]][[7月17日]]付記事など。</ref>。これに加えて、京都府内の綾部市長や旧[[丹波町|丹波町長]]の各首長からも反対や懸念の声が上がった<ref>『京都新聞』[[2003年]][[7月5日]]付記事など。</ref>。古代から丹波国の中心であり続けた亀岡市長からは反対の声がなかった。この問題は[[MBSテレビ|毎日放送(MBSテレビ)]]の[[関西ローカル#関西ローカルの放送番組|関西ローカル]][[報道番組|ニュース番組]]『[[VOICE (ニュース番組)|VOICE]]』や『[[神戸新聞]]』『[[京都新聞]]』をはじめとする関西の新聞・テレビ等の各メディアで大きく報じられた([[竹内正浩]]は著書『日本の珍地名』([[文春新書]])で丹波市は'''「京都府をはじめ全国的な反発を買ったという“事件”」'''であったと書いている)。2004年当時、丹波町(京都府)が存在していたが、市と町の違いがあるので、競合そのものに法律上の問題はなかったが、丹波町が周辺の町と合併して京丹波町が発足した2005年(平成17年)10月11日をもって、丹波市・丹波町の並存は解消した。
=== 「丹波篠山市」への改称 ===
上記の「丹波市」問題に見られるように、篠山市では旧国名・丹波への愛着が強い。市名に旧国名を冠した「丹波篠山」は[[民謡]]『[[デカンショ節]]』にも謳われ、黒豆や[[クリ|栗]]など市内物産の販売のブランドとして活用し、観光協会も「[https://tourism.sasayama.jp/association/ 丹波篠山観光協会]」を名乗っている。「丹波市」問題に触発されるなどして市名を「丹波篠山市」に改称する機運が高まり、2018年11月18日の[[住民投票]]で賛成多数となり<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO38101720S8A121C1ML0000/ 【列島追跡】兵庫県篠山市、丹波篠山市へ/両隣に丹波、発信課題]『[[日本経済新聞]]』朝刊2018年11月26日(地域総合面)2018年11月26日閲覧。</ref>、2019年5月1日に市名が「丹波篠山市」に改称された。
=== 丹波と丹後・但馬 ===
丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹または丹但(たんたん)、丹波と丹後、但馬をあわせて三たん(さんたん)と呼ばれる。「柏原の厄除大祭は三たん一のお祭り」などと表現される。
なお丹但は、但馬と丹後に用いられる場合もある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 26 京都府
* 角川日本地名大辞典 28 兵庫県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連事項 ==
=== 丹波国に由来する自治体 ===
* [[丹波町]](京都府)
* [[京丹波町]](京都府)
* [[南丹市]](京都府)
* [[丹波市]](兵庫県)
* [[丹波篠山市]](兵庫県)
=== 関連項目 ===
{{Commonscat|Tamba Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[丹後国]]
* [[但馬国]]
* [[丹波弁]]
* [[こうのとり (列車)#福知山線優等列車]] : [[福知山線]]経由で[[新大阪駅]]・[[大阪駅]] - [[城崎温泉駅]]・[[豊岡駅 (兵庫県)|豊岡駅]]・[[福知山駅]]・[[天橋立駅]]間を運行した急行列車「'''丹波'''」が掲載されている。
* [[京都丹波高原国定公園]]
== 外部リンク ==
* [http://www.3tan.jp/ 三たん事典]
* [http://tourism.sasayama.jp/ 丹波篠山に関する観光・名所情報]
* {{Osmrelation|9454425}}
{{令制国一覧}}
{{丹波国の郡}}
{{京都府の自治体}}
{{兵庫県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:たんはのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:山陰道|国たんは]]
[[Category:京都府の歴史]]
[[Category:兵庫県の歴史]]
[[Category:大阪府の歴史]]
[[Category:丹波国|*]]
|
2003-09-02T14:12:07Z
|
2023-11-27T03:56:35Z
| false | false | false |
[
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"Template:Reflist",
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"Template:京都府の自治体",
"Template:兵庫県の自治体",
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"Template:基礎情報 令制国"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD
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14,798 |
1241年
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1241年(1241 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
※中トトロ誕生
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1241年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
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{{year-definition|1241}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛丑]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[仁治]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1901年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[南宋]] : [[淳祐 (南宋)|淳祐]]元年
* 中国周辺
** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太宗([[オゴデイ]])13年
** [[大理国]] : [[道隆]]3年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]28年
** [[檀君紀元|檀紀]]3574年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[陳朝]] : [[天応政平]]10年
* [[仏滅紀元]] : 1783年 - 1784年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 638年 - 639年
* [[ユダヤ暦]] : 5001年 - 5002年
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== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1241|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[トゥルスクの戦い]] - [[モンゴル]]の[[ポーランド]]侵攻において、[[モンゴル帝国]]と[[ポーランド王国]]が激突した戦い。
* [[フミェルニクの戦い]] - モンゴル帝国遠征軍[[バトゥ]]配下の[[バイダル]]率いる分隊と、ポーランド王国の間で行なわれた戦い。
* [[ワールシュタットの戦い]] - バトゥ配下のバイダルが率いるモンゴル帝国軍がドイツ・ポーランド諸侯連合軍を破った戦い。
* [[モヒの戦い]] - バトゥ率いるモンゴル帝国軍が[[ハンガリー王国]]を破った戦い。
* モンゴル帝国第2代皇帝・オゴデイが崩御し、同帝国皇帝が不在となる。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1241年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月2日]] - [[イザベル・ド・フランス (ナバラ王妃)|イザベル・ド・フランス]]、[[ナバラ王国|ナバラ]]王[[テオバルド2世 (ナバラ王)|テオバルド2世]]の妃(+ [[1271年]])
* [[9月4日]] - [[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1286年]])
* [[飛鳥井雅有]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1301年]])
* [[安達時盛]]、鎌倉時代の[[御家人]](+ [[1285年]])
* [[姉小路忠方]]、鎌倉時代の公卿(+ [[1283年]])
* [[イブン・ジャマーア]]、[[シリア]]の[[シャーフィイー派]][[ウラマー|イスラム法学者]](+ [[1333年]])
* [[ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公)|ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ]]、[[ウラジーミル大公国|ウラジーミル大公]](+ [[1276年]])
* [[エリナー・オブ・カスティル]]、[[プランタジネット朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]国王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の王妃(+ [[1290年]])
* [[高峰顕日]]、鎌倉時代の[[臨済宗]]の[[僧]](+ [[1316年]])
* [[国分胤光]]、鎌倉時代の[[武将]](+ [[1304年]])
* [[島津忠景]]、鎌倉時代の武将、歌人(+ [[1300年]])
* [[杜世忠]]、[[元 (王朝)|元]]の[[官僚]](+ [[1275年]])
* [[北条公義]]、鎌倉時代の武将、僧(+ 没年未詳)
* [[北条業時]]、鎌倉時代の武将(+ [[1287年]])
* [[レシェク2世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]](+ [[1288年]])
※中トトロ誕生
== 死去 ==
{{see also|Category:1241年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月2日]](仁治元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]) - [[長沼宗政]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](* [[1162年]])
* [[1月3日]] - [[ヘルマン2世 (テューリンゲン方伯)|ヘルマン2世]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]](* [[1222年]])
* [[3月28日]] - [[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]、[[デンマーク]]王(* [[1170年]])
* [[4月9日]] - [[ヘンリク2世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド大公]](* [[1196年]]?)
* [[6月24日]] - [[イヴァン・アセン2世]]、[[第二次ブルガリア帝国]]の[[皇帝]](* 生年未詳)
* [[8月10日]] - [[エレノア・オブ・ブリタニー]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]]公女(* [[1184年]])
* [[8月13日]](仁治2年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[退耕行勇]]、平安時代、鎌倉時代の[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1163年]])
* [[8月22日]] - [[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]、第178代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1143年]])
* [[9月23日]] - [[スノッリ・ストゥルルソン]]、[[アイスランド]]の[[詩人]]、[[政治家]]、[[歴史家]](* 1178年/[[1179年]])
* [[9月26日]](仁治2年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[藤原定家]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]]、[[歌人]](* [[1162年]])
* [[10月23日]](仁治2年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]) - [[千葉時胤]]、鎌倉時代の武将、[[千葉氏]]第7代当主(* [[1218年]])
* [[12月1日]] - [[イザベラ・オブ・イングランド]]、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の3度目の皇后(* [[1214年]])
* [[12月11日]] - [[オゴデイ]]、[[モンゴル帝国]]の第2代[[ハーン]](* [[1186年]])
* [[阿佐美実高]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳)
* [[マヌエル・コムネノス・ドゥーカス]]、[[エピロス専制侯国|エピロス・テッサロニキ専制公]](* 生年未詳)
* [[李奎報]]、[[高麗]]の[[文人]](* [[1168年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
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14,800 |
鎌ケ谷市
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鎌ケ谷市(かまがやし)は、千葉県の北西部に位置する市。人口は約11万人。1971年(昭和46年)市制施行。
千葉県北西部に位置し、県庁所在地である千葉市から約20キロメートルに位置する。都市雇用圏における東京都市圏(東京都区部)のベッドタウンとしての性質が強い。通勤率は、東京都特別区部へ27.4%、船橋市へ11.9%(いずれも平成22年国勢調査)。
市域は下総台地と谷津田からなる。市の標高は約13から28メートルとなっており、「ゆれにくい街 鎌ケ谷」として宣伝し、新しい市街地として新鎌ケ谷地区(市役所周辺)の開発が行われている。海抜が最も低い地点は約7メートル、最も高い地点は約30メートル。
北部には手賀沼に注ぐ大津川が流れ、南部には大柏川及び根郷川、東京湾に注ぐ海老川の支流が流れる。また、海上自衛隊下総航空基地があり、西部(くぬぎ山地区)には陸上自衛隊松戸駐屯地がある。
東葛地域にあって県北西部主要四都市の船橋市・市川市・松戸市・柏市と接し、交通の要衝である新鎌ヶ谷駅を中心に、住宅都市として発展している。
市の中央を東経140度線が縦断している。
江戸時代は「釜原」と呼ばれ、釜原が鎌ヶ谷に転じたという説や、以前は鎌ヶ谷市周辺に蒲(かば)や茅(かや)が自生し、蒲茅が鎌ヶ谷へ転じたという説、鎌形の谷がある地からなど、諸説ある。
「鎌ヶ谷」と「鎌ケ谷」の両方の表記があるが、これは一般の地名表記は小文字の「ヶ」(鎌ヶ谷)を使うのに対し、新聞・出版関係の地名表記は大文字の「ケ」(鎌ケ谷)を使う。
市役所では後者を採用しており、条例で「ケ」は大きく書くと定められ、日本郵政や千葉県庁もそれに倣っている。ただし2007年(平成19年)10月1日まで鎌ケ谷郵便局は「鎌ヶ谷郵便局」と称していた。
市章はカタカナで「カマガヤ」を図案化したものである。
明治維新直後、政府は東京府の貧窮民・旧武士たちの救済の目的で東京に隣接する小金牧の開墾を計画し、北島秀朝によって初めに現在の「初富」の開拓が行われることになった。費用を捻出するために開墾会社を設置し、1869年(明治2年)10月に入植者を募集し、同月中から入植を開始した。 入植条件は「下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則」に残っている。
個別の入植者の事例はほとんど残っていないので具体的にどのような来歴の人物が入植したかはあまりわかっていないが、「総州牧開墾演説書」(1872年、明治5年)に当時の入植者の前田友七の足跡がよく記録されている。記録を突き合わせると、友七は美濃国各務郡(現在の岐阜県各務原市)出身で、1861年(文久元年)に長女と長男を故郷に預け置いて江戸へ入り、東京本所三笠1丁目(現在の墨田区)に居住していた。その後入植者に応募し、1869年(明治2年)11月17日妻と次男甚太郎とともに初富に入植。初富入植後に長女・長男を呼び寄せ家族で暮らせるようになったという。
当初の開墾事業は、入植者の多くが農業未経験者だったことや周辺の村との軋轢、大風雨、干ばつなどの厳しい自然環境を理由に失敗し、明治5年には開墾局も開墾会社も廃止された。この失敗によって1891年(明治24年)頃まで初富の人口は漸減したが、残った者の地道な努力と、従来の東京窮民ではない新しい開拓者として周辺の村々の農家の子弟が加わったことから遅々とはしながらも確実な営みとなった。しかし、切り開いた土地の多くが旧開墾会社の社員の所有物となってしまい入植者たちは小作人とされてしまったことから、入植者と旧社員との係争・訴訟が各地で起こった。たとえば、1876年(明治9年)4月3日には村民が内務卿大久保利通に直訴を行っている。これらの事件を千葉県令船越衛は「県下一の難事件」と呼び、国会議員田中正造は1894年(明治27年)5月にこの件で政府へ質問書を提出するという事態になった。 入植者が起こした裁判はことごとく敗訴したが、千葉県は旧社員から開墾地を買い上げ、安価で入植者へ払い下げるという救済措置を採った。
昭和の大合併では、村内から松戸市や船橋市との合併論が、平成の大合併では白井市の一部住民からの合併論が持ち上がったものの、合併には至らず、現在の市町村制度の基礎が成立した1889年以来、100年以上にわたって一度も市町村合併を行っていない。同様のケースは千葉県内では浦安市・富里市・酒々井町がある。
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.99%増の108,917人であり、増減率は千葉県下54市町村中14位、60行政区域中17位。
生活協同組合へ加入している世帯が多い。ちばコープ加入世帯のみで、市内全世帯の約40%が加入している。
郵便番号は以下が該当する。1集配局が集配を担当する。
※2021年3月19日現在。
主な大規模商業施設
鎌ケ谷市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
新鎌ケ谷(中央地区)
北部地区
南部地区
くぬぎ山地区
地域問題
住宅団地
市外局番
市外局番は市内全域「047」であるが、船橋MAの区域と(047- 4XX,75X...77X)と市川MAの区域(047- 3XX,70X...72X)に分かれている。市川MAに属するのは松戸市に近いくぬぎ山一丁目 - 四丁目のみ。
収容局は鎌ヶ谷局、千葉上山局(船橋市)、二和局(船橋市)、白井局(白井市)(以上船橋MA)、五香局(松戸市)(市川MA)。
二次医療圏(二次保健医療圏)としては東葛南部医療圏(管轄区域:鎌ヶ谷市と葛南地域)である。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。
高等学校
中学校
小学校
児童福祉施設
あっとほーむママ・なしのこ(小規模保育園)
研修施設
図書館
博物館
旅客空港は、千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなる。
東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)にも、成田スカイアクセス線(成田空港線)を走るアクセス特急を利用すれば約1時間で行く事が可能。
市の南北を東武野田線、東西に北総線・成田スカイアクセス線(成田空港線)が走り、北西部・南東部を新京成線がカバーする。この3路線が、市の中央にある新鎌ヶ谷駅で交差する。北総線・成田スカイアクセス(京成線・都営浅草線・京急線へ直通運転)を利用した場合、都心方面(日本橋駅)まで特急で約30分、また成田空港へも同様に約30分でアクセスできる。なお、新京成電鉄本社・北総鉄道本社は鎌ケ谷市に所在する。
北部地区は高柳駅(柏市)、及び六実駅(松戸市)。南部地域は市内にも地名がある馬込沢駅(船橋市)が最寄りとなる場合もある。
北総鉄道
京成電鉄
新京成電鉄
東武鉄道
一般国道
県道
国・県指定および国文化財一覧。
スポーツ
芸能
その他
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鎌ケ谷市(かまがやし)は、千葉県の北西部に位置する市。人口は約11万人。1971年(昭和46年)市制施行。
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{{Redirect|鎌ケ谷|市内にある地名|鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)}}
{{日本の市
| 画像 = Kamagaya-daibutsu.jpg
| 画像の説明 = [[鎌ヶ谷大仏]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Kamagaya, Chiba.svg|border|100px|鎌ケ谷市旗]]
| 市旗の説明=鎌ケ谷[[市町村旗|市旗]]
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Kamagaya, Chiba.svg|120px|鎌ケ谷市章]]
| 市章の説明 = 鎌ヶ谷[[市町村章|市章]]<br /><small>[[1974年]][[3月30日]]制定</small>
| 自治体名 = 鎌ケ谷市
| 都道府県 = 千葉県
| コード = 12224-6
| 隣接自治体 = [[柏市]]、[[白井市]]、[[松戸市]]、[[市川市]]、[[船橋市]]
| 木 = [[モクセイ]]
| 花 = [[ナシ]]の花、[[キキョウ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 = 273-0195
| 所在地 = 鎌ケ谷市新鎌ケ谷二丁目6番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-12|display=inline,title}}<br />[[ファイル:鎌ヶ谷市役所.jpg|center|250px|鎌ケ谷役所]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|12|224|image=Kamagaya in Chiba Prefecture Ja.svg}}{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
| 特記事項 =
}}
'''鎌ケ谷市'''(かまがやし)は、[[千葉県]]の北西部に位置する[[市]]。人口は約11万人。1971年(昭和46年)市制施行。
== 地理 ==
[[ファイル:新鎌ケ谷における東経140度線標識.JPG|なし|サムネイル|新鎌ヶ谷駅前にある東経140度線標識]]
千葉県北西部に位置し、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[千葉市]]から約20キロメートルに位置する。[[都市雇用圏]]における[[東京都市圏]]([[東京都区部]])の[[ベッドタウン]]としての性質が強い。通勤率は、[[東京都]]特別区部へ27.4%、[[船橋市]]へ11.9%(いずれも平成22年国勢調査)。
市域は[[下総台地]]と[[谷戸|谷津田]]からなる。市の標高は約13から28メートルとなっており、「ゆれにくい街 鎌ケ谷<ref>{{Cite web|和書|title=ゆれにくい街 鎌ケ谷|鎌ケ谷市ホームページ|url=http://www.city.kamagaya.chiba.jp/sesakumidashi/shigaiyou_menu/yurenikuikachi-kam.html|website=www.city.kamagaya.chiba.jp|accessdate=2019-05-27}}</ref>」として宣伝し、新しい[[市街地]]として[[新鎌ケ谷]]地区(市役所周辺)の開発が行われている。海抜が最も低い地点は約7メートル、最も高い地点は約30メートル。
北部には[[手賀沼]]に注ぐ[[大津川 (千葉県)|大津川]]が流れ、南部には[[大柏川]]及び[[根郷川]]、[[東京湾]]に注ぐ[[海老川]]の支流が流れる。また、[[海上自衛隊]][[下総航空基地]]があり、西部([[くぬぎ山|くぬぎ山地区]])には[[陸上自衛隊]][[松戸駐屯地]]がある。
[[東葛地域]]にあって県北西部主要四都市<ref group="注">千葉市を除く人口40万人以上の市</ref>の[[船橋市]]・[[市川市]]・[[松戸市]]・[[柏市]]と接し、交通の要衝である[[新鎌ヶ谷駅]]を中心に、[[住宅都市]]として発展している<ref>{{Cite web|和書|title=子育て・教育環境が充実した街|鎌ケ谷市ホームページ|url=http://www.city.kamagaya.chiba.jp/miryoku/kosodate-kyouiku/index.html|website=www.city.kamagaya.chiba.jp|accessdate=2019-03-11}}</ref>。
市の中央を[[東経140度線]]が縦断している。
=== 隣接している自治体 ===
* [[船橋市]]
* [[市川市]]
* [[松戸市]]
* [[柏市]]
* [[白井市]]
== 歴史 ==
[[ファイル:東葛人車鉄道.JPG|thumb|東葛人車鉄道]]
* [[縄文時代]]の[[貝塚]]が発見されていて、現在の貝柄山公園の名称の由来ともなっている。
* [[鎌倉時代]]には[[相馬氏]]が佐津間を所領としていた。
* [[江戸時代]]には本多氏が現在の鎌ケ谷市の一部を所領としていた。
* 江戸時代には[[小金牧]]の一部とされ、野生馬の供給地ともなっていた。現在の馬込沢はその前の時代の名残とも言われている。
* [[1616年]](元和2年):原田勘兵衛が幕府より中沢の地を与えられる。
* [[1687年]](貞享4年):[[松尾芭蕉]]が「鹿島紀行」の途上、鎌ケ谷([[小金牧]])を通る。
* [[1776年]](安永5年):大黒屋文右衛門(福田文右衛門)が[[鎌ヶ谷大仏]]を建立。
* [[1825年]](文政8年):[[渡辺崋山]]が宿を取る。「四州真景図」の2巻に[[行徳]]などと並んで「釜原」の絵がある。
* [[1869年]](明治2年)5月19日:下総の牧を開墾するために政府の求めで開墾会社が設立される。総頭取[[三井八郎右衛門]]、以下社員37名。事業完結後には広大な開墾地を保有して大地主になれるという約定。[[湯浅七兵衛]](現在の[[ユアサ商事]]創業家の一族)、[[大村五左衛門]]、[[加太八兵衛]]が初富担当。<ref name="初富">平成20年度鎌ケ谷市郷土資料館企画展 初富 -明治の下総台地開墾- (2009年) 編集・発行 鎌ケ谷市郷土資料館</ref>
* [[1869年]](明治2年)10月:入植者募集が行われる。最終的には1760世帯、6500人が応募。(全員が鎌ケ谷に来たのではなく、下総の各開墾地に送り込まれた。)<ref name="初富" />
* [[1869年]](明治2年)[[10月2日]]:下総国開墾局知事 [[北島秀朝]]が粟野村で「初富」の地名を公式に宣言する。「初富」という地名は「一番始めに開墾が行われ、富み栄えてほしい」という祈念により命名された。<ref name="初富" />
* [[1869年]](明治2年)[[10月27日]]:午前5時頃、入植者第1陣49世帯169人が初富に到着。以下、年内に第5陣まで順次入植し総勢311世帯、1136人。その名簿「初富農舎人員帳」は財団法人[[三井文庫]]に保存されている。<ref name="初富" />
* [[1869年]](明治2年):[[初富]]を皮切りに大規模な開拓事業が行われる。初富に続いて開拓された地名は2番目の[[二和]]、3番目の[[三咲]](以上船橋市)、以下、豊四季(柏市)、[[五香]]、[[六実]](以上松戸市)、[[七栄]]、[[八街]]、[[九美上]]、[[十倉 (鎌ケ谷市)|十倉]]、[[十余一]]、[[十余二]]、[[十余三]]に初富を入れて全13個所。
* [[1872年]](明治5年)5月:開墾事業の失敗で開墾局、開墾会社が廃止される。<ref name="初富" />
* [[1872年]](明治6年)5月:湯浅七兵衛が、豊作稲荷神社を勧請。<ref name="初富" />
* [[1872年]](明治5年):鎌ケ谷に郵便局創立。三等局。集配区域は鎌ヶ谷・法典・豊富村。<ref name="東葛飾郡案内">東葛飾郡案内(大正8年)</ref>
* [[1874年]](明治7年):鎌ケ谷小学校開校。
* [[1882年]](明治15年):陸軍が調査・測量した「陸軍偵察録」を著す。抜粋(現代語に訳)「初富・二和・三咲の3村は明治2年に無籍・貧民対策で開墾事業を行い、多く東京の貧民を移住させたが、追々東京に留まるようになり、戸数・人口は次第に減っていきほとんど3分の1になった。そのため一度は畑にした原野もだんだん草野に戻っているところが多い。」
* [[1889年]](明治22年):鎌ケ谷・初富・粟野・中沢・道野辺・佐津間の6村と[[印旛郡]]根村(現在の[[白井市]]の一部)から分村した軽井沢地区が合併して「鎌ケ谷村」成立。<ref>角川日本地名大辞典</ref>
* [[1909年]](明治42年)[[9月28日]]:[[東葛人車鉄道]](中山 - 鎌ケ谷間)開通。
* [[1917年]](大正6年):東葛人車鉄道撤廃。このころの交通状況「県道二線南北を過ぐるも、険悪にして交通不便なり」<ref name="東葛飾郡案内" />
* [[1919年]](大正8年):このころ鎌ヶ谷駅付近「春の蕨、松露、秋の茸狩に適し、都人士の来遊多し」<ref name="東葛飾郡案内" />
* [[1920年]](大正9年):第一回国勢調査で鎌ケ谷村は戸数686、人口4160(男1996、女2164)<ref>日本国勢調査記念録 千葉県(大正11年、12年)</ref>
* [[1922年]](大正11年)5月:鎌ケ谷小学校、中野小学校、明小学校(初富に所在)を鎌ケ谷尋常小学校として結合。(大正8年時点の児童数はそれぞれ134名、147名、186名<ref name="東葛飾郡案内" />
* [[1923年]](大正12年)[[12月27日]]:北総鉄道船橋線(現在の[[東武鉄道]][[東武野田線|野田線]])開通。
* [[1949年]](昭和24年)[[1月8日]]:[[新京成電鉄新京成線|新京成線]](滝不動駅 - 鎌ヶ谷大仏駅間)開通。
* [[1958年]](昭和33年)[[8月1日]]:町制施行。
* [[1971年]](昭和46年)[[9月1日]]:市制施行。
* [[1979年]](昭和54年)[[3月9日]]:[[北総鉄道北総線|北総線]](北初富駅 - 小室駅間)暫定開業。
* [[1991年]](平成3年)[[3月31日]]:[[新鎌ヶ谷駅]]開業。都心へのアクセスが向上する。
* [[2004年]](平成16年)[[4月3日]]:[[新鎌ケ谷]]地区の街びらきが行われる。
* [[2012年]](平成24年)[[7月1日]]:鎌ケ谷市スポーツ施設のネーミングライツスポンサーが[[くすりの福太郎]]となる<ref>[http://www.city.kamagaya.chiba.jp/news/bunkasports/h240629namin_grights/h240629sponsor-kettei.html 鎌ケ谷市役所スポーツ施設ネーミングライツ(命名権)スポンサーが決定しました!] - 鎌ケ谷市ホームページより</ref>
* [[2021年]](令和3年)[[11月13日]]:市制50周年の記念式典が行われ、前沢友作や北海道日本ハムファイターズ選手らのビデオ・メッセージが上映された<ref>{{Cite news|title=鎌ケ谷市制50周年祝う |newspaper=千葉日報 |page=2 |date=2021-11-14 |author=}}</ref>。
=== 市名の由来 ===
江戸時代は「釜原」と呼ばれ、釜原が鎌ヶ谷に転じたという説や、以前は鎌ヶ谷市周辺に蒲(かば)や茅(かや)が自生し、蒲茅が鎌ヶ谷へ転じたという説、鎌形の谷がある地からなど、諸説ある。
==== 地名表記 ====
「'''鎌ヶ谷'''」と「'''鎌ケ谷'''」の両方の表記があるが、これは一般の地名表記は小文字の「[[ヶ]]」(鎌ヶ谷)を使うのに対し、新聞・出版関係の地名表記は大文字の「ケ」(鎌ケ谷)を使う。
市役所では後者を採用しており、条例で「ケ」は大きく書くと定められ、[[日本郵政]]や[[千葉県庁]]もそれに倣っている。ただし[[2007年]](平成19年)[[10月1日]]まで鎌ケ谷郵便局は「'''鎌ヶ谷'''郵便局」と称していた。
==== 市章 ====
市章はカタカナで「カマガヤ」を図案化したものである。
=== 初富開墾 ===
[[ファイル:下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則の冒頭部分.JPG|thumb|下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則の冒頭部分]]
明治維新直後、政府は東京府の貧窮民・旧武士たちの救済の目的で東京に隣接する小金牧の開墾を計画し、北島秀朝によって初めに現在の「初富」の開拓が行われることになった。費用を捻出するために開墾会社を設置し、1869年(明治2年)10月に入植者を募集し、同月中から入植を開始した。
入植条件は「下総国牧地開墾場へ移住之者授産向大意規則」に残っている。
個別の入植者の事例はほとんど残っていないので具体的にどのような来歴の人物が入植したかはあまりわかっていないが、「総州牧開墾演説書」(1872年、明治5年)に当時の入植者の前田友七の足跡がよく記録されている。記録を突き合わせると、友七は美濃国各務郡(現在の岐阜県各務原市)出身で、1861年(文久元年)に長女と長男を故郷に預け置いて江戸へ入り、東京本所三笠1丁目(現在の墨田区)に居住していた。その後入植者に応募し、1869年(明治2年)11月17日妻と次男甚太郎とともに初富に入植。初富入植後に長女・長男を呼び寄せ家族で暮らせるようになったという。
当初の開墾事業は、入植者の多くが農業未経験者だったことや周辺の村との軋轢、大風雨、干ばつなどの厳しい自然環境を理由に失敗し、明治5年には開墾局も開墾会社も廃止された。この失敗によって1891年(明治24年)頃まで初富の人口は漸減したが、残った者の地道な努力と、従来の東京窮民ではない新しい開拓者として周辺の村々の農家の子弟が加わったことから遅々とはしながらも確実な営みとなった。しかし、切り開いた土地の多くが旧開墾会社の社員の所有物となってしまい入植者たちは小作人とされてしまったことから、入植者と旧社員との係争・訴訟が各地で起こった。たとえば、1876年(明治9年)4月3日には村民が[[内務卿]][[大久保利通]]に直訴を行っている。これらの事件を千葉県令[[船越衛]]は「県下一の難事件」と呼び、国会議員[[田中正造]]は1894年(明治27年)5月にこの件で政府へ質問書を提出するという事態になった。
入植者が起こした裁判はことごとく敗訴したが、千葉県は旧社員から開墾地を買い上げ、安価で入植者へ払い下げるという救済措置を採った。
=== 市域の変遷 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
! colspan="3" | [[1868年]]<br />以前!![[1872年]]<br />([[明治]]5)!![[1875年]]<br />(明治8)!![[1889年]]<br />(明治22)<br />[[4月1日]]!![[1958年]]<br />([[昭和]]33)<br />[[8月1日]]!![[1971年]]<br />(昭和46)<br />[[9月1日]]!!現在
|-
| rowspan="7" |<br />[[葛飾郡|葛<br />飾<br />郡]]<br /><br />後<br />に<br />[[東葛飾郡|東<br />葛<br />飾<br />郡]]<br />
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |鎌ケ谷村
| bgcolor="#99ccff" rowspan="8" |'''鎌ケ谷村'''
| bgcolor="#66ffff" rowspan="8" |町制
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="8" |市制
| style="color:white" bgcolor="#e66b58" rowspan="8" |'''鎌'''<br /><br />'''ケ'''<br /><br />'''谷'''<br /><br />'''市'''
|-
|
|小金牧<br />の一部
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |初富村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |粟野村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |中沢村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |道野辺村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |佐津間村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="3" |串崎新田飛地
|-
| rowspan="4" |[[印旛郡|印<br />旛<br />郡]]
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |印旛郡<br />軽井沢新田
| bgcolor="#99ccff" rowspan="4" |印旛郡<br />根村
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |印旛郡<br />白井木戸新田
| rowspan="3" |印旛郡<br />白井村
| rowspan="3" |印旛郡<br />白井村
| rowspan="3" |印旛郡<br />白井町
| rowspan="3" |[[白井市|白<br />井<br />市]]
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |印旛郡<br />中木戸新田
|-
| bgcolor="#99ccff" |
| bgcolor="#99ccff" colspan="2" |印旛郡<br />七次村
|-
|}
=== 昭和・平成の大合併 ===
[[日本の市町村の廃置分合|昭和の大合併]]では、村内から[[松戸市]]や[[船橋市]]との合併論が、[[日本の市町村の廃置分合|平成の大合併]]では白井市の一部住民からの合併論が持ち上がったものの、合併には至らず、現在の[[市町村]]制度の基礎が成立した1889年以来、100年以上にわたって一度も[[日本の市町村の廃置分合|市町村合併]]を行っていない。同様のケースは千葉県内では[[浦安市]]・[[富里市]]・[[酒々井町]]がある。
== 人口 ==
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.99%増の108,917人であり、増減率は千葉県下54市町村中14位、60行政区域中17位。{{人口統計|code=12224|name=鎌ケ谷市|image=Population distribution of Kamagaya, Chiba, Japan.svg}}
生活協同組合へ加入している世帯が多い。ちばコープ加入世帯のみで、市内全世帯の約40%が加入している。<!-- (このデータのソースは?、ココに掲載する価値・理由は?) →ソース、掲載する価値・理由はノート参照
-->
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[芝田裕美]](2021年7月18日就任、1期目)
;歴代市長一覧'''
# [[飯田毅]]:1971年9月1日 - 1983年
#: 1967年5月に鎌ケ谷町長に就任。市制施行とともに初代市長に就任した。
# [[皆川圭一郎]](みながわ けいいちろう):1983年 - [[2002年]][[6月7日]]
#: 当初市長選挙に出馬予定だった父親が自殺したため、代わりに出馬し当選。当選当時の年齢は全国最年少(30歳)で、5期19年にわたり市長を務めた。2002年5月30日に[[鎌ケ谷市汚職事件]]で、建設会社から裏金の一部を賄賂として受け取ったとして千葉地検特別刑事部に逮捕された。辞職後、判決を受けて刑務所に服役していたが、持病の[[肺癌]]のため一時出所して治療中、[[2006年]][[6月15日]]に死去。53歳没。
# [[清水聖士]](しみず きよし):2002年[[7月28日]] - 2021年6月10日
#: 元職は[[伊藤忠商事]]社員、[[外務省]]官僚。2002年7月に皆川の逮捕による市長選挙で、市民団体、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]、[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]の推薦を受けて初当選。2018年に5選。2021年、[[第49回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]への出馬準備のため5期目途中で辞職。
# [[芝田裕美]](しばた ひろみ):2021年7月18日 - 現職
=== 広域行政 ===
* [[松戸市]]、[[野田市]]、[[柏市]]、[[流山市]]、[[我孫子市]]、鎌ケ谷市、の6市により構成されている東葛飾広域連絡協議会で、[[2006年]](平成18年)5月に政令指定都市問題研究会が発足し、2006年度(平成18年度)・2007年度(平成19年度)の2ヵ年をかけて、今後の[[政令指定都市]]の議論に役立てるため、構成市である6市の基礎データの収集や分析、広域的課題の整理などを行うとともに、政令指定都市制度の研究や東葛地域におけるシミュレーションなどの調査・研究を行った。
* [[2007年]][[4月27日]]、[[市川市]]、[[船橋市]]、[[松戸市]]、鎌ケ谷市が、この圏域の将来的な選択肢の一つとして、[[日本の市町村の廃置分合|合併]]や政令指定都市への移行に関する共同研究する東葛飾・葛南地域4市政令指定都市研究会(2008年9月1日現在の4市[[推計人口]]1,649,569人)を設立した。
*[[健康都市連合]]加盟都市<ref>{{Cite web|title=日本支部会員名簿 - 健康都市連合日本支部|url=http://japanchapter.alliance-healthycities.com/member.html|website=japanchapter.alliance-healthycities.com|accessdate=2019-05-18}}</ref>。
=== 警察・消防 ===
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|枠幅 = 220px
|画像1 = Kamagaya police station.jpg
|説明1 = 鎌ケ谷警察署
|画像2 = Kamagaya Fire Department Kamagaya Fire Station.jpg
|説明2 = 鎌ケ谷消防署
|画像3 =
|説明3 =
}}
* [[鎌ケ谷警察署]]
* [[鎌ケ谷市消防本部]]
** 中央消防署
** くぬぎ山消防署
** 鎌ケ谷消防署
=== 郵便局 ===
* 05083 [[鎌ケ谷郵便局]]:集配局
* 05382 鎌ヶ谷新田郵便局:1965年10月1日設置
* 05457 鎌ヶ谷駅前郵便局:1972年11月1日設置
* 05492 鎌ヶ谷道野辺郵便局:1978年2月16日設置
* 05523 鎌ヶ谷中沢郵便局:1978年2月16日設置
* 05528 鎌ヶ谷初富郵便局:1982年9月16日設置
* 05576 鎌ヶ谷中央一郵便局:1983年12月1日設置
* 05594 鎌ヶ谷南初富郵便局:1992年11月16日設置
郵便番号は以下が該当する。1集配局が集配を担当する。
* [[鎌ケ谷郵便局]]:「273-01xx」
== 議会 ==
=== 市議会 ===
{{main|鎌ケ谷市議会}}
=== 千葉県議会 ===
{{See also|千葉県議会}}
* 選挙区:鎌ケ谷市選挙区
*定数:2名
* 任期:2019年(平成31年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
{| class="wikitable"
|-
!氏名!!会派名!!当選回数
|-
| 岩波初美 || 千翔会 || style="text-align:center" | 1
|-
| 石井一美 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]千葉県議会議員会 || style="text-align:center" | 2
|}
※2021年3月19日現在。
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[千葉県第13区|千葉13区]]([[船橋市]]の一部、[[柏市]](旧[[沼南町]]域)、鎌ケ谷市、[[印西市]]、[[白井市]]、[[富里市]]、[[印旛郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:416,857人
* 投票率:54.49%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[松本尚]] || align="center" | 59 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 新 || 100,227票 || align="center" | ○
|-
| || [[宮川伸]] || align="center" | 51 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] ||align="center" | 前 || align="right" | 79,687票 || align="center" | ○
|-
| || [[清水聖士]] || align="center" | 60 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] ||align="center" | 新 || align="right" | 42,473票 || align="center" | ○
|}
== 国の機関 ==
* 陸上自衛隊[[松戸駐屯地]](松戸市とまたがって立地)
* 海上自衛隊[[下総航空基地]](柏市とまたがって立地)
* 災害派遣は松戸駐屯地・[[陸上自衛隊需品学校]]が担当。
== 経済 ==
=== 産業 ===
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|枠幅 = 220px
|画像1 = Acrossmall-Shinkamagaya Photo.JPG
|説明1 = アクロスモール新鎌ヶ谷
|画像2 = イオン鎌ヶ谷ショッピングセンター.jpg
|説明2 = イオン鎌ケ谷ショッピングセンター
|画像3 =
|説明3 =
}}
* 県内でも有数の[[ナシ]]の産地で、市内には観光梨園が多い(近年は漸減)。
* [[1986年]](昭和61年)10月、日本初の梨[[ブランデー]]試作品を開発し、鎌ケ谷市農業協同組合の手により[[1987年]](昭和62年)10月から梨ブランデー「梨の里」、梨ワイン「梨のささやき」の発売を開始した。現在は「鎌ケ谷梨ワイン・ブランデー株式会社」から発売、生産は[[柏市]]の[[ニッカウヰスキー]]柏工場に委託。
* 梨の他にも[[ブドウ]]や[[サツマイモ]]などの[[観光農園]]が多く(近年は漸減)、また[[麺|麺類]]や[[酢]]、[[ソース (調味料)|ソース]]も特産品となっている。
'''主な大規模商業施設'''
* [[アクロスモール新鎌ヶ谷]]
* [[イオン鎌ケ谷ショッピングセンター]]
==== 本社・本店を置く企業 ====
* [[いづみ住建]]
* [[鎌ヶ谷観光バス]]
* [[くすりの福太郎]]
* [[茂野製麺]]
* [[新京成電鉄]]
* [[すばる (企業)|すばる]]
* [[東葛食品]]
* [[東洋ハウジング]]
* [[ニッポー]]
* [[船橋新京成バス]]
* [[北総鉄道]]
* [[私市醸造]]
<gallery widths="200">
Kusurinofukutaro office.jpg|くすりの福太郎本社
Shinkeisei-honsya.jpg|新京成電鉄本社
Hokusotetsudohonsha.jpg|北総鉄道本社
</gallery>
== 姉妹都市・提携都市 ==
* {{Flagicon|NZL}} ワカタネ地区([[ニュージーランド]])
*: [[1997年]][[11月16日]] 鎌ケ谷市において正式提携調印された。
== 地域 ==
=== 町名 ===
鎌ケ谷市では、一部の区域で[[住居表示に関する法律]]に基づく[[住居表示]]が実施されている。
<!-- 町名表記(漢数字を含む。)は、官報による告示に基づく。 -->
{{hidden begin
|title = 鎌ケ谷市役所管内(74町丁)
|titlestyle = text-align:center;
|border = solid
}}
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:small"
|-
! style="width:15%" |町名
! style="width:10%" |町名読み
! style="width:15%" |住居表示実施年月日
! style="width:40%" |住居表示実施直前町名
! style="width:25%" |備考
|-
|[[粟野 (鎌ケ谷市)|'''粟野''']]
|あわの
|未実施
|
|
|-
|'''[[右京塚]]'''
|うきょうづか
|1982.2.1
|鎌ケ谷、初富の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷一丁目''']]
|rowspan="9" style="border-bottom:1px solid" |かまがや
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷二丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷三丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷四丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷五丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷六丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷七丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷八丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''鎌ケ谷九丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、道野辺の各一部
|
|-
|[[軽井沢 (鎌ケ谷市)|'''軽井沢''']]
|かるいざわ
|未実施
|
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''北中沢一丁目''']]
|rowspan="3" style="border-bottom:1px solid" |きたなかざわ
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''北中沢二丁目''']]
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''北中沢三丁目''']]
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[初富|'''北初富''']]
|きたはつとみ
|1991.11.5
|初富の一部
|
|-
|'''[[串崎新田]]'''
|くしざきしんでん
|未実施
|
|
|-
|[[くぬぎ山|'''くぬぎ山一丁目''']]
|rowspan="5" style="border-bottom:1px solid" |くぬぎやま
|1984.11.5
|初富、串崎新田の各一部
|
|-
|[[くぬぎ山|'''くぬぎ山二丁目''']]
|1984.11.5
|初富、串崎新田の各一部
|
|-
|[[くぬぎ山|'''くぬぎ山三丁目''']]
|1984.11.5
|初富、串崎新田の各一部
|
|-
|[[くぬぎ山|'''くぬぎ山四丁目''']]
|1984.11.5
|初富、串崎新田の各一部
|
|-
|[[くぬぎ山|'''くぬぎ山五丁目''']]
|1984.11.5
|初富、串崎新田の各一部
|
|-
|'''[[佐津間]]'''
|さつま
|未実施
|
|
|-
|[[新鎌ケ谷|'''新鎌ケ谷一丁目''']]
|rowspan="4" style="border-bottom:1px solid" |しんかまがや
|2008.2.25
|初富、粟野の各一部及び中央一丁目の一部
|
|-
|[[新鎌ケ谷|'''新鎌ケ谷二丁目''']]
|2008.2.25
|初富、粟野の各一部及び中央一丁目の一部
|
|-
|[[新鎌ケ谷|'''新鎌ケ谷三丁目''']]
|2008.2.25
|初富、粟野の各一部及び中央一丁目の一部
|
|-
|[[新鎌ケ谷|'''新鎌ケ谷四丁目''']]
|2008.2.25
|初富、粟野の各一部及び中央一丁目の一部
|
|-
|[[中央 (鎌ケ谷市)|'''中央一丁目''']]
|rowspan="2" style="border-bottom:1px solid" |ちゅうおう
|1981.6.1
|初富、粟野の各一部
|
|-
|[[中央 (鎌ケ谷市)|'''中央二丁目''']]
|1981.6.1
|初富、粟野の各一部
|
|-
|[[富岡 (鎌ケ谷市)|'''富岡一丁目''']]
|rowspan="3" style="border-bottom:1px solid" |とみおか
|1982.2.1
|道野辺、初富、中沢の各一部
|
|-
|[[富岡 (鎌ケ谷市)|'''富岡二丁目''']]
|1982.2.1
|道野辺、初富、中沢の各一部
|
|-
|[[富岡 (鎌ケ谷市)|'''富岡三丁目''']]
|1991.11.5
|道野辺、初富、中沢の各一部
|
|-
|[[佐津間|'''中佐津間一丁目''']]
|rowspan="2" style="border-bottom:1px solid" |なかさつま
|1985.7.1
|佐津間の一部
|
|-
|[[佐津間|'''中佐津間二丁目''']]
|1985.7.1
|佐津間の一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''中沢''']]
|なかざわ
|未実施
|
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''中沢新町''']]
|なかざわしんまち
|2008.2.25
|中沢の一部
|
|-
|[[佐津間|'''西佐津間一丁目''']]
|rowspan="2" style="border-bottom:1px solid" |にしさつま
|1985.7.1
|佐津間の一部
|
|-
|[[佐津間|'''西佐津間二丁目''']]
|1985.7.1
|佐津間の一部
|
|-
|[[道野辺|'''西道野辺''']]
|にしみちのべ
|1982.11.1
|道野辺の一部
|
|-
|'''[[初富]]'''
|はつとみ
|未実施
|
|
|-
|[[初富|'''初富本町一丁目''']]
|rowspan="2" style="border-bottom:1px solid" |はつとみほんちょう
|1991.11.5
|初富、中沢の各一部
|
|-
|[[初富|'''初富本町二丁目''']]
|1991.11.5
|初富、中沢の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''東鎌ケ谷一丁目''']]
|rowspan="3" style="border-bottom:1px solid" |ひがしかまがや
|1984.2.6
|鎌ケ谷、初富の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''東鎌ケ谷二丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、初富の各一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''東鎌ケ谷三丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷、初富の各一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''東中沢一丁目''']]
|rowspan="3" style="border-bottom:1px solid" |ひがしなかざわ
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''東中沢二丁目''']]
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[中沢 (鎌ケ谷市)|'''東中沢三丁目''']]
|1989.11.6
|中沢、初富の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富一丁目''']]
|rowspan="6" style="border-bottom:1px solid" |ひがしはつとみ
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富二丁目''']]
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富三丁目''']]
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富四丁目''']]
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富五丁目''']]
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[初富|'''東初富六丁目''']]
|1984.2.6
|初富、鎌ケ谷の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺一丁目''']]
|rowspan="7" style="border-bottom:1px solid" |ひがしみちのべ
|1982.11.1
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺二丁目''']]
|1982.11.1
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺三丁目''']]
|1982.11.1
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺四丁目''']]
|1982.11.1
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺五丁目''']]
|1982.11.1
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺六丁目''']]
|1984.2.6
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[道野辺|'''東道野辺七丁目''']]
| 1984.2.6
|道野辺、鎌ケ谷の一部
|
|-
|'''[[馬込沢]]'''
|まごめざわ
|1984.2.6
|道野辺の一部
|
|-
|[[丸山 (鎌ケ谷市)|'''丸山一丁目''']]
|rowspan="3" style="border-bottom:1px solid" |まるやま
|1982.2.1
|鎌ケ谷、初富、道野辺の各一部
|
|-
|[[丸山 (鎌ケ谷市)|'''丸山二丁目''']]
|1982.2.1
|鎌ケ谷、初富、道野辺の各一部
|
|-
|[[丸山 (鎌ケ谷市)|'''丸山三丁目''']]
|1982.2.1
|鎌ケ谷、初富、道野辺の各一部
|
|-
|'''[[道野辺]]'''
|みちのべ
|未実施
|
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺中央一丁目''']]
|rowspan="5" style="border-bottom:1px solid" |みちのべちゅうおう
|1991.11.5
|道野辺、中沢の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺中央二丁目''']]
|1991.11.5
|道野辺、中沢の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺中央三丁目''']]
|1991.11.5
|道野辺、中沢の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺中央四丁目''']]
|1991.11.5
|道野辺、中沢の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺中央五丁目''']]
|1991.11.5
|道野辺、中沢の各一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺本町一丁目''']]
|rowspan="2" style="border-bottom:1px solid" |みちのべほんちょう
|2001.2.13
|道野辺の一部
|
|-
|[[道野辺|'''道野辺本町二丁目''']]
|2001.2.13
|道野辺の一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''南鎌ケ谷一丁目''']]
|rowspan="4" style="border-bottom:1px solid" |みなみかまがや
|1984.2.6
|鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''南鎌ケ谷二丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''南鎌ケ谷三丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[鎌ケ谷 (鎌ケ谷市)|'''南鎌ケ谷四丁目''']]
|1984.2.6
|鎌ケ谷の一部
|
|-
|[[佐津間|'''南佐津間''']]
|みなみさつま
|1985.7.1
|佐津間の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富一丁目''']]
|rowspan="6" style="border-bottom:1px solid" |みなみはつとみ
|1981.6.1
|初富、粟野の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富二丁目''']]
|1981.6.1
|初富、粟野の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富三丁目''']]
|1981.6.1
|初富、粟野の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富四丁目''']]
|1981.6.1
|初富、粟野の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富五丁目''']]
|1981.6.1
|初富、粟野の一部
|
|-
|[[初富|'''南初富六丁目''']]
|1982.2.1
|初富、粟野の一部
|
|
|-
|}
{{hidden end}}
'''新鎌ケ谷(中央地区)'''[[ファイル:Shin-Kamagaya 2016.jpg|thumb|新鎌ヶ谷駅周辺の街並み|代替文=]]
* 市の中央に位置する行政の中心地であり、新[[市街地]]として開発が進む。詳細は'''[[新鎌ケ谷]]'''を参照。
'''北部地区'''
* [[北総鉄道北総線|北総線]]より北側に位置する'''佐津間'''、'''軽井沢'''などの地域では、[[果樹園]]をはじめ[[自然]]も多く残されている。また北東部には[[海上自衛隊]][[下総航空基地]]がある。
'''南部地区'''
* [[明治|明治時代]]に「'''初富'''」として開墾された地域であり、北総線より南側に位置する'''東道野辺'''、'''道野辺中央'''、'''東中沢'''、'''東初富'''などの地域では[[住宅地]]が広がる。[[鎌ヶ谷駅]]および[[鎌ヶ谷大仏駅]]をはじめ、[[千葉県道8号船橋我孫子線|県道8号線]](船取線)や[[千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線|県道57号線]]を中心に発展している。また、南西部には[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム|ファイターズタウン]]がある。
'''くぬぎ山地区'''
* 市の西部に位置し、[[松戸市]]に隣接するエリア。[[陸上自衛隊]][[松戸駐屯地]]があり、'''串崎新田'''では[[果樹園]]も多く見られる。
'''地域問題'''{{独自研究|section=1|date=2019年6月}}
* 市内の幹線道路では土曜・休日になると慢性的な[[渋滞]]が発生している。これは市内において交差点や[[踏切]]が多く、右折レーンがあまり整備されていない事、また市内を東西に走る[[国道464号]]が新鎌ケ谷付近で分断(経路上は県道との重複)しているなど複数の要因が重なることによる。現在、国道464号のバイパス道路([[粟野バイパス]])の事業化を推進している。
*また、幹線道路沿いに[[ロードサイド店舗|ロードサイド型]]の大型[[ショッピングセンター]]などが相次いでオープンし、それらの渋滞を回避する目的で周辺[[住宅地]]の狭い道を裏道として利用する車が多くなり、[[通学路]]などの交通量が増えるといった問題も発生している。
*新しい市街地として新鎌ケ谷地区の開発が行われる一方、以前からの市街地では[[商店街]]の衰退が問題となっている。
'''住宅団地'''
* 鎌ヶ谷グリーンハイツ
* 東武鎌ヶ谷団地
'''市外局番'''
[[市外局番]]は市内全域「047」であるが、船橋[[単位料金区域|MA]]の区域と(047- 4XX,75X…77X)と市川MAの区域(047- 3XX,70X…72X)<ref>「[http://www.ntt-east.co.jp/info-st/mutial/suburbs/numlist/pdf/ma_area4.pdf NTT東日本 単位料金区域別市外局番等一覧表 04から始まる市外局番]」([[PDFファイル]])、[[東日本電信電話|NTT東日本]]</ref>に分かれている。市川MAに属するのは松戸市に近いくぬぎ山一丁目 - 四丁目のみ<ref>[http://www.denpa-data.com/annex/telephone/0304.htm 市外局番一覧(03・04:南関東地方)]</ref>。
収容局は鎌ヶ谷局、千葉上山局(船橋市)、二和局(船橋市)、白井局(白井市)(以上船橋MA)、五香局(松戸市)(市川MA)。
=== 医療 ===
二次[[医療圏]](二次保健医療圏)としては東葛南部医療圏(管轄区域:鎌ヶ谷市と葛南地域)である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=千葉県保健医療計画(平成30年度~平成35年度)|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kenfuku/keikaku/kenkoufukushi/30hokeniryou.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
[[医療法#%E5%8C%BB%E7%99%82%E6%8F%90%E4%BE%9B%E6%96%BD%E8%A8%AD|医療提供施設]]は特筆性の高いもののみを記載する<ref name=":0" />。
* 一次医療圏
** 鎌ケ谷総合病院(緊急指定病院)
** 秋元病院
** 第2北総病院
** 東邦鎌谷病院
** 初富保険病院
* 二次医療圏
** [[東京女子医科大学附属八千代医療センター]]([[八千代市]]、[[千葉県災害拠点病院|災害拠点病院]]<ref>{{Cite web|和書|title=災害拠点病院の指定について|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/iryou/taiseiseibi/saigai/saigaikyotenbyouin.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-14|language=ja|last=千葉県}}</ref>・[[救命救急センター]])
** [[船橋市立医療センター]]([[船橋市]]、災害拠点病院・救命救急センター)
** [[順天堂大学医学部附属浦安病院]]([[浦安市]]、災害拠点病院・救命救急センター)
** [[東京ベイ・浦安市川医療センター]](浦安市、災害拠点病院・救急基幹センター)
** [[東京歯科大学市川総合病院]]([[市川市]]、災害拠点病院)
** [[千葉県済生会習志野病院]]([[習志野市]]、災害拠点病院)
=== 教育 ===
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|枠幅 = 220px
|画像1 = Kamagaya High School 02.JPG
|説明1 = 千葉県立鎌ケ谷高等学校
|画像2 = All Japan Shinkin Bank Training Institute.jpg
|説明2 = 全国信用金庫研修所
|画像3 =
|説明3 =
}}
'''高等学校'''
* [[千葉県立鎌ケ谷高等学校]]
* [[千葉県立鎌ケ谷西高等学校]]
'''中学校'''
* [[鎌ケ谷市立鎌ケ谷中学校|市立鎌ケ谷中学校]]
* [[鎌ケ谷市立第二中学校|市立第二中学校]]
* [[鎌ケ谷市立第三中学校|市立第三中学校]]
* [[鎌ケ谷市立第四中学校|市立第四中学校]]
* [[鎌ケ谷市立第五中学校|市立第五中学校]]
'''小学校'''
{|
|-
| valign=top|
* [[鎌ケ谷市立鎌ケ谷小学校|市立鎌ケ谷小学校]]
* [[鎌ケ谷市立東部小学校|市立東部小学校]]
* [[鎌ケ谷市立北部小学校|市立北部小学校]]
* [[鎌ケ谷市立南部小学校|市立南部小学校]]
* [[鎌ケ谷市立西部小学校|市立西部小学校]]
| valign=top|
* [[鎌ケ谷市立中部小学校|市立中部小学校]]
* [[鎌ケ谷市立初富小学校|市立初富小学校]]
* [[鎌ケ谷市立道野辺小学校|市立道野辺小学校]]
* [[鎌ケ谷市立五本松小学校|市立五本松小学校]]
|-
|}
'''児童福祉施設'''
[http://www.kateihoiku.org/kamagaya/index.html あっとほーむママ・なしのこ](小規模保育園)
'''研修施設'''
* [[全国信用金庫研修所]] (2022年閉所)
==== 社会教育施設 ====
'''図書館'''
* [http://www.library-kamagaya-chiba.jp/ 鎌ケ谷市立図書館]
'''博物館'''
* [http://www.city.kamagaya.chiba.jp/shiryoukan/kyoudo.html 鎌ケ谷市郷土資料館]
== 交通 ==
=== 空港 ===
* [[下総航空基地]]([[海上自衛隊]]の[[飛行場]]・航空基地)
旅客空港は、[[千葉県]][[成田市]]の[[成田国際空港]](成田空港)が最寄りとなる。
[[東京都]][[大田区]]の[[東京国際空港]](羽田空港)にも、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線(成田空港線)]]を走る[[京成成田空港線#運行形態|アクセス特急]]を利用すれば約1時間で行く事が可能。
=== 鉄道路線 ===
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|枠幅 = 220px
|画像1 = Shin-Kamagaya station east entrance 20160318 110455.jpg
|説明1 = 新鎌ヶ谷駅(北総鉄道・京成電鉄・新京成電鉄・東武鉄道)
|画像2 = Kamagaya Sta 001.jpg
|説明2 = 鎌ヶ谷駅(東武鉄道)
|画像3 = Kamagaya-Daibutsu-station.jpg
|説明3 = 鎌ヶ谷大仏駅(関東の駅百選)
|画像4 =
|説明4 =
}}
市の南北を[[東武野田線]]、東西に[[北総鉄道北総線|北総線]]・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線(成田空港線)]]が走り、北西部・南東部を[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]がカバーする。この3路線が、市の中央にある新鎌ヶ谷駅で交差する。北総線・成田スカイアクセス([[京成押上線|京成線]]・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[京急本線|京急線]]へ直通運転)を利用した場合、[[都心]]方面([[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]])まで[[特別急行列車|特急]]で約30分、また[[成田国際空港|成田空港]]へも同様に約30分でアクセスできる。なお、新京成電鉄本社・北総鉄道本社は鎌ケ谷市に所在する。
北部地区は[[高柳駅]]([[柏市]])、及び[[六実駅]]([[松戸市]])。南部地域は市内にも地名がある[[馬込沢駅]]([[船橋市]])が最寄りとなる場合もある。
* 市役所最寄り駅:新鎌ヶ谷駅
'''[[北総鉄道]]'''
* [[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|15x15ピクセル|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]
** [[新鎌ヶ谷駅]]
'''[[京成電鉄]]'''
* [[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|15x15ピクセル|KS]] [[京成成田空港線|成田スカイアクセス線(成田空港線)]]
** 新鎌ヶ谷駅
'''[[新京成電鉄]]'''
* [[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15x15ピクセル|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]
** [[くぬぎ山駅]] - [[北初富駅]] - 新鎌ヶ谷駅 - [[初富駅]] - [[鎌ヶ谷大仏駅]]
** 車両基地:[[くぬぎ山車両基地]]
'''[[東武鉄道]]'''
* [[ファイル:Tobu_Noda_Line_(TD)_symbol.svg|15x15ピクセル|TD]] [[東武野田線]](アーバンパークライン)
** [[鎌ヶ谷駅]] - 新鎌ヶ谷駅
; 未成線
* [[千葉県営鉄道|北千葉線]](東京10号線延伸新線)
* [[東京成芝電気鉄道]](成田急行電鉄)
* [[船橋鉄道]]
=== バス路線 ===
{{Vertical_images_list
|幅 = 220px
|枠幅 = 220px
|画像1 = Chiba Rainbow Bus 130 Kamagaya City Kikyo East Line.jpg
|説明1 = ききょう号
|画像2 = Kamagaya Kanko Bus Erga Mio Seikatsu Bus Chibaniu.jpg
|説明2 = 生活バスちばにう
|画像3=
|説明3=
}}
; 路線バス
* [[ちばレインボーバス]]
* [[船橋新京成バス]]鎌ヶ谷営業所
* [[鎌ヶ谷観光バス]]([[生活バスちばにう]])
; [[コミュニティバス]]
* [[ききょう号]]
=== 道路 ===
'''一般国道'''
* [[国道464号]]
* [[北千葉道路]](国道464号の[[バイパス道路|バイパス]]として、市川市[[北千葉ジャンクション|北千葉JCT]] - 鎌ケ谷消防署前間が計画中)
'''県道'''
* 主要地方道
** [[千葉県道8号船橋我孫子線]](通称 船取線)
** [[千葉県道12号鎌ケ谷本埜線]](国道464号と重複)
** [[千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線]]
** [[千葉県道59号市川印西線]](木下街道)
* 一般県道
** [[千葉県道281号松戸鎌ケ谷線]]
== 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 ==
=== 名所・旧跡・観光スポット ===
* [[右京塚神社]]
* [[根頭神社]]
* [[八幡神社 (鎌ケ谷市)|八幡神社]]
* [[初富稲荷神社]]
* [[道野辺八幡宮]]
* [[鎌谷寺]]
* [[鎌ヶ谷大仏]]
* [[下総小金中野牧跡]] - 遺存状態の良好な捕込跡、勢子土手の一部の[[遺構]]が、国の[[史跡]]に指定された。
* [[下総航空基地]] - 一般開放時(催事)には展示飛行、航空機地上展示を行っている。
* 市制記念公園
** [[野球場]]併設のほか、[[蒸気機関車]]([[国鉄D51形蒸気機関車|D51]]385号機)をはじめ、[[航空自衛隊]]で使用されていた[[航空機]]などが展示([[静態保存]])されている。
* 貝柄山公園
* 市民の森
* [[観光農園|観光梨園]]
<gallery widths="200">
Ukyouzuka-shrine-haiden,kamagaya-city.jpg|右京塚神社
Hatsutomi-Inari-Jinja.jpg|初富稲荷神社
Michinobehachimanguu-haiden,kamagaya-city.JPG|道野辺八幡宮
</gallery><br />
=== 祭事・催事 ===
[[File:YS-11 T-A(6903).JPG|thumb|下総航空基地(一般開放)]]
* [[鎌ケ谷新春マラソン大会]]
* YOSAKOIかまがや
* 鎌ヶ谷とっこめ寄席
* 下総航空基地 - 記念行事やウォーキングなどのイベントを行っている。
** [[ブルーインパルスジュニア]]
=== 文化財 ===
国・県指定および国[[文化財]]一覧<ref>{{Cite web|和書|title=鎌ケ谷市の国・県指定文化財|url=http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/shitei/shichouson/kamagaya.html|website=千葉県|accessdate=2019-06-17|language=ja|last=千葉県}}</ref>。
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!番号
!指定・登録
!類別
!名称
!所在地
!所有者または管理者
!指定年月日
!備考
|-
|1
|国指定
|記念物(史跡)
|下総小金中野牧跡
|鎌ケ谷市東中沢2-377-9他
|鎌ケ谷市他
|平成19年2月6日
|
|-
|2
|県指定
|記念物(史跡)
|小金中野牧の込跡
|鎌ケ谷市東中沢
|個人
|昭和42年3月7日
|
|}
=== スポーツ ===
[[ファイル:Asahiyama stable 2017 front.jpg|サムネイル|朝日山部屋(伊勢ヶ濱一門の相撲部屋)]]
[[File:Kamagaya Fighters Stadium 003.jpg|thumb|ファイターズ鎌ケ谷スタジアム]]
* [[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)]]
*: [[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム]]が[[北海道日本ハムファイターズ]]の[[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|二軍]]本拠地となっている。球場を含む敷地全体は「ファイターズタウン鎌ケ谷」と称し、他に屋内練習場、選手寮「勇翔寮」がある。[[カビー・ザ・ベアー]](球団[[マスコットキャラクター]])は鎌ケ谷市の親善大使に任命されている<ref>[http://www.city.kamagaya.chiba.jp/kouhou/190815.pdf 広報かまがや2007年8月15日号]</ref>。
* [[柏レイソル]]
*: ホームタウンは隣の[[柏市]]だが、[[東葛地域]]の'''鎌ケ谷'''、[[我孫子市|我孫子]]、[[松戸市|松戸]]、[[野田市|野田]]、[[印西市|印西]]、[[流山市|流山]]、[[白井市|白井]]の8市を活動エリアとしている。
* [[朝日山部屋]]
*: 元[[関脇]]・[[琴錦功宗|琴錦]]が、2016年1月に年寄・[[朝日山 (相撲)|朝日山]]を正式に取得して19代朝日山を襲名後、2016年6月1日付で内弟子3人を連れ、2014年1月から所属していた[[尾車部屋]]から分家独立し創設した。
== 著名な出身者 ==
'''スポーツ'''
* [[清田育宏]]([[プロ野球選手]]、[[埼玉武蔵ヒートベアーズ]]所属)
* [[鈴木康平]](プロ野球選手、[[読売ジャイアンツ]]所属)
* [[古谷拓郎]](プロ野球選手、[[千葉ロッテマリーンズ]]所属)
* [[津留﨑大成]](プロ野球選手、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]所属)
* [[後関昌彦]](元プロ野球選手)
* [[増田繁人]]([[サッカー選手]]、[[ブラウブリッツ秋田]]所属)
* [[浮田健誠]]([[サッカー選手]]、[[レノファ山口FC]]所属)
* [[瀬田貴仁]](元サッカー選手)
* [[瀬田達弘]](元サッカー選手)
* [[倉垣翼]]([[プロレスラー|女子プロレス選手]])
* [[勝浦正樹]]([[騎手]])
* [[荻野晃一]]([[車いすラグビー]]指導者、元車いすラグビー選手)
'''芸能'''
* [[金原亭馬生 (初代)]]([[落語家]])
* [[立川志ら玉]](落語家)
* [[佐藤寛之]]([[歌手]]、[[俳優]]、元[[光GENJI]])
* [[長野せりな]]([[タレント]]、[[声優]]、元[[アイドリング!!! (アイドルグループ)|アイドリング!!!]])
* [[藤江れいな]]([[アイドル]]、元[[NMB48]]、元[[AKB48]])
* [[寺嶋由芙]](ソロ[[アイドル]]、元[[BiS]])
* [[岸波香桜]]([[フリーアナウンサー]]、元[[さくらんぼテレビジョン|さくらんぼテレビ]][[アナウンサー]])
'''その他'''
* [[渋谷総司]]([[赤報隊]]、幕末の[[志士]])
* [[前澤友作]]([[ZOZO]]代表取締役)
* [[芝田裕美]](鎌ケ谷市長)
=== ゆかりのある人物 ===
* [[DEAN FUJIOKA]]([[俳優]]、[[福島県]]生まれ、幼い頃に鎌ケ谷市に移り高校卒業まで在住していた。その後アメリカ[[シアトル]]へ留学)
* [[藤岡麻美]](元[[チェキッ娘]]、DEAN FUJIOKAの妹)
* [[山本文郎]]([[フリーアナウンサー]]、[[東京都]]生まれ、晩年は鎌ケ谷市内に在住していた)
* [[DJ KOO]]([[TRF]]、[[東京都]]生まれ、小・中学生時代を鎌ケ谷で過ごしていた)
* [[森本草介]]([[洋画家]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{See also|Category:鎌ケ谷市}}
* [[全国市町村一覧]]
* [[下総国]]([[令制国]])
* [[印旛県]]([[廃藩置県]])
* [[関東地方]]
* [[首都圏 (日本)]]
* [[関東大都市圏]]
* [[東京都市圏]]([[都市雇用圏]])
* [[健康都市連合]]
* [[新鎌ケ谷]]
* [[いちかわエフエム]]
== 外部リンク ==
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; 行政
* {{Official website}}
* {{Facebook|official.kamagayacity}}
* {{Twitter|kamagaya_city}}
; 観光
* [http://www.kama-navi.jp/ 鎌ケ谷市観光ナビ]
{{Geographic Location
| Centre = 鎌ヶ谷市
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| Northeast =
| East = [[白井市]]
| Southeast =
| South = [[船橋市]]
| Southwest = [[市川市]]
| West =
| Northwest = [[松戸市]]
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}}
{{千葉県の自治体}}
{{鎌ケ谷市の町名}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かまかやし}}
[[Category:千葉県の市町村]]
[[Category:鎌ケ谷市|*]]
[[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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太極拳
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太極拳(たいきょくけん)は、中国武術の一派。東洋哲学の重要概念である太極思想を取り入れた拳法で、形意拳、八卦掌と並んで内家拳の代表的な武術として知られる。ユネスコ無形文化遺産である。
古来より中国拳法は口伝で伝えるのを常とし書物に明記する事は稀であった。その関係で初期歴史の詳細は不明である。伝承であれば元代、張三丰が少林寺で武術を修めた後に武当山に入って修行し、道教の陰陽五行思想や吐納法と呼ばれる呼吸法を取り入れて編み出したとされている。但し、張三丰は中国の他の伝説にも現れる不老長寿の仙人の名前であり、この説については伝説の域を出ていない。少林拳等が外家拳と呼ばれるのに対して、太極拳、形意拳、八卦掌等は内家拳(武当門)と呼ばれることがある。中国武術の全国的統一組織であった南京中央国術館の武当門の門長に楊氏太極拳三世の楊澄甫が就任しているが、後に各門派ごとの組織に改められ、武当門は廃されている。考証学の祖である黄宗羲が記した王征南墓志銘には、北宗代に張三丰が内家拳法を創始し、王征南はその使い手であると記されており、その拳法の詳細を、黄宗羲の子息である黄百家が「内家拳法」に記録している。内家拳法と太極拳、紀効新書の拳経との関係を考察する研究がある。
その他の起源については、明代に河南省温県常陽村(現・陳家溝)に強制移住させられた陳一族に家伝として伝えられていた武術に、陳氏9世・陳王廷が様々な武術の要素を組み合わせ、明代末期から清代初期にかけて創始されたとする、武術史研究家・唐豪の研究がある。その後清代末期に入り、陳氏14世・陳長興の弟子だった楊露禅が、北京に赴きこれを普及。武術理論として王宗岳の『太極拳論』が重視されたため、そこから取って『太極拳』という名称が用いられるようになったと言われる。現在では、陳家太極拳、楊式太極拳、武式太極拳を始めとして様々な門派が存在する。
一方、太極拳の健康効果は古くから知られていたが、その習得は容易ではなく、万人向けと言えるものではなかった。そのため、第二次世界大戦後の1949年に建国した中華人民共和国の国家体育運動委員会は伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を作ることを目標に著名な武術家に命じ、楊式太極拳を基に簡略化した套路を編纂、1956年に簡化太極拳(二十四式太極拳)を制定した。これが制定拳の始まりである。制定拳という名称は本来、「国家が制定した套路」という意味を持つ。
制定拳は一種の健康体操として世界的に広められ、またそれと並行して競技化や新たな套路の編纂も行われていた。現在はグループ表演や競技会も盛んに催されるなど運動競技としての一面も強くなり、その一方で、武術的な側面から制定拳を再編する動きも生まれている。
日本においては楊名時が1970年に簡化太極拳を紹介しており、その後1972年の日中国交正常化を機に、来日した中国人教師などから太極拳の存在が徐々に知られるようになった。また中国政府の普及政策によって中国から太極拳を持ち帰る日本人も現れ、健康体操としての制定拳が広まっていった。激しい運動を伴わず場所を選ばずに容易に行えることから高年齢層を中心に人気である。
武術・戦闘術として継承されてきた太極拳は『伝統拳』と呼ばれる。しかし、近年では伝統拳を参照元にした制定拳(後述)も存在するために、混同を避ける目的で『民間の太極拳』という表現も使われることがある。 基本功に始まって、套路、推手、散手と進むのが一般的な流れで、これによってそれぞれの門派における太極拳の技法を習得する。套路は緩やかで流れるようにゆったりとした動きで行うことで、正しい姿勢や体の運用法、様々な戦闘技術を身に着ける。しかし実際の戦闘における動作はゆっくりしたものではなく、熟練者においてはむしろ俊敏で力強いものとなる。なお、套路の中でも“快架”と呼ばれる速い動きのものもあり、“快架”との対比でゆったりした動きの套路は“慢架”と表現する場合がある。 また、推手の練習では、套路の正しさや・相手と適切な接触を保つ技術(粘連黏随)・相手を感じる能力(聴勁)など武術・戦闘術としての理解度を深めることができる。昔から推手と套路は車の両輪と言われ、実は推手をやらなければ太極拳は本当の意味で理解できないと言われている。
徒手の応用として、太極剣、太極刀、太極棍、春秋大刀、槍など武器術の套路も伝承されている。
また、太極拳の套路は健康法としての一面がよく知られており、一般に太極拳と言う場合、武術ではなく健康法・健康体操の一種として捉えられることも多い。武術としての鍛錬を第一義とせず、各派に伝わる伝統の套路を基にして編集委員等によって競技・表演用に整理された太極拳や、健康体操として簡易化された太極拳などを、伝統拳に対して『制定拳』と呼ぶ。
日本で武術太極拳と呼ばれている競技は、世界的には『武術(ウーシュウ)』と呼ばれているもので、太極拳、長拳、南拳を採り入れ、一定のルールの下で体系化したスポーツである。採用されているのは制定拳であり、伝統拳との間に直接的な関連性はない。
太極拳は注意、学習、記憶、知覚などの健康な成人の幅広い思考スキルにプラスの効果があることを発見した。健康・長寿に良いとされているため、格闘技や護身術としてではなく健康法として習っている者も多く、中国などでは市民が朝の公園などに集まって、練習を行っている光景がよく見られる。 日本国内でも愛好者は多く、『太極拳のまち』を宣言した福島県喜多方市のように、自治体単位で太極拳を推進している例もある。 米国が2007年に行った国民健康調査によると、推定230万人の米国成人した人間が、健康維持として、過去12ヶ月間に太極拳を行ってたと判明している。効能は「健康状態、筋力、筋肉の協調運動や柔軟性の向上」「安定した運動による睡眠の深化」「身体バランスの強化と転倒リスクの低下」などの促進が期待できるという。アメリカ国立補完統合衛生センターの研究では太極拳を行った被験者の血圧が26件の内22件も血圧を下げたなどの成果が報告されている。さらに、ハーバード大学の研究によれば、変形性関節症などの関節炎を手術よりも太極拳で緩和できると、示唆しており引き続き代替医療の研究が進められている。
上記5つの太極拳流派は、「五大太極拳」と呼ばれる。
套路毎に動作の数が違うため、各套路は「二十四式」のように動作の数で呼ばれることが多い。
この他にも、八式、十六式、三十二式、四十二式の制定拳があり、また、陳式、孫式などの各派の特長を出した陳氏五十六式や三十八式、孫氏七十三式などの套路も制定されている。
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太極拳(たいきょくけん)は、中国武術の一派。東洋哲学の重要概念である太極思想を取り入れた拳法で、形意拳、八卦掌と並んで内家拳の代表的な武術として知られる。ユネスコ無形文化遺産である。
|
{{Infobox_武道・武術
|読み=たいきょくけん
|画像名=Taichi0.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=
|別名=Taichi(タイチ ・英語表記)
|競技形式=[[演武]]、[[散打]]
|使用武器=素手、太極剣、太極刀、槍、棍、他
|発生国=[[Image:Flag of the People's Republic of China.svg|20px]] [[中国]]
|発生年=少なくとも1600年代[[陳家溝]]には確立(それ以前が不明、1300年代?)
|創始者=[[張三丰]]?、[[ 陳王廷]]?、その他説多数(長年かけて多数での創始者説もあり)
|源流=武当山派?少林寺北伝?その他複合流派が源流?(思想源流:[[老子]]、[[老荘思想]]、[[道教]])
|流派=[[陳家太極拳]]・[[楊式太極拳]]・[[呉式太極拳]]・[[武式太極拳]]・国家制定拳など
|派生種目=制定拳(24式太極拳、総合太極拳(48式、42式)、陳式太極拳、楊式太極拳、呉式太極拳、孫式太極拳など)
|主要技術=放鬆 (≒リラックス)、不争(争わない競わない比べない)、沈肩墜肘(肩の力を抜く)、動中求静 (心を静かにする)、他多数
|オリンピック=
|公式ウェブサイト=
}}
'''太極拳'''(たいきょくけん)は、[[中国武術]]の一派<ref>「観戦必携/すぐわかる スポーツ用語辞典」1998年1月20日発行、発行人・中山俊介、237頁。</ref>。東洋哲学の重要概念である[[太極|太極思想]]を取り入れた拳法で、[[形意拳]]、[[八卦掌]]と並んで[[内家拳]]の代表的な武術として知られる。ユネスコ無形文化遺産である。
== 歴史 ==
[[ファイル:Martial arts - Fragrant Hills.JPG|thumb|250px|太極拳の套路 北京・香山にて。]]
古来より中国拳法は口伝で伝えるのを常とし書物に明記する事は稀であった。その関係で初期歴史の詳細は不明である。伝承であれば[[元 (王朝)|元]]代、[[張三丰]]が[[少林寺]]で武術を修めた後に[[武当山]]に入って修行し、[[道教]]の[[陰陽五行思想]]や吐納法と呼ばれる[[呼吸法]]を取り入れて編み出したとされている。但し、張三丰は中国の他の伝説にも現れる不老長寿の[[仙人]]の名前であり、この説については伝説の域を出ていない。[[少林拳]]等が外家拳と呼ばれるのに対して、太極拳、[[形意拳]]、[[八卦掌]]等は内家拳(武当門)と呼ばれることがある。中国武術の全国的統一組織であった[[南京中央国術館]]の武当門の門長に[[楊式太極拳|楊氏太極拳]]三世の[[楊澄甫]]が就任しているが、後に各門派ごとの組織に改められ、武当門は廃されている。[[考証学]]の祖である[[黄宗羲]]が記した[[王征南墓志銘]]には、[[北宗]]代に[[張三丰]]が[[内家拳法]]を創始し、[[王征南]]はその使い手であると記されており、その拳法の詳細を、[[黄宗羲]]の子息である[[黄百家]]が「[[内家拳法]]」<ref>『昭代叢書・内家拳法』上海古籍出版社,1990.(清代,[[張潮]],黄百家他編)</ref>に記録している。[[内家拳法]]と太極拳、[[紀効新書]]の拳経との関係を考察する研究がある<ref>{{Cite thesis|和書|author=屈国鋒 |title=養生武術の形成過程に関する研究 : 民間武術から太極拳への変遷を中心に |volume=筑波大学 |series=博士 (体育科学) 甲第4494号 |year=2007 |CRID=1110282785260348800 |url=https://hdl.handle.net/2241/101065 |pages=119-131 |chapter=第二項 内家拳法の技法と「拳経」及び太極拳との関係から」}}<br />唐豪「少林武当考 太極拳与内家拳 内家拳」山西科学技術 2008年、<br />{{Cite book|和書|author=林伯原 |title=中国武術史 : 先史時代から十九世紀中期まで |publisher=技藝社 |year=2015 |NCID=BB2087020X |ISBN=9784908489006 |id={{全国書誌番号|22691666}}}}<br />笠尾恭二「中国武術史大観」福昌堂 1994年</ref>。
その他の起源については、[[明]]代に[[河南省]][[温県]]常陽村(現・陳家溝)に強制移住させられた陳一族に家伝として伝えられていた武術に、陳氏9世・[[陳王廷]]<!--1600年頃〜1680年頃-->が様々な武術の要素を組み合わせ、明代末期から[[清]]代初期にかけて創始されたとする、武術史研究家・[[唐豪]]の研究がある<ref>唐豪「少林武当考 太極拳与内家拳 内家拳」山西科学技術、2008年</ref>。その後清代末期に入り、陳氏14世・[[陳長興]]の弟子だった[[楊露禅]]が、[[北京]]に赴きこれを普及。武術理論として[[王宗岳]]の『[[太極拳論]]』が重視されたため、そこから取って『太極拳』という名称が用いられるようになったと言われる。現在では、[[陳家太極拳]]、[[楊式太極拳]]、[[武式太極拳]]を始めとして様々な門派が存在する。
一方、太極拳の健康効果は古くから知られていたが、その習得は容易ではなく、万人向けと言えるものではなかった。そのため、[[第二次世界大戦]]後の[[1949年]]に建国した[[中華人民共和国]]の[[国家体育総局|国家体育運動委員会]]は伝統拳の健康増進効果はそのままに、誰にでも学ぶことのできる新しい太極拳を作ることを目標に著名な武術家に命じ、楊式太極拳を基に簡略化した套路を編纂、[[1956年]]に簡化太極拳([[二十四式太極拳]])を制定した<ref>{{cite web|title=競賽套路的由來|url=http://www.wutaiji.org.hk/wushu_data/train_schedule.htm|accessdate=2019-06-03}}</ref>。これが制定拳の始まりである。制定拳という名称は本来、「国家が制定した套路」という意味を持つ。
制定拳は一種の健康体操として世界的に広められ、またそれと並行して競技化や新たな套路の編纂も行われていた。現在はグループ表演や競技会も盛んに催されるなど運動競技としての一面も強くなり、その一方で、武術的な側面から制定拳を再編する動きも生まれている。
日本においては[[楊名時]]が1970年に簡化太極拳を紹介しており、その後[[1972年]]の日中国交正常化を機に、来日した中国人教師などから太極拳の存在が徐々に知られるようになった。また中国政府の普及政策によって中国から太極拳を持ち帰る日本人も現れ、健康体操としての制定拳が広まっていった。激しい運動を伴わず場所を選ばずに容易に行えることから高年齢層を中心に人気である。
== 特徴 ==
武術・戦闘術として継承されてきた太極拳は『'''伝統拳'''』と呼ばれる。しかし、近年では伝統拳を参照元にした制定拳(後述)も存在するために、混同を避ける目的で『'''民間の太極拳'''』という表現も使われることがある。
基本功に始まって、[[套路]]、[[推手 (太極拳)|推手]]、[[散打|散手]]と進むのが一般的な流れで、これによってそれぞれの門派における[[太極拳の技法]]を習得する。[[套路]]は緩やかで流れるようにゆったりとした動きで行うことで、正しい姿勢や体の運用法、様々な戦闘技術を身に着ける。しかし実際の戦闘における動作はゆっくりしたものではなく、熟練者においてはむしろ俊敏で力強いものとなる。なお、[[套路]]の中でも“快架”と呼ばれる速い動きのものもあり、“快架”との対比でゆったりした動きの[[套路]]は“慢架”と表現する場合がある。
また、[[推手 (太極拳)|推手]]の練習では、套路の正しさや<ref>達人・[[劉慶洲]]老師が基礎から教える太極推手入門のp3より抜粋</ref>・相手と適切な接触を保つ技術(粘連黏随)・相手を感じる能力(聴勁)など武術・戦闘術としての理解度を深めることができる<ref>推手鍛錬秘訣 第1巻(DVD)の導入部より抜粋</ref>。昔から推手と套路は車の両輪と言われ、実は推手をやらなければ'''太極拳'''は本当の意味で理解できないと言われている<ref>達人・劉慶洲老師が基礎から教える太極推手入門 p2より引用</ref>。
徒手の応用として、太極剣、太極刀、太極棍、春秋大刀、[[槍]]など武器術の套路も伝承されている。
また、太極拳の套路は健康法としての一面がよく知られており、一般に太極拳と言う場合、武術ではなく健康法・健康体操の一種として捉えられることも多い。武術としての鍛錬を第一義とせず、各派に伝わる伝統の套路を基にして編集委員等によって競技・表演用に整理された太極拳や、健康体操として簡易化された太極拳などを、伝統拳に対して『'''制定拳'''』と呼ぶ。
日本で[[武術太極拳]]と呼ばれている競技は、世界的には『武術(ウーシュウ)』と呼ばれているもので、太極拳、長拳、南拳を採り入れ、一定のルールの下で体系化したスポーツである。採用されているのは制定拳であり、伝統拳との間に直接的な関連性はない。
===健康促進としての太極拳と効果===
太極拳は注意、[[学習]]、[[記憶]]、知覚などの健康な[[成人]]の幅広い[[思考]]スキルにプラスの効果があることを発見した<ref>{{Cite web|title=Try Tai Chi for better balance and thinking skills|url=https://www.health.harvard.edu/exercise-and-fitness/try-tai-chi-for-better-balance-and-thinking-skills|website=Harvard Health|accessdate=2021-02-21|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>。健康・長寿に良いとされているため、格闘技や護身術としてではなく健康法として習っている者も多く、中国などでは市民が朝の[[公園]]などに集まって、練習を行っている光景がよく見られる。
日本国内でも愛好者は多く、『太極拳のまち』を宣言した[[福島県]][[喜多方市]]のように、自治体単位で太極拳を推進している例もある。<ref>[http://www.jwtf.or.jp/town/ 日本武術太極拳連盟]</ref>
米国が2007年に行った国民健康調査によると、推定230万人の米国成人した人間が、健康維持として、過去12ヶ月間に太極拳を行ってたと判明している。効能は「'''健康状態、筋力、筋肉の協調運動や柔軟性の向上'''」「'''安定した運動による睡眠の深化'''」「'''身体バランスの強化と転倒リスクの低下'''」などの促進が期待できるという。[[アメリカ国立補完統合衛生センター]]の研究では太極拳を行った被験者の血圧が26件の内22件も血圧を下げたなどの成果が報告されている。<ref>[http://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/overseas/c02/12.html 統合医療情報発信サイト]</ref>さらに、[[ハーバード大学]]の研究によれば、変形性関節症などの関節炎を手術よりも太極拳で緩和できると、示唆しており引き続き代替医療の研究が進められている。<ref>[https://www.health.harvard.edu/blog/tai-chi-may-good-physical-therapy-arthritis-related-knee-pain-201606159780 Tai chi may be as good as physical therapy for arthritis-related knee pain - Harvard Health Blog - Harvard Health Publishing]</ref>
== 門派 ==
=== 伝統拳 ===
; [[陳家太極拳]]
: [[河南省]]陳家溝の陳一族を中心に伝承されてきた武術で、全ての太極拳の源流。柔軟で緩やかな動きと、纏絲勁(螺旋の道理による力の作用方法)<!--螺旋の動き-->によって全身の勁を統一的に運用して繰り出される豪快な[[震脚]]や[[発勁]]が特徴である。見た目の動作が比較的大きい大架式と見た目の動作が比較的小さい小架式の2つのスタイルが主流で、大架式からは新架式が派生し、新架式からは趙堡架式が派生した。
: 一般に広まったのは、[[20世紀]]に入り陳氏17世・[[陳発科]]が[[北京]]で大架系統を教授してからと言われる。
:; [[忽雷架]]式
:: 陳氏15世・[[陳清萍]]の弟子・[[李景炎]]が創始した拳架の一種。緩急の激しい鋭い動作を特徴とする。陳家系の一派だが、別門派として扱われることもある。
; [[楊式太極拳]]
: 陳氏14世・[[陳長興]]の弟子である[[楊露禅]]が創始し、[[19世紀]]の北京において広く門弟に教授された。その後も、露禅の子・[[楊健侯]]、孫・[[楊澄甫]]と三代に渡って改良が加えられ、現在は澄甫が開発した大架式の套路が普及している。大架式の動作がのびのびとして柔らかく、発勁においては一見して激しい動作を行わない点が、陳家太極拳との大きな違いとなっている。
: 楊式太極拳の理論書としては、健侯の兄・[[楊班侯]]の記した『[[太極拳九訣]]』や、澄甫の記した『[[太極拳老譜三十二解]]』がある。制定拳の基となったことでも知られる。
; [[呉式太極拳]]
: [[楊露禅]]より学んだが[[楊露禅]]自身の指示で子である楊班侯の門下になった[[呉全佑|全佑]]<ref>“正宗吴式太极拳”の第一章 p1を参照</ref>と、その子・[[呉鑑泉]]によって創始された。弓歩の際に前傾姿勢をとることが他流派と異なり<ref>“正宗吴式太极拳”の第一章 p36を参照</ref>、小架式の動作は緊密でまとまっている。独特な風格としては軽さと機敏さ、そして円滑さがすべての式で貫き通されることで知られている。<ref>独特な風格については“正宗吴式太极拳”のp2より意訳</ref>套路が多く残されており、特に四正推手から派生した十三式がある[[推手 (太極拳)#伝統拳における推手|推手]]の技法が多い。<ref>“正宗吴式太极拳”の第五章 p264-p294を参照</ref>系統によって歩距や架式の高さに違いが大きい。鑑泉が[[上海精武体育会]]で教授したため、中国国内だけでなく[[香港]]を中心として[[華僑]]の間にも普及している。
; [[武式太極拳]]
: 楊露禅の友人である[[武禹襄]]が露禅に陳家太極拳を学んだ後、陳清萍に弟子入りして本格的に陳家太極拳を修め、それに独自の理論を加えて創始した。著名な伝承者である[[郝為真]]の姓をとって、郝式太極拳と呼ばれることもある。親族にしか伝承されないなど近年まで保守的な姿勢をとっていたため、伝承者は極めて少ない。太極拳の名称の由来となったと言われる『[[太極拳譜]]』は、禹襄の兄・[[武秋瀛]]が発見したと伝えられる。
;[[孫式太極拳]]
: [[孫禄堂]]によって創始された。[[形意拳]]の歩法、[[八卦掌]]の身法、武式太極拳の手法が統合されている。開合によって動作を連関し、快速な活歩によって転換することから、開合活歩太極拳とも称される。
上記5つの太極拳流派は、「五大太極拳」と呼ばれる。
; 和式太極拳
: [[和兆元]]が陳清萍に学び創始した。陳家太極拳と異なり、発勁に激しい動作を伴わない。陳家太極拳の一派と見なされてきたが、近年、代表的伝統太極拳として認定された。
; 鄭子太極拳
: 楊澄甫の弟子・[[鄭曼青]]<!--五絶老人とも呼ばれ「詩、書、画、医、武」に優れ文人、医者としても名高い-->が、楊式太極拳を整理し三十七式にまとめたもの。楊式から認められなかったことと、楊式よりも更に小さく柔らかい動きであることから、楊式とは別の門派として扱われている。套路37式、楊式太極剣、推手、内功([[気功]])<!--台湾系の系譜において-->からなり、学習内容が少ないことから簡易太極拳と言われることもあり、楊式太極拳において入門用の套路として教授されることもある。
: 鄭曼青が[[ニューヨーク]]に移住し現地で太極拳を教授していたことから、主に欧米人の間で普及していた。名称が鄭式でなく鄭子<!--「鄭先生の太極拳」といった意味-->となっているのは、鄭が自らの門派を立ち上げていなかったことに由来している。
; [[古伝統合太極拳]]
: 中央国術館副館長であった[[陳泮嶺]]が創始した。楊式太極拳を中心に陳家・呉式・武式の各太極拳を取り入れ、更に[[形意拳]]、[[八卦掌]]の技術を取り込んで編纂され、99勢からなる。双辺太極拳、九十九式太極拳、或いは日本では正宗太極拳とも呼ばれている。
=== 制定拳 ===
[[画像:Taichi shanghai bund 2005.jpg|thumb|300px|right|朝に上海の広場で健康体操の簡化太極拳をしている人々。]]
套路毎に動作の数が違うため、各套路は「二十四式」のように動作の数で呼ばれることが多い。
; 簡化太極拳([[二十四式太極拳]])
: 最初の制定拳として、[[1956年]]に発表された。楊式太極拳の主要な二十四の動作から構成されている。全世界で練習され、健康運動としての太極拳の普及に大きく貢献している。日本では一般的な太極拳教室で健康法として教えられており、外国でもジムなどで[[ヨーガ]]などと一緒に教えられている。楊式太極拳の入門用の套路として教えられることもある。
; 八十八式太極拳
: [[楊露禅]]が武当派の太極拳を元に編成した楊家一〇八式を、孫の[[楊澄甫]]がより短く編成した楊家八十五式を元にして、健康体育を目的にして編成された<ref>書籍《簡化24式太極拳で骨の髄まで練り上げる技法》P71 「十三勢」より引用</ref>二十四式太極拳に続き、[[1957年]]に発表された。二十四式の原理に基づいて、楊式太極拳の動作を改めたものである。動作の順序は楊式太極拳大架式に準じているが、動作原理が異なる。
; [[四十八式太極拳]]
: 二十四式太極拳の上級套路として、[[1979年]]に発表された。楊式太極拳をベースに、陳家、呉式、孫式の動作を取り入れて作られた。二十四式より難度が高く、八十八式より表演時間が短く、動作も左右対称に整えられているため、競技会において頻繁に行われている。
; 総合太極拳(四十二式太極拳)
: [[1980年代]]後半になって太極拳の国際大会が催されるようになり、それに伴って競技会用の統一された套路として制定された。規定套路、或いは競技套路と呼ばれ、競技会種目として採用されている。四十八式と同様、楊式をベースに陳家、呉式、孫式の動作が組み合わされており、四十八式よりも各門派の特徴的動作を明確に演ずることが出来る。
; 太極剣
: 器械(武器)の入門用として編纂された。楊式太極剣をもとに編纂された『三十二式太極剣』と、競技用套路として陳家、楊式、呉式の動作を組み合わせた『四十二式太極剣』(総合太極剣)がある。総合太極拳と並んで、競技会で盛んに行われている。
この他にも、八式、十六式、三十二式、四十二式の制定拳があり、また、陳式、孫式などの各派の特長を出した陳氏五十六式や三十八式、孫氏七十三式などの[[套路]]も制定されている。
==太極拳を愛好している有名人など==
*[[山本千尋]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/contents/entertainment/2020/12/16/post_15/|title=キングダム特別動画にキョウカイ役で出演。山本千尋が語る撮影当時と女優の今|エンタメ|publisher=集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|date=2020-12-16|accessdate=2021-01-04}}</ref>
*[[松浦新]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 参考文献 ==
* {{cite book | 和書 | title = 達人・劉慶洲老師が基礎から教える太極推手入門 | author = 劉慶洲(著)・BABジャパン(監訳) | publisher = BABジャパン | year = 2013 | location = 東京 | id = ISBN 9784862207791 }}
* {{cite book | DVD | title = 推手鍛錬秘訣 第1巻(DVD) | author = 郭福厚(指導・出演)・BABジャパン出版局(監訳) | publisher = BABジャパン出版局 | year = 2000 | id = ISBN 978-4894227804 }}
* {{cite book | 中文書籍 | title = 正宗呉式太極拳 | author = 呉英華| author2 = 馬岳梁| author2-link = 馬岳梁 | publisher = 北京体育大学出版社 | year = 1999 | location = 北京 | id = ISBN 7-81051-327-3 }}
== 関連項目 ==
*[[日本の太極拳]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Tai Chi Chuan}}
* [http://www.ohtaichi.com/ 王流 楊式太極拳] …神奈川県横浜市青葉区(青葉台駅)の古式[[楊式太極拳]]教室。
* [https://wutaichi.jp/ 呉式太極拳研究会] …東京都東村山市秋津町(新秋津駅・秋津駅)及び池袋(池袋駅)の教室。呉式太極拳五代目直系弟子である[[沈剛]]が主宰。
* [http://www.actyclub.com/ 正宗楊家太極拳弘徳会] …大阪府大阪市北区(梅田)を中心に複数の拠点がある[[楊式太極拳]]教室
* [http://www.chtaiji.net/jp/ 太極拳無極会] …東京都豊島区南大塚(池袋駅、新大塚駅)の[[呉式太極拳]]教室
* [http://www.tengyouken.com/ 天行健中国武術館] …沖縄県浦添市に本館がある[[中国武術|中国伝統武術]]の総合教室(武術館)
* [http://www.taijiquan.or.jp/ NPO法人 日本健康太極拳協会] …全国展開している[[楊名時]]太極拳の団体、本部教室は東京都千代田区神田錦町(神田、竹橋、大手町)にある
* [http://www.jwtf.or.jp/ 日本武術太極拳連盟] …日本における[[武術太極拳]](中国武術をもとにしたスポーツ)の普及団体
* [http://kasuga-taichi.jp/ 春日伝統太極拳] …奈良県橿原市(橿原神宮前駅)に本部がある[[楊式太極拳]]、[[双辺太極拳]]教室
* [https://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/communication/c03/27.html 健康に対する太極拳について知っておくべき5つのこと] …「[[統合医療]]」情報発信サイト: [[厚生労働省]]eJIM
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紀元前384年
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紀元前384年(きげんぜん384ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「マルギネンシス、プブリコラ、カミッルス、ルフス、クラッスス、カピトリヌスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元370年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前384年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前384年'''(きげんぜん384ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「マルギネンシス、プブリコラ、カミッルス、ルフス、クラッスス、カピトリヌスが[[執政武官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]370年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前384年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[丁酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]277年
** [[孝安天皇]]9年
* [[中国]]
** [[周]] - [[安王 (周)|安王]]18年
** [[秦]] - [[献公 (秦)|献公]]元年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[孝公 (晋)|孝公]]5年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[悼王 (楚)|悼王]]18年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[康公 (斉)|康公]]21年
** [[田斉]] - [[田エン|斉侯剡]]元年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[簡公 (戦国燕)|簡公]]31年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[敬侯 (趙)|敬侯]]3年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[武侯 (魏)|武侯]]12年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[文侯 (韓)|文侯]]3年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1950年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 161年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[アテネ]]の[[雄弁家]][[リュシアス]]は、[[オリンピアード]]の期間に、[[ギリシア人]]が[[シラクサ]]の僭主[[ディオニュシオス1世]]及び[[バルバロイ]]の[[ペルシア人]]に支配されたことを非難した。
=== 共和政ローマ ===
* [[執政官]]経験者でもある[[マルクス・マンリウス・カピトリヌス]]が、王位を狙ったとして処刑された。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前384年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アリストテレス]]、ギリシアの哲学者(+ [[紀元前322年]])
* [[デモステネス]]、ギリシアの政治家(+ 紀元前322年)
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前384年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* マルクス・マンリウス・カピトリヌス、[[共和政ローマ]]の元執政官
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|384 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前322年
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紀元前322年(きげんぜんさんびゃくにじゅうにねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ルリアヌスとクルウスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元432年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前322年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前322年'''(きげんぜんさんびゃくにじゅうにねん)は、[[ローマ暦]]の[[年]]である。
当時は、「ルリアヌスとクルウスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]432年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前322年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己亥]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]339年
** [[孝安天皇]]71年
* [[中国]]
** [[周]] - [[顕王]]47年
** [[秦]] - [[恵文王 (秦)|恵文王]]3年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[懐王]]7年
** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]35年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[易王]]11年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[武霊王]]4年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]後元13年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[宣恵王 (韓)|宣恵王]]11年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2012年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 223年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== マケドニア王国 ===
* [[バビロン]]では、[[アレクサンドロス3世]]からの継承を巡って闘争が発生した。息子の[[アレクサンドロス4世]]を生んだ[[ロクサネ]]との間で和解に至った。その結果、彼とアレクサンドル3世の弟の[[フィリッポス3世]]は共同で統治したと考えられている。将軍の[[ペルディッカス]]は、[[カルディアのエウメネス]]の助けを得て効率的な統率を保とうとした。
* アレクサンドロス3世の母[[オリュンピアス]]がアレクサンドル3世の妹の[[クレオパトラ]]との結婚を勧めたため、ペルディッカスは、[[アンティパトロス]]の娘[[ニケア]]との婚約を破棄した。
* ペルディッカスの最大の支援者は、当時まだ[[マケドニア王国]]に征服されていなかった[[カッパドキア]]と{{仮リンク|パフラゴニア|en|Paphlagonia}} の支配者カルディアのエウメネスだった。[[フリギア]]、[[リュキア]]、[[パンフィリア]]の支配者[[アンティゴノス1世]]はペルディッカスが依頼した仕事を請け負うのを拒否した。彼はペルディッカスからバビロンに呼び出され、不服従に対する裁判を受けた。生命の危機を感じ、息子の[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]とともにギリシアに逃亡した。
* アンティゴノス1世は、アンティパトロスと[[クラテロス]]に対し、ペルディッカスを攻撃するべきだと説得した。アンティパトロスと配下の将軍のアンティゴノス1世、[[リュシマコス]]、クラテロス、[[セレウコス1世]]、[[プトレマイオス1世]]は連合し、ペルディッカスと対峙した。
* ペルディッカスはカッパドキアを征服し、カルディアのエウメネスを[[サトラップ]]に任命した。
* [[メディア王国|メディア]]のサトラップである[[ペイトン]]は、マケドニア王国の退役軍人による反乱を鎮圧した。
=== ギリシア ===
* [[アテナイ]]人とその仲間がマケドニア王国のアンティパトロスに対して[[ラミア (ギリシャ)|ラミア]]で起こした戦争は、2万の歩兵隊と1500の騎兵隊を率いた[[レオンナトス]]によって鎮圧された。レオンナトスはこの戦争で死亡した。
* 9月5日 - クラテロスは、[[クランノンの戦い]]でアテナイ人を破るための艦隊に到着した。この戦いは、ラミア戦争において、アンティパトロスの完勝となった。
* アテナイの雄弁家で外交官の[[デマデス]]は市民権を取り戻し、彼と[[フォーキオン|ポキオン]]はアンティパトロスと和平を交渉し、ラミア戦争を終結させることができた。交渉に出発する前、彼は[[デモステネス]]とその仲間の[[ヒュペレイデス]]らに死刑を宣告し、アテナイ市民を説得した。交渉の結果、和平は達成されたが、アテナイは[[ピレウス]]の港をマケドニア王国に占領されることになった。
* デモステネスはマケドニア王国から逃亡し、投降を求めた。彼は逮捕される際に、服毒自殺した。
* ヒュペレイデスは、[[アイギナ島]]に逃げたが、[[ポセイドン神殿]]でマケドニア兵に捕まり、処刑された。
=== エジプト ===
* 慣習的に、マケドニア王国の王は、前任者を埋葬することで王位の継承権を主張した。ペルディッカスと対立していたプトレマイオス1世はアレクサンドロス3世をエジプトの[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に運び、金の[[サルコファガス]]に埋葬した。プトレマイオス1世はその後、アレクサンドロス3世の未亡人と結婚し、エジプト及び隣接した[[リビア]]と[[アラビア半島]]の統治を開始した。
* 国内の争乱で優位に立ったプトレマイオス1世は、ペルディッカスの承認なく[[キレナイカ]]を入手した。
* プトレマイオス1世は、ペルディッカスに通じていたとの疑いをかけ、自身の補佐である[[ナウクラティスのクレオメネス]]を処刑した。これによって、プトレマイオス1世はクレオメネスが蓄えていたかなりの財産を手に入れた。
=== インド ===
* [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]は、[[ナンダ朝]]を引き継いだ[[マウリヤ朝]]の初代皇帝になった。
=== 中国 ===
* [[張儀]]が[[魏 (戦国)|魏]]の宰相となり、密かに秦の軍を招いて魏を攻撃し、[[曲沃]]と[[介休市|平周]]を取る。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月7日]] - [[アリストテレス]]:ギリシアの哲学者、科学者([[紀元前384年]]生)
* [[10月12日]] - [[デモステネス]]:アテナイの政治家、雄弁家(紀元前384年生)
* [[ヒュペレイデス]]:アテナイの雄弁家([[紀元前390年]]生)
* [[レオンナトス]]:マケドニアの武将、[[ディアドコイ]]の1人(紀元前390年生)
* [[ナウクラティスのクレオメネス]]:マケドニア統治下のエジプトの徴税官
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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乃木坂太郎
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乃木坂 太郎(のぎざか たろう、1968年 - )は、日本の男性漫画家。石川県七尾市出身で日本大学藝術学部映画学科を卒業し、代表作に『医龍-Team Medical Dragon-』がある。
1999年に『HOOP STAR』を『週刊少年サンデー増刊号』に連載して漫画家の活動を始め、2000年に『キリンジ』を『週刊少年サンデー』に短期集中で連載した。
小学館の漫画雑誌『ビッグコミックスペリオール』に、『医龍-Team Medical Dragon-』を2002年から2011年まで連載して第50回(平成16年度)小学館漫画賞青年向け部門、『幽麗塔』を2011年12号から2014年22号まで連載して2014年度第14回センス・オブ・ジェンダー賞大賞、となり、『第3のギデオン』を2015年12号から2018年10号まで連載する。
漫画家の松江名俊と親交があり、松江名が運営するウェブサイトや短編集「史上最強のガイデン」内のおまけページにイラストを寄稿するなどの交流が見られる。
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乃木坂 太郎は、日本の男性漫画家。石川県七尾市出身で日本大学藝術学部映画学科を卒業し、代表作に『医龍-Team Medical Dragon-』がある。 1999年に『HOOP STAR』を『週刊少年サンデー増刊号』に連載して漫画家の活動を始め、2000年に『キリンジ』を『週刊少年サンデー』に短期集中で連載した。 小学館の漫画雑誌『ビッグコミックスペリオール』に、『医龍-Team Medical Dragon-』を2002年から2011年まで連載して第50回(平成16年度)小学館漫画賞青年向け部門、『幽麗塔』を2011年12号から2014年22号まで連載して2014年度第14回センス・オブ・ジェンダー賞大賞、となり、『第3のギデオン』を2015年12号から2018年10号まで連載する。 漫画家の松江名俊と親交があり、松江名が運営するウェブサイトや短編集「史上最強のガイデン」内のおまけページにイラストを寄稿するなどの交流が見られる。
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'''乃木坂 太郎'''(のぎざか たろう、[[1968年]] - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[石川県]][[七尾市]]出身で[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学藝術学部]][[映画学|映画学科]]を卒業し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.art.nihon-u.ac.jp/future/voice.html |title=卒業生の活躍(日本大学藝術学部) |accessdate=2017-07-27}}</ref>、代表作に『[[医龍-Team Medical Dragon-]]』がある。
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漫画家の[[松江名俊]]と親交があり、松江名が運営する[[ウェブサイト]]や短編集「史上最強のガイデン」内のおまけページにイラストを寄稿するなどの交流が見られる。
== 作品リスト ==
* HOOP STAR
* [[キリンジ (漫画)|キリンジ-Open The Adventure Door-]]、全1巻
* [[医龍-Team Medical Dragon-]](原案・[[永井明]])、全25巻
* [[幽麗塔]]〜[[黒岩涙香]]「[[幽霊塔]]」より〜、全9巻
* [[第3のギデオン]](資料・文献提供:山中聡<!--東京理科大学講師-->)、全8巻
* [[夏目アラタの結婚]]、既刊11巻
== アシスタント ==
* [[向後和幸]]
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
*{{mediaarts-db|C62359}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本大学出身の人物]]
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バックパッキング
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バックパッキング
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バックパッキング リュックサック(バックパック)に荷物を詰めること。
リュックサックを背負って徒歩で野山を旅行すること。ハイキングやときには登山も含まれる。トレッキングを参照。
リュックサック(バックパック)を背負って、限られた予算で外国を旅行すること。バックパッカーを参照。
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'''バックパッキング'''
* [[リュックサック]](バックパック)に荷物を詰めること。
* リュックサックを背負って徒歩で野山を[[旅行]]すること。[[ハイキング]]やときには[[登山]]も含まれる。[[トレッキング]]を参照。
* リュックサック(バックパック)を背負って、限られた予算で外国を旅行すること。[[バックパッカー]]を参照。
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記憶術
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記憶術(きおくじゅつ、英: mnemonic, mnemonics, art of memory)とは、大量の情報を急速に長期に記憶するための技術。
西洋における記憶術の歴史は古く、伝統的な修辞学の一部門(ラテン語: memoria)として扱われていた。記憶術を意味する英語: mnemonic(ニーモニック)は、古代ギリシア語: μνημονικός(ムネーモニコス、mnemonikos、記憶)からの派生語であり、その語源はギリシア神話の記憶の女神ムネーモシュネーに由来する。
紀元前6世紀ごろの、古代ギリシアのシモニデスが開祖といわれる。シモニデスの手法は、紀元前1世紀のキケロに帰されるラテン語文献『ヘレンニウスへ(英語版)』に記載されている。記憶術は古代ローマでも、元老院などでメモを使用しての弁論が認められていなかったなどの理由により発達した。
古代ギリシア・ローマの記憶術はその後、中世ヨーロッパに受け継がれ、主に修道士や神学者などが聖書やその他の多くの書物を記憶するために用いられた。当時は紙が貴重で、印刷技術も未発達であったため、卓越した記憶力を養うことは教養人の必要条件であった。ルネサンス期には、大航海時代や博物学の進展による「情報爆発」を背景に記憶術の需要が高まり、ライムンドゥス・ルルスやジョルダーノ・ブルーノによって記憶術が深化された。またマテオ・リッチが『西国記法(中国語版)』を著し中国に西洋の記憶術を伝えた。
ルネサンス期の後、記憶術は衰退するが、1960年代ヴァールブルク研究所のフランセス・イエイツやパオロ・ロッシ(イタリア語版)によってその歴史が再発見された。
体の部位をもって、数に置き換えて、覚える・記憶する行為自体は縄文時代にまで遡る。秋田県鹿角市の縄文時代後期前葉(約4千年前)大湯環状列石の野中堂遺跡隣接地から出土した土版型土偶の刺突紋から、口を1、目を2、右胸を3、左胸を4、正中線を5、裏面の両耳で6といった風に体の部位で数を覚えていたことが明らかになっている。
伝説上、瞬間記憶に長けた人物としては、聖徳太子が知られている(『日本書紀』における「豊聡耳」伝説)。また、文字文化が普及していなかった段階での『古事記』の編纂には、記憶に長けた稗田阿礼が起用されたことが知られる。文字文化が普及した後代近世でも盲目の国学者である塙保己一が『群書類従』を編纂するなど(厳密には完成前に没している)、記憶に長けた人物による書物の編纂はみられる。
時代は下り、封建時代の忍者も記憶術に関して方法を記録しており、忍術書『当流奪口忍之巻註』、『心覚目録之事』には、「大袈裟にして覚えること」、「自分のよく知っているものと置き換えて覚える」ように記しており、地形・敵の強弱・人数・日の吉凶・月の出入り・潮の干満・方角・時刻などを覚えた。また『当流奪口忍之巻註』では、「いろは一二三の事」で、いろはを数字や仏に置き換えて覚えるように記されており、忍術書『万川集海』にも「忍びいろは」と言って、漢字の部首と旁の組み合わせによって、いろは48文字を表した。
明治20年代頃(1890年前後)には、立身出世主義を背景に「和田守記憶法」「島田記憶術」などの記憶術の書物が多数出版され、心霊術・催眠術と並ぶブームになった。
カセットテープやボイスレコーダーといった音声記録機器の登場以前、記憶に長ける必要性があった職業としては、接客業のウェイトレスやジャーナリストの記者が挙げられ(特に前者は文盲の場合、記憶術の必要性が高い)、速記術も重視されたが、文法の簡略化・単語を一文字に置き換えるなどによって大量の情報を記憶する。また記憶が重要となる遊びとして、百人一首のかるたが挙げられる。
記憶術は、大きく2つの系統に分類できる。一つは、純粋に記憶のコツのようなものによって記憶の効率を上げる方法、もう一つは、人間の能力を向上させることによって記憶力を向上させる方法である。
シモニデスによってなされた、宴の座席とそこに座っていた人間とを対応させて記憶する「座の方法」(場所法)や、そこから派生した、物を掛けるためのフック(鈎)を想像して、これに記憶すべきものを対応させる「フックの方法」などが前者の例として知られる。
記憶術にとって大事な概念の一つに「分割」と「組み立て」が存在する。短期記憶は7±2の法則により、あまり多くの情報を一度に詰め込むとそれに対処できない。それゆえに膨大な情報を記憶する際にはそれをいくつかの短い断片に「分割」(チャンク化)して、各自にそれを記憶し、後にそれをつなげる「組み立て」を行うことで記憶を完成させるという概念である。学問としては認知心理学の対象である。
後者の例としては、視野の拡大や、右脳の活性化などによる方法や、記憶力の向上によい食品や生活スタイルの追求などがある。この中には学問的に証明されていない主張も多くしばしばニセ科学になりやすい。とくに日本では脳科学と言われている。
また、復習の適切なタイミングについて、復習してから1日目、3日目、7日目、21日目、30日目、45日目、60日目の7回が最も効率的だという意見もある。
場所法(英語版)とは、場所(自宅や実際にある場所でも、架空の場所でも良く、体の部位に配置する方法もある)を思い浮かべ、そこに記憶したい対象を置く方法である。「記憶の宮殿」「座の方法」「ジャーニー法」「基礎結合法」とも呼ばれる。記憶したい対象を空間に並べていく方法である。人間は例えば他人の家に行った場合でも、どこに何があったかは比較的よく覚えており、その性質を利用する。記憶したい対象が抽象的なものの場合は、置換法を使い、イメージしやすい対象に変換してから記憶する。
この方法は海馬にある場所ニューロンの特性を利用している。場所ニューロンは名前のとおり、場所の記憶を司る。場所の記憶は動物にとって重要なため、長期記憶に保存されやすい性質を持っている。
その長所としては記憶の保持期間が他の記憶術と比較して著しく長いこと。欠点としては、一つの場所にあまり多くの情報を詰め込みすぎると混乱をきたすため、わずかな情報しか入れられないということ。そのため、充分な情報を詰め込めるだけの場所の確保に手間がかかるということである。世界記憶力選手権の世界トップ選手は数百個程度のイメージを競技中に記憶している。
階層構造をなしているものを記憶する場合は、何フロアもあり、フロア内も部屋にわかれているものを場所に使うと記憶できる。この手法は「鈴なり式」とも呼ばれる。
場所法は、少なくとも上述のシモニデスの時代から知られている。コナン・ドイルの小説『緋色の研究』では、名探偵シャーロック・ホームズも使っていたとされる。江戸時代の随筆である梅乃舎主人『梅の塵』にも似た方法が記されている。
まず、タイトル、イラスト、段落の最初の節、章末の練習問題などを調べて、学びたいことの概要を確認する。
次に、学びたいことについて質問を作り、自分で答える。
さらに、学びたいことについて熟読する。質問のときと違って、今度は今作った質問を意識して、細かく読んでいくことが必要である。下線は引かないほうがいい。
最後に、これがSQ3Rメソッドで最も重要な部分かもしれないが、とにかく学んだことを思い出し、声に出して復唱すること。メモを取るのもよい。
次の日、矛盾があるかどうかについて調べてみること。そして質問のステップに戻る。数日後、数週後さらに復習すること。iDoRecallというソフトウェアを使うのもいい。
物語を考え、その話に記憶したい対象を登場させる方法である。記憶したい項目を時間的に配列する方法である。
記憶したい対象の頭文字を取り出して覚える方法である。
普段見ている10円玉でも、柄をはっきりとは覚えていない。このように、情報を見たり聞いたりするような頭に情報をいれる勉強では勉強効率が落ちる。そのため、(池谷 2019)によれば頭から情報を出すアウトプットが効果的である(p.19)。
人間は抽象的なものよりも具体的で視覚的にイメージしやすい物の方が覚えやすいので、数字などを別なものに置き換える方法。
Person-Action-Object (PAO) System と呼ばれる。まず、2桁(可能な人は3桁)の数字から、人・行動・対象への変換表を覚える。100×3個、合計300個覚える。すると、6桁の数字は、1組の人・行動・対象になり、イメージしやすくなる。これに場所法などを併用し、長い数列を記憶する。人・行動・対象への変換表はなるべくインパクトがあり、印象に残りやすく、かつ、相互に混同しにくいものを選ぶと覚えやすくなる。
たとえば、トランプのカードを覚える場合も、52枚のカードそれぞれに、人・行動・対象への変換表を覚えると、1つのイメージで3枚のカードが記憶でき、17イメージ+1枚で1組のトランプの順番を覚えられる。17イメージ+1枚を場所法などで記憶する。2018年現在、世界記憶力選手権の世界記録では1組のトランプを13.96秒で記憶している。
メジャー記憶術ともよばれる。数字を子音に置き換える方法である。子音と子音の間に適当な母音を補う。英語などのヨーロッパ系の言語で用いられる。数列を単語に置き換えられる。
数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法を日本語用に改良したもの。
0がわ行だけでは少ないので、ぱ行も使う。
数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法よりも簡単に習得できるが、数字に対応する文字が少ないので、適当な文を作るのが大変であるが、日本語の場合、その自由度が高いので、一般に広く、たとえば電話番号などを憶えるのにも使われる。音読みと外来語とその変形をカタカナ、訓読みとその変形をひらがなで表す。語呂合わせも参照。
0をアルファベットのOに見立ててオー、オとすることも見受けられる。 また1をアルファベットのI(アイ)に見立てることもある。
5の項目を片手の指に対応させて覚える方法である。
10の項目を両手の指に対応させて覚える方法である。
12の項目を時計の文字盤に対応させて覚える方法である。
数字をその数字と韻を踏む単語に置き換える方法である。
数字をその数字に似た形に置き換える方法である。
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"text": "記憶術にとって大事な概念の一つに「分割」と「組み立て」が存在する。短期記憶は7±2の法則により、あまり多くの情報を一度に詰め込むとそれに対処できない。それゆえに膨大な情報を記憶する際にはそれをいくつかの短い断片に「分割」(チャンク化)して、各自にそれを記憶し、後にそれをつなげる「組み立て」を行うことで記憶を完成させるという概念である。学問としては認知心理学の対象である。",
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"text": "後者の例としては、視野の拡大や、右脳の活性化などによる方法や、記憶力の向上によい食品や生活スタイルの追求などがある。この中には学問的に証明されていない主張も多くしばしばニセ科学になりやすい。とくに日本では脳科学と言われている。",
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"text": "また、復習の適切なタイミングについて、復習してから1日目、3日目、7日目、21日目、30日目、45日目、60日目の7回が最も効率的だという意見もある。",
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"text": "場所法(英語版)とは、場所(自宅や実際にある場所でも、架空の場所でも良く、体の部位に配置する方法もある)を思い浮かべ、そこに記憶したい対象を置く方法である。「記憶の宮殿」「座の方法」「ジャーニー法」「基礎結合法」とも呼ばれる。記憶したい対象を空間に並べていく方法である。人間は例えば他人の家に行った場合でも、どこに何があったかは比較的よく覚えており、その性質を利用する。記憶したい対象が抽象的なものの場合は、置換法を使い、イメージしやすい対象に変換してから記憶する。",
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"text": "この方法は海馬にある場所ニューロンの特性を利用している。場所ニューロンは名前のとおり、場所の記憶を司る。場所の記憶は動物にとって重要なため、長期記憶に保存されやすい性質を持っている。",
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"text": "その長所としては記憶の保持期間が他の記憶術と比較して著しく長いこと。欠点としては、一つの場所にあまり多くの情報を詰め込みすぎると混乱をきたすため、わずかな情報しか入れられないということ。そのため、充分な情報を詰め込めるだけの場所の確保に手間がかかるということである。世界記憶力選手権の世界トップ選手は数百個程度のイメージを競技中に記憶している。",
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"text": "階層構造をなしているものを記憶する場合は、何フロアもあり、フロア内も部屋にわかれているものを場所に使うと記憶できる。この手法は「鈴なり式」とも呼ばれる。",
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"text": "場所法は、少なくとも上述のシモニデスの時代から知られている。コナン・ドイルの小説『緋色の研究』では、名探偵シャーロック・ホームズも使っていたとされる。江戸時代の随筆である梅乃舎主人『梅の塵』にも似た方法が記されている。",
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"text": "まず、タイトル、イラスト、段落の最初の節、章末の練習問題などを調べて、学びたいことの概要を確認する。",
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"text": "次に、学びたいことについて質問を作り、自分で答える。",
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"text": "さらに、学びたいことについて熟読する。質問のときと違って、今度は今作った質問を意識して、細かく読んでいくことが必要である。下線は引かないほうがいい。",
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"text": "最後に、これがSQ3Rメソッドで最も重要な部分かもしれないが、とにかく学んだことを思い出し、声に出して復唱すること。メモを取るのもよい。",
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"text": "次の日、矛盾があるかどうかについて調べてみること。そして質問のステップに戻る。数日後、数週後さらに復習すること。iDoRecallというソフトウェアを使うのもいい。",
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"text": "物語を考え、その話に記憶したい対象を登場させる方法である。記憶したい項目を時間的に配列する方法である。",
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"text": "記憶したい対象の頭文字を取り出して覚える方法である。",
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"text": "普段見ている10円玉でも、柄をはっきりとは覚えていない。このように、情報を見たり聞いたりするような頭に情報をいれる勉強では勉強効率が落ちる。そのため、(池谷 2019)によれば頭から情報を出すアウトプットが効果的である(p.19)。",
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"text": "人間は抽象的なものよりも具体的で視覚的にイメージしやすい物の方が覚えやすいので、数字などを別なものに置き換える方法。",
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"text": "Person-Action-Object (PAO) System と呼ばれる。まず、2桁(可能な人は3桁)の数字から、人・行動・対象への変換表を覚える。100×3個、合計300個覚える。すると、6桁の数字は、1組の人・行動・対象になり、イメージしやすくなる。これに場所法などを併用し、長い数列を記憶する。人・行動・対象への変換表はなるべくインパクトがあり、印象に残りやすく、かつ、相互に混同しにくいものを選ぶと覚えやすくなる。",
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"text": "たとえば、トランプのカードを覚える場合も、52枚のカードそれぞれに、人・行動・対象への変換表を覚えると、1つのイメージで3枚のカードが記憶でき、17イメージ+1枚で1組のトランプの順番を覚えられる。17イメージ+1枚を場所法などで記憶する。2018年現在、世界記憶力選手権の世界記録では1組のトランプを13.96秒で記憶している。",
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"text": "メジャー記憶術ともよばれる。数字を子音に置き換える方法である。子音と子音の間に適当な母音を補う。英語などのヨーロッパ系の言語で用いられる。数列を単語に置き換えられる。",
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"text": "数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法を日本語用に改良したもの。",
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"text": "数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法よりも簡単に習得できるが、数字に対応する文字が少ないので、適当な文を作るのが大変であるが、日本語の場合、その自由度が高いので、一般に広く、たとえば電話番号などを憶えるのにも使われる。音読みと外来語とその変形をカタカナ、訓読みとその変形をひらがなで表す。語呂合わせも参照。",
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"text": "0をアルファベットのOに見立ててオー、オとすることも見受けられる。 また1をアルファベットのI(アイ)に見立てることもある。",
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"text": "5の項目を片手の指に対応させて覚える方法である。",
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"text": "10の項目を両手の指に対応させて覚える方法である。",
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"text": "12の項目を時計の文字盤に対応させて覚える方法である。",
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},
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"text": "数字をその数字と韻を踏む単語に置き換える方法である。",
"title": "置換法"
},
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"text": "数字をその数字に似た形に置き換える方法である。",
"title": "置換法"
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] |
記憶術とは、大量の情報を急速に長期に記憶するための技術。
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{{脚注の不足|date=2018-02-27}}
'''記憶術'''(きおくじゅつ、{{Lang-en-short|[[:en:Mnemonic|mnemonic]]}}<ref>{{Cite journal|和書|author=滝川睦|year=1994|title=The Spanish Tragedy における記憶術|url=https://hdl.handle.net/20.500.12099/3919|journal=岐阜大学教養部研究報告|volume=30|publisher=岐阜大学}}179頁。</ref>, {{Lang|en|mnemonics}}<ref>{{Kotobank|記憶術}}</ref>, {{Lang|en|[[:en:art of memory|art of memory]]}}{{Sfn|桑木野|2018|p=8}})とは、大量の情報を急速に長期に[[記憶]]するための技術。
== 歴史 ==
=== 西洋 ===
西洋における記憶術の歴史は古く、伝統的な[[修辞学]]の一部門({{Lang-la|[[:en:Memoria|memoria]]}})として扱われていた{{Sfn|桑木野|2018|p=20}}。記憶術を意味する'''{{Lang-en|mnemonic}}'''('''ニーモニック''')は、{{Lang-grc|μνημονικός}}(ムネーモニコス、mnemonikos、記憶)からの派生語であり、その語源は[[ギリシア神話]]の記憶の[[女神]][[ムネーモシュネー]]に由来する。
[[紀元前6世紀]]ごろの、[[古代ギリシア]]の[[シモニデス]]が開祖といわれる{{Sfn|中務|2003|p=18}}。シモニデスの手法は、<!-- 紀元前86年 - 82年頃 -->[[紀元前1世紀]]の[[キケロ]]に帰される[[ラテン語]]文献『{{仮リンク|ヘレンニウスへ|en|Rhetorica ad Herennium|label=}}』に記載されている。記憶術は[[古代ローマ]]でも、[[元老院]]などでメモを使用しての弁論が認められていなかったなどの理由により発達した。
古代ギリシア・ローマの記憶術はその後、[[中世]][[ヨーロッパ]]に受け継がれ、主に[[修道士]]や[[神学者]]などが[[聖書]]やその他の多くの書物を記憶するために用いられた{{Sfn|カラザース|1997}}。当時は紙が貴重で、[[印刷]]技術も未発達であったため、卓越した記憶力を養うことは教養人の必要条件であった。[[ルネサンス]]期には、[[大航海時代]]や[[博物学]]の進展による「[[情報爆発]]」を背景に記憶術の需要が高まり<ref>{{Cite web|和書|title=情報爆発の時代に挑んだ人々|ちくま新書|桑木野 幸司|webちくま |url=https://www.webchikuma.jp/articles/-/2787 |website=webちくま |access-date=2022-12-11 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=空間から視る知の営み |url=https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/story/2018/75igyh |website=リソウ |access-date=2022-12-11 |language=ja |author=[[桑木野幸司]]}}</ref>、[[ライムンドゥス・ルルス]]や[[ジョルダーノ・ブルーノ]]によって記憶術が深化された{{Sfn|イエイツ|1993}}。また[[マテオ・リッチ]]が『{{仮リンク|西国記法|zh|西國記法}}』を著し中国に西洋の記憶術を伝えた{{Sfn|スペンス|1995}}{{Sfn|鶴ヶ谷|2019|loc=マテオ・リッチの『西国記法』}}。
ルネサンス期の後、記憶術は衰退するが、[[1960年代]][[ヴァールブルク研究所]]の[[フランセス・イエイツ]]や{{仮リンク|パオロ・ロッシ (思想史家)|it|Paolo Rossi Monti|label=パオロ・ロッシ}}によってその歴史が再発見された{{Sfn|桑木野|2018|p=11}}{{Sfn|イエイツ|1993}}。
=== 日本 ===
体の部位をもって、数に置き換えて、覚える・記憶する行為自体は[[縄文時代]]にまで遡る<ref name=":0" />。[[秋田県]][[鹿角市]]の縄文時代後期前葉(約4千年前)[[大湯環状列石]]の野中堂遺跡隣接地から出土した土版型[[土偶]]の刺突紋から、口を1、目を2、右胸を3、左胸を4、正中線を5、裏面の両耳で6といった風に体の部位で数を覚えていたことが明らかになっている<ref name=":0">『戦後50年 古代史発掘総まくり』 アサヒグラフ別冊1996年4月1日号 朝日新聞社 p.30</ref>。
伝説上、瞬間記憶に長けた人物としては、[[聖徳太子]]が知られている(『[[日本書紀]]』における「[[豊聡耳]]」伝説)。また、文字文化が普及していなかった段階での『[[古事記]]』の編纂には、記憶に長けた[[稗田阿礼]]が起用されたことが知られる。文字文化が普及した後代近世でも盲目の国学者である[[塙保己一]]が『[[群書類従]]』を編纂するなど(厳密には完成前に没している)、記憶に長けた人物による書物の編纂はみられる。
時代は下り、封建時代の[[忍者]]も記憶術に関して方法を記録しており、忍術書『当流奪口忍之巻註』、『心覚目録之事』には、「大袈裟にして覚えること」、「自分のよく知っているものと置き換えて覚える」ように記しており、地形・敵の強弱・人数・日の吉凶・月の出入り・潮の干満・方角・時刻などを覚えた<ref name=nin/>。また『当流奪口忍之巻註』では、「いろは一二三の事」で、いろはを数字や[[仏]]に置き換えて覚えるように記されており、忍術書『[[万川集海]]』にも「[[忍びいろは]]」と言って、[[漢字]]の[[部首]]と旁の組み合わせによって、いろは48文字を表した<ref name=nin>山田雄司 『忍者の歴史』 角川選書 2016年 p.176-177</ref>。
[[明治]]20年代頃([[1890年]]前後)には、[[立身出世]]主義を背景に「和田守記憶法」「島田記憶術」などの記憶術の書物が多数出版され、[[心霊術]]・[[催眠術]]と並ぶブームになった{{Sfn|岩井|1997}}<ref>多くは[[国立国会図書館デジタルコレクション]]で閲覧可能: [{{NDLDC|759666/1}} 島田記憶術]、[{{NDLDC|759549/1}} 記憶拡充論]、[{{NDLDC|759562/1}} 記臆力増進法]、[{{NDLDC|759560/1}} 記臆法]、[{{NDLDC|759569/1}} 健脳記憶法]</ref>。
=== 備考 ===
カセットテープやボイスレコーダーといった音声記録機器の登場以前、記憶に長ける必要性があった職業としては、接客業の[[ウェイトレス]]やジャーナリストの記者が挙げられ(特に前者は文盲の場合、記憶術の必要性が高い)、[[速記]]術も重視されたが、文法の簡略化・単語を一文字に置き換えるなどによって大量の情報を記憶する。また記憶が重要となる遊びとして、[[百人一首]]の[[かるた]]が挙げられる。
== 内容 ==
記憶術は、大きく2つの系統に分類できる。一つは、純粋に記憶のコツのようなものによって記憶の効率を上げる方法、もう一つは、[[人間]]の能力を向上させることによって記憶力を向上させる方法である。
シモニデスによってなされた、宴の座席とそこに座っていた人間とを対応させて記憶する「座の方法」(場所法)や、そこから派生した、物を掛けるためのフック(鈎)を想像して、これに記憶すべきものを対応させる「フックの方法」などが前者の例として知られる。
記憶術にとって大事な概念の一つに「分割」と「組み立て」が存在する。[[短期記憶]]は7±2の法則により、あまり多くの情報を一度に詰め込むとそれに対処できない。それゆえに膨大な情報を記憶する際にはそれをいくつかの短い断片に「分割」(チャンク化)して、各自にそれを記憶し、後にそれをつなげる「組み立て」を行うことで記憶を完成させるという概念である。学問としては[[認知心理学]]の対象である。
後者の例としては、視野の拡大や、[[右脳]]の活性化などによる方法や、記憶力の向上によい[[食品]]や生活スタイルの追求などがある。この中には学問的に証明されていない主張も多くしばしば[[ニセ科学]]になりやすい。とくに日本では[[脳科学]]と言われている。
また、復習の適切なタイミングについて、復習してから1日目、3日目、7日目、21日目、30日目、45日目、60日目の7回が最も効率的だという意見もある{{Sfn|池谷|2019|pp=28,29}}。
== 記憶術の例 ==
=== 場所法 ===
{{ill2|場所法|en|Method of loci}}とは、場所(自宅や実際にある場所でも、架空の場所でも良く、体の部位に配置する方法もある)を思い浮かべ、そこに記憶したい対象を置く方法である。「'''記憶の宮殿'''」「'''座の方法'''」「'''ジャーニー法'''」「'''基礎結合法'''」とも呼ばれる。記憶したい対象を空間に並べていく方法である。人間は例えば他人の家に行った場合でも、どこに何があったかは比較的よく覚えており、その性質を利用する。記憶したい対象が抽象的なものの場合は、置換法を使い、イメージしやすい対象に変換してから記憶する。<!-- 片手指法、両手指法、時計法などがある。-->
この方法は[[海馬 (脳)|海馬]]にある場所[[神経細胞|ニューロン]]の特性を利用している。場所ニューロンは名前のとおり、場所の記憶を司る。場所の記憶は動物にとって重要なため、長期記憶に保存されやすい性質を持っている。
その長所としては記憶の保持期間が他の記憶術と比較して著しく長いこと。欠点としては、一つの場所にあまり多くの情報を詰め込みすぎると混乱をきたすため、わずかな情報しか入れられないということ。そのため、充分な情報を詰め込めるだけの場所の確保に手間がかかるということである。[[記憶力大会|世界記憶力選手権]]の世界トップ選手は数百個程度のイメージを競技中に記憶している。
[[階層構造]]をなしているものを記憶する場合は、何フロアもあり、フロア内も部屋にわかれているものを場所に使うと記憶できる。この手法は「'''鈴なり式'''」とも呼ばれる。
場所法は、少なくとも上述の[[シモニデス]]の時代から知られている。[[コナン・ドイル]]の小説『[[緋色の研究]]』では、[[名探偵]][[シャーロック・ホームズ]]も使っていたとされる。江戸時代の[[随筆]]である[[長橋亦次郎|梅乃舎主人]]『梅の塵』にも似た方法が記されている{{Sfn|中務|2003|p=19}}。
=== SQ3R法<ref>{{Cite web |title=Improving Memory: Understanding age-related memory loss |url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/improving-memory-understanding-age-related-memory-loss |website=Harvard Health |access-date=2023-01-21 |language=en}}</ref> ===
==== 調査(survey) ====
まず、タイトル、イラスト、段落の最初の節、章末の練習問題などを調べて、学びたいことの概要を確認する<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=Learning How to Learn: Powerful mental tools to help you master tough subjects |url=https://www.coursera.org/learn/learning-how-to-learn |website=Coursera |access-date=2023-01-21 |language=ja}}</ref>。
===== 質問(question) =====
次に、学びたいことについて質問を作り、自分で答える。
===== 読む(read) =====
さらに、学びたいことについて熟読する。質問のときと違って、今度は今作った質問を意識して、細かく読んでいくことが必要である。下線は引かないほうがいい。
===== メモ(recall) =====
最後に、これがSQ3Rメソッドで最も重要な部分かもしれないが<ref>{{Cite web|和書|title=https://jp.coursera.org/lecture/learning-how-to-learn-youth/video-7-recall-yvcRl |url=https://jp.coursera.org/lecture/learning-how-to-learn-youth/video-7-recall-yvcRl |website=Coursera |access-date=2023-01-21 |language=ja}}</ref>、とにかく学んだことを思い出し、声に出して復唱すること。メモを取るのもよい<ref name=":1" />。
===== 復習(review) =====
次の日、矛盾があるかどうかについて調べてみること。そして質問のステップに戻る。数日後、数週後さらに復習すること。iDoRecallというソフトウェアを使うのもいい<ref>{{Cite web|和書|title=https://www.coursera.org/lecture/teaching-online/7-how-to-use-a-specific-retrieval-practice-app-idorecall-in-your-coursera-FNbdw |url=https://www.coursera.org/lecture/teaching-online/7-how-to-use-a-specific-retrieval-practice-app-idorecall-in-your-coursera-FNbdw |website=Coursera |access-date=2023-01-21 |language=ja}}</ref>。
=== 物語法 ===
物語を考え、その話に記憶したい対象を登場させる方法である。記憶したい項目を時間的に配列する方法である。
=== 頭文字法 ===
記憶したい対象の頭文字を取り出して覚える方法である。
=== アウトプット ===
普段見ている10円玉でも、柄をはっきりとは覚えていない。このように、情報を見たり聞いたりするような頭に情報をいれる勉強では勉強効率が落ちる。そのため、{{Harv|池谷|2019}}によれば頭から情報を出すアウトプットが効果的である(p.19)。
== 置換法 ==
人間は抽象的なものよりも具体的で視覚的にイメージしやすい物の方が覚えやすいので、数字などを別なものに置き換える方法。
=== 人-行動-対象システム ===
Person-Action-Object (PAO) System<ref>[http://mnemotechnics.org/wiki/Person-Action-Object_%28PAO%29_System Person-Action-Object (PAO) System - Memory Techniques Wiki<]</ref> と呼ばれる。まず、2桁(可能な人は3桁)の数字から、人・行動・対象への変換表を覚える。100×3個、合計300個覚える。すると、6桁の数字は、1組の人・行動・対象になり、イメージしやすくなる。これに場所法などを併用し、長い数列を記憶する。人・行動・対象への変換表はなるべくインパクトがあり、印象に残りやすく、かつ、相互に混同しにくいものを選ぶと覚えやすくなる。
たとえば、トランプのカードを覚える場合も、52枚のカードそれぞれに、人・行動・対象への変換表を覚えると、1つのイメージで3枚のカードが記憶でき、17イメージ+1枚で1組のトランプの順番を覚えられる。17イメージ+1枚を場所法などで記憶する。2018年現在、[[記憶力大会|世界記憶力選手権]]の世界記録では1組のトランプを13.96秒で記憶している。
=== 数字子音置換法 ===
'''メジャー記憶術'''ともよばれる<ref>[http://mnemotechnics.org/wiki/Major_System Major System - Memory Techniques Wiki]</ref>。数字を子音に置き換える方法である。子音と子音の間に適当な母音を補う。英語などのヨーロッパ系の言語で用いられる。数列を単語に置き換えられる。
* 0 → s, c(サ行の音), z
* 1 → t, d, th
* 2 → n
* 3 → m
* 4 → r
* 5 → l
* 6 → sh, ch, j, g(ヂャ行の音)
* 7 → k, c(カ行の音), g(ガ行の音), ng
* 8 → f, v
* 9 → p, b
=== 数字仮名置換法 ===
数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法を日本語用に改良したもの。
* 1 → [[あ行]] → あ、い、う、え、お
* 2 → [[か行]] → か、き、く、け、こ
* 3 → [[さ行]] → さ、し、す、せ、そ
* 4 → [[た行]] → た、ち、つ、て、と
* 5 → [[な行]] → な、に、ぬ、ね、の
* 6 → [[は行]] → は、ひ、ふ、へ、ほ
* 7 → [[ま行]] → ま、み、む、め、も
* 8 → [[や行]] → や、ゆ、よ
* 9 → [[ら行]] → ら、り、る、れ、ろ
* 0 → [[わ行]] → わ、ん、(ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ)
0がわ行だけでは少ないので、ぱ行も使う。
=== 語呂合わせ ===
数字を仮名に置き換える方法である。数字子音置換法よりも簡単に習得できるが、数字に対応する文字が少ないので、適当な文を作るのが大変であるが、日本語の場合、その自由度が高いので、一般に広く、たとえば電話番号などを憶えるのにも使われる。音読みと外来語とその変形をカタカナ、訓読みとその変形をひらがなで表す。[[語呂合わせ]]も参照。
* 1 → イチ、イ、ひと、ひ
* 2 → ニ、ふた、ふ
* 3 → サン、サ、み
* 4 → シ、よ
* 5 → ゴ、コ、いつ
* 6 → ロク、ロ、む
* 7→ シチ、なな、な
* 8 → ハチ、ハ、パ、バ、や
* 9 → キュウ、キュ、ク、ここの、ここ、こ
* 0 → レイ、レ、ゼロ、ゼ、まる、わ、ん、オー、オ
* 10 → ジュウ、ジュ、とお、と
* 100 → ヒャク、ヒャ、もも、も
* 1000 → セン、セ、ち
* 10000 → マン、よろず、よろ
0をアルファベットの[[O]]に見立ててオー、オとすることも見受けられる。
また1をアルファベットの[[I]](アイ)に見立てることもある。
==== 片手指法 ====
5の項目を片手の指に対応させて覚える方法である。
* 左手[[小指]] → 1
* 左手[[薬指]] → 2
* 左手[[中指]] → 3
* 左手[[人差し指]] → 4
* 左手[[親指]] → 5
==== 両手指法 ====
10の項目を両手の指に対応させて覚える方法である。
* 左手小指 → 1
* 左手薬指 → 2
* 左手中指 → 3
* 左手人差し指 → 4
* 左手親指 → 5
* 右手親指 → 6
* 右手人差し指 → 7
* 右手中指 → 8
* 右手薬指 → 9
* 右手小指 → 10
==== 時計法 ====
12の項目を[[時計]]の文字盤に対応させて覚える方法である。
* {{0}}1時 → 1
* {{0}}2時 → 2
* {{0}}3時 → 3
* {{0}}4時 → 4
* {{0}}5時 → 5
* {{0}}6時 → 6
* {{0}}7時 → 7
* {{0}}8時 → 8
* {{0}}9時 → 9
* 10時 → 10
* 11時 → 11
* 12時 → 12
=== 音韻法 ===
数字をその数字と韻を踏む単語に置き換える方法である。
* {{0}}1 → one → sun,fun,gun,nun
* {{0}}2 → two → shoe,Jew
* {{0}}3 → three → tree,bee,key,tea
* {{0}}4 → four → door,core
* {{0}}5 → five → live
* {{0}}6 → six → sticks
* {{0}}7 → seven → heaven
* {{0}}8 → eight → gate,date,fate,mate
* {{0}}9 → nine → line,sign,pine,wine
* 10 → ten → pen,men,hen
=== 形態法 ===
数字をその数字に似た形に置き換える方法である。
* 1 → 鉛筆、煙突
* 2 → アヒル
* 3 → 耳、唇
* 4 → ヨット
* 5 → 鍵
* 6 → さくらんぼ
* 7 → がけ、鎌
* 8 → だるま
* 9 → オタマジャクシ
* 0 → 卵
== 出典 ==
<references />
== 参考文献 ==
(出版年順)
*{{Cite book |和書 |author=フランシス・イエイツ|authorlink=フランシス・イエイツ |coauthors= |translator=[[青木信義]]・[[篠崎実]]・[[玉泉八州男]]・[[井出新]]・[[野崎睦美]] |date=1993-06 |title=記憶術 |publisher=[[水声社]] |isbn=978-4-89176-252-0 |ref={{Harvid|イエイツ|1993}} }}
*{{Citation|和書|title=マッテオ・リッチ 記憶の宮殿|last=スペンス|year=1995|translator=[[古田島洋介]]|author-mask=[[ジョナサン・スペンス]]|publisher=[[平凡社]]}}
*{{Cite book |和書 |author=岩井洋|authorlink=岩井洋 |date=1997-01 |title=記憶術のススメ 近代日本と立身出世 |publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4-7872-3132-1 |ref={{Harvid|岩井|1997}} }}
*{{Cite book |和書 |author=メアリー・カラザース|authorlink=メアリー・カラザース |coauthors= |translator=[[別宮貞徳]] |date=1997-10 |title=記憶術と書物 中世ヨーロッパの情報文化 |publisher=[[工作舎]] |isbn=978-4-87502-288-6 |ref={{Harvid|カラザース|1997}} }}
*{{Citation|和書|title=饗宴のはじまり 西洋古典の世界から|last=中務|first=哲郎|author-link=中務哲郎|year=2003|origyear=1999|publisher=岩波書店|chapter=キケローと記憶術|isbn=9784000225281}}
*{{Cite book|和書|title=勉強脳の作り方|year=2019|publisher=日本図書センター|Ref={{RefSfn|池谷|2019}}|author=池谷裕二}}
*{{Cite book|和書|title=記憶術全史 ムネモシュネの饗宴|date=|year=2018|publisher=[[講談社]]〈[[講談社選書メチエ]]〉|author=桑木野幸司|authorlink=桑木野幸司}}
*{{Citation|和書|title=記憶の箱舟 または読書の変容|last=鶴ヶ谷|first=真一|author-link=鶴ヶ谷真一|year=2019|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560097014}}
== 関連項目 ==
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*{{ill2|掛けくぎ法|en|Mnemonic peg system}}
*{{ill2|連想記憶術|en|Mnemonic link system}}
*{{ill2|場所法|en|Method of loci}}(ロキ・メソッド)
*{{ill2|数字変換法|en|Mnemonic major system}}
*{{ill2|ドミニク法|en|Dominic system}}
*{{ill2|ニクトグラフィ|en|Nyctography}}
*[[頭字語]]
*[[メモ帳]]
*{{ill2|空間記憶|en|Spatial memory}}
*[[記憶力大会]]
*[[メモリースポーツ]]
*[[脳力トレーニング]]
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== 外部リンク ==
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柳沼行
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柳沼 行(やぎぬま こう、1973年2月14日 - )は、日本の漫画家。東京都千代田区飯田橋出身。
19歳から20歳の頃に『週刊少年ジャンプ』(集英社)の新人賞に応募し、審査員特別賞を受賞する。しかし、それ以降、しばらくの間執筆活動を行わず、その後『ビジネスジャンプ』(集英社)及び『コミックフラッパー』(メディアファクトリー)の新人賞にほぼ同時期に応募、『ビジネスジャンプ』では佳作を受賞するものの、『コミックフラッパー』では最終選考止まりだった。この時、どちらの雑誌でも担当がつく事になったが柳沼も自身の執筆速度を考え、月刊誌の『コミックフラッパー』を活動の場に定めた。
2000年6月発売の『コミックフラッパー』7月号に掲載された「2015年の打ち上げ花火」が話題を呼ぶ。この作品が柳沼にとって商業誌デビュー作品である。
「2015年の打ち上げ花火」は母親をロケット事故で亡くした小学1年生の女の子と、彼女を巡る人々の物語であった。この舞台設定を活かす形で同誌上に他4作の読み切り作品を掲載。
2001年9月発売の『コミックフラッパー』10月号から初連載となる「ふたつのスピカ」が始まり、2009年8月発売の9月号を以って完結した。8年間、全16巻の長期連載となった。これも「2015年の打ち上げ花火」の舞台設定を用いた作品である。
「ふたつのスピカ」は2003年11月1日より2004年3月27日までNHK BS-2でアニメ化され放映された。この作品のエンディングイラストも柳沼が手がけている。また、2009年6月18日より7月30日まで桜庭ななみの主演でNHKからテレビドラマ化もされた。
『コミックフラッパー』2010年10月号から江戸時代初期を舞台とした漫画作品「群緑の時雨」が連載され、2013年3月号を以って完結した。
漫画家の大石まさるとは中学時代の同級生で、現在でも交流がある。
生まれつき聴覚に障害があり、音が聞き取りにくい(完全に聞こえないわけではない。)。そのため、『コミックフラッパー』誌上での新海誠監督との対談では新海監督の言っている事が聞き取れず、生返事をしていたという(対談掲載号のコラムより。)。
アシスタント経験がなく、また自身もアシスタントを持たない(2009年のインタビュー時。)。
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柳沼 行は、日本の漫画家。東京都千代田区飯田橋出身。
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[[2000年]]6月発売の『コミックフラッパー』7月号に掲載された「2015年の打ち上げ花火」が話題を呼ぶ。この作品が柳沼にとって商業誌デビュー作品である。
「2015年の打ち上げ花火」は母親をロケット事故で亡くした小学1年生の女の子と、彼女を巡る人々の物語であった。この舞台設定を活かす形で同誌上に他4作の読み切り作品を掲載。
[[2001年]]9月発売の『コミックフラッパー』10月号から初連載となる「[[ふたつのスピカ]]」が始まり、[[2009年]]8月発売の9月号を以って完結した。8年間、全16巻の長期連載となった。これも「2015年の打ち上げ花火」の舞台設定を用いた作品である。
「ふたつのスピカ」は[[2003年]][[11月1日]]より[[2004年]][[3月27日]]まで[[日本放送協会|NHK]] BS-2で[[アニメ化]]され放映された。この作品のエンディングイラストも柳沼が手がけている。また、[[2009年]][[6月18日]]より[[7月30日]]まで[[桜庭ななみ]]の主演でNHKからテレビドラマ化もされた。
『コミックフラッパー』[[2010年]]10月号から[[江戸時代]]初期を舞台とした漫画作品「[[群緑の時雨]]」が連載され、[[2013年]]3月号を以って完結した。
== 人物 ==
漫画家の[[大石まさる]]とは中学時代の同級生で、現在でも交流がある。
生まれつき聴覚に障害があり、音が聞き取りにくい(完全に聞こえないわけではない。)。そのため、『コミックフラッパー』誌上での[[新海誠]]監督との対談では新海監督の言っている事が聞き取れず、生返事をしていたという(対談掲載号のコラムより。)。
[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]経験がなく、また自身もアシスタントを持たない(2009年のインタビュー時。)<ref name="amusement" />。
== 作品リスト ==
* [[ふたつのスピカ]]([[コミックフラッパー]] 2001年10月号 - 2009年9月号、全16巻)
* [[群緑の時雨]](コミックフラッパー 2010年10月号 - 2013年3月号、全4巻)
* [[ほしのこえ]](ノベライズ版挿絵)
== 出典 ==
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== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20150510230705/http://www.amgakuin.co.jp/contents/?p=4491&author=10&cat=3 アミューズメントメディア総合学院によるインタビュー]
* [https://web.archive.org/web/20070219034323/http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/comicinterview/yaginuma_k/ 楽天ブックスによるインタビュー]{{リンク切れ|date=2018年6月}}
* [https://natalie.mu/comic/pp/gunryoku コミックナタリーによるインタビュー]
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土田世紀
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土田 世紀(つちだ せいき、1969年3月21日 - 2012年4月24日)は、日本の漫画家。
秋田県平鹿郡大森町(現在の横手市大森町)出身。男性。秋田市立秋田南中学校、秋田県立新屋高等学校卒業。
幼い頃はそれほど漫画を読んでいたわけではなく、姉や友人が買ったものを読ませてもらう程度で、数を読むようになったのも漫画家としてデビューした後だった。絵に関しても近所に住んでいた人間から基礎を教わった程度だったが、絵を描くことはむしろ得意な方であり、科学技術庁長官賞を受賞したこともあったという。漫画らしきものを描き始めたのは高校生になってからで、その頃からクラスの仲間に見せてまわっていた。また高校時代の土田には自分の描いた不良たちのような一面もあり、「気合いの入った」髪型にするだけでなく、飲酒運転や無免許運転で捕まることもしばしばだった。高校2年生の時に、ニューヨークを舞台にした青春ストーリーを『漫画アクション』の新人賞に応募し、奨励賞を受賞した。
1986年、『残暑』にて『モーニング』ちばてつや賞一般部門・入選を受賞、次いで『未成年』(第3話として収録)にて『月刊アフタヌーン』四季賞を受賞した。『未成年』の舞台は東北であり(奨励賞を獲ったニューヨークと同じく)都市に対置される地方人の「泥臭さ」をテーマとして意識するようになる。実際に土田はインタビューで「僕が何を描いても泥臭くなっちゃうと思うんですよ。特に舞台がどこっていうのを意識しているわけじゃないんだけど」と語っている。
主な作品に『俺節』『編集王』『ギラギラ』『同じ月を見ている』など。ヒットが続き、1990年代半ばには一週間に2日しか家に帰れない日々が続いた。『同じ月を見ている』は、平成11年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。2005年には窪塚洋介主演で映画化もされた。2000年に『編集王』がフジテレビでドラマ化。2008年に『ギラギラ』がテレビ朝日でドラマ化。2017年に「俺節」が舞台化。
2012年4月24日、滋賀県栗東市の自宅で死去。43歳没。死因は肝硬変。漫画家の西原理恵子によれば、20代の頃から酒が入ってないと他人に会えないようなアルコール使用障害気味のタイプだったという。
結婚はしていたが、土田の希望により妻の存在は明らかにしていなかった。籍を入れない事実婚であったため、妻は葬儀では喪主を務めなかった。
『週刊漫画ゴラク』連載中の『かぞく』が遺作となった。亡くなる直前まで『夜回り先生』の最新作を執筆中だった。
母校である秋田県立新屋高等学校には、土田のサイン色紙が展示されている。
土田自身が「泥臭い」と自嘲するように、その作風はしばしば時代錯誤的であったり「反トレンド」だとされている。たしかに世間や大勢に反発する登場人物たちは、涙や怒りを我慢しないが、それは単なる一手法ではなく、「人は本気で泣いたり笑ったり出来るし、そうしたいと思っている」という土田の哲学によるものである。そしてストーリーが時代に逆行するような泥臭い展開をみせても、読者はそこに溢れる感情の流れに快いカタルシスを感じてしまうのである。また、この横溢する感情は作画によっても表現されている。例えば夏目房之介は、土田の描く服のシワや顔の陰影が、「非常にしつこい」上、「演歌のような」重さがあることを指摘し、それが主人公の感情やコマの流れと連動して、巧みに(鉛筆によるデッサン画からほとんど白っぽい画面まで)軽重が変わりカタルシスにつながると述べている。夏目によれば、このように絵と感情とを同期させて凝縮し、読者を「掴む」ことこそ土田の真骨頂である。
少年時代に特に漫画を読んでたわけではなく、漫画家の友人も特にいない土田が好む作家は宮沢賢治であり、しばしば作中にも登場している。『同じ月を見ている』の主人公の水代元は宮沢賢治がモデルであり、作品の中にも、自分を勘定に入れない生き方(『雨ニモマケズ』)や、この身を何度焼かれたって構わない(『銀河鉄道の夜』)、世界全体が幸せにならない内は、個人の幸せはありえない等、宮沢賢治の詩や言葉が引用されている。直接の引用だけでなく、「自己犠牲」といったテーマにも共通するところが見い出せる。
浜田省吾の大ファンとしても知られ、『俺節』に浜田をモデルとしたキャラクター「浜田山翔」が登場する他、1998年〜1999年にはファンクラブ会報の表紙漫画を担当していた。
また新沼謙治の大ファンでもあり、演歌の世界を描いた出世作『俺節』の作品中には新沼の「おもいで岬」「嫁に来ないか」「ヘッドライト」「北の故郷」「情け川」「津軽恋女」「さよなら橋」「渋谷ものがたり」などが登場するほか、主人公・コージのキャラクターも新沼を思わせるものとなっている。また土田は、2010年刊行された『定本 俺節』上・中巻(太田出版)掲載のメールインタビューの中で、CD化して欲しい新沼の作品として、1976年発売のアルバム『望郷詩集』の収録曲「春陽炎」と、1977年発売のライブ盤『新沼謙治みちのく帰行』を挙げていた。
代表作の『編集王』は、情熱的な新人編集者と、データ主義の編集長との対立を通じながら漫画への愛が語られていく作品。漫画の世界の裏方ともいえる出版社や編集者をメインにすえ、アンケート至上主義や、有害コミック論争などの内幕的なテーマも正面から描いている。主人公のモデルともなった編集者の八巻和弘が原案をつとめており、その影響は大きいとされている。エピソードやキャラクターは八巻が実際に経験した話を土田が膨らませる形がとられた。そのためキャラクターなどに特定のモデルはいないという。
『編集王』はそのテーマゆえに話題を呼んだが、様々な事情があり、中途半端な状態で終了せざるを得なかった。
以下のリストは『土田世紀 43年、18,000枚の生涯』掲載の『土田世紀作品一覧(最新研究版)』に基づく。
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土田 世紀は、日本の漫画家。
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| 公式サイト =
}}
'''土田 世紀'''(つちだ せいき、[[1969年]][[3月21日]] - [[2012年]][[4月24日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。
== 人物 ==
[[秋田県]][[平鹿郡]][[大森町 (秋田県)|大森町]](現在の[[横手市]]大森町)出身。男性。[[秋田市立秋田南中学校]]、[[秋田県立新屋高等学校]]卒業。
幼い頃はそれほど漫画を読んでいたわけではなく、姉や友人が買ったものを読ませてもらう程度で、数を読むようになったのも漫画家としてデビューした後だった<ref name="別冊宝島136">別冊宝島(409) p.136</ref>。絵に関しても近所に住んでいた人間から基礎を教わった程度だったが<ref name="BUBKA">BUBKA pp.18-20.</ref>、絵を描くことはむしろ得意な方であり、科学技術庁長官賞を受賞したこともあったという<ref name="別冊宝島136"/>。漫画らしきものを描き始めたのは高校生になってからで、その頃からクラスの仲間に見せてまわっていた。また高校時代の土田には自分の描いた不良たちのような一面もあり<ref>「土田世紀インタビュー」『マンガ狂い咲き』コアマガジン、1998年、p.226</ref>、「気合いの入った」髪型にするだけでなく、飲酒運転や無免許運転で捕まることもしばしばだった<ref>キネ旬ムック p.203</ref>。高校2年生の時に、ニューヨークを舞台にした青春ストーリー<ref name="別冊宝島137">別冊宝島(409) p.137</ref>を『漫画アクション』の新人賞に応募し、奨励賞を受賞した<ref name="別冊宝島136"/>。
[[1986年]]、『残暑』にて『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』[[ちばてつや賞]]一般部門・入選を受賞、次いで『未成年』(第3話として収録)にて『[[月刊アフタヌーン]]』[[四季賞]]を受賞した。『未成年』の舞台は東北であり(奨励賞を獲ったニューヨークと同じく)都市に対置される地方人の「泥臭さ」をテーマとして意識するようになる。実際に土田はインタビューで「僕が何を描いても泥臭くなっちゃうと思うんですよ。特に舞台がどこっていうのを意識しているわけじゃないんだけど」と語っている<ref name="別冊宝島137"/>。
主な作品に『[[俺節]]』『[[編集王]]』『[[ギラギラ (漫画)|ギラギラ]]』『[[同じ月を見ている]]』など。ヒットが続き、[[1990年代]]半ばには一週間に2日しか家に帰れない日々が続いた<ref>『マンガ狂い咲き』p.219</ref>。『同じ月を見ている』は、[[1999年|平成11年]]度[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞。[[2005年]]には[[窪塚洋介]]主演で映画化もされた。[[2000年]]に『編集王』が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]でドラマ化。[[2008年]]に『ギラギラ』が[[テレビ朝日]]でドラマ化。[[2017年]]に「[[俺節]]」が舞台化。
[[2012年]][[4月24日]]、[[滋賀県]][[栗東市]]の自宅で死去<ref name="ns">[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20120427-941253.html 『編集王』の土田世紀氏が死去] [[日刊スポーツ]] [[2012年]][[4月27日]]閲覧。</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%c5%da%c5%c4%c0%a4%b5%aa&k=201204/2012042700914 時事ドットコム:土田世紀氏死去(漫画家)] [[時事通信社|時事ドットコム]] [[2012年]][[4月29日]]閲覧。</ref>。{{没年齢|1969|3|21|2012|4|24}}。死因は[[肝硬変]]<ref name="ns" />。漫画家の[[西原理恵子]]によれば、20代の頃から酒が入ってないと他人に会えないような[[アルコール依存症|アルコール使用障害]]気味のタイプだったという<ref>西原理恵子、[[吾妻ひでお]]『実録!あるこーる白書』[[徳間書店]]、2013年、p.197</ref>。
結婚はしていたが、土田の希望により妻の存在は明らかにしていなかった。籍を入れない[[事実婚]]であったため、妻は葬儀では喪主を務めなかった。
『[[週刊漫画ゴラク]]』連載中の『かぞく』が遺作となった。亡くなる直前まで『夜回り先生』の最新作を執筆中だった<ref>[http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/editors_recommend2.asp#review005 ebookjapan編集長のおススメ]</ref>。
母校である[[秋田県立新屋高等学校]]には、土田のサイン色紙が展示されている。
== 作風 ==
土田自身が「泥臭い」と自嘲するように、その作風はしばしば時代錯誤的であったり「反トレンド」だとされている<ref>[[いしかわじゅん]]も土田の同じことを指摘しているが、『未成年』など初期の作品のほうがなぜか泥臭さは薄く、大友克洋の初期の画風を連想させるとしている 『漫画の時間』晶文社、1995年 p.248</ref><ref name="yawa202">キネ旬ムック p.202</ref>。たしかに世間や大勢に反発する登場人物たちは、涙や怒りを我慢しないが<ref name="yawa203">キネ旬ムック p.203</ref>、それは単なる一手法ではなく、「人は本気で泣いたり笑ったり出来るし、そうしたいと思っている」という土田の哲学によるものである<ref name="yawa202"/>。そしてストーリーが時代に逆行するような泥臭い展開をみせても、読者はそこに溢れる感情の流れに快いカタルシスを感じてしまうのである<ref name="yawa203"/>。また、この横溢する感情は作画によっても表現されている。例えば[[夏目房之介]]は、土田の描く服のシワや顔の陰影が、「非常にしつこい」上、「演歌のような」重さがあることを指摘し、それが主人公の感情やコマの流れと連動して、巧みに(鉛筆によるデッサン画からほとんど白っぽい画面まで)軽重が変わりカタルシスにつながると述べている<ref>キネ旬ムック pp.142-145</ref>。夏目によれば、このように絵と感情とを同期させて凝縮し、読者を「掴む」ことこそ土田の真骨頂である<ref>キネ旬ムック p.143</ref>。
少年時代に特に漫画を読んでたわけではなく、漫画家の友人も特にいない土田が好む作家は[[宮沢賢治]]であり<ref>『マンガ狂い咲き』p.241</ref>、しばしば作中にも登場している。『[[同じ月を見ている]]』の主人公の水代元は宮沢賢治がモデルであり、作品の中にも、'''自分を勘定に入れない生き方'''(『[[雨ニモマケズ]]』)や、'''この身を何度焼かれたって構わない'''(『[[銀河鉄道の夜]]』)、'''世界全体が幸せにならない内は、個人の幸せはありえない'''等、宮沢賢治の詩や言葉が引用されている。直接の引用だけでなく、「自己犠牲」といったテーマにも共通するところが見い出せる<ref>キネ旬ムック p.213</ref>。
[[浜田省吾]]の大ファンとしても知られ、『[[俺節]]』に浜田をモデルとしたキャラクター「浜田山翔」が登場する他、[[1998年]]〜[[1999年]]にはファンクラブ会報の表紙漫画を担当していた。
また[[新沼謙治]]の大ファンでもあり、演歌の世界を描いた出世作『[[俺節]]』の作品中には新沼の「おもいで岬」「嫁に来ないか」「ヘッドライト」「北の故郷」「情け川」「津軽恋女」「さよなら橋」「渋谷ものがたり」などが登場するほか、主人公・コージのキャラクターも新沼を思わせるものとなっている。また土田は、2010年刊行された『定本 俺節』上・中巻([[太田出版]])掲載のメールインタビューの中で、CD化して欲しい新沼の作品として、1976年発売のアルバム『望郷詩集』の収録曲「春陽炎」と、1977年発売のライブ盤『新沼謙治みちのく帰行』を挙げていた。
===『編集王』===
{{main|編集王}}
代表作の『編集王』は、情熱的な新人編集者と、データ主義の編集長との対立を通じながら漫画への愛が語られていく作品。漫画の世界の裏方ともいえる出版社や編集者をメインにすえ、アンケート至上主義や、有害コミック論争などの内幕的なテーマも正面から描いている。主人公のモデルともなった編集者の[[八巻和弘]]が原案をつとめており<ref>キネ旬ムック p.214</ref>、その影響は大きいとされている<ref>キネ旬ムック p.126</ref>。エピソードやキャラクターは八巻が実際に経験した話を土田が膨らませる形がとられた<ref name="BUBKA"/>。そのためキャラクターなどに特定のモデルはいないという<ref>一方で土田は、マンボ好塚は複数のベテラン漫画家の欠点を集めてつくられたキャラクターだが、中心的なモデルは存在すると明言している BUBKA p.19</ref>。
『編集王』はそのテーマゆえに話題を呼んだが、様々な事情があり、中途半端な状態で終了せざるを得なかった<ref name="manga166">ゲーム編は流通の面でもっと深く掘り下げられるはずだった。『マンガ狂い咲き』p.166</ref>。
{{Quotation|
〔土田は〕ものすごい才能を持った、出来の悪い男。そう、ある意味彼こそがマンボ好塚<ref group="注">『編集王』に登場する大御所漫画家。才能がありながら怠惰に過ごしている</ref>なんですよ|八巻和弘が土田を評して<ref>キネ旬ムック p.213(初出は『BUBUKA』創刊号)</ref>}}
== 作品リスト ==
以下のリストは『土田世紀 43年、18,000枚の生涯』掲載の『土田世紀作品一覧(最新研究版)』に基づく<ref name="sakuhin-list">『土田世紀 43年、18,000枚の生涯』(世紀のプロジェクト編、2014年) pp.320-323</ref>。
* やりきれない気持 - 未発表(『土田世紀 43年、18,000枚の生涯』(単行本、[[2014年]])に収録) : 原稿裏に「16歳高校二年」の書き込みあり
* 未成年 - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』([[1986年]])→『[[月刊アフタヌーン]]』([[1987年]])→『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』(1987年 - [[1988年]]) : デビュー作
* 卒業 - 『モーニング』(1987年)
* 百姓の血 - 詳細不明(1987年)
* 永ちゃん - 『月刊アフタヌーン』(1988年 - [[1989年]])
* タックルBEAT - 『月刊アフタヌーン』(1989年 - [[1990年]])
* ハタチ - 『シンバッド』(1990年 - [[1991年]])→『ヤングクラブ』(1991年)
* V8人生 - 『モーニング』(1990年)
* 高(たか) - 『モーニング』(1990年)、原作:[[仲村雅彦]]
* ツッチーのラグビーでドン - 『タックルBEAT』(単行本、1990年) : 描き下ろし
* ツッチーのラグビーでポン - 『タックルBEAT』(単行本、1990年) : 描き下ろし
* ツッチーの極道をかいま見る - 『高 (1巻)』(単行本、1990年) : 描き下ろし
* [[俺節]] - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』(1991年 - [[1993年]])
* せっかちピンちゃん - 『パチンカーワールド』(1991年 - 1993年)
* 鯱-シャチ - 『コミックGiga』(1991年)
* まめから節 - 『ビッグコミックスピリッツ』(1991年)
* デブ - 『ビッグコミックスピリッツ』(1991年)
* 鐘 - 『Men's漫画アクション』(1991年 - [[1992年]])
* おいでベタ坊 - 『[[ミスターマガジン]]』(1991年 - 1992年)
* tell me. - 『[[週刊ヤングサンデー]]』(1992年)
* 逆子 - 『[[近代麻雀|近代麻雀オリジナル]]』(1992年)
* ショッポ(単行本収録時に「湯けむりBUSYバンバン!!」に改題) - 『[[ビッグコミックスペリオール]]』(1992年)
* 営業猿 - 『ミスターマガジン』(1992年)
* おセンチ極道魂一発 - 『[[グランドチャンピオン (雑誌)|グランドチャンピオン]]』(1992年)
* 晩年ダイナマイツ - 『漫画ジャパン』(1992年)
* おはよう - 『モーニング』(1992年 - 1993年)
* [[競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬|競馬狂走伝 ありゃ馬こりゃ馬]] - 『[[ヤングマガジン増刊エグザクタ]]』(1993年)→『[[週刊ヤングマガジン]]』(1993年 - [[1999年]])、原作:[[田原成貴]]
* 任侠ぶたれ豚 - 『週刊ヤングマガジン』(1993年)
* うぉ~ッ苦マン - 『ビッグコミックスピリッツ増刊ビッグコミックスピリッツ21』(1993年)
* パチンコ断末魔 - 『パチンカーワールド』(1993年)
* パチンポ - 『パチンカーワールド』(1993年 - [[1998年]])
* キャッチボール - 『ビッグコミックスピリッツ増刊ビッグコミックスピリッツ21』(1993年)
* 異邦人 - 『モーニング』(1993年 - [[1994年]])
* 東京ナッツ - 『パチンカーワールド』(1993年)
* [[編集王]] - 『ビッグコミックスピリッツ』(1994年 - [[1997年]])
* ゴルバ13 - 『[[みこすり半劇場]]』(1994年 - [[1995年]])→『[[ホラーM]] 11月16日増刊号 ミステリー劇場』([[1996年]])
* 病み打ち - 『漫画雀王』(1994年)
* マンボ好塚の知床番長 - 『パチンカーワールド』(1995年)
* ツッチーのダンディー気質 - 『ヤングテイオー』(1995年)
* ぬかずヌルハチ - 『[[COMIC CUE]]』(1996年)
* バカ - 『週刊ヤングサンデー』(1996年)
* 本音トーク - 『[[月刊コミックビンゴ]]』(1996年)
* せっかちピンちゃん - 『パチンカーワールド』(1996年)
* 競馬場の人たち / 競馬場の人たち 地底王国編 - 詳細不明(1996年)
* 眺めのいい教室 - 『[[月刊ヤングマガジン|ヤングマガジン増刊 赤BUTA]]』(1997年)
* THE BON - 『せっかちピンちゃん』(単行本、1997年): 描き下ろし
* [[水の中の月]] - 『ヤングマガジン増刊エグザクタ』(1997年)→『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』(1997年 - 1998年)
* 日本ダービーブックメーカー - 『ヤングマガジン増刊エグザクタ』(1997年)
* リアス式ブックメーカー - 『ヤングマガジン増刊エグザクタ』(1997年)
* [[同じ月を見ている]] - 『週刊ヤングサンデー』(1998年 - [[2000年]]) : 平成11年度[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞
* 春の夢 - 『月刊コミックビンゴ』(1998年)、原作:[[宮本輝]]
* あいつ雲 - 『COMIC P!』(1998年)
* [[俺のマイボール]] - 『[[漫画アクション]]』(2000年)
* 月球~MOONLIGHT BASEBALL - 『ヤングマガジンアッパーズ』(2000年 - [[2001年]])
* もう恋なんてしない - 『[[月刊ヤングマガジン|別冊ヤングマガジン]]』(2000年)
* ルート77 もうひとつの尾崎豊物語… - 『[[コミックGOTTA]]』(2000年 - 2001年)
* 吉祥寺モホ面 - 『[[コミックバウンド]]』(2000年)→『土田世紀単行本未収録傑作集1 吉祥寺モホ面』(単行本、[[2008年]])
* 帰ってきた編集王 - 『ビッグコミックスピリッツ』(2000年)
* 嫁に来ないか - 『[[週刊ヤングマガジン]]』(2000年)
* [[雲出づるところ]] - 『モーニング』(2000年)
* 俺の生き方 - 『[[ヤングチャンピオン]]』(詳細不詳、2001年)
* ノーサンキュー ノーサンキュー - 『[[月刊IKKI|スピリッツ増刊 IKKI]]』([[2002年]])
* HOT MOON - 『ビッグコミックスペリオール』(2002年)
* 恋はどうだい - 『モーニング』(2002年)
* [[¥マネーの虎#漫画|マネーの虎]] - 『マネーの虎』(単行本、2002年)、共著者:[[栗原甚]] : 描き下ろし
* [[ギラギラ (漫画)|ギラギラ]] - 『ビッグコミックスペリオール』(2002年 - [[2004年]])、原作:[[滝直毅]]
* キャット空中一時停止 - 『別冊モーニング』(2004年)
* [[夜回り先生 (漫画)|夜回り先生]] - 『[[月刊IKKI]]』(2004年 - [[2009年]])→『夜回り先生 希望編』(単行本、[[2012年]])、原作:[[水谷修]]
* サンボマスター - 『[[Quick Japan]]』([[2005年]])
* 俺のまんが道 - 『モーニング』([[2006年]] - [[2009年]])
* 生きても生きても雨(単行本収録時に「現金を燃やす会」に改題) - 『[[まんが王国|ケータイ★まんが王国]]』([[menue]]サイト内、2008年 - [[2011年]])
* かぞく - 『[[週刊漫画ゴラク]]』(2011年 - 2012年)
* 俺の俺節 - 『定本 俺節 (下巻)』(単行本、2012年) : 描き下ろし
* 北海道ラーメン紀行 / 荻窪ラーメン紀行 / 札幌ラーメンカニ紀行 / いわきハワイアン紀行 / 美浦お正月紀行 - 詳細不明
* 競馬名馬コミック - 詳細不明
* レッツ・秋田 - 詳細不明
* ツッチーのカナダでドン - 『モーニング』(詳細不明)
=== イラスト ===
* [[中央競馬]]
* [[ココリコミラクルタイプ]]
* [[アンチェイン梶]](映画「アンチェイン」ポスター、2001年)
== 単行本 ==
{{div col|colwidth=22em}}
*未成年(アフタヌーンKCDX)(1988年6月、講談社)
*永チャン(アフタヌーンKC)(1989年6月、講談社)
*タックルBEAT(アフタヌーンKC)(1990年1月、講談社)
*高 (1)(モーニングKC)(1990年12月、講談社)
*高 (2)(モーニングKC)(1991年1月、講談社)
*俺節 (1)(ビッグコミックス)(1991年8月、小学館)
*俺節 (2)(ビッグコミックス)(1991年11月、小学館)
*俺節 (3)(ビッグコミックス)(1992年2月、小学館)
*俺節 (4)(ビッグコミックス)(1992年5月、小学館)
*卒業(バンブーコミックス)(1992年6月、竹書房)
*俺節 (5)(ビッグコミックス)(1992年9月、小学館)
*俺節 (6)(ビッグコミックス)(1992年12月、小学館)
*俺節 (7)(ビッグコミックス)(1993年3月、小学館)
*俺節 (8)(ビッグコミックス)(1993年5月、小学館)
*俺節 (9)(ビッグコミックス)(1993年6月、小学館)
*編集王 (1)(ビッグコミックス)(1994年5月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (1)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1994年7月、講談社)
*編集王 (2)(ビッグコミックス)(1994年10月、小学館)
*編集王 (3)(ビッグコミックス)(1994年11月、小学館)
*編集王 (4)(ビッグコミックス)(1995年1月、小学館)
*編集王 (5)(ビッグコミックス)(1995年6月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (2)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1995年6月、講談社)
*編集王 (6)(ビッグコミックス)(1995年7月、小学館)
*編集王 (7)(ビッグコミックス)(1995年10月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (3)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1995年12月、講談社)
*編集王 (8)(ビッグコミックス)(1996年1月、小学館)
*編集王 (9)(ビッグコミックス)(1996年4月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (4)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1996年4月、講談社)
*編集王 (10)(ビッグコミックス)(1996年6月、小学館)
*編集王 (11)(ビッグコミックス)(1996年8月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (5)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1996年9月、講談社)
*編集王 (12)(ビッグコミックス)(1996年11月、小学館)
*鯱(ぶんか社コミックス)(1996年12月、ぶんか社)
*せっかちピンちゃん(白夜コミックス)(1996年12月、白夜書房)
*鐘(文春コミックス)(1996年12月、文藝春秋)
*ありゃ馬こりゃ馬 (6)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1996年12月、講談社)
*編集王 (13)(ビッグコミックス)(1997年4月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (7)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1997年4月、講談社)
*編集王 (14)(ビッグコミックス)(1997年6月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (8)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1997年8月、講談社)
*編集王 (15)(ビッグコミックス)(1997年9月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 馬のことならタバラに聞け!!(原作:田原成貴)(KCDX)(1997年10月、講談社)
*編集王 (16)(ビッグコミックス)(1997年12月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (9)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1997年12月、講談社)
*ありゃ馬こりゃ馬 (10)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1998年4月、講談社)
*春の夢(原作:宮本輝)(文春コミックス)(1998年6月、文藝春秋)
*ありゃ馬こりゃ馬 (11)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1998年9月、講談社)
*同じ月を見ている (1)(ヤングサンデーコミックス)(1998年11月、小学館)
*水の中の月 (1)(アッパーズKC)(1998年11月、講談社)
*ありゃ馬こりゃ馬 (12)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1998年12月、講談社)
*同じ月を見ている (2)(ヤングサンデーコミックス)(1999年2月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (13)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1999年3月、講談社)
*同じ月を見ている (3)(ヤングサンデーコミックス)(1999年5月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (14)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1999年5月、講談社)
*ありゃ馬こりゃ馬 (15)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1999年6月、講談社)
*ありゃ馬こりゃ馬 (16)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1999年7月、講談社)
*同じ月を見ている (4)(ヤングサンデーコミックス)(1999年8月、小学館)
*ありゃ馬こりゃ馬 (17)(原作:田原成貴)(ヤングマガジンKCSP)(1999年10月、講談社)
*ありゃ馬こりゃ馬で勝ち馬を探せ!(原作:田原成貴)(KCDX)(1999年10月、講談社)
*同じ月を見ている (5)(ヤングサンデーコミックス)(1999年12月、小学館)
*同じ月を見ている (6)(ヤングサンデーコミックス)(2000年3月、小学館)
*同じ月を見ている (7)(ヤングサンデーコミックス)(2000年5月、小学館)
*俺のマイボール (1)(アクションコミックス)(2000年6月、双葉社)
*俺のマイボール (2)(アクションコミックス)(2000年8月、双葉社)
*俺のマイボール (3)(アクションコミックス)(2000年10月、双葉社)
*月球-MOONLIGHT BASEBALL(アッパーズKC)(2001年6月、講談社)
*ルート77-もうひとつの尾崎豊物語…(GOTTA COMICS)(2001年6月、小学館)
*雲出づるところ (上)(モーニングKC)(2002年3月、講談社)
*雲出づるところ (下)(モーニングKC)(2002年3月、講談社)
*マネーの虎(監修:栗原甚)(2002年11月、日本テレビ放送網)
*ギラギラ (1)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2002年12月、小学館)
*ギラギラ (2)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2003年5月、小学館)
*ギラギラ (3)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2003年8月、小学館)
*ギラギラ (4)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2004年1月、小学館)
*ギラギラ (5)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2004年6月、小学館)
*ギラギラ (6)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2004年9月、小学館)
*ギラギラ (7)(原作:滝直毅)(ビッグコミックス)(2004年11月、小学館)
*夜回り先生-ブランコ(原作:水谷修)(IKKI COMIX MIDNIGHT)(2004年12月、小学館)
*夜回り先生 (1)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2005年9月、小学館)
*ノーサンキューノーサンキュー(IKKI COMIX)(2005年10月、小学館)
*夜回り先生 (2)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2005年11月、小学館)
*夜回り先生 (3)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2006年4月、小学館)
*夜回り先生 (4)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2006年11月、小学館)
*夜回り先生 (5)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2007年4月、小学館)
*夜回り先生 (6)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2007年10月、小学館)
*夜回り先生 (7)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2008年2月、小学館)
*夜回り先生 (8)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2008年8月、小学館)
*吉祥寺モホ面-土田世紀単行本未収録傑作集1(グリーンアローコミックススペシャル)(2008年8月、青泉社)
*サバス!-土田世紀単行本未収録傑作集2(グリーンアローコミックススペシャル)(2008年9月、青泉社)
*夜回り先生 (9)(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2009年1月、小学館)
*夜回り先生 特別編 さよならが、いえなくて(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2009年5月、小学館)
*定本俺節 (上)(エフコミックス)(2010年11月、太田出版)
*定本俺節 (中)(エフコミックス)(2011年1月、太田出版)
*定本俺節 (下)(エフコミックス)(2011年2月、太田出版)
*現金を燃やす会(ニチブンコミックス)(2011年4月、日本文芸社)
*夜回り先生 希望編(原作:水谷修)(IKKI COMIX)(2012年6月、小学館)
*かぞく(ニチブンコミックス)(2013年4月、日本文芸社)
*SEIKI 土田世紀43年、18,000枚の生涯(IKKI COMIX)(2014年5月、小学館)
{{div col end}}
== 関連人物 ==
; [[えりちん]]
: 元アシスタント。えりちんが[[ヤングアニマル]]で連載している[[描かないマンガ家]]の第3巻の帯と公式ホームページには、土田が推薦文を寄せている。
== 参考文献 ==
* インタビュー・構成/佐々木正孝『スペシャルインタビュー13』ザ・マンガ家(別冊宝島)(409)1998年 pp.136-139.
* 土田世紀『編集王』『マンガ夜話vol.10』(キネ旬ムック)2000年 pp.116-221.
* 男の漫画家土田世紀を読む『[[ブブカ (雑誌)|BUBKA]]』(コアマガジン)1997年3月号 pp.18-20.
* マンガ狂い咲き(コアマガジン)1995年
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注"/>
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{twitter|nekonekooreore|新井英樹&土田世紀 公式}}
* {{Mediaarts-db|id=C56750|name=土田世紀}}
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華族
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華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。
版籍奉還が行われた明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達第五四二号で公卿(公家の堂上家)と諸侯(大名)の称が廃され、華族と改められた。この時以降華族令制定以前に華族に列した家を「旧華族」と呼ぶことがあった。また旧公家の華族は「堂上華族」、旧大名の華族は「大名華族」と呼ぶこともあった。
旧華族時代には爵位は存在せず、世襲制の永世華族と一代限りの終身華族の別があったが、明治17年7月7日に公布された華族令により公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められた。華族令と同時に制定された叙爵内規によりその基準が定められ、公爵は「親王諸王より臣位に列せらるる者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者」、侯爵は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者」、伯爵は「大納言宣任の例多き旧堂上、徳川旧三卿、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者」、子爵は「一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者」、男爵は「一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者」に与えられた。またこの際に終身華族の制度は廃止された。華族令制定後、家柄に依らず、国家への勲功により華族に登用される者が増加し、これを「新華族」と呼ぶことがあった。
華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在という意味で「皇室の藩屏」と呼ばれていた。
有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出され得る特権を有した。公侯爵は終身任期で無給の貴族院議員となり(大正14年以降は勅許を得て辞職可能となった)、伯子男爵は同爵者の互選で選出されれば任期7年で有給の貴族院議員となることができた。
昭和22年(1947年)5月3日に施行された日本国憲法の第14条2項に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより廃止された。
版籍奉還と同日の明治2年6月17日(1869年7月25日)に出された行政官達第五四三号「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称は廃され、これらの家々は華族に改められることが定められた。
「公卿」とは内裏の清涼殿殿上の間に上がることが許された公家の堂上家(殿上人)のことを指し、「諸侯」とは表高1万石以上の石高がある各藩の藩知事(版籍奉還前の藩主)、つまり大名のことを指す。華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の合計427家である。この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は慶応3年10月15日(1867年11月10日)の大政奉還時の公卿・諸侯の数と同数ではない。その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している。
具体的には、公卿からは松崎万長の松崎家(慶応3年10月24日公卿)、北小路俊昌の北小路家(慶応3年11月20日公卿)、岩倉具経の岩倉分家(慶応4年6月公卿)、玉松真弘の玉松家(明治2年1月公卿)、若王子遠文の若王子家(明治2年2月公卿)の5家、諸侯からは中山信徴の中山家(村岡藩)、成瀬正肥の成瀬家(犬山藩)、竹腰正旧の竹腰家(今尾藩)、安藤直裕の安藤家(田辺藩)、水野忠幹の水野家(新宮藩)、吉川経健の吉川家(岩国藩)、徳川家達の徳川宗家(駿府藩)、徳川慶頼の田安徳川家(田安藩)、徳川茂栄の一橋徳川家(一橋藩)、山名義済の山名家(村岡藩)、池田徳潤の池田家(福本藩)、山崎治祇の山崎家(成羽藩)、本堂親久の本堂家(志筑藩)、平野長裕の平野家(田原本藩)、大沢基寿の大沢家(堀江藩)、生駒親敬の生駒家(矢島藩)の16家が加わっている。
公卿の方を見ると、松崎は孝明天皇の寵臣だったことからその遺命で、北小路は地下家からの昇進で、岩倉具経は岩倉家の分家だが戊辰戦争での東征軍東山道鎮撫副総督としての功績で、玉松は山本家分家だが還俗後王政復古の詔勅文案の起草などにあたった功績で、若王子は山科家分家だが還俗後一家立てるのを認められたことで、それぞれ堂上家に列していた。諸侯の方は明治初年に新たに藩を与えられた徳川宗家と徳川御三卿、また徳川御三家からの独立を認められた付家老家、戊辰戦争での加増や高直しで万石越えした交代寄合などであり、いわゆる維新立藩をして新たに大名になった者たちである。
逆に大政奉還時には諸侯だったが、明治2年6月17日時点で諸侯でなくなっていたのは戊辰戦争の戦後処理の減封で1万石割れした旧請西藩林家1家のみである(同家は明治26年に至って特旨により華族の男爵家に列している)。同家以外の大政奉還時に諸侯・公卿だった家は全家が明治2年6月17日をもって「華族第1号」となっている。
その後明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で五爵制が導入されるまで、華族はその内部に等級を付さずに一身分として存在することになった。また華族令制定前の華族においては終身華族(一代限りの華族)と永世華族(世襲制の華族)の別があったが、終身華族に叙されたのは北畠通城、松園隆温ら宮司や僧から還俗した一部だけであり大部分は永世華族である。
旧諸侯華族は当初各藩の藩知事を兼ねる存在であったが、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県をもって全員が藩知事を解任されたため、以降は旧公卿華族との区別はなくなった。
明治初年以降、明治2年6月17日に行政官達第五四三号が出されるまでの間、公卿・諸侯の扱いをめぐっては様々な議論があったことは深谷博治『華士族秩禄処分の研究』、『華族会館史』、坂巻芳男『華族制度の研究』に詳述される。『華士族秩禄処分の研究』によれば、伊藤博文は諸侯を公卿とし、位階によって序列化する案を岩倉具視に宛てて進言しており(『岩倉家蔵書類』)、この案は公家と大名を一つにするというより大名を公家に含有するものだったと指摘する。
ついで広沢真臣が岩倉に送った意見書では公卿・諸侯を統合して「貴族」とする案が出されており、最終的には名称以外はこの案でいくことになるのだが、名称については当時は「華族」ではなく「貴族」とする案が相当有力だったと見られている。大久保利通や副島種臣も「貴族」の名称を支持している。しかし岩倉は「名族」という名称を推していた。これ以外にも「勲家」「公族」「卿族」などの名称案が出されていたことが確認されており「華族」に決まるまで相当の紆余曲折があったと見られる。
前述の行政官達の「華族」の部分も直前まで欠字になっており、容易に決定されなかったことがうかがえる。明治2年6月7日(1869年7月15日)の草案では大久保・副島の「貴族」案と岩倉の「名族」案の間で論争があったことの付箋が付けられている。最終的にはどちらの案も採用されず「華族」となるが、誰がそれを提唱し、どのような経緯でそれに決まったかは今のところ不明である。
当時「華族」という言葉は公家の清華家の別称だった(「花族」ともいった)。平安時代末頃までは家柄の良い者の美称として「英雄」「清華」「栄華」「公達」などとほぼ同義に使われており、藤原宗忠の『中右記』、九条兼実の『玉葉』などにその用法での使用例がみられる。その後公卿の家格が形成されていく中で「華族」は摂家に次ぐ公家の家格の清華家の別称となっていった。このように「華族」とは歴史ある言葉であり、維新後に公卿と諸侯の総称という新たな意味を持つに至った。
廃藩置県によって藩知事たちが解任された明治4年7月14日(1871年8月29日)、華族戸主に東京在住が命じられた。この頃、結婚や職業の自由などの太政官布告が出されており、特権はく奪や四民平等的な政策への不安が華族の間に広まっていた。華族たちの不安が頂点に達していた同年10月10日に明治天皇より「華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可き儀」という勅旨が出された。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて小御所代(京都御所と同じ部屋を赤坂仮御所内に設けた部屋)に召集し、ここでも「華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや」と勅諭している。この勅諭に触発・奮起された華族は少なくなく、日本型ノブレス・オブリージュの原点となる勅諭となった。
この華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は「皇室の藩屏(はんぺい)」と呼ばれるようになった。「藩屏」とは「外郭」のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である。華族のうち旧公家華族は古代より皇室に仕え、その守護にあたってきた家々であるが、旧武家華族は歴史上皇室と敵対することも多かった家々である。すなわち華族制度の創設は旧公家だけでなく旧大名家もすべて天皇の臣下に組みこむことにその本質があった。
なお皇族も華族と似た役割を負っていたことから「皇室の藩屏」と呼ばれることがあったが、最大の違いとして皇族は「天皇になりうる家系」であり、華族は「天皇になりえぬ家系」である。
1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。
1876年(明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。
また、1876年にはお雇い外国人の金融学者パウル・マイエットとこれを招聘した木戸孝允が共同で、華族や位階のための年金制度を策定した。40万人の華族に年間400万石(720万ヘクタール分)の米にあたる資金を分配することになり、最終的に7500万円分(現代で1.5兆円)が償還可能な国債のかたちで分配された。
1878年(明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。
明治2年6月17日(1869年7月25日)の華族創設から1884年(明治17年)7月7日に華族が五爵制になるまでの15年間にも華族の役割・在り方については様々な議論があった。
もともと立憲制より君主制を重視していた岩倉具視は「皇室の藩屏」たることが華族の存在意義と強く意識したため、華族銀行(第15国立銀行)の創設など華族の生活安定には熱意を注いだが、彼らを国政に関与させることには否定的だった。これに対してヨーロッパ貴族の在り方を思い描いていた伊藤博文は、華族の政治参加を意識し、上院議員化構想を持っていた。特に1881年(明治14年)に9年後の国会開設が公約された後には伊藤は民権派が議席の多数を占めることが予想される下院への防波堤として華族による上院の設置を重視した。しかし華族には国政に関心を示す者が少なく、これに不満を持った伊藤は、華族のみならず士族以下からも有能な者を抜擢して上院議席をもたせる必要を考えるようになり、この構想が後に勲功華族に繋がっていく。
当初は華族を国政に関わらせることを嫌がっていた岩倉も1880年代入ると民間ジャーナリズムの勃興や自由党の結党など時代変化に影響されて、より積極的な「華族改良」が必要と考えるようになり、華族教育の充実を図る一方、華族を上院議員にしたり、勲功華族を設置するといった伊藤の考えにも理解を示すようになっていった。1883年(明治16年)の岩倉死去後は伊藤らの華族の上院議員化構想は一層進められていく。
1869年(明治2年)の創設で427家の華族(「華族第1号」)が生まれた後、1884年(明治17年)に華族令が施行されるまでの15年間にさらに76家が華族に追加されている。彼らが「華族第2号」ともいうべき層だが、その大半は華族令施行で五爵制になった後に最下級の男爵に叙されたことからも分かるように「華族第1号」と比べると格下と見なされていたようである。次のような家々が「華族第2号」であった。
逆に「華族第1号」だったが、この間に華族でなくなった家として次の2家がある。
明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行され、華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5階級にランク付けされる五爵制になった。五爵は古代中国の官制に由来し、五経のひとつ『礼記』の王制編の冒頭には「王者之制禄爵、公侯伯子男、凡五等」とあり、『孟子』にも周代の爵禄について「公侯伯子男」の別があるとされている。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる。また華族令制定によって一代限りの終身華族は廃止され、世襲制の永世華族のみとなった。
1884年(明治17年)7月7日と7月8日にかけて最初の叙爵が行われた。7日に117家(主に伯爵以上)、8日に387家(主に子爵以下)、総数で504家に叙爵があり、公爵家11家、侯爵家24家、伯爵家73家、子爵家322家、男爵家74家が誕生した。
叙爵の基準は『叙爵内規』によって定められていた。
最上位の公爵の基準について叙爵内規は「親王諸王より臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家に偉勲ある者」と定めていた。
「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時には明確な定義がなかった。当初は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際にはその該当者は維新の功をもって皇族に列していたので(これにより皇族は4家から15家に急増した)、華族令制定当時において「親王諸王」から華族に列した者というのは存在しなかった。後に臣籍降下で華族となる皇族の例は増えてくるが、これは1907年(明治40年)2月11日制定の皇室典範増補第1条「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」の規定に基づくものであり、これによる臣籍降下で公爵になった者はおらず、侯爵か伯爵だった。
「旧摂家」とは摂政・関白まで昇進する資格を持っていた公卿の中の最上位の家格であり、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の5家が該当する。
「徳川宗家」は旧将軍家、旧静岡藩主家だった徳川宗家のことである。武家華族の中では唯一偉功なくして公爵家と定められていた。
「国家に偉勲ある者」は、勲功による登用の規定である。他の爵位も勲功による登用の規定があるが、侯爵以下が「国家に勲功ある者」となっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求されている。明治17年の最初の叙爵において公爵に叙された勲功華族は、三条家(三条実美の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧清華家として侯爵)、島津家(島津忠義の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵)、毛利家(毛利敬親・元徳の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵)、岩倉家(岩倉具視の功績。家格のみでの内規上の爵位は大納言直任の例のない旧堂上家として子爵)、玉里島津家(島津久光の功績。家格のみでの内規上の爵位は明治以降の華族分家として男爵)の5家である。
第二位の侯爵の基準について叙爵内規は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩知事即ち現米拾五万石以上、旧琉球藩王、国家に勲功ある者」と定めていた。
「旧清華家」とは摂家に次ぎ太政大臣まで登る旧公卿の家格で9家存在したが、そのうち三条家は公爵となったので、それ以外の大炊御門家、花山院家、菊亭家、久我家、西園寺家(後に公爵)、醍醐家、徳大寺家(後に公爵)、広幡家の8家が侯爵に列した。
「徳川旧三家」とは徳川宗家の支流で大名でもあった尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家(後に公爵)の三家である。
「旧大藩知事」とは現米(現高)15万石以上として大藩に分類された藩の藩知事だった旧大名家。15万石の基準は表高や内高(実高)といった藩内の米穀の総生産量ではなく、藩の税収を指す現米である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。明治2年時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。
現米15万石以上だった旧大藩大名のうち旧薩摩藩主の島津家、旧長州藩主の毛利家は公爵に列せられたので、それ以外の浅野家(広島藩)、池田家(岡山藩と鳥取藩)、黒田家(福岡藩)、佐竹家(秋田藩)、鍋島家(佐賀藩)、蜂須賀家(徳島藩)、細川家(熊本藩)、前田家(加賀藩)、山内家(土佐藩)が侯爵に列せられた。
「旧琉球藩王」とは旧琉球王国国王、旧琉球藩王だった尚家のことである。
「国家に勲功ある者」は功績による登用の規定である。大久保利通の大久保家と木戸孝允の木戸家、中山忠能の中山家が明治17年の最初の叙爵で侯爵となった。前述のとおり大久保家と木戸家は勲功華族が規定された華族令制定前から華族となっていた家である。なお大久保利通、木戸孝允と並ぶ維新三傑の一人である西郷隆盛の西郷家は西南戦争により当初叙爵がなかったが、西郷隆盛赦免後の1902年にただちに侯爵位を与えられるという大久保家・木戸家と同様の扱いを受けた。中山家は公家の羽林家だった家だが、中山忠能の勲功により家格(家格のみの基準では伯爵)より高い侯爵位を授けられた。同家の爵位が上げられたのは忠能が明治天皇の外祖父にあたることが影響したとみられる。
第三位の伯爵の基準について叙爵内規は「大納言迄宣任の例多き旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即ち現米五万石以上 国家に勲功ある者」と定められている。
「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とは、摂家と清華家を除く旧堂上家のうち、歴代当主の中に大納言に直任されたことがある当主がある旧公家華族のことである。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、いったん中納言を辞してから大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。具体的に叙された家については伯爵#旧公家の伯爵家参照。
「徳川旧三卿」とは江戸時代中期以降にできた新たな徳川家支流の田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家(後に爵位返上、さらに後に男爵)の3家を指す。
「旧中藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石以上15万石未満で中藩に分類された藩の藩知事だった家である。具体的に叙された家については伯爵#旧大名家の伯爵家参照。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では旧公家華族からの勲功登用として東久世家が東久世通禧の維新の功により伯爵に叙された(家格のみでの内規上の爵位は子爵)。華族令制定前から華族となっていた廣澤家は伯爵に列せられた。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から大山巌、川村純義、黒田清隆、西郷従道、寺島宗則、松方正義の6名、旧長州藩士から伊藤博文、井上薫、山縣有朋、山田顕義の4名、旧土佐藩士から佐佐木高行、旧肥前藩士から大木喬任が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより伯爵に叙されている。うち伊藤家(→侯爵→公爵)、井上家(→侯爵)、大山家(→侯爵→公爵)、西郷従道家(→侯爵)、佐佐木家(→侯爵)、山縣家(→侯爵→公爵)、松方家(→侯爵→公爵)は日清・日露戦争において勲功を重ねて陞爵した。
第四位の子爵の基準は「一新前家を起したる旧堂上 旧小藩知事即ち現米五万石未満及び一新前旧諸侯たりし家 国家に勲功ある者」と定められている。
「一新前家を起したる旧堂上」とは、伯爵以上の基準(摂家、清華家、大納言宣任の例多き堂上家)に当てはまらない旧公家華族全家である。
「旧小藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石未満で小藩に分類された藩の藩知事だった家である。旧小藩知事の定義の後半にある「一新前旧諸侯たりし家」は、表高が1万石に達していなかったが諸侯扱いになっていた足利家(旧喜連川藩主喜連川家)を入れるために付けられていた表現である。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から伊東祐麿、樺山資紀、高島鞆之助、仁礼景範、野津道貫の5名、旧長州藩士から鳥尾小弥太、三浦梧楼、三好重臣の3名、旧土佐藩士から谷干城、福岡孝弟の2名、旧肥前藩士から中牟田倉之助、旧筑後藩士から曾我祐準が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより子爵に叙されている。
最下位である第五位の男爵の基準は「一新後華族に列せられたる者 国家に勲功ある者」と定められている。
「一新後華族に列せられたる者」の「一新」の基点は慶応3年12月9日の王政復古ではなく、10月15日の大政奉還である。したがって先述した「華族第1号」のうち大政奉還から明治2年の華族制度創設の間に公卿・諸侯に列した家、および「華族第2号」で紹介した家は原則として男爵となった。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では勲功華族は子爵以上になっており、男爵はなかったが、後世には勲功華族は原則として男爵スタートだった。特に日清日露以降に急増することになる爵位である。
1884年(明治17年)7月7日と7月8日の最初の叙爵にあたって叙爵内規の基準は厳格に守られたが、松浦家(旧平戸藩主)と宗家(旧対馬藩)の2家については例外的な扱いとなった。両家とも現米5万石未満の旧小藩知事であり、本来なら子爵であるところ伯爵になっている。すべての爵位には勲功の規定があるので勲功があるのであれば家格以上の爵位が与えられていても問題はないが、この両家についていえばそれほどの勲功があったと考えるのは無理があることから叙爵内規に基づかない特例処置だったと見られている。次の事情が考えられている。
華族の等級をめぐっては華族令制定前に様々な案が存在した。華族の中に等級を作る案自体は、明治2年6月に華族制度が創設される前から存在した。同年5月の版籍奉還決議上奏には九等の爵位案が出されている。これは公、卿、大夫、士に四分し、さらに卿を上下、大夫と士を上中下に分けるものだった。
明治4年9月2日、最高官庁の正院から左院に発せられた下問に上公、公、亜公、上卿、卿の五等案があり、さらに10月14日には左院がこの案を改めて、公、卿、士の三等案を提出している。この三等案が引き継がれる形で1876年(明治9年)に法制局が提出した「爵号取調書」には公、伯、士の三爵案が出ている。
ついで1878年(明治11年)2月14日に法制局大書記官尾崎三郎と同少書記官桜井能監が岩倉具視や伊藤博文に爵位令草案を提出しており、ここで初めて公侯伯子男の五爵制が出てくる。宮内省のお雇い外国人だったオットマール・フォン・モールが著した『ドイツ貴族の明治宮廷記』によれば、彼が西欧の「大公」の爵位の導入を提案したのに対し、日本人は拒んだという記述がみられる。
また各華族家の爵位のランク付け基準をめぐっても様々な案が存在していた。
『三条文書』に収められている明治16年頃作成の案である『叙爵基準』は最終的な『叙爵内規』とは様々な違いが見られる。大きな違いとしては、旧琉球藩王が公爵に入っていること(叙爵内規では侯爵)、旧公家華族からの侯爵は清華家と並んで大臣家も入っていること(叙爵内規では大臣家は平堂上と区別されず)、平堂上の公卿華族については大納言に昇る家か、中納言もしくは三位以上に昇る家か、四位以上に上る家かで伯爵、子爵、男爵に分けていること(叙爵内規では大納言直任があるか否かで伯爵か子爵に分けている)、旧武家華族については旧国主が侯爵、現高10万石以上の旧中藩知事が伯爵、現高10万石未満の旧小藩知事が子爵と分けていること(叙爵内規では国主か否かは関係なく、現高15万石以上が侯爵、5万石以上が伯爵、5万石未満が子爵)などがあげられる。『叙爵基準』以外の案でも公家華族は細かく定められている物が多く、細かい位階や官職をランク分けの基準に持ち込んだり、「本家筋」という概念を立てている物まである。
早稲田大学中央図書館所蔵の『爵位発行順序』案(明治15年、明治16年頃)では、爵位の最下位、つまり男爵に該当する爵に叙されるべき家として、武家側では高家や交代寄合、各藩における万石以上陪臣家、公家側では堂上公家に準じる扱いだった六位蔵人や伏見宮殿上人(若江家)などの諸家が挙げられているが、最終的な叙爵内規からはこれらの家は一律削除されている。
爵位の受爵・襲爵の条件としてまず第一に皇室と国家に忠誠を誓う必要があった。叙爵に際しては「長く皇室の尊厳を扶翼せんことを誓う」という誓書を賢所に捧げることが求められ、襲爵に際しては宮内省からその誓書の写しが送られた。
また爵位は華族となった家の男性戸主のみが得られ、女性戸主は爵位を得られなかった。これは華族令3条「女子は爵を襲くことを得ず」の規定による。華族令公布時に戸主が女性だったために爵位が得られなかった華族家に七条家(旧公家)、錦小路家(旧公家)、小松家(奈良華族)、板倉家(旧安中藩主家)、稲垣家(旧山上藩主家)、酒井家(旧姫路藩主家)、牧野家(旧三根山藩主家)、松浦家(旧植松藩主家)の8家があった。ただし続けて「女戸主の華族は将来相続の男子を定めるときに於て、親戚中同族の者の連署を以て宮内卿を経由し授爵を請願すべし」とも規定されていたため、戸主が男子に代わると爵位がもらえた。錦小路家は実に明治31年まで女性戸主だったが、同年に女戸主が養子在明に代わるや子爵位を与えられている。爵位をもらう権利に時効はなかったということである。
明治40年(1907年)の華族令改正で華族が女戸主をたてることはできなくなり、女戸主にした場合は華族の地位は返上したものとして取り扱われることになった(華族の地位にこだわらないなら女性を戸主にすること自体には特に問題ない)。この改正の理由として「女戸主は皇室の屏翰たるの実を挙げしむるに不適当なること」「女戸主を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念をばく(しんにょう+貌)視することになること」「入夫・養子襲爵を請願せしむと云うのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以て誤魔化そうとするものであること」「女戸主を認むるとせば無爵の華族あることを許すことになること」などが挙げられている。
また養子に爵位を継がせる場合は「男系六親等内の親族」「本家又は同家の家族もしくは分家の戸主または家族」「華族の族称を享くるもの」といった条件が存在し、該当しない者を養子とした場合は原則として宮内大臣から襲爵の許可は得られなかったので、爵位は放棄せざるをえなかった。
戸主でない者が叙爵した場合は一家を創設して戸主になる必要があった。これは所属していた家における遺産相続の際に不利になる可能性もあった。
勲功をあげると陞爵()(爵位の昇進)することもある。ただし日本の華族の爵位は上書き式なので(上級の爵位を与えられるとそれまでの下位の爵位は上書きされて消滅)、ヨーロッパ貴族のように複数の爵位を持つという状況にはなりえなかった。なお、爵位の格下げは一例も無い。
爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。
華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた。
華族の本邸は明治には洋館と和館が並立して建てられることが多かった。迎賓館としての洋館、私生活の場としての和館である。華族たちが接客空間として洋館を作るようになったのは、明治天皇の行幸が大きな役割を果たしたという。洋装・断髪などで西洋化の先陣を切っていた明治天皇は、日本各地を回ってたびたび華族の邸宅に行幸した。華族にとって天皇への最大のおもてなしとなるのが洋館だった。華族たちの洋館建設には天皇を自邸にお迎えしたいという願望が背景にあった。明治期の大邸宅の多くは日本政府の招きで来日し工部大学校建築学科教授を務めていた英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものである。日本人棟梁たちも擬洋風建築を試みてはいたが、彼らでは本格的な西洋風邸宅を作るのは難しかった。日本人建築家が洋館建設を手掛けるようになったのはコンドルの弟子たちが育ってきてからである。
華族の大邸宅は当時の人々が「高燥の地」と呼んだ高台や南向きの斜面に建てられることが多かった。陽当たりのよさと、水はけのよさが好まれたためである。これは江戸時代の趣味とは異なる立地だった。江戸時代には庭園に庭を掘り、汐入の庭などと称する物を評価したので、大庭園を持つ邸宅には下町に近い低地が好まれた。文明開化の時代は向日性の時代だったといえよう。東京の地名に「山」の字がついている物は「高燥の地」のことであり、大邸宅地だったところである。たとえば五反田の島津山や池田山は島津公爵邸や池田侯爵邸、目黒区と渋谷区の境にある西郷山は西郷従道侯爵家の邸宅に因んでいる。
時代が下るとともに華族の邸宅はコンパクトになっていく。和洋折衷の建物や、一部に洋間を組み込んだだけの邸宅などが誕生した。
柳沢統計研究所編纂の『華族静態調査』が大正4年12月31日時点における不詳分389家を除いた華族539家の使用人数をまとめている。539家の総使用人は6504人から7008人であり、平均すれば1家につき12.1人から13人となる。爵位が高いほど使用人数が多くなる傾向があるが、公爵家と侯爵家では逆転しており、侯爵家25家の総使用人数は1092人から1195人以上で平均43.7人から47.8人以上であるが、公爵家の平均はこれより10人ほど少ない。これは資産家である旧大藩大名家が公爵より侯爵に多いのが原因である。詳細は以下のとおりである。
使用人が就く家職の例として公爵徳川宗家のものと見られる『家務規定』(江川素六文書)がある。これによれば徳川公爵家の家職には上から家令、家扶、家従、家丁、嘱託、雇員の5階級があり、さらに家職以外の使用人に馭者、給仕、小使、馬丁があったという。1名の家令、2名から3名の家扶が他の使用人を指揮する体制を取っていたという。
華族や勅任官・奏任官は1877年(明治10年)の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月司法省丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は1886年(明治19年)の華族世襲財産法により公告の手続によって世襲財産を認められ得た。
その他、宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている。
1886年(明治19年)に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、1915年(大正4年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は、旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。
1889年(明治22年)公布の明治憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。
同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者に限定された(1918年(大正7年)の旧皇室典範の増補により皇族女子は王族または公族に嫁し得ることが規定された)。
また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。
爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。しかし女戸主は1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった。
華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。
奈良華族などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家(土方与志)の例(スキャンダルは治安維持法関連だが、没収時はソ連にいたため逮捕はされず。)などは華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。
華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。
自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。
公卿・諸侯といえば、封建主義時代に多年にわたって畏怖・畏敬されてきた一族であり、彼らが明治初期に華族という皇族に次ぐ特別な地位を与えられた時、感涙に咽ぶ領民こそあれ、それを批判するような者はほとんどなかった。しかし華族にとって不幸だったのは当時の19世紀中期という時代、彼らの原像たるヨーロッパ貴族制は、すでに支持を失って衰退し、批判の的となっていたことだった。民主主義や平等思想といった欧米先進思想が次々と日本に流入してきていた時代にあって日本でも華族をはじめとした世襲制への疑問・非難が強まっていくのは当初から時間の問題だったということである。
世襲批判としてまず最初に起こったのは江戸時代から続く家禄制度への批判であった。「居候」「座食」「平民の厄介」「無為徒食」などの悪罵が平民から旧武士層に対して投げつけられるようになり、新聞の投書や政府への建白書も家禄批判がどんどん増えていく。たとえば明治8年(1875年)9月には島地黙雷が『共存雑誌』に論文「華士族」を寄稿し、華士族への家禄支給を批判する論陣を張っている。更にこの翌年の2月から4月には『朝野新聞』の投書欄で深井了軒(筆名)、中田豪晴(電気技師の投書家)、伊東巳代治(外務副課長)の三者が華族批判をめぐる議論を展開している。初めに投書した深井は「華族を『無為の徒食者』と批判することは共和制を主張するも同じであり、皇室を否定する動き」と論じて華族を擁護しているが、このことは当時すでにこうした華族批判が広く世に出回っていたことを物語る(論争でも中田と伊東は華族を『無為の徒食者』と批判したことを譲らなかった)。こうした家禄批判の国民世論に押されて同年8月に政府は秩禄処分を断行し家禄制度を廃止している。
また同年小野梓(元老院書記官・会計検査院検査官)は、『華士族論』を著し、「華士族の支配が平民を卑屈にし、独立の気概を失わせた」と論じ、華士族の称号と特権の廃止を主張。明治13年(1880年)9月には『朝野新聞』が「華族に人文の自由なし」という論説を載せ、「華族は自分で独立できず他人の保護を受ける奴隷のようなもので、人間の自由を失っている」と論じた。翌年4月にも同紙は「貴族廃すべし」と題した論説を載せ、「平等均一こそが文明社会の趨勢であり、貴族は廃止するべき」と唱えた。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。
板垣退助は「一君万民論」を唱え、皇室と国民の間に華族という特権階級を設けることは皇室と国民の親愛を離隔するとして華族制度に反対した。板垣のその立場は彼の国防論とも関係していた。板垣は「今日のような列強諸国が衝を争う時代にあっては、挙国一致、全国皆兵が不可欠であり、士族の一階級だけで国家防衛などできない。華族の一階級だけではなおさら不可能」として国民皆兵の必要性を訴え、その当然の帰結として一君万民論を唱えていたのである。板垣は華族制廃止の立場から二度にわたって叙爵を断ったが、明治天皇の強い意向もあり、結局爵位を受けいれて華族となったが、その際にも華族制度廃止の意見書を政府に提出している。
日清日露以降には勲功に依る叙爵が増えて華族数急増への懸念も強まった。『大阪毎日新聞』明治29年6月7日付け朝刊は「貴族国」という見出しの記事を載せて、論功行賞を華族の爵位で対応することを問題視し、勲章や位記は何のためにあるのかと訴え、この勢いで華族が増え続ければ日本は純然たる貴族国になってしまうと批判した。
明治40年(1907年)には一代華族論を唱える板垣退助が全華族850家に対して檄を送って「華族の族称を廃し、其栄爵の世襲を止めんこと」を求めた。しかし回答文を送ってきたのは37家だけで、そのうち賛成と認められる者は12人、賛否を明言しない者は18人、反対する者は7人だった。
板垣退助の『一代華族論』によれば「賛成者と認むべき者」には4種あった。
「賛否を明言せざる者」は次の10種に分けている。
「反対する者」は次の2つに分けている。
公侯爵から返事をした家は1家もなかったが、板垣退助の一代華族論に9家も全面賛成したことは注目に値する。板垣は返事をしなかった813家の華族に怒り心頭となり「爾余の八百十三は即ち此問題を不問に附して、何らの意見をも表明せず、恬然として風馬牛相関せざるが如き態度を執れる者なりき。是に於ては予は彼等の愛国心と道義心とに疑なき能わず」と書いている。
大正時代になると大正デモクラシーの盛り上がりで華族批判がますます強まる。『山縣有朋意見書』には大正6年6月25日付けで元老山縣有朋が貴族院議長徳川家達に宛てて書いた「華族教育に関する意見」が収録されており、その中で山縣は「近時華族全般の風紀退廃に傾き、往々世論にも上る哉に聞き及び候処、此くしては皇室の藩屏として寔に恐れ多き次第と憂慮罷り在り候」と記しており、当時の華族への厳しい世論状況がうかがえる。
大正期には華族はもとより、華族の下位にあり、戸籍上は平民の上位にあった士族への批判も強まった。士族は明治初期にはいくらかの特権を有していたが、特権をはく奪されて以降は戸籍上に表示されるだけの存在と化していた。何らの特権も有してない士族さえ批判の対象になったのであり、階級打破を掲げる大正デモクラシーの中、華族制度への批判的視線は非常に強いものがあったといえる。
一方で士族廃止論に対しては士族たちの側も激しく抵抗し、士族廃止反対を訴える運動が全国規模で展開されている。富山県と沖縄県を除き、特に東京、大阪、京都、神戸、仙台、名古屋、鹿児島などの士族たちの間で士族廃止反対運動が熱を帯び、当時の社会問題となった。こうした士族の動きについて旧土佐藩主家の山内豊景侯爵は「階級打破に賛成だ。したがって士族存続に反対である」「併し華族廃止はまだ考えていない」と論評したが、『読売新聞』大正12年5月28日付朝刊に「虫が良すぎる」と批判されている。
このような世論状況もあって、大正期以降は華族の叙爵件数(陞爵も)は明治期と比較して格段に減少した。また昭和期に入ると更に減少している。
華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。
一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。
華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、1927年(昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。
華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。
制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。
貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。しかしこのことで、同爵間の議席のたらい回しが横行したり、水野直のように各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した。
陸軍士官学校には明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))、華族子弟のための特別な予科(予備生徒隊)が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。大名・公家華族出身の有名な軍人としては、陸軍では前田利為や町尻量基や山内豊秋、海軍では醍醐忠重や小笠原長生らがいる。軍人華族はのちに、戦功により叙爵された職業軍人(とその子弟)が主となった。
進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかであったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。
学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川生物学研究所や林政史研究室(のちの徳川林政史研究所)を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・巌の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。
珍しい進路に進んだ例としては、映画の小笠原明峰(本名・長隆、小笠原長生子爵嫡男)と章二郎(同・長英、次男)の兄弟、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。小笠原明峰は映画界に入ったことで廃嫡となり、土方はソ連での反体制的言動により爵位剥奪となった。
昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄・樺山愛輔・徳川義親などが知られる。
1947年(昭和22年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。
当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は堂上華族だけでも存置したい意向であり、幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われたが、岩田宙造司法大臣から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された。結局、華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。
小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、2021年(令和3年)現在も旧・華族の親睦の中心となっている。
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"text": "華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。",
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"text": "版籍奉還が行われた明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達第五四二号で公卿(公家の堂上家)と諸侯(大名)の称が廃され、華族と改められた。この時以降華族令制定以前に華族に列した家を「旧華族」と呼ぶことがあった。また旧公家の華族は「堂上華族」、旧大名の華族は「大名華族」と呼ぶこともあった。",
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"text": "版籍奉還と同日の明治2年6月17日(1869年7月25日)に出された行政官達第五四三号「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称は廃され、これらの家々は華族に改められることが定められた。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "「公卿」とは内裏の清涼殿殿上の間に上がることが許された公家の堂上家(殿上人)のことを指し、「諸侯」とは表高1万石以上の石高がある各藩の藩知事(版籍奉還前の藩主)、つまり大名のことを指す。華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の合計427家である。この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は慶応3年10月15日(1867年11月10日)の大政奉還時の公卿・諸侯の数と同数ではない。その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"text": "具体的には、公卿からは松崎万長の松崎家(慶応3年10月24日公卿)、北小路俊昌の北小路家(慶応3年11月20日公卿)、岩倉具経の岩倉分家(慶応4年6月公卿)、玉松真弘の玉松家(明治2年1月公卿)、若王子遠文の若王子家(明治2年2月公卿)の5家、諸侯からは中山信徴の中山家(村岡藩)、成瀬正肥の成瀬家(犬山藩)、竹腰正旧の竹腰家(今尾藩)、安藤直裕の安藤家(田辺藩)、水野忠幹の水野家(新宮藩)、吉川経健の吉川家(岩国藩)、徳川家達の徳川宗家(駿府藩)、徳川慶頼の田安徳川家(田安藩)、徳川茂栄の一橋徳川家(一橋藩)、山名義済の山名家(村岡藩)、池田徳潤の池田家(福本藩)、山崎治祇の山崎家(成羽藩)、本堂親久の本堂家(志筑藩)、平野長裕の平野家(田原本藩)、大沢基寿の大沢家(堀江藩)、生駒親敬の生駒家(矢島藩)の16家が加わっている。",
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"text": "公卿の方を見ると、松崎は孝明天皇の寵臣だったことからその遺命で、北小路は地下家からの昇進で、岩倉具経は岩倉家の分家だが戊辰戦争での東征軍東山道鎮撫副総督としての功績で、玉松は山本家分家だが還俗後王政復古の詔勅文案の起草などにあたった功績で、若王子は山科家分家だが還俗後一家立てるのを認められたことで、それぞれ堂上家に列していた。諸侯の方は明治初年に新たに藩を与えられた徳川宗家と徳川御三卿、また徳川御三家からの独立を認められた付家老家、戊辰戦争での加増や高直しで万石越えした交代寄合などであり、いわゆる維新立藩をして新たに大名になった者たちである。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"text": "逆に大政奉還時には諸侯だったが、明治2年6月17日時点で諸侯でなくなっていたのは戊辰戦争の戦後処理の減封で1万石割れした旧請西藩林家1家のみである(同家は明治26年に至って特旨により華族の男爵家に列している)。同家以外の大政奉還時に諸侯・公卿だった家は全家が明治2年6月17日をもって「華族第1号」となっている。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "その後明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で五爵制が導入されるまで、華族はその内部に等級を付さずに一身分として存在することになった。また華族令制定前の華族においては終身華族(一代限りの華族)と永世華族(世襲制の華族)の別があったが、終身華族に叙されたのは北畠通城、松園隆温ら宮司や僧から還俗した一部だけであり大部分は永世華族である。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "旧諸侯華族は当初各藩の藩知事を兼ねる存在であったが、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県をもって全員が藩知事を解任されたため、以降は旧公卿華族との区別はなくなった。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
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"paragraph_id": 13,
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"text": "明治初年以降、明治2年6月17日に行政官達第五四三号が出されるまでの間、公卿・諸侯の扱いをめぐっては様々な議論があったことは深谷博治『華士族秩禄処分の研究』、『華族会館史』、坂巻芳男『華族制度の研究』に詳述される。『華士族秩禄処分の研究』によれば、伊藤博文は諸侯を公卿とし、位階によって序列化する案を岩倉具視に宛てて進言しており(『岩倉家蔵書類』)、この案は公家と大名を一つにするというより大名を公家に含有するものだったと指摘する。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"text": "ついで広沢真臣が岩倉に送った意見書では公卿・諸侯を統合して「貴族」とする案が出されており、最終的には名称以外はこの案でいくことになるのだが、名称については当時は「華族」ではなく「貴族」とする案が相当有力だったと見られている。大久保利通や副島種臣も「貴族」の名称を支持している。しかし岩倉は「名族」という名称を推していた。これ以外にも「勲家」「公族」「卿族」などの名称案が出されていたことが確認されており「華族」に決まるまで相当の紆余曲折があったと見られる。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "前述の行政官達の「華族」の部分も直前まで欠字になっており、容易に決定されなかったことがうかがえる。明治2年6月7日(1869年7月15日)の草案では大久保・副島の「貴族」案と岩倉の「名族」案の間で論争があったことの付箋が付けられている。最終的にはどちらの案も採用されず「華族」となるが、誰がそれを提唱し、どのような経緯でそれに決まったかは今のところ不明である。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "当時「華族」という言葉は公家の清華家の別称だった(「花族」ともいった)。平安時代末頃までは家柄の良い者の美称として「英雄」「清華」「栄華」「公達」などとほぼ同義に使われており、藤原宗忠の『中右記』、九条兼実の『玉葉』などにその用法での使用例がみられる。その後公卿の家格が形成されていく中で「華族」は摂家に次ぐ公家の家格の清華家の別称となっていった。このように「華族」とは歴史ある言葉であり、維新後に公卿と諸侯の総称という新たな意味を持つに至った。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "廃藩置県によって藩知事たちが解任された明治4年7月14日(1871年8月29日)、華族戸主に東京在住が命じられた。この頃、結婚や職業の自由などの太政官布告が出されており、特権はく奪や四民平等的な政策への不安が華族の間に広まっていた。華族たちの不安が頂点に達していた同年10月10日に明治天皇より「華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可き儀」という勅旨が出された。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて小御所代(京都御所と同じ部屋を赤坂仮御所内に設けた部屋)に召集し、ここでも「華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや」と勅諭している。この勅諭に触発・奮起された華族は少なくなく、日本型ノブレス・オブリージュの原点となる勅諭となった。",
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"text": "この華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は「皇室の藩屏(はんぺい)」と呼ばれるようになった。「藩屏」とは「外郭」のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である。華族のうち旧公家華族は古代より皇室に仕え、その守護にあたってきた家々であるが、旧武家華族は歴史上皇室と敵対することも多かった家々である。すなわち華族制度の創設は旧公家だけでなく旧大名家もすべて天皇の臣下に組みこむことにその本質があった。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"paragraph_id": 19,
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"text": "なお皇族も華族と似た役割を負っていたことから「皇室の藩屏」と呼ばれることがあったが、最大の違いとして皇族は「天皇になりうる家系」であり、華族は「天皇になりえぬ家系」である。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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{
"paragraph_id": 21,
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"text": "1876年(明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"text": "また、1876年にはお雇い外国人の金融学者パウル・マイエットとこれを招聘した木戸孝允が共同で、華族や位階のための年金制度を策定した。40万人の華族に年間400万石(720万ヘクタール分)の米にあたる資金を分配することになり、最終的に7500万円分(現代で1.5兆円)が償還可能な国債のかたちで分配された。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "1878年(明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
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"paragraph_id": 24,
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"text": "明治2年6月17日(1869年7月25日)の華族創設から1884年(明治17年)7月7日に華族が五爵制になるまでの15年間にも華族の役割・在り方については様々な議論があった。",
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"paragraph_id": 25,
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"text": "もともと立憲制より君主制を重視していた岩倉具視は「皇室の藩屏」たることが華族の存在意義と強く意識したため、華族銀行(第15国立銀行)の創設など華族の生活安定には熱意を注いだが、彼らを国政に関与させることには否定的だった。これに対してヨーロッパ貴族の在り方を思い描いていた伊藤博文は、華族の政治参加を意識し、上院議員化構想を持っていた。特に1881年(明治14年)に9年後の国会開設が公約された後には伊藤は民権派が議席の多数を占めることが予想される下院への防波堤として華族による上院の設置を重視した。しかし華族には国政に関心を示す者が少なく、これに不満を持った伊藤は、華族のみならず士族以下からも有能な者を抜擢して上院議席をもたせる必要を考えるようになり、この構想が後に勲功華族に繋がっていく。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "当初は華族を国政に関わらせることを嫌がっていた岩倉も1880年代入ると民間ジャーナリズムの勃興や自由党の結党など時代変化に影響されて、より積極的な「華族改良」が必要と考えるようになり、華族教育の充実を図る一方、華族を上院議員にしたり、勲功華族を設置するといった伊藤の考えにも理解を示すようになっていった。1883年(明治16年)の岩倉死去後は伊藤らの華族の上院議員化構想は一層進められていく。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1869年(明治2年)の創設で427家の華族(「華族第1号」)が生まれた後、1884年(明治17年)に華族令が施行されるまでの15年間にさらに76家が華族に追加されている。彼らが「華族第2号」ともいうべき層だが、その大半は華族令施行で五爵制になった後に最下級の男爵に叙されたことからも分かるように「華族第1号」と比べると格下と見なされていたようである。次のような家々が「華族第2号」であった。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "逆に「華族第1号」だったが、この間に華族でなくなった家として次の2家がある。",
"title": "旧華族(1869年-1884年)"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "明治17年(1884年)7月7日に華族令が施行され、華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5階級にランク付けされる五爵制になった。五爵は古代中国の官制に由来し、五経のひとつ『礼記』の王制編の冒頭には「王者之制禄爵、公侯伯子男、凡五等」とあり、『孟子』にも周代の爵禄について「公侯伯子男」の別があるとされている。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる。また華族令制定によって一代限りの終身華族は廃止され、世襲制の永世華族のみとなった。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "1884年(明治17年)7月7日と7月8日にかけて最初の叙爵が行われた。7日に117家(主に伯爵以上)、8日に387家(主に子爵以下)、総数で504家に叙爵があり、公爵家11家、侯爵家24家、伯爵家73家、子爵家322家、男爵家74家が誕生した。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "叙爵の基準は『叙爵内規』によって定められていた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "最上位の公爵の基準について叙爵内規は「親王諸王より臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家に偉勲ある者」と定めていた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時には明確な定義がなかった。当初は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際にはその該当者は維新の功をもって皇族に列していたので(これにより皇族は4家から15家に急増した)、華族令制定当時において「親王諸王」から華族に列した者というのは存在しなかった。後に臣籍降下で華族となる皇族の例は増えてくるが、これは1907年(明治40年)2月11日制定の皇室典範増補第1条「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」の規定に基づくものであり、これによる臣籍降下で公爵になった者はおらず、侯爵か伯爵だった。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「旧摂家」とは摂政・関白まで昇進する資格を持っていた公卿の中の最上位の家格であり、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の5家が該当する。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「徳川宗家」は旧将軍家、旧静岡藩主家だった徳川宗家のことである。武家華族の中では唯一偉功なくして公爵家と定められていた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "「国家に偉勲ある者」は、勲功による登用の規定である。他の爵位も勲功による登用の規定があるが、侯爵以下が「国家に勲功ある者」となっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求されている。明治17年の最初の叙爵において公爵に叙された勲功華族は、三条家(三条実美の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧清華家として侯爵)、島津家(島津忠義の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵)、毛利家(毛利敬親・元徳の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵)、岩倉家(岩倉具視の功績。家格のみでの内規上の爵位は大納言直任の例のない旧堂上家として子爵)、玉里島津家(島津久光の功績。家格のみでの内規上の爵位は明治以降の華族分家として男爵)の5家である。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "第二位の侯爵の基準について叙爵内規は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩知事即ち現米拾五万石以上、旧琉球藩王、国家に勲功ある者」と定めていた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「旧清華家」とは摂家に次ぎ太政大臣まで登る旧公卿の家格で9家存在したが、そのうち三条家は公爵となったので、それ以外の大炊御門家、花山院家、菊亭家、久我家、西園寺家(後に公爵)、醍醐家、徳大寺家(後に公爵)、広幡家の8家が侯爵に列した。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "「徳川旧三家」とは徳川宗家の支流で大名でもあった尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家(後に公爵)の三家である。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "「旧大藩知事」とは現米(現高)15万石以上として大藩に分類された藩の藩知事だった旧大名家。15万石の基準は表高や内高(実高)といった藩内の米穀の総生産量ではなく、藩の税収を指す現米である点に注意を要する。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。明治2年時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "現米15万石以上だった旧大藩大名のうち旧薩摩藩主の島津家、旧長州藩主の毛利家は公爵に列せられたので、それ以外の浅野家(広島藩)、池田家(岡山藩と鳥取藩)、黒田家(福岡藩)、佐竹家(秋田藩)、鍋島家(佐賀藩)、蜂須賀家(徳島藩)、細川家(熊本藩)、前田家(加賀藩)、山内家(土佐藩)が侯爵に列せられた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "「旧琉球藩王」とは旧琉球王国国王、旧琉球藩王だった尚家のことである。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "「国家に勲功ある者」は功績による登用の規定である。大久保利通の大久保家と木戸孝允の木戸家、中山忠能の中山家が明治17年の最初の叙爵で侯爵となった。前述のとおり大久保家と木戸家は勲功華族が規定された華族令制定前から華族となっていた家である。なお大久保利通、木戸孝允と並ぶ維新三傑の一人である西郷隆盛の西郷家は西南戦争により当初叙爵がなかったが、西郷隆盛赦免後の1902年にただちに侯爵位を与えられるという大久保家・木戸家と同様の扱いを受けた。中山家は公家の羽林家だった家だが、中山忠能の勲功により家格(家格のみの基準では伯爵)より高い侯爵位を授けられた。同家の爵位が上げられたのは忠能が明治天皇の外祖父にあたることが影響したとみられる。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "第三位の伯爵の基準について叙爵内規は「大納言迄宣任の例多き旧堂上 徳川旧三卿 旧中藩知事即ち現米五万石以上 国家に勲功ある者」と定められている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とは、摂家と清華家を除く旧堂上家のうち、歴代当主の中に大納言に直任されたことがある当主がある旧公家華族のことである。直任とは中納言からそのまま大納言に任じられることをいい、いったん中納言を辞してから大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた。具体的に叙された家については伯爵#旧公家の伯爵家参照。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "「徳川旧三卿」とは江戸時代中期以降にできた新たな徳川家支流の田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家(後に爵位返上、さらに後に男爵)の3家を指す。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "「旧中藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石以上15万石未満で中藩に分類された藩の藩知事だった家である。具体的に叙された家については伯爵#旧大名家の伯爵家参照。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では旧公家華族からの勲功登用として東久世家が東久世通禧の維新の功により伯爵に叙された(家格のみでの内規上の爵位は子爵)。華族令制定前から華族となっていた廣澤家は伯爵に列せられた。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から大山巌、川村純義、黒田清隆、西郷従道、寺島宗則、松方正義の6名、旧長州藩士から伊藤博文、井上薫、山縣有朋、山田顕義の4名、旧土佐藩士から佐佐木高行、旧肥前藩士から大木喬任が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより伯爵に叙されている。うち伊藤家(→侯爵→公爵)、井上家(→侯爵)、大山家(→侯爵→公爵)、西郷従道家(→侯爵)、佐佐木家(→侯爵)、山縣家(→侯爵→公爵)、松方家(→侯爵→公爵)は日清・日露戦争において勲功を重ねて陞爵した。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "第四位の子爵の基準は「一新前家を起したる旧堂上 旧小藩知事即ち現米五万石未満及び一新前旧諸侯たりし家 国家に勲功ある者」と定められている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "「一新前家を起したる旧堂上」とは、伯爵以上の基準(摂家、清華家、大納言宣任の例多き堂上家)に当てはまらない旧公家華族全家である。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "「旧小藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石未満で小藩に分類された藩の藩知事だった家である。旧小藩知事の定義の後半にある「一新前旧諸侯たりし家」は、表高が1万石に達していなかったが諸侯扱いになっていた足利家(旧喜連川藩主喜連川家)を入れるために付けられていた表現である。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から伊東祐麿、樺山資紀、高島鞆之助、仁礼景範、野津道貫の5名、旧長州藩士から鳥尾小弥太、三浦梧楼、三好重臣の3名、旧土佐藩士から谷干城、福岡孝弟の2名、旧肥前藩士から中牟田倉之助、旧筑後藩士から曾我祐準が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより子爵に叙されている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "最下位である第五位の男爵の基準は「一新後華族に列せられたる者 国家に勲功ある者」と定められている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "「一新後華族に列せられたる者」の「一新」の基点は慶応3年12月9日の王政復古ではなく、10月15日の大政奉還である。したがって先述した「華族第1号」のうち大政奉還から明治2年の華族制度創設の間に公卿・諸侯に列した家、および「華族第2号」で紹介した家は原則として男爵となった。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では勲功華族は子爵以上になっており、男爵はなかったが、後世には勲功華族は原則として男爵スタートだった。特に日清日露以降に急増することになる爵位である。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1884年(明治17年)7月7日と7月8日の最初の叙爵にあたって叙爵内規の基準は厳格に守られたが、松浦家(旧平戸藩主)と宗家(旧対馬藩)の2家については例外的な扱いとなった。両家とも現米5万石未満の旧小藩知事であり、本来なら子爵であるところ伯爵になっている。すべての爵位には勲功の規定があるので勲功があるのであれば家格以上の爵位が与えられていても問題はないが、この両家についていえばそれほどの勲功があったと考えるのは無理があることから叙爵内規に基づかない特例処置だったと見られている。次の事情が考えられている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "華族の等級をめぐっては華族令制定前に様々な案が存在した。華族の中に等級を作る案自体は、明治2年6月に華族制度が創設される前から存在した。同年5月の版籍奉還決議上奏には九等の爵位案が出されている。これは公、卿、大夫、士に四分し、さらに卿を上下、大夫と士を上中下に分けるものだった。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "明治4年9月2日、最高官庁の正院から左院に発せられた下問に上公、公、亜公、上卿、卿の五等案があり、さらに10月14日には左院がこの案を改めて、公、卿、士の三等案を提出している。この三等案が引き継がれる形で1876年(明治9年)に法制局が提出した「爵号取調書」には公、伯、士の三爵案が出ている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ついで1878年(明治11年)2月14日に法制局大書記官尾崎三郎と同少書記官桜井能監が岩倉具視や伊藤博文に爵位令草案を提出しており、ここで初めて公侯伯子男の五爵制が出てくる。宮内省のお雇い外国人だったオットマール・フォン・モールが著した『ドイツ貴族の明治宮廷記』によれば、彼が西欧の「大公」の爵位の導入を提案したのに対し、日本人は拒んだという記述がみられる。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また各華族家の爵位のランク付け基準をめぐっても様々な案が存在していた。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "『三条文書』に収められている明治16年頃作成の案である『叙爵基準』は最終的な『叙爵内規』とは様々な違いが見られる。大きな違いとしては、旧琉球藩王が公爵に入っていること(叙爵内規では侯爵)、旧公家華族からの侯爵は清華家と並んで大臣家も入っていること(叙爵内規では大臣家は平堂上と区別されず)、平堂上の公卿華族については大納言に昇る家か、中納言もしくは三位以上に昇る家か、四位以上に上る家かで伯爵、子爵、男爵に分けていること(叙爵内規では大納言直任があるか否かで伯爵か子爵に分けている)、旧武家華族については旧国主が侯爵、現高10万石以上の旧中藩知事が伯爵、現高10万石未満の旧小藩知事が子爵と分けていること(叙爵内規では国主か否かは関係なく、現高15万石以上が侯爵、5万石以上が伯爵、5万石未満が子爵)などがあげられる。『叙爵基準』以外の案でも公家華族は細かく定められている物が多く、細かい位階や官職をランク分けの基準に持ち込んだり、「本家筋」という概念を立てている物まである。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "早稲田大学中央図書館所蔵の『爵位発行順序』案(明治15年、明治16年頃)では、爵位の最下位、つまり男爵に該当する爵に叙されるべき家として、武家側では高家や交代寄合、各藩における万石以上陪臣家、公家側では堂上公家に準じる扱いだった六位蔵人や伏見宮殿上人(若江家)などの諸家が挙げられているが、最終的な叙爵内規からはこれらの家は一律削除されている。",
"title": "五爵制度下の華族(1884年-1947年)"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "爵位の受爵・襲爵の条件としてまず第一に皇室と国家に忠誠を誓う必要があった。叙爵に際しては「長く皇室の尊厳を扶翼せんことを誓う」という誓書を賢所に捧げることが求められ、襲爵に際しては宮内省からその誓書の写しが送られた。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また爵位は華族となった家の男性戸主のみが得られ、女性戸主は爵位を得られなかった。これは華族令3条「女子は爵を襲くことを得ず」の規定による。華族令公布時に戸主が女性だったために爵位が得られなかった華族家に七条家(旧公家)、錦小路家(旧公家)、小松家(奈良華族)、板倉家(旧安中藩主家)、稲垣家(旧山上藩主家)、酒井家(旧姫路藩主家)、牧野家(旧三根山藩主家)、松浦家(旧植松藩主家)の8家があった。ただし続けて「女戸主の華族は将来相続の男子を定めるときに於て、親戚中同族の者の連署を以て宮内卿を経由し授爵を請願すべし」とも規定されていたため、戸主が男子に代わると爵位がもらえた。錦小路家は実に明治31年まで女性戸主だったが、同年に女戸主が養子在明に代わるや子爵位を与えられている。爵位をもらう権利に時効はなかったということである。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "明治40年(1907年)の華族令改正で華族が女戸主をたてることはできなくなり、女戸主にした場合は華族の地位は返上したものとして取り扱われることになった(華族の地位にこだわらないなら女性を戸主にすること自体には特に問題ない)。この改正の理由として「女戸主は皇室の屏翰たるの実を挙げしむるに不適当なること」「女戸主を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念をばく(しんにょう+貌)視することになること」「入夫・養子襲爵を請願せしむと云うのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以て誤魔化そうとするものであること」「女戸主を認むるとせば無爵の華族あることを許すことになること」などが挙げられている。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また養子に爵位を継がせる場合は「男系六親等内の親族」「本家又は同家の家族もしくは分家の戸主または家族」「華族の族称を享くるもの」といった条件が存在し、該当しない者を養子とした場合は原則として宮内大臣から襲爵の許可は得られなかったので、爵位は放棄せざるをえなかった。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "戸主でない者が叙爵した場合は一家を創設して戸主になる必要があった。これは所属していた家における遺産相続の際に不利になる可能性もあった。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "勲功をあげると陞爵()(爵位の昇進)することもある。ただし日本の華族の爵位は上書き式なので(上級の爵位を与えられるとそれまでの下位の爵位は上書きされて消滅)、ヨーロッパ貴族のように複数の爵位を持つという状況にはなりえなかった。なお、爵位の格下げは一例も無い。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた。",
"title": "爵位制度の概要"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "華族の本邸は明治には洋館と和館が並立して建てられることが多かった。迎賓館としての洋館、私生活の場としての和館である。華族たちが接客空間として洋館を作るようになったのは、明治天皇の行幸が大きな役割を果たしたという。洋装・断髪などで西洋化の先陣を切っていた明治天皇は、日本各地を回ってたびたび華族の邸宅に行幸した。華族にとって天皇への最大のおもてなしとなるのが洋館だった。華族たちの洋館建設には天皇を自邸にお迎えしたいという願望が背景にあった。明治期の大邸宅の多くは日本政府の招きで来日し工部大学校建築学科教授を務めていた英国人建築家ジョサイア・コンドルが設計したものである。日本人棟梁たちも擬洋風建築を試みてはいたが、彼らでは本格的な西洋風邸宅を作るのは難しかった。日本人建築家が洋館建設を手掛けるようになったのはコンドルの弟子たちが育ってきてからである。",
"title": "華族の邸宅"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "華族の大邸宅は当時の人々が「高燥の地」と呼んだ高台や南向きの斜面に建てられることが多かった。陽当たりのよさと、水はけのよさが好まれたためである。これは江戸時代の趣味とは異なる立地だった。江戸時代には庭園に庭を掘り、汐入の庭などと称する物を評価したので、大庭園を持つ邸宅には下町に近い低地が好まれた。文明開化の時代は向日性の時代だったといえよう。東京の地名に「山」の字がついている物は「高燥の地」のことであり、大邸宅地だったところである。たとえば五反田の島津山や池田山は島津公爵邸や池田侯爵邸、目黒区と渋谷区の境にある西郷山は西郷従道侯爵家の邸宅に因んでいる。",
"title": "華族の邸宅"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "時代が下るとともに華族の邸宅はコンパクトになっていく。和洋折衷の建物や、一部に洋間を組み込んだだけの邸宅などが誕生した。",
"title": "華族の邸宅"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "柳沢統計研究所編纂の『華族静態調査』が大正4年12月31日時点における不詳分389家を除いた華族539家の使用人数をまとめている。539家の総使用人は6504人から7008人であり、平均すれば1家につき12.1人から13人となる。爵位が高いほど使用人数が多くなる傾向があるが、公爵家と侯爵家では逆転しており、侯爵家25家の総使用人数は1092人から1195人以上で平均43.7人から47.8人以上であるが、公爵家の平均はこれより10人ほど少ない。これは資産家である旧大藩大名家が公爵より侯爵に多いのが原因である。詳細は以下のとおりである。",
"title": "華族の使用人"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "使用人が就く家職の例として公爵徳川宗家のものと見られる『家務規定』(江川素六文書)がある。これによれば徳川公爵家の家職には上から家令、家扶、家従、家丁、嘱託、雇員の5階級があり、さらに家職以外の使用人に馭者、給仕、小使、馬丁があったという。1名の家令、2名から3名の家扶が他の使用人を指揮する体制を取っていたという。",
"title": "華族の使用人"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "華族や勅任官・奏任官は1877年(明治10年)の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月司法省丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は1886年(明治19年)の華族世襲財産法により公告の手続によって世襲財産を認められ得た。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "その他、宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1886年(明治19年)に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、1915年(大正4年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は、旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1889年(明治22年)公布の明治憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者に限定された(1918年(大正7年)の旧皇室典範の増補により皇族女子は王族または公族に嫁し得ることが規定された)。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。",
"title": "特権"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。しかし女戸主は1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった。",
"title": "身分"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。",
"title": "身分"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "奈良華族などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家(土方与志)の例(スキャンダルは治安維持法関連だが、没収時はソ連にいたため逮捕はされず。)などは華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。",
"title": "身分"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。",
"title": "統制"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。",
"title": "統制"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "公卿・諸侯といえば、封建主義時代に多年にわたって畏怖・畏敬されてきた一族であり、彼らが明治初期に華族という皇族に次ぐ特別な地位を与えられた時、感涙に咽ぶ領民こそあれ、それを批判するような者はほとんどなかった。しかし華族にとって不幸だったのは当時の19世紀中期という時代、彼らの原像たるヨーロッパ貴族制は、すでに支持を失って衰退し、批判の的となっていたことだった。民主主義や平等思想といった欧米先進思想が次々と日本に流入してきていた時代にあって日本でも華族をはじめとした世襲制への疑問・非難が強まっていくのは当初から時間の問題だったということである。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "世襲批判としてまず最初に起こったのは江戸時代から続く家禄制度への批判であった。「居候」「座食」「平民の厄介」「無為徒食」などの悪罵が平民から旧武士層に対して投げつけられるようになり、新聞の投書や政府への建白書も家禄批判がどんどん増えていく。たとえば明治8年(1875年)9月には島地黙雷が『共存雑誌』に論文「華士族」を寄稿し、華士族への家禄支給を批判する論陣を張っている。更にこの翌年の2月から4月には『朝野新聞』の投書欄で深井了軒(筆名)、中田豪晴(電気技師の投書家)、伊東巳代治(外務副課長)の三者が華族批判をめぐる議論を展開している。初めに投書した深井は「華族を『無為の徒食者』と批判することは共和制を主張するも同じであり、皇室を否定する動き」と論じて華族を擁護しているが、このことは当時すでにこうした華族批判が広く世に出回っていたことを物語る(論争でも中田と伊東は華族を『無為の徒食者』と批判したことを譲らなかった)。こうした家禄批判の国民世論に押されて同年8月に政府は秩禄処分を断行し家禄制度を廃止している。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "また同年小野梓(元老院書記官・会計検査院検査官)は、『華士族論』を著し、「華士族の支配が平民を卑屈にし、独立の気概を失わせた」と論じ、華士族の称号と特権の廃止を主張。明治13年(1880年)9月には『朝野新聞』が「華族に人文の自由なし」という論説を載せ、「華族は自分で独立できず他人の保護を受ける奴隷のようなもので、人間の自由を失っている」と論じた。翌年4月にも同紙は「貴族廃すべし」と題した論説を載せ、「平等均一こそが文明社会の趨勢であり、貴族は廃止するべき」と唱えた。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "板垣退助は「一君万民論」を唱え、皇室と国民の間に華族という特権階級を設けることは皇室と国民の親愛を離隔するとして華族制度に反対した。板垣のその立場は彼の国防論とも関係していた。板垣は「今日のような列強諸国が衝を争う時代にあっては、挙国一致、全国皆兵が不可欠であり、士族の一階級だけで国家防衛などできない。華族の一階級だけではなおさら不可能」として国民皆兵の必要性を訴え、その当然の帰結として一君万民論を唱えていたのである。板垣は華族制廃止の立場から二度にわたって叙爵を断ったが、明治天皇の強い意向もあり、結局爵位を受けいれて華族となったが、その際にも華族制度廃止の意見書を政府に提出している。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "日清日露以降には勲功に依る叙爵が増えて華族数急増への懸念も強まった。『大阪毎日新聞』明治29年6月7日付け朝刊は「貴族国」という見出しの記事を載せて、論功行賞を華族の爵位で対応することを問題視し、勲章や位記は何のためにあるのかと訴え、この勢いで華族が増え続ければ日本は純然たる貴族国になってしまうと批判した。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "明治40年(1907年)には一代華族論を唱える板垣退助が全華族850家に対して檄を送って「華族の族称を廃し、其栄爵の世襲を止めんこと」を求めた。しかし回答文を送ってきたのは37家だけで、そのうち賛成と認められる者は12人、賛否を明言しない者は18人、反対する者は7人だった。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "板垣退助の『一代華族論』によれば「賛成者と認むべき者」には4種あった。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "「賛否を明言せざる者」は次の10種に分けている。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "「反対する者」は次の2つに分けている。",
"title": "批判"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "公侯爵から返事をした家は1家もなかったが、板垣退助の一代華族論に9家も全面賛成したことは注目に値する。板垣は返事をしなかった813家の華族に怒り心頭となり「爾余の八百十三は即ち此問題を不問に附して、何らの意見をも表明せず、恬然として風馬牛相関せざるが如き態度を執れる者なりき。是に於ては予は彼等の愛国心と道義心とに疑なき能わず」と書いている。",
"title": "批判"
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"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "大正時代になると大正デモクラシーの盛り上がりで華族批判がますます強まる。『山縣有朋意見書』には大正6年6月25日付けで元老山縣有朋が貴族院議長徳川家達に宛てて書いた「華族教育に関する意見」が収録されており、その中で山縣は「近時華族全般の風紀退廃に傾き、往々世論にも上る哉に聞き及び候処、此くしては皇室の藩屏として寔に恐れ多き次第と憂慮罷り在り候」と記しており、当時の華族への厳しい世論状況がうかがえる。",
"title": "批判"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "大正期には華族はもとより、華族の下位にあり、戸籍上は平民の上位にあった士族への批判も強まった。士族は明治初期にはいくらかの特権を有していたが、特権をはく奪されて以降は戸籍上に表示されるだけの存在と化していた。何らの特権も有してない士族さえ批判の対象になったのであり、階級打破を掲げる大正デモクラシーの中、華族制度への批判的視線は非常に強いものがあったといえる。",
"title": "批判"
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"text": "一方で士族廃止論に対しては士族たちの側も激しく抵抗し、士族廃止反対を訴える運動が全国規模で展開されている。富山県と沖縄県を除き、特に東京、大阪、京都、神戸、仙台、名古屋、鹿児島などの士族たちの間で士族廃止反対運動が熱を帯び、当時の社会問題となった。こうした士族の動きについて旧土佐藩主家の山内豊景侯爵は「階級打破に賛成だ。したがって士族存続に反対である」「併し華族廃止はまだ考えていない」と論評したが、『読売新聞』大正12年5月28日付朝刊に「虫が良すぎる」と批判されている。",
"title": "批判"
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"paragraph_id": 105,
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"text": "このような世論状況もあって、大正期以降は華族の叙爵件数(陞爵も)は明治期と比較して格段に減少した。また昭和期に入ると更に減少している。",
"title": "批判"
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"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。",
"title": "実際"
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"text": "一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧・家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。",
"title": "実際"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、1927年(昭和2年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。",
"title": "実際"
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"paragraph_id": 109,
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"text": "華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。",
"title": "実際"
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"paragraph_id": 110,
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"text": "制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。",
"title": "実際"
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"text": "貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。しかしこのことで、同爵間の議席のたらい回しが横行したり、水野直のように各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した。",
"title": "実際"
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"paragraph_id": 112,
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"text": "陸軍士官学校には明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))、華族子弟のための特別な予科(予備生徒隊)が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。大名・公家華族出身の有名な軍人としては、陸軍では前田利為や町尻量基や山内豊秋、海軍では醍醐忠重や小笠原長生らがいる。軍人華族はのちに、戦功により叙爵された職業軍人(とその子弟)が主となった。",
"title": "実際"
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"text": "進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかであったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。",
"title": "実際"
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"text": "学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川生物学研究所や林政史研究室(のちの徳川林政史研究所)を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・巌の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。",
"title": "実際"
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"text": "珍しい進路に進んだ例としては、映画の小笠原明峰(本名・長隆、小笠原長生子爵嫡男)と章二郎(同・長英、次男)の兄弟、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。小笠原明峰は映画界に入ったことで廃嫡となり、土方はソ連での反体制的言動により爵位剥奪となった。",
"title": "実際"
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"text": "昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄・樺山愛輔・徳川義親などが知られる。",
"title": "実際"
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"paragraph_id": 117,
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"text": "1947年(昭和22年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。",
"title": "廃止"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は堂上華族だけでも存置したい意向であり、幣原喜重郎首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われたが、岩田宙造司法大臣から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、陛下の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された。結局、華族制度は衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。",
"title": "廃止"
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"paragraph_id": 119,
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"text": "小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、2021年(令和3年)現在も旧・華族の親睦の中心となっている。",
"title": "廃止"
}
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華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。
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[[Image:Peers Club Inside.jpg|right|thumb|250px|ピアズ・クラブ([[霞会館|華族会館]])の内装<br />([[1912年]]([[明治]]45年/[[大正]]元年)・東京)]]
'''華族'''(かぞく)は、[[1869年]]([[明治]]2年)から[[1947年]]([[昭和]]22年)まで存在した近代[[日本]]の[[貴族]]階級。
== 概要 ==
[[File:The family of Baron Kanda.jpg|thumb|200px|神田男爵家([[1911年]])。(前列左より)長女英芝子([[河津暹]]夫人)、四男盾夫、三女孝子、神田男爵夫人、四女文子、二女百合子([[高木兼二]]夫人)。(後列左より)女婿河津暹、令孫祐孝(河津暹長男)、男爵、三男十拳、二男[[高木八尺]]、長男金樹。]]
[[版籍奉還]]が行われた明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])の行政官達第五四二号で[[公卿]]([[公家]]の[[堂上家]])と[[諸侯]]([[大名]])の称が廃され、華族と改められた{{sfn|小田部雄次|2006|p=13}}{{sfn|浅見雅男|1994|p=10}}。この時以降[[華族令]]制定以前に華族に列した家を「旧華族」と呼ぶことがあった{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}<ref name="旧華族">{{Cite Kotobank|word=旧華族|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2023-05-12}}</ref>。また旧公家の華族は「堂上華族」<ref name="堂上華族">{{Cite Kotobank|word=堂上華族|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2023-05-12}}</ref>、旧大名の華族は「大名華族」と呼ぶこともあった<ref name="大名華族">{{Cite Kotobank|word=大名華族|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典 |accessdate=2023-05-12}}</ref>。
旧華族時代には爵位は存在せず、世襲制の永世華族と一代限りの[[終身華族]]の別があったが{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}、明治17年7月7日に公布された[[華族令]]により[[公爵]]、[[侯爵]]、[[伯爵]]、[[子爵]]、[[男爵]]の五爵制が定められた。華族令と同時に制定された叙爵内規によりその基準が定められ、公爵は「[[親王]][[王 (皇族)|諸王]]より臣位に列せらるる者、旧[[摂家]]、[[徳川宗家]]、国家に偉勲ある者」、侯爵は「旧[[清華家]]、[[徳川御三家|徳川旧三家]]、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者」、伯爵は「[[大納言]]宣任の例多き旧堂上、[[徳川御三卿|徳川旧三卿]]、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者」、子爵は「[[明治維新|一新]]前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者」、男爵は「一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者」に与えられた{{sfn|松田敬之|2015|p=11}}。またこの際に終身華族の制度は廃止された{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。華族令制定後、家柄に依らず、国家への勲功により華族に登用される者が増加し、これを「新華族」と呼ぶことがあった<ref name="新華族">{{Cite Kotobank|word=新華族|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2023-05-12}}</ref>。
華族は[[皇室]]の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在という意味で「皇室の藩屏」と呼ばれていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。
有爵者は[[貴族院 (日本)|貴族院]]の有爵議員(華族議員)に選出され得る特権を有した。公侯爵は終身任期で無給の貴族院議員となり(大正14年以降は勅許を得て辞職可能となった)、伯子男爵は同爵者の互選で選出されれば任期7年で有給の貴族院議員となることができた{{sfn|内藤一成|2008|p=16}}。
昭和22年(1947年)5月3日に施行された日本国憲法の第14条2項に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより廃止された{{sfn|松田敬之|2015|p=38}}。
== 旧華族(1869年-1884年) ==
=== 華族誕生 ===
{{wikisource|公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス}}
{{wikisource|岩倉公実記}}
[[版籍奉還]]と同日の明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])に出された行政官達第五四三号「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事」により、従来の身分制度の[[公卿]]・[[諸侯]]の称は廃され、これらの家々は華族に改められることが定められた<ref>{{Cite book|和書|author= 居相正広|year= 1936-09-28|title= 華族要覧(第1輯)|publisher= 居相正広|page= 21|doi= 10.11501/1018502}}</ref>{{sfn|小田部雄次|2006|p=13}}{{sfn|内藤一成|2008|p=24}}。
「公卿」とは[[皇居|内裏]]の[[清涼殿]]殿上の間に上がることが許された[[公家]]の[[堂上家]]([[殿上人]])のことを指し、「諸侯」とは[[表高]]1万石以上の[[石高]]がある各藩の[[藩知事]]([[版籍奉還]]前の[[藩主]])、つまり[[大名]]のことを指す{{sfn|小田部雄次|2006|p=14}}。華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の合計427家である{{sfn|松田敬之|2015|p=5}}。この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は慶応3年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1867年]][[11月10日]])の[[大政奉還]]時の公卿・諸侯の数と同数ではない。その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している{{sfn|浅見雅男|1994|p=25}}。
具体的には、公卿からは[[松崎万長]]の[[松崎家]](慶応3年10月24日公卿)、[[北小路俊昌]]の[[北小路家]](慶応3年11月20日公卿)、[[岩倉具経]]の[[岩倉家|岩倉分家]](慶応4年6月公卿)、[[玉松真弘]]の[[玉松家]](明治2年1月公卿)、[[若王子遠文]]の[[若王子家]](明治2年2月公卿)の5家、諸侯からは[[中山信徴]]の[[中山氏#水戸藩附家老の中山氏|中山家]]([[村岡藩]])、[[成瀬正肥]]の[[成瀬氏|成瀬家]]([[犬山藩]])、[[竹腰正旧]]の[[竹腰氏|竹腰家]]([[今尾藩]])、[[安藤直裕]]の[[安藤氏|安藤家]]([[田辺藩]])、[[水野忠幹]]の[[水野氏#新宮水野男爵家|水野家]]([[新宮藩]])、[[吉川経健]]の[[吉川氏|吉川家]]([[岩国藩]])、[[徳川家達]]の[[徳川宗家]]([[駿府藩]])、[[徳川慶頼]]の[[田安徳川家]]([[田安藩]])、[[徳川茂栄]]の[[一橋徳川家]]([[一橋藩]])、[[山名義済]]の[[山名氏|山名家]]([[村岡藩]])、[[池田徳潤]]の[[池田氏#近世大名池田家|池田家]]([[福本藩]])、[[山崎治祇]]の[[山崎氏|山崎家]]([[成羽藩]])、[[本堂親久]]の[[本堂氏|本堂家]]([[志筑藩]])、[[平野長裕]]の[[平野氏#北条氏|平野家]]([[田原本藩]])、[[大沢基寿]]の[[大沢氏|大沢家]]([[堀江藩]])、[[生駒親敬]]の[[生駒氏|生駒家]]([[矢島藩]])の16家が加わっている{{sfn|浅見雅男|1994|p=26}}。
公卿の方を見ると、松崎は[[孝明天皇]]の寵臣だったことからその遺命で、北小路は[[地下家]]からの昇進で、岩倉具経は岩倉家の分家だが戊辰戦争での東征軍東山道鎮撫副総督としての功績で、玉松は[[山本家]]分家だが還俗後[[王政復古]]の詔勅文案の起草などにあたった功績で、若王子は[[山科家]]分家だが還俗後一家立てるのを認められたことで、それぞれ堂上家に列していた{{sfn|浅見雅男|1994|p=27-29}}。諸侯の方は明治初年に新たに藩を与えられた[[徳川宗家]]と[[徳川御三卿]]、また[[徳川御三家]]からの独立を認められた[[付家老]]家、戊辰戦争での加増や高直しで万石越えした[[交代寄合]]などであり、いわゆる[[維新立藩]]をして新たに大名になった者たちである{{sfn|浅見雅男|1994|p=34-38}}。
逆に大政奉還時には諸侯だったが、明治2年6月17日時点で諸侯でなくなっていたのは戊辰戦争の戦後処理の[[減封]]で1万石割れした旧[[請西藩]][[林氏|林家]]1家のみである(同家は明治26年に至って特旨により華族の男爵家に列している{{sfn|小田部雄次|2006|p=346}})。同家以外の大政奉還時に諸侯・公卿だった家は全家が明治2年6月17日をもって「華族第1号」となっている{{sfn|浅見雅男|1994|p=25}}。
その後明治17年([[1884年]])7月7日の[[華族令]]施行で五爵制が導入されるまで、華族はその内部に等級を付さずに一身分として存在することになった{{sfn|松田敬之|2015|p=8}}。また華族令制定前の華族においては[[終身華族]](一代限りの華族)と永世華族(世襲制の華族)の別があったが、終身華族に叙されたのは[[北畠通城]]、[[松園隆温]]ら宮司や僧から還俗した一部だけであり大部分は永世華族である{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。
旧諸侯華族は当初各藩の藩知事を兼ねる存在であったが、明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])の[[廃藩置県]]をもって全員が藩知事を解任されたため、以降は旧公卿華族との区別はなくなった<ref name="kotobank">{{Cite Kotobank|word=華族|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 旺文社日本史事典 三訂版 百科事典マイペディア |accessdate=2022-11-08}}</ref>。
=== 華族創設をめぐる様々な案 ===
明治初年以降、明治2年6月17日に行政官達第五四三号が出されるまでの間、公卿・諸侯の扱いをめぐっては様々な議論があったことは[[深谷博治]]『華士族秩禄処分の研究』、『華族会館史』、[[坂巻芳男]]『華族制度の研究』に詳述される。『華士族秩禄処分の研究』によれば、[[伊藤博文]]は諸侯を公卿とし、位階によって序列化する案を[[岩倉具視]]に宛てて進言しており(『岩倉家蔵書類』)、この案は公家と大名を一つにするというより大名を公家に含有するものだったと指摘する{{sfn|松田敬之|2015|p=4}}。
ついで[[広沢真臣]]が岩倉に送った意見書では公卿・諸侯を統合して「貴族」とする案が出されており、最終的には名称以外はこの案でいくことになるのだが、名称については当時は「華族」ではなく「貴族」とする案が相当有力だったと見られている{{sfn|松田敬之|2015|p=4}}。[[大久保利通]]や[[副島種臣]]も「貴族」の名称を支持している{{sfn|小田部雄次|2006|p=15}}。しかし岩倉は「名族」という名称を推していた{{sfn|小田部雄次|2006|p=15}}。これ以外にも「勲家」「公族」「卿族」などの名称案が出されていたことが確認されており「華族」に決まるまで相当の紆余曲折があったと見られる{{sfn|松田敬之|2015|p=4}}。
前述の行政官達の「華族」の部分も直前まで欠字になっており、容易に決定されなかったことがうかがえる。明治2年6月7日(1869年7月15日)の草案では大久保・副島の「貴族」案と岩倉の「名族」案の間で論争があったことの付箋が付けられている。最終的にはどちらの案も採用されず「華族」となるが、誰がそれを提唱し、どのような経緯でそれに決まったかは今のところ不明である{{sfn|小田部雄次|2006|p=15}}。
当時「華族」という言葉は公家の[[清華家]]の別称だった(「花族」ともいった)。[[平安時代]]末頃までは家柄の良い者の美称として「英雄」「清華」「栄華」「公達」などとほぼ同義に使われており、[[藤原宗忠]]の『[[中右記]]』、[[九条兼実]]の『[[玉葉]]』などにその用法での使用例がみられる{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}。その後公卿の家格が形成されていく中で「華族」は[[摂家]]に次ぐ公家の家格の[[清華家]]の別称となっていった{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}。このように「華族」とは歴史ある言葉であり、維新後に公卿と諸侯の総称という新たな意味を持つに至った{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}。
=== 華族の役割と「皇室の藩屏」 ===
[[廃藩置県]]によって藩知事たちが解任された明治4年7月14日(1871年8月29日)、華族戸主に[[東京府|東京]]在住が命じられた。この頃、結婚や職業の自由などの太政官布告が出されており、特権はく奪や四民平等的な政策への不安が華族の間に広まっていた{{sfn|内藤一成|2008|p=25}}。華族たちの不安が頂点に達していた同年10月10日に[[明治天皇]]より「華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可き儀」という勅旨が出された{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて小御所代([[京都御所]]と同じ部屋を[[赤坂御所|赤坂仮御所]]内に設けた部屋)に召集し、ここでも「華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや」と勅諭している{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}{{sfn|内藤一成|2008|p=25}}。この勅諭に触発・奮起された華族は少なくなく、日本型[[ノブレス・オブリージュ]]の原点となる勅諭となった{{sfn|内藤一成|2008|p=25}}。
この華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は「'''皇室の藩屏'''(はんぺい)」と呼ばれるようになった。「藩屏」とは「外郭」のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。華族のうち旧公家華族は古代より皇室に仕え、その守護にあたってきた家々であるが、旧武家華族は歴史上皇室と敵対することも多かった家々である。すなわち華族制度の創設は旧公家だけでなく旧大名家もすべて天皇の臣下に組みこむことにその本質があった{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。
なお皇族も華族と似た役割を負っていたことから「皇室の藩屏」と呼ばれることがあったが、最大の違いとして皇族は「天皇になりうる家系」であり、華族は「天皇になりえぬ家系」である{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。
=== 華族制度の整備 ===
[[1874年]](明治7年)には華族の団結と交友のため[[霞会館|華族会館]]が創立された。[[1877年]](明治10年)には華族の子弟教育のために[[学習院]]が開校された。同年華族銀行とよばれた[[十五銀行|第十五国立銀行]]も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である[[右大臣]][[岩倉具視]]だった。
[[1876年]](明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした[[宗族制 (華族)|宗族制度]]が発足し、華族は[[武家]]と[[公家]]の区別なく、[[系図]]上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の[[祭祀]]などで交流を持つようになった。[[1878年]](明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。
また、1876年には[[お雇い外国人]]の金融学者[[パウル・マイエット]]とこれを招聘した[[木戸孝允]]が共同で、華族や[[位階]]のための[[年金]]制度を策定した。40万人の華族に年間400万石(720万ヘクタール分)の米にあたる資金を分配することになり、最終的に7500万円分(現代で1.5兆円)が償還可能な[[国債]]のかたちで分配された<ref>[https://web.archive.org/web/20230103094325/https://magazine.tr.mufg.jp/90326 昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語] [[三菱UFJ信託銀行]]。</ref>。
[[1878年]](明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。[[1882年]](明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。
=== 華族の上院議員化構想 ===
明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])の華族創設から[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]に華族が五爵制になるまでの15年間にも華族の役割・在り方については様々な議論があった。
もともと立憲制より君主制を重視していた岩倉具視は「皇室の藩屏」たることが華族の存在意義と強く意識したため、華族銀行(第15国立銀行)の創設など華族の生活安定には熱意を注いだが、彼らを国政に関与させることには否定的だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=18}}。これに対して[[ヨーロッパ]][[貴族]]の在り方を思い描いていた伊藤博文は、華族の政治参加を意識し、[[上院]]議員化構想を持っていた。特に[[1881年]](明治14年)に9年後の国会開設が公約された後には伊藤は民権派が議席の多数を占めることが予想される[[下院]]への防波堤として華族による上院の設置を重視した。しかし華族には国政に関心を示す者が少なく、これに不満を持った伊藤は、華族のみならず士族以下からも有能な者を抜擢して上院議席をもたせる必要を考えるようになり、この構想が後に勲功華族に繋がっていく{{sfn|小田部雄次|2006|p=18-19}}。
当初は華族を国政に関わらせることを嫌がっていた岩倉も1880年代入ると民間ジャーナリズムの勃興や[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]の結党など時代変化に影響されて、より積極的な「華族改良」が必要と考えるようになり、華族教育の充実を図る一方、華族を上院議員にしたり、勲功華族を設置するといった伊藤の考えにも理解を示すようになっていった。1883年(明治16年)の岩倉死去後は伊藤らの華族の上院議員化構想は一層進められていく{{sfn|小田部雄次|2006|p=19}}。
=== 「華族第2号」 ===
[[1869年]](明治2年)の創設で427家の華族(「華族第1号」)が生まれた後、[[1884年]](明治17年)に華族令が施行されるまでの15年間にさらに76家が華族に追加されている{{sfn|浅見雅男|1994|p=40}}。彼らが「華族第2号」ともいうべき層だが、その大半は華族令施行で五爵制になった後に最下級の[[男爵]]に叙されたことからも分かるように「華族第1号」と比べると格下と見なされていたようである{{sfn|浅見雅男|1994|p=63}}。次のような家々が「華族第2号」であった。
*[[奈良華族]](26家) - [[奈良県|奈良]][[興福寺]]に入っていた公家の分家で維新後還俗して朝廷に仕えた者たち。彼らはいったん終身華族になった後、永世華族になった。公卿華族は一般に貧しい家が多かったが、その分家の奈良華族はさらに貧しいことが多く貧乏華族で知られた{{sfn|浅見雅男|1994|p=54-58}}。具体的な家々は[[奈良華族#奈良華族(26家)]]参照。
*神職・僧侶華族(20家) - 由緒ある神社の[[社家]]や[[浄土真宗]]の[[門跡寺院]]もしくは准門跡寺院の住職を世襲する僧家が華族に列した。浄土真宗以外にも門跡寺院はあったが、真宗のみが華族となったのは真宗のみ住職を世襲制でやっていたからである。華族とは世襲の地位なので一代かぎりの住職は華族にはできなかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=58}}。まず社家の方は[[出雲国造#北島家|北島家]]([[出雲大社]]神職)、[[出雲国造#千家家|千家家]](同神職)、[[津守国美|津守家]]([[住吉大社]]神職)、[[阿蘇惟敦|阿蘇家]]([[阿蘇神社]]神職)、[[到津公誼|到津家]]([[宇佐神宮]]神職)、[[宮成家]](同神職)、[[河辺家 (大中臣氏)|河辺博長家]]([[伊勢神宮]]神職)、[[松木朝彦|松木家]](同神職)、[[紀俊尚|紀家]]([[日前神宮・國懸神宮|日前・国懸両神宮]]神職)、[[千秋家]]([[熱田神宮]]神職)、[[高千穂家]]([[英彦山]]神職)、[[小野氏 (社家)|小野家]]([[日御碕神社]]神職)、[[金子有卿|金子家]]([[物部神社 (大田市)|物部神社]]神職)、[[西高辻家]]([[太宰府天満宮]]神職)の14家である。浄土真宗の方は東本願寺と西本願寺の両[[大谷家]]、[[渋谷隆教|渋谷家]]([[浄土真宗]][[真宗仏光寺派|渋谷派]]総本山[[仏光寺]]住職)、[[華園家]]([[浄土真宗]][[真宗興正派|興正派]]総本山[[興正寺]]住職)、[[常盤井家]]([[浄土真宗]][[真宗高田派|高田派]]総本山[[専修寺]]住職)、[[木辺孝慈|木辺家]]([[浄土真宗]][[真宗木辺派|木辺派]]総本山[[錦織寺]]住職)の6家である{{sfn|浅見雅男|1994|p=58}}。
*分家華族(17家) - 有力な公卿・諸侯の分家はこの時期から華族に列せられはじめている。[[北畠家]]([[久我家]]分家)、[[玉里島津家]]([[島津氏|島津家]]分家)、[[長岡氏|長岡家]]([[細川氏|細川家]]分家)、[[池田勝吉|池田勝吉家]]([[池田氏|岡山池田家]]分家)、[[山内豊尹|山内豊尹家]]([[土佐山内氏|山内家]]分家)、[[小早川氏|小早川家]]([[毛利氏|毛利家]]分家)、[[中御門経隆|中御門経隆家]]([[中御門家]]分家)、[[酒井忠積|酒井忠積家]]および[[酒井忠惇|酒井忠惇家]]([[酒井氏|姫路酒井家]]分家)、[[前田利武|前田利武家]]([[前田氏|前田家]]分家)、[[三条公美|三条公美家]]([[三条家]]分家)、[[万里小路正秀|万里小路正秀家]]([[万里小路家]]分家)、[[徳川厚|徳川厚家]]([[徳川宗家]]分家)、[[岩倉具徳|岩倉具徳家]]([[岩倉家]]分家)、[[坊城俊延|坊城俊延家]]([[坊城家]]分家)、[[鷲尾隆順|鷲尾隆順家]]([[鷲尾家]]分家)、[[伊達宗敦|伊達宗敦家]]([[伊達氏|仙台伊達家]]分家)がある{{sfn|浅見雅男|1994|p=41}}。
*忠臣華族(3家) - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[吉野朝廷|南朝方]]の忠臣の子孫にあたる家がこの時期から華族に列せられるようになった。この時期に列せられたのは[[新田氏|新田家]]([[新田義貞]]子孫)、[[菊池氏|菊池家]]([[菊池武時]]子孫)、[[名和氏|名和家]]([[名和長年]]子孫)の3家である{{sfn|浅見雅男|1994|p=59}}。[[五条家 (清原氏)|五条家]]([[五条頼元]]子孫)と[[南部氏|南部家]]([[南部師行]]子孫)は明治30年になって華族に列せられている{{sfn|松田敬之|2015|p=291-292/537}}。
*地下家(2家)- [[壬生家 (小槻氏)|壬生家]]と[[押小路家 (中原氏)|押小路家]]の2家。地下家は原則として士族だったが、この2家は他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「官務、大外記」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=43}}。
*勲功華族(3家) - 華族令施行後の叙爵内規で各爵位に勲功による登用規定が設けられた後には勲功華族は数多く任命されていくが、この時期には極めて少なく、[[大久保氏#薩摩大久保氏|大久保家]]([[大久保利通]]子[[大久保利和|利和]])、[[桂氏|木戸家]]([[木戸孝允]]養子[[木戸正二郎|正二郎]])、[[広沢家|廣澤家]]([[広沢真臣|廣澤真臣]]子[[広沢金次郎|金次郎]])の3家のみである。いずれも父(養父)が維新の勲功者で政府の要職を務めて高い位階を所持していたが、勲功者当人がすでに死んでいたことが特例的な叙爵を受けた理由である。この3家が華族に叙されたことは家柄に依らず勲功のみでも華族に叙され得る先例になったという点で華族の門戸を大きく開くものとなった{{sfn|浅見雅男|1994|p=61-63}}{{sfn|松田敬之|2015|p=12}}。
*[[清水徳川家]] - 明治初年に際して戸主不在だったため御三卿で唯一[[維新立藩]]できず、「華族第1号」になり損ねていたが、明治3年2月に水戸家の[[徳川篤守|篤守]]が養子に入ることで再興されたため、大名だったことはないものの特例で華族に列した。同家は明治前期に清水に改姓していたが、明治20年に徳川に再改姓した{{sfn|浅見雅男|1994|p=42}}。
*[[第二尚氏]] - 旧[[琉球国王|琉球王室]]。明治5年9月14日に[[尚泰]]が[[琉球藩]]王に任じられた際に華族に列している{{sfn|浅見雅男|1994|p=42}}。
*[[本多氏#福井本多男爵家|本多副元家]] - [[本多副元]]の家は旧[[福井藩]]主[[越前松平家]]の[[付家老]]だった。御三家の付家老は「華族第1号」になっていたが、本多家は(おそらく越前松平の家格の問題で)「華族第1号」になれず、[[士族]]となっていた。不満に思った副元はたびたび華族取り立て運動をおこし、明治11年時の東京府知事への請願が認められて華族に列した{{sfn|松田敬之|2015|p=652}}。
逆に「華族第1号」だったが、この間に華族でなくなった家として次の2家がある。
*旧[[広島新田藩]]知事[[浅野氏|浅野家]] - 明治2年12月に広島新田藩が広島藩に合併された際に同藩知事[[浅野長厚]]は、自主的に華族の地位を返上した{{sfn|浅見雅男|1994|p=66}}。
*[[大沢氏|大沢家]] - 旧高家旗本。[[大沢基寿]]は3550石(実高5485石)だった領地が石高直しで1万石以上になったとして[[堀江藩]]を立藩して「華族第1号」に滑り込んでいたが、明治4年に石高偽装が発覚したため、基寿は同年11月29日に華族から士族に降格となり、禁固1年に処された{{sfn|浅見雅男|1994|p=39}}。
== 五爵制度下の華族(1884年-1947年) ==
=== 華族令施行 ===
明治17年(1884年)7月7日に[[華族令]]が施行され、華族は[[公爵]]・[[侯爵]]・[[伯爵]]・[[子爵]]・[[男爵]]の5階級にランク付けされる五爵制になった{{sfn|松田敬之|2015|p=11}}。五爵は古代[[中国]]の官制に由来し、[[五経]]のひとつ『[[礼記]]』の王制編の冒頭には「王者之制禄爵、公侯伯子男、凡五等」とあり、『[[孟子]]』にも[[周]]代の爵禄について「公侯伯子男」の別があるとされている{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。中国の古典籍になじんでいる者が多かった当時の人々に違和感がないものだったと考えられる{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。また華族令制定によって一代限りの終身華族は廃止され、世襲制の永世華族のみとなった{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。
1884年(明治17年)7月7日と7月8日にかけて最初の叙爵が行われた。7日に117家(主に伯爵以上)、8日に387家(主に子爵以下)、総数で504家に叙爵があり{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}、公爵家11家、侯爵家24家、伯爵家73家、子爵家322家、男爵家74家が誕生した{{sfn|浅見雅男|1994|p=98}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=35}}。
=== 叙爵内規の爵位基準 ===
叙爵の基準は『叙爵内規』によって定められていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
==== 公爵 ====
最上位の[[公爵]]の基準について叙爵内規は「[[親王]]諸[[王 (皇族)|王]]より[[臣籍降下|臣位に列セラルル者]] 旧[[摂関家|摂家]] [[徳川宗家]] 国家に偉勲ある者」と定めていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時には明確な定義がなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。当初は[[伏見宮家]]、[[桂宮家]]、[[有栖川宮家]]、[[閑院宮家]]の四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際にはその該当者は維新の功をもって皇族に列していたので(これにより皇族は4家から15家に急増した)、華族令制定当時において「親王諸王」から華族に列した者というのは存在しなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。後に臣籍降下で華族となる皇族の例は増えてくるが、これは1907年(明治40年)2月11日制定の皇室典範増補第1条「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」の規定に基づくものであり、これによる臣籍降下で公爵になった者はおらず、[[侯爵]]か[[伯爵]]だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。
「旧摂家」とは[[摂政]]・[[関白]]まで昇進する資格を持っていた公卿の中の最上位の家格であり、[[近衛家]]、[[鷹司家]]、[[九条家]]、[[二条家]]、[[一条家]]の5家が該当する{{sfn|小田部雄次|2006|p=25}}。
「徳川宗家」は[[征夷大将軍|旧将軍家]]、旧[[静岡藩]]主家だった[[徳川宗家]]のことである。武家華族の中では唯一偉功なくして公爵家と定められていた{{sfn|浅見雅男|1994|p=93}}。
「国家に偉勲ある者」は、勲功による登用の規定である。他の爵位も勲功による登用の規定があるが、侯爵以下が「国家に勲功ある者」となっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求されている。明治17年の最初の叙爵において公爵に叙された勲功華族は、[[三条家]]([[三条実美]]の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧[[清華家]]として[[侯爵]]{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}})、[[島津氏|島津家]]([[島津忠義]]の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}})、[[毛利氏|毛利家]]([[毛利敬親]]・[[毛利元徳|元徳]]の功績。家格のみでの内規上の爵位は旧大藩知事として侯爵{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}})、[[岩倉家]]([[岩倉具視]]の功績。家格のみでの内規上の爵位は大納言直任の例のない旧堂上家として[[子爵]]{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}})、[[玉里島津家]]([[島津久光]]の功績。家格のみでの内規上の爵位は明治以降の華族分家として[[男爵]]{{sfn|浅見雅男|1994|p=96-97}})の5家である。
==== 侯爵 ====
第二位の[[侯爵]]の基準について叙爵内規は「旧[[清華家]]、[[徳川御三家|徳川旧三家]]、旧大藩知事即ち現米拾五万石以上、旧[[琉球藩]]王、国家に勲功ある者」と定めていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
「旧清華家」とは摂家に次ぎ[[太政大臣]]まで登る旧公卿の家格で9家存在したが、そのうち三条家は[[公爵]]となったので、それ以外の[[大炊御門家]]、[[花山院家]]、[[菊亭家]]、[[久我家]]、[[西園寺家]](後に公爵)、[[醍醐家]]、[[徳大寺家]](後に公爵)、[[広幡家]]の8家が侯爵に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=98}}。
「徳川旧三家」とは徳川宗家の支流で大名でもあった[[尾張徳川家]]、[[紀州徳川家]]、[[水戸徳川家]](後に公爵)の三家である。
「旧大藩知事」とは現米(現高)15万石以上として大藩に分類された藩の藩知事だった旧大名家。15万石の基準は[[表高]]や[[内高]](実高)といった藩内の米穀の総生産量ではなく、藩の税収を指す現米である点に注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88/111}}。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。明治2年時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88}}。
現米15万石以上だった旧大藩大名のうち旧薩摩藩主の島津家、旧長州藩主の毛利家は公爵に列せられたので、それ以外の[[浅野氏|浅野家]]([[広島藩]])、[[池田氏|池田家]]([[岡山藩]]と[[鳥取藩]])、[[黒田氏|黒田家]]([[福岡藩]])、[[佐竹氏|佐竹家]]([[秋田藩]])、[[鍋島氏|鍋島家]]([[佐賀藩]])、[[蜂須賀氏|蜂須賀家]]([[徳島藩]])、[[細川氏|細川家]]([[熊本藩]])、[[前田氏|前田家]]([[加賀藩]])、[[土佐山内氏|山内家]]([[土佐藩]])が侯爵に列せられた{{sfn|浅見雅男|1994|p=110}}。
「旧琉球藩王」とは旧[[琉球王国]]国王、旧[[琉球藩]]王だった[[第二尚氏|尚家]]のことである。
「国家に勲功ある者」は功績による登用の規定である。[[大久保利通]]の[[大久保氏#薩摩大久保氏|大久保家]]と[[木戸孝允]]の[[桂氏|木戸家]]、[[中山忠能]]の[[中山家]]が明治17年の最初の叙爵で侯爵となった。前述のとおり大久保家と木戸家は勲功華族が規定された華族令制定前から華族となっていた家である。なお大久保利通、木戸孝允と並ぶ[[維新三傑]]の一人である[[西郷隆盛]]の[[西郷氏|西郷家]]は[[西南戦争]]により当初叙爵がなかったが、西郷隆盛赦免後の1902年にただちに侯爵位を与えられるという大久保家・木戸家と同様の扱いを受けた{{sfn|小田部雄次|2006|p=354}}。[[中山家]]は公家の[[羽林家]]だった家だが、[[中山忠能]]の勲功により家格(家格のみの基準では[[伯爵]])より高い侯爵位を授けられた。同家の爵位が上げられたのは忠能が[[明治天皇]]の[[外祖父]]にあたることが影響したとみられる{{sfn|浅見雅男|1994|p=99}}。
==== 伯爵 ====
第三位の[[伯爵]]の基準について叙爵内規は「[[大納言]]迄宣任の例多き旧[[堂上家|堂上]] [[徳川御三卿|徳川旧三卿]] 旧中藩知事即ち現米五万石以上 国家に勲功ある者」と定められている{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
「大納言迄宣任の例多き旧堂上」とは、摂家と清華家を除く旧堂上家のうち、歴代当主の中に大納言に直任されたことがある当主がある旧公家華族のことである。直任とは[[中納言]]からそのまま[[大納言]]に任じられることをいい、いったん中納言を辞してから大納言に任じられる場合より格上の扱いと見なされていた{{sfn|浅見雅男|1994|p=118-119}}。具体的に叙された家については[[伯爵#旧公家の伯爵家]]参照。
「徳川旧三卿」とは江戸時代中期以降にできた新たな徳川家支流の[[田安徳川家]]、[[一橋徳川家]]、[[清水徳川家]](後に爵位返上、さらに後に男爵)の3家を指す。
「旧中藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石以上15万石未満で中藩に分類された藩の藩知事だった家である{{sfn|浅見雅男|1994|p=124}}。具体的に叙された家については[[伯爵#旧大名家の伯爵家]]参照。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では旧公家華族からの勲功登用として[[東久世家]]が[[東久世通禧]]の維新の功により伯爵に叙された(家格のみでの内規上の爵位は[[子爵]])。華族令制定前から華族となっていた[[広沢家|廣澤家]]は伯爵に列せられた。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から[[大山巌]]、[[川村純義]]、[[黒田清隆]]、[[西郷従道]]、[[寺島宗則]]、[[松方正義]]の6名、旧長州藩士から[[伊藤博文]]、[[井上薫]]、[[山縣有朋]]、[[山田顕義]]の4名、旧土佐藩士から[[佐佐木高行]]、旧肥前藩士から[[大木喬任]]が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより伯爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=32/323-326}}。うち伊藤家(→侯爵→公爵)、井上家(→侯爵)、大山家(→侯爵→公爵)、西郷従道家(→侯爵)、佐佐木家(→侯爵)、山縣家(→侯爵→公爵)、松方家(→侯爵→公爵)は日清・日露戦争において勲功を重ねて陞爵した{{sfn|小田部雄次|2006|p=323-326}}。
==== 子爵 ====
第四位の[[子爵]]の基準は「[[明治維新|一新]]前家を起したる旧堂上 旧小藩知事即ち現米五万石未満及び一新前旧諸侯たりし家 国家に勲功ある者」と定められている{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
「一新前家を起したる旧堂上」とは、伯爵以上の基準(摂家、清華家、大納言宣任の例多き堂上家)に当てはまらない旧公家華族全家である。
「旧小藩知事」とは明治2年に政府に申告した過去5年間平均の現米が5万石未満で小藩に分類された藩の藩知事だった家である{{sfn|浅見雅男|1994|p=147}}。旧小藩知事の定義の後半にある「一新前旧諸侯たりし家」は、表高が1万石に達していなかったが諸侯扱いになっていた[[足利氏|足利家]](旧[[喜連川藩]]主[[喜連川家]])を入れるために付けられていた表現である{{sfn|浅見雅男|1994|p=147}}。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。華族令制定前には士族だったが最初の叙爵で勲功で華族となった家としては、旧薩摩藩士から[[伊東祐麿]]、[[樺山資紀]]、[[高島鞆之助]]、[[仁礼景範]]、[[野津道貫]]の5名、旧長州藩士から[[鳥尾小弥太]]、[[三浦梧楼]]、[[三好重臣]]の3名、旧土佐藩士から[[谷干城]]、[[福岡孝弟]]の2名、旧肥前藩士から[[中牟田倉之助]]、旧筑後藩士から[[曾我祐準]]が、維新の功、戊辰戦争の功、西南戦争の功などにより子爵に叙されている{{sfn|小田部雄次|2006|p=32}}。
==== 男爵 ====
最下位である第五位の[[男爵]]の基準は「一新後華族に列せられたる者 国家に勲功ある者」と定められている{{sfn|小田部雄次|2006|p=23}}。
「一新後華族に列せられたる者」の「一新」の基点は慶応3年12月9日の王政復古ではなく、10月15日の大政奉還である{{sfn|浅見雅男|1994|p=25}}。したがって先述した「華族第1号」のうち大政奉還から明治2年の華族制度創設の間に公卿・諸侯に列した家、および[[#「華族第2号」|「華族第2号」で紹介した家]]は原則として男爵となった{{sfn|浅見雅男|1994|p=25-26}}。
「国家に勲功ある者」は勲功による登用の規定である。最初の叙爵では勲功華族は子爵以上になっており、男爵はなかったが{{sfn|小田部雄次|2006|p=32}}、後世には勲功華族は原則として男爵スタートだった{{sfn|浅見雅男|1994|p=149}}。特に日清日露以降に急増することになる爵位である{{sfn|浅見雅男|1994|p=149}}。
==== 叙爵内規に基づかない例外的な叙爵 ====
1884年(明治17年)7月7日と7月8日の最初の叙爵にあたって叙爵内規の基準は厳格に守られたが、松浦家(旧平戸藩主)と宗家(旧対馬藩)の2家については例外的な扱いとなった。両家とも現米5万石未満の旧小藩知事であり、本来なら子爵であるところ伯爵になっている。すべての爵位には勲功の規定があるので勲功があるのであれば家格以上の爵位が与えられていても問題はないが、この両家についていえばそれほどの勲功があったと考えるのは無理があることから叙爵内規に基づかない特例処置だったと見られている{{sfn|浅見雅男|1994|p=124}}。次の事情が考えられている。
*松浦家の場合 - 当時の当主[[松浦詮]]が明治天皇の又従兄弟にあたるため(詮の曽祖父の松浦藩主[[松浦清]]の娘[[中山愛子|愛子]]は公家[[中山忠能]]に嫁いでおり、明治天皇[[国母]][[中山慶子]]を生んだ)、子爵では低すぎると判断されたと思われる。しかし原則として叙爵内規に例外は設けないことになっていたので、松浦家の伯爵叙爵にあたっては[[三条実美]]が理屈を考え出している。平戸藩は先述の明治2年の現米申告の時、支藩の[[平戸新田藩|植松藩]]の物と合わせて現米5万1021石と申告していたが、政府に認められず、改めて植松藩の物を抜いた現米4万6410石をもって小藩に分類されていた。しかしその後の明治3年9月2日に植松藩は平戸藩に吸収されて廃藩になった。大中小藩の分類が設けられたのはその直後の9月10日であった。三条はこの時事系列に目をつけ、大中小藩に分けられた時点では平戸藩は中藩だったとして松浦家は叙爵内規に照らして伯爵相当になるとしたのである(しかし先述のとおり叙爵内規の現米とは元治元年から明治元年までの5年間の平均の現米であり、しかも植松藩主松浦家の方も本家と別に華族となり子爵に叙されているため、この説明では矛盾していた){{sfn|浅見雅男|1994|p=125-130}}。
*宗家の場合 - 宗家は江戸時代に対馬藩主だった家で[[李氏朝鮮]]との外交を任されており、その関係で国主格という石高不相応の高い家格が与えられていた。しかし叙爵内規においては国主か否かは関係ないので、宗家は旧対馬藩の現米3万5413石に基づき旧小藩知事として子爵になるべきだったが、伯爵に叙された。こちらには松浦家の場合のような合理的な理由付けすら確認できず理由は不明だが、やはり国主格だったことが関係しているのではないかと推測されている。宗家以外の旧国主大名はすべて伯爵以上になっているため、宗家だけを子爵としてしまうと宗家から不満が出そうであったため、特例措置で伯爵にしたのではないかという推測である{{sfn|浅見雅男|1994|p=131-132}}(現に宗家では本来もらえない伯爵位すら不満があったらしく、旧国主であることを理由に侯爵位を要求する請願書を三条実美に提出している{{sfn|浅見雅男|1994|p=113-115}})。
=== 爵位をめぐる様々な案 ===
華族の等級をめぐっては華族令制定前に様々な案が存在した。華族の中に等級を作る案自体は、明治2年6月に華族制度が創設される前から存在した。同年5月の版籍奉還決議上奏には九等の爵位案が出されている。これは公、卿、大夫、士に四分し、さらに卿を上下、大夫と士を上中下に分けるものだった{{sfn|小田部雄次|2006|p=20}}。
明治4年9月2日、最高官庁の[[正院]]から[[左院]]に発せられた下問に上公、公、亜公、上卿、卿の五等案があり、さらに10月14日には左院がこの案を改めて、公、卿、士の三等案を提出している{{sfn|小田部雄次|2006|p=20}}。この三等案が引き継がれる形で1876年(明治9年)に[[法制局]]が提出した「爵号取調書」には公、伯、士の三爵案が出ている{{sfn|小田部雄次|2006|p=20}}。
ついで1878年(明治11年)2月14日に法制局大書記官[[尾崎三郎]]と同少書記官[[桜井能監]]が[[岩倉具視]]や[[伊藤博文]]に爵位令草案を提出しており、ここで初めて公侯伯子男の五爵制が出てくる{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。[[宮内省]]の[[お雇い外国人]]だった[[オットマール・フォン・モール]]が著した『ドイツ貴族の明治宮廷記』によれば、彼が西欧の「[[大公]]」の爵位の導入を提案したのに対し、日本人は拒んだという記述がみられる{{sfn|松田敬之|2015|p=11}}。
また各華族家の爵位のランク付け基準をめぐっても様々な案が存在していた。
『[[三条文書]]』に収められている明治16年頃作成の案である『叙爵基準』は最終的な『叙爵内規』とは様々な違いが見られる。大きな違いとしては、旧琉球藩王が公爵に入っていること(叙爵内規では侯爵)、旧公家華族からの侯爵は[[清華家]]と並んで[[大臣家]]も入っていること(叙爵内規では大臣家は平堂上と区別されず)、平堂上の公卿華族については大納言に昇る家か、中納言もしくは三位以上に昇る家か、四位以上に上る家かで伯爵、子爵、男爵に分けていること(叙爵内規では大納言直任があるか否かで伯爵か子爵に分けている)、旧武家華族については旧[[国主]]が侯爵、現高10万石以上の旧中藩知事が伯爵、現高10万石未満の旧小藩知事が子爵と分けていること(叙爵内規では国主か否かは関係なく、現高15万石以上が侯爵、5万石以上が伯爵、5万石未満が子爵)などがあげられる{{sfn|浅見雅男|1994|p=74-75}}。『叙爵基準』以外の案でも公家華族は細かく定められている物が多く、細かい位階や官職をランク分けの基準に持ち込んだり、「本家筋」という概念を立てている物まである{{sfn|浅見雅男|1994|p=76}}。
[[早稲田大学]]中央図書館所蔵の『爵位発行順序』案(明治15年、明治16年頃)では、爵位の最下位、つまり男爵に該当する爵に叙されるべき家として、武家側では[[高家 (江戸時代)|高家]]や[[交代寄合]]、各藩における万石以上陪臣家、公家側では堂上公家に準じる扱いだった[[六位蔵人]]や伏見宮殿上人([[若江家]])などの諸家が挙げられているが、最終的な叙爵内規からはこれらの家は一律削除されている{{sfn|松田敬之|2015|p=12}}。
== 爵位制度の概要 ==
爵位の受爵・襲爵の条件としてまず第一に[[皇室]]と国家に忠誠を誓う必要があった。叙爵に際しては「'''長く皇室の尊厳を扶翼せんことを誓う'''」という誓書を[[賢所]]に捧げることが求められ、襲爵に際しては[[宮内省]]からその誓書の写しが送られた{{sfn|小田部雄次|2006|p=50}}。
また爵位は華族となった家の男性戸主のみが得られ、女性戸主は爵位を得られなかった。これは華族令3条「女子は爵を襲くことを得ず」の規定による{{sfn|浅見雅男|1994|p=67}}。華族令公布時に戸主が女性だったために爵位が得られなかった華族家に[[七条家]](旧公家)、[[錦小路家]](旧公家)、[[小松家 (奈良華族)|小松家]](奈良華族)、[[板倉氏|板倉家]](旧安中藩主家)、[[稲垣氏|稲垣家]](旧山上藩主家)、[[酒井氏|酒井家]](旧姫路藩主家)、[[三河牧野氏|牧野家]](旧三根山藩主家)、[[松浦氏|松浦家]](旧植松藩主家)の8家があった。ただし続けて「女戸主の華族は将来相続の男子を定めるときに於て、親戚中同族の者の連署を以て宮内卿を経由し授爵を請願すべし」とも規定されていたため、戸主が男子に代わると爵位がもらえた{{sfn|浅見雅男|1994|p=67}}。錦小路家は実に明治31年まで女性戸主だったが、同年に女戸主が養子[[錦小路在明|在明]]に代わるや[[子爵]]位を与えられている。爵位をもらう権利に[[時効]]はなかったということである{{sfn|浅見雅男|1994|p=67}}。
明治40年(1907年)の華族令改正で華族が女戸主をたてることはできなくなり、女戸主にした場合は華族の地位は返上したものとして取り扱われることになった(華族の地位にこだわらないなら女性を戸主にすること自体には特に問題ない)。この改正の理由として「女戸主は皇室の屏翰たるの実を挙げしむるに不適当なること」「女戸主を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念をばく(しんにょう+貌)視することになること」「入夫・養子襲爵を請願せしむと云うのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以て誤魔化そうとするものであること」「女戸主を認むるとせば無爵の華族あることを許すことになること」などが挙げられている{{sfn|小田部雄次|2006|p=50}}。
また養子に爵位を継がせる場合は「男系六親等内の親族」「本家又は同家の家族もしくは分家の戸主または家族」「華族の族称を享くるもの」といった条件が存在し、該当しない者を養子とした場合は原則として宮内大臣から襲爵の許可は得られなかったので、爵位は放棄せざるをえなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=51-52}}。
戸主でない者が叙爵した場合は一家を創設して戸主になる必要があった。これは所属していた家における遺産相続の際に不利になる可能性もあった{{sfn|小田部雄次|2006|p=52}}。
勲功をあげると{{読み仮名|陞爵|しょうしゃく}}(爵位の昇進)することもある。ただし日本の華族の爵位は上書き式なので(上級の爵位を与えられるとそれまでの下位の爵位は上書きされて消滅)、ヨーロッパ貴族のように複数の爵位を持つという状況にはなりえなかった。なお、'''爵位の格下げは一例も無い<ref group="注釈">[[清水徳川家]]で初め[[徳川篤守]]が伯爵、次代の[[徳川好敏]]が男爵となったが、これは篤守が爵位を返上ののち、[[家督]]を継いだ好敏が改めて自身の功績により男爵に叙せられたものである。</ref>。'''
爵位の上下により、叙位や[[宮中席次]]などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で[[従一位]]になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。
=== 英語呼称 ===
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ[[イギリス|英国]]の[[プリンス|prince]]、[[侯爵|marquess]]、[[伯爵|earl]]、[[ヴァイカウント|viscount]]、[[バロン (称号)|baron]]に相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは[[王族]]に与えられる爵位であるため、[[近衛文麿]]公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と[[日本語]]訳されるのは、通常は[[デューク (称号)|duke]]である。
=== 華族取立に関する問題 ===
華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い<ref name="matsuda_shohyo">{{Cite journal|和書|author= 佐藤雄基|title= 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)|year= 2018|journal= 史苑|volume= 78|issue= 2|pages= 109 - 110|doi= 10.14992/00016470}}</ref>。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた<ref name="hosono">{{Cite journal|和書|author= 細野哲弘|title= 一文字大名 脱藩す|year= 2018|publisher= 特許庁技術懇話会|journal= 特技懇|issue= 290|pages= 130 - 137}}</ref>。
== 華族の邸宅 ==
華族の本邸は明治には洋館と和館が並立して建てられることが多かった。迎賓館としての洋館、私生活の場としての和館である{{sfn|鈴木博之|2007|p=116}}。華族たちが接客空間として洋館を作るようになったのは、明治天皇の行幸が大きな役割を果たしたという。洋装・断髪などで西洋化の先陣を切っていた明治天皇は、日本各地を回ってたびたび華族の邸宅に行幸した。華族にとって天皇への最大のおもてなしとなるのが洋館だった。華族たちの洋館建設には天皇を自邸にお迎えしたいという願望が背景にあった<ref name="NHK">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file244.html|title=美の壺 File244 「華族(かぞく)の邸宅」|publisher= NHK|date= |accessdate=2023-06-02}}</ref>。明治期の大邸宅の多くは日本政府の招きで来日し[[工部大学校]]建築学科教授を務めていた英国人建築家[[ジョサイア・コンドル]]が設計したものである。日本人棟梁たちも擬洋風建築を試みてはいたが、彼らでは本格的な西洋風邸宅を作るのは難しかった。日本人建築家が洋館建設を手掛けるようになったのはコンドルの弟子たちが育ってきてからである{{sfn|鈴木博之|2007|p=117}}。
華族の大邸宅は当時の人々が「高燥の地」と呼んだ高台や南向きの斜面に建てられることが多かった。陽当たりのよさと、水はけのよさが好まれたためである。これは江戸時代の趣味とは異なる立地だった。江戸時代には庭園に庭を掘り、汐入の庭などと称する物を評価したので、大庭園を持つ邸宅には下町に近い低地が好まれた。文明開化の時代は向日性の時代だったといえよう{{sfn|鈴木博之|2007|p=116}}。東京の地名に「山」の字がついている物は「高燥の地」のことであり、大邸宅地だったところである。たとえば五反田の島津山や池田山は[[島津氏|島津]][[公爵]]邸や[[池田氏|池田]][[侯爵]]邸、目黒区と渋谷区の境にある西郷山は[[西郷従道]]侯爵家の邸宅に因んでいる{{sfn|鈴木博之|2007|p=116}}。
時代が下るとともに華族の邸宅はコンパクトになっていく。和洋折衷の建物や、一部に洋間を組み込んだだけの邸宅などが誕生した{{sfn|鈴木博之|2007|p=116}}。
{{Gallery
|title=華族の洋館
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|File:旧島津家本邸.jpg|[[島津氏|島津]][[公爵]]邸だった洋館。ジョサイア・コンドルの設計と洋画家[[黒田清輝]]の指揮のもと大正4年に竣工した[[イタリア]]・[[ルネサンス建築|ルネサンス様式]]の邸宅<ref name="seisen"/>{{sfn|玉手義朗|2017|p=42}}。列柱は1階が力強い[[トスカナ式]]、2階が女性的な[[イオニア式]]で異なっている{{sfn|玉手義朗|2017|p=42}}。現在は[[清泉女子大学]]本館となっており、[[重要文化財]]に指定されている([[東京都]][[品川区]])<ref name="seisen">{{Cite web|和書|url=https://www.seisen-u.ac.jp/shimadzu/ |title= 旧島津家本邸|publisher=清泉女子大学|date= |accessdate=2021-09-20}}</ref>。
|File:Seisen-1.JPG|島津公爵邸内。
|File:Former Maeda Estate 2009.jpg|[[前田氏|前田]][[侯爵]]邸だった洋館。現[[駒場公園 (目黒区)|駒場公園]]([[東京都]][[目黒区]]駒場)。壮麗な[[イギリス]]・[[チューダー様式]]の邸宅で昭和初期に完成した時には「東洋一の洋館」と呼ばれていた<ref name="maeda">{{Cite web|和書|url=https://www.bs-asahi.co.jp/100nen/lineup/prg_190/|title=東洋一と謳われた洋館 ~壮麗なるチューダー様式「旧前田家本邸 洋館」~|publisher= BS朝日|date=2019年2月10日 |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|File:Building internal 01.JPG|前田侯爵邸内
|File:Building internal 02.JPG|前田侯爵邸寝室
|File:Jinpukaku06 1920.jpg|[[池田氏#近世大名→華族の池田家|鳥取池田]]侯爵家の別邸だった[[仁風閣]](鳥取県鳥取市)。明治40年に竣工した[[フランス]]・[[ルネサンス様式]]を基調とした白亜の洋館。[[ゴシック様式]]の八角尖塔(階段室)も印象的<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbz.or.jp/jinpuukaku/guide/info/|title=仁風閣|publisher=公益財団法人 鳥取市文化財団|accessdate=2023-06-06}}</ref>
|File:Jinpukaku24 2048.jpg|仁風閣の一室。皇太子嘉仁親王(後の[[大正天皇]])の行啓の際に御食堂として使用された部屋。
|File:Yatsugatake Kōgen Hutte.jpg|[[尾張徳川家|尾張徳川]]侯爵家の邸宅だった[[イギリス]]・チューダー様式の[[ハーフティンバー様式]]の洋館{{sfn|玉手義朗|2017|p=190}}<ref name="yathu"/>。昭和9年に[[徳川義親]]侯爵が建築家[[渡辺仁]]に東京・目白に建設させたものだが、昭和43年に[[西武百貨店]]が取得して八ヶ岳高原に移築し、現在はレストラン「八ヶ岳高原ヒュッテ」となっている<ref name="yathu">{{Cite web|和書|url=https://www.yatsugatake.co.jp/stay/information/hut.html|title=八ヶ岳高原ヒュッテ|publisher=八ヶ岳高原ロッジ|accessdate=2023-06-07}}</ref>
|File:The Mansion of Wakeijuku in Tokyo.jpg|[[細川氏|細川]][[侯爵]]家の邸宅だった洋館。チューダー様式を基調として、卍崩しやサラセン風のデザインも取り入れられた昭和初期の代表的な華族邸宅である<ref name="wakei">{{Cite web|和書|url=https://www.wakei.org/honkan/overview.html|title=和敬塾本館とは|publisher=和敬塾|accessdate=2023-06-06}}</ref>。現在は[[和敬塾]]本館となっている(東京都文京区目白台)。
|File:Former Residence of Marquis Kacho 01.jpg|[[華頂宮家#華頂侯爵家|華頂侯爵家]]の邸宅だったハーフティンバー様式の洋館([[神奈川県]][[鎌倉市]][[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]])。昭和4年に[[華頂博信]]侯爵が建設した。華頂侯爵家の由来が華頂宮家にあることから一般に「[[旧華頂宮邸]]」と呼ばれる。ドラマ等のロケ地として有名<ref>{{cite news|title=鎌倉の「旧華頂宮邸」 ドラマロケで引っ張りだこ 放送中の2ドラマで使用 ディーンさん出世も話題に|url=https://www.sankei.com/article/20180530-6PZQ7OZUURP6NEONIECX7SDX54/|newspaper=産経新聞|date=2018年05月30日|accessdate=2023年8月5日}}</ref>。[[登録有形文化財]]<ref name="kamakurasi">{{Cite web|和書|url=https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/k-index1.html|title=旧華頂宮邸の保存と活用|accessdate= 2023-08-07 |work= [https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/index.html 鎌倉市] |language= 日本語 }}</ref>。
|File:Former Count Ogasawara Residence 2020-2.jpg|[[小笠原氏|小笠原]][[伯爵]]家の邸宅だった洋館。クリーム色の外壁とエメラルドグリーンのスペイン瓦、窓には鉄格子の飾りがあり、中庭を囲むロの字型の平面図になっているというスパニッシュ様式の洋館<ref name="oga">{{Cite web |url=https://www.ogasawaratei.com/ogasawara/history/|title=HISTORY|publisher=小笠原伯爵邸|date= |accessdate=2023-06-06}}</ref>{{sfn|玉手義朗|2017|p=76}}。スパニッシュ様式は昭和初期に流行した{{sfn|玉手義朗|2017|p=76}}。現在はスペイン料理店「[[小笠原伯爵邸]]」となっている<ref name="oga"/>。(東京都新宿区河田町)
|File:Bansui-so 2016-04-30.jpg|[[久松氏|久松]][[伯爵]]家の別荘だった[[萬翠荘]]([[愛媛県]][[松山市]]一番町)。陸軍駐在武官としてフランス駐在経験が長かった[[久松定謨]]伯爵が大正11年に建設させた[[フランス]][[第二帝政期建築|第二帝政様式]]の洋館{{sfn|玉手義朗|2017|p=170}}。当時「四国の鹿鳴館」と評されて四国の名士たちの社交場となった{{sfn|玉手義朗|2017|p=170}}。現在は重要文化財として一般公開されている<ref name="bansuisou">{{Cite web|和書|url=http://www.bansuisou.org/about/#Link01|title=萬翠荘について|publisher=萬翠荘|date= |accessdate=2023-06-06}}</ref>。
|File:Bansui-so stained glass 2016-04-30.JPG|萬翠荘の階段。帆船がデザインされたステンドグラスは[[木内真太郎]]の作品{{sfn|玉手義朗|2017|p=171}}
|File:BansuisoIndoor1.JPG|萬翠荘の1階大広間。白を基調とした部屋で扉上の2枚の絵画は松山出身の画家[[八木彩霞]]の作品{{sfn|玉手義朗|2017|p=171}}
|File:Toki-ke house 202010-1.jpg|[[土岐氏|土岐]][[子爵]]家の邸宅。[[土岐章]]子爵が大正13年に[[東京市]][[渋谷区]]に建設した[[ドイツ]]郊外別荘風住宅。平成2年に土岐家と所縁の深い[[群馬県]][[沼田市]]が取得し、倉内町の[[沼田公園]]を経て[[上之町 (沼田市)|上之町]]に移築され、現在は[[旧土岐家住宅洋館]]として一般公開されている<ref name="numata">{{Cite web|和書|url=https://www.city.numata.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/ichiran/yukei/1000886.html|title=登録有形文化財 旧土岐家住宅洋館|accessdate= 2023-08-07 |work= [https://www.city.numata.gunma.jp/index.html 沼田市] |language= 日本語 }}</ref>。[[登録有形文化財]]<ref name="numata"/>。
|File:Guest room in Toki-ke house.jpg|土岐子爵家の邸宅の応接室
|File:Tsunamachi Mitsui Club 2010.jpg|[[三井家|三井]][[男爵]]家の迎賓館だった洋館。現[[綱町三井倶楽部]]([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]三田)。ジョサイア・コンドルの設計で明治43年に竣工、優美な曲線と多様な装飾を使った[[バロック建築|バロック様式]]の邸宅<ref name="minato">{{Cite web|和書|url=https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/man-detail.cgi?id=44|title=港区ゆかりの人物データーベース|publisher=港区立図書館|date= |accessdate=2023-06-02}}</ref>
|File:Tsunamachi mitsui club 2.jpg|三井男爵家迎賓館内。中央ドームの吹き抜け天上。ステンドグラスをはめた[[ビザンティン建築|ビザンチン様式]]{{sfn|鈴木博之|2007|p=69}}。
|File:Old Iwasaki House 20060709.jpg|[[岩崎家|岩崎]][[男爵]]家茅町邸だった洋館。ジョサイア・コンドルが設計した明治期きっての大邸宅{{sfn|鈴木博之|2007|p=78}}。17世紀イギリスの{{仮リンク|ジャコビアン様式|en|Jacobean architecture}}を基調としながら細部にはルネサンス様式、イスラム風の装飾、アメリカ・ペンシルベニアのカントリーハウスのイメージも取り入れられている{{sfn|玉手義朗|2017|p=32-33}}。現旧岩崎邸庭園([[東京都]][[台東区]]池之端)。
|File:Kyu Iwasaki Tei Garden (180139793).jpeg|[[岩崎家|岩崎]][[男爵]]家茅町邸。
|File:Kaitokaku.png|旧岩崎男爵家高輪別邸だった洋館。現在は三菱グループの迎賓館[[開東閣]]となっている(東京都港区高輪)。ジョサイア・コンドルの設計で明治41年に竣工した[[エリザベス朝]]ルネサンス様式の邸宅<ref name="minato"/>。
|File:Kyu-Furukawa House 1.jpg|[[古河家|古河]][[男爵]]家の本邸だった洋館(東京都北区西ヶ原)。ジョサイア・コンドルの晩年の作品で、洋館の周りにはバラやツツジが植えられた西洋庭園が広がる。バラ園から見るとスコットランドの別荘風でもあり、明治の頃の豪壮な洋館とは一線を画した大正時代ならではの雰囲気を持つ洋館{{sfn|鈴木博之|2007|p=91}}。現在は「[[旧古河庭園]]」として一般公開されている{{sfn|鈴木博之|2007|p=88}}。
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{{Gallery
|title=華族の和館
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|File:Hofu Mouri Residence and Museum.JPG|[[毛利氏|毛利]][[公爵]]家の本邸だった和館。大正5年竣工。現在は[[毛利博物館]]([[山口県]][[防府市]])。邸内には神代杉や神代欅といった伝統的良材だけでなく、鉄筋コンクリートやトタンなど当時の最先端建材が大量に用いられ、邸内の電力はすべて自家発電、湯殿には給湯施設、各部屋はインターホンで結ばれるなど、和風建築と最新技術が融合した建築物<ref name="mori">{{Cite web|和書|url=https://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/ha_rekishi/index.html|title=毛利博物館(毛利邸)の歴史|publisher= 毛利博物館|date= |accessdate=2021-09-12}}</ref>。[[重要文化財]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://visit-hofu.jp/spot/%E6%97%A7%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AE%B6%E6%9C%AC%E9%82%B8%E3%83%BB%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/|title=旧毛利家本邸・毛利博物館|publisher= [https://visit-hofu.jp/ 山口県防府市観光情報ポータルサイト]|date= |accessdate=2023-08-07}}</ref>。
|File:Garden of Mōri clan residence, Hofu city, Yamaguchi pref Japan(39467230741).jpg|毛利公爵邸庭園。庭園は[[日本国指定名勝の一覧|国指定名勝]]<ref name="mori"/>。
|File:Garden of Mōri clan residence, Hofu city, Yamaguchi pref Japan(11151379495).jpg|毛利公爵邸庭園
|File:Murin-an, Kyoto - IMG 5142.JPG|[[山縣氏|山縣]]公爵家の別邸[[無鄰菴]](京都府京都市左京区)。館自体は銘木などを使用しているわけではなく質素な造りだが、この館の真価はそれぞれの部屋からの庭園の景観にある{{sfn|鈴木博之|2007|p=14}}。
|File:View of Murin-an garden from main house.jpg|無鄰菴の邸内からの庭園の景観。一階からは緩やかな傾斜地に広く芝生を配した明るい庭園を見渡すことができる{{sfn|鈴木博之|2007|p=12}}。二階からは清らかな流れが煌めき、遠方に東山がみえる{{sfn|鈴木博之|2007|p=14}}。庭園は国指定名勝。
|File:Meijimurabunkazai9.JPG|[[西園寺家|西園寺]]公爵家の別荘だった和館「[[坐漁荘]]」。大正9年に[[西園寺公望]]公爵が静岡県興津に建設したもので、邸内には竹の意匠をふんだんに用いているのが特徴的である。昭和4年の増築で洋室も加えられた。現在は[[愛知県]][[犬山市]]にある[[博物館明治村|明治村]]に移築されている{{sfn|鈴木博之|2007|p=60-63}}。
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== 華族の使用人 ==
=== 使用人数 ===
柳沢統計研究所編纂の『華族静態調査』が大正4年12月31日時点における不詳分389家を除いた華族539家の使用人数をまとめている。539家の総使用人は6504人から7008人であり、平均すれば1家につき12.1人から13人となる{{sfn|小田部雄次|2006|p=65}}。爵位が高いほど使用人数が多くなる傾向があるが、公爵家と侯爵家では逆転しており、侯爵家25家の総使用人数は1092人から1195人以上で平均43.7人から47.8人以上であるが、公爵家の平均はこれより10人ほど少ない。これは資産家である旧大藩大名家が公爵より侯爵に多いのが原因である{{sfn|小田部雄次|2006|p=65}}。詳細は以下のとおりである{{sfn|小田部雄次|2006|p=66}}。
{| class="wikitable"
|+ 大正4年末における華族539家の使用人数
! 人数 !! [[公爵]]<br/>8/17家 !! [[侯爵]]<br/>25/37家 !! [[伯爵]]<br/>70/100家 !! [[子爵]]<br/>224/378家 !! [[男爵]]<br/>212/396家
|-
! 1人
| || || || 4家 || 6家
|-
! 2人
| || || 5家 || 21家 || 20家
|-
! 3人
| || || 3家 || 22家 || 20家
|-
! 4人
| || 1家 || 1家 || 13家 || 21家
|-
! 5人
| || || 5家 || 26家 || 22家
|-
! 6人
| 1家 || || 2家 || 30家 || 23家
|-
! 7人
| || 2家 || 2家 || 13家 || 23家
|-
! 8人
| || || 5家 || 7家 || 16家
|-
! 9人
| || || 5家 || 7家 || 12家
|-
! 10人
| || || 2家 || 11家 || 6家
|-
! 11人-15人
| || 5家 || 6家 || 38家 || 17家
|-
! 16人-20人
| 1家 || 2家 || 8家 || 14家 || 12家
|-
! 21人-30人
| 4家 || 1家 || 10家 || 13家 || 8家
|-
! 31人-40人
| || 1家 || 6家 || 3家 || 2家
|-
! 41人-50人
| || || 4家 || 1家 || 2家
|-
! 51人-60人
| || 5家 || 4家 || || 1家
|-
! 61人-70人
| 1家 || 2家 || 1家 || 1家 || 1家
|-
! 71人-80人
| || 2家 || 1家 || ||
|-
! 81人-90人
| 1家 || || || ||
|-
! 91人-100人
| || 1家 || || ||
|-
! 101人-
| || 3家 || || ||
|}
=== 家職 ===
使用人が就く家職の例として公爵[[徳川宗家]]のものと見られる『家務規定』([[江川素六]]文書)がある。これによれば徳川公爵家の家職には上から[[家令]]、[[家扶]]、[[家従]]、[[家丁]]、[[嘱託]]、[[雇員]]の5階級があり、さらに家職以外の使用人に[[御者|馭者]]、[[給仕]]、小使、[[厩務員|馬丁]]があったという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=162}}。1名の家令、2名から3名の家扶が他の使用人を指揮する体制を取っていたという{{sfn|樋口雄彦|2012|p=162}}。
== 特権 ==
[[ファイル:230 12 la chambre des pairs du Japon présidée par Tokugawa prince.jpg|thumb|260px|[[1918年]](大正7年)の[[貴族院 (日本)|貴族院]]]]
=== 司法 ===
華族や勅任官・奏任官は[[1877年]](明治10年)の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月[[司法省 (日本)|司法省]]丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は[[1886年]](明治19年)の華族世襲財産法により[[公告]]の手続によって世襲財産を認められ得た。
=== 特権 ===
その他、[[宗秩寮]]爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている<ref>{{Cite book|和書|author= 酒巻芳男|year= 1987|chapter= 第11章 華族の特権|title= 華族制度の研究 在りし日の華族制度|publisher= 霞会館 |page= 301 - 331|isbn= }}</ref>。
# 爵の世襲(華族令第9条)<ref name=kazoku-kindai>{{Cite book|和書|author= 浅見雅男|year= 1999|title= 華族たちの近代|publisher= NTT出版|page= 20|isbn= }}</ref>
# [[家範]]<ref group="注釈">華族の一族内に限って通用する法規</ref>の制定(華族令第8条)
# 叙位<ref group="注釈">有爵者、もしくは有爵者の[[嫡子]]が20歳になると[[従五位]]に叙せられる。</ref>(叙位条例、華族叙位内則)
# [[大礼服#有爵者大礼服|爵服]]の着用許可([[宮内省]][[達]])
# [[世襲]][[財産]]の設定(華族世襲財産法)<ref name=kazoku-kindai/>
# [[貴族院 (日本)|貴族院]]の華族議員への選出([[大日本帝国憲法|明治憲法]]・[[貴族院令]])<ref name=kazoku-kindai/>
# 特権審議(貴族院令第8条)
# 貴族院令改正の審議(貴族院令第13条)
# [[皇族]]・[[王公族]]との通婚([[旧皇室典範]]・[[皇室親族令]])
# 皇族服喪の対象([[皇室服喪令]])
# 学習院への入学(華族就学規則)
# [[宮中席次]]の保有(宮中席次令・皇室儀制令)
# 旧・[[堂上家|堂上]]華族保護資金(旧・堂上華族保護資金令)
=== 財産 ===
[[1886年]](明治19年)に華族は第三者からの財産[[差し押さえ]]などから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が[[抵当権]]や[[質権]]を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また[[債権者]]からの抗議もあって、[[1915年]]([[大正]]4年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は、旧堂上華族保護資金令<ref group="注釈">これは、題名が「旧堂上華族保護資金令」であり「堂上華族保護資金令」が廃止されたため「旧」を付しているのではない。明治45年皇室令第3号。</ref>により、[[国庫]]からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、[[男爵華族恵恤金]]が交付された。
=== 教育 ===
学歴面でも、華族の子弟は[[学習院]]に無試験で入学でき、[[学習院高等科 (旧制)|高等科]]までの進学が保証されていた。また[[1922年]](大正11年)以前は、[[帝国大学]]に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。[[旧制高校]]の総定員は帝国大学のそれと大差なく、旧制高校生のうち1割程度が病気等の理由で中途退学していたため帝国大学全体ではその分定員の空きが生じていた。このため学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
但し学習院の教育内容も「お坊ちゃま」に対する緩いものでは無く、所謂「ノブレス・オブリージュ」という貴族としての義務・教養を学ぶ学校であり、正に旧制高等学校同等の教育機関であった。
=== 貴族院議員 ===
[[1889年]](明治22年)公布の[[大日本帝国憲法|明治憲法]]により、華族は[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「'''[[皇室]]'''の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で[[研究会 (貴族院)|研究会]]などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
なお、華族には[[衆議院議員]]の被選挙権はなかったが、[[高橋是清]]のように[[隠居]]して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。
=== 皇族・王公族との関係 ===
同年定められた[[旧皇室典範]]と皇族通婚令により、[[皇族]]との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者<ref group="注釈">ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。[[大正天皇]]第2[[皇子]]の[[雍仁親王|雍仁親王(秩父宮)]]が[[松平恒雄]]長女の[[雍仁親王妃勢津子|節子(勢津子妃)]]と[[結婚]]した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(子爵[[会津松平家]]の当主は恒雄の兄の[[松平容大|容大]]、その跡を恒雄の弟の[[松平保男|保男]]が継いでおり、結婚に際して保男が勢津子の養父となった)。</ref>に限定された(1918年(大正7年)の旧皇室典範の増補により皇族女子は王族または公族に嫁し得ることが規定された)。
また[[宮中]]への出入りも許可されており、届け出をすれば[[宮中三殿]]のひとつ[[賢所]]に参拝することも出来た。[[侍従]]も華族出身者が多く、[[歌会始]]などの[[皇室]]の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が[[死亡]]した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。
====皇族となった華族令嬢====
{| class="wikitable sortable"
! 出生名
!位
![[続柄]]
!身分
!結婚
|-
|[[朝香千賀子|藤堂千賀子]]
|[[伯爵]]令嬢
|[[藤堂高紹]]5女
|[[朝香孚彦|孚彦王]]妃
|[[1938年]]
|-
|[[博恭王妃経子|徳川経子]]
|{{Display none|4/}}[[公爵]]令嬢
|[[徳川慶喜]]9女
|[[伏見宮博恭王|華頂宮博恭王]]妃
|[[1897年]]
|-
|醍醐好子
|{{Display none|5/}}[[侯爵]]令嬢
|[[醍醐忠順]]長女
|[[賀陽宮邦憲王]]妃
|[[1891年]]
|-
|[[恒憲王妃敏子|九条敏子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[九条道実]]5女
|[[賀陽宮恒憲王]]妃
|[[1921年]]
|-
|[[春仁王妃直子|一条直子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[一条実輝]]4女
|[[閑院宮春仁王]]妃
|[[1925年]]
|-
|[[北白川祥子|徳川祥子]]
|[[男爵]]令嬢
|[[徳川義恕]]2女
|[[北白川宮永久王]]妃
|[[1935年]]
|-
|[[邦彦王妃俔子|島津俔子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[島津忠義]]7女
|[[久邇宮邦彦王]]妃
|[[1899年]]
|-
|[[多嘉王妃静子|水無瀬静子]]
|[[子爵]]令嬢
|水無瀬忠輔長女
|[[多嘉王]]妃
|[[1907年]]
|-
|[[三条光子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[三条公輝]]第2女子
|[[竹田宮恒徳王]]妃
|[[1934年]]
|-
|[[鷹司景子]]
|{{Display none|4/}}[[公爵]]令嬢
|[[鷹司政煕]]の娘
|[[伏見宮邦家親王]]妃
|[[1835年]]
|-
|[[幟仁親王妃広子|二条広子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[二条斉信]]5女
|[[有栖川宮幟仁親王]]妃
|[[1848年]]
|-
|[[鷹司明子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[鷹司輔煕]]7女
|[[伏見宮貞教親王]]妃
|[[1862年]]
|-
|[[彰仁親王妃頼子|有馬頼子]]
|[[伯爵]]令嬢
|[[有馬頼咸]]長女
|[[小松宮彰仁親王]]妃
|[[1869年]]
|-
|[[熾仁親王妃貞子|徳川貞子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[徳川斉昭]]11女
|[[有栖川宮熾仁親王]]妃
|[[1870年]]
|-
|[[熾仁親王妃董子|溝口董子]]
|伯爵令嬢
|[[溝口直溥]]7女
|[[有栖川宮熾仁親王]]妃
|[[1873年]]
|-
|[[南部郁子]]
|伯爵令嬢
|[[南部利剛]]長女
|[[華頂宮博経親王]]妃
|1873年頃
|-
|[[山内光子]]
|{{Display none|5/}}[[侯爵]]令嬢
|[[山内容堂|山内豊信]]長女
|[[北白川宮能久親王]]妃
|[[1878年]]
|-
|[[威仁親王妃慰子|前田慰子]]
|{{Display none|5/}}侯爵令嬢
|[[前田慶寧]]4女
|[[有栖川宮威仁親王]]妃
|[[1880年]]
|-
|[[能久親王妃富子|島津富子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[島津久光]]養女
|[[北白川宮能久親王]]妃
|[[1886年]]
|-
|[[載仁親王妃智恵子|三条智恵子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[三条実美]]次女
|[[閑院宮載仁親王]]妃
|[[1891年]]
|-
|[[山内八重子]]
|{{Display none|5/}}侯爵令嬢
|[[山内容堂|山内豊信]]3女
|[[東伏見宮依仁親王]]妃
|[[1892年]]
|-
|[[依仁親王妃周子|岩倉周子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[岩倉具定]]長女
|[[東伏見宮依仁親王]]妃
|[[1898年]]
|-
|[[梨本伊都子|鍋島伊都子]]
|{{Display none|5/}}侯爵令嬢
|[[鍋島直大]]次女
|[[梨本宮守正王]]妃
|[[1900年]]
|-
|[[伏見朝子|一条朝子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[一条実輝]]3女
|[[博義王]]妃
|[[1919年]]
|-
|[[菊麿王妃範子|九条範子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[九条道孝]]2女
| rowspan="2" |[[山階宮菊麿王]]妃
|[[1895年]]
|-
|[[菊麿王妃常子|島津常子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[島津忠義]]4女
|[[1902年]]
|-
|[[雍仁親王妃勢津子|松平勢津子]]
|[[子爵|子爵令嬢]]
|[[松平保男]]養女
|[[秩父宮雍仁親王]]妃
|[[1928年]]
|-
|[[宣仁親王妃喜久子|徳川喜久子]]
|{{Display none|4/}}公爵令嬢
|[[徳川慶久]]次女
|[[高松宮宣仁親王]]妃
|[[1930年]]
|-
|[[高木百合子]]
|子爵令嬢
|[[高木正得]]次女
|[[三笠宮崇仁親王]]妃
|[[1941年]]
|-
|[[津軽華子]]
|伯爵令嬢
|[[津軽義孝]]四女
|[[常陸宮正仁親王]]妃
|[[1964年]]
|}
== 身分 ==
[[File:Kazoku-Japanese-Nobility-Group.png|thumb|華族、集合写真]]
'''爵位'''を有するのは[[家督]]を有する'''男子'''であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された<ref group="注釈">[[姫路藩]]主酒井家で、[[酒井文子]]が当主を務めたのち、満8歳で家督を譲られた[[酒井忠興|忠興]]が同時に伯爵を授爵している。</ref>。しかし[[女戸主]]は[[1907年]](明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている{{sfn|小林和幸|2013|pp= 75 - 76}}。また有爵者は原則として[[隠居]]を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により[[旧民法|民法]]と同様の隠居が可能になった{{sfn|小林和幸|2013|pp= 66}}。
華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、[[皇室典範]]にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた{{sfn|小林和幸|2013|pp= 67 - 78}}。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、[[帝室制度調査局]]による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった{{sfn|小林和幸|2013|pp= 76}}。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても[[平民]]との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の[[庶子]]も華族となったが、[[妾]]はたとえ当主の[[母親]]であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、[[大正天皇]]の実母である[[柳原愛子]]は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、[[男系]]6[[親等]]以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。
=== 華族身分の剥奪・返上 ===
[[奈良華族]]などの財政基盤が不安定であった家や、松方公爵家・蜂須賀侯爵家のように当主のスキャンダルによって華族身分を返上することも行われた。多くの場合、自主的な返上にとどまるが、土方伯爵家([[土方与志]])の例(スキャンダルは治安維持法関連だが、没収時はソ連にいたため逮捕はされず。)などは華族身分が剥奪されている。また、華族令では懲役以上の刑が確定すれば自動的に爵位を喪失するものとされていた。
<!--* [[大沢基寿]]は、元々堀江領3550石を知行する[[高家]]旗本だったが、[[1868年]]([[明治元年]])8月に行った検地で実高5485石に[[浜名湖]]の湖面の一部を「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上、都合1万0006石という虚偽の報告を行なった。この報告に基づき[[堀江藩]]が成立し、基寿は同年9月に堀江藩主([[大名]])となり、明治2年の[[版籍奉還]]に際して華族に列したが、明治4年の[[廃藩置県]]後の再調査で報告の虚偽が露見し、基寿は華族身分を剥奪、士族に落とされた上で、禁固1年の実刑判決を受けた。←大沢基寿は「大名だから華族になった」人物なので、実刑を受けた事より「大名と認定されたのが間違いだから剥奪」では?-->
== 統制 ==
華族は[[宮内大臣]]と[[宮内省]][[宗秩寮]]の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。
自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。
== 批判 ==
公卿・諸侯といえば、封建主義時代に多年にわたって畏怖・畏敬されてきた一族であり、彼らが明治初期に華族という皇族に次ぐ特別な地位を与えられた時、感涙に咽ぶ領民こそあれ、それを批判するような者はほとんどなかった{{sfn|大久保利謙(6)|1989|p=81}}。しかし華族にとって不幸だったのは当時の19世紀中期という時代、彼らの原像たるヨーロッパ貴族制は、すでに支持を失って衰退し、批判の的となっていたことだった{{sfn|大久保利謙(6)|1989|p=81}}。民主主義や平等思想といった欧米先進思想が次々と日本に流入してきていた時代にあって日本でも華族をはじめとした世襲制への疑問・非難が強まっていくのは当初から時間の問題だったということである{{sfn|大久保利謙(6)|1989|p=81}}。
世襲批判としてまず最初に起こったのは江戸時代から続く[[家禄]]制度への批判であった。「居候」「座食」「平民の厄介」「無為徒食」などの悪罵が平民から旧武士層に対して投げつけられるようになり、新聞の投書や政府への建白書も家禄批判がどんどん増えていく{{sfn|落合弘樹|1999|p=146}}。たとえば明治8年(1875年)9月には[[島地黙雷]]が『共存雑誌』に論文「華士族」を寄稿し、華士族への[[家禄]]支給を批判する論陣を張っている{{sfn|小田部雄次|2006|p=103}}。更にこの翌年の2月から4月には『朝野新聞』の投書欄で[[深井了軒]](筆名)、[[中田豪晴]](電気技師の投書家)、[[伊東巳代治]](外務副課長)の三者が華族批判をめぐる議論を展開している{{sfn|小田部雄次|2006|p=103}}。初めに投書した深井は「華族を『無為の徒食者』と批判することは共和制を主張するも同じであり、皇室を否定する動き」と論じて華族を擁護しているが、このことは当時すでにこうした華族批判が広く世に出回っていたことを物語る(論争でも中田と伊東は華族を『無為の徒食者』と批判したことを譲らなかった){{sfn|小田部雄次|2006|p=103-104}}。こうした家禄批判の国民世論に押されて同年8月に政府は[[秩禄処分]]を断行し家禄制度を廃止している{{sfn|落合弘樹|1999|p=168-169}}。
また同年[[小野梓]](元老院書記官・会計検査院検査官)は、『華士族論』を著し、「華士族の支配が平民を卑屈にし、独立の気概を失わせた」と論じ、華士族の称号と特権の廃止を主張{{sfn|小田部雄次|2006|p=104}}。明治13年(1880年)9月には『朝野新聞』が「華族に人文の自由なし」という論説を載せ、「華族は自分で独立できず他人の保護を受ける奴隷のようなもので、人間の自由を失っている」と論じた。翌年4月にも同紙は「貴族廃すべし」と題した論説を載せ、「平等均一こそが文明社会の趨勢であり、貴族は廃止するべき」と唱えた{{sfn|小田部雄次|2006|p=104}}。また政府内でも、[[井上毅]]は当初爵位制度に反対していたが、[[自由民権運動]]の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している{{sfn|小田部雄次|2006|p=109-110}}。
[[板垣退助]]は「一君万民論」を唱え、皇室と国民の間に華族という特権階級を設けることは皇室と国民の親愛を離隔するとして華族制度に反対した{{sfn|小田部雄次|2006|p=111}}。板垣のその立場は彼の国防論とも関係していた。板垣は「今日のような列強諸国が衝を争う時代にあっては、挙国一致、全国皆兵が不可欠であり、士族の一階級だけで国家防衛などできない。華族の一階級だけではなおさら不可能」として国民皆兵の必要性を訴え、その当然の帰結として一君万民論を唱えていたのである{{sfn|小田部雄次|2006|p=112}}。板垣は華族制廃止の立場から二度にわたって叙爵を断ったが、明治天皇の強い意向もあり、結局爵位を受けいれて華族となったが、その際にも華族制度廃止の意見書を政府に提出している{{sfn|小田部雄次|2006|p=110-111}}。
日清日露以降には勲功に依る叙爵が増えて華族数急増への懸念も強まった。『大阪毎日新聞』明治29年6月7日付け朝刊は「貴族国」という見出しの記事を載せて、論功行賞を華族の爵位で対応することを問題視し、勲章や位記は何のためにあるのかと訴え、この勢いで華族が増え続ければ日本は純然たる貴族国になってしまうと批判した{{sfn|松田敬之|2015|p=16-17}}。
明治40年(1907年)には一代華族論を唱える板垣退助が全華族850家に対して檄を送って「華族の族称を廃し、其栄爵の世襲を止めんこと」を求めた。しかし回答文を送ってきたのは37家だけで、そのうち賛成と認められる者は12人、賛否を明言しない者は18人、反対する者は7人だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=113}}。
板垣退助の『一代華族論』によれば「賛成者と認むべき者」には4種あった{{sfn|小田部雄次|2006|p=113}}。
*「全部賛成」…[[井上勝]]子爵(勲功華族)、[[森清 (子爵)|森清]]子爵(勲功華族)、[[一柳紹念]]子爵(大名華族)、[[土岐頼知]]子爵(大名華族)、[[山名義路]]男爵(大名華族)、[[元田亨吉]]男爵(勲功華族)、[[籠手田龍]]男爵(勲功華族)、[[伊達基]]男爵(勲功華族)、[[常磐井堯祺]]男爵(僧侶華族){{sfn|小田部雄次|2006|p=113}}。
*「大体において同意」…[[相良頼紹]]子爵(大名華族)
*「新華族に限り世襲廃止に同意」…[[大鳥圭介]]男爵(勲功華族)
*「同感なるも少数にては無効なる故多数にして決行したし」…[[六条有熙]]子爵(堂上華族)
「賛否を明言せざる者」は次の10種に分けている{{sfn|小田部雄次|2006|p=113}}。
*「大問題につき熟考の上回答すべし」…[[野津道貫]]伯爵(勲功華族)、[[松浦詮]]伯爵(大名華族)、[[花房義質]]子爵(勲功華族)、[[柳沢光邦]]子爵(大名華族)、[[野田豁通]]男爵(勲功華族)、[[堤正誼]]男爵(勲功華族)
*「一代華族論は宿論なるも現制を改むる具体的方法を得ざるが故に賛否明言し難し」…[[石黒忠悳]]男爵(勲功華族)
*「理由なきも遺憾ながら賛否を明言する能わず」…[[中院通規]]伯爵(堂上華族)
*「[[軍人勅諭|軍人は職務のほか他事に関係すべからずとの勅諭]]あり、故に遺憾ながら賛否を表する能わず」…[[小笠原長生]]子爵(大名華族)、[[松村淳蔵]]男爵(勲功華族)
*「主人旅行中につき賛否を明言する能わず」…[[加藤泰秋]]子爵(大名華族)
*「華族に列せられて日未だ浅きにより多数の意見に従う」…[[土倉光三郎]]男爵(勲功華族)
*「公私の用務に追われ執筆の暇なく猶予を乞う」…[[柳沢保恵]]伯爵(大名華族)
*「未成年者につき意見不明」…[[坊城俊徳]]伯爵(堂上華族)
*「学生につき意見不明」…[[青山忠允]]子爵(大名華族)、[[阿野季忠]]子爵(堂上華族)
*「海外留学中につき意見不明」…[[藤堂高紹]]伯爵(大名華族)、[[島津久家]]男爵(勲功華族)
「反対する者」は次の2つに分けている{{sfn|小田部雄次|2006|p=114-115}}。
*「全部反対」…[[八条隆正]]子爵(堂上華族)、[[永井直諒]]子爵(大名華族)、[[梅渓通治]]子爵(堂上華族)、[[谷干城]]子爵(勲功華族)、[[北畠治房]]男爵(勲功華族)、[[加藤弘之]](勲功華族)
*「理由なきも賛成する能わず」…[[松平乗承]]子爵(大名華族)
公侯爵から返事をした家は1家もなかったが、板垣退助の一代華族論に9家も全面賛成したことは注目に値する{{sfn|小田部雄次|2006|p=115}}。板垣は返事をしなかった813家の華族に怒り心頭となり「爾余の八百十三は即ち此問題を不問に附して、何らの意見をも表明せず、恬然として風馬牛相関せざるが如き態度を執れる者なりき。是に於ては予は彼等の愛国心と道義心とに疑なき能わず」と書いている{{sfn|小田部雄次|2006|p=116}}。
大正時代になると[[大正デモクラシー]]の盛り上がりで華族批判がますます強まる。『山縣有朋意見書』には大正6年6月25日付けで元老[[山縣有朋]]が貴族院議長[[徳川家達]]に宛てて書いた「華族教育に関する意見」が収録されており、その中で山縣は「近時華族全般の風紀退廃に傾き、往々世論にも上る哉に聞き及び候処、此くしては皇室の藩屏として寔に恐れ多き次第と憂慮罷り在り候」と記しており、当時の華族への厳しい世論状況がうかがえる{{sfn|松田敬之|2015|p=25}}。
大正期には華族はもとより、華族の下位にあり、戸籍上は平民の上位にあった士族への批判も強まった。士族は明治初期にはいくらかの特権を有していたが、特権をはく奪されて以降は戸籍上に表示されるだけの存在と化していた。何らの特権も有してない士族さえ批判の対象になったのであり、階級打破を掲げる大正デモクラシーの中、華族制度への批判的視線は非常に強いものがあったといえる{{sfn|松田敬之|2015|p=21}}。
一方で士族廃止論に対しては士族たちの側も激しく抵抗し、士族廃止反対を訴える運動が全国規模で展開されている。富山県と沖縄県を除き、特に東京、大阪、京都、神戸、仙台、名古屋、鹿児島などの士族たちの間で士族廃止反対運動が熱を帯び、当時の社会問題となった{{sfn|松田敬之|2015|p=21}}。こうした士族の動きについて旧土佐藩主家の[[山内豊景]]侯爵は「階級打破に賛成だ。したがって士族存続に反対である」「併し華族廃止はまだ考えていない」と論評したが、『[[読売新聞]]』大正12年5月28日付朝刊に「虫が良すぎる」と批判されている{{sfn|松田敬之|2015|p=21}}。
このような世論状況もあって、大正期以降は華族の叙爵件数(陞爵も)は明治期と比較して格段に減少した。また昭和期に入ると更に減少している{{sfn|松田敬之|2015|p=22-25}}。
== 実際 ==
=== 財政 ===
[[File:The home of Baron Kato.jpg|thumb|200px|加藤男爵家(1913年)。中列(中央)男爵、(左)男爵夫人寿々子の方、(右)嗣子照麿君令夫人津祢子の方。後列(中央)嗣子照麿。]]
華族は皇室の藩屏として期待されたが、[[奈良華族]]をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。[[政府]]は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。<!-- [[清水徳川家]]や北小路家がその例である。-->
一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数10年間は家禄、それに引き続いて[[金禄公債|金碌公債]]が支給されたため一般に裕福であり、旧・[[陪臣|家臣]]との人脈も財産を守る上で役立った。それでも[[明治]]末期以降は相伝の[[家宝]]が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。
華族銀行として機能していた[[十五銀行]]が[[昭和金融恐慌|金融恐慌]]の最中、[[1927年]]([[昭和]]2年)[[4月21日]]に破綻した際には、多くの華族が[[財産]]を失い、途方に暮れた。
=== スキャンダル ===
華族は現代の芸能人のような扱いもされており、『[[婦人画報]]』などの雑誌には華族子女や夫人の[[グラビア写真]]が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、[[柳原白蓮]]([[柳原前光]]伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした[[白蓮事件]]、芳川鎌子([[芳川寛治]]夫人、[[芳川顕正]]伯爵四女)がお抱え運転手と図った[[千葉心中]]、吉井徳子([[吉井勇]]伯爵夫人、[[柳原義光]]伯爵次女)とその遊び仲間による[[スワッピング (性行為)|男性交換]]や自由恋愛の[[不良華族事件]]など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。
=== 進路 ===
制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。
[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には[[醍醐忠順]]のように腰弁当徒歩で登院したり、[[嵯峨公勝]]のように登院に不熱心な議員も存在した<ref>{{Cite book|和書|author= 浅見雅男|year= |title= 華族誕生 <small>名誉と体面の昭和</small>|publisher= 中央公論新社|series= 中公文庫|pages= 243 - 252|isbn=978-4-12203542-3}}</ref>。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、[[家計]]の助けとなった。しかしこのことで、同爵間の議席のたらい回しが横行したり、[[水野直]]のように各家の[[生活]]上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した<ref>{{Cite book|和書|author= 内藤一成|year= 2008|title= 貴族院|publisher= 同成社|page= 122|isbn= }}</ref>。
[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]には明治10年代([[1877年]](明治10年) - [[1886年]](明治19年))、華族子弟のための特別な予科(予備生徒隊)が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。大名・公家華族出身の有名な軍人としては、陸軍では[[前田利為]]や[[町尻量基]]や[[山内豊秋]]、海軍では[[醍醐忠重]]や[[小笠原長生]]らがいる。軍人華族はのちに、戦功により叙爵された職業軍人(とその子弟)が主となった。
進路として最も適性があったと思われる国家機関は、[[宮内省]]である。特に旧・堂上華族は、[[皇室]]([[朝廷 (日本)|朝廷]])との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代[[天皇]]も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては[[木戸幸一]](商工省)や[[岡部長景]]([[外務省]])、[[広幡忠隆]](逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかであったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、[[宮内省]]へ転じている。
学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川生物学研究所や林政史研究室(のちの[[徳川林政史研究所]])を開いた[[徳川義親]](植物学)、「蜂須賀線」で知られる[[蜂須賀正氏]](鳥類学)、[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|D・H・ローレンス]]を研究した[[岩倉具栄]](英文学)らが代表例である。[[大山柏]]は父・[[大山巌|巌]]の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。
珍しい進路に進んだ例としては、映画の[[小笠原明峰]](本名・長隆、小笠原長生子爵嫡男)と[[小笠原章二郎|章二郎]](同・長英、次男)の兄弟、演劇の[[土方与志]](本名・久敬、伯爵)が挙げられる。小笠原明峰は映画界に入ったことで廃嫡となり、土方は[[ソビエト連邦|ソ連]]での反体制的言動により爵位剥奪となった。
=== 革新華族 ===
[[昭和]]に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。[[近衛文麿]]・[[有馬頼寧]]・木戸幸一・[[原田熊雄]]・[[樺山愛輔]]・[[徳川義親]]などが知られる。
== 廃止 ==
[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定([[日本国憲法第14条|第14条]])を定めた[[日本国憲法]]の施行により、華族制度は廃止された。
当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。[[昭和天皇]]は堂上華族だけでも存置したい意向であり、[[幣原喜重郎]]首相に対して「堂上華族だけは残す訳にはいかないか」と発言している<ref name=asida>{{Cite web|和書|url= https://www.ndl.go.jp/constitution/library/06/002_41/002_41_014l.html|title= 芦田均日記 憲法改正関連部分(拡大画像) 日本国憲法の誕生|website= ndl.go.jp|publisher= 国立国会図書館|accessdate= 2020-10-15}}</ref>。自ら男爵でもあった幣原もこの条項に強いこだわりを見せており<ref group="注釈">[[白洲次郎]]の各種述懐による。</ref>、政府内では「1.天皇の皇室典範改正の発議権の留保」「2.華族廃止については、堂上華族だけは残す」という二点について[[アメリカ合衆国|アメリカ]]側と交渉すべきか議論が行われたが、[[岩田宙造]][[法務大臣|司法大臣]]から「今日の如き大変革の際、かかる点につき、[[陛下]]の思召として米国側に提案を為すは内外に対して如何と思う」との反対意見が出され、他の閣僚も同調したことから、「致方なし」として断念された<ref name="asida" />。結局、華族制度は[[衆議院]]で即時廃止に修正([[芦田修正]])して可決、[[貴族院 (日本)|貴族院]]も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。
[[小田部雄次]]の推計によると、創設から廃止までの間に存在した'''華族の総数は、1011家'''であった。廃止後、[[華族会館]]は[[霞会館]](運営は、[[一般社団法人]]霞会館)と名称を変更しつつも存続し、[[2021年]]([[令和]]3年)[[現在]]も旧・華族の親睦の中心となっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=[[浅見雅男]]|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1989年(平成元年)|title=日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム〈第6巻〉|author=大久保利謙(6)|authorlink=大久保利謙|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4620603162|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=[[小田部雄次]]|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=1999年(平成11年)|title=秩禄処分 明治維新と武士のリストラ|author=落合弘樹|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1511|isbn= 978-4121015112|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref= {{SfnRef|香川|1906}}|editor= 香川敬三(總閲)|year= 1906|title= 岩倉公實記. 上卷|publisher= 皇后宮職|doi= 10.11501/781063}}
* {{Citation|和書|author=河内静太郎 | author2=| url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1089475/1/2 | title=皇族華族名鑑 | year= 1878| publisher=河内静太郎 | series= |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author= 小林和幸|authorlink= 小林和幸|year= 2013|title= 第一三帝国議会貴族院諮詢の「華族令」改正問題について(小名康之教授・松尾精文教授退任記念号)|journal= 青山史学|issue= 31|pages= 63 - 78|publisher= 青山学院大学文学部史学研究室|issn= 0389-8407|naid= 120005433833|ref= harv}}
*{{Cite book|和書|date=2007年(平成19年)|title= 元勲・財閥の邸宅―伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、三井、岩崎、住友…の邸宅・別邸20|author=鈴木博之|publisher=[[ジェイティビィパブリッシング]]|isbn= 978-4533066092|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref= {{SfnRef|多田|1906a}}|editor= 多田好問|year= 1906|title= 岩倉公実記. 下巻 1|publisher= 皇后宮職|doi= 10.11501/781064}}
* {{Cite book|和書|{{SfnRef|多田|1906b}}|editor= 多田好問|year= 1906|title= 岩倉公実記. 下巻 2|publisher= 皇后宮職|doi= 10.11501/781065}}
* {{Cite book|和書|date=2017年(平成29年)|title=見に行ける 西洋建築歴史さんぽ|author=玉手義朗|authorlink=玉手義朗|publisher=[[世界文化社]]|isbn= 978-4418172146|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|date=2008年(平成20年)|title=貴族院|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|publisher=[[同成社]]|series=同成社近現代史叢書|isbn= 978-4886214188|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref= {{SfnRef|内務省|1911}}|title= 日本帝国国勢一斑. 第6回|publisher= 内務省|year= 1911|doi= 10.11501/805947}}
*{{Cite book|和書|author=樋口雄彦|authorlink=樋口雄彦|title= 第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本 |publisher= [[祥伝社]] |isbn= 978-4396112967|year=2012|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2015年(平成27年)|title=〈華族爵位〉請願人名辞典 |author=松田敬之|authorlink=松田敬之|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn= 978-4642014724|ref=harv}}
== 主な関連書籍 ==
* 浅見雅男『華族たちの近代』[[NTT出版]]、[[1999年]]([[平成]]11年)/中公文庫、[[2007年]](平成19年) ISBN 4-12-204835-4
* [[小田部雄次]]『華族-近代日本貴族の虚像と実像』[[中央公論新社]][[[中公新書]]]、[[2006年]](平成18年) ISBN 4-12-101836-2
* 小田部雄次『華族家の女性たち』[[小学館]]、[[2007年]](平成19年)、ISBN 4-09-387710-6
* [[千田稔 (経済史学者)|千田稔]]『華族事件録 明治・大正・昭和』 [[新人物往来社]]、[[2002年]](平成14年) ISBN 4-404-02976-4
* 千田稔『華族総覧』[[講談社現代新書]]、[[2009年]](平成21年) ISBN 4-06-288001-6
* [[保阪正康]]『華族たちの昭和史』[[毎日新聞社]]、[[2008年]](平成20年) ISBN 4-620-31918-X
* 『華族のすべてがわかる本 明治・大正・昭和』[[新人物往来社]]、2009年(平成21年)、ISBN 4-404-03728-7
* 「[[歴史読本]]」編集部 編『日本の華族』新人物往来社[新人物文庫]、[[2010年]](平成22年) ISBN 4-404-03922-0
* 『皇族・華族古写真帖』新人物往来社、[[2003年]](平成15年)、ISBN 4-404-03150-5
* [[酒井美意子]]『ある華族の昭和史-上流社会の明暗を見た女の記録』[[主婦と生活社]]、[[1982年]](昭和57年)
** 続編『元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』[[宙出版]]、[[1995年]](平成7年)
** 写真集『酒井美意子 華族の肖像』[[清流出版]]、1995年(平成7年)
* 『[[大久保利謙]]歴史著作集3 華族制の創出』[[吉川弘文館]]、[[1993年]](平成5年)
* [[森岡清美]]『華族社会の「家」戦略』吉川弘文館、[[2001年]](平成13年) ISBN 4-642-03738-1、上記2冊は大著研究
* 華族史料研究会 編『華族令嬢たちの大正・昭和』吉川弘文館、[[2011年]](平成23年) ISBN 4-642-08054-6
* 歴史読本2013年10月号「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本編集部
== 華族が描かれる作品 ==
*[[斜陽]] - [[太宰治]]の小説。
*[[豊饒の海]] - [[三島由紀夫]]の小説。
*[[紡ぐ乙女と大正の月]] - [[ちうね]]の漫画。
*[[薔薇と椿]] - [[NIGORO]]が開発したゲームソフト。
== 関連項目 ==
{{wikisource|華族令|華族令}}
* [[士族]]
* [[平民]]
* [[朝鮮貴族]]
* [[世襲貴族]]
* [[日本の華族一覧]]
* [[華族ゆかりの人物・団体]]
{{日本の旧華族}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の華族|!]]
[[Category:日本の爵位|*かそく]]
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輪廻
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輪廻(りんね)または輪廻転生(りんねてんしょう)とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार Saṃsāra)に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること。日本語読みのリンネは、連声によるものである。「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である 。
インド哲学でのサンサーラ概念は、ヴェーダ以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ自体では議論されていない。サンサーラ教義の完全な解説が記載されるのは、仏教やジャイナ教などの沙門宗教や、紀元前1千年紀半以降のヒンドゥー教のさまざまな学派である。これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ(梵: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる。
サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。
サンサーラは原義で「さまようこと、歩き回ること」(saṃsarati)を意味する。後代になると、「生まれ変わること」(punarbhava)だけでなく、派生的な意味で「世界」(loka)という意味を持つ様になり、「周期的な変化」との意味を暗に含むようになった。
ヒンドゥー教の前身であるバラモン教(英: Brahmanism)、すなわちヴェーダの宗教(梵: Vaidika)において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、ヴェーダの宗教最終期のブラーフマナ文献ないし最初期のウパニシャッド文献においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。
五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している。
これが、ヴェーダの宗教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果(梵: phala)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた。
これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。なお『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、輪廻転生するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく一度生まれるだけのエーカジャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。
ヒンドゥー教においてサンサーラとは、アートマンの旅である。ヒンドゥー教の伝統においては、身体は死ぬが、それは永遠の現実、不滅、至福とされるアートマンの死ではない。すべての物事すべての存在は、接続され周期的であり、自我・アートマンと、身体・物質という2つのもので構成されるとする 。ヒンドゥー教の信念においてアートマンと呼ばれるこの永遠の自我は、決して転生せず、変化せず、変化させることもできない 。対照的に、身体と人格は変化することができ、常に変化し、生まれては死ぬ 。
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない。
仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。
輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。
原始仏典では基本的に天、人、畜生、餓鬼、地獄の五道輪廻が説かれる。経典によっては阿修羅身(巴: asurakāya)が説かれることもあるが、この阿修羅は餓鬼(巴: peta-asura)、天人(巴: deva-asura)のいずれかに分類される。もしくは阿修羅道としてひとつの道と看做し六道を説く場合もある。 これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。
後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏を加え、六道と併せて十界を立てるようになった。
一方、現代では「ブッダの教説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が主に近代仏教学の学者によってなされ、学者間でその是非についての議論が行われている。 現代日本の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくない。このような言説を包括的かつ批判的に扱った学者として松尾宣昭がいる。松尾によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と、(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり、両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする。この二つの考えは二律背反に見えるが、(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する。このような立場を松尾宣昭は「輪廻想念説」と呼び、このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず、「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」という趣旨の、「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる。一方で、パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し、ある種の「仏教の本質」を想定することで、そこから帰結的に輪廻否定が導出されるとする立場もあるとする。松尾によれば和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという。さらに「仏教の本質」を後代に明確化された空の教説に見出し、(1)と(2)の両立性を二諦説によって説明する見解もある。松尾によると、空を用いた輪廻否定は、実質的には無我説を用いたものと同じであり、この場合は「龍樹がブッダの真意を説明した」テキストである『中論』を根拠として提示することができると述べている。
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける新仏教運動を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている。一方で釈迦が死後の世界について述べた内容が釈迦の経典一切経の中に数多く残されているのも事実である。その一つに仏説阿弥陀経がある。
ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モークシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。
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"text": "輪廻(りんね)または輪廻転生(りんねてんしょう)とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार Saṃsāra)に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること。日本語読みのリンネは、連声によるものである。「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である 。",
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"text": "インド哲学でのサンサーラ概念は、ヴェーダ以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ自体では議論されていない。サンサーラ教義の完全な解説が記載されるのは、仏教やジャイナ教などの沙門宗教や、紀元前1千年紀半以降のヒンドゥー教のさまざまな学派である。これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ(梵: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる。",
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"text": "サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。",
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"text": "サンサーラは原義で「さまようこと、歩き回ること」(saṃsarati)を意味する。後代になると、「生まれ変わること」(punarbhava)だけでなく、派生的な意味で「世界」(loka)という意味を持つ様になり、「周期的な変化」との意味を暗に含むようになった。",
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"text": "ヒンドゥー教の前身であるバラモン教(英: Brahmanism)、すなわちヴェーダの宗教(梵: Vaidika)において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、ヴェーダの宗教最終期のブラーフマナ文献ないし最初期のウパニシャッド文献においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。",
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"text": "五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している。",
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"text": "これが、ヴェーダの宗教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。",
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"text": "行為が行われた後、なんらかの結果(梵: phala)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。",
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"text": "生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた。",
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"text": "これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。なお『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、輪廻転生するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく一度生まれるだけのエーカジャ(一生族)とされていたシュードラ(隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、マントラを唱えることも禁止されていた。",
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"text": "ヒンドゥー教においてサンサーラとは、アートマンの旅である。ヒンドゥー教の伝統においては、身体は死ぬが、それは永遠の現実、不滅、至福とされるアートマンの死ではない。すべての物事すべての存在は、接続され周期的であり、自我・アートマンと、身体・物質という2つのもので構成されるとする 。ヒンドゥー教の信念においてアートマンと呼ばれるこの永遠の自我は、決して転生せず、変化せず、変化させることもできない 。対照的に、身体と人格は変化することができ、常に変化し、生まれては死ぬ 。",
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"text": "仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。",
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"text": "無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない。",
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"text": "仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。",
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"text": "輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので、意識が断絶することはない。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。",
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"text": "原始仏典では基本的に天、人、畜生、餓鬼、地獄の五道輪廻が説かれる。経典によっては阿修羅身(巴: asurakāya)が説かれることもあるが、この阿修羅は餓鬼(巴: peta-asura)、天人(巴: deva-asura)のいずれかに分類される。もしくは阿修羅道としてひとつの道と看做し六道を説く場合もある。 これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて六道と称するようになった。",
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"text": "後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏を加え、六道と併せて十界を立てるようになった。",
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"text": "一方、現代では「ブッダの教説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が主に近代仏教学の学者によってなされ、学者間でその是非についての議論が行われている。 現代日本の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくない。このような言説を包括的かつ批判的に扱った学者として松尾宣昭がいる。松尾によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と、(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり、両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする。この二つの考えは二律背反に見えるが、(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する。このような立場を松尾宣昭は「輪廻想念説」と呼び、このような立場を支持する記述はパーリ聖典には見出されず、「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」という趣旨の、「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる。一方で、パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し、ある種の「仏教の本質」を想定することで、そこから帰結的に輪廻否定が導出されるとする立場もあるとする。松尾によれば和辻哲郎は「仏教の本質」として無我説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという。さらに「仏教の本質」を後代に明確化された空の教説に見出し、(1)と(2)の両立性を二諦説によって説明する見解もある。松尾によると、空を用いた輪廻否定は、実質的には無我説を用いたものと同じであり、この場合は「龍樹がブッダの真意を説明した」テキストである『中論』を根拠として提示することができると述べている。",
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"text": "輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける新仏教運動を主導したビームラーオ・アンベードカルは、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった佐々井秀嶺にも受け継がれている。一方で釈迦が死後の世界について述べた内容が釈迦の経典一切経の中に数多く残されているのも事実である。その一つに仏説阿弥陀経がある。",
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"text": "ジャイナ教において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。モークシャ(解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。",
"title": "ジャイナ教"
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輪廻(りんね)または輪廻転生(りんねてんしょう)とは、サンスクリット語のサンサーラに由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わること。日本語読みのリンネは、連声によるものである。「生まれ変わり」は大多数のインド哲学における根本教義である。 インド哲学でのサンサーラ概念は、ヴェーダ以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ自体では議論されていない。サンサーラ教義の完全な解説が記載されるのは、仏教やジャイナ教などの沙門宗教や、紀元前1千年紀半以降のヒンドゥー教のさまざまな学派である。これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマの結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる。 サンサーラからの解放は、モークシャ(解脱)、ニルヴァーナ(涅槃)、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。
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{{Redirect3|輪廻転生|[[インド哲学]]・仏教の思想|他宗教を含む用法|転生}}
{{Redirect|サンサーラ}}
{{Otheruses}}
[[image:The wheel of life, Trongsa dzong.jpg|thumb|right|200px|[[六道]]輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している]]
'''輪廻'''(りんね{{refnest|name="大辞林_第三版"|[https://kotobank.jp/word/%E8%BC%AA%E5%BB%BB-150461#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 「輪廻」 - 大辞林 第三版]、三省堂。}})または'''輪廻転生'''(りんねてんしょう<ref>{{Cite Kotobank |word=輪廻転生 |encyclopedia=デジタル大辞泉, 四字熟語を知る辞典 |accessdate=2021-11-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=輪廻転生(りんねてんしょう)の意味・使い方 - 四字熟語一覧 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F/ |website=goo辞書 |accessdate=2022-02-15 |language=ja}}</ref>)とは、[[サンスクリット]]語の'''サンサーラ'''(संसार ''Saṃsāra''<ref name="Gross1993p148"/>{{Sfn|Jeaneane D. Fowler|1997|p=10}})に由来する用語で、命あるものが何度も転生し、人だけでなく[[動物]]なども含めた生類として生まれ変わること{{refnest|name="大辞林_第三版"}}。日本語読みのリンネは、[[連声]]によるものである{{refnest|name="大辞林_第三版"}}。「生まれ変わり」は大多数の[[インド哲学]]における<!--と「すべての生命・物質・存在における周期性({{lang|en|cyclicality}})」-->根本教義である{{Sfn|Mark Juergensmeyer|Wade Clark Roof|2011|pp=271–72}}<ref name="Gross1993p148">{{cite book|author=Rita M. Gross |title=Buddhism After Patriarchy: A Feminist History, Analysis, and Reconstruction of Buddhism |url=https://archive.org/details/buddhismafterpat00gros |url-access=registration |year=1993|publisher=State University of New York Press|isbn=978-1-4384-0513-1 |pages=[https://archive.org/details/buddhismafterpat00gros/page/148 148] }}</ref><ref name=ykrishanp24>Yuvraj Krishan (1988), Is Karma Evolutionary?, Journal of Indian Council of Philosophical Research, Volume 6, pp. 24–26</ref> 。
インド哲学でのサンサーラ概念は、[[ヴェーダ]]以降の文献に根ざしており、理論はヴェーダ自体では議論されていない<ref>A.M. Boyer: ''Etude sur l'origine de la doctrine du samsara.'' Journal Asiatique, (1901), Volume 9, Issue 18, S. 451–53, 459–68</ref><ref>Yuvraj Krishan: . Bharatiya Vidya Bhavan, 1997, {{ISBN2|978-81-208-1233-8}}</ref>。サンサーラ教義の完全な解説が記載されるのは、[[仏教]]や[[ジャイナ教]]などの[[沙門|沙門宗教]]や、紀元前1千年紀半以降の[[ヒンドゥー教]]のさまざまな学派である{{sfn|Stephen J. Laumakis|2008|pp=90–99}}<ref name="Krishan1997p17">{{cite book|author=Yuvraj Krishan |title=The Doctrine of Karma: Its Origin and Development in Brāhmaṇical, Buddhist, and Jaina Traditions |url=https://books.google.com/books?id=_Bi6FWX1NOgC |year=1997|publisher= Bharatiya Vidya Bhavan|isbn=978-81-208-1233-8 |pages=17–27 }}</ref>。これによれば生物らは、死して後、生前の行為つまり[[業|カルマ]]({{lang-sa-short|karman}})の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。命あるものは何度も転生し、人だけでなく[[動物]]なども含めた生類として生まれ変わる{{refnest|name="大辞林_第三版"}}。
サンサーラからの解放は、モークシャ([[解脱]])、ニルヴァーナ([[涅槃]])、ムクティ(脱;Mukti)、カイヴァリヤ(独存;kaivalya)と呼ばれる<ref name="Firth1997p106">{{cite book|author=Shirley Firth |title=Dying, Death and Bereavement in a British Hindu Community |url=https://books.google.com/books?id=pYNXC-HK1u0C |year=1997|publisher=Peeters Publishers|isbn=978-90-6831-976-7|pages=106, 29–43}}</ref>{{Sfn|Michael Myers|2013|p=36}}{{Sfn|Harold Coward|2008|p=103}}。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とする。
{{Seealso|インド哲学#比較}}
== 語義の変遷 ==
サンサーラは原義で「さまようこと、歩き回ること」({{lang|sa|saṃsarati}}){{Sfn|Mark Juergensmeyer|Wade Clark Roof|2011|pp=271–72}}{{Sfn| Lochtefeld|2002|p=589}}を意味する。後代になると、「生まれ変わること」({{lang|sa|punarbhava}})だけでなく、派生的な意味で「世界」({{lang|sa|loka}})という意味を持つ様になり、「周期的な変化」との意味を暗に含むようになった{{Sfn|Klaus Klostermaier|2010|p=604}}。
== 歴史 ==
ヒンドゥー教の前身であるバラモン教({{lang-en-short|Brahmanism}})、すなわち[[バラモン教|ヴェーダの宗教]]({{lang-sa-short|Vaidika}}{{refnest|name="世界大百科事典2nd_バラモン教"|[https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99-116765#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 「バラモン教」 - 世界大百科事典 第2版]、平凡社。}})において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、ヴェーダの宗教最終期の[[ブラーフマナ]]文献{{efn2|ブラーフマナは、ヴェーダの[[ヴェーダ#シュルティとスムリティ|シュルティ]](天啓文書)のひとつで、ヴェーダの祭式を解説するいくつかの注釈書。[[紀元前900年]]頃から[[紀元前500年]]頃にかけて成立したとされ、この時代をブラーフマナ時代という。}}ないし最初期の[[ウパニシャッド]]文献{{efn2|紀元前800年頃以降にサンスクリットで書かれた哲学書で「奥義書」と称される。}}においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『[[チャーンドーギヤ・ウパニシャッド|チャーンドーギヤ]]』(5-3-10)と『[[ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド|ブリハッドアーラニヤカ]]』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、[[プラヴァーハナ・ジャイヴァリ]]王の説く「[[五火二道説]]」が著名である。
五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は[[月]]にいったんとどまり、[[雨]]となって[[地]]に戻り、[[植物]]に吸収されて[[穀物|穀類]]となり、それを食べた[[男]]の[[精子]]となって、[[女]]との[[性行為|性的な交わり]]によって胎内に注ぎ込まれて[[胎児]]となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している{{refnest|『南アジアを知る事典』(1992){{要ページ番号|date=2017-01}}}}。
これが、ヴェーダの宗教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と[[業]](カルマ)を置き、これらによって次の輪廻([[来世]])の宿命が定まるとする。具体的には、[[カースト]](ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果({{lang-sa-short|phala}})がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、[[前世]]の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。
[[天国]]での永遠の恩寵や[[地獄]]での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた{{refnest|name="Hajime"|中村元『原始仏教:その思想と生活』日本放送出版協会〈NHKブックス〉2007年、第69刷、ISBN 4140011114 p.101.}}。
これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の[[死生観]]・世界観を形成してきたのである。なお『マヌ法典』では、女性はどのヴァルナ(身分)であっても、輪廻転生するドヴィジャ(二度生まれる者、再生族)ではなく一度生まれるだけの[[エーカジャ]](一生族)とされていた[[シュードラ]](隷民)と同等視され、女性は再生族である夫と食事を共にすることはなく、祭祀を主催したり、[[マントラ]]を唱えることも禁止されていた{{sfn|森本|2003|pp=191-192}}。
== ヒンドゥー教 ==
[[ヒンドゥー教]]においてサンサーラとは、[[アートマン]]の旅である{{Sfn|Mark Juergensmeyer|Wade Clark Roof|2011|p=272}}。ヒンドゥー教の伝統においては、身体は死ぬが、それは永遠の現実、不滅、至福とされるアートマンの死ではない{{Sfn|Mark Juergensmeyer|Wade Clark Roof|2011|p=272}}。すべての物事すべての存在は、接続され周期的であり、自我・アートマンと、身体・物質という2つのもので構成されるとする{{Sfn|Jeaneane D. Fowler|1997|p=10}} 。ヒンドゥー教の信念においてアートマンと呼ばれるこの永遠の自我は、決して転生せず、変化せず、変化させることもできない{{Sfn|Jeaneane D. Fowler|1997|p=10}} 。対照的に、身体と人格は変化することができ、常に変化し、生まれては死ぬ{{Sfn|Jeaneane D. Fowler|1997|p=10}} 。
== 仏教 ==
{{#invoke:String|replace|pattern=韓国語|replace={{ISO639言語名|ko}}|plain=false|source={{Infobox Buddhist term
| fontsize=100%
| title=輪廻、サンサーラ
| pi= saṃsāra
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| bn=সংসার (sôngsarô)
| en= cycle of existence, endless rebirth, wheel of suffering
| bo=འཁོར་བ་
| bo-Latn=khor ba
| ja=輪廻
| ja-Latn=rinne
| ko=[[:ko:윤회|윤회]], [[:ko:생사유전|생사유전]]
| ko-Latn=Yunhoi, Saengsayujeon
|km=សង្សារ , សង្សារវដ្ដ , វដ្ដសង្សារ<br />(Sangsa, Sangsaravord, Vordsangsa)
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| my=သံသရာ
| my-Latn=θàɴðajà
| th=[[:th:วัฏสงสาร|วัฏสงสาร]]
| vi=[[:vi:Luân hồi|Luân hồi]]
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| zh-Latn=shēngsǐ, lúnhuí, liúzhuǎn
| si=[[:si:සංසාරය|සංසාරය]] (sansāra)
|}}}}
[[仏教]]においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を[[苦]]と捉え、輪廻から[[解脱]]することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき[[我]]、永遠不変の魂は想定しない([[無我]]){{refnest|name="fn5"|石飛道子 [http://manikana.la.coocan.jp/essay/reincarnation2.html 『仏教と輪廻(下)ブッダは輪廻を説かなかったか』]}}。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の[[我]]([[アートマン]])を想定する他のインドの宗教と異なっている。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である<ref name=mugaqa>{{Cite |和書|title=無我の見方 |author=[[アルボムッレ・スマナサーラ]] |date=2012 |isbn=978-4905425069 |publisher=サンガ |at=Kindle版,Q&A }}</ref>。輪廻に主体([[我]]、[[アートマン]])を想定した場合、それは結局、[[常見|常住論]](永久に輪廻を脱することができない)か[[断見|断滅論]](輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは[[恒常]]か[[無常]]のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない{{refnest|name="fn5"}}。
[[File:Reptiles and birds. A popular account of the various orders; with a description of the habits and economy of the most interesting. (1873) (14746391091).jpg|thumb|right|何かが無くなれば、何かが生まれる<ref name=panna>{{Cite |和書|author=A.スマナサーラ |title=智慧は人生の羅針盤 |date=2009 |publisher=サンガ |page=74 |isbn=978-4904507438}}</ref>。[[オタマジャクシ]]は時間を経て消滅し、カエルが生まれる。すなわちカエルが生まれたのは、オタマジャクシが死んだからである。仏教では生と死は同じものである<ref name=panna />。]]
仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり<ref name="fn2">{{Cite web|和書|publisher=日本テーラワーダ仏教協会 |author=V.F Gunaratna |url=https://j-theravada.net/dhamma/oriori/%e4%bb%8f%e6%95%99%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a6%8b%e3%82%8b%e6%ad%bb%ef%bc%88%e4%b8%ad%ef%bc%89/ |title=仏教から見る死(中) |accessdate=2023-01}}</ref>、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため<ref name=fn2/>、輪廻における、単立常住の主体([[霊魂]])は否定される。
輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである<ref name="fn3">{{Cite web|和書|publisher=日本テーラワーダ仏教協会 |author=V.F Gunaratna |url=https://j-theravada.net/dhamma/oriori/%e4%bb%8f%e6%95%99%e3%81%8b%e3%82%89%e8%a6%8b%e3%82%8b%e6%ad%bb%ef%bc%88%e4%b8%8b%ef%bc%89/ |title=仏教から見る死(下) |accessdate=2023-11}}</ref>。このことは科学の[[エネルギー保存の法則]]にたとえて説明される場合がある<ref>{{Cite |和書|author=A.スマナサーラ |author2=藤本晃 |series= アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉 |title=業(カルマ)と輪廻の分析 |publisher=サンガ |page=83 |isbn=978-4904507292}}</ref>。この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので{{efn2|南方上座部アビダルマ教学では、二つのエネルギーの因果関係が距離の影響を受けるとは考えない。<ref name=fn3/> }}、意識が断絶することはない{{efn2|南方上座部アビダルマ教学では完全な意識(路心 {{lang|pi|vīthi-citta}})と無意識(有分心 {{lang|pi|bhavaṅga-citta}})を区別し、どちらも意識({{lang|pi|viññāṇa}})と見做す。<ref name=fn2/>}}。また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている<ref name=fn3/>。それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。
=== 仏教における輪廻思想の発展 ===
原始仏典では基本的に[[天 (仏教)|天]]、[[人間界|人]]、[[畜生]]、[[餓鬼]]、[[地獄 (仏教)|地獄]]の五道輪廻が説かれる。経典によっては[[阿修羅]]身({{lang-pi-short|asurakāya}})が説かれることもあるが、この[[阿修羅]]は[[餓鬼]]({{lang-pi-short|peta-asura}}){{refnest|ウ・ウェープッラ、戸田忠=訳註『アビダンマッタサンガハ [新装版]』、中山書房仏書林、p.125}}、[[天人]]({{lang-pi-short|deva-asura}}){{efn2|地神に依止している堕処の阿修羅 ({{lang|pi|bhummassita-vinipātikāsura}}){{refnest|name="vepulla_133-134頁"|「堕処の阿修羅(…)地神(…)2神とも四大王天に属する天衆である」(ウ・ウェープッラ、戸田忠=訳註『アビダンマッタサンガハ [新装版]』、中山書房仏書林、pp.133-134)}}}}のいずれかに分類される。もしくは阿修羅道としてひとつの道と看做し六道を説く場合もある。
これら天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄を、併せて[[六道]]と称するようになった。
後代になり[[大乗仏教]]が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、六道に[[声聞]]・[[縁覚]]・[[菩薩]]・[[如来|仏]]を加え、六道と併せて[[十界]]を立てるようになった。
===仏教内における輪廻思想の否定===
一方、現代では「ブッダの教説は輪廻の存在を否定するものである」という主張が主に近代仏教学の学者によってなされ、学者間でその是非についての議論が行われている。
現代日本の仏教者、僧侶、仏教研究者の中には、「ブッダは輪廻の存在を否定した」とする主張が少なくない<ref>和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』[[岩波書店]]、望月海慧『ブッダは輪廻思想を認めたのか』日本佛教学會年報第六十六号、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版など</ref>。このような言説を包括的かつ批判的に扱った学者として[[松尾宣昭]]がいる<ref>「輪廻転生」考(一)~(四) {{NAID|110007172137}} {{NAID|110008721186}} {{NAID|110008747101}} {{NAID|110009675250}} </ref>。松尾によれば、「輪廻の否定」には、ブッダが(1)「そもそも輪廻は存在しない、と考えた」という見解と、(2)「人は輪廻に留まるべきではない、と考えた」という見解があり、両方とも輪廻を否定しているものの、その意味内容は全く異なるとする<ref name="松尾_輪廻考3">{{Cite journal|和書 |author=松尾宣昭 |naid=110008747101 |title=「輪廻転生」考(三) : 一つの論点をめぐる補足] 龍谷大學論集 |journal=龍谷大學論集 |volume=476 |issue=60-75 |date=2010-10-01 |publisher=[[龍谷大学]]}} </ref>。この二つの考えは二律背反に見えるが、(1')「ブッダは輪廻の存在を否定していたが、当時の人々が輪廻の観念に縛られていたため、仮に是認した」だからこそ(2')「輪廻という想念に留まるべきではないと説いた」として意味を読みかえる場合に、両立する。このような立場を[[松尾宣昭]]は「輪廻想念説」と呼び、このような立場を支持する記述は[[パーリ聖典]]には見出されず、「修業未完成者は死後輪廻する、ゆえに修行を完成させて輪廻から解脱せよ」という趣旨の、「輪廻は存在しない」という説とは反対の言葉が多く見出されると述べる<ref name="松尾_輪廻考3" />。一方で、パーリ聖典の「決定的資料性」を否定し、ある種の「仏教の本質」を想定することで、そこから帰結的に輪廻否定が導出されるとする立場もあるとする。松尾によれば[[和辻哲郎]]は「仏教の本質」として[[無我]]説を用い、自らの輪廻否定説の根拠としているという<ref name="松尾_輪廻考1">{{Cite journal |和書|author=松尾宣昭 |naid=110007172137 |title=「輪廻転生」考(一) : 和辻哲郎の輪廻批判] |journal=龍谷大學論集 |volume=469 |pages=62-80 |date=2007-01 }}</ref><ref name="松尾_輪廻考3" />{{efn2|松尾はこの説に詳細な批判を行っている。}}。さらに「仏教の本質」を後代に明確化された[[空_(仏教)|空]]の教説に見出し、(1)と(2)の両立性を[[二諦]]説によって説明する見解もある{{refnest| name="松尾_輪廻考3"}}。松尾によると、空を用いた輪廻否定は、実質的には無我説を用いたものと同じであり、この場合は「龍樹がブッダの真意を説明した」テキストである『[[中論]]』を根拠として提示することができると述べている{{efn2|ただし松尾は、『中論』がそのように読めるとは思われないとする。<ref name="松尾_輪廻考3" />}}。
輪廻転生を理論的基盤として取り込んだインド社会のカースト差別に反発してインドにおける[[新仏教運動]]を主導した[[ビームラーオ・アンベードカル]]は、独自のパーリ仏典研究の結果、「ブッダは輪廻転生を否定した」という見解を得た。この解釈はアンベードカルの死後、インド新仏教の指導者となった[[佐々井秀嶺]]にも受け継がれている{{refnest|[[アンベードカル]]『ブッダとそのダンマ』[[光文社]]、[[田中公明]]『性と死の密教』[[春秋社]]、[[山際素男]]『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』[[光文社]]}}<ref>「アンベードカルを知らないと仏教がわからない。(...)アンベードカルを全部勉強することによって初めて本尊である仏陀がわかる。」[http://homepage2.nifty.com/munesuke/india-sasai-interview-weeklyeconomist.html 世界遺産級の遺跡発掘に成功: インド仏教僧 佐々井秀嶺(2004)]</ref>。一方で釈迦が死後の世界について述べた内容が釈迦の経典一切経の中に数多く残されているのも事実である。その一つに仏説阿弥陀経がある。
==ジャイナ教==
{{main|サンサーラ (ジャイナ教)}}
[[ジャイナ教]]において輪廻とは、様々な存在領域への再生・復活が繰り返されることを特徴とする、この世での生活のことを言う。輪廻は苦痛・不幸に満ちたこの世の存在であり、そのため望ましくない、放棄するべきものだとされる。輪廻には始まりがなく、魂は悠久の過去からカルマに縛られていたことに気付くのである。[[モークシャ (ジャイナ教)|モークシャ]](解脱)は輪廻から解放される唯一の手段である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『サンガジャパン Vol.21 特集・輪廻と生命観』 サンガ、2015年8月、ISBN 978-4-86564-024-3
*{{Cite book|和書|ref={{Harvid|森本|2003}} |author=森本達雄|authorlink=森本達雄|title=ヒンドゥー教―インドの聖と俗 |series=[[中公新書]] |publisher=[[中央公論新社]] |year=2003 |isbn=4-12-101707-2}}
* [[ミルチア・エリアーデ]]著、[[島田裕巳]]訳 『世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)』 [[筑摩書房]]〈ちくま学芸文庫〉、2000年5月、ISBN 4-480-08563-7
* [[辛島昇]]・前田専学・江島惠教ら監修 『南アジアを知る事典』 [[平凡社]]、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0
* {{Cite book |author=Jeaneane D. Fowler|year=1997|title=Hinduism: Beliefs and Practices |url=https://books.google.com/books?id=RmGKHu20hA0C |publisher=Sussex Academic Press |isbn=978-1-898723-60-8}}
* {{Cite |author=Klaus Klostermaier|year=2010| title=A Survey of Hinduism: Third Edition|publisher=State University of New York Press|isbn=978-0-7914-8011-3}}
* {{Cite |author1=Mark Juergensmeyer |author2=Wade Clark Roof |year=2011 |title=Encyclopedia of Global Religion |url=https://books.google.com/books?id=WwJzAwAAQBAJ |publisher=SAGE Publications |isbn=978-1-4522-6656-5 }}
* {{Cite |author=Michael Myers |year=2013 |title=Brahman: A Comparative Theology |url=https://books.google.com/books?id=xfvaAAAAQBAJ |publisher=Routledge |isbn=978-1-136-83565-0 }}
* {{Cite |author=Stephen J. Laumakis |year=2008 |title=An Introduction to Buddhist Philosophy |url=https://books.google.com/books?id=_29ZDAcUEwYC |publisher=Cambridge University Press |isbn=978-1-139-46966-1 }}
*{{Cite |first=James|last=Lochtefeld|year=2002|title=The Illustrated Encyclopedia of Hinduism, Vol. 2: N-Z|publisher=Rosen Publishing|isbn=978-0-8239-2287-1 |url=https://archive.org/details/illustratedencyc0000loch}}
* {{Cite |author=Harold Coward|year=2008 |title=The Perfectibility of Human Nature in Eastern and Western Thought: The Central Story|url=https://books.google.com/books?id=LkE_8uch5P0C |publisher=State University of New York Press |isbn=978-0-7914-7336-8}}
== 関連項目 ==
* [[転生]]
* [[六道]]
* [[死と再生の神]]
* [[死生観]]
* [[輪廻転生]]
* [[復活 (キリスト教)]]
* [[ハス]] {{要出典範囲|輪廻転生の象徴の花。<!-- 輪廻転生はハスの別名である「芙蓉」とも言う。 -->|date=2022-01-25}}
== 外部リンク ==
*[[森章司]]「[https://ci.nii.ac.jp/naid/120005274325 死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考]」 東洋学論叢 (30), 180-158, 2005-03 東洋大学文学部
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[[Category:インド哲学]]
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和歌
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和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。
「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」「哥」の字が宛てられることもある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。
長連歌、俳諧、俳句、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、一般には和歌には含めない。 長歌と短歌を合わせて和歌という分類方法もある。原則的に日本語で作成したものを指し、英語俳句のような外国の短歌は和歌には含めない。 明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称し「和歌」とは称さないことがある。 近現代短歌はこの項では取り上げない。
「和歌」の語は漢詩に対比される日本語詩を意味する言葉として造られた。『万葉集』の題詞に同義の「倭歌」「倭詩」や日本語の挽歌を意味する「日本挽歌」の字句が見られる。なお、『万葉集』題詞に見られる「和歌」は応答歌、唱和歌を意味し、この項の「和歌」とは別義である。
和歌については、素盞嗚尊が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。
現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる短歌のことを指す。 古今和歌集仮名序にもこの歌について「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう。しかし和歌には、古くは短歌のほかにも長歌や旋頭歌という形式のものがあった。
『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には和歌の種類について「長歌・短歌・旋頭混本の類、雑体一に非ず」とあるが「混本」というのがどのような形式のものであったかは不明である。また仏足石歌体の形式は奈良時代に行なわれたのみであり、その後は廃絶している。短歌からはのちに句を五七五と七七に分けて詠む連歌や俳諧が発生する。
和歌を詠むことは、古くは貴族をはじめとする教養層にとってはたしなみのひとつであり、男女が詠み交わして自らの心を伝える手だてとし、また歌合や歌会が多く開かれ、そのための和歌が詠まれ披露された。そして詠まれた和歌は個人の歌集(私家集)や平安時代以降の勅命による勅撰和歌集の材料として集められ収録されている。ほかには勅命によらずに編纂された私撰集がある。
和歌は「敷島」とも、また「敷島の道」とも呼ばれた。敷島とは大和国や日本のことを意味し、また枕詞のひとつでもあり「やまと」という言葉にあわせて使われている。即ち「敷島のやまとうた」「敷島のやまとうたの道」というつもりで用いられた言葉である。
鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたことにより和歌は盛んに詠まれ、歌会が多く開かれた。歌会では和歌に独特の節を付けて詠み上げたがこれを披講という。披講には綾小路流や冷泉流などの流派が存在し、現在でも宮中の歌会始や神社での行事などで見ることができる。和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。その採られた和歌は歌合や歌会などにおいて、前もって題を設けて詠まれたものが多い。『千載和歌集』でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達した。その一方で歌聖とされた柿本人麻呂や自然への愛や人生観を詠んだ西行が尊ばれた。
『新古今和歌集』編纂の中心人物だった藤原定家の死後は、その子の為家が歌壇の指導者だったが、為家が亡くなると、家系も歌壇も二条派、京極派、冷泉派の三派に分かれた。三派は主導権をめぐって争い、うち二条派と京極派は次々と勅撰集を編纂し京都の中央歌壇の覇権を競った。冷泉派は始祖と鎌倉幕府との関係から、関東において武士の間で栄えた。
近世初期には伝統的な歌学が集大成され、多くの歌人が生まれたが、既に「歌道」として完成された芸術になっていたため新しい歌風は生まれなかった。誕生まもない俳諧に比べて、上代からの伝統的日本文化である和歌の革新は抑制された。近世には国学が勃興し、国学者たちは古典を直接の典拠として歌論提唱と和歌実作を行い、また、古今伝授等の歌道家の説を根拠のないものとして厳しく批判した。契沖の『万葉代匠記』を始めとして万葉集研究が進み、万葉調歌人が現れたのも近世和歌の大きな特徴である。なおこの時期、琉球では王族や上流階級の間で和歌が盛んに詠まれている。17世紀、琉球国が薩摩の支配下に入ると、士族には和歌の素養を身に付けることが求められ、和歌の修辞法である序詞や掛詞、本歌取りなどの技法が在来の琉歌にも用いられるようになった。18世紀になると、清国の商人などごく一部であるが、国外の人々の和歌を嗜む様が、当時の随筆に記録されている。
近世後期になると京都から新しい和歌の動きが起こり、堂上の二条派の流れを酌む地下の香川家の末裔が始めた桂園派が登場した。桂園派は明治時代初期まで歌壇に重きをなした。
明治時代初期の和歌は堂上系や桂園派や国学者など江戸期からの伝統的な文化人たちが担ってきたが、和歌改革を志す人々(落合直文、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、やや遅れて正岡子規ら)によって題詠による作歌、風雅な趣向が批判され、新時代に相応しい新しい歌風が生まれた。
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和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」「哥」の字が宛てられることもある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、俳句、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、一般には和歌には含めない。
長歌と短歌を合わせて和歌という分類方法もある。原則的に日本語で作成したものを指し、英語俳句のような外国の短歌は和歌には含めない。
明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称し「和歌」とは称さないことがある。
近現代短歌はこの項では取り上げない。
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'''和歌'''(わか)とは、[[短歌]]型式の古典[[詩]]。古典短歌。広義には『[[万葉集]]』に所収される歌体の総称。
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長歌と短歌を合わせて和歌という分類方法もある。原則的に日本語で作成したものを指し、英語俳句のような外国の短歌は和歌には含めない。
[[明治]]の'''和歌'''革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称し「'''和歌'''」とは称さないことがある。
近現代短歌はこの項では取り上げない。
== 概要 ==
「'''和歌'''」の語は[[漢詩]]に対比される日本語詩を意味する言葉として造られた。『[[万葉集]]』の題詞に同義の「倭歌」「倭詩」や日本語の挽歌を意味する「日本挽歌」の字句が見られる。なお、『[[万葉集]]』題詞に見られる「和歌」は応答歌、唱和歌を意味し、この項の「和歌」とは別義である。
和歌については、[[スサノオ|素盞嗚尊]]が以下の歌を詠んだのがはじまりであるという伝説がある。
:やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを<ref group="注釈">『古事記』と『日本書紀』に収録されている。
:『古事記』「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」
:『日本書紀』「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」(以上原文)
これにより、のちに和歌のことを「八雲」(やくも)ともまた「八雲の道」ともいった。</ref>
現在和歌といえばこの形式、すなわち五七五七七と句を連ね、三十一字でつづる[[短歌]]のことを指す。 [[古今和歌集仮名序]]にもこの歌について「すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける」と記されていることから、和歌のことを「みそひともじ」(三十一文字)ともいう。しかし和歌には、古くは短歌のほかにも[[長歌]]や[[旋頭歌]]という形式のものがあった。
{| class="wikitable"
!名称||形式||備考
<!--|-
|[[片歌]]||五七七||二つに分かれて唱和する片方で、最短の歌。-->
|-
|長歌||五七、五七、…、五七、七||五七を3回以上繰り返し、最後を七音にする。主に公の場でうたわれるもので、[[反歌]]を伴う。<br />『[[万葉集]]』に多く見られるが、『[[古今和歌集]]』では5首入集するのみである。
|-
|短歌||五七、五七、七||各時代を通して最も詠まれている形式。
|-
|旋頭歌||五七七、五七七||片歌の五七七を2回繰り返したもの。[[問答歌]]が多い。
|-
|[[仏足石歌体]]||五七、五七、七七||短歌の形式に、さらに七音を加えたもの。
|}
『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には和歌の種類について「長歌・短歌・旋頭混本の類、雑体一に非ず」とあるが「混本」というのがどのような形式のものであったかは不明である。また仏足石歌体の形式は奈良時代に行なわれたのみであり、その後は廃絶している。<!--[[沖縄県|沖縄]]には[[琉歌]]というやや独特の形式がある。-->短歌からはのちに句を五七五と七七に分けて詠む[[連歌]]や[[俳諧]]が発生する。
和歌を詠むことは、古くは貴族をはじめとする教養層にとってはたしなみのひとつであり、男女が詠み交わして自らの心を伝える手だてとし、また[[歌合]]や[[歌会]]が多く開かれ、そのための和歌が詠まれ披露された。そして詠まれた和歌は個人の[[歌集]]([[私家集]])や[[平安時代]]以降の勅命による[[勅撰和歌集]]の材料として集められ収録されている。ほかには勅命によらずに編纂された[[私撰集]]がある。
和歌は「{{Ruby|敷島|しきしま}}」とも、また「敷島の道」とも呼ばれた。[[敷島]]とは[[大和国]]や日本のことを意味し、また[[枕詞]]のひとつでもあり「やまと」という言葉にあわせて使われている。即ち「敷島のやまとうた」「敷島のやまとうたの道」というつもりで用いられた言葉である。
== 歴史 ==
=== 上代 ===
; 上代歌謡
: 和歌が現れる以前に、感情の高まりから発せられた叫び、掛け声が次第に成長して、[[祭]]や労働の際に集団で歌われるようになった歌謡があったといわれるが、多くは[[文字]]に記されることなく失われてしまったという。それら歌謡が現在見られる五音七音でもって構成される和歌となるまでには、その形式に様々な過程や変遷を経たと見られる。現在<!--『[[ホツマツタヱ]]』、『[[ミカサフミ]]』、『[[フトマニ]]』、-->『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[風土記]]』『[[万葉集]]』『[[古語拾遺]]』『[[琴歌譜]]』『[[仏足跡歌碑]]』などに収録される韻文を上代歌謡と称している<ref name="jyodai">乾安代ほか著「日本古典文学史」暁印書館、p.33、ISBN 978-4-87015-515-2</ref>が、その多くは五音や七音の句で構成されるなど、すでにかなり洗練された内容となっている。
; 記紀歌謡
: 『古事記』『日本書紀』に採られた上代歌謡を、特に[[記紀歌謡]]という<ref name="jyodai"/>。独立した歌謡ではなく、物語の効果を高めるために用いられていることが多いが、宮廷人が歌った儀式の歌謡や、創作もあるとされている。[[片歌]]、[[旋頭歌]]、[[短歌]]、[[長歌]]などの五音と七音を標準とする歌体に、[[対句]]、繰り返し、[[枕詞]]、[[序詞]]などの技法が用いられている。<!--
他にも記紀の時代の歌謡には、奈良の[[薬師寺]]の仏足石歌碑に刻まれた歌、[[平安時代]]中期に書写された[[和琴]]の譜本『琴歌譜』がある。-->
: 上代歌謡は[[神楽歌]]や[[催馬楽]]などの[[楽器]]を伴う[[儀式歌]]の源流となるが、その歌体、技巧は後の和歌の母胎ともなっている。
;万葉集
: 統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。それらを大成したのが『[[万葉集]]』である。万葉集の注記によると、万葉集以前にも『[[古歌集]]』『[[柿本人麻呂]]歌集』『[[笠金村]]歌集』『[[高橋虫麻呂]]歌集』『[[田辺福麻呂]]歌集』『[[類聚歌林]]』などがあったとされるが現存しない。『万葉集』は長い期間を経て多くの人々によってまとめられたが、最終的には[[大伴家持]]が現在の二十巻の形に編集したのだといわれている。約4500首が収められており、その最も古いものは[[仁徳天皇]]の代のものであるが、大部分は[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]中期にかけての約100年弱のもので占められている。[[貴族]]の歌のほかに[[東歌]]、[[防人歌]]など民衆の歌もあり、現実的、写実的な歌風が多いとされる。
=== 中古 ===
; 国風文化
: 平安時代初期には漢詩文が公的な文学として和歌を圧倒した。和歌は私的に交わされる贈答歌が主となり、宮廷で詠まれることは奈良時代と比較すると少なくなった。しかし、[[遣唐使]]の派遣が[[承和 (日本)|承和]]年間に途絶した後は、中国人の[[海商]]が中国の文化や文物をもたらすようになり、貴族たちの間で中国の文化や文物に対するあこがれが高まった。その一方、貴族たちは、日本的なものを表現しようという気風が高まり、[[国風文化]]の時代となった。その過程で、[[仮名 (文字)|仮名]]の発達とあいまって和歌は次第に公的な文化として復権するようになった。『[[新撰万葉集]]』には漢詩と和歌が並べて記され、和歌が公的な文学としての地位を回復してゆく姿が見られる。宮中や貴紳の邸宅で[[歌合]]が行われ、中でも[[寛平]]5年([[893年]])のころに行なわれた『[[寛平御時后宮歌合]]』は、のちに最初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂において多くその歌が採られた。この頃から、和歌といえば短歌形式のものをさすようになった。
; 三代集
: [[延喜]]5年([[905年]])、[[醍醐天皇]]の勅命によって、[[紀貫之]]、[[紀友則]]、[[凡河内躬恒]]、[[壬生忠岑]]の4人によって編纂されたのが『古今和歌集』であり『万葉集』に入集しない和歌約1100首を二十巻に収める。その歌風は理知的、観念的であるといわれている。それから半世紀のちの[[村上天皇]]の頃に[[和歌所]]が置かれ、当時すでに読みにくくなっていた『万葉集』の訓読と『[[後撰和歌集]]』の撰進が[[梨壺の五人]]によって行われた。貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向がある。さらに半世紀後の[[一条天皇]]の頃に『[[拾遺和歌集]]』が撰進された。典雅で格調正しい『古今和歌集』の伝統を受け継ぐものになっている。この『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三つをあわせて'''三代集'''と呼ぶ。
;八代集
: 平安時代後期には摂関政治が衰退し始め、貴族文化に変化が訪れた。そのころ撰進されたのが『[[後拾遺和歌集]]』である。保守的な『後拾遺和歌集』に対し、次の『[[金葉和歌集]]』は清新な叙景歌が中心で革新的なものであったが、続く『[[詞花和歌集]]』は再び保守的なものになっている。
: 源平の争乱の後、[[後白河天皇|後白河院]]の命で[[藤原俊成]]が『[[千載和歌集]]』を撰進した。貴族社会の崩壊、武士の台頭という混乱の中で芸術至上的な傾向を示し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。俊成の弟子が撰進したのが次に述べる『[[新古今和歌集]]』である。『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの勅撰和歌集をあわせて'''八代集'''と呼ぶ。
=== 中世 ===
[[鎌倉時代]]に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたことにより和歌は盛んに詠まれ、歌会が多く開かれた。歌会では和歌に独特の節を付けて詠み上げたがこれを'''披講'''という。披講には綾小路流や冷泉流などの流派が存在し、現在でも宮中の[[歌会始]]や神社での行事などで見ることができる。和歌に非常な熱意を示した[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。その採られた和歌は歌合や歌会などにおいて、前もって題を設けて詠まれたものが多い。『千載和歌集』でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達した。その一方で歌聖とされた柿本人麻呂や自然への愛や人生観を詠んだ[[西行]]が尊ばれた。
『新古今和歌集』編纂の中心人物だった[[藤原定家]]の死後は、その子の為家が[[歌壇]]の指導者だったが、為家が亡くなると、家系も歌壇も[[二条派]]、[[京極派]]、[[冷泉派]]の三派に分かれた。三派は主導権をめぐって争い、うち二条派と京極派は次々と勅撰集を編纂し京都の中央歌壇の覇権を競った。冷泉派は始祖と鎌倉幕府との関係から、関東において武士の間で栄えた。
=== 近世 ===
[[近世]]初期には伝統的な歌学が集大成され、多くの歌人が生まれたが、既に「歌道」として完成された芸術になっていたため新しい歌風は生まれなかった。誕生まもない[[俳諧]]に比べて、上代からの伝統的日本文化である和歌の革新は抑制された。近世には国学が勃興し、国学者たちは古典を直接の典拠として歌論提唱と和歌実作を行い、また、古今伝授等の歌道家の説を根拠のないものとして厳しく批判した。契沖の『万葉代匠記』を始めとして万葉集研究が進み、万葉調歌人が現れたのも近世和歌の大きな特徴である。なおこの時期、琉球では王族や上流階級の間で和歌が盛んに詠まれている。[[17世紀]]、[[琉球王国|琉球国]]が薩摩の支配下に入ると、士族には和歌の素養を身に付けることが求められ、和歌の修辞法である序詞や掛詞、本歌取りなどの技法が在来の[[琉歌]]にも用いられるようになった。[[18世紀]]になると、[[清国]]の[[商人]]などごく一部であるが、国外の人々の和歌を嗜む様が、当時の[[随筆]]に記録されている<ref group="注釈">[[寛政]]12年([[1800年]])の『桂林漫録』(けいりんまんろく)に、清人詠歌が数首と琉球国王子の読谷(ヨミタニサ)王子と義湾(ギノワン)王子の歌が記載されている。義湾王子の歌は富士山に関するもので、当随筆では安らかなるシラベと評されている。<!-- この随筆の信憑性までは保障できない --></ref>。
近世後期になると京都から新しい和歌の動きが起こり、[[堂上家|堂上]]の[[二条派]]の流れを酌む[[地下人|地下]]の[[香川宣阿|香川家]]の末裔が始めた[[桂園派]]が登場した。桂園派は[[明治|明治時代]]初期まで歌壇に重きをなした。
=== 近代 ===
明治時代初期の和歌は堂上系や桂園派や国学者など江戸期からの伝統的な文化人たちが担ってきたが、和歌改革を志す人々([[落合直文]]、[[与謝野鉄幹]]、[[佐佐木信綱]]、やや遅れて[[正岡子規]]ら)によって題詠による作歌、風雅な趣向が批判され、新時代に相応しい新しい歌風が生まれた。
[[言文一致]]及び[[くずし字]]が教えられなくなったことにより古典的な和歌の創作は徐々に減少し現在に至る。
== 修辞技法 ==
*[[枕詞]]
*[[序詞]]
*[[掛詞]]
*[[縁語]]
*[[本歌取り]]
*[[歌枕]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連書籍 ==
* 鈴木健一/鈴木宏子[編]、『和歌史を学ぶ人のために』世界思想社
* 谷知子『和歌文学の基礎知識』〈角川選書〉
*『和歌を歌う 歌会始と和歌披講』(財)日本文化財団編、笠間書院、ISBN 4-305-70294-0
== 関連項目 ==
{{Wikiquote|和歌}}
{{Commonscat}}
* [[万葉集]]
* [[勅撰和歌集]]
* [[私家集]]
* [[私撰集]]
* [[歌合]]
* [[定数歌]]
* [[歌枕]]
* [[国歌大観]]
* [[古今伝授]]
* [[国学]]
* [[歌道]]
* [[歌学]]
** [[六条藤家]]、[[御子左家]]、[[二条派]]、[[京極派]]、[[冷泉家]]
* [[連歌]]
* [[詩]]
* [[辞世]]
* [[歌会始]]
* 和歌三神 - [[玉津島神社]]、[[住吉大社]]、[[北野天満宮]]
*[[都都逸]]
== 外部リンク ==
* [http://wakabun.jp/ 和歌文学会]
* [http://reizeike.jp/ 冷泉家時雨亭文庫]
* [https://wakadokoro.com/ 令和和歌所]
* {{CRD|2000026546|和歌を探す}}
* {{CRD|2000026969|和歌について調べるには}}
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AT&T
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AT&T Inc.(エーティーアンドティー、American Telephone & Telegraph Companyの略)は、情報通信・メディア系を中心とするアメリカ合衆国の多国籍コングロマリットの持株会社。 本社はデラウェア州に登録されているが、実際にはテキサス州ダラスのダウンタウンにあるウィットクレア・タワーに置いている。
米国最大手の電話会社であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズとメディア企業のワーナーメディアを傘下に収めていた。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、インターネット接続、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、IP放送、衛星テレビ、ケーブルテレビ、テレビ番組の製作・配信、映画の製作・配給、出版、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。本社はテキサス州ダラスにある。
1877年、19世紀におけるアメリカの二大発明家でもあるグラハム・ベルが興したベル電話会社が前身であり、1885年に世界初の長距離電話会社として発足。社長となったセオドア・ニュートン・ヴェイルは、One System One Policy Universal Service を掲げ、垂直統合と水平統合により、「ベルシステム」と呼ばれる研究開発(ベル電話会社、以下ベル社)から機材製造(ウェスタン・エレクトリック)、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク経済学におけるボトルネック独占を見事に現実のものとした。翌年末にジョン・ハドソンがベル社の管理者となった。ジョンは1887年にAT&T の社長となった。1899年12月31日にベル社はAT&T に完全買収された。ジョンは1900年秋に事務所で急逝した。1901–1907年、フレデリック・フィッシュが社長を務めた。フィッシュは1890年からゼネラル・エレクトリックの支配人として活躍しており、ジョン・モルガンとも付き合いがあった。フィッシュの任期にAT&T はモルガンと人的・資本的関係を深めた。1906年、AT&T1億5000万ドルの転換社債を発行、負債が8倍以上となる。翌年4月にフィッシュ辞任、ヴェイルが復任する。この状態で1907年恐慌を迎えた。
1909年にウエスタンユニオン株を買収。ここで政府が、大西洋横断電信ケーブルのカルテルによるシャーマン法違反でウェスタンユニオンに訴訟を提起すると圧力をかけた。ヴェイルがウェスタンユニオンをカルテルから引き離すと、カルテル参加企業であったAnglo-American Telegraph Companyとジョン・ペンダー系のDirect United States Cable Companyは立場が弱く、アメリカ市場を失うまいと自社保有の大西洋ケーブル通信網をウェスタンユニオンに貸与する羽目になった。AT&Tは1914年に株を売却した。結局は国内の電信企業がイギリスの通信利権を奪い取り独占力を強化した。
一方、AT&Tは連邦政府と折衝の上1913年にキングズベリー協定を結び、「規制下の独占」と言われる事業の独占権を認められた。こうして翌年勃発した第一次世界大戦で、RCAと真空管の特許を囲い込むことができた。
1925年、社長ウォルター・グリフォードがベル研究所を設立した。
1926年、子会社のアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーをRCAに売却した。しかもRCAはその放送事業にAT&Tの回線を使わなければならないという、表面上の義務協約を結んで恩恵にあずかった。子会社NBCを参照。
1934年、連邦通信委員会が発足。AT&Tは第二次世界大戦で軍需契約の総額におき全米13位であった。
1949年、司法省が反トラスト訴訟を提起しウェスタン・エレクトリックをAT&T系列から引き剥がしにかかった。
1956年、ウェスタン・エレクトリックの分離は結審により見送られた。しかし、機器製造はAT&T向け使用のみに限定された。AT&Tは所有特許の競合企業への非排他的なライセンス供与が義務づけられた他、事業分野は公衆通信サービスに限定された。
1962年、テルスター衛星を打ち上げた。これはトランシット (人工衛星)やインテルサットへのステップとなった。
1964年6月、コムサットが第1回の株式発行。総額2億ドル。1億ドル分が第1種株式として13万人の一般国民に売却された。残りの1億ドル分は第2種株式として連邦通信委員会の認可した163の通信事業者に購入された。AT&Tは総額2億ドル1000万株のうち29%を保有した。1972年に合衆国内の通信衛星市場が自由化され、翌年2月インテルサット恒久協定が発効して国際化が推進された。ここでAT&Tはコムサット株を売却してモノポリーを降板した。この1973年、米海軍の支援を受けたコムサットが86.29%を出資して、インテルサット衛星を多目的衛星とするためのマリサット計画をスタート。株主の2位、3位はそれぞれ8%のRCAと3.41%のウェスタン・ユニオン。このジョイントベンチャーは1977年8月に国際電信電話(現:KDDI)と契約、KDD山口衛星通信所が設立された。
1970年代、反独占訴訟United States v. AT&T Co. が起こり、独占問題は収束した。
1984年1月1日、AT&Tは基本的に長距離交換部門だけを持つ電話会社となり、それ以外の事業は会社分割された。これにより、地域電話部門は地域ベル電話会社8社へと分離された。また、ベル研究所も、AT&Tの機材製造・研究開発子会社、AT&Tテクノロジーズ(旧ウェスタン・エレクトリック)の傘下に置かれ、AT&T本体から分離された。合衆国の電話産業は市場競争へと開放され、特に長距離部門ではMCIやスプリントなどの大手長距離電話会社の成長を見ることになる。
1990年、地域ベル電話会社のひとつであるサウスウェスタン・ベルがカルロス・スリムなどとメキシコのテレメックスを買収した。
1990年代後半、AT&Tは大手ケーブル会社のTCI、メディアワンを相次いで買収、ケーブル施設を全国に保有し、その施設を通じた高速インターネット通信事業においても大手事業者となった。
1995年、サウスウェスタン・ベルが、「SBCコミュニケーションズ」に改名。1996年にパシフィック・テレシス、1997年にサザン・ニューイングランド・テレフォン、1999年にアメリテックを合併吸収して巨大化する。
1996年、AT&Tテクノロジーズがルーセント・テクノロジーズ(現:アルカテル・ルーセント)としてスピンオフ。1991年に買収後、一旦AT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズに改称したNCRも、1997年にNCRとして再度スピンオフした。
2001年の企業再構築により、旧TCIのメディア部門であったリバティメディアがスピンオフし、AT&Tは、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV & ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの四事業体制となる。このうちAT&Tワイヤレスは切り離され独立し、2001年から2004年まではNTTドコモが筆頭株主(16%)となるが、2004年にはSBCコミュニケーションズとベルサウスの合弁会社であるシンギュラー・ワイヤレスに買収されることになった。2002年には、AT&Tブロードバンドは、ケーブルテレビ事業大手のコムキャストに買収されて、AT&T本体に残るのは、昔からある長距離通信事業のみとなった。
2005年には、SBCコミュニケーションズにより、残っていたAT&T自体(AT&Tコーポレーション)が買収される。SBCは、ブランド名として価値の高いAT&Tを社名にすることにし、AT&T Inc.と改称した。買収されたAT&T Corp.は、新AT&Tの長距離通信事業を担当する子会社として残され、現在も存続している。
SBCコミュニケーションズは、1983年のAT&T分割でできた地域通信会社であり、経営陣の多くがAT&T出身ではあるが、子が親を買収するようなイメージの合併であった。従って、旧AT&Tの流れは、資本上はここで一度切れたと考えるべきである。SBCのAT&Tへの社名変更はSBCの経営陣がAT&Tの圧倒的なブランド力、認知度を利用するとともに、誇るべきNYSEにおける"T"の一文字ティッカーシンボルの伝統を消したくなかった、と言われている(参考:英語版)。AT&Tのロゴは買収後に若干変更された。
2006年には、地域ベル電話会社のベルサウスを買収。ベルサウスとは携帯電話事業で合弁事業を行っており、共同出資会社シンギュラー・ワイヤレスは米国内でベライゾン・ワイヤレスやスプリント・ネクステル、T-モバイルを抑えトップシェアとなっていた。また、この合併で地域電話会社はAT&T、ベライゾン・コミュニケーションズ、クウェスト・コミュニケーションズ・インターナショナル(現センチュリーリンク)の3社に集約されることとなった。これによりAT&Tは、長距離データ通信、長距離電話、携帯電話、公衆無線LANサービス、米国本土のおよそ半分で地域電話サービスを提供する巨大通信事業者となった。
2007年、シンギュラー・ワイヤレスをAT&Tモビリティに名称変更し、すべてのサービスをAT&Tのブランドに統一した。
2007年12月3日、2008年度末までに公衆電話事業の完全撤退を発表した。
2008年、ソフトウェアアーキテクチャシステム開発をアメリカ合衆国郵政公社から予算2000万ドルを上限に受注できたことを発表。
2011年3月20日、ドイツテレコムの米国携帯電話事業子会社であるT-Mobile USを390億ドルで買収することを発表。しかし、この買収計画は、司法省による反トラスト法違反での提訴につながり、結局、12月にAT&Tは、買収断念を発表した。
2013年7月12日、リープ・ワイヤレスを1株当たり15ドルで買収することで合意 。
2014年5月18日、ディレクTVを485億ドルで買収することで合意したと発表、2015年7月24日に買収を完了した。
2015年3月6日、ダウ・ジョーンズは、ダウ工業株30種平均の構成銘柄からAT&Tを除外すると発表。同年3月18日の取引終了後に実施された。
2016年10月22日、メディア・コングロマリットのビッグ5の一角を占めるタイム・ワーナーを864億ドルで買収すると発表。
2017年11月20日、司法省はタイム・ワーナー買収が反トラスト法に反するとして、ワシントンDC連邦地方裁判所に提訴した。司法省反トラスト局長のマカン・デラヒムは、「本買収は消費者に多大な害を与える。視聴料の高騰、将来の消費者が享受するであろう新しいイノベーションを抑制することになる」とコメントした。
2018年6月12日、ワシントンDC連邦地方裁判所がタイム・ワーナー買収を許可、6月14日にAT&Tは同社の買収を完了した。タイム・ワーナーはワーナーメディアに改称した。
2021年5月17日、ワーナーメディアはスピンオフ制度を活用して、同業会社のディスカバリーと2022年頃を目処に経営統合することで3社間で合意したと発表し、2022年4月8日に「ワーナー・ブラザース・ディスカバリー」を設立した。これにより、ワーナーは約4年でAT&Tグループから離れることになった。
AT&T Inc.は持株会社として存在し、個々の事業・地域ごとの事業は以下の事業子会社が担当している。
1900年代の中ごろから数学者のヨハン・イェンセンとアグナー・アーランはベル電話会社のデンマーク支社であったコペンハーゲン電話会社で技術者として働いていた。アーランは勤務中に効率的な電話サービスの提供に欠かせない通信トラヒック工学や待ち行列理論の基礎理論を構築した。
日本においては、1985年に長距離国際サービスを主にした日本AT&T株式会社が設立された。1998年の日本IBMとの戦略的合意に基づき、1999年にAT&TジャパンLLC(2007年9月1日にAT&Tグローバル・ネットワーク・サービス・ジャパンLLCから社名変更)が設立された。なお、AT&TジャパンLLCは株式の15%をNTTコミュニケーションズが持ち、AT&T Inc.の100%子会社である日本AT&T株式会社と若干資本関係が異なる。
AT&TジャパンLLCはAT&Tの技術を日本に導入するとともに、企業向けネットワークのアウトソーシングサービスなどを行っている。技術力は高く、顧客層はかなり大企業に偏っている模様である。国際サービスはAT&Tのサービスを使い、国内サービスはNTTコミュニケーションズ、KDDI、日本テレコム、KVHテレコムなどの回線を調達しAT&Tがマネージメントとカスタマイズをして、顧客に提供するサービスをしている。複雑なネットワークであるほど、AT&Tの評価は高い。
2010年9月に、AT&Tジャパンのネットワークアウトソーシング事業をインターネットイニシアティブへ譲渡した。
また、かつて存在したAT&TのプロバイダーサービスはAT&Tと日本テレコムとの合弁会社JENSが運営していたが、AT&TがNTTコミュニケーションズと提携した後、合弁は解消、現在AT&Tとは無関係の会社になっている。しかし、ドメインとしてはatt.ne.jpがそのまま残っている。ブリティッシュテレコムとの合弁、コンサートジャパンも合弁解消、こちらはAT&Tに吸収合併されている。
日本電気(NEC)は、ベル電話会社(旧AT&T)の機材製造部門ウェスタン・エレクトリックと岩垂邦彦による日本初の外資との合弁企業であった。現在はAT&Tとの資本関係はない。
AT&Tではゴルフにも積極的である。PGAツアーでは2月のAT&Tペブルビーチナショナルプロアマ、5月のAT&Tバイロン・ネルソン選手権、チャンピオンズツアーでは10月のAT&T選手権(英語版)のタイトルスポンサーを持っている。またかつては6月から7月にかけて開催されているAT&Tナショナル、アトランタで開催されていたAT&Tクラシック(英語版)のスポンサーも務めていた。またAT&Tナショナルを主催するタイガー・ウッズ財団(英語版)の創設者タイガー・ウッズも2009年まで契約していた。
AT&TセンターとAT&Tスタジアムの命名権を保有している。また、かつてSBC時代の2000年から2018年まではAT&Tパークの命名権も保有していた。
2012年からF1チームのレッドブルのスポンサーを務めている。過去スポンサーを務めていたチームの移り変わりは多くジャガー・レーシング、マクラーレン、ウィリアムズ、レッドブルと推移している。
|
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"text": "AT&T Inc.(エーティーアンドティー、American Telephone & Telegraph Companyの略)は、情報通信・メディア系を中心とするアメリカ合衆国の多国籍コングロマリットの持株会社。 本社はデラウェア州に登録されているが、実際にはテキサス州ダラスのダウンタウンにあるウィットクレア・タワーに置いている。",
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"text": "米国最大手の電話会社であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズとメディア企業のワーナーメディアを傘下に収めていた。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、インターネット接続、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、IP放送、衛星テレビ、ケーブルテレビ、テレビ番組の製作・配信、映画の製作・配給、出版、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。本社はテキサス州ダラスにある。",
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"text": "1877年、19世紀におけるアメリカの二大発明家でもあるグラハム・ベルが興したベル電話会社が前身であり、1885年に世界初の長距離電話会社として発足。社長となったセオドア・ニュートン・ヴェイルは、One System One Policy Universal Service を掲げ、垂直統合と水平統合により、「ベルシステム」と呼ばれる研究開発(ベル電話会社、以下ベル社)から機材製造(ウェスタン・エレクトリック)、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク経済学におけるボトルネック独占を見事に現実のものとした。翌年末にジョン・ハドソンがベル社の管理者となった。ジョンは1887年にAT&T の社長となった。1899年12月31日にベル社はAT&T に完全買収された。ジョンは1900年秋に事務所で急逝した。1901–1907年、フレデリック・フィッシュが社長を務めた。フィッシュは1890年からゼネラル・エレクトリックの支配人として活躍しており、ジョン・モルガンとも付き合いがあった。フィッシュの任期にAT&T はモルガンと人的・資本的関係を深めた。1906年、AT&T1億5000万ドルの転換社債を発行、負債が8倍以上となる。翌年4月にフィッシュ辞任、ヴェイルが復任する。この状態で1907年恐慌を迎えた。",
"title": "沿革"
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"text": "1909年にウエスタンユニオン株を買収。ここで政府が、大西洋横断電信ケーブルのカルテルによるシャーマン法違反でウェスタンユニオンに訴訟を提起すると圧力をかけた。ヴェイルがウェスタンユニオンをカルテルから引き離すと、カルテル参加企業であったAnglo-American Telegraph Companyとジョン・ペンダー系のDirect United States Cable Companyは立場が弱く、アメリカ市場を失うまいと自社保有の大西洋ケーブル通信網をウェスタンユニオンに貸与する羽目になった。AT&Tは1914年に株を売却した。結局は国内の電信企業がイギリスの通信利権を奪い取り独占力を強化した。",
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"text": "一方、AT&Tは連邦政府と折衝の上1913年にキングズベリー協定を結び、「規制下の独占」と言われる事業の独占権を認められた。こうして翌年勃発した第一次世界大戦で、RCAと真空管の特許を囲い込むことができた。",
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"text": "1925年、社長ウォルター・グリフォードがベル研究所を設立した。",
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"text": "1926年、子会社のアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーをRCAに売却した。しかもRCAはその放送事業にAT&Tの回線を使わなければならないという、表面上の義務協約を結んで恩恵にあずかった。子会社NBCを参照。",
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"text": "1934年、連邦通信委員会が発足。AT&Tは第二次世界大戦で軍需契約の総額におき全米13位であった。",
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"text": "1949年、司法省が反トラスト訴訟を提起しウェスタン・エレクトリックをAT&T系列から引き剥がしにかかった。",
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"text": "1956年、ウェスタン・エレクトリックの分離は結審により見送られた。しかし、機器製造はAT&T向け使用のみに限定された。AT&Tは所有特許の競合企業への非排他的なライセンス供与が義務づけられた他、事業分野は公衆通信サービスに限定された。",
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"text": "1962年、テルスター衛星を打ち上げた。これはトランシット (人工衛星)やインテルサットへのステップとなった。",
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"text": "1964年6月、コムサットが第1回の株式発行。総額2億ドル。1億ドル分が第1種株式として13万人の一般国民に売却された。残りの1億ドル分は第2種株式として連邦通信委員会の認可した163の通信事業者に購入された。AT&Tは総額2億ドル1000万株のうち29%を保有した。1972年に合衆国内の通信衛星市場が自由化され、翌年2月インテルサット恒久協定が発効して国際化が推進された。ここでAT&Tはコムサット株を売却してモノポリーを降板した。この1973年、米海軍の支援を受けたコムサットが86.29%を出資して、インテルサット衛星を多目的衛星とするためのマリサット計画をスタート。株主の2位、3位はそれぞれ8%のRCAと3.41%のウェスタン・ユニオン。このジョイントベンチャーは1977年8月に国際電信電話(現:KDDI)と契約、KDD山口衛星通信所が設立された。",
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"text": "1970年代、反独占訴訟United States v. AT&T Co. が起こり、独占問題は収束した。",
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"text": "1984年1月1日、AT&Tは基本的に長距離交換部門だけを持つ電話会社となり、それ以外の事業は会社分割された。これにより、地域電話部門は地域ベル電話会社8社へと分離された。また、ベル研究所も、AT&Tの機材製造・研究開発子会社、AT&Tテクノロジーズ(旧ウェスタン・エレクトリック)の傘下に置かれ、AT&T本体から分離された。合衆国の電話産業は市場競争へと開放され、特に長距離部門ではMCIやスプリントなどの大手長距離電話会社の成長を見ることになる。",
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"text": "1990年、地域ベル電話会社のひとつであるサウスウェスタン・ベルがカルロス・スリムなどとメキシコのテレメックスを買収した。",
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"text": "1990年代後半、AT&Tは大手ケーブル会社のTCI、メディアワンを相次いで買収、ケーブル施設を全国に保有し、その施設を通じた高速インターネット通信事業においても大手事業者となった。",
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"text": "1995年、サウスウェスタン・ベルが、「SBCコミュニケーションズ」に改名。1996年にパシフィック・テレシス、1997年にサザン・ニューイングランド・テレフォン、1999年にアメリテックを合併吸収して巨大化する。",
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"text": "1996年、AT&Tテクノロジーズがルーセント・テクノロジーズ(現:アルカテル・ルーセント)としてスピンオフ。1991年に買収後、一旦AT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズに改称したNCRも、1997年にNCRとして再度スピンオフした。",
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"text": "2001年の企業再構築により、旧TCIのメディア部門であったリバティメディアがスピンオフし、AT&Tは、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV & ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの四事業体制となる。このうちAT&Tワイヤレスは切り離され独立し、2001年から2004年まではNTTドコモが筆頭株主(16%)となるが、2004年にはSBCコミュニケーションズとベルサウスの合弁会社であるシンギュラー・ワイヤレスに買収されることになった。2002年には、AT&Tブロードバンドは、ケーブルテレビ事業大手のコムキャストに買収されて、AT&T本体に残るのは、昔からある長距離通信事業のみとなった。",
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"text": "2005年には、SBCコミュニケーションズにより、残っていたAT&T自体(AT&Tコーポレーション)が買収される。SBCは、ブランド名として価値の高いAT&Tを社名にすることにし、AT&T Inc.と改称した。買収されたAT&T Corp.は、新AT&Tの長距離通信事業を担当する子会社として残され、現在も存続している。",
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"text": "SBCコミュニケーションズは、1983年のAT&T分割でできた地域通信会社であり、経営陣の多くがAT&T出身ではあるが、子が親を買収するようなイメージの合併であった。従って、旧AT&Tの流れは、資本上はここで一度切れたと考えるべきである。SBCのAT&Tへの社名変更はSBCの経営陣がAT&Tの圧倒的なブランド力、認知度を利用するとともに、誇るべきNYSEにおける\"T\"の一文字ティッカーシンボルの伝統を消したくなかった、と言われている(参考:英語版)。AT&Tのロゴは買収後に若干変更された。",
"title": "沿革"
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"text": "2006年には、地域ベル電話会社のベルサウスを買収。ベルサウスとは携帯電話事業で合弁事業を行っており、共同出資会社シンギュラー・ワイヤレスは米国内でベライゾン・ワイヤレスやスプリント・ネクステル、T-モバイルを抑えトップシェアとなっていた。また、この合併で地域電話会社はAT&T、ベライゾン・コミュニケーションズ、クウェスト・コミュニケーションズ・インターナショナル(現センチュリーリンク)の3社に集約されることとなった。これによりAT&Tは、長距離データ通信、長距離電話、携帯電話、公衆無線LANサービス、米国本土のおよそ半分で地域電話サービスを提供する巨大通信事業者となった。",
"title": "沿革"
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"text": "2007年、シンギュラー・ワイヤレスをAT&Tモビリティに名称変更し、すべてのサービスをAT&Tのブランドに統一した。",
"title": "沿革"
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"text": "2007年12月3日、2008年度末までに公衆電話事業の完全撤退を発表した。",
"title": "沿革"
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"text": "2008年、ソフトウェアアーキテクチャシステム開発をアメリカ合衆国郵政公社から予算2000万ドルを上限に受注できたことを発表。",
"title": "沿革"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2011年3月20日、ドイツテレコムの米国携帯電話事業子会社であるT-Mobile USを390億ドルで買収することを発表。しかし、この買収計画は、司法省による反トラスト法違反での提訴につながり、結局、12月にAT&Tは、買収断念を発表した。",
"title": "沿革"
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"text": "2013年7月12日、リープ・ワイヤレスを1株当たり15ドルで買収することで合意 。",
"title": "沿革"
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"text": "2014年5月18日、ディレクTVを485億ドルで買収することで合意したと発表、2015年7月24日に買収を完了した。",
"title": "沿革"
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"text": "2015年3月6日、ダウ・ジョーンズは、ダウ工業株30種平均の構成銘柄からAT&Tを除外すると発表。同年3月18日の取引終了後に実施された。",
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"text": "2016年10月22日、メディア・コングロマリットのビッグ5の一角を占めるタイム・ワーナーを864億ドルで買収すると発表。",
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"text": "2017年11月20日、司法省はタイム・ワーナー買収が反トラスト法に反するとして、ワシントンDC連邦地方裁判所に提訴した。司法省反トラスト局長のマカン・デラヒムは、「本買収は消費者に多大な害を与える。視聴料の高騰、将来の消費者が享受するであろう新しいイノベーションを抑制することになる」とコメントした。",
"title": "沿革"
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"text": "2018年6月12日、ワシントンDC連邦地方裁判所がタイム・ワーナー買収を許可、6月14日にAT&Tは同社の買収を完了した。タイム・ワーナーはワーナーメディアに改称した。",
"title": "沿革"
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"text": "2021年5月17日、ワーナーメディアはスピンオフ制度を活用して、同業会社のディスカバリーと2022年頃を目処に経営統合することで3社間で合意したと発表し、2022年4月8日に「ワーナー・ブラザース・ディスカバリー」を設立した。これにより、ワーナーは約4年でAT&Tグループから離れることになった。",
"title": "沿革"
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"text": "AT&T Inc.は持株会社として存在し、個々の事業・地域ごとの事業は以下の事業子会社が担当している。",
"title": "組織"
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"text": "1900年代の中ごろから数学者のヨハン・イェンセンとアグナー・アーランはベル電話会社のデンマーク支社であったコペンハーゲン電話会社で技術者として働いていた。アーランは勤務中に効率的な電話サービスの提供に欠かせない通信トラヒック工学や待ち行列理論の基礎理論を構築した。",
"title": "他国展開"
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{
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"tag": "p",
"text": "日本においては、1985年に長距離国際サービスを主にした日本AT&T株式会社が設立された。1998年の日本IBMとの戦略的合意に基づき、1999年にAT&TジャパンLLC(2007年9月1日にAT&Tグローバル・ネットワーク・サービス・ジャパンLLCから社名変更)が設立された。なお、AT&TジャパンLLCは株式の15%をNTTコミュニケーションズが持ち、AT&T Inc.の100%子会社である日本AT&T株式会社と若干資本関係が異なる。",
"title": "他国展開"
},
{
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"text": "AT&TジャパンLLCはAT&Tの技術を日本に導入するとともに、企業向けネットワークのアウトソーシングサービスなどを行っている。技術力は高く、顧客層はかなり大企業に偏っている模様である。国際サービスはAT&Tのサービスを使い、国内サービスはNTTコミュニケーションズ、KDDI、日本テレコム、KVHテレコムなどの回線を調達しAT&Tがマネージメントとカスタマイズをして、顧客に提供するサービスをしている。複雑なネットワークであるほど、AT&Tの評価は高い。",
"title": "他国展開"
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"text": "2010年9月に、AT&Tジャパンのネットワークアウトソーシング事業をインターネットイニシアティブへ譲渡した。",
"title": "他国展開"
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"text": "また、かつて存在したAT&TのプロバイダーサービスはAT&Tと日本テレコムとの合弁会社JENSが運営していたが、AT&TがNTTコミュニケーションズと提携した後、合弁は解消、現在AT&Tとは無関係の会社になっている。しかし、ドメインとしてはatt.ne.jpがそのまま残っている。ブリティッシュテレコムとの合弁、コンサートジャパンも合弁解消、こちらはAT&Tに吸収合併されている。",
"title": "他国展開"
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"text": "日本電気(NEC)は、ベル電話会社(旧AT&T)の機材製造部門ウェスタン・エレクトリックと岩垂邦彦による日本初の外資との合弁企業であった。現在はAT&Tとの資本関係はない。",
"title": "他国展開"
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"text": "AT&Tではゴルフにも積極的である。PGAツアーでは2月のAT&Tペブルビーチナショナルプロアマ、5月のAT&Tバイロン・ネルソン選手権、チャンピオンズツアーでは10月のAT&T選手権(英語版)のタイトルスポンサーを持っている。またかつては6月から7月にかけて開催されているAT&Tナショナル、アトランタで開催されていたAT&Tクラシック(英語版)のスポンサーも務めていた。またAT&Tナショナルを主催するタイガー・ウッズ財団(英語版)の創設者タイガー・ウッズも2009年まで契約していた。",
"title": "スポンサー活動"
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{
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"text": "AT&TセンターとAT&Tスタジアムの命名権を保有している。また、かつてSBC時代の2000年から2018年まではAT&Tパークの命名権も保有していた。",
"title": "スポンサー活動"
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"text": "2012年からF1チームのレッドブルのスポンサーを務めている。過去スポンサーを務めていたチームの移り変わりは多くジャガー・レーシング、マクラーレン、ウィリアムズ、レッドブルと推移している。",
"title": "スポンサー活動"
}
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AT&T Inc.は、情報通信・メディア系を中心とするアメリカ合衆国の多国籍コングロマリットの持株会社。 本社はデラウェア州に登録されているが、実際にはテキサス州ダラスのダウンタウンにあるウィットクレア・タワーに置いている。 米国最大手の電話会社であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズとメディア企業のワーナーメディアを傘下に収めていた。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、インターネット接続、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、IP放送、衛星テレビ、ケーブルテレビ、テレビ番組の製作・配信、映画の製作・配給、出版、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。本社はテキサス州ダラスにある。
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{{出典の明記|date=2021年5月}}
{{Otheruseslist|アメリカ最大級の電話会社|かつての親会社で現在の子会社(AT&T Corp.)|AT&Tコーポレーション|略称で「AT&T」と呼ばれるかつてのイギリスの航空会社|エアクラフト・トランスポート・アンド・トラベル}}{{基礎情報 会社
| 社名 = AT&T Inc.
| ロゴ = [[File:AT&T logo 2016.svg|200px]]
| 画像 = file:AT&THQDallas.jpg
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[デラウェア州]][[株式会社]]
| 市場情報 = {{上場情報 | NYSE | T}}
| 略称 = ATT
| 国籍 = {{USA}}
| 郵便番号 =
| 本社所在地 = [[テキサス州]][[ダラス]]<br />{{coord|32|46|46|N|96|47|56|W|display=inline,title}}
| 設立 = {{Start date and age|1983}}
| 業種 = [[コングロマリット (ビジネス)|コングロマリット]]
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 無線、電話、インターネット、テレビ
| 代表者 = [[ウィリアム・ケナード]]<small>([[会長]])</small><br />[[ジョン・スタンキー]]<small>([[最高経営責任者|CEO]])</small>
| 資本金 =
| 売上高 = {{Decrease}} 1,717億6000万ドル<small>(2020年)</small><ref name="prelims">{{Cite web |title=Annual Report 2020 |url=https://investors.att.com/~/media/Files/A/ATT-IR/documents/t-2020-12-31-10k-as-filed.pdf |access-date=February 26, 2021 |publisher=AT&T}}</ref>
| 営業利益 = {{Decrease}} 64億1000万ドル<small>(2020年)</small><ref name=prelims/>
| 経常利益 =
| 純利益 = {{Decrease}} -51.8億ドル<small>(2020年)</small><ref name=prelims/>
| 純資産 = {{Decrease}} 179.2億4000万ドル<small>(2020年)</small><ref name=prelims/>
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| 主要株主 =
| 主要子会社 = AT&Tコミュニケーションズ<br />AT&Tラテンアメリカ<br />Xandr
| 関係する人物 =
| 外部リンク = [https://www.att.com/ att.com]{{en icon}}
| 特記事項 =
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = AT&TジャパンLLC
| 種類 = LLC(合同会社)
| 国籍 = 日本
| 本社所在地 = 105-0001東京都 港区 虎ノ門 2丁目10番地1号 虎ノ門ツインビルディング 6階
| 業種 = 通信業
| 外部リンク = https://www.corp.att.com/jp/
| 法人番号 = 6700150004567
}}
'''AT&T Inc.'''(エーティーアンドティー、''American Telephone & Telegraph Company''の略)は、情報通信・メディア系を中心とする[[アメリカ合衆国]]の多国籍[[コングロマリット]]の持株会社。 本社は[[デラウェア州]]に登録されているが、実際には[[テキサス州]][[ダラス]]の[[ダウンタウン・ダラス|ダウンタウン]]にあるウィットクレア・タワーに置いている。
米国最大手の[[電話]][[会社]]であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズと[[メディア・コングロマリット|メディア企業]]の[[ワーナーメディア]]を傘下に収めていた。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、[[インターネットサービスプロバイダ|インターネット接続]]、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、[[IP放送]]、[[衛星テレビ]]、[[ケーブルテレビ]]、[[テレビ番組]]の製作・配信、[[映画]]の製作・配給、[[出版]]、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。本社は[[テキサス州]][[ダラス]]にある。
== 沿革 ==
{{節スタブ}}
{{main|{{仮リンク|AT&Tの歴史|en|History of AT&T}}}}
[[1877年]]、[[19世紀]]におけるアメリカの二大発明家でもある[[アレクサンダー・グラハム・ベル|グラハム・ベル]]が興したベル電話会社が前身であり<ref name = Beikoku-kabu-shikohou>『米国株四季報』2019年春夏号(東洋経済新報社 2019年4月17日発刊) 188ページ</ref>、[[1885年]]に世界初の長距離電話会社として発足。社長となった[[:en:Theodore Newton Vail|セオドア・ニュートン・ヴェイル]]は、One System One Policy Universal Service を掲げ、[[垂直統合]]と[[水平統合]]により、「[[ベルシステム]]」と呼ばれる研究開発(ベル電話会社、以下ベル社)から機材製造([[ウェスタン・エレクトリック]])、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク経済学における[[ボトルネック独占]]を見事に現実のものとした。翌年末に[[:en:John Elbridge Hudson|ジョン・ハドソン]]がベル社の管理者となった。ジョンは1887年にAT&T の社長となった。1899年12月31日にベル社はAT&T に完全買収された。ジョンは1900年秋に事務所で急逝した。1901–1907年、[[:en:Frederick Perry Fish|フレデリック・フィッシュ]]が社長を務めた。フィッシュは1890年から[[ゼネラル・エレクトリック]]の支配人として活躍しており、[[ジョン・モルガン]]とも付き合いがあった。フィッシュの任期にAT&T はモルガンと人的・資本的関係を深めた。1906年、AT&T1億5000万ドルの[[転換社債]]を発行、負債が8倍以上となる。翌年4月にフィッシュ辞任、ヴェイルが復任する<ref>{{Cite |和書|author=山口一臣 |date=1992-10 |url=http://id.nii.ac.jp/1109/00001599/ |title=ベル・システムと独立電話会社の競争時代 : 1894-1906年 (橋本長四郎教授退任記念号) |journal=成城大學經濟研究 |ISSN=03874753 |publisher=成城大学経済学会 |volume=118 |pages=160-123 |id={{CRID|1050845762403499008}} |chapter="3.ベル・システムの競争戦略と電話料金引下げ競争の実態(1)(2)"}}</ref>。この状態で[[1907年恐慌]]を迎えた。
1909年に[[ウエスタンユニオン]]株を買収。ここで政府が、[[大西洋横断電信ケーブル]]のカルテルによる[[シャーマン法]]違反でウェスタンユニオンに訴訟を提起すると圧力をかけた。ヴェイルがウェスタンユニオンをカルテルから引き離すと、カルテル参加企業であった''[[:en:Atlantic Telegraph Company|Anglo-American Telegraph Company]]''と[[ケーブル・アンド・ワイヤレス|ジョン・ペンダー]]系の''[[:en:Pender v Lushington#Facts|Direct United States Cable Company]]''は立場が弱く、アメリカ市場を失うまいと自社保有の大西洋ケーブル通信網をウェスタンユニオンに貸与する羽目になった。AT&Tは1914年に株を売却した。結局は国内の電信企業がイギリスの通信利権を奪い取り独占力を強化した。
一方、AT&Tは連邦政府と折衝の上1913年にキングズベリー協定を結び、「規制下の独占」と言われる事業の独占権を認められた。こうして翌年勃発した[[第一次世界大戦]]で、[[RCA]]と[[真空管]]の特許を囲い込むことができた。
1925年、社長ウォルター・グリフォードが[[ベル研究所]]を設立した。
1926年、子会社の[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー]]をRCAに売却した。しかもRCAはその放送事業にAT&Tの回線を使わなければならないという、表面上の義務協約を結んで恩恵にあずかった。子会社[[NBC]]を参照。
1934年、[[連邦通信委員会]]が発足。AT&Tは[[第二次世界大戦]]で軍需契約の総額におき全米13位であった。
1949年、司法省が反トラスト訴訟を提起しウェスタン・エレクトリックをAT&T系列から引き剥がしにかかった。
1956年、ウェスタン・エレクトリックの分離は結審により見送られた。しかし、機器製造はAT&T向け使用のみに限定された。AT&Tは所有特許の競合企業への非排他的なライセンス供与が義務づけられた他、事業分野は公衆通信サービスに限定された。
1962年、[[テルスター衛星]]を打ち上げた。これは[[トランシット (人工衛星)]]や[[インテルサット]]へのステップとなった。
1964年6月、コムサットが第1回の株式発行。総額2億ドル。1億ドル分が第1種株式として13万人の一般国民に売却された。残りの1億ドル分は第2種株式として連邦通信委員会の認可した163の通信事業者に購入された。AT&Tは総額2億ドル1000万株のうち29%を保有した。1972年に合衆国内の通信衛星市場が自由化され、翌年2月[[インテルサット]]恒久協定が発効して国際化が推進された。ここでAT&Tはコムサット株を売却してモノポリーを降板した。この1973年、米海軍の支援を受けたコムサットが86.29%を出資して、インテルサット衛星を多目的衛星とするための[[:en:Marisat|マリサット]]計画をスタート。株主の2位、3位はそれぞれ8%のRCAと3.41%のウェスタン・ユニオン。このジョイントベンチャーは1977年8月に[[国際電信電話]](現:[[KDDI]])と契約、[[KDDI山口衛星通信センター|KDD山口衛星通信所]]が設立された<ref>国際衛星通信協会 神谷直亮 『米コムサット社の奇跡』 1989年7月 3・4・6章</ref>。
[[1970年代]]、反独占訴訟''[[:en:United States v. AT&T Co.|United States v. AT&T Co.]]'' が起こり、独占問題は収束した<ref>{{Cite journal|和書|author=志田玲子, 白川一郎 |date=2000-09 |url=http://www.ps.ritsumei.ac.jp/assoc/policy_science/081/081_08_shida.pdf |format=PDF |title=米国通信市場における規制改革:規制産業から競争産業への転換 |journal=政策科学 |ISSN=09194851 |publisher=立命館大学政策科学会 |volume=8 |issue=1 |pages=99-115 |id={{CRID|1520009408741012736}}}}
{{404|date=2023-05}})紛争経緯を概観するには表2が早い。連邦通信委員会が何度もテコ入れした最後の1996年に電気通信法が制定されてルーセント・テクノロジーが誕生している。</ref>。
[[1984年]][[1月1日]]、AT&Tは基本的に長距離交換部門だけを持つ電話会社となり、それ以外の事業は会社分割された{{要出典|date=2021-05}}。これにより、地域電話部門は[[地域ベル電話会社]]8社<ref group="注釈">[[アメリテック]]、[[ベル・アトランティック]]、[[ベルサウス]]、[[ナイネックス]]、[[パシフィック・テレシス]]、[[サウスウェスタン・ベル]]、[[USウエスト]]。通称ベビーベル(Baby Bells)。</ref>へと分離された。また、ベル研究所も、AT&Tの機材製造・研究開発子会社、AT&Tテクノロジーズ(旧[[ウェスタン・エレクトリック]])の傘下に置かれ、AT&T本体から分離された。合衆国の電話産業は市場競争へと開放され、特に長距離部門では[[MCI (電気通信事業者)|MCI]]や[[スプリント (企業)|スプリント]]などの大手長距離電話会社の成長を見ることになる。
1990年、地域ベル電話会社のひとつであるサウスウェスタン・ベルが[[カルロス・スリム]]などとメキシコのテレメックスを買収した。
[[1990年代]]後半、AT&Tは大手[[ケーブルテレビ|ケーブル会社]]の[[テレコミュニケーションズ|TCI]]、[[メディアワン]]を相次いで買収、ケーブル施設を全国に保有し、その施設を通じた高速インターネット通信事業においても大手事業者となった。
[[1995年]]、サウスウェスタン・ベルが、「SBCコミュニケーションズ」に改名。[[1996年]]にパシフィック・テレシス、[[1997年]]にサザン・ニューイングランド・テレフォン、[[1999年]]にアメリテックを合併吸収して巨大化する。
[[1996年]]、AT&Tテクノロジーズが[[ルーセント・テクノロジーズ]](現:[[アルカテル・ルーセント]])としてスピンオフ。1991年に買収後、一旦AT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズに改称した[[NCR (企業)|NCR]]も、1997年にNCRとして再度スピンオフした。
[[2001年]]の企業再構築により、旧TCIのメディア部門であった[[リバティメディア]]がスピンオフし、AT&Tは、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV & ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの四事業体制となる。このうちAT&Tワイヤレスは切り離され独立し、2001年から[[2004年]]までは[[NTTドコモ]]が筆頭株主(16%)となるが、2004年にはSBCコミュニケーションズとベルサウスの合弁会社である[[シンギュラー・ワイヤレス]]に買収されることになった。[[2002年]]には、AT&Tブロードバンドは、ケーブルテレビ事業大手の[[コムキャスト]]に買収されて、AT&T本体に残るのは、昔からある長距離通信事業のみとなった。
[[2005年]]には、SBCコミュニケーションズにより、残っていたAT&T自体([[AT&Tコーポレーション]])が買収される。SBCは、ブランド名として価値の高いAT&Tを社名にすることにし、AT&T Inc.と改称した。買収されたAT&T Corp.は、新AT&Tの長距離通信事業を担当する子会社として残され、現在も存続している。
SBCコミュニケーションズは、1983年のAT&T分割でできた地域通信会社であり、経営陣の多くがAT&T出身ではあるが、子が親を買収するようなイメージの合併であった。従って、旧AT&Tの流れは、資本上はここで一度切れたと考えるべきである。SBCのAT&Tへの社名変更はSBCの経営陣がAT&Tの圧倒的なブランド力、認知度を利用するとともに、誇るべき[[NYSE]]における"T"の一文字[[ティッカーシンボル]]の伝統を消したくなかった、と言われている(参考:[[w:AT&T|英語版]])。AT&Tのロゴは買収後に若干変更された。
{{AT&T chart}}
[[2006年]]には、地域ベル電話会社のベルサウスを買収。ベルサウスとは[[携帯電話]]事業で合弁事業を行っており、共同出資会社シンギュラー・ワイヤレスは米国内で[[ベライゾン・ワイヤレス]]や[[スプリント・ネクステル]]、[[T-モバイル]]を抑えトップシェアとなっていた。また、この合併で地域電話会社はAT&T、ベライゾン・コミュニケーションズ、クウェスト・コミュニケーションズ・インターナショナル(現センチュリーリンク)の3社に集約されることとなった。これによりAT&Tは、長距離データ通信、長距離電話、携帯電話、公衆無線LANサービス、米国本土のおよそ半分で地域電話サービス<ref group="注釈">インターネット接続サービス、[[IP放送|IPTV]]・ビデオサービスを含む。</ref>を提供する巨大通信事業者となった。
2007年、シンギュラー・ワイヤレスを[[AT&Tモビリティ]]に名称変更し、すべてのサービスをAT&Tのブランドに統一した。
[[2007年]][[12月3日]]、[[2008年]]度末までに[[公衆電話]]事業の完全撤退を発表した<ref>[https://japan.cnet.com/article/20362401/ AT&T、公衆電話事業から撤退へ--原因は携帯電話の普及]</ref>。
[[2008年]]、[[ソフトウェアアーキテクチャ]]システム開発を[[アメリカ合衆国郵政公社]]から予算2000万ドルを上限に受注できたことを発表。
[[2011年]][[3月20日]]、ドイツテレコムの米国携帯電話事業子会社である[[T-Mobile US]]を390億ドルで買収することを発表。しかし、この買収計画は、司法省による[[反トラスト法]]違反での提訴につながり、結局、12月にAT&Tは、買収断念を発表した<ref>{{cite web|url=https://www.att.com/gen/press-room?pid=22146&cdvn=news&newsarticleid=33560&mapcode=corporate\|title=AT&T Ends Bid To Add Network Capacity Through T-Mobile USA Purchase|author=AT&T|date=2011-12-19|accessdate=2011-12-20}}</ref>。
[[2013年]]7月12日、[[:en:Leap Wireless|リープ・ワイヤレス]]を1株当たり15ドルで買収することで合意
<ref>{{cite news |language = | author =| url =https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1307/14/news005.html| title =AT&T、Leap Wireless買収でLTE向け周波数帯獲得へ
| publisher =| date= 2013-7-14| accessdate =2013-7-15}}</ref>。
2014年5月18日、[[ディレクTV]]を485億ドルで買収することで合意したと発表<ref>{{cite news | title = AT&TがディレクTV買収 4.9兆円、ネット活用に活路
| url = https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM19010_Z10C14A5EAF000/
| publisher = 日本経済新聞 | date = 2014-05-19 | accessdate = 2014-6-28}}</ref>、[[2015年]]7月24日に買収を完了した<ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.reuters.com/article/2015/07/24/at-t-directv-fcc-idJPKCN0PY2I420150724|title=米当局、AT&TのディレクTV買収を承認| publisher = ロイター|date =2015-07-25|accessdate =2015-7-26}}</ref>。
2015年3月6日、[[ダウ・ジョーンズ]]は、ダウ工業株30種平均の構成銘柄からAT&Tを除外すると発表。同年3月18日の取引終了後に実施された<ref>{{Cite web|和書|date= 2015-03-09|url= https://xtech.nikkei.com/it/atcl/news/15/030900834/|title= Appleがダウ工業株平均の銘柄に、AT&Tを除外|publisher= 日経XTECH|accessdate=2018-06-25}}</ref>。
2016年10月22日、メディア・コングロマリットのビッグ5の一角を占めるタイム・ワーナーを864億ドルで買収すると発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2016102300021&g=int|title=米AT&T、タイム・ワーナー買収=8.8兆円-通信とメディア融合|accessdate=2020-05-14|publisher=時事通信|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170302064742/http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102300021&g=int|archivedate=2017-03-02}}</ref>。
2017年11月20日、司法省はタイム・ワーナー買収が反トラスト法に反するとして、[[:en:United States District Court for the District of Columbia|ワシントンDC連邦地方裁判所]]に提訴した<ref name = Beikoku-kabu-shikohou/>。司法省反トラスト局長の[[:en:Makan Delrahim|マカン・デラヒム]]は、「本買収は消費者に多大な害を与える。視聴料の高騰、将来の消費者が享受するであろう新しいイノベーションを抑制することになる」とコメントした<ref>[https://www.washingtonpost.com/news/the-switch/wp/2017/11/20/the-justice-department-just-sued-att-to-block-its-85-billion-bid-for-time-warner/?utm_term=.7d28bb0385b3 The Justice Department is suing AT&T to block its $85 billion bid for Time Warner] Washington Post 2017年11月20日</ref>。
2018年6月12日、ワシントンDC連邦地方裁判所がタイム・ワーナー買収を許可、6月14日にAT&Tは同社の買収を完了した<ref name = Beikoku-kabu-shikohou/>。タイム・ワーナーは[[ワーナーメディア]]に改称した。
2021年5月17日、ワーナーメディアは[[会社分割|スピンオフ]]制度を活用して、同業会社の[[ディスカバリー (会社)|ディスカバリー]]と2022年頃を目処に経営統合することで3社間で合意したと発表し、2022年4月8日に「[[ワーナー・ブラザース・ディスカバリー]]」を設立した<ref>{{Cite web|和書|title=AT&Tがメディア事業スピンオフ、ディスカバリーと資産統合へ|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2021-05-17/QT90VYT0G1L501|website=Bloomberg.com|accessdate=2021-05-22|date=2021-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米メディア大手2社統合へ ワーナーとディスカバリー|url=https://web.archive.org/web/20210517123724/https://this.kiji.is/767003237714804736|website=共同通信|date=2021-05-17|accessdate=2021-05-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=米CNNテレビ、有料配信終了へ 開始後わずか1カ月 |url=https://web.archive.org/web/20220423004207/https://nordot.app/890110309984550912?c=39546741839462401 |website=共同通信 |date=2022-04-22 |access-date=2022-04-26}}</ref>。これにより、ワーナーは約4年でAT&Tグループから離れることになった<ref>{{Cite web|和書|title=AT&Tが「ワーナーメディア」切り離し、ディスカバリーと統合…ネットフリックスなどに対抗|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210517-OYT1T50160/|website=読売新聞|date=2021-05-17|accessdate=2021-05-22}}</ref>。
== 組織 ==
AT&T Inc.は持株会社として存在し、個々の事業・地域ごとの事業は以下の事業子会社が担当している。
* サウスウェスタン・ベル・テレフォン・カンパニー
* AT&Tテレホールディングス
** イリノイ・ベル
** インディアナ・ベル
** ミシガン・ベル
** オハイオ・ベル
** ウィスコンシン・ベル
* [[AT&Tコーポレーション]]
** AT&Tアラスコム
* ベルサウス
** ベルサウス・テレコミュニケーションズ
* AT&Tコミュニケーションズ
** [[AT&Tモビリティ]]
** クリケット・ワイヤレス
** [[ディレクTV]]
== 他国展開 ==
=== デンマーク ===
1900年代の中ごろから数学者の[[ヨハン・イェンセン]]と[[アグナー・アーラン]]はベル電話会社の[[デンマーク]]支社であったコペンハーゲン電話会社で技術者として働いていた。アーランは勤務中に効率的な電話サービスの提供に欠かせない[[通信トラヒック工学]]や[[待ち行列理論]]の基礎理論を構築した。
=== 日本 ===
[[日本]]においては、1985年に長距離国際サービスを主にした日本AT&T株式会社が設立された。1998年の[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]との戦略的合意に基づき、1999年にAT&TジャパンLLC(2007年9月1日にAT&Tグローバル・ネットワーク・サービス・ジャパンLLCから社名変更)が設立された。なお、AT&TジャパンLLCは株式の15%をNTTコミュニケーションズが持ち、AT&T Inc.の100%子会社である日本AT&T株式会社と若干資本関係が異なる。
AT&TジャパンLLCはAT&Tの技術を日本に導入するとともに、企業向けネットワークのアウトソーシングサービスなどを行っている。技術力は高く、顧客層はかなり大企業に偏っている模様である。国際サービスはAT&Tのサービスを使い、国内サービスは[[NTTコミュニケーションズ]]、[[KDDI]]、[[日本テレコム]]、[[KVHテレコム]]などの回線を調達しAT&Tがマネージメントとカスタマイズをして、顧客に提供するサービスをしている。複雑なネットワークであるほど、AT&Tの評価は高い。
2010年9月に、AT&Tジャパンのネットワークアウトソーシング事業を[[インターネットイニシアティブ]]へ譲渡した。
また、かつて存在したAT&TのプロバイダーサービスはAT&Tと[[日本テレコム]]との合弁会社[[JENS]]が運営していたが、AT&Tが[[NTTコミュニケーションズ]]と提携した後、合弁は解消、現在AT&Tとは無関係の会社になっている。しかし、ドメインとしてはatt.ne.jpがそのまま残っている。[[BTグループ|ブリティッシュテレコム]]との合弁、コンサートジャパンも合弁解消、こちらはAT&Tに吸収合併されている。
[[日本電気]](NEC)は、ベル電話会社(旧AT&T)の機材製造部門[[ウェスタン・エレクトリック]]と[[岩垂邦彦]]による日本初の外資との合弁企業であった。現在はAT&Tとの資本関係はない。
== スポンサー活動 ==
=== ゴルフ ===
AT&Tではゴルフにも積極的である。[[PGAツアー]]では2月の[[AT&Tペブルビーチナショナルプロアマ]]、5月の[[バイロン・ネルソン選手権|AT&Tバイロン・ネルソン選手権]]、[[チャンピオンズツアー]]では10月の{{仮リンク|AT&T選手権|en|AT&T Championship}}のタイトルスポンサーを持っている。またかつては6月から7月にかけて開催されている[[クイックン・ローンズ・ナショナル|AT&Tナショナル]]、アトランタで開催されていた{{仮リンク|AT&Tクラシック|en|AT&T Classic}}のスポンサーも務めていた。またAT&Tナショナルを主催する{{仮リンク|タイガー・ウッズ財団|en|Tiger Woods Foundation}}の創設者[[タイガー・ウッズ]]も2009年まで契約していた。
=== ネーミングライツ ===
[[AT&Tセンター]]と[[AT&Tスタジアム]]の[[命名権]]を保有している。また、かつてSBC時代の2000年から2018年までは[[オラクル・パーク|AT&Tパーク]]の命名権も保有していた。
=== F1 ===
2012年から[[フォーミュラ1|F1]]チームの[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]の[[スポンサー]]を務めている<ref>{{cite news|title=ウィリアムズの元メインスポンサー、レッドブルと契約へ|url=http://www.topnews.jp/2012/05/31/news/f1/f1teams/redbull/60055.html|publisher=TopNews|date=2012年5月31日|accessdate=2013年9月24日}}</ref>。過去スポンサーを務めていたチームの移り変わりは多く[[ジャガー・レーシング]]、[[マクラーレン]]、[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]、レッドブルと推移している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:AT&T}}
* [[シンギュラー・ワイヤレス]]
* [[アレクサンダー・グラハム・ベル]]
* [[反トラスト法]]
* [[サンアントニオ・スパーズ]]
* [[AT&Tセンター]]
* [[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]
* [[オラクル・パーク|オラクル・パーク(旧AT&Tパーク)]]
* [[ダラス・カウボーイズ]]
* [[カウボーイズ・スタジアム|AT&Tスタジアム]]
* [[AT&T・コーポレートセンター]]
* [[アメリカ合衆国における携帯電話]]
* [[アルビン・トフラー]]
* [[NCR (企業)|NCRコーポレーション(旧ナショナル金銭機械会社)]]
** [[日本NCR]]
* [[HAW-1]]
* [[アメリカ合衆国郵便公社]] - [[2008年]]に[[ソフトウェアアーキテクチャ]]システム開発の予算2000万ドルを上限に受注した。
* [[スピリット・オブ・コミュニケーション]]
* [[パシフィック・サウスウエスト航空1771便墜落事故]] - 1987年に発生した[[ハイジャック]]による航空機事故。当該機には同社の前身で[[地域ベル電話会社]]の一つであるパシフィック・テレシス社の幹部が3名搭乗しており、その全員が死去した。この事件を教訓に、大企業の多くは幹部が複数移動する際、同じ目的地でも別の便に搭乗する方針を採っている。
== 外部リンク ==
* [https://www.att.com/ AT&T]{{en icon}}
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* [https://www.corp.att.com/jp/ AT&Tジャパン]{{ja icon}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/AT%26T
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侯爵
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侯爵(こうしゃく)は、近代日本や中国で用いられた爵位(五爵)の第2位。公爵の下位、伯爵の上位に相当する。。ヨーロッパ諸国の貴族の称号の日本語訳に使われる。英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位のFürstの訳語に充てられる。公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。
1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層の大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。
侯爵は公爵に次ぐ第二位であり、叙爵内規では侯爵の叙爵基準について「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定めていた。侯爵家の数は1884年時点では24家(華族家の総数509家)、1895年には34家(同643家)、1916年時に38家(同933家)、1928年時には40家(954家)、1947年時には38家(889家)だった。
1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員と勅任議員がある)、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の貴族院議員となった。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった。そうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、黒田長成侯爵、佐佐木行忠侯爵、細川護立侯爵など代表的な貴族院政治家として活躍した侯爵もいる。また歴代貴族院議長は伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが、公侯爵は長年各派に分散していた。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより侯爵位を含めた華族制度は廃止された。
叙爵内規により侯爵の叙爵基準は「旧清華家 徳川旧三家 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧琉球藩王 国家二勲功アル者」と定められていた。具体的には以下の家が叙された。
家名については後年1947年(昭和22年)の皇籍離脱によって本家筋の家の家名が同名となってしまった家についてのみ、混同を避けるため「○○侯爵家」と表記した。
日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した。ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵位だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった。
朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた。
朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち侯爵に叙されたのは次の6名である。興宣大院君の甥で宮内府内大臣や陸軍副将、漢城銀行長などを歴任した李載完、駐日大使や韓国赤十字社総裁などを歴任した李載覚、中枢院議官だった李海昌、李王家の連枝で侍講院侍従官を務めた最年少の李海昇、純宗妃の父で侍講院侍従官、英親王府総弁、陸軍副将を歴任した尹沢栄、そして朴泳孝である。日本でもっとも著名なのは朴泳孝である。彼は血筋がよく妻が25代国王哲宗の娘であることで政治の中枢に入り、金玉均とともに「開化派」として日本に倣った朝鮮近代化を推進し、金弘集内閣や李完用内閣など親日政権の内部大臣や宮内大臣を務めた。併合後も朝鮮貴族会会長、朝鮮総督府中枢院副議長、貴族院勅選議員などを歴任したため日本で著名になった。また日韓併合時の韓国首相である李完用は伯爵から侯爵に陞爵した。
イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年 - 1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年 - 1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった。
侯爵(marquess)は、男爵(baron)、伯爵(earl)、公爵(duke)についで創設された爵位である。1385年に第9代オックスフォード伯爵ロバート・ド・ヴィアーがダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのがその最初の事例である。
侯爵から男爵までの貴族への敬称は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord ○○)」とする(公爵は「Duke of ○○」)。例えばウィンチェスター侯の「ウィンチェスター」は姓ではなく爵位名で、家名は「ポーレット」である。したがって「ウィンチェスター卿」とは呼ぶが、「ポーレット卿」とはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、欧州貴族は複数の爵位を所持することが多く、中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は父の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する。侯爵の息子は全員がLord(卿、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。
有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない。
アナンデール侯爵、アントリム侯爵、イーリー島侯爵、ウィリングドン侯爵、ウェストミース侯爵(英語版)、ウェルズリー侯爵、ウォートン侯爵、オーモンド侯爵、オールトン侯爵、カーゾン侯爵、カーナーヴォン侯爵、カーマーゼン侯爵、カリスブルック侯爵(英語版)、キャザーロー侯爵、クランリカード侯爵(英語版)、クリーヴランド公爵、クルー侯爵、クレア侯爵、ケンブリッジ侯爵、グレイ侯爵、コーンウォリス侯爵、シャンドス侯爵、トモンド侯爵、ダファリン=エヴァ侯爵、ダブリン侯爵、ダルハウジー侯爵、ダンガノン侯爵、ティッチフィールド侯爵、ドーセット侯爵(英語版)、ドーチェスター侯爵(英語版)、ドロヘダ侯爵、ニューカッスル=アポン=タイン侯爵、バークハムステッド侯爵、バークレー侯爵(英語版)、バッキンガム侯爵、ハミルトン侯爵(英語版)、ハリファックス侯爵(英語版)、ビバリー侯爵、ブラックリー侯爵、ブリーダルベイン侯爵(英語版)、ヘイスティングズ侯爵、ペンブルック侯爵(英語版)、ポーイス侯爵、マームズベリー侯爵、モンザーマー侯爵、モンタギュー侯爵(英語版)、リポン侯爵、リンカンシャー侯爵、ロッキンガム侯爵
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(卿)の6階級があり、侯爵は公爵に次ぐ爵位である。侯爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる。
侯爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。
歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
2018年時点においてスペインの侯爵位は1397個存在しており、うち153個がグランデの格式を伴う侯爵位である。有名な物には南米アステカを征服したエルナン・コルテスの子孫が保有するバジェ・デ・オアハカ侯爵、総統フランシスコ・フランコの子孫が保有するビリャベルデ侯爵、現当主がファッションデザイナーのアガタ・ルイス・デ・ラ・プラダ(スペイン語版)であるカステルドスリウス侯爵(スペイン語版)、現当主が国民党所属のスペイン下院議員カイエターナ・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)であるカサ・フエルテ侯爵(スペイン語版)などがある。すでに廃絶した侯爵位だが画家サルバドール・ダリもダリ・デ・プブル侯爵(スペイン語版)に叙位されていた。
カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも41個の侯爵位が存在した。
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制禄爵、公侯伯子男凡五等」とあり、「侯」は五つある爵の上から二番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、侯は領地を賜るものとしている。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「侯」の爵位は存在しなかったが、列侯や関内侯が置かれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、侯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら千六百戸、七十里四方の土地、次国なら千四百戸、六十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋でも爵位制度は存続し、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。
咸熙元年の五等爵制発足時には、三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬駿も「侯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後は諸侯王となった。
太康の役の論功行賞として、杜預、王濬、唐彬、王戎といった軍事司令官や、呉討伐を勧めた張華が侯の爵を受けている。これらの戦役の功労者には、規定を超えた食邑も与えられた。張華には一万戸、杜預には九千六百戸の食邑が下されている。また羊祜は武帝受禅の際に子から侯に進められている。他には西晋滅亡時の太尉王衍も侯(武陵侯)であった。
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"text": "侯爵(こうしゃく)は、近代日本や中国で用いられた爵位(五爵)の第2位。公爵の下位、伯爵の上位に相当する。。ヨーロッパ諸国の貴族の称号の日本語訳に使われる。英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位のFürstの訳語に充てられる。公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。",
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"text": "2018年時点においてスペインの侯爵位は1397個存在しており、うち153個がグランデの格式を伴う侯爵位である。有名な物には南米アステカを征服したエルナン・コルテスの子孫が保有するバジェ・デ・オアハカ侯爵、総統フランシスコ・フランコの子孫が保有するビリャベルデ侯爵、現当主がファッションデザイナーのアガタ・ルイス・デ・ラ・プラダ(スペイン語版)であるカステルドスリウス侯爵(スペイン語版)、現当主が国民党所属のスペイン下院議員カイエターナ・アルバレス・デ・トレド(スペイン語版)であるカサ・フエルテ侯爵(スペイン語版)などがある。すでに廃絶した侯爵位だが画家サルバドール・ダリもダリ・デ・プブル侯爵(スペイン語版)に叙位されていた。",
"title": "スペインの侯爵"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも41個の侯爵位が存在した。",
"title": "スペインの侯爵"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制禄爵、公侯伯子男凡五等」とあり、「侯」は五つある爵の上から二番目に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、侯は領地を賜るものとしている。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。",
"title": "中国の侯爵"
},
{
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"text": "漢代においては二十等爵制が敷かれ、「侯」の爵位は存在しなかったが、列侯や関内侯が置かれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、侯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は大国なら千六百戸、七十里四方の土地、次国なら千四百戸、六十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋でも爵位制度は存続し、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている。",
"title": "中国の侯爵"
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"text": "南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。",
"title": "中国の侯爵"
},
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"text": "咸熙元年の五等爵制発足時には、三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬駿も「侯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後は諸侯王となった。",
"title": "中国の侯爵"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "太康の役の論功行賞として、杜預、王濬、唐彬、王戎といった軍事司令官や、呉討伐を勧めた張華が侯の爵を受けている。これらの戦役の功労者には、規定を超えた食邑も与えられた。張華には一万戸、杜預には九千六百戸の食邑が下されている。また羊祜は武帝受禅の際に子から侯に進められている。他には西晋滅亡時の太尉王衍も侯(武陵侯)であった。",
"title": "中国の侯爵"
}
] |
侯爵(こうしゃく)は、近代日本や中国で用いられた爵位(五爵)の第2位。公爵の下位、伯爵の上位に相当する。。ヨーロッパ諸国の貴族の称号の日本語訳に使われる。英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位のFürstの訳語に充てられる。公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。
|
'''侯爵'''(こうしゃく)は、近代[[日本]]や[[中国]]で用いられた[[爵位]](五爵)の第2位。[[公爵]]の下位、[[伯爵]]の上位に相当する。<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])942頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]])849頁参照。</ref>。[[ヨーロッパ]]諸国の貴族の称号の[[日本語]]訳に使われる。英語で{{lang|en|marquess}}または{{lang|en|marquis}}と呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位の{{lang|de|Fürst}}の訳語に充てられる。[[公爵]]と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。
== 日本の侯爵 ==
=== 華族の侯爵家 ===
[[1869年]](明治2年)[[6月17日]]の行政官達543号において[[公家]]と武家の最上層の[[大名家]]を「[[皇室]]の藩屏」として統合した[[華族]]身分が誕生した{{sfn|小田部雄次|2006|p=13}}。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の[[尾崎三良]]と同少書記官の[[桜井能監]]が[[1878年]](明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。
[[1884年]](明治17年)5月頃に賞勲局総裁[[柳原前光]]らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ{{sfn|浅見雅男|1994|p=71-76}}、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり{{sfn|小田部雄次|2006|p=26}}、同年[[7月7日]]に発せられた[[華族令]]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。
侯爵は公爵に次ぐ第二位であり、叙爵内規では侯爵の叙爵基準について「旧[[清華家]] [[徳川御三家|徳川旧三家]] 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧[[琉球王|琉球藩王]] 国家二勲功アル者」と定めていた{{sfn|百瀬孝|1990|p242}}。侯爵家の数は1884年時点では24家(華族家の総数509家)、1895年には34家(同643家)、1916年時に38家(同933家)、1928年時には40家(954家)、1947年時には38家(889家)だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。
[[1889年]](明治22年)の[[貴族院令]]([[勅令]]第11号)により貴族院議員の種別として[[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]]が設けられ(ほかに[[皇族議員]]と[[貴族院 (日本)#勅任議員|勅任議員]]がある){{sfn|百瀬孝|1990|p=37}}、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった{{sfn|内藤一成|2008|p=15}}。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の貴族院議員となった{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。そうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた{{sfn|百瀬孝|1990|p38}}{{sfn|内藤一成|2008|p=15}}。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、[[黒田長成]]侯爵、[[佐佐木行忠]]侯爵、[[細川護立]]侯爵など代表的な貴族院政治家として活躍した侯爵もいる{{sfn|内藤一成|2008|p=15/26/34}}。また歴代[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]は[[伊藤博文]]伯爵と[[松平頼寿]]伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった{{sfn|内藤一成|2008|p=42}}。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}、公侯爵は長年各派に分散していた{{sfn|原口大輔|2018|p=206}}。しかし[[1927年]](昭和2年)には[[近衛文麿]]公爵の主導で「[[火曜会]]」という公侯爵議員による院内会派が形成された{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで[[子爵]]を中心とする院内最大会派の[[研究会 (貴族院)|研究会]]を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、[[徳川家達]]公爵、[[木戸幸一]]侯爵、[[細川護立]]侯爵、[[広幡忠隆]]侯爵などが賛同して協力していた{{sfn|原口大輔|2018|p=206-207}}。
[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより侯爵位を含めた華族制度は廃止された。
====叙爵内規====
叙爵内規により侯爵の叙爵基準は「旧[[清華家]] [[徳川御三家|徳川旧三家]] 旧大藩知事即チ現米拾五万石以上 旧[[琉球王|琉球藩王]] 国家二勲功アル者」と定められていた{{sfn|百瀬孝|1990|p242}}。具体的には以下の家が叙された。
# [[皇族]] - 当初、臣籍降下した皇族には[[伯爵]]が与えられ、後に降下の制度そのものが一時消失した。[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]増補以降、[[臣籍降下]]の際に原則として侯爵が授爵された。しかしこの事例は僅か3家に留まった。後に「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」を制定することによって臣籍降下を促すようになってからは、降下前に属していた宮家からまだ侯爵家が設立されていない場合(原則として最初の降下)であれば侯爵、それ以外は[[伯爵]]が授爵された。[[終戦]]までに[[華族]]となった旧皇族16家のうち7家が侯爵を授けられている。
# 旧[[公家]] - 旧[[清華家]]。旧清華家は9家存在したが、そのうち[[三条家]]は[[公爵]]となり、[[西園寺家]]と[[徳大寺家]]も後に陞爵した。なので残りの[[大炊御門家]]、[[花山院家]]、[[菊亭家]]、[[久我家]]、[[醍醐家]]、[[広幡家]]の6家が侯爵家だった。また[[中山家]]([[明治天皇]]の[[外戚]])は[[清華家]]には含まれないが、その功績が加味されて侯爵を与えられた。後に維新時の功績を認められた[[嵯峨家]](正親町三条家)、[[中御門家]]および多年の軍功を認められた[[四条家]]が伯爵から陞爵し、最終的には旧公家からの侯爵家は合計10家だった。なお叙爵内規の前の案(「叙爵基準」)では[[大臣家]]も侯爵に含めていたが、大臣家は官職昇進状況が明らかに清華家のそれより平堂上のそれに近いため(平堂上も大臣を出せないわけではなかった)、最終案からは大臣家は除かれたものと考えられる{{sfn|浅見雅男|1994|p=76-80}}。しかし大臣家の[[嵯峨実愛]]は大臣家を平堂上と同じ伯爵にするとは何事と強く反発し、侯爵位を要求した{{sfn|浅見雅男|1994|p=171}}。これによって大臣家の扱いが変更されることはなかったのだが、嵯峨家については伯爵になってから3年半という比較的短期間で実愛の功績によって侯爵陞爵となった{{sfn|浅見雅男|1994|p=199}}。
# 旧[[大名家]] - 旧[[御三家]]及び旧大藩知事(現米15万石以上)。15万石以上の基準は[[表高]]や[[内高]]といった米穀の生産量ではなく、税収を差す現米(現高)である点に注意を要する{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88/111}}。明治2年(1869年)2月15日に行政官が「今般、領地歳入の分御取調に付、元治元甲子より明治元戊辰迄五ヶ年平均致し(略)四月限り弁事へ差し出すべき旨、仰せいだされ候事」という沙汰を出しており、これにより各藩は元治元年(1864年)から明治元年(1868年)の5年間の平均租税収入を政府に申告した。その申告に基づき明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩・5万石以上を中藩・それ未満を小藩に分類した。それのことを指している。もちろんこの時点でこの分類が各大名家の爵位基準に使われることが想定されていたわけではなく、政府費用の各藩の負担の分担基準として各藩に申告させたものであり、それが1884年(明治17年)の叙爵内規の爵位基準にも流用されたものである{{sfn|浅見雅男|1994|p=87-88}}。この基準を満たしている旧大名家は15家あったが、そのうち旧[[薩摩藩]][[島津氏|島津家]](現米31万4002石)、旧[[長州藩]][[毛利氏|毛利家]](現米23万2760石)、旧[[静岡藩]][[徳川将軍家|徳川宗家]](現米21万210石)の3家は当初より公爵に列したので、それ以外の旧[[尾張藩]][[尾張徳川家|徳川家]](現米26万9070石)、旧[[紀州藩]][[紀州徳川家|徳川家]](現米27万4590石)、旧[[広島藩]][[浅野氏|浅野家]](現米25万8370石)、旧[[岡山藩]][[池田氏#近世大名→華族の池田家|池田家]](現米17万9585石)、旧[[鳥取藩]][[池田氏#近世大名→華族の池田家|池田家]](現米18万6437石)、旧[[福岡藩]][[黒田氏|黒田家]](現米23万4250石)、旧[[秋田藩]][[佐竹氏|佐竹家]](現米17万9400石)、旧[[佐賀藩]][[鍋島氏|鍋島家]](現米21万3727石)、旧[[徳島藩]][[蜂須賀氏|蜂須賀家]](現米19万3173石)、旧[[熊本藩]][[細川氏|細川家]](現米32万9680石)、旧[[加賀藩]][[前田氏|前田家]](現米63万6880石)、旧[[土佐藩]][[土佐山内氏|山内家]](現米19万3010石)の12家が該当する。[[水戸徳川家|旧水戸藩徳川家]](現米5万7730石)はこの基準を満たしていないが、「徳川旧御三家」という内規の定めがあるため該当する(この内規の定めは事実上水戸徳川家を侯爵にするためだけに存在したといえる){{sfn|浅見雅男|1994|p=109}}。後に水戸徳川家は公爵に陞爵し、旧越前福井藩[[松平氏|松平家]](現米11万1010石)と旧伊予宇和島藩[[伊達氏|伊達家]](現米5万2420石)が維新時の功績を認められて伯爵から陞爵したため、最終的には旧大名家の侯爵家は合計14家だった。
# 旧[[琉球藩]]王家 - [[尚氏|尚家]]。叙爵内規の前の案(「叙爵基準」)では公爵だったが、叙爵内規では侯爵となった{{sfn|浅見雅男|1994|p=74-77}}。
# 国家に勲功ある者 - [[1884年]](明治17年)の華族制度発足の時点では、新華族は[[大久保利通]]と[[木戸孝允]]の子孫が叙せられたのみであったが([[西郷隆盛]]の子孫は[[西南戦争]]のために発足時には除外されたが、西郷赦免後の1902年(明治35年)に隆盛の子孫に爵位が与えられた際には大久保・木戸の子孫と同じく直ちに侯爵に叙せられる待遇を受けている)、後に13家が侯爵となり、そのうち5家はさらに公爵にのぼった。最終的には計10家が侯爵とされた。
<!-- 下記の表は全てを網羅しておりませんので補充にご協力ください。 -->
{| class="wikitable"
|+侯爵家(後に公に陞爵した家を除く)
!家名!!受爵者<br />襲爵者!!旧家格<br />出自!!叙爵年<br />所在など
|-
|[[大炊御門家]]|| style="white-space:nowrap" |[[大炊御門幾麿]]<br />[[大炊御門経輝]]||[[清華家]]<br />[[藤原北家]][[藤原師実|師実流]]||[[1884年]][[7月7日]]、叙爵。<br />東京市赤坂区氷川町(現:東京都港区赤坂)
|-
|[[花山院家]]||[[花山院忠遠]]<br />[[花山院親家]]<br />[[花山院親忠]]||清華家<br />藤原北家師実流||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市渋谷区千駄ヶ谷
|-
|[[菊亭家]]||[[菊亭脩季]]<br />[[菊亭公長]]<br />[[菊亭実賢]]||清華家<br />藤原北家[[閑院流]][[西園寺家]]支流||1884年7月7日、叙爵。<br />[[1945年]][[9月15日]] 爵位返上。
|-
|[[久我家]]||[[久我通久]]<br />[[久我常通]]<br />[[久我通顕]]||清華家<br />[[村上源氏]]|||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市牛込区新小川町
|-
|[[醍醐家]]||[[醍醐忠順]]<br />[[醍醐忠重]]||清華家<br />藤原北家[[一条家]]支流。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市赤坂区福吉町(現:東京都港区赤坂)
|-
|[[中山家]]||[[中山忠能]]<br />[[中山孝麿]]<br />[[中山輔親]]||[[羽林家]]<br />[[藤原北家]][[花山院家]]支流||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麹町区有楽町(現:東京都千代田区有楽町)
|-
|[[広幡家]]||[[広幡忠礼]]<br />[[広幡忠朝]]<br />[[広幡忠隆]]||清華家<br />[[広幡家|正親町源氏]]||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市四谷区四谷仲町(現:東京都新宿区四谷)
|-
|[[浅野氏|浅野家]]||[[浅野長勲]]<br />[[浅野長之]]<br />[[浅野長武_(侯爵)|浅野長武]]||[[広島藩]]主<br />[[清和源氏]]と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市本郷区向ヶ岡弥生町(東京都文京区弥生)
|-
|[[池田氏#近世大名→華族の池田家|池田家]]<br />(旧岡山藩主家)||[[池田章政]]<br />[[池田詮政]]<br />[[池田禎政]]<br />[[池田宣政 (侯爵)|池田宣政]]||[[岡山藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麻布区市麻布兵衛町(現:東京都港区六本木)
|-
|池田家<br />(旧鳥取藩主家)||[[池田輝知]]<br />[[池田仲博]]||[[鳥取藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市品川区大崎町(現:東京都品川区大崎)
|-
|[[黒田氏#黒田氏の来歴|黒田家]]||[[黒田長成]]<br />[[黒田長礼]]||[[福岡藩]]主<br />[[宇多源氏]]と称するが明確でない。|| 1884年7月7日、叙爵。<br />東京市赤坂区赤坂福吉町(現:東京都港区赤坂)
|-
|[[佐竹氏|佐竹家]]||[[佐竹義堯]]<br />[[佐竹義生]]<br />[[佐竹義春]]<br />[[佐竹義栄]]||[[久保田藩]]主<br />清和源氏||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麹町区富士見町(現:東京都千代田区富士見)
|-
|[[尾張徳川家]]<br />||[[徳川義礼]]<br />[[徳川義親]]||[[名古屋藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。
|-
|[[紀州徳川家]]<br />||[[徳川茂承]]<br />[[徳川頼倫]]<br />[[徳川頼貞]]||[[紀州藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麻布区飯倉(現:東京都港区東麻布)
|-
|[[鍋島氏|鍋島家]]||[[鍋島直大]]<br />[[鍋島直映]]<br />[[鍋島直泰]]||[[佐賀藩]]主<br />宇多源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麹町区永田町(現:東京都千代田区永田町)
|-
|[[蜂須賀氏|蜂須賀家]]||[[蜂須賀茂韶]]<br />[[蜂須賀正韶]]<br />[[蜂須賀正氏]]||[[徳島藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />1945年[[7月28日]]爵位返上。<br />東京市芝区三田町(現:東京都港区三田)
|-
|[[細川氏|細川家]]||[[細川護久]]<br />[[細川護成]]<br />[[細川護立]]||[[熊本藩]]主<br />清和源氏||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市小石川区高田老松町(現:東京都文京区目白台)
|-
|[[前田氏|前田家]]||[[前田利嗣]]<br />[[前田利為]]<br />[[前田利建]]||[[加賀藩|金沢藩]]主<br />[[菅原氏]]と称するが明確でない。||東京市本郷区本郷元富士町(東京都文京区本郷)
|-
|[[土佐山内氏|山内家]]||[[山内豊範]]<br />[[山内豊景]]||[[高知藩]]主<br />[[藤原北家]][[藤原秀郷|秀郷流]]と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市麹町区麹町(現:東京都千代田区麹町)
|-
|[[大久保氏#薩摩大久保氏|大久保家]]||[[大久保利和]]<br />[[大久保利武]]<br />[[大久保利謙]]||[[鹿児島藩]]出身<br />藤原氏と称するが明確でない。||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市芝区芝二本榎西町(現:東京都港区高輪)
|-
|[[桂氏|木戸家]]||[[木戸正二郎]]<br />[[木戸孝正]]<br />[[木戸幸一]]||[[萩藩]]出身<br />[[大江氏]]||1884年7月7日、叙爵。<br />東京市赤坂区赤坂新町(現:東京都港区赤坂)
|-
|[[第二尚氏|尚家]]||[[尚泰王|尚泰]]<br />[[尚典]]<br />[[尚昌]]<br />[[尚裕]]||[[琉球藩]]王
清和源氏と称するが明確でない。
|[[1885年]][[5月2日]]、叙爵。<br />東京市麹町区富士見町(現:東京都千代田区富士見)
|-
|[[正親町三条家|嵯峨家]]<br />(正親町三条家)||[[嵯峨公勝]]<br />[[嵯峨実勝]]||[[大臣家]]<br />藤原北家[[閑院流]][[三条家]]支流|||[[1888年]][[1月17日]]、伯から陞爵([[正親町三条実愛|実愛]]の維新の功績による)<br />東京市下谷区下谷二長町(現:東京都台東区台東)
|-
|[[中御門家]]||[[中御門経明]]<br />[[中御門経恭]]||[[名家 (公家)|名家]]<br />[[藤原北家]][[勧修寺流]]||1888年1月17日、伯から陞爵([[中御門経之|経之]]の維新の功績による)<br />1898年[[12月14日]] 家督相続人不在により断絶。<br />1899年10月20日 経恭に再授。<br />東京市赤坂区赤坂裏町(東京都港区元赤坂)
|-
|[[越前松平氏|松平家]]<br/>(旧福井藩主家)||[[松平茂昭]]<br />[[松平康荘]]<br />[[松平康昌]]||[[福井藩]]主<br />清和源氏と称するが明確でない。||1888年1月17日、伯から陞爵([[松平春嶽|慶永]]の維新の功績による)
|-
|[[四条家]]||[[四条隆謌]]<br />[[四条隆愛]]<br />[[四条隆徳]]||[[羽林家]]<br />藤原北家[[藤原魚名|魚名]]流||[[1891年]][[4月23日]]、伯から陞爵<br />東京市麹町区富士見町(現:東京都千代田区富士見)
|-
|[[伊達氏|伊達家]]<br/>(旧宇和島藩主家)||[[伊達宗徳]]<br />[[伊達宗陳]]<br />[[伊達宗彰]]||[[宇和島藩]]主<br />藤原北家[[藤原山蔭|山蔭流]]と称するが明確でない。|||1891年4月23日、伯から陞爵([[伊達宗城|宗城]]の維新の功績による)<br />東京市本所区小泉町(現:東京都墨田区両国)
|-
|[[西郷氏|西郷家]]<br />(西郷従道家)||[[西郷従道]]<br />[[西郷従徳]]||鹿児島藩出身<br />[[平氏]]と称するが明確でない。||1895年[[8月5日]]、伯から陞爵<br />[[1946年]][[2月6日]] 爵位返上<br />東京市目黒区上目黒(現:東京都目黒区上目黒)
|-
|西郷家<br />([[西郷隆盛]]家)||[[西郷寅太郎]]<br />[[西郷隆輝]]<br />[[西郷吉之助]]||鹿児島藩出身<br />平氏と称するが明確でない。||[[1902年]][[6月3日]]、叙爵。<br />東京市牛込区市ヶ谷加賀町(現:東京都新宿区市ヶ谷加賀町)
|-
|[[井上氏#安芸井上氏|井上家]]||[[井上馨]]<br />[[井上勝之助]]<br />[[井上三郎]]||萩藩出身<br />清和源氏([[信濃源氏]])||[[1907年]][[9月21日]]、伯から陞爵
|-
|[[野津家 (侯爵家)|野津家]]||[[野津道貫]]<br />[[野津鎮之助]]<br />[[野津高光]]||[[鹿児島藩]]出身<br/>藤原氏と称するが明確でない。||[[1907年]]9月21日、伯から陞爵
|-
|[[佐佐木家 (侯爵家)|佐佐木家]]||[[佐々木高行|佐佐木高行]]<br />[[佐々木行忠|佐佐木行忠]]||高知藩出身<br/>[[宇多源氏]][[佐々木氏]]([[六角氏]])||[[1909年]][[4月29日]]、叙爵。
|-
|[[小松家 (侯爵家)|小松家]]||[[小松輝久]]||賜姓皇族<br />[[北白川宮能久親王]]子孫||[[1910年]][[7月10日]]、叙爵。<br />[[小松宮家]]祭祀を承継。
|-
|[[小村家]]||[[小村壽太郎|小村寿太郎]]<br />[[小村欣一]]<br />[[小村捷治]]||[[飫肥藩]]出身<br/>平氏と称するが明確ではない。||[[1911年]][[4月21日]]、伯から陞爵。
|-
|[[大隈家]]||[[大隈重信]]<br />[[大隈信常]]<br />[[大隈信幸]]||佐賀藩出身<br />[[菅原氏]]と称するが明確でない。||[[1916年]][[7月14日]]、伯から陞爵。
|-
|[[山階家 (侯爵家)|山階侯爵家]]||[[山階芳麿]]||賜姓皇族<br />[[山階宮菊麿王]]子孫||[[1920年]][[7月24日]]、叙爵。
|-
|[[久邇家 (侯爵家)|久邇侯爵家]]||[[久邇邦久]]<br />[[久邇実栄]]||賜姓皇族<br />[[久邇宮邦彦王]]子孫||[[1923年]][[10月25日]]、叙爵。
|-
|[[華頂宮#華頂侯爵家|華頂家]]||[[華頂博信]]||賜姓皇族<br />[[伏見宮博恭王]]子孫||[[1926年]][[12月7日]]、叙爵<br />[[華頂宮|華頂宮家]]祭祀を継承。
|-
|[[筑波家]]||[[筑波藤麿]]||賜姓皇族<br />[[山階宮菊麿王]]子孫||[[1928年]][[7月20日]]、叙爵
|-
|[[薩摩東郷氏|東郷家]]||[[東郷平八郎]]<br />[[東郷彪]]||鹿児島藩出身<br />[[平氏#高望王流|桓武平氏]]||[[1934年]][[5月29日]]、伯から陞爵。
|-
|[[音羽家]]||[[音羽正彦]]||賜姓皇族<br />[[朝香宮鳩彦王]]子孫。||[[1936年]][[4月1日]]、叙爵。<br />[[1944年]]2月6日 家督相続人不在により断絶。
|-
|[[粟田家 (侯爵家)|粟田家]]||[[粟田彰常]]||賜姓皇族<br />[[東久邇宮稔彦王]]子孫。||[[1940年]][[10月25日]]、叙爵。
|}
家名については後年[[1947年]](昭和22年)の[[皇籍離脱]]によって本家筋の家の家名が同名となってしまった家についてのみ、混同を避けるため「○○侯爵家」と表記した。
{{節スタブ}}
=== 朝鮮貴族の侯爵家 ===
[[日韓併合]]後の[[1910年]](明治43年)の[[朝鮮貴族令]](皇室令第14号)により華族に準じた[[朝鮮貴族]]の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した。ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れなかったので、朝鮮貴族の実質的な最上位爵位は侯爵位だった。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=162}}。
朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが{{sfn|百瀬孝|1990|p=244}}、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった[[両班]]出身者で占められた{{sfn|小田部雄次|2006|p=163/166}}。
朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち侯爵に叙されたのは次の6名である。[[興宣大院君]]の甥で宮内府内大臣や陸軍副将、[[漢城銀行]]長などを歴任した[[李載完]]、駐日大使や韓国赤十字社総裁などを歴任した[[李載覚]]、中枢院議官だった[[李海昌]]、李王家の連枝で侍講院侍従官を務めた最年少の[[李海昇]]、[[純宗]]妃の父で侍講院侍従官、英親王府総弁、陸軍副将を歴任した[[尹沢栄]]、そして[[朴泳孝]]である{{sfn|小田部雄次|2006|p=162-167}}。日本でもっとも著名なのは朴泳孝である。彼は血筋がよく妻が25代国王[[哲宗]]の娘であることで政治の中枢に入り、[[金玉均]]とともに「開化派」として日本に倣った朝鮮近代化を推進し、[[金弘集 (政治家)|金弘集]]内閣や[[李完用]]内閣など親日政権の内部大臣や宮内大臣を務めた。併合後も朝鮮貴族会会長、朝鮮総督府中枢院副議長、貴族院勅選議員などを歴任したため日本で著名になった{{sfn|小田部雄次|2006|p=167}}。また日韓併合時の韓国首相である[[李完用]]は伯爵から侯爵に陞爵した{{sfn|小田部雄次|2006|p=172}}。
== 欧州の爵位との対応 ==
{{See|侯|フュルスト}}
* 侯爵と訳されることがある欧州の爵位には、以下の2つがある。
** ドイツ:[[w:Fürst|Fürst]]([[フュルスト]])
** その他の地域:[[w:Marquess|marquess/marquis]]([[辺境伯]]に由来。)
== イギリスの侯爵 ==
[[File:Coronet of a British Marquess.svg|180px|thumb|イギリスの侯爵の紋章上の冠]]
[[イングランド王国|イングランド]]に確固たる貴族制度を最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](<small>在位:[[1066年]] - [[1087年]]</small>)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったが、[[エドワード懺悔王]](<small>在位:[[1042年]] - [[1066年]]</small>)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった<ref name="小林(1991)16-17">[[#小林(1991)|小林(1991)]] pp.16-17</ref>。
侯爵(marquess)は、男爵(baron)、伯爵(earl)、公爵(duke)についで創設された爵位である。[[1385年]]に第9代[[オックスフォード伯爵]][[ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)|ロバート・ド・ヴィアー]]がダブリン侯爵(Marquess of Dublin)に叙されたのがその最初の事例である<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] pp.5-6</ref>。
侯爵から男爵までの貴族への敬称は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord ○○)」とする(公爵は「Duke of ○○」)。例えばウィンチェスター侯の「ウィンチェスター」は姓ではなく爵位名で、家名は「ポーレット」である。したがって「ウィンチェスター卿」とは呼ぶが、「ポーレット卿」とはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、欧州貴族は複数の爵位を所持することが多く、中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は父の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を[[儀礼称号]]として称する<ref name="森(1987)15">[[#森(1987)|森(1987)]] p.15</ref>。侯爵の息子は全員がLord([[卿]]、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、[[1963年]]の[[1963年貴族法|貴族法]]制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。
有爵者は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員になりえる。かつては原則として全[[世襲貴族]]が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、[[1999年]]以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279/290}}。
{{-}}
=== 現存侯爵一覧 ===
==== 侯爵家 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! 紋章
! 爵位名<br />(爵位の創設年と分類)<br />家名
! 現侯爵の名前
|-
| [[File:Marquess of Winchester COA.svg|80px]]
| '''[[ウィンチェスター侯爵]]'''<br />([[1551年]]創設[[イングランド貴族]])<br />ポーレット家
| 第18代ウィンチェスター侯爵<br />[[ナイジェル・ポーレット (第18代ウィンチェスター侯爵)|ナイジェル・ポーレット]]<br /><small>(1941 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Huntly arms.svg|80px]]
| '''[[ハントリー侯爵]]'''<br />([[1599年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />{{仮リンク|ゴードン家|en|Clan Gordon}}
| 第13代ハントリー侯爵<br />{{仮リンク|グランヴィル・ゴードン (第13代ハントリー侯爵)|label=グランヴィル・ゴードン|en|Granville Gordon, 13th Marquess of Huntly}}<br /><small>(1944 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Marquess of Queensberry.svg|80px]]
| '''[[クイーンズベリー侯爵]]'''<br />([[1682年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />[[スコットランドの氏族|ダグラス家]]
| 第12代クイーンズベリー侯爵<br />{{仮リンク|デイヴィッド・ダグラス (第12代クイーンズベリー侯爵)|label=デイヴィッド・ダグラス|en|David Douglas, 12th Marquess of Queensberry}}<br /><small>(1929 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Tweeddale arms.svg|80px]]
| '''[[ツィードデール侯爵]]'''<br />([[1694年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />ヘイ家
| 第14代ツィードデール侯爵<br />[[ツィードデール侯爵#ツィードデール侯 (1694年)|デイヴィッド・ヘイ]]<br /><small>(1947 - )</small>
|-
| [[File:Lothian.png|80px]]
| '''[[ロジアン侯爵]]'''<br />([[1701年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />カー家
| 第13代ロジアン侯爵<br />{{仮リンク|マイケル・カー (第13代ロジアン侯爵)|label=マイケル・カー|en|Michael Ancram}}<br /><small>(1945 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Lansdowne.svg|80px]]
| '''[[ランズダウン侯爵]]'''<br />([[1784年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />ペティ=フィッツモーリス家
| 第9代ランズダウン侯爵<br />{{仮リンク|チャールズ・ペティ=フィッツモーリス (第9代ランズダウン侯爵)|label=チャールズ・ペティ=フィッツモーリス|en|Charles Petty-Fitzmaurice, 9th Marquess of Lansdowne}}<br /><small>(1941 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Townshend COA.svg|80px]]
| '''[[タウンゼンド侯爵]]'''<br />([[1787年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />タウンゼンド家
| 第8代タウンゼンド侯爵<br />[[タウンゼンド侯爵#現当主の保有爵位/準男爵位|チャールズ・タウンゼンド]]<br /><small>(1945 - )</small>
|-
| [[File:Cecil.svg|80px]]
| '''[[ソールズベリー侯|ソールズベリー侯爵]]'''<br />([[1789年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />[[セシル家|ガスコイン=セシル家]]
| 第7代ソールズベリー侯爵<br />[[ロバート・ガスコイン=セシル (第7代ソールズベリー侯爵)|ロバート・ガスコイン=セシル]]<br /><small>(1946 - )</small>
|-
| [[File:Thynne-Botteville arms.svg|80px]]
| '''[[バース侯爵]]'''<br />([[1789年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />シン家
| 第8代バース侯爵<br />{{仮リンク|スーアリン・シン (第8代バース侯爵)|label=スーアリン・シン|en|Ceawlin Thynn, 8th Marquess of Bath}}<br /><small>(1974 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Hertford.svg|80px]]
| '''[[ハートフォード侯爵]]'''<br />([[1793年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />[[シーモア家]]
| 第9代ハートフォード侯爵<br />{{仮リンク|ヘンリー・シーモア (第9代ハートフォード侯爵)|label=ヘンリー・シーモア|en|Henry Seymour, 9th Marquess of Hertford}}<br /><small>(1958 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Bute COA.svg|80px]]
| '''[[ビュート侯爵]]'''<br />([[1796年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />クライトン=ステュアート家
| 第8代ビュート侯爵<br />[[ジョン・クライトン=ステュアート (第8代ビュート侯爵)|ジョン・クライトン=ステュアート]]<br /><small>(1989 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Waterford COA.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|ウォーターフォード侯爵|en|Marquess of Waterford}}'''<br />([[1789年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />ベレスフォード家
| 第9代ウォーターフォード侯爵<br />ヘンリー・ベレスフォード<br /><small>(1958 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Hill, Marquess of Downshire.svg|80px]]
| '''[[ダウンシャー侯爵]]'''<br />([[1789年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />ヒル家
| 第9代ダウンシャー侯爵<br />[[ダウンシャー侯爵#現当主の保有爵位|ニコラス・ヒル]]<br /><small>(1959 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Donegall COA.svg|80px]]
| '''[[ドニゴール侯爵]]'''<br />([[1791年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />チチェスター家
| 第8代ドニゴール侯爵<br />{{仮リンク|パトリック・チチェスター (第8代ドニゴール侯爵)|label=パトリック・チチェスター|en|Patrick Chichester, 8th Marquess of Donegall}}<br /><small>(1952 - )</small>
|-
| [[File:Taylour-Quin arms (Headfort).svg|80px]]
| '''{{仮リンク|ヘッドフォート侯爵|en|Marquess of Headfort}}'''<br />([[1800年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />タイラー家
| 第7代ヘッドフォート侯爵<br />{{仮リンク|トマス・タイラー (第7代ヘッドフォート侯爵)|label=トマス・タイラー|en|Christopher Taylour, 7th Marquess of Headfort}}<br /><small>(1959 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Marquess of Sligo.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|スライゴ侯爵|en|Marquess of Sligo}}'''<br />([[1800年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />ブラウン家
| 第12代スライゴ侯爵<br />{{仮リンク|セバスチャン・ブラウン (第12代スライゴ侯爵)|label=セバスチャン・ブラウン|en|Sebastian Browne, 12th Marquess of Sligo}}<br /><small>(1964 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Marquess of Ely.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|エリー侯爵|en|Marquess of Ely}}'''<br />([[1800年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />トッテナム家
| 第9代エリー侯爵<br />チャールズ・トッテナム<br /><small>(1943 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Stewart, Marquess of Londonderry.svg|80px]]
| '''[[ロンドンデリー侯爵]]'''<br />([[1816年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />ヴェイン=テンペスト=ステュワート家
| 第10代ロンドンデリー侯爵<br />[[フレデリック・ヴェイン=テンペスト=ステュワート (第10代ロンドンデリー侯爵)|フレデリック・ヴェイン=テンペスト=スチュワート]]<br /><small>(1972 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of Marquess Conyngham.svg|80px]]
| '''[[カニンガム侯爵]]'''<br />([[1816年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />カニンガム家
| 第8代カニンガム侯爵<br />{{仮リンク|ヘンリー・カニンガム (第8代カニンガム侯爵)|label=ヘンリー・カニンガム|en|Henry Conyngham, 8th Marquess Conyngham}}<br /><small>(1951 - )</small>
|-
| [[ファイル:Cecil.svg|80px]]
| '''[[エクセター侯爵]]'''<br />([[1801年]]創設[[連合王国貴族]])<br />[[セシル家]]
| 第8代エクセター侯爵<br />{{仮リンク|マイケル・セシル (第8代エクセター侯爵)|label=マイケル・セシル|en|Michael Cecil, 8th Marquess of Exeter}}<br /><small>(1935 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Marquess of Northampton.svg|80px]]
| '''[[ノーサンプトン侯爵]]'''<br />([[1812年]]創設[[連合王国貴族]])<br />コンプトン家
| 第7代ノーサンプトン侯爵<br />[[スペンサー・コンプトン (第7代ノーザンプトン侯爵)|スペンサー・コンプトン]]<br /><small>(1946 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Camden COA.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|カムデン侯爵|en|Marquess Camden}}'''<br />([[1812年]]創設[[連合王国貴族]])<br />プラット家
| 第6代カムデン侯爵<br />[[デイヴィッド・プラット (第6代カムデン侯爵)|デイヴィッド・プラット]]<br /><small>(1930 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Paget.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|アングルシー侯爵|en|Marquess of Anglesey}}'''<br />([[1815年]]創設[[連合王国貴族]])<br />パジェット家
| 第8代アングルシー侯爵<br />{{仮リンク|チャールズ・パジェット (第8代アングルシー侯爵)|label=チャールズ・パジェット|en|Marquess of Anglesey}}<br /><small>(1950 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Cholmondeley COA.svg|80px]]
| '''[[チャムリー侯爵]]'''<br />([[1815年]]創設[[連合王国貴族]])<br />チャムリー家
| 第7代チャムリー侯爵<br />[[デイヴィッド・チャムリー (第7代チャムリー侯爵)|デイヴィッド・チャムリー]]<br /><small>(1960 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Brudenell Bruce, Marquess of Ailesbury.svg|80px]]
| '''[[アイルズベリー侯爵]]'''<br />([[1821年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ブルーデネル=ブルース家
| 第8代アイルズベリー侯爵<br />{{仮リンク|マイケル・ブルーデネル=ブルース (第8代アイルズベリー侯爵)|label=マイケル・ブルーデネル=ブルース|en|Michael Brudenell-Bruce, 8th Marquess of Ailesbury}}<br /><small>(1926 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Bristol COA.svg|80px]]
| '''{{仮リンク|ブリストル侯爵|en|Marquess of Bristol}}'''<br />([[1826年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ハーヴェイ家
| 第8代ブリストル侯爵<br />{{仮リンク|フレデリック・ハーヴェイ (第8代ブリストル侯爵)|label=フレデリック・ハーヴェイ|en|Frederick Hervey, 8th Marquess of Bristol}}<br /><small>(1979 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Ailsa COA.svg|80px]]
| '''[[エイルザ侯爵]]'''<br />([[1831年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ケネディ家
| 第9代エイルザ侯爵<br />[[エイルザ侯爵#現当主の保有爵位|デイヴィッド・ケネディ]]<br /><small>(1958 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Normanby COA.svg|80px]]
| '''[[ノーマンビー侯爵]]'''<br />([[1838年]]創設[[連合王国貴族]])<br />フィップス家
| 第5代ノーマンビー侯爵<br />{{仮リンク|コンスタンティン・フィップス (第5代ノーマンビー侯爵)|label=コンスタンティン・フィップス|en|Constantine Phipps, 5th Marquess of Normanby}}<br /><small>(1954 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Neville, Marquess of Abergavenny.svg|80px]]
| '''[[アバーガヴェニー侯爵]]'''<br />([[1876年]]創設[[連合王国貴族]])<br />[[ネヴィル家]]
| 第6代アバーガヴェニー侯爵<br />{{仮リンク|クリストファー・ネヴィル (第6代アバーガヴェニー侯爵)|label=クリストファー・ネヴィル|en|Christopher George Charles Nevill, 6th Marquess of Abergavenny}}<br /><small>(1955 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Zetland COA.svg|80px]]
| '''[[ゼットランド侯爵]]'''<br />([[1892年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ダンダス家
| 第4代ゼットランド侯爵<br />{{仮リンク|マーク・ダンダス (第4代ゼットランド侯爵)|label=マーク・ダンダス|en|Mark Dundas, 4th Marquess of Zetland}}<br /><small>(1937 - )</small>
|-
| [[File:Marquess of Linlithgow Arms.svg|80px]]
| '''[[リンリスゴー侯爵]]'''<br />([[1902年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ホープ家
| 第4代リンリスゴー侯爵<br />{{仮リンク|エイドリアン・ホープ (第4代リンリスゴー侯爵)|label=エイドリアン・ホープ|en|Adrian Hope, 4th Marquess of Linlithgow}}<br /><small>(1946 - )</small>
|-
| [[File:Arms of the Marquess of Aberdeen and Temair.svg|80px]]
| '''[[アバディーン=テメイア侯爵]]'''<br />([[1916年]]創設[[連合王国貴族]])<br />{{仮リンク|ゴードン家|en|Clan Gordon}}
| 第8代アバディーン=テメイア侯爵<br />ジョージ・ゴードン<br /><small>(1983 - )</small>
|-
| [[File:Mountbatten arms of the 1st Earl Mountbatten of Burma and the 2nd Marquess of Milford Haven.svg|80px]]
| '''[[ミルフォード・ヘイヴン侯爵]]'''<br />([[1917年]]創設[[連合王国貴族]])<br />マウントバッテン家
| 第4代ミルフォード・ヘイヴン侯爵<br />[[ジョージ・マウントバッテン (第4代ミルフォード・ヘイヴン侯爵)|ジョージ・マウントバッテン]]<br /><small>(1961 - )</small>
|-
| [[File:Arms of Isaacs.svg|80px]]
| '''[[レディング侯爵]]'''<br />([[1926年]]創設[[連合王国貴族]])<br />アイザックス家
| 第4代レディング侯爵<br />{{仮リンク|サイモン・アイザックス (第4代レディング侯爵)|label=サイモン・アイザックス|en|Simon Isaacs, 4th Marquess of Reading}}<br /><small>(1942 - )</small>
|}
==== 公爵が従属爵位として持つ侯爵位 ====
*アソル侯爵:[[アソル公爵]]の従属爵位
*アバコーン侯爵:[[アバコーン公爵]]の従属爵位
*ウェストミンスター侯爵:[[ウェストミンスター公爵]]の従属爵位
*ウェリントン侯爵:[[ウェリントン公爵]]の従属爵位
*ウスター侯爵:[[ボーフォート公爵]]の従属爵位
*グラハム=ブキャナン侯爵:[[モントローズ公爵]]の従属爵位
*キルデア侯爵:[[リンスター公爵]]の従属爵位
*キンタイア=ローン侯爵:[[アーガイル公爵]]の従属爵位
*クライスデール侯爵:[[ハミルトン公爵]]の従属爵位
*グランビー侯爵:[[ラトランド公爵]]の従属爵位
*スタッフォード侯爵:[[サザーランド公爵]]の従属爵位
*タヴィストック侯爵:[[ベッドフォード公爵]]の従属爵位
*ダグラス侯爵:[[ハミルトン公爵]]の従属爵位
*タリバーディン侯爵:[[アサル公爵]]の従属爵位
*ドゥロ侯爵:[[ウェリントン公爵]]の従属爵位
*ハーティントン侯爵:[[デヴォンシャー公爵]]の従属爵位
*ハミルトン侯爵:[[アバコーン公爵]]の従属爵位
*ブランドフォード侯爵:[[マールバラ公爵]]の従属爵位
*ボウモント=セスフォード侯爵:[[ロクスバラ公爵]]の従属爵位
*モントローズ侯爵:[[モントローズ公爵]]の従属爵位
=== かつて存在した侯爵位 ===
{{未完成の一覧}}
[[アナンデール侯爵]]、[[アントリム侯爵]]、[[エディンバラ公|イーリー島侯爵]]、[[ウィリングドン侯爵]]、{{仮リンク|ウェストミース侯爵|en|Marquess of Westmeath}}、[[ウェルズリー侯爵]]、[[ウォートン男爵|ウォートン侯爵]]、[[オーモンド侯爵]]、[[チャールズ・タルボット (初代シュルーズベリー公爵)|オールトン侯爵]]、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン侯爵]]、[[シャンドス公爵|カーナーヴォン侯爵]]、[[リーズ公爵|カーマーゼン侯爵]]、{{仮リンク|カリスブルック侯爵|en|Marquess of Carisbrooke}}、[[ウォートン男爵|キャザーロー侯爵]]、{{仮リンク|クランリカード侯爵|en|Marquess of Clanricarde}}、[[クリーヴランド公爵]]、[[クルー侯爵]]、[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|クレア侯爵]]、[[ケンブリッジ侯爵]]、[[グレイ侯爵]]、[[コーンウォリス侯爵]]、[[コバム子爵|シャンドス侯爵]]、[[トモンド侯爵]]、[[ダファリン=エヴァ侯爵]]、[[ダブリン侯爵]]、[[ダルハウジー侯爵]]、[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク|ダンガノン侯爵]]、[[ポートランド公爵|ティッチフィールド侯爵]]、{{仮リンク|ドーセット侯爵|en|Marquess of Dorset}}、{{仮リンク|ドーチェスター侯爵|en|Marquess of Dorchester}}、[[ドロヘダ伯爵|ドロヘダ侯爵]]、[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル=アポン=タイン侯爵]]、[[カンバーランド公|バークハムステッド侯爵]]、{{仮リンク|バークレー侯爵|en|Marquess of Berkeley}}、[[バッキンガム公|バッキンガム侯爵]]、{{仮リンク|ハミルトン侯爵 (1643)|label=ハミルトン侯爵|en|Duke of Hamilton}}、{{仮リンク|ハリファックス侯爵|en|Marquess of Halifax}}、[[クイーンズベリー公爵|ビバリー侯爵]]、[[ブリッジウォーター伯爵|ブラックリー侯爵]]、{{仮リンク|ブリーダルベイン侯爵|en|Marquess of Breadalbane}}、[[ヘイスティングズ侯爵]]、{{仮リンク|ペンブルック侯爵|en|Marquess of Pembroke}}、[[ポーイス侯爵]]、[[ウォートン男爵|マームズベリー侯爵]]、[[モンザーマー侯爵]]、{{仮リンク|モンタギュー侯爵|en|Marquess of Montagu}}、[[リポン侯爵]]、[[リンカンシャー侯爵]]、[[ロッキンガム侯爵]]
== スペインの侯爵 ==
[[File:Corona de marqués.svg|250px|thumb|スペインの侯爵の紋章上の冠]]
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、[[スペイン貴族]]の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(卿)の6階級があり、侯爵は公爵に次ぐ爵位である<ref name="chivalricorders">[https://web.archive.org/web/20080515235058/http://www.chivalricorders.org/nobility/spanoble.htm Noble Titles in Spain and Spanish Grandees]</ref>。侯爵位には[[グランデ]]の格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる<ref name="chivalricorders" />。
侯爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる<ref name="chivalricorders" />。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない<ref name="chivalricorders" />。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる<ref name="chivalricorders" />。爵位の継承には所定の料金がかかる<ref name="chivalricorders" />。
歴史的にはスペインの前身である[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン連合王国]]、[[ナバーラ王国]]にそれぞれ爵位貴族制度があり{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=315}}、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、[[フェリペ3世]]時代以降に爵位貴族が急増した{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。
[[1931年]]の革命で王位が廃されて[[スペイン第二共和政|第二共和政]]になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが<ref>https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf</ref>、[[1948年]]に総統[[フランシスコ・フランコ]]が貴族制度を復活させ<ref name="chivalricorders" /><ref>https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512</ref>、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった<ref name="chivalricorders" />。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
=== 主なスペインの侯爵 ===
{{main|{{仮リンク|スペインの侯爵一覧|es|Anexo:Marquesados de España}}}}
2018年時点においてスペインの侯爵位は1397個存在しており、うち153個がグランデの格式を伴う侯爵位である<ref>{{Cite web|url=http://www.diputaciondelagrandeza.es/guiadetitulo/?b|title=Guía de Títulos|website=www.diputaciondelagrandeza.es|accessdate=2021年3月24日}}</ref>。有名な物には南米[[アステカ]]を征服した[[エルナン・コルテス]]の子孫が保有する[[バジェ・デ・オアハカ侯爵]]、総統[[フランシスコ・フランコ]]の子孫が保有する[[ビリャベルデ侯爵]]、現当主がファッションデザイナーの{{仮リンク|アガタ・ルイス・デ・ラ・プラダ|es|Ágatha Ruiz de la Prada}}である{{仮リンク|カステルドスリウス侯爵|es|Marquesado de Castelldosríus}}、現当主が[[国民党 (スペイン)|国民党]]所属の[[スペイン下院]]議員{{仮リンク|カイエターナ・アルバレス・デ・トレド|es|Cayetana Álvarez de Toledo}}である{{仮リンク|カサ・フエルテ侯爵|es|Marquesado de Casa Fuerte}}などがある。すでに廃絶した侯爵位だが画家[[サルバドール・ダリ]]も{{仮リンク|ダリ・デ・プブル侯爵|es|Marquesado de Dalí de Púbol}}に叙位されていた。
[[カルリスタ王位請求者の一覧|カルリスタの王位請求者]]によって創設された171の称号の中にも41個の侯爵位が存在した<ref name="chivalricorders" />。
== 中国の侯爵 ==
{{see also|{{仮リンク|中国の爵位|zh|中国爵位}}}}
[[周|西周]]時代に設置された爵について、『[[礼記]]』には「王者之制禄爵、公侯伯子男凡五等」とあり、「侯」は五つある爵の上から二番目に位置づけている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=2-3}}。一方で『[[孟子 (書物)|孟子]]』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、[[天子]]を爵の第一とし、侯は領地を賜るものとしている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。また『[[春秋公羊伝]]』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=5}}。金文史料が検討されるようになって[[傅期年]]、[[郭沫若]]、[[楊樹達]]といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=4}}。[[王世民]]が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=6}}。
[[漢]]代においては[[二十等爵]]制が敷かれ、「侯」の爵位は存在しなかったが、[[列侯]]や[[関内侯]]が置かれた。[[魏 (三国)|魏]]の[[咸熙]]元年(264年)、爵制が改革され、侯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や[[亭侯]]の上位に置かれ、[[諸侯王]]の下の地位となる{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。[[食邑]]は大国なら千六百戸、七十里四方の土地、次国なら千四百戸、六十五里四方の土地が与えられることとなっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。その後[[西晋]]でも爵位制度は存続し{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]期以降には公・侯の濫授が行われた{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}。このため[[東晋]]では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている{{sfn|袴田郁一|2014|p=93}}。
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]においても晋の制度に近い叙爵が行われている。[[隋]]においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、[[唐]]においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。
=== 主要な中国の侯爵 ===
咸熙元年の五等爵制発足時には、[[三公]]であった[[王祥]]・[[鄭沖]]、そのほかの重臣[[賈充]]、[[石苞 (西晋)|石苞]]、[[衛瓘]]、[[裴秀]]、[[何曾]]たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=103}}。また当時の晋王[[司馬昭]]の弟であった[[司馬駿]]も「侯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後は諸侯王となった{{sfn|袴田郁一|2014|p=100}}。
[[呉の滅亡 (三国)|太康の役]]の論功行賞として、[[杜預]]、[[王濬]]、[[唐彬]]、[[王戎]]といった軍事司令官や{{sfn|袴田郁一|2014|p=88-89、118}}、呉討伐を勧めた[[張華]]が侯の爵を受けている{{sfn|袴田郁一|2014|p=88-89、107}}<ref>張華は後に公に陞爵</ref>。これらの戦役の功労者には、規定を超えた食邑も与えられた。張華には一万戸、杜預には九千六百戸の食邑が下されている{{sfn|袴田郁一|2014|p=89}}。また[[羊祜]]は[[司馬炎|武帝]]受禅の際に子から侯に進められている{{sfn|袴田郁一|2014|p=118}}。他には西晋滅亡時の[[太尉]][[王衍 (西晋)|王衍]]も侯(武陵侯)であった{{sfn|袴田郁一|2014|p=100}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|3}}
== 参考文献 ==
=== 文献資料 ===
* 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
* 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
*{{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2008年(平成20年)|title=貴族院|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|publisher=[[同成社]]|series=同成社近現代史叢書|isbn= 978-4886214188|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=原口大輔|title= 貴族院議長・徳川家達と明治立憲制 |publisher= 吉田書店 |isbn= 978-4905497684|year=2018|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991年(平成3年)|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=小林(1991)}}
* {{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}}
*{{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=田中嘉彦 |title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能 |journal=一橋法学 |ISSN=13470388 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2009 |month=mar |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |naid=110007620135 |doi=10.15057/17144 |url=https://hdl.handle.net/10086/17144 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|title=「五等爵制」再考|author=[[石黒ひさ子]] |url=https://hdl.handle.net/10291/1569|date=2006-12-25| journal=駿台史學|volume=129|pages=1-20|naid=120001439019|ISSN=05625955|publisher=明治大学史学地理学会|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=袴田郁一 |title=両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として |journal=論叢アジアの文化と思想 |issn=1340-3370 |publisher=アジアの文化と思想の会 |year=2014 |month=dec |issue=23 |pages=79-134 |naid=120005819881 |url=https://hdl.handle.net/2065/49020 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=今堀誠二 |title=唐代封爵制拾遺 |doi=10.20624/sehs.12.4_419 |issn=0038-0113 |issue=4 |journal=社会経済史学 |naid=110001212961 |pages=419-451 |publisher=社会経済史学会 |volume=12 |year=1942 |url=https://doi.org/10.20624/sehs.12.4_419 |ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=関哲行|authorlink1=関哲行|author2=中塚次郎|authorlink2=中塚次郎|author3=立石博高|authorlink3=立石博高|year=2008|title=スペイン史〈1〉古代~近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634462045|ref=harv}}
== 関連項目 ==
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* [[貴族]]
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公爵
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公爵(こうしゃく、英: duke、羅: dux、独: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。
日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。
日本語では侯爵と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。
1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。
公爵は華族の中でも最上位の階級(従一位相当)であり、全爵位の中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」と定められている。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である。
華族そのものが「皇室の藩屏」だが、公爵家はその中でも特に天皇に近しい選民集団だった。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった。天皇への拝謁には上から単独拝謁、広間で集団でお迎えする列立拝謁、廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが、公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた。また新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた。
華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年(大正4年)末時点における使用人数の平均は侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し、公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる。特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより、公爵位を含めた華族制度は廃止された。
1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員と勅任議員がある)、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった。こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた(必ず入隊することになっていた皇族や王公族ほどではないものの、華族もノブレス・オブリージュの一環でなるべく入隊するよう奨励されていた)。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、近衛篤麿公爵、近衛文麿公爵、徳川家達公爵、二条基弘公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる。
また歴代貴族院議長は伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが、公侯爵は長年各派に分散していた。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた。
叙爵内規では公爵の基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉勲アル者」と定められていた。具体的には以下のようになっている。
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋でも爵位制度は存続し、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。
咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった。三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている。
呉から降伏した孫秀、歩璿も公に叙せられている。太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている。
以降西晋期には宰相であった張華、前涼の基盤を作った張軌などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦、前秦からの防衛に成功した謝安、武将の陶侃。そして東晋を滅ぼし宋を建国した劉裕などがいる。
唐においては太宗即位後に長孫無忌、高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。
イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった。
イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年にエドワード3世(在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世(在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した。
臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年にリチャード3世(在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)。
その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。
またジャコバイトの王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族(英語版)の爵位にも17の公爵位がある。
イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度が存在し、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても公爵位は第1位として存在する。
公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教、大法官、ヨーク大主教、首相、枢密院議長、庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である。
侯爵から男爵までの貴族が「卿(My Lord)」と呼び掛けられるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と呼び掛けられる。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する(父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける)。公爵と侯爵の息子は全員がLord(卿、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。
現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が付随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない
フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語のドゥクス(dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身であるフランク王国がローマ帝国から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった。
フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった。
11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった。
11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた。カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。
オルレアン公、アンジュー公、ベリー公、アングレーム公、アランソン公、トゥーレーヌ公(フランス語版)などは伝統的に王族の爵位となった。
15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった。
16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドック、プロヴァンス、イル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった。
アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された。
アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公、ヌヴェール公(フランス語版)、ベルガルド公(フランス語版)、ブイヨン公(フランス語版)、ロアン公(フランス語版)などがあった。ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーはリシュリュー公爵(フランス語版)に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。
フランス革命により貴族制度は廃止されたが、ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る帝国貴族(フランス語版)が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェ(オトラント公爵(フランス語版))やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった。
復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった。
1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された。ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵(フランス語版)(1856年エイマブル・ペリシエ(フランス語版))、マジェンタ公爵(フランス語版)(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵(フランス語版)(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ(フランス語版))、モルニー公爵(フランス語版)(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵(フランス語版)(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン(フランス語版))がある。
第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した。1955年に裁判所は合憲性ブロック(フランス語版)の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している。
ドイツの称号で「公爵」と訳されるのはヘルツォーク(Herzog)である。これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族部族大公(Stammesherzog)のことだった。この時期のヘルツォークは「大公」と訳されるのが一般的である。次のものがある。
13世紀に現れた選帝侯7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった。三十年戦争後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった。
ナポレオン戦争後、陪臣化などで諸侯の数が減らされ、ナポレオン失脚後のウィーン体制下でもその状態が維持され、ドイツ連邦には公爵が治める公国が以下の10個あった。
ナッサウ公国とホルシュタイン公国は普墺戦争後プロイセンに併合されて消滅し、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し、アンハルト諸国はアンハルト公国として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公、ザクセン=アルテンブルク公、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公、アンハルト公の5個だった。これ以外に統治領域がなくなっていた公爵としてロイヒテンベルク公、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公、ラチブシュ公、ウラッハ公などがある。
ドイツ革命後、ヴァイマル共和政になると貴族は法的根拠を失ったが、爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた。
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からduque(公爵)、marqués(侯爵)、conde(伯爵)、vizconde(子爵)、 barón(男爵)、señor(領主)の6階級があり、公爵は最上位である。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデ委員会に属する。グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性))」の敬称で呼ばれる。
スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に当主が軍人として活躍したアルバ公爵、アルマダの海戦の際に当主が無敵艦隊の司令官を務めたメディナ=シドニア公爵、新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)、アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵(スペイン語版)、フェリペ3世の寵臣(スペイン語版)を初代とするレルマ公爵(スペイン語版)、フェリペ4世の寵臣を初代とするサンルーカル・ラ・マヨル公爵(スペイン語版)(オリバーレス伯爵の爵位を埋没させたがらず、「オリバーレス伯公爵」を名乗っていた)、ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵、スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラ(スペイン語版)の子孫が保有するモラ公爵(スペイン語版)、フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。またオスーナ公爵(スペイン語版)は、19世紀末の当主(スペイン語版)が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで、浪費を指して「オスーナ家でもあるまいし」という言い回しができたことで有名になった。
正式な称号とは認められていないが、カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった。
王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが(「大公」や「王子」と訳されることもある)、これには皇太子に与えられるアストゥリアス公などがある。
公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。スペインに貴族院はなく、爵位をもっていても法的な特権は何も得られない。かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが、これも1984年に廃止されている。だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する。
歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
2022年10月、国民記憶法(英語版)の施行により、以下の公爵位が強制的に称号廃止となった。
帝政ロシアの貴族(ロシア語版)は17世紀以前のボヤール(モスクワ大公国以前からの諸侯)に由来するものと、18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった。
ロシア貴族の称号は当初は公爵(クニャージ、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位(グラフ、граф, graf)、イギリスと同じ男爵位(バロン、барон、baron)を加えて爵位制度を作った。また皇族の称号として大公(ヴェリーキー・クニャージ、Великий князь)があった。
帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家、ゴリツィン家(ロシア語版)、ロプーヒン=デミドフ家、カンテミール家、ポチョムキン家(ロシア語版)、オボレンスキー家(ロシア語版)、ゴルチャコフ家(ロシア語版)、ロバノフ=ロストフスキー家(ロシア語版)、ユスポフ家(ロシア語版)、ヴォルコンスキー家(ロシア語版)などがあった。
帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった。
しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年のピョートル3世の布告で廃止された。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった。
ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた。
ロシア革命により貴族身分は廃止され、ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている。
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"text": "公爵(こうしゃく、英: duke、羅: dux、独: Herzog)は、爵位(五爵)の第1位。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。",
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"text": "日本ではこの「公」によって(英語の場合であれば)princeとdukeの両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えばモナコやリヒテンシュタインの君主、マルタ騎士団長などのprinceを「公」ではなく「大公」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、ルクセンブルクの君主がもつ称号grand dukeやロシア等のgrand prince、オーストリアのarchdukeと区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。",
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"text": "1869年(明治2年)6月17日の行政官達543号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された。",
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"text": "1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。",
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"text": "公爵は華族の中でも最上位の階級(従一位相当)であり、全爵位の中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉功アル者」と定められている。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である。",
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"text": "華族そのものが「皇室の藩屏」だが、公爵家はその中でも特に天皇に近しい選民集団だった。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった。天皇への拝謁には上から単独拝謁、広間で集団でお迎えする列立拝謁、廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが、公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた。また新年歌会始の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた。",
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"text": "華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年(大正4年)末時点における使用人数の平均は侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し、公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる。特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった。",
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"text": "1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより、公爵位を含めた華族制度は廃止された。",
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"text": "1889年(明治22年)の貴族院令(勅令第11号)により貴族院議員の種別として華族議員が設けられ(ほかに皇族議員と勅任議員がある)、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった。こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた(必ず入隊することになっていた皇族や王公族ほどではないものの、華族もノブレス・オブリージュの一環でなるべく入隊するよう奨励されていた)。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、近衛篤麿公爵、近衛文麿公爵、徳川家達公爵、二条基弘公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる。",
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"text": "また歴代貴族院議長は伊藤博文伯爵と松平頼寿伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが、公侯爵は長年各派に分散していた。しかし1927年(昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「火曜会」という公侯爵議員による院内会派が形成された。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで子爵を中心とする院内最大会派の研究会を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、木戸幸一侯爵、細川護立侯爵、広幡忠隆侯爵などが賛同して協力していた。",
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"text": "叙爵内規では公爵の基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉勲アル者」と定められていた。具体的には以下のようになっている。",
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"text": "西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている。",
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"text": "漢代においては二十等爵制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は三公と呼ばれた。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる。食邑は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている。その後西晋でも爵位制度は存続し、恵帝期以降には公・侯の濫授が行われた。このため東晋では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている。",
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"text": "南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた。",
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"text": "咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である司馬孚であり、晋王朝成立後は諸侯王となった。その他では魏皇帝の外戚二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった。三公であった王祥・鄭沖、そのほかの重臣賈充、石苞、衛瓘、裴秀、何曾たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている。",
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"text": "呉から降伏した孫秀、歩璿も公に叙せられている。太康の役の論功行賞としては、王渾が公となっている。",
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"text": "以降西晋期には宰相であった張華、前涼の基盤を作った張軌などが公となっている。東晋では建国に功のあった王導と、後に反乱を起こした王敦、前秦からの防衛に成功した謝安、武将の陶侃。そして東晋を滅ぼし宋を建国した劉裕などがいる。",
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"text": "唐においては太宗即位後に長孫無忌、高士廉(義興郡公)などの功臣が公となっている。 また宋代以降、孔子の直系である当主は衍聖公の爵位を受け、清末まで続いた。",
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"text": "イングランドに確固たる貴族制度を最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったが、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった。",
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"text": "イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。1337年にエドワード3世(在位:1327年-1377年)が皇太子エドワード黒太子にコーンウォール公爵(Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて1351年に同じくエドワード3世がヘンリー3世(在位:1216年-1272年)の曾孫であるヘンリーにランカスター公爵(Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した。",
"title": "イギリスの公爵"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、1483年にリチャード3世(在位:1483年-1485年)よりノーフォーク公爵(Duke of Norfolk)を与えられたジョン・ハワードである(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)。",
"title": "イギリスの公爵"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その後、臣民の公爵位はステュアート朝期(特に王政復古後の最初の国王チャールズ2世時代)に急増した。ハノーファー朝期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。",
"title": "イギリスの公爵"
},
{
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"text": "またジャコバイトの王位請求者たちが創設したジャコバイト貴族(英語版)の爵位にも17の公爵位がある。",
"title": "イギリスの公爵"
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{
"paragraph_id": 24,
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"text": "イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度が存在し、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても公爵位は第1位として存在する。",
"title": "イギリスの公爵"
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"text": "公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちはイングランド貴族公爵、スコットランド貴族公爵、グレートブリテン貴族公爵、アイルランド貴族公爵、連合王国貴族公爵の順番で序列付けられる。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、カンタベリー大主教、大法官、ヨーク大主教、首相、枢密院議長、庶民院議長、国璽尚書、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である。",
"title": "イギリスの公爵"
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{
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"text": "侯爵から男爵までの貴族が「卿(My Lord)」と呼び掛けられるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と呼び掛けられる。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する(父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける)。公爵と侯爵の息子は全員がLord(卿、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。",
"title": "イギリスの公爵"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった。",
"title": "イギリスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在の公爵位はランカスター公爵(英国王が保持)とコーンウォール公爵(皇太子が保持)以外は領地が付随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は貴族院議員になりえることである。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうちノーフォーク公爵家の当主は軍務伯を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない",
"title": "イギリスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語のドゥクス(dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身であるフランク王国がローマ帝国から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "フランスの諸侯はカロリング朝のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初辺境伯(marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "11世紀の著名な公爵には北部のノルマンディー公、西部のブルターニュ公、東部のブルゴーニュ公、南部のアキテーヌ公があった。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり、12世紀には「アンジュー帝国」と呼ばれる英仏海峡をまたぐ巨大勢力圏を築いた。カペー朝末には後にブルボン朝となるブルボン公が誕生している。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "オルレアン公、アンジュー公、ベリー公、アングレーム公、アランソン公、トゥーレーヌ公(フランス語版)などは伝統的に王族の爵位となった。",
"title": "フランスの公爵"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった。",
"title": "フランスの公爵"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "16世紀の宗教戦争時代にはシャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ公と、ラングドック、プロヴァンス、イル=ド=フランスに勢力を張るモンモランシー公が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった。",
"title": "フランスの公爵"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アンリ3世時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝のアンリ4世以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された。",
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他にヴァンドーム公、ヌヴェール公(フランス語版)、ベルガルド公(フランス語版)、ブイヨン公(フランス語版)、ロアン公(フランス語版)などがあった。ルイ13世の宰相アルマン・ジャン・デュ・プレシーはリシュリュー公爵(フランス語版)に叙位され、リシュリューの名で知られる。またルイ14世の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の7月革命後にルイ・フィリップの一代のみだがフランス王位に就いた(オルレアン朝)。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "フランス革命により貴族制度は廃止されたが、ナポレオンの第一帝政下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る帝国貴族(フランス語版)が創設され、警察大臣ジョゼフ・フーシェ(オトラント公爵(フランス語版))やミシェル・ネイ元帥(エルヒンゲン公爵)、オーギュスト・マルモン元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった。",
"title": "フランスの公爵"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "復古王政下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった。ただし貴族院が設置され、その議員の地位は世襲だった。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1848年の二月革命と1848年憲法で第二共和政になると貴族院と貴族の称号は廃止された。ナポレオン3世の第二帝政では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった。ナポレオン3世が創設した公爵位にはマラコフ公爵(フランス語版)(1856年エイマブル・ペリシエ(フランス語版))、マジェンタ公爵(フランス語版)(1859年パトリス・ド・マクマオン)、オーディフレ=パスキエ公爵(フランス語版)(1862年ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ(フランス語版))、モルニー公爵(フランス語版)(1862年シャルル・ド・モルニー)、 ペルシニー公爵(1863年ヴィクトール・ド・ペルシニー)、フェルトレ公爵(フランス語版)(1864年シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン(フランス語版))がある。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、1875年にフランス大統領パトリス・ド・マクマオンは貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した。1955年に裁判所は合憲性ブロック(フランス語版)の一部である1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している。",
"title": "フランスの公爵"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ドイツの称号で「公爵」と訳されるのはヘルツォーク(Herzog)である。これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族部族大公(Stammesherzog)のことだった。この時期のヘルツォークは「大公」と訳されるのが一般的である。次のものがある。",
"title": "ドイツの公爵"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "13世紀に現れた選帝侯7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった。三十年戦争後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった。",
"title": "ドイツの公爵"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ナポレオン戦争後、陪臣化などで諸侯の数が減らされ、ナポレオン失脚後のウィーン体制下でもその状態が維持され、ドイツ連邦には公爵が治める公国が以下の10個あった。",
"title": "ドイツの公爵"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "ナッサウ公国とホルシュタイン公国は普墺戦争後プロイセンに併合されて消滅し、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し、アンハルト諸国はアンハルト公国として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公、ザクセン=アルテンブルク公、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公、アンハルト公の5個だった。これ以外に統治領域がなくなっていた公爵としてロイヒテンベルク公、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公、ラチブシュ公、ウラッハ公などがある。",
"title": "ドイツの公爵"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ドイツ革命後、ヴァイマル共和政になると貴族は法的根拠を失ったが、爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた。",
"title": "ドイツの公爵"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からduque(公爵)、marqués(侯爵)、conde(伯爵)、vizconde(子爵)、 barón(男爵)、señor(領主)の6階級があり、公爵は最上位である。すべての公爵位にはグランデの格式が伴い、グランデ委員会に属する。グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性))」の敬称で呼ばれる。",
"title": "スペインの公爵"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に当主が軍人として活躍したアルバ公爵、アルマダの海戦の際に当主が無敵艦隊の司令官を務めたメディナ=シドニア公爵、新大陸発見者とされるクリストファー・コロンブスの子孫が保有するベラグア公爵とラ・ベガ公爵(スペイン語版)、アステカ皇帝モクテスマ2世の子孫が保有するモクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵(スペイン語版)、フェリペ3世の寵臣(スペイン語版)を初代とするレルマ公爵(スペイン語版)、フェリペ4世の寵臣を初代とするサンルーカル・ラ・マヨル公爵(スペイン語版)(オリバーレス伯爵の爵位を埋没させたがらず、「オリバーレス伯公爵」を名乗っていた)、ナポレオン戦争時代のイギリス軍司令官ウェリントン公に与えられたシウダ・ロドリゴ公爵、スペイン内戦を起こしたエミリオ・モラ(スペイン語版)の子孫が保有するモラ公爵(スペイン語版)、フランシスコ・フランコ総統の子孫が保有するフランコ公爵などがある。またオスーナ公爵(スペイン語版)は、19世紀末の当主(スペイン語版)が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで、浪費を指して「オスーナ家でもあるまいし」という言い回しができたことで有名になった。",
"title": "スペインの公爵"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "正式な称号とは認められていないが、カルリスタの王位請求者によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった。",
"title": "スペインの公爵"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが(「大公」や「王子」と訳されることもある)、これには皇太子に与えられるアストゥリアス公などがある。",
"title": "スペインの公爵"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる。爵位の継承には所定の料金がかかる。スペインに貴族院はなく、爵位をもっていても法的な特権は何も得られない。かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが、これも1984年に廃止されている。だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する。",
"title": "スペインの公爵"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した。",
"title": "スペインの公爵"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。",
"title": "スペインの公爵"
},
{
"paragraph_id": 54,
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"text": "2022年10月、国民記憶法(英語版)の施行により、以下の公爵位が強制的に称号廃止となった。",
"title": "スペインの公爵"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "帝政ロシアの貴族(ロシア語版)は17世紀以前のボヤール(モスクワ大公国以前からの諸侯)に由来するものと、18世紀以降ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "ロシア貴族の称号は当初は公爵(クニャージ、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世はドイツと同じ伯爵位(グラフ、граф, graf)、イギリスと同じ男爵位(バロン、барон、baron)を加えて爵位制度を作った。また皇族の称号として大公(ヴェリーキー・クニャージ、Великий князь)があった。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "帝政ロシア時代の公爵家にはドルゴルーコフ家、ゴリツィン家(ロシア語版)、ロプーヒン=デミドフ家、カンテミール家、ポチョムキン家(ロシア語版)、オボレンスキー家(ロシア語版)、ゴルチャコフ家(ロシア語版)、ロバノフ=ロストフスキー家(ロシア語版)、ユスポフ家(ロシア語版)、ヴォルコンスキー家(ロシア語版)などがあった。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "帝政ロシアの貴族の特徴はロマノフ朝皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年のピョートル3世の布告で廃止された。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した1785年のエカチェリーナ2世の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "ロシア革命により貴族身分は廃止され、ソビエト連邦時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、ソビエト連邦の崩壊後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている。",
"title": "ロシアの公爵"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "",
"title": "ロシアの公爵"
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公爵は、爵位(五爵)の第1位。侯爵の上位に相当する。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の日本語訳に使われる。
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'''公爵'''(こうしゃく、{{Lang-en-short|duke}}、{{Lang-la-short|dux}}、{{Lang-de-short|Herzog}})は、[[爵位]](五爵)の第1位。[[侯爵]]の上位に相当する<ref>[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]])942頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]])849頁参照。</ref>。[[ヨーロッパ]]諸国の[[貴族]]の爵位の[[日本語]]訳に使われる。
== 概要 ==
日本ではこの「[[公]]」によって(英語の場合であれば)[[プリンス|prince]]と[[デューク (称号)|duke]]の両方の称号を表そうとしたため混乱を生じることとなった。princeは基本的には小国の君主や諸侯、王族の称号であり、dukeは諸侯の称号である。日本語では、例えば[[モナコ]]や[[リヒテンシュタイン]]の君主、[[マルタ騎士団]]長などのprinceを「公」ではなく「[[大公]]」と訳すことで「公爵」(duke)との区別をつけようとする場合がある。ただし、こうして便宜的に使用された場合の「大公」は、[[ルクセンブルク]]の君主がもつ称号grand dukeや[[ロシア帝国|ロシア]]等のgrand prince、[[オーストリア]]の[[オーストリア大公|archduke]]と区別される必要が改めて生じてくる。逆に、日本の華族制度における「公爵」の公式英訳にはdukeではなくprinceが当てられた。
日本語では[[侯爵]]と発音が同じであることから区別する必要があるときは「おおやけ-こうしゃく」と呼ばれた。
== 日本の公爵 ==
=== 華族の公爵 ===
[[1869年]](明治2年)[[6月17日]]の行政官達543号において[[公家]]と[[武家]]の最上層である[[大名家]]を「[[皇室]]の藩屏」として統合した[[華族]]身分が誕生した{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-18}}。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の[[尾崎三良]]と同少書記官の[[桜井能監]]が[[1878年]](明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された{{sfn|小田部雄次|2006|p=21}}。
[[1884年]](明治17年)5月頃に賞勲局総裁[[柳原前光]]らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ{{sfn|浅見雅男|1994|p=71-76}}、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり{{sfn|小田部雄次|2006|p=26}}、同年[[7月7日]]に発せられた[[華族令]]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された{{sfn|小田部雄次|2006|p=30}}。
公爵は華族の中でも最上位の階級([[従一位]]相当{{sfn|居相正広|1925|page=21}})であり、全爵位の中でも最も少数だった。叙爵内規では公爵の叙爵基準について「[[親王]][[王 (皇族)|諸王]]ヨリ臣位に列セラルル者 旧[[摂家]] [[徳川宗家]] 国家二偉功アル者」と定められている{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。公爵家の数は1884年時点では11家(華族家の総数509家)、1907年には15家(同903家)、1926年時には19家(952家)、1947年時には17家(889家)である{{sfn|小田部雄次|2006|p=56}}。
華族そのものが「皇室の藩屏」だが、公爵家はその中でも特に[[天皇]]に近しい選民集団だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=57}}。皇族妃となるのは公侯爵の娘が多く、さらに公侯爵は伯子男爵家と婚姻関係を持ったので、皇族と華族は親類縁者の集合体として一体化していった{{sfn|小田部雄次|2006|p=18}}。天皇への拝謁には上から単独拝謁、広間で集団でお迎えする列立拝謁、廊下や庭園などに居並ぶ通御懸け拝謁の三種類あるが、公侯爵のような上級華族は単独拝謁が許されていた{{sfn|酒井美意子|1982|p=47}}。また[[新年歌会始]]の読師は伯爵以上の有爵者でなければならないとされていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=49}}。
華族の使用人数は一般に爵位の高い家ほど多い傾向があるが、1915年(大正4年)末時点における使用人数の平均は侯爵家が43.7人から47.8名であるのに対し、公爵家のそれは10名ほど少ない。侯爵家の方が資産家である旧大藩大名華族が多いためと思われる{{sfn|小田部雄次|2006|p=65}}。特に旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、明治27年(1894年)には[[明治天皇]]の結婚25周年記念で「旧[[堂上家|堂上]]華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった{{sfn|浅見雅男|1994|p=34}}。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった{{sfn|浅見雅男|1994|p=116-117}}。
[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に施行された[[日本国憲法]][[日本国憲法第14条|第14条]]([[法の下の平等]])において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより、公爵位を含めた華族制度は廃止された。
==== 貴族院における公爵====
[[1889年]](明治22年)の[[貴族院令]]([[勅令]]第11号)により貴族院議員の種別として[[貴族院 (日本)#華族議員|華族議員]]が設けられ(ほかに[[皇族議員]]と[[貴族院 (日本)#勅任議員|勅任議員]]がある){{sfn|百瀬孝|1990|p=37}}、公侯爵は満25歳(大正14年以降は満30歳)に達すれば自動的に終身で貴族院議員に列することとなった{{sfn|内藤一成|2008|p=15}}。これに対して伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年の華族議員となった{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。また公侯爵議員が無給だったのに対し、伯爵以下の議員は有給であるという違いがあった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。こうした違いから公侯爵議員は伯爵以下の議員たちほど貴族院活動に熱心ではない傾向があり、本会議出席率さえ十分ではなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}{{sfn|百瀬孝|1990|p37-38}}。特に現役軍人である公侯爵議員は皇族議員と同様に軍人の政治不関与の原則から貴族院に出席しないのが慣例になっていた{{sfn|百瀬孝|1990|p38}}{{sfn|内藤一成|2008|p=15}}(必ず入隊することになっていた[[皇族]]や[[王公族]]ほどではないものの、華族も[[ノブレス・オブリージュ]]の一環でなるべく入隊するよう奨励されていた{{sfn|小田部雄次|2006|p=89-90}})。しかし公侯爵全員が不熱心だったわけではなく、[[近衛篤麿]]公爵、[[近衛文麿]]公爵、[[徳川家達]]公爵、[[二条基弘]]公爵など代表的な貴族院政治家として活躍した公爵もいる{{sfn|内藤一成|2008|p=15}}。
また歴代[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]は[[伊藤博文]]伯爵と[[松平頼寿]]伯爵を除き全員が公侯爵であり、貴族院副議長も公侯爵が多かった。議院内の役職に家格意識が反映されるのは近世以前の序列意識に基づく「座りの良さ」のあらわれであり、これが議事運営に影響を与えるというのが貴族院の特徴の一つであった{{sfn|内藤一成|2008|p=42}}。貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていたが{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}、公侯爵は長年各派に分散していた{{sfn|原口大輔|2018|p=206}}。しかし[[1927年]](昭和2年)には近衛文麿公爵の主導で「[[火曜会]]」という公侯爵議員による院内会派が形成された{{sfn|小田部雄次|2006|p=45}}。これは互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで[[子爵]]を中心とする院内最大会派の[[研究会 (貴族院)|研究会]]を抑え込み、貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にすることができるという考えに立脚したものだった。近衛文麿公爵のほか、徳川家達公爵、[[木戸幸一]]侯爵、[[細川護立]]侯爵、[[広幡忠隆]]侯爵などが賛同して協力していた{{sfn|原口大輔|2018|p=206-207}}。
====叙爵内規====
叙爵内規では公爵の基準について「[[親王]][[王 (皇族)|諸王]]ヨリ臣位に列セラルル者 旧[[摂家]] [[徳川宗家]] 国家二偉勲アル者」と定められていた{{sfn|百瀬孝|1990|p=242}}。具体的には以下のようになっている。
#'''親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者''' - 「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時(明治17年当時)においては明確な定義はなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。当初は[[伏見宮家]]、[[桂宮家]]、[[有栖川宮家]]、[[閑院宮家]]の[[世襲親王家|四親王家]]以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際には該当者は維新の功により皇族となったので(これにより親王家は4家から15家に増えていた)、華族令制定当時において「親王諸王より臣位に列せらるる者」に該当する者は存在しなかった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。皇族急増により1907年(明治40年)2月11日の皇室典範増補第1条で「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」と定められたことで臣籍降下で華族になる例が増えてくるが、公爵になった者はおらず、[[侯爵]]か[[伯爵]]だった{{sfn|小田部雄次|2006|p=29}}。
#'''旧[[摂家]]'''。公家社会でも最高位に属するとされ、[[摂政]]・[[関白]]に昇る資格を持っていた家柄である。[[近衛家]]、[[鷹司家]]、[[九条家]]、[[一条家]]、[[二条家]]の計5家。
#'''徳川宗家''' - 旧将軍家・旧静岡藩主の[[徳川将軍家|徳川宗家]]のことである。
#'''国家二偉勲アル者''' - 勲功華族の規定。侯爵以下の爵位の勲功華族の規定は「国家ニ勲功アル者」になっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求される。これは3種に大別できる。
##「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。旧[[清華家]]の[[三条家]](家格では[[侯爵]]{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}}だが[[三条実美]]の功績により)、旧[[羽林家]]の[[岩倉家]](家格では[[子爵]]{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}}だが[[岩倉具視]]の功績により)、旧[[鹿児島藩|薩摩鹿児島藩主]]の[[島津家]](家格では侯爵{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}}だが[[島津忠義]]の功績により)、旧[[長州藩|長門萩藩主]]の[[毛利家]](家格では侯爵{{sfn|浅見雅男|1994|p=92}}だが[[毛利敬親]]・[[毛利元徳|元徳]]の功績により)の4家がこれにあたる。また、後年[[侯爵]]から陞爵した旧清華家[[西園寺家]]([[西園寺公望]]の功績により)、旧清華家[[徳大寺家]]([[徳大寺実則]]の功績により)、旧[[水戸藩|水戸藩主]][[水戸徳川家]](『[[大日本史]]』編纂の功績により)の3家もこれに含めて考えられる。
##本家がすでに公爵となっているにもかかわらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として[[幕末]]の[[薩摩藩]]に大きな影響を与えた[[島津久光]]とその子孫([[玉里島津家]])、[[大政奉還]]後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の[[徳川慶喜]]とその子孫([[徳川慶喜家]])の2家である。叙爵内規上明治以降の華族の分家は[[男爵]]と定められていたのでこの二家は岩倉家の三階級特進を超える四階級特進だったといえる{{sfn|浅見雅男|1994|p=97}}。
##家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。[[伊藤博文]]の[[伊藤氏#伊藤家 (公爵)|伊藤家]]、[[大山巌]]の[[大山氏#大山巌公爵家|大山家]]、[[山縣有朋]]の[[山県氏#安芸山県氏|山縣家]]、[[松方正義]]の[[松方氏|松方家]]、[[桂太郎]]の[[桂氏#大江姓桂氏|桂家]]の五家である。いずれも[[内閣総理大臣]]など国家中枢の役職を歴任して[[元勲]]と称された人々であり、当初[[子爵]]ないし[[伯爵]]の爵位を受け、その後、日清戦争や日露戦争などで勲功を重ねて侯爵を経て陞爵したものである{{sfn|小田部雄次|2006|p=58}}。
====日本の公爵家一覧====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+
!家紋!!家名(通称等)!!受爵者<br />襲爵者!!旧家格<br/>出自!!叙爵年<br/>所在など
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|[[ファイル:Konoe Botan inverted.png|80px|frameless|近衛牡丹]]||[[近衛家]]||[[近衛篤麿]]<br />[[近衛文麿]]||[[摂家|旧摂関家]]<br/>[[藤原北家]]嫡流([[近衛流]]嫡流)||[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]、叙爵。<br />1945年(昭和20年)[[12月16日]]、返上。<br />[[東京市]][[淀橋区]][[下落合 (新宿区)|下落合]]
|-
|[[ファイル:Takatsukasa Botan inverted.png|80px|frameless|鷹司牡丹]]||[[鷹司家]]||[[鷹司熙通]]<br />[[鷹司信輔]]||旧摂関家<br />藤原北家嫡流([[近衛流]])||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[目黒区]][[上目黒]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=10}}
|-
|[[ファイル:Kujō Fuji inverted.png|80px|frameless|九条藤]]||[[九条家]]||[[九条道孝]]<br />[[九条道実]]<br />[[九条道秀]]||旧摂関家<br/>藤原北家嫡流([[九条流]]嫡流)||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[赤坂区]][[赤坂福吉町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=16}}
|-
|[[File:Ichijō Fuji inverted.png|80px|frameless|一条藤]]||[[一条家]]||[[一条実輝]]<br />[[一条実孝]]||旧摂関家<br />藤原北家嫡流([[九条流]])||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[牛込区]][[市谷鷹匠町|鷹匠町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=11}}
|-
|[[ファイル:Nijō Fuji inverted.png|80px|frameless|二条藤]]||[[二条家]]||[[二条基弘]]<br />[[二条厚基]]<br />[[二条弼基]]||旧摂関家<br/>藤原北家嫡流([[九条流]])||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[渋谷区]][[代々木]][[富ヶ谷|富ケ谷]]町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=23}}
|-
|[[File:Sanjō Hanakaku inverted.svg|80px|frameless|片喰に唐花]]||[[三条家]]<br/>(転法輪家)||[[三条実美]]<br />[[三条公美]]<br />[[三条実憲]]<br />[[三条公輝]]<br />[[三条実春]]||旧[[清華家]]<br />藤原北家[[閑院流]]嫡流||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[品川区]][[上大崎]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=13}}
|-
|[[File:Mitsubaaoi.jpg|80px|frameless|丸に三つ葉葵]]||[[徳川将軍家|徳川家]]<br/>(徳川宗家)||[[徳川家達]]<br />[[徳川家正]]||旧将軍家/旧[[静岡藩]]主<br/>[[清和源氏]]と称する。||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市渋谷区[[千駄ヶ谷]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=4}}
|-
|[[File:Japanese Crest Maruni Juuji.png|80px|frameless|丸に十文字]]||[[島津家]]<br/>(島津宗家)||[[島津忠義]]<br />[[島津忠重]]||旧[[鹿児島藩]]主<br />清和源氏と称する(本来は[[惟宗氏]])。||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市品川区[[五反田]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=6}}
|-
|[[File:Japanese Crest Maruni Juuji.png|80px|frameless|丸に十文字]]||[[玉里島津家|島津家]]<br/>(玉里家)||[[島津久光]]<br />[[島津忠済]]<br />[[島津忠承]]||島津宗家分家<br />清和源氏と称する(本来は[[惟宗氏]])。||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市渋谷区豊分町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=14}}
|-
|[[ファイル:Ichimonjimitsuboshi.png|80px|frameless|一文字三星(長門星)]]||[[毛利家]]||[[毛利元徳]]<br />[[毛利元昭]]<br />[[毛利元道]]||旧[[萩藩]]主<br />[[大江氏]]||1884年(明治17年)7月7日、叙爵。<br/>東京市[[芝区]]高輪南町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=22}}<br/>[[山口県]][[防府市]]多々良<ref name="mori">{{Cite web|和書|url=https://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/ha_rekishi/index.html|title=毛利博物館(毛利邸)の歴史|publisher= 毛利博物館|date= |accessdate=2021-09-12}}</ref>
|-
|[[File:Sasa rindo.svg|80px|frameless|笹竜胆]]||[[岩倉家]]||[[岩倉具定]]<br />[[岩倉具張]]<br />[[岩倉具栄]]||旧[[羽林家]]<br/>[[村上源氏]]||1884年(明治17年)7月8日、叙爵。<br/>東京市渋谷区[[鉢山町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=15}}
|-
|[[File:Mitsubaaoi.jpg|80px|frameless|丸に三つ葉葵]]||[[徳川慶喜家|徳川家]]<br/>(徳川別家)||[[徳川慶喜]]<br />[[徳川慶久]]<br />[[徳川慶光]]||徳川宗家別家<br />清和源氏と称する。||[[1902年]](明治35年)[[6月3日]]、叙爵。<br/>東京市[[小石川区]]小日向第六天町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=24}}
|-
|[[File:Agari Fuji (No background and black color drawing).svg|80px|frameless|上がり藤]]||[[伊藤氏#伊藤家 (公爵)|伊藤家]]||[[伊藤博文]]<br />[[伊藤博邦]]<br />[[伊藤博精]]||旧萩藩士<br />[[越智氏]]と称する。||[[1907年]](明治40年)[[9月21日]]、[[侯爵]]より[[陞爵]]。<br/>東京市[[麻布区]]新龍土町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=18}}
|-
|[[ファイル:家紋・丸に隅立て四つ目.gif|80px|frameless|丸に隅立て四つ目]]||[[大山氏#大山巌公爵家|大山家]]||[[大山巌]]<br />[[大山柏]]||旧鹿児島藩士<br />[[近江源氏]]||1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵。<br/>東京市渋谷区穏田{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=10}}
|-
|[[ファイル:Maruni mitsuuroko.png|80px|frameless|丸に三つ鱗]]||[[山県氏#安芸山県氏|山縣家]]||[[山縣有朋]]<br />[[山縣伊三郎]]<br />[[山縣有道]]<br/>[[山縣有信]]||旧萩藩士<br />清和源氏と称する。||1907年(明治40年)9月21日、侯爵より陞爵<br/>東京市[[麴町区]][[富士見 (千代田区)|富士見町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=17}}
|-
|[[ファイル:Tokudaiji-ke Hanakaku inverted.png|80px|frameless|木瓜唐花浮線綾]]||[[徳大寺家]]||[[徳大寺実則]]<br />[[徳大寺公弘]]<br />[[徳大寺実厚]]||旧清華家<br />藤原北家閑院流||[[1911年]](明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。<br/>東京市渋谷区長谷戸町{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=21}}
|-
|[[ファイル:花菱 Hanabishi.svg|80px|frameless|唐花菱]]||[[桂氏#大江姓桂氏|桂家]]||[[桂太郎]]<br />[[桂広太郎]]||旧萩藩士<br />大江氏||[[1911年]](明治44年)4月21日、侯爵より陞爵。<br/>東京市芝区三田{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=20}}
|-
|[[File:Hidari mitsudomoe.svg|80px|frameless|左三つ巴]]||[[西園寺家]]||[[西園寺公望]]<br />[[西園寺八郎]]||旧清華家<br />藤原北家閑院流||[[1920年]]([[大正]]9年)[[9月7日]]、侯爵より陞爵。<br />[[1946年]]([[昭和]]21年)[[7月1日]] 返上。<br/>[[静岡県]][[庵原郡]][[興津町 (静岡県)|興津町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=3}}<br/>東京市[[神田区]][[駿河台]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=3}}
|-
|[[ファイル:No image available.svg|80px|frameless|抱き菊の葉に抱き茗荷]]||[[松方氏|松方家]]||[[松方正義]]<br />[[松方巖]]||旧鹿児島藩士<br/>[[桓武平氏]]||[[1922年]](大正11年)[[9月18日]]、侯爵より陞爵。<br />[[1927年]](昭和2年)[[12月19日]]、返上。
|-
|[[File:Mito mitu Aoi (No background and black color drawing).svg|80px|frameless|水戸三葵]]||[[水戸徳川家|徳川家]]<br/>(水戸家)||[[徳川圀順]]||旧[[水戸藩]]主<br />清和源氏と称する。||[[1929年]](昭和4年)[[11月18日]] 、侯爵より陞爵。<br/>東京市渋谷区[[猿楽町 (渋谷区)|猿楽町]]{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=7}}
|}
== 中国の公爵 ==
{{see also|{{仮リンク|中国の爵位|zh|中国爵位}}}}
[[周|西周]]時代に設置された爵について、『[[礼記]]』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「公」は五つある爵の最上位に位置づけている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=2-3}}。一方で『[[孟子 (書物)|孟子]]』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、公の表記はない{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。『礼記』・『孟子』とともに侯は公とともに百里四方の領地をもつものと定義している{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=3}}。また『[[春秋公羊伝]]』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=5}}。金文史料が検討されるようになって[[傅期年]]、[[郭沫若]]、[[楊樹達]]といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=4}}。[[王世民]]が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている{{sfn|石黒ひさ子|2006|p=6}}。
[[漢]]代においては[[二十等爵]]制が敷かれ、「公」の爵位は存在しなかったが、特に身分の高い三つの官職は[[三公]]と呼ばれた。[[魏 (三国)|魏]]の[[咸熙]]元年(264年)、爵制が改革され、公の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や[[亭侯]]の上位に置かれ、[[諸侯王]]の下の地位となる{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。[[食邑]]は郡公なら一万戸で諸侯王に並び、県公なら千八百戸、七十五里四方の土地が与えられることとなっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=86-87}}。その後[[西晋]]でも爵位制度は存続し{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]期以降には公・侯の濫授が行われた{{sfn|袴田郁一|2014|p=95}}。このため[[東晋]]では恵帝期の爵位を格下げすることも行われている{{sfn|袴田郁一|2014|p=93}}。
[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]においても晋の制度に近い叙爵が行われている。[[隋]]においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、[[唐]]においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。
=== 主要な中国の公爵 ===
咸熙元年の五等爵制発足時には、公となったのは司馬氏の長老である[[司馬孚]]であり、晋王朝成立後は諸侯王となった{{sfn|袴田郁一|2014|p=100}}。その他では魏皇帝の[[外戚]]二名が公となっており、発足時点では公は3名のみであった{{sfn|袴田郁一|2014|p=98}}。[[三公]]であった[[王祥]]・[[鄭沖]]、そのほかの重臣[[賈充]]、[[石苞 (西晋)|石苞]]、[[衛瓘]]、[[裴秀]]、[[何曾]]たちが侯となったが、晋王朝成立後はいずれも公となっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=103}}。またこの際には魏の諸侯王たちが公に格下げされている{{sfn|袴田郁一|2014|p=102-103}}。
[[呉 (三国)|呉]]から降伏した[[孫秀]]、[[歩璿]]も公に叙せられている{{sfn|袴田郁一|2014|p=102-103}}。[[呉の滅亡 (三国)|太康の役]]の論功行賞としては、[[王渾]]が公となっている{{sfn|袴田郁一|2014|p=106}}。
以降西晋期には宰相であった[[張華]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=107}}、[[前涼]]の基盤を作った[[張軌]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=110}}などが公となっている。東晋では建国に功のあった[[王導]]と、後に反乱を起こした[[王敦]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=112}}、[[前秦]]からの防衛に成功した[[謝安]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=114}}、武将の[[陶侃]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=113}}。そして東晋を滅ぼし[[宋 (南朝)|宋]]を建国した[[劉裕]]{{sfn|袴田郁一|2014|p=115}}などがいる。
唐においては[[太宗 (唐)|太宗]]即位後に[[長孫無忌]]、[[高士廉]](義興郡公)などの功臣が公となっている{{sfn|今堀誠二|p=422-423}}。
また宋代以降、[[孔子]]の直系である当主は[[衍聖公]]の爵位を受け、清末まで続いた。
== イギリスの公爵 ==
[[File:Coronet of a British Duke.svg|180px|thumb|イギリスの公爵の[[紋章]]上の冠]]
[[イングランド王国|イングランド]]に確固たる貴族制度を最初に築いた王は[[ウィリアム1世 (イングランド王)|征服王ウィリアム1世]](<small>在位:[[1066年]]-[[1087年]]</small>)である。彼はもともとフランスの[[ノルマンディー公]]であったが、[[エドワード懺悔王]](<small>在位:[[1042年]]-[[1066年]]</small>)の崩御後、イングランド王位継承権を主張して[[1066年]]にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた([[ノルマン・コンクエスト]])。重用した臣下もフランスから連れて来た[[ノルマン人]]だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれることになった<ref name="小林(1991)16-17">[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.16-17</ref>。
イングランドの公爵(Duke)は、伯爵(Earl)と男爵(Baron)に続いて創設された爵位だった。[[1337年]]に[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](<small>在位:[[1327年]]-[[1377年]]</small>)が皇太子[[エドワード黒太子]]に[[コーンウォール公爵]](Duke of Cornwall)位を与えたのが公爵の最初である。続いて[[1351年]]に同じくエドワード3世が[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]](<small>在位:[[1216年]]-[[1272年]]</small>)の曾孫である[[ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公)|ヘンリー]]に[[ランカスター公爵]](Duke of Lancaster)位を与えたことで公爵位が貴族の最上位で王位に次ぐ称号であることが明確化した<ref name="森(1987)5">[[#森(1987)|森(1987)]] p.5</ref>。
臣民に公爵位が与えられた最初の事例は、[[1483年]]に[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]](<small>在位:[[1483年]]-[[1485年]]</small>)より[[ノーフォーク公爵]](Duke of Norfolk)を与えられた[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]である(もっとも彼も先祖を遡れば王族にたどり着く)<ref name="森(1987)6">[[#森(1987)|森(1987)]] p.6</ref><ref name="小林(1991)18">[[#小林(1991)|小林(1991)]] p.18</ref>。
その後、臣民の公爵位は[[ステュアート朝]]期(特に[[イングランド王政復古|王政復古]]後の最初の国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]時代)に急増した。[[ハノーファー朝]]期にも公爵位の授与が行われ、最も多い時期には40家の公爵家が存在した。しかし家系の断絶でその数は減少していった<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.7-8</ref>。2021年現在臣民の公爵家は24家にまで減っている。
また[[ジャコバイト]]の[[ジャコバイト王位継承者の一覧|王位請求者]]たちが創設した{{仮リンク|ジャコバイト貴族|en|Jacobite peerage}}の爵位にも17の公爵位がある。
[[イングランド王国]]、[[スコットランド王国]]、[[アイルランド王国]]それぞれに貴族制度が存在し、それぞれを[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[アイルランド貴族]]という。イングランド王国とスコットランド王国が[[グレートブリテン王国]]として統合された後は新設爵位は[[グレートブリテン貴族]]として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国が[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]]として統合された後には新設爵位は[[連合王国貴族]]として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても公爵位は第1位として存在する。
公爵内の序列はまず王族公爵が別格で先頭である。その下におかれる臣民公爵たちは[[イングランド貴族]]公爵、[[スコットランド貴族]]公爵、[[グレートブリテン貴族]]公爵、[[アイルランド貴族]]公爵、[[連合王国貴族]]公爵の順番で序列付けられる<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.9</ref>。宮中席次における臣民公爵の序列は、国王(女王)、王妃(王配)、皇太子、王子、[[カンタベリー大主教]]、[[大法官]]、[[ヨーク大主教]]、[[イギリスの首相|首相]]、[[枢密院議長 (イギリス)|枢密院議長]]、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議長、[[国璽尚書]]、英連邦高等弁務官及び外国大使に次ぐ13番目である<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.11-12</ref>。
侯爵から男爵までの貴族が「卿(My Lord)」と呼び掛けられるのに対し、公爵のみは「閣下(Your Grace)」と呼び掛けられる<ref name="森(1987)15">[[#森(1987)|森(1987)]] p.15</ref>。また公爵・侯爵・伯爵は従属爵位を持っているのが一般的であり、その嫡男は父の持つ爵位のうち二番目の爵位を[[儀礼称号]]として称する<ref name="森(1987)15" />(父と混同されないよう主たる爵位と同じ名前や等級の爵位は避ける)。公爵と侯爵の息子は全員がLord([[卿]]、ロード)を、娘はLady(レディ)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、[[1963年]]の[[1963年貴族法|貴族法]]制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった{{Sfn|前田英昭|1976|p=46-58}}。
現在の公爵位は[[ランカスター公爵]](英国王が保持)と[[コーンウォール公爵]](皇太子が保持)以外は領地が付随するわけでもなく、貴族称号を保持することの唯一の具体的な効果は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員になりえることである。かつては原則として全[[世襲貴族]]が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年まで[[スコットランド貴族]]と[[アイルランド貴族]]は[[貴族代表議員]]に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は[[1922年]]のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、[[1999年]]以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。なお公爵のうち[[ノーフォーク公爵]]家の当主は[[軍務伯]]を世襲で務める関係上必ず貴族院議員になる。公爵だからと貴族院で特別に重んじられるような制度はなく、貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない{{Sfn|田中嘉彦|2009|p=279/290}}
=== 現存する公爵位 ===
==== 王族公爵位 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! 紋章
! 爵位名<br />(爵位の創設年と分類)
! 現公爵の肖像
! 現公爵の名前
! 備考
|-
| [[File:Arms of the Duchy of Cornwall (Variant 1).svg|80px]]
| '''[[コーンウォール公爵]]'''<br />([[1337年]]創設[[イングランド貴族]])
| rowspan="3" |[[File:Duke Cambridge2013,6.jpg|80px]]
| rowspan="3" |[[プリンス・オブ・ウェールズ]]<br />[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム]]<br /><small>(1982 - )</small>
| rowspan="3" |[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世国王]]の長男、皇太子
|-
| [[File:Shield of Arms of the Duke of Rothesay.svg|80px]]
| '''[[ロスシー公爵]]'''<br />([[1398年]]創設[[スコットランド貴族]])
|-
| [[File:Arms of William, Duke of Cambridge.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th Gules three lions passant guardant in pale Or armed and langued Azure (for England), 2nd quarter Or a lion rampant within a double tressure flory-counter-flory Gules (for Scotland), 3rd quarter Azure a harp Or stringed Argent (for Ireland), with over all a label of three points Argent the central point charged with an Escallop Gules.]]
| '''[[ケンブリッジ公爵]]'''<br />([[2011年]]創設[[連合王国貴族]])
|-
| [[File:Arms of Edward, Earl of Wessex.svg|80px]]
| '''[[エディンバラ公爵]]'''<br />([[2023年]]創設[[連合王国貴族]])
| [[File:Prince_Edward_February_2015.jpg|80px]]
| 初代エディンバラ公爵<br />[[エドワード (エディンバラ公爵)|エドワード]]<br /><small>(1964 - )</small>
| エリザベス2世女王の三男
|-
| [[File:Arms of Richard, Duke of Gloucester.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th Gules three lions passant guardant in pale Or armed and langued Azure (for England), 2nd quarter Or a lion rampant within a double tressure flory-counter-flory Gules (for Scotland), 3rd quarter Azure a harp Or stringed Argent (for Ireland), with over all a label of five points Argent, the centre and two outer points charged with a cross Gules, and the inner points with a lion passant guardant also of Gules.]]
| '''[[グロスター公爵]]'''<br />([[1928年]]創設[[連合王国貴族]])
| [[File:The Duke of Gloucester in 2008 cropped2.jpg|80px]]
| 第2代グロスター公爵<br />[[リチャード (グロスター公)|リチャード]]<br /><small>(1944 - )</small>
| [[エリザベス2世|エリザベス2世女王]]の従弟
|-
| [[File:Arms of Edward, Duke of Kent.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th Gules three lions passant guardant in pale Or armed and langued Azure (for England), 2nd quarter Or a lion rampant within a double tressure flory-counter-flory Gules (for Scotland), 3rd quarter Azure a harp Or stringed Argent (for Ireland), with over all a label of five points Argent, the first, third and fifth points charged with a anchor Azure, and the second and fourth points with a cross Gules.]]
| '''[[ケント公爵]]'''<br />([[1934年]]創設[[連合王国貴族]])
| [[File:Duke of Kent2013,6.jpg|80px]]
| 第2代ケント公爵<br />[[エドワード (ケント公)|エドワード]]<br /><small>(1935 - )</small>
| エリザベス2世女王の従弟
|-
| [[File:Arms of Andrew, Duke of York.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th Gules three lions passant guardant in pale Or armed and langued Azure (for England), 2nd quarter Or a lion rampant within a double tressure flory-counter-flory Gules (for Scotland), 3rd quarter Azure a harp Or stringed Argent (for Ireland), with over all a label of three points Argent the central point charged with an Anchor Azure.]]
| '''[[ヨーク公爵]]'''<br />([[1986年]]創設[[連合王国貴族]])
| [[File:Príncipe André do Reino Unido.jpg|80px]]
| 初代[[ヨーク公爵]]<br />[[アンドルー (ヨーク公)|アンドルー]]<br /><small>(1960 - )</small>
| エリザベス2世女王の次男
|-
| [[File:Arms of Harry, Duke of Sussex.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th Gules three lions passant guardant in pale Or armed and langued Azure (for England), 2nd quarter Or a lion rampant within a double tressure flory-counter-flory Gules (for Scotland), 3rd quarter Azure a harp Or stringed Argent (for Ireland), with over all a label of five points Argent the first, third and fifth points charged with an Escallop Gules.]]
| '''[[サセックス公爵]]'''<br />([[2018年]]創設[[連合王国貴族]])
| [[File:Prince Harry Trooping the Colour cropped.JPG|80px]]
| 初代[[サセックス公爵]]<br />[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー]]<br /><small>(1984 - )</small>
| チャールズ3世国王の次男
|}
==== 臣民公爵位 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
! 紋章
! 爵位名<br />(爵位の創設年と分類)<br />家名
! 現公爵の肖像
! 現公爵の名前
|-
| [[File:Arms of the Duke of Norfolk.svg|80px|frameless|Quarterly 1st Gules on a Bend between six Cross-crosslets fitchy Argent an Escutcheon Or charged with a Demi-lion rampant pierced through the mouth by an arrow within a Double Tressure flory counterflory of the first (Howard); 2nd Gules three Lions passant guardant in pale Or, Armed and Langued Azure, in chief a Label of three points Argent (Thomas of Brotherton); 3rd Checky Or and Azure (Warenne); 4th Gules a Lion rampant Or, Armed and Langued Azure (Fitzalan).]]
| '''[[ノーフォーク公爵]]'''<br />([[1483年]]創設[[イングランド貴族]])<br />[[フィッツアラン=ハワード家]]
| [[File:18th Duke of Norfolk 3 Allan Warren.JPG|80px]]
| 第18代ノーフォーク公爵<br />[[エドワード・フィッツアラン=ハワード (第18代ノーフォーク公)|エドワード・フィッツアラン=ハワード]]<br /><small>(1956 - )</small>
|-
| [[File:Coat of Arms of the Duke of Somerset.svg|80px|frameless|Quarterly: 1st and 4th Or on a pile Gules between six fleurs de lys Azure three lions of England Or; 2nd and 3rd, Gules, two wings conjoined in lure Or]]
| '''[[サマセット公爵]]'''<br />([[1547年]]創設[[イングランド貴族]])<br />[[シーモア家]]
| [[File:Official portrait of The Duke of Somerset crop 2.jpg|80px]]
| 第19代サマセット公爵<br />{{仮リンク|ジョン・シーモア (第19代サマセット公)|label=ジョン・シーモア|en|John Seymour, 19th Duke of Somerset}}<br /><small>(1952 - )</small>
|-
| rowspan="3" |[[File:Duke of richmond.svg|80px|frameless|Quarterly: 1st and 4th grand quarters, the Royal Arms of Charles II (viz. quarterly: 1st and 4th, France and England quarterly; 2nd, Scotland; 3rd, Ireland); the whole within a bordure company argent charged with roses gules barbed and seeded proper and the last; overall an escutcheon gules charged with three buckles or (the Dukedom of Aubigny); 2nd grand quarter, argent a saltire engrailed gules between four roses of the second barbed and seeded proper (Lennox); 3rd grand quarter, quarterly, 1st, azure three boars' heads couped or (Gordon); 2nd, or three lions' heads erased gules (Badenoch); 3rd, or three crescents within a double tressure flory counter-flory gules (Seton); 4th, azure three cinquefoils argent (Fraser).]]
| '''[[リッチモンド公爵]]'''<br />([[1675年]]創設[[イングランド貴族]])<br />ゴードン=レノックス家
| rowspan="3" |[[ファイル:Lord March.JPG|80px]]
| rowspan="3" |第11代リッチモンド公爵<br />第11代レノックス公爵<br />第6代ゴードン公爵<br />{{仮リンク|チャールズ・ゴードン=レノックス (第11代リッチモンド公爵)|label=チャールズ・ゴードン=レノックス|en|Charles Gordon-Lennox, 11th Duke of Richmond}}<br /><small>(1955 - )</small>
|-
| '''[[レノックス公爵]]'''<br />([[1675年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />ゴードン=レノックス家
|-
| '''[[ゴードン公爵]]'''<br />([[1876年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ゴードン=レノックス家
|-
| [[File:Blason Henri Charles FitzRoy (1663-1690), 1er Duc de Grafton.svg|80px|frameless|Quarterly: 1st and 4th, France and England quarterly; 2nd, Scotland; 3rd, Ireland; the whole debruised by a Baton sinister compony of six pieces Argent and Azure.]]
| '''[[グラフトン公|グラフトン公爵]]'''<br />([[1675年]]創設[[イングランド貴族]])<br />フィッツロイ家
| [[File:12th Duke of Grafton 3 Allan Warren.JPG|80px]]
| 第12代グラフトン公爵<br />{{仮リンク|ヘンリー・フィッツロイ (第12代グラフトン公爵)|label=ヘンリー・フィッツロイ|en|Henry FitzRoy, 12th Duke of Grafton}}<br /><small>(1978 - )</small>
|-
| [[File:Beaufort Arms (France modern).svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th, azure three fleurs-de-lys or (for France); 2nd and 3rd, gules three lions passant guardant in pale or (for England), all within a bordure compony argent and azure]]
| '''[[ボーフォート公爵]]'''<br />([[1682年]]創設[[イングランド貴族]])<br />サマセット家
|
| 第12代ボーフォート公爵<br />{{仮リンク|ヘンリー・サマセット (第12代ボーフォート公爵)|label=ヘンリー・サマセット|en|Henry Somerset, 12th Duke of Beaufort}}<br /><small>(1952 - )</small>
|-
| [[File:Blason Charles Ier Beauclerk (1670-1726) 1er duc de Saint-Albans.svg|80px|frameless|quarterly: 1st and 4th, France and England quarterly; 2nd, Scotland; 3rd, Ireland; the whole debruised by a baton sinister gules charged with three roses argent barbed and seeded proper (Lennox[1]); 2nd and 3rd grand quarters: quarterly gules and or, in the first quarter a mullet argent (De Vere). (Arms of the 2nd Duke onwards)]]
| '''[[セント・オールバンズ公|セント・オールバンズ公爵]]'''<br />([[1684年]]創設[[イングランド貴族]])<br />ボークラーク家
| [[File:14th Duke of St Albans 3 Allan Warren.jpg|80px]]
| 第14代セント・オールバンズ公爵<br />{{仮リンク|マレー・ボークラーク (第14代セント・オールバンズ公爵)|label=マレー・ボークラーク|en|Murray Beauclerk, 14th Duke of St Albans}}<br /><small>(1939 - )</small>
|-
| [[File:Russell arms.svg|80px|frameless|Argent, a lion rampant gules on a chief sable three escallops of the first (Russell).]]
| '''[[ベッドフォード公爵]]'''<br />([[1694年]]創設[[イングランド貴族]])<br />ラッセル家
|
| 第15代ベッドフォード公爵<br />{{仮リンク|アンドリュー・ラッセル (第15代ベッドフォード公爵)|label=アンドリュー・ラッセル|en|Andrew Russell, 15th Duke of Bedford}}<br /><small>(1962 - )</small>
|-
| [[File:Cavendish arms.svg|80px|frameless|Sable three bucks' heads cabossed argent]]
| '''[[デヴォンシャー公爵]]'''<br />([[1694年]]創設[[イングランド貴族]])<br />[[キャヴェンディッシュ家]]
|
| 第12代デヴォンシャー公爵<br />{{仮リンク|ストカー・キャヴェンディッシュ (第12代デヴォンシャー公爵)|label=ストカー・キャヴェンディッシュ|en|Stoker Cavendish, 12th Duke of Devonshire}}<br /><small>(1944 - )</small>
|-
|[[File:Duke of Malborough COA.svg|80px]]
| '''[[マールバラ公|マールバラ公爵]]'''<br />([[1702年]]創設[[イングランド貴族]])<br />[[スペンサー家|スペンサー=チャーチル家]]
| [[File:Marquess of Blandford Allan Warren.jpg|80px]]
| 第12代マールバラ公爵<br />[[ジェイミー・スペンサー=チャーチル (第12代マールバラ公)|ジェイミー・スペンサー=チャーチル]]<br /><small>(1955 - )</small>
|-
| [[File:Manners arms.svg|80px|frameless|Or, two bars azure a chief quarterly azure and gules; in the 1st and 4th quarters two fleurs-de-lis and in the 2nd and 3rd a lion passant guardant or]]
| '''[[ラトランド公爵]]'''<br />([[1703年]]創設[[イングランド貴族]])<br />マナーズ家
| [[File:Belvoir-Hunt-Belvoir-Castle-14Mar15-179 (cropped).jpg|80px]]
| 第11代ラトランド公爵<br />{{仮リンク|デイヴィッド・マナーズ (第11代ラトランド公爵)|label=デイヴィッド・マナーズ|en|David Manners, 11th Duke of Rutland}}<br /><small>(1959 - )</small>
|-
| rowspan="2" |[[File:Douglas hamiltonCoA.png|80px|frameless|Quarterly: 1st and 4th grandquarters: quarterly: 1st and 4th Gules three cinquefoils Ermine (for Hamilton); 2nd and 3rd Argent a lymphad with the sails furled proper flagged Gules (for Arran); 2nd and 3rd Argent a heart Gules imperially crowned Or on a chief Azure three mullets of the first (for Douglas).]]
| '''[[ハミルトン公爵]]'''<br />([[1643年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />[[ハミルトン氏族|ダグラス=ハミルトン家]]
| rowspan="2" |[[File:The Duke and Duchess of Hamilton cropped.jpg|80px]]
| rowspan="2" |第16代ハミルトン公爵<br />第13代ブランドン公爵<br />{{仮リンク|アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン (第16代ハミルトン公爵)|label=アレクサンダー・ダグラス=ハミルトン|en|Alexander Douglas-Hamilton, 16th Duke of Hamilton}}<br /><small>(1978 - )</small>
|-
| '''[[ブランドン公爵]]'''<br />([[1711年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />ダグラス=ハミルトン家
|-
| rowspan="2" |[[File:Duke of Buccleuch arms.svg|80px]]
| '''[[バクルー公|バクルー公爵]]'''<br />([[1663年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />{{仮リンク|スコット氏族|label=ダグラス=スコット家|en|Clan Scott}}
| rowspan="2" | [[File:10th Duke of Buccleuch Allan Warren.JPG|80px]]
| rowspan="2" |第10代バクルー公爵<br />第12代クイーンズベリー公爵<br />{{仮リンク|リチャード・スコット (第10代バクルー公爵)|label=リチャード・ダグラス=スコット|en|Richard Scott, 10th Duke of Buccleuch}}<br /><small>(1954 - )</small>
|-
| '''[[クイーンズベリー公爵]]'''<br />([[1684年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />ダグラス=スコット家
|-
| rowspan="2" |[[File:Arms of Campbell, Duke of Argyll.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st & 4th: Gyronny of eight or and sable (Campbell); 2nd & 3rd: Argent, a lymphad or ancient galley sails furled flags and pennants flying gules and oars in action sable (Lorne).]]
| '''[[アーガイル公爵]]'''<br />([[1701年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />[[キャンベル氏族|キャンベル家]]
| rowspan="2" |[[File:13th Duke of Argyll Allan Warren.JPG|80px]]
| rowspan="2" |第13代アーガイル公爵<br />第6代アーガイル公爵<br />{{仮リンク|トーキル・キャンベル (第13代アーガイル公爵)|label=トーキル・キャンベル|en|Torquhil Campbell, 13th Duke of Argyll}}<br /><small>(1968 - )</small>
|-
| '''[[アーガイル公爵]]'''<br />([[1892年]]創設[[連合王国貴族]])<br />[[キャンベル氏族|キャンベル家]]
|-
| [[File:Duke of Atholl arms.svg|80px|frameless|Quarterly: 1st, Paly of six Or and Sable (for Atholl); 2nd, Or a Fess chequy Azure and Argent (for Stewart); 3rd, Argent on a Bend Azure three Stags' Heads cabossed Or (for Stanley); 4th, Gules three Legs in armour Proper garnished and spurred Or flexed and conjoined in triangle at the upper part of the thigh (ensigns of the Isle of Man); over all, an Inescutcheon en surtout Azure three Mullets Argent within a Double tressure flory Or ensigned of a Marquess's coronet]]
| '''[[アソル公爵]]'''<br />([[1703年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />{{仮リンク|マレー氏族|label=マレー家|en|Clan Murray}}
|
| 第12代アソル公爵<br />{{仮リンク|ブルース・マレー (第12代アソル公爵)|label=ブルース・マレー|en|Bruce Murray, 12th Duke of Atholl}}<br /><small>(1960 - )</small>
|-
| [[File:Graham-Montrose arms.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th: Or a chief sable three escallops of the field (for Graham); 2nd and 3rd: Argent three roses gules barbed and seeded proper]]
| '''[[モントローズ公爵]]'''<br />([[1707年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />{{仮リンク|グラハム氏族|label=グラハム家|en|Clan Graham}}
| [[File:Official portrait of The Duke of Montrose crop 2.jpg|80px]]
| 第8代モントローズ公爵<br />{{仮リンク|ジェイムズ・グラハム (第8代モントローズ公爵)|label=ジェイムズ・グラハム|en|James Graham, 8th Duke of Montrose}}<br /><small>(1935 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Duke of Roxburghe.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st and 4th grandquarters: quarterly, 1st and 4th, Vert on a Chevron between three Unicorns' Heads erased Argent armed and maned Or as many Mullets Sable (Ker); 2nd and 3rd, Gules three Mascles Or (Weepont); 2nd and 3rd grandquarters: Argent three Stars of five points Azure (Innes).]]
| '''[[ロクスバラ公爵]]'''<br>([[1707年]]創設[[スコットランド貴族]])<br />イニス=カー家
|
| 第11代ロクスバラ公爵<br />[[チャールズ・イニス=カー (第11代ロクスバラ公爵)|チャールズ・イニス=カー]]<br /><small>(1981 - )</small>
|-
| [[File:Coat of arms of the Duke of Manchester.svg|80px|frameless|Quarterly, 1st & 4th: Argent, 3 fusils conjoined in fess gules, a bordure sable (Montagu); 2nd & 3rd: Or an eagle displayed vert beaked and membered gules (Monthermer).]]
| '''[[マンチェスター公爵]]'''<br />([[1719年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />モンタギュー家
|
| 第13代マンチェスター公爵<br />{{仮リンク|アレクサンダー・モンタギュー (第13代マンチェスター公爵)|label=アレクサンダー・モンタギュー|en|Alexander Montagu, 13th Duke of Manchester<!-- リダイレクト先の「[[:en:Duke of Manchester]]」は、[[:ja:マンチェスター公爵]] とリンク -->}}<br /><small>(1962 - )</small>
|-
| [[ファイル:Coat of Arms of the Duke of Northumberland.svg|80px]]
| '''[[ノーサンバーランド公爵]]'''<br />([[1766年]]創設[[グレートブリテン貴族]])<br />[[パーシー家]]
| [[File:12th Duke of Northumberland 3 Allan Warren.jpg|80px]]
| 第12代ノーサンバーランド公爵<br />{{仮リンク|レイフ・パーシー (第12代ノーサンバーランド公爵)|label=レイフ・パーシー|en|Ralph Percy, 12th Duke of Northumberland}}<br /><small>(1956 - )</small>
|-
| [[File:FitzGerald arms.svg|80px|frameless|Argent a saltire gules]]
| '''[[リンスター公爵]]'''<br />([[1766年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />{{仮リンク|フィッツジェラルド家|en|FitzGerald dynasty}}
|
| 第9代リンスター公爵<br />{{仮リンク|ラルフ・パーシー (第9代リンスター公爵)|label=モーリス・フィッツジェラルド|en|Maurice FitzGerald, 9th Duke of Leinster}}<br /><small>(1948 - )</small>
|-
| [[ファイル:Arms_of_Hamilton,_Duke_of_Abercorn.svg|88x88ピクセル]]
| '''[[アバコーン公爵]]'''<br />([[1868年]]創設[[アイルランド貴族]])<br />ハミルトン家
| [[File:5th Duke of Abercorn 3 Allan Warren.jpg|80px]]
| 第5代アバコーン公爵<br />[[ジェイムズ・ハミルトン (第5代アバコーン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]<br /><small>(1934 - )</small>
|-
| [[ファイル:Duke of Wellington Arms.svg|80px|frameless|Quarterly, I and IV gules, a cross argent, in each quarter five plates; II and III, Or, a lion rampant gules. For augmentation, an inescutcheon charged with the crosses of St. George, St. Andrew, and St. Patrick combined, being the union badge of the United Kingdom.]]
| '''[[ウェリントン公爵]]'''<br />([[1814年]]創設[[連合王国貴族]])<br />ウェルズリー家
| [[File:Charles Wellesley, 9th Duke of Wellington.jpg|80px]]
| 第9代ウェリントン公爵<br />[[チャールズ・ウェルズリー (第9代ウェリントン公爵)|チャールズ・ウェルズリー]]<br /><small>(1945 - )</small>
|-
| [[File:Egerton family COA (Dukes of Bridgewater, Dukes of Sutherland).svg|80px|frameless|Argent, a lion rampant gules between three pheons sable]]
| '''[[サザーランド公爵]]'''<br />([[1833年]]創設[[連合王国貴族]])<br />エジャートン家
|
| 第7代サザーランド公爵<br />{{仮リンク|フランシス・エジャートン (第7代サザーランド公爵)|label=フランシス・エジャートン|en|Francis Egerton, 7th Duke of Sutherland}}<br /><small>(1940 - )</small>
|-
| [[File:Grosvenor family COA (Dukes of Westminster).svg|80px|frameless|Azure a garb Or.]]
| '''[[ウェストミンスター公爵]]'''<br />([[1874年]]創設[[連合王国貴族]])<br />グローヴナー家
| [[File:7th Duke of Westminster.jpg|80px]]
| 第7代ウェストミンスター公爵<br />[[ヒュー・グローヴナー (第7代ウェストミンスター公爵)|ヒュー・グローヴナー]]<br /><small>(1991 - )</small>
|-
| [[File:Arms of David Carnegie, 4th Duke of Fife, since 2017.svg|80px]]
| '''[[ファイフ公爵]]'''<br />([[1900年]]創設[[連合王国貴族]])<br />カーネギー家
| [[File:David Charles Carnegie, 4th Duke of Fife.jpg|80px]]
| 第4代ファイフ公爵<br />[[デイヴィッド・カーネギー (第4代ファイフ公爵)|デイヴィッド・カーネギー]]<br /><small>(1961 - )</small>
|}
=== かつて存在した公爵位 ===
<!--50音順-->
*[[アイルランド公爵]]:第9代[[オックスフォード伯]][[ロバート・ド・ヴィアー (アイルランド公)|ロバート・ド・ヴィアー]]が一代限りで叙される
*[[アルベマール公爵]]:マンク家が2代保有したが、1688年に絶家。
*[[アンカスター=ケスティーブン公爵]]:[[リンジー伯爵 (イングランド貴族)|リンジー伯爵]]バーティ家が5代にわたって保有。1809年に廃絶。リンジー伯位は現存
*[[ウィンザー公爵]]:退位後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]の爵位。
*[[ウォートン公爵]]:第2代ウォートン侯[[フィリップ・ウォートン (初代ウォートン公爵)|フィリップ・ウォートン]]が叙されるが、一代で絶家。従属爵位だった[[ウォートン男爵]]位は現存。
*[[ウォリック公爵]]:第14代[[ウォリック伯爵]][[ヘンリー・ビーチャム (初代ウォリック公爵)|ヘンリー・ビーチャム]]が叙位された。一代で廃絶。
*[[エクセター公爵]]:王族のホランド家が保有したが、1475年に絶家。
*[[オーモンド公爵]]:バトラー家が3代保有したが、1758年に絶家。従属爵位オーモンド伯爵は存続し、後にオーモンド侯爵を与えられるも1997年に絶家。
*[[オールバニ公爵]]:王族の爵位
*[[カンバーランド公爵]]:王族の爵位
*{{仮リンク|キングストン=アポン=ハル公爵|en|Duke of Kingston-upon-Hull}}:ピアポイント家が2代保有したが、1773年に絶家。
*[[キンタイア=ローン公爵]]:スコットランド王族{{仮リンク|ロバート・ステュアート (キンタイア=ローン公爵)|label=ロバート・ステュアート|en|Robert Stuart, Duke of Kintyre and Lorne}}が叙された。
*[[クラレンス公爵]]:王族の爵位
*[[クラレンス=セント・アンドルーズ公爵]]:[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が即位前に叙位された爵位。
*[[クリーヴランド公爵]]:フィッツロイ家が3代、ヴェイン家(後ポーレット)が4代保有したが、1891年に絶家。
*[[グリニッジ公爵]]:2代アーガイル公[[ジョン・キャンベル (第2代アーガイル公爵)|ジョン・キャンベル]]が叙されたが、一代で絶家。
*{{仮リンク|ケンダル公爵|en|Duke of Kendal}}:通常は王室関係者が叙される爵位
*[[コノート公爵]]:[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の第3王子[[アーサー (コノート公)|アーサー]]が保有した。
*[[サウサンプトン公爵]]:クリーヴランド公爵フィッツロイ家が2代保有したが、1774年に廃絶
*[[サフォーク公爵]]:[[チャールズ・ブランドン (初代サフォーク公爵)|チャールズ・ブランドン]]、ついで3代ドーセット侯[[ヘンリー・グレイ (初代サフォーク公爵)|ヘンリー・グレイ]]が叙された。
*[[トマス・ホランド (初代サリー公)|サリー公爵]]:第3代[[ケント伯爵]][[トマス・ホランド (初代サリー公)|トマス・ホランド]]が叙位された。一代で廃絶
*[[シャンドス公爵]]:ブリッジス家が3代保有したが、1789年に廃絶
*[[シュルーズベリー公爵]]:12代[[シュルーズベリー伯]][[チャールズ・タルボット (シュルーズベリー公)|チャールズ・タルボット]]が叙されたが、一代で消滅。シュルーズベリー伯は現存。
*[[ションバーグ公爵]]:ションバーグ家が3代保有したが、1719年に絶家。
*[[ダグラス公爵]]:3代ダグラス侯[[アーチボルド・ダグラス (初代ダグラス公爵)|アーチボルド・ダグラス]]が叙されたが、一代で絶家。ダグラス侯位はハミルトン公爵家が継承。
*[[ドーヴァー公爵]] クイーンズベリー公ダグラス家が2代保有したが、1778年に廃絶
*[[ドーセット公爵]]:サックヴィル家が5代保有したが、1843年に絶家。
*[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル=アポン=タイン公爵]]:キャヴェンディッシュ家が2代、[[ジョン・ホールズ (初代ニューカッスル公)|ジョン・ホールズ]]が1代、[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]が1代保有した
*[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル=アンダー=ライン公爵]]:[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]とペラム=クリントン家が10代保有したが、1988年に絶家。従属爵位だった[[リンカーン伯]]は現存
*[[バッキンガム公爵]]:スタッフォード家が3代、ヴィリアーズ家が2代保有したが、1687年に絶家。
*{{仮リンク|バッキンガム=ノーマンビー公爵|en|Duke of Buckingham and Normanby}}:シェフィールド家が2代保有したが、1735年に絶家。
*[[バッキンガム=シャンドス公爵]]:グレンヴィル家が3代保有したが、1889年に絶家。従属爵位だった[[コバム子爵]]は現存。
*[[ブリッジウォーター公爵]] : [[ブリッジウォーター伯爵]]エジャートン家が2代有したが、1803年に絶家。ブリッジウォーター伯位も1829年に絶家
*[[ヘレフォード公爵]] [[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]が即位前に叙されていた爵位。
*[[ポートランド公爵]]:ベンティンク家が9代保有したが、1990年に絶家。従属爵位だった[[ポートランド伯爵]]は現存。
*[[ボルトン公爵]]:[[ウィンチェスター侯]]ポーレット家が6代保有したが、1794年に絶家。ウィンチェスター侯は現存。
*マンスター女公爵:[[エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク]]が1代限りで保有
*[[モンマス公爵]]:チャールズ2世の庶子[[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]が1663年に叙されたが、1685年に剥奪。従属称号の[[ドンカスター伯爵]]は1743年に復活し現存。
*[[モンタギュー公爵]]:モンタギュー家が保有したが、1766年に絶家。
*[[リーズ公爵]]:オズボーン家が12代保有したが、1964年に絶家。
*[[ロス公爵]]:スコットランド王族の爵位
*[[ロシズ公爵]]:7代ロシズ伯{{仮リンク|ジョン・レズリー (初代ロシズ公爵)|label=ジョン・レズリー|en|John Leslie, 1st Duke of Rothes}}が叙されたが、一代で絶家。ロシズ伯は現存。
*{{仮リンク|ローダーデール公爵|en|Duke of Lauderdale}}:2代ローダーデール伯[[ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公)|ジョン・メイトランド]]が叙されたが、一代で絶家。ローダーデール伯は現存。
== フランスの公爵 ==
[[File:Crown of a Duke of France (variant).svg|thumb|[[アンシャン・レジーム]]の公爵の紋章上の冠]]
フランスの称号で「公爵」と訳されているのはデュック(duc)である。ラテン語の[[ドゥクス]](dux)に由来する。ドゥクスはフランスやドイツ、イタリアの前身である[[フランク王国]]が[[ローマ帝国]]から継承した制度であり、都市管区を統治するコメス(comes 伯)たちに対する軍事命令権を持って複数の都市管区を支配する存在だった{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=60}}。
フランスの諸侯は[[カロリング朝]]のコメスやその下僚のヴィカリウス(副伯)、あるいはカロリング権力から排除されていた地域の土着貴族層に起源が求められる。西フランク(フランス)地域ではドイツよりもカロリング朝官僚貴族に連なる家計が多かったと見られる。9世紀後半のポスト・カロリング期に中央権力の弱体化に乗じて私的支配領域を拡大した彼らは、最初[[辺境伯]](marchio)を名乗っていたが、10世紀前半に公(dux)を名乗るようになった{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=290}}。
11世紀、とりわけ王の集会に彼らが参列する機会が激減する1077年を境にして諸侯層(公、伯、司教)の王政からの排除と封臣化が進み、12世紀末までには諸侯領(公領)は王の下から移動した封と見なす観念が一般化していた{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=272}}。そのため中世の諸侯の独立性は強く、諸侯領は事実上独自の統治機構を備えた「独立国家」であり、フランス王といえども一諸侯に過ぎない面もあった{{Sfn|中野隆生|加藤玄|2020|p=38-39/122}}。
11世紀の著名な公爵には北部の[[ノルマンディー公]]、西部の[[ブルターニュ公]]、東部の[[ブルゴーニュ公]]、南部の[[アキテーヌ公]]があった{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=187}}。ノルマンディー公は1066年にイングランドを征服してイングランド王室となり{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=189}}、12世紀には「[[アンジュー帝国]]」と呼ばれる[[英仏海峡]]をまたぐ巨大勢力圏を築いた{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1995|p=205}}。[[カペー朝]]末には後に[[ブルボン朝]]となる[[ブルボン公]]が誕生している。
[[オルレアン公]]、[[アンジュー公]]、[[ベリー公]]、[[アングレームの領主一覧|アングレーム公]]、[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン公]]、{{仮リンク|トゥーレーヌ公|fr|Liste des comtes et ducs de Touraine}}などは伝統的に王族の爵位となった。
15世紀から16世紀初頭にかけて諸侯領は様々な形で王領に取り込まれていくようになり、諸侯の独立性は弱まっていった{{Sfn|中野隆生|加藤玄|2020|p=124}}。
16世紀の宗教戦争時代には[[シャンパーニュ]]、[[ブルゴーニュ]]を拠点とする[[ギーズ公]]と、[[ラングドック]]、[[プロヴァンス]]、[[イル=ド=フランス]]に勢力を張る[[モンモランシー公]]が宗教戦争の党派の中核となり、著名な公爵だった{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|pp=128-129}}。
[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]時代に領地の所有だけでは貴族たることを証しえなくなり、国王発行の証書が必要となった。ブルボン朝の[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]以降、中央集権化が推し進められて絶対王政への移行が始まった。絶対王政下の貴族たちは絶対権力者の国王の恩寵を得ようと宮廷貴族となって「王室の藩屏」化が進んだ{{Sfn|中野隆生|加藤玄|2020|p=166}}。絶対王政のもとで、duc(デュク・公爵)、marquis(マルキ・侯爵)、comte(コント・伯爵)、vicomte(ビコント・子爵)、baron(バロン・男爵)、chevalier(シュヴァリエ/シェヴァリア・騎士)、écuyer(エキュイエ・平貴族)等、旧来の封建領主の称号が段階づけられ、同時に宮廷席次も示された<ref name="kotobank">{{Cite Kotobank|word=爵位|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021年3月28日}}</ref>。
アンリ4世期の著名な公爵位にはギーズ公とモンモランシー公の他に[[ヴァンドーム公]]、{{仮リンク|ヌヴェール公|fr|Liste des comtes puis ducs de Nevers}}、{{仮リンク|ベルガルド公|fr|Duc de Bellegarde}}、{{仮リンク|ブイヨン公|fr|Duché de Bouillon}}、{{仮リンク|ロアン公|fr|Duc de Rohan}}などがあった{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|p=156}}。[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の宰相[[リシュリュー|アルマン・ジャン・デュ・プレシー]]は{{仮リンク|リシュリュー公爵|fr|Duc de Richelieu}}に叙位され、リシュリューの名で知られる。また[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の弟の系譜のオルレアン公は、1830年の[[7月革命]]後に[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の一代のみだがフランス王位に就いた([[7月王政|オルレアン朝]])。
[[File:Biret duc.png|thumb|{{仮リンク|帝国貴族|fr|Noblesse d'Empire}}の公爵の紋章上の冠]]
[[フランス革命]]により貴族制度は廃止されたが{{sfn|上垣豊|1995|p=129(617)}}、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の[[フランス第一帝政|第一帝政]]下の1803年3月に皇帝令で大公(Prince)、公爵(Duc)、伯爵(Comte)、男爵(Baron)、シェヴァリア(Chevalier)の五爵位から成る{{仮リンク|帝国貴族|fr|Noblesse d'Empire}}が創設され、警察大臣[[ジョゼフ・フーシェ]]({{仮リンク|オトラント公爵|fr|Duc d'Otrante}})や[[ミシェル・ネイ]]元帥(エルヒンゲン公爵)、[[オーギュスト・マルモン]]元帥(ラグーサ公爵)などが公爵に叙された{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|p=419}}。帝国貴族には免税特権などの封建的特権は附随せず{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|p=419}}、爵位は個人の功績に与えられるもので世襲のためには「貴族財産」(爵位とともに長男に譲り渡される財産)の設定が必要であるなど旧貴族とは異なったルールがあった{{sfn|上垣豊|1995|p=130(618)}}。
[[フランス復古王政|復古王政]]下ではアンシャン・レジーム下で爵位を得た旧貴族が爵位を回復するとともにナポレオン下で爵位を得た新貴族も爵位を維持した。爵位に義務や負担を免れるなどの特権が附随しない点もナポレオン時代と同じであった{{sfn|上垣豊|1995|p=130(618)}}。ただし[[貴族院 (フランス)|貴族院]]が設置され、その議員の地位は世襲だった{{sfn|柴田三千雄|樺山紘一|福井憲彦|1996|p=458}}。
[[1848年]]の[[二月革命]]と[[1848年憲法]]で[[フランス第二共和政|第二共和政]]になると貴族院と貴族の称号は廃止された{{sfn|山本浩三|1959|p=46/49}}。[[ナポレオン3世]]の[[フランス第二帝政|第二帝政]]では再び貴族称号の授与が行われるようになったが、貴族制度は復活されなかった<ref>Éric Mension-Rigau ''Enquête sur la noblesse. La permanence aristocratique'', éditions Perrin, 2019, page 69.</ref>。ナポレオン3世が創設した公爵位には{{仮リンク|マラコフ公爵|fr|Duc de Malakoff}}(1856年{{仮リンク|エイマブル・ペリシエ|fr|Aimable Pélissier|maréchal Pélissier}})、{{仮リンク|マジェンタ公爵|fr|Duc de Magenta}}(1859年[[パトリス・ド・マクマオン]])、{{仮リンク|オーディフレ=パスキエ公爵|fr|Duc d'Audiffret-Pasquier}}(1862年{{仮リンク|ガストン・ド・オーディフレ=パスキエ|fr|Gaston d'Audiffret-Pasquier}})、{{仮リンク|モルニー公爵|fr|Duc de Morny}}(1862年[[シャルル・ド・モルニー]])、 [[ヴィクトール・ド・ペルシニー|ペルシニー公爵]](1863年[[ヴィクトール・ド・ペルシニー]])、{{仮リンク|フェルトレ公爵|fr|Duc de Feltre}}(1864年{{仮リンク|シャルル=マリー=ミシェル・ド・ゴヨン|fr|Charles-Marie-Michel de Goyon}})がある。
第二帝政崩壊後、貴族称号の廃止は法律によっては宣言されていないが、[[1875年]]にフランス大統領[[パトリス・ド・マクマオン]]は貴族の称号の新設は今後は行わず、称号の継承のみ引き続き公式法令の対象となると閣議決定した<ref>Marc Guillaume, Directeur des affaires civiles et du Sceau, 2006.</ref>。[[1955年]]に裁判所は{{仮リンク|合憲性ブロック|fr|Bloc de constitutionnalité}}の一部である1789年の[[人間と市民の権利の宣言]](フランス人権宣言)が出生に付随する法的区別を禁じていることから「貴族はもはや法的効力を持たない」と判示している。現在もフランス政府は貴族の称号の新設を行ってはいないが、様々な君主制のもとで誕生した称号を名前の飾りとして認識し、その保護は行っている。結婚状況や行政文書などで称号が表示される可能性があり、また法務省は後継者に叙任令を発行している<ref name="Guillaume">[https://academiesciencesmoralesetpolitiques.fr/2006/07/03/le-sceau-de-france-titre-nobiliaire-et-changement-de-nom/ Marc Guillaume, Maître des requêtes au Conseil d’Etat, Directeur des affaires civiles et du Sceau, ''Le Sceau de France, titre nobiliaire et changement de nom'' Académie des Sciences Morales et Politiques séance du lundi 3 juillet 2006.]</ref>。
== ドイツの公爵 ==
ドイツの称号で「公爵」と訳されるのはヘルツォーク(Herzog)である。これは初期の10世紀頃には君主に相当する最高位の貴族[[部族大公]](Stammesherzog)のことだった。この時期のヘルツォークは「大公」と訳されるのが一般的である{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1997|p=141}}。次のものがある。
*[[ザクセン公国|ザクセン公(大公)]]
*[[フランケン大公|フランケン公(大公)]]
*[[バイエルン公国|バイエルン公(大公)]]
*[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン公(大公)]]
*[[ロレーヌ公|ロタリンギア公(大公)]]
13世紀に現れた[[選帝侯]]7人の中で公の称号を持つのはザクセン公のみだった{{Sfn|森井裕一|2016|p=92-93}}。[[三十年戦争]]後にはバイエルン公もプファルツの選帝侯位が与えられる形で選帝侯に加わった{{Sfn|森井裕一|2016|p=96}}。
[[ナポレオン戦争]]後、[[陪臣化]]などで諸侯の数が減らされ、ナポレオン失脚後の[[ウィーン体制]]下でもその状態が維持され、[[ドイツ連邦]]には公爵が治める公国が以下の10個あった{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|p=222/230}}。
*[[ブラウンシュヴァイク公国|ブラウンシュヴァイク公]]
*[[ホルシュタイン公国|ホルシュタイン公]]
*[[ナッサウ公国|ナッサウ公]]
*[[ザクセン=アルテンブルク公国|ザクセン=アルテンブルク公]]
*[[ザクセン=ヒルトブルクハウゼン|ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公]]
*[[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ公]]
*[[ザクセン=マイニンゲン公国|ザクセン=マイニンゲン公]]
*{{仮リンク|アンハルト=デッサウ侯国|label=アンハルト=デッサウ公|de|Fürstentum Anhalt-Dessau}}
*{{仮リンク|アンハルト=ケーテン侯国|label=アンハルト=ケーテン公|de|Fürstentum Anhalt-Köthen}}
*[[アンハルト=ベルンブルク|アンハルト=ベルンブルク公]]
ナッサウ公国とホルシュタイン公国は[[普墺戦争]]後プロイセンに併合されて消滅し、ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公はエルネスティン諸公国再編の中で消滅し、アンハルト諸国は[[アンハルト公国]]として統合されたのでドイツ帝国加盟国として残った公国の公爵位はブラウンシュヴァイク公、ザクセン=アルテンブルク公、ザクセン=コーブルク=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公、アンハルト公の5個だった{{Sfn|成瀬治|山田欣吾|木村靖二|1996|p=396}}。これ以外に統治領域がなくなっていた公爵として[[ロイヒテンベルク公]]、[[グリュックスブルク公|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公]]、[[ラチブシュ公国|ラチブシュ公]]、[[ウラッハ公]]などがある。
[[ドイツ革命]]後、[[ヴァイマル共和政]]になると貴族は法的根拠を失ったが、爵位を姓名の一部として私的に用いることは認められた<ref name="kotobank" />。
== スペインの公爵 ==
[[File:Heraldic Crown of Spanish Dukes (Variant 1).svg|250px|thumb|スペインの公爵の紋章上の冠]]
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、[[スペイン貴族]]の階級には上からduque(公爵)、marqués(侯爵)、conde(伯爵)、vizconde(子爵)、 barón(男爵)、señor(領主)の6階級があり、公爵は最上位である{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}<ref name="chivalricorders">[https://web.archive.org/web/20080515235058/http://www.chivalricorders.org/nobility/spanoble.htm Noble Titles in Spain and Spanish Grandees]</ref>。すべての公爵位には[[グランデ]]の格式が伴い、グランデ委員会に属する{{Sfn|坂東省次|2013|p=68}}。グランデの格式を伴う爵位保有者は「閣下(Excelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性))」の敬称で呼ばれる<ref name="chivalricorders" />。
スペインの公爵位は現在155個存在し、有名な物には16世紀の宗教戦争時代に[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|当主]]が軍人として活躍した[[アルバ公爵]]、[[アルマダの海戦]]の際に[[アロンソ・ペレス・デ・グスマン|当主]]が[[無敵艦隊]]の司令官を務めた[[メディナ=シドニア公|メディナ=シドニア公爵]]、[[アメリカ大陸|新大陸]]発見者とされる[[クリストファー・コロンブス]]の子孫が保有する[[ベラグア公爵領|ベラグア公爵]]と[[ラ・ベガ公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Vega|スペイン語版]])</span>、[[アステカ]]皇帝[[モクテスマ2世]]の子孫が保有する[[モクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Moctezuma de Tultengo|スペイン語版]])</span>、[[フェリペ3世]]の{{仮リンク|フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス (初代レルマ公)|label=寵臣|es|Francisco de Sandoval y Rojas, I duque de Lerma}}を初代とする[[レルマ公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Lerma|スペイン語版]])</span>{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=332}}、[[フェリペ4世]]の[[ガスパール・デ・グスマン|寵臣]]を初代とする[[サンルーカル・ラ・マヨル公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sanlúcar la Mayor|スペイン語版]])</span>([[オリバーレス伯爵]]の爵位を埋没させたがらず、「オリバーレス伯公爵」を名乗っていた){{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=346}}、[[ナポレオン戦争]]時代のイギリス軍司令官[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公]]に与えられた[[シウダ・ロドリゴ公爵]]、[[スペイン内戦]]を起こした{{仮リンク|エミリオ・モラ|es|Emilio Mola}}の子孫が保有する[[モラ公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Mola|スペイン語版]])</span>、[[フランシスコ・フランコ]]総統の子孫が保有する[[フランコ公爵]]などがある。また[[オスーナ公爵]]<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Osuna|スペイン語版]])</span>は、19世紀末の{{仮リンク|マリアーノ・テジョス=ヒロン (第12代オスーナ公爵)|label=当主|es|Mariano Téllez-Girón}}が駐ロシア大使を務めていた際に来客のために用意した金食器を川に捨てるという余興を催したことで、浪費を指して「オスーナ家でもあるまいし」という言い回しができたことで有名になった{{Sfn|坂東省次|2013|p=69}}。
正式な称号とは認められていないが、[[カルリスタ王位請求者の一覧|カルリスタの王位請求者]]によって創設された171の称号の中にも4つの公爵位があった<ref name="chivalricorders" />。
王室の称号プリンシペも公爵と訳されることがあるが(「大公」や「王子{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=419}}」と訳されることもある)、これには[[皇太子]]に与えられる[[アストゥリアス公]]などがある<ref name="chivalricorders" />。
公爵を含む伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる<ref name="chivalricorders" />。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない<ref name="chivalricorders" />。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる<ref name="chivalricorders" />。爵位の継承には所定の料金がかかる<ref name="chivalricorders" />。スペインに貴族院はなく、爵位をもっていても法的な特権は何も得られない。かつてグランデの格式を有する者は外交官パスポートを持つことができたが、これも1984年に廃止されている。だがそれでも爵位を持つことは社会的信頼が大きいことから多くの人が高いお金を出してでも取得を希望する{{Sfn|坂東省次|2013|p=669/71}}。
歴史的にはスペインの前身である[[カスティーリャ王国]]、[[アラゴン連合王国]]、[[ナバラ王国]]にそれぞれ爵位貴族制度があり{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=315}}、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使った{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、[[フェリペ3世]]時代以降に爵位貴族が急増した{{Sfn|関哲行|中塚次郎|立石博高|2008|p=370}}。
[[1931年]]の革命で王位が廃されて[[スペイン第二共和政|第二共和政]]になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが<ref>https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf</ref>、[[1948年]]に総統[[フランシスコ・フランコ]]が貴族制度を復活させ<ref name="chivalricorders" /><ref>https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512</ref>、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった<ref name="chivalricorders" />。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
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=== 現存する公爵位 ===
{{Div col}}
*[[File:COA Dukedom of Medina Sidonia.svg|25px]] '''[[メディナ=シドニア公|メディナ=シドニア公爵]]'''(1445年)ゴンサレス・デ・グレゴリオ家
*[[File:COA Duke of Alburquerque.svg|25px]] '''[[アルブルケルケ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Alburquerque|スペイン語版]])</span>(1464年)[[オソリオ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Osorio|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Segorbe.svg|25px]] '''[[セゴルベ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Segorbe|スペイン語版]])</span>(1469年)メディナ家
*[[File:Escudo del Ducado de Alba de Tormes.svg|25px]] '''[[アルバ公|アルバ公爵]]'''(1472年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:COA Duke of Escalona.svg|25px]] '''[[エスカロナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Escalona|スペイン語版]])</span>(1472年)ソト家
*[[File:Escudo del ducado de Benavente.svg|25px]] '''[[ベナベンテ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Benavente|スペイン語版]])</span>(1473年)
*'''[[ウエテ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Huete|スペイン語版]])</span>(1474年)ブストス家
*[[File:Escudo del ducado del infantado.svg|25px]] '''[[インファンタード公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado del Infantado|スペイン語版]])</span>(1475年)アルテアガ家
*[[File:Ducado de Béjar (Casa de Zúñiga).svg|25px]] '''[[プラセンシア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Plasencia|スペイン語版]]</span>(1476年)[[ソリス=ベアウモント家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Beaumont|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Villahermosa.svg|25px]] '''[[ビジャエルモサ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Villahermosa|スペイン語版]])</span>(1476年)ウルサイス家
*[[File:COA Duke of Medinaceli.svg|25px]] '''[[メディナセリ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Medinaceli|スペイン語版]])</span>(1479年)[[ホーエンローエ=ランゲンブルク家]]<span style="font-size:80%">([[:de:Hohenlohe-Langenburg|ドイツ語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Cardona.svg|25px]] '''[[カルドナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Cardona|スペイン語版]])</span>(1482年)ゲレーロ=ブルゴス家
*[[File:COA Duke of Najera.svg|25px]] '''[[ナヘラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Nájera|スペイン語版]])</span>(1482年)トラヴィセド家
*[[File:COA Duke of Hijar.svg|25px]] '''[[イハル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Híjar|スペイン語版]])</span>(1483年)[[マルティネス・デ・イルホ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Martínez de Irujo|スペイン語版]])</span>
*[[File:Ducado de Béjar (Casa de Zúñiga).svg|25px]] '''[[ベハル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Béjar|スペイン語版]])</span>(1485年)ロカ・デ・トゴレス家
*[[File:COA Duke of Gandia.svg|25px]] '''[[ガンディア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Gandía|スペイン語版]])</span>(1485年)[[ロレンソ・デ・ウジョア家|ウジョア家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Lorenzo de Ulloa|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Hijar.svg|25px]] '''[[アリアガ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Aliaga|スペイン語版]])</span>(1487年)[[マルティネス・デ・イルホ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Martínez de Irujo|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Frías.svg|25px]] '''[[フリアス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Frías|スペイン語版]])</span>(1492年)ソト家
*[[File:Escudo de Grazalema.svg|25px]] '''[[アルコス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Arcos|スペイン語版]])</span>(1493年)[[ロレンソ・デ・ウジョア家|ウジョア家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Lorenzo de Ulloa|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Hijar.svg|25px]] '''[[レセラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Lécera|スペイン語版]])</span>(1493年)[[シルバ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Silva|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Villahermosa.svg|25px]] '''[[ルナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Luna|スペイン語版]])</span>(1495年)[[アラゴン家]]
*[[File:COA Gran Capitan.svg|25px]] '''[[サンタンジェロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santángelo|スペイン語版]])</span>(1497年)カサノバ=カルデナス家
*[[File:COA Duke of Soma.svg|25px]] '''[[ソマ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Soma|スペイン語版]])</span>(1502年)ルイス・デ・ブセスタ家
*[[File:COA Gran Capitan.svg|25px]] '''[[テラノバ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Terranova|スペイン語版]])</span>(1502年)デ・ラ・シエルバ家
*[[File:COA Gran Capitan.svg|25px]] '''[[モンタルト公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Montalto (1 de enero de 1507)|スペイン語版]])</span>(1507年)ブストス家
*[[File:COA Gran Capitan.svg|25px]] '''[[セッサ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sessa|スペイン語版]])</span>(1507年)バロン家
*[[File:COA Duke of Monteleone.svg|25px]] '''[[モンテレオン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Monteleón|スペイン語版]])</span>(1527年)アラゴン家
*[[File:COA Duke of Maqueda.svg|25px]] '''[[マケダ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Maqueda|スペイン語版]])</span>(1529年)カサノバ=カルデナス家
*[[ファイル:COA Duke of Veragua.svg|25px]] '''[[ベラグア公爵領|ベラグア公爵]]'''(1537年)[[コロン家]] <span style="font-size:80%">([[:es:Colón (familia)|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Medina de Rioseco.svg|25px]] '''[[メディナ・デ・リオセコ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Medina de Rioseco|スペイン語版]])</span>(1538年)ラトーレ家
*[[File:Escudo del ducado del infantado.svg|25px]] '''[[フランカヴィル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Francavilla|スペイン語版]])</span>(1555年)アルテアガ家
*[[File:COA Duke of Veragua.svg|25px]] '''[[ラ・ベガ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Vega|スペイン語版]])</span>(1557年) [[コロン家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Colón (familia)|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Alcala.svg|25px]] '''[[アルカラ・デ・ロス・ガスレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Alcalá de los Gazules|スペイン語版]])</span>(1558年)[[ホーエンローエ=ランゲンブルク家]]<span style="font-size:80%">([[:de:Hohenlohe-Langenburg|ドイツ語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Osuna.svg|25px]] '''[[オスーナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Osuna|スペイン語版]])</span>(1562年)[[ソリス=ベアウモント家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Beaumont|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Huéscar.svg|25px]] '''[[ウエスカル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Huéscar|スペイン語版]])</span>(1563年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:COA Duke of Baena.svg|25px]] '''[[バエナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Baena|スペイン語版]])</span>(1566年)ルイス・デ・アラナ家
*[[File:COA Duke of Feria.svg|25px]] '''[[フェリア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Feria|スペイン語版]])</span>(1567年)メディナ家
*[[File:COA Duke of Pastrana.svg|25px]] '''[[エストレメラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Estremera|スペイン語版]])</span>(1568年)ブストス家
*[[File:COA Dukedom of Fernandina.svg|25px]] '''[[フェルナンディナ公爵]]''' <span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Fernandina|スペイン語版]])</span>(1568年)ゴンサレス・デ・グレゴリオ家
*[[File:COA Duke of Pastrana.svg|25px]] '''[[パストラナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Pastrana|スペイン語版]])</span>(1572年)フィナット家
*[[File:COA Duke of Lerma.svg|25px]] '''[[レルマ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Lerma|スペイン語版]])</span>(1599年)ラリオス家
*[[File:COA Duke of Peñaranda.svg|25px]] '''[[ペニャランダ・デ・ドュエロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Peñaranda de Duero|スペイン語版]])</span>(1608年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:COA Duke of Uceda.svg|25px]] '''[[ウセダ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Uceda|スペイン語版]])</span>(1610年)ラトーレ家
*[[File:COA Duke of Ciudad Real.svg|25px]] '''[[シウダ・レアル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Ciudad Real|スペイン語版]])</span>(1613年)[[ホーエンローエ=ランゲンブルク家]]<span style="font-size:80%">([[:de:Hohenlohe-Langenburg|ドイツ語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Mandas.svg|25px]] '''[[マンダス・イ・ビジャヌエバ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Mandas y Villanueva|スペイン語版]])</span>(1614年)ウエルタ家
*[[File:COA Duke of Camiña.svg|25px]] '''[[カミナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Camiña|スペイン語版]])</span>(1619年)[[ホーエンローエ=ランゲンブルク家]]<span style="font-size:80%">([[:de:Hohenlohe-Langenburg|ドイツ語版]])</span>
*[[File:COA Duke of San Pietro in Galatina.svg|25px]] '''[[サン・ペドロ・デ・ガラティーノ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Pedro de Galatino|スペイン語版]])</span>(1621年)メディニラ家
*[[File:COA Conde-Duque de Olivares.svg|25px]] '''[[メディナ・デ・ラス・トレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Medina de las Torres|スペイン語版]])</span>(1625年)ルイス・デ・ブセスタ家
*[[File:COA Dukedom of Sanlúcar la Mayor.svg|25px]] '''[[オリバーレス伯爵|オリバーレス公爵]]'''(1625年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:COA Duke of San Michele.svg|25px]] '''[[サン・ミゲル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Miguel|スペイン語版]])</span>(1625年)カスティジェホ家
*[[File:COA Dukedom of Sanlúcar la Mayor.svg|25px]] '''[[サンルーカル・ラ・マヨル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sanlúcar la Mayor|スペイン語版]])</span>(1625年)アラーナ家
*'''[[モクテスマ・デ・トゥルテンゴ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Moctezuma de Tultengo|スペイン語版]])</span>(1627年)マルシージャ家
*[[File:COA Duke of Angió.svg|25px]] '''[[モンテアレグレ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Montealegre|スペイン語版]])</span>(1633年)カスティジェホ家
*[[File:COA Duke of Rivas.svg|25px]] '''[[リバス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Rivas|スペイン語版]])</span>(1641年)サインス家
*[[File:COA Duke of Abrantes.svg|25px]] '''[[アブランテシュ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Abrantes|スペイン語版]])</span>(1642年スレタ家
*[[File:COA Duke of Amalfi.svg|25px]] '''[[アマルフィ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Amalfi|スペイン語版]])</span>(1642年)セオアネ家
*[[File:COA Duke of Palata.svg|25px]] '''[[パラタ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Palata|スペイン語版]])</span>(1646年)ウルサイス家
*'''[[ノーチェラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Nochera|スペイン語版]])</span>(1656年)バルボ・ベルトーネ家
*[[File:COA Duke of Montoro.svg|25px]] '''[[モントロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Montoro|スペイン語版]])</span>(1660年)[[マルティネス・デ・イルホ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Martínez de Irujo|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Miranda (Caracciolo).svg|25px]] '''[[ミランダ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Miranda|スペイン語版]]</span>(1664年)[[シルバ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Silva|スペイン語版]])</span>
*'''[[リナレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Linares|スペイン語版]])</span>(1667年)ズレータ家
*[[File:Armas duques aveiro.png|25px]] '''[[アヴェイロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Aveiro|スペイン語版]])</span>(1681年)
*[[File:COA Duke of Almazan (Abarca de Bolea).svg|25px]] '''[[アルマサン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Almazán|スペイン語版]])</span>(1698年)レンカストレ家
*[[File:COA Duke of Sotomayor.svg|25px]] '''[[ソトマヨル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sotomayor|スペイン語版]])</span>(1703年)[[マルティネス・デ・イルホ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Martínez de Irujo|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Montellano.svg|25px]] '''[[モンテジャノ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Montellano|スペイン語版]])</span>(1705年)ファルコ家
*[[File:COA Duke of Liria.svg|25px]]'''[[リリア・イ・ヘリカ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Liria y Jérica|スペイン語版]])</span>(1707年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:Escudo de los duques de Atrisco.svg|25px]] '''[[アトリスコ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Atrisco|スペイン語版]])</span>(1708年) バロン家
*[[File:House of Manrique de Lara COA.svg|25px]] '''[[アルコ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado del Arco|スペイン語版]])</span>(1715年) ファルコ家
*[[File:COA Duke of Bournonville.svg|25px]] '''[[ブルノンヴィル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Bournonville|スペイン語版]])</span>(1717年) [[シルバ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Silva|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Solferino.svg|25px]] '''[[ソルフェリノ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Solferino|スペイン語版]])</span>(1717年)ランザ家
*[[File:COA Duke of Arion.svg|25px]] '''[[アリオン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Arión|スペイン語版]])</span>(1725年)[[コルドバ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Córdoba|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Algete.svg|25px]]'''[[アルヘテ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Algete|スペイン語版]])</span>(1728年)[[オソリオ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Osorio|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Granada de Ega.svg|25px]]'''[[グラナダ・デ・エガ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Granada de Ega|スペイン語版]])</span>(1729年)マルトス家
*'''[[モンテマール公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Montemar|スペイン語版]])</span>(1735年)[[オソリオ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Osorio|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Santisteban del Puerto.svg|25px]] '''[[サンティステバン・デル・プエルト公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santisteban del Puerto|スペイン語版]])</span>(1738年)メディナ家
*[[File:COA Duke of Grimaldi.svg|25px]] '''[[グリマルディ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Grimaldi|スペイン語版]])</span>(1777年)マルケス家
*'''[[アルモドバル・デル・リオ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Almodóvar del Río|スペイン語版]])</span>(1780年)オヨス家
*'''[[パルキー公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado del Parque|スペイン語版]])</span>(1780年)[[オソリオ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Osorio|スペイン語版]])</span>
*'''[[サン・カルロス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Carlos|スペイン語版]])</span>(1780年)フェルナンデス=ビジャベルデ家
*[[File:COA Duke of Sueca.svg|25px]] '''[[ラ・アルクディア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Alcudia|スペイン語版]])</span>(1792年)ルスポリ家
*'''[[ラ・ロカ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Roca|スペイン語版]])</span>(1793年)[[フィッツ=ジェームズ家|フィツ=ハメス・ステュアルト家]]
*[[File:COA Duke of San Lorenzo de Valhermoso.svg|25px]] '''[[サン・ロレンソ・デ・バルエルモソ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Lorenzo de Valhermoso|スペイン語版]])</span>(1794年) <span style="font-size:80%">[[オソリオ家]]([[:es:Casa de Osorio|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Gor.svg|25px]] '''[[ゴル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Gor|スペイン語版]])</span>(1803年)[[アルバレス・ド・ボオルケス家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Linaje Álvarez de Bohorques|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Sueca.svg|25px]] '''[[スエカ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sueca|スペイン語版]])</span>(1804年)ルスポリ家
*[[File:COA Duke of Tamames.svg|25px]] '''[[タマメス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Tamames|スペイン語版]])</span>(1805年)メシーア家
*[[File:COA Duke of Ciudad Rodrigo.svg|25px]] '''[[シウダ・ロドリゴ公爵]]'''(1812年)ウェルズリー家
*[[File:COA Duke of San Fernando de Quiroga.svg|25px]] '''[[フェルナンド・デ・キロガ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Fernando de Quiroga|スペイン語版]])</span>(1815年)メルガレホ家
*[[File:COA Duke of San Fernando Luis.svg|25px]] '''[[サン・フェルナンド・ルイス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de San Fernando Luis|スペイン語版]])</span>(1816年)レヴィ=ミルポワ家
*[[File:Ducado de Fernán Núñez.svg|25px]] '''[[フェルナン=ヌニェス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Fernán Núñez|スペイン語版]])</span>(1817年)ファルコ家
*'''[[カストロ=テレノ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Castro-Terreño|スペイン語]])</span>(1825年)サンチェス・ナバーロ家
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[セビリア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Sevilla|スペイン語版]])</span>(1823年)[[ブルボン家|ボルボン家]]
*'''[[ネミ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Nemi|スペイン語版]])</span>(1828年)[[ブラスキ家|セオドリ=ブラスキ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Braschi (familia)|スペイン語版]])</span>
*'''[[ノブレハス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Noblejas|スペイン語版]])</span>(1829年)エガーニャ家
*[[File:COA Duke of Almazán de Saint Priest.svg|25px]] '''[[アルマサン=プリースト公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Almazán de Saint Priest|スペイン語版]])</span>(1830年)カステラーヌ家
*[[File:COA Duke of Almenara Alta.svg|25px]] '''[[アルメナーラ・アルタ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Almenara Alta|スペイン語版]])</span>(1830年)マルトレル家
*[[File:COA Duke of Santa Cristina.svg|25px]] '''[[サンタ・クリスティーナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santa Cristina|スペイン語版]])</span>(1830年)マルケス家
*[[File:COA Duke of Bailén.svg|25px]] '''[[バイレン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Bailén|スペイン語版]])</span>(1833年)カロンデレ家
*[[File:Escudo del ducado de Zaragoza.svg|25px]] '''[[サラゴサ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Zaragoza|スペイン語版]])</span>(1834年)[[トレド家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Toledo|スペイン語版]])</span>
*'''[[アウマダ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Ahumada|スペイン語版]])</span>(1836年)[[グスマン家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Guzmán|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Duke of Victoria de las Amezcoas.svg|25px]] '''[[ラ・ビクトリア・デ・ラス・アメスコア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Victoria de las Amezcoas|スペイン語版]])</span>(1836年)オラー家
*[[File:COA Duke of la Victoria.svg|25px]] '''[[ラ・ビクトリア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Victoria|スペイン語版]])</span>(1837年)モンテスシーノ=エスパルテーロ家
*[[File:COA Duke of Riánsares.svg|25px]] '''[[リアンサレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Riánsares|スペイン語版]])</span>(1844年)ムニョス家
*'''[[ラ・コンキスタ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Conquista|スペイン語版]])</span>(1847年)エガーニャ家
*[[File:COA Duke of Riánsares.svg|25px]] '''[[タランコン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Tarancón|スペイン語版]])</span>(1847年)パラ家
*[[File:COA Duke of the Union of Cuba.svg|25px]] '''[[ラ・ウニオン・デ・キューバ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Unión de Cuba|スペイン語版]])</span>(1847年)キロス家
*[[File:COA Duke of Valencia.svg|25px]] '''[[バレンシア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Valencia|スペイン語版]])</span>(1847年)ナルバエス家
*[[File:COA Duke of T'Serclaes.svg|25px]] '''[[セルクラエス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de T'Serclaes|スペイン語版]])</span>(1856年)[[グスマン家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Guzmán|スペイン語版]])</span>
*'''[[カストロ=エンリケス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Castro-Enríquez|スペイン語版]])</span>(1858年)アロスピデ家
*[[File:Escudo Armas Ducado de Regla.svg|25px]] '''[[レグラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Regla|スペイン語版]])</span>(1859年)デル・バジェ家
*[[File:COA Duke of Tetuán.svg|25px]] '''[[テトゥアン公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Tetuán|スペイン語版]])</span>(1860年)オドンネル家
*[[File:Escudo del ducado de la Torre.svg|25px]] '''[[ラ・トレ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de la Torre|スペイン語版]])</span>(1862年)カンプス家
*[[File:COA Duke of Bivona.svg|25px]] '''[[ビヴォーナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Bivona|スペイン語版]])</span>(1865年)ファルコ家
*'''[[オルナチュエロス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Hornachuelos|スペイン語版]])</span>(1868年)ホーセス家
*'''[[アルモドバル・デル・バジェ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Almodóvar del Valle|スペイン語版]])</span>(1871年)マルテル家
*'''[[ロス・カスティジェホ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de los Castillejos|スペイン語版]])</span>(1871年)ムンタダス=プリム家
*[[File:COA Duke of Liria.svg|25px]] '''[[ガリステオ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Galisteo|スペイン語版]])</span>(1871年)メシーア家
*[[File:Blasón de la familia Prim.svg|25px]] '''[[プリム公爵]]'''<span style="font-size:80%"> ([[:es:Ducado de Prim|スペイン語版]])</span>(1871年)ムンタダス=プリム家
*[[File:Blason Es famille Elio (Navarre).svg|25px]] '''[[エリオ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Elío|スペイン語版]])</span>(1875年)エリオ家
*[[File:COA Duke of Santoña.svg|25px]] '''[[サントナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santoña|スペイン語版]])</span>(1875年)ミトハンス家
*[[File:COA Duke of Vista Alegre.svg|25px]] '''[[ビスタ=アレグレ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Vista-Alegre|スペイン語版]])</span>(1876年)サンチェス・ド・トカ家
*[[File:COA Duke of Vistahermosa.svg|25px]] '''[[ビスタエルモサ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Vistahermosa|スペイン語版]])</span>(1879年)ガルシア=ロイゴリ家
*[[File:COA Duke of Denia and Tarifa.svg|25px]] '''[[デニア・イ・タリファ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Denia y Tarifa|スペイン語版]])</span>(1882年)[[ホーエンローエ=ランゲンブルク家]]<span style="font-size:80%">([[:de:Hohenlohe-Langenburg|ドイツ語版]])</span>
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[ドゥルカル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Dúrcal|スペイン語版]])</span>(1885年)パティーノ家
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[マルチェナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Marchena|スペイン語版]])</span>(1885年)ウォルフォード・ホーキンス家
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[アンソラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Ánsola|スペイン語版]])(1887年)</span> ウォルフォード・ホーキンス家
*[[File:COA Duke of Santo Mauro.svg|25px]] '''[[サント・マウロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santo Mauro|スペイン語版]])</span>(1890年)フェルナンデス=ビジャベルデ家
*'''[[セオ・デ・ウルヘル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Seo de Urgel|スペイン語版]])</span>(1891年)ビラリョンガ家
*'''[[カノバス・デル・カスティーリョ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Cánovas del Castillo|スペイン語版]])</span>(1901年)コルドバ家
*[[File:COA Duke of Arjona.svg|25px]] '''[[アルホナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Arjona|スペイン語版]])</span>(1902年)イルホ家
*[[File:Armas del infante Manuel de Castilla.svg|25px]] '''[[アレバロ・デル・レイ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Arévalo del Rey|スペイン語版]])</span>(1903年)ロヘンディオ家
*[[File:COA Gran Capitan.svg|25px]] '''[[アンドリア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Andría|スペイン語版]])</span>(1904年) トゴレス家
*[[File:COA Duke of Algeciras.svg|25px]] '''[[アルへシラス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Algeciras|スペイン語版]])</span>(1906年)カリソサ家
*'''[[トバル公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Tovar|スペイン語版]])</span>(1906年)フィゲロア家
*'''[[ラス・トレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de las Torres|スペイン語版]])</span>(1907年)フィゲロア家
*'''[[ピノエルモソ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Pinohermoso|スペイン語版]])</span>(1907年)バレラ家
*'''[[カナレハス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Canalejas|スペイン語版]])</span>(1913年)カナレハス家
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[エルナニ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Hernani|スペイン語版]])</span>(1914年)[[ブルボン家|ボルボン家]]
*[[File:COA Duke of Parcent.svg|25px]] '''[[パルセント公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Parcent|スペイン語版]])</span>(1914年)[[ラ・セルダ家]]
*[[File:COA Duke of Talavera de la Reina.svg|25px]] '''[[トラヴェル・デ・ラ・レイナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Talavera de la Reina|スペイン語版]])</span>(1914年)[[シルバ家]]<span style="font-size:80%">([[:es:Casa de Silva|スペイン語版]])</span>
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[サンタ・エレナ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santa Elena|スペイン語版]])</span>(1917年)[[ブルボン家|ボルボン家]]
*[[File:COA Duke of Rubí.svg|25px]] '''[[ルビ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Rubí|スペイン語版]])</span>(1920年)ウェイレル家
*'''[[ダトゥ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Dato|スペイン語版]])</span>(1921年)ロス・モンテーロス家
*[[File:COA Duke of Maura.svg|25px]] '''[[マウラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Maura|スペイン語版]])</span>(1930年)ペレス=マウラ家
*'''[[サント・ボーノ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Santo Buono|スペイン語版]])</span>(1958年)デル・アルカサル家
*[[File:COA Duke of Fernández Miranda.svg|25px]] '''[[フェルナンデス=ミランダ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Fernández-Miranda|スペイン語版]])</span>(1977年)フェルナンデス=ミランダ家
*[[File:Arms of House of Suárez.svg|25px]] '''[[スアレス公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Suárez|スペイン語版]])</span>(1981年)スアレス家
*[[File:COA Bourbon Spanish Dukedoms.svg|25px]] '''[[ソリア公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Soria|スペイン語版]])</span>(1981年)[[ブルボン家|ボルボン家]]
*[[File:Coat of Arms of the Spanish House of Bourbon Dukedoms.svg|25px]] '''[[ルーゴ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Lugo|スペイン語版]])</span>(1995年)[[ブルボン家|ボルボン家]]
{{Div col end}}
=== 国民記憶法により廃止された公爵位 ===
2022年10月、{{仮リンク|国民記憶法 (スペイン)|en|Democratic_Memory_Law|label=国民記憶法}}の施行により、以下の公爵位が強制的に称号廃止となった<ref>{{Smallcaps|Jefatura del Estado}}: {{Cite journal|date=20 October 2022|title=Ley 20/2022, de 19 de octubre, de Memoria Democrática|url=https://www.boe.es/buscar/pdf/2022/BOE-A-2022-17099-consolidado.pdf|journal=[[Boletín Oficial del Estado]]|pages=33–34|publisher=Agencia Estatal Boletín Oficial del Estado|location=Madrid|issn=0212-033X}}</ref>。
*'''[[カルボ=ソテーロ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Calvo Sotelo|スペイン語版]])</span>(1948年)カルボ=ソテーロ家
*[[File:COA Duke of Mola.svg|25px]] '''[[モラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Mola|スペイン語版]])</span>(1948年)モラ家
*[[File:COA Duke of Primo de Rivera.svg|25px]] '''[[プリモ・デ・リベラ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Primo de Rivera|スペイン語版]])</span>(1948年)プリモ・デ・リベラ家
*'''[[カレーロ=ブランコ公爵]]'''<span style="font-size:80%">([[:es:Ducado de Carrero Blanco|スペイン語版]])</span>(1973年)空位
*[[File:COA Duke of Franco.svg|25px]] '''[[フランコ公爵]]'''(1975年)マルティネス=ボルディウ家
== ロシアの公爵 ==
{{main|クニャージ}}
[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の{{仮リンク|ロシアの貴族|label=貴族|ru|Российское дворянство}}は[[17世紀]]以前の[[ボヤール]]([[モスクワ大公国]]以前からの諸侯)に由来するものと、[[18世紀]]以降ロシア帝国初代皇帝[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が制定した官等表に基づいて貴族になった官僚貴族のドヴォリャンストヴォに分けられるが、ボヤールも官僚としての勤務で官等表に組み込まれ、ドヴォリャンストヴォ化したので両者は同質化していった{{Sfn|坂内知子|2012|p=164}}。
ロシア貴族の称号は当初は公爵([[クニャージ]]、Князь、knyaz)しかなかったが、ピョートル1世は[[ドイツ]]と同じ伯爵位([[グラーフ (称号)|グラフ]]、граф, graf)、[[イギリス]]と同じ男爵位([[バロン (称号)|バロン]]、барон、baron)を加えて爵位制度を作った{{Sfn|坂内知子|2012|p=164}}<ref>{{Cite Kotobank|word=官等表|encyclopedia=世界大百科事典|accessdate=2021年3月23日}}</ref>。また皇族の称号として大公([[ヴェリーキー・クニャージ]]、Великий князь)があった{{Sfn|秦郁彦編|2001|p=426}}。
帝政ロシア時代の公爵家には[[ドルゴルーコフ家]]、{{仮リンク|ゴリツィン家|ru|Голицыны}}、[[デミドフ家|ロプーヒン=デミドフ家]]、[[カンテミール家]]、{{仮リンク|ポチョムキン家|ru|Потёмкины}}、[[オボレンスキー家]]<span style="font-size:80%">([[:ru:Оболенские|ロシア語版]])</span>、{{仮リンク|ゴルチャコフ家|ru|Горчаковы}}、{{仮リンク|ロバノフ=ロストフスキー家|ru|Лобановы-Ростовские}}、{{仮リンク|ユスポフ家|ru|Юсуповы}}、{{仮リンク|ヴォルコンスキー家|ru|Волконские}}などがあった。
帝政ロシアの貴族の特徴は[[ロマノフ朝]]皇帝権力に強く従属し、勤務義務を負っていることだった。その原因の一つとしてロシア貴族は伝統的に均分相続法によって所領が細分化しやすかったため、官僚として働いて生活費を稼ぐ必要のある者が多かったことがあげられる。またロマノフ皇帝は絶対権力者であるので、その近くで勤務することは自分の権力と財産を拡大させるチャンスであった{{Sfn|川端香男里、佐藤経明|2004|p=172}}。
しかし18世紀を通じて貴族の勤務義務は徐々に緩和されていき、1762年の[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]の布告で廃止された{{Sfn|川端香男里、佐藤経明|2004|p=172}}。貴族の領地と農奴を私有財産として保障した{{Sfn|坂内知子|2012|p=164}}1785年の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]の特権認可状は貴族を身分に再編しようというものだったが、実際にロシア貴族に身分意識が生まれたのは19世紀以降だった{{Sfn|川端香男里、佐藤経明|2004|p=172}}。
ロシア貴族が住む屋敷はウサージバと呼ばれた{{Sfn|坂内知子|2012|p=165}}。
[[ロシア革命]]により貴族身分は廃止され、[[ソビエト連邦]]時代を通じて貴族家系の出身者は迫害・抑圧されたが、[[ソビエト連邦の崩壊]]後には貴族の子孫たちが自分の先祖の再評価の出版を相次いで行っている{{Sfn|川端香男里、佐藤経明|2004|p=172}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|3}}
== 参考文献 ==
=== 文献資料 ===
*日本の公爵について
** {{Cite book|和書|date=1994年(平成6年)|title=華族誕生 名誉と体面の明治|author=浅見雅男|authorlink=浅見雅男|publisher=[[リブロポート]]|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|chapter=明治四年衆華族ヲ便殿ニ召シ賜リタル 勅諭|title=華族要覧|number=第1輯|url=https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I1018502-00|website=ndlonline.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-20|publisher=東京:居相正広|work=国立国会図書館デジタルコレクション|author=居相正広|date=1925年(大正13年8月編輯)|doi=10.11501/1018502|ref=harv|pages=1-44 (コマ番号0005.jp2-0028.jp2)}}{{全国書誌番号|43045309}}。
** {{Cite book|和書|date=2006年(平成18年)|title=華族 近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|date=1982年(昭和57年)|title=ある華族の昭和史 上流社会の明暗を見た女の記録|author=酒井美意子|authorlink=酒井美意子|publisher=主婦と生活社|isbn= 978-4061835283|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|date=2008年(平成20年)|title=貴族院|author=内藤一成|authorlink=内藤一成|publisher=[[同成社]]|series=同成社近現代史叢書|isbn= 978-4886214188|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=原口大輔|title= 貴族院議長・徳川家達と明治立憲制 |publisher= 吉田書店 |isbn= 978-4905497684|year=2018|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|year=1990|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}}
*中国の公爵について
** {{Cite journal|和書|title=「五等爵制」再考|author=[[石黒ひさ子]] |url=https://hdl.handle.net/10291/1569|date=2006-12-25| journal=駿台史學|volume=129|pages=1-20|naid=120001439019|ISSN=05625955|publisher=明治大学史学地理学会|ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|author=今堀誠二 |title=唐代封爵制拾遺 |doi=10.20624/sehs.12.4_419 |issn=0038-0113 |issue=4 |journal=社会経済史学 |naid=110001212961 |pages=419-451 |publisher=社会経済史学会 |volume=12 |year=1942 |url=https://doi.org/10.20624/sehs.12.4_419 |ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|author=袴田郁一 |title=両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として |journal=論叢アジアの文化と思想 |issn=1340-3370 |publisher=アジアの文化と思想の会 |year=2014 |month=dec |issue=23 |pages=79-134 |naid=120005819881 |url=https://hdl.handle.net/2065/49020 |ref=harv}}
*イギリスの公爵について
** {{Cite book|和書|author=小林章夫|authorlink=小林章夫|date=1991年(平成3年)|title=イギリス貴族|series= [[講談社現代新書]]1078|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490789|ref=小林(1991)}}
** {{Cite journal|和書|author=[[田中嘉彦]] |title=英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能 |journal=一橋法学 |issn=13470388 |publisher=一橋大学大学院法学研究科 |year=2009 |month=mar |volume=8 |issue=1 |pages=221-302 |naid=110007620135 |doi=10.15057/17144 |url=https://hdl.handle.net/10086/17144 |ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=前田英昭|authorlink=前田英昭|date=1976|title=イギリスの上院改革|publisher=[[木鐸社]]|asin=B000J9IN6U|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|date=1987年(昭和62年)|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}}
*フランスの公爵について
** {{Cite journal|和書|author=[[上垣豊]] |title=<論説>一九世紀フランスの貴族と近代国家 : 七月革命の前と後 |journal=史林 |issn=03869369 |publisher=史学研究会 (京都大学文学部内) |year=1995 |month=jul |volume=78 |issue=4 |pages=612-648 |naid=120006597863 |doi=10.14989/shirin_78_612 |url=https://hdl.handle.net/2433/239333 |ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author1=柴田三千雄|authorlink1=柴田三千雄|author2=樺山紘一|authorlink2=樺山紘一|author3=福井憲彦|authorlink3=福井憲彦|year=1995|title=フランス史〈1〉先史~15世紀|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460904|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author1=柴田三千雄|authorlink1=柴田三千雄|author2=樺山紘一|authorlink2=樺山紘一|author3=福井憲彦|authorlink3=福井憲彦|year=1996|title=フランス史〈2〉16世紀~19世紀なかば|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461000|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author1=中野隆生|authorlink1=中野隆生|author2=加藤玄|authorlink2=加藤玄|year=2020|title=フランスの歴史を知るための50章|series=エリアスタディーズ179|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750350219|ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|author=[[山本浩三]] |title=第二共和国憲法(訳) |journal=同志社法学 |issn=03877612 |publisher=同志社法學會 |year=1959 |month=jun |volume=11 |issue=1 |pages=46-57 |naid=110000400917 |doi=10.14988/pa.2017.0000009300 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009300 |ref=harv}}
*ドイツの公爵について
** {{Cite book|和書|author1=成瀬治|authorlink1=成瀬治|author2=山田欣吾|authorlink2=山田欣吾|author3=木村靖二|authorlink3=木村靖二|year=1997|title=ドイツ史〈1〉先史~1648年|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461208|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author1=成瀬治|authorlink1=成瀬治|author2=山田欣吾|authorlink2=山田欣吾|author3=木村靖二|authorlink3=木村靖二|year=1996|title=ドイツ史〈2〉1648年~1890年|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634461307|ref=harv}}
*スペインの公爵について
** {{Cite book|和書|author1=関哲行|authorlink1=関哲行|author2=中塚次郎|authorlink2=中塚次郎|author3=立石博高|authorlink3=立石博高|year=2008|title=スペイン史〈1〉古代~近世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634462045|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=坂東省次|authorlink=坂東省次|year=2013|title=現代スペインを知るための60章|series=エリアスタディーズ116|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750337838 |ref=harv}}
*ロシアの公爵について
** {{Cite book|和書|editor1=川端香男里|editor1-link=川端香男里|editor2=佐藤経明|editor2-link=佐藤経明|year=2004|title=新版 ロシアを知る事典|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4582126358|ref=harv}}
** {{Cite journal|和書|author=[[坂内知子]]|year=2012|title=ロシア貴族とウサージバ : A・オレーニンと別邸プリユーチノ(1)|url=https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/22978/|journal=人文・自然研究 |volume=6 |pages=164-181|publisher=一橋大学大学教育研究開発センター|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=秦郁彦|editor-link=秦郁彦|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=harv}}
*その他
** 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
** 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
== 関連項目 ==
{{貴族階級}}
* [[公#ヨーロッパにおける公の称号]]
* [[公#中国における公の称号]]
* [[プリンス]]({{Lang|en|prince}})
* [[ヘルツォーク]]([[:en:Herzog (title)|Herzog]])
* [[貴族院 (日本)#公爵議員・侯爵議員]]
* [[公爵領]]
* [[貴族]]
* [[爵位]]
* [[大公]]
* [[侯爵]]
* [[伯爵]]
* [[子爵]]
* [[男爵]]
== 外部リンク ==
*{{commonscat-inline|Dukes|公爵}}
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季語
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季語(きご)とは、連歌、俳諧、俳句において用いられる特定の季節を表す言葉を言う。「雪」(冬)、「月」(秋)、「花」(春)などのもの。流派、結社によっては、題詠の題としたり、一句の主題となっている言葉を「季題」(きだい)と言い、単に季節を表すだけの「季語」と区別することもあるが、両者の境は曖昧であり互いを同義に用いることも多い(詳細は後述)。「季語」「季題」いずれも近代以降に成立した言い方であり、古くは「季の詞(きのことば)」「季の題」「四季の詞」あるいは単に「季(き)」「季節」などと呼ばれていた。以下では特に説明のない限り「季語」で統一して解説する。
日本の詩歌において季節は古くから意識されており、『万葉集』の巻八と巻十、『古今和歌集』の最初の六巻はそれぞれ季節によって部立てがされている。季語が成立したのは平安時代後期であり、能因による『能因歌枕』では月別に分類された150の季語を見ることができる。五番目の勅撰和歌集『金葉和歌集』では、それまで季節が定められていなかった「月」が秋の景物と定められ、以後「花」(季語では桜のこと)(春)、「ほととぎす」(夏)、「紅葉」(秋)、「雪」(冬)とともに「五箇の景物」と言われ重要視された。
鎌倉時代に連歌が成立すると、複数の参加者の間で連想の範囲を限定する必要性から季語が必須のものとされた。発句(連歌の最初の五七五の句)は必ずそのときの季節に合わせて詠むべきものとされ、南北朝時代の『連理秘抄』(二条良基)では40ほど、室町時代の『連歌至宝抄』(里村紹巴、1627年)では270ほどの季語を集めている。また連歌の時代からは季語の本意・本情(ほんい、ほんじょう。和歌以来受け継がれてきた、その季語にまつわる伝統的な美意識のこと)が問われ盛んに議論されるようになった。
江戸時代に俳諧が成立すると、卑近な生活の素材などからも季語が集められて著しく増大した。俳諧の最古の季題集『はなひ草』(野々口立圃、1636年)には590、『山の井』(北村季吟、1648年)では1300、『俳諧歳時記』(曲亭馬琴、1803年)では2600の季語が集められている。芭蕉の正門俳諧では、漢詩、和歌以来の伝統的な季語を「竪題」(たてだい、縦題とも)、俳諧からの新しい季語を「横題」(よこだい)とも言い、松尾芭蕉は「季節(注:ここでは季語のこと)の一つも探り出したらんは、後世によき賜(たまもの)となり」(『去来抄』)として季語の発掘を推奨した。
明治時代に俳句の近代化を行った正岡子規は、十七字という俳句の短さに対して、季語によって起こる四季の連想が重要な役割を果たすと考えた(『俳諧大要』)。子規の考えを受け継いだ高濱虚子は、俳句の主題は四季を反映した自然(ならびにそれを反映した人事・生活)であるべきことを説き(花鳥諷詠)、無季俳句に対して厳しい態度を取ったが、昭和初期に起こった新興俳句運動は都会や戦争など社会的素材を扱い積極的に無季俳句を容認した。明治時代に西暦が導入されると、旧暦の季節感と西暦の季節感とのずれが生ずることになった。そのため正月の季語は「新年の季語」として別の扱いとされた。
さらに外地が拡大していくに従い、椰子や水牛などの各地の風物や年中行事が季語として取り入れられるようになり、北海道や沖縄県、台湾、また日系人の多いブラジルやハワイ州などで独自の歳時記が編纂されるようになった。
新しい季語は近代以降も、俳人が俳句に取り入れ、それが歳時記に採集されるという形で増え続けており、現代の歳時記ではおおむね5000を超える数の季語が収録されている。
ただし、現在は公式に季語を認定する機関は存在しない。
季語はその成り立ちによって三種類に分けることができる。まず一つは「事実の季語」で、雪は主に冬に降るから冬、梅の花は春に咲くから春、という風に自然界の事実にしたがって決められているものである。次に「指示の季語」があり、「春の雨」「夏の山」「秋風」というように、事物の上に季節を表す語がついて直接的に季節を示しているものである。最後に「約束の季語」があり、これは実際には複数の季節を通して見られるものであっても、伝統的な美意識に基づく約束事として季節が決まっているものである。先述の「月」(秋)や「蛙」(春)、「虫」(秋)、「火事」(冬)といったものがその例である。
現代の歳時記においては一般に、四季+新年の五季ごとに季語の内容から「時候」「天文」「地理」「生活」「行事」「動物」「植物」という分類がなされている。
前述のように「季語」と「季題」は同義に用いられることもあるが、歴史的には「季題」は古来の中国の詩人が題を用いて詩を詠んだ伝統から、和歌、連歌という風に受け継がれていった、時代の美意識を担う代表的な「季節の題目」であり、連歌においては発句(はじめの五七五の句)において重要視されたものであるのに対して、「季語」はそれらを含んで付け句(発句以下に付けられる句)にまで広く採集された「季の詞」であり、発句の季題が喚起した詩情を具体化する役割を担うものであった。このため「季題」という言い方をする場合には「季語」よりもその語を重要視しているという感じもあるが、両者をはっきり区別する確定的な考え方があるわけではない。例えば山本健吉は『最新俳句歳時記』において、季語を「五箇の景物」から「和歌の季題」「連歌の季題」「俳諧の季題」「俳句の季題」「季語」の六種類の層に分け、「五箇の景物」を頂点とするピラミッド型の分類を試みているが、しかし山本自身これらすべてを包括して「季語」という言い方もしていた。山下一海は、季語、季題の違いは使い方の違いであるため、あるひとつの語を季語か季題かというふうに分類はできないとしている。
いずれにしても「季題」「季語」という言い方は近代に作られたものであり、「季題」は1903年に新声会の森無黄が、「季語」は1908年に大須賀乙字がそれぞれはじめて用いたという。
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季語(きご)とは、連歌、俳諧、俳句において用いられる特定の季節を表す言葉を言う。「雪」(冬)、「月」(秋)、「花」(春)などのもの。流派、結社によっては、題詠の題としたり、一句の主題となっている言葉を「季題」(きだい)と言い、単に季節を表すだけの「季語」と区別することもあるが、両者の境は曖昧であり互いを同義に用いることも多い(詳細は後述)。「季語」「季題」いずれも近代以降に成立した言い方であり、古くは「季の詞(きのことば)」「季の題」「四季の詞」あるいは単に「季(き)」「季節」などと呼ばれていた。以下では特に説明のない限り「季語」で統一して解説する。
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[[File:Cherry tree blossoms.jpg|thumb|200px|代表的な春の季語である「花」はもっぱら桜を指す。]]
'''季語'''(きご)とは、[[連歌]]、[[俳諧]]、[[俳句]]において用いられる特定の[[季節]]を表す言葉を言う。「[[雪]]」(冬)、「[[月]]」(秋)、「[[花]]」(春)などのもの。流派、結社によっては、題詠の題としたり、一句の主題となっている言葉を「季題」(きだい)と言い、単に季節を表すだけの「季語」と区別することもあるが、両者の境は曖昧であり互いを同義に用いることも多い<ref name=YAMA173>山下一海 「季語」『現代俳句大事典』 173-174頁</ref>(詳細は後述)。「季語」「季題」いずれも近代以降に成立した言い方であり、古くは「季の詞(きのことば)」「季の題」「四季の詞」あるいは単に「季(き)」「季節」などと呼ばれていた<ref name="YAMA178">山下一海 「季題」『現代俳句大事典』 178-179頁</ref>。以下では特に説明のない限り「季語」で統一して解説する。
== 歴史 ==
[[File:Arashiyama Hanatōro, Nison-in 嵐山花灯路・二尊院 紅葉と月 DSCF5361.JPG|thumb|「紅葉」「月」はどちらも秋の季語。「花」「ほととぎす」「雪」とともに「五箇の景物」とされた]]
日本の詩歌において季節は古くから意識されており、『[[万葉集]]』の巻八と巻十、『[[古今和歌集]]』の最初の六巻はそれぞれ季節によって部立てがされている。季語が成立したのは[[平安時代]]後期であり、[[能因]]による『能因歌枕』では月別に分類された150の季語を見ることができる。五番目の勅撰和歌集『[[金葉和歌集]]』では、それまで季節が定められていなかった「[[月]]」が秋の景物と定められ、以後「[[花]]」(季語では[[桜]]のこと)(春)、「[[ほととぎす]]」(夏)、「[[紅葉]]」(秋)、「[[雪]]」(冬)とともに「五箇の景物」と言われ重要視された<ref>宮坂、6-7頁</ref>。
[[鎌倉時代]]に[[連歌]]が成立すると、複数の参加者の間で連想の範囲を限定する必要性から季語が必須のものとされた<ref>宮坂、13頁</ref>。発句(連歌の最初の五七五の句)は必ずそのときの季節に合わせて詠むべきものとされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の『連理秘抄』([[二条良基]])では40ほど、[[室町時代]]の『連歌至宝抄』([[里村紹巴]]、[[1627年]])では270ほどの季語を集めている<ref name=YAMA178/>。また連歌の時代からは季語の'''本意・本情'''(ほんい、ほんじょう。[[和歌]]以来受け継がれてきた、その季語にまつわる伝統的な美意識のこと)が問われ盛んに議論されるようになった<ref>宮坂、3頁、14-18頁</ref>。
[[江戸時代]]に[[俳諧]]が成立すると、卑近な生活の素材などからも季語が集められて著しく増大した<ref name=YAMA178/>。俳諧の最古の季題集『はなひ草』([[雛屋立圃|野々口立圃]]、[[1636年]])には590、『[[山の井]]』([[北村季吟]]、[[1648年]])では1300、『俳諧歳時記』([[曲亭馬琴]]、[[1803年]])では2600の季語が集められている<ref>宮坂、186-190頁</ref>。芭蕉の正門俳諧では、[[漢詩]]、和歌以来の伝統的な季語を「竪題」(たてだい、縦題とも)、俳諧からの新しい季語を「横題」(よこだい)とも言い、[[松尾芭蕉]]は「季節(注:ここでは季語のこと)の一つも探り出したらんは、後世によき賜(たまもの)となり」(『[[去来抄]]』)として季語の発掘を推奨した<ref>宮坂、25-26頁</ref>。
[[明治時代]]に俳句の近代化を行った[[正岡子規]]は、十七字という俳句の短さに対して、季語によって起こる四季の連想が重要な役割を果たすと考えた(『俳諧大要』)。子規の考えを受け継いだ[[高濱虚子]]は、俳句の主題は四季を反映した自然(ならびにそれを反映した人事・生活)であるべきことを説き([[花鳥諷詠]])、無季俳句に対して厳しい態度を取ったが、[[昭和]]初期に起こった新興俳句運動は都会や戦争など社会的素材を扱い積極的に[[無季俳句]]を容認した<ref>山下一海 「季題の歴史」『季題入門』 202-204頁</ref>。明治時代に[[西暦]]が導入されると、旧暦の季節感と西暦の季節感とのずれが生ずることになった。そのため[[正月]]の季語は「[[新春の季語|新年の季語]]」として別の扱いとされた。
さらに[[外地]]が拡大していくに従い、[[ヤシ|椰子]]や[[水牛]]<ref>いずれも特に台湾季語として人気の高い題材であった。</ref>などの各地の風物や年中行事が季語として取り入れられるようになり、[[北海道]]や[[沖縄県]]、[[台湾]]、また[[日系人]]の多い[[ブラジル]]や[[ハワイ州]]などで独自の歳時記が編纂されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/0/db586269aa69646049257f09002e3154/$FILE/2015.11_03.pdf |title= 台湾俳句史(1985〜2013)(2) 〜季題、季語、虚子の「熱帯季題論」と台湾の歳時記〜 |author=呉昭新|work=『交流』2015年11月号 |publisher=公益財団法人[[日本台湾交流協会]] |pages=15-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170305034836/https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/0/db586269aa69646049257f09002e3154/$FILE/2015.11_03.pdf |archivedate=2017-03-05 |accessdate=2020-01-15 }}</ref>。
新しい季語は近代以降も、俳人が俳句に取り入れ、それが[[歳時記]]に採集されるという形で増え続けており、現代の歳時記ではおおむね5000を超える数の季語が収録されている<ref name=YAMA178/>。
ただし、現在は公式に季語を認定する機関は存在しない。
== 季語の種類 ==
季語はその成り立ちによって三種類に分けることができる<ref name=YAMA173/>。まず一つは「事実の季語」で、雪は主に冬に降るから冬、梅の花は春に咲くから春、という風に自然界の事実にしたがって決められているものである。次に「指示の季語」があり、「春の雨」「夏の山」「秋風」というように、事物の上に季節を表す語がついて直接的に季節を示しているものである。最後に「約束の季語」があり、これは実際には複数の季節を通して見られるものであっても、伝統的な美意識に基づく約束事として季節が決まっているものである。先述の「月」(秋)や「蛙」(春)、「虫」(秋)、「火事」(冬)といったものがその例である。
現代の歳時記においては一般に、四季+新年の五季ごとに季語の内容から「時候」「天文」「地理」「生活」「行事」「動物」「植物」という分類がなされている。
== 季語と季題 ==
前述のように「季語」と「季題」は同義に用いられることもあるが、歴史的には「季題」は古来の中国の詩人が題を用いて詩を詠んだ伝統から、和歌、連歌という風に受け継がれていった、時代の美意識を担う代表的な「季節の題目」であり、連歌においては発句(はじめの五七五の句)において重要視されたものであるのに対して、「季語」はそれらを含んで付け句(発句以下に付けられる句)にまで広く採集された「季の詞」であり、発句の季題が喚起した詩情を具体化する役割を担うものであった<ref>宮坂、5-6頁</ref><ref>浅沼璞 「季語」『現代俳句ハンドブック』 180-181頁</ref>。このため「季題」という言い方をする場合には「季語」よりもその語を重要視しているという感じもあるが、両者をはっきり区別する確定的な考え方があるわけではない<ref name=YAMA173/>。例えば[[山本健吉]]は『最新俳句歳時記』において、季語を「五箇の景物」から「和歌の季題」「連歌の季題」「俳諧の季題」「俳句の季題」「季語」の六種類の層に分け、「五箇の景物」を頂点とするピラミッド型の分類を試みているが、しかし山本自身これらすべてを包括して「季語」という言い方もしていた<ref>平井照敏 「季題とは何か」『季題入門』 16-17頁</ref>。[[山下一海]]は、季語、季題の違いは使い方の違いであるため、あるひとつの語を季語か季題かというふうに分類はできないとしている<ref>山下一海 「季題の歴史」『季題入門』 189-190頁</ref>。
いずれにしても「季題」「季語」という言い方は近代に作られたものであり、「季題」は[[1903年]]に新声会の森無黄が、「季語」は[[1908年]]に[[大須賀乙字]]がそれぞれはじめて用いたという<ref>宮坂、5頁</ref>。
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
*宮坂静生 『季語の誕生』 岩波新書、2009年
*飴山實他 『季題入門』 有斐閣新書、1978年
*齋藤慎爾他編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年
*『現代俳句大事典』 三省堂、2005年
== 関連項目 ==
{{portal 文学}}
*[[季語一覧]]
*[[二十四節気]]
*[[歳時記]]
*[[雪月花]]
*[[無季俳句]]
{{季節}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きこ}}
[[Category:季語|*]]
[[Category:季節]]
[[Category:俳諧]]
[[Category:俳句]]
[[Category:日本語の語句|*きこ]]
[[Category:日本の文学用語]]
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林原めぐみのHeartful Station
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『林原めぐみのHeartful Station』(はやしばらめぐみのハートフル・ステーション)は、ラジオ関西で1991年(平成3年)10月5日から2015年(平成27年)3月28日まで放送されていたアニラジ番組。ラジオ日本にて放送されていた第1期についても当該頁にて記す。
林原めぐみ(メインパーソナリティ)と保志総一朗(3代目アシスタント。初代:大月俊倫、2代目:あみやまさはる)によって、リスナーのお便りを通じたトークと複数のコーナー(コーナー・企画を参照)、およびスターチャイルドレーベルの楽曲紹介を中心に進行していくラジオ番組である。声優がパーソナリティを務めるアニラジとしては、『mamiのRADIかるコミュニケーション』や『ノン子とのび太のアニメスクランブル』に次ぐ歴史がある。林原はブログやTwitterなどでの情報発信をしておらず、ファンクラブも存在しないため、ファンにとっては林原の普段の出来事や新曲発表などの情報が得られる数少ない場となっていた。
この番組で初めてお便りが読まれたリスナーには、岡田芽武によるイラストが入った会員証が送られていた。会員証入手後は重複発行を回避するため、ハガキへ会員番号を明記することが決まりとなっているが、放送中にリスナーの会員番号が読まれることはほとんどない。2回目以降に採用された場合は、番組特製ステッカーが送られる。また、林原のツボに入ったお便りには「おもちゃ箱」の名称でさらにプレゼントが送られていた。そのほかにも、各コーナーでプレゼント企画が多いのが特徴である。なお、郵送等の作業は数少ないスタッフによる手作業のため、放送で読まれてから数か月かかる場合もあった。
通算放送回数が100回を達成するごとに記念として公開録音イベントが行われていた。なお、この公開録音は林原が活動方針上コンサート活動を行わない代わりとして、ファンへの感謝の気持ちもこめて、抽選による招待ではあるものの参加費無料で開催された。
2015年2月28日の放送にて、放送終了が発表され、同年3月28日をもって24年の歴史に幕を下ろした。
『林原めぐみのTokyo Boogie Night』との関係については、当該記事を参照のこと。
「虹色のSneaker」は約12年間番組のオープニング・エンディングの両テーマソングとして使用されていた。2003年頃からオープニングテーマでのみインストゥルメンタルバージョンで使用されていた。
また、ジングル(フィラー曲)にはアルバム『Irāvatī』から、オープニング明けに「Good Luck!」、エンディング前に「RUN ALL THE WAY!(Fire Ball Groove Mix)」が使用されている。2004年5月15・16日(第659回)放送分では岡崎律子逝去に対する追悼として、この回のみエンディングに岡崎の「Lucky&Happy」が流された。
お決まりの挨拶として、番組冒頭では「皆さんこんばんは、林原めぐみです。一週間のご無沙汰いかがお過ごしだったでしょうか」、CM前には「神戸の風の吹かせつつ今夜も60分、めぐみに付いて来い!」、番組終了時に「来週も絶対チューニングしろよ! バイバイ」などがあった。
林原が産休から復帰するまでの約2か月間となる2004年6月12日(第663回) - 7月31日(第670回)はアシスタントの保志がメインパーソナリティ代行として、下記の臨時アシスタントとともに番組を進行した。
2015年3月放送終了時点。本番組は番組販売され、幹事局のラジオ関西が独立局という立場上、JRN・NRNなどのネットワークに関わらずネットされていた。
※一部の放送局はradikoプレミアム会員向けのエリアフリー聴取では、番組制作会社の都合で配信されず、radikoの都道府県のエリア内でしか聴取出来なかった。
番組放送回数が増えるに辺り、主に100回毎の記念回数に、リスナーに対して感謝の意味も込めて公開録音を催していた。番組を放送していたラジオ関西(放送当時の愛称である:AM KOBE)の聴取対象地域である兵庫県内では無く、番組開始から4年弱は隣接地域である大阪府内のコンサートホールで催していた。
300回突破記念以後は、主に神戸市内の元町地区、新神戸地区のホールをメイン会場としてリースしており、600回突破記念時は、当該番組を番販購入している全放送局が所在する地域のコンサートホール、1100回突破記念時は、前年に発生した東日本大震災の被災地地域で、600回時に当該番組がネットされていなかった岩手県にて実施した。
また、公開録音構成の特徴として前半は番組収録、後半は林原の人物頁の活動方針に記述されている通り、ライブ活動が皆無であるためリスナーへの恩返しとしてライブパートを行っており、過去にリリースされているアルバムCD及び映像作品に収録されている。
2012年3月31日 - 4月1日開催のアニメ コンテンツ エキスポにて、スターチャイルドはブースでの様子や特別プログラムなど配信する「スタ生」を動画サイト・ニコニコ動画で33時間配信。そのプログラムの1つとして、『林原めぐみのTokyo Boogie Night』との特別横断ラジオ番組である『幕張DESSE Heartful Night』が事前収録風景の映像と併せて3月31日20:00 - 21:00に配信された。
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"text": "『林原めぐみのHeartful Station』(はやしばらめぐみのハートフル・ステーション)は、ラジオ関西で1991年(平成3年)10月5日から2015年(平成27年)3月28日まで放送されていたアニラジ番組。ラジオ日本にて放送されていた第1期についても当該頁にて記す。",
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"text": "林原めぐみ(メインパーソナリティ)と保志総一朗(3代目アシスタント。初代:大月俊倫、2代目:あみやまさはる)によって、リスナーのお便りを通じたトークと複数のコーナー(コーナー・企画を参照)、およびスターチャイルドレーベルの楽曲紹介を中心に進行していくラジオ番組である。声優がパーソナリティを務めるアニラジとしては、『mamiのRADIかるコミュニケーション』や『ノン子とのび太のアニメスクランブル』に次ぐ歴史がある。林原はブログやTwitterなどでの情報発信をしておらず、ファンクラブも存在しないため、ファンにとっては林原の普段の出来事や新曲発表などの情報が得られる数少ない場となっていた。",
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"text": "この番組で初めてお便りが読まれたリスナーには、岡田芽武によるイラストが入った会員証が送られていた。会員証入手後は重複発行を回避するため、ハガキへ会員番号を明記することが決まりとなっているが、放送中にリスナーの会員番号が読まれることはほとんどない。2回目以降に採用された場合は、番組特製ステッカーが送られる。また、林原のツボに入ったお便りには「おもちゃ箱」の名称でさらにプレゼントが送られていた。そのほかにも、各コーナーでプレゼント企画が多いのが特徴である。なお、郵送等の作業は数少ないスタッフによる手作業のため、放送で読まれてから数か月かかる場合もあった。",
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"text": "お決まりの挨拶として、番組冒頭では「皆さんこんばんは、林原めぐみです。一週間のご無沙汰いかがお過ごしだったでしょうか」、CM前には「神戸の風の吹かせつつ今夜も60分、めぐみに付いて来い!」、番組終了時に「来週も絶対チューニングしろよ! バイバイ」などがあった。",
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"text": "林原が産休から復帰するまでの約2か月間となる2004年6月12日(第663回) - 7月31日(第670回)はアシスタントの保志がメインパーソナリティ代行として、下記の臨時アシスタントとともに番組を進行した。",
"title": "林原の産休による休暇時の対応"
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"text": "2015年3月放送終了時点。本番組は番組販売され、幹事局のラジオ関西が独立局という立場上、JRN・NRNなどのネットワークに関わらずネットされていた。",
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"text": "※一部の放送局はradikoプレミアム会員向けのエリアフリー聴取では、番組制作会社の都合で配信されず、radikoの都道府県のエリア内でしか聴取出来なかった。",
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"text": "番組放送回数が増えるに辺り、主に100回毎の記念回数に、リスナーに対して感謝の意味も込めて公開録音を催していた。番組を放送していたラジオ関西(放送当時の愛称である:AM KOBE)の聴取対象地域である兵庫県内では無く、番組開始から4年弱は隣接地域である大阪府内のコンサートホールで催していた。",
"title": "公開録音"
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"text": "300回突破記念以後は、主に神戸市内の元町地区、新神戸地区のホールをメイン会場としてリースしており、600回突破記念時は、当該番組を番販購入している全放送局が所在する地域のコンサートホール、1100回突破記念時は、前年に発生した東日本大震災の被災地地域で、600回時に当該番組がネットされていなかった岩手県にて実施した。",
"title": "公開録音"
},
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"text": "また、公開録音構成の特徴として前半は番組収録、後半は林原の人物頁の活動方針に記述されている通り、ライブ活動が皆無であるためリスナーへの恩返しとしてライブパートを行っており、過去にリリースされているアルバムCD及び映像作品に収録されている。",
"title": "公開録音"
},
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"text": "2012年3月31日 - 4月1日開催のアニメ コンテンツ エキスポにて、スターチャイルドはブースでの様子や特別プログラムなど配信する「スタ生」を動画サイト・ニコニコ動画で33時間配信。そのプログラムの1つとして、『林原めぐみのTokyo Boogie Night』との特別横断ラジオ番組である『幕張DESSE Heartful Night』が事前収録風景の映像と併せて3月31日20:00 - 21:00に配信された。",
"title": "スペシャル番組"
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『林原めぐみのHeartful Station』(はやしばらめぐみのハートフル・ステーション)は、ラジオ関西で1991年(平成3年)10月5日から2015年(平成27年)3月28日まで放送されていたアニラジ番組。ラジオ日本にて放送されていた第1期についても当該頁にて記す。
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{{Pathnav|アニたまどっとコム|frame=1}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル = 林原めぐみのHeartful Station
|ジャンル = [[アニラジ]]
}}
{{Infobox animanga/Radio
| タイトル = 林原めぐみのHeartful Station(第1期)
| 愛称 = ハートフル、HS
| 放送開始 = [[1991年]][[4月9日]]<!-- (入力必須) -->
| 放送終了 = [[8月6日]]
| 放送局 = [[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]<!-- (入力必須) -->
| 放送時間 = 火曜 25:30 - 26:00
| 放送回数 = 17回<ref group="注">通算放送回数の「17回」は第1期である[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]放送時代のみでの放送回数であり、[[ラジオ関西]]で放送された第2期の放送回数に第1期の放送回数はカウントされておらず、基本的には全く別の番組として扱われている。</ref>
| 放送形式 = 録音
| スタジオ =
| ネット局 =
| ネットワーク =
| パーソナリティ = [[林原めぐみ]]
| DJ =
| アシスタント = [[大月俊倫]]
| 構成作家 =
| ディレクター =
| プロデューサー =
| ミキサー =
| 脚本 =
| 演出 =
| その他のスタッフ =
| 提供 = [[キングレコード]]
| その他 = 番組制作:キングレコード
| インターネット =
}}
{{Infobox animanga/Radio
| タイトル = 林原めぐみのHeartful Station(第2期)
| 愛称 = 同上
| 放送開始 = 1991年[[10月5日]]<!-- (入力必須) -->
| 放送終了 = [[2015年]][[3月28日]]
| 放送局 = [[ラジオ関西]]<!-- (入力必須) -->
| 放送時間 = 土曜 23:00 - 24:00
| 放送回数 = 1226回<ref group="注">ラジオ日本時代の第1期は放送回数は未カウント。</ref>
| 放送形式 = 録音<ref group="注">特別番組及びネット局拡大前においての生放送場合有</ref>
| スタジオ =
| ネット局 = [[#ネット局|ネット局]]項参照
| ネットワーク =
| パーソナリティ = 林原めぐみ
| DJ =
| アシスタント = [[保志総一朗]]
| 構成作家 =
| ディレクター = 柴田和江<ref group="注">タワーズ→株式会社シャ・ラ・ラ・カンパニー所属。アシスタントディレクターからの昇進</ref>
| プロデューサー = 宿利剛
| ミキサー = 矢野要
| 脚本 =
| 演出 =
| その他のスタッフ =
| 提供 = [[キングレコード]]
| その他 =
| インターネット = <!-- (インターネットラジオの場合のみ) -->
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル= [[Portal:アニメ|アニメ]]・[[Portal:ラジオ|ラジオ]]・[[Portal:メディア|メディア]]
}}
『'''林原めぐみのHeartful Station'''』(はやしばらめぐみのハートフル・ステーション)は、[[ラジオ関西]]で[[1991年]]([[平成3年]])[[10月5日]]から[[2015年]]([[平成27年]])[[3月28日]]まで放送されていた[[アニラジ]][[ラジオ番組|番組]]。[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]にて放送されていた第1期についても当該頁にて記す。
== 概要 ==
[[林原めぐみ]](メインパーソナリティ)と[[保志総一朗]](3代目アシスタント。初代:[[大月俊倫]]、2代目:[[あみやまさはる]])によって、リスナーのお便りを通じたトークと複数のコーナー([[#コーナー・企画|コーナー・企画]]を参照)、および[[スターチャイルド]]レーベルの楽曲紹介を中心に進行していくラジオ番組である。声優がパーソナリティを務める[[アニラジ]]としては、『[[mamiのRADIかるコミュニケーション]]』や『[[ノン子とのび太のアニメスクランブル]]』に次ぐ歴史がある。林原はブログやTwitterなどでの情報発信をしておらず、ファンクラブも存在しないため、ファンにとっては林原の普段の出来事や新曲発表などの情報が得られる数少ない場となっていた。
この番組で初めてお便りが読まれたリスナーには、[[岡田芽武]]によるイラストが入った会員証が送られていた。会員証入手後は重複発行を回避するため、ハガキへ会員番号を明記することが決まりとなっているが、放送中にリスナーの会員番号が読まれることはほとんどない。2回目以降に採用された場合は、番組特製ステッカーが送られる。また、林原のツボに入ったお便りには「おもちゃ箱」の名称でさらにプレゼントが送られていた<ref group="注">「いろいろな物が入ったおもちゃ箱から出してきたような物」という意味合いがあるため、内容は特に定められていない。</ref>。そのほかにも、各コーナーでプレゼント企画が多いのが特徴である。なお、郵送等の作業は数少ないスタッフによる手作業のため、放送で読まれてから数か月かかる場合もあった。
通算放送回数が100回を達成するごとに記念として公開録音イベントが行われていた<ref group="注">番組で放送回数をアナウンスすることはほとんどなく、リスナーからの投稿で知ってアナウンスするというパターンが多い。{{See|#公開録音概要}}</ref>。なお、この公開録音は林原が活動方針上コンサート活動を行わない代わりとして、ファンへの感謝の気持ちもこめて、抽選による招待ではあるものの参加費無料で開催された。
[[2015年]]2月28日の放送にて、放送終了が発表され、同年3月28日をもって24年の歴史に幕を下ろした。
『林原めぐみのTokyo Boogie Night』との関係については、[[林原めぐみのTokyo Boogie Night#『林原めぐみのHeartful Station』との関係|当該記事]]を参照のこと。
=== テーマソング ===
; オープニングテーマ
* 「[[虹色のSneaker]]」インストゥルメンタルバージョン(放送第1回 - )
; エンディングテーマ
* 「虹色のSneaker」インストゥルメンタル・バージョン(1991年10月5日・ラジオ関西放送第1回 - )
* 「虹色のSneaker」歌入り(阪神・淡路大震災以後)
* 「[[負けないで、負けないで…]]」(2003年頃 - )
* 「[[Heartful Station]]」(2010年12月4日・放送第1001回目 - )
「虹色のSneaker」は約12年間番組のオープニング・エンディングの両テーマソングとして使用されていた。2003年頃からオープニングテーマでのみインストゥルメンタルバージョンで使用されていた。
また、ジングル(フィラー曲)にはアルバム『[[Irāvatī]]』から、オープニング明けに「Good Luck!」、エンディング前に「RUN ALL THE WAY!(Fire Ball Groove Mix)」が使用されている。2004年5月15・16日(第659回)放送分では[[岡崎律子]]逝去に対する追悼として、この回のみエンディングに岡崎の「Lucky&Happy」が流された。
=== 挨拶 ===
お決まりの挨拶として、番組冒頭では「皆さんこんばんは、林原めぐみです。一週間のご無沙汰いかがお過ごしだったでしょうか」、CM前には「神戸の風の吹かせつつ今夜も60分、めぐみに付いて来い!」、番組終了時に「来週も絶対チューニングしろよ! バイバイ」などがあった。
== 主な歴史 ==
=== 第1期・ラジオ日本時代 ===
; [[1991年]]([[平成]]3年)
: [[4月9日]]、[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]でスタート。
: 7月、当時のRFラジオ日本社長であった[[遠山景久]]が「[[演歌]]と[[ムード歌謡]]以外の音楽は流さない」という方針を突然打ち出したため、[[7月16日]]放送予定分は中止となった<ref group="注">翌週の同年7月23日放送分にて、林原本人がリスナーに対して「'''大人の事情'''」と称して説明を行なったが、同局の詳細な事情は説明していない。{{See|アール・エフ・ラジオ日本#「社会の木鐸」宣言|遠山景久#略歴}}</ref>。翌週の23日から3週間は曲をかけないで放送するという形で対応し、[[8月6日]]放送分を最後に17回の放送でいったん終了した。
=== 第2期・ラジオ関西時代 ===
; 1991年(平成3年)
: [[10月5日]]、放送局をラジオ関西に移し、土曜23:00より放送を再開<ref group="注">タイトルは『Heartful Station2』とする予定であった。</ref><ref group="注">第2期・Heartful Stationの第1回放送では、第1期・Heartful Station宛てに送られたハガキが何枚か採用されている。</ref>。
; [[1992年]](平成4年)
: [[10月3日]](第53回)より、『[[百万人の英語]]』(23:30 - 24:00)終了の空き枠を埋める形で、放送時間を60分に拡大。
; [[1993年]](平成5年)
: [[1月2日]](第66回)より、2代目アシスタントとして、あみやまさはるが就任。
; [[1994年]](平成6年)
: [[4月8日]](第132回)より、放送時間が金曜23:00に変更。
; [[1995年]](平成7年)
: [[1月21日]](第173回)、[[阪神・淡路大震災]]発生直後にあたりCM抜きで放送され、被災したリスナーを励ました。
: 当初、ラジオ関西では生活情報を優先するために放送を休止する方針で進めていたが、本番組の復活に尽力してくれたラジオ関西や、その所在地である神戸への愛着と被災者を少しでも励ましたいという林原本人の強い希望で放送されることになった。そもそもこの番組は東京の[[キングレコード]]で制作する「外部制作番組」であり、ラジオ関西は幹事局かつ葉書の受付先でしかなかった(震災後は宛先をキングレコードに変更)。その後、壊滅的な被害を受けた本社社屋の近くに設けられた仮設スタジオから生放送を行ったり、神戸の復興などをテーマにした葉書を扱う「神戸コーナー」が設けられるなど、震災を強く意識した内容となった<ref group="注">オープニングの最後にコールしているフレーズ「神戸の風を吹かせつつ、今夜も60分めぐみについてこい!」はその頃の呼びかけの名残りである。</ref>。なお、『遊星セガワールド』パーソナリティの[[竹崎忠]]は神戸市出身である。また、林原はこの時の回の放送について稀に本番組や[[林原めぐみのTokyo Boogie Night|ブギーナイト]]で語ることがある。本人によると「生活情報を優先して放送するべきだ」という苦情も当然寄せられたが、そういった苦情は被災地以外の地域からが大半であり、被災地からの苦情は暫く経ってから寄せられたという。また、被災地からは逆に感謝する声が多かったという。
; [[1997年]](平成9年)
: [[4月12日]](第289回)より、ラジオ関西での放送時間が土曜23:00に戻る。また、この回から[[Japan Radio Network|JRN]]系深夜番組『'''[[UP'S〜Ultra Performer'S radio〜]]'''』の金曜第1部(番組枠前半)として[[TBSラジオ]]、[[HBCラジオ|北海道放送]]、[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]、[[琉球放送]]、[[RSKラジオ|山陽放送]](1997年9月でUP'Sネット終了)にてネットを開始。
; [[1998年]](平成10年)
: 9月末にて『UP'S』としてのネット終了。TBSラジオへのネットは終了する<ref group="注">他のネット局は放送時間変更した上で放送が継続された。</ref>。
; [[1999年]](平成11年)
: [[7月25日]]に開催された放送400回突破記念公開録音で、アシスタントがあみやまさはるから保志総一朗に交代することが発表された。
: [[8月7日]](第410回)、3代目アシスタントに保志総一朗が就任。
; [[2003年]](平成15年)
: 放送600回突破を記念して、放送エリアとなっている全国8箇所を周って公開録音イベントを開催した。
; [[2004年]](平成16年)
: [[1月10日]](第641回)、妊娠を発表。
; [[2007年]](平成19年)
: [[5月19日]](第816回)、長らく番組への投稿は郵送手段(主にハガキ)でのみ受け付けていたが、一部コーナーについてメールでも受付をすることを発表<ref group="注">「留守電・目覚し」「2人の気持ち+α」「ガブッと方程式!」「サイコロトーク」「スターチャイルドメモリー」「めぐっちとほしっちの大丈夫!大丈夫!」の6コーナー。</ref>。公式サイト『MEGUMI HOUSE』の専用メールフォームから投稿できるようになった。
; [[2010年]](平成22年)
: [[11月17日]]、幹事局であるラジオ関西の各情報番組で番組1000回達成記念の特集が組まれ、『[[三上公也の情報アサイチ!]]』・『[[さなえのHARBOR CAFE|Sanae's Cafe]]』・『谷五郎のこころにきくラジオ』・『[[時間です!林編集長]]』の4番組において、林原のコメント放送・曲特集・生出演によるインタビューなどが行われた。
: [[11月21日]]、番組1000回を記念した企画CD「[[Heartful Station]]」を発売。
: [[11月27日]]、放送回数1000回を達成。
; [[2012年]](平成24年)
: 1月より、普通のお便りも含めて、ほぼ全てのコーナーについて電子メールでの投稿受付を開始。
; [[2014年]](平成26年)
: [[9月27日]]、放送回数1200回を達成。
; [[2015年]](平成27年)
: [[2月28日]](第1222回)、3月28日(第1226回)の放送をもって番組終了を発表<ref>{{Cite web|和書|date = 2015-3-2 |url = https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1503/02/news177.html |title = ラジオ関西の長寿番組「林原めぐみのHeartful Station」3月末に終了「来週も絶対チューニングしろよ! バイバイ」が聴けるのもあと数回。 |publisher = ねとらぼ([[ITmedia]]) |accessdate = 2015-3-30}}</ref>。
: [[3月21日]](第1225回)、この回をもってアシスタントの保志とコーナー担当の竹崎の出演は終了。
: [[3月28日]](第1226回)、放送終了。最終回は林原のみ出演の予定だったが、サプライズゲストとして[[辛島美登里]]が駆け付けた<ref name="Daily_1">{{Cite news |url = https://www.daily.co.jp/gossip/2015/03/26/0007854477.shtml |title = 林原めぐみ ラジオ最終回を収録 |publisher = [[デイリースポーツ]] |date = 2015-3-26 |accessdate = 2015-3-30}}</ref>。また、本番組と同じタイトル名でのブログを始めることを発表した<ref>{{Cite web|和書|date = 2015-3-28 |url = http://king-cr.jp/artist/hayashi/news/2015/0328.html |title = 「ハートフルステーション」最終回無事終了 |publisher = MEGUMI HOUSE([[スターチャイルド]]) |accessdate = 2015-3-30}}</ref>。
; [[2020年]]([[令和]]2年)
: [[1月17日]]、[[阪神・淡路大震災]]発災から25年となることを鑑み、『林原めぐみのHeartful Station 2020』として1日限定の復活放送{{Refnest|group= "注" | 但し、レギュラー放送が編成されていた時間枠ではなく『[[こちら、海の見える放送局#Playlist_of_Harborland|Playlist of Harborland]]』の放送枠(金曜 13:30 - 15:00)にて編成<ref name="Heartful_2020_JOCR_1">{{Cite web|和書|date = 2019-11-28 |url = https://jocr.jp/raditopi/2019/11/28/6669/ |title = 『林原めぐみのHeartful Station』の特別番組が放送決定! |publisher = [[ラジオ関西]] |accessdate = 2021-6-8}}</ref><ref name="Heartful_2020_Anitama">{{Cite web|和書|date = 2020-1-17 |url = http://anitama.com/topics/20200117specialprogram.html |title = 【特番】1月17日(金)『林原めぐみのHeartful Station 2020』放送決定! |publisher = [[アニたまどっとコム]]([[ラジオ関西]]) |accessdate = 2020-1-20}}</ref><ref name="Heartful_2020_JOCR_2">{{Cite web|和書|date = 2020-1-20 |url = https://jocr.jp/raditopi/2020/01/20/9920/ |title = 阪神・淡路大震災25年の日に1日限りで復活した『林原めぐみのHeartful Station』 SNSに歓喜の声多数! |publisher = [[ラジオ関西]] |accessdate = 2021-1-20}}</ref>。レギュラー放送時代のコーナーのほか、当時出演していた竹崎と金曜23時台で放送番組時間が繋がっていた『[[青春ラジメニア]]』の[[岩崎和夫]]・[[南かおり]]からのコメントを流した。}}<ref>なお、この時の放送は復活放送であるため、放送回数にはカウントされていない。</ref>。
== コーナー・企画 ==
=== 放送終了まで ===
; 雑音リスナーのコーナー
: 放送エリア外で雑音に耐えながらこの番組を聴いているリスナーからのハガキを紹介するコーナー。
; 普通のお便り
: 林原がリスナーから番組宛に送られたお便りを読むコーナー。
; 二人の気持ちプラスアルファ(2009年ごろから休止状態)
* BGM:『[[ねこぢる草]]』オープニングテーマ
: 「林原の気持ち」「保志の気持ち」を考えるコーナー。このコーナーは保志がハガキを読む。このコーナーと後に続く「ガブッと方程式」には林原に代わって「めぐっち」が登場する。
; ガブッと方程式(2009年ごろから休止状態)
* BGM:[[アイネ・クライネ・ナハトムジーク]]ト長調K.525(セレナーデ第13番)より、第1楽章
: 保志がリスナーの考えた「教授」のキャラクターになりきってめぐっちに言葉の方程式の問題を出すコーナー(例:インターネット+事典=ウィキペディア)。採用されたイラストはMEGUMI HOUSEで見ることが出来る。
; めぐっち・ほしっちの「だいじょーぶ! だいじょーぶ!」
* BGM:アイネ・クライネ・ナハトムジークト長調K.525(セレナーデ第13番)より、第1楽章
:「めぐっち」と「ほしっち」がリスナーのハガキの相談に「だいじょーぶ! だいじょーぶ!」と答えて励ますコーナー。
; お月様にホエホエ
* ジングル:「[[Perfume (林原めぐみのアルバム)|瞳に銀河]]」
: 日常生活や街中で見つけた変わった物や、漢字の読み間違いなど、リスナーが「ほえほえ〜!」と思った、日常のおかしな話などを紹介するコーナー。
; お鍋の中身
* ジングル:[[森川智之]]、[[檜山修之]]によるミニコント / BGM:テーマにより様々
: 1ヶ月ごとに変わるテーマに沿った、リスナーの話やネタを紹介するコーナー。
; 遊星セガワールド
* ジングル:「青い月の下で」(TAKADA BAND)
: 株式会社[[セガ]]の社員が、セガから発売しているゲームなどの商品を宣伝・プレゼントするコーナー。[[メガCD]]用の『聖魔伝説3×3EYES』の宣伝をきっかけに1993年よりレギュラー化。コーナー名の由来は、1992年12月6日に両国国技館で行われた同名のセガのイベント。以前はリスナーからの質問や悩みに答えることも多かったが、近年ではサイコロトーク(3人がサイコロの出る目に合った、リスナーが考えたテーマをトークする)が行われることが多い。出演者は船田晃、[[竹崎忠]]、花谷(通称・若王子)、森本(通称・ゲーマーみき)と変遷し、現在は竹崎が再び出演している(ただし出張や会議のため出演できない場合も多々あり、2012年4月14日(第1072回)に、本業多忙のためレギュラーとして出演出来なくなりコーナーも不定期となる旨を発表した)。なお、放送日がクリスマス近くになると、「竹崎サンタ」と称して番組内で通常よりも豪華なプレゼントがある。
; Starchild News Station
: スターチャイルドのアニメ作品など、最新情報を「めぐっち」が紹介するコーナー。2012年6月2日(第1079回)より開始した現在最も新しいコーナーである。
; スターチャイルドメモリー(不定期)
* ジングル「HOW HOW BEAR」
: スターチャイルドレーベルおよび林原・保志が過去にリリースした曲をリスナーからのリクエストに応えてフルコーラスで流すコーナー。ゲストが登場する放送回は時間の都合上休止する。ただし、2012年4月21日(第1073回)からは上述の遊星セガワールドが不定期となったことで、基本的にゲスト登場回でもこちらのコーナーは休止されなくなった。
; 留守番電話・目覚ましコール(不定期)
: 林原・ゲストが来た場合はゲストが過去に演じたキャラクター、もしくは本人になりきって[[留守番電話]]の録音メッセージ・[[目覚し時計]]のメッセージをリスナーが考えて投稿する。
; めぐみアイランド(不定期)
* ジングル:「メグミアイランド」
: ゲストコーナー。毎回、その人にちなんだサイン入りポスターなどのプレゼントがある。前述のコーナーを越えてこのコーナーにも「めぐっち」が登場する場合がある。『[[林原めぐみのTokyo Boogie Night]]』と同じゲストが来る場合が多い。アシスタントの保志がゲストとして出演することもある。
; 合格コール(春限定)
* BGM:「春の心」(EDISON BAND)
: 林原が学校に合格(あるいは企業に就職)したリスナーの名前を読み上げるコーナー。以前はペンネームを読み上げ、資格試験合格や運転免許取得なども紹介していた。しかし、あまりにも大量のハガキが寄せられるため、現在は原則として本名を読み上げ、学校合格または就職のみ応募可能になっている。それでも毎年春先にスタートしてから全員分を読み上げる頃には真夏になることが多かったが、近年では本名に限定したこととリスナーの高齢化によるためか早くに終わるようになってきている。
; 夏休み恒例キーワードクイズ(夏限定)<!--※注意 キーワードクイズの内容はこの項目に書かないでください-->
: 放送1週につき1文字が発表され、全てを繋いで応募すると抽選でプレゼントが当たる。
; 年末スターチャイルドベスト10・新春林原めぐみベスト10(年末年始限定)
: 1年の最終週の放送分ではスターチャイルドレーベルからリリースされた曲、および保志が歌手としてリリースされた楽曲のベストテン企画「(西暦)年末スターチャイルドベスト10」を行う。新年第1週目の放送分では、林原がリリースした曲のベストテン企画「(西暦)新春林原めぐみベスト10」を行う。2011年末募集分まではハガキ1枚につき1曲1票、同じ曲への多重投票は無効。また、複数の曲に投票したい場合はその分ハガキを使用する必要があった。2012年末募集分からメール投票も可能となったが、1人1曲のみ投票可となり、複数の曲への投票は禁止となった。応募ハガキの中から抽選で「福袋」と題したプレゼントが当たる。
: なお、2人で歌っている「[[Heartful Station]]」と同CDカップリングの「tuning love」は年末ベスト10の対象曲であるため、新春ベスト10では対象外となっている。
; 月末サイン色紙(毎月末限定)
: 毎月最後の放送週に、採用・不採用に関わらずその月に送られてきたお便りを集めて抽選。20名にサイン色紙が当たる。
=== 過去 ===
; 神戸コーナー
: 震災後の神戸の状況などについてリスナーのお便りを紹介するコーナー。
; 今週のゲボボドリンクコーナー
: 各地で作られているその地特産の飲み物を募集し、飲んだ感想を言うコーナー。
; 素直な気持ち
* BGM:MISATO(『新世紀エヴァンゲリオン』より)
: ある物の「素直な気持ち」を考えるコーナー。
; めぐタンの「ジローに握りっ屁」
: 「お鍋の中身」の前身筋に当たる月替わりのネタコーナー。コーナージングルのタイトルコールは[[草尾毅]]による林原の物真似と林原自身によるものが不定期入れ替わり。このコーナーは、草尾がゲストの時に「昔、隣の家の犬『ジロー』に握りっ屁をした」と林原が公表した際、面白がった草尾が「めぐタンのジローに握りっ屁のコーナーへお便り下さい」と言ったところ、本当に大量の握りっ屁ネタのお便りが来てしまったため、仕方なく月替わりのネタコーナーとしてレギュラーコーナー化したという逸話がある。
; めぐみの手まり唄
: 番組初期にあったコーナー。リスナーが考えた替え歌を林原が歌っていた。
; 百万人の語呂合わせ
: 勉強に役立つ語呂合わせを募集するコーナー。コーナー名はラジオ関西で放送されていた『[[百万人の英語]]』から、当該番組の時間枠をもらう形でHSの時間が拡大したことに因んでいる。
== 林原の産休による休暇時の対応 ==
林原が産休から復帰するまでの約2か月間となる2004年[[6月12日]](第663回) - [[7月31日]](第670回)はアシスタントの保志がメインパーソナリティ代行として、下記の臨時アシスタントとともに番組を進行した。
* 6月12日:宿利剛([[キングレコード]]・スターチャイルド)、[[竹崎忠]]([[セガ]])
* 6月19日:[[高橋直純]]
* 6月26日:[[堀江由衣]]
* 7月3日:[[こやまきみこ]]
* 7月10日:[[清水愛]]
* 7月17日:[[中原麻衣]]
* 7月24日:[[石田彰]]
* 7月31日:[[日髙のり子]]
== ネット局 ==
=== 放送終了時点 ===
2015年3月放送終了時点。本番組は[[番組販売]]され、幹事局のラジオ関西が独立局という立場上、JRN・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]などのネットワークに関わらずネットされていた。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!放送地域!!放送局!!放送開始日!!放送時間
|-
| [[兵庫県]]<ref group="注">[[radiko]]では[[大阪府]]も対象。</ref> || [[ラジオ関西]] || 1991年10月5日 || 土曜 23:00 - 24:00
|-
| [[北海道]] || [[HBCラジオ|北海道放送]] || 1997年4月11日<ref group="注" name="ups">『[[UP'S〜Ultra Performer'S radio〜]]』枠での放送を含む。</ref>||土曜 25:00 - 26:00
|-
| [[岩手県]] || [[IBC岩手放送]]||2004年4月 || 土曜 22:00 - 23:00
|-
| [[栃木県]] || [[栃木放送]]||2001年10月 || 土曜 24:00 - 25:00
|-
| [[茨城県]] || [[茨城放送]]||2002年10月 || 土曜 22:30 - 23:30<ref group="注">2004年9月までは23:00 - 24:00。同年10月より『[[福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル・魂のラジオ]]』のネット受けを開始した為、30分繰り上げ。</ref>
|-
| [[山梨県]]<ref group="注">放送地域以外でも三ツ峠局(78.6MHz)からの電波が入る東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の一部地域で聴取が出来る(詳細は[[エフエム富士#可聴範囲|FM-FUJI#可聴範囲]]参照)。また、この地域で有線放送・[[USEN|USEN440]]に加入している場合や一部[[ケーブルテレビ]]局のFM再送信においてチャンネルが設定されており、そちらを利用する事も可能。</ref> || [[エフエム富士|FM-FUJI]] || 2001年4月 || 日曜 19:00 - 20:00<ref group="注">ただし、「[[MEET THE MUSIC]]」などで土曜の同じ時間へ移動するケースもあった。</ref>
|-
| [[岐阜県]]<ref group="注">radikoでは[[東海3県]]が対象。</ref> || [[岐阜放送ラジオ|岐阜放送]] || 1997年6月 || 土曜 24:00 - 25:00
|-
| [[福岡県]] || [[RKBラジオ|RKB毎日放送]] || rowspan="2"|1997年4月11日<ref group="注" name="ups"/> || 日曜 25:00 - 26:00
|-
| [[沖縄県]] || [[琉球放送]] || 土曜 26:00 - 27:00
|}
※一部の放送局は[[radiko]]プレミアム会員向けのエリアフリー聴取では、番組制作会社の都合で配信されず、radikoの都道府県のエリア内でしか聴取出来なかった。
=== 過去 ===
* [[TBSラジオ]](1997年4月11日 - 1998年9月)
* [[RSKラジオ|山陽放送]](1997年4月11日 - 9月)
== 公開録音 ==
=== 概要 ===
番組放送回数が増えるに辺り、主に100回毎の記念回数に、リスナーに対して感謝の意味も込めて公開録音を催していた。番組を放送していたラジオ関西(放送当時の愛称である:AM KOBE)の聴取対象地域である兵庫県内では無く、番組開始から4年弱は隣接地域である[[大阪府]]内の[[コンサートホール]]で催していた。
300回突破記念以後は、主に神戸市内の元町地区、新神戸地区のホールをメイン会場としてリースしており、600回突破記念時は、当該番組を番販購入している全放送局が所在する地域<ref group="注">但し、FM-FUJIの本社が所在する山梨県では無く、受信エリアの内に入っている[[都下|東京都都下]]のホール。</ref>のコンサートホール、1100回突破記念時は、前年に発生した[[東日本大震災]]の被災地地域で、600回時に当該番組がネットされていなかった岩手県にて実施した。
また、公開録音構成の特徴として前半は番組収録、後半は林原の人物頁の活動方針に記述されている通り、ライブ活動が皆無であるためリスナーへの恩返しとしてライブパートを行っており、過去にリリースされているアルバムCD及び映像作品に収録されている。
=== イベントリスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
!記念回数!!開催場所!!開催年月日!!備考
|-
| 100回 || [[リサイタルホール]] || 1993年6月13日 ||
|-
| 200回 || [[万博記念公園#公園化後も残存していた万博施設|万国博ホール]] || 1995年7月27日 ||
|-
| 300回 || [[神戸国際会館#2代目神戸国際会館(1999年~)|神戸国際会館ハーバーランドプラザ]] || 1997年8月11日 || <ref group="注">当該イベントの物販にて、[[阪神・淡路大震災]]の義援金目的で自身のサイン色紙を発売。</ref>
|-
| 400回 || rowspan="2"|[[神戸文化ホール#大ホール・中ホール|神戸文化ホール大ホール]] || 1999年7月25日 ||
|-
| 500回 || 2001年4月29日 ||
|-
| 600回 || 茨城県[[水戸市]]:茨城放送本社 公開スタジオ<br />栃木県[[宇都宮市]]:[[栃木会館#新館|栃木会館 小ホール]] <br />東京都[[小金井市]]:小金井公会堂<br />岐阜県[[岐阜市]]:岐阜放送本社 テレビスタジオ<br />沖縄県[[那覇市]]:[[那覇市民会館|(旧)那覇市民会館 中ホール]]<br />福岡県[[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[天神 (福岡市)|天神]]:[[都久志会館]]<br />北海道[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]:[[共済ホール|札幌共済ホール]]<br />兵庫県神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]]・[[神戸朝日ビル|神戸朝日ホール]]||2003年5月4日<br />2003年5月11日<br />2003年5月25日<br />2003年6月15日<br />2003年6月21日<br />2003年6月22日<br />2003年7月6日<br />2003年7月27日 || <ref group="注">当該突破記念で唯一『Boogie Night』放送地域である東京都内での開催。また、沖縄会場は保志は別仕事で未参加で、ライブパートについては神戸朝日ホールのみの開催の扱いとなった。</ref>
|-
| 700回 || rowspan="4"|[[新神戸オリエンタルシティ#AiiA 2.5 Theater Kobe|新神戸オリエンタル劇場]] || 2005年4月17日||
|-
| 800回 || 2007年4月21日 || <ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのHeartful Station 800回突破記念公開録音レポート|url=http://king-cr.jp/artist/hayashi/news/eventreport01.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref>
|-
| 900回 || 2009年3月7日 ||<ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのHeartful Station 900回突破記念公開録音レポート|url=http://king-cr.jp/artist/hayashi/news/eventreport03.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=林原めぐみ|title=めぐさんより<Heartful Station900回突破記念公開録音を終えて>
|url=http://king-cr.jp/artist/hayashi/news/hs900_comment.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref>
|-
| 1000回 || 2010年11月21日||<ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのHeartful Station 1000回突破記念公開録音レポート|url=http://king-cr.jp/artist/hayashi/news/2010/hs1000_report.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-04-06}}</ref>
|-
| 1100回 ||[[岩手県民会館#施設|岩手県民会館大ホール]] || 2012年11月4日 ||<ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのHeartful Station 1100回突破記念公開録音|url=https://web.archive.org/web/20120923173151/http://www.starchild.co.jp/event/hs1100.html|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2012-08-26}}</ref>
|-
| 1200回 || 新神戸オリエンタル劇場 || 2014年10月18日 ||<ref>{{Cite web|和書|title=林原めぐみのHeartful Station 1200回突破記念公開録音 リアルタイムレポートブログ|url=https://web.archive.org/web/20141030043834/http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/hs1200_report/|publisher=MEGUMI HOUSE(スターチャイルド・すたちゃまにあ内公式サイト)|accessdate=2014-11-24}}</ref>
|}
== スペシャル番組 ==
2012年3月31日 - 4月1日開催の[[アニメ コンテンツ エキスポ]]にて、スターチャイルドはブースでの様子や特別プログラムなど配信する「スタ生」を動画サイト・ニコニコ動画で33時間配信。そのプログラムの1つとして、『林原めぐみのTokyo Boogie Night』との特別横断ラジオ番組である『幕張DESSE Heartful Night』が事前収録風景の映像と併せて3月31日20:00 - 21:00に配信された<ref>{{Cite web|和書|title=スターチャイルドブース情報|publisher=すたちゃまにあ|url=https://web.archive.org/web/20120319043503/http://www.starchild.co.jp/event/ace2012.html|date=2012年|accessdate=2012-04-06}}</ref>。
== 関連CD ==
* [[Heartful Station]](2010年11月21日、KICM-3221)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[林原めぐみのTokyo Boogie Night]]
* [[アニラジ]]
== 外部リンク ==
* [http://king-cr.jp/artist/hayashi/ MEGUMI HOUSE] - スターチャイルレーベル・すたちゃまにあ内オフィシャルサイト
** {{Wayback |url=http://www.starchild.co.jp/artist/hayashi/radio/index.html |title=RADIOの部屋 - MEGUMI HOUSE内の番組紹介ページ |date=20100330153259 }}
* [http://anitama.com/bangumi_i/heartful_station.html 林原めぐみのHeartful Station] - ラジオ関西・アニたまどっとこむ枠内の番組紹介ページ
* [http://takezaki.net/ TAKEZAKI.NET] - 番組の一コーナー「遊星セガワールド」に出演しているセガ社員の竹崎忠が運営するサイト
* [https://web.archive.org/web/20041207182026/http://station.catorea.ne.jp/listeners/dataroom.htm リスナーズ ステーション]
{{前後番組
| 放送局 = [[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]
| 放送枠 = 水曜1時台後半
| 番組名 = 林原めぐみのHeartful Station(第1期)<br />(1991.4 - 1991.8)
| 前番組 = ?
| 次番組 = ?
| 2放送局 = [[ラジオ関西]]
| 2放送枠 = 土曜23時台前半
| 2番組名 = 林原めぐみのHeartful Station(第2期)<br />(1991.10 - 1994.3)
| 2前番組 = ?
| 2次番組 = [[大学受験ラジオ講座|大学受験生ナマワイド「Jランド」]]<br/>※23:00 - 26:00
| 3放送局 = ラジオ関西
| 3放送枠 = 土曜23時台後半
| 3番組名 = 林原めぐみのHeartful Station(第2期)<br />(1992.10 - 1994.3)
| 3前番組 = [[百万人の英語]]
| 3次番組 = 大学受験生ナマワイド「Jランド」<br/>※23:00 - 26:00
| 4放送局 = ラジオ関西
| 4放送枠 = 金曜23時台
| 4番組名 = 林原めぐみのHeartful Station(第2期)<br />(1994.4 - 1997.3)
| 4前番組 = ?
| 4次番組 = [[青春ラジメニア]]<br/>※23:00 - 25:00
| 5放送局 = ラジオ関西
| 5放送枠 = 土曜23時台
| 5番組名 = 林原めぐみのHeartful Station(第2期)<br />(1997.4 - 2015.3)
| 5前番組 = ?
| 5次番組 = [[林原めぐみのTokyo Boogie Night]]<br/>※23:00 - 23:30<br/>[[みかこしのラジこし]]<br/>※23:30 - 24:00
}}
{{林原めぐみ}}
{{DEFAULTSORT:はやしはらめくみのはとふるすてしよん}}
[[Category:林原めぐみ|はとふるすてしよん]]
[[Category:1991年のラジオ番組 (日本)]]
[[Category:アニたまどっとコム]]
[[Category:ラジオ日本の番組]]
[[Category:TBSラジオの番組の歴史]]
[[Category:ラジオの声優バラエティ番組]]
[[Category:ローカルラジオ局の一社提供番組]]
|
2003-09-03T02:22:51Z
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2023-11-25T05:39:25Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%8E%9F%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%BF%E3%81%AEHeartful_Station
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14,826 |
北ヨーロッパ
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北ヨーロッパ(きたヨーロッパ、英: Northern Europe、典: Norra Europa、丁: Nordeuropa)は、ヨーロッパの北部地域である。日本では北欧(ほくおう)とも呼ばれる。具体的にどの国や地域を含めるかは分類の仕方によって異なり、最広義にはドイツやロシアのバルト海沿岸部まで含まれる事もある。
デンマーク、ノルウェー、スウェーデンは、スカンディナヴィア諸国と呼ばれる。スカンディナヴィア半島に領土を持たないデンマークも、歴史的な理由から現在はスカンディナヴィア諸国に含まれる。
国際連合統計部による分類では、バルト三国は北ヨーロッパに含まれる。バルト三国は、地理的および文化的に北ヨーロッパに属し、現在は北欧理事会に加盟申請している。なお、日本の外務省欧州局では西欧課が管轄している。
ソ連崩壊前までは、ポーランド王国、ロシア帝国、ソ連などに併合された歴史的そして政治的観点から、しばしば東ヨーロッパに分類されたこともあった。
国際連合による分類では、ブリテン諸島2か国も北ヨーロッパに含まれるが、通常は西ヨーロッパとされる。
これらの国々の一部を北ヨーロッパに含めることもある。
これらを狭義の5か国に加えた「8か国」で、北欧理事会を組織している。
これらはノルディック諸国(Nordic, Norden)とも呼ばれる。北ヨーロッパに対し「北欧(諸国)」と訳し分けることもある。ただし、ノルディック/北欧といった場合は、通常は北ヨーロッパに含まない(ヨーロッパ自体に含まれない)グリーンランドを含む。
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] |
北ヨーロッパは、ヨーロッパの北部地域である。日本では北欧(ほくおう)とも呼ばれる。具体的にどの国や地域を含めるかは分類の仕方によって異なり、最広義にはドイツやロシアのバルト海沿岸部まで含まれる事もある。
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{{出典の明記|date=2023年1月}}
[[ファイル:Europe subregion map UN geoscheme.svg|thumb|250px|[[国際連合]]によるヨーロッパの地域の分類<ref name="u">{{Cite web|url=http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm |title=Standard Country and Area Codes Classifications (M49) |publisher=[[:en:United Nations Statistics Division|国連統計部]] |accessdate=2008-06-25}}</ref>(北ヨーロッパは青)
{{legend|#4080FF|北ヨーロッパ}}
{{legend|#00FFFF|[[西ヨーロッパ]]}}
{{legend|#FF8080|[[東ヨーロッパ]]}}
{{legend|#00FF00|[[南ヨーロッパ]]}}]]
'''北ヨーロッパ'''(きたヨーロッパ、{{lang-en-short|Northern Europe}}、{{lang-de-short|Nordeuropa}}、{{lang-no|Nord-Europa}}、{{lang-sv|Norra Europa}}、{{lang-da|Nordeuropa}}、{{lang-fi|Pohjois-Eurooppa}})は、[[ヨーロッパ]]の北部地域である。日本では'''[[北欧]]'''(ほくおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは分類の仕方によって異なり、最広義には[[ドイツ]]や[[ロシア]]の[[バルト海]]沿岸部まで含まれる事もある。
== 北ヨーロッパの国々 ==
=== 狭義の北ヨーロッパ ===
* {{flagcountry|Denmark}}
* {{flagcountry|Finland}}
* {{flagcountry|Iceland}}
* {{flagcountry|Norway}}
* {{flagcountry|Sweden}}
[[デンマーク]]、[[ノルウェー]]、[[スウェーデン]]は、[[スカンディナヴィア|スカンディナヴィア諸国]]と呼ばれる。[[スカンディナヴィア半島]]に領土を持たないデンマークも、歴史的な理由から現在はスカンディナヴィア諸国に含まれる。
=== 広義の北ヨーロッパ ===
==== バルト三国 ====
[[ファイル:Northern-Europe-map.svg|thumb|バルト三国を含む北ヨーロッパ]]
* {{flagcountry|Estonia}}
* {{flagcountry|Latvia}}
* {{flagcountry|Lithuania}}
[[国際連合]]統計部による分類では、[[バルト三国]]は北ヨーロッパに含まれる<ref name="u"/>。バルト三国は、地理的および文化的に北ヨーロッパに属し、現在は[[北欧理事会]]に加盟申請している。なお、日本の[[外務省]]欧州局では[[西ヨーロッパ|西欧]]課が管轄している<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/sosiki/oushu.html 外務省欧州局]</ref>。
[[ソビエト連邦|ソ連]]崩壊前までは、[[ポーランド王国]]、[[ロシア帝国]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]などに併合された歴史的そして政治的観点から、しばしば[[東ヨーロッパ]]に分類されたこともあった。
==== ブリテン諸島 ====
* {{flagcountry|Ireland}}
* {{flagcountry|United Kingdom}}
国際連合による分類では、[[ブリテン諸島]]2か国も北ヨーロッパに含まれるが<ref name="u"/>、通常は[[西ヨーロッパ]]とされる。
=== その他 ===
[[ファイル:Northern-Europe-region-map-extended.png|thumb|広義の北ヨーロッパの例]]
[[ファイル:Nordeuropa.png|thumb|広義の北ヨーロッパの例]]
* {{DEU}}
* {{RUS}}
これらの国々の一部を北ヨーロッパに含めることもある。
=== 北欧理事会加盟国 ===
{{main|北欧諸国}}
* {{ALA}}(フィンランドの自治領)
* {{FRO}}(デンマークの自治領)
* {{GRL}}(デンマークの自治領)
これらを狭義の5か国に加えた「8か国」で、[[北欧理事会]]を組織している。
これらはノルディック諸国(Nordic, Norden)とも呼ばれる。北ヨーロッパに対し「北欧(諸国)」と訳し分けることもある。ただし、ノルディック/北欧といった場合は、通常は北ヨーロッパに含まない(ヨーロッパ自体に含まれない)グリーンランドを含む。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[フェノスカンジア]]
* [[バルト海]]
* [[西ヨーロッパ]]
* [[東ヨーロッパ]]
* [[南ヨーロッパ]]
* [[北ヨーロッパ平野]](北ドイツ平野)
* [[北欧の歴史]]
{{ヨーロッパ}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:きたよろつは}}
[[Category:北ヨーロッパ|*]]
[[Category:ヨーロッパの地域]]
|
2003-09-03T02:29:54Z
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2023-12-19T05:21:01Z
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91
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14,827 |
岡田啓介
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岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年旧暦1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。
田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。
総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。
1868年(慶応4年)、福井藩士(100石)岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌年1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸軍士官学校受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。
1889年(明治22年)、海軍兵学校(第15期)を卒業。同期には小栗孝三郎、竹下勇、財部彪、広瀬武夫らがいた。日清戦争に防護巡洋艦「浪速」分隊長として豊島沖海戦、黄海海戦、日露戦争では装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦、第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに従軍した。
1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織するが、立憲政友会は入閣した高橋是清・床次竹二郎などを除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃されることになった。
岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹婿・松尾伝蔵大佐と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。
岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。
粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「狸」とあだ名された。吉田茂は岡田を「国を想う大狸」と評している。
1936年(昭和11年)1月21日に野党・政友会が内閣不信任案を提出、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた第19回総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は二・二六事件で襲撃を受ける。
二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。反乱軍は岡田を殺害したと誤認したが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。
岡田の生存を察知した秘書官の福田耕・迫水久常(岡田の女婿)は憲兵曹長の小坂慶助らと提携し、首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。
二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、昭和天皇に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年(昭和11年)3月9日、岡田内閣は総辞職した。
その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。
開戦後の岡田は、
の3名と、岡田宅で月に1回ほど会食するのを例として、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。
1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で1944年(昭和19年)12月26日には息子の貞外茂がマニラの戦いで戦死している。
1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。
小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田はポツダム宣言受諾決定の御前会議の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。
戦後、岡田は相変わらず質素な生活を続け、むしろ戦前より戦後の方が貧乏だったという。昭和21年(1946年)12月中旬に次男の貞寛が戦地から帰還した際、父として我が子に会った岡田は「貴様、よく帰ったなあ。まあ飲め」と言っただけで、貞寛がアメリカ軍の捕虜になっていたことには一言も触れなかった。
昭和22年(1947年)1月15日、数えで80歳の誕生日に岡田は宮中から「80歳の高齢につき、特に宮中杖差し許さる」という御沙汰書と金一封が届けられた。
極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田と米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。
公職追放を経て、1952年(昭和27年)3月4日追放解除。同年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しGHQによる占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日に死去。享年84。戒名の「真光院殿仁誉義岳啓道居士」は二・二六事件の時につけられたものだった。墓所は多磨霊園。
迫水久常は女婿。二・二六事件では首相秘書官として岡田の救出にあたった。終戦時には鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長を務めた。戦後は参議院議員として、経済企画庁長官や郵政大臣を歴任した。回想記『機関銃下の首相官邸』がある。
丹生誠忠は迫水久常の従弟。歩兵中尉。二・二六事件での指導的役割が軍法会議で問われ刑死した。
松尾新一は松尾伝蔵の長男。二・二六事件の前年まで二・二六事件に加わった麻布第三連隊の中隊長だった。その妻は迫水久常の妹である。
瀬島龍三は松尾伝蔵の女婿。1941年(昭和16年)7月から1945年(昭和20年)7月まで、太平洋戦争のほとんどの期間を、大本営陸軍部参謀(参謀本部作戦課員)として勤務した。
二・二六事件で暗殺された高橋是清は、若き日は共立学校の英語教員を務めており、岡田の恩師でもあった。
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{{別人|岡田圭右}}
{{政治家
| 人名 = 岡田 啓介
| 各国語表記 = おかだ けいすけ
| 画像 = Keisuke Okada 2.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 岡田啓介(『近世名士写真 其1』より)
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1868年]][[2月14日]]<br />([[慶応 (元号)|慶応]]4年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]])
| 出生地 = {{JPN}} [[越前国]][[福井市|福井]]
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| 出身校 = [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業
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| 称号・勲章 = [[File:Imperial Japan-Navy-OF-9-collar.svg|30px]] [[海軍大将]]<br />[[正二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[功三級金鵄勲章]]
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| 退任日3 = 1934年[[10月25日]]
| 国旗4 = JPN
| 職名4 = 第16代 [[海軍大臣]]
| 内閣4 = [[斎藤内閣]]
| 就任日4 = [[1932年]][[5月26日]]
| 退任日4 = 1934年7月8日
| 国旗5 = JPN
| 職名5 = 第12代 海軍大臣
| 内閣5 = [[田中義一内閣]]
| 就任日5 = [[1927年]][[4月20日]]
| 退任日5 = [[1929年]][[7月2日]]
}}
'''岡田 啓介'''(おかだ けいすけ、[[1868年]][[2月14日]]〈[[慶応]]4年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]<ref group="注釈">当時の時刻では2月13日(旧暦1月20日)深夜。旧暦では、夜明けを以て1日の始まりとしたため。</ref>〉- [[1952年]]〈[[昭和]]27年〉[[10月17日]])は、[[日本]]の[[海軍軍人]]、[[政治家]]。最終[[階級]]は[[海軍大将]]。[[栄典]]は[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功三級]]。
[[田中義一内閣]]で[[海軍大臣]]を務めたのち、[[斎藤内閣]]でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して[[五・一五事件]]後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと[[大命降下]]を受けて[[内閣総理大臣]]に就任、[[岡田内閣]]では一時[[拓務大臣]]と[[逓信大臣]]を兼任している。[[二・二六事件]]で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた[[松尾伝蔵]]が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。
総理退任後も[[重臣]]として度々枢機に与ったが、[[第二次世界大戦]]中は[[東条内閣]]打倒を自らの責務ととらえ[[倒閣運動]]を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。
== 生涯 ==
{{See also|#年譜}}
=== 生い立ち ===
[[1868年]]([[慶応]]4年)、[[福井藩]]士(100石<ref>{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置番号 3965-3975、海軍大将略歴:岡田啓介}}</ref>)岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。[[1884年]]([[明治]]17年)9月、旧制福井中学(のち[[福井県立藤島高等学校|藤島高校]])を卒業。翌年1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち[[開成中学校・高等学校|開成高校]])などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校した。
=== 海軍時代 ===
[[1889年]](明治22年)、海軍兵学校([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#15期|第15期]])を卒業。同期には[[小栗孝三郎]]、[[竹下勇]]、[[財部彪]]、[[広瀬武夫]]らがいた。[[日清戦争]]に防護巡洋艦「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」分隊長として[[豊島沖海戦]]、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]、[[日露戦争]]では装甲巡洋艦「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」副長として[[日本海海戦]]、[[第一次世界大戦]]では[[第二水雷戦隊]]司令官として[[青島の戦い]]に従軍した。
[[1923年]]([[大正]]12年)に[[海軍次官]]、[[1924年]](大正13年)に[[連合艦隊司令長官]]、[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[海軍大臣]]となり、[[1932年]](昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、[[軍事参議院|軍事参議官]]として[[ロンドン海軍軍縮会議]]を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
=== 首相就任 ===
{{See also|岡田内閣}}
[[ファイル:Okada family inaugural celebration.jpg|thumb|left|250px|1934年(昭和9年)7月13日、総理就任を祝う家族と]]
[[1934年]](昭和9年)、元老・[[西園寺公望]]の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、[[拓務大臣]]、[[逓信大臣]]も兼務した。[[斎藤実]]の後継として[[挙国一致内閣|中間内閣]]を組織するが、[[立憲政友会]]は入閣した[[高橋是清]]・[[床次竹二郎]]などを除名<ref group="注釈">但し、高橋に就いては総裁経験者でもあったことから、党内の混乱を避けるため「離別」としている。</ref>し、対決姿勢に回ったため、[[立憲民政党]]が与党格となる。在任中に[[天皇機関説]]をめぐる問題が起こり、[[岡田内閣]]は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の[[皇道派]]や、[[蓑田胸喜]]など[[平沼騏一郎]]周辺の[[国家主義]]勢力からも攻撃されることになった。
[[File:Prime Minister Keisuke Okada cropped.jpg|thumb|left|180px|1936年(昭和11年)]]
岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹婿・[[松尾伝蔵]]大佐と2人で[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]]に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。
[[ファイル:Okada Matsuo.jpg|thumb|220px|岡田(左)と義弟・松尾伝蔵(右)]]
岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる[[水雷艇]]乗りだった。[[海軍水雷学校]]校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。
[[ファイル:Matsuo and Okada in kimono.jpg|thumb|200px|松尾伝蔵(左)と岡田(右)]]
粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「[[タヌキ|狸]]」とあだ名された。[[吉田茂]]は岡田を「国を想う大狸」と評している。
[[1936年]](昭和11年)1月21日に野党・政友会が内閣不信任案を提出、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた[[第19回衆議院議員総選挙|第19回総選挙]]において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首[[鈴木喜三郎]]が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は[[二・二六事件]]で襲撃を受ける。
=== 二・二六事件 ===
{{See also|二・二六事件}}
[[ファイル:Keisuke Okada extra.jpg|thumb|left|200px|二・二六事件を報道する新聞各社の[[号外]]]]
二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。反乱軍は岡田を殺害したと誤認したが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で秘書官を務めていた[[松尾伝蔵]]であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。
{{main|松尾伝蔵#二・二六事件での死}}
岡田の生存を察知した秘書官の[[福田耕]]・[[迫水久常]](岡田の女婿)は憲兵曹長の[[小坂慶助]]らと提携し、首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。
二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・[[高橋是清]]、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、[[昭和天皇]]に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年(昭和11年)3月9日、[[岡田内閣]]は総辞職した。
=== 終戦工作 ===
[[ファイル:Keisuke okada.jpg|thumb|150px|重臣時代の岡田]]
その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である[[伏見宮博恭王]]の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は[[重臣会議]]のメンバーとして首相奏薦に当たっている。
開戦後の岡田は、
:*[[大本営#海軍部|大本営]]参謀<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=194|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-岡田貞外茂}}</ref>{{Efn|大本営参謀(昭和17年7月 - <ref name=":1" />)。昭和19年12月26日、マニラ上空で戦死<ref name=":1" />。}}の長男・[[岡田貞外茂]]
:*[[大蔵省]]総務局長で女婿の[[迫水久常]]
:*[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]部員<ref name=":2">{{Harvnb|秦|2005|p=88|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-瀬島龍三}}</ref>{{Efn|参謀本部作戦課、昭和14年11月 - 昭和20年7月<ref name=":2" />。}}で[[松尾伝蔵]]の女婿の[[瀬島龍三]]
の3名と、岡田宅で月に1回ほど会食するのを例として、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた<ref name=":3">{{Harvnb|工藤|2013|p=|pp=251-253|loc=第四章 学習院長時代 - 嶋田海相更迭計画}}</ref>{{Efn|[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の開戦当時、[[東條英機]]・首相 兼 陸相は、内政・外交・戦局の情報を独占していた<ref name=":3" />。よって、重臣といえども、戦局について真実を何も知らないのが普通であった<ref name=":3" />。}}。
[[1943年]](昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退と[[ガダルカナルの戦い]]の消耗戦での兵力のすり潰しで最早[[太平洋戦争]]に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の[[東條内閣]]打倒の運動を行う。[[若槻禮次郎]]、[[近衛文麿]]、[[米内光政]]、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
東條内閣倒閣の流れは[[マリアナ沖海戦]]の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・[[嶋田繁太郎]]の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。[[東條英機]]は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなく[[サイパン]]も陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し[[小磯内閣]]の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で[[1944年]](昭和19年)12月26日には息子の貞外茂が[[マニラの戦い (1945年)|マニラの戦い]]で戦死している。
[[1945年]](昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『[[昭和天皇独白録]]』の中で岡田と元[[内大臣府|内大臣]]・[[牧野伸顕]]の意見が最も穏当だったと回想している。
小磯内閣退陣ののちは[[鈴木貫太郎]]を首班に推挙、迫水久常を[[内閣書記官長]]の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田は[[ポツダム宣言]]受諾決定の[[御前会議]]の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。
=== 戦後 ===
戦後、岡田は相変わらず質素な生活を続け、むしろ戦前より戦後の方が貧乏だったという。昭和21年([[1946年]])[[12月]]中旬に次男の貞寛が戦地から帰還した際、父として我が子に会った岡田は「貴様、よく帰ったなあ。まあ飲め」と言っただけで、貞寛が[[アメリカ]]軍の[[捕虜]]になっていたことには一言も触れなかった<ref name="cn100top">山田邦紀。P303</ref>。
昭和22年([[1947年]])[[1月15日]]、数えで80歳の[[誕生日]]に岡田は宮中から「80歳の高齢につき、特に宮中杖差し許さる」という御沙汰書と金一封が届けられた<ref name="cn100top"/>。
[[極東国際軍事裁判]]で主席検察官を務めた[[ジョセフ・キーナン]]は岡田と米内光政、若槻禮次郎、[[宇垣一成]]の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。
[[公職追放]]を経て<ref>{{citation
| 和書
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿
| editor = 総理庁官房監査課
| publisher = 日比谷政経会
| year = 1949
| id = {{NDLJP|1276156}}
| page = [{{NDLDC|1276156/169}} 61]
| ref = harv
}}</ref>、[[1952年]](昭和27年)3月4日追放解除<ref>『朝日新聞』1952年3月4日夕刊一面</ref>。同年4月28日、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]が発効し[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日に死去。[[享年]]84。戒名の「真光院殿仁誉義岳啓道居士」は[[二・二六事件]]の時につけられたものだった。墓所は[[多磨霊園]]。
== 人物 ==
* 岡田には軍人らしい英雄譚が皆無であり、晩年に口述した『岡田啓介回顧録』にも軍人の伝記にありがちな豪快なエピソードはない。しかしこのことは岡田が豪傑を気取ったりすることのない常識人であったことを強く示唆している。
* 海軍少尉のころ軍楽隊の分隊長に配属された岡田は艦隊勤務から外されたのが不満で訓練に出ずに昼寝ばかりしていた。見かねて訓練に出ることを進言してきた楽長に「音楽なんておもしろくないから出ないのだ」と言うと楽長は「おもしろくないのは音楽が分からないからです。私が分かるようにしてあげます」と毎日部屋に来て音楽について面白く話をしたり、訓練に連れ出して演奏を聴かせたりした。岡田はその時のことを「なかなか偉い楽長だったよ、上官にむかってそういうことはちょっと言いにくいものだ」そして「そうやって聞いているうちに、まんざらおもしろくないこともないようになった。のちわたしが首相になったとき、食事の席上、演奏を聞きながら音楽の話をしたので、みんなびっくりして、音楽のことも知っているのですか、といっていたがこういうことがあったせいだ」と語っている。
* 岡田と親しかった<ref name=":0">{{Harvnb|藤田|1987|p=|pp=68-85|loc=御意思に遠い重臣の奏上}}</ref>[[藤田尚徳]]([[海軍兵学校 (日本)|海兵]]29期、海軍大将)によると、[[井出謙治]](海兵16期、海軍大将)と並び、岡田は海軍きっての記憶力を持つことで知られていた<ref>{{Harvnb|藤田|1987|p=|pp=20-29|loc=酒と侍従}}</ref>。岡田はメモを一切取らずに、複雑なデータや文書の所在を正確に記憶していた<ref name=":0" />。岡田の卓越した記憶力を、藤田は「一種の天才であったと思う。」と評している。
* 人情肌なところもあり、戦後[[二・二六事件]]を巡る座談会に出席した際には、自身を襲撃した青年将校たちの心情に同情的な発言もしている。
* 従軍した青島の戦いでは、麾下の巡洋艦「[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]」を撃沈される被害があった。岡田は後に沈没場所に赴き、戦死者の追悼法要を行っている。
* 私腹を肥やすようなことは全く無く、生涯を清貧で通した。総理大臣就任の日に組閣費用が底を突いてしまい、官邸に集まった番記者たちに振舞う恒例の酒が買えず「これで君たちの好きな酒を冷やしてくれ」と氷だけを配ったという逸話がある。親任式の際に着用したシルクハットも女婿・迫水久常からの借り物で、晴れ着や余所行きの洋服もほとんど持っていないほどの貧乏だった。実際、今日に残る岡田の写真はそのほとんどが海軍の軍服か日常の着物を着たもので、洋服を着たものはほとんどない。
* 岡田は海軍の大物の例に洩れず、無類の酒好きで有名だった。自宅を訪問する客にも金が許す限りいつも酒でもてなしていた。
=== 家族 ===
* 先妻:ふさ - 旧姓・川住。[[旗本]]の家の次女。1男2女を産んだ後、1910年(明治43年)に死別。夏目漱石の妻・[[夏目鏡子]]とは従姉妹。
* 後妻:郁 - 薩摩藩士・迫水久中の三女で、[[迫水久常]]の叔母。1男2女を産む。
* 長男:[[岡田貞外茂|貞外茂]] - 海兵55期を次席で卒業した後、海軍中佐・大本営参謀。視察先のフィリピンで搭乗機事故により戦死(一階級特進により最終階級は大佐)。
* 長女:田鶴 - 15歳で早世
* 次女:万亀 - 迫水久常夫人
* 三女:喜美子 - [[鈴木英]]夫人
* 次男:貞寛 - 海軍主計少佐。戦後すぐのフィリピンで残留日本兵への投降説得にあたった<ref>{{Cite web |title=【戦争秘話】終戦後、命がけで残留日本兵の捜索に当たった男がいた!(神立 尚紀) @gendai_biz |url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75484 |website=現代ビジネス |date=2020-09-13 |access-date=2023-12-21 |language=ja}}</ref>。回想記『父と私の二・二六事件』がある。
* 四女:不二子 - 早世
=== 人脈 ===
[[迫水久常]]は女婿。二・二六事件では首相秘書官として岡田の救出にあたった。終戦時には[[鈴木貫太郎内閣]]で[[内閣書記官長]]を務めた。戦後は[[参議院議員]]として、[[経済企画庁長官]]や[[郵政大臣]]を歴任した。回想記『機関銃下の首相官邸』がある。
[[丹生誠忠]]は迫水久常の従弟。歩兵中尉。二・二六事件での指導的役割が軍法会議で問われ刑死した。
松尾新一は松尾伝蔵の長男。二・二六事件の前年まで二・二六事件に加わった麻布第三連隊の中隊長だった。その妻は迫水久常の妹である。
[[瀬島龍三]]は松尾伝蔵の女婿。1941年(昭和16年)7月から1945年(昭和20年)7月まで、[[太平洋戦争]]のほとんどの期間を、大本営陸軍部参謀(参謀本部作戦課員)として勤務した。
[[二・二六事件]]で暗殺された[[高橋是清]]は、若き日は共立学校の英語教員を務めており、岡田の恩師でもあった。
== 年譜 ==
* 1889年(明治22年)- 4月20日 [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業(15期)
* 1890年(明治23年)- 7月9日 [[海軍少尉]]任官
* 1892年(明治25年)- 12月21日 [[海軍大学校]]丙号学生
* 1894年(明治27年)- 12月9日 [[海軍大尉]]進級
* 1898年(明治31年)- 4月29日 海大乙種学生
* 1899年(明治32年)- 3月22日 海大甲種学生、9月29日 [[海軍少佐]]進級
* 1901年(明治35年)- 6月7日 海軍大学校教官
* 1904年(明治38年)- 7月13日 [[海軍中佐]]進級
* 1906年(明治40年)- 5月11日 [[海軍水雷学校]]教官
* 1908年(明治42年)- 9月25日 [[海軍大佐]]進級、海軍水雷学校校長
* 1910年(明治44年)- 7月25日 [[装甲巡洋艦]]「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長
* 1912年(大正元年)- 12月1日 [[戦艦]]「[[鹿島 (戦艦)|鹿島]]」艦長
* 1913年(大正2年)- 12月1日 [[海軍少将]]進級
* 1915年(大正4年)- 12月13日 [[海軍省]]人事局長
* 1917年(大正6年)- 12月1日 [[海軍中将]]進級
* 1920年(大正9年)- 10月1日 [[艦政本部]]長
* 1923年(大正12年)- 5月25日 海軍次官
* 1924年(大正13年)- 6月11日 [[海軍大将]]進級、[[軍事参議院|軍事参議官]]、12月1日 [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官兼[[連合艦隊司令長官]]
* 1926年(大正15年)- 12月10日 [[横須賀鎮守府]]司令長官
* 1927年(昭和2年)- 4月20日 [[海軍大臣]]
* 1929年(昭和4年)- 7月2日 軍事参議官
* 1932年(昭和7年)- 5月26日 海軍大臣
* 1933年(昭和8年)- 1月21日 後備役編入
* 1934年(昭和9年)- 7月8日 [[内閣総理大臣]]、[[拓務大臣]]を兼務(〜10月24日)
* 1935年(昭和10年)- 9月9日 [[逓信大臣]]を兼務(〜9月12日)
* 1936年(昭和11年)- 3月9日 [[内閣総辞職]]
* 1938年(昭和12年)- 1月21日 退役
== 栄典ほか ==
===栄典===
; 叙位
* [[1891年]](明治24年)[[12月14日]] - [[正八位]]<ref>『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日</ref>
* [[1894年]](明治27年)[[12月28日]] - [[従七位]]<ref>『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。</ref>
* [[1898年]](明治31年)[[3月8日]] - [[正七位]]<ref>『官報』第4402号「叙任及辞令」明治31年3月9日</ref>
* [[1899年]](明治32年)[[11月2日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第4904号「叙任及辞令」1899年11月4日。</ref>
* [[1904年]](明治37年)[[8月30日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6355号「敍任及辞令」1904年9月3日。</ref>
* [[1908年]](明治41年)[[12月11日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第7640号「叙任及辞令」明治41年12月12日</ref>
* [[1914年]](大正3年)[[1月30日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。</ref>
* [[1917年]](大正6年)[[12月28日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。</ref>
* [[1923年]](大正12年)[[2月10日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。</ref>
* [[1925年]](大正14年)[[2月28日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第3790号「叙任及辞令」大正14年4月14日</ref>
* [[1927年]](昭和2年)[[12月15日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。</ref>
* [[1952年]](昭和27年)[[10月17日]] - [[正二位]]
; 叙勲
* [[1895年]](明治28年)
** [[11月18日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]・[[金鵄勲章|功五級金鵄勲章]]<ref>『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日</ref>
** [[11月18日]] - [[従軍記章#明治二十七八年従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref>『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。</ref>
* [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref>
* [[1915年]](大正4年)
** [[11月7日]] - [[金鵄勲章|功三級金鵄勲章]]・[[旭日章|旭日重光章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三四年従軍記章]]<ref>『官報』第1067号「叙任及辞令」1916年2月24日。</ref>
** [[11月1日]] - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』第979号「叙任及辞令」大正4年11月4日</ref>
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第2660号「叙任及辞令」1921年6月14日。</ref>
* [[1933年]](昭和8年)[[1月21日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第1817号「叙任及辞令」1933年1月23日。</ref>
=== 記念 ===
; 記念章
* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日</ref>
=== 栄誉 ===
; 外国勲章佩用允許
* [[1928年]](昭和3年)[[5月29日]] - [[ポーランド]]:ヴィルッチミリタリー勲章シュヴァリエ<ref>『官報』第427号「叙任及辞令」昭和3年6月1日</ref>
* [[1930年]](昭和5年)
** [[1月28日]] - [[イギリス帝国]]:[[ロイヤル・ヴィクトリア勲章|ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス]]<ref>『官報』第924号「叙任及辞令」昭和5年1月30日</ref>
** [[3月4日]] - [[スペイン|スペイン王国]]:海軍有功白色第四級勲章<ref>『官報』第953号「叙任及辞令」昭和5年3月6日</ref>
* [[1933年]](昭和8年)[[5月30日]] - [[フランス|フランス共和国]]:[[レジオンドヌール勲章|レジオンドヌール勲章グラントフィシエ]]
== 著作 ==
* {{Cite book |和書 |title=岡田啓介回顧録 |date=1950-12 |publisher=[[毎日新聞社]] |id={{全国書誌番号|51000344}} |ncid=BN03308143}}
** {{Cite book |和書 |editor=今井清一|editor-link=今井清一 |title=昭和の動乱 |date=1969-08 |publisher=[[筑摩書房]] |series=現代日本記録全集 20 |pages= |chapter=岡田啓介回顧録 |id={{全国書誌番号|73001117}} |ncid=BN02337372}}
** {{Cite book |和書 |editor=岡田貞寛 |title=岡田啓介回顧録 |date=1977-12 |publisher=毎日新聞社 |id={{全国書誌番号|78003588}} |ncid=BN00367237}}
** {{Cite book |和書 |editor=岡田貞寛 |title=岡田啓介回顧録 |date=1987-04 |publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公文庫]] |id={{全国書誌番号|87035439}} |isbn=9784122014145 |ncid=BN02452993}}
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== 伝記 ==
* {{Cite book |和書 |author=豊田穣|authorlink=豊田穣 |title=最後の重臣岡田啓介 <small>終戦和平に尽瘁した影の仕掛人の生涯</small> |date=1994-05 |publisher=[[光人社]] |isbn=9784769806745}}
* {{Cite book |和書 |author=仙石進 |title=巨木は揺れた <small>岡田啓介の生涯</small> |date=1994-09 |publisher=近代文芸社 |isbn=9784773332551}}
* {{Cite book |和書 |author=上坂紀夫 |title=宰相岡田啓介の生涯 <small>2・26事件から終戦工作</small> |date=2001-02 |publisher=[[東京新聞出版局]] |isbn=9784808307301}}
* {{Cite book |和書 |author=岡田貞寛 |title=父と私の二・二六事件 |date=1989-02 |publisher=[[講談社]] |isbn=9784062042697}}
** {{Cite book |和書 |author=岡田貞寛 |title=父と私の二・二六事件 <small>昭和史最大のクーデターの真相</small> |date=1998-02 |publisher=光人社 |series=[[光人社NF文庫]] |isbn=9784769821861}}
* {{Cite book |和書 |author=山田邦紀 |title=岡田啓介 <small>開戦に抗し、終戦を実現させた海軍大将のリアリズム</small> |date=2018-07 |publisher=[[現代書館]] |isbn=9784768458365}}
== 関連作品 ==
;映画
* [[重臣と青年将校 陸海軍流血史]](1958年、演:[[山田長正]])
* [[二・二六事件 脱出]](1962年、演:[[柳永二郎]])
* [[激動の昭和史 軍閥]](1970年、演:[[落合義雄]])
* [[226 (映画)|226]](1989年、演:[[有川正治]])
* [[日本のいちばん長い日]](2015年、演:[[吉澤健]])
;テレビドラマ
* [[燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝]](1976年、フジテレビ、演:[[若宮大祐]])
* [[熱い嵐]](1979年、TBS、演:[[巌金四郎]])
* [[山河燃ゆ]](1984年、NHK大河ドラマ、演:[[築地博]])
* [[そして戦争が終った]](1985年、TBS、演:[[久米明]])
* [[落日燃ゆ]](2009年、テレビ朝日、演:[[窪田弘和]])
== 関連項目 ==
* [[会津屋八右衛門]](江戸時代の廻船問屋。本来は「今津屋」だったが[[昭和]]10年([[1935年]])建立の「八右衛門氏頌徳碑」に岡田が「會津屋」と揮毫したため、そのまま「会津屋」が広まったという説がある)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima06/takeshima07/H20kouza.data/no7-1.pdf|title=天保竹嶋一件-今津屋八右衛門について|accessdate=2021-12-19}}</ref>
* [[青山貞]] (明治期の内務官僚。伯父にあたる)
* [[佐々木栄]] (福井藩出身の[[海援隊]]隊士。親戚の岡田に海軍への入隊を勧めた)
* [[大森房吉]](地震学者。[[福井市旭小学校]]の同級生)
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=工藤|first=美知尋|authorlink=工藤美知尋|year=2013|title=<small>海軍良識派の支柱</small> 山梨勝之進<small> 忘れられた提督の生涯</small>|edition=|publisher=芙蓉書房出版|ISBN=9784829505755}}
* {{Citation|和書|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|title=日本陸海軍総合事典|edition=第2|publisher=[[東京大学出版会]]|series=|ref=harv}}
* {{Citation|和書|ref=harv|title=歴代海軍大将全覧|last=半藤|first=一利 他|authorlink=半藤一利|year=2013|edition=[[Amazon Kindle]]|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書ラクレ}}
* {{Citation|和書|last=藤田|first=尚徳|authorlink=藤田尚徳|year=1987|title=侍従長の回想|edition=|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|ref=harv|isbn=|series=中公文庫}}
* {{Cite book |和書 |author=山田邦紀 |title=岡田啓介 <small>開戦に抗し、終戦を実現させた海軍大将のリアリズム</small> |date=2018-07 |publisher=[[現代書館]] |isbn=9784768458365}}
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank|岡田啓介}}
* {{Kotobank|岡田 啓介}}
* {{Kotobank|岡田啓介内閣}}
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/41/ 岡田啓介 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]]
* [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/031.html 岡田啓介 内閣総理大臣(第31代)] - [[首相官邸]]
* [http://www.fcci.or.jp/komati/map_025.html 岡田啓介像] - [[福井商工会議所]]
* [http://www.fcci.or.jp/komati/map_047.html 岡田啓介生誕地] - 福井商工会議所
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東名高速道路
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東名高速道路(とうめいこうそくどうろ、英語: TOMEI EXPWY)は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ(IC)から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は東名高速(とうめいこうそく)、東名(とうめい)、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。中日本高速道路(NEXCO中日本)の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。
高速道路ナンバリングによる路線番号は名神高速道路とともに 「E1」 が割り振られている。
東名高速道路は、東海道を走る国道1号の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、貨物の大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として建設された。都市間高速道路における東名の開通順位は、名神高速道路、中央自動車道に次いで3番目である。路線がカバーする範囲は名神高速道路と併せて日本経済の枢要部であり、開通当時において工業的に最も高い発展を遂げた地域を貫通したことから、東名はこれらの地域のさらなる機能強化と拡大を図るうえで積極的な役割を果たし、ひいては日本の高度経済成長の前半部を支え牽引した。
路線は関東地方から中部地方にかけて、東海道とほぼ並行して東西に縦貫する。用地買収費と建設費を抑える観点から、家屋や田畑等を可能な限り回避のうえ東京 - 小牧間を最短距離となるように計画し、併せて市街地をはじめ集落の分断を極力回避した。また、東海道新幹線と競合しないように路線位置の調整が行われている。結果、路線は横浜、藤沢、小田原、沼津、浜松、名古屋などの都市中心部を通さず、併せて熱海、三島に寄らずに御殿場回りとなっているほか、豊川 - 名古屋間も海岸を避けて内陸に路線を通した。これにより、市街地を通過する東海道新幹線、東海道本線、国道1号とは位置的に若干の相違があり、東京起点より沼津までは内陸を通行する国道246号に概ね並行し、以降浜松付近まで国道1号に並行する。これより東海道新幹線と東海道本線を避けて舘山寺、三ヶ日を通過して、岡崎付近で国道1号に並行して以降は内陸を通って名古屋市東端、春日井、小牧に至り名神に接続する。
この道路は先行した名神高速道路の技術と経験を取り入れて建設されたが、全体的に直線が多勢を占める名神に対して、東名は9割までが曲線で構成されている。また、東海道の特色として大河川の横断が多岐に渡り、東名においても多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖等の幾多の大規模河川を横断することが路線の特徴である。
「東名高速道路」の名称は、東京と名古屋を結ぶ高速道路という意味でそう呼ばれる。また「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである。これらは東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)で、法令による路線名はこれとは異なる(後述)
東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4キロメートル (km) であるが、東名の延長距離は346.7 kmと、約100 kmも迂回している(東海道新幹線の東京駅 - 名古屋駅とほぼ同じ距離)。
全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。道路カラーはスカイブルー(■)。
東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。
新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。御殿場JCT - 豊田JCTで新東名・伊勢湾岸道を利用した場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。
2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、2016年(平成28年)2月13日には浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、2022年(令和4年)4月16日までに海老名南JCT - 伊勢原JCT - 新秦野IC間、および新御殿場IC - 御殿場JCT間が開通しており、残る新秦野IC - 新御殿場IC間は2027年(令和9年)度の開通予定である。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。
東名高速道路の建設に関しては高速自動車国道法および国土開発幹線自動車道建設法の二法が制定されている。
法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、高速自動車国道の路線を指定する政令の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は第一東海自動車道で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は中央自動車道西宮線と第一東海自動車道の重複区間である。
1966年(昭和41年)7月までの根拠法令は、上記法令と異なる。以下、当時の法令を列挙する。
東海道幹線自動車国道建設法。1960年(昭和35年)7月25日公布施行。東海道幹線自動車国道建設法は、国土開発幹線自動車道建設法の予定路線網に取り込まれる形で、1966年(昭和41年)7月1日で廃止された。路線名は「○○自動車道」ではなく「幹線自動車国道」という他に例を見ない名称が使用され、終点位置はその後の国土開発幹線自動車道建設法の「小牧市」とは異なって「名古屋市附近」となっているが、その経緯については東京・神戸間の高速道路計画で詳述。
東海道幹線自動車国道建設法施行令(その後の「高速自動車国道の路線を指定する政令」に該当)では次のように指定されている。この法律は東海道幹線自動車国道建設法第3条第1項、第5条の規定に基づいて政令として制定された。1962年(昭和37年)5月30日公布施行。本法律は1966年(昭和41年)7月1日で廃止された。経過地は合併前の吉原市や清水市が含まれ、起点は世田谷区ではなく渋谷区となっている。
なお、東名の建設に関わる法令は、1966年(昭和41年)7月に廃止された東海道幹線自動車国道建設法に基づいていたため、国土開発幹線自動車道建設法(旧国土開発縦貫自動車道建設法)第5条による建設線の基本計画は告示されていない。計画の最初から国土開発縦貫自動車道建設法に基づいている名神高速道路、中央自動車道との違いである。
東名の計画は1940年(昭和15年)の内務省における弾丸道路計画に端を発する。計画は戦局悪化により中断されたが、1951年(昭和26年)に当時の首相であった吉田茂の命により東京 - 神戸間の道路計画として再開された。
これと相前後して、同じ東京 - 神戸間を南アルプス経由で貫く中央道が計画され、東名と競合の形をとったためにいずれを採用するかで政府や政治家、専門家を巻き込む大論争へと発展した。しかし両案とも名古屋 - 神戸間はさしたる違いがないことと、経済効果が大きいことを勘案してこの区間のみ先行して事業化することにした。これが名神高速道路である。
残る東京 - 名古屋間は、法整備のうえでは中央道が先行した。1957年(昭和32年)4月に、中央道建設の根拠法である国土開発縦貫自動車道建設法が施行され、このため東名の計画は中止のやむなきに至った。
この間も国道1号の交通量は暫時増加傾向を示し、いよいよ行き詰まりの様相を呈した。大量の交通を高速で流すためには東名の建設が必須で、これは衆議院議員の遠藤三郎らによって支持された。遠藤は東名建設のための法案を議員提案として国会に提案し、1960年(昭和35年)7月に東海道幹線自動車国道建設法が成立するに至った。
東名の設計の基本となったのが、建設省が1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて調査のうえまとめた「東海道幹線自動車国道調査報告書」である。
調査は逼迫する国道1号の現状調査、改良箇所およびバイパス建設の検討から始まり、それでも逼迫する場合は自動車専用道路の調査も考慮した。結果、国道1号の現状から推して高速自動車国道の建設は一刻も放置できないと判断されて重点をこれに移して調査を行ない、1961年(昭和36年)10月にはまとめあげて道路審議会に報告した。
報告によると、有料道路とした場合の採算性は1962年度に着工し、建設期間を7年として、1969年度から供用すると仮定した場合の1969年(昭和44年)の一日の平均交通量は15,594台と算出した。これに将来の伸びを考慮すると供用開始後21年で償還を終了すると推定した。さらに直接の経済効果として、走行便益、時間便益、交通事故減少効果のほかに間接効果として沿道地域の人口と産業の増加ならびに工場などの在庫の減少が期待される。このうち一般道路から東名に転換する交通量による直接効果は235億円と推定され、これだけでも10年足らずで建設費相当額の便益がある。つまり、東名は巨額の投資を行っても造るに値する経済価値があることが明らかとなった。
起点はその後の世田谷区と異なって渋谷区代々木八幡の環状6号(山手通り)の接続部とされ、以後、環状7号、環状8号の各交差部でインターチェンジを設ける手筈であった。調査時点で東京都内における東名と接続する交通体系の方針が未確定であったことから一応決めたことであって、これが確定すればこの計画に合わせることにした。終点は法律では名古屋市附近であるが、技術的な事情によって小牧市となった。その延長は356 kmで、建設費用は2,442億円である。具体的調査により、過去に概算された1,700 - 1,900億円から大幅増となった。
ルートは確定後の東名と概ね一致するが、焼津 - 豊川間は3ルートがあってこの時点では絞り切れていない(後述)。車線数は東京第3インターチェンジ(環状8号接続)から松田までが往復6車線で、さし当たりは4車線の建設を行い、用地のみ完成形で買収する。それ以外は完成形の4車線断面である。こうした建設省の調査を引き継いで日本道路公団(以下、公団)が改めて調査に望んだ。以下は公団による調査である。
建設省の調査は直線主体の旧来の線形であったことと、名神建設で経験された建設費用の実績が建設費積算に反映されておらず、加えて短い区間における比較線調査が十分に行われていなかった。これによりこの調査のみをもって東名の整備計画を確定するには不十分であることから、1961年(昭和36年)より改めて公団の手で調査が行われ、それが結果的に3,425億円という建設費概算となって現れた。さらに東名の特徴である曲線主体の線形を大幅採用し、建設省調査後に住宅団地化、工業団地化した区域を避けるべく路線修正を行った。
起点は、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、建設省案の渋谷区から世田谷区の環状8号外側まで後退した。最終的な起点位置は、首都高速3号渋谷線の連結を考慮して決定した。
また、費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、小田原厚木道路が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された。
なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる。実際、全線開通15年後の1984年(昭和59年)の推定交通量はこの範囲に収まっている。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった。
日本道路公団が建設省から事業を引き継いだ段階で、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線が残されていた。建設省が大比較線を残したのはいずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった。
内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸となる案(静岡県案)を提案した。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。また、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばないとされた。但し、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させることとした。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で、一年以上も遅れていた整備計画の策定にさっそく反映された。
こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった。松田 - 山北間は、箱根山と丹沢山塊に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とを縫って進むが、鮎沢川と酒匂川による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ないとされた。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである。
この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。都夫良野トンネルはこうして建設されることになったが、これが北線であり、こちらが採択された。
比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線が利用することになり、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要からであった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである。
建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線)。
しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった。特に上述の松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら最終的な路線位置を決定し、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる。
地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した。以下、買収事例を挙げる。
高速道路における用地買収では、買収価格と地権者の思い描いた価格が相違する場合は激しい対立が生じた。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じたが、それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものがあった。袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った。
先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、租税特別措置法の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく完了をみた。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・都立砧公園)と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った。
宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を曳家工法で移転させる事例があったが、氏子側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として土地収用法による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである。
こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した。
敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった。
東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる。
日本道路公団はこの巨額な資金調達に対して、名神に引き続いて国際復興開発銀行(世界銀行)の借款を強く要望した。これは公団が施行するほかの道路建設計画と合わせると、政府の予算、財政投融資計画による限度一杯の投資を行ってもなお資金不足に見舞われるためである。
1962年(昭和37年)12月に大蔵大臣の田中角栄が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500億ドルの借款(名神に続くことから第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の固定相場制、1,080億円)を賄った。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある。
東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった。
東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである。このうち、犠牲者数は79人であった。
建設も始まってからほどなくして、議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法が1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され、代替の国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった。
組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「高速自動車国道東海自動車道」に変更された。
東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である。この内、東京 - 厚木間は都市間高速道路としては初めての6車線道路である。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした。
続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、式典後に担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した。
開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した。また、総工費3,425億円は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した。
開通直後の東京ICは東名のみの起終点で、東京都心と東京ICの連絡は東京都道311号環状八号線(環八通り)を経て国道246号(玉川通り)で連絡した。このため、都市内交通と東名利用の交通が錯綜することで、玉川通りで大渋滞が発生し、都心と東京ICの連絡に一時間を要した。都心と東名をつなぐ交通は当初から首都高速3号渋谷線が考慮されたが、東名との同時供用はならなかった。この間、首都高速の利用台数は上昇を続け、やがて限界を超えて渋滞が常態化した。この対策として出入口の閉鎖も日常化していたところへ、いよいよ1971年(昭和46年)12月21日に三宅坂 - 用賀間の開通により東名と接続した。これまで首都高速単体で渋滞が発生していたところへ、東名からの交通がなだれ込むことでさらなる首都高速の逼迫を関係者は心配したが、その不安は的中した。
接続初日で東名からの交通が用賀本線料金所で大渋滞となり、他にも首都高速都心環状線と3号渋谷線の合流地点で2 km、都心環状線各所でも3 kmの渋滞に及んだ。これにより、三軒茶屋、渋谷の各ランプで閉鎖を行って丸く収めたが、それでもこの日は平日午後で、これが出勤時間帯や行楽期では到底さばききれないと関係者は危機感を募らせたという。なお、首都高速と都市間高速の連結はこれが最初の事例となり、以後、中央道、常磐道、東北道との連結に至ることで、都心の幹線街路の補助的な役割を期された首都高速が、その性格を変えて国土全体の高速道路網のなかでも重要な役割を担うことになった。この連結によって千葉県の成田手前と、兵庫県明石市が一般道路を経由せずに結ばれたことで、「神戸のドライバーもことしの初もうでは高速を飛ばして成田山へ」というキャッチコピーが連結に際して採用された。
首都高速連結の翌1972年(昭和47年)10月5日、今度は都市間高速道路同士の連結では初となるジャンクションの運用を開始した。中央自動車道の多治見IC - 小牧JCT間開通における小牧JCTの開設である。また、1974年(昭和49年)3月26日には浜松西ICが開通した。これは東名開通前から構想されたICであったがここに来て設置され、これが供用中高速道路における追加インターチェンジの第一号である。これ以後、1981年(昭和56年)4月25日に秦野中井IC、1988年(昭和63年)3月30日に裾野ICが完成するなど、追加ICの数が増加の一途を辿った。
三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ。
東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった。
考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。
別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。山間部を貫くことからトンネルが多用され、結果的にカーブが減少して安全性が向上した。ただし、並列区間では新設路線とはいえ並行する既存線の線形を用いざるを得ず、カーブも従来通りである。なお、別線を上り線として運用する理由は、並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続するためである。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、交差部は2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の登坂車線をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた。
東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した。
横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する国道16号との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、環状4号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった。この時点で公団は追加ICの必要を認め、これはのちに横浜青葉IC設置へと至った。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された。
静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である。
当初予想された計画交通量を上回る急激な需要増から混雑が目立ってきたことで、1971年(昭和46年)4月には、第二東名高速道路の計画が立ち上がり、建設省が調査を開始した。しかし、地形的な難易度が高いこともあって計画は停滞した。
1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉)の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった。
路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した日本坂トンネル火災事故や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道の物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した。
東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の第四次全国総合開発計画(四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた。
第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災が発生し、阪神高速道路はじめ国道2号など幾多の交通が集中している箇所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは九州で水揚げされたのち大阪、東京方面へ向かう水産物をはじめ、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた。この被害によって物流がライフラインそのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「冗長性」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった。東名においても予測される東海地震等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった。
新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した。この直前、新東名愛知県区間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われた。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された。
東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。東海道メガロポリスに占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである。
東海道メガロポリスに占める地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であり、これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込む。さらに、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた。
開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった。
農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された。こうした効果の具体例を以下に列挙する。
東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである。特に神奈川県の場合、工業は元来、横浜港を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に東海道本線、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、国道246号と小田急小田原線に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した。他にも、御殿場、沼津IC付近には330万平方メートルの敷地面積でトヨタ自動車が、焼津、浜松IC周辺には河合楽器はじめ住友ベークライト、日清紡、日本ビニロン等が進出した。名神との接続部である小牧ICにおいては特に著しく、従来、毛織物工場3社があるに過ぎなかったが、東名開通前で既に工場数270社まで増加し、敷地面積33,000平方メートルの大規模工場も23社を数えた。東名全体で見ると、全線開通直前の工場進出数は1,067社という膨大な数字であり、これによっても高速道路がいかに工業立地に重要な役割を果たしているかをうかがい知ることができる。
東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは7時間に短縮された。さらに、国道1号では15トンまで積めるトレーラーの使用しか認められていなかったが、東名では20トンが可能で、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁ってトラックターミナルを建設した。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである。
この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた。
今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した。
農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として甘薯や麦を半農半漁で営む地域であったが、豊川用水の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、花卉に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった。例えば渥美半島産の電照菊は、輸送のほぼ全てを豊川ICから東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた。
東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した。首都圏人口に対して食料を供給する東京中央卸売市場は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている。
静岡県袋井市や菊川町の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している。
清水港は東名開通後に大きく発展した。マグロ流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。理由はマグロ船のみマイナス65 °Cまで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 °C程度が限界のため、長期保存が不可能であったからである。しかし冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことから清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である。
浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される。なお、清水港に近接する焼津港の場合、東名開通前は水揚げしたカツオの出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった。
こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした。
その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている。
下り線の大井松田インターチェンジ (IC) から足柄バスストップ (BS) 付近の間と、上り線の日本坂トンネル (TN) 入口付近と日本坂TN出口付近の間が左右2つのルートにわかれる。ほぼ並行して走っており、距離は左右ルートでさほど変わらない。
大井松田IC - 足柄BSは下り線がほぼ並行した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線、上り線は1ルート3車線となっている。下り線の鮎沢パーキングエリア (PA) は左ルートからしか入れない。右ルートは分岐手前で最右車線(第3車線)から1車線により分岐する形態となっている。また、大井松田ICから下り線に入る場合は右ルートには入れない。
なお、左右ルート分岐直前で「大貨等」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい。また、重トレーラーは車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分などにより原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。
日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。
路線の維持工事による車線規制が渋滞を引き起こす状況を踏まえ、相応の対策を講じた工事を行うことで渋滞を低減する取り組みが行われているが、大井松田IC - 御殿場IC間では上述の変則的車線運用を活用したリバース運用を実施している。つまり、下り2本、上り1本の構成を活用し、上り線を工事閉鎖のうえ、下り2本の内の1本を上り線に反転して運用する手法である。当初は上り線3車線のうちの2車線を規制する方式を採用したが、結果的に最大22 kmに及ぶ渋滞が発生したことからリバース運用を採用するに至った。これによる欠点としては、本来広幅員であるべき左側路肩が0.75 mしか確保できず、逆に右側が3 mであることから、走行速度抑制と路肩走行防止の対策を採っている。また、バス停留所がないことから、工事期間中はバスに先導車を付けて工事中の上り線を通行する対策を採った。この運用により、渋滞の発生は確認されないなど一定の効果をあげた。なお、この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。
他の高速道路と同様、雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの場合は50–80 km/hの速度規制が行われる。
上記区間以外にも登坂車線、付加車線が設置されている区間がある。特に名古屋市近郊の丘陵地を通る比較的起伏の多い区間(豊田IC - 守山PA)ではかなり距離のある付加車線が設置されている。
道路幅員は3.25 m(路肩〈側帯含む〉)+3.6 m(車線)×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m(中央分離帯)+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.25 m(路肩〈側帯含む〉)=25.4 m(または32.6 m)である。これは標準幅員で、橋梁、切土、盛土、トンネル等の相違によって変化する。特に工費が高いトンネルと東京近郊では路肩が狭くされ、トンネルの場合は0.75 mである。このため、トンネルでは故障車の発生に備えて非常電話を200 m間隔で設けた。
名神では路肩が土工部2.75 m、橋梁部1.75 mであるが、東名は先の例外区間を除いて土工、橋梁の区別なく全線3.25 mとなった。これは名神の路肩に大型車を停車させて車道を走る車の位置を測定したところ、明らかに中央部分に退避して走行していることが判明したことから路肩の拡大に至ったものである。一方、中央分離帯側にも路肩を設けた。縁石を低くすることで、側帯と合わせて中央分離帯の一部を路肩に加えており、1.8 mを確保している。この場合、故障車の一部が車道側にはみ出すが、残りの車線幅の中で速度を落としながらの走行が可能である。
車線幅員3.6 mは名神から引き続いて採用したが、これは設計上の数値であって、実際の運用は走行車線3.5 m、追越車線3.7 mである。この数値は名神の事故調査の結果により算定し、追い越しを少しでも楽にする狙いから採用された。ただし、東京 - 厚木間の6車線区間は全て3.6 mである。また、後年新設された大井松田 - 御殿場間の上り線(3車線)は3.5 m+3.75 m+3.5 mである。
名神高速道路では、設計に際し日本道路公団がドイツから道路計画の技術専門家であるフランツ・クサーヴァー・ドルシュ、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた。
東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ、ひいては眠気さえ催すことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる。
曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、クロソイド曲線、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。
路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は横断勾配6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブが採用された。
インターチェンジは当初21箇所で発足した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を多用したことである。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット(横浜町田、厚木、大井松田、豊川、岡崎、名古屋、春日井の7か所)、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした(富士、清水、浜松の3か所)。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている。
トランペット型は曲線半径35 m(最小値)の急カーブを描くことから、設計速度は40 km/h(特別な場合は35 km/h)である。こうした急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された。インターチェンジが急カーブを採用せざるを得ないのは、高速走行を重視するあまり、カーブを緩めすぎるとその分用地を広くとらなければならず、用地買収面で不利になるからである。
概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である。
東京起点で見ると、第1番目のサービスエリア(SA)を30 km地点においた。これは、大都市を出発して最初に必要とされるSAはほぼ30 km地点であろうという考えによっている。35 km地点に位置する厚木ICの東京寄りに置くことが利用効率も高いと判断され、海老名SAはここに置かれた。次いで海老名から50 km離れた場所として御殿場付近が選定され、観光的な出入りが多いことを考慮して御殿場ICの東京寄りに設置された。ここは南に箱根山塊を、西に富士山を望む格好の好適地である。これが足柄SAである。御殿場から50 km離れた地点は富士川町(現・富士市)から由比の区間で、海岸に近いか、トンネルに近いところは場所がよくないため、富士川に面して富士山が望める富士川町を選定した。これが富士川SAである。東京起点とは別に名古屋起点のSAが考慮され、東に向かって最初のSAを概ね20 km地点を選定したが、これが上郷SA(現・豊田上郷SA)である。付近には景観的に優れたところはないものの、地形的に設置が容易であることが選定の理由である。上郷から概ね50 km離れた地点としては、風光明媚な土地柄ということもあって文句なく浜名湖畔に決定され、本線の地形はSAを考慮して決定した。ここが浜名湖SAである。東京と名古屋の双方から決定されてきたSAだが、富士川SAと浜名湖SAの間隔が120 km開くことから、その中間地点に1か所SAを置いたが、これが牧之原SAである。当初は2か所を計画したが、風光明媚なところがないことから1か所に集約し、大茶園に囲まれて高原地帯に位置する牧之原が選ばれた。
SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた。
東名では名神から引き続いて高速路線バスを運行している。運行にあたり、バスが途中のインターチェンジをいちいち出ていたのでは高速連絡の利点を生かせないため、本線上あるいはIC、SA、PAに併設する乗降場が用意された。乗降場の長さは3台のバスが同時に発着できるように45 mを標準の長さとした。IC併設の場合はトールゲート付近に置かれ、一般道路走行バスとすぐに乗り継げるようにした。
路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した。このため、カーブに溶け込ませていることとも相まって、運転者目線では橋を通過していることが意識しづらくなっている。
開通時には静岡IC - 焼津IC間に小坂トンネル(長さ270 m)が存在したが、同区間の改築工事に伴い日本坂トンネルに結合された。日本坂トンネル静岡側坑口からわずか60 mしか離れておらず、連続性を持たせた方が安全性を確保出来ると判断されたため、この部分にシェードが造られ1本のトンネルとなった。
大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。
東名は高速自動車国道の体系に組み込まれていることから、その料金体系で料金が決定される。以下、開通当初の料金政策と現行制度について述べる。
東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した。その結果、長距離逓減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた。
この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道の料率を統一する制度である。採用理由はそれぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした。この画一料率制は、のちに採用される全国プール制の先駆けとなる制度となった。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった。
また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離逓減制」を導入することにした。データ上、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するため、100 km以上の交通を対象として1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった。また、通行料金について大蔵省(現・財務省)が横やりを入れ、大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した)、東名利用者の利便性が高いことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として、1 kmあたり20パーセント増しとした。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした。
画一料率制はその後の全国プール制の採用によって廃止された。
普通車の利用距離当たりの料金は消費税抜きで24.6円/kmである。
東京IC - 厚木ICは大都市近郊区間、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、普通区間に比べて通行料金が2割増しである。
100 kmを超えて利用する場合は、200 kmまでが25 %割引、200 km超が30 %割引である。
また、ETC割引制度は、東京IC - 厚木ICのみ対象外となる。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「道路交通センサス報告書(一般交通量調査)」(静岡県ホームページ)・「交通量調査集計表」(愛知県ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年度(平成14年度)
区間別に見ると横浜町田ICから厚木ICまでが126,614台(前年度比98.9%)で最大である。
インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した。
中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した。
これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した。
インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを引き続き採用している。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した。
本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である。
サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、芦原義信(浜名湖SA)、大高正人(牧之原SA)、清家清(富士川SA)、黒川紀章(足柄SA)、菊竹清訓(海老名SA)。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである。
東名の橋脚間15 - 17 mクラスの鉄筋コンクリート高架橋は、名神で開発された穴あき床板を採用した。穴あきとしたのはコンクリート橋の欠点である重量を軽減するためである。東名のほとんどの高架橋はこの形式が採用された。経済性に富み、外観上スレンダーで優美であるという理由である。
走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は284橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した。一番の基本をPC斜材付きΠ型ラーメン橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである。
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"text": "東名高速道路(とうめいこうそくどうろ、英語: TOMEI EXPWY)は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ(IC)から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は東名高速(とうめいこうそく)、東名(とうめい)、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。中日本高速道路(NEXCO中日本)の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。",
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"text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は名神高速道路とともに 「E1」 が割り振られている。",
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"text": "東名高速道路は、東海道を走る国道1号の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、貨物の大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として建設された。都市間高速道路における東名の開通順位は、名神高速道路、中央自動車道に次いで3番目である。路線がカバーする範囲は名神高速道路と併せて日本経済の枢要部であり、開通当時において工業的に最も高い発展を遂げた地域を貫通したことから、東名はこれらの地域のさらなる機能強化と拡大を図るうえで積極的な役割を果たし、ひいては日本の高度経済成長の前半部を支え牽引した。",
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"text": "路線は関東地方から中部地方にかけて、東海道とほぼ並行して東西に縦貫する。用地買収費と建設費を抑える観点から、家屋や田畑等を可能な限り回避のうえ東京 - 小牧間を最短距離となるように計画し、併せて市街地をはじめ集落の分断を極力回避した。また、東海道新幹線と競合しないように路線位置の調整が行われている。結果、路線は横浜、藤沢、小田原、沼津、浜松、名古屋などの都市中心部を通さず、併せて熱海、三島に寄らずに御殿場回りとなっているほか、豊川 - 名古屋間も海岸を避けて内陸に路線を通した。これにより、市街地を通過する東海道新幹線、東海道本線、国道1号とは位置的に若干の相違があり、東京起点より沼津までは内陸を通行する国道246号に概ね並行し、以降浜松付近まで国道1号に並行する。これより東海道新幹線と東海道本線を避けて舘山寺、三ヶ日を通過して、岡崎付近で国道1号に並行して以降は内陸を通って名古屋市東端、春日井、小牧に至り名神に接続する。",
"title": "概要"
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"text": "この道路は先行した名神高速道路の技術と経験を取り入れて建設されたが、全体的に直線が多勢を占める名神に対して、東名は9割までが曲線で構成されている。また、東海道の特色として大河川の横断が多岐に渡り、東名においても多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖等の幾多の大規模河川を横断することが路線の特徴である。",
"title": "概要"
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"text": "「東名高速道路」の名称は、東京と名古屋を結ぶ高速道路という意味でそう呼ばれる。また「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである。これらは東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)で、法令による路線名はこれとは異なる(後述)",
"title": "概要"
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"text": "東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4キロメートル (km) であるが、東名の延長距離は346.7 kmと、約100 kmも迂回している(東海道新幹線の東京駅 - 名古屋駅とほぼ同じ距離)。",
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"text": "全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。道路カラーはスカイブルー(■)。",
"title": "概要"
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"text": "東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。",
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"text": "新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。御殿場JCT - 豊田JCTで新東名・伊勢湾岸道を利用した場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。",
"title": "概要"
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"text": "2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、2016年(平成28年)2月13日には浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、2022年(令和4年)4月16日までに海老名南JCT - 伊勢原JCT - 新秦野IC間、および新御殿場IC - 御殿場JCT間が開通しており、残る新秦野IC - 新御殿場IC間は2027年(令和9年)度の開通予定である。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。",
"title": "概要"
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"text": "東名高速道路の建設に関しては高速自動車国道法および国土開発幹線自動車道建設法の二法が制定されている。",
"title": "根拠法令"
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"text": "法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、高速自動車国道の路線を指定する政令の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は第一東海自動車道で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は中央自動車道西宮線と第一東海自動車道の重複区間である。",
"title": "根拠法令"
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"text": "1966年(昭和41年)7月までの根拠法令は、上記法令と異なる。以下、当時の法令を列挙する。",
"title": "根拠法令"
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"text": "東海道幹線自動車国道建設法。1960年(昭和35年)7月25日公布施行。東海道幹線自動車国道建設法は、国土開発幹線自動車道建設法の予定路線網に取り込まれる形で、1966年(昭和41年)7月1日で廃止された。路線名は「○○自動車道」ではなく「幹線自動車国道」という他に例を見ない名称が使用され、終点位置はその後の国土開発幹線自動車道建設法の「小牧市」とは異なって「名古屋市附近」となっているが、その経緯については東京・神戸間の高速道路計画で詳述。",
"title": "根拠法令"
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"text": "東海道幹線自動車国道建設法施行令(その後の「高速自動車国道の路線を指定する政令」に該当)では次のように指定されている。この法律は東海道幹線自動車国道建設法第3条第1項、第5条の規定に基づいて政令として制定された。1962年(昭和37年)5月30日公布施行。本法律は1966年(昭和41年)7月1日で廃止された。経過地は合併前の吉原市や清水市が含まれ、起点は世田谷区ではなく渋谷区となっている。",
"title": "根拠法令"
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"text": "なお、東名の建設に関わる法令は、1966年(昭和41年)7月に廃止された東海道幹線自動車国道建設法に基づいていたため、国土開発幹線自動車道建設法(旧国土開発縦貫自動車道建設法)第5条による建設線の基本計画は告示されていない。計画の最初から国土開発縦貫自動車道建設法に基づいている名神高速道路、中央自動車道との違いである。",
"title": "根拠法令"
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"text": "東名の計画は1940年(昭和15年)の内務省における弾丸道路計画に端を発する。計画は戦局悪化により中断されたが、1951年(昭和26年)に当時の首相であった吉田茂の命により東京 - 神戸間の道路計画として再開された。",
"title": "歴史"
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"text": "これと相前後して、同じ東京 - 神戸間を南アルプス経由で貫く中央道が計画され、東名と競合の形をとったためにいずれを採用するかで政府や政治家、専門家を巻き込む大論争へと発展した。しかし両案とも名古屋 - 神戸間はさしたる違いがないことと、経済効果が大きいことを勘案してこの区間のみ先行して事業化することにした。これが名神高速道路である。",
"title": "歴史"
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"text": "残る東京 - 名古屋間は、法整備のうえでは中央道が先行した。1957年(昭和32年)4月に、中央道建設の根拠法である国土開発縦貫自動車道建設法が施行され、このため東名の計画は中止のやむなきに至った。",
"title": "歴史"
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"text": "この間も国道1号の交通量は暫時増加傾向を示し、いよいよ行き詰まりの様相を呈した。大量の交通を高速で流すためには東名の建設が必須で、これは衆議院議員の遠藤三郎らによって支持された。遠藤は東名建設のための法案を議員提案として国会に提案し、1960年(昭和35年)7月に東海道幹線自動車国道建設法が成立するに至った。",
"title": "歴史"
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"text": "東名の設計の基本となったのが、建設省が1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて調査のうえまとめた「東海道幹線自動車国道調査報告書」である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "調査は逼迫する国道1号の現状調査、改良箇所およびバイパス建設の検討から始まり、それでも逼迫する場合は自動車専用道路の調査も考慮した。結果、国道1号の現状から推して高速自動車国道の建設は一刻も放置できないと判断されて重点をこれに移して調査を行ない、1961年(昭和36年)10月にはまとめあげて道路審議会に報告した。",
"title": "歴史"
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"text": "報告によると、有料道路とした場合の採算性は1962年度に着工し、建設期間を7年として、1969年度から供用すると仮定した場合の1969年(昭和44年)の一日の平均交通量は15,594台と算出した。これに将来の伸びを考慮すると供用開始後21年で償還を終了すると推定した。さらに直接の経済効果として、走行便益、時間便益、交通事故減少効果のほかに間接効果として沿道地域の人口と産業の増加ならびに工場などの在庫の減少が期待される。このうち一般道路から東名に転換する交通量による直接効果は235億円と推定され、これだけでも10年足らずで建設費相当額の便益がある。つまり、東名は巨額の投資を行っても造るに値する経済価値があることが明らかとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "起点はその後の世田谷区と異なって渋谷区代々木八幡の環状6号(山手通り)の接続部とされ、以後、環状7号、環状8号の各交差部でインターチェンジを設ける手筈であった。調査時点で東京都内における東名と接続する交通体系の方針が未確定であったことから一応決めたことであって、これが確定すればこの計画に合わせることにした。終点は法律では名古屋市附近であるが、技術的な事情によって小牧市となった。その延長は356 kmで、建設費用は2,442億円である。具体的調査により、過去に概算された1,700 - 1,900億円から大幅増となった。",
"title": "歴史"
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"text": "ルートは確定後の東名と概ね一致するが、焼津 - 豊川間は3ルートがあってこの時点では絞り切れていない(後述)。車線数は東京第3インターチェンジ(環状8号接続)から松田までが往復6車線で、さし当たりは4車線の建設を行い、用地のみ完成形で買収する。それ以外は完成形の4車線断面である。こうした建設省の調査を引き継いで日本道路公団(以下、公団)が改めて調査に望んだ。以下は公団による調査である。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "建設省の調査は直線主体の旧来の線形であったことと、名神建設で経験された建設費用の実績が建設費積算に反映されておらず、加えて短い区間における比較線調査が十分に行われていなかった。これによりこの調査のみをもって東名の整備計画を確定するには不十分であることから、1961年(昭和36年)より改めて公団の手で調査が行われ、それが結果的に3,425億円という建設費概算となって現れた。さらに東名の特徴である曲線主体の線形を大幅採用し、建設省調査後に住宅団地化、工業団地化した区域を避けるべく路線修正を行った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "起点は、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、建設省案の渋谷区から世田谷区の環状8号外側まで後退した。最終的な起点位置は、首都高速3号渋谷線の連結を考慮して決定した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、小田原厚木道路が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる。実際、全線開通15年後の1984年(昭和59年)の推定交通量はこの範囲に収まっている。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "日本道路公団が建設省から事業を引き継いだ段階で、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線が残されていた。建設省が大比較線を残したのはいずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸となる案(静岡県案)を提案した。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。また、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばないとされた。但し、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させることとした。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で、一年以上も遅れていた整備計画の策定にさっそく反映された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった。松田 - 山北間は、箱根山と丹沢山塊に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とを縫って進むが、鮎沢川と酒匂川による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ないとされた。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。都夫良野トンネルはこうして建設されることになったが、これが北線であり、こちらが採択された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線が利用することになり、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要からであった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線)。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった。特に上述の松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら最終的な路線位置を決定し、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した。以下、買収事例を挙げる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "高速道路における用地買収では、買収価格と地権者の思い描いた価格が相違する場合は激しい対立が生じた。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じたが、それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものがあった。袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、租税特別措置法の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく完了をみた。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・都立砧公園)と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を曳家工法で移転させる事例があったが、氏子側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として土地収用法による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本道路公団はこの巨額な資金調達に対して、名神に引き続いて国際復興開発銀行(世界銀行)の借款を強く要望した。これは公団が施行するほかの道路建設計画と合わせると、政府の予算、財政投融資計画による限度一杯の投資を行ってもなお資金不足に見舞われるためである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "1962年(昭和37年)12月に大蔵大臣の田中角栄が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500億ドルの借款(名神に続くことから第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の固定相場制、1,080億円)を賄った。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである。このうち、犠牲者数は79人であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "建設も始まってからほどなくして、議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法が1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され、代替の国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「高速自動車国道東海自動車道」に変更された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である。この内、東京 - 厚木間は都市間高速道路としては初めての6車線道路である。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、式典後に担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した。また、総工費3,425億円は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
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"text": "開通直後の東京ICは東名のみの起終点で、東京都心と東京ICの連絡は東京都道311号環状八号線(環八通り)を経て国道246号(玉川通り)で連絡した。このため、都市内交通と東名利用の交通が錯綜することで、玉川通りで大渋滞が発生し、都心と東京ICの連絡に一時間を要した。都心と東名をつなぐ交通は当初から首都高速3号渋谷線が考慮されたが、東名との同時供用はならなかった。この間、首都高速の利用台数は上昇を続け、やがて限界を超えて渋滞が常態化した。この対策として出入口の閉鎖も日常化していたところへ、いよいよ1971年(昭和46年)12月21日に三宅坂 - 用賀間の開通により東名と接続した。これまで首都高速単体で渋滞が発生していたところへ、東名からの交通がなだれ込むことでさらなる首都高速の逼迫を関係者は心配したが、その不安は的中した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "接続初日で東名からの交通が用賀本線料金所で大渋滞となり、他にも首都高速都心環状線と3号渋谷線の合流地点で2 km、都心環状線各所でも3 kmの渋滞に及んだ。これにより、三軒茶屋、渋谷の各ランプで閉鎖を行って丸く収めたが、それでもこの日は平日午後で、これが出勤時間帯や行楽期では到底さばききれないと関係者は危機感を募らせたという。なお、首都高速と都市間高速の連結はこれが最初の事例となり、以後、中央道、常磐道、東北道との連結に至ることで、都心の幹線街路の補助的な役割を期された首都高速が、その性格を変えて国土全体の高速道路網のなかでも重要な役割を担うことになった。この連結によって千葉県の成田手前と、兵庫県明石市が一般道路を経由せずに結ばれたことで、「神戸のドライバーもことしの初もうでは高速を飛ばして成田山へ」というキャッチコピーが連結に際して採用された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "首都高速連結の翌1972年(昭和47年)10月5日、今度は都市間高速道路同士の連結では初となるジャンクションの運用を開始した。中央自動車道の多治見IC - 小牧JCT間開通における小牧JCTの開設である。また、1974年(昭和49年)3月26日には浜松西ICが開通した。これは東名開通前から構想されたICであったがここに来て設置され、これが供用中高速道路における追加インターチェンジの第一号である。これ以後、1981年(昭和56年)4月25日に秦野中井IC、1988年(昭和63年)3月30日に裾野ICが完成するなど、追加ICの数が増加の一途を辿った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。山間部を貫くことからトンネルが多用され、結果的にカーブが減少して安全性が向上した。ただし、並列区間では新設路線とはいえ並行する既存線の線形を用いざるを得ず、カーブも従来通りである。なお、別線を上り線として運用する理由は、並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続するためである。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、交差部は2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の登坂車線をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する国道16号との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、環状4号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった。この時点で公団は追加ICの必要を認め、これはのちに横浜青葉IC設置へと至った。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "当初予想された計画交通量を上回る急激な需要増から混雑が目立ってきたことで、1971年(昭和46年)4月には、第二東名高速道路の計画が立ち上がり、建設省が調査を開始した。しかし、地形的な難易度が高いこともあって計画は停滞した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉)の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した日本坂トンネル火災事故や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道の物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の第四次全国総合開発計画(四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災が発生し、阪神高速道路はじめ国道2号など幾多の交通が集中している箇所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは九州で水揚げされたのち大阪、東京方面へ向かう水産物をはじめ、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた。この被害によって物流がライフラインそのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「冗長性」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった。東名においても予測される東海地震等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した。この直前、新東名愛知県区間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われた。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。東海道メガロポリスに占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである。",
"title": "開通効果"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "東海道メガロポリスに占める地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であり、これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込む。さらに、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された。こうした効果の具体例を以下に列挙する。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである。特に神奈川県の場合、工業は元来、横浜港を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に東海道本線、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、国道246号と小田急小田原線に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した。他にも、御殿場、沼津IC付近には330万平方メートルの敷地面積でトヨタ自動車が、焼津、浜松IC周辺には河合楽器はじめ住友ベークライト、日清紡、日本ビニロン等が進出した。名神との接続部である小牧ICにおいては特に著しく、従来、毛織物工場3社があるに過ぎなかったが、東名開通前で既に工場数270社まで増加し、敷地面積33,000平方メートルの大規模工場も23社を数えた。東名全体で見ると、全線開通直前の工場進出数は1,067社という膨大な数字であり、これによっても高速道路がいかに工業立地に重要な役割を果たしているかをうかがい知ることができる。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは7時間に短縮された。さらに、国道1号では15トンまで積めるトレーラーの使用しか認められていなかったが、東名では20トンが可能で、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁ってトラックターミナルを建設した。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として甘薯や麦を半農半漁で営む地域であったが、豊川用水の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、花卉に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった。例えば渥美半島産の電照菊は、輸送のほぼ全てを豊川ICから東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した。首都圏人口に対して食料を供給する東京中央卸売市場は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "静岡県袋井市や菊川町の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "清水港は東名開通後に大きく発展した。マグロ流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。理由はマグロ船のみマイナス65 °Cまで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 °C程度が限界のため、長期保存が不可能であったからである。しかし冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことから清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される。なお、清水港に近接する焼津港の場合、東名開通前は水揚げしたカツオの出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている。",
"title": "開通効果"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "下り線の大井松田インターチェンジ (IC) から足柄バスストップ (BS) 付近の間と、上り線の日本坂トンネル (TN) 入口付近と日本坂TN出口付近の間が左右2つのルートにわかれる。ほぼ並行して走っており、距離は左右ルートでさほど変わらない。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "大井松田IC - 足柄BSは下り線がほぼ並行した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線、上り線は1ルート3車線となっている。下り線の鮎沢パーキングエリア (PA) は左ルートからしか入れない。右ルートは分岐手前で最右車線(第3車線)から1車線により分岐する形態となっている。また、大井松田ICから下り線に入る場合は右ルートには入れない。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "なお、左右ルート分岐直前で「大貨等」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい。また、重トレーラーは車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分などにより原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "路線の維持工事による車線規制が渋滞を引き起こす状況を踏まえ、相応の対策を講じた工事を行うことで渋滞を低減する取り組みが行われているが、大井松田IC - 御殿場IC間では上述の変則的車線運用を活用したリバース運用を実施している。つまり、下り2本、上り1本の構成を活用し、上り線を工事閉鎖のうえ、下り2本の内の1本を上り線に反転して運用する手法である。当初は上り線3車線のうちの2車線を規制する方式を採用したが、結果的に最大22 kmに及ぶ渋滞が発生したことからリバース運用を採用するに至った。これによる欠点としては、本来広幅員であるべき左側路肩が0.75 mしか確保できず、逆に右側が3 mであることから、走行速度抑制と路肩走行防止の対策を採っている。また、バス停留所がないことから、工事期間中はバスに先導車を付けて工事中の上り線を通行する対策を採った。この運用により、渋滞の発生は確認されないなど一定の効果をあげた。なお、この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "他の高速道路と同様、雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの場合は50–80 km/hの速度規制が行われる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "上記区間以外にも登坂車線、付加車線が設置されている区間がある。特に名古屋市近郊の丘陵地を通る比較的起伏の多い区間(豊田IC - 守山PA)ではかなり距離のある付加車線が設置されている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "道路幅員は3.25 m(路肩〈側帯含む〉)+3.6 m(車線)×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m(中央分離帯)+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.25 m(路肩〈側帯含む〉)=25.4 m(または32.6 m)である。これは標準幅員で、橋梁、切土、盛土、トンネル等の相違によって変化する。特に工費が高いトンネルと東京近郊では路肩が狭くされ、トンネルの場合は0.75 mである。このため、トンネルでは故障車の発生に備えて非常電話を200 m間隔で設けた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "名神では路肩が土工部2.75 m、橋梁部1.75 mであるが、東名は先の例外区間を除いて土工、橋梁の区別なく全線3.25 mとなった。これは名神の路肩に大型車を停車させて車道を走る車の位置を測定したところ、明らかに中央部分に退避して走行していることが判明したことから路肩の拡大に至ったものである。一方、中央分離帯側にも路肩を設けた。縁石を低くすることで、側帯と合わせて中央分離帯の一部を路肩に加えており、1.8 mを確保している。この場合、故障車の一部が車道側にはみ出すが、残りの車線幅の中で速度を落としながらの走行が可能である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "車線幅員3.6 mは名神から引き続いて採用したが、これは設計上の数値であって、実際の運用は走行車線3.5 m、追越車線3.7 mである。この数値は名神の事故調査の結果により算定し、追い越しを少しでも楽にする狙いから採用された。ただし、東京 - 厚木間の6車線区間は全て3.6 mである。また、後年新設された大井松田 - 御殿場間の上り線(3車線)は3.5 m+3.75 m+3.5 mである。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "名神高速道路では、設計に際し日本道路公団がドイツから道路計画の技術専門家であるフランツ・クサーヴァー・ドルシュ、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ、ひいては眠気さえ催すことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、クロソイド曲線、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は横断勾配6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブが採用された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "インターチェンジは当初21箇所で発足した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を多用したことである。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット(横浜町田、厚木、大井松田、豊川、岡崎、名古屋、春日井の7か所)、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした(富士、清水、浜松の3か所)。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "トランペット型は曲線半径35 m(最小値)の急カーブを描くことから、設計速度は40 km/h(特別な場合は35 km/h)である。こうした急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された。インターチェンジが急カーブを採用せざるを得ないのは、高速走行を重視するあまり、カーブを緩めすぎるとその分用地を広くとらなければならず、用地買収面で不利になるからである。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "東京起点で見ると、第1番目のサービスエリア(SA)を30 km地点においた。これは、大都市を出発して最初に必要とされるSAはほぼ30 km地点であろうという考えによっている。35 km地点に位置する厚木ICの東京寄りに置くことが利用効率も高いと判断され、海老名SAはここに置かれた。次いで海老名から50 km離れた場所として御殿場付近が選定され、観光的な出入りが多いことを考慮して御殿場ICの東京寄りに設置された。ここは南に箱根山塊を、西に富士山を望む格好の好適地である。これが足柄SAである。御殿場から50 km離れた地点は富士川町(現・富士市)から由比の区間で、海岸に近いか、トンネルに近いところは場所がよくないため、富士川に面して富士山が望める富士川町を選定した。これが富士川SAである。東京起点とは別に名古屋起点のSAが考慮され、東に向かって最初のSAを概ね20 km地点を選定したが、これが上郷SA(現・豊田上郷SA)である。付近には景観的に優れたところはないものの、地形的に設置が容易であることが選定の理由である。上郷から概ね50 km離れた地点としては、風光明媚な土地柄ということもあって文句なく浜名湖畔に決定され、本線の地形はSAを考慮して決定した。ここが浜名湖SAである。東京と名古屋の双方から決定されてきたSAだが、富士川SAと浜名湖SAの間隔が120 km開くことから、その中間地点に1か所SAを置いたが、これが牧之原SAである。当初は2か所を計画したが、風光明媚なところがないことから1か所に集約し、大茶園に囲まれて高原地帯に位置する牧之原が選ばれた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "東名では名神から引き続いて高速路線バスを運行している。運行にあたり、バスが途中のインターチェンジをいちいち出ていたのでは高速連絡の利点を生かせないため、本線上あるいはIC、SA、PAに併設する乗降場が用意された。乗降場の長さは3台のバスが同時に発着できるように45 mを標準の長さとした。IC併設の場合はトールゲート付近に置かれ、一般道路走行バスとすぐに乗り継げるようにした。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した。このため、カーブに溶け込ませていることとも相まって、運転者目線では橋を通過していることが意識しづらくなっている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "開通時には静岡IC - 焼津IC間に小坂トンネル(長さ270 m)が存在したが、同区間の改築工事に伴い日本坂トンネルに結合された。日本坂トンネル静岡側坑口からわずか60 mしか離れておらず、連続性を持たせた方が安全性を確保出来ると判断されたため、この部分にシェードが造られ1本のトンネルとなった。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "東名は高速自動車国道の体系に組み込まれていることから、その料金体系で料金が決定される。以下、開通当初の料金政策と現行制度について述べる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した。その結果、長距離逓減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道の料率を統一する制度である。採用理由はそれぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした。この画一料率制は、のちに採用される全国プール制の先駆けとなる制度となった。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離逓減制」を導入することにした。データ上、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するため、100 km以上の交通を対象として1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった。また、通行料金について大蔵省(現・財務省)が横やりを入れ、大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した)、東名利用者の利便性が高いことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として、1 kmあたり20パーセント増しとした。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "画一料率制はその後の全国プール制の採用によって廃止された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "普通車の利用距離当たりの料金は消費税抜きで24.6円/kmである。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "東京IC - 厚木ICは大都市近郊区間、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、普通区間に比べて通行料金が2割増しである。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "100 kmを超えて利用する場合は、200 kmまでが25 %割引、200 km超が30 %割引である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "また、ETC割引制度は、東京IC - 厚木ICのみ対象外となる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「道路交通センサス報告書(一般交通量調査)」(静岡県ホームページ)・「交通量調査集計表」(愛知県ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2002年度(平成14年度)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "区間別に見ると横浜町田ICから厚木ICまでが126,614台(前年度比98.9%)で最大である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを引き続き採用している。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、芦原義信(浜名湖SA)、大高正人(牧之原SA)、清家清(富士川SA)、黒川紀章(足柄SA)、菊竹清訓(海老名SA)。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "東名の橋脚間15 - 17 mクラスの鉄筋コンクリート高架橋は、名神で開発された穴あき床板を採用した。穴あきとしたのはコンクリート橋の欠点である重量を軽減するためである。東名のほとんどの高架橋はこの形式が採用された。経済性に富み、外観上スレンダーで優美であるという理由である。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は284橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した。一番の基本をPC斜材付きΠ型ラーメン橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである。",
"title": "路線状況"
}
] |
東名高速道路は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ(IC)から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は東名高速(とうめいこうそく)、東名(とうめい)、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。中日本高速道路(NEXCO中日本)の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。 高速道路ナンバリングによる路線番号は名神高速道路とともに 「E1」 が割り振られている。
|
{{Redirect|東名}}
{{告知|議論|施設間距離から独自研究を排除するための試行議論|プロジェクト:道路/高速道路の施設間距離}}
{{Infobox road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:TOMEI EXP (E1).svg|130px|東名高速道路]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E1}} 東名高速道路
|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]]
|地図画像 =
{{Highway system OSM map
| frame-lat = 35.20
| frame-long = 138.30
| frame-width = 300
| frame-height = 200
| zoom = 7
| length =
| plain = yes
}}
|総距離 = 346.7 [[キロメートル|km]]
|開通年 = [[1968年]]([[昭和]]43年)- [[1969年]](昭和44年)
|起点 = [[東京都]][[世田谷区]]([[東京インターチェンジ|東京IC]])
|主な経由都市 = [[川崎市]]・[[横浜市]]・[[富士市]]・[[静岡市]]・[[浜松市]]・[[岡崎市]]・[[豊田市]]・[[名古屋市]]<!--高速自動車国道の路線を指定する政令・別表の「第一東海自動車道」の都市で、「エリア(国・州・都道府県など)の境界に位置する都市」「経路が大きく変わる都市」「沿道の都市で、そのエリア内で一番大きな都市」を勘案し、各県の都道府県庁所在地および政令指定都市・中核市(ただし豊橋市はICがないため除外)-->
|終点 = [[愛知県]][[小牧市]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]])
|接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]]
}}
'''東名高速道路'''(とうめいこうそくどうろ、{{lang-en|TOMEI EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[東京都]][[世田谷区]]の[[東京インターチェンジ]](IC)から、[[神奈川県]]・[[静岡県]]を[[経由]]し、[[愛知県]][[小牧市]]の[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[略語|略称]]は'''東名高速'''(とうめいこうそく)、'''東名'''(とうめい)、[[新東名高速道路]]と特に区別する場合には'''旧東名・現東名'''など。[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)の公式的呼称は'''東名'''と'''現東名'''。法令上の正式な路線名は[[第一東海自動車道]]である{{sfn|浅井建爾|2001|p=62}}。また、[[アジアハイウェイ1号線]]「AH1」の一部である。
[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は[[名神高速道路]]とともに 「'''E1'''」 が割り振られている<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html 高速道路ナンバリング一覧]、国土交通省</ref>。
== 概要 ==
[[File:Schematic diagram of the Tomei Expressway.svg|thumb|300px|東京起点より沼津までは内陸を通行することにより国道246号に概ね並行する。東海道新幹線との競合はできる限り避け{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=55}}、特に熱海、浜名湖付近では違いがはなはだしくなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=111}}。ただし、静岡県内では東海道新幹線との交差が6か所に及ぶ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=652}}。愛知県内は内陸に通し、岡崎付近を除いて国道1号から大きく外れて小牧に至る。赤枠の都市は中心部の通過を避けた。]]
東名高速道路は、[[東海道]]を走る[[国道1号]]の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、貨物の大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として建設された{{sfn|吉田喜市|1973|pp=84-85}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。都市間高速道路における東名の開通順位は、名神高速道路、[[中央自動車道]]に次いで3番目である<ref name="朝日19680424夕">{{Cite news |title=3か所で飛石開通 東名高速道路 一般、あすから |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1968-04-24|page=1}}</ref>。路線がカバーする範囲は名神高速道路と併せて日本経済の枢要部であり{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}、開通当時において工業的に最も高い発展を遂げた地域を貫通したことから、東名はこれらの地域のさらなる機能強化と拡大を図るうえで積極的な役割を果たし{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}、ひいては日本の[[高度経済成長]]の前半部を支え牽引した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。
路線は[[関東地方]]から[[中部地方]]にかけて、東海道とほぼ並行して東西に縦貫する。用地買収費と建設費を抑える観点から、家屋や田畑等を可能な限り回避のうえ東京 - 小牧間を最短距離となるように計画し、併せて市街地をはじめ集落の分断を極力回避した<ref name="朝日19601015">{{Cite news |title=建設省 路線案まとめる 東海道幹線自動車道 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-10-15|page=1}}</ref>。また、[[東海道新幹線]]と競合しないように路線位置の調整が行われている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=55}}。結果、路線は[[横浜市|横浜]]、[[藤沢市|藤沢]]、[[小田原市|小田原]]、[[沼津市|沼津]]、[[浜松市|浜松]]、[[名古屋市|名古屋]]などの都市中心部を通さず、併せて[[熱海市|熱海]]、[[三島市|三島]]に寄らずに[[御殿場市|御殿場]]回りとなっているほか、[[豊川市|豊川]] - 名古屋間も海岸を避けて内陸に路線を通した<ref name="朝日19601015"/>。これにより、市街地を通過する東海道新幹線、[[東海道本線]]、国道1号とは位置的に若干の相違があり、東京起点より沼津までは内陸を通行する[[国道246号]]に概ね並行し、以降浜松付近まで国道1号に並行する。これより東海道新幹線と東海道本線を避けて[[舘山寺#舘山寺町|舘山寺]]、[[三ヶ日]]を通過して{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=58}}、[[岡崎市|岡崎]]付近で国道1号に並行して以降は内陸を通って名古屋市東端、[[春日井市|春日井]]、小牧に至り名神に接続する。
この道路は先行した名神高速道路の技術と経験を取り入れて建設されたが、全体的に直線が多勢を占める名神に対して、東名は9割までが曲線で構成されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=229}}。また、東海道の特色として大河川の横断が多岐に渡り、東名においても[[多摩川]]、[[相模川]]、[[酒匂川]]、[[富士川]]、[[安倍川]]、[[大井川]]、[[天竜川]]、[[浜名湖]]等の幾多の大規模河川を横断することが路線の特徴である{{sfn|武田文夫|1968|p=154}}。
「東名高速道路」の名称は、東京と名古屋を結ぶ高速道路という意味でそう呼ばれる{{sfn|社団法人建設広報協議会|1963|p=167}}。また「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである<ref>{{Wayback |url=http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_05.html |title=国土交通省道路局 道の相談室 |date=20091209074729}}</ref>。これらは東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)で、法令による路線名はこれとは異なる(後述)
東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4[[キロメートル]] (km) {{efn|[http://www.mapion.co.jp/route/ 距離測定:キョリ測(ベータ)]}}であるが、東名の延長距離は346.7 kmと、約100 kmも迂回している(東海道新幹線の[[東京駅]] - [[名古屋駅]]とほぼ同じ距離)。
全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。道路カラーはスカイブルー({{Color|#20a5dd|■}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
=== 新東名高速道路との関係 ===
{{Main|新東名高速道路}}
東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。
新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。[[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]] - [[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で新東名・[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]]を利用した場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。
2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、[[2016年]](平成28年)[[2月13日]]には浜松いなさJCT - [[豊田東ジャンクション|豊田東JCT]]間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、[[2022年]](令和4年)[[4月16日]]までに[[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]] - [[伊勢原ジャンクション|伊勢原JCT]]<!--東名との結節点につき記載--> - [[新秦野インターチェンジ|新秦野IC]]間、および[[新御殿場インターチェンジ|新御殿場IC]] - 御殿場JCT間が開通しており<ref>{{Cite web|和書|title=E1A 新東名 伊勢原大山IC〜新秦野ICが2022年4月16日(土)15時に開通します。 〜 秦野丹沢スマートICも同時に開通します 〜 {{!}} ニュースリリース {{!}} プレスルーム {{!}} 企業情報 {{!}} 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5365.html |website=E1A 新東名 伊勢原大山IC〜新秦野ICが2022年4月16日(土)15時に開通します。〜秦野丹沢スマートICも同時に開通します〜 {{!}} ニュースリリース {{!}} プレスルーム {{!}} 企業情報 {{!}} 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本 |sdate=2022-02-24 |accessdate=2022-03-13 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5022.html|title=E1A 新東名高速道路と国道138号バイパスが2021年4月10日(土)に開通します! 〜観光・物流を支えるネットワークがさらに広がります〜 〜国道469号バイパス、県道仁杉柴怒田線も開通します〜|date=2021-02-19|accessdate=2021-03-27|publisher=中日本高速道路株式会社・国土交通省中部地方整備局 沼津河川国道事務所・静岡県}}</ref>、残る新秦野IC - 新御殿場IC間は2027年(令和9年)度の開通予定である<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5591.html |title=E1A 新東名高速道路(海老名南JCT〜御殿場JCT間)連絡調整会議(第5回)開催結果について〜開通予定時期を2027年度に見直し〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2022-12-16 |access-date=2022-12-17 }}</ref>。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。
=== 路線データ ===
* 東京都世田谷区用賀(東京IC)
* 愛知県小牧市大字村中松原(小牧IC)
* 全長 : 346.7 [[キロメートル|km]]
* 道路構造令
** 第1種第1級(横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
** 第1種第2級(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
** 第1種第3級(秦野中井IC - 御殿場IC)
* 設計速度
** 120 [[キロメートル毎時|km/h]](横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
** 100 km/h(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
** 80 km/h(秦野中井IC - 御殿場IC)
* 車線幅員 : 3.6 [[メートル|m]]
* 道路幅員 : 24.9 m - 32.1 m
* 車線数 : 4車線 - 6車線(一部7車線区間あり)
== 根拠法令 ==
東名高速道路の建設に関しては[[高速自動車国道法]]および[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]の二法が制定されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=12-13}}。
法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は'''[[第一東海自動車道]]'''で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は'''[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道西宮線]]'''と第一東海自動車道の重複区間である{{sfn|浅井建爾|2015|p=170}}。
1966年(昭和41年)7月までの根拠法令は、上記法令と異なる。以下、当時の法令を列挙する。
東海道幹線自動車国道建設法。1960年(昭和35年)7月25日公布施行。東海道幹線自動車国道建設法は、国土開発幹線自動車道建設法の予定路線網に取り込まれる形で、1966年(昭和41年)7月1日で廃止された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=804-805}}。路線名は「○○自動車道」ではなく「幹線自動車国道」という他に例を見ない名称が使用され、終点位置はその後の国土開発幹線自動車道建設法の「小牧市」とは異なって「名古屋市附近」となっているが、その経緯については[[東京・神戸間の高速道路計画]]で詳述。
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 起点
! colspan="2" style="white-space:nowrap" | 主たる経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
! style="white-space:nowrap" | 東海道幹線自動車国道
| style="white-space:nowrap" rowspan="1"|東京都
|colspan="2"|横浜市附近 静岡市附近 浜松市附近 豊橋市附近
| style="white-space:nowrap" | 名古屋市附近
|-
|}
東海道幹線自動車国道建設法施行令(その後の「高速自動車国道の路線を指定する政令」に該当{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=804}})では次のように指定されている。この法律は東海道幹線自動車国道建設法第3条第1項、第5条の規定に基づいて政令として制定された。1962年(昭和37年)5月30日公布施行。本法律は1966年(昭和41年)7月1日で廃止された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=806}}。経過地は合併前の[[吉原市]]や[[清水市]]が含まれ、起点は世田谷区ではなく[[渋谷区]]となっている。
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 起点
! colspan="4" style="white-space:nowrap" | 重要な経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
! style="white-space:nowrap" | 高速自動車国道東海道幹線自動車国道
| style="white-space:nowrap" rowspan="1"|東京都渋谷区
|colspan="4"|川崎市 横浜市 大和市 厚木市 秦野市 御殿場市 沼津市 吉原市 富士市 清水市 静岡市 焼津市 掛川市 袋井市 磐田市 浜松市 新城市 豊橋市 豊川市 岡崎市 豊田市 名古屋市 春日井市
| style="white-space:nowrap" | 小牧市
|-
|}
なお、東名の建設に関わる法令は、1966年(昭和41年)7月に廃止された東海道幹線自動車国道建設法に基づいていたため、国土開発幹線自動車道建設法(旧国土開発縦貫自動車道建設法)第5条による建設線の基本計画は告示されていない。計画の最初から国土開発縦貫自動車道建設法に基づいている名神高速道路、中央自動車道との違いである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=13}}。
== インターチェンジなど ==
* IC番号欄の背景色が {{colorbox|#BFB}} である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が {{colorbox|#CCC}} である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。
* [[スマートインターチェンジ]](SIC)は背景色 {{colorbox|#eda5ff}} で示す。
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。
* [[バス停留所|バスストップ]](BS)のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
** 浜松IC、名古屋ICは▲としている。これは当該BSはIC近隣に設置された施設でIC設備からも離れており、本高速道路に属すBSではないためであるが、実際の運用上の扱いは一緒である。
* TB は[[本線料金所]]の略称を示す。
* SA は[[サービスエリア]]、PA は[[パーキングエリア]]の略称をそれぞれ示す。
{|class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|[[東京インターチェンジ|東京]]<br /><small>から<br />([[キロメートル|km]])</small>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
|colspan="9" style="text-align:center" |[[File:Shuto Urban Expwy Sign 0003.svg|24px]] [[首都高速3号渋谷線]] <!--[[大橋ジャンクション|大橋]]・[[渋谷出入口|渋谷]]・[[谷町ジャンクション|谷町]]方面-->
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[東京インターチェンジ|東京IC]]
|[[東京都道311号環状八号線|都道311号環状八号線]]
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" colspan="3" style="width:1em"|[[東京都]]<br>[[世田谷区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[東名ジャンクション|東名JCT]]
|style="background-color:#CCC"|[[東京外かく環状道路]]<br>({{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外環自動車道]])
|style="text-align:right"|1.8
|style="text-align:center"|-
|事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/gaikan/gaiyo/keii.html |title=これまでの経緯 |publisher=国土交通省関東地方整備局東京外かく環状国道事務所 |accessdate=2013-05-12}}</ref>{{efn|東名計画時点では砧JCTとして計画。この時点で砧JCTの番号として2番が付与されている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=930}}。}}。
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[東京料金所|東京TB/向ヶ丘BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|6.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="21" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[神奈川県]]}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[川崎市]]<br>[[宮前区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[東名川崎インターチェンジ|東名川崎IC]]
|[[川崎市主要地方道野川菅生線|市道野川菅生線]]
|style="text-align:right"|7.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[江田バスストップ|江田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|10.5
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="4" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[横浜市]]}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[青葉区 (横浜市)|青葉区]]
|-
!style="background-color: #BFB"|3-1
|[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC/JCT]]
|[[国道246号]]<br />[[File:Shuto Urban Expwy Sign K7 (NW).svg|24px]] [[首都高速神奈川7号横浜北西線]]
|style="text-align:right"|13.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[港北パーキングエリア|港北PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|14.2<br />14.9
|style="text-align:center"|
|名古屋方面<br />東京方面
|rowspan="2"|[[緑区 (横浜市)|緑区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]
|[[国道16号]]([[大和バイパス]]/[[保土ヶ谷バイパス]])
|style="text-align:right"|19.7
|style="text-align:center"|[[横浜バスストップ|◆]]
|BSは[[1999年]](平成11年)廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[大和バスストップ|大和BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|24.0
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[大和市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|4-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[綾瀬スマートインターチェンジ|綾瀬SIC/BS]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[神奈川県道42号藤沢座間厚木線|県道42号藤沢座間厚木線]]
|style="text-align:right"|28.8
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[綾瀬市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[海老名サービスエリア|海老名SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|31.4
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="2" colspan="2"|[[海老名市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|4-2
|[[海老名ジャンクション|海老名JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]] {{efn|法令上、[[海老名インターチェンジ|海老名IC]] - [[海老名南ジャンクション|海老名南JCT]]間は第一東海自動車道の支線]}}
|style="text-align:right"|33.9
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|5
|[[厚木インターチェンジ|厚木IC]]
|[[国道129号]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E85}} [[小田原厚木道路]]
|style="text-align:right"|35.0
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="2" colspan="2"|[[厚木市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[厚木バスストップ|厚木BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|36.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|[[伊勢原ジャンクション|伊勢原JCT]]
|style="text-align:left"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新東名高速道路]]
|style="text-align:right"|40.2
|style="text-align:center"|-
|東名東京方面⇔新東名海老名南JCT方面<br />及び東名名古屋方面⇔新東名伊勢原大山IC方面相互間の利用不可
| rowspan="2" colspan="2"|[[伊勢原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[伊勢原バスストップ|伊勢原BS]]/[[救急車緊急退出路]]
|
|style="text-align:right"|41.7
|style="text-align:center"|○
|[[東海大学医学部付属病院]]に接続
|-
!style="background-color:#BFB"|5-2
|[[秦野中井インターチェンジ|秦野中井IC/秦野BS]]
|[[神奈川県道71号秦野二宮線|県道71号秦野二宮線]]<br />[[厚木秦野道路]](事業中)
|style="text-align:right"|50.1
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[秦野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[中井パーキングエリア|中井PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|53.7
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[足柄上郡]]}}
|[[中井町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[大井バスストップ|大井BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|57.1
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="2" |[[大井町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[大井松田インターチェンジ|大井松田IC]]
|[[国道255号]]<br />[[静岡県道・神奈川県道78号御殿場大井線|県道78号御殿場大井線]]
|style="text-align:right"|57.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[松田バスストップ|松田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|60.2
|style="text-align:center"|○
|下り線は左ルート
|[[松田町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[山北バスストップ|山北BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|63.6
|style="text-align:center"|○
|下り線は左ルート
| rowspan="2" |[[山北町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[鮎沢パーキングエリア|鮎沢PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|71.9<br />72.5
|style="text-align:center"|
|下り線左ルートのみ設置<br />上り線
|-
! style="background-color:#BFB" |-
|[[小山バスストップ|小山BS]]
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:right" |75.5
| style="text-align:center" |○
|下り線は左ルート
|rowspan="50" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[静岡県]]}}
| rowspan="3" colspan="2"|[[駿東郡]]<br/>[[小山町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[足柄バスストップ|足柄BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|79.2
|style="text-align:center"|○
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|6-1
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[足柄サービスエリア|足柄SA/SIC]]
|rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|
|rowspan="2" style="text-align:right"|81.1
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|rowspan="2" |
|-
| rowspan="5" colspan="2"|[[御殿場市]]
|-
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|7
|[[御殿場インターチェンジ|御殿場IC第二出入口]]
|[[国道138号]]([[御殿場バイパス]])
|rowspan="2" style="text-align:right"|83.7
|style="text-align:center"|
|東京方面出入口(ハーフインターチェンジ)
|-
|[[御殿場インターチェンジ|御殿場IC第一出入口]]<br>[[御殿場インターチェンジ#御殿場バスストップ|御殿場BS]]
|[[静岡県道401号・神奈川県道736号御殿場箱根線|県道401号御殿場箱根線]]
|style="text-align:center"|○
|東名高速道路最高地点([[標高]]454[[メートル|m]])
|-
!style="background-color:#BFB"|7-1
|[[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新東名高速道路]]
|style="text-align:right"|88.3
|style="text-align:center"|-
|東名東京方面⇔新東名新御殿場IC方面<br />及び東名名古屋方面⇔新東名長泉沼津IC方面相互間の利用不可
|-
!style="background-color:#BFB"|7-2
|style="background-color:#eda5ff"|[[駒門パーキングエリア|駒門PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|90.0<br />91.6
|style="text-align:center"|◆
|東京方面<br />名古屋方面
|-
!style="background-color:#BFB"|7-3
|[[裾野インターチェンジ|裾野IC]]
|[[静岡県道82号裾野インター線|県道82号裾野インター線]]
|style="text-align:right"|93.8
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="2" colspan="2"|[[裾野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[裾野バスストップ|裾野BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|95.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[沼津インターチェンジ|沼津IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E70}} [[伊豆縦貫自動車道]]<br />[[静岡県道83号沼津インター線|県道83号沼津インター線]]<br />[[静岡県道405号足高三枚橋線|県道405号足高三枚橋線]]
|style="text-align:right"|103.3
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="3" colspan="2"|[[沼津市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|8-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[愛鷹パーキングエリア|愛鷹PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|105.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[原バスストップ|原BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|112.2
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[中里バスストップ|中里BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|115.7
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="4" colspan="2"|[[富士市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|9
|[[富士インターチェンジ|富士IC]]
|[[国道139号]]([[西富士道路]])<br />[[静岡県道353号田子浦港富士インター線|県道353号田子浦港富士インター線]]<br />[[静岡県道414号富士富士宮線|県道414号富士富士宮線]]
|style="text-align:right"|121.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[松岡バスストップ|松岡BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|125.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|9-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[富士川サービスエリア|富士川SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[静岡県道・山梨県道10号富士川身延線|県道10号富士川身延線]]
|style="text-align:right"|127.5
|style="text-align:center"|○
|上り線のみ[[ハイウェイオアシス]]併設
|-
! style="background-color:#BFB" |-
|[[蒲原バスストップ|蒲原BS]]
| style="text-align:center" | -
| style="text-align:right" |133.1
| style="text-align:center" |○
|
| rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[静岡市]]}}
| rowspan="5" |[[清水区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[由比パーキングエリア|由比PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|138.7<br />139.8
|style="text-align:center"|◆
|名古屋方面<br />東京方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[興津バスストップ|興津BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|142.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|9-2
|[[清水ジャンクション|清水JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E52}} 新東名高速道路(清水連絡路)
|style="text-align:right"|146.4
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|[[清水インターチェンジ (静岡県)|清水IC]]
|[[国道1号]]([[静清バイパス]])
|style="text-align:right"|147.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[日本平パーキングエリア|日本平PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|155.9
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="3" |[[駿河区]]
|-
!style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|10-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[日本平久能山スマートインターチェンジ|日本平久能山SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[静岡県道74号山脇大谷線|県道74号山脇大谷線]]
|style="text-align:right"|158.8
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|[[静岡インターチェンジ|静岡IC]]
|[[静岡県道84号中島南安倍線|県道84号中島南安倍線]]
|style="text-align:right"|161.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[日本坂パーキングエリア|日本坂PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|171.5<br />171.6
|style="text-align:center"|
|東京方面<br />名古屋方面
| rowspan="4" colspan="2"|[[焼津市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[焼津インターチェンジ|焼津IC]]
|[[静岡県道81号焼津森線|県道81号焼津森線]]
|style="text-align:right"|173.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[焼津西バスストップ|焼津西BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|176.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|12-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[大井川焼津藤枝スマートインターチェンジ|大井川焼津藤枝SIC<br>大井川BS]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|181.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[吉田インターチェンジ|吉田IC]]
|[[静岡県道34号島田吉田線|県道34号島田吉田線]]
|style="text-align:right"|185.6
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[榛原郡]]<br/>[[吉田町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[牧之原サービスエリア|牧之原SA/牧の原BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|194.4
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="2" colspan="2"|[[牧之原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|13-1
|[[相良牧之原インターチェンジ|相良牧之原IC]]
|[[国道473号]]([[金谷御前崎連絡道路]])
|style="text-align:right"|196.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|14
|[[菊川インターチェンジ|菊川IC]]
|[[静岡県道79号吉田大東線|県道79号吉田大東線]]
|style="text-align:right"|201.8
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[菊川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|14-1
|[[掛川インターチェンジ|掛川IC]]
|[[静岡県道38号掛川大東線|県道38号掛川大東線]]<br/>[[静岡県道403号磐田掛川線|県道403号磐田掛川線]]
|style="text-align:right"|207.8
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="3" colspan="2"|[[掛川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[小笠パーキングエリア|小笠PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|209.8
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[岡津バスストップ|岡津BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|212.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|[[袋井インターチェンジ|袋井IC]]
|[[静岡県道61号浜北袋井線|県道61号浜北袋井線]]
|style="text-align:right"|219.4
|style="text-align:center"|[[袋井バスストップ|●]]
|
|colspan="2"|[[袋井市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15-1
|[[磐田インターチェンジ|磐田IC]]
|[[静岡県道86号磐田インター線|県道86号磐田インター線]]<br />[[静岡県道283号横川磐田線|県道283号横川磐田線]]
|rowspan="2" style="text-align:right"|223.4
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="4" colspan="2"|[[磐田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[磐田インターチェンジ|磐田原PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:center"|
|[[1997年]](平成9年)[[6月1日]]廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|15-2
|style="background-color:#eda5ff"|[[遠州豊田パーキングエリア|遠州豊田PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|225.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[磐田バスストップ|磐田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|226.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[浜松インターチェンジ|浜松IC]]
|[[静岡県道65号浜松環状線|県道65号浜松環状線]]
|style="text-align:right"|230.0
|style="text-align:center"|[[浜松インターバスストップ|▲]]
|
| rowspan="9" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[浜松市]]}}
| rowspan="5" |[[中央区 (浜松市)|中央区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[浜松北バスストップ|浜松北BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|233.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[三方原パーキングエリア|三方原PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|234.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16-2
|[[浜松西インターチェンジ|浜松西IC]]
|県道65号浜松環状線
|style="text-align:right"|240.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16-3
|style="background-color:#eda5ff"|[[舘山寺バスストップ|舘山寺BS/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[静岡県道320号引佐舘山寺線|県道320号引佐舘山寺線]]<br />[[静岡県道368号湖東舘山寺線|県道368号湖東舘山寺線]]
|style="text-align:right"|244.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[浜名湖サービスエリア|浜名湖SA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|247.9
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="4" |[[浜名区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[三ヶ日インターチェンジ|三ヶ日IC]]
|[[静岡県道85号三ヶ日インター線|県道85号三ヶ日インター線]]<br />[[愛知県道445号・静岡県道308号鳳来三ケ日線|県道308号鳳来三ケ日線]]
|style="text-align:right"|251.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[三ヶ日バスストップ|三ヶ日BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|255.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|17-1
|[[三ヶ日ジャンクション|三ヶ日JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E69}} 新東名高速道路(引佐連絡路)<br />[[三遠伊勢連絡道路]](調査中)
|style="text-align:right"|255.8
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[新城パーキングエリア|新城PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|261.0
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="26" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[愛知県]]}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[新城市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[豊橋北バスストップ|豊橋北BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|262.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[豊橋新城スマートインターチェンジ|豊橋新城SIC]]
|style="background-color:#CCC"|
|style="text-align:right"|262.7
|style="text-align:center"|
|[[2026年]](令和8年)度供用開始予定<ref>{{Cite news|title=豊橋新城スマートIC建設決定 産業活動の支援などに期待/国交省が事業採択、2026年度完成目指す|newspaper=東日新聞|date=2021-08-07|accessdate=2022-03-12|url=https://www.tonichi.net/news/index.php?id=89462}}</ref>
| rowspan="2" colspan="2"|[[豊橋市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[豊橋パーキングエリア|豊橋PA]]/<span style="background-color:#CCC">[[豊橋本線料金所|TB]]</span>
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|265.7
|style="text-align:center"|
|本線料金所(検札所)は[[2007年]](平成19年)[[5月31日]]廃止<br />PAは名古屋方面のみ
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[豊川インターチェンジ|豊川IC]]
|[[国道151号]]
|style="text-align:right"|269.0
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="4" colspan="2"|[[豊川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[赤塚パーキングエリア|赤塚PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|274.0
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[音羽バスストップ|音羽BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|279.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|18-1
|[[音羽蒲郡インターチェンジ|音羽蒲郡IC]]
|国道1号<br />[[愛知県道73号長沢蒲郡線|県道73号長沢蒲郡線]]([[音羽蒲郡道路]])
|style="text-align:right"|280.2
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[本宿バスストップ|本宿BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|285.4
|style="text-align:center"|○
|
| rowspan="5" colspan="2"|[[岡崎市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[美合パーキングエリア|美合PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|288.9 <br />290.2
|style="text-align:center"|
|名古屋方面<br />東京方面
|-
!style="background-color:#BFB"|19
|[[岡崎インターチェンジ|岡崎IC]]
|国道1号
|style="text-align:right"|293.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-<!-- 19-1 -->
|style="background-color:#CCC"|[[岡崎阿知和スマートインターチェンジ|岡崎阿知和SIC]]
|style="background-color:#CCC"|
|style="text-align:right"|299.5
|style="text-align:center"|-
|事業中<ref name="press20190927">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001310103.pdf|title=高速道路会社への事業許可および スマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2019-09-27|accessdate=2019-09-27|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[岩津バスストップ|岩津BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|301.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|19-2
|[[豊田ジャンクション|豊田JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[伊勢湾岸自動車道]]
|style="text-align:right"|304.1
|style="text-align:center"|
|
| rowspan="3" colspan="2"|[[豊田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|19-3
|style="background-color:#eda5ff"|[[豊田上郷サービスエリア|豊田上郷SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[愛知県道76号豊田安城線|県道76号豊田安城線]]
|style="text-align:right"|305.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[豊田インターチェンジ|豊田IC]]
|[[国道155号]]([[豊田南バイパス]])<br />県道76号豊田安城線
|style="text-align:right"|310.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color: #BFB"|20-1
|[[東名三好インターチェンジ|東名三好IC/三好BS]]
|[[愛知県道54号豊田知立線|県道54号豊田知立線]]
|style="text-align:right"|315.8
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[みよし市]]
|-
!style="background-color: #BFB"|-
|[[東郷パーキングエリア|東郷PA]]/<span style="background-color: #CCC">[[東郷パーキングエリア|SIC]]</span>
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|318.0
|style="text-align:center"|
|SICは事業中<ref name="press20190927" />
| rowspan="3" colspan="2"|[[日進市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[日進バスストップ|日進BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|319.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|20-2
|[[日進ジャンクション|日進JCT]]
|[[名古屋瀬戸道路]]
|style="text-align:right"|322.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[名古屋インターチェンジ|名古屋IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|C2}} [[名古屋第二環状自動車道]]支線<br />[[愛知県道60号名古屋長久手線|県道60号名古屋長久手線]]([[東山通 (名古屋市)|東山通]])
|style="text-align:right"|325.5
|style="text-align:center"|[[本郷駅 (愛知県)|▲]]
|
|colspan="2"|[[名古屋市]]<br>[[名東区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[旭バスストップ (愛知県)|旭BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|329.5
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[尾張旭市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|21-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[守山パーキングエリア|守山PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|333.6
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|名古屋市<br>[[守山区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|22
|[[春日井インターチェンジ|春日井IC]]
|[[国道19号]]
|style="text-align:right"|337.6
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[春日井市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|23
|[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E19}} [[中央自動車道]]
|style="text-align:right"|339.8
|style="text-align:center"|-
|
| rowspan="2" colspan="2"|[[小牧市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]
|[[国道41号]]<br />[[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0011.svg|24px]] [[名古屋高速11号小牧線]]
|style="text-align:right"|346.7
|style="text-align:center"|
|
|-
| colspan="9" style="text-align:center" |{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]
|}
== 歴史 ==
=== 構想から法整備まで ===
[[File:National Expressway Plan(1943).svg|thumb|内務省土木局が戦時下に計画した自動車国道網{{sfn|吉田喜市|1973|p=81}}。既に東名の原型が構想されている。]]
[[File:Bronze sculpture of Saburo Endo.jpg|thumb|遠藤三郎の銅像。遠藤は東名の実現において主導的な役割を果たした{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=133-134}}。]]
東名の計画は1940年(昭和15年)の[[内務省 (日本)|内務省]]における弾丸道路計画に端を発する。計画は戦局悪化により中断されたが{{sfn|池上雅夫|1969|p=4}}、1951年(昭和26年)に当時の[[内閣総理大臣|首相]]であった[[吉田茂]]の命により東京 - 神戸間の道路計画として再開された{{sfn|NHK「プロジェクトX」制作班 |2005|p=9}}。
これと相前後して、同じ東京 - 神戸間を[[赤石山脈|南アルプス]]経由で貫く中央道が計画され、東名と競合の形をとったために{{sfn|日本道路公団総裁室企画課|1957|p=179}}いずれを採用するかで政府や政治家、専門家を巻き込む大論争へと発展した{{sfn|池上雅夫|1969|p=8}}。しかし両案とも名古屋 - 神戸間はさしたる違いがないことと、経済効果が大きいことを勘案してこの区間のみ先行して事業化することにした。これが名神高速道路である{{sfn|吉田喜市|1973|pp=82-83}}。
残る東京 - 名古屋間は、法整備のうえでは中央道が先行した。1957年(昭和32年)4月に、中央道建設の根拠法である[[s:国土開発縦貫自動車道建設法|国土開発縦貫自動車道建設法]]が施行され{{sfn|吉田喜市|1973|p=83}}、このため東名の計画は中止のやむなきに至った<ref name="議録S350517P5">『第三十四回国会 衆議院建設委員会議録第19号 昭和三十四年五月十七日』p.5</ref>。
この間も国道1号の交通量は暫時増加傾向を示し、いよいよ行き詰まりの様相を呈した。大量の交通を高速で流すためには東名の建設が必須で{{sfn|石井興良|1960|pp=480-483}}、これは[[衆議院]]議員の[[遠藤三郎 (政治家)|遠藤三郎]]らによって支持された{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=64-67}}。遠藤は東名建設のための法案を[[議員立法|議員提案]]として国会に提案し{{sfn|遠藤三郎先生を偲ぶ会|1990|pp=133-134}}、1960年(昭和35年)7月に[[s:東海道幹線自動車国道建設法|東海道幹線自動車国道建設法]]が成立するに至った{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。
{{see also|東京・神戸間の高速道路計画}}
=== 設計と建設 ===
==== 調査 ====
[[File:Traffic volume on Route 1 between Tokyo and Nagoya.svg|thumb|国道1号(東京 - 名古屋間)の交通量の推移{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。交通量の激増ぶりを見てとることができる。]]
東名の設計の基本となったのが、建設省が1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて調査のうえまとめた「東海道幹線自動車国道調査報告書」である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。
調査は逼迫する国道1号の現状調査<ref name="官報19600621-P5">『官報 第三十四回国会 参議院建設委員会会議録第35号 昭和三十五年六月二十一日』p.5</ref>、改良箇所およびバイパス建設の検討から始まり、それでも逼迫する場合は自動車専用道路の調査も考慮した<ref name="朝日19590517">{{Cite news |title=東海道を総合調査 建設省 自動車交通緩和で |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1959-05-17|page=1}}</ref>。結果、国道1号の現状から推して高速自動車国道の建設は一刻も放置できないと判断されて重点をこれに移して調査を行ない{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-16}}、1961年(昭和36年)10月にはまとめあげて道路審議会に報告した<ref name="朝日19611008">{{Cite news |title=渋谷-小牧三時間半 建設省の調査報告 東海道自動車国道 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1961-10-08|page=2}}</ref>。
{{multiple image
| footer = 東海道幹線自動車国道調査報告書に添付された参考データ{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-18}}。
| align = center
| width = 350
| image1 = Tokaido traffic capacity excess graph in 1965.svg
| caption1 = 1965年度の東海道交通容量超過予測図。国道1号のキャパシティ(交通容量)を実際の交通量が上回る交通容量超過が全線の94 %にわたる。東京 - 名古屋間の平均交通量は1958年度の調査では全国一級国道平均交通量の約3倍にあたり、自動車の走行速度ははなはだしく低下しており、東海道の高速道路の建設は焦眉の急であることが明らかとなった{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=15}}。
| image2 = Tomei Expressway Estimated Traffic Volume Map (1969).svg
| caption2 = 1969年度における東海道幹線自動車国道推定交通量。東海道新幹線、中央道(東京 - 富士吉田)、名神高速、第三京浜道路がいずれも開通しているとの前提の元に計算をおこなった場合、道路および鉄道から転換してくる東名の交通量は日平均交通量を約15,500台で、これを元に将来の伸びを考慮して建設費償還に要する年数を推察すると開通後21年と算出した{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=15-18}}。
}}
報告によると、有料道路とした場合の採算性は1962年度に着工し、建設期間を7年として、1969年度から供用すると仮定した場合の1969年(昭和44年)の一日の平均交通量は15,594台と算出した。これに将来の伸びを考慮すると供用開始後21年で償還を終了すると推定した。さらに直接の経済効果として、走行便益、時間便益、交通事故減少効果のほかに間接効果として沿道地域の人口と産業の増加ならびに工場などの在庫の減少が期待される。このうち一般道路から東名に転換する交通量による直接効果は235億円と推定され、これだけでも10年足らずで建設費相当額の便益がある{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=18}}。つまり、東名は巨額の投資を行っても造るに値する経済価値があることが明らかとなった。
起点はその後の世田谷区と異なって渋谷区代々木八幡の環状6号([[東京都道317号環状六号線|山手通り]])の接続部とされ、以後、[[東京都道318号環状七号線|環状7号]]、[[東京都道311号環状八号線|環状8号]]の各交差部でインターチェンジを設ける手筈であった{{sfn|樽井常忠|1961|p=28}}。調査時点で東京都内における東名と接続する交通体系の方針が未確定であったことから一応決めたことであって、これが確定すればこの計画に合わせることにした{{sfn|樽井常忠|1961|p=28}}。終点は法律では名古屋市附近であるが、技術的な事情によって小牧市となった。その延長は356 kmで、建設費用は2,442億円である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|pp=16-17}}。具体的調査により、過去に概算された1,700 - 1,900億円<ref name="官報19600621-P6">『官報 第三十四回国会 参議院建設委員会会議録第35号 昭和三十五年六月二十一日』p.6</ref>から大幅増となった。
ルートは確定後の東名と概ね一致するが、焼津 - 豊川間は3ルートがあってこの時点では絞り切れていない(後述)。車線数は東京第3インターチェンジ(環状8号接続)から松田までが往復6車線で、さし当たりは4車線の建設を行い、用地のみ完成形で買収する。それ以外は完成形の4車線断面である{{sfn|高野務・斉藤義治|1961|p=18}}。こうした建設省の調査を引き継いで日本道路公団(以下、公団)が改めて調査に望んだ。以下は公団による調査である。
建設省の調査は直線主体の旧来の線形であったことと、名神建設で経験された建設費用の実績が建設費積算に反映されておらず、加えて短い区間における比較線調査が十分に行われていなかった。これによりこの調査のみをもって東名の整備計画を確定するには不十分であることから、1961年(昭和36年)より改めて公団の手で調査が行われ、それが結果的に3,425億円という建設費概算となって現れた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。さらに東名の特徴である曲線主体の線形を大幅採用し、建設省調査後に住宅団地化、工業団地化した区域を避けるべく路線修正を行った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=61}}。
[[File:6-lane section plan of Tomei Expressway.svg|thumb|東名の起点は建設省案の渋谷区代々木八幡から世田谷区瀬田町に変更された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。6車線区間は当初は環状八号接続部から松田の間であったが、公団はこれを厚木に短縮した。]]
起点は、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、建設省案の渋谷区から世田谷区の環状8号外側まで後退した。最終的な起点位置は、[[首都高速3号渋谷線]]の連結を考慮して決定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。
また、費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており{{sfn|池上雅夫|1969|p=10-13}}、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、[[小田原厚木道路]]が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=596}}。
なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=34-36}}。実際、全線開通15年後の1984年(昭和59年)の推定交通量はこの範囲に収まっている{{sfn|池上雅夫|1969|p=11}}。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった{{sfn|橋本弘之|1982|pp=58-59}}。
{{wide image|Estimated traffic volume on the Tomei Expressway (1969 and 1984).svg|600px|公団が推計した東名の推定交通量。1969年(昭和44年)全線開業時点と15年後の1984年(昭和59年)時点の比較図。1984年時点の各区間毎の推定交通量は東京 - 厚木間88,000台、それ以外が概ね48,000台である。88,000台の交通量に対して4車線では不足するため、東京 - 厚木間は6車線とした{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。公団としては万全を期して算出した15年後の推定交通量であったが、実際の交通量は、特に東京 - 厚木間では推定を大きく上回る結果となった<ref>『高速道路と自動車』1984年4月号から1985年3月号までの統計月報を元に作成</ref>。}}
==== 路線選定 ====
[[File:Comparison diagram between Shizuoka and Toyokawa on the Tomei Expressway.svg|thumb|400px|静岡 - 豊川間比較線図{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}。この内の焼津から天竜川に至る約60 km区間は、東名において最も大きな比較論争を巻き起こし{{sfn|池上雅夫|1969|pp=16-17}}、結果的に整備計画策定が1年遅れた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]]
日本道路公団が建設省から事業を引き継いだ段階で、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線が残されていた。建設省が大比較線を残したのはいずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=60}}。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、元々建設省が計画したのは浜北を通過する内陸案で、これに対して産業計画会議が海岸案を提案し、この二案を折衷したのが中間案であった<ref name="朝日19620524">{{Cite news |title=東海道幹線自動車国道 来月中にも着工 静岡 - 豊川間除き決まる |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1962-05-24|page=1}}</ref>。
内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が少ない。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが{{sfn|池上雅夫|1969|p=18}}、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸となる案(静岡県案)を提案した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=62-63}}。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。また、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばないとされた{{sfn|池上雅夫|1969|p=20}}。但し、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させることとした。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=65}}。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で<ref name="朝日19630614">{{Cite news |title=東名高速道路の全路線固まる 静岡県、ほぼ第二案で 建設相あす現地を視察 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-06-14|page=1}}</ref>、一年以上も遅れていた整備計画の策定にさっそく反映された<ref name="朝日19631112">{{Cite news |title=全区間に施行命令出す 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1963-11-12|page=2}}</ref>。
{{double image aside|right|CA390268.JPG|210|Near Ayuzawa on the Tomei Expressway.svg|190|画像左 : 松田町内の東名。奥は酒匂川で、高速道路の建設に適した酒匂川と手前の山地間の平野は、人家、道路などで全て埋め尽くされていた。このため東名は画面手前側の山沿いに計画された。画像右 : 鮎沢付近の東名最大規模の長大切土。切り取り高さ75 m、掘削土量約5万立方メートルに及んだ{{sfn|池上雅夫|1969|p=170}}。こうした長大切土は自然のバランスを崩すことから負の条件を持つ。工事中の災害の危険が伴い、開通後も崖崩れの恐れがある。そうした危険を回避する意味でも山北の場合は都夫良野トンネルが掘削された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。}}
[[File:Planned line between Matsuda and Ayusawa on the Tomei Expressway 2.svg|thumb|400px|松田 - 山北間比較線図{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=66}}。箱根山と丹沢山塊に囲まれた標高150 - 400 mの山あいに計画された{{sfn|池上雅夫|1969|p=155}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]]
こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった{{sfn|池上雅夫|1969|p=155}}。松田 - 山北間は、[[箱根山]]と[[丹沢山地|丹沢山塊]]に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とを縫って進むが{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、[[鮎沢川]]と[[酒匂川]]による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ないとされた{{sfn|池上雅夫|1969|pp=155-156}}。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである{{sfn|武田文夫|1968|p=155}}。
この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば長大のり面と橋が多い南線と、トンネルの長い北線に収れんされる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。[[都夫良野トンネル]]はこうして建設されることになったが、これが北線であり、こちらが採択された{{sfn|池上雅夫|1969|p=158}}。
[[File:Tomei Expressway and Route 1 (Yui Shimizu Shizuoka).jpg|thumb|由比の海岸に敷設された東名。地滑りにより発生した土砂を海浜に埋め立てて、そこに東名を建設した。]]
比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線が利用することになり、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=73-74}}。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要からであった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである<ref name="朝日19620524"/>。
==== 施行命令 ====
建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=13-14}}。
しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった{{sfn|池上雅夫|1969|p=16}}。特に上述の松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=70}}。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら最終的な路線位置を決定し{{sfn|池上雅夫|1969|p=16}}、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=54}}。
==== 用地買収 ====
[[File:Cross-sectional composition comparison map of Tomei Expressway and Tokaido Shinkansen.svg|thumb|300px|東名と東海道新幹線の断面比較図{{sfn|渡辺智恵|2014|p=73}}{{sfn|石原達也|2014|p=74}}{{sfn|日本国有鉄道名古屋幹線工事局 |1965|p=512}}。東名の用地買収面積がいかに広大であるかは東海道新幹線と比較すると理解できる。車両のみで比較する場合、自動車よりも新幹線が寸法で上回る。しかし新幹線は上下線合わせて2本の線路で事足りるのに対して東名は上下2本ずつ、往復4車線が必要なうえに、対向車による衝突を防止するための中央分離帯と故障車を駐車させるための路肩を必要とする。このことから用地取得面積は新幹線を大きく上回り、用地買収費の比較では新幹線(515 km)598億円{{sfn|角本良平|1964|p=155}}に対して東名(350 km)は925億円{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=18}}である。トンネルも1本で済む新幹線に対して往復分離の東名は2本必要とする{{sfn|池上雅夫|1969|p=131}}{{efn|トンネルは用地買収を必要としない。ただし断面積が新幹線の1.25倍ある上に、鉄道トンネルでは必要のない排気ガスを抜くための設備や照明設備等が必要で経費がかさむ{{sfn|池上雅夫|1969|pp=131-132}}。}}。]]
地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=54}}。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる{{sfn|池上雅夫|1969|p=まえがき iv}}。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|pp=42-43}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=359}}。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=377-378}}。以下、買収事例を挙げる。
高速道路における用地買収では、買収価格と地権者の思い描いた価格が相違する場合は激しい対立が生じた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=362}}。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じたが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=342-343}}、それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものがあった。袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=388}}。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=356-357}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=385}}。
先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、[[租税特別措置法]]の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく完了をみた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=359-360}}。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・[[砧公園|都立砧公園]])と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=346}}。
宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を[[曳家|曳家工法]]で移転させる事例があったが、[[氏子]]側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として[[土地収用法]]による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=352}}。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=370}}。
こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した<ref name="朝日19690526夕">{{Cite news |title=東名高速道が全通 名神と結び大動脈 御殿場で祝賀式 きょうから営業 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1969-05-26|page=1}}</ref>。
==== 資金計画 ====
敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=46-49}}。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|pp=116-117}}。
東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=438}}。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る{{sfn|千田洋一 |1999|p=41}}。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる{{sfn|浅井新一郎 |1967|p=35}}。
日本道路公団はこの巨額な資金調達に対して、名神に引き続いて[[国際復興開発銀行]]([[世界銀行]])の借款を強く要望した。これは公団が施行するほかの道路建設計画と合わせると、政府の予算、[[財政投融資]]計画による限度一杯の投資を行ってもなお資金不足に見舞われるためである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=123}}。
1962年(昭和37年)12月に大蔵大臣の[[田中角栄]]が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500億ドルの借款(名神に続くことから{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=26}}第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の[[固定相場制]]、1,080億円)を賄った{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=43}}。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=28-29}}。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=24}}。
==== 建設 ====
東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。
東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである{{sfn|池上雅夫|1969|p=22}}。このうち、犠牲者数は79人であった<ref name="朝日19690419">{{Cite news |title=来月26日に全面開通 東京 - 小牧間346.4キロ 大阪まで直通7時間 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-04-19|page=15}}</ref>。
=== 国幹道法への組替え ===
建設も始まってからほどなくして、議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法が1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=12}}、代替の[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]](国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった{{sfn|日本道路協会|1997|p=544}}{{sfn|太田和博|2020|p=51}}。
組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「'''高速自動車国道東海自動車道'''」に変更された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=15}}。
=== 開通後 ===
東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。この内、東京 - 厚木間は都市間高速道路としては初めての6車線道路である{{sfn|日本道路公団広報課|1968|p=72}}。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである{{sfn|日本道路公団広報課|1968|p=72}}。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした{{sfn|池上雅夫|1969|pp=9-10}}。
続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=50}}。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた{{sfn|杉田美昭|1994|p=14}}。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、式典後に担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した{{sfn|武部健一|2009|p=11}}。
開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=5}}。また、総工費3,425億円は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=53-54}}、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した{{sfn|太田和博 |2020|p=85}}{{sfn|NHK報道局「道路公団」取材班 |2005|p=109}}。
{{double image aside|right|Tomei Tokyo IC.JPG|200|Ikejiri Onranp1.JPG|193|画像左 : 東京IC付近。奥が首都高速3号渋谷線への連絡路。<br>画像右 : 世田谷区内の玉川通り。東名開通後も3号渋谷線は建設途上で、加えて道路直下の東急新玉川線(現・[[東急田園都市線]])の建設工事とも絡んで<ref name="朝日19690523">{{Cite news |title=その先は知らないよ さばき切れぬ流れ 高速3号外郭環状 改良はまだ先の話 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-05-23|page=1}}</ref>東名開通後暫くは渋滞に悩まされ、都心から東京ICまで1時間近くを要した<ref name="朝日19711221夕"/>。}}
開通直後の東京ICは東名のみの起終点で、東京都心と東京ICの連絡は[[東京都道311号環状八号線]](環八通り)を経て国道246号(玉川通り)で連絡した。このため、都市内交通と東名利用の交通が錯綜することで、玉川通りで大渋滞が発生し、都心と東京ICの連絡に一時間を要した<ref name="朝日19711221夕">{{Cite news |title=交通マヒまた心配 首都高速と東名ドッキング |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1971-12-21|page=8}}</ref>。都心と東名をつなぐ交通は当初から[[首都高速3号渋谷線]]が考慮されたが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=62}}、東名との同時供用はならなかった。この間、首都高速の利用台数は上昇を続け、やがて限界を超えて渋滞が常態化した。この対策として出入口の閉鎖も日常化していたところへ<ref name="朝日19711221">{{Cite news |title=成田⇄明石を高速で だが心配な事故・渋滞 東名・首都きょう連結 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1971-12-21|page=19}}</ref>、いよいよ1971年(昭和46年)12月21日に三宅坂 - 用賀間の開通により東名と接続した。これまで首都高速単体で渋滞が発生していたところへ、東名からの交通がなだれ込むことでさらなる首都高速の逼迫を関係者は心配したが<ref name="朝日19711221夕"/>、その不安は的中した。
接続初日で東名からの交通が[[用賀本線料金所]]で大渋滞となり、他にも首都高速都心環状線と3号渋谷線の合流地点で2 km、都心環状線各所でも3 kmの渋滞に及んだ。これにより、[[三軒茶屋出入口|三軒茶屋]]、[[渋谷出入口|渋谷]]の各ランプで閉鎖を行って丸く収めたが、それでもこの日は平日午後で、これが出勤時間帯や行楽期では到底さばききれないと関係者は危機感を募らせたという<ref name="朝日19711222">{{Cite news |title=初日の混み方まずまずだが・・・東名と首都高速の握手 |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1971-12-22|page=18}}</ref>。なお、首都高速と都市間高速の連結はこれが最初の事例となり、以後、中央道、[[常磐自動車道|常磐道]]、[[東北自動車道|東北道]]との連結に至ることで、都心の幹線街路の補助的な役割を期された首都高速が、その性格を変えて国土全体の高速道路網のなかでも重要な役割を担うことになった<ref name="朝日19711221夕"/>。この連結によって千葉県の[[成田市|成田]]手前と、兵庫県[[明石市]]が一般道路を経由せずに結ばれたことで、「神戸のドライバーもことしの初もうでは高速を飛ばして成田山へ」というキャッチコピーが連結に際して採用された<ref name="朝日19711221"/>。
首都高速連結の翌1972年(昭和47年)10月5日、今度は都市間高速道路同士の連結では初となる[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]の運用を開始した。中央自動車道の[[多治見インターチェンジ|多治見IC]] - [[小牧ジャンクション|小牧JCT]]間開通における小牧JCTの開設である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表15}}。また、1974年(昭和49年)3月26日には[[浜松西インターチェンジ|浜松西IC]]が開通した。これは東名開通前から構想されたICであったが{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=167}}ここに来て設置され、これが供用中高速道路における追加インターチェンジの第一号である{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表18}}。これ以後、1981年(昭和56年)4月25日に秦野中井IC{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表24}}、1988年(昭和63年)3月30日に裾野ICが完成するなど{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表31}}、追加ICの数が増加の一途を辿った。
=== 混雑緩和対策 ===
[[File:Number of days of congestion on the Tomei Expressway between Tokyo and Mikkabi.svg|thumb|300px|東京 - 三ヶ日間における渋滞発生日数と年平均事故率。渋滞状況、事故率を勘案して大井松田IC - 御殿場IC間の改築の必要性と緊急性が高いと判断された{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。]]
三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた{{sfn|橋本弘之|1982|p=57}}。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだ{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}。
;大井松田IC - 御殿場IC間の改築
[[File:Tomei Expressway reconstruction plan(Between Oi Matsuda Interchange and Gotemba Interchange).svg|thumb|300px|大井松田IC - 御殿場IC間の改築図。拡幅にあたり、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方式と、別線を構築する二つの改築方法を採用した。前者を全区間に適用できなかったのは、付け足す側の低地に一般道路、鉄道、住居地が高密度に展開して土地がなかったことと、トンネルと東名酒匂川橋に見る長大支間の橋梁の拡幅が極めて困難であることによる{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の地形図を元に加工)</small>]]
{{double image aside|right|Tomei-Expway-Yamakita.jpg|200|Tomei-Kajiyashiki-Bridge.jpg|200|画像左 : 路線改良された大井松田IC - 御殿場IC間。左側の片側3車線道路が増設された上り線。右側は当初の往復4車線道路で、新上り線の開通を機に4車線全てが下り線となった{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|pp=53-54}}。<br>画像右 : 既存線との交差は2か所。画像はその内の吾妻山トンネルと都夫良野トンネル間に架かる新鍛冶屋敷橋。}}
東名最初の渋滞緩和を目的とした大規模改良は、大井松田IC - 御殿場IC間である。これは渋滞が慢性化した本線について、渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、本区間が選定されたもので{{sfn|橋本弘之|1982|p=61}}、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発幹線自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った{{sfn|倉沢真也|1982|pp=50-54}}。改築では往復4車線を6車線化するが、工事の前提条件として東名を営業しながら施工する。この制約から、4車線の両側に1車線ずつ付け足す方法が全区間で採用できなかった。特に東名酒匂川橋等の高い橋脚の橋と、[[都夫良野トンネル]]と吾妻山トンネルを営業しながら拡幅することは困難であり、さらに土地の利用形態にも問題があった。東名と並行する平地に住居地区が広がり、しかも国道246号と国鉄御殿場線が位置して高密度に利用されていることから、この点でも道路両側への拡幅は困難であった{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=53}}。
考慮の結果、両側への拡幅と、3車線を別途建設する2形態を採用するに至った{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=53}}。しかしながら、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅は御殿場IC寄りのわずか5.1 kmで、それ以外は後者の別線建設となった。別線は平地側への新設を避けることから、大井松田ICから吾妻山トンネル間は既存線の山側(北側)に設けてほぼ並行して建設、都夫良野トンネルから小山バスストップ付近までは逆に既存線の北側が平地となっていることから、反対の南側の山地に建設した{{Sfn|橋本弘之|1982|p=62}}。これにより別線は既存線を軸にねじれることから、既存線を横断する箇所が存在する。
別線の特徴としては、並列部以西では箱根外輪山端部を通り、この点で鮎沢川沿いの谷筋を通る既存線とは著しく様相が異なる。山間部を貫くことからトンネルが多用され、結果的にカーブが減少して安全性が向上した。ただし、並列区間では新設路線とはいえ並行する既存線の線形を用いざるを得ず、カーブも従来通りである{{sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=57}}。なお、別線を上り線として運用する理由は、並列区間の大井松田IC - 吾妻山トンネル間で既存線の北側に位置して、大井松田ICで上り線にそのまま接続するためである。別線は吾妻山トンネル付近で既存線の南側にまたぐが、小山町付近で両側拡幅区間の上り線に接続する必要から、東名足柄橋を構築して再度またいでいる。結果、交差部は2か所となった。一方の既存線は、上下4車線を下り一方向として運用することになった。既存線を下り方向に統一する理由は、当該区間が登り坂であるために、走行速度の低下を生じて渋滞の温床となるところへ、4車線運用によって交通の分散を図って走行速度の向上を期待できるためである。さらに、既存の[[登坂車線]]をそのまま使用することが可能で、これにより緩速交通を登坂車線に誘導することによって、交通分散の効果をより高めることができる{{Sfn|田中武夫・渡辺敏則・吉田博|1983|p=59}}。7車線化の運用は1991年(平成3年)12月24日からで{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表35}}、以後、渋滞がなくなり、ラジオ等の交通情報から「都夫良野トンネル」が消えた{{Sfn|西谷淳一・井上淳一|1994|p=36}}。
;厚木IC - 大井松田IC間6車線化
東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された{{sfn|中日本高速道路株式会社|2019|p=11}}。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した{{sfn|公益財団法人高速道路調査会|1995|pp=87-89}}。
;横浜IC改良
横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する[[国道16号]]との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し{{sfn|池上雅夫|1969|p=11}}、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=164}}、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、環状4号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}。この時点で公団は追加ICの必要を認め{{sfn|倉沢真也|1988|pp=47-49}}、これはのちに[[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉IC]]設置へと至った{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した{{sfn|武田文夫|1999|p=14}}。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。
;静岡IC - 焼津IC間の改築
{{double image aside|right|Tomei Expressway and Abe River.jpg|200|静岡県焼津市野秋 - panoramio.jpg|240|画像左 : 静岡IC - 日本坂トンネル間。トンネル区間以外でも部分的に3車線化した。画像右 : 静岡IC - 焼津IC間も線増に伴って従来道路を片方向化した。このため左右ルート選択となった。}}
静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した{{sfn|橋場幸彦|1998|p=43}}。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した{{sfn|橋場幸彦|1998|pp=44-45}}。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である{{sfn|橋場幸彦|1998|p=47}}。
=== 代替ネットワーク構築 ===
[[File:Mount Fuji from Satta Pass.jpg|thumb|由比地区の海岸線は高潮により通行止めが頻発し、東海道の物流に大きな影響を及ぼす{{Sfn|中日本高速道路(株)建設事業本部|2012|pp=35-36}}。]]
当初予想された計画交通量を上回る急激な需要増から混雑が目立ってきたことで、1971年(昭和46年)4月には、第二東名高速道路の計画が立ち上がり、建設省が調査を開始した{{Sfn|25年誌編さん委員会|1975|pp=727-728}}。しかし、地形的な難易度が高いこともあって計画は停滞した{{Sfn|村上圭三|1981|p=10}}。
1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である{{Sfn|濃添元宏・高橋文雄|1989|p=59}}。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉{{Sfn|カーゴニュース|1998|p=9}})の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった{{Sfn|武田文夫|1989|p=15}}。
路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた{{Sfn|荒牧英城|1992|p=1}}。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した[[日本坂トンネル火災事故]]や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた<ref name="中日19790724夕">{{Cite news |title=東名炎上 動脈切れ経済混乱 ハイウエー前提の危険な物流機構 |newspaper=中日新聞夕刊 |date=1979-07-24|page=8}}</ref>。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした{{Sfn|村上圭三|1981|p=8}}。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道の物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した<ref name="中日19790724夕">{{Cite news |title=東名炎上 動脈切れ経済混乱 ハイウエー前提の危険な物流機構 |newspaper=中日新聞夕刊 |date=1979-07-24|page=8}}</ref>。
東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる<ref name="中日19790724夕"/>。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く{{Sfn|高橋国一郎・中村貢|1984|p=30}}、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の[[第四次全国総合開発計画]](四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた{{Sfn|中日本高速道路(株)建設事業本部|2012|p=34}}。
[[File:Hanshin Expressway Nada b059.jpg|thumb|大震災により倒壊した阪神高速。大地震以後、リダンダンシー論が急浮上した。]]
第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、[[阪神・淡路大震災]]が発生し、[[阪神高速道路]]はじめ[[国道2号]]など幾多の交通が集中している箇所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは九州で水揚げされたのち大阪、東京方面へ向かう水産物をはじめ、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた{{Sfn|カーゴニュース|1998|pp=1-3}}。この被害によって物流が[[ライフライン]]そのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「[[冗長化|冗長性]]」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった{{Sfn|カーゴニュース|1998|p=4}}。東名においても予測される[[東海地震]]等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった<ref name="michi No.104-P6">『みち』No.104、1996年(平成8年)11月(季刊)、日本道路公団、6頁(愛知県図書館蔵)</ref>。
新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した<ref name="日経20130413">{{Cite news |title=新東名開通1年、長距離渋滞緩和、静岡県内9割減に |newspaper=日経新聞(東京)朝刊|date=2013-04-13|page=38}}</ref>。この直前、新東名愛知県区間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速 2車線の一部区間を暫定的に3車線にします -音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の安全(渋滞・事故)対策として- |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-02-23 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1896}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=東名集中工事終了とともに3車線(暫定)運用を開始します〜音羽蒲郡IC〜豊田JCT間〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2011-09-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2294}}</ref>。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し{{sfn|早川慎治・宮部光貴|2015|p=19}}、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路 音羽蒲郡IC〜豊田JCT間の3車線(暫定)運用を2車線に戻します |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2016-09-23 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3919.html}}</ref>。
=== 年表 ===
{{Timeline of release years
| title = 各年ごとの開通区間
| 1968 = (4月)東京IC - 厚木IC・富士IC - 静岡IC・岡崎IC - 小牧IC
| 1969 = (2月)静岡IC - 岡崎IC<br />(3月)厚木IC - 大井松田IC・御殿場IC - 富士IC<br />(5月)大井松田IC - 御殿場IC
}}
* [[1951年]]([[昭和]]26年) : 東京 - 神戸高速自動車道調査を再開{{sfn|日本道路協会|1997|p=536}}。
* [[1956年]](昭和31年)[[5月19日]] : ワトキンス調査団来日{{sfn|日本道路協会|1997|p=537}}。
* [[1957年]](昭和32年)10月17日 : 東京 - 神戸間の内、競争のない小牧 - 西宮間(名神高速道路)の施行命令が下る{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表2}}。
* [[1958年]](昭和33年)[[3月19日]] : [[松永安左エ門]]の私設[[シンクタンク]]「[[産業計画会議]]」が東京 - 神戸間 高速道路の建設を政府に勧告{{sfn|吉田喜市|1973|p=84}}。
* [[1960年]](昭和35年)
** 7月15日 : 第34回国会参議院本会議で東海道幹線自動車国道建設法案が可決成立<ref name="朝日19600717">{{Cite news |title=中央道法案通る 会期末危うく「第二東海道」と共に |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1960-07-17|page=10}}</ref>。
** 7月25日 : 東海道幹線自動車国道建設法施行{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表5}}。
* [[1962年]](昭和37年)
** [[5月30日]] : 東京IC - 静岡IC間の整備計画策定{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}。
** [[9月17日]] : 豊川IC - 小牧IC間の整備計画策定{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}。
* [[1963年]](昭和38年)
** [[1月8日]] : 測量のための杭打ち式を小牧市村中地内で開催<ref name="朝日19630108夕">{{Cite news |title=初のクイ打ち 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1963-01-08|page=6}}</ref>。
**[[9月27日]] : [[世界銀行]]との間で日本道路公団第3次借款の調印(東京 - 静岡間,1次と2次借款は名神高速道路建設プロジェクト)75,000千[[アメリカ合衆国ドル|USD]], 金利:5.5%, 期間:26年(据置期間:5.5年){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。
**[[10月25日]] : 静岡IC - 豊川IC間、豊川IC - 小牧IC間の整備計画策定、および、改めて東京 - 小牧間に施行命令を下す{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}。
* [[1964年]](昭和39年)[[4月22日]] : 世界銀行との間で日本道路公団第4次借款の調印(豊川 - 小牧間)50,000千USD, 金利:5.5%, 期間:25年(据置期間:5年){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。
* [[1965年]](昭和40年)
** [[4月22日]] : 全線起工式開催{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1966-4)|1966|p=80}}
** [[5月26日]] : 世界銀行との間で日本道路公団第5次借款の調印(静岡 - 豊川間)75,000千USD, 金利:6.5%, 期間:25年(据置期間:4.5年){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。
** [[9月10日]] : 静岡市内の工事について国際入札執行。アメリカのR・B・ポタシュニック社が落札{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=43}}。
* [[1966年]](昭和41年)
** 7月1日 : 国土開発幹線自動車道建設法施行。東海道幹線自動車国道建設法廃止{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=13}}。
** [[7月29日]] : 世界銀行との間で日本道路公団第6次借款の調印(東京 - 静岡間)100,000千USD, 金利:6.625%, 期間:15年(据置期間:3年){{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=26}}。
** 8月15日 : 政令改正により路線名が「高速自動車国道東海自動車道」に変更{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=15}}。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月25日]] : 東京IC - 厚木IC間・富士IC - 静岡IC間・岡崎IC - 小牧IC間が開通し、小牧ICで名神と接続{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=427-428}}。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[2月1日]] : 静岡IC - 岡崎IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。
** [[3月31日]] : 厚木IC - 大井松田IC間・御殿場IC - 富士IC間 開通{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。暫定料金を廃止して長距離てい減制を取り入れた新料金体制に移行。100 kmを超えて利用する場合は25パーセントの割引率を導入<ref name="朝日19690318">{{Cite news |title=東名、名神の新料金決まる |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-03-18|page=14}}</ref>。
** [[5月26日]] : 大井松田IC - 御殿場IC間 開通により、'''全線開通'''{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=428}}。
* [[1970年]]:下り線吉田IC - 菊川IC間の下り坂で、雨の日のスリップ事故が多発することが問題となる。対策としてすべり止めに効果のある特殊舗装を施工<ref>間野坂、やはり欠陥道路 すべり止め舗装で事故は激減『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月30日朝刊 12版 18面</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)[[12月21日]] : 首都高速3号渋谷線[[渋谷出入口]] - 用賀出入口間開通により、首都高速道路と接続<ref name="朝日19711221夕"/>。
* [[1972年]](昭和47年)
** 10月1日 : 高速道路料金にプール制を採用{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。
** [[10月5日]] : 小牧JCT開通により、中央道と接続{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表15}}。
* [[1974年]](昭和49年)[[3月26日]] : 浜松西IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表18}}。
* [[1977年]](昭和52年): 足柄SA上り線に[[高速自動車国道|高速国道]]初の仮眠休憩所であるレストイン足柄がオープン{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表21}}。
* [[1979年]](昭和54年)[[7月11日]] : [[日本坂トンネル火災事故]]発生{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表22}}。
* [[1981年]](昭和56年)[[4月25日]] : 秦野中井IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表24}}。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[5月28日]] : 伊勢原BS付近の上下線に救急車用出口開設{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表28}}。
** [[11月21日]] : 音羽蒲郡IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表28}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月30日]] : 裾野IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表30}}。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[7月15日]] : 世界銀行借款を返済終了{{sfn|太田和博|2020|p=85}}<ref>『朝日年間1991』朝日新聞社、年表</ref>。
* [[1991年]](平成3年)
** [[3月28日]] : 御殿場IC - 大井松田IC間の新上り線([[東名足柄橋]]を含む)開通{{sfn|西谷淳一・井上淳一|1994|p=36}}。これに伴い御殿場IC - 大井松田IC間の旧上り線は同日午前10時30分を以て閉鎖、下り線右ルートへの改築工事開始。
** [[8月9日]] : 午後1時から[[8月19日]]午前6時までのお盆期間限定で、御殿場IC - 大井松田IC間の下り線右ルートを暫定供用<ref>高速自動車道新聞 平成3年7月11日号「弾力的な交通運用第二弾(道公)」</ref>。
** [[8月24日]] : 足柄SA下り線の施設拡張工事が完成<ref>高速自動車道新聞 平成3年8月21日号</ref>。
** [[12月24日]] : 大井松田IC - 御殿場IC間の改築工事 完了(上り線2[[車線]]・下り線2車線を、上り線3車線〈新設〉・下り線2+2車線〈改築〉化){{sfn|西谷淳一・井上淳一|1994|p=36}}。
* [[1993年]](平成5年)
** [[3月22日]] : 東名三好IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表36}}。
** [[3月25日]] : 相良牧之原IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表36}}。
** [[12月3日]] : 名古屋ICで東名阪自動車道(現・[[名古屋第二環状自動車道]])と接続{{Sfn|東名阪自動車道名古屋・勝川間工事誌編集委員会|1995|p=24}}。
** [[12月21日]] : 掛川IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表37}}。
* [[1994年]](平成6年)[[12月15日]] : 厚木IC - 伊勢原市、秦野中井IC - 大井松田IC間の6車線化完了{{sfn|公益財団法人高速道路調査会|1995|pp=87-89}}。
* [[1995年]](平成7年)[[4月28日]] : 伊勢原市 - 秦野中井IC間の6車線化完了{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表38}}。
* [[1997年]](平成9年)[[4月1日]] : 横浜ICが「横浜町田IC」に名称変更{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1997-03)|1997|p=75}}。
* [[1998年]](平成10年)
** [[3月2日]] : 横浜青葉IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表42}}。
** [[3月27日]] : 日本坂トンネル 新下り線(3車線)供用開始{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表42}}。
* [[1999年]](平成11年)[[4月4日]] : 磐田IC開通{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表43}}。
* [[2001年]](平成13年)[[10月19日]] : 小牧ICで名古屋高速11号小牧線と接続{{Sfn|名古屋高速道路公社30年史編集委員会|2002|p=105}}。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月15日]] : 豊田JCT開通により伊勢湾岸道([[豊田東インターチェンジ|豊田東IC]]方面)と接続{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=年表48}}。
** [[11月]] : 名神・中国道などとともに[[アジアハイウェイ]]1号線に編入。
* [[2004年]](平成16年)
** [[11月27日]] : 日進JCT開通により、名古屋瀬戸道路と接続。
** [[12月12日]] : 豊田JCTが完成し、伊勢湾岸道(四日市方面)と接続。
** [[12月22日]] : 御殿場IC - 駒門PA間の6車線化完了。
* [[2007年]](平成19年)
** [[4月1日]] : 富士川PAスマートIC・遠州豊田PAスマートIC供用開始。
** [[5月31日]] : 豊橋TB(豊橋北BS - 豊川IC間) 廃止。
* [[2009年]](平成21年)
** [[6月30日]] : 守山PAスマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2009-06-30 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html}}</ref>。
** [[7月27日]] : 沼津ICで伊豆縦貫道と接続。
** [[8月11日]] : [[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]が発生し、牧之原SA付近の上り線の一部が崩落。同年[[8月16日]]に仮復旧。
* [[2010年]](平成22年)[[2月27日]] : 海老名JCT開通により、圏央道と接続。
* [[2011年]](平成23年)
** [[1月23日]] : 相良牧之原ICで金谷御前崎連絡道と接続。
** [[3月1日]] : 大井川焼津藤枝スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速道路へのスマートインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2011-03-01 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000153.html}}</ref>。
** [[10月21日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を暫定6車線化。
* [[2012年]](平成24年)[[4月14日]] : [[新東名高速道路]]の御殿場JCT - 浜松いなさJCT間、清水連絡路の清水JCT - 新清水JCT間、引佐連絡路の三ヶ日JCT - 浜松いなさJCT間がそれぞれ開通。御殿場JCTで新東名と、清水JCTで清水連絡路と、三ヶ日JCTで引佐連絡路とそれぞれ接続。
* [[2014年]](平成26年)[[6月25日]] : 上り線の海老名JCT - 海老名SA間の付加車線が延伸<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路(上り線) 海老名JCT〜海老名SA間付加車線が延伸します。 〜6月25日(水) 午前11時に運用開始〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |date=2014-06-17 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3505.html}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[2月13日]] : 新東名高速道路の浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通。
** [[3月12日]] : 大井川焼津藤枝スマートIC供用開始。
** [[3月19日]] : 愛鷹スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |publisher=沼津市・中日本高速道路株式会社東京支社 |title=東名高速道路 愛鷹スマートインターチェンジ 2016年3月19日(土)15時に開通します |date=2016-01-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3773.html |accessdate=2016-01-22}}</ref>。
** [[10月8日]] : 上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間・下り線の美合PA - 豊田JCT間を再び4車線化。
* [[2017年]](平成29年)[[3月18日]] : 三方原スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=東名高速道路 三方原スマートインターチェンジ3月18日(土)13時に開通します |publisher=中日本高速道路株式会社
|date=2017-02-10 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3983.html |accessdate=2017-02-10}}</ref>。三方原(みかたがはら)PAが「三方原(みかたはら)PA」に名称変更。
* [[2018年]](平成30年)[[3月24日]] : 守山スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E1 東名高速道路 守山スマートインターチェンジが 2018年3月24日(土)15時に開通します |publisher=名古屋市・中日本高速道路株式会社 |date=2018-02-01 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4223.html |accessdate=2018-02-01}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年 / [[令和]]元年)
** [[3月9日]] : 足柄スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4458.html|title=E1 東名高速道路足柄スマートインターチェンジが 2019年3月9日(土)15時に開通します|date=2019-01-24|accessdate=2019-01-24|publisher=静岡県小山町・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[3月17日]] : 伊勢原JCT・舘山寺スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4464.html|title=E1 東名高速道路 舘山寺スマートインターチェンジ 2019年3月17日(日)16時に開通します|date=2019-01-31|accessdate=2019-01-31|publisher=浜松市・中日本高速道路株式会社}}</ref><ref name="press20190219">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4480.html|title=E1A 新東名高速道路 厚木南IC〜伊勢原JCTが 2019年3月17日(日)15時に開通します|date=2019-02-19|accessdate=2019-02-19|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[9月14日]] : 日本平久能山スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4614.html|title=静岡市の新たな玄関口 日本平久能山スマートインターチェンジ 2019年9月14日開通!|date=2019-08-09|accessdate=2019-08-09|publisher=静岡市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月22日]] : 横浜青葉JCTで首都高速神奈川7号横浜北西線と接続<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shutoko.co.jp/company/press/2019/data/12/18_hokuseisen/|title=横浜北西線(横浜北線〜東名高速)が2020年3月22日16時に開通します ファンランイベント(2020年2月29日)・一般公開イベント(2020年3月8日)も開催|date=2019-12-18|accessdate=2019-12-18|publisher=首都高速道路株式会社・横浜市道路局}}</ref>。
** [[3月28日]] : 駒門スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4720.html|title=E1 東名高速道路 駒門スマートインターチェンジが2020年3月28日(土)15時に開通します|date=2020-01-27|accessdate=2020-01-27|publisher=静岡県御殿場市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** [[3月27日]] : 豊田上郷スマートIC供用開始<ref name="press20210212">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5017.html|title=E1 東名高速道路 豊田上郷スマートインターチェンジが2021年3月27日(土)午後3時に開通します|date=2021-02-12|accessdate=2021-02-12|publisher=愛知県豊田市・中日本高速道路株式会社}}</ref>、上郷SAの名称が「豊田上郷SA」に変更<ref name="press20210212" />。
** [[3月31日]] : 綾瀬スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5019.html|title=E1 東名「綾瀬スマートインターチェンジ」が2021年3月31日(水)12時に開通します|date=2021-02-17|accessdate=2021-02-17|publisher=神奈川県・綾瀬市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[5月1日]] : 豊田JCT - 小牧IC間の高速料金が大都市近郊区間の料金水準に変更される<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=3 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-07-12 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | page = 3 }}</ref><ref name="名古屋2環">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/images/news/5025/84e62f51193907a48b20d93aca14d6ae.pdf | title = 中京圏の高速道路料金が変わります | format = PDF | work = C2 名二環 2021年5月1日(土)に全線開通! ~名古屋西JCT~飛島JCT 延長12.2kmが開通~ 合わせて中京圏の高速道路料金が変わります! ~同日、2021年5月1日午前0時から移行します~ | publisher = 国土交通省 中部地方整備局・中日本高速道路株式会社・名古屋高速道路公社 | date = 2021-02-26 | accessdate = 2021-07-12}}</ref>。
== 開通効果 ==
東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。[[東海道メガロポリス]]に占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}。
東海道メガロポリスに占める地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山であり{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}、これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込む{{sfn|佐藤正義|1968|p=31}}。さらに、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割{{sfn|武田文夫|1968|p=161}}、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある{{sfn|池上雅夫|1969|p=15}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=132}}。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた{{sfn|公益財団法人高速道路調査会(1968-5)|1968|p=72}}。
開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが<ref name="朝日19690310">{{Cite news |title=東名高速 流通基地づくり盛ん インタチェンジに"陸の港" |newspaper=朝日新聞(東京)朝刊|date=1969-03-10|page=2}}</ref>、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった{{sfn|池上雅夫|1969|pp=13-14}}。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。
農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=142}}。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=274}}。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。こうした効果の具体例を以下に列挙する。
{{multiple image
| footer =
| align = left
| width = 200
| image1 = Airborne imagery Yokohama City (4274354758).jpg
| caption1 = 京浜工業地帯の一角を構成する横浜港。東名開通によって臨海部に集中していた工業は内陸部へ分散した。
| image2 = Chukyo Industrial Area (2017).jpg
| caption2 = 中京工業地帯(名古屋港東海元浜ふ頭の日鉄名古屋製鉄所)。画像は鉄鉱石の輸入基地{{sfn|名古屋港史編集委員会|1990|pp=437-438}}。加工貿易の重要拠点である。
| image3 = Meitetsu Transportation(Komaki 2021-10-02A).jpg
| caption3 = 名神、東名の接点に位置する小牧トラックターミナル。画像は東名開通直前から運用を開始した名鉄運輸の基地<ref name="朝日19690310"/>。
| image4 = Komaki Truck Terminal 20211002C.jpg
| caption4 = 高速道路の存在とトラックによる物流は、経済を回すためにはなくてはならないものになった(小牧トラックターミナル)。
}}{{-}}
東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=52}}。特に神奈川県の場合、工業は元来、[[横浜港]]を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に[[東海道本線]]、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、[[国道246号]]と[[小田急小田原線]]に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=161-162}}。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した{{sfn|千田洋一|1999|p=42}}。他にも、御殿場、沼津IC付近には330万平方メートルの敷地面積で[[トヨタ自動車]]が、焼津、浜松IC周辺には[[河合楽器]]はじめ[[住友ベークライト]]、日清紡、日本ビニロン等が進出した。名神との接続部である小牧ICにおいては特に著しく、従来、毛織物工場3社があるに過ぎなかったが、東名開通前で既に工場数270社まで増加し、敷地面積33,000平方メートルの大規模工場も23社を数えた。東名全体で見ると、全線開通直前の工場進出数は1,067社という膨大な数字であり、これによっても高速道路がいかに工業立地に重要な役割を果たしているかをうかがい知ることができる{{sfn|山本正雄|1965|pp=21-23}}。
[[File:Truck terminal.svg|thumb|300px|大型トラックの都心部乗り入れは制度的にも物理的にも困難である{{sfn|寺田禎之|1971|p=17}}。このため高速道路を利用する場合は大型トラックを使用するが、地域内の集配段階では小回りの利く中型・小型トラックを使ったほうが効率が良い。よって、高速道路を使った長距離輸送の大型車と市内集配の中・小型車を接続し、荷物を積み替えたり仕分けを行うためのトラックターミナルが必要である{{Sfn|社団法人中部建設協会|1998|p=52}}。東名、名神の開通によりインターチェンジ付近にはこうしたトラックターミナルが整備された{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。]]
東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは7時間に短縮された<ref name="朝日19690526夕(P1-東海道メガロ)">{{Cite news |title=三経済圏を直結 東海道メガロを促進 東名高速道路 |newspaper=朝日新聞(東京)夕刊|date=1969-05-26|page=1}}</ref>。さらに、国道1号では15トンまで積めるトレーラーの使用しか認められていなかったが、東名では20トンが可能で<ref name="朝日19690526夕(P1-東海道メガロ)"/>、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り{{sfn|座談会(司会 広岡治哉)|1967|p=93}}、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁って[[トラックターミナル]]を建設した{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}。
この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する{{sfn|武田文夫|1968|pp=166-167}}{{sfn|井関雅愛|1969|p=65}}。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす{{sfn|星野英|1969|pp=22-25}}。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた{{sfn|池上雅夫|1969|p=13}}。
[[File:Toyota Motor Takaoka plant 20211026A.jpg|thumb|トヨタ自動車高岡工場。余分な在庫を持たないジャストイン方式で自動車生産を行う{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。]]
今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる{{sfn|武田文夫|1968|pp=106-107}}。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した{{sfn|武田文夫|1999|p=11}}。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した{{sfn|武田文夫|1989|p=17}}。
農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として[[サツマイモ|甘薯]]や麦を半農半漁で営む地域であったが、[[豊川用水]]の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、[[花卉園芸|花卉]]に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった{{sfn|千田洋一|1999|p=44}}。例えば[[渥美半島]]産の[[電照菊]]は、輸送のほぼ全てを[[豊川インターチェンジ|豊川IC]]から東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=275}}。
{{double image aside|right|2018 Tsukiji fish market.jpg|200|Tsukiji Fish market and Tuna.JPG|172|東京中央卸売市場[[築地市場]](2018年閉鎖)と築地市場で競りにかけられる冷凍マグロ。西日本などから首都圏へ輸送される食料は東名で運ばれる。}}
東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した{{sfn|日本道路公団総務部|1976|pp=274-276}}。首都圏人口に対して食料を供給する[[東京中央卸売市場]]は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=45}}。
静岡県[[袋井市]]や[[菊川町 (静岡県)|菊川町]]の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=277}}。
{{double image aside|right|Mount Fuji and Port of Shimizu from Nihondaira.jpg|200|Hamamatsu Inland Container Terminal 20221106A.jpg|161|画像左 : 清水港。東名開通と併せてマグロ流通の広範化に寄与し、工業製品の輸出を浜松から引き受けるなど地元経済に対する重要性が増した{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。画像右 : 浜松IC付近に所在する内陸コンテナ基地(インランド・デポ)。}}
[[清水港]]は東名開通後に大きく発展した。[[マグロ]]流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。理由はマグロ船のみマイナス65 ℃まで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 ℃程度が限界のため、長期保存が不可能であったからである。しかし冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことから清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。
浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される{{sfn|千田洋一|1999|p=43}}。なお、清水港に近接する[[焼津港]]の場合、東名開通前は水揚げした[[カツオ]]の出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった{{sfn|中日本高速道路(株)東京支社企画調整チーム|2009|pp=36-37}}。
こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した{{sfn|武田文夫|1989|p=15}}。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした{{sfn|武田文夫|1989|p=16}}。
その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている{{sfn|武田文夫|1999|p=12}}。
== 路線状況 ==
=== ルート分岐 ===
下り線の[[大井松田インターチェンジ]] (IC) から[[足柄バスストップ]] (BS) 付近の間と、上り線の[[日本坂トンネル]] (TN) 入口付近と日本坂TN出口付近の間が左右2つのルートにわかれる。ほぼ並行して走っており、距離は左右ルートでさほど変わらない。
大井松田IC - 足柄BSは下り線がほぼ並行した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線、上り線は1ルート3車線となっている。下り線の[[鮎沢パーキングエリア]] (PA) は左ルートからしか入れない。右ルートは分岐手前で最右車線(第3車線)から1車線により分岐する形態となっている。また、大井松田ICから下り線に入る場合は右ルートには入れない。
なお、左右ルート分岐直前で「[[大型自動車|大貨等]]」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい{{efn|法律上は右分岐に向かうため予めその手前から最右車線に寄っていても問題はない。ただし通常時の最高速度は80 km/hである。}}。また、重トレーラー{{efn|[[重被牽引車]]を牽引中の場合。[[ライトトレーラー]]のうち車両総重量が750 kg以下(けん引免許が不要なパターン)は対象外(※ライトトレーラーが全てけん引免許不要と言うわけではない)。また通常時の最高速度は80 km/hである。}}は[[車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分など]]により原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。
日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。
この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。
;リバース運用
路線の維持工事による車線規制が渋滞を引き起こす状況を踏まえ、相応の対策を講じた工事を行うことで渋滞を低減する取り組みが行われているが、大井松田IC - 御殿場IC間では上述の変則的車線運用を活用したリバース運用を実施している。つまり、下り2本、上り1本の構成を活用し、上り線を工事閉鎖のうえ、下り2本の内の1本を上り線に反転して運用する手法である{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|pp=30-31}}。当初は上り線3車線のうちの2車線を規制する方式を採用したが、結果的に最大22 kmに及ぶ渋滞が発生したことからリバース運用を採用するに至った。これによる欠点としては、本来広幅員であるべき左側路肩が0.75 mしか確保できず、逆に右側が3 mであることから、走行速度抑制と路肩走行防止の対策を採っている。また、バス停留所がないことから、工事期間中はバスに先導車を付けて工事中の上り線を通行する対策を採った{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|pp=31-32}}。この運用により、渋滞の発生は確認されないなど一定の効果をあげた{{sfn|宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘|2007|p=32}}。なお、この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。
=== 車線・最高速度 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!! rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
!style="width:99px"|[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
| 東京IC - 横浜町田IC||rowspan="2" |6||rowspan="2" |3||rowspan="2" |3||rowspan="6" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(法定)||rowspan="6" |100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 横浜町田IC - 大和TN||rowspan="5" |120 km/h||
|-
| 大和TN||8||4||4||
|-
| 大和TN - 綾瀬BS||6||3||3||
|-
| 綾瀬BS - 海老名JCT||7||4||3||
|-
| 海老名JCT - 秦野中井IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3||
|-
| 秦野中井IC - 大井松田IC||rowspan="3"|80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h||
|-
| 大井松田IC - 足柄SA||7||3||2+2||※1
|-
| 足柄SA - 御殿場IC||rowspan="2"|6||rowspan="2"|3||rowspan="2"|3||
|-
| 御殿場IC - 御殿場JCT||rowspan="3" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="3"|100 km/h<br />(法定)||rowspan="17" |100 km/h||
|-
| 御殿場JCT - 裾野IC||5||3||2||※2
|-
| 裾野IC - 蒲原TN||rowspan="7"|4||rowspan="7"|2||rowspan="7"|2||
|-
| 蒲原TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 蒲原TN - 薩埵TN||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||
|-
| 薩埵TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 薩埵TN - 東名興津BS||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||
|-
| 東名興津BS - 袖師TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 袖師TN - 清水JCT||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)||
|-
| 清水JCT - 清水IC||6||3||3||
|-
| 清水IC - 静岡IC||4||2||2||
|-
| 静岡IC - 日本坂TN||5||3||2||
|-
| 日本坂TN内||7||2+2||3||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 日本坂TN - 日本坂PA||6||3||3||rowspan="4" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="4"|100 km/h<br />(法定)||
|-
| 日本坂PA - 焼津IC||5||2||3||
|-
| 焼津IC - 勝間田高架橋付近||rowspan="12"|4||rowspan="12"|2||rowspan="12"|2||
|-
| rowspan="2"|勝間田高架橋付近→牧之原SA<br />勝間田高架橋付近←牧之原SA||下り線<br />
|-
| 80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定) ||80 km/h||上り線
|-
| 牧之原SA - 相良牧之原IC||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| rowspan="2"|相良牧之原IC→菊川IC<br />相良牧之原IC←菊川IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||下り線<br />
|-
| rowspan="2"|80 km/h<br />(法定)||rowspan="2"|100 km/h<br />(法定)||rowspan="6" |100 km/h||上り線
|-
| 菊川IC - 三ヶ日TN||
|-
| 三ヶ日TN内||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 三ヶ日TN - 宇利TN||80 km/h<br />(法定)||100 km/h<br />(法定)||
|-
| 宇利TN内 - 新城PA||80 km/h<br />(指定)||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 新城PA - 岡崎IC||rowspan="6" |80 km/h<br />(法定)||rowspan="6"|100 km/h<br />(法定)||※3
|-
| 岡崎IC - 日進JCT||rowspan="5" |120 km/h||
|-
| 日進JCT - 名古屋IC||6||3||3||
|-
| 名古屋IC - 春日井lC||4||2||2||
|-
| 春日井IC - 小牧JCT||6||3||3||
|-
| 小牧JCT - 小牧IC||4||2||2||
|}
* ※1:下り線の車線数は足柄BS - 足柄SA間にある登坂車線を含む。
* ※2:上り線の車線数は登坂車線を含む。
* ※3:下り線の音羽蒲郡IC手前から約4 kmほどの登坂車線あり。
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。
他の高速道路と同様、[[雨|雨天]]・[[降雪]]・[[霧|濃霧]]・[[台風]]などの荒天時、[[交通事故|事故]]や工事などの場合は50–80 km/hの速度規制が行われる。
上記区間以外にも[[登坂車線]]、付加車線が設置されている区間がある。特に[[尾張丘陵|名古屋市近郊の丘陵地]]を通る比較的起伏の多い区間(豊田IC - 守山PA)ではかなり距離のある付加車線が設置されている。
==== 道路幅員と線形 ====
[[File:Median strip and shoulder of the Tomei Expressway.svg|300px|thumb|故障車が駐車するための路肩は走行車線側が3.25 m、中央分離帯側が1.8 mとなっている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=145-146}}。]]
道路幅員は3.25 m([[路肩]]〈側帯{{efn|路肩の一部である。車線外縁に接して車線と同一の構造を持ち0.75 mの幅を持つ{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=400}}。}}含む〉)+3.6 m([[車線]])×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m([[中央分離帯]])+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.25 m(路肩〈側帯含む〉)=25.4 m(または32.6 m)である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=277}}。これは標準幅員で、橋梁、切土、盛土、トンネル等の相違によって変化する。特に工費が高いトンネルと東京近郊では路肩が狭くされ、トンネルの場合は0.75 mである{{sfn|池上雅夫|1969|p=33}}。このため、トンネルでは故障車の発生に備えて非常電話を200 m間隔で設けた{{sfn|池上雅夫|1969|p=134}}。
名神では路肩が土工部2.75 m、橋梁部1.75 mであるが、東名は先の例外区間を除いて土工、橋梁の区別なく全線3.25 mとなった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=535}}。これは名神の路肩に大型車を停車させて車道を走る車の位置を測定したところ、明らかに中央部分に退避して走行していることが判明したことから路肩の拡大に至ったものである{{sfn|片平信貴|1964|p=32}}。一方、中央分離帯側にも路肩を設けた。縁石を低くすることで、側帯と合わせて中央分離帯の一部を路肩に加えており、1.8 mを確保している。この場合、故障車の一部が車道側にはみ出すが、残りの車線幅の中で速度を落としながらの走行が可能である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=145-146}}。
車線幅員3.6 mは名神から引き続いて採用したが、これは設計上の数値であって、実際の運用は走行車線3.5 m、追越車線3.7 mである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=401}}。この数値は名神の事故調査の結果により算定し、追い越しを少しでも楽にする狙いから採用された{{sfn|池上雅夫|1969|p=32}}。ただし、東京 - 厚木間の6車線区間は全て3.6 mである{{sfn|日本道路公団総務部|1976|p=401}}。また、後年新設された大井松田 - 御殿場間の上り線(3車線)は3.5 m+3.75 m+3.5 mである{{sfn|橋本弘之|1982|p=64}}。
{{wide image|Tomei Expwy(Sectional view).svg|900px|東名高速道路の盛土区間とトンネル区間の標準横断構成{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=277}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=226}}。トンネルは下り側のみ掲載。上り線トンネルとは最小でも30 m離している{{efn|この間隔があまり狭いと、一方のトンネルの掘削による発破の影響から、他方の山が緩んで崩壊する恐れがある{{sfn|池上雅夫|1969|p=133}}。}}。トンネルの半径断面は名神より170 mm拡大されて5,170 mmとなった。これにより名神比で400 mm幅が拡大され、これを保守作業を行うための通路にあてた{{sfn|池上雅夫|1969|p=133}}。横断勾配は雨天における路面の排水不良が[[ハイドロプレーニング現象]]を引き起こして危険であることから、名神の1.5パーセントから2パーセントに改良した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=535}}。}}
[[File:Linear design of the Tomei Expressway.svg|250px|thumb|電子計算機を使用した透視図の例。縦断図と平面図を組み合わせて立体図として見た場合、上空からの目線を下げるに従って二次元では判らなかった欠点が浮き彫りになる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=48-49}}。路面高さ10 mまで降下した場合、視点Bのように凸型の頂部(クレスト)のかげに隠れる部分が増えることで路面が寸断されて見える。視点Cのドライバー目線では、直前のクレストから先の路面が全く見えないことから、その先の運転予測が立てづらくドライバーを不安に陥れる{{sfn|池上雅夫|1969|pp=51-53}}。]]
名神高速道路では、設計に際し[[日本道路公団]]がドイツから道路計画の技術専門家である[[フランツ・クサーヴァー・ドルシュ]]、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた{{sfn|武部健一|2015|pp=191-194|ps=、「クサヘル・ドルシュ」より}}{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=10-11}}。
東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=229}}。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=154}}、ひいては眠気さえ催すことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる{{sfn|池上雅夫|1969|p=24}}。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=152}}、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる{{sfn|池上雅夫|1969|p=40}}。
曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである{{sfn|池上雅夫|1969|p=47}}。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=155}}。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った{{sfn|池上雅夫|1969|p=49}}。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、[[クロソイド曲線]]、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある{{sfn|池上雅夫|1969|pp=50-54}}。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。
路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は[[カント (路線)|横断勾配]]6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある{{sfn|池上雅夫|1969|p=110}}。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブが採用された{{sfn|池上雅夫|1969|p=163}}。
{{multiple image
| footer =
| align = left
| width = 200
| image1 = E1 Tomei Expwy 20211002C.jpg
| caption1 = 高速走行を前提とする東名では、縦断線形と平面線形の組み合わせによるドライバー視点に立った、安全、快適な線形設計がなされた。予測の立てづらい線形、緩やかなカーブに突然急カーブが現れるなどの危険な設計は慎んだ{{sfn|早生隆彦|1969|pp=30-31}}。
| image2 = Tomei-Hamanako Bridge.jpg
| caption2 = S曲線と横断勾配が取り入れられた浜名湖橋。
| image3 = Yubure, Yamakita, Ashigarakami District, Kanagawa Prefecture 258-0123, Japan - panoramio (1).jpg
| caption3 = 東名酒匂川橋。曲線半径700 mと400 mのカーブに加え、カーブの前後にクロソイド曲線が4つ入る複雑な線形から成る。画像はパラメーター220 mのクロソイド曲線を経て、曲線半径400 mのカーブに差し掛かる場面{{sfn|池上雅夫|1969|pp=163-164}}。
}}{{-}}
=== 道路施設 ===
==== インターチェンジ ====
{{double image aside|right|Yokohama-Machida Interchange(CKT20074-C2-2).jpg|200|Hamamatsu I.C(1975 - 2015).svg|296|当初からダブルトランペット型を採用した横浜町田IC(画像左端)とシングルトランペットとして発足してのちにダブル化した浜松IC(1975年と2015年の画像の比較){{sfn|池上雅夫|1969|p=97}}。<small>([https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス]の航空写真を元に加工)</small>}}
インターチェンジは当初21箇所で発足した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を多用したことである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=95-96}}。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット(横浜町田、厚木、大井松田、豊川、岡崎、名古屋、春日井の7か所)、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした(富士、清水、浜松の3か所){{sfn|池上雅夫|1969|pp=96-97}}。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている{{sfn|池上雅夫|1969|p=96}}。
トランペット型は曲線半径35 m(最小値)の急カーブを描くことから、設計速度は40 km/h(特別な場合は35 km/h)である。こうした急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=97}}。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された{{sfn|池上雅夫|1969|pp=97-98}}。インターチェンジが急カーブを採用せざるを得ないのは、高速走行を重視するあまり、カーブを緩めすぎるとその分用地を広くとらなければならず、用地買収面で不利になるからである{{sfn|池上雅夫|1969|p=100}}。
==== サービスエリア・パーキングエリア ====
{{double image aside|right|Makinohara SA 20221106.jpg|200|Yui PA 20221106A.jpg|200|画像左 : 茶畑に囲まれた牧之原SA。画像右 : 由比パーキングエリア。本来PAを設ける地形条件にはなかったが、優れた景観を提供できることから設置された{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=177}}。}}
概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=504}}。
東京起点で見ると、第1番目のサービスエリア(SA)を30 km地点においた。これは、大都市を出発して最初に必要とされるSAはほぼ30 km地点であろうという考えによっている。35 km地点に位置する厚木ICの東京寄りに置くことが利用効率も高いと判断され、海老名SAはここに置かれた。次いで海老名から50 km離れた場所として御殿場付近が選定され、観光的な出入りが多いことを考慮して御殿場ICの東京寄りに設置された。ここは南に箱根山塊を、西に富士山を望む格好の好適地である。これが足柄SAである。御殿場から50 km離れた地点は[[富士川町 (静岡県)|富士川町]](現・富士市)から由比の区間で、海岸に近いか、トンネルに近いところは場所がよくないため、富士川に面して富士山が望める富士川町を選定した。これが富士川SAである。東京起点とは別に名古屋起点のSAが考慮され、東に向かって最初のSAを概ね20 km地点を選定したが、これが上郷SA(現・豊田上郷SA)である。付近には景観的に優れたところはないものの、地形的に設置が容易であることが選定の理由である。上郷から概ね50 km離れた地点としては、風光明媚な土地柄ということもあって文句なく浜名湖畔に決定され、本線の地形はSAを考慮して決定した。ここが浜名湖SAである。東京と名古屋の双方から決定されてきたSAだが、富士川SAと浜名湖SAの間隔が120 km開くことから、その中間地点に1か所SAを置いたが、これが牧之原SAである。当初は2か所を計画したが、風光明媚なところがないことから1か所に集約し、大茶園に囲まれて高原地帯に位置する牧之原が選ばれた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=176-177}}。
SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=177}}。
* 東名は全区間を通して交通量が多いために、海岸脇で用地がなく設置困難な由比PA下り線を除く、すべてのサービスエリア (SA)・パーキングエリア (PA) に売店があったが、当路線と併走する[[新東名高速道路]]が出来たということもあり赤塚PA下り線の商業施設はトイレ建て替え工事に伴い、2017年(平成29年)8月31日をもって閉店となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=815|title=E1東名高速道路 赤塚PA(下り線:名古屋方面)商業施設の閉店について|date=2017-08-10|accessdate=2017-08-14|publisher=中日本高速道路株式会社・中日本エクシス株式会社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170814180337/http://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=815|archivedate=2017-08-14|deadlinkdate=2018-07-01}}</ref>。また、2019年(平成31年)4月12日に[[豊橋本線料金所]]跡地に設置された[[豊橋パーキングエリア]]にも売店は設置されていない。さらに2020年(令和2年)5月6日には由比PA上り線のフードコートとショッピングコーナーが閉店となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://sapa.c-nexco.co.jp/topics?id=1606|title=E1 東名高速道路 由比PA(上り)「フードコート」「ショッピングコーナー」閉店のお知らせ|date=2020-04-17|accessdate=2020-05-06|publisher=中日本エクシス株式会社}}</ref>。
* すべてのSAに24時間営業の[[ガソリンスタンド]]が設置されているが、PAには設置されていない。
* 富士川SA・牧之原SA・豊田上郷SA下り線以外のSAと新城PA下り線に[[レストラン]]が設置されている。
* すべてのSAに電気自動車用の急速充電器設備が設置されている(利用には事前登録が必要)。
==== バスストップ ====
{{Double image aside|right|Yaizu nishi Bus stop 02.jpg|170|Toyota IC 20211026F.jpg|190|本線に接する直接式バスストップ(焼津西BS)|ICトールゲートに隣接するバスストップ(豊田BS)}}
東名では名神から引き続いて高速路線バスを運行している。運行にあたり、バスが途中のインターチェンジをいちいち出ていたのでは高速連絡の利点を生かせないため、本線上あるいはIC、SA、PAに併設する乗降場が用意された。乗降場の長さは3台のバスが同時に発着できるように45 mを標準の長さとした。IC併設の場合はトールゲート付近に置かれ、一般道路走行バスとすぐに乗り継げるようにした{{sfn|池上雅夫|1969|p=102}}。
==== 主なトンネルと橋 ====
{{Double image aside|right|DECK BRIDGE&THROUGH BRIDGE.svg|170|Tomei Sakawa River Bridge 02.jpg|190|交通路が構造系の上方に位置するのが上路橋、下方に位置するのが下路橋である{{sfn|長井正嗣|2003|p=13}}。東名の橋梁は上路橋を採用したことから{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=228}}、車の走行中に橋そのものが視界に入ることはない{{sfn|長井正嗣|2003|p=13}}。画像右は上路橋の東名酒匂川橋。}}
路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=228}}。このため、カーブに溶け込ませていることとも相まって、運転者目線では橋を通過していることが意識しづらくなっている{{sfn|池上雅夫|1969|pp=109-110}}。
[[File:Tomei Tsuburano Tunnel east.jpg|thumb|都夫良野トンネル下り線入口]]
* [[東名多摩川橋]](東京IC - 東京TB)
* [[大和トンネル]] (横浜町田IC - 綾瀬SIC) : 280 m
* 相模川橋(海老名JCT - 厚木IC)
* 川音川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
* [[東名皆瀬川橋]](大井松田IC - 鮎沢PA)
* 吾妻山トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線298 m 下り線右ルート347 m 左ルート360 m
* [[都夫良野トンネル]](大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線1,715 m 下り線右ルート1,656 m 左ルート1,689 m
*[[東名酒匂川橋]] (大井松田IC - 鮎沢PA)
* 鳥手山トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 842 m
* 太郎ヶ尾トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 708 m
* 北畑トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 328 m
* 桜平トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 482 m
* 高尾トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 569 m
* [[所領トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 125 m
* [[白旗トンネル]](足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 215 m
* [[東名足柄橋]](鮎沢PA - 足柄SA 東京方面) : 370 m(1991年度[[土木学会田中賞]]受賞)
* [[富士川橋]](富士IC - 富士川SA) : 780 m
* [[蒲原トンネル]](富士川SA - 由比PA) : 上り線704 m 下り線714 m
* [[蒲原トンネル|薩埵トンネル]](由比PA - 清水IC): 上り線463 m 下り線425 m
* [[蒲原トンネル|興津トンネル]](由比PA - 清水IC) : 上り線505 m 下り線521 m
* [[蒲原トンネル|清見寺トンネル]](由比PA - 清水IC) : 上り線780 m 下り線785 m
* [[蒲原トンネル|袖師トンネル]](由比PA - 清水IC) : 上り線355 m 下り線366 m
* 安倍川橋(静岡IC - 日本坂PA)
* [[日本坂トンネル]](静岡IC - 日本坂PA) : 上り線右ルート2,371 m 左ルート2,378 m 下り線2,555 m
* [[大井川橋#東名高速道路 大井川橋|大井川橋]](大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC): 850 m
* [[天竜川橋#東名高速道路 天竜川橋|天竜川橋]](遠州豊田PA - 浜松IC): 1,071 m
* [[浜名湖橋]](舘山寺SIC - 浜名湖SA) : 603 m
* 三ヶ日トンネル(三ヶ日IC - 三ヶ日JCT) : 上り線461 m 下り線366 m
* [[宇利トンネル]](三ヶ日JCT - 新城PA) : 上り線958 m 下り線913 m
* 矢作川橋(岡崎IC - 豊田JCT)
===== トンネルの数 =====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!区間名!!上り線!!下り線
|-
|東京IC - 横浜町田IC||0||0
|-
|横浜町田IC - 綾瀬SIC||1||1
|-
|綾瀬SIC - 大井松田IC||0||0
|-
|大井松田IC - 鮎沢PA||5||2
|-
|鮎沢PA - 足柄SA||4||0
|-
|足柄SA - 富士川SA||0||0
|-
|富士川SA - 由比PA||1||1
|-
|由比PA - 清水JCT||4||4
|-
|清水JCT - 静岡IC||0||0
|-
|静岡IC - 日本坂PA||1||1
|-
|日本坂PA - 三ヶ日IC||0||0
|-
|三ヶ日IC - 三ヶ日JCT||1||1
|-
|三ヶ日JCT - 新城PA||1||1
|-
|新城PA - 小牧IC||0||0
|-
!合計!!18!!11
|}
開通時には静岡IC - 焼津IC間に'''小坂トンネル'''(長さ270 [[メートル|m]])が[[存在]]したが、同区間の改築工事に伴い日本坂トンネルに結合された。日本坂トンネル静岡側坑口からわずか60 mしか離れておらず、連続性を持たせた方が安全性を確保出来ると判断されたため、この部分にシェードが造られ1本のトンネルとなった。
大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。
=== 料金 ===
東名は高速自動車国道の体系に組み込まれていることから、その料金体系で料金が決定される。以下、開通当初の料金政策と現行制度について述べる。
==== 開通当初 ====
東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた{{sfn|池上雅夫|1969|p=5}}。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=38}}。その結果、長距離逓減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=40}}。
この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道の料率を統一する制度である。採用理由はそれぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=46}}。この画一料率制は、のちに採用される[[日本の高速道路#建設費と償還|全国プール制]]の先駆けとなる制度となった{{sfn|大久保正行(1995-05)|1995|p=39}}。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=46}}。
また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離逓減制」を導入することにした。データ上、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するため、100 km以上の交通を対象として1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=48}}。また、通行料金について大蔵省(現・財務省)が横やりを入れ、大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}})、東名利用者の利便性が高いことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=42}}、1 kmあたり20パーセント増しとした{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=53}}。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした{{sfn|高速道路五十年史編集委員会|2016|p=51}}。
画一料率制はその後の全国プール制の採用によって廃止された{{sfn|国土政策と高速道路の研究会|2004|p=29}}。
==== 現行制度 ====
普通車の利用距離当たりの料金は消費税抜きで24.6円/kmである<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=3 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-07-12 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | page = 3 }}</ref>。
東京IC - [[厚木インターチェンジ|厚木IC]]は[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]<ref name="c-nexco-20200501B">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2022-02-03 | format = PDF | publisher=中日本高速道路 | pages = 別添2}}</ref>、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、普通区間に比べて通行料金が2割増しである<ref name="長距離逓減">{{Cite web|和書| url = https://highwaypost.c-nexco.co.jp/faq/toll/findout/23.html | title = 料金の計算方法を教えてください | accessdate = 2022-07-28 | publisher=中日本高速道路 }}</ref><ref name="名古屋2環"/>。
100 kmを超えて利用する場合は、200 kmまでが25 %割引、200 km超が30 %割引である<ref name="長距離逓減"/>。
また、[[ETC割引制度]]は、東京IC - 厚木ICのみ対象外となる。
=== 道路管理者 ===
* [[中日本高速道路|NEXCO中日本]] [[中日本高速道路東京支社|東京支社]]
** 横浜保全・サービスセンター : 東京IC - 厚木IC
** 伊勢原保全・サービスセンター:厚木IC - 大井松田IC
** 御殿場保全・サービスセンター : 大井松田IC - 沼津IC
** 富士保全・サービスセンター : 沼津IC - 清水IC
** 静岡保全・サービスセンター : 清水IC - 浜松IC
** 浜松保全・サービスセンター : 浜松IC - 豊川IC ※豊川IC含まず
* NEXCO中日本[[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]
** 豊田保全・サービスセンター : 豊川IC - 豊田IC ※豊川IC含む
** 名古屋保全・サービスセンター : 豊田IC - 春日井IC
** 羽島保全・サービスセンター : 春日井IC - 小牧IC
=== 所轄警察 ===
* [[神奈川県警察]][[神奈川県警察高速道路交通警察隊|高速道路交通警察隊]]<ref>{{Cite web|和書|title=神奈川県警察/高速道路交通警察隊 |url=https://www.police.pref.kanagawa.jp/kotsu/jiko_boshi/kosoku/mes87001.html |access-date=2023-11-26}}</ref>
** 厚木分駐所:東京IC - 静岡・神奈川県境
*[[静岡県警察]]高速道路交通警察隊<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.shizuoka.jp/police/_res/projects/project_police/_page_/002/000/925/keimu068.pdf |title=静岡県警察の組織に関する訓令 |access-date=2023-11-26 |publisher=静岡県警察}}</ref>
** 沼津分駐隊:静岡・神奈川県境 - 蒲原BS付近(131.1キロポスト)
** 静岡分駐隊:蒲原BS付近(131.1キロポスト) - 牧之原SA付近(197.0キロポスト)
** 浜松分駐隊:牧之原SA付近(197.0キロポスト) - 愛知・静岡県境
* [[愛知県警察]]高速道路交通警察隊<ref>{{Cite web|和書|title=高速隊の所在地及び管轄路線 - 愛知県警察 |url=https://www.pref.aichi.jp/police/koutsu/kousoku/shoukai.html |website=www.pref.aichi.jp |access-date=2023-11-26}}</ref>
** 岡崎分駐隊: 愛知・静岡県境 - 東名三好IC
** 名古屋東分駐隊: 東名三好IC - 愛知・岐阜県境(東名は小牧ICまで)
=== 交通量 ===
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! 区間 !! 平成11(1999)年度 !! 平成17年(2005年)度 !! 平成22年(2010年)度 !! 平成27年(2015年)度 !! 令和3(2021)年度
|-
| 調査当時の新東名|| colspan="3" |開通前 || 御殿場 - 三ヶ日間開通後<br />浜松いなさ - 豊田東開通前 || 海老名南 - 伊勢原大山、新御殿場 -豊田東開通後<br/>伊勢原大山 - 新御殿場開通前
|-
| 東京IC - 東名川崎IC || 121,780 || 112,746 || 114,690 || 107,563 || 93,294
|-
| 東名川崎IC - 横浜青葉IC/JCT || 119,703 || 110,523 || 114,053 || 107,469 || 96,839
|-
| 横浜青葉IC/JCT - 横浜町田IC || 117,060 || 106,762 || 113,763 || 109,326 || 122,036
|-
| 横浜町田IC - 綾瀬SIC || rowspan="3" | 125,934|| rowspan="3" | 120,679 || rowspan="2" | 130,425 || rowspan="2" | 138,067 ||rowspan="2" | 140,425
|-
| 綾瀬SIC - 海老名JCT
|-
| 海老名JCT - 厚木IC || 128,920 || 145,623 || 137,337
|-
| 厚木IC - 伊勢原JCT || rowspan="2" | 88,754 || rowspan="2" | 84,398 || rowspan="2" | 90,752 || rowspan="2" | 100,628 || rowspan="2" | 92,872
|-
| 伊勢原JCT - 秦野中井IC
|-
| 秦野中井IC - 大井松田IC || 78,172 || 77,587 || 83,327 || 93,008 || 90,660
|-
| 大井松田IC - 足柄SASIC || rowspan="2" | 73,210|| rowspan="2" | 68,473 || rowspan="2" | 74,541 || rowspan="2" | 85,753 || rowspan="2" | 80,383
|-
| 足柄SASIC - 御殿場IC
|-
| 御殿場IC - 御殿場JCT || rowspan="3" | 66,503|| rowspan="3" | 61,580 || rowspan="3" | 65,328 || 82,153 || 75,113
|-
| 御殿場JCT - 駒門PASIC || rowspan="2" | 40,276 || rowspan="2" | 26,513
|-
| 駒門PASIC - 裾野IC
|-
| 裾野IC - 沼津IC || 66,462 || 62,645 || 66,029 || 41,008 || 27,717
|-
| 沼津IC - 愛鷹PASIC || rowspan="2" | 58,494 || rowspan="2" | 66,837 || rowspan="2" | 71,460 || rowspan="2" | 45,636 || rowspan="2" | 31,693
|-
| 愛鷹PASIC - 富士IC
|-
| 富士IC - 富士川SASIC || rowspan="3" | 67,245 || rowspan="3" | 64,855 || 69,033 || 42,237 || 28,418
|-
| 富士川SASIC - 清水JCT || rowspan="2" | 69,226 || 42,482 || 28,648
|-
| 清水JCT - 清水IC || 47,131 || 36,261
|-
| 清水IC - 日本平久能山SIC || rowspan="2" | 70,452 || rowspan="2" | 69,756 || rowspan="2" | 70,134 || rowspan="2" | 44,970 || rowspan="2" | 32,951
|-
| 日本平久能山SIC - 静岡IC
|-
| 静岡IC - 焼津IC || 81,626 || 78,763 || 79,155 || 52,121 || 38,171
|-
| 焼津IC - 大井川焼津藤枝SIC || rowspan="2" | 74,463 || rowspan="2" | 73,330 || rowspan="2" | 75,136 || rowspan="2" | 49,658 || rowspan="2" | 37,696
|-
| 大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC
|-
| 吉田IC - 相良牧之原IC || 57,633 || 68,669 || 70,883 || 46,119 || 32,977
|-
| 相良牧之原IC - 菊川IC || 69,205 || 68,733 || 71,861 || 47,536 || 33,991
|-
| 菊川IC - 掛川IC || 68,513 || 67,816 || 71,357 || 46,879 || 33,444
|-
| 掛川IC - 袋井IC || 68,815 || 68,207 || 71,559 || 46,256 || 32,497
|-
| 袋井IC - 磐田IC || 69,458 || 72,480 || 77,141 || 47,276 || 33,496
|-
| 磐田IC - 遠州豊田PASIC || rowspan="2" | 71,821 || rowspan="2" | 73,904 || 77,611 || 47,126 || 33,376
|-
| 遠州豊田PASIC - 浜松IC || 77,523 || 47,332 || 34,133
|-
| 浜松IC - 三方原PASIC || rowspan="2" | 65,751 || rowspan="2" |66,408 || rowspan="2" |68,549 || rowspan="2" |44,045 || rowspan="2" | 32,458
|-
| 三方原PASIC - 浜松西IC
|-
| 浜松西IC - 舘山寺SIC || rowspan="2" | 65,072 || rowspan="2" | 64,996 || rowspan="2" | 66,992 || rowspan="2" | 43,203 || rowspan="2" | 27,874
|-
| 舘山寺SIC - 三ヶ日IC
|-
| 三ヶ日IC - 三ヶ日JCT || rowspan="2" | 62,964 || rowspan="2" | 63,368 || rowspan="2" | 65,246 || 42,075 || 26,519
|-
| 三ヶ日JCT - 豊川IC || 79,519 || 27,748
|-
| 豊川IC - 音羽蒲郡IC || 72,620 || 76,625 || 77,353 || 90,891 || 34,948
|-
| 音羽蒲郡IC - 岡崎IC || 78,932 || 87,764 || 89,338 || 105,880 || 41,448
|-
| 岡崎IC - 豊田JCT || rowspan="3" | 78,135 || 95,937 || 101,090 || 119,167 || 54,999
|-
| 豊田JCT - 豊田上郷SASIC || rowspan="2" | 69,634 || rowspan="2" | 56,526 || rowspan="2" | 57,322 || 40,379
|-
| 豊田上郷SASIC - 豊田IC || 40,492
|-
| 豊田IC - 東名三好IC || 91,734 || 81,510 || 69,309 || 67,794 || 44,541
|-
| 東名三好IC - 日進JCT || rowspan="2" | 98,972 || 87,496 || 75,643 || 72,245 ||| 46,193
|-
| 日進JCT - 名古屋IC || 88,535 || 77,848 || 77,615 || 53,465
|-
| 名古屋IC - 守山PASIC || rowspan="2" | 79,154 || rowspan="2" | 66,019 || rowspan="2" | 54,972 || rowspan="2" | 57,105 || 36,246
|-
| 守山PASIC - 春日井IC || 36,745
|-
| 春日井IC - 小牧JCT || 84,179 || 69,295 || 56,883 || 57,621 || 38,964
|-
| 小牧JCT - 小牧IC || 88,180 || 89,457 || 76,385 || 76,103 || 58,574
|}
{{smaller|(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)・「[https://toukei.pref.shizuoka.jp/dourokikakuka/data/10-030/80264.html 道路交通センサス報告書(一般交通量調査)]」([[静岡県]]ホームページ)・「[https://www.pref.aichi.jp/douroiji/image/H17census.pdf 交通量調査集計表]」([[愛知県]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)}}
2002年度(平成14年度)
* 区間別日平均交通量(全区間平均) : 76,657台(前年度比99.5%)
区間別に見ると横浜町田ICから厚木ICまでが126,614台(前年度比98.9%)で最大である。
* 交通量
** 年間 : 1億5141万6468台(前年度比98.8%)
** 日平均 : 41万4840台
* 料金収入
** 年間 : 2588億5981万6000円(前年度比99.0%)
** 日平均 : 7億920万5000円
=== 景観処理 ===
;植栽
{{double image aside|right|Toyota IC 20211026C.jpg|200|Toyota IC 20211026D.jpg|200|豊田IC。高木を散在させ、主木を[[クスノキ|楠]]とした。防風、遮蔽の役割も兼ねる{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=188}}。}}
インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=186}}。
中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|pp=181-182}}。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=182}}。
これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=183}}。
;施設
{{double image aside|right|Toyota IC 20211026A.jpg|200|Toyota IC 20211026E.jpg|200|インターチェンジトールゲートのデザインは名神で採用されたものを引き続いて採用(豊田IC)。PC工法で組み立て、上屋は肉抜きとしてセルリアンブルーに着色。屋根を支える柱は現場打ちコンクリート柱。設計・デザインは板倉準三による{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。}}
インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}引き続き採用している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=505}}。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-37}}。
本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である{{sfn|内山正雄・松本洋|1968|p=47}}。
サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、[[芦原義信]](浜名湖SA)、[[大高正人]](牧之原SA)、[[清家清]](富士川SA)、[[黒川紀章]](足柄SA)、[[菊竹清訓]](海老名SA){{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた{{sfn|堀田典裕|2011|pp=51-65}}。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである{{sfn|松本洋|1999|p=17}}。
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
| 1=Jinryō Viaduct.svg
| 2=RC連続穴あき床版橋断面
| 3=Jinryō Viaduct 20211120.jpg
| 4=RC連続穴あき床版橋の例(神領高架橋)
}}
東名の橋脚間15 - 17 mクラスの鉄筋コンクリート高架橋は、名神で開発された穴あき床板を採用した。穴あきとしたのはコンクリート橋の欠点である重量を軽減するためである。東名のほとんどの高架橋はこの形式が採用された。経済性に富み、外観上スレンダーで優美であるという理由である{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=252}}。
走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は284橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。一番の基本を[[プレストレスト・コンクリート|PC]]斜材付きΠ型[[ラーメン (骨組)|ラーメン]]橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している{{sfn|東名高速道路建設誌編さん委員会|1970|p=193}}。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである{{sfn|池上雅夫|1969|pp=128-129}}。
{{multiple image
| footer =
| align = left
| width = 200
| image1 = 東名高速, Toumei Highway - panoramio.jpg
| caption1 = 中央分離帯と路傍の植栽(横浜町田IC付近)。
| image2 = Fujikawa Bridge(1)-1.jpg
| caption2 = 富士川橋は河川鋼橋であるため、塗装には赤色を採用した。
| image3 = Jinryo station20211120.jpg
| caption3 = 市街地高架橋の鋼桁は緑を採用([[東海旅客鉄道|JR]][[中央線 (名古屋地区)|中央線]] [[神領駅]])
| image4 = E1 Tomei Expressway Bridge 20211003B.jpg
| caption4 = オーバーブリッジの種類。上が斜材付きΠ型ラーメン橋、下が方丈ラーメン橋。
}}{{-}}
== 地理 ==
[[File:E1TOMEI EXPWY(Tokyo).svg|thumb|250px|right|東京都内の通過自治体。]]
[[File:E1TOMEI EXPWY(Kanagawa).svg|thumb|250px|right|神奈川県内の通過自治体。]]
[[File:E1TOMEI EXPWY(Shizuoka).svg|thumb|250px|right|静岡県内の通過自治体。]]
[[File:E1TOMEI EXPWY(Aichi).svg|thumb|250px|right|愛知県内の通過自治体。]]
=== 通過する自治体 ===
* [[東京都]]
** [[世田谷区]]
* [[神奈川県]]
**<li class="hlist hlist-hyphen">
*** [[川崎市]]
**** [[多摩区]]
**** [[宮前区]]
*** [[横浜市]]
**** [[青葉区 (横浜市)|青葉区]]
**** [[緑区 (横浜市)|緑区]]
* 東京都{{efn|[[県境|都県境]]を通過するが、東京都の[[カントリーサイン]]は設置されていない。}}
** [[町田市]]
* 神奈川県
**<li class="hlist hlist-hyphen">
*** 横浜市
**** [[瀬谷区]]
*** [[大和市]]
*** [[綾瀬市]]
*** [[海老名市]]
*** [[厚木市]]
*** [[伊勢原市]]
*** [[秦野市]]
*** [[足柄上郡]][[中井町]]
*** 足柄上郡[[大井町]]
*** 足柄上郡[[松田町]]
*** 足柄上郡[[山北町]]
* [[静岡県]]
**<li class="hlist hlist-hyphen">
*** [[駿東郡]][[小山町]]
*** [[御殿場市]]
*** [[裾野市]]
*** 駿東郡[[長泉町]]
*** [[沼津市]]
*** [[富士市]]
*** [[静岡市]]
**** [[清水区]]
**** [[葵区]]
**** [[駿河区]]
*** [[焼津市]]
*** [[藤枝市]]
*** 焼津市
*** [[島田市]]
*** [[榛原郡]][[吉田町]]
*** 島田市
*** 榛原郡吉田町
*** [[牧之原市]]
*** [[菊川市]]
*** [[掛川市]]
*** [[袋井市]]
*** [[磐田市]]
*** [[浜松市]]
**** [[中央区 (浜松市)|中央区]]
**** [[浜名区]]
* [[愛知県]]
**<li class="hlist hlist-hyphen">
*** [[新城市]]
*** [[豊橋市]]
*** [[豊川市]]
*** [[岡崎市]]
*** [[豊田市]]
*** [[みよし市]]
*** [[日進市]]
*** [[長久手市]]
*** [[名古屋市]]
**** [[名東区]]
**** [[守山区]]
*** [[尾張旭市]]
*** 名古屋市
**** 守山区
*** [[春日井市]]
*** [[小牧市]]
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja_Urban_Expwy_Sign|name=首都|number=3|width=26}} [[首都高速3号渋谷線]](東京ICで直結)
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]](東名JCTで接続 : 事業中)
* [[川崎縦貫道路|川崎縦貫道路(II期)]](宿河原JCTで接続 : 調査中)
* {{Ja_Urban_Expwy_Sign|name=首都|number=K7 (NW)|width=26}} [[首都高速神奈川7号横浜北西線]]([[横浜青葉インターチェンジ|横浜青葉JCT]]で接続)
* [[保土ヶ谷バイパス]]([[横浜町田インターチェンジ|横浜町田IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[海老名ジャンクション|海老名JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E85}} [[小田原厚木道路]]([[厚木インターチェンジ|厚木IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新東名高速道路]]([[伊勢原ジャンクション|伊勢原JCT]]で接続)
* [[厚木秦野道路]]([[秦野中井インターチェンジ|秦野中井IC]]で接続 : 計画中)
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新東名高速道路]]([[御殿場ジャンクション|御殿場JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E70}} [[伊豆縦貫自動車道]]([[沼津インターチェンジ|沼津IC]]で接続)
* [[西富士道路]]([[富士インターチェンジ|富士IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[新東名高速道路|新東名高速道路清水連絡路]]([[清水ジャンクション|清水JCT]]で接続)<ref group="注釈" name="連絡路経由">連絡路を経由して[[新東名高速道路|新東名]]本線に接続。</ref>
* {{Ja Exp Route Sign|E69}} [[新東名高速道路|新東名高速道路引佐連絡路]]([[三ヶ日ジャンクション|三ヶ日JCT]]で接続)<ref group="注釈" name="連絡路経由"/>
* [[三遠伊勢連絡道路]](三ヶ日JCTで接続 : 調査中)
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[伊勢湾岸自動車道]]([[豊田ジャンクション|豊田JCT]]で接続)
* [[名古屋瀬戸道路]]([[日進ジャンクション|日進JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|C2}} [[名古屋第二環状自動車道]]支線([[名古屋インターチェンジ|名古屋IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E19}} [[中央自動車道]]([[小牧ジャンクション|小牧JCT]]で接続)
* {{Ja_Urban_Expwy_Sign|name=名古屋|number=11|width=26}} [[名古屋高速11号小牧線]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]](小牧ICで直結)
== ギャラリー ==
<gallery>
画像:東名高速道路多摩川橋001.jpg|多摩川にかかる東名多摩川橋。東京IC - 東京TB
画像:Tomei-Atsugi-IC-Overview.jpg|厚木市付近、相模川にかかる相模川橋。綾瀬SIC - 厚木IC
画像:Tomei-Expwy Atsugi.jpg|下り線、厚木IC付近。背後は[[大山 (神奈川県)|大山]]
画像:Tomei-Expway-Oimatsuda.jpg|大井町付近。秦野中井IC - 大井松田IC
画像:Tomei Expway Curve R300.jpg|山北町付近。大井松田IC - 御殿場ICにある半径300 mの急カーブ
画像:744-10993 Tokai BKG-MU66JS Tomei MtFuji.jpg|富士川サービスエリアから見た東名富士川橋と富士山
画像:Satta yukei.jpg|静岡市清水区[[薩埵峠]]から。海側が東名。山側は国道1号。
画像:Nihondaira from Choseniwa.jpg|静岡IC付近。奥は日本平、右手は遠州灘。
画像:Nagoya IC 20230902B.jpg|東京から約320 km、左手に[[猪高緑地]]を見て名古屋ICに到達
画像:E1 Tomei Expwy (Komaki) 20211002A.jpg|小牧市内。名古屋高速11号小牧線の下をくぐり、終点の小牧ICに到達する。
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
;書籍
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite |和書|author = 池上雅夫 |title = 東名高速道路 |date = 1969-05-25 |edition = |publisher = 中央公論社 |isbn = |series = 中公新書188 |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 角本良平 |title = 東海道新幹線 |date = 1964-04-30 |edition = |publisher = 中央公論社 |isbn = |series = 中公新書41 |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 東名高速道路建設誌編さん委員会 |title = 東名高速道路建設誌 |date = 1970-03-25 |edition = |publisher = 日本道路公団 |isbn = |series = |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = [[イカロス出版]] |title = 東名高速をゆく |date = 2011-09-30 |edition = |publisher = |isbn = 978-4-86320-484-3 |series = イカロスMOOK |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author= 高速道路五十年史編集委員会 |title=高速道路五十年史 |date=2016-02 |publisher=東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社 |ref=harv}}
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* {{Cite |和書|author = 国土政策と高速道路の研究会 |title = 国土と高速道路の未来 豊富なデータから読み解く道路網整備のこれから |date = 2004-03-08 |edition = |publisher = 日経BP社 |isbn = 4-8222-2033-8 |series = |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author= カーゴニュース |title=現代のトラック産業 |date=1998-04-18 |publisher=財団法人 交通研究協会|series = 交通ブックス110 |isbn=4-425-76091-3|ref=harv}}
* {{Cite |和書|author = 名古屋高速道路公社30年史編集委員会 |title = 名古屋高速道路公社30年史 |date = 2002-03 |edition = |publisher = 名古屋高速道路公社 |isbn = |series = |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 武田文夫 |title = 日本のハイウエー |date = 1968-05 |edition = |publisher = 日本経済新聞社 |isbn = |series = 日経新書76|ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 日本道路公団総務部 |title = 日本道路公団20年史 |date = 1976-04-16 |edition = |publisher = 日本道路公団 |isbn = |series = 非売品|ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author= 25年誌編さん委員会 |title=中部地建のあゆみ 25年誌 |date=1975-03-01 |publisher=建設省中部地方建設局 |ref=harv}}<!-- 愛知県図書館蔵-->
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* {{Cite book |和書 |author= 堀田典裕 |title=自動車と建築 モータリゼーション時代の環境デザイン |date=2011-04-30 |publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-62428-0|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 日本道路公団 |title=中央高速道路工事誌 |date=1970-03-20 |publisher=日本道路公団高速道路八王子建設局|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 日本道路協会 |title=日本道路協会五十年史 |date=1997-12-01 |publisher=社団法人 日本道路協会|ref=harv}}
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* {{Cite book |和書 |author= 四方洋 |title=ハイウェイ・マイウェイ 道のロマンをかけた男たち |date=1993-07-25 |publisher=毎日新聞社|isbn=4-620-30947-8|ref=harv}}
* {{Cite book |和書|author = 山本正雄 |title = 日本の工業地帯 第二版 |date = 1965-07-20 |edition = 初版 |publisher = 岩波書店 |isbn = |series = 岩波新書(青版)565|ref = harv }}
* {{Cite book |和書|author = 山本正雄 |title = 日本の工業地帯 |date = 1959-04-17 |edition = 初版 |publisher = 岩波書店 |isbn = |series = 岩波新書(青版)343|ref = harv }}
* {{Cite book |和書|author = 武藤博己 |title = 道路行政 |date = 2008-07-22 |edition = 初版 |publisher = 東京大学出版会 |isbn = 978-4-13-034240-7|series = 行政学叢書10|ref = harv }}
* {{Cite book |和書|author = 社団法人中部建設協会 |title = めざせ!ロードの達人 道路図鑑 |date = 1998-03 |edition = 改訂版 |publisher = 社団法人中部建設協会 |ref = harv }}
* {{Cite book |和書|author = 日本国有鉄道名古屋幹線工事局 |title = 東海道新幹線工事誌 |year = 1965 |date = 1965-03-31 |edition = |publisher = 岐阜工事局 |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = 長井正嗣 |title = 橋梁工学 |date = 2003-09-10 |edition = 第2版 |publisher = 共立出版 |isbn = 4-320-07394-0 |series = テキストシリーズ 土木工学3 |ref = harv }}
* {{Cite |和書|author = NHK「プロジェクトX」制作班 |title = プロジェクトX 挑戦者たち 未踏の地平を目指せ 日本初のハイウェー 勝負は天王山(XDMF版) |date = 2005-01-18 |edition = |publisher = 日本放送出版協会|ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author= 遠藤三郎先生を偲ぶ会 |title=追想遠藤三郎 |date=1990-06 |publisher=遠藤三郎先生を偲ぶ会|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 社団法人建設広報協議会 |title=建設省十五年小史 |date=1963-10-01 |publisher=建設省大臣官房広報室|ref=harv}}
;論文・レポート
* 『高速道路と自動車』
** {{Cite journal|和書|author =平野和男 |date = 1966-01|title = わが国の高速道路建設計画 |journal = 高速道路と自動車|volume = 9 |issue = 1 |pages = 41-45|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =公益財団法人高速道路調査会(1966-4) |date = 1966-04|title = 資料 日本道路公団の10年 |journal = 高速道路と自動車|volume = 9 |issue = 4 |pages = 76-80 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =山下静一 |date = 1966-06|title = 高速道雑感 |journal = 高速道路と自動車|volume = 9 |issue = 6 |page = 29|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =岩井主蔵 |date = 1966-06|title = 幹線自動車道のネットワーク化とトラック輸送システムの変革 |journal = 高速道路と自動車|volume = 9 |issue = 6 |pages = 45-52|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =石井常雄 |date = 1966-11|title = 道路輸送の近代化とトラックターミナル |journal = 高速道路と自動車|volume = 9 |issue = 11 |pages = 43-50|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =浅井新一郎 |date = 1967-02|title = 新規着工高速道路の構造 |journal = 高速道路と自動車|volume = 10 |issue = 2 |pages = 35-39 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =日本道路公団広報課 |date = 1968-05|title = 口絵解説 東名高速道路 |journal = 高速道路と自動車|volume = 11 |issue = 5 |page = 72|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =公益財団法人高速道路調査会(1968-9) |date = 1968-09|title = 国内ニュース ロケットで振動実験 東名酒匂川橋の日本一高い橋脚で |journal = 高速道路と自動車|volume = 11 |issue = 9 |pages = 100-101|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =内山正雄・松本洋 |date = 1968-09|title = 解説 東名高速道路の道路景観処理の特色 |journal = 高速道路と自動車|volume = 11 |issue = 9 |pages = 46-51 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =松本洋 |year = 1968 |date = 1968-09|title = 随想 初めての高速道路建設こぼれ話 |journal = 高速道路と自動車|volume = 42 |issue = 7 |pages = 16-17 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =黒野平二 |date = 1969-09|title = 東名高速道路開通と名古屋地区路線トラック事業 |journal = 高速道路と自動車|volume = 12 |issue = 9 |page = 14|publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =ラルフ・J・ワトキンス |date = 1969-09|title = 名神・東名高速道路の歴史と低開発国の交通問題|journal = 高速道路と自動車|volume = 12 |issue = 9 |pages = 41-48 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =大久保正行(1995-05) |date = 1995-05|title = プール制採用の経緯と料金制度の現況・課題(上)|journal = 高速道路と自動車|volume = 38 |issue = 5 |pages = 37-39 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =大久保正行(1995-06) |date = 1995-06|title = プール制採用の経緯と料金制度の現況・課題(下)|journal = 高速道路と自動車|volume = 38 |issue = 6 |pages = 34-36 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =日本道路公団東京第一管理局 |date = 1999-07|title = 東名高速道路30周年記念フォーラム ―東名 その役割と未来―|journal = 高速道路と自動車|volume = 42 |issue = 7 |pages = 37-40 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =倉沢真也 |date = 1988-12|title = 高速道路の渋滞対策|journal = 高速道路と自動車|volume = 31 |issue = 12 |pages = 44-49 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
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** {{Cite journal|和書|author =村上圭三 |year = 1981 |date = 1981-12|title = 論説 21世紀を開く第2東名・名神を |journal = 高速道路と自動車|volume = 24 |issue = 12 |pages = 7-17 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =荒牧英城 |date = 1992-03|title = 招待論文 第二東名・名神高速道路の計画と課題|journal = 土木学会論文集(No.444)|volume = 16 |issue = |pages = 1-9 |publisher = 土木学会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =公益財団法人高速道路調査会(1997-03) |date = 1997-03|title = 東名高速道路「横浜IC」の名称を変更 |journal = 高速道路と自動車|volume = 40 |issue = 3 |page = 75 |publisher = 公益財団法人高速道路調査会|ref = harv }}
* その他
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** {{Cite journal|和書|author =早川慎治・宮部光貴 |date = 2015-11-12|title = 新東名高速道路 愛知県区間お概要 浜松いなさJCT〜豊田東JCT |journal = プレストレストコンクリート|volume = 57 |issue = 6 |pages = 18-25 |publisher = プレストレストコンクリート技術協会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =門間俊幸 |date = 2009-01|title = 公平性の観点からみた中国地方の高速道路ネットワークの計画策定の経緯と検証 : 空間的応用一般均衡モデルを利用した帰着便益計測 |journal = 国土技術政策総合研究所資料|volume = 515 |issue = |pages = 1-43 |publisher = 国土交通省|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =宇佐美純二・夏目惣治・片山一弘 |date = 2007-02|title = 東名高速道路の集中工事における交通運用 大井松田〜御殿場間 下り線右ルートの反転運用 |journal = 建設の施工企画|volume = 684 |issue = |pages = 30-33 |publisher = 社団法人日本建設機械化協会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =今田保 |date = 2014-06|title = 巻頭企画 東海道新幹線開業50年に思う|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 6-12 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =渡辺智恵 |date = 2014-06|title = モデル線区とは|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 72-73 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =石原達也 |date = 2014-06|title = モデル線区電気施設の大要|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション28|volume = |issue = |pages = 74-77 |publisher = 鉄道図書刊行会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =高野務・斉藤義治 |date = 1961-11|title = 東海道幹線自動車国道の調査について|journal = 土木学会誌|volume = 46 |issue = 11 |pages = 15-18 |publisher = 土木学会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =樽井常忠 |date = 1961-11|title = 東海道幹線自動車国道の調査について|journal = 道路建設|volume = 167 |issue = |pages = 26-37 |publisher = 日本道路建設業協会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =片平信貴 |date = 1964-11|title = 東京~神戸間高速道路|journal = 土木学会誌|volume = 49 |issue = 11|pages = 30-34 |publisher = 土木学会|ref = harv }}
** {{Cite journal|和書|author =石井興良 |date = 1960-07-01|title = 東海道高速自動車道路について|journal = 道路 road engineering & management review|pages = 480-486 |publisher = 日本道路協会|ref = harv }}
;パンフレット
* {{Cite |和書|author = 中日本高速道路株式会社 |title = 東名高速道路全線開通50周年のあゆみ the course of history |year = 2019 |date = 2019-04 |edition = |publisher = 中日本高速道路株式会社 |isbn = |series = |ref = harv }}
== 関連項目 ==
{|
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* [[中部地方の道路一覧]]
* [[東海道]]
* [[東海道本線]]
* [[東海道新幹線]]
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* [[国鉄専用型式]]
* [[国道246号]]
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* [[東名高速夫婦死亡事故]]
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== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Tomei Expressway}}
* [https://www.c-nexco.co.jp/ ドライバーズサイト | 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本]
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高橋是清
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高橋 是清(たかはし これきよ、1854年9月19日〈嘉永7/安政元年閏7月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の政治家。日本銀行総裁。
立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任: 1921年〈大正10年〉11月13日 - 1922年〈大正11年〉6月12日)。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次()。
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺されたことでも知られる。
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)幕府御用絵師・川村庄右衛門ときんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ奉公していた。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き身重になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(後の明治学院)にて学び、1867年(慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での奴隷として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。
1868年(明治元年)、帰国する。帰国後の1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら佐賀の耐恒寮や須田学舎など当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(後の開成学園)を進学予備校として再起させ、その学校長も一時務めた。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省の官僚としても活躍、1884年(明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。1889年(明治22年)、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892年(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行。
日露戦争が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時香港上海銀行のロンドン支部長ユーウェン・キャメロン(英語版)(デーヴィッド・キャメロンの高祖父)らが公債発行に応じ、さらにジェイコブ・シフなどニューヨークの人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。1905年(明治38年)、貴族院議員に勅選。1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。
1913年(大正2年)、第1次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第4代総裁となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、清浦奎吾の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された第15回総選挙に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは有爵者には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党政友本党の対立候補田子一民に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、高橋を農商務相に任命。
その後、高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退するが、1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、史上初の国債の日銀引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論に』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。 五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。また1934年(昭和9年)に、共立学校出身に当たる岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に築地本願寺で営まれた。
※日付は1872年まで太陰太陽暦
かつて発行された日本の紙幣(日本銀行券)では、戦後の1951年(昭和26年)に発行が開始されたB五拾円券に肖像として採用されている(肖像画は是清の孫が所有していた写真を元にしており、服装を燕尾服から一般的な背広に差し替えたもの)。
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高橋 是清は、日本の政治家。日本銀行総裁。 立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣。栄典は正二位大勲位子爵。幼名は和喜次。 日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する財政家として知られることから、総理大臣としてよりも、大蔵大臣としての評価の方が高い。愛称は『ダルマさん』。二・二六事件で暗殺されたことでも知られる。
|
{{政治家
| 人名 = 高橋 是清
| 各国語表記 = たかはし これきよ
| 画像 = Korekiyo Takahashi 2.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = 肖像
| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1854年]][[9月19日]]<br>([[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]])
| 出生地 = {{JPN}}・[[武蔵国]][[江戸]]芝中門前町<br>(現:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝大門]])
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1854|9|19|1936|2|26}}
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[赤坂区]]<br>(現:東京都港区[[赤坂_(東京都港区)|赤坂]])
| 出身校 = [[ヘボン塾]]<br>(現:[[明治学院]])
| 前職 = [[武士]]([[仙台藩|仙台]][[藩士]])<br>[[官僚]]
| 所属政党 = [[立憲政友会]]
| 称号・勲章 = [[正二位]]<br> [[File:JPN Daikun'i kikkasho BAR.svg|38px]] [[大勲位菊花大綬章]] <br/> [[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|38px]] [[勲一等旭日大綬章]] <br>[[子爵]](1924年隠居)
| 親族(政治家) = [[高橋賢一]](孫)
| 配偶者 = 高橋里ゆう(先妻)<br>[[高橋品子]](後妻)
| 子女 = [[高橋是賢]](長男)<br>高橋是福(次男)<br>大久保和喜子(二女)
| サイン = TakahashiK kao.png
| 国旗 = JPN
| 職名 = 第20代 [[内閣総理大臣]]
| 内閣 = [[高橋内閣]]
| 就任日 = [[1921年]][[11月13日]]
| 退任日 = [[1922年]][[6月12日]]
| 元首職 = [[天皇]]
| 元首 = [[大正天皇]]
| 国旗2 = JPN
| 職名2 = 第16・21・28・31・33代 [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]
| 内閣2 = [[第1次山本内閣]]<hr />[[原内閣]]<br>高橋内閣(総理兼任)<hr />[[田中義一内閣]]<hr />[[犬養内閣]]<br>[[齋藤内閣]]<hr />[[岡田内閣]]
| 就任日2 = [[1913年]][[2月20日]]
| 退任日2 = [[1914年]][[4月16日]]<hr />[[1918年]][[9月29日]] - [[1922年]][[6月12日]]<hr />[[1927年]][[4月20日]] - 1927年[[6月2日]]<hr />[[1931年]][[12月13日]] - [[1934年]][[7月8日]]<hr />1934年[[11月27日]] - 1936年2月26日
| 国旗3 = JPN
| 職名3 = [[内閣総理大臣臨時代理|内閣総理大臣臨時兼任]]
| 内閣3 = [[犬養内閣]]
| 就任日3 = [[1932年]][[5月16日]]
| 退任日3 = 1932年[[5月26日]]
| 元首職3 = 天皇
| 元首3 = [[昭和天皇]]
| 国旗4 = JPN
| 職名4 = 初代 [[農林水産大臣|農林大臣]]<br>初代 [[商工省|商工大臣]]
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| 退任日4 = 1925年[[4月17日]]
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| 退任日6 = 1924年[[3月24日]]
}}
'''高橋 是清'''(たかはし これきよ、[[1854年]][[9月19日]]〈[[嘉永]]7/[[安政]]元年[[閏]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<ref>国立公文書館「特許局長兼東京農林学校長高橋是清臨時叙勲ノ件」明治22年10月25日の添付履歴書の記載「東京府士族旧仙臺藩 旧名和喜次/安政元年甲寅閏七月廿七日生」に依る。安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年とされた。</ref>〉 - [[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[2月26日]])は、[[日本]]の[[政治家]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85-18871 日本大百科全書(ニッポニカ)「高橋是清」]</ref>。[[日本銀行]][[総裁]]。
[[立憲政友会]]第4代総裁。第20代[[内閣総理大臣]](在任: [[1921年]]〈[[大正]]10年〉[[11月13日]] - [[1922年]]〈大正11年〉[[6月12日]])。[[栄典]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]][[子爵]]。[[幼名]]は{{読み仮名|和喜次|わきじ}}。
日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させたことで、近代日本を代表する[[財政家]]として知られることから、[[総理大臣]]としてよりも、[[大蔵大臣]]としての評価の方が高い。愛称は『'''ダルマさん'''』。[[二・二六事件]]で暗殺されたことでも知られる。
== 生涯 ==
[[1854年]][[9月19日]](嘉永7年閏7月27日)[[江戸幕府|幕府]]御用[[絵師]]・川村庄右衛門ときんの子として、[[江戸]]芝中門前町に生まれた。きんの父は芝白金で代々[[肴|魚]]屋を営んでいる三治郎という人で、家は豊かであったが、妻と離別していたので、きんは中門前町のおばのところへ預けられたこともあり、行儀見習いのために川村家へ[[奉公]]していた。庄右衛門の妻は庄右衛門の手が付き[[妊娠|身重]]になったきんに同情し、こっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させ、ときどき見舞って世話をしたという<ref>『高橋是清―{{small|財政家の数奇な生涯}}』7頁</ref>。是清は生後まもなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の[[養子]]になる。
その後、横浜のアメリカ人[[医師]][[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]の私塾である[[ヘボン塾]](後の[[学校法人明治学院|明治学院]])にて学び、[[1867年]]([[慶応]]3年)に藩命により、[[勝海舟]]の息子・[[勝小鹿|小鹿]]と海外へ留学した。しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、[[ユージン・ヴァン・リード]]<ref>(Eugene M. Van Reed)</ref>によって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先である彼の両親に騙され[[年季奉公]]<ref>([[:en:Indentured servant|Indentured servant]])</ref>の契約書にサインし、[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]のブラウン家に売られる。牧童や葡萄園での[[奴隷]]として扱われるが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていた<ref group="注釈">英語のIndentured servantはslaveとは区別される存在であり、「年季奉公人」と和訳されることが多いが、日本古来の年季奉公とは意味が異なり、期間限定の奴隷に等しい。そのため奴隷、あるいは年季奴隷と和訳されることも多い。高橋是清のことを記した著作物でも、この時期の高橋を境遇を「奴隷」と記すものが多々見られる。</ref>。いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗して[[ストライキ]]を試みるなど苦労を重ねる。この間、英語の会話と読み書き能力を習得する。
[[1868年]]([[明治]]元年)、帰国する。帰国後の[[1873年]](明治6年)、[[サンフランシスコ]]で知遇を得た[[森有礼]]に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。英語の教師もこなし、[[大学予備門]]で教える傍ら[[佐賀県|佐賀]]の耐恒寮や須田学舎など当時の[[予備校#進学予備校|進学予備校]]の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった[[開成中学校・高等学校|共立学校]](後の開成学園)を進学予備校として再起させ、その学校長も一時務めた。教え子には俳人の[[正岡子規]]やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・[[秋山真之]]がいる。その間、[[文部省]]、[[農商務省 (日本)|農商務省]]の官僚としても活躍、[[1884年]](明治17年)には農商務省の外局として設置された[[特許庁|特許局]]の初代[[特許庁長官|局長]]に就任し、日本の[[特許]]制度を整えた。[[1889年]](明治22年)、[[官僚]]としてのキャリアを中断して赴いた[[ペルー]]で銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、[[山口慎]]と苦労を分かつ。[[1892年]](明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、[[川田小一郎]]に声をかけられ、[[日本銀行]]に入行。
[[日露戦争]]が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役[[深井英五]]を伴い、戦費調達のために戦時[[外債]]の公募で同盟国の[[イギリス]]に向かった。投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、公債引受での軍費提供が[[中立]]違反となる懸念があった。それに対し、高橋は、
*この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は[[万世一系]]の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
*支払い能力は関税収入である。
*中立問題については米国の[[南北戦争]]中に中立国が公債を引き受けた事例がある。
と反論。関税担保において英国人を派遣して税関管理する案に対しては「日本国は過去に外債・内国債で一度も利払いを遅延したことがない」と拒絶した。交渉の結果、当時[[香港上海銀行]]の[[ロンドン]]支部長{{仮リンク|ユーウェン・キャメロン|en|Ewen Cameron (banker)}}([[デーヴィッド・キャメロン]]の高祖父)らが公債発行に応じ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20160613-4VI67DULYJMMJM7VMA6YKFVSII/ |title=日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった! 銀行家として高橋是清から真っ先に外債引き受け… |agency=[[産経ニュース]]|date=2016-06-13 |accessdate=2019-10-06}}</ref>、さらに[[ジェイコブ・シフ]]など[[ニューヨーク]]の人脈も外債を引き受け、公債募集は成功し、戦費調達が出来た。[[1905年]](明治38年)、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員に勅選。[[1911年]](明治44年)に日銀総裁に就任。
[[画像:Korekiyo Takahashi 5.jpg|thumb|left|高橋是清(1934年)]]
[[画像:Takahashi korekiyo giving an address.jpg|thumb|left|175px|6度目の大蔵大臣(1934~36年〔昭和10~11年〕)]]
[[1913年]]([[大正]]2年)、[[第1次山本内閣]]の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に就任、この時[[立憲政友会]]に入党する。政友会の[[原敬]]が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第20代[[内閣総理大臣]]に就任、同時に立憲政友会の第4代[[総裁]]となった。しかし高橋自身思わぬ総裁就任だったため、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。
政友会はその後も迷走し、[[清浦奎吾]]の[[超然内閣]]が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した[[床次竹二郎]]らは[[政友本党]]を結成し清浦の支持に回った。一方高橋率いる政友会は、[[憲政会]]および[[革新倶楽部]]と[[護憲三派]]を結成し、[[第二次護憲運動]]を起こした。これに対して清浦は衆議院解散に打って出たが、これにより告示された[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]に高橋は隠居して爵位を嫡男に襲わせた上で、原の選挙区だった盛岡の旧岩手1区から出馬することにした。爵位を譲ったのは[[華族|有爵者]]には衆議院議員としての被選挙権がなかったためもあるが、清浦内閣を「貴族院内閣」「特権内閣」などと攻撃する手前、その総裁が子爵のままではやはり都合が悪かったこともその背景にある。政友会の現総裁として、盟友だった前総裁の選挙区から出馬したいというのは高橋たっての願いだったが、高橋は与党[[政友本党]]の対立候補[[田子一民]]に予想外の苦戦を強いられた。結局高橋は49票の僅差で当選を勝ち取り<ref>望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)</ref><ref>衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年、20頁。</ref>、選挙は護憲三派の圧勝に終わった。清浦内閣はここに総辞職を余儀なくされる。
新たに総理大臣に就いた憲政会総裁の[[加藤高明]]は、高橋を農商務相に任命。
[[画像:Korekiyo Takahashi and Makoto Saito last pic together.jpg|thumb|right|200px|高橋と齋藤内府(右)
-----
{{small|ともに滞米経験がある高橋と斎藤は、個人的に親しい友人でもあった。画像は1936年2月20日、斎藤が蔵相官邸に高橋を訪れた際に撮影されたもの。この六日後に両者は悲劇的な最期をむかえる(→ 詳細は「[[二・二六事件]]」を参照)。}}]]
その後、高橋は政友会総裁を[[田中義一]]に譲り政界を引退するが、[[1927年]](昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生し、瓦解した[[第1次若槻内閣]]に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任した。高橋は日銀総裁となった[[井上準之助]]と協力し、支払猶予措置([[モラトリアム]])を行うと共に、片面だけ印刷した急造の[[二百円紙幣|200円札]]を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。
[[1931年]](昭和6年)、政友会総裁・[[犬養毅]]が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、[[金解禁|金輸出再禁止]]、史上初の国債の日銀引き受け(石橋湛山の提案があった)による政府支出の増額、[[時局匡救事業]]で、[[世界恐慌]]により混乱する日本経済を[[デフレーション|デフレ]]から世界最速で脱出させた。これはケインズが「有効需要の理論」に到達したのとほぼ同時期、『一般理論に』刊行の4年前であった。髙橋がケインズから直接影響を受けた可能性はないが、石橋湛山や深井英五という高度に訓練された革新的な相談相手を通し、間接的に影響を受けた可能性は高い。
[[五・一五事件]]で犬養が暗殺された際に総理大臣を[[内閣総理大臣臨時代理|臨時兼任]]している。続いて親友である[[斎藤実]]が組閣した際も留任。また[[1934年]](昭和9年)に、共立学校出身に当たる[[岡田啓介]]首班の[[岡田内閣|内閣]]にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率の[[インフレーション]]の発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた<ref>{{Cite book|和書|author=大谷健|year=1986|title=大蔵大臣の昭和史|publisher=ビジネス社|page=195|isbn=4828402667}}</ref>。軍事予算を抑制しようとしたことが[[軍部]]の恨みを買い、[[二・二六事件]]において、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、[[暗殺]]された。[[享年]]81。葬儀は陸軍の統制によって、1か月後に[[築地本願寺]]で営まれた。
== 年譜 ==
[[画像:高橋是清の少年時代.jpg|thumb|200px|渡米時代の高橋是清(写真右側)(1867年)]]
[[画像:Takahashi_family_photo_op.jpg|thumb|300px|衆議院議員選挙に初当選後に撮影した家族との記念写真(1924年)]]
※日付は1872年まで太陰太陽暦
*1854年([[嘉永]]7年)閏7月27日:[[江戸]]芝中門前町(現[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]])に[[江戸幕府|幕府]][[絵師]]川村庄右衛門の[[私生児]]として生まれ、間もなく[[仙台藩]]の[[足軽]]高橋覚治の家に[[里子]]に出され後[[養子]]となる。
*1864年([[元治]]元年):[[横浜市|横浜]]の[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]夫人家塾に学ぶ。
*1866年([[慶応]]2年):[[イギリス]]人[[アレクサンダー・アラン・シャンド|シャンド]]の[[ボーイ]]{{要曖昧さ回避|date=2021年10月}}となる。
*1867年(慶応3年):渡米し[[オークランド (カリフォルニア州)|オークランド]]で[[奴隷]]労働しながら勉強する。
*1869年(明治元年)旧暦12月:帰国し[[森有礼]]家の[[書生]]となる。
*1869年(明治2年)
**旧暦1月:[[大学校 (1869年)#大学南校|大学南校]]に入学。
**旧暦3月:大学南校教官三等手伝。
*1870年(明治3年)秋ごろ:放蕩生活に入り教官を辞める。
*1871年(明治4年):[[唐津藩]]の英語学校[[佐賀県立唐津東中学校・高等学校|耐恒寮]]の教員となる。この時の教え子に、[[辰野金吾]]、[[曽禰達蔵]]、[[大島小太郎]]、[[天野為之]]、[[掛下重次郎]]、[[田邊新之助]]らがいる。
*1872年(明治5年)秋:耐恒寮の教員を辞めて上京する。駅逓寮で翻訳の仕事をするが間もなく辞職。[[開成学校]]に入学する。
*1873年(明治6年)7月:[[文部省]][[視学制度|督学局]]十等出仕として[[ダビッド・モルレー|モーレー]]博士の通訳をする。
*1876年(明治9年)5月:[[外国語学校 (明治初期)#東京英語学校|官立東京英語学校]]教員に雇われる。
*1877年(明治10年)3月:東京英語学校教員を辞める。翻訳・予備校(共立学校)教師などをする。
*1878年(明治11年)9月:
*[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]]英語教員として雇われる。
*1881年(明治14年)
**4月:文部省御用掛に転じ大学予備門教員を兼務。
**5月:[[農商務省 (日本)|農商務省]]御用掛に転じる。
*1884年(明治17年)
**7月:任農商務権少書記官。
**10月:農商務省工務局商標登録所長。
*1885年(明治18年)
**4月:専売特許所長兼務。
**11月:商標登録専売特許制度視察のため欧米各国へ差遣。
*1887年(明治20年)12月:[[特許庁|特許局]]長。
*1889年(明治22年)
**3月15日:[[東京農林学校]]長兼任、叙奏任官二等<ref>『官報』第1712号「叙任及辞令」1889年3月18日。</ref>
**11月:[[ペルー]]のカラワクラ銀山経営のため横浜出帆。
*1890年(明治23年)
**1月:ペルーのカヤオ港着。
**2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
**3月:鉱山が廃坑であることが分かる。
**4月:帰国の途に就く。
*1892年(明治25年)6月:[[日本銀行]]建築所事務主任。
*1893年(明治26年)9月:日銀支配役・西部支店長。
*1895年(明治28年)8月:[[横浜正金銀行]]本店支配人。
*1897年(明治30年)3月:横浜正金銀行副頭取に就任。
*1899年(明治32年)2月:日本銀行副総裁に就任。
*1904年(明治37年)2月 [[日露戦争]]始まる。戦時公債募集のため渡米英。
*1905年(明治38年)
**1月29日:[[貴族院_(日本)|貴族院]]勅選議員に勅任<ref>『官報』第6474号、明治38年2月1日。</ref>。
**2月:戦時公債募集のため再渡英。
*1906年(明治39年)3月:日本銀行副総裁のまま横浜正金銀行頭取を兼任。
*1907年(明治40年)9月:公債募集の勲功により[[男爵]]授爵。
*1911年(明治44年)6月:日本銀行総裁に就任。
*1913年(大正2年)2月:[[第1次山本内閣|第一次山本内閣]]の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に就任。[[立憲政友会]]入党。
*1914年(大正3年)4月:第一次山本内閣総辞職。
*1918年(大正7年)9月:[[原内閣]]の大蔵大臣に就任(2度目)。
*1920年(大正9年)9月:[[子爵]]陞爵。
*1921年(大正10年)11月:原総理暗殺により後継の[[内閣総理大臣]]に就任し、大蔵大臣を兼任(3度目)。政友会総裁となる。
*1922年(大正11年)6月:[[高橋内閣]]総辞職。
*1924年(大正13年)
** 3月:貴族院議員を辞職。爵位を長男・是賢に譲って「隠居」。
** 5月:[[岩手県]][[盛岡市]]の[[原敬]]の旧選挙区から[[第15回衆議院議員総選挙|衆議院議員選挙]]に立候補し当選。
** 6月: [[加藤高明内閣]]の[[農商務省 (日本)|農商務大臣]]に就任。
* 1925年(大正14年)4月:農商務省の分割再編にともない[[農林水産大臣|農林大臣]]兼[[商工省|商工大臣]]に横滑り。約2週間後両大臣を依願免職。政友会総裁を[[田中義一]]に譲る。
*1927年(昭和2年)
**3月:[[金融恐慌]]始まる。
**4月:[[田中義一内閣]]の大蔵大臣に就任(3度目)、3週間の[[モラトリウム|支払猶予]]を認める[[緊急勅令]]渙発と大量の紙幣増発で恐慌を沈静化させる。
** 6月:金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願免職。
*1931年(昭和6年)12月:[[犬養内閣]]の大蔵大臣に就任(4度目)。
*1932年(昭和7年)5月:犬養総理暗殺([[五・一五事件]])により内閣総理大臣を10日間臨時兼任。[[斎藤内閣]]の大蔵大臣に留任(5度目)。
*1934年(昭和9年)
**7月:斎藤内閣総辞職、[[岡田内閣]]発足。[[大蔵次官|次官]]の[[藤井真信]]を大蔵大臣に推す。
** 11月:藤井が肺気腫で倒れ辞任、その後任として大蔵大臣に就任(6度目)。
[[File:The old house of TAKAHASHI Korekiyo at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|[[江戸東京たてもの園]]に移築復元された高橋是清邸の母屋。この2階の寝室で暗殺された。]]
*1936年(昭和11年)2月26日:赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される([[二・二六事件]])。享年83(満81歳没)。墓所は[[多磨霊園]]。
== 栄典・授章・授賞 ==
;位階
* [[1884年]](明治17年)[[8月30日]] - [[正七位]]<ref>『官報』第354号「叙任及辞令」1884年9月1日。</ref>
* [[1885年]](明治18年)[[12月16日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第740号「賞勲叙任」1885年12月17日。</ref>
*[[1900年]](明治33年)[[6月6日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第5077号「叙任及辞令」1900年6月7日。</ref>
*[[1905年]](明治38年)[[2月7日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第6480号「叙任及辞令」1905年2月8日。</ref>
*[[1913年]](大正2年)[[2月28日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第174号「叙任及辞令」1913年3月1日。</ref>
*[[1919年]](大正8年)[[9月30日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第2148号「叙任及辞令」1919年10月1日。</ref>
* [[1924年]](大正13年)[[10月15日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第3646号「叙任及辞令」1924年10月16日。</ref>
*[[1934年]](昭和9年)[[5月1日]] - [[従二位]]<ref>『官報』第2205号「叙任及辞令」1934年5月11日。</ref>
*[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]] - [[正二位]]<ref name="名前なし-1">『官報』第2747号「叙任及辞令」1936年3月2日。</ref>
;勲章など
*[[1889年]](明治22年)
**[[10月25日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]<ref>『官報』第1901号「叙任及辞令」1889年10月29日。</ref>
**[[11月29日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|大日本帝国憲法発布記念章]]<ref>『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。</ref>
* [[1902年]](明治35年)[[12月28日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。</ref>
*[[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]
*[[1907年]](明治40年)[[9月23日]] - [[男爵]]<ref>『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。</ref>。
*[[1911年]](明治44年)[[8月24日]] - [[賞杯|金杯一組]]<ref>『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。</ref>
*[[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
*[[1920年]](大正9年)[[9月7日]] - [[子爵]]・[[勲一等旭日大綬章|旭日大綬章]]<ref>『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>
*[[1921年]](大正10年)[[7月1日]] - [[記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>
*[[1927年]](昭和2年)[[6月3日]] - [[勲一等旭日大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第128号「叙任及辞令」1927年6月4日。</ref>
*[[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref>
*[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="名前なし-1"/>
;外国勲章佩用允許
{|class="wikitable"
!受章年!!国籍!!略綬!!勲章名!!備考
|-
|[[1908年]](明治41年)[[4月1日]]
|{{KOR1897}}
|
|勲一等[[太極章]]<ref>『官報』第7437号「叙任及辞令」1908年4月15日。</ref>
|
|-
|[[1922年]](大正11年)[[2月7日]]
|{{FRA1870}}
|[[画像:Legion Honneur GC ribbon.svg|70px]]
|[[レジオンドヌール勲章]]グランクロワ<ref>『官報』第2854号「叙任及辞令」1922年2月8日。</ref>
|
|-
|[[1924年]](大正13年)[[7月3日]]
|{{FRA1870}}
|[[画像:Legion Honneur GC ribbon.svg|70px]]
|[[レジオンドヌール勲章]]グランクロワ<ref>『官報』第3560号「叙任及辞令」1924年7月5日。</ref>
|2回目
|-
|[[1923年]](大正12年)[[8月24日]]
|{{POL1918}}
|
|[[ポーランド復興勲章|グランクロアオドロゼニアポルスキー勲章]]<ref>『官報』第3325号「叙任及辞令」1923年8月29日。</ref>
|
|}
== 家族・親族 ==
=== 川村家 ===
:是清の生家川村家は代々[[狩野派]]の[[絵師]]で八世庄右衛門守房の代になっては、江戸本丸の御屏風係を務め、芝の露月町(ろげつちょう)に屋敷を構えていた。是清の実父庄右衛門はでっぷり太った、性格の明るい、非常に責任感の強い人だったらしく、職務に精励したので、のちに身一代三人扶持にとりあげられている。[[明治維新]]後は深川閻魔堂橋側に[[団子]]店をだした。是清の生母きんは、やがて浜松町の塩物屋に嫁いで女の子を生んだが、二十四歳で死んだという<ref>[[大島清 (筑波大学)|大島清]]著『高橋是清―{{small|財政家の数奇な生涯}}』7-9頁</ref>。
=== 高橋家 ===
[[画像:Korekiyo Takahashi with his grandchildren.jpg|thumb|right|200px|[[葉山町|葉山]]の別邸で孫たちとくつろぐ高橋 (1935年8月)]]
*先妻:里ゆう - 西郷利右衛門の娘。2男を生んだ後、1884年(明治17年)に死別。
*後妻:[[高橋品子|しな]](品子) - 原田金左衛門の長女。
*長男:[[高橋是賢]] - 実業家・貴族院子爵議員
*次男:高橋是福 - [[横浜商業学校]]卒業後渡米、[[三井物産]]を経て[[大連]]で貿易業を始めるも閉鎖、帰国後[[日本酸素]]役員、[[帝都座]]社長。岳父に貿易商の[[守安瀧三郎]]。妻の甥に[[守安祥太郎]]。相婿に[[岡崎久次郎]]。岡崎の弟に外務大臣[[岡崎勝男]]。<ref>[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-13292 高橋是福]『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]</ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907399/38 高橋是福氏]『時と人』渡部静江 著 (新声社, 1920)</ref>
*二女:和喜子 - [[明治時代|明治]]の元勲[[大久保利通]]の八男・利賢に嫁ぐ。和喜子の息子が[[ロッキード事件]]で有罪判決を受けた[[丸紅]]専務の[[大久保利春]]である。
*孫:[[高橋賢一]] - 長男・是賢の長男。[[農林省 (日本)|農林省]]で[[官僚]]を務めたのち[[北海道議会]]議員となり、議長も務めた。他方で是清が[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]に創業した[[高橋農場 (北海道伊達市)|高橋農場]]の3代目場主として農場を[[サラブレッド]][[競走馬]]の牧場に転換し、[[1977年]](昭和52年)の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬の[[ラッキールーラ]]などを生産した。
*孫:[[高橋豊二]] - 是賢の次男。[[東京大学運動会ア式蹴球部|東京帝国大学ア式蹴球部(サッカー部)]]に所属し、[[1936年]](昭和11年)の[[1936年ベルリンオリンピックのサッカー競技|ベルリンオリンピック・サッカー競技]]に出場した[[サッカー日本代表|日本代表]]に名を連ねた。
*孫:伊藤福子 - 次男・是福の次女。初代内閣総理大臣[[伊藤博文]]の養孫・[[伊藤博精|博精]]に嫁いでいる。
*曾孫:千家文子 - 孫・福子の娘。[[出雲国造|出雲国造家]]の千家達彦に嫁いでいる。
== 著作 ==
*『高橋是清 山県有朋 経済問題論争』
*:(口述記録 高橋是清・[[山縣有朋]]、[[千倉書房]]、1911年、再刊1936年)
*『立身の径路』(丸山舎書籍部、1912年)
**『高橋是清―立身の経路』([[日本図書センター]]<人間の記録>、1999年)、ISBN 978-4820543275
*『処世一家言 半生の体験』(今日の問題社、1936年)
*『半生の体験 世に処する道』(今日の問題社、1936年)
*『随想録』([[上塚司]]編、千倉書房、1936年)
**『高橋是清 随想録』(上塚司編、本の森、1999年)、ISBN 978-4938965150
**『随想録』(解説[[井上寿一]]、[[中央公論新社]]〈[[中公クラシックス]]〉、2010年11月/[[中公文庫]]、2018年4月)
*『[[高橋是清自伝]]』(上塚司編、千倉書房、1936年)
**『[[高橋是清自伝]]』(上塚司編、中公文庫(上下)、1976年、改版2018年3月)
*: 上巻 ISBN 978-4122065659、下巻 ISBN 978-4122065666
**『高橋是清伝』(高橋是清口述・上塚司筆録、矢島裕紀彦現代語訳、[[小学館]]地球人ライブラリー、1997年)
*『高橋是清 経済論』(上塚司編、千倉書房、1936年)
**『経済論』(中央公論新社〈中公クラシックス〉、2013年12月)、ISBN 978-4121601452
*『国策運用の書』(山崎源太郎編、斗南書院、1936年)
**『高橋是清の日本改造論―“デフレ大恐慌”のいま、死中に活路を見い出す』
*: (山崎源太郎編、矢島裕紀彦・再々編、[[青春出版社]]、1998年)、ISBN 978-4413031240
*『是清翁遺訓 日本国民への遺言』(大久保康夫編)
:([[三笠書房]]、1936年、小冊子版、1938年/皇文社、1938年)
== 関連作品 ==
; 小説
*[[南條範夫]]『奴隷から宰相へ 高橋是清』新人物往来社、1967年。新版「達磨宰相・高橋是清」PHP文庫、1989 年
*[[松浦行真]]『熱い嵐 高橋是清の生涯』[[集英社]]、1979年。TBSドラマ原作小説
*長野広生『波瀾万丈 高橋是清 その時代』東京新聞出版局(上下)、1979年
*[[津本陽]] 『生を踏んで恐れず 高橋是清の生涯』 [[幻冬舎]]、1998年/幻冬舎文庫、2002年
**『人生を逆転させた男 高橋是清』PHP文芸文庫、2017年
*[[高橋義夫]]『高橋是清と[[井上準之助]]』学陽書房・人物文庫、2005年
*片岡英『赤と白 小説高橋是清』 文芸社、2009年
*[[三橋貴明]]『コレキヨの恋文』[[小学館]]、2012年、ISBN 978-4093863261
*[[幸田真音]]『天佑なり 高橋是清・百年前の日本国債』(上下)。[[角川書店]]、2013年/角川文庫、2015年。2011年から『[[中日新聞]]』・『[[東京新聞]]』系列で連載
;映画
*『高橋是清自伝』(1936年)演:[[岡譲司]](青年・壮年期)、[[山本嘉一]](老年期)
*『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年)演:[[明石潮]]
*『[[動乱 (映画)|動乱]]』(1980年)演:[[野口元夫]](役名は「蔵相」)
*『[[226 (映画)|226]]』(1989年)演:[[小田部通麿]]
*『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)演:[[金子達]]
*『[[TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男]]』(2011年)演:[[井村英俊]]
;テレビドラマ
*『燃えよ!ダルマ大臣 高橋是清伝』(1976年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ)演:[[嵯峨善兵]]
*『[[風が燃えた]]』(1978年、[[TBSテレビ|TBS]])演:[[天田俊明]]
*『[[熱い嵐]]』(1979年、TBS)[[国広富之]](青年期 - ペルーでの銀山開発失敗、日銀入りまで)、[[森繁久彌]](壮年期 - 日銀総裁以降)[https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0647/][http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-17047]
*『[[二百三高地#テレビドラマ|二百三高地 愛は死にますか]]』(1981年、TBSドラマ)演:[[長門勇]]
*『[[山河燃ゆ]]』(1984年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]])演:[[入江正夫]]
*『[[落日燃ゆ]]』(2009年、[[テレビ朝日]]開局50周年記念ドラマスペシャル)演:[[神山繁]]
*『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』(2009年-2011年、NHKスペシャルドラマ)演:[[西田敏行]]
*『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』(2015年、NHK放送90年ドラマ)演:[[オダギリジョー]]
*『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』(2019年、NHK大河ドラマ)演:[[萩原健一]]
*『[[前田正名 龍馬が託した男]]』(2019年、[[鹿児島テレビ]])演:[[河相我聞]]
*『[[倫敦ノ山本五十六]]』(2021年、NHK)演:[[山本學]]
== 紙幣の肖像 ==
かつて発行された日本の紙幣([[日本銀行券]])では、戦後の[[1951年]](昭和26年)に発行が開始された[[五十円紙幣#B号券|B五拾円券]]に肖像として採用されている(肖像画は是清の孫が所有していた写真を元にしており、服装を燕尾服から一般的な背広に差し替えたもの)。
[[ファイル:Series B 50 Yen Bank of Japan note - front.jpg|右|240px|thumb|表面]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*[[大島清 (筑波大学)|大島清]] 『高橋是清 ― {{small|財政家の数奇な生涯}}』 [[中央公論新社#沿革|中央公論社]][[[中公新書]]]、1969年、復刊1999年
*北脇洋子『棺を蓋いて事定まる―高橋是清とその時代』[[東洋経済新報社]]、1999年
*[[松元崇]]『大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清』[[中央公論新社]]、2009年/中公文庫、2012年
*リチャード・J・スメサースト『高橋是清―日本のケインズ その生涯と思想』<br> 鎮目雅人・早川大介・大貫摩里訳、[[東洋経済新報社]]、2010年
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Takahashi Korekiyo}}
* [[山口慎]] ‐ 東京英語学校教師時代からの友でペルーへ同行し、その顛末を『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12894783 白露日記]』に残す。上塚司編『高橋是清自伝』(中公文庫)に「忘れ得ぬ人山口慎君のこと」の項がある。
* [[明六社]]
* [[財務官 (日本)|財務官]] - 帝国憲法下では「政府財政委員」(初代)
* [[佐々木多門]] - 高橋の政策顧問。心を許す人物で、高橋の海外要人への手紙を代筆した。
* [[水田三喜男]] - 高度経済成長期に大蔵大臣を数度務めた。その経済手腕から「戦前は高橋是清、戦後は水田三喜男」と評された。
* [[宮澤喜一]] - 高橋同様、総理退任後数度にわたって大蔵大臣・財務大臣に就任、「平成の高橋是清」と呼ばれた。
* [[ジェイコブ・シフ]] - 高橋を世話した銀行家「クーン・ローブ商会」
* [[江戸東京たてもの園]] - 殺害現場ともなった私邸が移築保存されている。
== 外部リンク ==
* [http://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai07.htm 第7代総裁:高橋是清] - 日本銀行
* [http://www3.boj.or.jp/shimonoseki/kengaku/korekiyo.html 高橋是清経歴]
* [https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/shodai-choukan.html 初代特許庁長官高橋是清について]
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_ko.html 高橋是清の墓]
* {{青空文庫著作者|867}}
* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/takahashikorekiyo1.html 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(所蔵)]
* [https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/takahashikorekiyo2.html 国立国会図書館 憲政資料室 高橋是清関係文書(MF:首都大学東京図書情報センター蔵)]
* {{NHK放送史|D0009060034_00000|「朝礼訓話」高橋是清蔵相}}
* {{Kotobank}}
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14,833 |
発散定理
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発散定理(はっさんていり、英語: divergence theorem)は、ベクトル場の発散を、その場によって定義される流れの面積分に結び付けるものである。
ガウスの定理(ガウスのていり、英語: Gauss' theorem)とも呼ばれる。
1762年にジョゼフ=ルイ・ラグランジュによって発見され、その後カール・フリードリヒ・ガウス(1813年)、ジョージ・グリーン(1825年)、ミハイル・オストログラツキー(1831年)によって、それぞれ独立に再発見された。オストログラツキーは、またこの定理に最初の証明を与えた人物でもある。
数式を用いて述べると次のようになる。まず、R で定義された滑らかなベクトル場 F = ( F 1 , F 2 , F 3 ) {\displaystyle {\boldsymbol {F}}=(F_{1},F_{2},F_{3})} に対して F の発散 div F を
と定義する。発散は∇(ナブラ;nabla)を用いると,
と表され,ベクトルの内積(ドット積)となる.
V を R において滑らか(ここでは C 級でよい)な境界 ∂V をもつ有界な領域(= 連結開集合)とし、F を V の閉包で定義されている滑らかなベクトル場とすると、
が成り立つ。ここで、n は V の外向き単位法ベクトルとする。なお、定理が成り立つためには ∂V が区分的に C 級であれば十分である。
この定理は div という演算が発散(あるいは湧出量)と呼ばれる所以でもある。右辺はベクトル場が領域 V の表面から流出する量であり、それが左辺の表す領域全体でのベクトル場の発散の値の積分に等しいことを表している。
この定理は、一般的なストークスの定理から導くことができる。
発散定理は、以下のように一般化されたストークスの定理において、2次微分形式のωを考えた場合に相当する。
ここでωは
であり、その外微分は次式で与えられる。
発散定理を電磁気学に応用して、電荷から湧き出す電場についてのガウスの法則を数学的に記述できる(⇒マクスウェルの方程式)。
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] |
発散定理は、ベクトル場の発散を、その場によって定義される流れの面積分に結び付けるものである。 ガウスの定理とも呼ばれる。
|
{{calculus}}
'''発散定理'''(はっさんていり、{{lang-en|divergence theorem}})は、[[ベクトル場]]の[[発散 (ベクトル解析)|発散]]を、その場によって定義される流れの[[面積分]]に結び付けるものである。
'''ガウスの定理'''(ガウスのていり、{{lang-en|Gauss' theorem}})とも呼ばれる。
==発見==
[[1762年]]に[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]によって発見され、その後[[カール・フリードリヒ・ガウス]](1813年)、[[ジョージ・グリーン]](1825年)、[[ミハイル・オストログラツキー]](1831年)によって、それぞれ独立に再発見された<ref>
C. F. Gauss, [https://books.google.co.jp/books?id=MDE4AAAAMAAJ&oe=UTF-8&redir_esc=y Allgemeine Lehrsätze in Beziehung auf die im verkehrten Verhältnisse des Quadrats der Entfernung wirkenden Anziehungs- und Abstossungs-kräfte], ''Res. Beob. magn. Vereins'' '''4''', 1, 1840</ref>{{refnest|group="注"|オストログラツキーは発散定理を1828年にパリで口頭報告しているものの、その内容は公刊されず、1831年の[[サンクトペテルブルク]]での学会報告のみが残されている<ref>M. Ostorgradsky, Note sur la théorie de la chaleur, ''Mém. Acad Sci. St.-Pétersb''. '''1''', 129, 1831; Deuxième note sur la théorie de la chaleur, ''ibid''. '''1''', 123,1831</ref>。}}。オストログラツキーは、またこの定理に最初の証明を与えた人物でもある。
==定理の内容==
数式を用いて述べると次のようになる。まず、'''R'''<sup>3</sup> で定義された[[滑らかな関数|滑らか]]なベクトル場 <math>\boldsymbol{F}=(F_1,F_2,F_3)</math> に対して ''F'' の'''発散''' div ''F'' を
:<math>\operatorname{div}\boldsymbol{F}:=
\frac{\partial F_1}{\partial x}+
\frac{\partial F_2}{\partial y}+
\frac{\partial F_3}{\partial z}</math>
と定義する。発散は∇([[ナブラ]];nabla)を用いると,
:<math>\operatorname{div}\boldsymbol{F}=\boldsymbol{\nabla}\cdot\boldsymbol{F}</math>
と表され,ベクトルの内積([[ドット積]])となる.
''V'' を '''R'''<sup>3</sup> において滑らか(ここでは ''C''<sup>1</sup> 級でよい)な境界 ∂''V'' をもつ有界な領域(= 連結[[開集合]])とし、''F'' を ''V'' の[[閉集合|閉包]]で定義されている滑らかなベクトル場とすると、
:<math>
\iiint_V \operatorname{div} \boldsymbol{F}\,\mathrm{d}x\,\mathrm{d}y\,\mathrm{d}z=
\iint_{\partial V} \boldsymbol{F}\!\cdot\!\boldsymbol{n}\,\mathrm{d}S</math>
が成り立つ。ここで、''n'' は ''V'' の外向き単位法ベクトルとする。なお、定理が成り立つためには ∂''V'' が区分的に ''C''<sup>1</sup> 級であれば十分である。
この定理は div という演算が発散(あるいは''湧出量'')と呼ばれる所以でもある。右辺はベクトル場が領域 ''V'' の表面から流出する量であり、それが左辺の表す領域全体でのベクトル場の発散の値の積分に等しいことを表している。
この定理は、一般的な[[ストークスの定理]]から導くことができる。
==一般化されたストークスの定理との対応==
発散定理は、以下のように[[一般化されたストークスの定理]]において、[[微分形式|2次微分形式]]のωを考えた場合に相当する。
:<math>
\int_{\partial V} \omega = \int_V \mathrm{d}\omega
</math>
ここでωは
:<math>
\omega:= F_1\mathrm{d}y \wedge \mathrm{d}z + F_2 \mathrm{d}z \wedge \mathrm{d}x +F_3 \mathrm{d}x \wedge \mathrm{d}y
</math>
であり、その[[外微分]]は次式で与えられる。
:<math>
\mathrm{d} \omega :=
\biggl ( \frac{\partial F_1}{\partial x} + \frac{\partial F_2}{\partial y} + \frac{\partial F_3}{\partial z}
\biggr ) \mathrm{d}x \wedge \mathrm{d}y \wedge \mathrm{d}z
</math>
==応用==
発散定理を[[電磁気学]]に応用して、[[電荷]]から湧き出す[[電場]]についての[[ガウスの法則]]を数学的に記述できる(⇒[[マクスウェルの方程式]])。
: <math> \oint_S \boldsymbol{E} \cdot \mathrm{d} \boldsymbol{S} = \frac{Q}{\varepsilon _0} = \frac{1}{\varepsilon _0} \int_V \rho\, \mathrm{d} V </math> 積分形表現
:<math> \operatorname{div} \boldsymbol{E} = \frac{\rho}{\varepsilon _0}</math> 微分形表現(静電場のガウスの発散定理)
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
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===出典===
{{reflist}}
==参考文献==
* [[太田浩一]] 『マクスウエル理論の基礎 相対論と電磁気学』[[東京大学出版会]](2002年)ISBN 978-4130626040
==関連項目==
{{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}}
{{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}}
*[[グリーンの定理]]
*[[ケルビン・ストークスの定理]]
*[[ストークスの定理]]
*[[ベクトル解析の公式の一覧]]
{{DEFAULTSORT:はつさんていり}}
[[Category:ベクトル解析]]
[[Category:微分積分学の定理]]
[[Category:ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]
[[Category:カール・フリードリヒ・ガウス]]
[[Category:ミハイル・オストログラツキー]]
[[Category:数学のエポニム]]
[[Category:数学に関する記事]]
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14,835 |
Transistor-transistor logic
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Transistor-transistor-logic (TTL) はバイポーラトランジスタと抵抗器で構成されるデジタル回路の一種。論理ゲート段(例えばANDゲート)と増幅段のどちらの機能もトランジスタを使って実装しているので、(RTLやDTLとの対比で)このように呼ばれている。
半導体を用いた論理回路の代表的なもののひとつであり、通常+5V単一電源のモノリシック集積回路 (IC) ファミリとして、コンピュータ、産業用制御機械、測定機器、家電製品、シンセサイザーなど様々な用途で使われている。TTLという略称は、TTL互換の論理レベルの意味で使われることもあり、TTL ICとは直接関係ないところでも使われている。例えば電子機器の入出力のラベルなどに表示することがある。
DTLの改良品であり、さまざまなメーカーによってICが製造されているが、1970年代にテキサス・インスツルメンツ社(以下 TI, Texas Instruments)の汎用ロジックICファミリ(7400シリーズ)が広く普及して業界標準となった。標準シリーズから、高速版、低消費電力版、高速・低消費電力版などのバリエーションを広げ、初期のマイクロプロセッサの応用の広がりとともにさらに普及した。しかし、バイポーラトランジスタを使うため、低消費電力化・高集積化・低電圧化には向かず、CMOS技術の発達に伴いデジタルICの主力の座をCMOSに譲った。
1961年、TRWの James L. Buie が「新たに開発する集積回路の設計技術に特に適した」ものとして発明。当初は transistor-coupled transistor logic (TCTL) と名付けられていた。最初に製品化されたTTLのICチップは、1963年にシルヴァニア・エレクトリック・プロダクツ が製造したもので Sylvania Universal High-Level Logic family (SUHL) と名付けられた。シルバニア製の電子部品はフェニックス・ミサイルの制御に使われた。TIが軍用規格(動作を保証する温度範囲が広い)の5400シリーズICを1964年に発売し、民生用規格でパッケージもプラスチックにした7400シリーズICを1966年に発売すると、TTLは電子システム設計で広く使われるようになっていった。
TIの7400ファミリは業界標準となった。モトローラ、AMD、フェアチャイルド、インテル、インターシル、シグネティクス、ムラード、シーメンス、SGS-Thomson、ナショナル セミコンダクターといった半導体企業が7400ファミリ互換のICを製造した。単に互換TTL部品を各社が製造しただけではなく、他の回路技術を使った互換部品も製造された。ただしIBMは他とは互換性のないTTL部品を製造し、社内でSystem/38、IBM 4300、IBM 3081といった製品に使用していた。なお、54シリーズと74シリーズの中間的な位置付けの製品として、64シリーズも存在し、数年間は製造されたがその後廃止となっている。
"TTL" という略称はバイポーラ汎用ロジックICのその後の世代にも約20年にわたって使われ続け、速度や消費電力が改善されていった。最近のロジックICファミリである 74AS/ALS(アドバンストショットキー)は1985年に登場した。2008年時点でも、TIは様々な古い技術の汎用ロジックICを供給し続けているが、価格は以前より高くなっている。一般にTTLロジックICは数百個以上のトランジスタを集積していない。チップ当たりに搭載される機能は、数個の論理ゲートからビットスライス式のマイクロプロセッサの範囲である。TTLの重要な特徴はその低価格さであり、そのためにそれまでアナログ回路で実現していた機能が次々とデジタル化されていった。
パーソナルコンピュータの先祖の1つとされる Kenbak-1 はCPUをTTLで構成したもので、1971年当時マイクロプロセッサはまだ入手できなかった。1973年の Xerox Alto と1981年の Star ワークステーションはGUIを導入したことで知られているが、ALUやビットスライス単位のTTLチップを使って構成されていた。1990年代まで、多くのコンピュータはLSIの間をTTL互換ロジックで接続するという形で構成されていた。プログラマブルロジックデバイスなどが登場するまで、TTLに代表されるバイポーラ・ロジックICは開発中のマイクロアーキテクチャのプロトタイピングとエミュレーションに使われていた。
TTLはDTL (Diode-transistor logic) を自然に発展させたもので、基本概念は共通である。DTLで入力ダイオードで構成している論理ゲート部分をマルチエミッタ・トランジスタのベース-エミッタ接合を使って実現している。IC上のこの構造は、複数のトランジスタのベースとコレクタをまとめるように接続したのと同等である。単純なTTL論理ゲートの出力はDTLと同様にエミッタ接地回路で増幅される。
全入力にHI電圧 (1) が印加されると、マルチエミッタ・トランジスタのベース-エミッタ接合部に逆バイアスがかかる。このトランジスタは逆方向アクティブモードにあるため(コレクタとエミッタが逆転した状態)、DTLとは対照的に入力から小さい(約10μA)コレクタ電流が流れる。ベース抵抗と供給電圧の組み合わせは実質的に定電流源として機能する。マルチエミッタ・トランジスタのベース-コレクタ接合を通して電流が流れ、出力トランジスタのベース-エミッタ接合がONになる。したがって出力電圧は LO (0) になる。
一方の入力電圧がLO (0) になると、対応するマルチエミッタ・トランジスタのベース-エミッタ接合は2つの直列の接合部(マルチエミッタ・トランジスタのベース-コレクタ接合部と後段のトランジスタのベース-エミッタ接合部)と並列に繋がる。すると入力のベース-エミッタ接合部は出力トランジスタのベース電流を入力ソース(接地)に流れ込ませる。出力トランジスタのベース電流が遮断されることでスイッチが切れた状態になり、出力電圧はHI (1) になる。遷移の間、入力トランジスタはほぼアクティブ領域にある。そのため出力トランジスタのベース電流の大部分を流れなくし、素早くベースの電位を下げる。TTLがDTLに比べて優れているのは、このようにダイオードを使った入力段よりも高速に遷移する点である。
出力段の単純なTTLの短所は、出力がHI (1) のときの出力抵抗が高く、その値が完全に出力トランジスタのコレクタ抵抗で決まる点である。そのために接続可能な入力数(ファン・アウト)が制限される。単純な出力段の長所として、出力に負荷が接続されていないときに出力の "1" に対応する電圧が高い(VCC に近い)という点が挙げられる。
この種のロジックは出力トランジスタのコレクタ抵抗を省略し、オープンコレクタ出力とすることが多い。そうすると、いくつかの論理ゲートの出力を接続して外部に1つのプルアップ抵抗を用意するという設計が可能となり、ワイヤードANDまたはワイヤードORにすることができる。例えば 7401 や 7403 がそのような構成である。
単純な出力段では出力抵抗が高いという問題を解決するには、「トーテムポール」出力(プッシュプル出力)段を追加する。右図のように2つのNPNトランジスタ V3 と V4、ダイオード V5、電流を制限する抵抗器 R3 で構成される。入力がLOのときの電流の制御の考え方がこの構成でも適用されている。
V2 がオフのとき V4 もオフとなり、V3 がアクティブ状態となってコレクタ接地回路として働き、HI電圧 (1) が出力される。V2 がオンのとき V4 もオンとなり、出力はLO電圧 (0) となる。V2 と V4 のコレクタ-エミッタ接合は、直列の V3 のベース-エミッタ と V5 のアノード-カソード接合をV4 のベース-エミッタ接合と並列接続する。すると V3 のベース電流が流れなくなり、このトランジスタはオフになって出力に影響を与えなくなる。この遷移の際に抵抗器 R3 が直列接続されているトランジスタ V3 とダイオード V5、さらにトランジスタ V4 に流れる電流を制限する。また、出力電圧がHI (1) のときの出力電流も制限し、接地との短絡接続のときの出力電流も制限する。プルアップ抵抗とプルダウン抵抗を出力段から排除することで、消費電力を増大させずにゲートを強化できる。
トーテムポール出力段付きTTLの最大の利点は、HI (1) 出力の際の低出力抵抗である。その値はコレクタ接地回路として動作している上段の出力トランジスタ V3 によって決まる。抵抗器 R3 は V3 のコレクタに接続されており、負帰還によってその影響が補償されるため、出力抵抗にはほとんど影響しない。欠点は出力に負荷が接続されていない場合でも出力のHI電圧が低くなる(3.5V以下)という点である。これは、V3 のベース-エミッタ間と V5 のアノード-カソード間で電圧降下があるためである。
論理レベルを0にするには入力に向かって電流が流れなければいけないため、DTLと同様にTTLは「電流シンク・ロジック」といわれる。入力電圧がLOのとき、TTLの入力ソース電流は前段に流れ込むので、そちらで吸収されなければならない。この電流の最大値は基本的TTLゲートで約1.6mAである。入力ソースは、こうして流れ込む電流が無視できるレベル(0.8V未満)の電圧しか発生しないよう抵抗値を小さく(500Ω未満)する必要がある。推奨されない使い方だが、使わない入力を常に論理値 "1" にしておくためにどこにも接続しないままにしておくことがある。
標準TTL回路の電源電圧は5ボルトである。TTLの入力信号は接地に対して0Vから0.8VのときLOと定義され、2.2Vから5VのときHIと定義される(正確な電圧はロジックの種類や温度によっても異なる)。TTLの出力の電圧範囲はそれよりも狭く、0Vから0.4VがLO、2.6Vから5VがHIとなっていて、それぞれ0.4Vのノイズのための余裕がある。TTLの電圧レベルの規格化により、回路基板上に様々なメーカーのTTLチップが混在することが当たり前となった。同じ製品でも製造日が違えば異なるメーカーのTTLチップを使うことがあった。製造後何年も経った回路基板の修理に新たに製造された同型のTTLチップを使うことが可能である。電気的特性が広く統一されていたため、相性などを考慮する必要がなく、理想的な論理デバイスとして扱えた。
TTL論理ゲートの出力をCMOSゲートの入力に使用する場合など、トーテムポール出力段の論理レベル "1" の電圧を VCC に高めるために、出力ピンと VCC の間に外部抵抗器をはさんで接続することがある。ただしこのようにするとトーテムポール型の出力を単純な基本的TTL出力に戻していることになり、大きな出力抵抗が生じる。
1965年から1990年にかけての多くの集積回路と同様にTTLデバイスはスルーホール実装用にパッケージされた14ピンから24ピンのDIPが一般的だった。エポキシ樹脂製 (PDIP) が一般的だが、セラミック製 (CDIP) もある。大規模なハイブリッドIC向けにパッケージされていないビームリードつきのチップダイスも作られている。軍用や航空宇宙用には表面実装パッケージの一種であるフラットパック (en) でパッケージされている。今ではTTL互換デバイスの多くは表面実装型のパッケージであり、様々な種類がある。
TTLは全ての入力が1つのベース領域上に形成されるマルチエミッタ・トランジスタになっているため、構造的に集積回路に向いている。個別部品でTTL回路を構成しようとするとコストが高くつくが、ICで実装すると逆にコストが下がる。
TTLデバイスは一般に等価なCMOSデバイスに比べて消費電力が大きいが、CMOSデバイスがクロック周波数を上げると消費電力が大きくなるのに対して、TTLではそれほど増加しない。ECLに比べると消費電力が少なく設計も容易だが、スイッチング性能は低い。性能と経済性を両立させるためにTTLとECLを混在させてシステムを構築することもあったが、両ファミリの間にレベルを変換するデバイスを必要とした。初期のCMOSデバイスは静電気の放電に対してTTLより弱かった。
TTLデバイスの出力構造により、出力インピーダンスがHI状態とLO状態で異なるため、伝送線の駆動には不向きである。そのため、ケーブルなどで信号を送る際には伝送線駆動のための専用デバイスで出力をバッファリングするのが一般的である。ECLは出力インピーダンスが対称的であり、このような欠点がない。
トーテムポール構造の出力段の場合、上下のトランジスタが同時にONになる瞬間が存在し、電源からの電流がかなりのパルスとなって流れる。このパルスがIC間で影響を及ぼしあい、結果としてノイズマージンが低下し性能も低下する。TTLシステムでは1つか2つのICパッケージ毎にバイパスコンデンサを配置するのが一般的で、それによって電流パルスが他のチップの電源電圧を瞬間的に低下させないようにしている。
いくつかの製造業者は、TTL互換の入出力レベルのCMOSロジックICを販売しており、ピン配置などもTTLと合わせていることが多い。例えば74HCTシリーズはCMOSテクノロジーを使い、バイポーラの74シリーズの部品と置換可能である。
技術の進歩により、互換性を保ちながらスイッチング速度や消費電力を改良した部品が生まれた。各ベンダーはそれらをショットキーバリアダイオード付きのTTLとして製品化したが、例えばLSファミリなどの回路構成は実際にはDTLに近い。
標準TTLファミリでは、ゲート遅延が10ns、電力消費がゲート当たり10mWで、電力遅延積(PD積)またはスイッチングエネルギーが約100pJである。その派生および後継のファミリとしては次のものがある。
多くの製造業者が動作温度範囲が民生用のものとより広範囲な軍事用のものを製品化している。54シリーズはMIL規格、74シリーズは一般用の品質保証規格で製造販売される民生用である。例えば、TIの74シリーズは0°Cから75°Cまでとされているが、54シリーズは-55°Cから+125°Cまでとなっている。軍事用や航空宇宙用に特に品質を高めた高信頼部品もある。放射線耐性を高めたものもある。
基準とされる電圧レベル
VLSIが登場するまで、TTLのICチップを使ってミニコンピュータやメインフレームのプロセッサを構築するのが標準的技法だった。例えば、DECの初期のVAXやデータゼネラルのEclipseがそのような構成である。他にも数値制御の工作機械、プリンター、ビデオディスプレイ端末などで使われている。マイクロプロセッサが広まるとTTLは「グルーロジック」として重要になり、マザーボード上でVLSIで実装された機能ブロック間を繋ぐ役割を担うようになった。
元々はデジタル信号を扱うよう設計されているが、TTLのインバータはアナログ増幅器としても使える。出力と入力の間を抵抗器で繋ぐと、負帰還増幅回路として機能する。アナログ信号をデジタルに変換する場合などに使われるが、単にアナログの増幅を行う用途ではTTLインバータを使うことはない。TTLインバータは水晶振動子の信号増幅にも使われる。
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"text": "TTLデバイスは一般に等価なCMOSデバイスに比べて消費電力が大きいが、CMOSデバイスがクロック周波数を上げると消費電力が大きくなるのに対して、TTLではそれほど増加しない。ECLに比べると消費電力が少なく設計も容易だが、スイッチング性能は低い。性能と経済性を両立させるためにTTLとECLを混在させてシステムを構築することもあったが、両ファミリの間にレベルを変換するデバイスを必要とした。初期のCMOSデバイスは静電気の放電に対してTTLより弱かった。",
"title": "他の汎用ロジックICファミリとの比較"
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"text": "TTLデバイスの出力構造により、出力インピーダンスがHI状態とLO状態で異なるため、伝送線の駆動には不向きである。そのため、ケーブルなどで信号を送る際には伝送線駆動のための専用デバイスで出力をバッファリングするのが一般的である。ECLは出力インピーダンスが対称的であり、このような欠点がない。",
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"text": "トーテムポール構造の出力段の場合、上下のトランジスタが同時にONになる瞬間が存在し、電源からの電流がかなりのパルスとなって流れる。このパルスがIC間で影響を及ぼしあい、結果としてノイズマージンが低下し性能も低下する。TTLシステムでは1つか2つのICパッケージ毎にバイパスコンデンサを配置するのが一般的で、それによって電流パルスが他のチップの電源電圧を瞬間的に低下させないようにしている。",
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"text": "いくつかの製造業者は、TTL互換の入出力レベルのCMOSロジックICを販売しており、ピン配置などもTTLと合わせていることが多い。例えば74HCTシリーズはCMOSテクノロジーを使い、バイポーラの74シリーズの部品と置換可能である。",
"title": "他の汎用ロジックICファミリとの比較"
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"text": "技術の進歩により、互換性を保ちながらスイッチング速度や消費電力を改良した部品が生まれた。各ベンダーはそれらをショットキーバリアダイオード付きのTTLとして製品化したが、例えばLSファミリなどの回路構成は実際にはDTLに近い。",
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"text": "標準TTLファミリでは、ゲート遅延が10ns、電力消費がゲート当たり10mWで、電力遅延積(PD積)またはスイッチングエネルギーが約100pJである。その派生および後継のファミリとしては次のものがある。",
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"text": "多くの製造業者が動作温度範囲が民生用のものとより広範囲な軍事用のものを製品化している。54シリーズはMIL規格、74シリーズは一般用の品質保証規格で製造販売される民生用である。例えば、TIの74シリーズは0°Cから75°Cまでとされているが、54シリーズは-55°Cから+125°Cまでとなっている。軍事用や航空宇宙用に特に品質を高めた高信頼部品もある。放射線耐性を高めたものもある。",
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"text": "VLSIが登場するまで、TTLのICチップを使ってミニコンピュータやメインフレームのプロセッサを構築するのが標準的技法だった。例えば、DECの初期のVAXやデータゼネラルのEclipseがそのような構成である。他にも数値制御の工作機械、プリンター、ビデオディスプレイ端末などで使われている。マイクロプロセッサが広まるとTTLは「グルーロジック」として重要になり、マザーボード上でVLSIで実装された機能ブロック間を繋ぐ役割を担うようになった。",
"title": "用途"
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"text": "元々はデジタル信号を扱うよう設計されているが、TTLのインバータはアナログ増幅器としても使える。出力と入力の間を抵抗器で繋ぐと、負帰還増幅回路として機能する。アナログ信号をデジタルに変換する場合などに使われるが、単にアナログの増幅を行う用途ではTTLインバータを使うことはない。TTLインバータは水晶振動子の信号増幅にも使われる。",
"title": "用途"
}
] |
Transistor-transistor-logic (TTL) はバイポーラトランジスタと抵抗器で構成されるデジタル回路の一種。論理ゲート段(例えばANDゲート)と増幅段のどちらの機能もトランジスタを使って実装しているので、(RTLやDTLとの対比で)このように呼ばれている。 半導体を用いた論理回路の代表的なもののひとつであり、通常+5V単一電源のモノリシック集積回路 (IC) ファミリとして、コンピュータ、産業用制御機械、測定機器、家電製品、シンセサイザーなど様々な用途で使われている。TTLという略称は、TTL互換の論理レベルの意味で使われることもあり、TTL ICとは直接関係ないところでも使われている。例えば電子機器の入出力のラベルなどに表示することがある。 DTLの改良品であり、さまざまなメーカーによってICが製造されているが、1970年代にテキサス・インスツルメンツ社の汎用ロジックICファミリ(7400シリーズ)が広く普及して業界標準となった。標準シリーズから、高速版、低消費電力版、高速・低消費電力版などのバリエーションを広げ、初期のマイクロプロセッサの応用の広がりとともにさらに普及した。しかし、バイポーラトランジスタを使うため、低消費電力化・高集積化・低電圧化には向かず、CMOS技術の発達に伴いデジタルICの主力の座をCMOSに譲った。
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'''Transistor-transistor-logic''' (TTL) は[[バイポーラトランジスタ]]と[[抵抗器]]で構成される[[デジタル回路]]の一種。論理ゲート段(例えば[[ANDゲート]])と増幅段のどちらの機能もトランジスタを使って実装しているので、([[Resistor-transistor logic|RTL]]や[[Diode-transistor logic|DTL]]との対比で)このように呼ばれている。
[[半導体]]を用いた[[論理回路]]の代表的なもののひとつであり、通常+5V単一電源のモノリシック[[集積回路]] (IC) ファミリとして、[[コンピュータ]]、産業用制御機械、測定機器、家電製品、[[シンセサイザー]]など様々な用途で使われている。TTLという略称は、[[デジタル信号#ロジックレベル|TTL互換の論理レベル]]の意味で使われることもあり、TTL ICとは直接関係ないところでも使われている。例えば電子機器の入出力のラベルなどに表示することがある<ref>[[#CITEErin2003|Eren, H., 2003.]]</ref>。
DTLの改良品であり、さまざまなメーカーによってICが製造されているが、1970年代に[[テキサス・インスツルメンツ]]社(以下 TI, Texas Instruments)の[[汎用ロジックIC]]ファミリ(7400シリーズ)が広く普及して業界標準となった。標準シリーズから、高速版、低消費電力版、高速・低消費電力版などのバリエーションを広げ、初期の[[マイクロプロセッサ]]の応用の広がりとともにさらに普及した。しかし、バイポーラトランジスタを使うため、低消費電力化・高集積化・低電圧化には向かず、[[CMOS]]技術の発達に伴い[[デジタル回路|デジタルIC]]の主力の座をCMOSに譲った。
== 歴史 ==
[[ファイル:TexasInstruments 7400 chip, view and element placement.jpg|right|thumb|NANDゲートを4個集積した7400(1976年)]]
1961年、[[TRW]]の James L. Buie が「新たに開発する集積回路の設計技術に特に適した」ものとして発明。当初は ''transistor-coupled transistor logic'' (TCTL) と名付けられていた<ref name = "Buie">[[#CITEBuie1966|Buie, J., 1966.]]</ref>。最初に製品化されたTTLのICチップは、1963年に[[シルヴァニア・エレクトリック・プロダクツ]] が製造したもので Sylvania Universal High-Level Logic family (SUHL) と名付けられた<ref name="The Computer History Museum 2007">[[#CITEComputerHistoryMuseum2007|The Computer History Museum, 2007.]]</ref>。シルバニア製の電子部品は[[フェニックス (ミサイル)|フェニックス・ミサイル]]の制御に使われた<ref name="The Computer History Museum 2007"/>。TIが軍用規格(動作を保証する温度範囲が広い)の5400シリーズICを1964年に発売し、民生用規格でパッケージもプラスチックにした7400シリーズICを1966年に発売すると、TTLは電子システム設計で広く使われるようになっていった<ref>Bo Lojek,'' History of semiconductor engineering ''Springer, 2006 ISBN 3540342575,pages 212-215</ref>。
TIの7400ファミリは業界標準となった。[[モトローラ]]、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]、[[フェアチャイルドセミコンダクター|フェアチャイルド]]、[[インテル]]、[[インターシル]]、[[シグネティクス]]、[[ムラード社|ムラード]]、[[シーメンス]]、[[STマイクロエレクトロニクス|SGS-Thomson]]、[[ナショナル セミコンダクター]]<ref>[[#CITETI1973|Engineering Staff, 1973.]]</ref><ref>L.W. Turner,(ed), Electronics Engineer's Reference Book, 4th ed. Newnes-Butterworth, London 1976 ISBN 0-4-080-0168-2</ref>といった半導体企業が7400ファミリ互換のICを製造した。単に互換TTL部品を各社が製造しただけではなく、他の回路技術を使った互換部品も製造された。ただし[[IBM]]は他とは互換性のないTTL部品を製造し、社内で[[System/38]]、[[IBM 4300]]、[[:en:IBM 3081|IBM 3081]]といった製品に使用していた<ref>[[#CITEPittler1982|Pittler, Powers, and Schnabel 1982, 5]]</ref>。なお、54シリーズと74シリーズの中間的な位置付けの製品として、64シリーズも存在し、数年間は製造されたがその後廃止となっている。
"TTL" という略称は[[バイポーラトランジスタ|バイポーラ]]汎用ロジックICのその後の世代にも約20年にわたって使われ続け、速度や消費電力が改善されていった。最近のロジックICファミリ{{要出典|date=July 2009}}<!-- 74Fxx is still sold today, and was widely used at least till late 90s -->である 74AS/ALS(アドバンストショットキー)は1985年に登場した<ref>[[#CITETI1985|Texas Instruments, 1985]]</ref>。2008年時点でも、TIは様々な古い技術の汎用ロジックICを供給し続けているが、価格は以前より高くなっている。一般にTTLロジックICは数百個以上のトランジスタを集積していない。チップ当たりに搭載される機能は、数個の[[論理ゲート]]から[[ビットスライス]]式のマイクロプロセッサの範囲である。TTLの重要な特徴はその低価格さであり、そのためにそれまでアナログ回路で実現していた機能が次々とデジタル化されていった<ref>[[#CITELancaster1975|Lancaster, 1975]], preface.</ref>。
[[パーソナルコンピュータ]]の先祖の1つとされる [[Kenbak-1]] は[[CPU]]をTTLで構成したもので、1971年当時[[マイクロプロセッサ]]はまだ入手できなかった<ref>[[#CITEKlein2008|Klein, 2008.]]</ref>。1973年の [[Alto|Xerox Alto]] と1981年の [[Xerox Star|Star]] ワークステーションは[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を導入したことで知られているが、[[演算論理装置|ALU]]やビットスライス単位のTTLチップを使って構成されていた。1990年代まで、多くのコンピュータはLSIの間をTTL互換ロジックで接続するという形で構成されていた。[[プログラマブルロジックデバイス]]などが登場するまで、TTLに代表されるバイポーラ・ロジックICは開発中の[[マイクロアーキテクチャ]]の[[プロトタイピング]]とエミュレーションに使われていた。
== 実装 ==
=== 基本的なTTLゲート ===
[[ファイル:TTL npn nand.svg|thumb|2入力TTL・[[NANDゲート]]。出力段は単純化してある。]]
TTLはDTL ([[Diode-transistor logic]]) を自然に発展させたもので、基本概念は共通である。DTLで入力ダイオードで構成している論理ゲート部分を[[マルチエミッタ・トランジスタ]]のベース-エミッタ接合を使って実現している。IC上のこの構造は、複数のトランジスタのベースとコレクタをまとめるように接続したのと同等である<ref>Electronic Principles Physics, Models, and Circuits, first edition 1969, Gray and Searle, page 870</ref>。単純なTTL論理ゲートの出力はDTLと同様に[[エミッタ接地回路]]で増幅される。
全入力にHI電圧 (1) が印加されると、マルチエミッタ・トランジスタのベース-エミッタ接合部に逆バイアスがかかる。このトランジスタは逆方向アクティブモードにあるため(コレクタとエミッタが逆転した状態)、DTLとは対照的に入力から小さい(約10μA)コレクタ電流が流れる。ベース抵抗と供給電圧の組み合わせは実質的に定電流源として機能する<ref name = "Buie" />。マルチエミッタ・トランジスタのベース-コレクタ接合を通して電流が流れ、出力トランジスタのベース-エミッタ接合がONになる。したがって出力電圧は LO (0) になる。
一方の入力電圧がLO (0) になると、対応するマルチエミッタ・トランジスタのベース-エミッタ接合は2つの直列の接合部(マルチエミッタ・トランジスタのベース-コレクタ接合部と後段のトランジスタのベース-エミッタ接合部)と並列に繋がる。すると入力のベース-エミッタ接合部は出力トランジスタのベース電流を入力ソース(接地)に流れ込ませる<ref group="注釈" name = "cs">しきい電圧の異なる双安定要素が2つ並列接続されている場合、電流はしきい値の低い方の要素を通して流れる。</ref>。出力トランジスタのベース電流が遮断されることでスイッチが切れた状態になり<ref><cite id=CITEsiliconfareast2005>[http://www.siliconfareast.com/ttl2.htm ''Transistor–Transistor Logic (TTL).''] siliconfareast.com. 2005. Retrieved 17 September 2008.</cite></ref>、出力電圧はHI (1) になる。遷移の間、入力トランジスタはほぼアクティブ領域にある。そのため出力トランジスタのベース電流の大部分を流れなくし、素早くベースの電位を下げる。TTLがDTLに比べて優れているのは、このようにダイオードを使った入力段よりも高速に遷移する点である<ref>[[#CITEMillman1979|Millman 1979 pg. 147.]]</ref>。
出力段の単純なTTLの短所は、出力がHI (1) のときの出力抵抗が高く、その値が完全に出力トランジスタのコレクタ抵抗で決まる点である。そのために接続可能な入力数([[デジタル回路#ファン・アウト|ファン・アウト]])が制限される。単純な出力段の長所として、出力に負荷が接続されていないときに出力の "1" に対応する電圧が高い(V<sub>CC</sub> に近い)という点が挙げられる。
この種のロジックは出力トランジスタのコレクタ抵抗を省略し、[[オープンコレクタ]]出力とすることが多い。そうすると、いくつかの論理ゲートの出力を接続して外部に1つの[[プルアップ抵抗]]を用意するという設計が可能となり、[[ワイヤード論理接続|ワイヤードAND]]または[[ワイヤード論理接続|ワイヤードOR]]にすることができる。例えば 7401<ref>[http://www.ti.com/lit/gpn/sn7401 SN7401 datasheet] – Texas Instruments</ref> や 7403 がそのような構成である。
=== 「トーテムポール」出力段のあるTTL ===
[[ファイル:7400 Circuit.svg|thumb|7400の4つのTTL・NANDゲートの1つ。「トーテムポール」出力段がある。]]
単純な出力段では出力抵抗が高いという問題を解決するには、「トーテムポール」出力([[プッシュプル出力]])段を追加する。右図のように2つのNPNトランジスタ V<sub>3</sub> と V<sub>4</sub>、ダイオード V<sub>5</sub>、電流を制限する抵抗器 R<sub>3</sub> で構成される。入力がLOのときの電流の制御の考え方がこの構成でも適用されている<ref group="注釈" name = "cs" />。
V<sub>2</sub> がオフのとき V<sub>4</sub> もオフとなり、V<sub>3</sub> がアクティブ状態となって[[コレクタ接地回路]]として働き、HI電圧 (1) が出力される。V<sub>2</sub> がオンのとき V<sub>4</sub> もオンとなり、出力はLO電圧 (0) となる。V<sub>2</sub> と V<sub>4</sub> のコレクタ-エミッタ接合は、直列の V<sub>3</sub> のベース-エミッタ と V<sub>5</sub> のアノード-カソード接合をV<sub>4</sub> のベース-エミッタ接合と並列接続する。すると V<sub>3</sub> のベース電流が流れなくなり、このトランジスタはオフになって出力に影響を与えなくなる。この遷移の際に抵抗器 R<sub>3</sub> が直列接続されているトランジスタ V<sub>3</sub> とダイオード V<sub>5</sub>、さらにトランジスタ V<sub>4</sub> に流れる電流を制限する。また、出力電圧がHI (1) のときの出力電流も制限し、接地との短絡接続のときの出力電流も制限する。プルアップ抵抗とプルダウン抵抗を出力段から排除することで、消費電力を増大させずにゲートを強化できる<ref>[[#CITEsiliconfareast2005|Transistor–Transistor Logic (TTL), 2005]], p. 1.</ref><ref>[[#CITETala2006|Tala, 2006.]]</ref>。
トーテムポール出力段付きTTLの最大の利点は、HI (1) 出力の際の低出力抵抗である。その値はコレクタ接地回路として動作している上段の出力トランジスタ V<sub>3</sub> によって決まる。抵抗器 R<sub>3</sub> は V<sub>3</sub> のコレクタに接続されており、負帰還によってその影響が補償されるため、出力抵抗にはほとんど影響しない。欠点は出力に負荷が接続されていない場合でも出力のHI電圧が低くなる(3.5V以下)という点である。これは、V<sub>3</sub> のベース-エミッタ間と V<sub>5</sub> のアノード-カソード間で電圧降下があるためである。
<!--
===その他の例===
[[シュミットトリガ]]回路においては、用途によっては一般的なTTLやDTLとは大きく異なる回路構成が取られ、入力部分にTTLでは通常使わないPNPトランジスタのベースによるスイッチングが見られる。これは入力端子を長いケーブルにつないだ場合、入力がLとHを行き来する時に入力部のマルチエミッタトランジスタからの電流が急速に増減するため、ケーブルに存在する寄生コイルの作用により新たなノイズが発生し、シュミットトリガによってノイズによる誤作動を削減できるという効果を半減してしまうという不具合を避けるためである。
-->
== インタフェース ==
論理レベルを0にするには入力に向かって電流が流れなければいけないため、DTLと同様にTTLは「電流シンク・ロジック」といわれる。入力電圧がLOのとき、TTLの入力ソース電流は前段に流れ込むので、そちらで吸収されなければならない。この電流の最大値は基本的TTLゲートで約1.6mAである<ref>[http://focus.ti.com/general/docs/lit/getliterature.tsp?genericPartNumber=sn74ls00&fileType=pdf&track=no SN7400 datasheet] - Texas Instruments</ref>。入力ソースは、こうして流れ込む電流が無視できるレベル(0.8V未満)の電圧しか発生しないよう抵抗値を小さく(500Ω未満)する必要がある。推奨されない使い方だが、使わない入力を常に論理値 "1" にしておくためにどこにも接続しないままにしておくことがある。
標準TTL回路の電源電圧は5[[ボルト (単位)|ボルト]]である。TTLの入力信号は接地に対して0Vから0.8VのときLOと定義され、2.2Vから5VのときHIと定義される<ref>[[#CITEstandardlogicleveln.d.|TTL standard logic level, n.d.]]</ref>(正確な電圧はロジックの種類や温度によっても異なる)。TTLの出力の電圧範囲はそれよりも狭く、0Vから0.4VがLO、2.6Vから5VがHIとなっていて、それぞれ0.4Vのノイズのための余裕がある。TTLの電圧レベルの規格化により、回路基板上に様々なメーカーのTTLチップが混在することが当たり前となった。同じ製品でも製造日が違えば異なるメーカーのTTLチップを使うことがあった。製造後何年も経った回路基板の修理に新たに製造された同型のTTLチップを使うことが可能である。電気的特性が広く統一されていたため、相性などを考慮する必要がなく、理想的な論理デバイスとして扱えた。
TTL論理ゲートの出力をCMOSゲートの入力に使用する場合など、トーテムポール出力段の論理レベル "1" の電圧を V<sub>CC</sub> に高めるために、出力ピンと V<sub>CC</sub> の間に外部抵抗器をはさんで接続することがある<ref>[http://ecelab.com/interfacing-ttl-cmos.htm TTL-to-CMOS Interfacing Techniques]</ref>。ただしこのようにするとトーテムポール型の出力を単純な基本的TTL出力に戻していることになり、大きな出力抵抗が生じる。
== パッケージ ==
1965年から1990年にかけての多くの集積回路と同様にTTLデバイスは[[スルーホール実装]]用にパッケージされた14ピンから24ピンの[[パッケージ (電子部品)#DIP|DIP]]が一般的だった。エポキシ樹脂製 (PDIP) が一般的だが、セラミック製 (CDIP) もある。大規模なハイブリッドIC向けにパッケージされていないビームリードつきのチップダイスも作られている。軍用や航空宇宙用には表面実装パッケージの一種であるフラットパック ([[:en:Flatpack (electronics)|en]]) でパッケージされている。今ではTTL互換デバイスの多くは表面実装型のパッケージであり、様々な種類がある。
TTLは全ての入力が1つのベース領域上に形成されるマルチエミッタ・トランジスタになっているため、構造的に集積回路に向いている。個別部品でTTL回路を構成しようとするとコストが高くつくが、ICで実装すると逆にコストが下がる。
== 他の汎用ロジックICファミリとの比較 ==
{{Main|汎用ロジックIC}}
TTLデバイスは一般に等価な[[CMOS]]デバイスに比べて消費電力が大きいが、CMOSデバイスがクロック周波数を上げると消費電力が大きくなるのに対して、TTLではそれほど増加しない<ref>[[:en:Paul Horowitz|Paul Horowitz]] and Winfield Hill, ''The Art of Electronics 2nd Ed. '' Cambridge University Press, Cambridge, 1989 ISBN 0-521-37095-7 page 970 ''...CMOS devices consume power proportional to ther switching frequency...At their maximum operating frequency they may use more power than equivalent bipolar TTL devices.''</ref>。[[エミッタ結合論理|ECL]]に比べると消費電力が少なく設計も容易だが、スイッチング性能は低い。性能と経済性を両立させるためにTTLとECLを混在させてシステムを構築することもあったが、両ファミリの間にレベルを変換するデバイスを必要とした。初期のCMOSデバイスは[[静電気]]の放電に対してTTLより弱かった。
TTLデバイスの出力構造により、出力インピーダンスがHI状態とLO状態で異なるため、伝送線の駆動には不向きである。そのため、ケーブルなどで信号を送る際には伝送線駆動のための専用デバイスで出力をバッファリングするのが一般的である。ECLは出力インピーダンスが対称的であり、このような欠点がない。
トーテムポール構造の出力段の場合、上下のトランジスタが同時にONになる瞬間が存在し、電源からの電流がかなりのパルスとなって流れる。このパルスがIC間で影響を及ぼしあい、結果としてノイズマージンが低下し性能も低下する。TTLシステムでは1つか2つのICパッケージ毎に[[バイパスコンデンサ]]を配置するのが一般的で、それによって電流パルスが他のチップの電源電圧を瞬間的に低下させないようにしている。
いくつかの製造業者は、TTL互換の入出力レベルのCMOSロジックICを販売しており、ピン配置などもTTLと合わせていることが多い。例えば74HCTシリーズは[[CMOS]]テクノロジーを使い、バイポーラの74シリーズの部品と置換可能である。
== 派生品 ==
技術の進歩により、互換性を保ちながらスイッチング速度や消費電力を改良した部品が生まれた。各ベンダーはそれらを[[ショットキーバリアダイオード]]付きのTTLとして製品化したが、例えばLSファミリなどの回路構成は実際にはDTLに近い<ref>[[#CITEAyersn.d.|Ayers, n.d.]]</ref>。
標準TTLファミリでは、ゲート遅延が10ns、電力消費がゲート当たり10mWで、[[電力遅延積]](PD積)またはスイッチングエネルギーが約100[[ジュール|pJ]]である。その派生および後継のファミリとしては次のものがある。
{| class="wikitable sortable"
|-
!シリーズ!!型名表示!!特徴!!消費電力(mW/Gate)!!遅延 t<sub>pd</sub>(nsec)
|-
|標準TTL
|74
|[[1966年]]に商品化された初期の標準品
|align="right"|10
|align="right"|10
|-
|ローパワーTTL
|74L
|初期の低消費電力品。但しスピードを犠牲にしている。[[CMOS]]に取って代わられた。
|align="right"|1
|align="right"|33
|-
|ハイスピードTTL
|74H
|スイッチングが速いが、消費電力が大きい。
|align="right"|22
|align="right"|6
|-
|ショットキーTTL
|74S
|入力部に[[ショットキーバリアダイオード]]を使って電荷蓄積を防ぎ、より高速なスイッチングを可能にした。ただし消費電力がやはり大きい。
|align="right"|19
|align="right"|3
|-
|ローパワーショットキーTTL
|74LS
|1970年代後半~80年代前半の標準TTL。高い抵抗値で消費電力を低減させ、ショットキーダイオードで高速スイッチングを両立させた。PD積は約20pJ。
|align="right"|2
|align="right"|9.5
|-
|FAST
|74F
|1980年代中ごろにフェアチャイルドが発売した高速ショットキーTTL。PD積は約10pJ。
|align="right"|4
|align="right"|2.5
|-
|アドバンストショットキーTTL
|74AS
|1980年代中ごろに出たS-TTLの改良品
|align="right"|20
|align="right"|1.5
|-
|アドバンストLS-TTL
|74ALS
|1980年代中ごろに出たLS-TTLの改良品。PD積は約4pJと最も小さい。
|align="right"|1
|align="right"|4
|}
多くの製造業者が動作温度範囲が民生用のものとより広範囲な軍事用のものを製品化している。54シリーズは[[MIL規格]]、74シリーズは一般用の品質保証規格で製造販売される[[民生用]]である。例えば、TIの74シリーズは0℃から75℃までとされているが、54シリーズは-55℃から+125℃までとなっている。軍事用や航空宇宙用に特に品質を高めた高信頼部品もある。放射線耐性を高めたものもある。
=== TTL入出力電圧 (V) ===
基準とされる電圧レベル
* Hiレベル入力電圧: 2.0[[ボルト (単位)|V]]以上
* Lowレベル入力電圧: 0.8V以下
* Hiレベル出力電圧: 2.4V以上
* Lowレベル出力電圧: 0.4V以下
== 用途 ==
[[VLSI]]が登場するまで、TTLのICチップを使って[[ミニコンピュータ]]や[[メインフレーム]]のプロセッサを構築するのが標準的技法だった。例えば、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]の初期の[[VAX]]や[[データゼネラル]]の[[Eclipse (コンピュータ)|Eclipse]]がそのような構成である。他にも[[数値制御]]の工作機械、[[プリンター]]、ビデオディスプレイ[[端末]]などで使われている。[[マイクロプロセッサ]]が広まるとTTLは「[[グルー・ロジック|グルーロジック]]」として重要になり、マザーボード上でVLSIで実装された機能ブロック間を繋ぐ役割を担うようになった。
=== アナログ回路での利用 ===
元々はデジタル信号を扱うよう設計されているが、TTLの[[NOTゲート|インバータ]]はアナログ増幅器としても使える。出力と入力の間を抵抗器で繋ぐと、負帰還増幅回路として機能する。アナログ信号をデジタルに変換する場合などに使われるが、単にアナログの増幅を行う用途ではTTLインバータを使うことはない<ref>[[#CITEWobschall1987|Wobschall, 1987]], pp. 209-211.</ref>。TTLインバータは[[水晶振動子]]の信号増幅にも使われる。
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* <cite id=CITEAyersn.d.>Ayers, J. [http://people.seas.harvard.edu/~jones/es154/lectures/lecture_7/pdfs/215ln04.pdf UConn EE 215 notes for lecture 4.] Harvard University faculty web page. Archive of web page from University of Connecticut. n.d. Retrieved 17 September 2008.</cite>
* <cite id=CITEBuie1966>Buie, J. [https://www.google.com/patents?id=tZAdAAAAEBAJ&printsec=abstract&zoom=4&dq=3,283,170+%22newly+developing%22 ''Coupling Transistor Logic and Other Circuits.''] (U.S. Patent 3,283,170). 1 November 1966. United States Patent and Trademark Office. 1 November 1966.</cite>
* <cite id=CITEComputerHistoryMuseum2007>The Computer History Museum. [http://www.computerhistory.org/semiconductor/timeline/1963-TTL.html ''1963 - Standard Logic Families Introduced.''] 2007. Retrieved 16 April 2008.</cite>
* <cite id=CITETI1973>Engineering Staff. ''The TTL Data Book for Design Engineers.'' 1st Ed. Dallas: Texas Instruments. 1973.</cite>
* <cite id=CITEErin2003>Eren, H. ''Electronic Portable Instruments: Design and Applications.'' CRC Press. 2003. ISBN 0-8493-1998-6. [https://books.google.co.jp/books?id=xwfpvzvNTr4C&pg=PA353&dq=intitle:instruments+intitle:electronic+ttl-outputs&lr=&as_brr=3&ei=Hz6wSKHHDJzOswO6uI3ABA&sig=ACfU3U2jAUGIInuz8NEKLkToZYAqYJTirA&redir_esc=y&hl=ja#PPT1,M1 Google preview] available.</cite>
* <cite id=CITEFairchild>Fairchild Semiconductor. [http://www.fairchildsemi.com/an/AN/AN-368.pdf ''An Introduction to and Comparison of 74HCT TTL Compatible CMOS Logic'' (Application Note 368).] 1984. (for relative ESD sensitivity of TTL and CMOS.)</cite>
* <cite id=CITEHorowitzHill1989>Horowitz, P. and Winfield Hill, W. ''The Art of Electronics.'' 2nd Ed. Cambridge University Press. 1989. ISBN 0-521-37095-7</cite>
* <cite id=CITEKlein2008>Klein, E. [http://www.vintage-computer.com/kenbak-1.shtml ''Kenbak-1.''] Vintage-Computer.com. 2008.</cite>
* <cite id=CITELancaster1975>Lancaster, D. ''TTL Cookbook.'' Indianapolis: Howard W. Sams and Co. 1975. ISBN 0-672-21035-5.</cite>
* <cite id=CITEMillman1979>Millman, J. ''Microelectronics Digital and Analog Circuits and Systems''. New York:McGraw-Hill Book Company. 1979. ISBN 0-07-042327-X</cite>
* <cite id=CITEPittler1982>Pittler, M.S., Powers, D.M., and Schnabel, D.L. [http://ieeexplore.ieee.org/xpl/freeabs_all.jsp?arnumber=5390538 System development and technology aspects of the IBM 3081 Processor Complex.] ''IBM Journal of Research and Development.'' 26 (1982), no. 1:2–11.</cite>
* <cite id=CITEstandardlogicleveln.d.>[http://www.twysted-pair.com/74xx.htm ''Standard TTL logic levels.''] n.d. Twisted Pair Software.</cite>
* <cite id=CITETala2006>Tala, D. K. [http://www.asic-world.com/digital/gates5.html ''Digital Logic Gates Part-V.''] asic-world.com. 2006.</cite>
* <cite id=CITETI1985>Texas Instruments. [http://focus.ti.com/lit/an/sdaa010/sdaa010.pdf ''Advanced Schottky Family.''] 1985. Retrieved 17 September 2008.</cite>
* <cite id=CITEsiliconfareast2005>[http://www.siliconfareast.com/ttl.htm ''Transistor-Transistor Logic (TTL).''] siliconfareast.com. 2005. Retrieved 17 September 2008.</cite>
* <cite id=CITEWobschall1987>Wobschall, D. ''Circuit Design for Electronic Instrumentation: Analog and Digital Devices from Sensor to Display.'' 2d edition. New York: McGraw Hill 1987. ISBN 0-07-071232-8</cite>
== 関連項目 ==
* [[エミッタ結合論理]]
* [[デジタル回路]]
== 外部リンク ==
* [http://focus.ti.com/logic/docs/techdocs.tsp?sectionId=452&tabId=1989&techDoc=1&familyId=1&documentCategoryId=1&viewType=1&techFamId=0 Texas Instruments logic family application notes]
* [http://ibiblio.org/kuphaldt/electricCircuits/Digital/DIGI_3.html#xtocid653312 TTL NAND and AND gates] from ''Lessons In Electric Circuits'' by Tony Kuphaldt
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楕円曲線暗号
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楕円曲線暗号(だえんきょくせんあんごう、Elliptic Curve Cryptography、ECC)とは、楕円曲線上の離散対数問題 (EC-DLP) の困難性を安全性の根拠とする暗号。1985年頃に ビクター・S・ミラー (Victor S .Miller(英語版)) とニール・コブリッツ (Neal Koblitz(英語版)) が各々発明した。
具体的な暗号方式の名前ではなく、楕円曲線を利用した暗号方式の総称である。DSAを楕円曲線上で定義した楕円曲線DSA (ECDSA)、ディフィー・ヘルマン鍵共有(DH鍵共有)を楕円化した楕円曲線ディフィー・ヘルマン鍵共有 (ECDH) などがある。公開鍵暗号が多い。
EC-DLPを解く準指数関数時間アルゴリズムがまだ見つかっていないため、それが見つかるまでの間は、RSA暗号などと比べて、同レベルの安全性をより短い鍵で実現でき、処理速度も速いことをメリットとして、ポストRSA暗号として注目されている。ただしP=NPが成立した場合、EC-DLPを多項式時間で解くアルゴリズムが存在するということになり、ECCの安全性は崩壊する(公開鍵暗号自体が崩壊)。また、送信者が暗号化時に適当な乱数(公開鍵とは違うモノ)を使うので鍵が同じでも平文と暗号文の関係が1対1でない点にも注意(ElGamal暗号でも同様)。
一部の楕円曲線には、DLPを解く多項式時間アルゴリズムが見つかっているため、注意が必要である。
暗号理論に楕円曲線を利用しようというアイディアは、1985年にニール・コブリッツ (Neal Koblitz(英語版)) と ビクター・S・ミラー (Victor S .Miller(英語版)) によって独立に提案された。楕円曲線暗号は、2004~2005年ごろから広く使用されるようになっている。
暗号における楕円曲線とは、ある有限体 K 上の式
を満たす全ての点 P=(x,y) の集合に、無限遠点と呼ばれる特別な点 O を加えたものである。ここで、 x と y は有限体 K の要素である。(K の標数が2または3の場合、上式では不都合が生じるため、ここでは標数は2と3以外であるとする。一般には、もう少し複雑な式と議論が必要になる。)
この集合と楕円曲線上の群演算は、無限遠点を単位元とするアーベル群となる。群演算は楕円加算と呼ばれる。群構造は、代数多様体の因子群から引き継がれる。
楕円曲線E上に位置する2点 P A ( x 1 , y 1 ) , P B ( x 2 , y 2 ) {\displaystyle P_{\!A}\,(x_{1},\,y_{1}),\,P_{\!B}\,(x_{2},\,y_{2})} の加算は以下の通りである。
まず、無限遠点を O {\displaystyle O} とすると、 P A + O = O + P A = P A {\displaystyle P_{\!A}+O=O+P_{\!A}=P_{\!A}} である。すなわち、 O {\displaystyle O} が単位元である。
もし x 1 = x 2 , y 1 = − y 2 {\displaystyle x_{1}=x_{2},y_{1}=-y_{2}} ならば、 P A + P B = O {\displaystyle P_{\!A}+P_{\!B}=O} である。
それ以外の場合、 P C = P A + P B {\displaystyle P_{\!C}=P_{\!A}+P_{\!B}} は、2点 P A , P B {\displaystyle P_{\!A},\,P_{\!B}} を通る直線とEとの( P A {\displaystyle P_{\!A}} および P B {\displaystyle P_{\!B}} と異なる)交点の、y座標の符号を反転したものである。すなわち P C ( x 3 , y 3 ) {\displaystyle P_{\!C}\,(x_{3},\,y_{3})} は以下のようになる。
ただし φ , ψ {\displaystyle \phi ,\,\psi } は
楕円曲線E上の点 P A ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle P_{\!A}\,(x_{1},\,y_{1})} に対し、これを2倍した点 2 P A = P A + P A {\displaystyle 2P_{\!A}=P_{\!A}+P_{\!A}} は、以下のように求められる。
y 1 = 0 {\displaystyle y_{1}=0} のとき、 2 P A = O {\displaystyle 2P_{\!A}=O} である。また、 2 O = O + O = O {\displaystyle 2O=O+O=O} である。
それ以外の場合は、 P D = 2 P A {\displaystyle P_{\!D}=2P_{\!A}} は、 P A {\displaystyle P_{\!A}} でのEの接線がE自身と交わる( P A {\displaystyle P_{\!A}} とは異なる)交点の、y座標の符号を反転したものである。すなわち P D ( x 4 , y 4 ) {\displaystyle P_{\!D}\,(x_{4},\,y_{4})} は以下で求められる。
この式は異なる二点の加算の場合と同じであるが、 φ , ψ {\displaystyle \phi ,\,\psi } の計算式が次のように変わる。
スカラー倍算(Scalar Multiplication)は楕円曲線上における掛け算である。楕円曲線上の点と点を掛けるのではなく、点に整数(スカラー)を掛けることに注意。
暗号化・復号の過程において、 Q = d P {\displaystyle Q=dP} ( P , Q {\displaystyle P,\,Q} は楕円曲線上の点)という演算を行う。 ナイーヴな実装としては Q = ( ⋯ ( ( P + P ) + P ) + ⋯ ) + P {\displaystyle Q=(\cdots ((P+P)+P)+\cdots )+P} というように Pを ( d − 1 ) {\displaystyle (d-1)} 回加算(1回目は2倍算となる)するが、これでは効率が悪い。
スカラー倍算はRSA暗号などにおけるべき乗剰余演算とリンクしており、これの高速化手法もそれから流用できるものが多い。例えば、そのひとつとして有名なBinary法では、dを2進数表記し、dの各ビット d i {\displaystyle d_{i}} が "0" の場合は2倍算のみを行い、"1" の場合は2倍算と加算を行うことにより、ナイーブな実装と同じ計算をより高速に行なっている。この計算手法では、2倍算はべき乗剰余演算における自乗算、加算は掛け算にそれぞれ対応している。
この演算は楕円曲線暗号の根幹を成している部分であり、楕円曲線暗号を利用する際の時間の大半を占めている。ゆえに、ICカードなどハードウェア上に演算回路を実装する場合はサイドチャネル攻撃(特にSPA、DPA)のターゲットとなる箇所なので工夫が必要となる。
ある楕円曲線上の点 G {\displaystyle G} から、 2 G , 3 G , 4 G , ... {\displaystyle 2G,3G,4G,\ldots } を計算していくと、次々と異なる(楕円曲線上の)点が得られ、いずれは無限遠点 n G = O {\displaystyle nG=O} が得られる(ただし楕円曲線によってはそのようなGはG=Oしか無い事もある)。(その後は、 ( n + 1 ) G = G , ( n + 2 ) G = 2 G , ( n + 3 ) G = 3 G , ... {\displaystyle (n+1)G=G,(n+2)G=2G,(n+3)G=3G,\ldots } と繰り返される。)このように G {\displaystyle G} からスカラー倍算によって得られる点の集合を ⟨ G ⟩ = { G , 2 G , 3 G , ... , O } {\displaystyle \langle G\rangle =\{G,2G,3G,\ldots ,O\}} と書くことにすると、 ⟨ G ⟩ {\displaystyle \langle G\rangle } は巡回群となる。巡回群の位数は n {\displaystyle n} であり、 ⟨ G ⟩ {\displaystyle \langle G\rangle } を生成する元 G {\displaystyle G} はベースポイントとも呼ばれる。
巡回群 ⟨ G ⟩ {\displaystyle \langle G\rangle } の任意の要素(楕円曲線上の点) X {\displaystyle X} に対し、 X = a G {\displaystyle X=aG} を満たす a {\displaystyle a} が { 0 , 1 , ... , n − 1 } {\displaystyle \{0,1,\ldots ,n-1\}} の中に常にただ一つ存在する。このような a {\displaystyle a} を X {\displaystyle X} の離散対数と呼ぶ。また、 ⟨ G ⟩ {\displaystyle \langle G\rangle } から無作為に選らばれた X {\displaystyle X} を与えられ、その離散対数を求めよという問題を、楕円曲線上の離散対数問題 と呼ぶ。
また、 ⟨ G ⟩ {\displaystyle \langle G\rangle } から無作為に選ばれた二つの点 X = a G , Y = b G {\displaystyle X=aG,Y=bG} を与えられ、 a b G {\displaystyle abG} を求めよという問題を、楕円曲線上のディフィー・ヘルマン問題 と呼ぶ。
最もポピュラーな離散対数問題は、 p , g {\displaystyle p,g} と y = g x mod p {\displaystyle y=g^{x}{\bmod {p}}} から x {\displaystyle x} を求めよ、という問題であり、 g ∈ Z p ∗ ( = Z / p Z ) × {\displaystyle g\in Z_{p}^{*}(=Z/pZ)^{\times }} から生成される乗法群の上で定義されている。これに対して、楕円曲線は加法群であるため、 Y = a P {\displaystyle Y=aP} を満たす a {\displaystyle a} を離散対数と呼ぶ。
巡回群の位数 n {\displaystyle n} が小さければ、離散対数問題やディフィー・ヘルマン問題が容易に解けてしまうため、位数が巨大な素数になるようなベースポイント(と楕円曲線)が使用される。
楕円曲線上で楕円加算 P + Q を行う場合、加算(P ≠ Q)と2倍算(P = Q)では演算プロセスが大きく異なる。そのため、サイドチャネル攻撃(例えば、タイミング攻撃や単純電力解析/差分電力解析)への対策(例えば など)が必要である。あるいは、ツイステッドエドワーズ曲線(英語版)を使うこともできる。この曲線は、加算と2倍算を同じ演算プロセスで実行できる特別な楕円曲線の族である。
離散対数問題を効率的に解くことのできるショアのアルゴリズムは、楕円曲線暗号の解読にも利用できる。256ビットの法を持つ楕円曲線暗号(128ビット安全)を破るためには、2330量子ビット、1,260億トフォリゲートのリソースを持つ量子コンピュータが必要であると見積もられている。 一方、アメリカ国立標準技術研究所の勧告(NIST SP 800-57)によりこれと同等のセキュリティレベルとされる3072ビット鍵のRSA暗号を破るためには、6146量子ビット、18.6兆トフォリゲートが必要であり、量子コンピュータにとっては、RSA暗号に比べ楕円曲線暗号は攻撃しやすいといえる。いずれにせよ、これらのリソースは現在実存する量子コンピュータのリソースをはるかに超えており、このようなコンピュータの構築は10年以上先になると見られている。
同種写像暗号は、楕円曲線の同種写像を用いた暗号方式であり、量子コンピュータに対して耐性がある(耐量子)と考えられている。同種写像暗号の例としてディフィー・ヘルマン鍵共有と同様に鍵共有を行うSIDHがある。従来の楕円曲線暗号と同じ体の演算を多く使用し、必要な計算量や通信量は現在使用されている多くの公開鍵システムと同程度である。
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楕円曲線暗号とは、楕円曲線上の離散対数問題 (EC-DLP) の困難性を安全性の根拠とする暗号。1985年頃に ビクター・S・ミラー とニール・コブリッツ が各々発明した。 具体的な暗号方式の名前ではなく、楕円曲線を利用した暗号方式の総称である。DSAを楕円曲線上で定義した楕円曲線DSA (ECDSA)、ディフィー・ヘルマン鍵共有(DH鍵共有)を楕円化した楕円曲線ディフィー・ヘルマン鍵共有 (ECDH) などがある。公開鍵暗号が多い。 EC-DLPを解く準指数関数時間アルゴリズムがまだ見つかっていないため、それが見つかるまでの間は、RSA暗号などと比べて、同レベルの安全性をより短い鍵で実現でき、処理速度も速いことをメリットとして、ポストRSA暗号として注目されている。ただしP=NPが成立した場合、EC-DLPを多項式時間で解くアルゴリズムが存在するということになり、ECCの安全性は崩壊する(公開鍵暗号自体が崩壊)。また、送信者が暗号化時に適当な乱数(公開鍵とは違うモノ)を使うので鍵が同じでも平文と暗号文の関係が1対1でない点にも注意(ElGamal暗号でも同様)。 一部の楕円曲線には、DLPを解く多項式時間アルゴリズムが見つかっているため、注意が必要である。
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'''楕円曲線暗号'''(だえんきょくせんあんごう、'''Elliptic Curve Cryptography'''、'''ECC''')とは、[[楕円曲線]]上の[[離散対数問題]] (EC-DLP) の困難性を安全性の根拠とする[[暗号]]。[[1985年]]頃に [[ビクター・S・ミラー]] ({{仮リンク|Victor S .Miller|label=Victor S .Miller|en|Victor S. Miller}}) と[[ニール・コブリッツ]] ({{仮リンク|Neal Koblitz|label=Neal Koblitz|en|Neal Koblitz}}) が各々発明した。
具体的な[[暗号方式]]の名前ではなく、楕円曲線を利用した暗号方式の総称である。[[Digital Signature Algorithm|DSA]]を楕円曲線上で定義した[[楕円曲線DSA]] ([[ECDSA]])、[[ディフィー・ヘルマン鍵共有]]([[DH鍵共有]])を楕円化した[[楕円曲線ディフィー・ヘルマン鍵共有]] ([[ECDH]]) などがある。[[公開鍵暗号]]が多い。
EC-DLPを解く[[準指数関数時間]][[アルゴリズム]]がまだ見つかっていないため、それが見つかるまでの間は、[[RSA暗号]]などと比べて、同レベルの安全性をより短い鍵で実現でき、処理速度も速いことをメリットとして、ポストRSA暗号として注目されている。ただし[[P≠NP予想|P=NP]]が成立した場合、EC-DLPを[[多項式時間]]で解くアルゴリズムが存在するということになり、ECCの安全性は崩壊する([[公開鍵暗号]]自体が崩壊)。また、[[送信者]]が暗号化時に[[ノンス|適当な乱数]](公開鍵とは違うモノ)を使うので鍵が同じでも[[平文]]と[[暗号文]]の関係が[[1対1]]でない点にも注意([[ElGamal暗号]]でも同様)。
一部の楕円曲線には、DLPを解く多項式時間アルゴリズムが見つかっているため、注意が必要である。
== 歴史 ==
暗号理論に楕円曲線を利用しようというアイディアは、1985年に[[ニール・コブリッツ]] ({{仮リンク|Neal Koblitz|label=Neal Koblitz|en|Neal Koblitz}})<ref>{{cite journal |first=N. |last=Koblitz |title=Elliptic curve cryptosystems |journal=Mathematics of Computation |volume=48 |issue=177 |year=1987 |pages=203?209 |doi= 10.2307/2007884|jstor=2007884 }}</ref> と [[ビクター・S・ミラー]] ({{仮リンク|Victor S. Miller|label=Victor S .Miller|en|Victor S. Miller}})<ref>{{cite journal |first=V. |last=Miller |title=Use of elliptic curves in cryptography |journal=CRYPTO |volume=85 |year=1985 |issue= |pages=417?426 |doi=10.1007/3-540-39799-X_31 |series=Lecture Notes in Computer Science |isbn=978-3-540-16463-0 }}</ref> によって独立に提案された。楕円曲線暗号は、2004~2005年ごろから広く使用されるようになっている。
== 理論 ==
暗号における楕円曲線とは、ある有限体 '''K''' 上の式
: <math>y^2 = x^3 + ax + b \, </math>
を満たす全ての点 ''P=(x,y)'' の集合に、無限遠点と呼ばれる特別な点 ''O'' を加えたものである。ここで、 ''x'' と ''y'' は[[有限体]] '''K''' の要素である。('''K''' の[[標数]]が2または3の場合、上式では不都合が生じるため、ここでは標数は2と3以外であるとする。一般には、もう少し複雑な式と議論が必要になる。)
この集合と[[楕円曲線#群構造|楕円曲線上の群演算]]は、無限遠点を単位元とする[[アーベル群]]となる。群演算は楕円加算と呼ばれる。群構造は、[[代数多様体]]の[[因子 (代数幾何学)|因子群]]から引き継がれる。
=== 楕円曲線上の加算 ===
楕円曲線E上に位置する2点 <math>P_{\!A}\, (x_1,\, y_1),\, P_{\!B}\, (x_2,\, y_2)</math> の加算は以下の通りである。
まず、無限遠点を <math>O</math> とすると、<math>P_{\!A} + O = O + P_{\!A} = P_{\!A}</math> である。すなわち、<math>O</math> が単位元である。
もし <math> x_1 = x_2, y_1 = - y_2 </math> ならば、<math>P_{\!A} + P_{\!B} = O </math> である。
それ以外の場合、<math>P_{\!C} = P_{\!A} + P_{\!B}</math> は、2点 <math>P_{\!A},\,P_{\!B}</math> を通る直線とEとの(<math>P_{\!A}</math> および <math>P_{\!B}</math> と異なる)交点の、y座標の符号を反転したものである。すなわち <math>P_{\!C}\, (x_3,\, y_3)</math> は以下のようになる。
: <math>x_{3}=\phi^{2}-x_{1}-x_{2},</math>
: <math>y_{3}=-\phi x_{3}-\psi.</math>
ただし <math>\phi,\, \psi</math> は
: <math>\phi=\frac{y_{2}-y_{1}}{x_{2}-x_{1}},</math>
: <math>\psi=\frac{y_{1}x_{2}-y_{2}x_{1}}{x_{2}-x_{1}}.</math>
=== 楕円曲線上での2倍算 ===
楕円曲線E上の点 <math>P_{\!A}\, (x_1,\,y_1)</math> に対し、これを2倍した点 <math>2P_{\!A} =P_{\!A}+P_{\!A}</math> は、以下のように求められる。
<math>y_1 = 0</math> のとき、<math>2P_{\!A} = O</math> である。また、<math>2O = O+O = O</math> である。
それ以外の場合は、<math>P_{\!D} = 2 P_{\!A}</math> は、<math>P_{\!A}</math> でのEの接線がE自身と交わる(<math>P_{\!A}</math> とは異なる)交点の、y座標の符号を反転したものである。すなわち <math>P_{\!D}\, (x_4,\, y_4)</math> は以下で求められる。
: <math>x_{4}=\phi^{2}-2x_{1},</math>
: <math>y_{4}=-\phi x_{4}-\psi.</math>
この式は異なる二点の加算の場合と同じであるが、<math>\phi,\, \psi</math> の計算式が次のように変わる。
: <math>\phi=\frac{3x^{2}_{1}+a}{2y_{1}},</math>
: <math>\psi=\frac{-3x^{3}_{1}-a x_{1}+2y_{1}^2}{2y_{1}}.</math>
=== スカラー倍算 ===
スカラー倍算(Scalar Multiplication)は[[楕円曲線]]上における[[掛け算]]である。楕円曲線上の点と点を掛けるのではなく、点に整数(スカラー)を掛けることに注意。
暗号化・復号の過程において、<math>Q=dP</math>(<math>P,\, Q</math> は楕円曲線上の点)という演算を行う。
ナイーヴな実装としては <math>Q = ( \cdots ( ( P+P ) + P ) + \cdots ) + P</math> というように Pを <math>(d-1)</math> 回加算(1回目は2倍算となる)するが、これでは効率が悪い。
スカラー倍算は[[RSA暗号]]などにおけるべき乗剰余演算とリンクしており、これの高速化手法もそれから流用できるものが多い。例えば、そのひとつとして有名なBinary法では、dを2進数表記し、dの各ビット <math>d_i</math> が "0" の場合は2倍算のみを行い、"1" の場合は2倍算と加算を行うことにより、ナイーブな実装と同じ計算をより高速に行なっている。この計算手法では、2倍算はべき乗剰余演算における自乗算、加算は掛け算にそれぞれ対応している。
この演算は楕円曲線暗号の根幹を成している部分であり、楕円曲線暗号を利用する際の時間の大半を占めている。ゆえに、[[ICカード]]などハードウェア上に演算回路を実装する場合は[[サイドチャネル攻撃]](特に[[単純電力解析|SPA]]、[[差分電力解析|DPA]])のターゲットとなる箇所なので工夫が必要となる。
=== 離散対数と離散対数問題 ===
ある楕円曲線上の点 <math>G</math> から、<math>2 G, 3 G, 4 G, \ldots </math> を計算していくと、次々と異なる(楕円曲線上の)点が得られ、いずれは無限遠点 <math>n G = O</math> が得られる(ただし楕円曲線によってはそのようなGはG=Oしか無い事もある)。(その後は、<math>(n+1)G = G, (n+2) G = 2G, (n+3) G = 3 G, \ldots </math> と繰り返される。)このように <math>G</math> からスカラー倍算によって得られる点の集合を <math>\langle G \rangle = \{ G, 2 G, 3 G , \ldots, O \}</math> と書くことにすると、<math>\langle G \rangle</math> は巡回群となる。巡回群の[[位数 (群論)|位数]]は <math>n</math> であり、<math>\langle G \rangle</math> を生成する元 <math>G</math> はベースポイントとも呼ばれる。
巡回群 <math>\langle G \rangle</math> の任意の要素(楕円曲線上の点)<math>X</math> に対し、<math>X = aG</math> を満たす <math>a</math> が <math>\{0,1,\ldots , n-1\} </math> の中に常にただ一つ存在する。このような <math>a</math> を <math>X</math> の[[離散対数]]と呼ぶ。また、<math>\langle G \rangle</math> から無作為に選らばれた <math>X</math> を与えられ、その離散対数を求めよという問題を、'''楕円曲線上の離散対数問題''' と呼ぶ。
また、<math>\langle G \rangle</math> から無作為に選ばれた二つの点 <math>X = aG, Y = bG</math> を与えられ、<math>abG</math> を求めよという問題を、'''楕円曲線上のディフィー・ヘルマン問題''' と呼ぶ。
最もポピュラーな離散対数問題は、<math>p, g</math> と <math>y = g^x \bmod p</math> から <math>x</math> を求めよ、という問題であり、<math>g \isin Z_p^* (=Z/pZ)^{\times}</math> から生成される乗法群の上で定義されている。これに対して、楕円曲線は加法群であるため、<math>Y = aP</math> を満たす <math>a</math> を離散'''対数'''と呼ぶ。
巡回群の位数 <math>n</math> が小さければ、離散対数問題やディフィー・ヘルマン問題が容易に解けてしまうため、位数が巨大な素数になるようなベースポイント(と楕円曲線)が使用される。
== 攻撃手法 ==
=== サイドチャネル攻撃 ===
楕円曲線上で楕円加算 ''P + Q '' を行う場合、加算(''P'' ≠ ''Q'')と2倍算(''P'' = ''Q'')では演算プロセスが大きく異なる。そのため、[[サイドチャネル攻撃]](例えば、タイミング攻撃や[[単純電力解析]]/[[差分電力解析]])への対策(例えば <ref>{{cite journal |first=M. |last=Hedabou |first2=P. |last2=Pinel |first3=L. |last3=Beneteau |url=http://eprint.iacr.org/2004/342 |title=A comb method to render ECC resistant against Side Channel Attacks |journal=IACR ePrint Report |year=2004 }}</ref> など)が必要である。あるいは、{{仮リンク|ツイステッドエドワーズ曲線|en|Twisted Edwards curve}}を使うこともできる。この曲線は、加算と2倍算を同じ演算プロセスで実行できる特別な楕円曲線の族である。<ref>{{cite web | url=http://blog.cr.yp.to/20140323-ecdsa.html | title=Cr.yp.to: 2014.03.23: How to design an elliptic-curve signature system |accessdate = 2020-01-02 }}</ref>
<!-- Another concern for ECC-systems is the danger of [[Differential fault analysis|fault attacks]], especially when running on [[smart card]]s.<ref>See, for example, {{Cite book |title=Differential Fault Attacks on Elliptic Curve Cryptosystems |first=Ingrid |last=Biehl |first2=Bernd |last2=Meyer |first3=Volker |last3=Müller |journal=Advances in Cryptology – CRYPTO 2000 |series=[[Lecture Notes in Computer Science]] |volume=1880 |year=2000 |pages=131–146 |doi=10.1007/3-540-44598-6_8 |isbn=978-3-540-67907-3 |url=http://www.iacr.org/archive/crypto2000/18800131/18800131.pdf }}</ref>
-->
=== 量子コンピュータを用いた攻撃 ===
[[離散対数]]問題を効率的に解くことのできる[[量子コンピュータ#ショアのアルゴリズム|ショアのアルゴリズム]]は、楕円曲線暗号の解読にも利用できる。256ビットの法を持つ楕円曲線暗号(128ビット安全)を破るためには、2330量子ビット、1,260億[[トフォリゲート]]のリソースを持つ量子コンピュータが必要であると見積もられている。<ref name=":0">{{Cite arxiv |eprint=1706.06752 |last1=Roetteler |first1=Martin |title=Quantum resource estimates for computing elliptic curve discrete logarithms |last2=Naehrig |first2=Michael |last3=Svore |first3=Krysta M. |last4=Lauter |first4=Kristin |class=quant-ph |year=2017 }}</ref>
一方、[[アメリカ国立標準技術研究所]]の勧告(NIST SP 800-57)によりこれと同等のセキュリティレベルとされる3072ビット鍵の[[RSA暗号]]を破るためには、6146量子ビット、18.6兆[[トフォリゲート]]が必要であり<ref name=":0" />、{{独自研究範囲|量子コンピュータにとっては、RSA暗号に比べ楕円曲線暗号は攻撃しやすいといえる。|date=2021年1月}}いずれにせよ、これらのリソースは現在実存する量子コンピュータのリソースをはるかに超えており、このようなコンピュータの構築は10年以上先になると見られている{{要出典|date=2021年1月}}。
同種写像暗号は、楕円曲線の[[楕円曲線#同種|同種写像]]を用いた暗号方式であり、量子コンピュータに対して耐性がある(耐量子)と考えられている。同種写像暗号の例として[[ディフィー・ヘルマン鍵共有]]と同様に鍵共有を行う[[超特異同種写像ディフィー・ヘルマン|SIDH]]がある。従来の楕円曲線暗号と同じ体の演算を多く使用し、必要な計算量や通信量は現在使用されている多くの公開鍵システムと同程度である。
<ref>{{cite journal|last = De Feo|first = Luca|last2 = Jao|first2 = David|last3 = Plut|first3 = Jerome|title=Towards quantum-resistant cryptosystems from supersingular elliptic curve isogenies|url=https://www.degruyter.com/view/j/jmc.2014.8.issue-3/jmc-2012-0015/jmc-2012-0015.xml|journal = Journal of Math. Cryptology|vol=8|pages = 209–247|year=2014}}</ref>
<!--
2015年8月に、[[NSA]]は、遠くない将来に[[量子コンピュータ]]を用いた攻撃に対しても安全な暗号体系へ移行することを発表した。『残念ながら、量子コンピューティングの研究が着実に進んでいるのに反して、楕円曲線暗号の使用が高まっており、暗号戦略の再評価が必要である。("Unfortunately, the growth of elliptic curve use has bumped up against the fact of continued progress in the research on quantum computing, necessitating a re-evaluation of our cryptographic strategy.")』<ref name="nsaquantum">{{cite web|url=https://www.nsa.gov/ia/programs/suiteb_cryptography/index.shtml|title=Information Assurance|website=www.nsa.gov|archive-url=https://web.archive.org/web/20150815072948/https://www.nsa.gov/ia/programs/suiteb_cryptography/index.shtml|archive-date=2015-08-15|url-status=dead}}</ref><ref name=":0" />
-->
== 解読 ==
* [[2004年]][[4月10日]]: ECC2 109[[ビット]]の解読に成功 ([http://www.certicom.com/index.php?action=res,ecc_solution certicom])。
* [[2009年]][[7月8日]]: ECC 112[[ビット]]の解読に成功([[ソニー|SONY]]・[[PlayStation 3|PS3]]使用)[http://lacal.epfl.ch/page81774.html]
==脚注==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Blake, Seroussi & Smart 著、'''Elliptic Curves in Cryptography''', CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS, 1999
== 関連項目 ==
* [[暗号理論]]
* [[楕円曲線暗号の特許]]
* [[楕円曲線ディフィー・ヘルマン鍵共有]]
* [[楕円曲線DSA]]
{{DEFAULTSORT:たえんきよくせんあんこう}}
[[Category:暗号]]
[[Category:暗号技術]]
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[[Category:有限体]]
[[Category:楕円曲線暗号]]
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武蔵小杉駅
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武蔵小杉駅(むさしこすぎえき)は、神奈川県川崎市中原区小杉町三丁目および新丸子東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東急電鉄の駅である。
当駅にはJR東日本と東急電鉄の2社が乗り入れ、接続駅としての役割も果たしている。
JR東日本の駅には、南武線、横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車の4系統が乗り入れる。スリーレターコードは「MKG」。横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車は線路名称上は東海道本線の支線で「品鶴線」の通称を持つ(旅客案内上は品鶴線とは使用されない。詳細は路線記事または「鉄道路線の名称」を参照)。上野東京ライン及び東京駅発着の東海道線列車は当駅を経由しないため、「東海道(本)線」の名称も新宿方面からの湘南新宿ライン東海道線直通列車を除き使用されない。横須賀線・湘南新宿ラインのホーム(3・4番線)開業までは南武線のみの駅であったため、現在も同線を所属線区としている。また、横浜支社の管内となっており、品鶴線西大井方の多摩川橋梁の横浜側堤防上には首都圏本部との境界が存在する。なお、品鶴線を経由する特急列車として、東海道本線方面の特急「踊り子・サフィール踊り子」の新宿方面発着列車と、成田空港への連絡列車である特急「成田エクスプレス」の横浜または大船発着列車が停車する。
東急の乗り入れ路線は、線路名称上は東横線のみであるが、2000年に複々線化され目黒線の列車も停車するようになり、東横線の列車とは案内上は区別されている。
以下、本記事では特に必要がない限り、旅客案内上の名称を使用して解説する。
貨物列車専用であった品鶴線に横須賀線の列車が走るようになったあとも、品鶴線側には長らくホームが設置されていなかったが、2005年4月4日、川崎市とJR東日本は横須賀線武蔵小杉駅設置に関して基本合意した。
開業時の横須賀線の乗降人員は、他線からの乗り換えも含めて一日あたり約7万人程度を見込んでいたが、初年度の乗車人員は4万人程度であった。
JR東日本と東急の駅は改札内での相互の往来は不可能で、改札を出て連絡通路を経由する。なお、かつてJRと東急のホームを連絡する中間改札口が設置されていたが、東急側の駅改築にあたり廃止された。
JR東日本の駅には北口・西口・東口・横須賀線口が、東急の駅には正面口・南口・東急スクエア連絡口があり、このうち正面口は正面口1(JR東日本の橋上コンコースに接続)、正面口2(東口駅前広場に接続)、正面口3(東急スクエアに接続)に分かれる。
南武線ホームは相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。また、横須賀線・湘南新宿ライン・相鉄線直通列車のホーム(以下、横須賀線ホーム)は方向別単式ホーム2面2線を有する高架駅である。直営駅(管理駅)で南武線の向河原駅 - 鹿島田駅までの各駅と、横須賀線新川崎駅を管理する。
北改札にみどりの窓口があり、指定席券売機は北改札のみどりの窓口と新南改札や綱島街道改札の自動券売機に併設している。以前は北改札にびゅうプラザがあったが、2017年4月に閉鎖されている。
エスカレーターとエレベーターは、改札内とホームを結ぶもの、改札外と西口・北口を結ぶものがある。また、南武線ホームと横須賀線ホームを結ぶ連絡通路上には動く歩道が設けられている。オストメイト対応の多機能トイレもそれぞれの路線の改札内に設置されている。
東海道本線の品川駅 - 川崎駅 - 横浜駅間が不通になった場合、通常は川崎駅に停車する東海道線の列車が品鶴線経由となり、当駅に臨時停車することがある。
横須賀線ホーム開設以来、特に朝ラッシュ時の混雑が激しくなっていることから、新南改札の向かい(新川崎寄り)に朝ラッシュ時のみ使用可能な入場専用臨時改札の開設、北改札 - 横須賀線ホーム間の連絡通路を兼ねている2番線ホームを1メートル拡幅する工事をそれぞれ行い、2018年春に併用開始している。また更なる混雑緩和の為、横須賀線新3番線ホーム(下りホーム)の増設工事を行い、方向別2面2線のホームとしたうえで、南武線北側からの改札口を新設する工事が進められ、新3番線ホームについては2022年12月18日に、新設改札口の綱島街道改札は2023年12月24日に、それぞれ供用開始された。
なお、新南改札(臨時入場口)には改札係員は常駐しないほか、綱島街道改札にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、一部時間帯を除き遠隔対応のため改札係員は不在となる。また、綱島街道改札の利用時間は7時から23時までとなっている。
(出典:JR東日本:駅構内図)
2014年2月26日より、南武線ホームにおいてJリーグ・川崎フロンターレの応援歌「ナンバーワン野郎!」を発車メロディとして導入した。
島式ホーム2面4線を有する高架駅。ホームの外側を東横線、内側を目黒線、それぞれの列車が使用する。
エスカレーター・エレベーター・多目的トイレを併設している。このうちエスカレーターは正面口側が下り専用、南口側が上り専用となっている。
高架化時に際してホーム中央に駅ビルを建設するスペースが確保されていたが、2011年8月に着工した(後述)。
改札内店舗は3・4番線の上りホームの中央横浜寄りに、改札外店舗はJR連絡改札の正面口札横にそれぞれ設置されている。
1・2番線の下りホームの中央横浜寄りに設置されている。この売店は通常の商品のほかに鉄道グッズコーナー(おもに東急線グッズ)が併設されている。
各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。
各年度の1日平均乗車人員は下表の通り(目黒線の乗車人員を含む)。
JR東日本側の改札内には崎陽軒の売店が出店し、近隣の武蔵小杉東急スクエア1階にも出店している。主な駅弁は下記の通り。
駅の立地の関係でバス停留所は4か所に分散した設置となっている。JRの北口と横須賀線口、JRの東口・東急の正面口(東口駅前広場)にバスターミナルが、東急の南口にバス停留所があり、川崎市交通局・川崎鶴見臨港バス・東急バスが周辺各方面への路線バスを運行している。停留所は北口(小杉駅前)・南口(東横線小杉駅)・横須賀線口(横須賀線小杉駅)・東口(小杉駅東口)の4か所に設けられているが、東口以外の3か所は互いに500メートル程度離れており、東口はその3か所を結んだ三角形の中央付近に位置する。
Jリーグ・川崎フロンターレの本拠地になっている等々力陸上競技場や川崎市市民ミュージアムのある等々力緑地へのバスも発着する。
川崎市交通局、東急バスが運行する路線バスが発着している。
東急バスが運行する路線バスが発着している。
川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、京浜急行バスが運行する路線バスが発着している。
川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、京浜急行バスが運行する路線バスが発着している。
※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」「踊り子・サフィール踊り子」の隣の停車駅は、各列車記事を参照のこと。
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"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "南武線ホームは相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を有している。また、横須賀線・湘南新宿ライン・相鉄線直通列車のホーム(以下、横須賀線ホーム)は方向別単式ホーム2面2線を有する高架駅である。直営駅(管理駅)で南武線の向河原駅 - 鹿島田駅までの各駅と、横須賀線新川崎駅を管理する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "北改札にみどりの窓口があり、指定席券売機は北改札のみどりの窓口と新南改札や綱島街道改札の自動券売機に併設している。以前は北改札にびゅうプラザがあったが、2017年4月に閉鎖されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "エスカレーターとエレベーターは、改札内とホームを結ぶもの、改札外と西口・北口を結ぶものがある。また、南武線ホームと横須賀線ホームを結ぶ連絡通路上には動く歩道が設けられている。オストメイト対応の多機能トイレもそれぞれの路線の改札内に設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "東海道本線の品川駅 - 川崎駅 - 横浜駅間が不通になった場合、通常は川崎駅に停車する東海道線の列車が品鶴線経由となり、当駅に臨時停車することがある。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "横須賀線ホーム開設以来、特に朝ラッシュ時の混雑が激しくなっていることから、新南改札の向かい(新川崎寄り)に朝ラッシュ時のみ使用可能な入場専用臨時改札の開設、北改札 - 横須賀線ホーム間の連絡通路を兼ねている2番線ホームを1メートル拡幅する工事をそれぞれ行い、2018年春に併用開始している。また更なる混雑緩和の為、横須賀線新3番線ホーム(下りホーム)の増設工事を行い、方向別2面2線のホームとしたうえで、南武線北側からの改札口を新設する工事が進められ、新3番線ホームについては2022年12月18日に、新設改札口の綱島街道改札は2023年12月24日に、それぞれ供用開始された。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、新南改札(臨時入場口)には改札係員は常駐しないほか、綱島街道改札にはお客さまサポートコールシステムが導入されており、一部時間帯を除き遠隔対応のため改札係員は不在となる。また、綱島街道改札の利用時間は7時から23時までとなっている。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "(出典:JR東日本:駅構内図)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "2014年2月26日より、南武線ホームにおいてJリーグ・川崎フロンターレの応援歌「ナンバーワン野郎!」を発車メロディとして導入した。",
"title": "駅構造"
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{
"paragraph_id": 17,
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"text": "島式ホーム2面4線を有する高架駅。ホームの外側を東横線、内側を目黒線、それぞれの列車が使用する。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "エスカレーター・エレベーター・多目的トイレを併設している。このうちエスカレーターは正面口側が下り専用、南口側が上り専用となっている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "高架化時に際してホーム中央に駅ビルを建設するスペースが確保されていたが、2011年8月に着工した(後述)。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "改札内店舗は3・4番線の上りホームの中央横浜寄りに、改札外店舗はJR連絡改札の正面口札横にそれぞれ設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "1・2番線の下りホームの中央横浜寄りに設置されている。この売店は通常の商品のほかに鉄道グッズコーナー(おもに東急線グッズ)が併設されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通り(目黒線の乗車人員を含む)。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "JR東日本側の改札内には崎陽軒の売店が出店し、近隣の武蔵小杉東急スクエア1階にも出店している。主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "駅の立地の関係でバス停留所は4か所に分散した設置となっている。JRの北口と横須賀線口、JRの東口・東急の正面口(東口駅前広場)にバスターミナルが、東急の南口にバス停留所があり、川崎市交通局・川崎鶴見臨港バス・東急バスが周辺各方面への路線バスを運行している。停留所は北口(小杉駅前)・南口(東横線小杉駅)・横須賀線口(横須賀線小杉駅)・東口(小杉駅東口)の4か所に設けられているが、東口以外の3か所は互いに500メートル程度離れており、東口はその3か所を結んだ三角形の中央付近に位置する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "Jリーグ・川崎フロンターレの本拠地になっている等々力陸上競技場や川崎市市民ミュージアムのある等々力緑地へのバスも発着する。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "川崎市交通局、東急バスが運行する路線バスが発着している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "東急バスが運行する路線バスが発着している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、京浜急行バスが運行する路線バスが発着している。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、京浜急行バスが運行する路線バスが発着している。",
"title": "バス路線"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「成田エクスプレス」「踊り子・サフィール踊り子」の隣の停車駅は、各列車記事を参照のこと。",
"title": "隣の駅"
}
] |
武蔵小杉駅(むさしこすぎえき)は、神奈川県川崎市中原区小杉町三丁目および新丸子東三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東急電鉄の駅である。
|
{{出典の明記|date=2015年5月}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 武蔵小杉駅
|画像 = JR_Musashi_Kosugi_sta_001.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 北口(2023年5月)
|地図={{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|type2=point|type3=point|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300|marker=rail|marker2=rail|marker3=rail|coord={{coord|35|34|36|N|139|39|34|E}}|title=JR南武線 武蔵小杉駅|coord2={{coord|35|34|29|N|139|39|48|E}}|title2=JR横須賀線 武蔵小杉駅|coord3={{coord|35|34|32.5|N|139|39|35|E}}|title3=東急 武蔵小杉駅|marker-color=ffd400|marker-color2=0067c0|marker-color3=da0442|frame-latitude=35.575630|frame-longitude=139.661659}}
|よみがな = むさしこすぎ
|ローマ字 = Musashi-Kosugi
|所属事業者 = {{Plainlist|
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]])
* [[東急電鉄]]([[#東急電鉄|駅詳細]])}}
|所在地 = [[川崎市]][[中原区]]
|備考 =
}}
{{座標一覧}}
'''武蔵小杉駅'''(むさしこすぎえき)は、[[神奈川県]][[川崎市]][[中原区]][[小杉町 (川崎市)|小杉町]]三丁目および[[新丸子東]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]である。
== 乗り入れ路線 ==
当駅にはJR東日本と東急電鉄の2社が乗り入れ、接続駅としての役割も果たしている。
JR東日本の駅には、[[南武線]]、[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]、[[湘南新宿ライン]]{{Refnest|group="注釈"|横須賀線 - 宇都宮線系統と東海道線 - 高崎線系統の双方が停車。}}、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]{{Refnest|group="注釈"|海老名方面行きは「[[相模鉄道|相鉄]]線直通」、新宿方面行きは「[[埼京線]]直通」と案内。}}の4系統が乗り入れる。[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]は「{{駅番号|#000000|white|MKG}}」。横須賀線、湘南新宿ライン、相鉄線直通列車は線路名称上は[[東海道本線]]の支線で「[[品鶴線]]」の通称を持つ(旅客案内上は品鶴線とは使用されない。詳細は路線記事または「[[鉄道路線の名称]]」を参照)。[[上野東京ライン]]及び東京駅発着の[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]列車は当駅を経由しないため、「東海道(本)線」の名称も新宿方面からの湘南新宿ライン東海道線直通列車を除き使用されない{{Refnest|group="注釈"|湘南新宿ラインの東海道線直通列車はATOS放送で「3番線の東海道線、ドアが閉まります」といった具合に「東海道線」の名称で案内される。ダイヤ乱れ時に上野東京ラインが迂回運転する際にも案内される。この場合、4番線でも「東海道線」と案内される。加えて、[[津田英治]]による案内放送が上野東京ラインに非対応のため、上野東京ラインに対する接近放送として「東海道線直通 宇都宮行き」などと案内される。}}。横須賀線・湘南新宿ラインのホーム(3・4番線)開業までは南武線のみの駅であったため、現在も同線を所属線区としている<ref group="注釈">東海道本線の通る駅で所属線区が東海道本線ではないのは、他にJR東海管区の[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]がある。こちらの所属線区は[[中央本線]]である。</ref>。また、[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]の管内となっており、品鶴線[[西大井駅|西大井]]方の[[多摩川橋梁 (品鶴線)|多摩川橋梁]]の横浜側堤防上には[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]との[[JR支社境|境界]]が存在する。なお、品鶴線を経由する[[特別急行列車|特急列車]]として、東海道本線方面の特急「[[踊り子 (列車)|踊り子・サフィール踊り子]]」の新宿方面発着列車と、[[成田国際空港|成田空港]]への連絡列車である特急「[[成田エクスプレス]]」の横浜または大船発着列車が停車する。
* [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] [[南武線]]:川崎市と多摩地域を結ぶ路線。 - [[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]「'''JN 07'''」
* [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線]]:東海道本線([[品鶴線]]経由)を経て、大船駅より線路名称上の横須賀線を走る。上り列車は多くの列車が東京駅を経由し、総武快速線へ直通する。 - 駅番号「'''JO 15'''」
* [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[湘南新宿ライン]]:東海道本線(品鶴線経由)を経て、戸塚駅から[[西大井駅]]まで横須賀線と同一の線路を使用し、[[新宿駅]]経由で東海道線と高崎線間、横須賀線と宇都宮線間をそれぞれ直通する。 - 駅番号「'''JS 15'''」
* [[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]:[[新宿駅]]より当駅まで湘南新宿ラインと同一の線路を使用し、当駅から東海道本線貨物支線を経て[[羽沢横浜国大駅]]まで走る。横須賀線・湘南新宿ラインの停車駅である新川崎駅は通過となる。羽沢横浜国大駅より[[相鉄新横浜線]]を経由し[[相鉄本線]]へ直通する。相鉄本線からの直通列車で、新宿駅方面に向かう列車は [[File:JR JA line symbol.svg|15px|]] [[埼京線]]直通と案内される。朝の一部の列車については[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[川越線]][[川越駅]]へ直通する<ref group="報道" name="sojr20190716">{{Cite press release|和書|url=https://www.sotetsu.co.jp/news_release/pdf/190716_01.pdf|title=相鉄・JR直通線の運行計画の概要について|date=2019-07-16|accessdate=2019-09-06|publisher=相模鉄道株式会社・東日本旅客鉄道株式会社|format=PDF}}</ref>。 - 駅番号「'''JS 15'''」
東急の乗り入れ路線は、線路名称上は[[東急東横線|東横線]]のみであるが、2000年に複々線化され[[東急目黒線|目黒線]]の列車も停車するようになり、東横線の列車とは案内上は区別されている。
* [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 - 駅番号「'''TY11'''」
* [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線 - 駅番号「'''MG11'''」
以下、本記事では特に必要がない限り、旅客案内上の名称を使用して解説する。
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[2月14日]]:(旧)[[東京横浜電鉄]]、丸子多摩川駅(現[[多摩川駅]]) - [[神奈川駅 (東急)|神奈川駅]]開通。現在の本駅付近には駅は開設されず{{Refnest|group="注釈"|新丸子駅と元住吉駅が開業。同時に[[目黒蒲田電鉄]]との間で目黒駅 - 神奈川駅間の直通運転開始。}}。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[3月9日]]:南武鉄道線、川崎駅 - [[登戸駅]]間開通。現在の本駅付近には駅は開設されず{{Refnest|group="注釈"|向河原駅と武蔵中原駅が開業<ref name="sone38">{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線|date=2010-04-11|pages=20-21}}</ref>。}}。
** [[11月1日]]:南武鉄道線、向河原駅 - 武蔵中原駅間に'''グラウンド前停留場'''と'''武蔵小杉停留場'''を開業<ref name="sone38"/>。
** 現在の武蔵小杉駅の位置にあったのがグラウンド前停留場で、当時の武蔵小杉停留場はその西方の[[府中街道]]([[国道409号]])との交点にあった。
* [[1929年]](昭和4年)8月21日:国鉄[[東海道本線]]の貨物支線([[品鶴線]])として、品川駅 - [[新鶴見操車場]] - [[鶴見駅]]間が開業。現在の本駅付近には駅や信号場は設置されず。
* [[1937年]](昭和12年)[[10月30日]]:グラウンド前停留場を含む南武鉄道線の向河原駅 - 武蔵中原駅間が複線化。
* [[1939年]](昭和14年)[[12月11日]]:東急の[[工業都市駅]]が開業(複線)。[[府中街道]]との交点付近にあった。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:南武鉄道線が[[戦時買収私鉄|国有化]]されて[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]南武線となる<ref name="sone38"/>。グラウンド前停留場が駅に昇格、'''武蔵小杉駅'''に改称<ref name="sone38"/>。武蔵小杉停留場廃止<ref name="sone38"/>。
* [[1945年]](昭和20年)[[6月16日]]:南武線との交点に東急の'''武蔵小杉駅'''が開業<ref name="jtb54">[[#jtb|東急の駅]]、p.54。</ref><ref name="tokyu407">[[#50th|50年史]]、pp.407-408。</ref>。暫定的な駅として作られたため<ref name="tokyu407"/>、ホームに屋根のない駅で朝夕に限り定期券を所持している通勤客専用の駅だった<ref name="jtb54"/><ref name="tokyu299">[[#50th|50年史]]、pp.299-300。</ref>。
* [[1947年]](昭和22年)[[1月1日]]:東急の武蔵小杉駅が一般旅客および手荷物の取り扱いを開始<ref name="tokyu299"/>。
* [[1948年]](昭和23年)[[11月10日]]:南武線武蔵小杉駅で[[チッキ|小荷物]]の取り扱いを開始<ref>{{Cite web|和書|url={{NDLDC|2963087/5}} |title=官報 - 運輸省告示第315号 南武線武藏小杉等において小荷物の取扱開始 |accessdate=2013-02-04 |date=1948-11-11 |page=97 }}。現在は廃止。</ref>。
* [[1953年]](昭和28年)[[3月31日]]:東急の武蔵小杉駅が工業都市駅との中間地点に移転し<ref name="tokyu407"/>、工業都市駅を廃止する<ref name="jtb55">[[#jtb|東急の駅]]、p.55。</ref>。旧武蔵小杉駅と新丸子駅は422メートル、工業都市駅とは442メートルの距離であったが移転により新丸子駅との距離が603メートルとなった<ref name="tokyu407"/>。
* [[1959年]](昭和34年)12月:[[国鉄]](北口)の駅前広場が整備され、東急バスのターミナルが工業都市(現・東横線小杉駅)から小杉駅前(北口広場)へ移動。
* [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:国鉄[[東海道新幹線]]開業。本駅付近では品鶴線の西側、同線に並行して建設。駅は設置されず。
* [[1974年]](昭和49年)[[6月1日]]:東急東横線南口に[[自動改札機]]設置<ref>{{Cite news |title=七駅の改札口自動化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-05-29 |page=1 }}</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)[[3月1日]]:国鉄[[武蔵野線]]の貨物専用区間として[[鶴見駅]] - [[府中本町駅]]間が開業。本駅の直下を通過するが、ホームは設置されず。
* [[1980年]](昭和55年)10月1日:[[東京駅]] - [[大船駅]]間で東海道本線と[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]の運転が分離され(SM分離)、品鶴線が旅客化されて横須賀線電車が運転開始。川崎市内では[[新川崎駅]]が設置。ただしこの時点では横須賀線武蔵小杉駅は設けられず。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月1日]]:国鉄駅での荷物の取り扱いを廃止。
** 10月1日:国鉄駅が橋上駅舎となる<ref group="新聞" name="交通84">{{Cite news |title=来月1日から使用開始 南武線武蔵小杉駅が橋上駅に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1984-09-22 |page=2 }}</ref>。同時にホームが川崎寄りに125m移動する{{R|交通84|group="新聞"}}。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、国鉄の駅は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる<ref name="sone38"/>{{Refnest|group="注釈"|ホームのない東海道新幹線のみは[[東海旅客鉄道]](JR東海)が継承。}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[11月27日]]:南武線[[連続立体交差]]事業に伴い武蔵中原方の下り線を高架に切り替え。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[12月20日]]:南武線連続立体交差事業に伴い武蔵中原方の上り線を高架に切り替え。<!--駅構内のホーム終端から武蔵中原方は高架である-->
* [[1993年]](平成5年)[[12月16日]]:東横線複々線化工事に伴い、当駅の改良工事に着手<ref name="RAILFAN498">鉄道友の会『RAILFAN』No.498「1993年度東急総決算」(東急支部等東急部会)p.15。</ref>
* [[1994年]](平成6年)[[3月15日]]:南武線改札口に自動改札機を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)[[7月13日]]:東横線下り線を海側の仮ホームに移設<ref name="PIC1995-11">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1995年11月号トピック・フォトp.83。</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[3月19日]]:東横線上り線を海側の仮ホームに移設<ref name="PIC1996-7">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1996年7月号「読者短信」p.112。</ref>。当駅は島式ホームとなり、同時に南武線との連絡改札口を廃止<ref name="PIC1996-7"/>。
* [[1997年]](平成9年)[[8月31日]]:東横線上り線を本設線に移設(現行の4番線の位置)、新上り線ホーム使用開始<ref name="rf_199801">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1998年1月号 通巻441号 p.115</ref><ref name="RAILFAN548">鉄道友の会『RAILFAN』No.548「1997年度東急総決算」(東急支部等東急部会)p.22。</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[4月23日]]:東横線下り線を現在の3番線位置に仮移設<ref name="RAILFAN561">鉄道友の会『RAILFAN』No.561「1998年度東急総決算」(東急支部等東急部会)p.9。</ref>。現在の1・2番線の場所にあった仮ホームは解体・新ホームを建設へ。
* [[1999年]](平成11年)[[5月15日]]:東横線下り線を本設線に移設(現行の1番線の位置)、新下り線ホーム使用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=東横線複々線化工事に伴う新丸子~武蔵小杉間線増工事で下り線が本設線に切替 両駅で平成11年5月15日から下り線が新設ホームに切り替わります |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1999-04-27 |url=http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/990427.html |accessdate=2023-05-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20041212182601/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/990427.html |archivedate=2004-12-12 }}</ref><ref name="RAILFAN574">鉄道友の会『RAILFAN』No.574「1999年度東急総決算」(東急支部等東急部会)p.13。</ref>。
* [[2000年]](平成12年)
** [[8月6日]]:[[東急目黒線]]が誕生し、多摩川駅 - 武蔵小杉駅間が複々線化。東急のホームが2面4線となる。
** [[9月26日]]:東急目黒線が都営三田線・営団(現東京メトロ)南北線との直通運転を開始。本駅は西高島平駅・赤羽岩淵駅方面への列車の始発駅となる。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる。
* [[2005年]](平成17年)[[4月4日]]:横須賀線の新川崎駅 - 西大井駅間に本駅のホームを設置することがJR東日本と川崎市との間で基本合意(後述)。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月18日]]:東急でICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる。
** 5月:横須賀線新駅設置工事着工<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/26-2-1-2-4-3-0-0-0-0.html |title= JR横須賀線武蔵小杉新駅について |publisher= 川崎市 |date= 2011-06-10 |accessdate= 2023-05-07 }}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)[[6月22日]]:東急目黒線、武蔵小杉駅 - 日吉駅間が延伸開業。同区間が複々線化され、目黒線の駅は中間駅となる。
* [[2010年]](平成22年)[[3月13日]]:横須賀線の駅が開業し<ref name="sone38"/>、同線と[[湘南新宿ライン]]・特急「[[成田エクスプレス]]」、特急「[[踊り子 (列車)#スーパービュー踊り子|スーパービュー踊り子]]」の停車駅となる。定期券以外の本駅経由の通過連絡運輸を廃止。横須賀線と南武線の駅の改札外連絡扱いを開始。
* [[2011年]](平成23年)
** [[4月9日]]:復活した南武線快速<ref>鉄道ファン No.213 p.172</ref>の停車駅となる。当初は3月12日からの実施予定だったが、前日に発生した[[東日本大震災による電力危機|震災による電力危機]]に伴う[[計画停電]]の影響により延期。
** [[6月25日]]:横須賀線と南武線を結ぶ正規連絡通路が完成し、使用を開始。これにより両線の駅の改札外連絡扱いを廃止。
* [[2012年]](平成24年)[[12月6日]]:東急東横線ホームの発車メロディに川崎フロンターレの応援歌「轟け!青き魂」を導入。
* [[2013年]](平成25年)[[4月2日]]:[[武蔵小杉東急スクエア]]が開業<ref group="新聞" name="kanagawa-np-2013-4-1">{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/news/economy/entry-113987.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210311024651/https://www.kanaloco.jp/news/economy/entry-113987.html|title=武蔵小杉東急スクエアが4月3日に全面オープン、食や雑貨など98店舗出店/川崎|newspaper=神奈川新聞|date=2013-04-01|accessdate=2021-03-11|archivedate=2021-03-11}}</ref>。これにあわせて同ビル4階と東急のホームを結ぶ東急スクエア連絡口の使用を開始。
* [[2014年]](平成26年)
** [[1月8日]]:東急東横線と南武線連絡通路のエスカレーターが急停止し、11人が重軽傷を負う事故が発生<ref>https://web.archive.org/save/https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-56223.html</ref>。
** [[2月26日]]:南武線ホームの発車メロディを川崎フロンターレの応援歌「[[ナンバーワン野郎!]]」に変更。
** [[3月30日]]:武蔵小杉駅東口駅前広場が使用を開始<ref group="新聞" name="kanagawa-np-2014-3-30">{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/entry-45501.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210311023404/https://www.kanaloco.jp/entry-45501.html|title=武蔵小杉駅東口駅前広場、完成を祝い式典|newspaper=神奈川新聞|date=2014-03-30|accessdate=2021-03-11|archivedate=2021-03-11}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[4月28日]]:JRが[[びゅうプラザ]]の営業を終了。
* [[2018年]](平成30年)[[4月26日]]:混雑緩和の為、JRの新南改札口(臨時入場口)が開設<ref group="報道" name="yokohama-20171206" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月12日]]:[[令和元年東日本台風]](台風19号)による大雨の影響で、横須賀線新南改札口が浸水する被害を受ける。この影響で翌13日は、横須賀線上下線の全列車が終日当駅通過扱いとなる(湘南新宿ラインは全列車運休)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191013074456/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=台風19号によるJR東日本管内の設備等の主な被害状況について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-10-13|accessdate=2019-10-13|archivedate=2019-10-13}}</ref>。
** [[11月30日]]:[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]運行開始<ref group="報道" name="sojr20190716" />。
* [[2021年]](令和3年)[[4月30日]]:東急電鉄の定期券売り場の営業を終了<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/eca549ce97d87500e3e5b7c261b5ce8f8950eac2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210319161740/https://www.tokyu.co.jp/image/information/pdf/eca549ce97d87500e3e5b7c261b5ce8f8950eac2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=定期券のお買い求めや払いもどしは、モバイルPASMO・Apple PayのPASMO・券売機のご利用が便利です!|page=2|publisher=東急電鉄|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-19|archivedate=2021-03-19}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[3月13日]]:南武線ホームにて[[ホームドア]]の使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.city.kawasaki.jp/templates/press/cmsfiles/contents/0000109/109115/houdoupahhyousiryou20190722.pdf|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11514009/www.city.kawasaki.jp/templates/press/cmsfiles/contents/0000109/109115/houdoupahhyousiryou20190722.pdf|format=PDF|language=日本語|title=JR南武線武蔵小杉駅にホームドアを設置します|publisher=川崎市まちづくり局交通政策室|date=2019-07-22|accessdate=2021-04-06|archivedate=2019-10-07}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210406050253/https://www.jreast.co.jp/press/2021/20210406_ho01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2021年度のホームドア整備について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2021-04-06|accessdate=2021-04-06|archivedate=2021-04-06}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.townnews.co.jp/0204/2022/02/11/612509.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220227125638/https://www.townnews.co.jp/0204/2022/02/11/612509.html|title= 武蔵小杉駅 南武線初のホームドア 3月から使用へ|newspaper=タウンニュース|publisher=[[タウンニュース社]]|date=2022-02-11|accessdate=2022-02-27|archivedate=2022-02-27}}</ref>。
** [[12月18日]]:横須賀線新3番線ホームの供用を開始<ref group="報道" name="yokohama/20220916_y1"/>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月17日]]:この日をもって、東急東横線の発車メロディの使用を原則終了。翌日より[[ワンマン運転]]となり、ブザーに変更{{Refnest|group="注釈"|但し、回送列車の発車時などで稀に発車メロディが鳴ることがある。}}。
** [[12月24日]]:JRの綱島街道改札の供用を開始<ref group="報道" name="press20230926">{{Cite press release|和書|title=JR武蔵小杉駅新規改札口「綱島街道改札」を供用開始します!|publisher=川崎市、東日本旅客鉄道横浜支社|date=2023-09-26|format=PDF|language=日本語|url=https://www.city.kawasaki.jp/templates/press/cmsfiles/contents/0000154/154621/kaisatukyouyou.pdf|accessdate=2023-09-26|archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/13019620/www.city.kawasaki.jp/templates/press/cmsfiles/contents/0000154/154621/kaisatukyouyou.pdf|archivedate=2023-10-07}}</ref>。
=== 横須賀線の駅設置の経緯 ===
[[貨物列車]]専用であった品鶴線に横須賀線の列車が走るようになったあとも、品鶴線側には長らく[[プラットホーム|ホーム]]が設置されていなかったが、2005年4月4日、川崎市とJR東日本は横須賀線武蔵小杉駅設置に関して基本合意した。
* 開業 - 2010年(平成22年)3月13日に仮開業。当初は2009年度中に本開業する予定であったが、南武線と横須賀線の連絡通路工事でも[[東海道新幹線]]のレールがずれないようにするための追加工事や工法変更が必要となったため、まずは暫定通路や仮ホームを利用した開業となり<ref>[[タウンニュース社|タウンニュース]]2008年11月7日号、「[http://www.townnews.co.jp/0204/2008/11/07/24084.html JR横須賀線武蔵小杉新駅 仮ホームで開業へ 新幹線の安全確保のため工事期間を延長]」</ref>、正式開業はその約1年後となる予定に変更された。
* 場所 - [[新川崎駅]]から約3キロ、[[西大井駅]]から約6キロに位置する横須賀線と南武線の交差部。[[地番]]は川崎市中原区新丸子東三丁目1111番。
* 駅構造 - 島式ホーム1面2線の高架駅となる。ホームは横須賀線の下り線路を外側に移設して確保した空間に新設する(隣接のNEC玉川事業場の土地を駅敷地として一部譲受)。ホームの長さは310メートル。並行して敷設されている東海道新幹線の線路は現状維持となる。また、新川崎寄りのホーム側に新改札口(新南改札)と駅前広場が建設される(従来の南武線側の改札口は「北改札」となる)。
* 連絡通路 - 南武線の駅からは東に離れた場所に位置しているため、同線の駅から線路に沿って西大井寄りのホーム先端付近につなげた。全長250メートル。また、通路は高架式および地下式タイプではなく地平レベルとなることから、途中の綱島街道の道路下と東海道新幹線の線路下をくぐり抜けて[[階段]]、[[動く歩道|動くスロープ]]、[[エレベーター]]が設置される構造となる。この通路は仮開業から1年後の2011年春季の完成予定となっていたが、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響により延期となり、同年6月25日からの供用開始となった。
** 駅開業時から約1年程は暫定通路{{Refnest|group="注釈"|本設通路が現在の駅前の更地に設置されるため、南武線ホームから東海道新幹線線路下付近までは本設通路だが、東海道新幹線線路下付近からは横須賀線ホーム中央高架下まで続く仮設通路だった。}}での連絡だったため、本設通路完成時までは暫定措置として改札外連絡も可能だった。この場合、新南改札と北改札(一部)のオレンジ色にラッピングされた自動改札機から出場し、30分以内にもう一方の改札から入場する必要があり、これを超えた場合は下車扱いとなっていた。本設通路の完成によりこの取り扱いは終了となり、自動改札機のオレンジ色のラッピングも撤去された。
* 事業費 - 約200億円。そのうち約30億円は[[広場#交通広場と駅前広場|駅前広場]]などの関連施設に充当される。
** 駅舎 - 川崎市が全額負担。
** 連絡通路 - 川崎市とJR東日本が折半。
開業時の横須賀線の[[乗降人員]]は、他線からの乗り換えも含めて一日あたり約7万人程度を見込んでいたが、初年度の'''[[乗降人員#乗車人員|乗車人員]]'''は4万人程度であった。
* 当初、2009年度開業時点のJR東日本と東急を合わせた全体の1日平均乗降人員は、2003年時点の約14万人から4万人増の約18万人程度と見込んでいたが、2008年時点では28.3万人である。
* 開業後は横須賀線{{Refnest|group="注釈"|1980年10月1日にSM分離が実施されて以来、約30年ぶりに横須賀線電車と南武線電車が直接乗り換えできるようになる。なお、SM分離前は[[川崎駅]](横須賀線の電車が東海道線ホームに発着)が接続駅だった。}}・湘南新宿ライン、および横浜方面発着の特急「成田エクスプレス」全列車と新宿方面発着の特急「踊り子」系統が停車している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/2009/20091215.pdf|format=PDF|title=2010年3月のダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2009-12-15|accessdate=2010-03-19}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|川崎市内では川崎駅に次いで2つ目のJR優等列車停車駅となる。}}。ただし、平日朝と夜に運行する特急「[[湘南 (列車)|湘南]]」全列車はすべて通過する。
* 当ホームの開業によって、本駅を発着、または経由して[[東京近郊区間]]内のみを乗車する場合、運賃計算経路が南武線を経由する従来のものより短くなり、運賃が値下げとなる区間がある{{Refnest|group="注釈"|定期券の場合は実際に乗車する経路を変更する場合に限る。}}{{Refnest|group="注釈"|開業後に使用可能となる経路の乗車券は開業当日以降の発売となり、みどりの窓口や指定席券売機などでも前売りはしない。ただし、前述にある開業後に本駅停車となる優等列車の指定席券は通常通りの取り扱い(1か月前の10時以降)である。}}。また、現行の南武線と[[東京山手線内]]との間を東急東横線または[[小田急小田原線]]で経由する[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]{{Refnest|group="注釈"|対象区間は南武線(矢向駅 - 宿河原駅間)・'''武蔵小杉駅''' - 東急東横線 - 渋谷駅・東京山手線内と南武線(武蔵中原駅 - 南多摩駅間)・[[登戸駅]] - 小田急小田原線 - [[新宿駅]]・東京山手線内で、ともに前後のJR線営業キロを通算する。}}は[[定期乗車券|定期券]]を除き廃止となり、乗車される区間をそれぞれ合算した運賃となる。
=== 駅名の由来 ===
* 南武鉄道の駅が開設される際に地名をとったものであるが、[[北陸本線]](現・[[あいの風とやま鉄道線]])の[[小杉駅 (富山県射水市)|小杉駅]]([[富山県]][[射水郡]][[小杉町]]〈現・[[射水市]]〉)と区別するために[[旧国名]]を冠して'''武蔵小杉'''とした。小杉は、[[江戸時代]]には[[中原街道]]の小杉宿として栄えていた。
* グラウンド前駅の由来は、駅前に[[横浜正金銀行]]のグラウンドがあったためである。このグラウンドはその後、同行の後身である[[東京銀行]]が使用していたが、[[東京三菱銀行]]を経て[[三菱UFJ銀行]]となった際は資産整理のため閉鎖された。跡地はしばらく有料[[駐車場]]となったあと、[[三井不動産]]グループの手で開発された高層[[マンション]]「パークシティ武蔵小杉(ミッドスカイタワー、ステーションフォレストタワー)」が2009年に竣工した<ref>[[All About]]「住宅・不動産」、岡本郁雄、2009年4月20日付記事 [https://allabout.co.jp/gm/gc/29962/ 国内最高59階建てタワーが武蔵小杉に完成!]」</ref>。
* 工業都市駅の由来は、駅周辺に工場が多く立地してきたため、その最寄り駅として設置されたことによるものである。[[東京横浜電鉄]]の分譲地「田園都市」の対になるものでもある<ref>はまれぽ.com [http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=2544 東急東横線の武蔵小杉駅、誕生までの紆余曲折物語!]</ref>。東急バスの「東横線小杉駅」バス停留所は長らく「工業都市」を名乗っていた。なお、東京横浜電鉄と南武鉄道はお互い関係会社という位置づけでありながら実際は競合し反目していた間柄であったため、その交点に駅が設置されることはなかった。
== 駅構造 ==
JR東日本と東急の駅は[[改札]]内での相互の往来は不可能で、改札を出て連絡通路を経由する。なお、かつてJRと東急のホームを連絡する中間改札口が設置されていたが、東急側の駅改築にあたり廃止された。
JR東日本の駅は、北改札に北口・西口・東口があり、綱島街道改札と新南改札にそれぞれ1か所ずつ出入口が存在する。また、東急の駅には正面口・南口・[[武蔵小杉東急スクエア|東急スクエア]]連絡口があり、このうち正面口は正面口1(JR東日本の橋上コンコースに接続)、正面口2(東口駅前広場に接続)、正面口3(東急スクエアに接続)に分かれる。
=== JR東日本 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = JR 武蔵小杉駅{{Refnest|group="*"|1944年にグラウンド前停留場から改称。}}
|画像 = JR-Musashi-Kosugi-yokosuka-building.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = JR横須賀線口(2018年11月)
|よみがな = むさしこすぎ
|ローマ字 = Musashi-Kosugi<br />{{駅番号|#000000|white|MKG}}<!--スリーレターコード-->
|電報略号 = スキ<ref>{{Cite book|和書|author=|title=国鉄全線各駅停車4 関東510駅 |publisher=小学館 |date=1983年 |page=39|isbn=4-09-395104-7}}</ref>
|所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|所在地 = [[川崎市]][[中原区]][[小杉町 (川崎市)|小杉町]]三丁目492番地
|座標 = {{Plainlist|
* {{coord|35|34|36|N|139|39|34|E|region:JP-14_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR南武線 武蔵小杉駅}}(南武線)
* 川崎市中原区[[新丸子東]]三丁目1111番地<br />{{coord|35|34|29|N|139|39|48|E|region:JP-14_type:railwaystation|name=JR横須賀線 武蔵小杉駅}}(横須賀線)}}
|開業年月日 = [[1944年]]([[昭和]]19年)[[4月1日]]
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]){{R|交通84|group="新聞"}}・[[高架駅]]
|ホーム = {{Plainlist|
* 2面2線(南武線)
* 2面2線(横須賀線)}}
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 99,969
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 4
|所属路線1 = {{color|#ffd400|■}}[[南武線]]
|前の駅1 = JN 06 [[向河原駅|向河原]]
|駅間A1 = 0.9
|駅間B1 = 1.7
|次の駅1 = [[武蔵中原駅|武蔵中原]] JN 08
|駅番号1 = {{駅番号r|JN|07|#ffd400|1}}
|キロ程1 = 7.5
|起点駅1 = [[川崎駅|川崎]]
|所属路線2 = {{Plainlist|
* {{color|#0067c0|■}}[[横須賀・総武快速線|横須賀線]]
* {{color|#f68b1e|■}}{{color|#0067c0|■}}[[湘南新宿ライン]]<br />(線路名称上は[[東海道本線]]〈[[品鶴線]]〉)}}
|前の駅2 = JO 16・JS 16 {{Refnest|group="*"|name="boundary"|この間に[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]と[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]の[[JR支社境|境界]]あり(本駅から新川崎寄りは横浜支社管内)。}}[[西大井駅|西大井]]
|駅間A2 = 6.4
|駅間B2 = 2.7
|次の駅2 = [[新川崎駅|新川崎]] JO 14・JS 14
|駅番号2 = {{駅番号r|JO|15|#0067c0|1}} {{駅番号r|JS|15|#e21f26|1}}
|キロ程2 = 10.0 km([[品川駅|品川]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から16.8
|起点駅2 =
|所属路線3 = {{Plainlist|
* {{color|#0066ff|■}}[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通]]
* {{color|#00ac9a|■}}[[埼京線|埼京線直通]]<br />(線路名称上は東海道本線〈品鶴線〉)}}
|前の駅3 = JS 16 <ref group="*" name="boundary" />西大井
|駅間A3 = 6.4
|駅間B3 = 16.6
|次の駅3 = [[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]{{Refnest|group="*"|この間に新川崎駅・[[新鶴見信号場]](品川起点13.9 km)と[[鶴見駅]](品川起点17.8 km)があるが、旅客列車は停車しない。}} SO51
|駅番号3 = {{駅番号r|JS|15|#e21f26|1}}
|キロ程3 =
|起点駅3 =
|乗換 =
|備考 = {{Plainlist|
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[管理駅]])
* [[みどりの窓口]] 有
* [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|綱島街道改札に導入<ref name="StationCd=1527_231224" />。}}<ref name="StationCd=1527_231224" />}}
|備考全幅 = {{Reflist|group="*"}}
}}
南武線ホームは[[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している{{R|交通84|group="新聞"}}。また、横須賀線・湘南新宿ライン・相鉄線直通列車のホーム(以下、横須賀線ホーム)は[[プラットホーム#単式ホーム|方向別単式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]である。[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[管理駅]])で南武線の[[向河原駅]] - [[鹿島田駅]]までの各駅と、横須賀線[[新川崎駅]]を管理する。
北改札に[[みどりの窓口]]があり、[[指定席券売機]]は北改札のみどりの窓口と新南改札や綱島街道改札の[[自動券売機]]に併設している。以前は北改札にびゅうプラザがあったが、2017年4月に閉鎖されている。
[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]は、改札内とホームを結ぶもの、改札外と西口・北口を結ぶものがある。また、南武線ホームと横須賀線ホームを結ぶ連絡通路上には[[動く歩道]]が設けられている。[[オストメイト]]対応の多機能[[便所|トイレ]]もそれぞれの路線の改札内に設置されている。
東海道本線の品川駅 - 川崎駅 - 横浜駅間が不通になった場合、通常は川崎駅に停車する[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]の列車が品鶴線経由となり、当駅に臨時停車することがある。
横須賀線ホーム開設以来、特に朝ラッシュ時の混雑が激しくなっていることから、新南改札の向かい(新川崎寄り)に朝ラッシュ時のみ使用可能な入場専用臨時改札の開設、北改札 - 横須賀線ホーム間の連絡通路を兼ねている2番線ホームを1メートル拡幅する工事をそれぞれ行い、2018年春に併用開始している<ref group="報道" name="yokohama-20171206">{{Cite web|和書|title=武蔵小杉駅の混雑緩和対策工事の着手について|url=http://www.jreast.co.jp/press/2017/yokohama/20171206_y01.pdf|publisher=JR東日本横浜支社|format=PDF|date=2017-12-06|accessdate=2017-12-06}}</ref>。また更なる混雑緩和の為、横須賀線新3番線ホーム(下りホーム)の増設工事を行い、方向別2面2線のホームとしたうえで、南武線北側からの改札口を新設する工事が進められ<ref group="報道">{{Cite web|和書|title=JR横須賀線武蔵小杉駅及び駅周辺の混雑緩和に向けた取組を進めます|url=http://www.jreast.co.jp/press/2018/yokohama/20180717_y01.pdf|publisher=川崎市/東日本旅客鉄道横浜支社|format=PDF|date=2018-07-17|accessdate=2018-07-17}}</ref>、新3番線ホームについては[[2022年]][[12月18日]]に<ref group="報道" name="yokohama/20220916_y1">{{Cite press release|和書|title=横須賀線 武蔵小杉駅 新下りホームの供用を開始します|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2022-09-16|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/yokohama/20220916_y1.pdf|format=PDF|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220916093337/https://www.jreast.co.jp/press/2022/yokohama/20220916_y1.pdf|accessdate=2022-09-16|archivedate=2022-09-16}}</ref><ref group="報道" name="press/20200326_y01">{{Cite press release|和書|title=横須賀線武蔵小杉駅の混雑緩和に向けて下りホーム新設工事に着手します|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-03-26|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200326_y01.pdf|format=PDF|accessdate=2020-03-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200326054215/https://www.jreast.co.jp/press/2019/yokohama/20200326_y01.pdf|archivedate=2020-03-26}}</ref>、新設改札口の綱島街道改札は[[2023年]][[12月24日]]に<ref group="報道" name="press20230926"/>、それぞれ供用開始された。
なお、新南改札(臨時入場口)には改札係員は常駐しないほか、綱島街道改札には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部時間帯を除き遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=1527_231224">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1527|title=駅の情報(武蔵小杉駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231224074157/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1527|archivedate=2023-12-24}}</ref>。また、綱島街道改札の利用時間は7時から23時までとなっている<ref group="報道" name="press20230926"/>。
==== のりば ====
<!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠-->
{|class="wikitable"
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先
|-style="border-top:solid 3px #999"
| colspan="4" style="background-color:#eee" |'''地上ホーム'''
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
|style="text-align:center"|上り
|[[向河原駅|向河原]]・[[矢向駅|矢向]]・[[川崎駅|川崎]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[武蔵溝ノ口駅|武蔵溝ノ口]]・[[登戸駅|登戸]]・[[立川駅|立川]]方面
|-style="border-top:solid 3px #999"
| colspan="4" style="background-color:#eee" |'''高架ホーム'''
|-
!rowspan="3"|3
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線
| style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[逗子駅|逗子]]・[[久里浜駅|久里浜]]方面
|-
|[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
|style="text-align:center"|南行
|横浜・[[鎌倉駅|鎌倉]]・[[小田原駅|小田原]]方面
|-
|[[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通
|style="text-align:center"|下り
|[[羽沢横浜国大駅|羽沢横浜国大]]・[[海老名駅|海老名]]方面
|-
!rowspan="3"|4
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀・総武線(快速)]]
|style="text-align:center"|上り
|[[品川駅|品川]]・[[東京駅|東京]]・[[千葉駅|千葉]]・[[成田空港駅|成田空港]]方面<br />{{Color|#0067c0|■}}特急「[[成田エクスプレス]]」
|-
|[[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
|style="text-align:center"|北行
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[新宿駅|新宿]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面
|-
|[[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]] 埼京線直通
|style="text-align:center"|上り
|新宿・[[武蔵浦和駅|武蔵浦和]]・大宮方面
|}
(出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1527.html JR東日本:駅構内図])
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
File:JRmusashi-kosugiWest.jpg|JR東口(2008年4月)
File:JRmusashi-kosugiEast.jpg|JR西口(2008年4月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA North-Gate.jpg|北改札(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA New-South-Gate.jpg|新南改札(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA Platform1.jpg|1番線(南武線)ホーム(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA Platform2.jpg|2番線(南武線)ホーム(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA Platform3.jpg|3番線(横須賀線)ホーム(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA Platform4 Protective-rope.jpg|4番線ホーム脇に張られた仮設防護ロープ、旧3番線ホーム運用終了に伴う措置(2022年12月)
File:JRE Musashi-kosugi-STA Platform3-4.jpg|ホームを共有していた時の3・4番線(横須賀線)ホーム(2022年6月)
</gallery>
==== 発車メロディ ====
2014年2月26日より、南武線ホームにおいて[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[川崎フロンターレ]]の応援歌「[[ナンバーワン野郎!]]」を[[発車メロディ]]として導入した。
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows"
!1
|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]]
|ナンバーワン野郎!(a)
|-
!2
|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]]
|ナンバーワン野郎!(b)
|-
!3
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]]
|淡い恋心([[サウンドフォーラム]]製)
|-
!4
|[[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] [[File:JR JA line symbol.svg|15px|JA]]
|SF10-43([[サウンドファクトリー]]製)
|}
=== 東急電鉄 ===
{{駅情報
|社色 = #ee0011
|文字色 =
|駅名 = 東急 武蔵小杉駅
|画像 = Tokyu Musashi-Kosugi Sta. main entrance.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 東口(2015年2月)
|よみがな = むさしこすぎ
|ローマ字 = Musashi-kosugi
|副駅名 =
|所在地 = [[川崎市]][[中原区]][[小杉町 (川崎市)|小杉町]]三丁目472番地
|座標 = {{coord|35|34|32.5|N|139|39|35|E|region:JP-14_type:railwaystation|name=東急 武蔵小杉駅}}
|所属事業者 = [[東急電鉄]]
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]]
|前の駅1 = TY10 [[新丸子駅|新丸子]]
|駅間A1 = 0.5
|駅間B1 = 1.3
|次の駅1 = [[元住吉駅|元住吉]] TY12
|駅番号1 = {{駅番号r|TY|11|#da0442|3}}
|キロ程1 = 10.9
|起点駅1 = [[渋谷駅|渋谷]]
|所属路線2 = {{color|#009cd2|■}}[[東急目黒線|目黒線]]
|前の駅2 = MG10 新丸子
|駅間A2 = 0.5
|駅間B2 = 1.3
|次の駅2 = 元住吉 MG12
|駅番号2 = {{駅番号r|MG|11|#009cd2|3}}
|キロ程2 = 9.1
|起点駅2 = [[目黒駅|目黒]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1945年]]([[昭和]]20年)[[6月16日]]
|乗降人員 = (東横線)140,551人/日<br />(目黒線)41,209人/日<br />(合計)181,760
|統計年度 = 2022年
|乗換 =
|備考 =
}}
[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]。ホームの外側を東横線、内側を目黒線、それぞれの列車が使用する。
エスカレーター・エレベーター・多目的トイレを併設している。このうちエスカレーターは正面口側が下り専用、南口側が上り専用となっている。
高架化時に際してホーム中央に駅ビルを建設するスペースが確保されていたが、2011年8月に着工した([[#川崎縦貫高速鉄道の計画|後述]])。
==== のりば ====
{|class="wikitable"
!nowrap|番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!nowrap|方向!!行先
|-
!1
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|rowspan="2" style="text-align:center"|下り
|[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty11_musashikosugi2.pdf|title=東横線標準時刻表 武蔵小杉駅 横浜 元町・中華街 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!2
|rowspan=2|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
|[[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg11_musashikosugi2.pdf|title=目黒線標準時刻表 武蔵小杉駅 日吉・新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!3
|rowspan="2" style="text-align:center"|上り
|[[目黒駅|目黒]]・[[赤羽岩淵駅|赤羽岩淵]]・[[浦和美園駅|浦和美園]]・[[西高島平駅|西高島平]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_mg11_musashikosugi.pdf|title=目黒線標準時刻表 武蔵小杉駅 目黒方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|-
!4
|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
|[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty11_musashikosugi.pdf|title=東横線標準時刻表 武蔵小杉駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref>
|}
==== 駅構内設備 ====
; 売店([[Toks|LAWSON+toks]])
改札内店舗は3・4番線の上りホームの中央横浜寄りに、改札外店舗はJR連絡改札の正面口札横にそれぞれ設置されている。
; 売店([[toks]])
1・2番線の下りホームの中央横浜寄りに設置されている。この売店は通常の商品のほかに鉄道グッズコーナー(おもに東急線グッズ)が併設されている。
==== 付記 ====
{{出典の明記|section=1|date=2012年8月|ソートキー=駅}}
* 2017年3月25日より運転を開始した有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は、当駅に運転停車するが、客扱いは行わない。
* 東横線の特急([[Fライナー]]含む、通勤特急除く)は東急新横浜線の始発駅である[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]を通過する。そのため、東横線特急と東急新横浜線直通列車を利用する場合は、当駅で乗り換える必要がある。
* かつては[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]所管の「日吉管内」の駅であったが、2012年に[[駅長]]所在駅に昇格し、「武蔵小杉管内」として[[元住吉駅]]から[[新丸子駅]]を日吉管内から移管のうえ管理している。
* かつては東横線のみが乗り入れ、相対式ホーム2面2線を有する[[盛土|築堤]]上に設けられた高架駅であり、改札口は[[元住吉駅|元住吉]]寄り(現在の南口)にあったが、[[新丸子駅|新丸子]]寄りに上りホームから同一平面で南武線の構内[[跨線橋]]に連絡する通路があり、中間[[改札|改札口]]を介して乗り換えが可能になっていたほか、東横線利用者が南武線改札から乗降(あるいはその逆に南武線利用者が東横線南口で乗降)する場合にも利用されていた。
* 東横線複々線化工事に伴い、[[1993年]][[12月16日]]から改良工事が開始された<ref name="RAILFAN498"/>。1995年7月に下り線を海側の仮ホームに、1996年7月に上り線も海側の仮ホーム(現在の下りホーム位置・仮設ホーム)に移設され、同時に南武線との連絡改札口も廃止された<ref name="PIC1995-11"/><ref name="PIC1996-7"/>。この時点で島式1面2線のホームとなり、有効長は10両編成分が確保された<ref name="PIC1995-11"/><ref name="PIC1996-7"/>。ホームが1つとなることから、混雑緩和を目的に上り線と下り線で停車位置を2両分ずらしていた<ref name="PIC1995-11"/><ref name="PIC1996-7"/>。
* その後、東横線の[[複々線]]化工事に伴う改築により前述の通路と中間改札口が廃止され、同時に新丸子寄りにも改札口が新設された。
* 2000年8月6日の目黒線開業に伴い、専用の[[引き上げ線]]が敷設された。当初は1線のみだったが、2006年9月24日の東横線の当駅 - 日吉駅間の高架化および同年9月25日からの目黒線の急行運転に伴い2線に拡張された。これは元住吉駅高架化前の東横線の本線を使用してそのまま[[元住吉検車区]]へとつながっていたため、東横線・目黒線の当駅止まりの列車や当駅始発の出・入庫列車が使用していたが、2008年6月22日の目黒線の日吉延伸時に本線としての使用を開始した。なお、目黒線の日吉駅延伸後も元住吉検車区への入・出庫のために引き続き当駅始発・終点の列車が設定されている。
* 2006年9月25日のダイヤ改正で元住吉駅は南側に移転・高架化された。元住吉駅構内から検車区への出・入庫が不可能となったため、東横線の出・入庫列車は[[始発列車|初電]]と[[終電]]を除き従来の元住吉駅始発・終点からすべて当駅発着に変更された。なお、出・入庫時は当駅から目黒線の線路を経て元住吉検車区に通じる車庫線を経由するが、横浜方面はそのほとんどが日吉始発となるため、元住吉検車区に設置されている日吉駅への「下り出庫線」を通る。
* 埼玉高速鉄道線および都営地下鉄三田線から目黒線経由で東横線・みなとみらい線に直通する[[臨時列車]]「[[みなとみらい号]]」は2006年8月運転分まで当駅で目黒線から東横線への転線を行っていたが、前述した元住吉駅高架化に伴う配線変更により同年12月運転分から[[田園調布駅]]での転線となった。なお、目黒線の日吉延伸後も田園調布駅での転線となっている。
* 東横線の本駅 - 元住吉間の高架線上には、非常時の同駅での折り返しに備えて[[分岐器#形状による分類|非常渡り線]]が設けられている。
* 2013年3月16日から東横線は[[東京メトロ副都心線]]と相互直通運転を実施するにあたり、特急・通勤特急・急行において10両編成運転を開始するため、新丸子寄りでホームの延伸工事が行われた<ref>[http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/sby_ykhm.html#home 東横線渋谷〜横浜間改良工事・ホーム延伸] - 東京急行電鉄、2010年11月5日閲覧</ref>。
* 2015年3月7日の終電後に4番線(東横線上り)に[[ホームドア]]が設置され、同月末に稼働された<ref>[http://railf.jp/news/2015/03/09/180000.html#home 東急東横線武蔵小杉駅4番線にホームドア設置] - rail.jp 鉄道ニュース、2015年3月9日閲覧</ref><ref group="報道">[http://www.tokyu.co.jp/company/news/list/?id=2190#home 2020年を目標に東横線・田園都市線・大井町線の全64駅にホームドアを設置します] - 東急電鉄、2015年3月9日閲覧</ref>。
* 2015年4月に複合ビルである[[武蔵小杉東急スクエア]]が開業。それに伴い、東急スクエア連絡口改札を設置(利用は10時 - 22時)。
* 2010年に横須賀線ホームが設置されたことで利便性が向上し、また駅周辺の開発が進んだこともあり、2016年以降はラッシュ時の駅および周辺区間の混雑が大きな問題となっている<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASKB53SLWKB5ULOB00C.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180301205520/https://www.asahi.com/articles/ASKB53SLWKB5ULOB00C.html|title=「住みたい街」武蔵小杉、駅の混雑「相当危険な状態」|newspaper=朝日新聞|date=2017-10-06|accessdate=2021-03-11|archivedate=2018-03-01}}</ref>。
<gallery widths="200" style="font-size:90%;">
Tokyumusashi-kosugiNorth.jpg|JR連絡口(2008年4月)
Musashikosugi eki 2.jpg|南口(2004年4月)
Tokyu Musashi-Kosugi Sta. ticket gate.jpg|改札口とコンコース(2015年2月)
Tokyu Musashi-Kosugi-STA TOKYU-SQUARE-transfer-Gate.jpg|東急スクエア連絡改札(2023年4月)
Tokyu Musashi-Kosugi-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2023年4月)
Tokyu Musashi-Kosugi-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2023年4月)
</gallery>
== 利用状況 ==
* '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''99,969人'''である<ref group="利用客数">[http://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。
*: JR東日本管内の駅では[[五反田駅]]に次いで第27位、神奈川県内では[[川崎駅]]に次ぐ第3位である。南武線の駅では川崎駅・立川駅に次いで第3位、横須賀線の駅では横浜駅・東京駅・品川駅・新橋駅に次いで第5位、湘南新宿ラインの駅では新宿駅・池袋駅・横浜駅・渋谷駅・大宮駅・大崎駅・恵比寿駅に次いで第8位である。横須賀線駅開業で大幅に増加した。2016年の首都圏鉄道混雑ランキングで武蔵小杉→西大井はワースト4位であった。
* '''東急電鉄'''<ref group="利用客数">[https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ 2021年度乗降人員] - 東急電鉄</ref>
**'''東横線''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''140,551人'''である。
**: 同線の駅では渋谷駅、横浜駅、[[中目黒駅]]に次ぐ第4位。
** '''目黒線''' - 2022年度の1日平均乗降人員は'''41,209人'''である。
**: 同線の駅では目黒駅、[[武蔵小山駅]]、日吉駅に次ぐ第4位。
=== 年度別1日平均乗降人員 ===
各年度の1日平均'''乗降人員'''は下表の通り。
* 東横線・目黒線の値には、東急線相互間の乗換人員を含まない。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!rowspan="3"|年度
!colspan="4"|東急電鉄
|-
!colspan="2"|東横線
!colspan="2"|目黒線
|-
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
!1日平均<br />乗降人員
!増加率
|-
|2002年(平成14年)
|147,609||
|26,840||
|-
|2003年(平成15年)
|148,730||0.8%
|28,147||4.9%
|-
|2004年(平成16年)
|151,223||1.7%
|28,752||2.1%
|-
|2005年(平成17年)
|154,951||2.5%
|30,058||4.5%
|-
|2006年(平成18年)
|158,693||2.4%
|31,124||3.5%
|-
|2007年(平成19年)
|165,190||4.1%
|34,696||11.5%
|-
|2008年(平成20年)
|163,770||−0.9%
|42,052||21.2%
|-
|2009年(平成21年)
|162,475||−0.8%
|43,160||2.6%
|-
|2010年(平成22年)
|152,910||−5.9%
|39,102||−9.4%
|-
|2011年(平成23年)
|149,361||−2.3%
|38,028||−2.7%
|-
|2012年(平成24年)
|150,326||0.6%
|39,006||2.6%
|-
|2013年(平成25年)
|160,939||7.1%
|40,920||4.9%
|-
|2014年(平成26年)
|165,188||2.6%
|43,523||6.4%
|-
|2015年(平成27年)
|171,333||3.7%
|45,766||5.2%
|-
|2016年(平成28年)
|175,059||2.2%
|47,615||4.0%
|-
|2017年(平成29年)
|176,606||0.9%
|48,857||2.6%
|-
|2018年(平成30年)
|176,351||−0.1%
|49,681||1.7%
|-
|2019年(令和元年)
|173,414||−1.7%
|49,842||0.3%
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|118,030||−31.9%
|33,778||−32.2%
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|128,947||9.2%
|36,951||9.4%
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|140,551||9.0%
|41,209||11.5%
|}
=== 年度別1日平均乗車人員 ===
各年度の1日平均'''乗車人員'''は下表の通り(目黒線の乗車人員を含む)。
* JR東日本、東急ともに神奈川県県勢要覧を参照<!--神奈川県県勢要覧と川崎市統計書とでは集計方法が異なるため-->。
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;"
|+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.kawasaki.jp/shisei/category/51-4-15-0-0-0-0-0-0-0.html 川崎市統計書] - 川崎市</ref>
!年度!!JR東日本!!東急電鉄!!出典
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|64,455
|79,172
|<ref group="乗降データ">[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/life/1128766_3967261_misc.pdf#search=%27%E7%B7%9A%E5%8C%BA%E5%88%A5%E9%A7%85%E5%88%A5%E4%B9%97%E8%BB%8A%E4%BA%BA%E5%93%A1%EF%BC%881%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%A8%E7%A7%BB%27 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|66,694
|
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|65,155
|
|
|-
|1998年(平成10年)
|64,697
|79,471
|<ref group="神奈川県統計">平成12年</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>64,165
|79,065
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369557.pdf 平成13年]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>64,336
|90,003
|<ref group="神奈川県統計" name="toukei2001" />
|-
|2001年(平成13年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>66,711
|105,341
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369552.pdf 平成14年]}}</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>67,371
|106,923
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369547.pdf 平成15年]}}</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>68,632
|109,038
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369542.pdf 平成16年]}}</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>69,621
|110,460
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369533.pdf 平成17年]}}</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>70,685
|92,120
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369528.pdf 平成18年]}}</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>72,846
|94,563
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/369523.pdf 平成19年]}}</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>76,114
|99,902
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/35540.pdf 平成20年]}}</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>77,193
|109,871
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/773803.pdf 平成21年]}}</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>76,831
|102,895
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/161682.pdf 平成22年]}}</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>99,617
|95,668
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/427362.pdf 平成23年]}}</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>103,624
|93,374
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/706868.pdf 平成24年]}}</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>108,046
|94,290
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/707631.pdf 平成25年]}}</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>115,262
|100,475
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20150926_003_17.pdf 平成26年]}}</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>119,604
|103,922
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/resource/org_0101/pol_20160609_001_15.pdf 平成27年]}}</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>124,325
|108,191
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877254.pdf 平成28年]}}</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|<ref group="JR">[http://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>128,079
|110,967
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[http://www.pref.kanagawa.jp/docs/x6z/tc10/documents/15.pdf 平成29年]}}</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>129,637
|112,325
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/3406/15-30.pdf 平成30年]}}</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>130,752
|112,641
|<ref group="神奈川県統計">{{PDFlink|[https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/15.pdf 平成31年]}}</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>129,194
|111,680
|<ref group="神奈川県統計">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/85489/202015.pdf |title=2020年|accessdate=2023年8月19日}}</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>88,994
|75,765
|<ref group="神奈川県統計">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/96367/15.pdf |title=2021年|accessdate=2023年8月19日}}</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>91,146
|82,798
|<ref group="神奈川県統計">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.pref.kanagawa.jp/documents/46041/202215.pdf |title=2022年|accessdate=2023年8月19日}}</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>99,969
|
|
|}
== 駅弁 ==
JR東日本側の改札内には[[崎陽軒]]の売店が出店し、近隣の武蔵小杉東急スクエア1階にも出店している。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=227-228}}</ref>。
{{columns-list|2|
* 幕の内弁当
* 横濱中華弁当
* かながわ味わい弁当(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬)
* [[シウマイ弁当]]
* しょうが焼弁当
* おべんとう(季節により内容が変わる春・初夏・夏・秋・冬)
* 横濱チャーハン
* お赤飯弁当
* 炒飯弁当
|}}
== 駅周辺 ==
[[画像:ファイル武蔵小杉004.JPG|thumb|武蔵小杉の高層ビル・マンション群]]
{{See also|武蔵小杉}}
=== 北口(JR南武線 武蔵小杉駅側) ===
{{columns-list|2|
* [[日本医科大学武蔵小杉病院]]
* [[武蔵小杉タワープレイス]]
* [[かわさき市民放送]](コミュニティFM放送局)
* 大西学園小学校・[[大西学園中学校・高等学校]]
* [[キヤノン]] 小杉事業所
* [[パークシティ武蔵小杉]] タワーズイースト
* パークシティ武蔵小杉 タワーズウエスト
* [[川崎市]]コンベンションホール
|}}
=== 東口・南口(東急東横線・目黒線正面口) ===
{{columns-list|2|
* 川崎市中原消防署/[[リッチモンドホテル]]プレミア武蔵小杉(建物を共有)
* 川崎市中原市民館
* [[ダイエー]][[フーディアム|foodium]]武蔵小杉
* [[セントラルスポーツ|セントラルフィットネスクラブ]]武蔵小杉
* [[グランツリー武蔵小杉]] - 2014年(平成26年)11月22日開業<ref group="新聞" name="yomiuri-np-2014-11-21">“セブン&アイ新施設「グランツリー」公開”. [[読売新聞]](読売新聞社). (2014年11月21日)</ref>
* [[武蔵小杉東急スクエア]] - 2013年(平成25年)4月2日開業<ref group="新聞" name="kanagawa-np-2013-4-1" />
|}}
=== 南口・西口(東急東横線・目黒線南口) ===
{{columns-list|2|
* 川崎市中原区役所
* 中原[[保健所|保健福祉センター]]
* 川崎市中原市民館
* 小杉こども文化センター(現在閉鎖中・代替施設「小杉っこスペース」、2020年12月中旬にコスギ サード アヴェニュー ザ・レジデンスに新設予定)
* 武蔵小杉東急スクエア
* [[三井不動産商業マネジメント|ららテラス武蔵小杉]] - 2014年(平成26年)4月19日開業<ref group="新聞" name="kanagawa-np-2014-4-18">{{Cite news|url=https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-46291.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210311024943/https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-46291.html|title=「ららテラス武蔵小杉」4月19日オープン 駅直結の新商業施設|newspaper=神奈川新聞|date=2014-04-18|accessdate=2021-03-11|archivedate=2021-03-11}}</ref>
* グランツリー武蔵小杉
* [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 武蔵小杉店 - 1983年(昭和58年)3月開業<ref name="national-big-store-list-japan-2009">『週刊東洋経済 臨時増刊 全国大型小売店総覧 2009年版』 [[東洋経済新報社]]、2009年。</ref>
* [[川崎市立中原図書館]]
* [[中原郵便局 (神奈川県)|中原郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]] 中原店
* [[中原警察署|神奈川県中原警察署]]
*[[聖マリアンナ医科大学東横病院]]
* [[ホテル精養軒]]
* [[法政通り商店街]]
* [[サライ通り商店会]]
* 信号器材 本社・工場
* [[東京応化工業]] 本社
* [[東計電算]] 本社
* [[二ヶ領用水]]
* 中原平和記念公園
* [[川崎市平和館]]
* [[神奈川県立住吉高等学校]]
* [[法政大学第二中学校・高等学校]]
* [[パークシティ武蔵小杉]]
* [[シティタワー武蔵小杉]]
* [[エクラスタワー武蔵小杉]]
* コスギ サード アヴェニュー ザ・レジデンス
|}}
=== 横須賀線口(JR横須賀線武蔵小杉駅・横須賀線口・新南改札) ===
{{columns-list|2|
* グランツリー武蔵小杉
* [[セントラルスポーツ|セントラルフィットネスクラブ 武蔵小杉]]
* [[日本電気]] 玉川事業場([[NEC玉川ルネッサンスシティ]])
* [[富士シティオ|デリド]] 武蔵小杉店
* [[向河原駅]](南武線)
|}}
=== 周辺道路 ===
{{columns-list|2|
* [[東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線]](綱島街道)・最寄り(南口・東口・横須賀線口)
* [[国道409号]]([[府中街道]])・最寄り(南口・西口)
* [[南武沿線道路]]・最寄り(北口)
|}}
== バス路線 ==
駅の立地の関係で[[バス停留所]]は4か所に分散した設置となっている。JRの北口と横須賀線口、JRの東口・東急の正面口(東口駅前広場)に[[バスターミナル]]が、東急の南口にバス停留所があり、[[川崎市交通局]]・[[川崎鶴見臨港バス]]・[[東急バス]]が周辺各方面への[[路線バス]]を運行している。停留所は北口(小杉駅前)・南口(東横線小杉駅)・横須賀線口(横須賀線小杉駅)・東口(小杉駅東口)の4か所に設けられているが、東口以外の3か所は互いに500メートル程度離れており、東口はその3か所を結んだ三角形の中央付近に位置する。
Jリーグ・川崎フロンターレの本拠地になっている[[等々力陸上競技場]]や[[川崎市市民ミュージアム]]のある[[等々力緑地]]へのバスも発着する。
=== 北口(小杉駅前) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
川崎市交通局、東急バスが運行する路線バスが発着している。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|{{Unbulleted list|[[川崎市バス上平間営業所#等々力線|'''溝05''']]:[[武蔵溝ノ口駅|溝口駅]]前|[[川崎市バス上平間営業所#宮内線|'''杉40''']]:[[川崎市市民ミュージアム|市民ミュージアム]] / [[武蔵中原駅|中原駅]]前}}
|
|-
!2
|rowspan="2" style="text-align:center;"|東急バス
|{{Unbulleted list|[[東急バス高津営業所#小杉線|'''溝02'''・無系統]]:[[溝の口駅]] / [[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]前 / 新平瀬橋|[[東急バス高津営業所#川崎線|'''川31''']]:高津駅前}}
|
|-
!3
|{{Unbulleted list|[[東急バス東山田営業所#野川久末線|'''杉09''']]:野川台公園前|'''杉06''':[[東山田駅]]入口 / 道中坂下}}
|
|-
!4
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|{{Unbulleted list|[[川崎市バス上平間営業所#御幸線|'''川71''']]:川崎駅ラゾーナ広場|[[川崎市バス上平間営業所#神明町線(旧扇町線)|'''川74''']]:川崎駅ラゾーナ広場 / 川崎駅(東口)|'''杉40'''・'''川71'''・'''川74''':上平間}}
|
|-
!5
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|川崎市交通局|東急バス}}
|[[東急バス東山田営業所#鷺沼線|'''鷺02''']]:[[鷺沼駅]]
|
|-
!6
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|{{Unbulleted list|[[川崎市バス上平間営業所#蟹ヶ谷線|'''杉10''']]:蟹ヶ谷 / [[川崎市バス井田営業所|井田営業所]]|[[川崎市バス上平間営業所#等々力線|'''溝04''']]:溝口駅前}}
|
|}
=== 南口(東横線小杉駅) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
東急バスが運行する路線バスが発着している。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!方向!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!北方向
|rowspan="2" style="text-align:center;"|東急バス
|{{Unbulleted list|'''川31'''・'''川32''':高津駅前|'''川33''':市民ミュージアム}}
|
|-
!南方向
|{{Unbulleted list|'''川31'''・'''川32'''・'''川33''':川崎駅ラゾーナ広場|'''ミッドナイト・アロー''':[[東急バス新羽営業所|新羽営業所]]}}
|ミッドナイトアローは降車専用
|}
=== 横須賀線口(横須賀線小杉駅) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、[[京浜急行バス]]が運行する路線バスが発着している。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|{{Unbulleted list|[[川崎市バス井田営業所#新城線|'''杉02''']]:[[川崎市立井田病院|井田病院]]|'''杉03''':[[蟹ヶ谷]] / 井田営業所前|'''杉04''':[[武蔵新城駅|新城駅]]前}}
|
|-
!2
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東急バス|京浜急行バス}}
|'''空港連絡''':[[東京国際空港|羽田空港]]
|
|-
!3
|style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|[[川崎鶴見臨港バス神明町営業所#川54・55系統(江ヶ崎線)|'''川55''']]:[[川崎駅#西口(川崎駅西口)|川崎駅西口]]
|
|}
=== 東口(小杉駅東口) ===
<!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。-->
川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、東急バス、[[京浜急行バス]]が運行する路線バスが発着している。
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!1
|style="text-align:center;"|川崎鶴見臨港バス
|'''川55''':川崎駅西口 / 横須賀線小杉駅
|
|-
!2
|style="text-align:center;"|川崎市交通局
|{{Unbulleted list|'''杉01''':総合リハビリテーションセンター前|'''杉02''':井田病院|'''杉03''':蟹ヶ谷 / 井田営業所前|'''杉04''':新城駅前|'''杉02'''・'''杉03'''・'''杉04''':横須賀線小杉駅}}
|
|-
!rowspan="3"|3
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東急バス|京浜急行バス}}
|'''空港連絡''':羽田空港
|
|-
|style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東急バス|京成バス|京成トランジットバス}}
|'''高速バス''':[[東京ディズニーリゾート]]
|
|-
|style="text-align:center;"|東急バス
|{{Unbulleted list|[[東急バス高津営業所#川崎線|'''川32''']]:[[川崎駅#ラゾーナ広場(川崎駅ラゾーナ広場、旧・川崎駅西口北)|川崎駅ラゾーナ広場]] / [[高津駅 (神奈川県)|高津駅前]]|'''直行''':[[キヤノン]]玉川事業所}}
|
|}
== 川崎縦貫高速鉄道の計画 ==
* 川崎市が2015年の開業を目標に整備を構想していた[[川崎縦貫高速鉄道]]は、これまで[[新百合ヶ丘駅]] - [[元住吉駅]]間だった計画ルートが変更され、新百合ヶ丘駅 - [[宮前平駅]] - 本駅間となり、新たに建設計画が進められていたが、2013年に高速鉄道事業会計を閉鎖し<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.kanaloco.jp/article/54293/cms_id/54084|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140911181752/http://www.kanaloco.jp/article/54293/cms_id/54084|title=川崎市、高速鉄道事業会計を閉鎖へ/神奈川|newspaper=神奈川新聞|date=2013-01-28|accessdate=2021-03-11|archivedate=2014-09-11}}</ref>、その後計画は正式に中止となっている。
== 隣の駅 ==
※東日本旅客鉄道(JR東日本)の特急「[[成田エクスプレス]]」「[[踊り子 (列車)|踊り子・サフィール踊り子]]」の隣の停車駅は、各列車記事を参照のこと。
; 東日本旅客鉄道(JR東日本)
: [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線
:: {{Color|#ff0066|■}}快速
::: [[鹿島田駅]](JN 04)- '''武蔵小杉駅(JN 07)'''- [[武蔵中原駅]](JN 08)
:: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車
::: [[向河原駅]](JN 06)- '''武蔵小杉駅(JN 07)'''- 武蔵中原駅(JN 08)
: [[File:JR JO line symbol.svg|15px|JO]] 横須賀線
:* 特急「成田エクスプレス」停車駅
:: {{Color|#0067c0|■}}普通
::: [[西大井駅]](JO 16)- '''武蔵小杉駅(JO 15)'''- [[新川崎駅]](JO 14)
: [[File:JR JS line symbol.svg|15px|JS]] 湘南新宿ライン
:* 特急「踊り子・サフィール踊り子」停車駅
:: {{Color|#0099ff|■}}特別快速・{{Color|#f68b1e|■}}快速(いずれも高崎線 - 東海道線直通)
::: [[大崎駅]](JS 17)- '''武蔵小杉駅(JS 15)'''- [[横浜駅]](JS 13)
:: {{Color|#18a629|■}}普通(宇都宮線 - 横須賀線直通)
::: 西大井駅(JS 16)- '''武蔵小杉駅(JS 15)''' - 新川崎駅(JS 14)
: [[File:Sotetsu line symbol.svg|15px|SO]] 相鉄線直通列車
:: {{Color|#00ac9a|■}}各駅停車
::: 西大井駅(JS 16)- '''武蔵小杉駅(JS 15)''' - ([[鶴見駅]]) - [[羽沢横浜国大駅]](SO51)
:::※鶴見駅は運賃計算上の分岐点である。
; 東急電鉄
: [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線
:: {{Color|#f7931d|■}}特急
::: [[自由が丘駅]](TY07)- '''武蔵小杉駅(TY11)'''- [[菊名駅]](TY16)
:: {{Color|#f7931d|□}}通勤特急
::: 自由が丘駅(TY07)- '''武蔵小杉駅(TY11)'''- [[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]](TY13)
:: {{Color|#ef3123|■}}急行
::: [[多摩川駅]](TY09)- '''武蔵小杉駅(TY11)'''- 日吉駅(TY13)
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車
::: [[新丸子駅]](TY10)- '''武蔵小杉駅(TY11)-''' [[元住吉駅]](TY12)
: [[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] 目黒線
:: {{Color|#ef3123|■}}急行
::: 多摩川駅(MG09)- '''武蔵小杉駅(MG11)'''- 日吉駅(MG13)
:: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車<!-- 目黒線の各駅停車の種別幕の色は2018年頃から順次青に変更 -->
::: 新丸子駅(MG10)- '''武蔵小杉駅(MG11)'''- 元住吉駅(MG12)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 記事本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注釈"|2}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
===== 報道発表資料 =====
{{Reflist|group="報道"}}
===== 新聞記事 =====
{{Reflist|group="新聞"}}
=== 利用状況 ===
; JR・私鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="利用客数"}}
; JR東日本の1999年度以降の乗車人員
{{Reflist|group="JR"|23em}}
; JR・私鉄の統計データ
{{Reflist|group="乗降データ"}}
; 神奈川県県勢要覧
{{Reflist|group="神奈川県統計"|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=宮田道一|title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}}
* {{Cite book|和書 |title=東京急行電鉄50年史 |publisher=東京急行電鉄株式会社 |date=1973-04-18 |ref=50th}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Musashi-Kosugi Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[請願駅]]
* [[武蔵小杉]]
* [[ジェントリフィケーション]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1527|name=武蔵小杉}}
* {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=11|name=武蔵小杉}}
* 横須賀線武蔵小杉新駅設置に関する基本覚書の締結
** {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2005_1/20050402.pdf JR東日本]}}
* [https://www.musashikosugilife.com/ 武蔵小杉ライフ:再開発で変貌する武蔵小杉のタウン情報]
* [https://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/26-2-1-2-0-0-0-0-0-0.html 小杉駅周辺地区トップページ/川崎市]
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{南武線}}
{{総武快速線・横須賀線}}
{{湘南新宿ライン}}
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{{DEFAULTSORT:むさしこすき}}
[[Category:中原区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 む|さしこすき]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:東急電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]]
[[Category:横須賀・総武快速線]]
[[Category:南武鉄道の鉄道駅]]
[[Category:南武線]]
<!--東海道本線支線上の駅-->
[[Category:武蔵小杉]]
|
2003-09-03T04:08:13Z
|
2023-12-27T13:47:36Z
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[
"Template:座標一覧",
"Template:See also",
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"Template:鉄道路線ヘッダー",
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"Template:PDFlink",
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"Template:総武快速線・横須賀線",
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"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:鉄道路線フッター"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%B0%8F%E6%9D%89%E9%A7%85
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14,843 |
森信三
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森 信三(もり のぶぞう、1896年(明治29年)9月23日 - 1992年(平成4年)11月21日)は、日本の哲学者・教育者。通称、しんぞう。
愛知県知多郡武豊町に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で半田町(現・半田市岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる。
1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現:大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1947年(昭和22年)個人雑誌「開顕」を創刊、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。
1992年(平成4年)11月21日、死去。96歳没。
半田市では森の死をきっかけに、竹内弘市長と市教委教育長が中心となり、1994年(平成6年)4月から半田市立宮池幼稚園、半田市立花園小学校、半田市立横川小学校、半田市立半田中学校の1園3校を研究指定校に、9つの小中学校で「立腰(りつよう)教育」が開始された。この教育法は森が「常に腰骨をシャンと立てること、これ人間に性根の入る極秘伝なり」と説いたことに由来する。
同年6月13日、森は半田市名誉市民に推挙。それから数年の間に立腰教育はすべての市立幼稚園、小学校、中学校で採用されることとなった。小学校では朝会に「立腰タイム」を設け、全校一斉に児童が正座や腰を伸ばす姿勢をとったり、瞑想を行ったりした。また、「腰骨を立てよう」という看板が市内各地に設置された。
ところが1996年(平成8年)4月3日、森の思想信条を問題視した知多地方教職員労働組合が、「立腰教育を中止するよう指導する」ことを求める申し入れ書を竹内弘市長と市教委教育長に提出した。同組合は申し入れ書で「森氏は『わが国の亡国の兆しは女性の変質に始まり、それは男女共学制に起因している』と述べ、戦後民主主義教育の根幹である共学制を否定している」と前書きし、同年8月に予定されている森の顕彰大会の取りやめ、憲法・教育基本法の理念に反する立腰教育の中止を求めた。7月8日には市民団体も立腰教育と大会の中止を求める申し入れ書を提出したが、市側はこれをはねのけ、8月9日から雁宿ホールで生誕百年記念全国大会を開催した。
戦後
出版元の実践社は、森の子息が会社勤めを辞めて、父のために始めたもの。自費出版である。1972年、長男惟彦の急死(41歳)により解散。
個人雑誌
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"text": "1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現:大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1947年(昭和22年)個人雑誌「開顕」を創刊、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。",
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森 信三は、日本の哲学者・教育者。通称、しんぞう。
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|氏名 = 森 信三
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'''森 信三'''(もり のぶぞう、[[1896年]]([[明治]]29年)[[9月23日]] - [[1992年]]([[平成]]4年)[[11月21日]])は、[[日本]]の[[哲学者]]・[[教育者]]。通称、'''しんぞう'''。
== 来歴 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-08}}
[[愛知県]][[知多郡]][[武豊町]]に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で[[半田町 (愛知県)|半田町]](現・[[半田市]]岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる<ref>村井麻那「明治 大正 昭和 あいち賢人 森信三(1896~1994) 哲学者、半田の名誉市民 『人生二度なし』教え実践」 『中日新聞』2010年3月27日付朝刊、なごや東総合、19面。</ref>。
[[1920年]]([[大正]]9年)、[[広島高等師範学校]]英語科に入学、福島政雄・[[西晋一郎]]に学ぶ。[[1923年]](大正12年)、[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]哲学科に入学し、主任教授[[西田幾多郎]]の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現:[[大阪教育大学]])の専攻科講師となる。[[1939年]](昭和14年)に旧[[満州]]の[[建国大学]]に赴任するが、敗戦後の[[1946年]](昭和21年)に帰国、[[1947年]](昭和22年)個人雑誌「開顕」を創刊、[[1953年]](昭和28年)、[[神戸大学国際人間科学部|神戸大学教育学部]]教授に就任。同大学退官後の[[1965年]](昭和40年)には[[神戸海星女子学院大学]]教授に就任。[[1975年]](昭和50年)「実践人の家」建設。
1992年(平成4年)[[11月21日]]、死去。{{没年齢|1896|9|23|1992|11|21}}。
=== 半田市の「立腰(りつよう)教育」 ===
半田市では森の死をきっかけに、竹内弘市長と市教委教育長が中心となり、1994年(平成6年)4月から半田市立宮池幼稚園、[[半田市立花園小学校]]、[[半田市立横川小学校]]、[[半田市立半田中学校]]の1園3校を研究指定校に、9つの小中学校で「立腰(りつよう)教育」が開始された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.handa.lg.jp/kikaku/shise/koho/shiho/documents/934_11.pdf | title=『はんだ市報』1994年5月25日号 | publisher=半田市役所 |format=PDF |page=11 |date= | accessdate=2021-7-8 }}</ref>。この教育法は森が「常に腰骨をシャンと立てること、これ人間に性根の入る極秘伝なり」と説いたことに由来する。
同年6月13日、森は半田市名誉市民に推挙<ref>[http://www.city.handa.lg.jp/hisho/shise/gaiyo/shokai/meyoshimin.html 名誉市民について - 半田市]</ref>。それから数年の間に立腰教育はすべての市立幼稚園、小学校、中学校で採用されることとなった。小学校では朝会に「立腰タイム」を設け、全校一斉に児童が正座や腰を伸ばす姿勢をとったり、瞑想を行ったりした。また、「腰骨を立てよう」という看板が市内各地に設置された<ref>田島真一「ニュースの行間 立腰教育の是非 半田 故森氏の思想に一部反発 道徳教育的な側面も...話し合いは平行線」 『中日新聞』1996年9月23日付朝刊、三河総合、27面。</ref>。
ところが1996年(平成8年)4月3日、森の思想信条を問題視した知多地方教職員労働組合が、「立腰教育を中止するよう指導する」ことを求める申し入れ書を竹内弘市長と市教委教育長に提出した。同組合は申し入れ書で「森氏は『わが国の亡国の兆しは女性の変質に始まり、それは男女共学制に起因している』と述べ、戦後民主主義教育の根幹である共学制を否定している」と前書きし、同年8月に予定されている森の顕彰大会の取りやめ、憲法・[[教育基本法]]の理念に反する立腰教育の中止を求めた<ref>『中日新聞』1996年4月4日付朝刊、知多版、知多、「立腰教育中止求め申し入れ書 知教委が半田市に提出」。</ref>。7月8日には市民団体も立腰教育と大会の中止を求める申し入れ書を提出したが、市側はこれをはねのけ、8月9日から雁宿ホールで生誕百年記念全国大会を開催した<ref>『中日新聞』1996年8月10日付朝刊、知多版、知多、「賛否うず巻く中『森信三大会』 半田 全国から1200人参加 反対派はチラシ配り抗議」。</ref>。
== 人物 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-08}}
* [[半田市]]がつくった[[新美南吉記念館]]の一室に森信三記念室が設けられていたが、2013年4月から[[半田市立博物館]]に新設された郷土の文化人コーナーでご紹介されている。
* 「人生二度なし」の真理を根本信条とし、「全一学」という学問を提唱した。「全一学」とは、「東西の世界観の切点を希求するもの」「宇宙間に遍満する絶対的全一生命の自証の学」「世界観と人生観との統一の学」など12項目以上の定義にもとづくもので、要約すると「宇宙の哲理と人間の生き方を探求する学問」となる。森はこれらの思想をもとに全国各地で講演を行なうとともに自ら実践を重ね、日本民族再生に大きく働きかけた。
* 森の理論は実践から生まれた具体的なものが主で、「立腰」論はその最たる例の一つである。「立腰」論とは「腰を立てる」の意で、森はこれを「人間に性根を入れる極秘伝」としている。
* 戦後帰国した際に他人が読みやすいという理由から「信三」を「しんぞう」と読ませた。
* 1943年7月2日に京都盲学校での盲人に対する講話において「あなた方は少年航空兵にもなれず、潜水艦にも乗れず、直接召に応じて出征することが出来ない身の上であります。敵と体当たりをして散ってゆく同年輩の青年。そうした人々と自分とを引き比べてみて、目の不自由から来る身の至らなさに思いを致されなければなるまい」と述べていた<ref>『バリバラ』で障害者が戦争中の過酷な差別を告白!Eテレ2018.8.5放送</ref>。
== 著作 ==
* 哲学敍説 六星館 1931年
* 神・人及国家 森信三 文莫会 1933年 ガリバン刷り
* 修身教授の根本問題 斯道會編 プリント社 1935年
* 忠孝の真理 目黒書店 1935年
* 森先生 修身教授録 全5巻 斯道會編 同志同行社 1940年〜1942年[http://blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51154792.html]
* 学問方法論 古今書院 1942年
* 興亜教育論 森信三 同志同行社 1943年
戦後
* 国と共に甦へる 開顕社 1948年
* われら如何に生くべきか 開顕社 1948年
* 歌集 國あらたまる 開顯社 1949年
* 新しき女性の歩み 国と共に歩むもの4 開顕社 1949年
* 私はわが子をこうして育てた(親と子」叢書第一編)開顕社 1950年
* 人及び女教師として 開顕社 1951年
* 教育的世界 実践社 1956年
* 道徳教育論 実践社 1958年
* 道徳教育の実践のために 上下巻 実践社 1958年
* 青年に語る日本の方向ー二宮尊徳と毛沢東に学ぶ新しい進路 文理書院 1958年
* 国民教育者のために 実践社 1959年
* これからの家庭教育 実践社 1961年
* 女教師のために 実践社 1963年
* 人間形成の論理 -教育哲学的考察- 実践社 1963年
* 人間の思考と教育 実践社 1964年
* 森信三全集 全25巻 実践社 1965年〜1968年
* 森信三選集 全8巻 実践社 1968年
* 森信三著作集 全10巻 実践社 1971年 [http://blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51103233.html]
* 森信三全集続編 全8巻 実践社 1983年
* 森信三講演集 全2巻 実践社 1987年
出版元の実践社は、森の子息が会社勤めを辞めて、父のために始めたもの。自費出版である。1972年、長男惟彦の急死(41歳)により解散。
* 修身教授録―現代に甦る人間学の要諦 致知出版社
* 人生二度なし 致知出版社
* 人生二度なし(働く青年のための人生論)文理書院 [http://blog.livedoor.jp/active_computer/archives/51217155.html]
* 修身教授録一日一言 致知出版社
* 森信三一日一語 致知出版社
* 森信三 魂の言葉 PHP研究所 ISBN 978-4569642628
* 一つ一つの小石をつんで (社)実践人の家
* 幻の講話(全5巻)(社)実践人の家
* 女性のための「修身教授録」致知出版社
* 家庭教育の心得21 致知出版社
個人雑誌
* 月刊誌「開顕」創刊 1947年〜 1956年終刊
* 月刊誌「実践人」創刊 1956年
== 関連人物等 ==
* [[西田幾多郎]]
* [[西晋一郎]]
* [[芦田恵之助]]
* [[新井奥邃]]
* [[東井義雄]]
* [[宮本常一]]
* [[坂村真民]]
* [[長田新]]
* [[作田荘一]]
* [[河上肇]]
* [[福田與]]
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.jissenjin.or.jp/ 一般社団法人実践人の家] - 森に関する情報が掲載されている。
* [http://shop.chichi.co.jp/item_list.command?category_cd=MORISINZOU 致知出版社オンラインショップ] - 著作を多数紹介している。
* [http://web1.kcn.jp/syushin/ 森信三先生研究会] - 修身教授録を中心に森の情報が掲載されている。
* [http://tozaibunka.blog.ocn.ne.jp/kenkyu/ 東西文化研究] - 森の東西文化融合論を紹介するブログ。
*[https://www.toryukan.co.jp 登龍館] - 立腰をはじめ多数の森信三先生に関する出版物を扱う、幼児教育出版社。
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[[Category:19世紀日本の哲学者]]
[[Category:20世紀日本の哲学者]]
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中央自動車道
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中央自動車道(ちゅうおうじどうしゃどう、英語: CHUO EXPWY)は、中日本高速道路株式会社(NEXCO中日本)が管理している、東京都杉並区の高井戸ICから愛知県小牧市の小牧JCT、および途中の山梨県大月市の大月JCTで分岐して山梨県富士吉田市の富士吉田ICを結ぶ高速道路(高速自動車国道)。略称は中央道(ちゅうおうどう)。旧道路名は中央高速道路であり、道路名を「○○高速道路」から「○○自動車道」へ変更した唯一の高規格幹線道路でもある。
高速道路ナンバリングによる路線番号は、高井戸IC - 岡谷JCT間が「E20」、岡谷JCT - 小牧JCT間が長野自動車道とともに「E19」、大月JCT - 河口湖IC間の富士吉田線(ふじよしだせん)が東富士五湖道路とともに「E68」と、それぞれ割り振られている。
全区間を中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理・営業している。東京都区部から名古屋市近郊までを神奈川県北部・山梨県・長野県南部・岐阜県南東部を経由して結び、同じ東京・名古屋近郊を結ぶ東名高速道路・新東名高速道路を補完する役割を持つ。かつての五街道である甲州街道・中山道に概ね沿う形で整備され、高井戸IC - 岡谷JCT間は甲州街道を継承する国道20号と多くの区間で並行する。
開通当初は、東名高速や名神高速と同様に中央高速道路を名称として用いていたが、開通当初の暫定2車線対面通行でなおかつ中央にセンターポールも分離帯もないという状態であった上、追越しも許されている(中央線が破線)という有様であったにもかかわらず、「高速」という呼称によって速度超過が多発したことによる交通事故が頻発したために、中央自動車道に改称された(ただ、この当時の名残として、一般道での案内標識や、民間企業の案内看板などに「中央高速」表記が残るものがある)。なお、その後開通した高速道路では、東名・名神のバイパスとなる新東名高速・新名神高速を除いては道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一されている。
首都圏の放射方向の高速道路(9放射)のうち、唯一(東京)都心部(首都高速道路4号新宿線と接続する区間)が4車線であるため、深刻な渋滞が発生することがある。沿線には相模湖や河口湖などリゾート地が多いことから平日と週末の利用車数の差が大きく、観光シーズンの土曜・日曜の渋滞が他路線より目立つ。また、高井戸IC - 八王子ICは平日・休日問わず交通量が非常に多く、平日においても渋滞が多発している。
多くの区間で並行する中央本線と同様、日本国内の高速道路では特に標高の高い地域を経由する。富士見バスストップ西方(157.3KP付近)にある中央道最高地点は標高1,015メートルであり、2000年10月7日の東海北陸自動車道荘川IC - 飛驒清見IC開通までは、同地点が日本の高速道路の最高地点であった。
高速自動車国道の路線名(政令による路線名)としての中央自動車道は、東京都を起点に3方向に分岐する富士吉田線・西宮線・長野線の3路線から成る。
国土開発幹線自動車道建設法では、以下のとおり指定されている。
また高速自動車国道の路線を指定する政令では次のように指定されている。
これらについて、一般公衆に案内されている道路名(通称)に区分すると以下のようになる。
道路名(通称)「中央自動車道」に高速自動車国道の路線名を照らし合わせると、高井戸IC - 大月JCT間は、富士吉田線・西宮線・長野線の3路線の重複区間、大月JCT - 岡谷JCT間が西宮線・長野線の重複区間で、岡谷JCT - 小牧JCT間が西宮線の単独区間である。また、支線になる大月JCT - 富士吉田IC間は富士吉田線の単独区間になる。
以下では、特記がない場合は道路名(通称)の中央自動車道について述べる。また、道路形状等に従い、高井戸IC - 小牧JCTを本線(E20・E19)、大月JCT - 富士吉田ICを富士吉田線(E68)と呼ぶ。
中央自動車道と同様に東京と名古屋を結ぶ高速道路のひとつに東名高速道路がある。距離もほぼ等しく(中央道の高井戸IC - 小牧JCTが344km、東名高速の東京IC - 小牧JCTが340km)、中央道と東名高速とは相互に代替する機能を担っている。東名集中工事が行われる際は、NEXCO中日本のウェブサイトやSA・PAの各施設で中央道への迂回を促すメッセージが掲載され、料金調整も行われる。
一方で、次のような点から、中長距離輸送には東名高速が利用される傾向にある。
首都圏と中京以西を結ぶ夜行高速バスでは、首都圏の発着地に応じて中央道と東名高速とを使い分ける傾向が見られ、新宿駅・池袋駅・多摩地域・埼玉発着は中央道経由、東京駅・渋谷駅・横浜発着は東名高速経由が多い。しかし、新宿・池袋発着のバスでは首都高速中央環状線が東名高速道路に接続する首都高速3号渋谷線の大橋JCTまで延伸されたことに加え、圏央道を介して東名高速と中央道が結ばれたこと、更には新東名高速道路・新名神高速道路の部分開通もあり、東名・新東名高速経由へシフトする路線が増えている。
上記の他、チェーンベース (CB) が初狩PA - 勝沼ICに1箇所、須玉IC - 長坂IC下り線に1箇所、八ヶ岳PA - 小淵沢IC下り線に2箇所、小淵沢IC - 諏訪南ICに1箇所設けられている。
なお、中央JCT未供用のため、IC番号2は欠番となっている。
IC等の施設は無いものの、高井戸IC - 中央JCT間で世田谷区を、甲府中央SIC - 昭和BS間で中央市を通過している。
上記の他、チェーンベース (CB) が岡谷JCT - 辰野PAに1箇所、阿智PA - 園原ICに1箇所設けられている。
敗戦後の日本を復興するために、東京 - 神戸間を結ぶ高速道路を建設するという構想は、静岡出身の実業家である田中清一によって最初に起案された。この田中の構想は「本州の中央山地部を縦貫する自動車道路をまず最初に建設して、この道路から海岸に向かって連絡道路を設けて、全国の普遍的開発を図る」とするもので、東京 - 神戸間の幹線自動車道路が現在の国土開発幹線自動車道の予定路線でいう中央自動車道西宮線に相当するものであった。田中構想は瀬戸山三男や青木一男ら当時の有力国会議員らの支持を受けて、1953年(昭和28年)2月に国土建設推進連盟が結成され、翌年5月には社会党右派から「国土開発中央自動車道事業法案」が提出されるまでに至った。これに否定する立場を示したのが建設省で、東海道を予定線とする「東京神戸間有料道路計画書」を公表した。これ以後、東海道と中央道のルートどちらを採るかという論争は激化していった。
法令で中央道が定められたのは1957年(昭和32年)4月16日の国土開発縦貫自動車道建設法が最初である。これはその3年後の1960年(昭和35年)に公布された東海道幹線自動車国道建設法よりも先であり、予定路線が定められたのは同日の国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律である。この法律で建設予定路線に定められた中央道は、起点が東京都、終点が吹田市という中央自動車道西宮線の前身ともいえるが、その主たる経過地は「神奈川県津久井郡相模湖町(現相模原市緑区)附近、富士吉田市附近、静岡県安倍郡井川村(現静岡市葵区)附近、飯田市附近、中津川市附近、小牧市附近、大垣市附近、大津市附近、京都市附近」としており、相模湖町 - 飯田市間は現在のルートとは大きく異なり、赤石山脈(南アルプス)を貫通するものであった。
1957年(昭和32年)10月に、建設省は国土開発縦貫自動車道建設法の規定により、日本道路公団に対して小牧 - 神戸間の施行命令を出して、日本初の高速自動車国道となる名神高速道路が着工されたものの、小牧から東京まで延伸する区間を、開発優先の中央道とするか、経済効率優先の東名高速とするかについては政治家たちの政治活動を巻き込む大きな問題に発展し、整備ルートは依然として決まらなかった。当時の建設省事務局内では東海道案を支持しており、1960年(昭和35年)に、東海道幹線自動車国道建設法案が議員立法される動きも出たため、これに対抗する中央道派が東海道派と激しく対立した。同年のうちに、両者の妥協によって「東海道幹線自動車国道建設法」と「中央道予定路線法」が成立したことで、両路線は同時着工する運びとなった。しかし、山地部の工事費が莫大であることから、山廻りのルートが本当に実現できるのかということになり、翌年の昭和36年度(1961年)予算編成で、経済企画庁が東海道幹線自動車国道(東名高速)と中央道の同時着工に難色を示した。翌1962年(昭和37年)、中央道予定路線のうち、工事の難易度が比較的低い東京 - 富士吉田間(現在の富士吉田線)について、基本計画が3月31日に、整備計画が5月7日に定められると、建設省は日本道路公団へ中央道本体の東京 - 富士吉田間について施行命令を出したが、それ以降の小牧に至る区間については保留した。しかし、対する東名高速の各区間については、次々と全線に亘り施工命令が出されていった。
中央道派の総帥であった参議院議員の青木一男は、戦前に大蔵大臣を務めた経験もあったことから、財政的にも東名高速と中央道の同時建設は困難であることに危機感を強め、中央道の全線開通が夢で終わることを憂慮した。このことで青木はヨーロッパのモンブラントンネルの視察をきっかけに、建設省の進言を受けて、多額の建設費をかけて赤石山脈(南アルプス)にトンネルを貫通させて横断する最短ルートをとるのではなく、諏訪を経由するルートに迂回変更することを決断して地元を説得した。
甲府から諏訪を経て伊那谷を通過する北回りルートに変更することが突如発表されたのは、1963年(昭和38年)5月のことである。その理由は、南アルプスの山岳地を長大トンネルで貫通する当初計画よりも、当時の金額で1000億円ほど安く建設することができるということであった。突然の変更決定に、予定する経過地とされていた身延町は、大陳情団が議員たちに当初ルート案の遂行を訴えたが、決定が覆ることはなかった。中央道のルート問題は、1964年(昭和39年)に国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律(昭和39年法律第104号)の成立によって、経由地が「静岡県安倍郡井川村附近」から「諏訪市附近」に改正されて最終決着した。このときすでに中央道の本線として着工されていた富士吉田線は、大月から分岐して河口湖方面へ向かう現在の支線のような路線となった。
なお、これらの経緯から開通当初は高井戸ICから河口湖ICまで通し番号(1 - 8)が振られていたが、計画変更後に八王子IC - 河口湖ICは建設予定JCT・ICを含めた現在の番号に振り直されている。
山梨県内の中央道の整備は、建設大臣、自民党幹事長、自民党副総裁などを歴任し、建設族議員として権勢を振るっていた金丸信が推進し、上野原ICと長坂ICは金丸の意向で作らせたといわれる。
高井戸 - 調布間の工事では、山梨県側から調布ICまでが既に開通しており、高井戸インターチェンジは環八通りを経て首都高速道路4号線と接続する予定であったが、東京都が売り出した世田谷区烏山地区の住宅団地内を通ることを、東京都が沿線住民に事前説明していなかったことが発端となって、生活環境に対する十分な対策がないまま、建設工事の中止を余儀なくされており、工事が再開されるまで3年を要している。
結局、調布IC付近で降りた自動車が招いた周辺道路の交通渋滞が、新たな社会問題となったこともあり、住民側の要請を受けた代議士が仲介役となって、当時の建設大臣亀岡高夫とのトップ交渉を経て、代議士側が住民側を説得することで話し合いが行われ、日本道路公団側と住民側双方に不満を残しながらも、この問題は解決した。
そのためもあって、最初の開通は東名高速よりも早いが、東名高速が着工から数年で全線開通したのに比べ、中央道は着工から全線開通までに20年間の年月を要した。
中央自動車道の開通当初、1車線の幅員は東名高速と同じ3.6 mが採用されていた(ただし杉並 - 高井戸間は首都高速と合わせる形で3.25 mが採用されている)。しかしその後1990年代に入ってから調布 - 八王子間などで車線幅を狭めて路肩を広げる工事が実施され、現在では開通当初とは異なる幅員構成になっている。
(幅員構成一覧表の出典:日本道路公団高速道路八王子建設局『中央高速道路工事誌』1970年 p. 88)
開通時期が古いため、急勾配やカーブが多く、東京近郊を除く全ての区間で最高速度が80 km/h以下に制限されている。
前述したとおり、中央道は他の都心部の高速自動車国道とは異なり、大部分の区間が4車線である(東名高速、関越道、東北道、常磐道、東関東道の首都圏部はいずれも6車線)。これは、開通前は周辺道路の交通量が少なく、中央道自体もそれほどの交通量を見込めないとされていたためであり、開通時は暫定2車線区間も存在していた。しかし、現在では多摩・八王子地区等で人口が増加したこと、沿線にリゾート地を多数抱えていることなどから交通量が多く、慢性的に渋滞が発生している。
これらの渋滞を解消するための対策として、上野原IC - 大月ICが一部ルート改良の上6車線化(一部は登坂車線を含め7車線化)された。しかし、さらに交通量の多い高井戸IC - 上野原ICは依然として4車線のまま(東京近郊1都3県の主要な高速道路で4車線なのは中央道のみ)であり、根本的な解決に至っていない。都県境の小仏トンネルについては、新トンネルの掘削に関する調査費用を2012年度予算に計上する意向を国土交通省が示し2021年1月現在は上り線の付加車線および新小仏トンネルについては事業中となっており、加えて下り線の相模湖IC付近の付加車線建設に関する調査を行っている。八王子以東の区間については現時点で6車線化等の具体的な計画には至っていない。NEXCO中日本や山梨県は、東京都および神奈川県、沿線の市などに協力を呼びかけているものの、建設には莫大な費用を要すること、採算性の問題(特に高井戸IC - 八王子ICは高度に市街化が進んでいるため、用地取得には多数の立ち退きが必要になる)、費用確保の問題などの理由から、6車線化には消極的である。
なお、八王子IC以東では常時交通量が多く、路肩からの追い越しがあとを絶たなかったため、路肩に追い越し防止のためのラバーポールが所々に設置されているとともに、取り締まり重点路線に指定されている。
笹子トンネル天井崩落事故があった区間については2012年12月29日から2013年2月8日までの間、下り線を使った暫定2車線対面通行となっていたため、笹子トンネル内が最高速度40 km/h、大月JCT - 勝沼ICの暫定2車線部分が最高速度50 km/hとなっていた。2013年2月8日の完全復旧後は通常の最高速度80 km/h、笹子トンネル内が最高速度70 km/hに戻った。
富士吉田線は暫定2車線で供用開始されたが、当時は中央分離帯はおろかラバーポール、縁石による仕切りもない区間が存在した。1976年に立て続けに死亡事故が発生した際には、新聞の見出しで「欠陥道路」と批判されている。その後は仕切りが追加されるとともに、上下4車線化の工事が進められた。
中央道は全区間を通して交通量が多いため、座光寺パーキングエリア (PA) を除くすべてのサービスエリア・パーキングエリアに売店がある。
また、すべてのサービスエリアにガソリンスタンド、レストラン(レストランは談合坂SA下り以外)が設置されているほか、ガソリンスタンドを設置しているパーキングエリアが何か所かある。ただし、パーキングエリアのガソリンスタンドについては時間帯営業の箇所がある。サービスエリアのガソリンスタンドはすべて24時間営業。レストランは2010年(平成22年)6月30日まで石川PA上り線にも設置されていた。かつて八ヶ岳PA下り線にもガソリンスタンドが設置されていたが、2012年1月30日をもって閉鎖された。
本線(西宮線)
富士吉田線
八王子支社と名古屋支社の管理境界となる伊北ICを境に、東側(富士吉田線を含む)は八王子支社の「○時○分現在の高速道路情報を、(ハイウェイラジオ○○より)お知らせします」で始まる形態、西側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムで始まる形態に分けられている。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)・「交通量調査集計表」(愛知県ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年度 区間別日平均交通量
2002年度 総交通量
2002年度 料金収入
中央道では、年末年始の帰省ラッシュや春・夏休みのレジャーシーズンになると必ず約30 - 60 kmの渋滞が発生してきた。そのためNEXCO中日本ではCM等の各種PR活動や、以下のような渋滞対策に取り組んできた。
全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである。
圏央道内側における料金体系の整理・統一の方針により、1979年(昭和54年)から均一制であった高井戸IC - 八王子IC間が2016年(平成28年)4月1日に対距離制に変更され、全線が対距離制区間になった。ただし、高井戸IC - 八王子IC間の非ETC車については、単純支払い方式のままで事実上均一制が継続され、平均利用距離を基にした料金から区間最大料金へと値上げされた。また、ETC車については、激変緩和措置として当面の間、一定の条件の下で2016年3月31日時点の料金(以下、旧均一料金という)を上限とする特例が設けられている。
富士吉田線(大月JCT - 河口湖IC)では、2010年6月28日から2011年6月19日まで高速道路無料化社会実験を実施した。大月IC - 大月JCT間 (1.0 km) は有料区間であるが、大月IC - 都留IC・河口湖IC相互間の利用は無料であった。
2012年12月に発生した笹子トンネル事故を受け、2013年1月1日以降は、富士吉田線を迂回路として活用するために無料扱いとした上で、大月IC - 一宮御坂IC間を一般道で走行して乗り継ぐ場合はその差額を調整する措置が取られた。この措置は、トンネル復旧工事完了後の同年2月12日午前0時で終了している。
沿線の宅地化が進み、三鷹料金所での渋滞による環境悪化や都市内高速道路の性格が強まったことなどから、1979年8月1日に均一料金制が導入された。
しかし、都市内高速道路の性格が強まったとはいえ、管理主体が異なる首都高速道路とは別料金であった。公団が民営化されてもそれは変わらず、多摩地域の自治体からは、東京都から首都高速道路株式会社への出資金には多摩地域住民の税金が含まれているにもかかわらず、多摩地域から都心へ行くのに首都高速道路と別に料金負担を強いられるのは不公平であるとして、料金体系見直しの要望がなされてきた。
2012年(平成24年)1月の首都高速道路の対距離制移行にあわせ、この区間では短距離の利用に対するETC割引(後述)が開始された。
2016年4月の対距離制移行は首都圏における新たな料金体系構築の一環である。その原則の一つには「管理主体を超えたシンプルでシームレスな料金体系」が標榜されており、同時に首都高速の料金体系も、高速自動車国道大都市近郊区間と同じ料金体系に変更された。しかし県境を跨いだ神奈川県、埼玉県、千葉県の沿線各市が「首都高」として一体的な扱いで受益しているにも関わらず、中央高速道路の当該区間における首都高速道路との連続走行の場合は依然として別料金であり、固定額として2回分徴収される。2016年東京都知事選挙で当選した小池百合子東京都知事のマニフェスト「東京大改革宣言」における「多摩格差ゼロ」の「交通ネットワークの充実強化」でもこの問題は謳われておらず不均衡な状況は依然として放置されている。
この区間はもともと他の普通区間と同じ料金水準が適用されていたが、2021年5月1日に中京圏の東海環状自動車道の内側の高速道路料金の整理・統一が行われ、大都市近郊区間の料金水準に変更された。なお、この区間は引き続き普通区間であるため、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されないETC割引制度(休日割引、平日朝夕割引)は適用される。
1972年(昭和47年)の道路審議会答申に基づいて、恵那山トンネル通過車には割高な料金設定がなされてきた。こちらも沿線自治体からは不公平であるとして撤廃を求める声が上がり、2000年(平成12年)10月には伊那市・駒ヶ根市・飯田市・中津川市・恵那市の5市の市議会議長で「中央自動車道・恵那山トンネル等議長会連絡協議会」が設立された。
一般道へ回避する車による沿線環境の悪化もみられることから、2009年(平成21年)5月に高速道路利便増進事業によるETC割引が導入された。2011年8月には割引が拡充されて非ETC車も対象となり、一旦は事実上撤廃された。
利便増進事業の割引財源が切れる2014年(平成26年)4月からは、割引ではなく通常料金自体を値下げすることになったが、債務の返済状況や料金徴収コストを踏まえ、当面10年間・ETC車限定で実施している。
2016年4月1日から全線が対距離制区間となったため、八王子本線料金所では時刻判定を行わず、入口と出口の通過時刻をもって判断する。高井戸IC - 八王子IC間の出口に設置されているフリーフローアンテナでも時刻判定を行うようになった。
2016年3月31日までは八王子ICを境に料金制度が異なっていたため、ここで区切って別々に割引適用を判断していた。ただし、早朝夜間割引(2014年3月31日限りで終了)については特例があった。
2016年4月1日から2017年1月17日までは八王子本線料金所と各インターチェンジの料金所およびフリーフローアンテナでは従前の方法で判断した料金が通知され、請求時に修正されていたが前述の激変緩和措置が適用されない場合を除き2017年1月18日からは各インターチェンジ出口のフリーフローアンテナで料金を通知する方法に切り替わった。
2012年1月1日から2016年3月31日まで実施。均一制区間の特定IC間を利用するETC車については150 - 350円引きとなる(普通車の場合)。時間帯割引の重複適用はない。高井戸IC - 八王子IC間の対距離制移行により発展的に解消された。
2008年度に発表された「高速道路の有効活用・機能強化の取り組み」の一環として、当初は2011年4月から2018年3月までの実施予定とされていた。
走行全体ではなく、特別区間の距離単価のみを割引する(固定額は割引対象外)。
本線(西宮線)
富士吉田線
中央道の大半は山地部を通過するために、沿道には多くの山がある。
|
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"text": "中央自動車道(ちゅうおうじどうしゃどう、英語: CHUO EXPWY)は、中日本高速道路株式会社(NEXCO中日本)が管理している、東京都杉並区の高井戸ICから愛知県小牧市の小牧JCT、および途中の山梨県大月市の大月JCTで分岐して山梨県富士吉田市の富士吉田ICを結ぶ高速道路(高速自動車国道)。略称は中央道(ちゅうおうどう)。旧道路名は中央高速道路であり、道路名を「○○高速道路」から「○○自動車道」へ変更した唯一の高規格幹線道路でもある。",
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"text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は、高井戸IC - 岡谷JCT間が「E20」、岡谷JCT - 小牧JCT間が長野自動車道とともに「E19」、大月JCT - 河口湖IC間の富士吉田線(ふじよしだせん)が東富士五湖道路とともに「E68」と、それぞれ割り振られている。",
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"text": "全区間を中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理・営業している。東京都区部から名古屋市近郊までを神奈川県北部・山梨県・長野県南部・岐阜県南東部を経由して結び、同じ東京・名古屋近郊を結ぶ東名高速道路・新東名高速道路を補完する役割を持つ。かつての五街道である甲州街道・中山道に概ね沿う形で整備され、高井戸IC - 岡谷JCT間は甲州街道を継承する国道20号と多くの区間で並行する。",
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"text": "開通当初は、東名高速や名神高速と同様に中央高速道路を名称として用いていたが、開通当初の暫定2車線対面通行でなおかつ中央にセンターポールも分離帯もないという状態であった上、追越しも許されている(中央線が破線)という有様であったにもかかわらず、「高速」という呼称によって速度超過が多発したことによる交通事故が頻発したために、中央自動車道に改称された(ただ、この当時の名残として、一般道での案内標識や、民間企業の案内看板などに「中央高速」表記が残るものがある)。なお、その後開通した高速道路では、東名・名神のバイパスとなる新東名高速・新名神高速を除いては道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一されている。",
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"text": "首都圏の放射方向の高速道路(9放射)のうち、唯一(東京)都心部(首都高速道路4号新宿線と接続する区間)が4車線であるため、深刻な渋滞が発生することがある。沿線には相模湖や河口湖などリゾート地が多いことから平日と週末の利用車数の差が大きく、観光シーズンの土曜・日曜の渋滞が他路線より目立つ。また、高井戸IC - 八王子ICは平日・休日問わず交通量が非常に多く、平日においても渋滞が多発している。",
"title": "概要"
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"text": "多くの区間で並行する中央本線と同様、日本国内の高速道路では特に標高の高い地域を経由する。富士見バスストップ西方(157.3KP付近)にある中央道最高地点は標高1,015メートルであり、2000年10月7日の東海北陸自動車道荘川IC - 飛驒清見IC開通までは、同地点が日本の高速道路の最高地点であった。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "高速自動車国道の路線名(政令による路線名)としての中央自動車道は、東京都を起点に3方向に分岐する富士吉田線・西宮線・長野線の3路線から成る。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
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"text": "国土開発幹線自動車道建設法では、以下のとおり指定されている。",
"title": "概要"
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{
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"text": "また高速自動車国道の路線を指定する政令では次のように指定されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "これらについて、一般公衆に案内されている道路名(通称)に区分すると以下のようになる。",
"title": "概要"
},
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"text": "道路名(通称)「中央自動車道」に高速自動車国道の路線名を照らし合わせると、高井戸IC - 大月JCT間は、富士吉田線・西宮線・長野線の3路線の重複区間、大月JCT - 岡谷JCT間が西宮線・長野線の重複区間で、岡谷JCT - 小牧JCT間が西宮線の単独区間である。また、支線になる大月JCT - 富士吉田IC間は富士吉田線の単独区間になる。",
"title": "概要"
},
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"text": "以下では、特記がない場合は道路名(通称)の中央自動車道について述べる。また、道路形状等に従い、高井戸IC - 小牧JCTを本線(E20・E19)、大月JCT - 富士吉田ICを富士吉田線(E68)と呼ぶ。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
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"text": "中央自動車道と同様に東京と名古屋を結ぶ高速道路のひとつに東名高速道路がある。距離もほぼ等しく(中央道の高井戸IC - 小牧JCTが344km、東名高速の東京IC - 小牧JCTが340km)、中央道と東名高速とは相互に代替する機能を担っている。東名集中工事が行われる際は、NEXCO中日本のウェブサイトやSA・PAの各施設で中央道への迂回を促すメッセージが掲載され、料金調整も行われる。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "一方で、次のような点から、中長距離輸送には東名高速が利用される傾向にある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "首都圏と中京以西を結ぶ夜行高速バスでは、首都圏の発着地に応じて中央道と東名高速とを使い分ける傾向が見られ、新宿駅・池袋駅・多摩地域・埼玉発着は中央道経由、東京駅・渋谷駅・横浜発着は東名高速経由が多い。しかし、新宿・池袋発着のバスでは首都高速中央環状線が東名高速道路に接続する首都高速3号渋谷線の大橋JCTまで延伸されたことに加え、圏央道を介して東名高速と中央道が結ばれたこと、更には新東名高速道路・新名神高速道路の部分開通もあり、東名・新東名高速経由へシフトする路線が増えている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "上記の他、チェーンベース (CB) が初狩PA - 勝沼ICに1箇所、須玉IC - 長坂IC下り線に1箇所、八ヶ岳PA - 小淵沢IC下り線に2箇所、小淵沢IC - 諏訪南ICに1箇所設けられている。",
"title": "インターチェンジなど"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "なお、中央JCT未供用のため、IC番号2は欠番となっている。",
"title": "インターチェンジなど"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "IC等の施設は無いものの、高井戸IC - 中央JCT間で世田谷区を、甲府中央SIC - 昭和BS間で中央市を通過している。",
"title": "インターチェンジなど"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "上記の他、チェーンベース (CB) が岡谷JCT - 辰野PAに1箇所、阿智PA - 園原ICに1箇所設けられている。",
"title": "インターチェンジなど"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "敗戦後の日本を復興するために、東京 - 神戸間を結ぶ高速道路を建設するという構想は、静岡出身の実業家である田中清一によって最初に起案された。この田中の構想は「本州の中央山地部を縦貫する自動車道路をまず最初に建設して、この道路から海岸に向かって連絡道路を設けて、全国の普遍的開発を図る」とするもので、東京 - 神戸間の幹線自動車道路が現在の国土開発幹線自動車道の予定路線でいう中央自動車道西宮線に相当するものであった。田中構想は瀬戸山三男や青木一男ら当時の有力国会議員らの支持を受けて、1953年(昭和28年)2月に国土建設推進連盟が結成され、翌年5月には社会党右派から「国土開発中央自動車道事業法案」が提出されるまでに至った。これに否定する立場を示したのが建設省で、東海道を予定線とする「東京神戸間有料道路計画書」を公表した。これ以後、東海道と中央道のルートどちらを採るかという論争は激化していった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "法令で中央道が定められたのは1957年(昭和32年)4月16日の国土開発縦貫自動車道建設法が最初である。これはその3年後の1960年(昭和35年)に公布された東海道幹線自動車国道建設法よりも先であり、予定路線が定められたのは同日の国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律である。この法律で建設予定路線に定められた中央道は、起点が東京都、終点が吹田市という中央自動車道西宮線の前身ともいえるが、その主たる経過地は「神奈川県津久井郡相模湖町(現相模原市緑区)附近、富士吉田市附近、静岡県安倍郡井川村(現静岡市葵区)附近、飯田市附近、中津川市附近、小牧市附近、大垣市附近、大津市附近、京都市附近」としており、相模湖町 - 飯田市間は現在のルートとは大きく異なり、赤石山脈(南アルプス)を貫通するものであった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1957年(昭和32年)10月に、建設省は国土開発縦貫自動車道建設法の規定により、日本道路公団に対して小牧 - 神戸間の施行命令を出して、日本初の高速自動車国道となる名神高速道路が着工されたものの、小牧から東京まで延伸する区間を、開発優先の中央道とするか、経済効率優先の東名高速とするかについては政治家たちの政治活動を巻き込む大きな問題に発展し、整備ルートは依然として決まらなかった。当時の建設省事務局内では東海道案を支持しており、1960年(昭和35年)に、東海道幹線自動車国道建設法案が議員立法される動きも出たため、これに対抗する中央道派が東海道派と激しく対立した。同年のうちに、両者の妥協によって「東海道幹線自動車国道建設法」と「中央道予定路線法」が成立したことで、両路線は同時着工する運びとなった。しかし、山地部の工事費が莫大であることから、山廻りのルートが本当に実現できるのかということになり、翌年の昭和36年度(1961年)予算編成で、経済企画庁が東海道幹線自動車国道(東名高速)と中央道の同時着工に難色を示した。翌1962年(昭和37年)、中央道予定路線のうち、工事の難易度が比較的低い東京 - 富士吉田間(現在の富士吉田線)について、基本計画が3月31日に、整備計画が5月7日に定められると、建設省は日本道路公団へ中央道本体の東京 - 富士吉田間について施行命令を出したが、それ以降の小牧に至る区間については保留した。しかし、対する東名高速の各区間については、次々と全線に亘り施工命令が出されていった。",
"title": "歴史"
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"text": "中央道派の総帥であった参議院議員の青木一男は、戦前に大蔵大臣を務めた経験もあったことから、財政的にも東名高速と中央道の同時建設は困難であることに危機感を強め、中央道の全線開通が夢で終わることを憂慮した。このことで青木はヨーロッパのモンブラントンネルの視察をきっかけに、建設省の進言を受けて、多額の建設費をかけて赤石山脈(南アルプス)にトンネルを貫通させて横断する最短ルートをとるのではなく、諏訪を経由するルートに迂回変更することを決断して地元を説得した。",
"title": "歴史"
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"text": "甲府から諏訪を経て伊那谷を通過する北回りルートに変更することが突如発表されたのは、1963年(昭和38年)5月のことである。その理由は、南アルプスの山岳地を長大トンネルで貫通する当初計画よりも、当時の金額で1000億円ほど安く建設することができるということであった。突然の変更決定に、予定する経過地とされていた身延町は、大陳情団が議員たちに当初ルート案の遂行を訴えたが、決定が覆ることはなかった。中央道のルート問題は、1964年(昭和39年)に国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律(昭和39年法律第104号)の成立によって、経由地が「静岡県安倍郡井川村附近」から「諏訪市附近」に改正されて最終決着した。このときすでに中央道の本線として着工されていた富士吉田線は、大月から分岐して河口湖方面へ向かう現在の支線のような路線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、これらの経緯から開通当初は高井戸ICから河口湖ICまで通し番号(1 - 8)が振られていたが、計画変更後に八王子IC - 河口湖ICは建設予定JCT・ICを含めた現在の番号に振り直されている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "山梨県内の中央道の整備は、建設大臣、自民党幹事長、自民党副総裁などを歴任し、建設族議員として権勢を振るっていた金丸信が推進し、上野原ICと長坂ICは金丸の意向で作らせたといわれる。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "高井戸 - 調布間の工事では、山梨県側から調布ICまでが既に開通しており、高井戸インターチェンジは環八通りを経て首都高速道路4号線と接続する予定であったが、東京都が売り出した世田谷区烏山地区の住宅団地内を通ることを、東京都が沿線住民に事前説明していなかったことが発端となって、生活環境に対する十分な対策がないまま、建設工事の中止を余儀なくされており、工事が再開されるまで3年を要している。",
"title": "歴史"
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"text": "結局、調布IC付近で降りた自動車が招いた周辺道路の交通渋滞が、新たな社会問題となったこともあり、住民側の要請を受けた代議士が仲介役となって、当時の建設大臣亀岡高夫とのトップ交渉を経て、代議士側が住民側を説得することで話し合いが行われ、日本道路公団側と住民側双方に不満を残しながらも、この問題は解決した。",
"title": "歴史"
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"text": "そのためもあって、最初の開通は東名高速よりも早いが、東名高速が着工から数年で全線開通したのに比べ、中央道は着工から全線開通までに20年間の年月を要した。",
"title": "歴史"
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"text": "中央自動車道の開通当初、1車線の幅員は東名高速と同じ3.6 mが採用されていた(ただし杉並 - 高井戸間は首都高速と合わせる形で3.25 mが採用されている)。しかしその後1990年代に入ってから調布 - 八王子間などで車線幅を狭めて路肩を広げる工事が実施され、現在では開通当初とは異なる幅員構成になっている。",
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"text": "(幅員構成一覧表の出典:日本道路公団高速道路八王子建設局『中央高速道路工事誌』1970年 p. 88)",
"title": "歴史"
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"text": "開通時期が古いため、急勾配やカーブが多く、東京近郊を除く全ての区間で最高速度が80 km/h以下に制限されている。",
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"text": "前述したとおり、中央道は他の都心部の高速自動車国道とは異なり、大部分の区間が4車線である(東名高速、関越道、東北道、常磐道、東関東道の首都圏部はいずれも6車線)。これは、開通前は周辺道路の交通量が少なく、中央道自体もそれほどの交通量を見込めないとされていたためであり、開通時は暫定2車線区間も存在していた。しかし、現在では多摩・八王子地区等で人口が増加したこと、沿線にリゾート地を多数抱えていることなどから交通量が多く、慢性的に渋滞が発生している。",
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"text": "これらの渋滞を解消するための対策として、上野原IC - 大月ICが一部ルート改良の上6車線化(一部は登坂車線を含め7車線化)された。しかし、さらに交通量の多い高井戸IC - 上野原ICは依然として4車線のまま(東京近郊1都3県の主要な高速道路で4車線なのは中央道のみ)であり、根本的な解決に至っていない。都県境の小仏トンネルについては、新トンネルの掘削に関する調査費用を2012年度予算に計上する意向を国土交通省が示し2021年1月現在は上り線の付加車線および新小仏トンネルについては事業中となっており、加えて下り線の相模湖IC付近の付加車線建設に関する調査を行っている。八王子以東の区間については現時点で6車線化等の具体的な計画には至っていない。NEXCO中日本や山梨県は、東京都および神奈川県、沿線の市などに協力を呼びかけているものの、建設には莫大な費用を要すること、採算性の問題(特に高井戸IC - 八王子ICは高度に市街化が進んでいるため、用地取得には多数の立ち退きが必要になる)、費用確保の問題などの理由から、6車線化には消極的である。",
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"text": "なお、八王子IC以東では常時交通量が多く、路肩からの追い越しがあとを絶たなかったため、路肩に追い越し防止のためのラバーポールが所々に設置されているとともに、取り締まり重点路線に指定されている。",
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "笹子トンネル天井崩落事故があった区間については2012年12月29日から2013年2月8日までの間、下り線を使った暫定2車線対面通行となっていたため、笹子トンネル内が最高速度40 km/h、大月JCT - 勝沼ICの暫定2車線部分が最高速度50 km/hとなっていた。2013年2月8日の完全復旧後は通常の最高速度80 km/h、笹子トンネル内が最高速度70 km/hに戻った。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "富士吉田線は暫定2車線で供用開始されたが、当時は中央分離帯はおろかラバーポール、縁石による仕切りもない区間が存在した。1976年に立て続けに死亡事故が発生した際には、新聞の見出しで「欠陥道路」と批判されている。その後は仕切りが追加されるとともに、上下4車線化の工事が進められた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "中央道は全区間を通して交通量が多いため、座光寺パーキングエリア (PA) を除くすべてのサービスエリア・パーキングエリアに売店がある。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、すべてのサービスエリアにガソリンスタンド、レストラン(レストランは談合坂SA下り以外)が設置されているほか、ガソリンスタンドを設置しているパーキングエリアが何か所かある。ただし、パーキングエリアのガソリンスタンドについては時間帯営業の箇所がある。サービスエリアのガソリンスタンドはすべて24時間営業。レストランは2010年(平成22年)6月30日まで石川PA上り線にも設置されていた。かつて八ヶ岳PA下り線にもガソリンスタンドが設置されていたが、2012年1月30日をもって閉鎖された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "本線(西宮線)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "富士吉田線",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "八王子支社と名古屋支社の管理境界となる伊北ICを境に、東側(富士吉田線を含む)は八王子支社の「○時○分現在の高速道路情報を、(ハイウェイラジオ○○より)お知らせします」で始まる形態、西側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムで始まる形態に分けられている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)・「交通量調査集計表」(愛知県ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "(出典:「平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果」(関東地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2002年度 区間別日平均交通量",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2002年度 総交通量",
"title": "路線状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2002年度 料金収入",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "中央道では、年末年始の帰省ラッシュや春・夏休みのレジャーシーズンになると必ず約30 - 60 kmの渋滞が発生してきた。そのためNEXCO中日本ではCM等の各種PR活動や、以下のような渋滞対策に取り組んできた。",
"title": "路線状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "圏央道内側における料金体系の整理・統一の方針により、1979年(昭和54年)から均一制であった高井戸IC - 八王子IC間が2016年(平成28年)4月1日に対距離制に変更され、全線が対距離制区間になった。ただし、高井戸IC - 八王子IC間の非ETC車については、単純支払い方式のままで事実上均一制が継続され、平均利用距離を基にした料金から区間最大料金へと値上げされた。また、ETC車については、激変緩和措置として当面の間、一定の条件の下で2016年3月31日時点の料金(以下、旧均一料金という)を上限とする特例が設けられている。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "富士吉田線(大月JCT - 河口湖IC)では、2010年6月28日から2011年6月19日まで高速道路無料化社会実験を実施した。大月IC - 大月JCT間 (1.0 km) は有料区間であるが、大月IC - 都留IC・河口湖IC相互間の利用は無料であった。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2012年12月に発生した笹子トンネル事故を受け、2013年1月1日以降は、富士吉田線を迂回路として活用するために無料扱いとした上で、大月IC - 一宮御坂IC間を一般道で走行して乗り継ぐ場合はその差額を調整する措置が取られた。この措置は、トンネル復旧工事完了後の同年2月12日午前0時で終了している。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "沿線の宅地化が進み、三鷹料金所での渋滞による環境悪化や都市内高速道路の性格が強まったことなどから、1979年8月1日に均一料金制が導入された。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし、都市内高速道路の性格が強まったとはいえ、管理主体が異なる首都高速道路とは別料金であった。公団が民営化されてもそれは変わらず、多摩地域の自治体からは、東京都から首都高速道路株式会社への出資金には多摩地域住民の税金が含まれているにもかかわらず、多摩地域から都心へ行くのに首都高速道路と別に料金負担を強いられるのは不公平であるとして、料金体系見直しの要望がなされてきた。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2012年(平成24年)1月の首都高速道路の対距離制移行にあわせ、この区間では短距離の利用に対するETC割引(後述)が開始された。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2016年4月の対距離制移行は首都圏における新たな料金体系構築の一環である。その原則の一つには「管理主体を超えたシンプルでシームレスな料金体系」が標榜されており、同時に首都高速の料金体系も、高速自動車国道大都市近郊区間と同じ料金体系に変更された。しかし県境を跨いだ神奈川県、埼玉県、千葉県の沿線各市が「首都高」として一体的な扱いで受益しているにも関わらず、中央高速道路の当該区間における首都高速道路との連続走行の場合は依然として別料金であり、固定額として2回分徴収される。2016年東京都知事選挙で当選した小池百合子東京都知事のマニフェスト「東京大改革宣言」における「多摩格差ゼロ」の「交通ネットワークの充実強化」でもこの問題は謳われておらず不均衡な状況は依然として放置されている。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この区間はもともと他の普通区間と同じ料金水準が適用されていたが、2021年5月1日に中京圏の東海環状自動車道の内側の高速道路料金の整理・統一が行われ、大都市近郊区間の料金水準に変更された。なお、この区間は引き続き普通区間であるため、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されないETC割引制度(休日割引、平日朝夕割引)は適用される。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)の道路審議会答申に基づいて、恵那山トンネル通過車には割高な料金設定がなされてきた。こちらも沿線自治体からは不公平であるとして撤廃を求める声が上がり、2000年(平成12年)10月には伊那市・駒ヶ根市・飯田市・中津川市・恵那市の5市の市議会議長で「中央自動車道・恵那山トンネル等議長会連絡協議会」が設立された。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "一般道へ回避する車による沿線環境の悪化もみられることから、2009年(平成21年)5月に高速道路利便増進事業によるETC割引が導入された。2011年8月には割引が拡充されて非ETC車も対象となり、一旦は事実上撤廃された。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "利便増進事業の割引財源が切れる2014年(平成26年)4月からは、割引ではなく通常料金自体を値下げすることになったが、債務の返済状況や料金徴収コストを踏まえ、当面10年間・ETC車限定で実施している。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2016年4月1日から全線が対距離制区間となったため、八王子本線料金所では時刻判定を行わず、入口と出口の通過時刻をもって判断する。高井戸IC - 八王子IC間の出口に設置されているフリーフローアンテナでも時刻判定を行うようになった。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2016年3月31日までは八王子ICを境に料金制度が異なっていたため、ここで区切って別々に割引適用を判断していた。ただし、早朝夜間割引(2014年3月31日限りで終了)については特例があった。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2016年4月1日から2017年1月17日までは八王子本線料金所と各インターチェンジの料金所およびフリーフローアンテナでは従前の方法で判断した料金が通知され、請求時に修正されていたが前述の激変緩和措置が適用されない場合を除き2017年1月18日からは各インターチェンジ出口のフリーフローアンテナで料金を通知する方法に切り替わった。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2012年1月1日から2016年3月31日まで実施。均一制区間の特定IC間を利用するETC車については150 - 350円引きとなる(普通車の場合)。時間帯割引の重複適用はない。高井戸IC - 八王子IC間の対距離制移行により発展的に解消された。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2008年度に発表された「高速道路の有効活用・機能強化の取り組み」の一環として、当初は2011年4月から2018年3月までの実施予定とされていた。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "走行全体ではなく、特別区間の距離単価のみを割引する(固定額は割引対象外)。",
"title": "料金"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "本線(西宮線)",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "富士吉田線",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "中央道の大半は山地部を通過するために、沿道には多くの山がある。",
"title": "地理"
}
] |
中央自動車道は、中日本高速道路株式会社(NEXCO中日本)が管理している、東京都杉並区の高井戸ICから愛知県小牧市の小牧JCT、および途中の山梨県大月市の大月JCTで分岐して山梨県富士吉田市の富士吉田ICを結ぶ高速道路(高速自動車国道)。略称は中央道(ちゅうおうどう)。旧道路名は中央高速道路であり、道路名を「○○高速道路」から「○○自動車道」へ変更した唯一の高規格幹線道路でもある。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、高井戸IC - 岡谷JCT間が「E20」、岡谷JCT - 小牧JCT間が長野自動車道とともに「E19」、大月JCT - 河口湖IC間の富士吉田線(ふじよしだせん)が東富士五湖道路とともに「E68」と、それぞれ割り振られている。
|
{{Infobox road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:CHUO EXP(E20 E19).svg|250px|中央自動車道]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E20}} / {{Ja Exp Route Sign|E19}} / {{Ja Exp Route Sign|E68}} 中央自動車道
|地図画像 = [[ファイル:Location_ChuoExpwayJp.jpg|300px]]
|総距離 = 366.8 [[キロメートル|km]]<br />([[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]] - [[河口湖インターチェンジ|河口湖IC]]) 93.3 km<br />([[大月ジャンクション|大月JCT]] - [[小牧ジャンクション|小牧JCT]]) 273.5 km
|開通年 = [[1967年]]([[昭和]]42年) - [[1982年]]([[昭和]]57年)
|起点 = [[東京都]][[杉並区]]([[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]])
|主な経由都市 = [[八王子市]]、[[相模原市]]、[[大月市]]、[[甲府市]]、[[岡谷市]]、[[飯田市]]、[[中津川市]]、[[多治見市]]、[[春日井市]](本線)<br />[[都留市]](富士吉田線)<!--高速自動車国道の路線を指定する政令・別表の「中央自動車道西宮線・富士吉田線」の都市で、「エリア(国・州・都道府県など)の境界に位置する都市」「経路が大きく変わる都市」「沿道の都市で、そのエリア内で一番大きな都市」を勘案し、各県の都道府県庁所在地、政令指定都市、中核市を中心に選定)-->
|終点 = [[山梨県]][[富士吉田市]]<br />(富士吉田線 [[富士吉田インターチェンジ|富士吉田IC]])<br />[[愛知県]][[小牧市]](本線 [[小牧ジャンクション|小牧JCT]])<ref name="C-NEXCO-data">{{Cite web|和書|url=http://media2.c-nexco.co.jp/corporate/company/overview/pamphlet/pdf/pamph_2014_14.pdf |title=会社案内パンフレット・データ |accessdate=2014-09-17 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150428075757/http://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/overview/pamphlet/pdf/pamph_2014_14.pdf |archivedate=2015-04-28 |deadlinkdate=2018-07-24}}</ref>
|接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]]
}}
'''中央自動車道'''(ちゅうおうじどうしゃどう、{{Lang-en|CHUO EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[中日本高速道路|中日本高速道路株式会社]](NEXCO中日本)が管理している、[[東京都]][[杉並区]]の[[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]]から[[愛知県]][[小牧市]]の[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]、および途中の[[山梨県]][[大月市]]の[[大月ジャンクション|大月JCT]]で分岐して山梨県[[富士吉田市]]の[[富士吉田インターチェンジ|富士吉田IC]]を結ぶ[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''中央道'''(ちゅうおうどう){{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-12}}。旧道路名は'''中央高速道路'''であり、道路名を「○○高速道路」から「○○自動車道」へ変更{{Sfn|佐滝剛弘|2016|p=76}}した唯一の[[高規格幹線道路]]でもある。
[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、高井戸IC - [[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]間{{efn|このうち[[中部横断自動車道]]との重複区間となっている[[双葉ジャンクション|双葉JCT]] - [[長坂ジャンクション|長坂JCT]](計画中)の間は「'''E52'''」との重複付番。}}が「'''E20'''」、岡谷JCT - 小牧JCT間が[[長野自動車道]]とともに「'''E19'''」、大月JCT - [[河口湖インターチェンジ|河口湖IC]]間の'''富士吉田線'''(ふじよしだせん)が[[東富士五湖道路]]とともに「'''E68'''」と、それぞれ割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2017年2月26日|publisher=国土交通省}}</ref>。
== 概要 ==
全区間を[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)が管理・営業している。[[東京都区部]]から[[名古屋市]]近郊までを[[神奈川県]]北部・[[山梨県]]・[[長野県]]南部・[[岐阜県]]南東部を経由して結び、同じ東京・名古屋近郊を結ぶ[[東名高速道路]]・[[新東名高速道路]]を補完する役割を持つ。かつての[[五街道]]である[[甲州街道]]・[[中山道]]に概ね沿う形で整備され、高井戸IC - 岡谷JCT間は甲州街道を継承する[[国道20号]]と多くの区間で並行する{{efn|中山道を継承する[[国道19号]]との並行区間は短く、岡谷JCT - 飯田山本IC間は多くの区間で[[国道153号]]と並行する。}}。
開通当初は、[[東名高速道路|東名高速]]や[[名神高速道路|名神高速]]と同様に'''中央高速道路'''を名称として用いていたが、開通当初の[[暫定2車線]][[対面通行]]でなおかつ中央にセンターポールも分離帯もないという状態であった上、追越しも許されている([[中央線 (道路)|中央線]]が破線)という有様であったにもかかわらず、「高速」という呼称によって速度超過が多発したことによる[[交通事故]]が頻発したために{{Sfn|佐滝剛弘|2016|p=76}}、'''中央自動車道'''に改称された<ref name="nikkeishintoumeinamae">{{Cite news |title=新東名、残りの区間は… 中央道が名前を変えた理由 |newspaper=NIKKEI STYLE |date=2012-09-14 |url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12038_T10C12A9000000?channel=DF280120166608&style=1 |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2012-11-23}}</ref>(ただ、この当時の名残として、一般道での案内標識や、民間企業の案内看板などに「中央高速」表記が残るものがある)。なお、その後開通した高速道路では、東名・名神のバイパスとなる[[新東名高速道路|新東名高速]]・[[新名神高速道路|新名神高速]]を除いては道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一されている<ref name="nikkeishintoumeinamae" />。
[[首都圏 (日本)|首都圏]]の[[放射線・環状線|放射方向]]の高速道路([[3環状9放射#9放射|9放射]])のうち、唯一[[都心|(東京)都心部]]([[首都高速道路]][[首都高速4号新宿線|4号新宿線]]と接続する区間)が4[[車線]]であるため、深刻な[[渋滞]]が発生することがある。沿線には[[相模湖]]や[[河口湖]]など[[リゾート地]]が多いことから[[平日]]と[[週末]]の利用車数の差が大きく、[[観光]][[季節|シーズン]]の[[土曜日|土曜]]・[[日曜日|日曜]]の渋滞が他路線より目立つ。また、[[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]] - [[八王子インターチェンジ|八王子IC]]は平日・[[休日]]問わず交通量が非常に多く、平日においても渋滞が多発している。
多くの区間で並行する[[中央本線]]と同様、日本国内の高速道路では特に標高の高い地域を経由する。[[富士見バスストップ]]西方(157.3KP付近)にある中央道最高地点は標高1,015メートルであり、[[2000年]][[10月7日]]の[[東海北陸自動車道]][[荘川インターチェンジ|荘川IC]] - [[飛驒清見インターチェンジ|飛驒清見IC]]開通までは、同地点が日本の高速道路の最高地点であった。
=== 規格 ===
{{出典の明記|section=1|date=2021年12月}}
* [[道路構造令]]
** 第1種第1級([[三鷹料金所|三鷹TB]] - 八王子IC/[[八王子本線料金所|TB]])
** 第1種第3級(八王子IC/TB - 小牧JCT)
** 第1種第4級(高井戸IC - 三鷹TB)
* [[設計速度]]
** 120[[キロメートル毎時|km/h]](三鷹TB - 八王子IC/TB)
** 80km/h(八王子IC/TB - 小牧JCT)
** 60km/h(高井戸IC - 三鷹TB)
=== 路線名・道路名 ===
[[高速自動車国道]]の路線名(政令による路線名)としての'''中央自動車道'''は、東京都を起点に3方向に分岐する富士吉田線・西宮線・長野線の3路線から成る{{sfn|浅井建爾|2015|p=169}}。
[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]では、以下のとおり指定されている。
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 起点
! colspan="2" style="white-space:nowrap" | 主たる経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
! style="white-space:nowrap" | 富士吉田線
| style="white-space:nowrap" rowspan="3"|[[東京都]]
|colspan="2"|[[神奈川県]][[津久井郡]][[相模湖町]]{{Efn|name="law"|国土開発幹線自動車道建設法は2003年1月6日施行の法改正以降改正されていないため、津久井郡相模湖町のままとなっている。現在の相模原市緑区内。}} [[大月市]]
| style="white-space:nowrap" | [[富士吉田市]]
|-
! style="white-space:nowrap" | 西宮線
|rowspan="2"|神奈川県津久井郡相模湖町{{Efn|name="law"}} 大月市 [[甲府市]] [[諏訪市]]
|[[飯田市]] [[中津川市]] [[小牧市]] [[大垣市]] [[大津市]] [[京都市]] [[吹田市]]
| style="white-space:nowrap" | [[西宮市]]
|-
! style="white-space:nowrap" | 長野線
|[[松本市]]付近
| style="white-space:nowrap" | [[長野市]]
|}
また[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]では次のように指定されている。
{| class="wikitable"
! style="white-space:nowrap" | 路線名
! style="white-space:nowrap" | 起点
! colspan="3" style="white-space:nowrap" | 重要な経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
! style="white-space:nowrap" | 富士吉田線
| style="white-space:nowrap" rowspan="3"|東京都<br />[[杉並区]]
|rowspan="3"|東京都[[世田谷区]] [[三鷹市]] [[調布市]] [[府中市 (東京都)|府中市]] [[国立市]] [[日野市]] [[八王子市]] [[相模原市]] [[上野原市]] 大月市
|colspan="2"|[[都留市]] [[山梨県]][[南都留郡]][[富士河口湖町]]
| style="white-space:nowrap" | [[富士吉田市]]
|-
! style="white-space:nowrap" | 西宮線
|rowspan="2"|[[甲州市]] [[笛吹市]] 甲府市 [[甲斐市]] [[韮崎市]] [[北杜市]] [[茅野市]] 諏訪市 [[岡谷市]]
|[[伊那市]] [[駒ケ根市|駒ヶ根市]]{{Efn|市名は正式には駒ヶ根市とされるが政令では駒ケ根市の表記である。}} 飯田市 中津川市 [[恵那市]] [[瑞浪市]] [[土岐市]] [[多治見市]] [[春日井市]] 小牧市 [[岩倉市]] [[一宮市]] [[羽島市]] 大垣市 [[岐阜県]][[不破郡]][[関ケ原町]] [[米原市]] [[彦根市]] [[東近江市]] [[湖南市]] [[野洲市]] [[栗東市]] [[草津市]] 大津市 京都市 [[向日市]] [[長岡京市]] [[高槻市]] [[茨木市]] 吹田市 [[豊中市]] [[尼崎市]]
| style="white-space:nowrap" | [[西宮市]]
|-
! style="white-space:nowrap" | 長野線
|[[塩尻市]] 松本市 [[安曇野市]] [[千曲市]]
| style="white-space:nowrap" | [[長野市]]
|}
これらについて、一般公衆に案内されている道路名(通称)に区分すると以下のようになる{{efn|下掲路線の上掲路線と重複する区間は割愛する。}}。
{| class="wikitable"
! 路線名 !! 道路名 !! 区間 !! 備考
|-
| rowspan="2" | 中央自動車道富士吉田線
| {{Ja Exp Route Sign|E20}}{{Ja Exp Route Sign|E68}} '''中央自動車道''' || [[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]] - [[富士吉田インターチェンジ|富士吉田IC]] ||
|-
| {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]]<sup>※1</sup> || [[東名ジャンクション|東名JCT]] - [[中央ジャンクション|中央JCT]] || 整備計画区間
|-
| rowspan="3" |中央自動車道西宮線
| {{Ja Exp Route Sign|E20}}{{Ja Exp Route Sign|E19}} '''中央自動車道''' || [[大月ジャンクション|大月JCT]] - [[小牧ジャンクション|小牧JCT]]<ref name="C-NEXCO-data"/> ||
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]] || [[小牧ジャンクション|小牧JCT]] - [[小牧インターチェンジ|小牧IC]] ||[[第一東海自動車道]]と重複{{sfn|浅井建爾|2015|p=170}}
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]] || [[小牧インターチェンジ|小牧IC]] - [[西宮インターチェンジ|西宮IC]] ||支線あり<sup>※2</sup>
|-
| rowspan="2" |中央自動車道長野線
| {{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]] || [[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]] - [[更埴ジャンクション|更埴JCT]] ||
|-
| {{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]] || [[更埴ジャンクション|更埴JCT]] - <!--[[長野市]]-->[[長野インターチェンジ|長野IC]] ||[[関越自動車道]]上越線と重複{{sfn|浅井建爾|2015|p=170}}
|}
: ※1 同道路の供用済区間は「[[東京外環自動車道]](C3)」として供用されている。
: ※2[[京滋バイパス]](E88)・[[久御山淀インターチェンジ|久御山淀IC]] - [[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]]は名神高速の改築事業として建設された。
道路名(通称)「中央自動車道」に高速自動車国道の路線名を照らし合わせると、高井戸IC - 大月JCT間は、富士吉田線・西宮線・長野線の3路線の重複区間、大月JCT - 岡谷JCT間が西宮線・長野線の重複区間で、岡谷JCT - 小牧JCT間が西宮線の単独区間である<!--{{sfn|浅井建爾|2015|p=171}}-->。また、支線になる大月JCT - 富士吉田IC間は富士吉田線の単独区間になる{{sfn|浅井建爾|2015|p=171}}。
以下では、特記がない場合は道路名(通称)の中央自動車道について述べる。また、道路形状等に従い、高井戸IC - 小牧JCTを'''本線'''(E20・E19)、大月JCT - 富士吉田ICを'''富士吉田線'''(E68)と呼ぶ。
=== 東名高速との比較 ===
{{独自研究|section=1|date=2011年12月}}
中央自動車道と同様に東京と名古屋を結ぶ高速道路のひとつに[[東名高速道路]]がある。距離もほぼ等しく(中央道の高井戸IC - 小牧JCTが344km、東名高速の[[東京インターチェンジ|東京IC]] - 小牧JCTが340km{{efn|[[新東名高速道路|新東名高速]]を利用した場合は約10 kmほど距離が短縮される。}})、中央道と東名高速とは相互に代替する機能を担っている。[[東名集中工事]]が行われる際は、[[中日本高速道路|NEXCO中日本]]の[[ウェブサイト]]やSA・PAの各施設で中央道への[[迂回]]を促すメッセージが掲載され、料金調整も行われる。
一方で、次のような点から、中長距離輸送には東名高速が利用される傾向にある。
* 東名高速が神奈川・静岡県境付近を除いて比較的平坦なルートを通ることに対し、中央道は東京都、愛知県、[[甲府盆地]]、および[[伊那谷]]の区間を除くほぼ全区間で山地部を通るため[[線形 (路線)|カーブ]]や[[縦断勾配|勾配]](坂)、長大トンネルが多い。
* [[冬|冬季]]になると、中央道では[[雪]]による[[タイヤチェーン|チェーン]]・[[スタッドレスタイヤ|冬用タイヤ]]規制や通行止めがたびたび発生する。
* 中央道は起点の東京側でも大部分が4車線区間であり、この区間の通過に3[[時間 (単位)|時間]]以上かかる大[[渋滞]]{{efn|時期によっては50 km近くにも及ぶ。}}をしばしば引き起こす{{efn|[[2014年]]統計<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/highway_traffic_congestion.html |title=高速道路の渋滞ワーストランキングをとりまとめました(平成26年速報) |accessdate=2018-07-24 |date=2015-05-01 |publisher=国土交通省}}</ref>では、圏央道と接続する東名高速道路の[[海老名JCT]]部分の渋滞が目立つものの、首都圏部の容量(車線数)において中央道が東名高速の3分の2であることから判断すると、中央自動車道の調布IC - 高井戸IC間の渋滞の激しさが表れている。<!-- 東名高速も混んでいますね... -->}}。
* 東名高速の速度制限状況と比べ、中央道では東京都の一部区間を除き[[制限速度]]が80[[キロメートル毎時|km/h]]以下である。
* 新名神草津JCT以西から東京方面へ向かう場合、(その逆の場合含む)中央道経由よりも大幅に時間が短縮される場合がある。
==== 高速バス路線の利用状況 ====
首都圏と中京以西を結ぶ[[高速バス|夜行高速バス]]では、首都圏の発着地に応じて中央道と東名高速とを使い分ける傾向が見られ、[[新宿駅]]・[[池袋駅]]・[[多摩地域]]・[[埼玉県|埼玉]]発着は中央道経由、[[東京駅]]・[[渋谷駅]]・[[横浜市|横浜]]発着は東名高速経由が多い。しかし、新宿・池袋発着のバスでは[[首都高速中央環状線]]が東名高速道路に接続する[[首都高速3号渋谷線]]の[[大橋ジャンクション|大橋JCT]]まで延伸されたことに加え、[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]を介して東名高速と中央道が結ばれたこと、更には[[新東名高速道路]]・[[新名神高速道路]]の部分開通もあり、東名・新東名高速経由へシフトする路線が増えている。
== インターチェンジなど ==
{{色}}
* IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である部分については道路が供用済みの区間を示している。また、施設名欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。未開通区間の名称は仮称。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) およびETC専用の出入口は背景色を<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。
* 路線名の特記がないものは[[市町村道]]。
* (間)は他の道路を介して接続している間接接続。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
* その他の略字は、ICは[[インターチェンジ]]、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、PAは[[パーキングエリア]]、SAは[[サービスエリア]]、TBは[[本線料金所]]をそれぞれ示す。
=== 本線(西宮線) ===
==== 高井戸IC - 岡谷JCT間 E20 ====
* 「※1」は[[国道20号]]。
* 「※2」は[[東京都道14号新宿国立線|都道14号新宿国立線]]([[東八道路]])。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|<span style="font-size:small">[[高井戸インターチェンジ|高井戸]]<br />から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|[[File:Shuto Urban Expwy Sign 0004.svg|26px]] [[首都高速4号新宿線]]
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[高井戸インターチェンジ|高井戸IC]]
|※2
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|
|八王子方面からの出口のみの<br />[[ハーフインターチェンジ#クォーターインターチェンジ|クォーターインターチェンジ]]
|rowspan="16" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[東京都]]}}
|colspan="2"|[[杉並区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[中央ジャンクション|中央JCT]]
|style="background-color:#CCC"|{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]]
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|-
|事業中
|rowspan="2" colspan="2"|[[三鷹市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[三鷹料金所|三鷹TB]]/[[三鷹バスストップ|BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|4.0
|style="text-align:center"|○
|八王子方面[[本線料金所]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[深大寺バスストップ|深大寺BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|6.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[調布市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[調布インターチェンジ|調布IC]]
|※1([[甲州街道]])
|style="text-align:right"|7.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|3-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[稲城インターチェンジ|稲城IC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|都道9号川崎府中線]]
|style="text-align:right"|10.0
|style="text-align:center"|
|高井戸方面出入口<br />出口は非ETC車利用可
|rowspan="2" colspan="2"|[[府中市 (東京都)|府中市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3-2
|style="background-color:#eda5ff"|[[府中バスストップ|府中BS/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|都道9号川崎府中線
|style="text-align:right"|11.2
|style="text-align:center"|○
|八王子方面出入口<br />出口は非ETC車利用可
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[国立府中インターチェンジ|国立府中IC]]
|※1([[日野バイパス]])
|style="text-align:right"|17.0
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[国立市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[日野バスストップ|日野BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|20.0
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[日野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[石川パーキングエリア|石川PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|23.3<br />23.5
|style="text-align:center"|
|高井戸方面<br />八王子方面
|rowspan="7" colspan="2"|[[八王子市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|[[八王子インターチェンジ#連絡道路|八王子第1出口]]
|[[国道16号]]([[八王子バイパス]])
|rowspan="3" style="text-align:right"|25.8
|rowspan="3" style="text-align:center"|
|rowspan="2"|高井戸方面からの出口
|-
!style="background-color:#BFB"|5-2
|[[八王子インターチェンジ#連絡道路|八王子第2出口]]
|rowspan="2"|国道16号(東京環状)
|-
!style="background-color: #BFB"|5
|[[八王子インターチェンジ|八王子IC]]/[[八王子本線料金所|TB]]
|
|-
!style="background-color: #BFB"|-
|[[元八王子バスストップ|元八王子BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|31.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[元八王子インターチェンジ|元八王子IC]]
|style="background-color:#CCC"|[[東京都道61号山田宮の前線|都道61号山田宮の前線]]
|style="text-align:right"|33.2
|style="text-align:center"|-
|計画中<!-- 供用予定はあくまで連結許可があった場合であるが、連結許可が確認できず。 -->
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[八王子ジャンクション|八王子JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]
|style="text-align:right"|36.0
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|7
|[[相模湖東出口]]
|※1
|style="text-align:right"|42.4
|style="text-align:center"|
|高井戸方面からの出口
|rowspan="4" colspan="3"|[[神奈川県]]<br>[[相模原市]]<br>[[緑区 (相模原市)|緑区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[相模湖バスストップ|相模湖BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|42.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[相模湖インターチェンジ|相模湖IC]]
|※1
|style="text-align:right"|45.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[藤野パーキングエリア|藤野PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|46.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|9
|[[上野原インターチェンジ|上野原IC/BS]]
|[[山梨県道・神奈川県道35号四日市場上野原線|県道35号四日市場上野原線]]
|style="text-align:right"|50.3
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="33" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[山梨県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[上野原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[談合坂サービスエリア|談合坂SA/野田尻BS]]
|style="text-align:center|-
|style="text-align:right|55.6
|style="text-align:center"|○
|名古屋方面
|-
!style="background-color:#BFB"|9-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[談合坂サービスエリア|談合坂SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|(間)[[山梨県道30号大月上野原線|県道30号大月上野原線]]<br>(間)[[山梨県道507号野田尻四方津停車場線|県道507号野田尻四方津停車場線]]
|style="text-align:right"|57.7
|style="text-align:center"|
|SAは東京方面
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[猿橋バスストップ|猿橋BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|65.1
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="6" colspan="2"|[[大月市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|[[大月ジャンクション|大月IC]]
|※1(現道・[[大月バイパス]])
|style="text-align:right"|70.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|[[大月ジャンクション|大月JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E68}} '''[[#富士吉田線 E68|富士吉田線]]'''
|style="text-align:right"|71.4
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[真木バスストップ|真木BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|72.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[初狩パーキングエリア|初狩PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|74.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[笹子バスストップ|笹子BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|78.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[甲斐大和バスストップ|甲斐大和BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|86.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[甲州市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[勝沼インターチェンジ|勝沼IC]]
|※1([[勝沼バイパス]])
|style="text-align:right"|90.1
|style="text-align:center"|
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|-
|rowspan="2"|[[釈迦堂パーキングエリア|釈迦堂PA/BS]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2" style="text-align:right"|92.4
|rowspan="2" style="text-align:center"|○
|rowspan="2"|
|-
| rowspan="6" colspan="2"|[[笛吹市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[甲斐一宮バスストップ|甲斐一宮BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|94.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[一宮御坂インターチェンジ|一宮御坂IC]]
|[[国道137号]]
|style="text-align:right"|96.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[御坂バスストップ|御坂BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|98.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|13-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[笛吹八代スマートインターチェンジ|笛吹八代SIC]]/[[八代バスストップ (山梨県)|八代BS]]
|style="background-color:#eda5ff"|(間)[[山梨県道22号甲府笛吹線|県道22号甲府笛吹線]]<br />[[山梨県道313号藤垈石和線|県道313号藤垈石和線]]<ref>{{Cite news |title=【山梨】国道411号で歩道整備し電線共同溝 県峡東建設の15年度事業 |newspaper=日本工業経済新聞 |date=2015-07-28 |url=https://www.nikoukei.co.jp/kijidetail/00292068 |accessdate=2015-08-07}}</ref>
|style="text-align:right"|100.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[境川パーキングエリア|境川PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|103.9<br />104.2
|style="text-align:center"|○
|東京方面<br />名古屋方面
|-
!style="background-color:#BFB"|14
|[[甲府南インターチェンジ|甲府南IC/BS]]
|[[国道358号]]
|style="text-align:right"|105.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[甲府市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[甲府中央スマートインターチェンジ|甲府中央SIC]]
|style="background-color:#CCC"|
|style="text-align:right"|108.5
|style="text-align:center"|
|[[2024年]]度供用予定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200331/pdf/20200331_zn1.pdf|title=高速道路事業の変更の事業許可(令和2年3月31日) 別紙1-87(71頁 - 73頁) 中央自動車道西宮線(甲府中央スマートIC)に関する 工事の内容|date=2020-03-31|accessdate=2021-03-18|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[昭和バスストップ|昭和BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|111.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[中巨摩郡]]<br/>[[昭和町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|[[甲府昭和インターチェンジ|甲府昭和IC]]
|※1([[甲府バイパス]])
|style="text-align:right"|113.2
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|15-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[双葉サービスエリア|双葉SA/SIC/双葉東BS]]
|style="background-color:#eda5ff"|(間)[[山梨県道6号甲府韮崎線|県道6号甲府韮崎線]]<br />(間)[[山梨県道25号甲斐中央線|県道25号甲斐中央線]]<br />
|style="text-align:right"|118.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[甲斐市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15-2
|[[双葉ジャンクション|双葉JCT/<span style="background-color: #CCC">BS]]</span>
|{{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]]
|style="text-align:right"|119.9
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[甲斐インターチェンジ|甲斐IC/JCT]]
|style="background-color:#CCC"|※1([[新山梨環状道路#北部区間|新山梨環状道路]])(調査中)<br />[[山梨県道616号島上条宮久保絵見堂線|県道616号島上条宮久保絵見堂線]]
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|-
|調査中
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[韮崎インターチェンジ|韮崎IC/BS]]
|[[山梨県道27号韮崎昇仙峡線|県道27号韮崎昇仙峡線]]
|style="text-align:right"|124.4
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[韮崎市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[明野バスストップ|明野BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|128.8
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="7" colspan="2"|[[北杜市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[須玉インターチェンジ|須玉IC/BS]]
|[[山梨県道41号須玉インター線|県道41号須玉インター線]]
|style="text-align:right"|131.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[長坂高根バスストップ|長坂高根BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|139.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|17-1
|[[長坂インターチェンジ (山梨県)|長坂IC]]
|[[山梨県道32号長坂高根線|県道32号長坂高根線]]
|style="text-align:right"|140.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[長坂ジャンクション|長坂JCT]]
|style="background-color:#CCC"|{{Ja Exp Route Sign|E52}} 中部横断自動車道(調査中)
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|-
|調査中
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[八ヶ岳パーキングエリア|八ヶ岳PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|142.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[小淵沢インターチェンジ|小淵沢IC/BS]]
|[[山梨県道・長野県道11号北杜富士見線|県道11号北杜富士見線]]
|style="text-align:right"|148.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[富士見バスストップ|富士見BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|156.9
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="9" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[長野県]]}}
|rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[諏訪郡]]}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[富士見町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|19
|[[諏訪南インターチェンジ|諏訪南IC]]
|[[長野県道425号払沢富士見線|県道425号払沢富士見線]]<br />[[長野県道90号諏訪南インター線|県道90号諏訪南インター線]]
|style="text-align:right"|160.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[中央道原パーキングエリア|中央道原PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|163.2<br />164.0
|style="text-align:center;vertical-align:top"|○
|名古屋方面<br />東京方面
|[[原村]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[茅野バスストップ|茅野BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|169.1
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[茅野市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[諏訪インターチェンジ|諏訪IC]]
|※1([[諏訪バイパス]])
|style="text-align:right"|172.0
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[諏訪市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[有賀バスストップ|有賀BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|176.4
|style="text-align:center"|○
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|-
|rowspan="2"|[[諏訪湖サービスエリア|諏訪湖SA/<span style="background-color: #CCC">SIC]]</span>
|rowspan="2" style="background-color:#CCC"|(間)[[長野県道50号諏訪辰野線]](バイパス)
|rowspan="2" style="text-align:right"|177.8
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|rowspan="2"|SICは2025年夏ごろ供用予定<ref>{{Cite press release|title=E20 中央自動車道 諏訪湖スマートICおよびアクセス道路の開通予定時期の変更について|publisher=諏訪市、岡谷市、中日本高速道路八王子支社|date=2023-11-07|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5822.html|format= |language=ja|trans-title= |access-date=2023-11-07|archive-url= |archive-date= |quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.okaya.lg.jp/material/files/group/26/27931_58934_misc.pdf|title=中央自動車道 (仮称)諏訪湖スマートインターチェンジ 実施計画書|accessdate=2020-11-03|publisher=長野県諏訪市・岡谷市|format=PDF}}</ref>
|-
|rowspan="2" colspan="2"|[[岡谷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]]
|style="text-align:right"|182.1
|style="text-align:center"|-
|
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E19}} 小牧JCT方面
|}
上記の他、[[タイヤチェーン#概要|チェーンベース]] (CB) が初狩PA - 勝沼ICに1箇所、須玉IC - 長坂IC下り線に1箇所、八ヶ岳PA - 小淵沢IC下り線に2箇所、小淵沢IC - 諏訪南ICに1箇所設けられている。
なお、中央JCT未供用のため、IC番号2は欠番となっている。
IC等の施設は無いものの、高井戸IC - 中央JCT間で[[世田谷区]]を、甲府中央SIC - 昭和BS間で[[中央市]]を通過している。
==== 岡谷JCT - 小牧JCT間 E19 ====
* 「※3」は[[国道153号]]。
* 「※4」は[[国道19号]]。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|<span style="font-size:small">[[高井戸インターチェンジ|高井戸]]<br />から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E20}} 高井戸IC方面
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]]
|style="text-align:right"|182.1
|style="text-align:center"|-
|
|rowspan="24" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[長野県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[岡谷市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[川岸バスストップ|川岸BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|185.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[緊急進入路|緊急車両用出入口]]
|style="text-align:center"|
|style="text-align:right"|
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[辰野パーキングエリア|辰野PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|192.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="5" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[上伊那郡]]}}
|rowspan="2"|[[辰野町]]
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|22
|rowspan="2"|[[伊北インターチェンジ|伊北IC]]
|rowspan="2"|※3
|rowspan="2" style="text-align:right"|196.0
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|rowspan="2"|
|-
|rowspan="2"|[[箕輪町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[箕輪バスストップ|箕輪BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|199.8
|style="text-align:center"|○
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|23
|rowspan="2"|[[伊那インターチェンジ|伊那IC/BS]]
|rowspan="2"|[[長野県道476号伊那インター西箕輪線|県道476号伊那インター西箕輪線]]<br />[[長野県道87号伊那インター線|県道87号伊那インター線]]
|rowspan="2" style="text-align:right"|205.5
|rowspan="2" style="text-align:center"|○
|rowspan="2"|
|style="white-space:nowrap;"|[[南箕輪村]]
|-
|rowspan="3" colspan="2"|[[伊那市]]
|-
!style="background-color:#BFB;white-space:nowrap;"|23-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[小黒川パーキングエリア|小黒川PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|(間)[[長野県道202号伊那駒ヶ岳線|県道202号伊那駒ヶ岳線]]
|style="text-align:right"|208.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[西春近バスストップ|西春近BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|211.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[宮田バスストップ|宮田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|216.7
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|上伊那郡<br/>[[宮田村]]
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[駒ヶ根インターチェンジ|駒ヶ根IC/BS]]
|[[長野県道75号駒ヶ根駒ヶ岳公園線|県道75号駒ヶ根駒ヶ岳公園線]]
|style="text-align:right"|220.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[駒ヶ根市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|24-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[駒ヶ岳サービスエリア|駒ヶ岳SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|
|style="text-align:right"|223.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[飯島バスストップ|飯島BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|228.0
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|上伊那郡<br/>[[飯島町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25
|[[松川インターチェンジ|松川IC/BS]]
|[[長野県道59号松川インター大鹿線|県道59号松川インター大鹿線]]
|style="text-align:right"|236.0
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[下伊那郡]]}}
|[[松川町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高森バスストップ|高森BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|242.4
|style="text-align:center"|○
|
|[[高森町 (長野県)|高森町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[座光寺パーキングエリア|座光寺PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|(間)[[長野県道15号飯島飯田線|県道15号飯島飯田線]]
|style="text-align:right"|244.6
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="4" colspan="2"|[[飯田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[上飯田バスストップ|上飯田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|248.2
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|26
|[[飯田インターチェンジ|飯田IC]]
|※3([[飯田バイパス]])
|style="text-align:right"|251.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|26-1
|[[飯田山本インターチェンジ|飯田山本IC/JCT]]
|※3<br />{{Ja Exp Route Sign|E69}} [[三遠南信自動車道]]
|style="text-align:right"|256.7
|style="text-align:center"|-
|三遠南信道のIC番号は「'''1'''」
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[阿智パーキングエリア|阿智PA/駒場BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|259.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|下伊那郡<br/>[[阿智村]]
|-
!style="background-color:#BFB"|26-2
|[[園原インターチェンジ|園原IC]]
|[[長野県道89号園原インター線|県道89号園原インター線]]<br />[[長野県道477号富士見台公園線|県道477号富士見台公園線]]
|style="text-align:right"|266.3
|style="text-align:center"|
|名古屋方面出入口
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|-
|rowspan="2"|[[恵那山トンネル]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2" style="text-align:right"|
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2"|危険物積載車両通行禁止
|-
|rowspan="13" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[岐阜県]]}}
|rowspan="4" colspan="2"|[[中津川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[神坂パーキングエリア|神坂PA/<span style="background-color: #CCC">SIC</span>/馬篭BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|278.2
|style="text-align:center"|○
|SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001194343.pdf|title=スマートインターチェンジの新規事業化、準備段階調査の箇所を決定 〜高速道路の有効利用や地域経済の活性化に向けて〜|date=2017-07-21|accessdate=2022-08-18|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|27
|[[中津川インターチェンジ|中津川IC/BS]]
|※4<br />
|style="text-align:right"|288.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[中津川西インターチェンジ|中津川西IC]](仮称)<ref>{{Cite web|和書|url=https://sakamotomachikyo.com/index.php/2020/06/01/nohi-crossing-load/
|title=濃飛横断自動車道(中津川工区図)(令和2年6月現在)|accessdate=2021-05-01|publisher=坂本地域まちづくり推進協議会}}</ref>
|style="background-color:#CCC"|[[濃飛横断自動車道]]
|
|
|事業中
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[恵那峡サービスエリア|恵那峡SA<span style="background-color:#CCC">/SIC</span>]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|293.8
|style="text-align:center"|
|SICは準備段階調査<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001630067.pdf|title=スマートインターチェンジ等の高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2023-09-08|accessdate=2023-09-09|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|rowspan="2" colspan="2"|[[恵那市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|28
|[[恵那インターチェンジ|恵那IC/BS]]
|[[岐阜県道68号恵那白川線|県道68号恵那白川線]]
|style="text-align:right"|297.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[屏風山パーキングエリア|屏風山PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|310.8<br />309.6
|style="text-align:center"|
|東京(長野)方面<br />名古屋方面
|rowspan="3" colspan="2"|[[瑞浪市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[瑞浪天徳バスストップ|瑞浪天徳BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|314.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|29
|[[瑞浪インターチェンジ|瑞浪IC]]
|[[岐阜県道47号瑞浪インター線|県道47号瑞浪インター線]]
|style="text-align:right"|315.8
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|30
|[[土岐インターチェンジ|土岐IC/BS]]
|[[国道21号]]
|style="text-align:right"|320.3
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[土岐市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|30-1
|[[土岐ジャンクション|土岐JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]]
|style="text-align:right"|322.8
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[虎渓山パーキングエリア|虎渓山PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|327.3
|style="text-align:center"|
|東京(長野)方面
|rowspan="2" colspan="2"|[[多治見市]]
|-
!style="background-color: #BFB"|31
|[[多治見インターチェンジ|多治見IC/BS]]
|[[国道248号]]
|style="text-align:right"|329.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[内津峠パーキングエリア|内津峠PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|335.6
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="5" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[愛知県]]}}
|colspan="2"|[[春日井市]]
|-
!style="background-color: #BFB"|32
|[[小牧東インターチェンジ|小牧東IC]]
|[[愛知県道49号春日井犬山線|県道49号春日井犬山線]]
|style="text-align:right"|337.2
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="4" colspan="2"|[[小牧市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[小牧オアシス|小牧オアシス/IC]]
|style="background-color:#CCC"|
|
|
|事業中<br>高速道路利便施設
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[桃花台バスストップ|桃花台BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|342.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|23
|[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]]
|style="text-align:right"|344.3
|style="text-align:center"|-
|
|}
上記の他、[[タイヤチェーン#概要|チェーンベース]] (CB) が岡谷JCT - 辰野PAに1箇所、阿智PA - 園原ICに1箇所設けられている。
=== 富士吉田線 E68 ===
* 全区間[[山梨県]]内に所在。
* 「※5」は[[国道139号]]。
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green;white-space:nowrap;"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|[[高井戸インターチェンジ|高井戸]]<span style="font-size:small"><br />から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|BS
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|大月JCT
|'''{{Ja Exp Route Sign|E20}} [[#本線(西宮線)|本線]]'''
|style="text-align:right"|71.4
|style="text-align:center"|-
|
|大月市
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[小形山バスストップ|小形山BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|73.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3"|[[都留市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[都留インターチェンジ|都留IC/BS]]
|[[山梨県道705号高畑谷村停車場線|県道705号高畑谷村停車場線]]<br />[[山梨県道40号都留インター線|県道40号都留インター線]]
|style="text-align:right"|77.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[谷村パーキングエリア|谷村PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|79.4(上り)<br />79.7(下り)
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[西桂バスストップ|西桂BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|84.7
|style="text-align:center"|○
|
|[[南都留郡]]<br/>[[西桂町]]
|-
!style="background-color:#BFB;"|1-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[富士吉田西桂スマートインターチェンジ|富士吉田西桂SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[山梨県道718号富士吉田西桂線]]
|style="text-align:right"|87.2
| style="text-align:center" |
|
|rowspan="2"|[[富士吉田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[富士吉田バスストップ|富士吉田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|89.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|2
|[[河口湖インターチェンジ|河口湖IC]]
|※5
|style="text-align:right"|93.9
|style="text-align:center"|
|大月方面出入口
|style="white-space:nowrap;"|南都留郡<br/>[[富士河口湖町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[富士吉田インターチェンジ|富士吉田IC/TB]]{{Efn|NEXCO中日本の一部資料には中央道大月方面から東富士五湖道路に乗り継ぐ場合の当本線料金所について「河口湖本線料金所」との記載が存在する。}}
|{{Ja Exp Route Sign|E68}} [[東富士五湖道路]]
|style="text-align:right"|94.9
|style="text-align:center"|
|本線料金所を設置。<br />東富士五湖道路の出入口のみであり大月方面の出入口は無し。
|富士吉田市
|-
| style="text-align:center" colspan="7" |{{Ja Exp Route Sign|E68}} 東富士五湖道路
|}
* [[距離標|キロポスト]]は大月JCTからの続きになっているが、本線(西宮線)と区別するため、高井戸ICからの距離数に300を加えたものになっている。
== 歴史 ==
=== 構想から着工まで ===
敗戦後の日本を復興するために、東京 - 神戸間を結ぶ高速道路を建設するという構想は、静岡出身の実業家である[[田中清一]]によって最初に起案された。この田中の構想は「本州の中央山地部を縦貫する自動車道路をまず最初に建設して、この道路から海岸に向かって連絡道路を設けて、全国の普遍的開発を図る」とするもので、東京 - 神戸間の幹線自動車道路が現在の[[国土開発幹線自動車道]]の予定路線でいう'''中央自動車道西宮線'''に相当するものであった{{sfn|武部健一|2015|pp=182–183}}。田中構想は[[瀬戸山三男]]や[[青木一男]]ら当時の有力国会議員らの支持を受けて{{sfn|武部健一|2015|p=183}}、[[1953年]]([[昭和]]28年)2月に国土建設推進連盟が結成され{{sfn|田中研究所|1970|p=62}}、翌年5月には[[社会党右派]]から「国土開発中央自動車道事業法案」が提出されるまでに至った{{sfn|田中研究所|1970|p=78}}。これに否定する立場を示したのが[[建設省]]で、東海道を予定線とする「東京神戸間有料道路計画書」を公表した{{sfn|武部健一|2015|p=183}}。これ以後、東海道と中央道のルートどちらを採るかという論争は激化していった{{sfn|武部健一|2015|p=183}}。
[[法令]]で中央道が定められたのは[[1957年]](昭和32年)[[4月16日]]の[[s:国土開発縦貫自動車道建設法|国土開発縦貫自動車道建設法]]が最初である。これはその3年後の[[1960年]](昭和35年)に[[公布]]された[[s:東海道幹線自動車国道建設法|東海道幹線自動車国道建設法]]よりも先であり、予定路線が定められたのは同日の[[s:国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律|国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律]]である。この法律で建設予定路線に定められた中央道は、起点が東京都、終点が吹田市という中央自動車道西宮線の前身ともいえるが、その主たる経過地は「神奈川県[[津久井郡]][[相模湖町]](現[[相模原市]][[緑区 (相模原市)|緑区]])附近、富士吉田市附近、静岡県[[安倍郡]][[井川村]](現[[静岡市]][[葵区]])附近、飯田市附近、中津川市附近、小牧市附近、大垣市附近、大津市附近、京都市附近」としており、相模湖町 - 飯田市間は現在のルートとは大きく異なり、[[赤石山脈]](南アルプス)を貫通するものであった{{sfn|日本道路公団|1970|p=3}}。
[[1957年]](昭和32年)10月に、建設省は国土開発縦貫自動車道建設法の規定により、[[日本道路公団]]に対して小牧 - 神戸間の施行命令を出して、日本初の高速自動車国道となる[[名神高速道路]]が着工されたものの、小牧から東京まで延伸する区間を、開発優先の中央道とするか、経済効率優先の東名高速とするかについては政治家たちの政治活動を巻き込む大きな問題に発展し、整備ルートは依然として決まらなかった{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。当時の建設省事務局内では東海道案を支持しており、[[1960年]](昭和35年)に、東海道幹線自動車国道建設法案が議員立法される動きも出たため、これに対抗する中央道派が東海道派と激しく対立した{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。同年のうちに、両者の妥協によって「東海道幹線自動車国道建設法」と「中央道予定路線法」が成立したことで、両路線は同時着工する運びとなった{{sfn|武部健一|2015|p=200}}。しかし、山地部の工事費が莫大であることから、山廻りのルートが本当に実現できるのかということになり、翌年の昭和36年度(1961年)予算編成で、[[経済企画庁]]が東海道幹線自動車国道([[東名高速道路|東名高速]])と'''中央道'''の同時着工に難色を示した{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。翌[[1962年]](昭和37年)、中央道予定路線のうち、工事の難易度が比較的低い東京 - 富士吉田間(現在の富士吉田線)について、基本計画が[[3月31日]]に、整備計画が[[5月7日]]に定められると、建設省は日本道路公団へ中央道本体の東京 - 富士吉田間について施行命令を出したが、それ以降の小牧に至る区間については保留した{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。しかし、対する東名高速の各区間については、次々と全線に亘り施工命令が出されていった{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。
{{see also|東京・神戸間の高速道路計画}}
=== 建設予定ルートの変更 ===
[[File:Kazuo Aoki.jpg|thumb|150px|[[青木一男]]は長野県出身の政治家で、中央自動車道実現のために貢献し、諏訪へのルート変更の際は主導的役割を果たした。]]
中央道派の総帥であった参議院議員の[[青木一男]]は、戦前に大蔵大臣を務めた経験もあったことから、財政的にも東名高速と中央道の同時建設は困難であることに危機感を強め、中央道の全線開通が夢で終わることを憂慮した{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。このことで青木はヨーロッパの[[モンブラントンネル]]の視察をきっかけに、建設省の進言を受けて、多額の建設費をかけて赤石山脈(南アルプス)にトンネルを貫通させて横断する最短ルートをとるのではなく、[[諏訪地域|諏訪]]を経由するルートに迂回変更することを決断して地元を説得した{{sfn|武部健一|2015|pp=199–200}}。
[[甲府市|甲府]]から諏訪を経て[[伊那谷]]を通過する北回りルートに変更することが突如発表されたのは、[[1963年]](昭和38年)5月のことである{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=132}}。その理由は、南アルプスの山岳地を長大トンネルで貫通する当初計画よりも、当時の金額で1000億円ほど安く建設することができるということであった{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=132}}。突然の変更決定に、予定する経過地とされていた[[身延町]]は、大陳情団が議員たちに当初ルート案の遂行を訴えたが、決定が覆ることはなかった{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=132}}{{efn|旧身延町付近まで高速道路が開通するのは[[中部横断自動車道]]下部温泉早川IC開業の2019年、旧身延町の区域への高速道路の開通は、南部IC - 下部温泉早川IC間開業の2021年まで待つことになる。}}。中央道のルート問題は、[[1964年]](昭和39年)に国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律(昭和39年法律第104号)の成立{{efn|国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律は、廃止。}}によって、経由地が「静岡県安倍郡井川村附近」から「諏訪市附近」に改正されて最終決着した{{sfn|武部健一|2015|p=200}}。このときすでに中央道の本線として着工されていた富士吉田線は、[[大月市|大月]]から分岐して[[河口湖]]方面へ向かう現在の支線のような路線となった{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=132}}。
なお、これらの経緯から開通当初は高井戸ICから河口湖ICまで通し番号(1 - 8)が振られていたが<ref>『東名高速道路』 池上雅夫、中央公論社、1969年。</ref>、計画変更後に八王子IC - 河口湖ICは建設予定JCT・ICを含めた現在の番号に振り直されている。
山梨県内の中央道の整備は、建設大臣、自民党幹事長、自民党副総裁などを歴任し、建設族議員として権勢を振るっていた[[金丸信]]が推進し、上野原ICと長坂ICは金丸の意向で作らせたといわれる{{sfn|佐藤健太郎|2015|p=110}}。
高井戸 - 調布間の工事では、山梨県側から調布ICまでが既に開通しており、[[高井戸インターチェンジ]]は[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]を経て[[首都高速道路4号線]]と接続する予定であったが、東京都が売り出した世田谷区[[烏山 (世田谷区)|烏山地区]]の住宅団地内を通ることを、東京都が沿線住民に事前説明していなかったことが発端となって、生活環境に対する十分な対策がないまま、建設工事の中止を余儀なくされており、工事が再開されるまで3年を要している{{sfn|武部健一|2015|pp=214–216}}。
結局、調布IC付近で降りた自動車が招いた周辺道路の交通渋滞が、新たな社会問題となったこともあり、住民側の要請を受けた代議士が仲介役となって、当時の建設大臣[[亀岡高夫]]とのトップ交渉を経て、代議士側が住民側を説得することで話し合いが行われ、日本道路公団側と住民側双方に不満を残しながらも、この問題は解決した{{sfn|武部健一|2015|pp=214–216}}。
そのためもあって、最初の開通は東名高速よりも早いが、東名高速が着工から数年で全線開通したのに比べ、中央道は着工から全線開通までに20年間の年月を要した。
=== 年表 ===
{{Timeline of release years
| title = 各年ごとの開通区間
| 1967 = (12月)調布IC - 八王子IC
| 1968 = (12月)八王子IC - 相模湖IC
| 1969 = (3月)相模湖IC - 河口湖IC
| 1972 = (10月)多治見IC - 小牧JCT
| 1973 = (9月)瑞浪IC - 多治見IC
| 1975 = (3月)中津川IC - 瑞浪IC<br />(8月)駒ヶ根IC - 中津川IC
| 1976 = (9月)高井戸IC - 調布IC<br />(9月)伊北IC - 駒ヶ根IC<br />(12月)韮崎IC - 小淵沢IC
| 1977 = (12月)大月JCT - 勝沼IC
| 1981 = (3月)小淵沢IC - 伊北IC
| 1982 = (11月)勝沼IC - 甲府昭和IC
}}
* [[1967年]]([[昭和]]42年)
** [[12月2日]] : 調布IC - 八王子IC工事完了<ref>1967年(昭和42年)12月1日日本道路公団公告第34号「中央高速道路工事一部完了公告」</ref>。
** [[12月15日]] : 調布IC - 八王子IC開通<ref>1967年(昭和42年)12月13日建設省告示第4193号「高速自動車国道中央自動車道東京富士吉田線の一部区間の区域の決定及び供用の開始に関する告示」</ref>。有料道路「中央高速道路(調布八王子区間)」として料金徴収<ref>1967年(昭和42年)12月7日日本道路公団公告第35号「中央高速道路(調布八王子区間)料金徴収公告」</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月20日]] : 八王子IC - 相模湖IC開通<ref>1968年(昭和43年)12月18日建設省告示第3619号「高速自動車国道中央自動車道富士吉田線の供用開始に関する告示」</ref>。有料道路「中央高速道路(調布富士吉田区間)」として料金徴収<ref>1968年(昭和43年)12月19日日本道路公団公告第48号「中央高速道路(調布富士吉田区間)の料金及び料金の徴収期間の変更公告」</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[3月17日]] : 相模湖IC - 河口湖IC開通<ref>1969年(昭和44年)3月14日建設省告示第574号「高速自動車国道中央自動車道富士吉田線の供用開始に関する告示」</ref>。
*: 八王子IC - 大月ICは現在の上り車線、大月IC - 河口湖ICは下り車線を使用した対面通行([[暫定2車線]])として開通。当初は、対面通行の高速道路ながら簡易の[[中央分離帯]]がなく、またはみ出し禁止規制もされていなかったため、右側車線(反対車線)にはみ出しての追い越しが可能だった{{Sfn|佐滝剛弘|2016|p=76}}。ただし[[1976年]]12月から、当時まだ4車線化されていなかった大月IC - 河口湖ICでは、全線ではみ出し禁止の措置が取られることになった(1984年の4車線化まで)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s52/s520600.html |title=第6章 交通安全と警察活動 |accessdate=2018-07-24 |work=昭和52年警察白書 |publisher=警察庁}}</ref>。この教訓から、高速道路の対面通行区間は、はみ出し禁止になった。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[3月21日]] : [[山梨県]][[大月市]]の[[岩殿山城|岩殿山]]で発生した大規模な地滑りで相模湖ICと大月ICの間が全面通行止めとなる。仮ICを設けるなどした後、同年[[7月22日]]に通行止めが解除されるまで、当該区間の通行止は123日間に及んだ。
** [[10月5日]] : 多治見IC - 小牧JCT開通により、[[東名高速道路]]と接続。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[4月20日]] : 八王子IC - 相模湖IC4車線化。
** [[9月6日]] : 瑞浪IC - 多治見IC開通<ref>1973年(昭和48年)9月5日建設省告示第1855号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[12月19日]] : 相模湖IC - 大月IC4車線化。
* [[1975年]](昭和50年)
** [[3月5日]] : 中津川IC - 瑞浪IC開通<ref>1975年(昭和50年)3月4日建設省告示第218号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[8月23日]] : 駒ヶ根IC - 中津川IC開通<ref>1975年(昭和50年)8月22日建設省告示第1169号「高速自動車国道に関する件」</ref>(このうち網掛トンネル・恵那山トンネル区間は、現在の下り車線を使用した暫定2車線供用だった)。
* [[1976年]](昭和51年)
** [[5月18日]] : 高井戸IC - 調布IC開通<ref>1976年(昭和51年)5月14日建設省告示第845号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[9月18日]] : 伊北IC - 駒ヶ根IC開通<ref>1976年(昭和51年)9月17日建設省告示第1294号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[12月19日]] : 韮崎IC - 小淵沢IC開通<ref>1976年(昭和51年)12月11日建設省告示第1580号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)
** [[10月4日]] : 伊北ICより東京寄り5.6kmの地点に伊北IC仮出入口を設置<ref>土木施工22巻3号</ref>。([[1980年]]9月閉鎖。)
** [[12月20日]] : 大月JCT - 勝沼IC開通<ref>1977年(昭和52年)12月10日建設省告示第1600号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[8月1日]] : 高井戸IC - 八王子IC間が均一料金制に変更。八王子本線料金所供用開始<ref>[http://www.c-nexco.co.jp/chuodo30th/imamukashi.html 中央自動車道の歴史【NEXCO中日本】]{{リンク切れ|date=2018-07-24}}</ref>。
** [[11月16日]] : 小牧東IC開通<ref>1979年(昭和54年)11月7日建設省告示第1681号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)
** 八王子IC - 河口湖ICのIC番号変更{{要出典|date=2014年1月}}。
** [[3月26日]] : 甲府昭和IC - 韮崎IC開通<ref>1980年(昭和55年)3月26日建設省告示第326号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)[[3月30日]] : 小淵沢IC - 伊北IC開通<ref>1981年(昭和56年)3月20日建設省告示第618号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[9月20日]] : ハーフJCTだった(河口湖方面と名古屋方面の行き来はできなかった)大月JCTをフルJCT化<ref>1982年(昭和57年)9月17日建設省告示第1582号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[11月10日]] : 勝沼IC - 甲府昭和ICが開通し、'''全線開通'''<ref>1982年(昭和57年)11月1日建設省告示第1743号「高速自動車国道に関する件」</ref>{{efn|平地部であるこの区間が最後となったのは、計画の際、甲府盆地の北部と南部のどちらを通るかで紛糾したことがある。最終的に当時の山梨県知事である[[田辺国男]]が「甲府盆地の発展には、開発の遅れている南部に通すことが望ましい」という判断で、南部経由に決定したという逸話がある。また、建設の際に釈迦堂PA付近にて日本有数の縄文遺跡である釈迦堂遺跡が見つかり、この[[発掘調査]]・保存のための埋め戻し等でさらに遅れた経緯があるため。}}。
* [[1984年]](昭和59年)[[11月30日]] : 大月JCT - 河口湖ICの4車線化<ref>1984年(昭和59年)11月28日建設省告示第1592号「高速自動車国道に関する件」</ref>。都留ICの大月方面からの出口開通、入口付替。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月27日]] : 網掛トンネル・恵那山トンネルの2期トンネル開通(現在の上り線トンネル)<ref>1985年(昭和60年)3月19日建設省告示第610号「高速自動車国道に関する件」</ref>、4車線化。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[3月25日]] : 岡谷JCT - 岡谷IC開通<ref>1986年(昭和61年)3月25日建設省告示第763号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[8月28日]] : 河口湖IC - 富士吉田IC開通、東富士五湖道路と接続<ref>1986年(昭和61年)8月27日建設省告示第1446号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[9月27日]] : 長坂IC開通<ref>1986年(昭和61年)9月27日建設省告示第1576号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月5日]] : 岡谷JCT - 岡谷ICの[[長野自動車道|長野道]]への編入により、長野道と接続<ref>1988年(昭和63年)3月4日建設省告示第322号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月27日]] : 上野原IC開通<ref>1989年(平成元年)9月26日建設省告示第1588号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1992年]](平成4年)[[3月25日]] : 園原IC開通<ref>1992年(平成4年)3月25日建設省告示第823号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[1993年]](平成5年)[[1月]] : 談合坂SAの1次改築完了。
*: 混雑の激しかった談合坂SAについて、下り線SAを東京方面に約2 km移設、旧下り線SA用地を上り線SAに転用したものである。
* [[1995年]](平成7年)[[4月14日]] : 稲城IC開通<ref>1995年(平成7年)4月14日建設省告示第993号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[3月30日]] : 双葉JCT開通により、[[中部横断自動車道|中部横断道]]と接続。
* [[2003年]](平成15年)[[3月16日]] : 上野原IC - 大月JCTの改築完了。
*: この改築では、事故が多発していたS字型のカーブ部分が廃止され、新道(現上り線)の新設・旧上り車線の下り線転用による4車線区間の6-7車線化、[[線形 (路線)|線形]]改良、上り線談合坂SAの改良(廃止された上下線部分)、大月JCTの織り込み区間の解消が実施された。
* [[2005年]](平成17年)
** [[3月19日]] : 土岐JCT開通<ref>2005年(平成17年)3月18日国土交通省告示第291号「高速自動車国道に関する件」</ref>により、[[東海環状自動車道|東海環状道]]と接続。
** [[10月1日]] : [[日本道路公団]]の[[民営化]]に伴い、中央道は全線[[中日本高速道路|NEXCO中日本]]の管理となる。
* [[2006年]](平成18年)10月1日 : 双葉スマートIC開通。
* [[2007年]](平成19年)[[6月23日]] : [[八王子ジャンクション|八王子JCT]]開通<ref>2007年(平成19年)6月22日国土交通省告示第837号「高速自動車国道に関する件」</ref>により、[[首都圏中央連絡自動車道]]と接続。[[国土交通省]]の掲げる[[3環状9放射#3環状|3環状]]の1つに初めて接続。
* [[2008年]](平成20年)[[4月13日]] : 飯田山本IC開通<ref>2008年(平成20年)4月11日国土交通省告示第473号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[6月28日]] : 富士吉田線で[[高速道路無料化#高速道路無料化社会実験|無料化社会実験]]開始。
* [[2011年]](平成23年)
** [[6月19日]] : 富士吉田線の無料化社会実験終了。
** [[8月10日]] : 都留ICフルIC化<ref>2011年(平成23年)8月10日国土交通省告示第834号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月14日]] : 相模湖東 - 小仏トンネルの上り線3車線化。元八王子BS付近の下り線に[[ゆずり車線]]設置<ref>2012年(平成24年)3月14日国土交通省告示第256号「高速自動車国道に関する件」</ref>。
** [[12月2日]] : 笹子トンネル上り線にて天井崩落事故が発生。同日から上下線区間とも通行止めになった<ref>{{Cite news |title=中央道・笹子トンネルで崩落、黒煙 3台下敷きか |newspaper=中日新聞 |date=2012-12-02 |url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012120290090241.html |publisher=中日新聞社 |accessdate=2012-12-02}}{{リンク切れ|date=2018-07-24}}</ref>。詳細は[[笹子トンネル天井板落下事故]]を参照のこと。
** [[12月3日]] : 笹子トンネル上り線天井崩落事故を受けて、笹子トンネル下り線、恵那山トンネル下り線の緊急点検を実施。
** [[12月29日]] : 笹子トンネル天井崩落事故で通行止めになった区間において、下り線を使った暫定2車線の対面通行で通行再開。
* [[2013年]](平成25年)
** [[2月8日]] : 笹子トンネル天井崩落事故で対面通行となっていた、笹子トンネルの上り線が完全復旧。同時に対面通行解除。
** [[6月20日]] - [[7月10日]] : 恵那山トンネル・下り線の天井板の撤去工事を実施。この間、上り線を使った'''対面通行規制'''を実施し、下り線は'''通行止'''<ref>{{Cite press release |和書 |title=中央自動車道 恵那山トンネルの天井板を撤去します 〜工事規制中の安全運転にご協力をお願いします〜 |publisher=中日本高速道路 |date=2013-05-10 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=3212}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月7日]] : 府中スマートIC開通。
** [[12月25日]] : 上り線 調布IC - 三鷹BS付近3車線化。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月26日]] : 笛吹八代スマートIC開通<ref>{{Cite press release |和書 |title=中央自動車道 笛吹八代スマートIC 3月26日(日)午後3時開通 |publisher=山梨県・笛吹市・中日本高速道路 |date=2017-02-24 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4003.html |accessdate=2017-02-24}}</ref>。
** [[8月18日]] : [[ゲリラ豪雨]]により恵那IC - 瑞浪IC間に土砂が流入。重軽傷者6人の人身被害を伴った事故が発生<ref>{{Cite web|和書|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/urgency/411/30da46d7450c00384badc1166c915ffa.pdf |title=E19中央自動車道(上下線)恵那IC〜瑞浪ICが大雨により被災し通行止めとなっています。 |accessdate=2017-08-19 |date=2017-08-19 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819105619/http://media2.c-nexco.co.jp/images/urgency/411/30da46d7450c00384badc1166c915ffa.pdf |archivedate=2017-08-19 |deadlinkdate=2018-07-24}}</ref>。
** [[9月30日]] : 小黒川スマートIC開通<ref>{{Cite press release |和書 |title=E19 中央自動車道 小黒川スマートインターチェンジが2017年9月30日(土)15時に開通します。 |publisher=伊那市・中日本高速道路 |date=2017-08-28 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4130.html |accessdate=2017-08-28}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]] : 駒ヶ岳スマートIC開通<ref>{{Cite press release |和書 |title=E19 中央自動車道 駒ヶ岳スマートインターチェンジが 2018年3月17日(土)15時に開通します。 |publisher=駒ヶ根市・中日本高速道路 |date=2018-02-16 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4237.html |accessdate=2018-02-16}}</ref>。
** [[4月15日]] : 富士吉田西桂スマートIC(大月JCT方面出入口)開通<ref>{{Cite press release |和書 |title=E68 中央自動車道 富士吉田西桂スマートIC 東京方面 4月15日(日)午後3時 開通 |publisher=山梨県・中日本高速道路 |date=2018-03-02 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4248.html |accessdate=2018-03-02}}</ref>。
** [[8月6日]] : 富士吉田西桂スマートIC(河口湖IC方面出入口)開通<ref>{{Cite press release |和書 |title=E68 中央自動車道 富士吉田西桂スマートIC 河口湖方面8月6日(月)午後1時 開通 |publisher=山梨県・中日本高速道路株式会社 |date=2018-07-11 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4348.html |accessdate=2018-07-11}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[5月24日]] : 談合坂スマートIC開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4783.html|title=E20 中央自動車道「談合坂スマートインターチェンジ」が2020年5月24日(日)15時に開通します|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-15|publisher=上野原市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** [[3月28日]] : 座光寺スマートIC開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5011.html|title=E19 中央道 座光寺スマートインターチェンジが2021年3月28日(日)17時に開通します|date=2021-02-05|accessdate=2021-02-05|publisher=飯田市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
** [[5月1日]] : 土岐JCT - 小牧JCT間の料金水準が大都市近郊区間の水準に変更される<ref name="c-nexco-20200501" />。
* [[2022年]](令和4年)[[4月1日]] : 稲城ICの入口料金所がETC専用化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5360.html|title=「E20 中央道 稲城IC」・「C4 圏央道 八王子西IC」を2022年4月1日(金)0時にETC専用料金所として、運用開始します|date=2022-02-14|accessdate=2022-06-30|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。
=== 建設当時の標準幅員 ===
中央自動車道の開通当初、1車線の幅員は東名高速と同じ3.6 mが採用されていた(ただし杉並 - 高井戸間は首都高速と合わせる形で3.25 mが採用されている)。しかしその後1990年代に入ってから調布 - 八王子間などで車線幅を狭めて路肩を広げる工事が実施され、現在では開通当初とは異なる幅員構成になっている。
{|class="wikitable"
!style="width:9em;"|区間
!style="width:6em;"|車線
!style="width:6em;"|車道
!style="width:6em;"|中央分離帯<br />(側帯含む)
!style="width:6em;"|側帯
!style="width:6em;"|左側路肩<br />(側帯含む)
!style="width:6em;"|右側路肩<br />(側帯含む)
|-
!style="white-space:nowrap"|東京杉並 - 高井戸
|style="text-align:right;"|3.25 m
|style="text-align:right;"|6.50 m
|style="text-align:right;"|2.50 m
|style="text-align:right;"|0.40 m
|style="text-align:right;"|0.65 m
|style="text-align:right;"|0.65 m
|-
!style="white-space:nowrap"|高井戸 - 三鷹
|style="text-align:right;"|3.60 m
|style="text-align:right;"|7.20 m
|style="text-align:right;"|3.00 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|1.00 m
|style="text-align:right;"|1.00 m
|-
!style="white-space:nowrap"|三鷹 - 調布
|style="text-align:right;"|3.60 m
|style="text-align:right;"|7.20 m
|style="text-align:right;"|4.50 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|2.75 m
|style="text-align:right;"|1.25 m
|-
!style="white-space:nowrap"|調布 - 八王子
|style="text-align:right;"|3.60 m
|style="text-align:right;"|7.20 m
|style="text-align:right;"|4.50 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|3.25 m
|style="text-align:right;"|1.25 m
|-
!style="white-space:nowrap"|八王子 - 河口湖
|style="text-align:right;"|3.60 m
|style="text-align:right;"|7.20 m
|style="text-align:right;"|4.50 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|2.75 m
|style="text-align:right;"|1.25 m
|-
!style="white-space:nowrap"|トンネル
|style="text-align:right;"|3.60 m
|style="text-align:right;"|7.20 m
|style="text-align:right;"| -
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|style="text-align:right;"|0.75 m
|-
|}
(幅員構成一覧表の出典:日本道路公団高速道路八王子建設局『中央高速道路工事誌』1970年 p. 88)
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間||colspan="3" |[[車線]]||colspan="2" |[[最高速度]]||rowspan="2" |設計速度||rowspan="2" style="width:45px|備考
|-
!上下線||上り線||下り線
!style="width:99px" |[[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
!colspan="10" |本線
|-
|高井戸IC - 三鷹TB||4||2||2||colspan="2" |60 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||60 km/h||
|-
|三鷹TB - 調布IC||5||3||2||rowspan="9" |80 km/h||rowspan="2" |80 km/h<br />(指定)|| rowspan="3" |120 km/h||
|-
|調布IC - 稲城IC||rowspan="3" |4|| rowspan="3" |2||rowspan="3" |2||
|-
|稲城IC - 八王子IC/TB||100 km/h<br />(法定)||※1
|-
|八王子IC/TB - 小仏TN内||rowspan="6" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="15" |80 km/h||※2
|-
|小仏TN - 相模湖BS||5||3||2||
|-
|相模湖BS - 上野原IC||4||2||2||
|-
|上野原IC - 談合坂SA(上り)||6||3||3||
|-
|談合坂SA(上り) - 中野TN付近||7||3||2+2||
|-
|中野TN付近 - 大月JCT||6||3||3||
|-
|大月JCT||5||3||2||colspan="2" |70 km/h(指定)<br />80 km/h(指定)||上り線<br />下り線
|-
|大月JCT - 笹子TN||rowspan="8" |4|| rowspan="8" |2|| rowspan="8" |2||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||
|-
|笹子TN内||colspan="2" |70 km/h(指定)||
|-
|笹子TN - 勝沼IC||colspan="2" |80 km/h(指定)<br />70 km/h(指定)||上り線<br />下り線
|-
|勝沼IC - 須玉IC||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||
|-
|須玉IC - 長坂IC※3||colspan="2" |70 km/h(指定)<br />80 km/h(指定)||上り線<br />下り線
|-
|長坂IC - 阿智PA||80 km/h||80 km/h <br />(指定)||
|-
|阿智PA - 恵那山TN内||colspan="2" |70 km/h<br />(指定)||
|-
|恵那山TN - 小牧JCT||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||
|-
!colspan="10" |富士吉田線
|-
|大月JCT - 花咲TN内||rowspan="2" |4|| rowspan="2" |2|| rowspan="2" |2||colspan="2" |60 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h||
|-
|花咲TN内 - 河口湖IC||80 km/h||80 km/h<br />(指定)||
|-
|河口湖IC - 富士吉田IC※4||2||1||1||colspan="2" |70 km/h(指定)<br />40 km/h(指定)||上り線<br />下り線
|}
* ※1 : 100 km/h区間ではあるが、交通量が非常に多い。
* ※2 : 八王子JCT - 小仏トンネル区間の下りは登坂車線があり片側3車線。
* ※3 : 須玉ICから135.3kp辺りの区間
* ※4 : [[暫定2車線]]
開通時期が古いため、急[[縦断勾配|勾配]]やカーブが多く、東京近郊を除く全ての区間で[[最高速度]]が80 km/h以下に制限されている。
[[#概要|前述]]したとおり、中央道は他の都心部の[[高速自動車国道]]とは異なり、大部分の区間が4車線である(東名高速、関越道、[[東北自動車道|東北道]]、[[常磐自動車道|常磐道]]、[[東関東自動車道|東関東道]]の首都圏部はいずれも6車線)。これは、開通前は周辺道路の交通量が少なく、中央道自体もそれほどの交通量を見込めないとされていたためであり{{要出典|date=2011年12月}}、開通時は[[暫定2車線]]区間も存在していた。しかし、現在では[[多摩地域|多摩]]・八王子地区等で[[人口]]が増加したこと、沿線にリゾート地を多数抱えていることなどから交通量が多く、慢性的に渋滞が発生している。
これらの[[#渋滞対策|渋滞を解消するための対策]]として、上野原IC - 大月ICが一部ルート改良の上6車線化(一部は[[登坂車線]]を含め7車線化)された。しかし、さらに交通量の多い高井戸IC - 上野原ICは依然として4車線のまま(東京近郊1都3県の主要な高速道路で4車線なのは中央道のみ)であり、根本的な解決に至っていない。都県境の[[小仏トンネル]]については、新トンネルの掘削に関する調査費用を2012年度予算に計上する意向を[[国土交通省]]が示し<ref name="山梨日日新聞">{{Cite news |title=中央道 小仏に新トンネル検討 国交省、車線増やし渋滞解消 |newspaper=山梨日日新聞 |date=2011-10-16 |url=http://www.sannichi.co.jp/local/news/2011/10/16/7.html |publisher=山梨日日新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111017115400/http://www.sannichi.co.jp/local/news/2011/10/16/7.html |archivedate=2011-10-17}}</ref>2021年1月現在は上り線の付加車線および新小仏トンネルについては事業中となっており、加えて下り線の相模湖IC付近の付加車線建設に関する調査を行っている。八王子以東の区間については現時点で6車線化等の具体的な計画には至っていない。NEXCO中日本や山梨県は、東京都および神奈川県、沿線の市などに協力を呼びかけているものの、建設には莫大な[[費用]]を要すること、採算性の[[問題]](特に高井戸IC - 八王子ICは高度に市街化が進んでいるため、用地取得には多数の立ち退きが必要になる)、費用確保の問題などの理由から、6車線化には消極的である。
なお、八王子IC以東では常時交通量が多く、路肩からの追い越しがあとを絶たなかったため、路肩に追い越し防止のためのラバーポールが所々に設置されているとともに、取り締まり重点路線に指定されている。
笹子トンネル天井崩落事故があった区間については2012年12月29日から2013年2月8日までの間、下り線を使った暫定2車線対面通行となっていたため、笹子トンネル内が最高速度40 km/h、大月JCT - 勝沼ICの暫定2車線部分が最高速度50 km/hとなっていた。2013年2月8日の完全復旧後は通常の最高速度80 km/h、笹子トンネル内が最高速度70 km/hに戻った。
富士吉田線は暫定2車線で供用開始されたが、当時は[[中央分離帯]]はおろか[[ラバーポール]]、[[縁石]]による仕切りもない区間が存在した。1976年に立て続けに死亡事故が発生した際には、新聞の見出しで「欠陥道路」と批判<ref>欠陥道路、事故相次ぐ 行楽の六人死ぬ『朝日新聞』1976年(昭和51年)9月27日、13版、23面</ref>されている。その後は仕切りが追加されるとともに、上下4車線化の工事が進められた。
=== 道路施設 ===
==== サービスエリア・パーキングエリア ====
中央道は全区間を通して交通量が多いため、[[座光寺パーキングエリア]] (PA) を除くすべての[[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]に売店がある。
また、すべてのサービスエリアに[[ガソリンスタンド]]、[[レストラン]](レストランは[[談合坂サービスエリア|談合坂SA]]下り以外)が設置されているほか、ガソリンスタンドを設置しているパーキングエリアが何か所かある。ただし、パーキングエリアのガソリンスタンドについては時間帯営業の箇所がある。サービスエリアのガソリンスタンドはすべて24時間営業。レストランは[[2010年]]([[平成]]22年)[[6月30日]]まで[[石川パーキングエリア|石川PA]]上り線にも設置されていた。かつて[[八ヶ岳パーキングエリア|八ヶ岳PA]]下り線にもガソリンスタンドが設置されていたが、[[2012年]][[1月30日]]をもって閉鎖された。
==== 主なトンネルと橋 ====
[[ファイル:Enasan Tunnel for Tokyo.jpg|thumb|right|200px|恵那山トンネル上り線入口]]
'''本線(西宮線)'''
* [[多摩川橋 (中央自動車道)|多摩川橋]](国立府中IC - 石川PA) : 428 m
* [[小仏トンネル]](八王子JCT - 相模湖東出口) : 上り線2,002 m 下り線1,642 m
*: 土曜・日曜及び祝日・祭日の渋滞の名所
* 葛野川橋(談合坂SA - 大月IC)
* [[笹子トンネル (中央自動車道)|笹子トンネル]](初狩PA - 勝沼IC) : 上り線4,784 m 下り線4,717 m
*: [[2012年]][[12月2日]]に上り線で[[トンネル]][[天井]]の[[コンクリート]]板が落下する崩落事故が発生した。詳しくは[[笹子トンネル天井板落下事故]]を参照。
* 笛吹川橋(甲府南IC - 甲府昭和IC)
* [[網掛トンネル]](阿智PA - 園原IC) : 上り線1,942 m 下り線1,943 m
* [[恵那山トンネル]](園原IC - 神坂PA) : 上り線8,649 m 下り線8,489 m
*: 恵那山トンネルは8 km以上に及ぶ長大トンネルであるため、飯田山本IC - 中津川ICは[[タンクローリー|危険物積載車両]]の通行が禁止されている(トンネルにかかる区間は園原IC - 中津川ICだが、園原ICはハーフIC(名古屋方面へ向かう車両は退出できない)のため、手前の[[飯田山本インターチェンジ|飯田山本IC/JCT]]から規制区間となる)。このため、この区間を通過する該当車両は、国道153号・[[国道256号]]・国道19号等の[[一般道路]]を経由する必要がある。なお、[[2008年]]4月13日に飯田山本ICが開通するまでは、そのひとつ前の飯田ICで降りる必要があった。
* 落合川橋(神坂PA - 中津川IC) : 283 m
'''富士吉田線'''
* [[花咲トンネル]](大月JCT - 都留IC) : 上り線620 m 下り線702 m
===== トンネルの数 =====
{{正確性|section=1|date=2016年6月19日 (日) 14:56 (UTC)|talk=ノート:中央自動車道#トンネルの数について}}
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!区間!!上り線!!下り線
|-
|高井戸IC - 調布IC||1||1
|-
|調布IC - 八王子JCT||0||0
|-
|八王子JCT - 相模湖東出口||1||1
|-
|相模湖東出口 - 談合坂SA||0||0
|-
|談合坂SA - 大月IC||5||8
|-
|大月IC - 初狩PA||0||0
|-
|初狩PA - 勝沼IC||1||2
|-
|勝沼IC - 小淵沢IC||0||0
|-
|小淵沢IC - 諏訪南IC||1||1
|-
|諏訪南IC - 諏訪IC||0||0
|-
|諏訪IC - 諏訪湖SA||1||1
|-
|諏訪湖SA - 岡谷JCT||1||1
|-
|岡谷JCT - 辰野PA||1||1
|-
|辰野PA - 阿智PA||0||0
|-
|阿智PA - 園原IC||1||1
|-
|園原IC - 神坂PA||2||1
|-
|神坂PA - 土岐JCT||0||0
|-
|土岐JCT - 多治見IC||2||2
|-
|多治見IC - 小牧IC||0||0
|-
!累計!!17!!20
|-
|大月JCT - 都留IC||1||1
|-
|都留IC - 富士吉田IC||0||0
|-
!合計!!18!!21
|}
==== 道路照明灯 ====
* 高井戸IC - 八王子IC
<!--* 各ジャンクション・インターチェンジ・サービスエリア・パーキングエリア・トンネル入口付近-->
=== 道路管理者 ===
* [[中日本高速道路|NEXCO中日本]][[中日本高速道路八王子支社|八王子支社]]
** 八王子保全・サービスセンター : 高井戸IC - 上野原IC
** 大月保全・サービスセンター : 上野原IC - 勝沼IC・大月JCT - 河口湖IC(富士吉田線全線)
** 甲府保全・サービスセンター : 勝沼IC - 小淵沢IC
** 松本保全・サービスセンター : 小淵沢IC - 伊北IC
* NEXCO中日本[[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]
** 飯田保全・サービスセンター : 伊北IC - 中津川IC(伊北ICを含む)
** 多治見保全・サービスセンター : 中津川IC - 小牧東IC
** 羽島保全・サービスセンター : 小牧東IC - 小牧JCT
==== ハイウェイラジオ ====
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2015年1月|独自研究=2015年1月|ソートキー=道高ちゆうおう}}
; 本線
* 三鷹(高井戸IC - 調布IC)
* 国立府中(国立府中IC周辺)
* 石川(石川PA周辺)
* 八王子(八王子TB - 八王子JCT)
* 相模湖(相模湖IC - 上野原IC)
* 上野原(上野原IC - 大月JCT)
* 大月(上野原IC - 大月JCT)
* 初狩(大月JCT - 勝沼IC)
* 勝沼(大月JCT - 勝沼IC)
* 一宮御坂(勝沼IC - 一宮御坂IC)
* 甲府南(一宮御坂IC - 甲府南IC)
* 甲府昭和(甲府南IC - 甲府昭和IC)
* 諏訪(諏訪南IC - 諏訪IC)
* 伊那(伊北IC - 伊那IC)
* 恵那山トンネル(園原IC - 神坂PA 恵那山トンネル内)
* 恵那(恵那峡SA - 恵那IC)
* 土岐(土岐IC周辺)
* 多治見(虎渓山PA - 多治見IC)
* 桃花台(小牧東IC - 小牧JCT)
; 富士吉田線
* 都留(大月JCT - 河口湖IC)
[[中日本高速道路八王子支社|八王子支社]]と[[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]の管理境界となる伊北ICを境に、東側(富士吉田線を含む)は八王子支社の「○時○分現在の高速道路情報を、(ハイウェイラジオ○○より)お知らせします」で始まる形態、西側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムで始まる形態に分けられている。
=== 交通量 ===
; 本線(西宮線)
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 区間 !!平成11(1999)年度!!平成17年(2005年)度!!平成22年(2010年)度!!平成27年(2015年)度!!令和3(2021)年度
|-
| 高井戸IC - 調布IC || 90,566 || 87,891 || 93,372 || 93,073 || 71,587
|-
| 調布IC - 稲城IC || 94,335 || 90,332 || 91,717 || 89,122 || 80,035
|-
| 稲城IC - 府中SIC || rowspan="2" | 86,615|| rowspan="2" | 82,874 || rowspan="2" | 82,829 || 77,517 || 74,588
|-
| 府中SIC - 国立府中IC || 81,424 || 78,975
|-
| 国立府中IC - 八王子IC || 70,535 || 65,341 || 66,960 || 66,555 || 66,469
|-
| 八王子IC - 八王子JCT || rowspan="2" | 47,399 || rowspan="2" | 44,890 || 47,236 || 44,204 || 42,344
|-
| 八王子JCT - 相模湖東出口 || 54,874 || 51,799 || 50,040
|-
| 相模湖東出口 - 相模湖IC || 46,764 || 44,311 || 53,895 || 51,244 || 49,537
|-
| 相模湖IC - 上野原IC || 50,071 || 47,730 || 55,800 || 50,768 || 48,483
|-
| 上野原IC - 談合坂SASIC || rowspan="2" | 47,764 || rowspan="2" | 45,392 || rowspan="2" | 52,981 || rowspan="2" | 47,645 || 44,891
|-
| 談合坂SASIC - 大月IC || 44,804
|-
| 大月IC - 大月JCT || 48,571 || 12,535 || 25,017 || 46,910 || 45,305
|-
| 大月JCT - 勝沼IC || 40,197 || 37,907 || 40,576 || 36,498 || 36,072
|-
| 勝沼IC - 一宮御坂IC || 31,817 || 31,817 || 34,153 || 31,887 || 30,593
|-
| 一宮御坂IC - 笛吹八代SIC || rowspan="2" | 33,029 || rowspan="2" | 32,604 || rowspan="2" | 34,058 || rowspan="2" | 32,850 || 30,997
|-
| 笛吹八代SIC - 甲府南IC || 31,177
|-
| 甲府南IC - 甲府昭和IC || 31,497 || 30,809 || 30,698 || 29,747 || rowspan="2" | 27,630
|-
| 甲府昭和IC - 双葉SASIC || rowspan="3" | 30,597 || 29,815 || 29,181 || 28,806
|-
| 双葉SASIC - 双葉JCT || 29,505 || 30,323 || 30,264 || 27,703
|-
| 双葉JCT - 韮崎IC || 30,936 || 32,581 || 32,804 || 30,067
|-
| 韮崎IC - 須玉IC || 30,146|| 29,954 || 30,275 || 31,187 || 28,082
|-
| 須玉IC - 長坂IC || 27,085 || 26,506 || 26,335 || 27,409 || 24,270
|-
| 長坂IC - 小淵沢IC || 25,843 || 24,751 || 23,882 || 25,084 || 21,568
|-
| 小淵沢IC - 諏訪南IC || 25,019 || 24,077 || 23,002 || 24,184 || 20,622
|-
| 諏訪南IC - 諏訪IC || 27,298 || 27,126 || 26,223 || 26,458 || 22,906
|-
| 諏訪IC - 岡谷JCT || 33,944 || 34,811 || 34,420 || 35,424 || 31,000
|-
| 岡谷JCT - 伊北IC || 36,167 || 38,522 || 38,053 || 39,201 || 32,396
|-
| 伊北IC - 伊那IC || 33,205 || 34,971 || 34,338 || 35,520 || 29,160
|-
| 伊那IC - 小黒川PASIC || rowspan="2" | 30,911 || rowspan="2" | 32,465 || rowspan="2" | 31,715 || rowspan="2" | 32,939 ||27,499
|-
| 小黒川PASIC - 駒ヶ根IC ||27,570
|-
| 駒ヶ根IC - 駒ヶ岳SASIC || rowspan="2" | 29,660 || rowspan="2" | 30,916 || rowspan="2" | 30,220 || rowspan="2" | 31,132 || 25,981
|-
| 駒ヶ岳SASIC - 松川IC || 25,693
|-
| 松川IC - 座光寺PASIC || rowspan="2" | 27,229 || rowspan="2" | 28,098 || rowspan="2" | 27,777 || rowspan="2" | 28,381 || 23,867
|-
| 座光寺PASIC - 飯田IC || 22,615
|-
| 飯田IC - 飯田山本IC || rowspan="2" | 23,727 || rowspan="2" | 24,806 || 25,105 || 26,248 || 20,973
|-
| 飯田山本IC - 園原IC || 24,269 || 25,502 || 20,203
|-
| 園原IC - 中津川IC || 24,505|| 25,849 || 25,183 || 26,875 || 21,113
|-
| 中津川IC - 恵那IC || || 32,692 || 32,086 || 32,113 || 25,687
|-
| 恵那IC - 瑞浪IC || || 38,134 || 38,312 || 38,210 || 31,211
|-
| 瑞浪IC - 土岐IC || || 41,950 || 42,850 || 42,961 || 36,123
|-
| 土岐IC - 土岐JCT || rowspan="2" | || 45,441 || 46,552 || 45,537 || 38,685
|-
| 土岐JCT - 多治見IC || 43,433 || 39,562 || 40,719 || 34,846
|-
| 多治見IC - 小牧東IC || 44,746 || 48,594 || 45,094 || 45,919 || 39,513
|-
| 小牧東IC - 小牧JCT || 46,157 || 49,464 || 47,108 || 48,446 || 40,270
|}
<small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)・「[https://www.pref.aichi.jp/douroiji/image/H17census.pdf 交通量調査集計表]」([[愛知県]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref name="r2tyousa">{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-27|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。
; 富士吉田線
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 区間!!平成11(1999)年度!!平成17年(2005年)度!!平成22年(2010年)度!!平成27年(2015年)度!!令和3(2021)年度
|-
| 大月JCT - 都留IC || 16,400 || 16,779 || 30,488 || 16,582 || 15,479
|-
| 都留IC - 富士吉田西桂SIC || rowspan="3" | 11,728 || rowspan="2" | 12,345 || rowspan="2" | 22,909 || rowspan="2" | 13,827 || 13,250
|-
| 富士吉田西桂SIC - 河口湖IC || 11,308
|-
| 河口湖IC - 富士吉田IC || {{0}}3,408 || {{0}}8,035 || {{0}}3,270 || {{0}}3,071
|}
<small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年 道路交通センサス 一般交通量調査結果]」([[関東地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 平成22年度の調査期間中において大月JCT - 富士吉田ICでは、[[高速道路無料化#高速道路無料化社会実験|高速道路無料化社会実験]]が行われていた。
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、新型コロナウイルスの影響で延期された<ref name="r2tyousa" />。
; 全線
'''2002年度 区間別日平均交通量'''<ref name="traffic">2003年度JH年報</ref>
* 高井戸IC - 八王子IC(総交通量) : 11万3411台(前年度比97.1%)
* 八王子IC - '''大月JCT''' - 河口湖IC(区間平均) : 3万9466台(前年度比98.1%)
* '''大月JCT''' - 小牧JCT(区間平均) : 3万3063台(前年度比98.5%)
'''2002年度 総交通量'''<ref name="traffic" />
* 年間 : 8748万6885台(前年度比97.5%)
* 日平均 : 23万9690台
'''2002年度 料金収入'''<ref name="traffic" />
* 年間 : 1361億8313万3000円(前年度比97.8%)
* 日平均 : 3億7310万4000円
=== 渋滞対策 ===
中央道では、[[年末年始]]の[[帰省ラッシュ]]や春・夏休みのレジャーシーズンになると必ず約30 - 60 kmの[[渋滞]]が発生してきた。そのためNEXCO中日本では[[コマーシャルメッセージ|CM]]等の各種PR活動や、以下のような渋滞対策に取り組んできた。
#車線増加工事
#:かつての中央道の慢性的な渋滞に悩んでいた日本道路公団は、渋滞のポイントとして、帰省ラッシュやレジャーシーズンになるとラジオ等の[[交通情報]]で必ず名前の出ていた、鶴川大橋・中野トンネル・猿橋バスストップの3地点を含む上野原IC - 大月IC/JCTの車線増と一部区間の改良工事を山梨県の協力を得て行った。談合坂SA付近の上野原市野田尻地区では、カーブのきつい旧4車線区間を[[廃道]]とし(現在この区間は一部市道に転用)、線形を改良した6車線の新道を通すなど大規模な工事が行われた<ref name="nikkeishintoumeinamae" />。その結果、[[2001年]](平成13年)に上野原IC-談合坂SAが、[[2003年]](平成15年)には談合坂SA - 大月ICがそれぞれ4車線→6車線化(一部区間7車線)の工事を完了、上野原IC - 大月ICの渋滞は激減し、上記3地点も交通情報で取り上げられる事はほとんどなくなった<ref name="nikkeishintoumeinamae" />。この改良工事の結果、一部の旧ルートが廃道となったが、高速道路の廃道区間は全国でもここと[[名神高速道路]]の関ヶ原IC - 米原JCTの一部([[今須トンネル]]供用に伴うルート変更)のみである<ref name="nikkeishintoumeinamae" />。現在、市道転用されていない区間についてはNEXCO中日本の資材置き場となっている<ref name="nikkeishintoumeinamae" />。また、相模湖東IC - 小仏トンネルで上りのみ2車線→3車線化工事が完了した。
#ウェブサイトの開設
#:NEXCO中日本のウェブサイトに、中央道の渋滞ポイントの案内や、渋滞に巻き込まれないための走行方法の案内が記載された「中央道すいすいドライブ」というサイト<ref>{{Wayback |url=http://www.chuodo-suisui.info/ |title=中央道すいすいドライブ |date=20070430070101}} - 中日本高速道路</ref>があった。
== 料金 ==
全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-08-09 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | pages = 2-3,95 }}</ref>。
* 下記以外の区間 : 普通区間(普通車の距離単価は24.6円/km)
* 高井戸IC - 八王子IC間 : [[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]](距離単価は普通区間の1.2倍)
* 園原IC - 中津川IC間 : 恵那山特別区間(距離単価は普通区間の1.6倍。ただし、ETC車は普通区間と同じ)
* 土岐JCT - 小牧JCT間 : 普通区間。ただし大都市近郊区間と同じ料金水準(距離単価は普通区間の1.2倍)
圏央道内側における料金体系の整理・統一の方針<ref name="press160301">{{Cite web|和書|url=https://media2.c-nexco.co.jp/images/news/3791/8b0f4b213b822eadfefbbe3023e25052.pdf#page=4 |title=「首都圏の新たな高速道路料金」について |accessdate=2016-05-11 |date=2016-03-01 |format=PDF |work=プレスリリース「首都圏の新たな高速道路料金について」 添付資料 |publisher=中日本高速道路 |page=4}}</ref>により、1979年(昭和54年)から均一制であった高井戸IC - 八王子IC間が2016年(平成28年)4月1日に対距離制に変更され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/topics/427.html |title=平成28年4月1日から、首都圏の高速道路料金が変わりました |accessdate=2016-05-10 |publisher=中日本高速道路}}</ref>、全線が対距離制区間になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20160301/pdf/20160301_zn3.pdf#page=2 |title=料金の額及びその徴収期間 |accessdate=2016-05-10 |format=PDF |work=高速道路事業の変更の事業許可(平成28年3月1日) |publisher=中日本高速道路 |page=2}}</ref>。ただし、高井戸IC - 八王子IC間の非ETC車については、単純支払い方式のままで事実上均一制が継続され、平均利用距離を基にした料金から区間最大料金へと値上げされた。また、ETC車については、激変緩和措置として当面の間、一定の条件の下で2016年3月31日時点の料金(以下、旧均一料金という)を上限とする特例が設けられている。
<!--==== 高速道路無料化社会実験 ====-->
富士吉田線(大月JCT - 河口湖IC)では、[[2010年]]6月28日から2011年[[6月19日]]まで{{efn|当初予定は2011年3月31日まで。}}高速道路無料化社会実験を実施した。大月IC - 大月JCT間 (1.0 km) は有料区間であるが、大月IC - 都留IC・河口湖IC相互間の利用は無料であった。
<!--==== 笹子トンネル事故に伴う料金調整 ====-->
2012年12月に発生した笹子トンネル事故を受け、[[2013年]]1月1日以降は、富士吉田線を迂回路として活用するために無料扱いとした上で、大月IC - 一宮御坂IC間を一般道で走行して乗り継ぐ場合はその差額を調整する措置が取られた。この措置は、トンネル復旧工事完了後の同年2月12日午前0時で終了している。
=== 高井戸 - 八王子間の料金 ===
==== 現行料金の特例 ====
; ETC車
* 当区間内のみの走行および首都高速・東京外環道との連続走行で都心発着(首都高速の出入口発着または東京外環道のインターチェンジ発着)の場合、旧均一料金(普通車の場合620円)を上限とする。八王子ICより西の区間から連続して走行する場合は、八王子ICまでの料金と旧均一料金との合計額を上限とする(逆方向も同様)。
* 上記の規定は、都心通過の場合(首都高速および東京外環道を経由して東北道・常磐道等の放射高速道路を連続走行した場合){{efn|中央道・首都高速・東京外環道で一旦流出し15分以内に乗りなおした場合も、都心通過とみなす。}}には適用しない。この場合、走行時に通知された料金より請求時の料金が高額になる<ref>{{Cite web|和書|url=https://media2.c-nexco.co.jp/images/important_news/427/23c7c2e14ccfca4f375f3dc4791fa8fb.pdf |title=E20 中央道(八王子〜高井戸)の料金について |accessdate=2018-07-24 |format=PDF |work=平成28年4月1日から、首都圏の高速道路料金が変わりました |publisher=中日本高速道路}}</ref>。
; 非ETC車
* 八王子ICより西の区間とは別料金。発着インターチェンジにかかわらず区間最大料金(大都市近郊区間25.8 km分。普通車の場合980円)が徴収される。
==== 沿革 ====
沿線の宅地化が進み、[[三鷹料金所]]での渋滞による環境悪化や都市内高速道路の性格が強まったことなどから、1979年8月1日に均一料金制が導入された。
しかし、都市内高速道路の性格が強まったとはいえ、管理主体が異なる首都高速道路とは別料金であった。[[道路関係四公団#民営化の経緯|公団が民営化]]されてもそれは変わらず、[[多摩地域]]の自治体からは、東京都から[[首都高速道路]]株式会社への出資金には多摩地域住民の税金が含まれているにもかかわらず、多摩地域から都心へ行くのに首都高速道路と別に料金負担を強いられるのは不公平であるとして、料金体系見直しの要望がなされてきた<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=116204319X00320050223 |title=衆議院会議録情報 第162回国会 国土交通委員会 第3号 |accessdate=2018-07-24 |date=2005-02-23 |website=国会会議録検索システム |publisher=衆議院}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/gikai/katsudo/gikai_09_gian-kekka/h16/1609/10.html |title=中央自動車道高井戸・八王子間の料金撤廃を求める意見書 |accessdate=2018-07-24 |author=東村山市議会 |date=2011-02-15 |publisher=東村山市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/activity/pdf/2004ikensyo23.pdf |title=中央自動車道高井戸・八王子間の料金撤廃を求める意見書 |accessdate=2018-07-24 |author=三鷹市議会 |date=2004-09-06 |format=PDF |publisher=三鷹市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tokyo-mayors.jp/katsudo/pdf/3-3-24construction.pdf#page=31 |title=平成24年度 東京都予算編成に関する要望書 |accessdate=2018-07-24 |author=東京都市長会建設部会 |format=PDF |publisher=東京都市長会 |page=23}}</ref>。
2012年(平成24年)1月の首都高速道路の対距離制移行にあわせ、この区間では短距離の利用に対するETC割引([[#均一制区間における短区間割引|後述]])が開始された。
2016年4月の対距離制移行は首都圏における新たな料金体系構築の一環である。その原則の一つには「管理主体を超えたシンプルでシームレスな料金体系」<ref name="press160301"/>が標榜されており、同時に首都高速の料金体系も、高速自動車国道大都市近郊区間と同じ料金体系{{efn|ただし、激変緩和措置として、下限・上限料金の設定および車種間料金比率の引下げあり。}}に変更された。しかし県境を跨いだ神奈川県、埼玉県、千葉県の沿線各市が「首都高」として一体的な扱いで受益しているにも関わらず、中央高速道路の当該区間における首都高速道路との連続走行の場合は依然として別料金であり、[[ターミナルチャージ|固定額]]として2回分徴収される{{efn|もっとも、対距離化により、公団民営化時(均一制2区間)に比して安くなった例もある。[[外苑出入口]] - 調布IC間におけるETC普通車通常料金は、民営化時1300円(首都高700円+中央道600円。消費税率5%)だったのが、2016年4月改定料金では910円(首都高500円+中央道410円。消費税率8%)になる。}}。[[2016年東京都知事選挙]]で当選した[[小池百合子]][[東京都知事]]の[[マニフェスト]]「東京大改革宣言」における「多摩格差ゼロ」の「交通ネットワークの充実強化」でもこの問題は謳われておらず不均衡な状況は依然として放置されている。
=== 土岐JCT - 小牧JCT間の料金 ===
この区間はもともと他の普通区間と同じ料金水準が適用されていたが、2021年5月1日に中京圏の[[東海環状自動車道]]の内側の高速道路料金の整理・統一が行われ、大都市近郊区間の料金水準に変更された<ref name="c-nexco-20200501" /><ref>{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/images/news/5025/84e62f51193907a48b20d93aca14d6ae.pdf | title = 中京圏の高速道路料金が変わります | format = PDF | work = C2 名二環 2021年5月1日(土)に全線開通! 〜名古屋西JCT〜飛島JCT 延長12.2kmが開通〜 合わせて中京圏の高速道路料金が変わります! 〜同日、2021年5月1日午前0時から移行します〜 | publisher = 国土交通省 中部地方整備局・中日本高速道路株式会社・名古屋高速道路公社 | date = 2021-02-26 | accessdate = 2021-07-15}}</ref>。なお、この区間は引き続き普通区間であるため、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されない[[ETC割引制度]](休日割引、平日朝夕割引)は適用される。
=== 恵那山特別区間 ===
[[1972年]](昭和47年)の道路審議会答申に基づいて、[[恵那山トンネル]]通過車には割高な料金設定がなされてきた。こちらも沿線自治体からは不公平であるとして撤廃を求める声が上がり、[[2000年]](平成12年)[[10月]]には伊那市・駒ヶ根市・飯田市・中津川市・恵那市の5市の[[日本の地方議会|市議会]][[議長#地方議会の議長|議長]]で「中央自動車道・恵那山トンネル等議長会連絡協議会」が設立された。
一般道へ回避する車による沿線環境の悪化もみられることから、2009年(平成21年)5月に[[道路整備事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律#高速道路利便増進事業|高速道路利便増進事業]]によるETC割引が導入された<ref>{{Cite press release |和書 |title=特別区間割引などの高速道路料金の引き下げを開始します |publisher=中日本高速道路 |date=2009-04-17 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/?id=1384 |accessdate= 2015-06-20}}</ref>。2011年[[8月]]には割引が拡充されて非ETC車も対象となり、一旦は事実上撤廃された。
利便増進事業の割引財源が切れる2014年(平成26年)4月からは、割引ではなく通常料金自体を値下げすることになったが、債務の返済状況や料金徴収コストを踏まえ、当面10年間・ETC車限定で実施している<ref>{{Cite web|和書|url=https://media2.c-nexco.co.jp/images/news/3453/9dbc5b1e17e14b5eaacdef2778b6fa78.pdf |title=「新たな高速道路料金」について |accessdate=2015-06-20 |date=2014-03-14 |format=PDF |work=新たな高速道路料金について |publisher=中日本高速道路}}</ref>。
=== 割引 ===
==== ETC時間帯割引 ====
2016年4月1日から全線が対距離制区間となったため、八王子本線料金所では時刻判定を行わず、入口と出口の通過時刻をもって判断する。高井戸IC - 八王子IC間の出口に設置されているフリーフローアンテナでも時刻判定を行うようになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/important_news/427/34242dd528d749d98a0e54c0dd2c687c.pdf#page=8 |title=高速道路ETC割引ガイド(H28.3) |accessdate=2016-05-10 |year=2016 |month=03 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |page=14 |deadlinkdate=2018-07-24}}</ref>。
* [[2017年]][[1月17日]]までは、八王子ICから下り方向への流入は八王子本線料金所で入口時刻判定を行っていたが2017年[[1月18日]]からは八王子IC内料金所にフリーフローアンテナが設置された為八王子ICフリーフローアンテナで入口時刻判定を行う。首都高速から流入は高井戸入口が無いため三鷹料金所で入口時刻判定を行う。
* 高井戸上り出口のフリーフローアンテナは3.9キロポスト付近の本線上<small>({{Coord|35|40|21.9|N|139|34|27.9|E|region:JP_dim:300}})</small>にあったが2017年1月18日からは高井戸出口と首都高速接続地点付近の0.3キロポストに設置されている[[自動速度違反取締装置]]のそれぞれに位置が変更されている。八王子下り出口のフリーフローアンテナは第一出口ランプ分岐手前の本線上<small>({{Coord|35|40|21.9|N|139|34|27.9|E|region:JP_dim:81}})</small><ref>{{Cite web|和書|url=https://media2.c-nexco.co.jp/images/important_news/427/f5ca63b0dce1f6bda7110eb40be4c994.pdf#page=2 |title=4月1日前後の適用料金について(中央道)(中央道内利用) |accessdate=2016-05-10 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |page=2}}</ref>にあったが2017年1月18日からは高井戸出口同様第一出口、第二出口(八王子IC施設内)、八王子本線料金所、八王子本線料金所通過後の本線上にそれぞれフリーフローアンテナの設置位置が変更されている。
2016年3月31日までは八王子ICを境に料金制度が異なっていたため、ここで区切って別々に割引適用を判断していた<ref>{{Wayback |url=http://www.c-nexco.co.jp/navi/discount/etc/img/notice_shutokou-chuou.pdf |title=時間帯割引の時間判定について 首都高速道路-中央自動車道(均一区間)-中央自動車道(対距離区間) |date=20110725131143}} - 中日本高速道路</ref>。ただし、[[ETC割引制度#早朝夜間割引|早朝夜間割引]](2014年3月31日限りで終了)については特例があった<ref>{{PDFlink|[http://www.c-nexco.co.jp/images/news/260/04.pdf 中央道均一料金区間(高井戸IC - 八王子IC(本線料金所))と中央道(相模湖IC - 甲府昭和IC)を走行する場合の早朝夜間割引]|39KB}}{{リンク切れ|date=2018-07-24}} - 中日本高速道路</ref>。
2016年4月1日から2017年1月17日までは八王子本線料金所と各インターチェンジの料金所およびフリーフローアンテナでは従前の方法で判断した料金が通知され、請求時に修正されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://media2.c-nexco.co.jp/images/important_news/427/d622ef6da63faaf86c73843922378b44.pdf#page=5 |title=ETC車へのご案内料金とご請求料金とが異なる場合について 詳細版 |accessdate=2016-05-10 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |pages=5-6 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160810090850/http://media2.c-nexco.co.jp/images/important_news/427/d622ef6da63faaf86c73843922378b44.pdf#page=5 |archivedate=2016-08-10}}</ref>が前述の激変緩和措置が適用されない場合を除き2017年1月18日からは各インターチェンジ出口のフリーフローアンテナで料金を通知する方法に切り替わった。
==== 均一制区間における短区間割引 ====
2012年[[1月1日]]から2016年[[3月31日]]まで実施。均一制区間の特定IC間を利用するETC車については150 - 350円引きとなる(普通車の場合)。時間帯割引の重複適用はない<ref>{{Cite press release |和書 |title=2012年1月1日(日)から中央自動車道均一区間(高井戸〜八王子)の短区間割引を実施します |publisher=中日本高速道路 |date=2011-11-02 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2343}}</ref>。高井戸IC - 八王子IC間の対距離制移行により発展的に解消された。
2008年度に発表された「高速道路の有効活用・機能強化の取り組み」の一環として、当初は[[2011年]]4月から[[2018年]]3月までの実施予定とされていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jehdra.go.jp/pdf/484.pdf#page=12 |title=高速道路の有効活用・機能強化に関する計画(案)について |accessdate=2018-07-24 |format=PDF |publisher=日本高速道路保有・債務返済機構 |page=7}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jehdra.go.jp/pdf/riben/r012.pdf#page=24 |title=中日本高速道路株式会社が管理する高速道路に係る高速道路利便増進事業に関する計画 平成21年3月10日 |accessdate=2018-07-24 |format=PDF |publisher=日本高速道路保有・債務返済機構 |page=21}}</ref>。
==== 特別区間割引(恵那山トンネル) ====
走行全体ではなく、特別区間の距離単価のみを割引する(固定額は割引対象外)。
; 2009年5月13日から2011年7月31日まで
: ETC車に限り30%引き。時間帯割引が適用されない利用に適用される。
; 2011年8月1日から2014年3月31日まで
: すべての自動車について37.5%引きとし、普通区間と同等になる。ETC車は時間帯割引が重複適用される。
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
'''本線(西宮線)'''
* [[東京都]]
** [[杉並区]] - [[世田谷区]] - [[三鷹市]] - 世田谷区 - 三鷹市 - [[調布市]] - 三鷹市 - 調布市 - [[府中市 (東京都)|府中市]] - [[国立市]] - 府中市 - 国立市 - [[日野市]] - [[八王子市]]
* [[神奈川県]]
** [[相模原市]]([[緑区 (相模原市)|緑区]])
* [[山梨県]]
** [[上野原市]] - [[大月市]] - [[都留市]] - [[甲州市]] - [[笛吹市]] - 甲州市 - 笛吹市 - [[甲府市]] - [[中央市]] - [[中巨摩郡]][[昭和町]] - 甲斐市 - 甲府市 - [[甲斐市]] - [[韮崎市]] - [[北杜市]]
* [[長野県]]
** [[諏訪郡]][[富士見町]] - [[茅野市]] - 諏訪郡[[原村]] - 茅野市 - [[諏訪市]] - [[岡谷市]] - [[上伊那郡]][[辰野町]] - 上伊那郡[[箕輪町]] - 上伊那郡[[南箕輪村]] - [[伊那市]] - 上伊那郡南箕輪村 - 伊那市 - 上伊那郡[[宮田村]] - 伊那市 - 上伊那郡宮田村 - [[駒ヶ根市]] - 上伊那郡[[飯島町]] - [[下伊那郡]][[松川町]] - 下伊那郡[[高森町 (長野県)|高森町]] - [[飯田市]] - 下伊那郡[[阿智村]]
* [[岐阜県]]
** [[中津川市]] - [[恵那市]] - [[瑞浪市]] - [[土岐市]] - [[多治見市]]
* [[愛知県]]
** [[春日井市]] - [[小牧市]] - 春日井市 - 小牧市 - 春日井市 - 小牧市 - 春日井市 - 小牧市
'''富士吉田線'''
* [[山梨県]]
** [[大月市]] - [[都留市]] - [[南都留郡]][[西桂町]] - 都留市 - 南都留郡西桂町 - [[富士吉田市]] - 南都留郡[[富士河口湖町]] - 富士吉田市
=== 接続する高速道路 ===
; 本線(西宮線)
* [[File:Shuto Urban Expwy Sign 0004.svg|26px]] [[首都高速4号新宿線]](高井戸ICで直結)
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東京外かく環状道路]]([[中央ジャンクション|中央JCT]]で接続 : 計画中)
* {{Ja Exp Route Sign|C4}} [[首都圏中央連絡自動車道]]([[八王子ジャンクション|八王子JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E68}} 富士吉田線(大月JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]]([[双葉ジャンクション|双葉JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E52}} [[中部横断自動車道]]([[長坂ジャンクション|長坂JCT]]で接続 : 計画中)
* {{Ja Exp Route Sign|E19}} [[長野自動車道]]([[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E69}} [[三遠南信自動車道]]([[飯田山本インターチェンジ|飯田山本IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]]([[土岐ジャンクション|土岐JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]](小牧JCTで接続)
; 富士吉田線
* {{Ja Exp Route Sign|E20}} 本線(大月JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E68}} [[東富士五湖道路]](富士吉田ICで直結)
=== 周辺の主な山 ===
中央道の大半は山地部を通過するために、沿道には多くの[[山]]がある。
* [[道志山塊]]
* [[御坂山地]]
* [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]
* [[八ヶ岳]]
* [[赤石山脈]]
* [[木曽山脈]]
=== 周辺の主な川 ===
* [[多摩川]]
* [[鶴川 (山梨県)|鶴川]]
* [[笛吹川]]
* [[立場川]]
* [[天竜川の支流一覧|天竜川の支流]]
** 小沢川
** [[小黒川 (伊那市)|小黒川]]
** [[太田切川 (長野県)|太田切川]]
** [[中田切川]]
** 与田切川
* 落合川
== ギャラリー ==
{{Gallery
|align=center
|width="160
|height="120
|ファイル:中央道多摩川橋梁001.jpg|多摩川橋梁(奥が高井戸方面)
|ファイル:Chuo Expressway-1.jpg|富士吉田線、都留IC付近(2009年1月27日撮影)
|ファイル:談合坂SA航空写真1975.jpg|1975年度撮影の談合坂SAの{{国土航空写真}}
|ファイル:Futaba-BusStop.jpg|双葉JCT付近(奥が東京方面)
|ファイル:Dangouzaka-1.jpg|談合坂付近の廃道区間
|ファイル:The highest point of Chuo Expressway.jpg|最高標高地点 (1,015 m)
|ファイル:Chuodo Kuzukubo Tunnel.JPG|葛窪トンネル付近
|ファイル:西春近BS001.jpg|西春近BS付近。
|ファイル:Tokadai New Town 1987 001.jpg|[[1987年]](昭和62年)度に撮影された国土航空写真。愛知県小牧市にある[[桃花台ニュータウン]]南部を通る中央自動車道。
|ファイル:Komaki Junction.JPG|[[愛知県]][[小牧市]]付近。[[東名高速道路]]と[[名神高速道路]]と中央自動車道の分岐点である[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]
}}
=== 中央道を舞台にした作品 ===
; 「中央フリーウェイ」([[松任谷由実|荒井由実]])
: [[アルバム]]『[[14番目の月|The 14th Moon]]』収録。中央道を八王子に向けて走る府中付近の[[風景]]が歌われている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐滝剛弘|authorlink=佐滝剛弘|year=2016|date=2016-08-10|title=高速道路ファン手帳|publisher=[[中公新書|中公新書ラクレ]]|isbn=978-4-12-150559-0|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |date=2015-11-25 |title=国道者 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-339731-1 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社 |title=設計要領 第五集 交通管理施設 |year = 2017|date=2017-07 |publisher= 株式会社高速道路総合技術研究所|ref=harv}}
* {{Cite |和書|author = 田中研究所 |title = 平和国家建設国土計画大綱 |date = 1970 |doi = 10.11501/11975826 |publisher = 財団法人田中研究所|series = |ref = harv }}
* {{Cite book |和書 |author= 日本道路公団 |title=中央高速道路工事誌 |date=1970-03-20 |publisher=日本道路公団高速道路八王子建設局|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{|
|- style="vertical-align: top;"
|
* [[国土開発幹線自動車道]]
* [[高速自動車国道]]
* [[関東地方の道路一覧]]
* [[中部地方の道路一覧]]
|
* [[国道20号]]
* [[国道19号]]
* [[甲州街道]]
* [[中山道]]
|
* [[中央高速バス]](新宿口)
* [[中央道高速バス]](名古屋口)
* [[中央本線]]
* [[飯田線]]
* [[中央新幹線]]
|}
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.jehdra.go.jp/ 独立行政法人 日本高速道路保有・債務返済機構(高速道路機構)]
* [https://www.c-nexco.co.jp/ 中日本高速道路(NEXCO中日本)]
* [https://www.youtube.com/watch?v=W-IkJ5DhuQc 八王子ライブカメラ][[テレビ朝日]]
{{日本の高速道路}}
{{中日本高速道路}}
{{3環状9放射}}
{{中央自動車道}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうおうしとうしやとう}}
[[Category:高速自動車国道]]
[[Category:日本の高速道路]]
[[Category:中日本高速道路]]
[[Category:関東地方の道路]]
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|
2003-09-03T04:14:57Z
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2023-12-16T12:15:17Z
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[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93
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ジェフ・ゴールドブラム
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ジェフ・ゴールドブラム(Jeff Goldblum, 本名: Jeffrey Lynn Goldblum, 1952年10月22日 - )は、アメリカ合衆国の俳優。身長194cm。英語での本来の発音は「ゴールドブルーム」に近い。
1952年10月22日にペンシルベニア州ピッツバーグに誕生する。17歳で俳優を志してニューヨークに引っ越し、ネイバーフッド・プレイハウスで演技を学び、比較的すぐブロードウェイデビューを果たす。1974年に端役で映画デビューしたが、彼の舞台を見たロバート・アルトマンにスカウトされ、監督の『ナッシュビル』に出演して本格的に映画俳優としてキャリアをスタートさせた。
1986年に『ザ・フライ』でハエと合体してしまう科学者セスを演じて注目され、以後『ジュラシック・パーク』『インデペンデンス・デイ』でもアウトローな科学者・技術者役を演じている。『ジュラシック・パーク』シリーズは3作目と4作目を除いてマルコム博士役で出演している。
1995年には短編映画『Little Surprises』を制作し、アカデミー短編映画賞にノミネートされた。
過去にAppleのTVCMに出演し、日本でも放映されたほか、1997年には京都のハイテク・メーカー、ロームの企業キャラクターも務めた。
ブロードウェイの舞台にも立っている。
1987年に『ボクの彼女は地球人』『ザ・フライ』で共演したジーナ・デイヴィスと結婚したが、後に離婚。『ジュラシック・パーク』で共演したローラ・ダーンとも交際し婚約したが、後に解消した。
2014年、元オリンピック新体操選手のエミリー・リヴィングストン(英語版)と結婚。2015年に第1子となる男児が誕生。
ジャズバンド「The Mildred Snitzer Orchestra」を俳優のピーター・ウェラーと共に結成し、地元で演奏することもあるという。
2017年には第二子が誕生。
当初、作品ごとに異なる声優が務めていたが、『ジュラシック・パーク』で大塚芳忠が起用されたことがきっかけで、以降は大半の作品で大塚が声を務めるようになった。
この他、谷口節、金尾哲夫、江原正士なども複数回、声を当てている。
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ジェフ・ゴールドブラムは、アメリカ合衆国の俳優。身長194cm。英語での本来の発音は「ゴールドブルーム」に近い。
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{{ActorActress
| 芸名 = Jeff Goldblum
| ふりがな = ジェフ・ゴールドブラム
| 画像ファイル = Jeff Goldblum by Gage Skidmore 3.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像コメント = 2019年
| 本名 = Jeffrey Lynn Goldblum
| 出生地 = {{USA1912}}<br/>[[File:Flag_of_Pittsburgh%2C_Pennsylvania.svg|border|25x20px]] [[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]
| 死没地 =
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| 身長 =
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| 生年 = 1952
| 生月 = 10
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| 職業 = [[俳優]]
| 活動期間 = [[1974年]] -
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| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[SF/ボディ・スナッチャー]]』<br />『[[再会の時]]』<br />『[[バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー]]』<br />『[[シルバラード]]』<br />『[[ザ・フライ]]』<br />『[[ジュラシック・パーク]]』シリーズ<br />『[[9か月]]』<br />『[[インデペンデンス・デイ]]』シリーズ<br />『[[17歳の処方箋]]』<br />『[[ライフ・アクアティック]]』<br />『[[グランド・ブダペスト・ホテル]]』<br />『[[マイティ・ソー バトルロイヤル]]』<br />『[[ジュラシック・ワールド/炎の王国|ジュラシック・ワールド]]』シリーズ<br />『[[ボス・ベイビー ファミリー・ミッション]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[LAW & ORDER:犯罪心理捜査班]]』
| アカデミー賞 =
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| ゴールデングローブ賞 =
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'''ジェフ・ゴールドブラム'''(Jeff Goldblum, 本名: Jeffrey Lynn Goldblum, [[1952年]][[10月22日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[俳優]]。身長194cm。英語での本来の発音は「ゴールドブルーム」に近い。
== 来歴 ==
1952年10月22日に[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]に誕生する。17歳で俳優を志して[[ニューヨーク]]に引っ越し、[[ネイバーフッド・プレイハウス]]で演技を学び、比較的すぐ[[ブロードウェイ]]デビューを果たす。1974年に端役で映画デビューしたが、彼の舞台を見た[[ロバート・アルトマン]]にスカウトされ、監督の『[[ナッシュビル (映画)|ナッシュビル]]』に出演して本格的に映画俳優としてキャリアをスタートさせた。
[[File:JeffGoldblum07TIFF.jpg|thumb|upright|2007年、[[トロント国際映画祭]]でのゴールドブラム]]
1986年に『[[ザ・フライ]]』でハエと合体してしまう科学者セスを演じて注目され、以後『[[ジュラシック・パーク]]』『[[インデペンデンス・デイ]]』でもアウトローな科学者・技術者役を演じている。『ジュラシック・パーク』シリーズは3作目と4作目を除いてマルコム博士役で出演している。
1995年には短編映画『Little Surprises』を制作し、[[アカデミー短編映画賞]]にノミネートされた。
過去に[[Apple]]のTVCMに出演し、日本でも放映されたほか、[[1997年]]には京都のハイテク・メーカー、[[ローム]]の企業キャラクターも務めた。
[[ブロードウェイ]]の舞台にも立っている。
=== プライベート ===
1987年に『ボクの彼女は地球人』『ザ・フライ』で共演した[[ジーナ・デイヴィス]]と結婚したが、後に離婚。『ジュラシック・パーク』で共演した[[ローラ・ダーン]]とも交際し婚約したが、後に解消した。
2014年、元オリンピック新体操選手の{{仮リンク|エミリー・リヴィングストン|en|Emilie Livingston}}と結婚<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0068097|title=『ジュラシック・パーク』ジェフ・ゴールドブラム、31歳差の元オリンピック選手と結婚!|publisher=シネマトゥデイ|date=2014-11-15|accessdate=2014-11-17}}</ref>。2015年に第1子となる男児が誕生<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20150709/12/|title=62歳のジェフ・ゴールドブラム、インデペンデンス・デイに第1子誕生|publisher=映画.com|date=2015-07-09|accessdate=2015-07-09}}</ref>。
ジャズバンド「The Mildred Snitzer Orchestra」を俳優の[[ピーター・ウェラー]]と共に結成し、地元で演奏することもあるという。
2017年には第二子が誕生。
== 主な出演作品 ==
=== 映画 ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%;"
|-
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考!!吹き替え
|-
| rowspan="2" | 1974 || [[狼よさらば]]<br />''Death Wish'' || チンピラの一人 || || [[玄田哲章]]
|-
| ジャックポット<br />''California Split'' || ロイド・ハリス || ||
|-
| 1975 || [[ナッシュビル (映画)|ナッシュビル]]<br />''Nashville'' || 三輪車の男 || ||
|-
| rowspan="2" | 1976 || [[グリニッチ・ビレッジの青春]]<br />''Next Stop, Greenwich Village'' || クロイド・バクスター || ||
|-
| [[セント・アイブス (映画)|セント・アイブス]]<br />''St. Ives'' || Hood #3 || ||
|-
| rowspan="2" | 1977 || センチネル<br />''The Sentinel'' || ジャック || ||
|-
| [[アニー・ホール]]<br />''Annie Hall'' || パーティのゲスト || || [[村越伊知郎]]
|-
| 1978 || [[SF/ボディ・スナッチャー]]<br />''Invasion of the Body Snatchers'' || ジャック・ベリチェック || || [[納谷六朗]]
|-
| 1982 || 殺しのリハーサル<br />''Rehearsal for Murder'' || レオ・ギブス || テレビ映画 || [[三ツ木清隆]]([[日本放送協会|NHK]]版)
|-
| rowspan="2" | 1983 || [[再会の時]]<br />''The Big Chill'' || マイケル・ゴールド || ||
|-
| [[ライトスタッフ]]<br />''The Right Stuff'' || [[アメリカ航空宇宙局]]の職員 || ||
|-
| rowspan="2" | 1984 || [[バカルー・バンザイの8次元ギャラクシー]]<br />''The Adventures of Buckaroo Banzai Across the 8th Dimension'' || ニュージャージー || || [[谷口節]]
|-
| [[眠れぬ夜のために]]<br />''Into the Night'' || エド || || [[宮本充]]
|-
| rowspan="2" | 1985 || [[シルバラード]]<br />''Silverado'' || スリック || || [[大滝進矢]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]版)<br />[[大須賀隼人]](配信版)
|-
| 突撃バンパイア・レポーター/トランシルバニア6-5000<br />''Transylvania 6-5000'' || ジャック・ハリソン || ||
|-
| rowspan="2" | 1986 || [[ザ・フライ]]<br />''The Fly'' || セス・ブランドル || || [[津嘉山正種]]
|-
| [[ニューヨーカーの青い鳥]]<br />''[[:en:Beyond Therapy (film)|Beyond Therapy]]'' || ブルース || ||
|-
| 1988 || [[バイブス秘宝の謎]]<br />''Vibes'' || ニック || ||
|-
| rowspan="3" | 1989 || [[ボクの彼女は地球人]]<br />''[[:en:Earth Girls Are Easy|Earth Girls Are Easy]]'' || マック || || [[井上和彦 (声優)|井上和彦]](VHS版)
|-
| 彼女がステキな理由<br />''The Tall Guy'' || デクスター・キング || ||[[屋良有作]](VHS版)
|-
| 禁断のつぼみ<br />''El sueño del mono loco'' || ダニエル || ||
|-
| rowspan="2" | 1990 || ミスターフロスト<br />''Mister Frost'' || ミスター・フロスト || || 谷口節
|-
| 仕組まれた男<br />''Framed'' || ウィリー || テレビ映画 ||
|-
| 1991 || 美女と時計とアブナイお願い<br />''The Favour, the Watch and the Very Big Fish'' || ピアニスト || ||
|-
| rowspan="4" | 1992 || 海辺の殺人者<br />''Fathers & Sons'' || マックス || ||
|-
| [[ディープ・カバー]]<br />''Deep Cover'' || デヴィッド・ジェイソン || ||
|-
| [[ザ・プレイヤー]]<br />''The Player'' || 本人役 || カメオ出演 ||
|-
| 愛しのエリザベス<br />''Shooting Elizabeth'' || ハワード || ||
|-
| rowspan="2" | 1993 || [[ジュラシック・パーク]]<br />''Jurassic Park'' || イアン・マルコム博士 || || [[大塚芳忠]]
|-
| ラッシュ・ライフ<br />''Lush Life'' || アル || テレビ映画 ||
|-
| rowspan="3" | 1995 || [[ハイダウェイ]]<br />''[[:en:Hideaway (1995 film)|Hideaway]]'' || ハッチ || || [[野沢那智]](VHS版)
|-
| [[9か月]]<br />''Nine Months'' || ショーン・フレッチャー || || 谷口節
|-
| [[パウダー (映画)|パウダー]]<br />''Powder'' || ドナルド・リプリー || || [[江原正士]]
|-
| rowspan="2" | 1996 || [[ファイト・マネー]]<br />''The Great White Hypey'' || ミッチェル・ケイン || ||
|-
| [[インデペンデンス・デイ]]<br />''Independence Day'' || デイヴィッド・レヴィンソン || || 大塚芳忠(ソフト版)<br />[[磯部勉]]([[テレビ朝日]]版)
|-
| 1997 || [[ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク]]<br />''The Lost World: Jurassic Park'' || イアン・マルコム博士 || || rowspan="2" | 大塚芳忠
|-
| rowspan="2" | 1998 || [[ホーリーマン]]<br />''Holy Man'' || リッキー・ヘイマン ||
|-
| [[プリンス・オブ・エジプト]]<br />''The Prince of Egypt'' || [[アロン]] || 声の出演 || [[田中健]]
|-
| rowspan="2" | 2001 || [[PERFUME パフューム]]<br />''[[:en:Perfume (2001 film)|Perfume]]'' || ジェイミー || 兼製作総指揮 ||
|-
| [[キャッツ & ドッグス]]<br />''Cats & Dogs'' || ブロディー教授 || || rowspan="2" | 大塚芳忠
|-
| 2002 || [[17歳の処方箋]]<br />''Igby Goes Down'' || D.H. ||
|-
| 2003 || ウォー・ストーリーズ<br />''War Stories'' || ベン || テレビ映画 || [[福田信昭]]
|-
| 2004 || [[ライフ・アクアティック]]<br />''The Life Aquatic with Steve Zissou'' || アリステア・ヘネシー || || [[金尾哲夫]]
|-
| 2005 || [[ロスト・ストーリー]]<br />''[[:en:Stories of Lost Souls|Stories of Lost Souls]]'' || 本人役 || || [[喜多川拓郎]]
|-
| rowspan="2" | 2006 || [[パラダイス・ロスト (2006年の映画)|パラダイス・ロスト]]<br />''[[:en:Mini's First Time|Mini's First Time]]'' || マイク || || (吹き替え版なし)
|-
| [[ロビン・ウィリアムズのもしも私が大統領だったら…]]<br />''Man of the Year'' || スチュワート || || 大塚芳忠
|-
| 2008 || [[囚われのサーカス]]<br />''[[:en:Adam Resurrected|Adam Resurrected]]'' || アダム・シュタイン || || [[YU-GA]]
|-
| rowspan="2" | 2010 || [[アラフォー女子のベイビー・プラン]]<br />''The Switch'' || レオナルド || || [[佳月大人]]
|-
| [[恋とニュースのつくり方]]<br />''Morning Glory'' || ジェリー・バーンズ || || 金尾哲夫
|-
| 2012 || [[バード・ストーリー]]<br />''Zambezia'' || エイジャックス || 声の出演 || [[遠藤航 (声優)|遠藤航]]
|-
| 2013 || [[ウィークエンドはパリで]]<br />''[[:en:Le Week-End|Le Week-End]]'' || モーガン || || (吹き替え版なし)
|-
| 2014 || [[グランド・ブダペスト・ホテル]]<br />''The Grand Budapest Hotel'' || コヴァックス || || [[外谷勝由]]
|-
| 2015 || [[チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密]]<br />''Mortdecai'' || ミルトン・クランプ || || rowspan="2" | 大塚芳忠<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=3654|title=インデペンデンス・デイ:リサージェンス|website=ふきカエル大作戦!!|date=2016-07-09|accessdate=2021-03-26}}</ref>
|-
| 2016 || [[インデペンデンス・デイ: リサージェンス]]<br />''Independence Day: Resurgence'' || デイヴィッド・レヴィンソン ||
|-
| rowspan="2" | 2017 || [[ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス]]<br />''Guardians of the Galaxy Vol. 2'' || rowspan="2" | グランドマスター || カメオ出演(クレジットなし)|| (台詞なし)
|-
| [[マイティ・ソー バトルロイヤル]]<br />''Thor: Ragnarok'' || || 大塚芳忠<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=8169|title=マイティ・ソー バトルロイヤル|website=ふきカエル大作戦!!|date=2017-11-03|accessdate=2021-03-26}}</ref>
|-
| rowspan="4" | 2018 || [[犬ヶ島]]<br />''Isle of Dogs'' || デューク || 声の出演 || [[横島亘]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=9239|title=犬ヶ島|website=ふきカエル大作戦!!|date=2018-05-02|accessdate=2021-03-26}}</ref>
|-
| [[ジュラシック・ワールド/炎の王国]]<br />''Jurassic World:Fallen Kingdom'' || イアン・マルコム博士 || || 大塚芳忠<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=9647|title=ジュラシック・ワールド/炎の王国|website=ふきカエル大作戦!!|date=2018-07-13|accessdate=2021-03-26}}</ref>
|-
| [[ホテル・アルテミス -犯罪者専門闇病院-|ホテル・アルテミス 〜犯罪者専門闇病院〜]]<br />''Hotel Artemis'' || ナイアガラ / ウルフ・キング || || (吹き替え版なし)
|-
| ''The Mountain'' || Dr. Wallace Fiennes || || {{n/a}}
|-
| 2021 || [[ボス・ベイビー ファミリー・ミッション]]<br />''The Boss Baby: Family Business'' || ドクター・アーウィン・アームストロング || 声の出演 || rowspan="2" | 大塚芳忠<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=18617|title=ジュラシック・ワールド/新たなる支配者 -日本語吹き替え版|website=ふきカエル大作戦!!|date=2022-07-29|accessdate=2022-07-29}}</ref>
|-
| rowspan="2" | 2022 || [[ジュラシック・ワールド/新たなる支配者]]<br />''Jurassic World: Dominion'' || イアン・マルコム博士
|-
| [[ソー:ラブ&サンダー]]<br />''Thor: Love and Thunder'' || グランドマスター || 出演シーンカット || {{n/a}}
|-
| 2023 || [[アステロイド・シティ]]<br />''Asteroid City'' || エイリアン || || [[牛山茂]]
|}
=== テレビ ===
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%;"
|+
|-
!放映年!!邦題<br />原題!!役名!!備考!!吹き替え
|-
| 1975 || 刑事コロンボ/ハッサン・サラーの反逆<br />''Columbo/A Case of Immunity'' || Protector || 領事館前で抗議活動しているメンバーの一人<br />クレジットなし ||
|-
| 1980 || OH!ハードボイルド<br />''Tenspeed and Brown Shoe'' || ライオネル || 13エピソードに出演 ||
|-
| 1985 || [[フェアリーテール・シアター]]/三匹の子ブタ<br />''Faerie Tale Theatre'' || オオカミ || 1エピソードに出演 ||
|-
| 1990 || [[キャプテン・プラネット]]<br /> ''Captain Planet and the Planeteers'' || Verminous Skumm || 声の出演、5エピソードに出演 ||
|-
| 1993-1997 || [[サタデー・ナイト・ライブ]]<br />''Saturday Night Live'' || ホスト || 2エピソードに出演 ||
|-
| 1996 || [[ザ・シンプソンズ]]<br />''The Simpsons'' || マッカーサー・パーカー || 声の出演<br />第7シーズン第19話「セルマとトロイと優しい奴ら」 ||
|-
| 2002 || [[キング・オブ・ザ・ヒル]]<br />''King of the Hill'' || ヴェイゾザ博士 || 声の出演、1エピソードに出演 ||
|-
| 2003 || [[フレンズ (1994年のテレビドラマ)|フレンズ]]<br />''Friends'' || レオナルド・ヘイズ || 第9シーズン第15話「強盗フィービー」 || 大塚芳忠
|-
| 2005 || [[ウィル&グレイス]]<br />''Will & Grace'' || スコット || シーズン7、3エピソードに出演 ||
|-
| 2009-2010 || [[LAW & ORDER:犯罪心理捜査班|LAW&ORDER クリミナル・インテント]]<br />''Law & Order: Criminal Intent'' || ザッカリー・“ザック”・ニコルズ刑事 || 24エピソードに出演 ||
|-
| 2012 || [[glee/グリー]]<br />''Glee'' || ハイラム・ベリー || 第3シーズン第13話「バレンタイン・パーティー!」<br />第3シーズン第14話「それぞれの転機」 || [[森田順平]]
|-
| 2016 || [[アンブレイカブル・キミー・シュミット]]<br />''Unbreakable Kimmy Schmidt'' || ドクター・デイブ || 第2シーズン第11話「キミー、セレブに会う!」 ||
|-
| 2019- || [[ジェフ・ゴールドブラムの世界探求]]<br />''[[:en:The World According to Jeff Goldblum|The World According to Jeff Goldblum]]'' || 本人 / 案内役 || 12エピソードに出演 || rowspan="2" | 大塚芳忠
|-
| 2021 || [[ホワット・イフ...?]]<br />''What If...?'' || グランドマスター || 声の出演
|}
== 日本語吹き替え ==
当初、作品ごとに異なる声優が務めていたが、『[[ジュラシック・パーク (映画)|ジュラシック・パーク]]』で[[大塚芳忠]]が起用されたことがきっかけで、以降は大半の作品で大塚が声を務めるようになった。
このほかにも、[[谷口節]]、[[金尾哲夫]]、[[江原正士]]なども複数回、声を当てている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Jeff Goldblum}}
* {{allcinema name|43702|ジェフ・ゴールドブラム}}
* {{Kinejun name|7435|ジェフ・ゴールドブラム}}
* {{IMDb name|0000156|Jeff Goldblum}}
* {{IBDB name|91657|Jeff Goldblum}}
* {{iobdb name}}
* {{Facebook|golblumofficial|Jeff Goldblum}}
* {{Instagram|jeffgoldblum|Jeff Goldblum}}
{{サターン賞 主演男優賞}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:こおるとふらむ しえふ}}
[[Category:アメリカ合衆国の男優]]
[[Category:アメリカ合衆国の映画俳優]]
[[Category:ユダヤ系アメリカ人]]
[[Category:ペンシルベニア州アレゲニー郡出身の人物]]
[[Category:ピッツバーグ出身の人物]]
[[Category:1952年生]]
[[Category:存命人物]]
|
2003-09-03T04:20:13Z
|
2023-12-24T14:19:55Z
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[
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"Template:Instagram",
"Template:ActorActress"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%A0
|
14,848 |
九州地方の乗合バス事業者
|
九州地方の乗合バス事業者(きゅうしゅうちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、九州・沖縄県で乗合バス事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。
管轄:福岡運輸支局
管轄:福岡運輸支局北九州自動車検査登録事務所
管轄:福岡運輸支局筑豊自動車検査登録事務所
管轄:福岡運輸支局久留米自動車検査登録事務所
管轄:佐賀運輸支局
管轄:長崎運輸支局
管轄:長崎運輸支局厳原自動車検査登録事務所
管轄:長崎運輸支局佐世保自動車検査登録事務所
管轄:熊本運輸支局
管轄:大分運輸支局
管轄:宮崎運輸支局
管轄:鹿児島運輸支局
管轄:鹿児島運輸支局大島自動車検査登録事務所
管轄:沖縄総合事務局運輸部陸運事務所
管轄:沖縄総合事務局運輸部宮古運輸事務所
管轄:沖縄総合事務局運輸部八重山運輸事務所
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九州地方の乗合バス事業者(きゅうしゅうちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、九州・沖縄県で乗合バス事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。 九州運輸局管内または沖縄総合事務局運輸部管内に路線バス用の車両を登録している(あるいは登録していた)事業者の一覧。運輸局については、ナンバープレートを参照のこと。
各項に記載されたバス事業者は、その項の冒頭に記載された運輸支局・自動車検査登録事務所に路線バス車両を登録している事業者である(管轄地域に路線を持つ事業者という意味ではない)。
当一覧の掲載対象とする事業者は、以下の通りとする。
道路運送法第4条許可による「一般乗合旅客自動車運送事業」を行う事業者
2006年10月の道路運送法改正以前に21条許可による貸切代替バス(いわゆる21条バス)運行を行っていて、改正後も運行を続けている、いわゆる「みなし4条」事業者 以下の事業者は、掲載対象外とする。
自家用自動車(白ナンバー車)による有償運送(いわゆる80条バス)での運行事業者
80条バス運行事業者については、80条バス運行事業者一覧に記載すること。
乗合タクシー(乗車定員10名以下)のみを運行する事業者
乗合タクシー運行事業者については、日本の乗合タクシー運行事業者一覧に記載すること。 ▲印は会社事情(倒産・廃業・経営譲渡・吸収合併・民間移譲・路線全廃など)により乗合バス事業を休止もしくは終了した事業者
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'''九州地方の乗合バス事業者'''(きゅうしゅうちほうののりあいバスじぎょうしゃ)は、[[九州]]・[[沖縄県]]で[[乗合バス]]事業を営む(または、過去に営んでいた)事業者の一覧。
* [[九州運輸局]]管内または[[沖縄総合事務局]]運輸部管内に[[路線バス]]用の車両を登録している(あるいは登録していた)事業者の一覧。運輸局については、[[日本のナンバープレート#地名|ナンバープレート]]を参照のこと。
* 各項に記載されたバス事業者は、その項の冒頭に記載された[[運輸支局]]・[[自動車検査登録事務所]]に路線バス車両を登録している事業者である(管轄地域に路線を持つ事業者という意味ではない)。
*当一覧の掲載対象とする事業者は、以下の通りとする。
*#[[道路運送法]]第4条許可による「一般乗合旅客自動車運送事業」を行う事業者
*#2006年10月の道路運送法改正以前に21条許可による貸切代替バス(いわゆる[[21条バス]])運行を行っていて、改正後も運行を続けている、いわゆる「みなし4条」事業者
*以下の事業者は、掲載対象外とする。
*#自家用自動車(白ナンバー車)による有償運送(いわゆる[[80条バス]])での運行事業者
*#*80条バス運行事業者については、[[80条バス運行事業者一覧]]に記載すること。
*#[[乗合タクシー]](乗車定員10名以下)のみを運行する事業者
*#*乗合タクシー運行事業者については、[[日本の乗合タクシー運行事業者一覧]]に記載すること。
*▲印は会社事情(倒産・廃業・経営譲渡・吸収合併・民間移譲・路線全廃など)により乗合バス事業を休止もしくは終了した事業者
== 福岡県 ==
=== 福岡地区 ===
管轄:[[福岡運輸支局]]
* [[西日本鉄道]]([[西鉄バス]])
** ▲[[西鉄高速バス]](西日本鉄道に吸収合併)
* [[西鉄観光バス]](高速乗合バス続行便)
* [[西鉄バス宗像]]
* [[西鉄バス二日市]]
* [[宗像西鉄タクシー]]
* [[福岡西鉄タクシー]]
* [[昭和自動車]](昭和バス)
* [[JR九州バス]](直方線・高速)
* [[九州急行バス]]
* [[新宮タクシー]]([[新宮町コミュニティバス]]・[[イコバス|久山町コミュニティバス]])<!--協和タクシーより社名変更-->
* ▲[[ウキコ]](新宮町コミュニティバス・2011年3月まで)
* [[姪浜タクシー]](今宿姪浜線乗合マイクロバス)
* [[福栄タクシー]]([[ふくつミニバス]])
* [[福岡昭和タクシー]]([[糸島市コミュニティバス]])
* [[つくしの観光バス]]([[筑紫野市コミュニティバス]]・かつては高速乗合バスも運行)
* [[天領バス]]
* [[ロイヤルホリデー|ロイヤルバス]]
* ▲[[福岡伊都バス]](いとしま周遊バス・2014年3月まで)
* [[第一交通産業]]グループ
** [[第一観光バス (福岡県)]]
** [[第一交通産業#福岡県|福岡第一交通]] ([[かわせみバス|那珂川市コミュニティバス]])
* ▲[[森山観光バス|森山]](高速乗合バスのみ)
* [[オー・ティー・ビー]]
=== 北九州地区 ===
管轄:福岡運輸支局[[北九州自動車検査登録事務所]]
* [[西鉄バス北九州]]
**▲ [[西鉄高速バス]](西鉄バス北九州が事業承継)
**▲ [[西鉄北九州観光|西鉄バス京築]]
* [[北九州市交通局]](北九州市営バス)
* [[太陽交通 (福岡県)|太陽交通]]
* ▲[[北都観光バス]]
* [[岡垣町コミュニティバス|西部遠賀交通]]
* [[北九西鉄タクシー]]
* 光タクシー(北九州市[[おでかけ交通]])
* [[福岡観光バス]]
=== 筑豊地区 ===
管轄:福岡運輸支局[[筑豊自動車検査登録事務所]]
* [[JR九州バス]](直方線・[[日田彦山線BRT]])
* [[西鉄バス筑豊]]
** ▲添田交通(西鉄バス筑豊・添田支社※廃止済)
** ▲西鉄バス遠賀(現西鉄バス筑豊・直方支社)
* [[誠心物流]]
** ▲[[テクノ観光バス]]
* [[筑豊観光]]
* [[田川市コミュニティバス|田川構内自動車]]
* [[南星観光]](飯塚市筑穂地区スクールバス<ref name="名前なし-1">[http://www.city.iizuka.lg.jp/shokotaisaku/machi/kotsu/shisaku/documents/37gijiroku.pdf 「第37回飯塚市地域公共交通協議会・第23回飯塚市地域公共交通会議議事録(PDF:344KB)」- 5頁]</ref>)
* [[リードワン]](飯塚市八木山地区スクールバス<ref name="名前なし-1"/>)
* [[Shonai観光]]([[飯塚市コミュニティバス]])
* [[嘉穂観光]]([[嘉麻市バス]]かつては[[飯塚市コミュニティバス]]の一部路線も担当)
*ひまわり観光([[嘉麻市バス]])
=== 筑後地区 ===
管轄:福岡運輸支局[[久留米自動車検査登録事務所]]
* [[西鉄バス久留米]]
* [[西鉄バス大牟田]]
* [[西鉄バス二日市]](甘木支社・西日本鉄道からの管理委託車のみ)
** ▲[[西鉄バス両筑]]
* [[堀川バス]]
* [[甘木観光バス]]
* [[日田バス]](杷木営業区・西日本鉄道からの管理委託車のみ)
== 佐賀県 ==
管轄:[[佐賀運輸支局]]
* [[佐賀市交通局]](佐賀市営バス)
* [[昭和自動車]](昭和バス)
** ▲[[佐賀昭和交通]]→昭和自動車に吸収合併
** ▲[[多久昭和交通]]→昭和自動車に吸収合併
* [[祐徳自動車]]
** ▲[[祐徳バス]]→祐徳自動車に吸収合併
*** ▲[[祐徳交通]]→祐徳バスに吸収合併
* [[西鉄バス佐賀]]
* [[西肥自動車]](西肥バス)
* [[JR九州バス]](嬉野線)
* [[上峰タクシー]]
* [[あいのりタクシー (小城市・白石町)|橋間自動車]]
* [[鳥栖構内タクシー]]([[みやき町コミュニティバス]])
* [[ジョイックス交通]]
* [[ロイヤル観光]](佐賀市・富士町コミュニティバス)
* [[再耕庵タクシー]]([[太良町]]コミュニティバス)
== 長崎県 ==
=== 長崎地区 ===
管轄:[[長崎運輸支局]]
* [[長崎県交通局]](長崎県営バス)
** [[長崎県央バス]]
* [[長崎自動車]](長崎バス)
* [[島原鉄道]](島鉄バス)
* [[五島自動車]](五島バス)
* [[西肥自動車]](西肥バス=上五島地区)
* [[九州急行バス]]
* [[丸濱産業]](奈留島バス)
* [[富川運送]](旧高島バス、現[[長崎市コミュニティバス]]高島線)
* ▲[[前田タクシー (長崎県)|前田タクシー]]
* [[吾妻タクシー]]([[雲仙市乗合タクシー]])
* [[今坂タクシー]](雲仙市乗合タクシー)
* [[小浜温泉タクシー]](雲仙市乗合タクシー)
* [[平成観光タクシー]](仁田峠乗合タクシー)
*▲[[長崎建運]](大村バス)
*▲[[伊王島町]](伊王島町営バス)
* ▲[[さいかい交通|大崎自動車]]
=== 長崎(対馬・壱岐)地区 ===
管轄:長崎運輸支局[[厳原自動車検査登録事務所]]
* [[壱岐交通]]
* [[対馬交通]]
=== 佐世保地区 ===
管轄:長崎運輸支局[[佐世保自動車検査登録事務所]]
* [[西肥自動車]](西肥バス)
* [[させぼバス]]
** ▲[[佐世保市交通局]](2019年民間移譲)
* [[生月自動車]](生月バス)
* [[さいかい交通]]
* [[宇久観光バス]]
* [[小値賀交通]]
* [[さつき観光]]
**▲ [[YOKARO]](旧社名・SOUDA/平戸バス)- 2019年8月26日まで
* [[松浦観光バス]]
* [[ユタカ交通]]
* ▲[[アタゴ商事]](アタゴ観光バス)
* ▲[[松浦市営バス|松浦市交通課]](旧鷹島町営バス)
* [[大島村産業]]
*▲[[大川陸運]](平戸観光バス)
== 熊本県 ==
管轄:[[熊本運輸支局]]
* [[九州産交バス]]
** [[九州産交バス|産交バス]]
***▲[[荒尾市交通局]](2005年民間移譲)
***▲[[九州国際観光バス]](1999年解散・路線は九州産交バスに移管)
* [[熊本電気鉄道]]
* [[熊本バス]]
* [[熊本都市バス]]
** ▲[[熊本市交通局]](2015年民間移譲)
* [[神園交通]]
* [[麻生交通]]
* [[天草城観光]]
*▲[[ジェイアール九州バス]]([[山鹿線]])
*▲[[ロイヤルホリデー|ロイヤルバス]]
*▲[[中九州観光 (バス事業者)|中九州観光]]
== 大分県 ==
管轄:[[大分運輸支局]]
* [[大分バス]] 以下は子会社
** [[大野竹田バス]]
** [[臼津交通]]
* [[大分交通]] 以下は子会社
** [[大交北部バス]]
** [[国東観光バス]]
** [[玖珠観光バス]]
* [[亀の井バス]]
* [[日田バス]]
* [[耶馬渓交通]]([[中津市コミュニティバス]])
* [[山香タクシー]](速見観光・[[杵築市コミュニティバス]])
* [[日清観光]](高速バス日清号・かつては杵築市コミュニティバスも運行)
* [[JR九州バス]](添田支店日田営業所・かつては臼三線も運行)
* ▲[[三光タクシー]](杵築市コミュニティバス)
* ▲[[YOKARO]](旧社名・SOUDA/YOKAROバス)
* ▲[[西鉄北九州観光|西鉄バス二豊]]
== 宮崎県 ==
管轄:[[宮崎運輸支局]]
* [[宮崎交通]]
* [[JR九州バス]](高速)
** ▲[[九州旅客鉄道]]([[宮林線]])
* [[鹿児島交通]]
** ▲[[三州自動車]] - 2018年、鹿児島交通に事業譲渡
* [[三和交通 (宮崎県)|三和交通]]
* [[高崎観光バス]]
* [[宮崎サングリーン観光]]
* [[宮崎観光バス]]
* [[諸塚交通]]
* [[あい交通]]
* ▲[[サンマリンツアー]]
* [[ハッコートラベル]]
* [[山口運送 (宮崎県)]](美登観光バス)
* [[南九州観光バス]]
== 鹿児島県 ==
=== 鹿児島地区 ===
管轄:[[鹿児島運輸支局]]
* [[鹿児島市交通局]](鹿児島市営バス)
**▲[[桜島町営バス|桜島町自動車輸送事業]](町営バス、2004年市町村合併のため鹿児島市交通局に事業移管)
* [[鹿児島交通]]
* ▲[[三州自動車]](2018年 鹿児島交通に事業譲渡)
** ▲[[大隅交通ネットワーク]]
* [[種子島・屋久島交通]]
*▲ [[いわさきバスネットワーク]](旧・林田バス)
* [[南国交通]]
** ▲[[薩摩川内市営バス]](旧・上甑島バス企業団および下甑村営バス、2012年事業廃止のためコミュニティバスに移管)
* [[JR九州バス]](北薩線・高速)
* [[あいら交通]]
* [[伊佐交通観光]]
* [[和人組]]
** ▲[[大和 (鹿児島県)|大和バス]]([[和人組]]にバス事業を譲渡)
* [[まつばんだ交通バス]]
* [[南九州観光バス]]
* ▲[[森山観光バス|森山]](高速乗合バスのみ)
=== 鹿児島(大島)地区 ===
管轄:鹿児島運輸支局[[大島自動車検査登録事務所]]
* [[瀬戸内海浜バス]]
* [[しまバス]](旧岩崎バス→道の島交通)
**▲[[奄美交通]](2008年上記2社に事業譲渡)
* [[徳之島総合陸運]](総合バス)
* [[沖永良部バス企業団]](沖バス)
* [[加計呂麻バス]]
* [[奄美航空]]
**▲[[マルエーフェリー]](旧大島運輸)
* [[南陸運]](南バス)
== 沖縄県 ==
=== 沖縄(本島)地区 ===
管轄:[[沖縄総合事務局]]運輸部陸運事務所
* [[琉球バス交通]](旧・琉球バス)
* [[沖縄バス]]
* [[那覇バス]](旧・那覇交通)
* [[東陽バス]]
* [[平安座総合開発]]
* [[やんばる急行バス]](旧・沖縄中央観光)
* [[北部観光バス]](沖縄エアポートシャトル)
* [[カリー観光]]
* [[とかしき観光バス]]
* [[伊江島観光バス]](旧・伊江バス)
* [[東京バス]]沖縄営業所
=== 沖縄(宮古)地区 ===
管轄:沖縄総合事務局運輸部宮古運輸事務所
* [[宮古協栄バス]]
* [[八千代バス・タクシー]]
* [[共和バス]]
* [[中央交通 (沖縄県)|中央交通]]
=== 沖縄(八重山)地区 ===
管轄:沖縄総合事務局運輸部八重山運輸事務所
* [[東運輸]](東バス)
* [[カリー観光]]
* [[西表島交通]]
* [[竹富島交通]]
* [[コハマ交通]]
* [[安栄観光]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Buses in Kyūshū region}}
* [[九州地方の貸切バス事業者]]
{{DEFAULTSORT:きゆうしゆうちほうののりあいはす}}
[[Category:日本のバス事業者]]
[[Category:九州地方の乗合バス事業者|*]]
[[Category:バス関連一覧]]
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成田線
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成田線(なりたせん)は、千葉県佐倉市の佐倉駅と銚子市の松岸駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。その他以下の支線を持つ。
いずれも全区間を通して千葉県内を走行する。
総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線は、佐倉駅 - 松岸駅間では総武本線よりも13.4 km営業キロが長い。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、総武本線成東駅方面行きの列車との誤乗車防止の観点から、旅客案内上は成田線を千葉駅起点とみなし、成田線発着・経由列車は同駅以東で列車の方向幕表示を含めて「成田線」と案内表示される。
空港支線は、成田駅から約2 km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう。直通の軌道系交通機関がないため「世界一不便な国際空港」と揶揄されていた成田空港の状況を懸念した当時の運輸大臣である石原慎太郎の指示により、運輸省内部で1980年代半ばから実際的な検討が進められていた、建設中止になっていた成田新幹線(東京駅 - 成田空港駅間)の路盤の一部を活用することで、1991年3月19日に京成本線成田空港駅 - 成田空港駅間と同時開業した(成田空港高速鉄道も参照)。開業当初は成田空港駅のみだったが、翌1992年12月6日の第2旅客ターミナルビル供用開始に伴い、3日前の12月3日に空港第2ビル駅が開業した。なお、1983年(昭和58年)8月8日に千葉港と成田空港を結ぶ本格パイプラインが稼動するまでの間は、成田線は千葉港と鹿島港から成田市土屋地先に設けられた基地まで鉄道で航空燃料を輸送(暫定輸送)するルートの一部に用いられていた。
成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線は、正式な愛称や通称などはないが、本線・空港支線とは区別された名称で呼称される場合があり、「我孫子支線」が一般的な表記である。関係者(JR社員など)は、単に「我孫子線」と呼ぶこともある。また、直通する常磐線の快速(および上野東京ライン)区間と併せて「常磐・成田線」としてくくっていることもある。2001年の我孫子支線全通100周年を機に、一般市民からこの支線の愛称を募集したところ、その中から「成田四季彩線(なりたしきさいせん)」と「水空ライン」の2つが最終的な候補になり、フジテレビで同年4月6日に放送されたバラエティー番組『プレゼンタイガー』で、森建二(水空ライン派)、峠輿至高(成田四季彩線派)によるプレゼンテーションと、JR東日本関係者、当時の我孫子市長・福嶋浩彦を含む沿線自治体の住民・関係者、並びに番組審査員4名(おちまさと、真島満秀、森下直人、ドン小西)の立会いの下審議した結果、この「水空ライン」が採用されたという。しかし、この愛称は我孫子市などの沿線自治体当局で使われたのみで、JR東日本ではその後も「水空ライン」とは案内せず、「成田線」の案内のままである。
我孫子駅付近が首都圏本部の管轄であるほかは、全線が千葉支社の管轄である。千葉支社と首都圏本部の境界は、我孫子駅 - 東我孫子駅間の佐倉起点43 km地点(常磐線天王台駅南方付近)にあたる。
全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。なお、成田駅 - 我孫子支線 - 我孫子駅 - 常磐線 - 日暮里駅 - 東北本線 - 上野駅間は、京成電鉄本線と競合するため特定区間運賃が設定されている。
成田線の歴史は総武本線の歴史と密接に関係するため、以下では総武本線の歴史も一部記載する。
江戸時代中期以降、江戸っ子に親しまれていた成田山新勝寺の参拝路として整備された成田街道(水戸佐倉道、現在の国道14号、国道296号、国道51号)や東廻り航路として北前船の往来が盛んであった佐原とを結ぶ佐原街道(現在の国道51号)、利根川沿いに整備された銚子街道(現在の国道356号)、千葉の主要な街道として東京湾沿岸地域には房総往還(千葉街道、現在の国道14号、国道16号、国道127号)が存在していた。
しかし、明治期に入ると近代化により従来の街道が国道として明治政府により整備され始め、相対的に佐原の水運が著しく減少した。それと同時期の1872年(明治5年)には東海道線が開通、鉄道敷設運動が日本全国で始まった。この運動に乗じて、千葉県内では1886年(明治19年)頃から馬車鉄道や蒸気機関車による鉄道敷設計画が始められた。1887年(明治20年)11月には水運が減少したことによる佐原の将来を危惧し、代替として鉄道での貨物輸送による発展を目指した佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社が設立、一方で同様の理由から成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が設立されるなど、相次いで鉄道敷設の申請を行った。なお、これらは前述した街道沿いでの敷設を計画した。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重になり、両者に対し計画の翻意や合併を促してきた。総州鉄道は東京府知事を通じて正式に出願し、これに対し船越知事もやむなく武総鉄道を内閣に進達したが、「利根・江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局却下されている。
なお、昭和初期までは現在の下志津駐屯地付近から四街道市、佐倉市一帯に、旧佐倉藩の砲術練習所を前身とする陸軍野戦砲兵学校や、下志津駐屯地の前身の下志津陸軍飛行学校といった陸軍施設があった。これを利用し、両社とも軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由する鉄道敷設計画を立てた。なお、双方とも本所(錦糸町駅)が起点であるのは、東京下町の市街地が住宅街で建設が困難と判断し、市街地を網羅していた東京市電と接続することを計画したためである。
上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台・津田沼・佐倉等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。
総武鉄道の狙い通り「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。しかし、成田や佐原を経由する鉄道敷設計画に関して軍部は関心を示さなかった。
1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。しかし、直後の8月1日に事態は一転した。日清両国で宣戦布告がなされ、即座に総武鉄道は日清戦争での兵員輸送に活用された。これにより軍部は佐原方面への鉄道敷設に関心を持つ。1894年(明治27年)に創立された下総鉄道は1895年(明治28年)に成田鉄道株式会社へと社名を変更、同年11月に鉄道敷設の免許状を取得した。これにより敷設が始められ、1897年(明治30年)佐倉駅 - 成田駅間が開業し、佐倉駅で総武鉄道との連絡も実現した。その後、成田駅以降の延伸が進められ、1898年(明治31年)には当初の敷設計画の最終地であった佐原駅までが開業、1901年(明治34年)には成田駅 - 我孫子駅間(現在の我孫子支線)が開業した。なお、支線が誕生した原因は、1896年(明治29年)に設立された関東鉄道(1897〈明治30年〉成田鉄道と合併、現在ある関東鉄道とは無関係)が申請していた成田 - 川越の免許を、成田鉄道延長線として成田 - 我孫子に短縮の上敷設したためである。成田街道支線(松崎街道、県道18号)は成田山新勝寺 - 安食 - 木下を、我孫子 - 木下は銚子街道が結んでおり、常磐線との接続や街道沿線の地域を補填することを図った。1920年(大正9年)に成田鉄道は国有化され、佐倉駅 - 我孫子駅間、成田駅 - 佐原駅間が成田線となった。その後、1933年(昭和8年)には松岸駅までが開業したことで総武本線と接続し、現在の路線形態が完成した。
総武本線では明治末期から複線化が進み、1923年(大正12年)の関東大震災の都市復興計画により、御茶ノ水駅 - 錦糸町駅が開業、同時に千葉駅までの電化が推進された。しかし、千葉駅以東は蒸気機関車による非電化・単線が継続し、成田線も同様の扱いであった。
これらが一転するのは、戦後のモータリゼーションと1960年代以降の新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設計画に起因する。1950年代以降、蒸気機関車の淘汰が始まり、そして東京国際空港(羽田空港)が増大する需要に対応できなくなっており新たな空港建設計画が始まった。候補地の一つであった富里市・八街市(旧:印旛郡富里村・八街町)に内定したが、反対運動により頓挫した。しかし、周辺市町村での建設が確定したことで、総武本線と成田線は佐倉駅までの電化・複線化を推進し、1966年(昭和41年)には成田市を中心とした地区での空港建設が閣議決定したことにより、成田線の重要度が総武本線より増大、成田駅までの電化・複線化が決定した。なお、新空港へのアクセスとして成田新幹線の建設が立案され、1971年の基本計画にも明記されていたが、開業することなく頓挫した。1991年に新幹線計画の遺構を一部流用する形で成田駅 - 成田空港駅間(空港支線)が開業。京成本線とともに空港ターミナルへの直接乗り入れ(空港連絡鉄道)が実現した。成田線と京成本線では1960年代後期から1990年代初期まで空港建設反対運動による妨害行為が多発していたが、1991年(平成3年)以降に行政や新東京国際空港公団などによる歩み寄りが始まったことなどからほぼ沈静化した。空港支線の開通により運行形態は大きく変化し、総武本線との直通運転による横須賀・総武快速線や成田エクスプレスが運行され始めた。また、千葉駅始発の成田線が増発され、一方で我孫子支線は2015年(平成27年)に上野東京ラインとして東海道本線や常磐線との直通運転が開始された。
普通列車は、日中上りの半数および日中以外には総武本線千葉駅まで乗り入れ、日中の多くは成田駅および総武本線銚子駅を始発・終着駅とする。快速列車は横須賀線・総武快速線から千葉駅・総武本線を経て当線に乗り入れる。総武快速線を経由して成田空港駅に直通する列車(「エアポート成田」という愛称がついていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で愛称廃止)も設定されており、成田駅で成田駅 - 銚子駅間の普通列車と接続する。総武本線経由や鹿島線列車と区別する意味合いから総武線内でも成田線に直通する列車を「成田線の列車」として案内している。
主な運用車両は、快速列車がE217系・E235系、普通列車が209系・E131系(鹿島線直通列車)である。優等列車では、特急「成田エクスプレス」のE259系、臨時特急「あやめ祭り号」のE257系などである(詳細は「使用車両」を参照)。
本線を走る大半の列車が佐倉駅 - 成田駅間を経由する東京方面直通の成田空港アクセス列車であり、空港連絡鉄道としての役割が重要視されており(「空港支線」の節も参照)、成田空港行き快速列車から接続する成田発の銚子行き普通列車が設定されているように、空港連絡列車中心のダイヤ編成となっている。また長編成の貨物列車も走行するため、久住駅 - 香取駅間の交換設備では線路長を長く取っている。
香取駅から分岐する鹿島線直通列車は、多くが佐原駅発着だが、成田駅発着列車や東京方面直通列車も設定されている。かつては鹿島線特急であった「あやめ」は、2004年10月16日に成田線特急「すいごう」を統合し、成田線特急「あやめ」として銚子駅・鹿島神宮駅発着便がそれぞれ1往復ずつ(臨時便は除く)運行されていたが、2015年3月14日の改正で廃止された。いずれも佐原駅 - 鹿島神宮駅・銚子駅間は普通列車として運行されていた。
成田駅 - 佐原駅 - 銚子駅間は1時間に1 - 2本程度の運転である。
千葉駅 - 佐原駅 - 銚子駅間の普通列車は最大8両編成、鹿島線直通列車は2両または4両編成で運転されている。
なお、前述の通り千葉駅 - 佐倉駅間は総武本線であり、そこに成田線列車が乗り入れている形態であるが、交通新聞社発行の時刻表などにおいては、成田線系統に重きが置かれている場合がある。例えば、「全国版コンパス時刻表」や「MY LINE 東京時刻表」では、千葉駅 - 四街道駅・佐倉駅間の総武本線内しか運転しない列車であっても、これらは成田線のページにしか載っておらず、総武本線のページでは佐倉駅を跨ぐ列車のみを掲載している。
大晦日から元日にかけての終夜運転では、東千葉駅のみ通過の千葉駅 - 成田駅間の209系快速列車が4往復程度設定される。
前述のように、成田新幹線の施設を転用し本線に接続してJRの成田国際空港へのアクセス路線とした経緯があるため、成田駅から本線との分岐点(イオンモール成田付近にあり、単独の信号場ではなくここまでが成田駅構内扱い)までがJR東日本の第一種鉄道事業区間、そこから先は成田空港高速鉄道の第三種鉄道事業区間(JR東日本が第二種鉄道事業者)となっている。なお、分岐点には黒地に白抜きで「NKT 0.0」と書かれた境界を示す標識が立っている。
この区間を走る定期列車は、朝夕の通勤時間帯及び日中時間帯に209系8両編成による総武本線千葉駅発着の普通列車が6往復にて運行されている以外は特急「成田エクスプレス」と快速のみで、いずれの列車も空港第2ビル・成田空港の両駅に停車する。佐倉駅・成田駅 - 成田空港駅間のシャトル運転はなく、全列車がこれらの総武本線直通列車である。日中の本線は1時間あたり成田エクスプレス1 - 2本、快速及び千葉駅発着の普通が1 - 2本のダイヤとなっているが、同じく成田空港に乗り入れる京成線には特急「スカイライナー」が3本(日中20分間隔)・京成本線経由の快速が3本(日中20分間隔)・成田スカイアクセス線経由のアクセス特急が1 - 2本(日中40分間隔)運行されており、JRよりも圧倒的に本数が多い。 2022年3月改正までは総武快速線の通勤快速のうち朝の上り1本が空港支線に直通していた。
現在は支線内(我孫子駅 - 成田駅間)運転のほか、常磐線快速電車が直通運転を行っているが、本線(佐倉・佐原方面)・空港支線との定期列車の直通運転は行われていない。そのため、常磐快速線の一部として機能している。
起点から終点へ向かう列車を下りとする定義に従えば我孫子方面が「下り」であるが、実際には我孫子方面が「上り」、成田方面が「下り」として運用されており、列車番号も我孫子から成田へ向かう列車に(下りを示す)奇数番号が付番されている。常磐線直通列車は我孫子駅で列車番号が変わる。
定期列車はすべて普通列車(各駅停車)で、途中駅発着の区間列車もなく、全列車が我孫子駅 - 成田駅間の全区間を通して運転する。線内運転列車のほか、常磐線直通列車(常磐線内快速)が下り平日16本・土休日17本、上り20本運行されており、このうち朝の上り2本と平日夜2本と、我孫子発18時 - 23時台の下り各1本(ただし、19時台は2本で計7本、土休日は20時台の1本を除く6本)は上野東京ライン経由品川駅発着となっている。日中は線内運転の列車と常磐線直通列車が1時間に1本ずつ運行されている。なお、直通の有無や発着駅が平日と土曜・休日で異なる列車もあるが、線内の運転時刻は全日同一である。上野駅発着の一部列車と品川駅発着の全列車は我孫子駅で増解結を行う。増解結を行う列車は成田線内は基本編成10両編成での運転で、我孫子駅では5両の付属編成が増解結の対象となる。本線・空港支線で見られるような多層建ては行っていない。なお、直通列車の場合でも昼間を除き我孫子駅での停車時間が長い列車が多く、上りは常磐線土浦駅・取手駅方面からの先行の快速上野、上野東京ライン経由品川行きに、下りは後発の快速から、乗り継げる場合が多い。なお我孫子駅は常磐線の特別快速は停車しない。
時刻表上においては、常磐快速線直通列車を含め線内は全列車が普通列車であるが、成田発上野行き列車の車内放送では「快速 上野行き」と案内されている。駅に掲示されている時刻表にも「快速 上野行き」と表記されていた期間があり、利用者の間では成田発上野行きの列車は「快速」との認識がある。これは、本線・空港支線における総武快速線直通列車と類似しているが、本線・空港支線の直通列車は千葉駅以東でも快速列車として運転する点が異なる(千葉駅以東にも通過駅がある)。また、このような直通運転先の種別での案内は本線区に限らず行われている。
全線単線で、全駅に列車交換設備がある。車両は常磐線快速電車と共用の直流電車(E231系5両または10両編成)を使用する。
このほか、正月には成田山新勝寺初詣参拝向けに終夜運転が2往復程度運転されるほか、団体専用列車も運行される場合が多い。
沿線では、我孫子市・印西市を中心に住宅が多い上、沿線自治体以外(旧本埜村、茨城県北相馬郡利根町等)からの需要もあるが、朝の上り以外は毎時2 - 3本という本数の少なさから、利用者が路線バスや自家用車等で直接常磐線や北総鉄道北総線の駅に流れてしまう傾向にあり、中間駅で乗車人員が多い湖北駅、布佐駅でも4000人程度に留まっている。特に東我孫子駅からは徒歩15分程度の常磐線天王台駅に、湖北駅周辺からは天王台駅・我孫子駅へ高頻度運転されている阪東自動車の路線バスに多くの利用者が流れている。
2007年末から2008年夏の多客時には上野駅 - 我孫子駅 - 成田駅 - 成田空港駅間で臨時快速列車「エアポート常磐」が運行された。
1985年11月の「国電同時多発ゲリラ事件」を契機に、運転士の担当を、常磐快速線の電車を担当する松戸運転区に移管した。車掌は松戸車掌区と成田車掌区が共同で担当した。国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)のストライキ時でも、我孫子支線では正常に運行されていた。
2012年3月17日、我孫子運輸区が新設され、松戸車掌区と松戸運転区(ともに前日の3月16日をもって廃止)、および成田車掌区から業務が移管された。
1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・成田駅・滑河駅・下総神崎駅・佐原駅・小見川駅・笹川駅・下総豊里駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。
なお、2019年10月27日より深夜帯に成田空港発千葉行きが1本設定された。
佐倉駅 - 香取駅間を1日2往復の高速貨物列車が経由するが、成田線内にはJR貨物の駅は設けられていないため、線内での貨物取扱もない。どちらも香取駅から鹿島線経由で鹿島臨海鉄道鹿島臨港線神栖駅に発着する列車である。
すべて電車で運転されている。
便宜上、末端部の全列車が直通する総武本線千葉駅 - 佐倉駅間も合わせて記載する。
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、久住駅・大戸駅・香取駅・水郷駅・笹川駅・下総橘駅・下総豊里駅・椎柴駅である。
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、東我孫子駅のみである。
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"text": "成田線(なりたせん)は、千葉県佐倉市の佐倉駅と銚子市の松岸駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。その他以下の支線を持つ。",
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"text": "いずれも全区間を通して千葉県内を走行する。",
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"text": "総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線は、佐倉駅 - 松岸駅間では総武本線よりも13.4 km営業キロが長い。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、総武本線成東駅方面行きの列車との誤乗車防止の観点から、旅客案内上は成田線を千葉駅起点とみなし、成田線発着・経由列車は同駅以東で列車の方向幕表示を含めて「成田線」と案内表示される。",
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"text": "空港支線は、成田駅から約2 km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう。直通の軌道系交通機関がないため「世界一不便な国際空港」と揶揄されていた成田空港の状況を懸念した当時の運輸大臣である石原慎太郎の指示により、運輸省内部で1980年代半ばから実際的な検討が進められていた、建設中止になっていた成田新幹線(東京駅 - 成田空港駅間)の路盤の一部を活用することで、1991年3月19日に京成本線成田空港駅 - 成田空港駅間と同時開業した(成田空港高速鉄道も参照)。開業当初は成田空港駅のみだったが、翌1992年12月6日の第2旅客ターミナルビル供用開始に伴い、3日前の12月3日に空港第2ビル駅が開業した。なお、1983年(昭和58年)8月8日に千葉港と成田空港を結ぶ本格パイプラインが稼動するまでの間は、成田線は千葉港と鹿島港から成田市土屋地先に設けられた基地まで鉄道で航空燃料を輸送(暫定輸送)するルートの一部に用いられていた。",
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"text": "成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線は、正式な愛称や通称などはないが、本線・空港支線とは区別された名称で呼称される場合があり、「我孫子支線」が一般的な表記である。関係者(JR社員など)は、単に「我孫子線」と呼ぶこともある。また、直通する常磐線の快速(および上野東京ライン)区間と併せて「常磐・成田線」としてくくっていることもある。2001年の我孫子支線全通100周年を機に、一般市民からこの支線の愛称を募集したところ、その中から「成田四季彩線(なりたしきさいせん)」と「水空ライン」の2つが最終的な候補になり、フジテレビで同年4月6日に放送されたバラエティー番組『プレゼンタイガー』で、森建二(水空ライン派)、峠輿至高(成田四季彩線派)によるプレゼンテーションと、JR東日本関係者、当時の我孫子市長・福嶋浩彦を含む沿線自治体の住民・関係者、並びに番組審査員4名(おちまさと、真島満秀、森下直人、ドン小西)の立会いの下審議した結果、この「水空ライン」が採用されたという。しかし、この愛称は我孫子市などの沿線自治体当局で使われたのみで、JR東日本ではその後も「水空ライン」とは案内せず、「成田線」の案内のままである。",
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"text": "我孫子駅付近が首都圏本部の管轄であるほかは、全線が千葉支社の管轄である。千葉支社と首都圏本部の境界は、我孫子駅 - 東我孫子駅間の佐倉起点43 km地点(常磐線天王台駅南方付近)にあたる。",
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"text": "全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。なお、成田駅 - 我孫子支線 - 我孫子駅 - 常磐線 - 日暮里駅 - 東北本線 - 上野駅間は、京成電鉄本線と競合するため特定区間運賃が設定されている。",
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"text": "成田線の歴史は総武本線の歴史と密接に関係するため、以下では総武本線の歴史も一部記載する。",
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"text": "江戸時代中期以降、江戸っ子に親しまれていた成田山新勝寺の参拝路として整備された成田街道(水戸佐倉道、現在の国道14号、国道296号、国道51号)や東廻り航路として北前船の往来が盛んであった佐原とを結ぶ佐原街道(現在の国道51号)、利根川沿いに整備された銚子街道(現在の国道356号)、千葉の主要な街道として東京湾沿岸地域には房総往還(千葉街道、現在の国道14号、国道16号、国道127号)が存在していた。",
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"text": "しかし、明治期に入ると近代化により従来の街道が国道として明治政府により整備され始め、相対的に佐原の水運が著しく減少した。それと同時期の1872年(明治5年)には東海道線が開通、鉄道敷設運動が日本全国で始まった。この運動に乗じて、千葉県内では1886年(明治19年)頃から馬車鉄道や蒸気機関車による鉄道敷設計画が始められた。1887年(明治20年)11月には水運が減少したことによる佐原の将来を危惧し、代替として鉄道での貨物輸送による発展を目指した佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社が設立、一方で同様の理由から成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が設立されるなど、相次いで鉄道敷設の申請を行った。なお、これらは前述した街道沿いでの敷設を計画した。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重になり、両者に対し計画の翻意や合併を促してきた。総州鉄道は東京府知事を通じて正式に出願し、これに対し船越知事もやむなく武総鉄道を内閣に進達したが、「利根・江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局却下されている。",
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"text": "なお、昭和初期までは現在の下志津駐屯地付近から四街道市、佐倉市一帯に、旧佐倉藩の砲術練習所を前身とする陸軍野戦砲兵学校や、下志津駐屯地の前身の下志津陸軍飛行学校といった陸軍施設があった。これを利用し、両社とも軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由する鉄道敷設計画を立てた。なお、双方とも本所(錦糸町駅)が起点であるのは、東京下町の市街地が住宅街で建設が困難と判断し、市街地を網羅していた東京市電と接続することを計画したためである。",
"title": "歴史"
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"text": "上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台・津田沼・佐倉等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。",
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"text": "総武鉄道の狙い通り「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。しかし、成田や佐原を経由する鉄道敷設計画に関して軍部は関心を示さなかった。",
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"text": "1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。しかし、直後の8月1日に事態は一転した。日清両国で宣戦布告がなされ、即座に総武鉄道は日清戦争での兵員輸送に活用された。これにより軍部は佐原方面への鉄道敷設に関心を持つ。1894年(明治27年)に創立された下総鉄道は1895年(明治28年)に成田鉄道株式会社へと社名を変更、同年11月に鉄道敷設の免許状を取得した。これにより敷設が始められ、1897年(明治30年)佐倉駅 - 成田駅間が開業し、佐倉駅で総武鉄道との連絡も実現した。その後、成田駅以降の延伸が進められ、1898年(明治31年)には当初の敷設計画の最終地であった佐原駅までが開業、1901年(明治34年)には成田駅 - 我孫子駅間(現在の我孫子支線)が開業した。なお、支線が誕生した原因は、1896年(明治29年)に設立された関東鉄道(1897〈明治30年〉成田鉄道と合併、現在ある関東鉄道とは無関係)が申請していた成田 - 川越の免許を、成田鉄道延長線として成田 - 我孫子に短縮の上敷設したためである。成田街道支線(松崎街道、県道18号)は成田山新勝寺 - 安食 - 木下を、我孫子 - 木下は銚子街道が結んでおり、常磐線との接続や街道沿線の地域を補填することを図った。1920年(大正9年)に成田鉄道は国有化され、佐倉駅 - 我孫子駅間、成田駅 - 佐原駅間が成田線となった。その後、1933年(昭和8年)には松岸駅までが開業したことで総武本線と接続し、現在の路線形態が完成した。",
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"text": "この区間を走る定期列車は、朝夕の通勤時間帯及び日中時間帯に209系8両編成による総武本線千葉駅発着の普通列車が6往復にて運行されている以外は特急「成田エクスプレス」と快速のみで、いずれの列車も空港第2ビル・成田空港の両駅に停車する。佐倉駅・成田駅 - 成田空港駅間のシャトル運転はなく、全列車がこれらの総武本線直通列車である。日中の本線は1時間あたり成田エクスプレス1 - 2本、快速及び千葉駅発着の普通が1 - 2本のダイヤとなっているが、同じく成田空港に乗り入れる京成線には特急「スカイライナー」が3本(日中20分間隔)・京成本線経由の快速が3本(日中20分間隔)・成田スカイアクセス線経由のアクセス特急が1 - 2本(日中40分間隔)運行されており、JRよりも圧倒的に本数が多い。 2022年3月改正までは総武快速線の通勤快速のうち朝の上り1本が空港支線に直通していた。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "現在は支線内(我孫子駅 - 成田駅間)運転のほか、常磐線快速電車が直通運転を行っているが、本線(佐倉・佐原方面)・空港支線との定期列車の直通運転は行われていない。そのため、常磐快速線の一部として機能している。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "起点から終点へ向かう列車を下りとする定義に従えば我孫子方面が「下り」であるが、実際には我孫子方面が「上り」、成田方面が「下り」として運用されており、列車番号も我孫子から成田へ向かう列車に(下りを示す)奇数番号が付番されている。常磐線直通列車は我孫子駅で列車番号が変わる。",
"title": "運行形態"
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"text": "定期列車はすべて普通列車(各駅停車)で、途中駅発着の区間列車もなく、全列車が我孫子駅 - 成田駅間の全区間を通して運転する。線内運転列車のほか、常磐線直通列車(常磐線内快速)が下り平日16本・土休日17本、上り20本運行されており、このうち朝の上り2本と平日夜2本と、我孫子発18時 - 23時台の下り各1本(ただし、19時台は2本で計7本、土休日は20時台の1本を除く6本)は上野東京ライン経由品川駅発着となっている。日中は線内運転の列車と常磐線直通列車が1時間に1本ずつ運行されている。なお、直通の有無や発着駅が平日と土曜・休日で異なる列車もあるが、線内の運転時刻は全日同一である。上野駅発着の一部列車と品川駅発着の全列車は我孫子駅で増解結を行う。増解結を行う列車は成田線内は基本編成10両編成での運転で、我孫子駅では5両の付属編成が増解結の対象となる。本線・空港支線で見られるような多層建ては行っていない。なお、直通列車の場合でも昼間を除き我孫子駅での停車時間が長い列車が多く、上りは常磐線土浦駅・取手駅方面からの先行の快速上野、上野東京ライン経由品川行きに、下りは後発の快速から、乗り継げる場合が多い。なお我孫子駅は常磐線の特別快速は停車しない。",
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"text": "時刻表上においては、常磐快速線直通列車を含め線内は全列車が普通列車であるが、成田発上野行き列車の車内放送では「快速 上野行き」と案内されている。駅に掲示されている時刻表にも「快速 上野行き」と表記されていた期間があり、利用者の間では成田発上野行きの列車は「快速」との認識がある。これは、本線・空港支線における総武快速線直通列車と類似しているが、本線・空港支線の直通列車は千葉駅以東でも快速列車として運転する点が異なる(千葉駅以東にも通過駅がある)。また、このような直通運転先の種別での案内は本線区に限らず行われている。",
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"text": "全線単線で、全駅に列車交換設備がある。車両は常磐線快速電車と共用の直流電車(E231系5両または10両編成)を使用する。",
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"text": "このほか、正月には成田山新勝寺初詣参拝向けに終夜運転が2往復程度運転されるほか、団体専用列車も運行される場合が多い。",
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"text": "沿線では、我孫子市・印西市を中心に住宅が多い上、沿線自治体以外(旧本埜村、茨城県北相馬郡利根町等)からの需要もあるが、朝の上り以外は毎時2 - 3本という本数の少なさから、利用者が路線バスや自家用車等で直接常磐線や北総鉄道北総線の駅に流れてしまう傾向にあり、中間駅で乗車人員が多い湖北駅、布佐駅でも4000人程度に留まっている。特に東我孫子駅からは徒歩15分程度の常磐線天王台駅に、湖北駅周辺からは天王台駅・我孫子駅へ高頻度運転されている阪東自動車の路線バスに多くの利用者が流れている。",
"title": "運行形態"
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"text": "2007年末から2008年夏の多客時には上野駅 - 我孫子駅 - 成田駅 - 成田空港駅間で臨時快速列車「エアポート常磐」が運行された。",
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"text": "1985年11月の「国電同時多発ゲリラ事件」を契機に、運転士の担当を、常磐快速線の電車を担当する松戸運転区に移管した。車掌は松戸車掌区と成田車掌区が共同で担当した。国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)のストライキ時でも、我孫子支線では正常に運行されていた。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "2012年3月17日、我孫子運輸区が新設され、松戸車掌区と松戸運転区(ともに前日の3月16日をもって廃止)、および成田車掌区から業務が移管された。",
"title": "運行形態"
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"text": "1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・成田駅・滑河駅・下総神崎駅・佐原駅・小見川駅・笹川駅・下総豊里駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "なお、2019年10月27日より深夜帯に成田空港発千葉行きが1本設定された。",
"title": "運行形態"
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"text": "佐倉駅 - 香取駅間を1日2往復の高速貨物列車が経由するが、成田線内にはJR貨物の駅は設けられていないため、線内での貨物取扱もない。どちらも香取駅から鹿島線経由で鹿島臨海鉄道鹿島臨港線神栖駅に発着する列車である。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "すべて電車で運転されている。",
"title": "使用車両"
},
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"text": "便宜上、末端部の全列車が直通する総武本線千葉駅 - 佐倉駅間も合わせて記載する。",
"title": "駅一覧"
},
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"text": "2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。",
"title": "駅一覧"
},
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"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、久住駅・大戸駅・香取駅・水郷駅・笹川駅・下総橘駅・下総豊里駅・椎柴駅である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、東我孫子駅のみである。",
"title": "駅一覧"
}
] |
成田線(なりたせん)は、千葉県佐倉市の佐倉駅と銚子市の松岸駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。その他以下の支線を持つ。 千葉県我孫子市の我孫子駅と成田市の成田駅を結ぶ支線(通称「我孫子支線」)
成田駅と成田空港駅を結ぶ支線(通称「空港支線」、全線成田市内) いずれも全区間を通して千葉県内を走行する。
|
{{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線|「京成成田線」と通称される京成電鉄の鉄道路線|京成本線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 成田線
|路線色=#00b261
|画像=Series209-2100 C607.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=成田線で使用されている209系<br>(2020年8月 [[大戸駅]] - [[下総神崎駅]]間)
|通称=我孫子支線([[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] - [[成田駅]]間)<br/>[[上野東京ライン]](我孫子駅 - 成田駅間)<ref group="注釈">[[常磐線]]及び[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]直通列車のみ。</ref><br/>空港支線(成田駅 - [[成田空港駅]]間)
|国={{JPN}}
|所在地=[[千葉県]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])、[[空港連絡鉄道]]
|起点=[[佐倉駅]](本線)<br>[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]](我孫子支線)<br>[[成田駅]](空港支線)
|終点=[[松岸駅]](本線)<br>成田駅(我孫子支線)<br>[[成田空港駅]](空港支線)
|駅数=27駅(本線・全支線の合計)
|電報略号=ナリセ
|路線記号=[[File:JR JO line symbol.svg|20px|JO]](佐倉駅 - 成田空港駅間)
|開業={{start date and age|1897|1|19}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />(佐倉-松岸間・成田-我孫子間・成田-成田線分岐点間 第1種鉄道事業者)<br />[[成田空港高速鉄道]]<br />(成田線分岐点-成田空港間 第3種鉄道事業者)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)<br />(佐倉-松岸間・成田-我孫子間・成田-成田線分岐点間 第1種鉄道事業者、成田線分岐点-成田空港間 第2種鉄道事業者)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(佐倉-香取間 第2種鉄道事業者)
|車両基地=
|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離=75.4 [[キロメートル|km]](佐倉-松岸間)<br />32.9 km(成田-我孫子間)<br />10.8 km(成田-成田空港間)
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[複線]](佐倉 - 成田 - 成田線分岐点間)、[[単線]](左記以外)
|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式(下記以外)<br>特殊自動閉塞式(水郷 - 松岸間)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]・[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]併設(成田線分岐点 - 成田空港間除く)
|最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]](優等列車、本線)
|路線図=File:LineMap NaritaLine.png
}}
'''成田線'''(なりたせん)は、[[千葉県]][[佐倉市]]の[[佐倉駅]]と[[銚子市]]の[[松岸駅]]を結ぶ<ref name="sone 21">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 21頁]]</ref>[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])。その他以下の支線を持つ。
*千葉県[[我孫子市]]の[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]と[[成田市]]の[[成田駅]]を結ぶ支線(通称「'''我孫子支線'''」)<ref name="sone 21">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 21頁]]</ref><ref group="注釈">我孫子支線について、国鉄分割民営化時に当時の運輸省に提出された基本事業計画では「佐倉から松岸まで及び成田から分岐して我孫子まで」とあり、佐倉から松岸までの路線から分岐している路線として記載されている。また、国土交通省監修『[[鉄道要覧]]』では、冒頭に佐倉 - 松岸、次いで成田 - 我孫子、成田 - 成田線分岐点、成田線分岐点 - 成田空港(第2種開業線)の順に記載されている。</ref>
* 成田駅と[[成田空港駅]]を結ぶ支線(通称「'''空港支線'''」、全線成田市内)<ref name="sone 21" />
いずれも全区間を通して千葉県内を走行する。
== 概要 ==
[[総武本線]][[佐倉駅]]から北へ分岐し、[[成田駅]]を経て、[[利根川]]南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である[[松岸駅]]へ至る本線は、佐倉駅 - 松岸駅間では総武本線よりも13.4 km[[営業キロ]]が長い<ref group="注釈">東京近郊区間編入以前は、佐倉駅 - 松岸駅間の運賃については、総武本線経由・成田線経由のいずれの経路で乗車券を発券した場合でも、どちらの経路も乗車可能な[[選択乗車]]の扱いがされていた。</ref>。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、総武本線[[成東駅]]方面行きの列車との誤乗車防止の観点から、旅客案内上は成田線を[[千葉駅]]起点とみなし、成田線発着・経由列車は同駅以東で列車の[[方向幕]]表示を含めて「成田線」と案内表示される<ref group="注釈">[[横須賀・総武快速線]]から直通する成田線成田駅および成田空港駅行きの下り列車では千葉駅到着前に行先表示が「横須賀線-総武線」から「成田線」に切り替わる。</ref>。
空港支線は、成田駅から約2 km北の地点で本線と分岐し[[空港第2ビル駅]]を経て[[成田空港駅]]に向かう。直通の軌道系交通機関がないため「世界一不便な国際空港」と揶揄されていた[[成田国際空港|成田空港]]の状況を懸念した当時の[[運輸大臣]]である[[石原慎太郎]]の指示により、運輸省内部で1980年代半ばから実際的な検討が進められていた<ref>浅野明彦『鉄道考古学を歩く』JTB、1998年、pp.48-51</ref>、建設中止になっていた[[成田新幹線]](東京駅 - 成田空港駅間)の路盤の一部を活用することで、[[1991年]][[3月19日]]に[[京成本線]]成田空港駅 - 成田空港駅間と同時開業した([[成田空港高速鉄道]]も参照)。開業当初は成田空港駅のみだったが、翌[[1992年]][[12月6日]]の第2旅客ターミナルビル供用開始に伴い、3日前の[[12月3日]]に空港第2ビル駅が開業した。なお、[[1983年]](昭和58年)8月8日に[[千葉港]]と成田空港を結ぶ本格[[パイプライン輸送|パイプライン]]が稼動するまでの間は、成田線は千葉港と鹿島港から成田市[[ウイング土屋|土屋地先]]に設けられた基地まで鉄道で[[航空燃料]]を輸送(暫定輸送)するルートの一部に用いられていた<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=http://www.naaf.jp/business/transportation/|title=航空燃料輸送システム|accessdate=2018-08-25|publisher=日本空港給油株式会社}}</ref><ref>{{Cite book|author=[[大坪景章]]|editor=[[東京新聞|東京新聞千葉支局]]|title=ドキュメント成田空港 : 傷だらけの15年|publisher=[[東京新聞出版局]]|location=東京|year=1978|pages=141-143, 151-164,174-176,219-221}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=3 新東京国際空港の整備|url=https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa58/ind020204/003.html|website=www.mlit.go.jp|accessdate=2019-02-14}}</ref>。
成田駅から分岐して[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]に至る支線は、正式な愛称や通称などはないが、本線・空港支線とは区別された名称で呼称される場合があり、「我孫子支線」が一般的な表記である。関係者(JR社員など)は、単に「我孫子線」と呼ぶこともある。また、直通する[[常磐線]]の[[常磐快速線|快速]](および[[上野東京ライン]])<ref group="注釈">常磐線直通列車も我孫子支線内では全列車各駅停車。</ref>区間と併せて「常磐・成田線」としてくくっていることもある。[[2001年]]の我孫子支線全通100周年を機に、一般市民からこの支線の愛称を募集したところ、その中から「成田四季彩線(なりたしきさいせん)」と「水空ライン」の2つが最終的な候補になり、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で同年[[4月6日]]に放送されたバラエティー番組『[[プレゼンタイガー]]』で、[[森建二]](水空ライン派)、[[峠輿至高]](成田四季彩線派)によるプレゼンテーションと、JR東日本関係者、当時の我孫子市長・[[福嶋浩彦]]を含む沿線自治体の住民・関係者、並びに番組審査員4名([[おちまさと]]、[[真島満秀]]、[[森下直人]]、[[小西良幸|ドン小西]])の立会いの下審議した結果、この「'''水空ライン'''」が採用されたという<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Bc2-8kKhILE 成田線の愛称 「水空ライン」 誕生の瞬間!]</ref>。しかし、この愛称は我孫子市などの沿線自治体当局で使われた<ref>[https://web.archive.org/web/20070927030804/http://www.city.abiko.chiba.jp/index.cfm/15,0,84,html 水空ライン成田線 我孫子市](2007年9月27日時点のアーカイブ) - 現在は「水空ライン」の愛称はページ名から削除されている。</ref>のみで、JR東日本ではその後も「水空ライン」とは案内せず、「成田線」の案内のままである。
<gallery widths="200">
ファイル:Narita Line in Katori City 02.jpg|水郷駅 - 小見川駅間の田園地帯を走る209系(千葉県[[香取市]])
ファイル:航空燃料暫定輸送鉄道ルート案略図.jpg|航空燃料暫定輸送鉄道ルート
</gallery>
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長119.1 km
** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):かつては、佐倉駅 - 成田駅 - 我孫子駅が本線、成田駅 - 松岸駅が支線(松岸線)だったが、実際の運転系統に即して現在のように改正された。
*** 本線:佐倉駅 - 松岸駅間 75.4 km<ref name="sone 21"/>
*** 我孫子支線:我孫子駅 - 成田駅間 32.9 km<ref name="sone 21"/>
*** 空港支線:成田駅 - 成田線分岐点間 2.1 km<ref name="sone 21"/>
** 東日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])・[[成田空港高速鉄道]]([[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]])
*** 空港支線:成田線分岐点 - 成田空港駅間 8.7 km<ref name="sone 21"/>
** [[日本貨物鉄道]](第二種鉄道事業者):
*** 佐倉駅 - 香取駅間 (43.6 km)
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:27(起終点駅含む。本線・全支線の合計)
** 成田線所属駅に限定した場合、[[総武本線]]所属の佐倉駅・松岸駅と[[常磐線]]所属の我孫子駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>の3駅が除外され、24駅となる。
* 複線区間:佐倉駅 - 成田駅 - 成田線分岐点間 15.2 km<ref group="注釈">成田駅 - 成田線分岐点間は[[単線並列]]扱いではあるものの、双単線として上下線行き違うことも可能である。</ref>
** 上記以外の区間は単線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:
** 下記以外:自動閉塞式
** 水郷駅 - 松岸駅:自動閉塞式(特殊)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]・[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]併設(成田線分岐点 - 成田空港駅間除く)
* 最高速度:
** 佐倉駅 - 成田駅間 120 km/h
** 成田駅 - 松岸駅間 85 km/h
** 成田駅 - 成田空港駅間(空港支線) 130 km/h
** 我孫子駅 - 成田駅間(我孫子支線) 95 km/h
* [[運転指令所]]:千葉総合指令室(成田指令・[[列車集中制御装置|CTC]])
** 運転取扱駅(駅が信号を制御、運行を管理):佐倉駅、成田駅、我孫子駅
我孫子駅付近が[[東日本旅客鉄道首都圏本部|首都圏本部]]の管轄であるほかは、全線が[[東日本旅客鉄道千葉支社|千葉支社]]の管轄である。千葉支社と首都圏本部の[[JR支社境|境界]]は、我孫子駅 - 東我孫子駅間の佐倉起点43 km地点(常磐線[[天王台駅]]南方付近)にあたる。
全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」、および[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに含まれている。なお、成田駅 - 我孫子支線 - 我孫子駅 - 常磐線 - [[日暮里駅]] - [[東北本線]] - [[上野駅]]間は、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]と競合するため[[運賃#特定区間運賃|特定区間運賃]]が設定されている。
== 歴史 ==
成田線の歴史は[[総武本線]]の歴史と密接に関係するため、以下では総武本線の歴史も一部記載する。
[[江戸時代]]中期以降、[[江戸っ子]]に親しまれていた[[成田山新勝寺]]の参拝路として整備された[[成田街道]]([[佐倉街道#水戸佐倉道|水戸佐倉道]]、現在の[[国道14号]]、[[国道296号]]、[[国道51号]])や[[東廻り航路]]として[[北前船]]の往来が盛んであった[[佐原市|佐原]]とを結ぶ[[佐原街道]](現在の国道51号)、[[利根川]]沿いに整備された[[銚子道・銚子街道|銚子街道]](現在の[[国道356号]])、千葉の主要な街道として[[東京湾]]沿岸地域には[[房総往還]]([[千葉街道]]、現在の国道14号、[[国道16号]]、[[国道127号]])が存在していた。
しかし、[[明治]]期に入ると近代化により従来の[[街道]]が[[国道]]として[[大日本帝国|明治政府]]により整備され始め、相対的に佐原の[[水運]]が著しく減少した。それと同時期の[[1872年]](明治5年)には[[東海道本線|東海道線]]が開通、鉄道敷設運動が日本全国で始まった。この運動に乗じて、千葉県内では[[1886年]](明治19年)頃から[[馬車鉄道]]や[[蒸気機関車]]による鉄道敷設計画が始められた。[[1887年]](明治20年)11月には水運が減少したことによる佐原の将来を危惧し、代替として鉄道での貨物輸送による発展を目指した佐原の伊能権之丞らが発起した'''武総鉄道会社'''が設立、一方で同様の理由<ref group="注釈">[[イワシ|鰯]]を中心とする[[金肥]]を生産する街として栄えてきた[[太平洋]]に面する[[九十九里浜]]沿いの[[成東町|成東]]では、水運や[[富国強兵]]による工業化のため著しく衰退することを危惧したため。</ref>から成東の[[安井理民]]らが発起した'''総州鉄道会社'''が設立されるなど、相次いで鉄道敷設の申請を行った。なお、これらは前述した街道沿いでの敷設を計画した<ref group="注釈">武総鉄道会社は房総往還(千葉街道)、[[佐倉街道#千葉佐倉道|佐倉街道]]、[[銚子道・銚子街道|銚子道]]沿いでの敷設を計画した。</ref>。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また[[利根運河]]の開削も決まったばかりだったため、[[千葉県知事]]であった[[船越衛]]が鉄道敷設に対して慎重になり、両者に対し計画の翻意や合併を促してきた。総州鉄道は[[東京都知事|東京府知事]]を通じて正式に出願し、これに対し船越知事もやむなく武総鉄道を[[内閣 (日本)|内閣]]に進達したが、「[[利根川|利根]]・[[江戸川|江戸]]両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局却下されている。
; 1887年(明治20年)11月に申請された計画ルート
: 武総鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 佐原
: 総州鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街 - 芝山 - 八日市 - 銚子
なお、[[昭和]]初期までは現在の下志津駐屯地付近から[[四街道市]]、[[佐倉市]]一帯に、旧[[佐倉藩]]の砲術練習所を前身とする[[陸軍野戦砲兵学校]]や、下志津駐屯地の前身の[[下志津陸軍飛行学校]]といった陸軍施設があった。これを利用し、両社とも軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由する鉄道敷設計画を立てた<ref group="注釈">明治期に入ると[[明治新政府]]の政策により、[[江戸幕府]]の[[放牧|放牧地]]であった[[小金牧|小金]]・[[佐倉牧|佐倉]]が開墾されていた。後の[[八街市]]である。総州鉄道はこれも利用して当初の[[芝山町|芝山]]を経由する計画を変え、八街を経由する計画に変更した。</ref>。なお、双方とも本所([[錦糸町駅]])が起点であるのは、東京下町の市街地が住宅街で建設が困難と判断し、市街地を網羅していた[[東京都電車|東京市電]]と接続することを計画したためである。
上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の[[池田栄亮]]などの有力者を加え、[[1889年]](明治22年)1月に'''総武鉄道株式会社'''<ref group="注釈">[[1907年]](明治40年)、鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道の'''総武本線'''となった。会社名称は[[上総国]](かずさのくに)・[[下総国]](しもうさのくに)と[[武蔵国]]を結ぶことに由来する。</ref>を創立した。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の支持が得られるように[[国府台 (市川市)|国府台]]・[[津田沼]]・[[佐倉市|佐倉]]等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。
; 1889年(明治22年)1月に申請された計画ルート
: 総武鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街
総武鉄道の狙い通り「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする[[陸軍省]]の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は[[1893年]](明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された[[鉄道敷設法]]で「[[東京府]]下上野ヨリ[[千葉県]]下[[千葉市|千葉]]、佐倉ヲ経テ[[銚子市|銚子]]ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ[[木更津市|木更津]]ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された<ref group="注釈">なお、千葉県各所で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる[[鉄道忌避伝説]]であるとされる。</ref>。しかし、成田や佐原を経由する鉄道敷設計画に関して軍部は関心を示さなかった。
{{基礎情報 会社
|社名 = 成田鉄道
|ロゴ = [[File:Narita Railway Logomark 1895.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[千葉県]][[印旛郡]][[成田町]]<ref name="NDLDC936472"/>
|設立 = [[1895年]](明治28年)11月]<ref name="NDLDC936472"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 会長 [[山田英太郎]]<ref name="NDLDC936472"/>
|資本金 = 2,425,000円<ref name="NDLDC936472"/>
|特記事項 = 上記データは1920年(大正9年)現在<ref name="NDLDC936472">[{{NDLDC|936472/597}} 『日本全国諸会社役員録. 第28回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
[[1894年]](明治27年)7月20日に[[市川駅]] - [[佐倉駅]]間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。しかし、直後の8月1日に事態は一転した。日清両国で[[宣戦布告]]がなされ、即座に総武鉄道は[[日清戦争]]での兵員輸送に活用された。これにより軍部は佐原方面への鉄道敷設に関心を持つ。1894年(明治27年)に創立された下総鉄道<ref> 公文雑纂第二十六巻『[https://www.digital.archives.go.jp/img/2461689 下総鉄道株式会社発起并鉄道敷設ノ件]』(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>は[[1895年]](明治28年)に'''成田鉄道株式会社'''へと社名を変更、同年11月に鉄道敷設の免許状を取得した。これにより敷設が始められ、[[1897年]](明治30年)佐倉駅 - [[成田駅]]間が開業し、佐倉駅で総武鉄道との連絡も実現した。その後、成田駅以降の延伸が進められ、[[1898年]](明治31年)には当初の敷設計画の最終地であった[[佐原駅]]までが開業、[[1901年]](明治34年)には成田駅 - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]間(現在の'''我孫子支線''')が開業した。なお、支線が誕生した原因は、1896年(明治29年)に設立された関東鉄道(1897〈明治30年〉成田鉄道と合併、現在ある[[関東鉄道]]とは無関係)が申請していた成田 - 川越の免許を、成田鉄道延長線として成田 - 我孫子に短縮の上敷設したためである<ref> 公文雑纂第二十八巻『[https://www.digital.archives.go.jp/img/2485024 成田鉄道株式会社鉄道延長敷設仮免状下付ノ件]』(国立公文書館デジタルアーカイブ)</ref>。成田街道支線(松崎街道、[[千葉県道18号成田安食線|県道18号]])は成田山新勝寺 - [[安食 (栄町)|安食]] - [[木下 (印西市)|木下]]を、我孫子 - 木下は銚子街道が結んでおり、[[常磐線]]との接続や街道沿線の地域を補填することを図った<ref group="注釈">ただし、同じく銚子街道が通過していた木下 - [[滑川 (成田市)|滑川]]の利根川沿いの地域は補填されなかった。</ref>。[[1920年]]([[大正]]9年)に成田鉄道は[[鉄道敷設法|国有化]]され、佐倉駅 - 我孫子駅間、成田駅 - 佐原駅間が'''成田線'''となった。その後、[[1933年]](昭和8年)には松岸駅までが開業したことで総武本線と接続し、現在の路線形態が完成した。
総武本線では明治末期から[[複線]]化が進み、[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]の都市復興計画により、[[御茶ノ水駅]] - 錦糸町駅が開業、同時に[[千葉駅]]までの[[鉄道の電化|電化]]が推進された。しかし、千葉駅以東は蒸気機関車による[[非電化]]・[[単線]]が継続し、成田線も同様の扱いであった。
これらが一転するのは、戦後の[[モータリゼーション]]と1960年代以降の新東京国際空港(現・[[成田国際空港]])の建設計画に起因する。1950年代以降、蒸気機関車の淘汰が始まり、そして[[東京国際空港]](羽田空港)が増大する需要に対応できなくなっており新たな空港建設計画が始まった。候補地の一つであった[[富里市]]・八街市(旧:[[印旛郡]][[富里村]]・[[八街町]])に内定したが、反対運動により頓挫した。しかし、周辺市町村での建設が確定したことで、総武本線と成田線は佐倉駅までの電化・複線化を推進し、[[1966年]](昭和41年)には[[s:新東京国際空港の位置及び規模について|成田市を中心とした地区での空港建設が閣議決定]]したことにより、成田線の重要度が総武本線より増大、成田駅までの電化・複線化が決定した。なお、新空港へのアクセスとして[[成田新幹線]]の建設が立案され、[[1971年]]の[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画#昭和46年告示第17号|基本計画]]にも明記されていたが、開業することなく頓挫した。[[1991年]]に新幹線計画の遺構を一部流用する形で成田駅 - [[成田空港駅]]間('''空港支線''')が開業。[[京成本線]]とともに空港ターミナルへの直接乗り入れ([[空港連絡鉄道]])が実現した。成田線と京成本線では1960年代後期から1990年代初期まで[[三里塚闘争|空港建設反対運動]]による妨害行為が多発していたが、1991年([[平成]]3年)以降に行政や[[新東京国際空港公団]]などによる歩み寄りが始まったことなどからほぼ沈静化した。空港支線の開通により運行形態は大きく変化し、総武本線との[[直通運転]]による[[横須賀・総武快速線]]や[[成田エクスプレス]]が運行され始めた。また、千葉駅始発の成田線が増発され、一方で我孫子支線は[[2015年]](平成27年)に[[上野東京ライン]]として[[東海道本線]]や常磐線との直通運転が開始された。
=== 成田鉄道 ===
* 1894年([[明治]]27年)7月25日:下総鉄道に対し仮免状下付(佐倉-佐原間)<ref>[{{NDLDC|2946598/4}} 「私設鉄道仮免状下付」『官報』1894年8月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1895年(明治28年)
** 8月22日:成田鉄道に社名変更(届)<ref>『[[日本国有鉄道百年史]]』第4巻、380-382頁</ref>
** 11月27日:免許状下付<ref>鉄道省[{{NDLDC|2127166/307}} 『日本鉄道史』中篇]、1921年、519頁</ref><ref>[{{NDLDC|805398/52}} 『鉄道局年報. 明治28年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1897年]](明治30年)
** [[1月19日]]:成田鉄道(初代) 佐倉駅 - 成田駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2947351}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年1月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[12月29日]]:成田駅 - 滑河駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2947644/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1898年]](明治31年)[[2月3日]]:滑河駅 - 佐原駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2947664/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年2月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1901年]](明治34年)
** [[2月2日]]:成田駅 - 安食駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2948575/4}} 「運輸開始」『官報』1901年2月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[4月1日]]:安食駅 - 我孫子駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2948620/7}} 「運輸開始」『官報』1901年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 7月15日 鉄道免許状返納(1898年6月29日免許 佐原-小見川間 工事竣工期限経過ノタメ)<ref>[{{NDLDC|2948708/5}} 「私設鉄道免許状返納」『官報』1901年7月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** [[8月10日]]:松崎駅・小林駅が開業<ref>[{{NDLDC|2948735/4}} 「停車場設置」『官報』1901年8月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1902年]](明治35年)
**[[3月1日]]:[[日本鉄道]]上野駅 - 成田駅間直通列車運転開始<ref name="nippon-tetsudoushi-p521">鉄道省[{{NDLDC|2127166/308}} 『日本鉄道史』中篇]、1921年、521頁</ref><ref name=":0">{{Cite book|author=小倉 博|title=成田の歴史小話百九十話|year=2015|publisher=崙書房|pages=87-88}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.city.narita.chiba.jp/content/000021192.pdf|title=成田詣でをめぐり熱い乗客争奪戦を繰り広げる|accessdate=2019-03-13|publisher=成田市|format=PDF}}</ref>。
** [[4月9日]]:上野成田直通列車に日本初の喫茶室付一等客車が連結される([[食堂車]]としては日本で3番目)。喫茶室には、回転椅子とテーブルが置かれ、ビールやコーヒー、果物類が販売され、新聞雑誌も備え付けられていた<ref>{{cite book|和書|author=成田市史編さん委員会|title= 成田市史 通史 近現代編|publisher=成田市|date=1986-3|ncid=BN03068946|page=240}}</ref><ref>{{cite book|和書|author=成田市史編さん委員会|title=成田市史 近代編史料集 5 産業・経済|publisher=成田市|date=1986-3|ncid=BN03068946|page=465}}</ref><ref name=":0" /><ref name=":1" />。
**[[7月1日]]:久住駅が開業<ref>[{{NDLDC|2949004/4}} 「停車場設置」『官報』1902年7月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1904年]](明治37年)[[3月20日]]:成田駅 - 総武鉄道本所駅(現在の錦糸町駅)間直通列車運転開始<ref name="nippon-tetsudoushi-p521" />。
* 1918年([[大正]]7年)3月27日 [[軽便鉄道法|軽便鉄道]]に指定<ref>[{{NDLDC|2953807/15}} 「軽便鉄道指定」『官報』1918年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
=== 国有化以降 ===
* [[1920年]](大正9年)[[9月1日]]:成田鉄道が[[鉄道敷設法|国有化]]され佐倉駅 - 我孫子駅間、成田駅 - 佐原駅間が成田線となる<ref>[{{NDLDC|2954527/3}} 「鉄道省告示第57・58号」『官報』1920年8月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。松崎駅を下総松崎駅に改称。機関車8両、客車62両、貨車98両を引継ぐ<ref>[{{NDLDC|974242/100}} 『鉄道省鉄道統計資料. 大正9年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1926年]](大正15年)4月1日:大戸駅が開業<ref name="sone 23">[[#sone26|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線 23頁]]</ref>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月10日]]:佐原駅 - 笹川駅間が開業<ref name="sone 23"/>。
* [[1933年]](昭和8年)[[3月11日]]:笹川駅 - 松岸駅間が開業<ref name="sone 23"/>。
* [[1938年]](昭和13年)6月29日:我孫子駅 - 湖北駅間で線路が冠水。全面運休<ref>雨量新記録、東京の浸水十戸万戸に『東京日日新聞』(昭和13年6月30日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p220 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:[[決戦非常措置要綱]]に基づき、成田線(佐倉駅 - 松岸駅間)の列車の[[二等車]]が廃止される<ref>国鉄一等車、寝台車は全廃(昭和19年3月25日 朝日新聞 『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p784 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)4月1日:郡駅が下総神崎駅に改称<ref name="sone 23"/>。
* [[1958年]](昭和33年)4月1日:新木駅が開業<ref name="sone 23"/>。
* [[1967年]](昭和42年)[[12月21日]]:臨時新東京国際空港閣僚協議会決定「[[s:新東京国際空港関連事業計画について|新東京国際空港関連事業計画について]]」において、[[成田国際空港|成田空港]]供用開始(1971年予定)までを目途に、佐倉-成田間の複線化整備をすすめるとされる。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[2月25日]]:佐倉駅 - 成田駅間が[[鉄道信号機#自動信号機|自動信号化]]。
** [[3月28日]]:佐倉駅 - 成田駅間が電化<ref name="sone 23"/>。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[6月1日]]:成田駅 - 佐原駅間が自動信号化。
** [[6月5日]]:佐原駅 - 水郷駅間が自動信号化。
** [[7月15日]]:成田駅 - 香取駅間に[[列車集中制御装置]] (CTC) が導入。
** [[10月1日]]:成田駅 - 我孫子駅間が自動信号化。佐倉駅 - 成田駅 - 我孫子駅間が CTC 化。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[9月28日]]:成田駅 - 我孫子駅間が電化<ref name="sone 23"/>。
** [[9月29日]]:本佐倉信号場 - 酒々井駅 - 並木信号場間が複線化<ref name="sone 23"/>。本佐倉信号場・並木信号場が開業<ref name="sone 23"/>。
* [[1974年]](昭和49年)
** [[2月14日]]:水郷駅 - 松岸駅間が自動信号化。
** [[3月15日]]:香取駅 - 松岸駅間が CTC 化<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.26</ref>。
** [[10月26日]]:成田駅 - 松岸駅間が電化<ref name="sone 23"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[6月19日]]:成田空港への航空燃料暫定輸送を行う貨物列車を襲撃する過激派を警戒していたヘリコプターが佐倉市内の沿線に墜落。[[ファイル:新東京国際空港暫定輸送警備中に殉職した警察官らの慰霊碑.jpg|サムネイル|暫定輸送警備中にヘリコプター墜落事故で殉職した、[[鉄道公安職員]]・[[日本の警察官|警察官]]らの慰霊碑]]
* [[1979年]](昭和54年)[[10月10日]] - 早朝、久住駅 - 滑河駅間の大菅踏切付近でレールのジョイントのボルト、[[枕木]]の犬釘が抜かれる事件が発生。また同日深夜には同じ大菅踏切付近で成田空港へ航空燃料を輸送する貨物列車が襲撃を受けて[[ディーゼル機関車]]が破壊される事件が発生した<ref>成田燃料輸送車を襲う 過激派30人 機関車の計器を破壊 発煙筒で止め乗り込む『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月11日夕刊 3版 15面</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]]:成田駅 - 我孫子駅間の貨物営業廃止。
* [[1986年]](昭和61年)
** [[2月24日]]:佐倉駅 - 本佐倉信号場間、並木信号場 - 成田駅間が複線化<ref name="sone 23"/>。本佐倉信号場・並木信号場が廃止<ref name="sone 23"/>。
** [[11月1日]]:香取駅 - 松岸駅間の貨物営業廃止。
=== 国鉄分割民営化以降 ===
[[File:Chibakendo103 Narita City Osuge overpass 2.JPG|thumb|立体交差化された大菅跨線橋と成田線との交差部分(209系電車車両先端部付近に踏切跡の一部が見える)]]
[[File:Narita Line branch point and Narita Sky Access Line seen from above.jpg|thumb|成田線分岐点と成田スカイアクセス線を空撮(2023年)]]
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により東日本旅客鉄道に承継<ref name="sone 23"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]]:成田駅 - 成田空港駅間の支線が開業(当初より CTC 、ATS-P 導入)<ref name="sone 23"/>。
* [[1992年]](平成4年)
** [[9月14日]]:午後4時すぎ、久住駅 - 滑河駅間の大菅踏切で千葉発佐原行き普通列車1457Mと過積載のダンプカーが衝突。列車の運転士は救急車で病院に搬送中に死亡。この事故を契機に踏切事故から運転士を保護するため、前面強化構造ではない[[国鉄113系電車|113系]]や[[国鉄115系電車|115系]]、[[国鉄165系電車|165系]]などの一部車両に補強板が取り付けられたほか、[[JR東日本209系電車|209系]]以降の電車の運転席に[[クラッシャブルゾーン]]が設けられた。事故後の1998年2月25日に大菅踏切は立体交差化され、廃止となった<ref>{{Cite news |title=要注意個所の踏切 成田線 立体交差に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-03-02 |page=3 }}</ref>。(詳細は「[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#成田線大菅踏切事故|成田線大菅踏切事故]]」を参照)
** [[12月3日]]:空港第2ビル駅が開業<ref name="sone 23"/>。
* [[1994年]](平成6年)[[10月28日]]:佐倉駅 - 成田駅間で ATS-P 使用開始。
* [[1997年]](平成9年)
** この年:我孫子支線の部分複線化工事開始(用地買収段階で凍結)。
** [[3月22日]]:成田駅 - 松岸駅間の普通列車がすべて禁煙となる<ref>{{Cite news |title=普通列車内の禁煙・分煙化 JR千葉支社22日から拡大 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-12 |page=3 }}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[3月12日]]:成田駅 - 我孫子駅間で ATS-P 使用開始。
* [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]の佐倉駅 - 成田駅間でICカード乗車券「[[Suica]]」サービス開始。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月14日]]:京成成田空港線敷設工事にともない、[[根古屋信号場 (JR東日本)|根古屋信号場]]が廃止<ref name="sone 23"/>。空港第2ビル駅寄りに[[堀之内信号場]]が開業<ref name="sone 23"/>。成田駅 - 松岸駅間が東京近郊区間に組み込まれ、同時に「Suica」サービス開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf Suicaをご利用いただけるエリアが広がります。]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月22日</ref>。
** 10月1日:113系の老朽化などの事由により、千葉駅 - 成田駅 - 銚子駅間に209系2000番台・2100番台電車の投入を開始<ref>{{PDFlink|[http://www.jrchiba.jp/news/pdf/20090821209kei.pdf 普通列車の車両変更について]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社プレスリリース 2009年8月21日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)2月14日:成田駅 - 松岸駅間で ATS-P 使用開始。
* [[2015年]](平成27年)3月14日:[[上野東京ライン]]開業に伴い、我孫子支線の一部電車が東海道本線品川発着となる。
* [[2018年]](平成30年)4月15日:成田市の都市計画道路事業の一環で、成田駅 - 下総松崎駅間の一部区間([[成田湯川駅]]付近)を新線に切り替え<ref>{{Cite web|和書|date=2017-09-13|url=https://www.kensetsunews.com/web-kan/104446|title=【現場最前線】切土部にドローン活用! 線路切替へ最終段階 JR成田線成田・下総松崎間高架橋新設|publisher=株式会社日刊建設通信新聞社|accessdate=2018-05-06}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=成田線下総松崎駅・成田駅間線路切換工事に伴う列車運休及び代行輸送についてのお知らせ|publisher=東日本旅客鉄道株式会社千葉支社|date=2018-03-07|url=https://www.jreast.co.jp/chiba/news/pdf/pre1803_kirikae.pdf|accessdate=2018-05-06}}</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)
** [[3月13日]]:佐原駅 - 香取駅間の[[JR東日本E131系電車|E131系]]使用列車(鹿島線直通)で[[ワンマン運転]]を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年3月ダイヤ改正について|date=2020-12-18 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20201218_c01.pdf|publisher=東日本旅客鉄道千葉支社|accessdate=2020-12-18}}</ref>。
** 4月30日:4月1日に我孫子駅 - 成田駅間開業120周年を迎えたことを記念し、帯色を同区間で1990年代後半まで使用していた車両(113系)をイメージした[[横須賀線#車両の色|スカ色]]に変更した[[JR東日本E231系電車|E231系]](マト139編成)を5月末まで運転<ref>{{Cite press release|和書|title= 成田線(我孫子駅〜成田駅間)開業120周年記念事業 |publisher= 成田線活性化推進協議会、東日本旅客鉄道株式会社千葉支社、東日本旅客鉄道株式会社東京支社 |date=2021-03-30|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/chiba/20210330_c01.pdf|format=PDF|accessdate=2021-04-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/106694|title=「スカ色」帯のE231系が運行開始 成田線我孫子~成田間開業120周年の記念列車で|accessdate=2021-06-03|publisher=メディア・ヴァーグ|date=2021-04-30|website=乗りものニュース|quote=(113系電車)をイメージした「スカ色」帯}}</ref>。[[File:Series-E231-139_Yokosuka-Wrapping.jpg|thumb| 成田線開業120周年記念列車<br/>(E231系0番台マト139編成)]]
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:成田駅 - 佐原駅間のE131系使用列車でワンマン運転を開始<ref name="c20211217">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/chiba/20211217_c01.pdf|title=2022年3月ダイヤ改正について|format=PDF|language=日本語|publisher=[[東日本旅客鉄道千葉支社]]|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-18}}</ref>。
== 運行形態 ==
{| {{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00b261}}
{{BS-table}}
{{BS-colspan}}
'''本線'''
{{BS||||[[総武本線]]|}}
{{BS2||BHF|0.0|JO 33 [[佐倉駅]]||}}
{{BS2||ABZgr|||総武本線|}}
{{BS2||eDST|4.0|''本佐倉信号場''|-1986|}}
{{BS2||TUNNEL1||||}}
{{BS2||BHF|6.4|JO 34 [[酒々井駅]]||}}
{{BS2||eDST|10.0|''並木信号場''|-1986|}}
{{BS2|STR+l|KRZo|||[[京成電鉄|京成]]:[[京成本線]]|}}
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{{BS2|STRr|ABZgl||我孫子支線||}}
{{BS2||eABZgr|||''[[千葉交通|成田鉄道]]:[[成田鉄道多古線|多古線]]''|}}
{{BS2|KRW+l|KRWgr||||}}
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{{BS2||BHF|20.0|[[久住駅]]||}}
{{BS2||BHF|25.5|[[滑河駅]]||}}
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{{BS2||BHF|47.5|[[水郷駅]]||}}
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{{BS2||BHF|66.2|[[下総豊里駅]]||}}
{{BS2||BHF|71.0|[[椎柴駅]]||}}
{{BS2||ABZg+r|||総武本線|}}
{{BS2||BHF|75.4|[[松岸駅]]||}}
{{BS||||総武本線|}}
{{BS-colspan}}
----
'''空港支線'''
{{BS2|HST|BHF|0.0|JO 35 成田駅|左:京成成田駅|}}
{{BS4|STR+l|STRr|ABZgl|||我孫子支線||}}
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{{BS4|||ABZgl|KRZo||成田線本線||}}
{{BS4||STR+l|KRZu|STRr||||}}
{{BS2|STR|eDST|5.3|''[[根古屋信号場 (JR東日本)|根古屋信号場]]''|-2009|}}
{{BS2|BST|STR|||[[根古屋信号場 (京成)|根古屋信号場]] 2010-|}}
{{BS4|LSTR|STR|DST|||[[堀之内信号場]]|2009-|}}
{{BS4|tSTRa|tSTRa|tSTRa|||||}}
{{BS4|tKRWgl|tKRWg+r|tSTR|||||}}
{{BS4|tSTR|O1=POINTERg@fq|tSTR|tSTR||||京成:[[京成東成田線|東成田線]]|}}
{{BS4|tSTR|tSTR|O2=POINTERg@fq|tSTR||||京成:京成本線|}}
{{BS4|tSTR|tBHF|O2=HUBaq|tBHF|O3=HUBeq|FLUG|9.8|JO 36 [[空港第2ビル駅]]||}}
{{BS4|tHST+GRZq|tSTR|tSTR||||[[東成田駅]]|}}
{{BS4|tSTRl|tKRZt|tKRZt||||[[芝山鉄道線]]|}}
{{BS4|FLUG|tKBHFe|O2=HUBaq|tKBHFe|O3=HUBeq||10.8|JO 37 [[成田空港駅]]||}}
{{BS-colspan}}
----
'''我孫子支線'''
{{BS2|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|0.0|[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]||}}
{{BS2|STR|ABZgl|||[[常磐快速線]]|}}<!--線路を表しているのでこの表記のほうが良い-->
{{BS2|STRl|KRZo|||[[常磐緩行線]]|}}
{{BS2||BHF|3.4|[[東我孫子駅]]||}}
{{BS2||BHF|6.3|[[湖北駅]]||}}
{{BS2||BHF|8.9|[[新木駅]]||}}
{{BS2||BHF|12.1|[[布佐駅]]||}}
{{BS2||BHF|14.0|[[木下駅]]||}}
{{BS2||BHF|18.3|[[小林駅 (千葉県)|小林駅]]||}}
{{BS2||hKRZWae|||[[長門川]]|}}
{{BS2||BHF|23.2|[[安食駅]]||}}
{{BS2||BHF|27.8|[[下総松崎駅]]||}}
{{BS2|HSTq|KRZu|||京成:成田スカイアクセス線|}}
{{BS2||STR|||[[成田湯川駅]]|}}
{{BS2||ABZg+l||成田線本線||}}
{{BS4|||STR|STR+l|||京成:京成本線|}}
{{BS4|||BHF|BHF|32.9|成田駅|京成成田駅|}}
|}
|}
=== 旅客輸送 ===
==== 本線 ====
普通列車は、日中上りの半数および日中以外には総武本線[[千葉駅]]まで乗り入れ、日中の多くは[[成田駅]]および総武本線[[銚子駅]]を始発・終着駅とする。快速列車は[[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武快速線]]から千葉駅・総武本線を経て当線に乗り入れる。総武快速線を経由して[[成田空港駅]]に直通する列車(「エアポート成田」という愛称がついていたが、2018年3月17日のダイヤ改正で愛称廃止)も設定されており、成田駅で成田駅 - 銚子駅間の普通列車と接続する。総武本線経由や鹿島線列車と区別する意味合いから総武線内でも成田線に直通する列車を「成田線の列車」として案内している。
主な運用車両は、快速列車が[[JR東日本E217系電車|E217系]]・[[JR東日本E235系電車#1000番台|E235系]]、普通列車が[[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|209系]]・[[JR東日本E131系電車|E131系]](鹿島線直通列車)である。優等列車では、特急「[[成田エクスプレス]]」の[[JR東日本E259系電車|E259系]]、臨時特急「[[あやめ (列車)|あやめ祭り号]]」の[[JR東日本E257系電車#500番台|E257系]]などである(詳細は「[[#使用車両|使用車両]]」を参照)。
本線を走る大半の列車が佐倉駅 - 成田駅間を経由する東京方面直通の[[成田国際空港|成田空港]]アクセス列車であり、[[空港連絡鉄道]]としての役割が重要視されており(「[[#空港支線|空港支線]]」の節も参照)、成田空港行き快速列車から接続する成田発の銚子行き普通列車が設定されているように、空港連絡列車中心のダイヤ編成となっている。また長編成の[[貨物列車]]も走行するため、[[久住駅]] - [[香取駅]]間の[[列車交換|交換設備]]では線路長を長く取っている。
香取駅から分岐する[[鹿島線]]直通列車は、多くが[[佐原駅]]発着だが、成田駅発着列車や東京方面直通列車も設定されている。かつては鹿島線特急であった「あやめ」は、2004年10月16日に成田線特急「すいごう」を統合し、成田線特急「あやめ」として銚子駅・[[鹿島神宮駅]]発着便がそれぞれ1往復ずつ(臨時便は除く)運行されていたが、2015年3月14日の改正で廃止された。いずれも佐原駅 - 鹿島神宮駅・銚子駅間は普通列車として運行されていた。
成田駅 - 佐原駅 - 銚子駅間は1時間に1 - 2本程度の運転である。
千葉駅 - 佐原駅 - 銚子駅間の普通列車は最大8両編成、鹿島線直通列車は2両または4両編成で運転されている。
なお、前述の通り千葉駅 - 佐倉駅間は総武本線であり、そこに成田線列車が乗り入れている形態であるが、[[交通新聞社]]発行の[[時刻表]]などにおいては、成田線系統に重きが置かれている場合がある。例えば、「全国版コンパス時刻表」や「MY LINE 東京時刻表」では、千葉駅 - 四街道駅・佐倉駅間の総武本線内しか運転しない列車であっても、これらは成田線のページにしか載っておらず、総武本線のページでは佐倉駅を跨ぐ列車のみを掲載している。
大晦日から元日にかけての終夜運転では、東千葉駅のみ通過の千葉駅 - 成田駅間の209系快速列車が4往復程度設定される。
* 担当乗務員:[[千葉車掌区|千葉運輸区]]、[[佐倉運輸区]]、[[銚子運輸区]]、[[東京車掌区]](特急列車のみ)、[[東京電車区]](特急列車のみ)
==== 空港支線 ====
前述のように、成田新幹線の施設を転用し本線に接続してJRの成田国際空港への[[空港連絡鉄道|アクセス路線]]とした経緯があるため、成田駅から本線との分岐点([[イオンモール成田]]付近にあり、単独の信号場ではなくここまでが成田駅構内扱い)までがJR東日本の第一種鉄道事業区間、そこから先は成田空港高速鉄道の第三種鉄道事業区間(JR東日本が第二種鉄道事業者)となっている。なお、分岐点には黒地に白抜きで「'''NKT 0.0'''」と書かれた境界を示す標識が立っている。
この区間を走る定期列車は、朝夕の通勤時間帯及び日中時間帯に209系8両編成による総武本線千葉駅発着の[[普通列車]]が6往復にて運行されている以外は[[特別急行列車|特急]]「[[成田エクスプレス]]」と[[快速列車|快速]]のみで、いずれの列車も空港第2ビル・成田空港の両駅に停車する。佐倉駅・成田駅 - 成田空港駅間のシャトル運転はなく、全列車がこれらの[[総武本線]]直通列車である。日中の本線は1時間あたり成田エクスプレス1 - 2本、快速及び千葉駅発着の普通が1 - 2本のダイヤとなっているが、同じく成田空港に乗り入れる京成線には特急「[[スカイライナー]]」が3本(日中20分間隔)・京成本線経由の快速が3本(日中20分間隔)・成田スカイアクセス線経由のアクセス特急が1 - 2本(日中40分間隔)運行されており、JRよりも圧倒的に本数が多い。
2022年3月改正までは総武快速線の[[横須賀・総武快速線#通勤快速|通勤快速]]のうち朝の上り1本が空港支線に直通していた。
* 担当乗務員:[[千葉車掌区|千葉運輸区]]、[[佐倉運輸区]]、[[銚子運輸区]]、[[東京車掌区]]、[[東京電車区]]
==== 我孫子支線 ====
現在は支線内(我孫子駅 - 成田駅間)運転のほか、[[常磐線]][[常磐快速線|快速電車]]が直通運転を行っているが、本線(佐倉・佐原方面)・空港支線との定期列車の直通運転は行われていない。そのため、常磐快速線の一部として機能している。
起点から終点へ向かう列車を下りとする定義に従えば我孫子方面が「下り」であるが、実際には我孫子方面が「上り」、成田方面が「下り」として運用されており、[[列車番号]]も我孫子から成田へ向かう列車に(下りを示す)奇数番号が付番されている。常磐線直通列車は我孫子駅で列車番号が変わる。
定期列車はすべて普通列車(各駅停車)で、途中駅発着の区間列車もなく、全列車が我孫子駅 - 成田駅間の全区間を通して運転する。線内運転列車のほか、常磐線直通列車(常磐線内快速)が下り平日16本・土休日17本、上り20本運行されており、このうち朝の上り2本と平日夜2本と、我孫子発18時 - 23時台の下り各1本(ただし、19時台は2本で計7本、土休日は20時台の1本を除く6本)は[[上野東京ライン]]経由[[品川駅]]発着となっている。日中は線内運転の列車と常磐線直通列車が1時間に1本ずつ運行されている。なお、直通の有無や発着駅が平日と土曜・休日で異なる列車もあるが、線内の運転時刻は全日同一である。上野駅発着の一部列車と品川駅発着の全列車は我孫子駅で[[増解結]]を行う。増解結を行う列車は成田線内は基本編成10両編成での運転で、我孫子駅では5両の付属編成が増解結の対象となる。本線・空港支線で見られるような[[多層建て列車|多層建て]]は行っていない。なお、直通列車の場合でも昼間を除き我孫子駅での停車時間が長い列車が多く、上りは常磐線[[土浦駅]]・[[取手駅]]方面からの先行の快速上野、上野東京ライン経由品川行きに、下りは後発の快速から、乗り継げる場合が多い。なお我孫子駅は常磐線の[[特別快速]]は停車しない。
時刻表上においては、常磐快速線直通列車を含め線内は全列車が普通列車であるが、成田発上野行き列車の車内放送では「快速 上野行き」と案内されている。駅に掲示されている時刻表にも「快速 上野行き」と表記されていた期間があり、利用者の間では成田発上野行きの列車は「快速」との認識がある<ref>平成18年3月発行の成田駅監修、[[ジェイアール東日本企画|(株)ジェイアール東日本企画]]が制作した『成田駅列車時刻表』による。</ref>。これは、本線・空港支線における総武快速線直通列車と類似しているが、本線・空港支線の直通列車は千葉駅以東でも快速列車として運転する点が異なる(千葉駅以東にも通過駅がある)。また、このような直通運転先の種別での案内は本線区に限らず行われている。
全線単線で、全駅に[[列車交換]]設備がある。車両は常磐線快速電車と共用の[[直流電化|直流]]電車([[JR東日本E231系電車|E231系]]5両または10両編成)を使用する。
このほか、[[正月]]には[[成田山新勝寺]][[初詣]]参拝向けに終夜運転が2往復程度運転されるほか、[[団体専用列車]]も運行される場合が多い。
沿線では、[[我孫子市]]・[[印西市]]を中心に住宅が多い上、沿線自治体以外(旧[[本埜村]]、[[茨城県]][[北相馬郡]][[利根町]]等)からの需要もあるが、朝の上り以外は毎時2 - 3本という本数の少なさから、利用者が[[路線バス]]や自家用車等で直接常磐線や[[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]]の駅に流れてしまう傾向にあり、中間駅で乗車人員が多い湖北駅、布佐駅でも4000人程度に留まっている。特に東我孫子駅からは徒歩15分程度の常磐線[[天王台駅]]に、湖北駅周辺からは天王台駅・我孫子駅へ高頻度運転されている[[阪東自動車]]の路線バスに多くの利用者が流れている。
[[2007年]]末から[[2008年]]夏の多客時には上野駅 - 我孫子駅 - 成田駅 - 成田空港駅間で[[臨時列車|臨時]]快速列車「'''[[エアポート常磐]]'''」が運行された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/ibaraki/071122/ibr0711220153000-n1.htm 年末年始に「エアポート常磐」運行 JR東日本] - [[産経新聞]] 2007年11月22日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/071124/tky0711240336004-n1.htm 常磐線と成田空港直通快速] - 産経新聞 2007年11月24日</ref>。
1985年11月の「[[国電同時多発ゲリラ事件]]」を契機に、[[運転士]]の担当を、常磐快速線の電車を担当する[[松戸運転区]]に移管した。車掌は[[松戸車掌区]]と[[成田車掌区]]が共同で担当した。[[国鉄千葉動力車労働組合]](動労千葉)の[[ストライキ]]時でも、我孫子支線では正常に運行されていた。
[[2012年]][[3月17日]]、[[我孫子運輸区]]が新設され、松戸車掌区と松戸運転区(ともに前日の3月16日をもって廃止)、および成田車掌区から業務が移管された<ref>{{Cite web|和書| url=http://rail.hobidas.com/news/info/article/131468.html | title=JR東日本 「綾瀬運輸区」と「我孫子運輸区」を設立 | publisher=鉄道ホビダス | date=2012年02月24日 | accessdate=2012年03月25日}}</ref>。
* 担当乗務員:[[我孫子運輸区]]
=== 過去の列車 ===
==== 快速(千葉駅発着)====
1975年3月10日のダイヤ改正で千葉駅 - 銚子駅間に1日1往復設定された快速で、東京駅 - 千葉駅間の快速が「総武快速」と呼ばれたのと区別するため、この快速は「千葉快速」と呼ばれた<ref>鉄道ピクトリアル2021年9月号 №989 p.22 2021年9月1日発行</ref>。朝に上り、夜に下りが運転され、当初の停車駅は千葉駅・四街道駅・佐倉駅・成田駅・滑河駅・下総神崎駅・佐原駅・小見川駅・笹川駅・下総豊里駅・松岸駅・銚子駅だったが、1978年10月2日のダイヤ改正で普通に格下げされる形で廃止された。
なお、2019年10月27日より深夜帯に成田空港発千葉行きが1本設定された。
=== 貨物輸送 ===
佐倉駅 - 香取駅間を1日2往復の[[高速貨物列車]]が経由するが、成田線内にはJR貨物の駅は設けられていないため、線内での貨物取扱もない。どちらも香取駅から鹿島線経由で[[鹿島臨海鉄道鹿島臨港線]][[神栖駅]]に発着する列車である<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2014|title=|journal=貨物時刻表 平成26年3月ダイヤ改正|issue=|pages=134|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
すべて[[電車]]で運転されている。
; 特急列車
:* [[JR東日本E259系電車|E259系]]([[成田エクスプレス]]で使用、[[鎌倉車両センター]]所属)
; 普通・快速列車
:* [[JR東日本E217系電車|E217系]](鎌倉車両センター所属)
:** [[横須賀・総武快速線]]直通列車用で、本線と空港支線の快速・通勤快速として久里浜駅 - 東京駅 - 成田空港駅・鹿島神宮駅間で11両または15両編成で運行される。15両の場合、横須賀線[[逗子駅|逗子]]以南では[[久里浜駅|久里浜]]寄り4両が逗子で[[増解結]]される。[[鹿島神宮駅|鹿島神宮]]発着列車は4両編成で運行される。
:* [[JR東日本E235系電車#1000番台|E235系1000番台]]
:** 横須賀・総武快速線直通列車用で、2020年12月21日より千葉駅 - 成田空港駅・鹿島神宮駅間で運行開始<ref name="jreaste235-1000">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201112062336/https://www.jreast.co.jp/press/2020/yokohama/20201112_y02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=横須賀・総武快速線E235系営業運転開始について|publisher=東日本旅客鉄道横浜支社|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|archivedate=2020-11-12}}</ref>。
:* [[JR東日本209系電車|209系]][[JR東日本209系電車#2000番台・2100番台|2000番台・2100番台]]([[幕張車両センター]]所属)
:** 本線と空港支線の普通として、千葉駅 - 銚子駅・成田空港駅間で4・6・8両編成で運行されている。
:* [[JR東日本E131系電車|E131系]](幕張車両センター所属)
:** [[2021年]][[3月13日]]より運行開始<ref>{{Cite press release|和書|title=房総・鹿島エリアへの新型車両の投入について |url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200512_ho01.pdf |publisher=東日本旅客鉄道 |format=PDF |date=2020-5-12 |accessdate=2020-5-12}}</ref>。当路線では[[鹿島線]]直通列車(佐原駅 - 鹿島神宮駅間)および成田駅 - 佐原駅間の一部列車で運用される。全区間で[[ワンマン運転]]を行っている<ref group="注釈">2022年3月のダイヤ改正までは、成田駅 - 佐原駅間は車掌乗務であった。</ref>。
:* [[JR東日本E231系電車|E231系]]([[松戸車両センター]]所属)
:** 我孫子支線でのみ使用されており、常磐線快速電車と共通運用で5両または10両編成で運行される。
; 臨時列車
:* [[JR東日本E257系電車|E257系500番台]](2015年3月13日まで特急「[[あやめ (列車)|あやめ]]」で定期運用に就いていた。幕張車両センター所属)
:* [[JR東日本255系電車|255系]](2015年3月13日まで特急「あやめ」に就き、E257系500番台の代走車両として使用されていた。幕張車両センター所属)
:* 209系[[JR東日本209系電車#2200番台|2200番台]](団体専用の[[サイクルトレイン]]「[[BOSO BICYCLE BASE|B.B.BASE]]」で使用される。幕張車両センター所属)
:* [[JR東日本E257系電車|E257系5000番台]](1月のみ運転される臨時快速列車「成田山初詣青梅号」と「成田山初詣やまなし号」に使用される。[[松本車両センター]]所属)
:* [[国鉄185系電車|185系]](1月のみ運転される臨時快速列車「成田山初詣横須賀号」「成田山初詣伊東号」「成田山初詣むさしの号」や、団体列車等に使用される。[[大宮総合車両センター]]所属)
<gallery>
ファイル:JRE Series-E259-Ne007.jpg|E259系
ファイル:Series-E217-Y45.jpg|E217系
ファイル:JRE Series-E235-1000 J12.jpg|E235系1000番台
ファイル:Series209-2100-C617.jpg|209系2000番台・2100番台
ファイル:Series-E131-R06.jpg|E131系
ファイル:E231系0番台マト107編成.jpg|我孫子支線 E231系
ファイル:JRE seriesE257 type500 LimitedExpressAyame.jpg|E257系500番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
; 準急・急行・特急列車
:* 電車
:** [[国鉄153系電車|153系]](水郷・鹿島で使用)
:** [[国鉄165系電車|165系]](水郷・鹿島で使用)
:** [[国鉄183系電車|183系]](あやめ・すいごうで使用)
:** [[JR東日本253系電車|253系]](成田エクスプレスで使用、鎌倉車両センター所属) - 2010年6月30日で運用終了
:* [[気動車]]
:** [[国鉄キハ10系気動車|キハ17系]](キハ16・17・18形)
:** [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]
:** [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]](総武・水郷で使用)
:** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]](水郷で使用)
; 普通・快速列車
:* 電車 - 1974年の電化完成以後
:** [[国鉄113系電車|113系]]([[幕張車両センター]]所属) - 我孫子支線で1998年3月13日まで、本線で2011年8月まで
:** [[国鉄211系電車#1000・3000番台|211系3000番台]](幕張車両センター所属) - 本線と空港支線の普通として2013年3月15日まで
:** [[国鉄103系電車|103系]](松戸車両センター所属、我孫子支線のみ) 1973年頃 - 2006年3月17日まで
:** [[国鉄72系電車|72系]] - 1977年まで
:* 気動車 - 1974年の電化完成まで
:** [[国鉄キハ35系気動車|35系]]・[[国鉄キハ45系気動車|45系]]・[[国鉄キハ20系気動車|20系]]・[[国鉄キハ10系気動車|17系]]
:* 蒸気機関車・ディーゼル機関車牽引による旧型客車
; 臨時列車
:* 電車
:** [[国鉄485系電車|485系]]([[ニューなのはな]]、幕張車両センター所属)
<gallery>
ファイル:Narita express.jpg|253系
ファイル:211-3000 Narita Line 20061029.JPG|211系3000番台
ファイル:JRE 113-NaritaLine.jpg|113系
ファイル:Jnr 103-1000.jpg|103系1000番台
ファイル:Nnanohana2.JPG|485系(ニューなのはな)
</gallery>
== 駅一覧 ==
* 全駅[[千葉県]]内に所在。
* [[駅ナンバリング]](駅番号)は[[横須賀・総武快速線]]・総武本線千葉駅 - 佐倉駅間からの連番で割り振られている。
* 停車駅
** 普通…すべての駅に停車
** 快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過
** 特急…「[[成田エクスプレス]]」「[[あやめ (列車)]]」参照
* 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可)、∨:これより下は単線、∧:終点(交換可能)
=== 本線(佐倉駅 - 成田駅間)・空港支線 ===
便宜上、末端部の全列車が直通する総武本線千葉駅 - 佐倉駅間も合わせて記載する。
{|class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|{{縦書き|路線|height=3em}}
!rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|駅番号
!rowspan="2" style="width:14em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="4"|累計営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b261; background:#acf;"|{{縦書き|快速|height=3em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|東京<br>から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|千葉<br>から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|佐倉<br>から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|成田<br>から
|-
!colspan="8" style="text-align:center" |直通運転区間
|colspan="6"|[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線]][[東京駅]]経由 [[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀線]][[久里浜駅]]まで
|-
|rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|総武本線|height=5em}}
!JO 28
|[[千葉駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|39.2
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|
|
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]]・[[File:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]](JB 39)・{{Color|#db4028|■}}[[外房線]]・{{Color|#00B2E5|■}}[[内房線]]<ref group="*">内房線の正式な起点は外房線[[蘇我駅]]だが、普通列車はすべて千葉駅発着</ref><br>[[千葉都市モノレール]]:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]] (CM03)<br>[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線|千葉線]]([[京成千葉駅]]: KS59)
|style="text-align:center;"|∥
|style="text-align:center; width:1em;" rowspan="3"|{{縦書き|[[千葉市]]|height=4em}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[中央区 (千葉市)|中央区]]
|-
!JO 29
|[[東千葉駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|40.1
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|
|
|style="background:#acf; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!JO 30
|[[都賀駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|43.4
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|
|
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|千葉都市モノレール:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] 2号線 (CM11)
|style="text-align:center;"|∥
|[[若葉区]]
|-
!JO 31
|[[四街道駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|46.9
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:right;"|
|
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="2" colspan="2"|[[四街道市]]
|-
!JO 32
|[[物井駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|51.1
|style="text-align:right;"|11.9
|style="text-align:right;"|
|
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|∥
|-style="height:1em;"
!rowspan="2"|JO 33
|rowspan="2"|[[佐倉駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|4.2
|rowspan="2" style="text-align:right;"|55.3
|rowspan="2" style="text-align:right;"|16.1
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2"|
|rowspan="2" style="background:#acf; text-align:center;"|●
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道:{{Color|#ffc20d|■}}[[総武本線]]([[成東駅|成東]]方面)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|∥
|rowspan="2" colspan="2"|[[佐倉市]]
|-
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|'''{{縦書き|成田線(本線)|height=7.5em}}'''
|-
!JO 34
|[[酒々井駅]]
|style="text-align:right;"|6.4
|style="text-align:right;"|61.7
|style="text-align:right;"|22.5
|style="text-align:right;"|6.4
|
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|∥
|style="white-space:nowrap;" colspan="2"|[[印旛郡]]<br>[[酒々井町]]
|-
!rowspan="2"|JO 35
|rowspan="2" style="height:5em;"|[[成田駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|6.7
|rowspan="2" style="text-align:right;"|68.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|29.2
|rowspan="2" style="text-align:right;"|13.1
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="background:#acf; text-align:center;"|●
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道:成田線(本線銚子方面・我孫子支線)<br>京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]・[[京成東成田線|東成田線]]([[京成成田駅]]: KS40)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|∥
|rowspan="6" colspan="2"|[[成田市]]
|-
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center;"|'''{{縦書き|成田線(空港支線)|height=9.5em}}'''
|-
!
|(成田線分岐点)
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|70.5
|style="text-align:right;"|31.3
|style="text-align:right;"|15.2
|style="text-align:right;"|2.1
|style="background:#acf; text-align:center;"||
|実際の本線との分岐点
|style="text-align:center;"|∨
|-
!
|[[堀之内信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:center;"| -
|style="background:#acf; text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!JO 36
|[[空港第2ビル駅]]<br>(成田第2・第3ターミナル)
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:right;"|78.2
|style="text-align:right;"|39.0
|style="text-align:right;"|22.9
|style="text-align:right;"|9.8
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] 本線・[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス)]](KS41)
|style="text-align:center;"||
|-
!JO 37
|[[成田空港駅]]<br>(成田第1ターミナル)
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|79.2
|style="text-align:right;"|40.0
|style="text-align:right;"|23.9
|style="text-align:right;"|10.8
|style="background:#acf; text-align:center;"|●
|京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] 本線・[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] 成田空港線(成田スカイアクセス)(KS42)
|style="text-align:center;"|∧
|}
{{Reflist|group="*"}}
2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref name="passengeer"/>の対象となっている。
=== 本線(成田駅 - 松岸駅間) ===
* 便宜上、末端部の全列車が直通する総武本線松岸駅 - 銚子駅間も合わせて記載する。
* この区間では、快速は成田駅 - 香取駅間で運転され各駅に停車。
{|class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|{{縦書き|路線|height=3em}}
!rowspan="2" style="width:9em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="3"|累計営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00b261;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|東京<br>から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|千葉<br>から
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b261;"|佐倉<br>から
|-
|rowspan="15" style="width:1em; text-align:center;"|'''{{縦書き|成田線(本線)|height=8em}}'''
|[[成田駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|68.4
|style="text-align:right;"|29.2
|style="text-align:right;"|13.1
|東日本旅客鉄道:成田線(本線千葉方面・我孫子支線・空港支線)<br>京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]・[[京成東成田線|東成田線]]([[京成成田駅]]: KS40)
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="4"|[[成田市]]
|-
|(成田線分岐点)
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|70.5
|style="text-align:right;"|31.3
|style="text-align:right;"|15.2
|実際の空港支線との分岐点
|style="text-align:center;"|∨
|-
|[[久住駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|75.3
|style="text-align:right;"|36.1
|style="text-align:right;"|20.0
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[滑河駅]]
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|80.8
|style="text-align:right;"|41.6
|style="text-align:right;"|25.5
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[下総神崎駅]]
|style="text-align:right;"|6.1
|style="text-align:right;"|86.9
|style="text-align:right;"|47.7
|style="text-align:right;"|31.6
|
|style="text-align:center;"|◇
|[[香取郡]]<br>[[神崎町]]
|-
|[[大戸駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|91.4
|style="text-align:right;"|52.2
|style="text-align:right;"|36.1
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="5"|[[香取市]]
|-
|[[佐原駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|95.3
|style="text-align:right;"|56.1
|style="text-align:right;"|40.0
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[香取駅]]
|style="text-align:right;"|3.6
|style="text-align:right;"|98.9
|style="text-align:right;"|59.7
|style="text-align:right;"|43.6
|東日本旅客鉄道:{{Color|#c56e2e|■}}[[鹿島線]]<ref group="**">鹿島線の正式な起点は香取駅だが、列車はすべて佐原駅へ乗り入れ、一部は千葉方面と直通する</ref>
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[水郷駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|102.8
|style="text-align:right;"|63.6
|style="text-align:right;"|47.5
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[小見川駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|108.0
|style="text-align:right;"|68.8
|style="text-align:right;"|52.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[笹川駅]]
|style="text-align:right;"|5.0
|style="text-align:right;"|113.0
|style="text-align:right;"|73.8
|style="text-align:right;"|57.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="2"|香取郡<br>[[東庄町]]
|-
|[[下総橘駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|118.2
|style="text-align:right;"|79.0
|style="text-align:right;"|62.9
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[下総豊里駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|121.5
|style="text-align:right;"|82.3
|style="text-align:right;"|66.2
|
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="5"|[[銚子市]]
|-
|[[椎柴駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|126.3
|style="text-align:right;"|87.1
|style="text-align:right;"|71.0
|
|style="text-align:center;"|◇
|-style="height:1em;"
|rowspan="2"|[[松岸駅]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|4.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|130.7
|rowspan="2" style="text-align:right;"|91.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|75.4
|rowspan="2"|東日本旅客鉄道:{{Color|#ffc20d|■}}総武本線([[八日市場駅|八日市場]]方面)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|◇
|-
|rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|総武本線|height=5em}}
|-
|[[銚子駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|133.9
|style="text-align:right;"|94.7
|style="text-align:right;"|78.6
|[[銚子電気鉄道]]:[[File:Number prefix Choshi.svg|18px|CD]] [[銚子電気鉄道線]] (CD01)
|style="text-align:center;"|∧
|}
{{Reflist|group="**"}}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref name="passengeer">{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、久住駅・大戸駅・香取駅・水郷駅・笹川駅・下総橘駅・下総豊里駅・椎柴駅である。
=== 我孫子支線 ===
* 定期列車は全列車全駅に停車。
* 全区間単線、全駅とも[[列車交換]]可能。
{|class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|-
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #00b261;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b261;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b261;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b261;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b261;"|累計
|-
! colspan="3" style="text-align:center" |直通運転区間
| colspan="2"|[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])[[上野駅]]、{{Color|purple|■}}[[上野東京ライン]][[東京駅]]経由 [[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]][[品川駅]]まで
|-
|-
|[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 08)・[[ファイル:JR JL line symbol.svg|18px|JL]] [[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]](JL 30)
|rowspan="5"|[[我孫子市]]
|-
|[[東我孫子駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|3.4
|
|-
|[[湖北駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|6.3
|
|-
|[[新木駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|8.9
|
|-
|[[布佐駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|12.1
|
|-
|[[木下駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|14.0
|
|rowspan="2"|[[印西市]]
|-
|[[小林駅 (千葉県)|小林駅]]
|style="text-align:right;"|4.3
|style="text-align:right;"|18.3
|
|-
|[[安食駅]]
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|23.2
|
|style="white-space:nowrap;"|[[印旛郡]]<br>[[栄町]]
|-
|[[下総松崎駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|27.8
|
|rowspan="2"|[[成田市]]
|-
|[[成田駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|32.9
|東日本旅客鉄道:成田線(本線・空港支線)<br>京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]・[[京成東成田線|東成田線]]([[京成成田駅]]: KS40)
|}
{{Reflist|group="**"}}
2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref name="passengeer" />の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、東我孫子駅のみである。
=== 廃止信号場 ===
* 本佐倉信号場:1986年2月24日廃止、佐倉駅 - 酒々井駅間(佐倉駅起点4.0km)
* 並木信号場:1986年2月24日廃止、酒々井駅 - 成田駅間(佐倉駅起点10.0km)
* [[根古屋信号場 (JR東日本)|根古屋信号場]]:2009年3月14日廃止、成田駅 - 空港第2ビル駅間(成田駅起点5.3km)
=== 過去の接続路線 ===
* 成田駅:
** [[成田鉄道多古線]] - 1946年10月9日廃止
** [[成宗電気軌道|成田鉄道宗吾線]](成田駅前) - 1944年12月11日廃止
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=26号 総武本線・成田線・鹿島線・東金線|pages=21-23|date=2010-01-17|ref=sone26}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Narita Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の鉄道]]
* [[成田線複線化促進期成会]]
* [[空港連絡鉄道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=52=1=%90%ac%93c%90%fc 検索結果(成田線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=33=1=%8f%ed%94%d6%90%fc%89%f5%91%ac%81E%90%ac%93c%90%fc 検索結果(常磐線快速・成田線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
* [http://www.naritaline.com/index.html 成田線活性化推進協議会]
* {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/chiba/images/raininfo/soubu.pdf 総武・房総路線図]}} - 東日本旅客鉄道千葉支社
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
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[[Category:成田線|*]]
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[[Category:成田空港航空燃料暫定輸送]]
|
2003-09-03T04:48:09Z
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2023-12-27T14:55:35Z
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[
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14,852 |
スペースコロニー
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スペースコロニー(Space Colony)とは、地球上での人口の爆発的増加や地球環境の大規模な変化などに対応するための移住先として構築が検討されている宇宙空間の施設。
日本では一般的に「スペースコロニー」という呼称が多く用いられているが、「スペースハビタット(Space Habitat: 宇宙居住地)」「スペースセツルメント(Space Settlement: 宇宙居留地)」などの別の名前で呼ばれる事もある。
なお、コロニーの直訳から宇宙植民あるいは宇宙植民地ということもあるが、小惑星に建設する小惑星コロニーもある。
1969年に当時アメリカのプリンストン大学教授であったジェラード・K・オニールらによって提唱された。
スペースコロニーは博士と学生たちのセミナーの中での、惑星表面ではなく宇宙空間に巨大な人工の居住地を作成するというアイデアから誕生した。1974年にニューヨーク・タイムズ誌に掲載されたことから広く一般に知られるようになった。地球と月との引力の関係が安定する領域「ラグランジュポイント」に設置され、居住区域を回転させて遠心力によって擬似重力を得る。コロニー内部には重力以外にも生命活動に必要な地球上の環境が再現され、人々が地球上と変わらない生活ができるようになるという構想である。
アメリカ合衆国では1984年のレーガン大統領の年頭教書にスペース・ステーション計画が盛り込まれた。
スペース・コロニーについてはアメリカ合衆国の宇宙計画で正規の調査予算が組まれたこともあったが、その後は議論が沈静化している。その理由としては、第一に建設コストが大きく、材料を地球や月に依存する点がある。第二に銀河由来の恒常的なものに由来する、または太陽の突発的活動(スーパーフレア等)に由来する有害宇宙線が強く、その蓄積した知見からは人間が一生涯を送る場として宇宙空間は不適であるとみられる点がある。
そのため地球周回軌道の構造物としてではなく、小惑星にコロニーを建設する構想もある。
スペースコロニーのデザインは主に機能性を実現するために様々な案が提唱されている。
1974年にジェラルド・オニールにより提案されたデザイン。著書『ハイ・フロンティア(英語版)』では島3号 (Island Three) と呼ばれている。オニールのスペースコロニーと言った場合、一般的にこのモデルを指す。
シリンダーは直径4マイル (6.4 km)、長さ20マイル (32 km) で数百万人の人口を想定している。この場合空間容積は3,000立方キロメートル。0.55rpmで回転(1分50秒で1回転)し、外周部に地球と同等の重力を発生させる。円筒内部は円周方向に6つの区画に分かれており、交互に陸と窓の区画となっているため、居住等で利用できる面積はおよそ300平方キロメートル程度となり、日本の島嶼だと石垣島や利尻島と同等の面積となる。窓の外側には太陽光を反射する可動式の鏡が設置され、昼夜や季節の変化を作り出す。窓の蓋の様に見える為に凹面鏡に見えるが、平面鏡である。
バナール球は、1929年にジョン・デスモンド・バナールが提案したデザイン。
原案では、直径16kmの球殻に2万~3万人の人口を想定していた。後にスタンフォード大学にて再設計され、直径500m、1万人の人口で、1.9rpmで回転して赤道部分に地球と同等の重力を持つ構造のものが提唱されるようになった。この設計案では、太陽光は外部に設置された鏡にて反射され、極付近の大きな窓から取り込まれる。この再設計したものは、オニールの著書ハイ・フロンティアにて島1号 (Island One) と呼ばれている。また、直径1.8km、人口14万人に拡大したものは島2号 (Island Two) と呼ばれている。
スタンフォード・トーラスは、1975年にスタンフォード大学にて設計されたトーラス型(ドーナツ型)のデザイン。
直径1.6km、1万人の人口を想定しており、1rpmで回転してリング内部の外側に、地球と同等の重力を発生させる。太陽光は鏡で取り込まれる。リングはスポークで結ばれ、スポークは人や物資の移動にも使用される。また、スポークで繋がれたハブは無重力であるため、宇宙船のドッキングなどに使用される。
構造物を一から建造するのではなく、小惑星や小型衛星などの天然天体の内部をくり貫き、内側を居住区域とするもの。
建造資材を自己調達できるメリットがある。
1996年の大林組の季刊誌に掲載されたデザイン。長さ1.9km、円錐を底面で二つ結合したような双円錐状の形をしている。外殻と内殻の2層からなり、人口は2,000人。
太陽側の外殻表面は太陽電池パネルで覆われており、また外殻と内殻の隙間が宇宙港となる。軌道の維持は、コロニー後方に展開したソーラーセイルで行う。
トポポリスはパット・ガンケルによって考案され1974年のSFエッセイ『巨大な世界』で紹介されたトーラス型(ドーナツ型)のスペースコロニー。同じトーラス型でもスタンフォード・トーラス等とは異なり、円周のサイズが数億kmといった恒星を囲む規模の超巨大建造物である。一方で直径は数kmで、オニール・シリンダーの端を伸ばしてトーラス型に繋げたような形をする。トーラス内部が円筒になっており遠心力によって人工重力を生成する。
理論上は複数の同心円筒を持った構造も想定されている。
スペースコロニーで健康な人間集団を維持するためには、以下のような多くの課題を解決しなければならない。
基本的に、殆どのコロニーのデザインは、巨大で、薄い壁に覆われた圧力容器とみなすことができる。コロニー内部に地球と同じ大気を実現するには大量の酸素と窒素を必要とする。そのうち、酸素は月の石などの地球外物質を原料としても入手可能である。
窒素は地球から入手できるが、消費分を地球から輸送するには多大な費用がかかるため、コロニー内で空気のリサイクルを行う必要がある。空気は様々な方法でリサイクルすることが可能であり、植物の光合成(できれば水耕栽培か森林庭園)を利用する方法が代表的である。しかしながら、工業汚染(たとえば揮発油や過剰の分子性ガス)については別途に処理装置を設ける必要がある。
原子力潜水艦などで使われている標準的な方法として、触媒としてバーナーを使うものがあり、これは殆どの有機物を取り除くのに効果的である。それ以上の安全のために、小さな低温の蒸留装置で徐々に不純物(水銀蒸気やバーナーでは除去できない希ガス)を取り除く必要があるかもしれない。
有機物の大部分は、初めは月や小惑星、または地球から輸入しなければならない。だがその後は、リサイクルにより輸入の必要性を減らすことができる。
提案されているリサイクル方法の一つとして、低温の蒸留物、植物、ゴミ、それに下水を電気アーク(英語版)で焼却して、それをさらに蒸留するものがある。それにより、二酸化炭素と水は直ぐに農場で使用できるだろう。灰の中の硝酸塩と塩は、水に溶かすことで純粋な鉱物に分離される。ほとんどの硝酸塩、カリウム、ナトリウム塩は有効に肥料としてリサイクルできるだろう。
鉄、ニッケル、およびシリコンを含むその他の鉱物は、まとめて化学的に精製して工業用に再利用できる。残ったごく一部(重量にして0.01%未満)の資源は無重力下の質量分光法で純粋な元素へと処理し、肥料や工業資材へと加えることができる。この方法はNASAの研究で証明された手段であり、人々が実際にスペースコロニーで生活を始めれば、より洗練された方法がとられるようになるだろう。
長期間の軌道上での研究で、無重力では骨と筋肉が弱くなり、カルシウムの新陳代謝や免疫システムの調子が悪くなることが立証されている。ほとんどの人々が絶え間ない鼻づまりか鼻炎となる上、体質によって起きる宇宙酔いは訓練等で克服することができない。そのため、ほとんどのコロニーは擬似重力(遠心力)を発生させるために回転運動による遠心力を利用するデザインがなされている。NASAの鶏と植物を使った研究で、遠心力は生理学上は重力の有効な代わりとなることが証明されている。だが、そのような環境で人の頭を素早く回転させることは、人の内耳が視覚とは異なる回転速度で動き、“傾き”を感じる原因となる。遠心分離機による研究では、半径100m未満、または3rpm以上の回転速度で回転する住居の中では、人々は乗り物酔いとなるということが示された。しかし、この研究と統計上の推測によれば、ほとんど全ての人々が半径500m以上で1rpm以下で回転する住居の中であれば、快適に生活できることも示された。
発生学的にみて脊椎動物の発育には重力が必要であり、脊椎動物の胎児は無重力では脊椎などがうまく形成されないことが判明している。このことからもスペースコロニーでの妊娠出産育児には重力が必須であるとされている。
ただし、回転による疑似重力を利用したコロニーでは、通常の重力下とは異なる運動が起きる。例えば、回転と同じ方向へ移動すると回転速度が上昇するのと同じ効果で疑似重力が増加し、反回転方向への移動中は疑似重力が減少する。また、回転するコロニー内で上下方向(回転軸のある方向およびその逆方向)に移動しようとすると、横方向へのコリオリの力を受ける。地球上でも発生している物理現象であるが、コロニーのような小規模モデルだとどちらも顕著に表れる。この結果、たとえば単純なボールの投げ上げ運動でも、その軌道は複雑になる。また、遠心力は回転軸に近づくほど弱まるため、例えばシリンダータイプのコロニー内に建設された建物では、高層階ほど(=回転軸に近づくほど)疑似重力が弱まっていく。
宇宙空間での放射線については、二つの問題がある。1つは宇宙線で、年間80mSvの被曝をすることになる。年間50mSvが安全上の最大値で、健康上問題ない最大値は年間3mSvである。もう一つは、太陽フレアによりまれに放射される大量のX線と高エネルギー荷電粒子である。これらの放射が起きると、50%致死線量(LD50)の4Svを超えるほどの放射線が放出される。
研究の結果、巨大なスペースコロニーではその構造(2m以上の厚さの鉄)と空気がガンマ線を効果的に遮蔽する盾となることが発見された。小さなコロニーでは、外側に多量の岩石を浮かべて(回転させないで)盾とすることができる。
太陽光は放射線対策をしたルーバーから鏡を通して入射させることができる。
コロニーは真空中に存在することから、巨大な魔法瓶に類似しているといえる。したがって、取り入れた太陽光と生命活動から生じる熱を除去するためのラジエーターが必要となる。非常に小さなコロニーでは、コロニーと一緒に回転する放熱翼を持つ方式が考えられる。この方式では、対流により暖かい空気が翼に集められ、冷たい空気はコロニー内へと沈んでいくだろう。また、他の方式としては、中心的なラジエーターにより冷やした水などを冷却材として分配するというものも考えられる。
自由に宇宙空間を漂わせてしまうと付近の惑星重力によって不安定なため、大型天体を周回する軌道上か、あるいは太陽系などの惑星系から完全に離脱した空間が想定される。コロニーに最適な軌道についてはまだ議論されているが、商業的な観点の議論も多い。月-地球のラグランジュ点L4とL5の軌道は、現在では月・地球の双方から遠すぎると考えられるようになっている。より新しい案として、交互に月と地球に近づき、双方に低エネルギー(安価)で接近できる2:1の共鳴軌道を使用することが提案されている。これにより、原材料と市場の双方を素早く、かつ安価に利用することができる。
また、ほとんどのコロニーのデザインでは、他の宇宙施設や月等との間の物資の運搬手段として、ロケットの代わりにテザー衛星(下ろし作業)やマスドライバー(上げ作業)を使用することが考えられている。これらの利点は、どちらも推進剤を全く使用しないか、あるいは非常に安価だということである。ただ、マスドライバーは重力井戸の深い地球からの物資打ち上げには不適当とされている。
コロニーの設計では、ほとんどの鏡が太陽に向くことが要求されている。オリジナルのオニールのデザインでは、二つのシリンダーをモーメンタムホイールとして使用し、歳差運動により角度を変更して、太陽方向に押し出すようになっていた。以降のデザインでは、軌道上で回転して、窓に太陽光が直角に指すように、小さな電気モーターで太陽を追うように誘導できる軽量な鏡を使用するなどしている。
「数万人もの人々が暮らす、薄い壁に覆われた圧力容器」であるコロニーは、事故・テロ等の災害に極端に弱いと考えられる。この為、非常時の救命設備と住民の避難訓練に万全を期する必要がある。
上記以外にもさまざまな形式が考案されている。
砂時計のくびれ部分が中心回転軸で、両の底の部分にある居住区に人工重力を発生させる。
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"text": "スペースコロニー(Space Colony)とは、地球上での人口の爆発的増加や地球環境の大規模な変化などに対応するための移住先として構築が検討されている宇宙空間の施設。",
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"text": "日本では一般的に「スペースコロニー」という呼称が多く用いられているが、「スペースハビタット(Space Habitat: 宇宙居住地)」「スペースセツルメント(Space Settlement: 宇宙居留地)」などの別の名前で呼ばれる事もある。",
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"text": "なお、コロニーの直訳から宇宙植民あるいは宇宙植民地ということもあるが、小惑星に建設する小惑星コロニーもある。",
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"text": "1969年に当時アメリカのプリンストン大学教授であったジェラード・K・オニールらによって提唱された。",
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"text": "スペースコロニーは博士と学生たちのセミナーの中での、惑星表面ではなく宇宙空間に巨大な人工の居住地を作成するというアイデアから誕生した。1974年にニューヨーク・タイムズ誌に掲載されたことから広く一般に知られるようになった。地球と月との引力の関係が安定する領域「ラグランジュポイント」に設置され、居住区域を回転させて遠心力によって擬似重力を得る。コロニー内部には重力以外にも生命活動に必要な地球上の環境が再現され、人々が地球上と変わらない生活ができるようになるという構想である。",
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"text": "アメリカ合衆国では1984年のレーガン大統領の年頭教書にスペース・ステーション計画が盛り込まれた。",
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"text": "スペース・コロニーについてはアメリカ合衆国の宇宙計画で正規の調査予算が組まれたこともあったが、その後は議論が沈静化している。その理由としては、第一に建設コストが大きく、材料を地球や月に依存する点がある。第二に銀河由来の恒常的なものに由来する、または太陽の突発的活動(スーパーフレア等)に由来する有害宇宙線が強く、その蓄積した知見からは人間が一生涯を送る場として宇宙空間は不適であるとみられる点がある。",
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"text": "そのため地球周回軌道の構造物としてではなく、小惑星にコロニーを建設する構想もある。",
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"text": "スペースコロニーのデザインは主に機能性を実現するために様々な案が提唱されている。",
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"text": "1974年にジェラルド・オニールにより提案されたデザイン。著書『ハイ・フロンティア(英語版)』では島3号 (Island Three) と呼ばれている。オニールのスペースコロニーと言った場合、一般的にこのモデルを指す。",
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"text": "シリンダーは直径4マイル (6.4 km)、長さ20マイル (32 km) で数百万人の人口を想定している。この場合空間容積は3,000立方キロメートル。0.55rpmで回転(1分50秒で1回転)し、外周部に地球と同等の重力を発生させる。円筒内部は円周方向に6つの区画に分かれており、交互に陸と窓の区画となっているため、居住等で利用できる面積はおよそ300平方キロメートル程度となり、日本の島嶼だと石垣島や利尻島と同等の面積となる。窓の外側には太陽光を反射する可動式の鏡が設置され、昼夜や季節の変化を作り出す。窓の蓋の様に見える為に凹面鏡に見えるが、平面鏡である。",
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"text": "バナール球は、1929年にジョン・デスモンド・バナールが提案したデザイン。",
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"text": "原案では、直径16kmの球殻に2万~3万人の人口を想定していた。後にスタンフォード大学にて再設計され、直径500m、1万人の人口で、1.9rpmで回転して赤道部分に地球と同等の重力を持つ構造のものが提唱されるようになった。この設計案では、太陽光は外部に設置された鏡にて反射され、極付近の大きな窓から取り込まれる。この再設計したものは、オニールの著書ハイ・フロンティアにて島1号 (Island One) と呼ばれている。また、直径1.8km、人口14万人に拡大したものは島2号 (Island Two) と呼ばれている。",
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"text": "スタンフォード・トーラスは、1975年にスタンフォード大学にて設計されたトーラス型(ドーナツ型)のデザイン。",
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"text": "直径1.6km、1万人の人口を想定しており、1rpmで回転してリング内部の外側に、地球と同等の重力を発生させる。太陽光は鏡で取り込まれる。リングはスポークで結ばれ、スポークは人や物資の移動にも使用される。また、スポークで繋がれたハブは無重力であるため、宇宙船のドッキングなどに使用される。",
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"text": "構造物を一から建造するのではなく、小惑星や小型衛星などの天然天体の内部をくり貫き、内側を居住区域とするもの。",
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"text": "建造資材を自己調達できるメリットがある。",
"title": "デザイン"
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"text": "1996年の大林組の季刊誌に掲載されたデザイン。長さ1.9km、円錐を底面で二つ結合したような双円錐状の形をしている。外殻と内殻の2層からなり、人口は2,000人。",
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"text": "太陽側の外殻表面は太陽電池パネルで覆われており、また外殻と内殻の隙間が宇宙港となる。軌道の維持は、コロニー後方に展開したソーラーセイルで行う。",
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"text": "トポポリスはパット・ガンケルによって考案され1974年のSFエッセイ『巨大な世界』で紹介されたトーラス型(ドーナツ型)のスペースコロニー。同じトーラス型でもスタンフォード・トーラス等とは異なり、円周のサイズが数億kmといった恒星を囲む規模の超巨大建造物である。一方で直径は数kmで、オニール・シリンダーの端を伸ばしてトーラス型に繋げたような形をする。トーラス内部が円筒になっており遠心力によって人工重力を生成する。",
"title": "デザイン"
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"text": "理論上は複数の同心円筒を持った構造も想定されている。",
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"text": "スペースコロニーで健康な人間集団を維持するためには、以下のような多くの課題を解決しなければならない。",
"title": "技術的課題"
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"text": "基本的に、殆どのコロニーのデザインは、巨大で、薄い壁に覆われた圧力容器とみなすことができる。コロニー内部に地球と同じ大気を実現するには大量の酸素と窒素を必要とする。そのうち、酸素は月の石などの地球外物質を原料としても入手可能である。",
"title": "技術的課題"
},
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"text": "窒素は地球から入手できるが、消費分を地球から輸送するには多大な費用がかかるため、コロニー内で空気のリサイクルを行う必要がある。空気は様々な方法でリサイクルすることが可能であり、植物の光合成(できれば水耕栽培か森林庭園)を利用する方法が代表的である。しかしながら、工業汚染(たとえば揮発油や過剰の分子性ガス)については別途に処理装置を設ける必要がある。",
"title": "技術的課題"
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"text": "原子力潜水艦などで使われている標準的な方法として、触媒としてバーナーを使うものがあり、これは殆どの有機物を取り除くのに効果的である。それ以上の安全のために、小さな低温の蒸留装置で徐々に不純物(水銀蒸気やバーナーでは除去できない希ガス)を取り除く必要があるかもしれない。",
"title": "技術的課題"
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"text": "有機物の大部分は、初めは月や小惑星、または地球から輸入しなければならない。だがその後は、リサイクルにより輸入の必要性を減らすことができる。",
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"text": "提案されているリサイクル方法の一つとして、低温の蒸留物、植物、ゴミ、それに下水を電気アーク(英語版)で焼却して、それをさらに蒸留するものがある。それにより、二酸化炭素と水は直ぐに農場で使用できるだろう。灰の中の硝酸塩と塩は、水に溶かすことで純粋な鉱物に分離される。ほとんどの硝酸塩、カリウム、ナトリウム塩は有効に肥料としてリサイクルできるだろう。",
"title": "技術的課題"
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"text": "鉄、ニッケル、およびシリコンを含むその他の鉱物は、まとめて化学的に精製して工業用に再利用できる。残ったごく一部(重量にして0.01%未満)の資源は無重力下の質量分光法で純粋な元素へと処理し、肥料や工業資材へと加えることができる。この方法はNASAの研究で証明された手段であり、人々が実際にスペースコロニーで生活を始めれば、より洗練された方法がとられるようになるだろう。",
"title": "技術的課題"
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"text": "長期間の軌道上での研究で、無重力では骨と筋肉が弱くなり、カルシウムの新陳代謝や免疫システムの調子が悪くなることが立証されている。ほとんどの人々が絶え間ない鼻づまりか鼻炎となる上、体質によって起きる宇宙酔いは訓練等で克服することができない。そのため、ほとんどのコロニーは擬似重力(遠心力)を発生させるために回転運動による遠心力を利用するデザインがなされている。NASAの鶏と植物を使った研究で、遠心力は生理学上は重力の有効な代わりとなることが証明されている。だが、そのような環境で人の頭を素早く回転させることは、人の内耳が視覚とは異なる回転速度で動き、“傾き”を感じる原因となる。遠心分離機による研究では、半径100m未満、または3rpm以上の回転速度で回転する住居の中では、人々は乗り物酔いとなるということが示された。しかし、この研究と統計上の推測によれば、ほとんど全ての人々が半径500m以上で1rpm以下で回転する住居の中であれば、快適に生活できることも示された。",
"title": "技術的課題"
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"text": "発生学的にみて脊椎動物の発育には重力が必要であり、脊椎動物の胎児は無重力では脊椎などがうまく形成されないことが判明している。このことからもスペースコロニーでの妊娠出産育児には重力が必須であるとされている。",
"title": "技術的課題"
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"text": "ただし、回転による疑似重力を利用したコロニーでは、通常の重力下とは異なる運動が起きる。例えば、回転と同じ方向へ移動すると回転速度が上昇するのと同じ効果で疑似重力が増加し、反回転方向への移動中は疑似重力が減少する。また、回転するコロニー内で上下方向(回転軸のある方向およびその逆方向)に移動しようとすると、横方向へのコリオリの力を受ける。地球上でも発生している物理現象であるが、コロニーのような小規模モデルだとどちらも顕著に表れる。この結果、たとえば単純なボールの投げ上げ運動でも、その軌道は複雑になる。また、遠心力は回転軸に近づくほど弱まるため、例えばシリンダータイプのコロニー内に建設された建物では、高層階ほど(=回転軸に近づくほど)疑似重力が弱まっていく。",
"title": "技術的課題"
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"text": "宇宙空間での放射線については、二つの問題がある。1つは宇宙線で、年間80mSvの被曝をすることになる。年間50mSvが安全上の最大値で、健康上問題ない最大値は年間3mSvである。もう一つは、太陽フレアによりまれに放射される大量のX線と高エネルギー荷電粒子である。これらの放射が起きると、50%致死線量(LD50)の4Svを超えるほどの放射線が放出される。",
"title": "技術的課題"
},
{
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"text": "研究の結果、巨大なスペースコロニーではその構造(2m以上の厚さの鉄)と空気がガンマ線を効果的に遮蔽する盾となることが発見された。小さなコロニーでは、外側に多量の岩石を浮かべて(回転させないで)盾とすることができる。",
"title": "技術的課題"
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"text": "太陽光は放射線対策をしたルーバーから鏡を通して入射させることができる。",
"title": "技術的課題"
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"text": "コロニーは真空中に存在することから、巨大な魔法瓶に類似しているといえる。したがって、取り入れた太陽光と生命活動から生じる熱を除去するためのラジエーターが必要となる。非常に小さなコロニーでは、コロニーと一緒に回転する放熱翼を持つ方式が考えられる。この方式では、対流により暖かい空気が翼に集められ、冷たい空気はコロニー内へと沈んでいくだろう。また、他の方式としては、中心的なラジエーターにより冷やした水などを冷却材として分配するというものも考えられる。",
"title": "技術的課題"
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"text": "自由に宇宙空間を漂わせてしまうと付近の惑星重力によって不安定なため、大型天体を周回する軌道上か、あるいは太陽系などの惑星系から完全に離脱した空間が想定される。コロニーに最適な軌道についてはまだ議論されているが、商業的な観点の議論も多い。月-地球のラグランジュ点L4とL5の軌道は、現在では月・地球の双方から遠すぎると考えられるようになっている。より新しい案として、交互に月と地球に近づき、双方に低エネルギー(安価)で接近できる2:1の共鳴軌道を使用することが提案されている。これにより、原材料と市場の双方を素早く、かつ安価に利用することができる。",
"title": "技術的課題"
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"text": "また、ほとんどのコロニーのデザインでは、他の宇宙施設や月等との間の物資の運搬手段として、ロケットの代わりにテザー衛星(下ろし作業)やマスドライバー(上げ作業)を使用することが考えられている。これらの利点は、どちらも推進剤を全く使用しないか、あるいは非常に安価だということである。ただ、マスドライバーは重力井戸の深い地球からの物資打ち上げには不適当とされている。",
"title": "技術的課題"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "コロニーの設計では、ほとんどの鏡が太陽に向くことが要求されている。オリジナルのオニールのデザインでは、二つのシリンダーをモーメンタムホイールとして使用し、歳差運動により角度を変更して、太陽方向に押し出すようになっていた。以降のデザインでは、軌道上で回転して、窓に太陽光が直角に指すように、小さな電気モーターで太陽を追うように誘導できる軽量な鏡を使用するなどしている。",
"title": "技術的課題"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "「数万人もの人々が暮らす、薄い壁に覆われた圧力容器」であるコロニーは、事故・テロ等の災害に極端に弱いと考えられる。この為、非常時の救命設備と住民の避難訓練に万全を期する必要がある。",
"title": "技術的課題"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "上記以外にもさまざまな形式が考案されている。",
"title": "スペースコロニーが登場するフィクション"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "砂時計のくびれ部分が中心回転軸で、両の底の部分にある居住区に人工重力を発生させる。",
"title": "スペースコロニーが登場するフィクション"
}
] |
スペースコロニーとは、地球上での人口の爆発的増加や地球環境の大規模な変化などに対応するための移住先として構築が検討されている宇宙空間の施設。 日本では一般的に「スペースコロニー」という呼称が多く用いられているが、「スペースハビタット」「スペースセツルメント」などの別の名前で呼ばれる事もある。 なお、コロニーの直訳から宇宙植民あるいは宇宙植民地ということもあるが、小惑星に建設する小惑星コロニーもある。
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{{複数の問題
| 脚注の不足 = 2023年9月
| 独自研究 = 2023年9月
}}
[[Image:Spacecolony1.jpg|thumb|300px|[[オニール・シリンダー|オニールのシリンダー型コロニー]]の想像図]]
'''スペースコロニー'''(Space Colony)とは、地球上での[[人口爆発|人口の爆発的増加]]や地球環境の大規模な変化などに対応するための移住先として構築が検討されている[[宇宙空間]]の施設<ref>{{Cite journal |和書 |author1=立川 愛弥子 |author2=曽我部 昌史 |author3=石村 康生 |title=P20 スペースコロニー構想 : 長期宇宙滞在を可能にする居住空間の計画(ALSSポスターセッション/アピールタイム(2)) |journal=スペース・エンジニアリング・コンファレンス講演論文集 |volume= |issue= |publisher=一般社団法人 日本機械学会 |date=2013 |pages= |url=https://doi.org/10.1299/jsmesec.2013.21.p20|naid= |ref=}}</ref>。
日本では一般的に「スペースコロニー」という呼称が多く用いられているが、「'''スペースハビタット'''({{Lang|en|Space Habitat}}: 宇宙居住地)」「'''スペースセツルメント'''({{Lang|en|Space Settlement}}: 宇宙居留地)」などの別の名前で呼ばれる事もある。<ref>英語版Wikipediaでは[[:en:Space_habitat|Space Habitat]]の名前で同様の項目が作成されている。</ref>
なお、コロニーの直訳から宇宙植民あるいは宇宙植民地ということもあるが、小惑星に建設する小惑星コロニーもある<ref name="kureha" />。
== 歴史 ==
=== 提唱 ===
[[1969年]]に当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[プリンストン大学]]教授であった[[ジェラード・K・オニール]]らによって提唱された。
スペースコロニーは博士と学生たちのセミナーの中での、惑星表面ではなく[[宇宙空間]]に巨大な人工の居住地を作成するというアイデアから誕生した。[[1974年]]に[[ニューヨーク・タイムズ]]誌に掲載されたことから広く一般に知られるようになった。[[地球]]と[[月]]との[[万有引力|引力]]の関係が安定する領域「[[ラグランジュ点|ラグランジュポイント]]」に設置され、居住区域を回転させて[[遠心力]]によって擬似[[重力]]を得る。コロニー内部には重力以外にも生命活動に必要な地球上の環境が再現され、人々が地球上と変わらない生活ができるようになるという構想である。
=== 実現性 ===
アメリカ合衆国では[[1984年]]のレーガン大統領の年頭教書にスペース・ステーション計画が盛り込まれた<ref name="nitta">{{Cite journal |和書 |author=新田 慶治 |authorlink= |title=スペースステーションの利用とスペースコロニー |journal=日本航空宇宙学会誌 |volume=34 |issue=384 |publisher=一般社団法人 日本航空宇宙学会 |date=1986 |pages=45-52 |url=https://doi.org/10.2322/jjsass1969.34.45|naid= |ref=}}</ref>。
スペース・コロニーについてはアメリカ合衆国の宇宙計画で正規の調査予算が組まれたこともあったが、その後は議論が沈静化している<ref name="kureha">{{Cite journal |和書 |author=呉羽 真ほか|title=I.大学を中心とした取り組み 4.宇宙倫理学研究会:宇宙倫理学の現状と展望|journal=人文・社会科学研究活動報告集 2015年までの歩みとこれから |volume= |issue= |publisher=宇宙航空研究開発機構 |date= |pages= |url=https://jaxa.repo.nii.ac.jp/record/3608/files/AA1630007004.pdf|naid= |ref=}}</ref>。その理由としては、第一に建設コストが大きく、材料を地球や月に依存する点がある<ref name="kureha" />。第二に銀河由来の恒常的なものに由来する、または太陽の突発的活動(スーパーフレア等)に由来する有害宇宙線が強く、その蓄積した知見からは人間が一生涯を送る場として宇宙空間は不適であるとみられる点がある<ref name="kureha" />。
そのため地球周回軌道の構造物としてではなく、小惑星にコロニーを建設する構想もある<ref name="kureha" />。
== デザイン ==
スペースコロニーのデザインは主に機能性を実現するために様々な案が提唱されている。
=== シリンダー型 ===
{{Main|オニール・シリンダー}}
[[1974年]]に[[ジェラルド・オニール]]により提案されたデザイン。著書『{{仮リンク|ハイ・フロンティア|en|The High Frontier: Human Colonies in Space}}』では島3号 (Island Three) と呼ばれている。オニールのスペースコロニーと言った場合、一般的にこのモデルを指す。
[[シリンダー]]は直径{{Convert|4|miles|km}}、長さ{{Convert|20|miles|km}} で数百万人の人口を想定している。この場合空間容積は3,000立方キロメートル。0.55[[rpm (単位)|rpm]]で回転(1分50秒で1回転)し、外周部に地球と同等の[[重力]]を発生させる。[[円筒]]内部は円周方向に6つの区画に分かれており、交互に陸と窓の区画となっているため、居住等で利用できる面積はおよそ300平方キロメートル程度となり、日本の島嶼だと石垣島や利尻島と同等の面積となる。窓の外側には太陽光を反射する可動式の鏡が設置され、昼夜や[[季節]]の変化を作り出す。窓の蓋の様に見える為に凹面鏡に見えるが、平面鏡である。<ref>{{Cite book|last=O'Neill|first=Gerard|authorlink=ジェラード・K・オニール|origyear=1989|year=2013|title=The High Frontier: Human Colonies In Space|publisher=Space Studies Institute, Inc|language=英語|asin=B00CB3SIAI}}</ref>
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ファイル:Spacecolony1.jpg|シリンダー型(外観)
ファイル:Spacecolony3edit.jpeg|シリンダー型(内部)
</gallery>
=== バナール球 ===
{{Main|バナール球}}
バナール球は、[[1929年]]に[[ジョン・デスモンド・バナール]]が提案したデザイン。
原案では、直径16kmの球殻に2万~3万人の人口を想定していた。後に[[スタンフォード大学]]にて再設計され、直径500m、1万人の人口で、1.9rpmで回転して[[赤道]]部分に地球と同等の重力を持つ構造のものが提唱されるようになった。この設計案では、太陽光は外部に設置された鏡にて反射され、極付近の大きな窓から取り込まれる。この再設計したものは、オニールの著書ハイ・フロンティアにて島1号 (Island One) と呼ばれている。また、直径1.8km、人口14万人に拡大したものは島2号 (Island Two) と呼ばれている。
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ファイル:External view of a Bernal sphere.jpg|バナール球(外観)
ファイル:Bernal Sphere 2.jpeg|バナール球(内部が見える構図)
ファイル:External view of a Bernal sphere 2.jpg|別バージョンのバナール球
</gallery>
=== スタンフォード・トーラス ===
{{Main|スタンフォード・トーラス}}
スタンフォード・トーラスは、[[1975年]]に[[スタンフォード大学]]にて設計された[[トーラス]]型([[ドーナツ]]型)のデザイン。
直径1.6km、1万人の人口を想定しており、1rpmで回転してリング内部の外側に、地球と同等の重力を発生させる。太陽光は鏡で取り込まれる。リングは[[スポーク]]で結ばれ、スポークは人や物資の移動にも使用される。また、スポークで繋がれた[[ハブ (機械)|ハブ]]は[[無重力]]であるため、[[宇宙船]]の[[ドッキング]]などに使用される。
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Image:Stanford torus external view by Don Davis AC76-0525.jpg|スタンフォード・トーラス(外観)
Image:Stanford torus under construction.jpg|スタンフォード・トーラス(断面)
Image:Stanford Torus interior.jpg|スタンフォード・トーラス(内部)
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=== 小惑星型 ===
構造物を一から建造するのではなく、[[小惑星]]や小型衛星などの天然天体の内部をくり貫き、内側を居住区域とするもの。
建造資材を自己調達できるメリットがある。
=== スペース・ナッツII ===
[[ファイル:Space Nut II.png|thumb|220px|スペース・ナッツIIの想像図]]
[[1996年]]の[[大林組]]の季刊誌に掲載されたデザイン。長さ1.9km、[[円錐]]を底面で二つ結合したような[[双円錐]]状の形をしている。外殻と内殻の2層からなり、人口は2,000人。
太陽側の外殻表面は[[太陽電池]]パネルで覆われており、また外殻と内殻の隙間が宇宙港となる。軌道の維持は、コロニー後方に展開した[[ソーラーセイル]]で行う。
{{Clearleft}}
===トポポリス===
{{Main|トポポリス}}
トポポリスはパット・ガンケルによって考案され[[1974年]]のSFエッセイ『[[巨大な世界]]』で紹介された[[トーラス]]型([[ドーナツ]]型)のスペースコロニー。同じトーラス型でもスタンフォード・トーラス等とは異なり、円周のサイズが数億kmといった恒星を囲む規模の超巨大建造物である。一方で直径は数kmで、オニール・シリンダーの端を伸ばしてトーラス型に繋げたような形をする。トーラス内部が円筒になっており遠心力によって人工重力を生成する。
理論上は複数の同心円筒を持った構造も想定されている。
== 技術的課題 ==
スペースコロニーで健康な人間集団を維持するためには、以下のような多くの課題を解決しなければならない。
=== 大気 ===
基本的に、殆どのコロニーのデザインは、巨大で、薄い壁に覆われた圧力容器とみなすことができる。コロニー内部に地球と同じ大気を実現するには大量の[[酸素]]と[[窒素]]を必要とする。そのうち、酸素は[[月]]の[[石]]などの地球外物質を原料としても入手可能である。
窒素は地球から入手できるが、消費分を地球から輸送するには多大な費用がかかるため、コロニー内で空気のリサイクルを行う必要がある。空気は様々な方法でリサイクルすることが可能であり、植物の[[光合成]](できれば[[水耕栽培]]か[[森林]]庭園)を利用する方法が代表的である。しかしながら、工業汚染(たとえば揮発油や過剰の分子性ガス)については別途に処理装置を設ける必要がある。
[[原子力潜水艦]]などで使われている標準的な方法として、[[触媒]]として[[バーナー]]を使うものがあり、これは殆どの[[有機化合物|有機物]]を取り除くのに効果的である。それ以上の安全のために、小さな低温の[[蒸留]]装置で徐々に不純物([[水銀]][[蒸気]]やバーナーでは除去できない[[第18族元素|希ガス]])を取り除く必要があるかもしれない。
=== 有機物 ===
[[有機物]]の大部分は、初めは月や[[小惑星]]、または地球から輸入しなければならない。だがその後は、リサイクルにより輸入の必要性を減らすことができる。
提案されているリサイクル方法の一つとして、低温の蒸留物、植物、ゴミ、それに下水を{{仮リンク|電気スパーク|en|Electric spark|label=電気アーク}}で焼却して、それをさらに[[蒸留]]するものがある。それにより、[[二酸化炭素]]と水は直ぐに農場で使用できるだろう。灰の中の[[硝酸|硝酸塩]]と塩は、水に溶かすことで純粋な鉱物に分離される。ほとんどの硝酸塩、[[カリウム]]、[[ナトリウム]]塩は有効に[[肥料]]としてリサイクルできるだろう。
[[鉄]]、[[ニッケル]]、および[[ケイ素|シリコン]]を含むその他の鉱物は、まとめて化学的に精製して工業用に再利用できる。残ったごく一部(重量にして0.01%未満)の資源は無重力下の[[質量分光法]]で純粋な元素へと処理し、肥料や工業資材へと加えることができる。この方法は[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の研究で証明された手段であり、人々が実際にスペースコロニーで生活を始めれば、より洗練された方法がとられるようになるだろう。
=== 重力 ===
長期間の軌道上での研究で、[[無重量状態|無重力]]では[[骨]]と[[筋肉]]が弱くなり、[[カルシウム]]の[[代謝|新陳代謝]]や[[免疫]]システムの調子が悪くなることが立証されている。ほとんどの人々が絶え間ない[[鼻づまり]]か[[鼻炎]]となる上、体質によって起きる[[宇宙酔い]]は訓練等で克服することができない。そのため、ほとんどのコロニーは擬似重力([[遠心力]])を発生させるために[[回転運動]]による[[遠心力]]を利用するデザインがなされている。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[ニワトリ|鶏]]と[[植物]]を使った研究で、遠心力は生理学上は重力の有効な代わりとなることが証明されている。だが、そのような環境で人の頭を素早く回転させることは、人の[[内耳]]が視覚とは異なる回転速度で動き、“傾き”を感じる原因となる。遠心分離機による研究では、半径100m未満、または3rpm以上の回転速度で回転する住居の中では、人々は乗り物酔いとなるということが示された。しかし、この研究と統計上の推測によれば、ほとんど全ての人々が半径500m以上で1rpm以下で回転する住居の中であれば、快適に生活できることも示された。
<!-- Experienced persons were not merely more resistant to motion sickness, but could also use the effect to determine "spinward" and "antispinward" directions in the centrifuges.
なお、熟練者でも乗り物酔いに対して単純により抵抗力があったりはしなかったが、遠心分離機の中で"回転方向"と"反回転方向"を確定することについては差が見られた。?-->
[[発生学]]的にみて脊椎動物の発育には重力が必要であり、脊椎動物の胎児は無重力では脊椎などがうまく形成されないことが判明している。このことからもスペースコロニーでの妊娠出産育児には重力が必須であるとされている。
ただし、回転による疑似重力を利用したコロニーでは、通常の重力下とは異なる運動が起きる。例えば、回転と同じ方向へ移動すると回転速度が上昇するのと同じ効果で疑似重力が増加し、反回転方向への移動中は疑似重力が減少する。また、回転するコロニー内で上下方向(回転軸のある方向およびその逆方向)に移動しようとすると、横方向への[[コリオリの力]]を受ける。地球上でも発生している物理現象であるが、コロニーのような小規模モデルだとどちらも顕著に表れる。この結果、たとえば単純なボールの投げ上げ運動でも、その軌道は複雑になる。また、遠心力は回転軸に近づくほど弱まるため、例えばシリンダータイプのコロニー内に建設された建物では、高層階ほど(=回転軸に近づくほど)疑似重力が弱まっていく。
=== 放射線 ===
宇宙空間での[[放射線]]については、二つの問題がある。1つは[[宇宙線]]で、年間80m[[シーベルト|Sv]]の[[被曝]]をすることになる。年間50mSvが安全上の最大値で、健康上問題ない最大値は年間3mSvである。もう一つは、[[太陽フレア]]によりまれに放射される大量の[[X線]]と[[高エネルギー荷電粒子]]である。これらの放射が起きると、50%致死線量(LD50)の4Svを超えるほどの放射線が放出される。
研究の結果、巨大なスペースコロニーではその構造(2m以上の厚さの鉄)と空気が[[ガンマ線]]を効果的に遮蔽する盾となることが発見された。小さなコロニーでは、外側に多量の岩石を浮かべて(回転させないで)盾とすることができる。
太陽光は放射線対策をした[[ルーバー]]から鏡を通して入射させることができる。
=== 温度管理 ===
コロニーは[[真空]]中に存在することから、巨大な[[魔法瓶]]に類似しているといえる。したがって、取り入れた太陽光と生命活動から生じる熱を除去するための[[ラジエーター]]が必要となる。非常に小さなコロニーでは、コロニーと一緒に回転する放熱翼を持つ方式が考えられる。この方式では、[[対流]]により暖かい空気が翼に集められ、冷たい空気はコロニー内へと沈んでいくだろう。また、他の方式としては、中心的なラジエーターにより冷やした水などを冷却材として分配するというものも考えられる。
=== 建設場所 ===
自由に宇宙空間を漂わせてしまうと付近の惑星重力によって不安定なため、大型天体を周回する軌道上か、あるいは太陽系などの惑星系から完全に離脱した空間が想定される。コロニーに最適な軌道についてはまだ議論されているが、商業的な観点の議論も多い。月-地球の[[ラグランジュ点]]L<sub>4</sub>とL<sub>5</sub>の軌道は、現在では月・地球の双方から遠すぎると考えられるようになっている。より新しい案として、交互に月と地球に近づき、双方に低エネルギー(安価)で接近できる2:1の[[共鳴軌道]]を使用することが提案されている。これにより、原材料と市場の双方を素早く、かつ安価に利用することができる。
また、ほとんどのコロニーのデザインでは、他の宇宙施設や[[月]]等との間の物資の運搬手段として、[[ロケット]]の代わりにテザー衛星(下ろし作業)や[[マスドライバー]](上げ作業)を使用することが考えられている。これらの利点は、どちらも[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]を全く使用しないか、あるいは非常に安価だということである。ただ、マスドライバーは重力井戸の深い地球からの物資打ち上げには不適当とされている。
=== 姿勢制御 ===
コロニーの設計では、ほとんどの鏡が太陽に向くことが要求されている。オリジナルのオニールのデザインでは、二つのシリンダーを[[モーメンタムホイール]]として使用し、[[歳差]]運動により角度を変更して、太陽方向に押し出すようになっていた。以降のデザインでは、軌道上で回転して、窓に太陽光が直角に指すように、小さな[[電動機|電気モーター]]で太陽を追うように誘導できる軽量な鏡を使用するなどしている。
=== 事故・テロ対策 ===
「数万人もの人々が暮らす、薄い壁に覆われた圧力容器」であるコロニーは、事故・テロ等の災害に極端に弱いと考えられる。この為、非常時の救命設備と住民の避難訓練に万全を期する必要がある。
== スペースコロニーが登場するフィクション ==
上記以外にもさまざまな形式が考案されている。
;シリンダー型
* 映画『[[インターステラー (映画)|インターステラー]]』
*: 劇中最後に主人公の娘マーフが重力に関する方程式の解を発見し、重力制御が可能になったことにより建設され、深刻な環境破壊で居住困難になりつつあった地球から人類が救われた。
* アニメ他『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』
*: ''関連項目'': [[サイド (ガンダムシリーズ)]]、[[コロニー落とし]]、[[コロニーレーザー]]
* 小説『[[クレギオン]]』シリーズ([[野尻抱介]])
* 小説『[[ネジ式ザゼツキー]]』([[島田荘司]])
* ゲーム『[[トキオ 〜東京都第24区〜]]』
* ゲーム『[[ポリスノーツ]]』
* ゲーム『[[ラグランジュポイント (ゲーム)|ラグランジュポイント]]』
* 漫画『[[とっても少年探検隊]]』([[あろひろし]])
*:妄想竹という植物で建造された竹製コロニー
* 漫画『[[スリックスター]]』([[板橋しゅうほう]])
* 漫画『ムーン・チャイルド』([[佐藤史生]])
*:続編の『楕円軌道ラプソディ』にも登場
* アニメ『[[タイムパトロール隊オタスケマン]]』
*: 第24話にてトンマノマントの改竄取引に応じなかった[[武田信玄]]が転移された無人の廃棄コロニー。
* アニメ『[[宇宙をかける少女]]』
*: 劇中にて「オニール型の島3号に姿が酷似している」との発言がある。
* アニメ『[[ノーラ]]』
* アニメ『[[エレメントハンター]]』
* アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]』
*ドラマ『[[オアシスを求めて]]』
;密閉型
* アニメ他『[[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]』
*: オニール型の派生型で、コロニー内の利用可能面積を増やすため「窓」を廃して内側全体を地面とし、環境光は中心軸の巨大な[[蛍光管]]のような人工太陽灯でまかなう。
* 小説『[[宇宙のランデヴー]]』
*: 宇宙船「ラーマ」は窓のないオニール型の構造で、各種生物のサンプルを搭載している。
;バナール球型
* アニメ『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』
*: ムーン・ムーン、『[[機動戦士ガンダムSEED]]』の[[コズミック・イラの施設#メンデル|コロニー・メンデル]]
* コミックス、アニメ『[[銀河鉄道999]]』(「大酋長サイクロプロス」)
* 小説『[[サターン・デッドヒート]]』([[グラント・キャリン]])
* ゲーム『[[ソニックアドベンチャー2]]』([[スペースコロニー・アーク]])
;スタンフォード・トーラス型
* 映画『[[2001年宇宙の旅]]』
* 映画『[[エリジウム]]』
* アニメ『[[新機動戦記ガンダムW]]』
* アニメ『[[勇者王ガオガイガー]]』のアイランドII
* 小説『[[未来の二つの顔]]』『[[終局のエニグマ]]』(共に[[ジェイムズ・P・ホーガン]])
* 小説『[[機動戦士ガンダムUC]]』のラプラス
* ゲーム『[[ZONE OF THE ENDERS]]』
* ゲーム『[[ボーダーダウン]]』
*ゲーム『[[HALO (ビデオゲームシリーズ)|halo]]』のhaloリング
*ゲーム『Startopia』([[:en:Startopia|en]])、『Spacebase Startopia』([[:en:Spacebase Startopia|en]])
;砂時計型
[[砂時計]]のくびれ部分が中心回転軸で、両の底の部分にある居住区に人工重力を発生させる。
* アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』シリーズの[[プラント (ガンダムシリーズ)|プラント]]
* アニメ『[[LAST EXILE]]』
;ダイソン球型
* アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』
*: 外観は小型(直径200〜300kmほど)のダイソン球を模したデザインになっている。中心に浮かぶ人工太陽の周囲にハニカム型をした直径10kmほどの居住ブロック(モジュール)が多数取り囲み、球状を形成している。
;その他・不明
* アニメ『[[機動武闘伝Gガンダム]]』
*: 重力制御技術によりコロニーを回転させる必要がないため、島を切り取って宇宙に浮かべたような、国ごとに特徴のある自由な形状をしている。
* アニメ『[[無人惑星サヴァイヴ]]』
* ゲーム『スペースコロニー』(FireFly Studios制作、原題“[[:en:Space Colony (video game)|Space Colony]]”)
* 漫画『[[方舟]]』
* 漫画 [[さいとう・たかを]]原作の『漂流』
* ゲーム『[[メトロイドシリーズ]]』
* ゲーム『[[サンダーフォース|サンダーフォースIV]]』
*: 該当ステージIVは「RUIN」。
* アニメ『[[マクロスシリーズ]]』
*: [[新マクロス級超長距離移民船団|新マクロス級艦艇]]の移民居住艦や環境艦。
* アニメ『[[翠星のガルガンティア]]』
*: 砂時計型を半分にした、重力発生装置に吊り下げられるような形状。
* アニメ『[[楽園追放]]』
*: 種としての人類保存を目的としたコロニー「ディーヴァ」。船内は電脳空間を維持するための演算装置で構成されており、生身の人間の生存空間は用意されていない特殊なタイプ。
* アニメ『[[メガゾーン23]]』
*: 地球の環境回復が完了するまで人類を宇宙に放逐する[[世代間移民船]]。内部には1980年代の東京を再現した都市が存在し、住民は宇宙船に乗っているという事実を知らない。
* 漫画等『[[シドニアの騎士]]』
*: 破壊された地球を脱出し、新天地を求めて旅する播種船(世代間移民船)「シドニア」。巨大な船体の内部空間は都市が存在するスペースコロニーになっている。通常は重力制御が効いているが、船の機動時には居住区に甚だしいGが加わったり、閉鎖系の環境を維持するために人体を光合成可能に改良するなどの苦労が描かれる。
* ゲーム『[[コロニーオデッセイ]]』
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* [[ジェラルド・オニール|ジラード・K・オニール]]、『宇宙植民島-1990年完成!“第二の地球”計画』、[[木村絹子]]訳、[[プレジデント社]]、1977年。
* ジェラード・K・オニール、『スペース・コロニー2081』、[[小尾信弥]]訳、[[PHP研究所]]、1981年。
* [[木村繁 (ジャーナリスト)|木村繁]]、『宇宙島への旅 地球脱出作戦』(朝日少年少女理科年鑑別冊 21世紀のサイエンス)、[[朝日新聞社]]、1978年。
== 関連項目 ==
* [[宇宙移民]]
* [[ドーム型都市]]
* [[メガストラクチャー]]
* [[宇宙建築]]
* [[宇宙ステーション]]
* [[世代宇宙船]]
* [[L5協会]]
* [[人工島]]、[[メガフロート]]、[[海上都市]]
* [[地下生活]]
* [[海中居住施設]]
* [[テラフォーミング]]
* [[ダイソン球]]
* [[スペースデブリ]]
* [[イヴァンのハンマー]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/space_colony.html |title=JAXA宇宙情報センター - スペースコロニー |date=20070516155137}}
* [https://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/SF/colony.htm 大阪教育大学天文学研究室 - スペースコロニー/Space Colony]
{{宇宙ステーション}}
{{宇宙旅行}}
{{住宅と居住}}
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[[Category:宇宙移民]]
[[Category:天文学に関する記事]]
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長野電鉄
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長野電鉄株式会社(ながのでんてつ、英: Nagano Electric Railway Co.,Ltd.)は、長野県北部地域に路線を持つ鉄道事業者で、ながでんグループの中核企業である。長野県長野市権堂町2201に本社を置く。
須坂や中野といった千曲川東岸地域(河東地区)と国鉄線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂駅 - 長野駅間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線開業により湯田中・渋温泉や志賀高原の開発を進めるなど観光開発にも注力し、スキーブームの先鞭となった。2020年(令和2年)5月30日に河東鉄道として創立されてから100周年を迎えた。
長野線は開業当初から長野市内・近郊で複線区間を有し(当時は権堂駅 - 信濃吉田駅間・その後長野駅および朝陽駅まで複線延伸)、複線区間では20 - 30分毎の高頻度運転を続けており、都市内鉄道としての性格も強かった。戦後は長野市の都市計画において長野都市圏の大動脈として位置付けられ沿線の開発も進み、また長野市と須坂市・中野市を結ぶ都市間路線としての機能も強くなったことから観光色は若干弱くなっていたが、新型特急用車両の導入により観光輸送にも改めて取り組んでいる。
開業線のほかに木島から野沢温泉、湯田中から渋・安代までの具体的な延伸計画や「善光寺平環状線構想」と称された河東線 - 飯山鉄道(現JR飯山線) - 千曲川西岸線(豊野・長野 - 屋代)の直通運転という雄大な構想もあったが、ともに実現せず今に至る。
かつては直営でバス事業も行っていたが、1987年(昭和62年)3月より一部路線を順次ながでんグループの子会社に移管し、1995年(平成7年)10月には残るバス事業を長電バスに分社した。
2002年(平成14年)4月1日に河東線の一部区間(信州中野駅 - 木島駅間、通称「木島線」)が、2012年(平成24年)4月1日には屋代線(屋代駅 - 須坂駅間)が廃線となるなど、他の地方鉄道同様、厳しい状況下にある。2007年(平成19年)7月には志賀高原の開発事業のうち、奥志賀高原の事業が投資会社のユニファイド・パートナーズへ譲渡された。
1920年(大正9年)
現行の社紋は、1926年(大正15年)の河東鉄道・長野電気鉄道の合併以来使用されている。中央の星は長野電気鉄道の「長」の字の草書体が基になっており、1907年(明治40年) - 1966年(昭和41年)に用いられた初代・2代目長野市章などにも見られる図案である。この星形を、旧河東鉄道の社紋から引き継いだ千曲川を表す3本線で囲み、以て河東鉄道・長野電気鉄道の合併で長野地域と河東地域とが結ばれたことを示している。
旧・河東鉄道の社紋は「東」の文字を3本線で丸く囲んだものであり、旧・長野電気鉄道の社紋は楔型に図案化した「ナガノ」の文字を6つ円形に並べて電車の車輪を模したものであった。
現在2100系以外の全車両で側面に掲げられている。また、以下の通り一部のグループ会社で同様もしくは翻案した社紋を用いている。
以下の路線を保有する、あるいは保有していた。各路線の運行形態、駅一覧などは以下の各記事を参照のこと。
河東線の一部廃止(信州中野駅 - 木島駅間)を受けて、実際の運行形態に合せて路線名称も変更された。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ) - 2019年10月1日改定。
SuicaやPASMOなどの交通系ICカードは一切利用できない。
以下の乗車券を発売している。
このほか、イオンリテールが運営するイオン須坂店と提携して須坂駅からの「楽楽きっぷ」を、買い上げ金額の1割を上限に買い物客に進呈するサービスを実施している。なお、同様にイトーヨーカドー長野店と提携して権堂駅からの「お帰りキップ」を進呈していたが、同店の閉店により2020年6月7日をもってこのサービスを終了した。
以下の車両が在籍している。車両搬入は屋代線の廃止に伴いしなの鉄道線(旧信越本線)との接続が失われたため、トレーラーによる輸送に切り替えられている。
現存する車両の他に以下の車両が在籍していた。特記無い車両は全てオリジナル車両である。
列車無線に誘導無線を採用していた。これは、空間波無線では長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。
2020年(令和2年)7月1日現在、鉄道事業のほか直営6事業部・グループ会社11社を擁する。
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"text": "列車無線に誘導無線を採用していた。これは、空間波無線では長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。",
"title": "運転設備"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)7月1日現在、鉄道事業のほか直営6事業部・グループ会社11社を擁する。",
"title": "鉄道以外の事業とグループ企業"
}
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長野電鉄株式会社は、長野県北部地域に路線を持つ鉄道事業者で、ながでんグループの中核企業である。長野県長野市権堂町2201に本社を置く。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = 長野電鉄株式会社
|英文社名 = Nagano Electric Railway Co.,Ltd.
|ロゴ = NER.svg
|ロゴサイズ = 250px
|画像 = 権堂イーストプラザ.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 長野電鉄本社が入居する権堂イーストプラザ
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません -->
|略称 = 長電(ながでん)、NER
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 380-0833
|本社所在地 = [[長野県]][[長野市]][[権堂町 (長野市)|権堂町]]2201番地<br/>権堂イーストプラザND 4階
|本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 39|本社緯度秒 = 12.5|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
|本社経度度 = 138|本社経度分 = 11|本社経度秒 = 33.3|本社E(東経)及びW(西経) = E
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード = JP-20
|設立 = [[1920年]]([[大正]]9年)[[5月30日]]
|業種 = 5050
|事業内容 = 鉄道事業・不動産事業・旅行業 他
|代表者 = 代表取締役社長 久保田敏之
|資本金 = 4億9500万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=長野電鉄株式会社 |authorlink= |date=2021-06-29 |title=第156期(令和2年4月1日 - 令和3年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|発行済株式総数 = 1085万9733株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|売上高 = 連結: 134億6631万2000円<br />単独: 33億2358万6000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|営業利益 = 連結: △10億7584万8000円<br />単独: △2億5324万8000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|経常利益 = 連結: △11億0530万0000円<br />単独: △3億7857万0000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|純利益 = 連結: △11億7773万3000円<br />単独: △7億9406万5000円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|純資産 = 連結: 100億9480万1000円<br />単独: 50億2758万6000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|総資産 = 連結: 256億7537万9000円<br />単独: 181億9715万7000円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|従業員数 = 連結: 884人<br />単独: 182人<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|決算期 = [[3月31日]]
|会計監査人 = UHY東京監査法人<ref name="fy" />
|主要株主 = [[北野建設 (長野県)|北野建設]] 8.56%<br />笠原甲一 3.92%<br />[[八十二銀行]] 3.84%<br />荒井洋子 1.22%<br />[[第一法規]] 1.07%<br />[[高沢産業]] 1.04%<br />神津雄平 0.99%<br />仁科良三 0.77%<br />佐藤喜惣治 0.68%<br />直富商事 0.66%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
|主要子会社 = [[長電バス]] 100%<br />[[長電タクシー]] 100%<br />[[長電テクニカルサービス]] 80.0%
|関係する人物 = [[神津藤平]](創業者)
|外部リンク = {{Official URL}}
|特記事項 =
}}
'''長野電鉄株式会社'''(ながのでんてつ、{{Lang-en-short|''Nagano Electric Railway Co.,Ltd.''}})は、[[長野県]]北部地域に路線を持つ鉄道事業者で、[[ながでんグループ]]の中核企業である。長野県[[長野市]][[権堂町 (長野市)|権堂町]]2201に本社を置く。
== 概要 ==
[[須坂市|須坂]]や[[中野市|中野]]といった[[信濃川|千曲川]]東岸地域(河東地区)と[[日本国有鉄道|国鉄]]線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂駅 - 長野駅間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線<!--「の」で正当-->開業により[[湯田中渋温泉郷|湯田中・渋温泉]]や[[志賀高原]]の開発を進めるなど観光開発にも注力し、[[スキーブーム]]の先鞭となった。[[2020年]](令和2年)5月30日に河東鉄道として創立されてから100周年を迎えた。
長野線は開業当初から長野市内・近郊で複線区間を有し(当時は[[権堂駅]] - [[信濃吉田駅]]間・その後[[長野駅]]および[[朝陽駅]]まで複線延伸)、複線区間では20 - 30分毎の高頻度運転を続けており、都市内鉄道としての性格も強かった。戦後は長野市の都市計画において長野都市圏の大動脈として位置付けられ沿線の開発も進み、また長野市と[[須坂市]]・[[中野市]]を結ぶ都市間路線としての機能も強くなったことから観光色は若干弱くなっていたが、新型特急用車両の導入により観光輸送にも改めて取り組んでいる。
開業線のほかに木島から[[野沢温泉]]、湯田中から[[渋温泉|渋]]・[[安代温泉|安代]]までの具体的な延伸計画や「善光寺平環状線構想」と称された河東線 - 飯山鉄道(現JR[[飯山線]]) - 千曲川西岸線(豊野・長野 - 屋代)の直通運転という雄大な構想もあったが、ともに実現せず今に至る。
かつては直営で[[バス (交通機関)|バス]]事業も行っていたが、[[1987年]]([[昭和]]62年)3月より一部路線を順次ながでんグループの子会社に移管し、[[1995年]]([[平成]]7年)10月には残るバス事業を[[長電バス]]に分社した。
[[2002年]](平成14年)[[4月1日]]に[[長野電鉄河東線|河東線]]の一部区間(信州中野駅 - 木島駅間、通称「木島線」)<ref name="db-jpr">寺田裕一『データブック日本の私鉄』ネコ・パブリッシング、2002年、p.33</ref><ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』6号 北信越、新潮社、2008年、p.43</ref>が、[[2012年]](平成24年)4月1日には[[長野電鉄屋代線|屋代線]](屋代駅 - 須坂駅間)<ref name="milt-hokushin20110325">{{Cite press release|和書|url=http://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/press/1101-1103/110325-1.pdf |format=PDF |title=長野電鉄株式会社の鉄道事業の一部を廃止する届出及び本届出に係る公衆の利便の確保に関する意見の聴取について |publisher=国土交通省北陸信越運輸局 |date=2011-03-25 |accessdate=2015-09-14 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9372481/wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/press/1101-1103/110325-1.pdf |archivedate=2011-03-28}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFB3004T_Q2A330C1L31000/ |title=長野電鉄屋代線、きょう90年の歴史に幕 |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2012-03-31 |accessdate=2015-09-14}}</ref><ref name="railfjp20120402">{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2012/04/02/143100.html |title=長野電鉄屋代線が廃止される |publisher=交友社 |date=2012-04-02 |accessdate=2015-09-14}}</ref>が廃線となるなど、他の地方鉄道同様、厳しい状況下にある。[[2007年]](平成19年)7月には志賀高原の開発事業のうち、奥志賀高原の事業が投資会社のユニファイド・パートナーズへ譲渡された<ref>長野電鉄株式会社 有価証券報告書 第143期(平成19年4月1日 - 平成20年3月31日)</ref>。
== 歴史 ==
<!-- 駅の改廃など各路線の詳細な歴史は各路線の記事に記述 -->[[1920年]]([[大正]]9年)
* [[5月30日]] '''河東鉄道株式会社'''設立(社長 [[神津藤平]]<ref>佐久鉄道相談役『長野電鉄60年のあゆみ』3頁</ref><ref>[[羽田孜]]の祖父[{{NDLDC|1704027/923}} 『人事興信録. 第6版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)<ref name="kid10">[{{NDLDC|1190630/47}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|936470/617}} 『日本全国諸会社役員録. 第29回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 9月6日 [[小海線#歴史|佐久鉄道]]より鉄道免許の譲受の認可([[埴科郡]][[埴生町|埴生村]] - [[上高井郡]][[須坂市|須坂町]]間)<ref>[{{NDLDC|2954544/11}} 「鉄道譲渡」『官報』1920年9月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1921年]](大正10年)5月26日 河東鉄道に対し鉄道免許状下付(上高井郡須坂町-下高井郡木島村間、蒸気鉄道、[[下高井郡]][[中野町 (長野県)|中野町]] - 同郡[[平穏町|平穏村]]間電気鉄道)<ref>[{{NDLDC|2954760/9}} 「鉄道免許状下付」『官報』1921年5月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1922年]](大正11年)[[6月10日]] 河東鉄道 屋代駅 - 須坂駅間が開業(非電化)<ref>[{{NDLDC|2955076/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年6月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1923年]](大正12年)
** [[11月25日]] '''長野電気鉄道株式会社'''設立(社長 は神津藤平)<ref>[{{NDLDC|936471/560}} 『日本全国諸会社役員録. 第34回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[3月26日]] 河東鉄道 須坂駅 - 信州中野駅間が開業(非電化)<ref>[{{NDLDC|2955324/11}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 6月22日 長野電気鉄道に対し鉄道免許状下付(長野市-上高井郡須坂町)<ref>[{{NDLDC|2955394/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1923年6月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1925年]](大正14年)[[7月12日]] 河東鉄道 信州中野駅 - 木島駅間が開業(非電化)<ref>[{{NDLDC|2956019/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年7月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1926年]](大正15年)
** [[1月29日]] 屋代駅 - 木島駅間が全線電化、電車による運用が開始。
** [[6月28日]] 長野電気鉄道 権堂駅 - 須坂駅間が開業(電化)<ref>[{{NDLDC|2956309/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年7月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[9月30日]] 河東鉄道が長野電気鉄道を合併、'''長野電鉄株式会社'''に社名変更。権堂駅 - 須坂駅間が長野線、屋代駅 - 須坂駅 - 信州中野駅 - 木島駅間が河東線となる。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** [[4月28日]] 平穏線として信州中野駅 - 湯田中駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2956569/9}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年5月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[8月27日]] 平穏線が山の内線に名称変更。
* [[1928年]](昭和3年)
** 6月8日 鉄道免許状下付(長野市 - 更級郡八幡村間)<ref>[{{NDLDC|2956897/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年6月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** [[6月24日]] 長野線 権堂駅 - 長野駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2956917/9}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>し国鉄長野駅に乗り入れる。
* [[1931年]](昭和6年)7月10日 指定の期限までに竣工しなかったため、湯田中 - 渋安代間(下高井郡平穏村地内)の鉄道免許取消<ref>[{{NDLDC|2957829/10}} 「鉄道免許取消」『官報』1931年7月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)9月19日 鉄道起業廃止許可(長野市 - 更級郡八幡村間)<ref>[{{NDLDC|2959099/5}} 「鉄道起業廃止許可」『官報』1935年9月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1957年]](昭和32年)[[3月15日]] 長野駅 - 湯田中駅間で[[特急列車]]が運転を開始。
* [[1960年]](昭和35年)10月11日 社長の神津藤平が現職で死去。享年88歳<ref>『長野電鉄の75年』郷土出版社、1997年、29頁</ref>
* [[1962年]](昭和37年)[[3月1日]] 長野駅 - 木島駅間で特急「[[のざわ (列車)|のざわ]]」、上野駅 - 湯田中駅間で国鉄直通急行「[[志賀 (列車)|志賀]]・[[丸池 (列車)|丸池]]」が運転開始。
* [[1977年]](昭和52年)[[2月28日]] 旧権堂駅構内に本社ビルを新築<ref>『長野電鉄80年のあゆみ』長野電鉄株式会社、2000年、290頁</ref>。2014年(平成26年)まで使用される。[[ファイル:Nagano Electric Railway Co. HQ.JPG|thumb|2014年まで使用された旧本社ビル]]
* [[1981年]](昭和56年)[[3月1日]] 長野線 長野駅 - 善光寺下駅・本郷駅間を[[連続立体交差事業]]として地下化<ref>{{Cite news |title=きょう営業スタート 長野電鉄 市街地下ルートが完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1981-03-01 |page=3 }}</ref>。この地下化は中小私鉄では戦後初めてであり、また[[北陸鉄道]]が金沢市内の一部を地下化するまでは当時の中小私鉄では唯一の地下線であった。
* [[1982年]](昭和57年)[[11月15日]] 上野駅 - 湯田中駅間の国鉄直通急行「[[志賀 (列車)|志賀]]」が運転終了。
* [[1987年]](昭和62年)3月15日 バス事業の一部を信濃交通に移管。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[10月1日]] バス事業の一部を信州バスに移管。
* [[1995年]](平成7年)[[5月29日]] 残るすべてのバス事業を「[[長電バス]]」に移管。
* [[2002年]](平成14年)
** [[4月1日]] 河東線 信州中野駅 - 木島駅間(通称:木島線)が廃止<ref name="db-jpr" /><ref name="chizucho" />。
** [[9月18日]] 実際の運行形態に合わせ、長野駅 - 須坂駅 - 信州中野駅 - 湯田中駅間を長野線に、屋代駅 - 須坂駅間を屋代線に名称変更。
* [[2011年]](平成23年)[[2月13日]] 長野線と屋代線で[[駅ナンバリング]]使用開始。
* [[2012年]](平成24年)4月1日 屋代線 屋代駅 - 須坂駅間が全線廃止<ref name="milt-hokushin20110325" /><ref name="railfjp20120402" />。
* [[2014年]](平成26年)[[2月24日]] 権堂B-1地区再開発事業に伴い、本社を隣接地に建てられた再開発ビル「権堂イーストプラザND」内に移転<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagaden-net.co.jp/img/pdf/2014/iten.pdf |format=PDF |title=本社移転のご案内 |author=長野電鉄株式会社 |date=2014-02-17 |accessdate=2015-09-14}}</ref>。旧ビル解体後、跡地で再開発事業が続けられ、2015年3月に竣工した。
* [[2017年]](平成29年)[[7月3日]] ホテル事業を「[[長電ホテルズ]]」に移管。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[5月9日]] 同社オリジナル[[鉄道むすめ]]「朝陽さくら」が登場。
== 社紋 ==
現行の社紋は、1926年(大正15年)の河東鉄道・長野電気鉄道の合併以来使用されている。中央の星は長野電気鉄道の「長」の字の[[草書体]]が基になっており、[[1907年]]([[明治]]40年) - [[1966年]](昭和41年)に用いられた[[長野県の市町村章一覧#廃止された市町村章|初代・2代目長野市章]]などにも見られる図案である。この星形を、旧河東鉄道の社紋から引き継いだ[[千曲川]]を表す3本線で囲み、以て河東鉄道・長野電気鉄道の合併で長野地域と河東地域とが結ばれたことを示している<ref>『長野電鉄80年のあゆみ』口絵</ref>。
旧・河東鉄道の社紋は「東」の文字を3本線で丸く囲んだものであり、旧・長野電気鉄道の社紋は楔型に図案化した「ナガノ」の文字を6つ円形に並べて電車の車輪を模したものであった。
<gallery style="font-size:90%;">
NER-mark.svg|社紋
Kato Railway Logomark.svg|旧・河東鉄道
Nagano Electric Railway Logomark.svg|旧・長野電気鉄道
</gallery>
現在[[長野電鉄2100系電車|2100系]]以外の全車両で側面に掲げられている。また、以下の通り一部のグループ会社で同様もしくは翻案した社紋を用いている。
* [[長電バス]] - 長野電鉄と同様。
* [[長電タクシー]] - 3重円のうち内側2本の下部を切り取り「Taxi」の文字を入れたもの。
* [[長電テクニカルサービス]] - 3重円の上部の切れ目に「T」の文字を入れたもの。
* [[長電建設]] - 3重円の下部を切り取り「建」の文字を入れたもの。
== 路線 ==
[[File:Nagano Electric Railway Linemap.svg|300px|thumb|right|路線図(クリックで拡大)]]
以下の路線を保有する、あるいは保有していた。各路線の運行形態、駅一覧などは以下の各記事を参照のこと。
* 現有路線
** [[長野電鉄長野線|長野線]]:[[長野駅]] - [[須坂駅]] - [[信州中野駅]] - [[湯田中駅]]
* 廃止路線
** [[長野電鉄河東線|河東線]](一部):信州中野駅 - [[木島駅]](2002年4月廃止。通称:木島線)
** [[長野電鉄屋代線|屋代線]]:[[屋代駅]] - 須坂駅(2012年4月廃止。元は河東線の一部)
* 未成路線
** [[長野電鉄長野線|長野線]]:湯田中駅 - 渋安代駅 (1.3 km) <ref name="moriguchi-p183">森口誠之『鉄道未成線を歩く 〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.183</ref>
** [[長野電鉄河東線|河東線]]:木島駅 - 関沢駅 (6.5 km) <ref name="moriguchi-p183" />
** 川中島線:[[権堂駅]] - 川中島駅 (18.9 km) <ref name="moriguchi-p183" />
=== 路線名の変遷 ===
河東線の一部廃止(信州中野駅 - 木島駅間)を受けて、実際の運行形態に合せて路線名称も変更された。
{| class="wikitable"
! 区間 !! 2002年<br />3月31日以前 !! 2002年<br />4月1日以降 !! 2002年<br />9月18日以降 !! 2012年<br />4月1日以降
|-
! 長野 - 須坂
|長野線
|長野線
|rowspan="3"|長野線
|rowspan="3"|長野線
|-
! 信州中野 - 湯田中
|山ノ内線<ref>[[1927年]]の約4ヶ月間のみ「平穏線」。その後[[1999年]]まで「山の内線」。</ref>
|山ノ内線
|-
! 須坂 - 信州中野
|rowspan="3" |河東線
|rowspan="2" |河東線
|-
! 屋代 - 須坂
|屋代線
|style="background:#d3d3d3;"|(廃止)
|-
! 信州中野 - 木島
|colspan="3" style="background:#d3d3d3;"|(廃止)
|}
== 運賃・料金 ==
=== 運賃 ===
'''大人普通旅客運賃'''(小児半額・10円未満切り上げ) - 2019年10月1日改定<ref>{{PDFlink|[https://www.nagaden-net.co.jp/news/docs/unchin-ninka-hp.pdf 消費税率引き上げに伴う鉄道旅客運賃の認可及び改定について]}} - 長野電鉄、2019年9月6日(2019年10月30日閲覧)</ref>。
[[Suica]]や[[PASMO]]などの交通系ICカードは一切利用できない。
{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;"
|-
!キロ程!!運賃(円)
|-
|初乗り2km||style="text-align:right;"|170
|-
|3 - 4||style="text-align:right;"|190
|-
|5 - 6||style="text-align:right;"|240
|-
|7 - 8||style="text-align:right;"|330
|-
|9 - 10||style="text-align:right;"|420
|-
|11 - 12||style="text-align:right;"|480
|-
|13 - 14||style="text-align:right;"|550
|-
|15 - 16||style="text-align:right;"|610
|-
|17 - 18||style="text-align:right;"|680
|-
|19 - 20||style="text-align:right;"|760
|-
|21 - 22||style="text-align:right;"|800
|-
|23 - 24||style="text-align:right;"|880
|-
|25 - 26||style="text-align:right;"|930
|-
|27 - 28||style="text-align:right;"|1,000
|-
|29 - 30||style="text-align:right;"|1,050
|-
|31 - 32||style="text-align:right;"|1,130
|-
|33 - 34||style="text-align:right;"|1,190
|}
=== 料金 ===
; 特急料金(小児半額)
: 全線100円
; 座席指定料金
: 1席300円
; 個室指定料金
: 1室1,200円(4人まで使用可能)
=== 各種乗車券 ===
以下の乗車券を発売している<ref name="ticket">[https://www.nagaden-net.co.jp/info/ticket/ 各種乗車券] - 長野電鉄、2021年11月24日閲覧</ref>。
* SNOW MONKEY PASS(スノーモンキーパス)
* ながでん鉄道・バス2DAYフリーきっぷ
* 長電フリー乗車券
* ホリデーフリーチケット
* 湯っ蔵んどセットクーポン
* 日帰り「楓の湯」クーポン
* ながでんお達者パス
* ながでんシネマキップ
このほか、[[イオンリテール]]が運営する[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]須坂店と提携して[[須坂駅]]からの「'''楽楽きっぷ'''」を、買い上げ金額の1割を上限に買い物客に進呈するサービスを実施している<ref name="ticket" />。なお、同様に[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]長野店と提携して[[権堂駅]]からの「'''お帰りキップ'''」を進呈していたが、同店の閉店により2020年6月7日をもってこのサービスを終了した。
== 輸送・収支実績 ==
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">年度別実績</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:90%;"
|-
!年度
!旅客輸送人員(千人)
!貨物量(トン)
!一日1Km平均通過人員(人)
!鉄道業営業収入(千円)
!鉄道業営業費(千円)
|-
|1952||13,259||245,842||||||
|-
|1958||15,046||314,945||||||
|-
|1963||18,556||390,875||||||
|-
|1966||20,219||300,924||||||
|-
|1979||14,212||||||2,692,851||2,857,988
|-
|1982||13,609||||5,015||2,845,735||2,970,501
|-
|1984||12,902||||4,667||2,929,989||2,928,730
|-
|1985||12,820||||4,665||3,017,559||2,944,875
|-
|1986||12,590||||4,593||2,953,087||2,954,650
|-
|1987||12,429||||4,533||2,992,697||2,845,634
|-
|1988||12,396||||4,567||3,143,480||2,958,438
|-
|1989||15,336||||4,489||3,195,026||3,041,323
|-
|1990||12,483||||4,563||3,241,950||3,101,482
|-
|1991||12,740||||4,299||3,351,173||3,178,873
|-
|1992||12,570||||4,585||3,387,475||3,179,576
|-
|1993||12,193||||4,463||3,460,639||3,281,016
|-
|1994||11,986||||4,368||3,434,503||3,331,847
|-
|1995||12,369||||4,474||3,484,372||3,360,375
|-
|1996||12,348||||4,487||3,484,475||3,481,428
|-
|1997||12,849||||4,641||3,520,465||3,610,501
|-
|1998||11,948||||4,267||3,160,255||3,581,298
|-
|1999||11,288||||4,025||2,955,590||4,088,501
|-
|2000||10,660||||3,813||2,796,516||3,017,590
|-
|2001||10,654||||5,095||2,687,760||2,775,358
|-
|2002||9,061||||3,954||2,461,221||2,561,523
|-
|2003||8,763||||3,837||2,397,557||2,397,004
|-
|2004||8,619||||3,781||2,265,980||2,288,991
|-
|}
*地方鉄道軌道統計年報1952年、私鉄統計年報1958.1963.1966年、民鉄主要統計『年鑑世界の鉄道』1983年、朝日新聞社、『年鑑日本の鉄道』1985、1987-2007年、鉄道ジャーナル社
</div></div>
=== 戦前の輸送収支実績 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead">年度別実績</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;"
|-
!年度
!輸送人員(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!営業益金(円)
!その他益金(円)
!その他損金(円)
!支払利子(円)
!政府補助金(円)
|-
|1922||306,301||26,893||145,599||81,191||64,408||||||||
|-
|1923||687,635||62,321||293,047||201,057||91,990||||雑損金17||7,005||88,003
|-
|1924||707,687||88,878||336,506||217,932||118,574||||雑損金236||5,909||88,340
|-
|1925||828,404||98,359||401,171||255,016||146,155||電力供給350||||35,505||105,821
|-
|1926||2,034,495||101,219||649,460||374,007||275,453||他事業利子引去23,118||雑損25,212||90,756||148,045
|-
|1927||2,562,422||95,583||677,385||417,011||260,374||発電所益84,657||雑損36,854||144,148||176,632
|-
|1928||2,717,648||85,329||692,157||422,819||269,338||電燈業その他16,218||雑損1,741償却金40,000||92,263||247,360
|-
|1929||2,811,276||81,199||700,925||447,669||253,256||電燈遊園地業69,357||償却金雑損52,628||144,562||273,270
|-
|1930||2,427,834||64,488||590,786||389,876||200,910||遊園地電燈業11,139||雑損償却金110,260||72,894||325,634
|-
|1931||2,058,439||63,833||502,507||339,681||162,826||発電所その他12,059||償却金160,000雑損16,111||62,855||318,536
|-
|1932||1,871,938||61,949||469,221||322,507||146,714||発電所及遊園地100||雑損償却金120,893||56,182||251,500
|-
|1933||1,932,377||74,243||512,262||337,837||174,425||遊園地10,665||雑損償却金106,916||47,089||153,730
|-
|1934||1,898,842||96,610||523,675||334,055||189,620||電力業16,985減資差益金738,663||雑損償却金910,615||36,139||122,601
|-
|1935||1,928,664||97,668||522,436||343,272||179,164||電力業その他22,115||雑損償却金120,275||30,156||111,325
|-
|1936||2,155,758||106,900||586,823||360,562||226,261||発電自動車業その他33,592||雑損償却金129,621||21,294||52,686
|-
|1937||2,189,045||113,061||583,940||387,843||196,097||発電所28,644||償却金130,000||15,311||79,675
|-
|1939||3,313,705||170,688||||||||||||||
|-
|1941||5,142,298||218,654||||||||||||||
|-
|1943||8,003,565||221,134||||||||||||||
|-
|1945||16,303,197||279,208||||||||||||||
|-
|}
*鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版
</div></div>
== 車両 ==
=== 現有車両 ===
以下の車両が在籍している。車両搬入は屋代線の廃止に伴い[[しなの鉄道線]](旧[[信越本線]])との接続が失われたため、[[牽引自動車|トレーラー]]による輸送に切り替えられている。
==== 特急列車用 ====
* [[長野電鉄2000系電車|2000系]]
** 在籍する唯一のオリジナル車両。2012年3月に運行終了し、[[休車]]扱いとなっている<ref>[https://twitter.com/nagaden_info/status/1331432281114771460?s=21 長野電鉄公式Twitterのツイート]</ref>。
* [[長野電鉄1000系電車|1000系]]「ゆけむり」
** 元[[小田急電鉄|小田急]][[小田急10000形電車|10000形「HiSE」]]。[[2006年]]営業運転開始。
* [[長野電鉄2100系電車|2100系]]「スノーモンキー」
** 元[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[JR東日本253系電車|253系]]。[[2011年]]営業運転開始。
==== 各駅停車用 ====
* [[長野電鉄3500系電車|3500系]]
** 元[[帝都高速度交通営団|営団]][[営団3000系電車|3000系]]。[[1993年]]営業運転開始。2023年1月に運行終了し、[[休車]]扱いとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20230115130537/https://www.nagaden-net.co.jp/news/2023/01/3500-farewell.php |title=3500系引退に伴うイベント実施について |access-date=2023年1月19日 |publisher=長野電鉄株式会社(Wayback Machineによる復元)}}</ref>。
* [[長野電鉄8500系電車|8500系]]
** 元[[東急電鉄|東急]][[東急8500系電車|8500系]]。[[2005年]]営業運転開始。
* [[長野電鉄3000系電車|3000系]]
** 元[[東京地下鉄|東京メトロ]][[営団03系電車|03系]]。[[2020年]]営業運転開始。
<gallery widths="170">
ファイル:Nagaden2008 20110109.jpg|2000系<br>2012年3月に運行終了
ファイル:Nagano-Series1000-S1.jpg|1000系「ゆけむり」
ファイル:Nagano-Railway Series2100-E2F.jpg|2100系「スノーモンキー」
ファイル:Nagaden-Series3500-N3.jpg|3500系<br>2023年1月に運行終了
ファイル:Nagano 8500series T1.jpg|8500系
ファイル:長野電鉄3000系.jpg|3000系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
現存する車両の他に以下の車両が在籍していた。特記無い車両は全てオリジナル車両である。
==== 電車 ====
<!-- 最近のものから形式ごとの運用終了順 -->
* [[長野電鉄3500系電車|3600系]]
** 2020年9月に運行終了
** 元[[帝都高速度交通営団|営団]][[営団3000系電車|3000系]]。2両編成が3500系、3両編成が3600系。3500系は2編成が休車扱いになっている。
* [[長野電鉄2500系電車|2500系・2600系]]
** 1997年6月に運行終了
** 元[[東京急行電鉄|東急]][[東急5000系電車 (初代)|5000系(初代)]]。2両編成が2500系、3両編成が2600系。
* [[長野電鉄0系電車|0系・10系]](OSカー・新OSカー)
* [[長野電鉄モハ1100形電車|モハ1100形・クハ1150形]]
* [[信濃鉄道の電車|モハ1形(2代)]]
* [[長野電鉄モハ1000形電車|モハ1000形・モハ1500形・モハニ1010形・クハ1050形・クハ1550形・クハニ1060形]]
* [[長野電鉄デハ350形電車|モハ600形・モハ610形]]
* [[長野電鉄モハ130形電車|モハ400形・モハ420形・クハ450形]]
* [[長野電鉄モハ150形電車|モハ300形]]
* [[長野電気鉄道デハ100形電車|モハ100形・モハ200形・モハニ130形・モハニ230形・モハニ530形]]
* [[河東鉄道フホハ1形客車|モハ1形(初代)]]
<gallery>
ファイル:Nagano 3500 L2.jpg|3600系
ファイル:Nagaden11.jpg|10系
ファイル:Nagaden2612.jpg|2600系
ファイル:Nagano dentetsu 2500 001.jpg|2500系
ファイル:NER 0 19951014obuse.jpg|0系
</gallery>
==== 電気機関車 ====
* [[長野電鉄500形電気機関車|ED5000形]]
* [[定山渓鉄道ED500形電気機関車|ED5100形]]
<gallery>
ファイル:ED5001 20060712 180 f4.jpg|ED5001
</gallery>
==== 蒸気機関車 ====
* [[国鉄1200形蒸気機関車#河東鉄道|1形]] (1 - 4)
* [[国鉄3030形蒸気機関車#河東鉄道|11形]] (11, 12)
== 運転設備 ==
[[列車無線]]に[[誘導無線]]を採用していた。これは、空間波無線では長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。
== 鉄道以外の事業とグループ企業 ==
[[2020年]](令和2年)[[7月1日]]現在、鉄道事業のほか直営6事業部・グループ会社11社を擁する。
{{Main|ながでんグループ}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* 周辺交通事業者
** [[しなの鉄道]]
** [[上田電鉄]]
** [[アルピコ交通]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nagano Electric Railway}}
{{Multimedia|長野電鉄の画像}}
{{Wikinews|長野電鉄が初代成田エクスプレス「253系」を導入}}
* [https://www.nagaden-net.co.jp/ 快適生活サポート事業グループ ながでんグループ] - 長野電鉄公式サイト
* {{Twitter|nagaden_info|長野電鉄【公式】}}
* {{Facebook|nagano.dentetsu.line|長野電鉄株式会社}}
{{ながでんグループ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかのてんてつ}}
[[Category:長野電鉄|*なかのてんてつ]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:長野市の企業]]
[[Category:長野県の交通]]
[[Category:1920年設立の企業]]
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宮古市
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宮古市(みやこし)は、岩手県の三陸海岸に面する市。本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。
三陸海岸を代表する都市の一つであり、「本州最東端のまち」を掲げ、世界三大漁場の一つ三陸沖の豊かな漁業資源と、三陸復興国立公園・浄土ヶ浜や早池峰国定公園を代表とする森・川・海の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。
1941年に市制を敷き、盛岡市、釜石市に次いで県内で三番目に市制移行した自治体となった。2005年に田老町、新里村と新設合併し、改めて宮古市(2代目)が誕生。さらに2010年の川井村の編入によって県内一の面積を有する自治体となった。市域は旧・宮古市部と、北部の田老地区、山間部の川井・新里地区に大きく分けられる。人口は岩手県の太平洋沿岸部の市町村の中では最も多い。面積は岩手県内で1位の大きさ、全国の市町村でもランキング11位の大きさを有する。
県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて約100 km離れているため、盛岡を初めとする北上盆地とは独立した地域圏を形成している。 ただし、旧・川井村の門馬エリアについては地理的な観点から盛岡との結びつきが市内他地域に比べると強い。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では津波により大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、沿岸集落は壊滅的被害となった。
宮古市は三陸海岸におけるリアス式海岸の北端に位置しており、宮古を境にして南がリアス式海岸、北が海岸段丘になっている。また、内陸や対岸との位置関係では、盛岡市(北上盆地)と秋田県秋田市(日本海沿岸)から真東に位置している。
2010年1月の川井村の編入により、市の面積は696.82 kmから1,259.89 kmに拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった。これは2015年時点で、日本の市の面積では東北では山形県鶴岡市に次いで2番目、全国でも8番目の大きさである。しかしその9割は山林であるため、可住地面積は約117 kmと、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は低いものの、可住地面積当たりの人口密度は約421(人/km)と県内平均を上回る。
市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんどなく、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山と青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号がそれぞれ並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。
市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9 m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、航空自衛隊のレーダーサイトがあるため、入山に制限が設けられている。
以下の諸説がある。
また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部や源義経に関連する伝説が存在する。
いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和4年(1618年)に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。少なくとも宮古という地名が公的に認知されるのは、領内を統一した南部氏が新たに町を開いた慶長年間以後のことである。
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが、最暖月の平均気温が22.1度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近い気候である。また、標高734mの区界は藪川と同様に冬の寒さが厳しく、湿潤大陸性気候に属している。
現在の宮古市の発祥は、盛岡藩主・南部利直によって盛岡藩(盛岡城下町)の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に三陸沿岸と江戸・関東とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸漁村で産出される諸色や俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの長崎俵物を扱う御用商人や、盛合家などの三陸の水産物を扱う有力商人や交易に携わる廻船問屋の活動が活発となった。また宮古は東廻海運の要港であり、海産物などの交易船や松前・東北諸藩が江戸へ参勤交代で必要な物資や米などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊廓が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。
戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府海軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall」(ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行した、いわゆる宮古湾海戦が勃発した。
古代の宮古地域は、須賀古麻比留のような村長達により治められていたと考えられている。平安時代には、遺跡の出土品から奥州藤原氏との関連があったことが判明している。鎌倉時代には鎌倉御家人の閉伊氏一族が土着し勢力を広げるが、室町時代以降は南部氏一族が勢力を拡大。九戸政実の乱終結後は宮古地域の村々はそれぞれ南部氏配下の武将による地方知行となり、近世に至る。
近世の宮古は北上山地に阻まれ、盛岡城下町など内陸部との往来や輸送が滞ることの多い土地柄であった。陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力した僧・牧庵鞭牛らの功績は今もって賛えられている。宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている。
昭和時代に入ると国鉄山田線の開通とラサ工業の進出により近代港湾都市として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、窯業・鉱業・木材工業関連の企業が相次いで設立された。第二次世界大戦後の高度経済成長期には北洋漁業やサンマ漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により合板企業の集積が進んだ。1970年代には国道45号・国道106号線の全線開通と、宮古港の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、1980年代にかけてゴルフ場や国民休暇村・グリーンピアの設置などレジャーや観光業の発展が見られた。また1974年のヒロセ電機の進出により、コネクタ関連の日本有数の産業集積地となった。1984年には第三セクターの三陸鉄道が開業した。
平成時代の1992年にはJAPAN EXPO(地方博覧会)として三陸・海の博覧会が開催され、藤原地区にパビリオンが設置された。2011年には東日本大震災の津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として三陸沿岸道路や宮古盛岡横断道路の高速交通インフラの整備が進められている。2018年には北海道室蘭市とのフェリー航路が開通したが、2020年に運航休止となった。
平成22年国勢調査から平成27年調査にかけての人口増減率は4.63%の減少で、岩手県全体の3.80%減を少し上回った。なお平成の大合併以前の区分では旧宮古市が東日本大震災に伴う津波で甚大な被害を受けながら2.23%減と県全体を下回った一方で、同じく津波被害を受けた旧田老町が26.27%減と、平成27年時点の自治体区分で県内最大である大槌町の23.02%減も上回る対照的な結果となった。また直接津波被害を受けていない旧川井村は10.62%減と、田老町ほどではないにしろ大きく減少した。
古来、水産業で栄え、名産品としては、鮭、イクラ、ウニ、アワビ、毛ガニ、ワカメなどが挙げられる。特にサケやサンマ、マダラは全国屈指の水揚げを誇る。ウニは、生のまま牛乳瓶の形をした瓶に入れて、型崩れ防止用の明礬を加えない「瓶ウニ」が長く名物であった。東日本大震災後の2018年から、様々な魚介類や海藻、薬味、野菜などを入れて、丼飯にかけて食べる「瓶ドン」をご当地グルメとして展開するなど、水産は観光客誘致にも寄与している。
工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、片倉コープアグリ宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッドによる合板加工などが主産業である。宮古税関管内(宮古港)の平成28年の輸出入貿易額は、輸出が387億9千6百万円で、ドイツやベルギー、アメリカ向けのポンプ、遠心分離機等の一般機械がその8割を占める。輸入は食料品や木材が多く、貿易額ではロシアがその半分を占める。平成26年の製造品出荷額は7,475(千万円)で、岩手県内で8位である。
平成26年度の一人当たり市町村民所得は276万円(県調査統計課)で、復興需要により震災前より急上昇しており、県南を上回り盛岡市などの県央部に匹敵する額になっている。平成28年の観光客入込数は1,117,932(単位・人回、県観光統計概要)で、県沿岸部の市町村ではトップの数字となっている。
宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。また市内では1,078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。
田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。
県立
※岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高等学校内に設置されていた。
現在は宮古高等学校通信課程となっている。
私立
※以下は廃校(新制 宮古市以降)
※以下は廃校(新制 宮古市以降)
※以下は廃校(新制 宮古市以降)
宮古市は三陸沿岸の交通の拠点であり、2021年度には三陸沿岸道路の開通により、北は青森県八戸市から南は宮城県仙台市まで接続された。公共交通機関では県庁所在地である盛岡市への急行バスが発着しており、鉄路ではJR東日本山田線が宮古駅 - 盛岡駅間を運行しているとともに気仙沼市を経由して仙台市まで直通する高速バスも発着している。また三陸鉄道リアス線が盛駅(大船渡市) - 久慈駅(久慈市)間を運行している。海路では2018年に北海道室蘭市へのフェリー航路が就航したが、2020年4月から運航休止中となっている。
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"text": "三陸海岸を代表する都市の一つであり、「本州最東端のまち」を掲げ、世界三大漁場の一つ三陸沖の豊かな漁業資源と、三陸復興国立公園・浄土ヶ浜や早池峰国定公園を代表とする森・川・海の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。",
"title": "概要"
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"text": "1941年に市制を敷き、盛岡市、釜石市に次いで県内で三番目に市制移行した自治体となった。2005年に田老町、新里村と新設合併し、改めて宮古市(2代目)が誕生。さらに2010年の川井村の編入によって県内一の面積を有する自治体となった。市域は旧・宮古市部と、北部の田老地区、山間部の川井・新里地区に大きく分けられる。人口は岩手県の太平洋沿岸部の市町村の中では最も多い。面積は岩手県内で1位の大きさ、全国の市町村でもランキング11位の大きさを有する。",
"title": "概要"
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"text": "県庁所在地である盛岡市からは北上山地を隔てて約100 km離れているため、盛岡を初めとする北上盆地とは独立した地域圏を形成している。 ただし、旧・川井村の門馬エリアについては地理的な観点から盛岡との結びつきが市内他地域に比べると強い。",
"title": "概要"
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"text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災では津波により大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、沿岸集落は壊滅的被害となった。",
"title": "概要"
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"text": "宮古市は三陸海岸におけるリアス式海岸の北端に位置しており、宮古を境にして南がリアス式海岸、北が海岸段丘になっている。また、内陸や対岸との位置関係では、盛岡市(北上盆地)と秋田県秋田市(日本海沿岸)から真東に位置している。",
"title": "地理"
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"text": "2010年1月の川井村の編入により、市の面積は696.82 kmから1,259.89 kmに拡大し、一関市を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった。これは2015年時点で、日本の市の面積では東北では山形県鶴岡市に次いで2番目、全国でも8番目の大きさである。しかしその9割は山林であるため、可住地面積は約117 kmと、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は低いものの、可住地面積当たりの人口密度は約421(人/km)と県内平均を上回る。",
"title": "地理"
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"text": "市域中央部を西から東に閉伊川が貫流し、市街地のある宮古湾へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんどなく、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には早池峰山と青松葉山がある。北部の新里地区には刈屋川が南へ流れ、茂市(もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、国道106号(旧・閉伊街道)と国道340号がそれぞれ並走する。市の南東部から北に向かって津軽石川が流れ、宮古湾に注いでいる。",
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"text": "市街地を覆うように重茂半島が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、月山(標高455.9 m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。山道口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する山田町との境に位置する十二神山には、航空自衛隊のレーダーサイトがあるため、入山に制限が設けられている。",
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"text": "以下の諸説がある。",
"title": "地理"
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"text": "また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を天皇から賜ったとする、和泉式部や源義経に関連する伝説が存在する。",
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"text": "いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。鎌倉時代においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、元和4年(1618年)に、盛岡藩の船員の名前を記した『浜田家文書』(岩手大学所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。少なくとも宮古という地名が公的に認知されるのは、領内を統一した南部氏が新たに町を開いた慶長年間以後のことである。",
"title": "地理"
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"text": "ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候だが、最暖月の平均気温が22.1度と日本ではかなり涼しく、西岸海洋性気候に近い気候である。また、標高734mの区界は藪川と同様に冬の寒さが厳しく、湿潤大陸性気候に属している。",
"title": "気候"
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"text": "現在の宮古市の発祥は、盛岡藩主・南部利直によって盛岡藩(盛岡城下町)の外港として宮古の町が開かれたことに由来する。また現在の普代村から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。江戸時代に三陸沿岸と江戸・関東とを結ぶ海運が盛んになると、沿岸漁村で産出される諸色や俵物を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、前川善兵衛や鍬ヶ崎の和泉屋などの長崎俵物を扱う御用商人や、盛合家などの三陸の水産物を扱う有力商人や交易に携わる廻船問屋の活動が活発となった。また宮古は東廻海運の要港であり、海産物などの交易船や松前・東北諸藩が江戸へ参勤交代で必要な物資や米などを輸送するための廻船の重要な寄港地として、料亭や遊廓が軒を連ねる奥州でも有数の商港として賑わった。",
"title": "歴史"
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"text": "戊辰戦争においては、蝦夷地にて独立を図る榎本武揚・土方歳三らの旧幕府海軍艦隊(蝦夷共和国軍艦隊。総司令官:荒井郁之助。旗艦「回天丸」[艦長:甲賀源吾])が、宮古湾の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する新政府軍艦隊の主力艦である装甲艦「CSS Stonewall」(ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。1871年12月に「東艦」と改称)を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行した、いわゆる宮古湾海戦が勃発した。",
"title": "歴史"
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"text": "古代の宮古地域は、須賀古麻比留のような村長達により治められていたと考えられている。平安時代には、遺跡の出土品から奥州藤原氏との関連があったことが判明している。鎌倉時代には鎌倉御家人の閉伊氏一族が土着し勢力を広げるが、室町時代以降は南部氏一族が勢力を拡大。九戸政実の乱終結後は宮古地域の村々はそれぞれ南部氏配下の武将による地方知行となり、近世に至る。",
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"text": "近世の宮古は北上山地に阻まれ、盛岡城下町など内陸部との往来や輸送が滞ることの多い土地柄であった。陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力した僧・牧庵鞭牛らの功績は今もって賛えられている。宮古はまた、V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている。",
"title": "歴史"
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"text": "昭和時代に入ると国鉄山田線の開通とラサ工業の進出により近代港湾都市として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、窯業・鉱業・木材工業関連の企業が相次いで設立された。第二次世界大戦後の高度経済成長期には北洋漁業やサンマ漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により合板企業の集積が進んだ。1970年代には国道45号・国道106号線の全線開通と、宮古港の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、1980年代にかけてゴルフ場や国民休暇村・グリーンピアの設置などレジャーや観光業の発展が見られた。また1974年のヒロセ電機の進出により、コネクタ関連の日本有数の産業集積地となった。1984年には第三セクターの三陸鉄道が開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "平成時代の1992年にはJAPAN EXPO(地方博覧会)として三陸・海の博覧会が開催され、藤原地区にパビリオンが設置された。2011年には東日本大震災の津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として三陸沿岸道路や宮古盛岡横断道路の高速交通インフラの整備が進められている。2018年には北海道室蘭市とのフェリー航路が開通したが、2020年に運航休止となった。",
"title": "歴史"
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"text": "平成22年国勢調査から平成27年調査にかけての人口増減率は4.63%の減少で、岩手県全体の3.80%減を少し上回った。なお平成の大合併以前の区分では旧宮古市が東日本大震災に伴う津波で甚大な被害を受けながら2.23%減と県全体を下回った一方で、同じく津波被害を受けた旧田老町が26.27%減と、平成27年時点の自治体区分で県内最大である大槌町の23.02%減も上回る対照的な結果となった。また直接津波被害を受けていない旧川井村は10.62%減と、田老町ほどではないにしろ大きく減少した。",
"title": "人口"
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"text": "古来、水産業で栄え、名産品としては、鮭、イクラ、ウニ、アワビ、毛ガニ、ワカメなどが挙げられる。特にサケやサンマ、マダラは全国屈指の水揚げを誇る。ウニは、生のまま牛乳瓶の形をした瓶に入れて、型崩れ防止用の明礬を加えない「瓶ウニ」が長く名物であった。東日本大震災後の2018年から、様々な魚介類や海藻、薬味、野菜などを入れて、丼飯にかけて食べる「瓶ドン」をご当地グルメとして展開するなど、水産は観光客誘致にも寄与している。",
"title": "経済"
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"text": "工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場によるガリウムの生成、製造と同NCRI事業部による石油精製触媒の再生事業、片倉コープアグリ宮古工場による化学肥料製造やホクヨープライウッドによる合板加工などが主産業である。宮古税関管内(宮古港)の平成28年の輸出入貿易額は、輸出が387億9千6百万円で、ドイツやベルギー、アメリカ向けのポンプ、遠心分離機等の一般機械がその8割を占める。輸入は食料品や木材が多く、貿易額ではロシアがその半分を占める。平成26年の製造品出荷額は7,475(千万円)で、岩手県内で8位である。",
"title": "経済"
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"text": "平成26年度の一人当たり市町村民所得は276万円(県調査統計課)で、復興需要により震災前より急上昇しており、県南を上回り盛岡市などの県央部に匹敵する額になっている。平成28年の観光客入込数は1,117,932(単位・人回、県観光統計概要)で、県沿岸部の市町村ではトップの数字となっている。",
"title": "経済"
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"text": "宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。また市内では1,078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。",
"title": "経済"
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"text": "田老漁港と重茂漁港は第2種漁港、他は全て第1種漁港である。",
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"text": "県立",
"title": "教育"
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{
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"text": "※岩手県立杜陵高等学校の宮古分室が宮古高等学校内に設置されていた。",
"title": "教育"
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"text": "現在は宮古高等学校通信課程となっている。",
"title": "教育"
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"text": "私立",
"title": "教育"
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"text": "※以下は廃校(新制 宮古市以降)",
"title": "教育"
},
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"text": "※以下は廃校(新制 宮古市以降)",
"title": "教育"
},
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"text": "※以下は廃校(新制 宮古市以降)",
"title": "教育"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "宮古市は三陸沿岸の交通の拠点であり、2021年度には三陸沿岸道路の開通により、北は青森県八戸市から南は宮城県仙台市まで接続された。公共交通機関では県庁所在地である盛岡市への急行バスが発着しており、鉄路ではJR東日本山田線が宮古駅 - 盛岡駅間を運行しているとともに気仙沼市を経由して仙台市まで直通する高速バスも発着している。また三陸鉄道リアス線が盛駅(大船渡市) - 久慈駅(久慈市)間を運行している。海路では2018年に北海道室蘭市へのフェリー航路が就航したが、2020年4月から運航休止中となっている。",
"title": "交通"
}
] |
宮古市(みやこし)は、岩手県の三陸海岸に面する市。本州最東端の地である魹ヶ崎を擁する。
|
{{distinguish|宮古島市|x1=沖縄県の}}
{{日本の市
| 画像 = Jyoudogahama.jpg
| 画像の説明 = [[浄土ヶ浜]]
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Miyako Iwate.svg|100px|宮古市旗]]
| 市旗の説明 = 宮古[[市町村旗|市旗]]<br />[[2006年]][[6月6日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Miyako, Iwate.svg|75px|宮古市章]]
| 市章の説明 = 宮古[[市町村章|市章]]<br />[[2006年]][[6月6日]]制定
| 自治体名 = 宮古市
| 都道府県 = 岩手県
| コード = 03202-6
| 隣接自治体 = [[盛岡市]]、[[花巻市]]、[[遠野市]]、[[下閉伊郡]][[岩泉町]]、[[山田町]]、[[上閉伊郡]][[大槌町]]
| 木 = [[アカマツ]]<ref name="symbols">{{Cite web|和書|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/hisyokoho/sinohana.html|title=宮古市の花、木、鳥、魚|work=宮古市ホームページ|date=|accessdate=2019-01-18}}</ref>
| 花 = [[ハマギク]]<ref name="symbols" />
| シンボル名 = 市の鳥<hr />市の魚
| 鳥など = [[ウミネコ]]<ref name="symbols" /><hr />[[サケ]]<ref name="symbols" />
| 郵便番号 = 027-8501
| 所在地 = 宮古市宮町1丁目1番30号<br />{{Coord|format=dms|region:JP-03_type:adm3rd|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=39.6|frame-longitude=141.8|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Eastpia Miyako.jpg|250px]]
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|03|202|image=基礎自治体位置図 03202 20140101.svg}}
| 特記事項 =
}}
[[ファイル:Miyako city center area Aerial photograph.2013.jpg|thumb|宮古市中心部周辺の空中写真。2013年9月18日撮影の22枚を合成作成。<br />{{国土航空写真}}。]]
[[ファイル:Gulf Miyako 01.jpg|thumb|宮古湾([[ランドサット]][[衛星画像]])]]
[[ファイル:Miyako 20160505.jpg|thumb|月山山頂からの宮古市街]]
'''宮古市'''(みやこし)は、[[岩手県]]の[[三陸海岸]]に面する[[市]]。[[本州]]最東端の地である[[魹ヶ崎]]を擁する。
== 概要 ==
[[三陸海岸]]を代表する都市の一つであり、「本州最東端のまち」を掲げ、世界三大[[漁場]]の一つ[[三陸沖]]の豊かな漁業資源と、[[三陸復興国立公園]]・[[浄土ヶ浜]]や[[早池峰国定公園]]を代表とする森・川・海の豊かな自然環境を背景に、漁業と観光に力を入れている。
[[1941年]]に市制を敷き、[[盛岡市]]、[[釜石市]]に次いで県内で三番目に市制移行した自治体となった。[[2005年]]に[[田老町]]、[[新里村 (岩手県)|新里村]]と新設合併し、改めて宮古市(2代目)が誕生。さらに[[2010年]]の[[川井村 (岩手県)|川井村]]の編入によって県内一の面積を有する自治体となった。市域は旧・宮古市部と、北部の田老地区、山間部の川井・新里地区に大きく分けられる。人口は岩手県の[[太平洋]]沿岸部の市町村の中では最も多い。面積は岩手県内で1位の大きさ、全国の市町村でもランキング11位の大きさを有する。
[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である盛岡市からは[[北上山地]]を隔てて約100 km離れているため、盛岡を初めとする[[北上盆地]]とは独立した地域圏を形成している。
ただし、旧・川井村の[[門馬村|門馬]]エリアについては地理的な観点から盛岡との結びつきが市内他地域に比べると強い。
[[2011年]][[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]では[[津波]]により大きな被害を受けた。市内中心部の被害はある程度抑えられたものの、沿岸集落は壊滅的被害となった。
== 地理 ==
=== 位置 ===
宮古市は三陸海岸における[[リアス式海岸]]の北端に位置しており、宮古を境にして南がリアス式海岸、北が[[海岸段丘]]になっている。また、内陸や対岸との位置関係では、盛岡市(北上盆地)と[[秋田県]][[秋田市]]([[日本海]]沿岸)から真東に位置している。
2010年1月の川井村の編入により、市の[[面積]]は696.82 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]から1,259.89 km<sup>2</sup>に拡大し、[[一関市]]を抜いて岩手県の市町村で最大の面積を有することとなった<ref>{{Cite web|和書|title=県内市町村の合併状況|url=http://www.pref.iwate.jp/seisaku/bunken/gappei/007276.html|publisher=岩手県|accessdate=2019-01-18}}</ref>。これは2015年時点で、[[日本の市の面積一覧|日本の市の面積]]では東北では[[山形県]][[鶴岡市]]に次いで2番目、全国でも8番目の大きさである。しかしその9割は山林であるため、可住地面積は約117 km<sup>2</sup>と、総面積の約9%に止まり、少ない平地に人家が密集している状態である。そのため総面積当たりの人口密度は低いものの、可住地面積当たりの人口密度は約421(人/km<sup>2</sup>)と県内平均を上回る。
市域中央部を西から東に[[閉伊川]]が貫流し、市街地のある[[宮古湾]]へと注いでいる。西部の川井地区は平地はほとんどなく、川沿いに人家が密集する地区が多い。周囲には[[早池峰山]]と[[青松葉山]]がある。北部の新里地区には[[刈屋川]]が南へ流れ、[[茂市村|茂市]](もいち)で閉伊川に合流する。閉伊川と刈屋川に沿って、[[国道106号]](旧・[[閉伊街道]])と[[国道340号]]がそれぞれ並走する。市の南東部から北に向かって[[津軽石川]]が流れ、宮古湾に注いでいる。
市街地を覆うように[[重茂半島]]が南から延び、宮古湾を形成している。重茂半島には、[[月山 (宮古市)|月山]]([[高さ#地理|標高]]455.9 m)があり、市街地への見通しが良い関係から、テレビ・ラジオの中継塔が設置されている。[[登山道|山道]]口まではバスで行くことができる。太平洋に突き出る重茂地区の魹ヶ崎は本州の最東端であり、観光協会が「本州最東端訪問証明書」を発行するなど「最東端の市」として観光にも力を入れている。南に隣接する[[山田町]]との境に位置する[[十二神山]]には、[[航空自衛隊]]の[[レーダーサイト]]があるため、入山に制限が設けられている。
=== 自然 ===
[[ファイル:閉伊川 - panoramio.jpg|thumb|閉伊川]]
[[ファイル:兜明神の花畑 - panoramio.jpg|thumb|区界高原(兜明神岳)]]
* 山地:早池峰山、青松葉山(あおまつばやま)、十二神山(じゅうにじんざん)、月山(がっさん、別名:御殿山)
* 河川系<!--湖沼・渓流等を含む-->:閉伊川、刈屋川、津軽石川(つがるいしがわ<!--※他に「つがるいしかわ」もあるので必要。-->)
* 沿岸地形:宮古湾、重茂半島、魹ヶ崎、浄土ヶ浜、真崎海岸(まさきかいがん)
=== 隣接する自治体 ===
* [[下閉伊郡]]
** [[岩泉町]]:北部で幅広く隣接。
** [[山田町]]:南部で隣接。
* [[盛岡市]]:西部で隣接。
* [[花巻市]]:南西部で一部が隣接。
* [[遠野市]]:南部で隣接。
* [[上閉伊郡]]
** [[大槌町]]:南部で一部が隣接。
=== 主要都市までの概算距離 ===
;北方向(沿岸)
* 岩手県[[久慈市]] - 95 km
* [[青森県]][[八戸市]] - 150 km
* 青森県[[青森市]] - 245 km
;南方向(沿岸)
* 岩手県[[釜石市]] - 55km
* 岩手県[[大船渡市]] - 93km
* [[宮城県]][[気仙沼市]] - 133 km
* 宮城県[[石巻市]] - 214 km
* 宮城県[[仙台市]] - 264 km
* [[福島県]][[相馬市]] - 320 km
* 福島県[[いわき市]] - 415 km
* [[茨城県]][[水戸市]] - 510 km
* [[千葉県]][[銚子市]] - 600 km
* [[東京都]] - 618 km
;西方向(山側)
* 盛岡市 - 100 km
* 秋田県仙北市(角館) - 165 km
* 秋田市 - 220 km
=== 地名の由来 ===
以下の諸説がある。
* 「港」の[[転訛]]
* 貿易物としての「都物」が収められる場所
*「宮」のある「処」であること
* [[閉伊郡]]の政治、経済の中心地で都のように栄える場所
* ミヤ(野原)コ(土地)
また、京の「都」と同訓異字の「宮古」を[[天皇]]から賜ったとする、[[和泉式部]]や[[源義経]]に関連する伝説が存在する。
いずれにしても中世文書においては「宮古」と地名を記している文献は見受けられない。[[鎌倉時代]]においては「閉河」や「閉崎」という特定の地名で呼ばれている。公的な文献で初めて宮古の文字が登場するのは、[[元和 (日本)|元和]]4年(1618年)に、[[盛岡藩]]の船員の名前を記した『浜田家文書』([[岩手大学]]所蔵)であり、船員の一人に「宮古衛門二郎」という人物の名が見られる。これ以前の中世の時代に、地名及び集落としての「宮古」が存在したかは不明である。少なくとも宮古という地名が公的に認知されるのは、領内を統一した[[南部氏]]が新たに町を開いた[[慶長]]年間以後のことである。
== 気候 ==
[[ケッペンの気候区分]]では[[温暖湿潤気候]]だが、最暖月の平均気温が22.1度と日本ではかなり涼しく、[[西岸海洋性気候]]に近い気候である。また、標高734mの区界は[[藪川]]と同様に冬の寒さが厳しく、[[湿潤大陸性気候]]に属している。
{{Weather box
|location = 宮古市鍬ケ崎下町(宮古特別地域気象観測所、標高43m)
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|source = [[気象庁]] (平均値:1991年-2020年、極値:1883年-現在)<ref>
{{Cite web|和書
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| publisher = 気象庁}}
</ref><ref>
{{Cite web|和書
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</ref>
|unit snow days=1cm}}{{Weather box|location=川井(1991年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=14.6|Feb record high C=18.6|Mar record high C=21.7|Apr record high C=29.9|May record high C=34.3|Jun record high C=35.4|Jul record high C=37.4|Aug record high C=37.5|Sep record high C=35.1|Oct record high C=29.3|Nov record high C=25.2|Dec record high C=20.9|year record high C=37.5|Jan high C=2.9|Feb high C=3.8|Mar high C=8.0|Apr high C=14.8|May high C=20.5|Jun high C=23.5|Jul high C=26.8|Aug high C=28.0|Sep high C=24.1|Oct high C=18.3|Nov high C=12.3|Dec high C=5.7|year high C=15.8|Jan mean C=-1.1|Feb mean C=-0.6|Mar mean C=2.9|Apr mean C=8.7|May mean C=14.1|Jun mean C=17.8|Jul mean C=21.5|Aug mean C=22.4|Sep mean C=18.4|Oct mean C=12.2|Nov mean C=6.6|Dec mean C=1.4|year mean C=10.4|Jan low C=-4.9|Feb low C=-4.8|Mar low C=-1.8|Apr low C=3.0|May low C=8.3|Jun low C=13.0|Jul low C=17.5|Aug low C=18.4|Sep low C=14.4|Oct low C=7.5|Nov low C=1.7|Dec low C=-2.3|year low C=5.9|Jan record low C=-15.4|Feb record low C=-17.7|Mar record low C=-12.4|Apr record low C=-5.0|May record low C=-1.5|Jun record low C=1.7|Jul record low C=8.6|Aug record low C=8.8|Sep record low C=2.5|Oct record low C=-2.3|Nov record low C=-6.7|Dec record low C=-12.6|year record low C=-17.7|Jan precipitation mm=46.0|Feb precipitation mm=40.7|Mar precipitation mm=74.9|Apr precipitation mm=85.1|May precipitation mm=94.0|Jun precipitation mm=104.9|Jul precipitation mm=158.8|Aug precipitation mm=176.7|Sep precipitation mm=168.1|Oct precipitation mm=131.3|Nov precipitation mm=70.6|Dec precipitation mm=61.0|year precipitation mm=1221.2|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=7.1|Feb precipitation days=6.5|Mar precipitation days=9.4|Apr precipitation days=10.2|May precipitation days=10.7|Jun precipitation days=9.4|Jul precipitation days=12.6|Aug precipitation days=11.3|Sep precipitation days=12.0|Oct precipitation days=9.4|Nov precipitation days=9.4|Dec precipitation days=8.0|year precipitation days=115.7|Jan sun=122.1|Feb sun=124.8|Mar sun=158.2|Apr sun=183.0|May sun=199.0|Jun sun=168.9|Jul sun=148.3|Aug sun=155.0|Sep sun=132.1|Oct sun=141.9|Nov sun=127.0|Dec sun=112.2|year sun=1775.5|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=33&block_no=1224&year=&month=&day=&view= |title=川井 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-23 |publisher=気象庁}}</ref>}}{{Weather box|location=区界(1993年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=8.0|Feb record high C=12.7|Mar record high C=15.5|Apr record high C=24.0|May record high C=28.6|Jun record high C=28.0|Jul record high C=30.9|Aug record high C=31.6|Sep record high C=28.6|Oct record high C=23.4|Nov record high C=19.9|Dec record high C=14.0|year record high C=31.6|Jan high C=-2.7|Feb high C=-1.6|Mar high C=2.3|Apr high C=9.5|May high C=16.1|Jun high C=19.7|Jul high C=23.1|Aug high C=24.1|Sep high C=19.9|Oct high C=13.6|Nov high C=6.9|Dec high C=0.3|year high C=10.9|Jan mean C=-6.1|Feb mean C=-5.4|Mar mean C=-1.8|Apr mean C=4.5|May mean C=10.7|Jun mean C=14.8|Jul mean C=19.0|Aug mean C=19.8|Sep mean C=15.5|Oct mean C=8.8|Nov mean C=2.8|Dec mean C=-3.0|year mean C=6.6|Jan low C=-11.2|Feb low C=-10.8|Mar low C=-7.1|Apr low C=-0.9|May low C=4.7|Jun low C=9.7|Jul low C=15.3|Aug low C=15.8|Sep low C=11.1|Oct low C=3.5|Nov low C=-2.1|Dec low C=-7.4|year low C=1.7|Jan record low C=-24.1|Feb record low C=-22.9|Mar record low C=-20.3|Apr record low C=-11.5|May record low C=-4.3|Jun record low C=0.4|Jul record low C=4.7|Aug record low C=2.7|Sep record low C=-1.6|Oct record low C=-6.3|Nov record low C=-13.5|Dec record low C=-18.9|year record low C=-24.1|Jan precipitation mm=59.3|Feb precipitation mm=48.6|Mar precipitation mm=98.2|Apr precipitation mm=111.1|May precipitation mm=127.6|Jun precipitation mm=130.7|Jul precipitation mm=218.7|Aug precipitation mm=208.8|Sep precipitation mm=177.3|Oct precipitation mm=133.5|Nov precipitation mm=112.9|Dec precipitation mm=89.4|year precipitation mm=1517.7|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=13.8|Feb precipitation days=12.2|Mar precipitation days=14.8|Apr precipitation days=13.3|May precipitation days=13.1|Jun precipitation days=11.8|Jul precipitation days=15.6|Aug precipitation days=13.6|Sep precipitation days=13.8|Oct precipitation days=13.3|Nov precipitation days=14.9|Dec precipitation days=15.0|year precipitation days=165.2|Jan sun=64.0|Feb sun=75.1|Mar sun=107.2|Apr sun=146.4|May sun=174.3|Jun sun=148.9|Jul sun=121.9|Aug sun=139.8|Sep sun=123.7|Oct sun=132.8|Nov sun=100.0|Dec sun=64.2|year sun=1403.2|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=33&block_no=1447&year=&month=&day=&view= |title=区界 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-09-23 |publisher=気象庁}}</ref>|Jan snow cm=142|Feb snow cm=134|Mar snow cm=125|Apr snow cm=33|May snow cm=0|Jun snow cm=0|Jul snow cm=0|Aug snow cm=0|Sep snow cm=0|Oct snow cm=0|Dec snow cm=114|Nov snow cm=21|year snow cm=571}}
== 歴史 ==
[[ファイル:Azumaya,Miyako.jpg|thumb|廻船問屋・質屋を兼ねた[[旧東屋酒造店]](国登録有形文化財)]]
[[ファイル:Kaiten vs Kotetu.jpg|thumb|[[宮古湾海戦]]の一場面を描いた[[挿絵]]。旧幕府軍の[[旗艦]]「[[回天丸]]」が、[[明治政府]]の[[東艦|甲鉄艦]]へ接舷攻撃する場面]]
=== 盛岡藩の外港 ===
現在の宮古市の発祥は、[[盛岡藩]]主・[[南部利直]]によって盛岡藩(盛岡[[城下町]])の[[外港]]として宮古の町が開かれたことに由来する<ref>{{Cite web|和書|title=宮古港の開港|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/kowan/port_400/history/miyako_port_open.html|publisher=宮古市|date=2018-11-28|accessdate=2019-01-18}}</ref>。また現在の[[普代村]]から山田町豊間根までの行政を管轄する代官所<ref group="注">北閉伊代官所。[[寛文]]年間([[1661年]] - [[1673年]])からは宮古代官所。小本 - 豊間根に管轄区域も変更。</ref>が置かれ、周辺地域の政治、経済の中心地であった。[[江戸時代]]に三陸沿岸と[[江戸]]・[[関東]]とを結ぶ[[海運]]が盛んになると、沿岸漁村で産出される[[諸色]]や[[俵物]]を集荷し江戸へ移出するための拠点となり、[[前川善兵衛]]や鍬ヶ崎の和泉屋などの長崎俵物を扱う[[御用商人]]や、盛合家などの三陸の水産物を扱う有力商人や交易に携わる[[船問屋|廻船問屋]]の活動が活発となった。また宮古は[[東廻海運]]の要港であり、海産物などの交易船や[[松前藩|松前]]・東北諸藩が江戸へ[[参勤交代]]で必要な物資や米などを輸送するための[[廻船]]の重要な寄港地として、料亭や[[遊廓]]が軒を連ねる[[陸奥国|奥州]]でも有数の商港として賑わった。
=== 宮古湾海戦 ===
[[戊辰戦争]]においては、[[蝦夷地]]にて独立を図る[[榎本武揚]]・[[土方歳三]]らの旧[[幕府海軍]]艦隊([[蝦夷共和国]]軍艦隊。総司令官:[[荒井郁之助]]。旗艦「[[回天丸]]」[艦長:[[甲賀源吾]]])が、[[宮古湾]]の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと。現在の宮古港の前身)に停泊する[[明治政府|新政府]]軍艦隊の主力艦である[[装甲艦]]「CSS Stonewall」(ストーンウォール[日本名:甲鉄艦]。[[1871年]]12月に「[[東艦]]」と改称)を奪取すべくアボルダージュ(接舷攻撃)作戦を決行した、いわゆる[[宮古湾海戦]]が勃発した<ref name="宮古港海戦,宮古市">{{Cite web|和書|title=戊辰戦争・宮古港海戦|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/kaisen.html|publisher=宮古市|date=2011-06-09|accessdate=2019-01-18}}</ref>。
=== 沿革 ===
[[古代]]の宮古地域は、[[須賀古麻比留]]のような村長達により治められていたと考えられている。[[平安時代]]には、遺跡の出土品から[[奥州藤原氏]]との関連があったことが判明している。[[鎌倉時代]]には鎌倉[[御家人]]の[[閉伊氏]]一族が土着し勢力を広げるが、[[室町時代]]以降は[[南部氏]]一族が勢力を拡大。[[九戸政実の乱]]終結後は宮古地域の村々はそれぞれ南部氏配下の武将による[[地方知行]]となり、[[近世]]に至る。
近世の宮古は北上山地に阻まれ、盛岡[[城下町]]など内陸部との往来や輸送が滞ることの多い土地柄であった。陸の孤島になりがちな当地の交通網の整備に尽力した僧・[[牧庵鞭牛]]らの功績は今もって賛えられている。宮古はまた、V字型の[[湾]]の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、古来より大規模な被害の出る津波に襲われている。
[[昭和時代]]に入ると[[日本国有鉄道|国鉄]][[山田線]]の開通と[[ラサ工業]]の進出により近代[[港湾都市]]として発展。山間部では閉伊川筋の電力資源の開発に伴い、[[窯業]]・[[鉱業]]・木材工業関連の企業が相次いで設立された。[[第二次世界大戦]]後の[[高度経済成長期]]には[[北洋漁業]]や[[サンマ]]漁船の基地として賑わった。また木材港の整備により[[合板]]企業の集積が進んだ。[[1970年代]]には[[国道45号]]・国道106号線の全線開通と、[[宮古港]]の公共埠頭の整備により三陸海岸の拠点都市としての地位を高め、[[1980年代]]にかけて[[ゴルフ場]]や[[国民休暇村]]・[[グリーンピア]]の設置など[[レジャー]]や[[観光業]]の発展が見られた。また[[1974年]]の[[ヒロセ電機]]の進出により、[[コネクタ]]関連の日本有数の産業集積地となった。[[1984年]]には[[第三セクター]]の[[三陸鉄道]]が開業した。
[[平成時代]]の[[1992年]]には[[JAPAN EXPO]](地方博覧会)として[[三陸・海の博覧会]]が開催され、藤原地区に[[パビリオン]]が設置された。[[2011年]]には東日本大震災の津波により甚大な被害を受け、被災した市街地の再開発と、復興道路として[[三陸沿岸道路]]や[[宮古盛岡横断道路]]の高速交通インフラの整備が進められている。[[2018年]]には[[北海道]][[室蘭市]]とのフェリー航路が開通したが、[[2020年]]に運航休止となった。
==== 縄文時代 - 中世 ====
* {{Anchors|崎山貝塚,a}}[[縄文時代]]前期初頭 - 後期前半(約6,000 - 約3,500年前。[[縄文時代#縄文時代の主なできごと|''cf.'']]):崎山[[貝塚]]の形成期(約2,500年間)<ref name="崎山貝塚">{{Cite web|和書|title=崎山貝塚の時代|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/bnka/kaiduka_jidai.html|publisher=宮古市|date=2012-08-14|accessdate=2015-01-10}}</ref>。
* {{Anchors|横山八幡宮}}[[白鳳]]9年([[680年]]):横山に[[八幡宮]]([[横山八幡宮]])が創建れたと伝えられる。
* [[貞観 (日本)|貞観]]11年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[869年]][[7月9日]]):東北地方を[[貞観地震]]が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。
* [[天正]]20年([[1592年]]):[[南部信直]]により[[田鎖城]]と[[千徳城]]が破却される(『[[南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上]]』)。
==== 江戸時代 ====
[[ファイル:Jyoanji,Miyako.jpg|thumb|1611年(慶長16年)、慶長三陸地震の大津波で流された[[常安寺 (宮古市)|常安寺]]は、1625年(寛永2年)に現在地に移転再建された。]]
* [[慶長]]16年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1611年]][[12月2日]]):東北地方を[[慶長三陸地震]]が襲い、三陸は主に津波によって大きな被害が出た。
* [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]]):盛岡藩主・南部利直が宮古を盛岡藩の藩港と定め、町割を行う。
* [[寛永]]20年([[1643年]]):[[山田湾]]に[[オランダ]]船が漂着する[[ブレスケンス号事件]]が起きる。船員を誘き出すため宮古鍬ヶ崎の[[遊女]]が派遣される。
* {{Anchors|閉伊街道改修}}[[承応]]3年([[1654年]]):閉伊街道(別名:宮古街道。現在の国道106号の前身)の大改修なる。
* [[延宝]]5年([[1677年]]):延宝[[十勝沖地震]]津波により数十軒の家屋が流出。
* [[元禄]]13年([[1700年]]):[[カスケード地震]]津波により数十軒の家屋が流出。
* [[宝暦]]8年([[1758年]]):[[宝暦の飢饉]]を契機として、牧庵鞭牛が閉伊街道最大の難所である蟇目 - 平津戸間の改修・新道開発に着手し、これ以降、閉伊地方と周辺地域の間にある陸上輸送の難を取り除くべく生涯を賭けて尽力する。
* [[天明]]3年([[1783年]]):鍬ヶ崎の市中で[[天明の大飢饉]]による[[米騒動]]が起きる。
* [[享和]]元年([[1801年]]):東日本沿岸を測量していた[[伊能忠敬]]一行が宮古に到着。[[豪商]]・盛合家の屋敷及び鍬ヶ崎の泉屋に滞在。
** :江戸 - [[蝦夷地]]間の航路調査をしていた学者の[[本多利明]]が、宮古滞在中に海運の重要性を説いた『長器論』を著す。
* [[文化]]3年([[1806年]]):幕臣の[[最上徳内]]が宮古に来訪。[[長崎]]{{要曖昧さ回避|date=2021年5月}}[[俵物]]御用と称し宮古湾周辺の調査を行う。
* [[文政]]6年([[1823年]]):[[三戸郡]]五戸村(現・[[五戸町]]五戸)出身の豪商・藤田武兵衛らが閉伊街道を改修・新道開発する。
* [[弘化]]4年([[1847年]]):[[閉伊郡]]で東北地方最大の一揆・[[三閉伊一揆]]が勃発。
==== 明治 - 大正時代 ====
* [[明治]]2年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1869年]][[5月6日]]):宮古湾海戦が勃発。
* [[1888年]](明治21年):民営による宮古 - [[塩釜港|塩釜]]間の定期航路が開かれる。
* [[1896年]](明治29年)[[6月15日]]:東北地方を[[明治三陸地震]]が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。津波遡上高は重茂村(おもえむら。現在の宮古市重茂)で18.9 mを記録した。[[下閉伊郡]][[田老町|田老村]](現在の宮古市田老地区)では死者・行方不明者1,859人を出し、浸水した平坦地での生存者はわずかに36人であった。
* [[1902年]](明治35年)[[3月1日]]:[[魹ヶ埼灯台]]に初めて灯りが点る。
* {{Anchors|崎山貝塚,b}}[[1924年]]([[大正]]13年):崎山貝塚で初めて[[発掘調査]]が行われる<ref name="崎山貝塚" />。
==== 昭和戦前期 ====
[[ファイル:大津波記念碑.JPG|thumb|昭和三陸津波後に建立された[[大津浪記念碑]]。「髙き住居は児孫の和樂 / 想へ惨禍の大津浪 / 此処より下に家を建てるな」]]
* [[1927年]]([[昭和]]2年)10月:宮古港が第二種[[重要港湾]]に指定される。
* [[1928年]](昭和3年)[[9月25日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]](現・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[山田線]]で[[区界駅]]が開業。
* [[1930年]](昭和5年)[[10月31日]]:国鉄山田線で[[松草駅]]が開業。
* [[1931年]](昭和6年)10月31日:国鉄山田線で[[平津戸駅]]が開業。
* [[1933年]](昭和8年)
** [[3月3日]]:東北地方を[[昭和三陸地震]]が襲い、三陸は津波によっても被害甚大。特に下閉伊郡田老村(現・宮古市田老地区)では、人口の42%にあたる911人が死亡、家屋の98%が全壊し、壊滅状態となった。東日本大震災(2011年)の折、先人訓として活きた[[大津浪記念碑]]はこの後に建立された。
** [[11月30日]]:国鉄山田線で[[川内駅 (岩手県)|川内駅]]、[[箱石駅]]、[[陸中川井駅]]が開業。
* [[1934年]](昭和9年)[[11月6日]]:国鉄山田線で[[腹帯駅]]、[[茂市駅]]、[[蟇目駅]]、[[千徳駅]]、[[宮古駅]]が開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[11月17日]]:国鉄山田線で[[磯鶏駅]]と[[津軽石駅]]が開業。
* [[1936年]](昭和11年):[[ラサ工業]]田老鉱業所([[田老鉱山]])が本格稼働。
* [[1939年]](昭和14年)
** 6月:ラサ工業宮古工場が操業開始(これに先立ち、[[#ラサの煙突|ラサの煙突]]も竣工)。
** [[9月7日]]:[[潮吹穴]]が国の[[天然記念物]]に指定される。
* [[1942年]] (昭和17年)
** [[6月20日]]:市章を制定する<ref>図典 日本の市町村章 p32</ref>。
** [[6月25日]]:国鉄小本線(JR[[岩泉線]]の前身)で[[岩手刈屋駅]]、[[岩手刈屋駅]]、[[岩手和井内駅]]が開業。
* [[1944年]](昭和19年)[[7月20日]]:国鉄小本線の[[貨物駅]]として[[押角駅]]が開業。
* [[1945年]](昭和20年)8月9日・10日:[[太平洋戦争]]下で、米[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]]の[[空母]]「[[エセックス (空母)|エセックス]]」「[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]」の艦載機による市街地への[[日本本土空襲|空襲]]。藤原地区に大きな被害。
==== 戦後 ====
[[ファイル:High Seawalls in Tarō, Iwate -2.JPG|thumb|震災前の田老地区。家々を取り囲むように、巨大な[[防潮堤]]が聳え立っていた。]]
* [[1947年]](昭和22年)[[9月16日]]:[[カスリーン台風]]が東北地方を襲い、三陸は大きな被害を出す。国鉄山田線は茂市駅 - 蟇目駅間と平津戸駅 - 松草駅間が不通となる。
* [[1948年]](昭和23年)[[9月17日]]頃:[[アイオン台風]]が東北地方を襲い、前年の台風被害からの復旧途上にあった三陸は重ねて被害を受ける。国鉄山田線の松草駅 - 蟇目駅間も6年間不通となる。
* [[1950年]](昭和25年)6月:太平洋戦争の終戦間際に焼失していた魹ヶ埼灯台が再建される。
* [[1951年]](昭和26年)[[1月19日]]:宮古港が重要港湾に指定される。
* [[1953年]](昭和28年)[[5月18日]]:旧・閉伊街道が[[都道府県道|県道]]から[[二級国道]]106号宮古盛岡線に昇格。
* [[1954年]](昭和29年)[[4月5日]]:浄土ヶ浜が岩手県指定[[名勝]](第1号)となる<ref>{{Cite web|和書|title=浄土ヶ浜|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/jyoudogahama.html|publisher=宮古市|date=2018-10-18|accessdate=2019-01-18}}</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[5月2日]]:浄土ヶ浜を中心として、北は普代村から南は釜石市に到る三陸海岸地域が陸中海岸国立公園(現・[[三陸復興国立公園]])に指定される。
* {{Anchors|田老の防潮堤,a}}[[1958年]](昭和33年):旧・田老町で、当時としては巨大な[[防潮堤]](海抜10 m)(落成のち「[[#田老の防潮堤,b|田老万里の長城]]」と雅称される)の1期工事が竣工。
* [[1960年]](昭和35年)[[5月24日]]:[[1960年チリ地震|チリ地震]]による津波の襲来を未明に受けるも、田老の防潮堤が被害を最小限に食い止め、人的被害は皆無。これにより、[[防災]]の分野で国際的知名度を高める。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[5月28日]]:新里村から始まった大規模な[[山火事]]が市内へ延焼。女遊戸、箱石、芋野の67棟が全焼するなどの被害<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=152|isbn=9784816922749}}</ref>。
** [[12月20日]]:国鉄山田線で[[花原市駅]]が開業。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月1日]]:二級国道106号が[[国道106号]]に昇格。[[国道45号]]が市域で開通(同時に全線開通)。
* [[1966年]](昭和41年)
** 4月1日:旧・宮古市が青森県[[黒石市]]と[[姉妹都市]]提携。
** [[10月1日]]:国鉄小本線で[[中里駅 (岩手県)|中里駅]]開業。
* [[1972年]](昭和47年)[[2月27日]]:国鉄[[宮古線]](のち、[[三陸鉄道]][[三陸鉄道北リアス線|北リアス線]]に移管)の駅として[[一の渡駅]]、[[佐羽根駅]]、[[田老駅]]が開業。
* [[1982年]](昭和57年):旧・田老町で、この頃までに[[海抜]]10 m・総延長2,433 mの巨大防潮堤(田老の防潮堤、別称「田老[[万里の長城]]」)が完成。
* [[1984年]](昭和59年)4月1日:三陸鉄道北リアス線の開業に伴い、[[摂待駅]]が開業。
* [[1986年]](昭和61年)10月1日:旧・田老町が岩手県の旧・[[松尾村 (岩手県)|松尾村]](現・[[八幡平市]]松尾)と[[姉妹都市]]提携。
==== 平成時代 ====
[[ファイル:IwaizumiLineKiha52.JPG|thumb|宮古駅に停車する岩泉線の車両(2005年12月)。岩泉線は落石事故をきっかけに2014年に廃線となった。]]
[[ファイル:Michinoeki Miyako 01.JPG|thumb|2003年に開業した「シートピアなあど」([[道の駅みやこ]])。津波により全壊したが、タラソ施設のみ解体して2013年に再開した。]]
[[ファイル:Taro Kanko Hotel.jpg|thumb|津波の痕跡が残るたろう観光ホテルは[[震災遺構]]として整備され、2016年より震災学習などに利用されている。]]
*
* [[1992年]]([[平成]]4年)
** [[7月4日]] - [[9月15日]]:地方博覧会「[[JAPAN EXPO]]」の第2回として「[[三陸・海の博覧会]]」を釜石市および山田町と共同開催。
** [[8月7日]]:旧・新里村(現・宮古市新里)が[[フィリピン|フィリピン共和国]][[ベンゲット州]]の[[ラ・トリニダード|ラ・トリニダッド市]] ([[:en:La Trinidad, Benguet|La Trinidad]]) と[[姉妹都市|友好交流都市]]提携。
* [[1993年]](平成5年)[[10月26日]]:旧・宮古市が[[中華人民共和国]][[山東省]]の[[煙台|烟台市]]と[[姉妹都市|友好協力都市]]提携。
* [[1996年]](平成8年)[[2月6日]]:旧・宮古市が[[沖縄県]][[宮古郡]]の[[多良間村]]と[[姉妹都市|姉妹市村]]提携。
* [[2003年]](平成15年)
** {{Anchors|山村生産用具コレクション}}[[2月20日]]:川井地区(旧・川井村)で収集された伝統的な生産用具のコレクションが、「生産・生業」の分野にて「北上山地川井村の山村生産用具コレクション」の名称で国の[[重要有形民俗文化財]]に指定される<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170045 北上山地川井村の山村生産用具コレクション](文化遺産オンライン)2015年1月10日閲覧</ref>。
** [[3月3日]]:旧・田老町が「津波防災の町」を宣言。
** {{Anchors|シートピアなあど}}[[11月1日]]:出崎[[埠頭]](臨港通)で健康促進施設「シートピアなあど」(広域総合交流促進施設およびタラソテラピー〈[[海洋療法]]〉海水プール施設)が開業。
* [[2004年]](平成16年)12月:[[沖縄県]][[宮古列島]]の5市町村が[[日本の市町村の廃置分合|合併]]して市制施行するにあたって新たな市の名称を「宮古市」に決定したことに対し、岩手県宮古市が抗議。その後の2005年(平成17年)3月、沖縄県の5市町村は新市に付ける名称を「[[宮古島市]]」に改めた([[宮古島市#合併の経緯|宮古列島の「宮古市」命名問題]]参照)。
* {{Anchors|みなとオアシス}}[[2005年]](平成17年)[[7月18日]]([[海の日]]):「シートピアなあど」が「[[みなとオアシス]]」の登録地となり、同時に[[道の駅みやこ]]「みなとオアシスみやこ」としてリニューアル。これにより国道沿いにない珍しい道の駅が誕生。
* [[2006年]](平成18年)[[3月15日]]:[[黒森神楽]]が国の[[重要無形民俗文化財]]に指定される<ref>{{Cite web|和書|title=黒森神楽|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/bnka/kagura.html|publisher=宮古市|date=2010-04-14|accessdate=2019-01-18}}</ref>。
* [[2008年]](平成20年)10月1日:[[オランダ]][[船籍]]の大型[[クルーズ客船]]「[[アムステルダム (旅客船)|アムステルダム]]」が宮古港に寄港(当時で岩手県寄港史上最大)。
* [[2010年]](平成22年)[[3月21日]]:三陸道[[三陸縦貫自動車道#宮古道路|宮古道路]]が部分開通し、[[宮古南インターチェンジ]]と[[宮古中央インターチェンジ]]が供用を開始する。
* {{Anchors|東日本大震災}}[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]:[[東北地方太平洋沖地震]]が発生し、宮古市全域が震度5(茂市地区で[[気象庁震度階級#震度5強|震度5強]]、川井地区・田老地区・五月町地区・長沢地区・[[鍬ケ崎町|鍬ヶ崎地区]]・門馬田代地区で[[気象庁震度階級#震度5弱|震度5弱]])を観測。さらに、この[[地震]]に伴って発生した大津波にも襲われ、沿岸部は壊滅的被害を負った('''[[東日本大震災]]''')。
** 2013年2月28日時点の県の調査では死者420人、行方不明者94人、負傷者33人、家屋倒壊4,005棟となっている<ref>岩手県発行 岩手県東日本大震災津波の記録 p.43</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[4月1日]]:茂市駅と下閉伊郡岩泉町の[[岩泉駅]]を結んでいた[[岩泉線]]が廃止される。
* [[2016年]](平成28年)[[8月30日]]:[[平成28年台風第10号]]により住宅、公共土木施設、農地等に甚大な被害。宮古市は[[局地激甚災害]]の指定を受ける<ref>{{PDFlink|[https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/pdf/20160916_01kisya.pdf 「平成二十八年八月十六日から九月一日までの間の暴風雨及び豪雨による災害についての激甚災害並びにこれに対し適用すべき措置の指定に関する政令」について]}} -内閣府</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
**[[3月21日]]:[[三陸沿岸道路]]・[[田老真崎海岸インターチェンジ]]・[[田老北インターチェンジ]]が供用を開始。
**[[6月22日]]:[[川崎近海汽船]]により、宮古市と北海道[[室蘭市]]を結ぶ[[フェリー]]航路(宮蘭航路)が開設。
**[[10月1日]]:市役所が海岸沿いから、1kmほど離れた宮古駅前に移転。
*[[2019年]](平成31年/[[令和]]元年)
**3月23日:震災後不通となっていた、JR山田線宮古 - 釜石間が、三陸鉄道に移管し運行再開される。
**3月30日:宮古西道路 [[宮古中央インターチェンジ]] - 宮古根市インターチェンジ開通。
**4月25日:[[イギリス]]船籍の大型クルーズ客船「[[ダイヤモンド・プリンセス (客船)|ダイヤモンド・プリンセス]]」(11万5千8百75トン)が宮古港に寄港。
**10月13日:[[令和元年東日本台風]](台風19号)により観測史上最大の降水量を記録。冠水や土砂崩れにより市内各所に甚大な被害。
*[[2020年]](令和2年)
**4月1日:川崎近海汽船の宮蘭航路が休止。
**7月12日:三陸沿岸道路 宮古中央インターチェンジ - 田老真崎海岸インターチェンジ、宮古西道路 宮古港インターチェンジ - 宮古中央インターチェンジ開通。
==== 行政区域の変遷(市町村制施行以後) ====
{{日本の市 (廃止)
| 廃止日 = 2005年6月6日
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = '''宮古市'''(旧)、[[田老町]]・[[新里村 (岩手県)|新里村]] → 宮古市(新)
| 現在の自治体 = 宮古市(新)
| よみがな = みやこし
| 自治体名 = 宮古市
| 画像 =
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Miyako Iwate.svg|100px|宮古市旗]]
| 市旗の説明 = 宮古[[市町村旗|市旗]]<br />[[1942年]][[6月20日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Miyako, Iwate.svg|75px|宮古市章]]
| 市章の説明 = 宮古[[市町村章|市章]]<br />[[1942年]][[6月20日]]制定
| 都道府県 = 岩手県
| 支庁 =
| コード =
| 面積 =
| 境界未定 =
| 人口 =
| 人口の出典 = [[推計人口]]
| 人口の時点 =
| 隣接自治体 = 下閉伊郡[[山田町]]、田老町、[[岩泉町]]、新里村
| 木 =
| 花 =
| シンボル名 =
| 鳥など =
| 郵便番号 =
| 所在地 =
| 外部リンク =
| InternetArchive =
| 緯度度 = | 緯度分 = | 緯度秒 =
| 経度度 = | 経度分 = | 経度秒 =
| 位置画像 =[[ファイル:Iwate Miyako-city.png|thumb|旧・宮古市の県内位置図]]
| 特記事項 =
}}
* [[1941年]](昭和16年)[[2月11日]] - [[下閉伊郡]][[宮古町]]・[[千徳村]]・[[磯鶏村]]・[[山口村 (岩手県)|山口村]]が合併した上で[[市制]]を施行し、'''宮古市'''が発足。
* 1955年(昭和30年)4月1日 - [[重茂村]]・[[崎山村 (岩手県)|崎山村]]・[[津軽石村]]・[[花輪村 (岩手県)|花輪村]]を[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]。
* [[2005年]](平成17年)[[6月6日]] - 宮古市・[[田老町]]・[[新里村 (岩手県)|新里村]]が合併し、改めて'''宮古市'''が成立。
* [[2010年]](平成22年)[[1月1日]] - [[川井村 (岩手県)|川井村]]を編入。
== 行政 ==
;歴代市長
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任日!!退任日!!備考
|-
| 初代 || [[熊坂義裕]] || 2005年7月3日 || [[2009年]]7月2日 || 旧宮古市長
|-
| 2-4代 || [[山本正徳]] || 2009年7月3日 || 現職 ||
|}
== 姉妹都市・友好都市 ==
; 日本国内
* {{Flagicon|JPN}} [[黒石市]](青森県):旧・宮古市が[[1966年]](昭和41年)4月1日に[[姉妹都市]]提携。
* {{Flagicon|JPN}} [[八幡平市]](岩手県):旧・田老町が旧・[[松尾村 (岩手県)|松尾村]]と[[1986年]](昭和61年)10月1日に姉妹都市提携。
* {{Flagicon|JPN}} [[多良間村]]([[沖縄県]] [[宮古郡]]):旧・宮古市が[[1996年]](平成8年)[[2月6日]]に[[姉妹都市|姉妹市村]]提携。
; 日本国外
* {{Flagicon|CHN}} [[煙台|烟台市]]([[中華人民共和国]][[山東省]]):旧・宮古市が[[1993年]](平成5年)[[10月26日]]に[[姉妹都市|友好協力都市]]提携。
* {{Flagicon|PHI}} [[ラ・トリニダード|ラ・トリニダッド市]]([[:en:La Trinidad, Benguet|en]]。[[フィリピン|フィリピン共和国]][[ベンゲット州]]) :旧・新里村が[[1992年]](平成4年)[[8月7日]]に[[姉妹都市|友好交流都市]]提携。
== 人口 ==
{{人口統計|code=03202|name=宮古市|image=Population distribution of Miyako, Iwate, Japan.svg}}
[[2010年|平成22年]][[国勢調査]]から[[2015年|平成27年]]調査にかけての人口増減率は4.63%の減少で、岩手県全体の3.80%減を少し上回った。なお[[平成の大合併]]以前の区分では旧宮古市が東日本大震災に伴う津波で甚大な被害を受けながら2.23%減と県全体を下回った一方で、同じく津波被害を受けた旧田老町が26.27%減と、平成27年時点の自治体区分で県内最大である大槌町の23.02%減も上回る対照的な結果となった。また直接津波被害を受けていない旧川井村は10.62%減と、田老町ほどではないにしろ大きく減少した<ref>{{Cite web|和書|title=平成27年国勢調査|url=https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka.html|publisher=[[総務省統計局]]|date=2016-10-26|accessdate=2017-07-22}}</ref>。
== 経済 ==
=== 産業 ===
[[ファイル:Japan,Iwate,Miyako city,Fishing harbor.jpg|thumb|入港する[[底引網]]漁船]]
古来、[[水産業]]で栄え、名産品としては、[[サケ|鮭]]、[[イクラ]]、[[ウニ]]、[[アワビ]]、[[ケガニ|毛ガニ]]、[[ワカメ]]などが挙げられる。特にサケや[[サンマ]]、[[マダラ]]は全国屈指の水揚げを誇る。ウニは、生のまま牛乳瓶の形をした瓶に入れて、型崩れ防止用の[[明礬]]を加えない「瓶ウニ」が長く名物であった。東日本大震災後の2018年から、様々な[[魚介類]]や[[海藻]]、[[薬味]]、[[野菜]]などを入れて、[[丼物|丼]][[飯]]にかけて食べる「瓶ドン」を[[ご当地グルメ]]として展開するなど、水産は観光客誘致にも寄与している<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/stream/article/12508/ 【仰天ゴハン】瓶ドン(岩手県宮古市)山と海の恵み ぎゅぎゅっ]『[[読売新聞]]』朝刊別刷り「よみほっと」1面(2019年7月7日)2019年7月20日閲覧。</ref>。
工業では、ヒロセ電機や関連企業などによる電子部品の製造、ラサ工業宮古工場による[[ガリウム]]の生成、製造と同NCRI事業部による石油精製[[触媒]]の再生事業、[[片倉コープアグリ]]宮古工場による[[化学肥料]]製造やホクヨープライウッドによる[[合板]]加工などが主産業である。宮古[[税関]]管内(宮古港)の平成28年の輸出入貿易額は、[[輸出]]が387億9千6百万円で、[[ドイツ]]や[[ベルギー]]、[[アメリカ]]向けの[[ポンプ]]、[[遠心分離機]]等の一般機械がその8割を占める。[[輸入]]は食料品や木材が多く、貿易額では[[ロシア]]がその半分を占める。平成26年の製造品出荷額は7,475(千万円)で、岩手県内で8位である。
平成26年度の一人当たり市町村民所得は276万円(県調査統計課)で、復興需要により震災前より急上昇しており、県南を上回り盛岡市などの県央部に匹敵する額になっている。平成28年の[[観光客]]入込数は1,117,932(単位・人回、県観光統計概要)で、県沿岸部の市町村ではトップの数字となっている。
=== 震災による影響 ===
[[ファイル:Japan,Iwate,Miyako city, 2011 Tōhoku earthquake.jpg|thumb|[[東日本大震災]]で津波被害を受けた宮古市の中心街(国道45号・築地交差点付近)]]
宮古市の東日本大震災による被害総額は2457億円と推計されており、このうち住宅被害が1496億円と全体の約61%を占めている。また市内では1,078の事業所が被災し、業種別ではサービス業が547事業所(51%)、商業が334事業所(31%)、製造業125事業所(12%)などとなっている。
=== 市内金融機関 ===
* [[ゆうちょ銀行]]
* [[岩手銀行]]
* [[北日本銀行]]
* [[東北銀行]]
* [[東北労働金庫]]
* [[JAバンク]]岩手
* [[JFマリンバンク]]岩手信漁連
* [[宮古信用金庫]]
=== 市内に支店、営業所等を置く主な企業 ===
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[東日本電信電話|NTT東日本]]-岩手
* [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]
* [[東北電力ネットワーク]]
* [[ユアテック]]
* [[カメイ]]
* [[みちのくコカ・コーラボトリング]]
* [[ニチモウ]]
* [[東洋建設]]
{{col-break}}
* [[あいおいニッセイ同和損害保険]]
* [[朝日生命保険]]
* [[住友生命保険]]
* [[第一生命保険]]
* [[日本生命保険]]
* [[明治安田生命保険]]
* [[ジブラルタ生命保険]]
* [[小田島 (医薬品)]]
{{col-break}}
* [[バイタルネット]]
* [[本間組]]
* [[佐川急便]]
* [[日本通運]]
* [[ヤマト運輸]]
* [[TTK (建設)]]
* [[吉田産業]]
* 鹿島道路
{{col-end}}
=== 商業 ===
==== 市内の主な宿泊施設 ====
{{col-begin}}
{{col-break}}
;公共の宿
* [[国民休暇村]]陸中宮古
* [[グリーンピア]]三陸みやこ
;ホテル
* 浄土ヶ浜パークホテル
* ホテル近江屋
* 宮古ホテル沢田屋
{{col-break}}
;ビジネス
* [[ホテルルートイン]]宮古
* ホテルビックウェーブ
* 宮古セントラルホテル熊安
* ホテル宮古ヒルズ ステーション店([[ブリーズベイホテル|BBHホテル]]グループ)
* 幸プラザホテル
{{col-break}}
;旅館
* 旅館末広館([[ユースホステル]])
* 山田屋旅館(別館)
* 浄土ヶ浜旅館
* 渚亭 たろう庵
{{col-end}}
==== 市内の主なチェーン店など ====
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[ドコモショップ]]
* [[Au (携帯電話)|au]]ショップ
* [[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]ショップ
* [[ヤマダ電機]]
* [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]
* [[オートバックスセブン|オートバックス]]
* [[イエローハット]]
* [[DCMホーマック]]
* [[コナカ]]
* [[青山商事|洋服の青山]]
{{col-break}}
* [[マックハウス]]
* [[タケダスポーツ]]
* [[薬王堂]]
* [[ツルハホールディングス|ツルハドラッグ]]
* [[西松屋]]
* [[ジョイス (岩手県)|ジョイス]]
* [[眼鏡市場]]
* [[三城|メガネのパリミキ]]
* [[弐萬圓堂]]
* [[As-meエステール]]
{{col-break}}
* [[東京靴流通センター]]
* [[大創産業|ダイソー]]
* [[TSUTAYA]]
* [[ゲオ]]
* [[ローソン]]
* [[ファミリーマート]]
* [[デイリーヤマザキ|ニューヤマザキデイリーストア]]
* [[いわて生活協同組合]]
{{col-end}}
==== 市内の主な外食産業 ====
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[マクドナルド]]
* [[モスバーガー]]
* [[ケンタッキーフライドチキン]]
* [[ミスタードーナツ]]
* [[サーティワン]]
* [[大戸屋]]
{{col-break}}
* [[すき家]]
* [[まるまつ]]
* [[トマトアンドアソシエイツ|トマト&オニオン]]
* [[つぼ八]]
* [[ほっかほっか亭]]
{{col-end}}
==== 娯楽施設など ====
* 宮古カントリークラブ(ゴルフ場)
* テレトラック宮古([[場外勝馬投票券発売所]])
== 漁港 ==
[[ファイル:Japan,Iwate, Miyako port.jpg|thumb|早朝の[[宮古港]]]]
[[ファイル:Japan,Iwate,Miyako,Hidejima.jpg|thumb|[[日出島]]と周辺で操業する漁船]]
田老漁港と重茂漁港は第2種[[漁港]]、他は全て第1種漁港である。
* [[田老町|田老地区]]の漁港
** {{Anchors|小堀内漁港}}小堀内漁港
** 青野滝漁港
** 小港漁港
** 田老漁港 - 田老地区の中心部にある、岩手県でも有数の漁港。周囲には[[#田老の防潮堤,b|田老の防潮堤]]が築かれ、津波防災において先進的な地域であったが、東日本大震災の津波は防ぎきれなかった。
** 樫内漁港
* 宮古地区の漁港
** 宿漁港
** [[日出島]]漁港
** 蛸の浜漁港 - 宮古港(旧・鍬ケ崎湊)の基礎となった鍬ケ崎地区にあり、古くから磯漁業を行う。
** 白浜漁港
** 津軽石漁港 - 津軽石川が注ぐ宮古湾最奥部の、赤前地区・小堀内地区・堀内地区に所在。
* 重茂地区の漁港
** 浦の沢漁港
** 仲組漁港
** 音部漁港
** 重茂漁港
** {{Anchors|姉吉漁港}}姉吉漁港
** 千鶏漁港
** 石浜漁港
** 川代漁港
== 公的機関==
=== 官公庁等 ===
; 裁判所
* [[盛岡地方裁判所]] 宮古支部
* [[盛岡家庭裁判所]] 宮古支部
* 宮古[[簡易裁判所]]
;復興庁
* [[復興庁]] 岩手復興局 宮古支所
;法務省
* 盛岡[[地方法務局]] 宮古支局
;検察庁
* [[盛岡地方検察庁]] 宮古支部
* 宮古区検察庁
;財務省
* [[函館税関]] 釜石税関支署宮古出張所
;国税庁
* [[仙台国税局]] 宮古税務署
;厚生労働省
* [[岩手労働局]] 宮古[[労働基準監督署]]
* 岩手労働局 宮古[[公共職業安定所]]
* 仙台[[検疫所]] 宮古出張所
;林野庁
* [[東北森林管理局]] 三陸北部森林管理署
;国土交通省
* [[東北地方整備局]] 三陸国道事務所
**宮古維持出張所
**宮古西維持出張所
* [[東北運輸局]] [[岩手運輸支局]]宮古庁舎([[海事]]部門)
;海上保安庁
* [[第二管区海上保安本部]]釜石海上保安部 宮古海上保安署
;環境省
* [[東北地方環境事務所]] 宮古[[自然保護官]]事務所
;防衛省
* [[自衛隊岩手地方協力本部]] 宮古地域事務所
;警察
* [[岩手県警察]] [[宮古警察署]]
;消防
* [[宮古地区広域行政組合]][[消防本部]]
;特殊法人
* [[日本年金機構]] 宮古年金事務所
;独立行政法人
* [[水産研究・教育機構]] [[東北区水産研究所]]宮古庁舎
* [[海技教育機構]] [[国立宮古海上技術短期大学校]]
;岩手県
* 沿岸広域振興局(宮古合同庁舎)
**宮古地域振興センター
**宮古保健福祉環境センター・宮古[[保健所]]
**宮古農林振興センター
**宮古農業改良普及センター
**宮古水産振興センター
**宮古土木センター
* 岩手県宮古[[児童相談所]]
* 岩手県立宮古高等技術専門校
* 岩手県立宮古高等看護学院
* [[岩手県立宮古病院]]([[地域医療支援病院]])
* [[救護施設]] 松山荘
=== 主な市の施設 ===
* 田老総合事務所
* 新里総合事務所
* 川井総合事務所
* [[宮古市民総合体育館]]
* 宮古市民文化会館
* 宮古市立図書館
* 宮古市総合福祉センター
* 宮古運動公園
* 姉ヶ崎サン・スポーツランド
* 湯ったり館
* へいがわ老木公園
<gallery>
Miyako city hall Niisato comprehensive office 1.JPG|新里総合事務所
Miyako Taro comprehensive office and Shin-Taro Station 1.jpg|田老総合事務所
Kawai General Office in Miyako, Iwate, Japan.jpg|川井総合事務所
Miyako Municipal Library Ent.jpg|宮古市立図書館
Miyako City Cultural Hall.jpg|宮古市民文化会館
Miyako Municipal Gymnasium Sea Arena.jpg|宮古市民総合体育館
</gallery>
== メディア ==
* [[岩手日報]]社 宮古支局
* [[河北新報社]] 宮古支局
* [[朝日新聞]] 宮古通信部
* [[読売新聞]] 宮古通信部
;テレビ・ラジオ等
* [[NHK盛岡放送局]] 宮古支局
* [[テレビ岩手]] 宮古支局
* [[岩手めんこいテレビ]] 宮古支局
* [[宮古エフエム放送]]
== 郵便 ==
[[ファイル:Miyako post office 83007.JPG|thumb|宮古郵便局]]
[[ファイル:Kawai Post Office in Miyako, Iwate, Japan.jpg|thumb|川井郵便局]]
;[[郵便局]]
{{col|
* [[宮古郵便局 (岩手県)|宮古郵便局]](集配局)
* 川井郵便局(集配局)
* 門馬郵便局(集配局)
* 鍬ヶ崎郵便局
* 磯鶏郵便局
* 岩手花輪郵便局
* 宮古小山田郵便局
* 千徳郵便局
* 宮古田の神郵便局
* 宮古市役所前郵便局
* 宮古新町郵便局
* 宮古日の出郵便局
* 重茂郵便局
* 津軽石郵便局
* 田老郵便局
* 新里郵便局
* 刈屋郵便局
* 和井内郵便局
* 箱石郵便局
* 小国郵便局
* 陸中川内郵便局
}}
;[[簡易郵便局]]
{{col|
* 高浜簡易郵便局
* 崎山簡易郵便局|
* 攝待簡易郵便局|
* 蟇目簡易郵便局|
* 腹帯簡易郵便局}}
== 教育 ==
=== 短期大学 ===
* [[岩手県立大学宮古短期大学部]]
[[ファイル:Iwate Prefectural Miyako Fisherise High School.jpg|thumb|日本の水産系高校の中で最も長い歴史を持つ、宮古水産高等学校]]
=== 高等学校 ===
'''県立'''
* [[岩手県立宮古高等学校]]
* [[岩手県立宮古北高等学校]]
* [[岩手県立宮古商工高等学校]]
* [[岩手県立宮古水産高等学校]]
※[[岩手県立杜陵高等学校]]の宮古分室が宮古高等学校内に設置されていた。
現在は宮古高等学校通信課程となっている。
'''私立'''
* [[鹿島学園高等学校]]宮古キャンパス
* [[第一学院高等学校]]宮古キャンパス
'''※以下は廃校(新制 宮古市以降)'''
* [[岩手県立宮古工業高等学校]](2020年・統合により宮古商工高へ)
* [[岩手県立宮古商業高等学校]](同上)
=== 中学校 ===
{{Col|*宮古市立第一中学校
*宮古市立第二中学校
*宮古市立河南中学校
*宮古市立宮古西中学校
*宮古市立花輪中学校
*宮古市立津軽石中学校|*宮古市立重茂中学校
*宮古市立崎山中学校
*宮古市立田老第一中学校
*宮古市立新里中学校
*宮古市立川井中学校}}'''※以下は廃校(新制 宮古市以降)'''
* 宮古市立亀岳中学校(2005年・第一中へ統合)
* 宮古市立田老第三中学校(2011年・田老第一中へ統合)
=== 小学校 ===
{{Col|*宮古市立宮古小学校
*宮古市立山口小学校
*宮古市立千徳小学校
*宮古市立磯鶏小学校
*宮古市立鍬ヶ崎小学校|*宮古市立花輪小学校
*宮古市立重茂小学校
*宮古市立藤原小学校
*宮古市立崎山小学校
*[[宮古市立高浜小学校]]|*宮古市立津軽石小学校
*宮古市立田老第一小学校
*宮古市立新里小学校
*宮古市立川井小学校}}'''※以下は廃校(新制 宮古市以降)'''
{{Col|*宮古市立愛宕小学校(2012年・宮古小と鍬ケ崎小へ分割統合)
*[[宮古市立鵜磯小学校]](2014年・重茂小へ統合)
*宮古市立千鶏小学校(同上)
*宮古市立川井西小学校(2015年・川井小へ統合)
*宮古市立江繋小学校(同上)|*宮古市立小国小学校(同上)
*宮古市立茂市小学校(2016年・統合により新里小へ)
*宮古市立蟇目小学校(同上)
*宮古市立刈屋小学校(同上)
*宮古市立和井内小学校(同上)|*宮古市立門馬小学校(2017年・川井小へ統合)
*宮古市立田老第三小学校(2019年・田老第一小へ統合)
*宮古市立藤原小学校(2020年・磯鶏小へ統合)
*宮古市立亀岳小学校(2021年・山口小へ統合)
*宮古市立赤前小学校(2022年・津軽石小へ統合)}}
=== 特別支援学校 ===
* [[岩手県立宮古恵風支援学校]]
=== 学校教育以外の施設 ===
[[ファイル:National Miyako Maritime Technical College.jpg|thumb|国立宮古海上技術短期大学校]]
* [[国立宮古海上技術短期大学校]]([[独立行政法人]][[海技教育機構]])
* 岩手県立宮古高等看護学院
* 岩手県立宮古高等技術専門校
== 交通 ==
[[ファイル:宮古駅(三陸鉄道).jpg|thumb|[[三陸鉄道]][[宮古駅]]]]
[[ファイル:Iwate-Kenpoku-bus-202.jpg|thumb|106急行バス]]
[[ファイル:Miyako-port Ferry terminal (Iwate, Japan).jpg|thumb|[[宮古港]][[フェリー]]ターミナル]]
[[ファイル:Sanriku Expressway Miyako-minami Interchange.jpg|thumb|[[三陸沿岸道路]][[宮古南インターチェンジ|宮古南IC]]]]
宮古市は三陸沿岸の交通の拠点であり、2021年度には三陸沿岸道路の開通により、北は青森県[[八戸市]]から南は宮城県[[仙台市]]まで接続された。公共交通機関では県庁所在地である盛岡市への[[急行バス]]が発着しており、鉄路ではJR東日本山田線が宮古駅 - 盛岡駅間を運行しているとともに気仙沼市を経由して仙台市まで直通する高速バスも発着している。また三陸鉄道リアス線が[[盛駅]]([[大船渡市]]) - [[久慈駅]]([[久慈市]])間を運行している。海路では2018年に北海道[[室蘭市]]へのフェリー航路が就航したが、2020年4月から運航休止中となっている。
=== 鉄道 ===
; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[山田線]]
** [[区界駅]] - [[松草駅]] - [[川内駅 (岩手県)|川内駅]] - [[箱石駅]] - [[陸中川井駅]] - [[腹帯駅]] - [[茂市駅]] - [[蟇目駅]] - [[花原市駅]] - [[千徳駅]] - [[宮古駅]]
; [[三陸鉄道]]
* [[三陸鉄道リアス線|リアス線]]
** [[払川駅]] - [[津軽石駅]] - [[八木沢・宮古短大駅]] - [[磯鶏駅]] - 宮古駅 - [[山口団地駅]] - [[一の渡駅]] - [[佐羽根駅]] - [[田老駅]] - [[新田老駅]] - [[摂待駅]]
=== 航路 ===
* フェリー(シルバーフェリー)※運航休止中
**[[川崎近海汽船]](宮古港 - [[室蘭港]])※運行[[船舶]]は[[シルバークイーン (3代)|シルバークイーン]]
=== 都市間バス ===
* [[ビーム・1|MEX宮古・盛岡]]<山田・宮古・盛岡~さいたま新都心・東京・横浜>([[岩手県北自動車|岩手県北バス]])
* [[106急行バス]](岩手県北バス)
* 三陸高速バス <宮古・気仙沼~仙台> (岩手県北バス・[[宮城交通]])
=== 路線バス ===
* 岩手県北バス
* [[東日本交通 (岩手県)|東日本交通]]
* [[川井地域バス]]
* [[新里地域バス]]
* 田老地域バス「たろちゃんバス」
=== 道路 ===
==== 自動車専用道路 ====
; [[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道自動車専用道路 (B路線)]]
* {{Ja Exp Route Sign|E45}} [[三陸沿岸道路]]([[三陸縦貫自動車道]])
** 一般国道45号[[三陸縦貫自動車道#山田宮古道路|山田宮古道路]]
*** (下閉伊郡山田町)- (48) [[宮古南インターチェンジ|宮古南IC]]
** 一般国道45号[[三陸縦貫自動車道#宮古道路|宮古道路]]
*** (48) 宮古南IC - (49) [[宮古中央インターチェンジ|宮古中央IC]]
** 一般国道45号[[三陸縦貫自動車道#宮古田老道路|宮古田老道路]]
*** (52) [[田老真崎海岸インターチェンジ|田老真崎海岸IC]] - (53) [[田老北インターチェンジ|田老北IC]]
; [[地域高規格道路]]
* {{Ja Exp Route Sign|E45}} 三陸沿岸道路([[三陸北縦貫道路]])
** 一般国道45号[[三陸北縦貫道路#田老岩泉道路|田老岩泉道路]]
*** (53) 田老北IC -(下閉伊郡岩泉町)
* [[国道106号#宮古盛岡横断道路|宮古盛岡横断道路]](建設中)
==== 一般国道 ====
* [[国道45号]]
* [[国道106号]]:閉伊街道(宮古街道。''cf.'' [[宮古街道#関連項目|a]], [[#閉伊街道改修|b]]. <ref group="注">{{Cite web|和書|title=宮古街道|url=http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/kaidou/data/miyako.html|work=いわての街道|date=|accessdate=2011-05-20}}</ref>)を前身とする。
* [[国道340号]]
==== 道の駅 ====
* [[道の駅みやこ|みやこ]]
* [[道の駅たろう|たろう]]
* [[道の駅区界高原|区界高原]]
* [[道の駅やまびこ館|やまびこ館]]
==== 都道府県道 ====
===== 主要地方道 =====
* [[岩手県道25号紫波江繋線]]
* [[岩手県道26号大槌小国線]]
* [[岩手県道40号宮古岩泉線]]
* [[岩手県道41号重茂半島線]]
===== 一般県道 =====
* [[岩手県道115号茂市停車場線]]
* [[岩手県道138号宮古停車場線]]
* [[岩手県道142号川内停車場線]]
* [[岩手県道143号陸中川井停車場線]]
* [[岩手県道163号津軽石停車場線]]
* [[岩手県道170号松草停車場線]]
* [[岩手県道171号大川松草線]]
* [[岩手県道177号有芸田老線]]
* [[岩手県道200号花輪千徳線]]
* [[岩手県道201号千徳停車場線]]
* [[岩手県道248号浄土ケ浜線]]
* [[岩手県道259号崎山宮古線]]
* [[岩手県道277号宮古港線]]
* [[岩手県道290号宮古山田線]]
=== 港湾 ===
* [[宮古港]]:[[1951年]](昭和26年)1月19日指定の[[重要港湾]]。[[近代#アジア|近代]]以前の鍬ヶ崎湊(くわがさきみなと)を前身として発展した。
== 名所・旧跡・観光施設など ==
=== 景勝 ===
[[ファイル:Jodogahama 2017-03-07 (33326979896).jpg|thumb|浄土ヶ浜]]
[[ファイル:Todogasaki 2004.jpg|thumb|本州最東端の碑と魹ヶ埼灯台]]
[[ファイル:Miyakosty sanouiwa.jpg|thumb|三王岩]]
[[ファイル:三陸 田老海岸 - panoramio.jpg|thumb|沢尻海岸]]
* {{Anchors|浄土ヶ浜}}[[浄土ヶ浜]]
: [[三陸復興国立公園]]の中心的な[[名勝]]([[1955年]]指定)。岩手県指定名勝(第1号)([[1954年]]指定)であり、[[日本の白砂青松100選]]([[1987年]])、および[[かおり風景100選]]([[環境省]]、[[2001年]])の選定地でもある。浄土ヶ浜海水浴場については[[#浄土ヶ浜海水浴場|後述]]する。
* [[魹ヶ崎]]:本州最東端の地。
** 本州最東端の碑
** [[魹ヶ埼灯台]]:本州最東端の[[灯台]]。
* 臼木山
* 月山
* [[ローソク岩 (宮古市)|ローソク岩]]:[[#ローソク岩|''cf.'']]
* [[潮吹穴]]
* [[日出島]]
* 重茂の大ケヤキ
: [[森の巨人たち百選]]に「『森林浴の森』の木」名義で選定されている。[[#重茂の大ケヤキ|''cf.'']]
* [[三王岩 (岩手県)|三王岩]]
* 真崎海岸
* [[早池峰山]]:[[日本百名山]]に選定されている。
* 区界(くざかい)高原
=== 旧跡 ===
* [[崎山貝塚]]:[[縄文時代]]の[[貝塚]]。国指定[[史跡]]。''cf.'' [[#崎山貝塚,a|a]], [[#崎山貝塚,b|b]].
* [[横山八幡宮]]: ''cf.'' [[#横山八幡宮|a]].
* [[黒森神社]]
* [[常安寺 (宮古市)|常安寺]]
* [[盛合家住宅]]
:江戸期の豪商の邸宅。盛岡藩主の他、[[伊能忠敬]]も滞在。国の[[登録有形文化財]]。
* [[旧東屋酒造店]]
:[[1824年]]([[文化 (元号)|文化]]7年)創業の酒屋・[[廻船]][[船問屋|問屋]]・[[質屋]]。店舗兼主屋、酒蔵、質蔵が国の[[登録有形文化財]]。
* 宮古港海戦記念碑
: 明治2年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1869年]][[5月6日]])に起こった[[宮古湾海戦]]の[[モニュメント|記念碑]]。
* [[大津浪記念碑]]
: [[1933年]](昭和8年)の[[昭和三陸地震]]による津波の後で建てられた[[災害記念碑]]で、「此処より下に家を建てるな」との先人訓が東日本大震災の津波から現地・姉吉地区の住民の命を守った。
=== 観光施設・多目的施設 ===
* 土産物
** 宮古魚菜市場
* [[海水浴場]]
** {{Anchors|浄土ヶ浜海水浴場}}浄土ヶ浜海水浴場:浄土ヶ浜内にある海水浴場で、[[2001年]](平成13年)に[[日本の水浴場88選]]([[環境省]])、[[2006年]](平成18年)には「浄土ヶ浜の潮のかおり」名義で[[快水浴場百選]](環境省)の選定地となった。
** 女遊戸海水浴場
** 真崎海岸海水浴場
** 蛸の浜海水浴場
** 藤の川海水浴場
** 大須賀海水浴場
* 展示館など
** 岩手県立水産科学館
** 崎山貝塚縄文の森ミュージアム
** 宮古市北上山地民俗資料館:[[#山村生産用具コレクション|''cf.'']]
** 薬師塗漆工芸館
** 西塔幸子記念館
** 寄生木展示室(山口公民館)
* みなとオアシスみやこ:[[#みなとオアシス|''cf.'']]
** シートピアなあど:[[#シートピアなあど|''cf.'']]
* 浄土ヶ浜ビジターセンター
* 浄土ヶ浜マリンハウス
* 浄土ヶ浜レストハウス
=== 他の名所・施設 ===
[[ファイル:ラサの煙突.jpg|thumb|ラサの煙突]]
* [[がっかり島]]:[[無人島]]
* {{Anchors|ラサの煙突}}ラサの煙突
: [[田老鉱山]]を稼行した[[ラサ工業]]の宮古工場において、銅精錬で出る亜硫酸ガスを排出するために建設された高さ160 mの[[煙突]]。小山田地区にある標高90 mの山上に建ち、煙突本体と併せて250 mの高さとなる。[[1939年]](昭和14年)6月の操業開始以来、長らく宮古の[[ランドマーク]]である。
* {{Anchors|田老の防潮堤,b}}[[田老の防潮堤]]
: 田老地区の沖合いに建設された[[防潮堤]]。[[#田老の防潮堤,a|''cf.'']] 田老の防潮堤は時代を追って巨大かつ堅牢なものとなり、海抜10 m・長さ2.4 kmにも及ぶに至り、[[中国]]の[[万里の長城]]になぞらえて「田老万里の長城」「田老の万里の長城」などと雅称されるようになった。海側と陸側の二重構造になっている、日本最大規模の防潮堤であったが、東日本大震災では地震直後に20m級の津波が押し寄せたため、海側に面した堤防の半分が崩壊した。
* [[たろう観光ホテル]]([[震災遺構]])
:かつてホテルとして営業していたが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による津波で被災・損壊した後、津波の脅威を伝えるための震災遺構として整備された。
* 震災メモリアルパーク中の浜
: かつて、中の浜は海岸部に隣接するキャンプ場であったが、東日本大震災の際に15メートルを超える津波が押し寄せ、甚大な被害を受けている。現在、被災したキャンプ場のトイレと炊事場を震災遺構として保存している<ref>[https://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/nakanohama.html 震災メモリアルパーク中の浜]宮古市役所(宮古市のジオサイト)</ref><ref>[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Earthquake_Memorial_Park_Nakanohama.jpg 震災メモリアルパーク中の浜]</ref>。
=== イベント・祭り ===
* 宮古毛ガニまつり(3月、毛ガニを割安で販売)
* 浄土ヶ浜まつり(4 - 5月の大型連休中に開催)
* 宮古夏祭り(7月、花火大会など)
* 重茂味まつり(8月、ウニやアワビなどを割安で販売)
* みやこ秋まつり(9月、横山八幡宮の例祭)
* 新里まつり(10月、[[鮎]]の塩焼きや[[豆腐]][[味噌田楽|田楽]]など[[郷土料理]]を販売)
* 川井村郷土芸能祭(10月)
* 田老鮭・あわびまつり(11月、鮭やアワビを割安販売)
* 宮古鮭まつり(12月、鮭のつかみ取りイベントなど)
=== 伝統芸能 ===
* [[黒森神楽]]:国の[[重要無形民俗文化財]]([[2006年]]3月15日指定)<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137337 黒森神楽](文化遺産オンライン)2019年1月18日閲覧</ref>。
* 小沢[[獅子舞|獅子踊]]:市指定[[無形民俗文化財]]。
== 宮古を舞台とした作品 ==
; [[映画]]
* [[大いなる旅路]]
* [[喜びも悲しみも幾歳月]]:[[ロケーション|ロケ地]]。[[1957年]](昭和32年)製作。
* [[トラック野郎・一番星北へ帰る]]:[[1978年]](昭和53年)[[東映]]製作。宮古港、浄土ヶ浜、国道106号。
* あの夏、タイムマシーンにのって:宮古市民が参加した自主制作映画。[[2005年]](平成17年)制作。
* [[すずめの戸締まり]]:主人公の岩戸鈴芽は赤前地区出身だったが、被災して[[宮崎県]][[日南市]]に引っ越した。
; [[漫画]]
* [[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]:第8巻収録。アドリブ旅行シリーズ。1978年(昭和53年)。
== 出身著名人 ==
; [[江戸時代]]
* [[南部重信]] - 第3代[[盛岡藩]]主
* [[牧庵鞭牛]] - 僧侶、土木技術者
; [[明治]]生まれ
* [[菊池長右衛門 (立憲政友会)]] - [[政治家]]
* [[菊池長右衛門 (日本自由党)]] - 政治家
* [[高橋寿太郎]] - [[大日本帝国海軍|海軍]][[少将]]、[[衆議院議員]]
* [[鳥取春陽]] - [[演歌歌手]]、[[作曲家]]
;[[大正]]生まれ
* [[中居英太郎]] - 政治家
* [[吉田タキノ]] - [[児童文学作家]]
;[[昭和]]生まれ
* [[愛彩]](浅田りょう) - [[グラビアアイドル]]
* [[天野♥こころ]] - [[AV女優]]
* [[伊藤奏子]] - [[ヴァイオリニスト]]
* [[卯月妙子]] - [[漫画家]]
* [[お船chan]] - 元[[女子プロレスラー]]
* [[甲斐谷望]] - [[IBC岩手放送]][[アナウンサー]]
* [[柏葉幸子]] - 児童文学作家
* [[金澤未咲]] - 演歌歌手
* [[菊池清麿]] - 伝記作家
* [[菊池長右ェ門]] - 政治家
* [[工藤章 (レスリング)|工藤章]] - [[モントリオールオリンピック]]銅メダリスト
* [[久保田茂]] - [[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[佐香厚子]] - 漫画家
* [[高橋裕二]] - [[岩手めんこいテレビ]]アナウンサー
* [[玉澤徳一郎]] - 政治家 元[[防衛庁長官]]、元[[農林水産大臣]]
* [[中洞正]] - 農業経営者
* [[NSP (バンド)#メンバー|中村貴之]] - [[ミュージシャン]]([[NSP (バンド)|NSP]])
* [[日蔭暢年]] - [[柔道家]]
* [[藤原敏男]] - [[キックボクサー]]
* [[本田竹広]] - [[ジャズ]][[ピアニスト]]
* [[茂市久美子]] - 児童文学作家
* [[宮錦浩]] - [[大相撲力士]]
* [[LIKKLE MAI]] - [[歌手]]
;[[平成]]生まれ
* [[高岩遼]] - ミュージシャン
* [[みやさと奏]] - 演歌歌手
* [[舞海魅星]] - 女子プロレスラー
; 生年非公表
* [[木村雅子]] - アナウンサー([[エフエム岩手]] → フリー)
== その他の関連事象 ==
[[ファイル:Sanma-2.jpg|thumb|[[目黒のさんま]]祭り(2010年9月5日撮影)]]
* '''{{Anchors|義経北行伝説}}義経北行伝説'''
: 三陸沿岸では古来、[[源義経]]の末路について、「[[平泉]]にて[[自殺|自刃]]したのは臣下の将であって、義経自身は逃げ延び、沿岸を北上していった」と語り継がれてきた<ref>{{Cite web|和書|title=義経北行伝説|url=http://www.city.miyako.iwate.jp/kanko/yositsune_densetsu.html|publisher=宮古市|date=2018-11-30|accessdate=2019-01-18}}</ref>(''cf.'' [[源義経#不死伝説]])。岩手県から青森県の沿岸にはこの言い伝えを残す[[寺社]]が多く存在し、史実はどうあれ、[[郷土史]]研究家の好奇心をくすぐる格好の材料となっている。
* '''{{Anchors|目黒のさんま祭り}}目黒のさんま祭り'''
: 宮古市は、[[東京都]][[品川区]]で開催される「[[目黒のさんま#品川区上大崎 「目黒のさんま祭り」|目黒のさんま祭り]]」に、第4回の[[1999年]](平成11年)以降、水揚げされた[[サンマ]]数千匹を無償提供している<ref name="目黒駅前商店街振興組合,2010-08">{{Cite web|和書|title=「目黒のさんま祭り」の公式ホームページ|url=http://www.asahi-net.or.jp/~xq7k-fsm/sanma.htm|publisher=目黒駅前商店街振興組合|date=2010-08|accessdate=2011-05-14}}</ref>。
* '''宮古列島の{{Anchors|「宮古市」命名問題}}「宮古市」命名問題'''
: [[2004年]](平成16年)12月、[[沖縄県]][[宮古列島]]の5市町村の合併協議会は、合併後の新たな市の名称を「宮古市」に決めたが、これを受けて岩手県宮古市は、同じ市名が存在する<ref>当時は[[東京都]]と[[広島県]]には『府中市』が存在しており、また2006年には福島県に『伊達市』(既に北海道に存在)が誕生した</ref>と混乱すること、事前に照会がなかったことを理由に猛反発し、合併協議会に抗議した。その後、宮古列島では住民アンケートの結果、「[[宮古島市]]」を希望する意見が多かったため、協議会はこの市名を採用した。''cf.'' [[宮古島市#合併の経緯]]。
* 電話[[市外局番]]:市内全域で「0193」。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[住民投票条例]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Official website}}
* {{Osmrelation|963794}}
* {{Googlemap|宮古市}}
{{Geographic Location
|Centre = 宮古市
|North = [[岩泉町]]
|Northeast = [[盛岡市]]
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|Southeast = [[山田町]]
|South = [[大槌町]]
|Southwest = [[遠野市]]
|West = [[花巻市]]
|Northwest =
}}
{{岩手県の自治体}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:みやこし}}
[[Category:宮古市|*みやこし]]
[[Category:岩手県の市町村]]
[[Category:日本の港町]]
[[Category:1941年設置の日本の市町村]]
[[Category:2005年設置の日本の市町村]]
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B8%82
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14,855 |
名神高速道路
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名神高速道路(めいしんこうそくどうろ、英語: MEISHIN EXPWY)は、愛知県小牧市の小牧インターチェンジ (IC) を起点とし、岐阜県、滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県西宮市の西宮ICへ至る、高速道路(高速自動車国道)。略称は名神高速(めいしんこうそく)、名神(めいしん)、新名神高速道路と特に区別する場合には本名神・現名神など。なお、小牧IC - 吹田ジャンクション (JCT) 間はアジアハイウェイ1号線「AH1」にも指定されている。
高速道路ナンバリングにおける路線番号は東名高速道路ともに「E1」が割り振られている。
東名高速道路・新東名高速道路・中央自動車道・伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路・東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道とともに、東京・名古屋・大阪を結ぶ日本の大動脈の一つである。路線はほぼ中山道に沿って建設されている。道路カラーはグリーン(■)。
小牧ICで東名高速道路(東名)と直結し、かつ車線変更・合流・分岐が不要な形での直通が可能な構造で、ICの番号やキロポストも東京ICからの通しとなっているため、実質的には東名と合わせて一つの高速道路と見なして「東名神」(とうめいしん)と呼ばれることもある。
栗東IC - 尼崎IC (71.7 km) は、1963年(昭和38年)7月16日に日本初の都市間高速道路として開通した区間である。1965年(昭和40年)7月1日の小牧IC - 一宮IC開通により、全線開通となった。日本道路公団が管理したのち、2005年(平成17年)10月1日から八日市ICを境に、東側を中日本高速道路(NEXCO中日本)が、西側を西日本高速道路(NEXCO西日本)が管理している。
名神高速道路は、小牧IC - 西宮ICの道路名(通称)である。高速自動車国道法に基づく正式な路線名は、東京都から神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府を経て兵庫県に至る路線として指定された中央自動車道西宮線(東京都杉並区 - 兵庫県西宮市)であり、名神高速道路はその中の一部区間にあたる。
高速自動車国道で「高速道路」という呼称を使用しているのは、東名・名神と新東名・新名神のみである。これは、これらの道路の計画・建設が進められる過程で、「自動車道」という呼称が用いられ始められる頃には、すでに広く民間において「高速道路」という通称が使用され一般的に定着していたため、例外的に採用されたものである。
現在のIC番号は東名高速道路の東京ICからの通し番号であるが、開通当初の名神高速道路では西宮から小牧に向かって西宮=1、尼崎=2、豊中=3、茨木=4、京都南=5 (5A/5B)、京都東=6、大津=7、栗東=8、八日市=9、彦根=10、関ケ原=11、大垣=12、一宮=13、小牧=14であった。このあたりのことは、運転免許更新時に配布される交通安全協会発行の交通教本の標識一覧などにその名残がみられる。1968年(昭和43年)の東名高速道路開通に合わせて、現在のIC番号に変更された。
このようにIC番号が振られた理由は、歴史的経緯で東京 - 名古屋間のメインルートの決定(東名高速道路の建設決定)が大幅に遅れた結果、小牧ICで名神高速道路と直結する事になった東名高速道路の各IC・JCT設置の詳細決定が、名神高速道路の供用開始までに間に合わなかったため、名神高速内で暫定的にIC番号を振らざるを得なかったからである。このようなことから、1968年(昭和43年)4月の東名高速道路供用開始と同時に、現在のIC番号に振り直される事となった。また、吹田ICは、当初設置構想すらなかったにもかかわらずIC番号 (35) に枝番が付いていないのも、東名高速の各IC・JCTの詳細が決定する以前に吹田ICの設置が決定していたためである。
並行する新名神高速道路(新名神)は、名神とは異なり、四日市JCT- 草津JCTを東海道ルートに沿う。
新名神のうち、亀山JCT - 草津田上ICが2008年(平成20年)2月23日に部分開通した。豊田JCT - 草津JCTで伊勢湾岸道 - 東名阪道 - 新名神と経由すると、従来の東名・名神経由より34 km・約20分の短縮になる。
名神の関ヶ原IC付近では、長い勾配や悪天候(冬季の降雪など)により渋滞や事故が多発していた。また、名神・八日市IC - 大垣IC間は雪の降り方が強く、度々通行止めやチェーン規制になることがあり、愛知県豊田以東と滋賀県草津以西とを移動する約8割の車が新名神経由へシフトした。東名・名神経由の東京・名古屋 - 京阪神の高速バス(「ドリーム号」など)も、新名神への転換が顕著になっている。
このため、名神では一宮IC・米原JCT近辺の渋滞は減少する一方で、東名阪道では四日市IC - 亀山JCTの渋滞が悪化していたが、2019年(平成31年)3月17日に新四日市JCT - 亀山西JCTが開通したため、この区間の渋滞は解消された。新名神は現在、未開通の全区間(大津JCT - 城陽JCT、八幡京田辺JCT - 高槻JCT)が建設中である。
戦後日本の道路整備促進の流れは、実業家でのちに参議院議員となった田中清一らによって主導された国土開発縦貫自動車道構想であったが、これに平行する動きとして、建設省もまた戦前の自動車国道構想を下敷きに、東京 - 神戸間高速道路計画の着手に乗り出していた。
1953年(昭和28年)ごろ、田中主導の国土開発縦貫自動車道構想を基とする中央道ルートの東京 - 名古屋間高速道路計画が具体化しはじめたことから、建設省は東海道ルートを前提とした「東京神戸間有料道路計画書」を公表して対抗した。これ以後、建設ルートを巡って「東海道か中央道か」という論争が、次第に激しくなったため、日本国政府は当面実施すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、その計画を有料道路とするとともに、借款を世界銀行に求めることにした。
1956年(昭和31年)、世界銀行が名神高速道路の実現可能性調査のために、ラルフ・J・ワトキンスを団長とする調査団を派遣して提出された調査報告書である『ワトキンス・レポート』には、名神高速道路の建設を是とした上で、建設費の一部に世界銀行が貸付を行うことを肯定し、日本国政府に対しては、道路行政の改革を勧告したほか、道路予算を3倍増とすることを提言する内容が書かれていた。世界銀行からの借入金は、当時としては借入期間が長期で安定していて低金利であった。
国費ではなく、借入金によって建設して返済するシステムは、道路公団方式による有料道路建設の端緒となった。
名神高速道路の設計計画は、当初はアメリカのターンパイク(有料道路)やインターステイツ・ハイウェイ(州際道路)の基準を手本に、日本独自で進められたが、アウトバーンの設計技師も務めたクサヘル・ドルシュを名神高速道路の設計技師として迎え、日本道路公団内ではドルシュの教えに従って、設計手法が大きく変わっていった。
世界銀行が派遣し、設計コンサルタントとして来日したドルシュの提言は、高速道路の線形設計では、周囲の地形に調和するようにクロソイド曲線を採用したり、それまで設計済みであったインターチェンジ計画を大規模な様式にするなど、それまで高速道路設計の経験が無かった日本の手法を大きく変えさせた。
建設省は、1957年(昭和32年)10月に国土開発縦貫自動車道建設法の規定に基づき、小牧 - 西宮間について、日本道路公団に対して施工命令を出し、名神高速道路の建設は始められた。この着工によって、日本の高速道路はスタートを切ることになった。
当時、舗装はコンクリート舗装が一般的であったが、コンクリート舗装とアスファルト舗装とで、経済性・耐久性・快適性などを比較検討を行い、名神高速道路ではアスファルト舗装が導入されることになった。
土工では本格的に機械化施工を導入し、施工規定に加えて初めて性能規定も定めた。また、盛土の横断勾配は試行錯誤を経て、機械による転圧が可能な1:1.8とし、現在でも標準の横断勾配となっている。
トンネルの施工では、従来は木製の支保工が用いられていたが、地質が悪く大きな地圧が作用する梶原トンネル・天王山トンネルでは、日本で初めてH形鋼の支保が導入された。アーチ支保の導入により、大型機械が導入可能となり、安全性と効率性が大幅に向上した。
そのほか様々な技術が、名神高速道路の建設によって生まれ、進化を遂げながら現在に繋がる。
東海道新幹線開業の前年にあたる、1963年(昭和38年)7月16日の名神高速道路 栗東IC - 尼崎IC間(71.7 km)の開通は、日本の高速道路開通の歴史の中で最初となる高速道路の誕生であった。自動車が道路を時速100 kmで疾走する状況は、世間を沸かせる一大ニュースとなり、前日の7月15日には名神開通記念として額面10円の記念切手が発行された。
1964年(昭和39年)4月には、栗東ICから関ヶ原ICまで延伸されると、9月には東側は一宮ICまで西側は西宮ICまでが開通する。1965年(昭和40年)7月1日には、小牧IC - 一宮IC開通によって名神高速道路の小牧IC - 西宮ICの全線が完成し、これまで名古屋 - 阪神地域間の移動に自動車で5 - 6時間を要した時間が、2時間程で結ばれることになり、名古屋 - 京阪神間の自動車での日帰り移動を可能にした。
開通当初は高速道路自体が観光名所となっていたため、路肩で弁当を食べ、疾走する自動車を眺めたり、記念撮影したりするなど、長閑なエピソードも残されている。
一方で、当時の自動車の性能が高速連続走行に耐えられなかったことや、ドライバーが高速走行に不慣れだったため、オーバーヒートやガス欠で立ち往生する自動車が続出した。最初の10日間だけでオーバーヒートをはじめとする不具合で実に573件もの故障車が出たと記録に残っている。スタンディングウェーブ現象やハイドロプレーニング現象など、高速域でのタイヤに関する知識も、一般にはまだ浸透していなかったため、これらに関する広報活動も行われるようになった。
また、全面開通するや否や、同時期に登場したトヨタ自動車の乗用車、トヨペット・コロナ(RT40系)が、性能と耐久性をアピールするためのキャンペーンとして、小牧 - 西宮間で「10万キロ連続高速走行公開テスト」を行った(58日間で276往復走行)ほか、国鉄の高速バス専用車両開発時には、100 km/hでの20万キロ連続走行が課題として、各メーカーに要求されていた。
高速道路網として続く東京 - 名古屋間については、東海道ルートで第一東海自動車道(東名高速)が中央道よりも先行して建設され、1969年5月の東名高速全線開通によって東京 - 西宮間が高速自動車国道で直結された。中央自動車道西宮線としては、1972年(昭和47年)10月の小牧JCT開通、1982年(昭和57年)11月の勝沼IC - 甲府昭和IC開通により、全線が開通した。
名神高速は、このように東名高速より先に開通したが、これは先行決定していた東京 - 神戸間の中央自動車道建設において、名古屋以東を東海道ルート(=現東名高速道路)と中山道・甲州街道ルート(=現中央自動車道)のどちらで建設するかで激しく揉めたためである。
そのため、その収拾が着く前に、既に建設ルートについて合意に至っていた名古屋 - 西宮間を先に建設することで、早期開業を目指している。なお、どちらの側も通過地域の政治的圧力もあって自案を捨てずに強硬に主張を続けたため、最終的には日本道路公団が東名・中央の双方を建設するとして幕引きを図った。
名神高速道路の標準的な車線幅は、1車線あたり3.6メートルで造られている。これは、日本で最初に高速道路が導入される際に、アメリカ合衆国の高速道路の車線幅の基準となっている12フィートをそのまま直輸入して、日本の長さの基準単位であるメートル法に換算した結果である。なお歴史的経緯により、名神高速道路建設後に全国展開された高速自動車国道の車線幅はメートル法を基準として3.5メートル(3車線の中央車線は除く)に統一されている。
東名とは違い、最高速度が80 km/h制限となっている区間が多いので、速度超過には注意を要する。
大垣IC - 竜王ICは12月から3月の間、冬型の気圧配置が強まると積雪になる場合がある。名神高速では10-15分おきに除雪車の連隊で除雪作業、凍結防止作業を行っている。降雪区間は50 km/hの速度規制になり、除雪・凍結防止作業区間では作業車連隊を追い越し禁止する規制と同時に、作業車自体で車線をふさぎ強制的に速度を抑える。このため当該区間では10 km以上の大渋滞になる。とは言え、帰省ラッシュ等の渋滞と異なりコンスタントに50 km/h程度の速度は出ているので極端な所要時間増にはならない。
24時間態勢で大掛かりな作業をしているため、運用上は普通タイヤでも通行することが出来るが、降雪が強まると除雪部隊から離れた地点などでは路面に新雪が積もり、それがシャーベット状や凍結状態になるなど、非常に危険な状況に陥る可能性がある(上述の作業車連隊による速度維持を行う理由でもある)。更に降雪が強まり除雪が追いつかなくなった場合には、通行止め措置がとられる。
また、関ヶ原付近は冬期になると天候が急変し、突発的に雪が降って視界が遮られる「ゲリラ雪」現象が発生する。このため、NEXCO中日本のTV・ラジオCMでは「冬の名神は雪国です」という旨の告知がされている。
このような状況を踏まえ、一宮IC - 関ヶ原IC間が開通した当初は養老SAと関ヶ原ICの間にチェーン着脱所の意味合いの強い上石津PAが存在していたが、2001年にこの地域でのチェーン規制が殆どなくなったことなどに伴って廃止された。
2008年(平成20年)2月23日に新名神の部分開通により、関ヶ原・米原地区を迂回することが出来るようになった。滑り止めの無い車両を比較的雪害の少ない新名神ルートで流すことが出来るようになったため、近年では強い降雪の場合には関ヶ原・米原地区でもチェーン規制措置を行うようになった。
世界銀行のコンサルタントの指導のもと、主として景観を扱う「特殊設計審議委員会」(一般に審美委員会と称される)によって名神の各種構造物、施設の設計がなされた。それは、橋デザイン、中央分離帯の植樹、インターチェンジ施設、サービスエリアなど多岐に渡った。
そのうち、インターチェンジの料金所は全線に亘って統一するため、ゲートとアイランド・ブースを含めて、板倉準三郎がデザインした。それまでの料金所のデザインは、ゲートとアイランド・ブースが一体であったが、板倉はこれを分離した。ゲートの屋根はプレストレストコンクリート製で、現場打ちコンクリートの独立柱に緊結した。屋根スラブブロックの天上面は、重量軽減の意図からかまぼこ状に肉抜きされ、セルリアン・ブルーに塗装された。ただし、軟弱地盤上に建設された大垣ICと高架道路上にある西宮ICは、屋根の自重を軽減するために鉄骨を使用している。アイランド・ブースは量産をテーマに型式が検討され、最終的に赤色に塗られた鉄骨製となった。料金収受員の視界確保のためにブースのコーナーは簡略化され、ガラスは鉄板と一体化された曲面形状となり、流線型を形造っている。また、料金収受員を車の衝突から守るために、アイランド・ブースの前後には舟形のコンクリート製プロテクターが置かれた。
名神高速道路は全区間を通して交通量が多いため、羽島パーキングエリア(PA)、湖東三山PAを除くすべてのサービスエリア・パーキングエリアに売店がある。また、大津SAを除くすべてのサービスエリアと草津PAにガソリンスタンドが、すべてのサービスエリアにレストランが設置されている。ガソリンスタンドはいずれも24時間営業。
かつて、岐阜県から滋賀県にかけての区間には、距離に対し多数のサービスエリア・パーキングエリアが設置されていた。大垣IC - 八日市IC (59.7 km) にはサービスエリア2箇所・パーキングエリア5箇所、特に彦根IC - 八日市IC (21.2 km) に多賀SA・甲良PA・秦荘PA(現・湖東三山PA)の3エリアが連続して設置されていたが、1975年(昭和50年)頃に番場PA、2001年(平成13年)に上石津PA、2005年(平成17年)の日本道路公団民営化直前に甲良PAが廃止されている。
初代の日本道路公団総裁であった岸道三は名神高速道路建設の時に歴史環境と高速道路の調和に特段の配慮を具現化した人物で、京都・大阪間の中間に位置していた桜井PA建設の際は、岸の指示で平安時代の歌人待宵の小侍従の墓と、それを取り囲む3本の松を保存するために計画変更も行われた。名神高速道路が6車線化拡幅で桜井PAが桂川PAへ移転したときには、小侍従の墓は近くの高速道路沿いに移されて、現在は地元自治体によって管理されている。
NEXCO中日本名古屋支社とNEXCO西日本関西支社の管理境界となる八日市ICを境に、東側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムの後に「○○時○○分現在の高速道路情報をお知らせします」で始まる形態、西側は関西支社の吹田管制の4点チャイムで始まる形態に分けられている(吹田管制は一定時間おきに「こちらは西日本高速道路側○○(局名)です」の局名告知が入る)。また、交通量と選択ルートが多いため、吹田管制管内では渋滞・規制情報のほかにハイウェイラジオ放送区間から主要ICまでの所要時間情報が放送される。なお、かつては関ヶ原ICを境に放送形態が分けられていたが、民営化直前に関ヶ原IC - 八日市ICが当時のJH関西支社からJH中部支社に移管され、民営化後に吹田管制から一宮管制に移管された。
24時間交通量(台) 道路交通センサス
(出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
東名同様に交通量が多く、渋滞も昼・夜、時期を問わず激しい。このため路面等の損傷が早く、車線規制を伴う名神集中工事が5月下旬に1年に1回ほど行われている。この際は通常時より激しい渋滞となる。
工事実施時期は違うものの、同じく交通量が多い東名では東名集中工事が、中国道の吹田JCT - 宝塚IC付近では中国道集中工事が行われている。名神では導入時の1991年(平成3年)から2006年(平成18年)までは「リフレッシュ工事」と称していたが、現在では東名や中国道と同様に「集中工事」に呼称を変更している。
なお、新名神高速道路や第二京阪道路の開通により、2010年(平成22年)の調査では一部区間で交通量が減少した。
2002年度(2003年度日本道路公団年報)
※1 : 旧上石津町の飛地部分
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"text": "名神高速道路(めいしんこうそくどうろ、英語: MEISHIN EXPWY)は、愛知県小牧市の小牧インターチェンジ (IC) を起点とし、岐阜県、滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県西宮市の西宮ICへ至る、高速道路(高速自動車国道)。略称は名神高速(めいしんこうそく)、名神(めいしん)、新名神高速道路と特に区別する場合には本名神・現名神など。なお、小牧IC - 吹田ジャンクション (JCT) 間はアジアハイウェイ1号線「AH1」にも指定されている。",
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"text": "高速道路ナンバリングにおける路線番号は東名高速道路ともに「E1」が割り振られている。",
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"text": "東名高速道路・新東名高速道路・中央自動車道・伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路・東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道とともに、東京・名古屋・大阪を結ぶ日本の大動脈の一つである。路線はほぼ中山道に沿って建設されている。道路カラーはグリーン(■)。",
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"text": "小牧ICで東名高速道路(東名)と直結し、かつ車線変更・合流・分岐が不要な形での直通が可能な構造で、ICの番号やキロポストも東京ICからの通しとなっているため、実質的には東名と合わせて一つの高速道路と見なして「東名神」(とうめいしん)と呼ばれることもある。",
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"text": "栗東IC - 尼崎IC (71.7 km) は、1963年(昭和38年)7月16日に日本初の都市間高速道路として開通した区間である。1965年(昭和40年)7月1日の小牧IC - 一宮IC開通により、全線開通となった。日本道路公団が管理したのち、2005年(平成17年)10月1日から八日市ICを境に、東側を中日本高速道路(NEXCO中日本)が、西側を西日本高速道路(NEXCO西日本)が管理している。",
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"text": "名神高速道路は、小牧IC - 西宮ICの道路名(通称)である。高速自動車国道法に基づく正式な路線名は、東京都から神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府を経て兵庫県に至る路線として指定された中央自動車道西宮線(東京都杉並区 - 兵庫県西宮市)であり、名神高速道路はその中の一部区間にあたる。",
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"text": "高速自動車国道で「高速道路」という呼称を使用しているのは、東名・名神と新東名・新名神のみである。これは、これらの道路の計画・建設が進められる過程で、「自動車道」という呼称が用いられ始められる頃には、すでに広く民間において「高速道路」という通称が使用され一般的に定着していたため、例外的に採用されたものである。",
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"text": "現在のIC番号は東名高速道路の東京ICからの通し番号であるが、開通当初の名神高速道路では西宮から小牧に向かって西宮=1、尼崎=2、豊中=3、茨木=4、京都南=5 (5A/5B)、京都東=6、大津=7、栗東=8、八日市=9、彦根=10、関ケ原=11、大垣=12、一宮=13、小牧=14であった。このあたりのことは、運転免許更新時に配布される交通安全協会発行の交通教本の標識一覧などにその名残がみられる。1968年(昭和43年)の東名高速道路開通に合わせて、現在のIC番号に変更された。",
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"text": "このようにIC番号が振られた理由は、歴史的経緯で東京 - 名古屋間のメインルートの決定(東名高速道路の建設決定)が大幅に遅れた結果、小牧ICで名神高速道路と直結する事になった東名高速道路の各IC・JCT設置の詳細決定が、名神高速道路の供用開始までに間に合わなかったため、名神高速内で暫定的にIC番号を振らざるを得なかったからである。このようなことから、1968年(昭和43年)4月の東名高速道路供用開始と同時に、現在のIC番号に振り直される事となった。また、吹田ICは、当初設置構想すらなかったにもかかわらずIC番号 (35) に枝番が付いていないのも、東名高速の各IC・JCTの詳細が決定する以前に吹田ICの設置が決定していたためである。",
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"text": "並行する新名神高速道路(新名神)は、名神とは異なり、四日市JCT- 草津JCTを東海道ルートに沿う。",
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"text": "新名神のうち、亀山JCT - 草津田上ICが2008年(平成20年)2月23日に部分開通した。豊田JCT - 草津JCTで伊勢湾岸道 - 東名阪道 - 新名神と経由すると、従来の東名・名神経由より34 km・約20分の短縮になる。",
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"text": "名神の関ヶ原IC付近では、長い勾配や悪天候(冬季の降雪など)により渋滞や事故が多発していた。また、名神・八日市IC - 大垣IC間は雪の降り方が強く、度々通行止めやチェーン規制になることがあり、愛知県豊田以東と滋賀県草津以西とを移動する約8割の車が新名神経由へシフトした。東名・名神経由の東京・名古屋 - 京阪神の高速バス(「ドリーム号」など)も、新名神への転換が顕著になっている。",
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"text": "このため、名神では一宮IC・米原JCT近辺の渋滞は減少する一方で、東名阪道では四日市IC - 亀山JCTの渋滞が悪化していたが、2019年(平成31年)3月17日に新四日市JCT - 亀山西JCTが開通したため、この区間の渋滞は解消された。新名神は現在、未開通の全区間(大津JCT - 城陽JCT、八幡京田辺JCT - 高槻JCT)が建設中である。",
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"text": "大垣IC - 竜王ICは12月から3月の間、冬型の気圧配置が強まると積雪になる場合がある。名神高速では10-15分おきに除雪車の連隊で除雪作業、凍結防止作業を行っている。降雪区間は50 km/hの速度規制になり、除雪・凍結防止作業区間では作業車連隊を追い越し禁止する規制と同時に、作業車自体で車線をふさぎ強制的に速度を抑える。このため当該区間では10 km以上の大渋滞になる。とは言え、帰省ラッシュ等の渋滞と異なりコンスタントに50 km/h程度の速度は出ているので極端な所要時間増にはならない。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "24時間態勢で大掛かりな作業をしているため、運用上は普通タイヤでも通行することが出来るが、降雪が強まると除雪部隊から離れた地点などでは路面に新雪が積もり、それがシャーベット状や凍結状態になるなど、非常に危険な状況に陥る可能性がある(上述の作業車連隊による速度維持を行う理由でもある)。更に降雪が強まり除雪が追いつかなくなった場合には、通行止め措置がとられる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "また、関ヶ原付近は冬期になると天候が急変し、突発的に雪が降って視界が遮られる「ゲリラ雪」現象が発生する。このため、NEXCO中日本のTV・ラジオCMでは「冬の名神は雪国です」という旨の告知がされている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "このような状況を踏まえ、一宮IC - 関ヶ原IC間が開通した当初は養老SAと関ヶ原ICの間にチェーン着脱所の意味合いの強い上石津PAが存在していたが、2001年にこの地域でのチェーン規制が殆どなくなったことなどに伴って廃止された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)2月23日に新名神の部分開通により、関ヶ原・米原地区を迂回することが出来るようになった。滑り止めの無い車両を比較的雪害の少ない新名神ルートで流すことが出来るようになったため、近年では強い降雪の場合には関ヶ原・米原地区でもチェーン規制措置を行うようになった。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "世界銀行のコンサルタントの指導のもと、主として景観を扱う「特殊設計審議委員会」(一般に審美委員会と称される)によって名神の各種構造物、施設の設計がなされた。それは、橋デザイン、中央分離帯の植樹、インターチェンジ施設、サービスエリアなど多岐に渡った。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "そのうち、インターチェンジの料金所は全線に亘って統一するため、ゲートとアイランド・ブースを含めて、板倉準三郎がデザインした。それまでの料金所のデザインは、ゲートとアイランド・ブースが一体であったが、板倉はこれを分離した。ゲートの屋根はプレストレストコンクリート製で、現場打ちコンクリートの独立柱に緊結した。屋根スラブブロックの天上面は、重量軽減の意図からかまぼこ状に肉抜きされ、セルリアン・ブルーに塗装された。ただし、軟弱地盤上に建設された大垣ICと高架道路上にある西宮ICは、屋根の自重を軽減するために鉄骨を使用している。アイランド・ブースは量産をテーマに型式が検討され、最終的に赤色に塗られた鉄骨製となった。料金収受員の視界確保のためにブースのコーナーは簡略化され、ガラスは鉄板と一体化された曲面形状となり、流線型を形造っている。また、料金収受員を車の衝突から守るために、アイランド・ブースの前後には舟形のコンクリート製プロテクターが置かれた。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "名神高速道路は全区間を通して交通量が多いため、羽島パーキングエリア(PA)、湖東三山PAを除くすべてのサービスエリア・パーキングエリアに売店がある。また、大津SAを除くすべてのサービスエリアと草津PAにガソリンスタンドが、すべてのサービスエリアにレストランが設置されている。ガソリンスタンドはいずれも24時間営業。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "かつて、岐阜県から滋賀県にかけての区間には、距離に対し多数のサービスエリア・パーキングエリアが設置されていた。大垣IC - 八日市IC (59.7 km) にはサービスエリア2箇所・パーキングエリア5箇所、特に彦根IC - 八日市IC (21.2 km) に多賀SA・甲良PA・秦荘PA(現・湖東三山PA)の3エリアが連続して設置されていたが、1975年(昭和50年)頃に番場PA、2001年(平成13年)に上石津PA、2005年(平成17年)の日本道路公団民営化直前に甲良PAが廃止されている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "初代の日本道路公団総裁であった岸道三は名神高速道路建設の時に歴史環境と高速道路の調和に特段の配慮を具現化した人物で、京都・大阪間の中間に位置していた桜井PA建設の際は、岸の指示で平安時代の歌人待宵の小侍従の墓と、それを取り囲む3本の松を保存するために計画変更も行われた。名神高速道路が6車線化拡幅で桜井PAが桂川PAへ移転したときには、小侍従の墓は近くの高速道路沿いに移されて、現在は地元自治体によって管理されている。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "NEXCO中日本名古屋支社とNEXCO西日本関西支社の管理境界となる八日市ICを境に、東側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムの後に「○○時○○分現在の高速道路情報をお知らせします」で始まる形態、西側は関西支社の吹田管制の4点チャイムで始まる形態に分けられている(吹田管制は一定時間おきに「こちらは西日本高速道路側○○(局名)です」の局名告知が入る)。また、交通量と選択ルートが多いため、吹田管制管内では渋滞・規制情報のほかにハイウェイラジオ放送区間から主要ICまでの所要時間情報が放送される。なお、かつては関ヶ原ICを境に放送形態が分けられていたが、民営化直前に関ヶ原IC - 八日市ICが当時のJH関西支社からJH中部支社に移管され、民営化後に吹田管制から一宮管制に移管された。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "(出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "東名同様に交通量が多く、渋滞も昼・夜、時期を問わず激しい。このため路面等の損傷が早く、車線規制を伴う名神集中工事が5月下旬に1年に1回ほど行われている。この際は通常時より激しい渋滞となる。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "工事実施時期は違うものの、同じく交通量が多い東名では東名集中工事が、中国道の吹田JCT - 宝塚IC付近では中国道集中工事が行われている。名神では導入時の1991年(平成3年)から2006年(平成18年)までは「リフレッシュ工事」と称していたが、現在では東名や中国道と同様に「集中工事」に呼称を変更している。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "なお、新名神高速道路や第二京阪道路の開通により、2010年(平成22年)の調査では一部区間で交通量が減少した。",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2002年度(2003年度日本道路公団年報)",
"title": "路線状況"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "※1 : 旧上石津町の飛地部分",
"title": "地理"
}
] |
名神高速道路は、愛知県小牧市の小牧インターチェンジ (IC) を起点とし、岐阜県、滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県西宮市の西宮ICへ至る、高速道路(高速自動車国道)。略称は名神高速(めいしんこうそく)、名神(めいしん)、新名神高速道路と特に区別する場合には本名神・現名神など。なお、小牧IC - 吹田ジャンクション (JCT) 間はアジアハイウェイ1号線「AH1」にも指定されている。 高速道路ナンバリングにおける路線番号は東名高速道路ともに「E1」が割り振られている。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox_road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:MEISHIN EXP(E1)702C.svg|130px|名神高速道路]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E1}} 名神高速道路
|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]]
{{Highway system OSM map
| frame-lat = 35.07
| frame-long = 136.13
| frame-width = 300
| frame-height = 250
| zoom = 8
| length =
| plain = yes
| stroke-width = 3
}}
|総距離 = 189.5 [[キロメートル|km]]
|開通年 = [[1963年]]([[昭和]]38年) - [[1965年]](昭和40年)
|起点 = [[愛知県]][[小牧市]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]])
|主な経由都市 = [[一宮市]]、[[大垣市]]、[[米原市]]、[[大津市]]<br>[[京都市]]、[[高槻市]]、[[吹田市]]、[[尼崎市]]
|終点 = [[兵庫県]][[西宮市]]([[西宮インターチェンジ|西宮IC]])
|接続する主な道路 =<!--高速自動車国道のみ記載-->{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]]
}}
[[ファイル:小牧IC航空写真1987-001.jpg|thumb|right|200px|起点小牧IC航空写真。画面中央から左。右半分は東名。{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:西宮IC航空写真1985-001.jpg|thumb|right|200px|終点西宮IC航空写真。画面右上から来て画面中央が終点である。右下から左上にのびるのは[[阪神高速3号神戸線]]。{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Meishinkosoku-start 01.JPG|thumb|right|200px|名神の起点標識<br />(小牧IC下り線本線上)]]
'''名神高速道路'''(めいしんこうそくどうろ、{{lang-en|MEISHIN EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-03|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[愛知県]][[小牧市]]の[[小牧インターチェンジ]] (IC) を起点とし、[[岐阜県]]、[[滋賀県]]、[[京都府]]、[[大阪府]]を[[経由]]し[[兵庫県]][[西宮市]]の[[西宮インターチェンジ|西宮IC]]へ至る、[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''名神高速'''(めいしんこうそく)、'''名神'''(めいしん)、[[新名神高速道路]]と特に区別する場合には'''本名神'''・'''現名神'''など。なお、小牧IC - [[吹田ジャンクション]] (JCT) 間は[[アジアハイウェイ1号線]]「AH1」にも指定されている。
[[高速道路ナンバリング]]における路線番号は[[東名高速道路]]ともに「'''E1'''」が割り振られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2020-11-20|publisher=国土交通省}}</ref>。
== 概要 ==
[[東名高速道路]]・[[新東名高速道路]]・[[中央自動車道]]・[[伊勢湾岸自動車道]]・[[新名神高速道路]]・[[東名阪自動車道]]・[[名阪国道]]・[[西名阪自動車道]]とともに、[[東京都区部|東京]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪市|大阪]]を結ぶ日本の大動脈の一つである。路線はほぼ[[中山道]]に沿って建設されている。道路カラーはグリーン({{color|#35a35a|■}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]で東名高速道路(東名)と直結し、かつ車線変更・合流・分岐が不要な形での直通が可能な構造で、[[インターチェンジ|IC]]の番号や[[距離標|キロポスト]]も[[東京インターチェンジ|東京IC]]からの通しとなっているため、実質的には東名と合わせて一つの[[高速道路]]と見なして「東名神」(とうめいしん)と呼ばれることもある。
[[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]] (71.7 [[キロメートル|km]]) は、[[1963年]]([[昭和]]38年)[[7月16日]]に日本初の都市間[[日本の高速道路|高速道路]]として開通した区間である{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}。[[1965年]](昭和40年)[[7月1日]]の小牧IC - 一宮IC開通により、全線開通となった。[[日本道路公団]]が管理したのち、[[2005年]]([[平成]]17年)[[10月1日]]から[[八日市インターチェンジ|八日市IC]]を境に、東側を[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)が、西側を[[西日本高速道路]](NEXCO西日本)が管理している。
=== 道路名・路線名 ===
'''名神高速道路'''は、小牧IC - 西宮ICの道路名(通称)である{{sfn|浅井建爾|2001|p=62}}。高速自動車国道法に基づく正式な路線名は、東京都から神奈川県、山梨県、[[長野県]]、岐阜県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府を経て兵庫県に至る路線として指定された[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道西宮線]](東京都[[杉並区]] - 兵庫県西宮市)であり、名神高速道路はその中の一部区間にあたる{{sfn|浅井建爾|2001|p=62}}。
高速自動車国道で「[[高速道路]]」という呼称を使用しているのは、東名・名神と新東名・新名神のみである。これは、これらの道路の計画・建設が進められる過程で、「自動車道」という呼称が用いられ始められる頃には、すでに広く民間において「高速道路」という[[通称]]が使用され一般的に定着していたため、例外的に採用されたものである<ref>{{Wayback |url=http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_05.html |title=国土交通省道路局 道の相談室 |date=20091209074729}}</ref>{{efn|よって「名神自動車道」や「東名道」、逆に他の高速道路を「中国高速道路」や「東北高速」などと呼ぶのは誤りである。}}。
=== IC番号 ===
現在のIC番号は東名高速道路の東京ICからの通し番号であるが、開通当初の名神高速道路では西宮から小牧に向かって西宮=1、尼崎=2、豊中=3、茨木=4、京都南=5 (5A/5B)、京都東=6、大津=7、栗東=8、八日市=9、彦根=10、関ケ原=11、大垣=12、一宮=13、小牧=14であった。このあたりのことは、運転免許更新時に配布される[[交通安全協会]]発行の交通教本の標識一覧などにその名残がみられる。[[1968年]](昭和43年)の東名高速道路開通に合わせて、現在のIC番号に変更された<ref>「高速道路と自動車」1963年版</ref>。
このようにIC番号が振られた理由は、歴史的経緯で東京 - 名古屋間のメインルートの決定(東名高速道路の建設決定)が大幅に遅れた結果、小牧ICで名神高速道路と直結する事になった東名高速道路の各IC・JCT設置の詳細決定が、名神高速道路の供用開始までに間に合わなかったため、名神高速内で暫定的にIC番号を振らざるを得なかったからである。このようなことから、[[1968年]](昭和43年)[[4月]]の東名高速道路供用開始と同時に、現在のIC番号に振り直される事となった。また、[[吹田ジャンクション#吹田インターチェンジ|吹田IC]]は、当初設置構想すらなかったにもかかわらず{{efn|名神高速道路全線開通後の[[1965年]](昭和40年)[[9月14日]]に[[日本万国博覧会|大阪万博]]の開催が決定した際に、万博会場に比較的近い茨木ICがあったのにもかかわらず、万博会場へのルートが既存の茨木ICのみでは不充分であると判断されたため、茨木ICよりもさらに会場に近くかつ開催場所である[[吹田市]]に吹田ICを設置する事が急遽決定された。}}IC番号 (35) に枝番が付いていないのも、東名高速の各IC・JCTの詳細が決定する以前に吹田ICの設置が決定していたためである{{efn|茨木IC (4)・豊中IC (3) →茨木IC (34)・豊中IC (36) に変更となり、[[1970年]](昭和45年)[[3月1日]]の吹田IC供用開始まで35番を空き番号にしていた。}}。
{{See also|#歴史}}
=== 新名神高速道路との関係 ===
並行する[[新名神高速道路]](新名神)は、名神とは異なり、[[四日市ジャンクション|四日市JCT]]- [[草津ジャンクション|草津JCT]]を[[東海道]]ルートに沿う。
新名神のうち、[[亀山ジャンクション|亀山JCT]] - [[草津田上インターチェンジ|草津田上IC]]が[[2008年]](平成20年)[[2月23日]]に部分開通した。[[豊田ジャンクション|豊田JCT]] - 草津JCTで[[伊勢湾岸自動車道|伊勢湾岸道]] - 東名阪道 - 新名神と経由すると、従来の東名・名神経由より34 km・約20分の短縮になる。
名神の関ヶ原IC付近では、長い[[線形 (路線)#勾配|勾配]]や悪天候(冬季の[[降雪]]など)により[[渋滞]]や[[交通事故|事故]]が多発していた。また、名神・八日市IC - 大垣IC間は雪の降り方が強く、度々通行止めや[[タイヤチェーン|チェーン]]規制になることがあり<ref group="注釈">通行止区間は東名高速まで伸びることもある。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/399962 |title=名神、中央道など通行止め |date=2022-01-14|accessdate=2022-02-05 |publisher=中日新聞 |deadlinkdate=2022-02-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220205085412/https://www.chunichi.co.jp/article/399962|archivedate=2022-02-05}}</ref>、愛知県豊田以東と滋賀県草津以西とを移動する約8割の車が新名神経由へシフトした<ref>{{Cite press release |和書 |title=新名神高速道路(亀山ジャンクション〜草津田上インターチェンジ間)開通後半年間の交通状況と整備効果 |publisher=西日本高速道路株式会社 |date=2008-09-19 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/kansai/h20/0919/}}</ref>。東名・名神経由の東京・名古屋 - [[京阪神]]の[[高速バス]](「[[ドリーム号 (東京 - 京阪神)|ドリーム号]]」など)も、新名神への転換が顕著になっている。
このため、名神では一宮IC・[[米原ジャンクション|米原JCT]]近辺の渋滞は減少する一方で、東名阪道では[[四日市インターチェンジ (三重県)|四日市IC]] - 亀山JCTの渋滞が悪化していたが、[[2019年]](平成31年)[[3月17日]]に[[新四日市ジャンクション|新四日市JCT]] - [[亀山西ジャンクション|亀山西JCT]]が開通したため、この区間の渋滞は解消された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO4258084017032019CN8000/|title=新四日市-亀山西が開通 新名神、東名阪の渋滞解消|date=2019-03-17|accessdate=2019-03-18|publisher=日本経済新聞}}</ref>。新名神は現在、未開通の全区間([[大津ジャンクション|大津JCT]] - [[城陽ジャンクション・インターチェンジ|城陽JCT]]、[[八幡京田辺ジャンクション・インターチェンジ|八幡京田辺JCT]] - [[高槻ジャンクション・インターチェンジ|高槻JCT]])が建設中である。
== インターチェンジなど ==
* IC番号欄の背景色が{{Color|#BFB|■}}である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が{{Color|#CCC|■}}である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。未開通区間の名称は仮称。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色{{Color|#eda5ff|■}}で示す。
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市町道]]。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。<!--廃止されたバスストップ情報について記述をお願いします。-->
* 略字は、ICは[[インターチェンジ]]、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、SAは[[サービスエリア]]、PAは[[パーキングエリア]]をそれぞれ示す。
* IC番号、[[距離標|キロポスト]]は[[東名高速道路]]東京ICからの通しとなっている。<!--「起点から」は、中日本高速道路、西日本高速道路などの案内による。-->
{|class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|[[東京インターチェンジ|東京]]<br /><small>から<br />([[キロメートル|km]])</small>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green;width:3.5em;"|開通<br />当初の<br />IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green;"|所在地
|-
| colspan="10" style="text-align:center" |{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]][[静岡県|静岡]]・[[東京都|東京]]方面(小牧JCTより{{Ja Exp Route Sign|E19}}[[中央自動車道]][[長野県|長野]]・[[山梨県|山梨]]方面に連絡)
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[小牧インターチェンジ|小牧IC]]
|[[国道41号]]([[名濃バイパス]])<br />[[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0011.svg|24px]] [[名古屋高速11号小牧線]]
|style="text-align:right"|346.7
|
|style="text-align:center"|14
|
|rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[愛知県]]}}
|colspan="2"|[[小牧市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[岩倉バスストップ|岩倉BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|350.7
|style="text-align:center"|◆
|
|
|colspan="2"|[[岩倉市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[尾張一宮パーキングエリア|尾張一宮PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|353.2<br />352.4
|style="text-align:center"|
|
|上下線で0.8 kmずれている
|colspan="2" rowspan="4"|[[一宮市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25
|[[一宮インターチェンジ|一宮IC]]
|[[国道22号]]([[名岐バイパス]])<br />[[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0016.svg|24px]] [[名古屋高速16号一宮線]] [[名古屋市|名古屋]]方面
|style="text-align:right"|355.0
|style="text-align:center"|
|style="text-align:center"|13
|
|-
!style="background-color:#BFB; white-space:nowrap;"|25-1
|[[一宮ジャンクション|一宮JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]<br />[[一宮西港道路]]([[地域高規格道路#路線指定|計画路線]])
|style="text-align:right"|359.4
|style="text-align:center"|-
|
|[[一宮稲沢北インターチェンジ|一宮稲沢北IC]]への出入は不可
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[尾西バスストップ|尾西BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|362.9
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[羽島パーキングエリア|羽島PA/<span style="background-color: #CCC">BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|366.0
|style="text-align:center"|◆
|
|PAは下り線西宮IC方面のみ
|rowspan="10" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[岐阜県]]}}
|colspan="2" rowspan="2"|[[羽島市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25-2
|[[岐阜羽島インターチェンジ|岐阜羽島IC]]
|[[岐阜県道46号岐阜羽島インター線|県道46号岐阜羽島インター線]]
|style="text-align:right"|368.1
|style="text-align:center"|
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|安八BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|371.3
|style="text-align:center"|◆
|
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[安八郡]]<br/>[[安八町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25-3
|style="background-color:#eda5ff"|[[安八スマートインターチェンジ|安八SIC]]<ref name="meishinsic">{{Cite news |title=岐阜三輪、養老、安八スマートIC 来月上旬にも連結許可 |newspaper=岐阜新聞Web |date=2013-05-28 |url=http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130528/201305280930_20121.shtml |publisher=[[岐阜新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130624004318/http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20130528/201305280930_20121.shtml |archivedate=2013-05-28}}</ref>
|style="background-color:#eda5ff"|町道南長田坊野1号線
|style="text-align:right"|371.6
|style="text-align:center"|
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|26
|[[大垣インターチェンジ|大垣IC/BS]]
|[[国道258号]]
|style="text-align:right"|374.9
|style="text-align:center"|○
|style="text-align:center"|12
|
|colspan="2"|[[大垣市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|26-1
|[[養老ジャンクション|養老JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]]
|style="text-align:right"|379.2
|style="text-align:center"|-
|
|
|colspan="2" rowspan="3"|[[養老郡]]<br/>[[養老町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|養老口BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|379.6
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|26-2
|style="background-color:#eda5ff"|[[養老サービスエリア|養老SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|町道橋爪1号線<br />町道橋爪42号線・町道安久橋爪1号線
|style="text-align:right"|381.7
|style="text-align:center"|
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[上石津パーキングエリア|上石津PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|388.1
|style="text-align:center"|-
|
|下り線西宮IC方面のみ<br />2001年(平成13年)12月20日廃止
|colspan="2"|[[大垣市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|27
|[[関ヶ原インターチェンジ|関ヶ原IC]]
|[[国道365号]]
|style="text-align:right"|389.4
|style="text-align:center"|◆
|style="text-align:center"|11
|
|colspan="2"|[[不破郡]]<br/>[[関ケ原町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|山東BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|396.8
|style="text-align:center"|◆
|
|
|rowspan="26" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[滋賀県]]}}
|colspan="2" rowspan="5"|[[米原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[伊吹パーキングエリア|伊吹PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|398.0<br />398.8
|style="text-align:center"|
|
|上下線で0.8 kmずれている
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|米原BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|403.7
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|27-1
|[[米原ジャンクション|米原JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]
|style="text-align:right"|405.5
|style="text-align:center"|-
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[番場パーキングエリア|番場PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|405.8
|style="text-align:center"|
|
|下り線西宮IC方面のみ<br />[[1975年]]([[昭和]]50年)廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|28
|[[彦根インターチェンジ|彦根IC/<span style="background-color: #CCC">BS</span>]]
|[[国道306号]]<!-- [[国道307号]]重複は省略 -->
|style="text-align:right"|413.4
|style="text-align:center"|◆
|style="text-align:center"|10
|
|colspan="2"|[[彦根市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|28-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[多賀サービスエリア|多賀SA/BS/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|(仮称)町道多賀スマートインター線(予定)<br />町道四ツ屋胡宮線
|style="text-align:right"|418.0
|style="text-align:center"|○
|
|SICは下り線出入口のみ<ref name="press20230317">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5672.html|title=E1 名神高速道路に接続する多賀スマートインターチェンジ(下り線)が2023年4月29日(土)15時に開通します|date=2023-03-17|accessdate=2023-03-17|publisher=滋賀県多賀町・中日本高速道路株式会社}}</ref><br />上り線出入口は供用開始時期未定<ref name="press20230317" />
|rowspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[犬上郡]]}}
|style="white-space:nowrap;"|[[多賀町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[甲良パーキングエリア|甲良PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|421.3
|style="text-align:center"|◆
|
|2005年(平成17年)9月29日廃止
|[[甲良町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|28-2
|style="background-color:#eda5ff"|[[湖東三山パーキングエリア|湖東三山PA/<span style="background-color: #CCC">BS/<span style="background-color: #eda5ff">SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[滋賀県道344号湖東三山インター線|県道344号湖東三山インター線]]<br />[[国道307号]]
|style="text-align:right"|424.6<br />424.3
|style="text-align:center"|◆
|
|上下線で0.3 kmずれている
|colspan="2"|[[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]]<br/>[[愛荘町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[百済寺バスストップ|百済寺BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|428.2
|style="text-align:center"|○
|
|
|colspan="2" rowspan="5"|[[東近江市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29
|[[八日市インターチェンジ|八日市IC/BS]]
|[[国道421号]]<br />[[滋賀県道327号湖東八日市線|県道327号湖東八日市線]] <br />[[名神名阪連絡道路]]([[地域高規格道路#区間指定|調査区間]])
|style="text-align:right"|434.6
|style="text-align:center"|○
|style="text-align:center"|9
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[黒丸パーキングエリア|黒丸PA/<span style="background-color: #CCC">SIC]]</span>
|style="text-align:center"| 市道黒丸スマートインターチェンジ上り線(予定)<br /> 市道黒丸スマートインターチェンジ下り線(予定)
|style="text-align:right"|438.0
|style="text-align:center"|
|
|SICは事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001418134.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2021-08-06|accessdate=2021-08-06|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|蒲生BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|440.4
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|29-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[蒲生スマートインターチェンジ|蒲生SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[滋賀県道41号土山蒲生近江八幡線|県道41号土山蒲生近江八幡線]]
|style="text-align:right"|441.2
|style="text-align:center"|-
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|竜王BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|443.6
|style="text-align:center"|◆
|
|
|colspan="2" rowspan="2"|[[蒲生郡]]<br/>[[竜王町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29-2
|[[竜王インターチェンジ|竜王IC]]
|[[国道477号]]
|style="text-align:right"|447.2
|style="text-align:center"|
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[菩提寺パーキングエリア|菩提寺PA/BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|451.7<br />451.9
|style="text-align:center"|○
|
|上下線で0.2 kmずれている
|colspan="2"|[[湖南市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29-3
|[[栗東湖南インターチェンジ|栗東湖南IC]]
|[[国道1号]]([[栗東水口道路]])
|style="text-align:right"|457.0
|style="text-align:center"|-
|
|大阪方面出入口
|colspan="2" rowspan="2"|[[栗東市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|30
|[[栗東インターチェンジ|栗東IC/<span style="background-color: #CCC">BS]]
|[[国道8号]]<br />[[野洲栗東バイパス]](事業中)<br />[[国道1号]]<br />[[滋賀県道55号上砥山上鈎線|県道55号上砥山上鈎線]]
|style="text-align:right"|458.2
|style="text-align:center"|◆
|style="text-align:center"|8
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[草津バスストップ|草津BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|461.7
|style="text-align:center"|◆
|
|
|colspan="2" rowspan="3"|[[草津市]]
|-
!style="background-color: #BFB"|30-1
|[[草津ジャンクション|草津JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路#大津連絡路|新名神高速道路大津連絡路]]
|style="text-align:right"|464.4
|style="text-align:center"|
|
|
|-style="height:1em;"
!rowspan="2" style="background-color: #BFB"|-
|rowspan="2" |[[草津パーキングエリア|草津PA]]
|rowspan="2" style="text-align:center"|-
|rowspan="2" style="text-align:right"|465.6
|rowspan="2" style="text-align:center"|
|rowspan="2" |
|rowspan="2" |
|-
|colspan="2" rowspan="4"|[[大津市]]
|-
!rowspan="2" style="background-color:#BFB"|30-2
|[[瀬田東ジャンクション|瀬田東JCT]]/[[瀬田東インターチェンジ|IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E88}} [[京滋バイパス]]<br />[[国道1号]]([[京滋バイパス#一般道路|京滋バイパス〈一般部〉]])
|style="text-align:right"|467.5
|style="text-align:center"|
|
|米原・名古屋方面出入口
|-
|[[瀬田西インターチェンジ|<span style="background-color: #CCC">瀬田西BS</span><br />瀬田西IC]]
|<br />[[滋賀県道57号瀬田西インター線|県道57号瀬田西インター線]]
|style="text-align:right"|469.0<br />469.1
|style="text-align:center"|◆<br />
|
|<br />京都・大阪方面出入口
|-
!style="background-color:#BFB"|31
|[[大津インターチェンジ (滋賀県)|大津IC]]/[[大津サービスエリア|SA]]/[[大津インターチェンジ (滋賀県)|<span style="background-color: #CCC">BS]]
|[[滋賀県道56号大津インター線|県道56号大津インター線]]
|style="text-align:right"|474.6
|style="text-align:center"|◆
|style="text-align:center"|7
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32
|[[京都東インターチェンジ|京都東IC]]
|[[京都府道143号四ノ宮四ツ塚線|府道143号四ノ宮四ツ塚線]]([[三条通]])<br />[[国道1号]]([[五条バイパス]])<br />[[国道161号]]([[琵琶湖西縦貫道路|西大津バイパス]])
|style="text-align:right"|477.9
|style="text-align:center"|
|style="text-align:center"|6
|
|rowspan="9" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[京都府]]}}
|rowspan="8" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[京都市]]}}
|rowspan="2"|[[山科区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|山科BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|481.0
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[深草バスストップ|深草BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|486.0
|style="text-align:center"|○
|
|
| rowspan="5" |[[伏見区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[京都南ジャンクション|京都南JCT]]
|style="background-color:#CCC"|{{Ja Exp Route Sign|E89}} [[第二京阪道路]](事業中)
|style="text-align:right"|487.2
|style="text-align:center"|-
|
|[[2028年]]度(令和10年度)開通予定<ref>{{Cite news |title=名神と京都高速直結、京都南JCTを新設へ 2028年完成予定 |newspaper=京都新聞 |date=2017-03-31 |url=http://www.kyoto-np.jp/economy/article/20170331000171 |publisher=[[京都新聞社]] |accessdate=2017-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170401001542/http://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20170331000171 |archivedate=2017-04-01}}</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|33
|rowspan="3"|[[京都南インターチェンジ|京都南IC]]
|rowspan="3"|[[国道1号]]([[京阪国道]])
|rowspan="2" style="text-align:right"|487.6
|rowspan="3" style="text-align:center"|
|style="text-align:center"|5
|入口・下り線出口
|-
!style="background-color:#BFB"|33-2
|style="text-align:center"|5B
|上り線第2出口
|-
!style="background-color:#BFB"|33-1
|style="text-align:right"|488.0
|style="text-align:center"|5A
|上り線第1出口
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[桂川パーキングエリア|桂川PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|490.4
|style="text-align:center"|
|
|
|[[南区 (京都市)|南区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|33-3
|[[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]]/[[大山崎インターチェンジ|IC/BS]]
|{{Ja Exp Route Sign|E9}} [[京都縦貫自動車道]]([[京都第二外環状道路]])<br />{{Ja Exp Route Sign|E88}} 大山崎支線([[京滋バイパス]]方面)<br />[[国道171号]]
|style="text-align:right"|495.7
|style="text-align:center"|○
|
|左ルート
|colspan="2"|[[乙訓郡]]<br/>[[大山崎町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[桂川パーキングエリア|桜井PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|503.4
|style="text-align:center"|-
|
|1998年(平成10年)3月廃止
|rowspan="8" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪府]]}}
|colspan="2"|[[三島郡 (大阪府)|三島郡]]<br/>[[島本町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|style="background-color"|[[高槻ジャンクション・インターチェンジ|高槻JCT/IC]]
|style="background-color"|{{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]<br>[[京都府道・大阪府道79号伏見柳谷高槻線|府道79号伏見柳谷高槻線]](高槻東道路)
|style="text-align:right"|504.0
|style="text-align:center"|-
|
|名神分岐 - 新名神分岐間距離 1.4 km<ref group="注釈">名神分岐 - 新名神分岐間のキロポストは数字の左側に「'''W'''」のアルファベットが表記されている。</ref>
|colspan="2" rowspan="2"|[[高槻市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高槻バスストップ|高槻BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|506.3
|style="text-align:center"|○
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34
|[[茨木インターチェンジ|茨木IC/BS]]
|[[国道171号]]
|style="text-align:right"|511.7
|style="text-align:center"|○
|style="text-align:center"|4
|
|colspan="2"|[[茨木市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|35
|[[吹田ジャンクション|吹田JCT]]/[[吹田ジャンクション#吹田インターチェンジ|IC]]
|{{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]] [[岡山県|岡山]]・[[広島県|広島]]方面<br />{{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]] [[奈良県|奈良]]・[[和歌山県|和歌山]]方面<br />[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道2号大阪中央環状線]]
|style="text-align:right"|514.5
|style="text-align:center"|
|
|[[中国自動車道|中国道]]は京都方面のみ接続
|colspan="2"rowspan="3" |[[吹田市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[吹田サービスエリア|吹田SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|517.8
|style="text-align:center"|
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|吹田BS
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|521.2
|style="text-align:center"|◆
|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|36
|[[豊中インターチェンジ|豊中IC/<span style="background-color: #CCC">BS]]
|[[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0011.svg|24px]] [[阪神高速11号池田線]] 豊中南出入口<br />[[大阪府道10号大阪池田線|府道10号大阪池田線]]
|style="text-align:right"|524.5
|style="text-align:center"|◆
|style="text-align:center"|3
|
|colspan="2"|[[豊中市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|37
|[[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]
|[[兵庫県道13号尼崎池田線|県道13号尼崎池田線]]
|style="text-align:right"|529.4
|style="text-align:center"|
|style="text-align:center"|2
|
|rowspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[兵庫県]]}}
|colspan="2"|[[尼崎市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|38
|[[西宮インターチェンジ|西宮IC]]
|[[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0003.svg|24px]] [[阪神高速3号神戸線]] [[神戸市|神戸]]・[[姫路市|姫路]]方面<br />[[国道43号]]
|style="text-align:right"|536.2
|style="text-align:center"|
|style="text-align:center"|1
|料金所の[[距離標#道路|キロポスト]]は535.5KP
|colspan="2"|[[西宮市]]
|-
| colspan="10" style="background-color:#CCC; text-align:center" |[[名神湾岸連絡線]](事業中)
|-
|}
== 歴史 ==
=== 計画・施工 ===
戦後日本の道路整備促進の流れは、実業家でのちに参議院議員となった[[田中清一]]らによって主導された国土開発縦貫自動車道構想であったが、これに平行する動きとして、[[建設省]]もまた戦前の自動車国道構想を下敷きに、東京 - 神戸間高速道路計画の着手に乗り出していた{{sfn|武部健一|2015|pp=189–191}}。
1953年(昭和28年)ごろ、田中主導の国土開発縦貫自動車道構想を基とする中央道ルートの東京 - 名古屋間高速道路計画が具体化しはじめたことから、建設省は東海道ルートを前提とした「東京神戸間有料道路計画書」を公表して対抗した{{sfn|武部健一|2015|p=190}}。これ以後、建設ルートを巡って「東海道か中央道か」という論争が、次第に激しくなったため{{sfn|武部健一|2015|p=183}}、[[日本国政府]]は当面実施すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、その計画を有料道路とするとともに、借款を[[世界銀行]]に求めることにした{{sfn|武部健一|2015|pp=189–191}}。
1956年(昭和31年)、世界銀行が名神高速道路の実現可能性調査のために、ラルフ・J・ワトキンスを団長とする調査団を派遣して提出された調査報告書である『[[ワトキンス・レポート]]』には、名神高速道路の建設を是とした上で、建設費の一部に世界銀行が貸付を行うことを肯定し、日本国政府に対しては、道路行政の改革を勧告したほか、道路予算を3倍増とすることを提言する内容が書かれていた{{sfn|武部健一|2015|pp=189–191}}。世界銀行からの借入金は、当時としては借入期間が長期で安定していて低金利であった{{Sfn|竹國一也|2014|p=10}}。
国費ではなく、借入金によって建設して返済するシステムは、道路公団方式による有料道路建設の端緒となった{{Sfn|竹國一也|2014|p=10}}。
名神高速道路の設計計画は、当初はアメリカのターンパイク(有料道路)やインターステイツ・ハイウェイ(州際道路)の基準を手本に、日本独自で進められたが、[[アウトバーン]]の設計技師も務めた[[フランツ・クサーヴァー・ドルシュ|クサヘル・ドルシュ]]を名神高速道路の設計技師として迎え、[[日本道路公団]]内ではドルシュの教えに従って、設計手法が大きく変わっていった{{sfn|武部健一|2015|p=195}}。
世界銀行が派遣し、設計コンサルタントとして来日したドルシュの提言は、高速道路の線形設計では、周囲の地形に調和するように[[クロソイド曲線]]を採用したり<ref group="注釈">トンネル掘削を避けて等高線に沿った線形とした「今須カーブ」は、他の箇所に比べて急な半径280 mとなって事故が多発したことから、1978年(昭和53年)に緩やかな線形の「今須トンネル」によって付け替えられ、[[廃道]]となった。</ref><ref name="乗りものニュース20200403">{{Cite web|和書|date=2020-04-03 |url=https://trafficnews.jp/post/95035?utm_source=onesignal&utm_medium=rss&utm_campaign=webpush&utm_term=95035 |title=かつて名神高速にあった「魔のカーブ」とは 事故多発で一部が廃道になっていた名神 |publisher=[[乗りものニュース]] |accessdate=2020-04-03}}</ref>、それまで設計済みであったインターチェンジ計画を大規模な様式にするなど、それまで高速道路設計の経験が無かった日本の手法を大きく変えさせた{{sfn|武部健一|2015|pp=193–194}}。
建設省は、1957年(昭和32年)10月に国土開発縦貫自動車道建設法の規定に基づき、小牧 - 西宮間について、日本道路公団に対して施工命令を出し、名神高速道路の建設は始められた{{sfn|武部健一|2015|p=199}}。この着工によって、[[日本の高速道路]]はスタートを切ることになった。
当時、[[舗装]]は[[コンクリート]]舗装が一般的であったが、コンクリート舗装と[[アスファルト]]舗装とで、経済性・耐久性・快適性などを比較検討を行い、名神高速道路ではアスファルト舗装が導入されることになった{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。
[[土工 (工種)|土工]]では本格的に機械化施工を導入し、施工規定に加えて初めて性能規定も定めた{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。また、[[盛土]]の横断勾配<ref group="注釈">車線と直角方向の勾配。</ref>は試行錯誤を経て、[[ロードローラー|機械]]による転圧が可能な1:1.8とし、現在でも標準の横断勾配となっている{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。
[[トンネル]]の施工では、従来は木製の[[支保工]]が用いられていたが、[[地質]]が悪く大きな地圧が作用する梶原トンネル・天王山トンネルでは、日本で初めて[[形鋼|H形鋼]]の支保が導入された{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。[[アーチ]]支保の導入により、大型機械が導入可能となり、安全性と効率性が大幅に向上した{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。
そのほか様々な技術が、名神高速道路の建設によって生まれ、進化を遂げながら現在に繋がる{{Sfn|竹國一也|2014|p=11}}。
=== 開通 ===
[[ファイル:Akira1963.jpg|thumb|230px|開通した頃の逢坂山トンネル。当時は観光名所だった。(1963年)]]
[[東海道新幹線]]開業の前年にあたる、1963年(昭和38年)7月16日の名神高速道路 [[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]間(71.7 km)の開通は、[[日本の高速道路]]開通の歴史の中で最初となる高速道路の誕生であった。自動車が道路を時速100 kmで疾走する状況は、世間を沸かせる一大ニュースとなり{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}、前日の[[7月15日]]には名神開通記念として額面10[[円 (通貨)|円]]の[[記念切手]]が発行された<ref>[http://www.yuubinsyumi.com/shopdetail/000000000533/ct124/page1/recommend/ 名神高速道路|記念・特殊切手 1963年発行 日本郵便趣味協会]</ref>。
1964年(昭和39年)4月には、栗東ICから[[関ヶ原インターチェンジ|関ヶ原IC]]まで延伸されると、9月には東側は一宮ICまで西側は西宮ICまでが開通する。1965年(昭和40年)7月1日には、小牧IC - 一宮IC開通によって名神高速道路の小牧IC - 西宮ICの全線が完成し、これまで名古屋 - 阪神地域間の移動に自動車で5 - 6時間を要した時間が、2時間程で結ばれることになり{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}、名古屋 - 京阪神間の自動車での日帰り移動を可能にした。
開通当初は高速道路自体が観光名所となっていたため、[[路肩]]で[[弁当]]を食べ、疾走する[[自動車]]を眺めたり、記念撮影したりするなど、長閑なエピソードも残されている<ref>{{Cite news |title=正平調 |newspaper=神戸新聞NEXT |date=2013-07-16 |url=https://www.kobe-np.co.jp/column/seihei/201307/0006163379.shtml |publisher=[[神戸新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130823030127/http://www.kobe-np.co.jp/column/seihei/201307/0006163379.shtml |archivedate=2013-08-23}}</ref>。
一方で、当時の自動車の[[性能]]が高速連続走行に耐えられなかったことや、ドライバーが高速走行に不慣れだったため、[[オーバーヒート]]や[[ガス欠]]で立ち往生する自動車が続出した。最初の10日間だけでオーバーヒートをはじめとする不具合で実に573件もの故障車が出たと記録に残っている<ref>[https://www.w-nexco.co.jp/faq/13/#05 NEXCO西日本 よくあるご質問13-5.ハイウェイおもしろ情報 A1]</ref>。[[スタンディングウェーブ現象]]や[[ハイドロプレーニング現象]]など、高速域でのタイヤに関する知識も、一般にはまだ浸透していなかったため、これらに関する[[広報]]活動も行われるようになった。
また、全面開通するや否や、同時期に登場した[[トヨタ自動車]]の[[乗用車]]、[[トヨタ・コロナ#3代目 T40/50型(1964年 - 1970年)|トヨペット・コロナ(RT40系)]]が、性能と耐久性をアピールするための[[キャンペーン]]として、小牧 - 西宮間で「10万キロ連続高速走行公開テスト」を行った(58日間で276往復走行)ほか、[[国鉄専用型式|国鉄の高速バス専用車両]]開発時には、100 [[キロメートル毎時|km/h]]での20万キロ連続走行が課題として、各メーカーに要求されていた{{efn|バスラマ・インターナショナル24号「特集・国鉄〜名神 東名・名神ハイウェイバス」P36での記述によると、当時のメーカー側では5万 kmから10万 km程度の走行試験を考えており、国鉄では20万 km以上の走行試験を希望したが、開発時間の制約により20万 kmと決められたという。}}。
高速道路網として続く東京 - 名古屋間については、[[東海道]]ルートで[[第一東海自動車道]](東名高速)が中央道よりも先行して建設され、<!--1963年7月の名神高速部分開通、1965年7月の小牧IC - [[一宮インターチェンジ|一宮IC]]の開通による名神高速全線開通、そして--(重複記述のためコメントアウトします)-->[[1969年]]5月の東名高速全線開通によって東京 - 西宮間が[[高速自動車国道]]で直結された。[[中央自動車道西宮線]]としては、[[1972年]](昭和47年)10月の小牧JCT開通、[[1982年]](昭和57年)11月の[[勝沼インターチェンジ|勝沼IC]] - [[甲府昭和インターチェンジ|甲府昭和IC]]開通により、全線が開通した。
名神高速は、このように東名高速より先に開通したが、これは先行決定していた[[東京]] - [[神戸]]間の[[中央自動車道]]建設において、[[名古屋]]以東を[[東海道]]ルート(=現[[東名高速道路]])と[[中山道]]・[[甲州街道]]ルート(=現[[中央自動車道]])のどちらで建設するかで激しく揉めたためである<ref name = nikkeishintoumeinamae/>。
そのため、その収拾が着く前に、既に建設ルートについて合意に至っていた名古屋 - 西宮間を先に建設することで{{efn|ただ、名古屋以西のルートも構想段階では、米原経由のルート以外にも、名古屋から[[三重県]][[亀山市]]、[[京都府]][[木津川市]]を経て大阪に至るという、[[国道163号]]に沿ったルートも検討されたことがある。}}、早期開業を目指している<ref name = nikkeishintoumeinamae/>。なお、どちらの側も通過地域の政治的圧力もあって自案を捨てずに強硬に主張を続けたため、最終的には[[日本道路公団]]が東名・中央の双方を建設するとして幕引きを図った<ref name = nikkeishintoumeinamae>{{Cite news |title=新東名、残りの区間は… 中央道が名前を変えた理由 |newspaper=NIKKEI STYLE |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK12038_T10C12A9000000/?df=3 |publisher=[[日経BP社]] |date=2012-09-16 |accessdate=2012-11-23}}</ref>。
=== 年表 ===
{{Timeline of release years
| title = 各年ごとの開通区間
| 1963 = (7月)栗東IC - 尼崎IC
| 1964 = (4月)関ヶ原IC - 栗東IC<br />(9月)一宮IC - 関ヶ原IC・尼崎IC - 西宮IC
| 1965 = (7月)小牧IC - 一宮IC
}}
* [[1956年]]([[昭和]]31年)
** 5月 : [[建設省]](現・[[国土交通省]])の招請によりアメリカからラルフ・J・ワトキンス率いる[[世界銀行]]道路調査団(ワトキンス調査団)が来日、本高速道路に係る総合的調査の名目で80日間にわたって各地の道路事情を調査<ref>{{Cite web|和書|url=http://worldbank.or.jp/31project/japan_highway1st/ |title=日本道路公団・名神高速道路(尼崎 - 栗東間)〜日本初の高速道路案件 |publisher=[[世界銀行]]東京事務所 |work=日本が世界銀行から貸出を受けた31のプロジェクト |accessdate=2018-07-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nagoya-cci.or.jp/history/shouwakouki/h23.html |title=昭和40年(1965)名神高速道路の全線開通 |publisher=[[名古屋商工会議所]] |work=名古屋商工会議所のあゆみ |accessdate=2018-07-01}}</ref><ref name="report_matsuura">『{{PDFlink|[http://www.fujii-kiso.co.jp/topics/forum/kenshuu/2009/010.pdf 我が国の高速道路の黎明から今日まで]}}』〔松浦聰(土木設計室);『2009年・第30回夏季研修会論文』から〕 - 藤井基礎設計事務所Webサイトより</ref>。
** [[8月8日]] : [[ワトキンス・レポート]](名古屋・神戸高速道路調査報告書)を建設省に提出。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[10月17日]] : 本高速道路として「小牧 - 西宮」間で施工命令下る<ref name="report_matsuura" /><ref name="便覧2007-p13">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=13}}</ref>。
** 11月 : 建設費調達のため世界銀行との折衝開始<ref name="report_dorsch">『{{PDFlink|[http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00911/2010/08/08-0041.pdf 名神・東名高速道路におけるドイツ人技師ドルシュの設計思想に関する研究]}}』〔橋本政子・齋藤潮;『景観・デザイン研究論文集』第8号(2010年6月)から〕より</ref>。
[[画像:Seinriyama TN.jpg|230px|thumb|千里山でのルートと工法を巡って道路公団と関大は激しく対立した。]]
* [[1958年]](昭和33年)
** [[3月19日]] : [[松永安左エ門]]の私設[[シンクタンク]][[産業計画会議]]が「東京 - 神戸間高速道路」の建設を政府に勧告。
** [[7月6日]] : [[西ドイツ]]からクサヘル・ドルシュが世銀技術顧問として初来日<ref name="report_dorsch" />。
** [[10月19日]] : [[京都市]][[東山区]](現:[[山科区]])内に於いて起工(鍬入)式を挙行。この付近の中央分離帯および側道には[[名神起工の地]]の碑が建てられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ya094.html |title=名神高速道路起工地 |work=いしぶみデータベース |website=フィールド・ミュージアム京都 |publisher=京都市歴史資料館 |accessdate=2018-07-01}}</ref>。
** [[12月25日]] : [[関西大学]]で高速道路学内通過反対本部が発足<ref>関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 通史編下巻、[[学校法人関西大学]]、1986年、93-95頁</ref>。
* [[1959年]](昭和34年)
** 4月 : 世銀第1次借款対象工事として「尼崎 - 栗東」間が指定される<ref name="report_dorsch" />{{efn|指定に際し、線形・橋梁設計に於いてドルシュの勧告を受けることも決定された。}}。
** 10月 : 名神高速道路試験所を京都市[[東山区]]山科(当時、現・山科区)に完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.express-highway.or.jp/jigyo/kenkyu/50th/50th_history_a3.pdf |title=高速道路50年の歩み |format=PDF |publisher=高速道路調査会 |page=36 |accessdate=2015-12-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222115537/https://www.express-highway.or.jp/jigyo/kenkyu/50th/50th_history_a3.pdf|archivedate=2015-12-22}}</ref><ref>梅棹忠夫『日本探検』(1960年)</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)
** [[3月17日]] : 世界銀行との間で第1次借款の調印<ref name="report_dorsch" /> (尼崎 - 栗東間)4000万[[アメリカ合衆国ドル|USD]], 金利:6.25 %, 期間:23年(据置期間:3年)。
** [[7月4日]] : 関西大学、千里山キャンパス内通過部分をトンネル式とする仲裁案を受け入れる<ref>『関西大学百年史』 通史編下巻、109-111頁</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)
** 2月 : 千里山での工法変更(トンネル式→片側開き構造)をめぐって道路公団と関大の対立再燃<ref>『関西大学百年史』 通史編下巻、111-113頁</ref>。
** [[11月29日]] : 世界銀行との間で第2次借款の調印(一宮 - 栗東、尼崎 - 西宮間)4,000万USD, 金利:5.75 %, 期間:26年(据置期間:5.5年)。
* [[1962年]](昭和37年)6月16日 : 千里山での工法変更について建設大臣と道路公団総裁、関大理事長が1,000万円の補償金追加で合意<ref>『関西大学百年史』 通史編下巻、114-116頁</ref>。
* [[1963年]](昭和38年)[[7月16日]] : 日本初の[[高速自動車国道|高速国道]]の建設区間となった、栗東IC - 尼崎IC間が開通<ref name="便覧2007-p14">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=14}}</ref>。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[4月12日]] : 関ヶ原IC - 栗東IC開通。
** [[9月6日]] : 一宮IC - 関ヶ原IC、尼崎IC - 西宮IC開通。
* [[1965年]](昭和40年)[[7月1日]] : 小牧IC - 一宮IC開通により、'''全線開通'''<ref name="便覧2007-p14"/>。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月25日]] : 東名[[岡崎インターチェンジ|岡崎IC]] - 小牧IC開通により東名と接続。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月1日]] : 吹田JCT/IC開通により近畿道、中国道と接続。
* [[1975年]](昭和50年) : 米原JCT建設に伴い番場PAを廃止{{sfn|米原町史編さん委員会編集|1999|p=1221}}。
{{multiple image
| align = right
| direction = vertical
| header = 今須地区ルート付替え変遷空中写真
| width = 230
| image1 = Aerial photograph of the IMASU area, Meishin Expressway, September 11, 1975.jpg
| caption1 = 1975年(昭和50年)9月。今須トンネルはまだ存在しない。
| image2 = Aerial photograph of the IMASU area, Meishin Expressway, October 23, 1982.jpg
| caption2 = 1982年(昭和57年)10月。今須トンネル供用後。廃道部分の多くが残っている。
| image3 = Aerial photograph of IMASU area, Meishin Expressway, April 22, 1996.jpg
| caption3 = 1996年(平成8年)4月。廃道部分の多くが別利用されている。
<br/><small>上記3画像{{国土航空写真}}。</small>
}}
* [[1978年]](昭和53年)[[10月2日]] : 急[[線形 (路線)|カーブ]]による事故多発地帯であった関ヶ原IC - 彦根IC間の一部区間を廃止、新たに掘削した[[今須トンネル]]を含む新ルートに付け替え<ref name="乗りものニュース20200403"></ref>。
* [[1979年]](昭和54年)[[5月15日]] : 吹田JCT内の中国道直結連絡橋が開通。
* [[1980年]](昭和55年)
**[[1月8日]] : 瀬田西IC開通。
**[[4月7日]] : 米原JCT開通により北陸道と接続。
* [[1981年]](昭和56年)[[8月28日]] : 竜王IC開通。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月24日]] : 岐阜羽島IC開通。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[8月29日]] : 瀬田東IC開通、京滋バイパスと接続。
** [[12月1日]] : [[通行券]]の仕様が開通以来の[[パンチカード]]式から[[磁気ストライプ]]式に変更(東名・中国道の一部も同様)。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[5月28日]] - [[6月2日]] : 名神リフレッシュ工事(現:名神集中工事)を初実施。
* [[1994年]](平成6年) : 中国道 - 近畿道の吹田本線料金所新設などの吹田IC/JCT改築工事完了。
* [[1996年]](平成8年)[[12月20日]] : 栗東IC - 瀬田東ICが6車線化(4[[車線]]を6車線に拡幅)<ref name="便覧2007-p18">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=18}}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[7月19日]] : 京都南IC - 吹田ICが6車線化(4車線を6車線に拡幅。トンネル部分は左右2ルート化〈上下各ルート2車線〉し、合計8車線に拡幅)<ref name="便覧2007-p18"/>。
** [[12月13日]] : 一宮JCT開通により東海北陸道と接続。
* [[1999年]](平成11年)[[3月4日]] : 尾張一宮PA(上り線)開設。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月29日]] : 尾張一宮PA(下り線)開設。
** [[10月19日]] : 小牧ICで名古屋高速11号小牧線と接続。
** 12月20日 : 上石津PAが廃止。
* [[2003年]](平成15年)
** [[8月10日]] : 大山崎JCT開通により、瀬田東JCT - 大山崎JCTが[[京滋バイパス]]との2ルート化。
** [[12月24日]] : 大山崎IC開通。
* [[2005年]](平成17年)
** [[2月11日]] : 一宮ICで名古屋高速16号一宮線と接続。
** [[3月19日]] : 草津JCT - 草津田上IC開通(草津JCTは草津田上ICの[[ランプ (道路)|ランプ]]扱い)。
** [[9月29日]] : 甲良PAが廃止。
** [[10月1日]] :[[日本道路公団]]の[[民営化]]に伴い[[中日本高速道路]]・[[西日本高速道路]]が道路管理者になる。
* [[2006年]](平成18年)[[4月1日]] : 草津JCT - 瀬田東JCT/ICの8車線化工事着手。
* [[2008年]](平成20年)[[2月23日]] : 草津JCT - 草津田上ICの新名神への編入により、新名神と接続。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月13日]] : 滋賀県が湖東三山スマートIC・蒲生スマートICの実施計画書をNEXCO中日本・NEXCO西日本に提出。
** [[3月20日]] : 草津JCT - 瀬田東JCT/ICが8車線化(6車線を8車線に拡幅)。
** [[6月30日]] : 国土交通省が湖東三山スマートIC・蒲生スマートICの建設を許可。
* [[2012年]](平成24年)[[9月15日]] : 東海環状道 大垣西IC - 養老JCT間開通に伴い、養老JCT 供用開始。
* [[2013年]](平成25年)
** [[4月21日]] : 京都縦貫道 沓掛IC - 大山崎IC/JCT間開通に伴い、大山崎JCTに接続。
** [[6月11日]] : 国土交通省が安八スマートIC・養老スマートICの建設を許可。
** [[10月21日]] : 湖東三山スマートIC供用開始。同時に秦荘PAから湖東三山PAに名称変更。
** [[12月22日]] : 蒲生スマートIC供用開始。
* [[2015年]](平成27年)[[7月1日]] : 名神高速全線開通から50年。
* [[2016年]](平成28年)[[3月19日]] : 栗東湖南IC供用開始<ref name="w-nexco20160224">{{Cite press release |和書 |title=名神高速道路と栗東水口道路(地域高規格道路)の接続に伴い栗東湖南(りっとうこなん)料金所の運用を開始します―インターチェンジ(IC)の名称は「栗東湖南IC」となります― |publisher=西日本高速道路株式会社 |date=2016-02-24 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/kansai/h28/0224/ |accessdate=2016-02-24}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[12月10日]] : 高槻JCT/IC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E1A新名神高速道路(高槻JCT・IC〜川西IC間)が平成29年12月10日(日曜)に開通します |publisher=西日本高速道路株式会社 |date=2017-11-07 |url=https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h29/1107/ |accessdate=2017-11-10}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月24日]] : 安八スマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E1 名神高速道路 安八スマートインターチェンジが2018年3月24日(土)16時に開通します。 |publisher=安八町・中日本高速道路株式会社 |date=2018-02-13 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4234.html |accessdate=2018-02-13}}</ref>。
** [[6月24日]] : 養老SAスマートIC供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=E1 名神高速道路 養老SAスマートインターチェンジが 2018年6月24日(日)15時に開通します。 |publisher=養老町・中日本高速道路株式会社 |date=2018-05-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4298.html |accessdate=2018-05-22}}</ref>。
* [[2021年]]([[令和]]3年)
** [[5月1日]] : 小牧IC - 養老JCT間の高速料金が大都市近郊区間の料金水準に変更される<ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=3 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-07-12 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | page = 3 }}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/images/news/5025/84e62f51193907a48b20d93aca14d6ae.pdf | title = 中京圏の高速道路料金が変わります | format = PDF | work = C2 名二環 2021年5月1日(土)に全線開通! ~名古屋西JCT~飛島JCT 延長12.2kmが開通~ 合わせて中京圏の高速道路料金が変わります! ~同日、2021年5月1日午前0時から移行します~ | publisher = 国土交通省 中部地方整備局・中日本高速道路株式会社・名古屋高速道路公社 | date = 2021-02-26 | accessdate = 2021-07-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210712123626/https://www.c-nexco.co.jp/images/news/5025/84e62f51193907a48b20d93aca14d6ae.pdf|archivedate=2021-07-12}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[4月29日]] : 多賀スマートIC(下り線出入口)供用開始<ref name="press20230317" />。
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
名神高速道路の標準的な車線幅は、1車線あたり3.6[[メートル]]で造られている{{sfn|武部健一|2015|p=195}}。これは、日本で最初に高速道路が導入される際に、アメリカ合衆国の高速道路の車線幅の基準となっている12[[フィート]]をそのまま直輸入して、日本の長さの基準単位である[[メートル法]]に換算した結果である{{sfn|武部健一|2015|p=195}}。なお歴史的経緯により、名神高速道路建設後に全国展開された高速自動車国道の車線幅はメートル法を基準として3.5メートル(3車線の中央車線は除く)に統一されている{{sfn|武部健一|2015|p=195}}。
東名とは違い、最高速度が80 km/h[[制限]]となっている区間が多いので、速度超過には注意を要する。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!!rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
![[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
| 小牧IC - 養老SA|| rowspan="9" |4|| rowspan="9" |2|| rowspan="9" |2||rowspan="21" |80 [[キロメートル毎時|km/h]]||100 km/h<br />(法定)||120 km/h||
|-
| 養老SA - 彦根トンネル||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||※1
|-
| 彦根トンネル - 甲良PA跡||100 km/h<br />(法定)||120 km/h||
|-
| 甲良PA跡 - 湖東三山PA/SIC||rowspan="2" |80 km/h<br />(指定)||100 km/h||
|-
| 湖東三山PA/SIC - 百済寺BS||rowspan="2" |120 km/h||
|-
| 百済寺BS - 蒲生SIC||rowspan="2" |100 km/h<br />(法定)||
|-
| 蒲生SIC - 竜王IC||rowspan="3" |100 km/h||
|-
| 竜王IC - 栗東湖南IC||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 栗東湖南IC - 栗東IC||rowspan="5" |100 km/h<br />(法定)||
|-
| 栗東IC - 草津JCT||6||3||3||rowspan="3" |120 km/h||
|-
| 草津JCT - 瀬田東JCT/IC||8||4||4||※2
|-
| 瀬田東JCT/IC - 瀬田西IC||rowspan="3" |4||rowspan="3" |2||rowspan="3" |2||
|-
| 瀬田西IC - 大津IC/SA||100 km/h||
|-
| 大津IC/SA - 京都南IC||rowspan="7" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="7" |80 km/h||
|-
| 京都南IC - 大山崎JCT/IC手前||6||3||3||
|-
| 大山崎JCT/IC周辺||7||3||2+2||
|-
| 天王山トンネル - 梶原トンネル||8||2+2||2+2||
|-
| 梶原トンネル - 高槻JCT/IC||7||4||3||
|-
| 高槻JCT/IC - 吹田JCT/IC||6||3||3||※3
|-
| 吹田JCT/IC - 吹田BS跡付近||rowspan="3" |4||rowspan="3" |2||rowspan="3" |2||※4
|-
| 吹田BS跡付近 - 西宮TB||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||※5
|-
| 西宮TB - 西宮IC||colspan="2" |50 km/h<br />(指定)||60 km/h||
|}
* ※1 : 上り線は伊吹PAの前後に、下り線は今須トンネル手前に登坂車線あり。
* ※2 : 新名神から草津JCTを経由して当路線で京都・大阪方面へ向かう場合や、京滋バイパスから瀬田東JCTを経由して当路線や新名神で北陸・名古屋方向へ向かう場合は、必ずこの区間を通過しなければならない[[ボトルネック]]となっている。そのため上り線は名神(2車線)+京滋バイパス(2車線)の4車線からの、下り線は名神(2車線)+新名神(2車線)の4車線からの車両が集約されることや、ジャンクションやパーキングエリアからの合流により車両の流れが悪化し、渋滞が多く発生している。新名神部分開通後の約1年1ヶ月後に、片側3車線から片側4車線化されたが依然、渋滞は完全に解消されていない。新名神の大津JCT - 高槻JCT間の整備により渋滞が解消されると見込まれている。ちなみに、大山崎JCT - 吹田JCT間も長らくボトルネックの区間であった。しかし2010年(平成22年)3月20日に第二京阪道路が全線開通し、ボトルネックの状態は解消され、高槻BS付近や吹田JCTの渋滞が緩和された。
* ※3 : 上り線の高槻BS先に登坂車線あり。
* ※4 : 千里山トンネルは以前70 km/hだった。
* ※5 : 533.3 kp付近から西宮TBまでは80 km/h制限。
=== 降雪時の通行規制 ===
大垣IC - 竜王ICは[[12月]]から[[3月]]の間、冬型の[[気圧配置]]が強まると[[積雪]]になる場合がある。名神高速では10-15[[分]]おきに除雪車の連隊で[[除雪]]作業、凍結防止作業を行っている。[[降雪]]区間は50 km/hの速度規制になり、除雪・凍結防止作業区間では作業車連隊を追い越し禁止する規制と同時に、作業車自体で車線をふさぎ強制的に速度を抑える。このため当該区間では10 km以上の大[[渋滞]]になる。とは言え、帰省ラッシュ等の渋滞と異なりコンスタントに50 km/h程度の速度は出ているので極端な所要時間増にはならない。
24時間態勢で大掛かりな作業をしているため、運用上は普通[[タイヤ]]でも通行することが出来るが、降雪が強まると除雪部隊から離れた地点などでは路面に新雪が積もり、それが[[シャーベット]]状や凍結状態になるなど、非常に危険な状況に陥る可能性がある<!--ため、[[冬|冬季]]にこの区間を利用する場合は規制がなくとも[[スタッドレスタイヤ]]を装着またはチェーン携行をすることが望ましい-->(上述の作業車連隊による速度維持を行う理由でもある)。更に降雪が強まり除雪が追いつかなくなった場合には、通行止め措置がとられる。
また、関ヶ原付近は冬期になると[[天候]]が急変し、突発的に[[雪]]が降って視界が遮られる「ゲリラ雪」現象が発生する。このため、NEXCO中日本の[[コマーシャルメッセージ|TV・ラジオCM]]では「冬の名神は雪国です」という旨の告知がされている。
このような状況を踏まえ、一宮IC - 関ヶ原IC間が開通した当初は養老SAと関ヶ原ICの間にチェーン着脱所の意味合いの強い[[上石津パーキングエリア|上石津PA]]が存在していたが、2001年にこの地域でのチェーン規制が殆どなくなったことなどに伴って廃止された。
2008年(平成20年)2月23日に新名神の部分開通により、関ヶ原・米原地区を[[迂回]]することが出来るようになった。滑り止めの無い車両を比較的雪害の少ない新名神ルートで流すことが出来るようになったため、近年では強い降雪の場合には関ヶ原・米原地区でもチェーン規制措置を行うようになった。
=== 道路施設 ===
[[File:RYUO INTERCHANGE TOLL GATE.jpg|thumb|200px|トールゲート屋根は自重軽減の意図から半円に肉抜きされ、セルリアンブルーで着色(奥)。このデザインは東名にも継承された。]]
世界銀行のコンサルタントの指導のもと、主として景観を扱う「特殊設計審議委員会」(一般に審美委員会と称される)によって名神の各種構造物、施設の設計がなされた。それは、橋デザイン、中央分離帯の植樹、インターチェンジ施設、サービスエリアなど多岐に渡った{{sfn|堀田典裕|2011|pp=30-31}}。
そのうち、インターチェンジの料金所は全線に亘って統一するため、ゲートとアイランド・ブースを含めて、板倉準三郎がデザインした。それまでの料金所のデザインは、ゲートとアイランド・ブースが一体であったが、板倉はこれを分離した。ゲートの屋根はプレストレストコンクリート製で、現場打ちコンクリートの独立柱に緊結した。屋根スラブブロックの天上面は、重量軽減の意図からかまぼこ状に肉抜きされ、セルリアン・ブルーに塗装された。ただし、軟弱地盤上に建設された大垣ICと高架道路上にある西宮ICは、屋根の自重を軽減するために鉄骨を使用している{{sfn|堀田典裕|2011|pp=34-36}}。アイランド・ブースは量産をテーマに型式が検討され、最終的に赤色に塗られた鉄骨製となった。料金収受員の視界確保のためにブースのコーナーは簡略化され、ガラスは鉄板と一体化された曲面形状となり、流線型を形造っている。また、料金収受員を車の衝突から守るために、アイランド・ブースの前後には舟形のコンクリート製プロテクターが置かれた{{sfn|堀田典裕|2011|pp=36-37}}。
==== サービスエリア・パーキングエリア ====
名神高速道路は全区間を通して交通量が多いため、[[羽島パーキングエリア]](PA)、[[湖東三山パーキングエリア|湖東三山PA]]を除くすべての[[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]に売店がある。また、[[大津サービスエリア|大津SA]]を除くすべてのサービスエリアと[[草津パーキングエリア|草津PA]]に[[ガソリンスタンド]]が、すべてのサービスエリアに[[レストラン]]が設置されている。ガソリンスタンドはいずれも24時間営業。
かつて、[[岐阜県]]から[[滋賀県]]にかけての区間には、距離に対し多数のサービスエリア・パーキングエリアが設置されていた。大垣IC - 八日市IC (59.7 km) にはサービスエリア2箇所・パーキングエリア5箇所、特に彦根IC - 八日市IC (21.2 km) に多賀SA・甲良PA・秦荘PA(現・湖東三山PA)の3エリアが連続して設置されていたが{{efn|当時、サービスエリア・パーキングエリアが1区間に3箇所設置されていた唯一の区間である。}}、1975年(昭和50年)頃に番場PA{{efn|米原JCT近くにかつてあった。}}、2001年(平成13年)に上石津PA、2005年(平成17年)の[[日本道路公団]][[民営化]]直前に甲良PAが廃止されている。
初代の日本道路公団総裁であった[[岸道三]]は名神高速道路建設の時に歴史環境と高速道路の調和に特段の配慮を具現化した人物で、京都・大阪間の中間に位置していた桜井PA建設の際は、岸の指示で平安時代の歌人[[待宵の小侍従]]の墓と、それを取り囲む3本の松を保存するために計画変更も行われた{{sfn|武部健一|2015|pp=213–214}}。名神高速道路が6車線化拡幅で桜井PAが[[桂川パーキングエリア|桂川PA]]へ移転したときには、小侍従の墓は近くの高速道路沿いに移されて、現在は地元自治体によって管理されている{{sfn|武部健一|2015|pp=213–214}}。
==== 主なトンネルと橋 ====
[[ファイル:Hikone_tunnel.jpg|thumb|right|180px|彦根トンネル上り線入口]]
[[ファイル:Tennozan Tunnel.JPG|thumb|right|180px|天王山トンネル<br />上り線右ルート入口]]
* 木曽川橋(一宮IC - 羽島PA) : 1,014 m
* 長良川橋(岐阜羽島IC - 安八SIC) : 630 m
* 揖斐川橋(安八SIC - 大垣IC) : 349 m
* [[今須トンネル]](関ヶ原IC - 伊吹PA) : 上り線380 m 下り線387 m
* 関ヶ原トンネル(関ヶ原IC - 伊吹PA) : 上り線223 m 下り線243 m
* 米原トンネル(米原JCT - 彦根IC) : 上り線170 m 下り線150 m
* 彦根トンネル(米原JCT - 彦根IC) : 上り線430 m 下り線427 m
* 野洲川橋(菩提寺PA - 栗東IC)
* 瀬田川橋(瀬田西IC - 大津IC/SA) : 500 m
* 大津トンネル(大津IC/SA - 京都東IC) : 上り線430 m 下り線418 m
* 蝉丸橋(大津IC/SA - 京都東IC) : 62 m
* 蝉丸トンネル(大津IC/SA - 京都東IC) : 上り線387 m 下り線376 m
* 桂川橋(京都南IC - 桂川PA)
* [[天王山トンネル]](大山崎JCT/IC - 高槻JCT/IC)
* [[梶原トンネル]](大山崎JCT/IC - 高槻JCT/IC)
* 千里山トンネル(吹田SA - 豊中IC) : 508 m
* 猪名川橋(豊中IC - 尼崎IC)
* 武庫川橋(尼崎IC - 西宮IC)
===== トンネルの数 =====
{| class="wikitable" style="text-align: center"
!区間!!上り線!!下り線!!備考
|-
|小牧IC - 関ヶ原IC||0||0||
|-
|関ヶ原IC - 伊吹PA||2||2||
|-
|伊吹PA - 米原JCT||0||0||
|-
|米原JCT - 彦根IC||2||2||
|-
|彦根IC - 多賀SA||0||0||
|-
|多賀SA - 湖東三山PA||1||1||※1<!-- この間にある「西明寺トンネル」は、各トンネル前に設置されてあるトンネル名称や長さを示した標識は設置されていませんが、西明寺トンネル入口の壁面に小さく「西明寺トンネル」とトンネル名称が表記されているので、1つのトンネルとしてカウントします -->
|-
|湖東三山PA - 大津IC||0||0||
|-
|大津IC - 京都東IC||2||2||
|-
|京都東IC - 大山崎JCT/IC||0||0||
|-
|大山崎JCT/IC - 高槻JCT/IC||3||3||※2
|-
|高槻JCT/IC - 吹田SA||0||0||
|-
|吹田SA - 豊中IC||1||1||
|-
|豊中IC - 西宮IC||0||0||
|-
!合計!!11!!11!!
|}
* ※1 : 西明寺トンネルがあるが、[[トンネル]]入口にある[[トンネル]]名称や長さを示す標識は設置されていない。ここは、[[湖東三山]]のひとつに数えられる[[西明寺 (滋賀県甲良町)|西明寺]]の門前をよぎる部分で、歴史自然環境の保護のため、参道の景観が損なわれないように道路構造が地下化された{{sfn|武部健一|2015|p=214|ps=、「自然環境と歴史環境」}}。
* ※2 : 京都 - 大阪を連絡する[[道路]]や[[鉄道]]のうち、この区間に山岳[[トンネル]]があるのは名神だけである。大山崎JCT/IC - 高槻JCT/ICのトンネル数は上り線と下り線右ルートの場合。下り線左ルートは2本(梶原トンネルが下り線左ルートは1本、その他は、第一、第二と分離しているため。[http://www.mapion.co.jp/m2/34.87334485449028,135.65645454425734,15 大阪府三島郡島本町桜井5丁目28 地図:マピオン] 等を参照。)
=== 道路管理者 ===
* [[中日本高速道路|NEXCO中日本]] [[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]
** 羽島保全・サービスセンター : 小牧IC - 関ヶ原IC
** 彦根保全・サービスセンター : 関ヶ原IC - 八日市IC(八日市ICを含む)
* [[西日本高速道路|NEXCO西日本]] [[西日本高速道路関西支社|関西支社]]
** 滋賀高速道路事務所 : 八日市IC - 京都東IC
** 京都高速道路事務所 : 京都東IC - 高槻JCT・IC
** 大阪高速道路事務所 : 高槻JCT・IC - 西宮IC
==== ハイウェイラジオ ====
* 一宮(小牧IC - 一宮IC)
* 名神木曽川(一宮JCT - 岐阜羽島IC)
* 大垣(岐阜羽島IC - 大垣IC)
* 養老(大垣IC - 関ヶ原IC)
* 関ヶ原(養老SA - 関ヶ原IC)
* 伊吹(関ヶ原IC - 米原JCT)
* 米原(米原JCT - 彦根IC)
* 湖東三山(彦根IC - 八日市IC)
* 八日市(八日市IC - 竜王IC)
* 菩提寺(竜王IC - 栗東IC)
* 栗東(栗東IC - 草津JCT)
* 草津(栗東IC - 瀬田西IC)
* 瀬田(瀬田西IC - 大津IC/SA)
* 京都(京都東IC - 京都南IC)
* 向日(京都南IC - 大山崎JCT/IC)
* 梶原(大山崎JCT/IC - 高槻JCT/IC)
* 高槻(高槻JCT/IC - 茨木IC)
* 茨木(茨木IC - 吹田SA)
* 吹田(吹田SA - 豊中IC)
* 尼崎(豊中IC - 尼崎IC)
[[中日本高速道路名古屋支社|NEXCO中日本名古屋支社]]と[[西日本高速道路関西支社|NEXCO西日本関西支社]]の管理境界となる八日市ICを境に、東側は名古屋支社の一宮管制による4点チャイムの後に「○○時○○分現在の高速道路情報をお知らせします」で始まる形態、西側は関西支社の吹田管制の4点チャイムで始まる形態に分けられている(吹田管制は一定時間おきに「こちらは西日本高速道路側○○(局名)です」の[[局名告知]]が入る)。また、交通量と選択ルートが多いため、吹田管制管内では渋滞・規制情報のほかにハイウェイラジオ放送区間から主要ICまでの所要時間情報が放送される。なお、かつては関ヶ原ICを境に放送形態が分けられていたが、民営化直前に関ヶ原IC - 八日市ICが当時のJH関西支社からJH中部支社に移管され、民営化後に吹田管制から一宮管制に移管された。
=== 交通量 ===
'''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!区間 !!|平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度
!令和3(2021)年度
|-
| 小牧IC - 一宮IC || {{0}}84,007 || {{0}}62,974 || {{0}}60,439
|47,588
|-
| 一宮IC - 一宮JCT || {{0}}93,808 || {{0}}88,783 || {{0}}91,820
|79,890
|-
| 一宮JCT - 岐阜羽島IC || {{0}}74,152 || {{0}}61,793 || {{0}}65,233
|55,961
|-
| 岐阜羽島IC - 安八SIC || rowspan="2" |{{0}}63,266 || rowspan="2" |{{0}}49,365 || rowspan="2" |{{0}}51,546
|46,751
|-
| 安八SIC - 大垣IC
|42,818
|-
| 大垣IC - 養老JCT || rowspan="3" |{{0}}53,826 || rowspan="3" |{{0}}38,570 || {{0}}41,947
|35,885
|-
| 養老JCT - 養老SASIC|| rowspan="2" |{{0}}40,581
|33,670
|-
| 養老SASIC - 関ヶ原IC
|32,159
|-
| 関ヶ原IC - 米原JCT || {{0}}52,412 || {{0}}37,578 || {{0}}39,864
|31,642
|-
| 米原JCT - 彦根IC || {{0}}57,172 || {{0}}45,028 || {{0}}47,461
|37,228
|-
| 彦根IC - 湖東三山PASIC || rowspan="2" | {{0}}58,415 || rowspan="2" | {{0}}45,859 || {{0}}48,048
|37,401
|-
| 湖東三山PASIC - 八日市IC || {{0}}49,435
|39,386
|-
| 八日市IC - 蒲生SIC || rowspan="2" | {{0}}62,698 || rowspan="2" | {{0}}51,147 || {{0}}55,264
|43,541
|-
| 蒲生SIC - 竜王IC || {{0}}55,264
|44,853
|-
| 竜王IC - 栗東湖南IC || rowspan="2" | {{0}}74,541 || rowspan="2" | {{0}}62,847 || rowspan="2" |{{0}}64,560
|51,932
|-
| 栗東湖南IC - 栗東IC
|59,467
|-
| 栗東IC - 草津JCT || {{0}}90,772 || {{0}}77,764 || {{0}}78,803
|69,955
|-
| 草津JCT - 瀬田東IC || {{0}}92,277 || 112,999 || 122,362
|114,558
|-
| 瀬田東IC - 瀬田西IC || {{0}}71,218 || {{0}}74,354 || {{0}}81,246
|72,793
|-
| 瀬田西IC - 大津IC || {{0}}81,223 || {{0}}82,067 || {{0}}88,409
|79,034
|-
| 大津IC - 京都東IC || {{0}}82,385 || {{0}}81,161 || {{0}}89,029
|79,855
|-
| 京都東IC - 京都南IC || {{0}}80,900 || {{0}}77,739 || {{0}}84,939
|78,190
|-
| 京都南IC - 大山崎JCT/IC || {{0}}97,045 || {{0}}88,873 || {{0}}92,218
|86,091
|-
| 大山崎JCT/IC - 高槻JCT/IC || rowspan="2" | 124,749 || rowspan="2" | 111,098 || rowspan="2" | 116,446
|109,655
|-
| 高槻JCT/IC - 茨木IC
|84,893
|-
| 茨木IC - 吹田JCT || 137,671 || 122,911 || 127,486
|95,884
|-
| 吹田JCT - 吹田IC || 101,657 || {{0}}81,233 || {{0}}82,665
|75,409
|-
| 吹田IC - 豊中IC || {{0}}68,182 || {{0}}60,693 || {{0}}67,066
|64,007
|-
| 豊中IC - 尼崎IC || {{0}}52,147 || {{0}}45,322 || {{0}}51,969
|49,906
|-
| 尼崎IC - 西宮IC || {{0}}44,904 || {{0}}37,419 || {{0}}44,328
|42,030
|}
<small>(出典:「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/r3/ 令和3年度 全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。
東名同様に交通量が多く、渋滞も昼・夜、時期を問わず激しい。このため路面等の損傷が早く、車線規制を伴う名神集中工事が5月下旬に1年に1回ほど行われている。この際は通常時より激しい渋滞となる。
工事実施時期は違うものの、同じく交通量が多い東名では[[東名集中工事]]が、中国道の吹田JCT - 宝塚IC付近では中国道集中工事が行われている。名神では導入時の1991年(平成3年)から2006年(平成18年)までは「リフレッシュ工事」と称していたが、現在では東名や中国道と同様に「集中工事」に呼称を変更している。
なお、新名神高速道路や[[第二京阪道路]]の開通により、2010年(平成22年)の調査では一部区間で交通量が減少した。
2002年度(2003年度日本道路公団年報)
* 日平均交通量
** 全区間平均 : 7万1810台(前年度比98.8%)
** 最大 : 茨木IC - 吹田JCT : 12万<!--0-->584台(前年度比99.2%)
** 最小 : 尼崎IC - 西宮IC : 4万4024台(前年度比97.4%)
* 交通量
** 年間 : 9051万5442台(前年度比99.6%)
** 日平均 : 24万7988台
* 料金収入
** 年間 : 1361億4239万8000円(前年度比98.4%)
** 日平均 : 3億7299万3000円
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
* [[愛知県]]
** [[小牧市]] - [[岩倉市]] - [[一宮市]] - [[稲沢市]] - 一宮市
* [[岐阜県]]
** [[羽島市]] - [[安八郡]][[安八町]] - [[大垣市]] - [[養老郡]][[養老町]] - 大垣市<sup>※1</sup> - [[不破郡]][[関ケ原町]]
* [[滋賀県]]
** [[米原市]] - [[彦根市]] - [[犬上郡]][[多賀町]] - 犬上郡[[甲良町]] - [[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]][[愛荘町]] - [[東近江市]] - [[蒲生郡]][[竜王町]] - [[湖南市]] - [[野洲市]] - [[栗東市]] - 湖南市 - 栗東市 - [[草津市]] - [[大津市]]
* [[京都府]]
** [[京都市]]([[山科区]] - [[伏見区]] - [[南区 (京都市)|南区]]) - [[向日市]] - [[長岡京市]] - [[乙訓郡]][[大山崎町]]
* [[大阪府]]
** [[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]] - [[高槻市]] - [[茨木市]] - [[吹田市]] - [[豊中市]]
* [[兵庫県]]
** [[尼崎市]] - [[西宮市]]
※1 : <small>旧</small>[[上石津町]]の[[飛地]]部分
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[東名高速道路]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]]で直結)
* [[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0011.svg|26px]] [[名古屋高速11号小牧線]]([[小牧インターチェンジ|小牧IC]]で接続)
* [[File:Nagoya Urban Expwy Sign 0016.svg|26px]] [[名古屋高速16号一宮線]]([[一宮インターチェンジ|一宮IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]([[一宮ジャンクション|一宮JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]]([[養老ジャンクション|養老JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]([[米原ジャンクション|米原JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]大津連絡路([[草津ジャンクション|草津JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E88}} [[京滋バイパス]]([[瀬田東ジャンクション|瀬田東JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E89}} [[第二京阪道路]]([[京都南ジャンクション|京都南JCT]]で接続 : 事業中)
* {{Ja Exp Route Sign|E88}} [[京滋バイパス]]([[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E9}} [[京都縦貫自動車道]]([[大山崎ジャンクション|大山崎JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1A}} [[新名神高速道路]]([[高槻ジャンクション・インターチェンジ|高槻JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E2A}} [[中国自動車道]]([[吹田ジャンクション|吹田JCT]]で接続)※京都方面のみ接続{{efn|西宮方面から中国自動車道へ向かうには、名神吹田ICで一旦出場して一般道経由で[[中国吹田インターチェンジ|中国吹田IC]]から再入場する必要がある。}}
* {{Ja Exp Route Sign|E26}} [[近畿自動車道]]([[吹田ジャンクション|吹田JCT]]で接続)
* [[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0011.svg|26px]] [[阪神高速11号池田線]]([[豊中インターチェンジ|豊中IC]]で接続)
* [[File:Hanshin Urban Expwy Sign 0003.svg|26px]] [[阪神高速3号神戸線]]([[西宮インターチェンジ|西宮IC]]で接続)
== 発行物 ==
*1963年(昭和38年)7月15日、名神高速道路開通記念の切手が一種(10円)、発行された。
== ギャラリー ==
{{commonscat|Meishin Expressway}}
{{Gallery
|ファイル:Meishin Expressway03.jpg|三上山(近江富士)脇を通過する名神
|ファイル:Meishin Expressway01.jpg|神領橋より瀬田西IC方面を望む
|ファイル:Shin-Meishin Expressway23.jpg|高槻JCT建設予定地(桜井PA跡)
|ファイル:Meishin Expressway02.jpg|高槻BS方面を望む
|ファイル:Meishin Expressway(Old Sekigahara Route)-06.jpg|旧関ヶ原ルートの遺構
}}
== 関連項目 ==
{|
|- style="vertical-align: top"
|
* [[高速自動車国道]]
* [[中部地方の道路一覧]]
* [[近畿地方の道路一覧]]
* [[アジアハイウェイ1号線]]
* [[名神ハイウェイバス]]
* [[国鉄専用型式]]
| style="vertical-align: top" |
* [[新名神高速道路]]
* [[国道21号]]
* [[国道8号]]
* [[国道1号]]
* [[中山道]]
* [[東海道]]
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書|author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書|author=全国高速道路建設協議会(編) |edition= 第23版|date=2007-08 |title=高速道路便覧 2007 |publisher=全国高速道路建設協議会 |isbn= |ref={{SfnRef|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=米原町史編さん委員会編集 |title=米原町史 |date=1999-03 |volume=通史編 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=竹國一也|year=2014|title=関西の過去・現在・未来における土木の役割 -名神高速道路の建設-|journal=土木学会誌|volume=99|issue=9|pages=10-11|ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 堀田典裕 |title=自動車と建築 モータリゼーション時代の環境デザイン |year = 2011|date=2011-04-30 |publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-62428-0|ref=harv}}
== 外部リンク ==
* [https://www.c-nexco.co.jp/ 中日本高速道路]
* [https://www.w-nexco.co.jp/ 西日本高速道路]
* {{科学映像館|genre=other|id=11406}}
{{日本の高速道路}}
{{アジアハイウェイ1号線}}
{{中日本高速道路}}
{{西日本高速道路}}
{{西日本高速道路関西支社}}
{{名神高速道路}}
{{Normdaten}}
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プラークリット
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プラークリット(サンスクリット語: Prākr̥tam, प्राकृतम्, シャウラセーニー語: pāuda, アルダマーガディー語: pāua)は、中期インド・アーリア語とも言い、おおむね10世紀以前に使われていた、サンスクリットに対して俗語的なインド・アーリア諸語の総称。具体的にはパーリ語、マーガディー(マガダ語)、アルダ・マーガディー(半マガダ語の意味)、マーハーラーシュトリー(マハーラーシュトラ語)、シャウラセーニー、アパブランシャ、ガーンダーリー(ガンダーラ語)などを指す。ジャイナ教の経典に用いられたプラークリットはジャイナ・プラークリットと呼ぶ。
ブラーフミー文字ははじめプラークリットを書くのに用いられた。
「プラークリット」という語の意味にはいくつかの説がある。
「プラークリット」が具体的にどの言語を指すかは文献によって異なるが、もっとも広い意味では中期インド・アーリア語と同じ意味に用いられる。この記事でも両者を同じ意味に用いる。
プラークリットは通常3つの時期に分けられる。
サンスクリットとの違いのおおまかな傾向は、言語によっても異なるが以下のようになる。
プラークリットは、インド古典劇でも利用され、サンスクリットと併用された。このようなプラークリットは演劇プラークリット(英語版)と呼ばれる。インドの古典劇において、サンスクリットはバラモン・王・学者・大臣・将軍等高級軍人などの男性、及び第一王妃、大臣の娘、尼僧、高級娼婦などが使用した。これに対してプラークリットは婦人・子供・地位の低い男性が用いた。
演劇プラークリットには、シャウラセーニー語、マハーラーシュトリー語、マーガディー語の三種類があり使い分けされた。通常劇では、サンスクリットとシャウラセーニーが利用され、シャウラセーニーを利用する登場人物が韻文を使う時はマハーラーシュトリーが利用された。マハーラーシュトリーは抒情詩にも利用された。マーガディーは極めて地位の低い男性に用いられた。このように、同一劇の中で3種類のプラークリットが使い分けられた。なお、演劇用プラークリットは劇中に登場する、劇中言語としての口語であって、劇が作成された時代(3世紀から10世紀頃)にあって、実際の日常生活の口語ではなかった。元は口語だったが、インド古典劇の時代にあっては演劇専用口語言語として“文語化”していたものと推測されている。
シャウラセーニーは中北インド地方で前五世紀に利用された口語との説があり、中世にはカリー・ボリー語となり、現代のヒンドゥスターニー語、パンジャーブ語等へと発展した。マーガディーはマガダ地方の口語(インド東部・ベンガル・ネパール地方)、シャカが用いた言葉との説があり、アショーカ王の勅令で利用された言語で、現代のビハール語、ベンガル語、オリヤー語などの祖語となった。マハーラーシュトリー語は前500年頃から後500年の間の1000年間利用され、北はマールワー、ラージプート、南はクリシュナ川、トゥンガバドラー川付近で使われていた。現代のシンハラ語、マラーティー語、コンカニ語の祖語となった。
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プラークリットは、中期インド・アーリア語とも言い、おおむね10世紀以前に使われていた、サンスクリットに対して俗語的なインド・アーリア諸語の総称。具体的にはパーリ語、マーガディー(マガダ語)、アルダ・マーガディー(半マガダ語の意味)、マーハーラーシュトリー(マハーラーシュトラ語)、シャウラセーニー、アパブランシャ、ガーンダーリー(ガンダーラ語)などを指す。ジャイナ教の経典に用いられたプラークリットはジャイナ・プラークリットと呼ぶ。 ブラーフミー文字ははじめプラークリットを書くのに用いられた。
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{{語族
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'''プラークリット'''({{lang-sa|Prākr̥tam, प्राकृतम्}}, [[シャウラセーニー|シャウラセーニー語]]: {{IAST|''pāuda''}}, {{lang-pka|{{IAST|''pāua''}}}})は、中期[[インド・アーリア語]]とも言い、おおむね10世紀以前に使われていた、[[サンスクリット]]に対して俗語的なインド・アーリア諸語の総称。具体的には[[パーリ語]]、[[マーガディー]](マガダ語)、アルダ・マーガディー(半マガダ語の意味)、[[マーハーラーシュトリー]](マハーラーシュトラ語)、[[シャウラセーニー]]、[[アパブランシャ]]、[[ガンダーラ語|ガーンダーリー]](ガンダーラ語)などを指す。[[ジャイナ教]]の経典に用いられたプラークリットはジャイナ・プラークリットと呼ぶ。
[[ブラーフミー文字]]ははじめプラークリットを書くのに用いられた。
== 名称 ==
「プラークリット」という語の意味にはいくつかの説がある<ref>{{Cite book|和書|author=辻直四郎|authorlink=辻直四郎|chapter=インドの言語と文学|title=辻直四郎著作集|volume=4|year=1982|publisher=[[法蔵館]]|page=56|isbn=4831832049}}</ref>。
# サンスクリットを基礎({{unicode|prakr̥ti}})として生じた言語。伝統的にはこの説をとることが多い。
# (サンスクリットが人工的に洗練された言語であるのに対して)自然に発達した言語。
# 民衆の言語。
「プラークリット」が具体的にどの言語を指すかは文献によって異なるが、もっとも広い意味では中期インド・アーリア語と同じ意味に用いられる。この記事でも両者を同じ意味に用いる。
== 歴史 ==
プラークリットは通常3つの時期に分けられる。
# 初期プラークリット
#* [[アショーカ王碑文]]の言語。その特徴によって東部(古代マーガディーともいう。大部分はこの言語で書かれる)・北西部([[ガンダーラ語]]とも言う。[[カローシュティー文字]]で書かれている)・西部([[ギルナール]]とソーパーラーの磨崖碑文)に分かれる。ガンダーラ語は碑文以外に仏典や中央アジアの法律文書でも知られる。
#* [[パーリ語]]。[[上座部仏教]]の経典の言語である。
# 中期プラークリット
#* [[ジャイナ教]]で使用される言語。[[シュヴェーターンバラ派|白衣派]]の経典([[アーガマ (ジャイナ教)|アーガマ]])に使われている言語はアルダマーガディー語と呼ばれる。ほかにジャイナ教マーハーラーシュトリー語、ジャイナ教シャウラセーニー語が使われる。
#* 演劇で使用される言語。マーハーラーシュトリー・マーガディー・シャウラセーニーに代表される。マーハーラーシュトリーは詩にも使用される。
#* 文法家の記述の中にのみ現れる言語。[[パイシャーチー]]がこれにあたる。本来は説話集『[[ブリハットカター]]』の言語であったらしいが、現存する諸本にはこの言語で書かれたものはない。
# 後期プラークリット
#* [[アパブランシャ]]と呼ばれる。6世紀ごろから文学で使われるようになった。「アパブランシャ」とはサンスクリット語で「崩れた」を意味する。
==特徴==
サンスクリットとの違いのおおまかな傾向は、言語によっても異なるが以下のようになる。
=== 音韻的変化 ===
* 母音は ai au が消滅し(e o になる)、また aya → e、ava → o のような変化が起きた。
* {{unicode|r̥, l̥}} は消滅して通常の母音になった。
* 閉音節で長母音は短くなった。このため、サンスクリットにはない短い e o が出現した。
* サンスクリットにあった3つの[[歯擦音]] {{unicode|ś ṣ s}} の区別が消滅した。
* {{unicode|ḍ, ḍh}} は母音間で弱化して {{unicode|ḷ, ḷh}} に変化した。
* [[子音結合]]は、重子音または[[同器官的]][[鼻音]]+子音を除いて大部分が消滅した(隣接する子音への同化・脱落・母音挿入などによる)。
* 語末子音は大部分が脱落した。
* y, w はしばしば j, b に合流した。
* パーリ語にはあまり見られないが、時代が進むにつれて母音間の閉鎖音・破擦音が弱化し、無声音の有声化、接近音化、さらには脱落が起きた。マーハーラーシュトリーではこの傾向がいちじるしい。
=== 形態的変化 ===
* [[双数]]は消滅した。それ以外の名詞の性・格・数の区別は大部分が保たれたが、アパブランシャでは格が大きく融合している。
* 子音語幹は多くが母音語幹に変化した。
* サンスクリットにあった複雑な動詞の[[法 (文法)|法]]や[[反射態]]は衰退した。
* サンスクリットの未完了過去・アオリスト・現在完了の区別はなくなり、パーリ語では単一の過去形だけになった。マーハーラーシュトリーでは過去形もなくなり、かわりに過去分詞を使うようになった。
==演劇プラークリット==
プラークリットは、インド古典劇でも利用され、サンスクリットと併用された。このようなプラークリットは{{仮リンク|演劇プラークリット|en|Dramatic Prakrit}}と呼ばれる。インドの古典劇において、サンスクリットはバラモン・王・学者・大臣・将軍等高級軍人などの男性、及び第一王妃、大臣の娘、尼僧、高級娼婦などが使用した。これに対してプラークリットは婦人・子供・地位の低い男性が用いた。
演劇プラークリットには、[[シャウラセーニー語]]、[[マハーラーシュトリー語]]、[[マーガディー語]]の三種類があり使い分けされた。通常劇では、サンスクリットとシャウラセーニーが利用され、シャウラセーニーを利用する登場人物が韻文を使う時はマハーラーシュトリーが利用された。マハーラーシュトリーは抒情詩にも利用された。マーガディーは極めて地位の低い男性に用いられた。このように、同一劇の中で3種類のプラークリットが使い分けられた。なお、演劇用プラークリットは劇中に登場する、劇中言語としての口語であって、劇が作成された時代(3世紀から10世紀頃)にあって、実際の日常生活の口語ではなかった。元は口語だったが、インド古典劇の時代にあっては演劇専用口語言語として“文語化”していたものと推測されている。
シャウラセーニーは中北インド地方で前五世紀に利用された口語との説があり、中世には[[カリー・ボリー]]語となり、現代の[[ヒンドゥスターニー語]]、[[パンジャーブ語]]等へと発展した。マーガディーはマガダ地方の口語(インド東部・ベンガル・ネパール地方)、シャカが用いた言葉との説があり、アショーカ王の勅令で利用された言語で、現代の[[ビハール語]]、[[ベンガル語]]、[[オリヤー語]]などの祖語となった。マハーラーシュトリー語は前500年頃から後500年の間の1000年間利用され、北は[[マールワー]]、[[ラージプート]]、南は[[クリシュナ川]]、[[トゥンガバドラー川]]付近で使われていた。現代の[[シンハラ語]]、[[マラーティー語]]、[[コンカニ語]]の祖語となった。
== 脚注 ==
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==参考文献==
* 『[[シャクンタラー姫]]』[[カーリダーサ]]作。[[辻直四郎]]訳.岩波文庫(1977年)
==関連項目==
* [[サンスクリット]]
{{インド・イラン語派}}
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ツーリング
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ツーリング
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ツーリング
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'''ツーリング'''
== touring ==
; 一般概念
* いくつかの場所を訪れる[[旅行|旅]]([[ツアー]])を行うこと、という意味の英語。⇒[[特別:検索/intitle:ツーリング|「ツーリング」を含む記事名一覧]]。
* 乗り物別に言うと例えば次のようなツーリングがある。
** オートバイを使うもの → [[ツーリング (オートバイ)]]
** 自転車を使うもの → [[自転車旅行]]、ツーリング(自転車)、[[ロングライド]]
** 自動車を使うもの → [[自動車旅行]]<ref>[http://www.jama.or.jp/user/car_travel/pdf/car_travel.pdf 日本自動車工業会「自動車旅行活性化に向けた提言」]</ref>、[[ドライブ]]、[[ツーリングカー]]、[[キャンピングカー]]、[[車中泊]]、[[道の駅]]
** カヌーをつかうもの → [[カヌーツーリング]]<ref>『カヌーツーリングブック』山海堂 1999年 ほか多数の書籍で広く用いられている用語。</ref>(しばしば川で行うので「[[リバーツーリング]]」「[[川旅]]」とも)。[[カヌー]]
** 水上オートバイを使うもの → [[ツーリング (水上オートバイ)]]
** 熱気球を使うもの → 「熱気球ツーリング」、[[熱気球]]
** 徒歩でおこなうもの → [[徒歩旅行]]
; 特定の組織や施設
* [[イタリア]]にかつて存在した[[カロッツェリア]] → [[カロッツェリア・トゥーリング]]
== Tooling ==
* 切削工具の一つ。 → [[ツーリング (工具)]]
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[ツアー]]
* [[グランドツアー]]
* [[グランドツーリング]]
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山城国
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山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
「やましろ」は、古くは「山背」「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。
この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている。
延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった(詳細は日本の城を参照)。 平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと見られている。
明治維新直前の領域は、現在の京都府の下記の区域に相当する。
山城国内に設けられた天皇の宮殿(宮・京)は、次の通り。
国府所在地を記した文献は次の通り。
国府は数度変遷したと見られており、現在では次のように推定されている。
これらの度重なる移転は、遷都の影響とみられる。
延喜式内社
総社・一宮
山城国の一宮指定には地方諸国と異なって神祇官が関わっているとされている。11世紀末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して12世紀になってから決められたと考えられる。
二宮以下は存在しない。
守護所は、当初、山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。
※ 郡名は『延喜式』による。
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山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。
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{{redirect|''山背''|気象現象|やませ}}
{{基礎情報 令制国
|国名 = 山城国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|山城国}}
|別称 = 城州(じょうしゅう)<br/>山州(さんしゅう)<br/>雍州(ようしゅう)<ref>[[唐]]の[[首都]][[長安]]の所在に由来。</ref>
|所属 = [[畿内]]
|領域 = [[京都府]]南部
|国力 = [[上国]]
|距離 = <!-- 定義なし -->
|郡 = 8郡78郷
|国府 = 1.(推定)[[京都府]][[木津川市]]<br/>2.(推定)京都府[[京都市]][[右京区]]<br/>3.(推定)京都府[[長岡京市]]<br/>4.(推定)京都府[[乙訓郡]][[大山崎町]]
|国分寺 = 京都府木津川市([[山城国分寺跡]])
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}}
'''山城国'''(やましろのくに)は、[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[畿内]]に属する。
== 「山城」の名称と由来 ==
[[File:Hiroshige Yamashiro Arashiyama.jpg|thumb|200px|[[六十余州名所図会]]「山城[[嵐山]][[渡月橋]]」]]
「やましろ」は、古くは「'''山背'''」「'''山代'''」と記され、7世紀に「'''山背'''国」という表記で国が建てられた。
この名称は、[[平城京]]から見て「[[平城山丘陵|奈良山]]のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている<ref name="yamaguchi-geographical-dictionary-1980-10">[[山口恵一郎]] 『日本地名辞典 市町村編』 [[東京堂出版]]、[[1980年]][[10月]]。ISBN 978-4490101355</ref>。
[[延暦]]13年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]([[794年]][[12月4日]])の[[平安京]]命名の際に、[[桓武天皇]]が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「'''山城国'''」に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった(詳細は[[日本の城#「しろ」の語源|日本の城]]を参照)。
平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと見られている。
== 領域 ==
[[明治維新]]直前の領域は、現在の[[京都府]]の下記の区域に相当する。
* [[京都市]]の大部分([[右京区]][[京北町|京北]]各町・[[左京区]]広河原各町を除く)
* [[向日市]]
* [[長岡京市]]
* [[乙訓郡]][[大山崎町]]
* [[宇治市]]
* [[久世郡]][[久御山町]]
* [[八幡市]]
* [[城陽市]]
* [[綴喜郡]][[宇治田原町]]・[[井手町]]
* [[京田辺市]]
* [[木津川市]]
* [[相楽郡]][[精華町]]・[[和束町]]・[[笠置町]]・[[南山城村]]
== 歴史 ==
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(495村・221,054石余、8郡平均 61.9村 27631.5石 9.5領)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。[[天領|幕府領]]は[[京都代官]]が管轄。下記のほか、個人の領地や[[寺社領]]も点在した。
** [[愛宕郡]](93村・26,258石余) - [[皇室財産|皇室領]]、[[宮家|宮家領]]、[[門跡|門跡領]]、[[公家領]]、[[女官|女官領]]、[[地下家|地下役人領]]、[[天領|幕府領]]、[[京都守護職]]役知、[[地方知行|旗本領]]、[[社家|社家領]]
** [[葛野郡]](82村・35,656石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、[[雑色|雑色領]]、地下役人領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、社家領
** [[乙訓郡]](52村・25,792石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、地下役人領、[[北面武士|北面衆領]]、幕府領、京都守護職役知、旗本領
** [[紀伊郡]](33村・27,632石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、地下役人領、北面衆領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、淀藩
** [[宇治郡]](43村・15,153石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、旗本領
** [[久世郡]](39村・28,420石余) - 皇室領、門跡領、公家領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、'''[[淀藩]]'''、[[大和国|大和]][[小泉藩]]
** [[綴喜郡]](59村・24,804石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、旗本領、淀藩
** [[相楽郡]](94村・37,337石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、淀藩、[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]、伊勢[[久居藩]]、大和[[柳生藩]]、大和小泉藩
* [[慶応]]4年
** [[2月19日 (旧暦)|2月19日]]([[1868年]][[3月12日]]) - 藩領を除く各領地が'''[[京都裁判所]]'''の管轄となる。
** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]](1868年[[6月15日]]) - 京都裁判所の管轄地域が'''[[京都府]]'''の管轄となる。
* 明治3年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1870年]][[6月18日]]) - 岩槻藩の管轄地域が京都府の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[淀県]]'''および[[岩槻県]]、[[津県]]、[[久居県]]、[[小泉県]]、[[柳生県]]の[[飛地]]となる。
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により、全域が京都府の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 宮 ===
山城国内に設けられた[[天皇]]の宮殿(宮・京)は、次の通り。
* [[筒城宮]] ([[京都府]][[京田辺市]]([[八幡市]])) - 第26代[[継体天皇]]
* [[弟国宮]] (京都府[[長岡京市]]) - 第26代継体天皇
* [[恭仁京]] (京都府[[木津川市]]) - 第45代[[聖武天皇]]
* [[長岡京]] (京都府[[向日市]]・長岡京市・[[京都市]]) - 第50代[[桓武天皇]]
* [[平安京]] (京都府京都市) - 第50代桓武天皇から第122代[[明治天皇]]
=== 国府 ===
国府所在地を記した文献は次の通り。
* 『[[和名類聚抄|和名抄]]』([[平安時代]]中期成立)では、「河陽離宮」<ref>[{{NDLDC|2544218/11}} 『和名類聚抄 20巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)11コマ参照。</ref>
* 『[[拾芥抄]]』([[鎌倉時代]]中期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]成立)では、「乙訓郡」<ref>[{{NDLDC|2543900/52}} 『拾芥抄 3巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)52コマ参照。</ref>
* 『[[節用集]]』([[室町時代]]中期成立)では、「乙訓郡」<ref>[{{NDLDC|1112421/135}} 『節用集 易林本』](国立国会図書館デジタルコレクション)135コマ。</ref>
国府は数度変遷したと見られており、現在では次のように推定されている。
* 1. 相楽郡
*: [[8世紀]]前半まで。京都府木津川市[[山城町上狛]](かみこま)と推定。当地には山城国分寺も所在。
* 2. 葛野郡
*: 8世紀前半から延暦16年([[797年]])まで。京都府京都市右京区太秦と推定。
* 3. 乙訓郡
*: 延暦16年(797年)から[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])まで。京都府長岡京市神足または久貝(南栗ヶ塚遺跡)と推定。長岡京南。
* 4. 乙訓郡
*: 貞観3年([[861年]])以後<ref>『日本三代実録』貞観3年6月7日条。</ref>。京都府乙訓郡大山崎町大山崎の河陽離宮([[離宮八幡宮]])と推定。
これらの度重なる移転は、遷都の影響とみられる<ref>[[吉川真司]]「クニグニの形成」 [[朝尾直弘]]・[[吉川真司]]・[[石川登志雄]]・[[水本邦彦]]・[[飯塚一幸]]『京都府の歴史』[[山川出版社]] [[1999年]] 47頁</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[Image:Yamashiro Kokubunniji Temple site.jpg|220px|thumb|山城国分尼寺推定地に建つ碑]]
* [[山城国分寺跡]](京都府木津川市加茂町例幣・河原ほか、{{Coord|34|45|56.21|N|135|51|46.25|E|region:JP-26_type:landmark|name=恭仁宮跡(山城国分寺跡)}})
*: 国の史跡「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」。[[国分寺]]は、僧寺と尼寺ともに相楽郡にあった。国分寺金堂は恭仁宮[[大極殿]]を転用したもので、[[天平]]18年([[746年]])9月に国分僧寺に施入された。元慶6年([[882年]])に焼失し、[[昌泰]]年間に再建されたと伝えるが、寺勢は次第に衰退し、[[鎌倉時代]]には宇治[[平等院]]の[[末寺]]、[[室町時代]]には奈良[[興福寺]]の末寺となった。場所は現在の[[木津川市]]加茂町例幣の恭仁宮跡で、巨大な金堂跡と塔跡が残る。
* [[山城国分尼寺跡]](京都府木津川市加茂町法花寺野か、{{Coord|34|45|25.1|N|135|50|39.6|E|region:JP|name=山城国分尼寺推定地}})
*: 国分寺からは木津川を挟み、南西約2kmの法花寺野地区に推定される。[[1925年]]([[大正]]14年)の府道敷設工事の際に大量の古瓦を出土したため、[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[京都府史蹟勝地調査会]]が発掘調査を実施し、瓦積みの土壁遺構を検出した。これは当時、建物[[基壇]]の一部と判断されたが、瓦窯のロストルと見る説もある。なお、国分寺が恭仁宮から転用されたのと同様、国分尼寺も[[甕原離宮]]から転用された可能性が指摘されている。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社53座37社(うち[[名神大社]]23座16社)・小社69座59社の計122座96社が記載されている([[山城国の式内社一覧]]参照)。
: また、他に宮中の36座(大30座・小6座)、京中の大3座が記載されている([[宮中・京中の式内社一覧]]参照)。
'''[[総社]]・[[一宮]]'''
* 総社:不詳
* 一宮:[[賀茂神社]](賀茂上下社)<ref>『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 7。</ref> - 以下2社の総称。
** [[賀茂別雷神社]](上賀茂神社、京都府京都市[[北区 (京都市)|北区]])
** [[賀茂御祖神社]](下鴨神社、京都府京都市[[左京区]])
山城国の一宮指定には地方諸国と異なって神祇官が関わっているとされている。[[11世紀]]末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して[[12世紀]]になってから決められたと考えられる。
二宮以下は存在しない。
=== 守護所 ===
[[守護所]]は、当初、山城国[[守護]]を[[京都守護]]が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。その後、[[六波羅探題]]が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。
=== 安国寺利生塔 ===
* 安国寺 - 京都府京都市[[中京区]]四条大宮に所在した
* 利生塔 - [[法観寺]] (京都府京都市[[東山区]]八坂河原東八坂上町)
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[乙訓郡]]
* [[葛野郡]]
* [[愛宕郡]]
* [[紀伊郡]]
* [[宇治郡]]
* [[久世郡]]
* [[綴喜郡]]
* [[相楽郡]]
※ 郡名は『[[延喜式]]』による。
=== 江戸時代の藩 ===
{| class="wikitable"
|+ 山城国の藩の一覧
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
|-
! [[淀藩]]
| [[淀城]]||松平(久松)家(3万5千石、[[1623年]] ~ [[1633年]])<br>[[永井氏|永井家]](10万石 → 7万3600石、[[1633年]] ~ [[1669年]])<br>石川家(6万石、[[1669年]] ~ [[1711年]])<br>松平(戸田)家(6万石、[[1711年]] ~ [[1717年]])<br>松平(大給)家(6万石、[[1717年]] ~ [[1723年]])<br>[[稲葉氏|稲葉家]](10万2千石、[[1723年]] ~ [[1871年]])
|-
! [[高槻藩#山城長岡藩|山城長岡藩]]
| 長岡陣屋 ||永井家(1万2千石、[[1633年]] ~ [[1649年]])<br>永井家は[[高槻藩]]に転封・山城長岡藩は[[廃藩]]
|-
! [[伏見藩]]
| [[伏見城]]||松平(久松)家(5万石、[[1607年]] ~ [[1616年]])<br>[[内藤氏|内藤(信成系)家]](5万石、[[1617年]] ~ [[1619年]])<br>内藤家は[[大坂城代]]に移動(1626年に陸奥[[棚倉藩]]に転封)・伏見藩は廃藩
|-
! [[御牧藩]]
| ||津田家(1万3千石、[[1600年]] ~ [[1607年]])<br>藩主素行不良により[[改易]]・廃藩
|}
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 山城守 ====
* [[坂合部三田麻呂]]
* [[高向色夫智]]
* [[大伴犬養]]
* [[小野好古]]
* [[紀今守]]
* [[藤原敦信]]
* [[藤原種継]]
* [[藤原親通]]
* [[藤原継彦]]
* [[藤原長岡]]
* [[藤原棟世]]
* [[藤原保昌]]
* [[源勤]]
** [[源直]](権守):[[貞観 (日本)|貞観]]5年正月13日([[863年]][[2月4日]]) - ?
* [[源等]]
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* ~1221年 - 京都守護兼任
* 1221年~1333年 - 六波羅探題兼任
==== 室町幕府 ====
* 1353年~1384年 - [[侍所]]兼任
* 1385年~1386年 - [[山名氏清]]
* 1389年 - [[赤松義則]]
* 1389年~1390年 - 山名氏清
* 1390年~1391年 - 赤松義則
* 1391年 - 山名氏清
* 1392年~1394年 - [[畠山基国]]
* 1394年~1399年 - [[結城満藤]]
* 1399年 - [[京極高詮]]
* 1399年~1402年 - 結城満藤
* 1402年~1403年 - 畠山基国
* 1404年~1416年 - [[高師英]]
* 1418年~1421年 - [[一色義貫]]
* 1421年~1423年 - [[京極高数]]
* 1424年~1428年 - [[京極持高|京極持光]]
* 1428年~1433年 - [[畠山満家]]
* 1433年~1434年 - [[畠山持国]]
* 1434年~1436年 - 一色義貫
* 1436年~1439年 - [[赤松満祐]]
* 1440年~1441年 - [[山名宗全|山名持豊]]
* 1441年~1447年 - [[京極持清]]
* 1447年~1449年 - [[一色教親]]
* 1450年~1455年 - 畠山持国
* 1455年~1460年 - [[畠山義就]]
* 1460年~1463年 - [[畠山政長]]
* 1464年~1468年 - [[山名是豊]]
* 1474年~1478年 - [[山名政豊]]
* 1478年~1481年 - 畠山政長
* 1481年~148?年 - [[赤松政則]]
* 1486年~1490年 - [[伊勢貞宗]]
* 1493年~1507年 - [[伊勢貞陸]]
* 1508年~1518年 - [[大内義興]]
* 1518年~1531年 - [[細川高国]]
* 1532年~1549年 - [[細川晴元]]
=== 武家官位の山城守 ===
==== 江戸時代以前 ====
* [[安東定季]]:[[室町時代]]の[[武将]]で[[蝦夷地]]の[[豪族]]、松前守護[[道南十二館|大館館]]主
* [[安東恒季]]:室町時代の武将で蝦夷地の豪族、松前守護大館館主。定季の子
* [[小畠虎盛]]:[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[武田信虎]]、[[武田信玄]]の2代に仕える。[[武田の五名臣]]の一人
* [[斎藤道三]]:戦国時代の武将、[[美濃国]]の[[戦国大名]]。[[斎藤氏]]初代当主
* [[龍造寺隆信]]:戦国時代の武将、[[肥前国]]の戦国大名
* [[三好康長]]:戦国時代の武将・大名、河内半国守護
* [[上条政繁]]:戦国時代から[[安土桃山時代]]の武将。[[上条上杉家]]当主、[[上杉謙信]]・[[上杉景勝|景勝]]の家臣
* [[佐竹義久]]:戦国時代から安土桃山時代の武将・[[大名]]
* [[松永久秀]]:戦国時代から安土桃山時代の武将・[[大和国]]の戦国大名
* [[木下頼継]]:安土桃山時代の武将・大名。[[大谷吉継]]の次男
* [[山中長俊]]:安土桃山時代の武将・大名
* [[直江兼続]]:安土桃山時代から[[江戸時代]]前期にかけての武将。[[上杉景勝]]の[[家老]]
* [[本多政重]]:安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は[[本多正信]]、養父は[[直江兼続]]
==== 江戸時代 ====
* [[日向国|日向]][[高鍋藩]][[秋月氏|秋月家]]
** [[秋月種政]]:第4代藩主
** [[秋月種弘]]:第5代藩主
** [[秋月種徳]]:第8代藩主
* [[下野国|下野]][[烏山藩]][[大久保氏|大久保家]]
** [[大久保常春]]:初代藩主・[[老中]]
** [[大久保忠胤]]:第2代藩主
** [[大久保忠卿]]:第3代藩主
** [[大久保忠喜]]:第4代藩主
* [[下野国|下野]][[大田原藩]][[大田原氏|大田原家]]
** [[大田原高清]]:第3代藩主
** [[大田原庸清]]:第9代藩主
** [[大田原光清]]:第10代藩主
* 江戸時代[[小笠原忠知|忠知]]系[[小笠原氏|小笠原家]]
** [[小笠原長矩]]:忠知系2代。[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]第2代藩主
** [[小笠原長煕]]:忠知系5代。[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]第2代藩主、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]初代藩主
** [[小笠原長庸]]:忠知系6代。[[掛川藩]]第2代藩主
* [[織田高長|高長系]][[織田氏|織田家]]
** [[織田信休]]:高長系4代。[[大和国|大和]][[宇陀松山藩]]第5代藩主、[[丹波国|丹波]][[柏原藩]]初代藩主
** [[織田信旧]]:高長系6代。[[柏原藩]]第3代藩主
** [[織田信守]]:高長系8代。柏原藩第5代藩主
** [[織田信民]]:高長系12代。柏原藩第9代藩主
* [[美濃国|美濃]][[今尾藩]][[竹腰氏|竹腰家]]
** [[竹腰正信]]:初代当主。初代[[尾張藩]]主・[[徳川義直]]の異父兄
** [[竹腰正映]]:第4代当主
** [[竹腰正武]]:第5代当主
** [[竹腰勝起]]:第6代当主
* [[三河国|三河]][[刈谷藩]][[土井氏|土井家]]
** [[土井利意]]:土井家2代。三河[[西尾藩]]第2代藩主
** [[土井利徳]]:土井家5代。三河[[刈谷藩]]第2代藩主
** [[土井利謙]]:土井家7代。刈谷藩第4代藩主
** [[土井利祐]]:土井家10代。刈谷藩第7代藩主
* [[上野国|上野]][[沼田藩]][[土岐氏|土岐家]]
** [[土岐定政]]:沼田藩土岐家の祖。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
** [[土岐定義]]:沼田藩土岐家初代。安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。[[下総国|下総]][[守谷藩]]主、[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]初代藩主
** [[土岐頼行]]:沼田藩土岐家2代。高槻藩第2代藩主、守谷藩主、[[出羽国|出羽]][[上山藩]]初代藩主
** [[土岐頼布]]:沼田藩土岐家10代。[[上野国|上野]][[沼田藩]]第7代藩主
** [[土岐頼潤]]:沼田藩土岐家11代。沼田藩第8代藩主
** [[土岐頼功]]:沼田藩土岐家12代。沼田藩第9代藩主
* [[三河国|三河]][[挙母藩]][[内藤氏|内藤家]]
** [[内藤政森]]:挙母藩内藤家3代。[[陸奥国|陸奥]][[泉藩]]第3代藩、上野[[安中藩]]初代藩主
** [[内藤学文]]:挙母藩内藤家6代。三河挙母藩第2代藩主
** [[内藤政峻]]:挙母藩内藤家7代。挙母藩第3代藩主
** [[内藤政成]]:挙母藩内藤家8代。挙母藩第4代藩主。[[井伊直弼]]の実兄
** [[内藤政文]]:挙母藩内藤家10代。挙母藩第6代藩主
* [[藤井松平家]][[嫡流]]
** [[松平忠国 (播磨国明石藩主)|松平忠国]]:第4代当主。丹波[[篠山藩]]主、[[播磨国|播磨]][[明石藩]]主
** [[松平信通]]:第7代当主。大和[[興留藩]]主、[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]主、出羽[[上山藩]]初代藩主
** [[松平信将]]:第9代当主。[[上山藩]]第3代藩主
** [[松平信亨]]:第10代当主。上山藩第4代藩主
** [[松平信古 (上山藩主)|松平信古]]:第11代当主。上山藩第5代藩主
** [[松平信愛]]:第12代当主。上山藩第6代藩主
** [[松平信行]]:第13代当主。上山藩第7代藩主
** [[松平信宝 (上山藩主)|松平信宝]]:第14代当主。上山藩第8代藩主
** [[松平信庸 (上山藩主)|松平信庸]]:第15代当主。上山藩第9代藩主
* その他
** [[阿部重次]]:[[武蔵国|武蔵]][[岩槻藩]]第2代藩主・[[老中]]
** [[阿部正興]]:[[上総国|上総]][[佐貫藩]]第2代藩主
** [[阿部正暠]]:佐貫藩第6代藩主
** [[井上正森]]:下総[[高岡藩]]第5代藩主
** [[奥平昌敦]]:[[豊前国|豊前]][[中津藩]]第2代藩主
** [[酒井重澄]]:下総[[生実藩]]主
** [[酒井忠休]]:出羽[[庄内藩]]第3代藩主
** [[田沼意知]]:[[田沼意次]]の[[長男]]で[[江戸幕府]]の[[若年寄]]
** [[戸田忠真]]:下総[[佐倉藩]]主、[[越後国|越後]][[高田藩]]主、[[下野国|下野]][[宇都宮藩]]主・老中。宇都宮藩[[戸田氏|戸田家]]4代
** [[戸田忠温]]:宇都宮藩第4代藩主(再封)・老中。宇都宮藩戸田家10代。
** [[永井尚佐]]:[[美濃国|美濃]][[加納藩]]第4代藩主
** [[永井尚典]]:[[加納藩]]第5代藩主
** [[中川久清]]:[[豊後国|豊後]][[岡藩]]第3代藩主
** [[中川久慶]]:岡藩第7代藩主
** [[南部重直]]:陸奥[[盛岡藩]]第2代藩主
** [[西尾忠移]]:遠江[[横須賀藩]]第4代藩主
** [[土方雄隆]]:陸奥[[窪田藩]]第3代藩主
** [[一柳直治]]:[[伊予国|伊予]][[小松藩]]第2代藩主
** [[一柳頼寿]]:小松藩第5代藩主
** [[堀尾忠晴]]:[[出雲国|出雲]][[松江藩]]第3代藩主
** [[本庄道揚]]:美濃[[高富藩]]第6代藩主
** [[本多忠利 (挙母藩主)|本多忠利]]:陸奥[[石川藩]]主、三河[[挙母藩]]初代藩主
** [[本多忠次 (挙母藩主)|本多忠次]]:挙母藩第2代藩主
** [[松平定喬]]:伊予[[伊予松山藩|松山藩]]6代藩主
** [[松平重治]]:上総[[佐貫藩]]第2代藩主
** [[水野忠順]]:上総[[鶴牧藩]]第3代藩主
** [[皆川広照]]:下野[[皆川藩]]主、[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]主、[[常陸国|常陸]][[常陸府中藩|府中藩]]初代藩主
** [[皆川隆庸]]:府中藩第2代藩主
** [[森忠興]]:播磨[[赤穂藩]]第6代藩主
== 山城国の合戦 ==
* [[1180年]]:[[以仁王の挙兵]]、[[平家]]軍([[平知盛]]・[[平重衡]]) x 反平家軍([[以仁王]]・[[源頼政]])
* [[1184年]]:[[宇治川の戦い]]、[[源頼朝]]軍([[源範頼]]・[[源義経]]) x [[源義仲|木曾義仲]]軍
* [[1201年]]:[[建仁の乱]]、[[鎌倉幕府|鎌倉幕府軍]] x [[城長茂]]
* [[1221年]]:[[承久の乱]]、鎌倉幕府軍(総大将[[北条泰時]]) x [[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]軍([[藤原秀康]]、[[三浦胤義]]、[[山田重忠]]等)
* [[1352年]]:[[八幡の戦い]]、北朝方([[足利義詮]]、[[佐々木道誉]]等) x 南朝方([[後村上天皇]]、[[北畠親房]]、[[楠木正儀]]等)
* [[1467年]] - [[1477年]]:[[応仁の乱]]、[[細川勝元]]等 x [[山名宗全]]等
* [[1504年]]:[[淀古城#第一次淀古城の戦い|第一次淀古城の戦い]]、[[細川政元]]軍([[薬師寺長忠]]・[[香西元長]]) x [[薬師寺元一]]軍
* [[1532年]]:[[山科本願寺の戦い]]、[[細川晴元]]軍 x 山科本願寺軍
* [[1561年]]:[[将軍山城#将軍地蔵山の戦い|将軍地蔵山の戦い]]、[[六角義賢]]・[[畠山高政]]軍 x [[三好長慶]]軍([[三好義興]]・[[松永久秀]])
* [[1568年]]:[[勝竜寺城#勝竜寺城の戦い|勝竜寺城の戦い]]、[[織田信長]]軍([[柴田勝家]]、[[蜂屋頼隆]]、[[森可成]]、[[坂井政尚]]) x [[三好三人衆]]([[岩成友通]])
* [[1573年]]:[[槇島城の戦い]]、織田信長軍 x [[足利義昭]]軍
* 1573年:[[淀古城#第二次淀古城の戦い|第二次淀古城の戦い]]、織田信長軍([[豊臣秀吉|木下秀吉]]、[[細川幽斎|細川藤孝]]) x 足利義昭軍(岩成友通)
* [[1582年]]:[[本能寺の変]]、[[明智光秀]] x 織田信長
* 1582年:[[山崎の戦い]]、羽柴秀吉 x 明智光秀
* [[1600年]]:[[伏見城の戦い]]、西軍([[宇喜多秀家]]、[[小早川秀秋]]他) x 東軍([[鳥居元忠]]、[[佐野綱正]])
* [[1864年]]:[[禁門の変]]、幕府方([[薩摩藩]]、[[会津藩]]、[[大垣藩]]、[[桑名藩]]、[[新選組]]) x [[長州藩]]
* [[1868年]]:[[鳥羽・伏見の戦い]]、新政府軍(薩摩藩・長州藩) x [[江戸幕府|旧・幕府軍]]([[幕府陸軍]]、会津藩、桑名藩、新選組)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Yamashiro Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[山城国一揆]]
* [[日本の首都]]
* [[四堺]]
* [[山城 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[扶桑型戦艦]]の2番艦。艦名は山城国に因む。
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ヅケ
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ヅケ(漬け)とは、一般的な冷凍技術が未発達であった時代に、魚介類の保存技術として考案されたものである。
握り寿司が完成する以前は塩と米に漬けるもの(鮒寿司など、いわゆるなれずし類)であったが、握り寿司が完成した後は出汁醤油に漬け込むのが一般的となった。
材料(漬けダレ)は以下の通り。
みりんを加えても良い。
醤油と酒を混ぜ、魚の切り身と昆布を交互に敷く。10 - 15分ほど置いて完成。昆布の風味をさらに出したいのであれば、あらかじめ醤油に昆布を漬けておくと良い。
切り身は代表的なマグロのほか、サンマやカツオ、アジなどの赤身のものであれば大抵は食べられるものになる。ただし、臭みの強いものはショウガやニンニクを加える必要がある。
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ヅケ(漬け)とは、一般的な冷凍技術が未発達であった時代に、魚介類の保存技術として考案されたものである。 握り寿司が完成する以前は塩と米に漬けるもの(鮒寿司など、いわゆるなれずし類)であったが、握り寿司が完成した後は出汁醤油に漬け込むのが一般的となった。
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{{出典の明記|date=2016-12-16}}
[[Image:Maguro zuke kushi by jmsuarez in Nishiki Ichiba, Kyoto.jpg|250px|right|thumb|生[[マグロ]]のヅケ串([[錦市場]])]]
'''ヅケ'''(漬け)とは、一般的な冷凍技術が未発達であった時代に、[[魚介類]]の保存技術として考案されたものである。
[[握り寿司]]が完成する以前は[[塩]]と[[米]]に漬けるもの([[鮒寿司]]など、いわゆる[[なれずし]]類)であったが、握り寿司が完成した後は出汁[[醤油]]に漬け込むのが一般的となった。
== 一般的なヅケの作り方 ==
材料(漬けダレ)は以下の通り。
* 醤油
* [[コンブ|昆布]]
* [[酒]]
[[みりん]]を加えても良い。
醤油と酒を混ぜ、魚の切り身と[[昆布]]を交互に敷く。10 - 15分ほど置いて完成。昆布の風味をさらに出したいのであれば、あらかじめ醤油に昆布を漬けておくと良い。
切り身は代表的な[[マグロ]]のほか、[[サンマ]]や[[カツオ]]、[[アジ]]などの赤身のものであれば大抵は食べられるものになる。ただし、臭みの強いものは[[ショウガ]]や[[ニンニク]]を加える必要がある。
== 他の国のヅケ ==
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* [[ハワイ州|ハワイ]]では、醤油の他に[[ごま油]]などを加えた「[[ポケ]]」と呼ばれるヅケに似た料理がある。
== 関連項目 ==
* [[漬け方一覧]]
* [[漬物]]
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[[category:醤油料理]]
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徳川家重
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徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、江戸時代中期の江戸幕府の第9代将軍(在任:1745年 - 1760年)である。
正徳元年12月21日(1712年1月28日)、和歌山藩主(後に征夷大将軍)徳川吉宗の長男として江戸赤坂の和歌山藩邸で生まれる。母は家臣・大久保忠直の娘・須磨子(深徳院)。幼名は長福丸。
吉宗が将軍に就任すると同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服、それまでの将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、一品邦永親王の王女比宮(増子)と結婚した。
発話の難に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた異母弟宗武(田安徳川家の祖)と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中首座松平乗邑によって廃嫡および宗武の擁立をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)に死去するまでは吉宗が大御所として実権を握り続けた。病身の家重の将軍職継承については、才能云々で次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律を守らないと兄弟や徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争いが権力の乱れを産む、と吉宗が考えたから、とされている。吉宗自身が徳川本家外から来た人間であり、将軍としての血統の正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍の最長子が相続者」というルールを自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身が将軍後継争いの当事者であったことが背景にある。またこれとは別に、家重の長男家治が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代に期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。家重は吉宗存命中に松平乗邑を老中首座から次席とし、さらに罷免し、さらに減封(加増分没収)、さらに隠居、さらに跡を継いだ乗祐に対し下総佐倉から出羽山形に転封を命じた。弟の宗武には謹慎を命じ、3年後に謹慎を解いた後も生涯謁見を許さなかった。
家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和など、幾つかの独自の経済政策を行った。しかし負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中本多正珍、西丸若年寄本多忠央、大目付曲淵英元、勘定奉行大橋親義らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また薩摩藩に対して木曽三川の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた(宝暦治水事件)。京都で宝暦事件が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。また次男重好に江戸城清水門内で屋敷を与えて徳川姓を許し、御三卿体制を整えた。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。
重用された大岡忠光は、権勢に奢って失政暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男家治に将軍職を譲って大御所と称した。
宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。享年51(満49歳没)であった。
『徳川実紀』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」・「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に浴しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、平穏を保ったと言われているのである。
その一方で、大岡忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させたりしていることから、井沢元彦は「人事能力は優れている」・「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また甲斐素直も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、綱吉同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。
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徳川 家重は、江戸時代中期の江戸幕府の第9代将軍である。
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{{出典の明記|date=2020-10}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 徳川 家重
| 画像 = Tokugawa Ieshige.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 徳川家重像(伝[[狩野英信]]画、[[徳川記念財団]]蔵)
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[正徳 (日本)|正徳]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]([[1712年]][[1月28日]])
| 死没 = [[宝暦]]11年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[1761年]][[7月13日]])
| 改名 = 長福丸([[幼名]])→ 家重
| 別名 = 小便公方(渾名)
| 諡号 = 惇信院
| 戒名 = 惇信院殿仙蓮社高譽泰雲大居士
| 墓所 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の三縁山広度院[[増上寺]]
| 官位 = [[従二位]]、[[権大納言]]、[[右近衛大将]]、[[正二位]]、<br />[[内大臣]]、[[右大臣]]、<br />贈[[正一位]]、[[太政大臣]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[征夷大将軍]]
| 氏族 = [[紀州徳川家|紀伊徳川家]]、[[徳川宗家|徳川将軍家]]
| 父母 = 父:[[徳川吉宗]]<br>母:[[深徳院|大久保須磨子]]
| 兄弟 = '''家重'''、[[徳川宗武|宗武]]、[[徳川源三|源三]]、[[徳川宗尹|宗尹]]、[[正雲院|芳姫]]
| 妻 = 正室:'''[[増子女王|比宮]]'''<br />側室:[[至心院|梅渓幸子]]、[[安祥院 (徳川家重側室)|於遊]]
| 子 = '''[[徳川家治|家治]]'''、[[徳川重好|重好]]
}}
[[File:Zōjō-ji Tokugawa 20191104c.jpg|thumb|東京都港区芝公園の増上寺にある家重の宝塔(2019年11月4日撮影)]]
'''徳川 家重'''(とくがわ いえしげ)は、[[江戸時代]]中期の[[江戸幕府]]の第9代[[征夷大将軍|将軍]](在任:[[1745年]] - [[1760年]])である。
== 生涯 ==
=== 将軍になるまで ===
[[正徳 (日本)|正徳]]元年12月21日(1712年1月28日)、[[紀州藩|和歌山藩]]主(後に征夷大将軍)[[徳川吉宗]]の長男として[[江戸]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の和歌山[[江戸藩邸|藩邸]]で生まれる。母は家臣・[[大久保忠直 (紀州藩士)|大久保忠直]]の娘・[[深徳院|須磨子]](深徳院)。[[幼名]]は長福丸。
吉宗が将軍に就任すると同時に[[江戸城]]に入り、[[享保]]10年([[1725年]])に[[元服]]、それまでの[[徳川宗家|将軍家]]の慣例に倣い、[[通字]]の「家」の字を取って'''家重'''と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であった<ref group="注釈">『[[徳川実紀]]』には「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とある。</ref>ため、幼少から[[大奥]]に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月([[1731年]])、[[一品親王|一品]][[伏見宮邦永親王|邦永親王]]の王女[[増子女王|比宮]](増子)と結婚した。
発話の難に加え、[[猿楽]]([[能]])を好んで文武を怠ったため、文武に長けた異母弟[[徳川宗武|宗武]]([[田安徳川家]]の祖)と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く<ref group="注釈">[[一条兼香]]の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず、酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。</ref>、吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は[[老中#勝手掛老中|老中首座]][[松平乗邑]]によって[[廃嫡]]および宗武の擁立をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、[[延享]]2年([[1745年]])に吉宗は[[隠居]]して[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし[[宝暦]]元年([[1751年]])に死去するまでは吉宗が大御所として実権を握り続けた。病身の家重の将軍職継承については、才能云々で次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律を守らないと兄弟や徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争いが権力の乱れを産む、と吉宗が考えたから、とされている。吉宗自身が徳川本家外から来た人間であり、将軍としての血統の正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍の最長子が相続者」というルールを自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身が将軍後継争いの当事者であったことが背景にある。またこれとは別に、家重の長男[[徳川家治|家治]]が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代に期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。家重は吉宗存命中に松平乗邑を老中首座から次席とし、さらに罷免し、さらに[[減封]](加増分没収)、さらに隠居、さらに跡を継いだ[[松平乗祐|乗祐]]に対し下総佐倉から出羽山形に転封を命じた。弟の宗武には謹慎を命じ、3年後に謹慎を解いた後も生涯謁見を許さなかった。
=== 将軍として ===
家重の時代は吉宗の推進した[[享保の改革]]の遺産があり、[[徳川綱吉|綱吉]]が創設した[[勘定吟味役]]を充実させ、現在の[[会計検査院]]に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、[[酒株#宝暦の勝手造り令|宝暦の勝手造り令]]で[[酒造統制]]の[[規制緩和]]など、幾つかの独自の[[経済政策]]を行った。しかし負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による[[増税]]策により[[一揆]]が続発し(直接には宝暦5年([[1755年]])の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。[[郡上一揆]]では、家重は真相の徹底究明を指示し、[[田沼意次]]が[[評定所]]の吟味に参加し、老中[[本多正珍]]、西丸[[若年寄]][[本多忠央]]、[[大目付]]曲淵英元、[[勘定奉行]]大橋親義らが処罰され、[[郡上藩]]と[[相良藩]]2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また[[薩摩藩]]に対して[[木曽三川]]の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた([[宝暦治水事件]])。京都で[[宝暦事件]]が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。また次男重好に江戸城清水門内で屋敷を与えて徳川姓を許し、[[御三卿]]体制を整えた。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の[[大岡忠光]]のみが聞き分けることができたため彼を重用し、[[側用人]]制度を復活させた。田沼意次が[[大名]]に取り立てられたのも家重の時代である。
重用された大岡忠光は、権勢に奢って失政暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]([[6月25日]])に長男[[徳川家治|家治]]に将軍職を譲って大御所と称した。
宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。[[享年]]51(満49歳没)であった。
== 人物・逸話 ==
[[File:Tokugawa Ieshige Hase-dera.jpg|thumb|徳川家重像([[長谷寺]]蔵)]]
* 家重の言語不明瞭は、[[脳性麻痺]]による[[言語障害]]とする説がある。
* あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から'''小便公方'''と揶揄された。<!---理由は後述にあるものと推察されている。--->
** 江戸城から[[上野]][[寛永寺]]へ出向く道中(数km)に2、3箇所も[[便所]]を設置させたとされ、少なくともこの時期、いわゆる[[頻尿]]であったことは確認できる。
* 御簾中が死去したのち、側室・お幸の方を寵愛した。やがて長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。そうした中、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めた。それを聞いた吉宗が「嫡男の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。
* [[太平洋戦争]]後、[[増上寺]]の改修に伴い、同寺境内の[[徳川将軍家]]墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれた。
** 死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整った顔立ちをしており、様々な行事で諸大名に謁見した際に非常に気高く見えたという『[[徳川実紀]]』における内容の記述を裏付けている。にもかかわらず、[[肖像画]]では[[ひょっとこ]]のような顔で描かれている。これは[[顔面麻痺]]によるものとする説がある。
** 歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これにより、少なくとも[[歯#乳歯|乳歯]]から[[歯#永久歯|永久歯]]へと生え変わって以降、四六時中[[歯ぎしり]]を行なっていたと推察された。これは[[アテトーゼ]]タイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られるものである。また頻尿は[[排尿障害]]によるものと考えられ、死因は[[尿路感染]]、[[尿毒症]]のためと推測されている<ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、『[[謎解き!江戸のススメ]]』([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月9日]]放送)でも紹介された。</ref>。
** [[ABO式血液型|血液型]]はA型であった。
** 四肢骨から推定した身長は156.3cmであった。これは、当時の男性の平均身長(157.1cm)よりわずかに低く、当時の女性の平均身長(145.6cm)より10cm高い。
== 評価 ==
『[[徳川実紀]]』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」・「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に浴しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、平穏を保ったと言われているのである。
その一方で、大岡忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、[[勘定吟味役]]を充実させたりしていることから、[[井沢元彦]]は「人事能力は優れている」・「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また[[甲斐素直]]も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、[[徳川綱吉|綱吉]]同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。
== 経歴 ==
* [[享保]]9年([[1724年]])[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]、将軍後継者となる。
* 享保10年([[1725年]])[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]、[[従二位]][[大納言|権大納言]]に叙任。元服して'''家重'''と名乗る。
* [[寛保]]元年([[1741年]])[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]、[[右近衛大将]]を兼帯。
* 延享2年([[1745年]])[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]、[[正二位]][[内大臣]]に昇進。右近衛大将元の如し。併せて[[征夷大将軍]][[源氏長者]]宣下。
* 宝暦10年([[1760年]])
** [[2月4日 (旧暦)|2月4日]]、[[右大臣]]に昇進。
** [[4月1日 (旧暦)|4月1日]]、征夷大将軍を辞す。
* 宝暦11年([[1761年]])
** [[6月12日 (旧暦)|6月12日]]、死去。
** [[7月24日 (旧暦)|7月24日]]、贈[[正一位]][[太政大臣]]。
== 系譜 ==
* 正室:[[増子女王|比宮]](証明院) - [[伏見宮邦永親王|邦永親王]]王女
* 側室:[[至心院|梅渓幸子]](至心院) - [[梅渓通条]]娘
** 長男:[[徳川家治|家治]] - 10代将軍
* 側室: [[安祥院 (徳川家重側室)|於遊]](安祥院) - [[松平親春]]養女、[[三浦義周]]の娘
** 次男:[[徳川重好|重好]] - [[清水徳川家]]初代
* 猶子:[[尊峰入道親王]] - [[京極宮家仁親王]]王子、[[桜町天皇]]養子
== 偏諱を与えた人物 ==
* [[徳川重好|徳川'''重'''好]]{{Sfn|新井|1977|p=514}}
* [[徳川重倫]]
* [[松平重富]]
* [[伊達重村]]
* [[上杉重定]]
* [[前田重煕]]
* [[前田重靖]]
* [[前田重教]]
* [[池田重寛]]
* [[浅野重晟]]
* [[毛利重就]]
* [[蜂須賀重喜]]
* [[鍋島重茂]]
* [[細川重賢]]
* [[島津重年]]
* [[島津重豪]]
== 関連作品 ==
<!--[[Wikipedia:関連作品]]より「記事の対象が、大きな役割を担っている(主役、準主役、メインキャラクター、キーパーソン、メインレギュラー、メインライバル、メイン敵役、ラスボス等)わけではない作品」や未作成記事作品を追加しないで下さい。-->
; テレビドラマ
* [[大奥 (1968年のテレビドラマ)|大奥]](1968年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、演:[[伊村賢一郎]]→[[川口浩 (俳優)|川口浩]])
* [[影の軍団II]] (1981〜1982年、フジテレビ、[[石橋蓮司]])
* [[大奥 悪霊の館]](1981年、演:[[和田浩治]])
: この作品の家重は、史実と違って聡明であり、また、言語も明瞭である。
* [[八代将軍吉宗]](1995年、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[中村梅雀 (2代目)|中村梅雀]])
* [[逃亡者 おりん|逃亡者おりん]](2006年、[[テレビ東京]]、演:[[小林隆]])
* [[大奥 (2023年のテレビドラマ)|大奥]](2023年、[[NHK]][[ドラマ10]]、演:[[三浦透子]])
* [[大奥 (フジテレビの時代劇)#2024年版|大奥]](2024年、フジテレビ[[木曜劇場]]、演:[[高橋克典]])
; 小説
* [[近藤五郎]]『[[剣豪将軍 徳川家重]]』([[コスミック出版]])
* [[松本清張]]「通訳」(言語が不明瞭だった家重と、その言語を唯一解することのできる大岡忠光との間の、心理的葛藤を描く短編小説)
* [[村木嵐]]『まいまいつぶろ』(幻冬舎、2023年)(家重と大岡忠光との間の、人間的友情と信頼関係を描く長編小説)
; 情報番組
* [[超歴史ミステリーロマン]](2006年、演:[[水野裕子]])
; 漫画
* [[よしながふみ]]『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[白泉社]])
* [[福田宏]]『[[常住戦陣!!ムシブギョー]]』([[小学館]])
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|title=[[藩翰譜]]|volume=第一巻|edition=新編|publisher=[[新人物往来社]]|author=[[新井白石]]|date=1977-06-15|id={{NDLJP|12212485}}|ref={{SfnRef|新井|1977}}}}{{要登録}}
* [[鈴木尚]]・矢島恭介・山辺知行編『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』[[東京大学出版会]]、1967年。
* 鈴木尚『[[増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体]]』東京大学出版会、1985年。
* 古川愛哲『九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史』[[講談社+α新書]] 、2008年。
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:江戸幕府の征夷大将軍|いえしけ]]
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山城
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山城(やまじろ、やまじょう)は、険阻な山を利用して築かれた城の一種。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つ。
高地は、軍事上、地形により敵の移動を阻害でき、また高所の利として視界を確保できるため有利である。このため山に城を築く行為は、地域や時代を問わず普遍的に行われている。例えばアクロポリスや近代の旅順要塞やマジノ要塞も山に築かれた要塞群である。ただし山城という語が指すのは、あくまで近代以前の日本の城であり、山岳部に作られたコンクリート製掩蔽豪を普通、山城と呼ぶことはない。また山城と言う語は、後から名付けられたものである。このため、どの城が山城であるかないかは、意見が分かれている。
戦国期の日本において領主は、城主と呼ばれた。城主は、平時には麓で住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。山城は、土木技術、特に土地造成技術が未熟な時代に発展し、大きな役割を果たした。ただし住むには不便であり、居住地からも離れている。したがって山城は、住む機能を持たず戦時の立て籠もり用として利用されることが多かった。時代が下がると大きな堀や高台を造ることができるようになり、山岳部を利用せずとも重要な街道を遮る地点に要塞を建設できるようになった。また戦いの主力は、騎兵から火砲に代わり、山城の役目は終わった。
上記のように現在も山岳部に要塞を建設する動きも見られる。ただし、それらを山城と呼ぶことはない。
日本の山城には、次の3種類がある。
古代では、多賀城が有名である。それ以降、日本国内でも騎兵の拡大により山岳部に城塞が建てられるようになったと見られている。
中世の山城は、山上に城郭、麓に下館(居館)を築いたといわれる。山上の城は、主に戦時の防御施設であって日常生活は、麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。戦国期には、山上の城にも恒久的な建物(中には礎石建ちの本格的なものもある)を建てて、長期の滞在ができるように備えたものも現れた。典型的な例として武田氏の要害山城や朝倉氏の一乗谷城などがある。一乗谷城は、谷間に城下町と居館としての下館を築き、有事に備えて山頂に城郭を築いていた。
小規模な城の場合は、山の頂上に簡単な建物を造り食料、武具を保管するだけで後は、自然の地形を利用して適宜、山の各所に柵、堀、土塀を設けるといった程度であったらしい。中規模の城では、峰々に本丸、二の丸といった曲輪を造り、居住用の施設も備え、長期の籠城に耐えられるようにした。大規模な城では、周辺の山々に支城を設け、山系全体を要塞としていた。地形上の問題から傾斜地には、あまり深い堀は掘れなかった。堀に落ちた攻城側の兵を守城側の兵が槍で突く攻撃が可能であるほうが、防衛上の利点が大きかったという事情もある。またこれらは、空堀であり後に見られるような水堀はなかった。さらに土を盛って城郭を広げる石垣の技術もなかったため、城は狭かった。
平城、平山城に比べて山城の規模は小さい傾向がある。しかし、そのために都市開発を免れる例も多く、月山富田城、増山城、竹田城、高取城、岡城などでは中世の広大な城域全体の遺構が保存されている。
日本において初めて山に軍事的防御施設が築かれるのは、弥生時代の高地性集落である。その後、飛鳥時代から奈良時代にかけて、唐や新羅の侵攻に備えて西日本各地に古代山城が築かれた。
中世には、鎌倉時代後期から南北朝時代までに後醍醐天皇の率いる反幕府勢力が幕府に抵抗するため、山への築城が始まったようである。その初例と考えられているのは、楠木正成の千早城や赤坂城(上赤坂城、下赤坂城)、または山岳寺院「金胎寺」を利用した金胎寺城である。その後、南朝もそれらに倣って各地に山城を築いた。武士が山麓の平地に居館を、背後の山に山城を築き、戦闘になると山城に立て篭もるといった様式が一般化したといわれている。
戦国時代になると戦いが常態化したので、山上の城にも恒久的な施設を建てて長期の戦いに堪えられるように備えた。戦国後期には、山上の主曲輪に領主の居館を構え、中腹に家臣たちと人質としてその一族を住まわせた。
16世紀中期以降の合戦においては、大軍を山の上に集結させ位置的優位性を利用して、平野部の敵を威圧し、戦局を有利に導くドクトリン(”山城運用ドクトリン”)が確立されたとする指摘もある。敵が攻めてくれば防御を固めて防ぎ、敵が後退するのを見はからって山上から出撃する戦術は、当時の一般的な運用法=ドクトリンだったと推測される。山城運用ドクトリンの始原は川中島の戦いにおいて川中島周辺に運用された山城群とされており、1570年の志賀の陣では浅井・朝倉連合軍が比叡山に軍勢をあげて織田信長軍を窮地に追い詰め、1582年の山崎の戦いでは羽柴秀吉軍が自軍の勝利を確実にするため天王山を敵に先がけ占領し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは山上における用兵を巧妙に行った羽柴秀吉軍が勝利し、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康に天下を献上したのは、関ヶ原を見下し堅固に城郭化された松尾山へ布陣した小早川秀秋にあり、”山を制する者は天下を制す”ということが指摘されている。
戦国後期になると城下町を伴う平山城・平城が主流となった。
山城から平城が主流になったといっても平城がそれまでなかった訳ではない。平城京や平安京は、堀や塀を備えており、一種の平城である。つまり山城と平城は、同時に存在していた。ここで着目するべきは、革命的な平城が現れて山城の役割を奪ったのではなく、山城の重要性が下がり、相対的にもともと重要だった平地の施設、平城に回帰しただけであるという点である。
それには、次の理由が考えられている。
山城から平山城・平城に移行するにあたっては、麓に新たに主郭を築いて旧来の山城を「詰の城」とする例(萩城など)や、城郭を低い丘や平地に移転する例(備後福山城など)があった。また小田原城のように、元々は山城であったものが城と麓の城下町が拡張を繰り返した結果、両者が一体化し、城下町全体を惣構えで囲んだ大規模な平山城に発展した例もある。
勿論、すべての山城を平山城や平城に置き換える必要はなかった。平城化は、大名自身が居住する大規模な居城にとどまり、各地の山城は健在であった。また一部では、従来の山城のまま平山城・平城に移行しなかった場合もある。こうした山城の中には、石垣を導入したり火縄銃などに対応するために、むしろ従来より発展した例もある。例えば西国においては、放射状竪堀の導入が盛んになった。さらに従来の木柵ではなく平山城や平城の建築様式を取り入れ、狭間をもつ土塀で囲まれた、さながらトーチカのような鉄壁の要塞と化した山城もある(鷹取城など)。
城のほとんどが平山城・平城に移行するのは、一国一城令によって各地の山城を破却する江戸時代以降になる。ただし、江戸時代の大名の居城においても、山麓の居館と戦闘時に立て篭もる背後の山城の組合せという中世的様式を受け継いだ城も多く、伊予松山城、鳥取城、津和野城などがこれにあたる。萩城のように平城移行後も、山城時代の建造物を「詰の城」として残置したものもある。仙台城のように、江戸時代に入ってから山城を建造し、後に拡張により平山城に移行した例もある。
特に著名な日本の山城を取り上げた「日本五大山城」がある。
小谷城の代わりに八王子城を入れた「日本五大山岳城」(2004年)もある。
すべて国の史跡に指定されている。
山城という区分は、上記の通り日本の独自用語である。しかし山岳部に建設された施設という概念で当て嵌まる海外の城は、存在する。
近世以前に建設された海外の山城としては、例えば古代ギリシアのアクロポリスが有名である。また防衛施設かは、不明であるが南米のマチュピチュも広く知られている。さらに古代ローマ帝国のユダヤ反乱において使用されたマサダ要塞は、周囲を絶壁に囲まれ、難攻不落とされた。他にもクラック・デ・シュヴァリエなどが挙げられる。
やや、この概念から外れるもののノイシュヴァンシュタイン城は、近世以降の有名な海外の山城の一つと言える。
古代ローマは、パラティヌスの丘と他に幾つかの丘を防衛施設として建設された。ローマ市民は、外敵の攻撃から逃れるため、この丘を利用した。つまりローマ市そのものが山城であると見做すことも出来る。特にパラティヌスの丘は、建国の祖ロムルスと結びついていた。またローマ市民が元老院と対立して聖山事件を起こした。この時、アウェンティヌスの丘に市民たちは、立て籠もったとされる。さらに同じローマ市内にあるヴァティカヌスの丘に後世、聖天使城とサン・ピエトロ寺院が建設され、中世から近世に至るまでローマが攻撃を受けた時に要塞として使用された。これは、現在、バチカン市国として知られる。
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山城(やまじろ、やまじょう)は、険阻な山を利用して築かれた城の一種。日本においては、江戸時代の軍学者によって分類された地形による城の分類法の一つ。
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{{Otheruses|山に築かれた城}}
'''山城'''(やまじろ、やまじょう)は、険阻な[[山]]を利用して築かれた[[城]]の一種。[[日本]]においては、[[江戸時代]]の[[軍学者]]によって分類された[[地形]]による[[日本の城#地勢による分類|城の分類法の一つ]]。
[[ファイル:Marksburg1900.jpg|thumb|right|200px|ヨーロッパの山城([[ドイツ]]・[[マルクスブルク城]])]]
== 概要 ==
[[高地]]は、[[軍事]]上、地形により[[敵]]の[[機動|移動]]を阻害でき、また高所の利として[[視界]]を確保できるため有利である。このため山に城を築く行為は、地域や時代を問わず普遍的に行われている。例えば[[アクロポリス]]や[[近代]]の[[旅順要塞]]や[[マジノ要塞]]も山に築かれた要塞群である。ただし山城という語が指すのは、あくまで近代以前の日本の城であり、山岳部に作られた[[コンクリート]]製[[掩体壕|掩蔽豪]]を普通、山城と呼ぶことはない。また山城と言う語は、後から名付けられたものである。このため、どの城が山城であるかないかは、意見が分かれている。
[[戦国時代 (日本)|戦国期]]の日本において[[領主]]は、[[城主]]と呼ばれた。城主は、平時には麓で[[住民]]と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。山城は、[[土木技術]]、特に土地[[造成]]技術が未熟な時代に発展し、大きな役割を果たした。ただし住むには不便であり、居住地からも離れている。したがって山城は、住む[[機能]]を持たず[[戦時]]の立て籠もり用として利用されることが多かった。時代が下がると大きな[[堀]]や高台を造ることができるようになり、山岳部を利用せずとも重要な[[街道]]を遮る地点に[[要塞]]を建設できるようになった。また[[戦闘|戦い]]の主力は、[[騎兵]]から[[火砲]]に代わり、山城の役目は終わった。
上記のように現在も山岳部に要塞を建設する動きも見られる。ただし、それらを山城と呼ぶことはない。
== 日本 ==
[[ファイル:Château de Takeda.JPG|thumb|200px|中世の連郭式山城([[竹田城]]・[[但馬国]])]]
[[ファイル:Kozenji tamba01s3200.jpg|thumb|200px|中世山城の下館([[興禅寺 (丹波市)|黒井城下館]]・[[丹波国]])]]
日本の山城には、次の3種類がある。
;古代山城 :[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]の[[畿内]]から[[九州]]北部にかけて築かれた。
;中世山城 :[[中世]]、[[鎌倉時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国末期]]まで全国的に築かれた(戦国末期のものを'''戦国山城'''ということもある)。
;近世山城 :[[安土桃山時代]]後期から[[江戸時代|江戸初期]]までに築かれた。
=== 構造 ===
古代では、[[多賀城]]が有名である。それ以降、日本国内でも騎兵の拡大により山岳部に城塞が建てられるようになったと見られている。
中世の山城は、山上に城郭、麓に下館([[居館]])を築いたといわれる。山上の城は、主に戦時の防御施設であって日常生活は、麓の館で行っていたようである。山上の城には、掘立柱建築や簡易な櫓を建てただけで長期間居住するための建物は建てられていなかったらしい。戦国期には、山上の城にも恒久的な建物(中には礎石建ちの本格的なものもある)を建てて、長期の滞在ができるように備えたものも現れた。典型的な例として[[武田氏]]の[[要害山城]]や[[朝倉氏]]の[[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷城]]などがある。一乗谷城は、谷間に[[城下町]]と居館としての下館を築き、有事に備えて山頂に城郭を築いていた。
小規模な城の場合は、山の頂上に簡単な建物を造り食料、武具を保管するだけで後は、自然の地形を利用して適宜、山の各所に柵、堀、土塀を設けるといった程度であったらしい。中規模の城では、峰々に本丸、二の丸といった曲輪を造り、居住用の施設も備え、長期の籠城に耐えられるようにした。大規模な城では、周辺の山々に支城を設け、山系全体を要塞としていた。地形上の問題から傾斜地には、あまり深い堀は掘れなかった。堀に落ちた攻城側の兵を守城側の兵が槍で突く攻撃が可能であるほうが、防衛上の利点が大きかったという事情もある。またこれらは、空堀であり後に見られるような水堀はなかった。さらに土を盛って城郭を広げる石垣の技術もなかったため、城は狭かった。
平城、平山城に比べて山城の規模は小さい傾向がある。しかし、そのために都市開発を免れる例も多く、[[月山富田城]]、[[増山城]]、[[竹田城]]、[[高取城]]、[[岡城 (豊後国)|岡城]]などでは中世の広大な城域全体の遺構が保存されている。
=== 山への築城 ===
[[ファイル:Kinojo stone wall 1.JPG|thumb|200px|古代の山城([[鬼ノ城]]・[[備中国]])]]
[[ファイル:KasugayamaCastle-print.jpg|thumb|200px|戦国期の山城を描いた絵図([[春日山城]]・[[越後国]])]]
[[ファイル:Haga Castle 01.jpg|thumb|200px|戦国期の山城([[波賀城]]・[[播磨国]])]]
日本において初めて山に軍事的防御施設が築かれるのは、[[弥生時代]]の[[高地性集落]]である。その後、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]にかけて、[[唐]]や[[新羅]]の侵攻に備えて西日本各地に[[古代山城]]が築かれた。
中世には、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]までに後醍醐天皇の率いる反幕府勢力が幕府に抵抗するため、山への築城が始まったようである。その初例と考えられているのは、[[楠木正成]]の[[千早城]]や赤坂城([[上赤坂城]]、[[下赤坂城]])、または山岳[[寺院]]「[[金胎寺]]」を利用した[[金胎寺城]]である。その後、南朝もそれらに倣って各地に山城を築いた。武士が山麓の平地に居館を、背後の山に山城を築き、戦闘になると山城に立て篭もるといった様式が一般化したといわれている。
戦国時代になると戦いが常態化したので、山上の城にも恒久的な施設を建てて長期の戦いに堪えられるように備えた。戦国後期には、山上の主曲輪に領主の居館を構え、中腹に家臣たちと人質としてその一族を住まわせた<ref name="西ヶ谷">西ヶ谷恭弘編著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年。</ref>。
16世紀中期以降の合戦においては、大軍を山の上に集結させ位置的優位性を利用して、平野部の敵を威圧し、戦局を有利に導くドクトリン(”山城運用ドクトリン”)が確立されたとする指摘もある<ref name="三島2007">{{Cite journal |和書|author = 三島正之 |title = 川中島合戦と城郭(続)―関連城郭から展望する合戦の実像― |date = 2007 |journal = [[中世城郭研究]] |publisher = [[中世城郭研究会]] |volume = |issue = 第21号 |pages =62 |issn=0914-3203 |ref = {{SfnRef|三島2007}}}}</ref>。敵が攻めてくれば防御を固めて防ぎ、敵が後退するのを見はからって山上から出撃する戦術は、当時の一般的な運用法=ドクトリンだったと推測される。山城運用ドクトリンの始原は[[川中島の戦い]]において[[川中島]]周辺に運用された山城群とされており、1570年の[[志賀の陣]]では[[浅井氏|浅井]]・[[朝倉氏|朝倉]]連合軍が[[比叡山]]に軍勢をあげて[[織田信長]]軍を窮地に追い詰め、1582年の[[山崎の戦い]]では[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]軍が自軍の勝利を確実にするため[[天王山]]を敵に先がけ占領し、1583年の[[賤ヶ岳の戦い]]では山上における用兵を巧妙に行った羽柴秀吉軍が勝利し、1600年の[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]に天下を献上したのは、関ヶ原を見下し堅固に城郭化された[[松尾山 (岐阜県)|松尾山]]へ布陣した[[小早川秀秋]]にあり、”山を制する者は天下を制す”ということが指摘されている<ref name="三島2007" />。
=== 山から平地への移行 ===
戦国後期になると[[城下町]]を伴う[[平山城]]・[[平城]]が主流となった。
山城から平城が主流になったといっても平城がそれまでなかった訳ではない。[[平城京]]や[[平安京]]は、堀や塀を備えており、一種の平城である。つまり山城と平城は、同時に存在していた。ここで着目するべきは、革命的な平城が現れて山城の役割を奪ったのではなく、山城の重要性が下がり、相対的にもともと重要だった平地の施設、平城に回帰しただけであるという点である。
それには、次の理由が考えられている。
;戦の常態化<!-- ← 戦が常態化したから平地に移行したというのは無理がある -->
:山城は、居住性が低く、そこまで移動しなければならず即応性が低い。常態化した戦闘には、素早い戦闘への移行、準備が要求された。
:鎌倉幕府が滅びると日本国内を統治する勢力がなく各地で戦闘が常態化していった。また状況によっては、山城に移動できないこともあった。例えば[[足利義輝]]、[[織田信長]]などは、家臣の裏切りによって山城に移動することが出来ずに戦死している。あるいは山城を持たない勢力は、市域防衛を目指した。[[堺]]や寺社勢力は、平地に堀や柵、櫓などを建設して環濠集落を形成した。敵の奇襲、家臣の裏切り、戦闘の常態化により戦時のみ山城に移動する形態が廃れ、常に守備兵に守られ居住性と即応性の高いこれら平地の防衛施設が巨大化していった。
;戦国の終焉
:豊織期以降、畿内をはじめ全国的に散発的な戦闘が終わり、やがて江戸幕府になると一揆以外に戦闘はなくなった。依然として突発的な戦闘に備える必要はあるものの、予想される敵の兵力はずっと少なく見積もられた。また一揆に参加する農民や幕政に不満を持つ武士が大規模な騎兵を準備できるはずがなく、このような[[非対称戦争]]において騎兵戦闘を主眼とする山城の重要性が下がった。実際に戦場は、郊外から市街地に移り、[[石田三成]]を狙った七将襲撃事件、赤穂浪士の吉良邸襲撃、[[水野忠邦]]襲撃の現場は、彼らの屋敷であった。
;[[戦国大名]]の権威の象徴
:為政者を「城主」と呼ぶように大名と城郭は、結びつけられた。支配者である戦国大名の権威を民衆に知らしめるため、見え辛い山岳部から平地に移るようになった。為政者の権威を示す巨大な建造物が市域に作られるのは、何も戦国末期に限らないことである。特に巨大な天守は、本来の監視用の櫓としての機能を離れ、華美に装飾され、巨大化、高層化し、象徴的な建造物になった。
;[[火縄銃]]の導入
:木柵と浅い堀で防御した山城は、火縄銃による攻撃に脆弱であった。これを防ぐため何重もの深い堀と塀によって防御するようになった。また守備側も火縄銃で攻城側の兵を迎撃できるようになったので堀の深さをあえて槍の届く程度にとどめる必要がなくなった<ref>平井聖監修・三浦正幸ほか執筆『城 6 中国』毎日新聞社、1996年</ref>。さらにこれまで最も重要な攻撃部隊であった騎兵が火砲に立場を譲るようになった。このため騎兵の動きを阻害する山岳部に城塞を築く必要性が下がった。
;大規模化
:城は、防衛施設から政庁舎として役割が移行していった。戦国大名が支配権を確立し、広大な領地を治めるようになると各地に割拠していた周辺の国人領主などを完全に家臣として組み込んで城下町に集住させるようになった。そのため城も大規模化する必要があったが、山城では規模に限界があった。また軍事面においても大規模な兵力を集結させる必要が出来、これまでの山城より大きな城塞が求められるようになった。後北条氏の小田原城、豊臣氏の大阪城、徳川氏の江戸城などは、市街地全体を防衛するまで拡大した。
;石垣の導入
:山城の時代から石積みによって土を盛るという技術は、存在した。しかし織豊期以降になると石垣の技術が向上し、これまでより大規模な土地造成が可能になった。平地でも高台を造ることが出来るようになると重要な街道に近い場所に敵の移動を阻害し、視界を確保できる高台を造ることが出来るようになったため不便な山岳部にわざわざ山城を造る必要がなくなった。
山城から平山城・平城に移行するにあたっては、麓に新たに主郭を築いて旧来の山城を「詰の城」とする例([[萩城]]など)や、城郭を低い丘や平地に移転する例([[福山城 (備後国)|備後福山城]]など)があった。また[[小田原城]]のように、元々は山城であったものが城と麓の城下町が拡張を繰り返した結果、両者が一体化し、城下町全体を[[惣構え]]で囲んだ大規模な平山城に発展した例もある。
勿論、すべての山城を平山城や平城に置き換える必要はなかった。平城化は、大名自身が居住する大規模な居城にとどまり、各地の山城は健在であった。また一部では、従来の山城のまま平山城・平城に移行しなかった場合もある。こうした山城の中には、石垣を導入したり[[火縄銃]]などに対応するために、むしろ従来より発展した例もある。例えば西国においては、放射状竪堀の導入が盛んになった。さらに従来の木柵ではなく平山城や平城の建築様式を取り入れ、[[狭間]]をもつ土塀で囲まれた、さながら[[トーチカ]]のような鉄壁の要塞と化した山城もある([[鷹取城]]など)。<!--該当項目に出典がある -->
城のほとんどが平山城・平城に移行するのは、[[一国一城令]]によって各地の山城を破却する江戸時代以降になる。ただし、江戸時代の[[大名]]の居城においても、山麓の居館と戦闘時に立て篭もる背後の山城の組合せという中世的様式を受け継いだ城も多く、[[伊予松山城]]、[[鳥取城]]、[[津和野城]]などがこれにあたる。萩城のように平城移行後も、山城時代の建造物を「詰の城」として残置したものもある。[[仙台城]]のように、江戸時代に入ってから山城を建造し、後に拡張により平山城に移行した例もある。
=== 日本五大山城と日本五大山岳城 ===
特に著名な日本の山城を取り上げた「日本五大山城」がある<ref>小和田哲男『戦国大名浅井氏と小谷城』湖北町教育委員会、1992年、p. 4 </ref><ref>中井均『近江の山城ベスト50を歩く』サンライズ出版、2006年、p. 32</ref>。
{|class="wikitable"
|+日本五大山城
!令制国名
!城名
!主な城主
!所在地
|-
|[[越後国]]
!style="text-align:left"|[[春日山城]]
|[[上杉謙信]]
|[[新潟県]][[上越市]]中屋敷
|-
|[[出雲国]]
!style="text-align:left"|[[月山富田城]]
|[[尼子経久]]
|[[島根県]][[安来市]]広瀬町富田
|-
|[[近江国]]
!style="text-align:left"|[[観音寺城]]
|[[六角義賢]]
|[[滋賀県]][[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]]
|-
|[[近江国]]
!style="text-align:left"|[[小谷城]]
|[[浅井長政]]
|滋賀県[[長浜市]]湖北町伊部
|-
|[[能登国]]
!style="text-align:left"|[[七尾城]]
|[[畠山義綱]]
|[[石川県]][[七尾市]]古城町
|}
小谷城の代わりに八王子城を入れた「日本五大山岳城」(2004年)もある<ref>安部龍太郎『戦国の山城をゆく』集英社新書、2004年4月、pp. 45-46。</ref>。
{|class="wikitable"
|+日本五大山岳城
!令制国名
!城名
!主な城主
!所在地
|-
|出雲国
!style="text-align:left"|月山富田城
|尼子経久
|島根県安来市広瀬町富田
|-
|能登国
!style="text-align:left"|七尾城
|畠山義綱
|石川県七尾市古城町
|-
|近江国
!style="text-align:left"|観音寺城
|六角義賢
|滋賀県近江八幡市安土町
|-
|越後国
!style="text-align:left"|春日山城
|上杉謙信
|新潟県上越市中屋敷
|-
|[[武蔵国]]
!style="text-align:left"|[[八王子城]]
|[[北条氏照]]
|[[東京都]][[八王子市]][[元八王子町]]
|}
すべて国の[[史跡]]に指定されている。
== 海外 ==
山城という区分は、上記の通り日本の独自用語である。しかし山岳部に建設された施設という概念で当て嵌まる海外の城は、存在する。
近世以前に建設された海外の山城としては、例えば[[古代ギリシア]]の[[アクロポリス]]が有名である。また防衛施設かは、不明であるが南米の[[マチュ・ピチュ|マチュピチュ]]も広く知られている。さらに[[古代ローマ帝国]]の[[ユダヤ戦争|ユダヤ反乱]]において使用された[[マサダ|マサダ要塞]]は、周囲を絶壁に囲まれ、難攻不落とされた。他にも[[クラック・デ・シュヴァリエ]]などが挙げられる。
やや、この概念から外れるものの[[ノイシュヴァンシュタイン城]]は、近世以降の有名な海外の山城の一つと言える。
古代ローマは、[[パラティヌスの丘]]と他に幾つかの丘を防衛施設として建設された。ローマ市民は、外敵の攻撃から逃れるため、この丘を利用した。つまり[[ローマ|ローマ市]]そのものが山城であると見做すことも出来る。特にパラティヌスの丘は、建国の祖[[ロムルス]]と結びついていた。またローマ市民が元老院と対立して聖山事件を起こした。この時、[[アウェンティヌスの丘]]に市民たちは、立て籠もったとされる。さらに同じローマ市内にあるヴァティカヌスの丘に後世、[[サンタンジェロ城|聖天使城]]と[[サン・ピエトロ大聖堂|サン・ピエトロ寺院]]が建設され、中世から近世に至るまでローマが攻撃を受けた時に要塞として使用された。これは、現在、[[バチカン|バチカン市国]]として知られる。
== 関連項目 ==
* [[日本三大一覧#城|日本三大山城]]
** [[岩村城]]([[岐阜県]])
** [[高取城]]([[奈良県]])
** [[松山城 (備中国)|備中松山城]]([[岡山県]])
* 甲州流軍学による三大山城
** [[久能城]]
** [[吾妻城]]
** [[岩殿山城]]
* [[古代山城]]
* [[平城]]
* [[平山城]]
* [[日本の城一覧]]
* [[全国山城サミット]] - 山城を有する自治体の交流などを目的に[[平成]]6年から毎年秋頃に行われている。第1回の[[兵庫県]][[和田山町]](現在は[[朝来市]])から始まり第19回(平成24年)の[[魚津市]]。第20回は朝来市の予定。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{城と要塞}}
{{日本の城 関連用語}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:やましろ}}
[[Category:城]]
[[Category:日本の城]]
[[Category:山]]
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2003-09-03T07:44:07Z
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南満洲鉄道
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南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、旧字体: 南滿洲鐵道󠄁株式會社)は、南満洲の鉄道会社。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され、この鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業である、日本の満洲経略における重要拠点となった。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。
南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争の勝利後、1905年(明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満洲支線(長春・旅順間鉄道)約764キロメートルとそれを含む鉄道事業(当初の総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である。その前身は、日露戦争における満洲軍の野戦鉄道提理部であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した軽便鉄道の安奉線(安東・奉天間鉄道)とその付属地であった。満鉄は、撫順炭鉱および煙台炭鉱も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地(満鉄附属地)において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した。本社は関東州大連市(現、中華人民共和国遼寧省大連市)に置かれた。
1931年(昭和6年)9月に満洲事変が勃発し、1932年(大同元年/昭和7年)3月に満洲国が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された。1933年(大同2年/昭和8年)2月、満洲国管轄下の鉄道は、満鉄が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、委託経営がなされることとなり、3月より実施された。奉天市(現、遼寧省瀋陽市)に鉄路総局が設置され、満鉄本社内には鉄道建設局が置かれた。また、1935年(康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。
最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンで、鉄道総延長は1万キロメートル、社員数は40万人を擁した。満鉄は、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、1945年(康徳12年/昭和20年)、第二次世界大戦末期のヤルタ協定によって連合国への接収が決まり、1945年9月に受け皿となる中華民国・ソビエト連邦の合弁経営主体中国長春鉄路公司が発足。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において閉鎖機関となった。満鉄が保有していた鉄道は、中華人民共和国成立後の1952年から1955年にかけて、中華人民共和国に引き渡された。
1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、黒木為楨率いる第1軍が鴨緑江を渡って進撃しているとき、当時参謀次長であった児玉源太郎が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、イギリス東インド会社について調査するよう依頼した。上田の回想によれば、これは元々後藤新平が言い出したことを台湾総督府における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという。
満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満洲経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった。「満洲経営梗概」は、児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である。
満鉄は鉄道経営に加えて満洲の農産物を一手に支配し、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、牧畜、ホテル業(大連・旅順・奉天などのヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満洲地域の一大拠点となった。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称されるコングロマリットへと成長した。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた。
後藤新平の発案により1907年4月に設けられた満鉄調査部は、当時の日本が生み出した最高のシンクタンクのひとつであった。これは、満鉄のユニークさを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは三井物産だけであった。後藤は台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた 。
なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった。東京支社は、東京市麻布区麻布狸穴町に置かれたのち、赤坂区葵町2番地に移転した。
満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地での独占的行政権を与えられていた。附属地には、鉄道そのものに附属する、鉄路を中心とした幅62メートルの治外法権地域と駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった。駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、やはり治外法権の特権があった。それを管轄するのが満鉄地方部であり、大連、奉天、長春(のちの新京)などでは大規模な近代的都市計画が進められた。日本が進出したころの奉天駅の附属地は墓地や戦争で使用された塹壕が無数に残り、荒涼とした原野も含まれていた。長春駅の周囲もまた、最初はほとんど荒蕪地であったという。こうしたところに、満鉄社員、日本からの商社マン、日本軍人らの住宅街が建設され、日本人相手の食品店、雑貨店、理髪店、百貨店、宿泊施設、娯楽施設などがつくられたのである。満鉄附属地では、上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備が進められ、満洲経営の中心となった。
しかし、満洲全域が日本および関東軍の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり、1937年(康徳4年/昭和12年)に満洲国に返還された。これにともない、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満洲国へ移籍した。
関東軍は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道附属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身である。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。関東軍司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった。満洲事変の際の総兵力は公称1万400であったが、実際には8,800にすぎなかった。
関東軍と満鉄社員の接触は1920年代から始まっており、特に関東軍と満鉄調査部ロシア班のスタッフとの交流は早かったが、その動きは決して大きなものではなかったという。満鉄の方が関東軍よりも歴史が古く、老舗意識が濃厚で関東軍を一段下にみる風潮があり、第一次世界大戦後の反軍的雰囲気のなかでは軍に対して非協力的姿勢が顕著であった。ただし、そのなかでも満鉄調査課長の佐田弘治郎やロシア班主任の宮崎正義は関東軍との連携を模索していた。宮崎が関東軍参謀の石原莞爾と出会うのは、1930年秋の旅順のヤマトホテルにおいてであった。
日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された。講和会議で小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった。会議において日本側は当初、南満洲支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた。
伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した。ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版)駐日アメリカ合衆国公使の招きによってジェイコブ・シフなどとともに来日した。
ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、彼の売り込みの手腕もさることながら、「満洲鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一つであった。桂はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。
ポーツマス会議より帰国した小村は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったとして、その撤回を説得して歩いた。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、協定は不適切だと主張した。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した。小村の報告によって、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会(英語版)から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマンらの船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた。
1905年10月30日、日露両軍は四平街において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した(四平街協定)。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなったが、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過しており、車両や施設は応急的なものであり、全線にわたって信号機すらなかった。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に野戦鉄道提理部が管理していたのは昌図までであった。車両は機関車211両、貨車4,064両、客車88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため水槽・給水管・圧力計が氷結し、これにより水が不足して蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった。日露両国は昌図以北公主嶺までを1906年5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた。これについては、いずれは国際標準軌(4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要だった。
小村外相はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ。日本側全権は小村と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨(中国語版)、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった。交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった。
小村は、この条約において露清密約から引き継いだ鉄道利権の条項遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)。
小村はまた、安東・奉天間の安奉鉄道および奉天・新民屯間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあって交渉は難航したが、結局これには応じなかった。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、遼河以東の改築資金の半額は日本からの借款となった。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである。
1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた。特に駐日イギリス公使のクロード・マクドナルドは直接伊藤博文韓国統監に厳しい内容の書簡を送っている。また、袁世凱からも日本の中国東北における諸施策は満洲善後条約に違反するとの通告が伊藤にもたらされた。
4月14日、首相西園寺公望は極秘に東京を離れて自ら中国東北におもむいて満洲の実情を把握するための非公式旅行をおこなった。これを勧めたのは児玉源太郎だといわれるが、一国の首相が実情調査のために現地視察を行うことは実際は難しく、そのため、大蔵次官の若槻禮次郎に満洲派遣の辞令を発し、その随員に外務省の山座円次郎、農商務省の酒匂常明、鉄道作業局の野村龍太郎と、もうひとり自分自身を加えるという念の入れようであった。お忍び旅行の目的は、清国側の考えや態度を確認し、清国官吏の心証をよくし、また彼らとの交友を通じて戦後の満洲経営のための地ならしをしようというものであった。そこで西園寺は満洲に対する列強の関心の強さを実感し、清国官吏がロシア軍にかわる日本軍の支配に強い反感を抱いていたことを知るのである。3週間の旅行を終えた西園寺は、満洲問題について会合を開き、方針を協議することとした。
一方、ロシアから南満洲支線を引き継いだ野戦鉄道提理部では、ただちに改修工事に着手した。上述のように昌図・四平街間は施設がかなり損壊されており、双廟子駅(中国語版)に至っては跡かたもなく破壊されていた。さらに、双廟子 -四平街間は、枕木もレールも撤去されており、その間の橋桁、場所によっては橋脚も破壊されていた。野戦提理部は、1906年9月6日には双廟子まで、10月1日には公主嶺まで、そして11月11日は孟家屯(現在の長春南駅)までのゲージを狭軌に改築し、大連との間に直通列車の運行を開始した。
すでに1905年10月21日には、奉天以南の区間で軍用以外の運輸営業を開始しており、11月25日には昌図までこれが延長されていた。1906年に入ると引き継ぎを終えて修理が完成した区間から一般の人びとにもこれを利用できるようになった。戦争終了後、1905年の年末まで軍隊の復員輸送が主であり、一般輸送はほとんど行われなかった。しかし、それが終わるとしだいに中国東北部の縦貫幹線としての性格を強め、多くの人びとが満洲に強い関心を示すようになり、内地では職を求めて満洲に出かける人が増加した。なかにはいわゆる「一旗組」もあり、旅館、食料品店、理髪店、飲食店、衣料品店、遊廓などの個人営業、また企業も満洲に進出し、その職員が大連、大石橋、遼陽、奉天といった都市はもとより、小さな町にも入り込んで生活の基盤をつくろうとしていた。鉄道は、こうした人びとの活動をささえる重要な交通手段でもあった。
日本軍は撤兵期限ぎりぎりまで満洲に軍政を布き、日本の勢力を同地に植え付けようとしていた。1906年5月22日、英米との関係悪化を憂慮した伊藤博文が中心となって元老、閣僚、軍部首脳などを集めて首相官邸で「満洲問題に関する協議会」を開催した。このとき、日露戦争の功労によって声望が高まり、首相待望論さえ出ていた陸軍参謀総長の児玉源太郎は「兵力の運用上の便利を謀り陰に戦争の準備」を行うとともに「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という積極的満洲経営論を唱え、伊藤らと対立した。伊藤は関東州租借地の清国への返還と軍政の早期廃止方針を唱え、山縣ら陸軍関係者は誰も児玉を擁護しなかったので、伊藤の主張が通って軍政廃止が決定した。
これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった。児玉は当初官設機構を考えていたが、このころには民間会社の方式によるべきだとの考えに変わっていた。
満洲問題協議会では、児玉源太郎と元老の伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違していた。児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は平壌以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった新渡戸稲造はドイツ帝国における内国植民政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した。伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である後藤新平は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らは東インド会社を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた。両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、下関条約による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った。
1906年6月7日、明治39年勅令第142号「南満洲鉄道株式会社ニ関スル件」が公布された。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めることとし(第2条)、日本政府は、炭坑をふくめた満鉄の財産による現物出資ができるものとした(第3条)。本社を東京市、支社を大連におくこと(第6条、ただし1907年3月5日の勅令第22号により本社を大連、支社を東京市に改めた)、役員は総裁1名、副総裁1名、理事4名以上を置き(第7条)、総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命すること(第9条)、政府は会社の業務監視のため南満洲鉄道株式会社監理官を置くこと(第12条)が定められた。同勅令の付則には設立委員の規定があり、定款の作成と第1回株式募集等がその任務とされた。
7月13日、第1次西園寺内閣は、児玉を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した。この委員のなかには京釜鉄道会社の設立にもかかわった渋沢栄一、竹内綱といった財界人、のちに満鉄総裁となる仙石貢や野戦鉄道提理だった武内徹といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、石井菊次郎通商局長、関東州民政署事務官の関屋貞三郎、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚、貴衆両院の議員、さらに軍部首脳もふくまれていた。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは国策会社としての性格の濃いものであったことを示している。
上記のように、設立委員が定款の作成にあたることになっており、定款の調査委員は調査委員長が渋沢栄一、以下、山座円次郎、岡野敬次郎、荒井賢太郎、仲小路廉、山之内一次、和田彦次郎、堀田正養、大石正巳、土居通夫、中野武麿、大岡育造、佐々友房の計13名であった。このうち、山座・荒井・仲小路の3名は1月発足の満洲経営委員会(委員長は児玉源太郎)の当初メンバー6名にも名を連ねており、株式会社組織をとりながら同時に政府機関としての性格をもたせる役割をになった。こうしたなか、設立委員長だった児玉源太郎が7月23日に急逝し、24日には喪が発せられた。25日、新委員長に就任したのは寺内正毅陸軍大将であった。
1906年8月1日、外務・大蔵・逓信3大臣連名による「南満洲鉄道株式会社設立命令書」(外務・大蔵・逓信大臣秘鉄14号)が下付された。命令書は全文26か条で非公開とされた。公表された勅令よりも具体的な業務の範囲、資本金総額、政府の保護、会社に対する政府の命令権などが規定されていた。設立業務は、この命令書をもとに寺内委員長のもとですすめられた。
第1回株式募集は9月10日に開始された。募集株式10万株(2,000万円)、締め切りの10月5日までに役員持株1,000株を除く9万9,000株に対して、総申込株数は1億664万3418株に達し、申込人数は1万1,467人であった。少額申込の111人402株については割当てから外したが、それでも所要株数に対して1077倍という株式ブームの状況を呈した。清国人からの申込みもいくらかはあったが、この高倍率では割当てから排除されても疑義をはさむ余地がなかった。いずれにしても、この倍率は満鉄が当時植民地経営企業としての経済的機能を一般から広く期待されていたことを物語っていた。清国政府は結局、締め切りを過ぎても応募してこなかった。11月10日、清国政府は満鉄設立について厳しい調子の抗議を寄せた。
1906年11月1日、満鉄の設立が逓信大臣より認可された。11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は神田区の東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資とした。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった。政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる。
後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待された。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで西園寺首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。
開業は1907年4月1日となった。南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満洲鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に日露満洲鉄道接続業務条約が調印されてからであった。
総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた。1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連で創刊され、1907年8月以降、鉄道沿線にはヤマトホテルが開業した。大連には、満鉄中央試験所、電気公園もつくられた。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった。電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった。
こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができることを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の中村是公を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した。三井物産門司支店長だった犬塚信太郎は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。
レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1,524 mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌に改築していた。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435 mm)の国際標準軌間に改めておかなければならなかった。
南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、1907年4月1日のことであった。
満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・蘇家屯間の複線化が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌の線路が敷設してある箇所にもう1本レールを敷いて三線式とし、狭軌と標準軌の両方の列車が運行できるようにした。この技術はきわめて複雑なものであったが、満鉄がのちのちまでその技術を誇る水準のものであった。旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車に移行した。長春・大連間の本線では1908年5月に移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春・公主嶺間、23日公主嶺・鉄嶺間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・瓦房店間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へと切り替わり、5月30日からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した。営口線その他の付属線もこの間に標準軌に改軌されている。
不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった。安奉線を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の周水子駅で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。
日露戦争中に2フィート6インチ(762 mm)の軍用軽便鉄道として敷設された安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった。1909年1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して1911年11月1日、工事は完成した。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった。
鴨緑江の架橋については、ジャンク船の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本は朝鮮側(新義州側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを京義鉄道の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった。
安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、沙河鎮駅で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった。
清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた。具体的には、
などであった。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された。
1908年11月、光緒帝と西太后が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣袁世凱が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった。清国は、清韓国境の間島問題で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべてハーグの常設仲裁裁判所に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って間島の問題では清に妥協すべく動いた。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の領事裁判権要求も取り下げた。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた。また、1909年9月4日には間島に関する日清協約と満洲五案件に関する日清協約が結ばれ、清の主張にそって豆満江が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は開市されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・会寧間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。
後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず、満鉄を中心とする一元的な満洲経営を目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省や逓信省、外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった。そこで後藤は桂太郎に接近し、1908年7月、第2次桂内閣の逓信大臣として懸案事項の解決を図ろうとした。後藤総裁は満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時の苦心によって一体感を生み出されており、その団結はきわめて固かった。新しい満鉄総裁には、副総裁だった中村是公が就任した。後藤は、入閣して早々満鉄の監督権を逓信大臣に移し、1908年12月には鉄道院を開設して満鉄監督権をここへ移管した。
1909年9月、中村新総裁が大学予備門時代以来の友人である文学者、夏目漱石を満洲に招いた。漱石は旅行での見聞や感想を随筆「韓満所感」および「満韓ところどころ」として書き記した。当時の満鉄は、その事業内容を内外に広く宣伝することに努めており、中村総裁が漱石を招いたのも単に友人を招待するのではなく、人気作家である漱石のペンを通して満鉄の事業を宣伝させる目的もあったろうと考えられる。漱石は大連では中央試験所や電気公園を案内され、同級生だった橋本左五郎や佐藤友熊、夏目家で書生をしていた股野義郎らと旧交を温めた。また、旅順、営口、奉天、撫順炭坑、ハルビン、長春などを経て安東、釜山を経て内地に帰った。「韓満所感」は1909年11月5日・11月6日付の「満洲日日新聞」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年10月21日から12月30日まで掲載された。中村新総裁は、豪放なべらんめえ口調でありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事は有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢を貫いた。理事の合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府の官僚システムとは異なる植民地会社独特の合理主義的官僚制と業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた。
一方、後藤は、1909年12月、韓国鉄道をも鉄道院の所管とすることにいったん成功し、国内鉄道も含めた鉄道の一元的管理を実現した。しかし、韓国鉄道は韓国併合直前に朝鮮総督府財政の根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張がこののち受け入れられて、総督府管轄に改められた。後藤はなおも植民地統治の一元化のために拓殖局を設置し、桂首相が総裁、みずからは副総裁となった。そのうえで後藤は、1910年12月、翌1911年度からの13年間継続事業として総額2億3,000万円の予算で新橋・下関間の国際標準軌改築案を閣議決定に持ち込み、さらに第二十七議会への提出にこぎつけた。桂と後藤は、国内鉄道と韓国・清国の鉄道で使用されているゲージを統一することで、戦時における軍事輸送の利便を向上させるのみならず、内地と外地の経済的結びつきを強めて輸出増進を図ろうとした。そのため神戸港の港湾修築や下関の陸海連絡設備の両事業も鉄道院の所管としたのであった。しかし、ここで桂太郎と立憲政友会の「情意投合」という政治的妥協にはばまれ、鉄道普及を優先する政友会の意向により、標準軌改軌案は事実上の廃案となってしまった。
なお、1911年7月にロンドンで開かれた第6回国際連絡運輸会議では、イギリス―カナダ―日本―シベリアという経路で世界一周をする世界周遊券、日欧を結ぶ東半球一周周遊券の設置が決まり、この周遊券は1913年より販売が開始された。「新橋から倫敦ゆき」の切符は、ジャパン・ツーリスト・ビューローで購入することができ、ロンドンまでの1等運賃は433円35銭、2等運賃は286円45銭であった。南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである。
明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである。中村・国沢の更迭は大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり、これは政友会総裁で山本内閣の内務大臣、原敬の差し金であったといわれる 。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した。
折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた。その結果、特別運賃は事実上撤回された。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった。その結果、1914年7月、犬塚が第2次大隈内閣によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された。
1914年の7月にはまた、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発している。大戦は直接戦場にならなかったアメリカ合衆国や日本に大戦景気と呼ばれる特需をもたらしたが、朝鮮や台湾、満洲を含む中国大陸にも好景気をもたらした。
1914年度には、大連の満鉄沙河口工場でH4形と呼ばれる加熱式機関車6両の独自に製作された。当初の満鉄は、広漠な満洲の原野を長距離無停車運転する鉄道にはアメリカで開発された技術が好適であるとしてアメリカ製機関車・客車・貨車を大量に導入していたが、これは、アメリカの技術を通じて独自の技術水準を積み重ねた成果であった。なお、満鉄が機関車自社製造体制を確立させるに至るのは1921年のことである。
大隈重信内閣は1914年7月、野村と伊藤に代わり、中村雄次郎を満鉄総裁に送り込んだ。1917年7月まで総裁を務める中村は、軍人出身で陸軍省次官、総務長官、八幡製鉄所長官を歴任した人物であった。こうして内閣が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった。アジアが好景気に沸くなか、加藤高明外相は、1915年1月に中華民国の袁世凱政権に対し「対華21カ条要求」を突きつけた。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国ナショナリズムを引き起こし、日貨排斥運動が起こった。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『満洲日日新聞』1915年4月6日付)、「大連駅の大混雑」(同4月7日付)といった混乱が生じた。
1917年のロシア革命は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争(シベリア出兵)がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである。ロシア革命に対する満鉄の反応は素早く、すでに1917年6月、理事の川上俊彦をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた。11月15日、川上は帰国して本野一郎外相にボルシェヴィキによるロシア十月革命も含めた「露国視察報告書」を提出した。この報告書は寺内正毅や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた。
一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。1918年(大正7年)原敬内閣が成立すると、原は1919年(大正8年)4月、国沢理事長を更迭した。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の中西清一を起用した。1920年、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である森恪が経営する炭坑であり、内田汽船の経営者も政友会系の内田信也であった。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた(満鉄疑獄事件)。1921年、野党の憲政会はこの問題を帝国議会で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった。司法の場でも中西は背任罪で告訴された。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、検事に対し決定的証拠を提出した。中西は逮捕、起訴されたが、東京控訴院での控訴審では証拠不十分として無罪となった。
1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、早川千吉郎、川村竹治、安広伴一郎が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、1927年(昭和2年)には社員会が結成された。社員会は全社員の加入によって構成されており、したがって一般の労働組合組織とは異っていたが、政党の介入に対抗する意味とともに当時の労働運動昂揚の風潮もまた影響していたとみることができる。
1926年7月1日、蔣介石が北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した。蔣介石率いる国民革命軍が南京、上海を占領して、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵)。
6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の松岡洋右が就任した。
山本は、三井物産上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった。山本は「産業立国論」を持論とし、人口問題、食糧問題、金融恐慌、失業問題の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、移民の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、マグネシウム・アルミニウム関連工業ならびに肥料工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、
の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蔣介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖は交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した。しかし、細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまった。
1928年、満鉄は米系ロシア人から情報提供を受け、ジャライノールなどで油田調査を開始したところ、1中国と朝鮮の国境の間島問題が深刻化し始めた。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖を乗せた専用列車が奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男らであった。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた張学良を擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた。東宮は中国人の苦力2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである。
この事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた。しかし、上原勇作や閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された線路の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた。昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、牧野伸顕や鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相を問責した。
満洲の張作霖と中国本土の蔣介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した。張作霖の子息、張学良は父親の死の事実を隠し通し、冷静に対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し、奉天軍閥を率いる父の後継者に就任するという離れ業をやってのけた。1928年12月、張学良は国民政府の青天白日旗を掲げて易幟を行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚で親日派の巨頭だった楊宇霆と常蔭槐を1929年1月に暗殺して親日派を一掃した。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、8月14日、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には仙石貢が就任した。
一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐が関東軍参謀に着任した。1929年5月には板垣征四郎が河本大作後任の高級参謀として着任した。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンからハイラル、満洲里、洮南の各地をまわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、1930年3月の満鉄調査部での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである。
関東軍においては石原莞爾を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった。もとより、これ以前にも21か条要求の際の明石元二郎などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった。石原の満蒙領有論は元来、世界最終戦論を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論であり、そうでなければ長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものであった。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら事を進めるべきだとの論もあり、その中心人物が板垣征四郎であった。板垣の意見は、事変の長期化によって満蒙領有論が後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった。
1929年秋に始まった世界恐慌は日本に深刻な影響をもたらしたのみならず、満洲にも多大な影響を及ぼした。恐慌により満鉄の営業成績が著しく悪化したことに加え、中国側は満鉄並行鉄道の建設を計画しており、もし、これが実現すると満鉄経由の貨物輸送がさらに減少し、経営は危機的状況に陥ることが懸念された。なお、中国では、1930年5月から、蔣介石と反蔣介石連合との間で中原大戦が始まっているが、その帰趨を決したのは張作霖の後継者、張学良であった。1930年9月、閻錫山のもとに汪兆銘・馮玉祥など反蔣の人々が立場を越えて集まり政権を成立させたが、反蔣の立場から期待されていた満洲の張学良は9月18日、蔣介石支持の立場を鮮明にしたのである。張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会と東北交通委員会は、中央集権の強化を目指す立場には反しているとはしながらも、その存続を主張して蔣介石から了解を得ていた。
東北交通委員会は、日本の満洲権益の中核である満鉄を中国鉄道で包囲し、満洲中の貨物を満鉄から奪還し、満鉄の機能を麻痺させる計画を立てていた。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線を建設し、これを北平(北京) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄を包囲してその死命を制するのみならず、ソ連の権益鉄道である東支鉄道(東清鉄道)にも重大な脅威を与えることができるという構想である。資金調達は官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道が外国支配を招かないよう厳しい条件を付したうえで外国資本(特にアメリカ資本、ドイツ資本)を受け容れることとした。すでに7月より錦州南方の葫蘆島ではドイツ資本による大規模な海龍地区の港湾建設工事が始まっていた。東北交通委員会が計画する2大幹線が完成すれば、満洲南北の要地から中国鉄道を経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用で大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された。すでに完成している中国鉄道は、北寧(北平‐奉天)、奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)、吉敦(吉林 - 敦化)の東4線、北寧、四洮(四平街 - 洮南)、洮昴(洮南 - 昴昴渓)、斉克(チチハル - 克山)の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引を実施するなど、満鉄圧迫策を強めた。
世界恐慌の影響は満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年(昭和5年)度に大連港で扱った輸出入貨物は、前年度に比べて輸出約200万トン、輸入約50万トン減少した。これは、当然満鉄の輸送収入を悪化させ、満鉄の鉄道事業の収益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場が1930年に入って暴落したことも、銀建運賃をとっていた中国鉄道には有利である反面、金建運賃をとっていた満鉄には大きな痛手であった。すなわち、銀貨国において金建運賃を採用している満鉄にあっては、銀暴落は必然的に運賃高騰を招くのであって、安価なライバル線に貨物輸送が奪われるのは当然のことだったのである。
世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件が重なり、1930年以降の満鉄をめぐる情勢は深刻なものとなっていった。1930年の国勢調査では、関東州と南満洲鉄道付属地帯(満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた。在満日本人22万8,000の大部分は満鉄附属地に住し、満鉄ならびにその付属会社に直接間接に依存して生計を立てていたのである。
浜口雄幸内閣の外相、幣原喜重郎は、北伐以後の国権回復運動が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、鄭家屯 - 長春、鄭家屯 - 彰武、洮南 - ハルビン、洮南 - 通遼については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた。幣原の方針は、11月14日付の訓令によって重光葵駐華代理公使に伝えられた。
1931年(昭和6年)1月、前満鉄副総裁で政友会代議士の松岡洋右は帝国議会で「満蒙はわが国の生命線である」と述べて満蒙の重要性を強調した。松岡によれば、満蒙に日本が勢力を張るに至ったのは、中国が朝鮮の独立に脅威を与え、ロシアが日本の存立を脅かしたからであり、それを日本は日清・日露の両戦争を勝ち抜いたことで満蒙権益が認められたのであるとした。しかるに、現在の満蒙は国民の経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず、国防上の危機にさらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して、武力による強硬な解決を主張した。
1931年9月18日、関東軍は、張学良が北平に滞在し、奉天軍閥の主力が長城以南に結集、さらに残存留守部隊が東三省に分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖で満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)を引き起こした。そして、それを中国側の仕業と発表して懸案の満洲占領作戦を実行にうつした。関東軍の作戦計画は、各部隊を迅速に奉天に集中させ、戦闘開始の劈頭で東北軍主力を叩き、その権力中枢を麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的容易であるという考えであった。いずれにしても、関東軍は第2師団と独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって、留守部隊とはいえ戦車、航空機、重火器、若干の毒ガス兵器を装備した張学良軍20万余と対峙したのである。関東軍は野戦訓練を重ね、24センチ榴弾砲を秘密裏に奉天に運び入れて夜襲と威嚇射撃により相手の虚を突く軍事行動を展開した。実際、榴弾砲の轟音と地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れた。北平にあった張学良は日本軍の挑発に乗らないよう無抵抗を指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間で占領された。
柳条湖事件勃発のときから政府は陸軍の謀略であることを強く疑っており、9月19日の本庄繁関東軍総司令官からの増援要求も一蹴されていた。閣議でも不拡大方針が確認され、幣原喜重郎外相や井上準之助蔵相が南次郎陸相に対し、部隊の原駐地への帰還を強く迫った。そこで関東軍は吉長線経由で吉林に第2師団主力を送り込み、わざと奉天の警備を手薄にして朝鮮軍に来援を要請したが、9月19日、金谷範三参謀総長は出兵を制止した。関東軍は9月21日には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた林銑十郎を司令官とする朝鮮軍が独断で鴨緑江をわたり、満洲に入った。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した。そして9月28日までには袁金鎧を奉天地方維持委員会委員長に、煕洽を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて奉天省・吉林省の張学良からの独立を宣言させた。黒竜江省の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の馬占山とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った。当時の満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった。
ところが、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「馬賊」や「匪賊」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化の一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様だったのである。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていた。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派を認めなかった。
手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった錦州への空爆である。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた(錦州爆撃)。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた。天津の支那駐屯軍は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった。第2次若槻内閣と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた。国際連盟の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、ジュネーヴでは満洲の委任統治構想が急浮上していた。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた。
しかし、アメリカ合衆国のヘンリー・スティムソン国務長官の記者発表によって事態が急転する。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内のメディアで報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは統帥権干犯にあたるとして猛烈な反発を招いたのである。皇道派、平沼騏一郎らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した。
第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった。東三省の要人たちは本庄繁関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長張景恵、奉天省長臧式毅、吉林省長煕洽、そして馬占山の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた。
1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国の建国が宣言された。満洲国の首都は長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある傀儡国家であった。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他社会資本は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された。これは、のちの日満議定書で確認されることとなった。
犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ。犬養首相はしかし、五・一五事件で暗殺され、これにより戦前の政党内閣は幕を閉じた。後継首相は斎藤実であった。斎藤内閣は政友会・民政党からの入閣を得て「挙国一致内閣」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には日満議定書を結んで満洲国の承認に踏み切った。
1932年4月、軍部に批判的だった江口定条副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、林博太郎が新総裁となった。
1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に武藤信義大将、軍参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった。
1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて装甲列車を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった。1933年2月9日、満洲国管轄下の鉄道(満洲国国有鉄道)は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった。
なお、国内では1933年、日本共産党の最高幹部だった佐野学と鍋山貞親は獄中から転向声明を発したが、これを機に大量転向が現れた。かれら転向者には、統制経済や国家官僚を通じた計画経済に新たな期待を寄せ、国家社会主義をとなえる者が多かった。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた。
満鉄幹部で外交官の松岡洋右は1933年3月に国際連盟を脱退し、岸清一没後の帝国弁護士会は1934年に軍備拡大支持の声明を発し、日本政府はワシントン海軍軍縮条約を破棄した。
従来の中東鉄道については、満洲国建国後の1933年5月30日、ソ連と満洲国との合弁事業となったが、満鉄ではこの鉄道を「北満鉄路」と称した。北満鉄路は、ソ連から有償で譲り受け、完全に満洲国の国有鉄道に移管する方針が立てられ、同年6月26日より譲受の交渉が始まった。北満鉄路(中東鉄道)側は、周囲に満洲国国有鉄道の線路網が張りめぐらされて経営困難になっていたのである。ソ連側から北満鉄路の譲渡が打診され、満ソ両国代表にオブザーバーとして日本政府代表が参加したが、譲渡価格がソ連側2億5000万ルーブル(6億2500万円)に対し、満洲国側が5000万円でまったく折り合わなかった。結局、1年以上の交渉を経て1934年9月21日に譲渡価格1億4000万円、ソ連側退職者の資金3000万円の計1億7000万円で妥結し、1935年1月22日に細目協定が成立、同年3月11日に仮調印、3月23日には譲渡協定のほか債務にかかわる満ソ秘密議定書、最終議定書など5件の正式調印を完了して北満鉄路全線の接収がなされた。接収した鉄道線路の総延長は1,732.8キロメートルであった。
北満鉄路の軌間は5フィートであったため、標準軌に改軌する工事が必要で、新京・ハルビン間は1935年8月22日に着手し、29日に準備終了、30日の運転が終了後に作業を開始し、終了予定は翌日8時だったが全部の作業を7時50分に終了して試運転もおこない、ただちに平常業務がなされた。作業参加人員は2,508名、通信設備その他の切り替えもこの時なされ、この工事は満鉄の技術力を示すものとして高く評価された。
1934年、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が登場し、大連 - 新京(長春)間700 kmあまりを8時間半で結んだ。北満鉄路接収後の1935年9月には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。
満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した。
満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、満洲国の経済における満鉄の独占的地位を問題とした。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された。1935年(康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた。北黒線や虎林線はその代表例である。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された。
一方、満洲国における本格的な重工業開発は、1936年に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・兵器・自動車・飛行機などの重工業を重点的に育成することを目標としていた。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった岸信介であった。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった。そこで、当時新興財閥と呼ばれた鮎川義介の日本産業株式会社(日産コンツェルン)を満洲に引き入れる方策がとられた。日産は、傘下に日産自動車、日立製作所、日本鉱業、日本化学工業など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである。すでにシナ事変(日中戦争)の始まっていた1937年12月のことであり、社名も満洲重工業開発(通称、「満業」)に改めた。満業は2億2500万円を出資し、1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満業に提供した。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した。また、満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。
満洲国成立後、本来の路線(社線)のほかに、満洲国が1935年にソ連から買収した北満鉄路を含む国線や北部朝鮮の一部の鉄道の運営と新線建設を受託し、営業キロ数を格段と伸ばしていった。これに対応するため満鉄は、1936年10月1日、鉄路総局・鉄路建設局、そして満鉄の鉄道部を全て統合し、奉天に「鉄道総局」を設置した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道を統括する大事業者として君臨することを意味していた。満鉄と国鉄の経営統合は、関東軍の意向をくじくものであり、満洲の鉄道事業にさかんに干渉してくる関東軍に一矢報いる行動であった。また、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった。
満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである。1936年までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた。
1936年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、高橋是清蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置づけ、「満洲開拓移民推進計画」を決議した。同年末には、先に関東軍作成の「満洲農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」が策定された。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は加藤完治で、業務を担っていたのは満洲拓殖公社であった。
1937年7月の日中戦争開始後は華北に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった。
一方開拓移民は、日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった。1937年、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満洲両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。
大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万キロメートルを超えた。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で太平洋戦争を迎えることとなったのである。1940年、満鉄の資本金が14億円に増資された。
日中戦争が泥沼化するなか、1941年4月にはソ連と日ソ中立条約を結び、7月には大本営が関東軍特別演習動員の命令を下した。これは、独ソ戦開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争の断念と南進論の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争が始まった。
1942年10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネルの開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった。このころは、下関・釜山をむすぶ海底トンネルが計画され、一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた。しかし、同年の泰緬鉄道の建設、1944年の大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった。
1943年には奉天の鉄道総局そのものが廃止された。満鉄本社が新京に移され、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した。満蒙開拓団は、1941年以降は統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。
かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、満洲国協和会中央本部の実践科主任であった平賀貞夫が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金横領の事実をつかみ、1941年11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。
憲兵隊はゾルゲ事件の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月と1943年7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が執行猶予付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた。
1945年5月30日、大本営は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである。
1945年(康徳12年/昭和20年)8月9日、ソビエト連邦は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった山崎元幹の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた。この営みは、8月15日の玉音放送後も変わりなくつづけられた。8月17日、関東軍総司令官山田乙三は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている。8月20日、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった。
満鉄は、満洲に侵攻したソ連軍に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。しかし、9月22日の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、9月27日、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した。9月28日、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている。1946年1月15日、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した。1月21日、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は戦利品であると通告したという。
その後、国共内戦によって1949年に中国共産党率いる中華人民共和国が成立し、1955年には中国政府への路線引き渡しが完了した。
日本国内における拠点等は1945年9月30日、GHQが発出した「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書に基づき、即時閉鎖(閉鎖機関)が行われた。ただし、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、会社の清算結了(法人格消滅)は1957年4月13日までずれ込んでいる。
満鉄社員は総裁以下、1945年9月30日付で全員解雇となった。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、山崎総裁はじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これは「留用」と称され、山崎総裁の留用が終わったのは1947年8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった。ほとんど全ての社員は1948年6月4日を以て留用を終えた。なお戦中の満鉄総裁であった大村卓一は、1945年11月、中国共産党軍のゲリラに逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。
しかし、一部は1949年の中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された。天水 - 蘭州間の天蘭線(現在の隴海線の一部)はその成果の一つであり、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の1953年に「天水会」を組織した。
一方、日本国内では1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、旧社員の就職斡旋などを目的として「満鉄社友新生会」が発足した。その後、1954年(昭和29年)7月に「財団法人満鉄会」に改組し、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った。満鉄会の会員は最盛期で約15,000人にのぼったが、2016年(平成28年)3月末をもって解散した。
満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や大慶油田とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では、現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。
満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。
かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている。
2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した。
1934年(康徳元年/昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特別急行「あじあ」(中国人向け案内には「亜細亜」表記)が登場した。最高速度は110 km/h、表定速度は82.5 km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8 km/hを上回った。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の同区間を走る急行「はと」の所要時間約10時間半を2時間も短縮させた。6両の客車を表定時速80キロ以上で走る「あじあ」は当時の代表的な超高速列車であり、世界的に注目を浴びた。高速運転を可能にした理由の一つが、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」と呼ばれる車両によって牽引されたことである。客車は全車両空調装置完備であり、このような列車は世界で初めてであった。1935年(康徳2年/昭和10年)9月には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。1943年(康徳10年/昭和18年)2月、戦局の悪化にともない突然運休し、そのまま姿を消した。
1932年(大同元年/昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた。満鉄初の愛称付き急行であった。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった。1934年以降は「パシナ型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた。
鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年(康徳2年/昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満洲国国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年(康徳3年/昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置した。それにともない、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった。1943年(康徳10年/昭和18年)には鉄道総局そのものが廃止され、その業務は満鉄本社に継承された。
以下は、1945年(康徳12年/昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である。
凡例 : [貨] 貨物線
満洲国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)
安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)
湯旺森林線
南満洲鉄道株式会社各種事業収支(単位:万円)
歴代代表者は、以下の表に示す通りである。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る。
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"text": "南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、旧字体: 南滿洲鐵道󠄁株式會社)は、南満洲の鉄道会社。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され、この鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業である、日本の満洲経略における重要拠点となった。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。",
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"text": "南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争の勝利後、1905年(明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満洲支線(長春・旅順間鉄道)約764キロメートルとそれを含む鉄道事業(当初の総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である。その前身は、日露戦争における満洲軍の野戦鉄道提理部であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した軽便鉄道の安奉線(安東・奉天間鉄道)とその付属地であった。満鉄は、撫順炭鉱および煙台炭鉱も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地(満鉄附属地)において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した。本社は関東州大連市(現、中華人民共和国遼寧省大連市)に置かれた。",
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"text": "1931年(昭和6年)9月に満洲事変が勃発し、1932年(大同元年/昭和7年)3月に満洲国が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された。1933年(大同2年/昭和8年)2月、満洲国管轄下の鉄道は、満鉄が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、委託経営がなされることとなり、3月より実施された。奉天市(現、遼寧省瀋陽市)に鉄路総局が設置され、満鉄本社内には鉄道建設局が置かれた。また、1935年(康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。",
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"text": "最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンで、鉄道総延長は1万キロメートル、社員数は40万人を擁した。満鉄は、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、1945年(康徳12年/昭和20年)、第二次世界大戦末期のヤルタ協定によって連合国への接収が決まり、1945年9月に受け皿となる中華民国・ソビエト連邦の合弁経営主体中国長春鉄路公司が発足。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において閉鎖機関となった。満鉄が保有していた鉄道は、中華人民共和国成立後の1952年から1955年にかけて、中華人民共和国に引き渡された。",
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"text": "1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、黒木為楨率いる第1軍が鴨緑江を渡って進撃しているとき、当時参謀次長であった児玉源太郎が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、イギリス東インド会社について調査するよう依頼した。上田の回想によれば、これは元々後藤新平が言い出したことを台湾総督府における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという。",
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"text": "満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満洲経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった。「満洲経営梗概」は、児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である。",
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"text": "満鉄は鉄道経営に加えて満洲の農産物を一手に支配し、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、牧畜、ホテル業(大連・旅順・奉天などのヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満洲地域の一大拠点となった。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称されるコングロマリットへと成長した。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた。",
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"text": "後藤新平の発案により1907年4月に設けられた満鉄調査部は、当時の日本が生み出した最高のシンクタンクのひとつであった。これは、満鉄のユニークさを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは三井物産だけであった。後藤は台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた 。",
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"text": "なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった。東京支社は、東京市麻布区麻布狸穴町に置かれたのち、赤坂区葵町2番地に移転した。",
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"text": "満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地での独占的行政権を与えられていた。附属地には、鉄道そのものに附属する、鉄路を中心とした幅62メートルの治外法権地域と駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった。駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、やはり治外法権の特権があった。それを管轄するのが満鉄地方部であり、大連、奉天、長春(のちの新京)などでは大規模な近代的都市計画が進められた。日本が進出したころの奉天駅の附属地は墓地や戦争で使用された塹壕が無数に残り、荒涼とした原野も含まれていた。長春駅の周囲もまた、最初はほとんど荒蕪地であったという。こうしたところに、満鉄社員、日本からの商社マン、日本軍人らの住宅街が建設され、日本人相手の食品店、雑貨店、理髪店、百貨店、宿泊施設、娯楽施設などがつくられたのである。満鉄附属地では、上下水道や電力、ガスの供給、さらには港湾、学校、病院、図書館などのインフラストラクチャーの整備が進められ、満洲経営の中心となった。",
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"text": "しかし、満洲全域が日本および関東軍の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり、1937年(康徳4年/昭和12年)に満洲国に返還された。これにともない、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満洲国へ移籍した。",
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"text": "関東軍は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道附属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身である。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。関東軍司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった。満洲事変の際の総兵力は公称1万400であったが、実際には8,800にすぎなかった。",
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"text": "関東軍と満鉄社員の接触は1920年代から始まっており、特に関東軍と満鉄調査部ロシア班のスタッフとの交流は早かったが、その動きは決して大きなものではなかったという。満鉄の方が関東軍よりも歴史が古く、老舗意識が濃厚で関東軍を一段下にみる風潮があり、第一次世界大戦後の反軍的雰囲気のなかでは軍に対して非協力的姿勢が顕著であった。ただし、そのなかでも満鉄調査課長の佐田弘治郎やロシア班主任の宮崎正義は関東軍との連携を模索していた。宮崎が関東軍参謀の石原莞爾と出会うのは、1930年秋の旅順のヤマトホテルにおいてであった。",
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"text": "日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された。講和会議で小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった。会議において日本側は当初、南満洲支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた。",
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"text": "伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した。ハリマンは、日本銀行の高橋是清副総裁と大蔵次官の阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム(英語版)駐日アメリカ合衆国公使の招きによってジェイコブ・シフなどとともに来日した。",
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"text": "ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、彼の売り込みの手腕もさることながら、「満洲鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一つであった。桂はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。",
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"text": "ポーツマス会議より帰国した小村は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったとして、その撤回を説得して歩いた。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、協定は不適切だと主張した。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した。小村の報告によって、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会(英語版)から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマンらの船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた。",
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"text": "1905年10月30日、日露両軍は四平街において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した(四平街協定)。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなったが、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過しており、車両や施設は応急的なものであり、全線にわたって信号機すらなかった。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に野戦鉄道提理部が管理していたのは昌図までであった。車両は機関車211両、貨車4,064両、客車88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため水槽・給水管・圧力計が氷結し、これにより水が不足して蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった。日露両国は昌図以北公主嶺までを1906年5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた。これについては、いずれは国際標準軌(4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要だった。",
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"text": "小村外相はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ。日本側全権は小村と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨(中国語版)、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年の露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった。交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった。",
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"text": "小村は、この条約において露清密約から引き継いだ鉄道利権の条項遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人と清国人以外は関与できないこととなった。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍)。",
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"text": "小村はまた、安東・奉天間の安奉鉄道および奉天・新民屯間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあって交渉は難航したが、結局これには応じなかった。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、遼河以東の改築資金の半額は日本からの借款となった。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである。",
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"text": "1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた。特に駐日イギリス公使のクロード・マクドナルドは直接伊藤博文韓国統監に厳しい内容の書簡を送っている。また、袁世凱からも日本の中国東北における諸施策は満洲善後条約に違反するとの通告が伊藤にもたらされた。",
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"text": "4月14日、首相西園寺公望は極秘に東京を離れて自ら中国東北におもむいて満洲の実情を把握するための非公式旅行をおこなった。これを勧めたのは児玉源太郎だといわれるが、一国の首相が実情調査のために現地視察を行うことは実際は難しく、そのため、大蔵次官の若槻禮次郎に満洲派遣の辞令を発し、その随員に外務省の山座円次郎、農商務省の酒匂常明、鉄道作業局の野村龍太郎と、もうひとり自分自身を加えるという念の入れようであった。お忍び旅行の目的は、清国側の考えや態度を確認し、清国官吏の心証をよくし、また彼らとの交友を通じて戦後の満洲経営のための地ならしをしようというものであった。そこで西園寺は満洲に対する列強の関心の強さを実感し、清国官吏がロシア軍にかわる日本軍の支配に強い反感を抱いていたことを知るのである。3週間の旅行を終えた西園寺は、満洲問題について会合を開き、方針を協議することとした。",
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"text": "一方、ロシアから南満洲支線を引き継いだ野戦鉄道提理部では、ただちに改修工事に着手した。上述のように昌図・四平街間は施設がかなり損壊されており、双廟子駅(中国語版)に至っては跡かたもなく破壊されていた。さらに、双廟子 -四平街間は、枕木もレールも撤去されており、その間の橋桁、場所によっては橋脚も破壊されていた。野戦提理部は、1906年9月6日には双廟子まで、10月1日には公主嶺まで、そして11月11日は孟家屯(現在の長春南駅)までのゲージを狭軌に改築し、大連との間に直通列車の運行を開始した。",
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"text": "すでに1905年10月21日には、奉天以南の区間で軍用以外の運輸営業を開始しており、11月25日には昌図までこれが延長されていた。1906年に入ると引き継ぎを終えて修理が完成した区間から一般の人びとにもこれを利用できるようになった。戦争終了後、1905年の年末まで軍隊の復員輸送が主であり、一般輸送はほとんど行われなかった。しかし、それが終わるとしだいに中国東北部の縦貫幹線としての性格を強め、多くの人びとが満洲に強い関心を示すようになり、内地では職を求めて満洲に出かける人が増加した。なかにはいわゆる「一旗組」もあり、旅館、食料品店、理髪店、飲食店、衣料品店、遊廓などの個人営業、また企業も満洲に進出し、その職員が大連、大石橋、遼陽、奉天といった都市はもとより、小さな町にも入り込んで生活の基盤をつくろうとしていた。鉄道は、こうした人びとの活動をささえる重要な交通手段でもあった。",
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"text": "日本軍は撤兵期限ぎりぎりまで満洲に軍政を布き、日本の勢力を同地に植え付けようとしていた。1906年5月22日、英米との関係悪化を憂慮した伊藤博文が中心となって元老、閣僚、軍部首脳などを集めて首相官邸で「満洲問題に関する協議会」を開催した。このとき、日露戦争の功労によって声望が高まり、首相待望論さえ出ていた陸軍参謀総長の児玉源太郎は「兵力の運用上の便利を謀り陰に戦争の準備」を行うとともに「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という積極的満洲経営論を唱え、伊藤らと対立した。伊藤は関東州租借地の清国への返還と軍政の早期廃止方針を唱え、山縣ら陸軍関係者は誰も児玉を擁護しなかったので、伊藤の主張が通って軍政廃止が決定した。",
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"text": "これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった。児玉は当初官設機構を考えていたが、このころには民間会社の方式によるべきだとの考えに変わっていた。",
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"text": "満洲問題協議会では、児玉源太郎と元老の伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違していた。児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は平壌以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった新渡戸稲造はドイツ帝国における内国植民政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した。伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である後藤新平は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らは東インド会社を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた。両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、下関条約による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った。",
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1906年6月7日、明治39年勅令第142号「南満洲鉄道株式会社ニ関スル件」が公布された。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めることとし(第2条)、日本政府は、炭坑をふくめた満鉄の財産による現物出資ができるものとした(第3条)。本社を東京市、支社を大連におくこと(第6条、ただし1907年3月5日の勅令第22号により本社を大連、支社を東京市に改めた)、役員は総裁1名、副総裁1名、理事4名以上を置き(第7条)、総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命すること(第9条)、政府は会社の業務監視のため南満洲鉄道株式会社監理官を置くこと(第12条)が定められた。同勅令の付則には設立委員の規定があり、定款の作成と第1回株式募集等がその任務とされた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "7月13日、第1次西園寺内閣は、児玉を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した。この委員のなかには京釜鉄道会社の設立にもかかわった渋沢栄一、竹内綱といった財界人、のちに満鉄総裁となる仙石貢や野戦鉄道提理だった武内徹といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、石井菊次郎通商局長、関東州民政署事務官の関屋貞三郎、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚、貴衆両院の議員、さらに軍部首脳もふくまれていた。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは国策会社としての性格の濃いものであったことを示している。",
"title": "歴史"
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"text": "上記のように、設立委員が定款の作成にあたることになっており、定款の調査委員は調査委員長が渋沢栄一、以下、山座円次郎、岡野敬次郎、荒井賢太郎、仲小路廉、山之内一次、和田彦次郎、堀田正養、大石正巳、土居通夫、中野武麿、大岡育造、佐々友房の計13名であった。このうち、山座・荒井・仲小路の3名は1月発足の満洲経営委員会(委員長は児玉源太郎)の当初メンバー6名にも名を連ねており、株式会社組織をとりながら同時に政府機関としての性格をもたせる役割をになった。こうしたなか、設立委員長だった児玉源太郎が7月23日に急逝し、24日には喪が発せられた。25日、新委員長に就任したのは寺内正毅陸軍大将であった。",
"title": "歴史"
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"text": "1906年8月1日、外務・大蔵・逓信3大臣連名による「南満洲鉄道株式会社設立命令書」(外務・大蔵・逓信大臣秘鉄14号)が下付された。命令書は全文26か条で非公開とされた。公表された勅令よりも具体的な業務の範囲、資本金総額、政府の保護、会社に対する政府の命令権などが規定されていた。設立業務は、この命令書をもとに寺内委員長のもとですすめられた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "第1回株式募集は9月10日に開始された。募集株式10万株(2,000万円)、締め切りの10月5日までに役員持株1,000株を除く9万9,000株に対して、総申込株数は1億664万3418株に達し、申込人数は1万1,467人であった。少額申込の111人402株については割当てから外したが、それでも所要株数に対して1077倍という株式ブームの状況を呈した。清国人からの申込みもいくらかはあったが、この高倍率では割当てから排除されても疑義をはさむ余地がなかった。いずれにしても、この倍率は満鉄が当時植民地経営企業としての経済的機能を一般から広く期待されていたことを物語っていた。清国政府は結局、締め切りを過ぎても応募してこなかった。11月10日、清国政府は満鉄設立について厳しい調子の抗議を寄せた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "1906年11月1日、満鉄の設立が逓信大臣より認可された。11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は神田区の東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資とした。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった。政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待された。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで西園寺首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 35,
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"text": "開業は1907年4月1日となった。南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満洲鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に日露満洲鉄道接続業務条約が調印されてからであった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた。1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連で創刊され、1907年8月以降、鉄道沿線にはヤマトホテルが開業した。大連には、満鉄中央試験所、電気公園もつくられた。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった。電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった。",
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"text": "こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができることを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の中村是公を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した。三井物産門司支店長だった犬塚信太郎は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。",
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"text": "レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1,524 mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌に改築していた。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435 mm)の国際標準軌間に改めておかなければならなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、1907年4月1日のことであった。",
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"text": "満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・蘇家屯間の複線化が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった。そこで、狭軌の線路が敷設してある箇所にもう1本レールを敷いて三線式とし、狭軌と標準軌の両方の列車が運行できるようにした。この技術はきわめて複雑なものであったが、満鉄がのちのちまでその技術を誇る水準のものであった。旅順線では1907年12月1日から全面的に標準軌列車に移行した。長春・大連間の本線では1908年5月に移りかわりダイヤグラムをつくり、22日長春・公主嶺間、23日公主嶺・鉄嶺間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・瓦房店間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へと切り替わり、5月30日からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した。営口線その他の付属線もこの間に標準軌に改軌されている。",
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"text": "不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった。安奉線を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の周水子駅で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "日露戦争中に2フィート6インチ(762 mm)の軍用軽便鉄道として敷設された安奉線については、全面的な改築を必要とした。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった。1909年1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して1911年11月1日、工事は完成した。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった。並行して行われていた鴨緑江の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった。",
"title": "歴史"
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"text": "鴨緑江の架橋については、ジャンク船の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった。日本は朝鮮側(新義州側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを京義鉄道の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、沙河鎮駅で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた。具体的には、",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 46,
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"text": "などであった。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "1908年11月、光緒帝と西太后が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣袁世凱が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった。清国は、清韓国境の間島問題で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべてハーグの常設仲裁裁判所に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って間島の問題では清に妥協すべく動いた。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の領事裁判権要求も取り下げた。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた。また、1909年9月4日には間島に関する日清協約と満洲五案件に関する日清協約が結ばれ、清の主張にそって豆満江が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は開市されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・会寧間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず、満鉄を中心とする一元的な満洲経営を目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省や逓信省、外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった。そこで後藤は桂太郎に接近し、1908年7月、第2次桂内閣の逓信大臣として懸案事項の解決を図ろうとした。後藤総裁は満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時の苦心によって一体感を生み出されており、その団結はきわめて固かった。新しい満鉄総裁には、副総裁だった中村是公が就任した。後藤は、入閣して早々満鉄の監督権を逓信大臣に移し、1908年12月には鉄道院を開設して満鉄監督権をここへ移管した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1909年9月、中村新総裁が大学予備門時代以来の友人である文学者、夏目漱石を満洲に招いた。漱石は旅行での見聞や感想を随筆「韓満所感」および「満韓ところどころ」として書き記した。当時の満鉄は、その事業内容を内外に広く宣伝することに努めており、中村総裁が漱石を招いたのも単に友人を招待するのではなく、人気作家である漱石のペンを通して満鉄の事業を宣伝させる目的もあったろうと考えられる。漱石は大連では中央試験所や電気公園を案内され、同級生だった橋本左五郎や佐藤友熊、夏目家で書生をしていた股野義郎らと旧交を温めた。また、旅順、営口、奉天、撫順炭坑、ハルビン、長春などを経て安東、釜山を経て内地に帰った。「韓満所感」は1909年11月5日・11月6日付の「満洲日日新聞」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年10月21日から12月30日まで掲載された。中村新総裁は、豪放なべらんめえ口調でありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事は有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢を貫いた。理事の合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府の官僚システムとは異なる植民地会社独特の合理主義的官僚制と業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一方、後藤は、1909年12月、韓国鉄道をも鉄道院の所管とすることにいったん成功し、国内鉄道も含めた鉄道の一元的管理を実現した。しかし、韓国鉄道は韓国併合直前に朝鮮総督府財政の根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張がこののち受け入れられて、総督府管轄に改められた。後藤はなおも植民地統治の一元化のために拓殖局を設置し、桂首相が総裁、みずからは副総裁となった。そのうえで後藤は、1910年12月、翌1911年度からの13年間継続事業として総額2億3,000万円の予算で新橋・下関間の国際標準軌改築案を閣議決定に持ち込み、さらに第二十七議会への提出にこぎつけた。桂と後藤は、国内鉄道と韓国・清国の鉄道で使用されているゲージを統一することで、戦時における軍事輸送の利便を向上させるのみならず、内地と外地の経済的結びつきを強めて輸出増進を図ろうとした。そのため神戸港の港湾修築や下関の陸海連絡設備の両事業も鉄道院の所管としたのであった。しかし、ここで桂太郎と立憲政友会の「情意投合」という政治的妥協にはばまれ、鉄道普及を優先する政友会の意向により、標準軌改軌案は事実上の廃案となってしまった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "なお、1911年7月にロンドンで開かれた第6回国際連絡運輸会議では、イギリス―カナダ―日本―シベリアという経路で世界一周をする世界周遊券、日欧を結ぶ東半球一周周遊券の設置が決まり、この周遊券は1913年より販売が開始された。「新橋から倫敦ゆき」の切符は、ジャパン・ツーリスト・ビューローで購入することができ、ロンドンまでの1等運賃は433円35銭、2等運賃は286円45銭であった。南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである。中村・国沢の更迭は大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり、これは政友会総裁で山本内閣の内務大臣、原敬の差し金であったといわれる 。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 53,
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"text": "折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた。その結果、特別運賃は事実上撤回された。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった。その結果、1914年7月、犬塚が第2次大隈内閣によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1914年の7月にはまた、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発している。大戦は直接戦場にならなかったアメリカ合衆国や日本に大戦景気と呼ばれる特需をもたらしたが、朝鮮や台湾、満洲を含む中国大陸にも好景気をもたらした。",
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"paragraph_id": 55,
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"text": "1914年度には、大連の満鉄沙河口工場でH4形と呼ばれる加熱式機関車6両の独自に製作された。当初の満鉄は、広漠な満洲の原野を長距離無停車運転する鉄道にはアメリカで開発された技術が好適であるとしてアメリカ製機関車・客車・貨車を大量に導入していたが、これは、アメリカの技術を通じて独自の技術水準を積み重ねた成果であった。なお、満鉄が機関車自社製造体制を確立させるに至るのは1921年のことである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "大隈重信内閣は1914年7月、野村と伊藤に代わり、中村雄次郎を満鉄総裁に送り込んだ。1917年7月まで総裁を務める中村は、軍人出身で陸軍省次官、総務長官、八幡製鉄所長官を歴任した人物であった。こうして内閣が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった。アジアが好景気に沸くなか、加藤高明外相は、1915年1月に中華民国の袁世凱政権に対し「対華21カ条要求」を突きつけた。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国ナショナリズムを引き起こし、日貨排斥運動が起こった。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『満洲日日新聞』1915年4月6日付)、「大連駅の大混雑」(同4月7日付)といった混乱が生じた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1917年のロシア革命は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争(シベリア出兵)がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである。ロシア革命に対する満鉄の反応は素早く、すでに1917年6月、理事の川上俊彦をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた。11月15日、川上は帰国して本野一郎外相にボルシェヴィキによるロシア十月革命も含めた「露国視察報告書」を提出した。この報告書は寺内正毅や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。1918年(大正7年)原敬内閣が成立すると、原は1919年(大正8年)4月、国沢理事長を更迭した。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の中西清一を起用した。1920年、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である森恪が経営する炭坑であり、内田汽船の経営者も政友会系の内田信也であった。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた(満鉄疑獄事件)。1921年、野党の憲政会はこの問題を帝国議会で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった。司法の場でも中西は背任罪で告訴された。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、検事に対し決定的証拠を提出した。中西は逮捕、起訴されたが、東京控訴院での控訴審では証拠不十分として無罪となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、早川千吉郎、川村竹治、安広伴一郎が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、1927年(昭和2年)には社員会が結成された。社員会は全社員の加入によって構成されており、したがって一般の労働組合組織とは異っていたが、政党の介入に対抗する意味とともに当時の労働運動昂揚の風潮もまた影響していたとみることができる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "1926年7月1日、蔣介石が北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した。蔣介石率いる国民革命軍が南京、上海を占領して、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵)。",
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"paragraph_id": 61,
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"text": "6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の松岡洋右が就任した。",
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"text": "山本は、三井物産上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった。山本は「産業立国論」を持論とし、人口問題、食糧問題、金融恐慌、失業問題の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、移民の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、マグネシウム・アルミニウム関連工業ならびに肥料工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、",
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"paragraph_id": 63,
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"text": "の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蔣介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖は交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した。しかし、細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまった。",
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"text": "1928年、満鉄は米系ロシア人から情報提供を受け、ジャライノールなどで油田調査を開始したところ、1中国と朝鮮の国境の間島問題が深刻化し始めた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "1928年(昭和3年)6月4日、張作霖を乗せた専用列車が奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男らであった。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた張学良を擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた。東宮は中国人の苦力2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである。",
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"text": "この事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた。しかし、上原勇作や閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された線路の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた。昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、牧野伸顕や鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相を問責した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 67,
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"text": "満洲の張作霖と中国本土の蔣介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した。張作霖の子息、張学良は父親の死の事実を隠し通し、冷静に対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し、奉天軍閥を率いる父の後継者に就任するという離れ業をやってのけた。1928年12月、張学良は国民政府の青天白日旗を掲げて易幟を行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚で親日派の巨頭だった楊宇霆と常蔭槐を1929年1月に暗殺して親日派を一掃した。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、8月14日、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には仙石貢が就任した。",
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"text": "一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐が関東軍参謀に着任した。1929年5月には板垣征四郎が河本大作後任の高級参謀として着任した。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンからハイラル、満洲里、洮南の各地をまわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、1930年3月の満鉄調査部での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "関東軍においては石原莞爾を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった。もとより、これ以前にも21か条要求の際の明石元二郎などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった。石原の満蒙領有論は元来、世界最終戦論を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論であり、そうでなければ長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものであった。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら事を進めるべきだとの論もあり、その中心人物が板垣征四郎であった。板垣の意見は、事変の長期化によって満蒙領有論が後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "1929年秋に始まった世界恐慌は日本に深刻な影響をもたらしたのみならず、満洲にも多大な影響を及ぼした。恐慌により満鉄の営業成績が著しく悪化したことに加え、中国側は満鉄並行鉄道の建設を計画しており、もし、これが実現すると満鉄経由の貨物輸送がさらに減少し、経営は危機的状況に陥ることが懸念された。なお、中国では、1930年5月から、蔣介石と反蔣介石連合との間で中原大戦が始まっているが、その帰趨を決したのは張作霖の後継者、張学良であった。1930年9月、閻錫山のもとに汪兆銘・馮玉祥など反蔣の人々が立場を越えて集まり政権を成立させたが、反蔣の立場から期待されていた満洲の張学良は9月18日、蔣介石支持の立場を鮮明にしたのである。張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会と東北交通委員会は、中央集権の強化を目指す立場には反しているとはしながらも、その存続を主張して蔣介石から了解を得ていた。",
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"text": "東北交通委員会は、日本の満洲権益の中核である満鉄を中国鉄道で包囲し、満洲中の貨物を満鉄から奪還し、満鉄の機能を麻痺させる計画を立てていた。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線を建設し、これを北平(北京) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄を包囲してその死命を制するのみならず、ソ連の権益鉄道である東支鉄道(東清鉄道)にも重大な脅威を与えることができるという構想である。資金調達は官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道が外国支配を招かないよう厳しい条件を付したうえで外国資本(特にアメリカ資本、ドイツ資本)を受け容れることとした。すでに7月より錦州南方の葫蘆島ではドイツ資本による大規模な海龍地区の港湾建設工事が始まっていた。東北交通委員会が計画する2大幹線が完成すれば、満洲南北の要地から中国鉄道を経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用で大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された。すでに完成している中国鉄道は、北寧(北平‐奉天)、奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)、吉敦(吉林 - 敦化)の東4線、北寧、四洮(四平街 - 洮南)、洮昴(洮南 - 昴昴渓)、斉克(チチハル - 克山)の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引を実施するなど、満鉄圧迫策を強めた。",
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"text": "世界恐慌の影響は満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年(昭和5年)度に大連港で扱った輸出入貨物は、前年度に比べて輸出約200万トン、輸入約50万トン減少した。これは、当然満鉄の輸送収入を悪化させ、満鉄の鉄道事業の収益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場が1930年に入って暴落したことも、銀建運賃をとっていた中国鉄道には有利である反面、金建運賃をとっていた満鉄には大きな痛手であった。すなわち、銀貨国において金建運賃を採用している満鉄にあっては、銀暴落は必然的に運賃高騰を招くのであって、安価なライバル線に貨物輸送が奪われるのは当然のことだったのである。",
"title": "歴史"
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"text": "世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件が重なり、1930年以降の満鉄をめぐる情勢は深刻なものとなっていった。1930年の国勢調査では、関東州と南満洲鉄道付属地帯(満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた。在満日本人22万8,000の大部分は満鉄附属地に住し、満鉄ならびにその付属会社に直接間接に依存して生計を立てていたのである。",
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"text": "浜口雄幸内閣の外相、幣原喜重郎は、北伐以後の国権回復運動が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、鄭家屯 - 長春、鄭家屯 - 彰武、洮南 - ハルビン、洮南 - 通遼については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた。幣原の方針は、11月14日付の訓令によって重光葵駐華代理公使に伝えられた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1931年(昭和6年)1月、前満鉄副総裁で政友会代議士の松岡洋右は帝国議会で「満蒙はわが国の生命線である」と述べて満蒙の重要性を強調した。松岡によれば、満蒙に日本が勢力を張るに至ったのは、中国が朝鮮の独立に脅威を与え、ロシアが日本の存立を脅かしたからであり、それを日本は日清・日露の両戦争を勝ち抜いたことで満蒙権益が認められたのであるとした。しかるに、現在の満蒙は国民の経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず、国防上の危機にさらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して、武力による強硬な解決を主張した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "1931年9月18日、関東軍は、張学良が北平に滞在し、奉天軍閥の主力が長城以南に結集、さらに残存留守部隊が東三省に分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖で満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)を引き起こした。そして、それを中国側の仕業と発表して懸案の満洲占領作戦を実行にうつした。関東軍の作戦計画は、各部隊を迅速に奉天に集中させ、戦闘開始の劈頭で東北軍主力を叩き、その権力中枢を麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的容易であるという考えであった。いずれにしても、関東軍は第2師団と独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって、留守部隊とはいえ戦車、航空機、重火器、若干の毒ガス兵器を装備した張学良軍20万余と対峙したのである。関東軍は野戦訓練を重ね、24センチ榴弾砲を秘密裏に奉天に運び入れて夜襲と威嚇射撃により相手の虚を突く軍事行動を展開した。実際、榴弾砲の轟音と地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れた。北平にあった張学良は日本軍の挑発に乗らないよう無抵抗を指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間で占領された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "柳条湖事件勃発のときから政府は陸軍の謀略であることを強く疑っており、9月19日の本庄繁関東軍総司令官からの増援要求も一蹴されていた。閣議でも不拡大方針が確認され、幣原喜重郎外相や井上準之助蔵相が南次郎陸相に対し、部隊の原駐地への帰還を強く迫った。そこで関東軍は吉長線経由で吉林に第2師団主力を送り込み、わざと奉天の警備を手薄にして朝鮮軍に来援を要請したが、9月19日、金谷範三参謀総長は出兵を制止した。関東軍は9月21日には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた林銑十郎を司令官とする朝鮮軍が独断で鴨緑江をわたり、満洲に入った。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した。そして9月28日までには袁金鎧を奉天地方維持委員会委員長に、煕洽を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて奉天省・吉林省の張学良からの独立を宣言させた。黒竜江省の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の馬占山とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った。当時の満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "ところが、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「馬賊」や「匪賊」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化の一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様だったのである。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていた。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派を認めなかった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった錦州への空爆である。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた(錦州爆撃)。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた。天津の支那駐屯軍は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった。第2次若槻内閣と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた。国際連盟の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、ジュネーヴでは満洲の委任統治構想が急浮上していた。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 80,
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"text": "しかし、アメリカ合衆国のヘンリー・スティムソン国務長官の記者発表によって事態が急転する。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内のメディアで報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは統帥権干犯にあたるとして猛烈な反発を招いたのである。皇道派、平沼騏一郎らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 81,
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"text": "第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった。東三省の要人たちは本庄繁関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長張景恵、奉天省長臧式毅、吉林省長煕洽、そして馬占山の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 82,
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"text": "1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国の建国が宣言された。満洲国の首都は長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある傀儡国家であった。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他社会資本は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された。これは、のちの日満議定書で確認されることとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ。犬養首相はしかし、五・一五事件で暗殺され、これにより戦前の政党内閣は幕を閉じた。後継首相は斎藤実であった。斎藤内閣は政友会・民政党からの入閣を得て「挙国一致内閣」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には日満議定書を結んで満洲国の承認に踏み切った。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1932年4月、軍部に批判的だった江口定条副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、林博太郎が新総裁となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に武藤信義大将、軍参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて装甲列車を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった。1933年2月9日、満洲国管轄下の鉄道(満洲国国有鉄道)は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "なお、国内では1933年、日本共産党の最高幹部だった佐野学と鍋山貞親は獄中から転向声明を発したが、これを機に大量転向が現れた。かれら転向者には、統制経済や国家官僚を通じた計画経済に新たな期待を寄せ、国家社会主義をとなえる者が多かった。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "満鉄幹部で外交官の松岡洋右は1933年3月に国際連盟を脱退し、岸清一没後の帝国弁護士会は1934年に軍備拡大支持の声明を発し、日本政府はワシントン海軍軍縮条約を破棄した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 89,
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"text": "従来の中東鉄道については、満洲国建国後の1933年5月30日、ソ連と満洲国との合弁事業となったが、満鉄ではこの鉄道を「北満鉄路」と称した。北満鉄路は、ソ連から有償で譲り受け、完全に満洲国の国有鉄道に移管する方針が立てられ、同年6月26日より譲受の交渉が始まった。北満鉄路(中東鉄道)側は、周囲に満洲国国有鉄道の線路網が張りめぐらされて経営困難になっていたのである。ソ連側から北満鉄路の譲渡が打診され、満ソ両国代表にオブザーバーとして日本政府代表が参加したが、譲渡価格がソ連側2億5000万ルーブル(6億2500万円)に対し、満洲国側が5000万円でまったく折り合わなかった。結局、1年以上の交渉を経て1934年9月21日に譲渡価格1億4000万円、ソ連側退職者の資金3000万円の計1億7000万円で妥結し、1935年1月22日に細目協定が成立、同年3月11日に仮調印、3月23日には譲渡協定のほか債務にかかわる満ソ秘密議定書、最終議定書など5件の正式調印を完了して北満鉄路全線の接収がなされた。接収した鉄道線路の総延長は1,732.8キロメートルであった。",
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"text": "北満鉄路の軌間は5フィートであったため、標準軌に改軌する工事が必要で、新京・ハルビン間は1935年8月22日に着手し、29日に準備終了、30日の運転が終了後に作業を開始し、終了予定は翌日8時だったが全部の作業を7時50分に終了して試運転もおこない、ただちに平常業務がなされた。作業参加人員は2,508名、通信設備その他の切り替えもこの時なされ、この工事は満鉄の技術力を示すものとして高く評価された。",
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"text": "1934年、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が登場し、大連 - 新京(長春)間700 kmあまりを8時間半で結んだ。北満鉄路接収後の1935年9月には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。",
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"text": "満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した。",
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"text": "満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、満洲国の経済における満鉄の独占的地位を問題とした。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された。1935年(康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた。北黒線や虎林線はその代表例である。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された。",
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"text": "一方、満洲国における本格的な重工業開発は、1936年に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・兵器・自動車・飛行機などの重工業を重点的に育成することを目標としていた。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった岸信介であった。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった。そこで、当時新興財閥と呼ばれた鮎川義介の日本産業株式会社(日産コンツェルン)を満洲に引き入れる方策がとられた。日産は、傘下に日産自動車、日立製作所、日本鉱業、日本化学工業など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである。すでにシナ事変(日中戦争)の始まっていた1937年12月のことであり、社名も満洲重工業開発(通称、「満業」)に改めた。満業は2億2500万円を出資し、1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満業に提供した。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した。また、満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。",
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"paragraph_id": 95,
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"text": "満洲国成立後、本来の路線(社線)のほかに、満洲国が1935年にソ連から買収した北満鉄路を含む国線や北部朝鮮の一部の鉄道の運営と新線建設を受託し、営業キロ数を格段と伸ばしていった。これに対応するため満鉄は、1936年10月1日、鉄路総局・鉄路建設局、そして満鉄の鉄道部を全て統合し、奉天に「鉄道総局」を設置した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道を統括する大事業者として君臨することを意味していた。満鉄と国鉄の経営統合は、関東軍の意向をくじくものであり、満洲の鉄道事業にさかんに干渉してくる関東軍に一矢報いる行動であった。また、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった。",
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"paragraph_id": 96,
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"text": "満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである。1936年までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた。",
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"paragraph_id": 97,
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"text": "1936年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、高橋是清蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置づけ、「満洲開拓移民推進計画」を決議した。同年末には、先に関東軍作成の「満洲農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」が策定された。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は加藤完治で、業務を担っていたのは満洲拓殖公社であった。",
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"paragraph_id": 98,
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"text": "1937年7月の日中戦争開始後は華北に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった。",
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"paragraph_id": 99,
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"text": "一方開拓移民は、日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった。1937年、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)が発足し、1938年(昭和13年)に農林省と拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満洲両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。",
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"paragraph_id": 100,
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"text": "大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万キロメートルを超えた。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で太平洋戦争を迎えることとなったのである。1940年、満鉄の資本金が14億円に増資された。",
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"paragraph_id": 101,
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"text": "日中戦争が泥沼化するなか、1941年4月にはソ連と日ソ中立条約を結び、7月には大本営が関東軍特別演習動員の命令を下した。これは、独ソ戦開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが、結果としては対ソ戦争の断念と南進論の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争が始まった。",
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"paragraph_id": 102,
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"text": "1942年10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には関門トンネルの開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった。このころは、下関・釜山をむすぶ海底トンネルが計画され、一時的にではあるが「大東亜共栄圏」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた。しかし、同年の泰緬鉄道の建設、1944年の大陸打通作戦などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 103,
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"text": "1943年には奉天の鉄道総局そのものが廃止された。満鉄本社が新京に移され、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した。満蒙開拓団は、1941年以降は統制経済政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「根こそぎ動員」の対象となっていった。",
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"paragraph_id": 104,
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"text": "かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、満洲国協和会中央本部の実践科主任であった平賀貞夫が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金横領の事実をつかみ、1941年11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した。これが合作社事件である。",
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"paragraph_id": 105,
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"text": "憲兵隊はゾルゲ事件の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた鈴木小兵衛が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに1942年9月と1943年7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「満鉄調査部事件」)。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が執行猶予付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 106,
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"text": "1945年5月30日、大本営は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 107,
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"text": "1945年(康徳12年/昭和20年)8月9日、ソビエト連邦は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった山崎元幹の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた。この営みは、8月15日の玉音放送後も変わりなくつづけられた。8月17日、関東軍総司令官山田乙三は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている。8月20日、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 108,
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"text": "満鉄は、満洲に侵攻したソ連軍に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。しかし、9月22日の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、9月27日、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した。9月28日、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている。1946年1月15日、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した。1月21日、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は戦利品であると通告したという。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "その後、国共内戦によって1949年に中国共産党率いる中華人民共和国が成立し、1955年には中国政府への路線引き渡しが完了した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "日本国内における拠点等は1945年9月30日、GHQが発出した「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書に基づき、即時閉鎖(閉鎖機関)が行われた。ただし、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、会社の清算結了(法人格消滅)は1957年4月13日までずれ込んでいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 111,
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"text": "満鉄社員は総裁以下、1945年9月30日付で全員解雇となった。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、山崎総裁はじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これは「留用」と称され、山崎総裁の留用が終わったのは1947年8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった。ほとんど全ての社員は1948年6月4日を以て留用を終えた。なお戦中の満鉄総裁であった大村卓一は、1945年11月、中国共産党軍のゲリラに逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "しかし、一部は1949年の中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された。天水 - 蘭州間の天蘭線(現在の隴海線の一部)はその成果の一つであり、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の1953年に「天水会」を組織した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "一方、日本国内では1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、旧社員の就職斡旋などを目的として「満鉄社友新生会」が発足した。その後、1954年(昭和29年)7月に「財団法人満鉄会」に改組し、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った。満鉄会の会員は最盛期で約15,000人にのぼったが、2016年(平成28年)3月末をもって解散した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や大慶油田とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では、現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。",
"title": "歴史"
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"text": "かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 117,
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"text": "2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "1934年(康徳元年/昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特別急行「あじあ」(中国人向け案内には「亜細亜」表記)が登場した。最高速度は110 km/h、表定速度は82.5 km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8 km/hを上回った。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の同区間を走る急行「はと」の所要時間約10時間半を2時間も短縮させた。6両の客車を表定時速80キロ以上で走る「あじあ」は当時の代表的な超高速列車であり、世界的に注目を浴びた。高速運転を可能にした理由の一つが、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシナ型」と呼ばれる車両によって牽引されたことである。客車は全車両空調装置完備であり、このような列車は世界で初めてであった。1935年(康徳2年/昭和10年)9月には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。1943年(康徳10年/昭和18年)2月、戦局の悪化にともない突然運休し、そのまま姿を消した。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "1932年(大同元年/昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた。満鉄初の愛称付き急行であった。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった。1934年以降は「パシナ型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年(康徳2年/昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満洲国国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年(康徳3年/昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置した。それにともない、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった。1943年(康徳10年/昭和18年)には鉄道総局そのものが廃止され、その業務は満鉄本社に継承された。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "以下は、1945年(康徳12年/昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "凡例 : [貨] 貨物線",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "満洲国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "湯旺森林線",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "南満洲鉄道株式会社各種事業収支(単位:万円)",
"title": "営業実績"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "歴代代表者は、以下の表に示す通りである。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る。",
"title": "歴代代表者"
}
] |
南満洲鉄道株式会社は、南満洲の鉄道会社。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡され、この鉄道事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業である、日本の満洲経略における重要拠点となった。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = 南満洲鉄道株式会社
|英文社名 = The South Manchuria Railway Co., Ltd.
|ロゴ = [[File:The mark of South Manchuria Railway.svg|150px|社章]]
|画像 = [[File:Mantetsu Honsha.jpg|300px]]
|画像説明 = 大連の南満洲鉄道本社
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 =
|略称 =
|国籍 =
|郵便番号 =
|本社所在地 = {{QIN1890}}[[大連]]([[日本]][[租借地]][[関東州]])(1906-11)<br>{{ROC}}[[大連]](日本租借地関東州)(1911-33)<br>{{MCK}}[[奉天市]](1933-43、鉄路総局)<br>{{MCK}}[[新京市]](1943-45)
|本店所在地 = [[関東州]][[大連市]]東公園町30
|設立 = [[1906年]]11月26日
|解散 = [[1945年]][[9月30日]]
|業種 =
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業他
|代表者 = [[#歴代代表者|当項目「歴代代表者」節]]を参照
|資本金 = [[#資本金|当項目「資本金」節]]を参照
|発行済株式総数 =
|売上高 = [[#営業実績|当項目「営業実績」節]]を参照
|営業利益 =
|経常利益 =
|純利益 =
|純資産 =
|総資産 =
|従業員数 =
|支店舗数 =
|決算期 =
|主要株主 = [[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]] 50%
|主要子会社 = [[華北交通]]、[[大連都市交通]]、[[満洲航空]]、[[昭和製鋼所]]
|関係する人物 = [[後藤新平]](初代総裁)
|外部リンク =
|特記事項 = 1945年9月閉鎖、1957年清算結了。
}}
'''南満洲鉄道株式会社'''(みなみまんしゅうてつどう、{{旧字体|'''南滿洲鐵道󠄁株式會社'''}}{{refnest|group="注釈"|旧字体「[[File:Gw u9053.svg|16px]]」の字は、[[異体字セレクタ]]を用いた[[Unicode]]の符号位置はU+9053,U+E0101。}}<ref>[[c:File:The South Manchuria Railway Co.jpg|THE SOUTH MANCHURIA RAILWAY CO.]]</ref>)は、[[南満洲]]の鉄道会社<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/南満州鉄道-639191 コトバンク「南満州鉄道」]</ref>。[[日露戦争]]に勝利した後、[[1905年]]([[明治]]38年)に締結された[[ポーツマス条約]]に基づき、[[東清鉄道]][[哈大線|南満洲支線]]([[長春]]・[[旅順]]間鉄道)やその支線は[[ロシア帝国|ロシア]]から[[日本]]に譲渡され<ref name="日本国語大辞典">[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93-639191#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典「南満州鉄道」の解説(コトバンク)]</ref>、この[[鉄道事業]]および付属事業を経営する目的で[[1906年]](明治39年)に設立された半官半民企業である<ref name="デジタル大辞泉">[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93-639191#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.898 デジタル大辞泉「南満州鉄道」の解説(コトバンク)]</ref>、日本の満洲経略における重要拠点となった<ref name="kotobank" />。略称は'''満鉄'''(まんてつ、<span lang="ja" style="font-family:游明朝;">'''滿鐵'''</span>)。
== 概要 ==
{{See also|野戦鉄道提理部|中国長春鉄路}}
[[ファイル:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg|thumb|right|300px|南満洲鉄道を走る列車]]
南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、[[日露戦争]]の勝利後、[[1905年]]([[明治]]38年)9月に締結された[[ポーツマス条約]]によって、[[ロシア帝国]]から[[大日本帝国]]に譲渡された[[東清鉄道]](中東鉄道)[[哈大線|南満洲支線]]([[長春]]・[[旅順]]間鉄道)約764キロメートルとそれを含む[[鉄道事業]](当初の総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、[[1906年]](明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である<ref name="kotobank" />。その前身は、日露戦争における[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]]の'''[[野戦鉄道提理部]]'''であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した[[軽便鉄道]]の[[安奉線]]([[丹東駅|安東]]・[[瀋陽駅|奉天]]間鉄道)とその付属地であった<ref name="ajireki-glossary">[https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0080-0090-0010-0010.html アジ歴グロッサリー「南満洲鉄道株式会社」(公文書にみる明治日本のアジア関与—対外インフラと外政ネットワーク—)]([[国立公文書館]]:[[アジア歴史資料センター]])</ref>。満鉄は、[[撫順市|撫順炭鉱]]および[[煙台市|煙台炭鉱]]も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地([[満鉄附属地]])において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した<ref name="kotobank" /><ref name="ajireki-glossary" />。本社は[[関東州]][[大連市]](現、[[中華人民共和国]][[遼寧省]]大連市)に置かれた<ref name="harada18">[[#原田1|原田(1991)pp.18-22]]</ref>。
[[1931年]]([[昭和]]6年)9月に[[満洲事変]]が勃発し、[[1932年]]([[大同 (満洲)|大同]]元年/昭和7年)3月に[[満洲国]]が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された<ref name="kotobank" />。[[1933年]](大同2年/昭和8年)2月、満洲国管轄下の鉄道は、満鉄が満洲国政府に対して供与する[[借款]]の[[担保]]というかたちで、委託経営がなされることとなり、3月より実施された<ref name="harak156">[[#原田2|原田(1981)pp.156-161]]</ref>。[[奉天市]](現、遼寧省[[瀋陽市]])に鉄路総局が設置され、満鉄本社内には鉄道建設局が置かれた<ref name="harak156" />。また、[[1935年]]([[康徳]]2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった<ref name="kotobank" />。
最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大[[コンツェルン]]で、鉄道総延長は1万[[キロメートル]]、社員数は40万人を擁した<ref>[[#西澤|西澤(2000)]]</ref>。満鉄は、[[鉱工業]]をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、[[1945年]](康徳12年/昭和20年)、[[第二次世界大戦]]末期の[[ヤルタ協定]]によって[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への接収が決まり、1945年9月に受け皿となる[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]・[[ソビエト連邦]]の合弁経営主体'''[[中国長春鉄路|中国長春鉄路公司]]'''が発足<ref name="kotobank" />。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において[[閉鎖機関]]となった。満鉄が保有していた鉄道は、[[中華人民共和国]]成立後の[[1952年]]から[[1955年]]にかけて、中華人民共和国に引き渡された。
=== 事業内容 ===
{{see also|昭和製鋼所|ヤマトホテル|満鉄調査部|満鉄公所}}
[[ファイル:Mantetsu tokyo sisha.jpeg|thumb|right|虎ノ門にあった満鉄東京支社(1936年撮影)]]
[[ファイル:Dairen Yamato Hotel.JPG|thumb|right|300px|大連[[ヤマトホテル]]]]
1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、[[黒木為楨]]率いる[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]が[[鴨緑江]]を渡って進撃しているとき、当時[[参謀次長]]であった[[児玉源太郎]]が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、[[イギリス東インド会社]]について調査するよう依頼した<ref name="harada9">[[#原田1|原田(1991)pp.9-14]]</ref>。上田の回想によれば、これは元々[[後藤新平]]が言い出したことを[[台湾総督府]]における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという<ref name="harada9" />。
満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満洲経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、'''陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ'''」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった<ref name="harada9" />。「満洲経営梗概」は、児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である<ref name="harada9" />。
満鉄は鉄道経営に加えて満洲の[[農産物]]を一手に支配し、[[炭鉱]]開発([[撫順]]炭鉱など)、[[製鉄]]業([[昭和製鋼所|鞍山製鉄所]])、港湾、電力供給、[[牧畜]]、[[ホテル]]業([[大連市|大連]]・[[旅順]]・[[奉天市|奉天]]などの[[ヤマトホテル]])、[[航空会社]]などの多様な事業を行なった<ref name="hiratsuka162">[[#平塚|平塚(2010)pp.162-164]]</ref>。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満洲地域の一大拠点となった<ref name="hiratsuka162" />。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称される[[コングロマリット]]へと成長した<ref name="hiratsuka162" />。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた<ref name="hiratsuka164">[[#平塚|平塚(2010)pp.164-167]]</ref>。
後藤新平の発案により1907年4月に設けられた[[満鉄調査部]]は、当時の日本が生み出した最高の[[シンクタンク]]のひとつであった<ref name="kobayashihideo40">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.40-42]]</ref>。これは、満鉄のユニークさを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた<ref name="kobayashihideo40" />。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは[[三井物産]]だけであった<ref name="kobayashihideo40" />。後藤は台湾総督府[[台湾総督府#台湾総督府総務長官|民政長官]]時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた<ref name="kobayashihideo40" />。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった<ref name="kobayashihideo40" />。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった<ref name="kobayashihideo40" />。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた[[満鉄公所]]においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた<ref name="kobayashihideo42">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.42-44]]</ref> <ref>[https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_016j/newsletter_016j.html アジ歴ニューズレター第16号 南満洲鉄道株式会社関係資料の紹介]([[国立公文書館]]:[[アジア歴史資料センター]])</ref>。
なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった<ref name="harada18" />。東京支社は、[[東京市]][[麻布区]]麻布狸穴町に置かれた{{refnest|group="注釈"|現在の[[港区 (東京都)|港区]]麻布台2丁目1番2号、跡地には[[東京アメリカンクラブ]]が造られた}}のち、[[赤坂区]]葵町2番地に移転した{{refnest|group="注釈"|2023年時点では[[1979年]]新築の[[商船三井]]本社ビルがある。また東京支社の売却益は満鉄会の活動費にあてられた}}。
=== 鉄道附属地行政 ===
{{see also|南満洲鉄道附属地}}
[[ファイル:Dairen Oohiroba.jpg|thumb|right|300px|大連大広場。満鉄は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった]]
満鉄には、[[ロシア帝国]]から引き継いだ[[南満洲鉄道附属地|鉄道附属地]]での独占的[[行政|行政権]]を与えられていた<ref name="moriyama14">[[#森山|森山(2005)pp.14-17]]</ref>。附属地には、鉄道そのものに附属する、鉄路を中心とした幅62メートルの[[治外法権]]地域と駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった<ref name="moriyama14" />。駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、やはり治外法権の特権があった<ref name="moriyama14" />。それを管轄するのが満鉄地方部であり、大連、奉天、[[長春市|長春]](のちの[[新京]])などでは大規模な[[近代|近代的]][[都市計画]]が進められた<ref name="moriyama14" />。日本が進出したころの[[瀋陽駅|奉天駅]]の附属地は墓地や戦争で使用された[[塹壕]]が無数に残り、荒涼とした原野も含まれていた<ref name="moriyama14" />。[[長春駅]]の周囲もまた、最初はほとんど荒蕪地であったという<ref name="moriyama14" />。こうしたところに、満鉄社員、日本からの商社マン、日本軍人らの住宅街が建設され、日本人相手の食品店、雑貨店、[[理髪店]]、[[百貨店]]、[[宿泊施設]]、[[娯楽施設]]などがつくられたのである<ref name="moriyama14" />。満鉄附属地では、[[水道|上下水道]]や[[電力]]、[[ガス燃料|ガス]]の供給、さらには[[港湾]]、[[学校]]、[[病院]]、[[図書館]]などの[[インフラストラクチャー]]の整備が進められ、満洲経営の中心となった。
しかし、満洲全域が日本および[[関東軍]]の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり、[[1937年]]([[康徳]]4年/[[昭和]]12年)に[[満洲国]]に返還された。これにともない、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは[[教員]])が満鉄から満洲国へ移籍した。
=== 関東軍 ===
{{see also|関東軍}}
[[関東軍]]は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、[[関東州]]と南満洲鉄道附属地の守備をしていた[[関東都督府]]陸軍部が前身である<ref name="harak103">[[#原田2|原田(1981)pp.103-104]]</ref>。[[1919年]](大正8年)に関東都督府が[[関東庁]]に改組されると同時に、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]・[[支那駐屯軍]]などと同じ[[軍]]たる関東軍として独立した<ref name="harak103" />。関東軍司令部は同年4月12日、関東州[[旅順口区|旅順市]]初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した<ref>『官報』第2014号、大正8年4月23日。</ref>。当初の[[編制]]は[[独立守備隊]]6個[[大隊]]を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個[[師団]](隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった<ref name="kobayashimichihiko424">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.424-425]]</ref>。満洲事変の際の総兵力は公称1万400であったが、実際には8,800にすぎなかった<ref name="kobayashimichihiko424" />。
関東軍と満鉄社員の接触は[[1920年代]]から始まっており、特に関東軍と[[満鉄調査部]]ロシア班のスタッフとの交流は早かったが、その動きは決して大きなものではなかったという<ref name="kobayashihideo82">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.82-83]]</ref>。満鉄の方が関東軍よりも歴史が古く、老舗意識が濃厚で関東軍を一段下にみる風潮があり、[[第一次世界大戦]]後の反軍的雰囲気のなかでは軍に対して非協力的姿勢が顕著であった<ref name="kobayashihideo82" />。ただし、そのなかでも満鉄調査課長の[[佐田弘治郎]]やロシア班主任の[[宮崎正義]]は関東軍との連携を模索していた<ref name="kobayashihideo82" />。宮崎が関東軍参謀の[[石原莞爾]]と出会うのは、1930年秋の旅順の[[ヤマトホテル]]においてであった<ref name="kobayashihideo82" />。
=== 資本金 ===
* 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。
* [[1920年]]([[大正]]9年) - 4億4千万円(第1次増資)
* [[1933年]]([[大同 (満洲)|大同]]2年/[[昭和]]8年) - 8億円(第2次増資)
* [[1940年]]([[康徳]]7年/昭和15年) - 14億円(第3次増資)
== 歴史 ==
{{main|南満洲鉄道の歴史}}
=== 設立までの経緯 ===
==== ポーツマス条約と桂・ハリマン協定 ====
{{see also|ポーツマス条約|桂・ハリマン協定}}
[[日露戦争]]の勝利により、日本は[[旅順]] - [[長春]]郊外寛城子間の鉄道と、これに付随する[[炭坑]]の利権を[[ロシア帝国]]より獲得し、そのことは[[1905年]][[9月5日]]調印の[[ポーツマス条約]]にも明文化された<ref name="sumiya382">[[#隅谷|隅谷(1974)pp.382-384]]</ref>。講和会議で[[小村寿太郎]]外相の交渉相手であった[[セルゲイ・ウィッテ]]は、ロシア帝国蔵相として[[シベリア鉄道]]および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった<ref name="wada307">[[#和田|和田(1994)pp.307-308]]</ref>。会議において日本側は当初、[[哈大線|南満洲支線]]の旅順・[[ハルビン]]間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した<ref name="yokote191">[[#横手|横手(2007)pp.191-194]]</ref><ref name="inoue96">[[#井上|井上(1990)pp.96-101]]</ref>。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた[[吉林市|吉林]]・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた<ref name="inoue96" />{{refnest|group="注釈"|ポーツマス条約第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた<ref name="inoue96" /> → 条約本文は「[[:s:日露講和條約|日露講和條約(ウィキソース)]]」参照。}}。
[[伊藤博文]]、[[井上馨]]らの[[元老]]や[[第1次桂内閣]]の首相[[桂太郎]]には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった<ref name="sumiya382" />。そのため、講和条約反対で[[東京]]に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の[[外債]]募集にも協力したアメリカの企業家[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]が1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した<ref name="sumiya382" />。ハリマンは、[[日本銀行]]の[[高橋是清]]副総裁と[[大蔵次官]]の[[阪谷芳郎]]の意を受けた{{仮リンク|ロイド・カーペンター・グリスカム|en|Lloyd Carpenter Griscom}}[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ合衆国公使]]の招きによって[[ジェイコブ・シフ]]などとともに来日した<ref name="kobayashihideo37">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.37-39]]</ref><ref name="iizuka146">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.146-148]]</ref><ref name="gaikoushi">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_08-09.pdf 「小村外交史」第8章第9節」(外務省)]</ref>。
ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには[[東清鉄道]]を買収することであった<ref name="gaikoushi" /><ref name="furuya238">[[#古屋|古屋(1966)pp.238-240]]</ref>。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本は[[ロシア帝国]]から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた<ref name="gaikoushi" />。[[9月12日]]、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに[[大韓帝国|韓国]]の鉄道と南満洲鉄道を連結させ、そこでの[[鉄道]]・[[炭坑]]などに対する共同出資・経営参加を提案した<ref name="sumiya382" /><ref name="furuya238" /><ref name="katayama181">[[#片山|片山(2011)pp.181-183]]</ref>。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、[[所有権]]については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり<ref name="iizuka146" />、満鉄を日米均等の権利をもつ[[シンジケート]]で経営しようという提案であった<ref name="furuya238" />{{refnest|group="注釈"|「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった<ref name="sumiya382" />。}}。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、[[山縣有朋]]はこの案を承認、桂首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した<ref name="katayama181" /><ref name="inoue101">[[#井上|井上(1990)pp.101-105]]</ref>。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、彼の売り込みの手腕もさることながら、「満洲鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一つであった<ref name="iizuka146" />。桂はハリマン帰米直前の[[10月12日]]、仮契約のかたちで[[桂・ハリマン協定]]の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした<ref name="gaikoushi" /><ref name="katayama181" />。
ポーツマス会議より帰国した小村は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったとして、その撤回を説得して歩いた<ref name="sumiya382" /><ref name="gaikoushi" /><ref name="furuya238" /><ref name="katayama181" />。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって[[清国]]の同意を前提とするものであり、その点からしても、協定は不適切だと主張した<ref name="sumiya382" /><ref name="sasaki316">[[#佐々木|佐々木(2010)pp.316-318]]</ref>。小村の見解に桂らも納得し、[[10月23日]]の閣議において破棄が決定した<ref name="sumiya382" /><ref name="katayama181" />。小村の報告によって、ハリマン=[[クーン・ローブ]]連合のライバルである{{仮リンク|モルガン商会|en|J.P. Morgan & Co.}}から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた<ref name="iizuka146" />。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本[[領事館]]に打電し、ハリマンらの船が[[サンフランシスコ]]の港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の[[上野季三郎]]が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた<ref name="sumiya382" /><ref name="gaikoushi" /><ref name="inoue105">[[#井上|井上(1990)pp.105-109]]</ref>。
==== 四平街協定と満洲善後条約 ====
{{see also|四平街協定|満洲善後条約}}
1905年[[10月30日]]、日露両軍は[[四平市|四平街]]において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した([[四平街協定]])<ref name="harada22">[[#原田1|原田(1991)pp.22-25]]</ref>。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなったが、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過しており、車両や施設は応急的なものであり、全線にわたって信号機すらなかった<ref name="harada22" />。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に[[野戦鉄道提理部]]が管理していたのは[[昌図]]までであった<ref name="harada22" />。車両は[[機関車]]211両、[[貨車]]4,064両、[[客車]]88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため[[水槽]]・[[給水管]]・[[圧力計]]が氷結し、これにより水が不足して蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった<ref name="harada22" />。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった<ref name="harada22" />。日露両国は[[昌図]]以北[[公主嶺]]までを[[1906年]]5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした<ref name="inoue105" /><ref name="harada22" />。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた<ref name="harada22" />。これについては、いずれは[[標準軌|国際標準軌]](4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要だった。
[[ファイル:Komura Jutaro.jpg|右|サムネイル|170px|日本国外相、[[小村寿太郎]]]]
小村外相はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年[[11月6日]]、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、[[11月17日]]からは北京会議に臨んだ<ref name="inoue105" /><ref name="katayama183">[[#片山|片山(2011)pp.183-185]]</ref>。日本側全権は小村と駐清公使[[内田康哉]]、清国側は[[欽差大臣|欽差全権大臣]][[愛新覚羅奕劻|慶親王奕劻]]を首席全権とし、外務部尚書の{{仮リンク|瞿鴻禨|zh|瞿鸿禨}}、直隷総督の[[袁世凱]]が全権となって交渉に臨んだ<ref name="inoue105" />。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、[[1896年]]の[[露清密約]](李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった<ref name="iizuka146" />。交渉はポーツマス会議以上に難航し、[[満洲善後条約]](北京条約)が結ばれたのは[[12月22日]]のことであった<ref name="katayama183" />。
小村は、この条約において[[露清密約]]から引き継いだ鉄道利権の条項遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には[[日本人]]と[[中国人|清国人]]以外は関与できないこととなった<ref name="sasaki316" />{{refnest|group="注釈"|ロシアと清国の間では[[旅順・大連租借に関する露清条約]](1898年)・[[満洲に関する露清協定]](1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた<ref name="sasaki316" />。}}。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした<ref name="inoue105" />。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた<ref name="sasaki314">[[#佐々木|佐々木(2010)pp.314-316]]</ref>。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの[[関東軍]])<ref name="iizuka146" />。
小村はまた、[[丹東|安東]]・奉天間の[[安奉鉄道]]および奉天・[[新民市|新民屯]]間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した<ref name="inoue105" />。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた<ref name="inoue105" />。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあって交渉は難航したが、結局これには応じなかった<ref name="inoue105" />。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった<ref name="inoue105" />。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、[[遼河]]以東の改築資金の半額は日本からの借款となった<ref name="inoue105" />。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである<ref name="inoue105" />。
==== 英米からの抗議と西園寺の非公式旅行 ====
[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|170px|満洲へお忍び旅行をした首相、[[西園寺公望]]]]
1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた<ref name="sumiya382" /><ref name="furuya238" /><ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。特に駐日イギリス公使の[[クロード・マクドナルド]]は直接[[伊藤博文]][[韓国統監]]に厳しい内容の書簡を送っている<ref name="iizuka148">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.148-150]]</ref>。また、袁世凱からも日本の中国東北における諸施策は満洲善後条約に違反するとの通告が伊藤にもたらされた<ref name="harada14">[[#原田1|原田(1991)pp.14-18]]</ref>。
[[4月14日]]、首相[[西園寺公望]]は極秘に東京を離れて自ら中国東北におもむいて満洲の実情を把握するための非公式旅行をおこなった<ref name="harada14" />。これを勧めたのは[[児玉源太郎]]だといわれるが、一国の首相が実情調査のために現地視察を行うことは実際は難しく、そのため、[[大蔵次官]]の[[若槻禮次郎]]に満洲派遣の辞令を発し、その随員に外務省の[[山座円次郎]]、農商務省の[[酒匂常明]]、鉄道作業局の[[野村龍太郎]]と、もうひとり自分自身を加えるという念の入れようであった<ref name="harada14" />。お忍び旅行の目的は、清国側の考えや態度を確認し、清国官吏の心証をよくし、また彼らとの交友を通じて戦後の満洲経営のための地ならしをしようというものであった<ref name="harada14" />。そこで西園寺は満洲に対する[[列強]]の関心の強さを実感し、清国官吏がロシア軍にかわる日本軍の支配に強い反感を抱いていたことを知るのである<ref name="harada14" />。3週間の旅行を終えた西園寺は、満洲問題について会合を開き、方針を協議することとした<ref name="harada14" />。
==== 改修工事 ====
一方、ロシアから南満洲支線を引き継いだ野戦鉄道提理部では、ただちに改修工事に着手した<ref name="inoue105" />。上述のように昌図・四平街間は施設がかなり損壊されており、{{仮リンク|双廟子駅|zh|双庙子站}}に至っては跡かたもなく破壊されていた<ref name="harada22" />。さらに、双廟子 -四平街間は、[[枕木]]もレールも撤去されており、その間の[[橋桁]]、場所によっては[[橋脚]]も破壊されていた<ref name="harada22" />。野戦提理部は、1906年9月6日には双廟子まで、10月1日には公主嶺まで、そして11月11日は孟家屯(現在の[[長春南駅]])までのゲージを狭軌に改築し、大連との間に直通列車の運行を開始した<ref name="inoue105" /><ref name="harada22" />。
すでに1905年10月21日には、奉天以南の区間で軍用以外の運輸営業を開始しており、11月25日には昌図までこれが延長されていた<ref name="harada22" />。1906年に入ると引き継ぎを終えて修理が完成した区間から一般の人びとにもこれを利用できるようになった<ref name="harada22" />。戦争終了後、1905年の年末まで軍隊の[[復員]]輸送が主であり、一般輸送はほとんど行われなかった<ref name="harada22" />。しかし、それが終わるとしだいに中国東北部の縦貫幹線としての性格を強め、多くの人びとが満洲に強い関心を示すようになり、内地では職を求めて満洲に出かける人が増加した<ref name="harada22" />。なかにはいわゆる「一旗組」もあり、[[旅館]]、食料品店、理髪店、飲食店、衣料品店、[[遊廓]]などの個人営業、また[[企業]]も満洲に進出し、その職員が大連、[[大石橋市|大石橋]]、[[遼陽]]、奉天といった都市はもとより、小さな町にも入り込んで生活の基盤をつくろうとしていた<ref name="harada22" />。鉄道は、こうした人びとの活動をささえる重要な交通手段でもあった<ref name="harada22" />。
==== 満洲問題協議会 ====
[[ファイル:Gentaro Kodama 2.jpg|170px|サムネイル|右|満鉄設立委員長、[[児玉源太郎]]
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「満洲問題協議会」では伊藤博文との間で激しい論争になった。
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日本軍は撤兵期限ぎりぎりまで満洲に[[軍政]]を布き、日本の勢力を同地に植え付けようとしていた<ref name="furuya238" />。1906年[[5月22日]]、英米との関係悪化を憂慮した[[伊藤博文]]が中心となって元老、閣僚、[[軍部]]首脳などを集めて[[首相官邸]]で「満洲問題に関する協議会」を開催した<ref name="furuya238" /><ref name="inoue109" /><ref name="hinata317" />。このとき、日露戦争の功労によって声望が高まり、首相待望論さえ出ていた[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀総長]]の児玉源太郎は「兵力の運用上の便利を謀り陰に戦争の準備」を行うとともに「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という積極的満洲経営論を唱え、伊藤らと対立した<ref name="inoue109" /><ref name="hinata317" />。伊藤は[[関東州]]租借地の清国への返還と軍政の早期廃止方針を唱え、山縣ら陸軍関係者は誰も児玉を擁護しなかったので、伊藤の主張が通って軍政廃止が決定した<ref name="furuya238" /><ref name="inoue109" /><ref name="hinata317" />。
これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった<ref name="furuya238" />。児玉は当初官設機構を考えていたが、このころには民間会社の方式によるべきだとの考えに変わっていた<ref name="harada14" />。
満洲問題協議会では、児玉源太郎と元老の伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違していた<ref name="kobayashimichihiko271">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.271-272]]</ref>。児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた<ref name="inoue109" /><ref name="kobayashimichihiko271" />。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は[[平壌直轄市|平壌]]以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった[[新渡戸稲造]]は[[ドイツ帝国]]における内国植民政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した<ref name="kobayashimichihiko271" />。伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた<ref name="kobayashimichihiko271" />。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である[[後藤新平]]は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らは[[東インド会社]]を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた<ref name="kobayashimichihiko271" />。両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、[[下関条約]]による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った<ref name="kobayashimichihiko271" />。
=== 南満洲鉄道の設立 ===
==== 勅令第142号の公布と満鉄設立委員の任命 ====
1906年6月7日、明治39年勅令第142号「南満洲鉄道株式会社ニ関スル件」が公布された<ref name="harada18">[[#原田1|原田(1991)pp.18-22]]</ref><ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2950222|『官報』第6881号「勅令」、1906年6月8日|format=EXTERNAL}}</ref>。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めることとし(第2条)、日本政府は、炭坑をふくめた満鉄の財産による現物出資ができるものとした(第3条)<ref name="harada18" />。本社を東京市、支社を大連におくこと(第6条、ただし[[1907年]][[3月5日]]の勅令第22号により本社を大連、支社を東京市に改めた<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|2950447|『官報』第7102号「勅令」、1907年3月6日|format=EXTERNAL}}</ref>)、役員は総裁1名、副総裁1名、理事4名以上を置き(第7条)、総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命すること(第9条)、政府は会社の業務監視のため南満洲鉄道株式会社監理官を置くこと(第12条)が定められた<ref name="harada18" />。同勅令の付則には設立委員の規定があり、[[定款]]の作成と第1回[[株式]]募集等がその任務とされた<ref name="harada18" />。
[[7月13日]]、[[第1次西園寺内閣]]は、児玉を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した<ref name="harada18" /><ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。この委員のなかには[[京釜鉄道]]会社の設立にもかかわった[[渋沢栄一]]、[[竹内綱]]といった財界人、のちに満鉄総裁となる[[仙石貢]]や野戦鉄道提理だった[[武内徹]]といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、[[石井菊次郎]]通商局長、関東州民政署事務官の[[関屋貞三郎]]、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚、貴衆両院の議員、さらに軍部首脳もふくまれていた<ref name="inoue109" />。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは[[国策会社]]としての性格の濃いものであったことを示している<ref name="inoue109" />。
上記のように、設立委員が定款の作成にあたることになっており、定款の調査委員は調査委員長が渋沢栄一、以下、山座円次郎、[[岡野敬次郎]]、[[荒井賢太郎]]、[[仲小路廉]]、[[山之内一次]]、[[和田彦次郎]]、[[堀田正養]]、[[大石正巳]]、[[土居通夫]]、[[中野武麿]]、[[大岡育造]]、[[佐々友房]]の計13名であった<ref name="harada18" />。このうち、山座・荒井・仲小路の3名は1月発足の満洲経営委員会(委員長は児玉源太郎)の当初メンバー6名にも名を連ねており、株式会社組織をとりながら同時に政府機関としての性格をもたせる役割をになった<ref name="harada18" />。こうしたなか、設立委員長だった児玉源太郎が7月23日に急逝し、24日には喪が発せられた<ref name="harada18" />。25日、新委員長に就任したのは[[寺内正毅]]陸軍大将であった<ref name="harada18" />。
==== 設立命令書と株式募集 ====
1906年[[8月1日]]、外務・大蔵・逓信3大臣連名による「南満洲鉄道株式会社設立命令書」(外務・大蔵・逓信大臣秘鉄14号)が下付された<ref name="ajireki-glossary" /><ref name="harada18" />。命令書は全文26か条で非公開とされた<ref name="harada18" />。公表された勅令よりも具体的な業務の範囲、[[資本金]]総額、政府の保護、会社に対する政府の命令権などが規定されていた<ref name="harada18" />。設立業務は、この命令書をもとに寺内委員長のもとですすめられた<ref name="harada18" />。
第1回株式募集は[[9月10日]]に開始された。募集株式10万株(2,000万円)、締め切りの10月5日までに役員持株1,000株を除く9万9,000株に対して、総申込株数は1億664万3418株に達し、申込人数は1万1,467人であった<ref name="harada18" />。少額申込の111人402株については割当てから外したが、それでも所要株数に対して1077倍という株式ブームの状況を呈した<ref name="harada18" /><ref>[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/4-3-4-010.pdf 山口県文書館「満鉄の設立」一般郷土史料「南満州鉄道株式会社株券」]</ref>。清国人からの申込みもいくらかはあったが、この高倍率では割当てから排除されても疑義をはさむ余地がなかった<ref name="harada18" />。いずれにしても、この倍率は満鉄が当時植民地経営企業としての経済的機能を一般から広く期待されていたことを物語っていた<ref name="harada18" />。清国政府は結局、締め切りを過ぎても応募してこなかった<ref name="harada18" />。11月10日、清国政府は満鉄設立について厳しい調子の抗議を寄せた<ref name="harada18" />。
==== 設立と営業開始 ====
[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|170px|right|thumb|初代満鉄総裁、[[後藤新平]]]]
1906年[[11月1日]]、満鉄の設立が[[逓信大臣]]より認可された<ref name="inoue114">[[#井上|井上(1990)pp.114-119]]</ref>。[[11月26日]]、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は[[神田区]]の[[東京キリスト教青年会会館]]において開催された<ref name="inoue114" />。初代総裁には[[台湾総督府]][[台湾総督府#総務長官|民政長官]]だった[[後藤新平]]が任じられた<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="sasaki316" /><ref name="inoue114"/>。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった<ref name="iizuka188">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.188-190]]</ref>。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった<ref name="iizuka188" />。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および[[撫順市|撫順]]炭田・[[煙台市|煙台]]炭田などの現物出資とした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず<ref name="sasaki316" />、民間からの投資は日本での[[株式]]募集が2000万円、のこり8000万円は外資による[[社債]]で賄うこととした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである<ref name="harada18" />。一方、外債募集は、[[1907年]]から[[1908年]]にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。政府による事業資金は[[日本興業銀行]]から[[社債]]などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた<ref name="rsuzuki447">[[#鈴木|鈴木(1969)p.447]]</ref>{{refnest|group="注釈"|残りは、[[東洋拓殖会社]]や韓国政府への貸付などに投資された<ref name="rsuzuki447" />。}}。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった<ref name="rsuzuki447" />。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる<ref name="rsuzuki447" />。
後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、[[台湾総督]]在任のまま[[満洲軍 (日本軍)|満洲軍]][[総参謀長]]となった児玉源太郎であった<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317">[[#日向|日向(2018)pp.317-321]]</ref><ref name="inoue114" />。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317" />。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、[[原敬]]ら)といった人びとからも期待された<ref name="iizuka148">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.148-150]]</ref><ref name="hinata317" /><ref name="inoue114" />。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」([[関東都督府]]、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった<ref name="hinata317" />。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待された<ref name="hinata317" />。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで西園寺首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。
[[ファイル:Fushun Coal Mine.jpg|300px|thumb|right|撫順炭鉱の経営も満鉄が行った]]
開業は1907年4月1日となった<ref name="inoue114" />。南満洲鉄道は、[[都市]]・炭坑・[[製鉄所]]から[[農地]]までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに[[大学]]以下の[[教育機関]]・[[研究所]]も擁していた。日本租借地である[[関東州]]および[[南満洲鉄道附属地]]の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの[[関東庁]])であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に[[日露満洲鉄道接続業務条約]]が調印されてからであった<ref name="inoue114" />。
総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の[[中村是公]]とともに、戦争中に[[狭軌]]に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際[[標準軌]]化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、[[大連港]]の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の[[社会資本]]整備などを強力に推し進めた<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317" /><ref name="iizuka188" />。1907年10月には[[星野錫]]により「[[満洲日日新聞]]」が大連で創刊され<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/snlist/550l.html 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫「満洲日報、満洲日日新聞」]</ref>、1907年8月以降、鉄道沿線には[[ヤマトホテル]]が開業した<ref name="iizuka188" />。大連には、[[満鉄中央試験所]]、電気公園もつくられた<ref name="harak61">[[#原田2|原田(1981)pp.61-65]]</ref>。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった<ref name="harak61" />。電気公園は、[[電気]]仕掛けによる[[娯楽施設]]で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった<ref name="harak61" />。
こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた<ref name="kobayashihideo37" />。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができることを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった<ref name="kobayashihideo37" />。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の[[中村是公]]を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した{{refnest|group="注釈"|「午前8時の男でやろう」とは、要するに若手を起用しようということ。後藤新平は、世間を知った働きざかりの「午後3時」ではなく、経験は浅くても新鮮なやる気に満ちた年代の人を用いることを人事の大方針とした。}}。[[三井物産]]門司支店長だった[[犬塚信太郎]]は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。
=== 明治末年の様相 ===
==== 標準軌への改軌 ====
{{See also|日本の改軌論争}}
レールの間隔の変更([[改軌]])は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた[[軌間]]は5フィート(1,524 [[ミリメートル|mm]])の[[広軌]]であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067 mm)の[[狭軌]]に改築していた<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25">[[#原田1|原田(1991)pp.25-29]]</ref>。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435 mm)の[[標準軌|国際標準軌間]]に改めておかなければならなかった<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25" />。
南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、[[1907年]][[4月1日]]のことであった<ref name="harada25" />。
: * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの[[満鉄連京線]]
: * 南関嶺 - 旅順間
: * 営口支線
: * 柳樹屯支線
: * 煙台支線
: * 撫順支線
: * 安東・奉天線
満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・[[蘇家屯]]間の[[複線化]]が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった<ref name="harada25" /><ref name="inoue119">[[#井上|井上(1990)pp.119-123]]</ref>。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた<ref name="harada25" />。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は[[枕木]]更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった<ref name="harada25" />。そこで、狭軌の線路が敷設してある箇所にもう1本レールを敷いて[[三線軌条|三線式]]とし、狭軌と標準軌の両方の列車が運行できるようにした<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。この技術はきわめて複雑なものであったが、満鉄がのちのちまでその技術を誇る水準のものであった<ref name="inoue119" />。旅順線では1907年[[12月1日]]から全面的に標準軌列車に移行した<ref name="harada25" />。長春・大連間の本線では[[1908年]]5月に移りかわり[[ダイヤグラム]]をつくり、22日長春・[[公主嶺]]間、23日公主嶺・[[鉄嶺]]間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・[[瓦房店]]間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へと切り替わり、[[5月30日]]からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。営口線その他の付属線もこの間に標準軌に改軌されている<ref name="inoue119" />。
不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった<ref name="harada25" />。[[安奉線]]を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の[[周水子駅]]で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。
日露戦争中に2フィート6インチ(762 mm)の軍用[[軽便鉄道]]として敷設された[[安奉線]]については、全面的な改築を必要とした<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25" />。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった<ref name="harada25" />。[[1909年]]1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった<ref name="harada25" />。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた<ref name="harada25" />。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して[[1911年]]11月1日、工事は完成した<ref name="harada25" />。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった<ref name="iizuka188" />。並行して行われていた[[鴨緑江]]の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった<ref name="harada25" />。
[[ファイル:Mantetsu-Ame.jpg|300px|右|thumb|蒸気機関車「アメ型」]]
鴨緑江の架橋については、[[ジャンク (船)|ジャンク船]]の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた<ref name="inoue133">[[#井上|井上(1990)pp.133-138]]</ref>。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった<ref name="inoue133" />。日本は朝鮮側([[新義州]]側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった<ref name="inoue133" />。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった<ref name="inoue133" />。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを[[京義線|京義鉄道]]の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった<ref name="inoue133" />。
安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、[[沙河鎮駅]]で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた<ref name="harada25" />。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった<ref name="harada25" />。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった<ref name="harada25" />。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった<ref name="harada25" />。
==== 日清間の紛争 ====
清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた<ref name="iizuka183">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.183-186]]</ref>。具体的には、
# 清国側が新奉鉄道([[新民市|新民屯]] - [[瀋陽市|奉天]])の[[瀋陽駅|奉天停車場]]を奉天城付近に移し、途中で満鉄線を横断する計画を満鉄に打診したが、日本は貨物の流通ルートが変わり、満鉄が打撃を受けるとしてこれを拒否した件
# アメリカの奉天総領事{{仮リンク|ウィラード・ディッカーマン・ストレイト|en|Willard Dickerman Straight}}が奉天巡撫の[[唐紹儀]]を促してイギリスのポーリング商会と新法鉄道(新民屯 - [[法庫県]])の工事請負契約を結んだことに対し、日本側が抗議した件
# 撤去予定の[[大石橋市|大石橋]]・[[営口]]間鉄道について、貿易港である営口と満鉄の連絡線として重要であるため、清側にその存続を認めさせる件
# 日本が経営していた撫順・煙台の炭坑の権利が不明確であるとして、経営をつづけるために権利を確固としたものに改める件
# [[安奉鉄道]]沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件
などであった<ref name="iizuka183" />。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、[[第2次桂内閣]]へと持ち越された<ref name="iizuka183" />。
1908年11月、[[光緒帝]]と[[西太后]]が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣[[袁世凱]]が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった<ref name="iizuka183" />。清国は、清韓国境の[[間島問題]]で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべて[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[常設仲裁裁判所]]に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた<ref name="iizuka183" />。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って[[間島]]の問題では清に妥協すべく動いた<ref name="iizuka183" />。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の[[領事裁判権]]要求も取り下げた<ref name="iizuka183" />。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた<ref name="iizuka183" />。また、1909年9月4日には[[日清協約#間島協約|間島に関する日清協約]]と[[日清協約#満洲協約(満洲五案件に関する日清協約)|満洲五案件に関する日清協約]]が結ばれ、清の主張にそって[[豆満江]]が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は[[開市]]されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした<ref name="iizuka183" />。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・[[会寧市|会寧]]間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。<ref name="iizuka183" />
==== 後藤新平の入閣と中村是公総裁 ====
{{See also|鉄道院|拓務省|韓満所感|満韓ところどころ|桂園時代}}
[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|170px|サムネイル|右|第2代総裁、[[中村是公]]]]
[[ファイル:Manshu Nichi-Nich Shimbun newspaper clipping (5 November 1909 issue).jpg|300px|右|thumb|[[夏目漱石]]「[[韓満所感]](上)」(1909年11月5日付「[[満洲日日新聞]]」)]]
後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず、満鉄を中心とする一元的な満洲経営を目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省や逓信省、外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった<ref name="iizuka188" />。そこで後藤は桂太郎に接近し、1908年7月、[[第2次桂内閣]]の[[逓信大臣]]として懸案事項の解決を図ろうとした<ref name="iizuka188" />。後藤総裁は満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている<ref name="harak74">[[#原田2|原田(1981)pp.74-77]]</ref>。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時の苦心によって一体感を生み出されており、その団結はきわめて固かった<ref name="harak74" />。新しい満鉄総裁には、副総裁だった[[中村是公]]が就任した<ref name="harak61" />。後藤は、入閣して早々満鉄の監督権を[[逓信大臣]]に移し、1908年12月には[[鉄道院]]を開設して満鉄監督権をここへ移管した<ref name="iizuka188" />。
[[1909年]]9月、中村新総裁が大学予備門時代以来の友人である文学者、[[夏目漱石]]を満洲に招いた<ref name="harak61" />。漱石は旅行での見聞や感想を[[随筆]]「[[韓満所感]]」および「[[満韓ところどころ]]」として書き記した。当時の満鉄は、その事業内容を内外に広く[[宣伝]]することに努めており、中村総裁が漱石を招いたのも単に友人を招待するのではなく、人気作家である漱石のペンを通して満鉄の事業を宣伝させる目的もあったろうと考えられる<ref name="harak61" />。漱石は大連では中央試験所や電気公園を案内され、同級生だった[[橋本左五郎]]や[[佐藤友熊]]、夏目家で[[書生]]をしていた[[股野義郎]]らと旧交を温めた<ref name="harak61" />。また、旅順、営口、奉天、撫順炭坑、ハルビン、長春などを経て安東、釜山を経て内地に帰った<ref name="harak61" />。「韓満所感」は1909年[[11月5日]]・[[11月6日]]付の「[[満洲日日新聞]]」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年[[10月21日]]から[[12月30日]]まで掲載された。中村新総裁は、豪放なべらんめえ口調でありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事は有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢を貫いた<ref name="harak61" />。理事の合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府の[[官僚]]システムとは異なる植民地会社独特の合理主義的[[官僚制]]と業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた<ref name="harak61" />。
一方、後藤は、1909年12月、韓国鉄道をも鉄道院の所管とすることにいったん成功し、国内鉄道も含めた鉄道の一元的管理を実現した<ref name="iizuka188" />。しかし、韓国鉄道は[[韓国併合]]直前に[[朝鮮総督府]]財政の根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張がこののち受け入れられて、総督府管轄に改められた<ref name="iizuka188" />。後藤はなおも植民地統治の一元化のために[[拓殖局]]を設置し、桂首相が総裁、みずからは副総裁となった<ref name="iizuka188" />。そのうえで後藤は、[[1910年]]12月、翌1911年度からの13年間継続事業として総額2億3,000万円の予算で[[新橋駅|新橋]]・[[下関駅|下関]]間の国際標準軌改築案を閣議決定に持ち込み、さらに[[第二十七議会]]への提出にこぎつけた<ref name="iizuka188" />。桂と後藤は、国内鉄道と韓国・清国の鉄道で使用されているゲージを統一することで、戦時における軍事輸送の利便を向上させるのみならず、内地と外地の経済的結びつきを強めて[[輸出]]増進を図ろうとした<ref name="iizuka188" />。そのため[[神戸港]]の港湾修築や下関の陸海連絡設備の両事業も鉄道院の所管としたのであった<ref name="iizuka188" />。しかし、ここで桂太郎と[[立憲政友会]]の「[[情意投合]]」という政治的妥協にはばまれ、鉄道普及を優先する政友会の意向により、標準軌[[改軌]]案は事実上の廃案となってしまった<ref name="iizuka190">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.190-191]]</ref>。
なお、1911年7月に[[ロンドン]]で開かれた第6回国際連絡運輸会議では、[[イギリス]]―[[カナダ]]―[[日本]]―[[シベリア]]という経路で世界一周をする世界[[周遊券]]、日欧を結ぶ[[東半球]]一周周遊券の設置が決まり、この周遊券は[[1913年]]より販売が開始された<ref name="harak68">[[#原田2|原田(1981)pp.68-69]]</ref>。「新橋から倫敦ゆき」の[[切符]]は、[[ジャパン・ツーリスト・ビューロー]]で購入することができ、ロンドンまでの1等運賃は433円35銭、2等運賃は286円45銭であった<ref name="harak68" />。南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである<ref name="harak68" />。
=== 政党政治と満鉄 ===
明治から[[大正]]にかけて、[[藩閥政治]]の時代から[[政党政治]]の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた<ref name="kobayashihideo74">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.74-75]]</ref>。[[1913年]](大正2年)[[12月]]、第2代総裁中村是公、副総裁[[国沢新兵衛]]が更迭された<ref name="kobayashihideo74" />。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から[[立憲政友会]]系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである<ref name="kobayashihideo74" />。中村・国沢の更迭は[[大正政変]]で[[第3次桂内閣]]が倒れて[[山本権兵衛内閣]]が成立した直後のことであり<ref name="kobayashihideo74" />、これは政友会総裁で山本内閣の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[原敬]]の差し金であったといわれる
<ref name="harak83">[[#原田2|原田(1981)pp.83-85]]</ref>。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で[[鉄道院]]の副総裁だった[[野村龍太郎]]が、副総裁には政友会の幹部だった[[伊藤大八]]が就任した<ref name="kobayashihideo74" /><ref name="harak83" />{{refnest|group="注釈"|満鉄重役の地位は、このころから政党の利権の対象となりつつあり、政党が植民地企業を支配しようという動きも表面化してきた<ref name="harak83" />。朝鮮の東洋拓殖株式会社副総裁にも、このとき、政友会から[[野田卯太郎]]が送り込まれている<ref name="harak83" />。}}。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた<ref name="kobayashihideo74" />。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した<ref name="kobayashihideo74" />。
折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した<ref name="kobayashihideo74" />。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の[[村田懋麿]]や[[大連駅]]駅務助手の[[竹中政一]]らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して[[世論]]に訴えた<ref name="kobayashihideo74" />。その結果、特別運賃は事実上撤回された<ref name="kobayashihideo74" />。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった<ref name="kobayashihideo74" /><ref name="harak104">[[#原田2|原田(1981)pp.104-109]]</ref>。その結果、1914年7月、犬塚が[[第2次大隈内閣]]によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された<ref name="harak104" />。
==== 対華21か条要求 ====
{{See also|対華21カ条要求}}
[[ファイル:The Illustration of The Siberian War, No. 16. The Japanese Army Occupied Vragaeschensk.jpg|300px|右|thumb|[[シベリア出兵]](1918年、[[ブラゴヴェシチェンスク]]に入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品。空からは航空隊により布告文が撒かれた)
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『救露討獨遠征軍画報』(1919年)より]]
[[ファイル:South Manchuria RW 1920.jpg|300px|サムネイル|右|[[1920年]]発行の南満洲鉄道株式会社株券(第1次増資期)]]
1914年の7月にはまた、ヨーロッパで[[第一次世界大戦]]が勃発している<ref name="kobayashihideo52">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.52-53]]</ref>。大戦は直接戦場にならなかった[[アメリカ合衆国]]や日本に[[大戦景気]]と呼ばれる[[特需]]をもたらしたが、[[朝鮮]]や[[台湾]]、満洲を含む[[中国大陸]]にも[[好景気]]をもたらした<ref name="kobayashihideo52" />。
1914年度には、大連の満鉄沙河口工場でH4形と呼ばれる加熱式機関車6両の独自に製作された<ref name="harak85">[[#原田2|原田(1981)pp.85-89]]</ref>。当初の満鉄は、広漠な満洲の原野を長距離無停車運転する鉄道にはアメリカで開発された技術が好適であるとしてアメリカ製機関車・客車・貨車を大量に導入していたが、これは、アメリカの技術を通じて独自の技術水準を積み重ねた成果であった<ref name="harak85" />。なお、満鉄が機関車自社製造体制を確立させるに至るのは1921年のことである<ref name="harak85" />。
[[大隈重信内閣]]は1914年7月、野村と伊藤に代わり、[[中村雄次郎]]を満鉄総裁に送り込んだ<ref name="kobayashihideo74" />。[[1917年]]7月まで総裁を務める中村は、軍人出身で[[陸軍省]]次官、総務長官、[[八幡製鉄所]]長官を歴任した人物であった<ref name="kobayashihideo74" />。こうして[[内閣]]が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった<ref name="kobayashihideo74" />。アジアが好景気に沸くなか、[[加藤高明]]外相は、[[1915年]]1月に[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し「[[対華21カ条要求]]」を突きつけた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.69-71]]</ref>。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国[[ナショナリズム]]を引き起こし、日貨排斥運動が起こった<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった<ref name="itoh69" />。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『[[満洲日日新聞]]』1915年[[4月6日]]付)、「大連駅の大混雑」(同[[4月7日]]付)といった混乱が生じた<ref name="kobayashihideo52" />。
==== ロシア革命とシベリア出兵 ====
{{See also|シベリア出兵}}
1917年の[[ロシア革命]]は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた<ref name="kobayashihideo53">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.53-54]]</ref>。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争([[シベリア出兵]])がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである<ref name="kobayashihideo53" />。ロシア革命に対する満鉄の反応は素早く、すでに1917年6月、理事の[[川上俊彦]]をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた<ref name="kobayashihideo53" />。[[11月15日]]、川上は帰国して[[本野一郎]]外相に[[ボルシェヴィキ]]による[[ロシア十月革命]]も含めた「露国視察報告書」を提出した<ref name="kobayashihideo53" />。この報告書は[[寺内正毅]]や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた<ref name="kobayashihideo53" />。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた<ref name="kobayashihideo53" />。
==== 満鉄疑獄事件 ====
{{See also|満鉄疑獄事件}}
一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。[[1918年]]([[大正]]7年)[[原内閣|原敬内閣]]が成立すると、原は[[1919年]]([[大正]]8年)4月、国沢理事長を更迭した<ref name="harak104" />。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の[[中西清一]]を起用した<ref name="harak104" /><ref name="kobayashihideo75">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.75-77]]</ref>。[[1920年]]、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である[[森恪]]が経営する炭坑であり、内田汽船の経営者も政友会系の[[内田信也]]であった<ref name="harak104" /><ref name="kobayashihideo75" /><ref name="itoh162">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.162-163]]</ref>。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた([[満鉄疑獄事件]])<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。[[1921年]]、野党の[[憲政会]]はこの問題を[[帝国議会]]で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。司法の場でも中西は[[背任罪]]で[[告訴・告発|告訴]]された<ref name="harak104" />。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった<ref name="harak104" />。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、[[検事]]に対し決定的証拠を提出した<ref name="kobayashihideo75" />。中西は逮捕、起訴されたが、[[東京控訴院]]での控訴審では証拠不十分として無罪となった<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。
1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、[[早川千吉郎]]、[[川村竹治]]、[[安広伴一郎]]が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、[[1927年]]([[昭和]]2年)には社員会が結成された<ref name="harak140">[[#原田2|原田(1981)pp.140-144]]</ref>。社員会は全社員の加入によって構成されており、したがって一般の[[労働組合]]組織とは異っていたが、政党の介入に対抗する意味とともに当時の[[労働運動]]昂揚の風潮もまた影響していたとみることができる<ref name="harak140" />。
==== 満鉄中興の祖、山本条太郎 ====
{{See also|北伐 (中国国民党)|山本条太郎}}
[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|右|170px|thumb|「満鉄中興の祖」といわれた[[山本条太郎]]]]
[[1926年]][[7月1日]]、[[蔣介石]]が[[北京政府]]撲滅を目指すとして[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を宣言して軍事行動を開始した<ref name="itoh272">[[#伊藤|伊藤(2010)p.272]]</ref>。蔣介石率いる[[国民革命軍]]が[[南京]]、[[上海]]を占領して、1927年5月、[[山東省]]にせまると、[[田中義一内閣]]は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した([[山東出兵]])<ref name="itoh278">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.278-279]]</ref>。
[[6月27日]]から[[7月7日]]にかけては東京で[[東方会議 (1927年)|東方会議]]が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、[[張作霖]]を排除して[[傀儡政権]]を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた<ref name="itoh278" />。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は[[田中義一]]首相兼外相や[[陸軍省]]首脳部のものであった<ref name="itoh278" />。大陸政策に深くかかわっていた[[実業家]]出身の[[衆議院議員]](当時はまだ当選2回)、[[山本条太郎]]は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた<ref name="itoh278" />。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の[[松岡洋右]]が就任した<ref name="kobayashihideo79">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.79-81]]</ref>。
山本は、[[三井物産]]上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった<ref name="kobayashihideo79"/>。山本は「産業立国論」を持論とし、[[人口問題]]、[[食糧問題]]、[[金融恐慌]]、[[失業問題]]の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた<ref name="kobayashihideo79"/>。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、[[移民]]の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、[[マグネシウム]]・[[アルミニウム]]関連工業ならびに[[肥料]]工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた<ref name="kobayashihideo79"/>。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、
: * 吉会線 … [[敦化]]から{{仮リンク|老頭溝|zh|老头沟镇}}を経て図們江([[豆満江]])に至る線
: * 長大線 … 長春から[[大賚県|大賚]](現、[[大安市]])に至る線
: * 吉五線 … 吉林から[[五常市|五常]]に至る線
: * 延海線 … [[延吉]]から[[海林市|海林]]に至る線
: * 洮索線 … [[洮南市|洮南]]から[[ホルチン右翼前旗|索倫鎮]](ソロン鎮)に至る線
の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した<ref name="kobayashihideo79"/>。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蔣介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖は交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した<ref name="kobayashihideo82" />。しかし、細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまった<ref name="kobayashihideo79"/>。
==== 張作霖爆殺事件 ====
{{See also|張作霖爆殺事件}}
[[ファイル:Huanggutun Incident03.PNG|右|400px|thumb|[[張作霖爆殺事件]]の現場]]
1928年、満鉄は米系ロシア人から情報提供を受け、[[ジャライノール]]などで油田調査を開始したところ{{sfn|小松直幹|2004}}、1中国と朝鮮の国境の[[間島問題]]が深刻化し始めた。
[[1928年]]([[昭和]]3年)[[6月4日]]、張作霖を乗せた専用列車が[[瀋陽|奉天]]郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した([[張作霖爆殺事件]])<ref name="itoh280">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.280-281]]</ref><ref name="arima87">[[#有馬|有馬(2010)pp.87-89]]</ref><ref name="kobayashimichihiko392">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.392-393]]</ref>。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀[[河本大作]]大佐、実行したのは[[独立守備隊]]の[[東宮鉄男]]らであった<ref name="itoh280" /><ref name="arima87" />。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた[[張学良]]を擁立しようとしており<ref name="kobayashimichihiko392" />、彼は[[土肥原賢二]]などからは「親日の権化」とみられていた<ref>[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.384-385]]</ref>。東宮は中国人の[[苦力]]2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである<ref name="itoh280" />。
この事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、[[昭和天皇]]にも当初そのように上奏した<ref name="itoh12">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.12-16]]</ref>。[[白川義則]]陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた<ref name="itoh12" />。しかし、[[上原勇作]]や[[閑院宮載仁親王]]の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された[[線路 (鉄道)|線路]]の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした<ref name="itoh12" />。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた<ref name="itoh12" />。昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、[[牧野伸顕]]や[[鈴木貫太郎]]にも諮問したうえで田中首相を問責した<ref name="itoh16">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.16-18]]</ref>。
満洲の張作霖と中国本土の蔣介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」([[服部龍二]]<ref name="hattori">[[#服部|服部(2001)]]</ref>)ではあった<ref name="arima87" />。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した<ref name="arima87" />。張作霖の子息、[[張学良]]は父親の死の事実を隠し通し、冷静に対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し、奉天軍閥を率いる父の後継者に就任するという離れ業をやってのけた<ref name="kobayashihideo65">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.65-66]]</ref>。1928年12月、張学良は国民政府の[[青天白日旗]]を掲げて[[易幟]]を行った<ref name="arima87" /><ref name="kobayashihideo65" />。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚で親日派の巨頭だった[[楊宇霆]]と[[常蔭槐]]を1929年1月に暗殺して親日派を一掃した<ref name="kobayashihideo65" />。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった<ref name="arima87" />。爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた<ref name="kobayashihideo79"/>。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した<ref name="itoh16" />。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、[[8月14日]]、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には[[仙石貢]]が就任した。
一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には[[陸軍大学校]]兵学教官であった[[石原莞爾]]中佐が関東軍参謀に着任した<ref name="harak136">[[#原田2|原田(1981)pp.136-139]]</ref>。1929年5月には[[板垣征四郎]]が河本大作後任の高級参謀として着任した<ref name="harak136" />。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンから[[ハイラル区|ハイラル]]、[[満洲里]]、[[洮南市|洮南]]の各地をまわった<ref name="harak136" />。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる<ref name="harak136" />。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった<ref name="harak136" />。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする[[軍政 (行政)|軍政]]を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった<ref name="harak136" />。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、[[1930年]]3月の[[満鉄調査部]]での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる<ref name="harak136" />。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである<ref name="harak136" />。
=== 満洲事変と満鉄改組 ===
{{multiple image
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| caption1 = 関東軍参謀、[[石原莞爾]]
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| caption2 = 関東軍高級参謀、[[板垣征四郎]]
}}
関東軍においては[[石原莞爾]]を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった<ref name="kobayashimichihiko423">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.423-424]]</ref>。もとより、これ以前にも21か条要求の際の[[明石元二郎]]などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった<ref name="kobayashimichihiko423" />。石原の満蒙領有論は元来、[[世界最終戦論]]を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論であり、そうでなければ長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものであった<ref name="kobayashimichihiko423" />。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら事を進めるべきだとの論もあり、その中心人物が[[板垣征四郎]]であった<ref name="kobayashimichihiko423" />。板垣の意見は、事変の長期化によって満蒙領有論が後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった<ref name="kobayashimichihiko423" />。
==== 満鉄包囲網と世界恐慌 ====
{{See also|世界恐慌|満蒙問題}}
[[1929年]]秋に始まった[[世界恐慌]]は日本に深刻な影響をもたらしたのみならず、満洲にも多大な影響を及ぼした<ref name="itoh332">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.332-334]]</ref>。恐慌により満鉄の営業成績が著しく悪化したことに加え、中国側は満鉄並行鉄道の建設を計画しており、もし、これが実現すると満鉄経由の貨物輸送がさらに減少し、経営は危機的状況に陥ることが懸念された<ref name="itoh332" />。なお、中国では、[[1930年]]5月から、蔣介石と反蔣介石連合との間で[[中原大戦]]が始まっているが、その帰趨を決したのは張作霖の後継者、張学良であった<ref name="kitaoka116">[[#北岡|北岡(1999)pp.116-118]]</ref>。1930年9月、[[閻錫山]]のもとに[[汪兆銘]]・[[馮玉祥]]など反蔣の人々が立場を越えて集まり政権を成立させたが、反蔣の立場から期待されていた満洲の張学良は9月18日、蔣介石支持の立場を鮮明にしたのである<ref name="kitaoka116" />。張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会と東北交通委員会は、中央集権の強化を目指す立場には反しているとはしながらも、その存続を主張して蔣介石から了解を得ていた<ref name="usui10">[[#臼井|臼井(1974)pp.10-12]]</ref>。
[[ファイル:Chang Shueliang.jpg|170px|右|thumb|[[張学良]]]]
東北交通委員会は、日本の満洲権益の中核である満鉄を中国鉄道で包囲し、満洲中の貨物を満鉄から奪還し、満鉄の機能を麻痺させる計画を立てていた<ref name="usui10"/>。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線を建設し、これを北平([[北京]]) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄を包囲してその死命を制するのみならず、ソ連の権益鉄道である東支鉄道(東清鉄道)にも重大な脅威を与えることができるという構想である<ref name="usui10"/>。資金調達は官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道が外国支配を招かないよう厳しい条件を付したうえで外国資本(特にアメリカ資本、ドイツ資本)を受け容れることとした<ref name="usui10"/>。すでに7月より[[錦州]]南方の[[葫蘆島]]ではドイツ資本による大規模な海龍地区の港湾建設工事が始まっていた<ref name="usui10"/>。東北交通委員会が計画する2大幹線が完成すれば、満洲南北の要地から中国鉄道を経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用で大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された<ref name="usui10"/>。すでに完成している中国鉄道は、[[京哈線|北寧(北平‐奉天)]]、[[瀋吉線|奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)]]、[[長図線|吉敦(吉林 - 敦化)]]の東4線、北寧、[[平斉線|四洮]]([[四平街]] - 洮南)、[[平斉線|洮昴]](洮南 - [[昴昴渓]])、[[斉北線|斉克]]([[チチハル市|チチハル]] - [[克山県|克山]])の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引を実施するなど、満鉄圧迫策を強めた<ref name="usui10"/>。
世界恐慌の影響は満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年(昭和5年)度に[[大連港]]で扱った輸出入貨物は、前年度に比べて[[輸出]]約200万トン、[[輸入]]約50万トン減少した<ref name="usui10"/>。これは、当然満鉄の輸送収入を悪化させ、満鉄の鉄道事業の収益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場が1930年に入って暴落したことも、銀建運賃をとっていた中国鉄道には有利である反面、金建運賃をとっていた満鉄には大きな痛手であった<ref name="usui10"/>。すなわち、銀貨国において金建運賃を採用している満鉄にあっては、銀暴落は必然的に運賃高騰を招くのであって、安価なライバル線に貨物輸送が奪われるのは当然のことだったのである<ref name="usui10"/>。
世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件が重なり、1930年以降の満鉄をめぐる情勢は深刻なものとなっていった<ref name="usui10"/>。[[1930年]]の[[国勢調査]]では、関東州と南満洲鉄道付属地帯(満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた<ref name="arima15">[[#有馬|有馬(2010)p.15]]</ref>。在満日本人22万8,000の大部分は満鉄附属地に住し、満鉄ならびにその付属会社に直接間接に依存して生計を立てていたのである<ref name="usui10"/>。
[[浜口雄幸内閣]]の外相、[[幣原喜重郎]]は、北伐以後の[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した<ref name="usui10"/>。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである<ref name="usui10"/>。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、[[鄭家屯]] - 長春、鄭家屯 - [[彰武県|彰武]]、洮南 - ハルビン、洮南 - [[通遼]]については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした<ref name="usui10"/>。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした<ref name="usui10"/>。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた<ref name="usui10"/>。幣原の方針は、[[11月14日]]付の訓令によって[[重光葵]]駐華代理公使に伝えられた<ref name="usui10"/>。
[[ファイル:Yōsuke Matsuoka.jpg|170px|サムネイル|右|「満洲の[[弐キ参スケ]]」のひとり、[[松岡洋右]]{{refnest|group="注釈"|「弐(ニ)キ」とは[[東条英機]]と[[星野直樹]]、「参(三)スケ」とは松岡洋右、[[鮎川義介]]、[[岸信介]]。}}]]
[[1931年]](昭和6年)1月、前満鉄副総裁で政友会代議士の松岡洋右は帝国議会で「満蒙はわが国の生命線である」と述べて満蒙の重要性を強調した<ref name="ookado32">[[#大門|大門(2009)pp.32-34]]</ref>。松岡によれば、満蒙に日本が勢力を張るに至ったのは、中国が朝鮮の独立に脅威を与え、ロシアが日本の存立を脅かしたからであり、それを日本は[[日清戦争|日清]]・日露の両戦争を勝ち抜いたことで満蒙権益が認められたのであるとした<ref name="ookado32" />。しかるに、現在の満蒙は国民の経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず、国防上の危機にさらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して、武力による強硬な解決を主張した<ref name="ookado32" />。
==== 満洲事変 ====
{{See also|柳条湖事件|満洲事変}}
[[ファイル:北大营1931.jpg|300px|right|thumb|1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営]]
[[ファイル:Mukden 1931 japan shenyang.jpg|300px|right|thumb|日本陸軍第2師団の奉天入城(1931年9月18日)]]
1931年[[9月18日]]、関東軍は、張学良が北平に滞在し、[[奉天軍閥]]の主力が長城以南に結集、さらに残存留守部隊が東三省に分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖で満鉄線路爆破事件([[柳条湖事件]])を引き起こした<ref name="kobayashihideo90">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.90-92]]</ref><ref name="kobayashimichihiko426">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.426-427]]</ref>。そして、それを中国側の仕業と発表して懸案の満洲占領作戦を実行にうつした<ref name="kobayashihideo90" />。関東軍の作戦計画は、各部隊を迅速に奉天に集中させ、戦闘開始の劈頭で東北軍主力を叩き、その権力中枢を麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的容易であるという考えであった<ref name="kobayashimichihiko424" />。いずれにしても、関東軍は[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]と独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって、留守部隊とはいえ[[戦車]]、[[航空機]]、[[重火器]]、若干の[[毒ガス兵器]]を装備した張学良軍20万余と対峙したのである<ref name="kobayashihideo90" />。関東軍は[[野戦]]訓練を重ね、[[四五式二十四糎榴弾砲|24センチ榴弾砲]]を秘密裏に奉天に運び入れて[[夜襲]]と[[威嚇射撃]]により相手の虚を突く軍事行動を展開した<ref name="kobayashihideo90" />。実際、[[榴弾砲]]の轟音と地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れた<ref name="kobayashihideo90" />。北平にあった張学良は日本軍の挑発に乗らないよう無抵抗を指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間で占領された<ref name="kobayashihideo90" />。
柳条湖事件勃発のときから政府は陸軍の謀略であることを強く疑っており、[[9月19日]]の[[本庄繁]]関東軍総司令官からの増援要求も一蹴されていた<ref name="kobayashimichihiko427">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.427-428]]</ref>。閣議でも不拡大方針が確認され、幣原喜重郎外相や[[井上準之助]]蔵相が[[南次郎]]陸相に対し、部隊の原駐地への帰還を強く迫った<ref name="kobayashimichihiko427" />。そこで関東軍は吉長線経由で吉林に第2師団主力を送り込み、わざと奉天の警備を手薄にして[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]に来援を要請したが、9月19日、[[金谷範三]][[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]は出兵を制止した<ref name="kobayashimichihiko427" />。関東軍は[[9月21日]]には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた[[林銑十郎]]を司令官とする朝鮮軍が独断で[[鴨緑江]]をわたり、満洲に入った<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=kawada19>[[#川田|川田(2010)pp.19-20]]</ref>。本来、[[国境]]を越えての出兵は軍の[[統帥権]]を有する[[天皇]]の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した<ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=mori18>[[#森|森(1993)pp.18-20]]</ref>。そして[[9月28日]]までには[[袁金鎧]]を奉天地方維持委員会委員長に、[[煕洽]]を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて[[奉天省]]・[[吉林省]]の張学良からの独立を宣言させた<ref name="kobayashihideo90" />。[[黒竜江省]]の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の[[馬占山]]とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った<ref name="kobayashihideo90" />。当時の満鉄総裁であった[[内田康哉]]以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった[[十河信二]]の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった。
ところが、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた<ref name="kobayashimichihiko430">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.430-431]]</ref>。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「[[馬賊]]」や「[[匪賊]]」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化の一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様だったのである<ref name="kobayashimichihiko430" />。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていた<ref name="kobayashimichihiko430" />。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派を認めなかった<ref name="kobayashimichihiko430" />。
手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった[[錦州市|錦州]]への[[空爆]]である<ref name="kobayashimichihiko432">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.432-433]]</ref>。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた([[錦州爆撃]])<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko432" />。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた<ref name="kobayashimichihiko432" />。[[天津市|天津]]の[[支那駐屯軍]]は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた<ref name="kobayashimichihiko432" />。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった<ref name="kobayashimichihiko440">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.440-442]]</ref>。[[第2次若槻内閣]]と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた<ref name="kobayashimichihiko440" />。[[国際連盟]]の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、[[ジュネーヴ]]では満洲の[[委任統治]]構想が急浮上していた<ref name="kobayashimichihiko440" />。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた<ref name="kobayashimichihiko442">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.442-443]]</ref>。
しかし、アメリカ合衆国の[[ヘンリー・スティムソン]]国務長官の記者発表によって事態が急転する<ref name="kobayashimichihiko443">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.443-445]]</ref>。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内の[[メディア (媒体)|メディア]]で報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは[[統帥権干犯]]にあたるとして猛烈な反発を招いたのである<ref name="kobayashimichihiko443" />。[[皇道派]]、[[平沼騏一郎]]らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した<ref name="kobayashimichihiko443" />。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した<ref name="kobayashimichihiko443" />。
==== 満洲国の成立と満鉄 ====
{{See also|満洲国|満洲国国有鉄道}}
[[ファイル:Puyi-Manchukuo.jpg|170px|右|thumb|満洲国執政となった[[愛新覚羅溥儀]]]]
第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の[[犬養毅]]に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した<ref name="kobayashimichihiko443" /><ref name="arima121">[[#有馬|有馬(2010)pp.121-123]]</ref>。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった<ref name="usui202">[[#臼井|臼井(1974)pp.202-207]]</ref>。東三省の要人たちは[[本庄繁]]関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた<ref name="usui202" />。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長[[張景恵]]、奉天省長[[臧式毅]]、吉林省長[[煕洽]]、そして[[馬占山]]の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された<ref name="usui202" />。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された<ref name="usui202" />。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた<ref name="usui202" />。
1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の[[湯玉麟]]、内モンゴルのジェリム盟長[[チメトセムピル]]、ホロンバイル副都統の[[凌陞]]を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝[[愛新覚羅溥儀]]を執政とする[[満洲国]]の建国が宣言された<ref name="harak156" /><ref name="usui202" /><ref name="kobayashimichihiko457">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.457-458]]</ref>。満洲国の[[首都]]は長春が選ばれて「[[新京]]」と命名され、国務院総理([[首相]])には[[鄭孝胥]]が就任した<ref name="kitaoka168">[[#北岡|北岡(1999)pp.168-170]]</ref>。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある[[傀儡国家]]であった<ref name="arima121" />。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他[[社会資本]]は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された<ref name="kobayashihideo106">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.106-110]]</ref>。これは、のちの[[日満議定書]]で確認されることとなった<ref name="kobayashihideo106" />。
犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった<ref name="kobayashimichihiko457" />。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ<ref name="kobayashimichihiko457" />。犬養首相はしかし、[[五・一五事件]]で暗殺され、これにより戦前の[[政党内閣]]は幕を閉じた<ref name="kobayashimichihiko458">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.458-459]]</ref>。後継首相は[[斎藤実]]であった<ref name="kobayashimichihiko462">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.462-463]]</ref>。[[斎藤内閣]]は政友会・[[民政党]]からの入閣を得て「[[挙国一致内閣]]」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には[[日満議定書]]を結んで満洲国の承認に踏み切った<ref name="kobayashimichihiko462" />。
1932年4月、軍部に批判的だった[[江口定条]]副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した<ref>[https://kotobank.jp/word/江口%20定条-1639996 コトバンク「江口定条」]</ref><ref>[[#中村|中村『昭和史(上)』(2012)]]</ref>。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、[[林博太郎]]が新総裁となった<ref name="harak166">[[#原田2|原田(1981)pp.166-171]]</ref>。
1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に[[武藤信義]]大将、軍参謀長に[[小磯国昭]]中将、参謀副長に[[岡村寧次]]少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた<ref name="harak166" />。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の[[満洲国駐箚特命全権大使|在満洲国特命全権大使]]であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した<ref name="harak166" /><ref name="kobayashimichihiko463">[[#小林道彦|小林道彦(2020)pp.463-464]]</ref>。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された<ref name="kobayashimichihiko463" />。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った<ref name="harak166" />。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった<ref name="harak166" />。
[[ファイル:SMR Xinjing Station Bus Time Table.JPG|300px|右|サムネイル|満鉄新京駅時刻表(中国工業博物館蔵)]]
1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて[[装甲列車]]を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された<ref name="harak156" />。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった<ref name="harak156" />。[[1933年]][[2月9日]]、満洲国管轄下の鉄道([[満洲国国有鉄道]])は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された<ref name="harak156" />。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった<ref name="harak156" />。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した<ref name="harak156" />。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた<ref name="harak156" />。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった<ref name="harak156" />。
なお、国内では1933年、[[日本共産党]]の最高幹部だった[[佐野学]]と[[鍋山貞親]]は獄中から[[転向]]声明を発したが、これを機に大量転向が現れた<ref name="ookado61">[[#大門|大門(2009)p.61]]</ref>。かれら転向者には、[[統制経済]]や国家官僚を通じた[[計画経済]]に新たな期待を寄せ、[[国家社会主義]]をとなえる者が多かった<ref name="ookado61" />。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた<ref name="ookado61" />。
満鉄幹部で外交官の[[松岡洋右]]は1933年3月に[[国際連盟]]を脱退し、[[岸清一]]没後の帝国弁護士会は1934年に軍備拡大支持の声明を発し<ref>帝国弁護士会『[[:s:華府条約廃止通告に関する声明|華府条約廃止通告に関する声明]]』。1934年。</ref>、日本政府は[[ワシントン海軍軍縮条約]]を破棄した。
==== 北満鉄路の接収と「あじあ号」の登場 ====
従来の中東鉄道については、満洲国建国後の1933年[[5月30日]]、ソ連と満洲国との[[合弁企業|合弁事業]]となったが、満鉄ではこの鉄道を「北満鉄路」と称した<ref name="harak162">[[#原田2|原田(1981)pp.162-166]]</ref>。北満鉄路は、ソ連から有償で譲り受け、完全に満洲国の国有鉄道に移管する方針が立てられ、同年6月26日より譲受の交渉が始まった<ref name="harak162" />。北満鉄路(中東鉄道)側は、周囲に満洲国国有鉄道の線路網が張りめぐらされて経営困難になっていたのである<ref name="harak162" />。ソ連側から北満鉄路の譲渡が打診され、満ソ両国代表に[[オブザーバー]]として日本政府代表が参加したが、譲渡価格がソ連側2億5000万ルーブル(6億2500万円)に対し、満洲国側が5000万円でまったく折り合わなかった<ref name="harak162" />。結局、1年以上の交渉を経て[[1934年]]9月21日に譲渡価格1億4000万円、ソ連側退職者の資金3000万円の計1億7000万円で妥結し、[[1935年]]1月22日に細目協定が成立、同年3月11日に仮調印、3月23日には譲渡協定のほか債務にかかわる満ソ秘密議定書、最終議定書など5件の正式調印を完了して北満鉄路全線の接収がなされた<ref name="harak162" />。接収した鉄道線路の総延長は1,732.8キロメートルであった<ref name="harak162" />。
北満鉄路の軌間は5フィートであったため、標準軌に改軌する工事が必要で、新京・ハルビン間は1935年8月22日に着手し、29日に準備終了、30日の運転が終了後に作業を開始し、終了予定は翌日8時だったが全部の作業を7時50分に終了して試運転もおこない、ただちに平常業務がなされた<ref name="harak162" />。作業参加人員は2,508名、通信設備その他の切り替えもこの時なされ、この工事は満鉄の技術力を示すものとして高く評価された<ref name="harak162" />。
[[ファイル:Super Express Asia.jpg|300px|thumb|right|満鉄のシンボル、特急「あじあ」]]
[[ファイル:Dining-Car of SMR.JPG|右|サムネイル|300px|南満洲鉄道旅客列車の食堂車]]
[[1934年]]、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「[[あじあ (列車)|あじあ]]」が登場し<ref name="komuta266">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.266-274]]</ref>、大連 - 新京(長春)間700 kmあまりを8時間半で結んだ<ref name="komuta266" />。北満鉄路接収後の[[1935年]]9月には運転区間は[[ハルビン|哈爾濱]](ハルビン)まで延長された<ref name="komuta266" />。
==== 満鉄改組 ====
{{See also|満洲国の経済|満洲重工業開発}}
満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた<ref name="harak166" />。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた<ref name="hiratsuka164" />。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した<ref name="harak166" />。
満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった<ref name="hiratsuka164" />。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった<ref name="hiratsuka164" />。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、[[満洲国の経済]]における満鉄の独占的地位を問題とした<ref name="hiratsuka164" />。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された<ref name="hiratsuka164" />。[[1935年]](康徳2年/昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった[[松岡洋右]]は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた<ref name="yamada636">[[#山田|山田(2010)pp.636-637]]</ref>。北黒線や虎林線はその代表例である<ref name="yamada636"/>。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された<ref name="yamada636"/>。
一方、満洲国における本格的な重工業開発は、[[1936年]]に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた<ref name="hiratsuka164" />。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・[[兵器]]・[[自動車]]・[[飛行機]]などの重工業を重点的に育成することを目標としていた<ref name="hiratsuka164" />。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった[[岸信介]]であった<ref name="hiratsuka164" />。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった<ref name="hiratsuka164" />。そこで、当時新興財閥と呼ばれた[[鮎川義介]]の日本産業株式会社([[日産コンツェルン]])を満洲に引き入れる方策がとられた<ref name="hiratsuka164" />。日産は、傘下に[[日産自動車]]、[[日立製作所]]、[[日本鉱業]]、[[日本化学工業]]など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである<ref name="hiratsuka164" />。すでにシナ事変([[日中戦争]])の始まっていた1937年12月のことであり、社名も[[満洲重工業開発]](通称、「満業」)に改めた<ref name="hiratsuka164" />。満業は2億2500万円を出資し、[[1938年]]3月、満鉄は[[昭和製鋼所|鞍山製鉄所]]をはじめとする重工業部門を満業に提供した<ref name="hiratsuka164" />。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した<ref name="hiratsuka164" />。また、[[満蒙開拓団]]の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。
=== 戦時下の満鉄 ===
==== 鉄道総局への改組 ====
満洲国成立後、本来の路線(社線)のほかに、満洲国が1935年にソ連から買収した北満鉄路を含む国線や北部朝鮮の一部の鉄道の運営と新線建設を受託し、[[営業キロ]]数を格段と伸ばしていった<ref name="komuta174">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.174-181]]</ref>。これに対応するため満鉄は、[[1936年]][[10月1日]]、鉄路総局・鉄路建設局、そして満鉄の鉄道部を全て統合し、奉天に「鉄道総局」を設置した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道を統括する大事業者として君臨することを意味していた。満鉄と国鉄の経営統合は、関東軍の意向をくじくものであり、満洲の鉄道事業にさかんに干渉してくる関東軍に一矢報いる行動であった。また、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった<ref name="komuta174" />。
==== 満蒙開拓団 ====
{{See also|満蒙開拓団|満蒙開拓移民}}
満蒙開拓団の事業は、[[昭和恐慌]]で疲弊する内地農村を[[中国大陸]]への移民により救済すると唱える[[加藤完治]]らと[[屯田兵]]移民による満洲国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す[[関東軍]]により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである<ref name="araragi495">[[#蘭|蘭(2012)p.495]]</ref>。[[1936年]]までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた<ref name="araragi495" />。
1936年の[[二・二六事件]]により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、[[高橋是清]]蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、[[広田弘毅]]内閣は、本事業を[[広田弘毅#内閣総理大臣|七大国策事業]]に位置づけ、「満洲開拓移民推進計画」を決議した<ref name="araragi495" />。同年末には、先に関東軍作成の「[[満洲農業移民百万戸移住計画]]」をもとに「[[二十カ年百万戸送出計画]]」が策定された<ref name="araragi495" />。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は[[加藤完治]]で、業務を担っていたのは[[満洲拓殖公社]]であった。
==== 日中戦争の勃発 ====
{{See also|日中戦争}}
[[ファイル:Ad of South Manchuria Railway 19370815.jpg|200px|右|サムネイル|1937年の南満洲鉄道の広告パンフレット]]
[[ファイル:Locomotive for Asia Express South Manchuria Railway.jpg|thumb|right|160px|鉄道壱万粁突破紀念切手(1939年10月21日発行)]]
1937年7月の[[日中戦争]]開始後は[[華北]]に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された<ref name="yamada636"/>。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった<ref name="yamada636"/>。
一方開拓移民は、日中戦争の拡大により[[国家総力戦]]体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した<ref name="araragi495" />。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった<ref name="araragi495" />。1937年、[[満蒙開拓青少年義勇軍]](義勇軍)が発足し、[[1938年]](昭和13年)に[[農林省]]と[[拓務省]]による[[分村移民]]の開始、[[1939年]](昭和14年)には日本と満洲両政府による「[[満洲開拓政策基本要綱]]」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた<ref name="araragi495" />。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり<ref name="araragi495" />、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした<ref name="araragi495" />。
大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万キロメートルを超えた<ref name="yamada636"/>。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で[[太平洋戦争]]を迎えることとなったのである。[[1940年]]、満鉄の資本金が14億円に増資された<ref name="haradapost4">[[#原田2|蘭(1981)巻末「満鉄年表」p.4]]</ref>。
==== 戦局の悪化 ====
{{See also|根こそぎ動員|満鉄調査部事件}}
日中戦争が泥沼化するなか、[[1941年]]4月にはソ連と[[日ソ中立条約]]を結び、7月には[[大本営]]が[[関東軍特別演習]]動員の命令を下した<ref name="haradapost4" />。これは、[[独ソ戦]]開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが<ref name="harada200">[[#原田2|原田(1981)pp.200-204]]</ref>、結果としては対ソ戦争の断念と[[南進論]]の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された<ref name="harada200" />。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、[[太平洋戦争]]が始まった<ref name="haradapost4" /><ref name="harada200" />。
[[1942年]]10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]の開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった<ref name="harada200" />。このころは、[[下関市|下関]]・[[釜山]]をむすぶ[[海底トンネル]]が計画され、一時的にではあるが「[[大東亜共栄圏]]」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた<ref name="harada200" />。しかし、同年の[[泰緬鉄道]]の建設、1944年の[[大陸打通作戦]]などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった<ref name="harada200" />。
[[1943年]]には奉天の鉄道総局そのものが廃止された<ref name="komuta174" />。満鉄本社が新京に移され<ref name="haradapost4" />、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した<ref name="komuta266" /><ref name="harada200" />。満蒙開拓団は、[[1941年]]以降は[[統制経済]]政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが<ref name="araragi495">[[#蘭|蘭(2012)p.495]]</ref>、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び[[黄海]]の[[制空権]]・[[制海権]]を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「[[根こそぎ動員]]」の対象となっていった。
かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、[[満洲国協和会]]中央本部の実践科主任であった[[平賀貞夫]]が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された<ref name="harada194">[[#原田2|原田(1981)pp.194-199]]</ref>。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金[[横領]]の事実をつかみ、[[1941年]]11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した<ref name="harada194" />。これが合作社事件である。
憲兵隊は[[ゾルゲ事件]]の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた<ref name="harada194" />。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた[[鈴木小兵衛]]が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた<ref name="harada194" />。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている<ref name="harada194" />。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに[[1942年]]9月と[[1943年]]7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「[[満鉄調査部事件]]」)<ref name="harada194" />。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった<ref name="harada194" />。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が[[執行猶予]]付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた<ref name="harada194" />。
[[1945年]][[5月30日]]、[[大本営]]は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた<ref name="harada200" />。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである<ref name="harada200" />。
=== 敗戦と満鉄閉鎖 ===
==== 最後の奮闘と満鉄の解体 ====
1945年(康徳12年/昭和20年)[[8月9日]]、[[ソビエト連邦]]は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した<ref name="harada200" />。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた<ref name="harada200" />。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった<ref name="harada200" />。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという<ref name="harada200" />。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった[[山崎元幹]]の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた<ref name="harada200" />。この営みは、[[8月15日]]の[[玉音放送]]後も変わりなくつづけられた<ref name="harada200" />。[[8月17日]]、関東軍総司令官[[山田乙三]]は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている<ref name="harada200" />。[[8月20日]]、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した<ref name="harada200" />。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった<ref name="harada200" />。
満鉄は、満洲に侵攻した[[赤軍|ソ連軍]]に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年[[8月27日]]に発表された[[中ソ友好同盟条約]]により、[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]政府と[[ソビエト連邦]]政府の合弁による[[中国長春鉄路]]に移管された<ref name="harada205">[[#原田2|原田(1981)pp.205-210]]</ref>。しかし、[[9月22日]]の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった<ref name="harada205" />。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している<ref name="harada205" />。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、[[9月27日]]、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した<ref name="harada205" />。[[9月28日]]、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた<ref name="harada200" />。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている<ref name="harada205" />。[[1946年]][[1月15日]]、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した<ref name="harada205" />。[[1月21日]]、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は[[戦利品]]であると通告したという<ref name="harada205" />。
その後、[[国共内戦]]によって[[1949年]]に[[中国共産党]]率いる[[中華人民共和国]]が成立し、[[1955年]]には中国政府への路線引き渡しが完了した。
日本国内における拠点等は1945年[[9月30日]]、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が発出した「植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖」に関する覚書に基づき、即時閉鎖([[閉鎖機関]])が行われた<ref>満鉄、朝鮮銀行など即時閉鎖指令(昭和20年10月1日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p356 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。ただし、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、会社の[[清算]]結了(法人格消滅)は[[1957年]][[4月13日]]までずれ込んでいる。
==== 天水会と満鉄会 ====
{{see also|天水会|満鉄会}}
満鉄社員は総裁以下、1945年9月30日付で全員解雇となった<ref name="harada205" />。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、山崎総裁はじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた<ref name="harada205" />。これは「留用」と称され、山崎総裁の留用が終わったのは[[1947年]]8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった<ref name="harada205" />。ほとんど全ての社員は[[1948年]][[6月4日]]を以て留用を終えた<ref name="harada205" />。なお戦中の満鉄総裁であった[[大村卓一]]は、1945年11月、[[中国共産党]]軍の[[ゲリラ]]に逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。
しかし、一部は1949年の中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された<ref>[[#堀井|堀井(2015)]]</ref>。[[天水駅|天水]] - [[蘭州駅|蘭州]]間の[[天蘭線]](現在の[[隴海線]]の一部)はその成果の一つであり、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の[[1953年]]に「[[天水会]]」を組織した。
一方、日本国内では[[1946年]](昭和21年)、未払い[[退職手当]]の支払い、旧社員の[[就職]]斡旋などを目的として「満鉄社友新生会」が発足した<ref name=":0">{{Cite journal|author=荒木泰玄|year=|date=2013-02-03|title=戦後68年、さよなら「満鉄会」。|journal=[[東京人 (雑誌)|東京人]]|volume=321|page=|pages=116-123|publisher=[[都市出版]]}}</ref>。その後、[[1954年]](昭和29年)7月に「[[満鉄会|財団法人満鉄会]]」に改組し<ref name="ndl">{{Cite web|和書|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/mantetsukaikyuuzousiryou.html|title=満鉄会旧蔵資料(旧「満鉄社員名簿類(MF)」含む)|website=リサーチ・ナビ|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2020-04-01}}</ref>、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った<ref name="ndl" />。満鉄会の会員は最盛期で約15,000人にのぼったが<ref name=":0" />、[[2016年]](平成28年)3月末をもって解散した<ref name="ndl" />。
==== 満鉄の遺産 ====
[[ファイル:旧満鉄本社.JPG|thumb|right|270px|大連の旧満鉄本社(2007年10月撮影)
----
2014年に遼寧省文物保護単位に指定され、現在は博物館として利用されている。
]]
満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、[[1980年代]]に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や[[大慶油田]]とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では、現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。
満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館]]や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。
かつて満鉄に勤務した田中季雄は[[太平洋戦争]]後に次のように語っている<ref>[[#久保田|久保田(2005)p.131]]</ref>。
{{Quotation
|戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、[[清|清国]]の衰退で国家の形をしていなかった現在の[[中国東北部|中国東北地域]]に新しい国をつくった[[満洲国]]の場合は、五族([[漢民族|支那]]・[[満洲民族|満洲]]・[[モンゴル系民族|蒙古]]・[[日本人|日本]]・[[朝鮮民族|朝鮮]])の民族協和による[[王道楽土]]の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の[[中華人民共和国|新中国]]の発展にも大きく役に立っているはずだ。
|田中季雄|[[#久保田|『日本の鉄道史セミナー』(2005)「第17章 満鉄の興亡」p.131]]}}
[[2017年]]4月6日、[[中国社会科学院]]は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した<ref>{{Cite news | url = http://www.sankei.com/world/news/170406/wor1704060069-n1.html | title =
歴史問題で圧力? 中国、「満鉄研究センター」設立 | newspaper = [[産経新聞]] | publisher = [[産業経済新聞社]] | date = 2017-04-06| accessdate = 2017-09-30 }}</ref>。
== 鉄道事業 ==
=== 代表的な列車 ===
[[ファイル:Railway car factory of SMR.Shahokou.jpg|thumb|right|300px|大連沙河口満鉄機関車工場]]
[[ファイル:South Manchuria Railway (Mantetsu) May 1920 Schedule.jpg|thumb|right|300px|1920年5月の南満洲鉄道旅客列車運行の英語で時刻表]]
* '''特急'''「'''[[あじあ (列車)|あじあ]]'''」 大連 - 新京 - [[ハルビン駅|哈爾濱]]
* 急行「'''[[つばめ (列車)#南満洲鉄道「はと」|はと]]'''」 大連 - 新京
* 急行「'''[[朝鮮総督府鉄道#急行「ひかり」|ひかり]]'''<ref name="komuta123">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.123-126]]</ref>」 [[釜山駅|釜山]] - 新京
* 急行「'''[[朝鮮総督府鉄道#急行「のぞみ」|のぞみ]]'''<ref name="komuta126">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.126-128]]</ref>」 釜山 - 新京
* 急行「'''[[華北交通#優等列車|大陸]]'''<ref name="komuta131">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.131-132]]</ref>」 釜山 - 奉天 - [[北京駅|北京]]
* 急行「'''[[華北交通#優等列車|興亜]]'''<ref name="komuta133">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.133-134]]</ref>」 釜山 - 奉天 - 北京
* 急行「'''[[咸北線|あさひ]]'''<ref name="komuta135">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.135-136]]</ref>」 [[羅先直轄市|羅津]] - 新京
==== 特急「あじあ」 ====
{{main|あじあ (列車)}}
[[1934年]]([[康徳]]元年/[[昭和]]9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特別急行'''「[[あじあ (列車)|あじあ]]」'''(中国人向け案内には「亜細亜」表記)が登場した<ref name="komuta266">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.266-274]]</ref>。最高速度は110 km/h、表定速度は82.5 km/hで、日本国鉄の特急「[[つばめ (列車)|つばめ]]」の平均速度66.8 km/hを上回った<ref name="komuta266" />。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の同区間を走る急行「はと」の所要時間約10時間半を2時間も短縮させた<ref name="komuta266" />。6両の客車を表定時速80キロ以上で走る「あじあ」は当時の代表的な超高速列車であり、世界的に注目を浴びた<ref name="komuta266" />。高速運転を可能にした理由の一つが、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ{{Smaller|ナ}}型」と呼ばれる車両によって牽引されたことである<ref name="komuta266" />。客車は全車両空調装置完備であり、このような列車は世界で初めてであった<ref name="komuta266" />。[[1935年]](康徳2年/昭和10年)9月には運転区間は[[ハルビン|哈爾濱]](ハルビン)まで延長された<ref name="komuta266" />。1943年(康徳10年/昭和18年)2月、戦局の悪化にともない突然運休し、そのまま姿を消した<ref name="komuta266" />。
==== 急行「はと」 ====
[[1932年]]([[大同 (満洲)|大同]]元年/昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた<ref name="komuta274">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.274-277]]</ref>。満鉄初の愛称付き急行であった<ref name="komuta274" />。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった<ref name="komuta274" />。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった<ref name="komuta274" />。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった<ref name="komuta274" />。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった<ref name="komuta274" />。1934年以降は「パシ{{Smaller|ナ}}型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた<ref name="komuta274" />。
=== 経営路線 ===
[[ファイル:South Manchuria Railway armband.JPG|右|サムネイル|300px|南満洲鉄道株式会社の腕章(中国工業博物館蔵)]]
[[ファイル:Dalian Railway Station 01.jpg|300px|thumb|right|大連駅]]
[[ファイル:Manchukuo Railmap jp.gif|550px|thumb|1945年における満洲国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)]]
[[ファイル:ManchuriaRailways stele.jpg|thumb|right|250px|大連市内にある満鉄旧址の石碑]]
[[ファイル:ManchuriaRailways Manhole.jpg|thumb|right|250px|大連市内に現存する満鉄の社紋(「M」とレール断面の意匠)入りの[[マンホールの蓋]]。満鉄は上下水道や電力・ガスなど都市インフラに関わる事業も行なっていた。]]
[[File:Old Zhengjiatun Station 01.jpg|thumb|300px|[[双遼駅|鄭家屯駅]]([[吉林省]])]]
[[File:Old Longjiang Station 01.jpg|thumb|300px|[[竜江駅 (チチハル市)|竜江駅]]([[黒竜江省]])]]
[[File:蘇家屯機関区.jpg|thumb|300px|[[蘇家屯駅|蘇家屯機関区]]([[遼寧省]])]]
[[ファイル:South Manchuria Railway (Mantetsu) May 1920 Cover.jpg|thumb|150px|1920年5月の南満洲鉄道の時刻表と地図]]
鉄道は満鉄本来の路線('''社線''')つまり[[新京]](現・長春) - [[大連駅|大連]]・[[旅順]]間の[[満鉄連京線|満鉄本線]]と[[安奉線]]のほかに、満洲国が[[1935年]]([[康徳]]2年/[[昭和]]10年)に[[ソビエト連邦]]から買収した新京以北の[[東清鉄道|北満鉄路]](旧称・中東鉄道)をはじめとする[[満洲国国有鉄道]]('''国線''')や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、[[営業キロ]]数は格段と伸びた<ref name="komuta174">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.174-181]]</ref>。これに対応するため、満鉄は[[1936年]](康徳3年/昭和11年)、奉天に'''鉄道総局'''を設置した<ref name="komuta174" />。それにともない、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった<ref name="komuta174" />。[[1943年]](康徳10年/昭和18年)には鉄道総局そのものが廃止され、その業務は満鉄本社に継承された<ref name="komuta174" />。
以下は、[[1945年]](康徳12年/昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である<ref>[[#満鉄会|満鉄会『満鉄四十年史』(2007) 高山拡志「満鉄全線全駅一覧」]]</ref>。
凡例 : [貨] 貨物線
==== 社線 ====
{| class="wikitable"
! 路線名 !! 区間 !! キロ程 !! 旧路線名・備考
|-
| rowspan="3"|[[満鉄連京線|連京線]] || [[大連駅|大連]] - [[長春駅|新京]] ||align=right|701.4 || 本線 (開業 - 1921年7月20日)<br />満洲本線 ( - 1925年3月31日)<br />連長線 ( - 1932年10月31日)
|-
| 大連埠頭 - [[沙河口駅|沙河口]] [貨] ||align=right|6.9 || 通称「埠頭線」
|-
| 大連 - 吾妻 [貨] ||align=right|2.9 || 通称「吾妻線」
|-
| [[瀋丹線|安奉線]] || [[丹東駅|安東]] - [[蘇家屯駅|蘇家屯]] ||align=right|260.2 ||
|-
| 入船線 [貨] || 沙河口 - 入船埠頭 ||align=right|5.8 ||
|-
| [[旅順支線|旅順線]] || [[甘井子区|周水子]] - [[旅順駅|旅順]] ||align=right|50.8 ||
|- style="background-color:#eee"
| 柳樹屯線 || 大房身 - 柳樹屯 ||align=right|5.8 || 休止線
|-
| 甘井子線 [貨] || 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 ||align=right|11.9 ||
|-
| [[金荘線|金城線]] || [[金州駅|金州]] - 城子{{lang|zh|疃}} ||align=right|102.1 ||
|-
| 営口線 || [[大石橋市|大石橋]] - [[営口市|営口]] ||align=right|22.4 ||
|-
| 煙台炭礦線 || 煙台 - 煙台炭礦 ||align=right|15.6 || 非営業線
|-
| 撫順線 || [[蘇家屯駅|蘇家屯]] - [[撫順市|撫順]] ||align=right|52.9 ||
|-
| 渾楡連絡線 [貨] || 渾河 - 楡樹台 ||align=right|4.1 ||
|}
==== 北鮮線 ====
{| class="wikitable"
! 路線名 !! 区間 !! キロ程 !! 旧路線名・備考
|-
| [[咸北線|北鮮西部線]] || [[三峰駅|上三峰]] - [[南陽駅 (咸鏡北道)|南陽]] ||align=right|36.0 || 図們線([[朝鮮総督府鉄道]])
|-
| [[咸北線|北鮮東部線]] || [[図們駅|図們]] - [[先鋒駅 (羅先特別市)|雄基]] ||align=right|147.3 || 図們線(朝鮮総督府鉄道)
|-
| [[咸北線|雄羅線]] || 雄基 - 羅津埠頭 ||align=right|18.2 ||
|-
| [[咸北線#廃止された支線|南羅津線]] [貨] || [[羅津駅|羅津]] - 南羅津 ||align=right|3.0 ||
|}
==== 国線 ====
満洲国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)
{| class="wikitable"
! 路線名 !! 区間 !! キロ程 !! 旧路線名・備考
|-
| 奉山線(現[[瀋山線]]) || 奉天 - [[山海関駅|山海関]] ||align=right|419.6 || 奉山鉄路
|-
| 奉裕連絡線 [貨] || 奉天 - 裕国 ||align=right|17.5 ||
|-
| 于洪連絡線 [貨] || 于洪信号場 - 大成信号場 ||align=right|4.6 ||
|-
| 皇姑屯連絡線 [貨] || 皇姑屯 - 北奉天 ||align=right|2.8 ||
|-
| 高新線 || 高台山 - 新立屯 ||align=right|60.6 ||
|-
| 大鄭線 || 大虎山 - 鄭家屯 ||align=right|366.2 || 奉山鉄路(大虎山-通遼) <br /> 四{{lang|zh|洮}}鉄路(通遼-鄭家屯)
|-
| 新義線 || 新立屯 - 義県 ||align=right|131.5 ||
|-
| 河北線 || 溝幇子 - 河北 ||align=right|91.1 || 奉山鉄路
|-
| 錦古線 || 錦県 - 古北口 ||align=right|542.3 || 奉山鉄路(錦県-口北営子)
|-
| 北票線 || 金嶺寺 - 北票 ||align=right|17.9 || 奉山鉄路
|-
| [[葉赤線|葉峰線]] || 葉柏寿 - 赤峰 ||align=right|146.9 ||
|-
| 壺蘆島線 || 錦西 - 壺蘆島埠頭 ||align=right|12.1 || 奉山鉄路
|-
| [[瀋吉線|奉吉線]] || 奉天 - 吉林 ||align=right|447.4 || 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮)<br />吉海鉄路(朝陽鎮-吉林)
|-
| 瀋陽連絡線 [貨] || 奉天 - 瀋陽 ||align=right|10.7 ||
|-
| 将軍堡連絡線 [貨] || 撫順 - 将軍堡信号場 ||align=right|3.6 ||
|-
| 撫順城連絡線 [貨] || 撫順 - 撫順城 ||align=right|4.5 ||
|-
| [[梅集線|梅輯線]] || 梅河口 - 満浦 ||align=right|255.5 ||
|-
| 新通化線 || [[通化市|通化]] - 新通化 ||align=right|4.2 ||
|-
| 大栗子線 || 鴨園 - [[大栗子鎮|大栗子]] ||align=right|112.3 ||
|-
| [[四梅線|平梅線]] || 四平 - 蓮河 ||align=right|149.2 || 瀋海鉄路(西安-蓮河)
|-
| [[長図線|京図線]] || 新京 - 図們 ||align=right|528.0 || 吉長吉敦鉄路(新京-敦化)<br />敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺)
|-
| 龍豊線 || 龍潭山 - 大豊満 ||align=right|22.4 ||
|-
| 金珠線 || 江北 - 金珠 ||align=right|18.8 || 吉林鉄路(新吉林-金珠)
|-
| 小新連絡線 [貨] || 小姑家 - 新站 ||align=right|9.1 ||
|-
| 朝開線 || 朝陽川 - 上三峰 ||align=right|60.6 ||
|-
| 和龍線 || 龍井 - 和龍 ||align=right|61.1 ||
|-
| 合水連絡線 [貨] || 萱穂信号場 - 合水信号場 ||align=right|― ||
|-
| [[図佳線]] || 図們 - [[ジャムス市|佳木斯]] ||align=right|580.2 ||
|-
| 佳木斯埠頭線 [貨] || 佳木斯 - 佳木斯埠頭 || align=right|3.6 ||
|-
| 興寧線 || 新興 - 城子溝 ||align=right|216.1 ||
|-
| 汪清連絡線 [貨] || 汪清 - 小汪清 ||align=right|9.0 ||
|-
| 虎林線 || 林口 - 虎頭 ||align=right|335.7 ||
|-
| 恒山線 || 鶏寧 - 恒山 ||align=right|12.4 ||
|-
| 拉浜線 || 三{{lang|zh|棵}}樹 - 拉法 ||align=right|265.5 ||
|-
| 煤窯線 || 舒蘭 - 煤窯 ||align=right|30.4 || 吉林鉄路
|-
| [[哈大線|京浜線]] || 新京 - [[ハルビン駅|哈爾浜]] ||align=right|242.0 || 北満鉄路
|-
| 浜洲線 || 哈爾浜 - 満洲里 ||align=right|934.8 || 北満鉄路
|-
| 浜綏線 || 哈爾浜 - [[綏芬河市|綏芬河]] ||align=right|546.4 || 北満鉄路
|-
| 開道廻線 || 亜布洛尼 - 横道河子 || align=right|59.2 ||
|-
| 香坊連絡線 [貨] || 香坊 - 東門信号場 ||align=right|5.1 ||
|-
| 東門連絡線 || 東門信号場 - 新香坊 ||align=right|6.2 ||
|-
| 城鶏線 || 下城子 - 西鶏家 ||align=right|103.4 || 穆棱鉄路(下城子-梨樹鎮)
|-
| 綏寧線 || 河西 - 東寧 ||align=right|91.1 ||
|-
| 浜江線 || 哈爾浜 - 三{{lang|zh|棵}}樹 ||align=right|8.8 || 北満鉄路(哈爾浜-浜江)
|-
| 三{{lang|zh|棵}}樹埠頭線 [貨] || 浜江 - 三{{lang|zh|棵}}樹 ||align=right|4.0 ||
|-
| 哈爾浜埠頭線 || 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 ||align=right|2.9 || 北満鉄路(哈爾浜-八区)
|-
| 江南連絡線 [貨] || 太平橋 - 江南信号場 ||align=right|2.2 ||
|-
| 浜北線 || 三{{lang|zh|棵}}樹 - 北安 ||align=right|326.1 || 呼海鉄路(新松浦-海倫)<br />海克鉄路(海倫-北安)
|-
| 綏佳線 || 綏化 - 佳木斯 ||align=right|381.8 ||
|-
| 鶴岡線 || 蓮江口 - 鶴岡 ||align=right|54.3 ||
|-
| 蓮江口埠頭線 [貨] || 蓮江口 - 蓮江口埠頭 ||align=right|3.5 ||
|-
| 北黒線 || 北安 - 黒河 ||align=right|302.9 ||
|-
| 黒河埠頭線 [貨] || 黒河 - 黒河埠頭||align=right|4.2 ||
|-
| 斉北線 || 斉斉哈爾 - 北安 ||align=right|231.5 || 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安)<br />泰克鉄路(泰安-克山)<br />海克鉄路(克山-北安)
|-
| 寧霍線 || 寧年 - 霍龍門 ||align=right|284.0 || 斉克鉄路(寧年-拉哈)
|-
| [[平斉線]]||四平 - 斉斉哈爾||align=right|571.4|| 四{{lang|zh|洮}}鉄路(四平-{{lang|zh|洮}}南)<br />{{lang|zh|洮}}昂鉄路({{lang|zh|洮}}南-三間房)<br />斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾)
|-
| 京白線 || 新京 - 白城子 ||align=right|332.6 ||
|-
| 白杜線 || 白城子 - 杜魯爾 ||align=right|376.5 || {{lang|zh|洮}}索鉄路(白城子-寧家)
|-
| 楡樹線 || 楡樹屯 - 昂昂渓 ||align=right|6.4 || 斉克鉄路
|-
| [[渓田線|渓{{lang|zh|堿}}線]] || 宮原 - 田師府 ||align=right|86.0 ||
|}
==== 新線 ====
安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - [[鳳上線|鳳灌線]] - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)
==== 社内専用線 ====
湯旺森林線
==== 廃止線 ====
;社線
:霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
:西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
;国線
:馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
:{{lang|zh|奶}}子山線[貨] (蛟河 - {{lang|zh|奶}}子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
:松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
:道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
;新線
:東当線(1944年4月1日廃止)
=== 満鉄の車両 ===
{{See|南満洲鉄道の車両}}
== 関連会社一覧 ==
{{節スタブ}}
* [[満鉄衛生研究所]]
* [[満鉄調査部]]
* [[満洲映画協会]]
* [[満洲日日新聞]]
* [[満洲航空]]
* [[華北交通]]
* [[華中鉄道]]
* [[大連都市交通]](南満洲電気)
* 大連汽船(現在の[[NSユナイテッド海運]])
* [[昭和製鋼所]](現在の[[鞍山鋼鉄集団]])
* 日満倉庫(現在の[[東洋埠頭]])
* 日満マグネシウム(現在の[[宇部マテリアルズ]])
* [[日本精蠟]]
* [[扶桑レクセル]] - 南満洲鉄道、[[華北交通]]、[[華中鉄道]]従業員の雇用対策のため設立された。
== 営業実績 ==
南満洲鉄道株式会社各種事業収支(単位:万円)<ref>[[#西澤|西澤(2000)p.127]]</ref>
{| class="wikitable"
!会計年度(西暦)
!鉄道
!ホテル
!船舶
!自動車
!港湾
!鉱業
!製鉄
!製油
!附属地
!その他
!合計
|-
|1907
|366.7
| -3.1
| -
| -
|1.2
|55.3
| -
| -
| -13.0
| -205.5
|201.7
|-
|1908
|737.6
| -1.2
| -12.6
| -
|17.4
|102.7
| -
| -
| -12.5
| -620.1
|211.4
|-
|1909
|919.8
| -1.9
| -25.5
| -
|24.7
|123.0
| -
| -
| -23.0
| -439.9
| 577.2
|-
|1910
|912.9
| -7.7
| -19.3
| -
|11.2
|166.7
| -
| -
| -49.7
| -571.4
|370.8
|-
|1911
|1061.8
| -4.7
| -14.8
| -
|9.6
|217.9
| -
| -
| -61.5
| -827.4
|366.7
|-
|1912
|1206.1
| -3.6
| -2.2
| -
| -19.9
|184.7
| -
| -
| -76.8
| -835.4
|492.6
|-
|1913
|1436.1
| -2.1
| -12.7
| -
|18.3
|180.1
| -
| -
| -105.1
| -797.9
|716.7
|-
|1914
|1487.1
| -5.7
| -16.9
| -
|32.7
|221.7
| -
| -
| -108.6
| -856.2
|754.1
|-
|1915
|1572.0
| -4.8
| 4.6
| -
|37.1
|200.7
| -
| -
| -97.4
| -904.2
|808.0
|-
|1916
|1937.9
| -0.7
|21.4
| -
|36.4
|200.7
|12.3
| -
| -126.8
| -1077.5
|1010.8
|-
|1917
|2359.9
|3.7
|106.3
| -
|39.3
|602.5
| -
| -
| -160.8
| -1458.3
|1492.6
|-
|1918
|2795.4
|9.8
|28.6
| -
|3.9
|713.7
| -
| -
| -240.7
| -1039.7
|2219.3
|-
|1919
|3653.2
| -0.3
| -25.1
| -
| -133.5
|1359.9
| -148.7
| -
| -421.6
| -1876.4
|2437.5
|-
|1920
|4855.7
| -16.8
| -84.9
| -
| -56.3
|606.7
| -642.3
| -
| -616.0
| -1307.0
|2739.2
|-
|1921
|4503.1
| -21.9
| -24.5
| -
|66.9
|329.6
| -287.4
| -
| -643.2
| -783.1
|3138.6
|-
|1922
|5364.4
| -32.8
| -2.2
| -
|128.2
|671.6
| -319.8
| -
| -683.6
| -500.1
|3508.0
|-
|1923
|5648.2
| -33.7
| -
| -
|7.4
|407.9
| -224.1
| -
| -829.8
| -1496.4
|3479.6
|-
|1924
|5600.8
| -24.4
| -
| -
|7.6
|810.3
| -295.6
| -
| -976.4
| -1640.3
|3455.3
|-
|1925
|5859.5
| -21.5
| -
| -
|63.3
|646.7
| -372.0
| -
| -1140.0
| -1548.8
|3486.5
|-
|1926
|6197.1
| -33.7
| -
| -
|99.4
|548.9
| -380.7
| -
| -1256.7
| -1768.7
|3415.8
|-
|1927
|6800.8
| -26.4
| -
| -
|97.0
|974.8
| -15.8
| -
| -1300.6
| -1890.3
|3627.4
|-
|1928
|7428.1
| -
| -
| -
|246.2
|1160.3
|121.6
| -
| -1319.5
| -1834.4
| 4255.3
|-
|1929
|7489.0
| -
| -
| -
|355.7
|1227.5
|54.3
| -
| -1359.9
|1707.3
|4550.6
|-
|1930
|5856.2
| -
| -
| -
|182.1
|182.1
| -66.7
| 3.3
| -1071.9
| -1066.3
|2167.3
|-
|1931
|4818.5
| -9.7
| -
| -
|128.9
|1.7
| -298.0
|29.0
| -1087.7
| -1880.4
| -340.1
|-
|1932
|6505.1
| -8.8
| -
| -
|303.9
|12.8
| -390.0
|53.8
| -1168.7
| -1150.8
|6128.8
|-
|1933
|7576.6
| -1.3
| -
| -
|321.7
|501.6
| -54.4
|82.5
| -1067.0
| -1853.0
|4292.0
|-
|1934
|7324.4
|2.8
| -
| -
|358.0
|1039.1
| -
|47.2
| -1367.6
| -2246.4
|4646.8
|-
|1935
|8403.0
| -9.4
| -
| -
|359.5
|1269.8
| -
|105.1
| -1421.8
| -3100.1
|4962.4
|-
|1936
|7959.7
| -4.9
| -
| -
|394.6
|1225.0
| -
|92.2
| -1663.4
| -1758.3
|5017.4
|-
|1937
|8971.3
| -
| -
| -
|495.1
|1050.5
| -
|148.7
| -1085.5
| -3272.7
|7392.9
|-
|1938
|9711.1
| -
| -
| -
|589.5
|1657.9
| -
|226.0
| -
| -4897.5
|7287.5
|-
|1939
|10592.2
| -
| -
| -
|294.3
|1126.0
| -
|127.5
| -
| -4355.1
|7784.5
|-
|1940
|14494.5
| -
| -307.1
| -422.6
|167.0
|1348.7
| -
|101.9
| -
| -7711.3
|7671.1
|-
|1941
|15058.9
| -
| -111.2
|5.2
|136.4
|1401.1
| -
|250.2
| -
| -9527.4
|7213.1
|-
|1942
|19926.1
| -
| -266.5
|14.3
| -4.4
|1439.3
| -
|310.5
| -
| -12930.3
|8488.8
|-
|1943
|22963.6
| -
| -356.3
| -419.1
| -624.4
|510.5
| -
|102.8
| -
| -12881.4
|9295.6
|-
|1944
|298232.6
| -
| -801.1
| -593.5
| -1141.1
| -1244.5
| -
| -549.9
| -
| -14113.5
|11379.9
|-
|合計
|260178.6
| -264.2
| -1922.0
| -1414.7
|3094.7
|23242.5
| -3307.3
|1130.8
| -21557.5
| -108200.8
|140703.8
|}
== 歴代代表者 ==
歴代代表者は、以下の表に示す通りである<ref name="ajireki-glossary" />。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る<ref name="ajireki-glossary" />。
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!代!!colspan="2"|氏名!!在任期間!!出身地!!出身校!!前職・備考など
|-
!1
|[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|60px]]||[[後藤新平]]||[[1906年]][[11月13日]] - [[1908年]][[7月14日]]||[[陸奥国]]||須賀川医学校||[[台湾総督府]]
|-
!2
|[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|60px]]||[[中村是公]]||[[1908年]][[12月19日]] - [[1913年]][[12月18日]]||[[安芸国]]||[[東京帝国大学]]||台湾総督府
|-
!3
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||[[野村龍太郎]]||[[1913年]][[12月19日]] - [[1914年]][[7月15日]]||[[美濃国]]||東京帝国大学理学部||[[鉄道院]]副総裁
|-
!4
|[[ファイル:Yujiro Nakamura (Baron).jpg|60px]]||[[中村雄次郎]]||[[1914年]][[7月15日]] - [[1917年]][[7月31日]]||[[伊勢国]]||[[陸軍兵学寮]]||[[貴族院勅選議員]]
|-
!5
|[[ファイル:Shinbee Kunisawa.jpg|60px]]||[[国沢新兵衛]]||[[1917年]][[7月31日]] - [[1919年]][[4月12日]]||[[江戸]]||東京帝国大学工科大学||[[鉄道省]]
|-
!6
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||野村龍太郎||[[1919年]][[4月12日]] - [[1921年]][[5月31日]](再任)||美濃国||東京帝国大学理学部||再任
|-
!7
|[[ファイル:Hayakawa Senkichiro.jpg|60px]]||[[早川千吉郎]]||[[1921年]][[5月31日]] - [[1922年]][[10月14日]]||[[加賀国]]||東京帝国大学法科大学||[[三井合名会社]]副理事長
|-
!8
|[[ファイル:Takeji kawamura.jpg|60px]]||[[川村竹治]]||[[1922年]][[10月24日]] - [[1924年]][[6月22日]]||[[羽後国]]||東京帝国大学法科大学||[[貴族院勅選議員]]
|-
!9
|[[ファイル:Yasuhiro Ban'ichirō.jpg|60px]]||[[安広伴一郎]]||[[1924年]][[6月22日]] - [[1927年]][[7月19日]]||[[豊前国]]||[[慶應義塾]]<br/>香港中央書院||[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]
|-
!10
|[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|60px]]||[[山本条太郎]]||[[1927年]][[7月19日]] - [[1929年]][[8月14日]]||[[越前国]]||[[共立学校]]中途退学||[[立憲政友会]]幹事長
|-
!11
|[[ファイル:Sengoku Mitsugi.jpg|60px]]||[[仙石貢]]||[[1929年]][[8月14日]] - [[1931年]][[6月13日]](不)||[[土佐国]]||東京帝国大学理学部||[[九州鉄道]]社長
|-
!12
|[[ファイル:Kosai Uchida.jpg|60px]]||[[内田康哉]]||[[1931年]][[6月13日]] - [[1932年]][[7月6日]]||[[肥後国]]||東京帝国大学||[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
|-
!13
|[[ファイル:Hirotaro Hayashi.jpg|60px]]||[[林博太郎]]||[[1932年]][[7月26日]] - [[1935年]][[8月2日]]||[[東京都]]||東京帝国大学文科大学||貴族院伯爵議員
|-
!14
|[[ファイル:Yohsuke matsuoka1932.jpg|60px]]||[[松岡洋右]]||[[1935年]][[8月2日]] - [[1939年]][[3月24日]]||[[山口県]]||[[明治法律学校]]<br/>[[オレゴン大学]]||[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]][[総領事]]
|-
!15
|[[ファイル:Omura Takuichi.jpg|60px]]||[[大村卓一]]||[[1939年]][[3月24日]] - [[1943年]][[7月14日]]||福井県||[[札幌農学校]]||関東軍交通監督部長
|-
!16
|[[ファイル:KobiyamaNaoto.jpg|60px]]||[[小日山直登]]||[[1943年]][[7月14日]] - [[1945年]][[4月11日]]||[[福島県]]||東京帝国大学||南満洲鉄道株式会社
|-
!17
|[[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]||[[山崎元幹]]||[[1945年]][[5月5日]] - [[1945年]][[9月30日]]||福岡県||東京帝国大学法科大学||満洲電業副社長
|-
|}
== 主な満鉄出身者 ==
=== 役員 ===
* [[金井章次]](満鉄地方部衛生課長)
* [[安井武雄]](建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計)
* [[村上義一]](理事)
* [[河本大作]](理事)
* [[十河信二]](理事。終戦後しばらくして国鉄総裁に就任、東海道新幹線の整備に尽力。)
* [[久保田政周]](理事)
* [[中西敏憲]](理事)
* [[北條秀一]](理事)
* [[田代由紀男]](吉林局)
* [[野田俊作]](参事)
* [[伊藤顕道]](満鉄安東、奉天第二中学教諭)
* [[筒井省二]](皮膚科学者。満鉄病院で勤務後、[[鶴岡市立荘内病院]]長)
* [[岸一太]](理事、満鉄病院院長)
=== 社員 ===
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[足立篤郎]](元[[農林水産大臣|農林大臣]]、[[科学技術庁長官]])
* [[出光佐三]]([[出光興産]]創業者、貴族院議員)
* [[出光計助]](元[[出光興産]]社長、元[[石油連盟]]会長)
* [[稲嶺一郎]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]]、琉球石油(現・[[りゅうせき]])設立者)
* [[井上日召]](日蓮宗僧侶、政治活動家、[[血盟団事件]]主犯)
* [[岩永裕吉]](元[[同盟通信社]]社長)
* [[宇田耕一]](元[[経済企画庁長官]]、科学技術庁長官)
* [[大賀一郎]](植物学者)
* [[大宮守人]]([[味の三平]]創業者)
* [[尾崎秀実]](嘱託職員)
* [[小野田一雄]](水泳選手、[[1924年パリオリンピック]]競泳日本代表主将)
* [[岸一郎]](元[[阪神タイガース|大阪タイガース]]監督)
* [[具島兼三郎]](国際政治学者、元[[長崎大学]]学長)
* [[坂本直道]]([[坂本龍馬]]の甥で自由民権家の[[坂本直寛]]の長男)
* [[佐々木義武]](元科学技術庁長官、[[経済産業大臣|通商産業大臣]])
* [[東海林太郎]](歌手)
* [[田中龍夫]](元[[文部大臣]]、通商産業大臣)
* [[玉置和郎]](元[[総務庁]]長官)
* [[坪内寿夫]](元[[新来島どっく|来島どっく]]社長)
* [[鶴田義行]](水泳選手、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダム]]・[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]200m平泳ぎ2大会連続金メダリスト)
* [[永末英一]](元[[民社党]]委員長)
* [[中西功]](元[[日本共産党]]参議院議員)
* [[布村一男]]([[民族学]]者、元[[熊本女子大学]]教授)
* [[野々村一雄]](元[[一橋大学]]教授、[[満鉄調査部]]勤務)
* [[野間省一]](元[[講談社]]社長)
* [[浜崎真二]](元[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]監督)
* [[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]([[東京地下鉄道]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])創業者、「地下鉄の父」)
* [[松岡満寿男]](元満鉄会理事長)
* [[松木侠]]([[大同学院]]院長、元[[鶴岡市]][[市長]])
* [[松原治]]([[紀伊國屋書店]]会長兼CEO)
* [[村田浩 (総理府技官)|村田浩]](元[[日本原子力研究所]]理事長)
* [[毛利松平]](元[[環境大臣|環境庁長官]])
* [[安井謙]](元[[参議院議長]])
* 義永秀親(元鹿児島県大島郡[[瀬戸内町]]町長)
* [[和田耕作]](元民社党[[衆議院議員]])
{{col-break}}
; (参考)満鉄社員だった人物の子孫
* [[あまんきみこ]]([[児童文学者]])
* [[衛藤瀋吉]](国際政治学者、元[[亜細亜大学]]学長、元[[東京大学]]名誉教授)
* [[小田島雄志]](英文学者、演劇評論家)
* 三代目[[桂米朝]](落語家)
* [[加藤登紀子]](歌手)
* [[桑田佳祐]](シンガーソングライター、[[サザンオールスターズ]]ボーカル兼リーダー)
* [[佐野洋子]](絵本作家)
* [[せんぼんよしこ]](テレビディレクター、映画監督)
* [[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]([[岩波ホール]]元支配人)
* [[高橋克典]](俳優、母方祖父)
* [[財部誠一]](経済ジャーナリスト)
* [[タモリ]](タレント)
* [[千聖]](ミュージシャン、[[PENICILLIN]]ギター兼リーダー、曽祖父が第13代総裁の林博太郎)
* [[張富士夫]]([[トヨタ自動車]]第4代会長)
* [[堀内詔子]]([[衆議院]]議員、曽祖父が第13代総裁の林博太郎)
* [[三重野康]](第26代[[日本銀行]]総裁)
* [[水野晴郎]](映画評論家、映画監督)
* [[山田洋次]](映画監督)
* [[文仁親王妃紀子]](母方祖父、曽祖父)
* [[菅義偉]](元内閣総理大臣、父が社員)
* [[渡部建]](お笑い芸人、母方祖父)
{{col-end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=蘭信三|authorlink=蘭信三|year=1994|month=2|title=「満州移民」の歴史社会学|publisher=[[行路社]]|asin=B07NPMJSXG|ref=蘭}}
* {{Cite book|和書|author=有馬学|authorlink=有馬学|year=2010|month=4|title=日本の歴史22 帝国の昭和|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|origyear=2002|isbn=4-06-268923-5|ref=有馬}}
* {{Cite book|和書|author=飯塚一幸|authorlink=飯塚一幸|year=2016|month=12|title=日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-06814-7|ref=飯塚}}
* {{Cite book|和書|author=伊藤之雄|authorlink=伊藤之雄|year=2010|month=4|title=日本の歴史22 政党政治と天皇|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|origyear=2002|isbn=978-4-06-291922-7|ref=伊藤}}
* {{Cite book|和書|author=井上勇一|authorlink=井上勇一 (国際関係論)|year=1990|month=11|title=鉄道ゲージが変えた現代史|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=4-12-100992-4|ref=井上}}
* {{Cite book|和書|author=臼井勝美|authorlink=臼井勝美|year=1974|month=11|title=満州事変|publisher=[[中央公論社]]|series=中公新書|isbn=4-12-100377-2|ref=臼井}}
* {{Cite book|和書|author=大門正克|authorlink=大門正克|year=2009|month=3|title=全集日本の歴史第15巻 戦争と戦後を生きる|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-622115-0|ref=大門}}
* {{Cite book|和書|author=片山慶隆|authorlink=片山慶隆|year=2011|month=11|title=小村寿太郎|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102141-0|ref=片山}}
* {{Cite book|和書|author=川田稔|authorlink=川田稔|title=満州事変と政党政治|year=2010|month=9|publisher=講談社|series=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4-06-258480-7|ref=川田}}
* {{Cite book|和書|author=北岡伸一|authorlink=北岡伸一|year=1999|month=8|title=日本の近代5 政党から軍部へ|publisher=中央公論新社|isbn=978-4-12-490105-4|ref=北岡}}
* {{cite book|和書|author=久保田博|authorlink=久保田博|title=日本の鉄道史セミナー|publisher=[[グランプリ出版]] |date=2005年5月18日|edition=初版|isbn=978-4876872718|ref=久保田}}
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== 関連項目 ==
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* [[東清鉄道|北満鉄路]]
* [[東満洲鉄道]]
* [[野戦鉄道提理部]]
* [[中国長春鉄路]]
* [[満洲国有鉄道]]
* [[朝鮮総督府鉄道]]
* [[大東亜縦貫鉄道]]
* [[南満洲鉄道の車両]]
* [[満鉄疑獄事件]]
* [[満鉄調査部事件]]
* [[満鉄刀]]
* [[満鉄会]]
* [[イギリス東インド会社]] - 南満洲鉄道株式会社の参考となったモデル
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*[[南満洲鉄道の歴史]]
*[[明治三十九年勅令第百四十二号南満洲鉄道株式会社ニ関スル件中改正ノ件]]
== 外部リンク ==
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* [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/12-06/12-06-2331.pdf 満鉄ビルディング新築工事] 昭和11年、東京市赤坂区葵町に完成した満鉄ビルについて 『土木建築工事画報』 第12巻 第6号 工事画報社 昭和11年6月発行
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マッドサイエンティスト
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マッドサイエンティスト(英語: mad scientist)とは、主にフィクション作品で登場する、常軌を逸した科学者。
日本語では「狂科学者」、「狂気の科学者」、「狂った科学者」と訳される。類義語にマッドエンジニア(英語: mad engineer)があるが、両者の区別は明確ではない。
フィクション作品では、SF等において「博士」や「ドクター」を名乗り科学知識や技術などを有する、常軌を逸した科学者として登場する。超絶的な頭脳を持つが、往々にして理解しがたい価値観や世界征服などとんでもない願望を持ち、周囲の迷惑は何も考えていない。悪役として描写される場合、より端的に「悪の科学者」、また「悪の天才」、「狂気の天才」といった形容詞が着く場合がある。事件を引き起こす役割として登場することが多い。
マッドサイエンティストの行動は、しばしば以下のように描写される。共通するのは、パニックを起こすことである。
SFを主題とする作品では、ロボット、人造人間などを開発して大混乱を引き起こす描写がよくみられる。悪役であることが多いが前者の場合、コメディ作品では主人公の仲間や、ロボットの主人公の創造者として描かれることもある。後者の場合であっても一種のコミックリリーフとして活躍する場合もある。
マッドサイエンティストの人物像は、幾つかの定型がある。共通して付き合い辛い人物の特徴が見られる。
共通の特徴としては、まず優秀であること。ただし例外も見られる。次に科学に対してモノマニア的にひたすら情熱を注ぐ学者・技術者であること。しかし中には、新しい発見による名声や発明による収入を目的とすることもあり科学は、方法に過ぎない場合もある。次に言動が奇矯、一般社会の慣習や礼儀に疎いか無関心で、自分の研究が起こす周囲への迷惑が見えない、あるいは理解できていない点が挙げられる。このために例えば、原水爆や猛毒の細菌の開発、遺伝子を操作して全く新しい生物を創出する等、危険な研究に執念を燃やすことが挙げられる。しかしパニックが目的の場合、自分の行動を客観的に理解しており当て嵌まらない場合もある。
内面は、挫折、トラウマ、周囲との衝突や軋轢、自身の行動を理解されない共感性の違いから孤独を感じている場合が多い。このようなコミュニケーションのストレスが周囲との隔絶に繋がって他人の生命を軽んじたり、社会への報復、孤独に引き籠る人物像に結びつく。逆に積極的に周囲とコミュニケーションを取る場合、傲慢な態度、極度な自己肯定、自らを絶対者として演出しようという欲求に結びつく傾向が挙げられる。
対して人騒がせではあるが基本的には無害な人物として描かれる場合もある。正義のヒーローが登場する勧善懲悪の物語では、この穏健なマッドサイエンティストは、味方側として登場する場合がある。この場合、一見、傍迷惑な奇人変人であるが、主人公にとって必要となるキーアイテムを開発・提供する重要なポジションの人物となる。この穏健なマッドサイエンティストは、コミュニケーションのストレスがないために反社会的な行動を取らないのだと指摘できる。
主にマッドサイエンティストは、以下の目的を選ぶことが特徴とされる。
マッドサイエンティストが引きつけられるとする研究・探究の分野には、以下のようなものがある。
逆に、伝統的にマッドサイエンティストがほとんど見向きもしなかった分野は、以下のようなものである。
また、工学と名の付く学問は概ねマッドサイエンティストの興味の対象であるが、信頼性工学、人間工学、交通工学の様にマッドサイエンティストの研究においては登場しない分野もある。
日本の漫画、アニメーションに登場する科学者は、専攻分野がよく判らない「何でも博士」が多い。この場合、広範な分野に対して雑学的以上に精通していなければできない研究や発明さえ、1人で行う。
マッドサイエンティストは、奇矯な振る舞い、極端に危険な手段を用いることで特徴付けられる。彼らの研究所ではしばしば、テスラコイルやバンデグラフ起電機や、その他の火花を飛ばしたりポンと音を立てたりするガラクタなどが、ぶんぶん唸っている。またロボットやアンドロイドが描かれる場合は、失敗作の手足や胴体があちこちに転がっていたりする。
端的にマッドサイエンティストである事を受け手に理解させる為に、容姿で演出がなされる事も多い。例として挙げられるアイテムは、白衣、黒いマント、モノクル、異様に光の反射率が高い(レンズの向こう側の目が見えない)眼鏡、得体の知れない液体の入った白煙を上げるフラスコ、手入れされずボサボサの髪形、機械義手や身体の一部のサイボーグ化などである。日本で作られた創作作品における具体的な例としては、ナムコから発売されたアーケードゲーム、『超絶倫人ベラボーマン』の爆田博士が挙げられ、まず名前自体から、黒マント、眼鏡、片手は機械の義手、ヘアースタイルがキノコ雲を模しているという、まさに手本の様なデザインであった。
科学者という概念、職業形態が定着する以前の世界を物語の舞台とするフィクションでは、マッドサイエンティストの役割は、魔法使いが充てられる。作品の世界観によっては、錬金術やスチームパンクなどの疑似科学的な知識や技術の専門家、研究者である場合も見られる。これらは、演出上の差異が見られるものの行動や人物像、目的に関しては、ほぼ同一と言って良い。むしろ現実に則した世界観に比べファンタジー作品では、神や悪魔が存在し、明確に正邪善悪が定義されているため一層、その行動は、非常識として見做される場合が多い。また宗教の解釈を取り違えた狂信者、異端者という姿でも描かれる。
歴史上に出現した著名だが、やや風変わりな科学者の行動がマッドサイエンティストのモデル、想像のアイディアになったといえる。
まず現代の常識、倫理基準において異常であっても当時は普通とされた人物も多い。
古代ギリシアのアルキメデスは、裸で市中を走り回った、研究に没頭するあまりローマ兵に抵抗して殺害されたとされるエピソードが有名である。エウドクソスは、天動説を唱え、アリストテレスらによって支持された。イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチは、医療分野でなく絵画の人体デッサンへの興味から死体を解剖した。陰陽道は、現代からすれば科学ではないが中国や日本は、これらを科学として重視した。天武天皇は、自身も陰陽道を修め、陰陽寮を設置した。陰陽師の安倍晴明、安倍有世は、社会的に高い地位にあった。ジョン・ハンターは、「近代外科学の開祖」と呼ばれながら死体コレクターとして知られるが、当時の医師の倫理観からすれば死体の収集は、研究方法として正当な物である。ベンジャミン・ラッシュは、「精神病の患者を板の上に縛りつけて回転させることで頭に血液を集めて治療する」、「アメリカ合衆国憲法で医師免許を禁止しようとした」、「黒人が黒いのは遺伝病である」など現代の基準で見れば狂気の医者のように見えるが、当時としては正当な医学として高い評価を受けていた。アントワーヌ・ルイ医師は、処刑道具ギロチンを発明した。
対して現代だけでなく当時においても批判された人物として近代チェコのイトカ・シュレベロヴァ医師が麻酔薬の兵器転用という研究を行い、しかも地元の子供を人体実験に使ったことを学会発表して非難を浴びた。ヒトラーの主治医モレルは、病状を隠し劇物を使用した危険な治療を本人の同意なしに行った。「死の天使」と綽名されたメンゲレ医師は、人体実験を繰り返したとされる。考古学者ウォーリス・バッジは、数々の発掘品を大英博物館に送ったが、この手法に関して激しく批判された。
逆に現代から見れば正当な主張をして批判に晒された人物も多い。地動説のガリレオ・ガリレイや進化論のダーウィンが有名である。「院内感染予防の父」センメルヴェイスは、手を洗うことを推奨して精神病院に送られた。
次いで科学者や技術者の中でも、平和利用から離れる兵器開発者がマッドサイエンティストのアイディアに繋がる場合が多い。
ガトリング砲を発明した発明家ガトリングは、「1人で100人分戦えば兵士が少なくて済み、不衛生な戦場で病死が減る」と発言した。ノーベルは、ダイナマイトの発明者で知られ、彼に対して使われた「死の商人」は、広く軍事産業に関わるマッドサイエンティストのアイディアに使われた。工学博士平賀譲は、主張を曲げない頑固な性格から「不譲(ゆずらず)」の異名で知られる。ロケット技術者フォン・ブラウンは、「宇宙に行く為なら悪魔に魂を売り渡してもよいと思った」と発言している。フォン・ノイマンは、倫理に反するような研究を行った科学者ではなく多分野に渡って優れた功績を残したが、その卓越した頭脳と個性的な人物像を「悪魔」と評された。特に核兵器開発に参加したことや当人のタカ派の政治思想面からスタンリー・キューブリックによる映画『博士の異常な愛情』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。コーンフレークの生みの親とされるジョン・ハーヴェイ・ケロッグは、極端な禁欲主義者であり、去勢を推進するための食事を開発中に、パン生地を乾燥させて作られたものが元になっている。
マッドサイエンティストのステレオタイプは、19世紀の文学作品において科学の危険性あるいは、科学への恐怖を表現するために作り出された。
近代まで宗教下において管理され、行使されてきた科学的技術が、その管理と無関係に、しかも急速に発達していく中、見慣れない新しい人工物を社会にもたらし、社会生活や伝統的価値観を変容させていくことに対して大衆が持つ不安や不快感を、人間の姿を借りて擬人化したものと言える。いわば科学進歩と宗教やモラルの論争が、初期ステレオタイプの特徴である。
神話に見られるマッドサイエンティストとしては、古代ギリシアの神話のプロメテウスが知られる。彼は、現在のフィクションの登場人物のように風変わりではないものの全知全能の神ゼウスに挑戦するという常軌を逸した人物として描写される。また後世の神を出し抜こうとした知恵者として危険な行為を冒す科学者の代名詞ともなった。中国の神話には、蚩尤が登場した。彼は、最初の武器の発明者であり天界の支配者黄帝に反乱を起こして敗れた最初の反逆者として描写された。ただしプロメテウスと蚩尤は、どちらも神であり知恵だけでなく超人的な能力も備えていたが、ギリシア神話のイカロスは、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽の熱で蝋が解けて墜落死するという結末を辿った。彼らは、卓越した頭脳、自身の能力への傲慢な自信、自身の行動の結果を予測できない危険な行為など、現在のマッドサイエンティストに通じる部分も持つ。
このように神話のマッドサイエンティストは、知力を過信する人間の傲慢さを戒める訓話だった。
中世の騎士道物語では、マーリンなどの魔法使いが登場する。彼らは、主人公である騎士の助言者であったり不思議な力で問題を解決できる物語のキーパーソンを務めた。日本神話の塩土老翁など神話にもルーツを見ることが出来る。悪役ではないマッドサイエンティストを含めフィクションの科学者は、彼らの現代的にアレンジされた姿と言える。
マッドサイエンティストの原型とされるのは、1818年のメアリー・シェリーによる小説『フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein, or the Modern Prometheus)(フランケンシュタイン)に初登場する人造人間を作ったヴィクター・フランケンシュタインである。同情するべき点もあるもののフランケンシュタインは、軽率かつ結果を顧みずに"越えてはならない境界"を越えて、禁じられた実験を行うという決定的な要素が提示されている。
生命創造、操作に対するマッドサイエンティストの挑戦は、その原型を錬金術や多くの伝説に見ることができる。フランケンシュタイン博士による人造人間の創造は、そのテーマを確立した。しかし現代では、その描写が人々にとってよりリアルなものとなった。かつて想像の産物であったクローンや遺伝子操作、ロボット、AI技術などが現実となった。一方、様々な議論がそれに追いついているとは言い難い。そのため「技術だけが進みすぎている」という漠然とした恐怖を背景にマッドサイエンティストの暴走が、よりリアルなものとして描かれるようになってきた。映画『ジュラシックパーク』では、遺伝子技術によって現代に恐竜を再生させる物語が描かれた。
孤独な人物としてのマッドサイエンティストの立場は、自然や法律を犯しても利益を得ることを企む企業や組織の幹部に置き換わっていく傾向にある。これは、科学技術が複雑化・専門化し、天才であっても一人で発明をするという設定が説得力を失ったからと考えられる。彼らは、歪んだ欲望を追求するために専門家たちを雇い、アゴで使う。漫画『スーパーマン』の宿敵レックス・ルーサーは、初期の設定から大企業の社長に変わり、研究開発部門の重要な役職を務め、果ては大統領になるなどこのような変化の典型である。しかしなお、このポーズは読者の興味を引くために人気のサイエンスライターによって気ままに使われている(どういう訳か、危険かつ過激である程により興味を引くものとなる)。イアン・フレミングの小説『007』シリーズでは、スペクターと呼ばれる犯罪専門のマッドサイエンティスト集団まで登場する。
第二次世界大戦後の大衆文化では、取り分け核兵器に関するマッドサイエンティストが盛んに見られるようになる。ナチス・ドイツにおける生物兵器や化学兵器とアメリカ合衆国による原子爆弾の開発・成功と日本への原子爆弾投下、核保有国の核兵器配備は、科学技術が制御を失った力、それらを産み出した科学技術の更なる進展は、第三次世界大戦・地球の壊滅的破壊や人類滅亡さえ出来る力を持ちえる様になったことで深い恐怖を惹起した。映画『博士の異常な愛情』は、ブラックコメディではあるものの制御を失った核兵器の恐怖を究極の形で表した一つと言える。
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"text": "マッドサイエンティスト(英語: mad scientist)とは、主にフィクション作品で登場する、常軌を逸した科学者。",
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"text": "日本語では「狂科学者」、「狂気の科学者」、「狂った科学者」と訳される。類義語にマッドエンジニア(英語: mad engineer)があるが、両者の区別は明確ではない。",
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"text": "フィクション作品では、SF等において「博士」や「ドクター」を名乗り科学知識や技術などを有する、常軌を逸した科学者として登場する。超絶的な頭脳を持つが、往々にして理解しがたい価値観や世界征服などとんでもない願望を持ち、周囲の迷惑は何も考えていない。悪役として描写される場合、より端的に「悪の科学者」、また「悪の天才」、「狂気の天才」といった形容詞が着く場合がある。事件を引き起こす役割として登場することが多い。",
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"text": "マッドサイエンティストの行動は、しばしば以下のように描写される。共通するのは、パニックを起こすことである。",
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"text": "SFを主題とする作品では、ロボット、人造人間などを開発して大混乱を引き起こす描写がよくみられる。悪役であることが多いが前者の場合、コメディ作品では主人公の仲間や、ロボットの主人公の創造者として描かれることもある。後者の場合であっても一種のコミックリリーフとして活躍する場合もある。",
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"text": "マッドサイエンティストの人物像は、幾つかの定型がある。共通して付き合い辛い人物の特徴が見られる。",
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"text": "共通の特徴としては、まず優秀であること。ただし例外も見られる。次に科学に対してモノマニア的にひたすら情熱を注ぐ学者・技術者であること。しかし中には、新しい発見による名声や発明による収入を目的とすることもあり科学は、方法に過ぎない場合もある。次に言動が奇矯、一般社会の慣習や礼儀に疎いか無関心で、自分の研究が起こす周囲への迷惑が見えない、あるいは理解できていない点が挙げられる。このために例えば、原水爆や猛毒の細菌の開発、遺伝子を操作して全く新しい生物を創出する等、危険な研究に執念を燃やすことが挙げられる。しかしパニックが目的の場合、自分の行動を客観的に理解しており当て嵌まらない場合もある。",
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"text": "内面は、挫折、トラウマ、周囲との衝突や軋轢、自身の行動を理解されない共感性の違いから孤独を感じている場合が多い。このようなコミュニケーションのストレスが周囲との隔絶に繋がって他人の生命を軽んじたり、社会への報復、孤独に引き籠る人物像に結びつく。逆に積極的に周囲とコミュニケーションを取る場合、傲慢な態度、極度な自己肯定、自らを絶対者として演出しようという欲求に結びつく傾向が挙げられる。",
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"text": "対して人騒がせではあるが基本的には無害な人物として描かれる場合もある。正義のヒーローが登場する勧善懲悪の物語では、この穏健なマッドサイエンティストは、味方側として登場する場合がある。この場合、一見、傍迷惑な奇人変人であるが、主人公にとって必要となるキーアイテムを開発・提供する重要なポジションの人物となる。この穏健なマッドサイエンティストは、コミュニケーションのストレスがないために反社会的な行動を取らないのだと指摘できる。",
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"text": "マッドサイエンティストが引きつけられるとする研究・探究の分野には、以下のようなものがある。",
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"text": "逆に、伝統的にマッドサイエンティストがほとんど見向きもしなかった分野は、以下のようなものである。",
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"text": "また、工学と名の付く学問は概ねマッドサイエンティストの興味の対象であるが、信頼性工学、人間工学、交通工学の様にマッドサイエンティストの研究においては登場しない分野もある。",
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"text": "日本の漫画、アニメーションに登場する科学者は、専攻分野がよく判らない「何でも博士」が多い。この場合、広範な分野に対して雑学的以上に精通していなければできない研究や発明さえ、1人で行う。",
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"text": "マッドサイエンティストは、奇矯な振る舞い、極端に危険な手段を用いることで特徴付けられる。彼らの研究所ではしばしば、テスラコイルやバンデグラフ起電機や、その他の火花を飛ばしたりポンと音を立てたりするガラクタなどが、ぶんぶん唸っている。またロボットやアンドロイドが描かれる場合は、失敗作の手足や胴体があちこちに転がっていたりする。",
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"text": "端的にマッドサイエンティストである事を受け手に理解させる為に、容姿で演出がなされる事も多い。例として挙げられるアイテムは、白衣、黒いマント、モノクル、異様に光の反射率が高い(レンズの向こう側の目が見えない)眼鏡、得体の知れない液体の入った白煙を上げるフラスコ、手入れされずボサボサの髪形、機械義手や身体の一部のサイボーグ化などである。日本で作られた創作作品における具体的な例としては、ナムコから発売されたアーケードゲーム、『超絶倫人ベラボーマン』の爆田博士が挙げられ、まず名前自体から、黒マント、眼鏡、片手は機械の義手、ヘアースタイルがキノコ雲を模しているという、まさに手本の様なデザインであった。",
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"text": "科学者という概念、職業形態が定着する以前の世界を物語の舞台とするフィクションでは、マッドサイエンティストの役割は、魔法使いが充てられる。作品の世界観によっては、錬金術やスチームパンクなどの疑似科学的な知識や技術の専門家、研究者である場合も見られる。これらは、演出上の差異が見られるものの行動や人物像、目的に関しては、ほぼ同一と言って良い。むしろ現実に則した世界観に比べファンタジー作品では、神や悪魔が存在し、明確に正邪善悪が定義されているため一層、その行動は、非常識として見做される場合が多い。また宗教の解釈を取り違えた狂信者、異端者という姿でも描かれる。",
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"text": "歴史上に出現した著名だが、やや風変わりな科学者の行動がマッドサイエンティストのモデル、想像のアイディアになったといえる。",
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"text": "まず現代の常識、倫理基準において異常であっても当時は普通とされた人物も多い。",
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"text": "古代ギリシアのアルキメデスは、裸で市中を走り回った、研究に没頭するあまりローマ兵に抵抗して殺害されたとされるエピソードが有名である。エウドクソスは、天動説を唱え、アリストテレスらによって支持された。イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチは、医療分野でなく絵画の人体デッサンへの興味から死体を解剖した。陰陽道は、現代からすれば科学ではないが中国や日本は、これらを科学として重視した。天武天皇は、自身も陰陽道を修め、陰陽寮を設置した。陰陽師の安倍晴明、安倍有世は、社会的に高い地位にあった。ジョン・ハンターは、「近代外科学の開祖」と呼ばれながら死体コレクターとして知られるが、当時の医師の倫理観からすれば死体の収集は、研究方法として正当な物である。ベンジャミン・ラッシュは、「精神病の患者を板の上に縛りつけて回転させることで頭に血液を集めて治療する」、「アメリカ合衆国憲法で医師免許を禁止しようとした」、「黒人が黒いのは遺伝病である」など現代の基準で見れば狂気の医者のように見えるが、当時としては正当な医学として高い評価を受けていた。アントワーヌ・ルイ医師は、処刑道具ギロチンを発明した。",
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"text": "対して現代だけでなく当時においても批判された人物として近代チェコのイトカ・シュレベロヴァ医師が麻酔薬の兵器転用という研究を行い、しかも地元の子供を人体実験に使ったことを学会発表して非難を浴びた。ヒトラーの主治医モレルは、病状を隠し劇物を使用した危険な治療を本人の同意なしに行った。「死の天使」と綽名されたメンゲレ医師は、人体実験を繰り返したとされる。考古学者ウォーリス・バッジは、数々の発掘品を大英博物館に送ったが、この手法に関して激しく批判された。",
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"text": "逆に現代から見れば正当な主張をして批判に晒された人物も多い。地動説のガリレオ・ガリレイや進化論のダーウィンが有名である。「院内感染予防の父」センメルヴェイスは、手を洗うことを推奨して精神病院に送られた。",
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"text": "次いで科学者や技術者の中でも、平和利用から離れる兵器開発者がマッドサイエンティストのアイディアに繋がる場合が多い。",
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"text": "ガトリング砲を発明した発明家ガトリングは、「1人で100人分戦えば兵士が少なくて済み、不衛生な戦場で病死が減る」と発言した。ノーベルは、ダイナマイトの発明者で知られ、彼に対して使われた「死の商人」は、広く軍事産業に関わるマッドサイエンティストのアイディアに使われた。工学博士平賀譲は、主張を曲げない頑固な性格から「不譲(ゆずらず)」の異名で知られる。ロケット技術者フォン・ブラウンは、「宇宙に行く為なら悪魔に魂を売り渡してもよいと思った」と発言している。フォン・ノイマンは、倫理に反するような研究を行った科学者ではなく多分野に渡って優れた功績を残したが、その卓越した頭脳と個性的な人物像を「悪魔」と評された。特に核兵器開発に参加したことや当人のタカ派の政治思想面からスタンリー・キューブリックによる映画『博士の異常な愛情』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。コーンフレークの生みの親とされるジョン・ハーヴェイ・ケロッグは、極端な禁欲主義者であり、去勢を推進するための食事を開発中に、パン生地を乾燥させて作られたものが元になっている。",
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"text": "マッドサイエンティストのステレオタイプは、19世紀の文学作品において科学の危険性あるいは、科学への恐怖を表現するために作り出された。",
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"text": "近代まで宗教下において管理され、行使されてきた科学的技術が、その管理と無関係に、しかも急速に発達していく中、見慣れない新しい人工物を社会にもたらし、社会生活や伝統的価値観を変容させていくことに対して大衆が持つ不安や不快感を、人間の姿を借りて擬人化したものと言える。いわば科学進歩と宗教やモラルの論争が、初期ステレオタイプの特徴である。",
"title": "歴史"
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"text": "神話に見られるマッドサイエンティストとしては、古代ギリシアの神話のプロメテウスが知られる。彼は、現在のフィクションの登場人物のように風変わりではないものの全知全能の神ゼウスに挑戦するという常軌を逸した人物として描写される。また後世の神を出し抜こうとした知恵者として危険な行為を冒す科学者の代名詞ともなった。中国の神話には、蚩尤が登場した。彼は、最初の武器の発明者であり天界の支配者黄帝に反乱を起こして敗れた最初の反逆者として描写された。ただしプロメテウスと蚩尤は、どちらも神であり知恵だけでなく超人的な能力も備えていたが、ギリシア神話のイカロスは、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽の熱で蝋が解けて墜落死するという結末を辿った。彼らは、卓越した頭脳、自身の能力への傲慢な自信、自身の行動の結果を予測できない危険な行為など、現在のマッドサイエンティストに通じる部分も持つ。",
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"text": "このように神話のマッドサイエンティストは、知力を過信する人間の傲慢さを戒める訓話だった。",
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"text": "中世の騎士道物語では、マーリンなどの魔法使いが登場する。彼らは、主人公である騎士の助言者であったり不思議な力で問題を解決できる物語のキーパーソンを務めた。日本神話の塩土老翁など神話にもルーツを見ることが出来る。悪役ではないマッドサイエンティストを含めフィクションの科学者は、彼らの現代的にアレンジされた姿と言える。",
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"text": "マッドサイエンティストの原型とされるのは、1818年のメアリー・シェリーによる小説『フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein, or the Modern Prometheus)(フランケンシュタイン)に初登場する人造人間を作ったヴィクター・フランケンシュタインである。同情するべき点もあるもののフランケンシュタインは、軽率かつ結果を顧みずに\"越えてはならない境界\"を越えて、禁じられた実験を行うという決定的な要素が提示されている。",
"title": "歴史"
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"text": "生命創造、操作に対するマッドサイエンティストの挑戦は、その原型を錬金術や多くの伝説に見ることができる。フランケンシュタイン博士による人造人間の創造は、そのテーマを確立した。しかし現代では、その描写が人々にとってよりリアルなものとなった。かつて想像の産物であったクローンや遺伝子操作、ロボット、AI技術などが現実となった。一方、様々な議論がそれに追いついているとは言い難い。そのため「技術だけが進みすぎている」という漠然とした恐怖を背景にマッドサイエンティストの暴走が、よりリアルなものとして描かれるようになってきた。映画『ジュラシックパーク』では、遺伝子技術によって現代に恐竜を再生させる物語が描かれた。",
"title": "歴史"
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"text": "孤独な人物としてのマッドサイエンティストの立場は、自然や法律を犯しても利益を得ることを企む企業や組織の幹部に置き換わっていく傾向にある。これは、科学技術が複雑化・専門化し、天才であっても一人で発明をするという設定が説得力を失ったからと考えられる。彼らは、歪んだ欲望を追求するために専門家たちを雇い、アゴで使う。漫画『スーパーマン』の宿敵レックス・ルーサーは、初期の設定から大企業の社長に変わり、研究開発部門の重要な役職を務め、果ては大統領になるなどこのような変化の典型である。しかしなお、このポーズは読者の興味を引くために人気のサイエンスライターによって気ままに使われている(どういう訳か、危険かつ過激である程により興味を引くものとなる)。イアン・フレミングの小説『007』シリーズでは、スペクターと呼ばれる犯罪専門のマッドサイエンティスト集団まで登場する。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦後の大衆文化では、取り分け核兵器に関するマッドサイエンティストが盛んに見られるようになる。ナチス・ドイツにおける生物兵器や化学兵器とアメリカ合衆国による原子爆弾の開発・成功と日本への原子爆弾投下、核保有国の核兵器配備は、科学技術が制御を失った力、それらを産み出した科学技術の更なる進展は、第三次世界大戦・地球の壊滅的破壊や人類滅亡さえ出来る力を持ちえる様になったことで深い恐怖を惹起した。映画『博士の異常な愛情』は、ブラックコメディではあるものの制御を失った核兵器の恐怖を究極の形で表した一つと言える。",
"title": "歴史"
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マッドサイエンティストがあるが、両者の区別は明確ではない。
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{{出典の明記|date=2013年2月}}
[[ファイル:Mad_scientist.svg|thumb|300px|right|男性、年配、ぼさぼさ頭、危ない目つき、白衣、実験道具。[[ステレオタイプ]]化した、マッドサイエンティストの戯画]]
'''マッドサイエンティスト'''([[英語]]: mad scientist)とは、主に[[フィクション]]作品で登場する、常軌を逸した[[科学者]]。
[[日本語]]では「'''狂科学者'''」、「'''狂気の科学者'''」{{sfn|古谷浩志|2020| p=2}}、「'''狂った科学者'''」と訳される{{sfn|エマニュエル・トッド|大野舞|2020| p=97}}。[[類義語]]に'''マッドエンジニア'''({{lang-en|mad engineer}})があるが、両者の区別は明確ではない。
== 概説 ==
フィクション作品では、[[サイエンス・フィクション|SF]]等において「[[博士]]」や「ドクター」を名乗り科学知識や技術などを有する、常軌を逸した科学者として登場する。超絶的な[[頭脳]]を持つが、往々にして理解しがたい[[価値観]]や世界征服などとんでもない願望を持ち、周囲の迷惑は何も考えていない。悪役として描写される場合、より端的に「'''悪の科学者'''」、また「悪の天才」、「狂気の天才」といった形容詞が着く場合がある。事件を引き起こす役割として登場することが多い{{sfn|高階悟|2011 | p=17}}。
=== 行動 ===
マッドサイエンティストの行動は、しばしば以下のように描写される。共通するのは、[[パニック]]を起こすことである。
* 純粋な興味から倫理に外れた分野の[[知識]]を探求する。この場合、無責任な行動の結果として周囲に危険が及ぶ{{sfn|宮台真司|北田暁大|2005 | p=412}}。
* 私欲のために、その知識を積極的に利用する。この場合、自身の発明を積極的に犯罪行為に用いる。
SFを主題とする作品では、[[ロボット]]、[[人造人間]]などを開発して大混乱を引き起こす描写がよくみられる。[[悪役]]であることが多いが前者の場合、[[コメディ]]作品では主人公の仲間や、ロボットの主人公の創造者として描かれることもある。後者の場合であっても一種の[[コミックリリーフ]]として活躍する場合もある。
=== 人物像 ===
マッドサイエンティストの人物像は、幾つかの定型がある。共通して付き合い辛い人物の特徴が見られる。
* 傲慢な人物。自身の能力に自信があり自身の行動によって起こる出来事をコントロールできると考えている[[故意犯]]。
* 幼稚な人物。一般社会における常識との乖離、無関心。自身の行動に対して無責任か、もしくは結果を想像しない。
* 復讐者。上記に当て嵌まらず、もともと常識的な人物だったが復讐や[[心的外傷|トラウマ]]により恣意的に危険な行動を起こす[[確信犯]]。
共通の特徴としては、まず優秀であること。ただし例外も見られる。次に科学に対して[[モノマニア]]的にひたすら情熱を注ぐ[[学者]]・[[技術者]]であること。しかし中には、新しい発見による名声や発明による収入を目的とすることもあり科学は、方法に過ぎない場合もある。次に言動が奇矯、一般社会の[[慣習]]や[[礼儀]]に疎いか無関心で、自分の研究が起こす周囲への迷惑が見えない、あるいは理解できていない点が挙げられる。このために例えば、原水爆や猛毒の[[細菌]]の開発、[[遺伝子]]を操作して全く新しい生物を創出する等、危険な研究に執念を燃やすことが挙げられる。しかしパニックが目的の場合、自分の行動を客観的に理解しており当て嵌まらない場合もある。
内面は、挫折、トラウマ、周囲との衝突や軋轢、自身の行動を理解されない共感性の違いから孤独を感じている場合が多い。このような[[コミュニケーション]]のストレスが周囲との隔絶に繋がって他人の生命を軽んじたり、社会への報復、孤独に引き籠る人物像に結びつく。逆に積極的に周囲とコミュニケーションを取る場合、傲慢な態度、極度な自己肯定、自らを絶対者として演出しようという欲求に結びつく傾向が挙げられる。
対して人騒がせではあるが基本的には無害な人物として描かれる場合もある。正義のヒーローが登場する勧善懲悪の物語では、この穏健なマッドサイエンティストは、味方側として登場する場合がある。この場合、一見、傍迷惑な奇人変人であるが、主人公にとって必要となるキーアイテムを開発・提供する重要なポジションの人物となる。この穏健なマッドサイエンティストは、コミュニケーションのストレスがないために反社会的な行動を取らないのだと指摘できる。
=== 目的 ===
主にマッドサイエンティストは、以下の目的を選ぶことが特徴とされる{{sfn|高階悟|2011 | p=21}}。
* [[科学]]の倫理的な側面を無視する。(例えば[[ニュルンベルク綱領]]や[[ロボット工学三原則]]を無視したり、[[人体実験]]を行う。または、犯罪行為。)
* [[神]]を演じる。あるいは、自らを絶対者に位置づけようとする。
* 自身の野望の達成や欲望の充足に積極的・肯定的であり、そのためには社会からの逸脱や他者の犠牲を厭わない。
マッドサイエンティストが引きつけられるとする研究・探究の分野には、以下のようなものがある。
* [[考古学]]([[オーパーツ]]や[[魔術]]的なアイテム〈magical artifacts〉も含まれる)
* [[宇宙物理学]]
* [[生化学]]
* [[生物学]]、特に[[発生学]]
* [[医学]](とくに[[不老不死]]や「[[優生学|人間の品種改良]]」、[[人体改造]]に執着)
* [[薬学]](とくに不老不死関連、[[麻薬]]、[[精力剤]]([[媚薬]])など)
* [[電子工学]]、[[ロボット工学]]、[[機械工学]]
* [[物理学]]、特に[[核物理学]]
* [[相対性理論|相対論]]
* [[冶金学]]([[金]]などの貴金属や[[レアメタル]]・[[ダイヤモンド]]に興味が偏っている。[[錬金術]]、[[練丹術]]の研究を行なう事も)
* [[疑似科学]]一般
* [[超心理学]]
* [[昆虫学]]
* [[軍事学]]
* [[政治学]](自身の野望を達成するための補助的な手段として)
* [[言語学]]
逆に、伝統的にマッドサイエンティストがほとんど見向きもしなかった分野は、以下のようなものである。
* [[植物学]]
* [[地質学]]
* [[社会科学]]
* [[人文科学]]
* [[教育学]]
* [[芸術学]]
また、[[工学]]と名の付く学問は概ねマッドサイエンティストの興味の対象であるが、[[信頼性工学]]、[[人間工学]]、[[交通工学]]の様にマッドサイエンティストの研究においては登場しない分野もある。
[[日本の漫画]]、[[アニメーション]]に登場する科学者は、専攻分野がよく判らない「何でも博士」が多い。この場合、広範な分野に対して[[雑学]]的以上に精通していなければできない研究や発明さえ、1人で行う。
=== 視覚的特徴 ===
マッドサイエンティストは、奇矯な振る舞い、極端に危険な手段を用いることで特徴付けられる。彼らの研究所ではしばしば、[[テスラコイル]]や[[バンデグラフ]]起電機や、その他の火花を飛ばしたりポンと音を立てたりするガラクタなどが、ぶんぶん唸っている。また[[ロボット]]や[[人造人間|アンドロイド]]が描かれる場合は、失敗作の手足や胴体があちこちに転がっていたりする。
端的にマッドサイエンティストである事を受け手に理解させる為に、容姿で演出がなされる事も多い。例として挙げられるアイテムは、白衣、黒い[[マント]]、[[モノクル]]、異様に光の反射率が高い(レンズの向こう側の目が見えない)[[眼鏡]]、得体の知れない液体の入った白煙を上げるフラスコ、手入れされずボサボサの[[髪形]]、機械義手や身体の一部の[[サイボーグ]]化などである{{sfn|姜尚中|宮台真司|2003| p=209}}。日本で作られた創作作品における具体的な例としては、ナムコから発売された[[アーケードゲーム]]、『[[超絶倫人ベラボーマン]]』の'''爆田博士'''が挙げられ、まず名前自体から、黒マント、眼鏡、片手は機械の義手、ヘアースタイルが[[キノコ雲]]を模しているという、まさに手本の様なデザインであった。
=== 魔法使い ===
科学者という概念、職業形態が定着する以前の世界を物語の舞台とするフィクションでは、マッドサイエンティストの役割は、魔法使いが充てられる。作品の世界観によっては、錬金術や[[スチームパンク]]などの疑似科学的な知識や技術の専門家、研究者である場合も見られる。これらは、演出上の差異が見られるものの行動や人物像、目的に関しては、ほぼ同一と言って良い。むしろ現実に則した世界観に比べファンタジー作品では、神や悪魔が存在し、明確に正邪善悪が定義されているため一層、その行動は、非常識として見做される場合が多い。また宗教の解釈を取り違えた狂信者、異端者という姿でも描かれる{{sfn|一柳廣孝|吉田司雄|2006| p=237}}。
== ノンフィクションのマッドサイエンティスト ==
歴史上に出現した著名だが、やや風変わりな科学者の行動がマッドサイエンティストのモデル、想像のアイディアになったといえる。
まず現代の常識、倫理基準において異常であっても当時は普通とされた人物も多い。
古代ギリシアの[[アルキメデス]]は、裸で市中を走り回った、研究に没頭するあまりローマ兵に抵抗して殺害されたとされるエピソードが有名である。[[エウドクソス]]は、天動説を唱え、[[アリストテレス]]らによって支持された。イタリアの[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]は、医療分野でなく絵画の人体デッサンへの興味から死体を解剖した。[[陰陽道]]は、現代からすれば科学ではないが中国や日本は、これらを科学として重視した。[[天武天皇]]は、自身も陰陽道を修め、[[陰陽寮]]を設置した。陰陽師の[[安倍晴明]]、[[安倍有世]]は、社会的に高い地位にあった。[[ジョン・ハンター (外科医)|ジョン・ハンター]]は、「近代外科学の開祖」と呼ばれながら死体コレクターとして知られるが、当時の医師の倫理観からすれば死体の収集は、研究方法として正当な物である。[[ベンジャミン・ラッシュ]]は、「精神病の患者を板の上に縛りつけて回転させることで頭に血液を集めて治療する」、「アメリカ合衆国憲法で医師免許を禁止しようとした」、「黒人が黒いのは遺伝病である」など現代の基準で見れば狂気の医者のように見えるが、当時としては正当な医学として高い評価を受けていた。[[アントワーヌ・ルイ]]医師は、処刑道具[[ギロチン]]を発明した。
対して現代だけでなく当時においても批判された人物として近代チェコのイトカ・シュレベロヴァ医師が[[麻酔薬]]の[[麻酔銃|兵器転用]]という研究を行い、しかも地元の子供を人体実験に使ったことを学会発表して非難を浴びた。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の主治医[[テオドール・モレル|モレル]]は、病状を隠し劇物を使用した危険な治療を本人の同意なしに行った。「死の天使」と綽名された[[ヨーゼフ・メンゲレ|メンゲレ]]医師は、人体実験を繰り返したとされる。考古学者[[ウォーリス・バッジ]]は、数々の発掘品を[[大英博物館]]に送ったが、この手法に関して激しく批判された。
逆に現代から見れば正当な主張をして批判に晒された人物も多い。地動説の[[ガリレオ・ガリレイ]]や進化論の[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有名である。「院内感染予防の父」[[センメルヴェイス・イグナーツ|センメルヴェイス]]は、手を洗うことを推奨して精神病院に送られた。
次いで科学者や技術者の中でも、平和利用から離れる兵器開発者がマッドサイエンティストのアイディアに繋がる場合が多い{{sfn|新戸雅章|2008 | p=43}}。
[[ガトリング砲]]を発明した発明家ガトリングは、「1人で100人分戦えば兵士が少なくて済み、不衛生な戦場で病死が減る」と発言した。[[ノーベル]]は、[[ダイナマイト]]の発明者で知られ、彼に対して使われた「[[死の商人]]」は、広く軍事産業に関わるマッドサイエンティストのアイディアに使われた。工学博士[[平賀譲]]は、主張を曲げない頑固な性格から「不譲(ゆずらず)」の異名で知られる。ロケット技術者[[ヴェルナー・フォン・ブラウン|フォン・ブラウン]]は、「[[宇宙]]に行く為なら[[悪魔]]に魂を売り渡してもよいと思った」と発言している。[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]は、倫理に反するような研究を行った科学者ではなく多分野に渡って優れた功績を残したが、その卓越した頭脳と個性的な人物像を「悪魔」と評された。特に核兵器開発に参加したことや当人の[[タカ派]]の政治思想面から[[スタンリー・キューブリック]]による映画『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。[[コーンフレーク]]の生みの親とされる[[ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ]]は、極端な禁欲主義者であり、去勢を推進するための食事を開発中に、パン生地を乾燥させて作られたものが元になっている。
== 歴史 ==
[[ファイル:Tovenaarsleerling S Barth.png|thumb|right|200px|[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]作 「[[魔法使いの弟子 (詩)|魔法使いの弟子]]」の挿絵]]
マッドサイエンティストの[[ステレオタイプ]]は、[[19世紀]]の文学作品において科学の危険性あるいは、科学への恐怖を表現するために作り出された。
近代まで宗教下において管理され、行使されてきた科学的技術が、その管理と無関係に、しかも急速に発達していく中、見慣れない新しい人工物を社会にもたらし、社会生活や伝統的価値観を変容させていくことに対して大衆が持つ不安や不快感を、人間の姿を借りて擬人化したものと言える。いわば科学進歩と宗教やモラルの論争が、初期ステレオタイプの特徴である。
=== 前史 ===
神話に見られるマッドサイエンティストとしては、古代ギリシアの神話の[[プロメーテウス|プロメテウス]]が知られる。彼は、現在のフィクションの登場人物のように風変わりではないものの全知全能の神[[ゼウス]]に挑戦するという常軌を逸した人物として描写される。また後世の神を出し抜こうとした知恵者として危険な行為を冒す科学者の代名詞ともなった。中国の神話には、[[蚩尤]]が登場した。彼は、最初の武器の発明者であり天界の支配者[[黄帝]]に反乱を起こして敗れた最初の反逆者として描写された。ただしプロメテウスと蚩尤は、どちらも神であり知恵だけでなく超人的な能力も備えていたが、ギリシア神話の[[イーカロス|イカロス]]は、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽の熱で蝋が解けて墜落死するという結末を辿った。彼らは、卓越した頭脳、自身の能力への傲慢な自信、自身の行動の結果を予測できない危険な行為など、現在のマッドサイエンティストに通じる部分も持つ。
このように神話のマッドサイエンティストは、知力を過信する人間の傲慢さを戒める訓話だった。
中世の[[騎士道物語]]では、[[マーリン]]などの[[魔法使い]]が登場する。彼らは、主人公である騎士の助言者であったり不思議な力で問題を解決できる物語のキーパーソンを務めた。日本神話の[[シオツチノオジ|塩土老翁]]など神話にもルーツを見ることが出来る。悪役ではないマッドサイエンティストを含めフィクションの科学者は、彼らの現代的にアレンジされた姿と言える。
=== マッドサイエンティストの登場 ===
マッドサイエンティストの原型とされるのは、[[1818年]]の[[メアリー・シェリー]]による小説『フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス』({{en|Frankenstein, or the Modern Prometheus}})([[フランケンシュタイン]])に初登場する[[人造人間]]を作った[[ヴィクター・フランケンシュタイン]]である。同情するべき点もあるもののフランケンシュタインは、軽率かつ結果を顧みずに"越えてはならない境界"を越えて、禁じられた実験を行うという決定的な要素が提示されている{{sfn|高階悟|2011 | p=17}}。
生命創造、操作に対するマッドサイエンティストの挑戦は、その原型を[[錬金術]]や多くの伝説に見ることができる{{sfn|高階悟|2011 | p=18}}。フランケンシュタイン博士による人造人間の創造は、そのテーマを確立した。しかし現代では、その描写が人々にとってよりリアルなものとなった。かつて想像の産物であった[[クローン]]や[[遺伝子]]操作、ロボット、AI技術などが現実となった。一方、様々な議論がそれに追いついているとは言い難い。そのため「技術だけが進みすぎている」という漠然とした恐怖を背景にマッドサイエンティストの暴走が、よりリアルなものとして描かれるようになってきた。映画『[[ジュラシック・パーク|ジュラシックパーク]]』では、遺伝子技術によって現代に恐竜を再生させる物語が描かれた{{sfn|高階悟|2010 | p=35}}。
孤独な人物としてのマッドサイエンティストの立場は、自然や法律を犯しても利益を得ることを企む企業や組織の幹部に置き換わっていく傾向にある。これは、科学技術が複雑化・専門化し、天才であっても一人で発明をするという設定が説得力を失ったからと考えられる。彼らは、歪んだ欲望を追求するために専門家たちを雇い、アゴで使う。漫画『[[スーパーマン]]』の宿敵'''[[レックス・ルーサー]]'''は、初期の設定から大企業の社長に変わり、研究開発部門の重要な役職を務め、果ては大統領になるなどこのような変化の典型である。しかしなお、このポーズは読者の興味を引くために人気のサイエンスライターによって気ままに使われている(どういう訳か、危険かつ過激である程により興味を引くものとなる)。[[イアン・フレミング]]の小説『[[ジェームズ・ボンド|007]]』シリーズでは、[[スペクター]]と呼ばれる犯罪専門のマッドサイエンティスト集団まで登場する。
[[第二次世界大戦]]後の大衆文化では、取り分け核兵器に関するマッドサイエンティストが盛んに見られるようになる。[[ナチス・ドイツ]]における[[生物兵器]]や[[化学兵器]]と[[アメリカ合衆国]]による[[原子爆弾]]の開発・成功と[[日本への原子爆弾投下]]、[[核保有国]]の[[核兵器]]配備は、科学技術が制御を失った力、それらを産み出した科学技術の更なる進展は、[[第三次世界大戦]]・[[地球]]の壊滅的破壊や[[人類滅亡]]さえ出来る力を持ちえる様になったことで深い恐怖を惹起した{{sfn|新戸雅章|2008 | p=51}}。映画『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』は、ブラックコメディではあるものの制御を失った核兵器の恐怖を究極の形で表した一つと言える{{sfn|高階悟|2011 | p=21}}。
== 登場作品 ==
=== 映画・小説 ===
; 『[[フランケンシュタイン]]』
: [[フランケンシュタインの怪物|人造人間モンスター]]の発明者、主人公[[ヴィクター・フランケンシュタイン]]が登場する。
; 『[[海底二万里]]』『[[神秘の島]]』
: イギリス海軍に怨みをもち、復讐として軍艦を沈めるため19世紀としてはあり得ない技術を詰め込んだ潜水艦ノーチラス号を開発した[[ネモ船長]]が登場する。
; 『[[地底旅行]]』
: 主人公アクセルの叔父で鉱物学と化学を専門とするオットー・リーデンブロック教授が登場。
; 『[[ジキル博士とハイド氏]]』
: 精神分離薬を開発したジキル博士が登場{{sfn|高階悟|2011 | p=19}}。
; 『[[透明人間]]』
: 主人公の科学者グリフィンが人体を透明にする薬を開発する{{sfn|高階悟|2011 | p=19}}。
; 『[[メトロポリス (1927年の映画)|メトロポリス]]』
: 人造人間を作成したロトワングが登場する。
; 『[[チャールズ・ウォードの奇怪な事件]]』
: 主人公チャールズ・ウォードが死者蘇生という禁断の研究を行う。
; 『[[博士の異常な愛情]]』
: 発動すると地球が滅びる”皆殺し爆弾”を開発したストレンジラブ博士が登場する。
; 『[[レッド・ドラゴン]]』ほか
: 医学、数学、芸術にも精通した犯罪者[[ハンニバル・レクター]]の活躍を描く。
; 『[[007]]』シリーズ
: 各作品において[[悪の組織]]の様々な犯罪にマッドサイエンティストが参加する。
; 『パチンコ必勝原理』
: [[筒井康隆]]の短編小説。物理学者が[[町場]]の[[パチンコ]]を[[確率論]]を駆使して攻略しようとする姿を描く。
=== 漫画・アニメ・ゲーム ===
; 『[[バットマン]]』
: シリーズのヴィラン(悪役)の[[スケアクロウ]]、[[ポイズン・アイビー|ポイズン・アイヴィー]]、[[ミスター・フリーズ]]がマッドサイエンティストとして知られる。
; 『[[スパイダーマン]]』
: シリーズのヴィラン(悪役)の[[ドクター・オクトパス|オットー・オクタヴィアス]]、[[モンスター教授]]がマッドサイエンティストとして知られる。
; 『[[フィリックス・ザ・キャット]]』
: フィリックスの持つ「トリック・バッグ」を狙う悪の科学者プロフェッサーが登場する。
; 『パーマン』ほか
:[[藤子・F・不二雄]]の漫画に登場する架空の科学者[[魔土災炎]]が登場する。
; 『[[エア・ギア]]』
: 作中の世界観に深く関わる南林太が登場する。
; 『[[リック・アンド・モーティ]]』
: マッドサイエンティストのリック・サンチェスが孫のモーティ (もしくは孫娘のサマー) を連れて危険で、素晴らしい様々な宇宙を冒険する。
; 『[[STEINS;GATE]]』
: 未来ガジェット研究所の創設者「[[岡部倫太郎|岡部 倫太郎]]」がマッドサイエンティストを名乗る。
; 『[[デビルサマナー]]』シリーズ
: 悪魔を実験の対象に生命創造の研究を続けるフランケンシュタインが登場する。
; 『[[メタルマックス]]』シリーズ
: ゲーム中で死亡したキャラクターを生き返らせてくれるドクター・ミンチが登場する。
; 『[[ソニックシリーズ|ソニック]]』シリーズ
: 世界征服を目論む自称悪の天才科学者[[ドクター・エッグマン|Dr.エッグマン]]が登場する他、Dr.エッグマンの遠い子孫であり、世界の破滅を目論むエッグマンネガが登場する。
; 『[[ボンバーマンシリーズ|ボンバーマン]]』シリーズ
: 宇宙征服を目論む悪の天才科学者[[ボンバーマンキャラクター一覧#バグラー/プロフェッサーバグラー|プロフェッサーバグラー]]が登場する他、悪の組織"[[ボンバーマンキャラクター一覧#ヒゲヒゲ団|ヒゲヒゲ団]]"に所属する天才ボム科学者Dr.メカードが登場する。
; 『[[ロックマンシリーズ|ロックマン]]』シリーズ
: 自らが開発、もしくは改造を施したロボットを率いて世界征服を狙う[[アルバート・W・ワイリー|Dr.ワイリー]]が登場する。
; 『[[実況パワフルプロ野球 サクセスモード]]』
: 主人公に人体実験を行うダイジョーブ博士が登場する。
; 『[[GOD SAVE THE すげこまくん!]]』
: 個人で[[核ミサイル]]を保有し、日夜怪しい機械や[[怪獣]]、薬物などを開発している「すげこまくん」が主人公。
; 『[[究極超人あ~る]]』
: 主人公の[[人造人間|アンドロイド]]、R・田中一郎を作り、世界征服を企む成原成行が登場する。
; 『[[名探偵コナン]]』
: [[灰原哀]]の父親で化学者の[[黒ずくめの組織#宮野厚司|宮野厚司]]が、マッドサイエンティストとして学会から追放されたとされている。
; 『[[銃夢]]』
: 人間の「業(カルマ)」を宿願とするディスティ・ノヴァ博士が登場する。ナノマシン技術の第一人者でもあり、その技術を用いて、ほぼ不死となっている。
; 『[[とっても少年探検隊]]』
: エピソード「地下室の子守唄(メロディー)の巻」において、世界征服を企む松戸(まっど)が登場する。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mad scientists}}
* [[ジェラルド・ブル]] - 自身の野心を達成する為に国際的に孤立化していた国に対して軍事技術を提供した事から、(政治的な意味での)マッドサイエンティストとされる場合がある。
* [[イグノーベル賞]]
* [[イグノーベル賞受賞者の一覧]]
* [[図解アリエナイ理科ノ教科書]] - 理科をマッドサイエンスからの視点で学ぶというコンセプトの本。
* [[カルト]]
* [[超心理学]]
* [[プロメーテウス]]
* [[フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿]]
* [[:Category:発明を題材とした作品]]
* [[ステレオタイプ]]
* [[731部隊]]{{sfn|高階悟|2011 | p=22}}
* [[村井秀夫]]{{sfn|高階悟|2011 | p=22}}
* [[土谷正実]]
* [[水槽の脳]]{{sfn|飯田隆|1996| p=7}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
* [[堀晃]]『マッド・サイエンス入門』ISBN 4-10-142402-0
* {{Cite journal|和書|author1=[[飯田隆]] |title=悪霊とマッド・サイエンティスト |journal=デカルト読本 |ISBN=9784588150302
|publisher=[[法政大学出版局]] |url=http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/philosophy/faculty/iida/doc/descart.pdf#page=7 |year=1998 |pages=249-260 |ref=harv}}
* {{Cite book |author1=[[姜尚中]] |author2=[[宮台真司]] |year=2003 |title=挑発する知 |page=209 |publisher=双風舍 |url=https://books.google.co.jp/books?id=1XaTSaPTN_AC&pg=PT209#v=onepage&q&f=false |isbn=9784902465006 | ref = harv }}
* {{Cite book |author1=宮台真司 |author2=[[北田暁大]] |year=2005 |title=限界の思考 |page=412 |publisher=双風舍 |url=https://books.google.co.jp/books?id=6IPeDImfMrsC&pg=PA412#v=onepage&q&f=false |isbn=9784902465068 | ref = harv }}
* {{Cite book |author1=[[一柳廣孝]] |author2=[[吉田司雄]] |year=2006 |title=幻想文学、近代の魔界へ |page=237 |publisher=[[青弓社]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=AqFwDgAAQBAJ&pg=PA237#v=onepage&q&f=false |isbn=9784787291790 | ref = harv }}
* {{Cite journal|和書|author1=[[新戸雅章]] |title=核の世紀とニコラ・テスラのマッドサイエンティスト的想像力 |journal=アメリカ研究 |ISSN=0387-2815 |publisher=[[アメリカ学会]] |url=https://doi.org/10.11380/americanreview.42.0_43 |year=2008 |volume=42 |pages=43-55 |naid=130008114247 |doi=10.11380/americanreview.42.0_43 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author1=高階悟 |title=SF小説とフランケンシュタイン・コンプレックス |journal=秋田県立大学総合科学研究彙報 |ISSN=1345-434X |publisher=[[秋田県立大学]]総合科学教育研究センター |url=https://akita-pu.repo.nii.ac.jp/records/122 |year=2010 |issue=11 |pages=29-38 |naid=120005497846 |CRID=1050282812601159936 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author1=高階悟 |title=マッド・サイエンティストとモンスター |journal=秋田県立大学総合科学研究彙報 |ISSN=1345-434X |publisher=秋田県立大学総合科学教育研究センター |url=https://akita-pu.repo.nii.ac.jp/records/1071 |year=2011 |issue=12 |pages=17-25 |naid=120005497836 |CRID=1050282812601156992 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author1=古谷浩志 |title=ガラス工作メインショップ:ガラス工作を通して研究支援 |journal=ニュースレター |publisher=[[大阪大学]]科学機器リノベーション・工作支援センター |url=https://www.reno.osaka-u.ac.jp/archive/CRM_NL_vol13.pdf#page=2 |format=PDF |year=2020 |vol=13 |page=2 |ref=harv}}
* {{Cite book |author1=[[エマニュエル・トッド]] |author2=[[大野舞]] |year=2020 |title=大分断 |page=97 |publisher=[[PHP研究所]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=eojwDwAAQBAJ&pg=PT97#v=onepage&q&f=false |isbn=9784569846842 | ref = harv }}
== 外部リンク ==
* [http://www009.upp.so-net.ne.jp/TDSF/text/mad_mokuji.html マッドサイエンティスト入門-その傾向と対策-]
* [http://www.sf-homepage.com/mad-j.html マッドサイエンティストの手帳] ([[ハードSF]]作家[[堀晃]]の日記)
<!--(この記事は英語版 12:13, 8 Sep 2003 から派生している)-->
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14,869 |
塩酸
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塩酸(えんさん)とは塩化水素の水溶液であり強酸の一種である。オランダ語Zoutzuur或いはドイツ語Salzsäureの直訳。本来は塩化水素酸と呼ぶべきものだが、歴史的な経緯から酸素を含む酸と同じように、塩酸と呼ばれている。 無色の液体で独特な辛い匂いがする。人間を含むほとんどの動物の消化器系において塩酸は胃酸の成分となっている。塩酸は重要な実験用試薬および工業用化学物質とされている。
10世紀初頭、ペルシャの医師で錬金術師のアル・ラーズィー (865〜925年頃、ラテン語:ラーゼス) は、塩化アンモン石 (塩化アンモニウム) とビトリオール(英語版) (さまざまな金属の硫酸塩水和物)を用いて実験を行った。混合して蒸留したところ、塩化水素ガスが生成された。そうすることで、アル・ラーズィーは塩酸の発見に非常に近づいたが、彼は実験のガス状生成物を無視し、代わりに残留物に影響を与える可能性のある色の変化に集中したようである。アル・ラーズィーの実験に基づいて、De aluminibus et salibus (『ミョウバンと塩について』、誤ってアル・ラーズィーによるものとされた11世紀または12世紀のアラビア語の文書。クレモナのジェラルドによって12世紀の後半にラテン語に翻訳された。) では、金属のさまざまな塩の加熱について説明されていて、水銀の場合には塩化水銀(II) (昇汞) が生成されることが記載されている。この過程では実際に塩酸が生成され始めるが、すぐに水銀と反応して昇汞が生成される。De aluminibus et salibusが主要な参考書の1つであった13世紀のラテン錬金術師は、昇汞の塩素化特性に魅了され、ビトリオール、ミョウバン、塩の加熱の過程で金属の脱離の際に強鉱酸を直接蒸留することができることをすぐに発見した。鉱酸の発見から生まれた重要な発明の1つには、硝酸と塩酸の1:3の比率の混合物であり、金を溶解できる王水がある。王水は偽ゲーベル(英語版)による De inventione veritatis (『真実の発見について』、1300年頃以降)で最初に記載された。ここでは、王水は塩化アンモニウムを硝酸に添加して調製された。しかしながら、塩酸自体の生産 (つまり、すでに硝酸と混合されているのではなく、分離された物質として) は、その後の数世紀ではじめて開発されることとなる、より効率的な冷却装置の使用に依存した。したがって、塩酸の製造法は16世紀後半になって初めて登場し、最も古いものはジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ (1535–1615) 著Magia Naturalis(英語版) (『自然の魔法』) や、アンドレアス・リバヴィウス (1550–1616頃)、ジャン・ベガン (1550–1620)、オズワルド・クロル(英語版) (1563–1609頃) のような他の同時期の化学者の著作で見られるものである。塩酸などの鉱酸の知識は、ダニエル・セナート(英語版) (1572–1637) やロバート・ボイル (1627–1691) のような17世紀の化学者にとって非常に重要なものであった。
ヨハン・ルドルフ・グラウバーの方法に従って岩塩から製造されたため、塩酸は歴史的にヨーロッパの錬金術師によってspirits of salt (塩の精) または acidum salis (salt acid、塩の酸) と呼ばれていた。特に他の言語では、ドイツ語: Salzsäure、オランダ語: Zoutzuur、スウェーデン語: Saltsyra、スペイン語: Salfumán、トルコ語: Tuz Ruhu、ポーランド語: kwas solny、ハンガリー語: sósavそしてチェコ語: kyselina solnáのようにこれらに由来する名称が使用し続けられている。英語では、ガス状のHClはmarine acid airと呼ばれていた。muriatic acidという名称は同じ由来であり (muriaticは塩水または塩に関係するを意味するため、muriateは塩化水素を意味する)、この名称は今でも使用されることがある。英語における現在の一般的名称であるhydrochloric acidに相当する語は、1814年にフランスの化学者ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって造られた。
ヨーロッパの産業革命の間に、塩基性物質の需要が増加した。イスーダン (フランス) のニコラ・ルブランによって開発された新しい工業的生産法により、炭酸ナトリウム (ソーダ灰) の安価な大量生産が可能になった。このルブラン法では、硫酸、石灰石、石炭を使用して塩化ナトリウムを炭酸ナトリウムに変換し、副産物として塩化水素が放出される。英国1863年のアルカリ法(英語版)および他の国での同様の法律が制定されるまで、余分なHClはしばしば大気中に放出されていた。初期の例外としてはボニントン化学工場(英語版)があり、1830年にHClが捕集され始め、塩化アンモン石 (塩化アンモニウム) の製造に使用されていた。法案の成立後、炭酸ナトリウムの生産者は廃ガスを水中に吸収する義務が生じたため、工業規模で塩酸が生産されることとなった。
20世紀には、ルブラン法が塩酸副産物のないソルベイ法に効果的に置き換えられていった。塩酸はすでに多くの用途で重要な化学物質として完全に定着していたため、商業的関心により他の製造方法が開始され、その一部は現在でも使用されている。2000年以降、塩酸は主に工業用有機化合物の生産で副産物として生成される塩化水素を吸収することによって作られている。
塩酸はヒドロニウムと塩化物イオンの塩である。 そのイオンは陽イオンは実際には他の水分子と結合していることがよくあるもののH3O Clと書かれる。濃塩酸の赤外分光法、ラマン分光法、X線、および中性子回折を組み合わせた研究により、これらの溶液中のH(aq)の主要な形態はH5O2であり、いくつかの方法で、塩化物イオンとともに隣接する水分子に水素結合していることが明らかになった。(この問題についてのより深い議論についてはヒドロニウムを参照すること)
強酸なので、塩化水素のKa (酸解離定数) は大きい。理論的な推定では、塩化水素のpKaは-5.9であることが示唆されている。ただし、塩化水素ガスと塩酸を区別することが重要である。水平化効果により、高濃度で挙動が理想から逸脱する場合を除いて、塩酸 (HCl水溶液) は、水中で利用可能な最強のプロトン供与体であるアクアプロトン (一般にヒドロニウムイオンとして知られる) と同じくらい酸性が強い。NaClなどの塩化物塩をHCl水溶液に添加してもpHへの影響はわずかであり、Clが非常に弱い共役塩基であること、HClが完全に解離していることが示される。 HClの希薄溶液は、水和したHとClへの完全な解離を想定して予測されたpHに近い値となっている。
沸点、融点、密度、水素イオン指数 (pH) などの塩酸の物理的特性は、水溶液中のHClの濃度またはモル濃度に依存している。それらは、0% HClに近い非常に低濃度の値から40% HClを超える発煙塩酸の値までの範囲で定義されている。
HClとH2Oの2成分の混合物としての塩酸は、HClの濃度が20.2%の時に108.6 °C (227 °F)で一定になる沸騰共沸混合物である。[H3O]Cl (68% HCl)、[H5O2]Cl (51% HCl)、[H7O3]Cl (41% HCl)、[H3O]Cl·5H2O (25% HCl)、そして氷 (0% HCl)の結晶形の間には、塩酸の4つの一定結晶化共晶点がある。氷と[H7O3]Cl結晶化の間には、24.8%の準安定共晶点もある。これらはすべてヒドロニウム塩である。
塩酸は産業的には塩化水素を水に溶解させることで調製されることが多い。塩化水素はさまざまな方法で生成されることがあるため、塩酸の前駆体はいくつか存在する。 塩酸の大規模生産は、ほとんどの場合、水酸化物、水素、塩素を生産するクロルアルカリプロセスなどの工業規模の他の化学物質の生産と統合されている。この時発生する水素と塩素を利用してHClを生成することができる。
塩酸は、最大38% HCl (濃縮グレード) 溶液として生産される。化学的には40%をわずかに超える高濃度にすることは可能だが、蒸発率が非常に高いため、保管と取り扱いには、加圧や冷却などの特別な予防措置が必要である。したがって、大量生産のための工業グレードは30%から35%であり、輸送効率と蒸発による製品損失のバランスが取れるように最適化されている。アメリカ合衆国では、20%から32%の溶液が塩酸として販売されている。アメリカ合衆国の家庭用溶液、主にクリーニングは、通常10%から12%のものを使用するので、使用前に希釈することが強く推奨されている。塩酸が家庭用洗浄用のSpirits of Saltとして販売されている英国では、効力は米国の工業用グレードと同じである。イタリアなど他の国では、家庭用または工業用洗浄用の塩酸がAcido Muriaticoとして販売されており、その濃度は5%から32%の範囲である。
世界中の主要な生産者には、HClガス換算で年間200万メートルトン(2 Mt/年)生産しているダウ・ケミカルがあり、また、ジョージアガルフコーポレーション(英語版)、東ソー、アクゾノーベル、およびテセンドロ(英語版)がそれぞれ0.5〜1.5 Mt/年生産している。比較すると、HClとして表される世界の総生産量は、20 Mt/年と推定され、その内訳は、直接合成から3 Mt/年、残りは有機合成および同様の合成からの二次生成物である。なお、2016年度日本国内生産量は合成696,835 t, 副生929,311 t、消費量は533,600 tである。
塩酸は、金属の精製など多くの工業プロセスで使用される強い無機酸である。多くの場合、利用方法によって求められる製品の品質が決定される。塩酸ではなく塩化水素は、例えばクロロエチレンおよびジクロロエタン用に有機化学工業でより広く使用されている。
塩酸の最も重要な用途の1つとして、鋼の酸洗浄(英語版)で、押出成形、圧延、亜鉛めっき、およびその他の技術などの後続の処理の前に、鉄または鋼から錆または酸化鉄の被膜を除去するということが挙げられる。通常18%の濃度の技術品質のHClは、炭素鋼等級の酸洗浄に最も一般的に使用される酸洗浄剤である。
使用済みの酸(英語版)は、塩化鉄(II) (塩化第一鉄としても知られている) 溶液として長い間再利用されてきたが、酸洗浄液中の重金属水準が高いため、あまり行われなくなってきている。鉄鋼酸洗い業界は、スプレーロースターや流動床塩化水素再生プロセス(英語版)などの塩酸再生プロセスを開発した。これにより、使用済み酸洗浄液からHClを回収できる。 最も一般的な再生プロセスは、次の反応式による熱加水分解プロセスである。
使用済みの酸を回収することにより、閉じた酸ループが確立される。再生プロセスで生じる酸化鉄(III)副産物は貴重であり、さまざまな第二次産業で使用されている。
酸洗浄に使用されるのと同様に、塩酸は多くの金属、金属酸化物、金属炭酸塩を溶解するために使用される。 変換は、多くの場合、以下のような簡略化された方程式で表される。
これらの過程は、分析またはさらなる生産のための金属塩化物の生産に使用される。
塩酸は、溶液の酸度 (pH) を調整するために使用できる。
純度が要求される業界 (食品、医薬品、飲料水) では、高品質の塩酸を使用して経路の水流のpHを制御している。純度の要求の少ない業界、廃水流の中和やプールのpHの制御などには、技術的な品質の塩酸で十分である。
イオン交換樹脂の再生には高品質の塩酸が使用される。陽イオン交換は、水溶液からNaやCaなどのイオンを除去し、脱塩水を生成するために広く使用されている。酸は、樹脂から陽イオンを洗い流すために使用される。NaはHに、Caは2 Hに置き換わる。
イオン交換体と純水は、すべての化学産業、飲料水生産、および多くの食品産業で使用されている。
化学における6つの一般的な強無機酸のうち、塩酸は、酸化還元反応の干渉を受ける可能性が最も低い一価の酸である。また、取り扱うのに最も危険性の低い強酸の1つである。 酸度が高いにもかかわらず、反応性がなく、毒性のない塩化物イオンで構成されている。中程度の濃度の塩酸溶液は、保管時に非常に安定しており、長期間にわたってその濃度が保たれる。これらの特性に加えて、純粋な試薬として利用できるため、塩酸は優れた酸性化試薬になる。それに加えて費用があまりかからない。
塩酸は、塩基の量を決定するための滴定をするときによく選択される酸である。より明確な滴定の終点が生じる強酸の滴定剤を用いることによって、より正確な結果を得られる。共沸、または定沸点塩酸 (約20.2%) は、定量分析の主要な標準物質(英語版)として使用できるが、正確な濃度は、調製時の気圧によって異なる。
塩酸は、皮革加工、家庭用掃除、ビル建設など、小規模な用途に多く使用されている。油井の岩石層に塩酸を注入し、岩石の一部を溶解し、大孔径構造を作成することにより、石油生産を促進することができる。油井の酸性化は、北海の石油生産業界では一般的なプロセスである。
塩酸は、炭酸カルシウムを溶解するために使用されてきた。例としては、やかんの被膜除去や煉瓦のモルタルの洗浄などがある。煉瓦造りの壁で使用する場合、モルタルとの反応は、以下の式のように酸がすべて変換されて塩化カルシウム、二酸化炭素、および水が生成されるまで続く。
塩酸を含む多くの化学反応は、食品、食品成分、および食品添加物の製造に関与している。典型的な製品には、アスパルテーム、フルクトース、クエン酸、リシン、食品増強剤としての加水分解植物性タンパク質(英語版)、およびゼラチン製造が含まれている。食品等級の (超高純度) 塩酸は、最終製品に必要なときに使用される。
胃酸は胃の主要な分泌物の1つである。その主成分は塩酸で、それによって胃の内容物はpH1から2に酸性化されている。塩化物イオン (Cl) と水素イオン (H) は、胃粘膜の壁細胞によって胃底部の胃底領域に別々に分泌され、胃管腔に入る前に小管と呼ばれる分泌ネットワークに分泌される。
胃酸は微生物に対する防壁として働くことで感染を防いだり、食物を消化したりするのに重要である。その低いpHによってタンパク質が変性され、それによってペプシンなどの消化酵素による分解を受けやすくなっている。 低pH環境ではまた、酵素前駆体であるペプシノーゲンが自己切断によって活性酵素であるペプシンに活性化される。粥状液の塩酸塩は胃を出た後、十二指腸で炭酸水素塩によって中和される。
胃自体は、厚い粘液層の分泌と、セクレチンによって誘発される炭酸水素ナトリウムによる緩衝作用によって、強酸から保護されている。これらのメカニズムの欠陥によって、胸やけまたは消化性潰瘍を発症する可能性がある。抗ヒスタミン薬とプロトンポンプ阻害薬などの医薬品は胃での酸の生成を阻害する可能性があり、また制酸薬は過剰に存在する酸を中和するために使用される。
塩酸は強酸であるため、生体組織や多くの物質に対して腐食性があるが、ゴムに対しては腐食性がない。 通常、濃縮溶液を取り扱う場合は、ゴム製の保護手袋と関連する保護具が使用される。
塩酸は、ヘロイン、コカイン、およびメタンフェタミンの生産に使用されているため、1988年の麻薬および向精神薬の違法取引に対する国連条約(英語版)の下で表IIの前駆体として表記されている。
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"text": "塩酸(えんさん)とは塩化水素の水溶液であり強酸の一種である。オランダ語Zoutzuur或いはドイツ語Salzsäureの直訳。本来は塩化水素酸と呼ぶべきものだが、歴史的な経緯から酸素を含む酸と同じように、塩酸と呼ばれている。 無色の液体で独特な辛い匂いがする。人間を含むほとんどの動物の消化器系において塩酸は胃酸の成分となっている。塩酸は重要な実験用試薬および工業用化学物質とされている。",
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"text": "10世紀初頭、ペルシャの医師で錬金術師のアル・ラーズィー (865〜925年頃、ラテン語:ラーゼス) は、塩化アンモン石 (塩化アンモニウム) とビトリオール(英語版) (さまざまな金属の硫酸塩水和物)を用いて実験を行った。混合して蒸留したところ、塩化水素ガスが生成された。そうすることで、アル・ラーズィーは塩酸の発見に非常に近づいたが、彼は実験のガス状生成物を無視し、代わりに残留物に影響を与える可能性のある色の変化に集中したようである。アル・ラーズィーの実験に基づいて、De aluminibus et salibus (『ミョウバンと塩について』、誤ってアル・ラーズィーによるものとされた11世紀または12世紀のアラビア語の文書。クレモナのジェラルドによって12世紀の後半にラテン語に翻訳された。) では、金属のさまざまな塩の加熱について説明されていて、水銀の場合には塩化水銀(II) (昇汞) が生成されることが記載されている。この過程では実際に塩酸が生成され始めるが、すぐに水銀と反応して昇汞が生成される。De aluminibus et salibusが主要な参考書の1つであった13世紀のラテン錬金術師は、昇汞の塩素化特性に魅了され、ビトリオール、ミョウバン、塩の加熱の過程で金属の脱離の際に強鉱酸を直接蒸留することができることをすぐに発見した。鉱酸の発見から生まれた重要な発明の1つには、硝酸と塩酸の1:3の比率の混合物であり、金を溶解できる王水がある。王水は偽ゲーベル(英語版)による De inventione veritatis (『真実の発見について』、1300年頃以降)で最初に記載された。ここでは、王水は塩化アンモニウムを硝酸に添加して調製された。しかしながら、塩酸自体の生産 (つまり、すでに硝酸と混合されているのではなく、分離された物質として) は、その後の数世紀ではじめて開発されることとなる、より効率的な冷却装置の使用に依存した。したがって、塩酸の製造法は16世紀後半になって初めて登場し、最も古いものはジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ (1535–1615) 著Magia Naturalis(英語版) (『自然の魔法』) や、アンドレアス・リバヴィウス (1550–1616頃)、ジャン・ベガン (1550–1620)、オズワルド・クロル(英語版) (1563–1609頃) のような他の同時期の化学者の著作で見られるものである。塩酸などの鉱酸の知識は、ダニエル・セナート(英語版) (1572–1637) やロバート・ボイル (1627–1691) のような17世紀の化学者にとって非常に重要なものであった。",
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"text": "ヨハン・ルドルフ・グラウバーの方法に従って岩塩から製造されたため、塩酸は歴史的にヨーロッパの錬金術師によってspirits of salt (塩の精) または acidum salis (salt acid、塩の酸) と呼ばれていた。特に他の言語では、ドイツ語: Salzsäure、オランダ語: Zoutzuur、スウェーデン語: Saltsyra、スペイン語: Salfumán、トルコ語: Tuz Ruhu、ポーランド語: kwas solny、ハンガリー語: sósavそしてチェコ語: kyselina solnáのようにこれらに由来する名称が使用し続けられている。英語では、ガス状のHClはmarine acid airと呼ばれていた。muriatic acidという名称は同じ由来であり (muriaticは塩水または塩に関係するを意味するため、muriateは塩化水素を意味する)、この名称は今でも使用されることがある。英語における現在の一般的名称であるhydrochloric acidに相当する語は、1814年にフランスの化学者ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって造られた。",
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"text": "ヨーロッパの産業革命の間に、塩基性物質の需要が増加した。イスーダン (フランス) のニコラ・ルブランによって開発された新しい工業的生産法により、炭酸ナトリウム (ソーダ灰) の安価な大量生産が可能になった。このルブラン法では、硫酸、石灰石、石炭を使用して塩化ナトリウムを炭酸ナトリウムに変換し、副産物として塩化水素が放出される。英国1863年のアルカリ法(英語版)および他の国での同様の法律が制定されるまで、余分なHClはしばしば大気中に放出されていた。初期の例外としてはボニントン化学工場(英語版)があり、1830年にHClが捕集され始め、塩化アンモン石 (塩化アンモニウム) の製造に使用されていた。法案の成立後、炭酸ナトリウムの生産者は廃ガスを水中に吸収する義務が生じたため、工業規模で塩酸が生産されることとなった。",
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"text": "20世紀には、ルブラン法が塩酸副産物のないソルベイ法に効果的に置き換えられていった。塩酸はすでに多くの用途で重要な化学物質として完全に定着していたため、商業的関心により他の製造方法が開始され、その一部は現在でも使用されている。2000年以降、塩酸は主に工業用有機化合物の生産で副産物として生成される塩化水素を吸収することによって作られている。",
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"text": "塩酸はヒドロニウムと塩化物イオンの塩である。 そのイオンは陽イオンは実際には他の水分子と結合していることがよくあるもののH3O Clと書かれる。濃塩酸の赤外分光法、ラマン分光法、X線、および中性子回折を組み合わせた研究により、これらの溶液中のH(aq)の主要な形態はH5O2であり、いくつかの方法で、塩化物イオンとともに隣接する水分子に水素結合していることが明らかになった。(この問題についてのより深い議論についてはヒドロニウムを参照すること)",
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"text": "強酸なので、塩化水素のKa (酸解離定数) は大きい。理論的な推定では、塩化水素のpKaは-5.9であることが示唆されている。ただし、塩化水素ガスと塩酸を区別することが重要である。水平化効果により、高濃度で挙動が理想から逸脱する場合を除いて、塩酸 (HCl水溶液) は、水中で利用可能な最強のプロトン供与体であるアクアプロトン (一般にヒドロニウムイオンとして知られる) と同じくらい酸性が強い。NaClなどの塩化物塩をHCl水溶液に添加してもpHへの影響はわずかであり、Clが非常に弱い共役塩基であること、HClが完全に解離していることが示される。 HClの希薄溶液は、水和したHとClへの完全な解離を想定して予測されたpHに近い値となっている。",
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"text": "沸点、融点、密度、水素イオン指数 (pH) などの塩酸の物理的特性は、水溶液中のHClの濃度またはモル濃度に依存している。それらは、0% HClに近い非常に低濃度の値から40% HClを超える発煙塩酸の値までの範囲で定義されている。",
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"text": "HClとH2Oの2成分の混合物としての塩酸は、HClの濃度が20.2%の時に108.6 °C (227 °F)で一定になる沸騰共沸混合物である。[H3O]Cl (68% HCl)、[H5O2]Cl (51% HCl)、[H7O3]Cl (41% HCl)、[H3O]Cl·5H2O (25% HCl)、そして氷 (0% HCl)の結晶形の間には、塩酸の4つの一定結晶化共晶点がある。氷と[H7O3]Cl結晶化の間には、24.8%の準安定共晶点もある。これらはすべてヒドロニウム塩である。",
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"text": "塩酸は産業的には塩化水素を水に溶解させることで調製されることが多い。塩化水素はさまざまな方法で生成されることがあるため、塩酸の前駆体はいくつか存在する。 塩酸の大規模生産は、ほとんどの場合、水酸化物、水素、塩素を生産するクロルアルカリプロセスなどの工業規模の他の化学物質の生産と統合されている。この時発生する水素と塩素を利用してHClを生成することができる。",
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"text": "塩酸は、最大38% HCl (濃縮グレード) 溶液として生産される。化学的には40%をわずかに超える高濃度にすることは可能だが、蒸発率が非常に高いため、保管と取り扱いには、加圧や冷却などの特別な予防措置が必要である。したがって、大量生産のための工業グレードは30%から35%であり、輸送効率と蒸発による製品損失のバランスが取れるように最適化されている。アメリカ合衆国では、20%から32%の溶液が塩酸として販売されている。アメリカ合衆国の家庭用溶液、主にクリーニングは、通常10%から12%のものを使用するので、使用前に希釈することが強く推奨されている。塩酸が家庭用洗浄用のSpirits of Saltとして販売されている英国では、効力は米国の工業用グレードと同じである。イタリアなど他の国では、家庭用または工業用洗浄用の塩酸がAcido Muriaticoとして販売されており、その濃度は5%から32%の範囲である。",
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"text": "世界中の主要な生産者には、HClガス換算で年間200万メートルトン(2 Mt/年)生産しているダウ・ケミカルがあり、また、ジョージアガルフコーポレーション(英語版)、東ソー、アクゾノーベル、およびテセンドロ(英語版)がそれぞれ0.5〜1.5 Mt/年生産している。比較すると、HClとして表される世界の総生産量は、20 Mt/年と推定され、その内訳は、直接合成から3 Mt/年、残りは有機合成および同様の合成からの二次生成物である。なお、2016年度日本国内生産量は合成696,835 t, 副生929,311 t、消費量は533,600 tである。",
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"text": "塩酸は、金属の精製など多くの工業プロセスで使用される強い無機酸である。多くの場合、利用方法によって求められる製品の品質が決定される。塩酸ではなく塩化水素は、例えばクロロエチレンおよびジクロロエタン用に有機化学工業でより広く使用されている。",
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"text": "塩酸の最も重要な用途の1つとして、鋼の酸洗浄(英語版)で、押出成形、圧延、亜鉛めっき、およびその他の技術などの後続の処理の前に、鉄または鋼から錆または酸化鉄の被膜を除去するということが挙げられる。通常18%の濃度の技術品質のHClは、炭素鋼等級の酸洗浄に最も一般的に使用される酸洗浄剤である。",
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"text": "使用済みの酸(英語版)は、塩化鉄(II) (塩化第一鉄としても知られている) 溶液として長い間再利用されてきたが、酸洗浄液中の重金属水準が高いため、あまり行われなくなってきている。鉄鋼酸洗い業界は、スプレーロースターや流動床塩化水素再生プロセス(英語版)などの塩酸再生プロセスを開発した。これにより、使用済み酸洗浄液からHClを回収できる。 最も一般的な再生プロセスは、次の反応式による熱加水分解プロセスである。",
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"text": "使用済みの酸を回収することにより、閉じた酸ループが確立される。再生プロセスで生じる酸化鉄(III)副産物は貴重であり、さまざまな第二次産業で使用されている。",
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"text": "酸洗浄に使用されるのと同様に、塩酸は多くの金属、金属酸化物、金属炭酸塩を溶解するために使用される。 変換は、多くの場合、以下のような簡略化された方程式で表される。",
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塩酸(えんさん)とは塩化水素の水溶液であり強酸の一種である。オランダ語Zoutzuur或いはドイツ語Salzsäureの直訳。本来は塩化水素酸と呼ぶべきものだが、歴史的な経緯から酸素を含む酸と同じように、塩酸と呼ばれている。 無色の液体で独特な辛い匂いがする。人間を含むほとんどの動物の消化器系において塩酸は胃酸の成分となっている。塩酸は重要な実験用試薬および工業用化学物質とされている。
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'''塩酸'''(えんさん)とは[[塩化水素]]の[[水溶液]]であり[[強酸]]の一種である。オランダ語'''Zoutzuur'''或いはドイツ語'''Salzsäure'''の直訳。本来は'''[[塩化水素]]酸'''と呼ぶべきものだが、歴史的な経緯から[[酸素]]を含む酸と同じように、塩酸と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.page.sannet.ne.jp/matukawa/ensan.htm|title=塩酸の名称についての疑問|date=2004-12-26|author=Matsukawa, T.|accessdate=2011-10-07}}</ref>。 無色の液体で独特な辛い匂いがする。人間を含むほとんどの動物の[[消化器系]]において塩酸は[[胃酸]]の成分となっている。塩酸は重要な実験用試薬および工業用化学物質とされている<ref name="G&E"/><ref name=Ullmann/>。
==歴史==
[[10世紀]]初頭、[[ペルシャ]]の医師で[[錬金術師]]の[[アル・ラーズィー]] (865〜925年頃、[[ラテン語]]:ラーゼス) は、[[塩化アンモン石]] ([[塩化アンモニウム]]) と{{仮リンク|ビトリオール|en|Vitriol}} (さまざまな[[金属]]の[[硫酸塩]]水和物)を用いて実験を行った。混合して[[蒸留]]したところ、[[塩化水素]]ガスが生成された。そうすることで、アル・ラーズィーは塩酸の発見に非常に近づいたが、彼は実験のガス状生成物を無視し、代わりに残留物に影響を与える可能性のある色の変化に集中したようである<ref>{{cite book|last=マルトゥフ|first=ロバート・P|author-link=ロバート・P・マルトゥフ|year=1966|title=The Origins of Chemistry|location=London|publisher=Oldbourne|oclc=977570829}} pp. 141-142.</ref>。アル・ラーズィーの実験に基づいて、''De aluminibus et salibus'' (『[[ミョウバン]]と塩について』、誤ってアル・ラーズィーによるものとされた11世紀または12世紀の[[アラビア語]]の文書。[[クレモナのジェラルド]]によって12世紀の後半に[[12世紀ルネサンス|ラテン語に翻訳]]された。) では、金属のさまざまな[[塩 (化学)|塩]]の加熱について説明されていて、[[水銀]]の場合には[[塩化水銀(II)]] (昇汞) が生成されることが記載されている<ref>{{harvnb|Multhauf|1966|pp=160–162}}</ref>。この過程では実際に塩酸が生成され始めるが、すぐに水銀と反応して昇汞が生成される。''De aluminibus et salibus''が主要な参考書の1つであった13世紀のラテン錬金術師は、昇汞の[[塩素化]]特性に魅了され、ビトリオール、ミョウバン、塩の加熱の過程で金属の脱離の際に強[[鉱酸]]を直接蒸留することができることをすぐに発見した<ref>{{harvnb|Multhauf|1966|pp=162–163}}</ref>。鉱酸の発見から生まれた重要な発明の1つには、[[硝酸]]と塩酸の1:3の比率の混合物であり、[[金]]を溶解できる'''[[王水]]'''がある。王水は{{仮リンク|偽ゲーベル|en|pseudo-Geber}}による ''De inventione veritatis'' (『真実の発見について』、1300年頃以降)で最初に記載された。ここでは、王水は塩化アンモニウムを硝酸に添加して調製された<ref>{{Cite journal|last1=Karpenko|first1=Vladimír|last2=Norris|first2=John A.|year=2002|title=Vitriol in the History of Chemistry|journal=Chemické listy|volume=96|issue=12|pages=997–1005|url=http://www.chemicke-listy.cz/ojs3/index.php/chemicke-listy/article/view/2266}} p. 1002.</ref>。しかしながら、塩酸自体の生産 (つまり、すでに[[硝酸]]と混合されているのではなく、分離された物質として) は、その後の数世紀ではじめて開発されることとなる、より効率的な冷却装置の使用に依存した<ref>{{harvnb|Multhauf|1966|p=204}}.</ref>。したがって、塩酸の製造法は16世紀後半になって初めて登場し、最も古いものは[[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ]] (1535–1615) 著''{{仮リンク|Magia Naturalis|en|Magia Naturalis}}'' (『自然の魔法』) や、[[アンドレアス・リバヴィウス]] (1550–1616頃)、[[ジャン・ベガン]] (1550–1620)、{{仮リンク|オズワルド・クロル|en|Oswald Croll}} (1563–1609頃) のような他の同時期の化学者の著作で見られるものである<ref>{{harvnb|Multhauf|1966|loc=p. 208, note 29; cf. p. 142, note 79}}</ref>。塩酸などの鉱酸の知識は、{{仮リンク|ダニエル・セナート|en|Daniel Sennert}} (1572–1637) や[[ロバート・ボイル]] (1627–1691) のような17世紀の化学者にとって非常に重要なものであった<ref>{{cite book|last=ニューマン|first=ウィリアム・R|author-link=ウィリアム・R・ニューマン|year=2006|title=Atoms and Alchemy: Chymistry and the Experimental Origins of the Scientific Revolution|location=Chicago|publisher=University of Chicago Press}} p. 98.</ref>。
===語源===
[[ヨハン・ルドルフ・グラウバー]]の方法に従って[[岩塩]]から製造されたため、塩酸は歴史的にヨーロッパの錬金術師によって''spirits of salt'' (塩の精) または ''acidum salis'' (salt acid、塩の酸) と呼ばれていた。特に他の言語では、{{lang-de|Salzsäure}}、{{lang-nl|Zoutzuur}}、{{lang-sv|Saltsyra}}、{{lang-es|Salfumán}}、{{lang-tr|Tuz Ruhu}}、{{lang-pl|kwas solny}}、{{lang-hu|sósav}}そして{{lang-cs|kyselina solná}}のようにこれらに由来する名称が使用し続けられている。英語では、ガス状のHClは''marine acid air''と呼ばれていた。''muriatic acid''という名称は同じ由来であり (''muriatic''は''塩水または塩に関係する''を意味するため、''muriate''は塩化水素を意味する)、この名称は今でも使用されることがある<ref name="muriatic_acid">{{Cite web |url=http://www.bayermaterialsciencenafta.com/products/index.cfm?mode=grades&pp_num=EB7C4476-A4F6-7AE6-7CD78F4E6C60AA44&o_num=3 |title=Hydrochloric Acid |access-date=16 September 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20101015233337/http://bayermaterialsciencenafta.com/products/index.cfm?mode=grades&pp_num=EB7C4476-A4F6-7AE6-7CD78F4E6C60AA44&o_num=3 |archive-date=15 October 2010 }}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.ppg.com/chemicals/chloralkali/Documents/english/MuriaticAcid.pdf |title=Muriatic Acid |publisher=[[PPGインダストリーズ]] |year=2005 |access-date=10 September 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150702030125/http://www.ppg.com/chemicals/chloralkali/documents/english/muriaticacid.pdf |archive-date=2 July 2015 |url-status=dead |df=dmy-all }}</ref>。英語における現在の一般的名称である''hydrochloric acid''に相当する語は、1814年に[[フランス]]の化学者[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]によって造られた<ref>Gay-Lussac (1814) "Mémoire sur l'iode" (Memoir on iodine), ''Annales de Chemie'', '''91''' : 5–160. [https://books.google.com/books?id=Tao9AQAAMAAJ&pg=PA9#v=onepage&q&f=false From page 9:] ''" ... mais pour les distinguer, je propose d'ajouter au mot spécifique de l'acide que l'on considère, le mot générique de ''hydro''; de sorte que le combinaisons acide de hydrogène avec le chlore, l'iode, et le soufre porteraient le nom d'acide hydrochlorique, d'acide hydroiodique, et d'acide hydrosulfurique; ... "'' (... but in order to distinguish them, I propose to add to the specific suffix of the acid being considered, the general prefix ''hydro'', so that the acidic combinations of hydrogen with chlorine, iodine, and sulfur will bear the name hydrochloric acid, hydroiodic acid, and hydrosulfuric acid; ...)</ref>。
===産業の発展===
ヨーロッパの[[産業革命]]の間に、[[塩基性]]物質の需要が増加した。[[イスーダン]] ([[フランス]]) の[[ニコラ・ルブラン]]によって開発された新しい工業的生産法により、[[炭酸ナトリウム]] (ソーダ灰) の安価な大量生産が可能になった。この[[ルブラン法]]では、[[硫酸]]、[[石灰石]]、[[石炭]]を使用して[[塩化ナトリウム]]を[[炭酸ナトリウム]]に変換し、[[副産物]]として塩化水素が放出される。英国{{仮リンク|1863年のアルカリ法|en|Alkali Act 1863}}および他の国での同様の法律が制定されるまで、余分なHClはしばしば大気中に放出されていた。初期の例外としては{{仮リンク|ボニントン化学工場|en|Bonnington Chemical Works}}があり、1830年にHClが捕集され始め、塩化アンモン石 (塩化アンモニウム) の製造に使用されていた<ref>{{cite journal| author = Ronalds BF |date=2019|title=Bonnington Chemical Works (1822-1878): Pioneer Coal Tar Company|journal=International Journal for the History of Engineering & Technology|volume=89|issue=1–2|pages=73–91|doi=10.1080/17581206.2020.1787807|s2cid=221115202}}</ref>。法案の成立後、炭酸ナトリウムの生産者は廃ガスを水中に吸収する義務が生じたため、工業規模で塩酸が生産されることとなった<ref name="ceh">{{Cite book |title=Chemicals Economics Handbook |chapter=Hydrochloric Acid |publisher=[[SRIインターナショナル]] |year=2001 |pages=733.4000A–733.3003F}}</ref><ref name="aftalion">{{cite book | author = Aftalion F |title=A History of the International Chemical Industry |location=Philadelphia |publisher=University of Pennsylvania Press |year=1991 |isbn=978-0-8122-1297-6}}</ref>。
20世紀には、ルブラン法が塩酸副産物のない[[ソルベイ法]]に効果的に置き換えられていった。塩酸はすでに多くの用途で重要な化学物質として完全に定着していたため、商業的関心により他の製造方法が開始され、その一部は現在でも使用されている。2000年以降、塩酸は主に[[塩酸#無機化合物の生産|工業用有機化合物の生産]]で副産物として生成される塩化水素を吸収することによって作られている<ref name="ceh" /><ref name="aftalion" /><ref name="G&E">{{Greenwood&Earnshaw |pages=946–48}}</ref>。
==構造と反応==
塩酸は[[ヒドロニウム]]と[[塩化物イオン]]の塩である。 そのイオンは[[陽イオン]]は実際には他の[[水]]分子と結合していることがよくあるもののH<sub>3</sub>O<sup>+</sup> Cl<sup>-</sup>と書かれる<ref>{{cite book |last1 = Petrucci |first1 = Ralph H. |last2 = Harwood |first2 = William S. |last3 = Herring |first3 = F. Geoffrey |date=2002 |title = General chemistry: principles and modern applications |publisher=Prentice Hall |isbn = 978-0-13-014329-7 |pages=668–669}}</ref>。濃塩酸の[[赤外分光法]]、[[ラマン分光法]]、[[X線]]、および[[中性子回折]]を組み合わせた研究により、これらの溶液中のH<sup>+</sup><sub>(aq)</sub>の主要な形態はH<sub>5</sub>O<sub>2</sub><sup>+</sup>であり、いくつかの方法で、[[塩化物イオン]]とともに隣接する[[水分子]]に[[水素結合]]していることが明らかになった<ref>{{cite journal | author = Agmon N |date=January 1998 |title=Structure of Concentrated HCl Solutions |journal=The Journal of Physical Chemistry A |volume=102 |issue=1 |pages=192–199 |doi=10.1021/jp970836x |issn=1089-5639 |citeseerx=10.1.1.78.3695 |bibcode=1998JPCA..102..192A }}</ref>。(この問題についてのより深い議論については[[ヒドロニウム]]を参照すること)
===酸度===
強酸なので、塩化水素の''K''<sub>a</sub> ([[酸解離定数]]) は大きい。理論的な推定では、塩化水素のp''K''<sub>a</sub>は-5.9であることが示唆されている<ref name="Trummal 3663–3669"/>。ただし、塩化水素ガスと塩酸を区別することが重要である。[[水平化効果]]により、高濃度で挙動が理想から逸脱する場合を除いて、塩酸 (HCl水溶液) は、水中で利用可能な最強のプロトン供与体であるアクアプロトン (一般に''[[ヒドロニウムイオン]]''として知られる) と同じくらい酸性が強い。NaClなどの[[塩化物]]塩をHCl水溶液に添加してもpHへの影響はわずかであり、Cl<sup>-</sup>が非常に弱い共役塩基であること、HClが完全に解離していることが示される。 HClの希薄溶液は、水和したH<sup>+</sup>とCl<sup>-</sup>への完全な解離を想定して予測されたpHに近い値となっている<ref>{{cite journal | author = McCarty CG, Vitz E |date=May 2006 |title=pH Paradoxes: Demonstrating That It Is Not True That pH ≡ −log[H<sup>+</sup>] |journal=Journal of Chemical Education |language=en |volume=83 |issue=5 |pages=752 |doi=10.1021/ed083p752 |issn=0021-9584 |bibcode=2006JChEd..83..752M}}</ref>。
==物理的性質==
{| class="wikitable" style="margin: 0 auto; text-align: center;"
|-
! [[質量分率]]
! colspan=2| [[濃度]]
! [[密度]]
! [[モル濃度]]
! [[水素イオン指数|pH]]
! [[粘度]]
! [[比熱容量]]
! [[蒸気圧]]
! [[沸点]]
! [[融点]]
|-
! kg HCl/kg
! kg HCl/m<sup>3</sup>
! [[ボーメ度]]
! kg/L
! mol/L
!
! mPa·s
! kJ/(kg·K)
! kPa
! °C
! °C
|-
! 10%
| 104.80 || 6.6 || 1.048 || 2.87 || −0.5 || 1.16 || 3.47 || 1.95 || 103|| −18
|-
! 20%
| 219.60 || 13 || 1.098 || 6.02 || −0.8 || 1.37 || 2.99 || 1.40 || 108 || −59
|-
! 30%
| 344.70 || 19 || 1.149 || 9.45 || −1.0 || 1.70 || 2.60 || 2.13 || 90 || −52
|-
! 32%
| 370.88 || 20 || 1.159 || 10.17 || −1.0 || 1.80 || 2.55 || 3.73 || 84 || −43
|-
! 34%
| 397.46 || 21 || 1.169 || 10.90 || −1.0 || 1.90 || 2.50 || 7.24 || 71 || −36
|-
! 36%
| 424.44 || 22 || 1.179 || 11.81 || −1.1 || 1.99 || 2.46 || 14.5 || 61 || −30
|-
! 38%
| 451.82 || 23 || 1.189 || 12.39 || −1.1 || 2.10 || 2.43 || 28.3 || 48 || −26
|-
| colspan=11|上記の表の基準[[温度]]と[[圧力]]は、20 °Cおよび1気圧(101.325 kPa)である。[[蒸気圧]]の値は国際臨界表から取得され、溶液の全蒸気圧を参照している。
|}
[[File:Phase diagram HCl H2O s l.PNG|thumb|水中のHCl濃度による融解温度の変化<ref>{{Cite book |title=Gmelins Handbuch der Anorganischen Chemie |chapter=Systemnummer 6 Chlor |publisher=Chemie Berlin |year=1927}}</ref><ref>{{Cite book |title=Gmelins Handbuch der Anorganischen Chemie |chapter=Systemnummer 6 Chlor, Ergänzungsband Teil B – Lieferung 1 |publisher=Chemie Weinheim |year=1968}}</ref>]]
[[沸点]]、[[融点]]、[[密度]]、[[水素イオン指数]] (pH) などの塩酸の物理的特性は、水溶液中のHClの[[濃度]]または[[モル濃度]]に依存している。それらは、0% HClに近い非常に低濃度の値から40% HClを超える発煙塩酸の値までの範囲で定義されている<ref name="crc" /><ref name="perry" /><ref name="aspen">{{Cite book |publisher=Aspen Technology |title=Aspen Properties |series=binary mixtures modeling software |edition=calculations by Akzo Nobel Engineering |year = 2002–2003}}</ref>。
HClとH<sub>2</sub>Oの2成分の[[混合物]]としての塩酸は、HClの濃度が20.2%の時に108.6 °C (227 °F)で一定になる沸騰[[共沸]]混合物である。[H<sub>3</sub>O]Cl (68% HCl)、[H<sub>5</sub>O<sub>2</sub>]Cl (51% HCl)、[H<sub>7</sub>O<sub>3</sub>]Cl (41% HCl)、[H<sub>3</sub>O]Cl·5H<sub>2</sub>O (25% HCl)、そして氷 (0% HCl)の[[結晶]]形の間には、塩酸の4つの一定結晶化[[共晶]]点がある。氷と[H<sub>7</sub>O<sub>3</sub>]Cl結晶化の間には、24.8%の[[準安定]]共晶点もある<ref name="aspen" />。これらはすべて[[ヒドロニウム]]塩である。
==製造==
塩酸は産業的には塩化水素を水に溶解させることで調製されることが多い。塩化水素はさまざまな方法で生成されることがあるため、塩酸の[[前駆体]]はいくつか存在する。 塩酸の大規模生産は、ほとんどの場合、[[水酸化物]]、[[水素]]、[[塩素]]を生産する[[クロルアルカリプロセス]]などの工業規模の他の化学物質の生産と統合されている。この時発生する水素と塩素を利用してHClを生成することができる<ref name="crc">{{Cite book | author = Lide D |title = CRC Handbook of Chemistry and Physics |publisher=[[CRC Press]] |edition=81st |year=2000 |isbn=978-0-8493-0481-1}}</ref><ref name="perry">{{cite book | author = Perry R, Green D, Maloney J |title=Perry's Chemical Engineers' Handbook |publisher=[[McGraw-Hill]] Book Company |edition=6th |year=1984 |isbn=978-0-07-049479-4 |title-link=Perry's Chemical Engineers' Handbook }}</ref>。
===産業市場===
塩酸は、最大38% HCl (濃縮グレード) 溶液として生産される。化学的には40%をわずかに超える高濃度にすることは可能だが、[[蒸発]]率が非常に高いため、保管と取り扱いには、加圧や冷却などの特別な予防措置が必要である。したがって、大量生産のための工業グレードは30%から35%であり、輸送効率と蒸発による製品損失のバランスが取れるように最適化されている。[[アメリカ合衆国]]では、20%から32%の溶液が塩酸として販売されている。アメリカ合衆国の家庭用溶液、主にクリーニングは、通常10%から12%のものを使用するので、使用前に希釈することが強く推奨されている。塩酸が家庭用洗浄用の''Spirits of Salt''として販売されている[[英国]]では、効力は米国の工業用グレードと同じである<ref name="ceh" />。[[イタリア]]など他の国では、家庭用または工業用洗浄用の塩酸が''Acido Muriatico''として販売されており、その濃度は5%から32%の範囲である。
世界中の主要な生産者には、HClガス換算で年間200万メートルトン(2 Mt/年)生産している[[ダウ・ケミカル]]があり、また、{{仮リンク|ジョージアガルフコーポレーション|en|Georgia Gulf}}、[[東ソー]]、[[アクゾノーベル]]、および{{仮リンク|テセンドロ|en|Tessenderlo}}がそれぞれ0.5〜1.5 Mt/年生産している。比較すると、HClとして表される世界の総生産量は、20 Mt/年と推定され、その内訳は、直接合成から3 Mt/年、残りは[[有機合成]]および同様の合成からの[[二次生成物]]である<ref name="ceh" />。なお、2016年度日本国内生産量は合成696,835 t, 副生929,311 t、消費量は533,600 tである<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編]</ref>。
==利用==
{{main|塩化水素}}
塩酸は、[[金属]]の[[精製]]など多くの工業プロセスで使用される強い[[無機酸]]である。多くの場合、利用方法によって求められる製品の品質が決定される<ref name="ceh" />。塩酸ではなく[[塩化水素]]は、例えば[[クロロエチレン]]および[[ジクロロエタン]]用に[[有機化学]]工業でより広く使用されている<ref name=Ullmann>{{cite book |doi=10.1002/14356007.a13_283|title=Hydrochloric Acid|year=2000|last1=Austin|first1=Severin|last2=Glowacki|first2=Arndt|isbn=3527306730}}</ref>。
===鋼の酸洗浄===
塩酸の最も重要な用途の1つとして、[[鋼]]の{{仮リンク|酸洗浄|en|Pickling (metal)}}で、[[押出成形]]、[[圧延]]、[[亜鉛めっき]]、およびその他の技術などの後続の処理の前に、[[鉄]]または[[鋼]]から[[錆]]または[[酸化鉄]]の被膜を除去するということが挙げられる<ref name="ceh"/><ref name="G&E" />。通常18%の濃度の技術品質のHClは、[[炭素鋼]]等級の酸洗浄に最も一般的に使用される酸洗浄剤である。
: <chem>Fe3O4 + Fe + 8 HCl -> 4 FeCl2 + 4 H2O</chem>
{{仮リンク|使用済みの酸|en|spent acid}}は、[[塩化鉄(II)]] (塩化第一鉄としても知られている) 溶液として長い間再利用されてきたが、酸洗浄液中の重金属水準が高いため、あまり行われなくなってきている。鉄鋼酸洗い業界は、スプレーロースターや流動床{{仮リンク|塩化水素再生プロセス|en|hydrochloric acid regeneration}}などの塩酸再生プロセスを開発した。これにより、使用済み酸洗浄液からHClを回収できる。 最も一般的な再生プロセスは、次の反応式による熱加水分解プロセスである<ref name="ceh"/>。
: <chem>4 FeCl2 + 4 H2O + O2 -> 8 HCl + 2 Fe2O3</chem>
使用済みの酸を回収することにより、閉じた酸ループが確立される<ref name="G&E" />。再生プロセスで生じる[[酸化鉄(III)]]副産物は貴重であり、さまざまな[[第二次産業]]で使用されている<ref name="ceh"/>。
===無機化合物の生産===
酸洗浄に使用されるのと同様に、塩酸は多くの金属、金属[[酸化物]]、金属[[炭酸塩]]を溶解するために使用される。 変換は、多くの場合、以下のような簡略化された方程式で表される。
: <chem>Zn + 2 HCl -> ZnCl2 + H2</chem>
: <chem>NiO + 2 HCl -> NiCl2 + H2O</chem>
: <chem>CaCO3 + 2 HCl -> CaCl2 + CO2 + H2O</chem>
これらの過程は、分析またはさらなる生産のための金属[[塩化物]]の生産に使用される<ref name="crc" /><ref name="perry" /><ref name="G&E" />。
===pH制御と中和===
塩酸は、溶液の[[酸度]] ([[水素イオン指数|pH]]) を調整するために使用できる。
: <chem>OH^- + HCl -> H2O + Cl^-</chem>
純度が要求される業界 ([[食品]]、[[医薬品]]、[[飲料水]]) では、高品質の塩酸を使用して経路の水流のpHを制御している。純度の要求の少ない業界、廃水流の[[酸と塩基|中和]]やプールのpHの制御などには、技術的な品質の塩酸で十分である<ref name="G&E" />。
===イオン交換体の再生===
[[イオン交換樹脂]]の再生には高品質の塩酸が使用される。[[イオン交換|陽イオン交換]]は、水溶液からNa<sup>+</sup>やCa<sup>2+</sup>などの[[イオン]]を除去し、[[純水|脱塩水]]を生成するために広く使用されている。酸は、樹脂から[[イオン|陽イオン]]を洗い流すために使用される<ref name="ceh"/>。Na<sup>+</sup>はH<sup>+</sup>に、Ca<sup>2+</sup>は2 H<sup>+</sup>に置き換わる。
イオン交換体と純水は、すべての化学産業、[[飲料水]]生産、および多くの[[食品産業]]で使用されている<ref name="ceh"/>。
===実験室での利用===
化学における6つの一般的な強[[無機酸]]のうち、塩酸は、[[酸化還元反応]]の干渉を受ける可能性が最も低い一価の[[酸]]である。また、取り扱うのに最も危険性の低い[[強酸]]の1つである。 [[酸度]]が高いにもかかわらず、反応性がなく、[[毒性]]のない塩化物イオンで構成されている。中程度の濃度の塩酸溶液は、保管時に非常に安定しており、長期間にわたってその濃度が保たれる。これらの特性に加えて、純粋な試薬として利用できるため、塩酸は優れた酸性化試薬になる。それに加えて費用があまりかからない。
塩酸は、[[塩基]]の量を決定するための[[滴定]]をするときによく選択される酸である。より明確な滴定の終点が生じる強酸の滴定剤を用いることによって、より正確な結果を得られる。[[共沸]]、または''定沸点''塩酸 (約20.2%) は、[[定量分析]]の主要な{{仮リンク|標準物質|en|Primary standard}}として使用できるが、正確な濃度は、調製時の[[気圧]]によって異なる<ref>{{Cite book | author = Mendham J, Denney RC, Barnes JD, Thomas MJ, Denney RC, Thomas MJ |year = 2000 |title = Vogel's Quantitative Chemical Analysis |edition = 6th |location = New York |publisher = Prentice Hall |isbn = 978-0-582-22628-9}}</ref>。
===その他===
塩酸は、[[皮革]]加工、家庭用掃除<ref>{{Cite news |url=https://www.telegraph.co.uk/property/3317144/Household-plc-really-filthy-bathrooms.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090223230226/http://www.telegraph.co.uk/property/3317144/Household-plc-really-filthy-bathrooms.html |url-status=dead |archivedate=23 February 2009 |title=Household plc: really filthy bathroom |date=13 September 2003 |work=[[デイリー・テレグラフ]]|location=London | author = Simhon R |access-date=31 March 2010}}</ref>、ビル建設<ref name="G&E" />など、小規模な用途に多く使用されている。[[油井]]の岩石層に塩酸を注入し、岩石の一部を溶解し、大孔径構造を作成することにより、石油生産を促進することができる。油井の酸性化は、[[北海]]の石油生産業界では一般的なプロセスである<ref name='ceh'/>。
塩酸は、[[炭酸カルシウム]]を溶解するために使用されてきた。例としては、[[やかん]]の被膜除去や[[煉瓦]]の[[モルタル]]の洗浄などがある。[[煉瓦]]造りの壁で使用する場合、[[モルタル]]との反応は、以下の式のように酸がすべて変換されて[[塩化カルシウム]]、[[二酸化炭素]]、および[[水]]が生成されるまで続く。
: <chem>CaCO3 + 2 HCl -> CaCl2 + CO2 + H2O</chem>
塩酸を含む多くの化学反応は、食品、食品成分、および[[食品添加物]]の製造に関与している。典型的な製品には、[[アスパルテーム]]、[[フルクトース]]、[[クエン酸]]、[[リシン]]、食品増強剤としての{{仮リンク|加水分解植物性タンパク質|en|hydrolyzed vegetable protein}}、および[[ゼラチン]]製造が含まれている。食品等級の (超高純度) 塩酸は、[[最終製品]]に必要なときに使用される<ref name='ceh'/><ref name="G&E" />。
==生物における存在==
[[File:Stomach mucosal layer labeled.svg|left|[[粘膜]]防御機構を備えた[[胃]]の[[塩基|塩基性]][[粘膜]]の図|thumb]]
[[胃酸]]は[[胃]]の主要な[[分泌|分泌物]]の1つである。その主成分は塩酸で、それによって胃の内容物はpH1から2に酸性化されている<ref name=maton>{{Cite book | author = Maton A, Hopkins J, McLaughlin CW, Johnson S, Warner MQ, LaHart D, Wright JD |title=Human Biology and Health |publisher=Prentice Hall |year=1993 |location=Englewood Cliffs, New Jersey, USA |isbn=978-0-13-981176-0 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/humanbiologyheal00scho }}</ref><ref>{{cite web |title=Digestive Aids: Hydrochloric acid |url=http://www.healthy.net/scr/article.aspx?id=1863 |website=healthy.net | author = Haas E |date = 6 December 2000|accessdate=2021-10-23}}</ref>。塩化物イオン (Cl<sup>−</sup>) と水素イオン (H<sup>+</sup>) は、[[胃粘膜]]の[[壁細胞]]によって[[胃底]]部の胃底領域に別々に分泌され、胃管腔に入る前に小管と呼ばれる[[分泌]]ネットワークに分泌される<ref name="arthur">{{cite book | author = Arthur C, Guyton MD, Hall JE |title=Textbook of Medical Physiology |publisher=W.B.[[サンダース(出版社)|サンダース]]社 |edition=10th |year=2000 |isbn=978-0-7216-8677-6}}</ref>。
[[胃酸]]は[[微生物]]に対する防壁として働くことで[[感染]]を防いだり、食物を[[消化]]したりするのに重要である。その低い[[水素イオン指数|pH]]によって[[タンパク質]]が変性され、それによって[[ペプシン]]などの[[消化酵素]]による分解を受けやすくなっている。 低pH環境ではまた、[[酵素前駆体]]であるペプシノーゲンが自己切断によって活性[[酵素]]である[[ペプシン]]に活性化される。粥状液の塩酸塩は胃を出た後、[[十二指腸]]で[[炭酸水素塩]]によって[[中和 (化学)|中和]]される<ref name='maton'/>。
[[胃]]自体は、厚い[[粘液]]層の分泌と、[[セクレチン]]によって誘発される[[炭酸水素ナトリウム]]による[[緩衝作用]]によって、[[強酸]]から保護されている。これらのメカニズムの欠陥によって、[[胸やけ]]または[[消化性潰瘍]]を発症する可能性がある。[[抗ヒスタミン薬]]と[[プロトンポンプ阻害薬]]などの医薬品は胃での酸の生成を阻害する可能性があり、また[[制酸薬]]は過剰に存在する酸を中和するために使用される<ref name='maton'/><ref>{{Cite web |url=http://www.vivo.colostate.edu/hbooks/pathphys/endocrine/gi/secretin.html |title=Control and Physiologic Effects of Secretin |publisher=Colorado State University | author = Bowen R |date=18 March 2003 |access-date=16 March 2009}}</ref>。
==安全性==
<div style="float: right; margin-left: 0.5em">[[File:UN transport pictogram - 8.svg|100px|alt=文字8と「腐食性」が付いた菱形のラベル。液体の雫が材料と人間の手を腐食することを示している。]] [[File:GHS-pictogram-acid.svg|100px|alt=重度の皮膚のやけどや目の損傷を引き起こす。]] [[File:GHS-pictogram-exclam.svg|100px|alt=呼吸器への刺激を引き起こす可能性がある。]]
</div>
塩酸は[[強酸]]であるため、[[組織 (生物学)|生体組織]]や多くの物質に対して[[腐食性]]があるが、[[ゴム]]に対しては腐食性がない。 通常、[[濃縮]][[溶液]]を取り扱う場合は、ゴム製の保護手袋と関連する保護具が使用される<ref name=Ullmann/>。
{| class="wikitable" style="float: center; clear: right;"
|-
! [[質量分率]]
! 分類<ref>{{Cite web |title=Regulation (EC) No 1272/2008 of the European Parliament and of Council of 16 December 2008 on classification, labelling and packaging of substances and mixtures, amending and repealing Directives 67/548/EEC and 1999/45/EC, and amending Regulation (EC) No 1907/2006 |url=https://eur-lex.europa.eu/legal-content/EN/TXT/PDF/?uri=CELEX:32008R1272&qid=1568410668462&from=EN |publisher=EUR-lex |access-date = 16 December 2008}}</ref>
! [[GHS危険性報告|Hフレーズの一覧]]
|-
| 10% ≤ C < 25%
| 皮膚刺激を引き起こし、深刻な眼刺激を引き起こす
| {{H-phrases|315|319}}
|-
| C ≥ 10%
| 呼吸器への刺激を引き起こす可能性がある
| {{H-phrases|335}}
|-
| C ≥ 25%
| 重度の皮膚のやけどや目の損傷を引き起こす
| {{H-phrases|314}}
|}
塩酸は、[[ヘロイン]]、[[コカイン]]、および[[メタンフェタミン]]の生産に使用されているため、[[1988年]]の{{仮リンク|麻薬および向精神薬の違法取引に対する国連条約|en|United Nations Convention Against Illicit Traffic in Narcotic Drugs and Psychotropic Substances}}の下で表IIの[[前駆体]]として表記されている<ref name="incb">{{Cite book|publisher=[[国際麻薬統制委員会]]|url=http://www.incb.org/pdf/e/list/red.pdf |title=List of precursors and chemicals frequently used in the illicit manufacture of narcotic drugs and psychotropic substances under international control |issue=Annex to Form D ("Red List") |edition=Eleventh |date=January 2007 |deadlinkdate=2021-10-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080227224025/http://www.incb.org/pdf/e/list/red.pdf |archivedate=2008-02-27 }}</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist|25em}}
== 関連項目 ==
* [[塩化物]]… 塩酸による[[無機塩]]
* [[塩酸塩]]… 塩酸による[[有機塩]]
* [[王水]]
== 外部リンク ==
{{commons category|Hydrochloric acid}}
* [http://webbook.nist.gov/ NIST WebBook, general link]
* [[ノッティンガム大学]]の''{{仮リンク|ビデオの定期的な一覧表|en|The Periodic Table of Videos}}''[http://www.periodicvideos.com/videos/mv_HCl1.htm Hydrochloric Acid – Part One] and [http://www.periodicvideos.com/videos/mv_HCl2.htm Hydrochloric Acid – Part Two]
* 計算: [http://www.aim.env.uea.ac.uk/aim/surftens/surftens.php surface tensions]及びHCl水溶液において[http://www.aim.env.uea.ac.uk/aim/density/density_electrolyte.php densities, molarities and molalities]
* {{Kotobank}}
; 全般的な安全性情報
* [https://web.archive.org/web/20040824093117/http://www.epa.gov/ttn/atw/hlthef/hydrochl.html EPA Hazard Summary]
* [https://web.archive.org/web/20030818121338/http://grover.mirc.gatech.edu/data/msds/50.html Hydrochloric acid MSDS by Georgia Institute of Technology]
* [https://www.cdc.gov/niosh/npg/npgd0332.html NIOSH Pocket Guide to Chemical Hazards]
; 汚染情報
* [http://www.npi.gov.au/substances/hydrochloric-acid/index.html National Pollutant Inventory – Hydrochloric Acid Fact Sheet]
{{消化剤}}
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{{DEFAULTSORT:えんさん}}
[[Category:酸]]
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硫酸
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硫酸(りゅうさん、英: sulfuric acid、独: Schwefelsäure)は、緑礬油(りょくばんゆ)、ビトリオール油としても知られており、硫黄、酸素、水素の元素からなる鉱酸である。分子式はH2SO4 で、無色、無臭の粘性のある液体で、水と混和する。
純粋な硫酸は、水蒸気との親和性が高いため自然界には存在せず、空気中の水蒸気を容易に吸収する吸湿性がある。濃硫酸は、強力な脱水作用を持つ酸化剤であるため、岩石や金属などの他の物質に対して強い腐食性を示す。五酸化二リンは例外的に酸の脱水性の影響を受けず、逆に硫酸を脱水して三酸化硫黄になる。硫酸を水に加えるとかなりの熱が発生する。逆に硫酸に水を加えて溶液を沸騰させると、その際に高温の酸が飛散する可能性があるため、そのような手順は行わない方がよい。硫酸が体組織に接触すると、重度の酸性化学熱傷や、脱水症状による二次熱傷を引き起こす可能性がある 。希硫酸は、酸化作用や脱水作用がないため危険性はかなり低いが、酸性であるため取り扱いには注意が必要である。
硫酸は非常に重要な汎用化学品であり、硫酸の生産量はその国の工業力を示す良い指標となる。硫酸は、接触法、湿式硫酸法、鉛室法など、さまざまな方法で広く生産されている。肥料製造に最もよく使われているが、鉱物処理、石油精製、廃水処理、化学合成にも重要である。また、家庭用の酸性排水処理剤、鉛蓄電池の電解質、化合物の脱水、各種洗浄剤など、最終的な用途は多岐にわたっている。硫酸は、三酸化硫黄を水に溶かすことで得られる。
硫酸は三酸化硫黄 (SO3) を水と反応させて得られる、やや粘性のある酸性の液体である。
塩酸などとは異なり不揮発性であるため、濃度の低い硫酸であっても水分が蒸発すると濃縮されるので、衣服に付いた場合などは、そのまま放置すると穴が開く危険性があり、また、皮膚に付いたものを放置すると、火傷をする恐れがある。
水分子との強い親和力により吸湿性と強い脱水作用があり、有機化合物から水素と酸素を水分子の形で引き抜く。ショ糖に濃硫酸をかけると炭化したり、濃硫酸が皮膚に付くと火傷を起こすのは、この脱水作用と発熱およびプロトン化能力のためである。
硫酸の水和熱は極めて大きく第一水和エンタルピー変化は以下の通りである。
また硫酸の溶解エンタルピー変化は以下の通りである。
このため濃硫酸を希釈する場合は、発熱に注意しながら、撹拌しながら水の側に濃硫酸を少しずつゆっくりと加えていかなければならない(塩酸や硝酸など他の強酸類も同様)。
硫酸を水に溶かすと発熱するが、氷と混ぜると多くの水溶性化合物に見られるように、逆に寒剤ともなり得る。
金属と反応させた場合の挙動は、金属の種類のほか、硫酸の濃度と温度に依存する。例えば濃度と温度がいずれも高い熱濃硫酸では、酸化力が高くなる。
反応生成物も変化に富む。一般には、水素 (H2)、硫化水素 (H2S)、硫黄 (S)、二酸化硫黄 (SO2)、金属の硫化物、硫酸塩が生成される。
希硫酸は水素よりイオン化傾向の大きな金属と反応し水素を発生させる。ただし、鉛は表面に不溶性の硫酸鉛を生じ反応が進行しない。スズ、ニッケルなどとの反応も極めて遅い。亜鉛との反応は実験室で手軽に水素ガスを発生させる方法として用いられる。
濃硫酸を加熱したものを熱濃硫酸(ねつのうりゅうさん)という。290°C以上では濃硫酸は水と三酸化硫黄に分解し、三酸化硫黄は酸化力を持ち、これ以下の温度でも平衡混合物として三酸化硫黄が存在する。そのため熱濃硫酸には強い酸化力があり、酸化剤として用いられる。イオン化傾向の小さい銅や銀などとも反応する。また炭素、硫黄などの非金属とも反応する。 例えば熱濃硫酸と銀との化学反応式は以下のようになる。
熱濃硫酸は芳香族化合物などの有機物とスルホン化反応を起こす(ただし発煙硫酸を使う方法のほうが一般的である)。これは平衡生成物として僅かに存在しているSO3による求電子置換反応である。この反応により生成するスルホン酸(RSO3H)は1価の強酸である。
濃硝酸と濃硫酸を混合した混酸は、有機物とニトロ化反応を起こし、グリセリンなどアルコールと反応して硝酸エステルを生成する。これも強酸性媒体である濃硫酸中で硝酸がプロトン化を受け続いて脱水した結果生成したニトロイルイオン(nitroyl / NO+2)による求電子置換反応である。
純硫酸は濃硫酸に計算量の三酸化硫黄または発煙硫酸を反応させて得られるが、これを加熱するとやはり290 °C以上で分解が始まり、さらに加熱により98.33%の水溶液となり、沸点338 °Cの共沸混合物となる。
濃硫酸、とくに100%の純硫酸であっても分子性の液体としては比較的高度に電離しており、水素イオン(実際にはH3SO+4)は10 mol kg程度生成し、また溶媒としての硫酸は溶質にプロトン(水素イオン)を供与する力が非常に強くハメットの酸度関数ではH0 = −11.94を示す。しかし酸度関数も濃度により変化する。
プロトン性極性溶媒である純硫酸には自己解離および縮合などの平衡が存在し10 °Cの平衡定数は以下の通りである。
平衡にある純硫酸中の化学種の濃度はH3SO+4(1.13×10 mol kg), HSO−4(1.50×10 mol kg), H3O(8.0×10 mol kg), HS2O+7(4.4×10 mol kg), H2S2O7(3.6×10 mol kg), H2O(1×10 mol kg)であり、分子性の液体としてはかなり高い電気伝導度を示し、25°Cにおける比電気伝導度は1.044×10 Ω cmである。
この電気伝導度の値は純硝酸の3.72×10 Ω cm(25°C)よりは低いものの、フルオロ硫酸の1.085×10 Ω cm(25°C)、純フッ化水素の1.6×10 Ω cm(0°C)、および純水の6.40×10 Ω cm(25°C)よりもはるかに高い。
硫酸は水溶液中では強い二塩基酸として働き、一段目はほぼ完全解離、二段目はやや不完全となる。2価の酸であっても塩基水溶液による水溶液中の中和滴定曲線は1価の強酸と類似の形状を示し第一当量点は現れない。
その酸解離定数(熱力学的定数)は25 °Cにおいて以下の通りである。ここで [ X ] {\displaystyle {[\mathrm {X} ]}\,} は X {\displaystyle {\mathrm {X} }\,} の活量を表すが、希薄水溶液では質量モル濃度(モル濃度にもほぼ漸近する)に近い。
二段階目の解離に関するエンタルピー変化、ギブスの自由エネルギー変化、エントロピー変化および定圧モル比熱変化は以下の通りである。解離に伴うエントロピーの減少は、イオンの電荷の増加に伴う水和の程度の増加に起因する。
濃度98%の硫酸の融点は3 °C、比重は1.84 (15 °C) である。204 °C、98.33%の濃度で水と三酸化硫黄の分圧が等しくなるため、不揮発性ではあるが、温度を上げるだけではこれ以上濃度を高めることはできない。
濃度が薄いほど密度が水に近くなり、濃度が高くなるにつれて密度と粘稠性(粘り気)が増す。硫酸の粘度 (Pa s) は多くの液体で見られるように温度の上昇とともに低下し、常温25 °C、1気圧では、23.8×10であるが、50 °Cで11.7×10、100 °Cでは4.1×10となる。しかし、ヒドロキシ基により強い水素結合が生成されるため、粘度は水の数十倍にもなる。
硫酸溶液の濃度と密度の性質を利用して鉛バッテリー液などでは、液比重計を使用して硫酸溶液の濃度を測定している。
純硫酸の25 °Cにおける比誘電率は101であり、イオン解離に有利な溶媒であるといえる。
硫酸を発見した人物として2人の名前が知られている。1人は8世紀のイスラム世界の錬金術師、ジャービル・イブン=ハイヤーン(ラテン名ゲベルGeber)であり、ミョウバンもしくは緑礬(りょくばん、硫酸鉄(II) 7水和物を主体とする鉱石)を乾留して硫酸を得たとされている。もう1人は9世紀のイスラム社会の医者であり錬金術師であったイプン・ザカリア・アル・ラーズィー (ラテン名ラーゼスRhases) である。緑礬あるいは胆礬(硫酸銅(II)5水和物を主体とする鉱石)を乾留して硫酸を発見した。いずれにせよ乾留の過程で、熱分解によって酸化鉄(III)あるいは酸化銅(II)とともに三酸化硫黄が生じる。これが水を吸って凝縮し、希硫酸が得られた。
この方法は、アルベルトゥス・マグヌスなどによるイスラム文献の翻訳により、ヨーロッパへと伝えられた。このような由来により中世の錬金術師の間では、硫酸は礬油(oleum vitrioli)・礬精(spiritus vitrioli)と呼ばれていた。
14世紀には、ベネディクト会の修道士であり、錬金術学者でもあったバレンティヌス (Basilius Valentinus) が硫黄と硝石を併せて燃焼させると、金属を溶かす性質のある液体(硫酸)が得られることを発見した。
1600年ごろ、オランダ人の発明家コルネリウス・ドレベル (Cornelius Jacobszoon Drebbel) は、熱したイオウと硝石から当時としては最も効率よく硫酸を回収する方法を確立した。ドレベルの手法は150年後に登場するローバックの鉛室法につながっていった。
17世紀にはドイツの化学者ヨハン・ルドルフ・グラウバー (Johann Rudolph Glauber) がアムステルダムに硫酸工場を設立している。水蒸気を通じながら、硫黄を硝石と一緒に燃やす手法を採った。硝石の分解生成物が硫黄を酸化して三酸化イオウを作り、三酸化イオウと水の化合物として硫酸を得ていた。硫酸工場の目的は、硝石と反応させて硝酸を製造するためであった。1654年には食塩に硫酸を反応させて塩酸を発見している。このとき生成する硫酸ナトリウムは彼の名からグラウバー塩とも呼ばれる。
1736年には、イギリスのジョシュア・ウォード (Joshua Ward) が全工程にガラス容器を用い、グラウバーの製法を用いて生産規模を拡大した。
1746年にイギリスの化学技術者ジョン・ローバック (John Roebuck) が反応容器の素材をそれまでのガラスから鉛に変え、鉛室法の基礎を確立した。硫酸の製造コストを大幅に引き下げることができたため、鉛室法の工場はイギリス中に広まった。繊維の漂白剤の製造に硫酸が欠かせなかったことから、17世紀から18世紀当時の産業革命の進展に大いに寄与した。
1793年、フランスの化学者ニコラ・クレマン (Nicolas Clement) とシャルル・デゾルム(英語版) (Charles Bernard Désormes) が鉛室法を完成した。鉛の容器中で硫黄と硝石に「空気を通じながら」燃焼させたことに特徴がある。クレマンとデゾルムは、1811年にヨウ素を発見した化学工業家ベルナール・クールトアの友人であり、ヨウ素のサンプルの分析を依頼されて発見を再確認し、1813年11月29日にクールトアの業績を公開している。
その後、鉛室の前段階で硫黄を燃焼させ、三酸化硫黄を製造する工程が発明された。
1818年、フランスの物理学者、化学者であるゲイ=リュサックが鉛室法を改良、1827年には、鉛室で生成した窒素酸化物を回収するため、鉛室の後段に接続するゲイ=リュサック塔を考案した。1837年にはフランスの硫酸工場に最初の塔が設置されたものの、広範囲には使われなかった。
1859年には、イギリスのジョン・グローバー (John Glover) が回収した不純物を含む硫酸から硝酸を分離するためのグローバー塔を考案した。ゲイ=リュサック塔はグローバー塔と組み合わせることで真価を発揮し、硝酸法の地位が確立した。これをもって、硫酸製造の工業化が完成されたとされている。イオウの燃焼室、グローバー塔、鉛室、ゲイ=リュサック塔を直列に接続し、グローバー塔とゲイ=リュサック塔の間で硫酸を循環させるシステムができあがった。
1870年代には、鉛室の前後に2種類の塔を備えた硫酸工場がイギリスを中心にヨーロッパ中に広まった。
鉛室法は長い間標準的な製法であったが、白金触媒を用いる接触法が開発され、ついで、1915年に発見された五酸化二バナジウム (V2O5) 触媒を用いるBASF法に置き換えられていった。
国内最初の硫酸製造工場は、1872年5月20日(旧暦明治5年4月14日)、大阪市北区天満にある大阪造幣局に設置された。大阪造幣局創設の翌年である。貨幣に利用する金銀合金の分離精製、および円形(えんぎょう/金属板を貨幣の形に打ち抜いたもの)の洗浄に用いるためである。当時の製造設備は硝酸法の一種である鉛室式であり、製造能力は1日当たり、180キログラムであった。
硝酸法のもう一つの製造方法である接触法の製造設備は日露戦争中である1905年に登場した。設置場所は、神奈川県平塚市にあった平塚海軍火薬廠である。製造能力は1日当たり、3,000キログラムであった。
硫酸の原料は亜硫酸ガスすなわち二酸化硫黄 (SO2) である。現在日本国内では銅などの非鉄金属の製錬副産物を二酸化硫黄の原料としている。現在は日本国内では行われてはいないが黄鉄鉱などの焙焼でも得られ、石油の脱硫による回収硫黄も原料となり得る。
硫酸は二酸化硫黄を酸化し水と反応させることで製造されている。
酸化の方法は大きく接触法と硝酸法に分かれる。歴史的には窒素酸化物を触媒とする硝酸式(代表的なものは鉛室法)で製造されてきたが、製造できる硫酸の濃度が低く、装置とくに鉛室の鉛に起因する不純物も多くなってしまう。2004年現在、日本国内ではすべて接触法で硫酸を製造している。
接触法では、二酸化硫黄を酸化するために五酸化二バナジウムを表面に付着させたペレットやタブレットを用いる(触媒の失活を抑えるための添加物に特色があり、各種触媒が開発された)。固体触媒を使い二酸化硫黄ガスを直接酸化させるため不純物の少ない三酸化硫黄(無水硫酸)が得られる。
三酸化硫黄は水ときわめて激しく反応して、生成物が飛散しやすいため、吸収塔内で反応生成物である三酸化硫黄を濃硫酸に過剰に吸収させて発煙硫酸 (H2SO4·nSO3) とし、純水で希釈して最終製品である濃度が93 %、95 %、98 %の濃硫酸が得られる。得られた濃硫酸はプロセスに戻して三酸化硫黄の溶媒として用いるほかに、原料ガスの脱水にも用いられる
補足1: 三酸化硫黄は水とは発熱を伴って激しく反応し、硫酸を生じる。その化学反応式を以下に示す。
補足2: 二酸化硫黄を二酸化窒素により酸化する硝酸法による硫酸製造の反応式。
補足3: 過酸化水素で酸化することによる方法
硫酸はさまざまな肥料、繊維、薬品の製造に不可欠である。そのため、硫酸の生産能力は、一国の化学産業の指標となっている。2000年現在の年間生産量では、全世界の9600万トンのうち、中国が2400万トンを占める。次いで、アメリカ合衆国の960万トン、ロシアの830万トン、日本の710万トン、インドの550万トンである。中国とインドは5年間で生産量を約30%伸ばしており、ロシアも成長しているが、日本は微増にとどまり、アメリカ合衆国は減少している。
2016年度日本国内生産量は 6,460,710t、消費量は 762,555t である。
硫酸を原料(実際には発煙硫酸と塩化水素から製造したクロロスルホン酸を反応に用いる)に合成される直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム(RC6H4SO3Na)および高級アルコールの硫酸モノエステルのナトリウム塩であるラウリル硫酸ナトリウム(CH3(CH2)11OSO3Na)は合成洗剤、シャンプーおよび歯磨き粉などの界面活性剤として用いられる。多数のスルホ基(-SO3H)を有する高分子は陽イオン交換樹脂として、イオン交換膜および水の精製などに用いられる。酸触媒としてはニトロ化合物製造の反応助剤として重要な役割を持つ。
また安価な強酸であることから希硫酸は、デンプンの糖化による水飴の製造、臭素およびヨウ素の製造、紡績、金属の電解精錬用の電解液としても用いられる。鉛蓄電池の電解液としては濃度約33%(d=1.24 g cm)の希硫酸が用いられ、放電に伴い濃度は低下する。
肥料としては硫安、過リン酸石灰の製造原料として大量に消費される。紙を濃硫酸で処理した半透明の薄い紙は硫酸紙と呼ばれ、羊皮紙の代用として用いられる。
硫酸イオン(りゅうさんいおん、sulfate, SO2−4)は主に硫酸およびその化合物の電離、分解などによって生成する2価の陰イオンで硫酸塩結晶中にも存在する、硫黄化合物である。
正四面体型構造で、硫酸ヒドラジン(N2H6SO4)結晶中のS-O結合距離は149pmであり、単結合と二重結合の中間的な長さに相当する。このS-O間の共有結合に関しては、当初はs、p軌道に加えd軌道も混じった混成であるという意見や(これはd軌道のエネルギーの高さから、SF6の場合と同様早期に否定的な意見が出ている)、酸素原子上の非共有電子対のバックドネーション的な効果が提唱されていたものの、実験と理論の両面からの検討により単結合と捉えるのが妥当であることが判明した。なお単なる単結合より結合距離が短い点に関しては、酸素原子と硫黄原子上にそれぞれ−1.5と+4価程度の電荷が存在すること、共有結合そのものも分極が強く電荷にかなりの偏りがあることにより、S-O間に共有結合に加えクーロン力(イオン結合的な力)が働いているためである。
硫酸は強い酸化剤となるため、イオン化傾向の低い金属などにも作用し、硫酸イオンを含む多くの金属の化合物を作る。硫酸イオンより酸素原子が1つ少ないイオン (SO2−3) は亜硫酸イオンと呼ばれる。
金属イオンに対する配位結合は弱いほうであるが、コバルト(III)イオンなどに対してはスルファト錯体(sulfato)を形成する。
海水中にもかなり多量に溶存し、その濃度は2.8 g dm、0.029 mol dmと陰イオンとしては塩化物イオンに次いで多量に存在する。
硫酸水素イオン(りゅうさんすいそいおん、hydrogensulfate, HSO4)は硫酸の一段階目の電離により生成し、また硫酸水素塩の結晶中に存在する1価の陰イオンであり、やや歪んだ四面体型構造で、水素原子が結合したO-S結合距離がやや長い。
希硫酸中には硫酸イオンは寧ろ低濃度でしか存在せず陰イオンの多くは硫酸水素イオンとして存在し、硫酸濃度を10 mol dm程度以下に希釈をして初めて硫酸イオンが主な化学種となる。 たとえばラマンスペクトルによる結果では3.5 mol kg (3.07 mol dm)の希硫酸ではHSO4が2.06 mol dm、SO4が1.01 mol dmである。
硫酸は製造が安価にできる不揮発性の強酸であるために、種々の硫酸塩が工業製品として製造されている。
硫酸塩は硫酸イオンを含むイオン結晶であり、多くのものは水溶性であるが、アルカリ土類金属塩(CaSO4, SrSO4, BaSO4, RaSO4)、鉛塩(PbSO4)および銀塩(Ag2SO4) は難溶性であり、バリウム塩およびラジウム塩は特に水への溶解度が極めて低い。本来硫酸イオンは無色透明であるが遷移金属イオンを含むものは様々な色を呈する。(記事 硫酸塩も参照のこと)
硫酸水素塩(りゅうさんすいそえん、hydrogensulfate)は硫酸水素イオン(HSO4)を含むイオン結晶で、水素塩(酸性塩)の一種であり、広義には硫酸塩に含まれる。重硫酸塩(じゅうりゅうさんえん、bisulfate)、酸性硫酸塩(さんせいりゅうさんえん、acid sulfate)などと呼ばれることもあるが正式名称ではない。多くのものが吸湿性で水に易溶であり、水溶液は硫酸水素イオンの電離のため酸性を示す。
硫酸水素塩はアルカリ金属塩(MHSO4)が硫酸塩と硫酸の等モル混合水溶液の濃縮により得られ比較的安定であり、加熱により脱水し二硫酸塩(M2S2O7)となる。難溶性塩の酸性融解の融剤あるいは白金坩堝などの洗浄に用いられる。
アルカリ土類金属塩、鉛塩(M(HSO4)2)などは硫酸塩を熱濃硫酸に溶解し冷却すると得られるが、吸湿により硫酸塩と硫酸に分解しやすい。
また硫酸一水和物H2SO4·H2Oは濃硫酸に計算量の水を加えて冷却すると結晶として得られ、融点は8.5°Cであり固体(H3O·HSO4)はオキソニウムイオンと硫酸水素イオンからなるイオン結晶である。
鉱物学において、硫酸塩からなる鉱物を硫酸塩鉱物(りゅうさんえんこうぶつ、sulfate mineral)という。硫化鉱物の酸化および熱水からの析出などにより生成し、以下のようなものがある。
硫酸とアルコールとが脱水縮合した構造を持つ誘導体を示す。モノエステル(ROSO2OH)およびジエステル((RO)2SO2)が存在し、モノエステルは1価の強酸である。
|
[
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "硫酸(りゅうさん、英: sulfuric acid、独: Schwefelsäure)は、緑礬油(りょくばんゆ)、ビトリオール油としても知られており、硫黄、酸素、水素の元素からなる鉱酸である。分子式はH2SO4 で、無色、無臭の粘性のある液体で、水と混和する。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "純粋な硫酸は、水蒸気との親和性が高いため自然界には存在せず、空気中の水蒸気を容易に吸収する吸湿性がある。濃硫酸は、強力な脱水作用を持つ酸化剤であるため、岩石や金属などの他の物質に対して強い腐食性を示す。五酸化二リンは例外的に酸の脱水性の影響を受けず、逆に硫酸を脱水して三酸化硫黄になる。硫酸を水に加えるとかなりの熱が発生する。逆に硫酸に水を加えて溶液を沸騰させると、その際に高温の酸が飛散する可能性があるため、そのような手順は行わない方がよい。硫酸が体組織に接触すると、重度の酸性化学熱傷や、脱水症状による二次熱傷を引き起こす可能性がある 。希硫酸は、酸化作用や脱水作用がないため危険性はかなり低いが、酸性であるため取り扱いには注意が必要である。",
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},
{
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"text": "硫酸は非常に重要な汎用化学品であり、硫酸の生産量はその国の工業力を示す良い指標となる。硫酸は、接触法、湿式硫酸法、鉛室法など、さまざまな方法で広く生産されている。肥料製造に最もよく使われているが、鉱物処理、石油精製、廃水処理、化学合成にも重要である。また、家庭用の酸性排水処理剤、鉛蓄電池の電解質、化合物の脱水、各種洗浄剤など、最終的な用途は多岐にわたっている。硫酸は、三酸化硫黄を水に溶かすことで得られる。",
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},
{
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"text": "硫酸は三酸化硫黄 (SO3) を水と反応させて得られる、やや粘性のある酸性の液体である。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "塩酸などとは異なり不揮発性であるため、濃度の低い硫酸であっても水分が蒸発すると濃縮されるので、衣服に付いた場合などは、そのまま放置すると穴が開く危険性があり、また、皮膚に付いたものを放置すると、火傷をする恐れがある。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "水分子との強い親和力により吸湿性と強い脱水作用があり、有機化合物から水素と酸素を水分子の形で引き抜く。ショ糖に濃硫酸をかけると炭化したり、濃硫酸が皮膚に付くと火傷を起こすのは、この脱水作用と発熱およびプロトン化能力のためである。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "硫酸の水和熱は極めて大きく第一水和エンタルピー変化は以下の通りである。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また硫酸の溶解エンタルピー変化は以下の通りである。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このため濃硫酸を希釈する場合は、発熱に注意しながら、撹拌しながら水の側に濃硫酸を少しずつゆっくりと加えていかなければならない(塩酸や硝酸など他の強酸類も同様)。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "硫酸を水に溶かすと発熱するが、氷と混ぜると多くの水溶性化合物に見られるように、逆に寒剤ともなり得る。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "金属と反応させた場合の挙動は、金属の種類のほか、硫酸の濃度と温度に依存する。例えば濃度と温度がいずれも高い熱濃硫酸では、酸化力が高くなる。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "反応生成物も変化に富む。一般には、水素 (H2)、硫化水素 (H2S)、硫黄 (S)、二酸化硫黄 (SO2)、金属の硫化物、硫酸塩が生成される。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "希硫酸は水素よりイオン化傾向の大きな金属と反応し水素を発生させる。ただし、鉛は表面に不溶性の硫酸鉛を生じ反応が進行しない。スズ、ニッケルなどとの反応も極めて遅い。亜鉛との反応は実験室で手軽に水素ガスを発生させる方法として用いられる。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "濃硫酸を加熱したものを熱濃硫酸(ねつのうりゅうさん)という。290°C以上では濃硫酸は水と三酸化硫黄に分解し、三酸化硫黄は酸化力を持ち、これ以下の温度でも平衡混合物として三酸化硫黄が存在する。そのため熱濃硫酸には強い酸化力があり、酸化剤として用いられる。イオン化傾向の小さい銅や銀などとも反応する。また炭素、硫黄などの非金属とも反応する。 例えば熱濃硫酸と銀との化学反応式は以下のようになる。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "熱濃硫酸は芳香族化合物などの有機物とスルホン化反応を起こす(ただし発煙硫酸を使う方法のほうが一般的である)。これは平衡生成物として僅かに存在しているSO3による求電子置換反応である。この反応により生成するスルホン酸(RSO3H)は1価の強酸である。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "濃硝酸と濃硫酸を混合した混酸は、有機物とニトロ化反応を起こし、グリセリンなどアルコールと反応して硝酸エステルを生成する。これも強酸性媒体である濃硫酸中で硝酸がプロトン化を受け続いて脱水した結果生成したニトロイルイオン(nitroyl / NO+2)による求電子置換反応である。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "純硫酸は濃硫酸に計算量の三酸化硫黄または発煙硫酸を反応させて得られるが、これを加熱するとやはり290 °C以上で分解が始まり、さらに加熱により98.33%の水溶液となり、沸点338 °Cの共沸混合物となる。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "濃硫酸、とくに100%の純硫酸であっても分子性の液体としては比較的高度に電離しており、水素イオン(実際にはH3SO+4)は10 mol kg程度生成し、また溶媒としての硫酸は溶質にプロトン(水素イオン)を供与する力が非常に強くハメットの酸度関数ではH0 = −11.94を示す。しかし酸度関数も濃度により変化する。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "プロトン性極性溶媒である純硫酸には自己解離および縮合などの平衡が存在し10 °Cの平衡定数は以下の通りである。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "平衡にある純硫酸中の化学種の濃度はH3SO+4(1.13×10 mol kg), HSO−4(1.50×10 mol kg), H3O(8.0×10 mol kg), HS2O+7(4.4×10 mol kg), H2S2O7(3.6×10 mol kg), H2O(1×10 mol kg)であり、分子性の液体としてはかなり高い電気伝導度を示し、25°Cにおける比電気伝導度は1.044×10 Ω cmである。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "この電気伝導度の値は純硝酸の3.72×10 Ω cm(25°C)よりは低いものの、フルオロ硫酸の1.085×10 Ω cm(25°C)、純フッ化水素の1.6×10 Ω cm(0°C)、および純水の6.40×10 Ω cm(25°C)よりもはるかに高い。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "硫酸は水溶液中では強い二塩基酸として働き、一段目はほぼ完全解離、二段目はやや不完全となる。2価の酸であっても塩基水溶液による水溶液中の中和滴定曲線は1価の強酸と類似の形状を示し第一当量点は現れない。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "その酸解離定数(熱力学的定数)は25 °Cにおいて以下の通りである。ここで [ X ] {\\displaystyle {[\\mathrm {X} ]}\\,} は X {\\displaystyle {\\mathrm {X} }\\,} の活量を表すが、希薄水溶液では質量モル濃度(モル濃度にもほぼ漸近する)に近い。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "二段階目の解離に関するエンタルピー変化、ギブスの自由エネルギー変化、エントロピー変化および定圧モル比熱変化は以下の通りである。解離に伴うエントロピーの減少は、イオンの電荷の増加に伴う水和の程度の増加に起因する。",
"title": "化学的性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "濃度98%の硫酸の融点は3 °C、比重は1.84 (15 °C) である。204 °C、98.33%の濃度で水と三酸化硫黄の分圧が等しくなるため、不揮発性ではあるが、温度を上げるだけではこれ以上濃度を高めることはできない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "濃度が薄いほど密度が水に近くなり、濃度が高くなるにつれて密度と粘稠性(粘り気)が増す。硫酸の粘度 (Pa s) は多くの液体で見られるように温度の上昇とともに低下し、常温25 °C、1気圧では、23.8×10であるが、50 °Cで11.7×10、100 °Cでは4.1×10となる。しかし、ヒドロキシ基により強い水素結合が生成されるため、粘度は水の数十倍にもなる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "硫酸溶液の濃度と密度の性質を利用して鉛バッテリー液などでは、液比重計を使用して硫酸溶液の濃度を測定している。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "純硫酸の25 °Cにおける比誘電率は101であり、イオン解離に有利な溶媒であるといえる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "硫酸を発見した人物として2人の名前が知られている。1人は8世紀のイスラム世界の錬金術師、ジャービル・イブン=ハイヤーン(ラテン名ゲベルGeber)であり、ミョウバンもしくは緑礬(りょくばん、硫酸鉄(II) 7水和物を主体とする鉱石)を乾留して硫酸を得たとされている。もう1人は9世紀のイスラム社会の医者であり錬金術師であったイプン・ザカリア・アル・ラーズィー (ラテン名ラーゼスRhases) である。緑礬あるいは胆礬(硫酸銅(II)5水和物を主体とする鉱石)を乾留して硫酸を発見した。いずれにせよ乾留の過程で、熱分解によって酸化鉄(III)あるいは酸化銅(II)とともに三酸化硫黄が生じる。これが水を吸って凝縮し、希硫酸が得られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この方法は、アルベルトゥス・マグヌスなどによるイスラム文献の翻訳により、ヨーロッパへと伝えられた。このような由来により中世の錬金術師の間では、硫酸は礬油(oleum vitrioli)・礬精(spiritus vitrioli)と呼ばれていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "14世紀には、ベネディクト会の修道士であり、錬金術学者でもあったバレンティヌス (Basilius Valentinus) が硫黄と硝石を併せて燃焼させると、金属を溶かす性質のある液体(硫酸)が得られることを発見した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1600年ごろ、オランダ人の発明家コルネリウス・ドレベル (Cornelius Jacobszoon Drebbel) は、熱したイオウと硝石から当時としては最も効率よく硫酸を回収する方法を確立した。ドレベルの手法は150年後に登場するローバックの鉛室法につながっていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "17世紀にはドイツの化学者ヨハン・ルドルフ・グラウバー (Johann Rudolph Glauber) がアムステルダムに硫酸工場を設立している。水蒸気を通じながら、硫黄を硝石と一緒に燃やす手法を採った。硝石の分解生成物が硫黄を酸化して三酸化イオウを作り、三酸化イオウと水の化合物として硫酸を得ていた。硫酸工場の目的は、硝石と反応させて硝酸を製造するためであった。1654年には食塩に硫酸を反応させて塩酸を発見している。このとき生成する硫酸ナトリウムは彼の名からグラウバー塩とも呼ばれる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1736年には、イギリスのジョシュア・ウォード (Joshua Ward) が全工程にガラス容器を用い、グラウバーの製法を用いて生産規模を拡大した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1746年にイギリスの化学技術者ジョン・ローバック (John Roebuck) が反応容器の素材をそれまでのガラスから鉛に変え、鉛室法の基礎を確立した。硫酸の製造コストを大幅に引き下げることができたため、鉛室法の工場はイギリス中に広まった。繊維の漂白剤の製造に硫酸が欠かせなかったことから、17世紀から18世紀当時の産業革命の進展に大いに寄与した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1793年、フランスの化学者ニコラ・クレマン (Nicolas Clement) とシャルル・デゾルム(英語版) (Charles Bernard Désormes) が鉛室法を完成した。鉛の容器中で硫黄と硝石に「空気を通じながら」燃焼させたことに特徴がある。クレマンとデゾルムは、1811年にヨウ素を発見した化学工業家ベルナール・クールトアの友人であり、ヨウ素のサンプルの分析を依頼されて発見を再確認し、1813年11月29日にクールトアの業績を公開している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "その後、鉛室の前段階で硫黄を燃焼させ、三酸化硫黄を製造する工程が発明された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1818年、フランスの物理学者、化学者であるゲイ=リュサックが鉛室法を改良、1827年には、鉛室で生成した窒素酸化物を回収するため、鉛室の後段に接続するゲイ=リュサック塔を考案した。1837年にはフランスの硫酸工場に最初の塔が設置されたものの、広範囲には使われなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1859年には、イギリスのジョン・グローバー (John Glover) が回収した不純物を含む硫酸から硝酸を分離するためのグローバー塔を考案した。ゲイ=リュサック塔はグローバー塔と組み合わせることで真価を発揮し、硝酸法の地位が確立した。これをもって、硫酸製造の工業化が完成されたとされている。イオウの燃焼室、グローバー塔、鉛室、ゲイ=リュサック塔を直列に接続し、グローバー塔とゲイ=リュサック塔の間で硫酸を循環させるシステムができあがった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1870年代には、鉛室の前後に2種類の塔を備えた硫酸工場がイギリスを中心にヨーロッパ中に広まった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "鉛室法は長い間標準的な製法であったが、白金触媒を用いる接触法が開発され、ついで、1915年に発見された五酸化二バナジウム (V2O5) 触媒を用いるBASF法に置き換えられていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "国内最初の硫酸製造工場は、1872年5月20日(旧暦明治5年4月14日)、大阪市北区天満にある大阪造幣局に設置された。大阪造幣局創設の翌年である。貨幣に利用する金銀合金の分離精製、および円形(えんぎょう/金属板を貨幣の形に打ち抜いたもの)の洗浄に用いるためである。当時の製造設備は硝酸法の一種である鉛室式であり、製造能力は1日当たり、180キログラムであった。",
"title": "日本国内の製造史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "硝酸法のもう一つの製造方法である接触法の製造設備は日露戦争中である1905年に登場した。設置場所は、神奈川県平塚市にあった平塚海軍火薬廠である。製造能力は1日当たり、3,000キログラムであった。",
"title": "日本国内の製造史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "硫酸の原料は亜硫酸ガスすなわち二酸化硫黄 (SO2) である。現在日本国内では銅などの非鉄金属の製錬副産物を二酸化硫黄の原料としている。現在は日本国内では行われてはいないが黄鉄鉱などの焙焼でも得られ、石油の脱硫による回収硫黄も原料となり得る。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "硫酸は二酸化硫黄を酸化し水と反応させることで製造されている。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "酸化の方法は大きく接触法と硝酸法に分かれる。歴史的には窒素酸化物を触媒とする硝酸式(代表的なものは鉛室法)で製造されてきたが、製造できる硫酸の濃度が低く、装置とくに鉛室の鉛に起因する不純物も多くなってしまう。2004年現在、日本国内ではすべて接触法で硫酸を製造している。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "接触法では、二酸化硫黄を酸化するために五酸化二バナジウムを表面に付着させたペレットやタブレットを用いる(触媒の失活を抑えるための添加物に特色があり、各種触媒が開発された)。固体触媒を使い二酸化硫黄ガスを直接酸化させるため不純物の少ない三酸化硫黄(無水硫酸)が得られる。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "三酸化硫黄は水ときわめて激しく反応して、生成物が飛散しやすいため、吸収塔内で反応生成物である三酸化硫黄を濃硫酸に過剰に吸収させて発煙硫酸 (H2SO4·nSO3) とし、純水で希釈して最終製品である濃度が93 %、95 %、98 %の濃硫酸が得られる。得られた濃硫酸はプロセスに戻して三酸化硫黄の溶媒として用いるほかに、原料ガスの脱水にも用いられる",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "補足1: 三酸化硫黄は水とは発熱を伴って激しく反応し、硫酸を生じる。その化学反応式を以下に示す。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "補足2: 二酸化硫黄を二酸化窒素により酸化する硝酸法による硫酸製造の反応式。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "補足3: 過酸化水素で酸化することによる方法",
"title": "工業的製法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "硫酸はさまざまな肥料、繊維、薬品の製造に不可欠である。そのため、硫酸の生産能力は、一国の化学産業の指標となっている。2000年現在の年間生産量では、全世界の9600万トンのうち、中国が2400万トンを占める。次いで、アメリカ合衆国の960万トン、ロシアの830万トン、日本の710万トン、インドの550万トンである。中国とインドは5年間で生産量を約30%伸ばしており、ロシアも成長しているが、日本は微増にとどまり、アメリカ合衆国は減少している。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2016年度日本国内生産量は 6,460,710t、消費量は 762,555t である。",
"title": "生産"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "硫酸を原料(実際には発煙硫酸と塩化水素から製造したクロロスルホン酸を反応に用いる)に合成される直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム(RC6H4SO3Na)および高級アルコールの硫酸モノエステルのナトリウム塩であるラウリル硫酸ナトリウム(CH3(CH2)11OSO3Na)は合成洗剤、シャンプーおよび歯磨き粉などの界面活性剤として用いられる。多数のスルホ基(-SO3H)を有する高分子は陽イオン交換樹脂として、イオン交換膜および水の精製などに用いられる。酸触媒としてはニトロ化合物製造の反応助剤として重要な役割を持つ。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また安価な強酸であることから希硫酸は、デンプンの糖化による水飴の製造、臭素およびヨウ素の製造、紡績、金属の電解精錬用の電解液としても用いられる。鉛蓄電池の電解液としては濃度約33%(d=1.24 g cm)の希硫酸が用いられ、放電に伴い濃度は低下する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "肥料としては硫安、過リン酸石灰の製造原料として大量に消費される。紙を濃硫酸で処理した半透明の薄い紙は硫酸紙と呼ばれ、羊皮紙の代用として用いられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "硫酸イオン(りゅうさんいおん、sulfate, SO2−4)は主に硫酸およびその化合物の電離、分解などによって生成する2価の陰イオンで硫酸塩結晶中にも存在する、硫黄化合物である。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "正四面体型構造で、硫酸ヒドラジン(N2H6SO4)結晶中のS-O結合距離は149pmであり、単結合と二重結合の中間的な長さに相当する。このS-O間の共有結合に関しては、当初はs、p軌道に加えd軌道も混じった混成であるという意見や(これはd軌道のエネルギーの高さから、SF6の場合と同様早期に否定的な意見が出ている)、酸素原子上の非共有電子対のバックドネーション的な効果が提唱されていたものの、実験と理論の両面からの検討により単結合と捉えるのが妥当であることが判明した。なお単なる単結合より結合距離が短い点に関しては、酸素原子と硫黄原子上にそれぞれ−1.5と+4価程度の電荷が存在すること、共有結合そのものも分極が強く電荷にかなりの偏りがあることにより、S-O間に共有結合に加えクーロン力(イオン結合的な力)が働いているためである。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "硫酸は強い酸化剤となるため、イオン化傾向の低い金属などにも作用し、硫酸イオンを含む多くの金属の化合物を作る。硫酸イオンより酸素原子が1つ少ないイオン (SO2−3) は亜硫酸イオンと呼ばれる。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "金属イオンに対する配位結合は弱いほうであるが、コバルト(III)イオンなどに対してはスルファト錯体(sulfato)を形成する。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "海水中にもかなり多量に溶存し、その濃度は2.8 g dm、0.029 mol dmと陰イオンとしては塩化物イオンに次いで多量に存在する。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "硫酸水素イオン(りゅうさんすいそいおん、hydrogensulfate, HSO4)は硫酸の一段階目の電離により生成し、また硫酸水素塩の結晶中に存在する1価の陰イオンであり、やや歪んだ四面体型構造で、水素原子が結合したO-S結合距離がやや長い。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "希硫酸中には硫酸イオンは寧ろ低濃度でしか存在せず陰イオンの多くは硫酸水素イオンとして存在し、硫酸濃度を10 mol dm程度以下に希釈をして初めて硫酸イオンが主な化学種となる。 たとえばラマンスペクトルによる結果では3.5 mol kg (3.07 mol dm)の希硫酸ではHSO4が2.06 mol dm、SO4が1.01 mol dmである。",
"title": "イオン"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "硫酸は製造が安価にできる不揮発性の強酸であるために、種々の硫酸塩が工業製品として製造されている。",
"title": "塩"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "硫酸塩は硫酸イオンを含むイオン結晶であり、多くのものは水溶性であるが、アルカリ土類金属塩(CaSO4, SrSO4, BaSO4, RaSO4)、鉛塩(PbSO4)および銀塩(Ag2SO4) は難溶性であり、バリウム塩およびラジウム塩は特に水への溶解度が極めて低い。本来硫酸イオンは無色透明であるが遷移金属イオンを含むものは様々な色を呈する。(記事 硫酸塩も参照のこと)",
"title": "塩"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "硫酸水素塩(りゅうさんすいそえん、hydrogensulfate)は硫酸水素イオン(HSO4)を含むイオン結晶で、水素塩(酸性塩)の一種であり、広義には硫酸塩に含まれる。重硫酸塩(じゅうりゅうさんえん、bisulfate)、酸性硫酸塩(さんせいりゅうさんえん、acid sulfate)などと呼ばれることもあるが正式名称ではない。多くのものが吸湿性で水に易溶であり、水溶液は硫酸水素イオンの電離のため酸性を示す。",
"title": "塩"
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"text": "硫酸水素塩はアルカリ金属塩(MHSO4)が硫酸塩と硫酸の等モル混合水溶液の濃縮により得られ比較的安定であり、加熱により脱水し二硫酸塩(M2S2O7)となる。難溶性塩の酸性融解の融剤あるいは白金坩堝などの洗浄に用いられる。",
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"text": "アルカリ土類金属塩、鉛塩(M(HSO4)2)などは硫酸塩を熱濃硫酸に溶解し冷却すると得られるが、吸湿により硫酸塩と硫酸に分解しやすい。",
"title": "塩"
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"text": "また硫酸一水和物H2SO4·H2Oは濃硫酸に計算量の水を加えて冷却すると結晶として得られ、融点は8.5°Cであり固体(H3O·HSO4)はオキソニウムイオンと硫酸水素イオンからなるイオン結晶である。",
"title": "塩"
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"text": "鉱物学において、硫酸塩からなる鉱物を硫酸塩鉱物(りゅうさんえんこうぶつ、sulfate mineral)という。硫化鉱物の酸化および熱水からの析出などにより生成し、以下のようなものがある。",
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"text": "硫酸とアルコールとが脱水縮合した構造を持つ誘導体を示す。モノエステル(ROSO2OH)およびジエステル((RO)2SO2)が存在し、モノエステルは1価の強酸である。",
"title": "硫酸エステル"
}
] |
硫酸(りゅうさん、英: sulfuric acid、独: Schwefelsäure)は、緑礬油(りょくばんゆ)、ビトリオール油としても知られており、硫黄、酸素、水素の元素からなる鉱酸である。分子式はH2SO4 で、無色、無臭の粘性のある液体で、水と混和する。 純粋な硫酸は、水蒸気との親和性が高いため自然界には存在せず、空気中の水蒸気を容易に吸収する吸湿性がある。濃硫酸は、強力な脱水作用を持つ酸化剤であるため、岩石や金属などの他の物質に対して強い腐食性を示す。五酸化二リンは例外的に酸の脱水性の影響を受けず、逆に硫酸を脱水して三酸化硫黄になる。硫酸を水に加えるとかなりの熱が発生する。逆に硫酸に水を加えて溶液を沸騰させると、その際に高温の酸が飛散する可能性があるため、そのような手順は行わない方がよい。硫酸が体組織に接触すると、重度の酸性化学熱傷や、脱水症状による二次熱傷を引き起こす可能性がある。希硫酸は、酸化作用や脱水作用がないため危険性はかなり低いが、酸性であるため取り扱いには注意が必要である。 硫酸は非常に重要な汎用化学品であり、硫酸の生産量はその国の工業力を示す良い指標となる。硫酸は、接触法、湿式硫酸法、鉛室法など、さまざまな方法で広く生産されている。肥料製造に最もよく使われているが、鉱物処理、石油精製、廃水処理、化学合成にも重要である。また、家庭用の酸性排水処理剤、鉛蓄電池の電解質、化合物の脱水、各種洗浄剤など、最終的な用途は多岐にわたっている。硫酸は、三酸化硫黄を水に溶かすことで得られる。
|
{{Chembox
| Name = 硫酸
| ImageFile1 = Sulfuric-acid-2D-dimensions.svg
| ImageName1 = 硫酸の構造式
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| ImageName2 = 硫酸の空間充填モデル
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| ImageSize3 = 130px
| ImageName3 = 試薬瓶に入った96%硫酸
| IUPACName = Sulfuric acid
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| CASNo = 7664-93-9
| CASNo_Ref = {{cascite}}
| RTECS = WS5600000
| EINECS = 231-639-5
| UNNumber = 1830
| SMILES = OS(=O)(=O)O
| StdInChI = 1S/H2O4S/c1-5(2,3)4/h(H2,1,2,3,4)
| StdInChIKey = QAOWNCQODCNURD-UHFFFAOYSA-N
}}
| Section2 = {{Chembox Properties
| Formula = H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>
| MolarMass = 98.08 g mol{{sup-|1}}
| Appearance = 無色の油状液体
| Density = 1.84 g cm{{sup-|3}}, 液体
| Solubility = 任意に混和
| MeltingPtC = 10
| BoilingPtC = 290
| Viscosity = 26.7 [[ポアズ|cP]] (20 {{℃}})
| pKa = −3
}}
| Section4 = {{Chembox Thermochemistry
| DeltaHf = −813.989 kJ mol{{sup-|1}}
| DeltaHc =
| Entropy = 156.904 J mol{{sup-|1}}K{{sup-|1}}
| HeatCapacity = 138.91 J mol{{sup-|1}}K{{sup-|1}}
}}
| Section7 = {{Chembox Hazards
| ExternalSDS = [https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/0626.html 厚生労働省モデルSDS]
| GHSPictograms = {{GHS06}} {{GHS05}} {{GHS08}} <ref name="kourou-msds">[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/0626.html 厚生労働省モデルSDS]</ref>
| GHSSignalWord = 危険 <ref name="kourou-msds" />
| HPhrases = <br/>
* 飲み込むと有害のおそれ(経口)
* 吸入すると生命に危険(ミスト)
* 重篤な皮膚の薬傷・眼の損傷
* 長期又は反復ばく露による呼吸器系の障害
* 水生生物に有害 <ref name="kourou-msds" />
| NFPA-H = 3
| NFPA-F = 0
| NFPA-R = 2
| NFPA-O = W+OX
| FlashPt = 不燃性
<!--旧規格のため、隠しました。--><!--| EUIndex = 016-020-00-8
| EUClass = 腐食性 ('''C''')
| RPhrases = {{R-phrases|35}}
| SPhrases = {{S-phrases|1/2|26|30|45}}-->
}}
| Section8 = {{Chembox Related
| Function = [[強酸]]
| OtherFunctn = [[セレン酸]]<br />[[塩酸]]<br />[[硝酸]]
| OtherCpds = [[発煙硫酸]]<br />[[二酸化硫黄]]<br />[[三酸化硫黄]]<br />[[ペルオキソ一硫酸]]
}}
}}
'''硫酸'''(りゅうさん、{{lang-en-short|sulfuric acid}}、{{lang-de-short|Schwefelsäure}})は、'''緑礬油'''(りょくばんゆ)、'''ビトリオール油'''としても知られており、[[硫黄]]、[[酸素]]、[[水素]]の元素からなる[[無機酸|鉱酸]]である。分子式は'''H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>''' で、無色、無臭の[[粘度|粘性]]のある液体で、水と[[混和性|混和]]する<ref name="ds">{{Cite web|url=http://www.arkema-inc.com/msds/01641.pdf|website=arkema-inc.com|title=Sulfuric acid safety data sheet|quote=Clear to turbid oily odorless liquid, colorless to slightly yellow.|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120617181442/http://www.arkema-inc.com/msds/01641.pdf|archivedate=17 June 2012|accessdate=8/29/2021}}</ref>。
純粋な硫酸は、[[脱水反応|水蒸気との親和性が高い]]ため自然界には存在せず、空気中の水蒸気を容易に吸収する[[吸湿性]]がある<ref name="ds" />。濃硫酸は、強力な脱水作用を持つ[[酸化剤]]であるため、岩石や金属などの他の物質に対して強い腐食性を示す。[[五酸化リン|五酸化二リン]]は例外的に酸の脱水性の影響を受けず、逆に硫酸を脱水して[[三酸化硫黄]]になる。硫酸を水に加えるとかなりの熱が発生する。逆に硫酸に水を加えて溶液を沸騰させると、その際に高温の酸が飛散する可能性があるため、そのような手順は行わない方がよい。硫酸が体組織に接触すると、重度の酸性[https://medicalnote.jp/diseases/化学熱傷 化学熱傷]や、脱水症状による二次[[熱傷]]を引き起こす可能性がある<ref name="OA">{{Cite web|url=http://www.dynamicscience.com.au/tester/solutions/chemistry/sulfuricacid1.html|title=Sulfuric acid – uses|website=dynamicscience.com.au|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130509024826/http://www.dynamicscience.com.au/tester/solutions/chemistry/sulfuricacid1.html|archivedate=9 May 2013|accessdate=8/29/2021}}</ref> <ref name="TB">{{Cite web|url=https://collaboration.basf.com/portal/load/fid1032678/E015%20Sulfuric%20acid%20C.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190614101454/https://collaboration.basf.com/portal/load/fid1032678/E015%20Sulfuric%20acid%20C.pdf|archivedate=2019-06-14|title=BASF Chemical Emergency Medical Guidelines – Sulfuric acid (H2SO4)|publisher=BASF Chemical Company|date=2012|accessdate=18 December 2014}}</ref>。希硫酸は、酸化作用や脱水作用がないため危険性はかなり低いが、酸性であるため取り扱いには注意が必要である。
硫酸は非常に重要な汎用化学品であり、硫酸の生産量はその国の工業力を示す良い指標となる<ref name="Chenier 1987 45–57">{{Cite book|last=Chenier|first=Philip J.|title=Survey of Industrial Chemistry|pages=[https://archive.org/details/surveyofindustri0000chen/page/45 45–57]|publisher=John Wiley & Sons|location=New York|year=1987|isbn=978-0-471-01077-7|url=https://archive.org/details/surveyofindustri0000chen/page/45}}</ref>。硫酸は、[[接触法]]、湿式硫酸法、[[鉛室法]]など、さまざまな方法で広く生産されている<ref>Hermann Müller "Sulfuric Acid and Sulfur Trioxide" in ''Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry'', Wiley-VCH, Weinheim. 2000 {{Doi|10.1002/14356007.a25_635}}</ref>。[[肥料]]製造に最もよく使われている<ref>{{Cite web|url=http://essentialchemicalindustry.org/chemicals/sulfuric-acid.html|title=Sulfuric acid|accessdate=2019-02-21}}</ref>が、[[選鉱|鉱物処理]]、[[石油コンビナート|石油精製]]、廃水処理、[[化学合成]]にも重要である。また、家庭用の酸性排水処理剤<ref name="dc">{{Cite web|url=http://www.staplesdisposables.com/uploads/products/B470FF98A27F414881DB3FE1A1116C93.pdf|title=Sulphuric acid drain cleaner|publisher=herchem.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029192755/http://www.staplesdisposables.com/uploads/products/B470FF98A27F414881DB3FE1A1116C93.pdf|archivedate=29 October 2013|accessdate=2013-06-07}}</ref>、[[鉛蓄電池]]の[[電解質]]、化合物の脱水、各種洗浄剤など、最終的な用途は多岐にわたっている。硫酸は、三酸化硫黄を水に溶かすことで得られる。
== 化学的性質 ==
硫酸は[[三酸化硫黄]] ({{Chem|SO|3}}) を[[水]]と反応させて得られる、やや粘性のある[[酸性]]の液体である。
[[塩酸]]などとは異なり[[相転移#物理学的性質|不揮発性]]であるため、濃度の低い硫酸であっても水分が蒸発すると濃縮されるので、衣服に付いた場合などは、そのまま放置すると穴が開く危険性があり、また、皮膚に付いたものを放置すると、[[火傷]]をする恐れがある。
=== 水和 ===
水分子との強い親和力により吸湿性と強い[[脱水反応|脱水作用]]があり、有機化合物から水素と酸素を水分子の形で引き抜く。[[スクロース|ショ糖]]に濃硫酸をかけると[[炭化]]したり、濃硫酸が皮膚に付くと火傷を起こすのは、この脱水作用と発熱およびプロトン化能力のためである。
硫酸の水和熱は極めて大きく第一水和[[エンタルピー]]変化は以下の通りである<ref name="Parker">D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, J. Phys. Chem. Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982)</ref>。
: <chem>H2SO4(l) + H2O(l) <=> H2SO4 . H2O(l)</chem>, <math>\Delta H^\circ = -27.80 ~ \mathrm{kJ~mol}^{-1}</math>
また硫酸の溶解エンタルピー変化は以下の通りである。
: <chem>H2SO4(l) <=> H^+ (aq) + HSO4^- (aq)</chem>, <math>\Delta H^\circ = -73.35 ~ \mathrm{kJ~mol}^{-1}</math>
このため濃硫酸を希釈する場合は、発熱に注意しながら、撹拌しながら水の側に濃硫酸を少しずつゆっくりと加えていかなければならない([[塩酸]]や[[硝酸]]など他の強酸類も同様)。
硫酸を水に溶かすと発熱するが、氷と混ぜると多くの水溶性化合物に見られるように、逆に[[寒剤]]ともなり得る。
=== 金属に対する反応 ===
金属と反応させた場合の挙動は、金属の種類のほか、硫酸の濃度と温度に依存する。例えば濃度と温度がいずれも高い熱濃硫酸では、[[酸化力]]が高くなる。
反応生成物も変化に富む。一般には、[[水素]] (H<sub>2</sub>)、[[硫化水素]] (H<sub>2</sub>S)、[[硫黄]] (S)、[[二酸化硫黄]] (SO<sub>2</sub>)、金属の硫化物、硫酸塩が生成される。
希硫酸は水素より[[イオン化傾向]]の大きな金属と反応し水素を発生させる。ただし、[[鉛]]は表面に不溶性の[[硫酸鉛]]を生じ反応が進行しない。[[スズ]]、[[ニッケル]]などとの反応も極めて遅い。[[亜鉛]]との反応は実験室で手軽に水素ガスを発生させる方法として用いられる。
: <chem>H2SO4 + Zn -> ZnSO4 + H2</chem>
濃硫酸を加熱したものを'''熱濃硫酸'''(ねつのうりゅうさん)という。290℃以上では濃硫酸は水と[[三酸化硫黄]]に分解し、三酸化硫黄は酸化力を持ち、これ以下の温度でも平衡混合物として三酸化硫黄が存在する。そのため熱濃硫酸には強い酸化力があり、[[酸化剤]]として用いられる。イオン化傾向の小さい[[銅]]や[[銀]]などとも反応する。また[[炭素]]、硫黄などの非金属とも反応する。
例えば熱濃硫酸と銀との化学反応式は以下のようになる。
: <chem>3H2SO4 + 2Ag ->[\Delta] 2AgHSO4 + SO2 + 2H2O</chem>
=== 有機物に対する求電子置換反応 ===
熱濃硫酸は[[芳香族化合物]]などの有機物と[[スルホン化]]反応を起こす(ただし[[発煙硫酸]]を使う方法のほうが一般的である)。これは[[化学平衡|平衡]]生成物として僅かに存在しているSO₃による[[求電子置換反応]]である。この反応により生成する[[スルホン酸]]({{Chem|RSO|3|H}})は1価の強酸である。
[[ファイル:ベンゼンスルホン酸の合成式.svg|300px|thumb|ベンゼンのスルホン化反応]]
濃[[硝酸]]と濃硫酸を混合した[[混酸]]は、有機物と[[ニトロ化]]反応を起こし、[[グリセリン]]など[[アルコール]]と反応して[[硝酸エステル]]を生成する。これも強酸性媒体である濃硫酸中で硝酸がプロトン化を受け続いて脱水した結果生成したニトロイルイオン(nitroyl / {{Chem|NO|2|+}})による求電子置換反応である。
=== 純硫酸中の平衡 ===
純硫酸は濃硫酸に計算量の三酸化硫黄または発煙硫酸を反応させて得られるが、これを加熱するとやはり290 ℃以上で分解が始まり、さらに加熱により98.33%の水溶液となり、沸点338 ℃の[[共沸]]混合物となる。
{| class = "wikitable"
|+ 硫酸水溶液の濃度と酸度関数(抜粋)<ref>M.J.Jorgentson, D.R. Hatter, J. Am. Chem. Soc., vol.85,878(1963).</ref>
! 重量% !! 10 !! 20 !! 30 !! 40 !! 50 !! 60 !! 70 !! 80 !! 90 !! 99.44
|-
! H<sub>0</sub>
|−0.31||−1.01||−1.72||−2.41||−3.38||−4.46||−5.8||−7.34||−8.92||−11.21
|}
濃硫酸、とくに100%の純硫酸であっても分子性の液体としては比較的高度に[[電離]]しており<ref name="Charlot">シャロー 『溶液内の化学反応と平衡』 藤永太一郎、佐藤昌憲訳、丸善、1975年</ref>、[[水素#水素イオンと水素化物イオン|水素イオン]](実際には{{Chem|H|3|SO|4|+}})は10<sup>-2</sup> [[濃度#質量モル濃度|mol kg{{sup-|1}}]]程度生成し、また[[溶媒]]としての硫酸は[[溶質]]に[[水素イオン|プロトン]](水素イオン)を供与する力が非常に強くハメットの[[酸度関数]]では''H''<sub>0</sub> = −11.94を示す<ref name="tanaka">田中元治 『基礎化学選書8 酸と塩基』 裳華房、1971年</ref>。しかし酸度関数も濃度により変化する。
[[プロトン性極性溶媒]]である純硫酸には[[自己解離]]および[[縮合]]などの平衡が存在し10 ℃の[[平衡定数]]は以下の通りである<ref name="Cotton"> F.A. コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年, 原書:F. ALBERT COTTON and GEOFFREY WILKINSON, Cotton and Wilkinson ADVANCED INORGANIC CHEMISTRY A COMPREHENSIVE TEXT Fourth Edition, INTERSCIENCE, 1980.</ref>。
: <chem>2H2SO4 -> H3SO4^+ + HSO4^-</chem> , <math> K = 1.7 \times 10^{-4} ~ \mathrm{mol}^{2} ~ \mathrm{kg}^{-2}</math>
: <chem>2H2SO4 -> H3O^+ + HS2O7^-</chem> , <math> K = 3.5 \times 10^{-5} ~ \mathrm{mol}^{2} ~ \mathrm{kg}^{-2}</math>
: <chem>H2O + H2SO4 -> H3O^+ + HSO4^-</chem>, <math> K = 1 ~ \mathrm{mol~kg}^{-1} \,</math>
: <chem>H2SO4 + H2S2O7 -> H3SO4^+ + HS2O7^-</chem>, <math> K = 7 \times 10^{-2} \mathrm{mol~kg}^{-1}</math>
平衡にある純硫酸中の化学種の濃度は{{Chem|H|3|SO|4|+}}(1.13×10<sup>-2</sup> mol kg<sup>-1</sup>), {{Chem|HSO|4|-}}(1.50×10<sup>-2</sup> mol kg<sup>-1</sup>), {{Chem|H|3|O|+}}(8.0×10<sup>-3</sup> mol kg<sup>-1</sup>), {{Chem|HS|2|O|7|+}}(4.4×10<sup>-3</sup> mol kg{{sup-|1}}), {{Chem|H|2|S|2|O|7}}(3.6×10<sup>-3</sup> mol kg<sup>-1</sup>), {{Chem|H|2|O}}(1×10<sup>-4</sup> mol kg<sup>-1</sup>)であり<ref>Greenwood, Norman N.; Earnshaw, A. (1997). Chemistry of the Elements, 2nd Edition, Oxford: Butterworth-Heinemann.</ref>、分子性の液体としてはかなり高い[[電気伝導度]]を示し、25℃における比電気伝導度は1.044×10<sup>-2</sup> Ω<sup>-1</sup> cm<sup>-1</sup>である。
この電気伝導度の値は純硝酸の3.72×10<sup>-2</sup> Ω<sup>-1</sup> cm<sup>-1</sup>(25℃)よりは低いものの、[[フルオロ硫酸]]の1.085×10<sup>-4</sup> Ω<sup>-1</sup> cm<sup>-1</sup>(25℃)、純[[フッ化水素]]の1.6×10<sup>-6</sup> Ω<sup>-1</sup> cm<sup>-1</sup>(0℃)、および純水の6.40×10<sup>-8</sup> Ω<sup>-1</sup> cm<sup>-1</sup>(25℃)よりもはるかに高い<ref name="Cotton" />。
=== 水溶液中の電離平衡 ===
硫酸は水溶液中では強い[[二塩基酸]]として働き、一段目はほぼ完全解離、二段目はやや不完全となる。2価の酸であっても[[塩基]]水溶液による水溶液中の[[中和滴定曲線]]は1価の強酸と類似の形状を示し第一当量点は現れない。
その[[酸解離定数]]([[熱力学]]的定数)は25 ℃において以下の通りである<ref name="tanaka" /><ref>湯川泰秀訳 『ストライトウィーザー有機化学解説(1)(第4版)』 広川書店、1995年</ref>。ここで <math>{[\mathrm{X}]} \,</math> は <math>{\mathrm{X}} \,</math> の[[活量]]を表すが、希薄水溶液では[[濃度#質量モル濃度|質量モル濃度]](モル濃度にもほぼ漸近する)に近い。
[[ファイル:Titration-H2SO4-NaOH.jpg|thumb|[[水酸化ナトリウム]]水溶液による中和滴定曲線]]
==== 第一解離定数 ====
: <math>\rm H_2SO_4(aq) \ \rightleftharpoons \ H^+ (aq) + HSO_4^- (aq)</math>
: <math>K_{a1} = \frac{[\mbox{H}^+][\mbox{HSO}_4^-]} {[\mbox{H}_2\mbox{SO}_4]} = 10^{5}</math>
: <math>\mathrm{p}K_{a1} = -5 \,</math>
==== 第二解離定数 ====
: <math>\rm HSO_4^- (aq) \ \rightleftharpoons \ H^+ (aq) + SO_4^{2-} (aq)</math>
: <math>K_{a2} = \frac{[\mbox{H}^+][\mbox{SO}_4^{2-}]} {[\mbox{HSO}_4^-]} = 1.02 \times 10^{-2}</math>
: <math>\mathrm{p}K_{a2} = 1.99 \,</math>
二段階目の解離に関するエンタルピー変化、ギブスの[[自由エネルギー]]変化、[[エントロピー]]変化および[[定圧モル比熱]]変化は以下の通りである<ref name="Parker" />。解離に伴うエントロピーの減少は、イオンの電荷の増加に伴う水和の程度の増加に起因する。
{| class="wikitable" style="text-align: center"
|-
!
! <math>\Delta H^\circ</math>
! <math>\Delta G^\circ</math>
! <math>\Delta S^\circ</math>
! <math>\Delta C_p^\circ</math>
|-
! 第二解離
| −21.93 kJ mol{{sup-|1}}
| 11.38 kJ mol{{sup-|1}}
| −111.7 J mol{{sup-|1}} K{{sup-|1}}
| −209 J mol{{sup-|1}} K{{sup-|1}}
|}
== 物理的性質 ==
濃度98%の硫酸の融点は3 ℃、比重は1.84 (15 ℃) である。204 ℃、98.33%の濃度で水と三酸化硫黄の[[分圧]]が等しくなるため、不揮発性ではあるが、温度を上げるだけではこれ以上濃度を高めることはできない。
濃度が薄いほど密度が水に近くなり、濃度が高くなるにつれて密度と粘稠性(粘り気)が増す。硫酸の[[粘度]] (Pa s) は多くの液体で見られるように温度の上昇とともに低下し、常温25 ℃、1気圧では、23.8×10<sup>-3</sup>であるが、50 ℃で11.7×10<sup>-3</sup>、100 ℃では4.1×10<sup>-3</sup>となる。しかし、[[ヒドロキシ基]]により強い[[水素結合]]が生成されるため<ref name="tanaka" />、粘度は水の数十倍にもなる<ref>[[国立天文台]]編『[[理科年表]] 平成25年』 p.388、[[丸善]]</ref>。
硫酸溶液の濃度と密度の性質を利用して鉛バッテリー液などでは、液比重計を使用して硫酸溶液の濃度を測定している。
純硫酸の25 ℃における[[比誘電率]]は101であり、イオン解離に有利な溶媒であるといえる<ref name="Charlot" />。
{| class="wikitable"
!質量濃度
H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>
!密度
(kg/L)
!モル濃度
(mol/L)
!一般名
|-
|<29%
|1.00-1.25
| align="center" |<4.2
|希硫酸
|-
|29–32%
|1.25–1.28
| align="center" |4.2–5.0
|バッテリー液
([[鉛電池]]で使用)
|-
|62–70%
|1.52–1.60
| align="center" |9.6–11.5
|チャンバー酸
肥料酸
|-
|78–80%
|1.70–1.73
| align="center" |13.5–14.0
|タワー酸
グラバー酸
|-
|93.2%
|1.83
| align="center" |17.4
|66 [[ボーメ度|°Bé]] (ボーメ度66の硫酸)
|-
|98.3%
|1.84
| align="center" |18.4
|濃硫酸
|}
== 歴史 ==
=== イスラム錬金術 ===
[[ファイル:Distillation_by_Retort.png|thumb|[[アランビック]]蒸留器]]
硫酸を発見した人物として2人の名前が知られている。1人は[[8世紀]]のイスラム世界の[[錬金術|錬金術師]]、[[ジャービル・イブン=ハイヤーン]](ラテン名ゲベル{{lang|lt|Geber}})であり、[[ミョウバン]]もしくは[[緑礬]](りょくばん、[[硫酸鉄(II)]] 7水和物を主体とする鉱石)を[[乾留]]して硫酸を得たとされている。もう1人は[[9世紀]]のイスラム社会の医者であり錬金術師であった[[アル・ラーズィー|イプン・ザカリア・アル・ラーズィー]] (ラテン名ラーゼス{{lang|lt|Rhases}}) である。緑礬あるいは[[胆礬]]([[硫酸銅(II)]]5水和物を主体とする鉱石)を乾留して硫酸を発見した。いずれにせよ乾留の過程で、[[熱分解]]によって[[酸化鉄(III)]]あるいは[[酸化銅(II)]]とともに三酸化硫黄が生じる。これが水を吸って凝縮し、希硫酸が得られた。
この方法は、[[アルベルトゥス・マグヌス]]などによるイスラム文献の翻訳により、[[ヨーロッパ]]へと伝えられた。このような由来により中世の錬金術師の間では、硫酸は礬油({{lang|lt|oleum vitrioli}})・礬精({{lang|lt|spiritus vitrioli}})と呼ばれていた。
[[14世紀]]には、[[ベネディクト会]]の修道士であり、錬金術学者でもあったバレンティヌス ([[:en:Basil Valentine|Basilius Valentinus]]) が[[硫黄]]と[[硝石]]を併せて燃焼させると、金属を溶かす性質のある液体(硫酸)が得られることを発見した。
[[1600年]]ごろ、[[オランダ]]人の発明家[[コルネリウス・ドレベル]] (Cornelius Jacobszoon Drebbel) は、熱したイオウと硝石から当時としては最も効率よく硫酸を回収する方法を確立した。ドレベルの手法は150年後に登場するローバックの[[鉛室法]]につながっていった。
[[17世紀]]にはドイツの化学者[[ヨハン・ルドルフ・グラウバー]] (Johann Rudolph Glauber) が[[アムステルダム]]に硫酸工場を設立している。水蒸気を通じながら、硫黄を硝石と一緒に燃やす手法を採った。硝石の分解生成物が硫黄を酸化して三酸化イオウを作り、三酸化イオウと水の化合物として硫酸を得ていた。硫酸工場の目的は、硝石と反応させて[[硝酸]]を製造するためであった。[[1654年]]には[[食塩]]に硫酸を反応させて[[塩酸]]を発見している。このとき生成する[[硫酸ナトリウム]]は彼の名からグラウバー塩とも呼ばれる。
=== 産業革命 ===
[[1736年]]には、[[イギリス]]のジョシュア・ウォード (Joshua Ward) が全工程にガラス容器を用い、グラウバーの製法を用いて生産規模を拡大した。
[[1746年]]にイギリスの化学技術者[[ジョン・ローバック]] (John Roebuck) が反応容器の素材をそれまでのガラスから[[鉛]]に変え、鉛室法の基礎を確立した。硫酸の製造コストを大幅に引き下げることができたため、鉛室法の工場はイギリス中に広まった。[[繊維]]の[[漂白剤]]の製造に硫酸が欠かせなかったことから、17世紀から18世紀当時の[[産業革命]]の進展に大いに寄与した。
[[1793年]]、[[フランス]]の化学者[[ニコラ・クレマン]] (Nicolas Clement) と{{仮リンク|シャルル・ベルナール・デゾルム|en|Charles Bernard Desormes|label=シャルル・デゾルム}} (Charles Bernard Désormes) が鉛室法を完成した。鉛の容器中で硫黄と硝石に「空気を通じながら」燃焼させたことに特徴がある。クレマンとデゾルムは、1811年に[[ヨウ素]]を発見した化学工業家[[ベルナール・クールトア]]の友人であり、ヨウ素のサンプルの分析を依頼されて発見を再確認し、[[1813年]][[11月29日]]にクールトアの業績を公開している。
その後、鉛室の前段階で硫黄を燃焼させ、三酸化硫黄を製造する工程が発明された。
[[1818年]]、フランスの物理学者、化学者である[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック|ゲイ=リュサック]]が鉛室法を改良、[[1827年]]には、鉛室で生成した[[窒素酸化物]]を回収するため、鉛室の後段に接続するゲイ=リュサック塔を考案した。[[1837年]]にはフランスの硫酸工場に最初の塔が設置されたものの、広範囲には使われなかった。
[[1859年]]には、イギリスのジョン・グローバー (John Glover) が回収した不純物を含む硫酸から硝酸を分離するためのグローバー塔を考案した。ゲイ=リュサック塔はグローバー塔と組み合わせることで真価を発揮し、硝酸法の地位が確立した。これをもって、硫酸製造の工業化が完成されたとされている。イオウの燃焼室、グローバー塔、鉛室、ゲイ=リュサック塔を直列に接続し、グローバー塔とゲイ=リュサック塔の間で硫酸を循環させるシステムができあがった。
[[1870年代]]には、鉛室の前後に2種類の塔を備えた硫酸工場がイギリスを中心にヨーロッパ中に広まった。
鉛室法は長い間標準的な製法であったが、[[白金]][[触媒]]を用いる[[接触法]]が開発され、ついで、[[1915年]]に発見された[[五酸化二バナジウム]] ({{Chem|V|2|O|5}}) 触媒を用いるBASF法に置き換えられていった。
== 日本国内の製造史 ==
国内最初の硫酸製造工場は、[[1872年]]5月20日([[旧暦]][[明治]]5年4月14日)、[[北区 (大阪市)|大阪市北区]][[天満 (大阪市)|天満]]にある大阪[[造幣局 (日本)|造幣局]]に設置された。大阪造幣局創設の翌年である。[[貨幣]]に利用する[[金]][[銀]]合金の分離精製、および円形(えんぎょう/金属板を貨幣の形に打ち抜いたもの)の洗浄に用いるためである。当時の製造設備は硝酸法の一種である鉛室式であり、製造能力は1日当たり、180キログラムであった<ref>『造幣局百年史(資料編)』 大蔵省造幣局、1971年</ref>。
硝酸法のもう一つの製造方法である接触法の製造設備は[[日露戦争]]中である[[1905年]]に登場した。設置場所は、[[神奈川県]][[平塚市]]にあった平塚海軍火薬廠である。製造能力は1日当たり、3,000キログラムであった。
== 工業的製法 ==
硫酸の原料は亜硫酸ガスすなわち[[二酸化硫黄]] ({{Chem|SO|2}}) である。現在日本国内では銅などの[[非鉄金属]]の[[製錬]]副産物を二酸化硫黄の原料としている。現在は日本国内では行われてはいないが[[黄鉄鉱]]などの焙焼でも得られ、[[石油]]の[[脱硫]]による回収硫黄も原料となり得る。
: <chem>2FeCuS2 + SiO2 + 5O2 \overset{\Delta}{->} 2Cu + Fe2SiO4 + 4SO2</chem>
: <chem>4FeS2 + 11O2 \overset{\Delta}{->} 2Fe2O3 + 8SO2</chem>
: <chem>S + O2 ->[{Δ}] SO2</chem>
硫酸は二酸化硫黄を酸化し水と反応させることで製造されている。
酸化の方法は大きく接触法と硝酸法に分かれる。歴史的には[[窒素酸化物]]を[[触媒]]とする硝酸式(代表的なものは[[鉛室法]])で製造されてきたが、製造できる硫酸の濃度が低く、装置とくに鉛室の鉛に起因する不純物も多くなってしまう。2004年現在、日本国内ではすべて接触法で硫酸を製造している。
接触法では、[[二酸化硫黄]]を[[酸化]]するために[[五酸化二バナジウム]]を表面に付着させたペレットやタブレットを用いる(触媒の失活を抑えるための添加物に特色があり、各種触媒が開発された)<ref>{{PDFlink|[https://www.shokubai.org/senior/News62.pdf 触媒懇談会ニュース No. 62 触媒学会シニア懇談会 January 1, 2014。2017年12月3日 閲覧]}}</ref>。固体[[触媒]]を使い二酸化硫黄ガスを直接酸化させるため不純物の少ない[[三酸化硫黄]](無水硫酸)が得られる。
: <chem>2SO2 + O2 -> 2SO3</chem>
三酸化硫黄は水ときわめて激しく反応して、生成物が飛散しやすいため、吸収塔内で反応生成物である三酸化硫黄を濃硫酸に過剰に吸収させて[[発煙硫酸]] ({{Chem|H|2|SO|4|·''n''SO|3}}) とし、純水で希釈して最終製品である濃度が93 [[パーセント|%]]、95 %、98 %の濃硫酸が得られる。得られた濃硫酸はプロセスに戻して三酸化硫黄の溶媒として用いるほかに、原料ガスの脱水にも用いられる<ref>{{PDFlink|[https://www.mes.co.jp/mes_technology/research/pdf/200_08.pdf 三井造船技報 No. 200(2010-6)。2017年12月3日 閲覧]}}</ref>
: <chem>H2SO4 . nSO3 + nH2O -> (n + 1)H2SO4</chem>
補足1: [[三酸化硫黄]]は[[水]]とは発熱を伴って激しく反応し、硫酸を生じる。その化学反応式を以下に示す。
: <chem>SO3 + H2O -> H2SO4</chem>
補足2: 二酸化硫黄を[[二酸化窒素]]により酸化する硝酸法による硫酸製造の反応式。
: <chem>SO2 + NO2 -> SO3 + NO</chem>
補足3: [[過酸化水素]]で酸化することによる方法
: <chem>SO2 + H2O2 -> H2SO4</chem>
== 生産 ==
硫酸はさまざまな[[肥料]]、[[繊維]]、[[薬品]]の製造に不可欠である。そのため、硫酸の生産能力は、一国の化学産業の指標となっている。2000年現在の年間生産量では、全世界の9600万トンのうち、[[中国]]が2400万トンを占める。次いで、[[アメリカ合衆国]]の960万トン、[[ロシア]]の830万トン、日本の710万トン、[[インド]]の550万トンである。中国とインドは5年間で生産量を約30%伸ばしており、ロシアも成長しているが、日本は微増にとどまり、アメリカ合衆国は減少している。
2016年度日本国内生産量は 6,460,710t、消費量は 762,555t である<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編]</ref>。
== 用途 ==
[[File:Photo-CarBattery.jpg|thumb|鉛蓄電池]]
硫酸を原料(実際には発煙硫酸と[[塩化水素]]から製造した[[クロロスルホン酸]]を反応に用いる)に合成される[[直鎖アルキルベンゼンスルホン酸ナトリウム]]({{Chem|RC|6|H|4|SO|3|Na}})および[[高級アルコール]]の硫酸モノエステルの[[ナトリウム]]塩である[[ラウリル硫酸ナトリウム]]({{Chem|CH|3|(CH|2|)|11|OSO|3|Na}})は[[合成洗剤]]、[[シャンプー]]および[[歯磨き粉]]などの[[界面活性剤]]として用いられる。多数の[[スルホ基]](-SO<sub>3</sub>H)を有する[[高分子]]は陽[[イオン交換樹脂]]として、[[イオン交換膜]]および水の精製などに用いられる。[[酸触媒]]としては[[ニトロ化合物]]製造の反応助剤として重要な役割を持つ。
また安価な強酸であることから希硫酸は、[[デンプン]]の糖化による[[水飴]]の製造、[[臭素]]および[[ヨウ素]]の製造、[[紡績]]、金属の[[電解精錬]]用の電解液としても用いられる。[[鉛蓄電池]]の電解液としては濃度約33%(''d''=1.24 g cm{{sup-|3}})の希硫酸が用いられ、放電に伴い濃度は低下する。
肥料としては[[硫安]]、[[過リン酸石灰]]の製造原料として大量に消費される。紙を濃硫酸で処理した半透明の薄い紙は[[硫酸紙]]と呼ばれ、[[羊皮紙]]の代用として用いられる<ref name="kagakudaijiten">化学大辞典編集委員会 『化学大辞典』 共立出版、1993年</ref>。
== イオン ==
<div style="float:right">[[ファイル:Sulfate-ion-2D-dimensions.png|130px|thumb|硫酸イオン(2次元)]]</div>
=== 硫酸イオン ===
<div style="float:right">[[ファイル:Sulfate-3D-vdW.png|100px|thumb|硫酸イオン(3次元)]]</div>
'''硫酸イオン'''(りゅうさんいおん、sulfate, {{Chem|SO|4|2-}})は主に'''硫酸'''およびその化合物の電離、分解などによって生成する2価の[[陰イオン]]で[[硫酸塩]][[結晶]]中にも存在する、硫黄化合物である。
[[正四面体]]型構造で、[[硫酸ヒドラジン]](N₂H₆SO₄)結晶中のS-O結合距離は149pmであり、[[単結合]]と[[二重結合]]の中間的な長さに相当する。このS-O間の共有結合に関しては、当初はs、p軌道に加えd軌道も混じった混成であるという意見や(これはd軌道のエネルギーの高さから、SF<sub>6</sub>の場合と同様早期に否定的な意見が出ている)、酸素原子上の非共有電子対のバックドネーション的な効果が提唱されていたものの、実験と理論の両面からの検討により単結合と捉えるのが妥当であることが判明した<ref>M. S. Schmøkel, S. Cenedese, J. Overgaard, M. R. V. Jørgensen, Y.-S. Chen, C. Gatti, D. Stalke and B. B. Iversen, ''Inorg. Chem.'', 51, 8607 (2012).</ref>。なお単なる単結合より結合距離が短い点に関しては、酸素原子と硫黄原子上にそれぞれ−1.5と+4価程度の電荷が存在すること、共有結合そのものも分極が強く電荷にかなりの偏りがあることにより、S-O間に共有結合に加えクーロン力(イオン結合的な力)が働いているためである。
硫酸は強い[[酸化剤]]となるため、イオン化傾向の低い金属などにも作用し、硫酸イオンを含む多くの[[金属]]の化合物を作る。硫酸イオンより酸素原子が1つ少ないイオン ({{Chem|SO|3|2-}}) は[[亜硫酸]]イオンと呼ばれる。
金属イオンに対する[[配位結合]]は弱いほうであるが、[[コバルト]](III)イオンなどに対してはスルファト[[錯体]](sulfato)を形成する。
: <math>\rm [Co(NH_3)_5(H_2O)]^{3+} + SO_4^{2-} \ \rightleftharpoons \ [Co(SO_4)(NH_3)_5]^+ + H_2O</math>
[[海水]]中にもかなり多量に溶存し、その濃度は2.8 g dm{{sup-|3}}、0.029 mol dm{{sup-|3}}と陰イオンとしては[[塩化物イオン]]に次いで多量に存在する。
=== 硫酸水素イオン ===
[[ファイル:Hydrogensulfat-Ion.svg|right|100px|硫酸水素イオン]]
'''硫酸水素イオン'''(りゅうさんすいそいおん、hydrogensulfate, HSO<sub>4</sub><sup>−</sup>)は硫酸の一段階目の電離により生成し、また硫酸水素塩の結晶中に存在する1価の陰イオンであり、やや歪んだ四面体型構造で、水素原子が結合したO-S結合距離がやや長い。
希硫酸中には硫酸イオンは寧ろ低濃度でしか存在せず陰イオンの多くは硫酸水素イオンとして存在し、硫酸濃度を10{{sup-|2}} mol dm{{sup-|3}}程度以下に希釈をして初めて硫酸イオンが主な化学種となる。
たとえば[[ラマンスペクトル]]による結果では3.5 mol kg{{sup-|1}} (3.07 mol dm{{sup-|3}})の希硫酸ではHSO<sub>4</sub><sup>−</sup>が2.06 mol dm{{sup-|3}}、SO<sub>4</sub><sup>2−</sup>が1.01 mol dm{{sup-|3}}である<ref>E. B. Robertson and H. B. Dunford, ''J. Am. Chem. Soc.'', 86, 5080 (1964).</ref>。
== 塩 ==
{{右
|{{Vertical images list
|幅=150px
|1=Iron(II)-sulfate-heptahydrate-sample.jpg
|2=硫酸鉄(II)七水和物
|3=Copper sulfate.jpg
|4=硫酸銅(II)五水和物
|5=Chromium Alum - side view2.jpg
|6=クロムミョウバン
}}
}}
硫酸は製造が安価にできる不揮発性の強酸であるために、種々の[[硫酸塩]]が工業製品として製造されている。
硫酸塩は硫酸イオンを含む[[イオン結晶]]であり、多くのものは水溶性であるが、アルカリ土類金属塩(CaSO<sub>4</sub>, SrSO<sub>4</sub>, BaSO<sub>4</sub>, RaSO<sub>4</sub>)、[[鉛]]塩(PbSO<sub>4</sub>)および銀塩(Ag<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) は難溶性であり、[[バリウム]]塩および[[ラジウム]]塩は特に水への溶解度が極めて低い。本来硫酸イオンは[[無色]][[透明]]であるが[[遷移金属]]イオンを含むものは様々な色を呈する。(記事 [[硫酸塩]]も参照のこと)
* [[硫酸亜鉛]] (ZnSO<sub>4</sub>) – 七水和物は皓礬(こうばん)
* [[硫酸アルミニウム]] (Al<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>)
* 硫酸アルミニウムカリウム (AlK(SO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>·12H<sub>2</sub>O) – 最も一般的な[[ミョウバン]]
* [[硫酸アンモニウム]] ((NH<sub>4</sub>)<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) – 硫安、肥料として用いられる
* [[硫酸カリウム]] (K<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) – 肥料
* [[硫酸カルシウム]] (CaSO<sub>4</sub>) – [[石膏]]の主成分
* [[硫酸銀]] (Ag<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>)
* [[硫酸クロムカリウム]] (CrK(SO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>·12H<sub>2</sub>O) – [[クロムミョウバン]]
* [[硫酸タリウム]] (Tl<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) – 殺鼠剤の有効成分
* [[硫酸鉄(II)]] (FeSO<sub>4</sub>) – 七水和物は[[緑礬]]
* [[硫酸鉄(III)]] (Fe<sub>2</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>3</sub>)
* [[硫酸銅(I)]] (Cu<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>)
* [[硫酸銅(II)]] (CuSO<sub>4</sub>) – 五水和物は[[胆礬]]
* [[硫酸ナトリウム]] (Na<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>) – 芒硝(ぼうしょう)
* [[硫酸鉛]] (PbSO<sub>4</sub>) – [[鉛蓄電池]]の[[電極]]
* [[硫酸ニッケル]] (NiSO<sub>4</sub>)
* [[硫酸バリウム]] (BaSO<sub>4</sub>) – [[造影剤]]、用紙の白さを増す用途(写真印画紙のバライタ紙、酸性紙)など。
* [[硫酸マグネシウム]] (MgSO<sub>4</sub>) – 瀉利塩(しゃりえん、Epsom salt)
=== 硫酸水素塩 ===
'''硫酸水素塩'''(りゅうさんすいそえん、hydrogensulfate)は硫酸水素イオン(HSO<sub>4</sub><sup>−</sup>)を含むイオン結晶で、水素塩(酸性塩)の一種であり、広義には硫酸塩に含まれる。'''重硫酸塩'''(じゅうりゅうさんえん、bisulfate)、'''酸性硫酸塩'''(さんせいりゅうさんえん、acid sulfate)などと呼ばれることもあるが正式名称ではない。多くのものが吸湿性で水に易溶であり、水溶液は硫酸水素イオンの電離のため酸性を示す。
硫酸水素塩は[[アルカリ金属]]塩(M<sup>I</sup>HSO<sub>4</sub>)が硫酸塩と硫酸の等モル混合水溶液の濃縮により得られ比較的安定であり、加熱により脱水し[[二硫酸]]塩(M<sup>I</sup><sub>2</sub>S<sub>2</sub>O<sub>7</sub>)となる。難溶性塩の酸性融解の[[融剤]]あるいは[[白金]][[坩堝]]などの洗浄に用いられる。
[[アルカリ土類金属]]塩、鉛塩(M<sup>II</sup>(HSO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>)などは硫酸塩を熱濃硫酸に溶解し冷却すると得られるが、吸湿により硫酸塩と硫酸に分解しやすい<ref name="kagakudaijiten" />。
また硫酸一水和物H<sub>2</sub>SO<sub>4</sub>·H<sub>2</sub>Oは濃硫酸に計算量の水を加えて冷却すると結晶として得られ、融点は8.5℃であり固体(H<sub>3</sub>O<sup>+</sup>·HSO<sub>4</sub><sup>−</sup>)は[[オキソニウムイオン]]と硫酸水素イオンからなるイオン結晶である。
* [[硫酸水素アンモニウム]] (NH<sub>4</sub>HSO<sub>4</sub>)
* [[硫酸水素カリウム]] (KHSO<sub>4</sub>)
* [[硫酸水素カルシウム]] (Ca(HSO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>)
* [[硫酸水素ナトリウム]] (NaHSO<sub>4</sub>)
* [[硫酸水素ニトロシル]] (NOHSO<sub>4</sub>) – ニトロソ化試薬
=== 硫酸塩鉱物 ===
{{右
|{{Vertical images list
|幅=200px
|1=
|2=透石膏
|3=Celestina mineral.jpg
|4=天青石
}}
}}
[[鉱物学]]において、硫酸塩からなる[[鉱物]]を'''硫酸塩鉱物'''(りゅうさんえんこうぶつ、sulfate mineral)という。[[硫化鉱物]]の酸化および[[熱水]]からの析出などにより生成し、以下のようなものがある。
* [[明ばん石|明礬石]], Alunite(KAl<sub>3</sub>(SO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>(OH)<sub>6</sub>)
* [[マラー石]], Mallardite(MnSO<sub>4</sub>·7H<sub>2</sub>O)
* [[緑礬]], Melanterite(FeSO<sub>4</sub>·7H<sub>2</sub>O)
* [[赤礬]], Bieberite(CoSO<sub>4</sub>·7H<sub>2</sub>O)
* [[亜鉛緑礬]], Zinc-melanterite((Zn,Mn,Mg,Fe)SO<sub>4</sub>·7H<sub>2</sub>O)
* [[胆礬]], Chalcanthite(CuSO<sub>4</sub>·5H<sub>2</sub>O)
* [[石膏]], Gypsum(CaSO<sub>4</sub>·2H<sub>2</sub>O)
* [[硬石膏]], Anhydrite(CaSO<sub>4</sub>)
* [[天青石]], Celestite(SrSO<sub>4</sub>)
* [[重晶石]], Barite(BaSO<sub>4</sub>)
* [[硫酸鉛鉱]], Anglesite(PbSO<sub>4</sub>)
* [[北投石]], Hokutolite((Ba,Pb)SO<sub>4</sub>)
== 硫酸エステル ==
{{Main|硫酸エステル}}
硫酸と[[アルコール]]とが脱水縮合した構造を持つ誘導体を示す。モノエステル({{Chem|ROSO|2|OH}})およびジエステル({{Chem|(RO)|2|SO|2}})が存在し、モノエステルは1価の強酸である。
* [[硫酸ジメチル]] ({{Chem|(CH|3|O)|2|SO|2}}) – メチル化試薬
== 硫酸に因む地名 ==
[[ファイル:Ryusan-machi busstop.jpg|thumb|硫酸町バス停]]
* 硫酸町(りゅうさんまち [[山口県]][[山陽小野田市]]小野田)
** [[日産化学工業]]小野田工場に由来。かつては硫酸町商店街もあった。{{要出典範囲|現在「硫酸町」は通称地名の扱いだが、引き続き独自の郵便番号が割り振られている(〒756-0807)。|date=2022-4}}
** 硫酸町バス停([[サンデン交通]]・[[船木鉄道|船鉄バス]])
== 脚注・参考文献 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sulfuric acid}}
{{Commonscat|Sulfates|硫酸塩}}
* [[硫酸菌]]
* [[混酸]]
* [[二硫酸]]
* [[亜硫酸]]
* [[過硫酸]]
* [[ピラニア溶液]]
* [[硫酸協会]]
*[[セレン酸]]
*[[アシッドアタック]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=http://rika-net.com/contents/cp0100a/contents/4880/4880.html |title=硫酸 理科ねっとわーく(一般公開版) |date=20171005051144}} - 文部科学省 国立教育政策研究所
{{水素の化合物}}
{{硫黄の化合物}}
{{乾燥}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りゆうさん}}
[[Category:硫黄の化合物]]
[[Category:オキソ酸]]
[[Category:スルフリル]]
[[Category:無機化合物]]
[[Category:麻薬向精神薬原料]]
[[Category:乾燥剤]]
[[Category:ジャービル・ブン・ハイヤーン]]
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2003-09-03T08:37:17Z
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2023-12-15T22:50:25Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%85%B8
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硝酸
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硝酸(しょうさん、英: nitric acid、独: Salpetersäure)は窒素のオキソ酸で、化学式 HNO3 で表される。代表的な強酸の1つで、様々な金属と反応して塩を形成する。有機化合物のニトロ化に用いられる。硝酸は消防法第2条第7項及び別表第一第6類3号により危険物第6類に指定され、硝酸を 10 % 以上含有する溶液は医薬用外劇物にも指定されている。
濃硝酸に二酸化窒素、四酸化二窒素を溶かしたものは発煙硝酸、赤煙硝酸と呼ばれ、さらに強力な酸化力を持つ。その強力な酸化力を利用してロケットの酸化剤や推進剤として用いられる。
五酸化二窒素(無水硝酸、N2O5)を水に溶かすと得られる、一価の強酸性の液体で、金属と反応して硝酸塩(水に可溶)を作る。任意の割合で水に溶け、通常「硝酸」という場合には水溶液を指す。
濃度の低い硝酸を希硝酸という。市販の濃硝酸は 60 %(d = 1.360 g cm, 13.0 mol dm)あるいは 70 % (d = 1.406 g cm, 15.6 mol dm) の水溶液が普通である。69.8 % の水溶液は共沸混合物となり 123 °Cで沸騰する。
濃硝酸と濃硫酸の混合物である混酸を用いたニトロ化合物の合成などから爆薬が作られ、他にも染料、肥料などの製造に用いる。
強酸化剤で、木炭の粉末とともに熱すれば木炭は酸化されて二酸化炭素となる。
二酸化窒素や四酸化二窒素を吸収させて発煙硝酸や赤煙硝酸とし、ロケットエンジンの推進剤の酸化剤として用いられる。有機系の燃料と混合するだけで点火する。
硝酸に触れるとキサントプロテイン反応によって皮膚が黄変する。
光に弱く、長時間光を浴び続けると分解し黄色を帯びる。
そのため褐色瓶中で保管する。
希塩酸とは異なり、酸化作用により希硝酸であっても水素よりイオン化傾向の小さい金属を溶かすことが可能である。白金、金を溶かすことはできないが、濃硝酸と濃塩酸を混ぜて王水を作ることにより、これらの金属も溶かすことが可能になる。また、アルミニウム、クロムおよび鉄などは濃硝酸中で表面に酸化皮膜を形成し不動態が形成されるため反応が進行しない。
極めて薄い硝酸水溶液の場合、マグネシウムは初期において水素ガスを発生する。
しかし、希硝酸中であっても亜鉛などの比較的イオン化傾向の大きな金属は硝酸イオンをアンモニウムイオンまで還元する。
また希硝酸はよりイオン化傾向の小さな金属の場合は主に一酸化窒素を発生する。
濃硝酸では二酸化窒素の発生が主反応となり、発熱により反応は次第に激しくなる。
硝酸は硫酸中では塩基として挙動しプロトン化を受け、脱水によりニトロイルイオン (nitroyl / NO2) を生成する。濃硝酸と濃硫酸を混合した混酸中では以下のような化学平衡が成立している。
このニトロイルイオンが芳香族化合物などに対し求電子置換反応を起こしニトロ化が進行する。
純粋な遊離酸も 0 °Cで硝酸カリウムと純硫酸を反応させ、真空蒸留により単離することが可能である。
しかし不安定であり光反応などにより分解し、二酸化窒素などを発生させる。
純硝酸は遊離酸として知られているものの中ではもっとも強く自己解離し、さらに生成するリオニウムイオンは脱水されニトロイルイオンとなり、その平衡定数は 25 °C で以下のようである
高い電気伝導度を示し、25 °C における比電気伝導度は 3.72 × 10 Ω cm であり、純硫酸よりさらに高い。
また、純硝酸のハメットの酸度関数は H 0 = − 6.3 であり純硫酸などに比べるとかなり酸性度は低い。
硝酸の第一水和エンタルピー変化および溶解エンタルピー変化は以下の通りであり、過塩素酸および硫酸などより発熱量は少ない。
硝酸は水溶液中では強酸として挙動し、0.1 mol/dm 程度の水溶液ではほぼ完全に解離し塩酸および過塩素酸などと電離度に大きな差は認められないが、濃厚溶液ではこれらの酸との電離度に差が認められ、2 - 4 mol/dm 溶液については糖転化の触媒作用についてこれらより弱いことが示され、非解離の硝酸分子が存在することが示されている。
濃厚溶液中における非解離の硝酸分子の濃度とデバイ-ヒュッケルの拡張理論などから硝酸の酸解離定数は K = 21 (pKa = −1.32) と求められ、またメタノール中 (pKa = 3.2) の値より水中では pKa = −1.8 とする推定値もある。
また、水溶液中の解離に関する熱力学的な数値も報告されており、そのギブスの自由エネルギー変化によればpKa = −1.44である。
8世紀のアラビアの科学者ジャービル・イブン=ハイヤーンによって緑礬 FeSO4・7H2O または明礬 KAl(SO4)2・12H2O と硝石 KNO3 とを混ぜて蒸留によって合成されることが発見された。17世紀にはいってヨハン・ルドルフ・グラウバーがこれを改良し、硫酸と硝石との混合物を蒸留し、純粋な硝酸を作っている。銅・銀などをも溶かし金属に対する作用は硫酸よりも強いということから、強い水という意味のラテン語をとり aqua fortis と呼ばれた。イギリスでは硝石の精という意味の spirit of nitre ともいわれていた。硝酸という言葉は1789年にアントワーヌ・ラヴォアジエによってフランス語で acide nitrique と命名されて以来用いられるようになった。
2016年度日本国内生産量は 363,308 t、消費量は 213,080 t である(98%換算) 。ヴィルヘルム・オストヴァルト考案のオストワルト法(アンモニア酸化法とも)による生産が一般的である。
アンモニアを白金触媒の存在下で 900 °C 程度に加熱すると一酸化窒素が得られる。この反応においては触媒とアンモニアの接触時間が重要であり、接触時間が長いとアンモニアと一酸化窒素とが反応して窒素が生成されてしまう。触媒にはこのほかに CuO-MnO2 系や、Fe2O3-Bi2O3 系などの金属酸化物触媒も、かつては用いられたことがあったが、触媒活性で劣っていたり、反応中に触媒が微粉化してしまうため、現在では、白金に 10 % ほどのロジウムを加えた金網状の触媒が用いられている。白金-ロジウム触媒を用いた際には反応温度 800 °C、接触時間 0.001 秒の反応条件で一酸化窒素への転化が起こり、その収率は 95 – 98 % である。そのほかに粘土によっても酸化に成功した事例もあるが、収率は半分以下である。
一酸化窒素は自発的に空気中の酸素と反応し二酸化窒素となる。空気酸化によるこの工程での収率はおよそ 50 % であり、純粋な酸素を用いて酸化させることでその収率は 62 % まで向上する。
二酸化窒素を水(温水)と反応させると硝酸と一酸化窒素が発生する(一酸化窒素は最初のサイクルに戻る)(冷水との反応は「二酸化窒素」を参照)。常圧で反応させた場合は硝酸の濃度が低いため、ポーリング式硝酸濃縮法と呼ばれる方法を用いて硝酸濃度が 98 %になるまで濃縮が行われる。また、10 気圧 (10 Pa) ほどの圧力を加えて反応させる高圧法を用いれば、濃縮の必要なく直接 98 %の硝酸が得られる。
全体として、
窒素酸化物は大気中でもこのような反応を起こし、酸性雨の原因の一つとなる。ただし僅かなレベルであれば植物の栄養源となる。
硝酸イオン(しょうさんイオン、NO3, nitrate)は硝酸およびその化合物の電離、分解によって主に生じる1価の陰イオン、窒素化合物であり、硝酸塩中にも存在し、平面正三角形型構造で N−O 結合距離は硝酸三水和物中において 124.7 – 126.5 pm である。
硝酸は強い酸化剤であり、多くの金属と反応するため多種の塩を生成する。また一般に、金属の硝酸塩は水に溶解しやすい。
希薄水溶液中における標準酸化還元電位は以下の通りである。
硝酸イオンは白金電極を用いた水溶液の電解により陰極でアンモニアまで還元される。
消防法により硝酸塩類は危険物 第1類 酸化性固体に分類される。硝酸イオンは本来無色透明であるが、遷移金属イオンを含むものは有色であることが多い。
主に火薬、肥料、食品添加物(発色剤)などに用いられる。
水溶性であるため雨量の多い日本国内での産出は確認されていないが、南米チリが主な原産国である。
硝酸は好気性菌によって生物の屍骸等からアンモニア、亜硝酸を経て生成される。さらに嫌気性菌によって窒素等に分解され空気中等に放出されていく。なお、アクアリウムの生態系において嫌気性菌の発生は困難であり、水槽中に硝酸が分解されないまま溜まっていくので、高濃度となる以前の適度な水換えが必要となる。ただし一般的に、アクアリストにとって硝酸はアンモニアや亜硝酸との比較において毒性の低い物質と認識されている。 アンモニウム塩、亜硝酸塩、硝酸塩は溶存無機態窒素 (DIN)であり、水域の植物プランクトンや藻類等の窒素源として重要な栄養塩の1つである。
|
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"text": "硝酸(しょうさん、英: nitric acid、独: Salpetersäure)は窒素のオキソ酸で、化学式 HNO3 で表される。代表的な強酸の1つで、様々な金属と反応して塩を形成する。有機化合物のニトロ化に用いられる。硝酸は消防法第2条第7項及び別表第一第6類3号により危険物第6類に指定され、硝酸を 10 % 以上含有する溶液は医薬用外劇物にも指定されている。",
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"text": "濃硝酸に二酸化窒素、四酸化二窒素を溶かしたものは発煙硝酸、赤煙硝酸と呼ばれ、さらに強力な酸化力を持つ。その強力な酸化力を利用してロケットの酸化剤や推進剤として用いられる。",
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"text": "五酸化二窒素(無水硝酸、N2O5)を水に溶かすと得られる、一価の強酸性の液体で、金属と反応して硝酸塩(水に可溶)を作る。任意の割合で水に溶け、通常「硝酸」という場合には水溶液を指す。",
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"text": "濃度の低い硝酸を希硝酸という。市販の濃硝酸は 60 %(d = 1.360 g cm, 13.0 mol dm)あるいは 70 % (d = 1.406 g cm, 15.6 mol dm) の水溶液が普通である。69.8 % の水溶液は共沸混合物となり 123 °Cで沸騰する。",
"title": "概要"
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"text": "濃硝酸と濃硫酸の混合物である混酸を用いたニトロ化合物の合成などから爆薬が作られ、他にも染料、肥料などの製造に用いる。",
"title": "概要"
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"text": "強酸化剤で、木炭の粉末とともに熱すれば木炭は酸化されて二酸化炭素となる。",
"title": "化学的性質"
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"text": "二酸化窒素や四酸化二窒素を吸収させて発煙硝酸や赤煙硝酸とし、ロケットエンジンの推進剤の酸化剤として用いられる。有機系の燃料と混合するだけで点火する。",
"title": "化学的性質"
},
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"text": "硝酸に触れるとキサントプロテイン反応によって皮膚が黄変する。",
"title": "化学的性質"
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"text": "光に弱く、長時間光を浴び続けると分解し黄色を帯びる。",
"title": "化学的性質"
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"text": "そのため褐色瓶中で保管する。",
"title": "化学的性質"
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"text": "希塩酸とは異なり、酸化作用により希硝酸であっても水素よりイオン化傾向の小さい金属を溶かすことが可能である。白金、金を溶かすことはできないが、濃硝酸と濃塩酸を混ぜて王水を作ることにより、これらの金属も溶かすことが可能になる。また、アルミニウム、クロムおよび鉄などは濃硝酸中で表面に酸化皮膜を形成し不動態が形成されるため反応が進行しない。",
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"text": "極めて薄い硝酸水溶液の場合、マグネシウムは初期において水素ガスを発生する。",
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"text": "しかし、希硝酸中であっても亜鉛などの比較的イオン化傾向の大きな金属は硝酸イオンをアンモニウムイオンまで還元する。",
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"text": "また希硝酸はよりイオン化傾向の小さな金属の場合は主に一酸化窒素を発生する。",
"title": "化学的性質"
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"text": "濃硝酸では二酸化窒素の発生が主反応となり、発熱により反応は次第に激しくなる。",
"title": "化学的性質"
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"text": "硝酸は硫酸中では塩基として挙動しプロトン化を受け、脱水によりニトロイルイオン (nitroyl / NO2) を生成する。濃硝酸と濃硫酸を混合した混酸中では以下のような化学平衡が成立している。",
"title": "化学的性質"
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"text": "このニトロイルイオンが芳香族化合物などに対し求電子置換反応を起こしニトロ化が進行する。",
"title": "化学的性質"
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"text": "純粋な遊離酸も 0 °Cで硝酸カリウムと純硫酸を反応させ、真空蒸留により単離することが可能である。",
"title": "化学的性質"
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"text": "しかし不安定であり光反応などにより分解し、二酸化窒素などを発生させる。",
"title": "化学的性質"
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"text": "純硝酸は遊離酸として知られているものの中ではもっとも強く自己解離し、さらに生成するリオニウムイオンは脱水されニトロイルイオンとなり、その平衡定数は 25 °C で以下のようである",
"title": "化学的性質"
},
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"text": "高い電気伝導度を示し、25 °C における比電気伝導度は 3.72 × 10 Ω cm であり、純硫酸よりさらに高い。",
"title": "化学的性質"
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"text": "また、純硝酸のハメットの酸度関数は H 0 = − 6.3 であり純硫酸などに比べるとかなり酸性度は低い。",
"title": "化学的性質"
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"text": "硝酸の第一水和エンタルピー変化および溶解エンタルピー変化は以下の通りであり、過塩素酸および硫酸などより発熱量は少ない。",
"title": "化学的性質"
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"text": "硝酸は水溶液中では強酸として挙動し、0.1 mol/dm 程度の水溶液ではほぼ完全に解離し塩酸および過塩素酸などと電離度に大きな差は認められないが、濃厚溶液ではこれらの酸との電離度に差が認められ、2 - 4 mol/dm 溶液については糖転化の触媒作用についてこれらより弱いことが示され、非解離の硝酸分子が存在することが示されている。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"text": "濃厚溶液中における非解離の硝酸分子の濃度とデバイ-ヒュッケルの拡張理論などから硝酸の酸解離定数は K = 21 (pKa = −1.32) と求められ、またメタノール中 (pKa = 3.2) の値より水中では pKa = −1.8 とする推定値もある。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、水溶液中の解離に関する熱力学的な数値も報告されており、そのギブスの自由エネルギー変化によればpKa = −1.44である。",
"title": "化学的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "8世紀のアラビアの科学者ジャービル・イブン=ハイヤーンによって緑礬 FeSO4・7H2O または明礬 KAl(SO4)2・12H2O と硝石 KNO3 とを混ぜて蒸留によって合成されることが発見された。17世紀にはいってヨハン・ルドルフ・グラウバーがこれを改良し、硫酸と硝石との混合物を蒸留し、純粋な硝酸を作っている。銅・銀などをも溶かし金属に対する作用は硫酸よりも強いということから、強い水という意味のラテン語をとり aqua fortis と呼ばれた。イギリスでは硝石の精という意味の spirit of nitre ともいわれていた。硝酸という言葉は1789年にアントワーヌ・ラヴォアジエによってフランス語で acide nitrique と命名されて以来用いられるようになった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2016年度日本国内生産量は 363,308 t、消費量は 213,080 t である(98%換算) 。ヴィルヘルム・オストヴァルト考案のオストワルト法(アンモニア酸化法とも)による生産が一般的である。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "アンモニアを白金触媒の存在下で 900 °C 程度に加熱すると一酸化窒素が得られる。この反応においては触媒とアンモニアの接触時間が重要であり、接触時間が長いとアンモニアと一酸化窒素とが反応して窒素が生成されてしまう。触媒にはこのほかに CuO-MnO2 系や、Fe2O3-Bi2O3 系などの金属酸化物触媒も、かつては用いられたことがあったが、触媒活性で劣っていたり、反応中に触媒が微粉化してしまうため、現在では、白金に 10 % ほどのロジウムを加えた金網状の触媒が用いられている。白金-ロジウム触媒を用いた際には反応温度 800 °C、接触時間 0.001 秒の反応条件で一酸化窒素への転化が起こり、その収率は 95 – 98 % である。そのほかに粘土によっても酸化に成功した事例もあるが、収率は半分以下である。",
"title": "工業的製法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "一酸化窒素は自発的に空気中の酸素と反応し二酸化窒素となる。空気酸化によるこの工程での収率はおよそ 50 % であり、純粋な酸素を用いて酸化させることでその収率は 62 % まで向上する。",
"title": "工業的製法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "二酸化窒素を水(温水)と反応させると硝酸と一酸化窒素が発生する(一酸化窒素は最初のサイクルに戻る)(冷水との反応は「二酸化窒素」を参照)。常圧で反応させた場合は硝酸の濃度が低いため、ポーリング式硝酸濃縮法と呼ばれる方法を用いて硝酸濃度が 98 %になるまで濃縮が行われる。また、10 気圧 (10 Pa) ほどの圧力を加えて反応させる高圧法を用いれば、濃縮の必要なく直接 98 %の硝酸が得られる。",
"title": "工業的製法"
},
{
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"text": "全体として、",
"title": "工業的製法"
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"text": "窒素酸化物は大気中でもこのような反応を起こし、酸性雨の原因の一つとなる。ただし僅かなレベルであれば植物の栄養源となる。",
"title": "工業的製法"
},
{
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"tag": "p",
"text": "硝酸イオン(しょうさんイオン、NO3, nitrate)は硝酸およびその化合物の電離、分解によって主に生じる1価の陰イオン、窒素化合物であり、硝酸塩中にも存在し、平面正三角形型構造で N−O 結合距離は硝酸三水和物中において 124.7 – 126.5 pm である。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
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"tag": "p",
"text": "硝酸は強い酸化剤であり、多くの金属と反応するため多種の塩を生成する。また一般に、金属の硝酸塩は水に溶解しやすい。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
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"tag": "p",
"text": "希薄水溶液中における標準酸化還元電位は以下の通りである。",
"title": "硝酸イオン"
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"text": "硝酸イオンは白金電極を用いた水溶液の電解により陰極でアンモニアまで還元される。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "消防法により硝酸塩類は危険物 第1類 酸化性固体に分類される。硝酸イオンは本来無色透明であるが、遷移金属イオンを含むものは有色であることが多い。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "主に火薬、肥料、食品添加物(発色剤)などに用いられる。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "水溶性であるため雨量の多い日本国内での産出は確認されていないが、南米チリが主な原産国である。",
"title": "硝酸イオン"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "硝酸は好気性菌によって生物の屍骸等からアンモニア、亜硝酸を経て生成される。さらに嫌気性菌によって窒素等に分解され空気中等に放出されていく。なお、アクアリウムの生態系において嫌気性菌の発生は困難であり、水槽中に硝酸が分解されないまま溜まっていくので、高濃度となる以前の適度な水換えが必要となる。ただし一般的に、アクアリストにとって硝酸はアンモニアや亜硝酸との比較において毒性の低い物質と認識されている。 アンモニウム塩、亜硝酸塩、硝酸塩は溶存無機態窒素 (DIN)であり、水域の植物プランクトンや藻類等の窒素源として重要な栄養塩の1つである。",
"title": "生態系における硝酸"
}
] |
硝酸(しょうさん、英: nitric acid、独: Salpetersäure)は窒素のオキソ酸で、化学式 HNO3 で表される。代表的な強酸の1つで、様々な金属と反応して塩を形成する。有機化合物のニトロ化に用いられる。硝酸は消防法第2条第7項及び別表第一第6類3号により危険物第6類に指定され、硝酸を 10 % 以上含有する溶液は医薬用外劇物にも指定されている。 濃硝酸に二酸化窒素、四酸化二窒素を溶かしたものは発煙硝酸、赤煙硝酸と呼ばれ、さらに強力な酸化力を持つ。その強力な酸化力を利用してロケットの酸化剤や推進剤として用いられる。
|
{{Chembox
| verifiedrevid = 408770033
| ImageFileL1 = Nitric acid resonance median.png
| ImageSizeL1 = 200px
| ImageNameL1 = Resonance structural formula of nitric acid
| ImageFileR1 = Nitric-acid-3D-balls-B.png
| ImageSizeR1 = 150px
| ImageNameR1 = Resonance ball and stick model of nitric acid
| ImageFile2 = Nitric-acid-resonance-A.png
| ImageSize2 = 350px
| ImageName2 = Resonance structural formulas of nitric acid
| ImageCaption2 = 共鳴構造式
| ImageFile3 = Nitric-acid-2D-dimensions.svg
| ImageSize3 = 300px
| ImageName3 = Structural formula of nitric acid with assorted dimensions
| IUPACName = Nitric acid<br />硝酸
| SystematicName =
| Section1 = {{Chembox Identifiers
| CASNo = 7697-37-2
| CASNo_Ref = {{cascite|correct|CAS}}
| PubChem = 944
| PubChem_Ref = {{Pubchemcite|correct|PubChem}}
| ChemSpiderID = 919
| ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}}
| UNII = 411VRN1TV4
| UNII_Ref = {{fdacite|correct|FDA}}
| EINECS = 231-714-2
| UNNumber = 2031
| KEGG_Ref = {{keggcite|correct|kegg}}
| KEGG = D02313
| KEGG2 = C00244
| MeSHName = Nitric+acid
| ChEBI = 48107
| RTECS = QU5775000
| Gmelin = 1576
| 3DMet = B00068
| SMILES = [N+](=O)(O)[O-]
| SMILES1 = ON(=O)=O
| ChEMBL_Ref = {{ebicite|correct|EBI}}
| ChEMBL = 1352
| StdInChI = 1S/HNO3/c2-1(3)4/h(H,2,3,4)
| StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}}
| InChI = 1/HNO3/c2-1(3)4/h(H,2,3,4)
| StdInChIKey = GRYLNZFGIOXLOG-UHFFFAOYSA-N
| StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}}
| InChIKey = GRYLNZFGIOXLOG-UHFFFAOYAO}}
| Section2 = {{Chembox Properties
| Formula = HNO<sub>3</sub>
| ExactMass = 62.995642903 g mol<sup>-1</sup>
| Appearance = 無色の液体
| Density = 1.5129 g cm<sup>-3</sup>
| Solubility = 完全に溶解
| MeltingPtC = -41.6
| BoilingPtC = 82.6
| Boiling_notes = 68 % 溶液は 121 {{℃}}で沸騰
| pKa = -1.4
| RefractIndex = 1.397 (16.5 ℃)
| Dipole = 2.17 ± 0.02 D}}
| Section7 = {{Chembox Hazards
| ExternalSDS = [https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7697-37-2.html 厚生労働省モデルSDS]
<!--旧規格のため、隠しました。--><!--| EUIndex = 007-004-00-1
| EUClass = 有害 ('''T''')<br />腐食性 ('''C''')<br />酸化性 ('''O''')
| RPhrases = {{R-phrases|8|35}}
| SPhrases = {{S-phrases|1/2|23|26|36|45}}-->
| GHSPictograms = {{GHS03}}{{GHS05}}{{GHS06}}{{GHS08}} <ref name="kourou-msds">[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7697-37-2.html 厚生労働省モデルSDS]</ref>
| GHSSignalWord = 危険 <ref name="kourou-msds" />
| HPhrases = <br/>
* 火災助長のおそれ:酸化性物質
* 金属腐食のおそれ
* 重篤な皮膚の薬傷及び眼の損傷
* 重篤な眼の損傷
* 吸入すると生命に危険
* 呼吸器の障害
* 長期にわたる、又は反復ばく露による呼吸器、歯の障害 <ref name="kourou-msds" />
<!--| PPhrases = {{P-phrases|210|220|221|260|264|280|301+330+331|303+361+353|304+340|305+351+338|310|321|363|370+378|405|501}}-->
| NFPA-H = 4
| NFPA-R = 2
| NFPA-F = 0
| NFPA-O = OX
| FlashPt = 不燃性
}}
| Section8 = {{Chembox Related
| OtherAnions = [[亜硝酸]]
| OtherCations = [[硝酸ナトリウム]]<br />[[硝酸カリウム]]<br />[[硝酸アンモニウム]]
| OtherCpds = [[五酸化二窒素]]
}}
| 出典 = [https://www.ilo.org/dyn/icsc/showcard.display?p_lang=ja&p_card_id=0183&p_version=2 ICSC]
}}
'''硝酸'''(しょうさん、{{lang-en-short|nitric acid}}、{{lang-de-short|Salpetersäure}})は[[窒素]]の[[オキソ酸]]で、化学式 '''HNO<sub>3</sub>''' で表される。代表的な強酸の1つで、様々な金属と反応して塩を形成する。有機化合物の[[ニトロ化]]に用いられる。硝酸は[[消防法]]第2条第7項及び別表第一第6類3号により[[危険物第6類]]に指定され、硝酸を 10 % 以上含有する溶液は[[医薬用外劇物]]にも指定されている。
'''濃硝酸'''に[[二酸化窒素]]、[[四酸化二窒素]]を溶かしたものは[[発煙硝酸]]、[[赤煙硝酸]]と呼ばれ、さらに強力な酸化力を持つ。その強力な酸化力を利用してロケットの[[酸化剤]]や[[推進剤]]として用いられる。
== 概要 ==
[[File:Nitric acid 70 percent.jpg|thumb|right|150px|試薬瓶に入った70%硝酸]]
[[File:Fuming nitric acid 40ml.jpg|thumb|right|150px|二酸化窒素の影響で黄色くなった硝酸]]
[[五酸化二窒素]](無水硝酸、N<sub>2</sub>O<sub>5</sub>)を水に溶かすと得られる、一価の強酸性の液体で、[[金属]]と反応して硝酸塩(水に可溶)を作る。任意の割合で水に溶け、通常「硝酸」という場合には水溶液を指す。
:<chem>N2O5 + H2O -> 2HNO3</chem>
濃度の低い硝酸を'''希硝酸'''という{{#tag:ref|濃度は特に定義されているわけではないが、実験室で用いる希硝酸は通常 6 mol/dm<sup>3</sup> (32 %, ''d'' = 1.19 g · cm<sup>-3</sup>)、あるいはそれ以下のものであることが多い。|group=注}}。市販の濃硝酸は 60 %(''d'' = 1.360 g cm<sup>-3</sup>, 13.0 [[濃度#物質量/体積(モル濃度)|mol dm<sup>-3</sup>]])あるいは 70 % (''d'' = 1.406 g cm<sup>-3</sup>, 15.6 mol [[デシメートル|dm]]<sup>−3</sup>) の水溶液が普通である。69.8 % の水溶液は[[共沸]]混合物となり 123 ℃で[[沸騰]]する。
濃硝酸と濃硫酸の混合物である[[混酸]]を用いた[[ニトロ化合物]]の合成などから爆薬が作られ、他にも染料、[[肥料]]などの製造に用いる。
== 化学的性質 ==
[[酸化剤|強酸化剤]]で、[[木炭]]の粉末とともに熱すれば木炭は[[酸化]]されて[[二酸化炭素]]となる。
:<chem>C + 4HNO3 -> CO2 + 4NO2 + 2H2O</chem>
[[二酸化窒素]]や[[四酸化二窒素]]を吸収させて[[発煙硝酸]]や[[赤煙硝酸]]とし、[[ロケットエンジンの推進剤]]の[[酸化剤]]として用いられる。有機系の燃料と混合するだけで点火する。
硝酸に触れると[[キサントプロテイン反応]]によって皮膚が黄変する。
光に弱く、長時間光を浴び続けると分解し黄色を帯びる。
: <chem>4 HNO3 ->[\mathit{h}\nu] 4NO2{} + 2H2O{} + O2</chem>
そのため褐色瓶中で保管する。
=== 金属に対する反応 ===
[[塩酸|希塩酸]]とは異なり、酸化作用により希硝酸であっても水素より[[イオン化傾向]]の小さい金属を溶かすことが可能である。[[白金]]、[[金]]を溶かすことはできないが、濃硝酸と[[塩酸|濃塩酸]]を混ぜて[[王水]]を作ることにより、これらの金属も溶かすことが可能になる。また、[[アルミニウム]]、[[クロム]]および[[鉄]]などは濃硝酸中で表面に酸化皮膜を形成し[[不動態]]が形成されるため反応が進行しない。
極めて薄い硝酸水溶液の場合、[[マグネシウム]]は初期において[[水素]]ガスを発生する<ref name=Cotton> FA コットン, G. ウィルキンソン著, 中原 勝儼訳 『コットン・ウィルキンソン無機化学』 培風館、1987年,原書:F. ALBERT COTTON and GEOFFREY WILKINSON, Cotton and Wilkinson ADVANCED INORGANIC CHEMISTRY A COMPREHENSIVE TEXT Fourth Edition, INTERSCIENCE, 1980.</ref>。
: <chem>Mg + 2HNO3 -> Mg(NO3)2 + H2</chem>
しかし、希硝酸中であっても[[亜鉛]]などの比較的イオン化傾向の大きな金属は硝酸イオンを[[アンモニウムイオン]]まで還元する<ref>D.F.SHRIVER, P.W.ATKINS, INORGANIC CHEMISTRY Third Edition, 1999.</ref>。
: <chem>4Zn + 10HNO3 -> 4Zn(NO3)2 + NH4NO3 + 3H2O</chem>
また希硝酸はよりイオン化傾向の小さな金属の場合は主に[[一酸化窒素]]を発生する。
: <chem>3Cu + 8HNO3 -> 3Cu(NO3)2 + 2NO + 4H2O</chem>
濃硝酸では[[二酸化窒素]]の発生が主反応となり、発熱により反応は次第に激しくなる。
: <chem>Cu + 4HNO3 -> Cu(NO3)2 + 2NO2 + 2H2O</chem>
=== ニトロ化反応 ===
硝酸は[[硫酸]]中では[[塩基]]として挙動しプロトン化を受け、脱水により[[ニトロイルイオン]] (nitroyl / NO<sub>2</sub><sup>+</sup>) を生成する。濃硝酸と濃硫酸を混合した[[混酸]]中では以下のような[[化学平衡]]が成立している。
: <chem>HNO3 + H2SO4 <=> H2NO3^+ + HSO4^-</chem>
: <chem>H2NO3^+ <=> NO2^+ + H2O</chem>
このニトロイルイオンが[[芳香族化合物]]などに対し[[求電子置換反応]]を起こし[[ニトロ化]]が進行する。
[[ファイル:Benzene-nitration-mechanism.png|center|400px|芳香族ニトロ化反応]]
=== 純硝酸の性質 ===
純粋な遊離酸も 0 ℃で[[硝酸カリウム]]と純硫酸を反応させ、[[真空]][[蒸留]]により単離することが可能である。
: <chem>KNO3 + H2SO4 -> HNO3 + KHSO4</chem>
しかし不安定であり[[光反応]]などにより分解し、二酸化窒素などを発生させる<ref name=Cotton />。
純硝酸は遊離酸として知られているものの中ではもっとも強く自己解離し、さらに生成する[[リオニウムイオン]]は脱水されニトロイルイオンとなり、その[[平衡定数]]は 25 ℃ で以下のようである
:<chem>2 HNO3 <=> H2NO3^+ + NO3^-</chem>
:<chem>H2NO3^+ <=> NO2^+ + H2O</chem>
:<chem>K = [NO2^+][NO3^-][H2O]\ =\ 7 \times 10^{-2} mol^{3} ~ dm^{-3}</chem>
高い[[電気伝導度]]を示し、25 ℃ における比電気伝導度は 3.72 × 10<sup>−2</sup> Ω<sup>−1</sup> cm<sup>−1</sup> であり、純硫酸よりさらに高い<ref name=Cotton />。
また、純硝酸のハメットの[[酸度関数]]は ''H'' <sub>0</sub> = − 6.3 であり純硫酸などに比べるとかなり酸性度は低い<ref name=Charlot>シャロー 『溶液内の化学反応と平衡』 藤永太一郎、佐藤昌憲訳、丸善、1975年</ref>。
=== 硝酸の水和 ===
硝酸の第一[[水和]][[エンタルピー]]変化および溶解エンタルピー変化は以下の通りであり、[[過塩素酸]]および硫酸などより発熱量は少ない<ref name=Parker>D.D. Wagman, W.H. Evans, V.B. Parker, R.H. Schumm, I. Halow, S.M. Bailey, K.L. Churney, R.I. Nuttal, K.L. Churney and R.I. Nuttal, The NBS tables of chemical thermodynamics properties, J. Phys. Chem. Ref. Data 11 Suppl. 2 (1982)</ref>。
: <chem>HNO3(l) + H2O(l) <=> HNO3 . H2O(l), </chem><math>\Delta H^\circ = -13.53 \rm{\ kJ \cdot mol^{-1}}</math>
: <chem>HNO3(l) <=> H^+(aq) + NO3^-(aq) ,</chem> <math>\Delta H^\circ = -33.26 \rm{\ kJ \cdot mol^{-1}}</math>
=== 水溶液中の電離平衡 ===
硝酸は水溶液中では強酸として挙動し、0.1 mol/dm<sup>3</sup> 程度の水溶液ではほぼ完全に解離し塩酸および過塩素酸などと[[電離度]]に大きな差は認められないが、濃厚溶液ではこれらの酸との電離度に差が認められ、2 - 4 mol/dm<sup>3</sup> 溶液については[[糖]]転化の[[触媒]]作用についてこれらより弱いことが示され、非解離の硝酸分子が存在することが示されている<ref name=youekikagaku>山崎一雄他 『無機溶液化学』 南江堂、1968年</ref><ref name=kagakudaijiten>化学大辞典編集委員会 『化学大辞典』 共立出版、1993年</ref>。
濃厚溶液中における非解離の硝酸分子の濃度と[[デバイ-ヒュッケルの式|デバイ-ヒュッケル]]の拡張理論などから硝酸の[[酸解離定数]]は ''K'' = 21 ({{pKa}} = −1.32) と求められ、またメタノール中 ({{pKa}} = 3.2) の値より水中では {{pKa}} = −1.8 とする推定値もある<ref name=binran>『改訂4版化学便覧基礎編Ⅱ』 日本化学会編、丸善、1993年</ref>。
また、水溶液中の解離に関する[[熱力学]]的な数値も報告されており、そのギブスの[[自由エネルギー]]変化によれば{{pKa}} = −1.44である<ref name=tanaka>田中元治 『基礎化学選書8 酸と塩基』 裳華房、1971年</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align: center; white-space:nowrap;"
|-
!! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} H^\circ</math>
!! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} G^\circ</math>
!! style="white-space:nowrap"| <math>\mathit{\Delta} S^\circ</math>
|-
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| −13.81 kJ mol<sup>−1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| −8.24 kJ mol<sup>−1</sup>
| style="white-space:nowrap; background-color:#ffffff"| −18.4 J mol<sup>−1</sup> K<sup>−1</sup>
|-
|}
== 歴史 ==
[[8世紀]]の[[アラビア]]の科学者[[ジャービル・イブン=ハイヤーン]]によって[[緑礬]] FeSO<sub>4</sub>・7H<sub>2</sub>O または[[ミョウバン|明礬]] KAl(SO<sub>4</sub>)<sub>2</sub>・12H<sub>2</sub>O と[[硝石]] KNO<sub>3</sub> とを混ぜて[[蒸留]]によって合成されることが発見された。[[17世紀]]にはいって[[ヨハン・ルドルフ・グラウバー]]がこれを改良し、[[硫酸]]と硝石との混合物を蒸留し、純粋な硝酸を作っている。銅・銀などをも溶かし金属に対する作用は硫酸よりも強いということから、強い水という意味の[[ラテン語]]をとり ''aqua fortis'' と呼ばれた。イギリスでは硝石の精という意味の spirit of nitre ともいわれていた。硝酸という言葉は[[1789年]]に[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]によって[[フランス語]]で acide nitrique と命名されて以来用いられるようになった。
== 工業的製法 ==
2016年度日本国内生産量は 363,308 [[トン|t]]、消費量は 213,080 t である(98%換算)<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編]</ref>
。[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]考案の'''オストワルト法'''(アンモニア酸化法とも<ref name=chem/>)による生産が一般的である。
=== オストワルト法 ===
アンモニアを[[白金]]触媒の存在下で 900 ℃ 程度に加熱すると[[一酸化窒素]]が得られる。この反応においては触媒とアンモニアの接触時間が重要であり、接触時間が長いとアンモニアと一酸化窒素とが反応して窒素が生成されてしまう<ref name=chem/>。触媒にはこのほかに CuO-MnO<sub>2</sub> 系や、Fe<sub>2</sub>O<sub>3</sub>-Bi<sub>2</sub>O<sub>3</sub> 系などの金属酸化物触媒も、かつては用いられたことがあったが、触媒活性で劣っていたり、反応中に触媒が微粉化してしまうため、現在では、白金に 10 % ほどの[[ロジウム]]を加えた金網状の触媒が用いられている。白金-ロジウム触媒を用いた際には反応温度 800 {{℃}}、接触時間 0.001 秒の反応条件で一酸化窒素への転化が起こり、その収率は 95 – 98 % である<ref name=chem>{{Cite book|和書|author=米田幸夫|editor=化学大辞典編集委員会(編)|title=化学大辞典|volume=1|pages=531-532頁|edition=縮刷版第26版|publisher=共立|year=1981|month=10}}</ref>。そのほかに粘土によっても酸化に成功した事例もあるが、収率は半分以下である。
: <chem>4NH3 + 5O2 -> 4NO + 6H2O</chem>
[[一酸化窒素]]は自発的に空気中の[[酸素]]と反応し[[二酸化窒素]]となる。空気酸化によるこの工程での収率はおよそ 50 % であり、純粋な酸素を用いて酸化させることでその収率は 62 % まで向上する<ref name=chem/>。
:<chem>2NO + O2 -> 2NO2</chem>
[[二酸化窒素]]を[[水]](温水)と反応させると硝酸と[[一酸化窒素]]が発生する([[一酸化窒素]]は最初のサイクルに戻る)(冷水との反応は「[[二酸化窒素]]」を参照)。常圧で反応させた場合は硝酸の濃度が低いため、ポーリング式硝酸濃縮法と呼ばれる方法を用いて硝酸濃度が 98 %になるまで濃縮が行われる。また、10 [[標準気圧|気圧]] (10<sup>6</sup> [[パスカル (単位)|Pa]]) ほどの圧力を加えて反応させる高圧法を用いれば、濃縮の必要なく直接 98 %の硝酸が得られる<ref name=chem/>。
:<chem>3NO2 + H2O -> 2HNO3 + NO</chem>
全体として、
:<chem>NH3 + 2O2 -> HNO3 + H2O</chem>
[[窒素酸化物]]は[[大気]]中でもこのような反応を起こし、[[酸性雨]]の原因の一つとなる。ただし僅かなレベルであれば[[植物]]の栄養源となる。
== 硝酸イオン ==
<div style="float:right">[[ファイル:Nitrat-Ion2.svg|130px]]</div><div style="float:right">[[ファイル:Nitrate-3D-vdW.png|100px]]</div>
'''硝酸イオン'''(しょうさんイオン、NO<sub>3</sub><sup>−</sup>, nitrate)は硝酸およびその化合物の電離、分解によって主に生じる1価の[[陰イオン]]、窒素化合物であり、硝酸塩中にも存在し、平面[[正三角形]]型構造で N−O 結合距離は硝酸三水和物中において 124.7 – 126.5 [[ピコメートル|pm]] である<ref name=binran />。
硝酸は強い[[酸化剤]]であり、多くの金属と反応するため多種の[[塩 (化学)|塩]]を生成する。また一般に、金属の硝酸塩は水に溶解しやすい。
希薄水溶液中における[[標準酸化還元電位]]は以下の通りである。
:<chem>NO3^-(aq){} + 2H^+(aq){} + 2 \mathit{e}^-\ =\ NO2^-(aq){} + H2O(l),</chem> <math> E^\circ = 0.832 ~ \mathrm{V}</math>
: <chem>NO3^-(aq){} + 10H^+(aq){} + 8 \mathit{e}^-\ =\ NH4^+(aq){} + 3H2O(l),</chem> <math>E^\circ = 0.883 ~ \mathrm{V}</math>
硝酸イオンは白金電極を用いた水溶液の[[電解]]により[[陰極]]で[[アンモニア]]まで還元される。
=== 硝酸塩 ===
{{右
|{{Vertical images list
|幅=150px
|1=Fe III nitrate.jpg
|2=[[硝酸鉄(III)]]・9水和物
|3=Cobalt(II)-nitrate-hexahydrate-sample.jpg
|4=[[硝酸コバルト(II)]]・6水和物
|5=Copper(II)-nitrate-trihydrate-sample.jpg
|6=硝酸銅(II)・3水和物
}}
}}
{{Main|硝酸塩}}
[[消防法]]により'''硝酸塩類'''は[[危険物#第1類|危険物 第1類 酸化性固体]]に分類される。硝酸イオンは本来[[無色]][[透明]]であるが、[[遷移金属]]イオンを含むものは有色であることが多い。
主に[[火薬]]、肥料、[[食品添加物]]([[発色剤]])などに用いられる。
*[[硝酸カリウム]] (KNO<sub>3</sub>)
*[[硝酸ナトリウム]] (NaNO<sub>3</sub>)
*[[硝酸アンモニウム]] (NH<sub>4</sub>NO<sub>3</sub>)
*[[硝酸ウラニル]] (UO<sub>2</sub>(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
*[[硝酸カルシウム]] (Ca(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
*[[硝酸銀]] (AgNO<sub>3</sub>)
*[[硝酸鉄(II)]] (Fe(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
*[[硝酸鉄(III)]] (Fe(NO<sub>3</sub>)<sub>3</sub>)
*[[硝酸銅(II)]] (Cu(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
*[[硝酸鉛(II)]] (Pb(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
*[[硝酸バリウム]] (Ba(NO<sub>3</sub>)<sub>2</sub>)
=== 硝酸塩鉱物 ===
水溶性であるため[[雨量]]の多い日本国内での産出は確認されていないが、[[南米]][[チリ]]が主な原産国である。
* [[硝石]], Niter (KNO<sub>3</sub>)
* [[チリ硝石]], Nitratine (NaNO<sub>3</sub>)
== 生態系における硝酸 ==
硝酸は[[好気性生物|好気性菌]]によって[[生物]]の[[死体|屍骸]]等から[[アンモニア]]、[[亜硝酸]]を経て[[硝化作用|生成]]される。さらに[[嫌気性生物|嫌気性菌]]によって[[窒素]]等に[[脱窒|分解]]され[[空気]]中等に放出されていく。なお、[[アクアリウム]]の生態系において嫌気性菌の[[発生]]は困難であり、[[水槽]]中に硝酸が分解されないまま溜まっていくので、高[[濃度]]となる以前の適度な水換えが必要となる。ただし一般的に、アクアリストにとって硝酸はアンモニアや亜硝酸との比較において[[毒]]性の低い[[物質]]と[[認識]]されている。
アンモニウム塩、亜硝酸塩、硝酸塩は溶存無機態窒素 (DIN)であり、水域の植物プランクトンや藻類等の窒素源として重要な栄養塩の1つである。
<!--
== 硝酸にまつわるエピソード ==
*[[高野長英]]は[[蛮社の獄]]により投獄されたが火事により脱獄、そのときに硝酸で顔を焼き人相を分からなくした。
-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [http://openlibrary.org/books/OL7196779M/Manganese_in_the_catalytic_oxidation_of_ammonia_... Manganese in the catalytic oxidation of ammonia]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nitric acid}}
{{Commonscat|Nitrates|硝酸塩}}
*[[ニトログリセリン]]
*[[ダイナマイト]]
**[[ゼリグナイト]]
*[[空中窒素固定]]
*[[酸性雨]]
*[[硝酸菌]]
*[[硝酸態窒素]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{水素の化合物}}
{{窒素の化合物}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようさん}}
[[Category:無機窒素化合物]]
[[Category:オキソ酸]]
[[Category:酸化剤]]
[[Category:第6類危険物]]
[[Category:劇物]]
[[Category:ジャービル・ブン・ハイヤーン]]
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2003-09-03T08:41:48Z
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カール・オルフ
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カール・オルフ(Carl Orff, 1895年7月10日 - 1982年3月29日)は、ドイツの作曲家。ミュンヘンに生まれ、同地で没した。作曲家としてジャンルを特定させない特異性を持っていた。独自のジャンルを作り出しているからである。自分の音楽劇を、しばしば『世界劇』(„Welttheater“又は „Theatrum Mundi“) と呼んでいた。
軍人の家系で誕生したが、家族は早くから秀でた彼の音楽の才能を伸ばす事に協力した。その後、公立学校を中退。ミュンヘン音楽学校で学ぶ。初期の作曲(歌や管弦楽)と音楽劇の試みは(特にリヒャルト・シュトラウスによる)身近な環境に影響された。ドビュッシーの音楽とメーテルリンクの著作に惹かれていた。その間シェーンベルクの研究も続けていた。
1915年から1919年までは戦役のために短い中断があったが、ミュンヘン室内楽団(1917年)とマンハイムやダルムシュタット(1918-19)の劇場で指揮や合唱等の指導をした。1920年ハインリッヒ・カミンスキー(Heinrich Kaminski, 1886年 - 1946年)に師事。カミンスキーは9歳年長で1930年代にベルリン音楽大学のマスター・クラスの教授をした作曲家で、ドイツ・バロック音楽復興に大きな寄与をした人物である。
1920年代に舞踏教師のドロテー・ギュンター (Dorothee Günther) に出会い、彼女と共に、1923年ミュンヘンに体育・音楽・舞踏を教えるギュンター・シューレ(Günther Schule 学校)を設立した。1925年、このギュンター・シューレに参加して1936年まで音楽を教えていた。クルト・ザックス からの提案に従いモンテヴェルディの劇作品を発見。オルフによるモンテヴェルディのオルフォイスの編曲(初演は1925年マンハイム)は好評を博し、ドイツ語でのモンテヴェルディの舞台を復活させた点で決定的なものとなった。オルフはモンテヴェルディの作品を通して、彼独自の音楽言語と彼の音楽劇を特徴づけることになった。
オルフの作品の基礎はこの時代に遡ることができる。身振り手まねの音楽 (Gesticulative music) を当初から目指していた。オルフにとって「フーガやソナタといった純音楽を書くことは不可能である。そういった形式の可能性は、すべて18,9世紀に使い果たされてしまった。劇場音楽こそ未だ開拓されざる世界であり、そこに可能性を見いだすことができる」という。
当時、最も興味をもって研究したのは、スイスの教育者・作曲家エミール・ジャック=ダルクローズ (1865-1950) の提唱したリトミックの理論であった。ダルクローズは音楽教育の実践を提唱して20世紀のバレエに少なからぬ影響を与えた(例 ニジンスキー、クルト・ヨース等)。一方、ヒンデミットの提唱した実用音楽 (Gebrachsmusik) の理論に影響を大きく受けており、音楽教育者としてリトミックと実用音楽のシステムによる教育用の作品を書き始める。
1930年頃の作品が「教育音楽(Schulwerk)」であり、1950年から1954年にかけて、彼の門下のグニルト・ケートマン (Gunild Keetman) の協力の下で全面的に改定されムジカ・ポエティカ に纏められている。初歩レベルの子供達がミュージシャンとして、容易に、楽しく演奏ができるため、世界中の教育現場で利用されている。
オルフの地元であるバイエルン州のベネディクトボイエルン(英語版、ドイツ語版)にあるベネディクトボイエルン修道院(英語版、ドイツ語版)の蔵書が19世紀初頭に調査され、おそらく11世紀から13世紀ごろまでにこの修道院を訪れたと思われる様々な宗教者たちによって作られた詩歌集が発見された。内容は、恋の歌や酒の歌、そして社会への怒りや愚痴などの世俗的なもので、その詩歌集は「カルミナ・ブラーナ」と名付けられた。
1934年、全部で300篇にも及ぶカルミナ・ブラーナを目にしたオルフは、強く創作意欲を刺激され、その中から24篇を選んで大規模な世俗カンタータを作曲した。
1937年6月8日、フランクフルト・アム・マインの市立劇場で初演されたカンタータ『カルミナ・ブラーナ』は大成功を修めドイツ各都市で上演された。
しかし、第2次世界大戦の勃発によってドイツと他国との文化の交流が断絶したため、カール・オルフの名は同世代のイベール (1890-1962)、プロコフィエフ (1891-1953)、オネゲル (1892-1955)、ミヨー (1892-1974)、ヒンデミット (1895-1963)(ドイツ人だが1938年亡命))等よりも国外で知られるようになるのは遅かった。国際的に名が知られるようになったのは1954年で、59歳頃でレコード化された後である。カルミナ・ブラーナの成功によって自信を得たオルフは、出版社ショットに寄せた手紙の中で、「今までの作品すべて破棄して欲しい。と言うのは私にとってカルミナ・ブラーナが本当の出発点になるからである」と記している。
オルフの作品について言えるのは、和声・旋律・リズムのすべてが、単純さ、明快さ、力強さにあふれている事である。打楽器に対する執着は原始的なバーバリズムを強く感じさせるものである。
オルフは自己の創作態度について次のような発言を行っている。「私が舞台作品を書くに当たって、いつも古い素材、お伽噺だとか伝説などばかり採り上げるのは何故かという質問をよく受ける。私は、それらを古いものとは見なしていない。むしろ有効な素材だと思っているのである。そこには時間的な要素はもはや消失し、活力的なものだけが残されている。私はその活力を舞台上で伝えたいのである。」
以降は一種の「チクルス」で作曲しているのが特徴的である。
|
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カール・オルフは、ドイツの作曲家。ミュンヘンに生まれ、同地で没した。作曲家としてジャンルを特定させない特異性を持っていた。独自のジャンルを作り出しているからである。自分の音楽劇を、しばしば『世界劇』(„Welttheater“又は „Theatrum Mundi“) と呼んでいた。
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{{出典の明記|date=2012年11月30日 (金) 01:23 (UTC)|ソートキー=人1982年没}}
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
| Name = カール・オルフ<br />Carl Orff
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{{Portal クラシック音楽}}
'''カール・オルフ'''(Carl Orff, [[1895年]][[7月10日]] - [[1982年]][[3月29日]])は、[[ドイツ]]の[[作曲家]]。[[ミュンヘン]]に生まれ、同地で没した。[[作曲家]]としてジャンルを特定させない特異性を持っていた。独自のジャンルを作り出しているからである。自分の音楽劇を、しばしば『世界劇』(„Welttheater“又は „Theatrum Mundi“) と呼んでいた<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8A%87-1350901|title=世界劇とは|work=|author=|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2012-11-30 03:08}}</ref>。
== 人物・来歴 ==
軍人の家系で誕生したが、家族は早くから秀でた彼の音楽の才能を伸ばす事に協力した。その後、公立学校を中退。[[ミュンヘン音楽学校]]で学ぶ。初期の作曲(歌や管弦楽)と音楽劇の試みは(特に[[リヒャルト・シュトラウス]]による)身近な環境に影響された。[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の音楽と[[メーテルリンク]]の著作に惹かれていた。その間[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]の研究も続けていた。
[[1915年]]から[[1919年]]までは戦役のために短い中断があったが、ミュンヘン室内楽団([[1917年]])と[[マンハイム]]や[[ダルムシュタット]](1918-19)の劇場で指揮や合唱等の指導をした。[[1920年]]ハインリッヒ・カミンスキー(Heinrich Kaminski, 1886年 - 1946年)に師事。カミンスキーは9歳年長で[[1930年代]]にベルリン音楽大学のマスター・クラスの教授をした作曲家で、ドイツ・バロック音楽復興に大きな寄与をした人物である。
1920年代に舞踏教師のドロテー・ギュンター (Dorothee Günther) に出会い、彼女と共に、[[1923年]]ミュンヘンに体育・音楽・舞踏を教えるギュンター・シューレ(Günther Schule 学校)を設立した。[[1925年]]、このギュンター・シューレに参加して[[1936年]]まで音楽を教えていた。[[クルト・ザックス]] からの提案に従い[[クラウディオ・モンテヴェルディ|モンテヴェルディ]]の劇作品を発見。オルフによるモンテヴェルディの[[オルフェオ (モンテヴェルディ)|オルフォイス]]の編曲(初演は[[1925年]]マンハイム)は好評を博し、ドイツ語でのモンテヴェルディの舞台を復活させた点で決定的なものとなった。オルフはモンテヴェルディの作品を通して、彼独自の音楽言語と彼の音楽劇を特徴づけることになった。
オルフの作品の基礎はこの時代に遡ることができる。身振り手まねの音楽 (Gesticulative music) を当初から目指していた。オルフにとって「フーガやソナタといった純音楽を書くことは不可能である。そういった形式の可能性は、すべて18,9世紀に使い果たされてしまった。劇場音楽こそ未だ開拓されざる世界であり、そこに可能性を見いだすことができる」という。
当時、最も興味をもって研究したのは、スイスの教育者・作曲家[[エミール・ジャック=ダルクローズ]] (1865-1950) の提唱した[[リトミック]]の理論であった。ダルクローズは音楽教育の実践を提唱して20世紀のバレエに少なからぬ影響を与えた(例 [[ヴァーツラフ・ニジンスキー|ニジンスキー]]、クルト・ヨース等)。一方、[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]]の提唱した実用音楽 (Gebrachsmusik) の理論に影響を大きく受けており、音楽教育者として[[リトミック]]と実用音楽のシステムによる教育用の作品を書き始める。
1930年頃の作品が「教育音楽(Schulwerk)」であり、[[1950年]]から[[1954年]]にかけて、彼の門下のグニルト・ケートマン (Gunild Keetman) の協力の下で全面的に改定され[[ムジカ・ポエティカ]] に纏められている。初歩レベルの子供達がミュージシャンとして、容易に、楽しく演奏ができるため、世界中の教育現場で利用されている。
=== カルミナ・ブラーナの成功 ===
オルフの地元である[[バイエルン州]]の{{ill|ベネディクトボイエルン|en|Benediktbeuern|de|Benediktbeuern}}にある{{ill|ベネディクトボイエルン修道院|en|Benediktbeuern Abbey|de|Kloster Benediktbeuern}}の蔵書が19世紀初頭に調査され、おそらく11世紀から13世紀ごろまでにこの修道院を訪れたと思われる様々な宗教者たちによって作られた詩歌集が発見された。内容は、恋の歌や酒の歌、そして社会への怒りや愚痴などの世俗的なもので、その詩歌集は「[[カルミナ・ブラーナ]]」と名付けられた。
1934年、全部で300篇にも及ぶカルミナ・ブラーナを目にしたオルフは、強く創作意欲を刺激され、その中から24篇を選んで大規模な世俗カンタータを作曲した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.j-cast.com/trend/2016/10/11280244.html |title=南ドイツ、バイエルンの中世と20世紀が交錯するオルフの勇壮なカンタータ「カルミナ・ブラーナ」 |date=2016-10-11|accessdate=2022-06-03|publisher=J-CAST}}</ref>。
[[1937年]]6月8日、[[フランクフルト・アム・マイン]]の[[フランクフルト歌劇場|市立劇場]]で初演されたカンタータ『カルミナ・ブラーナ』は大成功を修めドイツ各都市で上演された。
しかし、第2次世界大戦の勃発によってドイツと他国との文化の交流が断絶したため、カール・オルフの名は同世代の[[ジャック・イベール|イベール]] (1890-1962)、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]] (1891-1953)、[[アルチュール・オネゲル|オネゲル]] (1892-1955)、[[ダリウス・ミヨー|ミヨー]] (1892-1974)、[[パウル・ヒンデミット|ヒンデミット]] (1895-1963)(ドイツ人だが1938年亡命))等よりも国外で知られるようになるのは遅かった。国際的に名が知られるようになったのは[[1954年]]で、59歳頃でレコード化された後である。カルミナ・ブラーナの成功によって自信を得たオルフは、出版社ショットに寄せた手紙の中で、「今までの作品すべて破棄して欲しい。と言うのは私にとってカルミナ・ブラーナが本当の出発点になるからである」と記している。
== 作品 ==
オルフの作品について言えるのは、和声・旋律・リズムのすべてが、単純さ、明快さ、力強さにあふれている事である。打楽器に対する執着は原始的なバーバリズムを強く感じさせるものである。<!--また同じメロディー、同じリズムの繰り返しは、音楽初心者を決して飽きさせないので、[[ドイツ]]の[[交響楽団]]が赤字防止のために良くやる演目ではある。しかし子供でも歌える平易さゆえに幼稚で反って知的な大人には飽きさせるという二面性を持っていて、通常の[[現代音楽]]専門のコンサートで取り上げられることは全くなく[[ラヴェル]]の[[ボレロ]]などとともに分類上[[近代音楽]]扱いとなっている。-->
オルフは自己の創作態度について次のような発言を行っている。「私が舞台作品を書くに当たって、いつも古い素材、お伽噺だとか伝説などばかり採り上げるのは何故かという質問をよく受ける。私は、それらを古いものとは見なしていない。むしろ有効な素材だと思っているのである。そこには時間的な要素はもはや消失し、活力的なものだけが残されている。私はその活力を舞台上で伝えたいのである。」
=== 舞台作品 ===
* オペラ『犠牲』''Gisei - Das Opfer'' op. 20 歌舞伎『[[菅原伝授手習鑑|寺子屋]]』を素材とした最初のオペラ。([[1913年]])
以降は一種の「チクルス」で作曲しているのが特徴的である。
* 勝利 三部作 „Trionfi“
** カンタータ『[[カルミナ・ブラーナ]]』(1937年)
** カンタータ『[[カトゥーリ・カルミナ]]』(1943年)
** カンタータ『{{仮リンク|アフロディテの勝利|en|Trionfo di Afrodite}}』(''Trionfi dell' Afrodite'')(1952年)
* メルヒェン芝居 三部作 „Märchenstücke“
** オペラ『[[月 (オペラ)|月]]』。グリム童話による。台本・作詞:オルフ([[1937年]] - [[1938年]])
** オペラ『[[賢い女]]』(''Die Kluge'')。グリム童話による。台本・作詞:オルフ([[1940年]] - [[1941年]])
** オペラ『夏の夜の夢』''Ein Sommernachtstraum ''(1917, 1939, 1952, endgültige Fassung 1962 UA: 1964)
* バイエルンの世界劇 四部作 „Bairisches Welttheater“
** [[1947年]] 『[[ベルナウアーの女]]』 (''Die Bernauerin'')。[[アグネス・ベルナウアー]]を題材とした作品。
** [[1953年]] オペラ・バレエ『{{仮リンク|アストゥトゥーリ|de|Astutuli}}』 あるバイエルンのコメディ (''Astutuli, eine bairische Komödie'')。[[ミゲル・デ・セルバンテス]]の魔法劇による。 ''
** [[1956年]] 復活祭カンタータ『[[キリスト復活のコメディア]]』 (''Comedia de Christi Resurrectine'')
** [[1960年]] クリスマス音楽劇『キリスト降誕劇』(''Ludus de nato infante mirificus'', Ein Weihnachtsspiel)
* 世界劇 四部作„Theatrum Mundi“
** [[1949年]]『[[アンティゴーネ]]』 (''Antigone'')。[[ソフォクレス]]の悲劇による。
** [[1959年]]『[[暴君エディプス王]]』 (''Oedipus der Tyrann'')。ソフォクレスの悲劇による。
** [[1968年]]『{{仮リンク|プロメテウス (オルフ)|de|Prometheus (Orff)|label=プロメテウス}}』
** [[1973年]] オペラ『[[時の終わりの劇]]』。世界の終末についてのオルフ独自の世界観・哲学的考察とも言うべき作品、初演は1973年8月20日、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]指揮、[[ケルン放送交響楽団]]等により、[[ザルツブルク祝祭大劇場]]にて。 (新版 1977出版)
=== その他の作品 ===
* 5つの歌曲 同年に出版。([[1911年]])
* バリトン独唱、3つの男声合唱と管弦楽のための「ツァラトゥストラ」 op.14(1911-1912年、未完)
* 弦楽四重奏『断章』 (''Quartettsatz'')。Leopolder Quartetにより初演。([[1914年]])
* 管弦楽のための作品「踊る牧神」(''Tanzende Faune'') op.21([[1914年]])
* 『オリンピック輪舞』 (''Olympische Reigen'')。ベルリンオリンピックのために作曲。([[1936年]])
* 教育音楽『[[ムジカ・ポエティカ]]』 (子供のための音楽、{{仮リンク|グニルト・ケートマン|en|Gunild Keetman}}との共作; 1930–35, 新版1950–54)
* カンタータ
** [[フランツ・ヴェルフェル]]による三つのカンタータ (1929/30, 新版1968)
** [[ベルトルト・ブレヒト]]による二つのカンタータ (1930/31, 新版1973/1968)
* 編曲
** ''ラメンティ'' [[クラウディオ・モンテヴェルディ]]による
*** ''オルフェウス'' (1924; Neufassung 1939)
*** ''アリアドネの嘆き'' (1925, Neufassung 1940)
*** ''Tanz der Spröden'' (1925, Neufassung 1940)
** [[1940年]] 『エントラータ』 (''Entrata'' für Orchester)。[[ウィリアム・バード]]の„The Bells“による五群のオーケストラとオルガンの作品(1928, Neufassung 1941)
* 台本
** [[1948年]] 音楽劇『キリスト降誕物語』 (''Die Weihnachtsgeschichte'') 台本を担当 音楽はグニルト・ケートマン
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[:Category:オルフの楽曲|オルフの楽曲]]
* [[白いバラ]]
* [[ルイーゼ・リンザー]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Carl Orff}}
* [http://www.orff.de オルフ財団]
* [http://www.orff-zentrum.de ミュンヘン オルフセンター]
* {{Archive.today|url=http://homepage2.nifty.com/ofc/ |title=オルフ祝祭合唱団|date=20130427134933}}
* [https://www.orff-schulwerk-japan.com/ 日本オルフ音楽教育研究会]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おるふ かある}}
[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:ドイツのオペラ作曲家]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:1895年生]]
[[Category:1982年没]]
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国字
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国字(こくじ)は、中国以外の国で作られた、独自の漢字体の文字である。
広義では方言文字・職域文字・個人文字や仮名合字も含む。学者によって定義・解釈が異なり、調査が不十分であるなどの理由から、国字とされる文字にも疑義がある場合が多く、逆に文献・文書の調査が不十分なため漏れた文字も多い。
和字・倭字・皇朝造字・和製漢字などとも呼ばれる。会意に倣って作られることが多い。峠(とうげ)・榊(さかき)・畑/畠(はたけ)・辻(つじ)など古く作られたものと、西洋文明の影響で近代に作られた膵(スイ)・腺(セン)・腟 (チツ、本来はシツ)・瓩(キログラム)・粁(キロメートル)・竓(ミリリットル)などがある。主に訓のみであるが、働(はたらく・ドウ)のように音があるものもあり、鋲(ビョウ)・鱇(コウ)など音のみのものもある。「錻」には「錻力」と表記したときの音読み「ブ」と、「錻」一字で表記することで音読みから派生した訓読み「ぶりき」がある。また、匂(匀+ヒ)の様に構成要素に片仮名が使われる事も有る。
中国などに同じ字体の字があることを知らずに作ったと考えられる文字〔「俥(くるま・じんりきしゃ)」・「閖(ゆり・しなたりくぼ)」・「鯏(あさり)」・「鞄(かばん)」など〕や、漢字に新たな意味を追加したもの〔「森(もり)」・「椿(つばき)」・「沖(おき)」など〕は、国字とは呼ばず、その訓に着目して国訓と呼ばれる。中国などで意味が失われているもの〔「雫(しずく)」など〕は、中国などで失われた意味が日本に残った可能性も否定できず、国訓ともいえない。国訓のある文字に着目して、国訓字と呼ばれることもあるが、一般的ではない。
日本で作られた国字の輸出現象も見られる(「鱈(たら)」など)。また、姓の「畑(はた)」は中国でも日本人の姓を表記するために用いられて、『新華字典』などの字書にも収録されているが、つくり(音符)の「田」の中国語音で読まれている。
〔「鰮(いわし)」・「鱚(きす)」など〕のように、中国にもともと同じ字体の字があり、日本で使われる意味を加えて使っている字もあるが、これらには、現在は使われなくとも、別に漢字本来の意味があるため、国字とは言えない。
国字かどうかの判断は難しく、「匁」は中国で古くから「銭」の異体字として使われていた字であるために国字ではないが、辞典類ではしばしば国字とされる。
朝鮮半島でも独自の漢字が作られている。日本の国字と異なり、主に形声に倣って作られている。朝鮮国字の場合、構成要素に漢字の他、ハングルが使われる(ただしハングルそのものは構成要素が漢字とは共通しないので国字とは言えない)。日本同様に漢字に意味を追加したものを朝鮮では国義字といい、音を追加したものを国音字と呼ぶ。
ベトナム語を表記するために作られた漢字。しかし最近では字体の統一性がないなどの理由から、ラテン文字に立場を取って変わられている。
女真文字・契丹文字も漢字に倣って作られたが、その民族の国家が滅亡して長期間が経過したためか、国字とは呼ばれない。壮族の作った古壮字も漢字に倣ったものであるが、中国の一少数民族であるためか、国字とは呼ばれない。西夏文字も構成方法は漢字を踏襲しているが、部品が漢字とは共通しないので、国字とは言えない。
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国字(こくじ)は、中国以外の国で作られた、独自の漢字体の文字である。 広義では方言文字・職域文字・個人文字や仮名合字も含む。学者によって定義・解釈が異なり、調査が不十分であるなどの理由から、国字とされる文字にも疑義がある場合が多く、逆に文献・文書の調査が不十分なため漏れた文字も多い。
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{{Otheruses|中国以外で作られた漢字|その他}}
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{{Wiktionary|国字}}
'''国字'''(こくじ)は、[[中国]]以外の国で作られた、独自の[[漢字]]体の文字である。
広義では[[方言字|方言文字]]・職域文字・個人文字や仮名合字も含む。学者によって定義・解釈が異なり、調査が不十分であるなどの理由から、国字とされる文字にも疑義がある場合が多く、逆に文献・文書の調査が不十分なため漏れた文字も多い。
==日本の国字==
{{Main|和製漢字}}
和字・倭字・皇朝造字・[[和製漢字]]などとも呼ばれる。[[会意]]に倣って作られることが多い。峠(とうげ)・榊(さかき)・畑/畠(はたけ)・辻(つじ)など古く作られたものと、西洋文明の影響で近代に作られた膵(スイ)・腺(セン)・腟 (チツ、本来はシツ)・瓩(キログラム)・粁(キロメートル)・竓(ミリリットル)などがある。主に[[訓読み|訓]]のみであるが、働(はたらく・ドウ)のように[[音読み|音]]があるものもあり、鋲(ビョウ)・鱇(コウ)など音のみのものもある。「錻」には「錻力」と表記したときの音読み「ブ」と、「錻」一字で表記することで音読みから派生した訓読み「ぶりき」がある。また、匂(匀+ヒ)の様に構成要素に[[片仮名]]が使われる事も有る<ref name="sinkangorin">[[鎌田正]]・米山寅太郎 『新漢語林』 p.181、各漢字の解字を参照、大修館書店、2004年</ref>。
[[中国]]などに同じ字体の字があることを知らずに作ったと考えられる文字〔「俥(くるま・じんりきしゃ)」・「閖(ゆり・しなたりくぼ)」・「鯏(あさり)」・「鞄(かばん)」など〕や、漢字に新たな意味を追加したもの〔「森(もり)」・「椿(つばき)」・「沖(おき)」など〕は、国字とは呼ばず、その訓に着目して'''[[訓読み#国訓|国訓]]'''と呼ばれる。中国などで意味が失われているもの〔「雫(しずく)」など〕は、中国などで失われた意味が[[日本]]に残った可能性も否定できず、国訓ともいえない。国訓のある文字に着目して、国訓字と呼ばれることもあるが、一般的ではない。
[[日本]]で作られた国字の輸出現象も見られる(「鱈(たら)」など)。また、姓の「畑(はた)」は[[中国]]でも[[日本人]]の姓を表記するために用いられて、『[[新華字典]]』などの字書にも収録されているが、つくり(音符)の「田」の中国語音で読まれている。
〔「鰮(いわし)」・「鱚(きす)」など〕のように、中国にもともと同じ字体の字があり、日本で使われる意味を加えて使っている字もあるが、これらには、現在は使われなくとも、別に漢字本来の意味があるため、国字とは言えない。
国字かどうかの判断は難しく、「[[匁]]」は中国で古くから「銭」の異体字として使われていた字であるために国字ではないが<ref>{{Cite book
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|title=国字の位相と歴史
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}}</ref>、辞典類ではしばしば国字とされる<ref name="sinkangorin"/>。
==朝鮮半島の国字==
{{Main|朝鮮における漢字#国字}}
[[朝鮮半島]]でも独自の[[漢字]]が作られている。[[日本]]の国字と異なり、主に形声に倣って作られている。朝鮮国字の場合、構成要素に漢字の他、[[ハングル]]が使われる(ただしハングルそのものは構成要素が漢字とは共通しないので国字とは言えない)。日本同様に漢字に意味を追加したものを朝鮮では国義字といい、音を追加したものを国音字と呼ぶ{{要出典|date=2013年4月}}。
==ベトナムの国字==
{{Main|チュノム}}ベトナム語を表記するために作られた漢字。しかし最近では字体の統一性がないなどの理由から、ラテン文字に立場を取って変わられている。
==その他の地域==
[[女真文字]]・[[契丹文字]]も[[漢字]]に倣って作られたが、その[[民族]]の国家が滅亡して長期間が経過したためか、国字とは呼ばれない。[[チワン族|壮族]]の作った[[古壮字]]も漢字に倣ったものであるが、[[中国]]の一少数民族であるためか、国字とは呼ばれない。[[西夏文字]]も構成方法は漢字を踏襲しているが、部品が漢字とは共通しないので、国字とは言えない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
==関連項目==
* [[日本における漢字]]
* [[神代文字]]
* [[仮名交じり文]]
{{DEFAULTSORT:こくし}}
[[Category:漢字]]
[[Category:言語接触]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%97
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北陸自動車道
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北陸自動車道(ほくりくじどうしゃどう、英語: HOKURIKU EXPWY)は、新潟県新潟市江南区の新潟中央ジャンクション (JCT) から滋賀県米原市の米原JCTへ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は北陸道(ほくりくどう)。
高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E8」が割り振られている。
新潟県から富山県・石川県・福井県嶺北・滋賀県湖北へと至る高速道路で北陸地方の主要都市をほぼ網羅しており、東北自動車道、中国自動車道に次いで、国内の高速道路では3番目に長い路線でもある。全線にわたって国道8号とほぼ並行しており、高速道路ナンバリングが導入された際にも「E8」が継承された。道路カラーは金沢の街並みをイメージするベンガラ(■)。
全線を日本道路公団が建設・管理・運営していたが、2005年(平成17年)10月1日の道路関係四公団民営化後は朝日インターチェンジ (IC) を境に東側の新潟中央JCT - 朝日ICを東日本高速道路(NEXCO東日本)が、西側の朝日IC(朝日ICを含む) - 米原JCTを中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理している。
敦賀IC - 敦賀トンネル付近は、土地利用の関係で、上下線まったく別のルートを通っている。この区間は一部で当時の国鉄の北陸本線の廃線跡を使用しており、杉津PAの上り方面施設は杉津駅の廃駅跡に建てられたものである。
また木之本IC - 武生ICと、朝日IC - 上越ICは、トンネルが連続する区間である。特に前者の区間は、冬季に吹雪による視界不良や降雪によるスリップなどの交通障害が多発している。そのため標識で「山岳ハイウェイ」との告知がされ、チェーン脱着場も多数設けてある。とりわけ、敦賀IC - 敦賀トンネルは前述の理由で一度スリップなどで交通事故が発生すると、他路線では一般的な「反対車線に機材を投入する」という方法が使えない。そのため、特に冬季には木之本IC以北では、すべり止めの着用規制がかかることが多い。
国土開発幹線自動車道建設法では、国土開発幹線自動車道の路線名としての北陸自動車道は以下のとおりとされている。
また、高速自動車国道の路線を指定する政令では、高速自動車国道の路線としての北陸自動車道は以下のとおりとされている。
政令上の北陸自動車道には、新潟中央JCT - 米原JCTのほか、長岡JCT - 長岡ICと新潟空港IC - 新潟中央JCTも含まれており、開通当初はこれらの区間も道路案内上では北陸自動車道の名称が使用されたが、後述の通り、長岡JCT - 長岡ICは関越自動車道に、新潟空港IC - 新潟中央JCTは日本海東北自動車道に、それぞれ変更されている。
国土開発幹線自動車道の路線名、高速自動車国道の路線としての起終点は新潟中央JCTから米原JCTの順であるが、このセクションではIC番号、キロポストに従い、米原JCTから新潟中央JCTの順で記述する。
開通当初は長岡ジャンクション (JCT) より米原方面は西山インターチェンジ (IC) からの番号 (1 - 33) が振られる一方で、当時の長岡JCT - 新潟黒埼ICは関越自動車道の練馬ICからの連番 (22 - 26) が振られていた。このときのキロポストは長岡JCTを起点にして朝日IC方面に向かうキロポストと朝日IC付近を起点として米原方面に向かうキロポストの2種類があり、同一路線上に同じ値のキロポストが存在する暫定的なものであった。全線開通に合わせ整理統合することとなり、北陸道に並行するJR北陸本線に合わせて、米原方面行きを「上り線」、新潟方面行きを「下り線」とし、キロポストも米原JCT起点、新潟黒埼IC終点のものに変更された。IC番号も米原ICから新潟方面に向かって各ICに加え小矢部(現・小矢部砺波)JCTなどの建設予定JCTやICをも含めた連続番号に変更した。これらキロポストやIC番号の変更に伴い、案内標識などの変更工事が1987年5月から7月にかけて行われた。
なお、長岡JCTの構造は北陸自動車道 新潟方面から関越自動車道 東京方面が本線であり、北陸自動車道の富山方面はこれに分岐・合流するランプになっている。
1988年(昭和63年)の全線開通の際、最後に完成したサービスエリア (SA) である名立谷浜SAには、全線開通の記念碑が建立されている。また、北陸自動車道の全ICとJCTの形状を描いたタイルが設置されていたが、2017年のタイル張替え時に撤去された。
現在の国道116号新潟西バイパス新潟西IC - 黒埼IC(当時は新潟黒埼IC)も北陸自動車道として建設・開通したが、その後の北陸自動車道の延伸工事に伴い、高速自動車国道から一般国道(自動車専用道路)へ降格され無料開放された(このような区間は高速自動車国道では唯一である)。また、現在の関越自動車道 長岡JCT - 長岡IC、日本海東北自動車道 新潟中央JCT - 新潟空港ICも北陸自動車道として建設・開通したが、前者は関越自動車道 長岡IC以南の区間の開通の際に、後者は日本海東北自動車道 新潟空港IC以北の区間が延伸開業した際に北陸自動車道から分離され現在の名称になっている。このような経緯から、高速自動車国道の路線名としての北陸自動車道には新潟中央JCT - 新潟空港ICと長岡IC - 長岡JCTも含まれている。
北陸自動車道で事業中、または計画中のJCT、ICを挙げる。
雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの時は50 - 80 km/hの速度規制が行われる。
売店はすべてのサービスエリア (SA) と半数以上のパーキングエリア (PA) に設置されている。ガソリンスタンドはすべてのサービスエリアと黒埼PAにあり、24時間営業である。レストランは小矢部川SAと有磯海SA下り線、名立谷浜SAを除くすべてのサービスエリアに設置されている。
木之本IC - 武生ICは14本(このうち2,000 m超は2本)、朝日IC - 上越ICは26本(このうち2,000 m超は8本)のトンネルが設けられている。富山県と新潟県境を通過する後者の区間は、いくつものトンネルを繋いで日本海に落ちる飛騨山脈(北アルプス)の急峻な断崖を通過するところで、各トンネル入口に何箇所目のトンネルであるかを示す表示板が取り付けられている。「天下の険」と呼ばれ古くから交通の難所で知られる親不知付近では、狭い平地から海上に張り出すように道路橋で繋いでおり、その中間に国道8号と連絡する親不知ICが設置されている。
※滑川IC - 魚津IC下り線のトンネル数は1となっているが、有磯海SAを利用した場合は通過しない。
北陸自動車道の管轄は木之本ICと朝日ICの2箇所を境に、主に滋賀県内の区間を中日本高速道路 名古屋支社が、北陸3県(福井・石川・富山)の区間を中日本高速道路 金沢支社が、新潟県内の区間を東日本高速道路 新潟支社がそれぞれ行っている。
かつては富山西IC - 富山IC間に富山局が存在したが、2009年度(平成21年度)中に有磯海局の開局に合わせて廃止された。
日本道路公団時代、長浜局では日本道路公団 関西支社の吹田管制による放送、鯖江局以東は吹田管制と同じ音声の放送を使用していた。民営化後、中日本高速道路管轄となった長浜局は一宮管制へ移管、鯖江局と富山局は一宮管制と同じ放送形態のものに変更された。また、中日本高速道路管内では新たに柳ヶ瀬・今庄・不動寺・高岡・有磯海の各局が新設された。一方で、東日本高速道路の管轄となった名立谷浜局以東では同じ形態の放送が2013年10月まで続けられた。現在、放送形式は中日本高速道路と東日本高速道路の管轄境界となる朝日ICを境に西側の有磯海局以西と東側の名立谷浜局以東で異なっている。
24時間交通量(台)道路交通センサス
(出典:「平成17年度 道路交通センサス 調査結果 (福井県ホームページ )・「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要」(北陸地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年(平成14年)度
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"text": "北陸自動車道(ほくりくじどうしゃどう、英語: HOKURIKU EXPWY)は、新潟県新潟市江南区の新潟中央ジャンクション (JCT) から滋賀県米原市の米原JCTへ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は北陸道(ほくりくどう)。",
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"text": "全線を日本道路公団が建設・管理・運営していたが、2005年(平成17年)10月1日の道路関係四公団民営化後は朝日インターチェンジ (IC) を境に東側の新潟中央JCT - 朝日ICを東日本高速道路(NEXCO東日本)が、西側の朝日IC(朝日ICを含む) - 米原JCTを中日本高速道路(NEXCO中日本)が管理している。",
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"text": "敦賀IC - 敦賀トンネル付近は、土地利用の関係で、上下線まったく別のルートを通っている。この区間は一部で当時の国鉄の北陸本線の廃線跡を使用しており、杉津PAの上り方面施設は杉津駅の廃駅跡に建てられたものである。",
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"text": "また木之本IC - 武生ICと、朝日IC - 上越ICは、トンネルが連続する区間である。特に前者の区間は、冬季に吹雪による視界不良や降雪によるスリップなどの交通障害が多発している。そのため標識で「山岳ハイウェイ」との告知がされ、チェーン脱着場も多数設けてある。とりわけ、敦賀IC - 敦賀トンネルは前述の理由で一度スリップなどで交通事故が発生すると、他路線では一般的な「反対車線に機材を投入する」という方法が使えない。そのため、特に冬季には木之本IC以北では、すべり止めの着用規制がかかることが多い。",
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"text": "政令上の北陸自動車道には、新潟中央JCT - 米原JCTのほか、長岡JCT - 長岡ICと新潟空港IC - 新潟中央JCTも含まれており、開通当初はこれらの区間も道路案内上では北陸自動車道の名称が使用されたが、後述の通り、長岡JCT - 長岡ICは関越自動車道に、新潟空港IC - 新潟中央JCTは日本海東北自動車道に、それぞれ変更されている。",
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"text": "国土開発幹線自動車道の路線名、高速自動車国道の路線としての起終点は新潟中央JCTから米原JCTの順であるが、このセクションではIC番号、キロポストに従い、米原JCTから新潟中央JCTの順で記述する。",
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"text": "開通当初は長岡ジャンクション (JCT) より米原方面は西山インターチェンジ (IC) からの番号 (1 - 33) が振られる一方で、当時の長岡JCT - 新潟黒埼ICは関越自動車道の練馬ICからの連番 (22 - 26) が振られていた。このときのキロポストは長岡JCTを起点にして朝日IC方面に向かうキロポストと朝日IC付近を起点として米原方面に向かうキロポストの2種類があり、同一路線上に同じ値のキロポストが存在する暫定的なものであった。全線開通に合わせ整理統合することとなり、北陸道に並行するJR北陸本線に合わせて、米原方面行きを「上り線」、新潟方面行きを「下り線」とし、キロポストも米原JCT起点、新潟黒埼IC終点のものに変更された。IC番号も米原ICから新潟方面に向かって各ICに加え小矢部(現・小矢部砺波)JCTなどの建設予定JCTやICをも含めた連続番号に変更した。これらキロポストやIC番号の変更に伴い、案内標識などの変更工事が1987年5月から7月にかけて行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "なお、長岡JCTの構造は北陸自動車道 新潟方面から関越自動車道 東京方面が本線であり、北陸自動車道の富山方面はこれに分岐・合流するランプになっている。",
"title": "歴史"
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"text": "1988年(昭和63年)の全線開通の際、最後に完成したサービスエリア (SA) である名立谷浜SAには、全線開通の記念碑が建立されている。また、北陸自動車道の全ICとJCTの形状を描いたタイルが設置されていたが、2017年のタイル張替え時に撤去された。",
"title": "歴史"
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"text": "現在の国道116号新潟西バイパス新潟西IC - 黒埼IC(当時は新潟黒埼IC)も北陸自動車道として建設・開通したが、その後の北陸自動車道の延伸工事に伴い、高速自動車国道から一般国道(自動車専用道路)へ降格され無料開放された(このような区間は高速自動車国道では唯一である)。また、現在の関越自動車道 長岡JCT - 長岡IC、日本海東北自動車道 新潟中央JCT - 新潟空港ICも北陸自動車道として建設・開通したが、前者は関越自動車道 長岡IC以南の区間の開通の際に、後者は日本海東北自動車道 新潟空港IC以北の区間が延伸開業した際に北陸自動車道から分離され現在の名称になっている。このような経緯から、高速自動車国道の路線名としての北陸自動車道には新潟中央JCT - 新潟空港ICと長岡IC - 長岡JCTも含まれている。",
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"text": "売店はすべてのサービスエリア (SA) と半数以上のパーキングエリア (PA) に設置されている。ガソリンスタンドはすべてのサービスエリアと黒埼PAにあり、24時間営業である。レストランは小矢部川SAと有磯海SA下り線、名立谷浜SAを除くすべてのサービスエリアに設置されている。",
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"text": "木之本IC - 武生ICは14本(このうち2,000 m超は2本)、朝日IC - 上越ICは26本(このうち2,000 m超は8本)のトンネルが設けられている。富山県と新潟県境を通過する後者の区間は、いくつものトンネルを繋いで日本海に落ちる飛騨山脈(北アルプス)の急峻な断崖を通過するところで、各トンネル入口に何箇所目のトンネルであるかを示す表示板が取り付けられている。「天下の険」と呼ばれ古くから交通の難所で知られる親不知付近では、狭い平地から海上に張り出すように道路橋で繋いでおり、その中間に国道8号と連絡する親不知ICが設置されている。",
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"text": "※滑川IC - 魚津IC下り線のトンネル数は1となっているが、有磯海SAを利用した場合は通過しない。",
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"text": "北陸自動車道の管轄は木之本ICと朝日ICの2箇所を境に、主に滋賀県内の区間を中日本高速道路 名古屋支社が、北陸3県(福井・石川・富山)の区間を中日本高速道路 金沢支社が、新潟県内の区間を東日本高速道路 新潟支社がそれぞれ行っている。",
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"text": "かつては富山西IC - 富山IC間に富山局が存在したが、2009年度(平成21年度)中に有磯海局の開局に合わせて廃止された。",
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"text": "日本道路公団時代、長浜局では日本道路公団 関西支社の吹田管制による放送、鯖江局以東は吹田管制と同じ音声の放送を使用していた。民営化後、中日本高速道路管轄となった長浜局は一宮管制へ移管、鯖江局と富山局は一宮管制と同じ放送形態のものに変更された。また、中日本高速道路管内では新たに柳ヶ瀬・今庄・不動寺・高岡・有磯海の各局が新設された。一方で、東日本高速道路の管轄となった名立谷浜局以東では同じ形態の放送が2013年10月まで続けられた。現在、放送形式は中日本高速道路と東日本高速道路の管轄境界となる朝日ICを境に西側の有磯海局以西と東側の名立谷浜局以東で異なっている。",
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"text": "(出典:「平成17年度 道路交通センサス 調査結果 (福井県ホームページ )・「平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要」(北陸地方整備局ホームページ)・「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)",
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"text": "2002年(平成14年)度",
"title": "路線状況"
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] |
北陸自動車道は、新潟県新潟市江南区の新潟中央ジャンクション (JCT) から滋賀県米原市の米原JCTへ至る高速道路(高速自動車国道)。略称は北陸道(ほくりくどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E8」が割り振られている。
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{{Infobox road
|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]])
|アイコン = [[ファイル:HOKURIKU EXP(E8).svg|130px|北陸自動車道]]
|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E8}} 北陸自動車道
|地図画像 =
{{Highway system OSM map
| frame-lat = 36.20
| frame-long = 138.30
| frame-width = 300
| frame-height = 300
| zoom = 6
| length =
| plain = yes
}}
|路線延長 = 476.5 [[キロメートル|km]](国内3位)
|開通年 = [[1972年]]([[昭和]]47年) - [[1997年]]([[平成]]9年)
|起点 = [[新潟県]][[新潟市]][[江南区 (新潟市)|江南区]]([[新潟中央ジャンクション|新潟中央JCT]])
|主な経由都市 = [[長岡市]]、[[上越市]]、[[富山市]]<br />[[砺波市]]、[[金沢市]]、[[小松市]]<br />[[福井市]]、[[敦賀市]]、[[長浜市]]
|終点 = [[滋賀県]][[米原市]]([[米原ジャンクション|米原JCT]])
|接続する主な道路 = {{Ja Exp Route Sign|E7}} [[日本海東北自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[能越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E27}} [[舞鶴若狭自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]
}}
'''北陸自動車道'''(ほくりくじどうしゃどう、{{Lang-en|HOKURIKU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[新潟県]][[新潟市]][[江南区 (新潟市)|江南区]]の[[新潟中央ジャンクション]] (JCT) から[[滋賀県]][[米原市]]の[[米原ジャンクション|米原JCT]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])。[[略語|略称]]は'''北陸道'''(ほくりくどう){{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-12}}。
[[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、「'''E8'''」が割り振られている{{sfn|東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社|2017|p=標識編4-15}}。
== 概要 ==
[[ファイル:Hokuriku Expressway seen from airplane.jpg|thumb|航空機から撮影した北陸自動車道<br />中央の橋梁は井田川を渡る井田川橋<br />([[富山県]][[富山市]] 富山西IC - 富山IC間)。]]
[[新潟県]]から[[富山県]]・[[石川県]]・[[福井県]][[嶺北]]・[[滋賀県]][[湖北 (滋賀県)|湖北]]へと至る高速道路で[[北陸地方]]の主要都市をほぼ網羅しており、[[東北自動車道]]、[[中国自動車道]]に次いで、国内の高速道路では3番目に長い路線でもある。全線にわたって[[国道8号]]とほぼ並行しており、高速道路ナンバリングが導入された際にも'''「E8」'''が継承された。道路カラーは金沢の街並みをイメージする[[弁柄|ベンガラ]]({{Color|#90272b|■}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。
全線を[[日本道路公団]]が建設・管理・運営していたが、[[2005年]]([[平成]]17年)[[10月1日]]の[[道路関係四公団]][[民営化]]後は[[朝日インターチェンジ]] (IC) を境に東側の新潟中央JCT - 朝日ICを[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)が、西側の朝日IC(朝日ICを含む) - 米原JCTを[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)が管理している。
[[ファイル:HOKURIKU EXPRESSWAY IMAJO TSURUGA.png|thumb|上下線が左右反対となる今庄IC - 敦賀IC間]]
[[敦賀インターチェンジ|敦賀IC]] - [[敦賀トンネル]]付近は、土地利用の関係で、上下線まったく別のルートを通っている。この区間は一部で当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[北陸本線]]の[[廃線]]跡を使用しており、[[杉津パーキングエリア|杉津PA]]の上り方面施設は[[杉津駅]]の[[廃駅]]跡に建てられたものである。
また[[木之本インターチェンジ|木之本IC]] - [[武生インターチェンジ|武生IC]]と、朝日IC - [[上越インターチェンジ|上越IC]]は、[[トンネル]]が連続する区間である。特に前者の区間は、冬季に吹雪による視界不良や降雪によるスリップなどの交通障害が多発している。そのため標識で「山岳ハイウェイ」との告知がされ、[[タイヤチェーン#概要|チェーン脱着場]]も多数設けてある。とりわけ、敦賀IC - 敦賀トンネルは前述の理由で一度スリップなどで[[交通事故]]が発生すると、他路線では一般的な「反対車線に機材を投入する」という方法が使えない<ref group="注釈">上下線が離れ、かつ左右も逆転しているため。</ref>。そのため、特に冬季には木之本IC以北では、すべり止めの着用規制がかかることが多い。
=== 路線名・道路名 ===
[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]では、[[国土開発幹線自動車道]]の路線名としての北陸自動車道は以下のとおりとされている。
{| class="wikitable"
|-
!起点
!主たる経過地
!終点
|-
|[[新潟市]]
|[[上越市]] [[富山市]] [[金沢市]] [[福井市]] [[敦賀市]]
|[[米原市]]
|}
また、[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]では、[[高速自動車国道]]の路線としての北陸自動車道は以下のとおりとされている。
{| class="wikitable"
|-
! style="white-space:nowrap" | 起点
! style="white-space:nowrap" | 重要な経過地
! style="white-space:nowrap" | 終点
|-
| style="white-space:nowrap" | 新潟市
|[[燕市]] [[三条市]] [[見附市]] [[長岡市]] [[柏崎市]] 上越市 [[糸魚川市]] [[黒部市]] [[魚津市]] [[滑川市]] 富山市 [[射水市]] [[高岡市]] [[砺波市]] [[小矢部市]] [[南砺市]] 金沢市 [[白山市]] [[能美市]] [[小松市]] [[加賀市]] [[あわら市]] [[坂井市]] 福井市 [[鯖江市]] [[越前市]] 敦賀市 [[長浜市]]
| style="white-space:nowrap" | [[米原市]]
|}
政令上の北陸自動車道には、新潟中央JCT - 米原JCTのほか、長岡JCT - 長岡ICと新潟空港IC - 新潟中央JCTも含まれており、開通当初はこれらの区間も道路案内上では'''北陸自動車道'''の名称が使用されたが、[[#歴史|後述]]の通り、長岡JCT - 長岡ICは関越自動車道に、新潟空港IC - 新潟中央JCTは日本海東北自動車道に、それぞれ変更されている。
== インターチェンジなど ==
国土開発幹線自動車道の路線名、高速自動車国道の路線としての起終点は新潟中央JCTから米原JCTの順であるが、このセクションではIC番号、キロポストに従い、米原JCTから新潟中央JCTの順で記述する。
* IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。<br />施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。
* [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。
* 路線名の特記がないものは[[市町村道|市道]]。
* [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。<br />福井北JCT・ICと高岡砺波SIC、上越ICのBSはインターチェンジ施設外に設置されているため△としている。
* 英略字は以下の項目を示す。
*: IC:[[インターチェンジ]]、SIC:[[スマートインターチェンジ]]、JCT:[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、SA:[[サービスエリア]]、PA:[[パーキングエリア]]、TB:[[本線料金所]]、BS:[[バス停留所|バスストップ]]、TN:[[トンネル]]、CB:チェーンベース(チェーン着脱場)
{{-}}
{| class="wikitable"
|-
!style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号
!style="border-bottom:3px solid green"|施設名
!style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名
!style="border-bottom:3px solid green"|起点<br /><span style="font-size:small">から<br />([[キロメートル|km]])</span>
!style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]]
!style="border-bottom:3px solid green"|備考
!colspan="3" style="border-bottom:3px solid green"|所在地
|-
!style="background-color:#BFB; white-space:nowrap;"|27-1
|[[米原ジャンクション|米原JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]
|style="text-align:right"|0.0
|style="text-align:center"|-
|キロポストは0.2KPから
|rowspan="12" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[滋賀県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[米原市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[米原ジャンクション#米原本線料金所|米原TB]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|0.4
|style="text-align:center"|-
|[[2007年]][[5月31日]]廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|1
|[[米原インターチェンジ|米原IC]]
|[[国道21号]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[神田パーキングエリア|神田PA]]/<span style="background-color: #CCC">[[神田パーキングエリア|SIC]]</span>
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|4.6
|style="text-align:center"|◆
|SICは事業中<ref name="press20220930">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001515200.pdf|title=スマートインターチェンジの高速道路会社への事業許可および準備段階調査着手について|date=2022-09-30|accessdate=2022-09-30|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|rowspan="9" colspan="2"|[[長浜市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|2
|[[長浜インターチェンジ|長浜IC]]
|[[滋賀県道37号中山東上坂線|県道37号中山東上坂線]]
|style="text-align:right"|9.6
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|虎姫BS
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|12.6
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|2-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[小谷城スマートインターチェンジ|小谷城SIC]]<br /><span style="background-color:#CCC">湖北BS</span>
|style="background-color:#eda5ff"|[[滋賀県道263号丁野虎姫長浜線|県道263号丁野虎姫長浜線]](上り線)<br />[[滋賀県道265号郷野湖北線|県道265号郷野湖北線]](下り線)
|style="text-align:right"|16.4
|style="text-align:center"|◆
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|高月BS
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|19.6
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|3
|[[木之本インターチェンジ|木之本IC]]
|[[国道8号]]<br />[[国道365号]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[琵琶湖西縦貫道路]]<ref name="biwakonishi_road">{{Cite web|和書|url=http://www.kkr.mlit.go.jp/road/kinki_road/qgl8vl0000002a55-att/kansendouro_02.pdf |title=近畿地方整備局管内 地域高規格道路網図 |format=PDF |publisher=国土交通省 近畿地方整備局 |accessdate=2017-06-12}}</ref><ref name="biwakonishi_road_shiga">{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/shiga/road/index-jigyou.html |title=この道が滋賀の未来をつくる |publisher=国土交通省 近畿地方整備局 滋賀国道事務所 |accessdate=2017-06-12}}</ref></span>
|style="text-align:right"|23.4
|style="text-align:center"|◆
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[賤ヶ岳サービスエリア|賤ヶ岳SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|25.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|<span style="background-color:#CCC">[[余呉バスストップ|余呉BS]]</span>[[余呉バスストップ|/CB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|28.1<br />28.7
|style="text-align:center"|◆
|下り線<br />上り線
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|<span style="background-color:#CCC">[[余呉北バスストップ|余呉北BS]]</span>[[余呉北バスストップ|/CB]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|31.4<br />31.6
|style="text-align:center"|◆
|下り線<br />上り線
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[刀根パーキングエリア|刀根PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|38.5
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="17" style="widht:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[福井県]]}}
|rowspan="6" colspan="2"|[[敦賀市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|3-1
|[[敦賀ジャンクション|敦賀JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E27}} [[舞鶴若狭自動車道]]
|style="text-align:right"|45.4
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|4
|[[敦賀インターチェンジ|敦賀IC]]
|国道8号([[敦賀バイパス]])
|style="text-align:right"|46.6
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|<span style="background-color:#CCC">田尻BS</span>/CB
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|51.8
|style="text-align:center"|◆
|上り線のみ
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|<span style="background-color:#CCC">葉原BS</span>/CB
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|53.1
|style="text-align:center"|◆
|下り線のみ
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[杉津パーキングエリア|杉津PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|57.0<br />57.9
|style="text-align:center"|◆
|上り線<br />下り線
|-
!style="background-color:#BFB"|5
|[[今庄インターチェンジ|今庄IC]]
|[[国道305号]]<br />国道365号
|style="text-align:right"|68.2
|style="text-align:center"|◆
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[南条郡]]<br />[[南越前町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|5-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[南条サービスエリア|南条SA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[福井県道203号池田南条線|県道203号池田南条線]](町道経由)
|style="text-align:right"|71.4<br />72.1
|style="text-align:center"|◆
|下り線<br />上り線([[道の駅南えちぜん山海里|道の駅]]連絡歩道)
|-
!style="background-color:#BFB"|6
|[[武生インターチェンジ|武生IC]]
|[[福井県道40号武生インター線|県道40号武生インター線]]<br />[[福井県道262号武生インター東線|県道262号武生インター東線]]
|style="text-align:right"|80.6
|style="text-align:center"|◆
|
|colspan="2"|[[越前市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|7
|[[鯖江インターチェンジ|鯖江IC]]
|[[福井県道39号鯖江インター線|県道39号鯖江インター線]]<br />[[福井県道105号鯖江今立線|県道105号鯖江今立線]]
|style="text-align:right"|86.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[鯖江市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[北鯖江パーキングエリア|北鯖江PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|88.6
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|8
|[[福井インターチェンジ|福井IC]]
|[[国道158号]]
|style="text-align:right"|97.2
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[福井市]]
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|9
|[[福井北ジャンクション・インターチェンジ|福井北JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]
|style="text-align:right" rowspan="2"|103.6
|style="text-align:center"|-
|
|-
|[[福井北ジャンクション・インターチェンジ|福井北IC]]
|[[国道416号]]([[国道416号#バイパス|吉野堺バイパス]])
|style="text-align:center"|△
|
|-
!style="background-color:#BFB"|10
|style="background-color:#eda5ff"|[[丸岡インターチェンジ|丸岡IC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[福井県道38号丸岡インター線|県道38号丸岡インター線]]<br /><span style="background-color:#CCC">福井港丸岡インター連絡道路<ref name="fukui_port_maruoka">{{Cite web|和書|date=2015-06 |url=http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/mikuni-doboku/11_d/fil/panf.pdf |title=地域高規格道路 福井港丸岡インター連絡道路 |format=PDF |publisher=福井県 三国土木事務所 |accessdate=2017-06-12}}</ref>([[地域高規格道路#区間指定|調査区間]])</span>
|style="text-align:right"|110.4
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[坂井市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[女形谷パーキングエリア|女形谷PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|113.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|11
|[[金津インターチェンジ|金津IC]]
|[[福井県道37号金津インター線|県道37号金津インター線]]<br />[[福井県道124号牛ノ谷停車場線|県道124号牛ノ谷停車場線]]
|style="text-align:right"|120.9
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[あわら市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|12
|[[加賀インターチェンジ|加賀IC]]
|[[石川県道61号加賀インター線|県道61号加賀インター線]]<br /><span style="background-color:#CCC">福井加賀道路<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/koukikaku/tiikikoukikaku/tiiki.html#fukuikaga |title=地域高規格道路について - 福井加賀道路 |publisher=福井県 |accessdate=2017-05-28}}</ref>([[地域高規格道路#路線指定|候補路線]])</span>
|style="text-align:right"|128.2
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="13" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[石川県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[加賀市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[尼御前サービスエリア|尼御前SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|136.6<br />136.9
|style="text-align:center"|○
|上り線<br />下り線
|-
!style="background-color:#BFB"|13
|[[片山津インターチェンジ|片山津IC]]
|[[石川県道20号小松加賀線|県道20号小松加賀線]]
|style="text-align:right"|140.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|13-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[安宅パーキングエリア|安宅PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|県道20号小松加賀線
|style="text-align:right"|144.7
|style="text-align:center"|
|SICは福井IC方面のみ
|rowspan="2" colspan="2"|[[小松市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|14
|[[小松インターチェンジ|小松IC]]
|[[石川県道25号金沢美川小松線|県道25号金沢美川小松線]]
|style="text-align:right"|149.3
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|14-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[能美根上スマートインターチェンジ|能美根上SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|市道木曽街道線
|style="text-align:right"|155.4
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[能美市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15
|style="background-color:#eda5ff"|[[美川インターチェンジ|美川IC]]
|style="background-color:#eda5ff"|県道25号金沢美川小松線<br />[[石川県道58号鶴来美川インター線|県道58号鶴来美川インター線]]
|style="text-align:right"|160.3
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[白山市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[徳光パーキングエリア|徳光PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|県道25号金沢美川小松線(市道経由)
|style="text-align:right"|164.6
|style="text-align:center"|○
|[[ハイウェイオアシス]]
|-
!style="background-color:#BFB"|15-2
|[[白山インターチェンジ|白山IC]]<br />[[白山インターチェンジ#松任バスストップ|松任BS]]
|[[石川県道8号松任宇ノ気線|県道8号松任宇ノ気線]]<br />([[金沢外環状道路]](海側幹線))
|style="text-align:right"|169.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|16
|[[金沢西インターチェンジ|金沢西IC]]
|国道8号([[金沢バイパス]])<br />[[石川県道197号寺中西金沢線|県道197号寺中西金沢線]]
|style="text-align:right"|172.5
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="4" colspan="2"|[[金沢市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|17
|[[金沢東インターチェンジ|金沢東IC]]
|国道8号(金沢バイパス)
|style="text-align:right"|180.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|17-1
|[[金沢森本インターチェンジ|金沢森本IC]]
|[[国道159号]](金沢外環状道路(山側幹線))<br />[[国道304号]]<br />[[国道359号]]
|style="text-align:right"|183.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[不動寺パーキングエリア|不動寺PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|184.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|18
|[[小矢部インターチェンジ|小矢部IC]]
|[[富山県道42号小矢部福光線|県道42号小矢部福光線]]
|style="text-align:right"|197.7
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="22" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[富山県]]}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[小矢部市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[小矢部川サービスエリア|小矢部川SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|199.8
|style="text-align:cnter"|
|
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|19
|rowspan="2"|[[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]]
|rowspan="2"|{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[能越自動車道]]<br />{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]
|style="text-align:right" rowspan="2"|203.1
|style="text-align:center" rowspan="2"|-
|rowspan="2"|
|-
|rowspan="3" colspan="2"|[[砺波市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|20
|[[砺波インターチェンジ|砺波IC]]
|国道359号
|style="text-align:right"|207.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|20-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[高岡砺波スマートインターチェンジ|高岡砺波SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|高岡市道高岡砺波インター線
|style="text-align:right"|212.9
|style="text-align:center"|△
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[高岡パーキングエリア|高岡PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|216.1
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[高岡市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|21
|[[小杉インターチェンジ|小杉IC]]
|[[国道472号]]
|style="text-align:right"|221.5
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[射水市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[呉羽パーキングエリア|呉羽PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|224.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|21-1
|[[富山西インターチェンジ|富山西IC]]
|[[富山県道41号新湊平岡線|県道41号新湊平岡線]]
|style="text-align:right"|226.6
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[富山市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|22
|[[富山インターチェンジ|富山IC]]
|[[国道41号]]
|style="text-align:right"|234.1
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|22-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[流杉パーキングエリア|流杉PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[富山県道56号富山環状線|県道56号富山環状線]](市道経由)
|style="text-align:right"|240.7
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|23
|style="background-color:#eda5ff"|[[立山インターチェンジ|立山IC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[富山県道3号富山立山魚津線|県道3号富山立山魚津線]]
|style="text-align:right"|246.4
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[中新川郡]]}}
|style="white-space:nowrap;"|[[立山町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|23-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[上市スマートインターチェンジ|上市SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[富山県道148号上市水橋線|県道148号上市水橋線]]
|style="text-align:right"|250.6
|style="text-align:center"|
|
|[[上市町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|24
|[[滑川インターチェンジ|滑川IC]]
|[[富山県道51号蓑輪滑川インター線|県道51号蓑輪滑川インター線]]
|style="text-align:right"|254.5
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[滑川市]]
|-
!style="background-color:#BFB" rowspan="2"|-
|rowspan="2"|[[有磯海サービスエリア|有磯海SA]]
|style="text-align:center" rowspan="2"|-
|style="text-align:right" rowspan="2"|258.2<br />261.6
|style="text-align:center" rowspan="2"|
|上り線
|-
|下り線
|rowspan="2" colspan="2"|[[魚津市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|25
|[[魚津インターチェンジ|魚津IC]]
|[[富山県道52号島尻魚津インター線|県道52号島尻魚津インター線]]
|style="text-align:right"|263.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|26
|[[黒部インターチェンジ|黒部IC]]
|[[富山県道53号若栗生地線|県道53号若栗生地線]]
|style="text-align:right"|273.4
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[黒部市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|26-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[入善パーキングエリア|入善PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[富山県道63号入善宇奈月線|県道63号入善宇奈月線]]
|style="text-align:right"|277.9
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="3" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[下新川郡]]}}
|[[入善町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|27
|[[朝日インターチェンジ|朝日IC]]
|国道8号
|style="text-align:right"|282.1
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="2"|[[朝日町 (富山県)|朝日町]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[越中境パーキングエリア|越中境PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|288.4
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|28
|[[親不知インターチェンジ|親不知IC]]
|国道8号
|style="text-align:right"|299.3
|style="text-align:center"|
|
|rowspan="33" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[新潟県]]}}
|rowspan="5" colspan="2"|[[糸魚川市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|29
|[[糸魚川インターチェンジ|糸魚川IC]]
|[[国道148号]]<br /><span style="background-color:#CCC">[[松本糸魚川連絡道路]]<ref name="matsumoto_itoigawa_road">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.nagano.lg.jp/michiken/infra/doro/matsuito/ |title=地域高規格道路『松本糸魚川連絡道路』について |publisher=長野県 |accessdate=2017-06-02}}</ref>([[地域高規格道路#路線指定|計画路線]])</span>
|style="text-align:right"|311.9
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[蓮台寺パーキングエリア|蓮台寺PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|313.5
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[早川バスストップ|早川BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|318.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|30
|[[能生インターチェンジ|能生IC]]
|[[新潟県道88号能生インター線|県道88号能生インター線]]<br />[[新潟県道246号西飛山能生線|県道246号西飛山能生線]]
|style="text-align:right"|326.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|31
|[[名立谷浜インターチェンジ|名立谷浜IC]]/[[名立谷浜サービスエリア|SA]]
|[[新潟県道87号名立谷浜インター線|県道87号名立谷浜インター線]]
|style="text-align:right"|341.6
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="8" colspan="2"|[[上越市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|31-1
|[[上越ジャンクション|上越JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]
|style="text-align:right"|351.4
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[木田バスストップ|木田BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|353.4
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32
|[[上越インターチェンジ|上越IC]]
|[[国道18号]]([[上新バイパス]])
|style="text-align:right"|355.8
|style="text-align:center"|[[上越インター富岡バスストップ|△]]
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[頸城バスストップ|頸城BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|360.7
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|32-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[大潟パーキングエリア|大潟PA/SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[新潟県道77号上越頸城大潟線|県道77号上越頸城大潟線]](市道経由)
|style="text-align:right"|365.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[潟町バスストップ|潟町BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|367.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|33
|[[柿崎インターチェンジ|柿崎IC]]
|国道8号
|style="text-align:right"|373.8
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|34
|[[米山インターチェンジ|米山IC]]/[[米山サービスエリア|SA]]
|国道8号
|style="text-align:right"|385.2
|style="text-align:center"|◆
|SAは下り線
|rowspan="5" colspan="2"|[[柏崎市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[米山サービスエリア|米山SA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|387.2
|style="text-align:center"|
|上り線
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[上方バスストップ|上方BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|393.5
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|35
|[[柏崎インターチェンジ|柏崎IC]]
|[[国道252号]]
|style="text-align:right"|397.1
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[曽地バスストップ|曽地BS]]/<span style="background-color: #CCC">[[曽地バスストップ|SIC]]</span>
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|402.8
|style="text-align:center"|○
|SICは計画中<ref name="名前なし-1">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC203PA0Q1A121C2000000/ 新潟県、国にIC整備要望へ 原発事故時の避難渋滞緩和で]</ref>
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[刈羽パーキングエリア|刈羽PA]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|405.8
|style="text-align:center"|
|
|colspan="2"|[[刈羽郡]]<br />[[刈羽村]]
|-
!style="background-color:#BFB"|36
|[[西山インターチェンジ (新潟県)|西山IC]]
|[[新潟県道23号柏崎高浜堀之内線|県道23号柏崎高浜堀之内線]]<br />県道393号礼拝長岡線
|style="text-align:right"|407.8
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|柏崎市
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[大積パーキングエリア|大積PA]]/<span style="background-color: #CCC">[[大積パーキングエリア|SIC]]</span>
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|414.9
|style="text-align:center"|○
|SICは事業中<ref name="press20201023">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001369141.pdf|title=高速道路会社への事業許可およびスマートインターチェンジの準備段階調査への採択等を行いました|date=2020-10-23|accessdate=2020-10-23|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref>
|rowspan="5" colspan="2"|[[長岡市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|37
|[[長岡ジャンクション|長岡JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]
|style="text-align:right"|421.6
|style="text-align:center"|-
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[長岡北バスストップ|長岡北BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|423.9
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|37-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[長岡北スマートインターチェンジ|長岡北SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|市道上川西144号線
|style="text-align:right"|425.3
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|38
|[[中之島見附インターチェンジ|中之島見附IC]]
|国道8号([[見附バイパス]])
|style="text-align:right"|432.1
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|◆
|BSは1992年6月30日廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|38-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[栄パーキングエリア|栄PA]]/[[栄パーキングエリア#スマートIC|SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|市道岡野新田1号線<br />([[都市計画道路]] 半ノ木一ツ屋敷線)
|style="text-align:right"|441.5
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[三条市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|39
|[[三条燕インターチェンジ|三条燕IC]]
|[[国道289号]]
|style="text-align:right"|447.4
|style="text-align:center"|○
|
|colspan="2"|[[燕市]]
|-
!style="background-color:#BFB"|40
|[[巻潟東インターチェンジ|巻潟東IC]]
|[[国道460号]]<br />[[新潟県道9号長岡栃尾巻線|県道9号長岡栃尾巻線]]
|style="text-align:right"|457.7
|style="text-align:center"|○
|
|rowspan="6" style="width:1em;text-align:center;"|{{縦書き|[[新潟市]]}}
|[[西蒲区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|40-1
|style="background-color:#eda5ff"|[[黒埼パーキングエリア|黒埼PA]]/[[黒埼パーキングエリア#スマートIC|SIC]]
|style="background-color:#eda5ff"|[[新潟県道44号新潟燕線|県道44号新潟燕線]](市道経由)<br />[[新潟県道46号新潟中央環状線|県道46号新潟中央環状線]]<br />(新潟中央環状道路<ref>{{Cite web|和書|date=2017-04 |url=https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/doro/road/doroseibi/roadseibi/chuokanjodoro.files/00_294_re-huretto.pdf |title=新潟中央環状道路 |format=PDF |publisher=新潟市 |page=3 |accessdate=2017-06-09}}</ref>)
|style="text-align:right"|466.6<br />467.5
|style="text-align:center"|
|KPは上段 上り線、下段 下り線
|rowspan="4"|[[西区 (新潟市)|西区]]
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|[[鳥原バスストップ|鳥原BS]]
|style="text-align:center"|-
|style="text-align:right"|471.0
|style="text-align:center"|○
|
|-
!style="background-color:#BFB"|-
|style="background-color:#CCC"|[[新潟西インターチェンジ#概要|新潟TB]]
|style="background-color:#CCC; text-align:center"|-
|style="text-align:right"|472.2
|style="text-align:center"|-
|[[1989年]][[3月23日]]廃止
|-
!style="background-color:#BFB"|41
|[[新潟西インターチェンジ|新潟西IC]]
|[[国道116号]]([[新潟西バイパス]])
|style="text-align:right"|473.0
|style="text-align:center"|
|
|-
!style="background-color:#BFB"|42
|[[新潟中央ジャンクション|新潟中央JCT]]
|{{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]]
|style="text-align:right"|476.5
|style="text-align:center"|-
|
|[[江南区 (新潟市)|江南区]]
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|{{Ja Exp Route Sign|E7}} [[日本海東北自動車道]]
|}
== 歴史 ==
開通当初は[[長岡ジャンクション]] (JCT) より米原方面は[[西山インターチェンジ (新潟県)|西山インターチェンジ]] (IC) からの番号 (1 - 33) が振られる一方で、当時の長岡JCT - [[新潟黒埼インターチェンジ|新潟黒埼IC]]は[[関越自動車道]]の[[練馬インターチェンジ|練馬IC]]からの連番 (22 - 26) が振られていた。このときの[[距離標|キロポスト]]は長岡JCTを起点にして[[朝日インターチェンジ|朝日IC]]方面に向かうキロポストと朝日IC付近を起点として米原方面に向かうキロポストの2種類があり、同一路線上に同じ値のキロポストが存在する暫定的なものであった{{sfn|日本道路公団|1993|p=103}}。全線開通に合わせ整理統合することとなり、北陸道に並行するJR[[北陸本線]]に合わせて、米原方面行きを「上り線」、新潟方面行きを「下り線」とし、キロポストも'''米原JCT起点、新潟黒埼IC終点'''のものに変更された<ref name=":0">{{Cite news|title=日本道路公団、北陸道の新潟黒埼―上越間の距離標変更|newspaper=日本経済新聞|date=1987-04-21|publication-date=1987-04-21}}{{要ページ番号|date=2020年10月}}</ref>。IC番号も米原ICから新潟方面に向かって各ICに加え小矢部(現・小矢部砺波)JCTなどの建設予定JCTやICをも含めた連続番号に変更した。これらキロポストやIC番号の変更に伴い、[[日本の道路標識#案内標識|案内標識]]などの変更工事が1987年5月から7月にかけて行われた<ref name=":0" />。
なお、長岡JCTの構造は北陸自動車道 新潟方面から関越自動車道 東京方面が[[本線車道|本線]]であり、北陸自動車道の富山方面はこれに分岐・合流する[[ランプ (道路)|ランプ]]になっている。
[[1988年]]([[昭和]]63年)の全線開通の際、最後に完成した[[サービスエリア]] (SA) である[[名立谷浜サービスエリア|名立谷浜SA]]には、全線開通の記念碑が建立されている。また、北陸自動車道の全ICとJCTの形状を描いたタイルが設置されていたが、[[2017年]]のタイル張替え時に撤去された。
現在の[[国道116号]][[新潟西バイパス]][[新潟西インターチェンジ|新潟西IC]] - [[黒埼インターチェンジ|黒埼IC]](当時は新潟黒埼IC)も北陸自動車道として建設・開通したが、その後の北陸自動車道の延伸工事に伴い、[[高速自動車国道]]から[[一般国道]](自動車専用道路)へ降格され無料開放された(このような区間は高速自動車国道では唯一である){{sfn|佐藤健太郎|2014|p=46|ps=第1章 国道の名所を行く「高速道路から国道になった道」より}}。また、現在の関越自動車道 長岡JCT - 長岡IC、日本海東北自動車道 新潟中央JCT - [[新潟空港インターチェンジ|新潟空港IC]]も北陸自動車道として建設・開通したが、前者は関越自動車道 長岡IC以南の区間の開通の際に、後者は日本海東北自動車道 新潟空港IC以北の区間が延伸開業した際に北陸自動車道から分離され現在の名称になっている。このような経緯から、高速自動車国道の路線名としての北陸自動車道には新潟中央JCT - 新潟空港ICと長岡IC - 長岡JCTも含まれている。
=== 年表 ===
{{一次資料|date=2020年10月|section=1}}
{{Notice|年表を記載される場合(特に2009年以降の記載)は、出典はプレスリリースのみとせず、これ以外の記事も別途記載願います。|お願い|section=1}}
* [[1961年]]([[昭和]]36年)[[10月27日]]:北陸縦貫高速自動車道の建設に関する国道開発縦貫自動車道建設法の一部を改正する法律案が可決される。この時点では新潟市 - 大津市が路線の基準として定められていた<ref>『富山市史 第四巻』(1969年12月20日、富山市発行)303頁。</ref>。
* [[1962年]](昭和37年):富山県内のルートが公表される<ref name="kita">『北日本新聞』2019年10月3日付朝刊11面『なるほど!富山の高速道路・12 なぜ高岡を通らない 宅地避け山寄りに』より。</ref>。
* [[1966年]](昭和41年)[[7月1日]]:新潟市 - 滋賀県坂田郡米原町(現:米原市)が国土開発幹線自動車道の予定路線とされ、建設大臣の施行命令を受けて建設に着手<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 16 富山県』(昭和54年10月8日、[[角川書店]]発行)787ページ</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)[[7月10日]]:富山県内第1号杭が高岡市中田町小泉新の神明宮境内に打ち込まれる<ref>『砺波市五十年史』(2004年3月25日、砺波市発行)313 - 314ページ「杭打ち式の実施」より。</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[9月11日]]:石川県[[能美郡]][[根上町]](現・[[能美市]])浜地内にて起工式<ref>『富山新聞』1968年9月11日付朝刊1面『北陸自動車道 きょう建設の第一歩』および、1968年9月12日付朝刊1面『北陸自動車道 きのう起工式』より。</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[11月17日]]:富山県内区間が着工<ref>『砺波市五十年史』(2004年3月25日、砺波市発行)314ページ「建設工事の開始」より。</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[10月18日]]:金沢西IC - 小松IC開通<ref name=Kanazawashisha>{{Cite web|和書|url=https://hokuriku-info.com/pr2/assets/pdf/kanazawa_area.pdf |format=PDF |title=NEXCO中日本 金沢支社管内 開通状況 |publisher=[[中日本高速道路]] |accessdate=2022-01-22 }}</ref>{{sfn|北國新聞|2003|p=154}}。
** [[10月25日]]:富山 - 朝日間の路線原案を内定<ref>『みんなの県政』1972年12月号(No.48)(富山県総務部県民課企画・発行)21頁『県政のうごき 10月17日~11月11日』より。</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)
** [[10月16日]]:小杉IC - 砺波IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|富山新聞|2003|p=341}}。
** [[10月17日]]:小松IC - 丸岡IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|福井新聞|2000|p=714}}。
** [[10月26日]]:朝日IC - 糸魚川IC間に施行命令<ref>『みんなの県政』1973年12月号(No.59)(富山県総務部県民課企画・発行)20頁『トピックス 9月11日~10月30日』より。</ref>。
* [[1974年]](昭和49年)[[10月29日]]:砺波IC - 金沢東IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|富山新聞|2003|p=347}}{{sfn|北國新聞|2003|p=175}}<ref>{{Cite news|和書|title = 北陸自動車道・砺波-金沢東間 華やかに開通式|newspaper = 北日本新聞|date = 1974-10-30|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)
** [[9月9日]]:丸岡IC - 福井IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|福井新聞|2000|p=714}}。
** [[10月4日]]:富山IC - 小杉IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|富山新聞|2003|p=355}}{{sfn|北國新聞|2003|p=183}}<ref>{{Cite news|和書|title = 北陸自動車道・富山-小杉間 待望の開通、三県都結ぶ|newspaper = 北日本新聞|date = 1975-10-04|issue = 夕刊|pages = 1}}</ref>。
** [[10月27日]]:女形谷PA開設。
* [[1976年]](昭和51年)
** [[11月2日]]:福井IC - 武生IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|福井新聞|2000|p=714}}。
** 年内:富山IC - 滑川IC間が着工<ref>『立山町史 下巻』(1984年2月15日、立山町発行)1320頁。</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)[[12月8日]]:武生IC - 敦賀IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|福井新聞|2000|p=714}}(ただし今庄IC - 敦賀IC間は[[暫定2車線]])。
* [[1978年]](昭和53年)
** [[9月21日]]:新潟黒埼IC(当時)- 長岡ICが開通<ref name=Niigata-ayumi>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/dourokensetsu/1203526871828.html |title=新潟県の道路建設のあゆみ |publisher=[[新潟県]]土木部道路建設課 |date=2021-01-25 |accessdate=2022-01-22 }}</ref>。
** [[10月12日]]:金沢東IC - 金沢西IC開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|北國新聞|2003|p=206}}。
* [[1980年]](昭和55年)
** [[4月7日]]:敦賀IC - 米原JCT開通<ref name=Kanazawashisha />{{sfn|福井新聞|2000|p=714}}<ref>{{Cite news|title=北陸自動車道、名神と直結――道路公団大阪が敦賀―米原間を完成、4月7日に開通|newspaper=日本経済新聞|date=1980-03-08|publication-date=1980-03-08}}{{要ページ番号|date=2020年10月}}</ref>。
** [[6月13日]]:今庄IC - 敦賀ICの4車線化工事完了。
** [[6月19日]]:米原IC開通。
** [[7月1日]]:杉津PA開設。
** [[9月27日]]:長岡JCT - 西山IC開通<ref name=Niigata-ayumi />、同時に長岡JCT - 長岡ICを関越自動車道に改称。
** [[10月14日]]:美川IC開通<ref name=Kanazawashisha />。
** [[12月19日]]:滑川IC - 富山IC開通<ref name=Kanazawashisha /><ref>{{Cite news|和書|title = 新川地区まで延びる 北陸自動車道富山-滑川間が開通|newspaper = 北日本新聞|date = 1980-12-20|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。
* [[1981年]](昭和56年)
** [[4月25日]]:不動寺PA開設。
** [[10月29日]]:西山IC - 柏崎IC開通<ref name=Niigata-ayumi />。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[11月12日]]:[[親不知トンネル]]着工<ref>『北日本新聞』1982年10月29日付朝刊18面『さあ来月12日着工だ 親不知トンネル 完成は60年3月 北陸自動車道 市振トンネルも計画』より。</ref>。
** [[11月17日]]:柏崎IC - 米山IC開通<ref name=Niigata-ayumi />。黒埼PA開設。
* [[1983年]](昭和58年)
**[[11月9日]]:米山IC - 上越IC開通<ref name=Niigata-ayumi /><ref>{{Cite news|title=道路公団新潟建設局、北陸自動車道米山―上越間を来月9日開通|newspaper=日本経済新聞|date=1983-10-08|publication-date=1983-10-08}}{{要ページ番号|date=2020年10月}}</ref><ref>『上越市史 通史編6 現代』(2002年3月31日、上越市発行)年表24頁。</ref>。
** 11月15日:鯖江IC開通<ref name=Kanazawashisha />。
** [[12月13日]]:朝日IC - 滑川IC開通<ref name=Kanazawashisha /><ref>{{Cite news|和書|title = 北陸自動車道 県内を“全通” 滑川以東、6年ぶり完成|newspaper = 北日本新聞|date = 1983-12-14|issue = 朝刊|pages = 5}}</ref><ref>{{Cite news|title=北陸自動車道、滑川―朝日間きょう開通――富山県を貫通|newspaper=日本経済新聞|date=1983-12-13|publication-date=1983-12-13}}{{要ページ番号|date=2020年10月}}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
** この年に親不知海岸高架橋が着工<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 15 新潟県』(1989年10月8日、[[角川書店]]発行)329ページ。</ref>。
** [[4月27日]]:有磯海SA開設<ref name=Kanazawashisha />。
** [[9月27日]]:金津IC開通<ref name=Kanazawashisha />。
* [[1986年]](昭和61年)[[11月21日]]:賤ヶ岳SA開設<ref name=Kanazawashisha />。
* [[1987年]](昭和62年)[[7月21日]]:名立谷浜IC - 上越IC開通(暫定2車線)<ref name=Niigata-ayumi />、同時に上越IC - 新潟黒埼IC(当時)のIC番号・キロポスト変更。
* [[1988年]](昭和63年)[[7月20日]]:朝日IC - 名立谷浜IC開通(暫定2車線)<ref name=Kanazawashisha /><ref name=Niigata-ayumi />{{sfn|富山新聞|2003|p=452}}<ref>{{Cite news|和書|title = 北陸道が全線開通 朝日-名立谷浜間59.5キロ|newspaper = 北日本新聞|date = 1988-07-21|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref><ref>{{Cite news|title=名立谷浜―朝日、北陸道7月20日全通――工期2年短縮|newspaper=日本経済新聞|date=1988-05-21|publication-date=1988-05-21}}{{要ページ番号|date=2020年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.sankei.com/article/20180517-W6IEFAW5SBLFHNTR2KXYXMVPOI/|title = 新潟のご当地アイドルNegiccoが高速道開通40年祝う SAイチ押しは「南蛮えび煎餅」|newspaper = 産経ニュース|date = 2018-05-17|accessdate = 2022-08-28}}</ref>。これにより1回目の'''全線開通'''し同時に米原IC - 朝日ICのIC番号・キロポスト変更。流杉PA開設。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[3月23日]]:新潟西IC開通により国道116号新潟西バイパスと接続。新潟料金所は新潟西IC料金所に変更。
** [[6月1日]]:新潟黒埼IC - 新潟西ICを国道116号新潟西バイパスに編入。同日、米原JCT - 長岡JCT間にハイウェイカードを導入<ref>『北陸自動車道20周年記念誌』(1993年3月、日本道路公団金沢管理局発行)156頁より。</ref>。
* [[1991年]](平成3年)[[10月1日]]:敦賀IC - 金津IC間の入口が自動化<ref name="p158">『北陸自動車道20周年記念誌』(1993年3月、日本道路公団金沢管理局発行)158頁より。</ref>。
* [[1992年]](平成4年)
** この年、加賀IC - 朝日IC間および、新潟西ICの入口が自動化<ref name="p158" />。
** [[3月28日]]:小矢部砺波JCT開通により東海北陸自動車道と接続{{sfn|富山新聞|2003|p=489}}<ref>{{Cite news|和書|title = 東海北陸道 日本海側初の開通 福光-小矢部砺波11.1キロ|newspaper = 北日本新聞|date = 1992-03-29|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)[[7月23日]] - 糸魚川IC - 名立谷浜ICの付加車線の4車線化完成<ref name="iss">『糸魚川市史 昭和編 資料集』(2007年3月31日、糸魚川市役所発行)265頁『4 北陸自動車道利用状況』より。</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[7月28日]]:新潟西IC - 新潟亀田IC開通<ref name=Niigata-ayumi /><ref>{{Cite news |title=磐越、北陸道28日一部開通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1994-07-12 |page=1 }}</ref>と同時に磐越自動車道と接続、新潟西ICに第二料金所を新設。
** [[7月30日]]:建設省から朝日IC - 上越IC間の4車線化の実施計画の変更認可が下りる<ref>『広報あさひ』(朝日町役場発行)1993年11月号(No459)、11頁『北陸自動車道 上越・朝日間 4車線化』より。</ref>。
* [[1996年]](平成8年)3月28日:小矢部砺波JCTで能越自動車道と接続<ref>{{Cite news|和書|title = 能越道が部分開通 小矢部砺波JCT-福岡IC間|newspaper = 北日本新聞|date = 1996-03-29|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[11月13日]]:新潟亀田IC - 新潟空港IC開通<ref name=Niigata-ayumi />により、'''全線開通'''。
* [[1998年]](平成10年)[[10月23日]]:朝日IC - 越中境PA4車線化<ref>『新聞に見る20世紀の富山 第3巻』(2000年11月26日、北日本新聞社発行)280頁。</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[10月30日]]:上越JCT開通により上信越道と接続<ref name=Niigata-ayumi />。同時に名立谷浜IC - 上越IC4車線化<ref name="iss" />。
* [[2000年]](平成12年)
** [[4月25日]]:能生IC - 名立谷浜IC4車線化<ref name="iss" />。
** [[9月5日]]:越中境PA - 親不知IC4車線化<ref name="iss" />。
** [[9月19日]]:糸魚川IC - 能生IC4車線化<ref name="iss" />。
** [[10月3日]]:親不知IC - 糸魚川IC4車線化により、'''全線が4車線で完成'''<ref name="iss" />。
* [[2001年]](平成13年)[[6月4日]]:米原(まい'''ば'''ら)JCTが米原(まい'''は'''ら)JCTに、米原(まい'''ば'''ら)ICが米原(まい'''は'''ら)ICにそれぞれ改称。
* [[2002年]](平成14年)[[5月26日]]:日本海東北自動車道新潟空港IC - 聖籠新発田IC開通<ref name=Niigata-ayumi />と同時に新潟中央JCT - 新潟空港IC間を北陸自動車道から日本海東北自動車道に改称。
* [[2003年]](平成15年)[[3月29日]]:富山西IC開通<ref name=Kanazawashisha />。
* [[2004年]](平成16年)
** [[3月20日]]:金沢森本IC開通<ref name=Kanazawashisha />。
** [[10月23日]]:[[新潟県中越地震]]が発生し、一時的に柿崎IC - 三条燕ICが通行止めとなる。
** [[12月24日]]:黒埼PAスマートIC[[社会実験]]開始(2006年3月31日まで、当初の実験期間は2005年3月21日まで)。
* [[2005年]](平成17年)
** [[4月11日]]:徳光PAスマートIC社会実験開始(2006年3月31日まで、当初の実験期間は2005年7月10日まで){{sfn|白山市|2015|p=10}}<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.city.hakusan.lg.jp/data/open/cnt/3/6562/1/1703.pdf|title = 広報はくさん 第2号|publisher = 白山市市民生活部広報広聴課|date = 2005-03-10|accessdate = 2021-01-05|format = PDF}}</ref>。
** [[6月1日]]:尼御前SAスマートIC社会実験開始(2005年8月31日まで)。
** [[8月1日]]:入善PAスマートIC社会実験開始(2006年3月31日まで、当初の実験期間は2005年7月24日まで)<ref>{{Cite web|url = https://www.town.nyuzen.toyama.jp/material/files/group/2/2005_04.pdf|title = 2005_04.pdf|publisher = [[入善町]]|date = 2005-03-28|accessdate = 2021-05-18|format = PDF}}</ref>。
** [[12月17日]]:南条SAスマートIC社会実験開始(2009年3月31日まで)<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.town.minamiechizen.lg.jp/kouhou/h17/p001297_d/fil/2005_12_06.pdf|title = 広報南えちぜん 平成17年(2005年)12月号|publisher = 南越前町企画財政課情報政策室|date = 2005-11-25|accessdate = 2020-10-14|format = PDF}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[10月1日]] : 黒埼スマートIC<ref name=Niigata-ayumi />・入善スマートIC<ref name=Kanazawashisha /><ref>{{Cite web|url = https://www.town.nyuzen.toyama.jp/material/files/group/2/2006_11.pdf|title = 2006_11.pdf|publisher = [[入善町]]|date = 2006-10-27|accessdate = 2021-05-18|format = PDF}}</ref>・徳光スマートIC<ref name=Kanazawashisha /><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.city.hakusan.lg.jp/data/open/cnt/3/6583/1/1810.pdf|title = 広報はくさん 第21号|publisher = 白山市市民生活部広報広聴課|date = 2006-10-10|accessdate = 2021-01-05|format = PDF}}</ref>が本格運用開始。
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月25日]]:[[能登半島地震]]が発生し、一時的に加賀IC - 富山ICが通行止めとなる。
** [[4月1日]]:大潟スマートICが本格運用開始。
** [[5月31日]]:米原[[本線料金所|TB]]を廃止。
** [[7月16日]]:[[新潟県中越沖地震]]が発生し、一時的に糸魚川IC - 新潟西ICが通行止めとなる。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月23日]]:安宅PAスマートIC社会実験開始(2009年3月31日まで)。
** 3月29日:流杉PAスマートIC社会実験開始(2009年3月31日まで)。
* [[2009年]](平成21年)
** 4月1日:流杉スマートIC・安宅スマートIC・南条スマートICが本格運用開始<ref name=Kanazawashisha />。
** [[6月30日]]:栄スマートICの連結を許可<ref>{{Cite web|和書|date=2009-06-30 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000081.html |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)[[3月1日]]:高岡砺波スマートICの連結を許可<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-01 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000153.html |title=高速道路へのスマートインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月5日]]:白山IC敷地内への移設のため、現在地の松任BSを閉鎖。
** [[4月17日]]:小谷城スマートICの連結を許可<ref>{{Cite web|和書|date=2012-04-20 |url=https://www-1.kkr.mlit.go.jp/scripts/cms/road/infoset1/data/pdf/info_1/20120420_01.pdf |title=高速自動車国道へのインターチェンジの追加 〜小谷城、宝塚北及び敦賀南スマートIC、すさみ西ICの追加を決定〜 |format=PDF |publisher=国土交通省 近畿地方整備局 |accessdate=2013-12-26}}</ref>。
** [[4月21日]]:白山IC開通<ref name=Kanazawashisha /><ref name="kohohakusan87">{{Cite web|和書|url = https://www.city.hakusan.lg.jp/data/open/cnt/3/7346/1/2404.pdf|title = 広報はくさん 第87号|publisher = 白山市市民生活部広報広聴課|date = 2012-04-10|accessdate = 2020-01-05|format = PDF}}</ref>{{sfn|白山市|2015|p=42}}。
** [[4月22日]]:白山IC敷地内に移設した松任BSを開設。
** [[7月14日]]:栄スマートIC開通。
* [[2013年]](平成25年)
** [[6月11日]]:能美根上スマートICの連結を許可<ref>{{Cite web|和書|date=2013-06-11 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000360.html |title=インターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
** [[10月7日]]:東日本高速道路 新潟支社 道路管制センターの新道路管制センター開所(新潟亀田ICの新潟管理事務所に隣接)。
** [[10月15日]] - [[10月16日|16日]]:東日本高速道路 新潟支社 道路管制センターが新潟市西区(新潟バイハスの黒埼ICに隣接)から新潟市江南区(新潟亀田ICの新潟管理事務所に隣接)へ移転。16日の15時から運用を開始した<ref>{{Cite web|和書|date=2013-09-25 |url=http://www.kensetusokuho.jp/kensetsu/articles/show/28954 |title=新道路管制センターを公開、10月中旬運用開始― NEXCO東日本新潟支社 |publisher=株式会社 建設速報社 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)[[7月20日]] : 敦賀JCT開通により舞鶴若狭自動車道と接続<ref>{{Cite web|和書|date=2014-04-24 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3478.html |title=舞鶴若狭自動車道 小浜IC〜敦賀JCTは7月中の開通を目指します 〜インターチェンジなどの名称も決定〜 |publisher=中日本高速道路株式会社 |accessdate=2017-06-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-16 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3485.html |title=舞鶴若狭自動車道 小浜IC〜敦賀JCTが7月20日(日)15時に開通します |publisher=中日本高速道路株式会社 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月1日]]:高岡砺波スマートIC供用開始<ref name=Kanazawashisha /><ref>{{Cite web|和書|date=2015-01-20 |url=http://www.c-nexco.co.jp/topics/285.html?category=info |title=3月1日(日)から北陸自動車道高岡砺波スマートICおよび東海北陸自動車道南砺スマートICがご利用いただけます |publisher=中日本高速道路株式会社 |accessdate=2017-06-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150121033250/http://www.c-nexco.co.jp/topics/285.html?category=info |archivedate=2015年1月21日 }}</ref>。中部縦貫自動車道との接続に伴い福井北ICを福井北JCT・ICに改称<ref>{{Cite web|和書|date=2015-01-26 |url=http://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3596.html |title=中部縦貫自動車道 3月1日(日)福井北JCT・IC〜松岡ICが開通します! 〜中部縦貫自動車道と北陸自動車道が接続〜 |publisher=国土交通省 近畿地方整備局/中日本高速道路株式会社 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[3月25日]]:長岡北スマートIC<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-17 |url=https://www.e-nexco.co.jp/rest/pressroom/press_release/niigata/h29/0217/pdfs/pdf.pdf |title=企業誘致や広域交流を促進! 北陸自動車道 長岡北スマートICが3月25日(土)14時に開通 |format=PDF |publisher=長岡市 土木部 土木政策調整課/東日本高速道路株式会社 新潟支社/新潟県長岡地域振興局 |accessdate=2017-02-17}}</ref>および小谷城スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-20 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3964.html |title=北陸自動車道「小谷城スマートインターチェンジ」の開通について |publisher=滋賀県/中日本高速道路株式会社 名古屋支社/長浜市 |accessdate=2017-06-12}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[2月7日]]:[[平成30年豪雪]]の影響で、国道8号(福井県坂井市 - 石川県加賀市)で車の立往生が相次いだため、国道8号の代用として丸岡IC - 加賀ICを無料開放<ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-07 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4227.html |title=国道8号大雪通行止めに伴う北陸自動車道(丸岡⇔加賀間)の代替路(無料)措置について |publisher=福井県/中日本高速道路株式会社 金沢支社/坂井市 |accessdate=2018-02-07}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://response.jp/article/2018/02/07/305773.html|title = NEXCO中日本、北陸道 福井IC-加賀ICを代替路として無料開放…国道8号 大雪通行止|publisher = [[Response.]]|date = 2018-02-07|accessdate = 2020-10-30}}</ref>。
** 3月25日:能美根上スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4217.html|title=E8 北陸道 能美根上スマートインターチェンジが 2018年3月25日(日)15時に開通します。|date=2017-12-27|accessdate=2017-12-27|publisher=能美市・中日本高速道路株式会社}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title = 北國新聞で見る 平成いしかわの30年|publisher = 北國新聞社|date = 2019-08-05|pages = 501}}</ref>。
** [[3月28日]]:南条スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4246.html|title=E8 北陸道 南条スマートICが24時間ご利用いただけます 〜2018年3月28日(水)午前6時より〜|date=2018-03-02|accessdate=2018-03-02|publisher=南越前町・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[3月29日]]:安宅スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4742.html|title=E8 北陸道 安宅スマートICが24時間ご利用可能となります 〜2020年3月29日(日)午前6時より〜|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-20|publisher=石川県・中日本高速道路株式会社}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1236408.html|title = NEXCO中日本、北陸道 安宅スマートICを3月29日から24時間化。小松空港の運用時間延長に対応|publisher = トラベルWatch|date = 2020-02-20|accessdate = 2020-10-14}}</ref>。
** [[12月13日]]:上市スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4933.html|title=E8 北陸道「上市スマートIC」が2020年12月13日(日)11時に開通します|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-12|publisher=富山県上市町・中日本高速道路株式会社}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[8月5日]] - [[令和4年8月豪雨]]により[[敦賀トンネル]]出口付近で約2万m<sup>3</sup>の土砂の流入が発生したため、同日以降敦賀IC - 今庄IC間で通行止めとなった<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/853372 通行止めの北陸自動車道・敦賀―今庄IC 下り復旧は8月末](京都新聞、2022年8月8日)</ref>。
** [[8月10日]] - 同日午前0時をもって上り線の通行止めを解除し、同時に一部区間を迂回路として無料化措置をとる<ref>[https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1606743 北陸道上り線の通行止めは8月10日午前0時解除 一部区間を無料化](福井新聞ONLINE、2022年8月9日)</ref>。
** [[8月27日]] - 同日午前6時をもって下り線の通行止めを解除し、一部区間は1車線規制による暫定開放を行う<ref>[https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1617615 北陸道下り線、敦賀IC―今庄IC間の通行止め解除 8月27日ネクスコ中日本、大雨被害から3週間ぶり復旧](福井新聞ONLINE、2022年8月27日)</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月1日]]:大潟スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/life/195155_272182_misc.pdf|title=E8北陸自動車道 大潟スマートインターチェンジ 令和5年3月1日(水)午前6時から24時間の利用が可能となります|date=2023-02-07|accessdate=2023-03-02|publisher=上越市・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。
** [[3月25日]]:黒埼スマートICの車長制限撤廃と利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite press release |和書 |title=【E8】北陸自動車道 黒埼スマートインターチェンジ 令和5年3月25日(土)から運用形態が変更となります 〜車種制限の解除及び24時間の利用が可能に〜 |publisher=新潟市土木部道路計画課・東日本高速道路新潟支社 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/niigata/2023/0118/00012187.html |date=2023-01-18 |access-date=2023-03-25 }}</ref>。
** [[8月31日]]:同日0時から、丸岡IC、美川IC、立山ICがETC専用に変更<ref>『北日本新聞』2023年6月24日付25面『立山IC ETC専用に 8月31日から 丸岡・美川ICも』より。</ref>。
=== 今後の計画 ===
北陸自動車道で事業中、または計画中のJCT、ICを挙げる。
* 神田PA : スマートIC事業中<ref name="press20220930" />
* 木之本IC : [[琵琶湖西縦貫道路]]と接続を計画中<ref name="biwakonishi_road" /><ref name="biwakonishi_road_shiga" />
* 丸岡IC : 福井港丸岡インター連絡道路と接続予定([[地域高規格道路#区間指定|調査中]])<ref name="fukui_port_maruoka" />
* 糸魚川IC : [[松本糸魚川連絡道路]]と接続を計画中<ref name="matsumoto_itoigawa_road" />
* 曽地BS : スマートIC計画中<ref name="名前なし-1"/>
* 大積PA : スマートIC事業中<ref name="press20201023" />
== 路線状況 ==
=== 車線・最高速度 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan="2" |区間!!colspan="3" |[[車線]]!!colspan="2" |[[最高速度]]!!rowspan="2" |[[設計速度]]!!rowspan="2" |備考
|-
!上下線||上り線||下り線
![[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両
|-
| rowspan="2" |米原JCT - 米原IC||rowspan="2" |5||rowspan="2" |3||rowspan="2" |2||colspan="2" |60 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||rowspan="3" |100 km/h||上り線
|-
| rowspan="17" |80 km/h||rowspan="3" |100 km/h<br />(法定)||下り線
|-
| 米原IC - 神田PA||rowspan="3" |4||rowspan="3"|2||rowspan="3"|2||
|-
| 神田PA - 木之本IC||120 km/h||
|-
| 木之本IC - 敦賀JCT||rowspan="3" |80 km/h<br />(指定)||rowspan="3" |80 km/h||
|-
| 敦賀JCT - 敦賀IC||6||3||3||
|-
| 敦賀IC - 武生IC||rowspan="12"|4||rowspan="12"|2||rowspan="12"|2||
|-
| 武生IC - 丸岡IC||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 丸岡IC - 尼御前SA||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
| 尼御前SA - 金沢森本IC||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 金沢森本IC - 小矢部IC||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
| 小矢部IC - 朝日IC||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 朝日IC - 上越JCT||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||※1
|-
| 上越JCT - 柿崎IC||100 km/h<br />(法定)||100 km/h||
|-
| 柿崎IC - 上方BS||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
| 上方BS - 新地蔵TN||100 km/h<br />(法定)||rowspan="3" |100 km/h||
|-
| 新地蔵TN内||80 km/h<br />(指定)||
|-
| 新地蔵TN - 長岡JCT||100 km/h<br />(法定)||
|-
| 長岡JCT ランプ内||3||2||1||colspan="2"|70 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|-
| 長岡JCT - 長岡北BS||rowspan="3"|4||rowspan="3"|2||rowspan="3"|2||rowspan="3" |80 km/h||80 km/h<br />(指定)||rowspan="2" |100 km/h||
|-
| 長岡北BS - 新潟西IC||100 km/h<br />(法定)||
|-
| 新潟西IC - 新潟中央JCT||80 km/h<br />(指定)||80 km/h||
|}
* ※1 : トンネル26本連続区間。
[[雨天]]・[[降雪]]・[[霧|濃霧]]・[[台風]]などの荒天時、[[交通事故|事故]]や工事などの時は50 - 80 km/hの速度規制が行われる。
=== 道路施設 ===
==== サービスエリア・パーキングエリア ====
売店はすべての[[サービスエリア]] (SA) と半数以上の[[パーキングエリア]] (PA) に設置されている。[[ガソリンスタンド]]はすべてのサービスエリアと黒埼PAにあり、24時間営業である。レストランは小矢部川SAと有磯海SA下り線、名立谷浜SAを除くすべてのサービスエリアに設置されている。
==== 主なトンネルと橋 ====
[[ファイル:Hokuriku_Expressway_and_Route_8_Oyashirazu_Niigata_JPN_001.jpg|210px|right|thumb|[[親不知]]を海上高架橋で通過する]]
[[ファイル:Tokimeki-Bridge.jpg|210px|right|thumb|[[ときめき橋]]]]
木之本IC - 武生ICは14本(このうち2,000 m超は2本)、朝日IC - 上越ICは26本(このうち2,000 m超は8本)のトンネルが設けられている。富山県と新潟県境を通過する後者の区間は、いくつものトンネルを繋いで[[日本海]]に落ちる[[飛騨山脈]](北アルプス)の急峻な断崖を通過するところで、各トンネル入口に何箇所目のトンネルであるかを示す表示板が取り付けられている。「天下の険」と呼ばれ古くから交通の難所で知られる[[親不知]]付近では、狭い平地から海上に張り出すように道路橋で繋いでおり、その中間に国道8号と連絡する親不知ICが設置されている{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=50|ps= 第1章 国道の名所を行く「海の上を走る国道」より}}。
{| class="wikitable sortable mw-collapsible"
|+
|-
! rowspan="2" |区間
! rowspan="2" |構造物名
! colspan="2" |長さ
|-
!上り線
!下り線
|-
|賤ヶ岳SA - 刀根PA||[[柳ヶ瀬トンネル]]|| style="text-align:right" |1,272 m|| style="text-align:right" |1,322 m
|-
|刀根PA - 敦賀JCT||小河トンネル|| style="text-align:right" |1,125 m|| style="text-align:right" |1,163 m
|-
| rowspan="3" |敦賀IC - 杉津PA||越坂トンネル|| style="text-align:right" |1,862 m|| style="text-align:right" |
|-
||葉原トンネル|| style="text-align:right" |1,070 m|| style="text-align:right" |900 m
|-
||杉津トンネル|| style="text-align:right" |462 m|| style="text-align:right" |1,155 m
|-
| rowspan="2" |杉津PA - 今庄IC||[[敦賀トンネル#北陸自動車道 敦賀トンネル|敦賀トンネル]]|| style="text-align:right" |3,225 m|| style="text-align:right" |2,925 m
|-
||今庄トンネル|| style="text-align:right" |2,755 m|| style="text-align:right" |2,756 m
|-
|南条SA - 武生IC||日野山トンネル|| style="text-align:right" |1,556 m|| style="text-align:right" |1,362 m
|-
| rowspan="2" |北鯖江PA - 福井IC
|半田トンネル
|630 m
| 620 m
|-
|[[足羽川]]橋|| style="text-align:right" |260 m|| style="text-align:right" |260 m
|-
|福井北IC - 丸岡IC||[[九頭竜川]]橋|| style="text-align:right" |460 m|| style="text-align:right" |460 m
|-
|能美根上SIC - 美川IC||[[手取川橋]]|| style="text-align:right" |550 m|| style="text-align:right" |550 m
|-
| rowspan="3" |不動寺PA-小矢部IC
|清水谷第一トンネル
|470m
|360 m
|-
|清水谷第二トンネル
|150 m
|130 m
|-
|高窪トンネル
|400 m
|390 m
|-
|高岡砺波SIC - 高岡PA||[[庄川]]橋|| style="text-align:right" |550 m|| style="text-align:right" |550 m
|-
|富山西IC - 富山IC||[[神通川]]橋|| style="text-align:right" |590 m|| style="text-align:right" |590 m
|-
|流杉PA - 立山IC||[[常願寺川]]橋|| style="text-align:right" |850 m|| style="text-align:right" |850 m
|-
|黒部IC - 入善PA||[[黒部川]]橋|| style="text-align:right" |770 m|| style="text-align:right" |770 m
|-
| rowspan="3" |朝日IC-越中境PA
|泊トンネル
|750 m
|710 m
|-
|城山トンネル|| style="text-align:right" |1,560 m|| style="text-align:right" |1,578 m
|-
|宮崎トンネル
| 900 m
| 910 m
|-
| rowspan="4" |越中境PA - 親不知IC||[[境トンネル (富山県)|境トンネル]]|| style="text-align:right" |2,303 m|| style="text-align:right" |2,211 m
|-
||市振トンネル|| style="text-align:right" |3,342 m|| style="text-align:right" |3,326 m
|-
||親不知トンネル|| style="text-align:right" |2,224 m|| style="text-align:right" |2,268 m
|-
|風波トンネル
|560 m
| 530 m
|-
|越中境PA - 親不知IC - 糸魚川IC||[[親不知]]海岸高架橋|| style="text-align:right" |<ref name="oyashirazukokakyo">{{Cite web|和書|url=http://jsce-niigata.com/introduction/article/011/art011.html|title= 天嶮に架かる橋 北陸自動車道・親不知海岸高架橋(糸魚川市) |website=にいがた土木構造物めぐり |publisher=[[土木学会]]関東支部新潟会 |accessdate= 2016-03-17}}</ref>3,373 m|| style="text-align:right" |<ref name="oyashirazukokakyo" />3,386 m
|-
| rowspan="3" |親不知IC - 糸魚川IC||[[子不知トンネル]]|| style="text-align:right" |4,557 m|| style="text-align:right" |4,563 m
|-
||寺地トンネル|| style="text-align:right" |1,215 m|| style="text-align:right" |1,242 m
|-
||岩木トンネル|| style="text-align:right" |1,665 m|| style="text-align:right" |1,638 m
|-
| rowspan="3" |蓮台寺PA - 能生IC||金山トンネル|| style="text-align:right" |1,263 m|| style="text-align:right" |1,246 m
|-
||高の峰トンネル|| style="text-align:right" |3,129 m|| style="text-align:right" |3,097 m
|-
||大平寺トンネル|| style="text-align:right" |1,140 m|| style="text-align:right" |1,221 m
|-
| rowspan="5" |能生IC - 名立谷浜IC/SA||能生トンネル|| style="text-align:right" |2,985 m|| style="text-align:right" |2,992 m
|-
||山王トンネル|| style="text-align:right" |2,229 m|| style="text-align:right" |2,216 m
|-
||筒石トンネル|| style="text-align:right" |2,044 m|| style="text-align:right" |2,028 m
|-
||徳合トンネル|| style="text-align:right" |1,148 m|| style="text-align:right" |1,178 m
|-
||名立トンネル|| style="text-align:right" |1,386 m|| style="text-align:right" |1,397 m
|-
| rowspan="3" |名立谷浜IC/SA - 上越JCT||花立トンネル|| style="text-align:right" |1,012 m|| style="text-align:right" |944 m
|-
||薬師トンネル|| style="text-align:right" |1,471 m|| style="text-align:right" |1,400 m
|-
||[[春日山トンネル]]|| style="text-align:right" |1,029 m|| style="text-align:right" |1,021 m
|-
|柿崎IC - 米山IC/SA||米山トンネル|| style="text-align:right" |1,593 m|| style="text-align:right" |1,616 m
|-
|西山IC - 大積PA||新地蔵トンネル|| style="text-align:right" |1,517 m|| style="text-align:right" |1,481 m
|-
|長岡北SIC - 中之島見附IC||[[信濃川橋 (長岡市)|信濃川橋]]|| style="text-align:right" |963 m|| style="text-align:right" |963 m
|-
|栄PA - 三条燕IC||[[栄橋 (北陸自動車道)|栄橋]]|| style="text-align:right" |368.2 m|| style="text-align:right" |368.2 m
|-
|新潟西IC - 新潟中央JCT||[[ときめき橋]]|| style="text-align:right" |373 m|| style="text-align:right" |373 m
|-
|}
===== トンネルの数 =====
{| class="wikitable" style="text-align: center"
!区間!!上り線!!下り線
|-
|米原JCT - 神田PA||1||1
|-
|神田PA - 賤ヶ岳SA||0||0
|-
|賤ヶ岳SA - 刀根PA||1||1
|-
|刀根PA - 敦賀JCT||5||3
|-
|敦賀JCT - 敦賀IC||0||0
|-
|敦賀IC - 杉津PA||3||5
|-
|杉津PA - 今庄IC||2||2
|-
|今庄IC - 南条SA||0||0
|-
|南条SA - 武生IC||3||3
|-
|武生IC - 北鯖江PA||0||0
|-
|北鯖江PA - 福井IC||1||1
|-
|福井IC - 不動寺PA||0||0
|-
|不動寺PA - 小矢部IC||3||3
|-
|小矢部IC - 滑川IC||0||0
|-
|滑川IC - 魚津IC<sup>※</sup>||1||1
|-
|魚津IC - 朝日IC||0||0
|-
|朝日IC - 越中境PA||3||3
|-
|越中境PA - 親不知IC||4||4
|-
|親不知IC - 糸魚川IC||4||4
|-
|糸魚川IC - 蓮台寺PA||0||0
|-
|蓮台寺PA - 能生IC||5||5
|-
|能生IC - 名立谷浜IC/SA||6||6
|-
|名立谷浜IC/SA - 上越JCT||4||4
|-
|上越JCT - 柿崎IC||0||0
|-
|柿崎IC - 米山IC/SA||3||3
|-
|米山IC/SA - 柏崎IC||2||2
|-
|柏崎IC - 西山IC||0||0
|-
|西山IC - 大積PA||1||1
|-
|大積PA - 新潟中央JCT||0||0
|-
!合計!!52!!52
|}
※滑川IC - 魚津IC下り線のトンネル数は1となっているが、有磯海SAを利用した場合は通過しない。
=== 道路管理者 ===
北陸自動車道の管轄は[[木之本インターチェンジ|木之本IC]]と[[朝日インターチェンジ|朝日IC]]の2箇所を境に、主に滋賀県内の区間を[[中日本高速道路]] [[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]が、北陸3県(福井・石川・富山)の区間を中日本高速道路 [[中日本高速道路金沢支社|金沢支社]]が、新潟県内の区間を[[東日本高速道路]] [[東日本高速道路新潟支社|新潟支社]]がそれぞれ行っている。
* 中日本高速道路 名古屋支社
** 彦根保全・サービスセンター - 米原JCT - 木之本IC(木之本ICを含む)
* 中日本高速道路 金沢支社
** 敦賀保全・サービスセンター - 木之本IC - 今庄IC
** 福井保全・サービスセンター - 今庄IC - 加賀IC
** 金沢保全・サービスセンター - 加賀IC - 小矢部IC
** 富山高速道路事務所 - 小矢部IC - 朝日IC(朝日ICを含む)
* 東日本高速道路 新潟支社
** 上越管理事務所 - 朝日IC - 柿崎IC
** 長岡管理事務所 - 柿崎IC - 三条燕IC
** 新潟管理事務所 - 三条燕IC - 新潟中央JCT
==== ハイウェイラジオ ====
* 長浜(長浜IC - 木之本IC)
* 柳ヶ瀬(木之本IC - 敦賀JCT 柳ヶ瀬TN内)
* 今庄(敦賀IC - 今庄IC 米原方面 今庄TN内)
* 鯖江(武生IC - 鯖江IC)
* 不動寺(金沢森本IC - 小矢部IC)
* 高岡(砺波IC - 高岡砺波SIC)
* 有磯海(有磯海SA - 魚津IC)
* 名立谷浜(能生IC - 名立谷浜IC)
* 上越(上越IC - 柿崎IC)
* 米山(柿崎IC - 米山IC)
* 栄(中之島見附IC - 三条燕IC)
* 巻潟東(巻潟東IC - 黒埼PA)
かつては富山西IC - 富山IC間に富山局が存在したが、2009年度(平成21年度)中に有磯海局の開局に合わせて廃止された。
日本道路公団時代、長浜局では日本道路公団 関西支社の吹田管制による放送、鯖江局以東は吹田管制と同じ音声の放送を使用していた。民営化後、中日本高速道路管轄となった長浜局は一宮管制へ移管、鯖江局と富山局は一宮管制と同じ放送形態のものに変更された。また、中日本高速道路管内では新たに柳ヶ瀬・今庄・不動寺・高岡・有磯海の各局が新設された。一方で、東日本高速道路の管轄となった名立谷浜局以東では同じ形態の放送が2013年10月まで続けられた。現在、放送形式は中日本高速道路と東日本高速道路の管轄境界となる朝日ICを境に西側の有磯海局以西と東側の名立谷浜局以東で異なっている。
=== 交通量 ===
'''24時間交通量'''(台)[[道路交通センサス]]
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 区間!! 平成11(1999)年度 !! 平成17(2005)年度 !! 平成22(2010)年度 !! 平成27(2015)年度 !! 令和3(2021)年度
|-
| 米原JCT - 米原IC || || 26,716 || 27,046 || 28,881 || 24,298
|-
| 米原IC - 長浜IC || || 23,809 || 24,426 || 25,798 || 21,306
|-
| 長浜IC - 小谷城SIC || rowspan="2" | || rowspan="2" |20,812 || rowspan="2" |20,241 || rowspan="2" |22,024 || 18,190
|-
| 小谷城SIC - 木之本IC || 17,665
|-
| 木之本IC - 敦賀JCT || rowspan="2" | 20,817|| rowspan="2" | 19,825 || rowspan="2" | 18,668 || 20,613 || 16,580
|-
| 敦賀JCT - 敦賀IC || 23,435 || 19,997
|-
| 敦賀IC - 今庄IC || 26,437 || 25,437 || 25,176 || 27,828 || 23,928
|-
| 今庄IC - 南条SASIC || rowspan="2" | 26,177|| rowspan="2" | 25,372 || 24,952 || 27,608 || 23,655
|-
| 南条SASIC - 武生IC || 25,090 || 27,721 || 23,758
|-
| 武生IC - 鯖江IC || 25,986 || 25,715 || 25,860 || 28,165 || 24,484
|-
| 鯖江IC - 福井IC || 26,609 || 26,746 || 27,347 || 29,503 || 25,656
|-
| 福井IC - 福井北JCT/IC || 24,873 || 25,160 || 25,242 || 27,826 || 23,765
|-
| 福井北JCT/IC - 丸岡IC || 25,307 || 25,161 || 24,439 || 27,208 || 22,675
|-
| 丸岡IC - 金津IC || 26,072 || 25,531 || 24,695 || 27,613 || 22,501
|-
| 金津IC - 加賀IC || 26,555 || 25,601 || 24,759 || 27,763 || 22,332
|-
| 加賀IC - 片山津IC || 26,328 || 25,286 || 24,084 || 27,577 || 22,166
|-
| 片山津IC - 安宅PASIC || rowspan="2" | 28,585 || rowspan="2" | 26,734 || 25,196 || 29,906 || 23,804
|-
| 安宅PASIC - 小松IC || 24,810 || 29,419 || 24,060
|-
| 小松IC - 能美根上SIC || rowspan="2" | 33,223|| rowspan="2" | 31,114 || rowspan="2" | 31,254 || rowspan="2" | 34,167 || 27,670
|-
| 能美根上SIC - 美川IC || 28,840
|-
| 美川IC - 徳光PASIC || rowspan="3" | 32,818|| 32,125 || 32,947 || 35,587 || 29,816
|-
| 徳光PASIC - 白山IC || rowspan="2" | 32,105 || 32,719 || 35,435 || 29,631
|-
| 白山IC - 金沢西IC || 32,719 || 34,682 || 28,780
|-
| 金沢西IC - 金沢東IC || 25,579 || 26,170 || 25,673 || 27,219 || 23,484
|-
| 金沢東IC - 金沢森本IC || rowspan="2" |30,178 || 31,759 || 30,030 || 31,963 || 26,177
|-
| 金沢森本IC - 小矢部IC || 30,718 || 32,013 || 34,592 || 28,306
|-
| 小矢部IC - 小矢部砺波JCT || 28,758 || 29,475 || 31,013 || 33,752 || 27,754
|-
| 小矢部砺波JCT - 砺波IC || 28,273 || 28,087 || 30,693 || 32,963 || 27,600
|-
| 砺波IC - 高岡砺波SIC || rowspan="2" | 27,715 || rowspan="2" | 27,977 || rowspan="2" | 30,821 || 33,124 || 27,819
|-
| 高岡砺波SIC - 小杉IC || 33,102 || 27,607
|-
| 小杉IC - 富山西IC || rowspan="2" | 25,896 || 28,076 || 31,500 || 33,701 || 28,283
|-
| 富山西IC - 富山IC || 26,131 || 29,480 || 31,471 || 26,541
|-
| 富山IC - 流杉PASIC ||rowspan="2" | 19,044|| rowspan="2" | 19,725 || 22,759 || 24,886 || 21,138
|-
| 流杉PASIC - 立山IC || 22,195 || 23,856 || 19,643
|-
| 立山IC - 上市SIC || rowspan="2" | 18,500 || rowspan="2" | 19,192 || rowspan="2" | 21,427 || rowspan="2" | 22,875 || 18,681
|-
| 上市SIC - 滑川IC || 18,566
|-
| 滑川IC - 魚津IC || 19,619 || 19,310 || 21,004 || 22,365 || 17,904
|-
| 魚津IC - 黒部IC || 16,568|| 16,833 || 18,123 || 19,337 || 15,407
|-
| 黒部IC - 入善PASIC || rowspan="2" | 12,774 || 13,560 || 14,713 || 16,173 || 13,376
|-
| 入善PASIC - 朝日IC || 12,936 || 13,411 || 15,056 || 12,372
|-
| 朝日IC - 親不知IC || 10,887 || 11,707 || 12,156 || 13,935 || 11,842
|-
| 親不知IC - 糸魚川IC || 10,562|| 11,426 || 11,832 || 13,466 || 11,449
|-
| 糸魚川IC - 能生IC || 10,354 || 12,054 || 12,735 || 14,185 || 12,693
|-
| 能生IC - 名立谷浜IC || 10,371 || 12,169 || 13,220 || 14,613 || 13,157
|-
| 名立谷浜IC - 上越JCT || rowspan="2" | 10,748 || 12,385 || 13,394 || 14,767 || 13,267
|-
| 上越JCT - 上越IC || 14,544 || 15,009 || 15,708 || 13,996
|-
| 上越IC - 大潟PASIC || rowspan="2" | 16,857 || rowspan="2" | 17,622 || 17,822 || 18,409 || 16,010
|-
| 大潟PASIC - 柿崎IC || 18,085 || 18,825 || 16,348
|-
| 柿崎IC - 米山IC || 18,033 || 18,836 || 19,150 || 19,714 || 17,206
|-
| 米山IC - 柏崎IC || 18,294 || 18,458 || 18,877 || 19,290 || 16,754
|-
| 柏崎IC - 西山IC || 20,463 || 20,130 || 21,292 || 21,550 || 18,662
|-
| 西山IC - 長岡JCT || 20,916 || 20,445 || 21,559 || 21,926 ||19,113
|-
| 長岡JCT - 長岡北SIC || rowspan="2" | 29,212|| rowspan="2" |31,906 || rowspan="2" |31,692 || rowspan="2" |33,996 ||30,040
|-
| 長岡北SIC - 中之島見附IC || 31,305
|-
| 中之島見附IC - 栄PASIC || rowspan="2" | 34,447 || rowspan="2" | 38,925 || rowspan="2" | 37,845 || 39,711 || 35,155
|-
| 栄PASIC - 三条燕IC || 39,890 || 35,453
|-
| 三条燕IC - 巻潟東IC || 36,799 || 41,446 || 41,446 || 42,821 || 38,078
|-
| 巻潟東IC - 黒埼PASIC || rowspan="2" | 37,709 || rowspan="2" | 41,890 || 42,567 || 43,498 || 39,052
|-
| 黒埼PASIC - 新潟西IC || 42,224 || 43,069 || 38,591
|-
| 新潟西IC - 新潟中央JCT || 13,651|| 20,902 || 22,618 || 22,180 || 20,488
|}
<small>(出典:「[https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/douken/census/sub1.html 平成17年度 道路交通センサス 調査結果] ([[福井県]]ホームページ )・「[https://www.hrr.mlit.go.jp/road/census/census_h17 平成17年度 道路交通センサス 一般交通量調査の概要]」([[北陸地方整備局]]ホームページ)・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small>
* 2020年(令和2年)度に実施だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。
[[2002年]](平成14年)度
* 日平均区間交通量:21,644台(前年度比100.0%)※関越自動車道 長岡IC - 長岡JCTを含む。
* 最大:三条燕IC - 新潟西IC 34,625台(前年度比99.0%)
* 最小:糸魚川IC - 能生IC 11,056台(前年度比99.9%)
== 地理 ==
=== 通過する自治体 ===
* [[新潟県]]
** [[新潟市]]([[江南区 (新潟市)|江南区]] - [[西区 (新潟市)|西区]] - [[西蒲区]]) - [[燕市]] - [[三条市]] - 燕市 - 三条市 - [[見附市]] - [[長岡市]] - [[柏崎市]] - [[刈羽郡]][[刈羽村]] - 柏崎市 - [[上越市]] - [[糸魚川市]]
* [[富山県]]
** [[下新川郡]][[朝日町 (富山県)|朝日町]] - 下新川郡[[入善町]] - [[黒部市]] - [[魚津市]] - [[滑川市]] - [[中新川郡]][[上市町]] - 中新川郡[[立山町]] - 中新川郡上市町 - 中新川郡立山町 - [[富山市]] - [[射水市]] - [[高岡市]] - [[砺波市]] - [[小矢部市]] - [[南砺市]]<ref group="注釈">本線上に市町村名の看板は設置されていない。</ref> - 小矢部市
* [[石川県]]
** [[金沢市]] - [[白山市]] - [[能美市]] - [[小松市]] - [[加賀市]]
* [[福井県]]
** [[あわら市]] - [[坂井市]] - [[吉田郡]][[永平寺町]] - [[福井市]] - [[鯖江市]] - 福井市 - 鯖江市 - [[越前市]] - [[南条郡]][[南越前町]] - [[敦賀市]]
* [[滋賀県]]
** [[長浜市]] - [[米原市]]
=== 接続する高速道路 ===
* {{Ja Exp Route Sign|E7}} [[日本海東北自動車道]]([[新潟中央ジャンクション|新潟中央JCT]]で直結)
* {{Ja Exp Route Sign|E49}} [[磐越自動車道]](新潟中央JCTで接続)
* [[新潟西バイパス]](新潟西ICで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E17}} [[関越自動車道]]([[長岡ジャンクション|長岡JCT]]で直結)
* {{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]]([[上越ジャンクション|上越JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E41}} [[東海北陸自動車道]]([[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E41}} [[能越自動車道]](小矢部砺波JCTで接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]([[福井北ジャンクション・インターチェンジ|福井北JCT・IC]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E27}} [[舞鶴若狭自動車道]]([[敦賀ジャンクション|敦賀JCT]]で接続)
* {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]([[米原ジャンクション|米原JCT]]で接続)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=佐藤健太郎 |authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター) |title=ふしぎな国道 |date=2014 |publisher=[[講談社]] |series=講談社現代新書 |isbn=978-4-06-288282-8 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=日本道路公団 |authorlink=日本道路公団 |title=北陸自動車道20周年記念誌 |date=1993-03 |publisher=日本道路公団 金沢管理局 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= 東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社 |title=設計要領 第五集 交通管理施設 |year = 2017|date=2017-07 |publisher= 株式会社高速道路総合技術研究所|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title = 富山新聞に見るふるさと80年|publisher = [[富山新聞|富山新聞社]]|date = 2003-06-10|ref = {{sfnref|富山新聞|2003}}}}
* {{Cite book|和書|title = 北國新聞に見るふるさと110年(下)|publisher = [[北國新聞|北國新聞社]]|date = 2003-08-05|ref = {{sfnref|北國新聞|2003}}}}
* {{Cite book|和書|title = 福井を伝えて一世紀 福井新聞百年史|publisher = [[福井新聞|福井新聞社]]|date = 2000-03-27|ref = {{sfnref|福井新聞|2000}}}}
* {{Cite book|和書|title = 白山市合併10周年記念誌|publisher = [[白山市]]|date = 2015-02-01|ref = {{sfnref|白山市|2015}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[国土開発幹線自動車道]]
* [[高速自動車国道]]
* [[中部地方の道路一覧]]
* [[近畿地方の道路一覧]]
* [[国道8号]]
* [[北陸本線]]
== 外部リンク ==
* [https://www.c-nexco.co.jp/ ドライバーズサイト | 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本]<!-- ウェブサイトの名称に従って記載しています(中日本高速道路株式会社と記載しないこと) --> - 中日本高速道路(米原 - 朝日間道路管理者)
* [https://www.e-nexco.co.jp/ NEXCO東日本 オフィシャルサイト]<!-- ウェブサイトの名称に従って記載しています(東日本高速道路株式会社と記載しないこと) --> - 東日本高速道路(朝日 - 新潟中央間道路管理者)
* [https://www.pref.toyama.jp/1501/kendodukuri/dourokouwan/douro/kj00000273/kj00000273-003-01.html 県内の高速道路 北陸自動車道] - 富山県土木部道路課
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|
2003-09-03T09:50:18Z
|
2023-12-03T09:40:33Z
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[
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14,878 |
紀元前356年
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紀元前356年(きげんぜん356ねん)は、ローマ暦の年である。
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{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|370}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|360}} | 10年紀= {{紀元前/年代|350}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|340}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|330}} | 3年前= {{紀元前/年|359}} | 2年前= {{紀元前/年|358}} | 1年前= {{紀元前/年|357}} | 1年後= {{紀元前/年|355}} | 2年後= {{紀元前/年|354}} | 3年後= {{紀元前/年|353}} |}}
'''紀元前356年'''(きげんぜん356ねん)は、[[ローマ暦]]の[[年]]である。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙丑]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]305年
** [[孝安天皇]]37年
* [[中国]]
** [[周]] - [[顕王]]13年
** [[秦]] - [[孝公 (秦)|孝公]]6年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[宣王 (楚)|宣王]]14年
** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]元年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (戦国燕)|文公]]6年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[成侯 (趙)|成侯]]19年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]14年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[釐侯 (韓)|昭侯]]7年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1978年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 189年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
<!-- === ペルシア帝国 === -->
=== ギリシア ===
* [[ヘロストラトス]]が[[エフェソス]]の[[アルテミス]]神殿に放火し、死刑となる。
* [[アレクサンドロス3世]]が[[マケドニア王国|マケドニア王]][[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]の子として生まれる。
* ピリッポス2世がクリニデスを征服し、[[フィリッポイ]]と改名。
=== 中国 ===
* [[秦]]の[[孝公 (秦)|孝公]]が[[商鞅]]を左庶長に任命して変法を実行させた(第一次変法)。
* [[田斉|斉]]の[[威王 (斉)|威王]]が即墨大夫を万家に封じるいっぽう、阿大夫の汚職を責めて処断したため、斉の国内は粛然とした。
* [[趙 (戦国)|趙]]と[[燕 (春秋)|燕]]が阿で会合した。
* 趙と斉と[[宋 (春秋)|宋]]が平陸で会合した。
* [[魯]]・[[衛]]・宋・[[韓 (戦国)|韓]]の国君が[[魏 (戦国)|魏]]の[[恵王 (魏)|恵王]]に朝見した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前356年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アレクサンドロス3世]]、[[マケドニア王国|マケドニア]]王(+ [[紀元前323年]])
* [[レオンナトス]]、アレクサンドロス3世に仕える武将、[[ディアドコイ]]の一人(+ [[紀元前322年]])
* [[ヘファイスティオン]]、マケドニアの将軍、兵士、アレクサンドロス3世の友人(+ [[紀元前324年]])
* [[恵文王 (秦)|恵文王]]、[[秦]]の王(+ [[紀元前311年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前356年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[カブリアス]]、[[アテナイ]]の将軍
* [[ヘロストラトス]]、有名になりたいという野心から、[[アルテミス神殿]]に放火した人物
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|356 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前323年
|
紀元前323年(きげんぜんさんびゃくにじゅうさんねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ロングスとケレタヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元431年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前323年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前323年(きげんぜんさんびゃくにじゅうさんねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ロングスとケレタヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元431年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前323年と表記されるのが一般的となった。
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{{出典の明記|date=2011年10月}}
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'''紀元前323年'''(きげんぜんさんびゃくにじゅうさんねん)は、[[ローマ暦]]の[[年]]である。
当時は、「ロングスとケレタヌスが[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]431年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前323年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[戊戌]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]338年
** [[孝安天皇]]70年
* [[中国]]
** [[周]] - [[顕王]]46年
** [[秦]] - [[恵文王 (秦)|恵文王]]2年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[懐王]]6年
** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]34年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[易王]]10年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[武霊王]]3年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]後元12年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[宣恵王 (韓)|宣恵王]]10年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2011年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 222年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== マケドニア ===
* [[バビロン]]で[[アレクサンドロス3世]](アレクサンドロス大王)が死去。
*大王の死去と社会情勢により民衆に動揺が広がり[[インフレーション]]が発生。これが記録が残る最古のインフレーションである<ref name="dobson">{{Cite news|title=How Alexander caused a great Babylon inflation|newspaper=[[インデペンデント]]|date=2002-1-27|author=Roger Dobson|url=https://www.independent.co.uk/news/world/europe/how-alexander-caused-a-great-babylon-inflation-9213402.html|accessdate=2019-03-28}}</ref>
* [[アレクサンドロス3世]]の遺将たち([[ディアドコイ]])により[[バビロン会議]]が行われた。
=== 中国 ===
* [[秦]]の[[張儀]]が齧桑で、[[田斉|斉]]と[[楚 (春秋)|楚]]に会見する。
* [[韓 (戦国)|韓]]の[[宣恵王 (韓)|宣恵王]]と[[燕 (春秋)|燕]]の[[易王]]が王を称す。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前323年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アレクサンドロス4世]]、[[マケドニア]]国王、[[アレクサンドロス4世]]の子
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前323年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ディオゲネス (犬儒学派)]] - [[古代ギリシャ]]の[[哲学者]]
* [[アレクサンドロス3世]] - [[古代ギリシャ]]の王
* [[魯]]の[[景公 (魯)|景公]] - 魯の君主
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|323 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
* [[紀元前4世紀]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前336年
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紀元前336年(きげんぜん336ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前336年(きげんぜん336ねん)は、ローマ暦の年である。
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'''紀元前336年'''(きげんぜん336ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]325年
** [[孝安天皇]]57年
* [[中国]]
** [[周]] - [[顕王]]33年
** [[秦]] - [[恵文王 (秦)|恵文君]]2年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[威王 (楚)|威王]]4年
** [[田斉|斉]] - [[威王 (斉)|威王]]21年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[文公 (戦国燕)|文公]]26年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[粛侯 (趙)|粛侯]]14年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[恵王 (魏)|恵王]]34年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[釐侯 (韓)|昭侯]]27年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1998年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 209年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== ペルシア ===
* [[アケメネス朝]]ペルシアにおいて、第9代国王[[アルセス]]が毒殺され、[[ダレイオス3世]]が第10代国王として即位した<ref>「増補 最新図説 世界史」p160 浜島書店 1994年2月1日増補版第2刷</ref>。
=== マケドニア ===
* 2年前の[[紀元前338年]]に[[カイロネイアの戦い]]において[[ギリシア]]軍を撃破し、紀元前337年にヘラス同盟の結成によってギリシアを統一した[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]がオレスティスのパウサニアスによって暗殺され、その子である[[アレクサンドロス3世]](アレキサンダー大王)が即位した<ref>『増補 最新図説 世界史』p160 浜島書店 1994年2月1日増補版第2刷</ref>。
=== 中国 ===
* [[宋 (春秋)|宋]]の太丘社が滅び、[[九鼎]]が[[徐州市|彭城]][[泗河|泗水]]の下に没した。
* [[孟子]]が[[魏 (戦国)|魏]]の[[恵王 (魏)|恵王]]と会談した。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前336年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前336年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|336 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,882 |
紀元前372年
|
紀元前372年(きげんぜん372ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「執政武官も執政官もいない4年目の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元382年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前372年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前372年(きげんぜん372ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「執政武官も執政官もいない4年目の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元382年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前372年と表記されるのが一般的となった。
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'''紀元前372年'''(きげんぜん372ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「[[執政武官]]も[[執政官]]もいない4年目の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]382年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前372年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己酉]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]289年
** [[孝安天皇]]21年
* [[中国]]
** [[周]] - [[烈王 (周)|烈王]]4年
** [[秦]] - [[献公 (秦)|献公]]13年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[孝公 (晋)|孝公]]17年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[粛王]]9年
** [[田斉|斉]] - [[桓公 (田斉)|桓公]]3年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[桓公 (戦国燕)|桓公]]元年
** [[趙 (戦国)|趙]] - [[成侯 (趙)|成侯]]3年
** [[魏 (戦国)|魏]] - [[武侯 (魏)|武侯]]24年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[共侯 (韓)|懿侯]]3年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1962年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 173年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== ギリシア ===
* [[テッサリア]]の支配者[[フェライのイアソン]] ([[:en:Jason of Pherae|Jason of Pherae]]) が、[[アテナイ]]と同盟し、さらに[[マケドニア王国]]と同盟した。
=== 中国 ===
* [[趙 (戦国)|趙]]が[[衛]]を攻撃し、73城を奪った。
* [[魏 (戦国)|魏]]が趙軍を北藺で破った。
=== スポーツ ===
* [[古代オリンピック]]で、自身が審判を務めていた[[エリスのトロイロス]]が、2つの[[馬術]]競技で優勝し、審判の競技参加が禁止されるきっかけを作った。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前372年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[孟子]]、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[哲学者]](+ [[紀元前289年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前372年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|372 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前289年
|
紀元前289年(きげんぜん289ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「マルクス・ウァレリウス・マクシムスとガイウス・カエディキウス・ノクトゥアが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元465年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前289年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前289年(きげんぜん289ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「マルクス・ウァレリウス・マクシムスとガイウス・カエディキウス・ノクトゥアが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元465年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前289年と表記されるのが一般的となった。
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{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|2}} |
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'''紀元前289年'''(きげんぜん289ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
当時は、「[[マルクス・ウァレリウス・マクシムス]]と[[ガイウス・カエディキウス・ノクトゥア]]が[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]465年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前289年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬申]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]372年
** [[孝霊天皇]]2年
* [[中国]]
** [[周]] - [[赧王]]26年
** [[秦]] - [[昭襄王 (秦)|昭襄王]]18年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[頃襄王]]10年
** [[田斉|斉]] - [[湣王]]12年
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** [[魏 (戦国)|魏]] - [[昭王 (魏)|昭王]]7年
** [[韓 (戦国)|韓]] - [[釐王 (韓)|釐王]]7年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2045年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 256年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== シチリア ===
* [[シラクサ]]の[[僭主]][[アガトクレス]]は、死の床でシラクサの民主主義を回復した後、息子に自身の後を継がせることを希望しないと言い残して死亡した。しかし、後継に関する家族間の意見の衝突の結果、シチリアで[[カルタゴ]]の支配が復活することとなった。
=== 中国 ===
* [[秦]]の大良造の[[白起]]と客卿の[[司馬錯]]が[[魏 (戦国)|魏]]を攻撃し、軹に達し、大小の城61を奪った。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前289年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前289年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* アガトクレス - シラクサの僭主([[紀元前361年]]生)
* [[孟子]] - 中国の哲学者([[紀元前372年]]生)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|289 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,884 |
9年
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9年(9 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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9年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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'''9年'''(9 ねん)は、[[西暦]]([[ユリウス暦]])による、[[平年]]。
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己巳]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[垂仁天皇]]38年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]669年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[前漢]] : [[初始]]元年
** [[新]] : [[始建国]]元年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[瑠璃明王]]28年
** [[新羅]] : [[南解次次雄|南解王]]6年
** [[百済]] : [[温祚王]]27年
** [[檀君紀元|檀紀]]2342年
* [[仏滅紀元]] : 552年
* [[ユダヤ暦]] : 3769年 - 3770年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=9|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
=== ヨーロッパ ===
* 9月 - [[トイトブルク森の戦い]]。 [[プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス]]率いるローマ軍は[[アルミニウス (ゲルマン人)|アルミニウス]]率いる[[ゲルマン人]]に大敗し、ローマ帝国は[[ライン川]]以北の属州化を断念。
* トイトブルクの戦いで壊滅した[[第17軍団|第17]]、[[第18軍団|第18]]、[[第19軍団]]に代わって[[第2軍団アウグスタ|第2]]、[[第13軍団|第13]]、[[第20軍団]]がゲルマニアに派遣される。
* [[イリュリクム|イリュリクム属州]]での反乱が鎮圧される。翌[[10年]]、領域は[[パンノニア|パンノニア属州]]と[[ダルマチア]]に分割される。
=== 東アジア ===
* [[1月10日]](初始元年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[王莽]]が[[新]]を建国、[[前漢]]が滅亡。
* 王莽、宝貨を定め、契刀・錯刀・[[五銖銭]]の使用を禁ずる。
* 王莽、度量衡を改定し、標準器「[[嘉量]]」を全国に配布。
== 誕生 ==
{{see also|Category:9年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[11月17日]] - [[ウェスパシアヌス]]、[[フラウィウス朝]]のローマ皇帝(+ [[79年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:9年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* 9月 - [[プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス]]、[[古代ローマ]]の軍人、[[トイトブルク森の戦い]]で敗死(* [[紀元前46年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|9}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,885 |
24年
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24年(24 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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24年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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{{year-definition|24}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[甲申]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[垂仁天皇]]53年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]684年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[新末後漢初|漢(新滅亡後)]] : [[更始 (漢)|更始]]2年
*** [[隗囂]] : [[漢復]]2年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高句麗]] : [[大武神王]]7年
** [[新羅]] : [[儒理尼師今|儒理王]]元年
** [[百済]] : [[温祚王]]42年
** [[檀君紀元|檀紀]]2357年
* [[仏滅紀元]] : 567年
* [[ユダヤ暦]] : 3784年 - 3785年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=24|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
* [[更始帝]]、[[長安]]に遷都。
* [[光武帝|劉秀]]、[[王郎]]の銅馬軍を降し、[[河北省|河北]]を統一。([[新末後漢初]])
== 誕生 ==
{{see also|Category:24年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:24年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|24}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,886 |
紀元前206年
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紀元前206年(きげんぜん206ねん)
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紀元前206年(きげんぜん206ねん)
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'''紀元前206年'''(きげんぜん206ねん)
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[乙未]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]455年
** [[孝元天皇]]9年
* [[中国]] : [[前漢]] - [[劉邦|高祖]]1年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 339年
* [[ユダヤ暦]] :
{{Clear}}
== できごと ==
=== ローマ帝国 ===
* [[イリッパの戦い]]で、[[カルタゴ]]の将軍[[マゴ|マゴ・バルカ]]と[[ハスドルバル・ギスコ]]が[[ローマ帝国]]の将軍[[大スキピオ]]に敗れた。マゴは[[カディス]]まで敗走し、船で[[バレアレス諸島]]に向かった。
* 大スキピオはカディスを防衛し、ローマ帝国によるスペイン全土の支配が確立した。カルタゴ人はスペインから撤退し、[[ヒスパニア]]はローマ帝国の属州となった。
* イリパの戦いで負傷したローマ兵の居留地として、大スキピオにより[[イタリカ]]の町が建設された。
* カルタゴ人の駆逐に成功すると、大スキピオはローマに凱旋し、[[執政官]]に選出された。彼はさらに北アフリカに残るカルタゴ人の領土を攻める準備をした。
=== カルタゴ ===
* 北アフリカに帰還したハスドルバル・ギスコは、娘を[[ヌミディア]]の王である[[シュファクス]]に嫁がせ、軍事同盟を結んだ。
* カルタゴと同盟を結んでいたヌミディアの王[[マシニッサ]]は、カルタゴを見限ってローマ側についた。シュファクスはマシニッサを追放し、自らが王になった。これに対してローマ帝国はマシニッサの地位を認めた。
=== ペルシャ ===
* [[パルティア]]の王[[アルサケス2世]]は[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア]]王の[[エウテュデモス1世]]との戦いに敗れて領土を失った。
* [[セレウコス朝]]の王[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]は[[ヒンドゥークシュ山脈]]を通って[[カーブル]]まで行進し、[[マウリヤ朝]]の王Sophagasenusと和解をした。
=== ギリシャ ===
* [[マケドニア王国]]とローマ帝国の間で戦争が起こったが、ローマ帝国の狙いは征服にはなく、ギリシャの政治を分断して脅威の芽を摘んでおくことにあった。
* マケドニア王国の王[[ピリッポス5世]]はローマの隙を突いて[[アエトリア]]を攻め、平和条約を結ばせた。
=== 中国 ===
* [[秦]]の三世[[子嬰]]は[[劉邦]]に降伏した。これによって秦王朝は滅亡し、[[前漢]]が建国された。しかし[[項羽]]との間に[[楚漢戦争]]が勃発し、[[紀元前202年]]まで続いた。
* 正月、項羽は羋心を[[義帝]]とする。
* 項羽は自立して西楚覇王となり、天下を分封して、劉邦を漢王に、[[韓王成|韓成]]を韓王に封じた。
* 五月、劉邦は[[韓信]]の計謀を用いて、項羽が[[田栄]]を北攻している隙に乗じてこっそりと陳倉を渡った([[暗渡陳倉]])。
* 六月、田栄は斉王[[田フツ|田巿]]を殺して、自立して斉王となる。
* 七月、項羽は[[張良]]が劉邦に付き従ったため、韓成を斬首し、大夫[[鄭昌]]を改めて韓王とした。
* 八月、漢王劉邦は出兵して雍王[[章邯]]を攻撃した。
* 八月、燕王[[韓広]]は[[遼東]]に遷されることを嫌ったため、項羽が燕王に封じた[[臧荼]]は韓広を殺し、遼東の王となる。
* 項羽は九江王[[英布]]などに義帝を殺させた。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前206年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前206年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[子嬰]]、[[秦]]王朝の最後の君主
* [[義帝]]、秦末の反秦勢力の名目上の盟主
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|206 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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14,887 |
III-V族化合物
|
III-V族化合物(さんごぞくかごうぶつ)は、ホウ素、アルミニウム、ガリウム、インジウム、タリウムなどの周期表III族(13族)元素と、窒素、リン、ヒ素、アンチモン、ビスマスなどのV族(15族)元素との化合物の総称である。
代表的なものに、窒化ホウ素(BN)、ヒ化ガリウム(GaAs)などがある。
III-V族化合物は大きなバンドギャップを持ち、固く、化学的にも安定な物質が多い。特に、ヒ化ガリウムに代表されるIII-V族化合物の半導体を、III-V族半導体と呼ぶ。
また、III-V族化合物は電気的には半導体であるが、III族元素とV族元素の組み合わせによって異なるバンドギャップを持つため、
エピタキシャル成長などを用いて、任意のバンドギャップを持つ半導体を作製することができる(Band-gap engineering英語版wikiへジャンプ)。
但し、不用意な格子欠陥を防ぐために格子定数の値が近いものを選ぶ必要がある。
例えば、1.7eVの半導体を作製するとすれば、格子定数がどちらも5.6Åであり、バンドギャップがそれぞれ1.4eV、2.1eVであるヒ化ガリウムとヒ化アルミニウムを用いてヘテロエピタキシャル成長させればよい。
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{{出典の明記|date=2021-12}}
'''III-V族化合物'''(さんごぞくかごうぶつ)は、[[ホウ素]]、[[アルミニウム]]、[[ガリウム]]、[[インジウム]]、[[タリウム]]などの[[周期表]]III族([[第13族元素|13族]])元素と、[[窒素]]、[[リン]]、[[ヒ素]]、[[アンチモン]]、[[ビスマス]]などのV族([[第15族元素|15族]])元素との化合物の総称である。
代表的なものに、[[窒化ホウ素]](BN)、[[ヒ化ガリウム]](GaAs)などがある。
III-V族化合物は大きな[[バンドギャップ]]を持ち、固く、化学的にも安定な物質が多い。特に、ヒ化ガリウムに代表されるIII-V族化合物の半導体を、[[III-V族半導体]]と呼ぶ。
また、III-V族化合物は電気的には[[半導体]]であるが、Ⅲ族元素とⅤ族元素の組み合わせによって異なるバンドギャップを持つため、
[[エピタキシャル成長]]などを用いて、任意のバンドギャップを持つ半導体を作製することができる([[:en:Band-gap_engineering|Band-gap engineering]]英語版wikiへジャンプ)。
但し、不用意な[[格子欠陥]]を防ぐために[[格子定数]]の値が近いものを選ぶ必要がある。
例えば、1.7[[電子ボルト|eV]]の半導体を作製するとすれば、格子定数がどちらも5.6Åであり、バンドギャップがそれぞれ1.4eV、2.1eVであるヒ化ガリウムと[[ヒ化アルミニウム]]を用いてヘテロエピタキシャル成長させればよい。
[[Category:無機化合物|さんこそくかこうふつ]]
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2021-12-04T07:09:38Z
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"Template:出典の明記"
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|
14,890 |
陰陽師
|
陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成したと言われているがこれは伝説であって、中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに朝鮮半島(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。
陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、技官として方技の各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。
一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下官人であったらしい。
律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には勅令によって還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である官位相当制によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。
しかし承和5年(838年)を最後に遣唐使が廃れたことにより、朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかったため、わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家への役職充足を主目的とするものであった。
平安時代中頃(10世紀)に入って、後述の賀茂家と安倍家の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが摂政や関白を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。特に安倍家は平安時代後期(11世紀)には従四位上格にまで取り立てられるようになり、室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなり土御門家を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。
延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯説(讖緯思想)・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
仁明天皇・文徳天皇の時代(9世紀中半)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて延喜元年(901年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道摩法師(蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。
平安時代中・後期(11世紀から12世紀)を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平の玄孫にあたる泰親が正四位上、その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期の両統迭立に呼応した家内騒動、その後の南北朝時代の混乱によってその勢力は一時衰退した。
平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある)。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家を名乗り、賀茂(勘解由小路)在方が『暦林問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。一方、安倍家は上手く立ち回り、安倍有世(晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川家を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。更に守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。天文年間(16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の勘解由小路在富を召し出して諸々の勘申(勘文を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することにもなった。
秀吉が薨じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井(かいで)村(現京都府向日市鶏冠井町)・寺戸村(同寺戸町)、葛野郡梅小路村(同府京都市下京区梅小路)・西院村(同右京区西院)、紀伊郡吉祥院村(同南区吉祥院)にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰し、同8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。
この動きを得て、土御門家勢力は天和2年(1682年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている。
各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原家、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家(いざなぎ流)、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。
貞享元年(1684年)には幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の宝暦5年(1755年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。
その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。
大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、晴雄本人の薨去によりこの案が取り上げられることはなかった。晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。
その期に乗じて明治政府は明治3年(1870年)に陰陽寮廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学校天文暦道局や海軍水路局、文部省天文局、天文台に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。同年閏10月17日(1870年12月9日)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。
明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。
第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については九星占術を基本とする神宮館(東京都上野区)による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。
現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道または陰陽師の権威の面影はなく、土御門家の旧領若狭国名田庄にあたる福井県西部のおおい町に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽道の要素を色濃く残す宗教団体として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみであるが、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルトなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれて、とりわけ平成初頭の10年間(1990年代後期から2000年代前期)にかけては陰陽師がブームとなり、多くの作品が作られた(具体例は「陰陽師に関係する創作一覧」を参照)。また、政界の陰陽師を名乗った富士谷紹憲がいる。
陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼も一様ではない。『延喜式』「陰陽寮式」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録がある。それによれば儺祭(節分・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで祭文を読むとあるが、この祭文は前半が漢文で構成された音読部分であり、後半が祝詞のような宣命体となっている。また、中世の『文肝抄』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなる。
陰陽道の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る泰山府君を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げることができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。
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"text": "陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。",
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"text": "陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成したと言われているがこれは伝説であって、中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに朝鮮半島(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。",
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"text": "当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。",
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"text": "その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。",
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"text": "陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、技官として方技の各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。",
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"text": "陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。",
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"text": "陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。",
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"text": "律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。",
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"text": "一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下官人であったらしい。",
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"text": "律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には勅令によって還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である官位相当制によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし承和5年(838年)を最後に遣唐使が廃れたことにより、朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかったため、わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家への役職充足を主目的とするものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "平安時代中頃(10世紀)に入って、後述の賀茂家と安倍家の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが摂政や関白を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。特に安倍家は平安時代後期(11世紀)には従四位上格にまで取り立てられるようになり、室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなり土御門家を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。",
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"text": "延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯説(讖緯思想)・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "仁明天皇・文徳天皇の時代(9世紀中半)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて延喜元年(901年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。",
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"text": "やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。",
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"text": "また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道摩法師(蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。",
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"text": "平安時代中・後期(11世紀から12世紀)を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平の玄孫にあたる泰親が正四位上、その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期の両統迭立に呼応した家内騒動、その後の南北朝時代の混乱によってその勢力は一時衰退した。",
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"text": "平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。",
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"text": "建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。",
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"text": "ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。",
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"text": "後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある)。",
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"text": "陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家を名乗り、賀茂(勘解由小路)在方が『暦林問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。一方、安倍家は上手く立ち回り、安倍有世(晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。",
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"text": "しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川家を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。更に守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。天文年間(16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の勘解由小路在富を召し出して諸々の勘申(勘文を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することにもなった。",
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"paragraph_id": 24,
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"text": "秀吉が薨じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井(かいで)村(現京都府向日市鶏冠井町)・寺戸村(同寺戸町)、葛野郡梅小路村(同府京都市下京区梅小路)・西院村(同右京区西院)、紀伊郡吉祥院村(同南区吉祥院)にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰し、同8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "この動きを得て、土御門家勢力は天和2年(1682年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている。",
"title": "歴史"
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"text": "各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原家、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家(いざなぎ流)、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "貞享元年(1684年)には幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の宝暦5年(1755年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、晴雄本人の薨去によりこの案が取り上げられることはなかった。晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。",
"title": "歴史"
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"text": "その期に乗じて明治政府は明治3年(1870年)に陰陽寮廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学校天文暦道局や海軍水路局、文部省天文局、天文台に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。同年閏10月17日(1870年12月9日)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については九星占術を基本とする神宮館(東京都上野区)による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道または陰陽師の権威の面影はなく、土御門家の旧領若狭国名田庄にあたる福井県西部のおおい町に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽道の要素を色濃く残す宗教団体として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみであるが、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルトなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれて、とりわけ平成初頭の10年間(1990年代後期から2000年代前期)にかけては陰陽師がブームとなり、多くの作品が作られた(具体例は「陰陽師に関係する創作一覧」を参照)。また、政界の陰陽師を名乗った富士谷紹憲がいる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼も一様ではない。『延喜式』「陰陽寮式」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録がある。それによれば儺祭(節分・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで祭文を読むとあるが、この祭文は前半が漢文で構成された音読部分であり、後半が祝詞のような宣命体となっている。また、中世の『文肝抄』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなる。",
"title": "陰陽道の祭祀概略"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "陰陽道の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る泰山府君を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げることができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。",
"title": "陰陽道の祭祀概略"
}
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陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。
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{{複数の問題
|出典の明記=2022年12月
|独自研究=2022年12月}}
{{otheruses|[[職業]]}}
[[ファイル:Tamamonomae_Onmyoji.jpg|right|thumb|300px|[[江戸時代]]初期の奈良絵本『たまものまへ』より、[[算木]]で占いを行う陰陽師の画。[[京都大学]]附属図書館所蔵。]]
'''陰陽師'''(おんみょうじ、おんようじ)は、古代[[日本]]の[[律令制]]下において[[中務省]]の[[陰陽寮]]に属した[[官職]]の1つで、[[陰陽五行思想]]に基づいた[[陰陽道]]によって[[筮竹|占筮]](せんぜい)及び[[地相]]などを職掌とする[[方技]](技術系の[[官人]]。[[技官]])として配置された者を指す。中・近世においては民間で私的[[祈祷]]や占術を行う者を称し<ref>[http://www.excite.co.jp/world/j_dictionary/ITEM-DJR_onnyou_-030-_zi_-01/ おんようじ[陰陽師]] [[大辞林]] 第三版</ref>、中には[[神職]]の一種のように見られる者も存在する。
== 歴史 ==
=== 陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足 ===
陰陽師は全ての事象が[[陰陽]]と木・火・土・金・水の[[五行思想|五行]]の組み合わせによって成り立っているとする[[夏]]、[[殷|殷(商)]]王朝時代にはじまり[[周]]王朝時代にほぼ完成したと言われているがこれは伝説であって、[[中国]]古代の[[陰陽五行思想]]に立脚し、これと密接な関連を持つ[[天文学]]、[[暦|暦学]]、[[易|易学]]、[[時計]]等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は[[飛鳥時代]]、遅くとも[[百済]]から[[五経博士]]が来日した[[継体天皇]]7年([[512年]])または[[易博士]]が来日した[[欽明天皇]]15年([[554年]])の時点までに[[朝鮮半島]]([[高句麗]]・[[百済]])経由で伝来したと考えられている。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、[[推古天皇]]10年([[602年]])に百済から[[観勒|觀勒]]が来日して[[聖徳太子]]をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦が官暦として採用されたり、[[仏法]]や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に[[隋]]に向けて[[遣隋使]]の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の[[十七条憲法]]や[[冠位十二階]]の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。
その後、[[天武天皇]]が[[壬申の乱]]の際に自ら[[式盤|栻]](ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や[[遁甲]]の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年([[676年]])に陰陽寮や日本初の[[占星台]]を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、[[養老]]2年([[718年]])の[[養老律令]]において、中務省の[[内局]]である[[寮 (律令制)|小寮]]としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として[[天文博士]]・[[陰陽博士]]・[[陰陽師 (律令制)|陰陽師]]・[[暦博士]]・[[漏刻博士]]が常置されることも規定されると、陰陽寮は[[神祇官]]に属する[[卜部氏|卜部]]の[[亀卜]](きぼく、[[亀甲]]占い)と並んで公的に[[式占]]を司ることとなった。
陰陽寮は[[四等官制]]が敷かれ、[[陰陽頭]](おんみょうのかみ)以下の[[事務官|事務方]]である[[行政官]]と、技官として方技の各博士及び各[[学生|修習生]]、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ[[漢文]]の読解に長けた[[渡来人]]、おしなべて中国本土の[[前漢]]・[[後漢]]・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった[[新羅]]から帰来した学僧が任命され、方技は[[官人]]の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「[[風水]]」的なもの)、[[天体観測]]、[[占星術|占星]]、暦(官暦)の作成、[[吉日]][[凶日]]の判断、[[漏刻]]([[水時計]]による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって[[予言]]するだけであって、神祇官や僧侶のような[[宗教]]的な[[儀礼]](祭儀)や呪術はほとんど行わなかったが、[[朝廷|宮中]]において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで[[遷都]]の際などに重要な役割を果たした。
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
=== 律令制下における陰陽師の待遇の変遷 ===
[[律令制]]においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた[[平安時代]]の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する[[国家機密]]として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「[[格]]」・「[[式]]」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。
一般的に各省で[[方技]](技官)がおしなべて[[位階]]を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる[[仙籍]]と呼ばれるいわゆる[[殿上人]]は[[従五位]]下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない[[地下人|地下官人]]であったらしい。
律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。これは、[[出家|僧籍]]に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には[[勅令]]によって[[還俗]](僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には[[俗人]](出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である[[官位相当制]]によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」([[定員|員]]外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、[[奈良時代]]から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。
しかし[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])を最後に遣唐使が廃れたことにより{{Efn2|[[寛平]]6年([[894年]])を最終回の遣唐使とする説もあるが、この回は大使である菅原道真が中止を勘申し実際には行われなかったとする説が有力。}}、朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかったため、わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、[[公家]]の勢力争いの激化にともなう[[役職]]不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家への役職充足を主目的とするものであった。
平安時代中頃([[10世紀]])に入って、後述の[[賀茂朝臣氏|賀茂家]]と[[阿倍氏#陰陽道安倍氏|安倍家]]の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが[[摂政]]や[[関白]]を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され[[従四位下]]格にまで昇進するようになった。特に安倍家は平安時代後期([[11世紀]])には[[従四位上]]格にまで取り立てられるようになり、[[室町時代]]には、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の庇護を足がかりに常に[[公卿]]([[三位]]以上)に任ぜられる[[堂上家|堂上家(半家)]]の家格にまでなり[[土御門家#土御門家(安倍氏)|土御門家]]を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、[[近世]]において[[江戸幕府]]から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、[[明治時代]]初頭まで隆盛を誇った。
=== 平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師の神格化 ===
[[延暦]]4年([[785年]])の[[藤原種継]]暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために[[怨霊]]におびえ続けた[[桓武天皇]]による[[長岡京]]から[[平安京]]への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める[[御霊信仰]]が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な[[星辰]]信仰や[[霊符]]呪術のような[[道教]]色の強い呪術が注目されていった。[[讖緯説|讖緯説(讖緯思想)]]・道教・仏教特に[[密教]]的な要素を併せ持った[[呪禁道]]を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた[[典薬寮]]の[[呪禁博士]]や[[呪禁師]]らが、陰陽家であった[[藤原鎌足|中臣(藤原)鎌足]]の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交([[8世紀]]末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した[[宿曜道]]とよばれる[[占星術]]から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。[[藤原北家|北家藤原氏]]が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や[[誹謗中傷]]に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
[[仁明天皇]]・[[文徳天皇]]の時代(9世紀中半)に[[藤原良房]]が台頭するとこの傾向は著しくなり、[[宇多天皇]]は自ら易学([[易経|周易]])に精通していたほか、[[藤原師輔]]も自ら『[[九条殿遺誡]]』や『[[九条年中行事]]』を著して多くの陰陽思想にもとづく[[タブー|禁忌]]・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、[[滋岳川人]]、[[弓削是雄|弓削是雄(ゆげのこれお)]]らの[[カリスマ|カリスマ的]]な陰陽師を輩出したほか、漢文学者[[三善清行]]の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて[[延喜]]元年([[901年]])以降恒例化するなど、[[宮廷陰陽道]]化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。
やがて平安時代中期以降に、[[摂関政治]]や[[荘園 (日本)|荘園制]]が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって[[天皇]]・[[皇族]]や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である[[賀茂忠行]]・[[賀茂保憲|保憲]]父子ならびにその弟子である[[安倍晴明]]が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の[[賀茂光栄|光栄]]に[[暦道]]を、弟子の安倍晴明に[[天文道]]をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫[[安倍章親]]が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来[[世襲]]される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。
また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が[[京都|都]]以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では[[道摩法師|道摩法師(蘆屋道満)]]などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。
平安時代中・後期([[11世紀]]から[[12世紀]])を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の[[治承・寿永の乱]](源平合戦)のころには安倍晴明の子[[安倍吉平|吉平]]の[[玄孫]]にあたる[[安倍泰親|泰親]]が[[正四位上]]、その子の[[安倍季弘|季弘]]が[[正四位下]]にまで昇階していたが、その後の[[鎌倉幕府]]への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、[[鎌倉時代]]末期の[[両統迭立]]に呼応した家内騒動、その後の[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の混乱によってその勢力は一時衰退した。
=== 武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落 ===
平安時代末期(12世紀後半)には、[[院政]]に際して重用された[[北面武士]]に由来する[[平家]]の興隆や、それを倒した[[源氏]]などによる[[武家]]社会が台頭し、[[建久]]3年([[1192年]])には[[武家政権]]である[[鎌倉幕府]]が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である[[源頼朝]]が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍[[源頼家]]もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
[[建保]]7年([[1219年]])に3代将軍[[源実朝]]が暗殺されると、[[北条氏]]による[[執権政治]]が展開されるようになり、鎌倉[[征夷大将軍|将軍]]は[[執権]]北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍[[藤原頼経]]は、[[武蔵国]](現在の[[東京都]]および[[埼玉県]])の湿地開発が一段落したのを受けて、[[公共事業]]として[[多摩川]]水系から[[灌漑用水]]を引き[[飲料水]]確保や[[水田]]開発に利用しようとする[[政所]]の方針を上申された際、その開発対象地域が府都[[鎌倉市|鎌倉]]の真北に位置するために、陰陽師によって[[犯土|大犯土(だいぼんど、おおつち)]](大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた[[安達義景|秋田城介義景]]の別屋敷(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「[[権門陰陽道]]」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の[[承久の乱]]の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に[[国人]]と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、[[国衙領]]や荘園に守護人奉行(のちの[[守護]])や[[地頭]]の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
[[後醍醐天皇]]の勅令によって鎌倉幕府が倒され、[[足利尊氏]]が後醍醐天皇から離反して[[室町幕府]]を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて[[北朝 (日本)|北朝]]を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある<ref>今谷明『室町の王権』中央公論新社、1990年ISBN 4121009789。</ref>)。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった[[勘解由小路]](かでのこうじ)に因んで[[勘解由小路家 (賀茂氏)|勘解由小路家]]{{Efn2|藤原氏北家の[[勘解由小路家 (日野流)|日野流勘解由小路家]]や清和源氏の[[斯波氏#勘解由小路武衛|斯波氏流勘解由小路家]]とは異なる。}}を名乗り、[[賀茂在方|賀茂(勘解由小路)在方]]が『[[暦林問答集]]』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に[[得宗家]]の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。一方、安倍家は上手く立ち回り、[[安倍有世]](晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である[[従二位]]にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子[[安倍有盛|有盛]]から[[安倍有季|有季]]・[[安倍有宣|有宣]]と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代([[16世紀]])には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり{{Efn2|勘解由小路を家名とした賀茂家同様、あくまで地名から取ったもので、[[村上源氏]]の流れをくむ[[源通親]]系[[土御門家#土御門家(村上源氏)|土御門家]]とは異なる。}}、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、[[管領|三管]][[四職]]も[[細川家]]を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、[[応仁の乱]]などの戦乱が頻発するようになった。更に[[守護大名]]の[[戦国大名]]への移行や[[守護代]]・国人などによる[[下克上]]の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。[[天文 (日本)|天文年間]](16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の[[若狭国]][[名田庄]](なたのしょう)[[納田終]](のたおい)に[[疎開]]して、その子[[土御門有春|有春]]・孫[[土御門有脩]]の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の[[勘解由小路在富]]を召し出して諸々の勘申([[勘文]]を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、[[織田氏]]を経て[[豊臣家]]が勢力を確立するなか、[[太閤]][[豊臣秀吉]]が養子の関白[[豊臣秀次|秀次]]を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで[[連座]]させられて[[尾張国]]に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて[[加持祈祷]]や[[占い|占断]]などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『[[簠簋内伝]]』が、[[牛頭天王]]信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが<ref>柳田國男『小さき者の声』玉川学園出版部、昭和8年。</ref>、陰陽師を自称して[[霊媒]]や[[口寄せ]]の施術を口実に各地を[[行脚]]し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めて[[オカルト|オカルティック]]で胡散臭い[[イメージ]]が広く定着することにもなった。
=== 近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆 ===
秀吉が薨じ、[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は[[徳川家康]]によって[[山城国]][[乙訓郡|乙訓(おとくに)郡]]鶏冠井(かいで)村(現[[京都府]][[向日市]][[鶏冠井町]])・寺戸村(同寺戸町)、[[葛野郡]]梅小路村(同府[[京都市]][[下京区]]梅小路)・西院村(同[[右京区]]西院)、[[紀伊郡]]吉祥院村(同[[南区 (京都市)|南区]]吉祥院)にわたる計177[[石 (単位)|石]]6[[斗]]の[[知行]]を与えられて宮中へ復帰し、同8年(1603年)に[[江戸幕府]]が開かれると、土御門家は幕府から正式に[[陰陽道宗家]]として認められ、[[江戸]]圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の[[日光東照宮]]建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は[[風説]]の流布を防止するために[[民間信仰]]を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家[[幸徳井家]]を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。
この動きを得て、土御門家勢力は[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])に[[幸徳井友傳]]が[[夭折]]した機会を捉え、幸徳井家を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に[[家職陰陽道]]と称されるような公認の[[家元]]的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に[[神道]]形式をとることで「[[土御門神道]]」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって[[有職故実]]の研究対象の一分野とされるようになっている。
各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の[[赤星家]]や[[玖珂家]]、武家陰陽師である[[清和源氏]]系[[小笠原家]]、地域派生の[[嵯峨家 (陰陽師)|嵯峨家]]、[[八幡流]]、[[日直家]]、[[鬼貫家]]、[[引佐]][[名倉家]]、[[遠州山住]]系[[高橋家]]、[[四国]][[中尾家]]([[いざなぎ流]])、安曇系各家などを中心に、各地の[[民俗]]との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの[[流行]]を見せた。
[[貞享]]元年([[1684年]])には幕府の[[天文方]]が[[渋川春海]]によって、日本人の手による初の新暦である[[貞享暦]]を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた[[宣明暦]]を[[改暦]]し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の[[宝暦]]5年([[1755年]])、[[土御門泰邦]]が[[宝暦暦]]を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。
その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された[[天保暦]]は、[[不定時法]]の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。
=== 近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師 ===
[[大政奉還]]がなされ[[明治時代]]になると、[[明治維新]]の混乱に乗じて、陰陽頭[[土御門晴雄]]は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や[[地図]][[測量]]の権限の全てを収用した。その後、[[明治政府]]が[[西洋]]式の[[グレゴリオ暦|太陽暦(グレゴリオ暦)]]の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の[[太陰太陽暦]]の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、晴雄本人の薨去によりこの案が取り上げられることはなかった。晴雄[[夭折]]のあとに就任した陰陽頭[[土御門晴栄|晴栄]]はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。
その期に乗じて明治政府は[[明治]]3年([[1870年]])に陰陽寮廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を[[大学校 (1869年)|大学校]]天文暦道局や[[水路部 (日本海軍)|海軍水路局]]、[[文部省]]天文局、[[国立天文台#歴史|天文台]]に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学[[星学局]][[御用掛]]に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。同年閏10月17日([[1870年]][[12月9日]])には[[天社禁止令]]が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された{{efn2|よって、この時点で[[土御門家#土御門家(安倍氏)|土御門家]]も[[倉橋家]]も[[家学]]の[[陰陽道]]から離れ、そもそ陰陽師なる役職が公的存在性を失った上、戦後[[天社土御門神道]]が再興されたが、土御門家現当主は一切関与しない姿勢でいるため、明治以降現代において「陰陽師」、「[[陰陽道宗家]]」などといった役職は存在せず、民間的な存在有無は別として、公的には現存しない。}}。古くは[[後陽成天皇]]のころから江戸時代最後の天皇である[[孝明天皇]]の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「[[天曹地府祭]]」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、[[明治天皇]]に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。
明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、[[暦注]]が人気を博して独り歩きする状況であり、特に[[十二直]]が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。
[[第二次世界大戦]]後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである[[六曜]](本来は「[[六輝]]」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれ[[カレンダー]]や[[手帳]]などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については[[九星占術]]を基本とする[[神宮館]]([[東京都]][[上野区]])による[[高島易断]]・[[高島暦]]が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。
現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道または陰陽師の権威の面影はなく、土御門家の旧領[[若狭国]][[名田庄村|名田庄]]にあたる[[福井県]]西部の[[おおい町]]に[[天社土御門神道本庁]]の名で<ref>{{cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/17679|title=晴明直系 陰陽道 途絶の危機 平安から1000年後継なく|publisher=[[東京新聞]]|date=2020-02-29}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/kikuchi07|author=菊地誠|title=「安倍晴明は国家公務員だった」子孫が教えてくれた陰陽師の真実|publisher=イーアイデム|date=2018-01-12}}</ref>、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽道の要素を色濃く残す宗教団体として存続しているほか、[[高知県]][[香美市]](旧[[物部村 (高知県)|物部村]])に伝わる[[いざなぎ流]]などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみであるが、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルトなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれて、とりわけ[[平成]]初頭の10年間([[1990年代]]後期から[[2000年代]]前期)にかけては陰陽師が[[流行|ブーム]]となり、多くの作品が作られた(具体例は「[[陰陽師に関係する創作一覧]]」を参照)。また、政界の陰陽師を名乗った[[富士谷紹憲]]がいる。
== 陰陽道の祭祀概略 ==
陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼も一様ではない。『[[延喜式]]』「陰陽寮式」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録がある。それによれば儺祭([[節分]]・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで[[祭文]]を読むとあるが、この祭文は前半が[[漢文]]で構成された音読部分であり、後半が[[祝詞]]のような[[宣命体]]となっている。また、中世の『[[文肝抄]]』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなる。
陰陽道の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る[[泰山府君]]を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げることができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。
=== 陰陽師が用いた道具・呪法など ===
; 九字(くじ)
: 陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の[[九字]]を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴う。現在のところ「九字」の初見は[[葛洪]]『[[抱朴子]]』「登渉篇」とされるが、同書では末尾が「在前」ではなく「前行」となっており、入山時に唱える「六甲秘祝」として呪のみが載る。なお、四縦五横に切る所作自体は[[道教]]経典等にも見え古くから存在しているが、結印の所作は見えない。
: 陰陽道における九字では、古いものでは鎌倉時代の陰陽道の反閇儀礼を伝える文献に四縦五横に切りながら「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」を唱えるものがある。現存する文献では身固や反閇の際に用いられた可能性も示唆されている。
; 急急如律令(喼喼如律令)
: 元来は、中国[[漢]]代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令(法律)の如く行え」の意であるが{{efn2|本来は「急」の字は「ロ(口編)」がつく。}}、転じて「早々に退散せよ」の意で悪鬼を払う呪文とされた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%80%A5%E6%80%A5%E5%A6%82%E5%BE%8B%E4%BB%A4-476718 コトバンク 急急如律令]</ref>。なお、密教や修験道においても「急急如律令」の呪は用いられる。
; 六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)
: [[六壬]]によって吉凶を判断するための道具で、栻とも呼ばれる。地を表す「'''輿'''(よ)」と呼ばれる方形の台座(地盤)と、天を表す「'''堪'''(かん)」と呼ばれる円形の天盤で作られ{{efn2|堪輿は天地を意味し、風水の別名でもある。}}、輿には、[[二十八宿]]、[[十干]]、[[十二支]]、四隅の[[八卦]]が記載され、堪には[[十二月将]]等が記載されている。堪の十二月将を輿の十二支に合わせることで、簡易な計算を行ったのと同じ効果が得られる。式盤を正しく作成するためには、輿には雷に撃たれた[[棗]]の木、堪には[[フウ|楓]](ふう)にできるコブである楓人を使用する。
; 渾天儀(こんてんぎ)
: 天文上の変異を知るために天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した。特に本来はあってはならない箒星(ほうきぼし。[[彗星]]のこと)が現れると大災や天変地異が起こるとされた。
; 呪符・霊符
: 陰陽師が用いたとされる、種々の紋様や呪文を記載した護符。俗に「[[セーマンドーマン|セーマン]](晴明桔梗・晴明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や「[[セーマンドーマン|ドーマン]](九字格子)」と呼ばれる図形を記すものも多い。他にも「[[鎮宅七十二霊符]]」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「[[六芒星]]」や、「[[急急如律令]]」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。
: 日本における護符の歴史は未だ解明されていない部分が多く、古くは[[藤原京|藤原京跡]]などから「急々如律令」の呪句を書き付けた呪符木簡等が出土しており、奈良時代にはすでに活用されていたとも伝わっている。古い資料はほとんど残っておらず、不明な点が多い。
; 太上神仙鎮宅霊符
: 「[[太上秘法鎮宅霊符]]」「[[鎮宅七十二道霊符]]」等とも呼ばれる72種の護符。現在の所、[[道蔵]]の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられている。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容された。この霊符を司る神を[[鎮宅霊符神]]というが、元来は道教の[[玄天上帝]](真武大帝)であると考えられている。玄天上帝は[[玄武]]を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体であった。それ故日本へ伝来すると[[妙見菩薩]]や[[天之御中主神]]等と習合し、星辰信仰に影響を与えている。
: 近世には72種を一枚に刷った「鎮宅霊符」が各地の妙見宮や霊符社から出され、軸装して祭られていた。なお、土御門神道の祭神は現在[[泰山府君]]、鎮宅霊符神、安倍晴明が主神である。[[楠木正成]]や[[加藤清正]]なども鎮宅霊符神の熱心な信者であったと伝えられている。
: 鎮宅霊符神を祭る主な社寺は関西圏に多い<ref>[http://satokei59.web.fc2.com/ChintakuMyouken.html 鎮宅霊符神]</ref>。
: 群馬県:[[達磨寺 (高崎市)|少林山鳳臺院達磨寺]]
: 福井県:[[天社土御門神道|天社土御門神道本庁]]
: 京都府:[[曙寺]](黄檗禅宗瑞芝山[[閑臥庵]]<ref>[http://www.kangaan.jp/kangaan.html 公式]</ref>)、[[行願寺|革堂 靈麀山行願寺]]鎮宅霊符神堂、青蓮山[[不動堂明王院]]([[松原不動寺]])等
: 大阪府:[[星田妙見宮]](小松神社)、[[大阪天満宮]]霊符社、[[堀越神社]] 太上神仙鎮宅七十二霊符尊神<ref>[https://yaokami.jp/1270038/photo/lRmBv3hT/ Yaokami.jp]</ref>、[[報恩院 (大阪市)|高津山報恩院]]、[[鎮宅霊符神社 (東大阪市)|鎮宅霊符神社]](東大阪市[[東山町 (東大阪市)|東山町]])、[[妙法寺 (大阪市東成区)|密華山妙法寺]]<ref>[http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000433.html 大阪市]</ref>([[大今里|今里]])等
: 奈良県:[[鎮宅霊符神社]](陰陽町)、信貴山[[成福院]]<ref>[http://www.jyofukuin.jp/ 公式]</ref>等
: 熊本県:[[八代神社#霊符神社|霊符神社]]([[八代神社]]末社)
; 人形(ひとかた、ひとがた)
: [[形代]](かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、それにより患部等を撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習はこれを元としている。一方で人形に相手の名前等を記し、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど、様々な祈祷儀礼に広く見られる。[[丑の刻参り]]の藁人形が有名。
; [[式神]](しきがみ)
: 陰陽師が使役したとされる使役神を言う。「識神」「しきのかみ」「式(しき)」とも。「式神」の解釈は密教の[[護法童子]]に似たものであるとか、精霊を使役するものであるとか諸説存在する。陰陽師にとって占具である式盤は最も身近な存在であり、天盤と地盤は合して[[宇宙]]そのものを表す。それ故強大な呪力を持つとの信仰が少なくとも密教側の史資料には散見され、「都表如意輪法」等のように、陰陽道の式盤によく似たものを作成し、一種の呪具と見做し祈祷することで種々の利益を得るとする信仰があった。そうした資料の中には「式神」を呼び出す旨が記されるものもある。
; 身固(みがため)
: 陰陽道の護身作法の一種。
; 禹歩(うほ)
: 足で大地を踏みしめて呪文を唱えながら千鳥足様に前進して歩く呪法を指す。基本は[[北斗七星]]の柄杓方を象って[[ジグザグ]]に歩くものであるが、九宮八卦の九星配置を象って歩くやり方や、片足を引きずりながら歩いて地面に図形を描くといったものもある。名前の通り、中国の[[禹]]が治水のために中国全土を踏破した結果、遂には足を引きずりながら歩くようになったという伝説にちなんだものである。魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとしており、ドーマンの九字と同様、葛洪『抱朴子』には薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されていることが起源である。奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、術を成功させるために行われていた。
; 反閇(へんぱい)
: 道中の除災を目的として出立時に門の前で行う呪法。自分自身のために行うこともあるが、多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。反閇では最初に'''玉女'''を呼び出して目的を申し述べる。呼び出すときには禹歩を踏む。最後は6歩歩いて振り返らず出発する<ref>小坂眞二「陰陽師が反閇をつとめるとはどういうことか」、ダ・ヴィンチ No.90(2001年10月6日発行)。</ref>。
; 五行占霊(ごぎょうせんれい)
:陰陽五行思想を下敷きにした木・火・土・金・水の五気にあやかって行われる、占術系の呪術儀法。
; 泰山府君祭・刀禁呪・浄心呪・浄身呪・浄天地呪
: いずれも元来は道教の祭祀。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2022年12月|section=1}}
* 遠藤克己『近世陰陽道史の研究』新人物往来社、1994年 ISBN 4404021569
* 小坂眞二『安倍晴明撰「占事略決」と陰陽道』汲古書院、2004年 ISBN 4762941670
* 斎藤励『王朝時代の陰陽道』(歴史学叢書別冊)、名著刊行会、2007年 ISBN 4839003300
* [[繁田信一]]『陰陽師』中公新書、2006年 ISBN 4121018443
* 繁田信一『平安貴族と陰陽師』吉川弘文館、2005年(平成17年)ISBN 4642079424
* [[晴明神社]]編『安倍晴明公』講談社、2002年 ISBN 4062109832
* 高橋圭也『現代・陰陽師入門』朝日ソノラマ、2000年 ISBN 4257035846
* [[中村璋八]]『日本陰陽道書の研究(増補版)』汲古書院、2000年 ISBN 4762931306
* 林淳、小池淳編『陰陽道の講義』嵯峨野書院、2002年 ISBN 4782303610
* 林淳『近世陰陽道の研究』吉川弘文館、2005年(平成17年)ISBN 4642034072
* [[村山修一]]編『日本陰陽道史総説』塙書房、昭和56年 ISBN 4827310572
* 村山修一編『陰陽道叢書(Ⅰ)〜(Ⅳ)』名著出版、平成3年-5年 ISBN 4626014259,ISBN 4626014550,ISBN 4626014445,ISBN 4626014569
* [[山下克明]]『平安時代の宗教文化と陰陽道』岩田書院、1996年(平成8年)ISBN 4900697656
* 鈴木一馨『陰陽道―呪術と鬼神の世界』講談社選書メチエ、2002年 ISBN 9784062582445
== 関連項目 ==
* [[陰陽道]]
* [[陰陽師の一覧]]
* [[声聞師]]
* [[陰陽師に関係する創作一覧]]
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[[Category:陰陽寮]]
[[Category:被差別部落]]
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西鉄太宰府線
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太宰府線(だざいふせん)は、福岡県筑紫野市の西鉄二日市駅から福岡県太宰府市の太宰府駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はD。
天神大牟田線から分岐して太宰府市内の中心部を通る路線で、沿線は住宅地が広がるとともに高校・大学が多く、また太宰府天満宮や九州国立博物館などの数多くの観光スポットがあり、福岡都市圏内の通勤・通学路線としての役割と、観光地へのアクセスの役割を併せ持つ。
線内は普通列車のみ運行されており、日中は毎時4本運行されている。大半の列車が太宰府線西鉄二日市 - 太宰府間の線内折り返しで、一部の列車が天神大牟田線の筑紫駅・小郡駅・福岡(天神)駅まで直通する。午前中には下りのみ西鉄福岡(天神)発太宰府行きの直通急行が運行されているが、太宰府線内では普通列車となる(列車方向幕と液晶案内表示は急行のまま)。
日中の一部の列車には改装を施した3000形太宰府観光列車『旅人』が使用される(車両検査時などを除く)。それ以外は天神大牟田線で運用されている車両が終日共通で運用される。
12月31日から1月1日にかけては天神大牟田線とともに終夜運転が行われ、太宰府天満宮への参詣者が多く利用する。1月1日・2日・3日の正月三が日には、太宰府天満宮への初詣客対策で正月ダイヤ(天神大牟田線西鉄福岡(天神) - 西鉄小郡間も同様)となり、西鉄福岡(天神) - 太宰府間の直通急行『初詣号』(ヘッドマーク付き)が運行される。なお、初詣号は通常の急行運用の6両編成で運用され、間合い運用で線内折り返し列車にも使用するため、西鉄福岡(天神)駅と太宰府駅ではヘッドマークの取り付け・取り外し作業が行われる。
毎年10月末に、太宰府天満宮で11月に開催される菊花展に展示される菊を輸送する「菊電車」と呼ばれる列車が大牟田から太宰府まで1本運行される。5000形など一般車が使用される。一般客の乗車はできない。
1902年(明治35年)5月15日に設立された太宰府馬車鉄道により建設された路線である。そのため、西鉄では最も歴史のある路線ともいえる。当初は初代九州鉄道(国有化により鹿児島本線となる)二日市駅と太宰府の間を結ぶ軌間914mmの馬車鉄道として建設された。その後、馬力から蒸気動力への動力変更を経て2代目九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線の前身)の傘下に入り、1927年(昭和2年)には太宰府 - 二日市(現在の西鉄二日市駅)間が1435mm軌間に改軌と同時に電化され九州鉄道の支線的存在となった。残りの二日市 - 二日市駅前間は軌間914mmの蒸気動力使用のまましばらく営業が続けられたが、1929年(昭和4年)に廃止されている。
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太宰府線(だざいふせん)は、福岡県筑紫野市の西鉄二日市駅から福岡県太宰府市の太宰府駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はD。 天神大牟田線から分岐して太宰府市内の中心部を通る路線で、沿線は住宅地が広がるとともに高校・大学が多く、また太宰府天満宮や九州国立博物館などの数多くの観光スポットがあり、福岡都市圏内の通勤・通学路線としての役割と、観光地へのアクセスの役割を併せ持つ。
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'''太宰府線'''(だざいふせん)は、[[福岡県]][[筑紫野市]]の[[西鉄二日市駅]]から福岡県[[太宰府市]]の[[太宰府駅]]までを結ぶ[[西日本鉄道]](西鉄)の[[鉄道路線]]である。路線記号は'''D'''。
[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]から分岐して太宰府市内の中心部を通る路線で、沿線は住宅地が広がるとともに高校・大学が多く、また[[太宰府天満宮]]や[[九州国立博物館]]などの数多くの観光スポットがあり、[[福岡都市圏]]内の通勤・通学路線としての役割と、観光地へのアクセスの役割を併せ持つ。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):2.4km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:100km/h<ref name="terada" />
* ホーム最大編成両数:6両
* [[運転指令所]]:[[西鉄指令]]
== 運行形態 ==
[[File:Nishitetsu EMU 3010F Tabito.jpg|right|thumb|旅人(3000形)]]
[[File:Nishitetsu EMU 8051F.jpg|right|thumb|旅人(8000形時代)]]
[[File:Nishitetsu EMU 5116F.jpg|right|thumb|初詣号]]
線内は[[普通列車]]のみ運行されており、日中は毎時4本運行されている。大半の列車が太宰府線西鉄二日市 - 太宰府間の線内折り返しで、一部の列車が天神大牟田線の[[筑紫駅]]・[[西鉄小郡駅|小郡駅]]・[[西鉄福岡(天神)駅|福岡(天神)駅]]まで直通する。午前中には下りのみ西鉄福岡(天神)発太宰府行きの直通[[急行列車|急行]]が運行されているが、太宰府線内では普通列車となる(列車方向幕と液晶案内表示は急行のまま)。
日中の一部の列車には改装を施した[[西鉄3000形電車|3000形]][[西鉄3000形電車#太宰府観光列車「〜旅人〜」|太宰府観光列車『旅人』]]が使用される(車両検査時などを除く)。それ以外は天神大牟田線で運用されている車両が終日共通で運用される。
[[12月31日]]から[[1月1日]]にかけては天神大牟田線とともに[[終夜運転]]が行われ、太宰府天満宮への参詣者が多く利用する。1月1日・2日・3日の[[正月三が日]]には、太宰府天満宮への[[初詣]]客対策で正月ダイヤ(天神大牟田線西鉄福岡(天神) - [[西鉄小郡駅|西鉄小郡]]間も同様)となり、西鉄福岡(天神) - 太宰府間の直通[[急行列車|急行]]『初詣号』([[ヘッドマーク]]付き)が運行される。なお、初詣号は通常の急行運用の6両編成で運用され、[[間合い運用]]で線内折り返し列車にも使用するため、西鉄福岡(天神)駅と太宰府駅ではヘッドマークの取り付け・取り外し作業が行われる。
毎年10月末に、太宰府天満宮で11月に開催される菊花展に展示される菊を輸送する「菊電車」と呼ばれる列車が大牟田から太宰府まで1本運行される。[[西鉄5000形電車|5000形]]など一般車が使用される。一般客の乗車はできない。
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File:Nishitetsu Dazaifu station on New Year's midnight.jpg|終夜運転中の太宰府駅
</gallery>
== 歴史 ==
[[1902年]](明治35年)[[5月15日]]に設立された太宰府馬車鉄道により建設された路線である。そのため、西鉄では最も歴史のある路線ともいえる。当初は初代[[九州鉄道]](国有化により[[鹿児島本線]]となる)[[二日市駅]]と太宰府の間を結ぶ軌間914mmの[[馬車鉄道]]として建設された。その後、馬力から蒸気動力への動力変更を経て2代目[[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]](現在の西鉄天神大牟田線の前身)の傘下に入り、[[1927年]](昭和2年)には太宰府 - 二日市(現在の西鉄二日市駅)間が1435mm軌間に[[改軌]]と同時に[[鉄道の電化|電化]]され九州鉄道の支線的存在となった。残りの二日市 - 二日市駅前間は軌間914mmの蒸気動力使用のまましばらく営業が続けられたが、[[1929年]](昭和4年)に廃止されている。
[[1934年]](昭和9年)に親会社となっていた九州鉄道に吸収合併され太宰府線となった。
=== 年表 ===
* [[1901年]](明治34年)[[4月25日]] 太宰府馬車鉄道に太宰府町と二日市町二日市を結ぶ軌道路線の特許が下付される。
* [[1902年]](明治35年)
** [[5月1日]] 太宰府馬車鉄道により太宰府 - 二日市駅前(湯町口)間が開業。
** 5月15日 太宰府馬車鉄道会社設立。
* [[1907年]](明治40年)[[7月17日]] 太宰府馬車鉄道が太宰府軌道に社名変更。
* [[1913年]](大正2年)[[1月20日]] 動力を馬力から蒸気に変更。
* [[1927年]](昭和2年)[[9月24日]] 太宰府 - 二日市(現在の西鉄二日市)間を1435mm軌間に改軌し電化。
* [[1929年]](昭和4年)[[9月5日]] 二日市 - 二日市駅前(湯町口)間が廃止。
* [[1934年]](昭和9年)[[6月30日]] [[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]]が太宰府軌道を合併。太宰府線となる。
* [[1938年]](昭和13年)[[12月1日]] 太宰府 - 二日市間を[[軌道法]]から[[地方鉄道法]]準拠に変更。
* [[1942年]](昭和17年)
** [[9月19日]] [[九州電気軌道]]が九州鉄道を合併。
** [[9月22日]] 九州電気軌道が西日本鉄道に改称、同社の太宰府線となる。
* [[2006年]](平成18年)[[10月31日]] 西鉄二日市駅東口駅前計画道路([[福岡県の県道一覧#福岡・筑前地方|県道581号]])が[[榎社]]([[太宰府市]])まで開通。これにより既存の[[踏切]]が歩行者専用となり、西鉄太宰府線の踏切1か所が撤去された。
* [[2008年]](平成20年)[[5月18日]] ICカード[[nimoca]]導入。
* [[2017年]](平成29年)[[2月1日]] 全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-24|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2017/16_097.pdf|title=西鉄電車の全駅に駅ナンバリングを導入します!|format=PDF|publisher=西日本鉄道|accessdate=2017年1月25日}}</ref>。
== 駅一覧 ==
*全駅[[福岡県]]内に所在。
*全線単線、すべての駅で[[列車交換]]が可能。
{| class="wikitable" rules="all"
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!style="width:4em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|営業キロ
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|接続路線
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|所在地
|-
!T13
|[[西鉄二日市駅]]
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|[[西日本鉄道]]:{{西鉄駅番号|T}} [[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]
|[[筑紫野市]]
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|[[太宰府駅]]
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|
|}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*[http://www.nishitetsu.jp/train/rosen/tenjin.html 天神大牟田線] - 西日本鉄道
{{西日本鉄道の路線}}
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[[Category:九州地方の鉄道路線|たさいふせん]]
[[Category:西日本鉄道の鉄道路線|たさいふ]]
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[[Category:福岡県の交通]]
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[[Category:太宰府市の交通]]
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1615年
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1615年(1615 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1615年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[乙卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[慶長]]20年、[[元和 (日本)|元和]]元年7月13日 -
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2275年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[万暦]]43年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]7年
** [[檀君紀元|檀紀]]3948年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]16年
*** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]23年
* [[仏滅紀元]] : 2157年 - 2158年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1023年 - 1024年
* [[ユダヤ暦]] : 5375年 - 5376年
* [[ユリウス暦]] : 1614年12月22日 - 1615年12月21日
{{Clear}}
== できごと ==
* [[1月3日]]([[慶長]]19年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]: [[真田丸の戦い]]
*[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]([[元和偃武]])
**[[5月25日]]([[慶長]]20年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - 開戦。
**[[6月1日]](慶長20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[徳川家康]]が京都・二条城を出陣。
**[[6月2日]](慶長20年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[道明寺の戦い]]、[[後藤基次]]、[[木村重成]]、[[薄田兼相]]、[[増田盛次]]が戦死。
**[[6月3日]](慶長20年[[5月7日]]) - [[大坂城]]が炎上。
**[[6月3日]](慶長20年[[5月7日]]) - [[天王寺口の戦い]]、[[御宿政友]]、[[三好清海]]、[[真田信繁]]、[[小笠原秀政]]、[[大谷吉治]]、[[本多忠朝]]、[[小笠原忠脩]]が戦死。
**[[6月4日]](慶長20年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - 徳川家康が[[豊臣秀頼]]と[[淀殿]]を切腹に追い込み、[[豊臣氏]]が滅亡。
* [[8月7日]]([[慶長]]20年[[閏]][[6月13日 (旧暦)|6月13日]])- [[江戸幕府]]が[[一国一城令]]を発令。
* [[8月30日]] - 江戸幕府が[[武家諸法度]]を発布。
* [[9月5日]](慶長20年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - 日本、[[改元]]して[[元和 (日本)|元和]]元年
* [[9月9日]](慶長20年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - 江戸幕府が[[禁中並公家諸法度]]を発布。
* [[本阿弥光悦]]が[[徳川家康]]から洛北[[鷹峯]]の地を拝領し、一族や各種の工人を率いて移住。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1615年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]] - [[ニコラ・フーケ]]、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]時代の[[フランス]]の[[大蔵卿]](+ [[1680年]])
* [[5月25日]](元和元年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[出口延佳]](度会延佳)、[[神道]]家(+ [[1690年]])
* [[6月20日]](あるいは[[7月21日]]) - [[サルヴァトル・ローザ]]、[[イタリア]]・[[ナポリ]]の[[画家]](+ [[1673年]])
* [[11月5日]] - [[イブラヒム (オスマン帝国)|イブラヒム ]]、[[オスマン帝国]]の第18代[[オスマン帝国の君主|皇帝]](+ [[1648年]])
* [[野中兼山]]、[[儒学者]]・[[土佐藩]][[家老]](+ [[1663年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1615年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]](慶長19年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]])- [[今川氏真]]、武将、[[戦国大名]](* [[1538年]])
* [[2月3日]](慶長20年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[高山右近]]、武将・[[キリシタン大名]](* [[1553年]])
* [[3月4日]] - [[ハンス・フォン・アーヘン]]、[[画家]](* [[1552年]])
* [[5月27日]] - [[マルグリット・ド・ヴァロワ]]、[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の妻(* [[1553年]])
*[[6月2日]](慶長20年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]) - [[後藤基次]](又兵衛)、武将(* [[1560年]])
* [[6月2日]](慶長20年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]])(?) - [[木村重成]]、武将(* [[1593年]]頃?)
* [[6月3日]]([[慶長]]20年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[真田信繁]](真田幸村)、[[武将]](* [[1567年]])
* [[6月4日]](慶長20年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[淀殿]](茶々)、[[豊臣秀吉]]の[[側室]]、秀頼の母(* [[1569年]]?) ※異説あり
* 6月4日(慶長20年5月8日) - [[豊臣秀頼]]、[[大名]](* [[1593年]]) ※異説あり
* [[6月11日]](慶長20年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[長宗我部盛親]]、[[武将]](* [[1575年]])
* [[6月23日]](慶長20年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]]) - [[増田長盛]]、[[大名]](* [[1545年]])
* [[6月24日]](慶長20年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[片桐且元]]、大名(* [[1556年]])
* [[6月27日]](慶長20年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[海北友松]]、画家(* [[1533年]])
* [[7月6日]](慶長20年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]) - [[古田重然|古田織部]]、[[武将]]・大名・[[茶人]](* [[1544年]])
* [[10月16日]](元和元年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[島井宗室]]、[[商人]]・茶人(* [[1539年]])
<!--== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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西鉄貝塚線
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貝塚線(かいづかせん)は、福岡県福岡市東区の貝塚駅から福岡県糟屋郡新宮町の西鉄新宮駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はNK。
かつては西鉄新宮駅から先、福岡県福津市津屋崎(旧:宗像郡津屋崎町)にあった津屋崎駅まで路線が延び、路線名も宮地岳線(宮地嶽線、みやじだけせん)と称していた。2007年4月1日に同区間を廃止し、同時に路線名も貝塚線に改称した。
福岡市東郊に延びる鉄道路線で、ほぼ全区間で九州旅客鉄道(JR九州)の鹿児島本線と並行し、貝塚駅から西鉄香椎駅まで並走する。貝塚駅で福岡市地下鉄箱崎線と、和白駅で(元は同じ会社の路線だった)香椎線と接続している。
軌間に1,435 mmの標準軌を採用する他の西鉄の路線とは異なり、貝塚線では1,067 mmの狭軌を採用している。これは、貝塚線が元々博多湾鉄道汽船によって開通した路線であったことによる。当初は新博多(現在の西鉄バス千鳥橋バス停付近)から貝塚・和白を経て津屋崎までの路線であった。福岡市街区間については市内線ネットワークに組み込むことでサービス改善を図るべく、新博多 - 貝塚間を改軌して福岡市内線に編入した経緯があるが、同区間は1979年の市内線全廃時に一緒に廃止された。以来、他の西鉄の鉄軌道線と接続する駅がない孤立路線となっている。
沿線は全線にわたって閑静な住宅街が広がる。全線が博多湾・玄界灘の海岸沿いを通るが、海が見えるのは多々良川の河口と和白駅付近くらいである。
ICカード「nimoca」が2010年3月13日から利用可能になり、同時に貝塚駅で接続する福岡市地下鉄が発行するICカード「はやかけん」やJR九州の「SUGOCA」などと相互利用できるようになった。ICカードは貝塚・西鉄千早・西鉄香椎の3駅は自動改札機、それ以外の駅はnimoca用簡易改札機の設置で対応している。沿線では、並走する西鉄バスの路線のほうが一足早くnimocaに対応した。なお、「よかネットカード」はサービス開始から終了まで、当線には導入されなかった。
香椎地区副都心整備事業の一環として、西鉄千早 - 西鉄香椎間で連続立体交差化工事が行われた。2004年8月に貝塚(名島駅付近) - 香椎宮前間が新線に切り替えられ、同時に名香野駅が高架駅となり、西鉄千早駅に改称された。また、2006年5月14日には西鉄千早 - 香椎花園前間(国道3号線立体交差まで)が高架化され、連続立体交差事業は完了した。現在は旧線路跡を含めた再開発が始まっている。
全列車が貝塚 - 西鉄新宮間の各駅に停車し、平日の朝夕ラッシュ時には約10分間隔、平日昼間と土日祝日は約15分間隔で運転されている。全列車ともワンマン運転を実施しているため、車内放送はすべて自動放送となっている。放送前に流れる車内放送・チャイムは2012年3月23日まで天神大牟田線で使用されていたものと同じものを使用しているが、香椎花園前到着および貝塚・新宮各駅終着時のみ、西鉄バスでも使用している二点打チャイムが流れる。
2007年4月1日の西鉄新宮 - 津屋崎間廃止以前は、全区間を走行する列車が約13分間隔で運転され、朝夕ラッシュ時にはこの間に貝塚 - 三苫間の途中折り返し運転が入り、貝塚 - 三苫間の朝夕は約6.5分間隔で運転されていた。またかつては香椎花園前駅や終着駅到着時の車内放送でチューリップの「心の旅」(終着駅)や「サボテンの花」(香椎花園前駅)のオルゴールがBGMとして流れていたが、貝塚線となったしばらくのちに廃止された。
なお、正式な起点は貝塚駅だが、列車運行および旅客案内では西鉄新宮駅から貝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
2005年以降の数値は、特記のない限り、『鉄道統計年報』による。
2007年に一部区間が廃止されたもののその後は利用客が増加傾向にある。しかし、鉄道アナリスト梅原淳が独自に算出した営業係数では2013年度でも200を超えており、依然厳しい状況である。
貝塚線(宮地岳線)の輸送実績を下表に記す。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
貝塚線(宮地岳線)の収入実績を下表に記す。
表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
本路線の収支は年間2億円の赤字となっていると、福岡市議会内で2009年に報告されている。
2022年(令和4年)度の最混雑区間(名島 → 貝塚間)の混雑率は154%である。
2007年にラッシュ時の最短運転間隔が6分30秒から10分となり、3両編成の運用も廃止されたが、その後香椎操車場跡地でのマンション建設や新宮町のNTT社宅跡地(杜の宮)での宅地開発などが進んで混雑率が増加した。福岡市内にある鉄道路線でありながら終日2両編成での運転であり、混雑率は大手民鉄の中では最も高い。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
西鉄発足後は幹線でないとして専用の新車は製造されず、戦中戦後の1944年から1951年にかけて国鉄から車両を譲り受けたのちはすべて大牟田線(現・天神大牟田線)からの転属によりまかなわれている。博多湾鉄道汽船から引き継いだ車両およびもと国鉄の車両は1980年のワンマン運転開始時に全廃されており、現存する車両はすべて大牟田線からの転用車両である。軌間が天神大牟田線と異なるため、台車を始め、主要機器は近年は主に西武鉄道など他社の廃車発生品を流用している。また連結器も天神大牟田線で使用している密着連結器ではなく、旧国鉄と同じ柴田式自動連結器を使用している。
1977年に入線した313形以降の新規入線車両の車体塗色は天神大牟田線の2000形と同じオキサイドイエローにボンレッド帯となっており、現在はこの塗装に統一されている。それ以前の車両は西鉄旧標準色の上半ベージュ、下半あずき色の塗装であった。また、313形までは車両番号の書体に、福岡市内線車両や北九州線連接車と同じくローマン体を用いていた。
西鉄新宮 - 津屋崎間廃止後は路線短縮に加え大幅減便を実施したため、最ピーク時で7運用となり、これに検査予備分を加えても9編成あれば足りることとなった。600形全編成と313形2編成と300形1編成を除き、2007年後半に300形の検査期限切れが相次ぐことと老朽化を理由として、最後まで吊り掛け駆動方式で残っていた300形や313形を廃車することとなった。2006年9月より運用離脱していた316編成がトップを切って同年4月中旬より解体作業に入り、5月下旬までに廃車予定車すべてを解体した(これらの車両の廃車日はすべて2007年4月1日付)。なお、同月1日以降は日中時間帯のほとんどを600形で運用するようになり、300形や313形はラッシュ時中心の運用となった。その後、2007年12月21日限りで3両編成での運用を取りやめ、すべての列車が2両編成での運用となった。これらの車両整理ののちは313形315-365の1編成と600形による運用となり、2015年1月24日には最後まで残った313形が運行を終了し、全車両を600形に統一した。
開業当初は非電化であり蒸気機関車が客車・貨車を牽引していたが、1929年、電化により旅客列車を電車化した。戦後の1949年に電気機関車を導入し、貨物列車も無煙化したが、後に貨物輸送の廃止により電気機関車は消滅した。
新宮町おもてなし協会とのタイアップとして、2018年3月31日から2020年12月13日の期間、ラッピング電車「にゃん電」が運行されていた。相島の猫をモチーフにしたオリジナルヘッドマークを車両前部に設置し、猫や町の特産品をイメージしたキャラクターのラッピングがなされた。また、電車内にも新宮町の特産品や観光スポットの紹介ポスターが掲示された。
また、2020年2月12日からはタイアップ第2弾としてラッピング電車「さんくすしんぐう」を運行している。外装には、新宮町の特産品である立花みかんやいちご、観光名所の立花山をモチーフにしたキャラクターを、車内の座席には猫が描かれたデザインの車両となっている。
なお、西鉄が公開した令和4年度「移動等円滑化取組報告書(鉄道車両)」において、2025年度から2027年度にかけて現在貝塚線で運用されている600形全て(8編成16両)を廃車し、代替車両として天神大牟田線での運用に充てられている7050形8編成16両を車両再生工事を行なった上で転属させる計画があることが記載されている。
西鉄新宮から津屋崎までの区間は鹿児島本線と国道が並行しており、2004年度の輸送密度は2,201人と、貝塚から西鉄新宮までの同年度の輸送密度9,557人の1/4という状況であった。西鉄側は福岡県及び沿線自治体に経営改善の協力要請をしていることが2005年1月に明らかになり、沿線自治体と経営改善策を検討してきたが、結局利用客は増加せず、2006年3月に西鉄新宮 - 津屋崎間の廃止が決定された。廃止は2007年4月1日で、同時に宮地岳線から貝塚線に改称した。なお、廃止区間には代替バスが運行されている。
廃止対象区間の沿線は住宅街で、同じ西鉄の甘木線よりも本数が多く、系列の筑豊電鉄線などの成功事例を比べると好条件に見える。しかし、全線単線・普通列車のみ・車両が本線系統から転属した旧型車などで輸送力が低いこと、終点の位置が津屋崎という半端なところであること、現状は地下鉄と接続しているとはいえ都心に直通していないこと、新宮 - 津屋崎間は地下鉄との乗り継ぎ割り引きも適用されず、前述のようによかネットカードが使えないこと、国鉄民営化により並行しているJR鹿児島本線の近代化が進み、新駅の設置、新車の導入、快速・普通列車の増発などによって利用者離れが進み、赤字が続いていた。
福津市・古賀市・新宮町の住民から宮地岳線(当時)の存続を訴える6万人の署名が集まり、西鉄新宮 - 津屋崎間の第三セクター化などが検討されたが、西鉄側が三セクとの直通運転を行わないと明言したことや三セク設立には多額の費用が掛かることなどもあり、断念した。
2007年2月20日に宮地岳線一部区間廃止に伴う路線名変更および鉄道・バス運行概要が発表された。内容は、鉄道運行の概要として、廃止に伴って路線名称を「貝塚線」に改称すること、貝塚 - 西鉄新宮間の運行本数を平日83往復・土曜・休日73往復とすること、運行間隔を平日ラッシュ時10分・オフラッシュ時および土曜・休日の終日は15分とする、ラッシュ時の列車の離合を見直し所要時分を短縮すること、日中時間帯(10 - 17時)の福岡市地下鉄箱崎線の西新方面直通列車と接続するなど利便性向上を図ることである。また、廃止区間についての代替路線バスの運行概要は、西鉄新宮駅から古賀、JR福間駅を経由して津屋崎橋までを結ぶ路線(1日40往復)や、平日の朝夕のラッシュ時間帯に都市高速を経由して天神と津屋崎を結ぶ路線、西福間三丁目からJR福間駅を経由して光陽台を結ぶ路線を新設することであった(しかし西福間三丁目-JR福間駅-光陽台の系統は赤字のため2009年4月1日に廃止)。
翌3月16日には、宮地岳線一部区間廃止の関連行事について発表された。同月19日から31日まで宮地岳線全駅で今回廃止となる6駅の写真を入れた「記念乗車券」の発売、19日より廃止当日まで車体をカッティングシートで装飾した記念電車(311+361編成)の運行、最終日の31日は西鉄新宮 - 津屋崎間を終日無料運賃にて営業、最終臨時電車の前に2本の臨時営業電車(津屋崎発)を運行(津屋崎駅23時22分発→貝塚駅24時05分着と津屋崎駅23時41分発→貝塚駅24時23分着)、最終臨時電車を運行(津屋崎駅24時20分発→貝塚駅25時00分着で途中客扱いなしの運行、宮地岳駅で31日10時より「乗車整理券」を配布)、これに伴う津屋崎駅にて31日23時50分からの「最終臨時電車出発式」の実施、といった内容が盛り込まれた。
3月31日当日は、松林を走るローカル線との別れを惜しむ沿線住民や鉄道ファンが詰め掛けた。最終臨時電車出発式が4月1日午前0時すぎに津屋崎駅にて行われた。社長の挨拶の後に最終電車が入線し、この電車は前述した通り、青い波のステッカーを装飾した記念電車(311+361編成)が充当され、「長い間のご愛顧ありがとうございました」とメッセージが入ったヘッドマークが取り付けられた。
2008年までに廃止区間の線路撤去作業はほぼ完了した。
天神 - 貝塚駅間では、かつての線路にほぼ平行する国道3号線を経由して西鉄バス20番が運行されている。かつては25番と称し、福岡市内線の25系統と同じ経路を運行していたが、現在では西新を経由しなくなり、番号も20番に変更されている。貝塚駅 - 千鳥橋 - 博多駅間を直通するバス路線はない(貝塚 - 箱崎浜 - 博多駅間では西鉄バス29番が利用可能)。
西鉄バスアイランドシティ自動車営業所舞の里車庫が、行先番号5番を西鉄新宮駅前 - 津屋崎橋間で運行していた。ただし国道495号線・福間駅前経由であり、停留所の位置は旧中間駅各駅からやや離れており、旧西鉄福間駅周辺は経由しなかった。バス転換時は西鉄バス宗像が運行していたが、2016年6月に西鉄バス新宮自動車営業所に移管された。その後、2019年3月の組織改正により新宮自動車営業所が廃止され、アイランドシティ自動車営業所舞の里車庫の担当となった。同路線は2020年10月1日に廃止され、古賀ゴルフ場前駅付近から津屋崎駅付近を通過する従来からのバス路線は存在するものの、西鉄新宮駅から部分廃止区間への直接的な代替交通は消滅した。
また、廃止当初は旧西鉄福間駅利用者対策として行先番号1-3が光陽台六丁目 - 福間駅前 - グリーンタウン中央 - 西福間三丁目のルートで運行されたが、2009年に廃止となった。代替としてふくつミニバスを運行している。
この他、廃止翌日の2007年4月1日から津屋崎 - 西鉄新宮の5番とは別に、福岡・天神と津屋崎(旧駅前)を結ぶ路線(行先番号26A、天神 - 赤間線と同じ番号)を運行しており、2023年7月現在も継続している。香椎 - 呉服町間で都市高速経由である点も天神 - 赤間線と同じである。平日朝の津屋崎発と夕方の天神発をそれぞれ3便運行しており、この路線も代替バスの一つと位置づけられている。
全駅福岡県内に所在。駅業務は西鉄ステーションサービスが行い、福岡管理駅の傘下にある。
営業キロは貝塚駅からのもの。この区間は接続路線なし。駅番号は営業当時未制定。
※名称は福岡市内線編入直前のもの。編入後は西鉄福岡市内線を参照。千代町駅は1930年以前に廃止。
西鉄博多駅(後の千鳥橋) - (千代町駅) - 箱崎宮前駅(後の箱崎浜) - 箱崎松原駅 - 西鉄多々良駅(現・貝塚駅)
福岡市地下鉄との乗り継ぎ割引を実施している。詳細は以下のリンクを参照。また、終点の西鉄新宮駅は乗り継ぎ割引の対象外である。
なお、天神大牟田線との通過連絡運賃は設定されていない。
|
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"text": "貝塚線(かいづかせん)は、福岡県福岡市東区の貝塚駅から福岡県糟屋郡新宮町の西鉄新宮駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はNK。",
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"text": "かつては西鉄新宮駅から先、福岡県福津市津屋崎(旧:宗像郡津屋崎町)にあった津屋崎駅まで路線が延び、路線名も宮地岳線(宮地嶽線、みやじだけせん)と称していた。2007年4月1日に同区間を廃止し、同時に路線名も貝塚線に改称した。",
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"text": "福岡市東郊に延びる鉄道路線で、ほぼ全区間で九州旅客鉄道(JR九州)の鹿児島本線と並行し、貝塚駅から西鉄香椎駅まで並走する。貝塚駅で福岡市地下鉄箱崎線と、和白駅で(元は同じ会社の路線だった)香椎線と接続している。",
"title": "概要"
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"text": "軌間に1,435 mmの標準軌を採用する他の西鉄の路線とは異なり、貝塚線では1,067 mmの狭軌を採用している。これは、貝塚線が元々博多湾鉄道汽船によって開通した路線であったことによる。当初は新博多(現在の西鉄バス千鳥橋バス停付近)から貝塚・和白を経て津屋崎までの路線であった。福岡市街区間については市内線ネットワークに組み込むことでサービス改善を図るべく、新博多 - 貝塚間を改軌して福岡市内線に編入した経緯があるが、同区間は1979年の市内線全廃時に一緒に廃止された。以来、他の西鉄の鉄軌道線と接続する駅がない孤立路線となっている。",
"title": "概要"
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"text": "沿線は全線にわたって閑静な住宅街が広がる。全線が博多湾・玄界灘の海岸沿いを通るが、海が見えるのは多々良川の河口と和白駅付近くらいである。",
"title": "概要"
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"text": "ICカード「nimoca」が2010年3月13日から利用可能になり、同時に貝塚駅で接続する福岡市地下鉄が発行するICカード「はやかけん」やJR九州の「SUGOCA」などと相互利用できるようになった。ICカードは貝塚・西鉄千早・西鉄香椎の3駅は自動改札機、それ以外の駅はnimoca用簡易改札機の設置で対応している。沿線では、並走する西鉄バスの路線のほうが一足早くnimocaに対応した。なお、「よかネットカード」はサービス開始から終了まで、当線には導入されなかった。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 6,
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"text": "香椎地区副都心整備事業の一環として、西鉄千早 - 西鉄香椎間で連続立体交差化工事が行われた。2004年8月に貝塚(名島駅付近) - 香椎宮前間が新線に切り替えられ、同時に名香野駅が高架駅となり、西鉄千早駅に改称された。また、2006年5月14日には西鉄千早 - 香椎花園前間(国道3号線立体交差まで)が高架化され、連続立体交差事業は完了した。現在は旧線路跡を含めた再開発が始まっている。",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "全列車が貝塚 - 西鉄新宮間の各駅に停車し、平日の朝夕ラッシュ時には約10分間隔、平日昼間と土日祝日は約15分間隔で運転されている。全列車ともワンマン運転を実施しているため、車内放送はすべて自動放送となっている。放送前に流れる車内放送・チャイムは2012年3月23日まで天神大牟田線で使用されていたものと同じものを使用しているが、香椎花園前到着および貝塚・新宮各駅終着時のみ、西鉄バスでも使用している二点打チャイムが流れる。",
"title": "運行形態"
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"text": "2007年4月1日の西鉄新宮 - 津屋崎間廃止以前は、全区間を走行する列車が約13分間隔で運転され、朝夕ラッシュ時にはこの間に貝塚 - 三苫間の途中折り返し運転が入り、貝塚 - 三苫間の朝夕は約6.5分間隔で運転されていた。またかつては香椎花園前駅や終着駅到着時の車内放送でチューリップの「心の旅」(終着駅)や「サボテンの花」(香椎花園前駅)のオルゴールがBGMとして流れていたが、貝塚線となったしばらくのちに廃止された。",
"title": "運行形態"
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"text": "なお、正式な起点は貝塚駅だが、列車運行および旅客案内では西鉄新宮駅から貝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。",
"title": "運行形態"
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"text": "2005年以降の数値は、特記のない限り、『鉄道統計年報』による。",
"title": "利用状況"
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"text": "2007年に一部区間が廃止されたもののその後は利用客が増加傾向にある。しかし、鉄道アナリスト梅原淳が独自に算出した営業係数では2013年度でも200を超えており、依然厳しい状況である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "貝塚線(宮地岳線)の輸送実績を下表に記す。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "貝塚線(宮地岳線)の収入実績を下表に記す。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "本路線の収支は年間2億円の赤字となっていると、福岡市議会内で2009年に報告されている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2022年(令和4年)度の最混雑区間(名島 → 貝塚間)の混雑率は154%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2007年にラッシュ時の最短運転間隔が6分30秒から10分となり、3両編成の運用も廃止されたが、その後香椎操車場跡地でのマンション建設や新宮町のNTT社宅跡地(杜の宮)での宅地開発などが進んで混雑率が増加した。福岡市内にある鉄道路線でありながら終日2両編成での運転であり、混雑率は大手民鉄の中では最も高い。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "西鉄発足後は幹線でないとして専用の新車は製造されず、戦中戦後の1944年から1951年にかけて国鉄から車両を譲り受けたのちはすべて大牟田線(現・天神大牟田線)からの転属によりまかなわれている。博多湾鉄道汽船から引き継いだ車両およびもと国鉄の車両は1980年のワンマン運転開始時に全廃されており、現存する車両はすべて大牟田線からの転用車両である。軌間が天神大牟田線と異なるため、台車を始め、主要機器は近年は主に西武鉄道など他社の廃車発生品を流用している。また連結器も天神大牟田線で使用している密着連結器ではなく、旧国鉄と同じ柴田式自動連結器を使用している。",
"title": "使用車両"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1977年に入線した313形以降の新規入線車両の車体塗色は天神大牟田線の2000形と同じオキサイドイエローにボンレッド帯となっており、現在はこの塗装に統一されている。それ以前の車両は西鉄旧標準色の上半ベージュ、下半あずき色の塗装であった。また、313形までは車両番号の書体に、福岡市内線車両や北九州線連接車と同じくローマン体を用いていた。",
"title": "使用車両"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "西鉄新宮 - 津屋崎間廃止後は路線短縮に加え大幅減便を実施したため、最ピーク時で7運用となり、これに検査予備分を加えても9編成あれば足りることとなった。600形全編成と313形2編成と300形1編成を除き、2007年後半に300形の検査期限切れが相次ぐことと老朽化を理由として、最後まで吊り掛け駆動方式で残っていた300形や313形を廃車することとなった。2006年9月より運用離脱していた316編成がトップを切って同年4月中旬より解体作業に入り、5月下旬までに廃車予定車すべてを解体した(これらの車両の廃車日はすべて2007年4月1日付)。なお、同月1日以降は日中時間帯のほとんどを600形で運用するようになり、300形や313形はラッシュ時中心の運用となった。その後、2007年12月21日限りで3両編成での運用を取りやめ、すべての列車が2両編成での運用となった。これらの車両整理ののちは313形315-365の1編成と600形による運用となり、2015年1月24日には最後まで残った313形が運行を終了し、全車両を600形に統一した。",
"title": "使用車両"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "開業当初は非電化であり蒸気機関車が客車・貨車を牽引していたが、1929年、電化により旅客列車を電車化した。戦後の1949年に電気機関車を導入し、貨物列車も無煙化したが、後に貨物輸送の廃止により電気機関車は消滅した。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "新宮町おもてなし協会とのタイアップとして、2018年3月31日から2020年12月13日の期間、ラッピング電車「にゃん電」が運行されていた。相島の猫をモチーフにしたオリジナルヘッドマークを車両前部に設置し、猫や町の特産品をイメージしたキャラクターのラッピングがなされた。また、電車内にも新宮町の特産品や観光スポットの紹介ポスターが掲示された。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "また、2020年2月12日からはタイアップ第2弾としてラッピング電車「さんくすしんぐう」を運行している。外装には、新宮町の特産品である立花みかんやいちご、観光名所の立花山をモチーフにしたキャラクターを、車内の座席には猫が描かれたデザインの車両となっている。",
"title": "使用車両"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、西鉄が公開した令和4年度「移動等円滑化取組報告書(鉄道車両)」において、2025年度から2027年度にかけて現在貝塚線で運用されている600形全て(8編成16両)を廃車し、代替車両として天神大牟田線での運用に充てられている7050形8編成16両を車両再生工事を行なった上で転属させる計画があることが記載されている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "西鉄新宮から津屋崎までの区間は鹿児島本線と国道が並行しており、2004年度の輸送密度は2,201人と、貝塚から西鉄新宮までの同年度の輸送密度9,557人の1/4という状況であった。西鉄側は福岡県及び沿線自治体に経営改善の協力要請をしていることが2005年1月に明らかになり、沿線自治体と経営改善策を検討してきたが、結局利用客は増加せず、2006年3月に西鉄新宮 - 津屋崎間の廃止が決定された。廃止は2007年4月1日で、同時に宮地岳線から貝塚線に改称した。なお、廃止区間には代替バスが運行されている。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "廃止対象区間の沿線は住宅街で、同じ西鉄の甘木線よりも本数が多く、系列の筑豊電鉄線などの成功事例を比べると好条件に見える。しかし、全線単線・普通列車のみ・車両が本線系統から転属した旧型車などで輸送力が低いこと、終点の位置が津屋崎という半端なところであること、現状は地下鉄と接続しているとはいえ都心に直通していないこと、新宮 - 津屋崎間は地下鉄との乗り継ぎ割り引きも適用されず、前述のようによかネットカードが使えないこと、国鉄民営化により並行しているJR鹿児島本線の近代化が進み、新駅の設置、新車の導入、快速・普通列車の増発などによって利用者離れが進み、赤字が続いていた。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "福津市・古賀市・新宮町の住民から宮地岳線(当時)の存続を訴える6万人の署名が集まり、西鉄新宮 - 津屋崎間の第三セクター化などが検討されたが、西鉄側が三セクとの直通運転を行わないと明言したことや三セク設立には多額の費用が掛かることなどもあり、断念した。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
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"tag": "p",
"text": "2007年2月20日に宮地岳線一部区間廃止に伴う路線名変更および鉄道・バス運行概要が発表された。内容は、鉄道運行の概要として、廃止に伴って路線名称を「貝塚線」に改称すること、貝塚 - 西鉄新宮間の運行本数を平日83往復・土曜・休日73往復とすること、運行間隔を平日ラッシュ時10分・オフラッシュ時および土曜・休日の終日は15分とする、ラッシュ時の列車の離合を見直し所要時分を短縮すること、日中時間帯(10 - 17時)の福岡市地下鉄箱崎線の西新方面直通列車と接続するなど利便性向上を図ることである。また、廃止区間についての代替路線バスの運行概要は、西鉄新宮駅から古賀、JR福間駅を経由して津屋崎橋までを結ぶ路線(1日40往復)や、平日の朝夕のラッシュ時間帯に都市高速を経由して天神と津屋崎を結ぶ路線、西福間三丁目からJR福間駅を経由して光陽台を結ぶ路線を新設することであった(しかし西福間三丁目-JR福間駅-光陽台の系統は赤字のため2009年4月1日に廃止)。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
},
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "翌3月16日には、宮地岳線一部区間廃止の関連行事について発表された。同月19日から31日まで宮地岳線全駅で今回廃止となる6駅の写真を入れた「記念乗車券」の発売、19日より廃止当日まで車体をカッティングシートで装飾した記念電車(311+361編成)の運行、最終日の31日は西鉄新宮 - 津屋崎間を終日無料運賃にて営業、最終臨時電車の前に2本の臨時営業電車(津屋崎発)を運行(津屋崎駅23時22分発→貝塚駅24時05分着と津屋崎駅23時41分発→貝塚駅24時23分着)、最終臨時電車を運行(津屋崎駅24時20分発→貝塚駅25時00分着で途中客扱いなしの運行、宮地岳駅で31日10時より「乗車整理券」を配布)、これに伴う津屋崎駅にて31日23時50分からの「最終臨時電車出発式」の実施、といった内容が盛り込まれた。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "3月31日当日は、松林を走るローカル線との別れを惜しむ沿線住民や鉄道ファンが詰め掛けた。最終臨時電車出発式が4月1日午前0時すぎに津屋崎駅にて行われた。社長の挨拶の後に最終電車が入線し、この電車は前述した通り、青い波のステッカーを装飾した記念電車(311+361編成)が充当され、「長い間のご愛顧ありがとうございました」とメッセージが入ったヘッドマークが取り付けられた。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "2008年までに廃止区間の線路撤去作業はほぼ完了した。",
"title": "西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "天神 - 貝塚駅間では、かつての線路にほぼ平行する国道3号線を経由して西鉄バス20番が運行されている。かつては25番と称し、福岡市内線の25系統と同じ経路を運行していたが、現在では西新を経由しなくなり、番号も20番に変更されている。貝塚駅 - 千鳥橋 - 博多駅間を直通するバス路線はない(貝塚 - 箱崎浜 - 博多駅間では西鉄バス29番が利用可能)。",
"title": "部分廃止区間の代替交通"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "西鉄バスアイランドシティ自動車営業所舞の里車庫が、行先番号5番を西鉄新宮駅前 - 津屋崎橋間で運行していた。ただし国道495号線・福間駅前経由であり、停留所の位置は旧中間駅各駅からやや離れており、旧西鉄福間駅周辺は経由しなかった。バス転換時は西鉄バス宗像が運行していたが、2016年6月に西鉄バス新宮自動車営業所に移管された。その後、2019年3月の組織改正により新宮自動車営業所が廃止され、アイランドシティ自動車営業所舞の里車庫の担当となった。同路線は2020年10月1日に廃止され、古賀ゴルフ場前駅付近から津屋崎駅付近を通過する従来からのバス路線は存在するものの、西鉄新宮駅から部分廃止区間への直接的な代替交通は消滅した。",
"title": "部分廃止区間の代替交通"
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{
"paragraph_id": 36,
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"text": "また、廃止当初は旧西鉄福間駅利用者対策として行先番号1-3が光陽台六丁目 - 福間駅前 - グリーンタウン中央 - 西福間三丁目のルートで運行されたが、2009年に廃止となった。代替としてふくつミニバスを運行している。",
"title": "部分廃止区間の代替交通"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この他、廃止翌日の2007年4月1日から津屋崎 - 西鉄新宮の5番とは別に、福岡・天神と津屋崎(旧駅前)を結ぶ路線(行先番号26A、天神 - 赤間線と同じ番号)を運行しており、2023年7月現在も継続している。香椎 - 呉服町間で都市高速経由である点も天神 - 赤間線と同じである。平日朝の津屋崎発と夕方の天神発をそれぞれ3便運行しており、この路線も代替バスの一つと位置づけられている。",
"title": "部分廃止区間の代替交通"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "全駅福岡県内に所在。駅業務は西鉄ステーションサービスが行い、福岡管理駅の傘下にある。",
"title": "駅一覧"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "営業キロは貝塚駅からのもの。この区間は接続路線なし。駅番号は営業当時未制定。",
"title": "駅一覧"
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"paragraph_id": 40,
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"text": "※名称は福岡市内線編入直前のもの。編入後は西鉄福岡市内線を参照。千代町駅は1930年以前に廃止。",
"title": "駅一覧"
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"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "西鉄博多駅(後の千鳥橋) - (千代町駅) - 箱崎宮前駅(後の箱崎浜) - 箱崎松原駅 - 西鉄多々良駅(現・貝塚駅)",
"title": "駅一覧"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "福岡市地下鉄との乗り継ぎ割引を実施している。詳細は以下のリンクを参照。また、終点の西鉄新宮駅は乗り継ぎ割引の対象外である。",
"title": "乗り継ぎ割引"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "なお、天神大牟田線との通過連絡運賃は設定されていない。",
"title": "乗り継ぎ割引"
}
] |
貝塚線(かいづかせん)は、福岡県福岡市東区の貝塚駅から福岡県糟屋郡新宮町の西鉄新宮駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はNK。 かつては西鉄新宮駅から先、福岡県福津市津屋崎にあった津屋崎駅まで路線が延び、路線名も宮地岳線(宮地嶽線、みやじだけせん)と称していた。2007年4月1日に同区間を廃止し、同時に路線名も貝塚線に改称した。
|
{{Redirect|貝塚線|当路線の一部で1954年に西鉄福岡市内線に編入した区間(千鳥橋 - 貝塚間)|西鉄福岡市内線}}
{{Infobox rail line
| box_width = 300px
| color =1065ab
| other_name =
| name = [[File:Nishitetsu logo N.svg|13px]] 貝塚線
| image = Nishi-Nippon-Railroad-600.JPG
| image_width = 300px
| image_alt = 貝塚線600形電車(2007年、西鉄香椎駅)
| caption = 貝塚線[[西鉄600形電車 (鉄道・2代)|600形]]電車(2007年、西鉄香椎駅)
| type =
| status =
| start = 起点:[[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]
| end = 終点:[[西鉄新宮駅]]
| stations = 10駅
| open = {{Start date|1927|05|23|df=y}}
| event1label = 全通
| event1 = 1951年7月1日
| event2label = 部分廃止
| event2 = 1979年2月11日(千鳥橋-貝塚間)<br />{{Nowrap|2007年4月1日(西鉄新宮-[[津屋崎駅|津屋崎]]間)}}
| close =
| owner = [[博多湾鉄道汽船]]→[[九州電気軌道]]→<br />[[西日本鉄道]]
| operator =
| depot = [[多々良車両基地]]
| stock = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
| linelength_km = 11.0
| linelength =
| gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}
| minradius =
| linenumber = {{西鉄駅番号|NK}}
| el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
| speed = 最高65[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed">[https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000161649.pdf 線路施設・運転の概要(平成31年3月末現在)] - 国土交通省九州運輸局</ref>
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| map_state =
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{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#1065ab|white}}
{{BS-table}}
{{BS||||''[[西鉄福岡市内線|福岡市内線]]''|}}
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{{BS3|||exKBHFa|O3=HUBe||=''千鳥橋''||}}
{{BS3|||exBHF||''千代町駅''||}}
{{BS3|||exBHF||''[[箱崎宮前駅#西鉄宮地岳線 箱崎浜駅|箱崎宮前駅]]''||}}
{{BS3|||exSTR||=''箱崎浜''||}}
{{BS3|||exBHF||''箱崎松原駅''||}}
{{BS3|||exSTR|||↑福岡市内線編入区間|}}
{{BS3||tSTRe|O2=POINTERg@fq|exSTR|||[[福岡市交通局]][[ファイル:Subway FukuokaHakozaki.svg|15px]] [[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]|}}
{{BS3||KBHFe|O2=HUBaq|exSTR|O3=HUBlg|||[[鹿児島本線]]|}}
{{BS3|kSTR2+r|O1=POINTERf@g|kSTRc3|KBHFxa|O3=HUBe|0.0|NK01 [[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]||}}
{{BS3||kSTR+4|STR|||=旧西鉄多々良駅|}}
{{BS3||hKRZWae|hKRZWae||||}}
{{BS3||ABZg+l|KRZu|||[[博多臨港線]]|}}
{{BS3||BST|BHF|1.4|NK02 [[名島駅]]||}}
{{BS3||STR|STR|||[[千早操車場]]|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|2.5|NK03 [[千早駅#西鉄千早駅|西鉄千早駅]]||}}
{{BS3||STR|STR|||[[千早駅#JR千早駅|千早駅]]|}}
{{BS3||STR|BHF|3.0|NK04 [[香椎宮前駅]]||}}
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{{BS3||ABZg+r|STR|||[[香椎線]]|}}
{{BS3||HST|STR|||[[香椎駅]]|}}
{{BS3|STRc2|ABZg3|BHF|5.0|NK06 [[香椎花園前駅]]||}}
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{{BS3|STR+1u|STR+4|STR||||}}
{{BS3|LSTR|BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|7.2|NK08 [[和白駅]]||}}
{{BS3||STRl|KRZo|||香椎線|}}
{{BS3|||BHF|9.0|NK09 [[三苫駅]]||}}
{{BS3|LSTR||KBHFxe|11.0|NK10 [[西鉄新宮駅]]||}}
{{BS3|STR2|STRc3|exSTR|||↓2007年廃止|}}
{{BS3|STRc1|STR+4|exBHF|13.0|''[[古賀ゴルフ場前駅]]''||}}
{{BS3||HST|exBHF|14.2|''[[西鉄古賀駅]]''||}}
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{{BS-colspan|HI=style=font-size:90%}}
----
福岡市内線編入区間は編入直前時点の状況を記載<br />=の右側は編入後の名称
|}
|}
'''貝塚線'''(かいづかせん)は、[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]]の[[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]から福岡県[[糟屋郡]][[新宮町]]の[[西鉄新宮駅]]までを結ぶ[[西日本鉄道]](西鉄)の[[鉄道路線]]である。路線記号は'''NK'''。
かつては西鉄新宮駅から先、福岡県[[福津市]]津屋崎(旧:[[宗像郡]][[津屋崎町]])にあった[[津屋崎駅]]まで路線が延び、路線名も'''宮地岳線'''(宮地嶽線{{Refnest|group="注釈"|name="嶽"|改称扱いはされていないが、1950年頃までは路線名、駅名ともに'''宮地嶽'''の表記を使用していた<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]]|date=|year=2009|publisher=[[新潮社]]|page=36|volume=12 九州・沖縄|isbn=978-4-10-790030-2}}</ref>。[[日本国有鉄道|国鉄]]発行の『停車場一覧』においては1966年(昭和41年)年版時点でもこの表記が確認できる<ref>[{{NDLDC|1873236/226}} 『停車場一覧. 昭和41年3月現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}、みやじだけせん)と称していた。[[2007年]][[4月1日]]に同区間を廃止し、同時に路線名も貝塚線に改称した。
== 概要 ==
福岡市東郊に延びる鉄道路線で、ほぼ全区間で[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鹿児島本線]]と並行し、貝塚駅から[[西鉄香椎駅]]まで並走する。貝塚駅で[[福岡市交通局|福岡市地下鉄]][[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]]と、[[和白駅]]で(元は同じ会社の路線だった)[[香椎線]]と接続している。
[[軌間]]に1,435 mmの[[標準軌]]を採用する他の西鉄の路線とは異なり、貝塚線では1,067 mmの[[狭軌]]を採用している。これは、貝塚線が元々[[博多湾鉄道汽船]]によって開通した路線であったことによる。当初は新博多(現在の[[西鉄バス]]千鳥橋バス停付近)から貝塚・和白を経て津屋崎までの路線であった。福岡市街区間については市内線ネットワークに組み込むことでサービス改善を図るべく、新博多 - 貝塚間を[[改軌]]して[[西鉄福岡市内線|福岡市内線]]に編入した経緯があるが、同区間は[[1979年]]の市内線全廃時に一緒に廃止された。以来、他の西鉄の鉄軌道線と接続する駅がない孤立路線となっている<ref group="注釈">
同様に大手私鉄で他の自社路線から孤立している路線はほかに[[西武多摩川線]]、[[名鉄瀬戸線]]、[[近鉄田原本線]]などがあるが、西鉄貝塚線は軌間が他の現存する自社路線と異なっている。また、元から孤立している西武多摩川線、名鉄瀬戸線や、非営業の連絡線で線路がつながっている近鉄田原本線に対して、貝塚線は他の自社路線との接続が失われたために孤立路線となっている。</ref>。
沿線は全線にわたって閑静な住宅街が広がる。全線が[[博多湾]]・[[玄界灘]]の海岸沿いを通るが、海が見えるのは[[多々良川]]の河口と和白駅付近くらいである。
ICカード「[[nimoca]]」が2010年3月13日から利用可能になり、同時に貝塚駅で接続する福岡市地下鉄が発行するICカード「[[はやかけん]]」やJR九州の「[[SUGOCA]]」などと相互利用できるようになった。ICカードは貝塚・[[千早駅|西鉄千早]]・[[西鉄香椎駅|西鉄香椎]]の3駅は[[自動改札機]]、それ以外の駅はnimoca用簡易改札機の設置で対応している。沿線では、並走する西鉄バスの路線のほうが一足早くnimocaに対応した。なお、「[[よかネットカード]]」はサービス開始から終了まで、当線には導入されなかった。
=== 路線データ ===
*路線距離([[営業キロ]]):11.0 km
*[[軌間]]:1,067 mm
*駅数:10駅(起終点駅含む)
*複線区間:なし(全線単線)
*電化区間:全線(直流1,500 V)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式(特殊)<ref name="speed" />
* 最高速度:65 km/h<ref name="speed" />
*[[車両基地]]:[[多々良車両基地]]
=== 立体交差事業 ===
香椎地区副都心整備事業の一環として、西鉄千早 - 西鉄香椎間で連続立体交差化工事が行われた。[[2004年]]8月に貝塚(名島駅付近) - 香椎宮前間が新線に切り替えられ、同時に名香野駅が高架駅となり、西鉄千早駅に改称された。また、[[2006年]][[5月14日]]には西鉄千早 - 香椎花園前間([[国道3号|国道3号線]]立体交差まで)が高架化され、[[連続立体交差事業]]は完了した<ref name="RF544">{{Cite journal ja-jp |author =白土洋次 |year =2006 |title =西鉄宮地岳線香椎地区の高架化が完成! |journal =鉄道ファン |volume =46 |issue =8 |serial =544 |publisher =交友社 |page =188 }}</ref>。現在は旧線路跡を含めた再開発が始まっている。
=== 将来の計画 ===
;福岡市地下鉄との直通運転
:{{See also|福岡市地下鉄箱崎線#西鉄貝塚線との直通運転構想}}
:福岡市地下鉄箱崎線との[[直通運転]]の計画がある。当初は貝塚駅 - [[三苫駅]]間で地下鉄と[[2001年]]度に直通運転を開始することを想定していたが、この場合は車両の新造やホームの延伸(現行の3両対応から6両対応にする)などの工事が必要となり、着手に至っていない。ただし西鉄千早 - 西鉄香椎間の連続立体交差区間は、地下鉄乗り入れを視野に入れ6両対応が行える構造で建設されており、地下鉄と向い合せ構造となっている貝塚駅での路線接続工事及び[[名島駅]]の6両対応工事が行われば、6両編成での西鉄香椎駅までの暫定直通運転が可能である。
:[[2010年]]には、福岡市によって、直通区間を三苫 - [[中洲川端駅|中洲川端]]または[[天神駅|天神]]とし、車両数を3両編成とする新たな直通検討案がまとめられた。従来の6両編成とする案から車両数を減らすことによって、車両の整備費を50億円とする一方、天神以西への乗り入れはしない計画となる。その後市では全体の事業費を精査し、採算性を検討<ref>[https://web.archive.org/web/20100126084858/http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20100116ddlk40010319000c.html 福岡市:地下鉄箱崎線-西鉄貝塚線直通の車両整備費、概算で50億円 /福岡] - 毎日新聞、2010年1月16日、地方版。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20100220055625/http://kyushu.yomiuri.co.jp/entame/railway/news/1001/ne_1001_10011401.htm 福岡市地下鉄と西鉄、三苫〜中洲川端・天神直通検討] - 読売新聞、2010年1月14日。</ref>。結果的にほとんどの案で費用対効果が見込めないこと、黒字化が見込まれる可能性のある「天神で折返し直通運転を行う」案では地下鉄内の乗降パターン次第で利便性が低下する可能性があることなどを理由に消極的な結論となった<ref>{{Cite news|url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/522652/|title=もはや「永遠のテーマ」? 西鉄貝塚線と地下鉄箱崎線、直通する日は来るか|author=福間慎一|newspaper=西日本新聞|date=2018-02-11|accessdate=2020-06-14}}</ref>。
:2018年(平成30年)1月、[[福岡市議会]]の交通対策特別委員会に「福岡都市圏における公共交通機関に関する調査」という報告がなされた<ref>{{PDFlink|[https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/58141/1/300116-houkoku-chokutsu.pdf?20191203175626 福岡都市圏における公共交通機関に関する調査]}} - 福岡市議会交通対策特別委員会 2018年1月16日。</ref>。これによると、「天神折返し運行」案が[[福岡市地下鉄空港線|空港線]][[姪浜駅]]から箱崎線への直通運転をやめる前提であったことから、費用対効果の改善のために初期投資を抑制、利便性を極力維持する案として再検討を行った結果として、[[阪神なんば線]]の運行形態に倣い、地下鉄区間を6両編成で運行し、うち2両を貝塚駅で切り離して西鉄貝塚線に直通する方式を提案した。この場合、全体では施設整備費用が約190億円から半額以下の約85億円程度まで圧縮できるものの、車両購入費が70億円程度から150億円程度まで倍増すると見込まれ、初期投資費全体では1割程度の削減にとどまると試算している<ref>{{PDFlink|[https://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/63067/1/301120_kotsu_train.pdf?20191203175314 福岡都市圏における公共交通機関に関する調査]}} - 福岡市議会交通対策特別委員会 2018年11月20日。</ref>。
: 2021年(令和3年)1月22日、毎日新聞は直通運転による[[費用便益比]](B/C)が収支均衡を大きく下回る「0.42」と福岡市が試算したと報じた<ref name="news20210122" />。2018年に議論された貝塚駅で増結・分離する方式では、現在より約1分程度の時間短縮にとどまり、155億円と見込まれる初期投資に見合わないためで、将来的な直通運転の可能性は残しつつも事業凍結される見通しと報じている<ref name="news20210122">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20210122/k00/00m/040/035000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210122073530/https://mainichi.jp/articles/20210122/k00/00m/040/035000c|title=福岡市地下鉄-西鉄貝塚線 直通運転化、凍結へ 短縮時間たった1.3分|newspaper=毎日新聞|date=2021-01-22|accessdate=2021-01-22|archivedate=2021-01-22}}</ref>。
;アイランドシティ新線計画
:[[西鉄香椎駅]] - [[香椎花園前駅]]間に新駅を設置し、そこから博多湾沖の[[福岡アイランドシティ]]へ至る鉄道を分岐させる計画もある。この新線は、2010年度の開業を目標にしていたが、2017年現在では道路網やバス路線の整備が進んでおり、この計画の実現性は低くなっている。
== 運行形態 ==
全列車が貝塚 - 西鉄新宮間の各駅に停車し、平日の朝夕ラッシュ時には約10分間隔、平日昼間と土日祝日は約15分間隔で運転されている。全列車とも[[ワンマン運転]]を実施しているため、車内放送はすべて自動放送となっている。放送前に流れる車内放送・チャイムは[[2012年]][[3月23日]]まで[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]で使用されていたものと同じものを使用しているが、香椎花園前到着および貝塚・新宮各駅終着時のみ、西鉄バスでも使用している二点打チャイムが流れる。
2007年4月1日の西鉄新宮 - 津屋崎間廃止以前は、全区間を走行する列車が約13分間隔で運転され、朝夕ラッシュ時にはこの間に貝塚 - 三苫間の途中折り返し運転が入り、貝塚 - 三苫間の朝夕は約6.5分間隔で運転されていた。またかつては香椎花園前駅や終着駅到着時の車内放送で[[チューリップ (バンド)|チューリップ]]の「[[心の旅 (チューリップの曲)|心の旅]]」(終着駅)や「[[サボテンの花 (曲)|サボテンの花]]」(香椎花園前駅)のオルゴールがBGMとして流れていたが、貝塚線となったしばらくのちに廃止された。
なお、正式な起点は貝塚駅だが、列車運行および旅客案内では西鉄新宮駅から貝塚駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
== 利用状況 ==
2005年以降の数値は、特記のない限り、『鉄道統計年報』による。
2007年に一部区間が廃止されたもののその後は利用客が増加傾向にある。しかし、鉄道アナリスト[[梅原淳]]が独自に算出した[[営業係数]]では2013年度でも200を超えており<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/125719?page=3 大手私鉄で「最も儲かっていない」路線は?] - 東洋経済オンライン、2016年7月7日</ref>、依然厳しい状況である。
=== 輸送実績 ===
貝塚線(宮地岳線)の輸送実績を下表に記す。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
! colspan="7"|年度別輸送実績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2"|輸送密度<br />人/1日
! rowspan="2"|特 記 事 項
|-
|通 勤<br />定 期
|通 学<br />定 期
|定期外
|合 計
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
|382.0
|237.6
|510.2
|'''1129.8'''
|9,905
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|333.4
|211.4
|415.7
|'''960.6'''
|8,935
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|321.5
|214.7
|453.2
|'''989.5'''
|9,311
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|300.2
|217.2
|459.9
|'''977.4'''
|9,431
| style="text-align: left;"|福岡市内線全廃に伴い、千鳥橋 - 貝塚間を廃止
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|275.0
|209.9
|431.9
|'''917.0'''
|7,765
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|267.3
|224.3
|453.7
|'''945.5'''
|8,619
| style="text-align: left;"|ワンマン運転開始
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|261.9
|212.2
|417.5
|'''891.7'''
|8,201
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|245.2
|201.8
|407.7
|'''854.6'''
|7,912
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|233.8
|198.8
|382.9
|'''815.5'''
|7,508
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|219.3
| style="background-color: #99ff99;"|189.7
|358.7
|'''767.8'''
|7,099
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
| style="background-color: #99ff99;"|212.6
|190.8
| style="background-color: #99ff99;"|357.9
| style="background-color: #99ff99;"|'''761.3'''
| style="background-color: #99ff99;"|7,041
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|213.7
|228.3
|395.2
|'''837.2'''
|7,426
| style="text-align: left;"|唐の原駅開業 福岡市地下鉄箱崎線が貝塚駅まで開業
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|287.4
|324.3
|486.2
|'''1097.9'''
|9,247
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|294.5
|363.6
|480.6
|'''1138.7'''
|9,427
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|300.2
|378.8
|483.8
|'''1162.8'''
|9,577
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|303.4
| style="background-color: #ff9999;"|385.9
|496.6
|'''1185.9'''
|9,712
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|316.5
|367.4
|529.4
|'''1213.3'''
| style="background-color: #ff9999;"|9,761
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|325.2
|349.5
| style="background-color: #ff9999;"|544.7
| style="background-color: #ff9999;"|'''1219.4'''
|9,653
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
| style="background-color: #ff9999;"|325.9
|325.3
|542.3
|'''1193.5'''
|9,283
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|323.0
|302.7
|530.4
|'''1156.1'''
|8,987
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|317.2
|285.7
|528.8
|'''1131.7'''
|8,801
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|313.0
|280.5
|530.7
|'''1124.2'''
|8,713
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|310.1
|268.1
|491.8
|'''1070.0'''
|8,627
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|288.2
|248.4
|471.6
|'''1008.2'''
|8,235
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|270.1
|226.8
|462.6
|'''959.5'''
|7,903
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|253.9
|211.9
|444.1
|'''909.9'''
|7,518
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|238.1
|202.1
|428.1
|'''868.3'''
|7,199
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|226.5
|200.5
|412.8
|'''839.8'''
|6,967
| style="text-align: left;"|終電繰り下げ(貝塚駅発23:31→0:10)
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|212.0
|169.6
|390.1
|'''771.7'''
|6,435
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|207.5
|150.4
|363.3
|'''721.2'''
|6,056
| style="text-align: left;"|名香野駅が高架移転、西鉄千早駅に改称
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|210.6
|142.8
|356.0
|'''709.4'''
|5,932
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|215.0
|140.5
|358.8
|'''714.3'''
| style="background-color: #99ffff;"|5,719
| style="text-align: left;"|西鉄千早 - 西鉄香椎間が高架化
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
| style="background-color: #99ffff;"|187.9
|112.9
|303.2
| style="background-color: #99ffff;"|'''604.0'''
| 7,244
| style="text-align: left;"|西鉄新宮 - 津屋崎間を廃止し、貝塚線に改称
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|196.6
|118.0
|304.3
|'''618.9'''
|7,418
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|193.7
|115.1
| style="background-color: #99ffff;"|298.5
|'''607.3'''
|7,250
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|196.6
| style="background-color: #99ffff;"|104.3
|310.2
|'''611.1'''
|7,139
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|201.3
| style="background-color: #99ffff;"|104.3
|310.7
|'''616.3'''
|7,039
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|210.4
|110.8
|317.3
|'''638.5'''
|7,242
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|225.8
|118.0
|328.6
|'''672.4'''
|7,586
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|245.6
|119.7
|331.1
|'''696.4'''
|7,856
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|256.4
|125.2
|345.1
|'''726.7'''
|8,074
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|271.5
|130.9
|352.9
|'''755.3'''
|8,266
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|287.4
|135.0
|361.9
|'''784.3'''
|8,503
|
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
|291.3
|139.5
|369.2
|'''800.0'''
|8,690
|
|}
=== 収入実績 ===
貝塚線(宮地岳線)の収入実績を下表に記す。
表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
! colspan="8"|年度別収入実績
|-
! rowspan="2"|年 度
! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度
! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度
|-
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物
| style="text-align: center; font-weight: normal;"|合 計
|-
! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年)
|163,244
|←←←←
|278,407
|''505''
|'''442,156'''
|19,349
|'''461,505'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年)
|203,825
|←←←←
|386,096
|''1,014''
|'''590,936'''
|52,790
|'''643,727'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年)
|
|←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年)
|278,770
|←←←←
|559,812
|''0''
|'''838,582'''
|91,130
|'''929,712'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年)
|257,581
|115,349
|683,953
|''0''
|'''1,056,883'''
|93,966
|'''1,150,849'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年)
|259,881
|127,677
|669,079
|''0''
|'''1,056,637'''
|102,858
|'''1,159,495'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年)
|262,964
|132,050
|656,949
|''0''
|'''1,051,963'''
|115,844
|'''1,167,807'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年)
|267,714
|135,151
|671,721
|''0''
|'''1,074,586'''
|122,961
|'''1,197,547'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年)
|312,025
|124,220
|814,928
|''0''
|'''1,251,173'''
|141,634
|'''1,392,807'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年)
|337,264
|124,660
|838,959
|''0''
|'''1,300,883'''
|139,333
|'''1,440,216'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年)
|331,042
|117,729
|837,947
|''0''
|'''1,286,718'''
|153,982
|'''1,440,700'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年)
|352,608
|114,195
|857,786
|''0''
|'''1,324,590'''
|181,849
|'''1,506,439'''
|-
! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年)
|333,571
|104,709
|842,635
|''0''
|'''1,280,915'''
|193,961
|'''1,474,876'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年)
|311,833
|98,504
|807,303
|''0''
|'''1,217,640'''
|201,219
|'''1,418,859'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年)
|287,130
|94,799
|772,375
|''0''
|'''1,154,304'''
|196,695
|'''1,350,999'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年)
|266,787
|94,172
|733,707
|''0''
|'''1,094,666'''
|188,814
|'''1,283,480'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年)
|249,617
|80,540
|688,626
|''0''
|'''1,018,783'''
|188,217
|'''1,207,000'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年)
|245,301
|71,503
|642,312
|''0''
|'''959,116'''
|182,264
|'''1,141,380'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年)
|247,405
|68,236
|625,468
|''0''
|'''941,109'''
|186,230
|'''1,127,339'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年)
|247,977
|66,943
|622,864
|''0''
|'''937,804'''
|184,777
|'''1,122,581'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年)
| style="background-color: #ccffff;"|198,928
|49,283
|476,600
|''0''
|'''723,911'''
|107,543
|'''831,454'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年)
|206,930
|51,890
|477,193
|''0''
|'''736,013'''
|111,062
|'''847,075'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年)
|204,201
|50,778
| style="background-color: #ccffff;"|466,673
|''0''
| style="background-color: #ccffff;"|'''721,652'''
|98,934
| style="background-color: #ccffff;"|'''820,586'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年)
|205,435
|44,541
|479,849
|''0''
|'''729,825'''
|94,721
|'''824,546'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年)
|208,338
| style="background-color: #ccffff;"|43,907
|480,175
|''0''
|'''732,420'''
|97,019
|'''829,439'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年)
|216,371
|46,377
|489,206
|''0''
|'''751,954'''
|103,981
|'''855,935'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年)
|231,269
|49,105
|504,828
|''0''
|'''785,202'''
|102,522
|'''887,724'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年)
|249,964
|50,134
|506,869
|''0''
|'''806,967'''
|99,982
|'''906,949'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年)
|261,985
|51,907
|522,141
|''0''
|'''836,033'''
|101,585
|'''937,618'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年)
|274,514
|54,212
|532,878
|''0''
|'''861,604'''
|109,255
|'''970,859'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年)
|289,052
|55,371
|542,443
|''0''
|'''886,866'''
|108,734
|'''995,600'''
|-
! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年)
|294,040
|57,155
|551,829
|''0''
|'''903,024'''
|110,677
|'''1,013,701'''
|}
本路線の収支は年間2億円の赤字となっていると、[[福岡市議会]]内で2009年に報告されている<ref>2009年1月28日の福岡市議会交通対策特別委員会の質疑応答 [http://asp.db-search.com/fukuoka-c/dsweb.cgi/documentframe!1!guest06!!15218!1!1!1,-1,1!4998!213121!1,-1,1!4998!213121!2,0,2!32!1299!389100!!9?Template=DocOneFrame] の質問13</ref>。
=== 混雑状況 ===
2022年(令和4年)度の最混雑区間(名島 → 貝塚間)の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]は'''154%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf |title=最混雑区間における混雑率(令和4年度) |date= |accessdate=2023-07-29 |publisher=国土交通省 |page=4 |format=PDF}}</ref>。
2007年にラッシュ時の最短運転間隔が6分30秒から10分となり、3両編成の運用も廃止されたが、その後[[千早操車場|香椎操車場]]跡地でのマンション建設や新宮町の[[西日本電信電話|NTT]]社宅跡地(杜の宮)での宅地開発などが進んで混雑率が増加した。福岡市内にある鉄道路線でありながら終日2両編成での運転であり、混雑率は大手民鉄の中では最も高い。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(名島 → 貝塚間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|2011年(平成23年)
| 6 || 1,480 || style="background-color: #ccffcc;"| 1,954 || style="background-color: #ccffcc;"| '''132'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 6 || 1,480 || 2,030 || '''137'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 6 || 1,480 || 2,154 || '''146'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 6 || 1,480 || 2,214 || '''150'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 6 || 1,488 || 2,113 || '''142'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 6 || 1,488 || 2,201 || '''148'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 6 || 1,488 || 2,268 || '''152'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 6 || 1,488 || 2,312 || '''155'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 6 || 1,488 || style="background-color: #ffcccc;"|2,346 || style="background-color: #ffcccc;"|'''158'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 6 || 1,488 || style="background-color: #ccffff;"|1,926 || style="background-color: #ccffff;"|'''129'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 6 || 1,488 || 2,076 || '''140'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|6
|1,488
|2,288
|'''154'''
|
|}
== 使用車両 ==
西鉄発足後は幹線でないとして専用の新車は製造されず<ref group="注釈">同じような状況にある路線として2007年に[[近畿日本鉄道]]から経営分離された[[養老鉄道]][[養老鉄道養老線|養老線]]や[[伊賀鉄道]][[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]]がある。</ref>、戦中戦後の1944年から1951年にかけて[[日本国有鉄道|国鉄]]から車両を譲り受けたのちはすべて[[西鉄天神大牟田線|大牟田線]](現・天神大牟田線)からの転属によりまかなわれている。博多湾鉄道汽船から引き継いだ車両およびもと国鉄の車両は1980年のワンマン運転開始時に全廃されており、現存する車両はすべて大牟田線からの転用車両である。[[軌間]]が天神大牟田線と異なるため、台車を始め、主要機器は近年は主に[[西武鉄道]]など他社の廃車発生品を流用している。また[[連結器]]も天神大牟田線で使用している密着連結器ではなく、旧国鉄と同じ柴田式自動連結器を使用している。
1977年に入線した313形以降の新規入線車両の車体塗色は天神大牟田線の[[西鉄2000形電車|2000形]]と同じオキサイドイエローにボンレッド帯となっており、現在はこの塗装に統一されている。それ以前の車両は西鉄旧標準色の上半ベージュ、下半あずき色の塗装であった。また、313形までは[[鉄道の車両番号|車両番号]]の書体に、福岡市内線車両や北九州線連接車と同じく[[ローマン体]]を用いていた。
西鉄新宮 - 津屋崎間廃止後は路線短縮に加え大幅減便を実施したため、最ピーク時で7運用となり、これに検査予備分を加えても9編成あれば足りることとなった。600形全編成と313形2編成と300形1編成を除き、2007年後半に300形の検査期限切れが相次ぐことと老朽化を理由として、最後まで吊り掛け駆動方式で残っていた300形や313形を廃車することとなった。2006年9月より運用離脱していた316編成がトップを切って同年4月中旬より解体作業に入り、5月下旬までに廃車予定車すべてを解体した(これらの車両の廃車日はすべて2007年4月1日付)。なお、同月1日以降は日中時間帯のほとんどを600形で運用するようになり、300形や313形はラッシュ時中心の運用となった。その後、2007年12月21日限りで3両編成での運用を取りやめ、すべての列車が2両編成での運用となった。これらの車両整理ののちは313形315-365の1編成と600形による運用となり、2015年1月24日には最後まで残った313形が運行を終了し、全車両を600形に統一した。
開業当初は非電化であり[[蒸気機関車]]が[[客車]]・[[貨車]]を牽引していたが、1929年、電化により旅客列車を電車化した。戦後の1949年に[[電気機関車]]を導入し、貨物列車も無煙化したが、後に貨物輸送の廃止により電気機関車は消滅した。
=== 現在の車両 ===
*[[西鉄600形電車 (鉄道・2代)|600形]]
[[新宮町]]おもてなし協会とのタイアップとして、[[2018年]][[3月31日]]から[[2020年]][[12月13日]]の期間、[[ラッピング車両|ラッピング電車]]「にゃん電」が運行されていた<ref>[https://shingu-navi.jp/kankou/6808/ 新宮町ラッピング電車 西鉄貝塚線で運行中!] - 新宮navi 新宮町おもてなし協会公式、2019年5月24日</ref>。[[相島 (福岡県)|相島]]の[[ネコ|猫]]をモチーフにしたオリジナルヘッドマークを車両前部に設置し、猫や町の特産品をイメージしたキャラクターのラッピングがなされた。また、電車内にも新宮町の特産品や観光スポットの紹介ポスターが掲示された<ref>{{Cite press release |title=西鉄電車☓新宮町おもてなし協会 タイアップ企画! ラッピング電車「にゃん電」を運行します! |publisher=西日本鉄道株式会社 |format=PDF |date=2018-03-23 |url=https://www.nishitetsu.co.jp/ja/news/news20180323103039/main/0/link/17_250.pdf |language=ja |access-date=2023-05-22 }} </ref>。
また、[[2020年]][[2月12日]]からはタイアップ第2弾としてラッピング電車「さんくすしんぐう」を運行している。外装には、新宮町の特産品である立花みかんやいちご、観光名所の[[立花山]]をモチーフにしたキャラクターを、車内の座席には猫が描かれたデザインの車両となっている<ref>{{Cite press release |language=ja |url=https://www.nishitetsu.co.jp/ja/news/news20200210102949/main/0/link/19_145.pdf |title=ラッピング電車「さんくすしんぐう」運行! |date=2020-02-10 |format=PDF |access-date=2023-05-22 |publisher=西日本鉄道株式会社 }} </ref>。
<gallery>
ファイル:Nishi-Nippon-Railroad-608.JPG|かつて運行されていた600形電車の3両編成<br />(2002年3月2日撮影)
ファイル:Nishitetsu EMU 601F Nyanden.jpg|相島の猫など新宮町の風物をあしらったラッピング電車「にゃん電」
</gallery>
なお、西鉄が公開した令和4年度「移動等円滑化取組報告書(鉄道車両)<ref>{{PDFlink|[https://www.nishitetsu.co.jp/ja/sustainability/safety/barrierfreeplan/main/02/teaserItems1/0/linkList/0/link/2022tetsudousyaryou.pdf 移動等円滑化取組報告書(鉄道車両)]}} - 西日本鉄道、2023年6月</ref>」において、2025年度から2027年度にかけて現在貝塚線で運用されている600形全て(8編成16両)を廃車し、代替車両として天神大牟田線での運用に充てられている[[西鉄7000形電車|7050形]]8編成16両を車両再生工事を行なった上で転属させる計画があることが記載されている。
=== 過去の車両 ===
* [[博多湾鉄道汽船デハ1形電車|1形(1・2・4 - 9)]]
* [[博多湾鉄道汽船コハフ1形客車|1形(3)]]
* [[博多湾鉄道汽船デハ10形電車|10形(11・12・15)]]
* [[博多湾鉄道汽船コハフ1形客車|10形(13・16・17)]]
* [[博多湾鉄道汽船デハ1形電車|10形(14)]]
* [[九州鉄道100形電車|10形(18)]]
* [[博多湾鉄道汽船コハフ1形客車|50形(51 - 54)]]
* [[西鉄50形電車|50形(55 - 63)]]
* [[九州鉄道100形電車|50形(58 II)]]
* [[西鉄20形電車|120形]](元大牟田線20形)
* [[西鉄300形電車 (鉄道)|300形]]
* [[西鉄313形電車|313形]]
* [[西鉄ED200形電気機関車|ED200形]](電気機関車)
<gallery>
ファイル:Nishi-Nippon-Railroad-313-619.JPG|三苫駅にて[[列車交換]]を行う300形電車<br />(2002年3月2日撮影)
ファイル:Nishi-Nippon-Railroad-365.JPG|高架化された西鉄香椎駅付近を走る313形電車<br />(2007年3月2日撮影)
</gallery>
=== 車両数の変遷 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:65%;"
|-
!年
!1形
!10形
!20形
!50形
!300形
!120形
!313形
!600形
!計(冷房車)
|-
|1978||5||4||4||3||14||||||||30
|-
|1982<br>-1984||||||||||6||11||8||||25
|-
|1985||||||||||4||13||8||||25
|-
|1986||||||||||7||13||8||||28
|-
|1987||||||||||16||11||8||||35(5)
|-
|1988||||||||||16||11||8||||35(14)
|-
|1989||||||||||16||11||8||||35(21)
|-
|1990||||||||||16||11||8||||35(24)
|-
|1991||||||||||16||5||8||6||35(30)
|-
|1992<br>-2000||||||||||16||||8||11||35(35)
|-
|2001<br>-2003||||||||||15||||8||11||34(34)
|-
|2004||||||||||11||||8||13||32(32)
|-
|2005||||||||||9||||8||13||30(30)
|-
|2006||||||||||9||||8||15||32(32)
|-
|2007||||||||||3||||4||15||22(22)
|-
|2008<br>-2014||||||||||||||2||14||16(16)
|-
|2015||||||||||||||||16||16(16)
|-
|}
*1978年は10月1日現在、82・83年は1月1日現在、84年以降は4月1日現在
*『私鉄車両編成表』各年版、ジェー・アール・アール
== 歴史 ==
*[[1924年]]([[大正]]13年)
**[[5月23日]] [[博多湾鉄道汽船]]が新博多(後の千鳥橋) - 和白間を開業
**[[11月13日]] 唐の原駅廃止認可
*[[1925年]](大正14年)
**[[7月1日]] 和白 - 宮地嶽<ref group="注釈" name="嶽"/>間が開業
**[[7月15日]] 新香椎(現在の西鉄香椎) - 和白間に(臨)片男佐駅開業。廃止日不明。
*[[1927年]]-[[1930年]]頃 新博多 - 箱崎宮前間の千代町駅廃止
*[[1929年]]([[昭和]]4年)
**[[8月16日]] 全線を1500V電化
**[[11月1日]] 花見駅開業
*[[1935年]](昭和10年)[[2月5日]] 箱崎松原 - 名島間に農科裏信号所開設
*[[1941年]](昭和14年)[[4月1日]] 香椎福日園前駅(現在の香椎花園前駅)開業
*[[1942年]](昭和17年)
**4月1日 香椎福日園前駅を運動場前駅に改称。
**[[9月19日]] [[九州電気軌道]]に合併
**[[9月22日]] 西日本鉄道に改称、同社の宮地嶽線(宮地岳線)<ref group="注釈" name="嶽"/>となる
*[[1950年]](昭和25年)
**[[4月20日]] 農科裏信号所を駅に変更し西鉄多々良駅(現在の貝塚駅)開業
**[[5月15日]] 新博多駅を西鉄博多駅に、新香椎駅を西鉄香椎駅に、新宮港駅を西鉄新宮駅に、新古賀駅を西鉄古賀駅に、筑前福間駅を西鉄福間駅に改称
*[[1951年]](昭和26年)
**[[6月15日]] 名香野駅(現在の西鉄千早駅)開業
**7月1日 宮地岳 - 津屋崎間が開業。宮地岳駅移転
*[[1953年]](昭和28年)[[7月8日]] 新宮 - 三苫間で正面衝突事故発生。死者4人、重軽傷者97人の惨事となった。[[昭和28年西日本水害]]の影響で地盤が緩んだことで崖崩れが発生しており、これを発見して引き返した列車とそれを知らずに走行していた後続の列車が衝突した<ref>{{Cite book|和書|title=津屋崎町史 通史編 |publisher= 津屋崎町史編さん委員会 |year=1999 |page=950-951 }}</ref>。
*[[1954年]](昭和29年)[[3月5日]] 西鉄博多 - 西鉄多々良間を[[標準軌]]に改軌し600Vに降圧。西鉄博多駅を新博多電停に(1963年(昭和38年)に千鳥橋に改称)、箱崎宮前駅を箱崎浜電停に、西鉄多々良駅を競輪場前駅に改称。これにより同区間は事実上[[西鉄福岡市内線|福岡市内線]]に編入され、貝塚線と呼ばれる(正式にはこの後も宮地岳線のままであった)
*[[1957年]](昭和32年)[[5月13日]] 運動場前駅を香椎花園前駅に改称
*[[1958年]](昭和33年)[[10月1日]] 古賀ゴルフ場前駅開業
*[[1959年]](昭和34年)[[3月1日]] 香椎宮前駅開業
*[[1962年]](昭和37年)11月1日 競輪場前駅を貝塚駅に改称
*[[1966年]](昭和41年)[[10月26日]] 和白駅西方立体交差化
*[[1978年]](昭和53年)[[10月1日]] [[列車集中制御装置|CTC]]・[[自動列車停止装置|ATS]]使用開始
*[[1979年]](昭和54年)[[2月11日]] 福岡市内線全廃に伴い、千鳥橋(元の西鉄博多) - 貝塚間を廃止
*[[1980年]](昭和55年)[[9月1日]] ワンマン運転開始<ref group="注釈">日本の大手私鉄の[[鉄道事業法]]適用路線としては初のワンマン運転導入路線となる。</ref>
*[[1985年]](昭和60年)[[8月30日]] 貝塚駅が津屋崎方に160m移転(新規で福岡市地下鉄と一体の駅施設建設のため)。営業キロ0.2km短縮
*[[1986年]](昭和61年)
**11月1日 唐の原駅開業
**[[11月12日]] 福岡市地下鉄2号線(後に箱崎線と愛称が付く)が貝塚駅まで開業。地下鉄乗り継ぎ対応のため宮地岳線各駅で発行される切符が磁気面があるものに切り替わる
*[[2000年]]([[平成]]12年)頃 立体交差事業に伴い、香椎宮前 - 西鉄香椎を仮線へ切り替え
*[[2003年]](平成15年)[[3月15日]] 終電繰り下げ(貝塚駅発23:31→0:10)
*[[2004年]](平成16年)[[8月2日]] 貝塚 - 香椎宮前間が経路変更。名香野駅を西鉄千早駅に改称、高架化。<!-- 当初8月1日切替予定が台風接近のため8月2日実施。-->
*[[2006年]](平成18年)[[5月14日]] 西鉄千早 - 西鉄香椎間が高架化(香椎宮前駅と西鉄香椎駅が高架駅に変更、多少の経路変更)<ref name="RF544"/>。名島 - 香椎花園前間の営業キロ0.1km延長。この経路変更により、運賃が下がる区間では値下げされたが、上がる区間では値上げをせずに据え置いた
*[[2007年]](平成19年)
**[[4月1日]] 西鉄新宮 - 津屋崎間を廃止し、貝塚線に改称。廃止区間は[[西鉄バス宗像]]が代替バスを運行
**[[12月21日]] この日限りでラッシュ時に残っていた3両編成での運用を取りやめ、すべての列車が2両編成となる
*[[2009年]](平成21年)[[4月1日]] 駅業務のすべてを子会社の[[西鉄ステーションサービス]]に移管。西鉄香椎駅が管理駅となる
*[[2010年]](平成22年)[[3月13日]] ICカード[[nimoca]]導入
*[[2015年]](平成27年)[[1月24日]] 313形の運行を終了
*[[2017年]](平成29年)[[2月1日]] 全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-24|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2017/16_097.pdf|title=西鉄電車の全駅に駅ナンバリングを導入します!|format=PDF|publisher=西日本鉄道|accessdate=2017年1月25日}}</ref>。
== 西鉄新宮 - 津屋崎間の存廃問題 ==
{{出典の明記|section=1|date=2023年7月}}
[[ファイル:Miyajidake last300.jpg|300px|thumb|部分廃止に伴う特別塗装車両([[西鉄300形電車 (鉄道)|300形]])西鉄福間駅]]
西鉄新宮から津屋崎までの区間は[[鹿児島本線]]と国道が並行しており、2004年度の輸送密度は2,201人と、貝塚から西鉄新宮までの同年度の輸送密度9,557人の1/4という状況であった。西鉄側は福岡県及び沿線自治体に経営改善の協力要請をしていることが[[2005年]]1月に明らかになり、沿線自治体と経営改善策を検討してきたが、結局利用客は増加せず、[[2006年]]3月に西鉄新宮 - 津屋崎間の廃止が決定された<ref>{{Cite press release|title=西鉄宮地岳線 一部区間(西鉄新宮~津屋崎間)の廃止について|publisher=西日本鉄道|date=2006-03-03|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2005/05_169.htm|language=ja|access-date=2023-07-25|archive-url=https://web.archive.org/web/20160301105838/http://www.nishitetsu.co.jp/release/2005/05_169.htm|archive-date=2016-03-01}}</ref>。廃止は[[2007年]][[4月1日]]で、同時に宮地岳線から貝塚線に改称した。なお、廃止区間には[[バス代行|代替バス]]<!--廃止代替バスはバスの廃止路線の代替についての記事-->が運行されている。
廃止対象区間の沿線は住宅街で、同じ西鉄の[[西鉄甘木線|甘木線]]よりも本数が多く、系列の[[筑豊電気鉄道|筑豊電鉄]]線などの成功事例を比べると好条件に見える。しかし、全線単線・普通列車のみ・車両が本線系統から転属した旧型車などで輸送力が低いこと、終点の位置が津屋崎という半端なところであること、現状は地下鉄と接続しているとはいえ都心に直通していないこと、新宮 - 津屋崎間は[[#乗り継ぎ割引|地下鉄との乗り継ぎ割り引き]]も適用されず、前述のようによかネットカードが使えないこと、国鉄民営化により並行しているJR鹿児島本線の近代化が進み、新駅の設置、新車の導入、快速・普通列車の増発などによって利用者離れが進み、赤字が続いていた。
[[福津市]]・[[古賀市]]・[[新宮町]]の住民から宮地岳線(当時)の存続を訴える6万人の署名が集まり、西鉄新宮 - 津屋崎間の[[第三セクター]]化などが検討されたが、西鉄側が三セクとの直通運転を行わないと明言したことや三セク設立には多額の費用が掛かることなどもあり、断念した。
2007年2月20日に宮地岳線一部区間廃止に伴う路線名変更および鉄道・バス運行概要が発表された<ref>{{Cite press release|title=宮地岳線一部区間廃止にともなう路線名変更 および鉄道・バス運行概要決定のお知らせ|publisher=西日本鉄道|date=2007-02-02|url=http://www.nishitetsu.co.jp/nnr/inf/release/release06_114.htm|language=ja|access-date=2023-07-25|archive-url=https://web.archive.org/web/20070225152616/http://www.nishitetsu.co.jp/nnr/inf/release/release06_114.htm|archive-date=2007-02-25}}</ref>。内容は、鉄道運行の概要として、廃止に伴って路線名称を「貝塚線」に改称すること、貝塚 - 西鉄新宮間の運行本数を平日83往復・土曜・休日73往復とすること、運行間隔を平日ラッシュ時10分・オフラッシュ時および土曜・休日の終日は15分とする、ラッシュ時の列車の離合を見直し所要時分を短縮すること、日中時間帯(10 - 17時)の福岡市地下鉄箱崎線の西新方面直通列車と接続するなど利便性向上を図ることである。また、廃止区間についての代替路線バスの運行概要は、西鉄新宮駅から古賀、JR福間駅を経由して津屋崎橋までを結ぶ路線(1日40往復)や、平日の朝夕のラッシュ時間帯に都市高速を経由して天神と津屋崎を結ぶ路線、西福間三丁目からJR福間駅を経由して光陽台を結ぶ路線を新設することであった(しかし西福間三丁目-JR福間駅-光陽台の系統は赤字のため2009年4月1日に廃止)。
翌[[3月16日]]には、宮地岳線一部区間廃止の関連行事について発表された<ref>{{Cite press release|title=宮地岳線 一部区間廃止 関連行事のお知らせ|publisher=西日本鉄道|date=2007-03-16|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2006/06_131.htm|language=ja|access-date=2023-07-25|archive-url=https://web.archive.org/web/20120630182457/http://www.nishitetsu.co.jp/release/2006/06_131.htm|archive-date=2012-06-30}}</ref>。同月[[3月19日|19日]]から[[3月31日|31日]]まで宮地岳線全駅で今回廃止となる6駅の写真を入れた「記念乗車券」の発売、19日より廃止当日まで車体をカッティングシートで装飾した記念電車(311+361編成)の運行、最終日の31日は西鉄新宮 - 津屋崎間を終日無料運賃にて営業、最終臨時電車の前に2本の臨時営業電車(津屋崎発)を運行(津屋崎駅23時22分発→貝塚駅24時05分着と津屋崎駅23時41分発→貝塚駅24時23分着)、最終臨時電車を運行(津屋崎駅24時20分発→貝塚駅25時00分着で途中客扱いなしの運行、宮地岳駅で31日10時より「乗車整理券」を配布)、これに伴う津屋崎駅にて31日23時50分からの「最終臨時電車出発式」の実施、といった内容が盛り込まれた。
3月31日当日は、松林を走るローカル線との別れを惜しむ沿線住民や鉄道ファンが詰め掛けた。最終臨時電車出発式が[[4月1日]]午前0時すぎに津屋崎駅にて行われた。社長の挨拶の後に最終電車が入線し、この電車は前述した通り、青い波のステッカーを装飾した記念電車(311+361編成)が充当され、「長い間のご愛顧ありがとうございました」とメッセージが入ったヘッドマークが取り付けられた。
2008年までに廃止区間の線路撤去作業はほぼ完了した。
== 部分廃止区間の代替交通 ==
=== 千鳥橋 - 貝塚間 ===
天神 - 貝塚駅間では、かつての線路にほぼ平行する[[国道3号]]線を経由して西鉄バス20番が運行されている。かつては25番と称し、福岡市内線の25系統と同じ経路を運行していたが、現在では西新を経由しなくなり、番号も20番に変更されている。貝塚駅 - 千鳥橋 - 博多駅間を直通するバス路線はない(貝塚 - 箱崎浜 - 博多駅間では西鉄バス29番が利用可能)。
=== 西鉄新宮 - 津屋崎間 ===
[[西日本鉄道アイランドシティ自動車営業所|西鉄バスアイランドシティ自動車営業所舞の里車庫]]が、行先番号5番を西鉄新宮駅前 - 津屋崎橋間で運行していた。ただし[[国道495号]]線・[[福間駅]]前経由であり、停留所の位置は旧中間駅各駅からやや離れており、旧西鉄福間駅周辺は経由しなかった。バス転換時は[[西鉄バス宗像]]が運行していたが、2016年6月に[[西鉄バス新宮自動車営業所]]に移管された。その後、2019年3月の組織改正により新宮自動車営業所が廃止され、アイランドシティ自動車営業所舞の里車庫の担当となった。同路線は[[2020年]][[10月1日]]に廃止され、古賀ゴルフ場前駅付近から津屋崎駅付近を通過する従来からのバス路線は存在するものの、西鉄新宮駅から部分廃止区間への直接的な代替交通は消滅した。
また、廃止当初は旧西鉄福間駅利用者対策として行先番号1-3が光陽台六丁目 - 福間駅前 - グリーンタウン中央 - 西福間三丁目のルートで運行されたが、2009年に廃止となった。代替として[[ふくつミニバス]]を運行している。
この他、廃止翌日の2007年4月1日から津屋崎 - 西鉄新宮の5番とは別に、[[天神 (福岡市)|福岡・天神]]と津屋崎(旧駅前)を結ぶ路線(行先番号26A、[[西鉄バス宗像・本社#赤間(委託)線|天神 - 赤間線]]と同じ番号)を運行しており、2023年7月現在も継続している。[[香椎出入口|香椎]] - [[呉服町出入口|呉服町]]間で[[福岡高速道路|都市高速]]経由である点も天神 - 赤間線と同じである。平日朝の津屋崎発と夕方の天神発をそれぞれ3便運行しており、この路線も代替バスの一つと位置づけられている<ref>{{cite book|和書 |title=路線廃止と代替バス |author=堀内重人 |page=197-198 | publisher=[[東京堂出版]] |year=2010 |month=4 | ISBN= 978-4-490-20696-8}}</ref>。
== 駅一覧 ==
全駅[[福岡県]]内に所在。駅業務は[[西鉄ステーションサービス]]が行い、[[西鉄福岡(天神)駅|福岡管理駅]]の傘下にある。
* 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可
=== 営業中の区間 ===
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅番号
!style="width:9em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|営業キロ
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|線路
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|所在地
|-
!NK01
|[[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[福岡市交通局]]:[[ファイル:Subway FukuokaHakozaki.svg|20px]] [[福岡市地下鉄箱崎線|箱崎線]](H07)
|◇
|rowspan="9"|[[福岡市]]<br />[[東区 (福岡市)|東区]]
|-
!NK02
|[[名島駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|1.4
|
|◇
|-
!NK03
|[[千早駅#西鉄千早駅|西鉄千早駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|2.5
|[[九州旅客鉄道]]:{{JR九駅番号|JA}} [[鹿児島本線]]([[千早駅#JR千早駅|千早駅]]:JA03)
|◇
|-
!NK04
|[[香椎宮前駅]]
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|3.0
|
||
|-
!NK05
|[[西鉄香椎駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|3.6
|
|◇
|-
!NK06
|[[香椎花園前駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|5.0
|
||
|-
!NK07
|[[唐の原駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|6.1
|
|◇
|-
!NK08
|[[和白駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|7.2
|九州旅客鉄道:{{JR九駅番号|JD}} [[香椎線]](JD05)
|◇
|-
!NK09
|[[三苫駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|9.0
|
|◇
|-
!NK10
|[[西鉄新宮駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|11.0
|
|◇
|[[糟屋郡]]<br />[[新宮町]]
|}
=== 2007年廃止区間 ===
営業キロは貝塚駅からのもの。この区間は接続路線なし。駅番号は営業当時未制定。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:9em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間キロ
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!style="width:1em;"|線路
!所在地
|-
|[[西鉄新宮駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|11.0
|◇
|[[糟屋郡]]<br />[[新宮町]]
|-
|[[古賀ゴルフ場前駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|13.0
||
|rowspan="3"|[[古賀市]]
|-
|[[西鉄古賀駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|14.2
|◇
|-
|[[花見駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|15.6
||
|-
|[[西鉄福間駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|18.2
|◇
|rowspan="3"|[[福津市]]
|-
|[[宮地岳駅]]<ref group="注釈" name="嶽"/>
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|19.5
||
|-
|[[津屋崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|20.9
|◇
|}
=== 福岡市内線編入区間(1979年廃止) ===
※名称は福岡市内線編入直前のもの。編入後は[[西鉄福岡市内線#路線データ|西鉄福岡市内線]]を参照。千代町駅は1930年以前に廃止。
[[西鉄博多駅]](後の千鳥橋) - (千代町駅) - [[箱崎宮前駅#西鉄宮地岳線 箱崎浜駅|箱崎宮前駅]](後の箱崎浜) - 箱崎松原駅 - [[貝塚駅 (福岡県)|西鉄多々良駅]](現・貝塚駅)
== 乗り継ぎ割引 ==
[[福岡市交通局|福岡市地下鉄]]との[[乗り継ぎ料金制度|乗り継ぎ割引]]を実施している。詳細は以下のリンクを参照。また、終点の西鉄新宮駅は乗り継ぎ割引の対象外である。
*[http://www.nishitetsu.jp/train/kippu/lineup/noritsugi/ 乗継割引(西鉄サイト内)]
*[http://subway.city.fukuoka.lg.jp/fare/system.html 料金制度(福岡市交通局サイト内)]
なお、[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]との[[通過連絡運輸|通過連絡]]運賃は設定されていない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄』新潮社、2009年
* 寺田裕一『データブック 日本の私鉄』ネコ・パブリッシング、2002年
* 西日本鉄道株式会社『にしてつ100年の歩み《西日本鉄道百年史ダイジェスト版》』2008年
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nishitetsu Kaizuka Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[日本の廃止鉄道路線一覧]]
* [[博多湾鉄道汽船]]
* 他の大手私鉄の自社路線網からの孤立路線
** [[西武多摩川線]]
** [[名鉄瀬戸線]]
** [[近鉄田原本線]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nishitetsu.jp/train/rosen/kaizuka.html 貝塚線]
{{西日本鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:にしてつかいつかせん}}
[[Category:九州地方の鉄道路線|かいつかせん]]
[[Category:西日本鉄道の鉄道路線|かいつか]]
[[Category:博多湾鉄道汽船|路かいつかせん]]
[[Category:部分廃止路線|みやしたけせん]]
[[Category:福岡県の交通]]
|
2003-09-03T11:22:26Z
|
2023-12-29T19:33:21Z
| false | false | false |
[
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%89%84%E8%B2%9D%E5%A1%9A%E7%B7%9A
|
14,895 |
西鉄甘木線
|
甘木線(あまぎせん)は、福岡県久留米市の宮の陣駅から同県朝倉市の甘木駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はA。
正式な起点は宮の陣駅だが、列車運行および旅客案内では天神大牟田線に合わせて、甘木駅から宮の陣駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
普通列車のみの運行。全列車が天神大牟田線の西鉄久留米方面に直通し、全列車2両編成でワンマン運転を行っている。日中から終電にかけてはおおむね30分間隔の運行で、甘木 - 大牟田間の運行である。早朝並びに朝ラッシュ時は本郷 - 花畑・西鉄柳川間の途中折り返し列車が設定されている。朝ラッシュ時は大部分が花畑発着となり、区間運転列車が増発される。終電は大牟田発北野行き、北野発花畑行きで運転される。上下列車の交換駅は、日中以降が北野駅および本郷駅で、朝ラッシュ時には学校前駅および金島駅が加わる。ただし、2022年8月28日のダイヤ改正までは、朝ラッシュ時に北野駅および本郷駅を加え、日中以降は学校前駅および金島駅で列車交換を行う運行形態を取っていた。
甘木線線内では車両の中間のドアは締切となる。
前述のように甘木線の全列車が西鉄久留米駅まで乗り入れていることや、天神大牟田線の特急が宮の陣駅に停車しないこともあり、甘木線の各駅(宮の陣駅を除く)と天神大牟田線の西鉄福岡(天神) - 味坂間の各駅を乗車する場合は、鉄道旅客及び荷物営業規則第44条第2項により、西鉄久留米駅乗り換えの乗車券類を発売することが可能である。なお、折り返し乗車区間となる宮の陣 - 西鉄久留米間では定期券および条件を満たした乗車券での途中下車が可能である代わりに、折り返し乗車区間のキロ程を含めて運賃計算がされるため、宮の陣乗り換えと西鉄久留米乗り換えでは運賃が異なる場合がある。
1948年の昇圧以降、電圧は天神大牟田線と統一されているものの、使用される(あるいは過去に使用された)車両は以下の形式に限られる。
昇圧以前の車両については、「西鉄福島線の車両」を参照のこと。
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甘木線(あまぎせん)は、福岡県久留米市の宮の陣駅から同県朝倉市の甘木駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。路線記号はA。
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{{混同|甘木鉄道甘木線}}
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'''甘木線'''(あまぎせん)は、[[福岡県]][[久留米市]]の[[宮の陣駅]]から同県[[朝倉市]]の[[甘木駅]]までを結ぶ[[西日本鉄道]](西鉄)の[[鉄道路線]]である。路線記号は'''A'''。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):17.9km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:12駅(起終点駅含む)
* 複線区間:なし(全線単線)
* 電化区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:65km/h<ref name="terada" />
* [[運転指令所]]:[[西鉄指令]]
正式な起点は宮の陣駅だが、列車運行および旅客案内では天神大牟田線に合わせて、甘木駅から宮の陣駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
== 運行形態 ==
普通列車のみの運行。全列車が[[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]の[[西鉄久留米駅|西鉄久留米]]方面に直通し、全列車2両編成で[[ワンマン運転]]を行っている。日中から終電にかけてはおおむね30分間隔の運行で、[[甘木駅|甘木]] - [[大牟田駅|大牟田]]間の運行である。早朝並びに朝ラッシュ時は[[本郷駅 (福岡県)|本郷]] - [[花畑駅|花畑]]・[[西鉄柳川駅|西鉄柳川]]間の途中折り返し列車が設定されている。朝ラッシュ時は大部分が花畑発着となり、区間運転列車が増発される。終電は大牟田発[[北野駅 (福岡県)|北野]]行き、北野発花畑行きで運転される。上下列車の[[列車交換|交換駅]]は、日中以降が北野駅および本郷駅で、朝ラッシュ時には[[学校前駅]]および[[金島駅 (福岡県)|金島駅]]が加わる。ただし、[[2022年]][[8月28日]]のダイヤ改正までは、朝ラッシュ時に北野駅および本郷駅を加え、日中以降は学校前駅および金島駅で列車交換を行う運行形態を取っていた。
甘木線線内では車両の中間のドアは締切となる。
前述のように甘木線の全列車が西鉄久留米駅まで乗り入れていることや、天神大牟田線の特急が宮の陣駅に停車しないこともあり、甘木線の各駅(宮の陣駅を除く)と天神大牟田線の[[西鉄福岡(天神)駅|西鉄福岡(天神)]] - [[味坂駅|味坂]]間の各駅を乗車する場合は、鉄道旅客及び荷物営業規則第44条第2項により、西鉄久留米駅乗り換えの乗車券類を発売することが可能である。なお、折り返し乗車区間となる宮の陣 - 西鉄久留米間では定期券および条件を満たした乗車券での途中下車が可能である代わりに、折り返し乗車区間のキロ程を含めて運賃計算がされるため、宮の陣乗り換えと西鉄久留米乗り換えでは運賃が異なる場合がある。
== 歴史 ==
{{See also|三井電気軌道|西鉄福島線}}
* [[1913年]](大正2年)[[7月18日]] [[三井電気軌道]]により福島 - 日吉町間が開業、福島・吉田・川瀬・中広川・湯ノ楚・春川・原屋敷・一丁田・鞍打・花畑・広又・日吉町の各停留所が開業(中広川・原屋敷の各停留所の廃止日は不明)
* [[1915年]](大正4年)[[10月15日]] 宮の陣 - 北野間が開業、宮の陣・五郎丸・宮ノ陣学校前・富安・恋ノ段・古賀茶屋・十郎丸・郡農会前・中北野・北野の各停留所が開業
* [[1916年]](大正5年)[[9月27日]] 日吉町 - 櫛原間が開業、螢川・寺町・国道・南薫・櫛原の各停留所開業
* [[1921年]](大正10年)
** この年以前 古賀・野添・二軒茶屋・八軒屋・特科隊前・通三丁目・通外町・渕ノ上・将軍梅前・明善寺前の各停留所開業、春川停留所を上津荒木停留所に、鞍打停留所を六軒屋に改称(通三丁目・通外町・渕ノ上の各停留所の廃止日は不明)
** [[12月8日]] 北野 - 甘木間が開業、中村・陣屋・二王丸・大城・鏡・高島・金島・安永・染・大堰・下本郷・本郷・井堰・下浦・上浦・馬田・牛木・甘木の各停留所が開業(鏡・高島・染・下本郷の各停留所の廃止日は不明)
* [[1923年]](大正11年)以前 将軍梅前・郡農会前の各停留所廃止
* [[1924年]](大正13年)
** [[3月13日]] 筑後川に完成した新宮の陣橋に併用軌道を敷設し櫛原 - 宮の陣間が開業、これにより福島 - 甘木間が全通
** [[6月30日]] [[九州鉄道 (2代)|九州鉄道]](西鉄天神大牟田線の前身)が三井電気軌道を合併し三井線とする
* [[1925年]](大正14年)[[2月12日]] 筑後川停留所・将軍梅前仮停留所の開設を届出(将軍梅前仮停留所の廃止日は不明)
* [[1927年]](昭和2年)
** この年以前 通五丁目停留所開業(後に順光寺前停留所と改称。改称・廃止日不明)
** [[12月16日]] 競馬場前仮停留所開業
** [[12月18日]] 競馬場前仮停留所廃止
* [[1935年]](昭和10年)以前 筑後川停留所廃止
* [[1939年]](昭和14年)
** この年以前 特科隊前・寺町・南薫・中北野・中村の各停留所廃止
** [[3月25日]] 車庫前停留所開設認可。
** [[12月31日]] 湯ノ楚停留所を湯納楚停留所に、宮ノ陣学校前停留所を学校前に、恋ノ段停留所を鯉段停留所に、二王丸停留所を仁王丸停留所に改称
* [[1942年]](昭和17年)
** [[9月19日]] 九州鉄道が[[九州電気軌道]]に合併
** [[9月22日]] 九州電気軌道が西日本鉄道に改称、同社の三井線となる
** この年以降 国分・富安・十郎丸・下浦・牛木の各停留所廃止、車庫前停留所を八軒屋に改称
* [[1948年]](昭和23年)
** [[11月9日]] 甘木線の架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。路面電車型の2軸単車に代わり、[[西鉄200形電車 (鉄道)|200形]]を使用する大牟田線花畑発着の運行形態となる。広又・鯉段・下北野(元の明善寺前)・陣屋・仁王丸・安永・井堰の各停留所を廃止
** [[11月11日]] 宮の陣 - 日吉町間休止、三井線の甘木 - 宮の陣間を甘木線、日吉町 - 福島間を[[西鉄福島線|福島線]]と改称。
** [[11月21日]] 宮の陣 - 学校前間を移設し、大牟田線と接続
* [[1952年]](昭和27年)[[4月25日]] 宮の陣 - 日吉町間廃止
* [[1958年]](昭和33年)[[11月27日]] 福島線廃止
* [[1960年]](昭和35年)[[8月1日]] 宮の陣 - 甘木間を[[軌道法]]から[[地方鉄道法]]準拠に変更
* [[1989年]](平成元年)
** 4月25日 甘木線初の冷房車両[[西鉄600形電車 (鉄道・2代)|600形]]の運転を開始し200形を全廃
** 9月 大城駅を有人化
** [[10月1日]] 甘木 - 花畑間で600形2連によるワンマン運転開始。上浦駅を無人化
* [[2001年]](平成13年)[[11月10日]] 甘木 - 大牟田間の直通列車(ワンマン運転)の運転開始。また、これに合わせて[[西鉄7000形電車|7000形]]の運行も開始
* [[2003年]](平成15年)3月 [[西鉄7000形電車|7050形]]の運転を開始
* [[2004年]](平成16年)9月 600形の運行を終了
* [[2008年]](平成20年)[[5月18日]] ICカード[[nimoca]]導入
* [[2014年]](平成26年)[[3月22日]] 本郷、大堰、学校前の各駅を無人化
* [[2017年]](平成29年)[[2月1日]] 全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-24|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2017/16_097.pdf|title=西鉄電車の全駅に駅ナンバリングを導入します!|format=PDF|publisher=西日本鉄道|accessdate=2017-01-25}}</ref>
* [[2021年]](令和3年)
** [[4月1日]] [[駅集中管理システム]]を導入。金島、大城、古賀茶屋、五郎丸の各駅を無人化<ref name="pr20210319">{{Cite press release|和書|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2020/20_111.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210319092941/http://www.nishitetsu.co.jp/release/2020/20_111.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西鉄天神大牟田線(三潴〜西鉄銀水間)および甘木線の駅管理体制集中管理方式の本格運用開始|publisher=西日本鉄道広報部|date=2021-03-19|accessdate=2021-03-19|archivedate=2021-03-19}}</ref><ref name="press20200828">{{Cite press release|和書|url=http://www.nishitetsu.co.jp/release/2020/20_034.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200828104013/http://www.nishitetsu.co.jp/release/2020/20_034.pdf|format=PDF|language=日本語|title=西鉄天神大牟田線(三潴〜西鉄銀水間)および甘木線 駅管理体制の見直し 駅業務を集中管理方式に変更し、駅係員は定期的に各駅を巡回します。|publisher=西日本鉄道|date=2020-08-28|accessdate=2020-08-28|archivedate=2020-08-28}}</ref>
** 11月28日 12月8日に迎える甘木線全線開通100周年の祝賀出発式<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1638438762518/index.html |title=市長トピックス 令和3年11月分|publisher= 朝倉市|accessdate=2022-10-23}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[福岡県]]内に所在。
* 線路(全線単線) … ◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅番号
!style="width:6em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|営業キロ
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:3px solid #1065ab;"|{{縦書き|線路}}
!style="border-bottom:3px solid #1065ab;"|所在地
|-
!T25
|[[宮の陣駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[西日本鉄道]]:{{西鉄駅番号|T}} [[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]
||
|rowspan="7"|[[久留米市]]
|-
!A11
|[[五郎丸駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|0.9
|
||
|-
!A10
|[[学校前駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|1.7
|
|◇
|-
!A09
|[[古賀茶屋駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|3.9
|
||
|-
!A08
|[[北野駅 (福岡県)|北野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|5.4
|
|◇
|-
!A07
|[[大城駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|8.0
|
||
|-
!A06
|[[金島駅 (福岡県)|金島駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|9.4
|
|◇
|-
!A05
|[[大堰駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|11.6
|
||
|rowspan="2"|[[三井郡]]<br>[[大刀洗町]]
|-
!A04
|[[本郷駅 (福岡県)|本郷駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|13.1
|
|◇
|-
!A03
|[[上浦駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|14.9
|
||
|rowspan="3"|[[朝倉市]]
|-
!A02
|[[馬田駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|16.1
|
||
|-
!A01
|[[甘木駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|17.9
|[[甘木鉄道]]:[[甘木鉄道甘木線|甘木線]]
|◇
|}
== 車両 ==
1948年の昇圧以降、電圧は天神大牟田線と統一されているものの、使用される(あるいは過去に使用された)車両は以下の形式に限られる。
=== 現用車両 ===
* [[西鉄7000形電車|7000形・7050形]]
=== 過去の車両 ===
[[ファイル:Nnr-kitano.jpg|thumb|北野駅に停車中の600形電車(2004年)]]
* [[西鉄200形電車 (鉄道)|200形]]
* [[西鉄600形電車 (鉄道・2代)|600形]]
昇圧以前の車両については、「[[西鉄福島線#車両|西鉄福島線の車両]]」を参照のこと。
== 企画乗車券 ==
* 「あまぎぐるりんフリーきっぷ」 - 天神大牟田線主要駅発着で、甘木線と[[甘木鉄道甘木線|甘木鉄道]]全線ならびに天神大牟田線[[西鉄小郡駅|西鉄小郡]] - 宮の陣間が乗り放題となる。2014年9月20日から、2019年3月31日まで発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ensen24.jp/kippu/17/ |title=お得なきっぷ(きっぷら)|publisher= 西鉄沿線お出かけナビ|accessdate=2019-02-09}}</ref>。発売開始当初の甘木鉄道の利用区間は小郡駅 - 甘木駅間だったが<ref>{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2014/14_082.pdf 『三井・朝倉地域公共交通連携施策検討協議会「あまぎぐるりんフリーきっぷ」発売』]}} - 西日本鉄道株式会社 ニュースリリース、2014年9月9日</ref>、2017年4月1日発売のものから甘木鉄道の利用区間が全線に拡大された<ref>{{PDFlink|[http://www.nishitetsu.co.jp/release/2016/16_161.pdf 「あまぎぐるりんフリーきっぷ」 発売期間延長およびフリーエリア区間拡大について]}} - 西日本鉄道株式会社 ニュースリリース、2017年3月27日</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | pages = pp. 39 - 40 | publisher = [[新潮社]] | volume = 12 九州沖縄 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790030-2 | ref = imao }}
* {{Cite book | 和書 | title = にしてつ100年のあゆみ | edition = 西日本鉄道百年史 ダイジェスト版 | publisher = 西日本鉄道 | year = 2008 }}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[甘木鉄道甘木線]]
==外部リンク==
*[http://www.nishitetsu.jp/train/rosen/tenjin.html 天神大牟田線]
{{西日本鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:にしてつあまきせん}}
[[Category:九州地方の鉄道路線|あまきせん]]
[[Category:西日本鉄道の鉄道路線|あまき]]
[[Category:福岡県の交通]]
[[Category:久留米市の交通]]
[[Category:朝倉市の交通]]
[[Category:大刀洗町]]
|
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|
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14,897 |
固体物理学
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固体物理学(こたいぶつりがく、Solid-state physics)とは物理学の一分野であり、より広い意味で使われる物性物理学に含まれる分野である。
扱うべき対象は、その名の通り固体と固体(内)に関するいろいろな物理現象である。量子力学や統計力学を応用して、主に微視的側面から物質の性質を研究する。他の物理学の分野と同様、大きく分けて理論的アプローチと実験的アプローチによって研究が行われる。
現象としては、電気(電子)的なもの、磁気的なもの、熱的なもの、力学的なものなどが挙げられる。固体自身も、金属(合金)、半導体、絶縁体、有機物、結晶、ガラス(アモルファス)、セラミックス、鉱物など多様な形態をなしている。
また固体物理学では、多様な結晶構造、結合様式(金属結合、共有結合、イオン結合等)を扱うこととなる。
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固体物理学とは物理学の一分野であり、より広い意味で使われる物性物理学に含まれる分野である。
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{{出典の明記|date=2011年10月}}
'''固体物理学'''(こたいぶつりがく、'''[[:en:Solid-state physics|Solid-state physics]]''')とは[[物理学]]の一分野であり、より広い意味で使われる[[物性物理学]]に含まれる分野である。
== 研究対象 ==
扱うべき対象は、その名の通り[[固体]]と固体(内)に関するいろいろな物理現象である。[[量子力学]]や[[統計力学]]を応用して、主に微視的側面から[[物質]]の性質を研究する。他の物理学の分野と同様、大きく分けて[[理論物理学|理論]]的アプローチと[[実験物理学|実験]]的アプローチによって研究が行われる。
現象としては、電気([[電子]])的なもの、[[磁気]]的なもの、熱的なもの、力学的なものなどが挙げられる。固体自身も、[[金属]]([[合金]])、[[半導体]]、[[絶縁体]]、[[有機物]]、[[結晶]]、[[ガラス]]([[アモルファス]])、[[セラミックス]]、[[鉱物]]など多様な形態をなしている。
また固体物理学では、多様な[[結晶構造]]、[[化学結合|結合様式]]([[金属結合]]、[[共有結合]]、[[イオン結合]]等)を扱うこととなる。
== 関連項目 ==
* [[合金]]
* [[絶縁体]]
* [[金属]]
* [[半導体]]
* [[準金属]]([[半金属]])
* [[スピングラス]]
* [[表面科学]]
* [[固体化学]]
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14,899 |
放射線・環状線
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放射線・環状線(ほうしゃせん・かんじょうせん)とは、それぞれ放射状に延びる路線、環状になっている路線である。ここでは道路・鉄道について記載する。中心都市から放射線が延び、その都市の内部又は外縁部に環状線が形成され、相互に接続する状態がよく見られる。
都市に放射方向以外の道路が存在しなかった場合、異なる放射方向間を移動する自動車が、全て都心を通ることになり、都心の道路が渋滞する。これを解消するため、都心を目的地としない自動車が、都心を迂回する道路が必要となる。
放射方向が2本のみの場合、すなわち1本の道路が都心を貫通している場合には、この迂回路はバイパス道路となる。多数の放射方向のある都市の場合、これらを効率良く連絡する道路として環状道路が整備される。
大規模な都市には複数の環状道路が整備されることがある。これは、環状道路自体の混雑が激しくなった場合、都市の郊外に向かう自動車、他の都市を目指す自動車など、さらに細かく交通を分離するためである。
鉄道の環状線の機能はおおむね次のように分類できる。
なお、完全な環状になっていなくても、複数の放射線を相互連絡する路線であれば環状線と呼ばれることがある。また、環状運転を行っている路線(系統)、または複数の路線を経由して周回することが出来る路線(区間)のことを指して「環状線」と呼ぶこともあるが、本記事でいう「環状線」とは必ずしも一致しない。
高速道路には9本の放射方向の道路と、それらを連絡する3本の環状道路を整備中である。これを3環状9放射という。 また、首都高速道路はそれ自体が放射線と環状線からなるネットワークを形成している。 これらの詳細については、それぞれの項目を参照のこと。
京阪神の高速道路には、4本の環状道路を整備中である。これを関西4環状ネットワークという。放射方向の道路が環状道路の一部にもなっており、それらと連絡する。関西大環状道路においては、京都都市圏からの視点では京奈和自動車道が放射方向の道路、北側を構成する新名神高速道路が南側の環状線に相当する。
また、阪神高速道路は1号環状線を中心とする放射線からなるネットワークを形成している(当該項目を参照のこと)。
大阪府は1960年より、十大放射三環状線計画をもとに、整備を進めていた。1987年策定の大阪府道路整備長期計画では主要幹線道路を「軸」ととらえ、大阪都心部を中心とする7放射3環状軸の整備を行っている(当該項目を参照のこと)。京都を中心とする環状線には京滋バイパス・京都第二外環状道路がある。
中京圏の高速道路は東海環状自動車道が整備中である。名古屋第二環状自動車道と総称して名古屋圏環状道路と呼ぶ。伊勢湾岸自動車道は新東名高速道路、新名神高速道路の一部をなすとともに環状線と接続され、合わせて中京圏における環状道路を形成している。
また、名古屋高速道路は都心環状線を中心とする放射線からなるネットワークを形成している(当該項目を参照のこと)。
パリ、ウィーンなどヨーロッパの大都市の環状道路の歴史は19世紀に遡る。当時の再開発に伴い、既に無用の長物と化していた城郭都市の市壁(ドイツ語版)、城壁を撤去し、跡地に環状道路が造られた。
ここで挙げた路線は主要なもののみである。小規模な路線や、放射線・環状線としての機能が明確でない路線は記載していない。
日本では、ターミナル間を結ぶ環状線としては山手線や大阪環状線が有名である。反面、ターミナルではない近郊を結ぶ旅客列車については、ターミナル駅へ向かう列車とターミナル駅を経由しない列車を別々に設定することは非効率であるから、このような環状線を利用する列車は「はまかいじ」、「むさしの号」やおおさか東線の直通快速などわずかである。しかし貨物列車の場合は、貨物駅が郊外に移転しつつあることもあり、このような環状線を経由する列車が多く運転される。武蔵野線や城東貨物線(おおさか東線)がその例である。また、放射線のない地域と放射線を結ぶ環状線としては、上述の貨物線を旅客化したものなどがある。
京都都市圏からの視点では、JR西日本の東海道本線(JR京都線・琵琶湖線)・山陰本線(嵯峨野線)・湖西線・奈良線・草津線や、近鉄京都線などが放射状の路線にあたる。神戸都市圏からの視点では、JR西日本の和田岬線・加古川線・播但線・赤穂線・姫新線などが放射状の路線にあたる。
台湾
幹線が台湾のほぼ海岸線に沿って一周している(環島 (台湾))。時計回りを順行、反時計回りを逆行として運行している。
香港
北京
上海
重慶
成都
鄭州
広州
ハルビン
ソウル
大田
光州
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ヤンゴン
チッタゴン
シンガポール
市境界(内側からの順)
グラスゴー
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放射線・環状線(ほうしゃせん・かんじょうせん)とは、それぞれ放射状に延びる路線、環状になっている路線である。ここでは道路・鉄道について記載する。中心都市から放射線が延び、その都市の内部又は外縁部に環状線が形成され、相互に接続する状態がよく見られる。
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|独自研究 = 2012年1月
|出典の明記 = 2012年1月}}
{{otheruses|交通用語|物理学用語|放射線}}
{{redirect3|環状道路'''」及び「'''環状線|環状になっている路線一般|環状道路及び環状線と呼ばれる路線|環状線 (曖昧さ回避)}}
'''放射線・環状線'''(ほうしゃせん・かんじょうせん)とは、それぞれ放射状に延びる路線、環状になっている路線である。ここでは[[道路]]・[[鉄道]]について記載する。[[中心都市]]から放射線が延び、その都市の内部又は外縁部に環状線が形成され、相互に接続する状態がよく見られる。
[[ファイル:Yamanote Line (April 2020).svg|thumb|right|240px|環状線(JR山手線路線図)]]
== 概要 ==
都市に放射方向以外の道路が[[存在]]しなかった場合、異なる放射方向間を移動する[[自動車]]が、全て都心を通ることになり、都心の道路が[[渋滞]]する。これを解消するため、都心を目的地としない自動車が、都心を[[迂回]]する道路が必要となる<ref group="注釈">[https://www.mlit.go.jp/road/ringroads/function/ 環状道路の機能]においても、整備目的として重視されている。</ref>。
放射方向が2本のみの場合、すなわち1本の道路が都心を貫通している場合には、この迂回路は[[バイパス道路]]となる。多数の放射方向のある都市の場合、これらを効率良く連絡する道路として環状道路が整備される。
大規模な都市には複数の環状道路が整備されることがある。これは、環状道路自体の混雑が激しくなった場合、都市の郊外に向かう自動車、他の都市を目指す自動車など、さらに細かく交通を分離するためである。
鉄道の環状線の機能はおおむね次のように分類できる。
# 都市に複数の[[ターミナル駅]]がある場合、それらを相互に結ぶもの。JRの[[山手線]]や[[大阪環状線]]がその例である。大きな都市の場合、ターミナル駅を一箇所に集約することは、用地や[[費用]]の面で難しい。そこで、複数のターミナル駅を連絡する[[路線]]が必要となる。通常、[[旅客]]はターミナル駅で放射線の[[列車]]と環状線の列車を乗り換える。ただし列車自体が複数の放射線同士を直通するものもある。なお、ターミナル駅相互の連絡には、環状線以外に都心を貫通する[[地下鉄]]が用いられることもある。
# ターミナル駅よりも郊外側で放射線と交わり、複数の放射線をターミナル駅を[[経由]]することなく結ぶもの。[[武蔵野線]]に代表される。道路の環状線と同様、ターミナル駅周辺の混雑を解消するために使用される。
# 都市の郊外で放射線の沿線にない地域を放射線と結ぶもの。[[横浜線]]や[[東武野田線]]などが該当する。通常このような路線は放射線の[[支線]]であるとみなされることが多い。しかし、路線が長距離にわたり多数の放射線と交わる、放射線と運営する[[鉄道事業者]]が異なる等の理由で特定の放射線の支線とはみなし難い場合、「環状線」と呼ばれることがある。横浜線のように放射線と環状線を兼ねている路線も少なくない。
なお、完全な環状になっていなくても、複数の放射線を相互連絡する路線であれば環状線と呼ばれることがある。また、[[環状運転]]を行っている路線(系統)、または複数の路線を経由して周回することが出来る路線(区間)のことを指して「環状線」と呼ぶこともあるが、本記事でいう「環状線」とは必ずしも一致しない。
== 道路 ==
=== 日本 ===
{| class="sortable wikitable" style="float:right; font-size:85%;"
|+[[都心]]を中心とする環状高速道<!--都心を中心としない一筆書きルートを除く-->(全線供用済みのみ)
!rowspan="2"|路線名称
!rowspan="2"|全線<br />供用
!rowspan="2"|[[道路構造令#規定事項|道路<br />規格]]
!colspan="2"|1周
!rowspan="2"|最高速度
|-
!方向
!距離
|-
|[[仙台都市圏環状自動車専用道路]]||style="text-align:center"|[[2010年]]||style="text-align:center"|第1種||両回り||58.9 [[キロメートル|km]]||70 - 100 [[キロメートル毎時|km/h]]
|-
|[[首都高速道路|首都高速]][[首都高速都心環状線|都心環状線]]||style="text-align:center"|1967年<!--7月4日-->||rowspan="3" style="text-align:center"|第2種||両回り||14.8 km||40 - 50 km/h
|-
|首都高速[[首都高速中央環状線|中央環状線]]+[[首都高速湾岸線|湾岸線]]||style="text-align:center"|[[2015年]]||両回り||56.7 km||60 - 80 km/h
|-
|[[名古屋高速道路|名古屋高速]][[名古屋高速都心環状線|都心環状線]]||style="text-align:center"|[[1995年]]||[[時計回り・反時計回り|時計回り]]||10.3 km||50 - 60 km/h
|-
|[[名古屋第二環状自動車道]]+[[伊勢湾岸自動車道]]||style="text-align:center"|[[2021年]]||style="text-align:center"|第1種、第2種||両回り||66.2 km||60 - 100 km/h
|-
|[[阪神高速道路|阪神高速]][[阪神高速1号環状線|1号環状線]]||style="text-align:center"|[[1967年]]<!--3月10日-->||rowspan="2" style="text-align:center"|第2種||時計回り||10.3 km||50 - 60 km/h
|-
|[[福岡高速道路|福岡高速]][[福岡高速環状線|環状線]]||style="text-align:center"|[[2012年]]||両回り||35 km||60 - 80 km/h
|}
==== 東京圏 ====
===== 高速道路 =====
[[日本の高速道路|高速道路]]には9本の放射方向の道路と、それらを連絡する3本の環状道路を整備中である<ref>{{Cite web|和書| author = [[国土交通省]]関東地方整備局 | url = https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000744050.pdf | title = 3環状マップ(2020年3月現在) | format = PDF | accessdate = 2020-06-09}}</ref>。これを[[3環状9放射]]という。
また、[[首都高速道路]]はそれ自体が放射線と環状線からなるネットワークを形成している。
これらの詳細については、それぞれの項目を参照のこと。
* 環状線
** [[首都高速都心環状線]]
** [[首都高速中央環状線]]☆
** [[東京外環自動車道]]☆
** [[核都市広域幹線道路]]
** [[首都圏中央連絡自動車道]]☆([[新湘南バイパス]]・[[横浜環状南線]]を含む)
** [[関東環状道路]]([[中部横断自動車道]]・[[上信越自動車道]]・[[北関東自動車道]])
** [[東京湾環状道路]]([[東京湾岸道路]]、[[第二東京湾岸道路]]、[[東京湾アクアライン|東京湾横断道路]]、[[東京湾口道路]])
* 放射線
** [[首都高速湾岸線]]東京以西・[[横浜横須賀道路]]☆
** [[首都高速1号羽田線]]・[[首都高速神奈川1号横羽線]]
** [[首都高速2号目黒線]]
** [[第三京浜道路]]・[[横浜新道]]☆<!-- 2号目黒線と第三京浜を結ぶ計画は具体的なものとしては存在しない -->
** [[首都高速3号渋谷線]]・[[東名高速道路]]☆
** [[首都高速4号新宿線]]・[[中央自動車道]]☆
** [[高速練馬線]](構想)・[[関越自動車道]]☆
** [[首都高速5号池袋線]]・[[首都高速埼玉大宮線]]・[[上尾道路|上尾道路(専用部)]](構想)
** [[首都高速1号上野線]](延伸の構想)・[[首都高速川口線]]・[[東北自動車道]]☆
** [[首都高速6号三郷線]]・[[常磐自動車道]]☆
** [[首都高速7号小松川線]]・[[京葉道路]]・[[館山自動車道]]☆
** [[首都高速湾岸線]]東京以東・[[東関東自動車道]]☆
:☆:3環状9放射
===== 一般道路 =====
* [[一般国道]]の環状線
** [[国道16号]](東京環状)
** [[国道298号]]([[東京外かく環状道路]])
** [[国道357号]]([[東京湾岸道路]])
** [[国道468号]]([[首都圏中央連絡自動車道]])
* 東京[[都市計画道路]]の放射線
** 放射第1号線([[東京都道412号霞ヶ関渋谷線|六本木通り]]、[[東京都道415号高輪麻布線]]、[[桜田通り]]、[[第二京浜国道|第二京浜]])
** 放射第2号線([[東京都道418号北品川四谷線]]、[[中原街道]])
** 放射第3号線([[東京都道312号白金台町等々力線|目黒通り]])
** 放射第4号線([[国道246号|青山通り]]、[[国道246号|玉川通り]])
** 放射第5号線([[新宿通り]]、[[甲州街道]]、[[東八道路]])
** [[東京都市計画道路幹線街路放射第6号線|放射第6号線]]([[東京都道302号新宿両国線|靖国通り]]、[[青梅街道]]ほか)
** 放射第7号線([[東京都道8号千代田練馬田無線|新目白通り]]、[[目白通り]])
** 放射第8号線([[春日通り]]、[[川越街道]])
** 放射第9号線([[白山通り]]、[[中山道]])
** [[東京都市計画道路幹線街路放射第10号線|放射第10号線]]([[本郷通り (東京都)|本郷通り]]、[[国道122号|北本通り]])
** 放射第11号線([[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]])
** 放射第12号線([[昭和通り (東京都)|昭和通り]]、[[日光街道]])
** 放射第13号線([[水戸街道]])
** 放射第14号線([[蔵前橋通り]])
** 放射第15号線(靖国通り、[[京葉道路]])
** [[東京都市計画道路幹線街路放射第16号線|放射第16号線]]([[永代通り]])
** 放射第16号線 (永代通り)
** 放射第17号線 (産業道路)
** 放射第18号線 (海岸通り)
** 放射第19号線 (第一京浜)
** 放射第20号線 (日比谷通り)
** 放射第21号線 (桜田通り)
** 放射第22号線 (六本木通り)
** 放射第23号線 (井の頭通り)
** 放射第24号線(青梅街道)
** 放射第34号線([[晴海通り]])
** [[東京都市計画道路幹線街路放射第35号線|放射第35号線]]([[新大宮バイパス]]ほか)
** [[東京都市計画道路幹線街路放射第36号線|放射第36号線]]([[東京都道441号池袋谷原線|要町通り]])
* 東京都市計画道路の環状線
**[[東京都市計画道路幹線街路環状第1号線|環状第1号線]]([[内堀通り]]・[[永代通り]]・[[日比谷通り]]・晴海通り)
** [[東京都市計画道路幹線街路環状第2号線|環状第2号線]]([[東京都道405号外濠環状線|外堀通り]]・[[東京都道・千葉県道50号東京市川線|新大橋通り]]・[[東京都道484号豊洲有明線|環二通り]])
** [[東京都道319号環状三号線|環状第3号線]]([[清澄通り]]・[[東京都市計画道路幹線街路環状第3号線|環三通り]]・[[外苑東通り]]・[[東京都道8号千代田練馬田無線|新目白通り]]・[[目白通り]]・[[東京都市計画道路幹線街路環状第3号線|播磨坂桜並木]](環三通り)・[[言問通り]]・水戸街道・[[三ツ目通り]])
** [[東京都市計画道路幹線街路環状第4号線|環状第4号線]]([[東京都道418号北品川四谷線|外苑西通り]]・[[東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線|不忍通り]]・[[東京都道457号駒込宮地線|道灌山通り]]・[[明治通り (東京都)|明治通り]]・[[東京都道476号南砂町吾嬬町線|丸八通り]])<!-- 東側は元々[[東京都道465号深川吾嬬線|四ツ目通り]]が環四だったらしい-->
** [[東京都市計画道路幹線街路環状第5号線|環状第5の1号線]](明治通り)・[[東京都市計画道路幹線街路環状第5号線|環状第5の2号線]](明治通り)
** [[東京都道317号環状六号線|環状第6号線]](山手通り)
** [[東京都道318号環状七号線|環状第7号線]](環七通り)
** [[東京都道311号環状八号線|環状第8号線]](環八通り)
** [[国道357号|東京湾環状線]]
** [[東京都市計画道路幹線街路外郭環状線の2|外郭環状線の2]]
** [[国道298号|外郭環状葛飾線]]
* 横浜国際港都建設計画道路(都市計画道路)の環状線
** [[環状1号線 (横浜市)|3・3・10号環状1号線]]([[横浜市主要地方道83号青木浅間線]]・横浜市道保土ヶ谷駅浅間線・[[神奈川県道201号保土ヶ谷停車場線]]・[[横浜市主要地方道84号保土ヶ谷宮元線]])
** [[環状2号線 (横浜市)|3・1・1号環状2号線]]
** [[環状3号線 (横浜市)|3・3・11号環状3号線]]
** [[環状4号線 (横浜市)|3・4・3号環状4号線]]([[神奈川県道23号原宿六ツ浦線]]・[[環状4号線 (横浜市)|環状4号線]])
==== 京阪神 ====
===== 高速道路 =====
[[File:Expressway map around Kyoto City 2021.png|thumb|京都市付近の主要道路図。点線は整備・調査中の道路。]]
[[京阪神]]の高速道路には、4本の環状道路を整備中である。これを'''関西4環状ネットワーク'''という。放射方向の道路が環状道路の一部にもなっており、それらと連絡する<ref>{{Cite web|和書| author = [[国土交通省]] | url = https://www.kkr.mlit.go.jp/road/kinki_road/koukikakukansen.html | title = 近畿地方整備局 高規格幹線道路網図 | accessdate = 2020-06-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書| author = [[国土交通省]] | url = http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/kbutsuryu/pdf/honbukaigou15/04.pdf | title = 高速道路ネットワークの整備状況について | accessdate = 2020-06-07}}</ref>。関西大環状道路においては、[[京都都市圏]]からの視点では京奈和自動車道が放射方向の道路、北側を構成する新名神高速道路が南側の環状線に相当する<ref>{{Cite web|和書| author = 国土交通省近畿整備局京都国道事務所 | url = http://www.kkr.mlit.go.jp/kyoto/make/katsuryoku/kouiki_net.html | title = 広域道路ネットワークの形成 | accessdate = 2018-03-24 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20181224113135/http://www.kkr.mlit.go.jp/kyoto/make/katsuryoku/kouiki_net.html | archivedate = 2018-12-24}}</ref>。
また、[[阪神高速道路]]は[[阪神高速1号環状線|1号環状線]]を中心とする放射線からなるネットワークを形成している(当該項目を参照のこと)。
* 環状線
** [[阪神高速1号環状線]]
** [[大阪都市再生環状道路]]([[阪神高速6号大和川線]]、[[阪神高速2号淀川左岸線]]、[[阪神高速4号湾岸線]]、[[近畿自動車道]])☆
** 大阪湾環状道路([[大阪湾岸道路]]、[[神戸淡路鳴門自動車道]]、[[紀淡連絡道路]])☆
** 関西中央環状道路(近畿自動車道、[[中国自動車道]]、[[山陽自動車道]]、神戸淡路鳴門自動車道、紀淡連絡道路)☆
** 関西大環状道路([[京奈和自動車道]]・[[新名神高速道路]]・神戸淡路鳴門自動車道・紀淡連絡道路)☆
:☆:関西4環状ネットワーク
* 放射線
** [[阪和自動車道]]
** [[西名阪自動車道]]・[[名阪国道]]
** [[第二京阪道路]]
** [[名神高速道路]]
** [[舞鶴若狭自動車道]]
** [[中国自動車道]]
** [[山陽自動車道]]
** [[第二神明道路]]
** [[神戸淡路鳴門自動車道]]
** [[京都縦貫自動車道]]
===== 一般道路 =====
[[大阪府]]は1960年より、十大放射三環状線計画をもとに、整備を進めていた。1987年策定の大阪府道路整備長期計画では主要幹線道路を「軸」ととらえ、大阪都心部を中心とする[[7放射3環状軸]]の整備を行っている(当該項目を参照のこと)。京都を中心とする環状線には[[京滋バイパス]]・[[京都第二外環状道路]]がある。
==== 中京圏 ====
===== 高速道路 =====
[[中京圏]]の高速道路は[[東海環状自動車道]]が整備中である。[[名古屋第二環状自動車道]]と総称して'''名古屋圏環状道路'''<ref>[http://www.cbr.mlit.go.jp/road/nagoyakenkanjyou/index.htm 国土交通省中部地方整備局道路部]</ref>と呼ぶ。[[伊勢湾岸自動車道]]は[[新東名高速道路]]、[[新名神高速道路]]の一部をなすとともに環状線と接続され、合わせて中京圏における環状道路を形成している。
また、[[名古屋高速道路]]は[[名古屋高速都心環状線|都心環状線]]を中心とする放射線からなるネットワークを形成している(当該項目を参照のこと)。
* 環状線
** [[名古屋高速都心環状線]]
** [[名古屋第二環状自動車道]]☆、[[伊勢湾岸自動車道]]
** [[東海環状自動車道]]☆、伊勢湾岸自動車道
:☆:名古屋圏環状道路
* 放射線
** [[東名高速道路]]
** [[名神高速道路]]
** [[新名神高速道路]]
** [[東名阪自動車道]]
** [[東海北陸自動車道]]
** [[知多半島道路]]
** [[名古屋瀬戸道路]]
===== 一般道路 =====
* 環状線
** [[名古屋市道名古屋環状線]]
** [[国道302号]]([[名古屋環状2号線]])
** [[国道155号]]([[名古屋環状3号線]])
** [[愛知県道59号名古屋中環状線]]
** [[愛知県道451号名古屋外環状線]]
** [[愛知県道57号瀬戸大府東海線]]
* 放射線
** [[国道1号]]([[東海道]])
** [[国道19号]]([[春日井バイパス]])
** [[国道41号]]([[名濃バイパス]])
** [[国道22号]]([[名岐バイパス]])
** [[国道23号]]([[名四国道]])
** [[国道153号]]([[豊田西バイパス]])
** [[国道247号]]([[西知多産業道路]])
** [[愛知県道50号名古屋碧南線]]、[[国道366号]]([[師崎街道]])
**[[愛知県道60号名古屋長久手線]]、[[愛知県道6号力石名古屋線]]([[猿投グリーンロード|グリーンロード]])
** [[愛知県道15号名古屋多治見線]]([[竜泉寺街道]]、[[愛岐道路]])
**[[愛知県道29号弥富名古屋線]]
**[[愛知県道55号名古屋半田線]]([[半田街道]])
**[[愛知県道56号名古屋岡崎線]]([[岡崎街道]])
**[[愛知県道58号名古屋豊田線]]([[飯田街道]])
**[[愛知県道61号名古屋瀬戸線]]([[瀬戸街道]])
**[[愛知県道63号名古屋江南線]]([[名草線 (愛知県)|名草線]])
**[[愛知県道68号名古屋津島線]]([[名古屋津島バイパス]])
**[[愛知県道70号名古屋十四山線]]
**[[愛知県道200号名古屋甚目寺線]]、[[愛知県道79号甚目寺佐織線]]
==== 北九州・福岡圏 ====
===== 高速道路 =====
* 環状線
** [[福岡高速道路]]([[福岡高速環状線|環状線]]:高速道路)
**[[北九州高速道路]]([[北九州高速1号線|1号線]]・[[北九州高速2号線|2号線]]・[[北九州高速3号線|3号線]]・[[北九州高速4号線|4号線]]・[[北九州高速5号線|5号線]]:高速道路)・[[都市計画道路戸畑枝光線]](自動車専用道路)
* 放射線
** 福岡高速道路([[福岡高速1号香椎線|1号香椎線]]・[[福岡高速2号太宰府線|2号太宰府線]]・[[福岡高速3号空港線|3号空港線]]・[[福岡高速4号粕屋線|4号粕屋線]])
** [[九州自動車道]]
** [[西九州自動車道]]
** 北九州高速道路(1号線・2号線・4号線・5号線)
===== 一般道路 =====
* 環状線
** [[国道202号]]([[福岡外環状道路]])・[[福岡県道24号福岡東環状線]]
** [[福岡県道56号福岡早良大野城線]]
* 放射線
** 福岡圏
*** [[国道3号]]([[博多バイパス]]・[[福岡南バイパス]])
*** [[国道201号]]([[八木山バイパス]])
*** [[国道202号]]([[今宿新道]])
*** [[国道263号]]
*** [[国道385号]]([[みやけ通り]])
*** [[国道495号]]([[和白通り]])
*** [[福岡県道21号福岡直方線]]
*** [[福岡県道31号福岡筑紫野線]]
*** [[福岡県道68号福岡太宰府線]]
*** [[福岡県道85号福岡志摩線]]
*** [[福岡県道・大分県道112号福岡日田線]]
*** [[福岡県道504号町川原福岡線]]
*** [[福岡県道551号別府比恵線]]
*** [[福岡県道555号桧原比恵線]]
*** [[福岡県道557号東油山唐人線]]
*** [[福岡県道602号後野福岡線]]
*** [[福岡県道607号福岡篠栗線]]
** 北九州圏
*** 国道3号([[戸畑バイパス]]・[[黒崎バイパス]])
*** [[国道10号]]([[北大道路]])
*** [[国道199号]]
*** [[国道200号]]([[直方バイパス]]・[[飯塚バイパス]])
*** [[国道211号]]
*** [[国道322号]]
==== その他の都市圏 ====
* '''[[札幌都市圏]]'''<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/release/pdf/press_h2701/16_jyuutai_taisaku.pdf|title=平成26年度北海道渋滞対策協議会の開催|accessdate=2019年2月3日|publisher=北海道渋滞対策協議会}}</ref>(2環状5放射)
** 環状線
*** [[環状通]](一般道路)
*** [[札幌新道]]([[国道5号]]・[[国道274号]])(一般道路)
** 放射線
*** [[国道12号]](一般道路)
*** [[国道36号]](一般道路)
*** [[国道230号]](一般道路)
*** [[国道231号]](一般道路)
*** [[国道275号]](一般道路)
* '''[[旭川都市圏]]'''<ref name=":0" />(2環状8放射)
** 環状線
*** [[北海道道90号旭川環状線]](環状1号線・旭川内環状道路<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.hkd.mlit.go.jp/ky/ki/chousei/ud49g7000000cl9b-att/050201_1_2.pdf|title=一般国道12号旭川新道再評価原案準備書説明資料|accessdate=2019年2月3日|publisher=北海道開発局|page=8}}</ref>)(一般道路)
*** [[北海道道37号鷹栖東神楽線]](旭川外環状道路<ref name=":1" />、[[旭川十勝道路]]として整備中)(一般道路)
** 放射線
*** [[国道12号]](一般道路)
*** [[国道39号]](一般道路)
*** [[国道40号]](一般道路)
*** [[国道237号]](一般道路)
*** [[北海道道72号旭川幌加内線]](一般道路)
*** [[北海道道140号愛別当麻旭川線]](旭山動物園通り)(一般道路)
*** [[北海道道294号東川東神楽旭川線]](一般道路)
*** [[北海道道1160号旭川旭岳温泉線]](一般道路)
* '''[[函館都市圏]]'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/crd/tosiko/result/pdf/02_hakodate.pdf|title=国土交通省 函館圏将来像の見直し|accessdate=2019年2月3日|publisher=国土交通省}}</ref>(4環状6放射)
** 環状線
*** [[函館江差自動車道]]・[[函館新外環状道路]](一般国道自動車専用道路)
*** [[北海道道100号函館上磯線]](外環状線)(一般道路)
*** [[北海道道83号函館南茅部線]]・[[北海道道571号五稜郭公園線]](一般道路)
** 放射線
*** [[国道5号]](一般道路)
*** [[国道227号]](一般道路)
*** [[国道228号]](一般道路)
*** [[国道278号]](一般道路)
*** [[北海道道347号赤川函館線]](一般道路)
*** [[北海道道1132号函館臨空工業団地線]](一般道路)
* '''[[釧路都市圏]]'''
** 環状線
*** [[釧路新道]](国道38号バイパス)(一般道路)
*** [[釧路外環状道路]]([[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|一般国道自動車専用道路]])
* '''[[八戸都市圏]]'''
** 環状線(三環状線)
*** [[八戸市道白銀沼館環状線]](市道環状線)(一般道路)
*** [[青森県道29号八戸環状線]](県道環状線)(一般道路)
*** [[八戸久慈自動車道]]および[[八戸自動車道]](国道環状線)([[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道自動車専用道路)|一般国道自動車専用道路]]および[[高速自動車国道]])
* '''[[仙台都市圏]]'''
** 一般道路:[[3環状12放射状線]]
** 高速道路:[[仙台都市圏環状自動車専用道路]]([[東北自動車道]]・[[仙台東部道路]]・[[三陸沿岸道路|三陸自動車道]]・[[仙台南部道路]]・[[仙台北部道路]])
* '''[[郡山都市圏]]'''
** 環状線
*** [[内環状線 (郡山市)|内環状線]] (一般道路)
*** [[東部幹線 (郡山市)|東部幹線]] (一般道路)
* '''[[宇都宮都市圏]]'''
** 環状線
*** [[宇都宮環状道路]] (一般道路)
* '''[[高崎都市圏]]'''
** 環状線
*** [[高崎市道高崎環状線]] (一般道路)
* '''[[甲府都市圏]]'''
** 環状線
*** [[新山梨環状道路]] (一般道路・高速自動車国道)
* '''[[新潟都市圏]]'''
** 環状線
*** [[新潟県道46号新潟中央環状線|新潟中央環状線]](一般道路)
* '''[[金沢都市圏]]'''
** 環状線
*** [[金沢外環状道路]](一般道路)
* '''[[北信地方|長野都市圏]]'''
** 環状線
*** [[長野環状道路]](一般道路)
* '''[[岐阜都市圏]]'''
** 環状線
*** [[岐阜県道77号岐阜環状線]](一般道路)
* '''[[大垣都市圏]]'''
** 環状線
*** [[岐阜県道50号大垣環状線]](一般道路)
* '''[[静岡都市圏]]'''
** 環状線
*** [[静岡県道354号静岡環状線]](一般道路)
* '''[[浜松都市圏]]'''
** 環状線
*** [[静岡県道65号浜松環状線]](一般道路)
* [[松山圏|'''松山都市圏''']]
** 環状線
*** [[松山環状線]](一般道路)
*** [[松山外環状道路]](一般道路)
* '''[[徳島都市圏]]'''
** 環状線
*** [[徳島環状道路]](一般道路)
* '''[[佐賀都市圏]]'''
** 環状線
*** [[佐賀県道333号佐賀環状東線]](環状東通り)・[[国道208号線]](環状西通り・環状南通り)・[[国道34号線]](北部バイパス) (一般道路)
* '''[[熊本都市圏]]'''
** 環状線
*** [[熊本環状道路]](一般道路)
* '''[[宮崎都市圏]]'''
** 環状線
*** [[宮崎内環状線|宮崎内環状道路]]([[宮崎県道11号宮崎島之内線]]・[[宮崎県道17号南俣宮崎線]]・[[宮崎県道333号下北方古墳線]]・[[宮崎県道341号宮崎港宮崎停車場線]]・市道)(一般道路)
*** [[宮崎環状道路]]([[住吉道路]]・[[宮崎県道9号宮崎西環状線|宮崎西環状線]]・[[宮崎南バイパス]])(一般道路)
*** [[宮崎東環状道路]]([[一ツ葉道路]]・[[広瀬バイパス]]・[[春田バイパス]])(一般道路)
**放射線
***[[国道10号]]
***[[国道220号]]
***[[国道269号]]
=== 日本国外 ===
{{see also|en:Ring road}}
パリ、ウィーンなどヨーロッパの大都市の環状道路の歴史は19世紀に遡る。当時の再開発に伴い、既に無用の長物と化していた[[城郭都市]]の{{仮リンク|市壁|de|Stadtmauer}}、[[城壁]]を撤去し、跡地に環状道路が造られた<ref>{{Cite web |url=http://www2.open.ac.uk/openlearn/cellcity/pages/city_wall/city_wall.htm |title=city_wall |access-date=2023-09-07 |website=www2.open.ac.uk |publisher=[[オープン大学]]}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.habsburger.net/en/chapter/fortification-promenade |title=From fortification to promenade |access-date=2023-09-07 |website=Die Welt der Habsburger |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.vienna.at/geschichte-der-wiener-ringstrasse-von-der-stadtmauer-zur-mehrspurstrasse/4181022 |title=Geschichte der Wiener Ringstraße: Von der Stadtmauer zur Mehrspurstraße |access-date=2023-09-07 |last=ntatschl |date=2014-12-26 |website=vienna.at}}</ref>。
====アジアの環状道路====
* [[北京二環路]]、[[北京三環路]]、[[北京四環路]]、[[北京五環路]]、[[北京六環路]]({{CHN}} [[北京]])
* [[ソウル外郭循環高速道路]]({{KOR}} [[京畿道]]、[[ソウル特別市]]、[[仁川広域市]])
====ヨーロッパの環状道路====
* [[リングシュトラーセ]]({{AUT}}・[[ウィーン]])
* [[ブルヴァール・デ・マレショー]]({{FRA}}・[[パリ]])、[[ペリフェリック]]も参照
* [[ロカード]]({{FRA}}・[[ボルドー]])
* [[グランデ・ラッコルド・アヌラーレ]]({{ITA}}・[[ローマ]])
* [[アウトバーン 10]]({{GER}}・[[ベルリン]])
* [[環状道路A10]]({{NED}}・[[アムステルダム]])
* [[M25モーターウェイ|モーターウェイ25号線]]、{{仮リンク|ロンドン内環状道路|en|London Inner Ring Road}}({{GBR}}・[[ロンドン]])
* [[モスクワ環状道路]]、 [[モスクワ大環状道路]]、 [[サンクトペテルブルク環状道路]]({{RUS}}・[[モスクワ]] & [[サンクトペテルブルク]])
====アメリカの環状道路====
* [[州間高速道路495号線]]({{USA}}・[[ワシントンD.C.]])
== 鉄道 ==
ここで挙げた路線は主要なもののみである。小規模な路線や、放射線・環状線としての機能が明確でない路線は記載していない。
=== 日本 ===
{{seealso|環状運転}}
[[日本]]では、ターミナル間を結ぶ環状線としては[[山手線]]や[[大阪環状線]]が有名である。反面、ターミナルではない近郊を結ぶ[[旅客列車]]については、ターミナル駅へ向かう列車とターミナル駅を経由しない列車を別々に設定することは非効率であるから、このような環状線を利用する列車は「[[かいじ (列車)|はまかいじ]]」、「[[むさしの号]]」や[[おおさか東線]]の直通快速などわずかである。しかし[[貨物列車]]の場合は、[[貨物駅]]が郊外に移転しつつあることもあり、このような環状線を経由する列車が多く運転される。[[武蔵野線]]や[[おおさか東線|城東貨物線]]([[おおさか東線]])がその例である。また、放射線のない地域と放射線を結ぶ環状線としては、上述の貨物線を旅客化したものなどがある。
==== 首都圏 ====
===== 放射線 =====
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
** [[東海道本線]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[京浜東北線]]・[[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]])・[[横須賀線]]
** [[中央本線]]([[中央線快速]]・[[中央・総武緩行線]])
** [[東北本線]]([[宇都宮線]]・[[高崎線]]・京浜東北線・上野東京ライン・湘南新宿ライン)・[[埼京線]]
** [[総武本線]]([[総武快速線]]・中央・総武緩行線)・[[京葉線]]
** [[常磐線]]([[常磐快速線]]・[[常磐緩行線]]・上野東京ライン)
* [[京成電鉄]]
** [[京成本線|本線]]・[[京成押上線|押上線]]・[[京成成田空港線|成田空港線]]
* [[京浜急行電鉄]]
** [[京急本線|本線]]・[[京急空港線|空港線]]
* [[京王電鉄]]
** [[京王線]]・[[京王井の頭線|井の頭線]]
* [[小田急電鉄]]
** [[小田急小田原線|小田原線]]
* [[東急電鉄]]
** [[東急東横線|東横線]]・[[東急田園都市線|田園都市線]]・[[東急目黒線|目黒線]]
* [[東武鉄道]]
** [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)・[[東武東上本線|東上線]]
* [[西武鉄道]]
** [[西武池袋線|池袋線]]・[[西武新宿線|新宿線]]
* [[東京モノレール]]
** [[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]]
* [[首都圏新都市鉄道]]
** [[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス線]]
* [[北総鉄道]]
** [[北総鉄道北総線|北総線]]
* [[東葉高速鉄道]]
** [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]
* [[埼玉高速鉄道]]
** [[埼玉高速鉄道線|埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)]]
===== 環状線 =====
* 東日本旅客鉄道(JR東日本)
** [[山手線]]・[[東京メガループ]]<!--([[東京外環状線]])=※計画・建設段階の名称。-->([[武蔵野線]]・[[京葉線]]・[[南武線]]・[[横浜線]]<!--JR東日本の資料では「東京圏環状線群」と記述。-->)
* [[都営地下鉄]]
** [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]<!-- 環状運転はしていない -->
* 東武鉄道
** [[東武野田線|野田線]](東武アーバンパークライン)
* [[新京成電鉄]]
** [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]
==== 京阪神圏 ====
===== 放射線 =====
[[File:Railway map around Kyoto Station 2022.png|thumb|[[京都駅]]からの路線図]]
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** [[東海道本線]]・[[山陽本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])
**[[福知山線|福知山線(JR宝塚線)]]
**[[片町線|片町線(学研都市線)]]
**[[JR東西線]]
**[[桜島線]]
**[[関西本線]]([[大和路線]])
**[[阪和線]]
**[[関西空港線]]
* [[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]
* [[阪急電鉄]]
** [[阪急京都本線|京都本線]]・[[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[阪急千里線|千里線]]
* [[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]・[[阪神なんば線]]
* [[南海電気鉄道]]
** [[南海本線]]・[[南海高野線|高野線]]
* [[近畿日本鉄道]]
** [[近鉄奈良線|奈良線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]・[[近鉄南大阪線|南大阪線]]
* [[北大阪急行電鉄]][[北大阪急行電鉄南北線|南北線]]
京都都市圏からの視点では、JR西日本の東海道本線(JR京都線・[[琵琶湖線]])・[[山陰本線]]([[嵯峨野線]])・[[湖西線]]・[[奈良線]]・[[草津線]]や、[[近鉄京都線]]などが放射状の路線にあたる<ref>{{Cite web|和書|title=令和2年度国の施策・予算に関する緊急提案・要望|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/cmsfiles/contents/0000259/259861/youbousyo2019aki2.pdf#page=33|publisher=京都市|accessdate=2021-08-13}}</ref>。[[神戸都市圏]]からの視点では、JR西日本の[[和田岬線]]・[[加古川線]]・[[播但線]]・[[赤穂線]]・[[姫新線]]などが放射状の路線にあたる。
===== 環状線 =====
* 西日本旅客鉄道(JR西日本)
** [[大阪環状線]]<ref group="注釈">近畿圏で単に「環状線」と言った場合、大阪環状線のことを指すことがある。[[JR西日本323系電車|323系電車]]の車内自動放送でも「環状線」と呼ばれている。</ref>・[[おおさか東線]]
* 大阪高速鉄道([[大阪モノレール]])
** [[大阪モノレール本線|大阪モノレール線]](本線)
==== 中京圏 ====
===== 放射線 =====
* 東海旅客鉄道(JR東海)
** [[東海道本線]]・[[関西本線]]・[[中央本線]](中央西線)・[[武豊線]]
* [[名古屋鉄道]]
** [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]・[[名鉄犬山線|犬山線]]・[[名鉄常滑線|常滑線]]・[[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]・[[名鉄三河線|三河線]]・[[名鉄小牧線|小牧線]]・[[名鉄津島線|津島線]]・[[名鉄尾西線|尾西線]]
* [[近畿日本鉄道]]
** [[近鉄名古屋線|名古屋線]]
* [[名古屋臨海高速鉄道]]
** [[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|あおなみ線]]
* [[名古屋ガイドウェイバス]]
** [[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])
===== 環状線 =====
* [[名古屋市営地下鉄]]
** [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]
* [[愛知環状鉄道]]
** [[愛知環状鉄道線]]
=== 日本国外 ===
==== アジア ====
[[台湾]]
* [[台湾鉄路管理局]]
幹線が台湾のほぼ海岸線に沿って一周している([[環島 (台湾)]])。時計回りを順行、反時計回りを逆行として運行している。
* [[台北捷運]]
**[[台北捷運環状線|環状線]](一部建設中)
* [[高雄捷運]]
**[[高雄捷運環状軽軌|環状軽軌]](2017年現在は部分開業であり、環状線は完成していない)
[[香港]]
*[[軽鉄 (香港)|軽鉄(香港)]]705線、706線
[[北京市|北京]]
* [[北京地下鉄2号線]]([[通称]] 環線)
* [[北京地下鉄10号線]]
[[上海市|上海]]
* [[上海地下鉄4号線]]
[[重慶市|重慶]]
* [[重慶軌道交通環状線]]
[[成都市|成都]]
* [[成都地下鉄7号線]]
[[鄭州市|鄭州]]
* [[鄭州地下鉄5号線]]
[[広州市|広州]]
* [[広州地下鉄11号線]](建設中)
[[ハルビン市|ハルビン]]
* [[ハルビン地下鉄3号線]](全線開業後に環状線化)
[[ソウル特別市|ソウル]]
* [[ソウル交通公社2号線]]
[[大田広域市|大田]]
* [[大田都市鉄道2号線]](計画中)
[[光州広域市|光州]]
* [[光州都市鉄道2号線]](計画中)
[[バンコク]]
* [[バンコク・メトロ#ブルーライン(チャルーム・ラチャモンコン線)|バンコクMRTブルーライン]]
[[ヤンゴン]]
* [[ヤンゴン環状線]]
[[チッタゴン]]
* [[チッタゴン・サーキュラー鉄道|チッタゴン環状線]]
[[シンガポール]]
* [[MRT環状線]](一部開業)
==== ヨーロッパの環状線 ====
===== パリ =====
市境界(内側からの順)
; [[プティト・サンチュール]]
: パリ市を取り囲む環状鉄道の[[廃線]]。現在も多くの部分が[[線路 (鉄道)|線路]]のまま放置されている。
; [[グランド・サンチュール]]
: パリ郊外の街を環状で結んだ鉄道。旅客用としては一部が既存路線の延長として営業を続け、その他の路線も貨物用としては機能している。
; [[LGV東連絡線]]
: パリの中心部を経由しないで、[[LGV南東線]]と[[LGV北線]]を連絡する。
===== ロンドン =====
* [[サークル線]]
* [[ウエスト・ロンドン線]]
* [[ノース・ロンドン線]]
'''グラスゴー'''
* [[グラスゴー地下鉄]]
===== ベルリン =====
* [[ベルリンSバーン|Sバーン]][[ベルリン環状線|環状線]](リングバーン)
* [[ベルリン外環状線|外環状線]](アウセンリング)
===== モスクワ =====
* [[環状線 (モスクワ地下鉄)|環状線]]([[モスクワ地下鉄]]5号線)
* [[モスクワ中央環状線|中央環状線]](モスクワ地下鉄14号線)
===== ナポリ =====
; [[ナポリ地下鉄1号線]]
: 完成後は環状となる予定。8の字状なのは高低差があるための[[ループ線]]があるため。
; [[ナポリ地下鉄7号線]]
: 完成後は環状となる予定。
==== アメリカ ====
===== シカゴ =====
* [[シカゴ・L]]の[[ループ (シカゴ交通局)|ループ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の道路]] - [[日本の道路一覧]]
* [[日本の鉄道]] - [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[内回り・外回り]](環状線上の行き先案内の方法)
*[[環状運転]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mlit.go.jp/road/ringroads/ 国土交通省道路局 環状道路サイト]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほうしやせんかんしようせん}}
[[Category:道路]]
[[Category:環状道路|*]]
[[Category:鉄道路線]]
[[Category:都市計画]]
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14,901 |
強相関電子系
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強相関電子系(きょうそうかんでんしけい、英: strongly correlated electron system)とは固体物理学の用語で、物質の中でも電子どうしの間に働く有効なクーロン相互作用が強いものをこのように呼び表す。
単純な金属(銅、アルミニウム等)では電子の電荷は原子核の持つ電荷によってよく遮蔽されており、電子は金属中であたかも孤立した自由な粒子として振る舞う(一体近似が有効である)ことが知られている。このような状態を「電子相関が無視できる」状態と呼ぶ(直感的には、一つの電子の周りから他の電子が逃げることで、残った原子核の正電荷により遮蔽が起こると理解すればよく、結局電子の密度と動きやすさが遮蔽の有効性をきめる重要な要因となる)。それに対し、遷移金属や希土類を含む系では、電子の運動が特定の軌道に制限される等により局在性が強まり、遮蔽が不完全になることで電子どうしのクーロン相互作用が無視できなくなっている。また、電子ガスモデルでよく記述されるような系においても、電子密度が低く遮蔽が不完全な領域(電子密度を担うパラメータrsの値が大きい領域)では同様の状況になる。このような系では、いわゆるバンド理論(一体近似を前提とするバンド計算により電子状態を予測する理論)などは正しい結果を与えなくなる。
ウィグナー結晶が出来るような低密度系(rsは100程度以上)や、2次元電子系(→量子ホール効果)。また、遷移金属酸化物は電子相関の強いものが多い。遷移金属酸化物で価電子数が奇数となる場合、バンド理論からは金属になることが予想され、バンド計算の結果も金属を示唆する。しかし実際は絶縁体となる系(モット絶縁体)が存在する。その他にも、4f、5f電子を価電子に持つランタノイド、アクチノイドの化合物の中に見られる重い電子系や、銅酸化物を中心とした高温超伝導物質も強相関電子系である。
2018年、マサチューセッツ工科大学のPablo Jarillo-Herreroらは、約1.1oねじれて重なった二層グラフェン(twisted bilayer graphene)が強い電子相関を示し、モット絶縁体になることや超伝導性を示すことを報告した。
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強相関電子系とは固体物理学の用語で、物質の中でも電子どうしの間に働く有効なクーロン相互作用が強いものをこのように呼び表す。
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{{出典の明記|date=2017年5月}}
'''強相関電子系'''(きょうそうかんでんしけい、{{lang-en-short|strongly correlated electron system}})とは[[固体物理学]]の用語で、物質の中でも電子どうしの間に働く有効な[[クーロン相互作用]]が強いものをこのように呼び表す。
== 概説 ==
単純な金属(銅、アルミニウム等)では電子の電荷は原子核の持つ電荷によってよく遮蔽されており、電子は金属中であたかも孤立した自由な粒子として振る舞う([[一電子近似|一体近似]]が有効である)ことが知られている。このような状態を「電子相関が無視できる」状態と呼ぶ(直感的には、一つの電子の周りから他の電子が逃げることで、残った原子核の正電荷により遮蔽が起こると理解すればよく、結局電子の密度と動きやすさが遮蔽の有効性をきめる重要な要因となる)。それに対し、[[遷移元素|遷移金属]]や[[希土類元素|希土類]]を含む系では、電子の運動が特定の軌道に制限される等により局在性が強まり、遮蔽が不完全になることで電子どうしのクーロン相互作用が無視できなくなっている。また、[[電子ガス]][[モデル (自然科学)|モデル]]でよく記述されるような系においても、[[電子密度]]が低く遮蔽が不完全な領域(電子密度を担うパラメータ''r''<SUB>s</SUB>の値が大きい領域)では同様の状況になる。このような系では、いわゆる[[バンド理論]](一体近似を前提とする[[バンド計算]]により電子状態を予測する理論)などは正しい結果を与えなくなる。
===強相関電子系の例===
[[ウィグナー結晶]]が出来るような低密度系(''r''<SUB>s</SUB>は100程度以上)や、2次元電子系(→[[量子ホール効果]])。また、[[遷移元素|遷移金属]][[酸化物]]は[[電子相関]]の強いものが多い。遷移金属酸化物で[[価電子]]数が[[奇数]]となる場合、バンド理論からは[[金属]]になることが予想され、バンド計算の結果も[[金属]]を示唆する。しかし実際は[[絶縁体]]となる系([[モット絶縁体]])が存在する。その他にも、4f、5f電子を[[価電子]]に持つ[[ランタノイド]]、[[アクチノイド]]の[[化合物]]の中に見られる[[重い電子系]]や、[[銅酸化物]]を中心とした[[高温超伝導]]物質も強相関電子系である。
2018年、[[マサチューセッツ工科大学]]のPablo Jarillo-Herreroらは、約1.1ºねじれて重なった二層グラフェン([[twisted bilayer graphene]])が強い[[電子相関]]を示し、[[モット絶縁体]]<ref>{{Cite journal|last=Cao|first=Yuan|last2=Fatemi|first2=Valla|last3=Demir|first3=Ahmet|last4=Fang|first4=Shiang|last5=Tomarken|first5=Spencer L.|last6=Luo|first6=Jason Y.|last7=Sanchez-Yamagishi|first7=Javier D.|last8=Watanabe|first8=Kenji|last9=Taniguchi|first9=Takashi|date=2018-04-05|title=Correlated insulator behaviour at half-filling in magic-angle graphene superlattices|url=http://www.nature.com/articles/nature26154|journal=Nature|volume=556|issue=7699|pages=80–84|language=en|doi=10.1038/nature26154|issn=0028-0836}}</ref>になることや[[超伝導]]性<ref>{{Cite journal|last=Cao|first=Yuan|last2=Fatemi|first2=Valla|last3=Fang|first3=Shiang|last4=Watanabe|first4=Kenji|last5=Taniguchi|first5=Takashi|last6=Kaxiras|first6=Efthimios|last7=Jarillo-Herrero|first7=Pablo|date=2018-04|title=Unconventional superconductivity in magic-angle graphene superlattices|url=http://www.nature.com/articles/nature26160|journal=Nature|volume=556|issue=7699|pages=43–50|language=en|doi=10.1038/nature26160|issn=0028-0836}}</ref>を示すことを報告した。
== 脚注 ==
<references />
==関連記事==
*[[物性物理学]]
*[[バンド理論]]
*[[モット転移]]
*[[高温超伝導体]]
*[[重い電子系]]
*[[ハバードモデル]]
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14,903 |
ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
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『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島』(ふぁみこんむかしばなし しん・おにがしま)は、任天堂が日本で発売したゲームソフト。ジャンルはアドベンチャーゲーム。開発はパックスソフトニカと任天堂が共同で行った。
後年には外伝作品『平成 新・鬼ヶ島』(1997年)や、他機種への移植作が制作・販売された。
ファミリーコンピュータ ディスクシステム用のゲームソフトとして、『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 前編』が1987年9月4日に、『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 後編』が同年9月30日に発売された。監修は宮本茂。脚本・演出は菱田達也。プログラムは橋下友茂と亀山雅之。音楽は近藤浩治。任天堂が初めて発売したテキストアドベンチャーゲームとなり、初の2枚組ディスクカードソフトともなった。
「ふぁみこんむかし話」の副題が示す通り、「桃太郎」や「かぐや姫」など、日本の昔話から引用したキャラクターが、独特の切り口により融合された世界観の元で活躍するゲームである。当時日本のコンシューマゲーム機向けに制作されたアドベンチャーゲームはSFを題材とした作品や殺人事件の解決を目指す推理小説のような作品が多かったが、本作は昔話特有の優しく親しみやすい語り口で主人公の男の子と女の子、動物たちによる冒険や出会い、別れを織り込んだ物語が展開される。
電源投入中にも専用メディア「ディスクカード」の交換が可能なディスクシステムの特徴を利用して、ゲームを前編・後編に分けて発売し、ゲーム内容のボリューム向上を図った。後編をプレイするには前編のディスクカードが必要となり、さらに前編の物語を終了させなければならない。この形式は後継作品の『ふぁみこんむかし話 遊遊記』(1989年)、『タイムツイスト 歴史のかたすみで...』(1991年)だけでなく、『ファミコン探偵倶楽部シリーズ』(1988年 - 1997年)、他社作品である『探偵 神宮寺三郎 危険な二人』(1988年)にも採用された。
プレイヤーは画面に複数用意されたコマンドを選び、主人公たちに適切な行動を取らせ、全9章で構成される物語を読み進めていく。ただし誤ったコマンドを選択したり、謎を解かないまま物語を進めたりするとゲームオーバーになる場合がある。
このゲームには「はなす」「みる」「いどう」などごく普通のコマンドのほか、主人公の男の子と女の子を切り換えるためのコマンド「ひとかえる」が用意された。「ひとかえる」を使用することによりそれぞれに別行動を取らせ、異なる観点から物語を同時に進行させることができる。さらに片方の主人公にはできない行動がもう一方では簡単にできたり、コマンドを選んだ結果として表示される文章や台詞に変化が現れたりと、主人公たちの個性を表現する役割も果たした。
ディスクからのデータロードのタイミングは章単位で設けられており、セーブ時を除いて同じ章の中で読み込みが起こることは無い。
むかしむかし、長串村(ながくしむら)という山奥の小さな村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、子供がいなかった2人は、夢のお告げどおりに男の子と女の子の赤ん坊を授かり、喜んで育てることにしました。
月日が流れ、子供たちが8歳になった頃、はるか西の都で異変が起きました。突如現れた巨大な龍が人間を鬼に変え、人間の魂を奪い取らせているというのです。鬼の魔の手は長串村にも伸び、おじいさんとおばあさんの魂も奪い去られてしまいます。運よく難を逃れた子供たちは、おじいさんとおばあさんを救うため旅立ったのでした。
その旅が、自分たちの出生の秘密に大きく関わることとなるとも知らずに......。
主人公の男の子と女の子には公式の名前が用意されているが、プレイヤーは2人に好みの名前を付けることができる。
※ファミコン20THアニバーサリーオリジナルサウンドトラックVOL.3より
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"text": "このゲームには「はなす」「みる」「いどう」などごく普通のコマンドのほか、主人公の男の子と女の子を切り換えるためのコマンド「ひとかえる」が用意された。「ひとかえる」を使用することによりそれぞれに別行動を取らせ、異なる観点から物語を同時に進行させることができる。さらに片方の主人公にはできない行動がもう一方では簡単にできたり、コマンドを選んだ結果として表示される文章や台詞に変化が現れたりと、主人公たちの個性を表現する役割も果たした。",
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『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島』は、任天堂が日本で発売したゲームソフト。ジャンルはアドベンチャーゲーム。開発はパックスソフトニカと任天堂が共同で行った。 後年には外伝作品『平成 新・鬼ヶ島』(1997年)や、他機種への移植作が制作・販売された。
|
{{コンピュータゲーム
| Title = ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
| Genre = [[アドベンチャーゲーム|テキストアドベンチャーゲーム]]<ref>ゲームボーイアドバンス版のパッケージに記載されたジャンル表記による。</ref><br />コマンド選択式アドベンチャー
| Plat = [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ディスクシステム]] (FCD){{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[スーパーファミコン]] (SFC)<br />[[ゲームボーイアドバンス]] (GBA)<br />[[Wii]]<br />[[ニンテンドー3DS]] (3DS)<br />[[Wii U]]}}
| Dev = [[パックスソフトニカ]]<br />[[任天堂]]情報開発部
| Pub = 任天堂
| producer = [[山内溥]]
| director = <!-- 担当ディレクター -->
| designer = <!-- 担当ゲームデザイナー -->
| writer = 菱田達也
| programmer = 橋下友茂<br />亀山雅之
| composer = [[近藤浩治]]
| artist = 清水一伸<br />西川佳孝
| license = <!-- ソフトウェアライセンス(無料配布ゲームの場合のみ) -->
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| Ver = <!-- バージョン -->
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| Media = [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクカード|ディスクカード]]両面
| Date = '''前編'''{{vgrelease new|JP|1987-09-04}}'''後編'''{{vgrelease new|JP|1987-09-30}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''SFC(書き換え版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1997-12-01}}'''SFC(パッケージ版)'''<br />{{vgrelease new|JP|1998-05-23}}'''GBA'''<br />{{vgrelease new|JP|2004-08-10}}'''Wii'''<br />{{vgrelease new|JP|2007-06-19}}'''3DS'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-06-05}}'''Wii U'''<br />{{vgrelease new|JP|2013-09-18}}}}
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|authorlink =
|title = ディスクライター 書き換えゲーム全カタログ
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|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 5
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|ref = harv}}</ref>
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}}
『'''ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島'''』(ふぁみこんむかしばなし しん・おにがしま)は、[[任天堂]]が[[日本]]で発売した[[ゲームソフト]]。ジャンルは[[アドベンチャーゲーム]]。開発は[[パックスソフトニカ]]と任天堂が共同で行った。
後年には外伝作品『[[平成 新・鬼ヶ島]]』([[1997年]])や、他機種への移植作が制作・販売された。
== 概要 ==
[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]]用の[[ゲームソフト]]として、『'''ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 前編'''』が[[1987年]][[9月4日]]に、『'''ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 後編'''』が同年[[9月30日]]に発売された。監修は[[宮本茂]]。脚本・演出は菱田達也。プログラムは橋下友茂と亀山雅之。音楽は[[近藤浩治]]。任天堂が初めて発売したテキストアドベンチャーゲーム<ref>[https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk3/onigashima/ ファミコンミニ/ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島公式サイト](任天堂)</ref>となり、初の2枚組ディスクカードソフトともなった。
「ふぁみこんむかし話」の副題が示す通り、「[[桃太郎]]」や「[[竹取物語|かぐや姫]]」など、[[日本]]の[[昔話]]から引用したキャラクターが、独特の切り口により融合された世界観の元で活躍するゲームである<ref name="natsukashi">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』92ページ</ref>。当時日本のコンシューマゲーム機向けに制作されたアドベンチャーゲームは[[サイエンス・フィクション|SF]]を題材とした作品や殺人事件の解決を目指す[[推理小説]]のような作品が多かったが、本作は昔話特有の優しく親しみやすい語り口で主人公の男の子と女の子、動物たちによる冒険や出会い、別れを織り込んだ物語が展開される。
電源投入中にも専用メディア「ディスクカード」の交換が可能なディスクシステムの特徴を利用して、ゲームを前編・後編に分けて発売し、ゲーム内容のボリューム向上を図った。後編をプレイするには前編のディスクカードが必要となり、さらに前編の物語を終了させなければならない。この形式は後継作品の『[[ふぁみこんむかし話 遊遊記]]』([[1989年]])、『[[タイムツイスト 歴史のかたすみで…]]』([[1991年]])だけでなく、『[[ファミコン探偵倶楽部]]シリーズ』([[1988年]] - [[1997年]])、他社作品である『[[探偵 神宮寺三郎 危険な二人]]』(1988年)にも採用された。
==ゲームシステム==
プレイヤーは画面に複数用意されたコマンドを選び、主人公たちに適切な行動を取らせ、全9章で構成される物語を読み進めていく<ref name="natsukashi"/>。ただし誤ったコマンドを選択したり、謎を解かないまま物語を進めたりすると[[ゲームオーバー]]になる場合がある。
このゲームには「はなす」「みる」「いどう」などごく普通のコマンドのほか、主人公の男の子と女の子を切り換えるためのコマンド「ひとかえる」が用意された。「ひとかえる」を使用することによりそれぞれに別行動を取らせ、異なる観点から物語を同時に進行させることができる。さらに片方の主人公にはできない行動がもう一方では簡単にできたり、コマンドを選んだ結果として表示される文章や台詞に変化が現れたりと、主人公たちの個性を表現する役割も果たした。
ディスクからのデータロードのタイミングは章単位で設けられており、セーブ時を除いて同じ章の中で読み込みが起こることは無い。
== 物語 ==
{{不十分なあらすじ|section=1|date=2018年6月}}
むかしむかし、長串村(ながくしむら)という山奥の小さな村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、子供がいなかった2人は、夢のお告げどおりに男の子と女の子の赤ん坊を授かり、喜んで育てることにしました。
月日が流れ、子供たちが8歳になった頃、はるか西の都で異変が起きました。突如現れた巨大な龍が人間を鬼に変え、人間の魂を奪い取らせているというのです。鬼の魔の手は長串村にも伸び、おじいさんとおばあさんの魂も奪い去られてしまいます。運よく難を逃れた子供たちは、おじいさんとおばあさんを救うため旅立ったのでした。
その旅が、自分たちの出生の秘密に大きく関わることとなるとも知らずに……。
== 登場人物 ==
主人公の男の子と女の子には公式の名前が用意されている<ref>発売当時は公にされていなかったが、名前付けのシーンにおいて2人の公式名を1度につけられるという裏技が用意されている。</ref>が、プレイヤーは2人に好みの名前を付けることができる。
; 男の子(どんべ)
: 川を流れてきたカップ麺のようなお椀から生まれた男の子。頭を使うことは苦手だが力持ち。
; 女の子(ひかり)
: 輝く竹から生まれた女の子。頭が良く字も読めるが力仕事は苦手。男の子の姉のような存在。
: 『[[キャプテン★レインボー]]』にも登場しているが、容姿はかなり異なる。
; おじいさん・おばあさん
: 男の子と女の子の育ての親。第1章のみこの2人の視点でゲームを進めることになる。この他におつうさんという女性に化けた鶴が男の子と女の子の世話役として一緒に生活していたという描写がある。
; りんご
: 橋のふもとで男の子を待っていた犬。大人しく礼儀正しい。
; まつのすけ
: 奇怪ヶ森で一行に加わった猿。やんちゃで生意気。
; おはな
: 鬼ヶ島へ通じる白石の泉で出会う、最後の仲間となるキジ。巨体化する能力を持ち、一行を鬼ヶ島へ運ぶ。
; いったい
: この物語の語り部。メニュー画面に登場するほか、劇中でもシナリオの一端を担う人物として登場する。
: 名前の由来は「一休さん」で、毛が1本だけ頭の上に生えていることから「休」に一本付け足して「一体さん」というネーミングになっている。
; [[金太郎]]
: サングラスと赤い腹巻がトレードマークの謎の少年。英語を喋る。主人公たちのゆく先々で現れ、導いていく。
; [[天狗]]
: 鬼の砦に忍び込んでいたひょうきん者の天狗。主人公の女の子をいたく気に入る。「おーっ」が口癖。
; ひのえさま
: 星の姿に化身した、神のような存在。世界を覆う災いの元凶を知っており、主人公たちを龍封じの旅へと導く。
; [[鬼]]
: 人間の魂を奪い龍に捧げる怪物。その正体は魂を奪われた人間の成れの果て。この物語の鬼は公家のような服をまとい、仮面のように無表情な顔、長い髪の毛、頭に伸びた2本の角を持つ。強いにおいを嫌う。
; 暗黒の化身
: この世と対を成すもう1つの世界、闇の世界からやってきた邪悪な魔物の化身。人間の魂を食らうことによって実体化し、魂を奪い去った人間を配下の鬼に変えながら世に災いを振りまいている。
: 奪い取った人間の魂を龍の玉と呼ばれる宝玉に繋ぎ止めることで実体を保っている。
; 乙姫
: はるか昔に暗黒の化身を玉手箱に封じ込めた伝説の人物。海に住む一族、竜宮人(りゅうぐうびと)の姫でもある。
== 移植版 ==
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 売上本数
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
! [[平成 新・鬼ヶ島]] 前編
| rowspan="2" |{{vgrelease new|JP|1997-12-01}}([[ニンテンドウパワー]])<br />{{vgrelease new|JP|1998-05-23}}(パッケージ販売版)
| rowspan="2" | [[スーパーファミコン]]
| rowspan="2" |パックスソフトニカ<br />任天堂
| rowspan="2" |任天堂
| SFメモリカセット<br />(ニンテンドウパワー)<br />24[[メガビット]][[ロムカセット]]<br />(パッケージ販売版)
| SHVC-AO4J-JPN
| -
| ファミコンディスク版<br />前編のみ収録
|-
| style="text-align:right" | 2
! 平成 新・鬼ヶ島 後編
|SFメモリカセット<br />(ニンテンドウパワー)<br />24[[メガビット]][[ロムカセット]]<br />(パッケージ販売版)
| SHVC-AO5J-JPN
| -
|ファミコンディスク版<br />後編のみ収録
|-
| style="text-align:right" | 3
! [[ファミコンミニ]]26<br />ディスクシステムセレクション<br />ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
| {{vgrelease new|JP|2004-08-10}}
| [[ゲームボーイアドバンス]]
| パックスソフトニカ<br />任天堂情報開発部
| 任天堂
| [[ロムカセット]]
| AGB-P-FFMJ-JPN
| 6万1437本
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
| {{vgrelease new|JP|2007-06-19}}
| [[Wii]]
| パックスソフトニカ<br />任天堂情報開発部
| 任天堂
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]])
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
| {{vgrelease new|JP|2013-06-05}}
| [[ニンテンドー3DS]]
| パックスソフトニカ<br />任天堂情報開発部
| 任天堂
| ダウンロード
| -
| -
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島
| {{vgrelease new|JP|2013-09-18}}
| [[Wii U]]
| パックスソフトニカ<br />任天堂情報開発部
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
| -
| -
|
|}
; スーパーファミコン版
: [[スーパーファミコン]]用の外伝作品『平成 新・鬼ヶ島 前編』にはファミコンディスク版の前編が、『平成 新・鬼ヶ島 後編』にはファミコンディスク版の後編が収録された。いずれも本編終了後に一定の条件を満たす事で、ファミコンディスク版がプレイできるようになり、後編は前編の所有や終了の有無にかかわらず単体でプレイできる。平成の内容は鬼ヶ島本編とリンクしており大まかな流れが紹介され謎解きのヒントに繋がっている。
: この版には多くの改変が加えられた。章の始めとゲーム再開時には主人公の男の子と金太郎が相撲を取るデモ画面が表示される。メディアの変更によりセーブ・ロード時間が廃止され、セーブ時の警告文や物語中の一部文章が差し替えられた。スーパーファミコンの音源に合わせBGMはステレオ化とともに編曲・アレンジが加えられ、効果音も一新されるなど、音響面ではファミコンディスク版との差異が大きい。
; ゲームボーイアドバンス版
: [[2004年]][[8月10日]]に[[ゲームボーイアドバンス]]版『'''ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 前後編'''』が発売された。これはファミコンソフトをゲームボーイアドバンスに移植、復刻販売する[[ファミコンミニ]]の第3弾「ディスクシステムセレクション」のうちの1作である。前編・後編を統合した上で移植され、1本のソフトで最後まで物語を進めることができる。原作を再現するファミコンミニの方針から文章や演出に変更は加えられていないが、画面表示領域の減少によるグラフィックの縮小や音色の変化など機器の仕様差による表現の相違が存在する。メディア入れ替え作業の必要はなく、ロード・セーブの待ち時間が短縮された。
; Wii版
: [[2007年]][[6月19日]]から[[Wii]][[バーチャルコンソール]]対応ソフト『'''ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 (前後編)'''』の[[ダウンロード販売]]が開始された。画面表示は原作そのままに、ゲームボーイアドバンス版と同様に前編・後編を統合させ、メディア入れ替え作業をなくし、ロード・セーブの待ち時間を短縮した。この版では2章の登場人物「雪女のおせち」の容姿をけなす文章と、「じょしだいせいねずみ」の素性を説明する文章が差し替えられた。
; 3DS版
: [[2013年]][[6月5日]]から[[ニンテンドー3DS|3DS]]バーチャルコンソールで配信が開始された<ref>{{Cite web|和書|date=2013-05-29|url=https://www.inside-games.jp/article/2013/05/29/66927.html|title=任天堂ディスクシステムの名作アドベンチャー『新・鬼ヶ島』3DSバーチャルコンソールに追加|work=iNSIDE|publisher=イード|accessdate=2013-05-29}}</ref>。
; Wii U版
: 2013年[[9月18日]]から[[Wii U]]バーチャルコンソールで配信が開始された。
== 音楽 ==
=== サウンドトラック ===
; GAME SOUND LEGEND シリーズ ファミコン・ミュージック Vol.2
: ファミコンの名作のBGMを取り上げたオムニバスCDの第2弾。前後編全曲収録。トラック1〜6が前編、15〜20が後編で、章ごとのBGMは1つのトラックにまとめられている。
; ファミコン20THアニバーサリーアレンジサウンドトラックス
: 2004年2月18日発売<ref name="cdjournal">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://artist.cdjournal.com/d/famicom-20th-anniversary-arrange-sound-tracks/3204010157 |title=ファミコン 20thアニバーサリー アレンジ・サウンド・トラックス |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2019-03-01}}</ref>。前編のBGMをメドレー形式でオーケストラアレンジにした楽曲が収録。編曲は相原“J99”隆行 。彼によると、前後編の全ての楽曲をアレンジに含めたかったが、時間の制約上かなわなかったとのこと。サイトロンデジタルコンテンツ社制作。
; ファミコン20THアニバーサリーオリジナルサウンドトラックVOL.3
: 2004年4月21日発売<ref name="cdjournal2">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://artist.cdjournal.com/d/-/3204030260 |title=ファミコン 20thアニバーサリー オリジナル・サウンド・トラックス VOL.3 |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2019-03-01}}</ref>。前編と後編を全曲収録。CDの収録曲数の都合上、全曲1ループのみの収録。サイトロンデジタルコンテンツ社制作。
; ゲームサウンドミュージアム〜ファミコン編
: ファミコン20周年を記念してメガハウスが制作・発売した食玩。2004年4月下旬より発売された<ref>{{Cite web|和書|author=石田賀津男 |date=2004-03-12 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20040312/fam.htm |title=メガハウス、ファミコンサウンドを収録したCDつき食玩「ゲームサウンドミュージアム~ファミコン編」を4月下旬発売 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |language= [[日本語]] |accessdate=2019-03-01}}</ref>。CDをおまけにした(というよりCDがメイン)食玩で、ヨーグルト味のキャンディーが1つと、1つのゲームのBGMを全曲収録した8cmCDが付属していた。本作品のBGMは、前編と後編は別々に分けた上で全曲収録されている。後編のCDには、20THアニバーサリーサウンドトラック収録の後編には収録されていなかった「ひのえさま」のテーマ曲が再収録されている他、それぞれ、前編、後編のBGMをプレイ中の効果音ごとそのまま収録したゲームプレイのトラックが収録されている。
; TOY MUSIC Dancing Super Mario Brothers』/アキハバラ・エレクトリック・サーカス
: 『BS新鬼ヶ島』で使用されたエンディング曲のアレンジ版が収録されている。1988年発売。編曲は後のBS版で編曲を担当した尾崎裕一が手掛けている。
:このCDに収録されているアレンジ版は鬼のテーマのフレーズのアレンジによるイントロから始まっていくつかの原曲をメドレー形式にしたものになっているが、SFC版では構成が異なり、CD版のイントロを踏襲しつつFC版のエンディングBGMをメインに据えたアレンジとなっている。
=== BGMリスト ===
: 〜前編〜
* 1. タイトルBGM
* 2. 第一章 〜いえのなか〜
* 3. 第一章 〜やまへいくとちゅうのみち
* 4. 第二章 〜いえのなか
* 5. 第二章 〜りゅうのはなし
* 6. 第二章 〜いえのなか(よる)
* 7. 第三章 〜あさ〜
* 8. 第三章 〜おにとりで〜
* 9. 第三章 〜とりでのなか〜
* 10. 第四章 〜となりむら〜
* 11. 第四章 〜みずうみ〜
* 12. 第四章 〜ひのえさま〜
* 13. スタッフロール
: 〜後編〜
* 14. 第五章 〜はいきょ〜
* 15. 第五章 〜おにのもんばん〜
* 16. 第六章 〜もり〜
* 17. 第六章 〜きかいがもり〜
* 18. 第六章 〜すずめのおやど〜
* 19. 第七章 〜しのはら〜
* 20. 第七章 〜どうくつ〜
* 21. 第七章 〜おはな〜
* 22. 第八章 〜きょだいりゅう〜
* 23. 第九章 〜だいだんえん〜
* 24. エンディング
※ファミコン20THアニバーサリーオリジナルサウンドトラックVOL.3より
== スタッフ ==
* 制作:[[山内溥]]
* 脚本:菱田達也
* 進行:加藤圭三
* デザイン:清水一伸、西川佳孝
* プログラム:橋下友茂、亀山雅之
* 技術:清水隆雄
* 音楽:[[近藤浩治]]
* 演出:菱田達也
* 監修:[[宮本茂]]
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Fam = 30/40点<br />(シルバー殿堂)
|rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|rev1Score = 21.75/25点<ref name="famimaga50_51"/>
|award1Pub = ファミリーコンピュータMagazine
|award1 = ゲーム通信簿<br />ディスクシステム部門<br />総合1位<ref name="famimaga258"/><br />キャラクタ3位<ref name="famimaga258"/><br />音楽2位<ref name="famimaga258"/><br />操作性4位<ref name="famimaga258"/><br />熱中度2位<ref name="famimaga258"/><br />オリジナリティ1位<ref name="famimaga258"/>
}}
*ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』のクロスレビューで合計30点(満40点)でシルバー殿堂入りを獲得、『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の読者投稿によるゲーム通信簿での評価は以下の通りとなっており、21.75点(満25点)を獲得<ref name="famimaga50_51">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = 5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ
|date = 1991-05-24
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 7
|number = 10
|naid =
|pages = 50 - 51
|url =
|ref = harv}}</ref>し、任天堂初のアドベンチャーゲームにして名作の評価を得た <ref name="A"/><ref name="B">ファミリーコンピュータMagazineのゲーム通信簿は6要素5点満点・合計30点満点だが、ディスクシステム用書き換えソフトのお買い得度は別冊付録のカタログや大技林へ掲載されなかったため、25点満点となる。</ref>。また、この得点はディスクシステムの全ゲームの中で最も高い得点となった。
{|class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; width:50%"
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || 操作性 || 熱中度 || お買得度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! 得点
| 4.49 || 4.34 || 4.14 || 4.40 || - || 4.38
! 21.75
|}
*『ファミリーコンピュータMagazine』1991年5月24日号特別付録の「ファミコンディスクカード オールカタログ」巻末に収録されている「ディスクカード部門別BEST5」では、キャラクタ3位、音楽2位、操作性4位、熱中度2位、オリジナリティ1位、総合評価1位を獲得している<ref name="famimaga258">{{Cite journal |和書
|author =
|authorlink =
|title = 5月24日号特別付録 ファミコンディスクカード ゲームボーイ スーパーファミコン オールカタログ
|date = 1991-05-24
|publisher = [[徳間書店]]
|journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|volume = 7
|number = 10
|naid =
|pages = 258
|url =
|ref = harv}}</ref>。
{{Clear}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
<div class="references-small">
# 徳間書店編 『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 前編 取扱説明書』 任天堂、1987年9月15日初版。
# 徳間書店編 『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 後編 取扱説明書』 任天堂、1987年9月30日初版。
</div>
== 関連項目 ==
* [[平成 新・鬼ヶ島]] - スーパーファミコンで発売された外伝。
* [[ふぁみこんむかし話 遊遊記]] - ふぁみこんむかし話シリーズの第2作。
* [[タイムツイスト 歴史のかたすみで…]] - 開発元、スタッフが重複する後継作品。
* [[ファミコン文庫 はじまりの森]] - 同一開発元のアドベンチャーゲーム。ゲームシステムは『平成 新・鬼ヶ島』に類似し、キャラクターのあまのじゃくも登場する。
* [[星のカービィ3]] - ゲストキャラクターとしてどんべとひかりが登場する。
* [[キャプテン★レインボー]] - ひかりが登場。乙姫風の格好にリファインされ、京都弁を喋る。
== 外部リンク ==
* 任天堂ホームページ内
** [https://www.nintendo.co.jp/n08/fmk3/onigashima/ ファミコンミニ ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島 前後編]
** {{Wiiバーチャルコンソール|fso|ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島(前後編)}}
** {{3DSバーチャルコンソール|tcyj|ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島(前後編)}}
** {{Wii Uバーチャルコンソール|fa5j|ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島(前後編)}}
*{{MobyGames|id=/64981/famicom-mukashibanashi-shin-onigashima/|name=Famicom Mukashibanashi: Shin Onigashima}}
{{任天堂}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふあみこんむかしはなししんおにかしま}}
[[Category:1987年のコンピュータゲーム]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:ゲームボーイアドバンス用ソフト]]
[[Category:コマンド選択式アドベンチャー]]
[[Category:ディスクシステム用ソフト]]
[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
[[Category:日本を舞台としたコンピュータゲーム]]
[[Category:ニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:任天堂のゲームソフト]]
[[Category:パックスソフトニカのゲームソフト]]
[[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]]
[[Category:冒険ゲームブック|しんおにかしま]]
[[Category:民話・童話を題材とした作品]]
[[Category:桃太郎を題材としたコンピュータゲーム]]
[[Category:浦島説話を題材とした作品]]
[[Category:転生を題材としたコンピュータゲーム]]
[[Category:ドラゴン・竜を題材としたコンピュータゲーム]]
|
2003-09-03T12:39:08Z
|
2023-10-05T10:54:58Z
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[
"Template:3DSバーチャルコンソール",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%81%E3%81%BF%E3%81%93%E3%82%93%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97%E8%A9%B1_%E6%96%B0%E3%83%BB%E9%AC%BC%E3%83%B6%E5%B3%B6
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14,904 |
連分数
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連分数(れんぶんすう、英: continued fraction)とは、分母に更に分数が含まれているような分数のことを指す。分子が全て 1 である場合には特に単純連分数または正則連分数(英: regular continued fraction)ということがある。単に連分数といった場合、正則連分数を指す場合が多い。具体的には次のような形である。
ここで a0 は整数、それ以外の an は正の整数である。正則連分数は、最大公約数を求めるユークリッドの互除法から自然に生じるものであり、古くからペル方程式の解法にも利用された。
連分数を式で表す際には次のような書き方もある。
または
また、極限の概念により、分数を無限に連ねたものも考えられる。
二次無理数(整数係数二次方程式の根である無理数)の正則連分数展開は必ず循環することが知られている。逆に、正則連分数展開が循環する数は二次無理数である。
例として黄金数 φ を考える。φ は x − x − 1 = 0 の正の解である。この式を変形すると、
以下同様にして、
と表すことができる。
より一般的には、x − nx = 1 の正の解を次のように表すことができる。
いまある数 ω が与えられたとする。ω を超えない最大の整数を a0 とし、
となるよう ω1 を定める。ω1 が整数でないならば、ω1 を超えない最大の整数を a1 とし、
となるように ω2 を定めることができる。以下この作業を繰り返すことにより、n 段までの連分数
を求めることができる。もし ω が有理数ならば、この作業は有限回で終了するが、無理数ならば無限にこの作業が続く。
但し、上述してある通り、ω が二次無理数であり、かつその場合に限り、循環する連分数になる。
p n q n = [ a 0 ; a 1 , a 2 , ... , a n − 1 ] {\displaystyle {\frac {p_{n}}{q_{n}}}=[a_{0};a_{1},a_{2},\ldots ,a_{n-1}]} は ω に収束する。すなわち上記の作業を繰り返すことによりいくらでも実数 ω に近い有理数を求めることができる。また、ω と連分数の差は
となることが知られており、連分数はディオファントス近似の解を求める手段として有効である。
いま、a0 は整数、それ以外の an は正の整数であるような数列
があるとき、数列 pn, qn を以下のように定める。
このとき、連分数は
となる。
pn とqn にユークリッドの互除法を適用すると、割り算の商として数列 a0, a1, ... , an−1 のn 個の整数が順番に現れる。上記の数列 pn, qn の定義は互除法の操作を逆にたどったものともいえる。
また、pn, qn は整数であるから、ユークリッドの互除法の帰結より、pn と qn は互いに素である。つまり連分数 p n q n {\displaystyle {\frac {p_{n}}{q_{n}}}} は既約分数である。
さらに |pn+1qn − pnqn+1| = 1 である。また、pn と pn+1 および、qn と qn+1 も互いに素である。
なお数列an が全て 1 の場合、数列pn, qn はともにフィボナッチ数列 (F0 = 0, F1 = 1) である。すなわち
である。そして、上で記したようにこの連分数は黄金比に収束する。ゆえに隣り合うフィボナッチ数の比は黄金比に収束することが分かる。
下線部はそれぞれの循環節。
(2。循環節の長さは 1)
(1, 2。循環節の長さは 2)
以上は二次無理数であるので、循環する連分数展開を持つ。
ネイピア数は超越数であり、その連分数展開は循環しないものの一定の規則性を持つ。
円周率の正則連分数展開には規則性がないと考えられている。
円周率の正則でない連分数で規則性を持つものが存在する。
|
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"text": "例として黄金数 φ を考える。φ は x − x − 1 = 0 の正の解である。この式を変形すると、",
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"text": "となるよう ω1 を定める。ω1 が整数でないならば、ω1 を超えない最大の整数を a1 とし、",
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"text": "となるように ω2 を定めることができる。以下この作業を繰り返すことにより、n 段までの連分数",
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"text": "p n q n = [ a 0 ; a 1 , a 2 , ... , a n − 1 ] {\\displaystyle {\\frac {p_{n}}{q_{n}}}=[a_{0};a_{1},a_{2},\\ldots ,a_{n-1}]} は ω に収束する。すなわち上記の作業を繰り返すことによりいくらでも実数 ω に近い有理数を求めることができる。また、ω と連分数の差は",
"title": "連分数の計算方法"
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"text": "となることが知られており、連分数はディオファントス近似の解を求める手段として有効である。",
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"text": "いま、a0 は整数、それ以外の an は正の整数であるような数列",
"title": "連分数の性質"
},
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"text": "があるとき、数列 pn, qn を以下のように定める。",
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"text": "pn とqn にユークリッドの互除法を適用すると、割り算の商として数列 a0, a1, ... , an−1 のn 個の整数が順番に現れる。上記の数列 pn, qn の定義は互除法の操作を逆にたどったものともいえる。",
"title": "連分数の性質"
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"text": "また、pn, qn は整数であるから、ユークリッドの互除法の帰結より、pn と qn は互いに素である。つまり連分数 p n q n {\\displaystyle {\\frac {p_{n}}{q_{n}}}} は既約分数である。",
"title": "連分数の性質"
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"text": "さらに |pn+1qn − pnqn+1| = 1 である。また、pn と pn+1 および、qn と qn+1 も互いに素である。",
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"text": "なお数列an が全て 1 の場合、数列pn, qn はともにフィボナッチ数列 (F0 = 0, F1 = 1) である。すなわち",
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"text": "である。そして、上で記したようにこの連分数は黄金比に収束する。ゆえに隣り合うフィボナッチ数の比は黄金比に収束することが分かる。",
"title": "連分数の性質"
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{
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"text": "下線部はそれぞれの循環節。",
"title": "様々な数の連分数展開"
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"text": "(2。循環節の長さは 1)",
"title": "様々な数の連分数展開"
},
{
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"text": "(1, 2。循環節の長さは 2)",
"title": "様々な数の連分数展開"
},
{
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"text": "以上は二次無理数であるので、循環する連分数展開を持つ。",
"title": "様々な数の連分数展開"
},
{
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"text": "ネイピア数は超越数であり、その連分数展開は循環しないものの一定の規則性を持つ。",
"title": "様々な数の連分数展開"
},
{
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"text": "円周率の正則連分数展開には規則性がないと考えられている。",
"title": "様々な数の連分数展開"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "円周率の正則でない連分数で規則性を持つものが存在する。",
"title": "様々な数の連分数展開"
}
] |
連分数とは、分母に更に分数が含まれているような分数のことを指す。分子が全て 1 である場合には特に単純連分数または正則連分数ということがある。単に連分数といった場合、正則連分数を指す場合が多い。具体的には次のような形である。 ここで a0 は整数、それ以外の an は正の整数である。正則連分数は、最大公約数を求めるユークリッドの互除法から自然に生じるものであり、古くからペル方程式の解法にも利用された。 連分数を式で表す際には次のような書き方もある。 または また、極限の概念により、分数を無限に連ねたものも考えられる。 二次無理数(整数係数二次方程式の根である無理数)の正則連分数展開は必ず循環することが知られている。逆に、正則連分数展開が循環する数は二次無理数である。
|
'''連分数'''(れんぶんすう、{{Lang-en-short|continued fraction}})とは、分母に更に[[分数]]が含まれているような分数のことを指す。分子が全て 1 である場合には特に'''単純連分数'''または'''正則連分数'''({{Lang-en-short|regular continued fraction}})ということがある。単に連分数といった場合、正則連分数を指す場合が多い。具体的には次のような形である。
:<math>x=a_0 +\cfrac{1}{a_1 +\cfrac{1}{a_2 +\cfrac{1}{a_3}}}</math>
ここで ''a''{{sub|0}} は[[整数]]、それ以外の ''a{{sub|n}}'' は正の整数である。正則連分数は、[[最大公約数]]を求める[[ユークリッドの互除法]]から自然に生じるものであり、古くから[[ペル方程式]]の解法にも利用された。
連分数を式で表す際には次のような書き方もある。
:<math>x=a_0 +\frac{1}{a_1 +}\, \frac{1}{a_2 +}\, \frac{1}{a_3}</math>
または
:''x'' = [''a''{{sub|0}}; ''a''{{sub|1}}, ''a''{{sub|2}}, ''a''{{sub|3}}]
また、[[極限]]の概念により、分数を[[無限]]に連ねたものも考えられる。
:<math> \left[a_0 ;a_1 ,a_2 ,a_3 ,\ldots \right]=\lim_{n\to \infty} \left[a_0 ;a_1 ,a_2 ,a_3 ,\ldots ,a_n \right]</math>
二次無理数(整数係数[[二次方程式]]の根である[[無理数]])の正則連分数展開は必ず循環することが知られている。逆に、正則連分数展開が循環する数は二次無理数である。
== 連分数展開の例 ==<!--
(ここでの説明は、直観的に分かりやすくしてあるが、数学的には不正確である)-->
例として[[黄金比|黄金数]] ''φ'' を考える<ref name="mean">岩本誠一・江口将生・吉良知文 「黄金・白銀・青銅 : 数と比と形と率と」 {{NAID|110007153257}}</ref>。''φ'' は ''x''{{sup|2}} − ''x'' − 1 = 0 の正の解である。この式を変形すると、
:<math>\begin{align}
x^2 &=x+1 \\
x &=1+\frac{1}{x} \\
&=1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{x}} \\
&=1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{x}}}
\end{align}</math>
以下同様にして、
:<math>\phi =1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{\ddots}}}}
=[1;1,1,1,1,1,\ldots]</math>
と表すことができる。
より一般的には、''x''{{sup|2}} − ''nx'' = 1 の正の解を次のように表すことができる。
:<math>n+\cfrac{1}{n+\cfrac{1}{n+\cfrac{1}{n+\cfrac{1}{n+\ddots \,}}}} =[n;n,n,n,n,\dots ]=\frac{1}{2} \left( n+\sqrt{n^2 +4} \right)</math>
== 連分数の計算方法 ==
いまある数 ''ω'' が与えられたとする。''ω'' を超えない最大の整数を ''a''{{sub|0}} とし、
:<math>\omega =a_0 +\frac{1}{\omega_1}</math>
となるよう ''ω''{{sub|1}} を定める。''ω''{{sub|1}} が整数でないならば、''ω''{{sub|1}} を超えない最大の整数を ''a''{{sub|1}} とし、
:<math>\omega_1 = a_1 +\frac{1}{\omega_2}</math>
となるように ''ω''{{sub|2}} を定めることができる。以下この作業を繰り返すことにより、''n'' 段までの連分数
:<math>a_0 +\cfrac{1}{a_1 +\cfrac{1}{a_2 +\cfrac{1}{\ddots a_{n-1} +\cfrac{1}{\omega_n}}}}</math>
を求めることができる。もし ''ω'' が[[有理数]]ならば、この作業は有限回で終了するが、[[無理数]]ならば無限にこの作業が続く。
但し、上述してある通り、''ω'' が二次無理数であり、かつその場合に限り、循環する連分数になる。
<math>\frac{p_n}{q_n}=[a_0; a_1,a_2,\ldots,a_{n-1}]</math> は ''ω'' に収束する。すなわち上記の作業を繰り返すことによりいくらでも実数 ''ω'' に近い有理数を求めることができる。また、''ω'' と連分数の差は
:<math>\left| \omega -\frac{p_n}{q_n} \right| <\frac{1}{{q_n}^2}</math>
となることが知られており、連分数は[[ディオファントス近似]]の解を求める手段として有効である。
== 連分数の性質 ==
いま、''a''{{sub|0}} は[[整数]]、それ以外の ''a{{sub|n}}'' は正の整数であるような数列
:<math>a_0 ,a_1 ,a_2 ,a_3 ,\ldots</math>
があるとき、数列 ''p{{sub|n}}'', ''q{{sub|n}}'' を以下のように定める。
:<math>\begin{cases}
p_0 =1\\
p_1 =a_0\\
p_n =a_{n-1} p_{n-1} +p_{n-2} \ (n\ge 2)
\end{cases} \quad \begin{cases}
q_0 =0\\
q_1 =1\\
q_n =a_{n-1} q_{n-1} +q_{n-2} \ (n\ge 2)
\end{cases}</math>
このとき、連分数は
:<math>[a_0 ;a_1 ,a_2 ,\dots ,a_{n-1} ]=\frac{a_{n-1} p_{n-1} +p_{n-2}}{a_{n-1} q_{n-1} +q_{n-2}}=\frac{p_n}{q_n}</math>
となる。
''p{{sub|n}}'' と''q{{sub|n}}'' にユークリッドの互除法を適用すると、割り算の商として数列 ''a''{{sub|0}}, ''a''{{sub|1}}, ... , ''a''{{sub|''n''−1}} の''n'' 個の整数が順番に現れる。上記の数列 ''p{{sub|n}}'', ''q{{sub|n}}'' の定義は互除法の操作を逆にたどったものともいえる。
また、''p{{sub|n}}'', ''q{{sub|n}}'' は整数であるから、[[ユークリッドの互除法]]の帰結より、''p{{sub|n}}'' と ''q{{sub|n}}'' は互いに素である。つまり連分数 <math>\frac{p_n}{q_n}</math> は既約分数である。
さらに |''p''{{sub|''n''+1}}''q<sub>n</sub>'' − ''p{{sub|n}}q''{{sub|''n''+1}}| = 1 である。また、''p{{sub|n}}'' と ''p''{{sub|''n''+1}} および、''q{{sub|n}}'' と ''q''{{sub|''n''+1}} も互いに素である。
なお数列''a{{sub|n}}'' が全て 1 の場合、数列''p{{sub|n}}'', ''q{{sub|n}}'' はともに[[フィボナッチ数列]] (''F''{{sub|0}} = 0, ''F''{{sub|1}} = 1) である。すなわち
:<math>\frac{p_n}{q_n} =\frac{F_{n+1}}{F_n}</math>
である。そして、上で記したようにこの連分数は[[黄金比]]に収束する。ゆえに'''隣り合うフィボナッチ数の比は黄金比に収束する'''ことが分かる。
== 様々な数の連分数展開 ==
下線部はそれぞれの循環節。
*[[2の平方根]]
*:<math>\sqrt{2}=[1; 2, 2, 2, 2, 2, 2, \dots]=
1+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}
{2+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{\cdots}}}}}}}</math>
({{underline|2}}。循環節の長さは 1)
*[[3の平方根]]
*:<math>\sqrt{3}=[1; 1, 2, 1, 2, 1, 2, \dots]=
1+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{1+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}
{1+\cfrac{1}{2+\cfrac{1}{\cdots}}}}}}}</math>
({{underline|1, 2}}。循環節の長さは 2)
*[[黄金比|黄金数]]の[[逆数]] ''φ''{{sup|−1}} = [0; 1, 1, 1, 1, 1, 1, ...]({{underline|1}}。循環節の長さは 1)
*[[白銀比|白銀数]]<ref name="mean" /> 1 + √{{overline|2}} = [2; 2, 2, 2, 2, 2, 2,…]({{underline|2}}。循環節の長さは 1)
**白銀数の''逆数'' <math>\frac{1}{1+\sqrt2} =-1+\sqrt2 =[0; 2, 2, 2, 2, 2, 2,\dots]</math>({{underline|2}}。循環節の長さは 1)
以上は二次無理数であるので、循環する連分数展開を持つ。
[[ネイピア数]]は[[超越数]]であり、その連分数展開は循環しないものの一定の規則性を持つ。
*ネイピア数 ''e'' = [2; 1, 2, 1, 1, 4, 1, 1, 6, 1, 1, 8, 1, 1, 10, ...]({{OEIS|A003417}})
[[円周率]]の正則連分数展開には規則性がないと考えられている。
*円周率 {{π}} = [3; 7, 15, 1, 292, 1, 1, 1, 2, 1, 3, ...]({{OEIS|id=A001203}})
[[円周率]]の正則でない連分数で規則性を持つものが存在する。
:<math>\pi=3+\cfrac{1^2}{6+\cfrac{3^2}{6+\cfrac{5^2}{6+\cfrac{7^2}{6+\cfrac{9^2}{6+\cfrac{11^2}{\ddots \,}}}}}}</math>
:<math>\cfrac{4}{\pi} =1+\cfrac{1^2}{3+\cfrac{2^2}{5+\cfrac{3^2}{7+\cfrac{4^2}{9+\cfrac{5^2}{11+\cfrac{6^2}{\ddots \,}}}}}}</math>
{{See also|円周率の歴史|ライプニッツの公式}}
==力学系としての連分数==
{{Main|エルゴード理論#連分数への応用}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author = 木村俊一
|authorlink = 木村俊一 (数学者)
|date = 2012-05-20
|title = 連分数のふしぎ 無理数の発見から超越数まで
|series = ブルーバックス1770
|publisher = 講談社
|isbn= 978-4-06-257770-0
|url = https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000194731
|ref = 木村2012
}}
*{{Cite book|和書
|author = ジョセフ・H・シルヴァーマン
|authorlink = ジョセフ・H・シルヴァーマン
|others = [[鈴木治郎]]訳
|date = 2007-04-25
|title = はじめての数論 発見と証明の大航海――ピタゴラスの定理から楕円曲線まで
|edition = 原著第3版
|publisher = ピアソン・エデュケーション
|isbn = 978-4-89471-492-2
|url =
|ref = シルヴァーマン2007
}}
*{{Cite book|和書
|author = ジョセフ・H・シルヴァーマン
|others = 鈴木治郎 訳
|date = 2014-05-13
|title = はじめての数論 発見と証明の大航海――ピタゴラスの定理から楕円曲線まで
|edition = 原著第3版
|publisher = 丸善出版
|isbn = 978-4-621-06620-1
|url = http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/book_data/search/9784621066201.html
|ref = シルヴァーマン2014
}}
**第38章 おお,なんて美しい関数だこと(299-311頁)
**第39章 連分数のでんぐり返り世界(312-326頁)
**第40章 連分数,平方根,そしてペル方程式(327-341頁)
*{{Cite book|和書
|author = 高木貞治
|authorlink = 高木貞治
|date = 1971-10-15
|title = 初等整数論講義
|edition = 第2版
|publisher = [[共立出版]]
|isbn = 4-320-01001-9
|url = http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320010017
|chapter = 第2章 連分数
|ref = 高木1971
}}
*{{Cite book|和書
|author = 遠山啓
|authorlink = 遠山啓
|date = 1972-02-28
|title = 初等整数論
|series = 日評数学選書
|chapter = 第6章 連分数
|publisher = 日本評論社
|isbn = 4-535-60109-7
|url = http://www.nippyo.co.jp/book/1254.html
|ref = 遠山1972
}}
*{{Cite book|和書
|author = 平山諦
|authorlink = 平山諦
|date = 1955-08-05
|title = 円周率の歴史
|publisher = 中教出版
|ref = 平山1955
}}
*{{Cite book|和書
|author=G・H・ハーディ|authorlink=ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ
|coauthors = {{仮リンク|E・M・ライト|en|E. M. Wright}}
|others = [[示野信一]]・[[矢神毅]]翻訳
|date = 2001-07-01|title=数論入門
|volume = I
|publisher = [[シュプリンガー・フェアラーク東京]]
|isbn = 4-431-70848-0
|chapter = 第10章 連分数
|ref = ハーディ&ライト2001
}}
**{{Cite book|和書
|author = G・H・ハーディ
|coauthors = E・M・ライト
|others = 示野信一・矢神毅翻訳
|date = 2012-07-17
|title = 数論入門
|volume = I
|publisher = [[丸善出版]]
|isbn = 978-4-621-06226-5
|chapter = 第10章 連分数
|ref = ハーディ&ライト2012}} - [[#ハーディ&ライト2001|ハーディ&ライト(2001)]]の復刊。
*{{Cite book
|author = A. Ya. Khinchin
|authorlink = アレクサンドル・ヒンチン
|date = 1997-05-14
|title = Continued Fractions
|series = Dover Books on Mathematics
|publisher = Dover Publications
|isbn = 0-486-69630-8
|ref = Khinchin1997
}}
* Marius losifescu and Cor Kraaikamp: "Metrical Theory of Continued Fractions", Springer, ISBN 978-90-481-6130-0 (2002).
* A. Cuty et al:"Handbook of Continued Fractions for Special Functions", Springer, ISBN 978-1-4020-6948-2 (2008).
* T. Sauer: "Continued Fractions and Signal Processing", Springer (2020).
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|連分数|2=[[足立恒雄]]}}
*[http://rosettacode.org/wiki/Continued_fraction Continued fraction-Rosetta Code]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:れんふんすう}}
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14,908 |
入江紀子
|
入江 紀子(いりえ のりこ、11月6日 - )は、漫画家。秋田県出身。
1987年、アフタヌーン四季賞冬のコンテストにおいて「猫の手貸します」が四季大賞を受賞。
1988年、『ぶ〜け』でも「16ぺえじ」(1月号掲載)で入賞。
代表作に『なんぎな奥さん』、『のら』など。
女性誌を中心に、多数の雑誌で活躍。アシスタントを使わないとのことだが、非常に多作。自立した女性(および自立した男性、自立した子供)を主人公とする作品が多く、「まっとうに頑張る」人に対して優しい。
手塚治虫を尊敬している。
|
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入江 紀子は、漫画家。秋田県出身。
|
{{存命人物の出典皆無|date=2017-08-09}}
'''入江 紀子'''(いりえ のりこ、[[11月6日]] - )は、[[漫画家]]。[[秋田県]]出身。
== 概要 ==
[[1987年]]、[[アフタヌーン四季賞]]冬のコンテストにおいて「猫の手貸します」が四季大賞を受賞。
[[1988年]]、『[[ぶ〜け]]』でも「16ぺえじ」(1月号掲載)で入賞。
代表作に『なんぎな奥さん』、『のら』など。
女性誌を中心に、多数の雑誌で活躍。[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を使わないとのことだが、非常に多作。自立した女性(および自立した男性、自立した子供)を主人公とする作品が多く、「まっとうに頑張る」人に対して優しい。
[[手塚治虫]]を尊敬している。
== 作品リスト ==
* 猫の手貸します(1988年・講談社)
* めとろガール 1-2巻(1990年-1992年、竹書房)
* のら(1991年-1997年、1999年、竹書房、後に[[エンターブレイン]]から復刻・完全版が出版)
* なんぎな奥さん 1-5巻(1992年-1996年、白泉社)
* 12ダースの怒れる女(1993年・白泉社)
* 神さまは役たたず(1994年・白泉社)
* ママのめくじら(1994年・白泉社)
* 祝田さん 1-2巻(1994年、白泉社)
* こぐまのマーチ(1994年・双葉社)
* アサハカな夜 (1995年・集英社)
* 私は私なんですけど、(1996年・白泉社)
* [[愛しすぎなくてよかった]] 1-4巻(1996年-1997年・講談社、原作:[[内舘牧子]])
* タッグ 1-3巻(1996年-1999年、創美社)
* 夜をどうしよう(1996年・白泉社、後に文庫版も発売(2000年12月))
* なまえをよんで(1996年・集英社)
* つうかあ(1997年・集英社)
* 新世紀まで何日だ?(1998年・講談社)
* やもめスケッチ 1-4巻(1998年-1999年、講談社)
* ちいさなわたしをだきしめて(1998年・集英社(イラスト))
* [[ネガポジ]] 1-3巻(1999年-2000年、講談社)
* ママの恋人 1-6巻(1999年-、秋田書店、単行本6巻で完結)
* 21-TWENTY ONE-(1999年・講談社)
* あかピンク 1-7巻(2000年-2003年・秋田書店)
* ひなた(短編集)(2000年・集英社)
* 天然カール(2001年・白泉社)
* 野ばらの垣根(文庫)(2001年・創美社)
* カシミア(2001年・集英社)
* 星に願いを(短編集)(2001年・集英社)
* 笑って!ピギー(2002年・秋田書店)
* ただいま(2002年・集英社)
* 笑う犬の世界(2002年・白泉社)
* 歌う犬の世界(2003年、白泉社)
* ローゲージ(2003年・秋田書店)
* 大人が知らない子供の国(2003年・双葉社)
* 愛がどーした。(2004年・集英社)
* ハナウタうたい(2004年・集英社)
* フィービーはもういない(2004年・秋田書店)
* はらっぱ(2005年・秋田書店)
* 走れハイジ(2005年・白泉社)
* ウェルカム・ホーム!―児島律子(2005年・秋田書店、原作:[[鷺沢萠]])
* はらっぱ(2005年・秋田書店)
* ワカオク(2006年・双葉社)
* ごめん。(2009年・双葉社)
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札幌ラーメン
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札幌ラーメン(さっぽろラーメン)は、北海道札幌市発祥のラーメン一般を指す通称である。ご当地ラーメン(ご当地グルメ)の一つ。
札幌におけるラーメンの元祖は、中華料理店「竹家食堂」が1922年にはじめた「肉絲麺」(ロゥスーミェン)といわれる。竹家では、中国山東省出身の王文彩が手延べ麺を茹でてスープに入れるという作りを生み出し、当時は「拉麺」とも呼ばれていた。王は1924年に竹家を去るが、後任の李宏業や李絵堂(李彩)らによって日本人向けの味に改良され、好評を博していく。
昭和初期の札幌市内には約10軒の中華料理店があり、各店では中国人料理人の自家製麺によるラーメンが提供されていた。また、喫茶店や一般の食堂などにもラーメンをメニューにした店が多く、喫茶店では1杯10銭のコーヒーとともに、1杯15銭のラーメンが売れていたという。これらの店に麺などの材料を卸していたのは、狸小路の「万福堂」の店主・王万世や市内の僧侶・吉田某といった者達であった。王は1937年の日中戦争後に帰国するが、戦前の札幌にラーメン文化の種を蒔いた人物として、「竹家食堂」の王らとともに今に記憶されている。
当時のラーメンは「手ぶみ式」と呼ばれた手打ちの麺に、鶏ガラや貝類でダシを取り、ラードや胡椒などで味付けした塩味のスープが主流であった。しかし、太平洋戦争下での物資統制による原料不足で、竹家をはじめすべての店が姿を消した。現在、のれん分けした「竹家」が兵庫県神戸市灘区で営業を継続している。
現在のスタイルは、終戦直後の1946年頃に満州などからの引き揚げ者達が薄野の屋台で作った、豚骨から煮出した濃いスープによるラーメンが源流である。その元祖は1946年に松田勘七が開業した「龍鳳」といわれ、翌年西山仙治が開業した「だるま軒」とともに人気店となった。東京で中国料理の修業をした西山は製麺技術の高さに定評があり、「龍鳳」など他の店の麺作りも手がけるようになった。
1951年には「龍鳳」など8店による「公楽ラーメン名店街」が誕生し、初代「札幌ラーメン横丁」とされることもある。「龍鳳」などは醤油味が中心であり、1960年頃までは札幌ラーメンは醤油味が主であった。
1955年、「味の三平」の大宮守人が味噌ラーメンを開発する。同年「味の三平」を訪れた「暮しの手帖」元編集長花森安治に大宮が味噌ラーメンを出したところ、花森は「暮しの手帖」1955年11月号にその時のことを執筆したので、その名が全国に知られることになった。同じ頃、西山製麺によって味噌ラーメンに合う「多加水熟成麺」が開発される。1963年、「味の三平」と大通の「熊さんラーメン」が、正式に味噌ラーメンをメニューに出した。その後、大宮の了承の元に、味噌ラーメン用「多加水熟成麺」が西山製麺より発売されて以来、市内の他の店でも使われるようになり、札幌ラーメンとしての「味噌ラーメン」が定着した。
「暮しの手帖」での紹介を契機に、1950年代後半以降は新聞や雑誌等が「龍鳳」や「味の三平」などの有名店を頻繁に取り上げるようになり、御当地グルメとしての「札幌ラーメン」の知名度が上がっていっ た。さらに『サッポロ一番』(サンヨー食品)など、インスタントラーメンで「サッポロ」を冠した商品が数多く発売されたことによって、その人気は全国区のものとなった。1965年頃から、東京方面にも「札幌ラーメン」の看板を掲げた店が増えるようになり、1967年に青池保によって創業された「どさん子」は全国チェーンとなった。
「味の三平」のラーメンが雑誌やデパートの物産展などで全国的に広がったことから「札幌ラーメンは味噌ラーメン」と捉えられがちだが、「味の三平」など多くの札幌ラーメン店では醤油味・味噌味・塩味の3種類を提供しており、特段味噌ラーメンのみに傾注しているわけではない。
2001年、札幌ラーメンを含む北海道のラーメンが北海道遺産として認定された。
「味の三平」が西山製麺所開発の「多加水熟成麺」の「ちぢれ麺」を使用したことにより、北海道全域で西山製麺を使う店舗が増えるようになった。この「多加水熟成麺」は、粘り強いのを特徴としている。このため首都圏などでも札幌ラーメンの特徴の1つとして西山製麺を使う店舗が存在する。
かつては西山製麺の他、堀川製麺、さがみ屋製麺、森住製麺などの麺を使用する店が多かったが、近年では上記のメーカーの他、小林製麺、和田山製麺、カネジン食品、札幌製麺、北海道熊さんなどの後発のメーカーの進出も目立ち、シェア争いは激化している。また、自店で独自の製麺を行っている場合もある。なお、堀川製麺の創業者の堀川寿一は、「ちぢれ麺」を機械で自動的に生産する手法を生み出したり、今も全国の製麺所で使われている、麺を一食分毎に裁断する機械を発明したことで知られる。
おおよそ、麺の太さを決める切刃番手で、22番の太めの麺が、使われる。
豚骨などを煮出したスープに札幌の気候に合わせラーメンが冷めるのを防ぐためにラードなどを浮かべる場合が多い。このスタイルを始めたのは「龍鳳」の松田勘七で、「龍鳳」では味付けに主に醤油を用いた。これは、松田が戦前中国に住んでいた時に、日本人がどんな中国料理にも醤油を用いたがることをヒントにしたという。
元来のチャーシュー・メンマ・ネギなどの他に、タマネギ・キャベツ・モヤシなどの炒めた野菜を載せるのが定番となっている。このスタイルを生み出したのは「味の三平」の大宮守人で、麺が茹で上がるまで手持ち無沙汰なので、その間フライパンで野菜でも炒めてみようかと思ったのがきっかけだという。なお、札幌ラーメンの代名詞とも言えるモヤシは、元々終戦直後高価であったタマネギの代用品として用いられたものであった。また、「味の三平」では味噌味の場合にはチャーシューではなく挽肉を使うため、市内の他の店でも味噌ラーメンには挽肉を用いるケースが多い。
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札幌ラーメン(さっぽろラーメン)は、北海道札幌市発祥のラーメン一般を指す通称である。ご当地ラーメン(ご当地グルメ)の一つ。
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'''札幌ラーメン'''(さっぽろラーメン)は、[[北海道]][[札幌市]]発祥の[[ラーメン]]一般を指す[[通称]]である。ご当地ラーメン([[ご当地グルメ]])の一つ。
== 歴史 ==
札幌におけるラーメンの元祖は、[[中華料理]]店「竹家食堂」が[[1922年]]にはじめた「'''肉絲麺'''」(ロゥスーミェン)といわれる<ref name="さっぽろラーメン物語1">富岡、14 - 15頁。</ref><ref name="にっぽんラーメン物語1">小菅、70 - 71頁。</ref>。竹家では、中国[[山東省]]出身の[[王文彩]]が手延べ麺を茹でてスープに入れるという作りを生み出し、当時は「拉麺」とも呼ばれていた<ref>[http://1000ya.isis.ne.jp/1541.html ラーメンと愛国] 松岡正剛の千夜千冊 1541夜、2014年4月15日</ref>。王は[[1924年]]に竹家を去るが<ref name="さっぽろラーメン物語1"/>、後任の李宏業や李絵堂(李彩)らによって日本人向けの味に改良され、好評を博していく<ref name="さっぽろラーメン物語1"/><ref name="にっぽんラーメン物語2">小菅、78 - 88頁。</ref>。
[[昭和]]初期の札幌市内には約10軒の中華料理店があり、各店では中国人料理人の自家製麺によるラーメンが提供されていた<ref name="さっぽろラーメン物語2">富岡、22 - 24頁。</ref>。また、[[喫茶店]]や一般の食堂などにもラーメンをメニューにした店が多く<ref name="さっぽろラーメン物語2"/>、喫茶店では1杯10銭のコーヒーとともに、1杯15銭のラーメンが売れていたという<ref name="さっぽろラーメン物語2"/>。これらの店に麺などの材料を卸していたのは、[[狸小路]]の「万福堂」の店主・王万世や市内の僧侶・吉田某といった者達であった<ref name="さっぽろラーメン物語3">富岡、17 - 21頁。</ref>。王は1937年の[[日中戦争]]後に帰国するが、戦前の札幌にラーメン文化の種を蒔いた人物として、「竹家食堂」の王らとともに今に記憶されている<ref name="さっぽろラーメン物語3"/>。
当時のラーメンは「手ぶみ式」と呼ばれた手打ちの麺に、鶏ガラや貝類でダシを取り、ラードや胡椒などで味付けした塩味のスープが主流であった<ref name="さっぽろラーメン物語3"/>。しかし、[[太平洋戦争]]下での物資統制による原料不足で、竹家をはじめすべての店が姿を消した<ref name="さっぽろラーメン物語4">富岡、27頁。</ref>。現在、のれん分けした「竹家」が[[兵庫県]][[神戸市]][[灘区]]で営業を継続している<ref>[[読売新聞]]、2002年4月17日</ref>。
現在のスタイルは、[[戦後|終戦直後]]の[[1946年]]頃に[[満州]]などからの引き揚げ者達が[[薄野]]の[[屋台]]で作った、[[豚骨]]から煮出した濃いスープによるラーメンが源流である<ref name="さっぽろラーメン物語5">富岡、28 - 30頁。</ref>。その元祖は1946年に[[松田勘七]]が開業した「龍鳳」といわれ<ref name="さっぽろラーメン物語5"/>、翌年[[西山仙治]]が開業した「だるま軒」とともに人気店となった<ref name="さっぽろラーメン物語5"/>。[[東京]]で中国料理の修業をした西山は製麺技術の高さに定評があり、「龍鳳」など他の店の麺作りも手がけるようになった<ref name="さっぽろラーメン物語5"/>。
[[1951年]]には「龍鳳」など8店による「'''[[公楽ラーメン名店街]]'''」が誕生し、初代「[[札幌ラーメン横丁]]」とされることもある<ref name="さっぽろラーメン物語6">富岡、37 - 38頁。</ref>。「龍鳳」などは醤油味が中心であり<ref name="さっぽろラーメン物語5"/>、[[1960年]]頃までは札幌ラーメンは醤油味が主であった<ref name="さっぽろラーメン物語7">富岡、48 - 53頁。</ref>。
[[1955年]]、「[[味の三平]]」の[[大宮守人]]が味噌ラーメンを開発する<ref name="さっぽろラーメン物語7"/><ref name="朝日新聞19690601">『[[朝日新聞北海道支社|朝日新聞北海道版]]』1969年6月1日。</ref>。同年「味の三平」を訪れた「[[暮しの手帖]]」元編集長[[花森安治]]に大宮が味噌ラーメンを出したところ、花森は「暮しの手帖」1955年11月号にその時のことを執筆したので、その名が全国に知られることになった<ref name="さっぽろラーメン物語7"/>。同じ頃、[[西山製麺]]によって味噌ラーメンに合う「多加水熟成麺」が開発される<ref name="nishiyamaa">[http://www.ramen.jp/manga.pdf 西山製麺とラーメンのあゆみ]</ref>。1963年、「味の三平」と[[大通]]の「熊さんラーメン」が、正式に味噌ラーメンをメニューに出した<ref name="さっぽろラーメン物語7"/>。その後、大宮の了承の元に、味噌ラーメン用「多加水熟成麺」が西山製麺より発売されて以来、市内の他の店でも使われるようになり、札幌ラーメンとしての「[[味噌ラーメン]]」が定着した<ref name="nishiyamaa"/><ref name="sitte">[https://www.youtube.com/watch?v=1oopBK4hewA YouTube - 知ってるつもり「札幌ラーメン物語 大宮守人」2001年1月21日放送]</ref>。
「暮しの手帖」での紹介を契機に、1950年代後半以降は新聞や雑誌等が「龍鳳」や「味の三平」などの有名店を頻繁に取り上げるようになり、御当地グルメとしての「札幌ラーメン」の知名度が上がっていっ た<ref name="さっぽろラーメン物語10">富岡、53 - 56頁。</ref>。さらに『[[サッポロ一番]]』(サンヨー食品)など、[[インスタントラーメン]]で「サッポロ」を冠した商品が数多く発売されたことによって、その人気は全国区のものとなった<ref name="さっぽろラーメン物語10"/>。1965年頃から、東京方面にも「札幌ラーメン」の看板を掲げた店が増えるようになり、1967年に青池保によって創業された「[[どさん子]]」は全国チェーンとなった<ref name="さっぽろラーメン物語10"/>。
「味の三平」のラーメンが雑誌や[[デパート]]の物産展などで全国的に広がったことから「札幌ラーメンは味噌ラーメン」と捉えられがちだが、「味の三平」など多くの札幌ラーメン店では醤油味・味噌味・塩味の3種類を提供しており<ref name="さっぽろラーメン物語9">富岡、84頁。</ref>、特段味噌ラーメンのみに傾注しているわけではない。
[[2001年]]、札幌ラーメンを含む北海道のラーメンが[[北海道遺産]]として認定された。
==麺==
「味の三平」が西山製麺所開発の「多加水熟成麺」の「ちぢれ麺」を使用したことにより、北海道全域で西山製麺を使う店舗が増えるようになった<ref name="nishiyamaa"/>。この「多加水熟成麺」は、粘り強いのを特徴としている<ref name="sitte"/><ref name="nishiyama"/>。このため首都圏などでも札幌ラーメンの特徴の1つとして西山製麺を使う店舗が存在する。
かつては西山製麺の他、堀川製麺、[[さがみ屋製麺]]、森住製麺などの麺を使用する店が多かったが<ref name="さっぽろラーメン物語10">富岡、53 - 56頁。</ref>、近年では上記のメーカーの他、小林製麺、和田山製麺、カネジン食品、札幌製麺、北海道熊さんなどの後発のメーカーの進出も目立ち、シェア争いは激化している<ref name="syokuryo">[[日本食糧新聞]]、2009年4月27日</ref>。また、自店で独自の製麺を行っている場合もある<ref name="syokuryo"/>。なお、堀川製麺の創業者の堀川寿一は、「ちぢれ麺」を機械で自動的に生産する手法を生み出したり、今も全国の製麺所で使われている、麺を一食分毎に裁断する機械を発明したことで知られる<ref name="さっぽろラーメン物語11">富岡、42 - 44頁。</ref>。
おおよそ、麺の太さを決める[[切刃番手]]で、22番の太めの麺が、使われる<ref name="nishiyama">[http://www.ramen.jp/wonderland/yougo/ka1.html ラーメン用語辞典 - 西山製麺株式会社]</ref>。
==スープ==
豚骨などを煮出したスープに札幌の気候に合わせラーメンが冷めるのを防ぐためにラードなどを浮かべる場合が多い<ref name="さっぽろラーメン物語5"/><ref name="さっぽろラーメン物語12">富岡、11頁。</ref><ref>[http://www.seimen.co.jp/wonderland/gotouchi/sapporo.html ご当地ラーメンと札幌ラーメン - 「札幌ラーメン」全国へ]</ref>。このスタイルを始めたのは「龍鳳」の松田勘七で、「龍鳳」では味付けに主に醤油を用いた<ref name="さっぽろラーメン物語5"/><ref name="さっぽろラーメン物語11"/>。これは、松田が戦前中国に住んでいた時に、日本人がどんな中国料理にも醤油を用いたがることをヒントにしたという<ref name="さっぽろラーメン物語5"/>。
==具材==
元来のチャーシュー・メンマ・ネギなどの他に、タマネギ・キャベツ・モヤシなどの炒めた野菜を載せるのが定番となっている<ref name="さっぽろラーメン物語13">富岡、35 - 37頁。</ref>。このスタイルを生み出したのは「味の三平」の大宮守人で、麺が茹で上がるまで手持ち無沙汰なので、その間フライパンで野菜でも炒めてみようかと思ったのがきっかけだという<ref name="さっぽろラーメン物語13"/>。なお、札幌ラーメンの代名詞とも言えるモヤシは、元々終戦直後高価であったタマネギの代用品として用いられたものであった<ref name="さっぽろラーメン物語13"/>。また、「味の三平」では味噌味の場合にはチャーシューではなく挽肉を使うため、市内の他の店でも味噌ラーメンには挽肉を用いるケースが多い<ref name="さっぽろラーメン物語7"/>。
==店舗==
{{出典の明記|date=2015年12月|section=1}}
;北海道内
:観光客の多い店舗では北海道をイメージさせる具材にバター・コーンをもちいた「コーンバターラーメン」がある。コーンバターラーメンは、1960年代から札幌駅前で営業していた「味の華平」(薄野に移転して営業していたが2020年に閉店<ref>[https://kaiten-heiten.com/ajinokahei/ 【閉店】味の華平 - 開店閉店.com]</ref>)が発祥の店で、本州の物産展などでも紹介されたことから全国的に知られるようになった<ref name="さっぽろラーメン物語14">富岡、90 - 92頁。</ref>。
:*ただしレギュラーのラーメンに標準で入っている店舗は珍しい。多くの店舗は独立したメニュー、もしくは追加のトッピングとしてとして存在する<ref>[http://www.sapporo-esta.jp/ramen/history/main_district.html 北海道3大ラーメン - ラーメンの歴史]</ref>。具材としてのバター・コーンは、道外からの観光客からはイメージ的に「入っていて当然」とされる反面、地元民にとっては決してメジャーなものではなく、バター・コーンのトッピングすら無い店も多い。
:観光客向けに、カニなどの高価な海産物を具に使った1000円以上の高級なラーメンをメニューに載せている場合もある。
;北海道外
:道外では、[[札幌市時計台]]など札幌を象徴するアイテムや[[エゾヒグマ|ヒグマ]]・[[アイヌ]]・[[シラカンバ|シラカバ]]など北海道全体の風土を象徴するアイテムを看板・店名などに用いる例も多い。また、[[青森県]]の[[青森市]]では独自のアレンジを施された「青森式」の札幌ラーメンが存在する。
;のれん
:新規開店した店に製麺会社が自社名入りの[[暖簾]]を贈るという習慣がある<ref>[http://www.sapporo-esta.jp/ramen/history/index.html 北海道ラーメンの歩み - ラーメンの歴史]</ref>。これは札幌を含めた北海道ご当地ラーメン店の特徴でもある。
==関連人物==
*[[王文彩]]
:札幌で最初のラーメン店である「竹家」で、ラーメンを作った中国人の料理人。
*[[大宮守人]]
:『[[味の三平]]』の創業者。「味噌ラーメン」を考案。
*[[西山孝之]]
:『[[西山製麺]]』の創業者。札幌ラーメンの「縮れ麺」の開発を行う。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
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==参考文献==
*富岡木之介著 『さっぽろラーメン物語』まんてん社、1977年
*小菅桂子著 『にっぽんラーメン物語』講談社、1998年
==関連項目==
{{Commonscat|Sapporo ramen}}
*[[札幌ラーメン横丁]]
*[[札幌ら〜めん共和国]]
*[[日本三大一覧]]
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[[Category:札幌ラーメン|*]]
[[Category:ラーメン]]
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14,910 |
コーラングレ
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コーラングレ(コール・アングレ、仏: Cor anglais)またはイングリッシュホルン(英: English horn)、コルノ・イングレーゼ(伊: Corno inglese)は、ダブルリードの木管楽器の一種である。名称は全て「イングランドのホルン」の意味。オーボエと同族のF管楽器で、オーボエよりも低い音を出す。まれにアルトオーボエ(alto oboe)と呼ばれることもある。日本語では、英国ホルンや英国オーボエとも呼ばれています。
コーラングレは、楽器の先端部(ベル)が、しばしば「洋梨」と形容されるように、丸く膨らんでいるのが外観的な特徴である。オーボエと同じ指使いでオーボエより完全5度低い音が出る(つまり、楽譜上の記音「ド」(ハ、C)の音を出すと、実際にはその下の「ファ」(ヘ、F)音が出る)。このため、オーボエ奏者が演奏しやすいよう、オーボエと同じ指使いの音を同じ音符で書く。従って、記譜された音から完全5度低く鳴るヘ調の移調楽器である(ごく稀に、アルト譜表に実音で記譜されることがある)。オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多い。
音域は2オクターブ半ほどである。ただし、オーボエの最低音変ロ(B♭)音に相当する音[実音で中央ハの下の変ホ(E♭)]を持たない楽器も珍しくない。
古典派の交響曲で使われることは少なかったが、ベルリオーズやフランクなどのロマン派時代から多用されるようになった。その独特の牧歌的でエキゾチックな響きから、オーケストラにおいては独奏楽器的な扱い方をされる場面も少なくない。基本的にはオーボエ奏者(性質上、2番奏者)が持ち換えるが、3管以上の編成では単独のパートとして書かれた楽曲も多い。
「コーラングレ」はフランス語で「イングランドのホルン」という意味だが、この楽器はイングランドとも(フレンチ)ホルンとも関係がない。コーラングレは1720年ごろにおそらくブレスラウのヴァイゲル家により、オーボエ・ダ・カッチャ(英語版)(イタリア語で「狩りのオーボエ」の意味)式の曲がった管体にあわせて球根形のベルをつけたことに始まる。2つのキーを持ち、ベルが開いていて、まっすぐなテノール・オーボエ(フランス語で「taille de hautbois」)、および朝顔形のベルをもつオーボエ・ダ・カッチャは、中世の宗教画に出てくる天使が吹くラッパを連想させたため、ドイツ語で「engellisches Horn」すなわち「天使の角笛」とよばれるようになった。engellisch という語は「天使の」のほかに「イングランドの」という意味もあったため、「天使の角笛」から「イングランドのホルン」に変化した。ほかによい別な名がなかったため、オーボエ・ダ・カッチャが1760年ごろ使用されなくなった後になっても、この曲がった球根形ベルをもつテノール・オーボエは同じ名前で呼ばれつづけた。
コーラングレ専用のパートを持つ最古の管弦楽譜は、1749年のニコロ・ヨンメッリのオペラ『エツィオ』のウィーン版で、ここではイタリア語で「corno inglese」と呼ばれている。それにつづく1750年代のグルックとハイドンの作品でも同様である。ほかにジュゼッペ・ボンノ、ヨハン・アドルフ・ハッセ、ヨーゼフ・シュタルツァーらのウィーンの作曲家や、ザルツブルクのミヒャエル・ハイドンが初期のコーラングレの使用者だった。またグルックに影響された人々、特にエクトル・ベルリオーズもコーラングレを使用した。コーラングレはまた18世紀末のイタリアオペラで使用された。最初のコーラングレ協奏曲は 1770年代に書かれた。「コーラングレ」という名前からは皮肉なことに、フランスでは1800年ごろ、英国では1830年代になるまでコーラングレは使用されなかった。「イングランドのホルン」に相当する名前は、イタリア語・フランス語・スペイン語などヨーロッパの諸言語でも使われている。
コーラングレの「アングレ」が中世フランス語の「anglé」(角ばった、角で曲がった。現代フランス語のangulaire)がくずれたものだという説が提唱されたこともあるが、この説は19世紀に cor anglais という語が出現する以前に cor anglé という語が使われたという証拠がないことから否定されている。この楽器の名が普通に現れるようになるのは、1741年以降のイタリア・ドイツ・オーストリアのスコアで、通常はイタリア語で「corno inglese」と記されている。
フランスでは19世紀のヴォーグト (Gustave Vogt) という名オーボエ奏者がコーラングレを得意とし、ロッシーニの『ウィリアム・テル』(1829年)序曲の有名なコーラングレのソロは彼による独奏を想定して書かれた。ベルリオーズもヴォーグトを尊敬し、『ファウストからの8つの情景』作品1(1828-1829年)や『幻想交響曲』(1830年)でコーラングレを使用している。ヴォーグトはギヨーム・トリエベール (de:Guillaume Triébert) と共同して楽器を改良し、その子のフレデリック・トリエベールが1860年代に開発した楽器では管体がまっすぐになった。1881年にトリエベールから独立したフランソワ・ロレ (F. Lorée) によって現代の形のコーラングレが作られた。
19世紀の最後の四半世紀を通じて、英語では、フランス語名「cor anglais」とイタリア語名「corno inglese」だけが使われた。いまでも英語圏でフランス語名が使われているのは注目に値する。英語の口語では常に「cor」と呼ばれる。
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コーラングレまたはイングリッシュホルン、コルノ・イングレーゼは、ダブルリードの木管楽器の一種である。名称は全て「イングランドのホルン」の意味。オーボエと同族のF管楽器で、オーボエよりも低い音を出す。まれにアルトオーボエと呼ばれることもある。日本語では、英国ホルンや英国オーボエとも呼ばれています。
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{{Infobox 楽器
|楽器名 = コーラングレ
|その他の名称 =
|英語名 = cor anglais,<br>english horn
|ドイツ語名 = Englisches Horn,<br>Englischhorn
|フランス語名 = cor anglais
|イタリア語名 = corno inglese
|中国語名 = 英国管、英國管
|画像 = 画像:Englischhorn.jpg
|画像サイズ = 90px
|縦長画像 = 5
|分類 =
[[木管楽器]] - [[ダブルリード|ダブルリード族]]
|音域 = 実音記譜<br>[[画像:Range english horn.png|120px|コーラングレの音域(実音)]]
|関連楽器 = *[[オーボエ]]
}}
'''コーラングレ'''('''コール・アングレ'''、{{lang-fr-short|Cor anglais}})または'''イングリッシュホルン'''({{lang-en-short|English horn}})、'''コルノ・イングレーゼ'''({{lang-it-short|Corno inglese}})は、[[ダブルリード]]の[[木管楽器]]の一種である。名称は全て「[[イングランド]]のホルン」の意味。[[オーボエ]]と同族のF管楽器で、オーボエよりも低い音を出す。まれに'''アルトオーボエ'''(alto oboe)と呼ばれることもある。[[日本語]]で、'''英国ホルン'''(えいこくホルン)、'''英国オーボエ'''(えいこくオーボエ)とも呼称ばれる。
== 概要 ==
コーラングレは、楽器の先端部(ベル)が、しばしば「洋梨」と形容されるように、丸く膨らんでいるのが外観的な特徴である。オーボエと同じ[[指使い]]でオーボエより[[完全5度]]低い音が出る(つまり、楽譜上の記音「ド」([[ハ (音名)|ハ]]、C)の音を出すと、実際にはその下の「ファ」([[ヘ (音名)|ヘ]]、F)音が出る)。このため、オーボエ奏者が演奏しやすいよう、オーボエと同じ指使いの音を同じ音符で書く。従って、記譜された音から完全5度低く鳴るヘ調の[[移調楽器]]である(ごく稀に、[[ハ音記号|アルト譜表]]に実音で記譜されることがある)。[[オーケストラ]]ではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多い。
音域は2オクターブ半ほどである。ただし、オーボエの最低音[[変ロ]](B♭)音に相当する音[実音で[[中央ハ]]の下の[[変ホ]](E♭)]を持たない楽器も珍しくない。
古典派の交響曲で使われることは少なかったが、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]や[[セザール・フランク|フランク]]などの[[ロマン派音楽|ロマン派時代]]から多用されるようになった。その独特の牧歌的で[[エキゾチック]]な響きから、オーケストラにおいては独奏楽器的な扱い方をされる場面も少なくない。基本的にはオーボエ奏者(性質上、2番奏者)が持ち換えるが、3管以上の編成では単独のパートとして書かれた楽曲も多い。
== 歴史と語源 ==
[[Image:Oboe_da_caccia.jpg|thumb|200px|コーラングレの原型となったオーボエ・ダ・カッチャ]]
「コーラングレ」はフランス語で「イングランドのホルン」という意味だが、この楽器はイングランドとも(フレンチ)[[ホルン]]とも関係がない。コーラングレは1720年ごろにおそらく[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]のヴァイゲル家により、{{仮リンク|オーボエ・ダ・カッチャ|en|oboe da caccia}}(イタリア語で「狩りのオーボエ」の意味)式の曲がった管体にあわせて球根形のベルをつけたことに始まる。2つのキーを持ち、ベルが開いていて、まっすぐなテノール・オーボエ(フランス語で「{{lang|fr|taille de hautbois}}」)、および朝顔形のベルをもつオーボエ・ダ・カッチャは、中世の宗教画に出てくる天使が吹くラッパを連想させたため、[[ドイツ語]]で「{{lang|de|engellisches Horn}}」すなわち「天使の角笛」とよばれるようになった。{{lang|de|engellisch}} という語は「天使の」のほかに「イングランドの」という意味もあったため、「天使の角笛」から「イングランドのホルン」に変化した。ほかによい別な名がなかったため、オーボエ・ダ・カッチャが1760年ごろ使用されなくなった後になっても、この曲がった球根形ベルをもつテノール・オーボエは同じ名前で呼ばれつづけた<ref name="angelic">{{citation|author=Michael Finkelman|chapter=Oboe: III. Larger and Smaller European Oboes, 4. Tenor oboes, (iv) English horn"|title=[[ニューグローヴ世界音楽大事典|The New Grove Dictionary of Music and Musicians]]|edition=2nd|editor=Stanley Sadie, John Tyrrell|location=London|publisher=Macmillan Publishers|year=2001|volume=18|pages=282-283|isbn=0333608003}}</ref>。
コーラングレ専用のパートを持つ最古の管弦楽譜は、1749年の[[ニコロ・ヨンメッリ]]のオペラ『エツィオ』のウィーン版で<ref>[http://vsl.co.at/en/70/3161/3168/3171/5566.vsl History of the English horn/cor anglais] at the Vienna Symphonic Library</ref>、ここではイタリア語で「{{lang|it|corno inglese}}」と呼ばれている<ref>Adam Carse, ''Musical Wind Instruments: A History of the Wind Instruments Used in European Orchestras and Wind-Bands from the Later Middle Ages Up to the Present Time'' (London: Macmillan and Co., 1939): 144.</ref>。それにつづく1750年代の[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]と[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]の作品でも同様である<ref name="finkel">Michael Finkelman, [http://portraits.klassik.com/musikzeitschriften/template.cfm?SEITE=1&START=1&AID=522 "Die Oboeinstrumente in tieferer Stimmlage – Teil 5: Das Englischhorn in der Klassik"], in ''[[:de:Tibia (Zeitschrift)|Tibia]]'' 99 (1999): 618–24. {{De icon}}</ref>。ほかに[[ジュゼッペ・ボンノ]]、[[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]、ヨーゼフ・シュタルツァーらのウィーンの作曲家や、[[ザルツブルク]]の[[ミヒャエル・ハイドン]]が初期のコーラングレの使用者だった<ref name="angelic"/>。またグルックに影響された人々、特に[[エクトル・ベルリオーズ]]もコーラングレを使用した<ref name="angelic"/>。コーラングレはまた18世紀末のイタリアオペラで使用された<ref name="angelic"/>。最初のコーラングレ協奏曲は 1770年代に書かれた。「コーラングレ」という名前からは皮肉なことに、フランスでは1800年ごろ、英国では1830年代になるまでコーラングレは使用されなかった<ref name="finkel" />。「イングランドのホルン」に相当する名前は、イタリア語・フランス語・スペイン語などヨーロッパの諸言語でも使われている。
コーラングレの「アングレ」が[[中世フランス語]]の「{{lang|fr|anglé}}」(角ばった、角で曲がった。現代フランス語の{{lang|fr|angulaire}})がくずれたものだという説が提唱されたこともあるが<ref>Michael Kennedy, "Cor anglais", ''The Oxford Dictionary of Music'', second edition, revised, Joyce Bourne, associate editor (Oxford and New York: Oxford University Press, 2006); A. J. Greimas, ''Dictionnaire de l'ancien français jusqu'au milieu du XIV siècle'', second edition (Paris: Librarie Larousse, 1968): 31. ISBN 2033402061.</ref>、この説は19世紀に {{lang|fr|cor anglais}} という語が出現する以前に {{lang|fr|cor anglé}} という語が使われたという証拠がないことから否定されている<ref>Adam Carse, ''Musical Wind Instruments: A History of the Wind Instruments Used in European Orchestras and Wind-Bands from the Later Middle Ages Up to the Present Time '' (London: Macmillan and Co., 1939): 143; Sybil Marcuse, "Cor anglais", in ''Musical Instruments: A Comprehensive Dictionary'', revised edition, The Norton Library (New York: W. W. Norton, 1975). ISBN 0-393-00758-8.</ref>。<!-- コーラングレは今も「ボーカル」という曲がった金属管によってリードと楽器本体を結び付けている。-->この楽器の名が普通に現れるようになるのは、1741年以降のイタリア・ドイツ・オーストリアのスコアで、通常はイタリア語で「{{lang|it|corno inglese}}」と記されている<ref>Willi Apel, "English Horn", ''The Harvard Dictionary of Music'', second edition (Cambridge: Harvard University Press, 1969). ISBN 0674375017.</ref>。
フランスでは19世紀のヴォーグト{{enlink|Gustave Vogt}}という名オーボエ奏者がコーラングレを得意とし、[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]の『[[ウィリアム・テル (オペラ)|ウィリアム・テル]]』(1829年)序曲の有名なコーラングレのソロは彼による独奏を想定して書かれた<ref name="angelic"/>。ベルリオーズもヴォーグトを尊敬し、『ファウストからの8つの情景』作品1(1828-1829年)や『[[幻想交響曲]]』(1830年)でコーラングレを使用している<ref name="angelic"/>。ヴォーグトはギヨーム・トリエベール{{enlink|Guillaume Triébert||de}}と共同して楽器を改良し、その子のフレデリック・トリエベールが1860年代に開発した楽器では管体がまっすぐになった<ref name="angelic"/>。1881年にトリエベールから独立したフランソワ・ロレ{{enlink|F. Lorée}}によって現代の形のコーラングレが作られた<ref name="angelic"/>。
19世紀の最後の四半世紀を通じて、英語では、フランス語名「{{lang|fr|cor anglais}}」とイタリア語名「{{lang|it|corno inglese}}」だけが使われた<ref>William Alexander Barrett, 1879. ''An Introduction to Form and Instrumentation for the Use of Beginners in Composition'' (London, Oxford, and Cambridge: Rivingtons, 1879): 55.</ref>。いまでも英語圏でフランス語名が使われているのは注目に値する。英語の口語では常に「{{lang|en|cor}}」と呼ばれる<ref name="DelMar143">Norman Del Mar, ''Anatomy of the Orchestra'' (Berkeley: University of California Press, 1981): 143. ISBN 0520045009 (cloth); ISBN 0520050622</ref>。
== 主な製造会社 ==
* フランス
**ロレー ''F.Lorée''
**リグータ ''Rigoutat''
**[[マリゴ (楽器メーカー)|マリゴ]] ''Marigaux''
* アメリカ
**ラウビン ''A. Laubin''
**フォックス ''Fox'' 管体にメープルを用いており重量が軽いといった特徴がある <ref>[http://foxwinds.com/instruments.html#eh FOX Winds - ENGLISH HORN]</ref>
*ドイツ
**メーニッヒ
== コーラングレが活躍する楽曲 ==
=== 協奏曲 ===
* [[ヨーゼフ・フィアラ]]:イングリッシュホルン協奏曲 変ホ長調([[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]協奏曲からの編曲)
* [[ガエターノ・ドニゼッティ|ドニゼッティ]]:イングリッシュホルン協奏曲
* [[ヴォルフ・フェラーリ]]:イングリッシュホルン協奏曲
* [[スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ|スクロヴァチェフスキ]]:イングリッシュホルン協奏曲
* [[ヴィンセント・パーシケッティ|パーシケッティ]]:イングリッシュホルン協奏曲
* [[ペーテリス・ワスクス|ペトリス・ヴァスクス]]:イングリッシュホルン協奏曲
* {{仮リンク|ネッド・ローレム|label=ローレム|en|Ned Rorem}}:イングリッシュホルン協奏曲
=== 室内楽曲・独奏曲 ===
* [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]:イングリッシュホルンと弦楽のためのアダージョ K.Anh94 (580a 断片)
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」の主題による8つの変奏曲 ハ長調 WoO 28(2つのオーボエとイングリッシュホルン)
* [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:2つのオーボエとイングリッシュホルンのための三重奏曲 ハ長調 Op.87
* {{仮リンク|アントニオ・パスクッリ|label=パスクッリ|en|Antonio Pasculli}}:歌劇『海賊』と『[[夢遊病の女]]』の主題によるイングリッシュホルンと[[ハープ]]のための[[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ|ベッリーニ]]へのオマージュ
* [[アーロン・コープランド|コープランド]]:静かな都会(イングリッシュホルン、トランペットと弦楽合奏)
* [[パウル・ヒンデミット]]:イングリッシュホルンソナタ
* [[小山清茂]]:イングリッシュホルンと吹奏楽のための音楽
* [[ヴィンセント・パーシケッティ|パーシケッティ]]:パラブル第15番(独奏)
=== 管弦楽曲等 ===
* [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]:[[マタイ受難曲|マタイ受難曲 BWV244]](オーボエ・ダ・カッチャ)、[[心と口と行いと生活で|カンタータ BWV147]](オーボエ・ダ・カッチャ)
* [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]:[[交響曲第22番 (ハイドン)|交響曲第22番変ホ長調『哲学者』]](2本同時に使用した、バロック以外では珍しい例)
*[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]:[[ウィリアム・テル序曲|オペラ「ウィリアム・テル」序曲]](「牧歌」)
* [[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]:[[幻想交響曲]](第3楽章)、[[ローマの謝肉祭 (序曲)|序曲「ローマの謝肉祭」]]、[[イタリアのハロルド]](第3楽章)
* [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]:[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|楽劇「トリスタンとイゾルデ」]](第3幕への前奏曲 - 長い無伴奏ソロ)
* [[セザール・フランク|フランク]]:[[交響曲 (フランク)|交響曲]](第2楽章)
* [[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]:[[交響曲第9番 (ドヴォルザーク)|交響曲第9番「新世界より」]](第2楽章 - 最も有名な例であろう)、劇的序曲「フス教徒」
* [[ジャン・シベリウス|シベリウス]]:「[[トゥオネラの白鳥]]」、「[[カレリア (シベリウス)|カレリア]]」組曲(第2曲「バラード」)
* [[アレクサンドル・ボロディン|ボロディン]]:「[[中央アジアの草原にて]]」「ダッタン人の踊り」
* [[ヴァシリー・カリンニコフ|カリンニコフ]]:[[交響曲第2番 (カリンニコフ)|交響曲第2番]]
* [[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]:[[ピアノ協奏曲 (ラヴェル)|ピアノ協奏曲ト長調]](第2楽章)、[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]
* [[アレクサンドル・グラズノフ|グラズノフ]]:[[交響曲第4番 (グラズノフ)|交響曲第4番]](第1楽章)
* [[オットリーノ・レスピーギ|レスピーギ]]:交響詩「[[ローマの松]]」(「アッピア街道の松」)
* [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]:[[スペイン奇想曲]]
* [[ジョルジェ・エネスク|エネスコ]]:[[ルーマニア狂詩曲|ルーマニア狂詩曲第2番]]
* [[ハヴァーガル・ブライアン|ブライアン]]:[[交響曲第32番 (ブライアン)|交響曲第32番]]
* [[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]:バレエ音楽「[[三角帽子 (ファリャ)|三角帽子]]」
* [[ファーディ・グローフェ|グローフェ]]:組曲「[[グランド・キャニオン (組曲)|グランド・キャニオン]]」(第1曲 日の出)
* [[ホアキン・ロドリーゴ|ロドリーゴ]]:[[アランフエス協奏曲]](第2楽章)
* [[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]:[[交響曲第8番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第8番]](第1楽章)、[[交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第11番「1905年」]](第4楽章)
* [[伊福部昭]]:[[交響譚詩]]
* [[芥川也寸志]]:[[交響管弦楽のための音楽]]
* [[大澤壽人]]:[[交響曲第2番 (大澤壽人)|交響曲第2番]](第2楽章(a) - コーラングレとオーケストラのアリア)
* [[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]:「[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]」組曲(「小人の[[ジャワズ|ジャワ族]]」)
=== 吹奏楽曲 ===
* [[フィリップ・スパーク|スパーク]]:「オリエント急行」「[[ドラゴンの年]]」
* [[ロバート・W・スミス]]:「インチョン」
* [[フランコ・チェザリーニ|チェザリーニ]]:「[[ビザンティンのモザイク画]]」
* [[ヨハン・デ・メイ]]:[[交響曲第2番 (デ・メイ)|交響曲第2番「ビッグ・アップル」]]
* [[アルフレッド・リード]]:「[[春の猟犬]]」「[[ロシアのクリスマス音楽]]」「[[アルメニアン・ダンス (リード)|アルメニアン・ダンス]]」
* [[ヤン・ヴァン・デル・ロースト|ヴァン・デル・ロースト]]:「[[スパルタクス (ヴァン・デル・ロースト)|スパルタクス]]」「[[カンタベリー・コラール]]」
* [[スティーヴン・メリロ|メリロ]]:「[[ゴッドスピード!]]」
* [[ジェイムズ・バーンズ (作曲家)|バーンズ]]:「交響的序曲」「[[交響曲第3番 (バーンズ)|交響曲第3番]]」
*[[大栗裕]]:「[[大阪俗謡による幻想曲]]」
* [[樽屋雅徳]]:「マリアの七つの悲しみ」
* [[フェレール・フェラン]]:交響組曲「ピノキオ」(第3楽章)
* [[真島俊夫]]:「三日月に架かるヤコブのはしご」「[[三つのジャポニスム]]」
=== その他 ===
* [[大野雄二]]:「光と風の四季」([[日本放送協会|NHK]] 『[[小さな旅]]』テーマ曲)
* [[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]:「[[学生街の喫茶店]]」、「[[ロマンス (ガロの曲)|二人だけの昼下り]]」
*ジョン・ウィリアムズ:「シンドラーのリスト」(映画『シンドラーのリスト』)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[ボーカル (楽器)]]
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学習塾
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学習塾(がくしゅうじゅく)とは、私的に子供を集めて、学校教育の補足や進学準備教育を行う施設(塾)。
東アジア諸国のように学習塾が多数ある地域がある一方で、フィンランドのヘルシンキのように学習塾に相当する機関そのものがほとんど存在せず一部の子どもが自由参加の学習サークルに参加している地域もある。
文部科学省の「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告」では、学習塾を「学校ではなく自宅外で、国語や算数等の教科の指導を行うものをいい、そろばん等のいわゆるおけいこごとは含まない」と定義している。なお、習い事は「自宅や自宅外で、習字、そろばん、ピアノやスポーツなどの指導を受けるものいう」と定義されている。
難関校進学クラスを持つ塾と持たない塾に分かれるが、大手進学塾では学力に応じてクラス分けしていることが多い。中小の大半の塾ではクラス分けをしていない。個別指導塾や自習式の塾は個人の実力に応じて対応できるためクラス分けがない。
昭和40年代より急激にその数を伸ばし、現在ではなくてはならない存在になっており、学校側も大手学習塾の指導法に注目している。かつて文部省(現: 文部科学省)は学習塾を好ましくない存在としていたが、文部大臣の諮問機関である生涯学習審議会が1999年(平成11年)に行った提言以来、学校教育と学習塾を共存させる方針に転換した(学習塾は文部科学省の所管だと思われがちだが、学習塾はサービス産業の業種なので経済産業省の所管である)。
塾が流行っている一因に、公立学校のゆとり教育への不安感がある。また、学習塾が「総合的な学習の時間」を提供する動きもある(詳細は、公立学校#日本の公立学校を巡る議論を参照)。ただし、「塾へ行っても学力低下は防ぎきれない」、「難問ばかりを教え、逆に基礎学力が伸び悩む生徒もいる」といった指摘がある。小中高生の多数が学校と塾・予備校を掛け持ちしており、心身に悪影響を与えるのではないかという指摘もある。
海外でも海外在住日本人子女の間で学習塾に通う子供が増加している。現地での学習では、帰国後日本の学校への入学・編入に求められる学習内容やレベルに合わせられないことが問題として挙げられる。
1984年(昭和59年)、香山健一は、中曽根康弘内閣の臨時教育審議会で、学習塾を学校として認知するよう主張した。
学習塾を取り巻く環境として、少子化、中高一貫校の増加により対象となる生徒が減少しているが、一方で通塾者の低年齢化、家計から学習塾への出費額の上昇による市場の拡大傾向が見られる。
大手塾の買収が増加していて、「中小規模の塾は生き残れないのではないか」とまで言われることもある。同業者同士の買収(例えば、東進ハイスクールによる四谷大塚の買収)もあるが、それ以上に異業種の参入が新しい動きとして出ている。特に通信教育最大手のベネッセは、この会社の販売する進研ゼミが補習教材であるため、既存塾業者とは段違いの資本力で塾を買収し、受験勉強時期の学生を取り込もうとしている。事実、ベネッセは2007年(平成19年)6月に東京個別指導学院を連結子会社化し、2007年(平成19年)12月3日には鉄緑会の買収を発表した。参考書や学習雑誌を販売する学研は、学校授業の予習復習を行う学研教室を持っているが、この生徒が受験勉強時期に退会するのを防ぐため、塾ビジネスに乗り出している。
少子化傾向に対応し、個別指導や概ね10人以下の少人数制授業の塾が多くなっている。集団授業の塾は大手塾で教室数を拡大する傾向にあるが、姉妹校として個別指導の塾を併設したり、塾内に個別指導ブースを併設する場合もある。個別指導といっても家庭教師のように1対1で教えるとは限らない。1人の講師が学年や科目の違う生徒3〜4人程度に対し同時に巡回指導するものも個別指導という。つまり「個別授業」ではなく「個別指導」なのである。当然1人の講師に対して生徒の人数が少ない分授業料はかなり高額になる。それでも学力が中程度かそれ以下の生徒には、集団授業に比べると行き届いた指導ができる。
個別指導の場合、巡回しながら学年や科目の違う指導に同時に対応できる能力と要領が求められる。一人の講師が全ての学年や科目を担当すると思われがちだが、講師の指導できる科目や学年のみを担当するので、講師が不得意な科目を教えることはない。しかし、これらの塾では「学習内容」の指導だけでなく「勉強の方法」の指導も行うことが多く、全体の流れを熟知し担当する生徒に応じたペース配分ができるようになるまで、講師にかかる負荷は大きい。
学習塾に対しては賛否両論があるが、近年の少子化や、長引く不景気などにより,全国的には市場規模は縮小傾向にある。近年では大都市圏などの駅前に多くの塾が乱立して、過当競争により閉鎖に追い込まれている塾もある。また、教員免許を取得していない講師や大学生による指導、行き過ぎた偏差値教育、学校の先生を差し置いて塾の先生が進路指導をするといった様々な矛盾がある。また、業界再編により、提携塾間で合格者を合算して本当の合格者数よりも多く水増しして広告などに合格実績を載せる学習塾も見られ、社会問題化している。2011年4月には大手進学塾が、水増し合格の表示をしたことに対して、消費者庁が行政処分を下した事件も起こった。また、一部の学習塾では出版社の許諾を得ないまま教科書から無断引用したり複製したりすることで教材を作成し、著作権侵害を指摘される事例が散見される。
学習塾に関連する統計を、以下に記す。
都市と地方では、都市の方が高い傾向にある。
以下は全国の塾軒数とその統計である。
韓国には学院(ハゴン)と呼ばれる学習塾が存在する。ソウルでは4人に3人が学習塾に通うといわれており、2014年の調査では5日以上学習塾に通う小学生は73.0%であった。韓国では小学3年生から英語が必修となるため、学習塾に通う小学生の約半数は外国語の学習塾を選択している。
2014年の調査では北京の小学生の通塾率は76.6%であった。北京では休日に学習塾に通っているケースが多く、通塾日数は1日または2日の小学生が多いが、学習塾での学習時間は一日当たり3時間から4時間が多かった。中国では小学3年生(北京では小学1年生)から英語が必修となるため、学習塾に通う小学生の約6割が英語の学習塾を選択している。
2021年、一人っ子政策を廃止した後も教育熱に応えた学習塾が教育費の高騰を招き、若者が子供を産むことをためらっていることが少子化の原因として、義務教育中の生徒を対象とした学習塾の規制を発表した。今後は新規の開業は認可されず、既存の塾も非営利団体として登記され、料金も政府の基準額に従う必要がある。この発表を受け、学習塾を経営する企業などの教育関連の株が急落した。
2014年の調査ではロンドンの小学生の通塾率は13.1%だった。学習塾以外の習い事をしている小学生が多く、スポーツが65.2%、音楽が18.1%、バレエやダンスが13.1%、絵画が11.4%だった。
2014年の調査ではワシントンD.C.の小学生の通塾率は7.2%だった。ワシントンD.C.でも学習塾以外の習い事をしている小学生が多く、スポーツが75.5%、音楽が27.5%、バレエやダンスが13.7%、絵画が11.5%だった。ディープ・ティーチング・ソリューションズによると、塾は非常に強力であることが証明されている。
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"title": "アメリカ合衆国における学習塾"
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学習塾(がくしゅうじゅく)とは、私的に子供を集めて、学校教育の補足や進学準備教育を行う施設(塾)。 東アジア諸国のように学習塾が多数ある地域がある一方で、フィンランドのヘルシンキのように学習塾に相当する機関そのものがほとんど存在せず一部の子どもが自由参加の学習サークルに参加している地域もある。
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'''学習塾'''(がくしゅうじゅく)とは、私的に子供を集めて、[[学校教育]]の補足や進学準備教育を行う施設([[塾]])。
東アジア諸国のように学習塾が多数ある地域がある一方で、[[フィンランド]]の[[ヘルシンキ]]のように学習塾に相当する機関そのものがほとんど存在せず一部の子どもが自由参加の学習サークルに参加している地域もある<ref name="soku08" />。
== 日本における学習塾 ==
=== 学習塾の定義 ===
[[文部科学省]]の「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告」では、学習塾を「学校ではなく自宅外で、[[国語]]や[[算数]]等の教科の指導を行うものをいい、[[そろばん]]等のいわゆるおけいこごとは含まない」と定義している<ref name="mext20">{{PDFlink|[https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/08/08080710/001.pdf 子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告(平成20年8月)]}} 文部科学省、2021年1月3日閲覧。</ref>。なお、習い事は「自宅や自宅外で、[[習字]]、そろばん、[[ピアノ]]や[[スポーツ]]などの指導を受けるものいう」と定義されている<ref name="mext20" />。
=== 学習塾の分類 ===
==== 学力別 ====
難関校進学クラスを持つ塾と持たない塾に分かれるが、大手進学塾では学力に応じてクラス分けしていることが多い。中小の大半の塾ではクラス分けをしていない。個別指導塾や自習式の塾は個人の実力に応じて対応できるためクラス分けがない。
; 難関校進学クラスを持つ塾
: 難関の学校に進学希望する生徒に、学校の授業より難しい内容を加え指導するクラスを持つ塾。入塾試験でクラス分けするところがほとんど。難関校を目指す生徒のみの塾はほとんどなく、ほとんどが学力別クラスを作った形を取っている。
; 一般の塾
: 学力別のクラスを持たない塾。中程度の学力レベルに合わせ、学校の授業より先行して授業を行ったり補習授業を行う。中小の学習塾の多くがこれに属する。
==== 人数別 ====
* 集団授業の塾
:: 1クラス概ね10人以上の[[学級|クラス]]構成の塾。大手塾では、[[社員]]扱いの講師が高度な内容のクラスを担当し、[[大学生]]などの[[アルバイト]]講師がそれ以外のクラスを担当することが多い。社員と大学生アルバイトなどの見分けが付かないので、習う側からは[[講師 (教育)|講師]]の質の判断が難しい。社員扱いの講師が担当するクラスは、1クラスの人数が多くなり授業料も高額になる。規模の拡大に伴い、主に下位クラスで講師の質が落ちていることもある<ref name="20070630toyokeizai">『週刊東洋経済』「激戦!塾ビジネス」2007年6月30日号</ref>。
:: 中堅塾では集団授業塾でも全てアルバイト講師というところも多く、この場合は授業料が比較的安価であることが多い。
* 自習形式の塾
:: クラスはなく広い部屋に異学年の小中学生を集め、様々な科目を自習形式で同時に学習する。解説の書いた専用のプリントと問題用紙をもらい自学自習する。採点者は採点に追われるので、ほとんど指導ができない。人数の多いところでは、アルバイト講師が巡回指導することもある。ほとんどが[[フランチャイズ]]形式で、家庭の主婦が指導者として行っているところが多い。[[日本公文教育研究会|公文式]]や[[学研教室]]がこれに当たる。
* [[少人数授業|少人数制授業]]の塾
:: 1クラス概ね5〜10名のクラス構成で個人経営の塾にこのタイプが多い。集団授業と違い個人指導もある程度できる。
* [[個別指導]]の塾
:: 1人の講師が概ね1〜4名の生徒を指導する。個人指導ができるが、講師1人に対する生徒が少ない分、授業料が高額。時間単価で比較すると、集団授業の塾の3〜6倍となる。苦手科目のフォローとして補修程度に使うのが無難だという声もある<ref name="20070630toyokeizai"/>。
=== 学習塾の発展と弊害 ===
昭和40年代より急激にその数を伸ばし、現在ではなくてはならない存在になっており、[[学校]]側も大手学習塾の指導法に注目している<ref>『朝日新聞』2006年3月1日付</ref>。かつて[[文部省]](現: [[文部科学省]])は学習塾を好ましくない存在としていたが、文部大臣の[[諮問機関]]である[[生涯学習審議会]]が[[1999年]]([[平成]]11年)に行った提言以来、学校教育と学習塾を共存させる方針に転換した(学習塾は文部科学省の所管だと思われがちだが、学習塾は[[サービス#サービス業、サービス産業|サービス産業]]の業種なので[[経済産業省]]の所管である)。
塾が流行っている一因に、公立学校の[[ゆとり教育]]への不安感がある。また、学習塾が「[[総合的な学習の時間]]」を提供する動きもある(詳細は、[[公立学校#公立学校を巡る議論]]を参照)。ただし、「塾へ行っても[[学力低下]]は防ぎきれない」<ref>苅谷剛彦・清水睦美・志水宏吉・諸田裕子『「学力低下」の実態』2002年、ISBN 978-4000092784</ref>、「難問ばかりを教え、逆に基礎学力が伸び悩む生徒もいる」<ref>産経iza「私立人気の影で(2)塾頼みの学力格差是正」[[2008年]]([[平成]]20年)[[1月17日]]付</ref>といった指摘がある。小中高生の多数が学校と塾・予備校を掛け持ちしており、心身に悪影響を与えるのではないかという指摘もある<ref>『児童生徒の学習塾通いの問題』1992年、教育白書([[文部省]](現: [[文部科学省]]))</ref>。
海外でも海外在住日本人子女の間で学習塾に通う子供が増加している。現地での学習では、帰国後日本の学校への入学・[[編入]]に求められる学習内容やレベルに合わせられないことが問題として挙げられる。
[[1984年]]([[昭和]]59年)、[[香山健一]]は、[[中曽根康弘]]内閣の[[臨時教育審議会]]で、学習塾を学校として認知するよう主張した。
=== 近年の塾の傾向 ===
学習塾を取り巻く環境として、[[少子化]]、[[中高一貫校]]の増加により対象となる生徒が減少しているが、一方で通塾者の低年齢化、家計から学習塾への出費額の上昇による市場の拡大傾向が見られる<ref name="20070630toyokeizai"/>。
==== 企業の買収 ====
大手塾の買収が増加していて、「中小規模の塾は生き残れないのではないか」とまで言われることもある。同業者同士の買収(例えば、東進ハイスクールによる四谷大塚の買収)もあるが、それ以上に異業種の参入が新しい動きとして出ている。特に[[通信教育]]最大手の[[ベネッセ]]は、この会社の販売する[[進研ゼミ]]が補習教材であるため、既存塾業者とは段違いの資本力で塾を買収し、受験勉強時期の学生を取り込もうとしている。事実、ベネッセは[[2007年]]([[平成]]19年)[[6月]]に[[東京個別指導学院]]を連結子会社化し、[[2007年]]([[平成]]19年)[[12月3日]]には[[鉄緑会]]の買収を発表した。[[参考書]]や学習雑誌を販売する[[学研ホールディングス|学研]]は、学校授業の予習復習を行う[[学研教室]]を持っているが、この生徒が受験勉強時期に退会するのを防ぐため、塾ビジネスに乗り出している<ref name="20070630toyokeizai"/>。
==== 少人数制授業へのシフト ====
[[少子化]]傾向に対応し、[[個別指導]]や概ね10人以下の少人数制授業の塾が多くなっている。集団授業の塾は大手塾で教室数を拡大する傾向にあるが、姉妹校として個別指導の塾を併設したり、塾内に個別指導ブースを併設する場合もある。個別指導といっても[[家庭教師]]のように1対1で教えるとは限らない。1人の講師が学年や科目の違う生徒3〜4人程度に対し同時に巡回指導するものも個別指導という。つまり「個別授業」ではなく「個別指導」なのである。当然1人の講師に対して生徒の人数が少ない分授業料はかなり高額になる。それでも学力が中程度かそれ以下の生徒には、集団授業に比べると行き届いた指導ができる。
個別指導の場合、巡回しながら学年や科目の違う指導に同時に対応できる能力と要領が求められる。一人の講師が全ての学年や科目を担当すると思われがちだが、講師の指導できる科目や学年のみを担当するので、講師が不得意な科目を教えることはない。しかし、これらの塾では「学習内容」の指導だけでなく「勉強の方法」の指導も行うことが多く、全体の流れを熟知し担当する生徒に応じたペース配分ができるようになるまで、講師にかかる負荷は大きい。
==== 不景気の長期化と学習塾の過当競争と問題点 ====
学習塾に対しては賛否両論があるが、近年の[[少子化]]や、長引く[[不況|不景気]]などにより,全国的には[[市場#経済学上の市場|市場]]規模は縮小傾向にある。近年では大[[都市]]圏などの[[駅前]]に多くの塾が乱立して、過当競争により閉鎖に追い込まれている塾もある。また、[[教育職員免許状|教員免許]]を取得していない講師や[[大学生]]による指導、行き過ぎた[[偏差値]]教育、学校の先生を差し置いて塾の先生が進路指導をするといった様々な矛盾がある。また、業界再編により、提携塾間で合格者を合算して本当の合格者数よりも多く水増しして広告などに合格実績を載せる学習塾も見られ、社会問題化している。2011年4月には大手進学塾が、水増し合格の表示をしたことに対して、[[消費者庁]]が[[行政行為|行政処分]]を下した事件も起こった。また、一部の学習塾では[[出版社]]の許諾を得ないまま[[教科書]]から無断引用したり複製したりすることで教材を作成し、[[著作権侵害]]を指摘される事例が散見される<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120403/crm12040319440012-n1.htm 塾教材で教科書無断使用 「著作権違反、認識なし」] 産経新聞、2012年4月3日</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120407-OYT1T00035.htm 進学塾「浜学園」、無許可で教科書コピー・使用] 読売新聞、2012年4月7日</ref>。
=== 統計 ===
学習塾に関連する統計を、以下に記す。
==== 通塾率 ====
{| border="1" cellspacing="0"
|+通塾率<ref name="200304mext">「完全学校週5日制の下での地域の教育力の充実に向けた実態・意識調査」文部科学省、[[2003年]]([[平成]]15年)[[4月]]</ref>(単位: %)
|- style="background:#efefef;"
!学年!!通塾率
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" | 小学校5年生
| 35.6
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" | 中学校3年生
| 62.5
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" | 高校2年生
| 12.7
|}
<small>都市と地方では、都市の方が高い傾向にある</small><ref name="200304mext"/>。
==== 学習塾費用 ====
{| border="1" cellspacing="0"
|+学習塾費用<ref name="200712mext">「平成18年度 子どもの学習費調査」文部科学省</ref>
|- style="background:#efefef;font-size:80%;"
! colspan="2" | 区分
! 学習塾へ費用を払っている<br>生徒の割合(%) !! 支出者の年平均額(千円)
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" rowspan="2" | 幼稚園
|| 公立 || 16.3 || 65
|- style="text-align: right;" !
|| 私立 || 19.9 || 101
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" rowspan="2" | 小学校
|| 公立 || 43.3 || 142
|- style="text-align: right;" !
|| 私立 || 68.2 || 287
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" rowspan="2" | 中学校
|| 公立 || 71.6 || 246
|- style="text-align: right;" !
|| 私立 || 53.6 || 221
|- style="text-align: right;"
!style="font-weight:bold;" rowspan="2" | 高校(全日制)
|| 公立 || 35.3 || 224
|- style="text-align: right;" !
|| 私立 || 42.9 || 337
|}
==== 都道府県別の学習塾の件数 ====
以下は全国の塾軒数とその統計である<ref>経済サンセス-基礎調査 2014</ref>。
{| class="wikitable mw-collapsible"
! rowspan="2" |順位
! rowspan="2" |都道府県
! colspan="2" |軒数
|-
! 総 数
!小中高生徒数1,000人
あたり
|-
!1
!和歌山県
|622軒
|5.85軒
|-
!2
!徳島県
|438軒
|5.59軒
|-
!3
!香川県
|565軒
|5.22軒
|-
!4
!愛媛県
|728軒
|5.01軒
|-
!5
!兵庫県
|3,006軒
|4.98軒
|-
!6
!広島県
|1,519軒
|4.93軒
|-
!7
!奈良県
|741軒
|4.91軒
|-
!8
!京都府
|1,311軒
|4.74軒
|-
!9
!岐阜県
|1,094軒
|4.72軒
|-
!10
!滋賀県
|775軒
|4.66軒
|-
!10
!高知県
|350軒
|4.66軒
|-
!10
!三重県
|945軒
|4.66軒
|-
!13
!山口県
|666軒
|4.61軒
|-
!14
!沖縄県
|874軒
|4.45軒
|-
!15
!神奈川県
|4,007軒
|4.40軒
|-
!16
!静岡県
|1,755軒
|4.32軒
|-
!17
!埼玉県
|3,233軒
|4.29軒
|-
!18
!鳥取県
|268軒
|4.28軒
|-
!19
!愛知県
|3,563軒
|4.27軒
|-
!20
!大阪府
|3,989軒
|4.24軒
|-
!21
!岡山県
|890軒
|4.14軒
|-
!22
!栃木県
|892軒
|4.11軒
|-
!22
!新潟県
|984軒
|4.11軒
|-
!24
!東京都
|4,984軒
|4.10軒
|-
!25
!山梨県
|387軒
|4.07軒
|-
!26
!千葉県
|2,579軒
|4.02軒
|-
!27
!石川県
|499軒
|3.90軒
|-
!28
!長野県
|917軒
|3.87軒
|-
!29
!大分県
|465軒
|3.70軒
|-
!30
!福島県
|770軒
|3.68軒
|-
!31
!茨城県
|1,139軒
|3.57軒
|-
!31
!秋田県
|358軒
|3.57軒
|-
!33
!長崎県
|553軒
|3.55軒
|-
!34
!群馬県
|774軒
|3.54軒
|-
!35
!佐賀県
|354軒
|3.53軒
|-
!36
!福岡県
|1,930軒
|3.52軒
|-
!37
!宮城県
|860軒
|3.48軒
|-
!38
!福井県
|307軒
|3.39軒
|-
!39
!宮崎県
|429軒
|3.35軒
|-
!40
!富山県
|375軒
|3.27軒
|-
!41
!鹿児島県
|608軒
|3.24軒
|-
!42
!島根県
|231軒
|3.11軒
|-
!43
!北海道
|1,599軒
|3.03軒
|-
!44
!熊本県
|602軒
|3.01軒
|-
!45
!青森県
|422軒
|3.00軒
|-
!46
!山形県
|336軒
|2.76軒
|-
!47
!岩手県
|344軒
|2.52軒
|-
!
!全国
|55,037軒
|4.10軒
|-
| colspan="4" |単位人口:小中高生徒数1,000人あたり (2014)
|}
== 韓国における学習塾 ==
{{main|{{ill2|ハグォン|en|Hagwon}}}}
韓国には学院(ハゴン)と呼ばれる学習塾が存在する<ref name="soku07">[https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/gakukihon_6toshi/soku/soku_07.html 学習基本調査・国際6都市調査・速報版 6/16] ベネッセ教育総合研究所、2021年1月3日閲覧。</ref>。ソウルでは4人に3人が学習塾に通うといわれており、2014年の調査では5日以上学習塾に通う小学生は73.0%であった<ref name="soku07" />。韓国では小学3年生から英語が必修となるため、学習塾に通う小学生の約半数は外国語の学習塾を選択している<ref name="soku07" />。
== 中国における学習塾 ==
{{seealso|{{ill2|補習班|zh|補習班}}}}
2014年の調査では北京の小学生の通塾率は76.6%であった<ref name="soku08">[https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/gakukihon_6toshi/soku/soku_08.html 学習基本調査・国際6都市調査・速報版 7/16] ベネッセ教育総合研究所、2021年1月3日閲覧。</ref>。北京では休日に学習塾に通っているケースが多く、通塾日数は1日または2日の小学生が多いが、学習塾での学習時間は一日当たり3時間から4時間が多かった<ref name="soku08" />。中国では小学3年生(北京では小学1年生)から英語が必修となるため、学習塾に通う小学生の約6割が英語の学習塾を選択している<ref name="soku07" />。
2021年、[[一人っ子政策]]を廃止した後も教育熱に応えた学習塾が教育費の高騰を招き、若者が子供を産むことをためらっていることが[[少子化]]の原因として、義務教育中の生徒を対象とした学習塾の規制を発表した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=中国学習塾、非営利団体に転換 政府が教育費抑制へ規制|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM2443H0U1A720C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-07-25|accessdate=2021-07-25|language=ja}}</ref>。今後は新規の開業は認可されず、既存の塾も非営利団体として登記され、料金も政府の基準額に従う必要がある<ref name=":0" />。この発表を受け、学習塾を経営する企業などの教育関連の株が急落した<ref>{{Cite news|title=中国、営利目的の個別学習指導禁止 関連企業の株価急落|url=https://jp.reuters.com/article/china-education-idJPKBN2ET269|work=Reuters|date=2021-07-23|accessdate=2021-07-25|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。
== イギリスにおける学習塾 ==
2014年の調査ではロンドンの小学生の通塾率は13.1%だった<ref name="soku09">[https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/gakukihon_6toshi/soku/soku_09.html 学習基本調査・国際6都市調査・速報版 8/16] ベネッセ教育総合研究所、2021年1月3日閲覧。</ref>。学習塾以外の習い事をしている小学生が多く、スポーツが65.2%、音楽が18.1%、バレエやダンスが13.1%、絵画が11.4%だった<ref name="soku09" />。
== アメリカ合衆国における学習塾 ==
2014年の調査では[[ワシントンD.C.]]の小学生の通塾率は7.2%だった<ref name="soku09" />。ワシントンD.C.でも学習塾以外の習い事をしている小学生が多く、スポーツが75.5%、音楽が27.5%、バレエやダンスが13.7%、絵画が11.5%だった<ref name="soku09" />。ディープ・ティーチング・ソリューションズによると、塾は非常に強力であることが証明されている<ref>{{Cite web|和書|title=Uncommon Sense Teaching: Part 2, Building Community and Habits of Learning |url=https://www.coursera.org/learn/building-community-habits-of-learning |website=Coursera |access-date=2022-11-10 |language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Juku in Japan}}
* [[学習塾・予備校の一覧]]
* [[予備校]]
* [[学校]]
* [[受験]]
** [[中学受験]] - [[高校受験]]
* [[フリースクール]]
* [[個別指導]]
* [[英会話教室]]
* [[模擬試験]]
* [[教育ママ]]
* [[ゆとり教育]]、{{ill2|双減政策|zh|双减政策}}(中国のゆとり教育)
* {{ill2|補習班|zh|補習班}} ‐ 中華圏の学習塾。
* [[家庭教師]]、[[チューター]]、{{ill2|ホームワーク・コーチ|en|Homework coach}}
* {{ill2|アフタースクール・アクティビティ|en|After-school_activity}} ‐ 学外活動。習い事や学習塾などの活動について。
{{学校}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かくしゆうしゆく}}
[[Category:学習塾|*]]
[[Category:学校]]
[[Category:入学試験]]
|
2003-09-03T16:49:05Z
|
2023-12-30T13:10:36Z
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[
"Template:学校",
"Template:Seealso",
"Template:Reflist",
"Template:PDFlink",
"Template:Cite web",
"Template:Commonscat",
"Template:Ill2",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite news",
"Template:Normdaten"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E5%A1%BE
|
14,915 |
月遅れ
|
月遅れ(つきおくれ)は、日本の年中行事の日付に関する取り扱いの一つ。
日本の年中行事は、太陰太陽暦である旧暦を使用していた時代に定められたものが多い。これを、太陽暦(グレゴリオ暦)である新暦でもそのままの日付で行うと、季節が約1か月早くなる。このため、年中行事が本来の季節からずれてしまい、その時期に行う意味が薄れてしまうものが多数存在し、農繁期との重なりも不都合であった。そこで、暦の上での日付を1か月遅らせることにより、旧暦の時代の季節から大きくずれないようにする方法を取るようになった。これが月遅れである。
月遅れが採用されている代表的なものにお盆がある。旧暦7月15日のお盆は、ほとんどの地方で月遅れの8月15日に行われ、この時期を夏休み(お盆休み)としている会社や団体なども多い。また、旧暦6月30日(6月晦日)の夏越の祓(茅の輪くぐり)も、民間においては月遅れの7月31日に行われることが少なくない(晦日が月の大小の兼ね合いで31日となる)。他にも、初穂を天照大神に奉る旧暦9月17日の神嘗祭は、改暦に応じて一旦新暦の9月17日を採用したものの、稲の生育が不十分な時期となってしまったため、月遅れの10月17日へ早々に変更されている。
一方、五節句などの日付に意義がある行事では月遅れはほとんど採用されず、時期が大きくずれた状態になっている。端午にちなむこいのぼりは、元来梅雨の季節である旧暦5月に雨中で鯉が天に昇って竜になること(登竜門)にあやかって、江戸時代に武士の子弟の出世を願って掲げるものであった。しかし、新暦の5月は梅雨の季節ではない。七夕は元来梅雨明け後の旧暦7月7日に行うものであり、お盆直前の行事だった。しかし、新暦の7月7日では梅雨の最中になってしまう。なお、仙台七夕は月遅れを採用しており、例年8月6日から8日に開催される。桃の節句と呼ばれる上巳でも、桃の開花時期を重視して月遅れの新暦4月3日に行う地方もある。五節句の他にも、年越(大晦日)・元日は日本では新暦が一般的で、旧正月を大々的に行うのは南西諸島の一部に限られる。
月遅れと旧暦を混同して月遅れの行事を「旧○○」(旧盆など)と呼ぶこともあるが、旧暦に基づく日付と必ずしも同一にはならない。
新暦と旧暦の日付のずれは、太陽暦と太陰太陽暦の違いが原因ではなく、1年の始まりの日の違いに起因する。
新暦では325年の第1ニカイア公会議において、春分の日付を3月21日と定めた。1月1日はその79日前(平年)か80日前(閏年)に当たる。一方、旧暦では元来雨水を含む月を1月とし、その直前の新月の日が1月1日となる。雨水は新暦では2月19日前後に当たり、旧暦の1か月の長さは29日か30日であるため、旧暦1月1日に当たる新暦の日付は1月19日から2月20日の間に来ることになる。他の日付も概ね同様であり、旧暦の日付は新暦の同じ日付の19〜51日後となる。
そこで、新暦でまる1か月(28〜31日)遅れた日付を取ればこの中に収まり、旧暦の日付と季節が大きくずれることはないのである。
|
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"text": "月遅れ(つきおくれ)は、日本の年中行事の日付に関する取り扱いの一つ。",
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"text": "日本の年中行事は、太陰太陽暦である旧暦を使用していた時代に定められたものが多い。これを、太陽暦(グレゴリオ暦)である新暦でもそのままの日付で行うと、季節が約1か月早くなる。このため、年中行事が本来の季節からずれてしまい、その時期に行う意味が薄れてしまうものが多数存在し、農繁期との重なりも不都合であった。そこで、暦の上での日付を1か月遅らせることにより、旧暦の時代の季節から大きくずれないようにする方法を取るようになった。これが月遅れである。",
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月遅れ(つきおくれ)は、日本の年中行事の日付に関する取り扱いの一つ。
|
{{出典の明記|date=2013年10月27日 (日) 23:29 (UTC)}}
'''月遅れ'''(つきおくれ)は、[[日本]]の[[年中行事]]の日付に関する取り扱いの一つ。
== 概要 ==
日本の年中行事は、[[太陰太陽暦]]である[[旧暦]]を使用していた時代に定められたものが多い。これを、[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])である[[新暦]]でもそのままの日付で行うと、[[季節]]が約1か[[月 (暦)|月]]早くなる。このため、年中行事が本来の季節からずれてしまい、その時期に行う意味が薄れてしまうものが多数存在し、[[農業|農繁期]]との重なりも不都合であった。そこで、暦の上での日付を1か月遅らせることにより、旧暦の時代の季節から大きくずれないようにする方法を取るようになった。これが月遅れである。
月遅れが採用されている代表的なものに[[お盆]]がある。[[7月15日 (旧暦)|旧暦7月15日]]のお盆は、ほとんどの地方で月遅れの[[8月15日]]に行われ、この時期を[[夏休み]](お盆休み)としている会社や団体なども多い。また、[[6月30日 (旧暦)|旧暦6月30日]](6月[[晦日]])の[[大祓#夏越の祓|夏越]]の祓(茅の輪くぐり)も、民間においては月遅れの[[7月31日]]に行われることが少なくない([[晦日]]が[[月の大小]]の兼ね合いで31日となる)。他にも、初穂を[[天照大神]]に奉る[[9月17日 (旧暦)|旧暦9月17日]]の[[神嘗祭]]は、改暦に応じて一旦新暦の[[9月17日]]を採用したものの、[[イネ|稲]]の生育が不十分な時期となってしまったため、月遅れの[[10月17日]]へ早々に変更されている。
一方、[[五節句]]などの日付に意義がある行事では月遅れはほとんど採用されず、時期が大きくずれた状態になっている。[[端午]]にちなむ[[こいのぼり]]は、元来[[梅雨]]の季節である[[5月 (旧暦)|旧暦5月]]に雨中で[[コイ|鯉]]が天に昇って[[竜]]になること([[登龍門|登竜門]])にあやかって、[[江戸時代]]に[[武士]]の子弟の[[昇進|出世]]を願って掲げるものであった。しかし、新暦の5月は梅雨の季節ではない。[[七夕]]は元来梅雨明け後の[[7月7日 (旧暦)|旧暦7月7日]]に行うものであり、お盆直前の行事だった。しかし、新暦の[[7月7日]]では梅雨の最中になってしまう。なお、[[仙台七夕]]は月遅れを採用しており、例年8月6日から8日に開催される。[[モモ|桃]]の節句と呼ばれる[[上巳]]でも、桃の開花時期を重視して月遅れの新暦[[4月3日]]に行う地方もある。五節句の他にも、[[年越し|年越]]([[大晦日]])・[[元日]]は日本では新暦が一般的で、[[旧正月]]を大々的に行うのは[[南西諸島]]の一部に限られる。
月遅れと旧暦を混同して月遅れの行事を「旧○○」(旧盆など)と呼ぶこともあるが、旧暦に基づく日付と必ずしも同一にはならない。
== 日付のずれの原因 ==
新暦と旧暦の日付のずれは、太陽暦と太陰太陽暦の違いが原因ではなく、1年の始まりの日の違いに起因する。
新暦では[[325年]]の[[第1ニカイア公会議]]において、[[春分]]の日付を[[3月21日]]と定めた。[[1月1日]]はその79日前([[平年]])か80日前([[閏年]])に当たる。一方、旧暦では元来[[雨水]]を含む月を[[1月 (旧暦)|1月]]とし、その直前の[[新月]]の日が[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]となる。雨水は新暦では[[2月19日]]前後に当たり、旧暦の1か月の長さは29日か30日であるため、旧暦1月1日に当たる新暦の日付は[[1月19日]]から[[2月20日]]の間に来ることになる。他の日付も概ね同様であり、旧暦の日付は新暦の同じ日付の19〜51日後となる。
そこで、新暦でまる1か月(28〜31日)遅れた日付を取ればこの中に収まり、旧暦の日付と季節が大きくずれることはないのである。
== 関連項目 ==
* [[旧暦]]
* [[新暦]]
* [[五月晴]] - 梅雨時の晴れ間
{{DEFAULTSORT:つきおくれ}}
[[Category:日本の年中行事]]
[[Category:暦法]]
|
2003-09-03T17:05:19Z
|
2023-08-13T05:59:22Z
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[
"Template:出典の明記"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%81%85%E3%82%8C
|
14,917 |
新暦
|
新暦(しんれき)とは、改暦が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。日本ほか東アジアの諸国においては太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言う。
英語圏では「New Style dates」と「Old Style dates」はグレゴリオ暦とユリウス暦の日付を区別する言葉。「新式」と「旧式」という意味。グレゴリオ暦からの日付の後には「NS」と書き、ユリウス暦からの日付の後には「OS」などと書いた。イギリスはグレゴリオ暦へ移るのが他国より遅く、両暦の日付がしばし混在したので区別する必要性が高かった。
現在の日本では、明治5年まで使用していた太陰太陽暦の天保暦を指して「旧暦」と呼ぶとき、現在使用している太陽暦であるグレゴリオ暦を指して「新暦」と呼んでいる。
七夕など年中行事のうち旧暦の月日に基づいていた日付の新暦への移行は、日本では「新暦の同月同日に行う」か「新暦で1ヶ月後の同日に行う」(いわゆる「月遅れ」)が多く、「中秋の名月」のように月の満ち欠けに関連するため動かせないものを除き、計算上の旧暦に従うものはあまり多くない(なお海外には、漢字文化圏の旧正月など、国法のレベルで旧暦を一部ながら保存している例も見られる)。
以下では明治改元と併せて説明する。また暦法は広義には時法に含まれるため、同時に導入された定時法についても言及する。
|
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"text": "新暦(しんれき)とは、改暦が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。日本ほか東アジアの諸国においては太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言う。",
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"text": "英語圏では「New Style dates」と「Old Style dates」はグレゴリオ暦とユリウス暦の日付を区別する言葉。「新式」と「旧式」という意味。グレゴリオ暦からの日付の後には「NS」と書き、ユリウス暦からの日付の後には「OS」などと書いた。イギリスはグレゴリオ暦へ移るのが他国より遅く、両暦の日付がしばし混在したので区別する必要性が高かった。",
"title": "英語圏での新暦"
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"text": "現在の日本では、明治5年まで使用していた太陰太陽暦の天保暦を指して「旧暦」と呼ぶとき、現在使用している太陽暦であるグレゴリオ暦を指して「新暦」と呼んでいる。",
"title": "日本での新暦"
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"text": "七夕など年中行事のうち旧暦の月日に基づいていた日付の新暦への移行は、日本では「新暦の同月同日に行う」か「新暦で1ヶ月後の同日に行う」(いわゆる「月遅れ」)が多く、「中秋の名月」のように月の満ち欠けに関連するため動かせないものを除き、計算上の旧暦に従うものはあまり多くない(なお海外には、漢字文化圏の旧正月など、国法のレベルで旧暦を一部ながら保存している例も見られる)。",
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"text": "以下では明治改元と併せて説明する。また暦法は広義には時法に含まれるため、同時に導入された定時法についても言及する。",
"title": "日本での新暦"
}
] |
新暦(しんれき)とは、改暦が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。日本ほか東アジアの諸国においては太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことを言う。
|
{{出典の明記|date=2016年1月}}
'''新暦'''(しんれき)とは、[[改暦]]が行われた場合の改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は[[旧暦]]という。[[日本]]ほか[[東アジア]]の諸国においては[[太陰太陽暦]]から改暦した[[太陽暦]]([[グレゴリオ暦]])のことを言う。
== 英語圏での新暦 ==
{{main|en:Old Style and New Style dates|新暦と旧暦の日付}}
英語圏では「{{lang|en|New Style dates}}」と「{{lang|en|Old Style dates}}」はグレゴリオ暦と[[ユリウス暦]]の日付を区別する言葉。「新式」と「旧式」という意味。グレゴリオ暦からの日付の後には「NS」と書き、ユリウス暦からの日付の後には「OS」などと書いた。[[イギリス]]はグレゴリオ暦へ移るのが他国より遅く、両暦の日付がしばし混在したので区別する必要性が高かった。
== 日本での新暦 ==
現在の日本では、[[明治]]5年まで使用していた[[太陰太陽暦]]の[[天保暦]]を指して「旧暦」と呼ぶとき、現在使用している太陽暦であるグレゴリオ暦を指して「新暦」<ref>大辞林 第三版『新暦』</ref>と呼んでいる<ref group="注">天保暦を「[[和暦]]」と呼ぶ場合は、現在のグレゴリオ暦は「洋暦」ということになるがほとんど用いられていない。なお[[西暦]]は本来[[紀年法]]のことであり、[[暦法]]ではなかったが後に混同された</ref>。
[[七夕]]など[[年中行事]]のうち旧暦の月日に基づいていた日付の新暦への移行は<ref group="注">[[八十八夜]]など、もともと旧暦の季節からのズレを嫌って発生した、太陽暦をベースとした雑節も日本には多い</ref>、日本では「新暦の同月同日に行う」か「新暦で1ヶ月後の同日に行う」(いわゆる「'''[[月遅れ]]'''」)が多く、「[[月見#八月十五夜|中秋の名月]]」のように[[月]]の満ち欠けに関連するため動かせないものを除き、計算上の旧暦に従うものはあまり多くない(なお海外には、[[漢字文化圏]]の[[旧正月]]など、国法のレベルで旧暦を一部ながら保存している例も見られる)。
=== 旧暦から新暦への変更に伴う日付の変更 ===
{{Main|明治改暦}}
以下では明治[[改元]]と併せて説明する。また[[暦法]]は広義には[[時法]]に含まれるため、同時に導入された[[時刻#区分法の別とその変遷|'''定時法''']]についても言及する。
; 慶応4年(戊辰)
:* 9月8日([[1868年]]10月23日)、[[一世一元の詔|明治改元の詔]]により[[改元]]。
:: 布告された年の'''元日に遡って'''新元号の元年と見なす'''立年改元'''であったため、慶応4年1月1日は[[明治]]元年1月1日(1868年1月25日)とされた。この時点では、「'''改暦は行われていない'''」。
:* この年は[[閏月]]の閏4月を含む[[閏年]]であり、[[月の大小]]は「小大大小小(=閏4月)大小小大小大大小<ref group="注">「大の月」は30日間、「小の月」は29日間。</ref>」で、13か月、383日間あった。
; 明治2年(己巳)
:* この年の月の大小は平年のため「大大大小小大小小大小大大」で、355日間あった。
; 明治3年(庚午)
:* この年は閏月の閏10月を含む閏年であり、 月の大小は「小大大小大小大小大小(=閏10月)小大」で、13か月、383日間あった。
; 明治4年(辛未)
:* この年の月の大小は平年のため「大大小大大小大小大小小大」で、355日間あった。
; [[明治5年]](壬申)
:* この年の月の大小は平年のため「小大小大大小大大小大小大」で、当初は355日間となるはずだった。
:* 2月、全国の暦屋を集結させて[[頒暦商社]]を建て、暦の発行を限定させた。翌年の暦(旧暦)の原本を下げ渡し、[[冥加金]]名目で徴収(1万円)<ref name=meijikaireki>ウェブマガジン「月と月暦」[http://www.ganshodo.co.jp/mag/moon/files/m_c101.html 『乱暴な明治改暦』]</ref>した。
:* 3月24日([[1872年]]5月1日)、頒暦商社が政府に承認される。
:* 10月1日(11月1日)、翌年の暦(天保暦)が一斉に発売
:* 11月9日(12月9日)、[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]337号により改暦を[[公布]]。
:: 来る12月2日を以って天保暦を廃すること、それまでの'''[[不定時法]]'''に代わり'''[[定時法]]'''を採用するとした。
:: 庶民は突然、購入した暦が使えなくなり、返本により商社は4万円に迫る損害を被ったとされる<ref name=meijikaireki />。
:: 翌年、政府は商社に損失の補填として、以降10年間の暦の独占発行を保証した。
:* 11月23日(12月23日)、太政官布告359号。この年の12月を廃し11月で終わることとする。
:* 11月24日(12月24日)、天保暦に本来はないはずの 11月30日、11月31日ができてしまうため太政官達書で前日の布告を取り消す。
:* 11月27日(12月27日)、太政官布達374号。公職の12月分の給料を不給とする<ref group="注">これが明治政府の改暦の目的だったとされる</ref>。
:* 12月2日(12月31日)、この日を以って'''天保暦廃止'''。
:: このため[[明治5年]]の12月は2日間しかなく、1年間の長さは327日間となった。
:: [[師走]]の期間がほとんどなく、年中行事に支障をきたした<ref group="注">天保暦と合わせ、晴れた夜は月を見ることで日付をおおよそ確認ができ、これが習慣であったために新暦は戸惑いと一部には嫌悪感を産み、公然と反対するものもいた。新暦への戸惑いの一例が[[浅野梅堂]]『随筆聽興』にある。{{quote|同じき年の冬(明治五年)十一月に布告ありて、来月三日は西洋の一月一日なれば吾邦も西洋の暦を用ふべしとて、十二月は僅か二日にして一月一日となりぬ、されば暮の餅つくこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋にかひもとめて、ことをすますものあり(中略)、詩歌を作るにも初春といひ梅柳の景物もなく、春といふべからねば、桃李櫻花も皆夏咲くことになりて、趣向大ちがいとなれり。|浅野梅堂『随筆聽興』}}</ref>。
; 明治6年([[1873年]])
:* 1月1日(1873年1月1日)、'''改暦が施行された(明治改暦)'''。
:: 天保暦が'''「旧暦」'''となり、これに対して改暦後の現在の暦が'''「新暦」'''と呼ばれるようになる<ref group="注">よってこの日は「旧暦の明治5年12月3日」と呼ぶことになるが、公的には存在しない日付であり、通常用いられることはない</ref>。
:* この年は新暦で初めての平年となり、365日間あった。
:* 同時に'''[[時刻#時法|時法]]の改定'''が行われた。
:: それまでは[[日の出]]と[[日没]]を以って夜昼を分け、それぞれを12等分して時刻(これを[[十二時辰]]という)とする'''不定時法'''が用いられ、各時辰には「字」を当てて呼んでいた(例えば子の刻は「子字」)。
:: 改定の布告では、1日を日の出や日没に拠らずに24時間に等分する'''定時法'''に改められ、また「字」を「時」とし(よって子の刻は「子時」となる)、午刻より前を「午前」、午刻より後ろを「午後」と定めた。これにより、前年(明治5年)9月12日(1872年10月15日)に[[日本の鉄道開業|開通したばかりの鉄道]]は、発着時刻の対応を迫られた。
:* [[旧暦]]を使って明治6年を表記すると、癸酉年で、閏月の閏6月を含む閏年であり、月の大小は「小小大小大小大(=閏6月)大小大大小大」で、13か月、384日間となる。これは新暦の1873年1月29日から翌[[1874年]]2月16日までに相当する。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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フェンシング
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フェンシング(英: fencing)は、フランスで発祥した剣を用いるスポーツ競技である。
フェンシングでは、二人の選手が向かい合って立ち、片手に持った剣で互いの体を突いて勝敗を決める。攻撃(剣で相手の体に触れる)を成功させるとポイントとなり、規定のポイントを先取した選手が勝利する。
「フルーレ」「エペ」「サーブル」の三種目があり、使用する剣・ルールがそれぞれ異なる。フランスで発達した剣術が原型で、用語にはフランス語が多い。
フェンシングの原形は、中世の騎士たちによる剣術にあるとされている。これらは実戦的な剣術であったが、鎧や盾などの防具、そして火器の発達によって剣(特に長い剣)が戦場で使われることは少なくなっていった。しかし、剣という武器は騎士の名誉の象徴であり、戦場で役に立たなくなってもフランスの上流階級は剣術を嗜み続け、19世紀の末にはフランス各地で盛んに競技として行われるようになっていった。
国や地方によってルールがばらばらであったため、競技のルールを統一するために、1911年、国際フェンシング連盟(FIE)がパリに設立され、スポーツとしての近代フェンシングが始まった。
試合はピストと呼ばれる細長い台の上で行われる。現代のフェンシングでは、ピストは幅1.5mから2m、長さ14mである。両選手はピスト中央に4mの距離をおいて構え(アンガルド)の姿勢から試合を開始する。
2人の出場選手がピスト(フェンシングの試合場)に入り、主審が剣と服装を検査する。「Rassemblez ! Saluez !」(気をつけ、礼)の合図で試合前の敬礼をする。「En garde !」(構え)の合図でマスクを着用し、スタートラインに前に出す足の爪先を付けて構える。
主審が「Êtes-vous prêts ?」または「Prêts ?」(用意はいいか?)と確認し、選手は「Oui.」(よし)または「Non.」(まだ)で答える。両者が「ウィ」となったのを確認後、主審による「Allez !」(始め)の合図で試合が開始される。
勝敗の決着がついたら、再度「Rassemblez ! Saluez !」の合図で試合終了の敬礼をし、対戦相手と握手を交わす。その後ピストから退出する。
フェンシングではフルーレ、エペ、サーブルの3種の武器があり、これらがそのまま種目名となっている。
これらの武器は19世紀末に標準となったものである。また、伝統的な教育の場では、大杖やレイピア、ダガー、ブロードソード、ツーハンデッドソード、ソードブレイカー、マン・ゴーシュといった歴史的なフェンシングの武器についても学ぶことがある。西洋剣術、サバットとも関連がある。
突きのみが有効で攻撃権(後述)がある。フルーレにはフェンシングの基本技術が集約されているため、初心者は最初にフルーレを教えられることが多かった。また過去においてフルーレは女性が行う唯一の種目であり、剣が軽いため子供が扱うことも容易であった。今日ではフルーレ以外の武器から始めることも多い。
フルーレはレイピアを軽量化したスモールソード用の練習剣に由来する。断面が四角でしなやかなブレード(剣針)をもつ軽い剣である。今日では電気剣が使用されており、最低5.00N(おおよそ0.510kgf)以上の力が剣先に加わることで打突が判定される。
フルーレでの突きの有効面は、頭部と四肢を除いた胴体の両面である。これはフェンシングの練習に制限のある防具を使用していた頃の名残である。
エペは、伝統的なフェンシングで用いられていた決闘用の武器に最も近い剣である。フルーレと対照的に重量があり、断面が三角形で曲がりにくく長いブレードと大きくて丸いお椀型の鍔(ガルト)を持つ。電気剣での突きが有効となるには7.50Nの力が剣先に加わらなければならない。伝統的なフェンシングでは相手の上着を確実に捉えることができるように、剣先(ポアン)に三つ又の部品を取り付けることもあった。現在では剣身に二本の電線を埋め込み、フルーレより大きめの電気スイッチである剣先(ポアン)が必須である。同時突き(相打ち)が有効であり、攻撃権の概念も存在しない。さらに後述のように有効面が広いため、エペの試合は極端に防御的で慎重なものになる傾向がある。
全身と剣の内側の非絶縁部分が有効面である。大きい鍔をもつのは、剣を持つ手も体の他の部分と同様に有効面とみなされるため、敵の攻撃を防ぎやすくする意味がある。
サーブルでは突きだけでなく斬りも有効となる。攻撃権がある。北部イタリアの決闘用サーベル術に由来し、長らく伝統的に男子のみの種目であったが、近年は女子も行われるようになり、オリンピックでは2004年から女子サーブルが正式種目となった。今日では電気審判機が用いられ、相手の有効面(頭部、胴体、腕)を剣先か剣身で触れることで通電し攻撃有効が判定される。
サーブルの有効面は腰より上の上半身全てである。
現代のフェンシングで用いられる防具は丈夫な綿かナイロンあるいはケブラーで出来ている。以下のようなものが防具に含まれる。
伝統的にユニフォームは白色である(マスク・メタルジャケットには色のついたものもある。)
これらの防具は選手を保護する面で有用である。
現在の防具の制定のきっかけとなったのは、1980年モスクワオリンピック金メダリストのウラジーミル・スミルノフ の死亡事故である。スミルノフはローマで行われた1982年の世界選手権で相手選手の折れた剣がマスクを突き破り、眼窩から脳を貫通したことにより9日後に死亡した。
フルーレとサーブルにおける「攻撃権」とは、先に攻撃したほうが優先権を持つという原則のことである。簡単に言えば、もし攻撃された場合(自分自身が突かれる可能性がある場合)には相手を攻撃せずに、まず自分を守らなければならないということである。
攻撃は、運が悪かった場合や、判断ミス、あるいは防御側の行動によっては、失敗することがある。
現代のスポーツフェンシングにおけるフルーレとサーブルでは、両選手が一定の時間内で同時に突きを決める場合がある。
主審は試合の進行役となる。
電気審判機は大きな国際および国内試合のすべて、また地方大会のほとんどで使用されている。電気審判機を用いる場合、フルーレとサーブルではさらに別の防具が必要となる。
審判は理論上、自由に攻撃権を監視することが可能であり、突きが有効であったかどうかを判定する副審判も不要となる(非利き腕での防御などのルール違反を監視する副審は一定レベル以上の試合、また選手からの要求があった場合必須となる)。
フルーレとエペでは、先端がスイッチ状になって剣身に電線を埋め込んだ剣を用いる。
有効な「突き」「斬り」を決めた選手の側のピスト外周が発光する。
剣の先端が相手のメタルジャケットに触れ、FIEルール上の規定時間以上に押し下げられることで回路が閉じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。
剣の先端が押し下げられることで回路が生じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣は絶縁されているので接触しても感知されない。
剣身まで電気が流れ、相手のメタルジャケット・籠手・マスクにふれた瞬間に回路が生じ、斬り・突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。なお、サーブルはガードの部分で相手の有効面に触れても反応するが、これは反則である。
フェンシングの用語はフランス語であり、「マルシェ」は一歩前へ、「ロンペ」は一歩後ろへ、「ファンデヴ」は突くという意味である。他にもマルシェやロンペをほかの技と組み合わせて使用する。他には、「ボンナヴァン」(前に飛ぶ)、「ボンナリエール」(後ろに飛ぶ)、「フレッシュ」(剣を前に突き出して、突進する)などの特殊な技もある。
「アロンジェ」は突く(腕を伸ばす)、「パラード」は剣をはらう(8種類の動作による呼び名がある)、「リポスト」ははらった直後につき返す、「ディガジェ」は剣を回してかわす、という意味である。
国際的な競技統括団体として、国際フェンシング連盟と呼ばれる。スポーツとしてのフェンシング、とりわけ国際試合のルールの成文化と管理を目的とした団体である。この設立に先立ち、国際試合が(特にライバル国であるフランス・イタリア間で開催されたことは特筆に価する)開催された。
今日的な視点で見ると、FIEの設立は次の二つを決定的に分断したものであったと言える。
夏季パラリンピックの正式種目。
2018年、フランスのフェンシング連盟が公式種目として採用した。樹脂製の刀身にLEDを仕込んだ競技用のライトセーバーを使用し、円形のピストで競技を行う。頭、腕、足、手先にそれぞれポイントがあり、15点を先取した方が勝利する。攻撃時には剣先を後ろに振りかぶる必要があるなど、フェンシングとは競技特性が異なるが、若い世代の取り込みを狙った種目であるという。
世界的、特に発祥の地ヨーロッパでは競技人口の多いスポーツの一つだが、日本ではあまり人気がなく、『uhbスーパーニュース』によると日本においては日本全国で1万人ほどしかいない。フェンシングの部活動を置いている学校も殆ど無く、ある程度の規模の学校に剣道部が大抵置かれているのとは対照的である。
日本で最初にフェンシング競技が導入されたのは、西洋の近代軍人が習得する教養としての剣技を日本陸軍が導入しようと図ったのが最初であり、1884年11月に西郷従道陸軍卿の命により、陸軍戸山学校において教官候補の選抜が始まった記録が残されている。当初の指導はフランス陸軍から派遣された教官によって行われた。
1935(昭和10)年にフランス留学経験をもつ岩倉具清(岩倉具綱の孫)がアルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て「日本フェンシング倶楽部」を設立し、その指導により同年法政大学に、翌1936年慶應義塾大学にそれぞれフェンシング部が創設された。同年ベルリン五輪の総会で次期開催地が東京に決まったことにより、「大日本フェンシング協会」(会長・曽我佑邦子爵、理事長・本間喜一。現・日本フェンシング協会)が発足し、東京五輪の競技種目に採用されたことにより各大学でフェンシング部創設が相次いだ(東京五輪は1940年に開催予定だったが戦争により中止となった)。
1937年、剣道家の森寅雄は剣道普及のため渡ったアメリカでフェンシングを学び始め、わずか6か月の練習で全米選手権を準優勝した。オリンピックでメダルを取ることを期待されたが、太平洋戦争勃発により出場はかなわなかった。
太平洋戦争で日本が敗戦し、連合国軍(GHQ)に剣道を禁止された際、代替する競技として考案された撓競技(しないきょうぎ)は、フェンシングを模した防具が使用された。
2008年、北京オリンピック男子フルーレ個人競技で太田雄貴が銀メダルを獲得し、フェンシング競技に於いて日本人初のオリンピックメダルを獲得した。また、同オリンピックでは女子フルーレ個人競技で菅原智恵子が7位に入賞しており、実はこれが日本人選手のフェンシング個人種目における初の入賞でもあった(団体種目では1964年東京オリンピックで男子フルーレ団体競技で4位に入賞している)。
2015年、モスクワでの世界選手権男子フルーレ個人で太田が金メダルを獲得した。フェンシング競技に於いて五輪も含めた世界大会で日本人が優勝したのは初めてである。2021年に開催された2020年東京オリンピックでは、男子エペ団体においてフェンシングで日本初の金メダルを獲得した。
高校においては剣道ほど普及しておらず、指導者も少ないためフェンシング部がない高校も多い。このため、クラブチームで小中学生や社会人と共に練習する生徒も多い。1980年モスクワオリンピックフェンシング代表だった千田健一(千田健太の父)が監督を務める宮城県気仙沼高等学校や部活奨学金を用意している仙台城南高等学校などの宮城県勢、岐阜県立羽島北高等学校が強豪である。
大学においては、全日本学生フェンシング選手権大会、全日本大学対抗選手権大会、全日本学生個人選手権大会がある。男子は法政大学、中央大学、早稲田大学、日本体育大学、日本大学、専修大学、同志社大学、朝日大学など。女子は日本体育大学、早稲田大学、法政大学、日本女子体育大学、東京女子体育大学、専修大学、立命館大学、同志社大学などで盛んである。
大半の選手は実業団、大学職員、公務員など兼業が主流であるが、三宅諒のように個人でクラブチームを立ち上げる有力選手もいる。2009年4月にNEXUSが実業団を立ち上げている。
日本におけるフェンシングを扱った作品としては、映画『リオの若大将』(1968年公開)がある。また、フェンシング経験者の高城高は複数の小説を執筆している。
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"text": "審判は理論上、自由に攻撃権を監視することが可能であり、突きが有効であったかどうかを判定する副審判も不要となる(非利き腕での防御などのルール違反を監視する副審は一定レベル以上の試合、また選手からの要求があった場合必須となる)。",
"title": "主審"
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"text": "フルーレとエペでは、先端がスイッチ状になって剣身に電線を埋め込んだ剣を用いる。",
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"text": "有効な「突き」「斬り」を決めた選手の側のピスト外周が発光する。",
"title": "主審"
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"text": "剣の先端が相手のメタルジャケットに触れ、FIEルール上の規定時間以上に押し下げられることで回路が閉じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。",
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"text": "剣の先端が押し下げられることで回路が生じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣は絶縁されているので接触しても感知されない。",
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"text": "剣身まで電気が流れ、相手のメタルジャケット・籠手・マスクにふれた瞬間に回路が生じ、斬り・突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。なお、サーブルはガードの部分で相手の有効面に触れても反応するが、これは反則である。",
"title": "主審"
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"text": "フェンシングの用語はフランス語であり、「マルシェ」は一歩前へ、「ロンペ」は一歩後ろへ、「ファンデヴ」は突くという意味である。他にもマルシェやロンペをほかの技と組み合わせて使用する。他には、「ボンナヴァン」(前に飛ぶ)、「ボンナリエール」(後ろに飛ぶ)、「フレッシュ」(剣を前に突き出して、突進する)などの特殊な技もある。",
"title": "用語"
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"text": "「アロンジェ」は突く(腕を伸ばす)、「パラード」は剣をはらう(8種類の動作による呼び名がある)、「リポスト」ははらった直後につき返す、「ディガジェ」は剣を回してかわす、という意味である。",
"title": "用語"
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"text": "国際的な競技統括団体として、国際フェンシング連盟と呼ばれる。スポーツとしてのフェンシング、とりわけ国際試合のルールの成文化と管理を目的とした団体である。この設立に先立ち、国際試合が(特にライバル国であるフランス・イタリア間で開催されたことは特筆に価する)開催された。",
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"text": "今日的な視点で見ると、FIEの設立は次の二つを決定的に分断したものであったと言える。",
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"text": "夏季パラリンピックの正式種目。",
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"text": "2018年、フランスのフェンシング連盟が公式種目として採用した。樹脂製の刀身にLEDを仕込んだ競技用のライトセーバーを使用し、円形のピストで競技を行う。頭、腕、足、手先にそれぞれポイントがあり、15点を先取した方が勝利する。攻撃時には剣先を後ろに振りかぶる必要があるなど、フェンシングとは競技特性が異なるが、若い世代の取り込みを狙った種目であるという。",
"title": "バリエーション"
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"text": "世界的、特に発祥の地ヨーロッパでは競技人口の多いスポーツの一つだが、日本ではあまり人気がなく、『uhbスーパーニュース』によると日本においては日本全国で1万人ほどしかいない。フェンシングの部活動を置いている学校も殆ど無く、ある程度の規模の学校に剣道部が大抵置かれているのとは対照的である。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "日本で最初にフェンシング競技が導入されたのは、西洋の近代軍人が習得する教養としての剣技を日本陸軍が導入しようと図ったのが最初であり、1884年11月に西郷従道陸軍卿の命により、陸軍戸山学校において教官候補の選抜が始まった記録が残されている。当初の指導はフランス陸軍から派遣された教官によって行われた。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "1935(昭和10)年にフランス留学経験をもつ岩倉具清(岩倉具綱の孫)がアルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て「日本フェンシング倶楽部」を設立し、その指導により同年法政大学に、翌1936年慶應義塾大学にそれぞれフェンシング部が創設された。同年ベルリン五輪の総会で次期開催地が東京に決まったことにより、「大日本フェンシング協会」(会長・曽我佑邦子爵、理事長・本間喜一。現・日本フェンシング協会)が発足し、東京五輪の競技種目に採用されたことにより各大学でフェンシング部創設が相次いだ(東京五輪は1940年に開催予定だったが戦争により中止となった)。",
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"text": "1937年、剣道家の森寅雄は剣道普及のため渡ったアメリカでフェンシングを学び始め、わずか6か月の練習で全米選手権を準優勝した。オリンピックでメダルを取ることを期待されたが、太平洋戦争勃発により出場はかなわなかった。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "太平洋戦争で日本が敗戦し、連合国軍(GHQ)に剣道を禁止された際、代替する競技として考案された撓競技(しないきょうぎ)は、フェンシングを模した防具が使用された。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "2008年、北京オリンピック男子フルーレ個人競技で太田雄貴が銀メダルを獲得し、フェンシング競技に於いて日本人初のオリンピックメダルを獲得した。また、同オリンピックでは女子フルーレ個人競技で菅原智恵子が7位に入賞しており、実はこれが日本人選手のフェンシング個人種目における初の入賞でもあった(団体種目では1964年東京オリンピックで男子フルーレ団体競技で4位に入賞している)。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "2015年、モスクワでの世界選手権男子フルーレ個人で太田が金メダルを獲得した。フェンシング競技に於いて五輪も含めた世界大会で日本人が優勝したのは初めてである。2021年に開催された2020年東京オリンピックでは、男子エペ団体においてフェンシングで日本初の金メダルを獲得した。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "高校においては剣道ほど普及しておらず、指導者も少ないためフェンシング部がない高校も多い。このため、クラブチームで小中学生や社会人と共に練習する生徒も多い。1980年モスクワオリンピックフェンシング代表だった千田健一(千田健太の父)が監督を務める宮城県気仙沼高等学校や部活奨学金を用意している仙台城南高等学校などの宮城県勢、岐阜県立羽島北高等学校が強豪である。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"text": "大学においては、全日本学生フェンシング選手権大会、全日本大学対抗選手権大会、全日本学生個人選手権大会がある。男子は法政大学、中央大学、早稲田大学、日本体育大学、日本大学、専修大学、同志社大学、朝日大学など。女子は日本体育大学、早稲田大学、法政大学、日本女子体育大学、東京女子体育大学、専修大学、立命館大学、同志社大学などで盛んである。",
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"text": "大半の選手は実業団、大学職員、公務員など兼業が主流であるが、三宅諒のように個人でクラブチームを立ち上げる有力選手もいる。2009年4月にNEXUSが実業団を立ち上げている。",
"title": "日本におけるフェンシング"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "日本におけるフェンシングを扱った作品としては、映画『リオの若大将』(1968年公開)がある。また、フェンシング経験者の高城高は複数の小説を執筆している。",
"title": "日本におけるフェンシング"
}
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フェンシングは、フランスで発祥した剣を用いるスポーツ競技である。
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{{出典の明記|date=2016年5月2日 (月) 13:29 (UTC)}}
{{スポーツ
|読み=fencing
|画像=[[ファイル:0408 USA Olympic fencing.jpg|250px]]
|見出し=[[2004年アテネオリンピック]]男子エペ個人競技2回戦
|競技統括団体=[[国際フェンシング連盟]]
|通称=
|起源=19世紀フランス
|競技登録者=
|クラブ=
|競技形式=[[#フルーレ|フルーレ]]<br>[[#エペ|エペ]]<br>[[#サーブル|サーブル]]|
|身体接触=無
|選手=1対1
|男女=無
|カテゴリ=屋内競技
|用品=剣
|オリンピック=1892 -
}}
'''フェンシング'''({{lang-en-short|fencing}})は、フランスで発祥した剣を用いるスポーツ競技である。
== 概要 ==
フェンシングでは、二人の選手が向かい合って立ち、片手に持った[[剣]]で互いの[[体]]を突いて勝敗を決める。[[攻撃]](剣で相手の体に触れる)を成功させるとポイントとなり、規定のポイントを先取した選手が勝利する。
「[[フルーレ]]」「[[エペ]]」「[[サーブル]]」の三種目があり、使用する剣・ルールがそれぞれ異なる。フランスで発達した[[剣術]]が原型で、用語には[[フランス語]]が多い。
== 歴史 ==
フェンシングの原形は、[[中世]]の[[騎士]]たちによる[[西洋剣術|剣術]]にあるとされている。これらは実戦的な剣術であったが、[[鎧]]や[[盾]]などの[[防具]]、そして[[火器]]の発達によって剣(特に長い剣)が[[戦場]]で使われることは少なくなっていった。しかし、[[剣]]という[[武器]]は[[騎士道|騎士の名誉]]の[[象徴]]であり、戦場で役に立たなくなってもフランスの[[上流階級]]は剣術を嗜み続け、[[19世紀]]の末にはフランス各地で盛んに[[競技]]として行われるようになっていった。
[[国]]や[[地方]]によってルールがばらばらであったため、競技のルールを統一するために、[[1911年]]、[[国際フェンシング連盟]](FIE<ref>{{lang-fr-short|Fédération Internationale d'Escrime}}</ref>)が[[パリ]]に設立され、[[スポーツ]]としての近代フェンシングが始まった。
== 試合 ==
[[ファイル:Fencingtournament.jpg|thumb|right|250px|ピストの上の選手]]
試合はピストと呼ばれる細長い[[台]]の上で行われる。現代のフェンシングでは、ピストは幅1.5mから2m、長さ14mである。両選手はピスト中央に4mの[[距離]]をおいて構え([[アンガルド]])の姿勢から試合を開始する。
2人の出場選手がピスト(フェンシングの試合場)に入り、[[主審]]が剣と[[服装]]を[[検査]]する。「{{フェンシング/読み仮名|Rassemblez ! Saluez !|ラッサンブレ、サリュエ|fr}}」(気をつけ、礼)の[[合図]]で[[試合]]前の[[敬礼]]をする。「{{フェンシング/読み仮名|En garde !|アン・カルド|fr}}」(構え)の合図で[[マスク]]を着用し、[[スタートライン]]に前に出す足の[[爪先]]を付けて構える。
主審が「{{フェンシング/読み仮名|Êtes-vous prêts ?|エト・ヴ・プレ|fr}}」<ref group="注">[[女子]]の場合は「{{フェンシング/読み仮名|Êtes-vous prêtes ?|エト・ヴ・プレット|fr}}」または「{{フェンシング/読み仮名|Prêtes ?|プレット|fr}}」。フランス語には[[性 (文法)|性別]]があるため</ref>または「{{フェンシング/読み仮名|Prêts ?|プレッ|fr}}」(用意はいいか?)と確認し、選手は「{{フェンシング/読み仮名|Oui.|ウィ|fr}}」(よし)または「{{フェンシング/読み仮名|Non.|ノン|fr}}」(まだ)で答える。両者が「ウィ」となったのを確認後、主審による「{{フェンシング/読み仮名|Allez !|アレ|fr}}」(始め)の合図で試合が開始される。
勝敗の決着がついたら、再度「{{フェンシング/読み仮名|Rassemblez ! Saluez !|ラッサンブレ、サリュエ|fr}}」の合図で試合終了の敬礼をし、対戦相手と[[握手]]を交わす。その後ピストから退出する。
== 3つの種目 ==
フェンシングでは[[#フルーレ|フルーレ]]、[[#エペ|エペ]]、[[#サーブル|サーブル]]の3種の武器があり、これらがそのまま種目名となっている。
これらの武器は19世紀末に標準となったものである。また、[[伝統|伝統的]]な[[教育]]の場では、[[大杖]]や[[レイピア]]、[[ダガー]]、[[ブロードソード]]、[[ツーハンデッドソード]]、[[ソードブレイカー]]、[[マン・ゴーシュ]]といった[[歴史|歴史的]]なフェンシングの武器についても学ぶことがある。[[西洋剣術]]、[[サバット]]とも関連がある。
=== フルーレ ===
[[ファイル:Foilfence.ogv|thumb|フルーレの試合の様子]][[突き]]のみが有効で攻撃権(後述)がある。フルーレにはフェンシングの基本技術が集約されているため、[[初心者]]は最初にフルーレを教えられることが多かった。また過去においてフルーレは[[女性]]が行う唯一の種目であり、剣が軽いため[[子供]]が扱うことも容易であった。今日ではフルーレ以外の武器から始めることも多い。
フルーレは[[レイピア]]を軽量化した[[スモールソード]]用の練習剣に由来する。[[断面]]が[[四角形|四角]]でしなやかな[[刃|ブレード]](剣針)をもつ軽い剣である。今日では[[電気剣]]が使用されており、最低5.00[[ニュートン (単位)|N]](おおよそ0.510[[重量キログラム|kgf]])以上の力が剣先に加わることで打突が判定される。
==== 有効面 ====
[[ファイル:Fencing foil valid surfaces 2009.svg|thumb|right|現在のフルーレの有効面]]
フルーレでの突きの有効面は、[[頭部]]と[[四肢]]を除いた[[胴体]]の両面である。これはフェンシングの練習に制限のある[[防具]]を使用していた頃の名残である。
*当時は[[顔面]]を突くことは危険であったため、頭部は有効面からは除外されていた。その後有効面はさらに限定されることになり、[[命]]が存在すると考えられる胴体のみが有効面となった。
*当時[[男性|男子]]は[[キュロットスカート#キュロットとサンキュロット|キュロットパンツ]]をはいていたので、[[臀部]]を除く胴体両面、女子は多数の[[襞]]を持つ[[足首]]までの[[スカート]]をはいていたので[[腰]]から上の胴体両面が有効面であった。
*男女ともにキュロットパンツをはくことになり、男女のフルーレ有効面は一致した。
=== エペ ===
[[ファイル:Epeefence.ogv|thumb|エペの試合の様子]]
エペは、伝統的なフェンシングで用いられていた[[決闘]]用の武器に最も近い剣である。フルーレと対照的に[[重量]]があり、断面が[[三角形]]で曲がりにくく長いブレードと大きくて[[丸|丸い]][[お椀]]型の[[鍔]](ガルト)を持つ。電気剣での突きが有効となるには7.50Nの力が剣先に加わらなければならない。伝統的なフェンシングでは相手の[[上着]]を確実に捉えることができるように、剣先(ポアン)に三つ又の[[部品]]を取り付けることもあった。現在では[[剣身]]に二本の[[電線]]を埋め込み、フルーレより大きめの[[スイッチ|電気スイッチ]]である剣先(ポアン)が必須である。同時突き(相打ち)が有効であり、攻撃権の[[概念]]も存在しない。さらに後述のように有効面が広いため、エペの試合は極端に防御的で慎重なものになる傾向がある。
==== 有効面 ====
[[ファイル:Fencing epee valid surfaces.svg|thumb|right|エペの有効面]]
全身と剣の内側の非絶縁部分が有効面である。大きい[[鍔]]をもつのは、剣を持つ手も体の他の部分と同様に有効面とみなされるため、敵の攻撃を防ぎやすくする意味がある。
=== サーブル ===
サーブルでは突きだけでなく斬りも有効となる。攻撃権がある。[[北イタリア|北部イタリア]]の[[決闘]]用[[サーベル|サーベル術]]に由来し、長らく伝統的に男子のみの種目であったが、近年は女子も行われるようになり、オリンピックでは[[2004年アテネオリンピックのフェンシング競技|2004年]]から女子サーブルが正式種目となった<ref>{{Cite web|和書|title=JOC - 競技紹介:フェンシング |url=https://www.joc.or.jp/sports/fencing.html |website=JOC - 競技紹介:フェンシング |access-date=2023-03-04 |language=ja}}</ref>。今日では電気審判機が用いられ、相手の有効面(頭部、胴体、腕)を剣先か剣身で触れることで通電し攻撃有効が判定される。
==== 有効面 ====
[[ファイル:Fencing saber valid surfaces.svg|thumb|right|現在のサーブルの有効面]]
サーブルの有効面は腰より[[上]]の[[上半身]]全てである。
*相手の[[足]]への攻撃は防御側が足を[[後ろ]]に滑らせることで避けることができる。このとき、攻撃者の頭部や腕部は剥き出しになっているため、防御側の高いラインの攻撃のほうが攻撃者の低いラインの攻撃よりも先に達する(足を滑らせる古典的な例が、[[1790年]]にヘンリー・アンジェロ([[:en:Henry Angelo]])が著した「{{lang|en|Hungarian and Highland Broadsword}}」に記載されている)。
*非電気サーブルまでは[[腕|両腕]]の[[指|指先]]までが有効面であった。[[センサー]]式電気審判器導入によって[[利き手]]の[[甲]]・非利き手の[[手首]]まで、非センサー式電気審判機導入によって両手首までが有効面となった。
== 防具 ==
現代のフェンシングで用いられる防具は丈夫な[[木綿|綿]]か[[ナイロン]]あるいは[[ケブラー]]で出来ている。以下のようなものが防具に含まれる。
*足の付け根までを覆い、足の間を通す[[ストラップ (服飾)|ストラップ]]がついた、体にフィットする[[ジャケット]]
*有効面をカバーするジャケットの上に着用する[[金属]]糸を織り込んである[[素材]]を使用したラメ(フルーレ・サーブルのみ使用)
*ジャケットの下に着用し、横からの剣の[[衝撃]]を二重に保護するハーフジャケット([[プラストロン]]、日本ではプロテクターということが多い)
*手および、腕部を保護する[[グローブ]]
*[[鳩尾]]から膝下丈の[[ズボン]](ニッカーズ ジャケットと共に[[腹部]]二重に防護する)
*膝までを覆う[[ソックス]]
*喉元を保護する[[バベット]](垂れ)のついたマスク
<gallery>
ファイル:Chest protector.jpg|胸部プロテクター(女子用)
ファイル:Fencing jacket.jpg|ジャケット
ファイル:Fencing glove.jpg|グローブ
ファイル:Fencing plastron.jpg|プロテクター(プラストロン)
ファイル:Fencing knickers.jpg|ニッカーズ
ファイル:Fencingmask.jpg|マスク
</gallery>
伝統的にユニフォームは[[白|白色]]である(マスク・メタルジャケットには[[色]]のついたものもある。)
*しかし[[1996年アトランタオリンピック]]では各選手の[[背中]]に[[国籍]]・[[名前]]が入るようになった。
*[[2000年シドニーオリンピック]]ではこの伝統は無くなり、[[ユニフォーム]]・メタルジャケットに所属国を表す[[色彩]]・マークがFIEルール上の必須事項として表されるようになった。これは、[[テレビ]]で見てどこの選手か解るように、ということである。
これらの防具は選手を保護する面で有用である。
*一時、[[目]]の周辺に[[透明]]素材([[バイザー]])を使ったマスクも必須になっていたが、[[2009年]][[11月]]に国際大会でバイザーが割れる[[事故]]が発生したため、FIEは暫定措置として直ちに透明マスクの使用を禁止し<ref>[http://www.fie.ch/download/letters/2009/urgent/15/en/Urgent%20Letter%2015-09.pdf Transparent visor mask] FIE緊急通達 2009年11月5日</ref>、2010年に恒久化された。
現在の防具の制定のきっかけとなったのは、[[1980年モスクワオリンピック]]金メダリストのウラジーミル・スミルノフ<ref>ロシア語ラテン文字翻字:{{lang|ru-Latn|Vladimir Viktorovich Smirnov}}</ref> の死亡事故である。スミルノフは[[ローマ]]で行われた[[1982年]]の[[フェンシング世界選手権|世界選手権]]で相手選手の折れた剣がマスクを突き破り、[[眼窩]]から[[脳]]を貫通したことにより9日後に死亡した。
== 攻撃権 ==
フルーレとサーブルにおける「'''攻撃権'''」とは、先に攻撃したほうが優先権を持つという原則のことである。簡単に言えば、もし攻撃された場合(自分自身が突かれる可能性がある場合)には相手を攻撃せずに、まず自分を守らなければならないということである。
攻撃は、運が悪かった場合や、判断ミス、あるいは防御側の行動によっては、失敗することがある。
*パラード(相手の剣を払うこと)することにより攻撃権は防御側に移り、防御側は相手を攻撃することができる。
**たとえば、一方の選手が攻撃を行い、もう一方の選手がすぐに反撃して(コントルアタック)双方の攻撃が相手に突きを決めていた場合、先に攻撃した選手の攻撃が有効となり、反撃した選手は間違いを犯したと判定される。
**しかし、もし攻撃された選手がその攻撃をパラードした後で反撃を行った(リポスト)のであれば、この場合は反撃側に攻撃権が移ったことになり、先に攻撃した選手は防御しなければならないということになる。
現代のスポーツフェンシングにおけるフルーレとサーブルでは、両選手が一定の時間内で同時に突きを決める場合がある。
*この場合、主審(プレジダン)はどちらの側に攻撃権があってどちらの得点になるのかを決定しなければならない。もしそれができない場合は両者の突きは無効と宣言され、試合が再開される。
== 主審 ==
主審は試合の進行役となる。
*主審は得点、またはタイムキーパーがいない場合は[[時間]]の管理、および、突きがどのような順番でなされたのかの判定を行わなければならない。
*主審はピストの横に位置し、試合経過を観察する。
=== 電気審判機 ===
電気審判機は大きな国際および国内試合のすべて、また地方大会のほとんどで使用されている。電気審判機を用いる場合、フルーレとサーブルではさらに別の防具が必要となる。
*フルーレ選手は胴体から足の付け根までを覆う通電されたベスト(メタルジャケット)を着用する。
*サーブル選手は通電された[[ベスト]]、および[[袖]]とマスクを着用する。
**どちらの種目でも、選手の剣は[[有線通信|有線]]で結ばれる。
*相手選手を突くことによって電気回路が閉じて[[ブザー]]が鳴り、審判に突きが有効であったことを知らせる。
審判は理論上、自由に攻撃権を監視することが可能であり、突きが有効であったかどうかを判定する[[副審]]判も不要となる(非利き腕での防御などのルール違反を[[監視]]する副審は一定レベル以上の試合、また選手からの要求があった場合必須となる)。
フルーレとエペでは、先端がスイッチ状になって剣身に電線を埋め込んだ剣を用いる。
*電気サーブルでは、導入当時はセンサーが感知した際にのみ[[電流]]が流れるように設定されたが、センサーの不具合の多さにより、非センサー式が導入された。
**自分の剣が相手のメタルジャケット、[[籠手]]、マスクに触れれば[[電気回路]]が成立し電流が流れるシステムである。
有効な「突き」「[[斬撃|斬り]]」を決めた選手の側のピスト外周が発光する。
==== フルーレで「突き」が記録された場合 ====
剣の先端が相手のメタルジャケットに触れ、FIEルール上の規定時間以上に押し下げられることで回路が閉じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。
==== エペで「突き」が記録された場合 ====
剣の先端が押し下げられることで回路が生じ、突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣は[[絶縁 (電気)|絶縁]]されているので接触しても感知されない。
==== サーブルの場合 ====
剣身まで電気が流れ、相手のメタルジャケット・籠手・マスクにふれた瞬間に回路が生じ、斬り・突きがあったことを知らせるようになっている。相手の剣への接触は感知されない。なお、サーブルはガードの部分で相手の有効面に触れても反応するが、これは[[反則]]である。
== 用語 ==
フェンシングの用語はフランス語であり、「マルシェ」は一歩前へ、「ロンペ」は一歩後ろへ、「ファンデヴ」は突くという意味である。他にもマルシェやロンペをほかの技と組み合わせて使用する。他には、「ボンナヴァン」(前に飛ぶ)、「ボンナリエール」(後ろに飛ぶ)、「フレッシュ」(剣を前に突き出して、[[突進]]する)などの特殊な技もある。
「アロンジェ」は突く(腕を伸ばす)、「パラード」は剣をはらう(8種類の[[動作]]による呼び名がある)、「リポスト」ははらった直後につき返す、「ディガジェ」は剣を回してかわす、という意味である。
== 競技団体 ==
国際的な競技統括団体として、国際フェンシング連盟と呼ばれる。スポーツとしてのフェンシング、とりわけ国際試合のルールの成文化と管理を目的とした団体である。この設立に先立ち、国際試合が(特にライバル国である[[フランス]]・[[イタリア]]間で開催されたことは特筆に価する)開催された。
今日的な視点で見ると、FIEの設立は次の二つを決定的に分断したものであったと言える。
*「スポーツ的な」フェンシング:独自に決められたルールで行われる[[試合]]に勝つことを目的とするもの
*「伝統的な」フェンシング:[[護身]]あるいは公式の[[決闘]]の手段としての剣術を探求するもの
== バリエーション ==
=== 車椅子フェンシング ===
夏季[[パラリンピック]]の正式種目。
=== ライトセーバー ===
2018年、フランスのフェンシング連盟が公式種目として採用した。樹脂製の刀身にLEDを仕込んだ競技用の[[ライトセーバー]]を使用し、円形のピストで競技を行う。頭、腕、足、手先にそれぞれポイントがあり、15点を先取した方が勝利する。攻撃時には剣先を後ろに振りかぶる必要があるなど、フェンシングとは競技特性が異なるが、若い世代の取り込みを狙った種目であるという<ref>{{Cite web|title=In France, the Force is strong with lightsaber dueling|url=https://apnews.com/article/cd0c1f824ff949cab6f76d3b03a389bb|website=AP NEWS|date=2019-02-18|accessdate=2021-03-24}}</ref>。
== 日本におけるフェンシング ==
世界的、特に発祥の地ヨーロッパでは競技人口の多いスポーツの一つだが、日本ではあまり人気がなく、『[[uhbスーパーニュース]]』によると日本においては日本全国で1万人ほどしかいない。フェンシングの[[クラブ活動|部活動]]を置いている学校も殆ど無く、ある程度の規模の学校に[[剣道]]部が大抵置かれているのとは対照的である。
日本で最初にフェンシング競技が導入されたのは、西洋の近代軍人が習得する教養としての剣技を日本陸軍が導入しようと図ったのが最初であり、1884年11月に[[西郷従道]][[陸軍省|陸軍卿]]の命により、[[陸軍戸山学校]]において教官候補の選抜が始まった記録が残されている<ref>
陸軍省大日記 明治17年「大日記鎮台 11月木 陸軍省総務局」<br />陸軍省 明治17年11月<br />「第七六八号 教導団 東京鎮台 今方戸山学校仏国剣術伝習ニ付員外助教トシテ下士若干名同校泊中付右ニ就シテハ其台府下屯在歩兵隊ノ内ヨリ軍曹伍長ノ内五名左ノ項目ニ達該致候ハ至急取調人名可申出此旨相達候事 十七年十一月十四日 西郷陸軍卿 一、二十五歳以下ノ軍曹伍長ノ内服役年限多キモノニシテ停年未満ノ者 一体格強壮行方正勤務勉励ノ者 一剣術志願ノ者 教導団ヘ本文別ニ近衛局ニ移牒モ本文朱書該所ノ通リ 但年齢ハ本文ノ如ク限ルト雖モ実際ノ都合ニ依リ多少之ヲ超過スルモ妨ケナシ」<br /><br />陸軍省大日記 陸軍省日誌・送達・受領日誌 明治17年 文書受領日記<br />戸山学校 取調委員今村少佐 <br />明治17年1月3日 - 明治17年12月29日<br />「十一月二十九日 通報 庁名 戸山学校 西洋剣術用欽剣御渡相成度義ニ付伺 領収」
</ref>。当初の指導は[[フランス陸軍]]から派遣された教官によって行われた<ref>陸軍省大日記 明治20年「貳大日記 7月」<br />陸軍大臣伯爵 大山巖 明治20年7月18日 <br />陸軍省 総務局 仏蘭西共和国陸軍 <br />「弐第二〇五九号 総務局 教師キエル氏帰国ニ付仏国陸軍大臣ヘ謝状之件 明治二十年七月十八日 戸山学校雇教師仏国剣術下副官キエル氏今般解雇帰国ニ付テハ該国陸軍大臣ヘ別封謝状送付相成度ト存候〜」</ref>。
1935(昭和10)年に[[フランス]]留学経験をもつ岩倉具清([[岩倉具綱]]の孫)が[[アルゼンチン]]臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て「日本フェンシング倶楽部」を設立し、その指導により同年[[法政大学]]に、翌1936年[[慶應義塾大学]]にそれぞれフェンシング部が創設された<ref name=kobayashi>{{Cite journal|和書|author=小林倫幸 |title=戦前における本間喜一先生によるフェンシング部創設 |month=mar |year=2014 |issue=22 |pages=156-161 |journal同文書院記念報 |issn=2188-7950 |publisher=愛知大学東亜同文書院大学記念センター |url=http://id.nii.ac.jp/1082/00008684/}}</ref><ref>[http://fencing-jpn.jp/about/history/ フェンシングの歴史]公益社団法人 日本フェンシング協会 公式サイト</ref><ref>[http://keiofence.com/aboutus/history/ 部史 慶應フェンシング・日本フェンシングの歴史]KEIO FENCING TEAM official HP</ref>。同年[[ベルリン五輪]]の総会で次期開催地が東京に決まったことにより、「大日本フェンシング協会」(会長・[[曽我佑邦]]子爵、理事長・[[本間喜一]]。現・日本フェンシング協会)が発足し、東京五輪の競技種目に採用されたことにより各大学でフェンシング部創設が相次いだ(東京五輪は1940年に開催予定だったが戦争により中止となった)<ref name=kobayashi/>。
1937年、剣道家の[[森寅雄]]は剣道普及のため渡ったアメリカでフェンシングを学び始め、わずか6か月の練習で全米選手権を準優勝した。オリンピックでメダルを取ることを期待されたが、[[太平洋戦争]]勃発により出場はかなわなかった。
太平洋戦争で日本が敗戦し、[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍(GHQ)]]に剣道を禁止された際、代替する競技として考案された[[撓競技]](しないきょうぎ)は、フェンシングを模した防具が使用された。
2008年、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]男子フルーレ個人競技で[[太田雄貴]]が[[銀メダル]]を獲得し、フェンシング競技に於いて日本人初のオリンピックメダルを獲得した。また、同オリンピックでは女子フルーレ個人競技で[[菅原智恵子]]が7位に入賞しており、実はこれが日本人選手のフェンシング個人種目における初の入賞でもあった(団体種目では[[1964年東京オリンピック]]で男子フルーレ団体競技で4位に入賞している)。
2015年、モスクワでの[[フェンシング世界選手権|世界選手権]]男子フルーレ個人で太田が[[金メダル]]を獲得した。フェンシング競技に於いて五輪も含めた世界大会で日本人が優勝したのは初めてである。2021年に開催された[[2020年東京オリンピック]]では、男子エペ団体においてフェンシングで日本初の金メダルを獲得した。
高校においては[[剣道]]ほど普及しておらず、指導者も少ないためフェンシング部がない高校も多い。このため、クラブチームで小中学生や社会人と共に練習する生徒も多い。1980年モスクワオリンピックフェンシング代表だった[[千田健一]]([[千田健太]]の父)が監督を務める[[宮城県気仙沼高等学校]]や部活奨学金を用意している[[仙台城南高等学校]]などの宮城県勢、[[岐阜県立羽島北高等学校]]が強豪である。
大学においては、全日本学生フェンシング選手権大会、全日本大学対抗選手権大会、全日本学生個人選手権大会がある。男子は[[法政大学]]、[[中央大学]]、[[早稲田大学]]、[[日本体育大学]]、[[日本大学]]、[[専修大学]]、[[同志社大学]]、[[朝日大学]]など。女子は日本体育大学、早稲田大学、法政大学、[[日本女子体育大学]]、[[東京女子体育大学]]、専修大学、[[立命館大学]]、同志社大学などで盛んである。
大半の選手は[[実業団]]、大学職員、公務員など兼業が主流であるが<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/miyake_fencing/status/1242421622385987586|url=https://twitter.com/miyake_fencing/status/1242421622385987586|website=Twitter|accessdate=2020-11-25|language=ja}}{{出典無効|date=2020年11月25日}}</ref>、[[三宅諒]]のように個人でクラブチームを立ち上げる有力選手もいる。2009年4月に[[NEXUS (パチンコチェーン)|NEXUS]]が実業団を立ち上げている。
日本におけるフェンシングを扱った作品としては、映画『[[リオの若大将]]』(1968年公開)がある。また、フェンシング経験者の[[高城高]]は複数の小説を執筆している。
== 著名な選手 ==
=== 海外 ===
*[[:en:Holger Nielsen|ホルガー・ニールセン]]:[[1896年アテネオリンピック]]のサーブルで銅メダル、同大会の射撃競技でも銀銅2つのメダルを獲得。1898年には現在行われている[[ハンドボール]]のルールを策定。
*[[アルド・ナディ]]:1920年[[夏季オリンピック]]金・銀メダリスト。古典的な教科書「{{lang|en|On Fencing}}」著者。
*[[イタロ・ サンテッリ]]:1920年代に「ハンガリアン」スタイルで革命を起こした。
*[[ジョルジオ・サンテッリ]]:イタロの息子。ニューヨークの Santelli salle 創始者。
*[[ラズロ・サボ]]:コーチ育成の体系を作り上げたハンガリー人。
*[[イムレ・バス]]:エペの手引書を作成。
*[[ピーター・ウエストブルック]]:1984年夏季オリンピック銅メダリスト。{{lang|en|Harnessing Anger}}」著者。
*[[ボブ・アンダーソン (フェンサー)|ボブ・アンダーソン]]:1952年夏季オリンピック英国代表。[[殺陣|ファイト・コレオグラファー]]。
*[[ク・ボンギル]]:韓国代表。[[2012年ロンドンオリンピック]]金メダリスト。アジア初の世界選手権男子サーブル団体戦3連覇。
<!--*Sharon Montplasir
*Janice Romary
*Bela Valter - ハンガリーのオリンピックコーチ。
*Iris Zimmerman
*Felicia Zimmerman
*Sergei Golubitsky - 3連続世界チャンピオン
*William Gaugler
*Ramon Martinez
*Sean Hayes
*Adam A. Crown
*Nick Evangelista
*Chris Umbs--->
=== 日本 ===
* [[森寅雄]]:[[剣道家]]。[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]、[[1964年]][[1964年東京オリンピック|東京五輪]]、[[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコ五輪]]アメリカ代表コーチ。
* [[岡秀子]]:[[モントリオール五輪]]代表、[[モスクワ五輪]](日本は不参加)代表。
* [[千田健一]]:[[1980年]][[モスクワ]]五輪[[フェンシング日本代表]]、指導者
* [[市ヶ谷廣輝]]:[[バルセロナ五輪]]、[[アトランタ五輪]]日本代表。[[太田雄貴]]は教え子で、[[全日本フェンシング選手権大会|全日本選手権]]で師弟対決が実現。
* [[太田雄貴]]:アテネ、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]フルーレ日本代表。北京五輪では銀メダル(メダル獲得は日本人初)。[[2015年]][[フェンシング世界選手権|世界選手権]]にて金メダル(日本人初)。
* [[新井祐子]]:[[アトランタ五輪|アトランタ]]、[[シドニー五輪]]日本代表。
* [[菅原智恵子]]:アテネ・北京・[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]3連続日本代表。北京五輪で女子初の7位入賞。
* [[原田めぐみ]]:アテネ五輪女子エペ日本代表。
* [[千田健太]]:北京五輪フルーレ日本代表。[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]団体銀メダリスト。
* [[星野敏]]:[[1983年]]の全日本フェンシング選手権大会男子フルーレ個人で優勝。創業した[[NEXUS (パチンコチェーン)|NEXUS]]に[[実業団]]を創設。
* [[藤木悠]]:[[1951年]]の全日本フェンシング選手権大会男子エペ個人で優勝。[[リオの若大将]]でフェンシングの監修を担当。
* 東晟良:2017年全日本大会選手権で史上最年少の18歳で優勝。[[2020年]][[2020年東京オリンピック|東京五輪]]代表。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[国際フェンシング連盟]]
* [[オリンピックフェンシング競技]]
* [[フェンシング世界選手権]]
* [[フェンシング・ワールドカップ]]
* [[車いすフェンシング]]
* [[ラ・カン]] - [[サバット]]に含まれるステッキ術。構えはフェンシングと類似している。
* [[截拳道]]:映画俳優で有名な[[ブルース・リー]]が開発した武術。フェンシングから多大な影響を受けており、パンチの打ち方やフットワークなど、動きがフェンシングと類似している。
* [[剣道]]:[[日本]]で発祥の似たようなスポーツ。
== 外部リンク ==
* [https://fie.org/ FIE]:[[国際フェンシング連盟]] {{fr icon}}{{en icon}}
* [https://fencing-jpn.jp/ FJE]:[[日本フェンシング協会]] {{ja icon}}
* [https://www.fencing.jp/ 全国高等学校体育連盟フェンシング部] {{ja icon}}
{{武道・武術}}
{{スポーツ一覧}}
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[[Category:フェンシング|*]]
[[Category:剣技]]
[[Category:オリンピック競技]]
[[Category:ヨーロッパの武術]]
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末續慎吾
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末續 慎吾(すえつぐ しんご、1980年6月2日 - )は、日本の陸上選手。熊本県熊本市出身。北京オリンピック男子4×100mリレー銀メダリスト。
東海大学で高野進の指導を受ける。高野が日本人の体格に合わせて構築した走法を完成させ、世界陸上2003年パリ大会の200mで3位となった。日本人でこの種目のメダル獲得は初めて。また、2006年のアジア大会の200mで2連覇するなどし、全盛期にはパトリック・ジョンソンとともに、「現役世界最速の非ネグロイド」とも言われた。
400mは練習の一環として取り組むが、学生時代には関東学生陸上競技対校選手権大会の4×400mリレー決勝で、東海大学のアンカーとして走り、44秒7のラップタイムで走った。
サッカー選手の松本憲は従弟にあたる。
熊本市立西原中学校、九州学院高等学校、東海大学を経て、ミズノに入社。社内留学で東海大学大学院修了。現在は熊本陸上競技協会所属。
小学校時代に全国小学生陸上競技交流大会に出場し、同じ学年の池田久美子に走幅跳の記録上、負け(池田は5m19、末續は4m85)、走幅跳を競技しなくなる。中学時代は、九州大会で100m2位に入った。
高校時代、国体の100mで2度優勝した。高1の時の県大会では、4種目 の後に顧問が止めたのにマイルリレーのアンカーを務め、走りきったあと倒れた。高3のインターハイの2週間前に体育の授業でバスケットボールの最中に体育館の窓ガラスにかかとを突っ込み15針を縫う怪我をするが出場し、100mでは決勝まで進出したものの8位、優勝候補の200mでは25秒となり予選落ちした。
大学在学中に両親の離婚や、父との死別など不幸が重なり、陸上競技を続けることが経済的に困難となるが、2000年シドニーオリンピック代表入りし、陸連強化指定選手となり競技を続ける。なおそれまでは、食事が玉ねぎ一個だけであったり、練習時間を確保するため、深夜3時まで居酒屋の皿洗いのアルバイトをする等、苦境を乗り越えた末にオリンピック代表を勝ち取った。
2003年の世界陸上パリ大会では、8月29日の男子200m走決勝に進出し、20秒38で3位となった。当時のフランス地元テレビ放送で「 Il est formidable, ce type. (すごい奴だ) 」と紹介され、銅メダルを獲得して高野と泣きながら抱き合う映像がフランス国内でも放映された(しかし男子4x100mリレーは足の故障発生により欠場)。同年10月8日には、3人目となる熊本県民栄誉賞を受賞した。
2004年8月のアテネオリンピックは、前年世界陸上で銅メダルを獲得した200mを回避し、男子100mに専念するも、2次予選敗退に終わった。男子4x100mリレー決勝では第2走者を担当、惜しくも4位入賞で五輪メダル獲得にあと一歩届かなかった。
2007年世界陸上選手権での4×100mリレー決勝サブトラックでは、「朝原(宣治)さんにメダルを!」と発言した。この時も第2走者を務め、38秒03のアジア新記録をマークしながらも5位入賞に留まり、朝原と共に1年後の北京オリンピックで、再度メダル獲得に向けての再挑戦の意向を示していた。
2008年8月22日の北京オリンピック男子4x100mリレー決勝では第2走者として激走、オリンピックにおける日本男子トラック種目で史上最高位の3位に入り、日本代表としても陸上競技のリレー種目では歴代初めてとなる悲願の銅メダルを獲得。その後、このレースで金メダルを獲得していたジャマイカチームのネスタ・カーターがドーピングの検体の再検査で禁止薬物の陽性反応を示したため、2017年に銀メダルに繰り上げとなっている。 2008年10月以降は、疲労を理由に無期限休養を宣言。
2011年10月、3年ぶりにレースに復帰した。
2012年、ロンドン五輪代表選考会でもある日本選手権への参加を目指し、5月19日の東日本実業団で出場したが、標準記録を切れずロンドン五輪出場の可能性は途絶えた。10月の国体では熊本県代表に選ばれ400mリレーでチームのアンカーとして予選と準決勝を走った。
2013年、4月13日の熊本県選手権100mに出場し、江里口匡史に次ぐ2位に入った。5月の東日本実業団100mでは去年に続き決勝に進出したが、準決勝で右脚を痛めたために決勝は棄権した。9月の全日本実業団100mでは10秒54のシーズンベストをマークして5位。10月の国体400mリレーでは昨年に続き熊本県代表のアンカーを務め、4位入賞を果たした。
2014年、4月19日の東京選手権100mに出場。利き足の右足を前に置くスタートではなく、左足を前に置いてスタートするという新しい走り方で挑み、準決勝で敗退した。5月の東日本実業団100mは3年連続の決勝進出を果たして4位。6月の日本選手権は参加標準記録Aを切れなかったため、出場は叶わなかった。
2015年3月31日付でミズノを退社し、4月1日よりプロの陸上選手として活動している。
2016年4月1日付で星槎大学の特任准教授に就任した。
2018年より自身の走ることに対する世界観を表現した「EAGLERUN」を起ち上げ、選手を続けながら指導やメディア出演などの活動を行っている。
日本に古くから伝わる武術から考え出した『ナンバ』の動きを取り入れているとされるが、右足(左足)と右腕(左腕)を同時に同方向へ動かしているわけではない。実際に高野と末續とが取り組んだ走法は、例えば右足が前に出るとき同じ側の胸を脚の上に乗り込ませるようにするもので、その時に自然と右腕は後ろに引かれるが内旋動作がはいるために大きく振ることはできない(意識的に腕を振らないと思われがちだが結果的に大きく動かないだけである)。脚と腕が同方向へ同時に動けば人体構造上、走ることはもちろん歩くことも不自然かつ困難であり所謂『ナンバ走り』ではない。また肩の動きを抑えていると言われる事もあるが実際には上記の理由により例えば朝原宣治などの走り方と比べれば大きく前後に動くことはないが、逆に上下には大きく動いており、しかも正面から見た場合には頭から足まで波打つように大きく振られている。
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末續 慎吾は、日本の陸上選手。熊本県熊本市出身。北京オリンピック男子4×100mリレー銀メダリスト。 東海大学で高野進の指導を受ける。高野が日本人の体格に合わせて構築した走法を完成させ、世界陸上2003年パリ大会の200mで3位となった。日本人でこの種目のメダル獲得は初めて。また、2006年のアジア大会の200mで2連覇するなどし、全盛期にはパトリック・ジョンソンとともに、「現役世界最速の非ネグロイド」とも言われた。 400mは練習の一環として取り組むが、学生時代には関東学生陸上競技対校選手権大会の4×400mリレー決勝で、東海大学のアンカーとして走り、44秒7のラップタイムで走った。 サッカー選手の松本憲は従弟にあたる。
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{{Infobox 陸上選手
| 氏名 = 末續慎吾
| 画像 = Suetsugu Shingo, Japanese athlete.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像説明 =
| フルネーム = 末續慎吾
| ラテン文字 = SUETSUGU Shingo
| 愛称 = マッハ末續
| 国籍 = {{JPN}}
| 種目 = [[短距離走]]
| 所属 = EAGLERUN
| 大学 = [[東海大学]]
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1980|6|2}}
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| 居住地 =
| 没年月日 =
| 死没地 =
| 身長 = 178cm
| 体重 = 68kg
| 引退 =
| コーチ =
| 公式サイト =
| highestranking = Yes
| オリンピック = '''100m''':2次予選1組5着([[2004年アテネオリンピックの陸上競技|2004年]])<br />'''200m''':準決勝2組8着([[2000年シドニーオリンピックの陸上競技|2000年]])<br />'''4x100mR''':2位([[2008年北京オリンピックの陸上競技|2008年]])
| 世界選手権 = '''200m''':3位([[2003年世界陸上競技選手権大会|2003年]])<br />'''4x100mR''':4位([[2001年世界陸上競技選手権大会|2001年]])
| 地域大会 = '''[[アジア競技大会陸上競技|アジア競技大会]]'''<br />'''200m''':優勝([[2002年アジア競技大会|2002年]],[[2006年アジア競技大会|2006年]])<br />'''4x100mR''':2位(2002年,2006年)
| 国内大会 = '''[[日本陸上競技選手権大会|日本選手権]]'''<br />'''100m''':優勝(2003年,2004年)<br />'''200m''':優勝(2001年,2003年,[[第90回日本陸上競技選手権大会|2006年]],[[第91回日本陸上競技選手権大会|2007年]])
| 世界ランク = '''100m''':{{abbr|13位|10秒03}}(2003年)<br />'''200m''':{{abbr|3位|20秒03}}(2003年)
| personalbests = Yes
| 100m = 10秒03(2003年)
| 200m = 20秒03(2003年)[[File:Sport records icon NR.svg|22px|text-bottom|日本記録]]
| 400m = 45秒99(2002年)
| show-medals = yes
| medaltemplates =
{{MedalSport|男子 [[陸上競技]]}}
{{MedalCountry | {{JPN}} }}
{{MedalCompetition|[[オリンピックの陸上競技|オリンピック]]}}
{{MedalSilver|[[2008年北京オリンピック|2008 北京]]|[[2008年北京オリンピックの陸上競技・男子4×100mリレー|4×100mリレー]]}}
{{MedalCompetition|[[世界陸上競技選手権大会]]}}
{{MedalBronze|[[2003年世界陸上競技選手権大会|2003 パリ]]| [[200メートル競走|200m]]}}
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{{MedalGold|2005 仁川|4×100mリレー}}
{{MedalSilver|2005 仁川|100m}}
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{{MedalCompetition|[[IAAFコンチネンタルカップ#IAAF陸上ワールドカップ|IAAF陸上ワールドカップ]]}}
{{MedalBronze|2006 アテネ|4×100mリレー}}
{{MedalBronze|2006 アテネ|200m}}
}}
'''末續 慎吾'''(すえつぐ しんご、[[1980年]][[6月2日]] - )は、[[日本]]の[[陸上選手]]。[[熊本県]][[熊本市]]出身。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]男子[[400メートルリレー走|4×100mリレー]]銀メダリスト。
[[東海大学]]で[[高野進]]の指導を受ける。高野が日本人の体格に合わせて構築した走法を完成させ、[[2003年世界陸上選手権|世界陸上2003年パリ大会]]の[[200メートル競走|200m]]で3位となった。日本人でこの種目のメダル獲得は初めて。また、2006年の[[アジア競技大会|アジア大会]]の200mで2連覇するなどし、全盛期には[[パトリック・ジョンソン]]とともに、「現役世界最速の非[[ネグロイド]]」とも言われた。
400mは練習の一環として取り組むが、学生時代には[[関東学生陸上競技対校選手権大会]]の4×400mリレー決勝で、東海大学のアンカーとして走り、44秒7のラップタイムで走った<ref group="注">日本記録は高野進の44秒78。加速がつく分フラットレースよりも記録がよい</ref>。
[[サッカー選手]]の[[松本憲]]は従弟にあたる<ref>[http://web.gekisaka.jp/68397_2890_gr 末続のいとこ、千葉の松本が先発濃厚] - ゲキサカ 2008年3月7日掲載</ref>。
== 経歴 ==
[[熊本市立西原中学校]]、[[九州学院高等学校]]<ref name="kyugaku20161226">{{Cite web|和書|url=https://kyugaku.ed.jp/news/2016/12/post-912.html|title=おしらせ 祭り九学会 復興祈念カレンダーを学院に贈呈|publisher=九州学院HOME|date=2016-12-26|accessdate=2021-06-29}}</ref>、[[東海大学]]を経て、[[ミズノ]]に入社。社内留学で東海大学大学院修了。現在は熊本陸上競技協会所属。
小学校時代に[[全国小学生陸上競技交流大会]]に出場し、同じ学年の[[井村久美子|池田久美子]]に[[走幅跳]]の記録上、負け(池田は5m19、末續は4m85)、走幅跳を競技しなくなる<ref>{{Cite web|和書
|author=読売新聞
|date=2013年11月13日
|url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/ekiden/2014/feature/20131113-OYT8T00367.htm
|title=箱根駅伝90回記念シンポジウム 第1部 末續慎吾トークショー
|accessdate=2013年11月17日
}}</ref>。中学時代は、九州大会で[[100メートル競走|100m]]2位に入った。
高校時代、国体の100mで2度優勝した。高1の時の県大会では、4種目<ref>100m、200m、走幅跳、[[400メートルリレー走|4×100mリレー]]。</ref> の後に顧問が止めたのに[[1600メートルリレー走|マイルリレー]]のアンカーを務め、走りきったあと倒れた。高3の[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]の2週間前に体育の授業でバスケットボールの最中に体育館の窓ガラスにかかとを突っ込み15針を縫う怪我をするが出場し、100mでは決勝まで進出したものの8位<ref>{{Cite web|和書|author=西日本新聞|url=http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/30.html|title=九州アマ列伝30 九州学院高 末続慎吾|accessdate=2013年10月21日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050207115637/http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/30.html|archivedate=2005年2月7日}}</ref>、優勝候補の200mでは25秒となり予選落ちした。
大学在学中に両親の離婚や、父との死別など不幸が重なり、陸上競技を続けることが経済的に困難となるが、[[2000年シドニーオリンピック]]代表入りし、陸連強化指定選手となり競技を続ける。なおそれまでは、食事が玉ねぎ一個だけであったり、練習時間を確保するため、深夜3時まで居酒屋の皿洗いのアルバイトをする等、苦境を乗り越えた末にオリンピック代表を勝ち取った。
2003年の世界陸上パリ大会では、8月29日の男子200m走決勝に進出し、20秒38で3位となった<ref>[http://www.iaaf.org/history/wch/season=2003/eventcode=2962/results/bydiscipline/disctype=4/sex=M/discCode=200/combCode=hash/roundCode=f/results.html#detM_200_hash_f iaaf.org - World Championships in Athletics 2003 - Results 200 Metres M Final]</ref>。当時のフランス地元テレビ放送で「 ''Il est formidable, ce type.'' (すごい奴だ) 」と紹介され、銅メダルを獲得して高野と泣きながら抱き合う映像がフランス国内でも放映された<ref>{{YouTube|u-xRebCI2yE|2003.08 Monde 200m M (capell,patton,suetsugu,fredericks)}}{{fr icon}}</ref>(しかし男子4x100mリレーは足の故障発生により欠場)。同年10月8日には、3人目となる[[熊本県民栄誉賞]]を受賞した<ref><!-- [http://www2.japan-sports.or.jp/kumamotoken/topic/h15/suetsugu/suetsugu.htm 末續慎吾選手(ミズノ)県民栄誉賞授与式の模様(2003-10-8)] - 熊本県体育協会 -->{{Cite web|和書|url=http://www2.japan-sports.or.jp/kumamotoken/topic/h15/suetsugu/suetsugu.htm|title=末續慎吾選手(ミズノ)県民栄誉賞授与式の模様(2003-10-8)|accessdate=2022-07-26|publisher=熊本県体育協会|date = |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120817155520/http://www2.japan-sports.or.jp/kumamotoken/topic/h15/suetsugu/suetsugu.htm|archivedate=2012年8月17日|deadlinkdate=2022年7月}}</ref>。
2004年8月のアテネオリンピックは、前年世界陸上で銅メダルを獲得した200mを回避し、男子100mに専念するも、2次予選敗退に終わった。男子4x100mリレー決勝では第2走者を担当、惜しくも4位入賞で五輪メダル獲得にあと一歩届かなかった。
[[2007年世界陸上選手権]]での4×100mリレー決勝[[サブトラック]]では、「[[朝原宣治|朝原(宣治)]]さんにメダルを!」と発言した。この時も第2走者を務め、38秒03のアジア新記録をマークしながらも5位入賞に留まり、朝原と共に1年後の[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]で、再度メダル獲得に向けての再挑戦の意向を示していた。
2008年8月22日の北京オリンピック男子4x100mリレー決勝では第2走者として激走<ref group="注">第1走者:[[塚原直貴]]、第2走者:末続慎吾、第3走者:[[高平慎士]]、第4走者:朝原宣治</ref>、オリンピックにおける日本男子トラック種目で史上最高位の3位に入り、日本代表としても陸上競技のリレー種目では歴代初めてとなる悲願の銅メダルを獲得。その後、このレースで金メダルを獲得していたジャマイカチームの[[ネスタ・カーター]]がドーピングの検体の再検査で禁止薬物の陽性反応を示したため、[[2017年]]に銀メダルに繰り上げとなっている<ref>{{Cite news |url= http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600009&g=spo |title= 男子400リレーのジャマイカ失格=日本は銀に繰り上がり-北京五輪ドーピング再検 |newspaper= 時事通信 |date= 2017-01-26 |accessdate= 2017-01-26 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20170202035751/http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600009&g=spo |archivedate= 2017年2月2日 |deadlinkdate= 2017年10月 }}</ref>。
2008年10月以降は、疲労を理由に無期限休養を宣言。
2011年10月、3年ぶりにレースに復帰した<ref>[http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011100401000790.html 末続が3年ぶりレース復帰 ロンドン五輪へ競技本格化] - 共同通信、2011年10月4日</ref>。
2012年、ロンドン五輪代表選考会でもある[[第97回日本陸上競技選手権大会|日本選手権]]への参加を目指し、5月19日の東日本実業団で出場したが、標準記録を切れずロンドン五輪出場の可能性は途絶えた。10月の[[第67回国民体育大会陸上競技|国体]]では熊本県代表に選ばれ400mリレーでチームのアンカーとして予選と準決勝を走った<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/text/201210290005-spnavi.html 末續慎吾、再始動からの1年] - スポーツナビ、2012年10月30日</ref>。
2013年、4月13日の熊本県選手権100mに出場し、[[江里口匡史]]に次ぐ2位に入った<ref>[https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/04/13/kiji/K20130413005602910.html 末続 今季初レースで2位「3本走るのが目標だった」] スポニチ Sponichi Annex (2013-4-13) 2014年7月17日閲覧。</ref>。5月の東日本実業団100mでは去年に続き決勝に進出したが、準決勝で右脚を痛めたために決勝は棄権した<ref>[https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/f-sp-tp0-20130518-1129277.html 福島200mV、末続100m棄権/陸上] 日刊スポーツ nikkansports.com (2013-5-18). 2014年7月17日閲覧。</ref>。9月の全日本実業団100mでは10秒54のシーズンベストをマークして5位<ref>[http://www.mizuno.jp/mtc/archives/news/2013/09/post-3.html 2013年1月~2013年9月の試合結果一覧] ミズノ公式サイト (2013-9-22). 2014年7月16日閲覧。</ref>。10月の[[第68回国民体育大会陸上競技|国体]]400mリレーでは昨年に続き熊本県代表のアンカーを務め、4位入賞を果たした。
2014年、4月19日の[[東京陸上競技選手権大会|東京選手権]]100mに出場。利き足の右足を前に置くスタートではなく、左足を前に置いてスタートするという新しい走り方で挑み、準決勝で敗退した<ref>[http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20140419-OHT1T50342.html 【陸上】末続、今季初レース「逆足発進」で10秒87] スポーツ放置 (2014-4-20). 2014年7月17日閲覧。</ref>。5月の東日本実業団100mは3年連続の決勝進出を果たして4位。6月の[[第98回日本陸上競技選手権大会|日本選手権]]は参加標準記録Aを切れなかったため、出場は叶わなかった。
2015年3月31日付でミズノを退社し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASH3N66R5H3NUTQP01L.html |title=末続慎吾がミズノ退社 4月から熊本陸協所属に |publisher=[[朝日新聞]] |date=2015-03-20 |accessdate=2015-03-31 }}</ref>、4月1日よりプロの陸上選手として活動している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.teamathlete.co.jp/#!new-page/co4r |title=アスリート紹介・末續慎吾(陸上競技) |publisher=株式会社チームアスリート |date= |accessdate=2016-04-30 }}</ref>。
2016年4月1日付で[[星槎大学]]の特任准教授に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/1627490.html |title=末続慎吾が星槎大の特任准教授に 現役も続行 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2016-04-06 |accessdate=2016-04-30 }}</ref>。
2018年より自身の走ることに対する世界観を表現した「[https://eaglerun.jp/ EAGLERUN]」を起ち上げ、選手を続けながら指導やメディア出演などの活動を行っている。
== 特徴 ==
日本に古くから伝わる武術から考え出した『[[ナンバ走り|ナンバ]]』の動きを取り入れているとされるが、右足(左足)と右腕(左腕)を同時に同方向へ動かしているわけではない。実際に高野と末續とが取り組んだ走法は、例えば右足が前に出るとき同じ側の胸を脚の上に乗り込ませるようにするもので、その時に自然と右腕は後ろに引かれるが内旋動作がはいるために大きく振ることはできない(意識的に腕を振らないと思われがちだが結果的に大きく動かないだけである)。脚と腕が同方向へ同時に動けば人体構造上、走ることはもちろん歩くことも不自然かつ困難であり所謂『ナンバ走り』ではない<ref>[[小山裕史]]『奇跡のトレーニング』[[2004年]][[講談社]]ISBN 4-06-212217-0</ref>。また肩の動きを抑えていると言われる事もあるが実際には上記の理由により例えば[[朝原宣治]]などの走り方と比べれば大きく前後に動くことはないが、逆に上下には大きく動いており、しかも正面から見た場合には頭から足まで波打つように大きく振られている<ref>[http://www.ultimatebody.jp/suetugu.html 高岡英夫の2003年7月公開論文]</ref>。
== 記録 ==
{| class="wikitable"
!種目!!記録!!風速!!年月日!!場所!!備考
|-
|100m||10秒03||+1.8m/s||2003年5月5日||[[水戸市]]||[[100メートル競走#日本記録|日本歴代8位]]
|-
|200m||20秒03||+0.6m/s||2003年6月7日||[[横浜市]]||[[200メートル競走#日本記録|日本記録]](元アジア記録)
|-
|400m||45秒99||||2002年8月18日||[[町田市]]||熊本県記録
|-
|4×100mR||38秒03||||2007年9月1日||[[大阪市]]||元アジア記録
|-
|}
== 主な戦績 ==
=== 主要国際大会 ===
{| class="wikitable" style="font-size:90%"
! 年
! 大会
! 場所
! 種目
! 結果
! 記録
! 備考
|-
| rowspan="2" | 1999
| rowspan="2" | [[アジアジュニア陸上競技選手権大会|アジアジュニア選手権]]{{enlink|1999 Asian Junior Athletics Championships|a=on}}
| rowspan="2" | [[シンガポール]]
| 100m
| style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位
| 10秒68 (-0.1)
|
|-
| 4x100mR
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 39秒86 (3走)
|
|-
| rowspan="2" | 2000
| rowspan="2" | [[2000年シドニーオリンピックの陸上競技|オリンピック]]
| rowspan="2" | [[シドニー]]
| 200m
| style="text-align: center;" | 準決勝
| 20秒69 (+0.3)
| 全体14位<br />'''2次予選20秒37:五輪日本人最高記録'''
|-
| 4x100mR
| style="text-align: center;" | 6位
| 38秒66 (3走)
| 準決勝38秒31:アジアタイ記録
|-
| rowspan="4" | 2001
| rowspan="2" | [[2001年東アジア競技大会|東アジア競技大会]]{{enlink|Athletics at the 2001 East Asian Games|a=on}}
| rowspan="2" | [[大阪市|大阪]]
| 200m
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 20秒34 (0.0)
| 大会記録
|-
| 4x100mR
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 38秒93 (3走)
| 大会記録
|-
| rowspan="2" | [[2001年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]
| rowspan="2" | [[エドモントン]]
| 200m
| style="text-align: center;" | 準決勝
| 20秒39 (+0.7)
| 全体10位
|-
| 4x100mR
| style="text-align: center;" | 4位
| 38秒96 (2走)
| 大会終了後に5位から4位に繰り上がり
|-
| rowspan="2" | 2002
| rowspan="2" | [[2002年アジア競技大会における陸上競技|アジア競技大会]]
| rowspan="2" | [[釜山広域市|釜山]]
| 200m
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 20秒38 (0.0)
|
|-
| 4x100mR
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位
| 38秒96 (2走)
|
|-
| rowspan="2" | 2003
| [[2003年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]
| [[パリ]]
| 200m
| style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位
| 20秒38 (+0.1)
| '''五輪・世界選手権を通じて短距離種目で日本人初のメダル'''<ref group="注">ハードル種目を除く</ref><br />'''準決勝20秒22:世界選手権日本人最高記録'''
|-
| アフロアジア競技大会{{enlink|Athletics at the 2003 Afro-Asian Games|a=on}}
| [[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]
| 100m
| style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位
| 10秒36 (-0.6)
|
|-
| rowspan="2" | 2004
| rowspan="2" | [[2004年アテネオリンピックの陸上競技|オリンピック]]
| rowspan="2" | [[アテネ]]
| 100m
| style="text-align: center;" | 2次予選
| 10秒19 (0.0)
| 全体17位
|-
| 4x100mR
| style="text-align: center;" | 4位
| 38秒49 (2走)
|
|-
| rowspan="4" | 2005
| rowspan="2" | [[2005年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]
| rowspan="2" | [[ヘルシンキ]]
| 200m
| style="text-align: center;" | 準決勝
| 20秒84 (-0.3)
| 全体11位
|-
| 4x100mR
| style="text-align: center;" | 8位
| 38秒77 (1走)
|
|-
| rowspan="2" | [[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]{{enlink|2005 Asian Athletics Championships|a=on}}
| rowspan="2" | [[仁川広域市|仁川]]
| 100m
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位
| 10秒42 (-0.3)
|
|-
| 4x100mR
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 39秒10 (4走)
|
|-
| rowspan="4" | 2006
| rowspan="2" | [[IAAFコンチネンタルカップ#IAAF陸上ワールドカップ|ワールドカップ]]{{enlink|2006 IAAF World Cup|a=on}}
| rowspan="2" | [[アテネ]]
| 4x100mR
| style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位
| 38秒51 (2走)
| アジア代表 (メンバーは全員日本人<ref group="注">第1走者:塚原直貴、第2走者:末続慎吾、第3走者:高平慎士、第4走者:小島茂之</ref>)
|-
| 200m
| style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位
| 20秒30 (+0.1)
|
|-
| rowspan="2" | [[2006年アジア競技大会における陸上競技|アジア競技大会]]
| rowspan="2" | [[ドーハ]]
| 200m
| style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝
| 20秒60 (+0.7)
|
|-
| 4x100mR
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位
| 39秒21 (2走)
| 同タイム着差あり
|-
| rowspan="2" | 2007
| rowspan="2" | [[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]
| rowspan="2" | [[大阪市|大阪]]
| 200m
| style="text-align: center;" | 2次予選
| 20秒70 (+0.9)
| 全体19位
|-
| 4x100mR
| style="text-align: center;" | 5位
| 38秒03 (2走)
| アジア記録
|-
| rowspan="2" | 2008
| rowspan="2" | [[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]]
| rowspan="2" | [[北京]]
| 200m
| style="text-align: center;" | 1次予選
| 20秒93 (-0.7)
| 全体34位
|-
| 4x100mR
| style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位
| 38秒15 (2走)
| '''五輪のトラック種目で日本男子初のメダル'''
|}
=== その他 ===
<div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align: left;">(折りたたみ)</div>
<div class="NavContent" style="text-align: left;">
*1996年
**[[第51回国民体育大会|第51回国体]] 少年B100m '''優勝''' 10秒63(+1.4)
*1997年
**第50回[[全国高等学校総合体育大会陸上競技大会|インターハイ]] 200m 8位
**[[第52回国民体育大会|第52回国体]] 少年A100m 7位 10秒75
*1998年
**第51回インターハイ 100m 8位
**[[第53回国民体育大会|第53回国体]] 少年A100m '''優勝''' 10秒46(-0.3)
*1999年
**第78回[[関東学生陸上競技対校選手権大会|関東インカレ]] 400mR(3走) 2位 39秒28
**第68回[[日本学生陸上競技対校選手権大会|日本インカレ]] 100m 準決勝2組6着 10秒82(-2.5)、400mR(3走) 4位 40秒60
**[[第54回国民体育大会|第54回国体]] 成年100m 5位 10秒62、400mR 5位 40秒36
*2000年
**第34回[[織田幹雄記念国際陸上競技大会|織田記念]] 100m選抜参考レース '''優勝''' 10秒43(+0.9)
**第79回関東インカレ 200m '''優勝''' 20秒67(+0.9)、400mR(3走) 2位 39秒83
**第69回日本インカレ 100m 2位 10秒19(+0.3)、400mR(3走) 2位 39秒04
**[[スーパー陸上]] 200m 2位 20秒26(-0.9)
*2001年
**[[水戸国際陸上競技大会|水戸国際]] 100m 2位 10秒42(-1.6)
**[[IAAFグランプリ大阪大会|大阪グランプリ]] 200m 3位 20秒42(+0.2)
**第80回関東インカレ 100m '''優勝''' 10秒41(-1.4)、400mR(4走) '''優勝''' 38秒90 *日本学生記録(当時)
**第85回[[日本陸上競技選手権大会|日本選手権]] 200m '''優勝''' 20秒48(+0.7)
**[[スーパー陸上]] 100m 5位 10秒34(-0.1)
**第70回日本インカレ 200m '''優勝''' 20秒30(+0.3) *大会記録、400mR(2走) '''優勝''' 38秒57 *大会記録・日本学生記録(当時)、1600mR(2走) '''優勝''' 3分06秒52
**[[第56回国民体育大会陸上競技|第56回国体]] 400mR(4走) 5位 40秒51
*2002年
**水戸国際 100m '''優勝''' 10秒05(+1.9) *日本学生記録・日本歴代3位(当時)
**大阪グランプリ 100m 3位 10秒13(+1.8)
**第81回関東インカレ 100m '''優勝''' 10秒12(+1.2)、1600mR(4走) '''優勝''' 3分05秒34
**第15回[[南部忠平記念陸上競技大会|南部記念]] 200m '''優勝''' 20秒37(+1.9)
**スプリントチャレンジカップ 400m '''優勝''' 45秒99 *自己ベスト
**第71回日本インカレ 100m '''優勝''' 10秒20(+0.5)、400mR(2走) '''優勝''' 39秒12、1600mR(4走) '''優勝''' 3分06秒04
**[[スーパー陸上]] 200m 2位 20秒55(-0.5)
*2003年
**水戸国際 100m 2位 10秒03(+1.8) *日本歴代3位(当時)・自己ベスト
**大阪グランプリ 100m 3位 10秒16(-0.3)
**第87回日本選手権 100m '''優勝''' 10秒13(+0.1)、200m '''優勝''' 20秒03(+0.6) *アジア記録・日本記録
**スプリントチャレンジカップ 400mR({{Flagicon|JPN}} 日本チーム2走) '''優勝''' 38秒81
*2004年
**大阪グランプリ 400mR({{Flagicon|JPN}} 日本Aチーム2走) '''優勝''' 38秒35 *大会記録(当時)
**第88回日本選手権 100m '''優勝''' 10秒10(+1.0)
**{{Flagicon|GBR}} [[英国グランプリ]] 100m 4位 10秒37(-1.6)
**{{Flagicon|HRV}} [[ザグレブグランプリ]] 100m 2位 10秒29(0.0)
**スプリントチャレンジカップ 100m '''優勝''' 10秒35(-1.1)、400mR({{Flagicon|JPN}} 日本Aチーム2走) '''優勝''' 39秒07
*2005年
**第39回[[織田幹雄記念国際陸上競技大会|織田記念]] 100m '''優勝''' 10秒15(+1.5)
**第21回[[静岡国際陸上競技大会|静岡国際]] 200m '''優勝''' 20秒80(-1.7)
**第18回南部記念 100m '''優勝''' 10秒15(+3.4)
**スーパー陸上 100m 4位 10秒17(+1.2)
**第53回[[全日本実業団対抗陸上競技選手権大会|全日本実業団選手権]] 100m '''優勝''' 10秒29(0.0)
*2006年
**大阪グランプリ 100m 3位 10秒28(-0.1)
**[[第90回日本陸上競技選手権大会|第90回日本選手権]] 200m 20秒37(0.0)
**{{Flagicon|ITA}} [[ゴールデンガラ]] 100mB 8位 10秒35(0.0)
**{{Flagicon|FIN}} Savo Games 200mA '''優勝''' 20秒69(-0.3)
**{{Flagicon|BEL}} リエージュ国際競技会 200m '''優勝''' 20秒25(+0.5)
**[[スーパー陸上]] 100m '''優勝''' 10秒12(+2.2)
**第54回全日本実業団選手権 200m '''優勝''' 20秒36(+0.2) *大会記録
**[[第61回国民体育大会陸上競技|第61回国体]] 100m '''優勝''' 10秒29(+0.4)、400mR(4走) '''優勝''' 39秒78
*2007年
**大阪グランプリ 100m '''優勝''' 10秒23(+0.4)、400mR({{Flagicon|JPN}} 日本Aチーム2走) '''優勝''' 38秒74
**[[第91回日本陸上競技選手権大会|第91回日本選手権]] 200m '''優勝''' 20秒20(+1.2)
*2008年
**大阪グランプリ 100m 2位 10秒55(+0.8)、400mR({{Flagicon|JPN}} 日本チーム2走) '''優勝''' 38秒94
**{{Flagicon|CHN}} 北京オリンピックプレ大会 200m 決勝棄権(準決勝2組2着 20秒91(+0.1))、400mR(2走) 2位 39秒46
**[[第92回日本陸上競技選手権大会|第92回日本選手権]] 200m 3位 21秒16(-1.2)
**スーパー陸上 100m 5位 10秒43(-0.4)
**第56回全日本実業団選手権 100m 準決勝棄権(予選7組1着 10秒56(-0.7))
*2012年
<!--**4月 {{Flagicon|USA}} ボブキャット・クラシック 100m 7組6着 10秒92(+2.8)-->
**5月 第54回東日本実業団選手権 100m 8位 11秒77(+0.3)
**9月 第60回全日本実業団選手権 100m 8位 10秒74(+2.4)
**10月 [[第67回国民体育大会陸上競技|第67回国体]] 400mR(4走) 準決勝1組4着 40秒43
*2013年
**4月 第47回織田記念 GP100m 予選2組8着 10秒58(+0.9)
**5月 第55回東日本実業団選手権 100m 決勝棄権(準決勝3組3着 10秒73(+0.1))
**9月 第61回全日本実業団選手権 100m 5位 10秒54(+1.3)
**10月 [[第68回国民体育大会陸上競技|第68回国体]] 400mR(4走) 4位 40秒17
*2014年
**4月 第48回織田記念 NONGP100m 2組4着 10秒49(+2.3)
**5月 第56回東日本実業団選手権 100m 4位 10秒91(-2.7)
**7月 第11回[[トワイライトゲームス|トワイライト・ゲームス]] 100m 11位 10秒96(-0.1)
**10月 第62回全日本実業団選手権 100m 8位 10秒71(-1.9)
*2015年
**5月 第31回静岡国際 200mNGP 1組4着 21秒46(-0.1)
**8月 第70回九州選手権 100m 決勝棄権(予選2組1着 10秒84(-2.7))
**10月 [[第70回国民体育大会陸上競技|第70回国体]] 100m 準決勝3組8着 10秒78(+0.8)
*2016年
**5月 [[水戸招待陸上]] 100m 決勝棄権(予選2組3着 10秒71(-2.1))
**8月 第71回九州選手権 200m 2位 21秒41(-1.2)
*2017年
<!--**2月 {{Flagicon|AUS}} Benita Willis Shield 100m 2位 10秒73(+1.7)、200m '''優勝''' 21秒18(+3.9)-->
<!--**4月 {{Flagicon|USA}} Fred Duckett Twilight Meet 100m 13位 11秒25(-3.1)、200m 9位 21秒55(+1.3)-->
<!--**5月 {{Flagicon|USA}} Tom Tellez Invitational 100m 13位 10秒78(+1.2)、200m 8位 21秒35(+1.0)-->
<!--**5月 {{Flagicon|USA}} Texas State University Tuesday Night Lights Summer Track and Field Series 100m 10位 10秒64(+2.0)、200m 2位 20秒94(+2.0)-->
**6月 [[第101回日本陸上競技選手権大会|第101回日本選手権]] 200m 予選2組8着 21秒50(-0.4)
*2018年
**5月 第34回静岡国際 200m 予選1組8着 21秒91(-0.4)
</div>
</div>
== 関連書籍 ==
* 『末続慎吾×[[高野進]] 栄光への助走 日本人でも世界と戦える!』([[折山淑美]](著)、[[集英社]]、2003/12、ISBN 978-4086500517)
* 『[[ターザン (雑誌)|Tarzan]]特別編集 100m 末續慎吾』([[マガジンハウス]]、2005/6、ISBN 978-4838784745)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
* [[日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (男子)|日本陸上競技選手権大会の記録一覧]]
* [[塚原直貴]]
* [[高平慎士]]
== 外部リンク ==
* {{Instagram|suetsugu_shingo}}
* [https://eaglerun.jp/ 公式サイト - 「EAGLERUN]」
* {{Olympedia}}
{{Rikuren|men001}}
* [https://web.archive.org/web/20090801010059/http://www.tbs.co.jp/seriku/2007/athlete/profile_741.html TBS「世界陸上大阪」日本スプリントのカリスマ 末續慎吾]
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{{succession box|title=[[200メートル競走#アジア記録|200mアジア記録保持者]]<br />(20秒03)|before={{flagicon|JPN}} [[伊東浩司]]<br />(20秒16)|after={{flagicon|QAT}} [[フェミ・オグノデ]]<br />(19秒97)|years=2003年6月7日 - 2015年9月11日}}
{{succession box|title=4×100mリレーアジア記録保持者<br />(38秒21 - 38秒03)|titlenote=[[塚原直貴]]、'''末續慎吾'''、[[高平慎士]]、朝原宣治|before={{JPN}}<br />(38秒31)|beforenote=[[井上悟 (陸上選手)|井上悟]]、伊東浩司、[[土江寛裕]]、[[朝原宣治]]|after={{CHN}}<br />(37秒99)|afternote=陳時偉、[[謝震業]]、[[蘇炳添]]、[[張培萌]]|years=2007年8月31日 - 2014年10月2日}}
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{{succession box|title=4×100mリレー日本学生記録保持者<br />(38秒90 - 38秒57)|titlenote=[[宮崎久]]、'''末續慎吾'''、[[藤本俊之]]、奥迫政之|before=[[早稲田大学]]<br />(38秒91)|beforenote=穴井伸也、中川博文、田村和宏、[[小島茂之 (陸上選手)|小島茂之]]|after=[[中央大学]]<br />(38秒54)|afternote=畠山純、[[川面聡大]]、河合元紀、飯塚翔太|years=2001年5月19日 - 2010年5月22日}}
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[[Category:日本の男子短距離走の選手]]
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14,920 |
ライフライン
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ライフライン (lifeline) は、英語では一般的に「命綱」を示す言葉となるが、日本においては地震工学用語としてのライフライン、すなわち、生活に必須なインフラ設備(Critical infrastructure)のうち、主にエネルギー施設、水供給施設、交通施設、情報施設などを指す語として用いられる。
一般的に、インフラ設備を示す英語としてはユーティリティ(Utility) / ユーティリティーズ(utilities)が適切であるが、災害発生時のインフラ設備を想定した場合に、専門用語として、ライフラインが使用される。
現代社会では、電気・ガス・水道・下水道の公共公益設備や、電話やインターネット等の通信設備、圏内外に各種物品を搬出入する運輸などの物流や人の移動に用いる鉄道等の公共交通機関など、都市機能を維持し人々が日常生活を送る上で必須の諸設備の総称を指す。
1971年のサンフェルナンド地震をきっかけにして、UCLA教授のマーティン・デュークが切り開いた工学分野「ライフライン地震工学」の用語。しかし、一般的に英語のlifelineは、元来、救命胴衣や救命浮き輪などにつながれた紐や縄、船乗りと船をつなぐ紐や縄、潜水夫につながれた紐や縄など命綱、または、ある物事が存続するための前提となるものを指す。英語圏において地震発生頻度が低いため、英語のネイティブスピーカーが地震工学用語としてのライフラインに触れることが少ないことなどから、英語圏で本用法が通じにくいため、日本国内において当該用法にて使われる場合、和製英語であると考える向きが多い。これは、言葉の輸出地で一般的に用いられていない専門用語化している語が、輸入地である日本国内においてニュース等で用いられることによって一般に浸透する、という経緯を辿ったために生じた混乱・捩れであると考えられる。
1995年に発生した阪神・淡路大震災以降、当該用法でこの言葉が多く使われるようになり、同年度の新語・流行語大賞のトップテンに入賞した。日本語では従来「生活線」または「生命線」と表現されてきた語の置換、現代社会における意味合いを付加した用語であると考えられる。
「生命線」という語は以前からあり(1930年代の「満蒙は日本の生命線」など)、これの言い換えとして定着したと思われる。「生活線」「生命線」や「生活インフラ」ではなく「ライフライン」に置換されていったいきさつについては、検証の余地があるとされる。
米国においては、自分の住まいで日常生活を送っている高齢者や病人が、突然具合が悪くなったり身動きが取れない事態に陥った際、自分自身で緊急に救護施設を呼び出す電話サービスや設備、もしくはサービスを行う会社をライフラインと言う。また、身動きが取れない状態でどのようにして呼び出すことができるのかを風刺したパロディやジョークとして用いられることがある。
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ライフライン (lifeline) は、英語では一般的に「命綱」を示す言葉となるが、日本においては地震工学用語としてのライフライン、すなわち、生活に必須なインフラ設備のうち、主にエネルギー施設、水供給施設、交通施設、情報施設などを指す語として用いられる。 一般的に、インフラ設備を示す英語としてはユーティリティ(Utility) / ユーティリティーズ(utilities)が適切であるが、災害発生時のインフラ設備を想定した場合に、専門用語として、ライフラインが使用される。 現代社会では、電気・ガス・水道・下水道の公共公益設備や、電話やインターネット等の通信設備、圏内外に各種物品を搬出入する運輸などの物流や人の移動に用いる鉄道等の公共交通機関など、都市機能を維持し人々が日常生活を送る上で必須の諸設備の総称を指す。
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{{otheruses||日本の宗教番組の「ライフ・ライン」|ライフ・ライン|[[ビデオゲーム]]、[[エーペックスレジェンズ]]に登場する[[キャラクター]]、「ライフライン」|エーペックスレジェンズの登場キャラクター#初期レジェンド}}
'''ライフライン''' (lifeline) は、[[英語]]では一般的に「'''[[命綱]]'''」を示す言葉となるが、日本においては地震工学用語としてのライフライン、すなわち、生活に必須な[[インフラストラクチャー|インフラ]]設備(Critical infrastructure)のうち、主に[[エネルギー]][[施設]]、[[水]]供給施設、[[交通]]施設、[[情報]]施設などを指す語として用いられる。
一般的に、インフラ設備を示す英語としては[[ユーティリティ]](Utility) / ユーティリティーズ(utilities)が適切であるが、災害発生時のインフラ設備を想定した場合に、専門用語として、ライフラインが使用される。
現代[[社会]]では、[[電気]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[水道]]・[[下水道]]の公共公益設備や、[[電話]]や[[インターネット]]等の[[通信]][[設備]]、圏内外に各種物品を搬出入する[[運輸業|運輸]]などの物流や人の移動に用いる[[鉄道]]等の[[公共交通]]機関など、都市機能を維持し人々が[[日常生活]]を送る上で必須の諸設備の総称を指す。
== 概要 ==
<!--[[画像:Chuetsu earthquake-jieitai2.jpg|thumb|300px|right|災害援助用の[[給水車]]。[[牽引自動車|牽引車両]]と切り離し、単独で給水できるように[[バッテリー]]内蔵。病院等の人命に関わる施設内に圧送可能。]]-->
1971年の[[サンフェルナンド地震]]をきっかけにして、[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]教授の[http://texts.cdlib.org/view?docId=hb4t1nb2bd;NAAN=13030&doc.view=frames&chunk.id=div00017&toc.depth=1&toc.id=&brand=oac4 マーティン・デューク]が切り開いた<ref><!-- 404 date=2013年1月 -->[https://web.archive.org/web/20110905010631/http://www.asce.org/Content.aspx?id=2147488653 Technical Council on Lifeline Earthquake Engineering](英語、[[ウェブアーカイブ]])</ref>工学分野「ライフライン地震工学」の用語<ref><!-- 404|date=2013年1月 https://web.archive.org/web/20080511162702/http://www.americanlifelinesalliance.org/LifelinesHistory.htm -->[http://www.americanlifelinesalliance.com/LifelinesHistory.htm LIFELINE ENGINEERING AND THE CREATION OF ALA] (英語、AmericanLifelinesAlliance)
</ref>。しかし、一般的に英語のlifelineは、元来、[[救命胴衣]]や救命[[浮き輪]]などにつながれた[[紐]]や[[縄]]、[[船乗り]]と[[船]]をつなぐ紐や[[縄]]、[[潜水夫]]につながれた紐や縄など[[命綱]]、または、ある物事が存続するための前提となるものを指す。英語圏において地震発生頻度が低いため、英語のネイティブスピーカーが地震工学用語としてのライフラインに触れることが少ないことなどから、英語圏で本用法が通じにくいため、日本国内において当該用法にて使われる場合、[[和製英語]]であると考える向きが多い。これは、言葉の輸出地で一般的に用いられていない専門用語化している語が、輸入地である日本国内においてニュース等で用いられることによって一般に浸透する、という経緯を辿ったために生じた混乱・捩れであると考えられる。
[[1995年]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]以降、当該用法でこの言葉が多く使われるようになり、同年度の[[新語・流行語大賞]]のトップテンに入賞した。日本語では従来「'''生活線'''」または「'''生命線'''」と表現されてきた語の置換、現代社会における意味合いを付加した用語であると考えられる。
<!--うろ覚えですが、当初 民放では使われておらず、NHKが使い始めて浸透した、という記憶があります…-->
「生命線」という語は以前からあり([[1930年代]]の「[[満州|満]][[蒙古|蒙]]は日本の生命線」など)、これの言い換えとして定着したと思われる。「生活線」「生命線」や「生活[[インフラストラクチャー|インフラ]]」ではなく「ライフライン」に置換されていったいきさつについては、検証の余地があるとされる。
{{-}}
== その他 ==
[[アメリカ合衆国|米国]]においては、自分の住まいで日常生活を送っている高齢者や病人が、突然具合が悪くなったり身動きが取れない事態に陥った際、自分自身で緊急に救護施設を呼び出す電話サービスや設備、もしくはサービスを行う会社を'''ライフライン'''と言う。また、身動きが取れない状態でどのようにして呼び出すことができるのかを風刺したパロディやジョークとして用いられることがある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈・出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
* [[インフラストラクチャー]]
** [[国土強靱化基本計画]]
* [[災害]]
** [[停電]]
** [[断水]]
* [[交通弱者]]
** [[医療難民]] / [[買い物難民]] / [[SS過疎地]]
* [[防災]] / [[備蓄]] / [[フェーズフリー]]
** [[サプライチェーンマネジメント]]
* [[冗長化]] / [[リスクマネジメント]]
** [[バックアップサイト]]
** [[ディザスタリカバリ]]
** [[事業継続計画]](BCP)
== 外部リンク ==
* {{kotobank|ライフライン}}
* [https://busshi.bousai-system.go.jp/m/login.html 物資調達・輸送調整等支援システム] - [[内閣府]]
* [http://www.asce.org/Technical-Groups-and-Institutes/TCLEE/Technical-Council-on-Lifeline-Earthquake-Engineering-TCLEE/ 米国土木学会(ASCE)のライフライン地震工学技術審議会(TCLEE)]{{en icon}}
* [https://books.google.co.jp/books?id=MJ_KHuRUYkMC&pg=PT1068&lpg=PT1068&dq=San+Fernando+lifeline+earthquake&source=bl&ots=Wx0l_S-Kvk&sig=DKF-sTWjwh-u2Az17U-Alh3V-Fs&hl=ja&ei=hm4-StrYHMSMkAXujLzGDg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1 Earthquake engineering handbook(Google Book Search)]{{en icon}}
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枚方市
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枚方市(ひらかたし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。北河内地域における中心的な衛星都市であり中核市に指定されている。
かつては人口は約40万人で大阪市、堺市、東大阪市に次いで府内第4位の人口を擁していたが、2019年(平成31年/令和元年)に40万人を割り豊中市に抜かれたため、現在では約39万人で府内第5位の人口を擁している。
京都府・奈良県との府県境に位置する。2014年4月1日に中核市に移行した。江戸時代には京街道 (大坂街道)の宿場町である枚方宿が置かれ、かつて北河内郡役所も所在した北河内地域及び京阪間の中核的なベッドタウン(郊外住宅都市)として発展した。七夕伝説やひらかたパーク、また6つの大学、全国高校ラグビー大会の優勝校、バレーボールVリーグパナソニックパンサーズの本拠地がある。ひらかたパーク(通称:ひらパー)は現在まで続く、日本最古の遊園地である。
市西部は京阪本線で京都市および大阪市と結ばれ、また市東部はJR片町線(学研都市線)で京橋・北新地・尼崎および関西文化学術研究都市の各地区と結ばれる。中心駅は京阪の枚方市駅で、同駅を中心に中心市街地が広がっている。また市中心部は国道1号(枚方バイパス)、市東部には第二京阪道路が走る。
平成の大合併の際に寝屋川市、交野市との合併が協議され、人口約70万人規模の京阪間の政令指定都市を模索した時期があった(「北河内市構想」)。京阪間のベッドタウンとして発展したが昼間の賑わいには乏しい3市が一つになって、文化や産業の集まる核が出来れば住民の居住地への愛着が高まると期待されたが、住民側の要望は無かった。合併は実現しなかったが、北河内地域全体の協力関係の強化(例として救急体制の充実)によって住民生活の向上を図っている。
枚方市は、大阪市と京都市のほぼ中間にあたる大阪府北東部、大阪市から京都市に向って約20kmの淀川左岸に位置する。東西12.0km、南北8.7kmの三角形を成しており、面積は65.12kmとなっている。
東の生駒山地と西に流れる淀川に囲まれており、市の東側は生駒山地に至る山地、市の中心部から西は大阪平野の北東端となっている。
生駒山地北麓にあたり、北に伸びる長尾丘陵から男山丘陵の山裾と、交野台地、枚方丘陵からなる。
市の地形は標高によって大きく4つに区分される。市の東端部は生駒山地に連なる標高100m以上の山地地区となっており、主に1億数千年前以降に形成された花崗岩類からなる。山地地区の西側は標高50m〜100mの山麓地区となっており、長尾丘陵が広がる。
山麓地区の西側は標高20m〜50mの丘陵地区となっており、天野川を挟んで東の枚方台地と西の香里丘陵が広がっている。市域の大部分がこの丘陵地区となっている。
淀川および淀川に流入する河川の付近は標高20m以下の淀川低地地区となっており、河川の氾濫原が広がっている。
丘陵地区の地層は、約200万年前から数万年前の間に繰り返された氷期と間氷期に堆積した大阪層群と呼ばれる地層の内、第2海成層から第7海成層にあたる地層と数種類の火山灰層から成り、東洋象やムカシニホンシカなどの化石が発掘されている。
市内を流れる河川の多くは東の生駒山地に端を発す。一級河川である船橋川、穂谷川、天野川も同様に、生駒山地から平行して市内を西流し、淀川に合流したあとに大阪湾に流れ込む。
生駒山地と大阪平野の境界付近には生駒断層帯と呼ばれる活断層帯があり、生駒断層帯に含まれる田口断層、交野断層、枚方断層が市内を南北に縦断する。
田口断層は市北部の男山山地西縁から南南東に伸びたのち南南西に屈曲している。交野断層は生駒山地の西縁を南北に、また枚方断層は香里丘陵西縁から南方に伸び、交野断層と枚方断層はそれぞれ四條畷市付近で生駒断層に連なる。
瀬戸内海式気候区に属し、比較的温暖で降水量は少ない。また夏はヒートアイランド現象の影響により大阪市付近で熱せられた空気が、大阪湾沿岸部からの海風に乗って流入し、枚方市付近で生駒山系に阻まれる。そのため大阪市内よりも気温が高くなる傾向があり、国内で最も高い気温を記録する事もある。冬の積雪はほとんど無い。33°C以上の時間は1980年代は40〜80時間/年だったが、1990年代後半からは150時間/年前後である。
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.97%増の407,978人であり、増減率は府下43市町村中12位、72行政区域中27位。
枚方の地名は古く、日本最古級の文献である古事記、日本書紀、風土記などに登場している。
1995年決算から実質収支が赤字になり、1999年度には累積赤字が29.8億円と膨らんだ。財政再建準用団体への転落も危惧される中で財政再建を進められ、2002年度決算で黒字化を果たした。市税収入の前年度割れが続く中、2002年度から2004年度まで3年連続して、実質収支の黒字を計上している。
歳入の大半を占める市税収入は、長引く不況の影響により1997年の651億円をピークとして2004年度まで7年連続して減収が続いており、2004年度の市税収入は544億円である。歳入不足を補うために市債が発行されており、その総額は2004年度までに約148億8800万円に上る。なお、2021年度現在の市税収入は約531億円となっている。
2021年4月現在のラスパイレス指数は98.2(中核市53/62位)である。
1997年4月時点の107.3(1998年、1999年は不明)、2000年4月時点の105.8、2001年4月時点の103.5、2002年4月時点の103.3、2003年4月時点の102.1、2004年4月時点の99.1、2005年4月時点の98.7、2006年4月時点の98.6、2007年4月時点の98.3、2008年4月時点の98.2、2009年4月時点の96.8と、全国的に高水準だったラスパイレス指数の低下が続いており、2021年4月現在においても国家公務員よりも低水準となっている。
平成の大合併では寝屋川市、交野市との合併が協議されたが実現しなかった。またこれとは別に、1980年代に京都府八幡市住民より同市から当市への越境合併の要望があったが自然消滅している。
2015年の府議選から、定数は5から4に変更された。
枚方市はベッドタウンとして発展してきたが、産業の面からみると製造業の比重が高い産業都市でもある。1978年時点では、従業員数の36.6%を占める製造業が1位であった。
枚方の近代産業は、大正時代に開業した日本メリヤス株式会社と蝶矢シャツ製造所に始まった。
また、戦前から戦中に掛けて、枚方市は軍需産業が盛んであった。明治時代に開設された陸軍禁野火薬庫に始まり、昭和に入ると陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所、東京第二陸軍造兵廠香里製造所が開設された。
戦後これらの軍事施設は民間に払い下げられ、大阪陸軍造兵廠枚方製造所(旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)は小松製作所大阪工場に、禁野火薬庫と東京第二陸軍造兵廠香里製造所は、住宅団地としてそれぞれ日本住宅公団中宮団地、香里団地へと生まれ変わった。
戦後、枚方中小企業団地(現・枚方企業団地)、枚方既製服団地(現・枚方紳士服団地)、枚方家具団地などの工業団地が枚方の経済成長を支えた。企業誘致に際して立地を一箇所に集約しなかったため、これらの企業団地はある程度のまとまりがあるものの、市内に点在する形となっている。
しかし産業構造の変化や宅地化の進展により、近年これらの事業所が市外へ移転する事が増えている。枚方の近代産業の先駆けである倉敷紡績枚方工場(旧日本メリヤス)が1996年に、CHOYA枚方工場(旧蝶矢シャツ製造所)が2004年に、それぞれ市外へ移転した。
地域産業の活性化を図るべく、人材育成、起業支援に併せて、津田サイエンスヒルズ(関西文化学術研究都市 氷室・津田地区)への企業誘致などが進められているが、十分な成果が上がっているとは言い難い状況である。
そもそも枚方市は「都心に比較的近く鉄道交通が発達している」という特性を持ち、バブル期より地の利を生かした住宅開発を盛んに行ってきた。これら住宅地に住む労働者の多くが都心通勤者であるため、かねてから昼間人口の都心流出が顕著であった。
さらに近年では1997年のJR東西線開業や2003年の枚方市駅、樟葉駅京阪特急停車化、2008年の中之島線開業など、京阪本線、片町線(学研都市線)の高速化や運転系統・本数の充実化といったサービスアップによって通勤ニーズだけでなく商業・観光ニーズにおいても都心志向が高まり、購買客までも都心へ流出させることとなった(ストロー効果)。
ビオルネ・イオン枚方店(旧枚方サティ→枚方ビブレ→枚方サティ)・京阪百貨店ひらかた店・京阪枚方ステーションモール・ひらかたサンプラザ1号 - 3号・TSUTAYAビルなどの商業施設がならぶ。
これら商業施設の発展の経緯は線路を挟み北口側と南口側に大きく分かれた。北口側には旧京街道が通り、街道沿いに岡東町商店街が賑わいを見せていた。前述の商業施設もまず北口側から開発が進められた。1965年(昭和40年)に枚方駅前デパート、1969年(昭和44年)に長崎屋枚方店が開店した。北口側の開発から少し遅れて南口側の開発も進められた。1968年(昭和43年)に三越百貨店枚方店、1970年(昭和45年)にイズミヤ枚方店が開店した。1971年(昭和46年)に可決された市街地再開発事業により、駅前ビル3棟と5000m2の駅前広場、4700m2の都市公園が、5年の歳月と113億円を費やして建設された。駅前ビルはひらかたサンプラザ1号館から3号館と名付けられ、2号館には1975年(昭和50年)にひらかた丸物百貨店(後の近鉄百貨店枚方店)が開店した。
1960年代から1970年代に掛けて枚方市駅の乗降客数は急増を見せるが、香里団地などの住宅地を多く抱える南口側に対して、線路で分断され淀川に挟まれた北口側は次第に衰退していった。駅前に大型商業施設が開発された事も相まって岡東町商店街の衰退は著しくなったが、1990年(平成2年) 岡本町再開発ビル「ビオルネ」が完成。1993年(平成5年)には枚方市駅が高架化され、翌1994年(平成6年)には高架下に京阪百貨店枚方店と京阪ザ・ストア枚方店が開店した。北口と南口を分断していた線路が高架化により無くなり、再び北口側に活気が戻るようになってきた。
しかしその後の景気の後退と共に縮小が相次いだ。1996年(平成8年)に北口からほど近い倉敷紡績枚方工場が移転閉鎖。2002年(平成14年)に長崎屋枚方店、2005年(平成17年)に三越百貨店枚方店、2012年(平成24年)2月に近鉄百貨店枚方店が閉店した。2010年(平成22年)はビオルネの運営会社が倒産している。
2013年(平成25年)4月枚方市駅北口の関西医科大学附属枚方病院(現・関西医科大学附属病院)の隣接地に関西医科大学がオープン。更に枚方市駅周辺の再整備がスタートし、2016年(平成28年)5月に近鉄百貨店跡に枚方T-SITEがオープンした。今後は駅周辺の再整備が進む。
2025年までに枚方市駅北口エリアの再整備を行い、京阪本線、京阪交野線と天野川に囲まれたデルタと呼ばれる地帯に商業施設、ホテル、オフィスなどが入る高層ビルを建設予定。また、北口ロータリーの混雑緩和のため、広くする予定。
南口エリアの再整備は後に開始され、市役所の移設も含まれる。
中核市で216億円の負担は異例と言われている。
1967年より京阪電気鉄道によって「くずはローズタウン」の住宅開発が行われ、引き続いて百貨店(松坂屋くずは店)、スーパーマーケット(ダイエー、イズミヤ)、専門店を含む沿線最大級のショッピングモール・くずはモール街が開発され、1972年4月に開店した。
しかし建設から30余年を経過した2004年にいったん閉鎖、松坂屋くずは店は撤退した。
2005年に「KUZUHA MALL」として全面改装、それにあわせて京阪本線の特急列車が停車するようになり、一時は沈滞化していた樟葉周辺も再び活気付くようになった。樟葉周辺は樟葉パブリック・ゴルフ・コース、超高層マンション、ローズタウン、その他商業施設など大半が京阪による開発である。
交通量が多く、多方面から集客できるため、娯楽施設や飲食店が多く立ち並ぶ。高野道周辺にはラウンドワン、フォレオひらかた(核店舗は「シネプレックス枚方」「GOLF5」「スポーツデポ」など)などがある。
また、その他商業施設が相次いでオープンする。2016年には、国内最大級の規模であるニトリモール枚方がオープン。
東部地域では伝統産業である河内そうめん製造と酒造業が行われていた。
河内そうめんは、奈良の「三輪素麺」や兵庫の「揖保乃糸」などと共に知られる手延べそうめんである。天和年間(1681年〜1683年)に大和国三輪から伝えられた素麺製造技術が基になっている。
耕地の少ない旧交野郡津田村を中心として農閑期の副業として栄え、最盛期には約80軒で生産されていた。遠く近江や尾張にまで販路を広げていたが、近年は生産農家の高齢化が進み後継者不足が問題となっており、2003年時点では津田地域に三軒、穂谷地域に一軒を残すのみとなっていた。その当時、出荷量が限られているため市販されていなかった。その後も生産者の減少は続き、伝統を受け継いでいた最後の一軒が2012年に廃業したことで、古くから続いた生産者は途絶えた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられている。市立枚方宿鍵屋資料館では夏季限定で河内そうめんを有料で食べることができる。
津田には河内そうめんの発展に貢献した山下政右衛門(後に政太)の碑「山下翁頌徳碑」が残る。
生駒山系の良質な地下水を生かして酒造も行われていた。1921年頃は小北酒造場(菅原村)、田中酒造場(氷室村)、米山酒造所(同)、池尻酒造所(津田村)、山本酒造所(同)、高地酒造所(樟葉村)の6軒。また1970年代まで小北酒造場(藤阪元町、「菊人形」「寿賀天杯」)、田中酒造場(尊廷寺、「谷川」)、池尻酒造(津田元町、「成功正宗」)、津田酒造(津田元町、「枚方自慢」「みや鶴」)、重村酒造場(穂谷、「富士霞」「穂谷」「淀菊」)という5つの造り酒屋が存在した。津田酒造のみや鶴は1995年の全国新酒鑑評会において金賞を受賞する実績を残している。
しかし1990年代半ばまでに重村酒造場を残し、その他は全て廃業した。住宅地図において酒造業としての記載が最後に残されているのは、池尻酒造は1979年、田中酒造場は1983年、小北酒造場は1992年、津田酒造は1994年となっている。
最後まで残った重村酒造場も2012年3月で廃業し、枚方市内から酒造業者は消滅した。
江戸時代の幕末期、枚方市域では41の寺子屋があり、比較的裕福な層の子供に対して、習字や読書、算盤を教えていた。師匠は僧侶が多く、農民や医師もその役を担った。
また専門的な知識や技能を教える私塾として、中宮村の南明堂、坂村の岡田本房塾、同村の言順堂が開設されていた。南明堂は享保年間(1716-1736年)に医師の行田(なめだ)義斎により設立された、枚方でもっとも古く設立された私塾である。岡田本房塾は天明・寛政期(18世紀末)に岡田本房により設立された。岡田家は代々一宮神社(片埜神社)の祠官であり、岡田本房は旗本水野氏の坂村陣屋の代官を務めていた。言順堂は代々医師であった三浦家により設立され、医師であった三浦元道が教化に務めた。
枚方市では、ベッドタウン化により1950年代から1970年代に掛けて急激に人口が増加した。
そのため小中学校の不足が深刻化し、各地の小中学校には臨時のプレハブ教室が大量に作られる事態となった。児童の増加に対応するため新設校の設立や増築が進められ、1980年代には教室の不足が解消された。
小学校の児童数は1980年代を頂点として一転して減少に転じ、次第に少子化傾向が顕著になるに従い学級数が減少した。空き教室の増加も問題となり、1999年に学校の統廃合が行われた。しかし、少人数による利点・長所を生かし、原則として今後統廃合はされない見通しである。2004年には中学校校区の弾力化が行われ、小学校最終学年で志望中学の希望調査が行われる。
また、市立学校全てにコンピュータールームの導入、ALTによる英語教育、少人数授業などには古くから積極的である。
かつて高校の進学指導において高槻・枚方方式と呼ばれた総合選抜を擬似的に再現する地元集中という考え方を用いていた。
さらに2008年度より枚方市立の小中学校の全教室に冷暖房が設置し、快適な学習環境の確保が可能となった。また子供たちが思いっきり運動場で遊べるよう、全小学校でみどりのじゅうたん事業と称して、校庭を一部芝生化している。これには、外気温低下の効果も期待されている。
全国学力調査では、枚方市の平均値は全国平均・大阪府平均を上回っており、今後も先進的教育のまちとしての地位を確立し、枚方市の子供たちの学力向上を図るための教育政策として、より充実した授業展開が行えるよう電子黒板の導入や夏季休業日を6日間短縮、冬期休業日を1日ずらすなどの取り組みがなされている。
なお、関西地方の学校は制服・標準服を定めていることが多いが、枚方市の学校は基本的に私服登校が可能。
また、漢字を日本に伝えた王仁博士の墓とされる大阪府史跡「伝王仁墓」が市内にあることにちなみ、「漢字のまち枚方」としての特色を全国に発信しようと、平成15年度より「心に残る漢字一文字作文コンクール」(現・「漢字をテーマに思いを伝える作文コンクール」)を実施するなど、さまざまな取り組みを行っている。
古くから大阪-京都の交通を支える要所であり、江戸時代の枚方市域には京街道、東高野街道、山根街道、磐船街道、宇治街道などの街道が通っていた。
1982年から国道168号となった道路は磐船街道と呼ばれ、枚方から交野を経由して奈良県に至る街道であった。古代、交野ヶ原と呼ばれた時代には、王朝貴族が遊猟をする際に使われたという。
東高野街道は、平安時代の官道である南海道を起源とする、中世の京阪間を結ぶ主要な街道であった。京都から高野山への巡礼街道であり、京都から洞ヶ峠を越えて枚方に入り、枚方台地の中央部を縦断した後、生駒山地沿いに南下、河内長野で西高野街道に合流し、高野山に至る。高野山に修行に向かう京の僧侶、参拝に向かう貴族、やがて武士や商人、一般庶民までも高野山に向かって歩いたという。1966年以降、国道1号(洞ヶ峠〜出屋敷)、大阪府道18号枚方交野寝屋川線(出屋敷〜茄子作)、大阪府道20号枚方富田林泉佐野線(茄子作〜中野)に相当する。出屋敷周辺には、かつての面影が残されている。
山根街道は、洞ヶ峠から東高野街道と分岐して津田を経由し、私部に至る街道であり、山麓地区の村々を結ぶ街道として利用された。私部を過ぎ、茄子作の東で東高野街道に合流する。
宇治街道は、枚方・田口・長尾を経て、荒坂山を超えて八幡から宇治に至る街道である。「荒坂嶺道」(あらさかとうげみち)や「長尾道」とも呼ばれる。
1594年に文禄堤が整備され道路としても利用されるようになると、更に江戸時代にはこの道路を用いて京街道が整備された。京街道は東高野街道に代わって京阪間の幹線道路として利用されるようになり、枚方の発展に大きく寄与する事となる。
京街道は1932年に京阪国道として整備され、(旧)国道1号と称されたのち、1966年に枚方バイパス(国道1号)開通後は、大阪府道13号京都守口線となった。
枚方バイパス(国道1号)は洞ヶ峠から市内を縦断しているが、主要な交差点が立体交差となっていない事も影響し渋滞が頻発している。2010年に全通した第二京阪道路などによる渋滞緩和が期待されている。
江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。
京都の伏見港と大阪の八軒家を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜(三矢浜)、樋之上浜(楠葉浜)、出口浜(松ヶ鼻浜)、渚浜、磯島浜といった船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという。
行き交う船に近づき餅や酒を売りつけるくらわんか舟が名物になったのもこのころである。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」、歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている。
淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。高浜の渡し(楠葉の渡し)、鵜殿の渡し(下島の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、大塚の渡し(枚方の渡し)、三島江の渡し(出口の渡し)で対岸と結ばれていた。高浜の渡しは古事記にも登場する古い渡し船であり、上流の山崎の渡し(橋本の渡し)と共に、西国街道と京街道を結ぶ重要なものだったという。大塚の渡しが枚方においてもっともよく利用され重要な渡し舟だった。
明治時代には蒸気外輪船が登場し鍵屋浦と鶴屋浜が船着場だったが、鉄道の開通や自動車の発達、道路の整備に伴い、次第に陸上輸送に取って代わられるようになった。
近年、観光や緊急時の輸送手段の確保などのため淀川の舟運を復活させようとする運動が進められている。2000年11月には枚方市の呼びかけにより、大阪府および京都府の淀川沿いにある9市1町が参加する「淀川舟運整備推進協議会」が設立された。2017年9月には京阪天満橋駅付近の八軒家船着場との間に定期運航船が就航し、月に一回程度の頻度で運航されている。
鉄道については、1898年に現在の片町線が、1910年に京阪本線が開業し、それまで主に淀川の舟運によっていた京阪間の客貨輸送に代わることとなった。また、片町線については、市内に所在していた陸軍の施設(香里製造所や禁野火薬庫)への軍需輸送も担っていた。戦後はベッドタウン化による急激な人口の増加により、通勤通学の足として重要な役割を果たした。枚方市駅は京阪本線内で第3位の乗降客数を持っている。京都と大阪のほぼ中間地点という地理的条件や京阪特急停車駅化により、枚方市駅から京阪京橋駅へ特急で最速15分(準急で23分)、京阪丹波橋駅へ特急で最速18分(準急で26分)という大幅な時間短縮となった。
1929年には、信貴生駒電鉄枚方線(後の京阪交野線)が開業した。元々は奈良県の生駒駅まで結ぶ計画であったが、延伸されないまま計画は中止された。
中心となる駅:枚方市駅
京阪バスが市内だけでなく、空港連絡線や長距離線などを運転している。
路線バスについては枚方・高槻・交野・男山・京田辺の各営業所が管轄している。
市民からの応募により、1991年10月4日に決定した。
枚方八景とは市制35周年を記念し、市民投票により1984年10月1日に制定された。
1979年の機物神社での七夕まつりの再開以降、平安時代のころ、「交野ヶ原」(かたのがはら)と呼ばれていた枚方市から隣接する交野市にかけての一帯で、「七夕伝説ゆかりのまち」として、まちおこし活動が活発に行われてきた。
現存する文献では、伊勢物語第82段で詠在原業平が詠んだとされる「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり」の和歌が、七夕伝説と交野ヶ原を結びつける最古のものとされている。
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"text": "かつては人口は約40万人で大阪市、堺市、東大阪市に次いで府内第4位の人口を擁していたが、2019年(平成31年/令和元年)に40万人を割り豊中市に抜かれたため、現在では約39万人で府内第5位の人口を擁している。",
"title": null
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{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "京都府・奈良県との府県境に位置する。2014年4月1日に中核市に移行した。江戸時代には京街道 (大坂街道)の宿場町である枚方宿が置かれ、かつて北河内郡役所も所在した北河内地域及び京阪間の中核的なベッドタウン(郊外住宅都市)として発展した。七夕伝説やひらかたパーク、また6つの大学、全国高校ラグビー大会の優勝校、バレーボールVリーグパナソニックパンサーズの本拠地がある。ひらかたパーク(通称:ひらパー)は現在まで続く、日本最古の遊園地である。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "市西部は京阪本線で京都市および大阪市と結ばれ、また市東部はJR片町線(学研都市線)で京橋・北新地・尼崎および関西文化学術研究都市の各地区と結ばれる。中心駅は京阪の枚方市駅で、同駅を中心に中心市街地が広がっている。また市中心部は国道1号(枚方バイパス)、市東部には第二京阪道路が走る。",
"title": "概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "平成の大合併の際に寝屋川市、交野市との合併が協議され、人口約70万人規模の京阪間の政令指定都市を模索した時期があった(「北河内市構想」)。京阪間のベッドタウンとして発展したが昼間の賑わいには乏しい3市が一つになって、文化や産業の集まる核が出来れば住民の居住地への愛着が高まると期待されたが、住民側の要望は無かった。合併は実現しなかったが、北河内地域全体の協力関係の強化(例として救急体制の充実)によって住民生活の向上を図っている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "枚方市は、大阪市と京都市のほぼ中間にあたる大阪府北東部、大阪市から京都市に向って約20kmの淀川左岸に位置する。東西12.0km、南北8.7kmの三角形を成しており、面積は65.12kmとなっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "東の生駒山地と西に流れる淀川に囲まれており、市の東側は生駒山地に至る山地、市の中心部から西は大阪平野の北東端となっている。",
"title": "地理"
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{
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"tag": "p",
"text": "生駒山地北麓にあたり、北に伸びる長尾丘陵から男山丘陵の山裾と、交野台地、枚方丘陵からなる。",
"title": "地理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "市の地形は標高によって大きく4つに区分される。市の東端部は生駒山地に連なる標高100m以上の山地地区となっており、主に1億数千年前以降に形成された花崗岩類からなる。山地地区の西側は標高50m〜100mの山麓地区となっており、長尾丘陵が広がる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "山麓地区の西側は標高20m〜50mの丘陵地区となっており、天野川を挟んで東の枚方台地と西の香里丘陵が広がっている。市域の大部分がこの丘陵地区となっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "淀川および淀川に流入する河川の付近は標高20m以下の淀川低地地区となっており、河川の氾濫原が広がっている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "丘陵地区の地層は、約200万年前から数万年前の間に繰り返された氷期と間氷期に堆積した大阪層群と呼ばれる地層の内、第2海成層から第7海成層にあたる地層と数種類の火山灰層から成り、東洋象やムカシニホンシカなどの化石が発掘されている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "市内を流れる河川の多くは東の生駒山地に端を発す。一級河川である船橋川、穂谷川、天野川も同様に、生駒山地から平行して市内を西流し、淀川に合流したあとに大阪湾に流れ込む。",
"title": "地理"
},
{
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"tag": "p",
"text": "生駒山地と大阪平野の境界付近には生駒断層帯と呼ばれる活断層帯があり、生駒断層帯に含まれる田口断層、交野断層、枚方断層が市内を南北に縦断する。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "田口断層は市北部の男山山地西縁から南南東に伸びたのち南南西に屈曲している。交野断層は生駒山地の西縁を南北に、また枚方断層は香里丘陵西縁から南方に伸び、交野断層と枚方断層はそれぞれ四條畷市付近で生駒断層に連なる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "瀬戸内海式気候区に属し、比較的温暖で降水量は少ない。また夏はヒートアイランド現象の影響により大阪市付近で熱せられた空気が、大阪湾沿岸部からの海風に乗って流入し、枚方市付近で生駒山系に阻まれる。そのため大阪市内よりも気温が高くなる傾向があり、国内で最も高い気温を記録する事もある。冬の積雪はほとんど無い。33°C以上の時間は1980年代は40〜80時間/年だったが、1990年代後半からは150時間/年前後である。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.97%増の407,978人であり、増減率は府下43市町村中12位、72行政区域中27位。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "枚方の地名は古く、日本最古級の文献である古事記、日本書紀、風土記などに登場している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1995年決算から実質収支が赤字になり、1999年度には累積赤字が29.8億円と膨らんだ。財政再建準用団体への転落も危惧される中で財政再建を進められ、2002年度決算で黒字化を果たした。市税収入の前年度割れが続く中、2002年度から2004年度まで3年連続して、実質収支の黒字を計上している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "歳入の大半を占める市税収入は、長引く不況の影響により1997年の651億円をピークとして2004年度まで7年連続して減収が続いており、2004年度の市税収入は544億円である。歳入不足を補うために市債が発行されており、その総額は2004年度までに約148億8800万円に上る。なお、2021年度現在の市税収入は約531億円となっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2021年4月現在のラスパイレス指数は98.2(中核市53/62位)である。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1997年4月時点の107.3(1998年、1999年は不明)、2000年4月時点の105.8、2001年4月時点の103.5、2002年4月時点の103.3、2003年4月時点の102.1、2004年4月時点の99.1、2005年4月時点の98.7、2006年4月時点の98.6、2007年4月時点の98.3、2008年4月時点の98.2、2009年4月時点の96.8と、全国的に高水準だったラスパイレス指数の低下が続いており、2021年4月現在においても国家公務員よりも低水準となっている。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "平成の大合併では寝屋川市、交野市との合併が協議されたが実現しなかった。またこれとは別に、1980年代に京都府八幡市住民より同市から当市への越境合併の要望があったが自然消滅している。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2015年の府議選から、定数は5から4に変更された。",
"title": "政治"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "",
"title": "施設"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "枚方市はベッドタウンとして発展してきたが、産業の面からみると製造業の比重が高い産業都市でもある。1978年時点では、従業員数の36.6%を占める製造業が1位であった。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "枚方の近代産業は、大正時代に開業した日本メリヤス株式会社と蝶矢シャツ製造所に始まった。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、戦前から戦中に掛けて、枚方市は軍需産業が盛んであった。明治時代に開設された陸軍禁野火薬庫に始まり、昭和に入ると陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所、東京第二陸軍造兵廠香里製造所が開設された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "戦後これらの軍事施設は民間に払い下げられ、大阪陸軍造兵廠枚方製造所(旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)は小松製作所大阪工場に、禁野火薬庫と東京第二陸軍造兵廠香里製造所は、住宅団地としてそれぞれ日本住宅公団中宮団地、香里団地へと生まれ変わった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "戦後、枚方中小企業団地(現・枚方企業団地)、枚方既製服団地(現・枚方紳士服団地)、枚方家具団地などの工業団地が枚方の経済成長を支えた。企業誘致に際して立地を一箇所に集約しなかったため、これらの企業団地はある程度のまとまりがあるものの、市内に点在する形となっている。",
"title": "経済"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "しかし産業構造の変化や宅地化の進展により、近年これらの事業所が市外へ移転する事が増えている。枚方の近代産業の先駆けである倉敷紡績枚方工場(旧日本メリヤス)が1996年に、CHOYA枚方工場(旧蝶矢シャツ製造所)が2004年に、それぞれ市外へ移転した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "地域産業の活性化を図るべく、人材育成、起業支援に併せて、津田サイエンスヒルズ(関西文化学術研究都市 氷室・津田地区)への企業誘致などが進められているが、十分な成果が上がっているとは言い難い状況である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そもそも枚方市は「都心に比較的近く鉄道交通が発達している」という特性を持ち、バブル期より地の利を生かした住宅開発を盛んに行ってきた。これら住宅地に住む労働者の多くが都心通勤者であるため、かねてから昼間人口の都心流出が顕著であった。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "さらに近年では1997年のJR東西線開業や2003年の枚方市駅、樟葉駅京阪特急停車化、2008年の中之島線開業など、京阪本線、片町線(学研都市線)の高速化や運転系統・本数の充実化といったサービスアップによって通勤ニーズだけでなく商業・観光ニーズにおいても都心志向が高まり、購買客までも都心へ流出させることとなった(ストロー効果)。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ビオルネ・イオン枚方店(旧枚方サティ→枚方ビブレ→枚方サティ)・京阪百貨店ひらかた店・京阪枚方ステーションモール・ひらかたサンプラザ1号 - 3号・TSUTAYAビルなどの商業施設がならぶ。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これら商業施設の発展の経緯は線路を挟み北口側と南口側に大きく分かれた。北口側には旧京街道が通り、街道沿いに岡東町商店街が賑わいを見せていた。前述の商業施設もまず北口側から開発が進められた。1965年(昭和40年)に枚方駅前デパート、1969年(昭和44年)に長崎屋枚方店が開店した。北口側の開発から少し遅れて南口側の開発も進められた。1968年(昭和43年)に三越百貨店枚方店、1970年(昭和45年)にイズミヤ枚方店が開店した。1971年(昭和46年)に可決された市街地再開発事業により、駅前ビル3棟と5000m2の駅前広場、4700m2の都市公園が、5年の歳月と113億円を費やして建設された。駅前ビルはひらかたサンプラザ1号館から3号館と名付けられ、2号館には1975年(昭和50年)にひらかた丸物百貨店(後の近鉄百貨店枚方店)が開店した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1960年代から1970年代に掛けて枚方市駅の乗降客数は急増を見せるが、香里団地などの住宅地を多く抱える南口側に対して、線路で分断され淀川に挟まれた北口側は次第に衰退していった。駅前に大型商業施設が開発された事も相まって岡東町商店街の衰退は著しくなったが、1990年(平成2年) 岡本町再開発ビル「ビオルネ」が完成。1993年(平成5年)には枚方市駅が高架化され、翌1994年(平成6年)には高架下に京阪百貨店枚方店と京阪ザ・ストア枚方店が開店した。北口と南口を分断していた線路が高架化により無くなり、再び北口側に活気が戻るようになってきた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "しかしその後の景気の後退と共に縮小が相次いだ。1996年(平成8年)に北口からほど近い倉敷紡績枚方工場が移転閉鎖。2002年(平成14年)に長崎屋枚方店、2005年(平成17年)に三越百貨店枚方店、2012年(平成24年)2月に近鉄百貨店枚方店が閉店した。2010年(平成22年)はビオルネの運営会社が倒産している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2013年(平成25年)4月枚方市駅北口の関西医科大学附属枚方病院(現・関西医科大学附属病院)の隣接地に関西医科大学がオープン。更に枚方市駅周辺の再整備がスタートし、2016年(平成28年)5月に近鉄百貨店跡に枚方T-SITEがオープンした。今後は駅周辺の再整備が進む。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2025年までに枚方市駅北口エリアの再整備を行い、京阪本線、京阪交野線と天野川に囲まれたデルタと呼ばれる地帯に商業施設、ホテル、オフィスなどが入る高層ビルを建設予定。また、北口ロータリーの混雑緩和のため、広くする予定。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "南口エリアの再整備は後に開始され、市役所の移設も含まれる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "中核市で216億円の負担は異例と言われている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1967年より京阪電気鉄道によって「くずはローズタウン」の住宅開発が行われ、引き続いて百貨店(松坂屋くずは店)、スーパーマーケット(ダイエー、イズミヤ)、専門店を含む沿線最大級のショッピングモール・くずはモール街が開発され、1972年4月に開店した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかし建設から30余年を経過した2004年にいったん閉鎖、松坂屋くずは店は撤退した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2005年に「KUZUHA MALL」として全面改装、それにあわせて京阪本線の特急列車が停車するようになり、一時は沈滞化していた樟葉周辺も再び活気付くようになった。樟葉周辺は樟葉パブリック・ゴルフ・コース、超高層マンション、ローズタウン、その他商業施設など大半が京阪による開発である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "交通量が多く、多方面から集客できるため、娯楽施設や飲食店が多く立ち並ぶ。高野道周辺にはラウンドワン、フォレオひらかた(核店舗は「シネプレックス枚方」「GOLF5」「スポーツデポ」など)などがある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また、その他商業施設が相次いでオープンする。2016年には、国内最大級の規模であるニトリモール枚方がオープン。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "東部地域では伝統産業である河内そうめん製造と酒造業が行われていた。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "河内そうめんは、奈良の「三輪素麺」や兵庫の「揖保乃糸」などと共に知られる手延べそうめんである。天和年間(1681年〜1683年)に大和国三輪から伝えられた素麺製造技術が基になっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "耕地の少ない旧交野郡津田村を中心として農閑期の副業として栄え、最盛期には約80軒で生産されていた。遠く近江や尾張にまで販路を広げていたが、近年は生産農家の高齢化が進み後継者不足が問題となっており、2003年時点では津田地域に三軒、穂谷地域に一軒を残すのみとなっていた。その当時、出荷量が限られているため市販されていなかった。その後も生産者の減少は続き、伝統を受け継いでいた最後の一軒が2012年に廃業したことで、古くから続いた生産者は途絶えた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられている。市立枚方宿鍵屋資料館では夏季限定で河内そうめんを有料で食べることができる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "津田には河内そうめんの発展に貢献した山下政右衛門(後に政太)の碑「山下翁頌徳碑」が残る。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "生駒山系の良質な地下水を生かして酒造も行われていた。1921年頃は小北酒造場(菅原村)、田中酒造場(氷室村)、米山酒造所(同)、池尻酒造所(津田村)、山本酒造所(同)、高地酒造所(樟葉村)の6軒。また1970年代まで小北酒造場(藤阪元町、「菊人形」「寿賀天杯」)、田中酒造場(尊廷寺、「谷川」)、池尻酒造(津田元町、「成功正宗」)、津田酒造(津田元町、「枚方自慢」「みや鶴」)、重村酒造場(穂谷、「富士霞」「穂谷」「淀菊」)という5つの造り酒屋が存在した。津田酒造のみや鶴は1995年の全国新酒鑑評会において金賞を受賞する実績を残している。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "しかし1990年代半ばまでに重村酒造場を残し、その他は全て廃業した。住宅地図において酒造業としての記載が最後に残されているのは、池尻酒造は1979年、田中酒造場は1983年、小北酒造場は1992年、津田酒造は1994年となっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "最後まで残った重村酒造場も2012年3月で廃業し、枚方市内から酒造業者は消滅した。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の幕末期、枚方市域では41の寺子屋があり、比較的裕福な層の子供に対して、習字や読書、算盤を教えていた。師匠は僧侶が多く、農民や医師もその役を担った。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また専門的な知識や技能を教える私塾として、中宮村の南明堂、坂村の岡田本房塾、同村の言順堂が開設されていた。南明堂は享保年間(1716-1736年)に医師の行田(なめだ)義斎により設立された、枚方でもっとも古く設立された私塾である。岡田本房塾は天明・寛政期(18世紀末)に岡田本房により設立された。岡田家は代々一宮神社(片埜神社)の祠官であり、岡田本房は旗本水野氏の坂村陣屋の代官を務めていた。言順堂は代々医師であった三浦家により設立され、医師であった三浦元道が教化に務めた。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "枚方市では、ベッドタウン化により1950年代から1970年代に掛けて急激に人口が増加した。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "そのため小中学校の不足が深刻化し、各地の小中学校には臨時のプレハブ教室が大量に作られる事態となった。児童の増加に対応するため新設校の設立や増築が進められ、1980年代には教室の不足が解消された。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "小学校の児童数は1980年代を頂点として一転して減少に転じ、次第に少子化傾向が顕著になるに従い学級数が減少した。空き教室の増加も問題となり、1999年に学校の統廃合が行われた。しかし、少人数による利点・長所を生かし、原則として今後統廃合はされない見通しである。2004年には中学校校区の弾力化が行われ、小学校最終学年で志望中学の希望調査が行われる。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、市立学校全てにコンピュータールームの導入、ALTによる英語教育、少人数授業などには古くから積極的である。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "かつて高校の進学指導において高槻・枚方方式と呼ばれた総合選抜を擬似的に再現する地元集中という考え方を用いていた。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "さらに2008年度より枚方市立の小中学校の全教室に冷暖房が設置し、快適な学習環境の確保が可能となった。また子供たちが思いっきり運動場で遊べるよう、全小学校でみどりのじゅうたん事業と称して、校庭を一部芝生化している。これには、外気温低下の効果も期待されている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "全国学力調査では、枚方市の平均値は全国平均・大阪府平均を上回っており、今後も先進的教育のまちとしての地位を確立し、枚方市の子供たちの学力向上を図るための教育政策として、より充実した授業展開が行えるよう電子黒板の導入や夏季休業日を6日間短縮、冬期休業日を1日ずらすなどの取り組みがなされている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "なお、関西地方の学校は制服・標準服を定めていることが多いが、枚方市の学校は基本的に私服登校が可能。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "また、漢字を日本に伝えた王仁博士の墓とされる大阪府史跡「伝王仁墓」が市内にあることにちなみ、「漢字のまち枚方」としての特色を全国に発信しようと、平成15年度より「心に残る漢字一文字作文コンクール」(現・「漢字をテーマに思いを伝える作文コンクール」)を実施するなど、さまざまな取り組みを行っている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "古くから大阪-京都の交通を支える要所であり、江戸時代の枚方市域には京街道、東高野街道、山根街道、磐船街道、宇治街道などの街道が通っていた。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1982年から国道168号となった道路は磐船街道と呼ばれ、枚方から交野を経由して奈良県に至る街道であった。古代、交野ヶ原と呼ばれた時代には、王朝貴族が遊猟をする際に使われたという。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "東高野街道は、平安時代の官道である南海道を起源とする、中世の京阪間を結ぶ主要な街道であった。京都から高野山への巡礼街道であり、京都から洞ヶ峠を越えて枚方に入り、枚方台地の中央部を縦断した後、生駒山地沿いに南下、河内長野で西高野街道に合流し、高野山に至る。高野山に修行に向かう京の僧侶、参拝に向かう貴族、やがて武士や商人、一般庶民までも高野山に向かって歩いたという。1966年以降、国道1号(洞ヶ峠〜出屋敷)、大阪府道18号枚方交野寝屋川線(出屋敷〜茄子作)、大阪府道20号枚方富田林泉佐野線(茄子作〜中野)に相当する。出屋敷周辺には、かつての面影が残されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "山根街道は、洞ヶ峠から東高野街道と分岐して津田を経由し、私部に至る街道であり、山麓地区の村々を結ぶ街道として利用された。私部を過ぎ、茄子作の東で東高野街道に合流する。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "宇治街道は、枚方・田口・長尾を経て、荒坂山を超えて八幡から宇治に至る街道である。「荒坂嶺道」(あらさかとうげみち)や「長尾道」とも呼ばれる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1594年に文禄堤が整備され道路としても利用されるようになると、更に江戸時代にはこの道路を用いて京街道が整備された。京街道は東高野街道に代わって京阪間の幹線道路として利用されるようになり、枚方の発展に大きく寄与する事となる。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "京街道は1932年に京阪国道として整備され、(旧)国道1号と称されたのち、1966年に枚方バイパス(国道1号)開通後は、大阪府道13号京都守口線となった。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "枚方バイパス(国道1号)は洞ヶ峠から市内を縦断しているが、主要な交差点が立体交差となっていない事も影響し渋滞が頻発している。2010年に全通した第二京阪道路などによる渋滞緩和が期待されている。",
"title": "交通"
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"text": "江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 75,
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"text": "京都の伏見港と大阪の八軒家を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜(三矢浜)、樋之上浜(楠葉浜)、出口浜(松ヶ鼻浜)、渚浜、磯島浜といった船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという。",
"title": "交通"
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"text": "行き交う船に近づき餅や酒を売りつけるくらわんか舟が名物になったのもこのころである。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」、歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている。",
"title": "交通"
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"paragraph_id": 77,
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"text": "淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。高浜の渡し(楠葉の渡し)、鵜殿の渡し(下島の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、大塚の渡し(枚方の渡し)、三島江の渡し(出口の渡し)で対岸と結ばれていた。高浜の渡しは古事記にも登場する古い渡し船であり、上流の山崎の渡し(橋本の渡し)と共に、西国街道と京街道を結ぶ重要なものだったという。大塚の渡しが枚方においてもっともよく利用され重要な渡し舟だった。",
"title": "交通"
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"text": "明治時代には蒸気外輪船が登場し鍵屋浦と鶴屋浜が船着場だったが、鉄道の開通や自動車の発達、道路の整備に伴い、次第に陸上輸送に取って代わられるようになった。",
"title": "交通"
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"text": "近年、観光や緊急時の輸送手段の確保などのため淀川の舟運を復活させようとする運動が進められている。2000年11月には枚方市の呼びかけにより、大阪府および京都府の淀川沿いにある9市1町が参加する「淀川舟運整備推進協議会」が設立された。2017年9月には京阪天満橋駅付近の八軒家船着場との間に定期運航船が就航し、月に一回程度の頻度で運航されている。",
"title": "交通"
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"text": "鉄道については、1898年に現在の片町線が、1910年に京阪本線が開業し、それまで主に淀川の舟運によっていた京阪間の客貨輸送に代わることとなった。また、片町線については、市内に所在していた陸軍の施設(香里製造所や禁野火薬庫)への軍需輸送も担っていた。戦後はベッドタウン化による急激な人口の増加により、通勤通学の足として重要な役割を果たした。枚方市駅は京阪本線内で第3位の乗降客数を持っている。京都と大阪のほぼ中間地点という地理的条件や京阪特急停車駅化により、枚方市駅から京阪京橋駅へ特急で最速15分(準急で23分)、京阪丹波橋駅へ特急で最速18分(準急で26分)という大幅な時間短縮となった。",
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"text": "1929年には、信貴生駒電鉄枚方線(後の京阪交野線)が開業した。元々は奈良県の生駒駅まで結ぶ計画であったが、延伸されないまま計画は中止された。",
"title": "交通"
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"text": "中心となる駅:枚方市駅",
"title": "交通"
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"text": "京阪バスが市内だけでなく、空港連絡線や長距離線などを運転している。",
"title": "交通"
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"text": "路線バスについては枚方・高槻・交野・男山・京田辺の各営業所が管轄している。",
"title": "交通"
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"text": "市民からの応募により、1991年10月4日に決定した。",
"title": "交通"
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"text": "枚方八景とは市制35周年を記念し、市民投票により1984年10月1日に制定された。",
"title": "観光"
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{
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"text": "1979年の機物神社での七夕まつりの再開以降、平安時代のころ、「交野ヶ原」(かたのがはら)と呼ばれていた枚方市から隣接する交野市にかけての一帯で、「七夕伝説ゆかりのまち」として、まちおこし活動が活発に行われてきた。",
"title": "文化・名物"
},
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"tag": "p",
"text": "現存する文献では、伊勢物語第82段で詠在原業平が詠んだとされる「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり」の和歌が、七夕伝説と交野ヶ原を結びつける最古のものとされている。",
"title": "文化・名物"
}
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枚方市(ひらかたし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。北河内地域における中心的な衛星都市であり中核市に指定されている。 かつては人口は約40万人で大阪市、堺市、東大阪市に次いで府内第4位の人口を擁していたが、2019年(平成31年/令和元年)に40万人を割り豊中市に抜かれたため、現在では約39万人で府内第5位の人口を擁している。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Otheruses|大阪府にある市|同市内にある[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪本線|本線]]・[[京阪交野線|交野線]]の駅|枚方市駅}}
{{日本の市
| 画像 = Hirakata Park.jpg
| 画像の説明 = [[ひらかたパーク]]の大観覧車
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Hirakata, Osaka.svg|100px|border|枚方市旗]]
| 市旗の説明 = 枚方[[市町村旗|市旗]]<br />[[1967年]][[10月15日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Hirakata, Osaka.svg|75px|枚方市章]]
| 市章の説明 = 枚方[[市町村章|市章]]<br />[[1947年]][[10月30日]]制定
| 自治体名 = 枚方市
| 都道府県 = 大阪府
| コード = 27210-8
| 隣接自治体 = [[寝屋川市]]、[[交野市]]、[[高槻市]]、[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]<br />[[京都府]]:[[八幡市]]、[[京田辺市]]<br />[[奈良県]]:[[生駒市]]
| 木 = [[ヤナギ|柳]]
| 花 = [[キク|菊]]、[[サクラ|桜]]
| シンボル名 = 市の鳥
| 鳥など = [[カワセミ]]
| 郵便番号 = 573-8666
| 所在地 = 枚方市大垣内町二丁目1番20号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-27|display=inline,title}}<br />[[ファイル:枚方市役所庁舎.jpg|250px|枚方市役所庁舎]]{{Maplink2|zoom=11|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=240|frame-height=200|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=34.809|frame-longitude=135.685|text=市庁舎位置}}
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|27|210|image=Hirakata in Osaka Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}
| 特記事項 = 世帯数:176,715戸(2016年1月31日)<br />市の花「菊」・市の木は1967年制定<br />市の鳥は2002年制定、市の花「桜」は2007年制定
}}
'''枚方市'''(ひらかたし)は、[[大阪府]]の[[北河内 (大阪府)|北河内]]地域に位置する[[市]]。北河内地域における中心的な[[衛星都市]]であり[[中核市]]に指定されている。
かつては人口は約40万人で[[大阪市]]、[[堺市]]、[[東大阪市]]に次いで府内第4位の人口を擁していたが、[[2019年|2019年(平成31年/令和元年)]]に40万人を割り[[豊中市]]に抜かれたため、現在では約39万人で府内第5位の人口を擁している<ref>{{Cite web|和書|title=人の動き(枚方市の人口・世帯数等) {{!}} 枚方市ホームページ|url=https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000010560.html|website=www.city.hirakata.osaka.jp|accessdate=2019-10-22|language=ja}}</ref>。
== 概要 ==
[[京都府]]・[[奈良県]]との府県境に位置する。[[2014年]][[4月1日]]に[[中核市]]に移行した。[[江戸時代]]には[[京街道 (大坂街道)]]の[[宿場町]]である[[枚方宿]]が置かれ、かつて[[北河内郡|北河内]][[郡役所]]も所在した北河内地域及び[[京阪間]]の中核的な[[ベッドタウン]]([[郊外]]住宅都市)として発展した。[[七夕|七夕伝説]]や[[ひらかたパーク]]、また6つの[[大学]]、[[全国高校ラグビー大会]]の優勝校、バレーボールVリーグ[[パナソニックパンサーズ]]の本拠地がある。[[ひらかたパーク]](通称:ひらパー)は現在まで続く、日本最古の[[遊園地]]である。
市西部は[[京阪本線]]で京都市および大阪市と結ばれ、また市東部はJR[[片町線]](学研都市線)で[[京橋 (大阪市)|京橋]]・[[北新地]]・[[尼崎市|尼崎]]および[[関西文化学術研究都市]]の各地区と結ばれる。中心駅は京阪の[[枚方市駅]]で、同駅を中心に[[中心市街地]]が広がっている。また市中心部は[[国道1号]]([[枚方バイパス]])、市東部には[[第二京阪道路]]が走る。
[[平成の大合併]]の際に[[寝屋川市]]、[[交野市]]との合併が協議され、人口約70万人規模の京阪間の[[政令指定都市]]を模索した時期があった(「北河内市構想」)。京阪間の[[ベッドタウン]]として発展したが昼間の賑わいには乏しい3市が一つになって、文化や産業の集まる核が出来れば{{誰範囲2|住民の居住地への愛着が高まると期待された|date=2022年1月}}が、住民側の要望は無かった。合併は実現しなかったが、北河内地域全体の協力関係の強化(例として救急体制の充実)によって住民生活の向上を図っている。
== 地理 ==
[[ファイル:Hirakata city center area Aerial photograph.1985.jpg|thumb|200px|枚方市中心部周辺の空中写真。1985年撮影の3枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
=== 位置 ===
枚方市は、[[大阪市]]と[[京都市]]のほぼ中間にあたる大阪府北東部、大阪市から京都市に向って約20kmの淀川左岸に位置する。東西12.0km、南北8.7kmの三角形を成しており、面積は65.12km<sup>2</sup>となっている<ref name="hirakata-shi_overview">{{Cite web|和書|url=https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000006914.html |title=枚方市の概要 |accessdate=2023-08-19 |author=枚方市役所 |date=2021-12-17 |website=枚方市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230131032827/https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000006914.html |archivedate=2023-01-31}}</ref>。
東の[[生駒山地]]と西に流れる[[淀川]]に囲まれており、市の東側は生駒山地に至る山地、市の中心部から西は[[大阪平野]]の北東端となっている。
=== 地形 ===
生駒山地北麓にあたり、北に伸びる長尾丘陵から男山丘陵の山裾と、交野台地、枚方丘陵からなる<ref name="枚方市の地形と地質">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=03-04 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref>。
市の地形は標高によって大きく4つに区分される<ref name="枚方市の地形区分">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編さん室 |title=郷土枚方の歴史 |edition=改訂版 |date=1976-03 |page=6 |chapter=第1章 枚方の地理}}</ref>。市の東端部は[[生駒山地]]に連なる標高100m以上の山地地区となっており、主に1億数千年前以降に形成された花崗岩類からなる<ref name="枚方市の地形と地質" />。山地地区の西側は標高50m〜100mの山麓地区となっており、長尾丘陵が広がる<ref name="Nature_of_Hirakata2002">{{Cite web|和書|url=https://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000003/3880/ikimonotyousa3.pdf |title=枚方市の自然―枚方ふるさと いきもの調査から―2002 |accessdate=2022-05-14 |date=2002-08-01 |format=PDF |website=枚方市 |work=枚方市自然環境調査 |publisher=枚方市 |page=3}}</ref>。
山麓地区の西側は標高20m〜50mの丘陵地区となっており、[[天野川 (大阪府)|天野川]]を挟んで東の枚方台地と西の香里丘陵が広がっている。市域の大部分がこの丘陵地区となっている<ref name="Nature_of_Hirakata2002" />。
淀川および淀川に流入する河川の付近は標高20m以下の淀川低地地区となっており、河川の氾濫原が広がっている<ref name="Nature_of_Hirakata2002" /><ref name="枚方市の地形と地質" />。
==== 山岳 ====
丘陵地区の地層は、約200万年前から数万年前の間に繰り返された[[氷期]]と間氷期に堆積した大阪層群と呼ばれる[[地層]]の内、第2[[海成層]]から第7海成層にあたる地層と数種類の火山灰層から成り<ref name="枚方市の地形と地質" />、東洋象やムカシニホンシカなどの[[化石]]が発掘されている<ref name="シカと象の化石">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編さん室 |title=郷土枚方の歴史 |edition=改訂版 |date=1976-03 |pages=45–46 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="枚方市の地形と地質" />。
; 主な山
* [[生駒山地]]
; 主な丘陵地
* 長尾丘陵
* 香里丘陵
==== 河川 ====
市内を流れる[[河川]]の多くは東の生駒山地に端を発す。[[一級河川]]である船橋川、穂谷川、天野川も同様に、生駒山地から平行して市内を西流し、淀川に合流したあとに[[大阪湾]]に流れ込む。
; 主な川
* [[天野川 (大阪府)|天野川]]
* [[船橋川]]
* [[穂谷川]]
* [[淀川]]
==== 土地 ====
; 断層
生駒山地と大阪平野の境界付近には[[生駒断層帯]]と呼ばれる[[活断層]]帯があり、生駒断層帯に含まれる田口断層、交野断層、枚方断層が市内を南北に縦断する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_katsudanso/f077_ikoma/ |title=生駒断層帯 |accessdate=2022-05-14 |website=地震本部 |publisher=地震調査研究推進本部事務局}}</ref>。
田口断層は市北部の男山山地西縁から南南東に伸びたのち南南西に屈曲している。交野断層は生駒山地の西縁を南北に、また枚方断層は香里丘陵西縁から南方に伸び、交野断層と枚方断層はそれぞれ[[四條畷市]]付近で生駒断層に連なる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jishin.go.jp/main/chousa/01may2/p02.htm |title=図2 生駒断層帯の活断層位置(太線)と調査地点 |accessdate=2022-05-14 |website=地震本部 |publisher=地震調査研究推進本部事務局}}</ref>。
; 主な台地
* 枚方台地
=== 気候 ===
[[瀬戸内海式気候]]区に属し、比較的温暖で降水量は少ない<ref name="瀬戸内式気候とため池かんがい">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編さん室 |title=郷土枚方の歴史 |edition=改訂版 |date=1976-03 |pages=12-13 |chapter=第1章 枚方の地理}}</ref>。また夏は[[ヒートアイランド]]現象の影響により[[大阪市]]付近で熱せられた空気が、[[大阪湾]]沿岸部からの海風に乗って流入し、枚方市付近で生駒山系に阻まれる。そのため大阪市内よりも気温が高くなる傾向があり、国内で最も高い気温を記録する事もある。冬の積雪はほとんど無い。33℃以上の時間は[[1980年代]]は40〜80時間/年だったが、[[1990年代]]後半からは150時間/年前後である。
* 気温 - 最高39.8℃([[2023年]](令和5年)[[7月27日]])、最低-7.1℃([[1981年]](昭和56年)[[2月27日]])
* 最大日降水量 - 183.5ミリ([[2018年]](平成30年)[[7月5日]])
* 最大瞬間風速 - 40.2メートル(2018年(平成30年)[[9月4日]])
* 夏日最多日数 - 159日([[2016年]](平成28年))
* 真夏日最多日数 - 96日([[2013年]](平成25年)、[[2022年]](令和4年))
* 猛暑日最多日数 - 37日([[2010年]](平成22年))
* 熱帯夜最多日数 - 43日(2010年(平成22年))
* 冬日最多日数 - 86日([[1984年]](昭和59年))
{{Hirakata, Osaka weatherbox}}
=== 地域 ===
==== 住宅団地 ====
{{div col}}
* [[都市再生機構]][[香里団地]]
* 都市再生機構中宮第三団地
* 都市再生機構桜丘団地
* 都市再生機構[[釈尊寺団地|釈尊寺第二団地]]
* 都市再生機構香里ヶ丘みずき街(香里団地A地区を建て替えた団地)
* 都市再生機構香里ヶ丘けやき東街(香里団地B地区を建て替えた団地)
* 都市再生機構香里ヶ丘さくらぎ街(香里団地C地区を建て替えた団地)
* 都市再生機構アミティ中宮北町(中宮第二団地を建て替えた団地)
* 都市再生機構アミティひらかた宮之阪(中宮第一団地を建て替えた団地)
* [[大阪府住宅供給公社]]村野団地
* 大阪府住宅供給公社牧野団地
* 大阪府住宅供給公社招提団地
* [[公営住宅|府営]]牧野北住宅
* 府営枚方田ノ口住宅
* 府営枚方招提住宅
* 府営枚方高田住宅
* 府営枚方津田住宅
* 府営枚方船橋住宅
* [[カネカ]]樟葉社宅
* [[パナソニック]]枚方中宮社宅
* パナソニック楠葉社宅
* アルカディア・枚方丸石製薬枚方社宅
* [[四国銀行]]村野社宅
* 香里ヶ丘住宅団地
* 中宮第四住宅団地
* 茄子作住宅団地
* 山田池住宅団地
* 釈尊寺第一住宅団地
* 釈尊寺第三住宅団地
* 藤阪ハイツ
{{div col end}}
; かつて存在した住宅団地
* 都市基盤整備公団中宮第二団地(建て替えられて「アミティ中宮北町」となった)
* 都市基盤整備公団中宮第一団地(建て替えられて「アミティひらかた宮之阪」となった)
==== 公園 ====
* 市民の森(鏡伝池緑地) - 楠葉丘二丁目
* 北山公園 - 北山一丁目
; 国営公園
* [[淀川河川公園]]
; 広域公園
* 大阪府営 [[山田池公園]] - 山田池公園、山田池南町、藤阪元町一丁目、藤阪元町二丁目、藤阪西町、藤阪南町一丁目
; 特殊公園
* 国の特別史跡 [[百済寺 (枚方市)|百済寺]]跡公園 - 中宮西之町
; 総合公園
* 枚方公園(計画) - 枚方公園町
* 王仁公園 - 王仁公園
; 地区公園
* 中の池公園 - 東山二丁目
* 招提今池公園(計画) - 招提中町二丁目
* 中振中央公園(計画) - 北中振二丁目、東中振二丁目、南中振一丁目
* 車塚公園 - 小倉東町、北片鉾町、上野三丁目
=== 人口 ===
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、0.97%増の407,978人であり、増減率は府下43市町村中12位、72行政区域中27位。
{{人口統計|code=27210|name=枚方市|image=Population distribution of Hirakata, Osaka, Japan.svg}}
=== 隣接自治体 ===
; {{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]]
* [[寝屋川市]]
* [[交野市]]
* [[高槻市]]
* [[三島郡 (大阪府)|三島郡]]:[[島本町]]
; {{Flagicon|京都府}}[[京都府]]
* [[八幡市]]
* [[京田辺市]]
; {{Flagicon|奈良県}}[[奈良県]]
* [[生駒市]]
== 歴史 ==
枚方の地名は古く、日本最古級の文献である[[古事記]]<ref name="記紀にみえる樟葉">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=48-49 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref>、[[日本書紀]]<ref name="記紀にみえる樟葉" />、[[風土記]]<ref name="「ひらかた」とは崖の上">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=52-53 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref>などに登場している。
=== 古代 ===
; 後期旧石器時代
* 紀元前30000年前 - 紀元前11000年前 : 樟葉東遺跡、藤阪宮山遺跡<ref name="旧石器時代交野ヶ原の遺跡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=09-10 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=341-351 |chapter=年表}}</ref>
; 縄文時代
* 紀元前5000年前 : 穂谷遺跡<ref name="押形文土器の登場">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=12-13 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* 紀元前5000年前 - 紀元前3000年前 : 津田遺跡<ref name="活発な土器の移動">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=16-17 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、津田三ツ池遺跡<ref name="遺跡分布の拡大">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |editio版 |date=2014-03-31 |pages=15-16 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* 紀元前1000年前 : 交北城の山遺跡<ref name="河内潟の形成と晩期の遺跡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=18 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
; 弥生時代
* 紀元前300年前 - 紀元前200年前 : 私部南遺跡、招提中町遺跡<ref name="弥生時代交野ヶ原の遺跡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=26-27 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* 紀元前200年前 - 100年 : 交北城の山遺跡<ref name="弥生時代交野ヶ原の遺跡" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、星丘西遺跡<ref name="弥生時代交野ヶ原の遺跡" /><ref name="羽飾をつけたシャーマン">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=28-29 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、上ノ山遺跡<ref name="弥生時代交野ヶ原の遺跡" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、田口山遺跡<ref name="高地性集落の出現と田口山遺跡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=29-31 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* 100年 - 200年 : 藤田山遺跡、茄子作遺跡<ref name="天野川水系の後期集落">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=32-33 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* 200年 - 300年 : 中宮ドンパ遺跡<ref name="墳丘墓の出現と中宮ドンパ遺跡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=33-35 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
; 古墳時代
* 300年 - 400年 : 禁野車塚古墳<ref name="北河内最古の古墳群">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=36-37 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="低地の大型前方後円墳">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=37 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、万年寺山古墳<ref name="北河内最古の古墳群" /><ref name="万年寺山古墳の三角縁神獣鏡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=37-38 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、藤田山古墳<ref name="北河内最古の古墳群" /><ref name="三つの粘土槨をもつ藤田山古墳">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=39 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、牧野車塚古墳<ref name="北河内最古の古墳群" /><ref name="北河内最大の前方後円墳">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=39-40 |chapter=第1章 先史時代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />
* [[507年]]([[継体天皇]]元年)[[2月4日 (旧暦)]] : [[継体天皇]]が樟葉宮(くずはのみや)で即位<ref name="継体天皇の樟葉宮">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=55-56 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref>。
* [[511年]](継体天皇5年) : [[山城国|山背国]](やましろのくに) 筒城宮(つつきのみや)(現在の[[京都府]][[京田辺市]])に移住<ref name="継体天皇の樟葉宮" />。
* [[530年]]?(継体天皇24年) : 日本書紀に枚方が比攞哿駄(ひらかた)として初出<ref name="ひらかたゆ笛吹き上る">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=51-52 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="「ひらかた」とは崖の上"/>。
; 奈良時代
* [[711年]]([[和銅]]4年) : [[山陽道#古代山陽道|山陽道]]に樟葉駅が設置<ref name="樟葉駅の新設">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=55-56 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[750年]]([[天平勝宝]]2年) : [[百済寺 (枚方市)|百済寺]]建立<ref name="百済寺">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=62-63 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[785年]]([[延暦]]4年)11月10日:[[桓武天皇]]により日本初の[[郊祀]]が執り行われる<ref name="天神の祀り">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=64-66 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
; 平安時代
* [[933年]]([[承平 (日本)|承平]]3年) : [[河内国]][[交野ヶ原]]が貴族の遊猟地になるとともに禁猟区を意味する<ref group="注釈">狂言「禁野」</ref>禁野という地名ができる<ref name="交野禁野">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=72-73 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[935年]]([[承平 (日本)|承平]]5年) : [[紀貫之]]が「[[土佐日記]]」にて渚の院を記す<ref name="淀川の水運">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=70-71 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
=== 中世 ===
; 室町時代
* [[1475年]]([[文明 (日本)|文明]]7年) : [[蓮如]]が出口に[[光善寺 (枚方市)|光善寺]]を建てる<ref name="蓮如と光善寺">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=96-97 |chapter=第3章 中世の枚方}}</ref>。
* [[1490年]]([[延徳]]2年) : [[津田正信]]が津田城を建てる<ref name="三之宮の宮座と津田氏">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=98-99 |chapter=第3章 中世の枚方}}</ref>。
; 戦国時代
* [[1559年]]([[永禄]]2年) : 蓮如末子[[実従]]が順興寺住持となり、以降[[寺内町]]として発展する<ref>現在の枚方元町・枚方上之町。天野太郎「淀川中流域における寺内町の展開 -枚方寺内町プランの復元を中心として-」足利健亮先生追悼論文集編纂委員会『地図と歴史空間―足利健亮先生追悼論文集』 [[大明堂]]、2000年。[[福島克彦]]「戦国期寺内町の空間構造」貝塚寺内町歴史研究会『寺内町研究』第10号、2005年。</ref><ref name="枚方市寺内町と順興寺">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=97-98 |chapter=第3章 中世の枚方}}</ref>。
* [[1565年]]([[永禄]]8年) : パードレ・ルイス・フロイスの書いた手紙に「フィラカタ」と記され、初めて西洋に枚方の地名が伝えられる<ref name="フロイスの書簡">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=99 |chapter=第3章 中世の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
=== 近世 ===
; 安土桃山時代
* [[1595年]]([[文禄]]4年) : 秀吉が万年寺山にお茶屋御殿を建てる<ref name="お茶屋御殿">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=108 |chapter=第3章 中世の枚方}}</ref>。
* [[1596年]]([[文禄]]5年) : 淀川左岸に[[文禄堤]]ができる<ref name="文禄堤の築造">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=109 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
* [[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)ごろ : 岡新町、岡、三矢、泥町が[[枚方宿]]とされる<ref name="京街道と枚方宿の設置">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=170-171 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
; 江戸時代
* [[1689年]]([[元禄]]2年) : 旗本久貝(くがい)氏により、長尾陣屋が設けられる。
* [[1807年]]([[文化]]4年) : 十辺舎一九が「[[東海道中膝栗毛]]」にて三十石船、[[くらわんか舟]]を描く<ref name="枚方名物くらわんか舟">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=175-176 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
* [[1826年]]([[文政]]9年) : [[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が紀行文に枚方を記す<ref name="紀行文にみえる枚方">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=181-182 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
=== 近代 ===
; 明治時代
* [[1869年]]([[明治]]2年) : [[河内県 (日本)|河内県]]に編入。河内県が[[堺県]]に合併<ref name="明治初年の行政区画">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=203-204 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
* [[1871年]](明治4年) : 枚方に郵便取扱所ができる<ref name="郵便">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=212 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1872年]](明治5年) : 第八区郷小学校(現[[枚方市立蹉跎小学校|蹉跎小学校]])開校。
* [[1873年]](明治6年) : 第八区郷小学校出張所(現[[枚方市立枚方小学校|枚方小学校]])開校。
* [[1874年]](明治7年) : 磯島村が[[摂津国]][[島上郡]]から[[河内国]][[交野郡]]に編入<ref name="廃藩置県と地方行政区画">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=206-207 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1880年]](明治13年) : 三矢村浄念寺に枚方郡役所開庁<ref name="枚方郡役所">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=207-209 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1881年]](明治14年) : [[堺県]]から大阪府に編入<ref name="廃藩置県と地方行政区画" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1882年]](明治15年) : 津田に郵便取扱所が出来る。
* [[1885年]](明治18年) : [[明治十八年の淀川洪水|淀川大洪水]]が発生。市内の伊加賀付近の[[堤防]]が破堤して被害が拡大したことから「伊加賀切れ」との名が残る<ref>{{Cite web|和書|date= 2015-10-25|url= https://www.sankei.com/article/20151025-ETTYED74ZRKK7NWG33OWKVP32Y/|title= 「伊加賀切れ」の被害語り継ぐ 枚方で淀川の洪水展|publisher=産経新聞WEST |accessdate=2018-10-31}}</ref><ref name="明治18年の大洪水">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=227 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1889年]](明治22年) : 町村制施行により[[枚方町]]、[[蹉跎村]](以上[[茨田郡]])、[[川越村 (大阪府)|川越村]]、[[山田村 (大阪府北河内郡)|山田村]]、[[牧野村 (大阪府)|牧野村]]、[[招提村]]、[[樟葉村]]、[[津田村 (大阪府)|津田村]]、[[菅原村 (大阪府)|菅原村]]、[[氷室村 (大阪府)|氷室村]](以上[[交野郡]])の新町村誕生<ref name="枚方町など10町村の誕生">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=218-219 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1890年]](明治23年) : 枚方区裁判所が設置<ref name="枚方区裁判所">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=220-221 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1896年]](明治29年) : 陸軍[[禁野火薬庫]]完成<ref name="禁野火薬庫の設置">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=231-232 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1898年]](明治31年)[[4月12日]] : [[関西鉄道]](現JR[[片町線]])開通。[[津田駅]]・[[長尾駅 (大阪府)|菅原(長尾)駅]]の両駅が営業を開始<ref name="関西鉄道の開通" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1898年]](明治31年)[[6月1日]] : 郡制施行により茨田郡、交野郡、讃良郡が統合され大阪府[[北河内郡]]となる<ref name="郡制の施行">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=220 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>。
* [[1909年]](明治42年)[[8月20日]] : 未明 陸軍禁野火薬庫が爆発<ref name="明治42年の爆発">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=232 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1910年]](明治43年)[[4月15日]] : [[京阪電気鉄道|京阪電車]][[京阪本線]]開通。[[樟葉駅]]、[[牧野駅]]、枚方東口駅(現[[枚方市駅]])、枚方駅(現[[枚方公園駅]])、12月には[[光善寺駅]]の各駅が設置される<ref name="京阪電鉄の開通" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1911年]](明治44年) : 電話が開通<ref name="電話と電灯">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=226 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>。
; 大正時代
* [[1912年]]([[大正]]元年) : 菊人形展が[[寝屋川市]]から移転<ref name="枚方菊人形">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=241-242 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1920年]](大正9年) : 枚方初の民間近代工業、日本メリヤス株式会社(後の[[倉敷紡績]]枚方工場)開業。株式会社蝶矢シャツ製造所(現[[CHOYA]])枚方工場開業<ref name="蝶矢シャツと倉紡枚方工場">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=238-239 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
=== 近現代 ===
; 昭和時代(戦前)
* [[1928年]]([[昭和]]3年) : 大阪女子高等医学専門学校(現[[関西医科大学]])、大阪歯科医学専門学校(現[[大阪歯科大学]])が移転、開校(京阪電気鉄道が学校用地を寄付)<ref name="高等専門学校">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=264 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1929年]](昭和4年) : 京阪電車の誘致に応じて大阪美術学校が御殿山に移転<ref name="南画家矢野橋村と大阪美術学校">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=263-264 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。大阪美術学校の移転に合わせて御殿山駅が開設<ref name="京阪電鉄の開通" />。
* [[1929年]](昭和4年)[[7月10日]] :[[信貴生駒電鉄]]枚方線(現[[京阪交野線]])開通<ref name="信貴生駒電鉄枚方線の開通">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=251-252 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1930年]](昭和5年)[[10月10日]] : (旧)[[枚方大橋]]開通<ref name="枚方大橋">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=252-253 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1932年]](昭和7年) : (旧)国道2号京阪国道(現[[京都府道・大阪府道13号京都守口線|大阪府道13号京都守口線]])開通<ref name="京阪国道の改修">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=253 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1934年]](昭和9年) : 牧野村に亜細亜映画旭ヶ丘撮影所が設立<ref name="旭ヶ丘映画撮影所">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=264 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)[[2月11日]] : 牧野村と招堤村が合併し[[殿山町]]となる<ref name="殿山町の誕生">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=246-247 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1938年]](昭和13年) : [[陸軍造兵廠]][[大阪砲兵工廠|大阪工廠]]枚方製造所が開設され製造を開始<ref name="枚方製造所">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=254-255 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>。
* [[1938年]](昭和13年)[[11月3日]] : 枚方町、殿山町、川越村、山田村、樟葉村、蹉跎村が合併し(新)[[枚方町]]となる<ref name="新枚方町の誕生">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=247-248 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1939年]](昭和14年) : 宇治火薬製造所香里工場建設<ref name="香里製造所">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=255-256 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1939年]](昭和14年)[[3月1日]] : [[禁野火薬庫#大規模爆発(2回目)|陸軍禁野火薬庫が大爆発]]、死傷者、罹災家屋多数<ref>陸軍倉庫爆発して付近民家に延焼(昭和14年3月2日 大阪毎日新聞)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p214 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref><ref name="禁野火薬庫の爆発">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=256-257 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1940年]](昭和15年)[[11月15日]] : 津田村、菅原村、氷室村が合併し[[津田町 (大阪府)|津田町]]となる<ref name="津田町の誕生">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=248 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1942年]](昭和17年) : 宇治火薬製造所香里工場が東京第二陸軍造兵廠香里製造所として開設<ref name="香里製造所" />。
* [[1943年]](昭和18年) : 大阪市立中学(現[[大阪府立いちりつ高等学校]])が大阪市内から移転<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
; 昭和(第二次世界大戦後)
* [[1946年]](昭和21年) : 旧枚方製造所跡に[[大阪大学|大阪帝国大学]]工学部枚方学舎開設<ref name="大学">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=314-315 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
* [[1947年]](昭和22年)[[8月1日]] : 枚方町が[[市制]]施行(大阪府下12番目)。面積40.62km<sup>2</sup>、人口41,041人<ref name="市制の施行">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=272-273 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" /><ref name="枚方市の誕生">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |page=243 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。「[[枚方市歌]]」の歌詞を懸賞募集。
* [[1948年]](昭和23年) : 定期的な家庭ごみ収集の開始<ref name="都市施設の整備">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=283-284 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。枚方市{{読み仮名|外|ほか}}三カ町消防組合結成<ref name="枚方寝屋川消防組合">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=274 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
* [[1949年]](昭和24年) : 枚方市{{読み仮名|外|ほか}}三カ町消防組合が枚方寝屋川消防組合に改称<ref name="枚方寝屋川消防組合" />。
* [[1950年]](昭和25年) : [[市立ひらかた病院|市民病院]]開院<ref name="枚方市民病院の開院">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=274-275 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
* [[1952年]](昭和27年) : 大阪陸軍造兵廠枚方製造所(旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)が[[小松製作所]]に払い下げ決定。[[枚方事件]]発生<ref name="旧枚方製造所の払下げ">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=278-279 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。百済寺跡特別史跡指定。大阪府立図書館枚方ブックステーション開設<ref name="枚方市立図書館の開館">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=303-304 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。国道2号が[[国道1号]]に改称。大阪ガスが都市ガス供給開始<ref name="都市施設の整備" />。
* [[1953年]](昭和28年)枚方市立公民館開設<ref name="枚方市立公民館の設置">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=301 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1954年]](昭和29年)10月22日 - [[大阪精神医療センター|大阪府立中宮病院]]安静館が全焼。入院患者5人が行方不明<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=103 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[10月15日]] : 津田町を合併<ref name="津田町との合併">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=281-282 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1956年]](昭和31年) : 旧禁野火薬庫跡に中宮第一団地、中宮第二団地完成。東京第二陸軍造兵廠香里製造所跡に香里団地造成開始<ref name="香里団地の建設">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=287-288 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1958年]](昭和33年) : [[香里団地]]入居開始<ref name="香里団地の建設" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1960年]](昭和35年) : 市役所新庁舎(現本館)竣工。
* [[1962年]](昭和37年) : 交通安全都市宣言<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1963年]](昭和38年) : [[国道170号]]が制定([[4月1日]])。[[大阪府立枚方高等学校|枚方高校]]開校<ref name="府立高校">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=314 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。枚方市教育委員会が枚方テーゼを宣言<ref name="公民館の整備">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=331-332 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。人口が10万人を超える。
* [[1964年]](昭和39年) : 国道1号が一部(中振〜招提間)開通。
* [[1965年]](昭和40年) : 枚方市民会館開館<ref name="市民会館の建設">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=300-301 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。枚方ブックステーションが枚方市図書センターとして市民会館3階に移転。
* [[1966年]](昭和41年) : 国道1号[[枚方バイパス]]全面開通<ref name="道路の整備">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=286-287 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[関西外国語大学]]開設<ref name="大学" />。
* [[1967年]](昭和42年) : 市の花「[[キク|菊]]」、市の木「[[ヤナギ|柳]]」、市旗制定。くずはローズタウン造成開始<ref name="くずはローズタウンの建設">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=292 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。大阪大学工学部枚方学舎閉鎖<ref name="大学" />
* [[1968年]](昭和43年) : (新)枚方大橋開通<ref name="道路の整備" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。くずはローズタウン分譲開始<ref name="くずはローズタウンの建設" />。三越百貨店枚方店開店<ref name="商業の振興" />。
* [[1969年]](昭和44年) : 全国初の病児保育室が香里ヶ丘に誕生<ref name="病児保育室">{{Cite web|和書|url=https://hirakata-byoujihoikusitu.jimdofree.com/%E5%BD%93%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF/ |title=当院のあゆみ |accessdate=2023-09-16 |website=枚方病児保育室くるみ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221129085608/https://hirakata-byoujihoikusitu.jimdofree.com/%E5%BD%93%E5%AE%A4%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF/ |archivedate=2022-11-29}}</ref>。
* [[1970年]](昭和45年) : [[国道307号]]が制定(4月1日)。野外活動センター開設<ref name="スポーツ施設の整備">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=332-333 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[枚方市立枚方中学校|枚方中学校]]開校。人口が20万人を超える。
* [[1971年]](昭和46年) : 枚方市民憲章制定<ref name="枚方市民憲章">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |page=304 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。精神衛生都市宣言。市民会館大ホール完成<ref name="市民会館の建設" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1972年]](昭和47年) : 樟葉駅前に[[くずはモール街]]開業<ref name="くずはローズタウンの建設" />。
* [[1973年]](昭和48年) : [[枚方市立図書館]]発足、自動車文庫「ひなぎく号」運行開始<ref name="枚方市立図書館の開館" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1974年]](昭和49年) : [[中村市]]([[高知県]]、現・[[四万十市]])友好都市提携<ref name="友好都市提携">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=320 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。松坂屋くずは店開店<ref name="商業の振興" />。
* [[1975年]](昭和50年) : ひらかたサンプラザビル完成<ref name="枚方市駅前の再開発">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=293 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。暴力排除都市宣言<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1976年]](昭和51年) : 人口が30万人を超える<ref name="急増する枚方市の人口">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=305-306 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。夏、くらわんか花火大会開催([[2003年]]夏まで)。
* [[1979年]](昭和54年) : 国鉄片町線[[藤阪駅]]開設、四條畷 - 長尾間の複線化<ref name="鉄道網の拡大">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=310-311 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
* [[1980年]](昭和55年)[[2月20日]] : 枚方市立第一中学校(当時)の生徒5人による[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#京阪電気鉄道置石脱線事故|京阪電車置石脱線事故]]発生。
* [[1982年]](昭和57年) : [[国道168号]]が枚方市まで延長(4月1日)。[[非核平和都市宣言]]<ref name="非核平和都市宣言">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=316-317 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。樟葉公民館開館<ref name="公民館の整備" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1983年]](昭和58年) : 総合体育館開館<ref name="スポーツ施設の整備" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[摂南大学]]枚方学舎竣工<ref name="大学" />。
* [[1984年]](昭和59年) : [[枚方八景]]制定<ref name="枚方八景の制定">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=317-318 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1987年]](昭和62年) : [[野付郡]][[別海町]]([[北海道]])<ref name="友好都市提携" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、[[香川郡]][[塩江町]]([[香川県]]、現・[[高松市]])<ref name="友好都市提携" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />、[[上海市]][[長寧区]]([[中華人民共和国]])友好都市提携<ref name="国際交流">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=320-321 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1988年]](昭和63年) : [[大阪国際大学]]開校<ref name="大学" />。
=== 現代 ===
; 平成
* [[1989年]]([[平成]]元年) : 平和の日制定。京阪ケーブルテレビジョン(現[[ケイ・キャット]])放送開始。
* [[1990年]](平成2年) : 岡本町再開発ビル「ビオルネ」完成<ref name="岡本町の再開発">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=323-324 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。陸上競技場開設<ref name="スポーツ施設の整備" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1992年]](平成4年) : 第71回全国高校ラグビー大会で[[常翔啓光学園中学校・高等学校|啓光学園高校]]が初優勝。枚方市高齢社会憲章制定。京阪交野線が全線複線化<ref name="kotsu19921128">{{Cite news |title=きょうから全線複線化 京阪電鉄交野線 枚方市 - 宮之阪間完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-11-28 |page=1 }}</ref><ref name="鉄道網の拡大">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=310-311 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年) : 人権尊重都市宣言<ref name="人権尊重都市宣言">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=318-319 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。枚方市駅高架化完成<ref name="枚方市駅の高架化">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=324-325 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1994年]](平成6年) : 健康・福祉推進都市宣言<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1995年]](平成7年) : [[ローガン]]市(オーストラリア)友好都市提携<ref name="国際交流" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。人口が40万人を超える。
* [[1996年]](平成8年) : [[ひらかたパーク]]改装完成。倉敷紡績枚方工場が[[徳島県]][[徳島市]]に移転。[[大阪工業大学]]開校<ref name="大学" />。
* [[1997年]](平成9年) : [[名護市]]([[沖縄県]])友好都市提携<ref name="友好都市提携" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[エフエムひらかた]]開局<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1998年]](平成10年) : 市内全域で高度浄水処理水供給開始<ref name="おいしい水の供給">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=326-327 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。ラポールひらかた開館<ref name="ラポールひらかたの建設">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=322-323 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[1999年]](平成11年) : 第78回全国高校ラグビー大会で啓光学園高校が優勝。[[有珠郡]][[大滝村 (北海道)|大滝村]](北海道、現・[[伊達市 (北海道)|伊達市]])、[[吉野郡]][[天川村]]([[奈良県]])、[[東彼杵郡]][[波佐見町]]([[長崎県]])市民交流都市宣言<ref name="友好都市提携" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。少年野球チーム枚方リトルがリトルリーグ世界大会で優勝。
* [[2000年]](平成12年) : 第79回全国高校ラグビー大会で[[東海大学付属仰星高等学校・中等部|東海大付属仰星高校]]が初優勝。
* [[2001年]](平成13年) : [[特例市]]移行<ref name="中核市へ移行">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=340 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。枚方宿鍵屋資料館開館<ref name="市立枚方宿鍵屋資料館">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=334 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[2002年]](平成14年) : 第81回全国高校ラグビー大会で啓光学園高校が優勝。市の鳥「[[カワセミ]]」制定。
* 2003年(平成15年) : 第82回全国高校ラグビー大会で啓光学園高校が2連覇。[[第二京阪道路]]部分開通、[[枚方東インターチェンジ|枚方東IC]]併用開始<ref name="第二京阪道路の開通">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=337 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。枚方市駅・樟葉駅に[[京阪特急|特急]]が終日停車開始(平日昼間時・土休日終日)。
* [[2004年]](平成16年) : 第83回全国高校ラグビー大会で啓光学園高校が3連覇。[[CHOYA]]枚方工場が東大阪市に移転。
* [[2005年]](平成17年) : 第84回全国高校ラグビー大会で啓光学園高校が4連覇。くずはモール街が[[くずはモール|KUZUHA MALL]]に全面改装<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[関西外国語大学]]片鉾学舎跡に生涯学習兼地域交流施設「輝きプラザきらら」「[[枚方市立中央図書館|中央図書館]]」開館<ref name="「安心と輝きの杜」計画">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=336-337 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。[[ひらかた大菊人形]]展閉幕<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[2006年]](平成18年) : 倉敷紡績枚方工場跡に[[関西医科大学附属枚方病院]]開院<ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。中央図書館[[枚方市立図書館|市駅前サテライト]]開館。第28回全国選抜高校テニス大会で男女共に[[長尾谷高等学校|長尾谷高校]]が初優勝。
* [[2007年]](平成19年) : 第86回全国高校ラグビー大会で東海大付属仰星高校が7大会ぶり2度目の優勝。[[2月9日]]、市の花「[[サクラ|桜]]」制定。第29回全国選抜高校テニス大会で長尾谷高校が団体戦女子2連覇。[[7月31日]]、[[中司宏]]市長(当時)が[[カルテル|談合]]疑惑で[[逮捕]]、[[9月10日]]失職。
* [[2008年]](平成20年) : [[霊岩郡]]([[大韓民国]][[全羅南道]])友好都市提携<ref name="国際交流" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
* [[2009年]](平成21年) : 穂谷地区が「にほんの里100選」に選ばれる。全市立小中学校に[[エア・コンディショナー|エアコン]]・校内[[Local Area Network|LAN]]を整備。
* [[2010年]](平成22年) : [[第二京阪道路]]全面開通、[[枚方学研インターチェンジ|枚方学研IC]]供用開始<ref name="第二京阪道路の開通" />。
* [[2013年]](平成25年) : 関西医科大学附属枚方病院隣接地に大阪府[[守口市]]から関西医科大学が移転。
* [[2014年]](平成26年) : [[中核市]]移行(4月1日)<ref name="中核市へ移行" /><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。枚方市民病院が建て替え、[[市立ひらかた病院]]に改称<ref name="市民病院新築">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=338-339 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref><ref name="郷土枚方の歴史新版年表" />。
; 令和
* [[2019年]]([[令和]]元年)- 人口が40万人を割り込む。
== 政治 ==
=== 行政 ===
==== 市長 ====
* 伏見隆(2期目)
* 任期:2023年9月22日
; 歴代首長
* [[寺嶋宗一郎]]([[1947年]]から)- 枚方町長
* 三嶋健男(1947年から)- 津田町長
* 三宅一郎([[1948年]]から)- 津田町長
* 三宅一郎([[1952年]]から[[1955年]]まで)枚方市への合併に伴い退任
; 歴代市長<ref>[http://www.city.hirakata.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000011/11922/18-01-01.pdf 第46回枚方市統計書(平成28年版)]</ref>
{| class="wikitable"
|-
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
|style="text-align:right;"|初-2||rowspan="1"|寺嶋宗一郎||1947年8月1日||1955年4月30日||旧枚方町長、市制施行に伴い市長就任
|-
|style="text-align:right;"|3||rowspan="1"|畠山晴文||1955年5月1日||1959年4月30日||
|-
|style="text-align:right;"|4-5||rowspan="1"|寺嶋宗一郎||1959年5月1日||1967年4月30日||
|-
|style="text-align:right;"|6-8||rowspan="1"|山村富造||1967年5月1日||1975年8月2日||
|-
|style="text-align:right;"|9-12||rowspan="1"|北牧一雄||1975年8月31日||1991年8月30日||
|-
|style="text-align:right;"|13||rowspan="1"|大塩和男||1991年8月31日||1995年4月30日||
|-
|style="text-align:right;"|14-17||rowspan="1"|[[中司宏]]||1995年5月1日||2007年9月9日||
|-
|style="text-align:right;"|18-19||rowspan="1"|[[竹内脩]]||2007年9月23日||2015年9月22日||
|-
|style="text-align:right;"|20-21|| rowspan="1" |[[伏見隆]]||2015年9月23日||||現職
|-
|}
==== 財政 ====
1995年決算から実質収支が赤字になり、1999年度には累積赤字が29.8億円と膨らんだ。財政再建準用団体への転落も危惧される中で財政再建を進められ、2002年度決算で黒字化を果たした。市税収入の前年度割れが続く中、2002年度から2004年度まで3年連続して、実質収支の黒字を計上している。
歳入の大半を占める市税収入は、長引く不況の影響により1997年の651億円をピークとして2004年度まで7年連続して減収が続いており、2004年度の市税収入は544億円である。歳入不足を補うために市債が発行されており、その総額は2004年度までに約148億8800万円に上る。なお、2021年度現在の市税収入は約531億円となっている。
2021年4月現在の[[ラスパイレス指数]]は98.2(中核市53/62位)である。
1997年4月時点の107.3(1998年、1999年は不明)、2000年4月時点の105.8、2001年4月時点の103.5、2002年4月時点の103.3、2003年4月時点の102.1、2004年4月時点の99.1、2005年4月時点の98.7、2006年4月時点の98.6、2007年4月時点の98.3、2008年4月時点の98.2、2009年4月時点の96.8と、全国的に高水準だったラスパイレス指数の低下が続いており、2021年4月現在においても国家公務員よりも低水準となっている。
==== 市町村合併 ====
; 行政区域の変遷
{{Wikisource|枚方市設置|枚方市設置|内務省告示文}}
; 明治
* [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] : [[町村制]]の施行により、[[茨田郡]]枚方村・三矢村・泥町村・伊加賀村・岡村・岡新町村の区域をもって'''枚方町'''が発足<ref name="枚方町など10町村の誕生" />。
* [[1896年]](明治29年)4月1日 : 茨田郡枚方町の所属郡が[[北河内郡]]に変更<ref name="郡制の施行" />。
; 昭和
* [[1938年]]([[昭和]]13年)[[11月3日]] : 北河内郡[[枚方町]]が[[殿山町]]・[[山田村 (大阪府北河内郡)|山田村]]・[[樟葉村]]・[[川越村 (大阪府)|川越村]]・[[蹉跎村]]と合併し、改めて'''枚方町'''が発足<ref name="新枚方町の誕生" />。
* [[1947年]](昭和22年)[[8月1日]] : 北河内郡枚方町が市制施行し'''枚方市'''となる<ref name="市制の施行" />。
* [[1955年]](昭和30年)[[10月15日]] : [[津田町 (大阪府)|津田町]]を編入<ref name="津田町との合併" />。
; 平成
* [[2014年]] (平成26年) 4月1日 : [[特例市]]から[[中核市]]に移行。
; 合併協議会
平成の大合併では[[寝屋川市]]、[[交野市]]との合併が協議されたが実現しなかった。またこれとは別に、[[1980年代]]に[[京都府]][[八幡市]]住民より同市から当市への[[越境合併]]の要望があったが自然消滅している。
=== 議会 ===
==== 市議会 ====
; [[枚方市議会]]
* 定数:32名
* 任期:2027年4月30日
* 議長:藤田幸久(公明党、4期)
* 副議長:八尾善之(連合市民の会、4期)
{| class="wikitable"
!会派名!!議席数!!所属党派!!議員名(◎は代表)
|-
|自由民主党議員団||3||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[無所属]]||◎田口敬規、漆原周義、松本佑介
|-
|日本共産党議員団||4||[[日本共産党]]||◎堤幸子、広瀬ひとみ、松岡ちひろ、三和智之
|-
|連合市民の会||5||[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]・無所属||◎野村生代、八尾善之、奥野美佳、番匠映仁、大津真沙樹
|-
|大阪維新の会枚方市議会議員団||10||[[大阪維新の会]]||◎鍜治谷知宏、小池晶子、門川紘幸、泉大介、岡市栄次郎、妹尾正信、大濱暢祐、佐田あゆ美、志甫直哉、高野寿陛
|-
|公明党議員団||8||[[公明党]]||◎丹生真人、大地正広、藤田幸久、田中優子、一原明美、千葉雅民、東実名子、峠賢一
|-
|自由民主党枚方創政会||2||自由民主党||前田富枝、長友克由
|}
==== 府議会 ====
; 大阪府議会(枚方市選挙区)
* 定数:4名<ref name="大阪府議会ホームページ">[http://www.pref.osaka.lg.jp/gikai_giji/kaikaku/teisu.html 大阪府議会ホームページ - 議員定数について]</ref>
* 任期:2027年4月29日
{| class="wikitable"
|-
!氏名!!会派名!!当選回数!!備考
|-
| 岩本優祐 || 大阪維新の会大阪府議会議員団 || align="center" | 1 ||
|-
| 山田健太 || 民主ネット大阪府議会議員団 || align="center" | 2 || 党籍は立憲民主党
|-
| 大橋章夫 || 公明党大阪府議会議員団 || align="center" | 4 ||
|-
| 岡沢龍一 || 大阪維新の会大阪府議会議員団 || align="center" | 2 ||
|}
2015年の府議選から、定数は5から'''4'''に変更された<ref name="大阪府議会ホームページ" />。
==== 国会 ====
; 衆議院
* 選挙区:[[大阪府第11区|大阪11区]](枚方市、[[交野市]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:398,749人
* 投票率:60.57%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|-
| style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[中司宏]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 65 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 105,746票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○
|-
| || [[佐藤ゆかり]] || style="text-align:center;" | 60 || 自由民主党 || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 70,568票 || style="text-align:center;" | ○
|-
| || [[平野博文]] || style="text-align:center;" | 72 || 立憲民主党 || style="text-align:center;" | 前 || style="text-align:right;" | 60,281票 || style="text-align:center;" | ○
|}
== 官公庁 ==
=== 国家機関 ===
* [[国税庁]][[大阪国税局]]枚方税務署
* [[国土交通省]][[近畿地方整備局]]浪速国道事務所
* 国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所
* 国土交通省近畿地方整備局淀川ダム統合管理事務所
* 国土交通省近畿地方整備局近畿技術事務所
* 北大阪[[労働基準監督署]]
* 枚方[[公共職業安定所]](ハローワーク)
* [[枚方簡易裁判所]]
* [[大阪法務局]]枚方出張所
* [[枚方区検察庁]]
=== 府政機関 ===
* 北河内府税事務所
* 北河内府民情報プラザ
* [[枚方土木事務所]]
* 北河内教育振興センター
* [[村野浄水場]]
* 水質試験所
* 木屋揚水機場
* 磯島取水場
* 淀川左岸流域下水道・渚水みらいセンター<ref group="注釈">枚方市・交野市・京都府八幡市の汚水を終末処理する[[下水処理場]]。窒素リンを除去する高度処理がほどこされ、処理された水の一部は京阪枚方市駅周辺の「せせらぎ水路」、駅のトイレの用水・枚方市役所周辺の緑地への散水、ラポールひらかたの空調の熱源やトイレ用水として再利用されている。</ref>
== 施設 ==
=== 警察 ===
* [[枚方警察署|大阪府枚方警察署]] - 枚方市西部を管轄
* [[交野警察署|大阪府交野警察署]] - 枚方市東部を管轄
: 管轄の境界は国道1号 - 出屋敷南交差点 - [[大阪府道18号枚方交野寝屋川線]]を経て枚方市と交野市の行政境界線である。
: 枚方市での交野警察署の管轄区域は、旧北河内郡津田町域(郵便での枚方東郵便局管轄区域をほぼ網羅)と概ね合致する。
=== 消防 ===
; 本部
* [[枚方寝屋川消防組合]]
; 消防署
* 枚方消防署
* 枚方東消防署
=== 医療 ===
; 主な病院
* [[市立ひらかた病院]]
* 市立保健センター
* [[地域医療機能推進機構星ヶ丘医療センター]]
* [[関西医科大学附属病院]]
* [[枚方公済病院]]
* [[東香里病院]]
* [[福田総合病院]]
* [[吉田病院 (大阪府)|吉田病院]]
; 主な福祉施設
* 市立老人福祉センター「楽寿荘」
; 主な保健施設
* 枚方市保健所
=== 郵便局 ===
; [[集配郵便局]]
* [[枚方郵便局]](573-00xx、573-8xxx)
* [[枚方北郵便局]](573-10xx、573-11xx)
* [[枚方東郵便局]](573-01xx)
; 無集配郵便局
{{段組|count=4|1=
* 枚方松丘郵便局
* 枚方星丘郵便局
* 枚方宮之阪郵便局
* 枚方公園駅前郵便局
* 枚方山之上郵便局
* 枚方中振郵便局
* 枚方伊加賀西町郵便局
* 枚方高田郵便局
* 枚方香里ヶ丘郵便局
* 枚方香里ヶ丘五郵便局
* 枚方香里南郵便局
* 枚方東中振郵便局
* 枚方長尾家具郵便局
* 枚方長尾台郵便局
* 枚方尊延寺郵便局
* 枚方津田駅前郵便局
* 枚方春日野郵便局
* 枚方藤阪郵便局
* 菅原郵便局
* 枚方楠葉野田郵便局
* 枚方楠葉郵便局
* 枚方東山郵便局
* 枚方船橋郵便局
* 枚方楠葉並木郵便局
* 枚方招提郵便局
* 枚方養父郵便局
* 枚方牧野駅前郵便局
* 枚方招提団地内郵便局
* 枚方北片鉾郵便局
* 枚方甲斐田郵便局
* 枚方三栗郵便局
* 枚方渚郵便局
* 枚方西禁野郵便局
* 枚方中宮郵便局
}}
; [[簡易郵便局]]
* 枚方松美ヶ丘簡易郵便局
=== 図書館 ===
{{see|[[枚方市立図書館]]}}
=== 文化施設 ===
; 資料館
* 旧田中家鋳物民俗資料館
* 枚方宿鍵屋資料館
* 淀川資料館
; 生涯学習市民センター
* 蹉跎(さだ)生涯学習市民センター
* 牧野生涯学習市民センター
* 菅原生涯学習市民センター
* 津田生涯学習市民センター
* 生涯学習情報プラザ
* 南部生涯学習市民センター
* 御殿山生涯学習美術センター
* 楠葉生涯学習市民センター
* サンプラザ生涯学習市民センター
=== 交流施設 ===
* 枚方市市民会館
* [[枚方市総合文化芸術センター]]<ref group="注釈">枚方市市民会館に代わる施設。なお市民会館は2018年6月の大阪府北部地震の影響で大ホールが閉鎖。</ref>
* 枚方公園青少年センター
* サプリ村野<ref group="注釈">廃校になった村野小学校の校舎を利用して、スポーツサークル活動・リサイクル工房・子育て支援広場・図書館などに利用。出典:京阪電気鉄道駅置き情報誌『K PRESS』2011年7月号6面「気になるあの駅散策マップ」より</ref>
* メセナひらかた会館
* 市民ギャラリー
* くずはアートギャラリー
* 地域活性化支援センター
* 市民ふれあいセンター
* 教育文化センター
* [[創価学会]]京阪文化会館
=== 運動施設 ===
* 枚方市立渚市民体育館
* [[枚方市立総合スポーツセンター]](総合体育館、[[枚方市立陸上競技場|陸上競技場]])
* 枚方市野外活動センター
* 王仁公園(テニスコート、運動広場、バレーボールコート、プール)
* 中の池公園(運動広場)
* 香里ヶ丘中央公園(運動広場)
* 春日テニスコート
* 藤阪テニスコート
{{Anchors|枚方市立伊加賀スポーツセンター}}
* 伊加賀スポーツセンター
== 対外関係 ==
=== 姉妹都市・提携都市 ===
==== 海外 ====
; 姉妹都市
* {{Flagicon|CHN}}[[長寧区]]([[中華人民共和国]] [[上海市]])
** [[1987年]]([[昭和]]62年)[[12月]] - 姉妹都市提携
* {{Flagicon|AUS}}[[:en:Logan City|ローガン市]]([[オーストラリア連邦]] [[クイーンズランド州]] [[サウス・イースト・クイーンズランド|南東クイーンズランド地域]])
** [[1995年]]([[平成]]7年)[[3月]] - 姉妹都市提携
* {{Flagicon|KOR}}[[霊岩郡]]([[大韓民国]] [[全羅南道]])
** [[2008年]](平成20年)[[3月]] - 姉妹都市提携
==== 国内 ====
* {{Flagicon|高知県}}[[四万十市]]([[四国地方]] [[高知県]])
** [[1974年]]([[昭和]]49年)[[4月]] - 旧[[中村市]]と友好都市提携。[[2008年]] - 四万十市と再提携。
* {{Flagicon|北海道}}[[別海町]]([[北海道]] [[根室振興局]] [[野付郡]])
** [[1987年]](昭和62年)[[2月]] - 友好都市提携
* {{Flagicon|香川県}}[[高松市]](四国地方 [[香川県]])
** 1987年(昭和62年)2月 - 旧[[塩江町]]と友好都市提携。2005年高松市編入に伴い友好都市から外れるが、それ以降も地域間交流は継続<ref name="友好都市提携" />。
* {{Flagicon|沖縄県}}[[名護市]]([[南西諸島]] [[沖縄県]])
** [[1997年]]([[平成]]9年)[[7月]] - 友好都市提携
* {{Flagicon|北海道}}[[伊達市 (北海道)|伊達市]](北海道 [[胆振総合振興局]])
** [[1999年]](平成11年)7月 - 旧[[大滝村 (北海道)|大滝村]]と市民交流都市宣言(経済交流のまち)
* {{Flagicon|奈良県}}[[天川村]]([[近畿地方]] [[奈良県]] [[吉野郡]])
** 1999年(平成11年)7月 - 市民交流都市宣言(七夕伝説交流のまち)
* {{Flagicon|長崎県}}[[波佐見町]]([[九州地方]] [[長崎県]] [[東彼杵郡]])
** 1999年(平成11年)7月 - 市民交流都市宣言(くらわんか交流のまち)
== 経済 ==
=== 第二次産業 ===
==== 工業 ====
枚方市はベッドタウンとして発展してきたが、産業の面からみると製造業の比重が高い産業都市でもある。1978年時点では、従業員数の36.6%を占める製造業が1位であった<ref name="枚方市の産業">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=309 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
枚方の近代産業は、大正時代に開業した日本メリヤス株式会社と蝶矢シャツ製造所に始まった<ref name="蝶矢シャツと倉紡枚方工場" />。
また、戦前から戦中に掛けて、枚方市は軍需産業が盛んであった。明治時代に開設された陸軍[[禁野火薬庫]]に始まり<ref name="禁野火薬庫の設置" />、昭和に入ると[[陸軍造兵廠]][[大阪砲兵工廠|大阪工廠]]枚方製造所、東京第二陸軍造兵廠香里製造所が開設された<ref name="枚方製造所" /><ref name="香里製造所" />。
戦後これらの軍事施設は民間に払い下げられ、大阪陸軍造兵廠枚方製造所(旧陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所)は[[小松製作所]]大阪工場に<ref name="旧枚方製造所の払下げ" />、禁野火薬庫と東京第二陸軍造兵廠香里製造所は、[[住宅団地]]としてそれぞれ[[日本住宅公団]]中宮団地、香里団地へと生まれ変わった<ref name="香里団地の建設" />。
戦後、枚方中小企業団地(現・枚方企業団地)、枚方[[既製服]]団地(現・枚方紳士服団地)、[[枚方家具団地]]などの工業団地が枚方の経済成長を支えた<ref name="工業団地">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=285 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。企業誘致に際して立地を一箇所に集約しなかったため、これらの企業団地はある程度のまとまりがあるものの、市内に点在する形となっている<ref name="工業地区">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=285-286 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。
しかし産業構造の変化や宅地化の進展により、近年これらの事業所が市外へ移転する事が増えている。枚方の近代産業の先駆けである[[倉敷紡績]]枚方工場(旧日本メリヤス)が1996年に、[[CHOYA]]枚方工場(旧蝶矢シャツ製造所)が2004年に、それぞれ市外へ移転した。
地域産業の活性化を図るべく、人材育成、起業支援に併せて、津田サイエンスヒルズ([[関西文化学術研究都市#氷室・津田地区|関西文化学術研究都市 氷室・津田地区]])への企業誘致などが進められているが、十分な成果が上がっているとは言い難い状況である。
=== 第三次産業 ===
==== 商業 ====
そもそも枚方市は「都心に比較的近く鉄道交通が発達している」という特性を持ち、バブル期より地の利を生かした住宅開発を盛んに行ってきた。これら住宅地に住む労働者の多くが都心通勤者であるため、かねてから昼間人口の都心流出が顕著であった。
さらに近年では1997年の[[JR東西線]]開業や2003年の[[枚方市駅]]、[[樟葉駅]]京阪特急停車化、2008年の中之島線開業など、[[京阪本線]]、[[片町線]](学研都市線)の高速化や運転系統・本数の充実化といったサービスアップによって通勤ニーズだけでなく商業・観光ニーズにおいても都心志向が高まり、購買客までも都心へ流出させることとなった([[ストロー効果]])。
; 枚方市駅周辺
[[ファイル:HIRAKATA T-SITE.jpg|thumb|200px|[[枚方T-SITE]]]]
[[ファイル:VIE.ORNER on 2018 January 6th.jpg|thumb|200px|[[ビオルネ]]]]
[[ビオルネ]]・[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]枚方店(旧枚方[[サティ (チェーンストア)|サティ]]→枚方[[ビブレ]]→枚方サティ)・[[京阪百貨店]]ひらかた店・京阪枚方ステーションモール・ひらかたサンプラザ1号 - 3号・[[TSUTAYA]]ビルなどの商業施設がならぶ。
これら商業施設の発展の経緯は線路を挟み北口側と南口側に大きく分かれた。北口側には旧京街道が通り、街道沿いに岡東町商店街が賑わいを見せていた。前述の商業施設もまず北口側から開発が進められた<ref name="枚方市駅前の再開発" />。[[1965年]](昭和40年)に枚方駅前デパート<ref name="HirakataShishi5">枚方市、『枚方市史5巻』、1984年3月31日</ref>、[[1969年]](昭和44年)に長崎屋枚方店<ref name="HirakataShishi5" /><ref name="商業の振興" />が開店した。北口側の開発から少し遅れて南口側の開発も進められた。[[1968年]](昭和43年)に三越百貨店枚方店<ref name="商業の振興">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=309-310 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>、1970年(昭和45年)にイズミヤ枚方店<ref name="商業の振興" />が開店した。[[1971年]](昭和46年)に可決された市街地再開発事業<ref name="HirakataShishi5" />により、駅前ビル3棟と5000㎡の駅前広場、4700㎡の都市公園が、5年の歳月と113億円を費やして建設された。駅前ビルはひらかたサンプラザ1号館から3号館と名付けられ、2号館には[[1975年]](昭和50年)にひらかた丸物百貨店(後の[[近鉄百貨店枚方店]])が開店した<ref name="枚方市駅前の再開発" />。
1960年代から1970年代に掛けて枚方市駅の乗降客数は急増を見せるが、[[香里団地]]などの住宅地を多く抱える南口側に対して、線路で分断され淀川に挟まれた北口側は次第に衰退していった。駅前に大型商業施設が開発された事も相まって岡東町商店街の衰退は著しくなったが、[[1990年]](平成2年) 岡本町再開発ビル「ビオルネ」が完成<ref name="岡本町の再開発" />。[[1993年]](平成5年)には枚方市駅が高架化され、翌[[1994年]](平成6年)には高架下に京阪百貨店枚方店と京阪ザ・ストア枚方店が開店した<ref name="枚方市駅の高架化" />。北口と南口を分断していた線路が高架化により無くなり、再び北口側に活気が戻るようになってきた。
しかしその後の景気の後退と共に縮小が相次いだ。[[1996年]](平成8年)に北口からほど近い[[倉敷紡績]]枚方工場が移転閉鎖。[[2002年]](平成14年)に長崎屋枚方店、[[2005年]](平成17年)に三越百貨店枚方店<ref group="注釈" name=MitsukoshiHirakataHeiten>{{Quote|"枚方店の収支はトントンであったが、1995年の阪神大震災で大阪店が打撃をこうむり、関西地区は梅田出店構想を前に2005年に大阪地区から一旦撤退を判断"|大西 洋|『まちづくりにあたって百貨店が果たすべき役割と方向性』、2013年3月29日 http://www.meti.go.jp/committee/sankoushin/shigaichi/pdf/004_04_00.pdf}}</ref>、[[2012年]](平成24年)2月に[[近鉄百貨店枚方店]]が閉店した<ref name="小売業の再編とくずはモール">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=339-340 |chapter=第6章 現代の枚方}}</ref>。[[2010年]](平成22年)はビオルネの運営会社が倒産している。
[[2013年]](平成25年)4月枚方市駅北口の[[関西医科大学附属枚方病院]](現・[[関西医科大学附属病院]])の隣接地に[[関西医科大学]]がオープン。更に[[枚方市駅]]周辺の再整備がスタートし、[[2016年]](平成28年)5月に近鉄百貨店跡に[[枚方T-SITE]]がオープンした。今後は駅周辺の再整備が進む。
2025年までに枚方市駅北口エリアの再整備を行い、[[京阪本線]]、[[京阪交野線]]と天野川に囲まれたデルタと呼ばれる地帯に商業施設、ホテル、オフィスなどが入る高層ビルを建設予定。また、北口ロータリーの混雑緩和のため、広くする予定。
南口エリアの再整備は後に開始され、市役所の移設も含まれる。
{{誰範囲2|中核市で216億円の負担は異例と言われている|date=2022年1月}}。
; 樟葉駅周辺
[[ファイル:Kuzuha Mall 20160823.jpg|thumb|right|220px|くずはモール]]
1967年より京阪電気鉄道によって「くずはローズタウン」の住宅開発が行われ、引き続いて百貨店([[松坂屋]]くずは店)、スーパーマーケット([[ダイエー]]、[[イズミヤ]])、専門店を含む沿線最大級のショッピングモール・[[くずはモール|くずはモール街]]が開発され、1972年4月に開店した<ref name="くずはローズタウンの建設" />。
しかし建設から30余年を経過した2004年にいったん閉鎖、松坂屋くずは店は撤退した<ref name="小売業の再編とくずはモール" />。
2005年に「KUZUHA MALL」として全面改装<ref name="くずはモールがオープン">{{Cite web |url=https://www.keihan.co.jp/corporate/csr/2005/pdf/er10.pdf |title=Topics 2005 |accessdate=2023-11-26 |format=PDF |publisher=京阪電車 |page=10}}</ref>、それにあわせて京阪本線の[[特別急行列車|特急列車]]が停車するようになり、一時は沈滞化していた樟葉周辺も再び活気付くようになった。樟葉周辺は樟葉パブリック・ゴルフ・コース、超高層マンション、ローズタウン、その他商業施設など大半が京阪による開発である。
; 国道1号沿い
交通量が多く、多方面から集客できるため、娯楽施設や飲食店が多く立ち並ぶ。高野道周辺には[[ラウンドワン]]、フォレオひらかた(核店舗は「[[シネプレックス枚方]]」「[[GOLF5]]」「[[スポーツデポ]]」など)などがある。
また、その他商業施設が相次いでオープンする。2016年には、国内最大級の規模である[[ニトリモール枚方]]がオープン。
=== 拠点を置く企業 ===
; 本社
* [[くらこんホールディングス]](こんぶのくらこん)
* [[恩地食品]](おんち)
* [[京阪ホールディングス]](本社は[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]にあるが、登記上の本店を[[ビオルネ]]内に置く)
** [[京阪電気鉄道]](同上)
* [[三井倉庫ロジスティクス]](旧・三洋電機ロジスティクス)
* [[枚方信用金庫]]
* [[初田製作所]]
* [[たまゆら (企業グループ)|たまゆら]]
* [[ホソカワミクロン]](東証1・6277)
* [[日本電音]](ユニペックス)
* [[大塚電子]]
* 株式会社[[morondo]]([[枚方つーしん]]などを運営する地域情報[[ポータルサイト]]。(「ひらつー」の名称で知られる。)
* [[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]] - 創業の地であり、登記上の本店を[[枚方T-SITE]]に置く。
* [[大阪王将]]([[イートアンドホールディングス]]関西工場に登記上の本店を置く)
; 事業所、関連施設
* [[京セラドキュメントソリューションズ]] - 枚方工場
* [[クボタ]] - 枚方製造所
* [[小松製作所]] - 大阪工場
* [[日本精線]] - 枚方工場
* [[ミツカン#その他の関連会社|大阪ミツカン]] - 大阪工場
* [[共英製鋼]] - 枚方事業所枚方工場
* [[サンヨーホームズ]] - 生産本部
* [[ダイコロ]] - 大阪工場
* [[フジパン]] - 枚方工場
* [[パナソニック]] - パナソニックアリーナ、[[パナソニックベースボールスタジアム]]
* [[大林組]] - 大阪機械工場
; 本店、第1号店
* [[ポムフード|ポム・ド・テール]] 本店、ポムの樹 近鉄枚方店(ポムの樹1号店)
=== 伝統産業 ===
東部地域では伝統産業である河内[[素麺|そうめん]]製造と[[酒造]]業が行われていた。
; 河内そうめん
河内そうめんは、奈良の「[[三輪素麺]]」や兵庫の「[[揖保乃糸]]」などと共に知られる手延べそうめんである。[[天和 (日本)|天和]]年間(1681年〜1683年)に大和国三輪から伝えられた素麺製造技術が基になっている。
耕地の少ない旧交野郡津田村を中心として農閑期の副業として栄え、最盛期には約80軒で生産されていた。遠く近江や尾張にまで販路を広げていたが、近年は生産農家の高齢化が進み後継者不足が問題となっており、2003年時点では津田地域に三軒、穂谷地域に一軒を残すのみとなっていた。その当時、出荷量が限られているため市販されていなかった。その後も生産者の減少は続き、伝統を受け継いでいた最後の一軒が2012年に廃業したことで、古くから続いた生産者は途絶えた。その後、地元在住者が技術と生産の継承に取り組んでいると報じられている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/job/wlb/topics/20130226-OYT8T00512.htm 河内そうめん 私たちが継ぐ 地元夫婦が奮起] - 読売新聞2013年2月26日</ref>。市立枚方宿鍵屋資料館では夏季限定で河内そうめんを有料で食べることができる<ref>[http://www.kansaibunka.com/event/%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8F%E3%82%93%E3%81%8B%E4%BA%94%E5%85%AD%E5%B8%82%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%BA%83%E9%96%93%E8%8C%B6%E5%B1%8B/ 市立枚方宿鍵屋資料館 くらわんか五六市・大広間茶屋] - 関西文化.com</ref>。
津田には河内そうめんの発展に貢献した山下政右衛門(後に政太)の碑「山下翁頌徳碑」が残る。
; 酒造
生駒山系の良質な地下水を生かして[[酒造]]も行われていた。[[1921年]]頃は小北酒造場(菅原村)、田中酒造場(氷室村)、米山酒造所(同)、池尻酒造所(津田村)、山本酒造所(同)、高地酒造所(樟葉村)の6軒<ref name="酒造業">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=240 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>。また[[1970年代]]まで小北酒造場(藤阪元町、「[[菊人形]]」「寿賀天杯」)、田中酒造場(尊廷寺、「谷川」)、池尻酒造(津田元町、「成功正宗」)、津田酒造(津田元町、「枚方自慢」「みや鶴」)、重村酒造場(穂谷、「富士霞」「穂谷」「淀菊」)という5つの[[造り酒屋]]が存在した。津田酒造のみや鶴は[[1995年]]の全国新酒鑑評会において金賞を受賞する実績を残している。
しかし[[1990年代]]半ばまでに重村酒造場を残し、その他は全て廃業した。住宅地図<ref>吉田地図 精密住宅地図 枚方市(南部)</ref>において酒造業としての記載が最後に残されているのは、池尻酒造は1979年<ref group="注釈">1980年版から酒造業の記載無し</ref>、田中酒造場は1983年<ref group="注釈">1986年版から酒造業の記載無し</ref>、小北酒造場は1992年<ref group="注釈">1994年版から敷地内に賃貸アパートが記載</ref>、津田酒造は1994年<ref group="注釈">1996年版は「津田ショッピングセンター(仮)」が記載。同地が平和堂 アル・プラザ枚方として開業後は、酒販店「みや鶴」として出店</ref>となっている。
最後まで残った重村酒造場も2012年3月で廃業し、枚方市内から酒造業者は消滅した<ref>[http://www.hira2.jp/archives/50301701.html 枚方最後の造り酒屋、穂谷の「重村酒造醸」が3月末で廃業してた] - [[枚方つーしん]]2012年4月2日</ref>。
== 教育 ==
=== 歴史 ===
江戸時代の幕末期、枚方市域では41の寺子屋があり、比較的裕福な層の子供に対して、習字や読書、算盤を教えていた。師匠は僧侶が多く、農民や医師もその役を担った<ref name="寺子屋">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=166 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
また専門的な知識や技能を教える私塾として、中宮村の南明堂、坂村の岡田本房塾、同村の言順堂が開設されていた。南明堂は享保年間(1716-1736年)に医師の行田(なめだ)義斎により設立された、枚方でもっとも古く設立された私塾である。岡田本房塾は天明・寛政期(18世紀末)に岡田本房により設立された。岡田家は代々一宮神社(片埜神社)の祠官であり、岡田本房は旗本水野氏の坂村陣屋の代官を務めていた。言順堂は代々医師であった三浦家により設立され、医師であった三浦元道が教化に務めた<ref name="私塾">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=166 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
=== 現代 ===
枚方市では、[[ベッドタウン]]化により[[1950年代]]から[[1970年代]]に掛けて急激に人口が増加した<ref name="急増する枚方市の人口" />。
そのため小中学校の不足が深刻化し、各地の小中学校には臨時のプレハブ教室が大量に作られる事態となった。児童の増加に対応するため新設校の設立や増築が進められ、[[1980年代]]には教室の不足が解消された。
小学校の児童数は1980年代を頂点として一転して減少に転じ、次第に少子化傾向が顕著になるに従い学級数が減少した。空き教室の増加も問題となり、1999年に学校の統廃合が行われた。しかし、少人数による利点・長所を生かし、原則として今後統廃合はされない見通しである。2004年には中学校校区の弾力化が行われ、小学校最終学年で志望中学の希望調査が行われる。
また、市立学校全てにコンピュータールームの導入、ALTによる英語教育、少人数授業などには古くから積極的である。
かつて高校の進学指導において高槻・枚方方式と呼ばれた総合選抜を擬似的に再現する地元集中という考え方を用いていた。
さらに2008年度より枚方市立の小中学校の全教室に冷暖房が設置し、快適な学習環境の確保が可能となった。また子供たちが思いっきり運動場で遊べるよう、全小学校でみどりのじゅうたん事業と称して、校庭を一部芝生化している。これには、{{誰範囲2|外気温低下の効果も期待されている|date=2022年1月}}。
全国学力調査では、枚方市の平均値は全国平均・大阪府平均を上回っており、今後も先進的教育のまちとしての地位を確立し、枚方市の子供たちの学力向上を図るための教育政策として、より充実した授業展開が行えるよう[[電子黒板]]の導入や夏季休業日を6日間短縮、冬期休業日を1日ずらすなどの取り組みがなされている。
なお、関西地方の学校は[[制服|制服・標準服]]を定めていることが多いが、枚方市の学校は基本的に私服登校が可能。
また、漢字を日本に伝えた王仁博士の墓とされる大阪府史跡「伝王仁墓」<ref name="王仁の渡来説話と伝王仁墓">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=53-54 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref>が市内にあることにちなみ、「漢字のまち枚方」としての特色を全国に発信しようと、平成15年度より「心に残る漢字一文字作文コンクール」(現・「漢字をテーマに思いを伝える作文コンクール」)を実施するなど、さまざまな取り組みを行っている。
=== 大学 ===
; 国立
* [[大阪大学]]大学院工学研究科 自由電子レーザー研究施設
; 私立
* [[大阪工業大学]]情報科学部
* [[大阪国際大学]]ビジネス学部 現代社会学部
* [[大阪歯科大学]]
* [[関西医科大学]]
* [[関西外国語大学]]
** [[関西外国語大学短期大学部|短期大学部]]
* [[摂南大学]]枚方キャンパス
=== 専修学校 ===
* [[近畿情報高等専修学校]]
=== 高等学校 ===
; 府立
* [[大阪府立香里丘高等学校]]
* [[大阪府立長尾高等学校]]
* [[大阪府立枚方高等学校]]
* [[大阪府立枚方津田高等学校]]
* [[大阪府立枚方なぎさ高等学校]]
* [[大阪府立牧野高等学校]]
* [[大阪府立いちりつ高等学校]](旧大阪市立高等学校)
; 私立
* [[常翔啓光学園中学校・高等学校|常翔啓光学園高等学校]]
* [[東海大学付属大阪仰星高等学校・中等部|東海大学付属大阪仰星高等学校]]
* [[長尾谷高等学校]]
=== 中学校 ===
; 市立(19校)
{{div col}}
* [[枚方市立第一中学校|第一中学校]]
* [[枚方市立第二中学校|第二中学校]]
* [[枚方市立第三中学校|第三中学校]]
* [[枚方市立第四中学校|第四中学校]]
* [[枚方市立津田中学校|津田中学校]]
* [[枚方市立枚方中学校|枚方中学校]]
* [[枚方市立中宮中学校|中宮中学校]]
* [[枚方市立招提中学校|招提中学校]]
* [[枚方市立楠葉中学校|楠葉中学校]]
* [[枚方市立楠葉西中学校|楠葉西中学校]]
* [[枚方市立東香里中学校|東香里中学校]]
* [[枚方市立長尾中学校|長尾中学校]]
* [[枚方市立杉中学校|杉中学校]]
* [[枚方市立山田中学校|山田中学校]]
* [[枚方市立渚西中学校|渚西中学校]]
* [[枚方市立桜丘中学校|桜丘中学校]]
* [[枚方市立蹉跎中学校|蹉跎中学校]]
* [[枚方市立招提北中学校|招提北中学校]]
* [[枚方市立長尾西中学校|長尾西中学校]]
{{div col end}}
; 私立(2校)
* [[常翔啓光学園中学校・高等学校|常翔啓光学園中学校]]
* [[東海大学付属仰星高等学校・中等部|東海大学付属仰星高等学校中等部]]
=== 小学校 ===
; 市立(44校)
{{div col}}
* [[枚方市立枚方小学校|枚方小学校]]
* [[枚方市立枚方第二小学校|枚方第二小学校]]
* [[枚方市立蹉跎小学校|蹉跎小学校]]
* [[枚方市立香里小学校|香里小学校]]
* [[枚方市立開成小学校|開成小学校]]
* [[枚方市立五常小学校|五常小学校]]
* [[枚方市立春日小学校|春日小学校]]
* [[枚方市立桜丘小学校|桜丘小学校]]
* [[枚方市立山田小学校|山田小学校]]
* [[枚方市立明倫小学校|明倫小学校]]
* [[枚方市立殿山第一小学校|殿山第一小学校]]
* [[枚方市立殿山第二小学校|殿山第二小学校]]
* [[枚方市立樟葉小学校|樟葉小学校]]
* [[枚方市立津田小学校|津田小学校]]
* [[枚方市立菅原小学校|菅原小学校]]
* [[枚方市立氷室小学校|氷室小学校]]
* 禁野小学校
* [[枚方市立山之上小学校|山之上小学校]]
* [[枚方市立牧野小学校|牧野小学校]]
* [[枚方市立交北小学校|交北小学校]]
* [[枚方市立香陽小学校|香陽小学校]]
* [[枚方市立招提小学校|招提小学校]]
* [[枚方市立中宮小学校|中宮小学校]]
* [[枚方市立小倉小学校|小倉小学校]]
* [[枚方市立樟葉南小学校|樟葉南小学校]]
* [[枚方市立磯島小学校|磯島小学校]]
* [[枚方市立蹉跎西小学校|蹉跎西小学校]]
* [[枚方市立樟葉西小学校|樟葉西小学校]]
* [[枚方市立田口山小学校|田口山小学校]]
* [[枚方市立西牧野小学校|西牧野小学校]]
* [[枚方市立川越小学校|川越小学校]]
* [[枚方市立蹉跎東小学校|蹉跎東小学校]]
* [[枚方市立桜丘北小学校|桜丘北小学校]]
* [[枚方市立津田南小学校|津田南小学校]]
* [[枚方市立船橋小学校|船橋小学校]]
* [[枚方市立菅原東小学校|菅原東小学校]]
* [[枚方市立山田東小学校|山田東小学校]]
* [[枚方市立藤阪小学校|藤阪小学校]]
* [[枚方市立平野小学校|平野小学校]]
* 長尾小学校
* 東香里小学校
* [[枚方市立伊加賀小学校|伊加賀小学校]]
* [[枚方市立西長尾小学校|西長尾小学校]]
{{div col end}}
; 私立(1校)
* [[関西創価小学校]]
=== 特別支援学校 ===
; 府立
* [[大阪府立枚方支援学校]]
* [[大阪府立むらの高等支援学校]]
=== 保育施設 ===
* [[保育所]](一部)
** 香里敬愛保育所
** 中振敬愛保育所
** 香里ヶ丘愛児園
** 香里ヶ丘保育園
** 天の川保育園
=== 学校教育以外の施設 ===
* [[税務大学校]]大阪研修所([[文教研修施設]])
* [[大阪府立北大阪高等職業技術専門校]]([[職業能力開発校]])
=== 閉校 ===
; 高等学校
* [[大阪府立枚方西高等学校]](2006年閉校)<ref name="府立高校" />
* [[大阪府立磯島高等学校]](2004年枚方西と統合し枚方なぎさ高校へ)<ref name="府立高校" />
; 中学校
* [[枚方市立村野中学校|村野中学校]](1974年 - 2001年閉校)
; 小学校
* [[枚方市立北牧野小学校|北牧野小学校]](1972年 - 2000年閉校)
* [[枚方市立村野小学校|村野小学校]](1974年 - 2000年閉校)
* [[枚方市立中宮北小学校|中宮北小学校]](2022年閉校)
* [[枚方市立高陵小学校|高陵小学校]](2022年閉校)
== 交通 ==
[[ファイル:Hiroshige A ferry on the river.jpg|thumb|歌川広重「京都名所之内 淀川」]]
[[ファイル:Hiroshige Kawachi Hirakata.jpg|thumb|歌川広重「六十余州名所図会 河内 牧方男山」]]
[[ファイル:Hirakatashi sta. south building.jpg|thumb|200px|[[枚方市駅]]]]
[[ファイル:Keihan Kuzuha Station.jpg|thumb|200px|[[樟葉駅]]]]
[[ファイル:Daini keihan road2.jpg|thumb|200px|第二京阪道路]]
[[ファイル:Hirakata Port 20111029.jpg|thumb|200px|枚方港]]
古くから大阪-京都の交通を支える要所であり、江戸時代の枚方市域には[[京街道 (大坂街道)|京街道]]、[[東高野街道]]、[[山根街道]]、[[磐船街道]]、[[宇治街道]]などの街道が通っていた<ref name="枚方の主な街道">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=169-170 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
1982年から国道168号となった道路は磐船街道と呼ばれ、枚方から交野を経由して奈良県に至る街道であった。古代、[[交野ヶ原]]と呼ばれた時代には、王朝貴族が遊猟をする際に使われたという<ref name="枚方を通る古い4街道">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編さん室 |title=郷土枚方の歴史 |edition=改訂版 |date=1976-03 |pages=22-23 |chapter=第1章 枚方の地理}}</ref>。
[[東高野街道]]は、平安時代の官道である[[南海道]]を起源とする、中世の京阪間を結ぶ主要な街道であった。京都から[[高野山]]への巡礼街道であり<ref name="枚方を通る古い4街道" />、京都から[[洞ヶ峠]]を越えて枚方に入り、枚方台地の中央部を縦断した後、生駒山地沿いに南下、河内長野で[[西高野街道]]に合流し、高野山に至る。高野山に修行に向かう京の僧侶、参拝に向かう貴族、やがて武士や商人、一般庶民までも高野山に向かって歩いたという。1966年以降、国道1号(洞ヶ峠〜出屋敷)、[[大阪府道18号枚方交野寝屋川線]](出屋敷〜茄子作)、[[大阪府道20号枚方富田林泉佐野線]](茄子作〜中野)に相当する。出屋敷周辺には、かつての面影が残されている。<ref name="hirakata-shi_higashikouyakaido">{{Cite web |url=https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000002911.html |title=東高野街道 |accessdate=2023-11-19 |author=枚方市役所 |date=2022-03-20 |website=枚方市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230326024152/https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000002911.html |archivedate=2023-03-26}}</ref>
山根街道は、洞ヶ峠から東高野街道と分岐して津田を経由し、私部に至る街道であり、山麓地区の村々を結ぶ街道として利用された。私部を過ぎ、茄子作の東で東高野街道に合流する<ref name="枚方を通る古い4街道" /><ref name="hirakata-shi_higashikouyakaido" />。
宇治街道は、枚方・田口・長尾を経て、荒坂山を超えて八幡から宇治に至る街道である。「荒坂嶺道」(あらさかとうげみち)や「長尾道」とも呼ばれる<ref name="枚方の主な街道" /><ref name="hirakata-shi_higashikouyakaido" />。
1594年に[[文禄堤]]が整備され道路としても利用されるようになると、更に江戸時代にはこの道路を用いて[[京街道 (大坂街道)|京街道]]が整備された。京街道は[[東高野街道]]に代わって京阪間の幹線道路として利用されるようになり、枚方の発展に大きく寄与する事となる<ref name="京街道の整備">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |page=126 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
京街道は1932年に京阪国道として整備され、(旧)国道1号と称されたのち、1966年に[[枚方バイパス]]([[国道1号]])開通後は、[[京都府道・大阪府道13号京都守口線|大阪府道13号京都守口線]]となった<ref name="京阪国道の改修" />。
枚方バイパス(国道1号)は洞ヶ峠から市内を縦断しているが、主要な交差点が立体交差となっていない事も影響し渋滞が頻発している。2010年に全通した[[第二京阪道路]]などによる渋滞緩和が期待されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/plan/ippan/zigyohyoka/ol9a8v000000dwye-att/3.pdf |title=一般国道1号 第二京阪道路(京都南道路・大阪北道路) |accessdate=2023-08-19 |author=国土交通省 近畿地方整備局 |date=2007-09 |format=PDF |website=事業評価監視委員会 平成19年度 第1回 |publisher=国土交通省 近畿地方整備局 |page=13 |quote=大阪~京都間と大阪~神戸間の幹線道路の交通需要は同程度ですが、大阪~京都間の車線数は少なく、特に一般国道 1 号で慢性的な渋滞が発生しています。第二京阪道路の整備により、渋滞の緩和が期待されます。}}</ref>。
江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。
京都の[[伏見港]]と大阪の[[八軒家船着場|八軒家]]を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜(三矢浜)、樋之上浜(楠葉浜)、出口浜(松ヶ鼻浜)、渚浜、磯島浜といった船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという<ref name="浜">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |page=178 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
行き交う船に近づき餅や酒を売りつける[[くらわんか舟]]が名物になったのもこのころである。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、[[十返舎一九]]「[[東海道中膝栗毛]]」<ref name="枚方名物くらわんか舟" />、[[歌川広重]](安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている<ref name="紀行文にみえる枚方" />。
淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。高浜の渡し(楠葉の渡し)、鵜殿の渡し(下島の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、大塚の渡し(枚方の渡し)、三島江の渡し(出口の渡し)で対岸と結ばれていた。高浜の渡しは古事記にも登場する古い渡し船であり、上流の山崎の渡し(橋本の渡し)と共に、西国街道と京街道を結ぶ重要なものだったという。大塚の渡しが枚方においてもっともよく利用され重要な渡し舟だった<ref name="淀川の渡し">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=177-178 |chapter=第4章 近世の枚方}}</ref>。
明治時代には蒸気外輪船が登場し鍵屋浦と鶴屋浜が船着場だったが、鉄道の開通や自動車の発達、道路の整備に伴い、次第に陸上輸送に取って代わられるようになった。
近年、観光や緊急時の輸送手段の確保などのため淀川の舟運を復活させようとする運動が進められている。2000年11月には枚方市の呼びかけにより、大阪府および京都府の淀川沿いにある9市1町が参加する「淀川舟運整備推進協議会」が設立された。2017年9月には京阪天満橋駅付近の[[八軒家船着場]]との間に定期運航船が就航し、月に一回程度の頻度で運航されている。
鉄道については、1898年に現在の片町線<ref name="関西鉄道の開通">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=224-225 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>が、1910年に京阪本線が開業<ref name="京阪電鉄の開通">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=新版 |date=2014-03-31 |pages=225-226 |chapter=第5章 近代の枚方}}</ref>し、それまで主に淀川の舟運によっていた京阪間の客貨輸送に代わることとなった。また、片町線については、市内に所在していた陸軍の施設(香里製造所や禁野火薬庫)への軍需輸送も担っていた。戦後はベッドタウン化による急激な人口の増加により、通勤通学の足として重要な役割を果たした。枚方市駅は京阪本線内で第3位の乗降客数を持っている。京都と大阪のほぼ中間地点という地理的条件や京阪特急停車駅化により、枚方市駅から京阪[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]へ特急で最速15分(準急で23分)、京阪[[丹波橋駅]]へ特急で最速18分(準急で26分)という大幅な時間短縮となった。
1929年には、[[信貴生駒電鉄]]枚方線(後の[[京阪交野線]])が開業した。元々は奈良県の[[生駒駅]]まで結ぶ計画であったが、延伸されないまま計画は中止された<ref name="信貴生駒電鉄枚方線の開通" />。
=== 鉄道 ===
==== 鉄道路線 ====
; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
* [[片町線]](学研都市線):([[交野市]])- [[津田駅]] - [[藤阪駅]] - [[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]] -([[京田辺市]])
; [[京阪電気鉄道]](京阪)
* [[京阪本線]]:([[寝屋川市]])- [[光善寺駅]] - [[枚方公園駅]] - [[枚方市駅]]- [[御殿山駅]] - [[牧野駅]] - [[樟葉駅]] -(八幡市)
* [[京阪交野線|交野線]]:枚方市駅 - [[宮之阪駅]] - [[星ヶ丘駅 (大阪府)|星ヶ丘駅]] - [[村野駅]] -(交野市)
: なお、寝屋川市の[[香里園駅]]も市境近くに位置し、また[[香里団地]]からのバスが香里園駅を始終着とする便も多いため、利用されている。
: 枚方市駅・樟葉駅については特急停車(特急停車駅は、大阪市・京都市と枚方市内のみにある)。枚方公園駅は[[深夜急行]]以外の急行以下の列車が停車する。日中は特急が10分間隔で運行されているほか、快速急行や準急なども運行されている。
中心となる駅:枚方市駅
=== バス ===
[[京阪バス]]が市内だけでなく、空港連絡線や長距離線などを運転している。
==== 路線バス ====
[[路線バス]]については枚方・[[高槻市|高槻]]・交野・男山・[[京田辺市|京田辺]]の各営業所が[[管轄]]している。
* [[京阪バス]]
==== 高速バス ====
* [[京阪バス]]
** 枚方 - 東京([[渋谷区|渋谷]]・[[新宿区|新宿]])「[[東京ミッドナイトエクスプレス京都号]]」
** 樟葉 - 枚方 - 寝屋川 - [[関西国際空港]]
** 津田 - 高速京田辺 - 名神高速 - [[大阪国際空港]]
=== 道路 ===
==== 高速道路 ====
; [[西日本高速道路]](NEXCO西日本)
* {{Ja Exp Route Sign|E89|25px}}[[第二京阪道路]]([[国道1号]]):([[京田辺市]])- [[枚方東インターチェンジ|枚方東IC]] - [[枚方学研インターチェンジ|枚方学研IC]] -([[交野市]])
==== 国道 ====
* [[国道1号]]
* [[国道168号]]
* [[国道170号]]
* [[国道307号]]
: 国道1号のみ[[国土交通省]]大阪国道事務所高槻維持出張所管理。その他は[[大阪府]][[枚方土木事務所]]管理委託。
==== 府道 ====
; [[主要地方道]]
* [[大阪府道・京都府道6号枚方亀岡線]]
* [[大阪府道・奈良県道7号枚方大和郡山線|大阪府道7号枚方大和郡山線]]
* [[京都府道・大阪府道13号京都守口線|大阪府道13号京都守口線]]
* [[大阪府道17号枚方高槻線]]
* [[大阪府道18号枚方交野寝屋川線]]
* [[大阪府道20号枚方富田林泉佐野線]]
* [[大阪府道21号八尾枚方線]]
* [[大阪府道・京都府道71号枚方山城線|大阪府道71号枚方山城線]]
: 全線、大阪府[[枚方土木事務所]]管理
; [[都道府県道|一般府道]]
* [[大阪府道139号枚方茨木線]]
* [[大阪府道144号杉田口禁野線]]
* [[大阪府道148号木屋交野線]]
* [[大阪府道・京都府道735号長尾八幡線|大阪府道735号長尾八幡線]]
** [[大阪府道・京都府道736号交野久御山線|大阪府道736号交野久御山線]]
* [[大阪府道804号北河内自転車道線]]
: 全線、大阪府[[枚方土木事務所]]管理
==== 愛称道路 ====
市民からの応募により、[[1991年]][[10月4日]]に決定した。
{{div col}}
* 鏡伝道
* くずはアベニュー
* とうかえでの道
* 松美ケ丘桜通り
* 日置今池街道
* 出屋敷高野街道
* 王仁公園通り
* 山根の道
* 氷室路
* ほたに小径
* 春日通り
* 御殿山アート坂
* 殿山百済寺道
* 中宮平和ロード
* ふれあい通り
* サンシャインロード
* 万年寺山周道
* グリーンバレー通り
* 淀見通り
* 蹉跎参道
* いちょう通り
* けやき通り
{{div col end}}
=== 航路 ===
==== 河川港 ====
* [[枚方港]] - [[淀川]]舟運復活の動きとして、観光目的の船着場が[[淀川河川公園]]に設置されている。
== 観光 ==
=== 文化財 ===
[[ファイル:Hirakata Tanakatei no muku.jpg|thumb|200px|枚方田中邸のむく]]
==== 重要文化財 ====
* [[片埜神社]]本殿(附:棟札)
* 交野天神社本殿(附:棟札)
* 交野天神社末社八幡神社本殿
* 厳島神社末社春日神社本殿
; 国の特別史跡
* 百済寺跡
; 国の史跡
* [[牧野車塚古墳]] 5世紀前半ごろと考えられている前方後円墳。外堤を含めると北河内最大。
: [[禁野車塚古墳]]
* [[楠葉台場|楠葉台場跡]]
; 大阪府有形文化財
* 安養寺石造露盤
* 正俊寺石造十三重塔
* 片埜神社東門
* 片埜神社南門
* 田中家住宅鋳物工場
* 田中家住宅主屋
* 釈尊寺木造釈迦如来立像
* 片埜神社石造灯篭
; 大阪府史跡
* 継体天皇樟葉宮跡伝承地
* 伝[[王仁]]墓
* (顕彰規則指定)山田山弥生時代遺跡
; 大阪府天然記念物
* 枚方田中邸の[[ムクノキ|むく]]
* 光善寺の[[サイカチ|さいかち]]
; 市指定文化財
* 清泰寺木造普賢菩薩座像
* 清泰寺木造文殊菩薩座像
* 廃渚院観音寺鐘楼
* 廃渚院観音寺梵鐘
: 文徳天皇第一皇子惟喬親王の別荘。平安時代。伊勢物語には交野ヶ原へ狩猟に来た時の話がある。
* 意賀美神社の算額
* 村野村[[高札|高札場]]
* 鍵屋主屋
* 浄念寺木造不動明王立像
* 和田寺木造薬師如来立像
* 大聖寺薬師堂内厨子
* 銅造誕生釈迦仏立像
* 三之宮神社の湯釜
* 鍵屋全体
* 久修園院地球儀
* 久修園院天球儀
* 釈尊寺大般若経
* 御殿山神社遷宮絵馬
* 尊延寺木造不動明王立像
* 尊延寺木造四大明王立像
* 尊延寺木造地蔵菩薩立像
* 交野天神社末社貴船神社本殿
=== 名所・旧跡 ===
; 主な神社
* [[蹉跎神社]]
; 主な寺院
* [[白雲寺 (枚方市)|白雲寺]]
; 主な史跡
* 首塚の碑石([[アテルイ]]の墓)
=== 観光スポット ===
==== 枚方八景 ====
[[枚方八景]]とは市制35周年を記念し、市民投票により[[1984年]][[10月1日]]に制定された。
* [[淀川]]の四季
* 樟葉宮跡の杜([[交野天神社]])
* 牧野の桜(牧野公園、[[片埜神社]])
* 山田池の月([[山田池公園]])
* 国見山の展望
* 百済寺跡の松風([[百済王神社]])
* 万年寺山の緑陰([[意賀美神社 (枚方市)|意賀美神社]])
* 香里団地のいちょう並木
==== 文化施設 ====
* 天門美術館
==== 娯楽施設 ====
; 遊園地
* [[ひらかたパーク]]
== 文化・名物 ==
=== 祭事・催事 ===
* 七夕伎芸展
* 香陽七夕けんぎゅうまつり
* 駅サイティング祭り
* 天の川七夕ゆめのほしフェスタ
* 交野天神社七夕祭り
* ひらコン
* 京阪 天の川ウォークバル
* 宮之阪商店街七夕まつり
* 天の川七夕フェスタ
=== 七夕伝説 ===
[[1979年]]の[[機物神社]]での七夕まつりの再開以降、平安時代のころ、「[[交野ヶ原]]」(かたのがはら)と呼ばれていた枚方市から隣接する交野市にかけての一帯で、「七夕伝説ゆかりのまち」として、まちおこし活動が活発に行われてきた。
現存する文献では、[[伊勢物語]]第82段で詠[[在原業平]]が詠んだとされる「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり」の和歌が、七夕伝説と交野ヶ原を結びつける最古のものとされている<ref>{{Cite web|和書|title=伊勢物語と在原業平と交野ヶ原|url=http://katanogahara.wp.xdomain.jp/2021/01/24/%e4%bc%8a%e5%8b%a2%e7%89%a9%e8%aa%9e%e3%81%a8%e5%9c%a8%e5%8e%9f%e6%a5%ad%e5%b9%b3%e3%81%a8%e4%ba%a4%e9%87%8e%e3%83%b6%e5%8e%9f/|website=交野ヶ原 日本遺産 BLOG|date=2021-01-24|accessdate=2021-02-23|language=ja}}</ref><ref name="七夕伝説">{{Cite book |和書 |author=枚方市 |editor=枚方市史編纂委員会 |title=郷土枚方の歴史 |edition=平成13年改訂版 |date=2001-03-31 |pages=69-70 |chapter=第2章 古代の枚方}}</ref>。
== 出身関連著名人 ==
=== 名誉市民 ===
* [[森繁久彌]]([[俳優]]、2009年11月没、同年12月に[[国民栄誉賞]])
=== 出身著名人 ===
; 芸能・文化人
* [[相ヶ瀬龍史]]([[俳優]])
* [[赤池龍]]([[社会活動家]])
* [[秋吉英美]]([[タレント]]・[[ラジオパーソナリティ]])
* [[アヤコノ]](ベーシスト)
* [[井下好井]](芸人)
* [[稲垣龍太郎]](元[[仙台放送]]アナウンサー、報道部記者)
* [[岡﨑彪太郎]]([[Lil かんさい]]・[[関西ジャニーズJr.]])
* [[小笠原茉由]](元アイドル:元[[NMB48]]・[[AKB48]])
* [[岡田准一]](俳優:元[[V6 (グループ)|V6]])
* [[尾形春水]](歌手)
* [[岡野武志]]([[弁護士]]、[[YouTuber]]、[[アトム法律事務所]]代表)
* [[岡本優・岡本修]](画家、タレント)
* [[玉本奈々]](現代美術作家、著者)
* [[おねだり豊]](芸人)
* [[賀来千香子]]([[俳優|女優]])
* [[片渕須直]]([[アニメーション]]映画監督)
* [[桂南天 (2代目)|桂南天]]([[落語家]])
* [[カラスヤサトシ]]
* [[川崎麻世]](タレント)
* [[木﨑太郎]]([[祇園 (お笑いコンビ)]])
* [[橘高文彦]]([[ギタリスト]]・[[筋肉少女帯]])
* [[君島遼]](ものまねタレント)
* [[栗山朋子]](フリーアナウンサー、元[[三重テレビ]]アナウンサー)
* [[五嶋みどり]]([[バイオリニスト]])
* [[嶋﨑斗亜]](Lil かんさい・関西ジャニーズJr.)
* [[島田洋一]]([[国際政治学者]])
* [[清水あいり]](グラビアアイドル)
* [[笑福亭福笑]](落語家)
* [[笑福亭岐代松]](落語家)
* [[白井亨 (政治家)|白井亨]]([[小金井市]]長)
* [[杉浦みずき]] (フリーアナウンサー)
* [[杉永蘭]](ファッションモデル)
* [[洲崎貴郁]]([[ラニーノーズ]])
* [[瀬口忍]](漫画家)
* [[高田純吉]]([[イノシカチョウ]])
* [[竹村延和]](作曲家)
* [[多田健二]]・[[善し]]([[COWCOW]])
* [[辰巳真理恵]]([[ソプラノ|ソプラノ歌手]])
* [[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]](漫画家)
* [[田中魁秀]]([[棋士 (将棋)|将棋棋士]])
* [[谷内伸也]]([[Lead (音楽グループ)|Lead]])
* [[田丸浩史]](漫画家)
* [[田村保乃]]([[櫻坂46]])
* [[坪倉唯子]](歌手)
* [[デッカチャン]](芸人)
* [[内藤剛志]](俳優)
* [[なきぼくろ (漫画家)|なきぼくろ]](漫画家)
* [[中西正男]]([[芸能リポーター]])
* [[中村仁美]](フリーアナウンサー)
* [[なすなかにし]]([[漫才師]])
* [[難波秀哉]](元関西テレビプロデューサー)
* [[縄田かのん]](女優)
* [[西上いつき]](元[[名古屋鉄道]]社員)
* [[仁村紗和]](女優)
* [[ハイヒールリンゴ]](漫才師)
* [[畑中フー]]([[ナレーター]])
* [[橋本さとし]](声優)
* [[橋本梨菜]]([[グラビアアイドル]])
* [[早川聖来]]([[乃木坂46]])
* [[平井善之]]([[アメリカザリガニ (お笑いコンビ)|アメリカザリガニ]])
* 風藤康二([[風藤松原]])
* [[藤田慧]](俳優)
* [[古川いおり]](AV女優)
* [[別井敬之]](NHKアナウンサー)
* [[堀川りょう]] (声優)
* [[あめんぼぷらす#メンバー|松井尚斗]](YouTuber、作家、[[あめんぼぷらす]])
* [[牧野田彩]](AV女優)
* [[松浦雅也]]([[ミュージシャン]]・[[PSY・S]])
* [[真戸原直人]]・[[阿佐亮介]]・[[中原一真]]([[アンダーグラフ]])
* [[ミスターちん]](タレント・[[B21スペシャル]])
* [[三代澤康司]]([[フリーアナウンサー]]、元[[朝日放送テレビ|朝日放送]]アナウンサー)
* [[もず唱平]]([[作詞家]])
* [[森公平]]([[新選組リアン]])
* [[森脇健児]]([[タレント]])
* [[八木麻紗子]](テレビ朝日アナウンサー)
* [[あめんぼぷらす#メンバー|羽谷勝太]](YouTuber、俳優、[[あめんぼぷらす]])
* [[柳原哲也]]
* [[山像かおり]](声優)
* [[Janne Da Arc]]([[You (Janne Da Arc)|you]](Gt)と[[shuji]](Dr)は[[神戸市]]生まれ)
* [[Dear Loving]]
* [[Shinya]]([[ドラマー]]・[[DIR EN GREY|Dir en grey]])
* [[Swish! (バンド)]]
* [[松岡絵梨子]]([[広島テレビ放送|広島テレビ]]アナウンサー)
* [[ムラタコウジ]](漫画家、元お笑い芸人)
* きょうた([[おせつときょうた]]。お笑い芸人。かつてはムラタコウジともコンビを組んでいた)
* 上田宏(元「ブレイン・ウォッシュ・バンド」メンバー、ミュージシャン、ギタリスト)
; スポーツ関連人物
* [[厚ヶ瀬美姫]](プロ野球選手)
* [[新井場徹]](プロ[[サッカー選手]])
* [[安藤麻里]](プロボクサー)
* [[石田隆司]](元プロ野球選手)
* [[伊藤雄二]](元中央[[競馬の調教師一覧|競馬調教師]])
* [[稲森克尚]](プロサッカー選手)
* [[岡優里佳]](女子プロレスラー)
* [[河合秀人]](プロサッカー選手)
* [[岸岡智樹]](ラグビー選手)
* [[記虎敏和]](ラグビー指導者)
* [[九鬼隆平]](プロ野球選手)
* [[国吉佑樹]](プロ野球選手)
* [[栗原三佳]](バスケットボール選手)
* [[山足達也]](プロ野球選手)
* [[小崎まり|小﨑まり]]([[陸上競技]]・[[中距離走]]・[[長距離走]]・[[マラソン]]選手)
* [[酒居知史]](プロ野球選手)
* [[芝力人]](プロボクサー)
* [[仙頭啓矢]](プロサッカー選手)
* [[高橋成忠]](元中央競馬調教師)
* [[武田洋平]](プロサッカー選手)
* [[田中祐樹]](プロレスラー)
* [[辻野泰之]](中央競馬調教師)
* [[中谷翼]](元プロ野球選手)
* [[林日向子]](バレーボール選手)
* [[原田和真]]([[中央競馬]]騎手)
* [[ヒカル・ナカムラ]] ([[チェス]]プレイヤー)
* [[火野裕士]](プロレスラー)
* [[姫野優也]](プロ野球選手)
* [[武田洋平]](プロサッカー選手)
* [[廣長優志]](プロサッカー選手)
* [[本並健治]](サッカー選手)
* [[武藤幸司]](元プロ野球選手)
* [[森坂嵐]](アマチュアボクサー)
* [[矢田良太]](プロボクサー)
* [[吉永幸一郎]](元プロ野球選手)
* [[勇磨猛]](力士)
* [[脇坂浩二]](元プロ野球選手)
; その他
* [[田村貴昭]]([[日本共産党]][[衆議院議員]]・[[比例九州沖縄ブロック]])
* [[露木康浩]]([[警察庁長官]])
* [[増田宗昭]]([[TSUTAYA]]創業者)
=== ゆかりのある人物 ===
<!---五十音順--->
* [[浅田彰]]([[思想家]]。楠葉地区在住歴あり(『[[構造と力]]』初版本著者紹介欄による))
* [[伊藤たかみ]](小説家。5歳から11歳まで在住)
* [[上原浩治]]([[日本プロ野球|プロ野球]]選手。高校は市内の東海大仰星高校。[[浪人]]時代は同じく市内の[[KEC近畿予備校]]に通っていた)
* [[岡本茉利]]([[声優]]。幼少期に枚方に転居し、同地で中学卒業ごろまで生活をしていた)
* [[ダニエル・カール]]([[山形弁]]研究家。市内の関西外国語大学に4ヶ月間の留学経験がある)
* [[亀山努]](元プロ野球選手。1999年に枚方リトルを世界一チームにした功績あり。市内在住中)
* [[木村政雄]](元[[吉本興業]]社員)
* [[キンタロー。]](お笑い芸人。関西外国語大学短期大学部卒業)
* [[倉木麻衣]](歌手。高校・大学ともに京都市内に通っていたが枚方市に在住し通学していた)
* [[ジェロ]]([[歌手]]。市内の関西外国語大学に3ヶ月間の留学経験がある)
* [[辛坊治郎]](ニュースキャスター。樟葉在住)
* [[瀬藤光利]](生命科学者。楠葉地区在住歴あり)
* [[高田久成]](実業家、馬主。大阪市内の企業、[[中外炉工業]]の取締役)
* [[辰巳琢郎]]([[俳優]]。地元在住の女性と結婚後、1男1女を出産し、育児期の約10年間、市内に在住していた)
* [[田中和将]](ロックバンド、[[GRAPEVINE]]の[[ボーカル]]、[[ギター]]。バンドを結成する以前の少年時代は枚方に住んでおり、[[枚方市立楠葉西中学校|楠葉西中学校]]出身でもある)
* [[中西悠子]]([[競泳選手]])枚方スイミングスクールコーチ・[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]競泳女子200mバタフライ銅メダル
* [[藤田まこと]](俳優。光善寺地区にごくわずかの期間在住していた)
* [[細川益男]](実業家、馬主。市内の企業、ホソカワミクロンの代表)
* [[ますだおかだ]](お笑い芸人。市内の関西外国語大学短期大学部在学中に知り合う)
* 西代洋([[ミサイルマン (お笑いコンビ)|ミサイルマン]]。枚方スイミングスクール在籍歴があり、中西悠子と練習をしていたこともあった。)
* [[山路秀則]](実業家、[[馬主]]。市内の企業、ヤマジの代表)
* [[リー5世]](お笑い芸人。氷室に在住)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[京街道 (大坂街道)]]
* [[百済王神社]]
* [[くらわんか舟]]
* [[楠葉牧]]・[[楠葉関]]
* [[東海道五十七次]][[枚方宿]]
* [[大阪みどりの百選]]
* [[:Category:大阪府の自然景勝地|大阪府の自然景勝地]]
* [[日本の地方公共団体一覧]]
* [[日本の市町村の廃置分合]]
== 外部リンク ==
* {{Osmrelation|358609}}
; 行政
* {{Official website}}
* {{Facebook|city.hirakata.osaka}}
* {{Twitter|hirakata_city|枚方市公式}}
* {{LINE公式アカウント|hirakata_city}}
* {{Instagram|i_am_in_hirakata}}
* {{YouTube|user=hirakatacity}}
; 観光
* [http://www.hirakata-kanko.org/ 枚方文化観光協会]
* {{Googlemap|枚方市}}
{{Geographic Location
|Northwest = [[島本町]]
|North = [[京都府]][[八幡市]]
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|West = [[高槻市]]
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|East = 京都府[[京田辺市]]
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[[Category:大阪府の市町村]]
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[[Category:中核市]]
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